ボクは罪の十字架を背負った終焉を観測する (如月ライト)
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プロローグ&「取り残された二人ぼっち」

―人は皆、誰しもが罪人だ―

 こう言ったのはいったい誰だったのか、もしかしたら架空の言葉なのかもしれないが、それでもこんな言葉が生まれるくらいには人は誰しもが罪を背負って生きている。いや、むしろ罪を背負うことこそが人間たりえるのかもしれない。もしも罪を背負わなければ自我なんて生まれない、動物のようにただ本能の赴くままに生きていることだろう。そう、罪とは人間の自我の根柢に潜むものであり、人間にとっては必要悪ともいえるだろう。

 まぁ前置きは以上にして、ボクもキミも、そこの彼も彼女も皆罪を背負っている。

 例えば、誰かのモノを盗んだり、誰かを殺したり、はたまた嘘をついて誰かの心を傷つけたり…。ほかにも様々な罪はあるがあげていけばきりがないので今は割愛させてもらおう。

 人間は意図しなくとも罪を犯して、その罪を無意識に背負っていく生き物である。

 罪の大小は人それぞれだが、人間が生まれながらにして持った大きな罪がある。ちなみに言っておくがボクがここで述べたいのは彼の有名な人間が原初から持つ七つの罪のことではないということを理解しておいてもらいたい。

 ではその罪とは何か?

その罪は、恋だ。人に恋すること、それこそ人間が生まれながらにして持った罪なのだ。

 けれどなぜそれが罪なのか?

 例えば30後半そこそこの中年おじさんが小学生を好きになってしまったり、教師が教え子に恋をしてそのまた逆もしかり…

 それは社会的に立派な犯罪だ。恋愛は自由だとうたわれてはいるがこういうパターンだと人は生理的、倫理的嫌悪から恋を罪深いものにしてしまう。

 けれどそれ以外にもまだ恋の罪はある。

 例えばボクとキミが同じ人を好きになって、取りあった末どちらかを殺したり、互いの好きを許容し愛し合った末堕落したり…あげていけばきりがない。

 さらに言えば恋を募らせた結果相手を殺したいほどに愛してしまう、いわゆる偏愛に走ったりするのもまた罪となる要素だ。

 恋は人を盲目にさせ怠惰にさせ、そして殺人者に変えてしまう。それは神話の時代から続く恋の罪なのだ。人間はそんな危険な罪を母親の胎内で受け継がれ生まれてくるのである。母親の胎内で続く罪の無限ループだ。

 さて、前書きはこれくらいにして、これから語るのは今述べたものより重い恋の罪を犯した彼の話だ。彼が犯した恋の罪、それは禁忌の恋だ。恋してはいけない人間を恋してしまった、それが今から語る彼の罪であり、ボクが最後に観測した人間の話だ。

 彼の罪が作り出した甘美で淫靡で、世界すら嫉妬してしまう恋の話を、始めようか―

 

 

―第一章「取り残された二人ぼっち」―

 

 

「はぁはぁ…ごくっ…」

 小さな部屋に少年の荒い息遣いと唾をのむ音、彼が乗っているベッドがきしむ音がやけに大きく聞こえる。部屋は真っ暗で明かりとなるのは窓から漏れる青白い月明かりのみ。空に浮かぶ真ん丸の月だけが、部屋の中をのぞき込む権利を持っていた。

「んっ…」

 月明りはベッドに横たわるもう一つの影を映し出していた。少し強く抱きしめただけで折れてしまいそうな華奢な体に、成長期の少女特有の甘く禁忌の香りが漂う丸みを帯びかけた体のラインを浮かばせ、その体を守る絹のベールのようなきめ細やかで真っ白な素肌を携えた裸体の少女が、暗がりに映し出される。まだ幼さが残る愛らしい顔が不安そうに歪み、泣きそうに潤んだ少女の瞳が彼を捉える。けれど血走った彼の眼には彼女のそんな愛らしい小動物のような瞳も映らない。

 月明りは雲の満ち欠けでどんどん彼らを照らす範囲を広げていった。キラリ、と少女の手首に煌めく何かを、月は捉えた。それは手錠だった。少女は裸のまま手錠をかけられベッドに縛り付けられているのだ。けれど彼女は何一つ抵抗していない。抵抗するのを諦めたのか、それとも自ら拘束されることを受け入れたのか、途中からしかこの状況を覗けなかった月には理解できなかった。

「我慢できない…ごめん…」

 少年は口元からだらだらとよだれを垂らす。それはまるでエサを目の前にお預けをくらった犬のようで、その唾液はつつぅと垂れて少女の汚れなき肌を欲望の色に汚していく。

 辛抱できなくなった少年は裸で無抵抗な少女に覆いかぶさった。もう一度だけ彼はごめん、と口の中でつぶやき、獣の本能を解き放ち少女の体を貪った。

「んぐぅっ!」

 少女の悲痛な声が狭い部屋にやけに大きく反響して響いたが、彼はそれにかまわずにただただ彼女の体を喰らう、今まで我慢していた分を取り戻すように。

 ちなみに貪るとか喰らうとかの表現を用いたが、それは俗にいう性的に、という意味ではないことがこの現状を驚きの表情で釘付けになっている月を見れば明らかだ。

 少年は、少女の首と肩の間、ちょうど鎖骨のあたりに、まるで肉食動物が獲物を捕食するように、唾液溢れる口でかぶりついたのだ。ぐちゅぐちゅと音をたてながら少年の歯が肉に食い込みその隙間から血がぷしゅりと漏れ出す。ぎちり、と人間から発せられるとは到底思えない音が少女の体から響くと同時に、少年は力任せに首を逸らせた。それはまさにライオンなどが肉を引きちぎるのと同じ動作で、少年の口にも生々しい赤色をした血肉が咥えられていた。肉がえぐられた部分は真っ赤な血で濡れた患部が月明かりによっててらてらと輝きを放ちながら露出していた。

「んぐあぁぁぁぁ!あぁぁぁぁ!」

 少女が痛みに顔を歪めて獣的な絶叫する。痛みに体が耐えきれず体がガクガクと震え、それを逃がそうともがこうとするが腕は拘束されて動かない。代わりに響くのは手錠のガチャガチャという音だけだ。綺麗な金髪のツインテールも振り乱されぼさぼさとよじれていくほどに彼女は痛みに悶える。

「ごめん…痛いよな…でも…ガマンしてくれ…」

 少年は優しく彼女の頭を撫でる。すると不思議なことに少女は少し落ち着いたような顔を浮かべた。けれどそれも一瞬、少年が今度は彼女の柔らかなおなかの肉につつぅと舌を這わせてそして歯をたててそこをえぐり喰うとまた絶叫を浮かべる。開かれた腹から覗くてらてらと怪しげに輝く温かな臓物にも彼は口をつける。柔らかな臓物は歯をたてただけでぷしっと赤の生暖かいものを噴出して少年の顔に飛び散った。けれど少年はそれにもお構いなしに少女の体を貪るように喰らった。

 彼らの情事は続く。まだ未熟な少女の血が、肉が、臓物がぶちまかれてベッドに赤とも黒ともつかない歪な色の染みが広がっていく。それと同時に部屋になんとも言えないむわっとした血と臓物がまじりあった独特の淫靡な臭気が満ちていく。その立ち込めた人間本来の鼻をつまみたくなるような香りを吸い込みながらも顔をしかめることなく少年はちゅぱりと骨をしゃぶりそして力任せに噛み砕いて喉奥に血をまるで水の代わりとでも言わんばかりに飲み込んでいく。

 ぐちゃぐちゃ、くちゃり、べちゃべちゃ…生々しい肉の音が、咀嚼音が、血が噴き出す音が、少女が響かせる絶叫とまじりあい歪な狂乱のハーモニーを浮かべる。

 そのハーモニーこそが彼らの愛の証だった。少年が少女を愛し、少女が少年を愛する。互いにその気持ちはまだ言葉にしていないが、それでも互いが愛し合っていることは言葉にしなくてもわかった。その証こそ、この歪で加虐的で優しくもあるカニバリズムという禁忌の演奏に現れていた。

「おいしい…おいしいよ…雪乃(ゆきの)…」

 口元、いや、体中を少女の血と肉と臓物で汚しながらも少年ははにかみ少女にそう言った。ニッと見えた歯にも血肉がべったりと貼りつき赤く染まっている。

この少年が犯した禁忌はカニバリズムだけではなかった。もう一つの彼の人間としての禁忌、それは…

「うん…もっと食べていいよ…私にかまわず好きなだけ食べていいからね…お兄ちゃん…」

 痛みと涙と返り血で顔をぐちゃぐちゃにしながらも少女、雪乃は少年、兄に笑みを浮かべてみせる。その笑みは何事も許容してしまうほど優しく慈しみを帯びたそれであり、恋人が向ける物にも似ていた。

 彼らは、禁忌の恋を、兄妹での恋をしてしまったのだ。同じ腹から生まれた者同士が恋をしてこうして貪りあうまでに発展した歪な恋。

 夜に響くのは彼らが奏でる禁忌のハーモニーのみ。異常な静寂を放つこの世界で、月だけが彼らの行為を最後まで見守っていた。

 

 美味しそうないい匂いがする。寝起きの俺が一番初めに感じたのはそれだった。自室の扉が開け放たれていてそこから香ばしいいい匂いが漂ってくるのだ。さらには何かを炒めているのか油がぱちぱちとはねる音がさらに寝起きで空腹な俺の腹にダメージを与える。

「お兄ちゃん朝だよ~。いつまで寝てるのかな?」

「ふわぁ…もう起きてるぞぉ」

「なら早く来てね、もうすぐご飯できるから」

「はいは~い」

 妹、雪乃に急かされて俺こと水瀬夏樹(みなせなつき)は朝の寒さを孕むこの空気から身を守ってくれていた布団から出て、高校の制服に着替えて食卓へ向かう。

 食卓にはスクランブルエッグにベーコンを炒めたもの、パン、スープと豪勢なもので、ニコニコ顔をした雪乃が調理していた時に着ていたエプロンをたたみながら俺の到来を待っていた。リビングの大窓から漏れる朝の光に目を細めながら俺は食卓へつき旨そうな香りを漂わせる朝食を食べる。

「いただきます…もぐもぐ…」

「どうお兄ちゃん?おいしいかな?」

「うん、うまいぞ」

「えへへ、よかった…ちょっと卵が古かったからあんまりおいしくないかなって思ったんだけど、大丈夫そうだね」

「このスープもなかなかに絶品…相当手間かけたんじゃないか?」

「残念!インスタントでした!」

「これがインスタントなんて…食文化革命!」

「アハハ、お兄ちゃんってば何言ってるのよもう…」

 二人で暮らすにはやけに大きすぎる部屋に俺たちの楽しそうな談笑の声が響く。

 某県某市、そこにあるとあるマンションの一室で俺と実の妹、雪乃は二人っきりで暮らしている。父親と母親は3年前事故で死んだ。彼らの死後遺された遺産と多額の保険金、そして親戚の人たちの協力のおかげで今俺たちはこうして二人で生活できているというわけだ。

 16歳のまだまだ独り立ちできない妹と今年で17の俺、その二人の暮らしは決して充実しているとは言い難いが、それでも楽しく幸福なものだった。

「ふぅ…ごちそうさま。やっぱり雪乃の料理はおいしいな。毎日食べても飽きないよ」

「そんなに改まってどうしたの?もしかしてご機嫌取り?」

「そ、そんなんじゃないっての」

 雪乃がニヤニヤとした笑みを浮かべる。ただ本心を告げただけなのにこのからかい様に俺は顔が熱くなるのを感じた。

「いいよ、言ってみて?晩ご飯に何か食べたいものとかあるんじゃないの?私の機嫌を取って作ってもらおうとか思ってるんでしょ?」

「そんなつもりじゃないけど…まぁいいか。それじゃあハンバーグを頼む。久しぶりにがっつりした肉料理が食べたくってさ…」

「はいはい、いいお肉が見つかったらね。ほらお兄ちゃん、もうすぐ学校だよ?」

「あ、そうだな。行ってくるよ」

 時計を確認して俺は急いで玄関へ向かう。靴を履き替えて扉を開けて外へ出る。まるで時間が止まってしまったと思えるほど静寂した世界へと俺は歩を進めた。

 

 現在12月、冬の本格的な寒さを孕む風が俺の体を吹き抜けていく。肌に突き刺さるような寒さに耐えきれなくなりカバンに入れていたマフラーを巻く。男にしては珍しい赤のマフラー、けれどこれは俺にとってとても思い入れのあるものなのだ。去年の誕生日に雪乃が俺にくれたのだ。あの時の恥ずかしそうな照れくさそうな雪乃の顔は脳内に焼き付いて離れない。このマフラーをつけるたびにあの日のことが思い出されてニヤニヤと笑みを浮かべてしまう。傍から見ればマフラーを巻いた途端ニヤニヤした変人に見えるだろうが、俺の近くには誰もいないのでセーフだ。俺と同じように登校を急ぐ学生も、朝の散歩を楽しむ老人も、会社へ急ぐ車も、朝の健やかさに喜ぶ鳥すらいない。たった一人の通学路を俺は進んでいく。コートのポケットに手を入れて爽やかな朝の空気を独占しながら禿げ散らかした木々の通学路を歩んでいく。真白の吐息をこぼし、寒いな、なんて一人世界に呟きながら。

 

「また俺が一番乗りか…」

 今日も登校したのは俺が一番早かった。教室のカギがかかりガチャガチャと虚しい音をたてる扉に背を向ける。誰もいない教室を背にして、誰もいない廊下を歩き、静まり返った職員室から鍵をもらい、また誰もいない教室に戻る。

本当にこの学校のみんなは寝坊やらサボりが多い。こうやってまじめに朝いちばんに登校しているのは俺くらいじゃないか?

 内心でそうぼやきながら俺は扉を開けて一番後ろの自身の机へ突っ伏した。机独特のあの匂いが鼻をつく。固く無機質で冷たい机から顔をあげると教室全体が見渡せる。丁寧に並べられた机といす、数多の生徒の思い出に汚れた壁、冬の冷気を流し込む窓、そのどれもが俺が学校に、いや、日常にいるんだという事実を改めて感じさせた。そして一番前の大きな黒板、そこに書かれた文字に俺はため息をこぼした。

「また自習か…」

 普通の学生なら自習と聞けば喜ぶのであろうが、俺の場合はそうではない。昨日も、その前も自習だからうんざりなのだ。先生が休みだから仕方ないのだが、俺が嫌だと思うのはそこではない。

「今日もアイツらは休みか…」

 友人の席が空いているからだ。俺の友人たちが座っているそこは総じて空っぽで、なんだか俺だけ取り残されたみたいに思える。友達がいなくては自習中の醍醐味であるおしゃべりができずつまらないのだ。ま、休みでいないやつのことをどれだけ望んでも現れるわけもなく、授業開始のチャイムが虚しく校舎に響き渡るのと同時に俺は教科書とにらめっこを始めた。ただ教科書を眺めて適当な問題をノートに写すだけの学園生活が今日も始まる。

 

 昼休みを告げる鐘が鳴る。この鐘の音には学生を開放的な気分にさせる魔力が込められているんじゃないかと常々思う。その鐘の音は普段の授業開始終了を告げる合図と何も変わらない音色なのに、この時間だけはやけに楽しみに聞こえるのだ。ようやくのお昼休みに俺の腹も歓喜の鐘を漏らした。

「さて、飯食いに行くか」

 俺は弁当箱をもって食堂へ…向かう前にある場所へ向かう。そこは放送室、俺の日課であるお昼の放送をかけるためである。操作パネルのスイッチを入れてプレイヤーにCDを入れ音量調節のつまみをいじれば準備完了だ。再生ボタンを押すと恐ろしいほどの静寂を貫く校内にロック調で世界をニヒリズムに歌うバンドの音楽が響き渡った。俺がお気に入りのバンドの曲に自然と鼻歌が乗ってしまう。友人たちが総じてこのニヒルさが分からないと文句を垂れたのはこのバンドの新譜を買いに行った時だったか。けれどもうこのバンドの新譜を買いに行けないのだと思うと少し悲しくなった。このバンドだけではない、あの大物歌手も、大人数で歌うアイドルグループも、もう新曲を出さないから…

「…ってお昼時になにしけた顔してるんだよ、俺」

 沈みかけた気分を盛り上げるように俺はまた鼻歌を歌う。歌というのはすごいもので、鼻歌を歌っていると気分がよくなってくるように感じられた。ごまかした悲しみは雪乃が作ってくれた冷めてもおいしいお弁当とともに腹の底へと流し込んだ。

 

 空がオレンジの色合いを孕み始めた頃、ようやく長かった勉強の時間ともおさらばだ。荷物を片付けて俺は教室を出る。俺が最後に下校する人間だから鍵を閉めるのも忘れない。今日はどこへ寄り道をしようか、そんなことをぼけぇっと考えながら駅前へ。

「…ま、今日もやってないよな…」

 けれど駅前のお店はどこもやっていなかった。友人たちと毎日のように通っていた美味しいたい焼き屋さんも、雪乃が好きって言っていたケーキ屋さんも、休日入り浸っていたカラオケボックスですら開いていない。駅前は恐ろしいほどに閑静で冷たい空気が吹き抜けるだけだった。普段の喧騒が嘘みたいに切り離されたそこには一種の恐ろしさすら感じられる。

何も収穫はなく仕方ないので帰路へつく。夕暮れに染まる街だが、カラスの鳴き声は聞こえない。ただ感じるのは夜が訪れる気配のみ。寒さを増していく道を一人歩きながら俺は温かな我が家へと急いた。

 

「ただ今、雪乃」

「あ、お帰りお兄ちゃん!ねぇねぇ聞いて!今日ね、ちょっと遠くのスーパーに行ったんだけど…いいお肉が見つかったの!だから今日はお兄ちゃんリクエストのハンバーグだからね!」

「まじで!?ハンバーグほんと久しぶりだから楽しみだなぁ…」

 帰ってくるなり満面の笑みで雪乃に迎え入れられる。キラキラと輝く雪乃の笑顔にどきりと胸が高鳴るのを感じた。それに出迎えてくれたのは笑顔だけではない。美味しそうな肉が焼ける匂いが漂ってくる。久しぶりに嗅いだハンバーグが焼ける匂いに子供のように心がはしゃぐのを感じた。さらにその奥からカレーのようなスパイシーなにおいも漂っている。まさかと思って俺は勢いを隠し切れずに尋ねた。

「なぁ!今日ってハンバーグカレー!?」

「うん、そうだよ!お母さん仕込みのハンバーグカレー!お兄ちゃんの大好物だったよね?」

 何か大きな行事で頑張った日、例えば運動会だったり音楽会だったり、その日は絶対に母さんはハンバーグカレーを作ってくれた。それを目当てで行きたくもないマラソン大会にも行ったな、なんて昔のことをふと思い出した。

「もうちょっとで出来上がるから待っててね」

「あぁ!楽しみだなぁ…」

 着替えを済ませてからリビングで待機、その間することもないので雪乃の調理姿を眺めることに。てきぱきと働くその背中はどこか母親を思わせるところがあった。両親が死んでから家事はずっと雪乃の仕事になったが、当時は今みたいにこんなてきぱきとしていなかった。すぐにミスをして火傷して俺に泣きついてきたり…できないなりに可愛げがあってよかったなと感傷に浸っている間にもいい匂いは充満して腹の虫をくすぐる。そのいい匂いと暖房の温かさ、そして退屈に身を任せていると自然とあくびが漏れた。瞼もだんだんとずっしりと重くなってきている気がする。気がつけば俺の意識は眠りの奥底に落ちていた。

 

「うぅ…ぐすっ…おかあさぁん…おとうさぁん…」

 少女が、棺の前で泣いている。目の前の二つの棺、そこにはかつて両親だったモノが入れられている。けれどそれもほんの一部だ、両親は爆発事故で体が吹き飛んで死んだ、今この棺の中におさめられているものは両親の残骸から出来上がったただのピースの抜けた不完全なパズルだ。出かけ先で車のハンドル操作を誤りガードレールに衝突し炎上、漏れ出したガソリンが引火し爆発を起こした、と当時まだ幼かった俺にはそう伝えられた。普段通り笑顔で両親が帰ってくると思っていた俺たちは相当な心の傷を負った。それは心に穴が開いたとかでは表現できないほどの衝撃で、今もこれが夢なんじゃないかと思える。けれどこの現実がどうしようもなく夢じゃないということは嫌でも理解できる。それはこの胸の痛みが証拠だ。ぽっかりと無くした心のピースがまるで傷口が空気に触れた時のようにピリピリとした痛みを身体に送り込んでくるのだ。

「泣くな…雪乃…」

 頬を伝うこの熱さも、現実の証。胸の奥から溢れてくる熱くて、それでいてどこか冷たい思いが、どうしても現実だということを俺に引き留めさせた。そして、目の前の妹の涙も、俺に現実を突きつけた。

「だって…お兄ちゃん…私たち…これからどうしたらいいの…?お父さんもお母さんも死んじゃって…うわぁぁぁん!」

「大丈夫…兄ちゃんに全部任せろ…俺が父さんたちの代わりになるから…」

 子供の俺は何の計画もなくそんなことを言った。ただ、妹をなだめるためにこぼした言葉、けれどそれが今の俺を形作ることになろうとは当時は全く思わなかったが。

「ほんと…?」

「あぁ…これからずっと俺はお前を守っていくから…だから…泣かないでくれよ、雪乃…」

「うん…!」

 泣きはらした真っ赤な瞳、それでもまだ涙があふれてくるそれをむりやりに細めてぐしゃりと歪な笑顔を作る雪乃。無理をして作られた笑顔だということは誰が見ても明らかだ。そんな見え透いた笑顔でも、雪乃は俺のために笑ってくれたのだ。俺は、無意識に妹の体を抱きしめていた。幼くて小さな体、悲しみに震えているけど確かに熱を帯びたその体を強く強く抱きしめた。どうしてこうしたのかわからない、雪乃のむりやりの笑みを見たくなかったのか、それともその笑みに愛しさを感じたのか、当時の俺にはわからなかったが、今の俺ならわかる。それは、雪乃に感じた初めての恋心のせいだ。

 俺はあの日の笑顔で、涙交じりのくしゃくしゃの笑顔で、雪乃に恋に落ちたのだ。妹だとかいう倫理的概念を超えて俺の恋心は、生まれたのだ。そしてその恋心は、俺を罪人に変えた―

 

「お兄ちゃん…起きて…起きてよ…おーい!」

「…んあぁ?」

「お兄ちゃんご飯できてるよ!ほら、早く起きる!」

「あ、あぁ…」

 瞳を開けるとそこには成長した雪乃、いや、現在の雪乃がドアップで映った。いくら呼んでも起きない俺の顔を覗き込んでいたのだろう、少し心配そうな顔を浮かべていた。

(…あの日の夢、か…そういえば全部、あの日から始まったんだよな…)

 今も続く妹への好きという気持ち、その開始地点を思い出しドクンと心臓がはねた。目の前の雪乃が愛おしく思えてたまらない。きっと懐かしい母さん特性カレーの匂いで昔を思い出してしまったのだろう、なんて考えながら俺はまだ重たさの残る瞼を擦った。

「もうお兄ちゃんってば…よだれ、ついてるよ?ご飯食べる前に顔洗ってきたら?」

「うん…そうする…」

「あ、そうだ。お兄ちゃんさ、寝てるときずっと私の名前呼んでたけど…どんな夢見てたのかな?」

「え!?俺寝言なんて言ってたのか!?」

「うん。そりゃもう大きな声で私のこと呼ぶからさ…なんかこわくなっちゃった…で、どんな夢見たの?もしかして…エッチな夢とか?そうでしょ?お兄ちゃんエッチだもんねぇ。夢の中で私にエッチなことして喜んでたんでしょ?寝顔がニヤけてたよ」

 雪乃がニヤニヤとした笑みを浮かべながら俺に尋ねてくる。あの夢を見た後ではそんな雪乃の表情の変化一つ一つが愛おしくて我慢できなくなる。どうしようもない劣情と、空腹感が湧き上がって仕方がない。

「う~ん…とりあえず、内緒ってことで、よろしく!」

 こんな調子でいては俺の心がヒートアップしすぎて持ちそうにない、というわけで急ぎ足で洗面所へ向かう。自身の顔に浮かんだニヤニヤを落とすように顔を洗った。けれどどういうわけかそのニヤニヤは俺の顔に張り付きいっこうにとれなかった…。

 

 世界に夜の帳が訪れる。それはいくら世界が静寂だからといって変わることがない不変の事実だ。そしてまた、明日が来る。これもまた不変であり、世界がどんな状況に陥っていても変わらないのだ。そう、世界が今、どういう姿をしていようとも―

「お兄ちゃん、今日はどうだった?」

「ん?まぁそこそこに楽しかったぞ」

「そういうことじゃなくて…」

 母さん直伝ハンバーグカレーをつつきながら俺は首をかしげる。雪乃が言いたいことがいまいちつかみかねないのだ。

「…生きてる人、見つかった?」

「うんにゃ。全然。人っ子一人いない」

「そっか…やっぱりもう…誰もいないのかな…?」

「そうかもしれないし、違うかもしれない…世界に俺たち以外人がいないなんてやっぱり信じられないしさ」

「けど少なくとも私たちの周りには誰もいないでしょ?」

「ま、まぁ…そう、だな…」

「やっぱり…みんな消えちゃったんだよ…」

 雪乃の寂しげな表情に俺もつられて気分が落ち込んでしまう。やはり、世界にはもう、俺たちしかいないのだろうか…?

 外は生命の明かりなど一つも見えない闇そのもので、明かりのもとにいるのは俺たちだけ。光もなければ音もなく、命もない。

 この静寂の世界で生きるのは、きっと俺たちだけ。それでも世界には非情にも明日が訪れる。これは俺たちの、世界の最後の生き残りの、俺たちだけの明日の話―。

 

 さて、物語を進めるにあたってやはり振り返っておかなければいけない過去というものが確かに存在する。この物語では、そう、どうして俺たち以外の人間がいなくなったか、ということだ。それはちょうど1週間ほど前2016年12月14日にさかのぼる。その日こそ世界最後の一日で、俺たち兄妹の平凡な日常の終わりを告げる一日で、そして、俺の思いを雪乃に打ち明けた日でもあった―。

 

「おはよう…今日も寒いな…」

 12月の半ばごろにしてはやけに冷え込む今日この頃、コートのポケットに手を突っ込み寒さに身を縮まらせながら俺は2年3組の教室へと入った。教室内は寒さに負けることなく皆楽しそうに談笑していた。その会話のほとんどがもうすぐそこに迫った冬休みの予定やら彼氏彼女へのクリスマスプレゼントをどうするかなどといった会話だ。例にも漏れず俺の親友の少年も俺に気付いてその話を吹っかけてくる。

「おっす夏樹!お前クリスマスどうするんだ!?学校ももう終わってるしさ、どうせ彼女とかいないんだろ?なら俺たちと一緒に男だらけのクリスマスパーティーやろうぜ!」

 犬のような人懐っこい笑顔を浮かべたこの少年は黒崎秋広、高校に入ってからできた親友だ。黒崎は尻尾があればパタパタと振っているであろうテンションで俺にそう聞いてくる。

「黒崎、こいつ誘っても無駄だって。どうせ妹とクリスマス過ごすんだからさ、なぁ?」

「ん?あぁ、まぁその予定だけど…」

 茶髪の少し不良じみたこちらの少年は春宮慶次、小学生からの親友で高校に入ってまでもずっと同じクラスになるという妙な運命を共有させられている。ちなみに不良っぽいのは見た目だけで中身はガチガチのオタクだ。付け加えて言えばこいつのせいで俺もなかなかにオタクの道を進むことになってしまった。

「そうなのか?お前この年にもなって妹とクリスマスって…シスコンかよ。ぷっ」

「笑ってやるな黒崎。こいつの妹めっちゃかわいいんだからさ、リアル女が嫌いな俺が言うんだ、間違いないって。そんな可愛い妹ちゃんがいたらそりゃシスコンにもなるって。な、シスコンの夏樹君?」

「うっせぇ。シスコンで悪いかよ」

「悪いとは言ってねぇよ。てか逆に羨ましい…俺にもあんなにかわいい妹がいたらなぁ…毎朝お兄ちゃん起きてって風に起こしてもらって、特製朝ご飯を食べて行ってきますのチューしてもらって、お弁当も妹お手製で、晩ご飯もお手製、夜は一緒にお風呂入って一緒に寝て…あぁくそ!妹欲しい!」

 春宮の不純な叫びが教室の喧騒に飲み込まれる。そんなラノベみたいな妹はいないというツッコミはあえてしないでおく。その中の半分以上は心当たりがあるからだ。行ってきますのチューやらお風呂や添い寝はないが、確かにそれ以外は当てはまってしまう。こんなことを言えばきっと春宮に半殺しにされかねない。

「てかお前お姉さんいるだろ。姉で我慢しろ」

「は?姉貴?あんなのが姉貴なんてありえねぇし。ガチガチのドルオタで同じような顔した男のアイドルの写真ばっかり部屋に飾ってさ、しかも毎日毎日俺の事キモオタとか呼んできやがるし…姉っていうのはだな基本弟ラブで弟を甘やかしてくれるものなんだよ!なのにあの姉貴ときたら…」

 どうやら俺の一言がトリガーとなったらしい。春宮はひたすらに姉への不満をまるで呪文のようにこぼし始めたが何度も聞かされたことなので俺の耳は華麗にそれをスルーした。

「あ、おはよう夏樹君…」

「ん?あぁ、露子(つゆこ)か、おはよう」

 か細い声に気付いて振り向くとそこには黒髪おさげのメガネっ子の千葉露子がちょうど登校してきた時だった。見るからに文学少女の彼女は中身も思いっきり文学少女で図書室に入り浸っている。休み時間も俺たちと話をするか本を読むかの二択だ。

そういえばこいつとの出会いはなかなかに特殊なので少し話しておく必要があるだろう。

 

それは俺が高校1年の時の秋ごろのことだ。よく驚かれるのだが案外読書家な俺はこの日も週に1回のペースで通っていた図書室へと向かっていた。この日も先週借りた本を返して今週は何を読もうか、なんて何ら変わりない週1回の楽しみを探していた時だった。

「お…乱歩か。そういえば俺推理モノってあんまり読んだことなかったな…この機会に一回読んでみようかな」

 本棚にあった乱歩の傑作集に手を伸ばす。と、その時だった。俺が手を伸ばしたのと同じタイミングで真っ白でほっそりとした手が俺の狙っていた本へと伸ばされた。手と手が触れあいそうになったところで二人とも遠慮して手が離れる。

「あ、あの…どうぞ…」

 続いてか細い女の子の声が聞こえた。俺は声の方向を見る。するとそこにいたのはいかにもな文学少女で、俺はその姿に見覚えがあった。

(この子…確かずっと図書室にいる…)

 週1回しか図書室に行かないけれど、行けば必ずいる女の子だ。窓際の一番奥の席に陣取ってそこで目を輝かせながら黙々と文字の旅をしているのを見たことがある。噂に聞くと毎日図書室にいるそうだ。

