Fate/ Prototype Overturn (上木八)
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Act1 Monologue

 

 

閉め切ったカーテンから差す僅かに陽の光とにこぼれる季節の冷気が瞼を刺激する。

未だはっきりとしない意識を覚醒させるようにと少し乱れた髪を撫でるように掻く。目覚ましを設定したわけでもなく、早朝特有の忙しない鳥たちの囀りが煩かったわけでもなく、今朝は何故だか簡単に目が覚めてしまった。

上半身を少しだけ布団から露出させると、寒さに肩がぶるりと震える。抗議な眼で枕元を見下ろすと、無造作に投げ出されたデジタル時計の示す西暦と時刻【1999】【AM 5:30】――起床するには早すぎる時間だった。

 

「…ぅへ」

 

苦々しい濁り声を漏らし意気消沈する。同年代の女子なら…いや、一般的な仕事をしている女性だってこんな時間に起きてしまったら二度寝を決め込むだろう。うん、そうに違いない。

だが、中途半端に意識がはっきりしている以上もう一度布団を被る気分にはなれなかった。柔らかくて体温が移った心地のいい布は名残惜しいが。

暖かい寝具に別れを告げる挨拶として少し皺をぱんぱんと叩き正してから布団を這い出た。

ひんやりとした空気が寝間着(パジャマ)越しに肌を撫でる。この感覚もどちらかと言えば好きなほうではあるが、それでも冬の早朝は寒い。

洋服箪笥を開けると微かに香る慣れた木の匂い。同じく木製のハンガーに掛けられた外套がいくつか眼に映る。皺ひとつなく伸ばされ並べられた中から、ちょうど中心の一つを手に取る。

自分よりも少しサイズが大きく、明るい赤色をした毛皮の外套。カフスなどに装飾された銀のボタンにブランドマークが刻印されており、それなりに高級なものだった。八年前の誕生日に買ってもらったものだが、未だに身体の成長は服に追いついていない。

袖を通し箪笥の脇にある姿見の鏡の前に立つ。何度か上半身を左右に振ってみたり、両脚を開いてポーズを決めてみたりする。

 

「似合ってる…のかなぁ」

 

腰下まである裾は学園のスカートまでも隠してしまうほど。袖口は指こそ出ているが掌や甲は完全に覆われてしまっていた。昨今の若者事情には疎いが流石にこんなファッションが流行っているなどということはないだろう。

だが、この外套は何よりもお気に入りだった。どうしようもなく不器用な人が大切な誰かを想って送ってくれたものだったと、今ならわかるから。

鏡の前でボタンを全て留めると気持ちを切り替える。以前とは違い朝食は自分で作らなくてはいけない。しかし、その前にするべきことがある。

 

 

私は―――魔術師なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洗面を済ませ、廊下を結構な距離歩くとガラス戸がある。扉を開けてようやく到着。

 

―――ガーデン。

 

庭でも庭園でもなく。繁茂した木々と何十種類の植物、花。そして何羽もの鳩。何羽かはまっすぐに飛んできて足元に群がる。

中にはいくつか食虫植物も在るらしい。そう教わったがどの植物がそうなのかはわからない。今更覚える気もない。…だって教えてくれる人はいなくなってしまったから。

八年前までは長い距離を歩いても、日課の気の重さを感じても。ここに来ることは嫌ではなかった。

別に今も嫌というわけではない。しかし、どうしても気が滅入ってしまう。ここには思い出が多過ぎた。

 

 

花が好きな人だった。

 

ちょっと変わっていて食虫植物が特に好きな人だった。

 

植物のことを話すときだけ早口になる人だった。

 

きのこが苦手だった。

 

上手く笑えない人だった。

 

でも、優しく笑う人だった。

 

 

その人は―――この空間を誰よりも愛し、大切にしていた彼はもういない。

ちょっと早く起きてここに来た私を、ぎこちない笑みで迎えてくれた兄はもういない。

ガラス製の天井から差し込んできた光が滲んで気づく。瞳が濡れていた。

もう散々涙を流した。近隣のことなど念頭にも置かず喚き散らした。―――それでも足りない。

この悲しみを払拭するには何もかも足りない。怒りではない、ただ悲しいだけ。

だから頬を濡らしながら呆然と立ち尽くす足元に懐き寄る鳩たちを感情のままに払いのけることもできない。生贄だから別に構わないはずなのに。

 

