俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。 (clp)
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原作1巻
01.やはり彼はその部活へと導かれる。


 チャイムが鳴って午前最後の授業が終わり、比企谷八幡(ひきがやはちまん)はふと窓越しに空を眺めた。澄んだ青のところどころに白い雲が浮かんでいて、平和な気持ちにさせられる。

 頬杖をついてその姿勢を維持する八幡をよそに、教室内は喧噪に包まれていた。

 

 高二に進級して間もないこの時期、クラスメイトの多くは新たな知己を得ようと積極的な行動に出ていた。しかし八幡はそんな事には興味がないのか。あるいは、どう行動すれば良いのか分からず様子見に徹しているのか。席に座ったまま動かない。

 

 そんな八幡の前に、先程まで教壇に立っていた国語教師が現れた。

 

「比企谷。話があるので職員室まで来てくれるかね」

「はあ。まあ、いいですけど」

「あまり時間は掛からないと思うが、弁当があれば持って来ても構わない。お茶ぐらいなら出してやろう」

「うす」

 

 鞄の中から弁当を取り出して、そのまま平塚静(ひらつかしずか)教諭の後に従う。

 

 普段の八幡はパン食だが、今日は例外だ。なぜか妹の比企谷小町(ひきがやこまち)が朝からいそいそと、この弁当を用意してくれたのだ。何か思惑があったのか。それとも今日の夕方に体験する予定の()()に向けて、兄に発破をかける為だったのか。

 

 八幡を気遣うセリフをいたずらっぽく口にして、最後に照れ隠しなのか「今の小町的にポイント高い!」と付け加える妹の姿を思い浮かべているうちに。

 二人は職員室へと辿り着いた。

 

 

***

 

 

 書類が散乱している机の前で立ち止まると、平塚はくるりと振り返った。動きながら、紙の山で埋もれそうになっている付箋つきの原稿用紙をちらりと確認して。机に片手をついた姿勢で、立ったまま生徒と向かい合った。

 

「さて、比企谷……の前に。君の目が濁っているのは元からだが、今浮かべているにやけ顔も、他人にあまり良い印象を与えないと思うぞ」

 

 いきなり本題に入る予定の平塚だったが。八幡の表情が目についたので、まずは指摘を口にした。

 

 平塚は生活指導の役職も兼ねている。本人曰く「若手の仕事だから。私はまだ若いからな!」との事だが、体よく厄介事を押し付けられたのだろうと生徒たちは噂していた。とはいえその親身な応対には、学生のみならず保護者からも評価が高い。

 

 妹を思い出してにやけ顔だった八幡は、まじめな表情に戻してこくりと一つ頷いた。内心では、またやらかしてしまったかと冷や汗が流れる思いがする。

 

 口を開くと変な声が出そうだったので、無言を貫くことにして。じろりとした目を向けて話を促すと、教師は机の上に手を伸ばしながら口を開いた。

 

「ふむ。で、本題なのだが。君が書いてきたこの作文は何かね?」

「えと、春休みの宿題でしたよね。『高校生活を振り返って』って、たしかに表現力が未熟かもしれませんが」

「表現力以前の問題だよ。なぜ君の作文は『リア充爆発しろ』という結論になるんだ?」

 

 鋭い眼光が八幡に向けられる。

 

 生徒と同じ目線で向き合ってくれるので話しやすいと評判の平塚だが、やはり生徒とは潜ってきた修羅場の数が違う。婚約者に家財道具を持ち逃げされても人前では決して涙を見せなかったという逸話は、伊達ではないのだ。

 

 平塚の迫力を間近で受けて。さらには容姿の整った大人の女性からの視線を一身に浴びるという状況ゆえに。八幡のコミュニケーション能力はあっさりと崩壊した。

 

「さ、最近の高校生なら、しょんなもんじゃないですかね?」

「最近の高校生か。ならば最近の高校生たる君は、友達はいるのかね?」

「あの、平等主義なので、親しい友人は作らにゃい事にしてるんですよ」

「君はたしか部活はやっていなかったな?」

「ひゃい」

 

 どもりながらも何とか返事をする八幡とは対照的に、平塚は笑顔すら浮かべている。

 一連のやり取りで機嫌を直しただけでは、ここまでしてやったりの表情にはならないだろう。宿題を餌にまんまと話を誘導したのだなと、八幡が気付いた時には後の祭りだった。

 

 少しだけまじめな顔に戻って、教師は生徒に告げる。

 

「宿題は書き直しをしてもらう。が、君の抱える問題は耳障りの良い文章を書き並べても解決しないと私は考える」

「はあ。でもじゃあ、どうすればいいんですかね?」

「比企谷には奉仕活動をしてもらう。具体的には、君をある部活に入れようと思う」

「えっ。……部活?」

「弁当を持って、ついて来たまえ」

 

 

***

 

 

 渡り廊下の先にある特別棟。その中の何の変哲もない教室の前で立ち止まり、平塚はからりと戸を開けた。

 

 端のほうに無造作に積み上げられた机と椅子。入り口の近くには長机と、椅子がいくつか置かれていた。そこに座って一人で本を読んでいる女子生徒の姿が、八幡の目を捉えて離さない。

 

 春の日差しを浴びながら読書しているその女子生徒は、たとえ世界が終わっても変わらぬものがあると主張しているかのように。はるか太古から永遠に存在し続けているかのように、そこに佇んでいた。

 

 偉大な絵画を前にした時のように、見る人の意識を有無を言わさず奪っていくだけの存在感が彼女にはあった。平塚のような完成された大人の美とも違う。未完成で儚いがゆえに目を逸らせない、そんな美を体現している怜悧な顔つきの女子生徒が、そこにいた。

 

「平塚先生。ノックをお願いしたはずですが?」

「すまんな。入部希望者を連れていたのでつい忘れていたよ」

「お一人の時もノックをされた事はなかったと記憶していますが。それはそうと入部希望者、ですか?」

「うむ。彼は比企谷八幡。君のところで、もう少し他人と関わって欲しいと思ってな」

「え、ちょっと待って。俺、入部する気はないですけど?」

 

 当事者をよそに話が進みそうだったので、あわてて会話に参加したものの。八幡の意識は女子生徒に向いている。

 

 雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)

 

 ここ千葉市立総武高校には、普通科が九クラスと国際教養科が一クラスある。普通科よりも偏差値が高い国際教養科においても、彼女の存在は飛び抜けていた。入学以来、定期テストでも実力テストでも首位を明け渡した事のない才女。さらにはこの類い稀なる容姿。

 

 八幡とて才女や美女とお近付きになる事に否やはないが、いかんせん相手が凄すぎると尻込みするのが世の常だ。ゆえに八幡は呆れ顔の二人を尻目に、戦略的撤退を目的とした行動に出る。

 

「それに見たところ女子一人みたいですが、男女一人ずつだと学校的にも問題じゃないですかね?」

「ふっ。貴方が私に指一本でも触れられると思わない事ね」

「そもそも君には女性を口説く為の度胸も技術も経験もないだろう。保身優先の君が暴力に訴えるとも思えないしな」

「なるほど」

「納得しちゃうのかよ……」

「分かりました。先生の依頼なら無下にはできませんし、入部を許可しましょう」

「うむ。では雪ノ下、後は頼む。君も頑張りたまえ」

 

 

***

 

 

 一瞬で敗北が決まった八幡に素敵な笑顔を見せて、平塚は教室から去って行った。その手にはしっかりと、生徒に書かせたばかりの入部届が握られている。

 

 しばらくは弁当片手に、なすすべなく突っ立っていた八幡だが。勇気を出して、近くの椅子にそっと腰を下ろした。幸いなことに今のところお咎めの言葉は飛んでこない。はぁ、とため息をひとつ吐いて、頭を上げる。

 

 ちょうど長机の長辺と等しい距離を置いて、八幡は雪ノ下と向き合った。

 

「あー、悪いけど昼飯がまだなんだわ。弁当を食わせてもらっていいか?」

「ええ、構わないわ。……良かったらお茶でも淹れましょうか?」

「あ、もらえるなら助かる。てか平塚先生、お茶ぐらい出すって言ってたのに他人任せかよ」

「あの先生らしいわね。申し訳ないのだけれど、紅茶と違って煎茶はTea bagしかなくて」

「淹れてもらえるだけで充分だから、まあ、なんだ、頼む」

 

 予想外に会話が滑らかに進むので、八幡は内心で首を傾げていた。他の生徒とは違って雪ノ下からは、こちらを見下すような気配を感じない。先ほど口にしたように、先生からの依頼なので無下にはできないという事だろうか。

 

 依頼という言葉からクライアントという単語を連想して、ひとまず八幡はこの距離感に納得した。そしてカタカナ語を思い浮かべたせいで、ティーバッグの発音がとても綺麗だったなと思い出す。

 

 

 しばらく無言で弁当をかき込んでいると。

 紙コップのお茶を置きに、すぐ近くまで来てくれた。

 

 髪や制服が触れないようにと気をつけている雪ノ下の姿と、無防備に漂ってくる甘い香りに接して。頬が急激に熱を帯びていく。

 

 自分の顔を弁当箱で隠すようにして、残りを一気に口に入れた。余計なことを考えないように、必死でもぐもぐと咀嚼する。

 

 弁当箱を机に置くと、雪ノ下はもとの席に戻っていた。その姿を見て再び湧き上がりそうになる羞恥心をごまかすように、八幡はあわてて口を開く。

 

「そういや、ここって何部なんだ?」

「あら、平塚先生から聞いていなかったのかしら?」

「なんか上手い具合に丸め込まれて有無を言わさず連れて来られた」

「そう。なら教えてあげましょう。ようこそ奉仕部へ」

「えっ。……奉仕、部?」

「ええ。助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事。それが奉仕部の理念よ」

「はあ、面倒なこって」

「それは聞き捨てならないわね」

 

 急激に室温が下がった気がして、八幡は思わず身震いする。

 

 何が逆鱗に触れたのだろうか。決まっている。「面倒なこって」という発言だ。

 では何故。

 奉仕部の理念とやらを、つまり手段重視を否定したと思われたのか。あるいは、助けを求める人に奉仕する行為を否定したと受け取られたか。

 

 つい先程まではビジネスライクな関係だった二人の間には、冷たい空気が充満していた。

 

 

 八幡には人間関係がわからぬ。八幡は、一介の高校生である。同級生に疎まれ、一人でぼっちとして暮らして来た。けれども自分を見下す目には、人一倍に敏感だった。

 

 被害を少しでも抑えるために身につけたその感覚は、逃げる目的でみがいたものだ。反撃をしたり、状況を根本的に解決する術を、八幡は持たない。

 

 そもそも、他人から侮られる原因が自身の言動にあるのは分かっても。八幡にしてみればなぜ彼らが「俺に対してだけ」豹変するのか分からないのだ。

 

 いくら小説を読んだところで、そうした他人の感情は理解できなかった。分かるのは、自分が理不尽な目に遭いやすいという現実のみ。ゆえに八幡はこの歳にして人間関係を諦め、ぼっちとして過ごすと決めたのだった。

 

 

 逃げることの叶わない、まるで魔王と遭遇したかのような現状を八幡は俯瞰した。単に現実逃避をしただけとも言うが、こちらを睨みつける女子生徒を当事者ではなく傍観者のような感覚で眺めていると。その怒りが純粋だからこそ、雪ノ下の至らぬ部分が見えてきた。

 

 たしかに威圧感は凄まじい。資質もあるのだろうし、数年後には魔王の域に到達していても不思議ではない。

 しかし、今はまだ……。

 

「どこまで感謝されるかも怪しいのに、人助け、ねぇ」

 

 極寒の中で見つけた一筋の光を、八幡は信じることにした。雪ノ下から感じる魔王の片鱗と、一般的な奉仕の精神との間に違和感を覚えたのだ。

 

 両者の溝を埋めるための理念なのだろうが、どうにもしっくり来なかった。むしろ傍若無人に結果を提示するほうが、雪ノ下らしいとすら思えてしまう。

 

 だから八幡は、外れて元々という気持ちで「人助け」という部分に賭けた。雪ノ下を怒らせた原因はそれだと決め打ちして、あえて挑発的な言葉を口にした。

 

 頭ごなしに怒気を向けられて、いらだつ気持ちも確かにある。それでも今までなら、罵倒が済むまで黙って大人しく耐えていたはずだ。けれど今は、雪ノ下の真意をもう少しだけ知りたいと思った。

 

 わざわざお茶を淹れてくれたからか。こちらを見下すことなく普通に接してくれたからか。あるいは全く別の理由なのか。いずれにせよ、なぜか八幡は、雪ノ下の真意をもう少しだけ知りたいと思ってしまった。

 

 

 原因と思しきものを列挙するのが精一杯で、それ以上はどうやっても他人の感情を理解できなかった八幡が。今は自身の感情に身を委ねて、感覚的に言葉を紡ぐ。意外な反論に驚いている雪ノ下が何かを言う前に、言葉を繋ぐ。

 

「そりゃ、お前みたいな黒髪美人が手助けしてくれたら、大抵の奴らは感謝するだろうよ。けどな、そいつらの大半はお前の姿を見て感謝してるだけだ。考えてみろ。もし俺がお前と全く同じことをしたとして、お前に向けるのと同じ目を俺に向けると思うか。ありえねーよ。お前と同じことをしても俺は罵倒される。良くて嘲りの目を向けられるのが関の山だ。なら、人助けの内実に何の意味がある?」

 

「……貴方が言いたいことは解ったわ。確かに一理あるのは認めてあげましょう。でも。でもそれじゃあ、誰も()()()()()じゃない」

 

 意外な返答に、今度は八幡が驚いた。相手は学年一位の才女だ。完膚なきまでに論破され罵倒されて話が終わるのだろうと身構えていたのに、見えたのは雪ノ下の違った一面だった。

 

 人助けの話をしていたはずなのに、どうして受動態で話すんだ?

 そんな疑問を抱く八幡と、言いたいことを口にし終えた雪ノ下が、身じろぎもせずにお互いを見据えていると。

 

 

 唐突に、ノックもなく、教室のドアが開かれた。

 




次回は24時間後に投稿の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
進学→進級に修正しました。(5/9)
改行を多めに変更しました。内容の変更はありません。(5/19)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね以下を付け足しました。大筋に変更はありません。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「家財道具を持ち逃げされ」:原作1巻p.75
「八幡には人間関係がわからぬ」:太宰治「走れメロス」


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02.やはり彼女もその部室へと導かれる。

 国語担当の平塚静に連れられて教室から出て行く比企谷八幡を、由比ヶ浜結衣(ゆいがはまゆい)は横目でちらちらと見ていた。

 

 新学期早々の呼び出しなので、他の生徒ならもっと騒がれそうなものなのに。二人の動きが終始静かだったせいか、ほとんど認識されていない。

 

 八幡が後手にドアを閉めたのを確認して、由比ヶ浜は友人二人に意識を戻した。

 

 

「んーと、結衣。先生に何か質問でもあるんだし?」

「聞きに行くならお昼を食べずに待ってるし、遠慮なく行って来なよ」

 

 二年になって新しくできた友人二人には、しっかり見られていたみたいで。気を使うような言い回しをさせてしまった。

 

 高校生になって随分マシになったとはいえ、もともと引っ込み思案の由比ヶ浜は他人に配慮されるのがあまり得意ではない。だから少しだけ慌てながら答える。

 

「ううんっ。なんだか大人の女性って感じでかっこいいなぁって思って」

「あーしらも何年か後にはあんな感じになるし」

「優美子はスタイルも良いし綺麗な感じになるんだろうけど、あたしはどうだろ?」

「結衣は……愚腐腐腐、TSしたシズカくんがユイくんに無理矢理、キマシタワー!」

 

 新しくできた友人の片割れ、赤いフレームの眼鏡をかけ肩まで黒い艶やかな髪を伸ばしている海老名姫菜(えびなひな)が、何やら妙な言葉を小声でつぶやいて。

 その直後に、鼻血がたらりと流れ出した。

 

「えっ?」

「動かないでじっとしてるし」

 

 予想外の展開に慌てる由比ヶ浜とは違って、手早くハンドタオルを出した三浦優美子(みうらゆみこ)は驚いた表情とは裏腹の落ち着いた動作で海老名を後ろから抱き留め、ためらいなく鼻にタオルを当てる。

 ギャル風の外見に金髪縦ロールがよく似合っている三浦だが、意外と他人の世話には慣れているようだ。

 

「ごめん、優美子。ありがとね」

「これくらい気にすんなし。でも、体調が悪いなら保健室にでも行くし」

「そうだよ姫菜。何か悪い病気とか……じゃないよね?」

「うん、大丈夫。後で二人には説明するね」

 

「じゃ、さっさとお昼を済ますし。その前に手を洗いに行くし」

「あ、ごめん、血が付いちゃったね。タオルは洗って返すから」

「だから気にすんなし。どうせ毎日洗うんだし」

「姫菜。優美子がいいって言ってくれてるから、今回は甘えとこ?」

「うん。じゃあ改めて、優美子も結衣もありがとね」

 

 話が一段落して、三人は手を洗いに教室を出た。

 素早い対処のおかげか、海老名の鼻血もさほど注目を浴びずに済んでいる。他の同級生が新しいクラスに適応しようと必死で、自分のことで精一杯なのも幸いした形だ。

 

 始業式に向かうまでのわずかな時間であっさりとグループを結成した彼女ら三人が例外なだけで、教室内の人間関係は未だ定まってはいない。これから一年を共に過ごすことになる同級生との関係構築に、ひいては二年F組で安定した立場を得る為に、誰もが真剣に取り組んでいた。

 

 教師に呼び出された一人の男子生徒を除いて。

 

 

***

 

 

 三人が手とタオルを洗い終えて廊下を歩いていると、先程の国語教師が生徒を一人従えて特別棟へと向かっていた。

 

 雑談に意識を向けていた二人はそれに気付かなかったが、顔を上げた時に件の男子生徒を目にした由比ヶ浜は、湧き立つ感情を抑えられなかった。

 

「ごめんっ。あたし、トイレに行きたくなっちゃって。先に行っててくれない、かな?」

「そういうことは早めに言うし。遠慮すんなし」

「うん、先に教室に戻ってるから。ゆっくりで良いからね」

 

 二人の了解を取り付けて、由比ヶ浜はトイレの方へといったん戻った。そこから少し遠回りをして、特別棟に足を進める。

 

 音楽室や生物室に来たことはあるものの、ほとんどの教室はなじみがない。最初のうちは、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていたものの。あの男子生徒がどこに行ったのか全く予想がつかなくて、すぐに由比ヶ浜は途方に暮れる。

 

 さすがに涙が出るほどではないが、「あたし、何してんだろ?」と疑問が浮かぶのは避けられず。いつしか俯きがちになり、歩みもとぼとぼとしたものになっていた。

 

 

 その時、廊下の向こうで突然ドアが開いて、一人の女教師が姿を現した。これが八幡なら「女教師(オンナキョウシ)よりも女教師(ジョキョウシ)とルビを振った方がエロいな」などとくだらない事を考えるのだろうが、由比ヶ浜にとっては文字通り地獄に仏だ。

 

 急に安心したせいか完全に足を止めて、由比ヶ浜は教師に大きく手を振った。教室にいるかもしれない男子生徒に気兼ねして、声に出して呼びかけることはしない。

 

 廊下に出てドアを閉めた後は一歩も動かず、何やら考え事をしていた平塚だったが。自分に向かって手を振る生徒にようやく気付いて、ゆっくりと由比ヶ浜の許へと歩み寄った。

 

 

「由比ヶ浜か。こんな場所でどうしたのかね?」

「あ、えっと、先生たちが特別棟に歩いて行くのが見えたので」

「どこに行くのか興味がわいた、か?」

「あー、そんな感じだったと言いますか」

「そう恐縮しなくても大丈夫だよ。私と比企谷がどこに行くのか気になったんだろう?」

 

 いたずらっぽい顔でそう問いかける平塚と、顔を真っ赤にしながらあわてて否定する由比ヶ浜。そんな二人の対比は絵になる光景だったが、残念ながらそれを目撃した人はいなかった。きっと海老名が知ったら悔しがるだろうから、二人にとっては僥倖と言うべきなのだろう。

 

 由比ヶ浜が八幡を気にかける理由を、平塚は知っている。だから手に持った入部届をひらひらさせて、少し落ち着きを取り戻した生徒に向けて提案を行う。

 

「由比ヶ浜、良かったら君も来るかね。先ほど比企谷をとある部活に放り込んできたのだが、またすぐに様子を見に戻ろうと思っていたのだよ。二人で連れ立って驚かせるのも一興だ」

「あの、行きたいのはマウンテンなのですが、優美子たちにお昼を待ってもらってるので……」

「魔雲天……ああ、山々か。最近の女子高生はそんな使い方をするんだな」

 

 心の中で「私も使わなければ。若いんだから!」と繰り返している平塚の勘違いはさておいて、由比ヶ浜の心配ももっともだ。トイレに行くと言って別れてから、結構な時間が過ぎてしまった。

 

 まだ少し遠慮が残っているとはいえ、新たに仲良くなった二人を由比ヶ浜は既に親しい友人として受け入れていた。できれば仲違いという事態は避けたい。

 悩ましげな様子の由比ヶ浜を見て、教師はその職務を果たすべく話しかけた。

 

「由比ヶ浜、彼女らにメッセージを送ることはできるかね?」

「えと、メールでもL○NEでも送れますけど?」

 

「では、私が言う通りに送ってくれたまえ。『国語担当の平塚です。手伝って欲しいことがあったので由比ヶ浜を借りています。先にごはんを食べて欲しいと言っているので、手を離せない由比ヶ浜に代わってメッセージを送りました』……その変な顔文字は入れなくていいぞ。文章だけで送ってくれ」

 

「送信、っと。平塚先生、ありがとうございます!」

「なに、この程度ならお安い御用だ。では教室に戻ろうか」

 

 

***

 

 

 前回と同様に、平塚はノックもせずにいきなりドアを開けた。

 

 教室内に漂う重くて冷たい空気に即座に気付いた平塚は、平然と後ろを向いて由比ヶ浜を部室に招き入れた。言葉を発することなく、ただ右手を肩に回して。生徒を守るように、かつ逃さないように。この教師の思惑を、生徒三人は誰も知らない。

 

 

 突然の闖入者をじっと眺めている雪ノ下雪乃の表情から、平塚が戻って来たのだろうと推測して。教師の顔でも見るかと考えて、八幡が体を反転させると。

 

「んっ?」

 

 振り向いた八幡の視界に最初に飛び込んできたのは、見慣れた教師の姿ではなかった。スーツの上に白衣をまとった黒髪ロングの巨乳美女に庇護されるようにして立つ、一人の女子生徒。平塚が長身なので低く見えるが、身長は女子の平均かやや下ぐらいだろう。

 

 そのまま視線を下に向けると、童顔で可愛らしい顔立ちが確認できた。目が合ったので、内心では焦りながらもできるだけ自然な動きで目線を少し横に動かす。

 

 緩くウェーブのかかった茶髪は肩まで伸び、着崩した制服へと続いている。胸元のリボンが赤なので同学年だろう。その下には、男の目を惹きつけて離さない豊かな双丘を備えていた。

 

 教師の顔の高さに視点を合わせていなければ、まっさきにそれが目に入ったに違いない。そのまま頭を動かせなくなるか、それとも今のように即座に視線を逸らしていたか。いずれにせよ、彼女の印象はそれ以外に全く得られなかっただろう。

 

 けれども頭の先から胸の位置までゆっくりと視線を移動させて確認できたおかげで、八幡は彼女の印象を深く心に刻みつける事ができた。

 

 

 彼女が身にまとう雰囲気からは健康的で素直な育ち方をして来たことが伝わってくる。人懐こい顔立ちの影に潜むどこか自信なさげな眼差しも、その魅力を損なうには至らない。むしろ庇護意欲を駆り立てられる紳士諸君が大勢いることだろう。

 

 だが、それらは彼女の魅力のほんの一部分に過ぎない。

 

 八幡は目を逸らした先にあった天井のシミを数えながら、先ほど思わず凝視しかけた彼女の顔を思い出す。その顔立ちは学内でも屈指の可愛らしさだったが、惹き込まれそうになったのは顔の造作が原因ではない。

 

 ほんの僅かに見え隠れするおどおどとした目線の更に奥、自身にとって親しき者へのみ向けるのであろう強く優しげな眼差しを、なぜか八幡は感じ取ることができた。そこから目を離せなくなりそうで、あわてて視線を動かしたものの。その一瞬だけで充分だった。

 

 あの時に八幡は、温かく包み込まれたまま心まで満たされていくような感覚を抱いた。

 彼女の存在感は、強さという点では雪ノ下が発するそれにまるで及ばないが、広さという点では圧倒しているようにも思えた。

 

 

「平塚先生、ノックを」

「すまんな。見学者を連れていたので忘れていたよ」

 

 雪ノ下が口を開いたことで、教室内の重苦しい空気は解消される。

 

 そして他人から見れば一瞬、当人達にとっては随分と長い時間、お互いを確かめ合っていた気がする男女二人も気恥ずかしさをリセットできたようで、その会話に加わる。

 

「えっ。見学者って、あたし?」

「貴女は……由比ヶ浜結衣さんね」

「あ、あたしのこと知ってるんだ。雪ノ下雪乃さん、だよね?」

「すげーな。全校生徒の顔と名前を覚えてたりすんのか?」

「そんなことはないわ。貴方のことなんて()()()()知らなかったもの」

「ぼっちを極めた俺のステルス能力が相手じゃ仕方ないだろ」

 

「何を言っているのかしら。貴方の名など覚える必要はないと、目を逸らしてしまった私の心の弱さが悪いのよ」

「んじゃ、せいぜい反省してくれ」

「でもそうね、やはり名前を覚える価値は無さそうだし、市蔵と呼んで良いかしら?」

「改名披露をしろってか。『よだかの星』とかマニアック過ぎるだろ」

 

 

 先程の二人きりのやり取りでお互いに遠慮がなくなったのか、椅子に座る二人の生徒は滑らかに会話を進めていきます。言葉の端々に厳しい表現は見受けられるものの、八幡と雪ノ下の口調にはさほどの険悪さはありません。

 

 八幡にしてみれば、あれだけのことを言ったのだから今さら取り繕っても手遅れだと開き直った気持ちでしたし、雪ノ下も八幡のことを思ったままをぶつけて良い相手だと判断したようでした。

 

 それに八幡には、するどい爪もするどいくちばしもありませんでしたから、どんなに弱い女子生徒でも、八幡をこわがる筈はなかったのです。

 

 彼はいまだ自分が持つ武器に気づいていないのでした。

 

 

「意外ね。どうせ宮沢賢治なんて『銀河鉄道の夜』しか読んでいないと思っていたわ」

「あー、去年の今頃ちょっと暇しててな。その時に読み返した新潮文庫版に入ってたんだわ」

「……そう」

「……」

 

 何でもないはずの返答なのに、なぜか女子生徒二人が口ごもる。

 

 先程とはまた違った重い空気が漂い始めたところで、無言で成り行きを観察していた平塚がどこか楽しげに口を開いた。

 

「しかし、わずかな時間でずいぶんと打ち解けたものだな」

「これって打ち解けたって言うんですかね?」

「私の目には、君たちは仲良く喧嘩しているように見えるが?」

「たしかにヒッキーとゆきのん、息が合ってる感じがするかも」

 

 少し寂しそうに小声でつぶやいた由比ヶ浜に向けて、二人は同時に反論を述べる。

 そして憮然とした表情でお互いにじろりと睨み合った後で、再び同じタイミングで呼び方についての文句を述べる。

 

「ほら、やっぱり息ぴったりだし」

 

 そう口にした由比ヶ浜は先程とは違って、寂しさなどみじんも感じさせない溌剌とした笑顔を浮かべていた。

 

 まるでコントだと、そんな自覚がある二人は。笑顔の由比ヶ浜にこれ以上の文句を言うのは気が引けたのか、仕方なく矛を収める。

 

 

「何だか楽しい部活だね。……また、見学に来てもいい、かな?」

「いつでも来たまえ」

「平塚先生。断る気はなかったのですが、部長の私の意思を確認していただければと」

 

「断る気がないのなら問題ないだろう。では、我々は教室に戻る。君達は十四時半までここで部活を続けても良いし、教室に帰って自習してくれても構わない。十五時に現地集合を忘れないように」

 

 そう言って平塚は由比ヶ浜を連れて、部室から出て行った。

 




次回は24時間後に投稿の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
改行を多めに変更しました。内容の変更はありません。(5/19)→改行を微調整しました。(8/13)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね以下の解説を付け足しました。大筋に変更はありません。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
女教師(オンナキョウシ)よりも女教師(ジョキョウシ)とルビを振った方がエロい」:原作1巻p.12
「するどい爪もするどいくちばしもありませんでしたから」:宮沢賢治「よだかの星」

■「よだかの星」のパロディについて
 唐突に書き方が変わるので、率直に言って「寒い」と思われても仕方がないと思います。今回の推敲でも、最後まで修正すべきか悩みました。
 前話と次話にも同様のパロディはありますが、本話が一番目立つ形になっています。目的は三話とも共通していて、三人称神視点からのナレーションを他の地の文よりも目立たせたかったからです。その理由は、現時点における八幡の行動指針に直結している情報だからです。
 この手の露骨なパロディは、次話以降には登場しません。
 最初の三話のみ、このままの形で残すことをご容赦下さい。


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03.いつだって彼女は生徒達の幸せを願っている。

 リノリウムの床に足音を響かせながら、由比ヶ浜結衣は平塚静と並んで廊下を歩いていた。

 

 足を動かしながら、先程の教室での一時を思い出す。

 この一年というもの、比企谷八幡に話しかけようとしては果たせず失敗を重ねた日々のことも、今となってはさほど心の重荷になっていない。

 

 

 事故があったのは、ちょうど一年前の今日だった。あの瞬間の光景だけは、何があっても何年経とうとも、決して忘れることはないだろう。

 

 意を決して二度ほど病室を訪れたものの、八幡が眠っていたので話はできなかった。三度目の来院では、折悪しく時間がかかる検査に行っていると、妹の比企谷小町に申し訳なさそうに教えられた。

 

 ならばと度胸を振りしぼって、退院してすぐに菓子折を持って自宅を訪れると。妹と買い物に出掛けたばかりで、いつ帰ってくるか判らないとのこと。ご両親に何度も何度も頭を下げて、菓子折をなかば押し付けるようにして退散するしかできなかった。

 

 間が悪いにも程があるが、ここまで続くと「もしかして、あたしに会いたくないのかな」と考えてしまう。そう思われても仕方がないと、諦めの感情が湧き上がってくる。

 

 それでも、たとえ面と向かって罵倒されても、ちゃんと謝ってお礼を伝えたいという気持ちと。そもそも関わりを持とうとする時点で、かえって迷惑なのかもしれないと苦悩する気持ちとがせめぎ合って。

 

 その後も高校で、何とか話ができないものかとこっそり機会を窺いながらも。由比ヶ浜はそれを実行できずにいたのだった。

 

 そして、一年が過ぎた。

 

 二年生で同じクラスになれたと知って、由比ヶ浜は改めて自分に向けて活を入れた。

 

 何を今更と言われるかもしれない。お前の顔など見たくもないと言われるかもしれない。それでも、愛犬のサブレを救ってくれた八幡に直接、一言でもいいからお礼が言いたい。

 

 

 今日の部活見学では、直接のやり取りはなかった。

 

 だが、あの雪ノ下雪乃と話をしている八幡は、とても楽しそうに見えた。聞きようによっては侮蔑表現と受け取れる発言にも気を悪くする素振りを見せず、むしろテンポの良い会話を楽しんでいるようにすら見えた。

 

 ならば自分とだって。少なくとも、話すことすら嫌だと思われることはないのではないか。そしていつか、きちんとお礼を言える日が来るのではないか。

 

 

 前途が一気に拓かれた気がして、顔をほころばせる由比ヶ浜に。つられて笑顔を浮かべながら、平塚はゆっくりと話しかけた。

 

「由比ヶ浜、先程の部活はどうだったかね?」

「何だか、楽しそうな部活でしたね。ゆきのんって、あんな風に喋るんだ、って」

「ふむ。君は雪ノ下と()()()()()()()()はなかったのかね?」

「噂では聞いてたんですが、今日が初めてです。ヒッキーもよく喋ってたし」

 

「そうだな。比企谷は口を開くとよく喋るのだが、教室では……」

「ずっと一人で、誰とも喋らないですよね……」

「クラスで無理に話しかけてくれとは言わないが、部室に時々遊びに行って二人の話し相手になってくれると、教師としてはありがたいな」

 

 少し冗談っぽい表情を浮かべながら、平塚は本心からの、しかしその真剣さを悟られない口調でお願いをする。

 

 奉仕部という名の部活のこと。その活動の理念や依頼の仕組みなどを説明しているうちに、彼女ら二人は二年F組の教室へと辿り着いた。

 

 

***

 

 

 教室では、二人が無言で向き合ったまま視線を手元に落としている。

 雪ノ下は本の続きを。八幡はスマホで青空文庫を読んでいた。弁当の他は手ぶらで来たので、それぐらいしか読むものがなかったのだ。

 依頼人が来るまでは各自が自由に過ごすという話だったので、自然とこの形に落ち着いたのだった。

 

 部室内には先程の会話の余韻が今も残っている。

 だから二人は、読み物に集中しきれていなかった。

 

 正直なところ、二人は先程のやり取りを、他の同級生とでは交わせない楽しいものだったと思っている。しかし、それを素直に認めるかといえば話は別だ。

 

 

 雪ノ下は対面の男子生徒に悟られないように、そっと溜息を吐く。

 自分には友達がいないわけではない。しかしそれは広く友人・知人という意味での友達であって、深い付き合いのある友達は皆無だった。

 

 その才能や容姿に加え帰国子女という事情も手伝って、今のJ組では同級生の憧れの対象として扱われている。対等の立場で物を言ってくる生徒はいなかったし、思ったままの感情を誰かにぶつけることもなかった。

 

 雪ノ下は同級生が求めるような完璧な存在であろうとして、実際にそれを遂行していた。しかし。私が本当になりたかったのは、こんな存在だっただろうか?

 

 雪ノ下は時々、自分が一体何者なのかが分からなくなる。周囲の期待に応えるのは嫌ではない。だが、他人が求める偶像を取り去った時に、それでも己の中に残る確としたものが本当にあるのだろうかと考えてしまうのだ。

 

 

 先程のやり取りは、確かに悪くはなかった。家族相手を除くと、思ったままの辛辣な言葉を口にしたのは本当に久しぶりだ。

 

 もちろん完璧に計算された辛辣な言葉を、無遠慮に交際を申し込んで来た男子に対して遺憾なく発揮してきたのは確かだ。だがそれは思惑あってのこと。心を折られた被害者たちが必死に忠告して回った結果、最近ではその手の煩わしいことは起きていない。

 

 平然とこちらに向かって厳しい意見を主張してきた対面の男子生徒にちらりと視線を投げて。雪ノ下は八幡の評価を()()()()()少しだけ上方修正した。

 

 

 八幡は平然としたふうを装っていたが、内心は後悔の念で溢れていた。何しろ学年一の有名人たる雪ノ下に向かって、くり返し挑発的な言葉を投げかけたのだ。週明けには全校生徒から罵声を浴びていても不思議ではない。

 

 八幡は先程の言動に加え、過去の自分を悔やみはじめる。

 

 

 親譲りの捻くれた思考で子供の時から損ばかりしている。高校に入る時分、学校の前で車道に飛び込んで二週間ほど入院した事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。黒塗りの車の前に犬がいきなり飛び出したからである。

 

 反射的に身体が動いただけだが、他人はそれを額面通りに受け取ってはくれぬ。何か思惑があったのだ。あの目を見れば判る。

 

 久しぶりに登校した教室で周囲からの視線に晒された八幡は身体をこわばらせて、席に着いたまま誰とも話さず突っ伏してその場をやり過ごした。しばらくすると、クラスではいないものとして扱われるようになり。その目はますます暗く濁っていった。

 

 

 俺のこの体たらくは、捻くれた性格が原因なのだろうかと自問する。しかし八幡とて最初から捻くれていたわけではない。父親の英才教育があったにせよ、小学校に入りたての頃は目も濁っていなかったし、他人との会話もそれなりにできていた。

 

 だが、いつの頃からか。八幡は周囲から疎まれるようになり、それと比例して捻くれた性格が肥大していった。

 

 あくまでも環境が先に立っていて、この性格は結果であるはずだ。他人と同じことをしても違ったふうに受け取られる。そのくり返しの末のこの性格であり、自分にできることなど何もなかったではないかと八幡は思う。

 

 

 しかし八幡は、自分が目を逸らしている事があると気付いていた。

 

 なにかと話しかけてくれる生活指導の教師に底意は感じられなかったし、自分に向けられる視線の中には侮蔑や警戒とは違った同情的なものも含まれていた。この部長様のように中立的な立場の人もいたのだろう。

 

 問題は、と八幡は思う。そうした他人からの好意をどう扱えば良いのか、自分にはもう分からなくなってしまったのだ。

 

 でも、仕方がないじゃないか。誰であっても、この長机の向こうで読書をしている女子生徒でさえも、いつ豹変して俺に罵声を浴びせるかもしれないのだ。好意を信じてみようと一歩前に出て、そこで裏切られると深刻なダメージを受けてしまう。そんな惨めな目にはもう遭いたくない。

 

 八幡は結局この日も、踏み出さないという結論を選ぶ。将来それを後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

 

「少し早いけれど、今日はこれで終わりにしましょう。教室の鍵を返してくるので、先に出てくれて構わないわ」

「ん、了解。んじゃ鞄を取って来て、ぼちぼち行くとしますかね」

 

 二人には「一緒に集合場所に向かう」という発想は思い浮かばなかった。

 こうして八幡にとっては初めての、雪ノ下にとっても誰かと過ごすのは初めてだった奉仕部での時間は、終わりを告げた。

 

 

***

 

 

 二年F組の教室まで由比ヶ浜を送り届けると、そこでは三浦優美子と海老名姫菜がごはんを食べずに帰りを待っていた。

 思わず笑みを浮かべながら、平塚は彼女ら二人に事情を説明する。

 

 特別棟で少し作業があって、移動中に見かけた由比ヶ浜に助けを求めたこと。

 強制したわけではないという弁明の背後には、由比ヶ浜は教師の頼みも友人のことも蔑ろにする性格ではないというニュアンスを添えて。

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも、三浦は納得してくれた。苦笑とともに「結衣だから仕方ないし」と口にする姿からは、友人に対する親しみの感情が伝わって来た。

 

 少し具合が悪いのか、何かを堪えるように軽く身震いしている海老名も、由比ヶ浜に悪い感情を抱いているようには見えない。ぞくぞくと寒気を感じたのは、おそらく気のせいだろう。体調に問題があればこの二人が放っておかないだろうと考えて、平塚はそれ以上の深入りを避けた。

 

 

 せっかくだから外でピクニック気分で食事をして、そのまま時間までお喋りしようと提案する三浦に苦笑しながら、教師は廊下へと足を進める。

 

 建前としては自習もしくは部活の時間なのだが、皆が落ち着かないのも仕方がないだろうと平塚は思う。今の時期なら部活の見学とでも言い訳ができるだろうし、実際に教室に残っている生徒は数えるほどだ。

 

 生徒らの話を聞かなかったことにして教室を出ると、平塚は廊下の少し奥まった場所で立ち止まった。

 

「……もしもし。ああ、私だ」

「……ああ、顔合わせは終わったよ。思ったよりも仲良く喋っていたので一安心だ」

「……今後のことは分からないが、一つの転機になればいいな」

「……君とは違って、私は比企谷に対しても責任があるのでな」

「……あまり構い過ぎるとそっぽを向かれるぞ」

 

「……それはそうと、君も()()に参加するんだろう?」

「……なるほど。君の立場としては慎重を期すのは当然だろうな。私としては考えたくもないが」

「……うむ。ではあちらで会えるのを楽しみにしているよ」

 

 電話を終えた平塚は職員室へと向かった。現地に行くまでに片付けておくべき業務は山のようにあるが、やはり自分も興奮しているようだ。電話の相手と約束をしたことで、気分が更に高揚している。

 

 そういえば、と平塚は思う。自分たちのように「あちらで会おう」と約束している生徒もいるのだろうなと考えて、ふと八幡に妹がいたのを思い出したのだ。

 

 病室に見舞った時に会った八幡の妹は溌剌とした性格だった。もし彼女も()()に参加するのであれば、二人は約束を交わしていることだろう。いや。案外あの少女のことだから、内緒にしていて兄を驚かそうと企んでいるかもしれない。

 

 その場面を想像して、歩きながら忍び笑いを漏らしつつ。進級による環境の変化と()()を体験することが、生徒に良い影響を及ぼしてくれることを平塚は願った。

 

 

 総武高校の生徒をはじめとした多くの未成年が、人質という立場に陥るなどとは。この時点では誰一人として予測しえない事だった。

 




GWに書き溜めできたのはここまででした。
次回投稿は未定ですが、できるだけ早くお届けしたいと思っています。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
改行を多めに変更しました。内容の変更はありません。(5/19)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足して後書きを簡略化しました。大筋に変更はありません。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「親譲りの捻くれた思考で子供の時から損ばかり」:夏目漱石「坊っちゃん」


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04.なんとか彼は状況を把握しようと努める。

今回は設定説明の回です。



 もしも意識や感覚を保持したまま、現実そっくりのバーチャルな世界にログインできるなら。肉体は現実世界にとどめたまま、あらゆる情報を脳に直結させて仮想空間で日々を送ることができるなら。どんなにか楽しいことだろうか。

 

 その想いに取り憑かれて、ついに革新的な技術を可能にした一人の男がいた。

 

 彼はこの技術を世間に知らしめ、同時に独占するために、仮想空間に二つ世界を作った。

 ひとつは現実そっくりの世界。

 もうひとつは空想上の世界。

 前者は教育・学術関係者を、後者は一般のゲーマーを対象としたものだ。つまり後者はゲームの世界と呼ぶべきだろう。

 

 今はまだ、二つの世界はともに小さい。当たり前だ。現実そっくりの世界を丸ごと作ろうと思えば、労力も資金もべらぼうに掛かる。

 だが、それらが調うのを待っていては、ライバル企業に先を越されてしまう。男はこの技術に関連した特許を数多く取得していたが、特許とはそれほど万能ではない。

 

 だからこそ彼とその仲間たちは、多くの者が仮想空間を体験することを望んだ。

 彼らが真に作りたかったのは現実そっくりの世界だったが、世に周知するという理由からゲームの世界を欲したのだ。

 

 事前の予想を大きく超えて、ゲームの反応は上々だった。予約初日の時点で予定していた販売数を上回ったほどだ。

 

 一方で、教育・学術関係者は最低限しか確保できなかった。

 千葉県下のいくつかの高校や大学、そして付近の学習塾。当初設定していた対象年齢を引き下げてまで、何とか数だけは揃えたものの。

 

 彼が欲したのは、肉体に付随する限界を取っ払うことだった。物理的な制限に悩まされることなく、勉強や研究や芸術に没頭できる環境を整えること。その想いは、教育・学術関係者なら容易に理解してくれるだろうと、そう思っていたのに。

 

 残念ながら、天才の想いに共鳴する者は少なかった。

 

 参加を表明した高校や大学の職員ですら、生徒に悪影響を及ぼすのではないかと反対する声が大きかったし、当の生徒たちはゲーム気分だった。ゲームソフトがなくても仮想世界を体験できるという、その程度の認識でしかなかった。

 

 今やゲームマスターを名乗ることになった彼が、こうした状況をどう見ていたのか。

 それは、この世界へのログインが始まってほどなくして、明らかになった。

 

 

***

 

 

 集合場所に指定された海岸沿いの病院でも、比企谷八幡は誰とも喋らず孤高を貫いていた。同級生が順番にログインする段になってもそれは変わらない。

 だが、その内面は常とは違っていた。

 

 幸運にもゲームを入手できた数少ないゲーマーを除けば、自分たちを始めとした限られた学生や教職員だけがバーチャルな世界を体験できるのだ。世界で初めて、誰よりも早く。

 この状況で興奮しないようでは、男子高校生たる資格はないだろう。中二病に罹患した過去を持つ者ならばなおさらだ。

 

 八幡は沸き立つような想いを抑えきれないまま順番を待っていた。

 もうすぐだ。あと数人で俺の番になる。仮想空間にログインしたら、最初に何をしようか。

 

 事前に説明されたあちらの世界で可能なあれこれを思い出しながら、八幡は焦がれるような想いで順番を待つ。高一の間は味気ない毎日だったが、今となってはそんな過去など些細なことだ。何と言っても()()を体験できるのだから。

 

 だが、たった一つだけ。先程の部室で過ごした時間だけが、八幡に異を唱えていた。

 現実の世界でだって、楽しいことがあるのではないか。面白い体験ができるのではないかと。

 

 とはいえ、踏み込まなかった者にはその仮定は意味をなさない。

 八幡は、現世のしがらみをほぼ全て。妹や家族以外の関係を全て捨てるような気持ちで、仮想世界へとログインした。

 

 まさか現実世界に戻って来られない事態になるとは、思ってもいなかった。

 

 

***

 

 

 仮想空間の総武高校に集合した生徒たちは、それぞれ自分のクラスへと移動した。今日はこの世界で授業を二つ受ける予定だが、その前にバーチャルな環境に慣れておく必要がある。

 