「いや、俺は別にいいよ、ほかの本を探すから君が読みなよ」

「いえ、私が別の本を探しますから…」

 互いが困った顔で遠慮しあう。ふとその視線が交わり、ぷっと互いが同時に噴き出してしまった。場に漂っていた一種の緊張にも似たものが緩和されていく。そのタイミングを見計らって俺はさらに声をかけた。

「そういえば君さ、ずっと図書室にいるけど…本、好きなの?」

「え…あ、はい。私、本が大好きで…そういう君も本、好きでしょ?よくここに来てるの見たことあるよ」

「あちゃ…ばれてたか」

「それにしても、君って珍しい質問するね」

「珍しい質問?」

 俺が尋ね返すとメガネをかけた女の子はふとその顔を曇らせた。

「うん…普通の人ならさ、図書室でずっと本を読んでる私を見たら一番に友達いないの?って聞くんだけど…」

「あ…」

 確かに図書室で一人黙々と、それもきっと毎日だ、読書していればそりゃ友達がいないのかと尋ねる人間もいるだろう。けれど俺はそうは思わなかった。

「う~ん…なんて言うかさ、君って本読んでる時とっても楽しそうに読んでるんだよ。昔さ、クラスに友達がいなくて仕方なく本読んでるやつ見たことあるんだけど…なんだかそいつ、顔が寂しそうでさ、本の内容なんてほとんど頭に入ってない、ただの時間つぶしに文字を目で追ってる、みたいな感じがしてたんだけど…君は心から純粋に本を楽しんでるって思ってさ。それで読書好きかなって思ったんだけど…あ、ごめん…嫌だよな、ほぼ初対面の奴からこんなこと言われて…」

 俺は言い終わった後にしまったと顔を歪めた。さすがに初対面の女の子にまるでずっと君のことを観察していました的なことを言ってしまったのだからひかれるのは確かだろう、けれど彼女は顔を輝かせて俺の方を見ていた。その瞳は嬉しそうに細まり、眼尻に少し涙が浮かんでいた。

「ふふ…そんなこと言ってくれたの、初めて…とっても嬉しいな…」

「そ、そうか…」

 彼女の嬉しそうな笑顔にたじろいでしまう。だんだんと自分がどれだけ恥ずかしいことを言ったのかを認識し顔が熱くなってくる。それを察知される前にこの場から逃げ出してしまおう、そう思って踵を返そうとした瞬間、女の子は俺の裾を握って引き留めた。

「君、名前は?私は千葉露子」

「あ、俺は水瀬夏樹だ」

「ふ~ん…夏樹君っていうんだ。いい名前だね…あ、ごめん!私ってば名前で呼んじゃってた!嫌、だったよね?」

「いや、別に嫌じゃない…」

 初めて女の子から夏樹と呼ばれてドキリとしてしまう。意識せずとも自分の頬が赤く染まっているのはもうわかっていた。

「ごめんね、もっと仲良くなりたいから名前で呼ぼうって思ったんだけど…よかった…」

「それじゃ俺も露子って呼ぼうかな」

「うん、いいよ。あ、そうだ夏樹君!おすすめの本紹介してよ!私もおすすめ教えるからさ!」

「あぁ、いいぞ」

 互いの好きな本や作家を言い合ったりしているとあっという間に時が過ぎていった、乱歩のことなんて頭の中から吹き飛んでしまうほどに楽しい時間が。下校時間を過ぎてもしゃべり足りなかった俺たちは一緒に帰るついでに古本屋へ行ってまた本について語り合った。きっと俺も露子も本のことを話せる友達が欲しかったのだろう。俺の場合黒崎は全然本を読むタイプじゃないし春宮はラノベしか読まないし、本の会話なんてろくにできなかった。そういうわけで露子は俺にとって大事な親友へとなった。

 その日から俺は昼休みは図書室で一緒に露子と本を読み放課後は古本屋や図書館を一緒に廻ったりした。で、二年に上がった時クラス替えで同じクラスになり今に至る、というわけである。

 

少し長くなってしまったがこのようにまるでギャルゲさながらの出会いを果たしたのが彼女、千葉露子だった。

「何の話してたの?」

「え?理想の妹と姉の話」

「ちげぇよバカ!クリスマスの話だよ!そうだ、千葉ちゃんもどう?男だらけのクリスマスパーティー、楽しいよ?ポロリもあるかもよ!?」

「クリスマス…」

「そう、クリスマス!ケーキもあるしチキンもあるぜ?な?一緒にパーティーやろうぜ!」

 春宮のことを軽くあしらって黒崎が露子に必死なアプローチをかける。けれどどうしてか彼女は上の空で話を集中して聞いていないようだ。黒崎はそれに気づいておらずまだぺらぺらとアプローチを繰り返す。

「大丈夫か露子?もしかして風邪か?」

「え?なんで?」

 黒崎の話を打ち切りそう尋ねた俺だが露子は首をかしげるだけだった。その顔は少し火照ったように赤く染まっている。ますます風邪の心配が高まる。

「いや、ちょっとぼーっとしてたっていうか上の空だったっていうか…ほんとに大丈夫か?」

「うん、大丈夫…ちょっと考え事してたの…あ、そうだ夏樹君、今日…」

「あ、そうだ!なぁなぁみんなこの噂知ってるか!?」

「なんだよ黒崎…お前ほんと唐突だな…」

 と、露子の話に割り込むように黒崎は叫んだ。その瞳はまるで小学生のようにキラキラと輝いている。

「2016年12月15日に世界は終わるんだってよ!」

 皆の間に一瞬鋭い静寂が走る。時が止まったように皆は静止するが、けれどやはりそれも一瞬だった。

「…露子、さっき言おうとしてたことって…」

「あ、それなんだけどね」

「おい無視するなよ!」

 俺としてはこの手のオカルト的話題は信じていないので極力スルーしていきたかったのだが、黒崎はそうはいかなかった。そういえばこいつは大のオカルトマニアだということをいまさらながらに思い出した。皆もそれを思い出したようで少しうんざりした顔を浮かべる。

「15日って…明日、だよね?」

「そう!明日ついに世界は終わるんだよ!すげぇよな!」

 楽しそうにはしゃぐ黒崎とは逆に露子は心配そうに顔を歪めている。

「はぁ…また滅亡論か…それってことごとく外れてきたじゃん…」

 春宮はため息交じりにやれやれとこぼす。けれどそれでも黒崎のテンションは下がらない、むしろ上がっていっている。俺は春宮同様ため息をこぼす側だ。確かに世界滅亡論はいろいろな場所で騒がれ、つい1年前の2015年にある種のブームにもなったが、やっぱりそれでも世界なんて終わらなかった。

「この噂な、実はどこにも情報のソースがないんだよ」

「ソースがない?どういうことだ?」

「ソースっていうか、噂の根拠になるものが全然ないんだよ。例えば過去の滅亡論にはマヤ文明だとかノストラダムスだとかそういう宗教とか予言が絡んできてただろ?しかもその論を後押しするようにNASAみたいな科学機関が証拠になるような事例を紹介してる、太陽の黒点がどうたらとかな。けど、今回のはそうじゃないんだ…」

 黒崎が意味深に一拍間をあける。皆がゴクリと息をのみ次の言葉を待つ。

「突然ネットの掲示板に投稿されたんだ…それも、3日前の夜だ」

 声のトーンを落としてそう語った黒崎だが、皆はそれに彼が望む反応を示さなかった。逆にやれやれ、話を聞いて損した、なんて態度でため息を吐くばかりだ。かくいう俺もため息以外出るものがなかった。

「はいはい、デマ乙。完全に一本釣り被害者です、はい」

「確かにそれは信じられないよ…ねぇ夏樹君?」

「あぁ。そんな信憑性も何もない…しかも匿名性の高いネットにはその手の噂なんてごろごろ転がってるだろ」

「いや、それがさ、信憑性ならあるんだよ…その投稿をしたやつの名前が、カサンドラだったんだよ」

「カサンドラって誰だっけ?聞いたことあるんだけど…」

「なら俺の出番かな。ちょうどこの前やってたゲームにカサンドラが出てきたから調べてみたんだよ」

 首を傾げた俺と露子に変わりさすがオタクの春宮は自慢そうにこう語り始める。

「カサンドラとは神話に出てくる女性の予言者だ。けれど彼女は予言者でありながらその予言を誰にも信じてもらえないという呪いにかけられていたんだよ。イタリアでは不吉とか破局とかって意味で語られるいわゆる悲劇の予言者だな。まぁ簡単に言えばこんな感じだ。詳しくはウィキでも見ろ。しかしカサンドラなんて名乗るとは…結構皮肉めいたハンドルネームだな。しかもトロイア戦争でトロイア軍を助けた予言をした双子のヘレノスを名乗らない辺りもなかなか…知名度の差か?」

 そのヘレノスというのは誰かわからないが、確かにもしもこの予言が本当で、それが今の俺たちみたいに誰も信じてもらえないとすれば、そのカサンドラという名も皮肉以上の意味合いを帯びてくる。だけどそれもしょせんハンドルネーム、皮肉と知ってそう名乗っているだけだろう。

「俺はカサンドラのことをよく知ってるからな!俺だけはカサンドラを信じるぞ!」

「おまえが信じた時点でそいつカサンドラ失格なんじゃないか?だって彼女は誰にも信じてもらえないんだぞ?もし信じる人間がでたら、それはカサンドラとしての意味を失うんじゃないか?」

「はっ…!確かに…なら俺はどうすれば…」

「いつもみたくバカしてればいいんだって。気づけば明日になってるからさ」

「明日になったら世界滅ばないじゃん!」

「だから世界なんてそう簡単に滅ばないっての…」

「いやいや!だからカサンドラが予言して…!」

 平行線を極める黒崎と春宮の会話をよそに、俺は露子に話しかける。

「あのさ、さっき言いかけたことって何かな?俺に何か言いたいことあったんじゃない?」

「え、えっとそれは…明日言う!」

「え?別に今日でもいいんじゃない?」

「だって…今日言ったらなんか死亡フラグになっちゃう気がするもん…ほんとに明日世界滅んじゃうかもね?」

「お前死亡フラグになること言いたかったのかよ…」

 話の内容は気になったが、明日話してくれるというのなら待とう。どうせ世界なんて滅ばない。何食わぬ顔で明日がやってきて、またつまらない日常が始まる。そう、その時の俺はそんな甘い考えをしていたんだ。

「ま、そういうことなら明日絶対話してくれよ?」

「うん!約束する!」

 結局その約束も果たせなかった。彼女が俺になにを言いたかったのかも、今になっては知る由もなかった。なにせ人類全員が不変と思っていた明日が、彼らには訪れなかったのだから。

 

 その時の俺には明日の世界の終わりよりも深刻な悩みがあった。それは、空腹だ。

 数日前からお腹が減ってたまらないのだ。けれどそれは普通の食事では満たされることはなかった。確かに食事をとれば腹も満たされる、けれどどこかそれでは満足していない自分がいた。初めのうちは何か物足りないなと思っていた空腹も今になれば死活問題にまでつながってしまっていた。とにかくお腹が空いてたまらない、けれど食事をしても意味がない。ならばどうすればいいのか、俺の本能はとっくにその答えを求めていた。

 ―雪乃を、雪乃の肉を、食べたい―

 それが俺の本能が導き出したこの空腹を満たすただ一つの答えだった。雪乃を見ただけで俺の腹の虫は暴れる。妹の少しぷにっとした二の腕や太もも、ちらりと覗く柔らかそうなお腹を見るだけで口の中に唾液があふれてしまう。気を抜けば妹のことを、雪乃のことを食べてしまえと脳が勝手に騒ぎ行動に移してしまいそうになる。必死に理性を総動員して抑えているが、限界が近いことはもうわかっていた。

 そしてそれが爆発してしまったのが12月14日の夜だった。

 

「お兄ちゃん?生きてるかな?お~い」

「んあ?」

「あ、生きてた。大丈夫?何回呼んでも返事なかったし…目開けたまま寝てた?よだれまで垂れてるよ?」

 雪乃のことを見ていたら空腹が襲い掛かってきて軽く意識が飛んでた、なんて口が裂けても言えるはずもなく俺は適当に濁して返す。それを大丈夫ととらえた彼女はリビングの扉を開けて夜の闇に染まる廊下へ。寝間着姿だからもう風呂も入り終えて眠るだけなのだろう。

「私もう寝るから電気消しておいてね」

「あ、あぁ…分かった…」

「それじゃお休み、お兄ちゃん…あ、ちゃんとベッドで寝るんだよ?風邪ひいちゃうからね!」

「あぁ、お休み…」

 俺の目の前から雪乃が遠ざかっていく。それは夜の別れであり、どうせ明日も会えるというのに、とてつもなく寂しくて名残惜しい。俺の空腹からか、それとも愛しさからくるものかわからないその感情、けれどそれは俺を動かすには十分な感情となった。

 そしてもう一つのトリガーが脳内で思い出される。

 ―明日、世界が滅亡する―

 それはほんのくだらない噂、何の根拠もない信じることもできないほど滑稽な嘘を孕んだ噂。けれどもそれがもし本当だったなら…ほんの1%、いや、それ未満の可能性で、明日が来ないのならば、俺は、後悔したくない。世界が終わる前に俺の気持ちをぶつけたい、俺の気持ちを、雪乃に知ってもらいたくなった。そこに生まれたもしもの可能性、否定するのは簡単だが信じるのは困難を極める滑稽な噂に俺は背中を押された。

「雪乃…待ってくれ…」

「え?どうしたの、お兄ちゃん?」

 雪乃はいつもの天使のような可愛らしい笑顔で振り向いた。その愛らしいしぐさに、今から告げることに不安を覚える。けれどもうトリガーは引かれたのだ。後戻りなど、できない。

「お前を…食べたいんだ…」

「え…?何、言ってるの…お兄ちゃん…」

 不安そうな雪乃の顔が薄暗い廊下に浮かび上がる。ありえない、とでも言いたげな表情が俺の心に突き刺さる。心に突き刺さった冷たい刃は俺の心をえぐりずきずきとした痛みを生む。けれどもう俺は後戻りできない領域まで、足を踏み込んでしまったのだ。

「だから…お前のことを、食べたいんだよ…」

「た、食べたいって…それって…私と、エ、エッチなことしたい、ってこと?」

「いや、違う…」

「え?それじゃ私…ご飯みたいにお兄ちゃんに食べられろってこと?」

「う、うん…」

 黙り込んでしまった雪乃は何かを考えているようだ、うんうんと唸り声が聞こえる。

「どうして、私が食べたいの?普通おかしいよね、人間を食べたいって…」

「あぁ、おかしいのは俺だってわかってる…けど、どうしても我慢できないんだ…ちょっと前から雪乃のことが食べたくなって仕方がなくなってるんだ…」

「なんで私なの?ほかの人は?」

 俺はそう言われてハッと気づく。そういえば雪乃以外にこの空腹衝動を感じたことがない。春宮たちを見てもおいしそうだとか食べたいと思わない。俺は雪乃だけを思い、雪乃だけを食べたいと願い続けてきた。雪乃の問いに首を横に振る。

「そっか…私、だけ、か…じゃあ最後の質問…なんで私だけ食べたくなったの?」

 きっと彼女は俺のこの衝動の根柢に潜む答えられない理由をつけさせて諦めるつもりだったのだろう。けれど雪乃のその質問に、俺の口は自然と動いていた。頭で考える前に、口が本心をこぼしたのだ。

「お前のことが、大好きだからだ」

「え…?」

「妹だとかそんなこと関係なく、一人の女の子としてお前のことが好きになっちゃったんだ…好きになってどうしようもなくなって…それで気がつけばお前のこと、食べたくなるほど好きになってて…お前の全部を味わわないと気が済まなくなってて…」

「…」

 妹は何も言葉を発しなかった。ただ黙って俺の話を聞くだけ。その沈黙がかえって俺の不安をあおった。頬が熱くなるのを感じるが、それ以上に心臓が不安で高鳴る。こんなに心臓がバクバク言っているのはきっと生まれて初めてのことだろう。

「そう、だよな…気持ち悪いよな…兄が妹を好きになるなんて…ごめん、忘れて…」

 俺のその言葉が終わる前に、暖かい何かが俺を包み込んだ。暖かくて小さななにかはぎゅっと俺の体を包み込む。ぎゅっとぎゅっと、自身の意思をぶつけるように、俺の体に抱き着いてきた。

「お兄ちゃん…いいよ…私のこと、食べて…」

「え…?でも…」

「お兄ちゃんの気持ち、伝わった…ずっとつらい思いしてたんだよね?我慢して我慢して…いいよ、私を好きなようにして…」

「…雪乃、無理、してないか?」

 そういった雪乃だが、体は小刻みに震えていた。不安と後悔と恐れと、その他さまざまなものがまじりあった震えを背に感じる。

「大丈夫だよ、お兄ちゃん…私のことはいいから…お兄ちゃんの好きなようにしていいよ…私、お兄ちゃんがしたいことなら全部してあげたいから…」

 

 雪乃はただそれだけ言うと俺をかつて両親の寝室だった部屋へと連れて行った。少しの家具とベッドしかない部屋、光は月明かりのみ、青白く照らされた部屋には一種の神秘的なものすら感じた。

「ここなら汚れても大丈夫だよね?食べるっていってもいっぱい血が出ると思うしさ、片付けるの大変でしょ?」

「あ、あぁ…ごめん、雪乃…!」

 ようやく食べられる、そう頭の中によぎった瞬間今までのためらいが嘘のように心からすっぱりと消え去り俺の理性はとうとう崩壊を迎えた。頭によぎるのは獣の本能、それに従って雪乃を力任せにベッドへと押し倒した。

「キャッ!お兄ちゃんってば…乱暴…」

「ごめん…ガマンできないんだ…もう…腹が減って死にそうなんだ…!」

「や、ヤダっ…!恥ずかしいよ…!」

 邪魔なピンク色のパジャマも、可愛らしい縞模様の下着もむりやり剥いでいくと、雪乃のおいしそうな瑞々しい肌が露わになる。女性らしい体つきになろうとしているその体は青い果実を思わせる。服をめくるたびにふんわりとしたいい匂いが鼻孔をくすぐる。さっきお風呂に入ったからか石鹸のような優しくて爽やかなにおい、それと混じって女の子独特の甘い香りが脳内を揺さぶり死にかけの理性をさらにゴリゴリと削る。

「はぁはぁ…雪乃…おいしそうだ…」

「お兄ちゃん…すっごく目が血走ってる…怖いよ…」

「ごめん…」

 怯えた雪乃の瞳に見つめられると心がギュッと締め付けられる。それは罪悪感からくるものではなく、愛しさによるものだ。雪乃が愛しくて愛しくてたまらなく、壊してしまいたくなる。今見せた怯えた瞳でさえ俺の興奮と空腹を高め心の内に眠っていた加虐心を呼び覚ますだけだ。

「ごめんな、雪乃…」

 今日何度目かわからないごめんを言った後、俺は雪乃の体に喰らいついた。まずは柔らかそうな二の腕に歯をたてる。柔らかそうといっても人間の歯では引きちぎれるか不安だったが、どういうわけか簡単に歯が肉に食い込んでいく。俺の体が雪乃の肉を喰らうために変わってしまったのか、もしくはそれ以外の何かが要因なのかわからない。ただわかるのは口の中に広がる雪乃の血肉のおいしさだけだ。まだ口に含んだだけだというのに口の中でそのうまさは弾けた。ぐちょりとした肉に染みついた雪乃の甘い味、ドロリと口の中に止めどなく溢れてくる血は生暖かくまるでスープのよう、彼女の血と混じって流れ込んでくる脂はとろっとろで口内の温度でじゅわっと溶けてしまう。

「ぐっ…!んっ…!」

 雪乃は痛そうなうめき声をあげるが俺の耳には届かなかった。俺の全神経はすべて彼女の血肉を味わうことだけに集中していたからだ。

「ぐあぁぁぁぁぁ!んぎぃぃぃぃぃ!あぁぁぁぁぁぁぁ!」

 少し力をこめると雪乃の体から肉が引きちぎれた。患部から血がぶしゅぅとまるで噴水のように噴出し俺の顔を、雪乃の体を、ベッドをべちゃべちゃに汚す。赤い血肉が張り付いた骨が露出する患部をおいしそうだと眺めながら、口周りに付いた血をぺろりと舐める。それだけでは飽き足らず雪乃の体に飛び散った血液も舐めとった。彼女の肌の香りと混じった命の液体は極上の一品となり俺の舌を楽しませる。さらに耳に聞こえる彼女の悲痛な叫びがまるで高級料理店に流れる優雅なBGMのように雰囲気を作り食欲を掻き立てる。

「痛い…!痛いよ…お兄ちゃん!」

「あむ…ぐちゅぐちゅ…ゆき…の…」

「お兄ちゃん!痛い!痛いの!死んじゃう!こんなに痛いの死んじゃう!」

 目を見開き身体がバタバタと暴れ俺を振り払おうと必死になる雪乃。彼女の本能の抵抗は激しいもので、暴れるその手が俺の頬の肉を掻き取った。びゅっと血液が頬から噴き出す。その温かい液体は雪乃の体に飛び散り彼女の赤と歪にも混ざりあう。

俺は無意識に彼女の頭を撫でた。昔雪乃が泣いていた時によくやっていたことが癖になって体に染みこんでいたのがつい出てしまった。こうしたら泣き止んでいたのだが今の痛みはこんなのじゃ我慢できないだろう、と思ったのだが彼女は唇をぎゅっと結んで痛みに耐え始めたのだ。瞳からは大粒の涙を流しびくびくと体を痛みに震わせているけれども、健気に痛みに耐えようとしている。俺はそんな痛々しくも健気でもある妹の姿に、さらに食欲を掻き立てられた。

 ―愛おしい、愛おしい、愛おしい―

 雪乃の全てが愛おしくてたまらなくて、食べたくなると同時に余計に好きになっていく。俺が好きになった女の子はこんなにもかわいくて健気だったのかと再認識させられた。

「雪乃…大好きだよ…」

 その一言は雪乃には聞こえていたのだろうか。彼女の体を食い散らかしながら言ったその言葉は本当に彼女にたどり着いたのか、それはもうわからない。なぜならその言葉を最後に俺の理性はすべて獣の本能に食い殺されたからだ。意識がフェードアウトしていくのが分かる。

俺はただの一匹の獣となり、雪乃の体を喰らった。肉も、血も、骨も、内臓も、髪の毛も、瞳も、子宮も、脳も、心臓も、たった21グラムの魂でさえ、すべてすべて喰らった。雪乃の全てを喰らい尽くすまで、俺の中に潜んでいた獣は姿を消さなかった。

 

「俺は…俺は…なんてことをしたんだ…」

 次に俺の意識が戻った時には、すでに何もかもが終わりとなっていた。食事も、夜も、雪乃の、命も…。

「俺が…全部、食べたんだ…雪乃を…雪乃…!」

 口の周りにはまだ湿り気を帯びた血がべったりとついている。頭の上からつま先まで全部全部雪乃の血で染まった身体と、赤のような紫のようななんとも形容しがたい色をした肉片たちと大きな赤の池を作ったベッドを交互に見て絶望に心が潰される。ベッドの上にいたはずの彼女はそのなんとも形容しがたい細かな肉片に姿を変えていたのだ。彼女の全ては、俺の腹の中。俺が大好きだった雪乃は、もう俺の腹の中にしかいないのだ。しかもそれだっていずれは消化され体内から排出されてしまう。

「雪乃…ごめん…俺、こんなつもりじゃ…」

 そう、本当はこんなつもりじゃなかった。ちょっとだけ、そう、ほんのちょっとだけ食べて終わろうと思っていたんだ。病院に行けば何とかなるくらいの量を食べて終わろうと思っていたのに、止められなかった。獣が俺の中から飛び出すのを、押さえつけられなかった。

けれどどれだけ言い訳しようと結局俺の中の獣だって俺自身だ。すべての罰は俺にあるんだ。俺が雪乃を食べたいといったから…。雪乃の優しさに甘えたから…。雪乃は、死んだんだ…。雪乃を、殺してしまったんだ…。

「雪乃…雪乃…」

 俺の頬に涙が伝う。その雫は顔に張り付いていた今はもういない彼女の血とまじりあい赤に染まる。赤のしずくが、地に落ちる。ぽつぽつ、ぽつぽつと、止めどなく落ちる。それは地で弾けて跡形もなく消えてしまった、まるで雪乃の命のように。

「お兄ちゃん…泣かないで…」

 絶望と悔しさのあまりとうとう幻聴まで聞こえるようになってきてしまったか。俺は自嘲気味な笑みを浮かべてまたせっせと涙をこぼす。

「お兄ちゃん…大丈夫…私は、生きてるよ…」

 ふと、俺の体がまた何かに包まれた。それはつい先ほども感じた暖かさで、俺の心が自然と落ち着くものでもあった。

「ゆき…の…」

「うん…お兄ちゃん…私はちゃんとここにいるよ…」

 何も纏っていない素肌の雪乃の熱が、俺の涙を乾かしてくれた。涙だけでない、悔しさも絶望も悲しみも後悔も、すべてすべて彼女の熱により溶かされ消え去ったのだ。今ここにいるはずもない彼女の熱で、俺の全てはゆっくりと溶けていった。

「大丈夫なのか、雪乃?身体は、痛くないのか?」

「全然痛くないよ。お兄ちゃんが食べた痕も残ってないし」

「そう、か…」

 と、俺はここで一種の恐ろしさに似た何かを感じた。雪乃が生きていてくれたことはありがたいのだが、どうして生きているのだ?ほとんど跡形もなく食べつくしたはずなのに、なんで生きているんだろう。その単純な疑念は俺の中に不安を引き起こすには十分すぎた。

「雪乃…お前、どうして…」

「えへへ…私、不死身みたい…」

 恥ずかしそうにそう笑った雪乃だが、その本心は窓から差し込む眩い朝日によって知ることはできなかった。

 

「なんだよ…これ…」

 その日終わったのは、なにも俺たち兄妹の普通の関係だけではなかった。世界が、終わったのだ。そう、何の前触れもなく唐突に、いつもと変わらぬ朝を迎えながら、それでも世界は滅んだ。聖書かなにかでは世界終末の際にはそれを告げるラッパかなにかの音が響くとか書かれていたが、結局そんなことはなく、世界は無音にして終わりを告げた。

「誰も…いない…?」

 身体に浴びた血をシャワーで洗い流した後何気なく覗いたベランダからの風景に俺たち兄妹は固まった。外に誰もいないのだ。通学途中の小学生やゴミ出しをする隣人、通勤のために走る車、さらには朝を告げる鳥たちも、何もかもいなくなっていた。窓から見える風景は確実な無音。

「お兄ちゃん…テレビ、映らないよ…」

 テレビも黒い画面から全く変化がない。試しにチャンネルを変えるがどこも同じで真っ黒な画面に俺たちの不安げな顔を反射して映すのみだった。さらに念のために押し入れの奥から父親が愛用していたラジオを取り出して電源を入れるがどれだけチューニングしてもノイズのざざぁ、という音が鳴りやむことはなかった。

「まさかあの噂…本当だったのかよ…嘘だろ…ドッキリだとしたら趣味が悪すぎるし…」

 いまだに信じられない。昨日聞いたあの滅亡のうわさが本当になるなんて。けれど俺の中に生まれた感情は信じられないといった驚愕ではなく、よかったという安堵だった。

 人類、いや、下手すれば動物すらいなくなったこの世界で俺の好きの気持ちを邪魔するものはいない。俺たちは堂々と兄妹で恋をすることができるというわけだ。そう考えて自然とこみあげてくるにやけた笑みを必死に抑える。

「お兄ちゃん…どうしよ…私たち、これからどうやって生きてけばいいの?」

「大丈夫だ雪乃…確か…」

 俺は雪乃にこのマンションの設備についての説明をした。例の大震災の後に建てられたこのマンションは耐震性が高く、それどころかあらゆる事態に備えて水の貯蓄、太陽光による発電、さらには独自の浄水システムが組み込まれている。この設備があれば余裕で一、二か月過ごせる、と雪乃に説明してやると彼女は安心したように顔を緩ませる。そのシステムがちゃんと働いているのはさっきシャワーを浴びた時に証明済みだ。

「あ、でも…ご飯とかどうしよ…」

「とりあえず近所のスーパーから缶詰とか長持ちしそうなもの集めてくるか」

「お金はどうするの?」

「こんな非常事態にまじめだな…」

「そう、だよね…今って非常事態なんだよね…」

 いずれ食料は底をつくだろうが、それはまだ先のことだろう。その時のことはまた後程考えるとして、次はどうするか。俺は今まで読んだサバイバル系のマンガを思い出す。

「そうだな…俺いったん外に出てくるよ。もしかしたら誰かいるかもしれない」

「わかった。それじゃ私は食べ物探してこようかな」

 というわけで俺たちは外へ出た。雪乃は自転車を、俺は父が遺してくれたバイクを走らせて街中を駆ける。もしかしたら、と淡い希望を抱きながら。

 

 けれどその希望もすぐに打ち砕かれた。隣り街へ行っても誰もいない、さらに遠くへ行くがやはりそこも無音の空間だった。声を張り上げるが返事はない。世界には俺が放つ音しか響かなかった。そしてその静寂は、俺にあることを気付かせた。

「もう、あいつらも…いないのか…」

 思い出されるのは友人の顔。いつもバカな話しかしていなかった黒崎に春宮、あのバカみたいなノリにうんざりしていたが心のどこかではそれが心地よかった。露子とももっと本のことについて話したかったな。そういえばあいつは今日何を言いたかったのだろうか。

 いなくなった親友の顔を思い出し涙がこぼれた。どうして俺は、俺たち兄妹だけは生き残ってしまったのだろうか。もしも俺たちもアイツらと一緒に消えていれば、つらい思いも罪悪感も抱える必要もなかったのに。

 けどどれだけ泣いたって世界に音は戻らない。ただただ静かな世界に俺の泣く声が染み渡るだけだった。その虚しい声音は地面に染み渡り小さな染みを作った。

 

 これが世界が終わった日の記録だ。あの日から俺はほんのわずかな希望を抱えて普段通り学校へと向かった。もしもだれか生き残っていた奴が登校してこないかと願ったのだ。そのもう一つの理由としては家事がめっぽう苦手で雪乃から一切手伝わなくていいからといわれたというのもあるが、本当の理由はさっき言った通り生存者を探したかったからだ。そうじゃないと、罪悪感に潰されそうになったからだ。どうして生き残ってしまったのかという罪悪感で。

「雪乃…雪乃…!」

「はぁはぁ…お兄…ちゃん…んぐっ…!」

 そしてあの日から俺はずっと、毎夜ごとに妹の体を貪り喰った。しかもそれだけでなく、とうとう兄妹の一線も越えてしまったのだ。目の前に横たわる大好きな少女の裸、それに我慢できる男がいるだろうか?というわけで俺も健全な青少年でそう言うことには興味津々なわけで、さらには世界に誰も俺たちの仲を咎めるものがいないという現状に、気がつけば体を交わらせてしまっていたのだ。妹の体を抱きながら、妹の体を喰らう、それは嗜好の背徳的快楽となって俺の脳内を揺さぶらせた。その中毒性の高い快楽を俺は夜毎に楽しんだ。これ以上はやめよう、そう思うのだがやめられなかった。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 雪乃のその言葉が、俺の決意を揺るがせる。儚げな、それでいて嬉しそうなその顔を見るたびに俺は彼女の優しさに甘えてしまうのだ。彼女は初めて一線を越えた時にさえこの顔を浮かべて大丈夫と言ったのだ、罪悪感に潰されて泣きそうになった俺の頭を撫でながら優しくほほ笑んで。その異常なまでの優しさに俺は依存してしまったのだ。どうしようもなく残酷で静かなこの世界に残るたった一つ与えられた優しさを孕む声に、縋り付くしかできなかった。