 

(こんな調子じゃ…どうせ今日も無理だろう)

 

 

もういいや。と苔が生え少々緑がかった冷たい石の床にへたり込む。いつの間にか何十羽に増えていた群がる鳩。いっそここまで懐かれると慰めて貰っているようで心地よかった。

 

 

―――今日も沙条綾香の自己評価は最悪だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あくまで自己評価ではあるが偽りなく、自分は魔術師として優秀だと思っていた。

だからといって別に今でも無能と思っているわけではないが。

代々生贄を媒体に行われてきた沙条家の黒魔術を独自に昇華させ、植物に自らの意思を伝え操る魔術に成功したのは十歳の誕生日を迎える以前だったことを覚えている。

始めのうちは鳩や自分の血を生贄にして植物の急速成長促進及び、操作を行っていたが修行していくうちに魔力だけで生贄たるものを補えるようにまでなっていた。

加えて先天的な『魔眼』を右眼に宿して生まれた。この『魔眼』は現実世界に干渉して現象を発生させたり、他者を傷つけたり壊すことなどはできない。

しかし、幼くして破格の魔術を扱うことが出来るようになったのは魔眼の能力によるものが大きい。解析の魔眼と己が呼称する右の瞳は(視る)だけで対象物の本質を理解する。

魔眼に視たものはまるで機械の内部構造のように映る。動力源たる場所はどこなのか、動きを伝達する歯車の部分は何なのか。(視る)と本気で念じればその『起源』さえ視覚情報として得ることも可能であった。

 

当然の如く父は沙条家始まって以来の天才だと、狂喜乱舞した。共に同じ目的を持つ盟友(ライバル)たる玲瓏館の現当主にわざわざ家庭訪問してまで自慢したほどに。

別に悪い気はしなかった。それどころかむしろ誇らしかったし、楽しかった。

魔術を証明するため、玲瓏館の家で育てられていた観葉植物を十数メートルほどに巨大化、挙句葉を硬化して剣山が如き鋭利な刃と変化させた。

予てから巌の様な印象だった玲瓏館当主の表情が日常では絶対に見せないものとなった事実は暫くの年月を経た今でもはっきり記憶している。

薔薇の種をポケットに仕込んでおき、一瞬で成長させ咲かせる。という奇術師の真似事を彼の娘である美沙夜に披露し、その一輪を小さな手に握らせた。

これは少しばかり気恥ずかしさで顔を背けたくなる記憶だ。思い返せば歌舞伎町の夜で生きる者が如く気障(キザ)な台詞と姿勢だっただろう。

だが、当時は尊大な態度や気障な言動を吐くことに違和感など感じない程自らは沙条家の誇りだと自負していた。

かの玲瓏館の当主も天才だと評し、握った薔薇を見つめる美沙夜の大きく開かれた輝くルビーが如く赤い瞳からは喜びの感情がはっきりと見えた。

 

 

ここまでが―――沙条真咲(まさき)の黄金時代。

 

 

研鑽を続け会得した魔術が…知りうる魔術全てが赤子のお遊戯にも等しく、矮小だった等と思わざるを得なくなった切っ掛けは些細な出来事だった。

 

沙条の家に一つの命が生まれた。

母と同じく陽に透けるが如き柔らかな黄白の髪。

快晴の空と似た淡い水色の瞳は己と同じ。

この世全てに祝福されて生まれてきた―――例えるなら祝福という『概念』そのものが生まれてきたかのような。

 

―――妹。沙条愛歌という存在。

 

神ですら当然の如く愛歌を愛すると確信できる。

故に両親と兄である自らが妹へと愛情を注ぐのは自明の理だろう。

それでいい。何も考えずそうしていればよかったのだ。

たった一つだけ、とても些細な失敗(ミス)は大きな後悔に繋がった。

 

