ナーベラル・ガンマ、生きる黒歴史との逢瀬 (空想病)
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ナーベラル・ガンマ、生きる黒歴史との逢瀬

 時系列としては、書籍九巻よりもずっと後。
 アインズ様とナザリックが、ほぼ大陸を侵略平定しちゃった。
 くらいに思っていただければ。


 最後に一言。


 ナーベ、かわいい。





 

 

 

 

 

 

 

 ナーベラルは、自分の左指に輝く指輪、リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウンを見つめる。

 冒険者チーム「漆黒」の魔法使いである美姫ナーベとして十分な働きを認められた褒賞として、至高の御身から譲り受けたものだ。

 だが、これを身に着けることは畏れ多く、使うのも躊躇われるので、あまりこうして指にはめることは少ない。では何故、今日、今になってこれを身に着けているのかといえば、無論、アインズから与えられた命令を遂行するのに不可欠だからだ。

 一瞬の転移。

 黒髪が揺れる感触もなく、全身が明るい輝きの中へ吸い込まれる。

 そこは宝物殿。綺羅星のごとく輝く金銀財宝が山と化し、種々様々なアイテムが軒を連ね、主に使われるその時を待ち焦がれていた。

 しかし、ナーベラルはそういった財宝や道具には目もくれず、漆黒に染まる門の前に屹立する。

 緊張に唇を引き結んだ彼女は、教えられたとおりの呪文を宣し、その奥へ続く通路を出現させる。

 この先の霊廟こそ、彼女の目的地。

 暗い通路を駆け出したい衝動を何とかこらえつつ、粛々と、着々と、メイドらしい気品あふれる足運びで進んでいく。

 ナーベラル・ガンマはナザリック地下大墳墓に属する戦闘メイド“プレアデス”の一員である。

 至高の存在に忠義を尽くす身として、そして何より、この場を守護される方の前で、無様な姿などさらせるわけがない。

 高鳴る鼓動を懸命に抑え、メイドは明るく広大な空間に足を踏み入れる。

 

「ようこそ、ナーベラル・ガンマ」

「お久しぶりです――パンドラズ・アクター様」

 

 ナーベラルは思わず息を漏らす。

 至高の御身に作られた数ある造形の中でも、この方のすべては、ナーベラルの理想をすべて体現しているといっても過言ではない。輝く歌のような声色。細くしなやかに伸びた四本指。とりわけナーベラルの胸を震わせるのは、黒い満月を思わせる三つの暗き深淵。

 陶然と、昂然と、ナーベラルを虜にしてやまぬ美貌の(すい)

 それこそが彼、至高の四一人のまとめ役にして、ナザリック地下大墳墓の絶対支配者、アインズ・ウール・ゴウン様の御手によって創造されし“宝物殿”の領域守護者、パンドラズ・アクターの威容である。

 

「どうかされたかな?」

「……え?」

「何か用があって来られたのでしょう? そんなところで呆けていては、時間を無駄にしますよ?」

「も、申し訳ありません!」

 

 ナーベラルは羞恥のあまり頭を勢いよく下げた。

 

「与えられた時間は有意義に使わねば。悪戯に時を空費していては、ナザリックが誇る戦闘メイドの威信に瑕疵(きず)がつきますよ?」

「はっ! 重々注意いたします!」

「それで、今回はどのような用向きで?」

「アインズ様より、これを宝物殿に収めよ、と」

 

 ナーベラルは両手で持っていた豪奢な薄布に包まれていた荷物を紐解いた。

 

「ほう……これは」

 

 パンドラズ・アクターは、眼の深淵をより一層深めるように、彼女の両手に支えられたそれを見下ろす。

 

「素晴らしい刀剣だ……これはまさか、アインズ様が仰っていた」

「はい。リ・エスティーゼ王国秘蔵の剣。あのガゼフ・ストロノーフが握っていた超級の宝剣“剃刀の刃(レイザーエッジ)”でございます」

「おお! 拝聴していましたが、実物を前にすると心が躍る! データ量を完全に無視した殺傷特化……否、否! これは、それ以上の性能を秘めている? いずれにしても、この宝物殿で私が管理するに相応しき、至・宝・の・一・品!」

 

 至高の創造主への感謝と賛辞を振りまき踊る領域守護者の喜びようは、ナーベラルにしてみれば本当に魅力的な立ち居振る舞いである。ユリ姉やシズは苦手としているのが不可思議に思えるほど、ナーベラルは彼のこの大仰な感じが好ましかった。自分にも、これほどの演技力が備わっていれば、至高の御方の手を煩わせるようなことはなかったかもしれない。

 

「おっと失礼。あまりのことに我を忘れてしまい」

「い、いいえ、とんでもない」

「私の悪い癖です。宝を前にしては、役目も忘れ狂喜乱舞してしまうのは。アインズ様に窘められていながら、未だに直すことができぬ身の上は、不徳と言わざるを得ますまい」

 

 その気持ち、ナーベラルには痛烈な打撃となって胸を打った。

 自分もまた同じく、至高の御身と共に行動する機会に恵まれながら、その恵みの大きさのあまりに浅慮を犯し、繰り返し何度も注意を促され――否、至高の御方を言い訳に使うなど恥ずべき行為ではないか。

 ナーベラルは自分の卑小さに、己の体が縮み上がる感覚に襲われてしまう。

 自分はなんて不出来な存在なのか。

 それに引き換え、彼は完成されている。自己を省み、役目を全うし、ただ自らに与えられた使命と忠烈に没頭する被造物の典型。

 自分は、彼のようにはなれない。

 それがあまりにも――口惜しい。

 

「この宝剣を手放したということはついに、あの王国もナザリックの軍門に下りましたか。アインズ様は本当に慈悲深い。そして何より恐ろしい、その計略。ビーストマンとミノタウルスの国を殲滅した時点で、人間の国家など存在意義を喪失していたというのに」

 

 人間が国家によって団結してきた理由としては、ひとえに人類が脆弱に過ぎるからだ。弱い個体は群れとなって、強い外敵から身を守ろうとするのは自然の摂理だが、愚劣極まる人間は中途半端に集合することしかできず、ナザリックのごとき金剛石の結束を結ぶには届かない。弱小ゆえに野に追い立てられ、そこで国を築きながら、同族同士で殺し合い潰し合いを続けていては、百年、千年、万年かかっても強者には届かない。

 この世界において、人間の国家など滅び去るしかなかったのだ。

 では何故、アインズ様はあの国を最後までお残しになったのか。

 その深き謀略の意図は簡潔明大。

 反抗勢力の一網打尽である。

 庭にあるゴミを一つ一つ丹念に拾い上げていくよりも、一つ所にまとめ、掃除のちり取りのごとく一挙に取り込み捨ててしまったほうが、かかる手間は段違いに減るというもの。そのために、至高の御方は近隣で唯一となる人類の国を残留させ、そこに反抗因子となりうる者どもが集積するよう入念に準備を整えていたのだ。彼奴らが爆裂を起こす瞬間、絶望から希望へと邁進せんと決起した一刹那、彼らは自らの運命を知ることになる。

 

「あの王女こそ、まさに稀代の烈女。おのれの権と、愛する男との生のために、人類すべての希望をアインズ様の懐に差し出してしまうとは!」

 

 そう。

 絶望を希望に。黒き闇を白き光に染め上げようとするその時に、彼らは悉く封殺された。

 反逆の咎を背負わされた愚鈍な連中がどうなろうと知ったことではない。パンドラズ・アクターのカルマ値はそこまで低くはないが、ナザリックに反逆の意を示した存在にくれてやる憐憫など欠片もない。

 闇は闇のままに。黒は黒のままに。死は死のままに。

 これを覆すことは、至高の存在にしか許されない領域。たかだか人間の分際で、分を超えた妄執にとらわれた結果が、自滅。もっと分相応を弁え行動していれば、ナザリックの庇護の下、繁栄と享楽を永遠に約束されていたというのに。

 この剣が宝物殿に安置されることこそ、まさに人類敗着の証なのである。

 

「さて、御苦労でした、ナーベラル・ガンマ。これは速やかに私が…………は?」

 

 剣を受け取ろうと先ほどから無言を貫く女給の様子を見て、パンドラズ・アクターはまん丸の口を一段階大きくする。

 剣が震えるのは、彼女の手が僅かに震えているから。

 喘ぎ泣く声色は、彼女の唇が引き結ばれているから。

 淡く輝く水滴は、彼女の眼から零れ落ちているから。

 

「ど、どどど、どう、どうされたのかな?」

「いいえ! なんでも、本当に、なんでもない、です!」

 

 手中の剣を取り落とすような無様はさらさない。だが、それゆえに、ナーベラルは止めどなく溢れる感情を抑えきれず、喘ぎ続ける。

 言葉に詰まる領域守護者の様子を、ナーベラルはどうしようもない気持ちで受け入れた。そうするしかなかった。

 自分はなんて不出来なのだろう。アインズ様に迷惑をかけるだけに飽き足らず、そのアインズ様が創り出した彼の手を煩わせ混乱させるなど。恥辱と絶望感で震えが止まらない。それでも彼女は、剣を握り続ける。まるで、それこそが縁であるかのように。与えられた務めこそが、自分の両足に力をもたらすように。

 言葉を紡げなくなったメイドであったが、救いの手は速やかに訪れる。

 四本指が彼女の肩を抱きすくめ、華奢な背中に手を這わす。

 

「貴女は何故泣かれているのか、お聞きしてもよろしいか?」

「私は……泣いて、など……」

 

 優しい声に、精一杯の強がりさえ紡げない。こんな体たらくをさらしては、メイドのみなに顔向けができない。

 

「そうですか。では思う存分、お泣きください」

「……うぇ?」

 

 疑問し、頭上の位置にある彼の顔を仰ぎ見る。

 そこにはかくも美しい、まさに造り上げられた美貌の柔らかさが浮き彫りになっていた。

 

「領域守護者の権限で、貴女に命じているのです。この私に抱かれ、お泣きなさい」

 

 それは、どのような褒美だろう。どれほどの慈しみがなせる業なのだろう。

 許されるのなら、この剣を放り、その胸に縋りたい。思いの丈をぶちまけて、熱い情動に身を任せてしまいたい。恋しく愛おしい(かんばせ)に、額に、唇に、指を絡めて、接吻を落とせたら。

 けれど、私はプレアデス、戦闘メイドのナーベラル・ガンマ。

 与えられた役目を、使命を、任務を放棄するなど、至高の方々以外に許されてよいはずがない。

 

「ここは我が宝物殿。私たちの他には、誰もおりません」

 

 だから、せめて。

 ならば、いっそ。

 剣を握ったまま、彼の腕の中で、彼の胸の内で、泣いて泣いて泣いてみる。幼き子が父親にするような、ナーベラル・ガンマには似合わない、それは慟哭だった。

 磨かれた床を水滴が幾重にも重なって弾ける。喚き声が反響し、意外なほど大きく増幅され耳を劈く。

 そうして泣き続けて、ひとしきり泣き続けたことで、ナーベラルの泣き虫は鳴りを潜める。

 

「落ち着かれたかな?」

「申し訳、ありません」

 

 スンスンと鼻を鳴らすナーベラルは、黒い瞳に未だ大粒の涙をたたえていたが、何とか思考を冷却するに至る。

 その様を見て満足したかのように、パンドラズ・アクターは彼女の肩を抱いたまま、柔らかなソファへ移動し、腰を落ち着けた。

 この段階でもナーベラルは手中に剣を握ったままだった。これを離せば、もう彼の領域にいられる理由がなくなると思うと、どうしても手放しづらかったのが大きい。何よりパンドラズ・アクターも、彼女から剣を受け取ろうとはしていなかった。彼はナーベラルから少し離れると、ソファ横にしつらえていた物を操作し始める。

 

「……何をしているんです?」

「これはアインズ様より賜った品で、レア度はそこまで高くないのですが、私がいつも使っているものです」

 

 それは、外見データはレトロ極まる“蓄音機”の様相を呈していたが、そこまでの知識などNPCには備わっていない。アインズが、パンドラズ・アクターを宝物殿に安置する際、気まぐれというか、部屋の内装がソファとテーブルの応接セットのみでは味気なさすぎるという理由で用意した、程度のアイテムでしかなかったのだが、パンドラズ・アクターにしてみればそういった事情よりアインズから頂いたという事実の方こそが重要だった。

 それに何より、

 

「これは、私のお気に入りなんですよ」

 

 彼は曲目を選び終えると、再生ボタンを押した。

 大輪の花のように広がるパイプから、とても心地よい音楽が聞こえだす。このアイテムは、ユグドラシルにおいて流行した拠点内装用アイテムの一つで、コレクション感覚でアインズが収集したゲーム内BGM再生機能アイテムだ。BGMの再生と銘打たれてはいるが、物によっては古典クラシックや自作音楽データを自由に再生できるという一品で、そういった通なユーザーの心を掴んだことは、今や昔である。

 しかし、音楽の知識のないナーベラルは首を傾げるしかなかった。

 

「この曲、は?」

「Wachet auf, ruft uns die Stimme……カンタータ第140番『目覚めよと、我らを呼ばう物見らの声』」

 

 淀みなく、ビブラートをきかせ答えた領域の守護者は、ナーベラルの左に座りなおす。

 泰然と指を組み、彼は蓄音機から流れる調べに耳を澄ましながら、彼女に語り掛ける。

 

「私は宝物殿に籠ることが多いため、仕事(つとめ)のない暇な時は大概、こうやってアインズ様が与えてくれた音楽に耳を傾けながら、至高の御方々の品々の管理を行っているのです」

 

 彼が意外にも音楽に造詣が深い一面を知らされたナーベラルは、居住まいを正して彼のお気に入りに耳を傾ける。本当に何もない、白亜の宮殿の内側を思わせる広大な空間は、なるほど音楽を奏でるのにはもってこいの場所である。それはまるでオーケストラホールで奏でられる荘厳な響きとなって、彼女たちを至福の時の中へ包み込むようだ。

 

「とりわけ、第四曲は本当に良い。まさに至高の御方々の奇跡を内包した調べに満ちている」

 

 当然ながら、NPCとして偏った知識を持つパンドラズ・アクターは、この曲を作曲したのはアインズをはじめとした至高の存在たちであると信じて疑っていない。“バッハ”という音楽家の存在など、まるでその意中には存在しない。ナザリックの楽師たちが奏でる狂気的かつ怨嗟的かつ生物の悲鳴的な交響曲も捨てがたいが、このアイテムが奏でてくれる朴訥として純粋無垢な演奏も捨てがたいのは、彼の自覚する悪癖の一つだ。

 それでも、アイテムに対する審美眼を持つように、彼は音楽を評価し嗜好する知能と才覚を与えられているというのは、創造主のアインズすら知らない。黒歴史ゆえ、用がある時ぐらいしか宝物殿を訪れないアインズすら予想だにしていなかった、これは彼の特性なのである。

 名残惜しくも演奏が終わった宝物殿の内部に、静寂が広がり始める。

 

「落ち着かれたかな?」

「申し訳ありません。お見苦しいものを見せてしまって」

 

 己のあまりのポンコツぶりに、穴を掘ってうずくまりたい気分になる。腫れぼったい目の周りを意識すると、彼の視線が気にかかる。もうこれ以上、惨めな思いなどしたくないナーベラルは、惜しいと思いながらも、与えられた仕事の完遂につとめた。

 

「パンドラズ・アクター様のお時間をこれほど無駄にしてしまいました。平に、ご容赦を」

「謝られる必要はない。無駄にした時間など、何一つとしてないのですから」

 

 笑みを深めつつ、剣を受け取った彼に、かすかに疑問を覚えるナーベラル。宝物殿に来た当初、この方はなんと言っていたか。

 だが、彼はナーベラルの泣き虫を、共に音楽を傾聴した時間を、無駄だとは認めないと言っている。

 これは、一体どういうことか。

 いくらポンコツな戦闘メイドでも、すぐに答えはわかった。

 

「また非番の時など、何時でも訪ねてください。お茶とお菓子はありませんが、誰かと音楽を楽しむのは、本当に心安らぐものですから」

「は……はい!」

 

 舞い上がる気持ちに蓋できず、ナーベラルは体をはずませながら笑みをこぼす。

 次の非番、きっとここへまた来よう。

 お茶とお菓子は持参して。

 彼と一緒に、隣り合わせで。

 そう思うたび、心は踊る。

 聞くのはやっぱり、あの曲かな?

 こんな自分が、彼と共に過ごせる未来を想う。

 二重の影はどこまでも、逢瀬の温度を高めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナーベラルが剣を渡し宝物殿を辞した、その後。

 一人孤独を味わうパンドラズ・アクターは、わずかに残る掌の温度を握り確かめる。

 至高のアイテムがくれた、福音のような一時に感謝しながら、彼は再び曲をかける。

 

「この曲、詳細は把握しておりませんが、“待ちこがれる魂との喜ばしい婚姻へと至る情景”を描いたものだとか」

 

 次に逢ったら教えてみようか?

 

「つまり“花嫁と花婿”の曲なのですよ、ナーベ♪」

 

 

 

                      【終】

 

 

 

 




 最後まで読んでいただいたあなたに、感謝の極み。

 正直、卵頭同士がイチャコラなんてできるのかという不安もなくはないですが、そこは愛とか愛とか愛とか愛とかで補える……と信じる。信じるっきゃねぇ。

 続くかどうかは未定ですが、なるべく続けたいと思います。

 というか続いてください。この二人のカップリング大好物なんですから。

 では、また次回。by空想病



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第二話 邂逅1

時系列としては、
書籍版三巻以降五巻以前という感じ。



ナーベラルがパンドラズ・アクターの存在を知る経緯の話です。



では一言。



ナーベの泣き顔は、ヤバい。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナーベラルがパンドラズ・アクターのことをはじめて知ったのは、お茶会もとい戦闘メイド(プレアデス)の報告会でユリとシズが話題に挙げた時だった。ちなみに、ルプスレギナは例のごとく、人間の村で任務を継続している真っ最中である為、残念ながら席をはずしている。

 

「宝物殿の、領域守護者?」

「ええ。ナザリック地下大墳墓において不可侵の領域。完全に独立し隔絶された空間。至高の御方の指輪(リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン)で転移しない限り、立ち入ることすら叶わぬ霊廟、その墓守……それがアインズ様の御手によって一から創造された唯一の存在、パンドラズ・アクター様よ」

 

 ユリとシズが、宝物殿なる場所へアインズ様と同道した際に出会ったと呼ばれる存在を、ナザリックに属するほとんどの者は認知していなかった。

 宝物殿は至高の御方々の財が眠る神聖な場所。そこに立ち入れるNPCなど、ユグドラシル時代は皆無だったことが大きい。加えて、アインズはパンドラズ・アクターを連れて歩く行為――供回りをさせることがなかったことも影響している。彼の存在を知っているのはアインズを含む至高の四十一人と、守護者統括の地位にある者として管理上把握していたアルベドくらいのものである。

 しかしながら、戦闘メイドの二人は、彼のその強烈な設定……個性に面食らってしまったのは、無理からぬことであった。

 

「アインズ様に創られた存在と聞いたけれど、私は少し苦手に感じたわ」

「…………私も」

 

 二人とも、自分の言動が主人に対して不敬に値するかもしれないと重々承知しているはずだが、ここには末妹とルプスレギナを除いて姉妹全員が揃っている。少しくらい本音トークに花を咲かせたくもなるのは仕様がない。

 

「ユリ姉だけならまだしも、シズにまで苦手と言わしめるなんて……」

 

 ナーベラルは率直に驚きを抱く。

 この二人は戦闘メイドの中でもかなり穏健な性格もとい設定を与えられたNPCのはず。

 無論、だからといってすべての存在を許容できるわけではないのも確かだ。ユリ姉は第一階層守護者であるシャルティアの性癖に辟易しているし、同性として“その対象”に見られることを忌避しているのは戦闘メイドの間では知らぬ者はいない。

 

「…………正直、うわぁ、ってなった」

「人のことを「お嬢様」呼ばわりするのは、少しいただけないわね」

「ああぁ、それは確かにムカつくぅ」

 

 眼球のフライを数個パクつく和服のメイドがユリの主張に同意した。

 

「いくらアインズ様の創造された存在でもぉ、戦闘メイド(プレアデス)の副リーダーをぉ、お嬢様呼ばわりするのはぁ失礼にもほどがあるぅ」

「エントマの言う通り。確かに、その呼び方はふさわしくないわね」

 

 金髪ロールヘアのメイドが妹の主張に同意の声を上げながら、縦にスライスされた指のソテーを頬張っている。

 第九階層を守護する戦闘メイドたちは、ナザリックに所属する存在の例にもれず、自らに与えられた役割に絶大な誇りを抱いている。外の存在からは狂信的としか呼べない信奉の心は、たとえ悪気がなかったとしても、それを卑下されるような行為言動を看過することは出来ない。戦闘メイドとして生み出され、至高の四十一人に仕える同胞を「お嬢様」呼ばわりすることは、受け取り方次第によってはメイドたちの存在を見下していると思われても不思議ではなく、実際ユリが不快感を示したのはまったくもって正しい反応の仕方だったのだ。

 

「私がそんな呼ばれ方をしたら、相手を丸呑みにして、即座に一瞬に溶解してしまうかも」

「あれぇ? ソリュシャンだったらぁ、ゆっくりじっくりぃ、(ねぶ)り回しながら殺すんじゃないのぉ?」

「至高の御方を堂々と侮辱するような存在を、一秒たりとも生かしておくのは嫌ですもの。本当はエントマの言う通り、ありえないほどの痛みを与えつつ、味わいながら苦しめながら殺すのもいいけれど、ねぇ?」

「私だったらぁ、腕と脚を食べてぇ、内臓をプチプチプチプチ食べてから殺すかなぁ? 脳みそはデザートにしてぇ」

 

 口々に欲望を吐き出す二人に、ナーベラルとシズは特段、嫌な素振りなど見せない。

 残忍に酷薄に殺すことに必要性をまったく感じないが、無礼を働いた相手を殺すことには全面的に同意しているのが大きい。ただ殺すとなれば、自分だったら即座に魔法で灰になるまで焼き尽くすだけだろう。

 ユリもその筈なのだが、彼女は上官として、副リーダーという立場にある存在として、妹たちのお喋りを窘めることにする。鞭の音をピシピシ響かせながら。

 

「二人とも。それくらいにしておきなさい。いくら失礼な方だったとは言え、相手は領域守護者様。しかも、アインズ様の御手製なのよ?」

「わかってるよぉ、ユリ姉ぇ」

「でも、領域守護者と言っても強さはピンキリでしょ? レベルはどれくらいなのかしら?」

 

 第二階層“黒棺”を預かる恐怖公がLv.30であるのに対し、第七階層“溶岩の川”に潜む紅蓮がLv.90に届くという。ひょっとすると、自分たちと同等か、それ以下のレベルというのも、実際としてありえる。

 だが、ユリの口から出てきたのは、彼女たちの想定を上回っていた。

 

「パンドラズ・アクター様はLv.100――つまり、各階層守護者の方たちと同格に位置付けられるわ」

 

 三人のメイドたちは息を呑んだ。

 ソリュシャンやエントマ単体では歯が立たないレベル構成。条件や相性などの有無を考慮しなければ、単純に敗北は確定しているようなもの。そんな最高位の力の持ち主であることが理解でき、彼女たちは認識を改めざるを得ない。

 

「さすがは……至高の御方々のまとめ役であられるアインズ様の創造された存在ですわね」

「さすがにぃ、階層守護者と同格の人にはぁ、勝てそうもないかなぁ」

 

 あっさりと白旗を振った二人。

 戦闘メイドの中で最高レベルの63を与えられたナーベラルでもレベル差が開きすぎているのだから、二人の反応は至極当然な結論でしかない。

 僅かに抱いた好奇心から、ナーベラルはひとつ質問してみる。

 

「ユリ姉様。そのパンドラズ・アクター様は、異形種としてはどの種族に該当するの?」

「確か、上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)と聞いたわ」

 

 ナーベラルは口に着けたティーカップを固めてしまう。

 

上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)?」

「ああぁ! ナーベラルの上位種ぅ?」

 

 ソリュシャンとエントマの反応に、ナーベラルは耳をそばだてる。

 二重の影は種族特性として、ありとあらゆる姿に変身できる能力を持っている。

 ただ、ナーベラルの種族レベルは僅かに1。卵頭の本性以外に取れる姿は、今の黒髪の乙女――人間の姿だけである。無論、ナーベラルはそのことを恥とは思わない。至高の御方が「かくあれ」と思い創られたからこそ、このナーベラル・ガンマは存在しているのだ。むしろ誇らしい思いすら抱いている。

 それに、ナーベラルの強さは職業(クラス)レベルに依拠した「魔法詠唱者(マジックキャスター)」としての力が中枢を占める。二重の影(ドッペルゲンガー)としての強さなど、まったくもって不要とも思えたくらいだ。

 ――この時までは。

 

「詳しくは知らないわ。けれど、私たちが見た限りでは、パンドラズ・アクター様は、至高の御方の一人“大錬金術師”タブラ・スマラグディナ様に変身できるのは確実よ」

 

 周囲に陶器が割れそうな音が響く。

 

「タ、タブラ・スマラグディナ様ぁ!?」

「ち、ちょっとユリ姉様その話詳しく!!」

 

 妹たちの動揺と驚愕の声に、ユリは生真面目に頷き、シズは無言の肯定を示した。

 黒髪の乙女は愕然となる。握っていたティーカップは、いつの間にかソーサーの上に落ちていた。中の紅茶が真っ白のテーブルクロスを汚している。そんな自分の失態すら、今のナーベラルには省みることができない。

 

「し、至高の、御方の、御姿になれる? そ、そんなことが、本当に可能だというの?」

「こんなことで嘘を言う理由がないわ、ナーベラル」

「…………アルベド様もびっくり」

「私はぁ、シャルティア様のぉ復活の時にお会いしただけだけどぉ、そんなすごい方だったなんてぇ?」

「ホワイトブリム様やク・ドゥ・グラース様、ヘロヘロ様にもなれるの?」

「アインズ様からお聞きした限りでは、他の至高の四十一人すべての御姿に変身できるとの話よ」

 

 聞かされた内容に、戦闘メイドたちは戦慄してしまう。

 

「とても信じられない能力だわ。領域守護者様とはいえ、そんな力が許されるなんて」

「さすがアインズ様の御手製ぇ。ちょっと宝物殿に行ってみたいかもぉ。あ、でもぉ、宝物殿ってぇ、確か至高の御方々の指輪がないとぉ?」

「現在、このナザリックで至高の指輪の保持が許されているのはアインズ様を除くと、アルベド様、マーレくん……様、あとは件のパンドラズ・アクター様だけね」

「…………控えめに言って、会うことはほぼ不可能」

 

 がっくりと肩を落とすエントマ。ソリュシャンも、残念そうに溜息を落としている。

 この反応は、ナザリックのNPCであれば当然のものだろう。アインズ以外の至高の四十一人が御隠れになって幾年月。しかし、その御姿は瞼の裏に焼き付いており、ただ瞳を閉ざすだけで想起することも容易(たやす)い。

 だが、やはり生の目で、至高にして究極の造形美たる御姿を目にしたいという欲求は、どうしても捨て難いものがある。

 

「あ、でもパンドラズ・アクター様が宝物殿外の任務を与えられることがあれば、お会いできるかしら?」

「まぁ――可能性は、なくはないけど」

「…………正直、あの人がナザリックを闊歩するのは、危険」

「危険ってぇ?」

 

 エントマの疑問に、ユリは溜息交じりに応じていく。

 

「あの人の言動や個性は、まぁ大目に見ることが出来るわ。でも、あなたたち。もしも仮に、仮に、よ? パンドラズ・アクター様が、至高の御方の一人の姿をとられた状態でナザリック内を出歩いたら、それだけで、もうナザリックは上から下までを巻き込んだ大混乱に陥りかねないわ」

「…………実際、アルベド様はタブラ・スマラグディナ様の姿を見て、かなり取り乱してた」

「けれど、アルベド様はそれがすぐに御自分の創造主でないことを看破なされた。さすがは守護者統括の地位を与えられた御方だわ。けれど、他のすべてのシモベにそんなことが可能なのかしら? 可能だったとしても、至高の御方の姿をした存在に対して、シモベたちはどのように応じるべきだと?」

 

 戦闘メイドは考える。

 仮に、至高の御方の姿をした存在が偽物だと見破ったとしよう。では、そのような不審に過ぎる存在を野放しにしておくべきなのだろうか? 否、偽物だと看破してしまったら、逆に危険なことになりはしないだろうか?