 

 ―私は毎夜ごとにお兄ちゃんに食べられる―

 お兄ちゃんは普段は優しい目をして私のことを見るけど、夜になるとぎらぎらとした、まるで獲物を狙う獣みたいな目で私を見てくる。それはお腹が空いたというお兄ちゃんの無言の合図だ。優しいお兄ちゃんは初めて私を食べた日以来私のことを食べたいとは一言も言っていない。それはきっと私のことを傷つけまいとガマンしているから。私は死なない異常な体だというのに、お兄ちゃんは私のことを気遣ってガマンしてくれているのだ。

「お兄ちゃん…お腹、空いたんだよね?いいよ、私を食べて。私のことは大丈夫だから…お兄ちゃんの好きなようにして」

 けれど私はそんなお兄ちゃんを見ているのが辛くていつもそう言った。すると途端にお兄ちゃんは嬉しそうに、けどそれを表に出さないように深刻そうな顔を浮かべて、ほんとに大丈夫か、って尋ねる。けど最後には本能にはあらがえないのか私の体を貪るようにして食べる。そしてついでとでも言わんばかりに、私のことを抱くのだ。別にそれに不快感はない。むしろ最愛のお兄ちゃんだからいいかなとさえ思ってしまっている。けれどそれが好きという感情からくる許しかどうかはわからない。お兄ちゃんは私のことを好きと言ってくれた。確かに私もお兄ちゃんのことが好き、昔から優しくしてくれて存分に甘えさせてくれてダメな時はちゃんと叱ってくれて、両親が死んだ時も慰めてくれて、けれどその好きはいわゆる兄としての好きではないのだろうか?私はそんなぼやけた好きの気持ちを抱きながら、今日もお兄ちゃんに抱かれ、食べられる。

「私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 その言葉通り、その行為に嫌な部分なんて全くない。お兄ちゃんに食べられるとやっぱり痛いけれど、でもそれでも嫌なんて感じたことはなかった。むしろ、嬉しかったのだ。嬉しいといっても私がどうしようもないマゾヒストだから、とかそんなつまらないものではない。私の嬉しいは、お兄ちゃんの役に立てたという満足感にも似た気持ちからくるものだった。

 さっきも言ったようにお兄ちゃんは私に優しくしてくれる。慰めてくれたり励ましてくれたり、時には叱ってくれたり…。でも私はお兄ちゃんになにもできていない。お兄ちゃんに私はもらってばかりなのだ。だから私は、お兄ちゃんに恩返しがしたかった。今までの優しさを返してあげたかった。だから、私はこの身を差し出した。お兄ちゃんが一番欲していた私の体を。そのために肉が引きちぎられる痛みも、骨が抉り取られる痛みも、内臓を力任せに抉り出される痛みも、ましてや死ぬ痛みも、いや、痛みだけではない、私の女の子の部分に押し込まれるお兄ちゃんの獣的感情も、すべて受け入れようと誓ったのだ。それが、お兄ちゃんが私に初めて求めてくれたことだから―。

 



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彼の者の名はカサンドラ

 世界が終わり一週間以上が経過した今日12月23日。相変わらず世界には俺たち兄妹以外存在しない。SNSやネット掲示板も漁ってみたが例のXデー以降の投稿は皆無だ。生存者を探して歩き回ったが結局成果もなく今日が訪れる。普通なら天皇誕生日ということで休みだがその祝う相手ももうこの世にはいない。けれど今日祝われるのは何も天皇様だけではない。

「お兄ちゃん!お誕生日おめでとう!」

 そう、俺も12月23日生まれ、というわけで今日は水瀬夏樹誕生日だ。この日を祝福してくれるのは今や妹一人、だけど彼女のお祝いだけで俺の心は十分に満たされる。愛しい彼女の祝福は世界人類皆からの祝福よりも重い価値が俺にはあるのだ。

「はい、これプレゼント!お兄ちゃん何が欲しいかわからなかったから気にいるかどうかわかんないけど…よかったら使ってよ!」

 目覚め早々から渡された誕生日プレゼント、丁寧にラッピングされたそれを破り開けると手袋が入っていた。黒を基調として白のラインが入ったメンズ物の手袋、俺はさっそくそれを手にはめた。

「お、あったかいな。それになかなか俺好みのデザイン…これならどんなに寒い日でも大丈夫だよ」

「えへへ。お兄ちゃんが気に入ってくれてよかった。安心したよ」

 雪乃がにぱぁと笑みをこぼす。その嬉しそうな笑みに俺もつられて笑顔になる。

「さ、お兄ちゃん!それじゃお外に行こうか」

「え?外?なんでだ?」

「だってね…」

 妹は一呼吸おいて、部屋のカーテンを開いた。そして窓の外の光景を指差した。眩しい光に目を細め一拍遅れて俺は外を眺めた。

「こんなに雪が積もったんだから!遊びに行かないと損だよ!」

 昨夜遅くからこの街に降った初めての雪、それは朝まで降り続き今や辺り一面銀世界になるほどに積もっていた。道路も、屋根も、乗り捨てられた自転車にも真白な装飾が施されている。それが太陽の光を跳ね返してキラキラと目が眩むほどの輝きを放ちつい目を細めた。

「いや、でも…寒いしなぁ…こんな寒い日はこたつで丸まっておこうぜ?ほら、よく言うだろ、猫はこたつで丸くなるって。猫派の俺はこたつで丸まっておくのが一番だよ」

「でも犬は喜び庭駆けまわるっていうよ?私犬派だしお外行こうよ!」

「でもやっぱり寒いのは嫌だしさぁ…」

「お兄ちゃんそれつけてたらどんな寒い日でも大丈夫ってさっき言わなかった?」

「あ…」

 ついノリで言ってしまった手袋の感想に俺はしまったと思う。ああいうのは言葉のあやというかなんというかなんだが…仕方ない。言ってしまったものはもう取り消せないのだし、それに久々の積雪だ、誰も見ている人間はいないんだし少しくらい童心に帰って羽目を外してもいいか。

「わかったよ。着替えるからちょっと待ってろよ」

「うん!」

 というわけで俺は外に出た。さっき妹からもらった手袋も、この前の誕生日にもらったマフラーも忘れずに出かける。雪乃の愛情こもったプレゼントのおかげか寒さはあまり苦にはならなかった。

「もう!遅いよお兄ちゃん!」

 あったかそうな白いコートに紺のスカート、さらに俺とおそろいの赤のマフラーが彼女の可愛らしさを余計に引き立てる。雪の中に彼女の金色の髪が眩しいくらいに映えて俺の目に映った。

「それじゃお兄ちゃん!いっぱい遊ぼうね!まずは何する?雪合戦?それとも雪だるま作る?あ!かまくらとかどう?」

「さすがにかまくらは無理だろ…ま、ここは無難に…おりゃ!雪合戦かな!」

 足元の雪を丸めて雪乃にふんわりと投げつける。彼女の体に着弾した雪玉は弾けて白のパウダーコーティングを施す。

「キャッ!冷たい…!もぅ…不意打ちはずるだよ!」

「ははは!勝てばよかろうなのだぁ!」

 俺はさらに雪玉を投げつける。雪乃が冷たそうに顔をしかめる。けれど雪乃はそれに怯まずにポンポンと俺に雪玉を投げつけてくる。

「えい!えい!どうだお兄ちゃん!」

「うわっ!さすがだ雪乃!でもこれはどうかな?」

「むむ…お兄ちゃんなかなかにやるね…でも私もまだまだ頑張るよ!」

 真っ白な世界に響く俺たちの楽しそうな声、それは静寂で冷たく染まる街に暖かさを染み渡らせていた。

 

 太陽がちょうど真上に昇っても俺たちはまるで童心に戻ったように遊んでいた。街全てが俺たちの遊び場だ。誰も咎めるものがない街中で雪玉を投げあったり雪だるまを量産したり、外は寒かったが俺たちの体と心はぽかぽかと暖かくなっていた。

「ふぅ…いっぱい遊んだな、雪乃」

「うん…さすがに…くたくた…しかも手が真っ赤…」

 雪の冷たさに手はもう赤く染まっていた。さすがに手袋越しでも冷たさは染みわたるもので、指先はかじかみもう感覚が死にかけている。

「こういう日はあったかい肉まんとか、食べたいなぁ…」

「肉まん、か…コンビニが空いてたらいいんだけど…在庫いじればあるかな?」

 というわけで近くのコンビニを物色、ちょうど冷蔵庫にまだ期限が大丈夫な肉まんを発見、電気も生きていたので蒸し器でそれを作る。世界が終わってもコンピュータでオート制御された電気はまだ各所に送られている。けれどそれもいつまで続くのか、いずれ世界からは電気がなくなり俺たちもいなくなる。そうなれば地球はこの後どうなってしまうのだろうか?また太古からやり直しか、それとももう生命と呼べるものは生まれないのか、そんな答えのない妄想を蒸し上がるまでの約30分ぼぉっと考えていた。

「そろそろ大丈夫かな…あちち。気を付けて食えよ?」

「ありがとお兄ちゃん!はむ…うん!美味しい!」

 雪乃は出来上がった肉まんに大きく口を開けてかぶりついた。美味しいものを食べると自然に笑顔が出るといったのは誰だったか、今の雪乃も最高に幸せそうな笑顔を浮かべている。

「あれ?お兄ちゃんはカレーまんなんだ」

「このスパイシーな感じが寒さに冷えた体をあっためてくれるんだよ」

 俺もカレーまんをほおばり自然と笑みが浮くのが分かった。じゅわっとした温かさが全身に染み渡り冷えた体をぽかぽかと温めてくれる。これにホットコーヒーがあれば完璧なんだが、贅沢はできないな。

「カレーもおいしそうだなぁ…お兄ちゃん、ちょっとちょうだい!私のもあげるから!」

「ん?いいぞ、ほら」

「あ~む…うん!ピリ辛でおいしい!お兄ちゃんの言った通りなんだか体がポカポカしてきたかも…それじゃお兄ちゃんも…あ~ん」

「うん、ノーマルもなかなか…」

 あれ?結構普通に食べてしまったが、これって間接キスなんじゃないか?口の中で租借しながらふと思い頬が熱くなる。毎夜ごとにもっと恥ずかしいことをしているはずなのに、間接キスくらいでもドキドキとしてしまう。やっぱり俺はどうしようもなく雪乃が好きなんだな、と白いと息をこぼしながら俺は思う。どうしようもなく愛おしくてどうしようもなく好きで、そんな彼女と二人きりで過ごせる今がずっと続けばいい、なんてガラにもないことを思ったりしてしまった。俺は心のどこかではこの終わった世界を喜んでしまっているのかもしれない。

「雪乃…」

 ぽつり、俺は愛しの少女の名を呼んだ。彼女は何も知らない無垢な笑顔を俺に向ける。直視できないほどに眩しく可愛らしい笑みに、俺はどう返していいかわからず頬を染めてそっぽを向くしかできなかった。昼過ぎの太陽の下、ドキドキした俺と無邪気な彼女、二人だけの不思議な時間がゆっくりと過ぎていった。

 

「ふぅ…いっぱい遊んだし帰ってお昼寝でもしようかな?あ、そうだ、お兄ちゃんの誕生日特性ディナー作らないと…でも缶詰とかでどうやって作ろう…?」

「いや、別にそんな豪勢なものはいいぞ?いつもどおりが一番だ」

「でもお誕生日は特別な日だよ?おいしいもの食べなくちゃ」

 家路につく最中そんなことを話しているとふと雪乃が歩を止めた。彼女はある一点をじっと見つめている。何だろうと思い俺もそこを見たがただの交差点だ。何も特別なものはないはずだ。

「お兄ちゃん、あれ…」

 雪乃がその交差点を指差すがやはり俺には何を示しているかわからず首をかしげるしかなかった。

「お兄ちゃんわからないの?あれだよ、あれ。あそこの地面、足跡がついてる」

「足跡?…あぁ、そうだな。でもそれがどうした?」

 確かにその交差点には足跡がついている。ちょうど商店街へ向かう方向に沿ってだ。けれどそれがどうしたというのだろう。

「今日私たちあそこ通った?」

「ん?いや、通ってないな…」

 俺はそこでやっと雪乃の言いたいことが分かった。それはこの世界ではありえないと思っていたもので、それでも俺が願っていたことだった。

「まさか…誰か、いるのか?」

「うん…絶対誰かいる…あとを辿ってみようか」

「あぁ、そうだな」

 

 足跡をたどっていき一つ分かったことがある。この足跡の持ち主は子供だ。雪乃の足よりも小さいことからそれが分かる。けれどどうして子供が、しかも今まで全くの音沙汰もなく生き残っているのか、それが不可解でたまらない。だがどれだけ頭で考えようと所詮は推測にすぎないわけだ。今はそんな余計な詮索を捨てただ走るしかない。この先に答えが待っているのだから。

「お兄ちゃん!あれ!」

 商店街のど真ん中に立つシンボルといってもいいほどの大きな木、クリスマスムードを中途半端に纏ったその木の下に、一人の子供がいた。子供はなぜか傘をさしておりこちらに背を向けているので大体の身長しかわからないがきっと小学校高学年くらいだろう。長靴に裾の長いロングコートが傘で隠れていない部分から覗いている。

「はぁはぁ…君は…誰だ?」

 精一杯走ったから息が上がっている。はぁはぁと荒い息をこぼしながらも俺は謎の子供に尋ねた。

「ボクのことかな?」

 男のようでもあり女のようでもある不思議な声音をこぼして子供はこちらへ振り向いた。その顔つきも男のようでもあり女のようでもある、中性的という表現も似合わない、そんな不思議な顔つきの子供だった。くりっとした瞳にふっくらとした頬、無邪気に笑う口元、少し短めのさらっとした栗色の髪、それは明らかに子供っぽいと分かるが、けれどみようによっては大人のような印象も与えられる。さらにこちらに向けられた笑みは天使のようにやさしげで穏やかなのに悪魔のように意地悪く感じる。

「もう一度聞くよ。それはボクのことかな?」

 まるで太陽のように温かみのある、けれど無機質で氷のように冷たい声音が俺たちの耳を震わせる。この謎の子供は、この世の表と裏、すべての事象を持ち合わせているように思われた。男であり女、子供であり大人、天使であり悪魔、そうだな、サイコロでいうと1と6,2と5,3と4の面を同時に兼ね備えた7のような存在、俺はこの子供からそう感じた。この7の子供は俺たちの次の言葉を寛容に、それでいて急かすような微妙な雰囲気を漂わせて待っている。

「あ、あぁ…君のことだ。君は、誰だ?どうしてここにいる?」

「そんなに一度に質問しないでくれよ。それにキミたちが聞きたいことなら全部ボクが話そうと思っていたことだしね」

 大人びているようで子供っぽい話し方で、ほんとのことを言っているようでもあり嘘をついているようでもある声音で子供は言った。そこでいったん俺たちを値踏みするように眺めるとコホンと咳をこぼして次の言葉を放った。

「まずはボクの名前を明かさなくちゃね。ボクは…カサンドラだよ」

「何…!?カサンドラ…だと…?」

 カサンドラ、それはあの終末の予言を投稿した者のハンドルネームだ。雪乃はそのことを知らなかったから何とも言えない顔をしているが俺は驚きで喉を詰まらせそうになった。今目の前にいるこのよくわからないやつがカサンドラなんて信じられるわけもなかった。

「ま、キミたちが神話に描いたカサンドラとは別人だっていうことは言わなくてもわかるよね?ボクはただ彼女の名前を借りてただ世界崩壊の時を告げただけ」

「お前…何を言っている?」

「ま、そのことはおいおいわかることさ。さて、話を続けようか」

「黙れ!はぐらかすな!お前のせいで…お前のせいで世界が滅んだんだぞ!それなのにそんなふざけた言い方で、しかもあっけらかんとして!」

 カサンドラの無表情な訳の分からない言葉に俺は怒りの声をあげた。こいつがすべての元凶だというのにこんなふざけた態度なのが我慢ならなかった。

「キミは何か勘違いをしているんじゃないか?」

「え…?」

「キミの言い方だとボクがすべての元凶みたいじゃないか。ボクはただキミたちに教えただけさ、世界が終わる日を」

「は…?」

「まぁ落ち着いて話を聞いてくれよ。言っただろ?ボクはキミたちの知りたいすべての話をするって」

「そうだよお兄ちゃん、今は落ち着いて…」

「あ、あぁ…」

 つい感情的になってしまった頭をどうにか落ち着けてカサンドラの話を促す。

「まずはボクのことから話そうか。キミたちの言葉を借りるならボクは神の使い、とでもいうところかな」

「神の…使い?いや、まったくもって意味が分からないんだが…」

「お兄ちゃん」

「あ、ごめん…続けて」

 雪乃の今は黙ってという視線につい怯んでしまう。彼女も聞きたいことがあるのだろうが今はただカサンドラの話を促すしかできないようだ。

「ボクは神が決めた世界の終わりの日を知らせるためにやってきたんだよ。そう、12月11日、ボクが予言を投稿した日だ。けどキミたちはほんと信じないな、そういうのを。わざわざボクが知らせてやったというのに嘘乙とか軽い言葉であしらって…あの屈辱は忘れられないよ」

 ぶつぶつと私怨をたらたらと流すカサンドラについ言葉を出してしまう。

「どうして神様は…世界を終わらせると決めたんだ?」

「あぁ、ごめんごめん、話が脱線したね。えっとそのことなんだけど…キミたち人類の行き過ぎた進化を抑制するためだ。進化は繁栄と同時に破滅を生むからね」

「…例えば?」

「環境汚染や地球を焦土と化すことのできるほどの威力を持った核の開発、そんな科学の進化なんかが一番わかりやすいかな。ま、ほかにも人間の思考自体が進化して宗教や互いの利権のために争ったりとかもあるけど、それを取り返しがつかなくなる前に抑えるのが神様の仕事ってわけだ」

 カサンドラの言っていることが理解できるようなできないような、話が突飛すぎてうまく思考がまとまらない。

「まぁ簡単に言えば世界を水の入ったグラスと仮定しよう。そのグラスは人間が進化すればするほど亀裂が入る。そしてある程度亀裂が入るとそれは割れて中の水がこぼれる、それがキミたち人間が起こす取り返しのつかないなれの果て。そうなる前に神様は新しいグラスを用意してそこに水を移し替える。これでわかるかな?」

「要するに俺たちが何か間違いをしでかす前に一度リセットしようっていうわけか?」

「そう、そういうことさ」

「じゃあ俺たち人間が間違いを起こすのが…例のXデーだったと?」

「いいや、違う。その日は神が適当に決めた日だよ。神様だって未来を見れるわけじゃないからね。ただ人間の進化が危なくなりそうな期間の適当な日を選んだだけさ。それに神様って言ってもものぐさが多くてね…確かこの日はルーレットかなにかで10秒も満たない間に決めたって言ってたかな…?」

「は?」

 もしかしてこの世界が終わったあの日は、神様が適当に、それもお遊び感覚で決めたってことか?あまりにもおふざけが過ぎたそれに呆れにも怒りにも似たため息が漏れた。

「ま、いずれにしてもキミたち人間は近い未来には取り返しがつかないことを起こす。それまでに一度リセットする必要があったのさ」

「ふ~ん…」

 ちんぷんかんぷんだとでも言いたげな雪乃が適当な返事を返す。俺も正直信じられないし何が何だかわからないが、どうしても今この現状がその言葉の真実味を増している。世界が終わり静寂に包まれた街がカサンドラの言葉を裏付ける証拠でもあった。

「いや、待てよ。世界が終わるって言ってもさ、俺たちは生きてる。完全に世界を終わらせるには人間を全員消さないといけないんじゃないのか?」

「あぁ、それはね…キミたち、いや、キミが特異点だからだよ、水瀬雪乃」

「え?私!?」

 今までぼぉっとまるで興味がない話を永遠と聞かされているときみたいな顔で聞いていた雪乃だがふと名前を出されて困惑の顔を浮かべる。

「特異点って…なんだよ?」

「人間がすべて滅亡すれば文字通り世界の終わりだ。だけどボクたちが求めているのは完全な世界の終わりではなくただのリセットだ。だから子孫を残すために一組の愛し合った男女が、キミたちの言葉を借りればアダムとイブになりえる存在が必要になる。そして彼女は数多の女性の中から特異点イブに選ばれた」

「どうして、雪乃なんだ?ほかにも世界には何億という女がいるだろう?」

「それは彼女がアダムの異常な寵愛に値する人間だから、いや、違うか、彼女が異常なまでの恋の罪人だからさ」

 言っていることが分からない。一体カサンドラは何を言いたいのだろうか?

「要するに世界で一番罪深い愛を受けた人間がイブに選ばれる。そう、水瀬夏樹、キミが抱いた恋心のせいで雪乃は特異点となったんだ。通常人間には生まれ得ない禁断の愛のせいでね」

「まさか…俺が雪乃を好きになったから…」

 妹のことを好きになってしまったから、彼女は特異点として生き残ってしまったというのか?それは、俺のせいだというのか…

「イブに選ばれた人間は不死、いや、正確に言えば超再生能力を授けられる。アダムと子を成すため、子孫を残すためだけに通常の人間よりも長い間生きてもらうことになるからね」

「じゃあ、雪乃が俺に食われても死ななかったのは…そのおかげっていうことか?」

「そう。それにキミが彼女を食べてしまったのも特異点としての性だ。特異点は独特のフェロモンとでもいうべきものを出しパートナーとなるアダムの底に眠る獣の食欲を引っ張り出して自身の肉体を差し出す。不死の肉体を食したことによりアダムにも不死に似た力を与えるためにね」

「まさか…そんな…」

 俺が感じた、いや、今も感じている雪乃を食べたいという感情は、雪乃自身のせい。あの食欲が、人類を残すために仕組まれたプログラム的食欲だったなんて、俺はその事実に背筋が凍るのを感じた。俺たちだけの誰にも侵されることのないあの神聖な時間が、神に仕組まれていたもので、どうにもやり切れない感情を覚える。

「それじゃあ今の俺も…不死、なのか?」

「あぁ。例えば今キミがここで手首を掻き切ったとしてもすぐに跡形もなく治るだろうさ。まぁ今この世界で消えていないということを見ればそんなことする必要もないけれどね。だけどオリジナルと比べると回復力は低いし定期的にイブの肉体を食べていないとその不死性も無くなる。その分不便だけれどね」

 そして今俺がこの場にいるのも、神の仕組んだ特異点によるもの。すべてが神の手のひらの上で転がされているのだ。俺が感じた恋心も、雪乃が俺に見せた優しさも、すべてすべて、神のプログラムなのだ。それがどうしてもやるせない。

「例えば、もし世界が終わる日までに俺が雪乃を食べなかったら…」

「あの日を境にキミの存在が消滅していた」

「やっぱり…でもそれだと人類が完全に滅亡するぞ?雪乃だけが生き残っても子供なんてできないだろ」

 俺がそう聞くとカサンドラはニヤリと笑う。まるで待ってましたと言わんばかりだ。

「その場合特異点を殺して時間を巻き戻し、別の特異点を作る」

「特異点を殺す?確か特異点は不死に近い能力があるから死なないんじゃ?それに時間を巻き戻すってどういうことだよ?」

「特異点の能力は一つじゃない。自身の死によって時間を巻き戻す、それがもう一つの特異点の力。特異点の力を過去の別の人間に与えてまた時をやり直す力が彼女には備わっているんだよ。リセットが成功するまでそれは永遠に続く」

「そんな便利能力があるなら神様がそれを使えばいいんじゃないか?全知全能なんだろ、神様って」

「いくら神様でもそれはできない。神様だって、それにボクだって時間は一方通行にしか動かない。ただ特異点だけが時間の流れに逆らえるんだよ」

 確かに神様がそんな力を使えるならこんな面倒なプログラムを構築しないで済む。普段の俺ならきっとそのことに気付いていたんだろうがこんなごちゃごちゃと混戦した頭の今じゃ正しい判断も生まれない。

「そしてこの力はアダムに残された最後のチャンスでもある。時を巻き戻して世界が滅びる前の平凡な日常を手に入れるね」

「いや、でも元に戻ったとしてもまた世界は滅びるんだろ?全然チャンスでも何でもないんじゃないか?」

 たとえ俺が平凡な日常に戻ったとしても世界は神によってリセットされる。それは決定事項でたとえ時が巻き戻っても俺がその輪廻から外されるわけでもなさそうだ。

「それなら安心してくれ。時が巻き戻れば世界滅亡のリミットはまたランダムに選ばれる。つまりこの世界では12月15日だったけれど巻き戻った後の世界ではXデーがその次の日になったりそれより前倒しになったり、はたまた10年、いや、100年先になるかもしれない」

「そんなアバウトな…」

 つまり一種の賭けってことになるわけだな。どう転ぶかは神様次第、結局やり直しても神様の手のひらの上で転がされるというわけか。

「まぁこれは神の戯れと考えてくれていいよ。日常を取るか愛を取るか…人間の選択に神様も興味津々なんだよ」

「一つ聞いていい、カサンドラ?」

 と、今まで無言を貫いていた雪乃が突然声をあげた。あまりにも突然なことにぎょっとして俺は雪乃を見る。

「例えばもし私が死んで時間が巻き戻った場合、私はどうなるの?今まで話してくれたのって全部お兄ちゃんにとってのメリットデメリットだよね?私についてのことが一つもないんだけど…」

「言っただろ?日常を取るか、愛を取るか、これは究極の二択だ。もし雪乃が死んで時間が巻き戻った日常には、キミの存在自体がなかったことになっている。もちろんキミに関する記憶も一切合切誰にも残らない、それがたとえアダムに選ばれた夏樹であってもね。だから日常に戻った夏樹がキミに抱いていた恋心もすべてなかったことになる。これがこの選択の意味だよ」

「そんなのってないだろ…」

 雪乃より前に俺がたまらず声をあげていた。雪乃がいた記憶もこの恋心もすべてなくなる、そんなのって残酷すぎるじゃないか。

「そしてこれが…不死に近い肉体を持った雪乃を殺せるモノだ」

 カサンドラが空中に手を伸ばしてその手を握りしめる。すると何もなかったそこに一振りの血にも似た赤色をしたナイフが現れた。調理に使うようなごくオーソドックスなサイズのそれは刀身の赤のせいで禍々しい印象を俺に与えた。

「これだけが特異点を殺せるんだ。さぁ、どうする?キミは愛を取る?それとも日常を取るかい?」

 にやり、と悪魔的な笑みを浮かべたカサンドラは俺の手にナイフを握らせた。刀身の禍々しさとは予想外な羽のように軽いそのナイフに驚き落としそうになってしまう。

「俺は…雪乃を…殺せるわけがない…俺は雪乃が大好きなんだ…だから雪乃と一緒に…」

 雪乃と一緒に生きていく、そう言おうとした瞬間その言葉を鋭い言葉が遮った。まるでナイフのようなその言葉に零れかけた言葉は切り裂かれる。

「ダメ。お兄ちゃん、私を殺して」

 いつもの雪乃のものじゃない冷酷な声が、俺の鼓膜を振動させる。あまりにも冷たく冷淡に言い放たれた言葉に俺は凍り付くしかできなかった。冬の鋭さを孕む冷風を目としないほどのその冷たさに心までも凍てついてしまう。

「確かにお兄ちゃんは私と一緒にいたいかもしれない…けど、私はお兄ちゃんに幸せになってもらいたいの…私のことをずっと可愛がってくれた優しいお兄ちゃんは絶対に幸せにならなくちゃいけない…私といたら辛いことしか待ってないよ?」

「そんなことない!」

「ううん!絶対につらいよ…?食糧だって飲み水だっていつまで持つかわからない。それに病気になったらどうするの?風邪薬飲んだら治る軽いのならいいけど…もし重い病気にかかったら私治せないんだよ?それにケガしてもお医者さんがいないから直せない。そしたら絶対苦しいよ?いくらお兄ちゃんが不死の力を分け与えられてるからっていっても痛くないわけじゃない…きっと死んじゃう時もある…それにお兄ちゃんは知らないんだよ、死ぬ時の怖さ…テレビのスイッチを切るみたいにふっと目の前が真っ暗になって全身が凍えるくらいに寒くなって、いずれその寒さも感じなくなるほどに脳がくちゃくちゃになって…最後には自分が誰かもわからなくなって、死にたくないって思いながら全部が黒く染まる…私、お兄ちゃんにそんな苦しいことを何度も続けてほしくない…」

「雪乃…」

 俺に毎夜ごとに殺されている雪乃だからこそ知ったその感覚、俺なんかが到底想像できない痛みや苦しみを彼女は知っている。そしてその感情は俺が生き続けている限り遮断することができない。なにせ俺の中に生まれたこの獣の食欲を抑えるなんてできないから。今だって雪乃があんなに苦しそうな告白をしたにもかかわらず腹の中の獣は彼女の肉を引きちぎれ、血をすすれ、内臓を貪れと暴れているのだから。

「それにさ、私を殺せばお兄ちゃんは私のことを忘れられる…私がいた記憶も、私が好きだった記憶も残らない。お兄ちゃんは何も苦しまなくて済むんだよ?いつもみたいに友達と楽しく過ごす日常が戻ってくる…そんな羨ましいくらいの生活が戻ってくるんだよ!」

 いつの間にか涙を流していた雪乃の言葉に俺はハッとした。俺には日常に戻る救いがあるのに、雪乃には全く救いがないのだ。俺とともに生き残っても食べられる苦しみが、殺されても誰の記憶にも生きた証が残らない。そんな無残なほどに理不尽な選択を強いられているのだ。

「なぁカサンドラ…俺が死ねば、どうなるんだ?このナイフなら、俺も死ねるんだろ?」

 けれどカサンドラがあっけらかんとして言い放った言葉はどこまでも残酷で救いようがなかった。

「確かにキミはそのナイフで自分を殺せる。けれどそのあとボクが雪乃を殺す。時が巻き戻った世界でいなくなるのは特異点だけだからキミは何食わぬ顔で日常を過ごせるっていうわけだ。最悪の選択から逃げたことも、雪乃を愛したということも知らずにね。もしかしてキミが死ねば雪乃が助かる、なんて思ったわけないよね?アハハ!」

 カサンドラの幼稚な、それでいて下卑た笑い声が沈んだ心に重くのしかかる。もしかして、と思った憶測も敗れ去り俺はどうしようもなく八方ふさがりになってしまう。

「お兄ちゃん…私を、殺してよ…」

「俺は、どうしたらいいんだよ…」

「あ、別に今決めなくてもいいんだよ?まだ世界には1日猶予が残ってるからね」

 と、付け加えるように言うカサンドラ。今の俺の精神状態では尋ねるのも面倒だったが、やはり話を聞かないわけにはいかない。

「それってどういうことだよ?」

「12月24日から25日になった瞬間、今ある世界の文明はリセットされる。簡単に言えばビルやら工場やら人間が作ったものはその日を境に無くなるっていうわけだよ、痕に残るのは木々が生い茂る大地ときれいな海とキミたちだけだ。ちなみに文明のリセットが始まってしまうとこのナイフも消えてしまう。つまりそれまでに決めないと時間を巻き戻せないというわけさ。ボクがやってきたのもキミたちにリミットを教えるためだったんだ」

