ブリジットという名の少女【Re】 (H&K)
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第一話「義体(Fake Body & GUNSLINGER)」 

お久しぶりです。いつかはやろうと思っていたリメイクです。arcadia版とは違った結末にしようと頑張ります。


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 ローマ郊外のフィウミチーノ空港からおよそ一時間弱。のどかな地方都市であるブリンディシのサレント空港に彼女はいた。

 イタリア南部の陽気な日差しの元、大きめの麦わら帽子を被った彼女は、腰まで伸びた黒髪を翻して小さめのキャリーバッグを押している。

 

「はあ、まさか人生初の飛行機がこんなかたちになるとは。どうせならもっとバカンスで楽しみたかった」

 

 快活そうな見た目とは裏腹に、その表情は疲労の色を濃く残している。彼女はここへくるまでの道のりを思い出しては、もう少しどうにかならなかったのか、と愚痴を溢した。

 

「ビアンキ先生は炭素繊維で出来た骨だから空港の金属探知機は問題ないとか言ってたけれども、それを接合しているボルトはしっかり金属じゃないか。あやうく全身スキャンを掛けられそうになったし。まあ、太ももの交換痕を見せたらすんなり通してくれたけど。ていうか、アルファルドと一緒に最初から来ていれば、こんな慣れない一人旅をする必要もなかったんだ。いつも行き当たりばったりだからそうなるんだよ」

 

 がつん、とキャリーバッグが石を踏んで跳ねた。普通の少女ならばそのままキャリーバッグに振り回されて、転倒するかよろけるかしただろう。

 だが彼女は「おっと」と小さく声を上げるだけで、何事もなかったかのように片手でバッグの挙動を押さえ込んだ。

 

「ていうかヒルシャーとトリエラは二人して現地に向かったじゃないか。何で俺はお留守番なんだ。やっぱあれか。この前突っ走ったから信用されていないのか」

 

 春の日射しの元、紺色をした真新しいアスファルトの上を歩く。彼女は公社で上司から渡されたメモをポケットから取り出してそこに目を走らせた。

 

「……南 D-13駐車場。黒のBMW。えーとあれか」

 

 自分が目指すべき車両を見つけて小走りに駆けていく。キャリーバッグがアスファルトを奔る独特の音が誰もいない駐車場に響き渡った。

 日射しを受けてきらきらと光っている一台の乗用車。ややスモークが濃いフロント硝子を彼女はそっと覗き込む。

 

「あれ? いない。でもこの車、さっき停めたばかりだ」

 

 ワックスが綺麗に掛けられたぴかぴかのボンネットを無遠慮に素手で触る。日射しによって熱くなったのとは少し違った熱の感じ方に、彼女は形の良い眉を悩ましげに歪めた。

 

「あの人が約束の時間をすっぽかすとは思えないんだけれども、なんかあったのかな」

 

 キャリーバッグを手放し、ポケットに収めた携帯電話を取り出す。

 

 彼女が生きていた時代からすれば骨董品もいいような古い携帯電話だったが、「あの人」を含め数人しか電話番号を登録できないのならば、それでも十分事足りるものだった。

 

 と、その時。

 携帯電話の質の悪い液晶に、影が差す。常人ならばとくに気にもとめないような、些細な変化。

 けれども、投薬と洗脳によって獣並みの感覚を与えられた彼女からしてみれば、それはナイフを突きつけられたのと同じ事だった。

 彼女が獣と違ったのは、安全のために逃げの一手を打つのではなく、危険そのものを排除しようと牙を剥き出しにしたことだ。

 

「っ!」

 

 素早く目線を携帯電話から外し、肘鉄を背後に叩き込む。

 だが失敗。相手の肋骨を砕く前に、大きめの手でそれを防がれる。

 ならば、とジーンズを履いていることをいいことに、彼女は振り向きざまにハイキックを繰り出した。

 

「うおっ!」

 

 襲撃者が素っ頓狂な声をあげた。何やらカラフルな缶が宙を舞い、彼女の視界を妨げる。

 蹴り出した足からは手応えが感じられず、殺すつもりの一撃が空振りに終わったことを教えてくれる。

 ただそれは、悲報ではなく朗報。

 もしもここで襲撃者を蹴り殺していたら、それで彼女の人生は終わりを迎えるところだった。

 彼女は蹴り上げた足を納め、宙を舞っていた缶を片手でつかみ取る。缶の正体は陽気な空気の中、一際冷たく感じられるジュースの缶だった。

 

「……なにしてるんですか、アルファルドさん」

 

 体勢を崩されたまま、情けなく笑う一人の男。

 その姿を見定めたとき、彼女は何とも微妙な表情をして彼を見下ろした。

 

「いや、今日は結構暑いからね。ジュースでも、と思って空港の売店に行っていたんだ。ブリジット、ほら、君の好きなオレンジジュースだ」

 

 ブリジットという名の少女は呆れたようにため息を吐くと、手にした缶のプルタブを開けた。

 それを傾けてみれば爽やかな甘さの液体が喉を潤していく。

 

「しかしあれだな。背後に立つだけでそこまでの反射速度か。調子が良さそうで何よりだよ」

 

 男は、いやアルファルドはジュースを流し込むブリジットを尻目にジャケットについた汚れを手で軽く払った。

 そして車に手早く乗り込むと、中の熱気を追い払うかのようにエンジンを掛け、空調を全開にする。

 ブリジットもそれに続き、当然のように助手席に乗り込んだ。

 と、同時に足下に転がされた一つのプラスチックケースに気が付く。

 

「アルファルドさん、これは?」

 

 ケースを掲げてみればそれなりの重量が感じられるものだった。アルファルドが視線だけで開けてみろ、と告げるのでブリジットは大人しくケースのロックを外した。

 ウレタンの衝撃吸収剤に埋もれて出てきたのは、黒光りする一つのライフル。

 

「HK416。社会福祉公社が君に宛てた、少し早めの誕生日プレゼントだ」

 

 

1/

 

 

 これは長い夢なんだと自分に言い聞かせて早一年。

 気が付けば、一度として覚醒することなく夢は夢のままに続いていた。

 

 

2/

 

 

 アルファルドの運転する車に揺られること数十分。膝の上にライフルが納められたケースをのせたまま、いつの間にか船を漕いでいた。

 意識が完全に覚醒したのは、誰かが助手席を開けて、こちらの肩を揺すってきたから。

 最初はアルファルドがそうしているのか、と思った。けれども左側に身体を傾けてみれば、運転席に腰掛けたままの彼にもたれかかるような形になる。

 なら誰がそうしているんだ、と目を開ければにやにやと笑う、金髪の少女が目に入ってきた。

 

「あれまあ、担当官嫌いのブリジットが珍しく甘えてる。これは明日雨かな」

 

「……冗談言わないでトリエラ。雨の中、ひたすらターゲットをライフル越しに監視するのは私なのよ」

 

 トリエラという少女の手を軽く払いのけ、伸びを一つ。

 彼女の肩越しに見えるのは小さな品の良いホテルだった。慌ててプラスチックケースを足下に落とし、何食わぬ顔で車から降りる。

 

「やあ、ブリジット。一人旅で疲れただろう。任務は明日の早朝だ。今日はディナーを楽しんでゆっくりと休むといい」

 

 そしてそんなトリエラの背後から現れた一人の男。

 アルファルドが金髪の、何処か軽薄そうな雰囲気の人物だとしたら、彼は黒髪の落ち着いた物腰の紳士だった。

 事実、俺が持って降りたキャリーバッグをさっと奪い去ってしまう。そしてこちらを先導するようにホテルに足を向けた。

 

「任務の内容は奴からどれだけ聞いている?」

 

「メールでローマを発つときにある程度は。でもヒルシャーさん、こんなところで公社の話をしてもいいんですか?」

 

「大丈夫だ。このホテルは公社のセーフハウスだよ。従業員はみなこぶつきの曰く付きだ」

 

 確かに周囲を見てみれば、ホテルマンやロビーの従業員、それぞれがニコニコと笑みをたたえているが、その足裁きは堅気のそれではない。

 事実ヒルシャーから荷物を受け取ったエレベーターマンも、一切の重心をぶれさせずに荷物をエレベーターに運び込んだ。

 

「アルファルドから追って説明があるだろうが、僕たちの任務はアルバニア共和国からイタリアに密輸されてくる武器の摘発だ。いや、正確にはその売人が目的かな。この男が明日の早朝、ここブリンディシの港にやってくる」

 

 見せられたのは遠景からとられたであろう一枚の写真。ややピンぼけのそれをしっかりと手にとって穴が開くくらいに見つめる。

 

「その他の人間の生死は問わない。ただその男さえ拘束すれば良い。トリエラと二人がかりの任務だ。頑張ってくれ」

 

 

3/

 

 

 翌朝、早朝。

 耳にねじ込んだイヤホンマイク越しに、アルファルドの声が木霊する。

 

『ブリジット、体調はどうだ? 問題ないか』

 

 声では応答しない。ただ、遠くからこちらを見ているであろう彼に向かって、ガングローブを嵌めた手でOKサインを送る。

 

『そうか。偏食家の君のためにいろいろと食事は用意させていたんだがな、手違いで今日食材が届くようになっていたそうだ。だからこれが終われば君の好きなシチリア風ピザが食べられるぞ』

 

 昨晩、パンを一つしか食べなかった俺のことを気に掛けているのだろう。

 この心配性ばかりは直らないな、と小さくため息を一つ。

 ついでに、心の内に芽生える、本心ではない愛情に苦笑を一つ。

 

『さてブリジット。君に渡したHK416だが、基本は公社で扱ったM4A1と同じだ。ただ君の背丈に合わせてストックをオーダーメイドしている』

 

 言われて、ライフルの持ち手を握る。

 いつの間に計測されたのか、確かにストックの長さが妙にしっくりときた。

 

『摘発対象のアルバニア人は三十分前に来港。港の倉庫で積み荷を降ろしている。君は先に偵察に向かったトリエラと合流して、アルバニア人の護衛を排除。対象を拘束してくれ』

 

 そこで初めて「Ya」と返事を返した。

 言葉を発したせいか、それまで内に燻っていた緊張が良い意味で抜けていくような感触を覚える。

 

『よし。ヒルシャーから連絡が入った。五秒後に状況開始だ。5・4・3・2・1――行けっ!』

 

 アルファルドの声は魔法だった。

 たった一言、「行け」と命令されただけで、身体が猟犬の如く走り出す。

 数キロの装備を抱えていても、目の前に死の恐怖が横たわっていても、内から溢れ出す闘争心が際限なく高まってくる。

 前方から銃声が聞こえた。

 この身体の鋭敏な聴覚が、銃声の主はトリエラだと教えてくれる。

 彼女が得物とするウィンチェスター ショットガンの独特の銃声が今は耳に心地よい。

 

「トリエラ!」

 

 先に突入していた彼女に合流するように、倉庫の窓から中に飛び込む。

 厚手の防刃スーツがガラスの破片からこちらを守り、怯えを知らない思考が驚きを隠せない男達を捕捉する。

 挨拶代わりにライフルを掃射。呆気にとられた男二人から血の華が咲き、5.56ミリのストッピングパワーが死体と化した彼らを吹き飛ばした。

 

「! ブリジット、右!」

 

 言われて、咄嗟に発砲。トリエラの警告通り、こちらに銃を向けた男を薙ぎ倒す。

 脅威はクリア。残りは逃げようとするアルバニア人の男ただ一人。

 この肉体になって手に入れた化け物のような瞬発力で、男の襟首を掴んで引き倒す。そして直ぐさま馬乗りになって男を拘束した。

 

「トリエラ、カバー」

 

 ライフルを背中に回した俺の代わりに、トリエラがサブウェポンとして用意していたハンドガンP230SLを構える。

 銃口を突きつけられた男はこちらを怯えたように見上げていた。

 

「? こいつ違う」

 

 昨日、頭に叩き込んだ対象の人相と照らし合わせてみれば、俺に馬乗りになられているのは全くの別人だった。

 

「ヒルシャーさん、やられました! ターゲットはダミー。繰り返します! ターゲットはダミー!」

 

 トリエラが直ぐさまヒルシャーに報告した。彼女は無線越しに何か指示を受け取ると、直ぐにショットガンに構え直し、俺の肩を叩いた。

 

「アルファルドさんがすぐに車を回すから、それまでこいつを尋問しろ、だって。私は周辺の安全確保にいく」

 

 俺が了解するよりも先に、トリエラは倉庫から出て行った。取り残されたのは俺と馬乗りになられた男が一人。

 彼と視線を合わしてみれば、酷く怯えながらこちらに悪態を吐いてきた。

 

「ははっ、ざまあ見ろ! 公社の悪魔め! お前らの企みなど我らが五共和国派の悲願の前ではなんの意味もない!」

 

 と、同時。いつの間に抜け出したのか、男の右腕が自由になっていることに気が付いた。しっかりと両腿で挟み込んでいたつもりだが、思いの外拘束が甘かったらしい。

 しかも器用なことに刃渡りとしては小ぶりだが、しっかりとしたナイフまで握られている。

 

「死ね!」

 

 男がナイフを振るった。俺の側頭部を狙った致死の一撃。だがこの男は甘い。甘すぎる。

 こいつのちんけな反撃など、この義体(Fake Body)の前ではどれだけ無力なのかわかっていない。

 少し上体を反らしてやればほら、ナイフは首元から垂れていた無線を切り裂くだけで、本体には傷一つ付けられない。

 

「余り調子に乗るなよ」

 

「ひっ」

 

 空振りに終わった右腕をつかみ取り、徐々に握力を込めていく。

 炭素繊維で構成された骨格と、人工筋肉に覆われた手のひらが男の腕を少しずつ押しつぶしていく。

 痛みに脂汗を掻いた男が暴れようとするが、万力のように身体も両腿で挟み込んで、それを許さない。

 やがて、木材を叩き折るかのような音が周囲に鳴り響き、男の右腕は使い物にならなくなった。

 

「ああああああああああああああああああっ!!!!!」

 

 不愉快な悲鳴を、顔面に拳を振り下ろすことで黙らせる。

 歯を折ってしまっては自白に支障をきたすので、思いっきり頬を殴りつけた。血の滲んだゲロを吐き出しながら、男は涙ながらに懇願した。

 

「やめろ、やめてくれ……」

 

「いや、それは駄目だ」

 

 もう、二、三度、拳を叩き込み男を完全に屈服させる。

 特にこれといった感情を抱かないままに、俺はぽつりと言葉を溢した。

 それはこの長い夢に対する俺の嘘偽りのない本心。

 

「GUNSLINGER GIRLの世界じゃ仕方ないよなあ」

 

 

 

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第二話「神の御技(Sin Of Humans)」

 それは一年前のことだった。

 その年の春は異常気象のせいか、やけに肌寒く感じられた。地域によっては積雪すら記録しており、ニュースでは連日その模様を放映し続けている。

 スプリングコートに身を包みながら、一人の男――アルファルドは愛車である白いBMWを一人乗り回していた。

 ローマの市街地を抜け、のどかな草原が広がる郊外。

 カーラジオを弄ってみれば異常気象のニュースに加えて、ここ数日の間に嫌というほど聞かされた一つの事件の顛末が語られた。

 

『……先日まで行方不明とされていたフォン・ゲーテハルト家の次女、ヒルデガルトさんがローマ近郊にて遺体で見つかった事件で、父親である内務省長官補佐、アゴスティーノ氏が今朝、会見を行いました。氏は会見の中で、 ゲーテハルト家は深い悲しみに包まれている と述べ、拉致監禁、および殺害を実行したとされる赤い旅団との対決姿勢を……』

 

 カーラジオは最後まで言葉を紡がない。アルファルドが不愉快そうにチャンネルを切り替えたからだ。

 続いて流れたのは地方の音楽番組。

 聞き慣れないヒットチャートをBGMに、彼は車を走らせた。向かった先はローマ郊外に築かれた政府運営の社会福祉施設。

 福祉施設にしては厳重すぎる警備を通り抜け、車をある建物の前に乗り付ける。

 ドアを開け、地に足をつけた瞬間、複数の人員に囲まれていることに気がついた。

 目線だけ素早く走らせれば、完全装備の警備員が五人。それぞれが安全装置が解除されたライフルを肩から吊していた。

 

「職員証明証を提示して下さい」

 

 物腰こそは丁寧だが、目は一切笑っていなかった。もしもここで余計な動きを見せてしまえば、関係者といえども即刻蜂の巣にされるのだろう。

 大丈夫だと頭でわかっていながらも、少し緊張した面持ちで職員証明証を提示する。

 手にした端末で職員証のICチップを読み取った警備員は、耳元の無線でどこかに連絡をした。

 すると背後に控えていた建物の自動扉がゆっくりと開閉した。

 鋼鉄製の扉が鈍重な音を立てて動いている。

 

「どうぞ、こちらです」

 

 まるで地獄の門のようだ、とアルファルドは一人呟いた。

 

 

0/

 

 

 外の鋼鉄製の扉からは考えられないくらい、建物の中は真っ白で清潔だった。

 陳腐なホラー映画のような、血で汚れた病室を少しばかり想像していただけに、妙な居心地の悪さを感じる。

 途中から警備員たちは姿を消し、数人の医師がアルファルドを先導していた。

 彼らは一言も言葉を発することなく、ただ機械的に廊下を進んでいく。アルファルドも積極的に会話をしようとは思わなかったので、無言のまま廊下を突き進む不気味な集団ができあがっていた。

 沈黙を破ったのは正面からこちらに突き進んでいた一人の医師だ。

 

「ビアンキだ。ドットーレ・ビアンキと呼ばれている。お前が新しい担当官か」

 

 それまでの沈黙など知ったこっちゃない、と言わんばかりに彼はアルファルドに握手を求めた。

 周囲の医師がそんな彼の態度に眉を顰めているあたり、彼は医師団の中で浮いているのだろう。

 けれどもアルファルドはそんな彼の態度に何処か好感を覚えていた。

 突き出された手をしっかりと握り返し、アルファルドは口を開く。

 

「アルファルドだ。今月付で作戦二課に配属された。前は軍警察で勤めていた。できる限り君とは長い付き合いになることを祈っているよ」

 

 

1/

 

 

 次に通されたのは窓の一切無い、地下室にいるような錯覚に陥る病室だった。

 室内に木霊するのは一定のリズムで刻まれる心電音。それが誰のものなのか、アルファルドは薄々思い至っていた。

 

「ここが……」

 

「そうだ。ここが彼女の病室だ」

 

 アルファルドの疑問に先んじてビアンキが答えた。彼は室内に備え付けられていたアルコールで手指を消毒すると、そっとベッドに歩み寄った。

 ベッドには人が横たわっている。様々な生命維持装置が備え付けられたのは一人の少女。

 浅い呼吸を繰り返す彼女は、ベッドにその美しい黒髪を広げるようにして横たわっている。真っ白な顔をアイマスクで覆われているため、容姿の全貌を伺うことはできないが、アルファルドがこれまでの人生で見てきた女性の中で、一、二を争う美しさであることは容易に想像ができた。

 

「義肢・サイバネティックス試験体XA14-04。ここで四番目に作られた義体だ。来たるべき第二世代のテストヘッドとして全身の整形手術を行っている。素体から体型も声も顔も、全部別物だ」

 

 ビアンキはそう言って、少女に掛けられていたアイマスクに触れた。アルファルドが外してもいいのか、と問うがビアンキは答えることなくアイマスクを取り外した。

 そしてアルファルドをじっと見据えてこう告げた。

 

「脳地図がこの子の覚醒を指し示している。強心剤を投与してやれば目を覚ますだろう。つまり、あとは君の覚悟次第だ」

 

 

2/

 

 

 銃声がする。

 けれどもそれは戦いの証ではない。

 アルファルドは訓練場に設けられた櫓の上から双眼鏡を使って眼下の様子を伺っていた。

 

「ブリジット、HK416は頑丈なライフルだ。もっと振り回してもいい。それとも君には重たいか?」

 

『いえ、軽いくらいです。問題ありません』

 

 感度のあまり良くない無線機越しに、鈴が鳴るような声が聞こえる。

 彼女――ブリジットとアルファルドが対面したのは丁度一年前。春だというのにとても肌寒く、ともすれば冬と錯覚してしまいそうな気候の中だった。

 一年経った今としてはそうでもないが、当初は我が目を疑うようなことばかりだった。

 最初はイタリア国民に知らされていない、影の諜報機関に所属したという認識だった。実際、社会福祉公社に勤めて数ヶ月は公安の真似事ばかりしていた。それがたった一枚の辞令で「担当官」という、義体の管理、運用を行う人員に飛ばされた。

 義体が何かも、最初はわからなかった。

 ただ、もう表の世界では生きていけない少女たちを殺人サイボーグとして再利用していくことだけ聞かされていた。 

 嫌悪感がないわけではなかったが、それでも人生を別の形でやり直せるのならば少女たちにとってそう悪いことではないだろうという認識だった。

 その認識が間違っていると理解したのは一瞬だった。

 覚醒したブリジットが泣きじゃくっているのを見たとき、「さいあく」とこの世界に対する怨嗟をはき出すのを見たとき、初めて自分たちの行いの罪深さを知った。

 ブリジットの生前の境遇は知っているつもりだった。彼女がどんな辱めを受けて殺される寸前までいったのか、資料の上では全て聞かされていた。

 けれどもその爪痕の深さを垣間見たとき、アルファルドは彼女を殺してやることができない大人たちの浅ましさを目にした。

 言葉では、きっと言い表すことのできない罪悪感が、彼女に触れるたび沸き上がってくるのだ。

 

『アルファルドさん。ターゲット全て破壊しました。もう一度最初からやり直しますか?』  

 

 気がつけば訓練終了を告げるブザーがブリジットの手によって鳴らされていた。アルファルドは手元のノートパソコンを使って、彼女のスコアを一つ一つ確認していく。

 特に問題は見当たらないため、アルファルドは静かに、出来るだけ穏やかにブリジットに告げた。

 

「いや、その必要は無いさ。今日はもう終わりだ。シャワーを浴びて俺の車のところまで来てくれ。今日はローマでカフェを楽しもう」

 

 

3/

 

 

 何かとても辛く悲しいことがあって、まだまだ生きたいと思って、けれども力及ばなくて――。

 死ぬ直前の光景は全く覚えていないけれども、そのときの心情だけは嫌と言うほど覚えていた。

 死因なんて何一つ思いつかないのに、死ぬときの絶望だけは忘れられない。

 

 

4/

 

 

 俺が「GUNSLINGER GIRL」の世界に生きていると気がつくまで、そう時間は掛からなかった。

 時折聞こえてくる「義体」や「担当官」、「フラテッロ」という言葉。何より社会福祉公社という組織に属し、義体としてイタリアのために戦っているのが何よりの証明だ。

 最初は悪い夢だと思った。

 前の世界でとても死にきれなくって、たまたま覚えていた創作の世界に現実逃避しているものだと思った。

 だから何度も夢から醒めようと努力したし、大暴れしたこともある。

 けれどもいつまで経っても夢の終わりはやってこなくて、何だかんだ一年もこちらの世界で過ごしてしまっていた。

 ここまでくればもう半ば諦めに近い心境だけれども、目が覚めることなら覚めて欲しいと願っている。

 

「ブリジット、ここの店はね、ジェラートとココアの組み合わせが美味しいんだ。きっと君も気に入ると思う」

 

 訓練が終わってしばらく。

 アルファルドによって街に連れ出された俺は、どこかのカフェテラスでデザートを楽しんでいた。

 そう、目の前のこの男がブリジットという義体の担当官であり、相方でもある。

 彼が過去を語ることはあまりないが、それでも堅気の仕事だったかどうかは疑わしいと思っている。けれども性格自体は誠実そのものなので、一定の信頼は置いていた。

 何より、彼に逆らうと耐えようのない嘔吐と頭痛に襲われるよう調整されているので、従順に振る舞う他ないのだ。

 そう、俺の身体は義体として様々な調整がなされている。

「義体」というのはイタリア政府の極秘機関である「社会福祉公社」が制作した殺人サイボーグのことだ。

 瀕死、もしくは何らかの事情で表の社会を生きていけなくなった少女たちを、義体という人工の身体に置き換えて、殺人の命令を聞くように洗脳したものだ。おそらくブリジットというこの身体も、何らかの事情で「社会福祉公社」に引き取られた少女を改造したものなのだろう。

 ところが神の仕業か、悪魔の悪戯か。

「俺」という前世の記憶がある意識が乗り移ってしまって、ブリジットとして完成してしまった。

 周囲の人間には気づかれていないものの、それでも少し変わった義体として俺はこの世界で生きていくことになった。

 

「ええ、甘さも控えめで、甘いものが苦手な私でも美味しくいただけます」

 

 この身体は多くの機能が特別製だ。人を簡単に殴り殺すことができる身体能力。双眼鏡いらずの驚異的な視力。銃声を正確に聞き分ける聴力など。

 ただ、味覚だけは普通の人間なので、こうして嗜好品を楽しむことができる。

 甘いものが苦手、という前世の嗜好を引き継ぐくらいには平凡なものだ。

 

「はは、それはよかった。君は酸味の強いオレンジジュースか水しか飲まないからね。ジェラートも酸っぱいものが好きとくれば、いよいよ大人っぽいな」

 

 コーヒーを傾ける優男を尻目に、俺はジェラートをスプーンで切り崩す。こうした食事作法もいつの間にか洗脳としてこの身体に刻まれていた。

 銃や殺人の技術も言わずもがな、だ。

 ただ技術が刻まれていても、経験はそうではない。だから戦闘訓練は毎日のようにさせられるし、ジェラートも上手に食べることができなくて、口の周りを汚してしまうこともある。

 

「おっと、じっとしなさい。折角クラエスに化粧もしてもらったんだろう? 乱暴に拭いてしまっては駄目だ」

 

 ハンカチを取り出したアルファルドがこちらに身を乗り出してくる。逃げようと身を捩るが、「条件付け」と呼ばれる洗脳のせいで身体が言うことをきかない。

 何より、こんな優男の仕草が愛おしいと思ってしまう自分に吐き気がする。

 担当官に逆らうことがないよう、義体は担当官に好意を抱くように調整されているが、意識そのものは「俺」なので違和感がどうしても払拭できないのだ。

 これが嫌で嫌でたまらなくて、アルファルドをボコボコにしたことだって、一度や二度ではない。

 そんな俺をまだ気遣ってくれるあたり、この男は優男かつ優しい男なのだろう。

 

「よし。綺麗になった。美人な顔がばっちりだ」

 

 いや、前言は撤回だ。こいつはただの優男。もしも許されるのならば、もう一度くらいはボコボコにしてやりたい。

 

 

5/

 

 

 行儀良くジェラートを頬張るブリジットを見て、アルファルドは彼女と初めて会ったときのことを思い出していた。

 目が覚めた彼女を見たとき、彼が抱いた感想は「神の御技を見た」というものだった。

 けれども彼女がすぐさま呟いた言葉。

 深い絶望を称えて吐きだした怨嗟の言葉がそんな感想を吹き飛ばしてしまった。

 

「さいあく」

 

 神の御技は悪魔の、いや、人の罪だった。

 人間のどうしようもない薄汚れたエゴの塊がそこにあったのだ。

 アルファルドは何も言えなかった。目を覚ました己の義体に掛けようと思っていた言葉は全部忘れ去っていた。

 ただおもむろに、その小さな細い身体を抱きしめて、暴れた彼女に殺されそうになった。

 

 そのときに比べれば随分と心を開いてくれているように見える。

 少なくとも殴られることはなくなったし、怨嗟の言葉を吐かれることもなくなった。

 

「ねえアルファルドさん」

 

 声を掛けられる。見ればジェラートを食べ終わったブリジットがこちらを見て笑っていた。

「どうしたんですか?」と無邪気に笑いかけてくる少女に、ベッドで絶望を呻いた少女が重なる。

 

「いや、君の偏食はどうすれば治るのか考えていたんだよ」

 

「なんですか、それ」

 

 少し立腹したようにブリジットがココアを口につけた。彼女がまだまだこちらに心を開ききっていないことはわかっていても、こうして同じ時間を過ごすことができることが、アルファルドにとっての小さな幸せだった。

 



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第三話「天体観測(Astronomical Happy)」

 社会福祉公社における義体の生活というものは恵まれているのかそうでないのか、判断が難しいものだった。

 食事はそれなりに豪勢だし、紅茶やお菓子、各種書物やピアノに映画など娯楽品も割と揃えられている。許可さえとれば敷地内の土地で家庭菜園をすることも許されているし、門限というものも厳密には存在しない。

 自由が認められていないのは「愛する人を選べない」ということだといっても、過言ではないくらいだ。

 そんなわけで社会福祉公社での陽気な春の昼下がり。

 食堂で手に入れてきたいくつかの軽食をバスケットに入れて、義体たちが住んでいる義体棟に向かって俺は歩いていた。

 と、その時。正面から見知った影が歩いてくるのが見えた。

 

「あ、ブリジット先輩」

 

 アマティのバイオリンケースを大事そうに抱えた義体の少女、ヘンリエッタだった。

 ボブカットの栗色の髪が愛らしく、仄かに漂ってくるプパの香水が香しい。

 見た目通りの品の良さを称えた少女に妙な居心地の悪さを感じて、俺は手にしたバスケットをそっと後ろ手に隠した。

 

「何度も言いますけれど、先輩はヘンリエッタのほうですよ。私は公社で四番目の義体。ヘンリエッタは三番目。私が先輩だなんて可笑しいです」

 

 そう。これは完全に俺が悪いのだが、まだ長い悪夢に諦めがついていなかった頃。

 殆ど同期だったヘンリエッタに噛みついていた時期があったのだ。病室が近かったということもあり、ぼちぼちと交流があったのである。

 今覚えば、不安定な精神状態だった俺を監視するためだったのだろうが、馬鹿な俺はそんなことに気がつかずに、ヘンリエッタのことを邪険にしていた。

 その時嫌味混じりに言った「先輩」という言葉の何を気に入ったのか、こうして俺を呼ぶときには先輩付けで呼ぶようになってしまった。

 時たま当時の意趣返しをされているのかと思うことがあるが、彼女を見ていればどうやらそれはいらぬ心配みたいだ。

 

「ううん。ブリジットは私の先輩なの。だってクラエスが『先輩というのは人生において尊敬する人だ』っていってたから。だから間違ってないよ」

 

 何だその理論とは声には出さない。

 無垢な視線をこちらに投げかけてくる彼女を見ていれば「ジョゼはどうしたとか、そもそもアンジェリカはどうなんだ」とかそういった無粋な感想は吹き飛ばされてしまっていた。

 

「ところでブリジット先輩、それ、食堂のご飯だよね。これからお茶?」

 

 言われてぎくり、とバスケットを持つ手に力が入った。別に彼女をみそっかすにしているつもりはないのだが、こうして掛け値のない好意を向けてくる相手を俺は苦手としていた。できればこっそりとバスケットを部屋に持ち帰りたかったのだが、見つかってしまっては仕方がない。

 

「ええ、クラエス先生主催のお茶会です。あなたもどうですか、ヘンリエッタ」

 

 観念した俺はヘンリエッタを伴って、義体棟へと向かうのだった。

 

 

1/

 

 

「へえ、それでジョゼさんに褒められたんだ。良かったじゃん」

 

 テーブルを挟んでトリエラとヘンリエッタが談笑している。俺はその様子を少し離れた椅子に座って、本を読みながら眺めていた。

 さらに部屋の中にはもう一人、ベッドの上で本を広げるクラエスという義体もいる。彼女は眼鏡が似合う理知的な風貌で、公社の義体のまとめ役のような存在だった。

 

「うん。ブリジット先輩とトリエラが南部で頑張ってくれたから、ナポリでもう一度仕事をさせてもらったの。前は私が独断専行しちゃって失敗したから……」

 

「でも今回はしっかりとアルバニア人の武器密輸人を捕まえたんだろ? それはヘンリエッタの手柄だよ」

 

 原作では冬の間に失敗していたアルバニア共和国からの武器密輸阻止。それのリベンジを果たすことができたと、ヘンリエッタは笑って見せた。

 

「二人がしっかりと裏取りをしてくれたからだよ。だから真っ先に報告したかったの」

 

 記憶が正しければ、春のこんな時期にヘンリエッタが仕事をしていた描写は原作にない。描写はされていなくとも、裏で進行していた出来事かもしれないが、

自分の知らない展開に俺は静かに怯えた。

 

「まあヘンリエッタがそう言ってくれるのなら私たちも頑張った甲斐があったもんだね。ねえ、ブリジット」

 

 と、油断していたらいきなりのキラーパス。一応二人の会話を聞いていたとはいえ、突然話を振られても答えられることはあまりない。

 

「まあ、楽な仕事ではなかったですけれど、ヘンリエッタの御役に立てたのなら嬉しく思います」

 

 自分でもびっくりするくらい他人行儀で社交辞令にまみれた台詞だったが、トリエラとヘンリエッタは別に気にした風もなく二人の会話を続けた。

 

「相変わらずの育ちの良さね。アルファルドさんの教育がいいのかしら」

 

 俺の台詞に食いついたのは、それまで我関せずと言わんばかりに書物を眺めていたクラエスだ。彼女は二段ベッドの上段からするすると降りてくると、俺の隣に腰掛けて紅茶を啜った。

 

「ここに来たときは男みたいな口調だったのに、今では立派なお嬢様。これほど興味深いことはなかなかないわね」

 

「五月蝿いわね。ほっといて」

 

 クラエスの言うとおり、一人でいるときは砕けた口調で話しもするが、人の目線があるときは馬鹿みたいに丁寧な言葉遣いを心がけている。

 それは中身を悟らせないための擬態でもあるし、演技をすることによって逆に自我を保つという、俺なりの悪あがきでもあるのだ。

 きっとこの態度が演技で無くなったとき、俺が俺で無くなる瞬間なんだと思う。

 

「ところでヘンリエッタ。あなた、そんなに甘党だったかしら。どうにも砂糖の量が多いように思うのだけれど」

 

 クラエスがふと、砂糖のポッドに手を伸ばしたヘンリエッタに声を掛ける。そう言えば彼女はここに来てから数回、砂糖を紅茶の中に落としていた。

 これは原作の中でもあった光景だ。たしか理由は――

 

「うん、最近あまり甘く感じられないの。薬の量が増えたせいかな」

 

 そう、義体の耐用年数の問題だ。

 常人より遙かに頑強な肉体を与えられている俺たちだが、脳だけは生身のままだ。身体の他の部位は換えが聞いても脳に各種薬品が与える影響ばかりはゼロにすることができない。脳への影響は様々な身体の不調――例えば味覚異常などに現れる。

 恐らく何も怪我をしないままに、手術なしで生活して数年の耐用年数。

 戦闘によって傷ついて、そのたびにパーツを交換すればそれがさらに縮まっていく。

 簡単に言い換えてやればつまりは余命だ。

 

「でもね、私はトリエラがいて、クラエスがいて、ブリジット先輩がいて、こうしてお茶会が開けることがとても楽しいの。だから全然悲しくないよ。それに、ジョゼさんが褒めてくれたんだもの。これ以上望んだら罰が当たっちゃう」

 

 朗らかに笑うヘンリエッタを見て、トリエラとクラエスが破顔した。俺は何も言えないまま、手元の本に視線を下ろした。

 彼女の余りに眩しすぎる笑顔を直視することができなかったのだ。

 そして都合の良いことに、そんな俺の態度が三人にばれることはなかった。何故なら室内に携帯電話のバイブレーションが響き渡ったからだ。

 

「ブリジット、電話だよ」

 

 たまたま俺のベッドの近くに腰掛けていたトリエラが枕元から携帯電話を拾ってくれる。投げて寄越されたそれを難なく受け止めてみれば、液晶にはアルファルドの文字が躍っていた。

 

「わあ、ブリジット先輩、携帯電話を貰ってるんだ。なんだか大人みたい」

 

「本人は気が休まらないからいらない、ってぼやいているけどね」

 

 なんだか的外れな会話をやりとりする二人を尻目に、俺は通話ボタンを押す。耳に本体を押し当てれば、ややあって聞き慣れた男の声が聞こえた。

 

『すまない、ブリジット。仕事だ。三十分後に下に来てくれ』

 

 会話はそれだけ。何故なら俺が直ぐに通話を切ったからだ。理由は至極単純。

 アルファルドに話しかけられて喜んでいる顔をトリエラたちに見られたくないから。

 

「あらあら、私たちとはお茶会をするくらいには打ち解けているくせに、相変わらず担当官との仲は悪いのね」

 

 茶化すようにクラエスが呟けば、トリエラがそれに乗せられてケラケラと笑った。ヘンリエッタだけが、どう声を掛ければいいのか、おろおろと紅茶のカップを持ったままこちらを心配している。

 

「大丈夫ですよ。ヘンリエッタ。この二人が言うほど仲が悪いわけではありません」

 

 くしゃり、とヘンリエッタの柔らかい髪を撫で、クローゼットのもとに歩いて行く。中にはアルファルドから贈られた外行きの服が数着吊されていた。その中から動きやすい綿の白いシャツと黒いジーンズを取り出しその場で着替える。

 

「銃はいつものでいいのかい?」

 

 お茶会前に分解清掃を終えたハンドガン――SIGSAUER P226をトリエラが手渡してくる。整備の後枕の下に隠していたものだ。

 スイス製の愛銃を肩から吊すホルスターに収め、少し厚手のコートを羽織ってそれを隠す。

 僅か数十秒で終えた戦闘準備に、随分と慣れたものだな、と的外れな感想を抱いていた。

 