右眼で(視た)こと。視てしまったこと。

ただそれだけのこと。しかし沙条真咲の人生において最大の後悔。

妹が魔術を行使できるようになったのは言葉を紡ぐのと同時期だった。

驚くべき出来事に父は喜び母は少し複雑な表情だった。

当時、自らを天才だと自負していた己は単純に両親の関心を引く妹に嫉妬したのだろう。

魔眼の性能をはっきりと理解していなかった故に才能の限界点でも見てやろうとでも思ったのだ。

その考えが間違いだった。知らなくていい事実を、知るべきではないモノを妹は―――愛歌は内包している。

通常なら機械の構造のように視える筈が視覚で捉えたのは()であり、それは光をも呑む黒天かぽっかりと口を開けた怪物の様に思えた。

その正体は未だに理解できない。ほんの刹那、瞳に映した瞬間正体不明かつ圧倒的な情報の奔流に思考が耐え切れず、一日中止まらず嘔吐続けた。

 

何故妹があのような存在に生まれてきてしまったのか。

どうして家族を視てしまったのか。

ちょっと妹の方が才能があったから。そう割り切っていればよかったのに。

僅かでも嫉妬などするから最悪の結果を招く。

 

「――兄さん、かわいらしいお寝坊さん。そろそろ起きて。もうお昼よ?」

 

ぼんやりとした意識に涼やかで愛らしい声が差し込んだ。

顔を上げてみれば、覗き込む妹。愛歌が悪戯っぽく笑みを浮かべている。

眼前にはテーブルに置かれた、湯気と共にほのかな苦みが香り立つコーヒー。見た限りでは淹れたてだろう。

鼻腔を通り抜ける酸味を帯びた匂いが意識を現実に引き戻す。…どうやら椅子に座ったまま寝てしまったらしい。

香りに刺激されてか、元々溜まっていたのか。口内から零れ落ちような唾液を左手の甲拭う。

カップに手を付けるとそのまま口元へ。強くなる香りと湯気、やはり熱い。だが、火傷するほどではなくむしろ唇と喉に心地いい熱さだった。

 

「ン、ありがと。温度調節してくれたんだ」

 

「ええ、当然でしょう?…ふふ。兄さんたら朝食を食べたら、また寝てしまうんだもの。もうお昼よ?」

 

言われて壁掛け時計を仰ぐ。確かに二つの秒針は12の数字を差している。少し視線を脇にずらすと、エプロンを着たうさぎの描かれたちょっと小洒落たカレンダー。1990年、11月21日。

記憶を辿っていくと、起床したのは朝の5時。ガーデンの花に水をあげ、魔術の鍛錬をしてから洗面所で顔を洗い髪を整える。それから朝食。そこからの記憶はない。

愛歌の言うことは間違いないらしい。夢を見ていたような気もするが思い出すことはできない。夢とは大体そのようなものだ。

 

「それでお昼はどうしようかしら?」

 

くるくると回りながら愛歌は厨房(キッチン)へと入っていく。まるで童話の姫のように。投げかけられたその声は期待するように、その顔は誘惑するように。

愛歌は厨房から挑発的な笑みを晒しながら真咲を誘っていた。

 

「…一緒に作ろうか」

 

しばらく動いていない身体に熱を伝導させるため立ち上がり、厨房へと向かう。歩くたびにぴきぴきと体節や骨が小気味のいい音を鳴らした。

沙条真咲は妹を恐れている。この世の誰よりも恐れ、何よりも恐い。

しかし―――それでも妹だった。同じ母親の胎から産み落とされた血を分けた妹。献身的に、純粋に自分を慕ってくれる妹。

厨房でも笑顔で、まるで長い間会えなかった恋人を出迎えたかのように眩しく迎えてくれる。

幸福な時間。例え内に怪物を秘めていようとも愛する妹との時間はどんな財にも代え難かった。

いつまでもこの時間を享受していたい。父と妹たちが尊く、健やかなに幸福であれ。心からそう願う。

 

―――叶う筈もない願いなのだと、今は知る由もなかった。

 

 

 

 