 喋る相手がいなくても普段ならぼーっと過ごせばそれで済んだのに。今は何でもいいから身体を動かしたいと思ってしまう。わくわくする気持ちを持て余した八幡が、次の授業で使う教科書などを机の中に入れていると。

 

「じゃあ最初に、隣のクラスと合同教室を作ってみるからな」

 

 担任の教師がそう言って、手元で何やら操作を始めた。するとたちまち部屋の容積が広がって、二つのクラスの生徒たちが一堂に会した。廊下側の壁が遠のいて、そこに隣の教室が横並びになるようにして、すぽんと入り込んだ形だ。

 

 声にならない驚きを示す者、「おおっ」と感動している者、「やべーっしょ」と騒いでいる者など反応は様々だが、誰もが興奮している様子が伝わって来る。それは八幡も例外ではなかった。

 

「では、解除はこちらでやりますね。F組の皆さん、さようなら」

 

 隣のクラスの担任が合同教室を解除して、クラスは再び見慣れた姿に戻る。またもや声を上げる生徒たちを手振りで抑えて、担任が次に試したのは。

 

「今度は離れた教室と合体させてみるな。そうだな……体育館にするか」

 

 程なくして、今度は窓側の壁が遠のいたかと思えばすぐに姿を消して。教室からそのまま繋がるように板張りの床が続いていた。

 バスケットのリングやバレーのネット、さらに奥には観客席も確認できる。体育館の壁の一部が教室の側面とくっついて、両者を隔てる障壁が取り払われた後のような光景だ。

 

 教師の声を待つことなく、境目にいた生徒数人が我慢できずに立ち上がって「やべー、本物だ」と走り回っている。体育館の入り口に向かった生徒は「ここから外に出られるぞ」と興奮気味だ。

 

 普段ならイラッとするところだが、ぼっちを気取る八幡ですらも、彼らの気持ちが分かるなと思ってしまった。教室側のドアからは廊下に、体育館側からは外に移動できるのは、仮想空間ならではだろう。

 

 

「教室の合体は教師じゃないとできないけどな。教室の内装は、クラスなら委員長の、部室なら部長の権限で変更が可能だったな。ちょっと試してみるか?」

 

 合体を解除した担任の言葉に従って、委員長が席を立った。

 

「そうですね。では生物室にしてみます」

 

 どうせならお菓子の家がいいとか、竜宮城を再現しろといった軽口が叩かれているが、やはり八幡は気にならなかった。それよりも早く変化が見たい。

 

 生真面目な顔をした委員長が操作を行うと、見慣れた机がたちまち姿を消して、黒を基調とした横長の机に四人から六人ずつが座っている光景に切り替わった。

 

 生物室に移動したとしか思えないが、机の中を見ると教科書がある。八幡がついさっき入れておいたものだ。つまり見た目は違えども、これは自分の机で間違いないのだろう。合体でも移動でもなく換装だと、そう説明された意味が実感できた。

 

 

「この世界だと、移動教室に怯える必要はないってことだよな。連結するにせよ内装を置き換えるにせよ、クラスに行けば済むってのは、ぼっち的には助かるな」

 

 移動教室とは知らないまま独り途方に暮れていた過去を思い出して、思わず呟きが漏れる。あわてて八幡は、声が外部に聞こえない設定に切り替えた。

 

 自分の言葉が周囲に伝わらないだけで、周りの声は先程までと変わらない。委員長が教室を元に戻す声もちゃんと聞こえている。

 

 ないしょ話をする相手は残念ながらいないが、ぞんぶんに独り言を口にできるのは少し嬉しい。ぼっちではあるけれども、八幡は決して無口な性格ではないからだ。むしろ妹に対してなら饒舌になるまである。

 

「えーと。ついでだし、音声入力でメモを取ってみるか」

 

 この世界では手書きももちろん可能だが、手元にキーボードなどを表示することでローマ字入力やフリック入力もできる。事前の説明で八幡が心を惹かれたのは音声入力だった。

 

「周りの連中が馬鹿騒ぎをして鬱陶しい、って言ってもあいつらには聞こえないし、自動的に文章ができるし楽だなこれ。漢字の変換も句読点も問題ないし、ここの入力システムはかなり優秀みたいだな。余は満足じゃ、マル。実験終了!」

 

 喋ったとおりのメモを眺めて、笑いが込み上げてくるのを必死で堪えた。これならL○NEが捗ることだろう。この世界では純正のメッセージアプリで同様のやり取りができると聞いたが、相手がいないのが残念なほどだ。

 ぼっちの自分でもそうなのだから、他の連中ははしゃいでいるだろうなと八幡は思った。

 

「授業中に音声入力ができるってのも楽だよな。現実の世界に帰ったら手書きでノートを取るのが嫌になりそうだわ」

 

 そう呟きながら、机の中から教科書を取りだした。この世界特有の仕組みをざっと確認し終えた担任が、生徒たちにそう命じたからだ。

 

 教師も生徒も浮ついた気分のままで、見慣れた教室で慣れない環境下での授業が始まった。

 だがそれは、不意の中断を余儀なくされる。

 

 

***

 

 

 半時間ほど経った頃に、奇妙な違和感が八幡を包んだ。

 気付けば目の前には教科書もノートも机すらもなく。まるで入学式のように隙間なく並べられたパイプ椅子に腰を下ろしていた。

 

 ちらちらと目だけを左右に動かすと、付近には同じクラスの連中が集まっている。すぐ前も、そして後ろもおそらくF組の生徒だろう。周囲のざわめきが次第に大きくなって来た。

 

 思い切って首を大きく動かすと、人数からして全校生徒が集められているようだ。場所は体育館で間違いない。同時に、教室を合体したわけでも内部を換装したわけでもなく、強制的に移動させられたのだと理解する。はっきり言って嫌な予感しかしない。

 

 

「諸君、この世界にようこそ。ゲームマスターの私から少し説明をしたくてね。気持ちを落ち着けて聞いて欲しい」

 

 突如としてステージ上に現れた男にそう言われて、体育館内はたちまち弛緩した空気に包まれた。しかし八幡の嫌な予感は去ってくれない。むしろ変な連想をしてしまう。この状況は、まるでSAO*1みたいじゃないか。

 

「話は単純だ。まず、君たちは最低でも一年間はログアウトできない。それから、この世界での死は現実の死に直結するので、短慮は避けて欲しい。ここまでは大丈夫かな?」

「……えっ?」

 

 気の抜けた声が館内にこだました。言われた言葉が瞬時に理解できない者、冗談だと受け取った者が大半で、事の深刻さに気付いた者はまだ少数だ。

 だが、パニックを起こされるよりはマシだと八幡は思う。唇を強く噛みしめながら、ゲームマスターの言動に意識を集中する。

 

「ゲームに挑んでいる諸君は一般プレイヤー、教育・学術関係者のことはゲストプレイヤーと我々は呼んでいる。ゲームは、捻りのない形で恐縮だがね、塔の百階でボスを倒せばクリアとなる。その場合には、一般・ゲストを問わず全てのプレイヤーを解放すると約束しよう。多少の時間差は出るかもしれないがね」

 

 ざわざわとした喧噪が辺りに満ちている。現実感を持てずにいるのだろうが、頼むから静かにしてくれと八幡は思う。ぼっちは他人を頼れないのだ。重要な情報を聞き漏らしたくはない。

 

 それにしても、塔を上っていくゲームと聞くと携帯電話のアプリを思い出す。オリジナルはずっと昔にゲームボーイで出たそうで、父親が社畜を始めて間もない頃に、現実逃避をしたくて繰り返しプレイしていたと聞かされた。

 

 あれをやらされて「サガシリーズ*2」に嵌まったんだよなと、そこまで考えて。少し気持ちの余裕が出てきた自分に八幡は気付いた。

 

「ゲストプレイヤーの諸君は、古典的な意味での人質だ。現実の世界から安易に干渉されないようにという意味合いもあるが、それよりも諸君には生き証人となることを望むよ。この世界がいかに素晴らしいか、その魅力を外で存分に広めてくれたまえ」

 

 かつて巨大な帝国が周辺の部族から人質を取り、帝国内の優れた文物を惜しみなく体験させることで自分たちに好感を持つ人材に育てたように。

 

 古典的な意味での人質とは、良く言ったものだと八幡は思う。どうせ解放の可能性をちらつかせながら良からぬ事でも企んでいるのだろうと、そう考えていたのだが。

 

「君たちが望めば、二年後には何ら条件を課さずにこの世界から解放しよう。もちろん、この世界に残ってくれても構わない。一年後からは半年おきに新たなプレイヤーを募集する予定なので、君たちを飽きさせることはないと思うがね」

 

 

 この世界に向けるゲームマスターの自信は、一体どこから来るのだろうか。最低でも一年間はログアウトできない世界に、誰が来たがるというのだろう。

 

 だが、確かに。この世界の先進性や利便性は身をもって体験してきた。人質という立場でさえなければ、魅力的な世界だと言ってやっても良い。

 

「あれだな。ハンター*3のグリードアイランドみたいに、とんでもないお宝とかがあれば、ログアウト不可でも人が集まるだろうけどな」

 

 あのゲームでは、クリアどころか元の世界に戻ることすら諦めて惰性で生きているプレイヤーがいたはずだ。そんな連中を二年ごとに一掃して、新たな人材を呼び込む仕組みを考えたつもりなのだろう。

 

 それでもやっぱり、年単位で元の世界に戻れないのは論外だという結論に戻ってしまう。が、そんなことよりも。

 まずは自分のことを考えるべきだと八幡は思い直した。

 

 周囲から怒声が飛ぶ中で、何とか話を聞こうと耳に意識を集中する。なのに、何を言っているのかまるで聞き取れない。

 

「ちっ。この世界でゲームマスターに歯向かっても意味ねーだろ。お前らが文句を言うのは勝手だが、人に迷惑を掛けるなっつーの」

 

 授業中からずっと声が外に漏れない設定のままなので、八幡の口調も乱暴になって来た。続けて大きくため息を吐いて、匙を投げる。こうなっては、なるようにしかならない。押して駄目なら諦めるのが肝心だ。

 

 そんなふうに八幡が腹をくくって、座ったままぼーっと過ごしていると。ようやく騒がしい声が小さくなった。ゲームマスターが身振りで傾聴を求めたのが原因だろう。

 

「今の私は運営の仕事場から、君たち全員に語りかけている。だから質疑応答は省略させてもらうよ。それよりも諸君は、この世界を満喫してくれたまえ」

 

 そう言って、男は現れた時と同様に瞬時に姿を消した。

 反射的に時刻を確認すると、もうすぐ午後六時になろうとしていた。

 

 

***

 

 

 再び奇妙な違和感に包まれて、気が付くとF組の教室だった。あれは夢だったと思いたいが、現実逃避をしても何も始まらない。

 授業は即座に中止となり、担任が教壇に立ったままLHRに移行した。

 

 幸いなことに、教師一同はひな壇に近い席に移動させられたみたいで、ゲームマスターの説明を全て聞き取れていた。それを担任がひととおり整理していく。

 

「我が校でこの世界に巻き込まれたのは、授業を受け持つ教師全員と全校生徒一同だな。校長先生をはじめ学校運営にのみ関与している方々はログインしていない」

 

 無理に軽い口調を装ってはいるが、やはり担任も冷静ではいられないようだ。どうして自分が、という感情が言葉の端々から伝わって来る。

 

「我々が寝かされているベッドは特注品で、筋力低下や褥瘡をかなりの程度まで防げるという話だ。数年臥床しても軽いリハビリで日常生活に復帰できると聞いていたが、まさか実際にそんな目に遭うとはな」

 

 それでも大人として、取り乱すことなく己の役割を果たしているのは凄いものだなと。八幡は素直にそう思った。

 

「この世界でも空腹感があって、この学校で一日三食の配給を受けられるんだとさ。できるだけ現実みたいに過ごせってことだろうな」

 

 聞き逃したのは、今のところは大した話じゃなかったなと。八幡が密かに安堵の息を吐いていると、唐突に担任の話が止まった。

 

 顔を上げると、教師は目の前に表示されたメッセージを確認している様子だ。やがて一つ頷いて空中をタップして、教壇の横に移動した。

 

 何が起こるのかと、クラス全員の視線が集中する中で。

 教壇に、人影がひとつ浮かび上がった。

 

 

***

 

 

 そこに現れたのは同学年の女子生徒だった。どうやら映像記録を再生しているようだ。誰かがクラス内で発言した内容を他のクラスでも共有できる機能があると言っていたが、それを使ったのだろう。

 

 八幡がそこまで把握するのを待っていたかのように。雪ノ下雪乃は現状について、滔々と私見を述べ始めた。

 

 

「たちの悪い冗談という可能性もまだ僅かに残ってはいますが、私は先程の発言に嘘はないという前提に従って、今後の方針を考えるべきだと思います」

 

「ゲームマスターによると、私達が解放される条件は三点。ゲームをクリアすること、二年後を待つこと、そして卒業資格を満たすこと。いずれかを果たせば、私達は現実世界に帰還できます。来年からは秋卒業も可能とのことですので、私達は最短で一年後、次に一年半後、最悪でも二年後には解放されます」

 

「三年生の先輩方は学業に専念されるのが一番だと思います。しかし私たち二年生は、残り二年で行うはずだった授業を一年に圧縮して受けるべきかと言えば、それは無理だと考えます。それを全員が一年間も続けられるとは思えないからです」

 

「歴史に鑑みて、私たちは何よりもまず内部分裂を防がなくてはなりません。一部の人だけが可能な案を採用することは、結局は誰にとっても得のない展開になりかねません」

 

「私たち二年生と一年生は予定通りのペースで授業を受けつつ、高等学校卒業程度認定試験(高認)を視野に入れるべきだと考えます。先程ゲームマスターは、この世界でもすぐに模試や入試が受けられるようになると言いました。私達の学業を妨げるつもりは微塵もないと。ならば高認も受験できる可能性があります」

 

「残念ながら先生方には、ゲームクリアか二年後かの二択しかありません。ではゲームクリアを目指すべきかというと、現時点では不確定要素が多すぎます。ゲストプレイヤーには幾つかの優遇措置がありますが、それらはゲーム攻略には関係のないものばかりです。そして推測になりますが、一般プレイヤーには私達にない攻略の為の優遇措置があると考える方が自然です。何より、死と隣り合わせのゲーム攻略はリスクが高すぎます」

 

「そもそも、私たちは二週間の間、軽挙妄動を防ぐためという理由で学校外に出られません。拘束期間が終わってからもまずは情報収集に努め、他のゲストプレイヤーと連絡を取り合うことが大切だと思います。その間に、攻略に邁進する一般プレイヤーとの差は大きく開いている事でしょう」

 

「今、私達にとって最優先すべき事は。一人一人が冷静になって、普段どおりの精神状態を保つことだと私は考えます。その為にも、少なくともこの二週間の間は、現実どおりの生活を継続すべきだと思います。決して自暴自棄にならず、皆が決めた目標に向かって努力することが大切なのは勿論です。しかし同時に、心のゆとりを忘れないようにしなければ、年単位の時間を無事に過ごすことはできないでしょう」

 

 

 反論の余地のない正論を聞き終えて。八幡は、じっと立ったままの雪ノ下を眺める。まるでドラクロワの絵画「民衆を導く自由の女神」のように、世間に名の知れたリーダーもかくやと思わせる堂々とした姿だ。きっとクラスではいつもこんな感じなのだろう。

 

 この短時間でここまで状況を理解して対策を立て説得力のある説明ができる生徒は、まず他にはいない。聞き漏らしていた情報を頭の中で整理しながら、八幡は雪ノ下の能力に舌を巻いていた。

 

 だが、何故だろうか。

 八幡は演説に聴き入りながらも、心底からは同意できなかった。

 

 雪ノ下が語る言葉の中に欺瞞を感じたからではない。「皆が決めた目標」とは明らかに、自身の提案を既決事項にしてしまおうと聞き手を誘導する目的の表現だが、この状況でそこに噛み付くほど八幡は意固地なわけではない。

 

 軽率な行動に出ぬよう教師にすら配慮して論を展開し、同時に生徒をも諫めている。今の雪ノ下の演説は、時が経ってから振り返れば瑕疵を思い付くかもしれないが、現時点では完璧に近い。

 

 だが……。

 

 

「ゆきのん、すごい……」

 

 聞き覚えのある声が八幡の耳に届いた。「あれ、もしかして同じクラス?」と思考が逸れそうになるのを何とかこらえ、そして直感的に思う。「あいつは無理をしている」と。

 先ほど現実で見た雪ノ下とは、何かが違う。

 

 だが、仮にその直感が正しかったとして。八幡に何ができるというのだろうか。

 それに、この世界は限りなく現実に近いが、しかし現実ではないのだ。だから自分の感覚が間違っている可能性もある。

 

 雪ノ下の印象が微妙に異なるのは、二つの世界の表現能力の差が原因だと結論づけて。

 八幡は、心に浮かびかけていた疑問を忘れることにした。

 

 

 時刻を確認すると、夜の七時を回っていた。

 

*1
川原礫「ソードアート・オンライン」(2009年〜)

*2
「魔界塔士 Sa・Ga」(1989年、携帯アプリは2007年)、「Sa・Ga2 秘宝伝説」(1990年)、「ロマンシング サ・ガ2」(1993年)、「ロマンシング サ・ガ3」(1995年)など

*3
冨樫義博「HUNTER×HUNTER」(1998年〜)




この世界を構築する際に、本話で名前を挙げた三作品を参考にしました。
次回は少々難航しておりますが、できれば数日後に投稿したいと考えています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

以下追記。
前書きの一文が作者の意図とは違った意味に解釈できそうなので訂正しました。(5/17)
同級生→同学年に修正。(5/19)
後書きの余計な語りを消去しました。(7/14)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,9/20)
新しく書き直したものに差し替えて、以下の解説を付け足し、前書きと後書きを簡略化しました。(2018/11/17)


■書き直しに伴う弊害について、他一点
 本話には、最初に投稿した際には明かさなかった話がいくつか含まれています。その結果、本来ならそれらの情報が初お目見えだった箇所が(幕間2話など)くり返しに思えるかもしれません。いずれ修正する予定ですが、しばらくはご勘弁を頂ければと思います。
 また、「仮想空間に巻き込まれたのは高校生だけ」と誤解させる描写があったみたいで、その辺りの補足も本話で加えておきました。


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05.こうして彼ら彼女らの夜は更けて行く。

話を原作沿いに戻す前に、もう少しだけこの展開にお付き合い下さい。



 既に時刻は午後十時を回っている。

 

 雪ノ下雪乃の演説の他には、さしたる意見も出ないまま。とはいえ不安に駆られる生徒たちをそのまま解散させるわけにもいかず。LHRは長々と続いてようやく終わった。

 

 今は生徒も教師も、校舎の上に出現した学校関係者専用の個室に身を落ち着けている。

 

 個別に四桁の番号を振られた個室は、先程の教室と同様に結合できる。なるべく友人と一緒に過ごすようにと教師が推奨したため、多くの生徒は部屋を共有した状態で夜を過ごしていた。

 

 

 個室の広さは24平米ぐらいで、奥にはホテルの客室のようにベッドと来客用のソファが置かれている。部屋の手前には大きめの本棚としっかりした勉強机がある。これらの配置や内装は変更できないものの風呂とトイレも別々にあって、こうした状況でなければなかなかの環境だ。

 

 二つの個室を合体させると2LDKのような間取りになって、各々の寝室には鍵がつくものの基本は自由に出入りできる。寝室まで共有するとツインかダブルかを選べる上に和室に布団も可能になる。

 

 

 現実とは少し触感が異なるけれど、お風呂に入るとやはり気持ちが落ち着くもので。生徒の多くは、ひとまず危うい心理状態からは抜け出せていた。不安や怒りの感情は依然として根強いが、少なくとも目の前の状況を否認して逃避する域は脱している。

 

 遠からず抑鬱などの反応も出るのだろうが、深刻な状況に至っていないのは不幸中の幸いだった。

 

 

***

 

 

 比企谷八幡は一人で、8081と番号がついた個室にいた。

 

 教室から移動してくる際に、こちらを心配そうに眺める生活指導の教師には気付いていたが、八幡には変な事をする気はさらさらなかった。というよりも、何もできないと言った方が正しいだろう。

 

 入学式直後の事故のせいで、あの教師からは妙な心配をされている節がある。具体的には、自暴自棄な行為を危ぶまれている気がする。

 

 とはいえ学校の敷地外に出ることは不可能で、自殺を幇助するような道具も身の回りには何もない。そもそも八幡にしてみれば、妹の比企谷小町や飼い猫のカマクラと再会できぬままこの世界で朽ち果てるなど論外だ。

 

 身の安全だけではなく、精神状態を気にかけてくれている事も理解している。でも、理不尽な状況には慣れている。

 

 こんなのは普段からよくあった事だと心を殺して、八幡は内心で教師に反論する。この程度なら俺は大丈夫ですよと。

 その慣れこそを不安視しているのだと、今の八幡にはまだ気付くことができない。

 

 

 八幡はベッドに寝転がって頭を切り替える。

 元の世界ではぼっちだったが、そばには小町がいてくれた。悪態を吐かれようがあざとい事を言われようが、妹が身近にいてくれるだけで世の理不尽にも耐えることができた。

 

 だがこの世界で、八幡は正真正銘のぼっちになった。

 もう小町には頼れない。

 そう自覚するたびに身震いが出た。

 

 油断をすれば弱い心が妹を求めてしまいそうになる。八幡は唇を噛みしめて、そんな沸き立つ感情に必死で蓋をした。

 

 小町がこんな世界に閉じ込められているなんてありえない。きっと今頃は現実で、「お兄ちゃんの帰りを待ってるからね。あ、今の小町的にポイント高い!」とか言っているに違いない。

 

 俺が不条理な事に巻き込まれるのは仕方がない。だが小町だけは。

 想像してしまえば不吉な予想が実現しかねない気がして、八幡は思考を必死で止める。

 

 そんな事はありえない。もっと別の有益な事を考えようと何度も自分に言い聞かせながら。

 八幡はその夜、疲れ果てて眠ってしまうまで、妹のことしか考えられなかった。

 

 

***

 

 

 雪ノ下もやはり一人で個室にいた。部屋番号は1031号室だ。

 

 クラスメイトの多くからは部屋の共有を望まれたが、「申し訳ないのだけれど、色々と考えたいことがあるので」と告げるとそれ以上は無理強いされなかった。

 

 既に雪ノ下は生徒と教師の多くから、この世界で頼るべき存在だと目されている。

 実はこの扱いは、意図的に作り出したものだ。クラス内で発言を求められた時点で、それが必ず全クラスで聞かれることになると意識しながら話をしたからだ。

 

 

 普段の雪ノ下には、面倒な事を押し付けてしまえる姉や両親がいた。決して円満な関係とは言えないが、厄介事は任せて気ままな高校生活を送ることができた。

 

 気ままとはいっても、普段の行動が本心から望んだことだったかと問われると答えに窮する。

 それでも、最終的な責任を引き受けずに済む気楽な立場だったのは確かだ。高校生なら普通だと思われるかもしれないが、雪ノ下家においてそれは破格の扱いだった。良い意味でも悪い意味でも特別扱いだったのだ。

 

 

 だが、この世界では私が役割を果たさなければならない。何よりもまず自分が無事に帰還すること。そして全員を現実世界に戻すこと。これらの実現に向けて動かなければならない。

 

 結果だけではなく経過も重要だ。私がこの世界でどう振る舞い、いかにして他者の役に立ったかを誰かが語り広めてくれるように。そこまでを視野に入れて行動すべきだ。

 

 

 それは、野心に駆られた思考というよりは防衛の為の思考だった。

 

 地域密着の建設業を営み県会議員も務めるなど、雪ノ下家は地元に確固たる地位を築いている。傍目から見れば恵まれた立場と言えるのだろうが、厄介事も多い。その最たるものは、人前で下手な行動を取れない点だ。

 

 たとえ未成年でも、他人に付け入る隙を与えるような行動は慎まねばならない。いくら同級生が羽目を外して騒いでいても、姉妹二人には節度を保ち続ける事が求められた。

 

 大学生にもなると未成年でも飲酒行為が目立って来るが、姉は「酒はダメなんで、オレンジジュース下さい」と言ってそれを避けるのが常だった。

 

 

 仮にこの世界で主導的な役割を果たさなかったとしても、表立って非難をされる事はない。だが、影でこんな事を言い触らす輩が出るのも間違いない。

 もし姉がこの世界に居たら。もしも両親が高校生の頃に巻き込まれたら。きっと超人的な活躍で、多くの人を救うのだろうと。

 

 両親や姉への明らかな追従なので表立っては反論しにくいし、そもそも反応する事すら馬鹿らしいが、自分への見え透いた当てつけなのは明らかだ。だが、それはまだいい。

 

 おべっかや低俗な嫉妬しか能のない連中に合わせる形で、こうして自分の行動が決まってしまう。雪ノ下が納得できないのはこの点だった。どうしてそんな事をしなければならないのか。こんな世界は間違っている。

 

 だからこそ雪ノ下はこの世界を、そして現実の世界を変えなければならないと思う。これは防衛本能を野心に置き換えたものだが、その辺りの感情の由来など今さらどうでも良い事だ。

 

 

 自らの手で世界を変える。そう改めて決意する雪ノ下は、頭の中が妙にクリアになってどんな難問でも解けそうな手応えを得ていたが、自分の顔が蒼白だとは気付いていなかった。

 

 

***

 

 

 由比ヶ浜結衣は6188号室で、二人の友人と部屋を共有して過ごしていた。三つの部屋を合体させると浴室もかなりの広さになったので、三人で一緒にお風呂に入って今はリビングで寛いでいる。

 

 今日はとても長い一日だった。一緒に笑いながら三人で昼食を食べ、その後に真面目な話をした事も、今となっては遠い昔に思えてしまう。

 

 唯一の慰みは、そうした体感時間の長さゆえに、感情の隔たりがかなり取り払われた事だろうか。今や長年の友人と言っても差し支えないほど親密な仲だ。

 

 この世界の事を話題にしても「暗くなるだけで意味なくない?」と三浦優美子が言い出したので。沈黙を嫌う由比ヶ浜が、先程から軽い話題を次々と出していた。

 それに相鎚を打ちながら、海老名姫菜は昼食後に趣味を打ち明けた時の事を思い出していた。

 

 

 かつて「虫愛づる姫君」を読んだ時、海老名はそれを我が事として受け取った。

 そんな趣味さえなければ。勿体ない。そう言われる姫君に自身を重ね、趣味のBLの話をまともに聴いてくれる人などは現れまいと諦め、少し謎めいた雰囲気を持つ大人しい少女という役割をずっと演じてきた。

 

 趣味は一人の時間に。人前では決して明かすまいと。

 

 だが、高二に進級して新たにできた友人二人は、いつのまに私の頑なな心の壁を打ち破ったのだろうか。

 気が付けば海老名は部屋に一人でいる時のように、教師と友人を題材にした妄想を爆発させていた。

 

 せっかくできた良き友人を、いきなり失う事になるかもしれない。

 

 趣味を言い触らされる心配はしていなかったが、この二人と疎遠になるかもしれない恐怖は海老名にもあった。だが同時に、三浦と由比ヶ浜にすら打ち明けられないのなら、この先は誰が相手でも駄目だろうという気持ちもあった。

 

 

 海老名の話を最後まできちんと聴いてくれて。片や苦笑しながら、片や照れながらも「その話をしてる時の顔のがいいし」「うん、すごく楽しそうな顔してた」と言ってくれた二人を前にして。

 心にブレーキを掛けるのが得意だったはずの海老名は、危うく涙を零すところだった。

 

 結局のところ。海老名にとってはあの瞬間に、世界は変わってしまったのだ。この二人のお陰で。たとえ人前で趣味が露呈して誰に呆れられようとも、自分には三浦と由比ヶ浜がいる。

 

 それに比べれば、この世界からログアウト不可なんて事件は、取るに足らない事だった。だって、この二人が一緒なのだから。何を怖れる必要があるのだろうか。

 

 海老名は目に深い決意を秘めて、心の中でつぶやく。三浦と由比ヶ浜の心の支えとなり、この世界を離脱するその日まで、共に楽しく過ごしてみせると。

 そしてゆっくりと、二人の話に意識を戻した。

 

 

 その時、三浦と由比ヶ浜はお昼の話を振り返っていた。

 

 海老名の話は二人にとって意外ではあったものの、他人には言い辛いであろう趣味を打ち明けてくれた嬉しさの方がはるかに勝っていたし、楽しそうに語るその表情を見ただけで胸に温かいものが浮かんできた。

 

 二人の中で海老名のBLの話は、解決済みの大切な記憶として扱われている。今この場で話題に出したのは、また違った話だった。

 

 

 今から数時間前に、三人はグラウンドを見渡せるベンチで昼食を摂った。すぐ近くではサッカー部が練習をしていて、そこで見た同級生の男子生徒を二人は話題にしていたのだ。

 

「正直あーし、見栄えがいいだけで中身のない奴だと思ってたんだけど」

 

 由比ヶ浜の相鎚に促されるようにして三浦は語る。獄炎の女王という異名の割にはハッキリしない口調で、少し照れた様子で話を続ける。

 

「けど、サッカーしてる時は、いつもの、一歩引いて何か悟ってるような顔と、違ってたし。こういう表情もできるんだ、って。普段からそうすればいいのに、って思ったし」

 

「まだ、自分の気持ちがそういう事なのか、分かんないけど。できればもっと、詳しく知りたいって思……何を言わせるんだし!」

 

 照れ臭さが限界に達したのか、わざとらしく怒ったような事を口にする三浦を宥めながら、由比ヶ浜は思う。誰かの隠れた魅力に気付いてしまったら、もっと知りたいと思っちゃうよねと。

 

 不機嫌になったふりをしながら二人からも恋話を聞き出そうとする三浦と、それに対して趣味全開で理想のカップリングを熱く語り始める海老名を眺めながら。

 由比ヶ浜は、今日の昼に顔を合わせた男子生徒を思い出していた。

 

 

 話はまるで尽きそうにないが、そろそろ寝る時間だ。

 一度は別々のベッドに入ったものの、結局は三浦のシングルベッドで身を寄せ合って。口には出さない不安な想いを抱えながらも、三人は比較的ゆっくりと身体を休める事ができたのだった。

 

 

***

 

 

 葉山隼人(はやまはやと)は9283号室で、運動部員の友人達と部屋を共有していた。

 

 葉山が「考えたい事がある」と言って寝室に引き籠もってしまうと、リビングでは会話が弾まず程なくして解散の運びとなった。

 だが葉山はそれを知らない。各々が寝室にて、眠れぬ夜を過ごしている事も。

 

 一人きりの寝室で、葉山は先程の演説を思い出していた。

 

 幼なじみの雪ノ下とは、過去にあったあの事件以来ずっと疎遠なままだ。向こうから関わろうとする事はなかったし、こちらもそれを受け入れていた。今の高校で、二人の関係を知っている者はほとんどいない。

 

 かつて、あの事件が起きた時に。何としてでも救ってあげたいと、自分なりに全力を尽くしたのに。それは当の雪ノ下に、より一層の苦痛を与えただけだった。

 あれ以来、葉山は全身全霊で何かに取り組む事ができなくなった。

 力を抜いて事に当たっても大抵の事なら結果を出せる。だが、それに何の意味があるのだろうか。

 

 結果を出したいとあれほど強く願ったのに、解決の糸口すら掴めなかった。今になっても葉山はなぜ失敗したのか解らないし、どう行動すれば良かったのかも解らない。そんな自分を尻目に雪ノ下は独力で問題を片付けて、そして孤高の存在となった。

 

 

 今回も、と葉山は考える。雪乃ちゃんは一人で事態を改善させて、そして浮いた存在になるのだろう。対等の相手が見当たらない以上は、その流れはおそらく必然だ。

 

 今の自分には、それを防ぐ手段もなければ気力もない。幼い頃から大人に囲まれて育った物分かりの良い子供の例に漏れず、葉山はこの年にして諦める事に慣れていた。だが、全てを諦めてしまったわけではない。

 

 今の自分には、直接の手助けはできない。しかし身近な友人や同級生を元気づけ、「みんな」の世界を調和する事で、間接的に助けられるかもしれない。

 

 自分の行動が雪ノ下の足枷とならず、物事が良い方向へと進む端緒になる事を心から祈りながら。葉山は静かに眠りに就いた。

 

 

***

 

 

 平塚静は個室で一人後悔していた。生徒に部屋番号を教えることなく、他の教職員とも距離を置いて引き籠もっている。

 何故どこかのタイミングで、この展開を予測できなかったのかと。むざむざ生徒を危険な目に遭わせる事なく、この事態を回避する道があったのではないかと。

 

 一方で、脳の冷静な部分はこうも思う。ログイン前に電話で話した()()()()()でさえ予測できなかったのだ。こんな荒唐無稽な状況に備えるなど土台無理な話だと。

 それが何らの慰めにもならない事さえ、平塚の中の冷静な部分は気付いていた。

 

 

 午後三時に高校から一キロ少し離れた病院の駐車場に集合した時には、生徒も教師も興奮を抑えきれない様子だった。

 

 世界で初めて体験できるバーチャルな世界に想いを馳せ、集合時間前からきちんと整列しているのに話し声はまるで絶えず、そんな生徒たちの熱気が辺りを包んでいた。それに絆されたのか、お喋りを注意するどころか雑談に加わる教師も少なくなかったのだ。

 

 病院の本館に繋がっている特別棟は年度末に立て替える予定になっていて、もうほとんど使われていない状態だったので、今回はそこを利用する手筈になっていた。

 修学旅行の時のように狭い部屋に特製ベッドを押し込めるだけ押し込んで、万が一の際には早急に本館へと搬入できる万全の体制だったはずなのに。

 

 どうしてこんな事になったのか。

 

 

 三時半からは順次ベッドに横になって、近くの者達とふざけ合いながらこの世界へとログインした。各自がチュートリアルをみっちり行って、現実と瓜二つの体育館に全員が揃って現れたのが四時半だった。

 

 同僚も生徒達もその外見は全く違和感がなかった。とある男子生徒の目がこの世界でも濁っていたのを見て、平塚は笑いを堪えられなかったほどだ。この時点で既に自分たちが人質になっていたなど、誰一人思いもしなかっただろう。

 

 現実そっくりの校舎内をざっと見学した後に、それぞれの教室に移動した。五限目の授業が始まったのが午後五時。そして三十分後、突然のテレポートで体育館に集められ、ひな壇の上にゲームマスターが降り立って一方的な話が始まり、そして今の境遇が確定した。

 

 

 いくら振り返っても、この状況を防ぐ事ができたとは思えない。起きてしまった事を後悔するよりも、今後のために知恵を絞る方がよほど有益だ。

 

 頭の中の冷静な部分は必死にそう叫んでいたが、平塚はその声を意識して退ける。明日からは前向きになろう。だが今日だけは。生徒を悲惨な境遇へと導いてしまった今日だけは。この後悔を忘れないように、この失敗を繰り返さないように、徹底的に後ろ向きになって過ごそう。

 

 平塚は忸怩たる思いを抱えたまま、眠れぬ一夜を過ごしていた。

 




次回は日曜に投稿の予定ですが、諸事情により普段より一時間早い更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(6/9,9/20,2/20)
後書きの余計な語りを消去しました。(7/14)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足し、前書きを簡略化しました。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「酒はダメなんで、オレンジジュース下さい」:原作11巻p.169、冨樫義博「幽☆遊☆白書」


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06.それでも彼女は希望の言葉を口にする。

今回でこの展開にも一応の幕が下ります。引き続きお付き合い頂けると嬉しいです。



 一夜明けた日曜日。全校生徒は普段よりも少し早い時間に各々の教室へと集合した。

 

 個室に引き籠もる生徒が出るかもしれないと教師たちは危惧していたが、部屋を共有した友人に説得されたり、知らぬ間に取り残される恐怖に尻を叩かれたりで、今のところ欠席者は出ていない。

 

 

 クラスごとに朝食を事務的に済ませて、朝のホームルーム(SHR)が始まった。だが教師も含め皆の雰囲気は重い。

 

 目が覚めても状況に変化がなかったので、昨日来の出来事は夢ではなかったと改めて思い知らされた気分だったし、外部からの手助けも無理そうだと理解せざるを得なかったからだ。

 

 昨日の雪ノ下雪乃の演説にあったように、せめて現実と同じように過ごす事で少しでも落ち着こうと思うものの。今日が日曜日なのがそれを困難にしていた。

 

 

 教師は早朝から集まって今日のスケジュールを話し合ったが、そもそも選択肢が限られている。授業か自習か。学活(LHR)か、それともクラブ活動か。

 

 気分を変える為に身体を動かす事をやらせようと、いったんはそんな話になったものの。

 それが一部の生徒にとっては残酷な提案になると、教師たちは気付いてしまった。

 

 サッカーであれテニスであれ、それらのクラブに所属している生徒たちは否応なく現実を突き付けられる。もうインターハイを目指すのは不可能だと。他校と練習試合を行う事すら困難なのだと。

 

 かといって、今の生徒たちに「何がしたい?」と問い掛けるわけにもいかない。偽らざる希望は「ログアウトしたい」だろうが、それを言わせようが言わせまいが悪影響しか生み出さないからだ。

 

 八方塞がりの状況の中、とりあえずの選択として昨日に続きLHRが始まった。

 

 

***

 

 

 二年F組の教室で、比企谷八幡は机に突っ伏した体勢で考えを巡らしていた。

 

 今日一日さえ乗り切ってしまえば、明日の月曜日からは普通に授業を行える。余計な事を考える時間が減れば、この雰囲気も少しはマシになるだろう。クラブ活動だって、今は運動部を中心にショックを受けている連中が多いが、結局は現状を受け入れるしかないのだ。

 

 土曜日にこの世界の稼働が始まるのに合わせて、生徒たちの日程も例年とは違ったものになっていた。金曜日までに始業式と入学式を終え、土曜日は月曜日の時間割で授業を受ける。午前の四限まではリアルで、午後の五限と六限はバーチャルで。月曜日は振替休日の予定だった。

 

 昨日のLHRで、明日の四限までは既に済ませた授業を繰り返すと決まった。生徒の精神面からも、授業を行う教師のこの世界への慣れという面からも、それが一番無難だと全クラスで合意が得られたからだ。

 

 

 そうした事を思い出しながら、八幡は思考を進める。

 

 現状の雰囲気を打破するためには誰かが行動を起こすしかない。しかし、例えば雪ノ下が生徒全員に向けて何か前向きな事を言ったとする。それを他の生徒はどう思うだろうか。

 

 素直に従う奴もいるだろうが、おそらく少なくない数の連中が雪ノ下のスペックを理由に拒否反応を示すだろう。下手をすれば「そりゃ、雪ノ下さんなら簡単にできるだろうけど、凡人には無理だよ」などと言って、動かない事を正当化しかねない。

 

 雪ノ下のハードルを上げつつ自分たちの同調者を募るような言い回しは、それが集団の足を引っ張るとは気付けない連中にしかできない事だ。

 他人の悪意に身構えながら過ごしてきた八幡には、事態が悪い方へと傾いていく未来が容易に想像できた。

 

 では、それに対して自分は何ができるだろうか。おそらく雪ノ下が何かを言った時点で話は自動的に進んでしまい、生徒であれ教師であれ、そこに口を挟んでも覆す事は難しいだろう。

 

 ならば言われる前にやるしかない。雪ノ下だけでなく、他の優等生連中が地に足の着かない事を言い出す前に、何か手を打たなければ。

 

 

 しかし今の八幡には、表立って行動するだけでも難事だ。

 

 例えば、あえて自分が悪者ぶって大多数の思考を反対方向に持って行こうにも、まずは注目されなければ意味がない。なのにこの一年というもの、八幡は他者から注目される事をこそ何よりも避けて過ごしてきたのだ。

 

 それに何か策を弄したところで、その意図がきちんと伝わらないようでは話にならない。完璧に論破されて話が終わってしまえば単なるピエロだ。

 

 昨日現実世界でもっと雪ノ下と話をしていたら、状況は変わっただろうか。

 八幡はしばし、その仮定を検討してみた。

 

 結論は、少しは変わったかもしれないが少ししか違わなかっただろうというものだった。

 そもそも、世の中には一瞬で信頼関係を築ける連中もいるのだろうが、八幡の性格では無理な話だ。

 

 いずれにせよ、今はその少しすらないのだと考えて、八幡は現実逃避を終える。

 状況は何も変わっていないが、気分はマシになった気がした。部長様をもう少し崇めるべきかねと、そんな軽口さえ叩けそうなほどだ。

 

 

 そっと辺りを見渡してみると、誰の顔にも閉塞感がにじみ出ていた。今のところは精神の平衡を保てているが、遠からず破綻が訪れるのは間違いないだろう。

 しかし八幡は、苦い顔をして歎息するしかできない。

 

 

***

 

 

 状況を動かしたのは意外な人物だった。

 

 昨日と同じように担任が教壇の横に移動したので、八幡は自分の行動が遅かったと悟り目を瞑る。しかし、教壇の上に現れたのは雪ノ下でもなければ他の生真面目な優等生でもない。ほんわかとした雰囲気を持つ上級生だった。

 

 前髪をピンで留めて綺麗なおでこを覗かせた彼女は、可愛らしい雰囲気を辺りに振り撒いている。制服の着こなしにしろ髪型にしろ目立って特徴的な点はないのだが、どこか細かい部分で違いがあるのだろう。全体として、見る人を落ち着かせるふんわりとした印象だ。

 

 昨日の雪ノ下の演説はクラス内での発言を記録して映像として再生したものだった。しかし今はそれとは違い、リアルタイムで全校生徒に話しかけようとしている。何を言うのか分からないが、とりあえず話し終えるまでは動きようがないので、八幡は先輩の言葉に耳を傾ける。

 

 

「えっと、生徒会長の城廻めぐり(しろめぐりめぐり)です。全校生徒のみなさんに、ちょっとだけ話を聞いてもらいたいと思います。……先ほど生徒会メンバーに各クラスの様子を見て来てもらったのですが、どのクラスも空気が重く、暗い表情の生徒がほとんどだと報告を受けました」

 

「私は生徒会長として、残念ながら教室に明るさをもたらすとか、皆さんに笑顔を戻すとかはできません。昨日の雪ノ下さんのように、皆さんに進む目標を示すこともできません。今も、生徒会メンバーがあれこれと助けてくれているからこうして話ができていますが、私一人だと何にもできないと思います」

 

「この世界に閉じ込められて、皆さんは昨日の晩、何を考えて過ごしましたか。……私は何にも考えられませんでした。私には想像もつかないようなスケールの大きな事件を前にして、圧倒されてしまったんです」

 

「じゃあ、ここで皆さんに質問です。皆さんは、そんな私を軽蔑しますか。生徒会長なんだからもっとしっかりしろ、って思いますか。……もしかしたら、そう思っちゃう人もいるかもしれませんね。でも私はそんな人達に、『最低だねっ!』と、明るく反論したいと思います。私には、そして誰にだって、できる事とできない事があるからです」

 

「じゃあ、そんな私を頼ってくれますか。……私一人だったら、頼ってくれる人はいなかったかもしれませんね。でもね、生徒会長は一人じゃないんです。あ、役職としては一人なんだけど、そうじゃないんです。私に力を貸してくれる頼れるメンバーがいるんです。それに、先生方や、昨日演説してくれた雪ノ下さんもいます」

 

「私は、皆さんにも力を貸して欲しいと思っています。といっても、特別な能力とかは必要ないんです。ただ、誰かが目の前で困っていたら、自分ができる範囲で手助けするとか。自分が何かに困っていたら、身近な人にちゃんと相談するとか。そんな事の積み重ねでいいんです」

 

「今、私達は、何をしたらいいのか途方に暮れている状態だと思います。遠くに目標はあるんだけど、頭や身体が動かせない状態なんだと思います。じゃあ、何でもいいから、まずは行動してみませんか。その行動が間違っていたら、誰かがそれを教えてあげればいいんです」

 

「私には、何か難しい事を考えたりはできません。今の状況を一発で解決できるような案なんて絶対に出せません。でも、この世界に閉じ込められて長い時間を過ごすんだったら、後で後悔するような過ごし方はしたくないんです」

 

「私は去年、生徒会長に立候補した時に、みんなが明るく楽しく過ごせる学校にしたいと言いました。……この世界で明るく過ごすのも楽しく過ごすのも、すぐには難しいと思います。でも、昨日よりも少しだけ明るく、昨日よりも少しだけ楽しく、って過ごし方は、皆さんの協力があればできるんじゃないかと思うんです」

 

「だから、皆さんの力を少しだけ貸して下さい。無理に笑わなくていいんです。周りに無理をしている人がいたら、気付いた人が指摘してあげて下さい。みんなが『昨日よりも少しだけ』って気持ちでこの世界で過ごせるように、生徒会もできる事は何でもします。だから、皆さんの力を、少しだけ貸して下さい」

 

 

***

 

 

 話を終えて深々と頭を下げる生徒会長を眺めながら、八幡は呆気にとられていた。この人の演説で、どうして教室の空気が一変したのだろう。生徒の気の持ちようが変化したのは何故なのか。

 

 その理由は八幡には解らない。ただ、本物(オリジナル)偽物(レプリカ)という言葉がふと、頭に浮かんだ。

 

 例えば、人生を賛歌するような流行曲は数多くある。その中には、聞くからに胡散臭い口先だけの曲もある一方で、歌詞も曲調もそんなに変わりはないはずなのに、段違いの説得力で聴き手に迫る楽曲もある。今の気持ちは、後者の作品に触れた時の感覚に近かった。

 