 不遜にも至高の御方の姿を真似る無礼者。創造主に唾吐くがごとき不信心者。

 それは下手な侵入者などよりも、よほどNPCたちの義憤と激昂を誘発するだろう。

 

「アルベド様が取られた行動は、まさにそれよ。アルベド様はタブラ・スマラグディナ様が偽物だと気づいた瞬間に、敵対行動に移られたわ」

「…………ユリ姉と私に殺害命令を出した」

「アインズ様の御身を案じればこその御判断ね。我ながら本当に情けないわ。彼がアインズ様の創造された存在だったから良かったけど。これが外の世界で、私たちの崇拝する御方々の姿をそれぞれ投影できるような輩がいたとしたら、(まか)り間違ってもアインズ様に害が及ぶことは避けねばならないのだから」

 

 ユリの懸念は至極当然のものだ。

 この異世界において、ナザリック地下大墳墓は圧倒的強者の立ち位置を占めているのが事実として認知され始めているが、何事にも例外は存在する。

 特に、第一階層守護者・シャルティアを洗脳した世界級(ワールド)アイテムなどが、その最たる特例だろう。

 では。

 もしも仮に、NPCの記憶や精神を読み取って、それぞれが第一に考える至高の御方の姿を模倣できる世界級(ワールド)アイテムなどが存在したら?

 その世界級(ワールド)アイテムを悪用して、ナザリックに反意を翻し、アインズの命を奪えなどと命じられることになれば?

 

「下手したら、シャルティア様の二の舞、ね」

「その通りよ、ソリュシャン。最悪、ナザリックの崩壊にも繋がりかねないわ」

「ううぅ、そう考えるとぉ、パンドラズ・アクター様はぁ、宝物殿から出ない方がいい感じぃ?」

「だからこそ。アインズ様は彼の方を、ナザリックとは隔絶した領域に封じられているのでしょうね。ボク……私たちの無用な混乱など、アインズ様が望むはずがないもの」

「でも、それだと根本的な話、どうしてアインズ様はそんな存在を御創造になったのかしら? いたずらに供につけることができないシモベを御創りになられるなんて」

「確かにぃ……ナザリックが崩壊するなんてぇ、想像するのも嫌すぎるんだけどぉ?」

「その点については安心していいわ。彼は優秀な存在よ。立ち居振る舞いからは想像もつかないけど、アルベド様やデミウルゴス様と同等の頭脳を持ち、あまつさえ至高の四十一人すべての能力と技術を、限定的にではあるけれど行使可能とのことだから。下手したら、私たちの方が無用者扱いを受けるレベルで、パンドラズ・アクター様は有能よ?」

「ああぁ、そういえばぁ、宝物殿にこっちの世界の物資や道具を運び込んでぇ、鑑定や換金なども行っているんでしょぉ?」

「換金って、確かユグドラシル金貨への換金だったわよね? そんなことが出来るなんて」

「それがパンドラズ・アクター様の御力ということよ」

「…………さすがはアインズ様」

 

 ガタリとメイドらしからぬ音を立てて、一人の少女が腰を浮かせた。

 

「あら。どうかしたの、ナーベラル? さっきから黙っていたけど、何かあった?」

「あ……そろそろアインズ様と、エ・ランテルに戻られる準備をしないと」

 

 ナーベラルは咄嗟に嘘をついた。

 そんなナーベラルの虚偽を知ってか知らずか、姉妹たちは言葉を紡いだ。

 

「いいなぁ。ナーベラルばっかりずるいぃ、羨ましいぃぃぃ」

「…………耐えろ、エントマ。ナーベラルが任務に励むのは、とてもいいこと」

「私も少し早いけど、王都に戻って、セバス様との情報収集の任務に戻るわ」

「じゃあ、戦闘メイド(プレアデス)月例報告会およびお茶会は、これで散会としましょう」

 

 ユリの(シメ)の一言で、その場はお開きとなった。

 片づけはローテーション方式で決定したシズに任せ、ナーベラルは自分の自室へと向かう。

 自然と早足になっていることにも気づかずに、黒髪の戦闘メイドは神々の宮殿を突き進む。

 

「……気に入らない」

 

 自分でも、不遜な考えに囚われていると自覚している。自覚せざるを得ない。だが、普段の落ち着き払った余裕など一切なくなるほど、姉妹たちの話はナーベラルの機嫌を大いに損なっていた。

 上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)

 Lv.100の領域守護者。

 至高の四十一人への変身を許された、唯一無二の存在。

 それに対して、同一種であるナーベラルは、あらゆる面において劣っていた。

 変身できる姿は人間一つきり。レベルは63。できることは魔法詠唱者(マジックキャスター)としての能力のみ。

 気に入らない。

 気に入らない。

 気に入らない。

 気に入らないったら、気に入らない。

 アインズ様に直接創造されたからといっても、これほどまでに能力に差があるなどあってよいことなのか?

 あまりにも自分が不出来に思えてしようがないではないか。

 どうして、こんな自分をアインズ様は外の世界に供をさせて――――

 はたと、思考が回転する。

 ひょっとすると。

 アインズ様は、自分が創造したものと同じ種族であるナーベラルを気に入って?

 

「ふふん♪」

 

 そうだ。

 自分は今、ナザリックにおいてもっともアインズ様の傍近くで働くことを許された存在。

 自分が完璧に完全にアインズ様のお役に立てているとは言い切れない――そもそも至高の四十一人たる御方々は、それぞれが瑕疵一つない完成された造物主なのだから、御方々に対して完璧かつ完全な奉仕など不可能なのだ――が、それでも、アインズ様は卑小な自分の失敗を、寛容にして絶大なる御心でお許しくださる。

 上位種だか何だか知らないが、今は私の方が、直接アインズ様のお役に立てているのだ。

 そう思えば心は晴れやかになる。

 一人で表情をコロコロ変化させながら角を曲がった、その時。

 

「きゃ!」

 

 突如、現れた人影に無様な声を上げてしまう。

 背中から倒れ伏しそうになるナーベラルの身体を、逞しい両腕が支えてくるのが判った。

 さらに、ありえざる声が、黒髪の乙女の耳を撫でる。

 

「大丈夫か、ナーベラル?」

「あ、ああ、アインズ様っ!?」

 

 その姿は冒険者モモンの全身鎧(フルプレートメイル)。その声は慈悲深き至高の御方のそれだった。

 

「ふむ。怪我はなさそうだな。駄目だぞ、角を曲がるときは十分に注意を払わねば」

「も、申し訳ございません!」

 

 あまりの事態にその場で平伏の姿勢をとる。

 何という失態だ! いくら久しぶりのお茶会の帰りだからといって、いくら久しぶりのナザリック第九階層だからといって、このような失態を犯すなど!

 

「もうよい、ナーベラル。面を上げ、立ち上がるがいい」

「本当に、申し訳ございませんでした」

 

 あまりの失態に身が縮まる思いのナーベラルは、主人の命令に悄然としながら従った。

 しかし、わからないことが一つ。

 

「あの、アインズ様……あの……お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「どうした、ナーベラル? 私に答えられることならば何でも答えてやるぞ?」

 

 いつになく陽気な調子で、モモン姿のアインズは両手を広げた。

 何か、奇妙な違和感を覚える。

 

「何故、転移魔法を、〈転移門(ゲート)〉を使われて此方にこられたのでしょうか?」

「……ほう?」

 

 ナザリックのNPCは、皆一様に揺らめくような気配を漂わせている。その気配というのはナザリックに属する同胞の検知と把握に使用されるもので、強さによる個体差というべきものがあり、言うまでもないが至高の存在にして絶対支配者たるアインズの気配はたとえ遠くからでも感じ取れるほどに強力な輝きを放っている。故に、このように出会いがしらの事故が起こることは、ほぼ皆無といってよい。ただ唯一の例外が、アインズが転移魔法を使用した時ぐらいのものだ。

 だが、こんな廊下の角に転移してくる理由が、ナーベラルには理解できない。

 

「さすがは、戦闘メイドのお一人。なかなか鋭い洞察力をお持ちだ」

 

 アインズの奇妙な語り口に、ナーベラルは困惑を深める。

 

「もうよい。パンドラズ・アクター」

「え?」

 

 聞き違えようのない主の声は、しかし目の前の鎧からではなく、自分の遥か後方から聞こえてきた。

 振り向いた先には、骸骨の魔法使い。死の超越者の姿をしたアインズの威容。傍近くには守護者統括たる純白の悪魔・アルベドが付き従っていた。

 

「え? ええ!?」

 

 ナーベラルは改めて、目の前にいるモモンを注視する。

 誰何の声を上げようとした瞬間、その輪郭がぐにゃりと歪む。

 一拍をおいてモモンの姿をしていた者が立っていた場所にいたのは、卵頭の異形種。自分の本性と瓜二つの形状。しかし、上位種である彼の指は四本指。鼻などの隆起を完全に排除した“のっぺら坊”の上に、黒い月を思わせる穴が三ヶ所、それぞれが目と口の位置に固定されている。

 瞬間、ナーベラルは体の奥が熱っぽくなるのを感じた。

 鼓動が早鐘を打つようになり、呼吸がやけに耳につく。

 

「驚かせてしまったようで、まことに申し訳ない、ナーベラル・ガンマ」

 

 その抑揚に富んだ声音は、歌のように軽やかだ。舞台役者としては最高品質を約束されたかのような、生まれながらに完成された美の結実を思わせる。

 

「どうだ、ナーベラル。あまり見分けがつかなかっただろう?」

 

 種明かしをすると、アインズたちは〈完全不可視化〉の魔法でナーベラルの自室周囲に待機し、ナーベラルが角を曲がるタイミングに合わせて、モモンの姿のパンドラズ・アクターを〈転移門(ゲート)〉から廊下の角へ転移させた――というだけのことなのである。

 ちなみに言うまでもないが、こんな悪戯を企画したのはアインズをおいて他にない。

 

「アインズ様。こちらの方は、もしや」

「聞いていたのか? その通りだ、ナーベラル。これが宝物殿の領域守護者、名をパンドラズ・アクターという」

「どうか、お見知りおきを」

 

 やけに芝居がかった挙動の卵頭でとても魅力的だったが、それよりも優先すべき事柄がある。

 

「アインズ様。パンドラズ・アクター様は、上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)――つまり、私の上位種であると伺っております」

 

 御方は首肯によって、ナーベラルに先を促した。

 

「ですが、何故この方は今、冒険者である“漆黒”のモモンの姿をとっていたのでしょうか?」

 

 その質問は、ナーベラルに宿った一つの懸念を如実に物語っていた。

 アインズは鷹揚に頷いて見せる。

 

「私が行ってきたモモンとしてのアンダーカバーの構築はひとまずは成功したといってよい。アダマンタイト級冒険者。漆黒の英雄。超級の戦士。すでにモモンは王国に留まらず、周辺諸国でも広く知られた存在として、様々な任務をこなすのに役立つだろう。そして、これから私は、ナザリックの政務や他の仕事にも従事していく必要が出てくる。以上の事から、モモンとしての活動はこれから徐々に、このパンドラズ・アクターに代行させようと考えたからだ」

 

 その為の顔合わせに、ちょっとした余興を凝らしてみたのだと、至高の御方は骨の顔で微笑む。

 だが、逆にナーベラルは視界が唐突に閉ざされたように思えた。

 それはつまり、将来的に自分は、アインズの傍近くで、任務を果たせなくなるということ。

 否。こうなる予感はあったはずだ。何より、自分ばかりがアインズの傍にいられる時間が長いことは、(ひるがえ)って考えれば、他のシモベたちがアインズに直接奉仕する時間を奪っているという事実に繋がる。

 身に余る栄誉に耽溺し、同胞たる者たちを蹴落とすような恥さらしを、ナーベラルはするつもりは毛頭ない。

 それでも。

 

「どうだ、ナーベラル。モモンの仲間であるおまえですら看破するのは難しいのだから、人間の目ではまるで判別がつかないだろう?」

 

 まさにその通りだ。常に傍近くで任務に従事していた自分ですら違和感を些少覚える程度だったのだから。愚かで低能で無知蒙昧な人間風情に、看破することは絶対的に不可能だろう。

 それでも。

 

「アインズ様」

「どうした、ナーベラル?」

 

 黒髪のメイドは、アインズの爪先に口づけるかのように身を伏せた。

 

「ど、どうしたというのだ!?」

「ちょ、うらやま!」

「ほう?」

 

 突然の部下の行動に、アインズとアルベド、そしてパンドラズ・アクターが驚きの声を上げる。

 

「私は……、私、は……」

 

 何と罪深い。何て畏れ多い。

 両手で胸を抑え、自分が言わんとする言葉を封じようとしたが、もはや手遅れだった。

 

「誠に勝手ながら、私はこの方と共に、任務を遂行することは、出来ません!」

 

 口にしてから、後悔が嘔吐感と共に込み上げてくる。

 すぐ傍に控えている純白の悪魔から、瘴気とも怨念とも言い難い何かが立ち込めてくる。

 

「ナーベラル・ガンマ……あなた自分が何を発言しているのか判って」

「アルベド、余計な口を出すな。少しは冷静に思考することを覚えろ」

 

 深淵よりも尚深い一声が、守護者統括の尋常でない怒気をいとも簡単に冷却する。

 

「ナーベラルよ、私の決定に異を唱えるつもりか? なるほど、そうするに足りるだけの理由が、おまえにはあると? ならば聞かせてほしい。戦闘メイドとして、またはモモンの冒険者仲間“ナーベ”として、私の決定に反対する根拠を」

 

 ナーベラルは(ほぞ)を噛む。

 至高の存在であられる御方に異を唱えるなど、畏れ多すぎて頭が、体が、心が崩れそうになる。

 反対する根拠を示せと、いと尊き慈愛の君は言ってくれた。ここで何も発言できなければ、ナーベラルは自分の感情のみで御方の意思に逆らう愚物の烙印を押されてしまう。それは戦いで死ぬことよりも数段勝る恐怖である。そんなことになるぐらいなら、自分で自分の首を跳ねてしまった方が、万倍もマシだというもの。

 だというのに、ナーベラルの口は、舌は、どんな言葉も紡げない。口を縫われようが舌を抜かれようが発言せねば。だが、やはり、何も言えない。

 涙と汗が、頬を伝って混じり合う。歯の根が合わず、ガタガタと全身が震えだす。

 ナーベラルは自分の破滅を幻視さえした。

 しかし。

 

「恐れながら、アインズ様」

 

 思わぬ救いの手――四本指――が、ナーベラルに差し出された。

 

「ナーベラル殿の忠言。私も賛同させて頂きたく思います」

「パンドラズ・アクター」

 

 アインズは己のNPCを正視する。

 

「ナーベラル殿は戦闘メイドの一員。誇りあるナザリックにおいて、力に重きを置く彼女たちにとって、私のような見知らぬ者の傍に侍れというのは、些か以上に納得しがたいことかと。まして私は、いと尊き御身の代役として奮える力には限りがございます。そのような半端者を、容易く上位者として、至高の御身が創り上げた英雄・モモンとして、見据えられるものではありますまい」

「……そうなのか、ナーベラル?」

 

 戦闘メイドは首を縦に振るしかなかった。

 アルベドは「アインズ様の決定に逆らうなど」と小言を呟いていたが、それをアインズ本人から窘められては、是非もない。

 

「なるほど。確かに納得がいく答えだ。私は性急に事を進めようとしていたようだ。許せ、ナーベラル」

「し、至高の御身に、そんな……も、もったいのうございます!」

 

 恐怖は氷解し、安堵からさらに滂沱の涙が溢れかえる。

 

「しかしそうなると、どうするか。モモンの代役など、パンドラズ・アクター以外に他に立てようがないのも事実」

「アインズ様。私はナーベラル・ガンマに、我が力を見せて差し上げることを進言いたします」

 

 それで彼女も納得してくれるだろうと、卵頭は(のたま)った。

 アインズの瞳は卵頭の眼窩から、平伏し頭を差し出し続けるメイドへと移ろう。

 

「よかろう。ではパンドラズ・アクター、これよりナーベラルに己の力を示すことを許す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     【続】

 




第三話に続きます。


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第三話 邂逅2

 あ、ありのまま、今起こったことを話すぜ。
 俺はイチャコラを目指していたはずが、いつの間にかバトルものに片足を突っ込んだ。
 な、何を言っているのかわからねぇと思うが(略)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アインズの指輪の転移で訪れた先は、第六階層・円形劇場(アンフィテアトルム)

 普段であればアウラやマーレが常駐していてもよい円形闘技場(コロッセウム)であるが、二人ともアインズが与えた任務に従事しており不在だった。それでも一応、アインズは〈伝言(メッセージ)〉を飛ばして使用許可を取っている。ナザリックの絶対支配者であるアインズの進言であれば一も二もなく、双子のダークエルフは従うのだが。

 ここにいるのは、先ほどと同じ四人のみ。観客席の動像(ゴーレム)も動かしていない。

 

「さて。ここなら互いに、ほぼ対等な条件下で戦えるだろう」

「アインズ様。ここは貴賓席で御観覧になられては?」

「いいや。それには及ばないぞ、アルベド。今回のこれは戦闘などではなく、あくまで“訓練”だ。見世物にして(たの)しむものではあるまい」

「畏まりました」

 

 女神のごとき微笑みの相を深める守護者統括から、アインズは二人の二重の影(ドッペルゲンガー)に視線を移す。

 

「では、おまえたち。位置に着け。PVP、もとい、NVNの礼儀に則り、相対距離は五メートルとしよう」

 

 ナーベラルとパンドラズ・アクターは、ちょうど闘技場の中央で向かい合う立ち位置を取る。

 その間、ナーベラルの胸中に渦巻いていたのは、パンドラズ・アクターの言動である。

 確かに噂に違わぬ頭脳の持ち主だ。ナーベラルの行動をどう解釈したのかは謎だが、ああでも言ってフォローしない限り、黒髪のメイドはその場で自害しかねない状況に陥っていた。それをあんな僅かな時間で看破し、あまつさえアインズを納得させるだけの理由をでっちあげるなど、戦闘メイドには及ぶべくもない知性の(わざ)である。

 だが、ナーベラルにしてみれば、別に(たす)けてくれと頼んだわけではない。

 この段に至っても、ナーベラルのパンドラズ・アクターに対する感情は複雑に過ぎた。確かに彼は命を救ってくれた恩人とも言えるが、もとを質せば彼がモモンの代役に抜擢されたことから、こんな事態に陥ったのだとも言える。それに、彼のことを見ていると、頬が熱を帯び、心の臓腑が暴れ回って……彼には相手をバッドステータスにする特性でもあるのだろうか? 上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)の力なのだろうか?

 そもそもにおいて、何故、ナーベラルはあんな強硬に、パンドラズ・アクターがモモンの代役となることを拒絶したのか。

 それさえも本人には判然としていない状況である。

 ナーベラルは頭を振った。余計な思考は戦いにおいて重荷となる。

 何にせよ、彼と性能を競い合う――戦える状況というのは、ナーベラルも望むところだった。

 

「ところでアインズ様。私はどれほどの力で戦えばよろしいでしょうか?」

「……どういうおつもりです?」

 

 ナーベラルは険を深めた――涙の後で腫れぼったい――眼差しで、黒い月の双眸を見つめた。

 

「単純な話です、ナーベラル・ガンマ。私と貴女のレベル差を考慮すれば、勝敗は必定。ですが、ナザリックの同胞に、我が全力を挙げて戦うことで致命的なダメージを負わせることは、私の本意ではありません。つまるところ、私は決して本気を出さない」

 

 平たく言えば、ナーベラルを死なせないギリギリのラインを提示してほしいという主張だった。

 ナーベラルにとっては実に不愉快な言い分だが、彼に対する複雑な思いから表立って非難することは出来ない。それでも、戦闘メイドがたとえ訓練であろうとも、戦いに手心を加えられるというのは屈辱的な事実である。

 

「……こ、今回はおまえに一任しよう。パンドラズ・アクター」

「よろしいのでしょうか?」

「構わん。ただし、おまえが判断できるギリギリのラインで戦え。双方とも、これは殺し合いではなく、“訓練”であることをけっして忘れるな」

「ハッ! 承知しました、アインズ様!」

「畏まりました」

 

 訓練という単語を殊更(ことさら)に強調するアインズの言葉を、ナーベラルは飲み込んだ。

 しかし、それでも、この状況は控えめに言ってナーベラルに不利。

 全力で挑まなければ、アインズ謹製の領域守護者にも失礼だろう。

 審判の位置に立つ至高の存在が、片手を上げて高らかに宣言した。

 

「始めよ」

 

 ナーベラルは初手から最大級の攻撃を仕掛けた。

二重最強化(ツインマキシマイズマジック)連鎖する龍雷(チェイン・ドラゴン・ライトニング)

 両手から一本ずつ解放された龍のごとき雷撃魔法。中遠距離の相手を攻撃するのに、これ以上の火力はないだろう。

 戦闘メイドを甘く見たツケを支払わせる……つもりはないが、彼に対して鬱屈とした感情が渦巻いていたのは否定できない。

 さらに、先ほど聞いたばかりの話では、彼我のレベル差は30を優に超える。様子見だとか言っている猶予など一片もない。初手で一気呵成に仕留めようとするのは当然の戦術とも言えた。

 二匹の雷の龍が、卵頭の異形を飲み込んだ瞬間を見止めたナーベラルは、さらに追い打ちの魔法を込めるべきか、一瞬だけ迷う。

 しかし、それは致命的な判断の遅れだった。

 人間どころか骨の竜(スケリトル・ドラゴン)すら容易く破砕する魔法が消え失せた後に、動く影があった。

 やはり、もう一撃ブチ込むべきか。思い、魔法を両手に込めようとして、影の輪郭が異様に小さく圧縮されている……というか、先ほどまでの卵頭の原型を留めていないことに戸惑いを覚えた。

 様子を見ていると、土煙の向こうにあった姿は、漆黒に濡れた古代からの粘体。

 戦闘メイドで、否、ナザリックに属するすべてのNPCで、その姿を見間違えるものは存在しない。

 

 ――へ、ヘロヘロ様!

 

 その偉大な御姿に自失してしまわなかったのは、戦闘メイドの面目躍如といったところか。

 だが、あらかじめパンドラズ・アクターの能力を知っていたことを加味しても、ナーベラルはあまりの光景に次の手が打てない。その隙を見逃すほど、目の前の存在は寛容ではなかった。

 粘体(スライム)が、ありえざる速度で肉薄する。至高なる粘体はモンク職――つまり前衛として優れた肉体能力を獲得しておられたのだ。この速度で限定された能力だとすると、本物の速度とはどれほどの神速なるや。戦闘メイドを統括する執事(セバス)にも匹敵する肉弾戦闘。ナーベラルの修得するウォーウィザード、アーマードメイジの職業(クラス)ではどうしようもない領域の前衛攻撃に、戦闘メイドは回避どころか受身すら(まま)ならない。

 黒い粘体から繰り出される徒手格闘攻撃は、不定形の存在でありながらも一撃一撃が鋼鉄にも匹敵する死の暴風。属性を無視した装備破壊攻撃によって、魔法のメイド服が金や銀の手甲ごと、ごっそりと融かされ消失していた。剥き出しになった肌色が無傷なのが逆に不気味に映る。

 ナーベラルは慌てて体勢を立て直しにかかった。

二重最強化(ツインマキシマイズマジック)鎧強化(リーンフォースアーマー)〉〈二重最強化(ツインマキシマイズマジック)盾壁(シールドウォール)〉――展開できた防御魔法はその二つだけだった。さらなる防御を重ね掛けしようとした瞬間、あの黒き触腕がナーベラルの肉体を激しく打ちのめす。何度直撃を喰らったのかもわからないぐらいの連打だったが、痛みと呼べるほどのものはない。胸と腹の鎧甲とメイド服が半ば朽ちてなくなっていたおかげか。

二重最強化(ツインマキシマイズマジック)電撃球(エレクトロ・スフィア)〉――さらに〈転移(テレポーテーション)〉で上空に退避し、〈飛行(フライ)〉を発動。

 直撃させようと思って放った魔法ではなかった。だが、この魔法の閃光で、少しでも相手の視界が封じられていれば御の字だ。

 とりあえず〈転移〉と〈飛行〉で間合いを図り直し〈次元の移動(ディメンジョナル・ムーブ)〉で再接近、ほぼ零距離の背後から〈連鎖する龍雷(チェイン・ドラゴン・ライトニング)〉を叩き込む。ちょうど、人間の墓地(エ・ランテル)下等生物(ムシケラ)に実演してみせた戦法の強化版である。

 しかし、それは始めるまでもなく失策だった。

 閃光の晴れた先から現れたのは、古き漆黒の粘体(エルダー・ブラック・ウーズ)ではなく、半魔巨人(ネフィリム)の女の姿。

 

 ――やまいこ様!