ドラマCD完結に伴い更新再開することといたしましたが、以前の文章を見直し全話改定することといたしました。

長丁場となりますが何卒よろしくお願いします。


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Act2 Edelweiss

憧れている人がいた。

儚げな容姿に違わず身体が弱く、それこそ愛した草花の如く嫋やかな人。

それでいて芯は巨木の様に強く、子の前では弱さを絶対に見せなかった人。

アヒルの子のように向かうところどこへでも後を追った。何の理由もなく。

そんな自分を彼女――母は困ったような顔もせずただ頭を撫でた後、手を繋いでくれた。

大好きだった。愛していた。その母が自分の家族の次に愛し、慈しみを以て育てたのはこのガーデンに咲く花や木々。

もしかしたらその空間自体かもしれない。だから俺もこの空間が大好きだった。植物が好きなのも同じ理由。

 

 

―――真咲。

 

 

優しい声。応えるように駆けていく。半分ほど水の残ったアルミ製のじょうろを投げ捨てて。

がぼんと床に落ちる金属と零れ落ちる液体の音。派手に水が広がったかもしれない。付近の土がびちゃびちゃになるほどに。―――そんなこと気にも留めない。

ガーデンの中にも数種類ある食虫植物のうち、特にお気に入りのセラセニアについ数秒前まで水をあげていたことなど忘れていた。

嬉しかった。落ち着いたソプラノ声で名前を呼ばれること、それだけが。だから苔の生えた滑りやすい石床を注意することなんて思考からこれっぽっちもないほどすっ飛んでいて…

 

ずるり。右脚が床に引っ張られたようにつんのめってしまう。

情けない声を上げながら冷たい石との正面衝突を覚悟し瞼を強く閉じる。しかし、感じたのは頭部への冷ややかな衝撃ではなくて、微かに香るベルガモットと全身に感じる温もりで。

受け止めた体をそのまま包み込むような抱擁。

ふわりと舞う長い髪が広げる爽やかな柑橘の香り。そして、触れ合う肌から伝わる体温。

 

 

―――大丈夫?

 

 

心配の声と共に、回された左腕が背中をさするように撫でている。恐怖と焦りで早鐘を打つ心臓が徐々に元のリズムに戻っていく。

うん。と首を縦に振ると体を少しだけ離して、母は視線を右下に向ける。

真っ白な布に包まれ丸くなった小さな存在。自分の親指の第一関節くらいしかない瞳はガーデンを、世界を見ることなく閉じられている。

 

沙条綾香。その名を貰い今世に生を受けたもう一人の妹。

 

夢を見ているのだろうか。だとしたらどんな夢なのかな?

問いかけの代わりに、風の吹かないこの空間で少し耳を澄ませてみれば…聞こえてくる確かな生命の息吹。

 

わぁ。呆けたような声が温かい吐息と共に漏れていた。

こんなにも小さく、弱々しい存在だというのにしっかりと自分で呼吸している。

己の力で息を吸い、一生懸命に生きようとしている。ただ、当たり前ともいえる生命活動に感心していた。

幼かった故に自覚はないが、相当な間抜け面だったのだろう。母はふふ、と小さく笑い。

 

 

―――この子を…

 

 

―――()()()

 

 

―――あなたが守ってあげて。

 

 

微笑みと共に抱えていた命を、まるでプレゼントでも渡すかのようにそっと委ねられた。

想像していたよりも何倍も重い。思わず声をあげながら落としてしまいそうになる。抱える俺の腕の下で母がしっかりと受け皿のような形を両掌で作っていた事には気が付いていなかった。

もぞもぞと名を覚まさないくらいの振動を心掛け、何度か角度を変えながら落ち着いた体勢になる。その時にはもう額に冷や汗が浮かんでいた。

単純に自分の腕力が弱いとか、妹の体重が重いとかそんなものではない。―――確かな生命(いのち)()()をまだ細く頼りない幼き腕に自覚していた。

抱える腕の力を僅かに緩めてしまっただけで壊れてしまいそうな儚い生命(モノ)

母は今に至るまで二人分もの重みを幾度も感じ、愛と慈しみを与えながらあらゆる危険から守りながら生きてきたのだ。

だから―――母がその責任を任せるということの意味が幼い自分には理解できなかった。でも、無心に期待に応えたくて…ただ妹が可愛くて。それだけで理由なんて充分過ぎるほど。

 

「任せて」

 