「それじゃあ、いってきます。私の分のサンドイッチなどは誰かが食べちゃって下さい」

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 ひらひらと振るわれるトリエラの手。ヘンリエッタは緊張した面持ちで「頑張って」と告げ、クラエスは何も言わなかった。

 いつも通りの光景に思わず頬が綻ぶ。

 いつかは覚めて欲しい長い夢だけれども、こんな毎日なら、もう少しだけ浸っていたかった。

 

 

2/

 

 

 ブリジットが出て行った後、紅茶の匂いで満たされた室内で、最初に口を開いたのはトリエラだった。

 

「ねえ、ヘンリエッタ。前から気になっていたんだけどさ、なんでブリジットのこと先輩って呼ぶの?」

 

 問われたヘンリエッタは持っていた紅茶のカップをテーブルに置いて、「うーん」と首を傾げた。

 

「ん? 特に意味はないとか、そんな感じ?」

 

「ううん。ちゃんと意味はあるんだけど、これは言って良いのかなあ、って」

 

 何処か歯切れの悪い反応のヘンリエッタに、トリエラはますます気になると問い詰めていく。

 

「ブリジットが怒ったりするの?」

 

「それはないかな。だって先輩、たぶん覚えていないから」

 

 覚えていない――、それを聞いてトリエラは正直失敗した、と思った。何故なら義体というのはとても不安定な運用のされ方をされており、投薬一つで記憶の忘却など日常茶飯事だからだ。

 実際、義体になる前の記憶をもっている義体は殆どおらず、大抵は洗脳の過程で生前の自分を忘れてしまっている。

 だから互いの記憶の曖昧な部分には干渉し合わない――いつのまにか出来た義体間の暗黙のルールだ。

 

「あ、忘れたと言ってもね、お薬で忘れられた、とかそんなことじゃないんだ。たぶん先輩にとっては何気ない一言だったから覚えていないだけなんだと思う。――まあ、先輩に黙っててくれるなら言っても良いかな」

 

 そう前置きをして、ぽつぽつとヘンリエッタは自分がブリジットと今のような関係になった顛末を語っていった。

 

 

3/

 

 

「……仕事じゃなかったんですね」

 

 急な呼び出しなものだから、随分と急いで向かったのにアルファルドは平謝りで「騙してすまない」と言ってのけた。

 正直きびすを返して部屋に戻ってやろうか、とも思ったが、彼が「連れて行きたいところ」があると告げたので黙ってそれについていったのだ。

 途中、ローマ市内のちょっとしたカフェで軽めの夕食を取り、そのままローマ郊外の丘陵地に車は向かっていた。

 

「そうでも言わないと、断られそうだったからね。お詫びに何でも好きなものを買ってあげるよ」

 

「……なら少ない量でも甘みを感じられる上質なティーシュガーを下さい」

 

「おや、甘いものが嫌いなのに珍しいじゃないか。どうかしたのか?」

 

「いえ、ヘンリエッタが味覚が鈍ってたくさんの砂糖を使っていたので……」

  

 無意識に最後まで答えかけて、俺は口を噤んだ。運転席の方は敢えて見ない。何故ならどうせ、きっと、俺の言葉を聞いて相貌を崩すだらしない顔をした男がそこにいるからだ。

 

「君は変わったな」

 

「そうでしょうか」

 

「ああ、変わったとも。少し眩しいくらいだ」

 

 アルファルドの言葉の意味はよくわからなかった。助手席から外を見てみれば、ローマの市街地に日が沈むのが見えた。時刻を確認すれば19時前。丁度日没の時間帯だった。仕事でも無ければ、どうしてこんな時間帯にこんな場所にいるのか理由がわからなかった。

 

「さて、このあたりなんだが……ああ、あったあった。ここだ」

 

 丘のてっぺんにたどり着いたとき、アルファルドはおもむろに車を止めた。ちょっとした広場になっているそこは天文台の駐車場だった。

 彼は車を降りると、トランクからテキパキと何かしらの機材を運び出している。

 狙撃用のスポッター機具などでなければ、恐らく望遠鏡か何かだろう。

 俺はそれを手伝うか一瞬迷ったが、悪戯が成功した少年のような表情をしているアルファルドを見て、何もしないことにした。イタリア人の男はこういった表情がよく似合う。

 代わりに、カフェで水筒に入れて貰ったコーヒーを、持っていたバッグから取り出した。

 まだ仄かに暖かいそれをカップに注いで、望遠鏡の準備をしているアルファルドに差し出す。

 

「おっ、有り難う。気が利くじゃないか」

 

 望遠鏡の調整が終わったのか、アルファルドがそれを覗くよう指示してきた。

 正直、星座の類いはわからないけれど思わず声を上げるくらいには綺麗な光景がそこに広がっていた。

 

「……気に入ってくれたようで嬉しいよ」

 

 アルファルドの安堵した調子がこちらにも伝わってきて、思わず苦笑が漏れる。 

 正直、今ひとつ距離感を掴みきれない男だが、こういったことをされてしまうと、それなりに信用しても良いのかな、と油断してしまいそうだ。

 俺に殺人を命じるくせに、俺に死の危険がある命令を下すくせに、こうやって俺の心に歩み寄ってくる。

 それがとても嫌らしくて、腹立たしくて、そして愛おしい。

 作られた感情だとわかっていても、抱き寄せられた肩を振り払うことができない。

 それが、今の俺なのだ。

 

 

4/

 

 

 おそるおそる抱いた肩はとても小さく、力を込めてしまえば折れてしまいそうだった。

 気の利いた文句なんて何も思い浮かばない。ただ、星を見て感動する彼女が冷えてしまわないよう、側に寄り添うことしか出来なかった。

 罪滅ぼしというわけではない。

 でも、償いの気持ちが無いわけではない。

 ただブリジットのために出来ることを探して、アルファルドは必死に生きている。 

 それが自分の使命だと、彼は誓いを立てている。

 だからブリジットの感情の機微にはいつも神経を張り巡らせ、彼女が少しでも幸せに生きられるよう心を尽くす。

 アルファルドがブリジットの小さな変化に気がついたのも、その誓いのたまものだ。

 望遠鏡から一瞬だけ彼女が視線を外したとき、切れ長の瞳の目尻がうっすらと濡れていることに気がついた。

 

「ブリジット……」

 

 声を掛け、そっとハンカチをあてがう。するとその時になって初めて気がついたのか、ブリジットは驚いたように自身の目元に手をやった。

 

「あれ?」

 

 何故自分が泣いているのかわからないという風に、彼女は戸惑いを隠さない。

 ブリジットが目元を乱暴に拭うたびに涙は溢れて、やがて大きな道筋となった。

 アルファルドは発作でも起こしたのか、と青白い顔でブリジットの顔をのぞき込む。

 

「どうした、体調でも悪いのか」

 

「いえ、違うんです」

 

 アルファルドから視線をそらし、ブリジットが息を一つ飲む。

 

「なんだか懐かしくて、ずっと昔、それこそもう思い出せないくらい昔にこうしたことがあるみたいで、なんだか涙が……」

 

 ブリジットはそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、アルファルドから手渡されたコーヒーを口に含んで、そのまま黙りこくった。

 彼女が口を開いたのは、アルファルドが無理矢理にでも連れて帰るべきかと、思い至ったとき。

 

「ねえ、アルファルドさん」

 

 アルファルドの手が止まる。

 

「今日はありがとうございます」

 

 

5/

 

 

 ブリジットがどれくらい、今日のことを覚えていられるのかはわからない。

 けれどもアルファルドは、せめてその日がくるまで、彼女を泣かすのは駄目だ、と己に言い聞かせた。

 

 

6/

 

 

 ヘンリエッタは語る。

 

「私が義体になったとき、無口で怖くて、何もできなかった。いっそのこと、殺してくれればいいのに、とも思った。でもね、夜中一人で私が泣いていると、いっつもブリジットが側に来て私の頭を撫でてくれるの。そして彼女は言った。『昔も、こうして泣き虫な妹分をあやしていたから気にしないで』って。あとからお礼を告げたらブリジットは忘れてたんだけどね。だからあの子は私にとってお姉ちゃんみたいで、でも、本当のお姉ちゃんじゃないから、『年上の人はどう呼べばいいのかな』って聞いてみた。すると『先輩かなにかでしょ』って教えてくれて、そこからブリジットは私の先輩に――」 

 



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第四話「分岐1(Brigit's Flag )」

 CFS症候群を患い、先天的に四肢が麻痺していた少女は両親が17枚の書類にサインしたことによって救われた。

 いや、正確には両親が17枚の書類で売ったと言うべきか。

 年の初めに、内閣がひっそりと募集した、身体障害者の社会参加プログラム。

 生まれてこの方、病室のベッド以外の世界を知らない彼女は、11歳の誕生日に自由に動く手足を手に入れた。

 少女――、リコは毎日目が覚めるたびに、己の手足が意思通りに動くことを確かめる。

 四肢が思い通りに動くことが、何よりも嬉しい。

 端から見たらそれはきっと些細なことだが、本人にとっては生きることよりも大切なことだった。

 

 

1/

 

 

「何度教えればできるようになる。出来損ないの道具は必要ない」

 

 いつも通りの訓練を終えた昼下がり。満点のスコアをアルファルドに褒められていた俺とは対照的に、リコは担当官であるジャンから罵倒を受けていた。

 社会福祉公社に所属する義体運用チームは千差万別。

 ジョゼやヘンリエッタのような兄妹のようなフラテッロ。

 ヒルシャーやトリエラのように教師と生徒のようなフラテッロ。

 そしてリコやジャンのように、道具とその使用者のようなフラテッロ。

 俺とアルファルドはどんな関係か、例えることが難しい。

 けれどもそれぞれがそれぞれの個性を表した関係性を築いていることは確かだった。

 

「相変わらずの才能だ。こちらからは殆ど注文のつけようがないが……あえて指摘するのなら指切りの頻度が多い。弾の予備はいくらか持たせているはずだから、もっと撃ち切るつもりで構わないよ。頻繁な指切りはジャムの可能性を高める」

 

 アルファルドがなにやら講釈を垂れていたが、正直言って殆ど聞いていなかった。

 彼の背後で、ジャンに叱責されるリコの事がどうしても気になってしまったからだ。

 とかいって、集中していないことを悟らせるような真似はしない。いかにも理解した、という風を装って頷き、もう一度ライフルを構えた。

 

「次にバーストで10秒間だ。見ているからやってみなさい」

 

 言われてセミオートからフルオートに切り替える。後は的に銃口を向けて引き金を引くだけ。連続した銃声は聴覚保護のヘッドセットを付けていないと非常に五月蝿い。けれどもそれで外すようなことはしない。

 この身体の性能はいい。いつでも当てたいところに弾を当てられた。

 

「どうやらそっちの義体は射撃については完璧らしいな」

 

 いつの間にそこにいたのか、アルファルドの背後にジャンが立っていた。ヘンリエッタの担当官であるジョゼとリコの担当官のジャンは兄弟であり、ジャンが兄だ。また、義体を使った実働部隊のリーダー的存在でもある。

 彼は義体を個人的な復讐の道具として見ており、決して人間扱いはしない。

 そのあたりはジョゼやアルファルドとは正反対の人間だ。

 彼のそのスタンスについてこちらから何かを言うことは決してないが、個人的にはあまり好きにはなれない人物だ。この後の彼や、彼の生い立ちを考えればいろいろと複雑なのだが、今はそこまで考えている余裕などない。

 

「ブリジットの努力の賜物だ。ここに来た頃はハンドガンひとつ扱うのに苦労していたからな」

 

 そしてアルファルドもジャンのことを快く思ってないらしく、返事の仕方も他に比べてぞんざいだ。ついこの間に聞いた話だが、二人はもともと軍人時代の同僚らしく、その時から中々険悪な関係だったらしい。

 

「そうか。ならその才能を少しでもリコに分けて貰いたいものだな」

 

 俺の前に立ったジャンは少し眉根を寄せて俺を見下ろしてきた。俺は睨み返すわけにいかず、いかにも戸惑っているという感じに表情を形作った。

 彼の勘は恐ろしく鋭い。

 もしも俺がイレギュラーな義体であること、他とは違う精神構造の義体であることが見破られてしまえば、命の保証は無い。

 従順な義体を演じることがこの世界における処世術だ。

 

「まあいい。それよりアルファルド、次の作戦の日取りが決まった。訓練は中止だ。直ぐにブリーフィングルームに来い。ブリジットにも出張って貰う」

 

 ジャンが視線を外すことでプレッシャーから解放される。代わりに仕事の話が彼の口から告げられた。アルファルドは面倒だ、という心情を何一つ隠さず、やれやれといった風に「了解」と返した。

 

「ブリジット、先に帰って休んでいてくれ。HK416の分解清掃はこんど教えよう。それは管理部に返却しておいてくれ」

 

 わかりました、と返事を一つ。身につけていた聴覚保護のヘッドセットを取り外して撤収の準備をする。

 すると視界の隅で鼻血を垂れ流したリコを見つけた。彼女は血を滴らせたまま、俺と同じように銃器の片付けを行っている。

 おそらくジャンに殴られたのだろう。けれども怒った様子もなく、彼女は何でもないかのように振る舞っていた。それが余りにもあれなので、俺は咄嗟にハンカチで彼女の顔を拭っていた。

 

「鼻は折れてないけれど、冷やした方がいいかもしれません。一緒に医療棟にいきましょうか」

 

「うーん、でもジャンさんに銃の手入れをしろと言われているから今度でいいよ」

 

 何が今度なのか、という突っ込みを何とか飲み込む。

 そう、このリコというボーイッシュな少女はヘンリエッタ以上の担当官至上主義だ。ジャンの命令とあれば、死ねという命令ですら享受する、本当の意味でのお人形。

 もちろん、彼女は原作が進行するにつれ徐々に人間らしく成長していくのだが、今の段階では見る影もない。

 その無邪気さと純粋さがとある一つの悲劇を招くのだが、今の俺にどうこう出来ることはない。

 

「そうですか。ならトイレに行ってそのハンカチを冷やして当てときなさい。それくらいなら別に構わないでしょう」

 

 これ以上、好意を押しつけても無駄だとわかっているので、俺はそれから何も言わずに訓練場を去った。

 リコが応急手当をしようが、しまいが、変えられる未来など、何もないのだ。

 

 結局私が、それを願って何もかもを失ってきたみたいに。

 

 

2/

 

 

 彼女は私には無いものを皆持っている。それは黒の綺麗な長い髪であったり、身長だったり、或いは人を殺す技術だったり。

 訓練場で一人残された私は彼女から受け取ったハンカチを見た。

 私の血で汚れたそれは、間違いなく彼女の優しさの証。

 けれども私はそれの受け取り方がよくわからないから、お礼も言えないままこうして一人立ち尽くしている。

 

「ブリジット」

 

 彼女の名前を呼ぶが、それで彼女が振り返ることはない。

 ただ一言「ありがとう」と言いたいだけなのにそこから私の足が動くことはなかった。

 

 

3/

 

 

 アルファルドは公社の屋上でタバコを咥えていた。どれくらいそうしていたのかはわからないが、そろそろ戻ろうか、と考えたとき、ふと声を掛けられた。

 

「お姫様が嫌うから禁煙したんじゃなかったのか」

 

「……ヒルシャーか。咥えタバコだ。問題ない」

 

 そう、彼に声を掛けたのはトリエラの担当官、ヒルシャーだった。彼はアルファルドの隣に立つと、ぽつりぽつりと言葉をつないだ。

 

「サッサリ・カソリック急進党のマスカール下院議員、彼が手に入れた政治スキャンダルの抹消が次の仕事か」

 

「スキャンダルだけで終われば良かったんだがな、依頼主の大物政治家は議員そのものを消してしまいたいらしい」

 

 苛立ちを抑えきれないのか、アルファルドはその場で地面を蹴飛ばした。

 ヒルシャーはそんなアルファルドに眉一つ動かすことなく、むしろ穏やかな調子で続けた。

 

「アゴスティーノ・フォン・ゲーテハルト。今回の依頼主だ。やはり気になるのか?」

 

「ヒルシャー、それを本気で言っているなら今すぐお前を病院へぶち込んでやる。症状は何が良い?」

 

 タバコを吐き捨て、アルファルドがヒルシャーに掴みかかった。

 元軍人でもあるアルファルドは素手でも人を殺す術を身につけている。だがヒルシャーは臆することなく答えた。

 

「冷静になれ、アルファルド。お前の苛立ちは間違いなくあの子に見破られる。そんなところからボロを出すのが、お前の望むことなのか」

 

 言われて、目に見えてアルファルドの怒気がしぼんだ。彼は一言「すまない」と呟くとヒルシャーから手を離し、力なく屋上の柵にもたれかかった。ヒルシャーはそんなアルファルドを非難せずに、すかさずフォローを入れた。

 

「気持ちはわかる。アゴスティーノはブリジットの父であり、彼女を公社に売り飛ばした張本人だ。そんな男の薄汚れた依頼を、あの子にさせるのが耐えられないのは当然だ」

 

「いや、耐えなければならないんだ。そうじゃなきゃ、あの子が明日を生きる術はない。俺さえ抑え切れれば、あの子はこれからも笑っていられる」

 

 目元をその大きな手で覆い、アルファルドは空を見上げた。

 

「そうだ、俺が守ってやらなければならないんだ」

 

 

4/

 

 

 リコはジャンから任務の内容を聞かされた。

 ホテルで政治家の暗殺を行うらしい。五共和国派のテロリストがやった、という筋書きだ。

 暗殺の担当はリコ。バックアップにブリジットとヘンリエッタ。そして哨戒役としてエルザという組み合わせだった。

 任務実行の前段階として、リコはホテルの偵察を命じられた。

 彼女は銃の入ったアマティの楽器ケースを抱え、脱出経路にもなっているホテルの裏手に向かった。

 

 

5/

 

 

 表通りから外れた裏路地にはホテルのゴミ捨て場があった。

 生ゴミが捨ててあるのか、どこか鼻を突く匂いがする。日も一日中差さないのか表通りより寒く感じられた。

 人影は無い。

 リコはいざという時の脱出経路に使われる裏口の位置を確認すると、できるだけ早く表通りにいるジャンのもとに戻ろうとした。

 けれども、不運なことにその裏口から出てきたホテルのボーイの少年に彼女は見つかってしまった。

 

「あ……」

 

 義体の身体能力ならば咄嗟に逃げだすこともできたのに、リコはそのまま立ち尽くして少年と向かい合う形になってしまった。

 リコの姿を見定めた少年が怪訝そうに伺う。

 

「ん? 何か用? ここは従業員用だから来ちゃだめだよ」

 

 少年はホテルのゴミ袋を持っている。きっと捨ててくるように誰かから命じられたのだろう。背丈はリコと同じくらいで、年ももしかしたら同じかもしれなかった。

 少年がリコに一歩近づく。すると彼はおもむろに楽器ケースに眼をやった。

「あ」とか「えと」と言い訳を探していたリコを気にした様子もなく、少年は笑った。

 

「ひょっとして楽器を弾けるところを探していたの? ならここで弾いて構わないよ。どんな曲か聞かせてよ」

 

 少年が楽器ケースに興味を持っていることに気がついて、リコは内心慌てた。楽器ケースの中には銃が収められていて、楽器なんか最初から入っていない。弾いてもいいと言われても彼女にはどうすることもできなかった。

 リコができたのは口下手に誤魔化すことだけ。

 

「私、まだ上手く弾けないからこれは駄目なの」

 

 リコはおそるおそる少年の顔を見る。

 怒らせてしまったのだろうか、それとも失望させたのだろうか、彼女は少年の反応が怖くて身を強張らせた。でも、少年から返ってきた反応は思っていたものとは違っていた。

 

「そっか、まだ見習いなんだ。僕と同じだ」

 

 少年がにこにこと笑っている。

 リコは少し呆気にとられて、どういった顔をすれば良いのかわからなかった。

 

 

6/

 

 

「僕の名前はエミリオ。君は?」

 

「リコ」

 

 日の当たらない、ホテルの裏口の前で少年と少女が肩を並べて座っている。少年は赤毛でホテルボーイの制服を、少女はプラチナブロンドの髪にベージュのコートを羽織っていた。

 

「変な名前だね」

 

 少年は良く話した。少女にとって同世代の異性と話すのは初めてのことで、どうしても会話は後手に回っていた。でも少女は不思議と嫌にはならず、少年の話す事にきちんと受け答えをしていた。

 

「親父が失業して飲んだ暮れだからさ、早く一人前になって働くんだ」

 

 少年が父親のことを話すのを聞いて、リコは自分の両親のことを思い出す。

 彼らはいつも動けない自分のことで喧嘩をしており、リコはそれが悲しくて両親のことを余り好きにはなれなかった。

 

「それでさ、リコのお父さんは何をやっているの?」

 

 きっと父は自分が生まれるまでは幸せな日々を送っていたのだろう。母も同じだ。自分が今のように自由に動く手足を持っていなかったからこそ、彼らは自分を手放した。

 リコは顔を伏せて、握った楽器ケースを見つめた。

 

「多分……多分市の水道局というところにいる」

 

「多分? リコは家族と一緒に暮らしていないの?」

 

 少年はいぶかしんだ様に問う。

 

「何年も離れて会っていないから」

 

「リコは寂しくないの?」

 

 リコは再び少年を見つめ、その後自身の体を抱いて目を細めた。

 彼女は今の公社での生活を思う。

 そして少し考えた後、彼女はこう言った。

 

「わかんない」

 

 それから暫らく二人は取り留めのないことを話した。好きな食べ物のこと、嫌な上司のこと、そして友人のこと。

 二人の談笑に終わりを告げたのは少年の方だった。どうやら彼は休憩も兼ねてゴミ捨てに来たようで、余り長い時間ここでサボっていると上司に怒鳴られてしまうらしい。

 

「またここで会おうよ。リコ。僕、待っているからさ」

 

 少年はボーイの帽子を被り直しリコに言った。リコは少年に何かを答えるということはしなかったが、少年の顔を見つめている。

 少年は「じゃあ」と裏口から戻ろうとしたが、何かを思い出したようで一瞬足を止めた。そしてリコの方に向き直り、懐から黄色のセロファンで包まれたキャンデーを取り出した。

 

「これはあげるよ。今日はとても楽しかった。次は演奏聞かせてくれよ」

 

 ばいばい、と手を振る少年にリコは同じように手を振り返した。

 少年が消えていった裏口をリコは黙って見つめる。受け取ったキャンデーをポケットに入れてみれば、ブリジットからこの前借りたハンカチに触れた。そう言えば、また返せていないや、とリコは眉尻を下げる。

 

 作戦開始、2日前の出来事だった。



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第五話「憎悪と友人(Friendly Fire)」

「ねえ、ブリジットは男の子と話したことある?」

 

 来たか、と思った。

 二人して明日に控えた任務の訓練を行っていた。内容は至極単純。音を立てずに扉を開ける方法、サプレッサーを付けたハンドガンの扱い方。

 それが何を意味するのか、薄々気がついてはいた。

 リコのその一言が全てを確信に変えた。

 

「まあ、あるにはあります。突然どうして?」

 

 白々しい返答だった。何があったか知っているくせに、俺は偽りの自分を演じる。

 でもリコはそれを何一つ疑うことなく、少し明るい調子で続けた。

 

「うん、この前ちょっと街でお話ししたんだけど、男の子がとても楽しそうに喋ってくるの。私なんか相手に。ねえ、男の子ってみんなこうなのかな」

 

 違うよ、それは男の子が君に好意を抱いているからだよ。

 そう言いかけるのをすんでのところで踏みとどまる。この子にいらない重みを与えたくない。迷いを抱かせたくないと、敢えて素っ気なく返答した。

 

「たぶんあなたが綺麗だから舞い上がっていたんでしょう」

 

 この話はこれで終わりだ、と手にしていたハンドガンをケースに戻す。けれども意外なことにリコは食い下がって見せた。

 

「私綺麗じゃないよ。義体にならなければ一人で寝返り一つできない、つまらない人間だよ」

 

 息が詰まる。

 俺はリコに向き直ることができない。今彼女の瞳を見てしまえば、俺の内に抱いているこれからの未来を全て吐きだしてしまいそうで、目線を合わせることができない。

 

「いいえ、あなたはつまらなくなんてない……」

 

 いつか彼女のことを「人形娘」と称したことを後悔する。彼女のことを「人形」だと決めつけて、直視することを避けていたから、彼女に対する否定の言葉が何一つ浮かんで来ないのだ。

 

「……ブリジットはさ、私と話して楽しい?」

 

 楽しくない、苦しいだけだ、と言ってやりたかった。けれど俺にできるのは精一杯の偽善を顔に貼り付けて、笑いかけることだけ。

 

「幸せですよ」

 

 

1/

 

 

 作戦決行当日。

 

 俺たちは暗殺対象が宿泊しているホテルにいた。対象の部屋の丁度真下に部屋を借り、盗聴器を駆使して動向を伺っている。

 朝から吐き気が止まらない。余りにも顔色が悪いので、心配したアルファルドが作戦から外すことを提案したが、ジャンはそれを却下した。

 いわく、俺の即応性を手放すのはしたくないとのこと。

 

 運命に関わることがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。

 これまで原作とあまり関係のないところで生きてきた分、こうして原作のイベントに関わることが辛くてたまらない。

 自分のせいで未来が変わってしまうことが恐ろしい。

 そしてなにより、避けられるかもしれない悲劇的な未来を、自分可愛さに傍観する自分が醜かった。

 

「ブリジット、本当に大丈夫か」

 

「心配ありません。気にしないで下さい」

 

 アルファルドにメイドのエプロンドレスを結んで貰う。

 作戦内容はごく単純だ。俺とリコが、従業員のふりをしてターゲットのホテルの部屋に向かう。そしてルームサービスを装って室内に侵入、殺害するというものだ。

 義体としての能力を使えば、そう難しいことではない。

 事実、原作ではあっけのないほど、あっさりと成功していた。

 ただ問題が一つだけ。

 それはリコが部屋から脱出するとき、たまたま通りかかったホテルの従業員に目撃されてしまうことだ。

 しかもよりによってエミリオという、リコと会話を交わした少年だ。

 リコはジャンから目撃者は殺せと命令されていた。

 彼女はジャンに逆らわない。担当官至上主義の彼女は、少しばかりの間の後、エミリオを射殺してしまう。

 それが彼女の心の傷になったという描写はないが、見て見ぬふりをするにはあまりに重たいシナリオ。

 

「ブリジット、そろそろ」

 

 アルファルドに促されて、ハンドガンを手に取る。

 秘書と共に宿泊しているとされるターゲット(議員)のうち、本命である議員を始末するのが俺の役割だ。リコは秘書を担当している。

 

「……よし、ターゲットがシャワーを浴びるそうだ。今のうちにしかけるぞ」

 

 盗聴器を操作していたジャンが命令を下した。

 俺が料理の乗せられたカートを押して、リコがそのあとに続く。

 エレベーターを使って直上階に移動。リコが対象の部屋をノックした。

 

「ルームサービスです」

 

『ブリジット、隣の部屋ではエルザが控えている。いざというときはそこに駆け込んでこちらの指示を待て』

 

 アルファルドの無線には答えられなかった。

 ただ喧しいくらいに跳ねている自分の心音が怖くて、手が小さく震えていた。

 

「ああ、入ってくれ」

 

 男の声が聞こえる。リコが部屋に踏み込んだ。

 丁度こちらに背を向けて新聞を読んでいる男が見える。事前に写真で確認したものが正しければ彼は秘書だ。

 リコが秘書を始末している間、俺はシャワールームに向かった。脱衣所ではバスローブに身を包んだ男が驚いたようにこちらを見ていた。

 

「何だ! お前たち……っ」

 

 言葉は最後まで続かない。素早く頭を吹き飛ばし、念には念を入れて数発身体に銃弾をたたき込む。

 

「ブリジット」

 

 振り返ればリコが頷いていた。任務完了。あとは脱出するだけだ。

 

「私が先に出る。ブリジットはカバーをお願い」

 

 こちらが何かを提案するまもなく、リコが部屋のドアに手を掛けた。耳元の無線が何かを叫ぶ。たぶん見張り役として近くに待機しているジョゼだろう。

 

『不味い、従業員が一人そちらに向かっている。今出れば鉢合わせするぞ!』

 

 警告は間に合わない。リコはするりとドアをすり抜けて外に出た。

 咄嗟に彼女へ伸ばした手は、数センチのところで届かなかった。

 

 

2/

 

 

「リコ? どうしたんだ、こんなところで。それになんでうちの制服着てるの? それに後ろの子、誰?」

 

 状況を把握し切れていない少年が笑う。

 対するリコは「えと……」と言葉を紡げないでいた。

 俺はただ二人のやりとりを傍観する。このあと、リコは「ごめんね」と告げて、目撃者になってしまった少年を射殺するのだ。

 変えられない運命を前にして、無気力な感情がわき出してくる。

 

「その、後ろの子は友達の子。制服は……その、なんでだろう」

 

 一瞬、思考が止まった。

 見ればリコは銃を構えなかった。後ろ手に必死に銃を隠して、少年に対する言い訳を考えていた。

 理由はわからなかった。

 でも運命が、未来が少しだけ変わったのを見た。

 口べたなリコを庇うように、俺が前に出る。

 

「あら、あなたはリコの知り合いですか。私たち、今日からここで働き始めたんです」

 

 どうして自分がこんな面倒なことをしているのかわからなかった。もう見捨てると決めていたのに、変な干渉はしないと誓っていたのに、必死に足掻いてみせるリコを見て気でも変わったのだろうか。

 

「でも、このまえリコは楽器の練習だって」

 

「ああ、この子はちょっと人見知りだから、咄嗟に嘘をついてしまったんでしょう。本当は就職前の面接に私と来ていたんですよ」

 

 苦しい嘘だ。けれども今この瞬間、この瞬間だけ乗り切れればいい。

 そうすればリコの運命は変えられる。

 少年は何処か腑に落ちない、とした表情を浮かべていたが、詮索するほど疑問にも思っていないようで「そっか」と言って見せた。

 そして俺の背後にいたリコの前まで来ると、歓迎の笑みを浮かべて手を突き出した。

 

「リコが同じ職場なんて、本当に嬉しいよ。あれからずっともう一度会えないかな、って思っていたんだ」

 

 良かった、と思わず安堵の息が漏れた。

 あとはリコが少年の手を取れば、この場は凌げる。

 特に俺が何かを意図したわけではない。リコを救おうと思ったわけではない。けれども、この降ってわいた幸運に、ただただ感謝するばかりだった。

 

 

3/

 

 

『……どうしたリコ。目撃者は消せといった筈だ』

 

 無線が無慈悲な命令を下した。ジャンの声はまさに呪い。

 リコは目に見えて動揺し、少年の手を取れなかった。

 

 

4/

 

 

 担当官の命令に俺たち義体は逆らうことができない。

 望まなくても身体は動き、担当官の意を叶えようとする。

 担当官至上主義のリコなら尚更だ。

 彼女は泣き笑いのような表情を浮かべて、一度は隠した銃を取り出した。

 銃口はぴたりと少年の胸を指し、彼女は「ごめんね」と告げた。

 

 

5/

 

 

 どうしてそんなことをしたのか、論理的に説明することは、たぶん未来永劫できないと思う。

 気がつけば俺も銃を構えていた。

 サブレッサーを取り付けたワルサーを少年の後頭部に付ける。

 リコの顔が見えた。彼女は呆気にとられていた。

 その分、彼女が引き金を引く時間が遅れた。

 

「恨むなら、私を恨んで下さい」

 

 引き金は思ったより軽い。たった一発の銃弾で少年の命はかき消えてしまった。飛び散った血潮がリコの前面を汚す。

 

「あ、え、あ、あれ?」

 

 何が起こったのかわからないのか、リコは意味のない声を上げるだけだった。崩れ落ちた少年を見つめ、自身を汚す赤い血を手にとってしげしげと眺めた。

 そしてこちらを見た。

 

「ぶり、じっと?」

 

 光のない、底なし沼のような瞳がこちらを見ていた。

 銃口もこちらを向いていた。

 咄嗟に身を翻すが、コンマ数秒遅かった。

 焼けるような痛みが腹部を襲い、そのまま勢い余って床に倒れ込む。手を当ててみれば脇腹から火傷しそうな熱さを持つ血が流れていた。

 手にしていた銃はリコの足下に転がっている。

 反撃の手すら失った俺は、ずるずると壁際に逃れた。

 

「なんで? どうして?」

 

 言葉と共に銃口が再び突きつけられる。

 瞳には光が戻っていた。けれどもそれは、人形が持って良い光の色ではない。

 

「なんだ、そんな顔、リコでもできるんだ」

 

 彼女の持つ光は、紛れもない憎悪だったのだ。



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第六話「二度目の忘却【Re Set】」

 まさか義体人生最大の危機が、こんなところでやってくるとは思わなかった。

 撃たれた痛み自体はもう消えている。けれども突きつけられた銃口が余りにも冷たくて、その場から動くことを良しとしなかった。

 流れ出る血は立派な赤色で、久しぶりに見た自分の血が緑色とかじゃなくてよかった、と的外れなことを考えていた。

 

「なんで……殺したの?」

 

 リコの事を自分勝手だと糾弾するのは簡単だ。

 

 自分だって殺そうとしたくせに、

 お前の代わりに手を汚してやったのに、

 

 いや、そんなことを言っても何にもならないことくらいわかっている。リコは戸惑っているだけだ。悪いのは俺だ。

 原作の彼女は少年を殺すことで、自分の中で折り合いを付けていたのだ。

 義体としての自分を認め、ジャンに服従することを選んだのだ。

 そのプロセスを、彼女の覚悟を踏みにじった罰が今のこの状態だ。彼女が果たすべき儀礼を邪魔した俺が自業自得だったのだ。

 

「……命令に、従っただけ。目撃者は殺せと言われた」

 

 口内に溜まった血の味を感じながら何とか絞り出した。

 お前のためにやった、とは言えなかった。彼女の瞳に宿る憎悪の光を見れば、口が裂けても言えなかった。

 

「なんでっ!」

 

 リコが引き金を引く。咄嗟に首を動かした。奇跡的に外れた弾丸がこめかみを掠った。腹部だけでなく、顔の右半分も真っ赤に染まる。

 耳元の無線からは、何かの異常を察したのか、アルファルドの呼びかけが続いていた。けれどもそれに答えている余裕はない。

 

「なんでブリジットがころしちゃうの……」

 

 まるで駄々をこねる子供だと思った。

 けれどもその人間くささに喜んでいる自分もいた。憎悪の次にぽろぽろと涙を零し始めたリコを見て、俺は思わず笑みがこぼれた。

 なんだ、人形娘なんかじゃないじゃないか。

 再度、リコが銃口をこちらに向ける。今度は外さないよう、ぴたりと額に付けられた。いくら炭素繊維で出来た骨格に置き換えられていようとも、この距離で撃たれれば即死は免れない。

 

「リコ」

 

「五月蝿い」

 

 呼びかけは拒否される。でもそれで良かった。命乞いはしない。

 リコが初めて見せた人間らしさに比べれば、怠惰に生きてきた俺の人生なんてちっぽけなものだ。俺を殺して満足するなら、それでいい。

 

「ごめん。でもその顔、とても綺麗だよ。あなたはつまらなくなんてない。あなたと過ごしている時、私は楽しかった」

 

 リコは何も言わなかった。

 ただ強く、強く銃口が突きつけられる。

 目を閉じる。その時を待って、最後の言葉を零した。

 

「ごめん、アルファルド――」

 

 

1/

 

 

 最後の時は、いつまで経ってもやってこない。

 不意に銃口の圧力が消えた。

 打撲音が聞こえる。

 瞳を開けた。銀髪が翻っている。

 俺はその影を知っていた。

 

 エルザだ。

 エルザ・デ・シーカだった。

 

 

2/

 

 

 エルザという少女について知っていることは少ない。

 誰かと積極的に関わるようなことはなく、担当官のラウーロという男が彼女の全てだ。ラウーロを愛する余り、原作では悲劇の心中を遂げてしまうのだが、今はそんなことはどうでもいい。

 そんな人との関わりを全くといって良いほど持っていなかった彼女が今、俺の目の前でリコを殴り飛ばしている。

 不思議なことに、ラウーロにしか興味を持たないはずの彼女は、その瞳を憤怒に染めてリコに掴みかかっていた。

 

「絶対に許さない!」

 

 エルザの拳がリコの横っ面を再び捉えた。俺は何が起こっているのかわからないまま、リコが取り落とした拳銃を拾った。

 血でぬるぬると手を滑らせながら、サプレッサーを取り外す。

 そしてそれを天井に向かって数発発砲した。

 けたたましい銃声が廊下に、ホテルに木霊する。

 

「な、なんの騒ぎだ!」

 

 誰かがドアから顔を覗かせて叫ぶ。叫びは伝播し、何事かと野次馬たちが廊下に集まってきた。

 俺はこっそりと銃をうち捨て、腹を押さえたままその場に倒れ込む。

 野次馬たちに囲まれて、また好奇の視線にさらされてエルザとリコの動きが止まった。

 

「大変だ、従業員が撃たれているぞ!」

 

「誰か救急車を!」

 

 まさか先程の銃撃をこの場にいる少女たちが行ったとは誰もが考えず、慌てた宿泊客たちが駆け寄ってくる。エルザとリコも衆人環視の元で暴れることの愚くらいはわきまえているのか、大人しくその場で座り込んでいた。

 

「大丈夫か、しっかりしろ」

 