 

 ナーベラルは新たに表れた至高の御方の巨体に眼を奪われる。

 防御と回復に特化した力は、雑魚に群がられようとまったくものともしないという不屈の存在。

 御方の怒りの鉄拳は、一撃のもとに周囲一帯の有象無象を彼方へ吹き飛ばすと、姉がよく語ってくれたことを思い出す。

 しかし、女巨兵が繰り出したのは鉄拳ではなく、大振りの平手打ちだけ。

 ナーベラルが直撃を免れたのは、偶然ではない。完全に手心を加えられたと分かるほどに殺気がなかった。しかし、その平手打ちの余波だけで、飛行していたメイドは錐揉みしながら墜落しかける。無事に闘技場の上に降り立てたのは、本人には半ば奇跡にしか感じられなかった。

 だが、勝敗はまだついていない。

 戦闘メイドとしての矜持がナーベラルに活力を与え、その双眸に夜空を見上げさせ、両手に最大限の魔力を込めさせた。

 しかし、そこに至高の巨人は影も形も残っていない。寒気がした。完全に直感で、ナーベラルは視線を夜空ではなく闘技場の大地に向け直した。

 過たず、そこに見つけた至高の御姿は、ヴァイン・デス……蔦の死神のそれ。

 

 ――ぷにっと萌え様!

 

 禍々しい蔦に覆われたドルイドが詠唱した魔法によって、樹海とも見まがう大量の植物が出現し、それぞれが意思をもったかのようにナーベラルの総身を包み込み拘束しようとする。彼女には拘束を逃れる〈自由(フリーダム)〉の力を宿した装備があるため、拘束を抜けるのは容易なのだが、何しろ規模が圧倒的に過剰だった。人間がこの魔法を喰らうことになれば、成長する樹々や蔦に絡み取られ、数秒と待たずに圧死していることだろう。闘技場の半分が植物で埋め尽くされていくほどの広範囲魔法であった為、〈飛行〉を駆使しても脱出するのには数秒を要した。

 その数秒で、またも役者(アクター)は姿を変える。

 

「そん、な……」

 

 ナーベラルは魂そのものを揺さぶられたかのように、樹海のはるか上空で硬直してしまう。

 見上げた先には、夜空に溶け入る忍装束。

 影を縫い、音を殺し、敵を必殺一刀のもとに屠る創造主。

 彼が振るう巨大忍者刀の銘こそ、天照と月読に連なる「素戔嗚」に他ならない。

 

「弐式炎雷、様……」

 

 信じ難いものを見た。すでに自分の影が地上に縫い付けられている。

 この力は、対象を拘束するのではなく、対象の回避を低下させる忍の特殊技術。

 しかしながら、もはやナーベラルに、攻撃を回避したり、または逆に反撃を試みようという気概は僅かにも残されていなかった。杖をその手から落とさなかったのが不思議なくらいだ。

 ナーベラルは心の奥底から、深く自覚した。

 己が今、敗北を受け入れてしまった事実を。

 

「そこまでだ!」

 

 至高の忍が手刀を振り下ろす寸前、至高の御方の声が(とどろ)く。

 同時に、目の前の忍装束は形を解れさせ、輝くような軍服と卵頭の本性に立ち帰る。

 何度見ても、ドキリとしてしまう。鼓動が胸の奥で弾けてしまいそうなほどに加速する。

 そして突如、彼は自分の上着を脱いで、ナーベラルの肩に羽織わせた。その小さな耳元で、(ささや)く。

 

「理解していただけましたかな? アインズ様から賜った、私の力の一端を」

「は…………はい」

 

 今更ながら、羞恥が乙女の頬を朱に染める。ナーベラルはこれといってダメージを受けたわけではないが、その身に纏う装備や衣服はボロボロであった。その下からは健康的な肌色がつまびらかになっている。こんな状態になりながら無傷で済むなど、あまりな戦力差に戦闘メイドは愕然となった。

 女としての感情よりも、戦者としての矜持がズタズタにされたことが、彼女の心を苛んでしまう。

 

「二人とも、素晴らしかったぞ」

「ありがとうございます、アインズ様!」

「……ありがとう、ございます」

 

 大地に降り、姿勢よく応じたパンドラズ・アクターとは対照的に、ナーベラルは顔面を火照らせて唇を引き結びそうになりながら、小さな声を漏らす。

 本当に情けない。

 時間にして僅か数分で決着がつくなど。

 半ば自分から望んで、この戦いに挑んだというのに、結果は見るも無残な敗北の二文字。

 しかも、彼は完全に本気を出していなかっただろう。出していたなら自分の身体は、剥ぎ取られた装備や腐り落ちたメイド服と似た運命が待っていたはずなのだから。

 戦闘メイドとして、これ以上ないほどの恥辱である。

 

「どうだ、ナーベラル? パンドラズ・アクターは、我が代役を務めるに相応しい力量を備えていたかな?」

「まさに、御身が創造されし領域守護者様かと」

 

 ナーベラルはその場に膝を屈し、臣下の礼を主に捧げる。

 

「私の浅慮に、これほどの御厚情をもって応えられたこと……感謝の念にたえません」

「よい、ナーベラル・ガンマ。私はおまえの忠言を高く評価するとも」

「それは……何故?」

 

 アインズは機嫌よく語り出す。

 

「主人の言を唯々(いい)諾々(だくだく)と受け取ることが忠節のあるべき姿ではない。時に主人の失敗や問題を指摘し、是正しようとすることこそが、主人にとって真の忠臣なのだ。おまえは今まさに、我が配下に列する者たちの中で、確実に階梯(かいてい)を上ってくれた。これを評さずにいる主人など、仕える価値のない馬鹿でしかないだろう?」

「ア、アインズ様に間違いなど!」

「言ってくれるな、ナーベラル。誰にでも失敗はある。その失敗をどう生かすのかが重要なのだ」

 

 至高の御身の胸に去来するのは、シャルティアを洗脳された時の苦い思いか。はたまた別の記憶か。

 

「ではパンドラズ・アクター、闘技場(ここ)の後始末は任せたぞ」

「はっ! 承知しました!」

「ナーベラルは急ぎ戻って装備を整えよ。いつまでもその姿では刺激が――ゴホン!」

 

 アンデッドであるはずのアインズが咳払いをするのは不思議だったが、なるほど今の自分の格好はメイドとしては落第である。

 至高の御身は颯爽と踵を返し、アルベドと共に転移しようと歩き出す。

 

「あ……アインズ様!」

「どうした、ナーベラル?」

 

 今度はアインズの方が不思議そうにナーベラルを見やる。

 

「わ、私はここで、……パンドラズ・アクター様の御手伝いを務めさせていただきたいのですが――御許可を」

「……ふふ、それはいい。許す。許すとも、ナーベラル・ガンマ」

「あ、ありがとうございます!」

 

 

 

 

 

 とはいえ。

 さすがに半裸も同然の格好では手伝うことなど不可能なので、至急ユリに代えのメイド服を運んでもらった。アインズ様と共にエ・ランテルへ戻っているものと思っていた妹の〈伝言〉に驚いたユリは、妹が第六階層でボロボロのメイド服に軍服を羽織っている姿には度肝を抜かれたらしい。

 傍らにいたパンドラズ・アクターを見る目が苛烈になっていたが、相手が相手であるため、さらにはアインズ様の御勅命による戦闘訓練の結果だと説明されては無闇なことも言えず、大人しく退散するしかなかった。それに、ユリにも仕事がある。ここに残っている暇などなかったのだ。

 

「申し訳ありません、パンドラズ・アクター様。御迷惑をおかけして」

「お気になさらず。ナーベラル・ガンマ」

 

 それでも、ユリからいわれない追及を受けそうになった彼を、ナーベラルは当然のごとく庇った。妹の普段は見せたことのない姿に、ユリは渋々ながら納得してくれたおかげで、あまり大事にならずに済んだ。

 二人は現在、それぞれメイド服と軍服に身を包んだ――どちらともに至高の御方によって魔法の加護が施されているので、この程度の作業では大した汚れなど着かない――状態で、土木工事に勤しんでいた。

 それを手伝っているのは、アインズに変身したパンドラズ・アクターが、下位アンデッド作成で作った骸骨(スケルトン)たちだけである。

 普段、闘技場の掃除や設営は、Lv.55のドラゴンの血縁(ドラゴン・キン)の役目であるのだが、彼らはアウラのテイム能力で使役された魔獣であるため、ナーベラルたちには扱えない。

 ぷにっと萌えの姿で闘技場に現れた樹海を消滅させるまではよかったが、その後が大変だった。何しろ魔法で発生した樹木とはいえ、その根が伸びた大地はもとには戻らない。樹海だけを消し去った後に残ったのは、無残にも切り刻まれ引き裂かれた大地の痛々しい様だ。

大地の大波(アース・サージ)〉などの魔法を使って(なら)すことも可能なのだろうが、パンドラズ・アクターの能力ではこの範囲で器用に微調整を行うのは難しい。調整を誤り、闘技場をさらに破壊するようなことだけは避けなければ。きっとマーレがいてくれれば容易くやってのけるのだろうが、不在の彼にそんなことを頼むわけにはいかず、かと言って彼が帰って来るのを待ってマーレにお願いするというのは、いかにも不誠実なやり方である。

 そこでパンドラズ・アクターが選択したのが、アインズの特殊技術による下位アンデッドの大量投入――とはいえ、時間制限付きの十六体だけだが――である。

 下位アンデッドである骸骨(スケルトン)たちは人間に倒されることもあるほど脆弱なものだが、数が集まればそれなりの作業量をこなしてくれる。何しろ疲労せずに100%の力を振るい続けることが可能なのだ。十六体の骸骨(スケルトン)それぞれが鶴嘴(つるはし)やら円匙(シャベル)やらを持って、せっせと土木工事に勤しむ様はなかなか小気味よい光景だとナーベラルには思えた。

 そんな自分も、猫車を押して土の塊を溝に流し込んでいく。

 大きな木槌を持った骸骨(スケルトン)数体が、そこを叩いて(なら)していく。

 

「だいぶ片付いてきましたね」

 

 作業全体を見渡せる位置で指揮をすることもなく、彼もまた鶴嘴を握って工事に没頭していた。骸骨(スケルトン)は簡単な命令を与えてしまえば、あとは勝手に作業を行う存在。何かあれば微調整として指揮を振るうこともあるが、彼の指示が的確であるため非常に効率よく進み、作業は終盤に差し掛かっている。そんな状態であるため、彼自身も作業に加わった方がさらに効率は良くなるのは必然の事実。伊達にLv.100の能力を与えられているわけではないのである。彼一人で下位アンデッドたちの作業量の倍はこなしているように見えた。

 もはや闘技場は九割以上、元の形を取り戻しつつある。

 

「思ったよりも早く片付きそうだ。感謝しますよ、ナーベラル・ガンマ」

「いえ、感謝など……」

 

 むしろ感謝するべきは自分の方だ。

 アインズ様の決定に異を唱えておきながら、黙って震えることしかできなかった自分を、彼の機転によって見事に救われたのだ。しかも救われただけでなく、アインズ様にお褒めの言葉を頂いてしまうなど。万感の念とはまさにこのことである。

 そう思うが、言葉は空転して形を成さない。

 結局、この工事に没頭する間、ナーベラルは謝罪はしても、一度も感謝の気持ちを表すことは出来ずにいた。自分はこんなにも恩知らずだったのだろうか。何だか、酷く情けない気持ちでいっぱいになる。

 

「あの、パンドラズ・アクター様」

「どうかなさいましたか?」

 

 ありがとうございます。

 その言葉が、ただ遠い。

 

「……何故、私を(たす)けてくださったのです?」

 

 言いたいことが中々言えない。頬がむず痒いほどに紅潮する。

 それでも、ナーベラルの忸怩(じくじ)たる思いとは裏腹に、彼はとても率直な言葉を聞かせてくれる。

 

「困っている方を(たす)けるのは、あたりまえのことでしょう?」

 

 ――それはきっと、鈴木悟の残滓の残滓とも呼ぶべきものが成した出来事だったのだろう。純白の聖騎士に(たす)けられた彼の鮮烈な記憶は、彼の気づかぬうちに、その思いをそのままに、彼が創り上げたNPCにも伝播させていたのだろう。

 NPCは、造物主の想いを反映する、いわば鏡。故にこその言動だったのだろう。

 

「貴女こそ、どうです?」

「……え?」

「何故、貴女はあの時、アインズ様の決定に異を唱えられたのでしょうか?」

 

 舞台役者はナーベラルの本音など預かり知るところではない。

 様々な類推や憶測は出来るが、それはナーベラルの本心ではない。

 彼女の口から語られる言の葉こそ、彼女の心に違いないのだから。

 

「そんなにも同種の私がお嫌いでしたか?」

「それは」

 

 違う。

 そんなことない。

 そんなことだけは断じてない。

 彼にだけは、そんな風に思われたくない。

 

「……あれ?」

 

 自分は何を思っている? 何故こんな想いに囚われている?

 どうしてこんなにも、胸が締め付けられて仕方がないのだ?

 正直なところ、話に出てくる彼のことは気に入らなかったではないか。自分の中では宝物殿に隔離されている彼の扱われ方を小馬鹿にさえしていたはず。思い返せば、本当に自分は大それたことを考えたものだ。

 なのに、実際に彼と出逢い、言葉を交わし、戦いを通じて、そして――

 

「………………嫌いでは、ありません」

「それは重畳」

 

 かなり長い時間をかけて言葉にした思いに、彼は頷きを返してくれる。

 それが何故だか心地よい。

 

「私も、あなたのことは嫌いではありません」

「……何故?」

 

 私は、あなたに対してあんなにも迷惑をかけた。否、今こうして作業を続けていることも、私のせいであると言えるだろうに。嫌いになるには十分すぎる。

 だが、軍帽の下から覗く卵頭の表情は晴れやかだった。

 

「あなたが、自らの意思で私を手伝いたいと言ってくれた。それはつまり、私をたすけてくれるということなのだと、私は考えております。誰に命じられたわけでもなく、貴女の意思で」

 

 ナーベラルの視界が開けた。

 彼は告げる。

 

「貴女は私をたすけてくださった。それだけで、貴女は素晴らしい存在です。そんな女性を嫌う理由があるでしょうか、ナーベラル・ガンマ?」

「……」

 

 ああ。

 ああ、そうか

 やっと、わかった。

 自分は怖れていたのだ。

 自分よりも強い彼のことを。

 自分よりも優れた彼のことを。

 彼と共にいると、自分が自分でなくなるような気がしていた。

 自分には似合わないほどに感情を動かされ、波立つ気持ちを抑えきれなかった。

 私は、戦闘メイド(プレアデス)のナーベラル・ガンマ。

 そんな自分が、こんな浮ついた気持ちに憑かれ、心から変質してしまうことが怖かったのだ。

 けれど。

 

「貴女は素晴らしい」

 

 そんな一言が、たまらなく嬉しかった。

 とてもとても、信じられないくらいに、幸せだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 ナーベラルはモモンの代役をはじめて務める彼を待つ。

 もはやナーベラルに当初の不安や懸念は一切なかった。

 至高の御身に仕える時は至福の一時だが、自分ひとりで独占すべきものでないことは重々承知している。これからはきっと、自分の姉や妹や、一般メイドたちやナザリックの同胞たちが、御身の傍近くに仕え、ある時は剣となり、ある時は盾となって、お守りすることだろう。

 そして、ナーベラル・ガンマは彼を待つ。

 きっと彼なら、うまくやれるだろう。

 彼と共になら、うまくやれるだろう。

 彼と私ならば、うまくやれるだろう。

 あの美貌と慈悲の粋と共に、任務を果たせる時を待つ。

 至高の御身の期待に応えるために、ナーベラルは彼の到着を待つ。

 そして、エ・ランテルの最高級宿屋「黄金の輝き亭」の二人部屋に、〈転移門(ゲート)〉が開く。

 

「ただいま、ナーベ」

「おかえりなさい、パ……モモンさ――ん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    【終】

 

 

 

 

 







 ここまで読んでくれたあなたに、感謝の極み。

 最後の最後で台無しにしてくれるナーベってばポンコツ過ぎ!

 でもかわいい。かわいい(真顔)

 やはりこの二人のカップリングは最高ですね。


 はてさて。この二人のお話は続くのでしょうか?


 それでは、また次回。          By空想病





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第四話 鍛錬

時系列としては、書籍五巻と六巻に起こったこと……ぐらいかな?

ポンコツメイドという汚名返上のため、ナーベラルの武者修行がはじまる。
……と思っているのか?




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鍛錬(タンレン)ヲ、ツケテ欲シイ……ダト?」

 

 黒髪の戦闘メイド、ナーベラル・ガンマは生真面目に頷いて見せた。

 今、彼女の目の前にいるのは、白銀の鎧皮に身を包んだ“蟲王(ヴァーミンロード)”、周囲に放たれるオーラの冷気は下等生物の心臓を瞬時に凍え停止させる絶命の息吹と化す絶対的強者、ナザリック地下大墳墓が誇る“氷河”の防衛を任される銀の偉丈夫、第五階層守護者“凍河の支配者”コキュートスに他ならない。

 

()センナ。ナーベラル、戦闘メイド(プレアデス)ノ一人デアルオ前ガ、鍛錬ヲ私ニ願イ出ル必要ガアルノカ?」

 

 四本の内二本の腕を膝に置き、残る二本を硬い胸の前で組みながら、彼はナーベラルの真意を問う。

 ナーベラルは現在、冒険者“漆黒”の片割れである“美姫(びき)”ナーベとして、人間世界に溶け込む任務をこなしつつ、漆黒の英雄と称え評される至高の御方の護衛に日々邁進する生活を送っている。その働きを知らぬ者は、ナザリックの中には存在しない。

 無論、コキュートスは彼女の申し出に不快感など一切抱いてはいない。むしろ逆だ。コキュートス自身は、鍛錬というものを日課的にこなしているし、ある理由から、この戦闘メイドとはそれなりの親交を保っていた。

 それでも、魔法詠唱者(マジックキャスター)としての強さを全面的に押し出したレベル構成の彼女が、コキュートスのような物理攻撃主体の最前衛・剣士職の取得に重きを置いた存在に鍛錬を申し出るというのは、(いささ)か以上に齟齬(そご)があるように思える。

 魔法詠唱者であれば、コキュートスよりも十全に手ほどきを行えそうなものが、彼女の傍にいる。

 至高の四十一人のまとめ役にして、ナザリック地下大墳墓の最高支配者、神すらも超越する知略の持ち主、尊崇と敬服と忠義を抱くに相応しい御方――アインズ・ウール・ゴウンという最高位の魔法詠唱者が。

 確かに、御身に魔法の教授を願い出るなどというのはシモベ風情には過ぎた望みだろう。しかし、あの寛容と慈悲でナザリックを統治する御方が、ナーベラルの意を汲み取ってくれないというイメージが湧かない。あえて言えば、レベルが違い過ぎる故に、教えようとしても教えられないという方がしっくりくるか。

 であるなら、彼女はどうして今、この第五階層・大白球(スノーボールアース)で、コキュートスに(こうべ)を差し出しているのか?

 ナーベラルは粛然とした口調で述べ始める。

 

「実は昨日(さくじつ)、パンドラズ・アクター様、アインズ様が御創造なされた宝物殿の領域守護者様と、戦闘訓練をする機会に恵まれた折に、私はものの数分で敗北させられました」

「フム」

 

 その話はコキュートスには初耳だった。中々に興味深い内容に思えたので、彼は無言のままナーベラルに先を促す。

 

「とても素晴らしい御力でございました。そして妙なる技と術、知略と計略の(すい)、私は不敬ながらも、己の非力な事実を思い知らされてしまったのです」

 

 何やら陶然とした面持ちで、彼女は件の戦闘に思いを致す。

 自分の非力を無念に感じるのは、生み出してくれた創造主たちの意を踏み躙る行為にも等しい。だが、ナーベラルは強く実感してしまったのだ。自分は、御身を守護する盾としては力不足だと、御身を害そうとする強者を引き裂く剣としては、あまりにナマクラであったのだと。

 そして自分は今、御方が創造した彼と轡を並べ戦うには、あまりに不出来であるという事実を、ナーベラルは自覚せずにはいられなかった。

 なればこそ、ナーベラルは自分自身をより一層の高みへ到達させる必要があった。そう認識を改めざるを得なくなったのだ。

 

「オマエノ気持チ、私ハ痛ク共感デキルゾ、ナーベラル」

 

 自分もまたそうだった。あの蜥蜴人(リザードマン)侵攻の折に味わった敗北の味を、飲み下した注入毒の重さを、コキュートスは忘れることは出来ない。御方は寛容にも、ナザリックに敗北をもたらした失態を許し、敗軍の将に挽回の機会を与えてくれた。その時に抱いた喜びは、この凍てついた身体に炎のごとき勇気と尊崇を湧き起こさせる。

 あの時の御言葉を思い出すたびに、コキュートスはより鍛錬に没頭する気力を高めていったものだ。

 

「理由ハ理解デキタ。ダガ、近接戦闘ノ教練デアレバ、オマエノ上司ヤ、守護者統括デモ……否、ソレハ今ハ無理ナ話ダッタカ」

 

 コキュートスは微笑むように顎を鳴らす。

 ナーベラルもまた、軽く笑みを浮かべながら彼の認識に同意する。

 セバスは王都にて、ソリュシャンと共に情報収集の任についており、今ナザリックを留守にしている。

 アルベドは守護者統括として、ナザリック地下大墳墓の管理と運営に、日々を忙殺されている最中だ。

 コキュートスも、蜥蜴人の平和的統治という任務があるにはあったが、蜥蜴人は存外に従順なもので、統治はすでに完成したも同然なありさまだ。残る問題は食糧問題だが、それもデミウルゴスと相談して、ある程度の目途はつき始めている。

 端的に言えば、こうしてナザリックで休暇を味わうことも出来るほど、蟲の王者は暇していたのだ。

 

「私ガ暇ナ時ニ合ワセテ、コノヨウナ話ヲ持ッテ来ルトハ……ナーベラル、ソチモ、(ワル)ヨノウ」

「いえいえ……コキュートス様には(かな)いません」

 

 くつくつと双方は笑みを深めた。

 コキュートスは勿論、ナーベラルまでこのような冗談を飛ばせると知っているのは、いくらナザリック広しと言えど数えるほどもいないだろう。二人のそれぞれの創造者――ザ・サムライとザ・ニンジャ――が、このような時代劇的な掛け合いをしていたかどうか、今となっては知る由もない。

 

「サテ。(タワム)レハ程々ニスルトシテ……イイダロウ、ナーベラル。オマエニ近接戦闘ノ鍛錬ヲツケテヤルトシヨウ」

「ありがとうございます。休暇中であられる守護者様に対し、不敬とは存じますが、何卒ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします」

 

 最後まで生真面目に応対する戦闘メイドに、コキュートスは今まさに思いついたとばかりに口を開いた。

 

「ソウダ。ヒトツ……ヒトツダケ、鍛錬ヲツケル条件ヲ(クワ)エサセテモラエルカ、ナーベラル?」

「条件、とは?」

 

 首を傾ぐメイドに、武人は堂々とした口調で、告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「コキュートス殿が、私と訓練を行いたいと?」

 

 ナーベラルは、相席のテーブルで優雅にアイスマキャティアを口元に運ぶ英雄モモンに、強く頷く。

 彼女の身体はよほど緊張しているのか、まるで四角になったように身を強張らせているが、それも無理はない。彼と――英雄モモンに変身したパンドラズ・アクターと、こうしてお茶の時間を楽しんでいる光景など、想像するだけで心臓が胸から飛び出しそうだ。ちなみにナーベラルも、彼と同じ飲み物を注文しているのだが、さっきから一口も飲んでいない。味が好みでないからではなく、それほど動揺しているのである。

 ここはエ・ランテルで最高の宿屋「黄金の輝き亭」にある、食堂二階のテラス席だ。

 この場所は常連の上客にしか使うことが許されぬ場所で、内緒の話や密会にはもってこいの位置取りでありながら、上階から街道を行き交う人波を見渡し眺められる硝子窓もあって、景観は良好。英雄モモンとしての偽装身分を最大限生かすには、こういった細かい部分も利用している姿を衆目に晒すのは、とても理に適っている。無論、こんな防備もクソもないところでナザリックの話など言語道断な発言だが、そこはしっかりと魔法で対策を施されている。どんなに至近で二人の会話を盗み聞きしようとしても、仲睦まじく談笑しているようにしか聞こえないのだ。ある意味、二人部屋で話す時よりも気安く話せてしまうという状況である。

 

「何故また突然、そのような話になったのでしょうか……私の頭でも少し理解しかねますが」

 

 ナーベラルから――途切れ途切れにだったが――仔細を聞いたモモン改めパンドラズ・アクターは、人間の妙齢に達した男の顔でもう一口、飲み物を口に含む。

 彼はナーベラル同様に、アイテムで飲食不要な体をしているが、アインズの骨の体とは違って、飲食そのものは可能なのだ。故にこうして、街中でモモンの素顔を曝け出し、食事を楽しんでいる光景を見せることで、モモンという人物を完成形に近づけていく彼の任務は、非常に重要なことだと言える。

 

「なるほど。つまるところコキュートス殿は、私と腕試しがしたいと言ったところでしょうか?」

 

 まず間違いなくそうだろうと、ナーベラルはまた強く肯定した。

 コキュートスから鍛錬の見返りとして要求された条件とは、自分もまたナーベラルと同様に、パンドラズ・アクターと戦闘訓練を行いたいというものであったのだ。

 これは実直なナーベラルにとって、即答しかねる交換条件に相違なかった。

 パンドラズ・アクターは宝物殿の領域守護者にして、ナザリックの財政面の責任者にして、あの至高の御方が直接創造されたシモベにして、今は英雄モモンとして重要な任務をこなしている真っ最中だ。それを、ナーベラルの一存でどうこう出来るはずもない。

 無論、ナザリックに帰還すること自体は簡単であるが、それはあくまで、モモンが冒険者として依頼をこなしている風を装った上での帰還である。ある程度の日数が立てば街に戻り、依頼を完遂した証拠を提示しなければ怪しまれる。すでにアダマンタイト級として、破格のスピードで依頼をこなしてしまうイメージがモモンには強く定着していたのだ。これを覆すことは出来るだけ避けねば。では依頼を受けずに、宿屋でぼうっと休んでいる風を装い帰還すればいいかと言うと、そうもいかない。モモンに依頼するに値する仕事がなければそうしても怪しまれはしないのだろうが、英雄モモンは率先して周囲に巣食うモンスター討伐に赴く人格者としての一面が確立されている以上、その案は却下だ。今もこうして食堂でティータイムを満喫しているのも、この後すぐに、モンスター討伐へ赴く前の一服でしかない。

 

「申し訳ありません。また私の浅はかな考えで、パ……モモンさ――んに、御迷惑を」

「別に気に病まれることはないと思いますが、その呼び方については、矯正が必要やも知れませんね」

 