「…そうか」

「あ、そうだ。文明がリセットされたら電気もなくなるし浄水された水もなくなる、それに冷蔵庫もないから食料の保存もできない。ちなみに飢えとかじゃキミたちの体は死ねないからずっと苦しいのが続くよ?もしかしたら自我がなくなっちゃうかもしれないね」

「…そうか」

 意地悪な笑みで余計なことを言ったカサンドラに反論もできないほどに俺の心は憔悴してしまっていた。雪乃を殺し何も知らない平凡な日常を過ごすか、それとも雪乃が苦しんでいるのを知りながら共に生きるか、どちらを選ぶにしろ猶予はあと1日しかない。

「ボクはずっとここにいるから。何か聞きたいことがあったらボクのところまで来てくれよ。あ、ナイフはキミに預けておくよ。キミたちの選択に、幸あれ」

 カサンドラのその言葉を背に聞きながら俺たちは重い足を引きずるように家路につく。慣れ親しんだ家までの道のり、それがやけに遠く感じたのは気のせいではないだろう。

 俺は明日までに答えを出せるのだろうか。結局その日は雪の白さに目を細めた事も愛らしい雪乃の姿も、雪乃との間接キスでドキドキしたことも忘れてしまうほどに疲れ切ってしまったというのだけは確かだった。

 

「どうしたのお兄ちゃん?もしかして、また私を食べたくなっちゃったの?…うん、いいよ。ガマンなんてしなくていいからね…私のことなんて気にせず、いっぱい食べて…」

 お兄ちゃんはその日の夜も、私のことを食べる。あんな話を聞いてでもお兄ちゃんの空腹は抑えられなかったようで、普段通り美味しそうに私の肉を、骨を、臓物を、貪っていく。私の叫び声も、むせかえるような血と臓物のにおいも、私の体に襲い掛かる痛みも、死の感覚も、普段通り。たとえカサンドラと名乗った不思議な子供が世界の種明かしをしたってそれだけは不変だった。

だけど昨日と変わったことが一つある。それは、お兄ちゃんの涙だ。お兄ちゃんは私を食べながら、その頬に涙を伝わせていたのだ。悲しそうに、まるで私の痛みを推し量るように、涙を流していた。

「お兄…ちゃん…なか…ない…で…」

 辛そうなお兄ちゃんの涙を見ていられなくなった私はだんだんと死に陥っていく意識の中必死に手を伸ばす。腕のお肉が噛み千切られて形容しがたい痛みが私を襲うがそれでも私は手を伸ばした。お兄ちゃんの涙をぬぐうために。

 ようやく伸ばした手の平で、お兄ちゃんの頬を撫でた。お兄ちゃんの頬には温かな悲しみの代わりに私の命がべったりと張り付く。

「お兄…ちゃ…ん…」

「雪乃…」

 お兄ちゃんの瞳からはだくだくと涙があふれて私の冷たくなっていく手を濡らす。その涙は、いったい何の涙なのだろうか。その涙の意味を推し量ることは私にはできない。だけどこれだけは理解できる。私が、お兄ちゃんを苦しめているのだ。お兄ちゃんは、私がいるから今も心の中で苦しい葛藤を続けて、死ぬ時よりもつらい痛みに押しつぶされているのだ。

 ―私を殺して―

 私が死ねばお兄ちゃんは楽になれるのに、私のその言葉は力を失った口から漏れることはなかった。ただ唇が小さく動くだけ、もう声を放つ力も残されていなかった。だんだんと視界は歪み身体は震え意識は遠く深い場所へと落ちていく。死の魔の手が、すぐそこまで迫っているのだ。死にとらわれる瞬間、私はハッと気づくことがあった。

 ―お兄ちゃんは、私を苦しいぐらいに愛してくれているのに、私はそれに答えていない、答えることから逃げている―

 自身が苦しみ悩むほどにお兄ちゃんは私のことを一人の女の子として愛してくれているのに、私はまだお兄ちゃんへの思いがはっきりしていない。お兄ちゃんが好きということはずっと前から思っていたことだ。けれどそれは本当の好きの気持ちなのか、そこが私ははっきりしていなかったのだ。そんなはっきりしない気持ちのままに私はお兄ちゃんに最悪の選択を迫っていたのだ。お兄ちゃんの苦しい気持ちを知ろうともせずに、本当の愛を知ろうともせずに、お兄ちゃんの愛を断ち切る選択を迫っていたのだ、私自身の勝手な願いのために。

 お兄ちゃんへの気持ちは、本当か。死に震える心がその答えを必死に探そうとする。けれど私にはまだ判断材料が足りなかった。今までお兄ちゃんの好きの気持ちをぼかして過ごしてきた私には、その心を感じることができず判断も難しい。

 ―次に目覚めたら、お兄ちゃんをデートに誘おう。まだ時間は残されているんだ。そこで、私の気持ちをはっきりさせよう―

 もし明日、お兄ちゃんへの本当の気持ちが分かったなら、私も選ぼう。二人で一緒に出した最低で最悪な選択肢に、答えを見つけるんだ。

 

「ねぇお兄ちゃん…私と、デートしよ?」

「で、デート!?」

 思わず俺は声が上ずってしまった。いくら見ても慣れない妹の復活シーンのすぐ後に言われたその言葉に俺の心拍は急上昇だ。雪乃が感じた死の恐怖を知ってまで彼女を食べてしまった罪悪感なんて吹っ飛んでしまうほどの衝撃が俺の体に駆け巡った。まるでハンマーかなにかで頭を叩かれた気分だ。

「私ね、お兄ちゃんのことが知りたい…お兄ちゃんに感じた気持ちの正体が知りたいの…それにはデートしかないって思って…ね?いいでしょ?」

 少し辛そうな雪乃の言葉に、俺はうなずくことしかできなかった。雪乃も雪乃なりに悩んでいたのだ。俺の好きという気持ちをぶつけられて、彼女はずっと戸惑っていたのだろう。どう答えを出していいのかわからずに、今まで悶々と過ごしていたのだと思う。

 けれど彼女は一歩を踏み出した。勇気を出して、その先の答えを見つけようと踏み出したんだ。ならば俺も一歩踏み出そう。愛を取るか、別れを取るか、明日のデートで必ず決めよう。それが二人にとってどんな結末を生んだとしても、俺も答えを出そう、そう決意した。

「わかった…でも、どこがいい?デートって言っても近場で済ますのもあれだろ?」

「私遊園地がいいなぁ…」

「遊園地?」

「うん。ほら、この前できた…」

「あぁ、あそこか」

 ここからバスで一時間くらいのところにできた新しい遊園地のことを言っているらしい。盛況で連日多くの人で賑わっていて一つのアトラクションに乗るのに3時間待ちというのがざらだ、という話を春宮から聞いたっけ。けれどいま世界には俺たち二人、まさに貸し切り状態で楽しめるというわけだ。それに明日を超えると文明がリセットされ電気も無くなってしまう。そうなれば遊園地で遊ぶこともできなくなってしまうし。

「ダメ、かな…?」

 上目遣いの雪乃の視線に俺の心拍はまた高まる。愛らしいくりっとした瞳が潤みそこに俺のたじろいだ間抜け顔が映っている。

「いや、全然ダメじゃない」

 もとより断る気なんてなかったため俺は二つ返事でそれに了承する。と、雪乃の顔に笑顔の花が咲いた。眩いくらいのその表情にさらに愛しさが募る。

 こんなに明日が楽しみなのは一体いつ以来だろうか。そんな楽しみな気持ちを抱えたまま過ごす夜は普段の2倍も3倍も長く感じた。

 

 



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ワールドエンドイブ

 心地よい風が体を通り過ぎる。まだ寝ぼけ眼をこぼす太陽の光を浴びながら高速道路をバイクで爆走する。身体を突き抜ける気持ちいい冬の朝の寒さとは逆に背に感じる雪乃の安心する暖かさ、その二つの心地よい寒暖を感じながら俺はただバイクを運転する。

「お兄ちゃん、まだつかないの?」

 ヘルメット越しのくぐもった声で雪乃が尋ねる。

「そうだな…あと10分くらいじゃないか?」

 風切り音に負けない声で叫んで答える。雪乃はそれに返事で返す代わりに指を指した。彼女が指した先、そこには目的の遊園地が見えていた。言葉は交わしていないが雪乃が嬉しそうにしているのが背中越しに伝わる。

「雪乃、危ないからしっかりつかまってろ」

 雪乃に注意を促す俺の気持ちも高ぶっていた。大好きな雪乃とのデートに今朝からずっと鳴りやまなかった心臓のドキドキがさらに激しく脈打つ。

 12月24日、今日は世間でいうクリスマスイブであり、俺たちにとっては世界が終わる前日だ。今日が過ぎれば明日にはもう今の世界と呼べるものはなくなってしまう。カサンドラが言っていた文明のリセットが行われてしまうのだ。この光景も、バイクで感じる風も、今日で最後なのだ。不変であった世界の事象が、明日のこの瞬間には不変という概念すらも飲み込まれてしまっているのだろう。

(…今からデートだっていうのにこんなこと考えてちゃいけないな)

 俺は頭を振ってついネガティブになってしまう思考を振り払う。もう遊園地は目の前だ。存分に楽しんで、雪乃との思いを確かめ合い、そして決断する。今日はなかなかハードスケジュールとなりそうだ。

 

 世界で最後となるデートが、開幕する。演者は妹を愛してしまった罪深い少年と彼への本当の気持ちを確かめたい少女、終幕は日付が変わるその瞬間。いつもと変わらぬ太陽と青い空だけが彼らの結末をかたずをのんで見守っている。そして今、閑静で冷たさを孕んだ世界に、開幕のブザーが鳴り響いた。

 

「えへへ。今日は貸し切りだね、お兄ちゃん!」

「あぁ、こんなの滅多に体験できるわけないんだからさ、存分に遊ぼうぜ」

 園内に一歩足を踏み入れるとそこはもう別の世界だった。楽しげな音楽が鳴り響きジェットコースターの轟音が腹の奥まで響き渡り、キャラメルのような甘い匂いが漂ってくる。まるでここだけ世界から隔離されたような不思議な空間に俺は胸が高鳴るのを感じた。普段人が集まっている場所に誰もいないというのはやはりいつまでたっても違和感を感じずにはいられなかったが、それを忘れてしまうほどの楽しみがそこかしこに転がっている。

「そこのカップルさん、ソフトクリームはいかがかな?」

 ふと誰かの声に呼び止められそちらを向くと子供のような小さなシルエットが手招きをしていた。近づいてみるとそれは遊園地のスタッフのおしゃれな制服に身を包んだカサンドラだと分かる。

「ソフトクリームくださいな!バニラ味でお願いね」

「はいはい」

 カサンドラがパチン、と指を鳴らすと空中に突然ソフトクリームが現れぷかぷかと浮かびながら雪乃の手に収まった。魔法のようなその光景は昨日一度、例のナイフを取り出すときに見ていたのだがどうにも驚かざるをえない。

「ちなみに聞くが…これって食べても大丈夫なんだよな?」

「もちろん!」

 胸を張るカサンドラにソフトクリームにかぶりつき美味しそうな笑顔をこぼす雪乃。この笑顔こそ遊園地にふさわしいものだ。と、そろそろどうしてカサンドラがいるのか話さなければいけないな。それは今朝出発前の時間にさかのぼる。

 

「うぅ…寒…」

 それは月が沈み太陽が昇ってこようとしているちょうど中間のころ、青黒い空の下冷たい空気を肌で感じながら俺は商店街までやってきていた。雪乃のくれたプレゼントで多少は暖かいがやはり早朝の寒さはそんなものでごまかしきれるものではなく、突き刺さるように寒さが俺の肌へ襲い掛かってくる。

「カサンドラ!いるんだろ?カサンドラ!」

 白い吐息が漏れる口で例の神様の使いだという子供の名を呼ぶ。何度目かの呼び声でカサンドラはその姿を例のツリーの一番近くにある和菓子屋から現したのだがどこか不機嫌そうだ。

「ふわぁぁぁ…こんな朝っぱらからどうしたのさ…ボクまだ眠いんだよ…」

 自慢のさらさらの栗色の毛をぼさぼさと乱し眠気眼を擦るパジャマ姿のカサンドラ。神様の使いであっても眠るということが分かり驚きを覚えるがそれを頭の隅へ追いやり俺は言う。

「頼むカサンドラ…遊園地のアトラクション、動かしてくれ」

「は…?」

「明日雪乃と遊園地デートってことになったんだけど、気づいたんだけどさ、ああいうアトラクションってどうやって動かしてるかわかんないしさ、それにメンテとかしないと危ないっていうし。ほら、神様の使いなんだろ?できるんじゃないのか?」

「言っただろ…神様だって全知全能じゃないって…でも、まぁそれくらいならできなくもないよ?」

「ほんとか!?」

「あぁ、ほんとさ。例えば…」

 パチン、と指を鳴らしたカサンドラ。すると商店街の店全てに電気が灯った。またパチン、と指を鳴らすとそれが一斉に消える。俺はその様におぉ、と驚きの声をあげるしかなかった。と、それで得意になったのかカサンドラはさらに指をぱちぱちと鳴らし電気をつけたり消したりを繰り返す。

「すごいな、カサンドラ」

「ま、ボクも仮にも神様の使いだからね。これくらいは余裕だよ」

 にやりと得意げな三日月を口元にたたえてカサンドラは続ける。

「けど一つお願いしたいことがある…」

「お願い!?いいぞ、何でもする!」

「ん?今何でもするって言ったよね?なら…」

 どんなお願いが飛び出すかドキドキしながら待ち受ける。俺たちのデートのためなら例えば全裸になって犬みたいに服従のポーズを取ったり体中に洗濯バサミをつけられたってかまわない…と思っていたが想像すると結構あれだな…プライドが傷つきそう…。でも雪乃のためだ、プライドなんて捨てる覚悟はできている。

「ボクも遊園地で遊びたい!」

 

 ということで俺たちのデートは開始早々カサンドラの乱入により妨げられてしまったというわけだ。ちなみにカサンドラは例の指ぱっちんのよって瞬間移動もできるためバイクなんかも使わずにここにいる。ソフトクリームを舐めながら歩く雪乃に手を引かれるカサンドラ、それはまるで姉が迷子にならないようにと気遣ってあげているようにも見える。

「ボクのことはいないものと考えて気兼ねなくイチャイチャしなよ」

「いや、一番はしゃいでるお前が言うなよ…騒ぎすぎで存在感主張されすぎなんだよ…」

 ジェットコースターに乗ってもメリーゴーランドに乗ってもカサンドラはまるで見た目通りの年齢の子供みたいにはしゃぎまわる。仮にも神の使いなのにこうも遊園地ではしゃぎまわるなんて予想外だ。そのせいで無理にでも俺たちはこの小さな神様のおもりをしなければいけなくなってしまっているわけだ。

「あ、今度ボクあれ乗ってみたいなぁ。くるくる回るやつ!」

「コーヒーカップか。…てかなにお前が乗りたいもの決めてるんだよ。はぁ…デート台無しじゃん…」

「そんなにカリカリしなくてもいいんじゃない、お兄ちゃん?二人きりで回るより三人で回った方が楽しいよ?」

「あ、雪乃コーヒーカップで回るのと遊園地を回るのかけたでしょ?あんまりおもしろくないよ?」

「全然かけてないよ!もうカサンドラってば生意気言わないで!」

 彼女たちはまるで姉と弟(もしくは妹)のように楽しそうにはしゃぐ。その姿にため息がこぼれるが自然と笑みもこぼれる。確かにデートっぽくはないけど、これはこれで楽しいからいいかもしれないな、なんて俺は思った。

 世界に残された時間は12時間をとうに切った。それでも太陽は寂しさを浮かべることもなくキラキラと変わらぬ笑顔で俺たちを照らす。その太陽にも負けない笑顔が、雪乃の顔に咲き誇る。本当に楽しそうな笑顔が俺の胸をくすぐると同時に寂しさに変わる。この弾けるような笑顔が見れるのも、これで最後になるのかもしれない。そう考えるだけで胸が締め付けられた。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

「あ、いや、何でもない。…あ、雪乃。走らないとカサンドラにおいていかれるぞ?」

「あ、待ってお兄ちゃん!早いよぉ!」

 俺はむりやり笑顔を貼り付ける。こうでもしなければ彼女の満面の笑みに泣いてしまうかもしれないから。涙はもう封印しなければいけない。昨日俺はそう決めたんだ。何があっても、どのような結末を迎えても涙を流さないと、赤に染まった冷たい手に誓ったんだから。

 

「ふぅ…遊び疲れちゃったかも…」

 空の太陽が傾き始めたころ、俺たちはもうほとんどのアトラクションを乗りつくしあとに残すは観覧車のみ。その前に雪乃がトイレに行きたいと言い出したので俺とカサンドラは休憩用のベンチに腰掛けてゆっくりとしていた。ぼぉっと眺める無人の遊園地、傾く太陽に悲しそうな色を浮かべるそこは今も無邪気に楽しそうな音楽を演奏しその悲しさを紛らわせているように見える。

「なぁカサンドラ、少し聞きたいことがあるんだ」

「ん?何かな?」

 雪乃を待つ間カサンドラと二人きり、その間に尋ねたいことはすべて聞いておきたかった。

「お前はさ、どうして世界の滅亡する日を投稿したんだ?どうせみんな消えるんだからそんなことしなくてもいいんじゃないか?」

 カサンドラはその質問になんだそんなことか、とつまらなさそうな顔を浮かべて答える。

「ボクは人間がどう動くか、見てみたかったんだ。もしも世界が滅ぶなら、人間はどんな行動をとるのか…それが暴動のような混沌を生んだとしても、ボクはそれを見届けたかった…人間の最後の輝きをね。けどボクの予想とは逆に人間の心は冷めきってたみたいだけどね」

 カサンドラの瞳に愁いの色が映る。その憂いはカサンドラが初めて見せた感情と呼べるものだった。ずっとあいまいな感情を浮かべていたカサンドラが見せた初めてのはっきりとした感情に俺はたじろぐ。

「ボクたちはさ、人間を観察することしか楽しみがないんだよ。いや、もうそれに楽しみを見いだせず飽き飽きしているけれども…けどやっぱり人間がどう動くのか、それは興味のある所なんだよ」

 人間観察が趣味とはなんとも悪趣味な神様たちである。俺たち人間はやっぱり神様のおもちゃなんだろうか。そう考えるとやり場のない怒りが気泡のように浮かび上がってぱっと消える。

「じゃあさ、なんでお前は遊園地に行きたいなんて言ったんだ?それもあんまりよくわからないんだよ…」

 次の質問にカサンドラはさらに顔を辛そうに歪める。どうやら答えにくい質問だったようだが、意を決したように口を開いた。

「さっきも言ったとおりボクたちの楽しみは人間観察だ。それは神が人間に干渉してはいけないって決まりがあるから。それを破ったら神としての永遠の寿命を剥奪される。ちなみにボクの投稿した予言は干渉とは満たされないよ、あれを投稿しようとしまいと崩壊の未来は変わらない、つまり干渉しても意味がないと満たされるからね」

「へぇ…で、それがどうしてそこに繋がるんだ?」

「ボクたちはあくまで傍観者なんだ。人間が苦しそうにしていても、楽しそうにしていてもそれを感じることはできない。他の神様は人間の感情なんて知ろうともしないけど、ボクは知りたくなった。人間がどうして泣いたり笑ったり、あんなにいろんな表情を浮かべるのか、知りたかったんだ。だからボクはキミに頼んだんだ、楽しいって感情だけでも教えてもらうために」

 その話を聞いて俺はこいつが人間みたいだと思った。それは例えばクラスの楽しそうな輪の中に入って行けない引っ込み思案な奴のように感じられたけど、きっとそれよりもっと苦しい立ち位置にこいつはいるんだ。

「ボクはさ、キミたち人間にあこがれているんだよ…確かに世界を壊してしまうくらい愚かな所もある。けれどボクは、人間が見せる様々な感情にあこがれて嫉妬して、どうしようもなく好きになってしまったんだよ…」

 人間が好きになってしまった神様、それはまるで小説か漫画の登場人物のようだ、つらそうにそう語るカサンドラに俺はかける言葉が見つからなかった。きっと何を言っても俺のちっぽけな言葉はこいつの胸には届かないから。いや、届いたとしてもどうすることもできないから。神様と人間、それは決して相いれることのできない存在だと頭が無意識のうちに理解していたから。

「それにボクたちはこういうときじゃないと人間の世界を堪能できないからね。まったく不便な体だよ。過去にも何回か地上に降りるチャンスはあったんだけどことごとく逃しちゃってようやくって感じでさ」

「…ということは、過去にもやっぱり俺たちみたいな選択を強いられたやつがいるのか?」

「あぁ、もちろん!この世界軸だとキミは一番初めの人間だけど、キミたちの世界ができる前にも何百回も世界のリセットが行われてる」

「まじかよ…」

 そのたびに神様は苦悩の選択をほくそ笑んでみているのだろうか。やはりどこまでも悪趣味だ。

 カサンドラは俺が浮かべた嫌悪感などいざ知らず、指を鳴らしてジュースを呼び出してそれを喉に流し込んでいた。ごくごくとうまそうに喉を鳴らし子供みたいなうれしそうな顔で飲むのだから俺も少し喉が渇いてしまった。

「キミも飲むかい?」

 気をきかせたカサンドラがもう一つジュースを出現させて俺に渡してくれた。俺はぐいっとそれをあおる。柑橘系のスッキリとした甘さが俺の喉を潤した。と、俺の中にある疑問が浮かんだ。

「あ、そうだ…さっきお前は神様は人間に干渉できないって言ってただろ?」

「あぁ、確かに言ったよ。まぁ干渉しようと思えばできるんだけどそれは禁止されてるってだけ」

「どっちでもいいけどさ…どうして神様はそんな力使えるんだ?指鳴らしただけで魔法みたいにいろんなことができる…けどそれって神様にとって必要な力なのか?どうにも俺は矛盾した力だと思うんだよ」

 その力は便利だけど、果たして神様にそれは必要なのだろうか?人間に干渉できず趣味は人間観察ってだけの神様には過ぎた力なんじゃないだろうか?

「この力は…昔人間に自由に干渉できてた頃の名残だよ。といってもボクはその時代を知らないんだけどね?ボクはまだ生まれてから5万年くらいしか生きてないからね…確かその時代の一番若い神様が1億歳?」

 1億なんて想像もできない年数に驚きがやってこない。想像できない数に驚くという感情が追い付いていないのだ。ただ漠然とした感覚だけが脳内で蟠っている感じだ。けれどいまはそれを気にしている場合じゃない。

「やっぱり、その力は人間のためにあったんだな」

「あぁ…だけど、この力のために人間は堕落した。神様は人を助けすぎたんだよ。例えば病気の子供を治したり、誤ってがけから転落した人間を念力で救ったり、飢えた人間にこんな風に食べ物を与えたり、ときには雨を降らせたりもしたっけ…でもそのせいで人間はこう考えてしまったんだ、何か悪いことが起こっても必ず神様が助けてくれるって。神様は困ったことがあれば必ず何か行動を起こしてくれるってね」

「それで人類は進化を手放した…神様が病気を治してくれるから薬も作らなかったし、神様が食べ物を与えてくれるから食物を育てたりするのもやめた、というわけか?」

「まぁアバウトだけどそういうことさ。行き過ぎた進化も悪だけれど進化を諦め怠惰に生きるのはもっと悪だ。そういうわけで神様はその世界をリセットして二度と人間には干渉しないと決めたんだよ」

「なるほどな…」

 俺の中で悪趣味な神様に向けた怒りがすっと消える。彼らが傍観者に徹したのも基をたどれば俺たち人間のせいなのだ。神様は人を助けようとしただけなのに、俺たち人間はそれに甘えてしまっただけ、いわば神様は被害者とも考えられる。きっと神様も見るだけじゃ辛い思いをしているに違いなかった。俺のその気持ちを後押しするかのようにカサンドラは続ける。

「けどやっぱり、ボクは人間に干渉したい…だってボクたちには力があるのに、誰も助けられない…車にひかれそうになった人間が、重い病気にかかって死にそうな子供の親が、様々な不幸を背負った人間が助けて神様って願うのに…ボクたちはそれを無視しないといけないんだ…」

「カサンドラ…」

 きっと何万、何億、いや、きっと俺には想像できない桁の人間が彼らに助けを求めただろうけど、どうしてもそれを無視しなければいけないもどかしさというのはやっぱり俺には想像ができなかった。いや、きっと俺なんかが想像して同情するのも傲慢というものなのだろうが。けれど俺はカサンドラを慰めたかった。何かカサンドラに声をかけたかった。

「ごめん…カサンドラ…俺は、こんなことしか言えない…たぶん雪乃だってこの話を聞いたらごめんしか言えないだろうけど…でも言わせてくれ…ごめんな、カサンドラ…」

 カサンドラは俺の言葉に顔を俯けた。その小さな肩がぷるぷると震えている。表情は見えないけれど必死に感情を抑えようとしているのはわかる。

「カサンドラ…」

 もしかして泣いてしまったのだろうか。俺は心配してまだ小刻みに震えている肩に触れる。と、それがトリガーとなったみたいにカサンドラは感情を爆発させた。

「ぷっ…ふふ…アハハハハハ!」

 けれどそれは俺が思っていた感情とは全く真逆のもので、カサンドラは今まで堪えていたものを吐き出すように笑い出した。笑い死ぬんじゃないかと俺が不安に思うくらいカサンドラは笑って笑って、笑い転げた。

「アハハハハ!何それ!?バカじゃないの!?必死に慰めようとしてその言葉がごめんだけって!やっぱりバカじゃないの!?アハハハハ!」

「な、お前、そんなに笑うことないだろ!?何か言葉かけないとって必死に考えたのに…」

「やっぱりバカだ!人間ってバカばっかり!アハハハ!あーおかしすぎて死にそう!」

 瞳から涙をこぼしひぃひぃと呼吸もままならないほどにカサンドラは笑い転げた。俺にはその笑いの真意がどうしても見えない。

「何まじめにボクの話聞いてるのさ。あれ全部ボクの作り話だよ?なのに…真剣な表情でごめんって…アハハ!」

「え?作り話?嘘?え?」

 あまりの驚きに口が半開きになってしまう。カサンドラの笑い涙の瞳に俺のバカな顔が映っている。そのせいかカサンドラはさらに笑いをあげた。

 

 結局カサンドラの馬鹿笑いは雪乃が帰ってくるまで止まることはなかった。その間俺がカサンドラにことごとくバカにされ下卑た笑みをお腹いっぱいになるまで見せられたことは言うまでもない。

「でも…なんか嬉しかった…ありがとう、夏樹」

 けれど最後に見せたカサンドラの笑顔、それは本物の笑顔のように感じた。まるで心の底からありがとうと言っているような、そんな感じがした。結局この話の真意も何もかも俺には知るすべもなかった。

 

「これで全制覇だね、お兄ちゃん」

「あぁ、そうだな」

 空に染みこんでいくオレンジが俺たちも染め上げる。少しノスタルジックな気分になるオレンジ色を背に俺たちは観覧車のゴンドラへ乗り込む。その時ふと子供の時のことを思い出した。観覧車のゴンドラに乗るのが怖くてどうしても一歩を踏み出せなかった子供の時の記憶だ。昔は戸惑った一歩も今じゃ楽な一歩だ。当時は雪乃のことなんてなんとも思っていなかったのに、今じゃ彼女が大好きな存在で、なくてはならなくなっている。この簡単な一歩も、俺の中に芽生えた気持ちも、当時の俺には想像もできなかっただろう。そして世界が滅びる日が来るなんてことも、ガキの頃の俺には想像もできないことだった。

「ほら、カサンドラもおいで。早く乗らないとゴンドラ行っちゃうよ?」

「ボクは大丈夫、こうして外から鍵をかける役割が必要でしょ?」

 カサンドラも乗ってくるものだと思っていたのだが予想外に気をきかせてくれたらしい。扉が閉められたゴンドラにはたった二人、だんだんと地上から離れていくのを目下で小さくなっていくカサンドラの姿を見ながら感じた。

「…」

「…」

 オレンジの空がだんだんと近くなってくる。俺たちはその空と、静寂を帯びた街を眺めながらただ無言でいる。気まずい無言が場を支配してどうにもいたたまれない。

「あ、あのさ雪乃…」

 この静寂はまずい、そう感じて俺が声をかけようとした瞬間、その言葉は塞がれた、雪乃の唇によって。

「んんっ…!?」

 気がつけば雪乃と俺の距離が0になっていた。目の前にあるのは瞳を閉じてうっとりした雪乃の顔、甘い匂いが鼻孔をくすぐり唇が感じたふにゃりとした感覚を全身へと送り込む。俺の唇に押し付けられた雪乃の唇に、時間が進むのをためらった。

 雪乃に、キスをされた。その突然の出来事に俺がそれを理解するには相当な時間を要したように感じられた。

「んっ…ぷはぁ…」

「雪乃…どうして…」

 永遠にも似た長いキスが終わりを告げる。目の前の雪乃の愛おしい表情も、甘い香りも、唇の感触もない。まるでさっきのキスが嘘だったかのように雪乃が目の前からいなくなる。けれどそれが嘘でも何でもない現実だということがふと触った唇が彼女の唾液で湿っていることから理解できた。

「えへへ…お兄ちゃんと、キス、しちゃった…」

 彼女の恥ずかしそうにはにかむ笑みに俺の心はまた一つ高ぶりを見せる。この上ない心臓の高まりに一生分の鼓動をここで使い果たしてしまうんじゃないかというバカな思考が頭をよぎった。鼓動がうるさくて鳴りやまない。まるで耳元で和太鼓を打ち鳴らされている感じだ。

 じっと見つめる彼女の熱く潤んだ瞳に、俺の顔が映る。俺は今一体どんな顔をしているのか、間抜けそうな恥ずかしそうな寂しそうな、そんな不思議な顔を浮かべている。

「私ね、やっぱりお兄ちゃんが好きみたい…兄としてじゃなくて、一人の男の子として好きだったみたい…」

「え…?」

 俺は頓狂な声をあげる。今日一日を振り返ってもデートらしいデートはしていない。男らしいところを見せたり好感度が上がるイベントも何もない、ただカサンドラを含めた三人で遊んでいただけ、なのに彼女の確信めいたその言葉はどうしてなのだろうか?嬉しいはずなのにどこか満足していない自分がいた。俺のそんなもどかしい思考を表情から読み取ったのだろう、雪乃が続けた。

「確かにお兄ちゃんが思ってるみたいなデートじゃなかったかもしれない…けどね、私はそれでよかったの…お兄ちゃんといると楽しい、嬉しい、幸せって思えた。お兄ちゃんともっといたい、楽しいことも嬉しいことも幸せなことも、もちろん辛いこともずっと共有してたいって思った…そう思うのと同時に、胸がドキドキってして心がきゅって締まるように感じた…それで分かったの…あぁこれが好きって気持ちなんだって…お兄ちゃんも私といるとこんな気持ちなんだって、わかった…」