そう言い切った時のことは何時如何なる時でも忘れることはないだろう。…だって―――母は笑っていた。

これ以上ってないくらいの満面な笑み。だというのにどうしてか、少しだけ不安になってしまうような…笑顔。

笑っていた。それだけは間違いない筈なのに…最初であって最後の涙を見せた時だったから。

幼い己が気が付く筈もなく、彼女自身己を強く見せることが上手だった故に知る由もなかったが、身体は以前よりも痩せ細り、綾香を抱えることが困難なほど衰弱しきっていた。

後に知ることになるが愛歌を生んだ時点で、受けていた魔術の加護が解けてしまったらしい。

生来より丈夫ではなかった故に三人目―――綾香の出産は大きな負担になることは両親共に判り切っていた。

だが、それでも彼女は綾香を生むという選択をした。

既に覚悟はできていたのだろう。そして、予想していたのだろう。

自らが居なくなってしまった後の顛末を。

 

自らの生命が間もなく尽き、終わってしまうことを。

愛する夫である男が…。沙条広樹が再び魔術師的な人間に戻ってしまうことを。

 

だから―――託されたのだ。

母親に代わり綾香を守り、慈しみ、祝福されて生まれてきたのだと識って貰う為に。

これは祈り、約束。何が有ろうとも決して破れぬ誓い。

そして、魂を永遠に縛り付ける茨の如き―――呪い。

 

数ヶ月後、医師の宣告した通り、母は亡くなる。

死の直前、その瞬間を悟り落してしまわぬよう息子に預けるまで、言葉も紡ぐ事のできない綾香を腕に抱えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごとごと音をたてながら蓋を揺らす鍋からは酸味の強いトマトの匂い。自家製のクミンやバジル、ブラックペッパーもほのかに香る。

沙条家、昼時の厨房は五感を刺激する香りと天上側には湯気が立ち込めていた。

魔術よりも家事を好み、厨房の主でもあった母が亡くなってから、沙条家の台所事情は長男である真咲が受け継いだ。

厨房に立つ母の姿が好ましくて、幼い頃から自ら並び立って作業することは日常茶飯事だった。

加えるなら同年齢の男子の基準から少し外れているが、レシピ本を好んで購読していたこともあり、料理という作業を苦に感じることは無かった。

唯一、母と自分の二人から一人になったことで一抹の寂しさを時折感じるくらい。

しかし、幾らかの年月を経るとやがて愛歌が加わり、厨房に立つ人間が再び二人となったことで寂しさと呼べる感情は知らぬ間に消えていた。

 

時々鍋の蓋を開け、お玉杓子(レ―ドル)を底から掬うように回していく。角切りにされたベーコンやジャガイモ、ニンジンが浮き沈みしながら朱色の液体を踊った。

食器が見えるようにと戸棚にはめられたガラスは湯気で曇ってしまっている。が、家にある食器の位置はおおよそ把握しているので問題はなかった。真咲が当然なら愛歌も必然の事。

 

あらかじめに用意しておいた計量スプーンで鍋の中身を一口分程度掬って口に入れる。正直、自分好みにしては少し辛さが足りない。それでも味付けはもうこれで終わりだ。

コンロの火を止め、保温のためにもう一度蓋をする。いつも通りのいい感じだ。

一段落したところですぐ脇で主食の調理をしている愛歌を窺う。

ぽつりと置かれた透明の耐熱容器。中身は九割方無くなっていたがバターとオリーブオイル、すりおろされて香りを増したにんにくの跡が僅かに残っていた。

所謂ガーリックソース。作ったであろう本人はオーブンと暫くにらめっこ。

およそ160度の熱に晒されているフランスパンを愛歌は待っている。一切の妥協もない最高の焼き加減を。

なんということもない日常の一場面。しかし、それだけで絵になるのはやはり愛歌という存在故だろう。

我が妹ながらその様子は年相応に…いや、それ以上に愛らしく見える。

少々気持ち悪いな。そんな風に内心己を恥じていると。ちょうど焼きあがって愛歌は小さく声を上げる。

 

「できたっ」

 