 魔法で工作しているから問題ないが、これが他の人間に聞かれたら奇怪な呼称なことこの上ないだろう。

 本当に情けなくて、ナーベラルは四角かった背中を一気に丸める。

 御方の御命令で幾度となく呼び方を指摘されてきた身の上だが、未だに直る見込みは立っていない。もはや癖とかそういうレベルになりつつあると、ナーベラルは自分で自分に失望してしまいそうな気分になる。

 

「本当に、申し訳ありません。パ……モモンさん」

 

 どうしても。

 どうしても、パンドラズ・アクターと発音してしまいそうな自分に気づいているが、何故か無性に嬉しくなっているのが不可思議だ。

 パンドラズ・アクター。

 これほど聡明で荘厳で壮麗な響きが――至高の四十一人の御名以外――ほかにあるのだろうかと、ナーベラルは本気で思う。

 

「安心しろ、ナーベ」

 

 普段の御方がするような口調で、彼はナーベラルに、男の顔で微笑む。

 

「出来ないことを数えても意味はない。出来ることをひとつひとつ確かめて、そうして自分を認めていけばよい」

 

 その言葉は胸に響いた。頬が熱を帯びて、瞳が感激に潤い出す。

 ナーベラルは背筋を鋼の如くピンと伸ばし、椅子から勢いよく立ち上がって頭を下げる。

 

「ありがとうございます、パンドラズ・アクター様!」

「私はモモン、だ」

 

 ナーベラルはまた勢いよく背中を丸めた。

 そんな様子にモモンの顔は、微笑みの(しわ)を深めていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (くだん)のコキュートスの条件については、パンドラズ・アクターであろうとも即答は出来なかった。

 自分の力は、アインズ・ウール・ゴウン、その人の物。たとえパンドラズ・アクター本人であろうとも、自分自身でどうこうしてよいものでは断じてない。でなければ、御身は自分を宝物殿に封じはしなかっただろう。自分の力は、アインズの許可なしに発揮することは――非常事態を除いて――存在するはずがない。

 それでも、ナザリックの同胞からの頼みを無下にするわけにもいかなかった。

 コキュートスとパンドラズ・アクターの戦闘訓練の日取りが決定したのは、数日後のこと。

 

「アインズ様にお伺いしたところ、多少難色を示されてはおりましたが、御許可を頂くことができました」

 

 その際に、訓練内容についていくつかの条件を提示されたことも、パンドラズ・アクターは説明した。

〈伝言〉を使えるナーベラルを経由して、コキュートスに詳しい日時の調整が行われ、二人が(あい)(まみ)えたのは、さらに数日後の事。

 アインズが提示した訓練の条件とはこうだ。

 一、訓練場所は、第六階層の円形闘技場であること。

 二、守護者一人と、もう一人シモベを同伴させること。

 三、双方ともに、訓練であることを決して忘れないこと。

 これらを遵守することを条件に、アインズはパンドラズ・アクターとコキュートスの戦闘訓練に許可を出したのだ。

 御身の深謀遠慮は各守護者の及ぶところではないが、このような条件を提示する以上、何かしら重大かつ重要な意味を持っているのだろうと推察できる。もとより訓練を行う当事者たちはアインズの意見には肯定の意思を示すつもりだが、条件が付随したことによって、御身の意の中で事を進める実感を得られた。つまるところ、これは私的な集まりではなく、公的な任務として与えられた仕事に昇華されたとも言えるのだ。これを喜ばないはずがない。

 そして、今日。

 パンドラズ・アクターとナーベラル・ガンマは、久方ぶりの第六階層の訪問を果たした。

 

「待ッテイタゾ、ナーベラル。ソシテ、パンドラズ・アクター」

「お久しぶりです、コキュートス殿」

 

 二人はシャルティア復活の際に面識を得ていたが、会話をするのはこれが初めての事だった。

 しかし、一方は階層守護者。もう一方は領域守護者。ナザリックに仕えるシモベは皆平等にアインズに忠義を尽くすことを至上の喜びとする仲間ではあるが、その中でも明確な上下関係は存在する。組織とは、そういうものである。

 パンドラズ・アクターがコキュートスに敬意の姿を示したことは、まったくもって正しい応対であった。

 

「此度ハ、私ノ我ガ儘ニ付キ合ワセル形ニナリ、(ミナ)ニハ迷惑ヲカケタ。今ココデ、謝罪ト感謝ヲ言ワセテモラオウ」

「お気になさらずに。ナザリックの同胞の中でも最高位の力を保持する第五階層守護者殿に、そこまで(へりくだ)った言葉をかけられるとは、恐縮です」

「ウム。デハ、早速ダガ戦闘訓練ヲ始メヨウ。立チ話ヲスルノモ時間ノ空費トナルダロウカラナ」

 

 まさに。そう言って敬服のお辞儀を送るパンドラズ・アクターの様子に、ナーベラルは心底惚れ惚れしてしまう。

 彼はこんなにも礼儀正しく懇切丁寧で、奇怪に映る所など何処にも存在しない。(ユリ)(シズ)が苦手に感じたのが本当に謎である。

 ちらりと覗く横顔も眩しい卵の輪郭。

 黒く暗い新月を思わせる三つの深淵。

 歌うような誇りに溢れた美しい声色(こわいろ)

 まっすぐに伸ばされた四本指は、(ふれ)ればどんな感触なのだろう。

 

「いかがなさいましたか、ナーベラル殿?」

「ふぇ?」

「私の顔や指に、何かついているでしょうか?」

 

 いつの間にか、自分は顔を彼の全身を舐めるように見渡せる方向に固定していたことを自覚した。

 

「しし、失礼しました! いえ、そのようなことは決して、いや、その!」

「そうでしたか。では、失礼」

 

 対して、疑問を深めることもなく、事もなげに彼は会話を中断する。

 どこか名残惜しいとも思えたが、ナーベラルは失態を続ける愚は犯すまいと決意する。

 彼は、これからコキュートスと戦うのだ。あの“凍河の支配者”第五階層守護者と刃を交える。それはまさに、死地に赴く覚悟を固めるべき状況なのだ。いくら訓練とはいえ、一寸の気抜かりもあってはならない。

 彼の全神経は、剣のように研ぎ澄まされている。

 それがナーベラルには痛いほどに理解ったのだ。

 

「あ、あの、コキュートス様!」

「ドウシタ、ナーベラル?」

 

 彼を傷つけないでほしい、などと無礼極まる発言はするつもりはない。

 ただ、彼と戦うには少し早すぎる気がしたのは事実だ。

 

「同伴であれば私なら可能ですが、その、守護者の方については未だ」

 

 アインズの二つ目の条件を思い返すナーベラルだったが、それは杞憂であるとすぐに知れた。

 

「はーい! ということで、私が来ました!」

「アウラ様! 驚かさないでくださいって、前にも言いましたよね?」

 

 いきなり闖入してきた守護者に、ナーベラルは反射的に魔法を右手に込めて解放する直前まで行ってしまっていた。

 

「ごめんって、ナーベラル」

 

 からかうように微笑む闇妖精(ダークエルフ)の子どもは、この第六階層“ジャングル”を与えられた階層守護者の片割れである、アウラ・ベラ・フィオーラ。中性的な目鼻に、黄金の草原のような髪、そして種族の最大の特長でもある薄黒い肌。少年のような服装をしているが、立派な膨らみを軽装鎧の内に秘めた美少女である。

 コキュートスと同じく、ナザリック内では最高クラスのレベルを保持するレンジャーの技術は、人の意識の隙を突くように隠れ潜むことも容易い。レベル63のナーベラルでは、声をかけられるまで全く知覚できなかったことも仕方のないことなのだ。

 

「もしかして、最初からこちらに?」

「んん? いや、二人の後に少しだけ遅れて来たよ? 森の要塞建設を切り上げて、ごはん食べ終わってから、こっちに戻ったの!」

 

 にっこりと太陽のように笑う少女は、闘技場の中心で向かい合う同胞たちに、檄を飛ばす。

 

「それじゃあ、いっちょやりますか! 私の休憩時間は、残りきっかり三十分! そのことを皆さん、お忘れなく!」

「承知シタ、アウラ」

「ありがとうございます、アウラ殿」

 

 二人はアウラの登場に驚きもしていない。詰まるところ、二人はアウラが闘技場に来ていたことに気づいていたのだ。少し除け者扱いされた気になり、ナーベラルは憮然となる。

 そんなナーベラルの様子をどう思ったのか、彼はその美声を森の端々に行き渡せるような声量で奏でた。

 

「御照覧なさい、ナーベラル・ガンマ。見ることも立派な鍛錬のひとつです。経験すること、記憶すること、認識すること……それら“智”というものは、決して無駄なものにはなりえない。これから起こる戦闘を、訓練の光景を、ひとつも見逃すことがないように心得るのです」

「は、はい!」

 

 彼に呼びかけられただけで、戦闘メイドは有頂天に達する。

 居住まいを質し、背筋にピンと力を込めて、彼の姿を瞳の奥に焼き付けていく。

 

「フム。含蓄ノ深イ言葉ダ。マルデ、アインズ様ト御対面シテイルカノヨウニ思エル」

「恐縮です、コキュートス殿」

 

 創造主に似ていると言われるのは、被造物にとっては究極の賛辞である。

 しかし、褒め言葉を受け取った程度で、戦いに手心を加えるはずはない。

 それを二人は過たず認めている。

 コキュートスは斬神刀皇を右上腕に握り、他の三本の腕で正眼の構えをとる。

 対するパンドラズ・アクターは無手だが、上半身を沈めて軍帽のつばを握る。

 互いが戦闘態勢を整えたことは明白だ。

 

「デハ、アウラ」

「合図を願います」

 

 二人の間に立つ闇妖精(ダークエルフ)は手を振り上げた。

 

「それじゃあ二人とも! 位置について! 用意、スタートッ!」

 

 その小さな手が振り下ろされた瞬間、闘技場の空気が揺らいだ。

 

「〈不動明王(アチャラナータ)〉」

 

 ナーベラルは瞠目し愕然とする。

 

「明王撃の準備!」

 

 コキュートスは本気だ。彼が誇る特殊技術(スキル)、三つの〈不動明王撃〉を発動するための剣士のオーラ、その発散を確認する。冷気のオーラのように、周辺にいる存在に直接危害を加えるものではないが、迸る強者の気迫は万の針のように遠く離れた戦闘メイドの肌に突き刺さるようだ。

 

「三毒ヲ切リ払エ〈倶利伽羅剣(クリカラケン)〉!」

 

 一瞬の躊躇もない一撃。大上段から振り下ろされた斬撃は、中距離で身構えた領域守護者の身体を正確に補足した。

 ナーベラルの最大雷撃魔法を超過して余りある力の奔流。その余波を受けただけで、ナーベラルは瞼を開けておくことも難しい。

 

「ほんと、コキュートスはせっかちだねぇ。開始早々、明王撃を使っちゃうなんて。でも、あれじゃあ、パンドラズ・アクターの姿が見えなくなっちゃうじゃない。冷静に接近しつつ、ここぞって時にスキルは使わなきゃ」

 

 アウラは平然とした調子で戦闘解説を行う余裕を見せる。

 さすがは、今ここで戦っている二人と同格の強さを持つ第六階層守護者の片割れ。

 しかし、そんな彼女の余裕の表情と声は、土煙が晴れた先から現れたパンドラズ・アクターの形状を見て、一気に覆る。

 そこにいたのは、卵頭の異形種ではない。

 赤く濡れた粘液を分泌し続ける、肉の塊。

 

「ぶくぶく茶釜様!」

 

 アウラの歓声が闘技場に響く。

 彼が変身した御方の防御力は、至高の四十一人の中でも屈指と謳われている。それほどの防御を駆使すれば、なるほど守護者統括であるアルベドの左腕をもっていった一撃にも耐え得るということか。

 

「すっごーい! 本当に至高の御方たちに変身できるんだ!」

 

 見た目通り子供のようにはしゃぐアウラの視線に、ナーベラルは自分が褒められたかのように鼻高々となる。

 明王撃の一撃に耐え抜いた存在に対し、コキュートスもまた驚愕の声をあげる。

 

「サスガダ……サスガハ、アインズ様ノ創造サレタ領域守護者。私ノ剣撃ヲ正面カラ完全ニ打チ破レルノハ、アインズ様ヲハジメ、至高ノ御方々ノミト思ッテイタガ」

「お褒めにあずかり、恐悦至極……ですが」

 

 赤色の肉塊の姿を解いたパンドラズ・アクターは、卵頭の本性を顕わにして、コキュートスの賛辞に返礼を送った。

 そうしてから、自分の掌を見つめる。

 

「やはり、無傷というわけには、いきませんね」

 

 四本の指はひとつも欠けていない。だが、掌の上には、見違えようのない一文字の赤が走っていた。滴る水音は、彼の生命が外へ漏れ出す時を示している。

 その事実を、ナーベラルは信じられない面持ちで理解した。

 

「本当にお恥ずかしい限りですが、これが私の限界です。至高の御方々の力は、私の遥か高みの、遥か彼方に存在するもの。それを十全に行使するには、あまりにも力不足だと言わざるを得ません」

 

 ナーベラルは彼の言葉に愕然となった。

 パンドラズ・アクターの能力限界は聞いて知っていたはずだが、こうして目の前で事実として現れるイメージがまったくなかった自分に、今更ながら気づく。

 

「フム……デハ、ココデモウ止メテオクカ?」

「まさか」

 

 四本指を握り込み、傷を負った掌を努めて無視する。

 Lv.100の体力(HP)を考慮すれば、この程度の負傷は大した問題ではない。

 

「戦闘訓練、いえ、鍛錬ということであれば……こういう趣向は、如何(いかが)でしょうか?」

「ソ、ソレハ!」

 

 彼が空間より取り出したのは、雷を絶えず迸らせる刀剣の威容。

 コキュートスの身体が打ち震える。寒気や冷気によってではない。彼が抱いた感情の表れであることは言うまでもない。

 この世界で見ることができたのは、これで二度目。一度目は、シャルティアと戦った御方が握っている姿だったが、その時は遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモートビューイング)越し。

 そして今、こうして肉眼で拝謁する栄誉に、蟲の悪魔は歓喜の極みを覚えた。

 

「アインズ様の御許可を頂いて、特別に宝物殿から拝借してきたものです。この武器の銘は――」

 

 建御雷(たてみかずち)八式(はちしき)

 二人の声はぴたりと重なった。

 

「武器対武器である方が、コキュートス殿にも都合がよいでしょう。

 そして、私がこれよりあなたにお見せする御方の姿は――」

 

 彼の形が曖昧になった瞬間、その御方は姿を現した。

 コキュートスは声を失ったように呆然とする。複眼すべての視界が広がっていく感覚は、その造形を一寸一尺余さずに記憶したいという無意識下での反射行動。アウラとナーベラルも目を輝かせた。

 三日月を思わせる二本角に、天を突く牙。巨体を赤黒く分厚い甲冑と具足で(よろ)ったサムライの出で立ち。ワールド・チャンピオンという究極の壁に幾度となく挑み憧れた、ナザリックが誇る武器の職人にして、剣の使い手。

 

 ――武人(ぶじん)建御雷(たけみかずち)

 

 第五階層守護者・コキュートスの創造主に他ならない。

 

「オオ……オオォ!」

 

 膝を屈しなかったのはひとつの奇跡だった。いくら彼の姿が偽物であると理解していても、その姿を目の当たりにした衝撃は計り知れない。

 さぁ、かかってこい。

 そう挑発を送るかの如く、サムライは蟲の王に正眼に構えた(きっさき)を突きつける。

 

(オウ)!」

 

 興奮のあまり冷気のオーラを解放しながら、武人は尊崇する者の姿に刃を向ける。

 これは不忠からの行動にあらず。

 むしろ、これ以上ないほど忠義を示すのに相応しい姿勢に違いない。

 御方の姿に応えようと、コキュートスは剣の柄を握る手に力を込めて、突撃する。

 試したい技が、術が、力が、山のようにあった。御方の力の一端でも理解できればと、鍛錬と研鑽を積んできた。

 そして今こうして、挑むべき御姿が、目の前に現れてくれた奇跡に、刹那の間だけ酔う。

 打つべき手、打ってみたい手、打つより他にない手を脳裏で総覧しながら、二人の武人は一合を交わした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい! 三十分終了!」

 

 審判が間に割って制止した瞬間に、終わりなき剣劇は終息を迎えることができた。

 息もつかせぬ斬撃の連鎖。

 飛び交う火花と冷気と雷の閃き。

 戦闘メイド(プレアデス)のナーベラル・ガンマから見ても、その戦闘の光景は常軌を逸するレベルに存在していた。低級な存在では、双方から発せられる気迫だけで絶命してしまうかもしれない。そう確信できるほどの益荒男(ますらお)たちの戦いぶりであった。

 

「フム。モウソンナ時間カ? 名残惜シクハアルガ、致シ方ナイ。礼ヲ言ウゾ、パンドラズ・アクター」

「私も、おかげで貴重な経験を積むことができました。ありがとうございます、コキュートス殿」

 

 武器を仕舞いつつ、互いの健闘を称えるように、二人は堅い握手を交わす。

 

「うんうん。二人ともお疲れ!」

 

 その様子を満足げに眺める審判役は、普段滅多に会うこともない領域守護者と笑みを交わす。

 

「すごかったよ、パンドラズ・アクター! あのコキュートスと、武器対武器で渡り合えるなんてさ!」

「いいえ。私の御力はすべてアインズ様と、御方々の偉大なる御力の一端に過ぎません。称賛されるべきは、至高の四十一人をおいて他にありません」

「謙遜しちゃって! 本当にすごかったよね、ナーベラル?」

「……は、はい! その通りだと、思います! とても素敵でした!」

 

 いきなり水を向けられた戦闘メイドはとにかく思ったことを口走っていた。

 気づいた時には、ナーベラルは全員の視線にさらされている事実に直面し、頬を朱に染めた。

 

「あはっ! 確かにそうだね!」

「マサニ。コレホド素晴ラシイ鍛錬ヲ積メルトハナ。サスガハ、アインズ様ノ創造サレタ唯一ノ存在ダ」

「ありがとうございます、ナーベラル殿」

 

 三人とも、ナーベラルの言動を不審に思うことはなかった。多少、いつものような鉄面皮じみた表情から乖離している様子に見えるが、その程度の事を不審がる理由が階層守護者には存在しなかった。

 その守護者二人は、自分たちの任務に戻るべく、二人に別れの言葉を残して去っていった。

 

「ぶくぶく茶釜様の御姿……マーレにも見せたかったなぁ」

「ソレハ良イ考エダト思ウゾ、アウラ」

 

 そんなことを口の端に乗せながら。

 

「素晴らしい戦闘訓練でございました、パンドラズ・アクター様」

「ありがとうございます、ナーベラル殿」

 

 パンドラズ・アクターは、戦闘メイドからの賛美をありがたく受け取っていた。

 四本の腕から繰り出される連続攻撃を、時に受け止め、時に受け流し続けた両腕は、痛ましいほどにズタズタである。しかも、冷気の追加ダメージを受けた影響で一部は凍傷を患ってもいた。しかし、彼は平然としたものである。この程度の手傷で狼狽する戦者など、このナザリックには存在しえないと言わんばかりに。

 

「……ひどい傷ですね」

「見た目ほどには、ダメージを負っておりません」

 

 これは事実だった。武人建御雷の姿で負った傷は、すべて二重の影(ドッペルゲンガー)の本性である今の彼にある程度フィードバックされるのだが、御方の戦闘スキルやステータスに助けられ、この程度の傷で済んでいた。でなければ、いくらLv.100のNPCであろうと、アルベドと同様に腕を潰されるか、斬り落とされるかのどちらかになっていたことだろう。

 それを思えば、この程度の負傷は軽いとも言えた。

 

「御心配には及びません。私には、アインズ様が授けてくれた治癒薬(ポーション)もございます」

「そう……ですか」

 

 ナーベラルは少しだけ無念を感じる。

 彼の腕を治癒する術が、自分にあればよかったのに。

 そう思ってしまいそうな自分の浅慮さが、ナーベラルを苛立たせた。

 自分の力を無念に思うことは、自分を創造してくれた弐式炎雷への忠義に反する行為。

 浅はかな考えを抱いて、至高の御身や、あまつさえ彼に失望されるようなことになっては目も当てられないではないか。

 彼に移動すると言われ、黒髪の乙女は軍服の裾を掴んだ。

 至高の指輪(リング・オブ・アインズ・ウール・ゴウン)を持った彼であれば、第六階層から一挙に第九階層に転移することは容易なのである。

 神々の宮殿の一角に設けられた、使用人たちの私室が集中するエリアに転移する。

 

「では、私はこれにて。宝物殿の仕事に赴くとします。ナーベラル殿はゆっくりお休みください」

 

 戦闘メイドは与えられた休暇の消費手段を考えるが、今日は自分の自室でぼうっとするしかないだろう。

 次の出撃は、アインズ様と共にである。彼とはしばらく会えないと聞く。

 せめて……せめて彼の仕事を手伝えればいいのだが、それはあまりに分不相応な願いだ。使命に忠烈な彼から使命を取り上げるような真似はしない。するわけにはいかないのだ。

 

「ところで、どうでしたか、鍛錬の方は?」

「鍛錬……ああ、そうですね。申し訳ありません。私の力では、皆様の戦闘は目で追うのがやっとで、何がどうなっていたのか……」

 

 ナーベラルの強さは、魔法詠唱者(マジックキャスター)に重きを置いたレベル構成。近接戦闘職については、本当に数えるのが容易なほどしか取得していない。そんな存在では、彼らの戦闘を完全に詳細に把握することは困難を極めた。

 

「本当に……申し訳ございません」

 

 ナーベラルはコキュートスに、近接職の鍛錬を申し出て、これを受諾されていたのだが、結果は(かんば)しくないものであった。

 剣の居合抜きなどの高度な技術はもちろん、コキュートスなら簡単に行える「白刃取り」という防御方法も身に着けられない。基礎的な体力向上のトレーニングや剣の素振りも暇を見つけては行っているのだが、どうにも自分の力とは結び付かないような虚しさが、ナーベラルを困惑させた。

 この事態を、コキュートスは予期していた。ハムスケや蜥蜴人の稽古をつけることも任務とする彼は、非常に優秀な教官としても働いていたのだが、その中で唯一、コキュートスをして強化できる見込みのないものが存在していたのだ。

 至高の御身が手ずから創造したシモベ――死の騎士(デス・ナイト)である。

 彼らはアンデッドの特性から不眠不休で鍛錬を積むことが事実上可能だ。時間的な密度でいえば、ハムスケや蜥蜴人を圧倒的に上回る速度でレベルアップを起こしても不思議ではないはず。だが、死の騎士は武技を修得することはおろか、ほんの1レベル分の成長も見られなかった。

 アインズの立てた仮定だが、ユグドラシルからそのまま転移したアインズやNPCたちは、これ以上のレベルアップは見込めないのだ。

 故に、ナーベラルがいかに鍛錬を積もうとも、近接戦闘の教練に耐え抜こうとも、彼女が新たに近接職の何かを修めることは出来ないのだろう。

 そう聞かされていた。その事実は存外にナーベラルの胸に理解と納得をもたらしたが、心には穴があいたように思えた。

 自分はもう、強くなれない。

 彼のような高みには、至れない。

 彼にふさわしいものには、なりえない……

 

「顔を上げなさい、ナーベラル・ガンマ」

 

 後悔と未練と何かが、ナーベラルの身体を軟弱にしていた。

 そんな彼女に喝を入れるような声に反応し、黒髪の乙女は彼を見つめる。

 

「人間の街で言ったはずですよ? 覚えておりませんか?」

 

 何を言ったのか、覚えているのか……問われた内容は、意外にあっさりとナーベラルの喉に辿り着いた。

 その時の感動を思い起こしつつ、彼女は彼の言葉を(そら)んじる。

 

「『出来ないことを数えても意味はない。出来ることをひとつひとつ確かめて、そうして自分を認めていけばよい』」

「その通りです」

 

 彼の卵頭の相貌が柔らかく微笑んだことが、同種のナーベラルには判った。

 

「あなたはしっかりと、私の言ったことを記憶できておられる。その事実を誇りなさい。その事実を認めなさい。あなたは確かに、一歩一歩、今という時の中を生きているのですから」

 

 眼の端に温かいものを感じながら、ナーベラル・ガンマは、深く、深く、お辞儀する。

 

「はい! ありがとうございます!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   【終】

 

 

 

 

 

 







 ここまで読んでくれたあなたに、感謝の極み。
 お礼と言ってはあれだけど、コキュとナーベの(たわむ)れ、
 10巻で明らかになったノリのいい所とやらを、
 ほんの少しだけお届けします(´・ω・`)



― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 



「貴様、何者か!」
「愚カ者……余ノ顔ヲ見忘レタカ?」
「何ぃ! 余だとぅ? ……! う、上様!?」

 平伏するナーベ。

「戦女給、ナーベラル・ガンマ!」
「ははっ!」
「己ノ権ヲ悪用シ、領民ヲ苦シメタル其ノ方ノ悪行……コノコキュートス、断ジテ許シ難イ!
 潔ク、腹ヲ切レ!」
「ええい! かようなる所に上様がおられるはずがない! 者共、出会え出会え!」

 殺陣役――死の騎士(デス・ナイト)(友情出演)さん×3。

「此奴は上様を騙る不届き者! 構わん! 斬れ、斬れ! 斬り捨てぇい!」

 ガシャガシャガシャ!

「今宵ノ斬神刀皇……ジャナカッタ、三葉葵(ミツバアオイ)ハ血ニ餓エテオルゾ……!」

 ジャキン、カカーン!
 BGM某将軍のテーマ。

「「「オオオオオオオオォ!」」」

 ガキキキン!(殺陣終了)

「おのれ、だりゃあ! ……っ! くぅ!」

 振り上げた刀を払い落とされるナーベ。

「――成敗ッ!」

 ハンゾー&くのいちコスの雪女郎(フロストヴァージン)(ゲスト出演)で、トドメ。

「ぐ、ぅぅぅ……」

 ナーベ、迫真のバタリ。
 膝を屈する忍装束二人。
 斬神刀皇を振るい鞘に入れる動作をするコキュ。――完――



― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 



 ノリノリだー、こいつらー(´・ω・`)
 爺がまさかいきなり暴れん坊な将軍様になるとか、誰得?
 そもそもノリが良いのは「二人だけの時」って言ってるのに……
 死の騎士(デス・ナイト)さんやハンゾーくん、雪女郎まで出しちゃってさー、もー……
 まぁ、いっか。
 というか、このナザリック時代劇、誰か書いてくれませんか?
 ナーベの町娘&くのいちコスが見たいのです、ただそれだけなんです、お願いします!
 ――などといらぬ言い出しっぺフラグを立てつつ――


 次は誰の逢瀬と巡り合えるでしょうか。


 それでは、また次回。          By空想病





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第五話 愛の巣

 時系列としては書籍七巻、ワーカーたちがナザリックに侵入している真っ只中です。
 ようするに「愛の巣」ですよ「愛の巣」!