「雪乃…」

 彼女の顔が赤く染まる。使い古された夕焼けのせいという言葉では片づけられないほど真っ赤な顔、恥ずかしさと嬉しさが入り混じった幸せな顔、たまらずに俺の胸は締め付けられるように痛んだ。

「ねぇお兄ちゃん…私のお兄ちゃんじゃなくて、私の恋人になってください…」

 その言葉は俺の胸を一発で撃ち抜いた。撃ち抜かれた患部から血の代わりに雪乃への愛が溢れて溢れて止まらない。その愛とともに、俺の目からも熱いものが止まらなくなった。今日は封印しようと思っていた涙が、止めどなく溢れた。

「ふふ…お兄ちゃんが泣いちゃうなんて…おかしいの…」

「うるせぇ…」

 ニヤニヤと笑う雪乃も、泣きそうに瞳を潤ましていた。浮かび上がるその雫が夕日に照らされてキラキラと輝いた。

「俺の方こそ…お前の恋人になりたい…ずっとずっと願ってた…好きだよ、雪乃…」

 今度は俺から、彼女の唇を奪った。ふにゃりと柔らかくこの世のどんなものよりも甘い雪乃の唇に、俺は時間も忘れてむしゃぶりついた。今までの彼女への思いをぶつけるように、彼女からぶつけられる愛を受け入れるように、ただただキスを交わした。

 

 ちょうどゴンドラが半分を過ぎたころ、そのキスは終わりを告げた。お互い口元がべたべたでそれを見て笑みを浮かべる。とても幸せな時間、けれど幸せな時間こそ終わりを告げるのは早かった。

「お兄ちゃん…どうするか、決めた?」

 さみしそうにそう言った雪乃の言葉に俺は黙るしかなかった。彼女と結ばれたが、俺の答えはまだ決まっていなかった。心の天秤が揺れ動いてまだ完全に静止していない。けれど心の奥底では雪乃と一緒にいたいという思いが若干だが勝っていた。

「もう、悩まなくていいよ、お兄ちゃん…私、決めたの…お兄ちゃんに殺してほしいって…」

「は…?」

 それは一番俺が悩んだ答えだ。確かに彼女を殺せば俺は解放されるし、生き残って辛い思いをする必要はない。けれど雪乃のことを覚えていられなくなる。雪乃への思いを忘れたくない。両想いになった今ならなおさらだ。彼女もきっとそう感じているだろう、けれど自身のことを殺してというのは何か理由があるのだろう。

「どうして、だよ…もう俺たち恋人だろ…?なら一緒に…」

「恋人だから、私を殺してほしいの…」

「なんだよそれ…意味、分かんねぇよ…」

「この先生き残ったとしてさ、今みたいな幸せな恋心のまま過ごせると思う?私は自信ない…きっと死の恐怖で心が壊れちゃう…今でも死ぬってことは怖い…毎回違う死の恐怖が襲ってくるの…一回も同じものはない、けれど同じなのは怖いってことだけ…あんなのずっと味わってたら、私きっとまともじゃいられなくなる…たぶん心が壊れて、お兄ちゃんに食べられるのも拒否しちゃうと思う…それ以上にきっと、お兄ちゃんを見ただけで怖くなっちゃう…お兄ちゃんが私に死の恐怖を与える最悪の人って思っちゃいそうなの…」

「じゃあ俺が食べるのを我慢するから!」

「それだとお兄ちゃんが狂っちゃう…私を食べないと気が狂いそうなほど苦しくなるんでしょ?それがずっと続いたらお兄ちゃんもおかしくなって心が壊れちゃう…きっと無意識で私を食べて、後悔すると思う…」

 俺はそんなことにはならない、そう言える自信がなかった。世界が終わる前日に感じた最大の空腹を思い出して心が折れそうになる。あの時の俺は生きていながら死んでいるような苦痛を味わい、気が狂いそうなほど雪乃の肉を求めて内側の獣が暴れまわっていた。あれに耐えるのはいくら愛が深かろうと無理だろう。

「だからさ、今のこの気持ちを持ったまま…死なせて。私、幸せなまま死にたいの…」

「けどお前への好きって気持ちはなくなっちゃう…」

「ううん、無くならない…それはずっと私のここに残ってる」

 彼女はポン、と自身の胸を叩いた。そして優しい笑みを俺に浮かべた。

「たとえお兄ちゃんが忘れても、私が覚えてる…死んだ後もずっとずっと、天国で覚えてる…」

「そんな保障、ないじゃんか…」

「ううん、あるよ。何回も私は死んだ、だからわかるの。たとえ体が死んでも心はずっと生きてるって」

 その言葉は死んだことがある雪乃だから言える本当の言葉なのか、それとも彼女がでっち上げた俺を安心させる嘘なのかわからない。けれど彼女は永遠に覚えておくつもりなのだろう。俺との恋を…。

「だからさ、お兄ちゃん…私を、殺して…持ってきてるんでしょ…ナイフ…」

「!?」

 俺のズボンのポケットに隠していたナイフをするりと取り出して、雪乃は言った。いつの間にばれていたのか、彼女はそれを俺の手に握らせた。自然と手が震えてナイフを落としそうになる。

「ね…お兄ちゃん…私を…殺してよ…早く殺してくれないと…心が揺らいじゃう…お兄ちゃんとずっといたくなっちゃうから…!」

 涙交じりのお願いに、俺の心は揺らぐ。ここで本当に雪乃を殺してしまっていいのか。それが俺の本当の答えなのか、まだわからない。雪乃が望んだ結末を選ぶか、はたまた彼女の願いを無視して俺のエゴに満ちた生存の道を進むか。究極の二者択一の選択に挟まれた俺の心はいまだこの迷宮から抜け出せないでいた。

「雪乃…まだ、時間はあるし…ギリギリまで考えさせてくれ…」

「…お兄ちゃんならそう言うと思った…けどこれだけはわかって…私は何もお兄ちゃんを勝手な願いで殺してって言ったんじゃないってことを…」

「あぁ、それは知ってるぞ…お前は俺のことも自分のこともよく考えて言ってくれたんだもんな…」

 ぽん、と雪乃の頭に手を乗せてくしゃくしゃと髪をなでてやる。気持ちよさそうに雪のが目を細める。

「それにさ…こうやって両想いになれたんだからさ、もうちょっと楽しみたいじゃん?」

長かったゴンドラの旅ももう終わりを告げる。夕日も本格的に空を焦がしだんだんと黒が染み渡っていく。世界に残された時間はもう一ケタだ。それまでに俺は、答えを決められるのだろうか…。

 

「あれ?カサンドラいないよ?」

「あいつ…どこ行ったんだ?」

 ゴンドラから降りるとそこに待っているはずのカサンドラの姿はなかった。代わりにあるのは一枚の紙きれ、それは置手紙のようで文字が書かれていた。

 ―面白いものを見せてもらったよ、ありがとう。ボクは邪魔にならないうちに帰るとするよ。残りの時間キミたちがどう過ごすかは自由だがちゃんと答えは出してくれよ?―

「あいつ先に帰ったってさ…」

「じゃあどうする?私たちも帰る?」

「そう、するか…もう辺りも暗くなってきたし、さすがに真っ暗な中バイク走らすのも危ないしな」

 世界最後の日にバイク事故でケガしました、なんて洒落にもならない。そういうわけで俺たちはそそくさと帰ることにした。まだ楽しげな音楽を鳴らし数多の人を笑顔にしようと頑張る遊園地を背に、俺たちは歩き出す。最後にその健気な儚い遊び場にありがとう、とポツリ呟いて、完全にこの場を背にした。

 

「…お兄ちゃん、私、お兄ちゃんに食べられたい…」

 で、家に帰ってきたはいいものの結局することはいつもと同じだった。

「本当にいいのか?」

 暗闇に照らし出される雪乃のシルエット、血が染みこんだむせかえる匂いがする部屋で俺たちは見つめ合っている。何度繰り返した食膳の動作も慣れることはなく心臓のドキドキは溢れ食欲の獣は牙をむきだす。

「うん…確かに死ぬ瞬間は苦しいし怖いけど…でもどうしても両想いになった今、お兄ちゃんに食べられたいの…大好きなお兄ちゃんの愛情を最後まで感じたいの…」

「わかった…雪乃…」

 月が照らした雪乃の愛らしい表情に俺はたまらずキスをする。ねっとりとした恋人の甘いキスを交わしながら俺は雪乃の服を脱がせていった。初めは手間取りながら脱がせていたのがもうすんなりと脱がすことができる。それほどまでに俺たちは禁忌の行為を繰り返してきたというわけだ。下着を脱がされることを恥ずかしがっている雪乃も今では少しだけ頬に赤みが差すだけだった。その奥には嬉しさにも似た表情もうかがうことができる。

「んっ…お兄…ちゃん…」

 生まれたままの姿の雪乃をベッドへと押し倒す。軽い体はぽふり、と小さな音をたててベッドへと沈み込んだ。洗ってももう落ちないだろう量の血がシーツにべったりと染みこんでいる。今日もこのシーツにはまた血が染みこむだろうが、今日のそれは普段のそれとは違う。雪乃の俺への愛情が染みこんだ血が漏れるだろう。今まで行ってきたものとは違う、本当の愛情を確かめ合う行為を、俺たちは交わしあうんだ。

「雪乃…愛してるよ…」

 俺は彼女の耳元にささやいたのち、首筋にかみついた。どろりとした温かな血が口内にじゅわっと広がる。愛の味が口内に広がり弾ける。

「お兄ちゃん…私も、愛してるよ…」

 雪乃もそうささやいて、俺の首元にかみついた。噛み千切る俺のそれとは違いただじゃれるように首筋にかみつくだけ、けれどそれだけでも雪乃の愛情がピリリとした痛みとして俺の体へと染みこんでいく。

 痛みが愛として互いの体を駆け巡る、そう表現するとサディスト・マゾヒストとみたいに取られてしまいそうだがどうしてもそれ以外の表現が思いつかない。ただいえるのはその愛が純粋なものというだけ。互いをただ好きな気持ちが体に痛みとして駆け巡っているのだ。

「お兄ちゃんの体…おいしいよ…」

 雪乃は俺から口を放してそうはにかんだ。口元には俺の首筋から漏れた血がつつぅと垂れて赤い線を引っ張っている。

「雪乃も、おいしいよ…今まで食べたどの時よりも…ずっとずっとおいしい…」

「えへへ…よかった…お兄ちゃんに喜んでもらえて…んくっ…痛っ…」

「大丈夫か、雪乃?」

「お兄ちゃん…キス…して…キスしてくれたら…頭ぼぉってなって痛いのが薄れると思うから…」

「わかった…」

 俺は雪乃の体と唇を交互に往復する。雪乃の体を食べては唇にキスを浴びせ、また体を食べる。そうすると雪乃は嬉しそうに笑うので、俺はさらに存分にキスの雨を降らせた。

 そして行為はエスカレートしていきついに俺は彼女の体自体も貪る。雪乃の女性としての温もり、これも何度も味わった感覚、けれど恋人になった今だからこそその行為に喜びを感じ、愛しさが湧き上がってくる。体を密着させてお互いの愛が肌の上をすべるのを楽しみながら俺たちはこの行為に酔いしれた。

 俺たち兄妹は愛の獣と成り果て互いを求めあい貪った。お互いの愛を飽和するまで求め合った。体は果てることなく雪乃のことを求める。今まで感じることができない愛を存分に貪るまで互いの行為は終わることはなかった。

 

「お兄ちゃん…どう?満足、した?」

「あぁ…超満足だ…雪乃は?」

「私も…苦しかったけど、今日のお兄ちゃんなんか優しかったから平気…それにお兄ちゃんの大好きって気持ちもいっぱい感じられて…気持ちよかったよ…」

「そっか」

 雪乃が復活し行為の余韻を楽しんでいる中、時計の針はついに残りのリミットが1時間であることを指した。俺の答えを出すまでもあと残り少しの時間しか残されていなかったが、もうその時間も必要ない。

 俺は、ついに覚悟を決めたからだ。あとは俺自身が決めた答えを雪乃にぶつけるだけだ。

「なぁ、雪乃…今日はクリスマスイブだしさ、ツリーでも見に行こうか」

「え?クリスマスツリー?あの商店街の?」

「あぁ。最後にさ、雪乃と一緒にツリーを見たいんだ」

 俺は彼女に自分の思いを伝える場所を決めていた。俺の運命の分岐点を告げられたあの場所で、俺は答えを出したかった。クリスマスの魔法に染まり損ねた世界に、俺の人生最大の問題の答えをプレゼントすると決めたのだ。

 

「カサンドラ!」

「はぁ…やっと来たね。遅いよ…ま、お楽しみだったんだし仕方ないか」

 世界の余命はもう残り30分を切った。けれどやはり世界はそんなことも知らずに今日ものんきに月に照らし出されている。ツリーの下にあるベンチに寝そべり星空を見ていたカサンドラはため息を吐く。その瞳には見上げていたキラキラとしたものが輝いて見えた。

「まぁ時間には間に合ったんだから不問にするけどさ。で、答えは決まったのかい?」

「あぁ…決めた…」

「そうか。ならあとはキミたちで勝手にやってくれ。ボクはただ見てるだけだからさ」

「それなんだけど、カサンドラ…最後の頼みを聞いてくれ…このツリー、点灯させてくれないか?」

「神様の使いをムードを出すためにこき使うとはね…はぁ…ま、ボクも意地悪じゃないからしてあげるよ。ホイ」

 静まり返った商店街に、カサンドラが指を鳴らす音だけが響いた。すると暗く染まっていたそこがまるで息を吹き返したように明かりを取り戻していく。放置されたツリーにも装飾が一瞬で施されて色とりどりの光を放ち俺たちを眩く照らし出す。さらには空から真っ白く輝く粒が落ちてきては俺たちの頬に当たりその熱でじんわりと溶けた。

「え?雪?どうして急に?」

「ま、ボクからのクリスマスプレゼントだと思ってくれよ。リクエストされた以上のムードを作るくらいにはボクは気前がいいんだよ」

 くりっとした瞳で可愛らしいウインクを浮かべると同時にカサンドラは愉快そうにステップを踏みどこかへ行ってしまう。きっと邪魔しないように遠くから見ているつもりだろう。そこまで気を使わなくてもいいのに、神様というやつはおせっかいにもほどがある。

「雪乃」

「うん、お兄ちゃん」

 俺は改めて雪乃と向かい合った。彼女の澄んだ瞳が俺の真剣な表情を降り落ちる雪とともに映す。キラキラの雪とネオンが映る雪乃の瞳も、どこかキラキラと濡れたように輝いていた。俺は大きく深呼吸する。息を吐き出した瞬間真っ白な息がぶわっと口から漏れて闇夜に消えた。

「雪乃…俺は…」

 ドクン、大きく心臓が高鳴る。それは今日一日ずっと感じていた恋のドキドキとは違う、覚悟を決めた緊張のドキドキだ。心臓がまるで鐘を打つように激しく脈動し俺の心につっかかった次の言葉を急かす。俺はもう一度大きく息を吸い込んで、吐きだす勢いとともに言葉をぶつけた。

「俺は、雪乃を殺す」

「お兄ちゃん…」

 俺の言葉を聞いた雪乃は嬉しそうに、けれど悲しそうに顔を歪めた。つつぅ、と少し引きつった彼女の頬に涙が伝う。それと同時に、俺の瞳からも熱いものがこぼれて地に落ちた。

「やっぱり…私を殺してくれるんだね」

「あぁ…確かに雪乃が言ったみたいにこれから生き残った方がもっと辛いって思った…雪乃のことをちゃんと愛せなくなるのが怖いって思った…それにこれ以上傷つけたくないって思った…けど、理由はそれだけじゃないんだ…」

 俺は一呼吸開けてこう付け加えた。

「俺は、雪乃に依存しすぎてたんだ…雪乃の優しさに甘えて、雪乃がくれる暖かい幸せをもらうだけで…結局雪乃のお願いなんてほとんど聞いたことなかった…俺もそろそろ妹離れしないといけないな、なんてさ…あ、でもこれだけは言っておくぞ?俺は別に雪乃が殺してって願ったから殺すっていうのが一番の理由ってわけじゃないからな?勘違いはするなよ?一番は愛せなくなるのが怖いからだからな?」

「わかってるよ…お兄ちゃんは精一杯考えて私を殺そうって決意してくれた…それだけでいいの…それにさ、お兄ちゃんも勘違いしてない?私だってお兄ちゃんに依存してた…優しいお兄ちゃんに甘えてたのは私、私もほとんどお兄ちゃんのお願いごと聞いたことないよ?」

 二人して顔を見合わせて、笑った。お互いがお互いの優しさに最後まで気づかないなんて、これは傑作だ。一番近しい存在のはずなのにお互いのことを全然わかっていないことに笑いが込み上げてくる。

「ふふ…私って…お兄ちゃんのこと全然わかってなかったね」

「あぁ、俺も雪乃のこと何もわかってなかったかもな」

 こんなことになるまで俺たちは互いを理解できなかったなんて、いや、こんなことになったからこそ互いの気持ちが、最後には知れたんだ。雪乃が思っていたことも俺が思っていたことも、二人の奥底にうずいていた恋心も、全部全部この状況が知らせてくれたんだ。そう考えると世界の終わりもなかなか悪くない、なんて思ったりした…。

「お兄ちゃん…ありがとね…私、幸せだったよ…お兄ちゃんの妹に生まれて、彼女になれて…」

 けれどお互いのことを知ったからといってこの決断が変わるわけもない。俺はこの先待ち構えるであろう負のスパイラルから妹を救い出さなければいけない。そのためにナイフを握りしめた。

「俺も幸せだった。妹に生まれてきてくれてありがとな…大好きだよ、雪乃…」

 手に持ったナイフが震える。いざこの瞬間を迎えると途端に決意が揺らぐ。本当にいいのか、と悪魔が脳内でささやき続ける。俺の答えを鈍らせるかのようなささやきを頭を振って取り払おうとするがそれはしつこくささやきをやめる気配もない。

 さらに視界も濡れて曇ってくる。目の前の雪乃が浮かべたニコニコとした顔がぐにゃりと歪む。この状況でも彼女は笑みを浮かべている。泣いている弱い俺とは正反対に彼女は別れなんてどうということはないというみたいに笑っている。

「お兄ちゃん…最後はさ、笑ってお別れしよ?私、笑った顔のお兄ちゃんが大好きなの…だから…ね?」

「雪乃…」

 どうやら雪乃の笑みは無理をして作ったもの。けれどそれでもただ子供のように泣きじゃくる俺とは比べ物にならないほどに強かった。俺がこんなに弱い姿を見せると恋人以前に、兄として失格だろう。無理に自分の心に鞭打って引きつる頬を釣り上げて見せた。

「ぷっ…お兄ちゃん何その顔…変な顔…」

 雪乃が、笑った。おかしそうに笑うその顔に、俺もつられて笑ってしまう。けれど互いのその頬には、雫の筋が通っている。

「あれ…おかしいな…笑ってるのに…涙、出てきちゃった…」

 悲しみがこもった熱い雫はぽろぽろと止めどなく頬を濡らす。無数の小さな悲しみには俺たちの引きつった笑顔が映る。

「お兄ちゃん…早く、殺して…これ以上は…つらいよ…」

 雪乃が懇願するような瞳を向けるが俺は動けない。まるで金縛りにあったみたいに全身が動かないのだ。動け、動けと体に銘じてどうにかナイフを構えた腕を胸元までもっていくことができたがその先がどうしても動かない。

(頼む…動け…動けよ、俺の体…あと一歩…あと一歩で、雪乃の体なんだよ…この一歩で、雪乃は解放されるのに…なんで動かないんだよぉ!)

 内心でどれだけ焦ってもやはり体は動かない。プルプルと空中でナイフが異常な振動を浮かべている。心の奥底にある何かが俺の決意を揺さぶっている。それは雪乃を忘れる恐怖か、それとも愛しの状かわからないが、俺の行動をためらわせるには十分すぎた。

「お兄ちゃんも、つらいんだね…そう、だよね…ずっと一緒にいた妹だもん、殺せるわけ、ないよね…いいよ、お兄ちゃん…私に、任せて…」

 感情が全く読み取れない声音でそんなことを言った雪乃は、一歩体を前に進めた。つぷっ、雪乃の柔らかい体に刃の先端が突き刺さった。

「やめろ…」

 ぐにゅり、さらに一歩、雪乃が前進する。彼女の純白のコートに赤い染みが広がっていく。

「やめてくれ…」

 ぐにゅ…ぶしゅっ…彼女を食べるときに聞く聞きなれた音がやけに大きく耳を劈く。目の前の彼女の体が奏でる音が、耳元近くで聞こえるようだ。コートに広がった血の海はやがて地面にもポツリポツリと水たまりを作っていく。痛々しい傷口、けれど雪乃は笑顔で俺との距離を詰めてくる。

「やめてくれよ、雪乃…」

 今更になって雪乃を殺したくないという感情がせり上がって脳内を支配した。けれど時すでに遅し、雪乃の体にはもう半分以上刃が飲み込まれていた。

「お兄ちゃん…最後は、お兄ちゃんが決めて…分かるよね?えぐるようにナイフを引き抜くの…けほっ!」

 口元から零れる血にむせる雪乃、苦しそうに息をする彼女を楽にするのが、今の俺に与えられた使命だ。もう肌は雪の冷たさも雪乃の体から熱が消えていくのを感じている余裕もなかった。ただあるのはナイフに伝わる雪乃の命の音、心臓の鼓動がナイフを通じて俺の手に伝わっているのだ。ドクン、ドクンという命のリズムが俺の手の内で不思議な音楽を奏でる。歪で気持ち悪く、神秘的なその音楽、彼女の最後に奏でるリズムが俺の手に染みこんでいく。

「お兄ちゃん…早く…して…これ以上…痛いの…ガマン、できないよ…」

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 俺は叫んだ。それと同時にぐにゅり、と彼女の体に大きくナイフを突き立てて、まるで鍵を閉めるようにぐいっとえぐった。予想以上に柔らかい肉の感触が歪にも俺の手に伝わる。そして力任せにそれを引き抜いた。ぐちゃり、と嫌な肉の音が響いたと同時に彼女のぽっかりと空いた胸元からまるでシャワーのように血の雨が降り注いだ。血のシャワーは嫌というほど彼女との行為の時に浴びたけれど、この血の雨は違う。彼女の本当の命が、噴き出しているのだ。

「あり…が…と…おに…い…ちゃん…」

「雪乃!」

 口元から血がだらりとこぼれたかと思うとその瞬間、ぐらりと力なく倒れる雪乃を何とか抱きかかえた。まだまだ小さくて軽い体が今は余計に軽く感じた。

「お兄…ちゃん…頑張った…ね…えらい、よ…げほげほっ!」

 力ない雪乃の手が伸び俺の頬を撫でた。べったりと温かな血が付着するが既に血の雨を浴びた俺にはもはやこれ以上赤に染まるのを気にすることもない。

「お兄ちゃん…ポケット…見て…」

「ポケット?ポケットがどうしたんだ?」

 雪乃の逆の手が自身のコートのポケットを指す。どうやらその中に何か入っているようで俺に取り出してほしいみたいだ。ガサゴソといじると何か小さくて硬いものが見つかる。

「なんだこれ?ストラップか?」

「うん…お兄ちゃんに…ぷれ、ぜんと…遊園地で…かはっ…えらん…だ…の…」

「もしかして、トイレに行っている時か?」

 こくり、と彼女はうなずいた。俺は改めてそのストラップを見る。青色のしずく型のストラップが彼女の血でべったりと汚れている。けれどそれでも俺は嬉しかった。たとえ世界がリセットされると無くなってしまうけれども、雪乃が俺に最後にくれたものだから。雪乃が俺のために選んでくれた、人生で一番嬉しい最後のクリスマスプレゼントなのだから。

「雪乃…ありがとな…大事にする…」

「げほげほっ…お兄…ちゃん…最後…に…キス、して…」

 雪乃は最後にキスをせがんだ。血がべったりとついた口元をぬぐってやるといつも通り可愛らしく瑞々しい唇が浮かび上がった。けれどいつもとは違う紫色に心が痛む。そんな紫色でも愛らしく魅惑的なそこが俺を求めてかすかに動く。これが雪乃との最後のキスになるのかと思うと悔しくて残念でたまらない。けれどこれは俺が選んだ結果なのだ。俺が選んだ答えなのだ。いまさら悲しいとか感じることはない、最後は幸せに幕を閉じようじゃないか。そう、胸に決めた。

「雪乃…愛してる…お休み…バイバイ…」

「私…も…あい…して…る…ばい…ばい…」

 

 最後の口づけを交わした瞬間、時計の針はちょうど真上で重なった。ツリーの色とりどりの明かりが、きれいな冬の星空が、空に大きく浮かぶ月が、すべてすべて歪んでいく。それは俺の目の前の彼女も、ましてや俺自身も同様で、世界がすべてすべて歪んでいく。何もかもが幻影のように消えていき、世界が再構築される。

 ―雪乃、俺はお前を、忘れたくない―

「ダメだよ。キミはすべてを忘れて何もなかった世界に生きる」

 ―ひょんなことで思い出したりは?―

「そんな都合のいいこと起こるわけないよ」

 ―だよな―

「でももしかしたら…可能性が…いや、そんなことはありえないな。高望みさせるのも悪いだろうしね。あ、高望みしたとしても次に目覚めれば全部忘れちゃうか」

 脳内に響くこの意地悪そうな声はいったい誰のものだっけ?再構築されていく世界をぼんやりと覗きながら俺は白濁とする思考に意識を預けた。そういえば、さっき俺は誰のことを忘れないって思ったんだっけ?世界に次第に色が、音が、命が、戻っていく。時計の針が逆回りに勢いよく回り世界が閃光に包まれた。その先の世界を見る前に、俺の意識は完全に黒に染まった。意識だけじゃない、意地悪な誰かの存在も、俺が悩み続けた空腹も、誰だか覚えていないが人を愛した心も、すべてすべて真っ黒な何かに塗りつぶされて跡形もなく消え去った。

 世界は終幕をなかったことにしてもう一度動き始めた。ただいつも通り不変に―

 



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繰り返される日常

 PiPiPi…と、電子アラームがけたたましい叫び声をあげる。鬱陶しいほどのその騒音に顔をしかめながら俺はいつものように寝起きの怒りをぶつけるように時計を叩いてアラームを止めた。

「ふわぁ…」

 窓から漏れる朝日に目を細め、あくびを一つして体を起こす。が、その途中手に何か違和感を感じてそれを見た。

「ん?なんだこれ?」

 手に何か持っている。それは青いしずく型のストラップだった。見覚えのないそれに俺は首をかしげる。

「あれ?俺、こんなの持ってたっけ?誰かにもらった?誰に、いつ?いや、もらったならどこかに付けるか引き出しにしまうかしてるだろうし…寝ぼけてるのか…?そういやなんかすっげぇ長い夢見てた気がするし…」

 まだ意識がぼやけて自分が起きているか寝ているかわからない。俺はぱしん、と自身の頬を叩き喝を入れる。まずは顔を洗ってしゃっきりとしよう、そう思い一人で暮らすにはやけに長い廊下を洗面所へ向け進む途中俺はふとあることを思い出した。

「そういや…世界、滅んでないじゃん…」

 今日は12月15日、予言では今日世界が滅ぶといっていたが…今日も世界は平凡そのもので外は寒い空気に身震いしながら通勤する大人たちやそれをあざ笑うかのように飛び回る鳥たち、そしてひっきりなしに通過する車の騒音であふれかえっていた。結局世界が終わるなんて眉唾なんだ、学校で黒崎をからかってやろう、そう思いながら俺は顔を洗おうと洗面台を覗き気が付いた。まるでウサギのように真っ赤な目をした自分が鏡に映っていた。そして頬には泣き腫らしたような跡がくっきりと残っていた。

「俺は…泣いていたのか?どうして…?」

 まさか夢を見て泣いていたというのだろうか?夢の内容なんて覚えていないが、それ以外の理由が見つからない。今朝からどうにも様子がおかしい。知らないストラップを持っていたり何か大事なことを忘れているようだったり、夢で泣いていたり。

「う~ん…なんだろうな…ストレス?」

 どれだけ考えたところで俺の奥底に潜む違和感の正体はぬぐえなかった。きっと寝ぼけているのだろうということでその場は済ませてしまうことにした。

 

 一人きりの朝ご飯を食べ終わり去年の誕生日に自分自身にプレゼントした黒と白のメンズマフラーを巻いて登校を始める。葉が完全に落ちてしまった冬の木々を眺めながら喧騒にあふれた道を進んでいく。なんだかこの喧騒がとても懐かしく感じるのはやっぱり俺がまだ寝ぼけているせいだろうか。肌に突き刺さる寒さが思考を鈍らせる。

「おはよう夏樹君」

「ん?あぁ、露子か。おはよう」

 と、ふと背後からかけられた声に振り向くと露子がいた。マフラーにコートに手袋に完全防寒な彼女だがその口から漏れる吐息は白く染まっていた。

「今日も朝から寒いね…」

「あぁ、そうだな」

「こんな寒い日は嫌になっちゃうよね…私ほんと寒いの嫌いなの…」

 俺たちは昨日世界が終わるなんて噂を聞いたことも忘れてただいつも通り何の実りもない他愛もない会話を続ける。それは決して意図的に避けている、というわけではなくただ単に話す興味がないと知っていたからだ。実際オカルトをあまり信じていない露子に世界終わらなかったな、なんて言ってもあんまり会話が発展しないだろうし。

「あ、そういえば…昨日なんて言おうとしてたんだ?確か今日になったら話してくれるって言ってたよな?」

「あ…う、うん…」

 とたんさっきまで普通に会話できていた露子が口ごもる。顔もどこか心なしか赤く染まっている気がする。

「ん?大丈夫か?やっぱり体調良くないんじゃ…」

「そ、そんなことないよ!元気元気!」

 確かに元気そうに見えるのだが、幾分顔が赤いのはやはり気になる。

「もしかして寒いのか?ならマフラー貸すぞ?」

「い、いいよ!マフラー借りちゃったら夏樹君が寒くなっちゃう!それに私はなんともないの!」

「そ、そうか…?」

 少々食い気味な感じがするが、大丈夫と言えば大丈夫なのだろう。女の子にはいろいろ触れられたくない部分もあるからな、と内心で適当な納得の理由を作る。

「で、お前ほんと昨日何言いたかったんだよ?」

「やっぱり覚えてたんだ…」

「もしかして…聞いちゃいけなかったか?」

「ううん…ダメ、じゃない…」

 露子は一度大きく深呼吸して意を決したようにこちらを向いた。メガネの奥の瞳が鋭く俺の瞳と交わり目が離せない。これから彼女はどんな言葉を継げるのか、俺は身構える。

「今日の放課後…屋上に来て」

「え?あ、あぁ…うん…」

 何を言うんだろうと思っていたがずいぶんと俺の予想外の言葉に気が抜ける。気を張っていたこちらがばかみたいに思える。

「もしかして…言いたいことって、それだけ?」

「う、うん…今はまだ…これだけ…」

 まさかこれだけが言いたかったなんて…。そういえば昨日言えば死亡フラグになるって言ってたくせに、これのどこが死亡フラグなんだ?俺の頭に疑問が渦巻いてはもやもやとしたものに変わり頭に絡みつく。