ちょっと焦げ付いたぶかぶかの白いミトンを装着し戸を開くと、籠っていた熱が一気に解放される。襲う熱気に愛歌は一瞬左のミトンで眼を覆った。

それでも一秒もしないうちに何事もなかったかのような振る舞いでガーリックトーストをトングで手際よく掴み、二つずつ。計四つの皿に乗せていく。

給仕が身に着けるような何の遊びもないエプロンだが、てきぱきと作業をこなしながらも優雅な仕草と愛歌の容姿が相まって、まるで理想のお人形遊びが顕われたようにさえ思える。

 

「ねえ。兄さん、味見してくれる?」

 

「ン…あ、一つ余ったのか」

 

細い指に摘ままれ差し出されたのは八つとは一回り小さなガーリックトースト。この大きさと厚さだったらラスクと呼んだ方が適切かもしれない。

見れば全ての皿には二つきっちりとトーストが乗せられていたし、何より几帳面さは沙条家随一の愛歌が間違えるなんてことはない。

均一な大きさに切っていたら発生してしまった端の部位だろう。しかしながら調理を間違いなくしているようで完成品と差異のない香ばしさとガーリックの匂いが食欲を誘った。

 

「ほら、あーんして」

 

「…恥ずかしいんだけど」

 

「別にいいじゃない。父さんも綾香もまだいないのだし。ほら、あーんして」

 

誠に不本意だが。内心思いつつも、まんざらでもない自分が存在するもの確かだった。

言われるままに口を開け、つままれたラスクを半分くらい、さくり。

ほんの一瞬だけ愛歌の指に唇が当たった。僅かだが、胸がどきりと高鳴って味の感想を忘れてしまう。

 

―――さくり。

もう一つ、気持ちのいい静かな咀嚼音。自分ではない。

真咲が半分齧ったラスクは愛歌の一口に消えてしまった。

さくさくと何度か反復して飲み込む。

 

「兄さんにとってはちょっとバターが多かったかしら」

 

微笑みながら小首を傾げてみせる。

摘まんでいた指の油をぺろりと舐める仕草が妙に扇情的に見えて思わず視線を逸らした。

 

「…とにかく、用意は終わったし。俺は父さんと綾香を呼びに行くからっ」

 

見ていられる筈もない。明後日の方向を向きながらぶっきらぼうに言い放って早足に厨房を飛び出す。

廊下を歩く途中で大きな鏡の洗面所を通り過ぎる。ちらりと一瞥しただけだったが、また愛歌が頭に浮かんで皺を寄せた。

鏡に映った自分―――我ながら冴えない顔に父譲りの焦げ茶色の髪。何も変化のない、いつも通りの沙条真咲。

飛び跳ねるかわいらしい二匹のうさぎが刺繍として施されたエプロンもいつも通り。だが、今だけは気恥ずかしい。

本格的に料理の勉強を始めた年の誕生日に愛歌より贈られた、手作りのものだという事実を嫌でも思い出してしまう。

 

「―――ふふふ、本当に可愛い人」

 

背中に受けた声に思わず振り向いてしまいそうになる。

一応は兄である人物に対して()()()などと、一体どういうことなのか。

言葉に乗った感情がどんな意味を持っているのかはわからない。

だが、愛歌はまるで見守る聖母の様な、それとも放蕩する妖精の様な笑顔で微笑んでいることは安易に予想できた。

三歳違いの妹に揺さぶられ、まるで弄ばれているみたいにも思えてくるが数年前からはただの日常に過ぎない。

一般的な家庭とは少し事情は違うのかもしれないが、沙条家ではこれが当たり前でありふれた家庭の一幕だった。

変わらない日常。だというのに―――ほんの少しの違和感と疑問を感じる。

あれは…いつからだったか。愛歌が兄である自分に対してまるで■■のような態度で…。

何故だろう。記憶に靄がかかっているように思い出すことができない。

何処かで魔術的な記憶干渉でも受けたのか。…なんて有り得ないか。

誰が、どんな意味を持ってするのか理由(わけ)が判らない。

雑念を捨てるようにかぶりを振る。早く父ともう一人の妹を呼びに行かねばならない。

 

二人とも―――特に()()はガーデンで花の世話をしながら昼飯(ランチ)を待ち遠しくしている筈だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




つい先日ようやくドラマCD全巻聴き終えました。

綾香にとって人類にとっての悪なのだとわかりつつも愛歌の最後の声が切ない…。


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