 そこで二人はどのような逢瀬を深めていくのか。

 人気投票はナーベラル・ガンマに清き一票を!






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天幕へと戻って来た漆黒の英雄・モモンは、注意深く外の様子を確認してから、重厚な全身鎧の兜を外し、その白磁の(かんばせ)――骸骨の素顔を外気に晒す。

 

「さて、ナーベ……いや、ナーベラルよ。私はナザリックに帰還する」

 

 暗く深い声音は、目の前で至高の御方々が創り上げた神域へ侵入する者たちへの偽らざる感情が見え隠れしていた。

 それはまさに超越者の怒り。

 凪いだ湖面に秘められた、地獄の釜の底から這い出てくる憤怒の獣。

 神すらも超える至高の御身が身の内に飼い馴らす暴虐の気配の、ほんの断片であると、ナーベラルは理解する。

 

「ここには代わりにパンドラズ・アクターを送る予定だが、それまでの間、何かあった場合はお前の方で上手く対処せよ」

「畏まりました、アインズ様」

 

 至高の御身は緊急の際には連絡するよう命じ、〈上位転移〉を使用してナザリックへと帰還された。

 

「……ふぅ」

 

 鎧を解除したアインズがしたのと同じ吐息を、ナーベラルもまた漏らす。

 緊張状態から抜け出た脱力感が、彼女の総身を包み込んだ。若干、ピンと跳ね上がっていたポニーテールが力なく垂れさがってしまう。御方の前では無様な姿を晒せないという義務的な感情が、ナーベラルの身体を強張らせていたせいだ。しかも、ここ数日――あの愚かしく浅ましく汚らわしいワーカーたちとの旅の間――は、一瞬たりとも気が抜けない状態が続いていた。張り詰めていた糸が緩むように、乙女の表情から力が抜けきっていく。

 たとえ愚劣な人間たちであっても、あれだけの集団と共に行動する以上、少しの不手際が御身の計画や企図に影響を与えかねない。ナーベラルも冒険者チーム・漆黒の“美姫”として長く任務に励んできたおかげで、少しは(本人の自己評価としては)人間共に対する対応力を身に着けたはず。彼女の超然とした振る舞いは、人を逸脱した力を持つ存在、アダマンタイト級を預かる魔法詠唱者(マジックキャスター)として相応しいほどの威を放っていた。人間への下等生物(ムシケラ)発言については相変わらずであったが、それすらも当然なのだと思える風格があるとワーカーたちには認識されていたおかげで大した問題にはなっていない(はず)。こういう時、人間と徒党を組まねばならない時には必ずといっていいほど現れる連中――下卑た欲望に駆られ、ナーベラルに言い寄り口説こうとする愚物たち――がいなかったことも、幸いだった。

 

「さて」

 

 いつまでも脱力はしていられない。程なくして、創造主からの勅命を受けた彼が、宝物殿の領域守護者にして、漆黒の英雄モモンの代役を務めることを許された唯一の存在、パンドラズ・アクターと相見(あいまみ)えるのだ。気を引き締めておかねば。

 またポニーテールをピンと張り詰めさせながら、ナーベラルは天幕の中を見渡す。

 アダマンタイト級の冒険者が寝泊まりする天幕というだけあって、そこは割と――外の世界の住人からすれば――充実した空間となっている。折り畳み式の木製の机と椅子。永続光を放つランプ。ウォーターサーバーの如く水を供給する魔法の小樽に、硝子製のコップが二人分。寝台(ベッド)もわざわざ組み立て式のものが二つ並んでおり、これでは外というよりもちょっとした宿泊施設の装いである。無論、ナザリックの価値判断基準に照らすと、こんなもの虫の湧くボロ宿よりはマシ程度のものでしかないのだが。

 普通、冒険者や旅人の寝泊まりと言えば、そのほとんどが野宿同然。マントを防寒着として(うずくま)り、近場に火を焚いて寝るくらいしかないのだ。天幕を張るというのは、当然ながら大量の荷物を抱えて移動する必然性が生まれ、数人程度のチームでは運搬すら不可能。大量の布は勿論のこと、天幕を支える柱となる木材も必要になる以上、これは確実だ。

 チームというものは、誰かがチーム全員分の食料や水、燃料や道具などをまとめて荷運びさせることは原則しない。するとしたらそいつは最優先でモンスターなどからの襲撃から守らねばならず、そいつを中心にチームとして動くことになるが、何しろ旅というものは一朝一夕に終えられるものではなく、不意の事故やモンスターとの遭遇、あるいは盗賊団の夜襲などを常時警戒しながら行わなければならない。それでも、万が一の事態というのは起こり得るもので、その第一の犠牲者がチームの要と言える食料などを一手に担っていたら、チームはその時点で瓦解する。谷底へ落下した食料は見捨てるしかないし、モンスターに荷物を奪われて取り返しにいくことはお勧めできないのだ。そういった危険性を減らすには、チームは個人一人一人が最低限自分に必要な食料や水を運び、調理具や燃料などを共有する形をとるのが理想的とされている。そうすれば、たとえ自分ひとりだけが生き延びたとしても、最低限、街へ帰還する見込みだけは立てられるのだから。

 天幕の造営のための道具というのは馬車などの専用の運搬手段が必須となり、そうなると当然の如くチームの規模は倍増しに増える。たかだか数人のチームで馬車を使用するのは、その馬車が依頼で必要なもの――たとえば薬草を詰め込んだ薬壺の積載に使うなど――である場合に限定されるのだ。わざわざ寝泊まりする天幕のためだけに馬車を借りる利点など存在するわけがない。アダマンタイト級の財力とコネがあれば不可能ではないだろうが、アインズたちにしてみれば無用なものだ。こんな手間をかけてキャンプするぐらいなら、グリーンシークレットハウス……魔法アイテムのコテージを使った方がずっと楽だし、汚くもない。内装も遥かに充実していることは、言うまでもないだろう。

 

「……もう少し何とかならないかしら?」

 

 アインズと共に寝泊まりしていた時から常々思っていたが、やはり至高の御方が滞在するには、どうしても簡素過ぎる印象が拭えない。せめてエ・ランテルの最高級宿屋ぐらいであれば、満足とは言わずとも納得はできる。下等生物(ムシケラ)共の技術ではこれが限界なのだと諦めるのは、ナーベラルには無理な話だった。

 彼女は戦闘メイド(プレアデス)の一員である。主人であるアインズの寝食には、万全かつ完璧なものを用意したいと渇望するのは当然の心理。アインズはアンデッドだから寝ることも食すことも不要だという事実は、この際一切合切関係がない。奉仕するということが肝要なのだ。

 机に純白のクロスを被せ、ランプは数を増やしもっと明るいものに変え、コップもガラス製のではなく陶磁器のティーカップにして、尚且つお湯の出てくるポッドがあれば良し。紅茶を入れてティータイムを愉しむくらいの空間は演出できるだろう。そうするとお茶請けも欲しくなるが、はて何が好ましいか。

 そうやって、ナーベラルは天幕の中で出来る限り、メイドとしての本分――というよりも宿命――に従うように、内装の塵や埃を払い、磨かれているコップをさらに輝きが増すように磨き上げることに執心した。

 見るべき人が見れば、それは夫の帰りを心待ちにする新妻のような献身ぶりに見えただろう。

 そうしている内に、

 

「戻ったぞ、ナーベ」

 

 目の前の空間に、漆黒の全身鎧を着込んだ存在が舞い戻った。

 しかし、ナーベラルはそれが彼であることを瞬時に了解する。

 

「パンドラズ・アクター様。お待ちしておりました!」

「御苦労。だが、ナーベよ。今の私を呼ぶ時は、モモンと呼ぶように」

「も、申し訳ありません、パ……モモンさ――ん」

 

 相変わらず名前を呼ぶのは苦手な戦闘メイドに苦笑しながら、モモンに扮したパンドラズ・アクターは何か異常があったかどうか確認する。

 

「いえ特には。ご報告すべきことなど何も」

「よし。私からの報告としては、連中は今しがた、ナザリックへ侵入したとのことだ」

 

 ワーカーたちがナザリックの第一階層に侵入したことを報され、ナーベラルは顔を歪めた。

 予定された通りの筋書きではあったが、自分の目の前で、あの愚昧な連中が神聖不可侵なるナザリック地下大墳墓に土足で踏み込んでいることを考えると、心中穏やかでいられるはずがない。今から転移を使って連中を皆殺しにできればいいのだが、今の自分は“美姫”ナーベとして、ここに留まらねばならない身だ。ここを離れてよい道理などない。

 

「落ち着くのだ、ナーベ」

「ですが、パ……モモンさん」

「彼らを――同胞たちを信じるのだ。それもまた、至高の御身への忠義の形となる」

 

 了承の吐息と共に、ナーベラルは深くお辞儀する。

 今回の襲撃は、帝国への示威行為であると同時に、ナザリックの防衛能力の試験(テスト)を多分に含めている。これは必要なことであり、同時に、ナザリックの同胞たちが力を奮う絶好の機会。であるなら、ナーベラルは自重するべきだろう。そう解ってはいるのだが……

 

「さて。私たちはしばらくここで待機することになるが」

「申し訳ありません。ここにはティーセットの類は備わっておらず」

「気にするな、ナーベ。私はお茶を愉しむために来たわけではないのだ」

 

 ナーベラルは少々残念そうに視線を伏せた。

 姉妹とのお茶会に興じるように、宿屋の食堂で彼と食事を交わすように、ここでそういう時間を共有することができれば、この時間も大いに心弾むものに変わってくれただろうに。

 否。今でも十分、ナーベラルの胸は熱い鼓動に震えているのだが、やはりあの創造されたままの(かんばせ)、自分と同じ造形である三つの深淵を収める卵頭と対面できないのは、少しばかり寂しい想いを抱いてしまう。

 二人は折り畳み式の机と椅子に腰かけ、そして対話を始める。

 悠然と背もたれに身体を預ける彼に対し、ナーベラルは彼の前で常にそうするように、背筋を伸ばして不動の姿勢を構築した。

 

「それよりも……どうでしたか? アインズ様と共に、帝国の都を訪れた感想は?」

 

 彼はモモン――アインズとしての口調から、普段の彼の声色に戻して問いかける。

 この天幕は、ワーカーや冒険者たちのテントなどからは離れた立地に立っており、周囲をうろつき盗聴しようとする者は皆無だ。戦闘メイドであるナーベラルは勿論、Lv.100のパンドラズ・アクターがそういった気配を感知することは造作もない以上、少しくらい二人きりの会話を楽しむ余裕はある。

 その意図を汲み取った黒髪の乙女は、常のように実直な口調のまま感想を紡いでいく。

 

「はっ。エ・ランテルや王都よりもやや洗練された街並みというだけで、建築様式などに特段の違いはないように見受けられました。最高級の宿屋は真新しく、王都の古色蒼然としたそれと趣は異なりましたが、大した差ではございません。市場などを巡り、売買されているアイテムについても明確な差異は感じられず、やはり下等生物が必死に背伸びをしている程度の印象しか持てませんでした」

「なるほど」

「ただ、アインズ様が仰るには、帝都には活気があるとのこと。私程度にはまったく違いなど感じられなかったのですが」

 

 さすがは至高の御方。

 ナーベラルの如きシモベ風情には感知できぬ何かを詳細に分析できる審美眼には、敬服の念を強めてしまう。下等生物(アリ)一匹一匹の表情にまで思いを致すなど、戦闘メイドには及びもつかない偉業に相違ない。

 その後、ナーベラルはパンドラズ・アクターが望む質問に、すらすらと返答していく。

 帝国最強と謳われる魔法詠唱者(マジックキャスター)の実力。

 今回同行している冒険者たちの最低限必要な情報。

 ワーカーたちの強さや保有している武装、チームの構成など。

 そのどれもが、やはりナーベラルの予想を上回るほどの脅威や驚異にはなり得なかった。

 逸脱者とは名ばかりな第六位階程度の魔法詠唱者(マジックキャスター)。金級ということでアダマンタイト級に擦り寄るような卑しい弱者。現在ナザリックへ侵入している連中のことについては、話すのも忌避したいくらい癪に障っていたが、彼の求めとあれば我慢できるというもの。

 それらを吟味するように静聴し、時折相槌を打ってくれる彼の存在は、ナーベラルには心地よい。

 きっと、自分の創造主である弐式炎雷と会話することができても、ここまで頬が熱くなるようなことはないだろうに。

 聞けば、上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)には、対面者に動悸や息切れを起こさせるような能力はないとのこと。また、彼の職業にしても、そのようなスキルは存在していないとか。

 まことに不思議な現象であるが、今ではすっかりナーベラルには馴染みな感覚である。

 むしろ心地よいくらいに、胸の奥が弾むのだ。

 

「帝国にもさしたる脅威はなく、我々の敵にはなりえないようですね」

 

 パンドラズ・アクターは指を組んで熟考に耽る。

 無論、帝国領に居ながらも帝国が認知していない隠れた実力者――プレイヤーなど――がいないという証明には遠かったが、国家としての実力は王国と比べ若干マシということなのだろう。それでも、ナザリックの基準でいえばドングリが背比べしているようなものに過ぎないのだが。

 何はともあれ、これで周辺に潜んでいる冒険者たちと合流しても、スムーズに事を運ぶことができるだろう。誰が司令塔として機能しているか、誰とアインズが言葉を交わしていたのか、ナーベラルは過つことなく記憶している。名前を覚えることこそ完全には出来てはいないが、ナーベラルもまた、御方の傍で任務に励み続けることで成長している、その証左なのである。

 

「ありがとうございます、ナーベラル殿。これで私は遺漏なく、我が任務を果たすことができそうだ」

「か、感謝など、もったいない!」

 

 自分の役目を果たしたまでだと実直に応え両手を振る戦闘メイドに対し、パンドラズ・アクターは(ヘルム)の奥に隠した表情を微笑ませる。

 

「そんなに(へりくだ)る必要はありません。あなたの仕事は、感謝され賞賛されるに値するほどのものであることは確実なのです。過ぎた謙虚は、アインズ様の意に背くものにもなりえましょう。どうか、お受け取り下さい」

「はっ……はぁ……」

 

 ナーベラルは熱に浮かされたように陶然となりながら、彼の在り方に心服する。

 顔を伏せ、上目遣いに彼を見る。

 至高の御身そのものが顕現したような存在感。堂に入った口調と態度、そして姿勢。至高の御方々のまとめ役であられる存在の手により創られた存在だけあって、その言動はすべて、アインズの鏡像であるかのように完璧なものに仕上がっていた。

 自分では、こうはいかない。

 彼は役者(アクター)として、至高の御身という量り知れない存在をすら演じ切ることが可能な、唯一無二の存在。

 それに引き換え、自分の大根役者ぶりには恥じ入るばかりだ。

 御身の定めた偽名をしっかり発音できず、あまつさえ御身を守護し果せようとするあまり、御身の意図や思考とはかけ離れた暴走を人間共に加えようとしたり――あるいは加えたり――することは、一度や二度ではすまない。

 自分は、なんでこんなにも駄目なのだろう――

 熱っぽさが一挙に氷塊を当てられたように冷却される。

 

「どうかされましたか?」

「い、いいえ! 何も……」

 

 自分は何を考えている。

 己の力を卑下することは、創造主の、弐式炎雷様への不忠になってしまう。あの方は、ナーベラルに「かくあれ」と願い、この力と心と体、すべてを与えてくれたのだ。この身を不出来と考えることは、創造してくれた御方への義から反する行為。こんなこと、考えてはいけない。

 もはや何度目とも知れない劣等感の襲撃に耐えながら、ナーベラルは努めて表情を面に出さないよう心掛ける。

 そんな黒髪の乙女の様子をどう捉えたのか、

 

「そう言えば――こんな話を御存知ですか?」

 

 彼はとある話題を口にし始める。

 

「守護者各員の方々が、アインズ様に給金を賜った際、どのようなものをその給金で欲するのかという議が開かれたらしいのですが、皆様方は衣服や武装、食事や遊具用の人間の他に、特筆すべき褒美を希望されたとか」

「は、はい! それにつきましては、私も知っております!」

 

 というか、アインズが守護者たちからの意見書を精査する場に、ナーベラルもまた同席していたのだ。

 

「なるほど。では、どのような褒美を賜りたいかという話もご存知で?」

 

 随分と前のことになるが、あの時のことは覚えている。ユリの困惑した表情や、アインズの態度が気がかりだったので印象に残っていた。

 ナーベラルは指折り思い出していく。

 

「確か添い寝券から始まり、食事でアーン券、一緒にお風呂券、お空をデート券、そして鍛錬券(ガチバトル希望)など、だったでしょうか?」

 

 そのどれもが、至高の御身と共にありたいという当然の欲求が込められていた。アインズの護衛として、モモンに同行している自分にとって、彼らの(こいねが)う内容はどこまでも真摯かつ真剣な望みだということは納得がいく。御方と共に時を過ごせる時間は、シモベたちにとっては至福のひと時。御方と何かをしているという事実は、ナザリックに属するものたちすべてに、素晴らしい感慨を抱かせるのに十分なものとなるだろう。

 パンドラズ・アクターは満足そうに彼女の言に頷き、ひとつ指を立てた。

 

「では、何故アインズ様はそのような給金による褒美を与えることを検討されたのか――お理解(わか)りになりますか?」

「それは、……?」

 

 言われてみて初めて疑問を覚えた。

 ナザリックに属するものはすべて、至高の四十一人全員への忠義に身命を捧げ、御身への奉仕に幸福を感じる信徒たちだ。そのシモベたちの中で最上位者に位置する階層守護者各員も例外ではない。給金や褒美など貰えずとも、アインズに対する信奉の心は失われるはずもなく、むしろお仕え出来ることこそが給金であり褒美であると言っても過言にはならない。

 なのに、ナザリックの最高支配者であられる御方は、わざわざ必要ないであろう給金や褒美を与えるという――その意図するところとは何なのか、言われてみるまでナーベラルはまったく意識していなかった。

 にも関わらず、彼はその奥底に秘められた真意にまで思いを致し、御身の素晴らしい思考に沿えるよう、全力を賭して尽力するために、そこに込められた思いを悟ったというのだ。

 ナーベラル――アインズがその場で要望を吟味していたその場にいたはずの戦闘メイドですら気づけなかった疑問を、彼は当たり前のように思い考えていたという、事実。

 ナザリック最高位の智者、アルベドとデミウルゴスに匹敵すると言われる彼だからこそ可能な業か――否、そんな言い訳を並べ立てて、御身の深慮遠謀の深さ偉大さを無下にしていた事実を忘れることは許されない。

 羞恥にも似た劣等感が、再びナーベラルの胸中に噛みつき始めた。

 

「私は、こう考えております。

 アインズ様は、我々ナザリックの者たちに報いたいのだ、と。

 その忠義を正当な金額という(あたい)として呈することで、日頃から忠節に励み、忠勤に務める同胞(はらから)すべてに、感謝の意を表したいのだと!」

 

 ナーベラルは思わず声をあげて瞠目する。

 彼が涙の気配に似た感情を漂わせ語った内容は、確かに御方の常日頃から明示されている言動から推察できる内容だった。

 忠節、忠勤、忠義、忠誠――それらはシモベたちにとっては極当たり前な思想であり、行動であり、想念であり、生態に過ぎないのに、そんなものにすら「報いたい」と欲する考えは、慈悲深く何者よりも優しい御方の胸中に発生しても何ら不思議でも不自然でもない。

 何という存在。

 何という御心の深さ。

 ナーベラルは気づかぬうちに、静かな雫を瞼の淵から溢れさせ、頬を一筋の煌きで縦断させた。

 その無様に気付いて、戦闘メイドは慌てて頬を服の袖で拭おうとして、その瞬間に、彼からハンカチを差し出されてドキリとする。無下にするのも憚られたので、ナーベラルは遠慮しがちに瞼の淵から雫を吸い上げていくことにした。

 そんな彼女の様子を見つめながら、漆黒の全身鎧(フルプレートメイル)は静かに己の主張したいことを言い含める。

 

「ですから、ナーベラル。あなたも己の功績に見合った報酬や賞賛を受け取ることを遠慮してはなりません。過ぎた欲の無さは、やはり時として主の意に背くことにもなりかねませんから」

 

『配下の無欲は時には主人を不快にすると知れ』と、アインズがセバスに語っていたことなどパンドラズ・アクターは知らない。これは、創造主の言行や意思を無自覚に投影してしまったが故の、ささやかな忠告に過ぎない。

 

「はっ! 今後は、充分に注意いたします!」

 

 黒髪の乙女は謹直の態度というよりも、感動の思いがさせるままに、深く頭を下げた。

 その様に御満悦という風に頷いた漆黒の戦士は、続けざまにこう言い始める。

 

「ということで、私から貴女に御礼と言いましょうか、何かひとつ褒美を差し上げさせていただきたいのです」

「え……そ、そんな……」

 

 もったいないとは言えなかった。

 つい今しがた、そのことについて彼に(たしな)められた直後なのだ。

 ここは、甘んじて受け取る以外の選択肢はない。ないのだが……

 

「……褒美、といいますと……その、具体的には、どのような?」

「私が差し上げられるものであれば、何なりと」

 

 彼は宝物殿の領域守護者にして、ナザリック最高支配者の御手によって創造された唯一の存在。

 その身に蓄えられた財は多く、有するアイテムも種類や数量は計り知れないだろう。未だナーベラルの手中にあるハンカチにしても、見事な刺繍が施されており、涙のシミが残りはしないか心配になるほど真っ白だ。きっと彼のことだから、これと同じくらい素晴らしい宝物を、もしかしたらもっと素晴らしい財宝を賜っていることだろう。

 けれど。

 それよりも。

 

「あ……でし、た、ら……その……ぅ」

 

 躊躇が乙女の口を噤ませ、欲求が少女の心を揺さぶった。

 顔が耳まで(ほて)ってしまって仕方ない。自分は一体、何を口走ろうとしているのか。

 だが、これ以上の褒美など思いつかない。自分が彼に一体、何を望むのかと言われたら、それくらいしか頭の中には浮かんでこない。

 奇跡のような機会を失いたくない一心で、ナーベラル・ガンマは震える唇で主張する。

 

「て、を……」

 

 言い始めて、口元を手で覆う。

 こんなことが許されるのだろうかという懸念と、これ以上など望みようがないという純真さが、少女の口内で拮抗していることを露わにしていた。

 戸惑う彼の視線が突き刺さる。迷っていては彼を困らせる。

 

「手を、握って、いただいても……よろしいでしょうか?」

 

 (ヘルム)越しにも、彼がナーベラルの言葉を怪訝(けげん)に思っていることは容易に知れた。

 

「――え? そんなことで、よろしいのですか?」

 

 意外そうに彼は手を差し出してきたが、ナーベラルは慌てて彼の行為を修正する。

 

「あ、いえ、その……で、出来れば、あの」

 

 思い切り顔を横に伏せて、瞼をきつく閉ざしてしまう。

 

「よ……四本指の、手、で……」

 

 思わず両手で顔を覆いたくなるほどに恥ずかしい。

 自分は何を言っているのかと、自分で自分が理解できない。

 よりもよって、褒美が「手を握りたい」だなんて、どういうことなのだ。

 しかも四本指――上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)の本性の手を所望する意図とは何なのだ。

 きっと彼も困っているに違いないと思い、伏せた視線を対面に座す上位者に流し、見る。

 呆けたように固まっているのか、あるいは乙女の真意を計り損なっているのか、あるいは両方か。

 そんな硬直時間が幻であったかのように、パンドラズ・アクターは悠然と首を縦に振った。

 

「――(うけたまわ)りましょう」

 

 どこまでも優しい声が、ナーベラルを包み込んだ。

 戦闘メイドの背筋を、戦慄させるような感覚が駆け上がっていく。

 パンドラズ・アクターは両手の籠手(ガントレット)を外し、その人間の手を異形のものへ変える。

 細くしなやかに伸びた、美しい四本指。

 上位(グレーター)二重の影(ドッペルゲンガー)の特徴であり、ナーベラルよりも上位者であるという紛れもない証。

 

「……っ」

 

 思わず喉を鳴らしてしまう。

 まさか、本当にやってくれるなんて思ってなかった。

 いきなり手を握ってほしいなんて、どういう思考回路を経たら辿り着く結論なのだ。

 そんな自己への疑念すら、その至高の造形を前にしては、瞬く内に霞んで消え去ってしまう。

 至高の御方々のアイテムやクリスタルを磨きあげる指先は見た目よりも力強く、けれども精緻な作業をこなすが故に、とても繊細で細やかだ。幾度となく目にしていたものであるはずなのに、実際にこれから触れて握ってもらえるとなると、何だか別の物体(もの)のような印象を受けてしまうのはどういうからくりなのだろう。熱くなる頬や耳が、けれども心地よく思えることも奇妙だった。

 

「さぁ、どうぞ」

 

 彼に促されるほど待たせてしまっていたことにようやく気付く。

 謝るよりも先に、ナーベラルは四本指に手を伸ばし、

 

「ふ……ぁ!」

 

 予想外に柔らかな感触が、包み込むように黒髪の乙女の指先に焼き付いた。

 人のそれよりも長い指は巻きつくでも絡みつくでもなく、乙女の肌の感触を確かめるように、優しく握りしめられていることが理解できる。

 でも、それだけでナーベラルは、ありえないほどの感覚に痺れたように動けなくなる。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「い、いえ……何とも、ありません」

 

 嘘だ。

 何ともあるのは目に見えて、わかる。

 荒くなりそうな呼吸を何とか整え、表情を鉄面皮なまま固着させようと努力するが、指先が恐怖や畏敬とは異なる感情と共に、小刻みに震えだす。視界が熱く滲むのは何故なのか。

 そこにあるものを確かめるように、ナーベラルは指先に力を込めようと欲した。けれど、力は手首から先が失われたように何処(いずこ)かへと放出されてしまう。

 

「どこか、つらいようでしたら」

「いいえ……大丈夫です」

 

 このままでは、彼の善意を無為にしてしまうように思えて、ナーベラルは己の醜態を心の内で叱咤する。

 眼を瞑り、指先の触覚だけに全神経を動員していく。そうすることで、ようやく彼の手の感覚に応えることが叶った。

 

「ん…………ぅ…………」

 