 客の一人に紛れ込んで、アルファルドが俺の隣についた。無線から異常を嗅ぎ付けて、階下から駆けつけてくれたのだろう。

 彼は俺をそっと抱き起こすと、耳元でこう囁いた。

 

「よくやった。君の機転に公社が救われた。公社の救急車両がまもなく到着する。それまで耐えられるか」

 

「……痛みはありません。ただ、酷く疲れたので、ちょっと休みます」

 

 言って目を閉じる。呼吸を浅く繰り返し、息を整えた。

 腹に手をやれば血が止まっていないことがわかる。けれどもアルファルドが着ていたジャケットを使って、直ぐに傷口を縛り上げてくれた。

 

「汚れますよ」

 

「余計なことは気にしなくて良い」

 

 ありがとうとは素直に言えなかった。

 こんな時でも憎まれ口しか出てこない自分が憎らしい。でもアルファルドはそんな俺に怒ることなく、静かに頭を撫でてくれた。

 

「頑張れ」

 

 最後に聞いたのはそんな言葉。気が緩んだせいか、強烈な眠気がやってきて、それに抗うことができなかった。

 アルファルドが何か慌てたような声をあげるが、今は少し眠りたかった。

 目が覚めたとき、少しでも何かを覚えていることを期待して。

 

 

3/

 

 

「ブリジットとリコの条件付けを強化することが決まった。エルザは今回のことを決して口外しないよう、ラウーロに厳命させる」

 

「……暴走したのはお前のリコだ。何故、ブリジットが巻き添えをくらう」

 

 銃創を腹にこしらえたブリジットと、エルザに殴り飛ばされたリコは、二人して社会福祉公社の医療棟に入院していた。

 二人とも昏睡麻酔を掛けられ、並んだベッドに横たわっている。

 そんな彼女らを防弾ガラス越しに見つめる二人の担当官は、静かに応酬を繰り返していた。

 

「ならば逆に問うが、ブリジットが今回のことを覚えていることに何かメリットはあるのか? 味方に殺されかけた事実を覚えていて何になる」

 

 アルファルドは何も言い返せなかった。

 追い打ちを掛けるようにジャンは告げた。

 

「まだまだ義体はわからないことが多すぎる。俺もお前も、もっとあれらの扱い方について学ぶべきだ」

 

 

4/

 

 

 リコは目を覚ました。

 咄嗟に、自分の手足が動くがどうかを確認した。

 いわばそれは、彼女にとっての日課のようなもの。自分の麻痺が治ったことが夢でないことを確かめるために必要なプロセス。

 自分の意思通りに動く手足を見て、彼女は「よかった」と笑った。

 ふと、隣に並べられたベッドを見る。

 綺麗に折りたたまれた毛布と、シーツが残されたベッド。

 誰かがそこにいた形跡は残されていないが、それでも誰かの存在を感じさせずにはいられないベッドだった。

 どうして自分がこんなところに入院しているのかはわからなかった。ただ、自分の足で立ち上がって、自分の手で隣のベッドに触れたとき、何故だか涙が滲んできた。

 理由なんてわからない。どうしてだかわからない。

 いたたまれなくなって、その場にいることが辛くて、彼女は自分のベッドに戻った。

 すると枕元に、ハンカチと黄色い包み紙に覆われたキャンデーが置かれていることに気がついた。

 

「?」

 

 いつ何処で手に入れたのか、全く思い出せない二つの品物。

 けれどもそれを手にした瞬間、滲んでいた涙が溢れてきて、胸に抱いて声を漏らした。

 彼女の小さな嗚咽は、リコの覚醒に気がついた医師たちが病室にやって来るまで続けられた。

 

 

5/

 

 

 目を覚ましたその日に退院した。

 任務の途中にテロリストに撃たれて入院したらしい。

 らしい、と伝聞形なのは修繕に使った薬物の副作用で、記憶が曖昧になっているからだ。

 まあ、記憶の混濁なんてここに来てからは割とあることなので、そこまで気に病むことはなかった。

 俺はアルファルドから受け取った退院祝いの品を持って、義体棟の渡り廊下を歩いていた。日差しが少しだけ差し込むそこはひんやりとしていて気持ちが良い。

 ふと、目の前から歩いてくる人影が見えた。

 挨拶をしようと、声を掛けそうになるが、人影の正体を見定めた時点で言葉を飲み込んだ。

 綺麗な銀髪を三つ編みにした、俺より頭一つ小さい人物、エルザ・デ・シーカだったのだ。

 彼女は自身の担当官であるラウーロ以外には興味を示さない、本当の意味で義体らしい義体だ。どうせ俺が声を掛けたところで返答なんか期待できないし、余計なやっかみを抱えたくもないので、会釈を一つだけ交わしてすれ違おうとした。

 そう、すれ違おうとしたのだ。

 

「えと、エルザ?」

 

 戸惑いの言葉は仕方がないと思う。何故ならエルザの小さくて白い手がしっかりと俺の服の裾を掴んでいたから。

 彼女はこちらを一切見ないまま続けた。

 

「退院したの?」

 

「え、ええ。おかげさまで」

 

 それから十秒くらいだろうか。彼女は何も言わなかった。ただし、服の裾は掴んだまま。

 気がつけば、彼女がこちらを見ている。彼女の青い瞳が真っ直ぐこちらに向けられる。

 

「――次は私を助けてね。ブリジット」

 

 意味は全くわからなかった。

 けれどもエルザは伝えたいことは伝えた、と言わんばかりにあっさりと裾を手放して歩き去ってしまった。

 一人渡り廊下に残されて、どうすれば良いのか途方に暮れる。

 

 ――次は私を助けて。

 

 俺の記憶が正しければ、彼女の余命というのはそう長くはない。

 彼女は愛したラウーロが、担当官が自分を見ていないことに絶望して心中をしてしまうからだ。

 もしかして「助けて」とはそれの事を言っているのだろうか。というか、俺はエルザに助けられたのだろうか。

 何がなんなのかわからないまま、トリエラやクラエスが待ち受ける部屋に足を向けた。

 

 でもどうしてだろう。

 何か大切なことを忘れている気がしてならなかった。

 

 

6/

 

 

 退院祝いはちょっと苦めのチョコレートケーキだった。甘いものが苦手なブリジットでも食べられる、彼女定番のお菓子だ。

 クラエスが紅茶を入れ、トリエラが切り分けた。

 病み上がりということで、まるでお姫様のような扱いを受けたブリジットは戸惑いながらも二人の好意に甘えた。

 普段はつっけんどんな態度を取る癖に、こういう時は擦り寄ってくるところが何処か猫みたいだと、クラエスは笑いながら皮肉った。

 

「で、ブリジット。アルファルドさんからのケーキ、お味はいかが?」

 

 トリエラに促されて、ブリジットはケーキを口に含んだ。彼女はしばらくそれを咀嚼すると、うーん、と一瞬首を傾けて、ややあってこう言った。

 

「あれ? このケーキ、こんな味でしたっけ?」



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第七話「もう一度【Re Try】」

 その日の定例会議はとくに大した話題もなく終了した。

 一週間後に控えた、五共和国派の大量摘発の作戦を確認し合ったのみで、それ以上の話題が議場に上げられることはなかった。

 配布された資料と、自身のメモを綴ったノートブックを抱えて、アルファルドは作戦二課が拠点を構える棟の廊下を歩いていた。

 

 久しぶりにブリジットを街に連れ出してみるか。

 

 議員の暗殺で負傷した彼女は、しばらくの間社会福祉公社の敷地から出ていない。それは余りにも可愛そうだと考えた彼は、誰に聞かせるでもない独り言を呟いていた。と、その時。背後から誰かに呼び止められる。

 大方ヒルシャーあたりか、と振り返った先には何処か暗い雰囲気を纏った男、ラウーロがいた。

 

 

1/

 

 

「あれから、そちらの義体はどうだ?」

 

 義体担当官が利用することのできる資料室がある。

 その部屋の一角に備え付けられたテーブルにアルファルドとラウーロは向かい合って座っていた。

 問いを発したのはラウーロ。彼は普段から顔に貼り付けている険しい表情を崩さないまま、アルファルドを見据えた。対するアルファルドはさて、どうこたえたものか、と口元を手で覆う。

 

「ホテルの件は全て忘れている。あの子が無事だったのは君のところのエルザのお陰だ。本当に感謝している」

 

 アルファルドはホテルでの一件を思い出す。

 義体二体を主力とした、満を持した暗殺任務。けれどもそれは義体の不安定さ故か、それとも条件付けの危うさ故か、リコが突如暴走し、味方であるブリジットを誤射するという悲劇を招いてしまった。

 誤射を行ったリコはもちろん、作戦運用上の観点からブリジットまでが記憶操作された事件はまだ記憶に新しい。

 

「課長はブリジットとリコ、どちらの戦力も失いたくないと結論づけた。一体160万ユーロの費用を計上している人形だ。そう簡単に切り捨てられるモノではない」

 

 ラウーロの物言いにアルファルドは眉を顰めるが、咎めるようなことはしなかった。

 何故ならそれは、覆りようのない事実だからだ。

 

「だがブリジットまで記憶操作されたのは意外だった。あれだけの機転を利かせたんだ。その経験をリセットするのは腑に落ちない」

 

「……最終的には俺がそう要請した。ジャンは決定事項のように条件付けの強化を伝えに来たが、課長から俺が決めるように告げられたんだ。もしも記憶をそのままにしていたら、あの子はリコに襲われる幻影に怯えることになる。それならば今のうちに忘れさせてやる方が良かった」

 

 そう、ブリジットの記憶抹消は、アルファルドが決定したものだった。

 できるだけブリジットには余計な負担を与えたくないと考えているアルファルドだが、今回ばかりは背に腹を変えられなかった。

 ジャンが告げたとおり、味方に撃たれた記憶など足枷でしかない。

 誰かに襲われることに怯え続けなければならない人生など、与えたくなかった。

 

「そうか。相変わらず義体との距離を間違えた男だ」

 

 それだけを吐き捨てて、ラウーロは席を立った。彼にしてみれば、本当にブリジットの調子を確認するためだけだったようだ。

 普段の調子からは考えられないような行動をとったラウーロにアルファルドは驚き、その疑問を素直に口にしてしまう。

 

「珍しいな。お前がそんなに人のことを気にするなんて」

 

 アルファルドの言葉を聞いて、ラウーロはそのしかめっ面をさらに顰めた。

 

「人に興味がないわけではない。義体に、自分では何一つ決められない義体に興味がないだけだ。それに――お前の人形の調子を聞いてくれと頼んできたのはエルザだ。奴は俺と違って、随分とお前のところの人形にご執心だぞ」

 

 

2/

 

 

「アルファルドさん、二階のバスルームでエルザが目標を捕捉しました! これから援護に入ります!」

 

 大量摘発の前半戦は屋内家屋の突入作戦だった。一階からエルザがドアを壊して突入し、ブリジットが建物の屋上からラペリングで突入した。

 いつも使っているHK416ではなく、取り回しを考えてMP5クルツを構えた彼女は窓ガラスを突き破って室内に飛び込む。粉々に砕け散ったガラスの上を転がりながら、中にいた男たちを掃射した。壁一面に血の花が咲き、動くものがブリジット以外いなくなる。

 撃ち尽くした弾倉を交換した彼女は耳元の無線に意識を集中する。

 

『よし、君が踏み込んだ階から二つ降りれば二階だ。急いで向かってくれ』

 

 五共和国派の幹部の摘発作戦はここまで順調だった。

 まさか屋上から義体が踏み込んでくるとは考えていなかったようで、ブリジットは易々と階下を攻略していく。

 すんなりと二階にたどり着けば、男の一人を後ろ手に拘束したエルザが、階下に向かってサブマシンガンを応射していた。

 

「エルザ! 応援にきました!」

 

「そう、ならこっちをお願い」

 

 落ち着いた様子でエルザが男を縛り上げたまま後退する。エルザの応射が終わったことに安心し、下から顔を覗かせた男の一人に、ブリジットの弾丸が突き刺さった。

 エルザはそんなブリジットに自身が装備していた予備の弾倉を手渡す。何事か、と振り返ったブリジットにエルザは少し厳しめに言葉を発した。

 

「前に集中して。あなたのクルツと私のMP5は弾倉が共通でしょ? 私にはたぶん、必要ないからあなたがつかって」

 

「――? わかりました」

 

 エルザの意図がよくわからないまま、ブリジットは階下への応戦を続ける。

 それを見届けたエルザはさらに一歩下がって、男を縛り上げた。決して拘束が緩まないように。余計な反撃を食らわないように。

 ただ、足下に転がっている死体までには注意が及んでいなかった。

 

「エルザ!」

 

 たまたま振り返ったブリジットが叫んだ。彼女の視線はエルザの背後に及んでいる。

 虫の息だった男が立ち上がり、ナイフを構えていたのだ。

 

「なんてしぶとい――!!」

 

 距離が近すぎて銃が使えない。ならばせめて急所だけは外そうと、エルザは頭部を腕で隠した。けれども、ナイフがエルザの腕に突き刺さる寸前、獣のように男に飛びかかる影があった。

 ブリジットだ。

 

「エルザから離れろ!」

 

 体重がない分、ブリジットのタックルは非力だ。しかしながら的確に重心を狙ったお陰か、男の身体がふわりと浮いた。

 ブリジットにとって誤算だったのは、むしろ男の身体が浮きすぎたことだった。

 

「待ちなさい!」

 

 エルザがブリジットに向かって手を伸ばすが、もう遅い。彼女の手をするりと抜け去ったブリジットの身体は、男と共に二階の窓ガラスを突き破って、外に落ちていったのだ。

 残されたエルザはただ呆然とその光景を眺めた。ブリジットが皆殺しにしたのか、階下からの銃撃はいつの間にか止まっている。先程まで鳴り響いていた銃声はぴたり、と止み不気味な静寂が建物を支配していた。

 

「……その向こう見ずなところは相変わらずなのね」

 

 溜息を一つつきながら、エルザはそう零した。

 

 

3/

 

 

「それにしても驚いたよ。壁をよじ登っていたら男とブリジットが落ちてくるんだもん。ほんとびっくりした」

 

 トリエラはそう言って、俺の背中に氷が入った袋を押しあてた。鈍痛が和らいでくのを感じて、俺は息を吐いた。

 

「でも助かりました。下にホロが無ければ打撲じゃ済まなかったでしょう」

 

 そう、俺と男は運よく下の店に掲げられていた屋根のホロに落ちたのだ。これがアスファルトの上なら男ともども血の花を咲かせていただろう。

 義体も受け身を取れなければ、高所からの転落は致命傷になり得る。

 

「折角クラエスがミラノから帰って来たのに、早速入院したらあの子がうるさいよ」

 

「まったく、クラエスせんせは小言が多いですね」

 

 トリエラが声をあげて笑い、俺もそれにつられて笑った。こうして胸を上下させても嫌な感じはしないから、骨に異常は無いようだ。

 

「さて、一応レントゲン取った方が良いけど、ここじゃ冷やすぐらいしか出来ないから冷湿布でも貼っていく?」

 

「いえ、気持ち悪いから構いません」

 

 脱いでいた服を手早く着こみ、机に置いておいたコートを羽織った。懐のホルスターに収まったシグのせいか、少し重い。

 それに窓を突き破ったときのガラス片が傷つけたのか、至る所がボロボロに引き裂かれていた。こいつはもう御役御免だろう。割と気に入っていただけに、自分が二階から落ちたことよりもショックだ。

 

「ヒルシャーさんは?」

 

「現場検証と尋問。ジャンさんが来るまではあの人が一番偉いから」

 

 俺とトリエラは設置された医療用テントから出る。テープで囲まれた五共和国派のアジトは警察関係者でごった返していた。白昼堂々、あれだけの銃撃戦を町中で行ったのだ。社会福祉公社は今回のことをテロリストの銃撃として処理するのだろう。

 警察関係者はそのために用意された証人というわけだ。

 俺は警察関係者の目にとまらないよう、そっと裏手に回ってアルファルドを探した。

 負傷した俺を心配したトリエラもついてきてくれる。

 

「ねえブリジット。あれ」

 

 アルファルドがいたのかと思い、俺はトリエラの指差した方向を見た。するとそこにいたのはエルザとラウ―ロのフラテッロだった。

 

「怒られてるのかな」

 

 遠目から見ても、彼女が今日の失態を叱られているのが良く分かる。

 ただ窓から飛び出したのは完全に俺のミスなので、もしもそのことで怒られているのならば申し訳ないと、いたたまれない気持ちになった。 

 

「エルザがかわいそう」

 

 だからトリエラの台詞に、俺は微妙な返事しか返せなかった。

 ただそんな俺の内心などお構いなしに、執拗な罵倒と怒鳴り声がここまで聞こえてくる。

 普段エルザがどれだけラウーロに懐いても決して反応することは無いのに、彼女が何かを仕損じるとああやって出来損ない扱いをするのだ。

 そしてその積み重なりが、このあと待っている悲劇を引き起こすことになる。

 

「私、アルファルドさんを探してきます」

 

 俺はトリエラにそう告げて、その場を去ることにした。

 

 

4/

 

 

 ラウーロの叱責から解放されたエルザは、一人現場を歩いていた。

 するとほんの少し前まで、同じ現場で命を預け合った少女の声を聞いた。

 

「本当に大丈夫です。痛みはもうありません」

 

 別にやましいことはないのに、エルザは近くに駐車されていたワゴン車の影に身を潜めた。そして、少しだけ顔を覗かせて声の元を盗み見る。

 

「いや、駄目だ。このまえ手術したばかりなんだ。ちゃんと見せなさい」

 

 言われて背中をアルファルドに見せているブリジットがいた。彼女はちょっと頬を赤らめながら服を捲っている。

 

「腫れなどはないが、帰ってビアンキに見て貰おう」

 

「だから大丈夫ですって。ホロの上に綺麗に落ちましたし、私は義体です。こんなことで負傷などしません」

 

 自分たちとは全く違う、フラテッロの関係だとエルザは思った。

 心が穏やかでなくなっていくのを、彼女はありありと感じる。

 

「いいや、違う。君は人間だ。俺は君を道具のようには扱いたくない」

 

 エルザはその言葉に息を呑んだ。

 自身とは違う扱いを受けるブリジットを見て息を呑んだ。

 例えそれがわかっていたことでも。

 今の段階の自分にはあまりに眩しすぎる光景。

 彼女は、自身が抱いた嫉妬心が醜くて、それに耐えきれなくて、一人そっと、その場から立ち去った。



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第八話「もう一度わたしを【Re Try】」

 薄暗い廃工場の中をブリジットは走る。

 獲物が落としていった血の跡を、強化された嗅覚を使って辿っていく。

 彼女の頭は獲物を殺すことしか考えられない。手にしたSIG SAUER P226は心強い味方で、背中に差したアーミーナイフこそ正義だ。

 獲物は直ぐに見つかった。奴は傷を庇いながらコンテナの陰で怯え震えている。ブリジットはその様子を確認すると息を潜め静かに笑った。

 酷く吐き気がする夏の夜。

 

 彼女は初めて人を殺す。

 

 

1/

 

 

 目が覚めた。

 嫌な夢を見た。この世界に来て初めての任務の夢だ。その時の興奮が伝播したのか、体中が汗で濡れていた。

 首だけを動かし、枕元の時計を見る。時刻は朝の4時半。起き出すにはまだまだ早すぎる時間帯だったが、これ以上眠れる気もしないので、そっとベッドを抜け出した。

 二段ベッドの下段が俺、上段はクラエス。対岸の一人用ベッドはトリエラのものだった。

 彼女たちの様子をこっそりのぞき見れば、二人ともまだ眠っていた。

 これは好都合といわんばかりに、俺は部屋からこっそり抜け出す。向かったのは義体専用のシャワールームだ。

 一応、深夜に任務から帰還した義体のために、24時間開放されている。

 いくつか並んだシャワールームは当たり前だけれどもどれも無人で、その内の端っこに身を滑り込ませた。

 

 

「はあ……」

 

 ちょっと熱めのお湯をかぶれば、なんとも言えない息が漏れた。

 身体が温まったからか、昨日打ち付けた背中が疼く。アルファルドに急かされて受けた精密検査では異常なし、と出たがこんなものなのだろうか。

 ふと、シャワールームに備え付けられた鏡を見た。

 そこには長い黒髪を無造作に垂らした一人の少女が映っている。

 控えめに見ても美人な、柔らかそうな身体の女の子だ。この白い皮膚の下に炭素繊維で出来た骨と、人工筋肉が隠されているとは到底思えない。

 肌の質感も、口から零れる溜息も、全部本物なのに。

 

 かたん、

 

 とその時、二つか三つ隣のシャワールームに誰かが入ってくる音が聞こえた。

 俺が部屋から抜け出して三十分ほど。つまり時刻は5時くらいか。こんな時間にシャワーを使う人物が誰も思い至らず、背筋に寒いものが走った。

 まさか不審者ということはないだろうが、決して居心地がいいものでもない。

 俺はシャワーの蛇口を捻り、水を滴らせたままシャワールームを出た。脱衣所は無人だったが、誰かが残した着替えが洗濯かごに残されていた。

 一瞬、洗濯物を見れば誰かわかるか、と思ったが実行する寸前で踏みとどまった。

 一応は品行方正な義体で通っているのだ。疑いを掛けられるような行為は慎みたい。

 

「ふう、あら、先客はブリジットだったの」

 

 身体を拭き、服を身につけていたら声を掛けられた。その時になって、本当に服を漁らなくてよかったと思った。

 何故ならそこに立っていたのはここ最近、一番顔をあわせ辛い義体であるエルザ・デ・シーカだったから。

 万が一、彼女にそんな現場を見られていたら、ただでさえ微妙な関係がますます拗れていただろう。

 

「ええ、ちょっと寝汗が酷くて」

 

 言って、裸体のままのエルザから目線を外す。

 気恥ずかしいのと、顔が赤いのを誤魔化すためだ。

 

「――そう。私はさっき任務から帰ってきたの。あさっての任務の下見に。……たぶん今日伝えられると思うけれど、あなた、私とペアを組むことになったわ」

 

「そうなんですか。頑張りましょうね。折角の二度目のペアなんですもの」

 

 声色は平静を装うが、内心は動揺に塗れていた。原作のこの時期にエルザが関わる大きな作戦など聞いたことがない。

 この時点でこんなにも原作と乖離するものなのかと、焦りと恐れしか沸いてこなかった。

 そんな俺を知ってか知らずか、エルザは特に何でもないように次のようなことを言ってのけた。

 

「あなたって意外と薄情者なのね。二度目じゃなくて三回目なのに」

 

 それは持っていた着替え全部を落とすほどの衝撃を、俺に与えた。

 

 

2/

 

 

「ちょっと、ブリジット。顔色真っ白だよ。大丈夫?」

 

 あれからどんな道順をたどって、義体棟の部屋に戻ってきたのかはわからない。ただ部屋に戻ってみれば、既にトリエラとクラエスは起きていて、彼女たちは俺を見るやいなや駆け寄ってきて心配そうに声を掛けた。

 

「いえ、ちょっと調子が悪いだけです」

 

 嘘だ。身体の調子は悪いどころか、ここ最近では一番調子が良い。けれどもぐちゃぐちゃに混乱した頭が真っ白な表情を演出している。

 エルザは言った。お前と組むのは三回目だと。

 俺が覚えている限りでは二回。

 ということはつまり、俺は既に何回か記憶操作を受けていることになる。

 覚悟はしていた。入院をするたびに記憶の操作を恐れたりもしていた。けれども、前世ではただの一般的な日本人だった俺からすれば、今回のことは久しぶりに突きつけられた悪夢だ。義体だから仕方ないと割り切っていても、いざ自覚すれば耐えようのない吐き気がやってくる。

 

「そう? アルファルドさんに今日の訓練は休むって伝えようか?」

 

 トリエラが俺の背中をさすりながらそう言った。アルファルド、と聞いた瞬間、肩が跳ね上がる。トリエラは驚いたように俺から手を離し、こちらの顔をのぞき込んできた。

 

「……アルファルドさんとなにかあったの?」

 

 違う。何もない。

 いや、何もないように彼が振る舞っていることが恐ろしいのだ。

 もしも仮に、俺の記憶が改ざんされているのだとすれば、それはアルファルドが了承したということになる。

 作られた関係とはいえ、俺がこの世界で唯一頼ることのできる味方であるアルファルドが、だ。

 これは俺にとって足下を崩されるような、これまで前提としていた全てを突き崩されるような衝撃だった。自分が思っていた以上に、彼のことを信頼していたんだな、と苦笑すら漏れてしまう。

 

「本当にないんです。何も……」

 

 これ以上彼女らと話していたら余計なことを口走りそうで怖かった。だから彼女らを振り切って、訓練用の装備を引っ掴み、部屋を飛び出した。

 背後からトリエラとクラエスの声が聞こえるが、応答している余裕はない。

 

 これほど夢から醒めてくれと願ったのは、久方ぶりだった。

 

 

3/

 

 

 雨が降っていた。土砂降りというわけではないけれども、傘をささなければあっという間にずぶ濡れになるような、そんな雨だった。

 エルザから爆弾を突きつけられて二日目の夕方。

 俺とアルファルドはローマの外れにある廃工場の近くに車を止めて待機をしていた。

 フロントガラスを水滴が叩き、カーラジオがしっとりとクラシックを奏でている。

 

「作戦内容は事前のブリーフィングで伝えたとおりだ。ここに映っている三人の男を捕らえるんだ」

 

 アルファルドに見せられた写真を見る。もう何度も確認した顔ぶれなので、数秒そこそこで視線を外した。アルファルドも特に何かを告げることなく、写真を懐にしまう。

 

「……ここ数日の様子が変だと聞いている。何かあったのか」

 

 これも、何度目かわからないくらいされてきた質問だった。

 エルザと会ったその日の訓練でとんでもないロースコアを叩きだした後、怪訝に思ったアルファルドが問うたのが始まりだ。けれども俺はそれに何も答えてこなかった。

 馬鹿正直に、あんたを信じられなくなったと言っても良かったが、そんなことをしても何も意味がないことくらいわかっているので、沈黙を保っているのだ。

 だから今回の問いにも、小さく首を横に振ることで答える。

 

「……もしも何か異常に感じたらすぐに教えるんだ」

 

 作戦開始のアラームがアルファルドの腕時計から鳴った。

 こんなぐちゃぐちゃの頭でも、義体の頭脳というのは大変優秀で、すぐさま任務用の思考に頭脳が切り替わる。担当官とのいざこざも、自身に対する苦悩も切り離され、主人に言いつけられた獲物を駆り立てる猟犬へと変化するのだ。

 

「それでは行ってきます。あなたは私が合図したら一課の人々をつれて、拘束した男たちを引き取りに来て下さい」

 

 懐にSIGを収め、手にはHK416を携える。車を降り、傘をさせばいつの間にそこにいたのか、エルザが直ぐ側までやって来ていた。どうやらアルファルドの車の真後ろに、ラウーロが車をつけたようだ。

 

「ラウーロさんが一緒に向かえ、と」

 

 了承の意を返し、エルザと共に日が沈みかけた倉庫街に向かう。足下では水が跳ね、二人分の足音は雨音に掻き消されていた。

 

 

4/

 

 

「みてあそこ。見張りがいる」

 

 二人並んで、廃倉庫の屋根に上っていた。エルザが暗視装置を使って、敵の配置を教えてくれる。

 たとえ義体の強化された視力を持っていても、この悪天候の中では常人とそれほど変わらない。

 エルザから暗視装置を借り受け、示された方角を覗けば、確かに二人の男が倉庫の入り口で見張っていた。

 

「……あれくらいなら正面突破できなくはないですけど」

 

 けれども俺の提案は、あっさりとエルザに却下された。

 

「いえ、この前みたいに二方面作戦で行きましょう。私が屋根伝いに倉庫へ向かうから、あなたは私が中で暴れ始めたのを確認して正面から突入して。その方が敵の注意を分散させられるし、籠城される心配も少なくなる」

 

 エルザの言うことは理にかなっていた。二人で正面から突っ込めば、何れは制圧できるだろうが時間も体力も要する。逃げ道を確保されていれば、そこから目標の男たちが逃げ出すこともあり得た。けれども二方面から奇襲を仕掛ければ、敵は俺たちの手駒を確認することが出来ず、混乱の中で状況を進めることができる。

 

「わかりました。気をつけて下さい」

 

 俺が答えるやいなや、エルザは倉庫の屋根を飛び移っていった。体重が軽いお陰か、その身のこなしは軽く、飛び跳ねる音も良い具合に雨音に紛れている。

 原作ではジャンが優秀な義体だったと評していたが、その記述に偽りはないようだった。

 

「さて……」

 

 エルザがいなくなったことで、少しばかり俺の緊張が解けた。

 ここ数日、彼女には得体の知れない恐怖を感じていただけに、その重圧から解放されたのは有り難い。

 HK416のチャージングハンドルを引き、安全装置を解除する。雨に濡れているのが少しばかり気になるが、それで動作不良を起こすような柔なライフルではないので、そこまで心配はしない。

 義体の並外れた身体能力を活かして、倉庫の屋根から飛び降りる。エルザより重たいせいか、彼女のような軽やかな着地はできなかった。けれども見張り二人がこちらに気付いた様子はなく、自分が思っている以上に隠密行動はできているようだ。

 

「恨みはないけれど、親愛もない。御免な」

 

 ライフルの銃口を物陰から見張りの一人に向ける。

 もう何百回、いや、下手をすれば千回単位で繰り返してきた動作だ。そこに昔のような迷いはなく、葛藤もない。

 初めての任務で抱えていた罪悪感はこれまで全て捨ててきた。

 銃声が雨音を切り裂いて鳴り響いた。それはエルザからの合図と同じ。

 見張りが何事か、と振り返ったとき俺は引き金を引く。夜の闇にマズルフラッシュが刻まれ、男の一人が糸が切れた人形のように倒れた。

 

「っ、おい!」

 

 もう一人の命もそう長くは続かない。

 続けざまに放った弾丸は男の胸を穿ち、彼の膝を跪かせる。反撃の芽はないと判断した俺はそのまま近づいて、銃口を男の眉間に押しつけた。

 

「こ、公社の犬か!」

 

 血の泡混じりの怨嗟には、銃弾で答えた。見張りが完全に潰えたことを確認すると、俺は倉庫の入り口から中へと侵入を果たす。そっと耳を澄ませれば怒声と銃声が中から伝わってきた。

 

「急がないと」

 

 一人で多人数を相手しているエルザが心配だ。いくらエルザが得体の知れない不気味な存在でも、見捨てて良いことにはならない。

 たぶん焦りもあったのだろう。

 雨音と銃声のコンチェルトの中を突き進んでいる中、ちょっとした物音を見逃した。

 気がつけば男が鉄パイプを物陰から振りかぶっていた。回避は間に合わない。咄嗟にHK416を振り上げ、鉄パイプを受け止める。

 

「ぐっ!」

 

 衝撃を殺しきれずに、床に突き転ばされる。寒気を感じ、その場から転げればそこに鉄パイプが振ってきた。

 

「死ね!」

 

 隙を見て起き上がれば、今度は鉄パイプのフルスイング。殆ど目で追いきれなかったが、闇雲に出した腕で何とか受け止めることができた。顔面の直ぐ横で止まったそれに寒気を感じながらも、何とか取り出したSIGで男の腹を二、三発撃ち抜く。

 

「くそっ……」

 

 倒れ込んだ男にさらに一発撃ち込み、殺したことを確認した。いくら炭素繊維でできた骨といっても、鉄パイプの衝撃は重たく、腕の自由が利かなくなっている。

 

「こんなときに限って……」

 

 ふと、先程から聞こえていた銃声が聞こえなくなっていることに気がついた。

 痺れたか、罅でも入った腕を抱えながら先を急ぐ。

 嫌な予感がした。

 エルザが暴れている割にはあまりにも静かすぎるのだ。いらぬ寄り道をしている間に、状況が変わっていた。

 息が上がりながらも、足をもつれさせながらも、倉庫の中をひた走る。もし待ち伏せがあればあっという間に殺されるであろう愚行。

 けれども今はそんなことを気にしている余裕がなかった。

 開けた場所に出る。丁度倉庫の資材置き場だった。昔はコンテナでも積まれていたであろうそこには何も残されていない。

 いや、残されてはいた。

 ただそれは何かに足を潰されて、床に這いつくばっているエルザだった。

 

 



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第九話「もう一度わたしを救って【Re Try】」

 エルザの落ち度を上げるとすれば、少しでもブリジットの危険を減らそうと頑張りすぎた事だった。

 天井から倉庫内に侵入し、奇襲を仕掛けたところまでは良かった。四、五人を血祭りに上げた後、何かの不幸か彼女の側に積み上げられていた廃棄資材が崩れたのだ。

 常人ならばそのまま押しつぶされて死んでいただろう。

 けれども彼女は常人ではない。

 義体だ。

 咄嗟の判断でその場を飛び退き、即死は免れた。けれども犠牲は大きい。

 彼女のその小さい足は資材に押しつぶされて、使い物にならなくなっていた。

 

 

1/

 

 

 エルザの運の良かったところは、彼女と銃撃を繰り広げていた男たちでさえも、突然の出来事に対処しきれなかったことだ。

 一瞬、何が起こったのかわからなくなっていた男たちは、自分たちにとっての最大の脅威であるエルザの継戦能力が奪われたことを瞬時に理解できなかった。

 だからこそ一瞬の間が生まれた。

 その間が彼女の命を少しだけ救った。

 

「エルザ!」

 

 物陰から飛び出してきた影が、男たちとエルザの間に割って入った。

 驚いた男たちの放った弾丸が影に突き刺さる。けれども彼女は苦悶の声を上げながらも、決して怯むことはなく足の潰れたエルザを抱えてその場を飛び退いた。

 

「邪魔するな!」

 

 鮮血を撒き散らしながらも、影――ブリジットはSIGを抜いて数人を打ち倒す。全ての弾丸を撃ち尽くし、スライドが開ききったそれを捨て、背中に背負っていたHK416を乱射した。だがそれも数発を放ったところで突然動作を停止する。

 鉄パイプを受け止めたときに歪んでしまったのか、排莢口に薬莢が詰まっていた。

 

「こんなときに!」

 

 両手が空いていれば無理にでも薬莢を吐き出させたのだが、エルザを片手で抱えている今はそれも叶わない。

 代わりにライフルのストックを握りこんで、進路に立ちふさがった男を殴打した。3.5キロ以上もある物体で殴られた男はボーリングピンのように吹っ飛んでいった。いよいよ駄目になったHK416を男たちにぶん投げ、彼らから逃れるように倉庫を飛び出した。

 

 

2/

 

 

 雨脚は突入時よりも強く、俺とエルザの血を洗い流していた。

 これなら血に跡を辿られずに好都合だと、廃倉庫街を駆ける。

 何とか落ち着いて通信ができるところまで逃げ切れればこちらの勝ちだ。ここから少し離れたところで張っているトリエラとヘンリエッタが応援に来てくれるだろう。

 

「ブリジット、あそこ……」

 

 エルザに指さされて、一つの倉庫の中に逃げ込んだ。中にはうち捨てられたコンテナと重機が散乱しており、隠れるにはうってつけだった。

 俺は中にエルザを下ろした後、手近なバールを掴んで扉の取っ手に巻き付けた。義体の怪力ならではの籠城方法だ。

 

「はっ、はっ、くそっ!」

 

 エルザの横に腰を下ろし着ていた上着を脱ぐ。痛みはそれほどないが、両の手で数えられるくらいには銃創を身体に刻んでいた。

 特に右脇、背中側の銃弾をどうにかしなければ内臓を傷つけかねない。

 装備として支給されていたナイフを取り出し、その刀身をじっと見つめる。

 訓練でも座学でも教えられた方法だが、いざ実行に移すとなると恐怖感で手が震えた。

 

「ブリジット、服を脱いでこちらに背を向けなさい」

 

 そんな俺の迷いを感じたのかエルザがそう提案した。いや、提案といってもそれは殆ど有無をいわせないような口調だった。

 彼女は潰れた足を引きずって俺からナイフをひったくる。

 

「医療用装備はさっきの倉庫に置いてきたわ。たとえ痛みを感じにくい義体でもこればかりは痛いと思う。鎮痛剤も何もないからとんだ荒療治ね」

 

 服を脱いで素肌を晒した俺の背中をエルザが撫でる。

 彼女は傷口の周辺をぐっ、ぐっと押し込んで中に食い込んでいる弾丸を探した。

 

「あった。それほど深くない。いくわよ」

 

 エルザに言われて、俺は脱いだ上着を噛んだ。舌を噛まないためだ。

 ナイフの切っ先が人工皮膚と筋肉を突き破り、少しずつ銃創を広げていく。

 

「んーっ! んーっ!!」

 

 痛みを遮断する脳内物質が効かなくなったのか、この身体になって初めての特大の痛みがやってきた。

 ナイフが中を蹂躙し、その感触が吐き気を催す。

 そしてとどめといわんばかりに、エルザの小さな手が傷口の中に入ってきた。

 

「ぎっ!」

 

 思わず飛び退きそうになる激痛。けれどもエルザはもう片方の手で俺の腹をしっかりと押さえ込んでいた。

 がっちりとその場に固定された俺は情けない声を出して呻くしかなかった。

 

「大丈夫! もうすぐ終わる! 弾を見つけたから! 動かないで!」

 

 エルザの手が何かを掴む。そして直ぐにゆっくりと彼女は手を傷口から抜いた。

 糸を引いた血液の中に、鈍く光る金属片があった。

 