 おそらく自分は勿論として、たとえあの雪ノ下が会長と同じ口調で同じ内容を話したとしても、ここまでの効果は得られなかっただろう。むしろ先ほど推測したように、変な反発を生む可能性のほうが高い。

 

 会長はきっと、深く考えて発言を組み立てたわけではないのだろう。もしも先程の内容を意図的に構築して話していれば、そこに作為を感じて一歩引いて受け止めてしまう生徒が自分以外にも出たはずだ。

 

 つまり、会長が思ったままを素直に話したからこそ、ここまでの効果を生んだのだ。こんな状況でも「みんなが明るく楽しく過ごせるように」と本心から考えているからこそ、この変化が生まれたのだ。

 

 

 たっぷり一分近く頭を下げていた城廻が顔を上げると、期せずして教室のそこかしこから拍手が起きた。微かに伝わってくる音から推測するに、他のクラスでも同じ現象が起きているようだ。

 

 このタイミングで行動に出るべきだと判断した城廻は、これまでの経験から素直に自分の心情を語る事が一番効果的だとは思っていたが、この結果までは予測していなかった。

 

 それでも、この機会を逃してしまうほど城廻は初心ではない。拍手に応えておずおずと片手を挙げると。

 

「……え、えっと、……み、みんなで頑張ろう。おー!」

 

 拍手を止めて言葉を聞く姿勢になっていた生徒たちはすっかり戸惑っている。しかし城廻は怯まない。何度も「みんなで頑張ろう。おー!」と繰り返されて。苦笑しながらもセリフに合わせて声を出したり拳を突き上げる生徒が増え始めた。

 

 結果として、ほぼ全ての生徒が参加するまで繰り返しは続いた。「はい」を選ぶまで延々とループし続けるドラクエⅤのレヌール城を思い出しながら、八幡も微かに唇を動かして、ほんの少しだけみんなの輪に加わった。

 

 

 各クラスの反応を順番に確認しながら、平塚静は思う。我々教師陣も随分と切羽詰まっていたのだなと。改めて考えてみると、今朝の教師だけの話し合いもSHRでのやり取りも、事態を悪くしない事だけを考慮した選択がほとんどだったと思う。

 

 この仕事をしていて生徒から教えられる事は意外に多いのだが、今回はその最たるものかもしれない。選択した行動が間違っていても、それに気付いた誰かが指摘すればいい。誰かが落ち込んでいれば、それに気付いた誰かが力になればいい。

 

 変に悪い展開ばかりを考えず事態を見守りながら、起きた問題をそのつど確認して生徒達に助力すればいい。平塚は心の中でそう付け足しながら、久しぶりに微かな笑顔を浮かべていた。

 




次回はできれば数日後に。
可能な限り今の週二回の投稿ペースを維持したいと考えていますが、無理な場合は日曜更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
感想への言及に補足を加えました。(5/23)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,9/20)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足し、感想への言及を削除しました。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「ドラクエⅤのレヌール城」:原作2巻p.78、原作6.5巻p.71


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07.ついに彼女は決意を固める。

前回の後日談〜新展開です。



 総武高校の生徒教師がこの世界に捕らわれてから数日が過ぎた。彼らの生活は、少なくとも表面上は平静を保てていると言って良いだろう。

 

 生徒会長の演説があった日曜日の午前。その時点で状況は何ら変わっていなかったものの、学校を取り巻く雰囲気は明らかに一変した。

 

 そしてその日の午後。平塚静からもたらされた情報によって、この世界での日常を過ごす事に生徒も教師も同意せざるを得なくなったのだった。

 

 

 数年前から教師たちはDr○pb○xの共有フォルダに、年間行事をまとめたPDFなど色んな書類を保存するようになっていた。

 

 それはこの世界からでもアクセスできると事前に伝えられていたが、ログアウト不可になった時点で外部との繋がりは全て断たれたと思い込んでいた教師も多かったし、そもそも至急対応すべき事柄が多すぎて、そこまで頭が回らないのが実情だった。

 

 

 この世界に閉じ込められた土曜の夜に、平塚はその日の出来事をテキストにまとめて共有フォルダに保存した。

 

 保存先をそこにしたのは習慣的な行動の結果で、特に深い意図はなかった。そもそも自分たちへの戒めとして、状況を後から振り返る事ができるようにと記録したに過ぎなかったのだ。

 

 それぞれ0407R、0407Vと名付けられたそれらのテキストには、その日付に現実世界で、そしてこの世界で体験した事が簡潔にまとめられていた。

 

 

 一夜明けた日曜日。校内の空気が前向きに変化した後の昼休みに、平塚は昨日書いたテキストファイルを思い出した。今に至るまで話題になっていないのは、誰も共有フォルダを確認していないのが原因だろう。テキストの存在を周知して、確認や訂正をしてもらおうと考えたのだ。

 

 同僚に話を伝える前に共有フォルダにアクセスしてみると、そこには見覚えのないテキストファイルがあった。0407R2という名前のそれを恐る恐る開いてみると、そこには平塚らがログイン後の現実世界の出来事が記されていた。

 

 

 テキストは所々が黒塗りされていて読めなかった。おそらくは運営による修正で、この世界の人々に知られると都合の悪い情報が書かれているだろう。

 

 そのテキストにも「0407Rは全て読めたが0407Vは読めない箇所があった」と記されていたので、両方の世界に対する運営の検閲は確実だと思われた。

 

 何はともあれ外部との連絡手段が確保できたのは朗報だ。そしてテキストには、教師陣に対する今後の指示が明記されていた。

 

 

一、各教師との雇用契約は従前通りなので安心して欲しい。

 

一、毎日の授業やテストは勿論、学校行事も可能な限り現実世界と同じように実施する事。

 

一、ゲームへの参加は教師・生徒とも厳禁とする。

 

一、テスト用紙は後に確認できるよう教師と生徒でお互いに保存する事。

 

一、プライバシーに配慮しつつ学校行事の映像を各自が適度に保存する事。

 

一、学期ごとの生徒の成績表のみ共有フォルダで保存する事。こちらで保護者に送付する。

 

一、模試などの結果は受け取り次第、共有フォルダに入れて仮想世界に伝える。

 

等々。

 

 

 この時点で危うさを秘めていたのは、実は生徒よりも教師だった。なぜなら生徒には学業を修める事でこの世界を離脱するという選択肢があったが、教師は大人しく二年経つのを待つか、それともゲーム攻略を待つかの二択だったからだ。

 

 精神的に追い込まれた教師がゲーム攻略に向かう可能性は、低くはなかった。

 

 大人が高校生と比べて精神面で勝るかと言えば、そうとは限らない。成人でも精神が幼いままの者は少なくない。

 だがそうした者ほど、他者から保証を得られれば危ない橋を渡らなくなる。正確には他者に判断を任せているだけなのだが、突発的な行動に出ないだけでも周囲としては大助かりだ。

 

 

 他に何か行動のあてがあるでもなし。こうして教師と生徒はこの世界でも日常の延長で毎日を過ごす事になったのだった。

 

 

***

 

 

 今は水曜日の昼休み。二年F組の生徒たちが昼食を摂っている。

 その中に、このクラスで既にトップカーストの座を確実にしている男女のグループがあった。男子の中心的な立ち位置の生徒が、金髪の女子生徒に向けて話しかけている。

 

「そういえば、優美子たちはずっと一緒にいて疲れない?」

「あーしら超仲いーから。疲れるとかありえないし」

「ふうん。男同士だと、あんまり一緒にいると狙われてるのかと身構えちゃうけどね」

 

 この話し方では三浦優美子に通じそうにないと気付くや、葉山隼人は即座に話題を逸らして冗談にしてしまった。「そりゃないぜ隼人くーん」という声を適当にあしらいつつ、女子三人の様子をこっそり窺う。

 

 三浦は心底からそう思っているようだ。一方で「たはは」と苦笑いする由比ヶ浜結衣と、何かを我慢している様子の海老名姫菜を見てしまうと、少しは別々に過ごした方が良いのではないかと思えてしまう。

 

「今はうちのサッカー部もいまいち盛り上がりに欠けてさ。試合とか目標がないのも原因だろうけど、部活が終わってもずっと一緒の面子で過ごしてるからか、ちょっと殺伐とした感じも出て来てるんだよ。だから優美子が良ければだけど、一度見学にでも来て発破を掛けてやってくれると嬉しいんだけどな」

 

「んー。あーしが何か言って、雰囲気とか変わるもんなの?」

「優美子は有名人だからね。思ったままを言ってくれるだけで、俺も助かるんだけどな」

「んー。じゃあ仕方ないし。今日にでも見学に行くし」

 

 無事に話を誘導できた葉山は、残りの二人に向けて意味ありげな視線を送りながら。

 

「良かった。結衣と姫菜はどう?」

「えっ。そりゃ、二人とも一緒に行くし?」

「あ、あたしが行っても役に立ちそうにないと言いますか」

「私も、男子が激しくぶつかり合う様子は是非見たいんだけどね。ちょっと別に行きたいところがあるからさ」

 

 そんな二人の返事を聞いて、即座に話をまとめにかかる。

 

「他に用事があるなら仕方ないよ。優美子が来てくれるだけでも大助かりだし。二人には、またの機会にお願いして良いかな?」

 

 三浦に口を挟む隙を与えず、葉山は話を決定事項のように扱った。これで今日の放課後は別々に時間を過ごせるだろう。余計なお節介かもしれないが、共に一年間を過ごすことになる女子三人の間に、変な不協和音を起こさせるわけにはいかない。

 

 横にいる男子生徒は、首尾良く三浦だけを見学に招いた手腕に感心しているようだ。しきりに「やべー」と繰り返されたので、葉山はそれに苦笑で答える。

 

 別の話題を持ち出して適度に口を挟みながら。内心では「意外に姫菜は激しいスポーツが好きなんだな」という間違った(ある意味合ってる)知識を確認しつつ。

 男女の一団はそんなふうにして、昼休みを楽しく過ごすのだった。

 

 

***

 

 

 その日の放課後。友人二人と別れた由比ヶ浜は、昼休みの会話を思い出しながら職員室へと向かっていた。

 

 

 三浦の気持ちは未だ固まってはいない。現実世界でサッカーをしていた姿に目を奪われたのに、この世界ではそつのない表情しか見せてくれないからだ。それでも、葉山をもっと詳しく知りたいという気持ちは変わっていないようだ。

 

 今日は珍しく葉山から踏み込んで来た。「一緒にいて疲れないか」という()()を皮切りに、最後には二人に意味ありげな目配せまでして、三浦だけを部活の見学に誘ったのだ。

 それは恋に恋するお年頃である由比ヶ浜にとっては、脈がある証拠だとしか思えなかった。

 

 まさか自分たちを気遣っての行動だったとは夢にも思わず、心の中で三浦にエールを送りながら。由比ヶ浜は目的地へと辿り着いた。三人でずっと一緒に過ごす事に疲労を感じはしなかったが、一人の時にしかできない事もあるのだ。

 

 

 由比ヶ浜は職員室の扉を開けると「失礼します」と言いながら中に入った。お目当ての教師を見付けて、話し掛ける。

 

「あの、平塚先生。……奉仕部に依頼をしたいんですが」

「んっ、由比ヶ浜か。別に依頼がなくても、君ならあの教室に自由に出入りしてくれて構わないが?」

 

 優しい眼差しを向けてくれる平塚の声に、決心が少しだけ揺らぐ。「依頼は、あの二人ともう少し仲良くなってからでも」と決意を先送りする誘惑に心を引かれながらも。

 由比ヶ浜は先延ばしを拒否した。

 

「いえ。きちんと、言いたい事をちゃんと伝えたいんです。ぐずぐずしてる間に、現実ではできなくなっちゃったけど……」

 

 今にも涙目になりそうな由比ヶ浜を眺めながら、平塚は思う。「こんなに可愛い生徒にここまで言わせるとは、比企谷は果報者だな」と。生徒の頭を優しく撫でながら、教師は口を開く。

 

「もしも比企谷が変な事を言ったら、一緒に反論してやろう。君は素直に、自分が言いたい事を彼に伝えたまえ」

「はい。ありがとうございます」

 

 頬に涙をひとしずく流しながら、由比ヶ浜は笑顔を浮かべて教師にお礼の言葉を伝える。

 

 奉仕部にクッキー作りを手伝って欲しいという依頼を了承してもらって。どこかで見たような用紙に、言われるがままにクラスと名前を記入して。

 

 二人は職員室を出ると、特別棟へと足を向けた。

 

 

***

 

 

 部室では、二人の生徒が長机に向き合ったまま読み物をしている。読んでいるのはこの世界のマニュアルだった。

 

 

 こんな事件を引き起こした事や、説明に現れた時の発言の端々からも、ゲームマスターが相当な変わり者なのは伝わってきたが。それはこのマニュアルの仕様にも及んでいた。

 

 まず、初期段階ではマニュアルはとても薄い。必要最低限の事しか書かれておらず、ある程度ゲームに親しんだ者なら読まなくても済む程度の内容だ。

 

 しかし、ひとたびプレイヤーが疑問を口にして検索を命じると、マニュアルは実に豊穣な世界を提示する。読み手の理解度に合わせて、この世界で可能な事を詳しく教えてくれるのだ。

 

 それはある意味では一つのゲームだと言えた。プレイヤーがこの世界の仕様を理解すればするほど、より多くの情報をマニュアルから引き出せるようになる。その一方で、読み手が思い付かない事は、どんなに簡単な事でも決して教えてくれない。

 

 たとえ思い付いたとしても、現時点で実行可能な行動から大きく外れるような事も不可能だ。何事も一つずつ積み重ねて、できる事を少しずつ増やしていくしかない。

 

 以上のような仕様の為に、二人はともに音声出力を切って、自分とマニュアルにだけ聞こえる言葉を呟きながら解読に励んでいた。月曜から今日に至るまで依頼人はゼロだったので、二人はひたすらマニュアルが隠し持つ迷宮に挑み続けて日々を過ごしていたのだった。

 

 

「しかし、見事なまでに誰も来ないな」

 

 音声出力をオンにして、比企谷八幡は対面の女子生徒に話し掛ける。相手も丁度区切りが良かったのだろう。同じように音声を入れて雪ノ下雪乃が答える。

 

「手頃な依頼がなかなか無いのよ。依頼人には解決できないけれども高校生の私達で対応できて、他の生徒や教師に迷惑を掛けない案件じゃないと受け付けられないのだから。困った事ね」

 

「それって、無理な依頼はどうするんだ?」

「依頼は全て平塚先生を通す事になっているわ。つまり先生が許可しない依頼はこの部屋に来る事はないのよ」

 

「はあ。この部活って存在意義はあるのか?」

「徹底的に反論したいところだけれど、この現状では説得力がないのが残念ね」

 

「マニュアルの解読しかしてないもんな」

「ええ。楽しくはあるのだけれど、変わり映えのしない毎日というのも少し虚しいわね」

 

「ま、同じ場所に居続ける為に、めいっぱい走らなきゃいけない世界よりマシだろ」

「あら。じゃあここは、”A slow sort of country!”なのね」

 

 くすりと笑いながら、雪ノ下は物語の登場人物のような口調で答える。

 

 二人が友好的な関係を築けているように見える原因は、時おり挟まれるこうした会話のお陰だった。八幡も雪ノ下も小中学生向けの推薦図書はほぼ読破していたものの、感想を誰かと共有した経験がほとんど無かったので、この手のやり取りが新鮮なのだ。

 

 二人にはそれぞれ姉妹がいる。しかし雪ノ下が姉に話を振っても、思いもしなかった超解釈から難解な話をまくし立てられて終わるのが常だったし。八幡の妹はそんな小難しい事には興味がない様子だった。二人が友人と交わす会話については推して知るべしである。

 

 

 部室のドアが突然開いたのは、二人がそんな会話をしていた最中。雪ノ下が赤の女王を真似た口調で発言を終えたのと同時だった。

 




次回は可能であれば明日の日曜に、無理なら月曜更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足し、前書きと後書きを簡略化しました。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「同じ場所に居続ける為に、めいっぱい走らなきゃいけない世界」「”A slow sort of country!”」:ルイス・キャロル「鏡の国のアリス」


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08.ときには彼女らにもできない事はある。

今回はギャグっぽい感じです。



 数日前に現実で通ったコースを逆向きに、教師と生徒は並んで歩いていた。目的地に辿り着き、教室内の生徒に斟酌する事なく、教師はいつものように一息で扉を開ける。二人の耳に届いたのは。

 

「……ここは、”A slow sort of country!”なのね」

 

 普段の様子からは思いもつかないほど楽しげで感情的で芝居っ気たっぷりの声だった。

 

 

 教室の扉を開いた後も、平塚静はドアに手を添えたままの姿勢で動かない。教師の後ろに控えている由比ヶ浜結衣も、歩き出そうとする体勢のまま固まっていた。

 

 部室では、やはり身じろぎもしないで比企谷八幡が必死に頭を働かせていた。

 あまりにもタイミングが悪すぎる。話を振った者としては何か場の空気を和らげる言葉を口にしたいところだが、ここで良い案を思いつくようでは長年ぼっちなどやっていない。

 

 そして雪ノ下雪乃は、羞恥と憤怒とその他様々な負の感情に襲われて下を向いたまま身動きせず。何か事態を打開する策がないかと、やはり必死に頭を働かせていた。

 

 

「(どうしてこんなタイミングで平塚先生がやってくるのかしら。全くいつもいつもノックをしてくださいとお願いしているというのに何度言っても実行してくれた試しがないのだから打つ手がないわね。とはいえ仮にノックをしていたところで廊下にも私の声は聞こえていたのでしょうし。やはり私があの大好きな『鏡の国のアリス』の話題を出されたことに浮かれてしまって赤の女王に自分がなったかのような口調で答えてしまったのが原因なのは確かね。でも仕方がないじゃない。私が英語の勉強を独学で始めたのはあの作品とパンさんに出会ってしまった為だと言っても過言ではないほどお気に入りの作品なのだから。だいたいそれというのもこの目の前の目が濁って見た目が不審者のような……何だか目が多いのだけれど今はそんな事はどうでもいいわ。口に出すのは可哀想だから面と向かっては言わないけれどこの腐れ目谷くんが話題を振って来なければ。でも『鏡の国のアリス』の話題を振られること自体はとても素敵なことなのだからそれには罪はないわね。つまり問題はこの子が私を陥れようとするかのようなタイミングで話を振ってきたのがいけないのであって私には何ら落ち度もなければ先生に何を言われる筋合いもないのだわ。堂々と応対しなくては!)」(3.1秒)

 

 

「平塚先生、ノックを」

 

 平然とした態度を必死に取りつくろう雪ノ下だが、三人は呆気にとられている。何か対応を間違えてしまったのだろうか。今度こそしくじるわけにはいかないと、本気の長考に入る。

 

 

「(いつもと全く同じセリフを同じ口調で同じ相手に告げたというのにどうして皆こんな反応をするのかしら。何だか私が憐れまれているような気持ちになるじゃない。いいこと、私は雪ノ下雪乃。他者に憐れみを施すことはあっても他人から憐れみを受けるような立場に立つつもりはないのだからその事をきちんと先生にもこの男にも再教育しておかなければならないわね。あら、平塚先生の後ろにいるのはもしかして先日の由比ヶ浜さんかしら。彼女ならこの二人と違って私の真価を見抜いていつもと変わらぬ冷静な対応をしてくれるのではないかしら。では改めて彼女に話しかけてみることにしましょうか。いえ、でもちょっと待って。先日の彼女の応対を振り返る限りあまり頭を働かせた会話というものをしないような物言いだったのではないかしら。だとしたら微妙な会話の機微というものを彼女に期待するのは酷ね。仕方がないわ。やはり平塚先生に向かって何かを話すのが結局は事態の打開の為の一番の近道ということになりそうね。でもさっきのセリフは効果がなかったみたいだし一体何を話せば良いというのかしら。そもそも私が口にしたのはあの『鏡の国のアリス』の中でもかなり有名な一節だったと思うのだけれど平塚先生がいくら国語担当だとはいえ翻訳ぐらいなら読んだことがあるのではないかしら。だとすれば英語が通じていなかっただけでもし日本語であのセリフを口にしていれば平塚先生も教室に入って来るなり女王のセリフを引き継いでくれたのかもしれないわね。しかしこれは難問だわ。一体どの訳を採用すれば良いのかしら。最近の翻訳だと岩波少年文庫*1や角川文庫*2があるのだけれど平塚先生の年代だともう少し前のものが良いかもしれないわね。やはり定番の新潮文庫*3か福音館文庫*4が無難なところだけれど平塚先生の人とは少し違った趣味嗜好からすると独特の味わいがあるちくま文庫*5が一番かもしれないわね。では……じゃないわ。全く私としたことが何を血迷った事を考えているのかしら。その手は上手く嵌まれば最高の結果を期待できる反面リスクも高い一手だというのに。冷静になるのよ。ここは癪だけれども相手の挑発にも動じず自分の発言を貫く母の姿勢を参考にさせてもらうべきだわ。つまり私がこの後に言うべきセリフはこれよ!)」(1.3秒)

 

 

「平・塚・先・生。ノ・ッ・ク・を」

「あ、ああ。すまん……」

「あら、後ろにいるのは由比ヶ浜さんではないかしら。ご機嫌よろしくて?」

「あ、やっ……。失礼、します?」

「……なんかお前、アリス的な世界に迷い込んでないか?」

 

「何を言っているのかしらこの腐れ目谷くんは。確かに『鏡の国のアリス』は私が愛してやまない作品ではあるのだけれどこの私が小説の中の虚構の世界とこの世界とを混同して妙な言葉遣いをするなどと思っているのだとしたらとんだ間違いだと強く主張させていただくわ。だいたい貴方は……」

 

「ちょっと待って。腐れ目谷くんって、俺のことか。ちょっと泣いていい?」

 

「その件に関してはこの私もいたいけな男子生徒の純真な心を傷つけてしまいかねない軽率な発言だったと認めるに吝かではないのだけれどこの件の発端は貴方が変なタイミングで私には抗い難い話題を振って来たのが原因であってむしろ私としては貴方に古来より我が国に伝わる正式な謝罪の形すなわち土下座を要求するのも当然の立場だと思うのだけれど部員の不始末は部長の監督不行き届きでもあるのだから特別に免除しているのだという事をもう少しきちんと理解してもらいたいところだわ」

 

 耳を真っ赤に染めながら、のべつまくなしに口を動かし続ける雪ノ下。彼女が再起動を果たし通常に近い精神状態に戻るまでには、なお数分の時間を要したのだった。

 

 

***

 

 

 今も教室に残る困惑した空気を嫌ったのか、雪ノ下は珍しく場の話題を進める役割を放棄して黙り込んでいる。平塚も話題を振りにくい様子で、先ほどから一同は長机の周囲に座ったまま無言で時を過ごしていた。

 

 しかし、いつまでもこのまま過ごすわけにもいかない。部長があの調子なら唯一の部員が働くしかないだろうと考えて、八幡は教師に向けて口を開いた。

 

「で、平塚先生。今日はどんな面倒事ですか?」

「比企谷。君は一体いつから、私が厄介事ばかり持ち込んでいると錯覚していた?」

 

「いや、その口調は止めて下さいって。それにどう考えても煩わしい話ばかりだったじゃないですか」

「ふむ。その割には二人は随分と仲良く……」

「それで、今日のご用件は?」

 

 先程の展開を繰り返されてはたまらないと、八幡は言葉を被せ気味にして答えた。とにかく教師から用件を聞き出さないと話が前に進まない。さっさと吐けと言わんばかりの眼差しに苦笑しながら、平塚はそれに素直に答える。

 

「いやなに、由比ヶ浜が奉仕部に依頼をしたいと言うので連れて来たのだよ」

「えっ、……が依頼、ですか?」

 

 目線を平塚先生から由比ヶ浜へと一瞬だけ移して、八幡は再び教師の顔を見る。しかしそれも何だか照れくさくなって、考え事をしているふうを装いながら教室の隅を見つめた。

 

 由比ヶ浜の事をどう呼べば良いか分からず口を濁したのも、顔を見ていられなかったのも、早い話が気恥ずかしかったのだ。

 

 

 明らかに目の前で狼狽えている割には、それを上手く誤魔化せているつもりの八幡を眺めていると。由比ヶ浜は緊張が少しほぐれているのに気が付いた。キモいか否かと問われると目の前の男子生徒は確実にキモいのだが、その言葉の強さのわりには嫌とは思わなかった。

 

 だから由比ヶ浜は、八幡の顔を正面から見つめながら口を開く。

 

「あのさ。今はあたし一人だとできない事なんだけど、奉仕部に手伝ってもらって、できる様になりたいんだ。それって、奉仕部の理念だっけ、に違反してないよね?」

「あー、えーと。多分大丈夫なんじゃね。部長様の見解は?」

 

 自他ともに濁っていると認める目をしっかり見据えながら話し掛けてくる由比ヶ浜と向き合って、八幡は何とか言葉を返す。横目でちらりと己が上司の姿を窺うと、先程よりは落ち着いた様子に見えたので。部長としての責任を果たしてもらうべく話を丸投げした。

 

「そうね。もちろん私たちに手助けできる事なら、という条件付きではあるのだけれど。大抵の事なら何とかなると思うし、奉仕部の理念にも反していないと思うわ」

「そっか。良かった」

「それで、何をできるようになりたいのかしら?」

「あのあの、あのね……」

「あ、ちょっと俺、席外すわ」

 

 話を続けにくそうにしている姿を見て、八幡は逃げを選択した。由比ヶ浜を気遣って話をしやすい様にという気持ちもあるにはあるが、今のこの部屋の空気は何だか甘酸っぱすぎて気恥ずかしい。

 

 

 しかし、今の雰囲気を作り出している張本人が逃げを許さなかった。

 由比ヶ浜は強くかぶりを振って口を開く。

 

「ううんっ。ヒッキーにも聴いてて欲しいんだ」

「お、おう……」

 

 由比ヶ浜は改めて雪ノ下に体を向けて、()()()()()()()()()()()()()正面から語りかける。

 

「あのね。あたし、お礼を言いたい人がいるんだ。言葉だけじゃなくて、何かお礼のしるしみたいなのを贈れたらいいなって思ってたんだけど」

「そう……」

 

 まるで()()()()()()()()()()()()()気持ちになりながら、雪ノ下は一言で答える。

 

「この世界でも、料理ってできるみたいなんだよね。だから、クッキーとか、作りたいなって。手伝ってくれない、かな?」

「……解ったわ。私が手伝える事だし、奉仕部への依頼として正式に受理します。平塚先生、それで宜しいですね?」

 

「うむ。私の方にも異論は無いな。職員室で作業をしているから、クッキーが出来上がったらメッセージを送ってくれたまえ。家庭科室の使用許可もこちらで出しておこう」

 

「平塚先生、ありがとうございます!」

「これくらいならお安い御用だよ。私に料理を教える事はできないが、頑張りたまえ」

 

 職員室へと戻る平塚を見送って、三人もまた家庭科室へと移動した。

 

 

***

 

 

 家庭科室は惨禍を極めていた。人の身に過ぎない者に、まさかこれほどの状況が作り出せるとは。周囲に散乱した汚物と呼ぶ事すら手緩い何かをぼんやりと眺めながら。強烈な臭気が漂う部屋の中で、雪ノ下は残る力を振り絞って全ての元凶に問い掛ける。

 

「他人のスキルを詮索するのは御法度だとマニュアルに書いてあったので答えられる範囲で良いのだけれど。由比ヶ浜さん、貴女の料理スキルはどの程度なのかしら?」

「えと、最初に教えて貰ったやつだよね?」

「ええ、ログイン時のチュートリアルで教えられたと思うのだけれど」

「ちょっと待ってね。えーと……。マ、マイナス!?」

 

 お互いに視線を交換して「やはりか」と納得する八幡と雪ノ下だったが、当の由比ヶ浜は困惑したままだ。

 

「たしかこれって、その人の腕前をシステムが判定して、数字にしたものだよね。マイナスって、何か壊れてるのかな?」

「いいえ、実に妥当な判定だと思うわ。正直この世界のシステムを見くびっていたと認めざるを得ないようね」

 

「ちなみに雪ノ下はどの程度だ?」

「私は四百台ね。システムに文句を言いたい気持ちもあるのだけれど、妥当と言えば妥当な数値だと思うわ」

「いや、上級者扱いだったら充分だろ」

 

 この世界でスキルは事実上無限に取得できるが、どの程度の習熟度なのかをシステムが判定して数値化してくれるのだ。数字の目安としては、以下のように教えられた。

 

 

~200:初心者。

201~400:中級者。趣味として誇れるレベル。

401~600:上級者。それで生活の糧を得られるレベル。

601~1000:免許皆伝。世界でもほんの一握りのレベル。

1001~:超越者。確実に歴史に名を留めるレベル。

 

「ほえー。ゆきのんってやっぱり凄いんだ!」

「いえ、私に教えられる事など微々たるものだと、己の無力を噛みしめているわ」

 

「何だか酷い事を言われている気がするっ!」

「由比ヶ浜さん。事実をありのままに認めるところから、全ての行為は始まるのよ」

 

「じゃあゆきのんも、さっきのお芝居のセリフを認めないとね」

「なっ!?」

 

「でも、照れることないじゃん。ゆきのんのさっきのセリフ、いきなりでビックリしちゃったけど、すっごく良かったと思うよ。舞台女優かと思っちゃった」

 

 何とか誤魔化せたと思っていた話題をこのタイミングでストレートな形で蒸し返されて、雪ノ下の思考は再び高速で動き始める。しかし過酷な環境に身を置いているからか、先程のような冴えはない。

 

 

「(何とか無かった事にできたと思っていたのに正直由比ヶ浜さんの記憶力を見くびっていたようね。まさかこんな風に反撃してくるとは夢にも思っていなかったわ。ここまで明確に口に出してきたからには下手に誤魔化しても無駄ね。誠に遺憾ではあるのだけれども彼女に物理的な刺激を与えて記憶を忘却してもらう事も選択肢として考慮しなければならないのかもしれないわ。今この世界では私の愛用の薙刀が存在していないのがとても残念なのだけれど獲物が何であれ使い手の技量次第で狙った効果は得られるはずだしそれができてこそ技量を活かしたと言えるのだわ。決して後に尾を引くようなダメージを与えず該当する記憶だけを彼女の海馬から消去する。普通に考えれば神業だけれど今の追い込まれた私ならきっと実行可能なはずよ。さあ実行すべきは今……じゃないわ私ったら一体何を考えているのかしらいくら予想外の反撃をされて追い詰められているからといって同級生に危害を加えるような事を少しでも考慮してしまった自分が情けない何故私はそんな攻撃的な事を考えてしまったのかしら普段ならそこまで直線的に物事を解決しようなどと思わないのにしかし先程から何かしらこの臭いは人を不快にさせる事この上ないわでも考えてみればこれも由比ヶ浜さんが生み出したモノだったわねそれならば物理的な反撃を受けるのも自ごう自得だといえるのでは……何だか思考のう力がどんどん落ちているきがするわ……はんろんも……できないまま…………わたしはここでくちはてて……しまうのかしら…………むねん!)」(10.3秒)

 

 

 凄惨な環境下での多大なストレスが引き金になったのだろう。ゆっくりと床に倒れ伏す雪ノ下を眺めながら、八幡もまた己の限界と戦っていた。

 

 薄れ行く意識の中で、八幡は先程の雪ノ下の発言を、更には由比ヶ浜との会話を振り返る。

 

 

 他の生徒から見下されたり暴言や罵倒を受けるようになったのは、そもそも何がきっかけだったのだろう。今となっては判らないが、積み重ねられた年月のお陰で、八幡は誰に悪口を言われても特に気にしないようになっていた。

 

 もちろん気にしない事と傷付かない事はイコールではない。いくら気にしないように心掛けていても、例えば嫌なあだ名で呼ばれると内心は傷付くものだ。

 

 しかし、先ほど「腐れ目谷くん」と呼ばれた時、八幡は傷付いていない自分に気が付いた。何故なのだろう。何が違うのだろう。強いて言えば、雪ノ下の発言からは邪気が感じられなかった。それが原因なのだろうか。

 

 

 別の例を考えてみる。誰かに、特に異性にじっと見つめられると、八幡は相手が隠し持つ思惑を探ろうとして身構えてしまい、ろくに話もできなくなるのが常だった。

 

 しかし、先ほど正面から見据えられて依頼の質問を受けた時、八幡はその言葉の裏側に全く無警戒だった。どうして発言をそのまま受け入れられたのだろう。強いて言えば、由比ヶ浜からは真摯な気持ちが伝わって来た。先程の例と考え合わせると、つまりは相手次第ということか。

 

 

 ここまでは解明できたものの、そろそろ意識が朦朧として来た。もはや手足も満足に動かないだろう。最期の時を迎える直前に、他人からは些細な事だと思われようとも、八幡にとっては救いに繋がる反応を二人から得られたのだ。これで良しと考えるべきだろう。

 

 既に八幡には人生に一片の悔いもない。強いて言えば、自分に救いをもたらしてくれた二人を。雪ノ下の遺体と、まだ息のある由比ヶ浜を、この凄絶な環境に残して先に逝く事だけが心残りだ。

 

 ゆえに八幡は最後の力を振り絞って、由比ヶ浜に話しかける。

 

「由比ヶ浜……。頼む、換気を」

 

 その言葉を最後に、八幡も雪ノ下の後を追うかのように意識を完全に手放した。

 

 

 

 

*1
脇明子訳

*2
河合祥一郎訳

*3
矢川澄子訳

*4
生野幸吉訳

*5
柳瀬尚樹訳




次回は可能なら火曜に、それが無理なら金曜か土曜の更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
冒頭の入りがやや唐突に思えたので、少し書き足しました。また、酩酊ゆきのんの思考(10.3秒)の最終盤を平仮名に修正しました。(6/6)
改めて推敲を重ね、以下の訂正文を付け足し前書きと後書きを簡略化しました。(2018/11/17)


■「鏡の国のアリス」の翻訳について
当初は河出文庫*1を挙げていましたが、これは「不思議の国」のみで「鏡の国」の翻訳は存在しないので、代わりに福音館文庫*2を入れました。

*1
高橋康也・高橋迪訳

*2
生野幸吉訳



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09.ゆっくりと三人の関係は変化し始める。

ギャグ話の収拾〜クッキー完成の回です。



 つい先程まで会話をしていた雪ノ下雪乃が突然床に倒れ伏したのを見て、由比ヶ浜結衣は慌ててその身体を抱きあげた。肌越しに伝わってくる鼓動は激しく、体は温かく汗ばんでいる。肩を揺り動かして名前を呼んでみたものの、反応はない。

 

 たしか、保健室にメッセージを送って保健の先生を呼び出せたはず。そう思い出してメッセージアプリを立ち上げようとしたところに、男子生徒の声が届いた。

 

「由比ヶ浜……。頼む、換気を」

 

 声の方へと振り向くと、比企谷八幡が物言わぬ姿で床に倒れ込んでいる。もはや一刻の猶予もない。由比ヶ浜はアプリを起動させながら、意識のない雪ノ下に肩を貸して身体を持ち上げた。

 

 換気をしろって言われたけど、窓を開けて空気を入れ換えるよりも二人を廊下に出した方が多分いい。由比ヶ浜はそう考えて、保健の先生に連絡しながら順番に二人を廊下に運んだ。なかば引き摺りながらだし、体を机とかにぶつけちゃったかもだけど、その辺りは勘弁してもらおう。

 

 

 教室の扉をしっかり閉めて、廊下の壁に背中をもたせ掛けた状態の二人を眺めていると、保健の先生が来てくれた。ステータスを確認して手持ちのポーションを投与すると、程なくして二人が目を覚ます。

 

 状態異常と言われても由比ヶ浜にはよく解らなかったが、この世界での病気のようなものなのだろう。詳しい話はともかく、二人が元気になってほっとしたのか思わず床にへたり込んでしまった。

 

 

 廊下まで運んでくれた由比ヶ浜にお礼を伝えて。そのまま休んでいるように告げると、雪ノ下は八幡を伴って部室の前に移動した。

 そこに保健の先生も加わって、三人は教室のドアをほんの少しだけ開いて原因物質を確認する。

 

【謎の暗黒物質X/ゆいがはまのクッキー】

解説:周囲50mに存在する敵味方全てに定期的にデバフ判定。製作者のみ無効。

効果:毒、麻痺、マヌーサ(幻覚)、メダパニ(酩酊)、ルカニ(防御↓)、スリプル(眠り)、スロウ(敏捷↓)、まれに死の宣告など。

 

 

 システムが提示する解説文を見なかった事にして、三人はそっと扉を閉める。教師の権限で教室内を綺麗な状態に戻して、保健の先生は帰って行った。

 

 こうして、使いようによってはラスボスすら葬りかねない凶悪なアイテムは、日の目を見ないままひっそりと抹殺されたのだった。

 

 

***

 

 

 何とか気分を改めて、生徒三人は再び課題と向き合った。

 

 由比ヶ浜に二度と料理をさせない事がこの場における最優先事項なのではないかと二人は考えるが、本人の意志は固い。身に付けたエプロンの紐を握りしめながら、由比ヶ浜は決意を語る。

 

「あたしって、今まで色んな事から逃げたりして、何となくで過ごして来たんだけどさ。ここで逃げちゃったら、この先もずっとこのままな気がするんだ。それは……絶対に、嫌なの」

「そう。なら努力あるのみね」

 

「いやでも、がむしゃらに努力するだけって効率悪くね?」

「ええ。だから今から私がお手本を見せるから、由比ヶ浜さんは私がやった通りに作ってくれるかしら?」

 

「うん。ゆきのんの作り方を見て、次はちゃんとやる」

「その気持ちがあれば大丈夫よ。手順さえきちんとしていれば、さっきみたいな事にはならないはずよ」

 

 

 心の中にある一抹の不安は外には出さず、雪ノ下は手慣れた動きでクッキーを作り始めた。

 

 現実と違ってこの世界では待ち時間が省略できるので、生地を寝かす時間も焼き上がりを待つ時間も短縮できる。すぐに教室内には得も言われぬ香りが漂い始め、見目麗しいクッキーができあがった。

 

「旨っ。ほんとお前って何でもできるのな」

「何でもは無理よ。それにこれくらいなら、基本に忠実に従って何度も作っていれば誰にでもできる事よ」

「いや、普通の人にはそれが一番難しいと思うんだが」

 

「ほんとおいしい。ゆきのんって、やっぱり、かっこいいね」

「え?」

「建前とか全然言わないし。有言、実行って言うんだっけ。それってゆきのんの事だなぁって」

「そ、そう。ほ、褒め言葉として受け取っておくわ」

 

 真っ正面からの素直な賞賛に慣れていない雪ノ下が何とか返事をして、辺りは甘酸っぱい空気に包まれる。

 こうした空気に浸るのも悪くはないかもなと柄にもない事を考えながら。八幡は話を進めるために口を開いた。

 

「んで、その……。ゆ、由比ヶ浜はできそうか?」

 

 少しだけ改善の気配が見られたと思ったら、相変わらず女子の名を呼ぶのが気恥ずかしい八幡だった。ちなみに雪ノ下に対してもよく「お前」などと呼び掛けているのだが、その理由はお察しの通りなのでさておいて。

 

「うん。さっきの通りに作ればいいんだよね。任せといて!」

 

 元気いっぱいに応える由比ヶ浜だった。

 

 

***

 

 

 結論から言おう。由比ヶ浜の料理スキルがマイナスなのは伊達ではなかったと。

 

 バターは薄く切ってから室温に戻したし、砂糖と塩も間違えていない。先程は大量に加えていた隠し味も何とか自重させたし、新たに思い付いた桃缶の投入も瀬戸際で回避できた。

 

 それでもできあがったのは、先程のような禍々しい物質でこそなかったものの、とても食べ物とは思えない何かだった。

 

【黒い物体/ゆいがはまのクッキー】

解説:周囲10mに存在する敵味方全てに向けて嫌な臭いを出す。製作者のみ無効。

効果:なし。

 

 

「由比ヶ浜さん。これは一人の人間にとっては小さな一歩だけれども人類にとっては偉大な飛躍よ」

「褒められてる気がしないよっ!」

 

「そんな事はないわ。人類がその歴史の中で大量破壊兵器を自らの意志で放棄できた初めての事例なのだから」

「難しい事は解んないけど、なんか複雑」

 

 発言の内容はともかく、雪ノ下が心から賞賛しているのは確かなので、由比ヶ浜は不満ながらも矛を収める。

 

 とはいえ依頼が行き詰まったのも確かだ。料理スキルがマイナスの由比ヶ浜に、どうやって料理を教えたら良いのだろうか。

 

「由比ヶ浜さん。その、責めているわけではないのだけれど。どうして手順通りに作ろうとしないのかしら?」

「えっ。だって、ちゃんと考えながらやらないと身に付かないよって昔から言われてたし」

 

「ええ。それはその通りね」

「だから、作りながら考えてて、こっちの方がいいやって思う事をやってるんだけど」

 

「ええ。そこが諸悪の根源ね」

「なのに……って、ええっ。考えながら作るのってダメなの?」

 

「ダメではないのだけれど。基本の手順というものは、今までに多くの人が考えを重ねて、それを改良し続けた結果として成り立っているものなのよ。だから私達が下手な考えで改変するよりも、そのまま従った方が良い結果になりやすいのよ」

 

「ほえー。じゃあ何にも考えなくて良いんだ」

「ええ。特に由比ヶ浜さんの場合は工夫すればするほど酷い結果になりそうだから、徹頭徹尾レシピ通りに作ってくれた方が良いと思うわ」

 

 

「ちなみに、由比ヶ浜のクッキーのスキルって今どうなってんの?」

 

 雪ノ下が発言するごとに由比ヶ浜の喜怒哀楽が忙しい事になっているので、八幡は強引に会話に介入した。ぼっちには無縁だった気遣いを、一気にやらされている気がする。そう思いながらも、内心それほど悪い気はしなかった。

 

「それって、料理スキルの下に並んでるやつだよね。……さっきより数字は減ってるけど、マイナスだから良いのかな。でも、やっぱりマイナスのままなんだよね」

 

「なるほど。では今日の目標は、クッキーのスキルをプラスにする事にしましょう」

「料理スキルはいいのか?」

 

「そちらは今日一日で改善するのは不可能よ。でも、サブのスキルだけなら何とかなると思うわ」

「サブだけ改善ってできんの?」

 

「現実を思い出して欲しいのだけれど。他の料理は全くダメなのに、例えば目玉焼きだけは上手に作る人っているじゃない。あれと同じよ」

「クッキーだけはちゃんと作れるようになるって事だよね。でも、やっぱりあたしって、料理の才能がないんだね」

 

 二人の会話を何とか理解して、由比ヶ浜はどよんとした声で話に加わった。薄々そうではないかと思っていても、はっきり数字で示されるのはつらい事だ。

 

 だが、そんな後ろ向きの発言を許さない生徒がここにいた。

 

 

「由比ヶ浜さん。才能の有る無しは、最低限の努力をして初めて判定できるものよ。ろくに努力もしないで才能を語るのは、単なる負け犬の言い訳だわ」

「ちょ、お前。さすがに言い過ぎじゃね?」

「貴方は黙っていなさい。由比ヶ浜さん、何か反論は?」

 

 その発言は、なかば以上は賭けだった。

 

 そもそも普通なら、「次はちゃんとやる」と言い切った由比ヶ浜がそれなりのクッキーを作って話が終わるはずだ。あの時の決意は本物だったと雪ノ下は思う。だからこそ、()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 世の中には努力では達成できない事が山ほどある。それを才能の差と言えば確かにその通りなのだろう。しかし今の雪ノ下にはそれを認める事はできない。認められない理由があるのだ。

 

 だからこそ雪ノ下は自分にできる限りの努力を惜しまないし、努力する人には相応の結果が出る事を望む。この想いに負の側面があるのは知っているが、今はまだ問題にはならないはずだ。

 

 仮にここで挫けるようでは、その程度だったという事だ。

 だがもしも、逃げるのが嫌だと言ったあの決意が本物なら。

 

 その時は持てる力の全てで手助けをしようと、雪ノ下は密かに心に誓う。未だ明確には口に出していない希望も含めて、全力で由比ヶ浜の後押しをするのだと。

 

「……うん。悔しいけど、ゆきのんの言う通りだと思う。次は絶対に、手順以外の事は何もしないからさ。もう一度だけ付き合って下さい!」

 

 少し涙目になりながらも、その両目からは強い意志が感じられた。由比ヶ浜の申し出に否と言う者などこの場には一人もいない。

 

 かくして、この日最後のクッキー作りが始まった。

 

 

***

 

 

 できあがったのは、何の変哲もないクッキーだった。形も不揃いだし、中にはクッキーと呼んで良いのか首を傾げるものもある。しかし先程とは違って、食欲を刺激する甘い香りが家庭科室に漂っていた。

 

 雪ノ下と八幡が、恐る恐るアイテムの解説文に目を向けると。

 

【クッキーのようなもの/ゆいがはまのクッキー】

解説:決して美味しくはないが、作り手の心がこもったクッキーらしきもの。

効果:なし。

 

 

 何だか大仕事をやり遂げた感のある二人だったが、確認すべき事はもう一つある。

 

「由比ヶ浜さん。料理スキルとクッキーのスキルはどうかしら?」

「うん、ちょっと待ってね。……料理スキルはあんまり変わってないや。クッキーは……あ、プラスになってる。まだ数字は小さいけど、さっきと比べたらだいぶ上がったよ!」

 