 あまりにも心地良過ぎて、声がもれるのを我慢しきれない。

 今までにないほどの至近で――というか肌と肌とを触れ合わせながら、彼という感覚を手中にする。

 何かが体の底から、水音を立ててこぼれ出てしまいそうな錯覚を抱くほどに、ナーベラルは陶酔しきっていた。上気した乙女の表情を、彼の目の前に晒している事実にも気づかないで。左手の指を甘噛みして、何とか声がもれぬよう頑張ってみる。心の臓腑が張り裂けそう。瞼の淵からも何かが溢れてしまいそうになる。

 片手でこれでは、両手を握られたらどうなってしまうのだろう。

 いや、今は人間としての感触だった。これが自分の本性である三本指で味わっていたら――

 そんな心配を抱きながら、ナーベラルはその感覚に溺れ始める。

 

「ナーベラル殿」

「……は……い?」

 

 沈着した声に、ポニーテールを力なく垂らしていた彼女はどうにか応える。

 

「誰かが近づいてきます」

 

 その一声で、即座に手を離した。力なく垂れていたポニーテールが復活する。

 天幕に近づいてくる足音を聞くべく〈兎の耳(ラビッツ・イヤー)〉を発動しようとして彼に止められた。

 

「魔法を発動されるまでもありません。

 これは人間の足音……冒険者の方ですね。私が対応してきましょう。失礼」

 

 どこまでも冷静で透徹とした声を残し、彼は籠手を装備してから、悠々と天幕の外へ向かった。

 

「…………ッ」

 

 思わず歯を剥きそうになりながら、小さく舌打ちしてしまう。

 彼の余熱を確かめようと、ナーベラルは右手をさすりながら、近づいてきたであろう冒険者――今回の旅で代表的な位置に据えられている金級の存在だろう――に、暗い感情を抱いてしまう。

 とんでもないタイミングで水を差してくれたものだ。

 下等生物(ゴミムシ)に対して良い感情など抱くはずもないが、さらに嫌悪感が強まるのはどうしようもない。それほどまでに最悪な横槍だった。踏みつぶしてやりたいがそうもいかないだろう。

 だが、それとは逆に、これで良かったのかもしれないという、まるで相反する思惑が鬩ぎ合う。

 あのまま手を握られていたら、それから両手を握られていたら、そして自分が三本指となり彼の四本指を触れて堪能していたら――そう思うだけで首筋から腰のあたりまでが気持ちのいい掻痒感にくすぐられる。

 とても心地よい想像だ。

 胸の奥がそれだけで、高鳴りを強めてしまうほどに。

 

「ふぅ」

 

 想像していた通り――否、むしろ想像以上に、彼の四本指はナーベラルにとって幸せな感覚を供してくれた。

 自分で自分の指を触れ合わせる時に感じるそれとはまるで違うもの。

 はじめて見た時から好奇心を刺激されていた上位種の特徴。

 乙女の指を宝石のごとく丁寧に包んでくれた優しさ。

 茹でた卵のようにツルツルとした柔らかい弾力。

 組み合わさった部分から交換される熱と熱。

 繋ぎ合わせた時に味わった鼓動の甘さ。

 そのどれもが、ナーベラルにとって信じられないほどに素晴らしい何かを、胸の奥に灯してくれる。

 

「本当に、素敵……」

 

 こんなにも素晴らしい想いを抱くのは初めてのことだ。

 故に、ナーベラルはその想いの名を知らない。自分が彼に抱く感情の正体を。

 我知らず呟いた声は、天幕の中に残る彼の気配を掴み取ろうと、あてもなく空を漂う。

 彼が戻ってくるまでの十数分間を、彼女は昂然とした思いをそのままに、待ち焦がれるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明け、朝が来ても、ワーカーたちは一人として戻っては来なかった。

 突入した“フォーサイト”、“ヘビーマッシャー”、“緑葉(グリーンリーフ)”、“天武”――誰一人。

 ナーベラルやモモン――パンドラズ・アクターにとっては規定された事実でしかないが、さすがに事態を重く見た冒険者たちは慌てふためき、アダマンタイト級の助言を求めた。

 当初の予定では、非常事態に直面した際には拠点を撤退し、離れた場所で様子を窺うことになっていたものを、パンドラズ・アクターはこの場で一日待ってみようと提案し、受諾させた。

 ワーカーたちはそれなりに名の知れた、ミスリル級冒険者に匹敵する者たち。そこに光明を見出そうというアダマンタイト級の言に感じ入った冒険者たちであったが、実体はまるで違う。

 彼らを少しでも長くここに引き留めることによって、ワーカーを送り込んだ帝国の動きを鈍化させる狙いが多分に含まれていた。帝国は――というかこの世界の住人は〈伝言(メッセージ)〉で伝えられる情報をそれほど重要視しておらず、必ず口頭での伝令による情報のすり合わせを併用することを慣習としているらしい。この場に冒険者たちを留め置くということは、帝国に次の行動を取らせるまでの余裕を奪うことに他ならない。無論、彼らが依頼主の策定したマニュアルに沿った動きを取られても問題は一切ないのだが、時間というのは貴重な貨幣だ。稼げる分を稼ぐことを躊躇う理由など何処にもない。

 漆黒の英雄モモンの言を信じ切った彼らは気付いていない。気づくはずがない。

 自分たちの頭上を、今まさに、帝都アーウィンタールを目指して飛翔する巨大な影があった事実を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アウラ殿とマーレ殿による、帝城の襲撃は成功した模様ですね」

 

 マーレの竜による示威行動と地震魔法によって、帝国皇帝はナザリックへの謝罪に赴くことを決定したという。その報告をアインズから直接聞いたパンドラズ・アクターは、まったく動かない卵頭の顔に笑みを浮かべた。皇帝は完全に御方の掌中で転がされている。これを愉快と思わないで何と思えというのか。

 

「これで、我々の任務も無事に達成されました……ありがとう、ナーベ」

「いえ、私の方こそ――」

 

 御方の口調に戻って賛辞を贈る彼に、ナーベラルは常のように実直な対応をして見せる。

 モモンとしてある彼に対し、彼に付き従うナーベとして、これ以上にふさわしい在り方はないようなお辞儀。

 そんな彼女の胸中は、少しばかり複雑だった。

 結局あの後、彼と手を握る機会は失われてしまっていたのだ。

 ナーベラルとしてはもう少し堪能していたかった所なのだが、さすがにあんなことをもう一度お願いしようという気にはなれなかったし、彼もまた『ひとつ』という前置きをしていたことから、自分から話題にすることはなくなっていた。

 その後の彼は、いつものように漆黒の英雄モモンとしての役目を演じていた為、ナーベラルもそれに倣ってきた。

 それも、ようやく一時の終わりを迎える。

 

「私はこれから、ナザリックへ帰還します。〈伝言(メッセージ)〉によると、アインズ様はまもなくこちらにお戻りになるとのこと」

「かしこまりました」

 

 アインズやアルベド、デミウルゴスの見立てでは、皇帝は数日中――五日程度の後に、ナザリックへの謝罪に訪れるだろうと予測していた。

 引き上げられていく冒険者たちの警護をやり終えるまでが、“漆黒”の役割。

 その依頼に応えるべく、律儀なアインズは再び地上へと戻って来るのだ。仮にも自分が引き受けた依頼である以上、自分が最後まで行うというのが筋というもの。

 パンドラズ・アクターの役目は、ここで終わる。しかし、戦闘メイドは残らねばならない。

 ナーベラルは上位者に、尊敬に値する同胞に、心から礼節を尽くす。

 

「いってらっしゃいませ、パンドラズ・アクター様」

「いってまいります、ナーベラル・ガンマ」

 

 二人以外に誰もいない天幕の中で、その言葉に意気揚々と答えるモモン姿のパンドラズ・アクターは、しかし何故か、転移してナザリックに戻らない。

 彼は何かを探すような、常にはない調子で、視線を虚空に彷徨わせる。

 思わず、ナーベラルは心配げな声を彼にかけてしまった。

 

「どうか、されましたか?」

「――また」

「また……?」

 

 何だろう。そう黒髪の乙女は疑問に思うが、言葉にはしない。

 彼は頬を掻いてナーベラルを見つめ、けれども何も言わずに(きびす)を返した。

 

「なんでもありません」

 

 それだけを言い残し転移していった彼の様子に、ナーベラルは首を傾げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    【終】

 

 

 

 

 

 








 ここまで読んでくれたあなたに、感謝の極み。


 これが書きたかった。

 いや、本当、マジで。

 書籍七巻で冒険者たちから「愛の巣」だなんて呼ばれていた天幕で起こった二人の逢瀬ですが、まさか文字通り「愛の巣」になっていたとは、驚きです。

 さてさて、二人の逢瀬も随分と濃度を上げてまいりました。下手するとかなりエロい描写かもしれませんが、ただ手を握ってるだけだからね! ね! ナニはしていないからね!

 作中でも明示しておりますが、ナーベラルはポンコツ故、現段階ではパンドラに対する感情が何なのか、まるで理解しておりません。そこがポンコツかわいいわけで。

 いやはや果たして、
 ナーベラルがパンドラズ・アクターへの想いの正体に気が付く日はやって来るのでしょうか?
(ネタバレ。第一話を見れば、わかる)


 次は誰の逢瀬と巡り合えるでしょうか。


 それでは、また次回。              By空想病





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第六話 疑問

時系列としては、書籍9巻最後から10巻あたり。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春の訪れにより、空気に生物の息が満ち満ちる都市。

 なれど、その日、その時の人間の都市には、沈黙(サイレンス)の魔法でもかけられたかのように、静寂以外ありえなかった。

 不意に、閉ざされていた城門がひとつふたつと開かれ、その都度に歓迎の鐘の音が鳴らされるのが、やけに大きく響いた。エ・ランテルが魔導国の領地として譲渡・編入され、アインズ・ウール・ゴウンの一行が都市の大通りを行進する。

 この都市の住人は、至高の御方の威光と支配に屈服したかのごとき沈黙のみで、一行を迎え入れていた。それ自体は別に構わない。しかし、扉の陰や窓の隙間から、ただ覗き見るという行為は、ナザリックに属する者にとっては無礼と断じて当然の応対に他ならない。沈黙するにしても、せめて支配者となる御身への敬服と従属の姿勢を見せるくらいしなければ、けっして許されない愚挙である。

 ナザリックの者がそれを指摘し、都市住民を通りに強引に引き出さないのは、御身の優しさによって、都市に住む人間共は許されているからに過ぎない。

 

 

 

 その日、ナーベラル・ガンマは、黄金の輝き亭の最上級の客室で待機していた。

 頭部からは長く真っ白な獣耳──〈兎の耳(ラビッツ・イヤー)〉の魔法を発動させて。

 この魔法によって、ナーベラルは都市大通りで行われている遣り取りを、声と音の応酬を、つぶさに感得することが何とか可能だ。さらには、〈千里眼(クレヤボヤンス)〉を発動し、アインズ・ウール・ゴウン魔導王の都市入来という記念すべき瞬間を、彼女は遠隔地にいながらも己の視界に納め、記憶の宝箱にしっかりと納めておくことができた。

 無論、これはアインズ一行を襲撃せんとする無知蒙昧なゴミがいないかを監視する意図から発動しているものでもある。

 故に、不遜にもアインズ・ウール・ゴウンの行軍を邪魔立てするように、ゴミムシの子どもが(つぶて)を投げた場面も、彼女は確実に見ていた。

 投げられた石は非力かつ脆弱な子供らしい軌跡を描き、一行に届くにはまるで及ばないが、それでも、ナーベラルは即座に転移魔法で飛んで、そんな暴挙を働いた子供を、そんな子供を御せなかった母親諸共に殺したいと欲する衝動と格闘する羽目になったのは、半ば予期していても難しいことであった。

 それでも、ナーベラルは己に与えられた役目を、待機命令を、順守する。

 至高の御方の傍近くに侍る守護者統括が、助命を嘆願する(ゴミ)の母親に微笑み、誅罰の言葉を紡いだおかげもあるが、その数秒後に、今回の役目を果たすべく(つか)わされた“彼”が、最高のタイミングで現れてくれたのも、多分に影響を及ぼしているようであった。

 白き女悪魔の直前に、漆黒の英雄の姿で現れた“彼”こそ、至高の御身によって創造されし者──ナーベラル・ガンマの上位種族である同胞──この都市で冒険者仲間として共に任務を果たすべく、ナーベラルとは別の場所で待機していた存在。

 

『子供が石を投げた程度で乱暴だな』

 

 ナーベラルの耳を心地よく撫でる声。

 それが偉大なる御方のそれをそっくり真似た声であると同時に、彼の奏でる言の葉であるというだけで、乙女の頬は淡く色づく。

 思わず行進を邪魔した者らの存在さえ忘れかけるほどの昂揚が、ナーベラルの心臓を熱くさせる。

 

『嫁の貰い手がないぞ』

『お前に言われても嬉しく……ゴホン!』

 

 アインズ一行とモモン──パンドラズ・アクターの一芝居。都市統治においての最初の布石は万全の態勢で行われていたが、万が一ということもある。彼等の活劇を邪魔しようという愚か者(特に法国などが疑わしい)で台無しにされてはならないし、何より、都市で何か騒乱が生じれば、必然的にアダマンタイト級冒険者が逐一対応せねばならないのだ。戦争が終結して以来、魔導王入来の噂を聞いたエ・ランテルの警備を担っていた衛兵──王国軍兵士は軒並み撤収し、衛兵の代役を担えるだろう冒険者チームは、そのほとんどは別の都市へそそくさと移動して、この都市に残っている者は僅かばかり。その僅かというのはこの都市に愛着を持つ連中や都市出身者程度のみで、はっきり言えば雑魚中の雑魚ばかりである。

 アインズの護衛たる女悪魔と、漆黒の英雄に扮する彼の応酬は続く。

 

『……お前の名前を聞いていなかったわね。名乗りなさい』

『モモンだ』

 

 特に、魔導王アインズ・ウール・ゴウンの統治を歓迎しない奴儕(やつばら)が、ここぞとばかり暴れ出したら不愉快極まる。どんなことになろうとも排除し尽くす必要があるのだ。そんな時に、いざ出動しようと思って、拠点代わりにしている宿屋以外から出現するのは控えるべきだろう。律儀にナザリックへ戻っていないのも、そのための措置に過ぎない。

 やがて二人の遣り取りは、核心に迫りつつある。

 

『アインズ様はあなたにご提案があるそうよ。感謝して聞きなさい。我がナザリックの軍門に(くだ)れとの仰せよ』

『──正気か?』

 

 半ば以上、予定通りの筋書きだ。

 ナザリックの者として、心にもないことを彼は情感たっぷりに演じて言いのけてみせる。

 最高の役者(アクター)による劇場は、(なま)の目で見ていたい欲求すら覚えるほどに白熱の度合を増していく。

 

『それに俺にはパートナーがいるが、彼女はどうする?』

 

 パートナー。

 彼から自分がそのように言われていると理解するだけで、ただでさえ妙にむず痒い頬が、思わず手の甲で拭いたくなるほどの熱を帯びる。唇の端が少しだけ持ちあがった気がするのも、()せなかった。

 

 アインズ・ウール・ゴウンに対し絶対的忠誠と信奉を誓う戦闘メイドとして、ナーベラル・ガンマは任務として、彼と共に務めに励んでいるだけ…………なのに。

 

 英雄モモンとの取引、という名の協力体制のとりつけに成功した御方の列が、彼と別れる。

 英雄は命拾いした母子に声をかけ、都市の者たちに協力を申し出ることで、都市統治への第一の布石は見事に形を成した。モモンの慈悲と厚意に応えるべく、都市の者たちはアインズ・ウール・ゴウン魔導王の統治を受け入れる姿勢が構築され、後に周辺国家が予想もしていなかったほどの平和が、このエ・ランテルには舞い降りることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日の内に、ナーベラルとモモン──パンドラズ・アクターの両名(+ハムスケ)は、エ・ランテルにおけるアインズの居住地、かつては都市長が使っていたという屋敷に通された。

 対外的には、アインズ・ウール・ゴウン魔導王と、市民代表兼法の執行者という立場に据えられた冒険者チーム“漆黒”との協定を、成文化明文化するための会談であり、仮にも魔導国──ナザリックに臣従する者たちをアインズが改めて歓待するという名目で。

 市民らが、アインズ・ウール・ゴウン魔導国の列に加わり、アンデッドという化け物の屋敷に成り果てた都市中央へと招集されていく二人(と一匹)の身を心の底から案じていたが、

 

「ご苦労だったな、二人とも」

 

 無論。

 実際はご覧の通り。

 二人を招いた最大の理由は、アインズが己の配下である者たちを(ねぎら)う意図があってのこと。

 市民らが危惧しているような事態など、まったくもってありえなかった。

 

「ありがとうございます、アインズ様!」

「勿体なき御言葉」

 

 モモンの全身鎧を解いて卵頭に軍服姿をさらすパンドラズ・アクターと、ナーベの装束からメイド服に戻ったナーベラル・ガンマが、御身から掛けられる慈しみの発露に深く頭を下げる。この屋敷には念入りに情報系の対策を施している上、魔導王の屋敷に忍び込もうという馬鹿もいない。二人が普段の姿に立ち戻っても、大した問題はないのだ。

 ちなみに、モモンの乗騎であるアインズのペット──ハムスケは、屋敷に呼び寄せた死の騎士(デス・ナイト)と戯れ、戦闘訓練に励んでいるところなので、この場には呼ばれていない。

 アインズたち一行は、仮設としての謁見の間──かつてはパーティーなどに使われていたらしい大広間で、二人を慰労する。

 此度の都市入来において唯一、アインズの傍近くに控えることを許されていた守護者統括から、屋敷まで〈転移門(ゲート)〉によって先行し歓迎の準備を万端整えていた守護者たちに至るまで全員が、二人の任務がひとつの結実をもたらした事実を言祝(ことほ)いだ。

 

「さすがはパンドラズ・アクター、アインズ様によって生み出された者ね。先ほどの遣り取りのおかげで、この都市に住まう者たちはモモンの言葉に従い、それによってかつてないほどの平和を、アインズ様の慈悲深さを甘受し、その身に宿すことができるというもの」

「まさに、アルベドの言う通り──愚かしく浅ましい人間たちでは、アンデッドであるアインズ様の威光と魔力に怖れ慄き、無意味な反駁や不安を懐くなど劣悪な思考行動に移ることも、実際あり得るところ。そうなっては、我々はこの都市を暴力と恐怖によって支配するしかなかったところでしたが、御身が事前に生み出されていた英雄モモンによって、何もかもが中和されえるという事実。いやはや、まさに感服の至り」

 

 アインズ・ウール・ゴウンのこれまでの行為──冒険者“漆黒”のモモンとして人間の世界に潜入していた時点で、この都市を平和的に統治する準備を着々と整えていたことは明白な事実。

 その事を隣に並ぶ彼、パンドラズ・アクター経由で知らしめられたナーベラルをはじめ、すでに知らされていた居並ぶ守護者たちが感嘆を紡ぎ出す。

 シャルティア、コキュートス、アウラ、マーレ、セバスなどの錚々たるメンツが一斉に賛美する御方は、堂々と「よい」と宣して、湧き起こる喜悦の熱量に応じた。

 

「──いつかも言っておいたが、本当にたまたまだ。それに……」

 

 困ったように微笑むアインズは、ナーベラルをはじめ、そこに集ったシモベたち──守護者たちの他に、護衛として侍る八肢刀の暗殺蟲(エイトエッジ・アサシン)影の悪魔(シャドウ・デーモン)、さらに都市統治のために揃えたアンデッドモンスターや屋敷の清掃管理のため暫定的に派遣された一般メイドら──に目を細め、朗々とした調べと共に、告げる。

 

「おまえたちという、優秀なシモベたちがいたからこそ、私は、ここまでのことを行えたのだぞ」

 

 瞬間、閃光のような輝きを、ナーベラルは己の心の内側に感じ取る。

 同じように、とてつもない感動と歓喜を懐いた守護者各位やシモベらが、ある者は瞼の端に熱を灯し、ある者は御身の慈愛の大きさに打ち震え、ある者は薔薇色の頬に満面の笑みをこぼす。

 そして、慈悲深き至高の御方は、今回の主役たる二人──漆黒の英雄を演じ続けた二人のシモベたちに、最大級の賛辞を送ろうと、仮説の玉座から立ち上がる。

 

「ナーベラル・ガンマ」

「……は、はっ!」

 

 半ば予想外なことが起こり、ナーベラルは一瞬ながら応答が遅れる。

 御身はよりにもよって、己の生み出したもの(パンドラズ・アクター)よりも先に、ナーベラルの方へと歩み寄ってきたのだ。

 平伏し続ける黒髪の乙女は、自分の肩に触れる骨の掌の感触が信じられない。

 

「よくぞ、ここまで働いてくれた。“漆黒”の冒険者仲間・ナーベとして、おまえの働きは真実、称賛に値する」

「そ、そんな! 勿体ない御言葉!」

 

 ナーベラルは知っている。自覚している。

 己がどれだけ、アインズの計略に添えない不徳を、失態を、馬鹿な過ちを繰り返したのかを。

 

 かつて。

 ナーベラルはとんでもない失態を犯した。

 初めての冒険者としての任務中に、しつこいウジムシの言葉に反論した際に、とんでもない失敗を、アルベドの名前を不用心に口にして、諫められた。

 その後すぐ、御身に数度、背中を叩かれ、励まされた。

 

 あの時とほとんど同じ──だが、今回のこれは籠手越しではなく、至高の御身の御手に直接……触れられている!

 

 あまりの処遇の厚さに、ナーベラルは興奮を抑えきれない。

 しかし、アインズと隣の彼によって日々注意を促され、数多くの過ちから学んでいるナーベラルは、御身の待ち望むことを、ただ()す。この身の奥に灯る感謝の熱を、一言一句、余すことなく伝えるために。

 

「すべては、アインズ様の御助力と御助言があればこそ──無能な私を導き、聡していただけたパンドラズ・アクター様の御助勢があればこそ──私は、これまでの任務を遂行することができたのです。真に賞するべきはアインズ様と、アインズ様の創られた()(かた)であるべきかと」

「ふむ……私は大したことはできていないと思っていたが。その感謝は受け取っておこう、ナーベラル」

 

 真の賢者のごとく謙遜する御方。

 

「私の方こそ、感謝を。ナーベラル殿」

 

 パンドラズ・アクターも、短い感謝を紡ぐのみで応じた。

 

「だが、ナーベラル。自らを“無能”だなどと貶める必要はないぞ? おまえの創造主である弐式炎雷さんにも悪い」

「も、申し訳ありません!」

 

 またも失敗するナーベラルの肩を、アインズは再び励ますように数度叩いて労うと、隣で同じく平伏するパンドラズ・アクターにも向き直り、「…………大儀であった」と短く賞する。

 

 だが。

 

「…………?」

 

 アインズは、ナーベラルにしたように、彼の身に直接触れることは、なかった。

 対するパンドラズ・アクターも、言葉少なに恐縮しつつ「ありがとうございます!」と返礼するのみ。

 そんな二人の姿が少し意外に思われたナーベラルだが、直接の創造主と被造物という関係性が、二人にそうあることを求めたのだと判断して、疑問を胃の腑の底に押し込む。アルベドや並み居る守護者各位も沈黙と納得の微笑を浮かべており、ナーベラルの懐くような疑念などありえないとでも言わんばかりなのも影響していた。これは、余人が口を出すべきことではない……はず。

 アインズは最後に激励の意味を込めて、漆黒の英雄を演じる二人に、改めて命じる。

 

「おまえたちは今しばらく、漆黒の英雄モモンと、ナーベとしての任務につくことになるだろう。今後とも変わることなく、忠義に励め」

「かしこまりました!」

「──かしこまりました」

 

 パンドラズ・アクターの淀みない答礼に若干遅れて、ナーベラル・ガンマも至極あたりまえのごとく、承知の声を紡いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 城塞都市エ・ランテルを魔導王アインズ・ウール・ゴウンが統治することになって、幾らかの時が流れた。

 冒険者“漆黒”は、チームごと魔導国の配下の列に加わり、市民代表としての地位を約束された。もうひとつ定められた法の執行者──反乱者などへの刑罰を与える立場というものは、今のところ機能したことはない。それほど、この都市に生きる者たちはモモンに全幅の信頼を寄せ、彼が忌む事態にならぬよう、魔導国の管理下に、従順な姿勢を貫いていることの証明である。

 よって、モモンの今の役割は、もっぱら市民たちの意見を聞き、それを魔導国側に供出するという体制を担うことに傾注していた。

 そのおかげで、都市民たちは強壮に過ぎるアンデッドモンスター……死の騎士(デス・ナイト)の衛兵や、死者の大魔法使い(エルダーリッチ)の政務官、魂喰らい(ソウルイーター)の馬車などとすれ違っても、それほどの危惧や不安を懐くことはなくなりつつ、ある。それでも、遠巻きに見るだけの状況は変わっておらず、子供らが興味本位で近づこうとするのを引き留める姿勢は変わりない。このあたりの問題解決に向けて、アインズは既に何らかの手段を模索している真っ最中である。

 無論、都市周辺の巡回によるモンスター討伐も並行して行わねばならない。

 現在のエ・ランテルは、王国の衛兵は残っておらず、残っている冒険者たちもほんの僅か。

 何かしら不測の事態が発生していないか、凶悪かつ強靭なモンスターが出没する予兆などがないかを確認する作業は、極めて重要な懸案事項である。魔導王のアンデッド軍がいかに強壮であろうとも、都市の住民らは未だにアンデッドには慣れ切っておらず、実際にその庇護を受けているという実感も薄い。まだ、モモンが周囲を巡回し、モンスターを狩ってくれていると聞いた方が、安心の度合いは段違いなのだ。少なくとも今は。

 そんなわけで、ナーベラルも時折だが、アインズ・ウール・ゴウンの居住地と定められた屋敷内にある別邸、モモン一行に住まいとして与えられた新拠点より、モンスター討伐の任を受けて出動することは少なくはない。ナーベは、魔法詠唱者(マジックキャスター)。単独では非力極まるはずの麗雅な女性の姿をしているが、その戦闘力の高さはアダマンタイト級……最高峰の冒険者に相応しい位階に到達しており、それが英雄モモンと肩を並べて戦うことを許される条件とまで解釈されるに今は至っている。

 人々は、街より出動する彼らを見ることで、外からの脅威に怯えることなく、また都市内に跋扈するアンデッドたちの事も忘れて、日々平穏に暮らしていくことができるのである。