「大丈夫だから、あなたは死なせない。何があっても、私はあなたを救う」

 

 そういって、エルザは俺の上着を引き裂いて綿代わりに傷口に押し込んだ。義体流の応急処置だ。上から残された上着で縛り上げ、とりあえずの出血を抑えてくれる。

 痛みから解放された安堵からか、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた嘔吐感が決壊し、吐瀉物をその場へぶちまけた。

 けれどもエルザは嫌な顔一つせずに、そっと背中を撫でてくれた。

 

「大丈夫、大丈夫、よく頑張ったね」

 

 年下の子にここまでやらせた自分がえらい情けなくて、俺は嘔吐とは別の涙をぽろぽろとこぼした。

 

 

3/

 

 

「無線、通じないね」

 

 二人して装備品の無線を弄くり回す。激しい戦闘の中で何処かぶつけたのか、二人とも無線は沈黙を保ったままだ。

 応援を呼ぼうとした試みも、開始早々頓挫した。

 

「エルザは武器に何を持っている?」

 

 彼女は無言のまま、懐からハンドガンを一つ取りだした。

 

「サイドアームだから予備の弾倉はないわ。ベレッタ84。総弾数は14発」

 

 彼女の小さな拳銃は正直、武器としては心許ないものだった。これ一つであれだけの男達相手に張り合うのは到底不可能だ。負傷をし、動きが鈍っているのならなおさらだ。

 俺のそんな心情を察したのかエルザはため息を吐きながら言葉をこぼした。

 

「なら籠城戦ね。さすがに一定以上の時間、私たちから連絡がなければラウーロさんやアルファルドさんも異常に気が付くはず。そうすれば応援だって呼んでくれる」

 

 せめてアサルトライフル一つでもあれば違ったのだろうが、贅沢は言ってられない。俺はエルザから借り受けたベレッタをホルスターに納めると、足の動かない彼女を物陰に移動させて、扉が狙えるような高台を探した。ちなみにエルザの応急処置は俺のゲロが収まったあとに行った。

 

「ブリジット……」

 

 ふと、裾を掴まれる。それはいつかの廊下ですれ違ったときを思い出させる、彼女の行動。けれどもあのときと決定的に違うのは、こちらを見ている彼女の青い瞳が不安に揺れていることだった。心細くなったのか、と「大丈夫。エルザのことは守るよ」と笑ってみせれば「違う」と首を振られた。

 

「あなたはまだ動ける。ならこの倉庫を抜け出してアルファルドさんたちに助けを求めるべきだわ」

 

 エルザの言葉には正直面食らった。

 

「馬鹿なことを言わないで。置いてはいけない」

 

「いいえ、置いて行きなさい。でないと、私はあなたに受けた恩を返せない」

 

 頑なに俺の行動を拒むエルザの意図が正直いってわからなかった。何より彼女に「授けた恩」など身に覚えがないのだ。エルザが知っていて俺が知らない。

 ここ数日感じていたこの世界に対する不信がまたもや鎌首をもたげてくる。

 俺はこれまでの苛立ちと恐怖を誤魔化すように、エルザを怒鳴りつけた。

 

「そんな覚えてもいないことでぐたぐだ言われても知るもんか!」

 

「ええ、でも私は覚えている!」

 

 驚いたのはエルザまでもが声を荒げたことだ。原作では冷静な、大人しい義体として描かれていただけにこれは意外だった。

 思わぬ反撃に怯んだ俺は、何も言えないままに視線を逸らした。だがエルザは追撃を止めない。

 

「覚えていないのなら私が教えてあげる! 私があなたからもらった全部のことを!」

 

 

4/

 

 

 エルザが言うには、その日も今日のような雨だったそうだ。

 

「あなたが義体として初めて戦う任務の日、バックアップについたのも私だった」

 

 任務内容は極単純な、五共和国派の連絡員一人をローマ市内の地下道で拘束するというもの。

 

「はっきり言って疎ましかったわ。義体になって数ヶ月も経ってる癖にまともに戦うことのできないあなたが。それに、そんなあなたでも担当官であるアルファルドさんに愛されていたことが。彼はあなたを任務に送り出す最後まで心配していた。私はどれだけ頑張ってもラウーロさんに褒められたことすらないのに」

 

 そこでエルザの表情が曇ったのは見間違いでも、幻覚でもないと思う。

 

「だから私はあなたに冷たく当たった。怯えるあなたを怒鳴り立てて、任務だからと地下道に追い立てた」

 

 エルザの口から語られるのは俺の知らない記憶。

 けれど不思議と、それまで感じていた恐怖感はなかった。なくなっていた。

 

「馬鹿ね。そんな八つ当たりをしていても仕方がないのに。でも当時は何も疑問に思わなかった。あんなに人から愛されているんだから、それくらい構わないと思っていた。だからかしら、罰が当たったのは」

 

 エルザは足の痛みに耐えるように息を吐いた。

 

「連絡員は一人じゃなかった。二人いたのよ。そのうちの一人があなたから逃げてこっちにやってきた。普段なら何てことはなかったんだけれども、運が悪かったのか、それとも私が油断しすぎていたのか、私はそいつと揉み合いになった。しかも銃まで取り落として状況は限りなく悪かった。まあ、ナイフの一発くらい食らっても死なないし、逆に殺してみせる自信はあったからそれほどは焦らなかった」

 

 矢継ぎ早にそう告げてエルザがこちらを見つめた。

 

「そんな時よ。あなたが私と男の間に割り込んできたのは。大した戦闘能力もないくせに、さっきまであんなに怖がっていたのに、あなたは男のナイフから私を守る盾になった。まあ、おかげさまで男を無傷で拘束することはできたけど」

 

 彼女の瞳に宿るのは呆れと、俺の勘違いでなければ感謝。

 

「ありがとう。臆病なお姫様。あの時は傷ついて倒れるあなたに罵声しか吐けなかったけれど、今ようやっとお礼が言えた」

 

「もしもそれが本当だとしても、お礼を言われるようなことじゃないよ」

 

 俺の言葉にエルザはゆっくりと首を横に振る。そして彼女はその小さな手で俺の頬をしっかりと掴んだ。

 視線と視線ががっちりと噛み合う。

 

「いいえ。あなたの献身と勇気はあなたが考えている以上のものを私にくれたわ。誰にも愛してもらえない。道具としてしか見てもらえないという、世界に絶望していた私に希望をくれた」

 

 その時になって初めて、俺は彼女の笑顔を見た。それは、見惚れるほどに綺麗な笑みだった。

 

「あなたは知らないかもしれないけどね、当時の私は自殺すら考えていたの。ラウーロさんを道連れにすることすら考えていた」

 

 

5/

 

 

 エルザの告白は最後まで続かなかった。

 何故なら倉庫の扉を押し叩く音が鳴り響いたからだ。咄嗟にエルザを物陰に押し込み、俺は銃を取って立ち上がった。

 

「ブリジット、早く逃げなさい」

 

「嫌だ」

 

「ここであなたまで死んだら意味がない」

 

「そんなの関係ない。ここでエルザを見捨てる方が嫌だ」

 

「分からず屋! もうこれ以上あなたから助けて貰いたくない! これ以上受け取ったらもう返せない!」

 

「返さなくてもいい! そんなものどうだって!」

 

 扉がこじ開けられた。男が四人見える。俺はその中心に飛び込んだ。

 まさかここにきて奇襲を掛けられると思っていなかったのか、そいつらは目に見えて狼狽えた。

 

「しぶとい化け物め!」

 

 一人目をベレッタ84で撃ち倒す。初めて使った銃だが不思議と手に馴染む。リコイルの感触がもしかしたらあっているのかもしれない。

 

「うおっ!」

 

 二人目は三人目をハイキックで牽制してから銃弾をたたき込んだ。一発目が急所を外したので、二発目、三発目と胸に撃ち込む。そして掠ったハイキックに驚いている三人目を近距離からのヘッドショットで殺した。

 残るは一人。

 大丈夫。弾は残っている。この距離なら外しようもない。義体特有の瞬発力と反射神経を活かして最後の一人に狙いを定める。

 振り向きざま、銃の射線が男に重なった。

 あとは引き金を引くだけ――

 

「ブリジット!」

 

 エルザの声が聞こえたのと、視界に星が飛んだのは同時だった。不意に感じた衝撃に耐えきれず、俺は無様にも地に転がった。視界が真っ赤に染まり継続的な痛みが思考を支配する。

 

「くそっ、悪魔め。お前のせいで大勢が死んだ!」

 

 ああ、もう一人いたのか。

 俺の血で汚れた鉄パイプを持った男を見て、失敗したな、と思った。もう少し、もう少しだけでも注意深く敵を観察するべきだった。

 

「おい、こいつを連れ出せ。兄弟たちの仇だ。楽には殺さねえ」

 

 身動きが取れない身体を、二人の男に抱えられる。倉庫内から外に放り出され雨粒が頬を打った。

 視界の隅で、男たちが銃を準備しているのが見える。おもむろに一発。右足に撃ち込まれた。

 

「やめてっ! やめなさい!」

 

 エルザの叫び声が雨音に混じって聞こえる。次に一発。今度は左の手のひら。

 ああ、本当に嬲り殺すつもりなんだ、とどこか他人事のような感想が漏れた。痛みは既になく、雨があふれ出る血を洗い流していく。

 

「おい、もう弾がないぞ」

 

「こっちはあと一つだ。ちっ、まあ良い。こいつの他には足の潰れた死に損ないだ。始末は難しくない」

 

 目には見えないが、銃口が頭部を狙っているような気がした。恐らくそれは間違っていない。

 あまりにも呆気ない終わりに、正直拍子抜けだがこんなものなのだろうか。

 せめて一撃で殺してくれと、俺は瞳を閉じた。

 



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第十話「担当官と義体(Fratello)」

 身体が重たい。頭が痛い。

 突如覚醒した意識の中でそんなことを感じる。

 勢いに身を任せて起き上がってみれば、そこは既に見慣れた社会福祉公社の義体用医療室だった。

 はっ、として両の手を見る。痛々しい包帯がこれでもかと巻かれ、同じ惨状は両足にも広がっていた。鈍痛の残る手で顔をぺたぺたと触れば、そこにも特大の絆創膏が貼り付けられていた。

 視界が何やらおかしい、と左目の位置を触ってみれば、医療用の眼帯で塞がれている。

 まさか、と腹をまさぐればそこも医療用コルセットで直接触れられないよう、封印がされていた。

 全身が全身、何かしらの治療を施された役満状態なのである。

 

「なんだこれ」

 

 からからの喉で発した第一声はそんな言葉だった。

 

 

1/

 

 

 結論から言ってしまえば、俺は助かった。

 遠距離から応援として駆けつけていたリコの狙撃によって、残りの男は始末されたのだ。

 長時間の音信不通を心配したアルファルドが直ぐさま救援を要請。殆ど瀕死ながらも俺とエルザは無事救助された。

 常人ならば死んでもおかしくはない傷と出血量だったが、幸い義体にとって致命傷に至るようなダメージはなく、腹の傷もエルザの応急処置のお陰で見た目よりは軽傷だった。

 ただ前回のテロリストの銃撃からくる傷の手術とそれほど間を開けていなかったため、直ぐさま全てのパーツを交換するということは出来ず、撃たれた手や殴られた頭はそのままになっている。

 

「というわけだ。お前から何か報告はあるか?」

 

 で、その顛末を誰から聞かされたかというと、意外なことにアルファルドではなくジャンだった。

 彼は俺が目覚めたと知るやいなや、訓練中のリコを置いてこちらにやって来たらしい。

 正直嫌な予感しかしないのは、俺の気のせいだと思いたい。

 

「いいえ、エルザの報告の通りです」

 

「そうか。今回は不運が重なったとはいえ、お前達の索敵不足、作戦遂行能力の欠如によってもたらされた失敗だ。次はないと思え」

 

 ジャンの冷たい目線が俺を射貫く。思わず毛布を抱き寄せ、身を小さくしたのは仕方がないことだと思う。

 義体を道具としか思っていない男だ。

 彼の言うとおり、次にミスをすれば即時解体なんてあり得る話なのだ。

 

「肝に銘じます」

 

 だから彼に対しては殊勝な言葉くらいしか湧いてこなかった。反論なんてもってのほかだ。

 

「……退院には暫く掛かる。それまでリハビリに専念し、少しでも公社の期待に報えるようにしろ。でなければあの男の立場も危うくなるぞ」

 

 あの男――。

 それがアルファルドのことだと理解した瞬間、さっきまで演じていた健気さは全て吹き飛んだ。

 あれほど反抗してはいけないと理性で押さえつけていたのに、アルファルドの名前を出された途端に、内から吹き出す激情を抑えきれない。

 たぶん、今の俺はジャンに向けて良い表情をしていない。

 殺さんばかりに睨み付けて、今にも飛びかかろうとしているはずだ。

 理性ではそんなこと、これっぽっちも考えていないのに。

 これが義体だ。これが条件付けなのだ。

 

「ふん、そのまどろっこしい忠誠心だけは本物だな。いいだろう、それに免じて今回のことは暫く忘れてやる。俺の記憶をそのまま上書きしたければ結果を残すんだな」

 

 だが意外だったのはそれがジャンの機嫌を損ねなかったことだ。

 それどころか、先ほどよりも少しばかりこちらに対する態度がマシになっている。

 俺の認識が正しければジャンはアルファルドを嫌っているはずだ。その義体に噛みつかれて、好感情など抱くはずがないのだけれど。

 

「入院中、必要なものがあったらリストにまとめて提出しろ。生活用品はあとでリコに届けさせる」

 

 それだけを告げて、ジャンは病室から出て行った。

 思ったよりもあっさりとした幕引きに、正直なところ安堵のため息が漏れた。

 これでアルファルドに説教されるなり、心配されるなりすれば、取り合えずの手続きは終わりということになる。

 体中の痛みにちょっと眠ってしまおうか、とも考えたが、アルファルドくらいは目覚めたまま出迎えた方が良いだろうと、窓から外を眺めてそのまま時を過ごした。

 けれども、その日、彼は現れなかった。

 

 もっと言えば、それから三日間、彼は伝言一つ寄越すことなく、まるで俺のことなんか忘れたみたいに、姿を見せなかったのだ。

 

 

2/

 

 

「何をしている」

 

 電灯が切られ、昼の日差しだけが差し込んでいる薄暗い廊下。

 そこで立ち尽くしている一人の男がいた。声の主はその男ではなく、背後から歩みを進めてきたもう一人の男だった。

 長い乱れた髪と無精ひげを蓄えた彼は名をラウーロという。

 

「いや、何でもない。用事を思い出していたんだ」

 

 そして誤魔化すようにかぶりを振った――廊下に立ち尽くしていた男はアルファルドだった。

 整った顔たちは疲労に塗れ、いつもしっかりと着こなしているスーツは皺が付き、袖が撚れていた。

 ラウーロはその場から立ち去ろうとするアルファルドをしばらくじっと眺めていたが、やがて少しばかり侮蔑するかのように言葉を吐き出した。

 

「……お前の向かう先はそちらではないはずだ」

 

 アルファルドの足が止まった。

 

「ジャンから聞いた。お前はまだ、あの人形に会っていないそうだな。どうした、怖じ気づいたのか?」

 

 ラウーロの言葉はアルファルドの心を抉り刺すナイフそのものだった。何も答えられないアルファルドはたた震える拳を握りしめて、その場に立ち尽くす。

 

「道具に情を注ぐからそうなる。消耗品だと割り切らないから、痛めつけられたときに冷静でいられなくなる。無様だな、アルファルド。お前はお前が下した命令によって彼女が傷つき、悲鳴をあげる様を見守る覚悟がない。自身の命令が引き起こす結末を受け入れる覚悟がない。はっきり言おう。お前は担当官に向いていない。今すぐ身分証を返納してやめてしまえ」

 

「……そんなことをしたら、あの子はどうなる」

 

 ようやっとアルファルドが絞り出したのは、そんな言葉だった。ラウーロは一瞬だけ虚を突かれたような表情をするが、直ぐに鼻で笑ってこう言った。

 

「担当官のいない義体など、ただの木偶人形にすぎない。ならば処分されるだけだろう。だが、お前のような軟弱な担当官に殺されるくらいなら、その方が幸せかもな」

 

 激昂はできなかった。

 怒りが瞬間的にわき上がったものの、何故かラウーロの言葉がすとんと胸の内に落ち着いて毒気を抜かれてしまったのだ。

 そうだ、ラウーロの言うとおりだ。

 俺が不甲斐ないから、俺が彼女を支えられないから、彼女が傷つき苦しむのだ、と。

 

「ふん、噛みつく気概さえ持ち合わせていないか、とんだ見込み違いだよお前は」

 

 ラウーロの言葉はそれで最後だった。

 アルファルドの隣を興味なさげに歩いて行った。

 そして、彼の進む方角が、エルザとブリジットが入院している病棟であることに、アルファルドは最後まで気がつかなかった。

 

 

3/

 

 

 それは三日目の夜だった。

 三日目というのは、俺が意識を取り戻してから三日のことだった。

 そしてアルファルドと会わずしてむかえてしまった三日目でもある。

 

 ――正直に話そう。

 

 もう、限界だった。

 義体としての愛情なのか、それとも俺自身の不安なのかわからないが、アルファルドに会わない三日間は地獄そのものだった。

 水を得られなくなった花のように、心は渇き、思考は絶望に塗り固められている。

 理性ではそんなことはないとわかっていても、自分は見捨てられたのだ、義体としてまともに任務を遂行できないから捨てられるのだ、と余計な自問自答を繰り返している。

 ベッドの上でシーツを握りしめて、怯えた子鹿のように身を縮こませて震えている。

 無様だとわかっていながらも、震える四肢を制御することができないのだ。

 食事には一切手をつけられず、汚物入れに吐き出すモノは胃液しか残されていない。

 さすがに心配した医師たちが、俺の右腕につないでいった点滴だけが、生命線だった。

 時計の針が病室に音を刻んでいる。

 時刻は夜中の十一時過ぎ。もうまもなく日付が変わろうか、というころだ。あの針が、長身が12を刻んだ瞬間、アルファルドと会わずして迎える四日目となる。

 もしそうなれば俺の心はどうなるのだろう。

 条件付けという洗脳を前に、俺のちっぽけな自我は対した抵抗もできずに壊されてしまうのだろうか。

 目の前に唐突に現れた破滅が、怖い。

 担当官に見放されるという事態に、精神が砕かれることが怖い。

 そして何より、一応は信頼していた男に裏切られたと理解してしまうのが怖かった。

 ぽたぽたとあふれ出す涙を拭うこともせずに、俺はベッドの上で膝を抱えた。

 ふと、物音を耳が捉えた。

 どれだけ心が乱されていようとも、義体の鋭敏な聴覚はこちらに近づいてくる足音を見逃さなかった。

 ただその足音がアルファルドでないことを一瞬で理解してしまった。

 体重が、重心の移動が、歩幅が、何から何まで違う。アルファルドとは違い、少し右足を庇ったような歩き方。

 靴もアルファルドのような品の良い磨き上げられた革靴ではない。どちらかというと少し履きつぶした、ソールの柔らかい革靴だ。

 警戒心が、一段、また一段と上昇していく。

 まさか敵ということはないだろうが、善意の味方であると楽観できるほど、俺の精神は健全な状態ではない。

 摩耗し、ささくれ立っていると評するのが適切か。

 

 ノックが三回。

 

 その音は医師たちが行うような小綺麗なものではなかった。むしろ少し殴りつけるような、作法としての義務を果たしたといわんばかりのような音色。

 もちろんこちらの返事など待ってはくれない。

 やや乱暴に解き放たれた扉の向こうには、見慣れない男が立っていた。

 けれどもその男は決して初対面というわけではなかった。

 思わず声がこぼれる。

 

「ラウーロさん……」

 

 そう、病室に現れたのはエルザの担当官であるラウーロその人だった。

 

 

4/

 

 

 俺が彼について知っていることはほとんど何もないと言っても問題がなかった。

 ラウーロというファーストネームはともかく、ファミリーネームは謎のまま。

 同僚の担当官相手には普通の人間関係を築き、それなりにフランクな態度で応対するが、俺たち義体にはあくまで道具として向き合う割り切った性格。

 それぐらいしか、彼について評することができない。

 端的に言えば、得体の知れない不気味な相手だった。

 そんな男が、自分の病室に居座っているという状況がとても居心地を悪くさせている。

 一人でブルーに浸っていたときよりも、目深にシーツをかぶり直して、彼とは決して目線を合わせられなかった。

 

「なあ……」

 

 長い長い沈黙を破ったのはラウーロの方だった。まあ、俺の方から声を掛けることなんて何もなかったので、当たり前と言えば当たり前か。

 

「いや、この切り出し方は良くないな。単刀直入に言おう。エルザのこと、お前には随分と世話になった。感謝している」

 

 言葉の意味が、最初はわからなかった。

 何故彼がこちらに頭を下げているのか、何故彼がそんなことをするのか、咄嗟の内に理解できなかった。

 ただ、ことの重大性だけは嫌というほどわかってしまい、俺は大層狼狽えることになった。

 

「い、いえ。彼女も仲間ですし、友人ですし、義体同士は助け合うのが常なのでなにも特別なことはしていません」

 

 わけのわからない、小汚いイタリア語だったと思う。けれどもラウーロには伝わったようで、彼は真っ直ぐこちらを見据えてこう続けた。

 

「馬鹿を言うな。助け合うことが当たり前だと思うな。あそこは命のやりとりをする場所だったはずだ。ならばエルザを見捨てる選択肢だってあった筈だ。だがお前はそれを選ばず、彼女の命を救った。もしもそれを特別なことだと考えていないのならば改めろ。いきすぎた謙遜は自己の可能性と思考を破壊する。二度と、己の行いを大したことがないと言うな」

 

 感謝されたら説教されていた。俺は何が何だかわからないまま、ベッドの上で目を回していた。

 

「それともなんだ、俺がエルザの事で礼を述べることがそんなに可笑しいか」

 

 もっと冷静な思考をしていればそのラウーロの問いに否と答えるべきだったのだろう。

 けれども混乱の極みにあった俺は、何も考えないまま「ええ」と答えていた。後の祭りだと思ってももう遅い。

 ラウーロから飛んでくるであろう叱咤に怯えて、俺は彼から視線を外した。

 けれども、いつまでたっても怒声は聞こえず、恐る恐る彼の方を見てみれば、酷く疲れ切ったような表情で俯いている男がいた。

 

「……最初は何でもない理由だ。若気の至りで金が必要になった」

 

 ラウーロは俯いたまま、こちらを見ないままに言葉を続ける。

 

「でも俺は運があった。社会福祉公社というコネがあったし、そこで働く能力もあった。なかったのは、業務内容に対する覚悟だけだ」

 

 やっとこちらを向いた彼の瞳は、底の知れない闇だった。

 

「俺がエルザを一人の個人として認めてしまった瞬間、彼女が人を殺すという業を誰が背負ってやれるんだ? あの子を道具としていれば、俺だけが地獄に落ちることで話は片付くんだ。けれどもあの子が自我のある一人の少女だとしたら、その罪の全てを俺が背負ってやることはできなくなる!」

 

 気がつけばラウーロの顔が目の前にあった。彼の大きな手が俺の両肩を掴んでいる。

 義体の身体ならば決して痛みは感じないはずなのに、掴まれた部位が酷く熱く感じた。

 

「盲愛だってそうだ! お前たち義体は担当官を盲愛するように作られている! 命令違反を抑制するためだというが、それに何の意味がある! 誰がお前たちに愛されたいと願った! いつ俺がお前たちに頼み込んだ! 何故、お前たちは俺を憎まない! お前たちに安全圏から人を殺せ、と命令する俺たちを何故殺そうとしない! 憎まれればいっそ、仕事だと割り切れるのに!」

 

 最後の方は縋り付くように告げられた。ラウーロは俺の前で頭を垂れ、荒い息を吐いている。

 掴まれていた両肩は赤く腫れ、どれほどの握力で握られていたのか教えてくれていた。

 俺は反射的に、何も考えないままに、彼を突き放すように答えた。

 

「でも私たちはそう生きるよう、定められました。今更それは変えられません。ならば、せめてこちらを見て。答えて、罵倒でも叱咤でもいい。それだけで私たちはあなたたちを愛していられる。それが担当官と義体。フラテッロなんです」

 

 そして、言わなくてもいい言葉を、いや、決して告げてはならなかったことを口走ってしまう。

 

「だいたい、あなたが苦悩しなくても、あなたはいつかエルザに殺される。答えてくれないあなたに悲観した彼女があなたを殺すわ」

 

 沈黙が病室を支配した。

 ラウーロの息も、俺の心音も、全てが止まってしまったかのような静寂が訪れた。

 ぴたりと制止したまま、ラウーロは動かない。

 俺は己の犯した罪の重さを今更になって思い知った。余計なことを口走った己を呪い、このようなことを告げさせたラウーロを呪った。

 

「……そうか、俺は彼女に殺されるのか」

 

 言葉は不気味なほどに落ち着いていた。そこには絶望も、怒りも、何もなかった。

 気持ちが悪いくらい、無色透明な声色。

 

「それが、お前の結論か。お前から見た俺たちか」

 

 彼の言葉の意味がわからなかった。最初は、ラウーロが壊れてしまったのだと思っていた。

 だがそれは直ぐに間違いだと悟る。何故ならば、顔を上げたラウーロの、こちらを見ていた瞳が、異常なほどにぎらついていたからだ。

 

「どうりであいつがお前に懐いているわけだ。お前は他の義体と違う。お前は俺たち担当官に媚びへつらい、顔色をうかがう人形なんかじゃない。もっと別の、下手をすれば俺たちには到底御しきれない何かだ」

 

 ラウーロが立ち上がった。

 彼はそれまでの慟哭がなかったかのように、驚くほどあっさりと俺から離れた。

 

「少しばかり脅してやれば人形らしい何かを見られると思ったのだがな、まだまだ俺の演技力が足りなかったか」

 

 彼が何を言っているのか、わからなかった。演技、脅し? 一体どういうことなのか、とラウーロを問い詰める。

 すると彼はこう答えた。

 

「エルザが余りにもしつこく俺に言うんだ。ブリジットは普通の義体とは違う。彼女は特別なんだ、と。あんまりにもしつこいから、うんざりして俺自身がこうして確かめに来た。たしかに、あいつが言うとおりだ。あいつは男を見る目は壊滅的だが、友人を見る目だけはあるようだな」

 

 彼は乱れたジャケットを手早く整えると、足下に置いていた紙袋のようなものをこちらに投げて渡した。

 何事か、と驚けば、「見舞いの品だ」と答えた。

 

「エルザから聞いている。甘いものが好きなんだってな。ローマの有名なパン屋のクッキーだ。退院してから精々楽しむと良い」

 

 今までのやりとりが嘘だったみたいに、ラウーロはあっさりと帰り支度を整えてしまった。

 そして、もうこちらには用がないと言わんばかりに、背を向けて病室から出て行く。

 けれども、最後に。

 本当に、最後の最後に彼はこちらに振り返ると、こう言った。

 

「ああ、そうだ。一つだけ訂正しておく。俺は彼女を道具として扱うが、道具には道具の矜持があり分別もある。そして道具を扱う以上、それに向き合うことも、問いかけることも、メンテナンスすることも、俺の義務であり信念だ。それを疎かにしたことは一度もないし、また彼女に対する信頼と愛情は確かにある。どうやら、そちら方面の演技力はお前を騙すだけのものがあったみたいだ。だから、勘違いしたままでいてくれるなよ」

 

 そして扉を閉ざす瞬間、

 

「だが、俺にも限界というものはある。これからも、エルザの良き友でいてくれ。彼女はあれで義理堅い尽くす性格だ。きっと君の好意にもすぐ答えてくれるだろう」

 

 

5/

 

 

 一人残された俺は、とても横になろうとは思えずこっそりと病室を抜け出していた。

 もしも誰かに見つかれば叱責だけでは済まないだろうに、何故だかそうさせるような何かが俺の中にあった。

 足取りは意外なほど軽く、あっという間に病棟の屋上にいた。

 社会福祉公社という組織は、こちらの想像もつかないようなハイテクノロジーの持ち主だが、こうした周辺設備は意外とアナログだ。

 病棟も廊下は監視カメラで監視されているが、その数は少なく、死角をつくことはそう難しくないし、屋上に至ってはなんの防犯設備も施されていない。

 義体に対する安心感があるからなのか、それとも単純に懐が寂しいのかわからないが、今の俺にとっては有り難いことだった。

 

 夜風に身をさらしながら、先程のラウーロとのやりとりを振り返る。

 彼は、想像していた人物とはおよそ違う男だった。

 もっとエルザとは上手くいっていなくて、それどころか全く関心がなくて、だからこそ、原作のような悲劇を引き起こすのだ、と考えていたが、それは間違いだった。

 彼はエルザの事を見ていた。原作の無関心が嘘のように、エルザを見ていた。

 そしてそれが、ただの偶然でない確信が俺にはあった。

 だって、そうだろう。俺の命を守ろうと、必死に足掻いてくれたエルザが原作のエルザと同じ訳がない。

 俺の知っているエルザは原作とは全く違うエルザなのだ。

 ならば、何故そのような変化が訪れているのか。

 これは考えるまでもなかった。間違いなく、俺という存在の起こした現象だ。

 エルザは言っていた。俺が初陣の時、俺が彼女を庇ったことに心が動いたと。

 もちろん今結論づけるには余りにも早すぎる仮説だが、そう的は外していないように思える。

 だって、あれだけの短い間だったけれども、彼女との間にあった友情は間違いなく本物だった。

 余り俺が覚えていないのが惜しむべき事だが、確かにエルザは俺に友情を感じてくれていたのだ。

 

 今まで自分という存在が好きではなかった。

 この世界に生まれた、シミのような自分が大嫌いだった。

 一人だけ他者とは違う思考、運命を背負っている自分なんか、消えてなくなれと思っていた。

 けれども、エルザがラウーロとそれなりの関係を築くことができていると知ったとき、少しは救われたような気がした。

 自分という存在が、この世界に生まれた意味をちょっとばかり考えられるような気がした。

 

 まだまだ前向きに考えるには早計かもしれない。

 神の御技か、悪魔の所行かわからない現状も健在だ。

 だが、悲観し尽くすほどには世界は厳しくなくて、ちょっとは自分を認めてやれるくらいには、明るい材料も確かにあった。

 

 心地の良い夜風が頬を撫でる。

 風の音に混じって、扉が開けられる音が聞こえた。

 先程の、ラウーロに感じた不安はもうない。

 ただそこにいる人物の聞き慣れた足音に、思わず笑顔が漏れて、自身の条件付けの単純さに笑ってしまった。

 できるだけ笑顔に、できるだけ明るく振り返る。

 何故なら。

 この件で一番心を痛めているであろう男が、死にそうなほど悲痛な表情をしているのが、容易に想像がついたから。

 今の自分なら、少しだけ己を認めることができたブリジットなら、きっと彼の表情をほぐすこともできる。

 そう考えた俺は振り返ったときと、同じような明るさでこう告げた。

 

「こんばんわ。アルファルドさん」

 



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第十一話 「それから【Re Start】」

遅くなりました。またボチボチと更新していきます。


 いつのまにか風が止んでいた。

 何処かで鳴いている虫の音が二人の耳に届く。

 

「遅いじゃないですか」

 

 少しばかり非難したような声色。けれどもそれ以上に込められているのは確かな親愛の情。

 アルファルドもそれを感じ取ったのか、やや迷ったそぶりを見せながらも、しっかりと答えて見せた。

 

「……すまない。君にあわせる顔がなかった……といえばそれは言い訳だな。傷ついた君を見るのが怖くて、逃げていたんだ」

 

「おかしな人ですね。私が怪我をするなんて、そう珍しいことでもないでしょうに」

 

「だからだよ」

 

 言葉と同時、アルファルドが足を一歩進めた。

 それは逃げられることも覚悟した、後ろ向きな歩み。

 だが、不意に詰められた距離をブリジットは逃げなかった。

 驚いたのはアルファルドだった。

 

「何かあったのか。随分と今日は……いつもと様子が違うな」

 

 ブリジットの変化をどう捉えて良いのかわかっていないアルファルドは、言葉を一つ一つ選んで絞り出すように告げた。あたかも壊れ物の人形を扱うかのように、自身の言葉の刃で傷つけてしまわないように。

 

「まあ、いろいろと激励されたというか、もう少しだけ前向きに生きていてもいいと思えるようなことがあったというか……」

 

 それに対するブリジットの返答は決して歯切れの良いものではなかった。けれどもその表情はどこか晴れやかで、アルファルドは毒気を抜かれたかのように息を吐いた。

 詮索したいという思いはもちろんあった。

 けれども、それはまだ時期尚早だと己の理性が告げていた。今感情的になってしまえばすべてが台無しになる。

 そう感じて、アルファルドは一言だけ告げた。

 

「そうか……それならば、それでいい」

 

 そして、どちらからともなく、二人して屋上に並び立った。

 二人して夜の社会福祉公社を見下ろす。まるで二人しかいないかのように、人影の見当たらない静かな光景が眼下に広がっていた。

 寂寥の眼下を見つめながら、二人は止めどない会話を続けた。

 

「ラウーロに言われたんだ。俺に命令されて死ぬくらいなら、君は処分されたほうがマシだと。その方が君にとっての幸せだと。頭を強く殴られたみたいだった。俺はできる限り君の幸せを願って振る舞ってきたつもりだった。でも今回の一件でそんな身勝手な幻想が抱けなくなった」

 

 ぽつり、ぽつりと語られるアルファルドの独白にブリジットは耳を傾ける。

 

「任務に就くたびにぼろぼろになっていく君を見るたびに己の罪を見せつけられるんだ。情けないことに、俺はその覚悟がまだまだ足りていなかった。ラウーロやジャンのように君を道具として見ることもできない。かといって、ヒルシャーやマルコ―のようにパートナーとして見てやることもできない。こんな俺は君の担当官になるべきじゃなかった」

 

 ブリジットの返答はしばらくなかった。

 ただ眼下を静かに見下ろしたまま、何かを考え込むように黙り込んでいた。

 長い長い沈黙が二人を支配する。

 居心地の悪い静寂の中、アルファルドがついに愛想を尽かされてしまったか、と自嘲気味に笑った。だが、それが二人の沈黙を破るトリガーとなった。

 

「あなたってとても賢くて、それこそ私にイタリア語だけでなくドイツ語やフランス語、それに英語を教えるくらいには語学が堪能で、人文地理、自然科学にも造詣が深くて、とても理知的な人物だと認識しているんですけれども、意外とお馬鹿さんですよね」

 

 何よりも、ブリジットの鷹揚な言葉にアルファルドは言葉を失った。

 ちらりと彼女の横顔を盗み見てみれば、自身とは正反対の、何処か楽しそうな表情をしていた。

 

「見て下さい。この傷を」

 

 そう言って、ブリジットは着ていた病院衣を腹から上に捲り上げた。真っ白な素肌の上にはガーゼが押し当てられ、包帯がきつく結ばれている。

 あまりの痛々しさに思わず目を背けるが、ブリジットはアルファルドの顔を無理矢理自分に向き直させた。

 

「これは五共和国派の男に撃たれたものです。腕にある銃創もそう。頭の傷は鉄パイプで殴られたものです」

 

 一つ一つ、彼女は今回の任務を受けた傷を説明していった。

 これが、いつ、誰につけられたものなのか。その傷がどういった意味をもつものなのか。

 

「個人的に一番痛かったのは背中の銃創ですかね。エルザを庇ったときに9ミリパラベラム弾がめり込んだんです。割と至近距離でしたから、着ていたチョッキを貫通していました。お腹の傷とは違って容易に切開もできなかったので、現場では放置していましたけど」

 

 それを最後に、捲り上げていた病院衣を元に戻す。

 想像以上に痛めつけられていた己の義体を見て、アルファルドはますます表情を曇らせていた。けれどもブリジットはそれを笑い飛ばした。

 

「自分が撃たれたわけじゃないのに、何痛そうな顔をしているのですか? それが馬鹿みたいだと言っているんですよ。これは私が受けた傷であり、あなたが受けたものではない。あなたが痛がる権利なんて存在しない」

 

 ブリジットは尚も強ばるアルファルドの両頬を包帯に塗れた両手でそっと包み込んだ。

 

「命令して下さい。アルファルド。それがあなたの権利であり、義務です。あなたが私に命令してくれるから、私は戦える。私は戦う理由を見つけられる。あなたが背負うべきものは私に対する罪ではない。己の職務に関する、すべからく存在する義務です。それを違えないでください」

 

「……だが、傷ついた君を見るのが怖くなって、君から逃げ出した俺は君の担当官たる資格がない」 

 

 アルファルドの後ろ向きな反論に、「それこそ何を言っているんですか」とブリジットは呆れたように溜息を吐いた。

 そっと頬を包み込んでいた両手に力が込められ、アルファルドの頬を少しばかり抓った。

 

「そりゃあ、三日も放置されたときはどうしようか、と思いましたけれど、こうして会いに来てくれたじゃないですか。それにあなたならラウーロさんに叱責されなくてもそのうち来てくれていたでしょう。……いつかの時みたいに」

 

 それで話は終わりだ、と言わんばかりにブリジットは手を離した。

 実際のところ、アルファルドの懺悔も後悔も完全に払拭されたわけではない。それでも、その二つを完璧に解決することはできないと、理解しているからこそ、ブリジットはやや強引に話を終わらせた。

 

「私は先に戻ります。その酷い顔、次の任務までにはなんとかしてくださいね」

 