「おめでとう、由比ヶ浜さん。これが貴女の努力の賜よ。才能がないなんて言っていたけれど、今の気分はどうかしら?」

「うん。無事にやり終えたって感じで、身体も心もすっごく軽い気がする。ゆきのんが言ってた最低限の努力には、まだ足りてないと思うんだけどさ」

 

「それはまた別の機会に、一つ一つ積み上げていけばいいわ。由比ヶ浜さん、今日のところはお疲れ様ね」

「うん。ゆきのん、ありがと!」

「私はほとんど何もしていないわ。貴女が努力した結果だから、今は自分自身を労ってあげたらいいわ」

 

 ほんの少しだけ頬を赤らめながら、雪ノ下は優しい顔で由比ヶ浜を労う。

 だがこの教室には空気を読めない男がいた。

 

「お前って、けっこう照れ隠しが下手だよな」

「な、何を横から変な事を言い出すのかしら。だいたい今回の件は貴方の……」

 

「あ、確かにゆきのんって、照れてる時めちゃくちゃ可愛いよね」

「由比ヶ浜さん。貴女もこの男に便乗して何を言い出すのかしら。そもそも貴女は……」

 

「これで誤魔化せてると思ってる辺りが雪ノ下らしいよな」

「ヒッキー。そこは大人しく騙されてあげるのが男の子の役割だと思うな」

「え、マジで。そんな面倒な事をみんなやってんのか。すげぇな」

 

「あたし達だって、男子の変な行動を流してあげてるんだからね」

「あー、そう言われると反論できんな。いつも気遣ってもらってすまん」

「えっ。あ……そんな素直にお礼を言われると、困る」

「う、そうか。……すまん」

 

 

 二人の会話の合間に、何とか自身の正当性を主張すべく口を挟もうとする雪ノ下だったが。会話を交わす二人の雰囲気が変化するにつれ、話の推移を見守る態度に移行した。

 

 仲良く口ごもった二人が顔を赤らめて困っている様子を眺めながら。頬を緩めた雪ノ下はメッセージアプリを立ち上げると、顧問にクッキーの完成を伝えた。

 




区切りが良かったので、今回はここまでです。
次回は日曜日に更新予定です。もしかしたら時間が一時間早まるかもしれません。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
改めて推敲を重ね、後書きを簡略化しました。(2018/11/17)


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10.ようやく彼と彼女の始まりが終わる。

今回でクッキー編が終了です。
タイトルは原作三巻第六話をそのまま使わせて頂きました。



 家庭科室のドアがからりと開いて、平塚静があらわれた。

 

 何の前置きもなく登場しても、先程と違って生徒たちに動揺はない。いきなり口撃を仕掛けてくる女子生徒もいない。

 

 密かに身構えていた平塚は、室内の温和な空気に表情を緩めて、教え子たちに向けて話し掛けた。

 

「どうやら上手く作れたみたいだな。クッキー作りはとても難しいのに、やはり君達は大したものだ。オーブンなんて、私には扱いが難しすぎて手出しできないからなあ……」

 

 クッキー作りを相当な難事のように語る顧問に、雪ノ下雪乃は首を傾げる。とはいえ、やるべき事を終えた充実感と依頼人に向ける優しい気持ちが、彼女を寛容にしていた。

 

 比企谷八幡は、オーブンを扱えない教師に「そりゃ先生だけだ」と言いたいのを必死で堪えている。

 

 由比ヶ浜結衣は平塚と同感みたいで、そのクッキー作りを自分は成し遂げたのだと少し誇らしげだ。

 

 そんな三者三様の反応を興味深げに眺めながら、平塚は言葉を続ける。

 

「ところで由比ヶ浜。さっき職員室で家庭科の鶴見先生から、ラッピング用のリボンを頂いたのだがね」

「えっ。見せてもらっていいですか?」

「ああ、これだ。青とピンクの二色あるが、どちらを使うかね?」

「じゃあ、こっちの青のリボンで!」

 

 家庭科室に備えてあったセロファンの透明な袋にワックスペーパーを入れて、【クッキーのようなもの】をその上に置く。今にも鼻歌が出そうなほどに上機嫌な由比ヶ浜は、袋の外側を簡単にテープで留めて、青いリボンで丁寧にラッピングを施した。

 

 

「これは雪ノ下のクッキーかね。綺麗にできていておいしそうだし、君の努力がよく解るよ」

「平塚先生。お世辞を言わずとも、ご自由にどうぞ?」

「え、いいの?」

「はあ。由比ヶ浜さんのお手本として作っただけですし、こんなもので良ければご遠慮なく」

 

 由比ヶ浜が手を動かしている間に、平塚は部屋の奥まで足を運んで雪ノ下に話しかけた。物欲しそうに見えたかなと思いながらも食欲には勝てない。許可も得られたので、一つまた一つとクッキーを味わっていく。

 

「うむ、旨い。君はあれだな、良い奥さんになれるな。何なら私がもらいたいぐらいだ」

「先生はもう少し、こうしたスキルを磨かれた方がよろしいかと」

「……ウボァー*1

 

 攻撃的な意図はまるでなく、あくまでも善意からの助言なのが雪ノ下の怖ろしいところだ。深手を癒やそうと、八幡にすらも理解されない古いネタを口にして気持ちを立て直すと。平塚はそのまま会話を続けた。

 

「どうやら余りそうだし、君もラッピングをしてはどうかね。私が持っていても役に立たないし、このリボンを使ってくれると嬉しいのだが?」

「ピンクのリボンは、私には似合わないと思いますが?」

 

「そんな事はないさ。レッドリボン軍*2にだって色んな人材がいるのだし、君にもピンクは合うだろう」

「仰る意味が解りませんが……合うと言って頂いた事ですし、ありがたく頂戴します」

 

 地味に「雪ノ下にはあの名作のネタすら通じないのか」と落ち込んでいる教師はさておいて。

 

 わずかに笑顔を浮かべてリボンを受け取った雪ノ下は、由比ヶ浜ほど判り易くはないものの機嫌よさげに包装を施す。

 

 顧問には「ネタのチョイスが古いから」と呆れ顔を向ける八幡だが。二人が綺麗にラッピングをしたクッキーに向ける目は優しかった。

 

 

***

 

 

 青とピンクのリボンで包まれたクッキーを見比べながら、八幡は先ほど考えていた事をぼんやりと思い出す。

 

 どうしてこの二人に限って、変なあだ名で呼ばれたりじっと見つめられても嫌な気持ちにならないのだろう。自分を見下してくる他の連中と何が違うのだろうか。

 

 たとえ雪ノ下でも由比ヶ浜でも、いっさい他人を見下さないという事はないだろう。そこまでの聖人君子は、同学年はもちろん全ての年齢層においても非常に稀なはずだ。だとすれば、二人の見下し方が他とは違うということなのか。

 

 

 八幡は、自分が誰かを見下した時の事を考える。例えばライトノベルを読んだ時だ。変な展開でも良いし変な描写でも良い。そうした作品の瑕疵を見付けて作者を見下していた時期が確かにあった。

 

 きっと同じような事をした人は大勢いると思う。ただ、その多くは見下している自分を自覚していない。改善点を指摘して質の向上を求めるのはごく少数で、プロの作家を見下す事で自分にさも価値があるかの様に思い込む奴が大半だ。俺もかつては後者だったと八幡は思う。

 

 

 翻って、この二人はどうだろうか。雪ノ下が「腐れ目谷くん」と呼ぶ事で、自身を大きく見せようという意図はあっただろうか?

 

 否。短い付き合いではあるものの、はっきりとそう断言できる。そんな事をしなくても雪ノ下は自分の価値を知っているし、身に過ぎた評価はむしろ害悪だと解っているはずだ。

 

 雪ノ下が人を見下す事を口にするのは、相手がそれに値する事をしでかした時だろう。

 

 

 では八幡を正面から見据えた時に由比ヶ浜は、より上の階層に属する自身を意識しただろうか?

 

 否。更に短い付き合いであるものの、それも断言できる。由比ヶ浜は揉め事を起こしたがるタイプではないし、話をする時にはできるだけ相手と同じ目線に立とうとしてくれる。

 

 由比ヶ浜が人を見下す事を口にするのは、相手に改善すべき何かを教えてあげる時だろう。

 

 

 こうした考え方は、もしかしたら過大評価かもしれない。知り合って間もないのに随分と絆されたものだが、八幡の内心がそれを嫌がっていないのだから仕方がない。

 

 だが、そんな八幡でも心にさざ波が立ちそうになる事がある。

 

 青とピンクのリボンで飾られたクッキー。二人はそれを誰にあげるのだろう?

 

 受け取るのが自分ではない事には、もはや失望はない。むしろそれが当然だと思う。だって、俺が二人に何を与えられるというのだろう。何度考えても結論はいつも同じ。何もないのだ。そんな奴がプレゼントを贈られるだなんて、あり得るわけがない。

 

 とはいえ二人が他の誰かにクッキーを渡す姿を想像すると、八幡の胸は痛んだ。

 

 それはいわゆる嫉妬とは少し違う。そいつに取って代わりたいわけではないからだ。この二人が贈り物をしても良いと思うのなら、それは相応の相手なのだろう。そこには全く文句はない。

 

 強いて言えば、そうした連中と一度として対等の立場に立てなかった事か。初めから敗北が決定している自分と、勝利が確定している連中と。何かが違っていれば、自分も今とは違った立場で二人と向き合う事ができたのだろうか。

 

 

 八幡はそこまで考えて思考を止める。今さら考えても仕方のない事だ。

 それに、他人にどう思われようとも、ぼっちの自分を八幡は気に入っていた。

 

 この厳しい世の中で、自分ぐらいは自分に甘くという気持ちもある。

 ラノベ作家を見下して悦に入っているだけの時も確かにあるが、見下す根拠は妥当だったという僅かながらの自負もある。本当に小さな矜持だが、根拠もなしに他人を見下す事は、見下される事が多かった八幡には我慢できる事ではなかった。

 

 この二人が人を見下すのは、相応の理由がある時だけだ。

 そんなおぼろげな信頼が、八幡をして雪ノ下と由比ヶ浜に親近感を抱かせているのだろう。

 

 

 今こそ、プロのぼっちとして振る舞うべき時だ。由比ヶ浜が、雪ノ下が誰に何をプレゼントしても平然としていられるように。せめて二人の前でだけは取り乱す事のないように。

 

 そうして八幡は、二人がクッキーを渡す相手の事を考えるのをやめた。

 

 

***

 

 

 八幡が意識を外へと向けると、由比ヶ浜の心配そうなまなざしが目に入った。

 

 もしかして、また何かやらかしてしまったのだろうか。妹にもよく指摘される気持ち悪い笑いとやらを浮かべていたのか。

 この世界ではなるべく考えないようにしていた妹のことを思い出してしまうほど、今の八幡は取り乱していた。

 

「ど、どうした。ゆ、由比ヶ浜?」

「あ、やー。大丈夫だったら良いんだけどさ。いきなりヒッキーが真面目な表情になったと思ったら、何だか苦しそうな顔をしだすから……」

 

「お、おう、すまん。あー、クッキーが悪かったわけじゃないから安心しろ」

「もう。クッキーはちゃんと作れたんだし、悪いわけないじゃん。……そりゃ失敗もあったけど、別に食べられないものが入ってるわけじゃないんだから」

 

 食べられるものしか使っていないのに大量破壊兵器を生み出す場合もあるのだと、喉元まで声が出かかったものの。済んだ事なので八幡は口をつぐんだ。今の会話のおかげで調子を取り戻せたし、由比ヶ浜を責める気分ではなかったからだ。

 

 それよりも、と考えて少し心を落ち着けて。

 八幡は事の核心を尋ねる。

 

 

「で、そのクッキーどうすんだ。今日にでも渡しに行くのか?」

「あ、えと、ど、どうしよっか?」

 

「いや、俺に聞くなよ」

「そ、それはそうなんだけど……」

 

「ま、由比ヶ浜からクッキーを貰えたら、誰だって悪い気はしないだろ」

「そ、そうなの?」

 

「あのな、男なんて単純なもんなんだよ。学級委員でちょっと親しげにされただけで、惚れて告白して振られて言い触らされてぼっちになるまである」

 

「ヒッキー?」

「あ、いや。これは友達の友達の話だからな」

 

 慌てて八幡は誤魔化そうとするが、こんな絶好の機会を逃す彼女ではない。二人の会話を静かに見守っていた雪ノ下は素敵な笑顔を浮かべながら、満を持して口を開く。

 

「ダウト。だって貴方、友達いないじゃない」

「なっ。ってお前、なんでそんな嬉しそうに人の心を抉るのよ。サドノ下さんか?」

 

「あら。一人で勝手に盛り上がって告白までするナル谷くんには言われたくないわね」

「なんでお前、あの時に付けられた俺のあだ名を知ってんだよ……」

 

 

 仲良く喧嘩を始める二人を苦笑しながら眺めていると、不意に両肩に温かな掌の感触が伝わった。続けて耳元で声がする。

 

「由比ヶ浜……どうしたいかね?」

「……言います」

 

 小さな声ながらきっぱりと答えて、由比ヶ浜は二人の方へと向き直って背筋を正した。

 その背中を軽く一叩きして、平塚は少し離れた場所から生徒たちを見守る姿勢になった。

 

 

***

 

 

 親しげに罵り合う二人の会話が途切れた頃合で、由比ヶ浜はゆっくりと口を開いた。

 

「あのね。二人にお願いしたい事があるんだけどさ」

「ええ。この際だし、できる範囲の事なら構わないわ」

「だな。乗り掛かった船だし、とりあえず言ってみれば良いんじゃね。大抵の事は部長様が何とかしてくれるだろ」

 

「ありがと。ゆきのん、ヒッキー。……二つ目のお願いは最後に言うね。で、一つ目のお願い。あたしの話を最後まで聞いて下さい!」

「もちろん、構わないわ」

「ちゃんと聴いてるから、その、なんだ。遠慮なく喋ってくれて良いぞ」

 

 おそらくは、クッキーと一緒にお礼を伝えたい相手のことだろう。八幡は少しだけ気持ちを引き締めて、それが誰であっても素直に応援しようと思った。由比ヶ浜の行動が良い結果につながるようにと願いながら、耳を傾ける。

 

 

「あのね。この高校に入学が決まって、あたし嬉しくて。入学式の日も朝早くに一度、ここの正門近くまで散歩に来たんだ。サブレ……うちの飼い犬を連れてね」

 

「でもさ。校舎を見てわくわくしてたら、いつの間にかリードを放してたみたいで。気が付いたら、サブレが道路に飛び出そうとしてたの」

 

 なるほど、と八幡は頷く。そこに颯爽と登場して助けてくれた奴にお礼を言いたいのだろう。

 

 世のイケメン様はどうしてこう俺と違って絵になる行動ができるのだろうか。俺なんていきなり車に向かって飛び出した挙句、この目のせいで「犬を助けるために」って言っても誰にも信じてもらえなかったのに。

 

 思わぬ形でダメージを受けて気持ちが沈みそうになる。それを何とか立て直して、八幡は話の続きに耳を傾けた。

 

 

「サブレの向こうから、近付いてくる車が見えて。その時あたしは怖くて動けなくて。でも、顔見知りでも何でもないのに、たまたま自転車で通りかかった男の子が、サブレを助けようとして……」

 

 うん。どうしてこうも似通った状況なのに、俺の時とは全然違った感じになるんだろうか。八幡はそんな事を考えながら、折れかけた心を必死で立て直そうと試みる。

 

 

「あたし、その時の男の子にずっとお礼が言いたくて。でも、お見舞いに行っても、お宅にお邪魔しても、いつもタイミングが悪くてお話しできなくて……」

 

 俺なんて、家族以外は誰も見舞いに来なかったもんな。

 もはや気持ちを立て直すことを放棄して、八幡は自嘲気味にそう思った。

 

 もしも俺が助けた犬の飼い主が、こいつみたいな奴だったら……。続けてそう考えかけて、八幡は即座に思考を止める。こんな良い奴に、俺の勝手な行動で引け目を感じさせては駄目だ。だから、あれで良かったんだ。

 

 

「一年以上も経って、今更お礼とか言われても呆れられちゃうかもしれないけどさ。それでもあたしは、ちゃんとお礼を言いたかったの」

 

「あのな。お前みたいな奴から心のこもったお礼を言われて、呆れる奴がいるわけないだろ。変な心配とかする暇があったら、さっさとお礼を言って来いって」

 

 折れかけた心を、そして余計な思考を振り払おうとするかのように、八幡が思わず口を挟む。

 

 

「えっ。あ、うん。……さすがにここまで話したら分かっちゃうよね」

 

「俺も雪ノ下も、お前がお礼を言いたい理由は理解したし、お前がどれだけ頑張ってクッキーを作ったかも知ってるからな。そいつが何かうだうだ言ったら雪ノ下が何とかしてくれるだろ。だから安心して行って来いって」

 

「うん……。ありがと、ヒッキー。あの時にサブレを助けてくれて」

「……へ?」

 

 

***

 

 

 教室の片隅からは、耐えきれず「ブフォッ!」と吹き出す声が聞こえてきた。雪ノ下の様子を窺うと、両手で口元を覆ってぷるぷると震えている。

 

 自分だけが事の真相を理解できていなかったのだ。八幡は急に恥ずかしくなって直前の発言を呪い始める。

 

 だが、それは長くは続かなかった。挙動不審に陥った八幡の目をしっかりと見つめながら、由比ヶ浜が話を続けたからだ。

 

「ずっと、お礼を言わないとって思ってたんだけど……。一年も掛かっちゃってごめんね。一緒に作ってたから、そんなにおいしくないって、知ってるとは思うけどさ。これでも、今のあたしが作れる、一番おいしいクッキーなんだ。これ、受け取ってくれない、かな?」

 

「……あのな。別に俺のことなら気にする必要ないぞ。お前んちの犬を助けたのも偶然だしな。俺がぼっちなんてやってるから、逆に気を遣わせちまったのかね。お礼の言葉だけで俺はもう充分だから。お前が負い目を感じる必要も、同情する必要もないからな」

 

 拒絶をしたいわけではないが、その優しさに甘えるわけにはいかない。

 

 由比ヶ浜は俺なんかに関わるよりも、トップカーストとしてクラスを盛り上げてくれたら良い。俺はそれを底辺から眺めているだけで良い。だからお礼の言葉だけを受け取って終わりだと、八幡はそう考えながら返事をした。

 

 家庭科室の空気が、瞬時に哀しげなものへと変わる。

 

「どうして、そうなるの。あたしはただ、サブレを助けてくれたお礼を伝えたかっただけなのに。なんでヒッキーは、そんな事を言うのかな。同情とか、気を遣うとか、そんなふうに思ったこと、一度もないよ。あたしは、ただ……」

 

「いや、なんつーかな。俺も、お前の犬だと知って助けたわけじゃないし。お前から手作りクッキーをもらえるほどの事をしたわけでもないし。もっと単純で些細な事なんだわ」

 

「うん。だから単純に、助けてもらったお礼でさ、これを渡したいだけなのに。……なんだか、難しくてよくわかんなくなってきちゃった。もっと簡単なことだと思ったんだけどな」

 

 八幡にそう言われて、心の中ではもう諦めているのだろう。少し無理をした明るめの口調で呟きながら、由比ヶ浜は哀しそうに笑った。遅すぎたのかもしれない。お礼なんて言われたくなかったのかもしれない。八幡が何をどう考えているのか、まるでわからない。

 

 もしも由比ヶ浜と八幡が二人きりだったら、これで話は終わったかもしれない。

 

 

「別に、難しいことではないでしょう」

 

 一つ溜息を吐いて、窓から差し込む夕日に背を向けて立ち上がると。雪ノ下が会話に加わった。

 

「由比ヶ浜さんにとって、その行動はクッキーを添えてお礼を言うに値するものだった。比企谷くんにとって、そのお礼は身に過ぎたものだった。二人の価値判断が少し違っていただけなのよ」

 

 二人も、教室の隅に陣取る教師も、無言でその言葉を聴いている。

 

 まるで()()()()()()()()()()()()()()、雪ノ下は話を続ける。事故の詳細も、由比ヶ浜の二つ目のお願いも全て把握しているかのように。その口調はとても穏やかで、どこか寂しげに聞こえた。夕日が眩しいので、その表情は窺い知れない。

 

「あなたたち二人の関係は、事故に巻き込まれて始まって、すれ違いも色々あったみたいだけれど。助けた助けられたという違いはあっても、事故の被害者という点では共通しているはずよ。悪いのは、事故の加害者なのだから。間違った始まり方をしたのなら、その関係は今日でいったん終わりにして。二人はまた新しく関係を作っていけば良いと思うわ」

 

「でもじゃあ……これ、どうすればいいのかな?」

 

 クッキーを片手に、由比ヶ浜が納得しきれない様子で尋ねる。

 

「比企谷くん。今回は由比ヶ浜さんのクッキーを素直に受け取りなさい。貴方が自分の行動を過小評価する気持ちも解るのだけれど。事情を知らないままクッキー作りに協力して、一度は死を覚悟するような目にも遭ったのだから。受け取っても罰は当たらないはずよ」

 

 後半は少しいたずらっぽい口調で部員の説得を試みた。ちらりと様子を窺うと、納得はしていないものの頑なに拒絶を続けるという感じでもなさそうだ。

 

 そこまで確認した雪ノ下は、ピンクのリボンで包装されたものをゆっくりと投げた。それを八幡が怪訝な顔で受け止めたのを見て、言葉を続ける。

 

「それと。奉仕部の部員として受けた初めての依頼で、時おり挟まれる貴方の指摘は有益なものが多かったわ。その報酬として、部長からのプレゼントよ。謹んで受け取りなさい」

 

「へーへー。こんだけ上から目線のプレゼントってのも珍しいな。……由比ヶ浜、すまん。色々と変な事を言ったがな。さっきのクッキー、もらっていいか?」

 

「え、いいの?」

「なんつーか、俺が考え過ぎてただけみたいだわ。犬も助かったし、俺もクッキーをもらえるし、これで全部チャラな」

 

 口には出さないが、八幡の本音はこうだ。

 自分と関わった事が原因で、もしも由比ヶ浜が窮地に陥っても。きっと雪ノ下が助けてくれるだろう。そんな予感がしたので、八幡は裁定に従う気になった。

 

 事情はどうあれ、八幡の言葉を聞いた由比ヶ浜は曇りのない素敵な笑顔を見せる。

 

「うん。じゃあ改めて。ありがと、ヒッキー」

 

 

 二人がクッキーの贈呈を行いながら雑談を交わしている光景を眺めていると、雪ノ下の耳に恩師の声が聞こえてきた。そのまま小声で会話を交わす。

 

「雪ノ下。君はこれでいいのかね?」

「ええ。今日のところは、二人の関係が丸く収まった事で良しとしませんか?」

 

「ふむ。君が良いと言うなら無理強いはしないがね」

「私も、きちんと二人と話をしようと思います。その時は今日みたいに、同席して頂けますか?」

 

「ああ。それぐらいの事ができないようでは教師の名折れというものだ。君が頼みごとをするのは珍しいし、任せておきたまえ」

 

 まるでその話が終わるのを待っていたかのように、元気な声が教室に響く。

 

「ゆきのん、ヒッキー、平塚先生。あたしの二つ目のお願い。あたしを奉仕部に入れて下さい。あたしも二人と一緒に、誰かの力になれるような事をしたいから」

 

 教師と顔を見合わせて、雪ノ下はゆっくりと答えを返す。

 

「由比ヶ浜さん。貴女はもう既に、奉仕部の一員なのよ?」

「……え?」

「ここに来る前に、平塚先生に『クラスと名前を書け』って小さな用紙を渡されたでしょう。それ、入部届だったのだけれど……」

 

 教室内に優しい笑い声が響く。

 こうして由比ヶ浜が入部を果たし、奉仕部は三人体制となった。

 

*1
「ファイナルファンタジーⅡ」(1988年)でパラメキア皇帝が口にした断末魔の叫び。

*2
鳥山明「ドラゴンボール」(1984年〜1995年)初期に登場した世界征服を目論む悪の軍団。




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し分かりにくいと思われる箇所に簡単な説明を加えました。大筋に変更はありません。(6/9)
同様に簡単な説明を加えました。大筋に変更はありません。(7/14)
改めて推敲を重ね、以下の解説を付け足し、前書きと後書きを簡略化しました。(2018/11/17)


■細かな元ネタの参照先
「そりゃ先生だけだ」:原作1巻p.77
「青とピンクのリボン」:原作6.5巻p.474


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11.そして彼女らもそれぞれの動きを見せ始める。

今回はクッキー作りの裏で同時進行していたお話です。



 時間は少し遡る。

 

 二年F組の教室では、放課後を迎えた生徒たちが思い思いに過ごしていた。

 これまでの数日間をずっと一緒に過ごしていた女子三人も、教室の後ろで仲良くお喋りをしている。この後は三者が初めて別行動を取る予定だ。

 

「んじゃ、そろそろ行ってくるし」

「うん。頑張ってね、優美子」

「優美子なら、男子の熱い攻防をしっかり煽って来てくれるって信じてるよ」

 

 サッカー部に発破を掛けるのが目的のはずなのに。二人から違った意味の頑張りを求められた気がして、三浦優美子は苦笑する。由比ヶ浜結衣は、葉山隼人との仲が進展するように頑張れと言っているのだろう。海老名姫菜の言葉は軽く流すのが吉だ。

 

 鼻血が出ていないので、海老名は緊張を和らげるためにそんな言い方をしたのだろう。三浦も当然それに気付いているが、素っ気ない反応で問題ない。既に三人の関係は、その程度でいちいちお礼を言うほど浅いものではなくなっていた。

 

 

「んで、海老名と結衣はどうすんの?」

「あたしはちょっと、職員室で相談事があると言いますか……」

 

「それって、時どき結衣が悩んでる事と関係あんの?」

「あー、うん。そんな感じ」

 

「ふーん。何か分かんないけど、言いたくなったら遠慮なく言うし」

「そうだよー。男子の突き合いに興味を持つのは恥ずかしい事じゃないからね」

 

 今度の発言は単純なフォローなのか、それとも本気で勧誘しているのか判断が付かなかった。海老名の言葉を脳内で()()()()()に変換できている時点で症状はかなり進行しているのだが、三浦も由比ヶ浜もそれに気付かない。そんな二人を尻目に、海老名は言葉を続ける。

 

「私もちょっと趣味関係で行きたいところがあるから、終わったら共有部屋のリビングに集合でどうかな?」

「うん。分かった」

「あーしもそれでいいし」

 

「あ、でも。もし隼人くんと晩ご飯を食べる事になったら、メッセージ送ってね」

「ゆ、結衣っ。あーしは、この三人で食べるんだし」

 

 ちょっとした冗談のつもりだったのに、瞬時に顔を赤らめる三浦が微笑ましい。海老名と視線を交わして、これ以上は話を広げないのが友人としての務めだと頷き合って。二人は話をまとめにかかる。

 

「えーと、結衣は職員室だっけ。私は図書室に行くから」

「うん。優美子はグラウンドだよね。じゃあ、また後でね」

「二人とも、後で覚えてろだし」

 

 まるで怖さを感じないその言葉を最後に、三人は別々の行動に移るのだった。

 

 

***

 

 

 海老名は図書室で調べ物をしていた。文化系クラブが過去に発行した部誌に目を通している。全ての図書が電子化されたわけではなく、閲覧できるのはここ数年のものに限られるが、今はそれで充分だった。

 

 

 趣味を受け入れてくれた二人から背中を押されて、海老名はこの世界でも活動を再開しようと考えていた。いわゆる二次創作活動だ。

 

 自身の趣味嗜好を自覚してからも、海老名はそれを表に出さないように心掛けて来た。活動の場は専らネット上だ。普段使いのアドレスとは別に専用のフリーアドレスを作って複数の投稿サイトに会員登録して、頻度は高くないものの定期的に更新を続けて来た。

 

 海老名は絵を描くのも文章を書くのも得意だったので、今までは気の向くままに表現方法を変えてきた。だが漫画でも小説でも、一人で全てを作り上げる事に限界を感じていたのも確かだった。

 

 活動を再開するなら、今まで通りに一人で全てを手掛けるか、それとも協力者を募るのかを決めなければならない。だが、ネットだけで繋がっている誰かと作品作りをするのは少し怖い。それにこの世界特有の問題もある。

 

 まず、いつもの投稿サイトにこの世界からログインできるのかという問題だ。次に、そのアドレスを使ったという記録が残ってしまうので、もしも学校側に知られたら面倒な事になりかねない。協力者とのやり取りが明るみに出れば、状況は更に悪化するだろう。

 

 仮定を積み重ねた末の推論ではあるが、海老名にとっては用心して当然の事だ。

 ならば発想の転換で、投稿サイトではなく身近で発表するのはどうだろうか。

 

 二人に知られて以来、趣味をもう少しオープンにしても良いと海老名は考えていた。三浦と由比ヶ浜がいてくれる限り、誰に奇異の目で見られても平気だ。それで男子からのお誘いが減れば、そちらの方がありがたい。

 

 過去の投稿が全てバレてしまうと面倒な事になりかねないが、この世界で()()()()()()取り組みに多少の逸脱があったとしても、今までの成績や生活態度を考慮して不問に付される可能性が高いだろう。

 

 

 こうした考えから、自分が参加できそうな部活を求めて、海老名はここ図書室へとやって来たのだった。文芸部でも良いし漫研でも良い。趣味に合った作品を提出しても受け入れてくれるクラブであればどこでも良かった。

 

 だが漫研も文芸部も近年は硬派な作品ばかりで、他の部員と仲良くできるイメージが湧かなかった。古典部はなぜかアイスクリームの由来を特集していて論外だ*1。念の為に美術部や写真部、果ては映研の部誌にも目を通したが、希望の条件を満たせそうな部活は皆無だった。

 

 

 少しだけ徒労感に襲われたもののすぐに心を入れ替えて。一人で活動を続けようと海老名は決意した。三浦の目は明らかに葉山に向いているし、由比ヶ浜の目も比企谷八幡に向いている。二人の想いが報われれば、一人で過ごす時間も増えることだろう。

 

 二人が想い人と一緒に過ごす光景を想像して、頬を緩めていたのも束の間。海老名はふと、二人の男子生徒が意外にお似合いだと気が付いた。

 

 先程の落ち込んだ気持ちもどこへやら。腐った笑顔を満面に浮かべ、赤い液体を垂れ流しながら。海老名は図書室の隅で想像力を限界まで働かせて、二人の物語を紡ぐのだった。

 

 

***

 

 

 三浦はグラウンドでサッカー部の練習を見学していた。ここに来た時は柔軟運動の最中だったが、大半の部員は動きが緩慢だった。まともなのは葉山以下数名という有様だ。

 

 三浦はサッカー部からいったん目を離して、他の部活を観察してみた。

 

 グラウンドでは野球部やラグビー部が、テニスコートでは女子テニス部が練習に励んでいる。他にも様々な部活が行われているが、総じて雰囲気は暗い。おそらく、この世界での経験が現実にどう結びつくのか分からないので、練習に力が入らないのだろう。

 

 

 体育の授業の時には雰囲気はもっと明るかった。多くの生徒が身体を動かすのを楽しんでいた。準備運動の時だって「効果あるのかな」という声は出ていたが、無駄かもしれない事をやらされている滑稽さを笑えるだけの余裕があった。

 

 しかし、部活となると話が違うのだろう。

 授業と違って自分の意志で参加するからには、明確な目標なり目に見えた効果を欲してしまう。

 

 やる気はあっても運動スキルの数値に囚われて、それを上げる事だけに集中する部員もいる。この世界から少しでも早く脱出するためには、部活を辞めて勉強に専念すべきではないかと考える部員もいる。

 

 昼休みに見学に誘われた時は気軽な口調だったが、葉山は案外本気で関与を求めているのかもしれない。三浦はそんな事を思いながら、自分の方へと近付いてくるサッカー部のエースを眺めていた。

 

 

「やあ、優美子。……どう思う?」

「見ててつまんないし」

 

 単刀直入に尋ねられて、三浦は端的に答えた。それに苦笑しながらも、葉山の目は真剣味を帯びている。土曜日の午後に現実世界で見た、素の感情が伝わって来る眼差しとは違う。しかしその目からはまた別の魅力が感じ取れた。

 

 だから三浦は、思ったままの事を口にする。

 

「もっと真面目にやれし。……隼人も」

「……俺も?」

「普段から今みたいな真剣な顔つきで頑張れば、もっと多くの連中がついて来るはずだし」

 

 

 完全に意表を突かれ、葉山は思わず口ごもる。言われてみれば思い至る事は多々あった。常に冷静でいなければと思うあまりに、他の連中とは少し距離を置いて指示を送る事がほとんどだった。率先して努力する姿を見せないのは、もはや長年の悪癖になっている。

 

 他にも、あれもと思考が広がり続けるのを何とか抑えて、葉山は告げる。三浦に言われた通りの真剣な顔つきで。

 

「目から鱗が落ちたよ。本当に助かった」

「ちゃんと取り組めば、隼人なら大丈夫だし。で、あーしは何したらいいし?」

 

「そうだな。基礎練はいったん保留にして、しばらくゲーム形式の練習にしようと思う。基本は四対四で……」

 

 

 口に出しながら考えをまとめている葉山に向けて、三浦は先程の言葉を心の中で繰り返す。要するに、「ちゃんとやれば大丈夫」なのだ。

 

 葉山ほどの能力があれば、ちゃんとやらなくても困る事は少ないのかもしれない。だが、たとえ困ったとしても、ちゃんとやるように促せば大丈夫なのだ。

 

 普段の葉山には手助けなど不要かもしれない。でも困っている時には、今みたいに気持ちの入れ替えを促して力になる事ができる。それを繰り返して関係を深めていけば、いつかはあの日のような屈託のない眼差しを、また見せてくれるのではないだろうか。

 

 

 葉山の指示に従って、ミニゲームで何度か得点を決めた部員にだけタオルを直接渡すという賞品のような役割を淡々とこなす三浦の耳には、「素っ気なく渡されるのも良いな」「お前もついにその境地に至ったか」などと騒ぐ部員の声は聞こえない。

 

 葉山と、海老名と由比ヶ浜と、その他つき合いの長い友人のために自分ができる事を考えながら。三浦の放課後の時間は過ぎていく。

 

 

 そして三浦は最後まで、彼女の行動を静かに観察していた亜麻色の髪の一年生マネージャーには気付かなかった。

 

 

***

 

 

 家庭科室の前で顧問と別れて、奉仕部の三人は部室に戻った。だが時間も時間なので、今日はこれで解散という話になった。鍵を返しに行くという雪ノ下雪乃に強引に付き合う形で、由比ヶ浜結衣は並んで廊下を歩いている。

 

「そういえば、ゆきのんって夜はどうしてるの?」

「普通に一人で過ごしているわ」

「えーっ。それってちょっと寂しいじゃん。一緒に過ごそうよ!」

 

「はあ。申し出はありがたいのだけれど、勉強以外にも一人でやりたい事がたくさんあるのよ」

「う、勉強……」

「由比ヶ浜さん。私たちの本分は勉強なのよ。それに、この世界から出るためにも重要なのだから」

「そう言われると、そうなんだけどさ」

 

 

 二人がそんな話をしながら歩いていると、後ろから由比ヶ浜を呼ぶ声が聞こえた。サッカー部の一日マネージャーを無事に終えた三浦と、帰室時間がちょうど重なったようだ。

 

「たしか、雪ノ下さんだっけ。前から結衣と仲良かったし?」

「いいえ。付き合いはなかったわね」

 

「なら、なんで並んで歩いてるし?」

「由比ヶ浜さんが私の部活に入部したからよ」

「はあっ、何それ。結衣は放課後もあーし達と一緒に過ごすんだから、邪魔すんなし」

 

 当事者の由比ヶ浜が全く口を挟めないままに、二人は臨戦態勢に入る。片や獄炎の女王、片や氷雪の女王。両者の実力は伯仲しているかに見えた。しかし。

 

 

「貴女が由比ヶ浜さんと普段から仲が良いのだとしても、放課後をどう過ごすかは当人の意志に任せるべきだわ。そんな事も解らないのかしら?」

 

「なっ。いちいち喧嘩腰でむかつくし」

 

「先に失礼な事を言い出したのは貴女でしょう。それに、一方的に自分の意見を押し付けるだけだと、いつか友達も離れていくわよ?」

 

 偉そうな事を言っているが、仮にこの場に八幡がいれば「離れていこうにも、そもそもお前には友達がいないだろ」と空気を読まずに口にして、完膚無きまでに罵倒されていた事だろう。

 

 しかし三浦にはそんな事は分からない。由比ヶ浜と海老名が離れていく光景を想像してしまい、思わず涙目になったところで。

 

「意見の押し付けは確かに良くないけど、それが優美子の良いところだしねー」

「うん。こう見えて優美子って、ちゃんと相手の事を考えて意見を言ってくれるからね。だから大丈夫だよ、ゆきのん。ちゃんと優美子公認で部活に参加するからね!」

 

 意外と打たれ弱い獄炎の女王に両側から寄り添って、いつの間にか合流していた海老名が、ついで由比ヶ浜がフォローの言葉を口にした。

 

 

 それを見た雪ノ下は、少しだけ表情を柔らかくしながら口を開く。今日の放課後に由比ヶ浜と一緒に色んな体験をしたことが、彼女を柔和にしているのだろう。

 

「そう。知らぬ事とはいえ失礼な事を言ってしまったわね。三浦さん、だったかしら。行き過ぎた物言い、ごめんなさいね」

 

「別にいいし。あーしこそ、突っ掛かるようなことを言って申し訳なかったし。あと、三浦じゃなくて優美子って呼べし」

 

「貴女を名前で呼んだら、次は由比ヶ浜さんから色々と要求がありそうだし、残念だけれど遠慮させて頂くわ。三浦さん……()()()()()

 

 軽い口調で返事をしながら、雪ノ下は意味ありげな言葉を告げた。

 

 由比ヶ浜は二人が仲良くしてくれそうだと思って喜んでいるし、海老名は新たなカップリング考察に意識を奪われかけている。しかし三浦は呼び掛けられた当事者だからか、発言の意図を正確に理解できていた。

 

 部員の希望を尊重して欲しいという意味の「よろしく」と、部活外では由比ヶ浜のことを「よろしく」という意味と。その二つの意味をきちんと汲み取って、三浦は返事を返す。ならば部活の時間は任せたと、そんな意図を込めて。

 

「こっちこそ、()()()()だし」

 

 

 その後、「夕食ぐらいは一緒に食べる時間があるはず」という由比ヶ浜の哀願にあっさり屈した雪ノ下が食卓に加わって、今後の方針が話し合われた。

 

 三浦と海老名が明日にでも奉仕部を見学するという話に落ち着いて。「無駄口を叩かなければ、一緒に勉強しても良いのだけれど」という雪ノ下の脅しにあっさり屈した由比ヶ浜が泣く泣く彼女を見送って。

 

 各々にとって長く重要な一日は、このようにして終わりを告げた。

 

*1
米澤穂信「氷菓」(2001年)




次回は日曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
改めて推敲を重ね、前書きを簡略化しました。(2018/11/17)


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12.やはり我の日頃の行いはまちがっている。

今回から新展開です。


 今日も今日とて授業が終わり、比企谷八幡はいつもの通りにそそくさと教室を出る。それを横目で眺める由比ヶ浜結衣は、一人で先に部活に行く八幡に少しご不満のご様子だが、今日は親友二人を部室に伴わなくてはならない。今日は仕方がないかと瞬時に気持ちを切り替えて、彼女はお喋りの輪に戻った。

 

 結衣が八幡と一緒に部活に行こうと思うのは、何も特別な恋情があるからではない。そうした気持ちに到達するには、未だ彼女は彼の事を知らなすぎた。だが、彼に対して好意があるのも確かである。そして彼女にとって、目的地が同じなのに別々に行動するという選択肢は考えの埒外であった。彼女の自己判断としてはそんな感じなのだが、彼女を眺める親友二人はそうは受け取らなかったようだ。

 

 

「何だか不満そうだけど、何なら結衣だけ先に行ってくれても良いよ?」

 

「あーし達は先生に見学の許可をもらってから追い掛けるし」

 

「そ、そんなに気を遣わなくてもいいってば!」

 

 

 既に昨日の夜に簡単な事情は説明し終えている。入学式の日に結衣の飼い犬を助けたのが彼だと聞いて二人の少女は意外そうな表情を浮かべていたが、それは彼の事をクラスで孤立している男子生徒だという程度にしか知らないからだろう。実は海老名姫菜が彼の受けとしての素質に目を付けているなど、結衣には分かるはずもない事であった。

 

 それに彼女らとしては、二年に進級して以来の謎が解けてスッキリした気持ちでもあった。なぜ結衣が時おり沈んだ表情を浮かべながら思い悩んでいたのか。なぜ結衣が特定の男子生徒を、しかも客観的に言って魅力的とは思えない彼の事を頻繁に目で追っていたのか。それらの理由が判明したからである。

 

 さらに言えば、三浦優美子にとっては結衣に反撃する材料を得られたという意味もあった。ここ数日は二人にからかわれる事が多く、女王気質の彼女としては遺憾に思っていたところである。姫菜の発言に便乗して、彼女には珍しくわざとらしい口調で結衣をからかう事は、ここ最近の借りを返す意味もあり、そして照れて可愛らしい仕草をする結衣という眼福も得られる。優美子としては実行しない理由がないのである。

 

 

「じゃあ、そろそろ職員室経由で行きますか」

 

 

 まだ少し照れている結衣と、そんな彼女を暖かく眺める優美子を促すように、姫菜が号令をかける。首尾よく職員室で許可を取って、三人娘は揃って特別棟へと歩みを進めるのであった。

 

 

***

 

 

 少しだけ時は遡る。それは、その日の昼休みの事だった。教室で独り昼食を終え、適当な場所で次作の構想を練ろうと立ち上がった材木座義輝(ざいもくざよしてる)は、教室に入って来た生活指導の教師に声を掛けられた。「少しだけ時間を貰えないか」と言われ、彼は空き教室へと導かれた。

 

 教師の用件は単純なものだった。他人と接しようとしない彼に対し、以前から「何かあれば力になるぞ」と言ってくれていた女教師。彼女が、この世界では授業が終わるやいなや独り自室にこもって翌朝まで出て来ない彼の事を心配して、声を掛けてくれたのである。

 

 

 

 彼は物心がついた頃からシャイな性格だった。一方で、彼の体格はがっちりしており太りやすい体質でもあった。そうした内外のアンバランスは幼い頃にはあまり問題にならなかったが、小学生になり同級生と過ごす時間が長くなるにつれて、彼の毎日を過ごしにくいものにさせていった。

 

 同級生の女子生徒はもちろん、男子生徒が相手でもうまく喋れない彼は、クラス替えのたびに何とか状況を改善しようと頑張るものの、生来の気質は簡単に解消できるものではない。体が大きく威圧感のある彼が実は同級生との会話を苦手にしている。ならばみんなで彼をクラスの一員として迎えてあげなければ。そんな道徳の模範解答の様な事を言っていたのは低学年までだった。

 

 

 10歳という区切りの年齢が見えて来る頃、彼は同じクラスの数人の男子生徒から雑な扱いを受ける様になった。いわゆる虐めである。だが、虐めの内容はさほど過激なものではなく、彼らの関係が歪とはいえ関係を結べなかった低学年の頃よりは今の方が良いのかもしれない。当時の担任とて色々と考えた末の結論だったのだが、大人のそうした考え方は子供達に即座に伝播するものである。彼のクラス内での扱いはこの時に定まって、それは小学校を卒業するまで変わらなかった。

 

 

 彼にとってある意味で救いとなったのは、そんな関係にあった同級生からアニメのキャラクターの物真似を命じられた時の出来事だった。そのグループの中に他人の声を真似るのが得意な少年がいて、それで全員が順に物真似をしてみようという話になったのだ。

 

 彼の物真似は、お世辞にも巧いと言えるものではなかった。だが彼は、そのキャラクターになりきっている時には、途中でつっかえる事もなく普通に言葉を喋れている自分に気付く。家に帰って他のキャラクターの口調で喋ってみても、結果は同じだった。

 

 

 おそらく、キャラの口調を真似なければと普段より頭を使っている為に、いつもなら口を開きながら考えている「どもったらどうしよう」「また笑われるのかな」といった余計な事を考える余裕がなくなった事が、物事を良い方向に導いたのだろう。

 

 彼にはそうした機序は分からなかったが、色んなキャラの口調を使い分ける事で、彼の小学校生活は以前よりは過ごし易いものになった。同級生にいじられる立場なのは相変わらずだが、行為がエスカレートする前に適当なアニメキャラの喋り方で泣きを入れると、大抵の事は笑って終わりになった。こうした紆余曲折を経て、彼の小学生時代は終わりを告げたのである。

 

 

 

 中学に入ると、思春期に差し掛かった少年たちが順に中二病を発症した事で、彼の口調はさほど目立たなくなった。体の存在感は健在だったが、それと話し方とのギャップを笑われる事も少なくなり、そして彼はゆっくりと孤立していった。

 

 小学生の頃から、仲の良い友達を作るというよりは誰かのグループに居候させてもらっているという友人関係が主だった彼である。自ら交友関係を広げるという経験に乏しい彼は、発言を面白がられるという特徴が中二病の同級生が増えた事で埋没してしまった彼は、気付けば独りで過ごす事が多くなった。

 

 

 彼は状況を打開すべく、より同級生に受けるキャラクターを演じようと考える。既存のキャラではなく彼にしか演じられない設定がいい。自分と同じ名前の歴史上の人物の事は以前から知っていたが、将軍にして剣豪というその属性が彼の心を掴んだ。我こそは、かの足利十三代将軍義輝の生まれ変わり、剣豪将軍義輝である!