 しかしながら。

 漆黒の英雄たる二人の内、ナーベ個人の市民に対する影響力はさほどでもない。

 漆黒の“美姫”、ナーベという人物像が、どれほどに冷徹かつ人間嫌いで、愛想もなければ愛嬌もなく、堅牢堅固な尊大すぎる姫のごとし振る舞いを取る──それが一種の魅力として男女問わず認知されてもいる──女性なのかは、この都市では知らぬものも絶えて久しい、ひとつの常識ですらあった。そんな彼女に市民らが意見を申し立てるのは、並みの人間であれば御免被る冒険だ。ナンパ目的に声をかければ瞬きの内にすげなくあしらわれ、それでも強引に言い寄るような愚鈍には、アダマンタイト級のキツい仕置きが待ち受けているのだ。ある意味、アンデッドの警邏並みに近寄りがたい女性なのである。ナーベは。

 そのため、都市住民のほぼ十割は、魔導王に敢然と立ちはだかった英雄モモンにこそ、生活向上のための相談や、魔導王の企む都市政策の内容について、様々な意見や嘆願が届けられるのは、無理からぬ事態でしかない。

 だからこそ、彼女のみがナザリックに帰還し、アインズからの別命を受諾する運用配置の変更は、自然の摂理と言っても良いほど当然なことである。

 だが、

 

「…………」

 

 冒険者ナーベ、もといナーベラル・ガンマは、心の底が穏やかでなくなっていた。

 ありていに言えば、ものすごく、イライラしていた。

 原因は、ナーベラルにもはっきりと理解できている。

 この目の前の状況だ。

 

「どうか、納めてください、モモン様」

「これはどうもご丁寧に。しかし──」

 

 だが、彼は固辞するように手を前に突き出した。

 モモンに身を寄せる女──未亡人らしく、子ども連れだ──は、汚らしい木の籠に満載したパンや果物などの食料を手土産として、パンドラズ・アクター扮する英雄モモンに、何事かの相談に赴いたようだ。

 これは、モモンという英雄に“施し”を送ろうという類のものではない。むしろ、アダマンタイト級冒険者として、モモンは並の都市民よりも潤沢な資金を与えられるべき存在だ。無論、街を守護し、人々に尊敬されるほどの偉業を成し遂げてきたものを賛美する名目で、こういった個人的な贈答品のやりとりというのは、あって然るべき現象ともいえる。アイドルとファンの関係に近いだろうか。

 しかし、この街に住まうものにとって、今やモモンは最後の生命線とも言うべきもの。

 モンスターを討伐してくれるというだけでなく、いざとなれば、あの魔導王として君臨するアンデッドに勇猛果敢に挑む、守護者のごとき英傑であり、旗頭となるべき男。

 彼を失えば、都市の住民は連鎖崩壊的に、あのアンデッドの王に統治されるという恐怖に潰れ狂うだろう。

 そうならないために、彼等市民は以前よりも増して、英雄モモンに(おもね)る姿勢が顕著に顕われ始めた。街の代表者として抜擢された英雄を、街に繋ぎ止めておきたいと努力する市民の数は、一向に減る気配を見せない。彼らは未だに、アインズ・ウール・ゴウン魔導王が、自分達エ・ランテルの人間をどうするのか、不安を覚えてしまってしようがないのである。

 贈り物を受け取ってもらいたい一心の未亡人は、モモンに詰め寄るように一歩前へ。

 その一歩は、ナーベラルには不遜極まる距離感に思われたが、英雄モモンは悠然と未亡人の女を励ますのみ。

 

「しかし私は、一介の冒険者にして、今は街の代表。これを受け取るわけにはいきませんが、嘆願の件については承知しました。必ず、魔導王陛下に上奏しておくことを約束しますよ」

「ありがとうございます。ですが、これからまた、外へ討伐に向かわれるのなら、食料は要りようかと」

「確かに。だが、ご安心を。我々は十分な備えを確保しております。現在の都市の状況を考えれば、これは貴女たち家族で、いただいた方がよい品でしょう」

 

 エ・ランテルは、魔導王を受け入れたその日を境に、都市そのものが死んだように、経済能力──物流が滞っていた。原因は、アインズ・ウール・ゴウン魔導王と、その領土に近寄ることを、周辺国家の商人たちが恐れたからだ。生者を食らい殺すと信じられて当然の化け物(モンスター)、アンデッドによって統治される土地に足を踏み入れて、無事に帰ってこれると思える人間は多くない。絶無と言っても良いだろう。この問題は近い内にアインズが帝国などで親交を結んだ商人などを利用して解決の目を見るが、ここしばらくは都市の備蓄庫などをひっくり返して、それを配給する体制下が続いている。それ以上を買い求めようにも、どこの商店も品物はほとんど入荷しておらず、また都市の外へ逃げた連中の店は固く鍵がかけられて久しい。

 そんな状況下で、小さな子どもに栄養のあるものを食べさせ、老いた親に滋養のあるものを与えたいはずの未亡人は、こうしてモモンにすり寄り、涙ぐましいまでの努力を見せつける。

 ナーベラルは何も言わない。

 自分の表情が歪まないよう、必死に無表情を装うしかない。

 傍にある毛むくじゃらの物体(ハムスケ)に這わせた手が、ギリ、ギリ、と何かを掴み始める。

 モモンの遠慮に、尚も食い下がる姿勢を見せる人間の女が、また、彼に近づいた。

 たまらず、大きく舌を打ってしまう。

 

「……では、これだけをいただきましょう」

 

 そんなナーベラルの様子など知る由もなく、モモンは諦めたように、籠の中の果物をひとつ取り上げ、うらやましげに食べ物を眺めていた未亡人の子と、視線を同じにするよう膝をついた。母親の腰に纏わりついたままの女児に、取り上げたそれをしっかりと手渡す。

 

「食べて、いいの?」

「ああ。それは私から、君に贈ったもの。だから、それは君のものだ」

 

 にっかりと微笑む女児の頭を、モモンは大きな掌で撫でまわす。

 それを目の当たりにした母親が、感涙に咽びそうになりながら感謝の声を紡いだ。

 

 漆黒の英雄であるモモンの美談が、またひとつ構築されたというのに、

 

 ナーベラルは心底、

 

 不愉快だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 街道にて。

 

「ナーベ殿ぉ、さっきのはちょっと痛かったでござるよぉ?」

 

 エ・ランテルを離れた冒険者チーム漆黒は、いつものごとき“見回り”の任務に勤しんでいた。

 周囲を警戒するモモンが前を行き、遅れて魔法詠唱者(ナーベラル)魔獣(ハムスケ)が歩いている。

 しかし、実際は何もすることなどないに等しい。

 

「ひょっとして(それがし)、何かしてしまったでござるか?」

「だまりなさい」

 

 怯えるように身を縮み込ませる小動物は、しかし慣れた調子で「申し訳ないでござる」と口を噤む。すでに数ヶ月も冒険者チームとして共に旅をし、ナザリック内で共に生活してきた関係だ。両者の間には、それなりのコミュニケーションが交わされるようになって当然であり、その様は先輩従者が主人に無礼を働く後輩従者をたしなめるものに近い。

 だが、今回ばかりは、後輩であるハムスケの方にこそ理があった。

 外へチームで見回りに行くということで、意気揚々と進んでいった一行を引き留めるように現れた、子連れの嘆願者。

 嘆願の最中、

 共に英雄モモンの背後で控えていたナーベとハムスケの間で起こった遣り取りは、この二者しか知りようがないこと。

 一応、強大な力を持つ“元・森の賢王”である巨大なジャンガリアンハムスターの体躯、その防御力は、並の全身鎧並みに硬い。魔法詠唱者のナーベラルが魔獣の毛束を乱暴に引っ掴んだところで、そこまで重篤なダメージにはなりえないが、まったく皆無というわけではないのだ。無理矢理に人間であてはめるなら、頬をつねられる程度のかわいらしい痛みとのこと。

 しかし、ハムスケは自分がこれまでにどれほど馬鹿な失態──ナーベラルという先輩に注意されたか覚えているし、漆黒の英雄たちに相応しからぬ不遜な振る舞いをとって迷惑をかけてきた前科もある。やはり自分が何かしでかしていたのかと納得するのには、十分であった。

 

「むぅ…………あ、あれは!」

 

 僅かに呻き声をあげていた魔獣の目に、見慣れた黒い輪郭が。

 

「お~ぃぶぇ?!」

 

 反射的に挨拶でも交わそうという感じに駆け出しそうになった魔獣の鼻面を、ナーベラルの拳が押さえつける。

 氷点下に冷え切った視線と声音が、魔獣の強靭な心臓を寒からしめる。

 

「いい加減に覚えなさい。外での我々は、漆黒の英雄。誰が見ているか判らぬ所で、気安く御方のシモベと言葉を交わしては差し障りがある、と」

「も、申し訳ないでござるよ。ナーベラル殿」

 

 毛を乱暴にされるよりも痛烈な打撃に、ハムスケは涙声になりつつ陳謝する。咄嗟にナーベの本名が飛び出しているため、もう一撃ほどお仕置きされてしまったのは、言うまでもないだろう。

 ナーベラルは、ハムスケが声をかけようとしたモノを注視する。

 エ・ランテルの冒険者が激減したとはいえ、今やこの地域はアインズ・ウール・ゴウンの、魔導国の頂点に君臨する御方の領地。ナーベラルたち漆黒が、冒険者の仕事──モンスター討伐を続ける意義も意味も皆無に等しい。

 その証拠が、街道の脇に(そび)えるように待機している。

 死の騎士(デス・ナイト)

 アインズの特殊技術(スキル)によって創造されたアンデッドモンスターは、かなりの数がエ・ランテル内外に派遣され、こうして御方の所有する領土の治安維持のため、駐在任務に従事されている。疲労も睡眠も不要なアンデッドであるため、吹きっさらしの街道に突っ立ていても、彼らは不平不満もなく、直立の姿勢を24時間体制で維持し続けることができるのだ。微動だにしない彼ら(アンデッド)を恐れ、エ・ランテルに侵攻・潜入しようという雑魚モンスターは絶えて久しく(また、人間の商人がよりつかない理由にもなっていたが、ナーベラルは知りようがない)、はっきり言えば漆黒がチームを組んで見回りに出る行為は、都市住民へのアピール以上の効力はない。

 毛むくじゃらの物体が、気さくに死の騎士に「お疲れでござる」などと発言するのを未然に阻止したナーベラルは、前を行く彼──英雄モモン──パンドラズ・アクターに倣うよう、無視を決め込む。

 至高の御方のまとめ役にして、最後にナザリック地下大墳墓に残られた御身、アインズの創造したモンスターは、たとえ雑魚であろうとも、ナザリック内でそれなりの地位にあって然るべき存在。無視して通り過ぎるというのは十分以上に不敬な行為であるところだが、これも任務なので仕方がないのだ。

 漆黒の英雄は、あくまで魔導王と都市民の間に立つ調停者。いざとなれば、魔導国の王を誅してくれると期待されている(そんなことありえるわけもないが)市民の代表なのだ。

 それが魔導国のシモベと仲睦まじく談笑するというのは、現時点ではありえない。

 そうして、冒険者“漆黒”は、大した敵や異常と遭遇することもなく、一日の巡回時間を終えた。

 

「今日は、ここで野営しよう」

「かしこまりました」

 

 ナーベラルは一も二もなく従った。

 エ・ランテル周囲の街道を見回り尽くした漆黒は、日の高い間に野営の準備を整える。

 小規模だが、アダマンタイト級にふさわしい天幕(テント)をはって夜露を逃れ、火をおこすための薪も拾わねばならない。こういう時、ハムスケの存在は重宝される。強壮な魔獣の背に括りつけられることで天幕を運ぶ労が減り、森に分け入るのにも便利な存在だ。最初期の薬草採取の時のごとく、熟した木の実や、良く枯れた木片を集めるのにも利用できる。まことに、コレを従属させたアインズの智謀は見事である。おそらく、ここまで利用できることを見越して、この魔獣を従えることを決したに違いあるまい。

 慣れたように野営の準備を整え、日が落ちきったあたりには、爆ぜて燃える薪の灯りと、星の光しか見えない。

 

「…………」

「…………」

 

 座って火を囲む影は、二人きり。

 ハムスケは自分で狩っておいた食料を平らげ終えると、少し離れた場所でスヤスヤと寝息をたてて丸くなっていた。時にはフゴーという馬鹿みたいにうるさい(いびき)をかく魔獣だが、あれは完全に安心しきった時の習性らしく、今のように周囲が開け切って、尚且つ一応の警戒もしている状況だと、かなり抑えられる。「天敵がいない」時は音など出し放題だが、「敵がいるかも」と意識するだけで、自分の気配を本能的に隠蔽しようという野生の適応力があるようだが、ナーベラルには興味がなかった。

 

 そんなことよりも、ナーベラルは彼を、御身より与っている装備……二振りのグレートソードを手入れしているパンドラズ・アクターを、殊更に意識せざるを得ない。

 

「何か?」

「──?」

 

 しきりに横目で彼の方を見ていたことに、ナーベラル本人は気づいていなかった。

 

「何か、私の顔についているでしょうか?」

 

 普段通りの彼の声。二人きりという状況なので、モモン──御方の声のままでいる必要性はなかったのだ。

 ナーベラルは咄嗟に頭を振った。ポニーテールが左右に大きく動く。

 

「いえ、何も──」

「そうですか」

 

 それで会話は終わってしまう。

 何故だろう、奇妙な空白を感じてしまう。

 いくら彼が自分の使命に──アインズから預かっている装備の点検に集中していると言っても、彼であれば何も問題なくお喋りを楽しめたはず。

 漆黒の任務中、ハムスケの応対で忙しかったナーベラルは、彼、パンドラズ・アクターと他愛もない話に興じたかった。普段のように、彼が封じられている宝物殿の財物の貴重さや、クリスタルの整理方法などを熱く語ってくれる姿を見たかったし、ナーベラル自身のなんてこともない話──姉たちやソリュシャン、妹たちとの生活や、コキュートスとの時代演劇じみた遣り取り──それに、自分の創造主である弐式炎雷との思い出を語る時は、とても言葉にいいようがないほどの多幸感を得られたもの。

 

 なのに。

 今日のナーベラルは、やけに静かだ。

 貝のように押し黙ってしまっている。

 

 何より、その事実が一番理解できていないのは、ナーベラル本人に他ならない。

 

「お疲れのようでしたら、お先にナザリックへ戻られては?」

 

 天幕の中に入れば、パンドラズ・アクターが〈転移門(ゲート)〉を開いてくれる。

 それを通って、ナーベラルは神々の居城であるナザリックへの帰還が叶い、そこで十分な休息を得られるのだ。傍目には、ナーベは天幕の中で休んでいるとしか見られないための工作だ。二人を監視している者がいるとは思えないし、事実これまでそういった不穏な影を僅かでも感知したことは絶無であったが、世界級(ワールド)アイテムなどの万が一ということもあるため、ここまで慎重な措置を講じざるを得ないのである。

 

「いえ、私は別に」

「とてもそうは見えませんが?」

 

 彼の優しさが胸を突いた。頬がたまらなく熱くなる。

 彼が、パンドラズ・アクターが、自分を見ていてくれている事実を知って、よくわからない心地を覚えてしまう。

 だから、少々浮ついた声で、疑問をひとつだけ零す。

 

「そ、そういえば、都市でパ……モモンさんに陳情に来ていた女がいましたが」

「ああ。あの者が言うには、アイン……魔導王陛下が、エ・ランテルに住まう自分たちをどうするおつもりなのか、一刻も早く知りたいという類のものでしたよ。この手の相談は割と多く、私の方も現段階では何も知らされておりませんので、対応は保留になるでしょう」

「なるほど……」

 

 アインズ・ウール・ゴウンが、どのような国を作り上げるつもりなのか。

 それは、エ・ランテルに残留するすべての人々にとって、また近隣諸国に存在する全人類全生命の関心事でもあった。

 なるほどと呟いたが、それはナーベラルがまったく意に介したことのない問題提起だ。

 あの御方が、平和的かつナザリックにとって素晴らしい国づくりを推進することは確定的だが、それがどのように行われるのかについては、まったく理解が及んでいない。

 だが彼は、パンドラズ・アクターは違ったようだ。

 

「私が思うに、アイ……魔導王陛下が平和的に人間の都市を掌握したことに関連して、様々な種族が共存し得る世界を構築するものと愚考いたします」

 

 彼は他にも、カルネ村という人間と亜人が共存する村の例などを取り上げて、適確かつ実際的な具体案を脳裏に描くことを可能にしているようだ。

 ナーベラルでは、こうはいくまい。

 自分はこの解答や結論に至る以前に、そんな問題を自ら懐くこともできずにいた。

 自分(ナーベラル)には、できないことがある。それはしようがないことだ。

 この在り方も含めて、自分の創造主が生み出してくれた。

 それを教えてくれた、自分と同じ二重の影(ドッペル・ゲンガー)

 とても、素晴らしい方。

 なのに──

 

「あ……」

「どうかされましたか?」

 

 黒髪の乙女は、これまでにないほど強く、頭を振った。

 彼の慰める声が、数時間前のそれと、ダブってしまう。

 都市で。

 泣き出した未亡人を慰めるように、モモンが──彼の手が、人間の女の肩を支え、子どもの頭を撫でた、あの瞬間が、ナーベラルの脳内に閃いた。

 

「どうして……」

「んん?」

 

 いい加減、奇矯にも思えてしようがないナーベラルの様子を見咎めて、パンドラズ・アクターが首を傾げた。

 

「何でもありません」

 

 半ば吠えるように言ってしまった自分に、ナーベラルは半瞬もして気づいた。

 とんでもない失態を自覚した乙女は、彼に勧められていた通り、天幕の中にもぐりこむ。

 それほど広くない、簡単に言えば人が寝転がる程度のスペースしかないそこで、ナーベラルは異様に熱い目元を拭って、自問する。

 

 

 

 ──どうして、こんなに思い出したくないのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【続】

 

 

 

 

 

 




第七話に続きます。


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第七話 任務

時系列は、第六話とほぼ同じ時間から進んで、書籍11巻と12巻の間くらい


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナーベラルは、天幕に開いた〈転移門(ゲート)〉からナザリックに一時帰還を遂げた。

 自分に与えられた私室のベッドに顔を埋め、彼の前でこぼしかけた熱を冷やす。

 

 それからどれくらいそうしていただろうか。

 一般メイドのノックで跳ね起きたナーベラルは、軽く身だしなみを整える。主人からの命令──〈伝言(メッセージ)〉の魔法は必要ない、即時性のある命令ではなかった──を感謝と共に受け取った。

 

「わかりました。ありがとう」

 

 戦闘メイド(プレアデス)は、一般メイドたちに人気の存在だ。憧れのアイドルのようなもので、特にシズの人気は飛びぬけている。食堂で食事する彼女の近くに座ろうと席を奪い合うメイドもいるほどに。

 そして、ナーベラルもまたそういった憧れの対象になりえたのだ。

 

 そうして、受け取った主人からの命令に従い、ナーベラルは御方の執務室に招かれる。

 堅苦しい挨拶は抜きにして、アインズは戦闘メイドの長女たる首無し騎士(デュラハン)の乙女について、意見を求められた。

 

「ユリ(ねぇ)が、ですか?」

「うむ。ルプスレギナの報告によると、近頃はどうにも暇を持て余しているようでな」

「暇を持て余すなど、とんでもない!」

 

 そう返し、さらに何か言わんとしたナーベラルだったが、

 

「よい。これは私、主君である私が適切な仕事を割り振れていないということ。私の不徳の致すところで、ユリには(とが)などない」

 

 主にあっさりと否定され、二の句が継げなくなる。

 アインズの語る(ユリ)の近況は、ナーベラルも当然知っていること。

 戦闘メイド(プレアデス)の副リーダーとして、第九階層に詰めているユリであるが、近頃はこの異世界に転移した直後ほど緊迫した事態というものは発生しておらず、また、御身が量産するアンデッドが十分かつ余剰なまでに生み出されてきている現状において、第九階層への侵入者の可能性など、ほぼまったくありえない心配事に成り果て──つまるところ、仕事がなかった。

 無論、まったくないわけではない。

 定期的に開かれるお茶会……戦闘メイド(プレアデス)の月例報告会の審議進行、その際に用意される御茶や菓子などの食事の用意。さらには、ナーベラルやルプスレギナなどの、外での活動がメインになっている妹たちの部屋の掃除を、ナザリックに残る姉妹たちで交代制のもと片づけるなど、まったく仕事がないというわけではないのだ。

 ただ。

 それは一時的な、一日の内で一時間かそこらで片付く内容である。

 ごく最近だと、ナザリック地下大墳墓へ、御身の名のもとに保護された人間──とある“術師(スペルキャスター)”の実姉──ツアレをメイドとして教練する教官の役を日に数時間ほど与えられているが、何分ツアレは外の人間であり、脆弱な人間の身体というのは、当然ながら定期的な休息が必須。将来的に完璧なメイドとしての教育を積む上で、彼女の能力に合わせた休憩は必ずもうけなければならないわけで、つまるところ、四六時中二十四時間ユリは教育指導の任務に勤められるわけでは、ない。

 おまけに、ユリ・アルファは疲労とは無縁で休息の必要がないアンデッド。そんな存在が、二十四時間中数時間しか働いていない──残る十数時間は、完全に暇なのだ。

 ただでさえナザリックに籠りっぱなしのユリは、姉という立場から、副リーダーという役職から、妹たちの模範となるべく奮戦せねばならない環境にあるが……如何せん「仕事」がなければ、模範も何もありはしない。休み方の模範などを示せるものなど、次女のルプスレギナくらいだろう。

 第一、ナザリックの存在は、常にアインズに、自分たちの主たる支配者に尽くすべく、勤労に励むことを「是」とする同胞なのだ。

 あの第五階層守護者・コキュートスもまた、ナザリック防衛という任務に従事しつつも、外の世界で成果を上げるデミウルゴスなどに嫉心を覚えていたことは、コキュートスと個人的な事情──創造主同士のつながりで懇意にしている黒髪のメイドは了解している。

 仕事に飢えてしまうというのは、まったく当然な思考……至高の御身に仕える者にとって、ごく自然な情動のなせる業だったのだ。

 褒められこそすれ、叱られるはずもないユリの懊悩を理解しつつも、ナーベラルは姉に代わって、頭を下げて陳謝するほかない。

 

「申し訳ありません、アインズ様。我が姉が御身を御不快にされ」

「よい」

 

 だが、アインズはそんなナーベラルの忠節を、即座に柔らかく受け流す。

 

「よいのだ、ナーベラル。部下が心安(こころやす)くいられないというのは、主人の采配が不足している証左だ。責められるべきは私であって、おまえやユリが頭を下げるべきことではない。面を上げよ」

 

 頑なに許されてしまい、ナーベラルはすぐさま背筋を伸ばす。

 本当に万謝の念に尽きない。

 

「それで、ルプスレギナとも相談してみたのだが、やはりユリには仕事を与えたい。だが、現在のナザリック内では手頃な労務がないという現状から、何かしら外の世界、エ・ランテルでの役職を与えるべきかと思ってな」

「素晴らしい御配慮かと存じます」

 

 アインズはしきりにナーベラルたちシモベの謹直ぶりを褒める。

「頼りにしているぞ」などと言われては、顔から火が出るほどの心地よい熱量に包まれてどうしようもない。

 (ナーベラル)は次の非番の時、(ユリ)の状況を確かめてあげようと、こっそり決意する。

 

「それで。ナーベラルよ。エ・ランテルでの、漆黒の“美姫”の任務は、どうだ?」

 

 万事滞りなく。

 そう告げて良かった。

 だが、同時に、ナーベラルはおのれが懸念していることが、確実にあった。

 

「どうした?」

 

 長い沈黙を伴う思考に、アインズが心配そうな声をかける。

 ナーベラルは勇気を振り絞り、言葉を整えた。

 

「実は、パンドラズ・アクター様のことについて、お伺いしたいことが──」

 

 

 

 

 

 ・

 

 

 

 

 

 魔導国建国から数ヶ月が過ぎた。

 

 ナーベラルとパンドラズ・アクター……モモン一行は、エ・ランテルへと帰還を果たす。

 今日も特にこれといった成果があるわけでもなく、ただエ・ランテル近郊の平和維持に貢献するための儀式として、モモンたちは巡見任務を終えて、アインズ・ウール・ゴウンの治める都市に戻ってきた。

 

 だが、ナーベラルはどこか調子が悪い。

 

「大丈夫でござるか、ナーベラル殿?」

「あなたに心配される覚えがないのだけれど」

 

 鈍愚なハムスケの目にも、ナーベラルの様子は不可解に過ぎた。屋敷の中庭の窓から身を乗り出す獣の鼻面が、探るように黒髪の乙女の調子を心配している。だが、ナーベラルにしてみれば要らぬ世話だというよりほかにない。殴るほどの理由ではないので、桃色の鼻先を軽くつまんで鼻声に変える程度に留める。

 そう。心配など無用。

 任務は確実にこなしている。

 体力も魔力も消耗しておらず、状態異常などに罹患しているわけでもなし。

 なのに。

 ナーベラルは病に汚染されたような仏頂面で、エ・ランテルでの拠点と化した魔導王の城──旧都市長の邸宅で──かつてのユリと同じく──暇を持て余していた。

 窓際のソファに腰かけ、けれど、特に休暇中というわけでもないのでボーとするわけにもいかぬまま、ひたすらに“美姫”としての任務に勤めている。

 だが、

 

「暇だわ……」

 

 

 

 エ・ランテルは、平和そのものである。

 魔導国の足掛かりとして王国から割譲された領域であり、今や魔導王としてその名を知らしめているアインズ・ウール・ゴウンの膝元となった土地。巡回し警邏任務にあたる中位アンデッドや、都市の営みに貢献するスケルトンなどが都市民に広く普及されるようになっており、その有用性と実行力は、確実に魔導国の未来の名跡として残るものと周知されつつある。

 

 都市の門には着々と魔導国の建造物──絡み合う蛇を思わせる杖を掲げた至高の存在を象った巨大像などが建造され、御方の偉大さを大陸全土に波及させるのに一役買うだろう。城壁や街道も整備が進み、かつてのエ・ランテルのそれよりも格段に質も規模も向上している。アゼルリシア山脈で隷属させた霜竜(フロスト・ドラゴン)による運搬空輸手段と、霜巨人(フロスト・ジャイアント)による大規模建造工事の担い手、さらにはそれらを運用し、造営に携わるドワーフたち……建造や工業に特化された技術指導の手を確保した魔導王・アインズの成果だ。

 

 カルネ村……否、アインズの庇護環境下にくだった“カルネ地区”をはじめ、廃村になっていた村々の復興も、だいぶ軌道に乗っている。この都市のスラム地区を潰し、そこでくだを巻いていた──故あって己の土地も仕事もなにもない人間共に、新たな開墾地を提供し、かつて法国の工作活動によって破壊された土地を与えることで、ゴミ溜めでしか生活できなかったような者共にも、慈悲深い御方は「役目」を与え養う事業を推し進めた。そうして、人間のスラムは魔導国へ新たに編入された亜人種──蜥蜴人や蛙人、さらには人間よりも小柄なドワーフなどに最適な住居を提供する運びとなっている。都市は一部の狂いなく、発展と進歩を遂げつつあるのだ。

 

 魔導国は、一部周辺諸国には信じられないような──特に、人間至上主義の地域ではありえない、人と亜人と異形が融和しつつある国としての姿を整えつつある。

 

 

 

 そんな平和の時に、幸福の都に、漆黒の英雄・モモンの存在はなくてはならない──人間たちが語るところの、希望の支柱となっていた。

 滑稽なことだ。そのモモンというのは誰あろう、アインズ・ウール・ゴウン御方が生み出した最高位の能力を与えられた被造物──役者(アクター)に過ぎないというのに。モモンという英雄にすがらねばならない人間の脆弱さ、アインズ・ウール・ゴウンその人がもたらす慈悲と幸福を甘受できない外の存在の愚劣さが際立っているように思えた。

 ナーベラルは理解に苦しむ。

 どうしてこんなにも愚かなもの達の為に、御方が御心を砕く必要があるのだろうか。

 無論、アインズが常々言及している「アインズ・ウール・ゴウンが治める国が、廃墟であっては意味がない」という趣旨は理解している。

 理解はできても、ナーベラルにはいまひとつ納得がいかない。

 下等な人間(ムシケラ)などが生きていても、一体なんの価値や意味があるのか、ナーベラルの性格では納得のしようがなかったのだ。自分たちのような異形の者だけで栄える国を作れば、それでいいのではあるまいか。

 

(アインズ様に直接()くのは──ダメ)

 

 至高の御方のまとめ役であられる尊き君は、既に多忙を極めている。ナザリック地下大墳墓の輝煌を、あまねく世界に知らしめる一大事業──世界征服の版図を、着々と構築している真っ最中だ。魔導国の建国と運営も、そのための「ほんの一歩」に過ぎない。

 ナーベラルたちNPCに心を砕き、(いつく)しんでくれるあの方であれば、卑小なナーベラルの懐く疑念や不安を一掃してくれることも容易だろう。

 だが、アインズの日々の政務──国を運営し、世界を征服し、至高の御方々に『アインズ・ウール・ゴウンは此処に在り』と知らせるための活動に、ナーベラルがごときただのシモベが疑義を呈する意味など皆無。

 御方はナーベラルたちシモベ(NPC)の忠勤を褒め、怠慢や失敗をすべて受けいれてくれる御心の深さをもっている。──だが、それでも、ナーベラルにとって人間など、ただのゴミムシ程度の価値しかない。

 

(では、やはりパンドラズ・アクター様に(たず)ねるべき?)