 病院衣を翻し、ブリジットは屋上から去って行く。

 一人取り残されたアルファルドは転落防止の柵にもたれかかると、いつまでたっても、彼女の消えた扉を見つめていた。

 

「……気をつかわせたのか、それとも条件付けから来るプログラムなのか、永遠に答えを得られないことが辛いな」

 

 ブリジットに抓られ、少し赤くなった頬を押さえる。

 義体と担当官。まだまだわかり合えないことは多く、割り切れないことばかりの関係性。

 それでも彼は、ブリジットの見せたほんの少しの優しさに縋ってみたくなった。

 

 

1/

 

 

 空は晴天。時折そよぐ風が涼しくて気持ちがいい。

 少し体重を左に預ければ、一緒にペアを組んだ少女がこちらを見た。

 

「ブリジット、重いわ」

 

 ぶっきらぼうながらも、どこかご機嫌な声色。俺はそれが嬉しくて、今この瞬間にはそぐわないであろう笑みを零していた。

 

「いや、てっきり前回の失態でもうペアを組めないと思っていたから、つい、ね」

 

 春の日差しに照らされたシチリアは海の青と建物の白が混ざり合った、カラフルな色彩をしていた。

 とある建物の屋上に断熱シートを敷き、スナイパーライフルを構えて、今俺は寝そべっている。

 隣には、俺と同じように傷から回復したエルザがいた。

 

「あなたの能力を考えたら不思議でもなんでもないわ。あなた以上にこの任務をこなせる義体なんて存在しないもの。もっと自信を持ちなさい。たった一度の失敗くらいで、あなたが捨てられることなんてありえない」

 

 若干説教染みた言葉だったが、それは俺のことを案じているからだと思うと、エルザの声が心地よくて仕方がなかった。

 ついこの間まで、己のありようで鬱々としていたのが嘘みたいだ。

 

「それとブリジット。あなた、いつもの胡散臭い丁寧言葉はやめなさい。今くらいフランクな方が、いろんな人に好かれるわよ」

 

「いや、それは努力してるんだけれども、どうしてもだめというか、むしろエルザだけ何故か大丈夫というか・・・・・・」

 

 思わぬ駄目だしに苦笑が零れる。さすがエルザ。ただでは褒めてはくれない、ちょっと気むずかしい子だ。

 

「ふーん、そうなの」

 

 でも、俺の「エルザだけ大丈夫」という言葉が気に入ったのか、説教を袖にされた割にはいたく上機嫌に彼女は笑っていた。

 

『……ブリジット、目標の車がそちらに向かっている。ヘンリエッタが銃撃したが、フロントガラスは防弾だ。タイヤを狙えるか?』

 

 と、無駄話に花を咲かせていたその時、耳からぶら下げた無線機から声がした。

 我が親愛なる担当官、アルファルドだ。

 どうやら彼も目標の車を追っているのだろう。運転手のラウーロに指示を飛ばす合間に、こちらにも連絡を寄越してくる。

 

「――あなたが信じてくれるのならば可能です」

 

 返した言葉は偽りのない本心。

 義体はそういう風に作られている。

 担当官に愛されている限り、担当官に信頼を寄せられている限り、俺たちは戦い続けることができるのだ。

 

『俺が君を疑ったことは一度もない。やってやれ、ブリジット』

 

「はい、アルファルド」

 

 ライフルの安全装置を外す。ハンドルを手前に引き、薬室に弾丸をセット。

 既にポイントを合わせておいたスコープを覗き、目標を待ち伏せる。

 

「見せつけてくれるわね」

 

 隣で観測手を勤めるエルザも、ばかでかい望遠鏡のような観測機を覗き込んでいた。

 二人で一つのスナイピングシステム。

 必要なのは互いを信頼しきるチームワークのみ。

 

「……私とアルファルドはたぶん、まだまだフラテッロにはなりきれていないんだと思う。でも、それでも、彼のことはもう少し信じてみようと決めたんだ」

 

 車が見えた。赤いフェラーリが一台。猛スピードで幹線道路を突っ切ってくるそれに照準を合わせる。

 隣で同じ獲物を見ているエルザが、俺の肩にそっと手を置いた。

 

「なら問題ないわブリジット。今のあなたは、昔のあなたより、だいぶお利口よ」

 

 タイヤに照準のクロスが重なる。呼吸がほんの一秒ほど止まった。

 エルザが肩を叩いた。

 ほとんど無意識に引き金が引かれた。

 

 撃ち出された弾丸が螺旋を描いて突き進んでいく。

 

 

2/

 

 

 タイヤを片方失ったフェラーリが、スピンして街路樹にぶち当たった。

 幸い歩行者の陰は見当たらず、余計な怪我人は存在していない。

 黒いBMWから降りたアルファルドはSIGを一つ構えながらフェラーリに近づいた。衝突の衝撃でやられたのか、中の人員はうめき声をあげるだけで、抵抗するそぶりは見えなかった。

 

「アルファルドさん、下がってください」

 

 同じようにフェラーリを追跡していたジャンとリコのペアが駆けつけてきた。

 リコが助手席から男を引きずり出し、後ろ手に手錠を填める。

 

「これで五共和国派の裁判の証人はそろったのか?」

 

 ジャンにそう問えば、彼は一言「ああ」と返すだけだった。

 アルファルドがそちらを訝しんでみれば、ジャンの視線があるものに固定されていることに気がついた。

 そう、視線の先にあったのは

 

「あんなところから撃ったのか」

 

 距離にしておよそ500メートル。いや、600メートルはあるだろうか。

 豆粒みたいな人影が二つ、高台の建物の屋上で動いているのがわかる。

 アルファルドは人影の正体を知っている。いや、正体だけならジャンも想像がついているだろう。

 

「あれは公社が調整したのか?」

 

 ジャンの問いにアルファルドは首を横に振った。

 

「いや、あれは彼女の天賦の才能だ」

 

「……そうか、羨ましい限りだ」

 

 ジャンはそれだけ告げると、リコに指示を出すべくアルファルドから離れていった。

 一人取り残されたアルファルドは人影の方をぼんやりと見つめる。すると、人影が――ブリジットがこちらに向かって手を振っているのが見えた。

 

「ああ、君はいつもそうだ。俺の信頼なんか飛び越えて答えてくれる。それがあまりにも眩しすぎて、俺は目をそらしてしまうんだ」

 

 呟きは誰にも聞かれなかった。

 アルファルドはその場で踵を返すと、ジャンたちが取り締まりをする現場に戻っていく。

 

 己の義体に与えるべき、とびっきりの贈り物のことをつらつらと考えながら。

 

 

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第十二話「約束(Hope)」

お待たせしました。


 少し昔の話をしようと思う。

 俺が義体として目覚めてそう時間も経過していない、義体ビギナーだった頃の話だ。

 

 

00/

 

 

 社会福祉公社の資料室には古今東西、あらゆる分野に関する分野、資料、ガイドが揃えられている。

 歴史学から始まり、音楽、政治、文学、現代社会学と取り揃えられていない領域を探す方が難しい。

 では何故そこまで無作為に、無秩序に、手当たり次第に網羅されているのかというと、「彼女」たちの教育に必要だったからだ。

 かの施設が運用する義体は見かけ上はただの年頃の少女であり、それが人造の紛い物であることを外見で判断することは困難である。

 社会福祉公社はその性質を最大限活用するべく、義体たちに一般人へ擬態するよう教育するのだ。

 

 上流階級のテーブルマナーから立ち振る舞い。

 中流階級の人々が道端で行う仕草や会話。

 下層階級の人物たちの行動パターンや思考回路。

 

 それらの全てを担当官によって叩き込まれてから、彼女たちは人狩りの機械として世界に解き放たれるのだ。

 人として完璧に化けることが出来るようになってから、彼女たちは外の世界を知る。

 

 ――ここに一人、義体として覚醒してからまだ一月ほどしか経過していない少女がいた。

 彼女は他の義体たちに比べて、不器用で、無教養で、やや反抗的な義体だった。

 言葉遣いこそは丁寧だったが、担当官に向ける視線は鋭く、自棄になって講義を放棄することもままあった。

 公社の上層部はそんな義体の「条件付け」を書き換えることを主張し続けていたが、担当官の男はそれを撥ね付け続けていた。

 彼は決まって、こう口にした。

 

 ――お前たちは性急すぎる。その条件付けが彼女の長所を殺すのだと何故理解できない?

 

 上層部は男を厳しく叱責した。

 

 ――ではその長所とはなんだ? 結果の出せない高額な人形を我々は造りだした訳ではない。

 

 売り言葉に買い言葉。男は上層部に食って掛かった。

 

 ――そこまで成果が欲しいのなら、次の運用テストでお前たちにそれをくれてやる!

 

 

01/

 

 

 廊下を一人歩いていたとき、ヴィクトル・ヒルシャーはどこかの部屋から酷く歪な長音の音色を聴いた。

 何事か、と耳を澄ませ、音の元へ足を向けてみれば見知った男が頭を抱えて椅子に腰掛けているのが見えた。

 

「――アルファルド」

 

 男の名を呼び、部屋に踏み入れて初めて、もう一人の人物の存在を知った。

 椅子に腰掛けるアルファルドの対面に立つ黒髪の義体、ブリジットだ。

 

「ああ、ヒルシャーか。丁度良かった。バイオリンのコツを教えてやってくれないか」

 

 若干憔悴したような、いや、実際に憔悴しているのだろう。

 目の下に隈をこしらえて、無精ひげを生やしたその風貌に、以前の優男の面影はもうない。

 

「バイオリン? 何故だ?」

 

 そこまで疑問を口にして、ヒルシャーはブリジットの表情を見た。

 そしてしまった、と後悔する。音色を聴いて好奇心で足を伸ばしてしまったことと、アルファルドに声を掛けたことだ。

 

「……私が、上手く出来ないからです」

 

 彼女の表情の色は屈辱と恥辱。

 目尻に涙を溜めて、唇を噛みしめながらブリジットは目の前のスコアを睨み付けていた。

 

「出来ないことは無い筈だが――。そういった知識や技能はあらかじめ書き込まれているはずだ」

 

 ヒルシャーの疑問に、アルファルドはかぶりを横に振りながら答えた。

 

「どうもこの子はそれを上手く引き出せなくなっているらしい。スコアの読み方も、バイオリンの持ち方も、弦の弾き方も理解しているし、知っているのに実行に移すことが出来ないんだ。バイオリンだけじゃない。ダンスも体操も格闘技も、ペンを使って作文すら出来ない」

 

「ビアンキはなんと?」

 

 義体のケアを担当している男の名を出しながら、ヒルシャーはさらに疑問を重ねた。

 

「正常、だそうだ。また原因も不明。今週末までにある程度の改善を見せなければ”再検査”だと」

 

 ブリジットの手前、アルファルドは言葉を濁してみせたが、彼が何を言いたがっているのかヒルシャーは即座に理解していた。

 つまりこのままではブリジットは「出来損ないの義体」の烙印を捺されてしまい、条件付けの書き換えという無為に寿命を削るような治療を受けるハメになってしまうと、彼は言っているのだ。

 強固な条件付けに対しては反対の立場を取っているヒルシャーは、思わず顔を顰める。

 

「どうにかならないのか」

 

「週末の運用試験で何かしらの成果を見せれば取り敢えずの条件付けは回避される。だが……」

 

 アルファルドの視線に促されて、ブリジットはバイオリンを演奏した。

 だが元の曲が何であるか判別不能なほど音を外しており、決して音楽とは言いがたいような有様だ。

 

「ピアノも、チェロもバイオリンも駄目か。外での徒手格闘も全体の最下位どころか一般人並み。せめて何か1つ、少しばかり秀でた才能があれば良かったのだが……」

 

 アルファルドの苦渋に満ちたつぶやきは、歪んだ悲壮な旋律に掻き消されていった。

 

 

02/

 

 

 知識は確固たるものとして存在しているのに、身体が言うことを聞いてくれない。

 

 それが俺の今の状態だった。

 自分が義体となったその瞬間から、知識として刻み込まれた数多の記録のことは自覚していた。

 けれども”前”の自分の存在がイレギュラーで邪魔なのか、それらを実際に行使することが全く出来なくなっていた。

 例えば今でもそう。

 どんな指使いと力加減でバイオリンを操れば良いのかは理解しているのに、身体は思った通りに動いてくれない。

 どこか靄が掛かったような、フィルター一枚を挟んだかのような違和感が常に感じられるのだ。

 直接身体を操作するのではなく、ブリジットというラジコンを操作している感覚と言えばわかりやすいのだろうか。

 とにもかくにも、義体として覚醒した俺は戦闘どころではない致命的な不器用さを各所に披露し続けているのである。

 

「……時間だ。ペンを置きなさい」

 

 腕時計を静かに見つめていたヒルシャーが口を開いた。

 与えられた万年筆から手を離し、レポート用紙を一枚彼に手渡す。

 俺の隣に腰掛けていたヒルシャーの義体――トリエラは実に三枚のレポート用紙を提出していた。

 原作でもそれなりの器用さと要領の良さを誇っていた彼女だからこそ、こういった作文事は苦手ではないのだろう。

 

「うん、良く書けている。表現に問題はないし、論理は整然。百点満点だよ」

 

 褒め殺しの高評価がヒルシャーの口から語られる。けれどもそれが俺の書いた物に対するものではないことくらい考えるまでもない。

 彼はトリエラの提出したレポート用紙を机の上に置くと、次に俺のそれを手に取った。

 そしてたっぷり数分。

 トリエラの三分の一の分量しかないのに、数倍の時間を掛けて彼はそれを読み込んだ。

 

「……スペルミスが多いようだね。あとここの表現とここの言い回しは少しおかしい。赤で訂正しておくから後で復習しておくように」

 

 そう言って彼は朱書きをレポート用紙に刻みはじめた。

 やがて帰ってきたそれは、元の文の原型が存在しないくらいには、真っ赤な添削ぶりだ。

 

「語彙力は本を読めば身につくし、スペルミスも改善される。文字の流麗さはひたすら練習だろうな」

 

 見事な駄目だしを受けた俺は溜息をつくまもなく、精一杯今の自分の境遇を呪った。

 

 

03/

 

 

 アルファルドの仕事机の側で、ヒルシャーはブリジットにやらせた作文のコピーを広げていた。

 その赤色の多さにアルファルドは思わず目頭を手で覆ってしまう。

 

「すまないな。君に見てもらえれば少しばかりは改善するかと考えたんだ。何せ人に文字で何かを伝える生活なんて殆どしてこなかった」

 

 同僚の手を徒に煩わせてしまったことを彼はまず謝罪した。

 だがヒルシャーはそんなアルファルドの仕草と言葉を手で制した。

 

「いや、悲観するにはまだ早すぎる」

 

 そう言って、彼は持っていた青のボールペンで数カ所、ブリジットのレポートにアンダーラインを加えた。

 言い回しもスペルも、それこそ単語の語法すら正しくない、ヒルシャーが理解に最も時間を傾けた部分だ。

 この部分の意味の理解に戸惑ったからこそ、彼はトリエラの数倍の時間をブリジットに費やしていた。

 

「僕が出したテーマは欧州の政治社会学についてだ。語ろうと思えばいくらでも語ることの出来る、ある意味で初心者向けのテーマを彼女たちに提示した」

 

 ヒルシャーはボールペンの先でとんとんと、青のアンダーラインを叩く。

 

「トリエラはたっぷり三枚の分量でイタリアと諸外国の政治状況について論じて見せた。一方、ブリジットはこのイタリアのそれしか論じていない。最初はそれしか知らないのかと思ったんだが、どうやらそれは違うようだった」

 

 アルファルドはいまいち要領を得ないといった表情で、ヒルシャーの言葉を待った。

 そしてヒルシャーは周囲に職員が誰もいないことを確認して、そっと告げた。

 

「本来義体というのは下された命令しかこなせない。トリエラも欧州の政治について論じろ、と命令したからその通りに作業をこなしてきた。僕たちが与えた情報を組み合わせて論を組み立てたんだ。けれどもブリジットは違う。彼女は僕たちが与えた情報を一般化して、自身の考えを述べているんだ。例えるならそうだな――トリエラは与えられた積み木を使って素晴らしい城を組み立てたんだが、ブリジットは積み木そのものを観察して、全く新しい木材から城を削り出そうとしたんだ。これはどの義体にもない彼女だけの特徴であると同時に、彼女の非常に高度な知能の証明だと僕は考える」

 

 ヒルシャーの考えを受けて、アルファルドはブリジットの記したレポートを読み込んだ。

 確かに単語の使い方に誤りは多く、語彙も決して多くはない。けれども彼女なりに、必死に彼女自身が考えたことを、公社が与えていないような論理を駆使しながらレポートに文字を刻んでいた。

 

「アルファルド。この結果は2つの可能性を指し示している。1つは条件付けの失敗だ。公社が与えた情報に従わず、普通の人間のような思考回路を保持したまま彼女が義体になってしまっている可能性だ。そしてもう1つ。彼女は条件付けを受けながらその産まれながらの知性を失うことなく、僕たちの想像を軽々と飛び越えるような、新しい考え方が出来る義体という可能性――」

 

 一拍おいて

 

「そのどちらに傾くかは、アルファルド。君の彼女に対する立ち振る舞い次第だと僕は思う」

 

 

04/

 

 

 ブリジットに銃を持たせることに抵抗がなかったわけではないが、義体教育の一貫としてそろそろ訓練しなければならないことをアルファルドは理解していた。

 だからこそ実際に手に取らせることはなくても、せめて他の義体が銃を扱っているところを見学させようと、公社に備え付けられたシューティングレンジに彼女を連れてきていた。

 使用する人物がある意味で限られているので、まだまだ真新しさが残されている施設である。

 足下にはゴミ1つなく、綺麗に磨き上げられた傷1つない事務用机がいくつかフロアの隅に設置されていた。

 時折聞こえてくる銃声に視線を巡らしてみれば、いくつか並んだブースの内2つで先客が訓練を行ってるのがわかる。

 ブースの近くで待機している担当官を見やれば、ジョゼとラバロという二人の担当官がそれぞれの義体の訓練を見守っていた。

 二人の内、アルファルドに近かったラバロが視線をこちらに向けて口を開く。

 

「……随分と手こずっているようだな」

 

 義体教育が上手くいっていないことを見抜かれているのだろう。ラバロはブリジットを一瞥してそう告げた。

 アルファルドもそれを強く否定することが出来ないまま、「見学をさせてください」と頭を下げていた。

 ラバロは特に言葉を返さなかったが、視線だけは近くの壁に立てかけられていたパイプ椅子に向けられている。

 何となく意図を理解して見せたブリジットが二人分の椅子を用意して、ラバロの近くに広げた。

 

「ブリジットはここに座りなさい」

 

 着席の許可を得て、彼女は静かにブースの中を見つめる。

 ストック付きのマシンピストルを器用に操作して、的を撃ち抜いていく義体がそこにいた。長い黒髪をポニーテールにまとめ、GISの特注のキャップを被っている。

 

「クラエスだ。糞真面目だが、不器用でもある。お前たちからも何か助言があるのなら言ってやってくれ」

 

 クラエスと呼ばれた義体は、弾倉を1つ完全に撃ち尽くしてアルファルドたちに振り返った。

 ラバロはただ一言、「つづけろ」と命令を下す。

 彼女は頷きを1つだけ返すと、直ぐさま弾倉を再装填、ストックを肩に押し当ててセミオートの設定で引き金を引き続けた。

 

「……文句なしの命中精度だ。やはり条件付けの技術ですか?」

 

 アルファルドの問いに、ラバロは答える。

 

「いや、彼女自身の積み重ねだ。最初の頃など命令に融通が利かなさすぎて、意味もないのに一日中撃ち続けていたこともあったがな。”7ヤードで必中出来るまで帰ってくるな”と告げれば本当にそうしていた。だが少しばかりは自分で考えるようになって風向きが変わった」

 

 ――自分で考える。

 

 ラバロがそう口にしたのを聞いて、アルファルドはブリジットの方をちらりと盗み見た。

 見学しろと命令されたとおり、彼女の漆黒の瞳は常にクラエスの動向を追い続けている。どれだけクラエスの技能を盗むことが出来ているのかは未知数だが、それでも命令そのものは完遂している。

 

 ヒルシャーに突きつけられた一枚のレポート。

 そこに残されていたブリジットの可能性と希望。

 

 いや、条件付けの失敗を示唆するものでもあるのだから、パンドラの箱といった方が正しいのだろうか。

 公社の想定していないレベルでの、自主的な思考、判断、表現力をブリジットが宿しているという事実。

 その事について考えたとき、ラバロの言うとおり良い方向に傾けば、ブリジットの未来を救う物になるのではないかとアルファルドは考えはじめていた。

 だが良い方向へ傾けるのも、悪い方向に突き落とすのもこれからの自分の立ち振る舞い次第であることも理解していた。

 理解はしているのだが、その舵取りの方法を見失っており迂闊に手が出せないような状況なのだ。

 

 そんなアルファルドの苦悩を読み取ったのだろうか。

 ラバロは銃声が途切れた合間に、彼の方に視線を向けることなくぽつりと零した。

 

「義体にはあらゆる経験をさせろ。経験をさせて、今の自分を作り上げた何処か特別な場所へ連れて行くんだ。そして父や母がそうしてくれたように、その場所での行いや思考を追体験させてやれ」

 

 クラエスが再び弾倉を込める。最初の一発のため、引き金に指が掛かる。

 

「俺たちだけが彼女たちを理解するのではない。彼女たちにも俺たちを理解させるんだ」

 

 迷いなく解き放たれた銃弾はターゲットの中心を穿つ。

 それからしばらく。

 アルファルドとブリジットの二人は静かにクラエスの射撃を観察し続けていた。

 

 

05/

 

 

 状況が変化したのはそれから5分も経たないうちだった。

 リズム良く放たれていた銃声に乱れが生じた。何事か、とラバロたちが視線を動かせば、隣のブースで射撃を続けていたヘンリエッタのハンドガン――SIGが弾詰まりを起こしていた。

 スライドに刻まれた排莢口に空薬莢が挟まれていたのである。

 だが銃を扱う者ならば誰もが一度は経験する状況であり、対処方法もそう難しくはない。

 落ち着いて弾倉を抜き、スライドを手で引いて挟まれた空薬莢を取り出してやるだけだ。

 しかしながらこの最悪のタイミングで、義体に対する条件付けの甘さが露呈してしまう。

 義体は洗脳によって脳に刻まれたことは完璧にこなしてみせる。けれども逆に言ってしまえば教えられていないことは殆どと言って良いほど何も出来ない。

 そして弾詰まり――ジャムの対処方法は余りにも基本的すぎて条件付けの一部には含まれていなかった。

 

「?」

 

 手元の銃に何が起こったのか理解していないヘンリエッタは、疑問を浮かべたまま銃口を覗き込んでしまう。

 それに素早く反応したのは、クラエスの担当官であるラバロだった。

 小銃の暴発事故により足を負傷し、軍警察を退役せざるをえなかった彼は、誰よりも銃の予期せぬ動作に対して敏感な人物だった。

 杖つきだというのに、素早く立ち上がった彼はヘンリエッタから銃を取り上げ、手にしていた杖でヘンリエッタを殴打した。

 

「お前死にたいのか!?」

 

「ラバロ!! やめろ!」

 

 自身の義体が吹き飛ばされたのを見て、担当官であるジョゼがラバロに詰め寄る。

 ラバロはそんなジョゼをヘンリエッタと同じように殴打した。そして逆に胸ぐらを掴み挙げて厳しい叱責をぶつける。

 

「黙れ! ろくに銃も扱えないような奴をここに連れてきやがって! SIGだからジャムらないと油断したか!」

 

 彼の言い分は尤もだった。

 例え信頼性に優れたSIGシリーズでも、不慣れな者が取り扱えば作動不良を起こすことはままある。

 まだまだ銃の扱いが未熟であるヘンリエッタをここに連れてきたジョゼの失態だった。

 だが彼もまた1つミスを犯していた。

 従順な人狩りである義体の前で、担当官を害すればどうなってしまうのか、認識が不足していたのだ。

 

「ラバロさん! うしろ!」

 

 騒ぎの様子を射撃を止めて見守っていたクラエスが悲鳴を上げた。

 何事か、とラバロが振り返って見ればいつのまにかヘンリエッタがそこに立っていた。

 彼女は大人一人分の大きさはある事務机を両手で持ち上げ、今まさにラバロへ叩きつけようとしていた。

 

「……!!」

 

 己の立ち位置からではもう割り込めないと判断したクラエスがマシンピストルを操作する。

 セミオートからフルオートへ設定を変更し、銃口をヘンリエッタに向けた。

 義体同士の抗争という、最悪の事態に直面したラバロとジョゼの表情が固まる。ラバロが咄嗟にクラエスへ手を伸ばすが、彼女は既にラバロの制御下を離れていた。

 

 発砲は免れない。

 

 その場にいた誰もがそう覚悟したとき、一人だけ違う動きをしていた者がいた。

 たとえ三人の担当官が、過去に厳しい軍事訓練を乗り越えてきた戦闘のプロだとしても、所詮は生身の人間。

 義体二人に挟まれた彼らが出来ることなど極限られたものだ。

 けれどもそんな彼らを嘲笑うかのように、置き去りにするような瞬発力と速度で、彼女はヘンリエッタに飛びかかっていた。

 

 そう、それまで静かに状況を観察していたブリジットである。

 

 

06/

 

 

 そういえばこんな出来事も原作ではあったな、とヘンリエッタを組み伏せながら思った。

 まさか俺に押し倒されると思っていなかった彼女は、電池の切れたおもちゃのように動きを完全に制止している。

 驚きに満ちた表情でこちらを見上げながら、「先輩?」と疑問を零していた。

 

「ラバロさんは敵ではありません。クラエスの担当官です。私たちの仲間です」

 

 そっとヘンリエッタの上から身体をどかし、彼女に手を差し伸べる。

 義体の本能なのか、咄嗟に身体が動いてしまっていたがこれで良かったのだろうか。

 

「あなたとジョゼさんのことを考えて彼は厳しく当たりました。決してあなたたちのことを害しようとしてのことではないんですよ」

 

 今更ながら冷や汗が沸いてきた。

 こちらの世界で目覚めてから初めて、戦闘まがいの身体の動かし方をしたのだ。

 これまで一度も誰かと殴り合ったり、取っ組み合ったりしたことのない俺からしたらまあまあ上出来の成果だろう。

 ただ緊張で高鳴った鼓動だけが収まる気配がない。

 

「だから敵意を向けないで。いたずらに味方を傷つけないで」

 

 三人の担当官の中で、いち早く我に返ったアルファルドが俺とヘンリエッタを引き離した。

 続いてジョゼがヘンリエッタに駆け寄り、ラバロが銃を構えたままのクラエスに武装を解くよう命令した。

 

「よくやった。ブリジット、お手柄だ」

 

 久方ぶりに聞くことの出来たアルファルドの褒め言葉に、反射的に頬が緩む。

 条件付けの悪しき本能ではあるが、心地が良いのもまた事実だ。

 

「本当によくやった。君はやっぱり素晴らしい人間だった」

 

 

07/

 

 

 数日後、ブリジットとアルファルドは二人してローマから少しばかり北に離れた山林にいた。

 ブリジットはアルファルドが用意したウェアに着替えて、山道をすいすいと進んでいくアルファルドの後をついていく。

 

「……休日でもないのに、こんなところに来ていても大丈夫なのでしょうか」

 

「何、これも立派な俺たちの仕事だ」

 

 途中、いくつかの休憩を挟みながら、二人はどんどん山道を外れて腰くらいの高さの藪が密集した森の中を進む。

 やがて一時間も足を動かせば、小さなツリーハウスが備え付けられた大木に辿り着いていた。

「これは?」とブリジットが問うてみせれば、悪戯が成功した少年のような笑みでアルファルドは答えた。

 

「俺の親戚が管理してくれている狩猟小屋だよ。今日一日の使用許可を買い取ったんだ」

 

 そう言って彼はするすると木を上り、ツリーハウスへと入った。

 一体何なんだ、と心の中で悪態をついた彼女は、アルファルドに支えられながら狩猟小屋の中に足を踏み入れた。

 そして思わず声を漏らしていた。

 

「……うわあ」

 

 それはテレビの中や、何かの写真誌の中でしか見たことのないような、ブリジットにとって初めて見るような光景だった。

 丸太で組まれた壁は木独特の温かみがあり、部屋の中央に吊されたランプが柔らかな照明を灯している。

 2つ吊されたハンモックは丁度窓の方向を向いており、夜には山特有の綺麗な星空が見えるのだろう。

 

「気に入ってくれたか? 昔はよく父親とここにキャンプにきていたんだ。下の森で狩りをして、その肉をシチューにして食べていた」

 

 背負ってきた荷物を広げた彼は、その中からガンケースを取りだした。

 中には狩猟用ライフルが収められており、慣れた手付きでそれを組み立てていく。

 やがて、スコープを本体にマウントし終わるとブリジットの手を取って狩猟小屋に備え付けられていたデッキに出た。

 

「あの、なにを?」

 

 アルファルドの行動の意味をよくわかっていないブリジットは珍しく歯切れの悪い声を出した。

 そんな彼女を見て、アルファルドは相変わらず悪戯っぽく笑って見せた。

 

「狩猟小屋にきたらすることは一つ。狩りに決まっているじゃないか」

 

 

08/

 

 

 小屋から少し離れた茂みの中で、ブリジットとアルファルドは身を寄せ合っていた。

 おっかなびっくりといった風にライフルを構えるブリジットは「やっぱり無理です」と弱音を吐く。

 アルファルドはそんなブリジットの耳元でそっと励ますように囁いた。

 

「大丈夫。皆最初は初心者であり初めてだ。俺も父から狩猟を教えられたとき、全然明後日の方に銃を撃っていた」

 

「そういうことじゃないんです……」

 

 けれども励ましに効果はなく、ブリジットはその場でますます萎縮してみせた。

 そう。

 社会福祉公社に於いて、まだ一度も射撃訓練もしたことがないブリジットが、人生で初めて銃を扱おうとしているのだった。

 もちろん前の世界でそのような経験があるはずもなく、義体らしくない緊張感でライフルを持つ手は小刻みに震えていた。

 

「ほら、見えるか。あそこに群れからはぐれた牝鹿がいる。鹿の弱点は心臓だ。前足の付け根あたりを狙うと良い」

 

 アルファルドが小さな双眼鏡で確認するような距離でも、ブリジットは肉眼でハッキリとそれを視認できた。

 だからといって、容易に仕留められるかどうかは完全に別問題であるが。

 

「やっぱり駄目です。アルファルドさんが代わって下さい」

 

 ライフルを押しつけようとするブリジットを制して、アルファルドは続けた。

 

「駄目なこと何てないさ。別に外したって構わないじゃないか。君は”はじめて”なんだから。これからどんどん、新しいことを学んでいけば良いんだ」

 

 はじめて――。

 

 その言葉を聞いたとき、ブリジットはふと身体が軽くなるのを感じた。

 

「君は義体だから、公社によってたくさんの知識や技能がすり込まれている。けれどもそれは完成型なんかじゃない。君は人としてまだまだ成長できるんだ」

 

 靄が、オブラートが一枚一枚剥がされていく。

 義体として刻み込まれていた能力が少しずつ開花していく。

 

「俺と共に成長しよう。ブリジット。二人でフラテッロになるんだ」

 

 ライフルを握り込んだ。

 震えはもうない。

 スコープを覗き込み、無防備な牝鹿の前足の付け根に照準を合わせる。呼吸のリズムは一定で浅く、深くの繰り返し。

 だがやがて、そのスパンは徐々に長くなっていき無呼吸の時間が数秒だけ訪れた。

 

「撃て、ブリジット。新しい君への祝いの門出だ」

 

 

09/

 

 

 結果から言ってしまえば人生初めての弾丸は牝鹿を仕留め損なった。

 螺旋を描いて飛び立った鉛玉は、鹿の心臓ではなく肺を撃ち抜いていた。

 パニックに陥った鹿が逃走を図る。

 ブリジットはすぐにボルトを引き、次発を装填。

 鹿の進行方向よりもかなり前に銃口を向けた。

 

「ブリジッ――」

 

 狙いはもっと手前だ。君は焦りすぎている。

 そうアルファルドが口走ろうとしたとき、牝鹿は精一杯の力を振り絞って、かなりの距離の跳躍を見せていた。

 本来の鹿の逃走距離としてはかなり大ぶりな一歩目。

 並のハンターならそのイレギュラーな動きで、無駄な二発目を撃たされていた、そんな動き。

 けれど彼女は、それだけの大立ち回りをしたにも拘わらず生きたまま地面に足を付けることが叶わなかった。

 銃口から立ち上る硝煙の香りが、身を寄せ合った二人の鼻に届く。

 

「ははっ。なんだ、上手いじゃないか」

 

 アルファルドが信じられないといった調子で、乾いた笑いを漏らす。

 距離にして凡そ150メートル。

 飛び跳ね回る鹿を撃ち抜くには余りにも遠すぎる距離。

 けれども彼の視線の先では、確かに崩れ落ちた牝鹿が一頭、存在していた。

 隣に視線を向けてみれば、自分でも驚いた、という風にブリジットが目を丸くしている。

 アルファルドは「これが義体の本来の力か」と口走りそうになって、「いや」と否定をした。

 彼は今の数秒の出来事である確信を抱いていた。

 

「――ブリジット」

 

 初弾で仕留めきれなかったことを咎められるのかと、ブリジットが身を小さくする。

 だがアルファルドはそんなブリジットの肩をやや強めの力でかき抱いた。

 

「これは君の才能だ。君だけにしかない、君が誇るべき才能だ!」

 

 バイオリンの演奏も、作文も満足にこなせなかった。

 格闘技もてんで駄目で、あと一歩で失敗作の烙印を捺されそうになっていた。

 そんな己の義体が見せた、天賦の才とも言うべき才能に彼は興奮が収まらない。

 

「ありがとう、ブリジット。君は俺の杞憂なんかいつだって易々と飛び越えてしまうんだ」

 

 

10/

 

 

 その週の末。

 ブリジットの運用試験が社会福祉公社で執り行われた。

 未だ成果を見せることのない、彼女の醜態を確認するための儀式だったが、上層部の狙いは思わぬ形で外されることになる。

 

 距離600メートルで高さ30センチの的を撃ち抜く試験。

 

 一応、他の義体の成功事例はあるにはあるが、まだまだ調整不足なのか、決してその例は多くない。

 そんな試験に挑んだブリジットを職員の何人かは嘲笑っていたが、いざ試験が始まると誰もが言葉を失い、目の前の光景から目が離せないでいた。

 

 一発目 命中

 二発目 命中

 三四五六七八九十と命中し、キリがないからと、アルファルドは距離を800メートルに合わせるよう指示した。

 

 そしてそれも立て続けにヒット。

 一向に外す気配がないので、最終的には1000メートル環境下での狙撃が試みられた。

 

『落ち着いてやれば君なら問題ない』

 

 耳元のインカムからアルファルドの声が届く。

 応答の言葉は返さなかった。何故ならこの狙撃の可否こそが己が担当官に対する最大限のレスポンスであることを理解していたからだ。

 ブリジットは静かにライフルのストックを握り込んだ。殆ど点にしか見えない標的に照準を合わせ、引き金に指を掛ける。

 

 まさか、自分にこんな能力があるとは思っていなかった。

 こんな才能に恵まれているなんて考えたこともなかった。

 

 嬉しい、とは思わない。

 

 この才能さえなければこんな糞みたいな境遇で生きていかなくて済むのに、という考えすらある。

 けれども彼女は義体。

 担当官の役に立つことに至上の喜びを感じ、担当官に褒められることを求め続ける哀れなお人形。

 抗いがたき条件付けの本能が、ブリジットに喜びを感じさせ、ブリジットの人としての理性が仄暗い絶望を感じさせる。

 

 心はこんなにもぐちゃぐちゃでどろどろとしているのに、彼女の思考は至ってクリアだった。

 

 風を頬で感じる。視界の彼方で揺らぐ標的が小刻みに震えている。

 これだけ距離が離れているのなら、その震え一つで狙撃の成否を運命づける。

 引き金を引くときのブレ一つで、弾丸は良からぬ方向にすっ飛んでいく。

 

 一度だけ、息を吸った。

 身体が溶けた。

 否、そう錯覚させてしまうほど、彼女の意識はライフルと一体化し、人らしからぬ集中力に埋もれていたのだった。

 風が止む。

 標的の震えが収まりはじめる。

 

 いつ引き金を引いたのかは、ブリジット本人ですらよくわかっていなかった。

 

 けれども銃声から数秒遅れて響いた甲高い金属音を聞いて、その場にいた全ての人が狙撃の結果を知った。

 

 

11/

 

 

 俺は廊下を歩いていた。

 アルファルドに運用試験の成功を大層褒められて、ご褒美のディナーに誘われた。

 さらには彼行きつけの店がそれなりのドレスコードが求められるらしいので、硝煙と砂埃をシャワーで洗い流して、精一杯めかし込んでくるように”お願い”された。

 

 そして義体たちの宿泊施設がある寮棟と本部棟をつなぐ渡り廊下。

 夕日が差し込むそこで、杖付きの人影を見つける。

 

「……アルファルドのところの義体か」

 

「ブリジットです」

 

 人影はクラエスの担当官であるラバロだった。

 彼は俺の姿を見定めると、少しばかり罰が悪そうに視線をそらした。

 だが、何かしらを思い至ったのかすぐにこちらをしっかりと見据える。

 