 

 しかし、彼の渾身の設定は、同級生に全く受けなかった。ちょうど高校受験が視野に入り出した時期だった事も影響したのだろう。馬鹿に付き合っていると自分まで落ちこぼれてしまうと、罵倒ではなく無視に近い扱いを受けるようになって、彼は独りで残りの中学生活を送った。

 

 他にする事があるでもなし、彼は持て余した暇な時間を潰す為に予習復習をこなした。宿題をやらず教師に呼び出されたとして、どんな口調で話していいやら彼にはもはや分からなかった。ならば呼び出されない様にするしかない。こうした積み重ねが功を奏して、彼はこの辺りで一番の進学校である総武高校に入学できたのである。

 

 

 

 高校生になっても彼の日常に変化はなかった。気晴らしに街中に出てゲームセンターに行く事を覚え、会えば簡単な会話をする程度の知己は得たが、話の内容はゲームの話題が殆どで後はノリと煽りによって成り立つ程度のものだった。

 

 生意気な中学生にゲームで負けて見下されたり、そうした嫌な事も何度か経験したが、居ないものとして扱われる高校での毎日よりはマシだ。彼は次第にゲームにのめり込むようになり、そしてある日、ゲーム仲間との会話を通して創作活動に興味を持った。

 

 

 考えてみれば、アニメキャラの口調を真似ていた小学生時代の自分は、ある意味では二次創作を行っていたようなものである。誰にも受けなかったが、中学時代に考えた自分の前世設定は、ある意味ではオリジナルの創作と言ってもいい。将来の進路を思い描く事ができずにいた彼だが、昔からやっていた創作という分野なら、自分に向いているのではないか。

 

 そんな風に思ったものの、彼はそれを実行に移す事はなかった。毎日のようにゲームセンターに通い、浅い付き合いとはいえゲーム仲間との会話を楽しみ、家でもネット上で彼らとやり取りをする。彼の毎日は意外にも多忙なものになっていた。

 

 

 ちょうどその頃、体育のペアを組まされた事がきっかけで、同級生の男子生徒と会えば簡単な話をするようになった。濁った目の同級生は彼と同様に周囲から孤立しており、そして何より彼の前世設定を聞いてもそれを根底から嗤うことはなかった。こちらを見下したり馬鹿にする様な事も言ってくるが、それでも最低限のラインは守っている様に感じられた。小学生の頃から虐められた経験を持つ彼にとって、その線引きはとても重要な事だったのだ。

 

 二年に進級する際に、彼は唯一の友達と呼べそうな男とどうか同じクラスにしてくれと祈った。祈る対象は八幡大菩薩である。かの男の名を連想する武運の神は、彼の前世である足利将軍家も信奉していたほど霊験あらたかな武神である。願いが叶わぬはずはないと、新学期になるまで彼は信じて疑わなかった。

 

 

 しかし、彼ら二人を引き離そうとする勢力は予想以上の力を備えていたのだろう。残念ながら同じクラスとなる事あたわず、さらにこの世界に閉じ込められた事で、彼はゲームセンターを介した友人関係をも失う事になった。

 

 

 事件が起きた当夜、彼は部屋で独り考えた。我に残されたものは、もはや創作以外にないと。彼の敵勢力が恐るべき実力を備えている事が明らかになった以上、軽々しく唯一の友人に関与するのも問題かもしれない。

 

 設定と現実が混同した彼の思考は危うさを秘めていたが、意外に真っ当な一面もあった。創作によって彼にどんな力が備わるのかは彼にしか解らない設定だが、何かをやり遂げて自分に自信を持たせる事は、事態打開の為の有効な手段である。

 

 彼が教師に呼び出されたのは、ようやく彼が前夜に処女作を完成させ、一息ついたタイミングであった。

 

 

***

 

 

 机を挟んで向かい合って座った生徒に向けて、教師は質問を投げかける。

 

 

「……材木座。言い触らすようなことはしないから出来れば教えて欲しいのだが、君は毎日授業が終わってから、どのように過ごしているのかね?」

 

「む。我の行動は、本来なれば誰にも打ち明けること叶わぬが、貴君の頼みとあらば断るわけにはいかぬな」

 

「……やはり、普通の話し方では喋りづらいか?」

 

「然り。我はこの口調でないと、たとえ短い内容であっても、言い淀まず語り終えることは出来ぬでござるよ」

 

「まぁ、それは仕方がないか。あと、貴君は男性に使う言葉だからな」

 

「モ、モハハハハ。これはしたり」

 

 

 焦った様子の材木座と違って余裕のある表情を見せる平塚先生だが、仮に材木座が貴君を言い直して貴嬢などと言い出せば「どうして私は結婚できないんだろうなぁ……」と落ち込む展開になっていた事だろう。密かに彼の語彙の無さに感謝する国語教師であった。

 

 少しだけ時間を置いて、彼女は視線で話を促す。

 

 

「うむ。我はここ数日、ひたすら創作活動をしておった。ジャンルとしてはライトノベルになると思うが、新人賞に応募するに値する内容だと自負して居る」

 

「なるほど。作品は完成したのか?」

 

「我が遠大なる創作世界のほんの一端ではあるが、第一巻として上梓できる内容は昨日までに書き終えた。続いて二巻に取り掛かるか、それとも新作に取り組むかで悩んで居る」

 

「ふむ。……時に、君は比企谷とは友人だったな?」

 

「貴奴とは、あの地獄のような時間を共に駆け抜けた仲よ」

 

 

 単に、友達とペアになる事を強制される体育の時間の話である。が、平塚先生は何かの設定だと思ったのだろう。特に追求することもなく何か考え事をして、そしておもむろに口を開く。

 

 

「では材木座。君には今日の放課後、昨日書き終えた原稿を持って奉仕部に行って貰う。比企谷が所属している部活だ」

 

「なんと!貴奴め、いつの間に部活など?」

 

「つい先日の事だ。そこで比企谷を始め奉仕部の面々に原稿を読んで貰い、君に足りないところをアドバイスして貰うよう依頼したまえ」

 

「承知した。我が原稿が日の目を見る日がこんなに早く訪れようとは……。まさに八幡大菩薩のお導きによるものであろうな」

 

「私の話は以上だ。何かあれば気軽に相談したまえ」

 

「うむ。貴殿の協力に感謝する次第である」

 

「……貴殿も男性に向けて使う言葉だからな」

 

「げふぅっ!」

 

 

 ぞんざいな扱いとは裏腹に、彼の様子がそれほど酷いものではない事に密かに胸をなで下ろす平塚先生であった。

 

 

***

 

 

 教室で本日最後の授業を受けながら、材木座は頭を働かせる。八幡とは旧知の仲であるが、奉仕部とやらの他の部員とは全く接点がない。八幡が所属できているくらいだから女性は居ないとは思うが、男子生徒であっても知らぬ顔と会話をするのは彼には気の重いことであった。八幡以外は全て女性という状況など、彼にとっては想像力の範囲外である。

 

 彼は、間もなく訪れる他者との遭遇に緊張感を募らせる。そして残念なことに、快晴で気温も高くなった今日という日にも、彼は律儀にコートを羽織って指ぬきグローブを装着していた。緊張と気温と装備品のお陰で汗を大量に流しながら授業を受ける彼に気付き、教師は保健室行きを提案する。一計を思い付き、彼は鞄を持って席を立ち教室を出るのであった。

 

 

 彼の装備品は、実は購買で入手したものである。自分の分身とも言うべき装備品をこの世界でも身に着けたいと思うのは、彼にとって自然なことであった。その為に彼は購買のNPCを相手に、「こんな品は無いか」「無いです」「これならどうだ」「無いです」というやり取りを延々と繰り返した。そして遂に、購買で50回以上断られるという隠しコマンドを達成して、中二病ご用達のアイテムの数々を入手できる権利を得たのである。ゲームマスターが何を考えてこんな設定を用意したのか解らないが、現時点でこれを達成しているのは、もちろん彼一人であった。

 

 

 愛用の装備品に身を包み、彼は教師に教えられた奉仕部の部室へと向かっていた。この時間であれば、部員が勢揃いして待ち受けているという事はあるまい。一対多の状況に挑むのは、我には難易度が高すぎる。だが教室内で待ち伏せして部室に来た順に各個撃破するのであれば、我にもまだ勝機はある。彼はそんな事を思い付いて、授業を早退したのであった。彼が何と戦うつもりなのか、彼が正気なのかは誰にも分からない。

 

 

 教室の前に着いて、彼はおもむろにドアに手を伸ばす。そして気付く。ドアには鍵が掛かっていることを。予想外の展開に唖然とする彼であったが、鍵が無いのだから仕方がない。少し悩んだ末に、教室の前で仁王立ちして部員を待ち受けることにした材木座であった。

 

 

 雪ノ下雪乃と比企谷八幡がその場を訪れるのは、そして少し遅れて三浦優美子率いる三人娘が合流するのは、それからたっぷり30分以上後の事であった。

 




今回は完全に材木座の回でした。
次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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13.もちろん我の依頼はすんなりと受け入れられる。

引き続いて材木座のお話です。



 すっかり歩き慣れた経路を辿って、比企谷八幡は特別棟の廊下を一人歩いていた。毎日のようにあの教室へと向かっていると、初めの頃にはあった緊張感も薄れてくるものである。そんなわけで八幡はすっかり気を緩めており、その為に廊下の先にあったものに気付くのが遅れてしまった。

 

 目的の教室に向かう最後の曲がり角。窓の外を眺めながら何も考えずに歩いていたせいで、八幡の意識としてはそれが突然目の前に現れたように思えた。それとはすなわち、スカート越しに見える女子生徒の可愛らしいお尻であり、身をかがめて向こう側をこっそり観察している彼女の上半身であり、そのせいで八幡の方へと突き出す形になっているお尻であり、それからとにかくお尻である。

 

 

 思いがけぬ展開に呆気にとられる八幡だが、何かが彼の意識に引っ掛かりすぐに再起動を果たす。そう、ぐずぐずしているとクラスメイトの彼女がやって来る。女子高生の丸いお尻から目が離せない彼の姿を見られてしまうと、彼の残りの高校生活は更に酷いものになるだろう。まさか今より下があると思っていなかった八幡だが、とにかく最悪の事態を回避すべく、彼は小さく咳をして目の前の女子生徒に合図を送った。

 

 

 数秒間お尻をじっくり見られていた事にも気付かず、教室の前に仁王立ちする人物の観察に余念がなかった雪ノ下雪乃は、警戒の対象がすぐに動く事はないと判断して後ろを振り向き己が部員と向かい合った。思いの外に顔が近い事に八幡は赤面するが、彼女の目は真剣そのものである。小声で話をする為に更に顔を近付けて、彼女は八幡に向けて話し始める。

 

 

「比企谷くん。知りたい事はたくさんあるのに、今はとにかく情報が足りないわ。しりぞくべきか否か。資料にもマニュアルにも無かった事態だけれど、貴方は視力は良かったかしら?」

 

「え?あ、おう。視力は……特に普通だ。お前に見えないものが見えるって事はないと思うぞ」

 

 

 知りたい、しりぞく、資料、視力など、尻で始まる言葉が出るたびに敏感に反応してしまう八幡であった。幸いそれは、会話をしながらも定期的にあちらの様子を窺っている雪乃には悟られなかった模様である。

 

 

「そう。……端的に説明すると、部室の前に敵が現れたわ。おそらくゲームの中ボス?みたいな存在だと思うのだけれど。貴方にも後で確認して貰うとして、仮に戦いを挑むのなら二人や三人だと無謀かもしれないわね」

 

「マジか……。あのゲームマスター、えげつねぇな。安心させといてこれかよ」

 

 

 違う、濡れ衣だ。中二病向けの装備を用意するなど私は一貫して弱者の味方だ。どこか別の場所でそんな叫びが発せられた気もするが、当然ながら二人には届かない。

 

 

「安易に命を賭けるわけにもいかない以上、集団で包囲して遠距離からの攻撃のみで仕留めるのが一番でしょうね。いえ、それより前に降伏勧告をして、仮に尋問が出来れば色々と情報が手に入るかもしれないわ。だとすれば、守備の陣形を維持する事を第一に、第二に攻撃手段を複数用意して、その上で……」

 

 

 着々と戦術を練っていく雪乃であった。現れた部員に順次「我こそは剣豪将軍」と名乗りを上げて怯ませれば、以後の話を有利に運べるだろう程度の思惑しかない中ボスさん(仮)とは随分な違いである。彼の運命は既に風前の灯火かと思われたが、考察に耽る雪乃の横から敵の姿を確認した八幡のお陰で、彼は九死に一生を得た。

 

 

「あー、雪ノ下。考え事の最中に悪いんだが、あれ、敵じゃねぇわ」

 

「……え?」

 

 

 おそらくはイメトレでもしているのだろう。急に顔を上げて口を開き、声に出さずに何かを喋り終え、鷹揚に頷くとふんぞり返る。そんな奇妙な動作をする知り合いの様子を見て痛む頭を押さえながら、八幡は傍らの女子生徒に真実を教えるのであった。

 

 

***

 

 

 部室内は重い雰囲気に包まれていた。いつも通りに長机の長辺を隔てて向き合う雪ノ下雪乃と比企谷八幡。教室の奥に坐す雪乃から見て右手側の近い位置に由比ヶ浜結衣。廊下側に控える八幡から見て右手には材木座義輝。そして結衣の後方には見学として三浦優美子と海老名姫菜の姿もあった。

 

 女性陣は、制服の上からコートを羽織り手にグローブを着けている不審者が依頼人だった事に困惑している。一方の材木座は、八幡以外全て女性という状況に「もうやめて!我のワイフはゼロよ」などと意味不明な供述をしており、それが更に女性陣を気持ち悪がらせる悪循環になっている。そして八幡は、材木座が現れた事も、クラス内のトップ・カーストとして君臨している三浦以下の三人娘が勢揃いしている事も予想外であった。

 

 

 先ほど八幡が雪ノ下と並んで教室の前に現れた時、材木座は最初に安堵の表情を浮かべ、次の瞬間には緊張で挙動不審になり、八幡に向けてしきりに説明を請うように口をぱくぱく動かしていた。だが、それに追い打ちを掛けるように廊下の向こうから「ゆきのーん、ヒッキー、やっはろー!」という元気な声が聞こえてきた事で、まるで魂が抜けてしまったかのように材木座は動きを止めた。彼の身体を押すようにして、何とか八幡は彼を依頼人席に落ち着かせたのである。

 

 幸いな事に、材木座が上手く話せない展開を見越してか顧問から部長宛に依頼内容の詳細が届いたので、それを聞き出す必要はない。おそらく三浦達の見学希望を聞いて急いで送ってきたのだろう。が、それでも最低限の意思疎通すらできないようでは、具体策を協議する事はできない。自分が通訳をするしかないかと腹を括った八幡だが、それよりも先に女王二人の会話が始まった。

 

 

「あんさ。奉仕部の説明は昨日聞いたけど、こんなキモい奴の依頼まで受ける必要あんの?」

 

「依頼者に資格を求めるという規定はないわね」

 

「規定はなくても、最低限の条件ってあんじゃん?普通に会話ができない奴を相手にしても意味ないし」

 

「平塚先生の許可もある事だし、こちらが断る理由にはならないわね。それに会話なら、たぶん彼が間に入ってくれると思うわ」

 

 

 内心で決意はしていたものの、それを表明するより先に部長からのご指名があった事に、八幡は少しだけ驚きの表情を浮かべる。だが、驚いているのは彼だけではない。

 

 

「……ヒキオが?でもこいつ、教室で誰とも喋ってないし」

 

「いや、ヒキオって誰だよ……」

 

「ヒキオはヒキオっしょ?それか、あーしもヒッキーって呼んだ方が良いんだし?」

 

「……七回目のベルで受話器を取りたくなるから止めてくれ」

 

「貴方に電話が掛かってくる事は滅多にないと思うのだけれど?」

 

「ばっかお前、そりゃAmaz○nとかTSUT○YAとか……ああ、この世界ではないかもな」

 

 

 元ネタを知ってか知らずか、とにかく八幡に攻撃できる隙があれば見逃さない最近の女王様であった。もう片方の女王は、彼が普通に会話をできている事に意外そうな表情を浮かべている。

 

 

「ふーん。ま、会話ができるなら反対する理由もないし」

 

「なら比企谷くん、お願いね。平塚先生からのメッセージで、自作の小説を読んで感想を教えて欲しいという彼の依頼内容は判明しているのだけれど、具体的にはどうすれば良いのかしら?」

 

「あー、材木座。いつもの口調で良いから話せ」

 

「ほむん。ここに我が昨夜書き上げた原稿があるのだが、友達が居らぬので客観的な評価が判らぬ。我としてはライトノベルの新人賞に値する出来だと思うて居るが、更なる質の向上を目指したい。貴兄ら奉仕部の協力を得られれば、圧倒的じゃないか我が軍は」

 

 

 先程の挙動不審だった材木座よりはマシだが、やはり女性陣には彼の語り口調は受け入れがたいものだったようだ。話している内容は解ったが直接会話をしたくない。そんな彼女らから無言の圧力を受けて、八幡は口を開いた。

 

 

「つまり原稿を読んで、感想なり批評なりして欲しいって事だな。いつまでに読めばいい?量はどれくらいある?」

 

「ムハハハ。流石は八幡。共に天下を手中にせんと誓った前世よりの縁を忘れて居らぬとは殊勝な心掛け。褒めて遣わす」

 

「なあ、俺もう帰っていいか?」

 

「ゴラムゴラムっ!42文字×34行で80枚ほどだ。できれば早いほうが我も次作に応用できるので嬉しいのだが」

 

 

 何だかんだで材木座に話を進めさせるのが上手い八幡であった。

 

 

「……成る程。ライトノベルというジャンルは読んだ事がないのだけれど、読み易いという話だし、その量なら一晩で充分だと思うわ」

 

「ならば契約は完了よの。貴公らの感想を楽しみにして居るぞ」

 

「で、原稿は?」

 

「あ、はい。平塚女史に聞いてたさ、三人分は用意してます。……フハハハハ!」

 

「ちょっと煩いわよ」

 

「あ、はい。残り二名の分みょ、分も今すぐに準備します。はぁ……」

 

 

 さしもの材木座も氷雪の女王を前にして設定を演じきる事はできず、翌日の来訪を約束して彼は先に教室を出たのであった。

 

 

***

 

 

「で、比企谷くん。彼の口調には事情がありそうだけれど、説明して貰えるかしら?」

 

 

 材木座の様子や八幡の応対から何か理由があると察していた雪乃は、彼が教室を出てから部員に問い掛けた。別に隠す事でもなし、ただ正確に伝える事だけは気を付けようと思いながら、八幡は先にまず彼の症状と病名を伝える事にした。

 

 

「あれはコミュ障で中二病だ」

 

「……虚無僧?」

 

「……ちゅー二秒?」

 

 

 きょとんとした表情で、各々が思い浮かべた言われた言葉に近いものを口に出す部長と部員。彼女らを眺めながら、八幡はどう説明したものかと頭を悩ませる。

 

 

「コミュ障ってのはコミュニケーション障害の略ね。他人と上手くコミュニケーションが取れない人達が話題になった時に作られた言葉だったかな。中二病は妄想癖みたいなものだと思ったらいいよ。自分はどこどこの誰々である、みたいな設定を作って、それを演じてる感じかな。誰か戦国武将を模しているような口調だったね」

 

 

 意外な人物から解説が届いて、姫菜のアングラな趣味を未だ知らない雪乃と八幡は驚いたまま言葉を出せずにいる。当面の疑問が解消した事もあって、口を閉じたまま展開を眺める彼らを尻目に、仲良し三人組の会話が盛り上がりを見せていた。

 

 

「それがなんで、ちゅー二秒になるの?」

 

「結衣がちゅーとか言ったら破壊力が強すぎるから、その可愛い顔は大事な人にとっておきなね?」

 

「な!って、ちゅー二秒ってアレがアレの事だよね。ちゃんと分かってるんだから、からかわないでよね!」

 

「あーしには分かんないけど、結衣はちゃんと分かってて偉いし。説明して欲しいし?」

 

「あ、えーと。なんと説明して良いものやら言葉に困りますと言いますか……」

 

 

 発言そのままに困っている結衣に対し、姫菜がフォローに入る。

 

 

「ちゅーじゃなくて、中二の病気で中二病ね。中学二年生ぐらいの子がそうした行動を取りやすいって話から名付けられたの。さっきの彼は多分、演じていないと上手く喋れないんじゃないかな?」

 

「あ、ああ。だいたい合ってる。あいつの過去の話は妄想混じりだから正確には分からんけど……。普通に喋ると男相手でも、どもるし、異性の前だと硬直しちまうんだと。それが、アニメのキャラを演じた口調だったり自分の設定に沿った口調だと、かなりマシになるらしい。あいつ名前が義輝だから、足利義輝の生まれ変わりって設定にしたんじゃね?」

 

 

 いきなり自分の目をじっくり見据えて話を振ってきた姫菜に動揺しかけた八幡だが、材木座が去ったドアの方へと視線を移して何とか説明を終える。

 

 

「だいたい事情は把握したわ。貴方と同じで周囲から孤立しているのでしょうけれど、孤立の仕方は随分違うわね」

 

「まあ、俺の場合はぼっちが好きって事もあるからな。……あいつは大勢に認められたい意識が根強いけど……(俺は、身近な誰かに認められるだけで満足だしな)」

 

 

 言いかけた言葉を途中で引っ込めて、八幡は思考を止める。この世界では、そんな身近な奴など居ない。浮かび掛けた考えを振り払うかのように、彼はそのまま言葉を続ける。

 

 

「ま、そんなわけで、あいつが作家になって多くの連中から普通に扱われるようになったら、俺に寄って来る事もなくなるだろ。だから俺はあいつの依頼にちゃんと応えようと思う」

 

「……言っている事は不適切だけれど、解り易いから不問にしてあげるわ。それならきちんと添削しないといけないわね」

 

 

 くすりと笑いながら、雪乃は原稿を手に気合いを入れる。彼ら二人の会話を興味深そうに眺める見学者二人と、温かく見つめるもう一人の部員。そして気合いの入った部長を一転、怖ろしそうに眺める八幡であった。

 

 

「じゃ、私たちも明日また見学に来ようかな」

 

「姫菜、えらく乗り気だけど何があったし?」

 

「うーん、何て言うかな……。昨日サッカー部の見学に行ってから優美子、どうやったら他人の力になれるかなって言ってたよね?」

 

「……確かにあーしが言った事だけど、恥ずかしいからあんま言わないで欲しいし」

 

「結衣も、奉仕部に入ったのは他人の役に立ちたいって理由だったよね?」

 

「……うん、そうだけど。改めて言われると、確かにちょっと恥ずかしいかも」

 

 

 親友二人の要請を無視して、姫菜は話を続ける。

 

 

「たまたまだけど、依頼に居合わせた縁って事もあるし。結衣からしたら奉仕部での先輩に当たる二人の対応を見せて貰う事で、結衣は勿論だけど優美子も何か得られるものがあるんじゃないかな?誰かの力になる為の、参考になると思うよ」

 

「だから、そんな恥ずかしい事を強調するなし」

 

 

 筋は通っているのだが、姫菜の狙いがそれだけとは二人には思えなかった。もしや奉仕部に新たなカップリングを見出して、資料を増やしたいが為に明日も来るような流れにしたのだろうか?そんな失礼な疑いを持ってしまった二人だったが、そうした発想が出て来る時点で姫菜の布教が順調な証拠でもある。だが、趣味の布教はご勘弁頂くとして、それ以外の事で姫菜が二人に悪い企みを巡らすはずもないのである。

 

 それに、結衣はもちろん優美子としても、明日も見学に来る事には内心乗り気だった。依頼人の事情はだいたい分かったが、それでも彼が依頼を切っ掛けに結衣に関与をして来ないとは限らない。そうした親友を守ろうとする親心が先に立つ彼女ではあったが、事情を知ってしまった彼の創作活動が良い方向に進んで欲しいと思う気持ちも確かにあった。むしろ照れ隠しの為に、結衣への心配を無理矢理大きくしている側面もある。

 

 

「じゃあ、今日は帰ってからみんなで一緒に原稿を読もうよ!」

 

「あの、由比ヶ浜さん。勉強と同じでこうしたものも、みんなで一緒に読むようなものではないと思うのだけれど」

 

「集中して読んでる時に話し掛けないのはマナーだとして、ちょっと休憩の時とかにみんなで感想を言い合えるのは効果があるんじゃないかな?」

 

「それは……その通りかもしれないけれど……」

 

「じゃ、決まりね!……ごめんねヒッキー。男子生徒を部屋に呼ぶのは無理だから……」

 

「ああ、気にすんな。んじゃまた明日な」

 

 

 こうして、所々で見学者の存在が良い方向に働いて、彼女らの部活動は今日も無事に終わったのであった。




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
描写が曖昧に思えた数箇所に、ごく簡単に説明を加えました。大筋に変化はありません。(6/17)


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14.しかして我は新たな病を発症する。

今回で材木座編は終了です。


 今日の授業が終わって少し時間が経った頃、材木座義輝は特別棟の廊下を歩いていた。これは「少し奴らを焦らしてやるのも一興というもの」という彼の先程の呟きが理由ではない。それは単なる後付けもしくは捏造である。真実は、授業を早退したのに保健室に行かなかった昨日の行いがばれて、担任から大目玉を食らっていたせいであった。

 

 しかし、今日に限っては担任の苦言など、彼に何ほどのダメージも与える事はできない。なにせ、彼が書き上げたばかりの原稿を五人もの同級生に読んで貰えているのである。昨夜から彼は抑えていても沸き上がってくる興奮に身を焦がし、今や抑える必要のなくなったそれは彼の意識を妄想の彼方へと追いやるほどに成長していた。

 

 

 彼は同級生たちの絶賛の声をしっかりと聞き取る事ができた。一人の男子生徒は少しだけ悔しそうな表情をしているものの、自分など我に敵うものではないと悟り終えたような清々しさがあった。我は彼に鷹揚に頷き、そして我と我が原稿を褒め称える事を止めない女子生徒たちへと目を向ける。彼女ら一人一人が口にする感想を丁寧に聴きながら、それ程までに深く我が原稿を読み込んでくれた礼を述べる。

 

 そして我は次のステージへと向かう。もちろん、この世界に居ながらの作家デビューである。新人賞の賞金は全て、我を今まで育ててくれた両親にプレゼントする。それは瞬く間にニュースになって、多くの取材が舞い込む事だろう。しかし我の本業はあくまで作家である。一時の盛り上がりに自分を見失う事なく、我は原稿を書き続けるのだ。

 

 

 そんな未来を既に達成し終えた気持ちになって、彼は廊下を歩きながら高笑いする。そして目的の教室へと辿り着き、「頼もう」と声を出しながら、彼はドアを開くのであった。

 

 

***

 

 

 教室内には疲れた空気がみなぎっていた。部活が始まった時点で既に今のような雰囲気ではあったのだが、廊下から変な笑い声が聞こえて来た事で、それは更に酷いものへと退化していた。上機嫌な様子の材木座が意気揚々と昨日と同じ席に座るのを、誰もが虚ろな目で眺めていた。

 

 

「さて。では各々方、感想を聞かせて貰おうか」

 

「はあ……。では、仕方がないので私が進行役を務めるわね」

 

「む。我に異存はない」

 

 

 どこまでも偉そうな材木座に対し、部長の責任感から雪ノ下雪乃が司会進行を引き受けたものの、彼女の表情は暗く精神が摩耗しているように見える。それでも彼女は雪ノ下雪乃であり、自らの役割を果たすべく話を進めるのであった。

 

 

「まず初めに。昨日は由比ヶ浜さんと見学希望の二人と一緒に原稿を読めて助かったわ。三浦さんが言葉少なに指摘する事は的確だったし、由比ヶ浜さんの休憩を提案するタイミングは完璧だったと思うわ。そして海老名さんには、登場人物の言葉の言い回しが別の漫画やアニメのキャラクターのそれから引用したものだと教えて貰ったり、本当に御世話になったわね」

 

「ゆ、ゆきのん……!」

 

「ま、あれくらい当然だし」

 

「元ネタは有名作ばかりだったし、あの程度でお礼とか、別にいいからね」

 

 

 そんな三者三様の反応を比企谷八幡は横目で眺め、「なんか感動してるけど、由比ヶ浜のは別に褒められてなくね?」と思いながらも口には出さない。その由比ヶ浜結衣は感極まったように目を潤ませているし、三浦優美子はいつものように女王然としているが微かに照れているようにも見える。海老名姫菜は、昨日は気付かなかったが意外に本音が読めない気がしてきた。と、当の彼女が首を傾げながら彼に視線を向けて来たので慌てて目を逸らして、八幡は直前の思い付きを忘れてしまった。

 

 内輪の話題を出した事で首尾良く男子二人を疎外した雰囲気を作る事に成功した雪乃は、先程よりは少し顔色を良くして話を進める。

 

 

「では、どんな順番にしようかしら……。最初は三浦さん、お願いできるかしら?」

 

「了解したし。正直、めちゃくちゃ読みにくかったし。変な語順が多すぎだし、倒置が多すぎて何を強調したいのか判んなくなってたし」

 

「ええ。『てにをは』も無茶苦茶だったし、日本語の文法を理解しているのか疑ってしまうレベルだったわね」

 

「げふぅっ!」

 

 

 女王二人の豪華コンボを喰らって、一撃で瀕死に追いやられた材木座であった。が、彼の回復性能を見くびって貰っては困る。「落として上げる作戦であろう。全く最近のおなご共は駆け引きが上手くて敵わぬ」などと脳内で独りごちて、瞬時に全快する彼のたくましさは我々も見習うべきかもしれない。

 

 

「由比ヶ浜さんの感想を聞かせて貰えるかしら?」

 

「え、えっとね。読んでたらすぐに眠くなって来ちゃって。難しい本と同じだなって。す、凄いなって思っちゃった、かな?」

 

「ひでぶっ!」

 

 

 悪意が無いのが逆に辛いとはまさにこの事であろう。体力よりも精神力にダメージを受けた材木座だが、「難しい本……我もいずれはハードカバーで大著をものにできるかもしれぬ。そこまで我が未来を見通してくれるとはありがたい感想ではないか」と一瞬で思考を組み立てる。再び全快した彼のたくましさは我々も見習うべきかもしれない。

 

 

「では、海老名さんは?」

 

「うーん。私は()()()()ラノベに詳しくないんだけど……」

 

 

 とても自然に略称を口にする時点で絶対に嘘だろうと、お互いに気付きはしないが仲良く同じタイミングで、密かにツッコミをする雪乃と八幡であった。

 

 

「構わぬ。凡俗の意見こそ貴重なものだ。忌憚なく思う所を述べて呉れ給へ」

 

「正直、男キャラに魅力が感じられなかったなー」

 

「あー。作者本人が作品に出て来るのはアレだよな」

 

 

 思わず口を挟んでしまった八幡だったが、次の瞬間にそれを後悔する事になる。

 

 

「さすがヒキタニくん、分かってるね!時代の最先端は見た感じ誘い受けだけど鬼畜チェンジもできるハイブリッドかつリバーシブルなタイプだと思うんだよね。ヘタレで他の男から手を出されるのを待っているタイプの主人公は今の流行からは遠いんだよ。だからこの作品も主人公をヒキタニくんみたくして敵に隼人くんみたいなイケメン爽やか実は内心オラオラ系とか配置したらそれだけですっごく作品が良くなるというかそうなったらもうこれはキマシタワー!」

 

「……姫菜、擬態しろし」

 

「は、はは……」

 

 

 この世界でも鼻血とか出るんだなと、全力で現実逃避をしながら傍観者たろうとする八幡であった。だが現実はシビアである。彼は当事者である事を免れない。姫菜を介抱する優美子と結衣を眺めながら諦めの境地へと達した彼は、ようやく海老名姫菜という少女の本質を見た気がした。そして妄想の対象になるとこんな気分を味わうのかと、男子に人気のある女子生徒達に心からの同情を寄せる八幡であった。

 

 雪乃には姫菜が口にした言葉の意味がほとんど解らなかったが、何となく自分が関与してはいけない話題だと察して気に留めない事にした。彼女が鼻血を出した時は焦ったものの、優美子の対応が慣れたものだったので様子見に徹したのである。

 

 材木座には彼女の発言内容は理解できたが、突然すぎて思考が追いつかなかった。だが冷静さが戻るにつれ、二次元にしか存在しないと思っていたアングラに深い関心を持つ女性を現実に目の当たりにして、興味と拒絶と両極端の感情が彼の心には宿っていたのであった。

 

 

「ごめんごめん。真面目な話に戻すと、男同士でも異性関係でも、突き合いにはリアリティが伴っていないとダメだと思うんだ。主人公の前世からの妻とか、転生のたびに共に行動する相棒って設定は別に良いんだけど、その設定を物語の中で展開させるなら、やっぱり読む人が納得出来るだけの描写が必要だと思うんだよね。話が佳境に入るたびに、前世を理由に出して解決するのは止めた方が良いと思うよ」

 

「ひぎぃっ!」

 

 

 実のところ、暴走してしまった自分には内心で姫菜も驚いていた。確かに一昨日に夕食を共にして以来、雪ノ下とは良好な関係を築けていると思う。直接話をしてみると噂にあったような孤高な雰囲気を感じる事もなかったし、むしろ結衣との会話を聞いていると年相応の可愛らしい女の子という印象が強くなってくる。彼女なら、素の自分を見せても対応が変わるという事はないだろう。

 

 

 また、結衣の想い人である奉仕部唯一の男性も、雪ノ下や結衣との会話を聞いていると教室での様子が嘘に思えてくる。いや、確かに言葉の端々から教室内で孤立している彼に繋がる要素は色々と伝わってくるのだが、この教室での彼は気遣いもできるし言葉に複数の意味を込めた会話も普通にこなせている。おそらく結衣は飼い犬を助けてくれた恩だけでなく、彼のこうした内面にも惹かれているのだろう。

 

 態度には出さないが優美子と同様に、結衣が変な男に付き纏われない様に彼の為人を確認する必要があると考えていた姫菜だが、彼が相手ならそれほど悪い事にはならないだろうと判断した。彼が結衣の相手として相応しいかはまだ判らないが、普通に部活の仲間としてなら心配する必要はなさそうだった。

 

 

 だが、まさが自分が彼の言葉をきっかけに暴走してしまうとは姫菜も予想外であった。密かに彼と葉山隼人とのカップリングを検討していたのは確かだが、彼にはそうした一面を見せても大丈夫だという判断が、自分でも気付かぬうちに姫菜の中にはできていたのだろう。

 

 

「あ、そういえば。出席を取ってる時にはヒキタニって呼ばれてるからそれが正しいと思ってたんだけど、雪ノ下さんはヒキガヤって呼んでるよね。どっちが正解なの?」

 

 

 姫菜は瀕死のダメージを受けて土気色になった材木座に一切配慮をする事なく、室内の空気を全く無視して思い付いた疑問を口にした。

 

 

「あー、別にどっちでもいいぞ。一応ヒキガヤが正しいんだが、担任の中ではヒキタニで定着してるみたいだしな」

 

「じゃあ教室でもヒキガヤくんって呼んだ方が良いんじゃない?」

 

「……いきなりヒキガヤって呼ばれてクラスの注目を浴びるのもアレだし、その、なんだ。俺と教室で会話とかして、お前らが他の連中から変な目で見られるのもアレだしな。むしろ俺の心の安定のためにも、話しかけないでくれると助かるんだが」

 

「んー。話しかけないかは保証できないけど、じゃあヒキタニくんって呼ぶからよろしくね」

 

 

 一方その頃、材木座は「前世に頼らずとも我ならば上手く話を収束できるという信頼の裏返しだな。まったく、昨日会ったばかりの者にすら隠し通せぬ我が才能の迸りが、少しばかり恨めしいわ」などと妄想を働かせて回復を終えていた。三たび全快した彼のたくましさは我々も見習うべきかもしれない。

 

 

「では、そのヒキタニくんの感想を聞かせてもらえるかしら?」

 

 

 気のせいか普段より少しだけ厳しい口調で、進行役の雪乃が口を開く。彼女の圧力に少しびびってしまった八幡だったが、何とか返事が出来た。

 

 

「あ、ああ」

 

「は、八幡。貴様なら我が深遠なる物語の真価を説明してくれるであろうの」

 

 

 流石の材木座でも、雪ノ下に期待をするのは無謀だと理解しているのだろう。文字通り最後の砦となった八幡に向ける彼の視線は期待に満ちたものであった。しかし。

 

 

「……学園異能バトルを書きたいのは分かるが、禁書にハルヒを混ぜて百で割ったような薄い内容はどうかと思うぞ」

 

「ぴゃあっ!」

 

 

 作者への配慮が全くない実に客観的かつ適切な評価を受けて、材木座は遂に虫の息になる。しかし八幡の発言は止まらない。

 

 

「あと、パクリすぎ。もうちょっとアレンジする努力をしろよな」

 

「ぶふっ!?ぶ、ぶひ……」

 

 

 おお、ざいもくざよ。しんでしまうとはなさけない。脳内で呼び掛けられる声に応えて何とか立ち上がり、彼は四たび復活を果たす。よもや八幡が幻紅刃閃(ブラッディナイトメアスラッシャー)を繰り出してくるとは予想外であったが、我は何とかそれに耐えたのだ。死の淵から全快した彼のたくましさは我々も見習うべきかもしれない。

 

 

***

 

 

「さて。さすがに自覚できていると思うのだけれど、貴方の作品の出来は酷いものだったわ。文法も修辞も論理も落第点だし、登場人物の掘り下げは浅く、展開も陳腐だわ。他作品を安易に使い過ぎているという指摘もあったし、これを修正するよりは一から新しいものを書いた方が良いレベルね。結論としてはそんな感じになるのだけれど、何か言いたい事はあるかしら?」

 

「……また、読んでくれるか?」

 

 

 材木座の意外な言葉に、教室の中は静まり返った。容赦のない雪ノ下のまとめに内心で汗をかいていた面々だったが、今は誰もが呆気にとられた表情をしている。

 

 

「……どういう意味だ?」

 

 

 知り合いのよしみで八幡が尋ねる。それに答える材木座の顔は、珍しく現実のみを見据えた真面目な表情であった。

 

 

「いかに我とて、これほどの酷評には忸怩たる思いである。だが、我は同時に嬉しかったのだ。自分が書いたものを諸君ら五名に読んで貰えて。今の気持ちをどう表現して良いのか分からぬが、恥ずかしい評価を受けた事も含めて、我は我が作品に向き合ってくれた事を嬉しいと思うのだ」

 

「そうか……。お前はもう、作家病にやられちまったんだな」

 

「作家病?」

 

「……作品を書きたいって思いに取り憑かれちまった連中の事だ。こいつはもう手遅れだな」

 

 

 誰の呟きだったのか判らないが、八幡はその声に解説を返す。たった五名の読者でも、そしてこれほどの酷評でも、材木座にとっては何よりの価値があるのだろう。ならばそれを応援しないという選択は八幡には無い。

 

 

「じゃあ今からの議題は、こいつの作品を良くする為にはどうしたら良いか、だな」

 

「ぬぅぐ。このままでは駄目であるか?」

 

「ま、駄目だろうなぁ」

 

 

 八幡の返事に深く頷く女性陣であった。そして何かを思い付いたのだろう。結衣が口を開いて雪乃に向けて質問を投げかける。

 

 

「それってさ、この世界のスキルで何とかならないのかな。作家スキルとか、そういうのって無いの?」

 

「ええ。創作スキルとか作家スキルとか、その手のものは存在しないわね」

 

「え、どうして?料理とかはスキルがあるのに」

 

「……そうね。簡単に言えば、数字にするのが難しいからよ。例えば誰か好きな作家を想像してみて欲しいのだけれど、作品には名作もあれば駄作もあるでしょう?歴史に残る名作を生み出した作家が次に凡作しか書けなかったり、そもそも前作の評価に押し潰されて作品を書けなくなってしまう事も珍しくないのよ。かと思えば、それなりの質の作品を定期的に発表し続ける作家も世の中にはいるわよね。彼らを一律に数字で評価するのはナンセンスではないかしら?」

 

「うーん。……難しいところはよく分かんなかったけど、数字にして比べるのは変かなってのは何か納得できちゃった。ゆきのんって、どうしてそんなに詳しいの?」

 

「依頼人が来ない時には、ひたすらマニュアル解読に取り組んでいるからだと思うわ」

 

「……俺も同じだけの時間を費やしているはずなんだがな。もうお前ってユキペディアさんの域だろ」

 

「その変な呼び名は止めて貰えるかしら?努力不足谷くん」

 

「いや、さすがにそれは無理矢理すぎるだろ」

 

 

 奉仕部三名が本筋を離れて仲良く会話を続けていると、意外な人物が口を挟んできた。

 

 

「……それってさ、スキルがある事なら何とかする手があるって事だし?」

 

「そうね。スキルそのものには物事を覆す効果などは無いのだけれど、目安として意識する事で学習効果を高める事は出来ると思うわ」

 

「どういう事だし?」

 

「先日の由比ヶ浜さんの依頼の話をしても良いかしら?」

 

 

 由比ヶ浜に一言断りを入れて、雪乃はそのまま語り続ける。

 

 

「由比ヶ浜さんの依頼はクッキー作りだったのだけれど、彼女の料理スキルは少し、その、数字が低くて、改善には時間が掛かりそうだったのね」

 

「なにせマイナスだったからな」

 

「ヒッキー、なんでばらすし!」

 

「そんなわけで、彼女の場合はサブのクッキーのスキルだけに絞って改善を試みたのよ」

 

「ちょっと待つし。サブのスキルって何だし?」

 

「チュートリアルでスキルの話は聞いたと思うのだけれど、そこで説明されたのは親スキルと呼ばれるもので、その下には色んなサブの項目が存在しているのよ。マニュアルにサブの項目が存在する必然性を説明して合格を貰えたら、サブの項目も確認する事が出来るようになるわ」

 

「ふーん。それって、運動スキルの下にサッカーとかテニスとかって項目があるって事だし?」

 

「ええ。どちらもサブとして存在しているわね」

 

「じゃあ、結衣の場合はそのサブのスキルを何とかしたって事だし?」

 

「その通りよ。クッキー作りを基本通りに何度も繰り返して行う事で、彼女のスキルは数字として大幅に改善したのよ。それはおそらく、現実に戻っても有効だと思うわ」

 

「ん、だいたい解ったし。教えてくれて感謝するし」

 

「この程度でお礼とか、別にいいわ」

 

 

 少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべながら、先程の姫菜の口調を真似て雪乃は返事をする。話の途中からずっと結衣に向けて平謝り状態だった八幡は、話題が一服した事で話を戻した。

 

 

「要するに、スキルの数字は正しい手順を踏めば上がっていくし、それが目安にもなるし励みにもなるって事だな。で、材木座の話なんだが……。俺が知ってるスキルだと文芸評論家スキルと、それからリベラル・アーツのうち文法と論理と修辞のスキルは使えねぇかな?」

 

「ええ。私も文法・論理・修辞の三学は考えていたのだけれど、文芸評論家スキルに目を付ける発想は面白いわね」

 

「んじゃ、それでいくか。材木座、お前は今まで通りに作品を書けば良いんだが、いま挙げたスキルの数字を定期的に記録して欲しい。多分、色んなものを読んだり書いたりしていると上がって行くと思うが……」

 

「三学って多分、書く能力を判定するんだよね?じゃあ文芸評論家スキルって?」

 

 

 話の内容に興味を惹かれたのか、姫菜が質問を出す。

 

 

「スキルの名前には評論とあるのだけれど、評論家スキルはその分野の知識がどれほどなのかを数値化したものね。既存の知識を色々と組み合わせて評論という形にする評論スキルとは、明確に差別化されているわ。彼には明らかに読書量が足りないから、それを改善する目安にしたいのだと思うわ」

 

「ま、そういう事だな。すぐには効果が出ないかもしれんが、まあ頑張れ」

 

 

 予想以上に多くの宿題を出されて途方に暮れる生徒さながらの表情を浮かべる材木座であったが、彼を親身に思っての提案である事は明確である。我にできるのかな?とちょっぴり涙目になる材木座だが、彼の表情は今までに浮かべた事がないほどに爽やかなものであった。

 

 こうして、材木座の依頼も部活見学も、全ては無事に終了したのであった。

 




ちょっと今回はスキルの説明が長くなってしまいました。
お詫び代わりになるか分かりませんが、書きながら何となく考えた材木座のステータスを書いておきます。

名前:よしてる
HP:無駄に多い
MP:魔法使いの資質はばつぐんだ!
攻撃:貧弱!
防御:貧弱ゥ!
特技1:もうそう(自分のHPを特大回復)
特技2:ねつぞう(自分のMPを特大回復)
使い方:瀕死→回復のループを利用して敵の足止めや陽動に最適。ただし逃げ足が速いので、玉砕するまで粘ってくれると期待していると裏切られる。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
話の内容的にお恥ずかしい話ですが、「てにをは」を一箇所修正しました。(6/25)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(2/20)


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15.ついている彼にも思う事はある。

今回から新展開です。
冒頭で少しこの世界の説明がありますので、ご了承下さい。



 この世界に生徒達が閉じ込められて、早くも一週間が過ぎた。もう一週間経てば、彼らは学校外の世界にも足を踏み入れることが可能になる。週末の土日、生徒も教師もそのことを議題に色んな話し合いを行ったものの、なかなか方針は定まらなかった。