「そ、その…ちゃんと放課後!来てよね!屋上で、待ってるから!」

「あ、待てよ露子!…行っちゃったよ…同じクラスなんだから一緒に行けばいいだろう…」

 背中にかける俺の声も無視して露子は驚くほどの速度で走り去ってしまった。その顔はさっきより真っ赤に、まるでリンゴのように染まっていた。結局取り残された俺は一人寂しく通学路を歩んでいった。

 

「おい黒崎!世界滅んでねぇじゃんかよ!」

「いや、あの予言がどの暦を使っていたかだなぁ…」

 教室に入るなり春宮が黒崎をいじっていた。例の予言のことで不毛な言い争いをしていたが俺に気付きあいさつを交わした。

「なぁ水瀬、お前も言ってやれよ、オカルトなんて信じるなって」

「さすがに他人の趣味なんだしそこまでは言えないけどさ…」

「くっそー…今日で世界が終わると思って恥を忍んで駅前でひたすらナンパを繰り返したってのに…!俺今度からどんな顔して駅前歩けばいいんだよ…!」

 悔しそうに唸る黒崎に俺も春宮もため息しか漏れない。

「な、なんだよお前らまるでかわいそうなものを見る目で俺を見て…!」

「いや…世界最後の日にナンパするって考えに行きつくお前がどうしようもないバカだなって思っただけだ」

「え!?死ぬまでに彼女がほしいのは男としての性じゃないか!?それに童貞のまま死にたくないだろ!?」

「お前出会ったその日に即合体する気だったのかよ…」

「うるせぇ!そういうお前らだって童貞のまま死にたくないだろ?」

「お、俺はほら、ネットの同志と魔法使いになるって約束したから」

 春宮、そんなに震え声じゃ説得力ないぞ。

「じゃあ水瀬はどうなんだよ!?」

「俺に振るなよ…」

 うんざりした顔を浮かべると黒崎はそれ以上踏み込んでこなかった。そこでいったん会話が途切れたが黒崎がまた口を開く。

「なぁ水瀬…ほんとにお前クリスマスパーティー来ない気なのか?」

「こいつは昨日も言ったけど毎年メリーぼっちますなんだよ。今年もそのスタンスをなぜか貫き通す気らしいぞ」

 ふと出されたクリスマスパーティーの話題。昨日俺は一人で過ごすからと言って断ったが、どうして俺は一人で過ごしたいと思ったのだろう。教会に行くとかでもないし特に一人ですることもない。それに過去のクリスマスの記憶が曖昧だ。何か、大切な何かが、俺の中から抜け落ちている気がする。

「おい、どうした水瀬?顔色が悪いぞ?もしかして風邪か?」

「いや、大丈夫…ちょっとくらっとしただけ…」

 何かを思い出そうとすると頭がずきりと痛むと同時に心の奥底もキュッと締め付けられたように痛んだ。ずきずきとした痛みはやがて靄になり俺の意識を鈍らせていく。俺の体はいったいどうしてしまったのか、今日の目覚めからあまりよくない。記憶の混乱と感情の揺れが激しい。頭が歪み何かが抜け落ちたような歪な記憶がくるくると回り吐き気を催す。

「本当か?見た感じ全然大丈夫には見えないぞ?保健室、行くか?」

「そこまではいい…ただ、ちょっと座らせてくれ…しばらくそっとしておいて…」

「あ、あぁ…ごめん。でも無茶するなよ?お前ひとり暮らしなんだから風邪ひいたら大変なんだろ?」

「はは…気づかいありがとな…」

 座って机に突っ伏すと少し気分が楽になった気がした。きっと寝不足かなにかだろうと判断して授業開始まで仮眠をとることにした。だんだんと黒に歪んでいく意識の中、俺の心の奥底は何かを告げようとしているかのようにずっとざわめいていた。

 

 時は進み放課後となった。この時間になればもう今朝感じた吐き気もふらつく頭もどこへやら、あんなに苦しんでいたのが嘘のように気分はすっきりとしていた。やはり寝不足だったようで少し仮眠を取れば気分は落ち着いていた。きっと昨日変な夢にうなされてろくに眠れてないのだろう。何か変なものが突っかかっていた心は今別な引っ掛かりを覚えている。それは、露子の言葉だ。

どうして屋上に呼ぶ必要があるのかわからない。屋上はお昼休みになるとピクニック感覚でお弁当を食べにくる生徒が多いのだが放課後は誰も寄り付かない。清掃担当の生徒が10分ほど屋上の片づけをするとあとはほぼ無人となってしまうわけだ。しかも今は冬だから吹き曝しの屋上には誰も寄り付こうとしない。そんな場所に俺を呼び込んで何をしようというのか。

「まさか、告白だったりしてな…ってラノベの読み過ぎか?春宮にずいぶん毒されちまったかもな…」

 なんて馬鹿なことを考えながら屋上への扉に手をかけた。開かれた扉から冬の乾いた寒さが全身に吹き抜けていく。朝よりは多少寒さは抑えられているが、それでも肌に刺さるような寒さだということは変わらなかった。

「来てくれたんだね、水瀬君…」

「まぁ来てくれって言われたからな。断る理由もないしさ」

 露子は嬉しそうに目を細めた。その頬はやはり朝方と同じように赤く染まっている。

「来てくれないんじゃないかって思ってドキドキしちゃった…でも、来てくれて嬉しい」

「で、何の用なんだ?…まさか、告白か?」

「~~~~~!?」

 ふざけていったその言葉、けれどそれは彼女の顔を真っ赤に、そして驚きに染めるには十分すぎたようだ。

「な、なんで…分かったの…?」

 そして次の瞬間には泣きそうな、それでいて嬉しそうな瞳を上目遣い気味にして俺に抱き着いてきた。キラキラとした瞳に俺の戸惑いの顔が映る。そのキラキラに吸い込まれてしまいそうになり思わず目をそむけた。

「え、えと…その…ふざけて言ってみただけなんだけど…なんて言うか…ごめん…」

「謝らなくてもいいよ!そう!夏樹君が謝ることじゃないし!むしろ謝るのは私の方!告白したいからって夏樹君をこんな寒いところに呼んで…でもここ以外告白するところっていうと思いつかなかったし…」

「おい、落ち着け。深呼吸だ」

「あ、うん…」

 ぐるぐると目を回しあわただしく弁明する露子を落ち着かせるとともに俺も落ち着くために深呼吸を一つ。出だしは最悪だったが告白だということに気持ちがドクンと高ぶった。

「すぅ…はぁ…うん…落ち着いた…でね、私が言いたかったのは…夏樹君のことが好きって…彼女にしてくださいって…言おうと思ってたの…」

「あぁ、まぁ…告白だから当然だよな。…で、俺のどの辺が好きなの?」

 少しぶっきらぼうな態度を取ったがそれが俺の恥ずかしさの裏返しだということは知っておいてほしい。彼女の告白に俺の心拍は今も速度を上げて脈を打つ。

「えと…はっきり言うと…一目惚れ…あの日初めて図書室であった時…とってもカッコよくて、見た瞬間好きになっちゃったの…それで仲良くなりたいなって思ってたら本好きだってわかって…話していくうちにどんどん好きになって…」

「そうか…」

「あ、それだけじゃないよ!夏樹君の優しいところも好き!私のことずっと気にしてくれてるのわかるもん…今朝だって私が恥ずかしがってただけなのに風邪じゃないのか?って心配してくれたとことか…そんな優しさが好き…」

 言葉を紡ぐ露子の瞳から大粒のしずくが流れて落ちた。肩も小刻みに震えてだんだんと表情が不安に染まっていく。きっと断られたらどうしよう、なんて考えているのだろう。けれど俺は安心させるように彼女に言葉をぶつける。

「俺も…お前のことが、好きだ…露子…」

「嘘…ほんと、なの…?」

「あぁ、ほんとさ。俺もたぶん一目惚れだったと思う。初めて露子とあった時ドキドキが止まらなかったし、一緒に話してると楽しい、幸せって思えた…会うたびに露子のことが好きになっていって…今じゃもう抑えられない…」

 あの日の図書室の偶然的な出会い、それは俺たちの恋の運命的な出会いだったんだと思う。そしてその偶然の運命を信じて進んでいった結果が今日にある。

「俺は露子のことが好きだ」

 ―本当に?―

 心にノイズが走った。そのノイズは心だけじゃなくて思考をも切り裂いた。

 ―本当に、露子が好きなのか?―

 ―お前には本当に愛する人がいるんじゃないか?―

 ―お前が向ける愛はこの女じゃないだろう?―

 ―お前の本心は、今どこにある?―

(黙れ!)

 全身を震わせるほどのノイズを心の叫びでかき消す。けれどノイズが通った痕は消えず体には異常なまでの寒気が走り震えが止まらない。耳に張り付いたノイズがまだ反響しているかのように耳の奥で鳴り響く。

「あ、ごめんね…寒いよね…私が温めてあげる…」

 俺のこの震えを寒さのせいだと勘違いした露子が体をぎゅっと抱きしめてくれた。柔らかくて温かくて、優しい彼女の抱擁に、俺も身を任せた。

「露子…ありがとな…あったかいよ…」

 ぎゅっと抱きしめる露子の体、けれど彼女のその感触に満足していない何かが俺の内側に潜んでいるのは今の幸せに満ちた俺にはわからなかった。ただ、今は二人の愛が実ったことを喜び、こうして互いの温もりを感じあっていることだけが俺の心をつないでいた。そうすることでよくわからない何かから無自覚に目をそらしていたのだ。

 

 恋人同士になった俺たちは17日の日曜日、休日を利用して初デートに出かけた。デートと言ってもプランなんて何もない。どちらかが行きたいといった場所にふらりと立ち寄る、みたいなほとんど散歩感覚のデートだ。本屋デートという選択肢もあったのだがせっかくの初デートにお互いが好きな本を読むだけというのも普段放課後本屋巡りをしていることからなかなかに味気というので却下された。

「えへへ…こうして彼氏と街を歩いてみたかったんだぁ…」

 繁華街のショッピングウィンドウ群に普段と同じ黒を基調としたコートを羽織った俺の姿とそれとは対照的な白のコートを羽織りバッチリとおめかしを決め込んだ露子の姿が映る。二人は誰がどう見てもカップルと分かる風に手をぎゅっと握っていた。そんな恥ずかしい俺たちの姿をふと鏡を見た瞬間に気付き頬が外の冷気とは相まって熱くなるのを感じた。

「な、何か…恥ずかしいな…」

「恥ずかしければ慣れればいいんじゃないかな?」

 肝が据わっているといえばいいのか、露子はあっけらかんと言い放った。さすが自分からこうやってカップルつなぎをしてきたことはある。

「今の私、まるで小説の主人公になったみたい…」

「ん?なんでだ?」

 ふと夢見がちなことを呟いた露子。普段はこんな古典的ロマンチックなセリフなんて言わない子だというのにどうしたのだろう。

「だってこうやって好きな人と肩を並べてさ、何気ない日曜日を過ごすって恋愛小説のワンシーンでありがちじゃない?けどあのワンシーンに主人公の女の子が感じたドキドキや恥ずかしさ、嬉しさがいっぱいつまってて…今の私も夏樹君といれてドキドキしてるし恥ずかしい、とっても嬉しくて幸せなの…」

「そ、そうか…」

 恋愛小説はあまり読まないから露子が言っている感覚がどんなものかわからないが、それはきっと俺も感じているこの気持ちなのだろう。ドキドキして恥ずかしくて嬉しくて幸せ、その言葉を、思いを意識した瞬間に自身の頬もさらに熱く染まるのが分かった。今この瞬間にも心の中の好きの気持ちは弾ける。愛おしい彼女とともに幸せだと実感できる。

 数日前に感じた俺の心の違和感も今ではもうすっかりなりを潜めている。あの時俺の中で暴れたあれは何だったのか、今ではもう知るすべは何一つない。

「ねぇねぇ…夏樹君はさ、嬉しい?私と一緒にいて、幸せ?」

 身長差で上目遣い気味に尋ねてくる露子にドキリとし顔を逸らす。俺は彼女とは違ってそういうことをはっきりといえる人間じゃないのはわかっていた。ただ顔を染めて彼女のキラキラとした瞳から逃れるしか恥ずかしさで死にそうな体を守るすべはなかった。

「むぅ…言って、くれないんだね…」

 けれど露子が泣き出しそうな顔をした瞬間、俺の中の恥ずかしさはなりを潜める。とたんに彼女にまるで反射的に、好きだ、と俺はこぼしていた。どうにも俺はそういう泣き顔に弱いらしい。

 瞬間露子の顔に笑顔の花が咲く。満面の笑みを見せたその顔は、どこか見覚えがあるような気がして仕方なかった。けれどそれもやはり気のせいだろうということで数分先には頭の片隅にも残ってはいなかった。

 

「うぅ…少し寒くなってきたね…」

「そうか?…お前がそんな寒そうな恰好してくるからだろ」

「だってだって…初めてのデートだしちょっとおめかししようかなって思ったんだもん…」

「おめかしより自分の体調の方が大事だ」

 冬だというのにスカートでそこから覗く健康的な肌も寒そうに少し白く染まっていた。それにコートも今着ている服と合わせてか少し薄めだ。見ているだけでこちらが寒くなってきそう、といえば少しオーバーだがそれでもやっぱり寒いんじゃないか?と疑問に思うくらいではあるもので、俺はため息をつきながらもそっと彼女の肩に自身のコートをかけてやった。

「え…?」

「ほら…着ろよ…風邪、ひかれたら困るしさ」

「ふふ…ありがとね」

 そのぶっきらぼうな言葉の奥の気遣いをまるで分っているよとでも言いたげな露子の瞳に俺はたじろぐ。けれど決して彼女はそういうことを口には出さずただコートをつかんで自身の身を温めるだけだった。

「えへへ…あったかい…これ、夏樹君のにおいいっぱい染みこんでる…息するだけで夏樹君が体中に広がっていく感じ…」

「ば、バカ!嗅ぐなって!臭いだろ」

「え?臭くないよ?だって大好きな人のにおいだもん!ちょっとくらい汗っていうか男臭くっても平気!」

「やっぱり臭いんじゃないか!返せよ!」

「や~だよ~」

 周りの視線がバカップルを見るようで痛い。バカみたいにじゃれあってるときは幸せなのだがふと我に返った時のこの周りとの温度差が少々胸に染みる。これが、恋の大変さというものなのか。なんて馬鹿なことは置いておくとして、さすがに俺もコートなしじゃ長くはもたない。そういうわけで手近にあったコンビニで何か暖かいものを買うことにした。

「お前何がいい?おごるよ」

「え?ほんとにいいの?う~ん…悪いなぁ…」

 なんて言いながらも露子は嬉しそうに店内の物を物色する。俺もそれに倣って暖かそうなものを探す。気がつけばクリスマス商品を多数展開しているのを見て今年は一人じゃなくて露子とクリスマスを過ごすか、なんて先のことを考えた。

「じゃあ私肉まんにしようかな」

「肉まんか…じゃあ俺は…カレーまんにしようかな」

「カレーまん、好きなの?やっぱり男の子っぽい」

「カレーまん好きなのって男の子っぽいのか?」

「うん。だって男の子ってみんなカレー好きでしょ?ならカレーまんも好きなんじゃないの?」

「それただの偏見だろ…まぁ確かにカレーが嫌いな男はあんまり見ないな…」

 そういう俺もカレーが大好きだ。野菜がトロトロになるまで煮込んだ母さんのカレーを思い出す。あれは紛れもなく母の味で俺の良き思い出だ。

(そういえば…俺が前に食ったカレーも…母さんのカレーの味がした…あれ…?あのカレーは、誰が作ったんだろう?俺が大好きなハンバーグカレーを作ってくれたのは、いったい誰だ?)

 思い出した昔と心の奥に潜んでいたはずの違和感が結びついた。一度違和感を感じるとそれはどんどんと、まるで水を吸ったスポンジみたく大きく膨れ上がり俺の心を隙間なく支配していった。

(誰だ…?俺の記憶にいるのは…?俺は、何かを忘れている…?記憶が…分からない…)

 記憶と同時に心が混乱する。ざわざわとざわめきだす心が店内にループで響くジングルベルの音とともに耳元で大きく騒ぎ立てる。ぐるぐると視界が回り平衡感覚がなくなっていくみたいに意識もだんだんと黒に染まっていく。

「…君…夏樹君…夏樹君!」

「!?」

 ふと呼ばれた俺の名に眩んでいた視界は一瞬で元の姿に戻った。意識も、心のざわめきもその声でどこかに飛んでしまったみたいだ。

「どうしたの?急にぼぉっとしちゃって…もしかして考え事?」

「い、いや…なんでもない…」

 頭を振って脳内にこべりついたわけのわからない物を吹き飛ばす。きっとまた寝不足が原因だろう。今日のデートにドキドキして昨日あまり眠れなかったことを思い出す。眠気覚ましのカフェイン注入のためにホットコーヒーも買って俺たちは店の外へ出た。店員の声とともにさっきはあんなに近く感じていたジングルベルの音がやけに遠くに感じた。

「はむっ…うん、おいしい!熱々でジューシー!」

 隣で何も知らない露子は大口を開けて幸せそうに肉まんをほおばっている。美味しいと目を細めた姿を見ているとまた心がざわめくのを感じた。ダメだダメだ、と自身に喝を入れてコーヒーを流し込む。ブラックのほろ苦さと少し渋みの利いた味が喉を流れるとどこかスッキリとした自分がいた。コーヒーと一緒にわけのわからない物も流れていったのだろうか。俺はさらにカレーまんにかぶりついた。ピリリとしたスパイスがじゅわっと口いっぱいに広がる。そのあとから豚肉の美味しいスープが流れて来て口の中を楽しませた。

「…おいしい」

「私も久しぶりにカレーまん食べたいなぁ…一口ちょうだいよ。私のも一口あげるから」

「あぁ、いいぞ」

「あ~む…うん!ピリッとして美味しい!」

「あむあむ…うん、こっちはシンプルでいいな」

(あれ…?そういえばこれって…間接キス!?)

 無意識だったが間接キスをしてしまいドキリと鼓動がはねた。露子は気づいていないが、一度気づいてしまった俺はもうどうにも止まらない。ドキドキがうるさく胸を占めた。

(そういえば…こんなやり取り…したことあるぞ…)

 デジャブ、というのだろうか、その違和感を感じた瞬間、頭に数日前感じた物より一層強いノイズが走った。先ほど落ち着いたのはこの大きなノイズの前触れだったかのようだ。激しいノイズは俺の頭が割れてしまいそうなほどの痛みを与える。

「あ、あぁ…!」

「大丈夫夏樹君!?」

 心配してくれる露子を払いのけて俺は頭を抱えた。まるで脳天から杭を刺されているような激しい痛みに目が自然と見開く。

「あぁぁぁぁぁ!ああぁぁぁぁぁ!」

―カレーもおいしそうだなぁ…お兄ちゃん、ちょっとちょうだい!私のもあげるから!―

―あ~む…うん!ピリ辛でおいしい!お兄ちゃんの言った通りなんだか体がポカポカしてきたかも…それじゃお兄ちゃんも…あ~ん―

 脳内で女の子の声が聞こえる。さらに女の子のビジョンまで見える。けれど女の子の姿は真っ黒でノイズまみれで俺には見えない。だけども、俺はこの女の子とあって、楽しそうに笑いあっている。今みたいに間接キスで恥ずかしがってドキドキとしている。

(なんだよ、これ…お兄ちゃん…?俺には妹はいないぞ…くそ…頭が…灼けそうだ…)

 ノイズまみれの女の子、正体はわからないのにどこか懐かしく愛おしい。そしてその愛おしい感覚は俺の奥底にあった感情を揺さぶる。それがまた頭痛を引き起こしてたまらずにその場にうずくまる。

 吐き気を催すほどの量の感情が俺の頭を駆け巡っては消えていく。何か、俺の知らない、いや、俺が忘れている何かがあるはずだ…。俺は…俺は…

「あぁぁぁぁぁ!」

「夏樹君!」

「…あ…?」

 露子の突き刺すような叫び声に、俺の頭にかかった靄は完全に吹き飛んだ。ノイズも、正体不明の誰かも、もう頭の中にはいない。けれどそれが現実だったというように吐き気だけは収まらなかった。

「大丈夫…?体調、悪い?無理しないで…今日は帰ろ?ね?」

「ごめん、露子…」

 俺はただそれだけ言うと露子に背を向けた。彼女の寂しそうな顔が目の前の車のミラーに映ったが、俺はそれでも足を止めなかった。今はただ帰りたい、帰ってベッドで眠りたい、ただそう思った。眠ればすべて元に戻るはずだ、前みたいに楽になるはずだ。きっと何もかもが寝不足の頭が見せた幻影だ、白昼夢でも見ていたんだろう。

 なんて楽観していた俺だが、現実は残酷だった。夢でも謎のノイズまみれの女の子は俺のもとに迫ってきた。

 ―お兄ちゃん―

 ―お兄ちゃん…いいよ―

 ―お兄ちゃん、大好き―

 ―お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん―

(お前は誰だよ…!どうして俺の中に付きまとう…!なんで俺をお兄ちゃんなんて呼ぶんだよ!)

 夢の中、いくら叫んだってノイズまみれの女の子はこたえようとしない。代わりに漏れるのはまるで壊れたスピーカーが漏らすようなノイズまみれの、お兄ちゃん、という声だけだった。

 

 その日以来俺の中でお兄ちゃんという言葉はたびたび繰り返された。滅多なことがなければ大丈夫なのだが一度何かの拍子でトリガーを引いてしまうと吐き気を催すほどの頭痛と苦しみを伴った何かが俺を襲う。その正体不明の何かはいくら繰り返したってわからない。ただずきずきと俺の脳内と心を蝕みそこにあいた穴にむりやり収まろうとしているようだった。

 そんな苦痛の日々が過ぎていき今は12月24日、街には初めての雪が降りその景色を白く白く染め上げていく。

「雪、か…」

 窓の外に見える真白の街、そこに降り積もった雪が太陽の光を浴びてキラキラと輝き俺の目を焦がす。その光景にまたデジャブを感じて頭がズキリ、と痛んだ。

 襲い掛かってくる頭痛を振り払うように俺は頭を振り顔を洗う。今日は露子とデートの約束がある、また頭痛を感じて辛そうな顔を浮かべていると彼女に心配されてしまう。ただでさえこの前のデートで随分と心配されているのだ。これ以上心配されるのは申し訳ない。

「さて…そろそろ出るか…」

 少し早いがこのまま家にいても仕方がない、そういうわけで俺は白い街へと出かけた。街は冷たい空気を孕んだ腕で俺の体を迎え入れてくれた。

 

 世界はクリスマスの色で染まっていた。街中の人々はみな笑顔をたたえ聖夜の訪れを喜んでいるようだ。母親におもちゃをねだる子供も、初々しいカップルも、老成した夫婦も、今日は皆どこか幸せそうに見える。そしてかくいう俺の彼女、露子も幸せそうな笑みを浮かべて俺のことを待っていた。

「おはよう、露子」

「こういう時はメリークリスマスだよ、夏樹君?」

「あ、そうか。じゃあ、メリークリスマス露子」

「うん、メリークリスマス、夏樹君」

 少し早めに待ち合わせ場所に来たつもりだったが既に露子はそこにいた。この前のデートとは違う暖かそうな衣装を身に着けている。

「…もしかして、待った?」

「ううん。全然。楽しみでちょっと早く着いちゃっただけ。それに夏樹君だって予定より20分も早いよ?」

 確かに俺も人のことを言えないかもな、なんて内心で苦笑する。

「ま、早く着いたならその分いっぱい遊べるしさ。で、どうする?どこに行く?」

「う~ん…どこにしようか?」

「決めてなかったのかよ…」

 お互い顔を見合わせて苦笑した。どうやら今回も前みたいに適当に散歩するデートになりそうだ。

「あ、そうだ。商店街のツリー見に行ってみない?クリスマスの装飾が完成したんだって」

「そうか。なら見に行ってみるか」

 どうせ行くところなんてなかったんだ、ここは露子の言う通りツリーを見に行くことにする。そういうわけで俺たちは商店街へ向けて足を進めた。

 

「うわぁ…綺麗だね」

 商店街の真ん中あたりに映える大きな木、そこには夜になれば光るのだろうたくさんの電飾やらラッパを吹いている天使やサンタの人形などが飾られていていかにもクリスマスといった風貌だ。まだ昼間だということでツリーを見ている人は少ないがきっと夜になれば大勢の人間がこの下に集まってライトアップされたこれを見上げるのだろう。そして愛を囁きあったり、するのだろう。

「あれ?夏樹君、どうしたの?やっぱりまだ体調良くなってないの?」

 隣で幼子のように目をキラキラとさせながらツリーを見上げていた露子とは打って変わり俺はこのツリーを見た瞬間頭にまたノイズが走るのを感じた。そのノイズは今まで以上にけたたましい音量で俺の頭を犯す。まるで高架橋の下を歩いていると頭上で電車が通った時のような轟々とした頭と耳、両方を潰しにかかってくるような激しいノイズに狂おしいほどに体が震える。奥底にあった何かがむりやり引っ張り出されるようだ。

 ―お兄ちゃん、早く殺して―

 手によみがえる柔らかい何かをえぐる嫌な感触。ぐにゅりとした生々しい感触とともにぬめりとした生暖かい液体が手にかかったような歪な感触もよみがえってくる。俺の手が、血肉に汚れている。

「はぁはぁ…」

 赤く染まっていくその手は、いったい何を突き刺しているのだろうか。それはノイズまみれの少女の体だった。少女の体から溢れるのは血ではなくノイズ、そのノイズに乗って彼女の抱いていた愛が流れ落ちて、俺の手をべたべたと汚す。その不快な感触に知らず息が荒くなり呼吸がままならない。

「ねぇ…大丈夫なの、夏樹君?ねぇ…返事して、夏樹君!」

 俺の耳に何か聞こえる。けれどそれはノイズがべったりと貼りつき思考力を根こそぎ奪った脳内ではただの音としか響かない。

 ノイズが引き起こした頭痛はついに耐え難いものとなりまるで脳みそをシェイクされているような不思議で歪な感覚を俺に与えた。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた脳が現実と虚構の境界線を失い何が本当のことかよくわからなくなる。ノイズが本物で、今見ている世界は偽物?それとも両方とも本物なのか偽物なのか、俺の本当の記憶は、心はどこにある?

 ―お兄ちゃん…大好き…―

 ―私は、お兄ちゃんのこと忘れないよー

 彼女は俺のことが好きといってくれた、彼女は俺のことを忘れないといってくれた。けれど俺は彼女への感情を失ってしまった、この心に彼女がいる場所はない。

 頬には自然と暖かいものが伝い地に落ちた。冷ややかな雪が、その熱で少し解けた。

「夏樹君!」

 体に感じた暖かくて柔らかい何か、それがだんだんと俺の意識を現実へと連れ戻した。緩和していく頭は今のこの状態を次第にとらえていく。俺に涙交じりの瞳で抱き着いた露子、奇怪なものを見るような眼で俺たちを見る周りの人間、曇り始めた空、そのどれもが俺の心に重みを残すには十分だった。

「俺は…」

「夏樹君、いこ?ちょっと休憩しよっか?」

 俺は露子に手を引かれて近くの公園へ連れていかれそこのベンチに座らされる。

「大丈夫…じゃないよね、夏樹君。本当にどうしちゃったの?」

「わからない…」

 心配する露子の顔をはっきりと見ることがためらわれ顔を逸らした。

「もしかしてさ…私といると、つらいの?私と、いたくないの?」

「そんなことは…」

 俺は首を振って否定したが露子は納得のいかない顔を浮かべていた。瞳には大粒の涙が浮かんでいてほんの数分前に見せていた幸せそうな笑顔はもう崩れ去っていた。

「嘘だよ…だって夏樹君、私が告白したあの日からすっごく苦しそうにしてるもん…」

「いや、多分あの日から体調が悪くなって…」

「ねぇ…夏樹君はさ、ほんとに私のこと、好きなの?」

「え…?」

 露子から言われた言葉に頭を殴られたような衝撃を受けるが、その衝撃さえノイズによって瞬く間にかき消される。

「夏樹君は私のこと好きって言ってくれたし、私といると嬉しそうな顔してた…けどね、そのどこにも夏樹君の本当が見えなかったの…上辺だけ取り繕ったような…そんな感じだった…私それがずっと不安だった…私は夏樹君の本当の彼女にはまだ認められてないって…思った…」

 一呼吸開けて露子が声を振り絞った。

「ねぇ答えてよ…夏樹君の心はどこにあるの!?私はこんなに夏樹君のことが好きなのに…夏樹君は、どう思ってるの?私のことが好きなの!?それとも…」

 露子以外に好きな人なんていない、頭に浮かんだその言葉を吐き出す前に、自然と口が言葉をこぼしていた。

「俺には…好きな人がいる…」

 こんな言葉言うはずじゃないのに、自然と口が動く。俺の意思と関係なく心の奥底にあった気持ちがあふれ出してくる。

「俺には、ずっと前から好きな人がいたんだ…俺に寄り添ってくれて、俺に幸せを与えてくれた女の子が、いたんだ…」

「…そう…やっぱり、そうなんだ…」

 なんで俺はこんなことを、しかも泣きながら言っているんだ。俺は一番露子が好きなはずなのに、心がそれを認めていない。俺の心の中のさらに奥にいる誰かを好きだと宣言している。

「ねぇ…教えて…その好きな人って…誰?…あ、別に知ったからって嫉妬したりましてや殺したりなんかしないよ?ただ、知っておきたいの…私の好きな人が、どんな人が好きだったかって…」

「俺が好きな人は…あれ…?誰、だ…?」

 わからない。俺の心が、わからない。俺がこぼした本当の気持ちは誰への言葉なんだ?俺の好きはいったい誰に向けられていたんだ?

 ―愛してるよ×××―

 俺はいったい、誰に向けて愛してると言った?あの優しくて温かい女の子は、いったい誰だ…?