「伝えたいことがある。少し時間をくれ」

 

 

12/

 

 

「お前は不思議な義体だ。何故なら条件付けは確かに機能しているのに、時折その隙間をかいくぐるような行動を見せてくる。例えばクラエスとヘンリエッタが暴走したあの時だ」

 

 ラバロは続けた。

 

「お前の条件付けの譜面は、アルファルドの安全確保を命じていた筈だ。何せ、そのようにお前たちは”つくられて”いる」

 

 彼が語るのは、一週間ほど前の暴走事故の顛末。

 俺がヘンリエッタを押さえつけ、諭した日のことだ。

 

「けれどもお前はアルファルドを守らなかった。悪い意味ではない。お前はあの場で、条件付けに逆らってまで最善の選択を取ったのだ。すなわち二人の義体を押しとどめ、怪我人を最小限にとどめた。――条件付けは万能ではないからな。その譜面の複雑さ故、時には誤った選択もしてしまう」

 

 ラバロが何を伝えたいのか、俺はいまいち理解していなかった。

 けれどその口調が余りにも重々しいので、俺は黙って耳を傾け続けている。

 

「お前は現場の状況を自ら判断し、何が最善なのか常に考えることの出来る自由意志を有している。これは他の義体には見られない、お前だけの特徴だった」

 

 心臓が掴み取られたかのような錯覚を覚えた。

 ラバロの言葉は、俺の中身が異質であることを見抜いているようなものだったからだ。

 出来るだけ表情を固定しながら、この場を切り抜ける方策に思考を巡らせた。

 

「今だってそうだ。雰囲気でわかる。お前は今、いかに俺の追求から逃れるのか思考している」

 

 もう駄目だ、と思った。俺のような若造が敵う相手ではないことをたった今理解した。

 あらゆる修羅場を潜り抜けてきた老兵からしてみれば、俺の擬態など道化染みた滑稽なものなのだろう。

 

「そう恐れるな。別に俺はお前をどうこうしようとしているわけではない」

 

 内心の動揺を読み取ったのだろう。

 彼は俺を安心させるような文言を口にした。けれども俺は警戒心を手放せないまま、一歩後ずさる。

 

「……俺からお前に伝えたいのはクラエスのことだ。彼女と俺は血の通った命令ではない約束をした。だがそれは絶対のものではないし、あの娘の将来には恐らく万難が待ち受けている」

 

 足が止まった。

 クラエスという名を聞くと、不思議と警戒心が薄れていった。

 

「お前だからこそ頼めることだ。自由意志という、義体の新しい可能性を宿しているお前だからこその。――どうかお前はクラエスの良き友人であって欲しい。融通の利かない、向こう見ずな頑固者だがその誠実さは本物だ。彼女が万難に心挫けそうなとき、せめてお前だけは彼女の手を取ってやってくれないか」

 

 ラバロらしからぬ、その切実な調子に毒気を抜かれる。

 そしてたった今、俺はこれから彼が辿る運命を思い出していた。

 彼が語った「血の通った約束」

 

 それはクラエスと彼が結んだ、命令ではない生きた約束だ。

 すなわち――、

 

「眼鏡を掛けている間はおとなしい彼女でいてくれるよう、俺は願った。どうかその願いをお前に助けて貰いたいのだ」

 

 咄嗟には返答できなかった。

 それどころか「これからあなたは公社の暗部をリークするためにローマへ向かう。けれどもその途中、あなたの動きを嗅ぎ付けた公社が轢き逃げを装ってあなたを暗殺するのだ」と彼の運命を口走り掛けていた。

 だがこの世界に絶望しきっている摩耗しかけた心が、「余計なことをするな」と寸前のところでそれを押しとどめてくれた。

 

「……いい目だ。なんでもすぐに即答する奴は信用ならないが、お前はそんな心配は無用だな。では後を頼んだ」

 

 何も言葉を告げないでいたら、ラバロが歩みを再開した。

 俺の横を通り過ぎ、渡り廊下から去ろうとする。

 

 もしもこの時、ちょっとした勇気が俺にあれば彼のこの後の運命は違ったのかもしれない。

 けれども俺はその勇気がなかった。

 まだこの世界で生きていく覚悟がなかった俺は、ただ立ち去る彼を見送ることしか出来なかった。

 

 日が暮れかけた渡り廊下。暗がりの中ただ一人取り残される。

 

 結局のところ、俺の消息を心配したアルファルドに見つけられるまで俺はその場から動くことが出来なかった。

 

 そして。

 クラエスの担当官であるラバロは俺が知る歴史の通り、ローマ市街で轢き逃げにあい、そのまま帰らぬ人になった。

 

 

13/

 

 

 あれから少しばかり時間が過ぎ、冬が近づいてきた頃。

 俺はクラエスの家庭菜園づくりのため、ひたすら地面を耕していた。

 彼女が記した図面の通り、公社から借りた庭に鍬を突き立てていく。

 二時間ほど、そんな作業に明け暮れていたら、いつのまにかクラエスが隣にいた。

 

「何ですか?」

 

「これは感謝の印よ。あなたには感謝しているわブリジット。こんな私の我が儘を聞いてくれるとても優しい友人なんだもの」

 

 彼女から差し出されたのは暖かい紅茶が入った水筒だった。

「ちょっと休憩しましょう」と告げるクラエスに従って、俺たち二人は庭に立つ大きな木の下にレジャーシートを広げた。

 

「ねえ、ブリジット」

 

 冬の木漏れ日に目を細めながら、彼女は言葉を紡ぐ。

 

「私、こんな風に無作為に毎日を過ごすことが幸せなの。遠い昔、いつだかお父さんに教えて貰った気がする日々の過ごし方」

 

 俺は何も言わなかった。

 いや、言えなかった。

 

「その日々の中に、あなたのような良き友人がいるなんて、最高の幸せね」

 

 

14/

 

 

 俺がクラエスに真実を告げる日がくるのかは、今のままではわからない。

 けれど俺が俺の罪を彼女に告白したときの結末くらいはなんとなく予想できる。

 

 たぶんきっと。

 俺たち二人はある種の終わりを迎える。

 彼女は俺のことを決して許しはしないだろうから。



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第十三話「天使と悪魔(angela)」上

Twitterでお知らせした日付より2日遅れて申し訳ないです。
お久しぶりです、次話はこの連休中に書き上げられればと思います。


 自分の身体に、この薬たちがどんな効用をもたらすのかは知らない。ただ命令されているから、アルファルドが頼んできたから口に含み、水と共に嚥下するのだ。

 一時期の健康と引き替えに、寿命をすり減らしていると知識で知っていても、その毎日のルーティンワークは変わらない。

 朝の光が視界の端で輝く中、鏡に視線を送る。

 白い人形のような顔から水滴を垂らした少女が、胡乱げにこちらを見ていた。

 

 ブリジットという名の少女になってから今暫く。 

 まだ悪夢が醒める気配はない。

 

 

01/

 

 

 朝の訓練はひたすら基礎トレーニングだ。動きやすい服装に着替えて、長い髪をゴムで纏め、スポーツハットにそれを押し込めて延々と走り続ける。前の人生の身体ならば五キロも走れば息も絶え絶えに倒れ込んでいただろうに、今の人工の身体ならばカロリーが尽きるまで走り続けることができる。

 ただ、だからといって水分補給を始めとした休息を取らなければぶっ倒れるのは変わりないため、感覚的に走行距離が二桁に乗ろうかというときに、スタート地点である公社の中庭に戻っていた。

 中庭のベンチにスポーツドリンクが置いてあるはずなので、そちらに足を向ける。するとそこには先客がいた。結露のしたたるペットボトルの隣に、男性が一人。

 

「ブリジットか。相変わらずの凄まじい身体能力だな。どれくらい走った?」

 

 男は品の良い眼鏡のレンズ越しにこちらを見ている。俺に刻みつけられた記録が正しいのならば、確かマルコーといっただろうか。

 俺は問われるがままに腕時計に捲いていたGPSロガーを操作する。無機質な液晶には13キロメーターの記載。俺がその数字をそのまま伝えると、感心したようにマルコーは声をあげた。

 

「この短時間でそこまでか。優秀とは聞いていたが想像以上だ。なあ、ブリジット一つ頼まれてくれないか」

 

「——なんでしょう」

 

「何、そう畏まらなくていい。彼女のペースメーカーを頼みたいんだ」

 

 俺の声が強ばったことをマルコーは的確に見抜く。彼は俺の背後に視線を走らせると、やや厳しめの口調で口を開いた。

 

「そういうわけだ。アンジェリカ。ブリジットに今からついていけ。彼女に置いて行かれるようならば実戦復帰はなしだ」

 

 振り返れば、滝のような汗をしたたらせながら、息も絶え絶えに一人の少女がこちらに駆けてきていた。何度かその姿を見かけたことはあるが、腰を据えて話をしたことはない、そんな限りなく赤の他人の少女はアンジェリカ。俺と同じ義体の一期生。

 

「加減はしなくていい。こいつがお前についてこれなければそれまでということだ。何せ次のミッションのバディだからな。お前が見極めてみろ」

 

 バディ——その言葉を受けて多分俺の眉は良くない方向に動いたかもしれない。俺は誰かと積極的に関わることが苦手だ。ようやくエルザとそれなりに打ち解けてきたものの、そこには一言では言い表せることのできない紆余曲折と確執があった。あれをもう一度経験するのは正直嫌だ。

 だが絶対に逆らうことのできない担当官であるアルファルドの同僚からの命令だとすれば、俺の自由意思はあってないようなもの。というかない。

 内心でどう感じていようと黙って従うほかないのだ。

 

「わかりました。ストレッチに3分下さい。それが終わればスタートします」

 

 別にアンジェリカに休息を与えるわけではない。一度クールダウンしてしまった筋肉を再び温めるためだ。人よりも遙かに強靱な俺の肉体だが、あまりにもシステマティックに動作するためメンテナンスを抜かれば痛い目を見ることになる。

 マルコーもそれを理解しているのか、黙って頷いて事の成り行きを見つめていた。ただアンジェリカだけが乱れた呼吸を吐き出し続けている。耳に届く音はその苦しそうな声と、何処かの木でさざめく小鳥たちの鳴き声だけだ。

 

「行きます」

 

 手加減は一切なし。俺にとって一番バランスの良い負荷で前へと進む。マルコーが「ほう」と感嘆の声を漏らした場所が、遙か後ろに流れていった。

 けれども、アンジェリカの荒い息だけはぴったりと後ろに付いてくる。

 

 無理に加速したり、緩めたりはしない。

 

 ただ自分自身だけを感じながら、ひたすら足を動かし続ける。そうしていれば悪夢から醒めていなかった絶望も諦観も今だけは忘れることができるだろうから。

 義体になってはや数ヶ月。

 

 まだ私は俺のままだった。

 

 

02/

 

 

「ふーん、それでペアを組むことになったんだ。ふーん」

 

 エルザが差し出してきたのは甘いものが苦手な俺のために用意してくれたグレープフルーツのジュースだった。朝のトレーニングの後、シャワーを浴びた俺は食堂で彼女に出くわしていた。

 サラダからトマトをかき分けつつ、俺は言葉を続ける。

 

「あの子、最後まで私について来ちゃったから。振り切ろうと思えば振り切れたんだけれど、何かそれはフェアじゃないし、意地悪に思えて」

 

 有言実行。加減一切無。

 

 それでもアンジェリカは食らいついてきた。そう、食らいついてきたという表現が正しい。距離を空けられてなるもんか、と死ぬ気で追いすがってきたのだ。マルコーの待つベンチに戻ったその時にぶっ倒れたとしても、合格は合格。

 何とも言えない表情をしたマルコーが視線だけで俺に問うてきたが、俺は「手は緩めていません」と答えるほかなかった。彼もこちらの言葉を疑うことはなく、ただ「そうか」と短い返答をしてアンジェリカを連れて帰っていった。

 多分、彼女とバディ同士になるのは決定事項だろう。

 

「ふーん、そっか。振り切らなかったのね。私の時はどれだけお願いしても言うこと聞いてくれなかったくせに」

 

 廃倉庫でのやり取りをネチネチと責められる。そっとトマトをエルザの皿に移そうとしたらギロリと睨まれた。行き場を失ったフォークが皿に戻される。

 

「いや、それとこれとは状況が違うし。あの時はお互いの命が掛かっていたから……」

 

「バディの選択も生死に直結するわ。二回目のあなたがわからないことじゃないでしょう」

 

 ああ、完全に形勢不利だ。何を言ってもエルザの棘のある言葉に封殺されてしまう。

 口げんかでは正直勝ち筋が見えない。

 

「——ん? 二回目って何が二回目?」

 

 皿に残されたトマトをフォークで転がしていたら、ふと疑問が芽生えてきた。エルザは何をカウントして二回目と口にしたのだろうか。

 ちらりとエルザを盗み見れば、彼女は「そんなこともわからないの?」と残念なものを見る目でこちらを見ていた。

 

「アンジェリカと組むのがよ。忘れたの?」

 

 ——全然思いだせなかった。

 

 

03/

 

 

 あの後、無理矢理トマトを口に押し込んで涙を浮かべていたら、その苦みは浮気した罰よ、とエルザに言われてしまった。いつもは食べてくれるのに、今日は駄目だったのはそういうことか。

 地味だけれども、確実に効く意趣返しだ。

 

「ブリジット、次の任務は室内戦が想定される。長物のHK416ではなく、ヴェクターを用意した。最新式の、.45ACPを撃ち出せる優れ物だ」

 

 ベニヤ板で屋内環境を再現した訓練場。アルファルドから渡されたのはSF染みた不思議なサブマシンガンだった。一昔のSF映画でエイリアンを撃ち殺していたアレっぽい。

 

「光学機器の選定は君に任せるよ。一番使いやすいものを載せてくれ。今日は途中からアンジェリカが合流することになっているが、それまではその銃の慣らし運転だ」

 

 俺の中にこの銃の使い方はインストールされていない。だがアルファルドがガチャガチャと操作しているのを見て直ぐに使い方を理解する。安全装置を掛けたまま構えてみれば不思議と手に馴染む感触だった。

 

「クルツも候補にあったんだが、次のターゲットは重武装している可能性があってな、防弾ベストを9ミリでは貫通できないという意見が大半だった。.45ACP自体は初めてではないから使いこなせると思う」

 

 抜かれていた弾倉を装填し、薬室に弾を送り込む。安全装置を解除して、俺はいつでもいけることをアルファルドに眼で訴えた。彼は手にしていた訓練開始の合図を送るブザーを握りしめる。

 

「頑張れ、ブリジット」

 

 言葉は麻薬だ。

 今日一番の馬力で駆けだし、室内のターゲットを撃ち砕いていく。銃の取り回しも良く、扉の角や壁に銃口をぶつけることもない。頬から離れていく汗の一粒一粒を感じることができるほど、感覚は鋭敏。引き金を引き絞れば、寸分違わず弾丸たちが的に突き刺さる。

 最後のターゲットに辿り着く。

 人質をとった悪漢をモチーフにしたターゲット。

 銃口は滑らかに動いて、悪漢の眉間に固定。

 

「バン」

 

 最後の薬莢が足下に転がったのと同時、訓練終了のブザーが鳴り響いた。ふと空を見上げればこちらを見下ろすように監視塔が建てられており、そこからアルファルドがじっとこちらを観察していた。それだけならばいつもの光景だが、今日は彼の隣に小さな人影——アンジェリカもいた。

 彼女と目があったと思ったら、直ぐさま逸らされてしまう。

 まあまだまだ赤の他人同士なのだ。仕方のない反応だろう。

 

「ブリジット、もうワンセットいけそうか。もう一度アンジェリカに見せて欲しい」

 

 アルファルドではない、マルコーの声が監視塔に備え付けられたスピーカーから聞こえる。大方彼がアンジェリカをここに連れてきたのだろう。俺は襟元に噛ませていたピンマイクを手にとって了承の意を返した。

 

「スタート地点はそのままでもいい。次のエリア内にターゲットを配置した。君なら余裕だ」

 

 ブザーが鳴る。銃を構える。引き金を引く。

 

 視界を覆っていく発砲煙とマズルフラッシュの光が、何処か遠い世界の出来事に感じる。

 

 どうやら今日もエルザの機嫌を損ねた事以外、いつも通りの一日のようだった。

 

 

04/

 

 

「もう少し肩の力を抜きましょう。反動を押さえつけるのではなく受け流すイメージです。無理な力を加えれば銃口が暴れます。受け流す姿勢ならば意図しない反発があっても即座に対処できますから」

 

 昼下がり。俺はまだ訓練場にいた。

 腕の中ではアンジェリカがおっかなびっくりといったふうに銃を操作している。彼女が手にしているのはステアーTMPというマシンピストルだ。ヴェクターに比べると前時代的フォルムだが、同じ.45ACP弾を使用できるということでマルコーが選んできたらしい。

 アンジェリカを背後から抱きかかえるように、俺は銃を握るアンジェリカの手を掴む。

 

「じゃあ撃ってみましょう。ほら、あたりました」

 

 ブレが軽減された一撃はきちんと的を撃ち抜いていた。殆ど感覚だよりで銃器を扱っている俺でも、簡単な銃のレクチャーくらいはできる。まあ、ほぼ全てがアルファルドの受け売りだが。

 

「あ、ありがとう」

 

 感謝を述べるアンジェリカがもう一度銃を構えた。今度は介助しない。一歩だけ離れて黙って様子を見守る。

 

「っきゃっ」

 

 断続的な発砲音からして、フルオートで放ったのだろう。マズルフラッシュが視界を駆け上がっていった。そして意図しない銃の動きに振り回されたアンジェリカが足をもつれさせながらこちらに倒れ込んでくる。もちろんそれを抱き留めるだけの良心くらいは俺ももちあわせていた。

 

「ごめんなさい……」

 

 目に見えて落ち込むアンジェリカ。別に怪我をしたわけはないのだから謝る必要なんてないと思うのだが、余計な口を挟むことなく謝罪を受け取る。これはエルザの受け売り。

 

「大丈夫です。もう一度やってみましょう。実の所、フルオートは我流ですがちょっと違った力加減がいいと思っています。今から教えますから」

 

 再び背後から抱き留めてアンジェリカの手を押さえる。白い肌と肌が重なるが、そこにコントラストはない。同じ時期に造られた存在であることの証左のようにうり二つの肌が存在するだけだ。

 

「はい、引き金を引いて下さい。——そうそう、若干銃口を下げるイメージが一番良いと思います。跳ね上がる度合いを知っていれば実戦でも何とかなります」

 

 それから小一時間ほど。

 アルファルドたちから声を掛けられるまで一対一の指導は続いた。マルコーはもう少しだけ練習させてから戻ると、アンジェリカを連れ立っていく。俺だけがアルファルドにつれられて訓練場を後にするかたちだ。

 

「——マルコーが礼を言っていたよ。ブリジットは銃器の扱いなら公社の誰よりも扱いが上手いって」

 

「まさか、買いかぶりすぎですよ」

 

「800メートル先の小さな的を狙撃できる人間はここでは君だけだ。君以上の使い手はそうそういないよ」

 

 くしゃり、と頭を撫でられた。ふわりとタバコの香りもする。俺の知らない匂いだ。さてはこの男、また美人局まがいの潜入捜査をしていたな? どうりで昨晩姿が見えないと思っていたのだ。過去に一度だけ、護衛として付き合ったことがあるが小洒落たバルで飄々と女性を口説き落としていた。別に仕事だから頑張ってくれとしか思わないが、容姿が武器になったことのない前世の自分を思い出して無性に腹が立つのも事実。そういう汚れ仕事の時は普段吸わないタバコを無理して吸うところもキザで憎たらしい。ていうか泊まりか泊まってきたのか。よくもまあ、違う女を抱いて24時間も経っていないのに私の頭に触れますね死ね。

 

「おっと、馴れ馴れしすぎたかな。すまない」

 

 髪を振って手を振りほどいたからか、アルファルドは困ったように笑った。彼は「ここから先はフリーで構わない」と言い残して公社のオフィス棟に向かっていく。なんだか諦めが良すぎる態度もむかついてきた。

 

「——随分と人形がお冠だな」

 

 自身も私室に戻ろうか、と振り返ったら意外な人物に声を掛けられた。いつかの時よりも小綺麗にはなっているが、それでも不健康そうな雰囲気をぬぐい去ることができていないラウーロだ。

 エルザを連れていない光景も珍しくなくなってきたのか、今日も一人だ。

 

「なんのことですか?」

 

「エルザが荒れている。なだめてこい。お前のせいだ。今のお前ならば彼女の気持ちもわかるだろう」

 

 どういうことか、と表情に出してみたらラウーロは心底呆れた調子を滲ませながら言葉を返してきた。

 

「俺と一緒に監視塔で見ていたんだよ。さっきのアンジェリカとの訓練を。行動には移さなかったが、腸が煮え繰りかえっているのが丸わかりだ。火消しは火をつけた奴がするべきだろう」

 

 いまいち要領を得られないが、どの道部屋に戻るつもりだったので足をそちらの方へ向ける。私室までの道のりはとくに誰ともすれ違わない。

 

「——あら、エルザいたんですね」

 

 エルザと俺の部屋は別室だ。荷物だけ置いて、エルザの部屋に向かおうと考えていたら既に彼女は我が物顔で俺のベッドに腰掛けていた。

 朝と同じ、ぎろりと厳しい視線がこちらに向けられる。

 

「私、あなたほど浮気を許せる気がしないわ。何抱きしめているのよ」

 

 言って、枕が飛んできた。そこそこの速さのそれはぼふっ、と俺の腹にあたって床に落ちる。これ以上迂闊に近づいてしまったら、その枕の下に隠してあったはずの拳銃が飛んできそうだったので距離感を維持したまま言葉を繋いだ。

 

「浮気も何もただ倒れこみそうだったのを支えただけですよ」

 

「口調」

 

「え?」

 

「口調、また他人行儀になっているわ」

 

 藪蛇だったようだ。なだめてこい、と窘められたのに余計に怒らせてしまっている。どうしたらいいのかわからなくなった俺は拳銃が投げつけられる覚悟を決めてベッドへと近づいていった。

 そしてその選択は間違っていなかったようで、般若のような顔をしたエルザの隣にあっさりと座ることができた。

 エルザが徐に言葉を紡ぐ。

 

「——私の方が上手に銃が扱えるわ」

 

 子どものような駄々に塗れた言葉。けれどもそこに込められた情は余りにも深く。

 俺はただ首肯しか返せない。

 だが言葉を欲していたエルザは小さく肘打ちをこちらの脇腹にくれた。

 だからこその、

 

「うん」

 

 ほっとしたようにエルザが息を吐いた。彼女は幾分か柔らかくなった表情で言葉を繋ぐ。

 

「近接戦も私の方が強い」

 

「うん」

 

「私がいないときに怪我したらどうするのよ」

 

「大丈夫だよ。心配しないで」

 

 いつのまにかエルザの柔らかい髪がこちらの肩に触れていた。心地の良い体温と重みが接点を通じて俺に流れ込んでくる。

 

「五共和国派の潜りのアジトの摘発だからそうそう危険はないよ。いつかの時のようなヘマももうしない。だから私を信じて」

 

 返答はすぐにはなかった。それどころか、少し時間が経ってから発せられた言葉は返答ですらない。彼女の怯えを体現したかのような、か細い声で紡がれた疑問の声。

 

「——こんなめんどくさい私だけれども、またいつかバディを組んでくれるわよね」

 

 言葉で返すよりも、行動で返した方がいいと思った。伸ばした手はしっかりとエルザの肩を抱いていた。君は俺の親友だと強く強く伝えるために。

 

「——ありがとう。やっぱりあなたは変わらないわね。私が不安なときはいつも気がつけば助けてくれるんだわ」

 

 それからしばらくの間、俺たちは窓の外から差し込む日差しが時間の経過と共に動き続ける光景を見ていた。日差しが赤みを帯びてきたくらいに、アルファルドから手渡されていた携帯電話に着信が入る。見ればたった一言のメッセージ「夕食に行こう」

 誰が送ってきたのかなんて確認せずとも感じることができる。

 

「羨ましいわね。ブリジットは大人びているから少しめかし込んだら大人の女性に見えるんだもの。私はラウーロさんと外で食事なんて滅多にできないわ」

 

「クラエスに手伝って貰わないとメイクの一つもできないけどね。今から頼みに言ったら小言を言われるかな?」

 

「なら私に任せてくれる? 最近、ラウーロさんに褒められたの」

 

 特に断る理由もなく、俺は大人しくエルザにメイク道具一式を渡した。いつかアルファルドが気を遣ってプレゼントしてきたブランドものだ。詳しくは分からないが、フランス製の高級品らしい。

 

「本当、ついこの間まで包帯と絆創膏だらけだったとは思えない綺麗な肌ね」

 

 ささっと下地を整えられて、アイシャドウを刻まれ、エルザの美意識に則った陰影が描かれていく。引かれたルージュの色はいつもクラエスが選ぶ桜色ではなく、少し赤みの強い初めて使う色だった。

 

「驚いた。我ながら良いできだわ。今あなたに口説かれたらコロッといっちゃうかも」

 

 鏡を覗けば確かに肉体年齢よりも幾分か大人びた姿がそこにあった。これで立ち振る舞いさえ気をつければアルファルドに相応しい女性に見えるだろう。

 

「いってらっしゃい、ブリジット。私とそうしたようにアルファルドさんと仲直りしてきなさい」

 

 そんなことを告げられて背中を押されてしまえば「はい」としか答えようがない。なんだかあの男の都合の良いようにしか事態は動いていない気がするが、まあ仕方のないことだろう。

 いくら嫌っていても、彼は俺の担当官なのだから。

 あの男を信じてついていくしかないのだ。

 

 義体とはそういう風につくられているが故に。

 

 

05/

 

 

「そんなわけだからあの子、朝からあんなに機嫌がいいのか。いいねえ、妬けちゃうねえ。まさか指輪を贈られるなんて大人の世界のそれだよね」

 

 快活に笑うトリエラを諫めるようにクラエスは口を開く。

 

「今の話、ブリジットに絶対しては駄目よ。あの子、私たちに指輪を見られるのを嫌がってネックレスにして隠しているから」

 

 公社の義体たちが交流するサロンの一角で、円卓を囲んでいるのはトリエラとクラエス、そしてヘンリエッタの三人だ。ある意味でいつもの面子になりつつある中、ヘンリエッタは相変わらずおずおずと残りの二人に尋ねる。

 

「でもマリッジリングとは違うんだよね? アルファルドさんはなんでブリジットに指輪を贈ったんだろう?」

 

「——これはヒルシャーさんから聞いた話なんだけれど、ブリジットの誕生石が中に埋め込まれているんだって。ほら、あの子自分の誕生日を知らないから、義体として目覚めた日を誕生日にしているの。詳しい意図はわからないけれど、たぶんアルファルドさんはブリジットに誕生日を贈りたかったのではないかしら? そういうの彼女、無頓着そうでしょ?」

 

 ああ、と納得の声を漏らしたトリエラとヘンリエッタだが、「ん?」とトリエラが眉根を顰めた。

 

「その話、私は聞かされていないんだけれども」

 

「あらそうなの? 私はブリジットが指輪をネックレスに通しているのを見たから、何か知らないかたまたま通りかかったヒルシャーさんに聞いたのよ。ブリジット本人にオフレコという条件で教えて貰ったわ」

 

「……なんか釈然としない」

 

 紅茶を傾けながらトリエラは「うーん」と唸っている。

 クラエスは平然とクッキーを摘まみながら静かに微笑みを零した。

 

「こんな幸せな毎日がいつまでも続くといいのにね」

 



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第十四話「天使と悪魔(angela)」下

お待たせしました。


 死は天使の形をしてやってくると、ロマの老婆は言った。

 

 あれは数ヶ月前の出来事だったように思う。多分、ジャケットではなく半袖のシャツを着ていた記憶があるから夏のことだ。

 俺は乾いた草が詰まった袋を持ち運ぶ家業を終えて、歓楽街をふらふらと出歩いていた。

 雇い人のマフィアから手に入れた泡銭で、女衒の業者を探していたのだ。いろいろと溜まった世の中に対する鬱憤を遊んですっきりさせたかったから。

 通りで白い太ももをさらしている個人事業主を相手にしなかったのは、多分病気が怖かったから。そんな分別がつく癖に、仕事の分別はつけられないのだから人生とはわからないものだ。

 ふと路地の片隅で、薄汚れた麻色のフードを目深に被った老婆を見つけた。一昔前はジプシーと呼ばれていた移民の老婆だ。彼女は堅く俯いたまま身動き一つしないでそこに座っていた。

 ポケットの中にある紙幣の重みを勘定していたのはほんの気まぐれ。ここで少しばかり金を捨てていっても、十分に朝まで楽しめると知っていた。

 穢らしい行いで集めた金も、少しばかりの善行に費やせばちょっとはマシな存在になると思ったからかもしれない。気がつけば紙幣の一部を握りしめて老婆の前に投げつけていた。

 礼は待たなかったし、必要もなかった。頭の中は再び女衒の事で一杯になっていたからだ。

 だからこそ、背を向けたその瞬間に老婆に呼び止められるとはこれっぽっちも予想していなかった。むしろ声を出す元気があって良かったじゃないかと、的外れなことすら考えていた。

 

「——お恵みありがとうよ。見ての通り返せるものは何もないが、この年まで生きた老人の知恵を授けようじゃないか」

 

 振り返った先にあったのは、先ほどまでの老婆ではなかった。フードの向こう側から見える鳶色の瞳はぎらぎらと輝いていて、そんじょそこらの凡人の比ではない生気を感じさせるものだった。

 呪いの呪術師だと名乗られれば、信じてしまいそうになるほどの得体の知れなさがそこにある。

 

「あんた、死の臭いが漂い始めているよ。今はあんたについているだけだが、そのうちあんた自身がその臭いの元になる」

 

 はっきり言って、老婆の言葉の意味が理解できなかった。確かに堅気ではない人生だ。人よりかはくたばる手段は余りある。だが、臭いとはどういうことだ?

 

「やがて死臭を生み出す者はあの世からお迎えがくるんだ。死が来るんだよ。そして死はあんたたちが想像するような悪魔や死神の形をしていない」

 

 一拍の間。

 その間、老婆は俺の頭頂からつま先まで余すことなくじろじろと視線を向けてきていた。

 

「——死は、天使の形をしてやってくる。だからみんな気がつかない。救いだと思ってその手を握ってしまう。そしてそれがどうしようもない破滅だと知っても手遅れなのさ」

 

 老婆の言葉の記憶はそこまで。

 鳥肌のとまらなくなった俺はいつの間にか走り出していた。元いた歓楽街を走り抜け、手頃なバルに飛び込んでいく。店主は汗まみれの俺を訝しげに睨み付けながら、注文を催促してきた。冷たい、喉を潤すことのできる安酒を頼んだら、乱暴にグラスを押しつけられる。

 バルの窓から外を見ても老婆の姿はない。

 ただ顔を赤くした若者たちや、肌色の装いで男たちに声をかける女たちばかり。だが確かに目減りした紙幣の塊が、先ほどのやり取りが現実であったことを教えてくれる。

 

 ——金を払って不気味な忠告を頂くなんて馬鹿みたいだ。

 

 グラスを傾けながら、荒れた息を整えた。立ち飲みの集団の側でぼんやりと店内を見渡す。客はそれほど多くなく、それぞれの集団の会話がよく聞こえた。

 その中で、古びたカウンターで女を口説く男の姿が目に映る。

 金髪で彫りの深い顔立ちの男はさぞモテるのだろう。口説かれている女性はあれよあれよと態度を軟化させていき、男に垂れ掛かっている。

 先ほどの老婆とのあまりの落差に、俺は幾分か気が楽になっていることに気がついた。非日常から日常に帰ってこれた安心感がそうさせているのかもしれない。

 そして平時に戻った精神状態は俺に余裕をくれた。店内を広く見渡すことのできる視野をくれたのだ。

 

 最初は綺麗だな、という感想だった。

 

 店内の照明の隙間、少し暗がりになっている壁に寄りかかるように、女が立っていた。黒く長い髪を携え、人形のように白い肌、そして鳶色の瞳が美しい女だった。

 ロマの老婆と同じ瞳の色だが、こちらはなんというか宝飾品のようなそれである。生気を微塵も感じさせない、静かな瞳だ。老婆の不気味さを洗い流してくれるような気がして、俺はまじまじと女を観察してしまう。彼女はぼんやりと、だが確実にある場所へと意識を向けていた。

 意識の先を感じ取れたのは偶然だったかもしれない。

 店内の誰もが気がついていないようだったが、彼女の意識は女を口説いている男に向けられていた。視線はあさっての方向を見ているのに、女は間違いなく男を視ていたのだ。

 不思議な感覚だった。

 騒がしい店の中で、女と金髪の男、そして俺だけが取り残されたような感覚。

 

 それから暫く。

 

 俺はグラスをちびちびと楽しみながら、女と金髪の男を眺めていた。

 女は老婆と同じように身動ぎ一つせずに、虚空を見つめ続けている。それはまるで出来の良い彫刻のようで、何時までも眼に入れ続けることができた。

 不快感などまるでない。

 胡乱な観察劇が終わりを告げたのは、男が口説いていた女と店から出て行ったその時。

 取り残された鳶色の瞳を持つ女は、小さく息を吐き出すと男と同じように店を出て行った。だがその後に向かったのは男と真逆の方向。

 露骨に後を追いたくはなかったので三十秒ほど時間をおいてから俺も店から出た。

 

 男も女も姿は見えない。

 

 この時、俺はすっかり老婆の不気味さなんて忘れていた。ただもう一度、女に出会ってみたいと漠然と考えていた。それくらい、彼女は美しく、なんならあんな調子の天使ならば最高の人生の終わりだと感じたほどだ。

 

 でもその脳天気さは間違いだったと、数ヶ月後に知ることになる。

 文字通り、勉強代は自分の命で。

 

 老婆は間違っていなかったのだ。

 

 

01/

 

 

『こちらブリジット、アパートメントの正面を押さえました。見張りはトリエラが処理しました。いつでも内部を蹂躙できます。HQ どうぞ』

 

『こちらHQ 良くやった。リコが窓際の男を始末する。君の直ぐ上のガラスに風穴が空いたら突入のチャンスだ』

 

『了解しました。アンジェリカのバックアップは?』

 

『裏口の逃走経路を固めている。安心して任務を遂行して欲しい』

 

 

02/

 

 夕刻。

 

 作戦決行の日は問題なくやってきた。この日のためにアパートの間取りは頭に叩き込んだし、数え切れないほどの実弾訓練を行ってきた。複数の義体が投入されている作戦ではあるが、実の所そこまで大捕物でないことも聞かされている。

 なら何故ここまでの人員が投入されているのか。

 アルファルドから伝えられた理由を鵜呑みにすれば、何分歓楽街のど真ん中のことで、万が一の撃ち漏らしも許されないらしい。俺とトリエラという室内戦闘に長けた義体が二人突入し、狙撃手であるリコが高台から睨みを利かせている。もしも逃げ出したターゲットがいたとしても、二つの逃走経路にヘンリエッタとアンジェリカが待機しているという大盤振る舞いだ。

 もしかしたら複数の義体が連携を取ったときのメリットとデメリットを洗い出すための実証実験も兼ねているのかもしれない。

 

「——ブリジット、窓が割れた」

 

 適度な緊張感を持ちつつ、だが手持ち無沙汰で時間の経過を待っていた頃。

 トリエラの声を受けてふと頭上を見上げれば、小さな穴の空いた窓に赤い花が咲いていた。これがアルファルドの教えてくれた合図なのだろう。

 

「行きましょう、互いをカバーし合えば大やけどはしないと思います」

 

 トリエラがウィンチェスターを構えて、木製ドアの蝶番を吹き飛ばした。続いて思い切り向こう側へ蹴飛ばしてやれば、いとも簡単にドアがその機能を喪失する。

 伽藍洞になった入り口から中へ飛び込めば上階へと続く階段があった。俺が前に出てヴェクターを握り込めば、こちらの顔の横からウィンチェスターを差し出してトリエラが後続に続いた。無線を兼ねたイヤーマフを装備しているので、この状態で散弾をぶちかまされても鼓膜が破れることはないだろう。——軽い火傷くらいなら我慢できる。

 

「上階、人影二つ。始末します」

 

「了解、エントランスホール及びその他の死角、敵影なし」

 

 ヴェクターから断続的な発砲音が轟いたとき、悲鳴を上げる間もなく男の一人が血まみれで階段を転げ落ちてきた。そんな仲間の仇を取ろうとしたもう一人も、続く弾丸で腹に風穴を空けてその場に崩れ落ちていく。

 

「二名、死亡確認。あと四人です」

 

「向こうは籠城を選択したみたいだね。このまま突っ込む?」

 

 倒れ伏した男たちを踏みつけ、つま先で顔をこちらに向ける。開ききった瞳孔と目が合えば、彼らが既に死者であることを知ることができた。しかしながら用心深いトリエラはサイドアームとして用意していた拳銃で男たちに二発ずつ弾丸を撃ち込んでいった。

 

「私がこのまま先鋒を務めます。ウィンチェスターで面制圧を行って下さい」

 

 さらに一つ階段を上り、気配の固まったフロアを目指す。固く閉ざされたドアの前に辿り着けば、明らかに怯えを見せた複数の人々の話し声が聞こえた。

 

「ディアボロが! ディアボロ(悪魔たち)が来たんだよ!」

 