 

 その最大の原因は情報の不足である。不確定な事が多すぎて、実際に外に出てみないと何とも言えないという辺りで議論が止まってしまうのである。そして、この世界のマニュアルを参照する限り、外の世界に危険は無いと考えられる事もまた、議論を不活発なものにしていた。

 

 

 彼らゲストプレイヤーとゲーム攻略に従事する一般プレイヤーは、住む世界が明確に分離されている。便宜上、生徒達の世界とゲーム世界の1階部分を合わせて「大陸世界」と呼んでいるが、両者の繋がりはとても薄い。

 

 生徒達の世界は現実を模したものであり、ス○リートビューと同様に未だデータが存在しない地域も多々あるとの事だが、基本的には外の世界と同じだけの広がりがある。その全域がゲーム世界における街中と同じ扱いになっているので、仮にプレイヤー同士で喧嘩になってもHPが一定以下にはならない。毒のダメージなども同様で、この世界に居る限りは命の危険は無いと言って良いだろう。

 

 それに対して一般プレイヤーは、現実の世界とは違った創作上の世界に存在している。唯一、彼らがログインした際に最初に訪れる事になる「始まりの街」には、生徒達が住む世界へと繋がる扉が存在している。だが扉の鍵は簡単に入手出来るものではないし、扉を潜った時にいくつかの誓約を強いられるので、彼らが生徒達の前に現れたとしても危害を加えられる可能性はまず無いとの事だった。

 

 逆に生徒達ゲストプレイヤーがゲームの世界を訪れるには、この世界に何箇所かある扉の場所を特定して、同時に鍵も入手する必要がある。予想外の事態が発生した時の為に、扉の場所や鍵の入手方法ぐらいは把握しておくべきだという意見も出たが、そもそも校外の世界の情報がほとんど無い現状では雲を掴むような話である。

 

 

 ログイン前の時点では、彼ら生徒達も気軽にゲーム世界を訪れる事ができると聞いていた。しかしこの世界が実際に稼働を始めてみると、精神的に不安定な様子を見せるゲストプレイヤーが製作者の予想以上に多かったのだろう。ゲーム世界で自暴自棄な行動に出るおそれのあるゲストプレイヤーが少なくないと判断した運営は、設定を変更した。その結果、一定の期間を経た後に解放されるはずだった二つの世界を隔てる扉は、上記のようにとてもハードルの高いものへと変貌したのであった。

 

 

***

 

 

 週明けの月曜日。比企谷八幡は今日の昼食に選んだパンやおにぎりを持ってクラスを出た。この世界が稼働した当初は各クラスでしか配膳がなかったのだが、昼食はともかく朝食や夕食のたびにクラスに集合して食べるのは面倒だと、生徒会が運営に抗議した結果、すぐに各個室でも食事が可能になった。そして今日からは、部屋の外に持ち出せるメニューも登場したのである。

 

 彼はこの世界に来てから初めて、一人で昼食を食べ慣れたいつもの場所へと向かった。特別棟の一階、保健室横、購買の斜め後ろが彼の定位置である。

 

 テニスコートがよく見渡せるその場所で食事を終え、八幡は満腹感と春のうららかな日差しに誘われて、意識の半分を睡魔に預けて安らいだ気持ちで過ごしていた。海からの潮風を頬に感じながら、懐かしい気分に浸りながら昼休みを過ごす。そんな彼の平和な時間を終わらせたのは、聞き慣れつつある女子生徒の声であった。

 

 

「あれ?ヒッキー!」

 

 

 彼に声を掛けたものの、いたずらな風にスカートを捲られそうになって四苦八苦している由比ヶ浜結衣。そんな彼女に向けて、彼は努めて平静を装った声で返事をする。

 

 

「ど、どうしちゃ、由比ヶ浜?」

 

 

 どうにか壁の近くに避難して一息ついた結衣は、彼の言葉がつっかえた事に気付かなかった様子である。先程の発言自体が届いていないのかも、と己のステルス能力に自信と落胆を深める八幡に、彼女は素朴な疑問を投げかける。

 

 

「なんで、こんなとこに居るの?」

 

「一年の時から、ここでよく飯を食ってたんだわ」

 

「ふーん。確かに、外で食べるのも気持ちよさそうだね」

 

 

 外で食べたくてここに来たのではなく、教室に居づらいのでここに来たのが正解である。だが彼女にはそんな事を言っても通じなさそうだったので、八幡は話題を逸らす。

 

 

「お前こそ、なんでここに居んの?」

 

「それそれっ!実はね、今日は奉仕部の部室で、ゆきのんを加えた4人でご飯を食べてたんだけど」

 

「ほーん。お前ら、仲いいのな」

 

「まあねー。でね、食後にみんなでジャンケンして、負けたら罰ゲームってやつ?」

 

「あー。俺と話すのが罰ゲームか……」

 

「違うって!ヒッキー、なんでそんな事を言うし」

 

 

 全く怖くない表情でぷりぷり怒りながら、彼女は彼の隣にちょこんと腰を下ろして話を続ける。

 

 

「……でね。食後の飲物を部室でも選べるんだけど、購買まで行ったら種類がたくさん選べるの知ってる?それで、誰かが代表して貰いに行こうって話になって」

 

「それでジャンケンか」

 

「そうそう。ゆきのん、最初は『各自で行けば良いじゃない』とか言ってたのに、優美子が『自信ないならそう言うし』って言ったらすぐに乗り気になっちゃって」

 

「まあ、雪ノ下らしいな。お前の声真似は全然似てねーけど」

 

「だ、だって優美子もゆきのんも、あたしとは雰囲気が違うんだもん。なんてか女王様みたいな感じで」

 

「あー」

 

「でね。最初に優美子が勝ち抜けて、次にあたしの一人負けになったんだけど、小さくガッツポーズしてたゆきのん、めっちゃ可愛かったよ。……でもその後で、ゆきのんが優美子に『貴様、今のは遅出しだぞ』って変な口調で言い出して」

 

 

 話を聞きながら啜っていたレモンティーを吹き出しそうになった八幡であった。

 

 

「なぜか姫菜まで『てっ、てめぇ初心者のくせになんでそんな専門用語を』なんて言い出すし、ホントに大変だったんだから……って、ヒッキー大丈夫!?」

 

「げほ。……ちょっと気管に入ったけど大丈夫だ。てか、雪ノ下に変なセリフを教えたのは誰だよ」

 

「なんかね、お姉さんが高校時代に恩師の口癖が移っちゃったらしくて。ゆきのんも一回言ってみたかったって言ってた」

 

 

 八幡の脳裏に容疑者の姿が鮮明に浮かび上がるが、思い付かなかった事にして彼はテニスコートの方角を眺める。昼休みに自主練をしていた()()()()()が汗を拭いながら、二人の方へと近付いて来ていた。

 

 

***

 

 

 戸塚彩加(とつかさいか)は子供の頃から可愛らしい顔立ちだった。幼稚園の劇で他の女子児童を差し置いてヒロインの座を射止めたのが、彼が持つ最も古いその種の記憶である。だが、小学生になってからはそうした事は起きなかった。

 

 幸いな事に彼の両親は、彼の顔立ちが女の子みたいに可愛らしいからといって、女装をさせるような人達ではなかった。小中の同級生にしても、学祭などで彼に女性ものの服を着せようと提案する生徒はたまに居たが、決まって他の生徒の反論が出て話は有耶無耶になった。彼のこれまでの人生は概ね恵まれていたと言えるだろう。

 

 彼は虐められた経験も皆無であり、仲間外れにされた事もなかった。女子生徒のような外見の彼を軽く見て、乱雑に扱おうとした男子生徒も居たのだが、彼が何かの行動に出る前にいつも全てが終わっていた。同級生達が間に割って入って、彼の代わりに問題を解決してくれるのである。

 

 

 第二次性徴が始まったら、色んな事が変わるかもしれない。彼はいつしか、そんな事を考えるようになっていた。同級生から丁重に扱われる現状に文句を言ったら、罰が当たるかもしれない。しかし彼は男の子であり、少しぐらいは乱暴な扱いもされてみたかった。同級生に、特に女子に守られるのではなく、自分が誰かを守れる場面を求めていた。

 

 

 彼は、自分でも少し奇妙だと思っていたが、女装を求められる事自体は嫌ではなかった。幼稚園の時の写真を見ると、我ながらとても良く似合っていると思う。二次性徴が始まって身長などは伸びたが、それでも小柄な体型は変わらなかった。抜けるように白い肌と細い手足。口を開けばソプラノの美しい声である。きっと今でも女装したら似合うだろう。

 

 もちろん彼とて、女装をしたいとまでは思っていない。誰かにそれを求められたら、ごくたまになら応えても良いと思っている程度である。彼が引っ掛かっているのは、そうした提案に彼が答えを返すよりも先に周りが断ってしまう事であり、そしてそんな話を出す事自体が彼に対して失礼だと思われている事だった。

 

 

 結局のところ、彼には男女を問わず友人が多かったが、深い付き合いの友人は居なかったのだ。男子生徒はお互いに牽制し合っていたり、彼と面と向かって話す機会があっても変に照れているばかりで、雑談以上の会話を交わす事はできなかった。女子生徒は彼を同性の友人のように扱おうとして、しかし男女の趣味嗜好の違いゆえに、彼は居心地悪く感じる事が少なくなかった。だが彼は、そんな浅い友人関係を少し疎ましく思いつつも、それを拒絶したいとも思わなかった。全ては彼自身が中途半端だからこその現状だと、彼は諦めにも似た心境で日々を過ごしていたのである。

 

 

 それは、男らしくありたいと願いながらも為す術なく毎日を送っていた彼にとっては、運命の出会いであった。同級生がスマホで見ていた、あるプロレスラーの引退スピーチの映像。その言葉のうち、特に「危ぶめば道はなし」「迷わず行けよ、行けばわかるさ」という部分が彼の心を捉えた。結局のところ、彼に一番足りなかったのは、踏み出す為の勇気だったのである。

 

 彼の成績は元々それほど悪くはなかったが、より偏差値の高い高校に入りたいと彼は思った。世の中には、未だ彼が知らない先人達の素晴らしい言葉が沢山あるはずだ。彼はそれをもっと知りたいと思った。そしてそれを知る為には、頭の良い高校に入るのが一番の近道ではないかと彼は考えたのだ。

 

 おそらく、彼の人生でここまで強く決断した事はそれまで無かっただろう。必死に受験勉強に取り組んだ彼の努力が実り、彼は地域で一番の進学校である総武高校に入学した。そして入学後半月ほど経った頃、彼は忘れられない体験をする事になる。

 

 

 彼のクラスには、入学式の日に事故に遭って以来、ずっと学校を休んでいる同級生が居た。その同級生が久しぶりに登校を果たした日の事。クラスメイト達は彼を遠巻きに見たまま、誰も声を掛けようとはしなかった。そして件の同級生は、自分の席に突っ伏したまま身動きをする事なく、全てを拒絶するような雰囲気を醸し出していた。

 

 中学の頃と同様に既に知り合いがたくさん居た彼は、同級生の為に何かをしてあげたいと思った。今こそ、誰かに守られるのではなく、自分が誰かを守る機会なのだ。自分が行動に出れば、友人達もきっと賛同して手助けしてくれるだろうと。意を決して、彼は同級生の机に向けて一歩を踏み出す。

 

 しかし、彼の行動は他の同級生によって阻止されてしまった。「戸塚が優しいのは分かるけど、あいつには関わらない方が良いよ」などと勝手な事を言いながら、目の濁った不審者から彼を守るべくクラスメイトが集まって来て彼らを隔て、そして彼の試みは失敗に終わった。

 

 

 中学の頃と何も変わっていない自分を情けなく思いながら、そして自分には救えなかった一人の男子生徒の事を気に掛けながら、気付けば一年が過ぎていた。男らしい体つきになりたいと運動部に入部してみたものの、彼の外見は以前と変わらず可愛らしいままであった。

 

 だが、良かった事もあった。件の男子生徒と、二年でも同じクラスになれたのである。一年の時によく話していた他の同級生が別のクラスになった事は少し残念だったが、例の彼と話をするには却って都合が良いかもしれない。

 

 

 ある日、この世界でも行う事にした昼休みの自主練を終えて教室に戻ろうとした彼は、意中の人がテニスコートに近い場所に座っているのを見付けた。彼は今度こそ迷う事なく、その人に向けて力強く歩み寄るのであった。




切り所が良かったので、今回はここまでです。

前回の投稿後に、評価を投票して下さった方の数が5名を超えて、バーに色が付きました。高い評価をして頂いた方々も、酷評して頂いた方も、ありがとうございました。引き続き前者の方々の期待に応えられるように、そして後者の方がまた本作を読まれた際に「少しはマシになった」と思って頂けるように頑張りたいと思いますので、今後とも宜しくお願いします。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
「てにをは」を一箇所修正しました。(6/25)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/13)


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16.ひそかに彼女にも人に言えない過去がある。

今回は戸塚の話の続きと、それと同じ頃に起きているお話です。



 クラスメイトの比企谷八幡と由比ヶ浜結衣が並んで座っている場所へと、戸塚彩加は近付いて行く。意を決して歩き出したものの、何を話せば良いのか、二人は仲が良いのか、色んな疑問が頭の中に浮かんでは消える。彼らの元に早く辿り着きたい気持ちと、もう少し時間が掛かって欲しいと思う気持ちが、彼の心の中でせめぎ合っていた。

 

 

「おーい!さいちゃーん」

 

 

 しかし、そんな彼の思考を吹き飛ばすかのように、元気の良い女の子の声が辺りに響き渡る。隣に座る男子生徒の視線を辿って彼に気が付いた結衣は、大きく手を振りながら彼の名を呼んだ。その声に励まされて戸塚は歩みを早め、最後にはとててっと小走りで彼らの前へと急いだ。

 

 

「よっす。練習?」

 

「うん。……こんな状況だし、うちの部は弱いから、新入生も同級生も部活に来てくれなくて。でも、少しでも上手くなりたくて。お昼の練習許可を申請したら今日からできるようになったんだ」

 

「そっか……。さいちゃん、授業でもテニスだったよね?凄いなー」

 

「ううんっ。好きでやってる事だからね。あ、比企谷くんってテニス上手だよね」

 

「へ?そーなの?」

 

「うん。基本に忠実っていうか、フォームが凄く綺麗なんだよ」

 

 

 座っていた二人の近くに腰を下ろしながら、戸塚は結衣と会話を続ける。可愛らしい()()()()()が仲良く話している間に割って入るなど出来るわけもない八幡は、自分に話が振られてもなお口を挟めず、それよりも俺はあの空の様子が気になるんだと遠くを熱心に見ているフリをしていた。

 

 しかし、そんな八幡でも、さすがに真正面から話し掛けられると答えざるをえない。

 

 

「比企谷くんって、昔テニスやってたの?」

 

「え?あ、いや……。特に部活とかやってねぇし、体育の授業だけなんだが」

 

「そうなの?この間の体育の時に壁打ちしてるのを見たんだけど、強弱を付けて打ち返してるのに、一歩も動いてなかったよね」

 

「え、ヒッキーほんとに凄いんだ」

 

「てか、体育は男女別なのによく見てたな」

 

「あ、えっと。……ぼく、男の子なんだけどな」

 

 

 その瞬間、八幡は身動きを止め思考も放棄した。一つ一つの言葉の意味は解るが言っている意味が解らない。しかし、何とか少しずつ首を動かして、彼は傍らの女子生徒に問い掛ける。

 

 

「……マジ?」

 

「うん。……てか、同じクラスなのに何で知らないの?」

 

「……え?」

 

「あ、あはは。……多分、ぼくの名前も覚えてないよね。同じクラスの戸塚彩加です」

 

「な、何かすまん。クラスに友達が居なくてな」

 

「何だか哀しいこと言ってる!」

 

 

 再び仲が良さそうに会話をはじめる同級生の男女を眺めながら、戸塚は自分が覚えられていなかった事に内心で安堵していた。一年前、クラスで孤立しそうになっていた彼を助けようとして出来なかった事に、もしも気付かれていたら。戸塚の心の中にはそんな不安があったのだが、彼の対応を見る限りは全く気付いていないみたいだ。それで自分の罪が無くなるわけではないけれども、今まで厄介な事に巻き込まれず過ごして来た戸塚としては、冷たい対応を取られるのが怖かったのだ。

 

 内心の不安がひとまず解消されて、そして仲良く喋っている二人に元気を貰って、彼は再び口を挟む。

 

 

「二人は仲が良いんだね。前からそうだったっけ?」

 

「んー。同じ部活になってからかな」

 

「え?由比ヶ浜さんって部活入ってたの?」

 

「うん、ついこないだ。さいちゃんも何か悩みがあったら訪ねて来てね」

 

「おい、平塚先生を通さないと駄目だろが」

 

「平塚先生が顧問なの?何だか楽しそうなメンバーだね」

 

「まあ、部長があの雪ノ下だしな。……って、由比ヶ浜。たしか飲物を取りに来たんじゃねぇの?」

 

「あ、やば……」

 

 

 脱兎の如くとはこんな感じなのだろうなと、走り去る彼女を唖然とした顔で見送る八幡であった。そして「始めは処女の如く後には脱兎の如し」などと孫子を気取りながら口にした八幡は、もう一人のクラスメイトの事をすっかり失念していた。

 

 

「あの、比企谷くん……。由比ヶ浜さんはその、しょ、処女かもしれないけど、あんまり口にする事じゃ……」

 

「いや、その……。そういう意味じゃなくて、だな。あー……名言ってか、昔の人が言った事なんだわ。だから俺じゃなくて、孫子って奴が悪い、んじゃね?」

 

 

 歴史上の偉人を悪者にして無罪を主張する八幡であった。だが戸塚にとっては、その八幡の反応は新鮮で、そして嬉しいものだった。性に関する話になると「戸塚王子はそんな話をしちゃダメ」と女子によって物理的に遠ざけられる事が常だった彼は、この程度の会話でさえほとんど経験がなかった。それに、自分が聞いた事もない昔の人の名言をすらっと会話に出して来た事も、彼には嬉しかったのだ。

 

 だから彼は、少しだけ勇気を出して目の前の同級生に一つのお願いをする。拒否されたらどうしようかと緊張して、少しだけ顔を赤らめながら、違った意味に取られかねない微妙な表現で。

 

 

「比企谷くんとお話してると楽しいね。由比ヶ浜さんの気持ちが分かるよ。……もし良かったら、また、して欲しいな」

 

「お、おう。また。……えーと、会話の事な?」

 

「……本当は、比企谷くんがテニス部に入ってくれたら良いんだけど。……もう部活に入ってるなら無理、だよね?」

 

「あー。……すまんな」

 

「ううんっ。比企谷くんとお話して、ちょっと元気でたから。ぼく、頑張るね!」

 

 

 こうして、お互いの心の中に良い印象を残して、彼ら二人の顔合わせは無事に終了したのであった。

 

 

***

 

 

 話は少し遡って、昨日の昼下がりの事だった。午前中は来週の打ち合わせの為にクラスに集合していた生徒達も、午後には自由行動になったので、グラウンドや体育館で遊んだりクラスでお喋りをしたり各個室にさっさと帰ったり、めいめいが好きなように過ごしていた。

 

 三浦優美子は、普段一緒に過ごしている二人の親友と別れて、昔の友人と会う為に先方の個室を訪れていた。相手は中学の同級生で、部活仲間でもあった女子生徒である。

 

 

 彼女は中学の三年間をテニス部で過ごした。その腕前はなかなかのもので、県選抜に名を連ねたほどである。だが高校では、彼女は部活に入ろうとは思わなかった。

 

 中学最後の試合になった県大会の準決勝。相手は中学一年の頃から全国大会でも活躍していた県下随一の実力者である。今までの対戦経験や県選抜での交流によって、彼女は彼我の差を正確に認識していた。まともに試合をすれば、三対七で自分が不利。しかし裏を返せば、三回に一回は勝てる差だと。

 

 勝負は白熱した展開になった。常に相手が先行する流れだったが、土壇場で彼女は粘りを発揮し続け、格上の相手に追いすがった。試合はデュースを多く繰り返した末にタイブレイクへともつれ込み、そして4度のコートチェンジを経て、遂に彼女は敗れた。

 

 

 あの試合で燃え尽きたのかと問われると、そうかもしれない。しかし一方で、彼女には別に不満な点があった。ダブルスでも団体戦でも、彼女の中学が早々に敗退していた事である。

 

 実力不足で負けるのは仕方がない事だ。彼女もそれを責めようとは思わない。部の中で実力が抜けている彼女をシングルスに専念させて彼女の勝利を最優先する部の方針も、当然の事だと彼女は受け止めていた。だが、それを言い訳にして練習に手を抜く部員の気持ちが彼女には理解できなかったし、負けて当然という態度で試合に臨む部員は、とても許せるものではなかった。

 

 

 彼女は生まれつき女王気質なところがあった。それが我が儘な性格へと発展しなかったのは、彼女の両親の育て方が良かったのだろう。基本的には放任主義だが、大事な点だけはしっかり指摘するという育て方は彼女の生来の気質と相まって、基本的な事さえ踏まえていれば敢えて干渉しないという君臨方針に発展していた。それは逆に言えば、物事の筋目や基本を疎かにする輩には容赦をしないという事である。

 

 中学の三年間をテニスに捧げた彼女は、人によって才能に差がある事を嫌というほど目にして来たし、才に恵まれても相応の努力を行わないと資質に劣る者に置いて行かれる実例を何度も目の当たりにして来た。では、才分に恵まれないのに努力を怠る者は、どう扱えば良いのだろうか。

 

 

 県大会が終わって中学に戻り、部室で反省会が行われた。とはいえ大部分の部員はその後に続く打ち上げに意識を奪われていたし、反省会といっても例年通り三年生が下級生を激励する、形だけのものになるはずだった。彼女の一言さえなければ。

 

 部長の型通りの挨拶が終わり、この大会で引退となる三年生が順に一言ずつ発言した。そして彼女の番が回ってきて、彼女はその言葉を口にした。

 

 

「試合前からへらへらしたり、負けてにやにやしたり、普段から練習に手を抜いたり、あんまテニス舐めんなし」

 

 

 誰も、部長以下の同級生も顧問の教師も身を固くして何も反応して来ないのを見て、彼女はゆっくりと立ち上がり部室を後にした。あれだけ言っても何も言い返して来なかった連中に腹が立ったが、彼女はそれ以上に哀しい気持ちでいっぱいだった。三年もの年月を一緒に過ごした同級生が、実は自分とは違った世界で生きていた事に気付かされたような気持ちだった。

 

 彼女が自分の事を優先したのが間違っていたのだろうか。もう少し同級生の事も考えて、実力を伸ばす手助けをしていれば良かったのだろうか。

 

 

 一口に女王気質といっても、人によって色んな違いがある。誰よりも優秀な能力を前面に出して皆を引っ張っていくタイプもいれば、個人の能力は平凡だが部下の使い方が上手いタイプもいる。彼女は前者のように振る舞おうとして、しかし個人としては結果を残せず、他の部員を背中で引っ張る事もできなかった。

 

 このまま高校で部活を続けても、おそらく同じ結果になる。テニスをするのは好きだったし、それに中学の三年間を捧げた事にも後悔はない。だが、部の人間関係が今の彼女には厭わしかった。高校でテニスを続ける事よりも、自分がどうすれば良かったのかを彼女は知りたかった。自分の気持ちを誰かに理解して欲しかった。

 

 

 彼女は基本的に物事をシンプルに考える質である。気持ちを理解して貰えなかった同級生を見下す意図がなかったとは言わないが、もっと頭の良い連中なら自分の思考を受け止めてくれるのではないかと考えたのだ。

 

 彼女は中学の授業でも基礎はきっちり修めていたので、少し頑張れば偏差値が高い高校を目指せる位置にいた。部活で培った集中力と、物事の勘所を掴むのが得意な生来の資質が噛み合って、彼女は無事に総武高校へと進学を果たした。

 

 彼女にとって意外だったのは、勉強が得意とは思えなかったテニス部の部長も同じ高校に入学した事である。彼女と進路指導の教師との立ち話を偶然耳にして、彼女との関係をあのような形で終わらせたく無いという決意を秘めて勉強に取り組んだ少女の思いを、彼女は未だ知らない。高校に入学後も、彼女ら二人は表立って会話を交わす事はなく、ここまで別々に過ごして来たのである。

 

 

 高校生になって最初の一年、彼女は内心で失望していた。勉強ができる同級生は多かったが、話の内容は浅いものが多く、彼女の過去の話を打ち明けたいと思う相手はいなかった。彼女は当然のようにクラスのトップに君臨したが、その毎日は退屈だった。時には理不尽な事を言って同級生の反応を探ってみたものの、それは女王様の我が儘としか受け取られなかった。

 

 

 二年に進級して、彼女は同じクラスで面白そうな二人を見付けた。一人は大人しそうな外見の内側に芯の強さを秘めた少女。一人は元気で社交的な外見の内側に強さと自信のなさとを隠し持った少女。自らも人には簡単に言えない思いを内面に抱えていた彼女には、二人が表に出さないようにしている事に気付くのが容易だったし、そしてそれは二人の少女も同様だった。

 

 二人の親友を得て、彼女は意識を大きく広げる事ができるようになった。特に、あの雪ノ下雪乃と向き合った時に二人が支えてくれた事が大きかった。中学の時のテニスのような、他人を納得させるだけの能力は今の彼女には無い。だが、他人の長所を見抜いてお互いに助け合う事に関しては、中学の頃とは比べものにならないはずだ。親友二人との付き合いを通して、彼女はそれを自覚したのである。

 

 

 この世界に巻き込まれた為に女子テニス部も苦労している事は、サッカー部を見学に行った時に視界の片隅で確認していた。そして先日の部活見学によってスキルの話を詳しく知った事で、彼女は物心両面で手助けできる手応えを得た。精神面からのアプローチばかりだといずれ行き詰まる。しかし、スキルの数値という目に見える物で補完すれば、もっと上手く事が運べるかもしれない。

 

 既に彼女には中学時代の後悔はない。今の彼女にあるのは、自分が誰かを手助けできるという自覚であり、そして嫌な別れ方をした中学時代の友人と単純にもう一度話してみたいという欲求である。彼女が送ったメッセージに「個室で待ってる」という返事が来て、彼女らは実に一年半ぶりに二人きりで向き合うのであった。

 

 

***

 

 

 二人の会話は、各々が思っていた以上にスムーズに進んだ。かつての女子テニス部の部長にして近い将来にも部長に就任する予定の少女は、あの時に何も口にできなかった事を詫びた。三浦もまた、己が他の部員と上手く接する事が出来ていなかった事を素直に謝った。たった一つの出来事によって関係がこじれてしまったが、元々彼女らは中学の三年間を一緒に過ごした仲間である。懸案事項さえクリアできれば話は早かった。

 

 入部の意志はない事。しかし手助けできる事なら協力したいという意志を三浦は伝え、あっさりと了承を得た。男子テニス部と違って部員の参加率は良かったが、目標が定まらず練習が気の抜けたものになりがちというのが現状である。ならばそれさえ解消できれば、そしてテニスの楽しさをもう一度思い出して貰えれば、話は解決できそうだという結論になったのだ。

 

 

 翌日の放課後に練習に顔を出すと約束して、彼女らは別れた。積もる話もある事だし一緒に食事でも、という気持ちはお互いに持っていたが、しかし二人には既にそれぞれの友人関係がある。「いずれまた」という言葉に万感の想いを込めて、今日のところは解散の運びになったのだ。

 

 

 その日、二人の少女の寝顔は、この世界に来て一番と言えるほど満ち足りたものであった。

 




少しずつ評価が増えていて、本当にありがたい事です。もしも可能であれば、どんな些細な事でも構いませんので、ご不満な点を書いて頂けるととても嬉しいです。今から一巻末までの展開を覆す事はできませんが、今後の参考として大いに役立てたいと思います。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,13)


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17.ついている彼には助けの手が多く差し伸べられる。

今回でだいたいの仕込みが終わりです。
少し長い話になっていますが、次回以降の展開に期待して頂ければと思います。



 週が変わって迎える初めての放課後。特別棟のいつもの教室にはいつもの三人が集まって、各自がマニュアルと向き合っていた。雪ノ下雪乃と比企谷八幡はいつもの通りに音声を切ってマニュアルとの会話を進めているが、由比ヶ浜結衣だけは音声出力を切らずに解読を進めている。

 

 

 先週の依頼の際、ユキペディアに感銘を受けた結衣は、今日の部活が始まった当初「あたしも解読やる!」と張り切っていた。しかし、文章をひたすら読んで行う解読よりは遙かにマシだったが、会話形式とはいえ行き詰まりの多い単調作業に彼女は早々に飽きてしまったのである。

 

 最初のうちは、結衣が飽きて話し掛けて来るたびに進捗状況を聞いてヒントを出していた二人だったが、いつ彼女が助けを求めてくるか分からない状況で集中を続けるのも骨が折れる。それならいっその事、彼女がマニュアルに語りかける内容を垂れ流しにしておいた方が良い。自分の事に集中している時には気にならないだろうし、自分に余裕がある時には先回りして助言をする事もできるだろう。二人はそう結論付けて、このような形へと落ち着いたのであった。

 

 

「そういえば、由比ヶ浜さん。少し気になっていた事があるのだけれど……」

 

「ん?どしたの、ゆきのん」

 

「先週のざ……自作小説の依頼の時に、三浦さんはサブのスキルの存在を知らなかったみたいだけれど……。貴女の依頼の時にクッキーのスキルをすぐに確認できたのは、貴女が既に知っていたという事なのよね?」

 

 

 材木座の名前を出しても結衣には通じないと思って言い直したのか、それとも彼の所作を思い出して名前を口にする事に抵抗を感じて言い淀んだのか、それは雪乃にしか分からない。どちらにせよ「材木座……哀れな奴め」と、いまいち同情が感じられない声でこっそり呟く八幡であった。

 

 

「あ、うん。優美子はこないだの中二の時まで知らなかったみたい。あたしは、その……。最初のチュートリアルの時に、この世界でクッキーの練習とかできないのかなって、色々質問しちゃったんだよね。あの、ちょうどログインする前に、奉仕部の部室で二人と会ってたから……。渡せるチャンスがあるかも、って思っちゃって……」

 

 

 今も同じ部屋にいる男の子に渡すプレゼントの事で意気込んでいたのを恥ずかしく思ってか、結衣の発言は次第に小声になり、最後はほとんど聴き取れないものになっていた。しかし聞いている二人は「優美子が中二まで知らない」という冒頭の発言の意味が解らず、それどころではない。

 

 

「……えっと、三浦さんが中二の時って?」

 

「あ、うん。こないだの中二の依頼ね。あたし今まで知らなかったけど、中二病の人って色々と面白い事をするんだね」

 

「……もしかして、中二って材木座の事か?」

 

「え、他に誰かいるの?」

 

 

 自分もかつて患っていたとは言い出しかねて、八幡は口ごもりながらも納得した。雪ノ下の様子を窺うと彼女も合点がいったようで、話を元に戻して会話が続く。

 

 

「では、由比ヶ浜さんは最初のログインの時に、既にサブのスキルの事を知っていたのね?」

 

「え、うん。そう、なるのかな?『クッキーだけ上手くなるとかできないんですか?』って尋ねたら『どう思いますか』って言われたから、『クッキーだけずっと作ってたら、クッキーだけ上手くなりそう』って答えて。そしたら『正解です』って言ってクッキーのスキルの事を教えてくれたの」

 

「あの、由比ヶ浜さん。……もう少し繰り返しを避けて話してくれると嬉しいのだけれど」

 

 

 言葉を逐一理解していく聴き方だと混乱しそうな結衣の物言いに苦言を呈しつつ、雪乃は内心で、自分よりも先にサブのスキルを発見していた結衣の発想力を見直していた。つい先程のマニュアルとの会話でも、見当違いな質問も多いが時に核心に迫る事を尋ねてもいる。

 

 今の発言もそうだが、結衣は体系的にマニュアルを理解するという事をしないので、自分にできる事を把握しきれていない印象を受ける。しかしその実、彼女が実行可能な事は意外に多く、もしかしたら自分や傍らの男子生徒に匹敵するほどではないかと思ったのだ。

 

 

 雪乃は八幡をからかったり上から目線で物を言う事もあるが、実際のところは彼の能力を決して低くは見積もっていない。むしろ、自分が努力を怠れば追い抜かれてしまうという、良い緊張感を与えてくれる人材だと思っている。決して口には出さないが。

 

 結衣が依頼した案件の際には、料理スキルに従属せずクッキーのスキルだけを伸ばせる事に、八幡は気付いていなかった。彼のゲーム経験が、サブのスキルが親スキルの数値を超える事はないという先入観に繋がっていたのである。一方で材木座が部室の前に立っていた時、雪乃は彼を中ボスと勘違いした。これは雪乃にゲームの経験がない為に、中ボスという言葉は理解できてもどんな状況でそれが登場するのか理解できていない事を示している。

 

 

 彼女は自分の至らぬ部分を少し恥ずかしく思いながらも、意外に相性が良いかもしれない三人の組み合わせに少し顔をほころばせる。そして雪乃は結衣が口にする反論に丁寧に対応しながら、再びマニュアルの解読へと意識を戻した。

 

 

 部室の扉が開いたのは、それからすぐの事であった。

 

 

***

 

 

 放課後になってすぐ、戸塚彩加は改めて自分に気合いを入れながらテニスコートへと向かっていた。今日の昼間に二人の同級生と話をして元気を貰ったので、それを練習に反映させようと考える彼の意欲は高い。

 

 目的地に着いて、仲の良い関係を築いている女子テニス部の面々に挨拶をしてから準備運動をしていると、意外なクラスメイトがコートの中に入って来た。三浦優美子である。

 

 

「あれ、三浦さんどうしたの?」

 

「戸塚って男テニ?他の部員は居ないんだし?」

 

「あ、うん。……僕ら弱いし、こんな状況だから、参加してくれなくて」

 

「ふーん。なら、一緒に練習するし」

 

「え、どういうこと?」

 

「あーし、女テニの臨時コーチになったから。暗い顔してないで、みんなでちゃんと楽しく練習するし」

 

 

 この世界では練習場の広さも可変なので、例えば二面しかコートがないから男女で一面ずつ使うとか、そうした事を考える必要はない。部活の参加人数に合わせてコートの数を調整すればそれで済むからである。しかし、参加者が一人だけだとコートを持て余してしまうのも事実である。

 

 それに一人だけの練習でも上達はできるが、やはり誰かと一緒のほうがやる気も継続するし、お互いに指摘し合えるなど利点も多い。部活の仲間が参加してくれない現状で、女テニの練習に加えてくれるという申し出は、とても魅力的なものではあった。

 

 

 三浦が提示した練習メニューは基礎を重視したものが多かったが、練習であってもテニスを楽しめるようにと、ラケットとボールを使って複数で行うものがほとんどだった。人数の関係で三浦と組む事になった戸塚は、ラリーの時に彼女がボールを打ち返す先が全て、意図して正確に選ばれた場所である事に驚く。彼の実力を測っていた彼女は区切りが付いたところで全員に休憩を指示して、彼に語りかけた。

 

 

「あんさ、戸塚。テニスのスキルって確認できるし?」

 

「えっと、運動スキルとは違うんだよね?……そんなのがあるんだ」

 

「あーしも知らなかったし、落ち込むなし。後でマニュアルに聞くし」

 

「うん、分かった。で、それがどうしたの?」

 

「正直、戸塚の実力だと、県大会に出ても一回勝てるかぐらいだし。なのに、なんでそこまでやる気なんだし?」

 

「うーん、何でだろ……。でも、テニスが好きだからかな。だから、他の人より下手だとしても、せめて昔の自分よりは上手くなりたいなって。部も続いて欲しいから、ぼくが頑張ってれば他の部員もそのうち来てくれるかなって」

 

「ふーん。じゃあ、頑張って練習するし」

 

「うん。三浦さん、ありがとね」

 

 

 戸塚と練習をしながら他の部員も観察していたのだろう。順に声を掛けて課題を指摘していく彼女の後ろ姿を見送りながら、彼は改めて思う。テニスが好きだから、少しでも強くなりたい。ぼくが強くなったら、他の部員も来てくれるだろうと。だから、こうして女テニと一緒に練習できるのは、喜ぶべき事なのだと。

 

 しかし、彼の心の中には引っ掛かっている事があった。もしも誰かが今のテニスコートを見たら、女子テニス部が単独で練習しているようにしか見えないだろうなと。

 

 

 これだけお世話になっているのに、こんな事を考えてしまうのは間違っている。そう思いながらも、戸塚は考える事を止められなかった。せめて、女テニの人達よりは強くなりたい。ぼくの姿形は変えられなくても、テニスの腕はやっぱり男の子だなって言われるくらいに上手くなりたい。

 

 彼の高校の女子テニス部は地域でも中堅程度の実力だったが、そんな事は彼にとって何らの慰めにもならない。女子と同じぐらいの実力しかない自分のテニスの腕前が、今の彼には心底恨めしかったのである。

 

 

 この世界に来てからは初めての本格的な練習だったので、今日は早めに終わりになった。少し疲れた風を装って、何とか浮かべた笑顔で三浦や女テニの部員達にお礼を言って、彼はとぼとぼと校舎に向かって歩いて行った。

 

 

***

 

 

 校舎に入ってはみたものの、今の戸塚には行きたい場所が思い付かなかった。このまま個室には帰りたくない。かといって、今の時間にF組の教室に行っても仕方がないし、テニスコートに戻るのも却下である。

 

 階段の踊り場で足を止めて手すりに寄り掛かっていた戸塚は、ふと昼間の会話を思い出した。「さいちゃんも何か悩みがあったら訪ねて来てね」と言ってくれた女子生徒。そして、またお話しようと約束してくれた男子生徒。彼らはまだ部活中だろうか。

 

 

 彼は急いで階段を駆け下りて職員室へと向かう。確か平塚先生を経由しないといけないと、そんな事を言っていた記憶がある。それに彼らの部室の場所も分からない。どのみち先生に渡りを付けて貰うしか手はないのである。

 

 幸いな事に、平塚先生は職員室の自席で作業をしていた。彼は先生に何をどう話すかの算段をつける暇もなく、勢いのままに話し掛けるのであった。

 

 

「平塚先生!……あの、由比ヶ浜さんたちの部活に、その、用があるんですが」

 

「ん?戸塚か。君がそうまで焦っているのも珍しいな……。通常通りなら、彼らが部活を終えるまでまだ30分以上は時間があるから、ひとまず落ち着きたまえ」

 

 

 気が急いた様子の男子生徒に丸椅子を勧めながら、教師は彼を安心させる根拠を口にして沈静を図る。そして呼吸が落ち着いた頃を見計らって、再び彼に話し掛けた。

 

 

「彼らの部活……奉仕部に、何か依頼かね?部活の事は由比ヶ浜から聞いたのかな?」

 

「はい。由比ヶ浜さんが『悩みがあったら来てね』って言ってくれて。……ぼく、もっとテニスが上手くなりたいんです。これって、依頼になりませんか?」

 

「ふむ。君は確かテニス部だったな。部活の手助けをして欲しいと?」

 

「……いえ。部活は、女子テニス部が助けてくれているので……。えっと、その。ぼく、今日からお昼にも練習してるんですけど、どんな練習にしたら良いか相談できたらと」

 

 

 話す内容を決めていなかった上に彼らの部活の事がよく分かっていないので、しどろもどろではあったが、何とか戸塚は彼の希望を教師に伝える。怪訝そうな表情をしていた教師も一応の筋道が立った事で納得したのか、一つ頷いて席を立った。「ついて来たまえ」と言う教師の後を追って職員室を辞すると、彼は先生と二人で同級生の許へと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 突然、ノックもなく部室の扉が開いた。そこに予想通りの人物が立っているのを奉仕部の三人は確認する。その後ろに、小柄な生徒が控えている事も。やけにハイペースで依頼が来る事に部長は訝しげな表情を浮かべているが、教師の後ろに半ば隠れる形の生徒と面識のある部員二人は、思わず彼に向かって話し掛けていた。

 

 

「さいちゃん!?」

 

「戸塚か……」

 

 

 昼間とは違って元気がなく、下を向きがちの瞳からは不安で自信なさげな様子が伝わって来る。今にも消えてしまいそうなほどに儚げな様子のクラスメイトに近付く為に、結衣は迷いなく席を立った。彼を心配する同級生二人に勇気づけられたのか、戸塚もまた肌に血の気を戻して、少しだけ笑顔を見せながらとててっと彼らに歩み寄る。

 

 立ち上がった八幡の袖口を片手で掴み、由比ヶ浜のブレザーの裾をもう片方の手で握る戸塚に「俺がお前を守る」と告げたい気持ちをかろうじて抑え、八幡は何とか冷静を装えそうな相手に話し掛けた。

 

 

「で、平塚先生。戸塚がどうしたんですか?」

 

「ん?ああ、奉仕部に依頼したい事があるというので、ここまで連れて来たのだよ」

 

「戸塚の元気がないのは?」

 

「ふむ。比企谷と由比ヶ浜が部活にいるのは知っていたみたいだが、他の部員の事が分からないので緊張していたみたいだな。今はもう大丈夫に見えるが」

 

「はい、もう大丈夫です。……ごめんね比企谷くん、驚かせちゃって」

 

「あ、ああ。戸塚が無事なら俺は……」

 

「で、戸塚彩加くん、だったかしら。依頼の内容を教えて貰えるかしら?」

 

 

 袖口に向かう意識を必死に遮断して会話をしていた八幡の意識を戸塚の声が根こそぎ奪い、まるでこの部屋に戸塚と二人だけで立っているような錯覚に陥ってしまった八幡であった。あのままでは何を口走っていたか見当も付かないが、幸いな事に部長が口を挟んでくれたお陰で事なきを得たのである。

 

 

「あ、あの……、テニスが上手くなりたくて。お昼にも練習してるんだけど、もしできたら、手伝って欲しいなって」

 

「……そうね。テニスの練習なら私達にも手伝えると思うのだけれど……。貴方は確かテニス部だったわね。どうして他の部員に頼まないのかしら?」

 

「こんな状況だから、誰も部活に来てくれないんだ。だから、ぼくが上手くなれば、みんなまた一緒に頑張ってくれるんじゃないかなって」

 

「なるほど。念の為に訊くのだけれど、貴方の目的は強くなる事なのかしら?それとも、部員に戻って来て貰う事なのかしら?」

 

「……両方、です。ぼくはテニスがもっと上手くなりたいし。みんなにも戻って来て欲しいんだ」

 

「いいでしょう。部員二人もやる気のようだし。戸塚くん、貴方の依頼を受けるわ。先生もそれでよろしいですね?」

 

「ああ、私に異存はない。では、以後は君達に任せるので頑張りたまえ」

 

 

 そう言って、教師はいつものように格好良く部室を去って行った。部活の時間がそれほど残っていなかったので、彼らは帰り支度をしながら翌日の打ち合わせを行う。

 

 

「由比ヶ浜さん。申し訳ないのだけれど、しばらくの間は三浦さんと海老名さんと一緒に昼食を食べられないと思うわ。その……大丈夫かしら?」

 

「うん、大丈夫。依頼の事を話せば解ってくれると思うよ」

 

 

 ほんの少しだけ、戸塚の体がびくっと動いたように八幡には思えたが、顔を覗き込んでみても特に変な風には見えない。あまり顔を見つめすぎると自分が何を言い出すか分かったものではないので、自分の勘違いとして八幡はそれ以上深く考えない事にした。

 

 

「……その、彼女らを信頼していないわけではないのだけれど。依頼の内容をあまり気軽に話すのは、守秘義務という観点から良くない事だと思うのよ。だから、少なくとも戸塚くんの依頼の目処が付くまでは、依頼人の事も内容の事も誰にも話さないでおくべきかと思うのだけれど……」

 

「うん、ゆきのん大丈夫だよ。詳しい事は依頼が解決してから話すって言えば納得してくれるし。二人とも、ゆきのんの事を嫌ったりしないから安心して」

 

「べ、別に私は嫌われる事を怖れて言ったわけではなくて、一般論としてクライアントの個人情報を守るべきという見地から……」

 

 

 雪乃が長々ごにょごにょと何かの弁明を続けているが、部員達は慣れたもので彼女の発言を聞き流している。そして依頼の話が三浦には伝わらなさそうだと安心して、戸塚はいつの間にか強く握っていた両の拳を緩め脱力した。彼の肩を両側から叩いて、片や無言で頷きかけて、片や「明日から頑張ろうね」と笑顔で話し掛けるクラスメイトの二人。

 

 

 こうして彼の依頼は無事に受理され、翌日の昼休みから戸塚の特訓が始まるのであった。

 




前回の投稿後にUAが二万を越えました。お気に入りも評価も少しずつ増えていて嬉しい事です。今後とも宜しくお願いします。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12)


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18.とにかく彼女らは思うがままに行動する。

今回は少しシリアスな回になる、はずだったのですが。……どうしてこうなった?