 訳が分からなくなりポケットに突っ込んだ手を握る。手の平に何か固いものが刺さり痛みに顔をしかめる。

「これは…」

 ポケットにあったものを取り出してみると、あの日目覚めた時に握っていたストラップだった。どうしてここに入っていたのかわからない。あの日確かに机の上に置いたはずだ。尖った先端が指先を傷つけそ漏れた血が、そこに付着して赤く染まっている。それを見た瞬間、俺の記憶のカギはほどかれた。

「ゆき…の…」

 世界が終わっても生き残ってしまった俺と妹、そこで愛し合った二人、最後には別れる運命にあった二人、彼女が最後に残してくれた俺へのプレゼント、赤く染まったストラップ…

 まるでビデオの巻き戻しを見ているように俺の脳内には世界によって消された記憶が映っていく。終わった世界の記憶がすべてすべて蘇ってきた。あの日の彼女のことも、すべてすべて…

「雪乃…」

 雪乃、口の中でつぶやくと彼女への愛があふれて心を満たす。彼女の名を呼んだだけで心がほっとする。頭のノイズが剥がれ落ちていき、俺の中の雪乃は俺を苦しめる存在じゃなくなった。けれど姿はまだノイズがかかってうまく雪乃を思い出すことができない。だけれどノイズまみれの彼女が俺の愛した雪乃だということははっきりとわかった。

「俺が好きなのは、雪乃だ…」

「そっか…雪乃ちゃんっていうんだ、夏樹君の好きな子は…ねぇ、夏樹君…最後にさ…ううん、いいや、やっぱり何でもない…こんなことしちゃったら、夏樹君のこと諦めきれなくなっちゃうや…」

 露子が、泣いている。俺はこの世界で愛した女の子を泣かしてしまったのだ。そんな彼女にどういう言葉をかければいいか戸惑った。

「ごめん…露子…」

 結局俺はごめん、といって彼女を優しく抱きしめた。彼女は最後の最後まで、泣き止むことはなかった。

 

「はぁはぁ…雪乃…雪乃…!」

 俺は街を駆ける。風と一体となったと感じられるくらいの速度で、速く速く、駆ける。たった一人の愛を抱いた家族の元へと。

「雪乃!」

 家の扉を勢いよく開けて俺はかつて彼女の部屋だった場所へ向かった。蹴破るように扉を開けて叫んだが、そこはもぬけの殻だった。雪乃がいた痕跡など何一つなく、そこはただほこりまみれの押し入れと化してしまっていた。それはそうだろう、俺が思い出したからといって雪乃がこの世界に生きていた証は思い出されることはない。俺だけがこの世界でイレギュラーなのだ。けれど諦められなかった。俺の中で雪乃がよみがえったのは奇跡といっていいほどだ、ならその奇跡がさらなる奇跡を引き起こすと、強く信じたから。

「雪乃…!」

 俺は謝りたかった。彼女は忘れないといってくれたのに、俺は彼女を覚えていることができなかった。世界によってそう仕組まれていたとしても、俺は彼女を忘れてしまっていたのだ。そのことを、謝りたかった。俺の愛の軽さを、謝りたかった。

「雪乃…!」

 家中を駆け巡るがどこにもいない。やっぱり奇跡は起きないのだろうか。心がくじけかけた瞬間、ききぃ、と扉が開く音が聞こえた。驚いてそちらを振り向くとそこは両親の部屋だった。時間が巻き戻る前の世界で俺たちの愛を育みあったあの部屋だ。

「雪乃…そこに、いるのか…?」

 どくん、と心臓が脈打つ。一歩、また一歩と歩を進めるたびに心臓の鼓動はいっそう高まる。扉と俺との距離がなかなかに縮まらない、そんな錯覚を覚えながらもようやく扉の前に立った。俺は吐き気がするほどのドキドキを抑え込もうともせずにその部屋へ足を踏み入れた。

 その部屋で初めて感じたそれは、匂いだった。むせかえるような命のにおいが、その部屋には充満していた。それもそのはずその部屋には雪乃の血が、脳漿が、体液が、俺の唾液、汗、精液とが混ざったものが今もべったりと染みこんでいるから。その証拠にベッドにも壁にも床にも、カーテンにさえ彼女の血が飛び散り異様な赤に変色したものが染みこんでいた。俺と彼女の獣のような愛のにおいが、確かにそこに存在していた。

 けれどそこに、雪乃はいなかった。いるかもしれないと期待しすぎた俺にはその時の絶望は言い表すことができないほどだった。

「くそ…雪乃…どこに、いるんだよ…?早く、出てきてくれよ…」

 思わず足が崩れてその場に膝をついてしまう。涙が、血に染まった床に落ちる。その瞬間、部屋に冬の冷風が吹き抜けた。ひゅぅ、と吹き抜けた一筋の風、それがベッドの上にあった白い何かを吹き飛ばして俺の目の前へポトリ、と落とした。それは手紙だった。確かに彼女の筆跡で書かれているそれに俺は食いつくように目を通した。何度も書き直した跡があり少し読みにくいがそれでも一つ一つの彼女の思いを拾っていく。

 そして、その手紙を読み終えたころには俺の心の中にいたノイズはすべて姿を消し愛しい雪乃の姿が現れた。雪乃の存在の全てが、まるで卵の殻を剥ぐようにべりべりとノイズを裂いて思い出される。心の中で思い出した彼女への思いが今、爆発した。

 

「はぁはぁ…雪乃…!」

 ―お兄ちゃんへ。お兄ちゃんは元気にしてるかな?私はそうだなぁ…死んじゃってるからよくわかんないや。と、こんな変なジョークを書くために手紙を残したんじゃ無かったっけ。お兄ちゃんおめでとう!彼女ができたんでしょ?私全部見てたよ?お兄ちゃんってば真っ赤な顔でデートしてたでしょ?あんなに恥ずかしがること無いのにね―

 俺は走る、ただただ街を駆け抜ける。目の前の人も押しのけて、俺は走る。

 ―ごめんね、お兄ちゃん。苦しい思い、させちゃったよね。私のことを愛した記憶がまだ完全に消えてないんだよね。でも平気だよ?それももうすぐしたら消えるってカサンドラが言ってたから。お兄ちゃんの愛が強すぎて完全には消しきれてないんだってさ。でも25日になったら消えるって言ってたから安心して―

 空にはもう夜の帳がかかっていた。星たちが、聖夜の街を祝福するかのようにキラキラと浮かんでいる。夜になり街も本格的にクリスマスムードだ。辺りの店からは楽しげなクリスマスソングが漏れている。待ちゆく人もみなクリスマスの魔法にかけられて笑顔だ。そんな中俺だけは必死な顔をして走る。ただ一か所を目指して。

 ―お兄ちゃんにそんなに愛されてるなんて、私とっても嬉しい…たぶんこの世界で一番の幸せ者かもしれない…さっきはあんなこと書いたけど、やっぱり私、お兄ちゃんの気持ち、消えてほしくない…お兄ちゃんに忘れられるなんていや…そんなの無理だよ…大好きなお兄ちゃんが私のこと見てくれないのはつらくてつらくて…もう胸が張り裂けそうなの…―

「雪乃…俺も、苦しかったんだ…お互いさまだろ…」

 手紙の内容を思い出しながら、俺はぽつりとつぶやいた。

 -―もうお兄ちゃんに会いないのがこんなにつらいなんて思わなかった。どうしてこんなことになっちゃったんだろうね…神様って本当に意地悪…けど、神様のおかげで私たちは恋人になれたんだよね?お兄ちゃんのお腹が空いたのも神様のせいだしさ…って話がそれちゃったね。私はさ、お兄ちゃんが大好き、どうしようもないくらい大好きになっちゃった…だから、もう一回だけ会いたい…―

「俺も…雪乃に会いたい…」

 ―-もしお兄ちゃんが私のことを思い出したら、あのツリーの下に来て。私はずっと待ってるから。もし来てくれたら、私がお兄ちゃんの背中をポンポンって叩くから。あ、でも今の私は誰にも見えないし触れないんだっけ…ま、いいや。ツリーの下に来てくれるだけで十分だから。私、待ってるね。クリスマスが終わったら私は消えちゃうみたいだから、思い出したらできるだけ早くね。ほんとに…待ってるから。お兄ちゃんの妹で彼女雪乃より―

「雪乃…!」

 昼間に一度やんだ雪がまた降り始める。白い輝きが俺の上へ、街へ、ツリーに積もっていく。ツリーにはとうに電飾が輝きその温かな光は冷えた人々の心を優しく温めているようだ。

 俺は白い息を乱しながらツリーの下へ。走っていたせいで冬なのに汗だくだ。周りの人たちが奇異の視線で俺を見たがすぐに興味を失いクリスマスの喧騒の中消えていく。

「雪乃は…?」

 俺はくるりと辺りを見渡すがあの可愛らしい金髪ツインテールの妹を見つけることはできなかった。やっぱりあの手紙の通り雪乃は俺には見えないらしい。

「はぁ…雪乃…」

 寒さでかじかんだ手をポケットに入れる。するとそこに暖かい何かがあった。それを取り出すと俺があの世界でもらった手袋だった。誕生日にもらった雪乃の温かい愛情が染みこんだ手袋をはめるとやっぱりあの世界と同じでとても暖かかった。

「なんでこれは見えるのに…雪乃は見えないんだよ…」

 雪乃にまつわるものばかり俺の周りに現れるが肝心の雪乃は見えない。それに憤りぽつり、涙がこぼれた。

 ―ぽんぽん―

 ふと、誰かに肩を叩かれた。

「雪乃!?」

 俺は勢いよく振り向いて彼女の存在を探す。けれどやはり見えない。肩を叩くのが雪乃の合図だった。多分俺の今目の前には見えていないが雪乃がいるんだと思う。

「頼む雪乃…俺、もう一回雪乃のことが見たいんだ…もう一回、雪乃のこと、好きって言いたいんだ…」

 虚空に喋りかける俺は周りから見ればやっぱり変な人間として見られているのだろう。けれど俺はそうせずにはいられなかった。愛しい妹に、もう一度俺の愛を伝えたかった。ただの一度でいい、それだけで俺は満足するから。だから神様、お願いだ、もう一度だけ、雪乃に合わせてくれ…

 けれどどれだけ願っても目の前に雪乃の姿を確認することはできず虚しく時だけが過ぎていった。きっと過ぎた時は数秒だったと思うが俺には1時間にも2時間にも長く感じられた。

「どうしてだよ…雪乃…」

 がくり、と肩を落としたその瞬間視界が真っ黒に染まった。俺の目元に何か暖かいものが重ねられ視界が塞がれたのだ。

「だ~れだ?」

 小さくて温かい手とその声で、俺は涙があふれるのが止められなかった。何を隠そうそれは俺の愛しい彼女のものと一致したから。

「水瀬、雪乃…俺の、妹で、彼女だ」

「正解!」

 視界を覆っていたものがはがれると俺は振り向いた。そこには、俺の最愛の彼女が意地悪そうなそれでいて恥ずかしそうな笑顔を浮かべて立っていた。

「雪乃…お前…」

「えへへ…帰って、来ちゃった」

「おせぇよ…バカ…お帰り、雪乃…」

「うん、ただいま、お兄ちゃん!」

 そして俺たちはどちらからともなく口づけを交わした。今まで会えなかった永遠とも錯覚させる時間を埋めるように、互いの愛の赴くままに、唇を交わした。ふにり、と柔らかくて甘い唇は懐かしくも、どこか新鮮な味がした。まるで蕩けるみたいに甘い口づけ、星までが頬を赤く染めてしまいそうなほどの熱烈なキスが、彼女の存在が確かなものであると俺に感じさせた。

「雪乃…愛してるよ…」

「お兄ちゃん、私も、愛してる…大好き!」

 今年のクリスマスプレゼント、それはきっと生きている中で一番うれしいであろう代物だった。こんなプレゼントをよこしてくれた神様に、感謝をしたくなった。

 

 雪乃と肩を並べて俺はクリスマスの喧騒を歩く。ショッピングウィンドウに映るのは幸せそうな兄妹の姿。ぎゅっと手を握ってもうはなれまいとしている風だ。

「なぁ?聞きたいんだけどさ、どうして帰ってこれたんだ?」

「え?それはクリスマスの奇跡ってことでさ、解決できない?」

 雪乃の声、笑顔、温もり、そのすべてが俺に安らぎを与える。雪乃が帰ってきてくれて嬉しいがだがどうやって帰ってこれたのかは聞いておく必要があるだろう。

「確かにそれで解決したいのはやまやまだけど…もしかして企業秘密とか?」

「ううん、全然そんなことじゃないけど。あのね、カサンドラのおかげかな」

「カサンドラが?」

「うん。あの子が頑張ってくれたから今私はここにいられるんだよ。あとはこれのおかげかな」

 雪乃はポケットから何かを取り出した。それはストラップでピンクのしずく型だ。俺のもらったものと色違いだ。

「このストラップが?」

「うん。お兄ちゃんの持ってるのだしてみて」

「うん」

 俺はポケットからそれを取り出してみせる。すると雪乃は俺のそれに彼女のそれを重ねて見せた。

「ほら、これ可愛いでしょ?二つ合わせたらハートになるんだよ!」

「へぇ、すごいな」

 雪乃とペアルックのそれはいま彼女の手のひらでハートマークとなっていた。きっとカップル用のお土産だったのだろう。少し幼稚だけどなんだかうれしい。

「けどこれのどこが?」

「カサンドラが言ってたんだけど、これが世界のエラーを引き起こしたんだって」

「世界のエラー?」

「あ、それはボクが話そうか?」

「え?」

 突然また聞きなれた声が聞こえる。あの不思議な声の持ち主は紛れもなく一人しかいない。

「カサンドラ!?」

「メリークリスマス、夏樹」

 いつの間にかカサンドラは俺と雪乃の間にちゃっかりと割り込んできていた。けれど俺はカサンドラの姿、いや、雰囲気に違和感を覚える。あのさいころの7の目のような不思議な雰囲気はどこへやら、今はただの人間のような目を見せていた。

「カサンドラ、お前、どうしたんだ?なんか雰囲気が変わったような…」

「ま、それもそのはずだよ。ボクは神様からきっつい罰を受けたんだからね」

「きつい罰?」

「あぁ。雪乃に手を貸したのが神様にばれちゃってね、それでボクの永遠にも似た命が没収されちゃったんだよ」

 そういえば神様が人間に干渉するのは禁止されていていると遊園地で話したのを思い出した。けれどあれは嘘だと笑われたが、まあいい。こいつは自身の命を犠牲にして雪乃を助けてくれたという事実だけで十分だ。それはきっと感謝してもし足りないだろう。

「あれ?でも寿命が没収されたってことは…死ぬんじゃないの?」

「いや、死なないよ?」

 カサンドラが不思議そうに首をかしげている。その瞳にはカサンドラよりもっと間抜けな顔で首を傾げた俺が映っていた。

「ボクは神様としての寿命を没収されて人間の寿命を与えられたんだ。これから人として過ごすためにね。ま、これが何で罰かっていうと人間っていうのはいつ死ぬかわからないよね?死の恐怖におびえながら生きろってことらしいけど…ボクにとってはご褒美でしかないわけだ。なにせ人間として感情をもって生きていけるんだからね」

「ふ~ん、なるほどね…」

「…と、話がそれてるね。元に戻そうか。確かなんでそのストラップが世界のエラーってことだったね」

「あ、あぁそうだったな。どうしてだ、カサンドラ?」

 それかけていた話の路線を戻して俺はカサンドラに尋ねた。カサンドラはハートのストラップを持った雪乃を指して言う。

「それは夏樹の愛が大きすぎて記憶の消去に時間がかかったように、雪乃の愛も大きく世界にとっては規格外だった。その愛が全部そのストラップにおさめられてキミの手に渡った。大きすぎるキミへの思いに削除が追い付かずにそれだけがこの世界に残ってしまったっていうわけさ」

「まじかよ…まさに奇跡だな、そりゃ…」

 まさか世界の法則を壊してしまうほどに俺たちの愛が大きかったなんて、その事実に嬉しく思うも恥ずかしさも同時に湧き上がってきた。

「お兄ちゃん!ただの奇跡じゃないよ!愛の奇跡だよ!」

「…よくそんなこっぱずかしいこと言えるな」

「ごめん…言った後にすっごく恥ずかしいって思った…」

 赤く染まった頬を恥ずかしそうにポリポリと掻く雪乃。けれどそんな恥ずかしくなるような愛の奇跡を起こしたのは雪乃が俺のことを強く思っていたおかげだ。雪乃にも感謝しなくちゃな。

「雪乃、ありがとな。俺のこと、そんなに思ってくれてて…」

「えへへ…お兄ちゃんこそありがとう…私のこと、いっぱい愛してくれてて」

「そんなそんな、俺なんて雪乃の愛に比べたらまだまだ…」

「いやいやお兄ちゃん、謙遜しなくってもいいよ」

「あ~はいはいバカップルバカップル。爆ぜろリア充」

 俺たちのバカみたいなやり取りにカサンドラがうんざりとした、それでいて嬉しそうな顔を浮かべた。てかカサンドラってこんなこと言う奴だったっけ。

「あ、そうだ。雪乃の存在ってどうなるんだ?この世界じゃこいつって元からいないことになってるんだろ?」

「あぁ、それなら安心していいよ。じきに元の世界の存在がよみがえってくるから。多分年内には全部元通りじゃないかな?」

「そうか、よかったな雪乃」

「うん!」

「それよりボクのことを心配してくれないかな?確かに人間になれたのは嬉しいけどボクはこの世界じゃイレギュラーだ。誰の記憶にもないしましてや家もない。キミたちはボクみたいな小さな子に路上生活を強いるのかな?もちろんしないよね?キミたちがボクみたいな子が路上で寝ているところを変態が襲ったっていうシチュエーションが好きな変態じゃないって期待しているよ」

「お前そんな妄想してたのかよ…つかお前小さな子っていうけど中身めっちゃ老人じゃん」

 こんな小さな体で今まで何千何万と生きてきたと他人に言えば信じてもらえないだろうがな。

「ん?でもこの時代の人間はロリババアというのが好きと聞いたぞ?ボクみたいな長寿でも見た目が幼ければ全然問題ない、むしろ萌え要素なんだろう?」

「お前そんな情報どこから仕入れてくるんだよ…」

「ネットだよ。神様も暇だからね、ネットサーフィンが趣味にもなるさ。匿名希望の投稿も実は神様の誰かがしているかもだよ?」

「まじかよ…」

 神様がネットを使ってるのなんて想像できねぇよ。雪乃も想像できないようでぽかんとただ別次元のことのようにうわべだけで話を聞いていた。

「で、キミたちはボクを養ってくれるかな?」

「まぁいいんじゃない、お兄ちゃん。私たちだけで住むには広すぎる家だしさ、一人増えたって別に問題ないんじゃないかな?」

「まぁ、そうだな。こいつには返しきれないほどの恩があるし…いいよ来いよ、俺たちの家にさ」

 デートの時もカサンドラがいてくれたおかげで楽しくなったし、今だってこいつのおかげで雪乃とも再開できたわけだ。家を貸しただけではまだ足りないだろうが、それでも確実に恩返しをしたかった。この小さな神様の子供に。

「じゃあ決まりだね。これからよろしくお願いするよ、夏樹、雪乃」

「あぁ、よろしくな、カサンドラ」

「私もよろしくね、カサンドラ!…あ、私のことはお姉ちゃんって呼んでいいからね!」

「おいおい、雪乃、お前…」

「うん、わかった、雪乃お姉ちゃん!」

「なにこれ!すっごい可愛い!鼻血でそう!」

「夏樹は今まで通り夏樹でいいよね?お兄ちゃんって呼ぶのは雪乃お姉ちゃんの専売特許みたいなものだし」

「まぁ、いいか…」

 こうして、俺の家に新しい家族ができた。今年のサンタさんはやけに豪勢なプレゼントをもう一つ渡してくれたわけだ。きっとこれからもっと楽しい生活が訪れるのだろう。俺と雪乃とカサンドラ、幸せな3人の生活が。

「あ、キミたちはボクにかまわずイチャイチャしてくれて構わないよ?二人っきりであんなことやこんなことしててもボクは口出ししないからさ」

「だってさ、お兄ちゃん…久しぶりに会えたんだから…私のこと、食べる?」

「いや、大丈夫だ。食欲ならもうないから」

「夏樹ってば鈍感!雪乃お姉ちゃんが言ってるのは私を性的に食べてってことだよ?」

「ち、違うよ!何言ってるのカサンドラ!もぅ…!私がエッチな子みたいじゃないの!それにお兄ちゃんも何顔赤くしてドキドキしてるの!?違うから!本当に違うから!久しぶりにお兄ちゃんにしてもらいたくなったとかじゃないんだから!」

 聖なる夜に俺たち3人の楽しそうな笑い声が響く。夜に浮かぶ星月はあの日見たものと変わらなかったけれど、世界だけは色を変えて俺たちの前にある。騒がしくも温かな世界が、俺の目の前にある。そしてその世界には、二度と戻って来ないと思っていた愛した人もいて、こんな幸せが永遠に続けばいいな、なんて星に願いながら俺は寒空の下温かな家族とともに家路につく。

 

 これが俺の話の終着点、罪深い愛に溺れた俺の物語の結末でありスタート地点なのだ。そう、まだ俺たちの日々は始まったばかりだ。明日もきっと、楽しい日々が待っている。明日はもっと、雪乃のことを好きになっているはずだ、なんて思いながら俺はもう一度空を眺めた。空には星たちがキラキラと聖夜の終わりを名残惜しそうに涙しているようにも見えた。俺には彼らがこの奇跡が起きた日の終わりを惜しんでいるようにも見えた―

 



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「小さな神様と少女の置手紙」&エピローグ

 降り注ぐ眩しい光に私の意識は闇の底から引き出された。ゆっくりと目を開けて光に目を細めながらもまだぼやけた頭をどうにか回転させる。身体に走るのは冷たさを孕む朝の風、鋭さを帯びたそれに身震いすると同時に意識がだんだんとはっきりしてくる。

「あれ…?もしかして…私、ここで寝ちゃってた?」

 私は辺りを見渡してここが自身が普段眠っている部屋ではないことに気付く。ここは我が家のリビングでありその机に突っ伏して私は眠ってしまっていたようだ。

「あれ…?なんで私ここで寝ちゃってたんだっけ…ま、いっか…」

 机の上に置いてあるカレンダー付きの電子時計を確認、今日は12月15日、時刻は7時を過ぎたころだった。

「15日…?なんだ…じゃああれは、夢だったんだ…」

 お兄ちゃんに食べられたり世界中の人がいなくなったり、神様の使いって名乗るちっちゃい子が現れたり…それに、お兄ちゃんのことが好きだってわかったり…あれは全部一夜の夢だったらしい。夢の最後では私がお兄ちゃんのために犠牲になるシーンだったっけ。あの時胸に刺さったナイフの痛みがまだ胸に残っているみたいで夢の出来事だったというのにそこがズキリと痛んだ。

「はぁ…あれって、全部夢だったんだ…なんか残念かも…」

 私ははぁ、とため息を吐く。あんなにリアリティのある夢は初めてだ。そしてそこで起こった出来事もリアリティがあったというのに、それがすべて夢で終わってしまうなんて。私のこの思いも、きっと夢の出来事としてすぐにどこかに吹き飛んでしまうのだろうか…。私の、お兄ちゃんへの思い、改めて分かった、お兄ちゃんへの好きという気持ち。あれがすべて私が望んだ夢の話だったなんて、残酷だ。

 と、夢の中の出来事に思いをはせているとふと廊下に足音が響いた。きっとお兄ちゃんが起きてきたのだろう。けれど珍しいこともあるものだ。ほとんど毎日のように私が起こさないとお兄ちゃんは起きないのに、今日は雨でも降るのだろうか?首をかしげて不思議そうにしている私なんて知らないとでもいう風にお兄ちゃんはすたすたと歩いてきてリビングの扉を開けた。

「お兄ちゃんおはよう!」

 そこにいたお兄ちゃんはいつものように寝癖を作ってまだ眠そうにあくびを漏らしていた。私はそんなお兄ちゃんと顔を合わせてドキリとしてついぷいっと顔を逸らしてしまった。あの告白は夢の中の出来事ですべて私が望んだ妄想の出来事だ。それが分かっていたからこそお兄ちゃんと面と向かって顔を合わすことが恥ずかしかった。あの夢でお兄ちゃんのことが男の子として好きだってわかってしまったから、いつもより恥ずかしく感じたのだ。

 けれどお兄ちゃんはそんな私のことなんて眼中にないとでもいう風に背を向けてキッチンへといってしまった。お兄ちゃんの態度がいつもよりおかしい、私はいぶかしんでお兄ちゃんを見た。外見も何もかもいつもと同じ、なのにお兄ちゃんは私への態度を変えている。もしかしてこれはお兄ちゃんが私を困らせるためにしたイタズラなのだろうか、なんて馬鹿な考えが起こったが一瞬で頭から消え去った。たとえイタズラにしても無視するなんて質が悪すぎる。あの優しいお兄ちゃんに限ってそんなことするわけないのだ。それに無視という考えがありえないという証拠がもう一つある。

 お兄ちゃんの瞳には、本当に私は映っていなかったのだ。お兄ちゃんは私を意図的に見ようとしていないのではなくて、私のことを見て、見えていない態度を取っているのだ。しっかりと目が合うときがあるのに、お兄ちゃんの瞳には私の姿なんて一ミリも映っていないような、そんな態度だ。

「お兄ちゃん!私のことを見てよ!いつもみたいにおはようって言ってよ!」

 そんなお兄ちゃんの態度にイラついてつい大声をあげてしまった。けれどそんなこと耳に入っていないかのようにお兄ちゃんは黙々と朝食の準備をしている。

(え…?お兄ちゃんが、朝ご飯…?)

 ふつうお兄ちゃんが朝ご飯を作るなんてありえないのだ。なにせお兄ちゃんは家事が大の苦手なのだから。作れる料理は茹で卵ぐらいのお兄ちゃんが朝ご飯をまともに作るなんておかしいのだ。私はその違和感に背筋が凍るのを感じた。

「もしかしてあれって…夢じゃ、ない…?」

 ―特異点が死ねば時間は巻き戻る―

「それじゃあここは…巻き戻った世界…?」

 ―巻き戻った時間には特異点の存在は抹消されている―

「ここは…私がいない世界…私の存在が一切残ってない、世界…」

 私がいなかったから、お兄ちゃんは一人で家事を覚えたのだ。私みたいに家事ができる人がいなかったからしょうがなく覚えたんだ。それに、私はもうこの世界にいない存在だから、お兄ちゃんが見えていない、聞こえていないということにも合点がいく。

 けどどうして私は今ここに自我があるのか、そう疑問に思った瞬間まるで私の心を見透かしたようなタイミングで声がかかった。

「それはキミがこの世界にとってのエラーとなっているからだよ、雪乃」

「え…?」

 驚いて背後を振り返るといつからいたのだろうか、音もなく現れたカサンドラがいた。私と顔を合わせるとカサンドラはニコリと笑みをこぼした。きっと再開できたことを喜ぶ笑みなのだろうが私は笑えなかった。

「エラーって、どういうこと?」

 私は勢いよくカサンドラへ尋ねた。この問題の答えがいち早く知りたい、私が今どういう状況かをすぐに理解しておきたかったからだ。

「確かに時間が巻き戻った世界では特異点の存在が消える。けれどそれは完全な消失ではなく、エラーとすることで世界を生きるものに存在が消失したと錯覚させる」

「ど、どういうこと…?」

 またカサンドラが難しいことを言うのでちんぷんかんぷんだ。お兄ちゃんなら理解できたのだろうか、なんてぼんやりと浮かんだその思いをかき消す。今はお兄ちゃんに頼っちゃいけない、と自身の心に喝を入れる。

「巻き戻る前の世界でキミがやって来たことは今この世界を生きる人間にも残っている。なぜってそれは消せない記憶だからだ。もし一人の人間が生まれないとなれば今のこの世界には大打撃を受けることになる。それを防ぐためのエラーさ…って言ってもまだわかってないか」

 私の意味が分からないと言いたげなアホ面を察したのだろう、カサンドラは続ける。

「例えばキミが車に轢かれそうになっていたおばあさんを前の世界で救っていたとしよう。そのおばあさんはキミがいたことで轢かれて死ぬという運命を回避した。けれどもしこの世界にキミが生まれていなければそのおばあさんはどうなると思う?」

「私がそのおばあさんを助けたけど、今の世界に私は存在していないってことになるから…そのおばあさんは轢かれて死ぬ?」

 理論的に考えればそうだろう、私は答えたがカサンドラは大げさに胸元でバツ印を作った。

「いいや、答えはノーだ。そのおばあさんは死なない。キミが助けたんだからね」

「ん?でも私はこの世界にはいないから助けようがないんじゃ…」

「あぁ。だけどキミの存在の残りかすはこの世界には存在するんだ。キミの行動の証がね。この世界のおばあさんは車に轢かれそうになったところを助けられたけど誰に助けられたかは覚えていないことになる。ここでそのおばあさんが死んだらまたその人のおかげで助けられたかもしれない命がなくなる可能性もあるからね。そうすると世界は矛盾を起こして壊れてしまう。そんな矛盾を起こさないために、今キミはここにいるわけだ」

 そうすると今この世界には私の行動の記憶だけが残って存在の記憶は完全に消えているわけか。世界を均衡に動かすために私は今ここにいる…

「あれ?でもお兄ちゃんは?お兄ちゃんは家事が全然できなかったのに今はできるようになってて…もし行動の結果だけが残ったら私がお兄ちゃんの料理を作ったりしてあげた結果が残るからお兄ちゃんは家事ができないまんまじゃ…」

「ごく小さな矛盾なら世界はそれを許容する。夏樹が家事ができたからって世界に大きな影響は与えない、そう判断したから放置されてるんだろうね。ま、それが一週目の世界と二周目の世界との違いとなるわけだけれども」

 たとえお兄ちゃんがいくら家事スキルを身に着けようとそれで人助けするわけもないしましてや世界を狙うなんて馬鹿なマンガみたいなこともしないだろう。そういうわけでこの矛盾はスルーされたということか。

「で、キミは今生きているけれど死んだ状態になっている。今この世界に現界はしているが何者にも干渉できない。世界が必要と感じた時だけその存在が誰かに認知され干渉することができるわけだ。ま、誰もいなくなった世界を過ごしたせいでそんなこともできないけどね。そしてそれが続くのはキミが死んだ日、12月24日と25日の狭間だ。そこを過ぎればキミの存在は完全に消える」

「なるほどね…」

 カサンドラの話を聞いてもやはり背筋に感じた寒気は収まらなかった。今の私にはお兄ちゃんが見えるけどお兄ちゃんは見ることができない、そんな無慈悲な恐ろしさに震える。どうあがいても私はお兄ちゃんにもう二度と思いを伝えることもできないんだ。そう考えて落胆の気持ちを抑えきれなくなった。

 私は試しにお兄ちゃんの体に触れてみる。けれど私の手のひらはお兄ちゃんの体をすり抜けてあらぬ虚空を掻いただけだった。やっぱりカサンドラの言う通りどうあがいても干渉はできないのだろう。

「そういうわけでキミは25日になるまではこの世界にいることができる。その日までに存分に世界を堪能しておいで」

「堪能するって言っても何にも触れないんじゃできることなんてないよ…そうだ、カサンドラは、どうするの?」

「ボクは…キミと一緒にいるよ。ボクもあいにくすることがなくてね。観測者の任もこの世界では外されちゃったし、人間の世界を観光でもするよ」

「そっか。わかった…といっても観光スポットを案内するなんてことはできないけどさ」

「別に名所に連れて行ってほしいわけじゃないよ。人間観察程度に思ってくれていいから」

 そういうわけで私の10日のモラトリアム生活が始まった。誰にも見られることもない、誰にも声が届かないこの世界で過ごすのははっきり言って嫌だったけれど、お兄ちゃんを堂々と観察できるならそれはそれでよかったな、なんて思えた。

 そう、この期間を私はお兄ちゃんが幸せに過ごしてるかどうかだけを確かめるために使うのだ。私の願い、お兄ちゃんが幸せになってくれること、それを見届けるために。

 