 トリエラがウィンチェスターをぶっ放す。やっぱり顔の横で撃たれると熱いし痛い。けれども効果は覿面だったようで、散弾を受けた中の男たちの苦悶の声がこちらの耳に届いた。

 

「先に入ります。三、二、一、」

 

 再びドアを蹴破り室内に突入すれば、想像通りの光景が目に飛び込んできた。一名はすでに絶命しており、二名がそれぞれ胸からこぼれ落ちる出血量に絶望していた。そんな彼らにはヴェクターの洗礼が待ち受けており、死の心配をする必要はすぐになくなる。

 が、

 

「——しまった。一名逃げられた」

 

 見ればリコが見張っている窓から死角になっているところに格子戸が一つあった。事前に確認した間取りには記されていなかったので、後から増設されたものだろう。格子は内側から開くように細工されており、一本のロープが眼下に垂れ下がっている。恐らくこれは非常用の脱出経路として用意されたものだ。

 

「トリエラ、私が後を追います。事後処理、頼みます」

 

 残弾の少ないヴェクターを床に下ろし、サイドアームのSIGに持ち変える。そしてそれを右手で保持したまま、左手一本でロープ伝いに路地裏へと降下。僅かに残された血痕を目ざとく見つけ、追跡を開始する。

 一応、この先にはアンジェリカが待機する手筈になってはいるが最悪の事態もありうると、追撃の手は緩めない。

 完全な猟犬の気持ちだが、任務を遂行しきったときの担当官の賛辞を考えれば足取りは至極軽やかだった。赤みがかっていた西の空はいつの間にかダークブルーの光に染められつつある。

 

「はあっ、はあっ」

 

 自分のものではない獲物の声が聞こえる。息も絶え絶えに足を引きずるそれには直ぐに追いついた。男はこちらに振り返ると、恐怖で強ばらせた表情で何かを叫ぼうとした。

 しかしながらここは通り一つ越えれば日常の広がる街中だ。彼には申し訳ないが、遺言を残す間はつくるわけにはいかない。

 義体に与えられた瞬発力で飛びかかり、堅い石畳に押し倒す。白い人形のような手に隠された人工筋肉と炭素骨格が唸りをあげて男の首を締め上げていった。途中、男の手がこちらの腕や首を引引っ搔き回してくるが、それらは何の障害にもなりえず、血泡を一つ吐き出したと思ったら糸の切れた人形のようにぴくりとも動かなくなった。

 

 久方ぶりの、素手で人を殺した感触が残っている。

 

「おえっ」

 

 喉元まで込み上げてきた酸味のある何かは気合いで飲み込んだ。

 もう慣れたと油断していたら、たまにこうした拒否反応が俺から沸き上がってくる。いくら忌避感を抱かないように洗脳されているとはいえ、俺そのものはまだ消えていないからだ。

 口元を拭うついでに、周囲を見渡してみれば随分と遠くまで来てしまったことを理解した。アンジェリカの待機する地点までそう離れていない。物言わぬ男の死体を覗き込みながら支給された携帯電話を操作したら、ワンコールでアルファルドが応答を返してくれた。

 

『ブリジットか。作戦を完遂したのか』

 

「はい、最後の一人をたった今殺しました。ただ人通りのある地区が近すぎるので、死体を放置することはままなりません。処理班をお願いします」

 

『了解した。直ぐに後始末の人員を向かわせる。君はそのまま周辺警戒しつつなるたけ死体を目立たないところに隠してくれ』

 

 電話が切れる。仕事の早いあの男のことだ。あっという間に段取りを進めてくれるだろう。

 一息をついて空を仰ぎ見れば、紫色の空が建物のフレーム越しに見えた。もう幾ばくもない時間を刻めば夜が訪れる。

 

 じゃりっ

 

 弛緩していた全身が硬直した。足下を見下せば相も変わらず死体が一つ。

 

 じゃりっ、じゃりっ

 

 死体の襟元を掴んで引き摺り始める。人間一人の重みが両腕に掛かる。

 ——人ってこんなにも重たかったのだろうか。こんなにも動かし辛いものだったのだろうか。

 

 じゃりっ

 

 時間切れだった。少しでも死体を隠そうとした努力は徒労に終わる。日は完全に暮れていない。視力はまだ確保できる。できるからこそ、こちらを見定めた通行人が唖然と立っている様子がはっきりと見えた。

 言葉は意図せず漏れた。

 

「——駄目じゃないですか。こんなところに来てしまっては」

 

 

03/

 

 

 今日の仕事もつつがなく終えることが出来た。いつも以上に紙幣の重みをポケットに感じることができる。

 大っぴらに吹聴して回ることの出来ない家業だが、労働は労働だ。達成感そのものに貴賤は存在しない。

 

「あのバルで楽しむか」

 

 足は自然と動いた。いつのことだったか、鳶色の瞳を持つ女を見かけた場所。それがいの一番に思い出せていた。あれからあの女には出会えていない。それこそ老婆を忘れるために俺が作り出した幻覚だと言われれば信じてしまいそうになるほど、彼女は浮き世離れした存在だった。

 

「天使、か」

 

 もちろん実物など眼にしたことはないし、眼にすることなんてまずありえないのだろうけれども、もしそんな不確かな存在があるのだとすれば彼女を指す言葉なのだろうと思う。彼女がお迎えに来てくれるのだとしたら、それはそれで役得だ。

 だが自分の想像が正しいのだとしたら、彼女は既に迎えにいく人間を決めているのだろう。光と光の隙間に立ち尽くしていた彼女は、ただ一人の男をじっと視ていた。多分ここにいるチンケな男が入り込む余地など何処にもない。

 

 表通りを少し歩いたころ、近道の存在を思い出した。人の目を避け続けた自分だからこそ知りうるバルへの近道だ。街灯と街灯の隙間に視線を向けてみれば見つけることの出来る、誰からも忘れられてしまった路地。

 薄暗いのは当たり前で、人気もなし。だがとりとめのない思索を巡らせるには最高の場所だ。

 不思議とここは、彼女が立っていたバルの壁によく似ている。

 

 もしかしたら会えるかもしれない。

 

 何を馬鹿なことを自身を嘲笑いつつも、足だけは確実に前へと進んでいた。

 薄く残された砂利を踏みしめる音だけが石の壁に反響していく。

 

 ふと、気配を感じた。

 気配は何かを引き摺っているようだった。まだ夜目に慣れていないのかぼんやりとした影しか見定めることは出来ない。野良犬でもいるのか、ともう少し目を凝らす。

 幸いなことに月明かりが薄らと天から路地へと差し込んできた。雲間から青白い満月が顔を覗かせている。

 ようやくそこにいたのが何者なのか理解することができた。

 理解して言葉を失う。

 

 女の声だった。天使のようでいて、それで底知れぬ不気味さを秘めた——

 

「——駄目じゃないですか。こんなところに来てしまっては」

 

 

04/

 

 

 最初の一歩目をブリジットは遅らせてしまった。足下の死体に蹴躓いて、両の手はいつの間にか石畳の地面に触れている。ばっ、と顔を上げれば呆気にとられていた男は反射的に逃げ出していた。

 ただ、表通りとは違った方向に向かったのだけは不幸中の幸いだ。

 まだ間に合うと、猟犬のように駆けだし男の後を追う。

 だが土地勘の成せる技なのか、男の速度に中々追いつくことが出来ない。男がゴミ箱を引き倒し、ブリジットの前に蹴り出してくる。彼女がそれを飛び越えている間にいつの間にか路地の角を曲がっている。

 ブリジットの苛立ちも男に味方していた。少しばかり阻害されたブリジットの思考力が、男の綱渡りのような逃走劇を手助けしていたのだ。

 そして極めつけは、

 

「わぷっ!」

 

 男がポケットから何かを取り出したかと思うと、それを思い切りブリジットに向かって投げつけてきた。反射的にたたき落とせば手応えを一切感じられず、それどころか視界一面にそれらは散らばっていく。

 そう、ブリジットの顔に張り付いたのは無数のユーロ紙幣だった。

 

「鬱陶しい!!」

 

 紙幣を引き剥がし、牙を剥いて男を追う。けれどもその僅かな隙が致命傷となり——、

 

「うそ、見失った?」

 

 いくつかの角を曲がった先にあったのは人気のない裏路地だった。

 逃げた男の気配は最早なく、ただ静寂があるのみ。

 義体特有の研ぎ澄まされた聴覚も表通りの雑音を拾ってしまい役に立たない。まさかの失態にブリジットは冷や汗を零す。それでも報告だけはせねばと、懐にしまい込んでいた無線機を取り出した。

 

「ごめんなさい。民間人に目撃されました。口封じに動きましたが、逃げられたようです。引き続き捜索を——」

 

 早口で捲し立てるように報告しているのは、事の重大さを理解しているからか。

 しかしながらそんなブリジットへ返ってきたのは罵倒でも叱責でもなく、アルファルドの落ち着いた声色だった。

 

『心配はいらない。ブリジット、たった今アンジェリカが終わらせたよ』

 

 

05/

 

 

 あれは、天使などではなかった。

 

 何かの因果か、路地裏で死体を引き摺っていたのはバルで見かけたあの女だった。

 見間違うはずなどない、あの美しい鳶色の瞳を見分けられない筈がない。

 咄嗟に逃げ出したのは多分正解だった。

 後ろから追ってくる彼女は殺意を隠そうともしていなかったし、事実捕まったら最後。あの石畳の上で骸を晒していた誰かと同じ結末を辿っていただろう。

 もしかしたら、あの夜に女を口説いていた優男も彼女に殺されたのかもしれない。

 

「何が死は天使の形をしてやってくる、だ」

 

 老婆は嘘をついた。

 

 死を馳走にやってくるのは、天使ではなく悪魔だった。あの日あれだけ美しく見えた女が、今となっては不気味な怪物にしか思えない。

 燃える金の瞳を持ったティアボロだ。ただ人を殺すだけの、残忍な殺人鬼だ。

 けれども運だけはあった。神様の気まぐれなのか、いつの間にか女を撒くことに成功していた。死に物狂いで路地を駆け抜けていたら女はこちらを見失ったようだ。

 腰が抜ける。

 ようやく助かったという実感が湧いてきて、立っていることが出来なくなった。今日の稼ぎを全て捨ててきてしまったが、得られたものを考えれば安いものだ。

 

 じゃりっ

 

 全身が硬直する。弛緩しかけていた筋肉全てが緊張し、あり得ない量の汗が体中から噴き出ていた。そうだ、そもそもこんな裏路地を逃げ回るのではなくて、最初から表通りに向かっていれば良かったのだ。

 己の迂闊さをこれほど呪ったことはない。油断をするにはまだまだ早かったと言うことか。

 

「——あの、大丈夫ですか」

 

 愛らしい、声だった。路地上の小石を踏みしめていたのは小さくて白い足だ。決して黒い訳の分からないスーツに身を固めた殺人鬼のそれではない。

 恐る恐る視線を向ければ、おっかなびっくりといった風にこちらを見下ろしている少女がそこにいた。強ばっていた身が少しだけ緩む。

 

「私、道に迷ってしまって、お父さんとはぐれちゃったんです。ここ、暗くて誰もいなくてとても怖くて——、おじさんは人のたくさんいるところへの行き方、わかりますか?」

 

 いつの間にか冷や汗は引いていた。

 なんだ、驚かしやがってと悪態が漏れそうになるのを寸前で堪える。神様がここまで生かしてくれているのに、これ以上悪行を重ねるわけにはいかない。

 

「道は分かるよ。ここは危ない。早く行こう」

 

 子どもの前で何時までも腰を抜かしている訳にはいかず、やっとの思いで立ち上がってみせる。

 おどおどと立ち尽くしている少女の手を引いて、表通りへの道を進み始めた。

 

「ありがとうございます。私、いつも失敗ばかりで今回も上手くいかないのかと不安でした」

 

 背後から少女の声が投げかけられる。彼女の言葉一つ一つが、俺を不気味な非日常から日常に引き戻してくれる道しるべのように思えた。

 

「君はまだ子どもだろ。ならお父さんにごめんなさいをして終わりだ。何なら警官のいるところまで連れて行ってやるよ。そしたらもっと楽にお父さんを探せるだろ」

 

「——おじさんて親切なんですね。でも、どうしてあんなところに?」

 

「ちょっとした野暮用さ。お酒を飲み過ぎて悪い夢を見ていたんだ」

 

「そうですか」

 

 表通りから残り一本の所までやってこれた。情けない話だがここまで来ても後ろを振り返る勇気はない。少しでも油断すればあの鳶色の目がこちらを見ているような気がしたから。

 眼前にそびえ立つ建物の向こう側に、オレンジ色の街灯の光がぼんやりと見える。雑踏の音ももう直ぐそこ。

 

「そういえばお嬢ちゃん、名前は? 警官には自分で名乗れるかい?」

 

 随分と楽になった気分のお陰か、口も良く回った。適当な理由をつけて名前を聞いたのも昂揚感が成せる業だ。

 

「アンジェリカ」

 

「え?」

 

「私、アンジェリカって言うの。おじさん」

 

 振り返る。いつのまにか少女は携帯電話を持っていた。カメラが起動しているのか、赤いLEDがレンズの横で光っている。仄暗い目のようなレンズは俺を見ていた。

 

「——今、確認が取れたって。良かった。私、ブリジットの役に立てるみたい」

 

 携帯電話が少女の手から離れる。彼女はいつのまにかスカートの裾をまくってふとともに備え付けられた黒い何かを握りしめていた。白い肌と対極的なそれは小悪党である俺でもしっている人を殺めるための道具。

 

「ごめんなさい。目撃者は消さないといけなくて」

 

 たぶん、あのサブレッサーが発砲音をかき消してしまうのだろう。アンジェリカは、天使は引き金を迷うことなく引いて見せた。

 即死は出来ない。

 胸に突き刺さった弾丸はゆっくりとこちらの命を蝕んでいく。

 

 薄れゆく意識の中、俺は何とか少女を見上げた。

 彼女は天使のように真っ白な肌を月明かりに照らされて、静かにこちらを見つめている。

 

 老婆は嘘をついていなかった。

 

 ——死は天使の形をしてやってきたのだ。

 

 

06/

 

 

「——後始末、有り難うございました」

 

 清掃会社のバンに偽装された、公社の特殊車両の中、俺とアンジェリカは肩を並べて座っていた。

 向かいにはトリエラが腰掛けており、黙々とウィンチェスターの整備を行っている。彼女はこちらの会話に参加する気がないのか、視線すら向けてこない。

 

「ううん、大丈夫。久しぶりだから上手に出来るかわからなかったけれど、失敗しなくて良かった」

 

 今、俺たちの足下にはアンジェリカの戦果が転がっている。防水性の2メートルには少し足りないくらいの寝袋のような袋だ。車の振動に合わせて揺れているそれは、もう自らの意思では動き出したりはしない。

 

「実はね、エルザに教えて貰ってたの。ブリジットはターゲットを取り逃がすことはないだろうけれど、任務中の姿を誰かに見つかるかもしれないって。だから先回りしてたんだ」

 

「だとしたら本当に助かりました。逃げられていたら割と洒落にならないことになっていたでしょうし」

 

 口から出てきたのは紛れもない本音だ。これだけ焦った任務はエルザと二人で死にそうになったとき以来か。

 

「——これで私もいろんな任務に復帰できたらいいな」

 

 アンジェリカの漏らした言葉に、敢えて応えない。

 彼女も返答など期待していなかったのか、直にバンの天井を見つめたまま動かなくなった。

 俺はそんなアンジェリカの目を盗んで、もう一度足下の袋を見た。

 

 これで二度目だった。

 

 でも一度目は靄が掛かったかのように思い出せない。だか、無関係な人間を殺めてしまったのは二度目だという確信が何故かあった。

 穴だらけのチーズのような記憶だが、それだけははっきりと覚えている。

 

「ごめんなさい」

 

 幸い、声は誰の耳にも届かなかった。

 潤んだ目元から、涙も零れなかった。

 ただ、膝を抱えて静かに座り込む。

 悪夢の目覚めはまだまだ遠いところ。

 

 今はひたすらに、アルフォドに会いたかった。

 何処か遠くにいる彼に会いたかった。

 

 任務は失敗だった。

  



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第十五話「一マイル向こうの少女(Hildegard)」

随分とお待たせしました。
私が生きている限りそれぞれの小説は少しずつ更新していきますので、よろしくお願いします。


 人差し指の動き一つで命というものが掻き消えていく。

 

 虫以外に生き物なんて殺したことがない人生だったのに、虫以下の手間で人がたくさん死んでいく。

 三回目の弾倉交換を行った時点で、周囲に生きている存在は自分だけになった。

 世界に存在する動きは、地面に広がっていく血の動きのみ。

 

「——アルファルドさん、今終わりました。今度は全員殺しました」

 

 耳からぶら下がったイヤホンとマイクに声を掛ける。応答は数秒の後になされた。

 

『お疲れさん。怪我はないか?』

 

 自身の四肢を目線で追ってみる。痛みもなければ異常も無い。至って綺麗な——不気味なほど滑らかで白いそれらが視界にうつった。

 それはまさに、自身の肉体が人工的に作られたものである証。

 自分が人でないことを突きつけてくる冷たい現実。

 でもそれらをぐっと飲み込んで、

 

「いいえ、問題ありません」

 

 声は誰もいない民家に大きく響いた。

 

 

01

 

 

「で、まだ生き残りがいることに気がつかず、ナイフでの特攻を受けて、いなしきれなくて、右目がこうなっちゃったわけだ。ブリジットさんは」

 

 三日後。社会福祉公社の敷地内に割り当てられた自室で、トリエラは俺の包帯を手早く交換してくれていた。

 もう血に染まってはいないが、衛生的な観点から一日に数回、交換しなければならないらしい。

 

「でも珍しいね。ブリジットがそんなポカをやらかすなんて。まあ、眼の周りに裂傷をつくるだけで乗り切ったあたりがあなたらしいけれど。さすがだわ」

 

 化粧用の鏡を覗き込んでみれば、右目の少し下に大きな縫い跡が刻まれてしまっている。抹殺を命じられた活動家の一人につけられた傷だ。ぼんやり突っ立っていたらいらぬお釣りを返されてしまった。

 

「ねえ、これ跡になるのかしら。ファンデーションで消せるのかしら」

 

 こちらを覗き込みながらにエルザが口を開く。最初、右目から大量出血した状態で担ぎ込まれてきた俺を見て、彼女がいたく取り乱したのはナイショの話だ。まあ、そのあと滅茶苦茶怒られたんだけれど。

 

「——大丈夫ですよ。人工皮膚の手配が済み次第簡単な整形手術でもとに戻して貰えるそうです。それまでの辛抱ですね」

 

「そう、なら少しはマシね」

 

 まだ完全に怒りが払拭されていないのか、眉を顰めながらエルザは言葉を返してきた。こればっかりは俺が完全に悪いのでただ嵐が過ぎ去っていくのを待つばかりである。

 俺たちが雑談に興じている間、包帯交換をかって出てくれたトリエラが医療室から手渡された説明書をもとに処置をどんどん進めていく。

 

「えっと、包帯は今朝までで、今からは滅菌済みのパッチか。こいつを貼り付けて、あとはこうして、よしこれでいいでしょう」

 

 ビアンキから渡されていた医療用シールをべたり、と閉じた右目の上に貼り付けられる。無遠慮に力強く貼り付けられたものだから、とんでもない痛みが患部を駆け巡っていくが、ぎりぎり声にはでなかった。そしてトリエラはそのままいつの間に用意していたのか、黒い眼帯をするすると巻き付けていく。

 

「おー、キャプテン、て感じだね。似合ってるよ」

 

 片目を黒い眼帯で覆い隠された自分がそこにいた。医療用の白い眼帯でも良かったのだが、痛々しいから嫌だとにべもない理由でトリエラに断られてしまっている。なんだか中二病まっさかりの少年みたいで普通に嬉しくない。

 けれども俺以外の二人には好評のようで、記念写真まで提案されたが、それはさすがに断らせてもらった。写真に残るのはやめてほしい。

 

「じゃ、あとはアルファルドさんに見せておいでよ。あの人も心配性だからさ、元気な格好を見せると安心してくれるよ」

 

 ヒルシャーとはそうはいかないくせに、この子は直ぐに気を回して俺とアルファルドを絡ませようとする。本当、自分は絶対にそんなこと出来ないくせに。

 

 

02

 

 

「整形手術だが来週の末にできるそうだ。できるだけ急がせているから、もう暫く我慢してくれ」

 

 アルファルドが愛車として乗り回している白いBMWの柔らかいシートに体を沈めて窓の外の景色を見る。

 日が暮れ始める中、オレンジの街灯の下で夜を楽しもうと心躍らせている人々が否応なしにも目に入ってきた。

 片眼しか使えない今、ぐちゃぐちゃになっている遠近感からくる不快感も相まって視線を車のダッシュボードに戻す。

 

「痛み止めは飲んでいるか? 抗生物質も処方されている分は全て飲みきってくれ。あと、最近食堂でもあまり食事を取っていないらしいじゃないか。やはり怪我の治りのことを考えたら君はもっと——」

 

「うるさい」

 

 です、ととってつけたようにギリギリ丁寧な言葉遣い。条件付けは無反応。これくらいならば担当官様に対する口答えも見逃してくれるようだ。

 

「悪かった。無神経だったな。これから半年前から予約していたディナーなんだ。仕事の話をするべきではなかった」

 

 平謝りを繰り返す愛しの担当官に対してどうしようもない苛立ちが募ってくる。八つ当たりであることは百も承知ではあるので、再び視線を外に固定することでやり過ごす。

 

「まだ父が生きていて、母も妹もイタリアに住んでいたとき、節目の時にはよく訪れていた場所なんだ。ここ数年は急に人気がでてきて随分早くから予約を取らなければならなくなったのは煩わしいが、その味は保証するよ」

 

 そういえばこの男の家族について俺は殆ど何も知らなかった。配偶者や子供がいないこと、恋人らしきものもいないことくらいしかわかっていない。当たり前ではあるが、この男にも父や母、そして兄妹がいるわけだ。一度天に召されて、こんなわけのわからない人生を生かされている俺とは大違いである。

 

「——お父さんはいつ亡くなられたのですか?」

 

 心の何処かでやめておけ、と誰かが言った。そんなことを聞いても何も幸せにはなれないぞ、と。変に情が湧いてやりにくくなるだけだ、と。けれどもお馬鹿なつくりものの口は勝手に動いており、取り返しがつかないくらいはっきりとした声色が車中に響いていた。

 

「もう十年も前のことだ。座学で習ったから知ってはいるだろうが、この国はそれくらいの時期が一番荒れていてね、政治家だった父は敵対政党に嵌められて失脚。アルコールと睡眠薬に頼ってこの世から逃げ出したんだ。それに絶望した母はまだ成人していなかった妹を連れて実家に——ミュンヘンに帰っていったよ」

 

 ほら言わんこっちゃない。まともに返答なんて出来るはずもないのだから最初から黙っていればよかったのだ。今の話を聞いて俺はどうするつもりだったんだ。

 

「妹はもう随分長いことあってはいないがどこか君と似ていた気がする。特にその鳶色の意志の強い瞳が」

 

 今は片眼が潰れているけれどもね。とは流石に返せない。言葉こそ何も返せなかったが、相づちと視線を運転席に向けることで何とか成り立っている微妙なコミュニケーション。

 打ち解けたり、ギクシャクしたり、変な間柄だとは正直思う。

 

「なあ、ブリジット」

 

 ふと信号待ちの時。ハンドルを握りしめたままアルファルドが口を開いた。残された片眼をそちらに向けてみれば彼の瞳と視線が重なる。思わず生唾を飲み込んだのは断じてこの男の優男ぶりに驚いたからではない。

 

「俺は君を今回のことでは叱らないよ。確かに油断はあったんだろう。現場の君に至らないこともあったのだろう。だが俺はそのことを責めるつもりはない」

 

 心臓が鷲づかみにされた感触がした。生唾とは違った冷たい呼気を「ひゅっ」と吸い込んでいた。

 まだ信号は青にならない。

 BMWの広いフロントガラスの向こう側を通行人たちがすれ違っていく。

 

「いつか君が大怪我をしたとき、君は俺に罪を背負うな、といった。自分の職責を果たせ、と叱咤してくれた。俺の傲慢さを見抜いてくれた」

 

 通行人の波が収まる。もうすぐ信号が変わる。日がいよいよ沈みだし、空は真紅と朱、そして藍色に染まりだしている。薄暗い車内では二人の顔が紅く照らされている。

 

「だから君のその傷を背負わない。叱責もしない。君は作戦部長に既に口頭注意されているから、俺から職責として何かを告げる事もない。なら俺は君にこういうよ。『今日は嫌なことを忘れて楽しもう。作戦成功を細やかながら祝おう』と」

 

 ぐうっ、と本当に口端から漏れていたかも知れない。過去の自分がいらんことを格好つけていった所為で今追い詰められている。車がようやく動き出した。遅い、遅すぎる。涼しい顔をして運転を始めたアルファルドに肘打ちを叩き込もうとしても、条件付けと、あと別の何かが邪魔してそれすらできない。

 

「君が無事でよかった。俺は心底そう思うよ」

 

 

03/

 

 

 連れてこられたレストランはカフェテリアも併設された、思ったよりカジュアルな場所だった。確かにいつかの時のようにアルファルドから前もってドレスコードはそこまで指示されていなかった気がする。随分前から気合いを入れて予約を入れていたと聞いていたからもっとお高くとまったところかと考えていたが、そうでもなかったみたいだ。

 

「——ご予約の確認が取れました。こちらにどうぞ」

 

 ウェイターに案内され、窓側の席に案内される。窓の向こう側はちょっとした庭園になっており、石造りの立派な噴水がライトアップで照らされていた。中庭にはオープンテラスなのか幾つかのテーブルが並べられており、思い思いに人々が食事を楽しんでいる。

 久方ぶりに肩の力が抜けていくのと同時、どうやら口の方も緩くなっていたようだ。

 

「いいところですね」

 

 嬉しそうに頷く優男を見て失敗した、と思った。まだ素直に喜ばせるつもりなんてなかったのに、もう少しばかり重たい雰囲気を続けていたかったのに、そんな下らない子供じみた考えと空気は一切合切霧散して消えてしまう。

 手慣れた様子で注文を終えたアルファルドは運ばれてきたミネラルウォーターをグラスに注いでこちらに寄越した。

 

「何はともあれお疲れ様だ、ブリジット。ここ暫くの頑張り、素晴らしいよ」

 

 ちびっ、とよく冷えたミネラルウォーターを口に含む。アルファルドは喉が渇いていたのか少し大きめのグラスの中身をあっという間に飲み干していていた。これ、日本と違ってそれなりの値段が掛かっているお冷やだろうに。

 

「——おい、もしかしてお前はアルか? まさかこんなところで出会えるなんて」

 

 ふと声がしたそのとき、咄嗟にスカートの中の太ももに縛り付けてある銃に手を伸ばしかけた。だがアルファルドのキャラメル色の革靴がそっと俺のローファーのつま先を踏みしめてきたのですんでのところで思いとどまる。

 今まさに条件付けに敗北しかけた事実に冷や汗を流しつつも、俺は恐る恐る声がした方へと視線を向けた。

 

 レストランの雰囲気に合わない、粗野な男だと思った。

 

 いや、ドレスコードもへったくれのない、もともとは大衆向けだった食事場が観光客やらなんやらで潤って体裁を整えただけのカジュアルレストランであることは承知している。だが品の良いジャケットとパンツ、高級そうな腕時計を身に纏ったアルファルドとは対称的に、その男はよれたTシャツと擦り切れ始めている短パン、それにビーチサンダルという出で立ちで無精髭塗れの面は間違いなくこの場では浮いている存在だった。

 

「こちらこそ驚きだよ。ユーリ。軍警察を除隊してから何をしていたんだ? 見たところ鍛えてはいるようだが」

 

 俺が未だに警戒心を解くことのできない理由。それはユーリと呼ばれた男の体格にあった。アルファルドも時には争いごとに関わる都合上、それなりに鍛えており引き締まった体躯をしている。だが眼前の男はそれをさらに突き詰めたような筋肉の鎧を身に纏っており、下手すれば堅気から踏み外している気配すら感じ取ることができた。

 もし今ここで襲いかかられたら、純粋な力勝負では押されてしまうかもしれない。

 

「ん? ああ、これはフリークライミングのトレーナーで喰っている都合こうなっただけだ。この前の休日はガルダ湖で汗を掻いてきたよ」

 

 ユーリと俺の目があった。彼はともすれば凶悪な人相を器用に変形させて、人懐っこい笑みで笑って見せた。

 思わず会釈しそうになったが、こんなところで俺のボロを出すわけにはいかないと、何とか踏みとどまりながら曖昧な笑みを返す。

 

「んでこの子は誰だ? ドイツ系のお坊ちゃまは昔からいろいろとよりどりみどりだっただろうが、さすがにこれくらいの年の娘はいただけないな。軍警察時代のツテを辿ってポリツィオットに連絡を入れなければならないかもしれない」

 

 アルファルドは気さくな笑顔を貼り付けて、予め用意されているカバーストーリーを流ちょうに口にした。

 

「親戚の子だよ。こっちに遊びに来たから食事に連れてきたんだ。名前はブリジット。はるばるドイツからやってきてくれたから本場のパスタでも、と思ってね」

 

 アルファルドの台詞に俺は特に反応を示さないようにする。そういう約束になっているから。ドイツから遊びに来た親戚の女の子は早口にスラング交じりのイタリア語なんてわかるはずもないのだ。

 

「そうか、そういえばお前の実家はそっちだったな。よろしく、俺はユーリだ。アル——アルファルドの昔の仕事仲間だ」

 

 アルファルドがわざわざそれをドイツ語で言い換えた。

 俺もまた、わざとたどたどしいイタリア語でユーリに話しかける。

 

「は、じめまし、て。 ブリジット、です。おじさんの家に遊びに、来ています。イタリア、楽しいです」

 

 差し出した手を握り込まれる。やはり筋肉は見かけだけではないようで、向こうの体の奥底に感じる圧力に気圧されかけた。

 フリークライミング業のお陰が、節くれ立った手のひらの感触がその感覚を後押ししている。

 

「いい娘だな。ところでお前、今は何をしているんだ? 俺より後に除隊したことは風の便りで聞いてはいたが……」

 

「しがないライターさ。父に放り込まれなければ軍警察なんかよりこっちで生活したかったからな。念願叶ってこの年でその夢がかなったわけさ」

 

 アルファルドの苦笑にユーリはそうか、と微笑む。どうやら本当に旧交を温めようと近づいてきただけだったようだ。

 

「おっと、お前達の注文が来たみたいだな。これ以上お邪魔にならないよう、もういかせて貰おう。じゃあな、古き友よ」

 

「ああ、元気でな。ユーリ」

 

 ユーリが去って行くのと同時、アルファルドが注文したパスタやピザが届いた。かなり偏食気味の俺に配慮してなのか、彼はほんの少しだけこちらの皿にそれらを取り分けて、残りは自分の目の前に置いてくれた。

 

「今の演技、完璧だった。日頃の練習の成果だな」

 

「よしてください。あれくらい、誰でもできますよ」

 

 届いた料理達を口に運びながら会話が進んでいく。その過程で旧交をかわし合っていたユーリの話に話題は自然と逸れていった。

 

「凄腕のスナイパーだった。人質を取った過激派の親指だけ吹き飛ばしたこともあった。あれ以来、奴は俺たちの中で伝説だよ」

 

 およそ食事の席には似つかわしくない話題なのだろうが、これがいつもの俺たちだ。

 周囲の客達もそれぞれの世界に没頭していることをちらりと確認して、会話が続く。

 

「でも除隊したんですね。二人とも」

 

「ああ、まあ色々あったのさ。あの時代は。あのころを繰り返したくないからこそ、俺はこの仕事を選んだ」

 

 除隊理由については思いっきりはぐらかされた。でもまあ、そこまで掘り下げようとこちらも考えてはいないので、ちまちまとカレイのバタームニエルを切り分けて少しずつ口に運んでいく。この国の歴史について不勉強な弊害と言えば弊害だが仕方がないだろう。

 

「おっと、ブリジット。口端にソースがついているよ」

 

 身を乗り出したアルファルドにテーブルナプキンで口元を拭われた。無性に恥ずかしさが込み上げてくるが、そこはぐっと我慢して平静を取り繕う。

 

「だがそんな姿まで美しいとは、やはり君は凄いな。何にでも様になる」

 

「自然に口説かないでください。課長に言いつけますよ」

 

 こちらの苦言をアルファルドは笑ってやり過ごしてくる。ついこの間、傷ついた俺に泣きついてきた姿が嘘みたいに余裕綽々だ。けれどもこの男はおそらくこういった仕草がよく似合うのだろう。悩み苦悩し、顰めっ面をしているのは正直嫌いだ。

 

「——また二人でこよう、ブリジット」

 

 食事を終え、すっかり日が落ちた帰り道。真っ暗な車内でナビゲーションに照らされた青白い顔でアルファルドはそう口にした。

 その言葉に俺は何とこたえたのだろう。 

 日頃の疲れもあったのか、重い瞼を何とか固定しながら俺は声を発していた。

 

「               」

 

 

04/

 

 

 夜の街の車通りは多い。特に大きな交差点の前では信号待ちの車列が延々と続いていた。

 そんな中、光沢のある黒いSUVベンツに二人の男が乗り合わせている。

 

「レストランで一人で食事とは、ずいぶんな余裕だな」

 

 活動家を自称する男の嫌みにユーリは無表情で言葉を返していた。

 

「——依頼された仕事はきちんとこなしてきた。それ以上何を望む」

 

 SUV型のベンツのハンドルを握っていた活動家は「ちっ」と露骨にその不機嫌さを吐き捨てて見せた。

 そして赤信号であることをいいことに、ユーリのほうへと食ってかかった。

 

「アカの血のお陰か知らんが、時は金なり、という諺をしらんようだな。お前が道草を食わずにあのアパートに踏み込んでいたら2時間の余裕を持って仕事を終わらすことができていたんだ」

 

「ほう、イタリア人が時間厳守を語るなんて随分とこの国は固くなったものだ。だったら教えてやるよ、2時間早ければ定時の連絡員と出くわして面倒なことになっていた。お前達は定時連絡の時間帯が変更されたこともしらないようだな」

 

 ユーリの言葉にぐっ、と男が言葉をつまらせる。

 だがすぐに気を取り直したのか、乱雑にドアのサイドポケットから一通の封筒を取り出してユーリに投げつけた。

 

「次の仕事だ。あの人はお前ならば必ず食いついてくると自信を見せていた」

 

 真っ暗な車内の中、ユーリが封筒の蝋を切る。

 中からはやや分厚い書類の束といくつかの写真が出てきた。

 夜目を懲らして写真を睨み付けていていたユーリの息が一瞬ではあるが静止する。

 

「お前に対する褒美だとよ。愚直に仕事をこなしてきたことを評価されたようだ」

 

 写真にはある政治家の男が映り込んでいた。ユーリはその男のことを知っていた。いや、正確にはある日から1日たりとも忘れたことがない。

 

「——ついにヒルダの仇に届いたのか」

 

「この男は少々ロビー活動をやり過ぎた。いい加減潮時だとさ」

 

 男の言葉は最早ユーリの耳には届いていなかった。彼はちぎれんばかりに書類と写真を握りしめ、血走った目でひたすらに写真の男を睨み付けている。

 

「まったく、復讐のためにヒットマンを志望とはクソッタレな世の中だ」

 

 男の小さな呟きは渋滞に痺れを切らした誰かのクラクションにかき消されていった。

 

 

05/

 

 

 私、この手が好きよ。ごつごつしていて傷だらけだけれど、その分誰かを護り続けてきた誇らしい手だわ。

 

 誰かが頭の中でそういった。

 何のことだ、と自問するよりも先にブリジットは目が覚めた。

 

 

06/

 

 

「あ、やっと起きた。なんか今日は随分うなされてたね。寝汗くらいシャワーで流してきたら?」

 

 既に着替えを終えて、身支度を整えているトリエラがこちらを覗き込んでいる。俺はそんなトリエラを尻目に自身の手のひらをじっと眺めた。

 

「ねえ、トリエラ。あなた私が寝ている間にこの手を触りましたか?」

 

「いいや? そんなエルザじゃあるまいし、寝込みを襲ったりはしませんよっと」

 

「あの子もそんな事はしませんけれど」

 

 不思議な感覚だった。未だ手にこびりついている誰かに握りしめられた感触。もし夢見の結果だとしたら嫌にリアルすぎる経験だった。

 

「あ、それとアルファルドさんが呼んでたよ。朝食を終えたら執務室まで来て欲しいって。多分何かしらのお仕事の話じゃないかな。ちょっと緊張しているみたいだったし」

 

 トリエラの伝言に生返事を返し、俺は寮のシャワールームに足を向けた。いつかの時のようにエルザと出くわすこともなく、正真正銘の貸し切り状態のシャワールーム。

 温かい流水の中に身を置きながら、俺はもう一度手のひらを見た。

 

 顔の表面を伝っていく温水の中に、自身の涙が紛れ込んでいることに気がついたのはそれから暫く経ってからの事だった。




後編は少しでも早く更新できるように頑張ります。


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第十六話「一マイル向こうの少女(Lover is a sniper)」 

遅筆なのは言い訳できません。ごめんなさい。それぞれちょっとずつ頑張っています。


 相も変わらず農作業に勤しんでいるのであろうクラエスのところに水筒を持っていった。別に日課という訳ではないが、ときたまこうして気を遣うことくらい俺にもある。ついでにクラエスが所望するのならばそのまま作業を手伝うこともあった。