 翌日の火曜日。午前の授業を終えた比企谷八幡は外に持ち出せるメニューの中から好きなパンなどを選んで、さっさと教室を出た。俺と並んで歩くのは二人とも嫌だろうと気を利かせたつもりの八幡だが、実際のところは彼自身、クラスメイトと一緒に目的地に向かうのが恥ずかしいのである。

 

 しかし、そんな事を一度意識してしまうと彼や彼女との会話が困難になりそうなので、八幡は変な気を起こさぬよう無心で歩く。彼のステルス能力の高さゆえに、普通の生徒には彼の姿を見付ける事はできないはずであった。しかし、その理屈は普通でない者には当てはまらない。

 

「ハーッハッッハッハッ八幡」

 

 

 高笑いから彼の名前へとコンボを繋げる材木座義輝に進路を塞がれたので、八幡は立ち止まって仕方なく彼に話し掛ける。

 

「ちょっと今忙しいから。じゃあな」

 

「ふっ、戯言を申すな。貴様に予定などあるわけがなかろうて」

 

「いや、だから。あれだ、部活だ」

 

「ほう。我の他にも迷える子羊が現れたとは。……我も其方等には助けられた。今度は我が助ける番だ!」

 

 

 おそらく「一度は言ってみたいセリフ」を首尾よく口にできてご満悦なのだろう。決め顔の材木座を心底から疎ましく思いながら反論を述べようとする八幡だったが、彼が口を開くより先に元気なソプラノの声が背後から掛けられた。

 

 

「比企谷くんっ!よかった、追いついた。一緒に行こっ」

 

「は、八幡。そ、その御仁は?……もしや貴様、裏切ったな!」

 

「戸塚、お前は俺が守るから。ここは俺に任せて先に行け!」

 

 

 いつの間にか右手で八幡の左手をしっかり握っている戸塚を見て、材木座は動揺しているし、握られた八幡は錯乱している。彼ら二人の激突は必至かと思われたが、事の発端となった戸塚彩加の発言が場の雰囲気を和らげた。

 

 

「かたじけない、この恩は必ず。……って比企谷くんも、そういう冗談を言うんだね」

 

「あ、ああ。冗談な」

 

「ぼくのセリフ、変じゃなかった?あんまり男の子とこの手のやり取りをした事がなくて」

 

「大丈夫だ。戸塚は何を言っても可愛い」

 

「可愛いって言われると嬉しいけど。……ちょっと、困る、な」

 

 

 場の雰囲気は和らいだものの、八幡の錯乱は継続中の模様である。一方の材木座は仲の良いカップルを目の当たりにして「この我が、現実逃避の無限螺旋(インフィニット・スパイラル)に陥るとは」などとうわ言を口にしている。そんな彼に向けて、照れた表情の戸塚が話し掛ける。

 

 

「材木座くん、だったよね?比企谷くんのお友達なら、ぼくとも仲良くしてくれない、かな?」

 

「いかにも。我と八幡とは前世よりの幾星霜を経てなお強く、友人として主従として結ばれた仲である。お主の願い、しかと聞き届けた」

 

 

 こうして、異性の友達ができたと勘違いしたままの材木座を加え、一行はテニスコートへと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 コートの脇で簡単に食事を終えて、奉仕部の三人と材木座は戸塚の練習に付き合うために立ち上がる。放課後に部活で行う練習メニューを詳しく尋ねた雪ノ下雪乃は、昼に行う練習案を直ちに提示した。

 

 

 彼女が提案した練習は、主にラリーと筋トレによって成り立っていた。この世界でいくら筋肉を鍛えても、現実の世界に戻った途端に霧消してしまうだろう。だが、彼の今の筋力では、目に見えた上達を望むのは難しいかもしれない。確かに現実世界でまた筋肉を一から鍛える必要はあるが、この世界で身につけた動きや力の使い方は、元の世界でも簡単に再現できる可能性が高いと。

 

 

 彼女の説明に戸塚は頷き納得する。そして雪乃の監督の下、ラリーの時は八幡か材木座が相手を務め、残った一人と由比ヶ浜結衣がボール拾いを行う。筋トレには男子二人と、時々気が向いたら結衣も加わる。黙々と練習に励む彼らへのご褒美とばかりに、保健室から事前に貰って来たという疲労回復を早めるポーションを差し出しながら、雪乃は初日の感想を戸塚に問うた。

 

 

「雪ノ下さんに指摘された事は全部、すごく参考になったし。比企谷くんや材木座くんが一緒に練習してくれて、由比ヶ浜さんがそれを色々と支えてくれて。すっごく充実した練習になったよ。本当に感謝してます」

 

 

 実のところ雪乃は、自分を差し置いて仲の良い雰囲気を作り出すF組の三人に、ほんの微かな嫉妬を抱いていた。最近では結衣のお陰で彼女の親友二人とも仲良く過ごせているし、そこで疎外感を感じたことはない。しかし、昨日の放課後に八幡と結衣の服を掴んで心配そうな表情を浮かべている戸塚を見た時、三人の輪に入れない自分を彼女は意識してしまったのである。部員二人と仲が良さそうな彼に対する嫉妬と、可愛らしい外見の彼に信頼されている二人に対する嫉妬と。

 

 そのせいで昨日から今に至るまで、雪乃が戸塚に接する態度は事務的で、それ故に非の打ち所のないものであった。だが、この面々で初日の練習を終えた今、彼女の心は晴れやかだった。それは、戸塚が本気で努力する姿を確認できたからであり、二人の部員に加えて変な病気を患っている男子生徒すらも、戸塚への協力を当然と受け止め労を惜しまなかったからである。

 

 感謝の気持ちを告げられた戸塚に少しだけ笑顔を向けて、雪乃は己の妬心を密かに恥じる。同時に、彼の依頼を無事に達成できるよう願いながら、自分も目の前の四人と同じ輪の中に居るのを嬉しく思いながら、彼女は少しだけ弾んだ声で練習の終了を宣言するのであった。

 

 

***

 

 

 翌日の水曜日。二年F組の教室では、結衣を除くクラスのトップ・カーストの面々が一緒に食事を摂っていた。男性陣がみな運動部所属という事情もあり、この日は部活の話をしながらの食事になっている。男子生徒の中心的な存在である葉山隼人が、女子のトップに君臨する三浦優美子に話し掛けた。

 

 

「優美子が練習に来てくれてもう一週間になるけど、かなり部の雰囲気が変わったよ。俺の意識も変わったし、本当に助かった」

 

「あーしじゃなくて、隼人がもともと持ってた能力を上手に発揮してるだけだし」

 

「それに、あんまりストレートに褒められると照れちゃうもんね」

 

 

 海老名姫菜も、この一週間で随分と変わった。女子生徒ばかりの場ならともかく、以前は男子もいる中でこれほど積極的に口を開くタイプではなかった。何かが吹っ切れたような最近の姫菜に対して密かに認識を変更する男子生徒も少なくなく、平たく言えば最近の彼女の人気は以前にも増して上々であった。そんな彼女を目線でやり込めて、優美子は再び口を開く。

 

 

「で、他の部はどんな感じなんだし?」

 

「うちのサッカー部とか、もともと実力のある野球部やラグビー部はまだマシなんだけど。やっぱり弱いクラブほど練習に出ない部員が多いみたいだね」

 

「男テニとか?」

 

「うん。優美子も知っているように、練習に来ているのは戸塚一人だからね。あとは柔道部とかも厳しそうかな」

 

「あれ?柔道部って強い先輩がいるんじゃなかったっけ」

 

 

 一瞬だが「衆道部」と聞こえた気がして、優美子は発言をした少女の方へと顔を向ける。しかし無邪気に首を傾げる少女の前に撤退を余儀なくされ、そして少女は趣味の教育が順調に進んでいる事を確認できたのであった。

 

 

「その先輩が卒業して一気に弱体化したところに今回の事件で、一年を中心に部活を辞めるって言い出す部員が増えてるとか。練習どころじゃないって次の部長が嘆いていたよ」

 

「ふーん。何か説得の秘訣でもあるし?」

 

「それがあったら苦労しないだろうね。やる気のある人が頑張るしかないんじゃないかな」

 

「それもそうだし。やる気のある連中に時間を使うほうがよっぽど良いし」

 

「そういえば、さ。最近、昼休みにも練習してる部活も出始めたみたいだな」

 

 

 葉山グループの男子生徒が、二人の話が途切れそうなタイミングで新たな話題を振る。

 

 

「……なんでそこまでやる気なのか、ちょっと聞いてみたいよな」

 

 

 続けてグループの別の男子生徒が返事をするや、彼らは互いに顔を見合わせて移動の準備を始める。「いきなり話を聞きに行くとか、やばいっしょ」などと盛り上がっているグループ最後の男子生徒も本気で止める気は無さそうで、こうしてこの日の行動方針が決定された。

 

 

 彼ら二人の発言は単なる好奇心の故であり、彼らの言葉を受けて、昼休みに練習している部活に話を聞きに行こうと集団が立ち上がったのもまた好奇心の故である。そこには悪意が存在する余地は無い。しかし、彼ら彼女らのこの些細な行動が、結果としては大きな事態へと発展してしまうのである。

 

 

***

 

 

 グラウンドに出て、すっかり顔なじみになった同学年の生徒たちがテニスコートに集まっているのに気付いて、優美子はゆっくりとそちらに歩を向けた。その横には姫菜が並んで歩いているし、後ろには葉山以下の男子生徒四人が従っている。二日目の練習をこなしていた面々と、一度ぐらいは顧問として様子を見ておこうとこの場に立ち寄っていた平塚先生も近付いてくる彼女らに気が付いて、練習は一旦お休みになった。

 

 

「戸塚って、いつから昼も練習してたんだし?」

 

「あ、えっと……。昨日から、かな」

 

「ふーん。奉仕部が手伝ってるのも昨日からだし?」

 

「ええ。戸塚くんの依頼を受けて、彼のテニスが上達する協力をしているわ」

 

「練習メニューは?」

 

 

 端的に疑問を口に出す優美子と、それに答える戸塚と雪乃。そこには感情的な争いの種は感じられない。自分以外の者が戸塚の手助けをしているからといって怒り出す優美子ではないし、ぶっきらぼうな彼女の発言に他者を貶める意図は無いと理解している雪乃がそれを咎めることもない。

 

 しかし、お互いが理性的な状況における争いの種は、お互いが自説に理を感じ手応えを得ているからこそ、時に感情的な対立よりも厄介な事態を引き起こすものである。雪乃の説明を受けて、昼休みの練習メニューを把握した三浦が口を開く。

 

 

「あんさ。あーしらの放課後の練習を考慮してメニューを組み立てたのは解るし。でも、戸塚が強くなりたいんなら、この世界でしか意味がない筋トレとかやってないで、もっと基礎練とか実戦練習をした方が良いと思うし?」

 

「貴女が言いたい事は解るわ。でも戸塚くんの今の筋力では、限界が見えていると思うのよ。筋肉を鍛えても、この世界からログアウトしたら意味がなくなってしまうのは確かだけれど。より効率的な動きを身に付ける為には、最低限の筋肉がないと話にならないのよ」

 

「その話に一理あるのは認めるし。けど、現実でも筋肉が付きにくい体だった戸塚がこの世界で筋トレしても、やっぱり伸び代は少ない気がするし」

 

「それは確かに頭の痛い指摘だわね。ただ、やらないわけにはいかないとも思うのよ」

 

 

 他の生徒たちを完全に蚊帳の外に置いて議論を始める女王二人。教師はもとより傍観を決め込んでいるし、生徒の多くは彼女らの会話を呆気に取られた表情で眺めていた。が、二人の少女に親密な思いを抱く結衣は、何とか二人の言い争いを終わらせようと口を挟んだ。

 

 

「ちょ、ゆきのんも優美子も、ちょっと落ち着くし。自分が決めた練習メニューと違うからって気にくわないのは分かるけどさ……」

 

「それは違うわ」

「それは違うし」

 

「……私の練習メニューは三浦さんのそれを前提として作ったものなのよ。あれほどきちんとした練習を行えているからこそ、こうした極端な構成にできたと言ってもいいわね」

 

「あーしも、この練習メニューはよく考えて作られてると思ってるし。ただ、他に優先する事があるって話だし」

 

 

 ほぼ同時に結衣の発言を否定した彼女らは互いに目配せを交わした後で、名前を呼ばれた順に従ったのだろう。雪乃と優美子がその順番で反論を述べる。仲裁に入ったはずなのに二人から否定されている結衣は哀れだったが、お陰でますます余人には口を挟みにくい雰囲気になってしまった。

 

 

「他に優先する事と言えば、戸塚くんの依頼には強くなる事に加えて、他の部員に戻って来て欲しいという希望もあったわね。貴女はそれをどう考えているのかしら?」

 

「あーしにできるのは、戸塚が強くなる為の練習に付き合う事ぐらいだし。正直、やる気のない連中の事を考えるより、やる気のある奴の希望を聞く方がよっぽど良いと思うし」

 

「そう。私としては、やる気のない他の部員が仮に気持ちを入れ替えた時の事も考えておくべきだと思うのだけれど」

 

「やる気なんてのは本人の問題だし。外部からとやかく言う事じゃないし」

 

「確かにその意見には賛成だわ。ただ、私が言いたい事は少し違うのよ。仮にやる気を出した時に、部活に復活しにくい環境だったら問題なのではないかしら?」

 

「……どういう事だし?」

 

「女子テニス部に戸塚くんが一人加わった状態の部活に、男子生徒がのこのこ顔を出せると思うのかしら?」

 

 

 雪乃の指摘は優美子にとっても痛いところである。確かにそれは彼女も自覚していたし、しかし戸塚を男子部員として扱おうにも色々と無理がありすぎる。具体的には彼の容姿や仕草や声などのせいで、女子部員の一員として扱う方が感情的にも自然だし、仮に彼を男の子として過剰に意識しようものなら逆に他の女性部員の精神衛生上、良くない事になるだろう。

 

 しかし雪乃が言う通り、仮に誰か他の男子部員が練習に参加するのであれば、今の雰囲気は一変するに違いない。それは男女双方の部員にとって大きな環境の変化をもたらす事になるだろうし、おそらく合同練習は続行不可能になるだろう。

 

 優美子はそうしたマイナス点には敢えて目を瞑り、強くなりたいという戸塚の希望を第一に考えて、効率の良い練習を行う事だけに集中していたのである。だが、それを言われるのであれば彼女にも言いたい事はある。

 

 

「その懸念は確かにあーしも持ってたし。でも、女子部員が戸塚と練習する問題点を指摘するなら、そっちも素人が教えるのはどうかと思うし。女子生徒と言っても、ちゃんとテニスの基礎を修めた部員と練習する方が効率が良いと思うし?」

 

「それを言われると辛いわね。うちの下ぼ……部員はなかなか筋が良いのだけれど、長年テニスの練習をして来た女子部員と比べてどうかと言われると難しいところね」

 

 

 もはや彼女らの会話を聞くだけのギャラリーと化した他の生徒達であったが、雪乃が発しようとした言葉を察して、何人かは八幡に同情の視線を送る。下僕扱いの哀れな男子部員。だが意外にも当の八幡は、それほど嫌な気分ではなかった。それは彼がマゾヒストだからではなく、彼の上司たる部長様が発揮した茶目っ気ゆえの軽口だと、彼が既に理解しているからであった。

 

 問題は、と八幡は思う。これほどまでにノリノリになった雪ノ下雪乃をいったい誰が止められようか、という頭の痛い事実であり、その彼女を前にして一歩も引きそうにない三浦の介抱を誰が行うのかという事である。既に八幡の中では、論争によって雪乃が勝利する未来はほぼ確定済みであった。しかし。

 

 

「面白い事になってきたな。まずは二人とも落ち着きたまえ」

 

 

 その場に居ながらも今まで口を挟まなかった平塚先生が間に入った事で、未来は再び混沌として来た。おそらく彼女も、このまま論争を続けるだけでは結末が見えたと思ったのだろう。

 

 

「さて、こういうジャンプっぽい展開は私の大好物なんだよ。古来より、お互いの正義がぶつかった時は勝負で雌雄を決するのが少年漫画の鉄則だ」

 

 

 お互いに主張を取り下げる事なく、思うがままに振る舞おうとする女王二人に向けて、教師もまた思うがままの主張を述べる。この場を収拾できる立場の教師がそんな事で良いのかと八幡は思うが、こんな教師だからこそ八幡の今があるし、彼女らの今もあるのである。

 

 

「どちらの主張が正しいのか、テニスで勝負を決めたまえ」

 

「……あーしは別にいいけど。中学までテニスやってたから、ちょっと不公平だと思うし」

 

「あら、私は別に構わないわよ?」

 

 

 ここに来て形勢は完全に逆転した。雪乃は自信ありげな発言をしているものの、やはり経験者との差は大きい。どうしたものかと考える教師の視線が一瞬自分に向いた気がして、八幡は途轍もなく嫌な予感に襲われる。果たして、彼女の発言は八幡の予想通りの内容であった。

 

 

「では、ともに未経験者を加えたダブルスではどうかね?試合の期日は二日後の金曜昼間。その時までにお互いのパートナーと練習を積んで、戸塚に教えるに相応しいのはどちらなのかを証明したまえ」

 

「ダブルスを組むのは誰でも良いし?」

 

「ふむ。たぶん雪ノ下は、下ぼ……部員の彼と組むだろうな」

 

 

 わざと言い間違えているのが丸分かりの平塚先生も、かなりノリノリの模様である。密かに戸塚は「ぼくのために争わないで」と口を挟みたいのが本音だが、何かが間違っている気がしてギリギリのところで思い止まっている。完璧にヒロインの座を確定させている戸塚であった。そして勝負に負けるつもりのない三浦は、自身のパートナーとして最も相応しい相手を堂々と指名する。

 

 

「じゃあ、あーしは隼人と。……勝手に巻き込んじゃったけど、大丈夫だし?」

 

 

 途中までは堂々としていたのに、最後になると少しだけ照れた口調で確認を取る、乙女な女王の姿がそこにはあった。幸い彼からは快諾を得て、ここに対立構造が確定した。雪ノ下・比企谷ペアv.s.三浦・葉山ペア。気持ちの良い空の下で海へと向かう風を頬に感じながら、何故こんな展開になってしまったのかと、己が不幸を嘆く八幡であった。

 

 

***

 

 

 その後の話し合いの結果、テニス勝負の話は大々的に宣伝を行う事になった。教師としても運動部員としても元気のない部活の存在は気になっていたので、勝負をイベントとして扱う事で学校全体の雰囲気を盛り上げようという話になったのである。八幡には泣きっ面に蜂の展開であるが、顧問の主命とあらば逆らっても仕方のない事であった。

 

 それぞれのペアの練習の為に、三浦ペアには葉山グループの男子生徒三人と姫菜が協力する事になった。雪ノ下ペアには材木座と戸塚と結衣が協力する。「あーしに気を遣わず、全力で勝ちに来るつもりで協力するし」と結衣に告げる優美子には風格すら漂い、勝敗は既に決しているように思われた。しかし、勝負は蓋を開けてみるまで判らない。そしてそれ以上に、深く考える事なく一人の女子生徒に一任した宣伝の為のビラの出来映えは、誰一人として事前に予想し得ないものであった。

 

 

 その日の放課後。校内の主要な掲示板に加えて、全教師と全校生徒の文書フォルダ内へと、テニス勝負を告知するビラがばらまかれた。

 

 ビラはまず上1/3の辺りで線が引かれていて、戸塚を模した可愛らしい生徒がこちらを向いてお願いのポーズを取っている。彼の顔の横には吹き出しがあり、以下のように書かれていた。

 

 

『ぼくと契約して、テニス少年になってよ!』

 

 

 これだけでも関係者にとっては頭の痛い内容であるが、ビラの下部は更に困った構図になっていた。ビラの下2/3は真ん中で左右に分かれており、テニス勝負に臨む男女二人ずつの顔が向かい合った状態で描かれている。

 

 左右の端に近い側に雪ノ下・三浦の両巨頭が大きめに描かれている事には、誰も文句がないだろう。問題は、彼女らを背にしてビラの中央近くで向き合っている男子生徒二人の、漫画チックにデフォルメされた顔の位置関係にあった。つまり、必要以上に近いのである。特に、彼らの両唇が。

 

 おまけに彼らは二人とも目を瞑った状態で描かれていて、絵師の意見によると二人が勝負に集中する様子を強調する為との事だが、どう考えても別の理由で集中しているように見えてしまう。それを煽るかのように、二人の頭上には横書き三行で以下のような文章が書かれていた。

 

 

『雪ノ下雪乃v.s.三浦優美子』

『初めての真剣勝負!』

『彼らの初体験を見逃すな!!』

 

 

 どうして雪ノ下と三浦の勝負なのに「彼ら」になるんだよと、心底からげんなりしながらビラを眺める八幡であった。なお、このビラは校内の一部の女子から非常に高く評価され、ビラの製作者はこの一枚で校内に確固たる地位を築いたのであった。思うがままの行動をした女性達の中で、いちばん楽しんだのは彼女かもしれない。

 

 

 そして、勝負の日が迫る!




前回の投稿後に、お気に入りが百人を突破しました。
また、ようやくここまで書けたかと、少し感慨深いものを感じる回にもなりました。
この展開に持ち込む為に色んな設定を考えたと言っても過言ではないので、今は少しほっとしています。

話によっては未熟さや物足りなさを感じる回もあったかもしれませんが、もうすぐ手が届く一巻末までの描写をトータルで見て、お手数でなければ率直な評価を頂けますと嬉しいです。評価の点数に関係なく、謙虚に参考にさせて頂きますので、可能であれば宜しくお願い致します。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,9/20)
表現に問題があると思えた箇所を修正しました。大筋に変更はありません。(2/20)


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19.やはり俺たちのテニス勝負はまちがっている。

今回はテニス勝負の前半です。



 決戦の金曜日。午前の授業を終えた生徒達のうち、試合に出る四人は先にテニスコートに集合する手筈になっていたのだが、既に思いのほか多くのギャラリーが集まっていた。彼らは昼食を後回しにして良い観戦席を確保しようと移動してきた生徒達であり、パンなど外に持ち出せるメニューを選んでいた為に出遅れた生徒達は後ろのほうの席で悔しがっている。この時点で、イベントとしては成功したと言って良いだろう。

 

 立会人となる平塚静教諭の権限で、コートの周囲には全校生徒が収容できる規模の観客席が作られていた。コート内には選手四人の他に、主審と副審を務める男女テニス部の次期主将と線審を務める女子テニス部員だけが立入可能で、練習に協力した他の生徒達はコートに近い特別席からの観戦となっている。材木座義輝がとても居心地悪そうに腰掛けていたが、戸塚彩加の名前を出して宥めすかし、何とか彼の逃亡を阻止している由比ヶ浜結衣であった。

 

 

 試合は1セットマッチの混合ダブルス。6-6タイブレイクのアドバンテージ方式だが、未経験者や観客の為に、終盤は1ゲーム終わるごとに「あと何ゲーム取れば勝利」というアナウンスを出す。試合中の給水は事前に立会人が用意したものに限り、ポーション類の使用は禁止。ラケットやボールはもちろんテニスウェアなども学校指定のものに限るとの事で、両者が同じ条件となる様に平塚先生が色々と考えてくれた模様である。

 

 三浦優美子がラケットを回し、雪ノ下雪乃がそれを言い当ててレシーブを選択して、葉山隼人と比企谷八幡も所定の位置に着いた。この世界に閉じ込められて以来、目立った娯楽もなく過ごしていた生徒達は久しぶりのイベントに熱狂し、体をほぐす()()の選手達の一挙一動に大きな歓声を送る。だがそれは八幡にとっても望むべき事であり、唯一こうした場に慣れていない彼はそのお陰で何とか平静を保てていたのであった。

 

 そして遂に、試合が始まった。

 

 

***

 

 

 第一ゲーム。三浦のサーブで幕を開けた最初のゲームは、三浦ペアが四ポイント連取であっさりと終わった。三浦のサーブが凄かったのは確かだし、観客席からはどよめきが起きたほどだ。しかし雪ノ下ペアは両者とも動きは悪くないものの、特段の連携を見せるでもなく、球際で食らいつく事もなく、どこか淡々と試合を進めている風である。コートチェンジの為に移動しながら、八幡は部室での会話を思い出す。

 

 

『サーブを一通り打ち終わる第四ゲームまでは、様子見で行こうと思うのよ。もちろんサービスゲームをキープするのが大前提だけれど、向こうの実力がこちらの予想とどれほど乖離しているのか等、相手の動きや連携の質などを生の試合で確認する事を第一に。第二に、相手のサービスゲームでこちらの体力を必要以上に消耗しないように』

 

『なるほど。ちなみにお前は、あいつらの実力をどの程度と見積もってんの?』

 

『由比ヶ浜さん。三浦さんは中学三年の時、県大会の準決勝でタイブレイクで負けたと言っていたわよね?』

 

『うん。相手は凄く強かったけど、接戦に持ち込んであと一歩まで追い詰めたのにって悔しがってたよ』

 

『その時の三浦さんの対戦相手と、以前に一緒に練習をした事があるのだけれど……』

 

『お前、ホントに人脈は広いのな』

 

『残念ながら、知っているという程度の関係よ。それと私としては助詞の使い方が気になるのだけれど、人脈()広いという言葉の裏で何を考えているのかしら?』

 

『……いや、だってお前、友達いねぇじゃん』

 

『貴方に友達の定義を聞いてみたいところだけれど。私にだって、その、知り合いの域を超えて友達と呼べそうな人が居ないわけではないのだけれど……』

 

 

 段々と小声になって行く雪ノ下の発言を思い出し、八幡は歩きながら苦笑する。顔を上げると、ちょうど観客席の由比ヶ浜と目が合った。二人に向かって声援を送る彼女を眺めながら、八幡は再び会話の続きを思い出す。椅子に座る雪ノ下の背後から抱きつきながら彼女が口にした発言を。

 

 

『うん!あたしはゆきのんの友達だし、優美子と姫菜もゆきのんを友達だと思ってるよ』

 

『……そう。少し恥ずかしいから離れて欲しいのだけれど』

 

『なんか俺、席を外した方が良いのか?』

 

『あら、友達が居ないからって落ち込まなくても良いのよ?孤独谷くん』

 

『ちげーよ。つか、話を戻すぞ』

 

『ええ。テニスのスキルで言うと、三浦さんはおそらく200弱だと思うわ。中学で部活を辞めた影響がどの程度かにもよるのだけれど、場合によっては200超えで中級者の域かもしれないわね』

 

『なるほど。俺は100ちょいだし、たぶん葉山も同じようなもんだと思うが……』

 

『由比ヶ浜さん、そろそろ離れて……と言うだけ無駄のようね。私も150は超えているのだけれど、三浦さんよりは確実に劣っていると思うわ。ある程度の才能に恵まれて中学の三年間をテニスに費やしたのだから、差があって当たり前でしょうね』

 

 

 まずは彼我の差をきちんと認識しない事には、自力で劣る側がそのまま負けてしまうのが道理である。雪乃も八幡も、自分たちが劣っている事を冷静に認め、だからこそ策を練り効率の良い練習を行ったのである。勝負をする事が決まってからの二日間を思い出し、それに改めて手応えを感じながら、二人は再び試合に意識を集中した。

 

 

***

 

 

 第二ゲーム。雪ノ下のサーブはコースを狙った技術の高いものだったが、三浦も葉山も反応できない程ではない。お互いにポイントを取り合う展開になったが、40-30から試合時間を長引かせたくないと思ったのだろう。先程までよりも少し強いサーブが葉山を襲い、彼が打ち損じた事でこのゲームは雪ノ下ペアが取った。涼しい顔を装っている雪乃を眺めながら、葉山は考える。

 

 

 葉山もまた、試合前の時点でお互いの実力差をほぼ正確に把握していた。彼自身はテニスを本格的に習った事はないが、幼い頃から付き合いのあった雪ノ下姉妹が一時期テニススクールに通っていたのを知っている。ほんの一ヶ月も経たないうちに、基礎をしっかりと吸収した姉妹がスクールのコーチを含む全員を凌駕する才能の持ち主だと証明して、スクールを辞めてしまった事も。

 

 おそらく才能という点では優美子でも及ばないだろう。しかし経験の蓄積も馬鹿にはできない。溢れんばかりの才能を多方面に発揮してきた雪乃と、中学の三年間をテニスに捧げた優美子と。才能を妬まれ周囲に足を引っ張られる事の多かった雪乃と、曲がりなりにもシングルスに集中できる環境だった優美子と。そうした彼女らの経験の差は、少なくとも二日程度の練習では覆せないほどの実力差として反映されているはずだった。

 

 

 三浦・葉山ペアの戦術は単純である。実力で上回っているのだから、下手に策を弄する事なく正攻法で叩き潰すだけだ。葉山としては、四人の中で一番実力のある優美子に気持ちよくプレイしてもらう事を第一に、後は要所でフォローをしっかりしていれば自ずと勝利は得られるだろうと思っていた。だから練習も、優美子の勘を戻す事と葉山がダブルスのコートに慣れる事に多くの時間を費やしたのだ。

 

 だが、彼にとって最大の不安材料は、やはり雪乃の存在である。下手に彼女の才能を知っているだけに、試合が長引いて経験を蓄積されると何が起きるか分からない。だから彼らは最初から手を抜かず、そして体が温まったら一気に勝負を決めるつもりだった。しかし。

 

 先程の雪乃のサーブからは、彼が怖れている事とは裏腹に、彼女もまた勝負を長引かせたくないと考えているかのような雰囲気が感じられた。何か見落としがあるのだろうか。彼はそこまで考えて、とりあえずは自分のサーブに備えて意識を戻した。

 

 

***

 

 

 第三ゲーム。葉山のサーブは速くて重いものだったが、雪乃にも八幡にも取れない程ではない。しかし、やはり彼らのプレイは淡々としたもので、一度ポイントを奪われた以外は特に危ない場面もなく、葉山も無事にサービスゲームをキープした。

 

 コートチェンジを行いながら、ふと葉山はある仮説を思い付く。そして優美子に向けて「次のゲームは早めに勝負を掛けるよりも、ラリーを続けて相手の様子を窺ってみよう」と提案し了承を得た。三浦としても、手応えのない相手の様子を不審に思っていたので、彼の提案に乗ってみる気になったのである。

 

 

 第四ゲーム。八幡のサーブは観客の大方の予想に反して、綺麗で正確なものだった。しかし、既に彼のレシーブが寸分の狂いもないものだと確認できている相手選手の意表をつける程ではない。ラリーに持ち込みながら相手の観察をしていた葉山は、前衛の雪乃がしきりに動き直して常に最短で勝負を決める機会を窺っているのを確認した。後衛も単にラリーを続けるのではなく、こちらの隙に繋がる難しいボールを毎回のように狙っている気配がある。

 

 今までのゲームよりも時間は掛かったものの、雪ノ下ペアの積極姿勢が実を結び、このゲームも40-30から何とかデュースを避けてキープする事ができた。しかし、葉山の仮説はより信憑性が高くなった。「そういえば、雪乃ちゃんは持久走が得意ではなかったな」と思い出した事も大きい。試合の時間を長くして経験を蓄積する事よりも体力の温存を優先する雪乃の意志を感じ取って、彼は傍らの優美子に告げる。

 

 

「どうやら、体力を温存したいみたいだね」

 

「ふーん。なら、どうするし?」

 

「優美子の希望は?」

 

「あーしは……。こっちのサーブの時も全力でやれし、って言いたいし」

 

「じゃあ、誘ってみるか。サーブを少し弱めに打って、ラリーに持ち込むよう挑発するとか、どう?」

 

「ん。じゃあ、それで行くし」

 

 

 こうして、試合は中盤戦へと突入した。

 

 

***

 

 

 第五ゲーム。三浦のサーブは先程よりも勢いがなく、雪乃は簡単にリターンエースを決める。この試合で初めてレシーブ側がポイントを先行させた形になったが、雪乃は憮然とした表情で三浦に向けて問い掛ける。

 

 

「……これはどういう事なのかしら?」

 

「手を抜いてないで真面目にやれし。体力を温存して勝てる相手と思われてるなら心外だし」

 

「あら、そんな事はないわ。貴女のテニスの実力を高く評価しているからこそ、効率よくプレイしなければと思っているだけよ」

 

「ふーん。だから相手のサービスゲームは端から諦めて、キープに集中してるんだし?」

 

「諦めたつもりは無いのだけれど……。でもそうね、そろそろ体も温まってきた事だし、貴女のサーブにも全力でお相手してあげても宜しくてよ?」

 

「負けた時の言い訳が一つ減るけど、それでも良いんだし?」

 

「貴女のほうに言い訳が一つ増えるのなら、それで充分じゃないかしら?」

 

 

 コート内では、ダブルスを組む相方に話し掛ける時はどんなに大きな声を出しても他の人には絶対に聞こえない反面、相手選手や審判などに話し掛ける時には、その会話は観客全てが聞き取れるように設定されている。音の伝播によるのではなく、音声の同時的な共有によってそれを実現している為に、コートに近い席の人々ほど音が大きくなる事もないし、ハウリングによって不快な音が発生する事もない。彼女らの発言はお互いのみならず観客全てを熱狂させ、勝負は白熱した展開へと移行した。

 

 

 この時点で、葉山の作戦は早々に崩壊した。しかし、ラリーに持ち込んで雪乃の体力を削りたいのが本音だったが、優美子も雪乃もお互いに全力でプレイするのであれば、先に体力が尽きるのは雪乃の可能性が高い。後は体力の尽きた雪乃を狙って、勝負を決するだけである。葉山はこの新たな方針に手応えを感じたが、優美子に告げてせっかくの彼女のやる気をそがない為にも、口には出さない事にした。

 

 正直なところ、葉山としては適当なところで引き分けという形にして、後々の禍根にならないように事を収めたいのが本音である。しかし彼はまた、勝負を行う女子生徒二人は、明確に勝敗を決する前に諦める事など無いとも理解していた。ならば彼女らの希望に従うしかない。

 

 優美子の希望はもちろん勝つ事である。一方の雪乃は、勝つ事を望んでいるのは勿論だが、彼に手抜きをされて勝つ事などかけらも望んでいないだろう。むしろ彼女は、彼が全力で立ちはだかる事をこそ望んでいるはずだ。なぜならば、彼が立ち塞がっても彼女の勝利に疑いはないと信じているだろうから。少しだけ寂しい気持ちになる自身を奮い立たせ、葉山もまた試合に再び集中するのであった。

 

 

***

 

 

 第五ゲームは続く。第四ゲームまでの当初の方針を無事に完遂して、三浦ペアの実力も連携も、事前の予想通りだった事は確認した。おそらく練習内容も、ダブルスとしての連携を高めるよりは各々のプレイの質を高めるものが主だったと見て間違いないだろう。周囲が熱狂している中で冷静に現状を再確認していた八幡は、挑発に乗りやすい己がパートナーに苦笑しながらも悪い気分ではなかった。

 

 彼は確かにぼっちという環境を愛しているが、周囲の人と接するのが嫌いな質ではなかった。度重なる黒歴史によって諦観に至ったとはいえ、それは同性の友人達や気になる異性に対してとった行動が裏目に出たのが原因であって、行動のそもそもの発端は他人と仲良くしたいという気持ちから出たものである。そんな彼が、同じ部活の仲間が盛り上がっている横で一人白けた気分で居るなど、あり得ない事だ。

 

 

 観客も、そして自分を除く選手達も、今は興奮の坩堝にいる。こんな熱狂の場の中心に自分が存在しているなど考えてみれば不思議な話だが、それに対しても八幡は悪い気はしなかった。勝負に参加する事が決まって以来、彼は全校生徒に囲まれたコートの中でプレイする自分を想像して、一人の時間を落ち着いて過ごす事ができなかった。しかし今、それが実現してみると、意外に呆気ないものである。

 

 ただでさえ観客の視線を独占しがちな生徒が三人もいる事で、彼があまり注目を浴びずに済んでいる側面はあるだろう。だが、足が震えて動けなくなって醜態を晒すのではないかと不安に思っていたこの数日の事を思うと、八幡は物怖じしていない今の自分に少しだけ手応えを感じられた。後は当初の目標を達成するだけ。つまり、勝つのみである。八幡もまた、改めて気合いを入れて試合に集中するのであった。

 

 

***

 

 

 第五ゲームは今度こそ続く。雪乃との舌戦によって気持ちが先走った優美子のサーブが八幡を襲い、それを八幡は、本人にも意外なほど綺麗に返した。リターンエース。全く期待していない選手の活躍に、観客は一瞬だが呆気にとられる。そうして静まり返った会場に、何やら妙な声が響いた。

 

 

「あ、あれはまさか!?敵の打球が生み出した土煙を利用して相手を幻惑させ、その隙に球を叩き込む魔球。豊穣なる幻の大地、岩砂閃波(ブラスティー・サンドロック)!!」

 

 

 できる事なら奴の顔面に魔球を叩き込んで、「またつまらぬ者を」と言ってみたいものだと遠い目をする八幡であった。そして、いつの間にか特別席から逃げ果せている材木座に気付き、ぷんすか怒る結衣と爆笑する海老名姫菜。観客達も先程までの興奮ゆえにあまり頭が回っていないのか、途端に勢い付いて「ブラスティー!」「サンドロック!」「ブラサン!」などと、てんでばらばらに叫んでいる。しかし、そんな緩んだ雰囲気は、獄炎の女王の一言で雲散霧消した。

 

 

「ふーん。面白い事をやってくれんじゃん。まぐれが続くのか、試してみるし」

 

「あら、彼の実力をもってすれば容易い事よ。あの程度のサーブを打ち返すぐらい、我が奉仕部の一員ならば下僕にすら可能な事でしかないのよ?」

 

 

 素直に八幡を褒めるのかと思いきや、公の場で思わず下僕と明言してしまう雪乃であった。実際のところは、彼のプレイを見て素直に賞賛の言葉を出してしまい、慌てて軌道修正を行ったが故の発言なのだが。特に世間の認識と乖離しているわけでもなし、言われた本人も特に気にしている様子ではないので問題は無いだろう。

 

 問題は、優美子が更に本気になった事であり、そしてここまで挑発したからには雪乃もこのゲームを落とす事ができなくなったという事である。

 

 

 次のサーブは雪乃が受けて長いラリーへと移行した末に優美子が決めた。その次のサーブは八幡が受け損なったものの、葉山のボレーを雪乃が拾い、そして再び長いラリーへと移行した。何とか八幡が決めてブレイクに王手をかけたが、短時間で急に多くの距離を走らされた雪乃は疲労の色が濃い。深いため息を吐いてコートに座り込みながら、彼女は口を開く。

 

 

「比企谷くん。少し自慢話をしてもいいかしら?」

 

「いきなり何だよ?」

 

「私ね、昔から何でもできたから、継続して何かをやった事がないのよ」

 

「だから何の話だ?」

 

「……だから私、体力にだけは自信がないの」

 

「ちょ、お前。今この場でそんな事を言ったら……」

 

「……()()()()()()?」

 

 

 今までに溜まった鬱憤を晴らすかのように、獰猛な笑みを浮かべた獄炎の女王が不意に会話に加わった。その横では葉山が少し気の毒そうな、同時にどこかほっとしたような表情を浮かべている。立会人の平塚先生が近付いて来て、雪乃に試合続行の意志を問い掛ける。

 

 

「雪ノ下。体力が尽きたのなら棄権という事になるが?」

 

「いえ。しばらく立っていれば少しは回復すると思いますし、このまま継続します」

 

「ふーん。悪いけどあーし、手加減とかできないけど、大丈夫だし?」

 

「私は手加減してあげるから、安心してくれて良いわ」

 

 

 この期に及んで口の減らない雪ノ下に呆れながらも、決して頭が回らないわけではない優美子は雑談によって体力が回復する可能性に思い至り、サーブの体勢に入る。フォールトを気にして威力よりも正確さを重視したサーブが放たれ、そして雪乃は、疲れなど微塵も感じさせない動きでそれを返した。リターンエース。

 

 

「……どういう事だし?」

 

「短期間に疲労が蓄積されて、動けなくなっていたのは事実よ。でも、知っているかしら?この世界では、急激な負荷によって一時的に疲労困憊に陥る事はあるのだけれども、気力さえあれば短時間で立ち上がれるのよ。体力が1ポイントでも残っていれば、そして気力さえあれば、完璧な体調の時と同じように動けるのよ?」

 

 

 それは、RPGなどのゲームをした事のある者なら理解し易い話ではあった。勿論ゲームの設定によっても異なるが、一般にはHPが全快だろうが残り一割だろうが、同じように動ける作品が多い。麻痺などの特殊攻撃や、クリティカルなどHPを急激に減らす攻撃を受けて短時間行動不能に陥る事はあっても、一定時間が過ぎればステータスの数字通りに、攻撃を受ける前と同じように行動できる。

 

 

 雪ノ下の説明を聞きながら、八幡は彼女が決して口に出さないもう一つの手品の種の事を考えていた。どうして彼らの会話が三浦にも聞こえていたのだろうか?あの時は慌てていたので気付かなかったが、ダブルスの相方との会話は他人には絶対に聞こえない設定ではなかったか?