 けれどその願いもすぐに叶った。まさか1日目で叶うなんて思いもしなかった。

 ここは学校の屋上、放課後の寒空の下で、お兄ちゃんが告白されていた。けどその告白もお兄ちゃんのもしかして告白かってセリフで台無しになっちゃったけど。

「お兄ちゃんってたまにああいうところあるの…おかしいよね」

「もしかして夏樹は鈍感なのかな?」

「う~ん…鈍感、って言ったらそうなのかもね」

 屋上で告白を受けていたお兄ちゃんは顔を真っ赤にしていた。まるでリンゴのように真っ赤に染まった顔を私は知っている。あの時私に告白してくれた時も、遊園地で私が告白した時も、お兄ちゃんはあんな風に真っ赤に顔を染めて恥ずかしがっていた。ふと思い出したお兄ちゃんのことがどこか遠い記憶のように感じられた。

 相手の露子って女の子も恥ずかしそうにしている。きっと私もあんな風に告白をしていたのだろう。改めて客観的にその様を見るとなかなかに恥ずかしさが沸き起こってくる。私のあんなに真っ赤な顔をお兄ちゃんに見られていたとなれば恥ずかしいという感情を通り越してしまう。

 ―俺は露子のことが好きだ―

「っ!」

 お兄ちゃんが自分の気持ちを口にした瞬間、私の心はドクン、と大きくはねた。それはまるで浮気現場を目撃したような、そんな焦りと不安と嫉妬がごちゃ混ぜになったものが私の中に一気に溢れこんできたせいだ。私はお兄ちゃんが幸せになってほしいと願いながらも、お兄ちゃんを幸せにする相手を憎み嫉妬した。お兄ちゃんの隣には私だけ、ほかの女の子なんて想像もできなかったのに、今目の前では幸せそうな笑顔をこぼして露子のことを好きといったお兄ちゃんがいた。もう私のことを好きと言ってくれるお兄ちゃんは、この世界にはいないのだ、そう思った瞬間悲しさがどっと沸き上がってくる。

 私はお兄ちゃんの幸せを祝ってあげなくちゃいけないのに、どうしてもそれができない。この自己のどうしようもない矛盾を抱えたまま不安な気持ちだけが私の心を支配する。

「あれ?どうしたの、カサンドラ?」

 ふと私は気づいた。隣にいるカサンドラが深刻そうな顔で二人のことを、いや、お兄ちゃんのことを見ているのだ。そして何か思案するような顔を浮かべている。カサンドラのこんな顔を見るのは初めてだ。私の不安はそんなカサンドラの態度の変化への興味に上塗りされた。

「大丈夫?なにか考え事?」

「うん、ちょっとね…」

 カサンドラはお兄ちゃんから目を離さずにそう答えた。この件はきっとお兄ちゃんが一つ噛んでいるはずだ。私もお兄ちゃんをじっと見つめて、そして気が付いた。

「お兄ちゃん…笑ってない…どこかつらそう…」

 見た目だけでは幸せそうに笑っているけれど、その笑顔もどこかつらそうに歪んでいた。ずっとお兄ちゃんを見てきた私にはわかる、お兄ちゃんが今心の中ですごく葛藤しているのが。世界が終わった時もたまに見せていたあの顔が、今お兄ちゃんの顔に浮かんでいた。露子はそんな微細なお兄ちゃんの変化に気付いていないようだ。

「もしかしたら…夏樹の記憶が全部消えていないのかもしれない…」

 突然言い放ったカサンドラの言葉に私はハッと息をのんだ。心臓がさっきとは別の感情でドクンと高鳴った。

「それってどういうこと!?」

「まぁおちついてよ」

「落ち着いてなんていられないよ!どういうことか早く教えて!」

 私はつい怒鳴ってしまっていた。カサンドラが驚きに肩を震わせる。そんな様子など構わずに私はカサンドラに食いついた。それほどまでに私はその事柄について知りたくてたまらなくなっていた。

「夏樹の強すぎる思いが、世界に反発しているんだ…きっと夏樹は世界が巻き戻る最後の瞬間キミのことを忘れたくないと強く願った。その強い意思が世界のリセットに抗った…その結果心の奥底でキミへの思いが渦巻いてふとした拍子に表に出てきてしまいそうになっている」

「それ、ほんとなの?どうしてそんなことが分かるの?」

「言っただろ?ボクは曲がりなりにも神様の使いだって。人の思いを読み取る事なんて朝飯前さ。まぁ、その思いの本質を理解することはできないけど…でもその人間が今何を考えて何を思っているのかはわかる。夏樹はずっと君のことを思い続けているんだ。世界に塗り消されたキミのことをね」

「お兄ちゃんが…」

 もしお兄ちゃんのあの寂しそうな顔が心の奥底に残った私のことが引き起こした結果なら、私がお兄ちゃんを苦しめていることになる。お兄ちゃんにそれだけ思われていて嬉しいと思う半面、やはり私は苦い表情を浮かべるしかなかった。

「まぁでもそれもキミの存在がなくなれば同時に消えるだろう。なにせその日以降キミの存在はもうこの世になかったことになる。キミへの思いも同時に消えるはずさ」

「そっか…」

 それに安堵する自分と寂しく思う自分、両極端の自分が今心の中でせめぎあっていた。私の心は死してなおぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。

「お兄ちゃん…私、どうしたらいいのかな…?」

 そう尋ねたけどお兄ちゃんは何も返さない。ただ、どこか物足りない表情を浮かべて露子の抱擁を受けているだけだった。

 そうだ、お兄ちゃんもきっと苦悩しているのだ。私以上に、お兄ちゃんの心は掻き乱されているんだ。今のお兄ちゃんには全然わからない私のことで、心が乱れているのだ。幸せを、受け入れられないのだ。

「ねぇ…ほんとに25日になったらお兄ちゃんの私への思いも消えちゃうの?」

「ん?あ、あぁ、たぶんね。前例がないから確証はできないが理論的にはそうだよ」

「…そう…」

「どうしたんだい?寂しそうな顔をして?」

「ううん…なんでもない…」

 本当は何でもないはずがない。それはカサンドラだって見抜いているはずだ。けれどカサンドラはそれ以上何も言わなかった。ただ無言で、私の背中を撫でてくれるだけだった。そんな優しさに甘えて私はお兄ちゃんたちが屋上から立ち退くまでずっとそこに立ち尽くしていた。

 

 私の中で生まれたお兄ちゃんへの気持ちは収まることを知らず、日に日に増していった。今ではこの消滅の運命さえ拒否している自分がいる。たとえ見えなかったとしてもお兄ちゃんとお別れしたくない、もっともっとお兄ちゃんといたいと思うわがままな自分だ。けれどそれと同時にどうしようもなく諦めないといけないんだと思う冷めた自分がいた。冷めた自分はふとした瞬間に出てきて現実の残酷さを私に教えてまた胸の奥へと帰っていく。心が高ぶったり収まったり、めちゃくちゃな心の乱れにおかしくなりそうだ。

「お兄ちゃん…」

 消滅の日を目前に控えた12月23日の夜、私は眠っているお兄ちゃんのところへ訪れていた。あの日以来お兄ちゃんも心がぐちゃぐちゃに乱れているようで相当に疲弊していたが寝顔だけは心地よく安らかなものだった。

「ふふ、お兄ちゃんってば可愛い寝顔…あれ?これって…」

 お兄ちゃんの寝顔を観察していた私だが、ふとお兄ちゃんの机の上に目が行ってそこに釘付けとなってしまった。お兄ちゃんの机の上にある、この世界にあるはずもないものに私の視線は奪われてしまった。

「なんで…これがここにあるの?」

 それはストラップだった。青いしずく型のストラップ、私があの世界で最後にお兄ちゃんにプレゼントしたものだ。

「ねぇ、カサンドラ。これってどういうことか、わかる?」

 何もない空間がぐにゃりとまるで陽炎を思わせる風に歪みそこからカサンドラが姿を現した。カサンドラの瞬間移動だ。カサンドラはじっとしずく型のストラップを覗いて首をかしげる。

「これはなんだい?どういうことかわかるといわれても…ボクにはこれがどういう品かさっぱりなんだよ。キミたちの縁のものなのかな?」

「あ、そうだね、ごめんね。えっと、これは私があの世界でお兄ちゃんにプレゼントしたもので…えっと確かポケットに…あった!これをこうするとね…ほら、かわいいでしょ?」

 自分が所持していたものは触れるので、私はポケットの中にあった色違いのストラップを取り出してそれに重ねた。するとそれはハートの形を浮かべる。

「へぇ…なかなか面白いね。で、キミが知りたいのはなんでこれを夏樹が持っていたかだね」

「うん…」

「確かにあっちの世界でのプレゼントはこの世界では消えているはずだ…けどあの時夏樹が思ったキミを忘れたくないという強い思い、そしてキミが夏樹を好きだっていう強い思いがこのストラップに宿ったとしたら…こうして今この世界にあることも不思議じゃない」

 さらにカサンドラは続ける。

「もしかしたら…これを媒介にすればキミは姿を取り戻せるかもしれない」

「え!?」

 私は思わず大声をあげて、しまったと口をふさいだが、私の声はもう誰にも届いてないのだ、とっさのこの行動に頬が熱くなる。

「このストラップはこの世界で唯一キミの存在を証明する品だ。このストラップにはキミの思いがたっぷりと詰まっている。ボクにはわかるんだ、モノにこもった思いも読み取れるからね。で、このストラップに込められているのは今この世に存在してはいけないものだ」

 カサンドラはさらに興奮気味に続けた。

「もし夏樹がキミのことを思い出せば、ここに秘められた思いと記憶が結びつき気味の存在をエラーとしてじゃなく現実にすることができるはずだよ…って言っても難しいかな?」

 私はこくりとうなずいてカサンドラの説明を促した。

「今この世界にはキミの思いのかけらであるこのストラップが存在するがそれだけじゃキミの存在を証明することができない。誰かの、いや、夏樹の記憶にキミのことが思い出された瞬間世界はキミの存在を証明したとして存在を固定することができるんだ。それには夏樹のキミに帰ってきてほしいという思いも必要だけれど…それはきっと大丈夫だろう」

「じゃあ私…またお兄ちゃんに会えるの?」

 カサンドラはこくりとうなずいたがその顔は深刻そうに歪んでいた。

「けれど世界がそう簡単に夏樹の記憶を戻すわけがない…理論的には可能というだけで、これはきっと不可能な方法なんだ…」

 そう言ったカサンドラだけれど私は同様に深刻にはなれなかった。むしろ少しでもいい、希望が湧いてきたことに歓喜すら覚えた。

「でも私はあきらめないよ。お兄ちゃんを信じてる…お兄ちゃんなら絶対に思い出してくれるって、信じてるから…」

「そうか…キミは、強いんだね…」

「ううん、強くなんてないよ。ほんとはもしかしたらって思ってびくびくしてる…けど、私は大好きなお兄ちゃんを信じることにしたの。この先思い出しても思い出してくれなくてもそれはお兄ちゃんが選んだこと…なら私はお兄ちゃんを信じて、任せることにしたの…」

 私はお兄ちゃんにすべてを委ねる。勝手に委ねてしまうのはどうかと思うが、それでもお兄ちゃんに任せるしか方法は残っていなかった。もし消えるならばそれはお兄ちゃんが選んだこと、ならば受け入れるしかないじゃないか。

「それも愛の心があってこそ、なのかな?」

「そう、かもしれない…私のお兄ちゃんが好きって心がそうさせてるのかも…」

「そうか…人間って、すごいな…好きって心だけでそうも決心できるなんて…」

 カサンドラは一瞬考え込むようなそぶりを見せた後意味深にニヤリと笑った。その笑みは何か吹っ切れたような、そんな感じだ。

「わかった。ボクも決めるよ。もう、傍観者なんてこりごりだ。それにキミも記憶が戻るまで何もしないで待ってるってのはもどかしいだろ?」

 そういうとカサンドラはおもむろにお兄ちゃんのストラップを手に取りそれをお兄ちゃんのコートのポケットにしまい込んだ。そして私の方を振り返って言った。

「だから君に、ボクの最後の魔法をかけてあげる…夏樹の記憶を戻す手助けができる最後の魔法を…」

「最後の、魔法?」

「そう、ボクは君に魔法をかけることによって人間に干渉してはいけないという決まりを破る。禁忌を破ったボクは永遠の命も、この力も奪われるからね。正真正銘最後の魔法さ」

「そ、そんな…カサンドラが私のためにそこまでしてくれなくても…」

「ううん…キミのためだからこそ、ボクはこうまでして動きたいんだ。ほんとキミたち兄妹は面白いよ。神様をこんなにも魅了してしまうんだからね」

 カサンドラはやれやれという風に首を振るがその顔は嬉しそうな笑みでいっぱいだった。

「さて、ボクは今からキミを物理干渉できる体にする。つまりエラーを少し緩和するのさ」

「エラーの緩和?それじゃあ物を触れるってことでいいんだよね?」

 字面的にはそういう意味合いになると頭が把握してカサンドラに尋ねる。こくりとうなずいたカサンドラはさらに続ける。

「あぁ、そう考えてもらって構わない。けれど触れるのは物だけ、人間は触ることができない。そして誰かの視線があると物が触れない。これは人間にエラーを感知させる恐れがあるからね。そこまでボクの魔法は便利じゃないのさ」

「ううん、それだけでも十分だよ…で、私は物を触れるようになってどうやってお兄ちゃんの記憶を戻す手助けをするの?」

「例えば手紙を書いたりしたらどうかな?手紙なら思いが伝わりやすいって昔っから人間界じゃもっぱらの噂だよ」

「手紙、か…」

 そういえば手紙なんてお兄ちゃん宛てじゃなくても書いたことなんてほとんどない。小学校くらいの時に国語の授業で両親に手紙を送りましょうってのがあったけどその時の私はへたくそな文章を書いてたな、なんて思いだす。そのへたくそな文章でも両親はとても嬉しそうにしてくれていたな、なんてことも脳裏に思い出された。あの時の嬉しそうな顔は両親の記憶が薄れていく今でもはっきりと焼き付いて離れない。

「わかった…手紙、書いてみる」

 私が覚悟を決めた時カサンドラはこちらを向いて力強い視線を向けてきた。こちらが怯んでしまいそうな瞳に息をのむ。

「それじゃあ雪乃、ボクとはここでお別れだ。今からキミに魔法をかけるけれど、それが終わるときっとボクは神様に呼び出されてこの世界からいなくなる。あとはキミ一人で頑張ってくれよ」

「…分かった」

「ボクに人間の愛のあがきを見せてくれよ?それじゃ、健闘を祈ってるからね」

 パチン、とカサンドラが指を鳴らした。その瞬間カサンドラの姿は一瞬にして消えてしまった。私に魔法をかけたというが何か体に変わったことはない。半信半疑だったが試しに机の上のペンを握ってみる。

「あ、握れた…」

 私の指は確かにペンを握っていた。これはつまりカサンドラの魔法が成功したことを意味していた。

「ありがとう、カサンドラ…あなたの最後の魔法…きっと無駄にはしないから!」

 私は誰もいない空間に向かってそう宣言した。カサンドラが聞いてくれているかどうかもわからないが、お礼を言いたくて仕方なかった。私のことを気にかけてくれた小さな神様に、私はもう一度ありがとう、とつぶやいた。

 

 次の日の朝になってもまだ私は文面を考えることができなかった。書いては消して、また書いて、その繰り返しを続けたがやっぱりうまくお兄ちゃんへの気持ちを文章にすることはできなかった。どこか稚拙な文字の羅列になってわかりづらい気がする。

「う~ん…手紙って難しいなぁ…」

 そんなこんなで文章が定まらないまま唸っているとお兄ちゃんが起きてきた。しかも珍しく少しおめかししている。今日は24日、世間でいうクリスマスイブだ、お兄ちゃんもきっと今日この日はクリスマスデートをするつもりなのだろう。私のその予想通りお兄ちゃんは外出してしまった。けれど私は見逃さなかった。お兄ちゃんの顔が辛そうに歪んでいることを。きっと今も思い出しかけている私のことで苦しんでいるのだろう。

「お兄ちゃん、ごめんね…つらいのも、もうすぐ終わるから…」

 暗く沈みそうになった気分を振り払うように頭を振った。今は暗くなっている時ではない。一時も早く手紙を完成させてお兄ちゃんに気持ちを伝えなくてはいけないのだ。

 そう意気込んでみたもののやはり手紙はうまく書けずに残りのリミットは半日を切った。朝から降っていた雪はやみ曇り雲だけが空に浮かぶ太陽を覆った。私は両親の部屋で今もうんうんと唸っている。自分の部屋で書こうと思ったのだがあいにく物置状態と化していたため断念してこの部屋を選んだのだ。ここなら静かで書くにはうってつけの空間だ。

「う~ん…これでいいかな…?それとも、まだ足りないかな?」

 ぶつぶつとそんなことを呟きながら試行錯誤する私の視界が一瞬歪んだ。何事かと思い顔をあげると景色自体がぐにゃりと歪んでいたのだ。世界の何もかもがぐにゃぐにゃになっていく。吐きそうなほどのその歪みに顔をしかめる。

「何…これ…?」

 世界の変化は何も視界だけではなかった。私の鼻に、何か歪なにおいがついた。生臭いとも何か違う形容しがたいにおいにさらに顔をしかめる。

(私は…このにおいを知っている…これは…私のにおいだ…私の血の、肉の、匂い…)

 それはあの世界で毎夜となく嗅いだあの匂い。お兄ちゃんと私の愛の情事によって漂うあの匂いが今、蘇ってきたのだ。

「嘘…」

 世界の歪みが収まると私は口を驚きで半開きにするしかできなかった。何しろ壁にも床にもベッドにも真っ赤な血がべったりとはりついていたのだから。

「これって…あの時の部屋と同じ…」

 染みこんでしまって取れなくなった私の血、匂いが、今、この場によみがえっているのだ。どうしてなのか、それはカサンドラがいないから詳しいことはわからないがだけど仮説を立てることはできる。

「お兄ちゃんの記憶が…戻りかけてる?」

 カサンドラは言っていた、エラーを現実にすると。今この部屋に広がったあの日はお兄ちゃんの記憶が、私との思いを引き戻した、そう考えるのが妥当ではないか。それはきっと希望的観測にすぎないけれど、それでも私には確信に近い何かを感じることができた。

 胸にお兄ちゃんへの気持ちがまた溢れてきたのだ。温かな気持ちがどんどんと溢れて止まらない。それはきっとお兄ちゃんが私を思ってくれているから。

「お兄ちゃん…」

 私はポツリ呟いて手紙を書く作業に戻った。どんなに稚拙でもいい、あの日両親が喜んでくれたようにきっとこの手紙もお兄ちゃんを喜ばせることができる、お兄ちゃんに思いを伝えることができる。背伸びしていい文章を書こうとしなくてもいいのだ。今この温かな気持ちを筆に乗せて綴るのだ、等身大のお兄ちゃんへの思いを。お兄ちゃんが与えてくれたこの温かな気持ちでそう気付けた。何も飾らなくてもお兄ちゃんは私のことを理解して好きといってくれる、と。

 

「雪乃…!」

 手紙がちょうど書き終えたころすごい勢いで家の扉が開きどたどたと入ってくる人がいた、お兄ちゃんだ。お兄ちゃんは帰ってくるなり私の名を叫んだ。久しく呼ばれていなかった名前に私の胸はやっぱりじんと暖かくなる。お兄ちゃんに名前を呼んでもらえるだけでこんなにも心が温かくなり安らぐんだ、ということを初めて知った。ただ名前を呼ぶ行為がどれだけ私を支えているのか、わかった気がした。

「雪乃…!」

「お兄ちゃん…!」

 私はお兄ちゃんの呼び声に応えるように叫ぶ。けれどお兄ちゃんは気づかない、いや、気づけないのだ。私のことが見えないから、お兄ちゃんはどうすることもできないでいるのだ。

 お兄ちゃんは一通り家の中を駆け回ったが私の存在を見つけられずに息を切らして焦ったような顔を見せる。私はここにいるのに、見つけてもらえないのが苦しい。

「お兄ちゃん…私は、ここにいるよ…」

 私はドアによりかかった。その瞬間ききぃとドアが軋みお兄ちゃんがその音に気付いた。

「雪乃…?そこに、いるのか…?」

 お兄ちゃんはたどたどしい足取りで、けれど一歩一歩確実に血濡れの部屋へと近づいてくる。その顔から伝わってくる緊張がお兄ちゃんの鼓動の速さを私に感じさせることができた。お兄ちゃんが緊張した手つきで扉を開けて、息をのんだ。まるでさっきの私みたいな反応をするな、なんて心の中でクスリと笑った。

 お兄ちゃんはくるりと辺りを見渡したが私がいないと分かると膝をついてしまう。この様子なら手紙なんて眼中にもないのだろう。

「くそ…雪乃…どこに、いるんだよ…?早く、出てきてくれよ…」

「私はここだよ…気づいて…」

 私は少し窓を開けた。そこから爽やかな夕方の風が吹き込んだ。その一陣の風はベッドに置いていたお兄ちゃんへの手紙をポトリと落とすには十分だった。

「お兄ちゃん、それが私の思いだよ。ちゃんと受け取ってね…それで、もしお兄ちゃんがよかったら、私、待ってるから…あの場所で、奇跡が起こるのを待っているから…」

 お兄ちゃんが手紙を読み始めたのを確認して私は部屋を後にした。あとはお兄ちゃんを信じるだけだ、私はお兄ちゃんとの約束の場所へ足を向けた。空にはもう夜の帳が下りてその真っ黒なカンバスに輝くのは星ではなく再び降り始めた雪だった。今夜の空の主役はどうやら白く降り注ぐ雪に奪われてしまったようだ。

「今年は、ホワイトクリスマスだね…」

 ぽつり、誰にも聞かれない声で私は呟いた。世界はホワイトクリスマスに賑わっているが私の心だけはまるで人々が祈りをささげる教会のように静寂で澄み渡っていた。

 

「お兄ちゃん…来てくれるかな…」

 空には本格的な雪が舞い落ち街にもクリスマスムードの人が家路を急いでいる。ただカップルたちは皆ツリーの下に集まり聖夜の思い出に浸っている。そんなカップルたちを見ているともしもお兄ちゃんとそちら側に立てていたら、なんて思う。どうして私たちなんだろう、なんて今更の不平が私を襲った。世界で一番罪深い愛がどうたらとかいって私たちを選んだのに後に残るのは悲恋しかないというのはどうにも分が悪いのではないだろうか?まるで宝くじの一等を当てたけど持ち帰る最中になくしてしまった、みたいななんとも残念で想像しがたいほどの悲しみだ。

「でも…このおかげでお兄ちゃんと両想いになれてたんだよね…」

 もしも世界が終わっていなかったらお兄ちゃんが私を食べたいということもなかったし、告白もすることはなかった、それに私がお兄ちゃんへの気持ちに気付くこともなかったかもしれない。たぶんきっとお兄ちゃんもそう思っているのだろうな、なんてぼぉっと想像しながら私は愛しい人の到着を待つ。

「今年のサンタさんは…大遅刻だね」

 なんてぼやいたとき、私の視界はある人を捉えた。それは見間違えることもない、私の大好きなお兄ちゃんだ。息を切らしてお兄ちゃんはツリーの下へやってきた。真冬の、しかも夜だというのにお兄ちゃんの額には汗が浮かんでいる。どれだけ全力疾走したかがそこからうかがえた。

「お兄ちゃん…ありがとう…」

 私はこらえきれずに涙を流した。こんなにも必死になるほどにお兄ちゃんは私に会いたいと思ってくれていた。私のことを愛してくれていた。その事実に涙が止まらなかった。涙で視界が揺らぐ。もう死んでいるというのに心臓が嫌に高鳴り破裂してしまいそうだ。

「雪乃は…?」

 感極まった私をよそにお兄ちゃんはくるりと辺りを見渡した。けれど私が見えないと分かったのかはぁとため息をついた。そしてその手をポケットに入れる。

「なんでこれは見えるのに…雪乃は見えないんだよ…」

 お兄ちゃんの手にはあの世界で私がプレゼントした手袋が握られていた。あの部屋もよみがえっていたのだ、この手袋もお兄ちゃんが持っていても不思議ではない。それよりも私はハッと気づいたことがあった。

「泣いてる暇、ないじゃん…」

 あまりの嬉しさに思わず泣いてしまって本来の目的を忘れかけてしまった。お兄ちゃんの肩を叩くのだ。あの手紙で約束したんだ、再開の合図に肩を叩くって。

 けれどこれは実行できないこと。カサンドラの魔法では人間には触れないのだ。

「ううん…触れる…私はもう一度お兄ちゃんに会いたい…お兄ちゃんに好きって言いたい…だからお願い…神様…お兄ちゃんに、合わせて…」

 ありったけの願いを込めて私はお兄ちゃんの肩をそっと叩いた。

 ―ぽんぽん―

 触れた。確かに私の手が実態をもってお兄ちゃんに触れることができた。

(嘘…それじゃ私…)

 その瞬間世界が色を変えた。今まではテレビ画面のように遠くから見ていた景色が、ふと近くに、リアルに感じることができた。それは私の存在が元に戻った証だ。今私は、この世界に存在する。お兄ちゃんと同じ世界で、生きることができる…。

 そう思うと涙が止まらない。

「雪乃!?」

 お兄ちゃんが勢いよく振り返った。私はとっさにその背後に回った。お兄ちゃんに今の泣き顔を見られたくなかったからだ。再開は笑顔で果たしたい、私はそう決めていたのだ。けれどどれだけたっても嬉し涙は止まらない。きっと今の私の顔はぐちゃぐちゃに汚れているのだろう。こんな顔、お兄ちゃんには見せられないよ。

「頼む雪乃…俺、もう一回雪乃のことが見たいんだ…もう一回、雪乃のこと、好きって言いたいんだ…」

 けれどお兄ちゃんはそんな私のことなど知らずに虚空に告白をし始めた。まだ私が見えない存在だと思っているのだろう。あまりにも恥ずかしくてけれどこれ以上なく嬉しい行為に、私の顔に自然と笑みが浮かんだ。

(やっぱりお兄ちゃんは、私のことをこれだけ強く思ってくれてるんだ…!私もお兄ちゃんが好きって言いたい!大好きって言って…キスが、したいよ…)

「どうしてだよ…雪乃…」

 がくりとお兄ちゃんがうなだれた瞬間を狙って私はお兄ちゃんに目隠しした。

「だ~れだ?」

 もう一度お兄ちゃんに触って確信した。私は今ここに生きている。お兄ちゃんとともに生きていける、と。

「水瀬、雪乃…俺の、妹で、彼女だ」

(お兄ちゃんってば…嬉しいこと言ってくれちゃって…わざとだとしても…やっぱり嬉しいのが止まらないよ…)

「正解!」

 振り返ったお兄ちゃんの瞳には、私のことがしっかりと映っていた。久しぶりのお兄ちゃんとの再会にやっぱり涙が出てきそうになるが必死に抑える。そのせいか少し意地悪っぽい笑顔が浮かんでしまっていた。

「雪乃…お前…」

「えへへ…帰って、来ちゃった」

「おせぇよ…バカ…お帰り、雪乃…」

「うん、ただいま、お兄ちゃん!」

 私たちはたまらずにどちらからともなくキスをした。幸せな思いが私の中をぐるぐると回って脳みそまで幸せで蕩けてしまいそうだ。まるで幸せの摂り過ぎでアレルギーを起こしてしまうくらいに、私の体にはお兄ちゃんとの愛の幸せが入り込んできた。

「雪乃…愛してるよ…」

「お兄ちゃん、私も、愛してる…大好き!」

 世界が嫉妬するほどに幸せなキスを交わしたのち、私はお兄ちゃんに思いのたけをすべてぶつけた。大好きという言葉だけで私の気持ちは真っ赤になったお兄ちゃんには十分に届いたはずだった。今までの互いの届けられなかった愛が今、心にちゃんと届いた。

今日この日、私は死に、私は生き返った、お兄ちゃんの愛によって。空には私たちを祝福するかのように星たちが再び顔を見せていた。私たちのことをずっと観察していた月もまるでマンガのようなハッピーエンドに安堵しにっこりと笑みを浮かべていた。これが私の物語の一つの終着点であり出発点だ。私とお兄ちゃんと小さな神様の新しい物語のスタート地点、まだまだ私たちの世界は始まったばかりだ―

 

 

―エピローグ―

 

 

 これがボクが観測した最後の人間の物語だ、楽しんでもらえたかな?うん、キミたちが楽しんでくれたのならボクも何よりだ、観測者のしがいがあるってものさ。

 唐突だが結論だけ述べよう。この兄妹は死ぬ。いくら幸せだとは言え人間に死はつきものだからね、それがたとえ世界の構造を塗り替えたような愛を交わした人間だからといって例外ではない。彼らの死はいつか訪れる世界崩壊による消失か、それとも事故か病気か、はたまた老衰か―世界の監視ができなくなったボクにはもう彼らの未来を見ることはできないからわからないけれども。

え?結論というからもう彼らが死んだと思った?

 とんでもない!彼らはまだ生きているし毎日幸せに愛し合って生きてるよ。ほんと毎日どれだけ好きだって言えば気が済むんだっていうくらいのバカップルっぷりでイチャイチャしてますが何か?

 ま、そうだな。ボクが言いたかった結論はいつか彼らは死にゆきその思いはなくなってしまうけれども、きっと生きている限りは二人寄り添って幸せに過ごすんじゃないかなということ。これだけ愛し合った人間だ、きっと自分たちの最後の時までもその愛を抱きながら死ぬんだろう。自らの最後にパートナーのことを愛してる、と言ってね。

 あぁ、これはボクの想像だからあまりあてにしないでくれよ?けれど、そうなったら幸せだ、なんて思わないかい?あんな悲劇の後にはおつりがくるくらいの幸せがやってこなければおかしいはずだからね。きっと彼らも幸せなエンディングを迎えるさ。

 あぁ、そうだ、忘れてたよ。もうすぐ彼らの結婚式があるんだが、キミたちも来ないかい?あまりにも甘すぎる二人だから途中で胸焼けしてしまうかもしれないけれど、案外それも悪くないなって思えるさ。それにさ、キミたちも彼らの幸せを分けてもらえばいい。ボクはみんなに幸せになってもらいたい、そう願っているからね。人間の思いを知ってそう思ったんだ。やっぱり人っていうのは面白いね、いろいろな感情があって損得の計算をして感情を偽ったり隠したり…けれどそのどれもが幸せになるために見せている感情なのだから面白いったらありゃしないよ。人間だれしもが望む幸せを少しでもあなたにも届くよう、願っているよ―

 あれ?どうしたの?不満そうな顔を浮かべて?…え?何いい感じで締めようとしているのかって?あぁ、ごめん、キミたちは次の特異点の話を知りたがっているんだよね、ごめんごめん、忘れるところだったよ。…といってもボクにはもう人を観察する力はないと言っただろう?次の特異点の観測はまた別の誰かが別の物語で描いてくれるさ。もしよければキミが特異点の記録を書いてくれたっていい。なにせキミも、キミの愛した人も特異点の可能性があるのだからね。

 ふふ、まぁおしゃべりはこれくらいにして、ボクはまだ彼らを観察し続けるつもりだ。機会があればまたどこかで会えることを楽しみにしているよ。世界が終わっていなければ、ね―

 

 



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