 

「ああ、ブリジット。良いところに来たわね」

 

 クラエスは木陰で休んでいた。畑の近くにある大きな木の根元だ。彼女は小さなシートを広げて額の汗を拭いつつこちらを見上げた。

 

「いつもありがとう。でも今日はこれを見て欲しいの」

 

 言って、クラエスが何かを持ち上げてみせる。それは黒い生もの。いや、猫だった。本当に骨が入っているのかと疑わしくなるくらいには縦にだらりと伸びた、小さな黒猫。

 鳶色? の瞳とバッチリ目があう。

 猫は小さく「にゃあ」と声を上げた。

 

「——これは?」

 

「見ての通り猫よ」

 

「いや、それくらいはわかるよクラエス」

 

 多分むっとした非難染みた視線を送っていたのだろう。彼女は「ちょっとした茶目っ気よ」と苦笑を一つ漏らすと、猫を抱えたままことの経緯を説明してくれた。

 

「作業をしていたらいつのまにか近づいてきて、そのままじゃれついてきたの。首輪とかはないから多分野良だとは思うのだけれども、それにしては随分人懐っこいわ。全く、何処かの誰かさんみたい」

 

 本当、どこの誰のことをいっているのだろうね。この子は。

 ま、クラエスの小さな皮肉なんて所詮はジャブみたいなものだ。いわゆる正論を口にしたときこそ、この子は一番怖くなる。

 

「ま、放っておけばそのうち何処かに行くでしょうし、今だけちょっと遊んであげたら? 今日の作業は大体終わってるしね」

 

 はい、ととんでもない気軽さで猫を胸元に押しつけられた。恐る恐る抱きかかえてみればそれは己の腕の中で身を器用に捩って、収まりの良い姿勢を自然と見つけ出す。

 そして「くあっ」と何とも間延びのした声で暢気に鳴いて見せた。

 

「あはは、猫が猫を抱きかかえてる。アルファルドさんに見せてあげたいわね」

 

 死んでもゴメンである。というかこっちを猫とからかう言動、遂に隠さなくなってきているのか。

 俺は猫をそのままに、クラエスの隣へと腰掛けた。

 

「——本当に静か。こんな毎日がいつまでも続けば良いのに」

 

 風が木々を揺らし、葉のすれる音が頭上から降り注ぐ。午後の柔らかくて暖かい日差しが俺たちの膝から先を照らしていた。黒いタイツ越しに感じる熱が何とも心地よい。

 

「難しい仕事、言われたんでしょ」

 

 どれくらいそうしていただろうか。猫が3度目の欠伸を漏らしたときクラエスが徐に口を開いた。

 俺は猫の小さな額を見つめたまま「ええ」と短く言葉を返す。

 ただそこから先の言葉は自分でも驚くくらいすらすらと紡がれた。

 

「こんな暖かな風とは比べものにならないくらい、冷たくて激しい風が吹きすさぶビルの間からの狙撃です。与党の重鎮を狙った暗殺を阻止せよ、と言われました」

 

「トリエラが言っていたわ。このところ、ブリジットがいたく緊張しているって。でもあなたにとってはこの風も、ビル風も大した障害にならないでしょうに」

 

 強い視線を感じ、隣に顔を向けてみればクラエスの両の瞳と目が合った。俺の視線はそのまま大きな二つの瞳に固定される。

 

「——人を撃つだけなら簡単です。でも、それの結果如何によってターゲット以外の他の誰かが死ぬ可能性があるのは初めてです。私は誰かを守るために狙撃をしたことはありません」

 

 そう、とクラエスが目線を下に向ける。彼女は猫を見ているようで見ていなかった。

 

「それは責任重大ね。私たちの仕事はいつだって失敗は許されないけれど、今回は特にそう。でもあなたならきっと出来るわ。今までだって絶望的な戦いを幾度となく乗り越えてきたあなたなら」

 

 いつの間にか陽が雲に隠れていた。肌寒さを感じたのは俺だけではないようで、自身の肩をそっと抱くクラエスが口を開く。

 

「今日はもう戻りましょうか。——で、その猫はどうする?」

 

 いつの間にか猫は俺のニットにしっかりと爪を立てながらしがみついて、規則正しい寝息を立てていた。

 

 

01/

 

 

「きちんと世話をするのなら、飼っても構わないよ。予防接種やそれぞれの診断は俺が今度獣医に連れて行こう」

 

 担当官に割り当てられた執務室。ほんの少しだけの煙草と、濃厚なコーヒーの匂いがするアルファルドの部屋だ。

 

「それと、ようやく眼帯が外れたんだな。本当によかった。綺麗だよ」

 

 彼の目線は既に眼帯の取れている俺の右目に注がれている。イタリア男らしい、自然な口説き交じりの褒め言葉にどこかしらむず痒さを感じた俺は悲しいことに皮肉で言葉を返してしまっていた。

 

「ええ、おかげさまでこの部屋の掃除も捗りそうですね」

 

 別にそこまで散らかっているわけではない。精々本棚から取り出されたファイルたちがそのまま床に詰まれ、ジャケットがソファーに投げられているくらいだ。彼ならばものの二、三分で片付けてしまうだろう。

 だがアルファルドは気を悪くした風もなく、「いつもすまないね」と苦笑交じりの言葉を漏らすだけだった。

 しかもさらっとそのままコーヒーの用意まで始めて、気がつけば彼とソファーの上に膝を並べることになってしまった。投げられていたジャケットが俺の小さな肩に掛けられる。

 

「外の作業で冷えただろう。少し暖まっていきなさい」

 

 ほんと、イタリア男って奴は。

 きらい。

 

 あ、でも彼のルーツはドイツ人か。

 

「ほら、砂糖少なめ。無脂肪調整のミルク多めだ。甘いものが苦手な君は多分このトッピングだったな? この前、コーヒースタンドによった時のうろ覚え程度の知識だから間違っていたらすまないね」

 

 程よく温いカフェオレが手元に収まる。アルファルドはブラックのままコーヒーカップを静かに傾けていた。

 

「——ところでブリジット、仕事の話があると言ったらどうする?」

 

 両手でカップを包み込むように持っていたアルファルドがそっと口を開いた。一口で飲み干したからなのか、彼のカップは空になっている。

 

「? 仕事ならこなさなければならないでしょう? 聞かないなんて選択肢はあるのですか?」

 

 最初、アルファルドの言葉の意味がよくわからなかった。この体は義体で、義体は公社の備品であり、命令に対して俺がどうこうできる余地など微塵も存在していない。やりたいやりたくない、ではなくやるか処分されるか、なのだ。

 

「いや、すまない。変なことを聞いたな。明日のミーティングで本来は伝えるはずだったのだが、折角の機会だ。今から内容を伝えても構わないか?」

 

 首肯を返した俺にアルファルドは一冊のファイルを持ってくる。彼はそれを俺に見えるように隣で開いた。

 

「カウンタースナイピングの話はこの前に伝えたな?」

 

 言われてピンときた。つい先日アルファルドから伝えられた、与党の重鎮暗殺を阻止するミッションのことだ。

 

「ええ、そのための訓練も今重ねているところです。ジャンさんから、敵狙撃手の探し方をレクチャーされています」

 

「そいつは結構。彼は経験豊富な男だ。その教えから学べることは多いだろう。で、だ。カウンタースナイピングの詳細がつい先ほど詰められた。この地図を見てくれ」

 

 膝前のコーヒーテーブルに大判の地図が広げられた。見たところ、ミラノの高層ビル群を収めた地図のようだ。ここまではあらかじめ聞かされていた任務内容そのままである。

 

「一応、作戦の概要を確認しよう。俺たちが挑まなければならないのは政府要人の暗殺阻止だ。下手人は狙撃によって要人を始末しようとしている。そこへ強烈なカウンターを叩き込むのが大筋の流れだが、一つ変更点がある」

 

「変更点?」

 

「ああそうだ。これは君の狙撃の腕を見込んだ課長からの提案なんだが、下手人を出来れば殺さないで欲しいんだ。どうも今回の暗殺計画は単独犯で起案するには少々無理があるらしい。公社としてはその背後に潜む奴らの尻尾を掴みたいようだ」

 

 ——成る程、道理と筋は通っている。だが一つだけ問題がある。アルファルドはこう言ってはいるが、俺にそんな器用なことが出来るだけの腕がないということだ。

 確かに狙撃に関してはリコに比肩するくらいの腕を持つ自信はある。だがこれまで培ってきた訓練は全てターゲットの頭部をぶち抜くためのものがほとんどだ。

 7.62㎜以上の弾丸が持つ殺傷力で対象を殺さず無力するなど殆ど不可能だと思う。何処に叩き込んでも失血死するのがオチだ。

 

 俺の懸念を読み取ったのだろうか。険しい表情のまま固まった俺の肩をそっと抱いて、アルファルドは優しく諭してきた。

 

「下手人は君にカウンターを受けたのち、直ぐにトリエラとエルザ、ヘンリエッタが確保する手筈になっている。公社の医療班も待機する予定だ。少々の弾疵くらいなら何とかなるだろう」

 

 だが狙撃の難度が悪化しているのは間違いないのだ。最低限7.62㎜弾、理想は12.7㎜弾以上を考えていた俺からすればそんなことで懸念が全て消えることはない。強風吹き荒れるオフィス街の上空、文字通り針の穴を狙うような狙撃精度が求められるようなミッションである。ましてや威力に劣る7.62㎜弾。果たして下手人に弾が届くかどうかすら怪しいラインだ。

 

「——練習、します。だから今以上に演習場を押さえて下さい。猫なんか拾っている場合じゃなかった」

 

 絞り出すように出した言葉は悲しいかな、諦観と絶望がぐちゃぐちゃに絡み合った少しばかり投げやりなものだった。

 

 

02/

 

 

——撃って! ユーリ!

 

 彼女の唇がそう動くのがスコープ越しに見えた。耳穴にねじ込まれたカナル型無線はしきりに犯人射殺を俺に叫んでいる。

 震える指先が何も言うことを聞いてくれない。人質を取ったテロリストの銃を持った親指を吹っ飛ばしたことだってある。何なら人質の立ち位置、こちらの視界、狙撃位置、全てが今以上に難しい任務だった。

 なのに今、ユーリは引き金を引き絞ることが出来ない。

 絶対零度の氷に押し潰されたかのように、彼は寝そべった狙撃姿勢のまま瞬き一つすることなく、動けなくなってしまっていた。

 

 

 眼が醒める。

 

 

 生活用品が乱雑に散らばったアパートメントの片隅で彼は覚醒した。床に敷いたマットレスから身を起こしてみれば多量の寝汗が滝のようにしたたっている。

 湿気った髪を掻き上げ、彼は鍛え抜かれた肉体を子どものように縮こめて、小さく息を吐いた。

 

「大丈夫、大丈夫だ。ヒルダ。俺が必ず全てを精算してみせる」

 

 ユーリはのそのそとその場から立ち上がり、窓際に立てかけた写真立てに視線を向ける。いつか自分が一番幸せだった頃の写真。赤毛の少女と心を通わせていた懐かしい記憶。

 

 ユーリがヒルダという少女と出会ったのはまだ彼が軍警察としての誇りと地位を身に纏っていた時の話になる。出会いそのものは本当に平凡なものだった。彼が息抜きとして週末に通っていたレストラン。その店の前で軽薄な輩に絡まれていた彼女を救ったのが全ての始まり。

 正義と治安を維持する公人としての当然の振る舞いをしただけだと、最初ユーリはヒルダを袖にしていた。自分はもう20代の終焉が見えていて、全盛期の肉体の下降線が顔を覗かせていた頃。いくらティーンの後半とはいえ、まだまだ小娘然とした赤毛の少女をまともに相手にするつもりなど毛頭なかった。

 だが彼女は快活で明朗で美人で、そしてしつこかった。

 ユーリが件のレストランの常連だと知るとほぼ毎週のように出待ちをされるようになった。

 たかだか小娘の出待ち程度でお気に入りの店を変えるのが癪だったのもある。食事後絡まれる度にユーリは彼女を適当にあしらう日々が続いていた。それが3ヶ月ほど続いたとき、いよいよユーリはヒルダの「お礼に食事をおごらせて欲しい」という申し出を渋々受け入れ、レストランに初めて二人で入店することになった。

 

「いいか、これが最初で最後だ。俺にも立場ってものがある。あんたみたいなお嬢ちゃんを相手にして世間様が許してくれるような人間じゃないんだ」

 

「ふふっ、わかっているよ。でも随分と詰まらないことを気にするんだね。そんなにも世間様は大事なのかい?」

 

 ヒルダは一言で言えばませた糞餓鬼だった。そのくせ、言葉の端々から育ちの良さと教養の高さが滲み出ている物だから、叩き上げのユーリは面白くなかった。10代の自分が喧嘩に明け暮れて馬鹿をやっていたことを思い出しては、言い様のない劣等感がどうしても滲み出てくるのだ。

 

「俺はそんな世間様を維持するための仕事をしているんだ。残念だったな」

 

 ついで、ヒルダは本当に美しかった。顔立ちの整い具合で言えばそこまで飛び抜けているわけでもない。だがはっきりとした意志の強さを宿した鳶色の瞳と、ミディアムショートの明るい赤毛が見る者を惹き付ける不思議な魅力があった。事実、邪険にしながらもユーリはそういったヒルダの一面は素直に認めていた。

 

「ふーん、まあいいんじゃない? 何に価値を見いだし、何を尊ぶかなんて人それぞれだ」

 

 多分、最初の食事で為された会話は酷いものだったと思う。ユーリが何か言葉を口にすれば、ヒルダがそれに関する感想を述べて、ユーリがさらにそれに噛みつくというパターンの繰り返しだった。端から見れば随分と険悪な二人に見えただろう。

 だが不思議と会話はそれなりに続き、気が付けば一人で過ごすよりも長い時間、店に居座ることになっていた。

 

「なあ、会計だがやっぱり俺が」

 

「イタリア男の悪い癖だよ。女性をもっと本当の意味で立てることを覚えた方が良いと思う」

 

「俺はイタリア系じゃねえ」

 

 ウェイターへ支払いを済ますとき、彼女は財布から鈍く光る黒いカードを取り出していた。ユーリはさりげなく横目で、しかしながらしっかりとそのカードを見逃さなかった。軍警察で培われた観察眼が、彼女は本来こんな所で食事をするような身分ではない人物であることを見抜いていた。

 

「さて、今日はもうお開きかな。ところで私におごられたことが気がかりなら、来週はあなたに会計を頼もうかな。次は隣の席のカップルが食べていたアフォガードが気になるし」

 

 はあ? とユーリは酷く機嫌の悪い声を出していた。この女は「最初で最後」という言葉の意味をわかっているのだろうか。

 

「おや、何か不服そうだね。でも私はあなたの『最初で最後』という言葉を了承したかな? あなたの勝手な思い違いでは?」

 

 無視した。これ以上は付き合いきれないとユーリはレストランをあとにする。どうせ明日からは厳しい訓練と無駄に喧しい上官を相手取らなければならないのだ。貴重な休日をこれ以上浪費したくなかった。

 

 ただ、結論からいえば。

 

 翌週も彼はヒルダとテーブルと共にすることになったのだが。

 

 

03/

 

 

 アフォガードが溶けていくのをぼんやりと眺めていた。

 ブリジットの担当官であるアルファルドが食堂から失敬してきたバニラアイスに、お高いコーヒーメーカーから抽出したエスプレッソを直接注ぎ込んだ代物だ。訓練に疲れているブリジットを労って用意された物だったが、彼女はまだそれに手をつけようとしていない。

 アルファルドの執務室は今、荒れに荒れまくっている。ブリジットがライフルから弾丸まであらゆる組み合わせを演習で試し、それらをバラしては彼の部屋で調整するというのを繰り返しているので、銃の部品からライフルスコープまで所狭しと散乱しているのだ。

 

「——やはり7.62㎜のレミントンという組み合わせか。MKー18はどうだった?」

 

「素晴らしい精度ですが、私には重すぎました。どうやらボルトアクションの方が合っているみたいです」

 

「ならばこのM700のストックを小型の物へ換装。チークパッドを多めにしてフィッティングを調整しようか」

 

 公社が特注したレミントンライフルのストックを器用にアルファルドは分解していく。用意しておいてもらってどろどろに溶かし尽くすのも申し訳ないかな、とアフォガードが載せられたグラスを俺は手に取った。

 

「ああ、そのまま食べててくれ。調整はこちらでできる」

 

 ふとアルファルドが背後に回って、俺の身体の前面に手を回してきた。手にはこれから換装予定のストック。どうやらこのままチークパッドの調節を行うようだ。

 彼が愛用している香水の匂いと、エスプレッソ、そしてバニラ。とどめにチークパッドに染みついた硝煙の香りが鼻腔をくすぐる。

 

「——少し痩せてしまったな。もともと小食の君だ。心配になる」

 

 いつのまにかアルファルドに手首を握り絞められていた。殆どセクハラのようなものだが、イタリアの美男がやると様になっているのが心底腹立たしい。あとこんなことで喜んでしまう自分なんて殺してしまいたくなる。

 

「必要な栄養はサプリメントと点滴で補っているから問題ありません。筋力の低下も定期試験では見受けられませんでした」

 

 憎まれ口を叩いて心臓が痛む。嫌われることはないと分かっていても、身体を縛り上げる条件付けという鎖が俺の心をぐずぐずに腐らせていくのだ。少し俺の鼓動が早くなったことを脈拍から感じたのだろうか。アルファルドが優しく手を重ねてきた。

 

「大丈夫だ。君は最高のスナイパーだ。俺の知り合いにもたくさんの凄腕がいたが、君に勝る奴なんて誰もいない。君は君の才能を存分に発揮してくれ」

 

 言葉は魔法だった。強張っていた躯が、凍り付いていた心根が少しずつほぐれ温まってく。そこに俺の意志なんて存在しない。そう造られた肉体が故に担当官の声に脳が歓喜の声をあげ、浅ましく尻尾を振ろうとするのだ。

 少し体重を後ろに傾ければ、アルファルドがおっかなびっくりと受け止めてきた。

 どうやらこの男、自分からリードすることに手慣れていても、こちらからリアクションを取られることには慣れていないらしい。

 

「ブリジット?」

 

「——てください」

 

「え?」

 

 慣れないことを言ったからだろうか。早口だったのもあって彼に一言では伝わらなかった。

 だから俺は——ブリジットはちょっと不機嫌そうにもう一度口を開く。

 

「これ、食べさせて下さい。訓練のしすぎで思うように指が動かないかも」

 

 手の中にはもう殆ど溶けきっている、コーヒー色のミルク。

 

 

04/

 

 

 こんな顔もするのだな、とアルファルドはブリジットの小さな口にスプーンを運びながら考えた。

 クリームを口に含んだブリジットは上機嫌に眼を細めている。本人に告げれば烈火の如く怒り狂うだろうが、拾ってきた猫そっくりだった。

 

 自分とこの義体の少女の関係は複雑でややこしい。ヘンリエッタやリコのような盲愛はなく、トリエラのような思春期特有の少女の反発があるわけではない。ただ、こちらに無条件に靡いてやるものかという強い意志を感じ、微かな、されど確固たる情を抱かれていることはわかる。

 

 ——スイーツを食べさせろ、とねだってきたブリジットは寒気を覚えるほど妖艶な笑みを讃えていた。

 

 確かに大人びている少女ではあるが、あんな男を手玉に取るような表情は初めて見た。

 アルファルドはブリジットの「元」になったある少女のことを思い、もしその少女の何かがブリジットのあの表情をつくりだしていたのなら——と背筋を震わせる。

 条件付けは完璧。

 元の人格なんて残っている筈がないのに、もしそうだとしたら? もしくはブリジットという殻を突き破って何かが這い出ようとしていたら?

 それはお互いにとってある意味での破滅を意味する最悪の状況だ。たとえ健全な関係性でないとしても、アルファルドはブリジットとのこの奇妙な縁を慈しみ、かけがえのないものだと感じている。

 

 もう一度、こっそりとブリジットの表情を覗き込んだ。

 ふと鳶色の瞳がこちらを見る。盗み見ようとしたことが露見したことにどきりと肝を冷やしたが、ブリジットは何を勘違いしたのか眉を顰めて一言だけ言葉を発した。

 

「この女たらし」



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第十七話「一マイル向こうの少女(愛した人の言葉)」

いつもより800字くらい少ないですが、前回の引きで長引かせたくないので、投稿します。


 空が高い。秋だ。雲が風に流され、ゆるゆると川をつくっている。穏やかな昼下がり。芝と点在する林が美しい高原でユーリは冷たい鉄塊に全神経を注いでいた。

 M107セミオートライフル。12.7㎜弾という強力な銃弾を吐き出す、遠距離狙撃を行うためだけに造られた米国製の狙撃銃。

 何処かで鳥が鳴き、風が木の葉たちを指揮している。葉っぱ一枚一枚の潺がユーリの身体を溶かしていった。

 

 風景に似つかわしくない破裂音が空気を引き裂く。遙か彼方の、肉眼では凡そ確認することの出来ないターゲットがどうなったのかはその場からは一切窺い知ることが出来ない。

 近くに控えていた情報屋が面白半分で双眼鏡を取り出し、数瞬のあと息を呑んで見せた。

 彼は化け物を見るかのような目で隣で寝そべっていたユーリを見定める。

 

「おいおい、GPSの誘導でもついてんのか」

 

「馬鹿言え。これよりもっと遠距離でやりやがった奴だっている。しかも実戦でだ。3000メートルの壁は途方もなく高い。これは凡そ1マイル。1500メートル弱だ。褒められた距離ではない」

 

 情報屋は何も言わなかった。彼はただ「雇い主」にユーリの腕を確かめてこい、と命じられたものだからここまで足をわざわざ運んできたのだ。人外の怪物の機嫌を損なうほど愚かではなかったし、給金以上の働きをするほど勤勉でもなかった。

 

「しかしこれは良いライフルだな。よくもまあ、米陸軍だけが保有しているおもちゃをはるばるこんなクソッタレな国まで運んでこれたな」

 

「ふん、あの方の政治力を舐めない方が良い。この国で凡そあの政府の犬どもと相手取れるのは文字通り彼だけだ」

 

 ユーリは銃身が冷めつつあるM107ライフルをそっと手のひらで撫でた。これからは命と彼自身の願いを預ける相棒だけに、殊更感情移入しているのかもしれない。

 

「政治力、ね。成る程力こそ正義か。この世の真理だ。護るべき力なき者は悪たる悪よりも地獄に落ちるのが相応しい」

 

「お前も力はあるだろう。それをあの方の為に振るえ。そうすれば悲願は叶う」

 

 情報屋の言葉にユーリは「はっ」と唾棄するように嗤った。そして仄暗い色を讃えた瞳で情報屋を睨み付ける。

 

「狙撃なんてのはな、獲物のことを想えば思うほど簡単に弾が吸い込まれていくんだよ。そいつの生まれ、人生、思想信条、家族、恋人、そして最期に口にした食事——そこまで想い至れば中てたくなくても中るものなんだ」

 

 最期の晩餐ね、と情報屋は鼻で笑う。だが不思議とユーリの告げたことはその通りであるような気がしていた。獲物のことを知り尽くせば知り尽くす程因果が結ばれ、殺す者と殺される者の運命が定まっていくのかもしれない。

 

「だからこそ、あの時俺が弾丸を外したのは彼女のことを何も分かっていなかったからだと思う。俺は彼女のことを何も知らなかったんだ」

 

 ふと空を見上げた先、鳶が一匹くるくると旋回を続けていた。いつか恋い焦がれた瞳の色が青い青い空の真ん中で輝いている。ユーリは徐にそちらへ銃口を向ける。手持ちで構えるには重すぎる超重量級のライフルだったが、鍛え抜かれた鋼の肉体に固定されたライフルは一切のブレを見せることがなかった。

 

「——もう二度と外さないさ。奴のどたまをぶち抜くそのときまで」

 

 もう一度、甲高い破裂音が周囲に響き渡った。

 

 

01/

 

 

 M107ライフルの習熟に割り当てられた期間は僅か三日だった。M700ライフルの射程に不安が残るとして、急遽現場に二種類のライフルを持ち込むことになったのである。それはつまり1キロ超え、ひょっとすると1マイル以上、1.5キロ超の狙撃すら可能性に浮上しているということだ。

 

「どうやらやっこさんたちはかなりの凄腕を用意しているらしい。まさかそんな人材が在野に転がっていたとは、クソッタレにもほどがある」

 

 俺の訓練に付き合ってくれているアルファルドのぼやきに対しては、口にこそしないが全面同意だ。五共和国派たちに紛れ込ませたスパイから此度の暗殺計画を掴んだらしいが、それ以前にもっとこの国はするべき事がたくさんあるように思う。

 

「M107は12.7㎜弾。M700よりもさらに遠距離の狙撃が可能だ。初めて扱うライフルだが、二人で何とか形にしてみせよう」

 

 慰めの言葉を吐き出しながらアルファルドが無線の電源を入れる。この演習場の遙か先、1.5キロ地点でターゲットの設営を手伝ってくれているトリエラ組に対して、準備完了の合図を送るためだ。

 

「もう間もなくブリジットが狙撃を開始する。ほぼ大丈夫だろうが、念の為に待避所に入ってくれ」

 

 アルファルドがこちらに目配せをした。俺は特注の馬鹿でかい軍用ライフルスコープを載っけたライフルを腹ばいで構え、遙か彼方に設置されているであろうターゲットを探した。

 

 ——想像以上に小さいターゲットの影に思わず息を呑む。

 

「風はほぼない。あちらもこちらも無風だ」

 

 狙撃条件として今の気候は最適なのだろう。湿気も少なく、太陽は南中しており光の屈折も考慮しなくて構わない。

 けれどもこれはさすがに——。

 

「——ブリジット、あちらから連絡だ。右に15センチ、だそうだ」

 

 破れかぶれに放った弾丸は当たり前というか、ターゲットに対してかすりもしなかった。

 俺の狙撃の公式記録は凡そ1キロ。それよりもさらに0.5キロ以上も向こうの的を狙うことがこんなにも困難なことだとは思わなかった。

 

「弾着確認。右に7センチ強。下に4センチ。大丈夫だ近づいてきている」

 

 ボルトを引く度に照準がぶれる挙動が地味に煩わしい。確かにアルファルドの言うとおり至近弾は増えているのだろう。だがそれは無風かつ晴天というあり得ないくらい恵まれた条件下のことであり、本番ではほぼ一撃で敵対スナイパーを撃ち抜かなければならないのだ。こんな悠長に弾着観測をして修正を繰り返している暇なんて存在しない。

 

「——弾倉を一つ使い切ったか。一度休憩を挟もう。再開は一時間後だ。一息入れてもう一度チャレンジしよう」

 

 多分俺の焦りを見抜かれていたんだろう。本来ならば弾倉二つ分を消費する予定であったのが、凡そ半分で切り上げられてしまった。木箱でこしらえた即席のベンチに腰掛けて空を見上げてみれば、憎らしいくらいの晴天が広がっている。

 

「お疲れさん、ブリジット。初っぱなから至近弾叩き込んでくるものだから、驚いちゃったよ」

 

 小型のバギーを使って、ヒルシャーとトリエラの二人がターゲットポイントから帰ってきた。1.5キロという距離は人間の元のスペックでは歩くのも見通すのも余りにも遠すぎるのだ。

 

「いえ、至近弾では駄目なんです。命中させなければ意味がありません」

 

 慰めようとしているわけではないのだろう。トリエラのことだから本心から俺の狙撃を賞賛してくれている。けれども今求められているレベルはそんなものではない。もっと確実な成果を残さなければ任務を達成することは不可能だ。

 

「ブリジット、自身の成績をそんなに卑下してはいけない。公社の義体で弾倉一つをあれだけの範囲に纏められる少女がどれだけいるとおもう? ジャンのところのリコですら30センチ範囲が限度だろう。君は1.5キロ先の空間に凡そ20センチ以内で収めて見せたんだ。これを偉業としてまずは誇りなさい。その上で落ち着いて練習を重ねれば良い」

 

 驚いた。まさかヒルシャーからこんな風に諭されるとは思っていなかった。てっきりトリエラ以外に余り興味を持っていない御仁だと考えていたのもだから数瞬反応が遅れてしまった。ただそれを都合良く解釈してくれてたのか、ヒルシャーはアルファルドに一つ目配せをして、木箱の上に腰掛けていた俺に視線を合わせてきた。

 

「それに君にはアルファルドという素晴らしい担当官がついている。この男は見かけによらずとんでもなく優秀だ。君一人が目標を達成しなければならないのではない。二人で結果を掴み取るんだ。——君たちはフラテッロだろう?」

 

 アルファルドに囁かれたときほど、すとんと言葉が内側に落ちてきたわけではない。けれども何というか、どことなく確かにそういうものだな、と険は少しばかり取れた気がする。

 

 もう一度空を見る。いつの間にか鳶が頭上をくるくると飛び回っており、その様子に小さな笑みが口元に滲んだ。

 

 

02/

 

 

「いいねえ。このアフォガード。苦みと酸味、そして甘みが絶妙だ。私はあらゆる甘味が大好きだけれども、これはなかなかの一品だと胸を張っていえるよ」

 

 赤い女がへらへらと笑う。癪に障る笑みだ。私は脳天気で人生バラ色ですよー、と周囲に振りまいている笑みだ。どうせその作り物の仮面の下には碌でもない半生があるだろうに。

 

 ヒルデガルト・フォン・ゲーテハルト。

 

 イタリアがまだ諸国連合で、王国も公国も教皇国家も並び立っていた時代から名士をやってのけていた家の出だ。父親は与党の重鎮議員であるアルゴスティーノ・フォン・ゲーテハルト。マフィアとの癒着や数々の政治不正が囁かれる、いわゆる嫌われ者である。彼には現在三人子どもがいるが、ヒルデガルトはその中で最年長。ただし、アルゴスティーノの今妻とは血が繋がっておらず、母親は誰か公表されていない。それ故、家内での立場は決して盤石なものではないだろう。

 

 軍警察の伝手を辿って得られた情報はそれだけだった。付きまとわれるようになったその日から、ユーリは少しずつ目の前の女のことを調べ始めていた。軍警察である自分に近づいてきたハニートラップの可能性も考慮してのことである。

 だが結果は尽く白。少なくない金子をはたいて雇った探偵や情報屋も同じ結論を返してくるばかり。

 

 ただ、一つ気になるのは。

 

「——お前、家に帰ることができていないのか」

 

 ふとヒルデガルトの饒舌な口が凍った。彼女の小さくなった瞳孔が、鳶色の瞳がこちらを見ている。バラ色の笑みでこしらえた仮面は砕け散っていた。

 

「モーテルや友人の家を渡り歩いているようだな。もうそろそろ子どもを卒業とはいえ、感心される生き方ではないな」

 

 これはまいったな、とヒルダが乾いた笑いを漏らした。そして「なかなかどうして、出来る大人というものはこんなにも恐ろしいんだね」と自虐的な笑みを零す。

 

「君なら知っているんだろう? 私の父親のことを」

 

 返答は首肯だけにした。いらぬ言葉を返すつもりはない。情報のアドバンテージはまだ手放すべきではないと直感が囁いていた。

 

「——父は後継者を弟に定めた。言葉こそ口にしなかったが、前妻の娘は邪魔だったみたいだ。限度額不明のカードとボストンバッグ一杯の現金、それと幾ばくかの生活用品が詰め込まれたスーツケースが私の部屋に置いてあったんだ。どうやら弟は私が家庭内にいることが耐えられなかったらしい。いらぬ内紛を引き起こすくらいなら、面倒は見てやるから出て行ってくれ、と伝えられたわけだ」

 

 知らぬ情報の瀑布だった。どうやら思春期の娘が親に反発して飛び出してきたのとは訳が違うらしい。その証拠に彼女の鳶色の瞳は嘘の色を一切纏っていない。観念して悪事を自白するような弱々しい犯罪者のような有様だった。

 

「あの日はさ、本当にたまたま厄介な手合いに絡まれていたんだ。放浪生活にも慣れて油断していたのかもしれない。自棄になってアパートメントの契約すらしていなかった自分を呪ったさ。これで警察の厄介になったらいよいよ面倒なことになるぞ、とか、そもそもこいつらが私を無事に帰してくれるだろうかとか」

 

 にへら、と彼女が笑った。それはヒルデガルトという少女が本来持ち得ていた、本当の意味での笑み。

 

「嬉しかった。不安と絶望でパニックになっていた私を救ってくれた君は間違いなく私の騎士だったよ。人のことを好きになることなんて今までなかったから、これがそうなのかはよくわからないけれども、私はもっと君といろんな話をしたいな」

 

 どういう言葉を返せば正解だったのかは未だにわからない。

 けれどもユーリは咄嗟に、不器用に、ぶっきらぼうに、こう口走っていた。

 

「今日は奢ってくれるんだったよな」

 

 伝票を置いたまま、席を立つ。「あっ」と彼女は小さな声を漏らしていた。捨てられそうになっている子犬のような眼がどこか可笑しい。

 

「次は俺持ちだ。イタリア男のプライドは守ってくれよ。この糞餓鬼め」

 

 

03/

 

 

 社会福祉公社のミーティングルーム。大物議員の暗殺阻止計画はいよいよ大詰めとなっており、関係各所の最後の打ち合わせが行われたところだった。

 ブリジットの待機ポイント、下手人の出現予測範囲、アルゴスティーノの行動予定などがそれぞれの共有され、会議は四時間ほどでお開きとなった。しかしながら各自が退出していったミーティングルームに居残っている影が三つ。アルファルド、ヒルシャー、そしてラウーロの三人だ。

 彼らは机上に20センチ四方の鉄板三枚を見下ろしている。

 

「——化け物だな。よくもまあ、ここまで三日で纏めてみせたものだ。天賦の才というものはこれだから手に負えない」

 

「僕もラウーロに同意だ。彼女に投げかけた言葉に嘘偽りは無かったが、まさかこれほどとは思っていなかった。最終日、三つ用意した弾倉で外したのはいくつだ?」

 

 中央部が大きく抉れ穿たれた鉄板たちを見つめながら、アルファルドは「ゼロだ」と絞り出すように言葉を返した。

 

「最後の方は穿たれた穴を弾丸が通り抜けていくものだから、僕には命中しているのかどうかさっぱり判断ができなかった。トリエラが減速する弾丸を何とか視認して判定を下していたくらいだ。恐らくこの国で彼女を超えるスナイパーは存在し得ないだろう。だからこそ、今の社会福祉公社の雰囲気は好ましくないと思う。誰もが此度の作戦の失敗を疑っていないんだ」

 

 アルファルドが手近な椅子に深く腰掛けた。そしてそれまで誰にも見せてこなかった、深い深い怒りの色を表情へと上乗せしていく。

 

「必要とはいえ、自分を殺そうとした父親を彼女に救わせることになってしまった。正直、ブリジットが狙撃を成功させる目処が立たないまま作戦の見直しを願っていたんだ。だが彼女は上層部の期待に見事応えてしまった。わざわざ不慣れな12.7㎜弾だって用意して、チークパットだって彼女に不適なものを言いくるめて装着させていたのに」

 

「——今の台詞は聞かなかったことにしてやる。だが胸糞が良くないことには同意だ。これほど悪趣味な脚本を描けるとは、どうやら神様はよほど人間の業というものが愛おしいらしい」

 

 ラウーロの皮肉交じりの言葉に、アルファルドは全くその通りだ、と笑った。そしてもう一度鉄板達に向き直りながら、静かに火を点した瞳でそれらを睨み付ける。

 

「もうここまで来たら彼女を無事に任務から帰還させるだけだ。彼女は何も知らないまま、無傷で帰ってきてくれればいい」

 

 

04/

 

 

「ねえ、ブリジット。昨日からとんでもなく命中率が上がっているけれど、何かコツでもあるの?」

 

 風呂上がり、俺の髪をメンテナンスしてくれていたトリエラがそんなことを聞いてきた。

 確かに彼女の言うとおり、初日から見違えるように遠距離狙撃が成功するようになっていた。何かが劇的に改善したわけではないのだが、確かに結果は全く違ったものになっている。

 おそらく十数秒、俺は自身の手のひらをじっと見つめながらどう返答するべきなのか考えていた。

 そしてようやく口をついて出てきた結論は本当に無意識の言葉だった。

 

「——相手のことをとことん知るということだと思います」

 

 は? 何を言っているんだと自分でも思った。鉄板の何を知れば狙撃に影響するというのだ。でも一度動き出した口は俺の意思とは無関係にトリエラにわけのわからないことを発し続ける。

 

「狙撃なんてのは、獲物のことを想えば思うほど簡単に弾が吸い込まれていくんです。それの生まれ、人生、思想信条、家族、恋人、そして最期に口にした食事——そこまで想い至れば中てたくなくても中るものなんです」

 

 馬鹿じゃないのか。鉄板が何を食べるというのだ。多分訓練に根を詰めすぎて少しおかしくなっているのかもしれない。

 事実、呆気にとられたトリエラの手は止まり、気不味い沈黙が部屋を支配している。

 

「ごめんなさい。今のは忘れて下さい」

 

 まだ髪は途中だったが、俺はトリエラを振り切ってベッドに潜り込んだ。そしてなくさないように、と訓練の時は外していた指輪のネックレスを枕の下から取り出してぼんやりと眺める。

 

『——意外と忘れないものだね。本当に愛おしいものは』

 

 それは嘘だと思う。

 

 



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