 

 アルベドやデミウルゴスなど、頭脳面において他の追随を許さぬ高みにある……例外は彼等の頂点に君臨する御方に他ならない……NPC三名のうちの一人が真っ先に脳裏に浮かぶ。

 だが、彼はナーベラルと共に外の任務に励むことが多くなっていた為、長く自分の守護領域たる宝物殿に戻れずにいた。あそこにあるアイテムを、御方々が残してくれた財を管理し手入れすることができないことで、彼が気に病んでいることには気づいていた。モモンの双剣などを任務中に手入れする作業というのも、せめてもの代償行為である部分があったのである。

 そうして。パンドラズ・アクターは宝物殿へと舞い戻る許可を戴くに至り、長く放置してしまった役儀に就ける事実に胸躍らせながら、ナザリックへと帰還している。

 ──ナーベラルを、エ・ランテルに残して。

 

(……別に。それくらいのことは、いつものこと)

 

 自分の胸の奥に去来する感覚を、ナーベラルは努めて無視する。

 パンドラズ・アクターは、アインズと同様に人間の死体を利用したアンデッドの生産作業に従事すべく、日帰りでナザリックに戻っていたし、ナーベラルも任務がない時はナザリックで休養することが多くなった。宝物殿への帰還許可がなかったからこそ、パンドラズ・アクターの本来の職務は滞ってしまっていたが、それも御方と相談して解消済み。実に喜ばしいことであり、その時の彼を送り出すナーベラルには、素敵な男の顔が輝いて見えて面映(おもは)ゆかった。

 そして、現状。ナーベラルはエ・ランテルの治安維持活動……モモンの相棒であり魔法詠唱者“美姫”ナーベとして、この都市の有事に駆け付けるべく、屋敷に留まっている状況にある。

 

 しかし、彼はここにいない。

 彼が自分の傍に──いない。

 

「……少し出てきます」

「巡回でござるか? でも、今日の分は終わったはずでござらぬか?」

 

 ハムスケは窓の冊子に乗せた顎を、小動物のごとく(かし)げた。

 共に任務を終えていた同僚の忠言に対し、黒髪の乙女は言い捨てる。

 

「ええ。なので、私だけで行きます」

 

 

 

 

 

 ナーベラルは屋敷の雑務や清掃用に派遣されている人間のメイドとすれ違い、“ナーベ”として街を巡回すると伝言しておく。エ・ランテルの屋敷の管理を任された執事長(セバズ)へのことづけを頼まれた少女は、よく訓練されたメイドらしい所作でナーベラルを「いってらっしゃいませ」と見送った。

 

(あの、新しいメイド……なんて名前だったかしら?)

 

 確か、セバスが王都で拾ったらしい人間──ツアレ──である。

 が、ナーベラルは相変わらず人間の顔と名を覚えるのが苦手である。虫の顔面を見分けることが人間に不可能なように、異形種の二重の影(ドッペルゲンガー)であるナーベラルには、どれも同じような個体にしか思えない。せいぜい男か女か、子どもか老人か、くらいの区別はつく程度だろうか。

 ……戦闘メイド(プレアデス)の姉妹の中だと、ナーベラルだけがそのような(てい)たらくであることが判明しており、何気に驚きを隠せないナーベラルは現在努力している真っ最中なのだが、結果は付いてきていない。半ば以上「そういうものだ」と諦めてもいる。

 

 エ・ランテルの巡回程度は、“ナーベ”一人でも特に問題なくこなせる任務であり、モモン=パンドラズ・アクターが別件で不在時の窓口を代行するため、ナーベラルはモモンの留守を預かるべく都市に駐留することが多い。だが、ハムスケの言う通り、今日の分の定時巡回は終わっているので、これはナーベラルの個人的な外出に近い。

 

(アルベド様が言うには、「良妻は夫の留守を護る」とか何とか言っていたけど)

 

 はて。

 この時の良妻とはどういう意味で、夫というのは何の比喩表現なのだろう。

 最高位の女淫魔(サキュバス)ほどの頭脳も恋愛の心得も持たぬナーベラルには、何を言われているのか理解できない文言でしかなかった。

 

(私たちは、別に、妻と夫でもなし)

 

 ナザリック地下大墳墓内に、婚姻という制度など存在しない。

 もともと『かくあれ』と定められた(つがい)とか、アルベドやシャルティアのように「妃」の座を狙う者もいるにはいるが、ナーベラルとパンドラズ・アクターはそのようにあるよう、趣味嗜好や恋愛事情の分野を設定された存在ではない。そもそも、ナーベラルとパンドラズ・アクターの両者が出会ったこと自体、この異世界で初だったりするのだ。そう設定される理由などない。

 それに何より。

 

(創造してくれた御方が、そう『かくあれ』と定めたわけでもないのだし……)

 

 彼とそのような関係……アルベドやシャルティアが、アインズとそうなりたいと(こいねが)うのは、二人に組み込まれた『設定』が大いに関わっている。アルベドは『モモンガを愛している。』し、シャルティアは死体愛好趣味のネクロフィリアだ。自分たちの創造主……神から「そうなって構わない」と宣告されているような状態なので、二人はどちらが愛しき君の正妃の座に座るのか、日々しのぎを削っているような戦況である。

 だが、ナーベラルは違う。

 そんな感情や設定、自分には──ナーベラル・ガンマには組み込まれていない。

 

 だから、彼と“そうなる”ことなど……ありえない。

 

 

 

 

 

 ナーベたちの住居は、この都市を治める魔導王陛下、アインズ・ウール・ゴウン御方の屋敷に定住するようになって久しい。

 ナザリックの素晴らしい拠点に比べれば圧倒的に格の劣る屋敷であるが、もともとこの地方都市を支配していた人間の住居。名実ともに王となった御方が住まうには相応しくない印象しかないが、そこは今後の都市の発展と共に改善していけばよいだけ。

 大通りを行くと、通りすがりの人間は遠巻きに“ナーベ”を眺めるか、軽く会釈や挨拶を交わす程度。ナーベの美しさは知れ渡っており、かつては男共の劣情を悉く払い除けた実力者であり、今では街の代表の片割れとして、おいそれと近づけるものではなくなっている。

 ふと、見慣れた建物が現れる。黄金の輝き亭という最高級宿屋だ。

 かつてはそこをアダマンタイト級冒険者の拠点として多用していたが、魔導王の屋敷に常駐するナーベには、もう完全に用がない。

 都市巡回任務で立ち寄る程度の場所と化しており、今も完全に通り過ぎた。

 ナーベラルが知る都市の有名スポットは限られている。

 残されたそこへ立ち寄るか否かを、ナーベラルは脳内で吟味(ぎんみ)してみる。

 

(ユリ姉の孤児院に行っても、ナーベの姿では(はばか)りがある)

 

 ユリに与えられた新任務は、順調に成果を挙げつつある。

 もともとナザリック内では極めて温厚な思想の持ち主にして、誰かに何かを教えたいという性質を持つユリ・アルファは、教師などの役儀に適格な人材と言えた。都市住民からの受けもよく、特に子供たちには大人気な姿を遠巻きに眺めたこともある。

 しかし、モモンの相棒であるナーベは、一応、魔導国の主君を監視する、仮初の代表者の一人。

 魔導国──ナザリックのシモベたちと必要以上に接近し、懇意の間柄のごとく言葉を交わす姿は、いらぬ疑心を住民たちに与えるやも。今は我慢しなくては。ただでさえナーベラルはいろいろと演技の面で不安がある上、それが転じてユリに与えられた天職を奪うような事態に発展しては詫びようがない。自分の暇をつぶすためにそんなバカをしでかしてなるものか。

 姉のことを思い出すナーベラルは、ふと疑問する。

 

(ユリ姉も、こんな風に暇を持て余していたのかしら?)

 

 そうして、都市をぐるぐる巡って特に異常がないことを確かめる。というか、あるわけがない。エ・ランテルは今や中位アンデッドによる警邏兵や公務員、交通や運送、民間に貸し出しているスケルトンの肉体労働代行が闊歩する街だ。ナーベが発見できるような異常があっても、それはアインズの生み出したアンデッドたちで十分に対応可能なものばかりであるし、こんなところで騒ぎを……武器を抜き魔法を放つ手合いが現れれば、確実に死の騎士(デス・ナイト)の一刀で処理されるのが、完全な常識と化している。

 

 都市内に問題はない。

 なので、ナーベラルは都市の外に向かおうとして、少し騒がしい声に足を止める。

 何事だと振り返ってみると、女が大声で自分の子どもを呼んでいる声であった。どうやら母親、保護者の類。

 問題であろうか。だが、親が迷子を探す程度のことは、どこの街にでもある普通の光景。

 ふと、母親がナーベラルと視線を合わせた。

 母親は切迫した声色が嘘のように押し黙り、何かを訴えかけるような瞳で二の足を踏みながら、ただ一心に冒険者ナーベを見つめるだけ。

 ……面倒な。

 そう思いながら、ナーベラルは自分の任務に忠実を尽くすべく、女の方へ歩を進める。

 

「何か問題ですか?」

 

 

 

 

 

 話を整理すると、どうやらその女の娘が、昼前から行方がわからないという。

 思わず溜息を吐きたかった。

 その程度のことアンデッドの警邏にでも()けと思わなくもないナーベラルだが、さすがにエ・ランテルに住まうすべての人間が、アンデッドに対して危機意識を拭いきれていない事情がある。だからこそ、モモンとナーベたちアダマンタイト級冒険者の存在を、彼等は街の代表として頼りにしているのだ。以前までこういったことを請け負う衛兵や冒険者組合が機能していない都市内で、アンデッドの狂暴な面貌に対峙して「自分の娘を探してくれ」と頼む度胸を期待するのは、いささか無理があるというところ。

 ナーベラルはとりあえず母親の申し出を受け入れておく。

 冒険者組合の機能が生きていれば、「依頼」として破格の報酬を約束せねばならないアダマンタイト級であるが、現状、ナーベラルはモモンと同じ街の代表的存在。不本意ではあるが、暇を持て余していた上、子どもの捜索程度は難なくこなせるだろうと、そう判断した。

 

「それで、その娘の特徴は?」

 

 母親曰く、「以前にも、お会いしたのですが覚えていないでしょうか」と言われるが、人間(ムシ)の顔など覚えているわけがない。そう率直に告げないだけ、ナーベラルも人間のフリになじんでいた。

「いくら私でも、街の人間全員を把握することは出来ない」と言えば、納得はすぐであった。

 とりあえずの個体名や特徴、娘の私物についての情報──今日、身に着けているはずの物体に関する──を用意させる。

 

「さて」

 

 面倒は手早く済まそう。母親と別れたナーベラルは単独で子ども探しに専念する。ハムスケを呼び出すほどの難事とも思えなかった。モモン……パンドラズ・アクターの手を煩わせるなど論外である。彼は宝物殿での本来の役目に専心してほしいという思いもあった。

 作戦はシンプルだ。

 用意させた娘の情報をもとに、探査の魔法をかける。この都市で前にも使った巻物(スクロール)であるが、デミウルゴスなどのおかげで巻物の生産体制には既に不安がない。今ではナーベラル個人にも、必要数以上が支給されているのだ。

 ──ふと。過去アインズに指摘された注意喚起が脳内を駆けた。「愚か者」と強く手を掴まれたときのことを思い出す。

 用心に越したことはない。

 

「……〈偽りの情報(フェイク・カバー)〉、〈探知対策(カウンター・ディテクト)〉」

 

 おさらいするように、探知対策魔法への“対策”を整える。

 無数の防御魔法に包まれたナーベラルは、最後に〈物体発見(ロケート・オブジェクト)〉を発動。魔法で得られた情報は、ナーベラルに意外な事実を突きつける。

 

「……街の、外?」

 

 ありえない。

 エ・ランテルは魔導国の統治下に入ってから、厳しい出入国制度を布いている。

 はじめて街を訪れる者に対する講習を開き、可能であれば武装を解除させ、しつこいくらいに入国の意志を確認する。そのシステム上、街を「出る時」にも、それなりの手続きがいる。

 そのため、子が親の保護を離れ、単独で外に行けるはずがない。保護者の同伴もなく子供が外に出るのは、危険な行為である。モモンやアンデッドの警邏のおかげで外の脅威は排除されているが、絶対安全ではない。この異世界の生態系を壊しかねないため、モンスターを全滅させるなどの強硬策はとれないのだ。

 さらに、子どもが消息不明という状況に、嫌な可能性が想起されてならない。

 

「まさか──誘拐の類だというの?」

 

 それもありえない。

 エ・ランテル内での犯罪率は、魔導国建国以降、完全に下降し続けている。

 法を犯した者が即・死罪に値することもそうだが、それはエ・ランテルの、魔導国の法を知らず体感できていない“外”の人間であることがほとんど。エ・ランテルに住まう市民は、街の代表モモンへの義理と信頼、そしてアンデッドが警邏する中で感覚が麻痺していることで、人間同士互いに相争うような状況に身を置くものが絶えたことをも意味している。

 

「外の愚劣な人間が、法国や王国の手の者が、魔導国の民を拉致しているとしたら……」

 

 許されざる大罪だ。

 人間など心底どうでもいいナーベラルだが、御方の財たるモノを(かどわ)かすなど、言語道断。

 百の死でも償いきれないだろう。

 

 入国管理役の亜人……トブの森にいたというナーガなどが商人たちに講習を行う部屋などを尻目に、漆黒の美姫は完全な顔パスでエ・ランテルから外へと向かう。

 

 

 

 

 

 魔法の示す情報では、娘の位置はそこまで早く移動している感じではない。

飛行(フライ)〉による速度と〈透明化(インビジリティ)〉による隠蔽で、街の郊外の、森に程近い丘に至る。

 おかしいと思った。

 拉致誘拐にしては奇妙に過ぎる。

 探査対象となっている娘の速度は、丘に至ったところで停止し、そこからほとんど動かなくなった。しかし、微妙にウロチョロしているだけの微動はある。誘拐犯であればそこに留まる理由などあるまい。一刻も早く逃亡し果せようと、馬車なり魔法なりを使って、街から遠く離れるはず。なのに、そうしない。

 娘がそこで殺されてない限り、考えられる可能性は、ふたつ。

 ひとつは、罠の可能性。

 そして、もうひとつは、

 

「まさか──」

 

 ありえないと思う。だが、これはもしや──。

 何にせよ。警戒は怠らない。万が一に備えておく。

 そして、

 

「見つけた」

 

 丘の上の花畑に、目標となる娘を視認する。髪色や衣服の特徴も完全に合致。

 呆れた口調と怒りの感情を混ぜ込んで、少女に語りかけるべく魔法を解く。

 

「そこで何をしているのです?」

 

 周辺に敵影はない。

 ナーベラルは警戒を解いて、空から舞い降りる。

 どうやら単独で都市を抜け出したらしい女児の保護に務める。

 娘は目をまん丸にしてナーベラルを見る。

 

「“しっこく”の、“びき”の、……おねえさん?」

「質問に答えなさい。こんなところで子供(アリンコ)が何をしている?」

 

 険の深い口調に、だが少女は目をキラキラさせて見上げるだけ。

 

「すっごーい! ほんとうに、まほうでおそらとべるんだ!」

「…………はあ?」

 

 手に摘んでいた花を固く握りしめながら、少女は美姫の、第三位階魔法〈飛行〉を行える魔法詠唱者の乙女の膝近くに駆け寄った。

 

「ね! もっかい! もういっかい、おそらとんで!」

「お断りです」

 

 愚にもつかない提案などよりも、ナーベラルは確かめておくべきことがある。

 

「何をしているのです。子供が何でこんなところに?」

「……なんでって……なんで?」

 

 イライラが募る。

 

「どうやって、エ・ランテルの包囲……出入国管理をくぐりぬけたのです?」

 

 しかも、こんな(とお)にも満たない子供が。

 いとけない娘は要領を得ない解答しか寄越さない。ナーベラルが気にしている『出入国に“穴”があるのでは』という疑念が晴れないのだ。こんな子供一人の出入りすら満足に把握できないのかと、門に控えている者たちに憤懣と失望を覚えかける。あるいは、城壁の整備不行き届きだろうか。城壁の管理部門はドワーフだったか、それとも霜巨人(フロスト・ジャイアント)だったか。

 少女はナーベラルの不機嫌にも気づかず、あっけなく答える。

 

「あのね、きがついたら、おそとにいたの!」

「『気がついたら』などと、そんなわけ……気がついたら(・・・・・・)?」

「うん! そしたらね、こんなおはなばたけがあってね! おかあさんにおはなみせてあげようとおもって!」

 

 思いもかけぬ冒険に気を良くする娘を無視して、ナーベラルは思い返す。

 何だ。この感じ。

 以前にも、モモンが愚にもつかない子供から聴いた内容と、似ている?

 

 そう。

 そうだ。

 

 魔導王一行の、エ・ランテル入来の時。

 少年が奇妙な男に唆されて、魔導王に石を投げることが正しいと──。

 

 

「……まさか」

 

 

 危惧が口に出た瞬間、

 

 

 ──ゴォアアアァァァ!

 

 

 (たけ)り狂った(ケダモノ)の雄叫びが。

 

 

「こんな時に」と言いつつ舌を打つ。

 否。こんな時だからこそ……“敵”が差し向けた刺客の可能性もなくはない。

 少女と共に振り向いた先には、近くの森からやってきたらしいトブ・ベアやウルフが数匹。実に悪いタイミングで血に飢えた連中が出てくるものだと、ナーベラルは肩をすくめて呆れ果てる。

 

「ひぅ」

 

 モンスターの恐怖に竦む娘が腰にしがみついてくるのが煩わしい。

 が、逃げて離れられて怪我をさせるのもあれなので、ここは我慢するしかなかった。

 

「──離れないように」

 

 片手で女児の衣服を掴みながら、もう片方の手に魔力をこめる。

 先頭を突っ走るモンスターを貫く〈雷撃〉の魔法が、美姫の指先から(ほとばし)った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕刻の空の帳の下で、ナーベラルは手を繋いでいた少女を解放する。

 少女の生家の前で、不安そうに右往左往していた母のもとへ駆けだしたのだ。

 

「おかあさん!」

「ナキズ!」

 

 抱擁を交わす母子。

 ナーベラルはとりあえず、子どもの無事を報告し、以後は気を付けるようにと念を押す。

 母は少女の青い髪を、愛おしそうに撫で尽くしながら、喜びだけを一身に表し「ありがとうございます」という涙声を繰り返した。

 

「ああ、もう、ナキズ……今まで一体どこにいってたの?」

「おかあさん! あのね!“びき”のおねえちゃんがたすけてくれてね! おそらもいっしょにね!」

 

 それでねそれでねと、子供は己を呼ぶ母親に自慢するように告げる。ナーベラルの方へ振り返って手を振った。

 母親がナーベに深くお辞儀して感謝の限りを尽くす。娘は屈託のない笑みを浮かべ続けた。

 ナーベラルは気難しい微妙な表情を浮かべかけ、仕方ない調子で手を振り返した。子供が応えるようにさらに腕を大きく振る。

 母子は仲良く談笑して、手を繋いで家路につく。母親はしつこく後日お礼に伺うと言ってくれるが、あまりにもくだらない事件だった為、そこまでされても鬱陶(うっとう)しいとしか思えなかった。

 

「まったく……」

 

 すっかり遅くなってしまった。

 面倒事をひとつ片づけ、ナーベラルは急ぎ屋敷へと戻るべく(きびす)を返しかけ──

 

「おねえちゃん!」

 

 足を引き留める。

 この町の守護者の片割れとして、無碍(むげ)にするわけにもいかない。

 

「まだ何か?」

「これ!」

 

 氷華のごとく凛とした声音に、少女は晴れやかな音色で、ひとつの贈り物を差し出す。

 

「これ、ほんとはおかあさんにぜんぶあげようとおもったけど、おねえちゃんにもあげる!」

「……花?」

 

 ナーベラルが少女を保護する直前まで、そして、猛獣どもを蹴散らした後、周囲からの奇襲や包囲を警戒しながら“餌”役に徹していたナーベの傍らで、少女がせっせと花畑から摘みとり続けていた──幾輪にもなる花々。

 こんなものに興味など無い。

 ナーベラル・ガンマにとって何の価値もない。

 だが、“ナーベ”として、漆黒の英雄の相棒として、ふさわしい対応方法を選ぶしかない。

 目線を同じ高さにして、少女からの贈り物を受け取る。

 

「どうも」

 

 えへへと笑う少女を無表情で送り返す。

 母のもとへ戻った少女がもう一度手を振って別れ、娘の恩人に対して女がもう一度深いお辞儀を送る。

 ナーベは大きく息を吐いた。

 

「ご苦労だった、ナーベ」

 

 心臓が止まりかけた。

 振り返った先にいる漆黒の全身鎧を見上げる。

 

「パ! ──モモン、さん」

「アダマンタイト級冒険者として相応しい威厳に満ちている。素晴らしいことだぞ、ナーベ」

 

 そんなに褒められるようなことをしたつもりはない。

 何故なら、

 

「も──申し訳ありません、モモンさん。実は、あの子どもは」

「何者かに操られて都市の外に出ていたようだな」

「…………ええ。そのようです」

 

 正解を口にするパンドラズ・アクターに、ナーベラルは頷くしかない。

 戦闘メイドの魔法詠唱者としてその事実に気づき、自分に可能な範囲での索敵と検証を試み、敵の襲来を待ち構えすらしたのだが、結局あの猛獣たちの襲撃以降、これといった変事は起こらなかった。それらを確定情報としたナーベラルであったが、例の子供を操るなどの工作を仕掛けたモノの尻尾(しっぽ)を掴むことは出来ずに終わっている。それがナーベラルにとって許し難い失態となっていた。

 しかし、彼は「そんなことはありえない」と戦闘メイドを励ましてくれる。

 周囲に聞き耳を立てる者はいないことを確かめた男は、元の歌うような、彼の本性の声で告げる。

 

「今回の一件で、未だ魔導国に害をなそうという何者かがエ・ランテルに潜伏している可能性が判明したほかに、もうひとつ、得難い成果をあなたは挙げている」

 

 どういうことだろうと疑問するナーベラルに、モモン姿のパンドラズ・アクターは答えを与えない。

 代わりに。

 

「あの娘。数年後には美姫ナーベに憧れ、魔法詠唱者の道をいくやもしれませんね」

「……憧れる? あの下等生物が──何故?」

 

 任務を当然のようにこなしただけのナーベラルにはまったく理解不能であったが、彼の目には、母子の本当の感謝と尊敬の念が手にとるように分かっていた。

 

「これで、少しはナーベに慣れる人間が出てくることでしょう」

「……はあ?」

 

 よく理解できない戦闘メイドに、モモンは微笑んだ。

 

「では──帰るぞ。ナーベ」

「あ……はいっ!」

 

 黒髪の乙女は彼の隣を歩く。

 その手には美しい花の束を握りながら。

 彼に感じる何かを胸に秘めたまま、ナーベラルは任務に励む。

 

 

 

 彼と共にある時を、

 共にあれる今の任務を、

 ナーベラルは一心に努める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【終】

 

 

 

 

 

 




気づけば「年刊」になっていた逢瀬シリーズ。
ナーベの逢瀬はもう少し続きそうです。

第七話の前半。
特典小説『プレイアデスな日』の前日譚みたいな感じ。
ナーベラルがアインズに伺った「パンドラズ・アクターのこと」とは?
第七話の後半。
12巻でチラっと登場した魔導国の都「エ・ランテル」
そこで12巻の聖王国勢が登場する前に起こった事件みたいな感じです。
都市の子供を魔法で操る謎の勢力()とは、いかに?



・モブキャラ紹介・

〇ナキズ
 ナーベの逢瀬・六話で母と共に登場していた子供。
 実は、幼いながらに、“美姫”ナーベの隠れファン。空を飛ぶ魔法使いに憧れている。
 余談。
 今回の出会いから数年後。アインズが創設した魔導学園でトップレベルの成績を収める魔法詠唱者に大成。憧れの“美姫”ナーベと同じアダマンタイト級・六等冒険者として活躍。『魔導王陛下、御嫡子誕生物語 ~『術師』の復活~』のモブとして登場していたりする。


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