 

 その答えは、彼女が音声出力を手動でオンにして、わざと三浦たちに聞かせるように仕向けたからに相違ない。だが、事前にはそんな作戦など検討すらしていなかった。だから八幡はあの瞬間に本気で焦ったのだ。

 

 一時的に体力が尽きるという普通なら絶体絶命の状況にあって、その逆境を利用する方法を模索し実行して成功させた雪ノ下雪乃。八幡は改めて彼女の負けず嫌いの性格を思い知らされ、そしてそんな彼女の凄さを敬遠するのではなく、面白いと感じてしまうのであった。

 

 

 こうして第五ゲームは雪ノ下ペアがブレイクに成功して、ゲームカウント2-3。あと三回サービスゲームをキープすれば、彼女らの勝利が決まる。しかし、勝負の行方はまだ判らない。

 




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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20.やはり俺たちのテニス勝負はまちがっている。続

今回はテニス勝負の後半です。
文字数がかなり多くなりましたので、時間がある時に読んで頂ければと思います。



 第五ゲームを終えてコートチェンジを行いながら、比企谷八幡は横に並んで歩いている雪ノ下雪乃に話し掛ける。

 

 

「実際んとこ、お前の体力って後どれぐらい残ってんの?」

 

「そうね……。だいたい六割強といったところかしら」

 

 

 会話が二人の間だけに閉じられたものである事をシステムの表示で確認して、雪乃は答える。相手側のサーブの時に極力体力を温存しても、残るは六割。二人にとっては厳しい数字である。

 

 ゲーム側の世界と違って、こちら側では戦闘を行う事がないので具体的なHPなどの表示はない。だから推測するしかないのだが、他のどの生徒よりもマニュアルを読み込みこの世界に精通している雪乃の判定だけに、その数字は信頼できるものと考えて良いだろう。

 

 

「んじゃ、仕方ねぇな。相手サーブのゲームは捨てて、全力でキープに専念するか」

 

「あら。貴方はそれで良いの?」

 

「馬鹿みたいに熱血して、負けちまうよりマシだろ?」

 

「……確かに。でも意外ね。貴方はいざとなれば、もっと熱血になるのかと思っていたわ」

 

「なんでだよ。効率よく試合を終わらせて、早く帰って寝たいまである。まだ昼だけどな」

 

「でも、由比ヶ浜さんの飼い犬を助けた時は凄く熱心だった……らしいじゃない」

 

「あー。……恥ずかしい過去を抉って来んなよ。ダブルスの相手を虐めて楽しむのは禁止な」

 

 

 少し照れて頭をかく八幡と、ほんの少しだけ微笑を浮かべる雪乃。そんな二人の様子を、対戦相手は余裕の表れと受け取った。だが、取られたものは次で取り返せば良い。次が駄目ならその次だ。だから三浦優美子と葉山隼人は、まずは次のゲームに向けて意識を集中した。

 

 

***

 

 

 第六ゲーム。体力の消耗を抑える為に、雪乃はサービスエースを狙う。全力に近いサーブを放ってポイントを連取するが、次は相手もサーブの速さに順応して来るだろう。雪乃は八幡に目配せをしてから、先程と同じような軌道でサーブを打つ。それは相手に打ち返されたものの、ボールが飛んだ先には図ったように八幡が居た。簡単にボレーを決める繰り返しで、このゲームは雪ノ下ペアがキープしたのであった。

 

 

 第七ゲーム。葉山のサーブを受けはするものの、雪乃はそれ以上は積極的に動かない。八幡がレシーブの時にはラリーに応じるものの、彼の動きもそこまで熱心なものではなかった。特別席では「ヒキタニくん……焦らし受けとは何と鬼畜な事を」と海老名姫菜が身悶えていたが、由比ヶ浜結衣の適切な介抱によって大事には至っていない。ゲームは三浦ペアのキープで終わったものの、試合は少し中だるみの雰囲気になって来た。

 

 

 第八ゲーム。八幡のサーブが葉山に向けて全力で放たれ、彼はこの試合で初めてサービスエースを決めた。同時に、この試合で初めて観客席で流血事件が起きた。先程までは垂れ流す程度で済んでいたのだが、遂に派手に噴出させてしまったのである。薄々ばれていた一人の少女の趣味嗜好が、公然のものとなった瞬間であった。

 

 観客席での騒ぎによって試合が一時中断する中、八幡は先程のサーブの感触を改めて確認していた。彼のサーブは雪ノ下との練習で磨いたものではない。彼が体育のテニスの時間に、ペアを組む相手もなく壁打ちを繰り返して習得したものである。騒がしい他のクラスメイトが、打球がスライスしたとか何とか言って半分遊んでいる時にも、彼は体育教師に注意されないように黙々と壁打ちを続けていたのだ。

 

 

 彼は自分がぼっちである事を、ある意味で誇りに思っている。上っ面のくだらない友人関係を得たところで、そんな連中と漫然と時間を過ごして何になるのだろうか。勉強であれ趣味であれ、一人で取り組む時間の長さによって習熟度が変わってくる。誰かから有益な助言を得られれば、掛かる時間は短縮できるかもしれない。しかし、そんな助言ができる人が身近に数多く居るとも思えない。ましてや、お互いの抜け駆けを避ける為に牽制し合って、できない事を言い訳し合うような集まりなどお断りだ。

 

 彼にとって、ぼっちという環境はある意味では望ましいものである。彼が不満なのは、ぼっちを見下す目線であり、彼を憐れむような視線である。そんな連中に向けて、ぼっちは可哀想な奴なんかじゃないと証明したい。ぼっちが劣っているわけではないと認めさせたい。それは彼の心の奥底にあった、長年の願望と言っても良かった。だが、自分が陽の当たる舞台に上がる事などないと思って諦めていたのである。

 

 さっき、俺は葉山を相手に、真剣な試合の場でサービスエースを決めた。ぼっちとして、こつこつ積み重ねてきた練習が実を結んだのだ。俺は決して過去のぼっちの自分を否定しない。ぼっちとして過ごした時間を罪だと、ぼっちで居る事が悪だと決して言わないし言わせない。彼は何度、虚空に向かってその誓いを呟いた事だろう。今、彼は自らの正義を公衆の面前で証明できる機会を得て、そしてそれを証明しつつあるのだ。一人で何でもしなければならないぼっちが、何もしなくても周囲の人に助けてもらえる校内随一の人気者に勝てるのだという事を。

 

 

 試合が再開され、八幡は引き続き全力でサーブを打つ。三浦が返した球を雪乃が簡単に決める。再び葉山にサーブを打つ。葉山が打ち上げたボールは、ふらふらと八幡の少し前へと近付いて来た。この時ばかりは体力を温存する為ではなく、八幡にそれを決めさせる為に、雪乃はそのボールを譲る。それを八幡は力強く決め、その勢いのままに三浦に対してもサービスエースを決めた。

 

 観客の喝采は、彼を見事に導いた雪乃へと送られている。だが、そんな事は彼にはどうでも良かった。彼にとって、そしてペアを組む雪乃にとっても、このゲームの主役が八幡だった事は明らかなのだから。これでゲームカウントは3-5。次のサービスゲームをキープすれば、彼らの勝利が確定する。

 

 

***

 

 

 第九ゲーム。追い込まれた三浦ペアだが、二人ともこうした局面には部活の試合で何度も直面した事がある。どうせ相手は体力温存を優先して真面目にプレイしないだろう等と決めつけると、こちらが痛い目に遭う事を百も承知の二人は、このゲームでも手を抜く事はない。

 

 あるいは、少しだけ隙を見せて相手に向かって来てもらう作戦がベターなのかもしれない。雪乃の体力は更に落ちているだろうし、そこに付け込むのは卑怯な事ではない。だが、地力で上回っているという矜持が三浦にそれを許さないし、第五ゲームで露呈したように彼女は手を抜いたプレイが上手ではない。下手をすれば、肉を切らせて骨を断つはずが致命傷を受ける展開にもなりかねない。相手のサービスゲームを待つまでもなく、このゲームを落とせば負けが確定してしまうのだ。葉山はそう考えて、とにかくこのゲームをキープする事に集中した。

 

 

 一方の八幡は、正直なところ少し迷っていた。早々にポイントをリードされれば、今まで通りにこのゲームは流して次に集中すれば良い。だが、もしチャンスがあればどうするべきか。先程の自己申告からして、今の雪ノ下の体力は確実に四割を切っているだろう。下手をすれば三割も怪しい。ならば、勝負を急ぐべきではないか。

 

 

 第五ゲームで雪乃が動けなくなったのは、一定期間内における体力の消耗が規定値を上回った事が原因である。その判定は、体力の現在値に対して所定の割合を基準に行われる。勝負を行う事が決まってからの二日間、奉仕部の部室をテニスコートに換装して行った練習と検証とによって、雪乃はそれを一割程度と見積もっていた。

 

 例えば、体力が80残っている状態で一時的な体力不足に陥るには、一定期間内に8程度の体力を消耗しなければならない。しかし、体力が30しか残っていない状態だと、たった3程度の体力消耗で一時的に動けなくなってしまうのである。当人の気力次第で再び動けるようになるまでの時間を短縮できるとは言え、それを0にできない以上は大きなリスクである。

 

 もしもラリーの途中で動けなくなってしまったら、それはポイントを連続で落とす可能性が高い事を意味する。もはや相手ペアは悠長に待つことなく、こちらが動けるようになる前に試合を続けるだろう。この世界でも真面目に部活動をしている葉山であれば、雪乃ほどの精度ではないにせよ、回復までのおおよその時間を把握していても不思議ではない。

 

 

 幸いな事にと言うべきか。この状況に至って三浦のサーブが冴え渡り、特に波乱もなく彼女らはサービスゲームをキープした。これでゲームカウント4-5。雪ノ下ペアが王手をかけている状況に変わりはなく、次のゲームが大一番となる。

 

 

***

 

 

 第十ゲーム。張り詰めた空気が漂う中、雪乃のサーブによってゲームは始まった。ここで勝負を決めるべく、彼女は全力に近いサーブを放つ。だが、この試合で何度も彼女のサーブを受けた相手側としても、ここで大人しくサービスエースを決められるわけにはいかない。最初は三浦が、次には葉山がサーブを打ち返し、連続してラリーに持ち込まれる展開になり、結果は痛み分けに終わった。15-15。

 

 少しだけ間を置いて、雪乃は三度目のサーブを打つ。同時に彼女は周囲にも聞こえる声で八幡に指示を送り、自らも前方へと走る。この試合で今までに見せた事のない雪乃の動きが目に入って、三浦は何とかボールを打ち返したものの簡単に雪乃に決められてしまった。これで30-15。

 

 また少し間を置いて、雪乃が四度目のサーブを打つその直前。あらかじめ打ち合わせをしていたのだろう。今までサイド寄りに位置していた八幡が中央に寄る。彼の横を雪乃のサーブが通り過ぎ、葉山はストレートにリターンを打つべきか、それともクロスに返すべきか一瞬だけ迷ってしまった。その結果、どっちつかずのリターンを八幡に決められて40-15。遂にマッチポイントを迎えた。しかし。

 

 

 ゆっくりと時間を使って打った五度目のサーブ。だが、雪乃はその直後に崩れ落ちてしまう。三浦がその隙を見逃すはずもなく、クロスに返したボールは八幡のラケットも届かず、リターンエースとなった。これで40-30だが、雪乃の消耗は激しい。残っている体力の量を考えると、以後はほんの数動作で、一時的な体力の枯渇と判定されかねない状態だ。

 

 立会人の判断により、雪乃がサーブを打てる状態に戻るまで時間を置く事は認められた。しかし、それほど長い時間ではない。ぜいぜいと息も絶え絶えの雪乃に三浦が話し掛ける。

 

 

「あんさ。何でそうまで試合に拘るんだし?正直、どっちが勝っても戸塚にとって悪い事にはなんないし。それに今思うと、あの教師に乗せられた気がするし」

 

「あら……。意外ね。貴女は試合に全力で勝ちに来るのだと思っていたわ」

 

「勝ちが見えたから言ってるんだし」

 

「なら、私の返事は一つよ。……勝てる勝負を放り出すわけにはいかないじゃない」

 

「ふーん。なら、叩き潰すだけだし」

 

「それはこちらのセリフだわ。大人しく、私()に敗北なさい」

 

 

 女王二人の会話が終わり、雪乃は立ち上がる。ペアを組む男子生徒と簡単な打ち合わせをして、彼女は所定の位置へと戻った。

 

 

***

 

 

 第十ゲームが始まって六度目となるサーブ。雪乃はサーブを打った後も立っており、サーブだけで体力が一時的に尽きる事はないようだ。八幡は後衛に近い位置まで下がり、雪乃が打ち返す機会を極力減らすべく縦横に動き回る。主に八幡と葉山によってラリーが行われ、それは観客席の少女を再び流血させたが、雪ノ下ペアにとっては苦しい状況である。ラリーを続けながら相手の隙を窺うという時点で、他に策は無いと吐露しているに等しいからだ。久しぶりに自分の前に転がってきたボールを雪乃に向けて力強く打ち返しながら、三浦が叫ぶ。

 

 

「あんさー。正直、今すっげー楽しーんだけ、ど!」

 

「それは、ご期待に沿えて何よりだわ、ねっ!」

 

「やっぱりあーし、戸塚の練習はともかく、他の部員の事なんかどうでもいい、し!」

 

「それでは、貴女は彼の依頼を放棄するのかし、ら!」

 

 

 どうやらラリーをしながら会話を続けたがっている三浦に合わせて、雪乃は少し力を抜いて、相手が打ち返しやすい位置にボールを返す。勝負が逼迫している状況なのに我ながらどうかとも思うが、この会話は勝負と同程度の重要性を持つのではないかという勘が働いたのだ。それに、三浦がこの隙に乗じるような事をするとも思えない。

 

 

「つーか、今も真面目に部活をやってる連中を優先で良くないし?」

 

「たとえ今は不参加でも、彼らが不真面目とは限らないわ」

 

「でも、それを証明するのは本人の行動だし」

 

「ええ、だから彼らが部活に復帰しやすいように、環境を整えておくべきではないかしら?」

 

「サボってる連中の為に、そこまでする必要があるし?」

 

「彼らが一人で己の弱さを乗り越えられないのなら、手を差し伸べる必要があるのではないかしら?」

 

 

 少しラリーを続けるのが面倒になって来たのだろう。三浦はボールを八幡に向けて打つと、葉山とラリーを続けろと身振りで指示して雪ノ下と向き合う。奔放な女王様のお相手は大変だと、下僕根性が身に付いてきた八幡であった。コート脇に互いに近付いて、彼女らは会場全てに聞かせるように対話を続ける。

 

 

「手を差し伸べるにも限度があるし。もともと嫌いなら強制しても無駄だし、もともと好きな事ならそのうち帰ってくるし」

 

「それは、貴女がテニスをやっていて楽しいと思っているからかしら?」

 

「その通りだし。正直、ここまで楽しめるとは思ってなかったし」

 

「それは光栄ね。でも、負けた後でもそう言えるのかしら?」

 

「勝つのはあーしだし」

 

 

 その時、ラリーを続けていた八幡に変化が起きた。雪ノ下を庇って人一倍動いていた彼にも、一時的な体力の枯渇が訪れたのだ。雪ノ下と比べると残っている体力の量が違うので頻繁に動けなくなることは無さそうだが、しかし何にせよこの試合で初めてデュースとなってしまった。

 

 

 マッチポイントを二度無駄にした事になるが、雪乃はそれをさほど悔いてはいなかった。そもそも、相手のサービスゲームをブレイクした時、勝つ為に可能な事は何でもやると決めて取った行動ではあったが、あれが勝利の要因となってしまうのは少し納得がいかない。あの一手を後悔する事はないが、あれで勝負が決まると面白くないと考える、複雑なお年頃の彼女であった。

 

 三浦を真正面から打ち破る事は、相手が積み上げた実力や己の体力の問題から今は不可能だが、それは将来リベンジすれば良い。それよりも彼女は、この試合に備えて練習し対策した事を発揮して、勝利を決定づけたいと思ったのである。そしてその上で、戸塚の依頼を完遂する事。そこまで行っての完全勝利だと彼女は考えていた。

 

 

 試合をそっちのけで舌戦を始めた二人の女子生徒に観客の多くは戸惑っていたが、勝負の行方が判らなくなって来た事と、そして対話の内容にも思うところがあったのだろう。三浦を応援する声が一段と高まる。その多くは、部活にきちんと参加している生徒達であった。そんな誰かが叫ぶ。

 

 

「この世界でも部活やってて楽しーんだって!だから、サボってないで参加しようぜ」

 

「サボってるわけじゃねーよ!でもなんか、行き辛くなったんだよ」

 

「いいから行ってみろよ。それが嫌なら活発な部活を見学に行ってみろって。サッカー部とか、最近すげー盛り上がってるぞ」

 

 

 そもそも、この問題は戸塚だけの問題ではなく、多くの部活に共通した問題である。そして観客の中には、部活に参加する者しない者に関係なく、いわゆる当事者が多く含まれていた。それぞれを代表するような本音のやり取りが観客席で期せずして起こり、そしてその発言によってコート内の一人の選手が脚光を浴びる事になる。

 

 

「……ああ。確かに嬉しい事に、うちのサッカー部は最近かなり盛り上がってきたね。今も一年の連中はこの試合を観戦せず練習してるらしいし。部員のみんなが参加してくれるから助かってるよ」

 

 

 テニスの試合をしていたはずなのに変な展開になってしまって戸惑う葉山だが、それでも彼は求められている役割を放棄する事はない。観客席の名もなき生徒に向けて返事を返したところ、聞き覚えのある声が発言を始めた。

 

 

「葉山、柔道部の城山だ。……少し情けない事を言うが、それはサッカー部が強いから上手くいっているだけじゃないのか?俺たちみたいな弱小クラブでも、同じ事ができると思うか?」

 

 

 それは特に詰問という感じの口調ではない。自分にはどうしても解けない素朴な、しかし切実な疑問を、葉山に向けて投げ掛けたに過ぎない。

 

 

「それは……。俺には分からない。俺にできるのは、参加してくれる部員達の期待に応えて、練習メニューを工夫したり率先して練習に参加する事ぐらいだ」

 

「そうか……。やはり、参加してくれないと話にならんのだな」

 

「それは違うわ」

 

 

 良く通る声が、一言で観衆の意識を引きつける。雪乃は己に集中する視線をものともせず、冷静に話を始める。

 

 

「貴方たちが間違っているのは、『参加してもらう』という意識でいるからだと思うわ。もちろん強制は良くないのだけれど、部活に来ない生徒を『参加させる』ための行動を考えるべきではないかしら?」

 

「どういう事だ?」

 

「貴方たちも部活に来るよう説得したとは思うのだけれど。でも、本当に彼らを参加させたいのなら、例えば彼らの希望を汲む事で参加せざるを得ない状況に持ち込むとか、そうした主体的な取り組みをした方が良いと思うわ」

 

「そんな、半ば無理矢理に部活に引き入れるような事をして、上手く行くのか?」

 

「それは貴方たち次第ね。少なくとも、三浦さんのように貴方たち自身が楽しいと思っていないと、部活に参加させても長続きはしないでしょうね」

 

 

 自分にはどうでも良い事だと集中を高める事に専念していた三浦だが、自身の名前が出て来た事に驚く。それは観客たちも同様で、ざわめきが一段と大きくなった。

 

 

「この試合を観ている人達に問い掛けたいのだけれど、あなたたちはこの試合を観て、自分も体を動かしたいと思わないかしら?楽しそうにプレイしている三浦さんを見て、羨ましいと思わないのかしら?」

 

「……そうだな。正直に言って俺も、今すぐ柔道をしたいと思ってうずうずしている部分はあるな」

 

「なら、問題は無いじゃない。自分が嫌な事を他人に強制するのは良くないけれど、自分が楽しいと思う事に他人を誘うのは、それほど悪い事ではないと思うわ。……ちなみに、戸塚くんはどうかしら?」

 

「うん。ぼくも今すぐにでもテニスがしたいと思ってるよ。できれば、部員のみんなと一緒に」

 

「あのな、戸塚。お前って、ちゃんと部員に練習に参加して欲しいって頼んだのか?」

 

 

 戸塚の可愛さのあまり、思わず口を挟んでしまった八幡であった。怪訝そうな顔をする雪ノ下の視線を何とかやり過ごして、彼は戸塚と話を続ける。

 

 

「ぼく、他の人にお願いするのが苦手だから……。みんなすぐ顔を赤くして逃げちゃうから、ちゃんと説得した事って実はないんだ」

 

「なら簡単だ。ちゃんと真正面から『部活に参加してくれ』ってお願いしてみろ。戸塚にそこまで言われて、断れる奴が居るとは思えねーよ」

 

「うん、分かった。あのビラみたいな可愛い感じにはできないと思うけど、男の子らしく真剣にお願いしてみるね」

 

 

 男らしく潔くお願いする戸塚の姿が全く想像できない一同ではあったが、どうやら図らずして彼の依頼は片付いた模様である。練習方法を巡る対立もそれほど根が深かったわけではなく、試合の結果がどうあれ妥協点は見出せるだろう。男らしさって一体どんなことだろう?と分からなくなって来た観客たちは各自で正気に戻ってもらうとして、後は勝負を決するだけである。

 

 

「さて。随分と回復する時間をもらった事だし、このゲームは貴女たちのブレイク扱いで良いわ」

 

「は?何を言い出すし」

 

「私達のブレイクも、この世界のシステムを利用した不意打ちみたいなものだったし。これでお互いに貸し借りなしにしたいのだけれど」

 

「別に貸しがあるとは思ってないし。でも、それで満足すんならあーしは別にどっちでもいいから、早く試合を再開するし」

 

「あら。テニスをする楽しさにかまけていると、勝負に負けてしまうわよ?」

 

「雪ノ下。そういう話なら、昼休みも残り時間が少なくなって来たし、6-6は引き分け扱いでどうだろう?つまり、どういう展開になっても残り二ゲームで終了だ」

 

 

 盛り上がっている二人の女王に立会人が口を挟む。優美子としてはこのまま延々とテニスを続けたい気分ではあったが、午後の授業の事を言われると反論できない。雪乃にも特に異論はなく、こうして彼らのテニス対決は残り二ゲームの勝負となった。

 

 

***

 

 

 第十一ゲーム。葉山のサーブで試合が再開するが、この試合を通して何かコツを掴んだのか、八幡はそれを見事に打ち返す。リターンエース。先程の戸塚への助言といい、雪ノ下の下僕としか認識していなかったが奴は何者だと、観客からはそんな戸惑いの声が挙がっていた。

 

 ところで、ここまで雪乃への歓声は三浦や葉山へのそれと引けを取らない量だったのだが、後者の二人と違って気軽に名前を呼びにくい雰囲気ゆえに、言葉にならない歓声が主だった。しかし、観客席には、人知れず世論を操作する謎の男が存在したのである。

 

 

「かの御仁、雪ノ下雪乃嬢の名前を呼び捨てにできる、千載一遇の機会であるぞ。者ども、一層奮励努力せよ!」

 

 

 何やら芝居がかった発言に促されて、観客席のあちらこちらから雪乃コールが巻き起こる。それに対抗するかのように三浦コールも、そして特別席を発端にHA・YA・TOコールも盛り上がりを見せる。観客の興奮は最高潮に達し、そして八幡への関心は即座に忘れられたのであった。彼が材木座に感謝をしたのか恨んだのか、おそらくは「うざい」と思ったのが正解なのだろう。

 

 

 ここに来て、雪ノ下ペアの役割分担は明確になった。雪乃がフォローして八幡が決める。全ての指示は雪乃が出し、時には相手の動きを先読みして八幡を適切に動かす。三浦ペアに弱点があるとすれば、それは彼女らがダブルスに精通していない事である。三浦は中学時代にシングルスに専念して、ダブルスの知識を得る時間があるならシングルスの研究をしたいとまで思って過ごしてきた。勝負が決まってからも、ダブルスとしての練習よりも各々の技量を磨く事が主だったのである。

 

 雪乃の指示に従って、前衛と後衛が連動して相手の隙を作る。時に陣形を大きく変化させ、時にはオーソドックスに相手のサーブを受け止める。奉仕部の部室で二日間に亘って行われた練習の成果を存分に発揮して、二人はこのゲームのブレイクを果たした。ゲームカウント5-6。次はいよいよ最終ゲームである。しかし、雪乃には再び疲労の色が出始めていた。

 

 

***

 

 

 最終の第十二ゲーム。たとえ勝ちはなくなったとしても、大人しく負けを認める気などさらさらない三浦と葉山は、全力で雪ノ下ペアの前に立ち塞がる。このゲームをブレイクすれば、試合は引き分けで終われるのだ。

 

 八幡のサーブを葉山が返し、ボールは雪乃へと向かう。もうこれ以上、試合中に疲労困憊に陥るわけにはいかない彼女は、手加減をして打ち返すのがやっとだった。もはや八幡に指示を出せるほどの余裕も無い。チャンスボールを三浦が綺麗に決めて、0-15。

 

 

 ここに至って、八幡は覚悟を決める。前もって打ち合わせをしていた通りではあったが、正直ここまで追い込まれるとは予想していなかった。雪ノ下に合図を送り了承を得た事で、彼は自分が主役として振る舞うという、最後の手を打つのであった。

 

 勝負が決まった際の取り決めで、お互いの練習時間は昼休みと放課後に限定された。だが、体を動かす練習はできなくとも、他の時間にやれる事はある。それはテニスの知識を蓄える事であった。八幡はこの二日間、ぼっちとして過ごす時間を全て、過去のダブルスの試合を動画で観戦する事と、図書室にあったテニスの戦術書を読破する事に費やしたのだ。目標は、いざという時に雪ノ下に指示を出せる域である。その成果が今、試される。

 

 

 少しだけ時間を置いて、再び八幡がサーブを放ち、それを三浦が打ち返す。しかしそれは、八幡がサーブの前に雪ノ下に指示していた通りの方向だった。最小限の動きで雪乃が確実に決めて、15-15。

 

 八幡の三度目のサーブを葉山が打ち返す。彼ら二人のラリーという特別席の少女を興奮させ続けた展開は、あまり目立った動きをしていなかった前衛が突然動いた事で呆気なく途切れる。雪ノ下に指示を出しながら、葉山に勝負を誘うようなボールを八幡は打つ。それを正面から打ち返した瞬間、葉山の視界は雪乃の動きを捉えた。必死にラケットを伸ばす三浦も届かず、これで30-15。

 

 

 いつしか歓声は止み、辺りには不自然なまでの静けさが漂っていた。もうすぐ昼休みが終わる。コートにボールを打ち付けながら、八幡はただ耳を澄ませて、その音を聞き漏らさぬよう集中する。ひゅうっ、という音を耳にした瞬間、彼は力を抜いて、ゆるやかなサーブを打った。

 

 ふわふわと浮かび上がる打球に一瞬戸惑った相手ペアだが、このチャンスを逃す手はないと三浦が果敢に前進する。地面に着いて自分に向かってバウンドして来るボールにラケットを合わせる三浦を見て、彼らがポイントを得るのは確定的かと観客の誰もが思った。

 

 しかしその時、一陣の風が吹いた。この特殊な潮風の事を、八幡以外の誰が知るだろう。ぼっちとして昼休みに独り外で食事を摂る事を余儀なくされ、そんな彼だからこそ気付けたこの風の事を。風に煽られたボールは三浦から離れていくが、彼女にも意地がある。こんなサーブを決められるわけにはいかない。

 

 だがその時、またしても風が吹いた。この風が二度吹く事など、一体誰が気付けるというのだろう。八幡が過ごした孤独で静謐な時間こそが、それを可能にしたのである。ボールは三浦のラケットから逃げて、そしてコートの隅へと転がって行った。40-15。マッチポイントである。

 

 

「そういえば、聞いた事がある……。風を意のままに操る伝説の技。その名も『風を継ぐ者・風精悪戯(オイレン・シルフィード)』!!」

 

 

 観客席からの謎の声に、辺り一面はお祭り騒ぎとなる。「風精悪戯(オイレン・シルフィード)?」「風精悪戯(オイレン・シルフィード)!」と盛り上がる観客を尻目に、次のサーブへと集中する八幡。次第に歓声は収まって行き、辺りは再び静けさが支配した。

 

 

 八幡は知っている。昼休みが始まった時には海からの潮風が強く吹いているが、昼休みが終わる頃には、その風は陸から海へと方向を変える事を。先程の小さな風を先駆けにして、急に強い風が吹き始める事を。彼はそれを最後の手段として活かすべく、奉仕部の部室で追い風に煽られる状況でのサーブを練習していたのである。今こそ、それを披露する時だ。

 

 しかし、八幡の精神力は既に限界であった。ずっと日陰者だった彼が、こんな大舞台で勝負を決める一打を打つのである。ワールドカップの決勝で最後のPKに向かう選手もかくやと思われるほどの重圧が、彼の内心に伸し掛かる。しきりにボールを付いて落ち着こうとするものの、彼の手は震えたままだ。そんな彼の耳に、最近聞き慣れた声が届く。

 

 

「ヒッキー!頑張れー!」

「……比企谷くん。屍は拾ってあげるから安心なさい」

 

 

 声を上げた二人の少女と順に視線を合わせて、彼は平静に戻る。もはや彼の耳には何も聞こえない。付近の静寂に自らも同化したような心持ちで、彼は静かに風を感じた。そしてそれに合わせて、自然な動きでサーブを開始する。自身の力を込めた打球を、背後からの風に乗せる。ただそれだけを考えて。

 

 流れるような動作でサーブが放たれると同時に、強烈な向かい風が巻き起こった。葉山は思わず目を瞑ってしまうが、仮に目を開けていたとしてもこのサーブには反応できなかっただろう。凄まじい速さのサーブが彼の横を通り抜け、そして去って行った。サービスエース。

 

 

「あ、あれは……『空駆けし破壊神・隕鉄滅殺(メテオストライク)』!!」

 

 

 またもや観客席から妙な声が響き渡り、辺りは絶叫の渦に巻き込まれた。すぐに雪ノ下を讃える雪乃コールが始まって、観客の意識は試合を決めた男子生徒から逸れてしまう。しかし、この試合を決めたのは、紛れもなく彼なのだ。

 

 

「ゲームカウント5-7で、雪ノ下ペアの勝利です」

 

 

 立会人によって静かにさせられた観客達は、主審の宣言がなされると同時に再び盛り上がる。全てを出し尽くした八幡は、それを他人事のようにぼんやりと眺めるのであった。

 




次回の木曜日の更新で、原作一巻分のお話は終了です。
一旦「連載完結」として、少しお休みを頂いてから、再びこの作品を定期的に更新したいと考えています。
宜しければ、二巻以降もお付き合い頂けますと嬉しいです。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
テレビの表記に従って、ポイント表示でも常に、試合の最初にサーブを行った側を先にして書いたのですが。先程ウィンブルドンの男子シングルス決勝のアナウンスを聞いていて、やはりサーブ側を先に書くべきか悩んでいます。もし詳しい方が居られましたら、教えて頂けると嬉しいです。(7/11)→ポイント表示を、サーブ側を先に書くよう変更しました。(8/13)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/12,9/20)
誤字報告を頂いて、自力→地力に修正しました。ありがとうございます!(2017/10/16)


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21.俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。

今回で原作1巻部分は終了です。
ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。



 観客席からの拍手と歓声が鳴り止まぬ中、試合を終えた選手達はコートの中央で健闘を称え合っていた。既に試合が終わったのでコート内に存在した種々の設定は解除されており、選手達の会話が観客に聞かれる事はない。

 

 

「今日はあーしの負けだし」

 

「あら、意外と素直なのね。とはいえ私も、勝ったという気分ではないのだけれど」

 

「内容も結果も、そっちの勝ちだし。あーし達は、奉仕部の二人に負けたんだし」

 

「……そうね。私一人では勝てなかったと思うわ。ただ、どうせなら奉仕部の三人と助っ人の二人に負けたと言って欲しいわね」

 

 

 もともと険悪な関係ではなかった二人の少女は、力を尽くした勝負を終えた事で一段と気安い関係になったように見える。三浦優美子がこれほど素直に負けを認めるのも、雪ノ下雪乃が勝った気がしないと本音をあっさり吐露するのも、お互いを親密な仲だと認めている証拠だろう。

 

 

「戸塚も、あの変なのも、なかなかやるじゃん。あいつらと奉仕部の三人がそれぞれの長所を出し合って、チームとしてまとまったのが勝因だし?」

 

「ええ。実際に試合をしたのは私と比企谷くんだけれど、あの変わった人も含めて五人による勝利と言えるでしょうね」

 

「ダブルスの奥の深さを味わったし。あーし達は別々にテニスのスキルを上げる事に集中してて、連携とか考えてなかったし。てか、それで充分勝てると思ってたし」

 

「私達はそれでは勝てない状況だったから、色々と策を練っただけよ。それに、試合中の比企谷くんの上達ぶりも予想以上だったし、色んな偶然が良い方向に作用しただけだわ」

 

「でもやっぱり、あーしとしては()()に負けたって気持ちが強いし」

 

 

 三浦の指摘は感傷的なものではなく、本質を突いている。確かに試合の最後の場面では比企谷八幡が指揮を執って勝利の立役者となったが、そこに至るまでの展開も含めて全ての戦略は雪乃が決めた事である。二人は彼女が作った設計図に従って練習を行い試合を戦い、最後になって現場の責任者が交替したものの、それとて想定内の一手であった。

 

 だがそれは、他の四人の貢献度が劣るという意味ではない。各々に合った役割分担の結果、雪乃が果たす役割が事の根幹に当たるものだっただけの話で、戸塚彩加のテニスの知識や材木座義輝の煽りの技が無ければそれだけで敗北は濃厚になっていただろう。

 

 そんな事を考えながら、雪乃は目の前の友人の呼び掛けに答えるべく、口を開く。決して照れる事なく、あっさりと何でもない事のように名前を呼ぶのだと気合いを入れて。

 

 

「ゆ……み浦さんに、再戦の意志があるのなら私も返り討ちにできるよう練習しないといけないわね」

 

「無理して名前で呼ばなくていいし。それに雪乃が照れたら可愛いのは結衣から聞いて知ってるし」

 

「な、何を言い出すのかしら。だいたい貴女は由比ヶ浜さんの言葉を鵜呑みにしすぎではないかしら?」

 

 

 名前で呼ぶ事は、雪乃にはまだハードルが高すぎた模様である。話の流れで悪く言われる由比ヶ浜結衣には気の毒な事だが、仮にこの場に彼女が居たら話の内容に頓着せず嬉しそうに雪乃に抱き付いているだろうから、特に問題は無いだろう。

 

 

「結衣が自信を持って口にした事は信頼できるし。雪乃も、結衣の長所をよく知ってるはずだし」

 

「……そうね。先程の最後のサーブの直前、比企谷くんに声を掛けるタイミングも完璧だったものね。そう考えると、貴女たちは由比ヶ浜さんが敵に回ったから負けてしまったのかもしれないわね」

 

「あと、姫菜が趣味に走り過ぎだったのも予想外だったし」

 

 

 何やら話が愚痴めいて来たが、そこに居るのは敵同士でもなければ女王同士でもなく、普通に仲の良い女子生徒二人であり、彼女らの顔には共に笑顔が浮かんでいたのであった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、女王二人の公式会見を邪魔してはならぬと三歩下がって横の方に控えていた八幡は、親しげな笑顔を浮かべる対戦相手が近付いて来た事で平穏を乱されご機嫌斜めであった。体力を随分と消耗したので、精神的な余裕があまり無いのである。しかし葉山隼人には嫌そうな顔も通用せず、彼らもまた会話を始める事になった。会話が始まった直後に特別席で何が起きたのかは、もはや()裸々に心()を注いで語るまでもなく明白であろう。

 

 

「ヒキタニくん、今日は完璧にやられたよ。試合が始まった時はテニスのスキルは同じぐらいだったと思うんだけど、試合中に引き離された気がする。俺達の完敗だ」

 

「あー……。なんてか、運が良かったんじゃねーの。お前らの実力が凄かったから、とにかく必死でやってただけだ」

 

「試合中にあれだけ成長するなんて俺には無理だよ。君にちゃんとした下地ができていたからだし、雪ノ下さんの指導も適切だったんだろうな」

 

「お、おう」

 

「俺達は、お互いのテニスのスキルを上げる事を第一に考えて練習したんだけど。雪ノ下さんは君を育てる事を考えて、そしてダブルスとしてどう戦うかも考えて練習メニューを組んだんだろ?」

 

「あ、ああ」

 

「それを考えると、勝負の結果に加えて、戸塚の練習に協力するのは雪ノ下さんの方が相応しいって事も内容で証明したんだよな。……本当に、彼女は凄いな」

 

「そ、そうだな」

 

「かなり観客も盛り上がってたから、各クラブに活気が戻る切っ掛けになるだろうし。この世界に捕われて後ろ向きになりがちだった生徒達の意識も変わってくれたらいいな」

 

「そうだな」

 

 

 彼のような捻くれぼっちにすら親しげに話し掛ける葉山に対して、最初は斜に構えて応対したものの次第に圧倒されて、すぐに相鎚しか打てなくなった八幡であった。しかし彼は、リア充のコミュニケーション能力にたじたじになりながらも、話の内容を聞き漏らす事はなかった。雪ノ下が試合に備えて組み立てた戦略も、彼女が何を考えてそれを準備したのかも全て見破った上で、こんな風に話し掛けられる葉山という男子生徒に、彼は何か薄ら寒いものを覚えた。

 

 しかし一方で、彼が最後に発言した内容には少し感心させられもした。リア充の座にふんぞり返っているだけで何の役にも立たない連中が多かった小中学生時代と違って、目の前の男は、周囲を見渡してそこにある問題が解決される事を願うだけの観察力と素直さとを持っている。問題解決能力という点では雪ノ下に遠く及ばないのだろうが、それは比べる対象が間違っているだけだ。自分よりも余程多くの人を救えるのであろう葉山という同級生を、八幡は以前と変わらず疎ましく、しかし同時に少しだけ羨ましく思いながら眺めるのであった。

 

 

***

 

 

「あ〜!葉山先輩〜。試合が終わったんなら、部活の方に来てくださいよ〜」

 

 

 その時、不意に観客席から、辺りの熱狂に全くそぐわない間延びした声がコート内の人物へと掛けられた。本人が言う通り、部活をしているからだろう。ピンクのジャージを着た亜麻色セミロングの女子生徒が、周りの雰囲気を完全に無視して葉山の方へと歩いて行く。周囲の観衆を全く気にせずコートへ降りて行こうとする少女の姿に、珍しく葉山が動揺を見せる。

 

 

「い、いろは……」

 

「やっぱり葉山先輩が居ないと、一年だけでは、まとまらないんですよ〜」

 

 

 そう言いながらコートに降り立ち、葉山のテニスウェアの半袖をちょこんと掴む。葉山と向かい合って話していた八幡に、まあ一応ねという程度の微笑みを送った後で、彼女は葉山を確保したまま連行する気配を見せていた。ふんわりほわほわ系美少女の予期せぬ登場に、八幡の警戒心は最大限まで上がっている。どこからどう観察しても、危険な匂いしかしない。特別席にいた面々もコート内に降りては来たものの、困惑の空気が辺りを支配していた。

 

 

「えと、一色ちゃんだよね?一年でサッカー部のマネージャーの」

 

「あ、由比ヶ浜先輩。こんにちはです〜。葉山先輩を連れて行きますね〜」

 

 

 一色いろは(いっしきいろは)という固有名詞を葉山と由比ヶ浜の発言から突き止めて、八幡は彼女を要注意人物リストの上位グループに追加する。あの手の女子生徒が彼に興味を抱くとは到底思えないが、もしも何かの偶然が重なって彼女と関わりを持つ羽目になったら、悲惨な目に遭う未来しか想像できない。告白していないのに振られるという因果律を完全に無視した状況にすら陥りかねない。八幡はそう考えて、いつでも逃げられる体勢で通りすがりの一般人を装いながら、事態の成り行きを見守るのであった。

 

 

「わりー、いろはす……」

 

「あ、葉山先輩だけで大丈夫ですよ〜」

 

 

 葉山グループの男子生徒の一人が彼女に話し掛けようとするも、にっこりとお淑やかな表情を浮かべる彼女に完全に機先を制せられて撃沈した。彼女の振る舞いはまるでお姫様の我が儘のようで、多少の格差はあっても等しく平民に過ぎぬ彼らには、それを止める事はできない。姫の御乱行に対抗できるのは、この場では女王のみである。

 

 

「ねぇ、あんさー。今は隼人、忙しいんだし?」

 

「え〜?でも、部活も大変ですしぃ〜」

 

「は?」

 

「まぁ……、二人とも落ち着いて」

 

 

 女王の声音は聞く者の耳を火傷させるような激しさを秘めていた。しかし姫が相手では、一般人に対する程の効果は得られない模様である。激しい炎をそよそよとした風で受け流すかのような応対を見て、三浦は灼熱の炎を纏った言葉を浴びせるべく意識を彼女に集中する。さすがにまずいと冷や汗をかきながら、葉山が二人の間に入った。

 

 彼が三浦を宥めている間、一色は葉山の後ろに隠れてテニスウェアの背中の辺りをちんまりと握ってびくびくしている。どこかわざとらしい小動物的なその仕草は三浦の神経を逆撫でして、彼女は深く息を吐き出してから葉山に向けて話し掛ける。

 

 

「あんさ。隼人はサッカー部の一年のところに行っていいよ。あーしはこの子と、ちょっと話があるし」

 

「え?」

 

「サッカー部のほうも頑張ってね」

 

 

 彼女の意外な言葉に呆気にとられる葉山を尻目に、普段は素っ気ない口調の彼女が、語尾に音符かハートマークでも付いているかのような感情のこもった言葉を葉山に告げる。極上の笑顔を浮かべたまま一色をずるずると引き摺っていく女王には、擬態をする余裕が失われつつある姫の「はやませんぱーい」という悲鳴も聞こえない。さすがにそれを放っておくわけにもいかず、葉山も二人を追ってコートを去った。

 

 

***

 

 

 主役のうち二人が姿を消した事で、観客達の気持ちも撤収モードに傾いた。平塚静教諭が他の教師達を説得してくれた結果、昼休みは普段よりも三十分延長になっている。先程の試合の事を振り返ってがやがやとお喋りをしながら、観客の生徒達もまた三々五々、教室へと帰って行った。

 

 審判を務めてくれた女子テニス部の面々も、葉山グループの男子生徒達も、簡単な別れの言葉を交わして先にコートを去った。残っている生徒が居ない事を確認して観客席を解除した平塚先生も、職員室へと戻って行った。後に残ったのは奉仕部の三人と戸塚と材木座、そして疲労困憊で伏せっている海老名姫菜だけである。イベントが終わった後の物悲しい雰囲気の中、誰もが口を開くのを躊躇していたが、やはり真っ先に耐えきれなくなったのは彼だった。

 

 

「八幡、よくやった。さすがは我が相棒よ。だが貴様とは、雌雄を決せざるを得ない日がいずれ来るやもしれぬな」

 

 

 そう呟いた彼は、八幡の返事が期待できない事など百も承知なのだろう。他の面々が気付いた時には既に彼の姿は無かった。彼もまた、このイベントを通して何かの能力に目覚めてしまったのかもしれない。戸惑いと苛立ちの気持ちを何にぶつけようかと残された者達が思案していると、可愛らしいソプラノの声が発せられた。

 

 

「比企谷くん、由比ヶ浜さん。それから雪ノ下さん。ぼくの依頼を叶えてくれて、ありがと」

 

「俺は別になんもしてねーよ」

 

 

 疲れた体に染み渡る戸塚の声に、八幡はそう答えるのがやっとだった。恥ずかしくてこちらも目を逸らしているのだが、視界の端では照れたように目を逸らす戸塚の姿を捉えている。性別など関係なく、可愛らしいものを思い切り抱きしめたいと思う気持ちに必死に抗いながら、八幡は部活仲間の言葉に耳を傾ける。

 

 

「そうね、私も大した事はしていないわ。戸塚くんが自分で解決したのだから、自信を持って部員たちに接したら良いと思うわ」

 

「あたしも全然さいちゃんの役に立てなかったけど、解決できて良かったね。お互いに部活、頑張ろうねっ」

 

 

 そして、残っていた者達もそれぞれの帰路に就いた。雪乃と結衣は姫菜の両脇から肩を貸して校舎に向けて去って行った。戸塚は今すぐにでも部員と話をしたいと言って、一年の教室へ向けて歩いて行った。残された八幡は、テニスコートでしばし孤独に浸る。先程まで多くの生徒が視線を送る中でテニスをしていたのが嘘のようだ。

 

 彼はテニスコートに大の字になって寝転んで、中空を眺める。太陽の光を程よく雲が和らげて、とても穏やかでぽかぽかした暖かみに包まれている。彼の人生において、これほどまでに祝福された日が今までにあっただろうか。いや、今は何も考えまい。頭をぽっかり空にして過ごすのも、たまには許されるだろう。彼はそう決めて、しばしの時を過ごした。

 

 

***

 

 

 気付いた時には寝過ごしてしまったかと焦ったが、実際には数分も経っていなかった。八幡はゆっくりと立ち上がって、校舎に向けて歩いて行く。昼食がまだだがどうしたものかと考えて、彼はふと奉仕部の部室でも配膳を受けられる事に気付いた。当初は職員室にて鍵を借りる必要があったが、今は部員として登録してあれば自由に部室に出入りできる。

 

 特別棟の廊下をゆっくり歩いて、彼は目的の教室へと辿り着く。いつの間にか、このルートにもすっかり慣れてしまった。少しだけ感傷に浸りながら、彼はおもむろに扉を開いた。中に人が居る可能性を全く考えず、ノックもしないで。

 

 

 扉を開けながら教室の中に足を踏み入れた八幡の目の前では、二人の女子生徒が着替えの真っ最中だった。一人はブラウスの前がはだけ、控えめな胸部には薄いライムグリーンの下着がちらついている。もう一人はボタンを下から留める途中だったらしく、胸元が大きく開いてピンクの下着と谷間が覗いている。居たたまれなくなって下方へと視線を避難させると、更に悪い事に二人とも下着しか履いていない。共に上下お揃いの下着から伸びるふとももは甲乙付けがたく、健康的ですらりとしていて、足の先は紺ハイで包まれている。

 

 

「な、なななな」

 

「す、すまん!」

 

 

 突然の事態に三者とも固まっていたが、いち早く再起動した由比ヶ浜の奇声によって我に返った八幡は、慌てて廊下に出て扉を閉める。一応は謝罪の言葉を投げておいたものの、それが何の役にも立たない事は明白である。先日のお尻といいパンチラといい、どうして最近の俺はこんなラブコメ展開に巻き込まれるんだ?と、嬉しさよりも厄介さが先に立った気持ちを必死で抑えながら、彼は大きく息を吐いて扉を背にずるずると座り込むのであった。

 

 

 程なくして扉が内側から開き、彼は無言で教室内へと手招きされる。生きた心地がしなかったが、なるようにしかならないと諦めて、彼はいつもの席に着いた。教室の隅では幸せそうな腐った笑顔を浮かべたまま、ベッドに女子生徒が寝かされていた。あの横に、俺は恐怖に引き攣った表情を浮かべたまま寝かされる事になるのだろうか。そう脅える八幡だったが、意外な事に女子生徒二人の風当たりはそれほど厳しいものではなかった。

 

 

「貴方が来るとは思っていなくて……。外から開けられない鍵を掛ける事もできたのに、それをせず着替えをしていた私達にも非はあるのだから、先程の記憶を直ちに完璧に抹消してくれれば不問にするわ。それとも、覗き魔谷くんとか窃視谷くんと呼ばれる方をお望みかしら?」

 

「はあ……。分かったよ。お互い何も見なかったし見られなかった。これでいいな?」

 

「……で、でもさ。完璧に無かった事になっちゃうのも、それはそれで寂しい気もするっていうか、さ……」

 

 

 物理的なペナルティこそ無かったものの、なかなかに厳しい事を言う部長様であった。一方で、もう一人の部員は何やら小声でよく分からない事を呟いている。だが、どうせ俺の事を呪詛する言葉だろうと勝手に解釈して、八幡はそれを気にしない事にした。

 

 彼女らの説明によると、選手として参加できなかった由比ヶ浜が、せめて記念写真を一緒に撮りたいと言い出したのが原因らしい。お揃いのテニスウェアに着替えて撮影を終えて、再び制服に着替えていたさなかに彼が部室を訪れたのだ。彼もまた部室に来た理由を説明して、それに納得する女子生徒二人。少しだけ悩む素振りを見せた後で、結衣が少しおどおどしながら口を開く。

 

 

「じゃ、じゃあさ。あたし達もまだ食べてないから、三人でここで一緒に食べるとかどう、かな?」

 

「あー。……すまん。さっきの記憶は完璧に消去したんだが、まだちょっと恥ずかしいんだわ。一緒に食べるのは、また、いずれ、そのうちって事にしてくれると助かるんだが」

 

「そ、そうね。記憶を抹消したという言葉は信じてあげるとして、一緒に食べるのはまた、今度ね」

 

 

 珍しくあまり余裕のなさそうな声で雪乃が決定を下す。しかし考えてみれば、最近の彼女は切羽詰まった様子を見せる事も少なくなかった。学年一の才女だから物事に動じないとか勝手なイメージを押し付けていたが、共に時間を過ごしてみると違った部分が色々と見えてくるものである。

 

 八幡はそんな事を考えながら、外に持ち出せるメニューを選ぶ。「んじゃまた、放課後な」とだけ告げて、彼は恥ずかしい気持ちを何とか隠そうとしながら部室を出た。彼の羞恥心が二人の少女にバレバレだった事は言うまでもない。

 

 

***

 

 

 昼食を食べ慣れた場所へと戻って来て、八幡はゆっくりと腰を下ろしてパンをもしゃもしゃと食べ始める。先程は記憶から抹消すると言ったものの、彼女らの姿が刺激的過ぎて消えてくれる気配がない。この世界に閉じ込められてから、俺の日常はどうなってしまったんだろう?と彼は考える。かつてのぼっちの自分は何処に行ってしまったのだろう。

 

 

 この世界とは、いったい何なのだろうか?もちろん今いる世界は仮想のものだが、しかしここには現実に生きている人達が存在している。俺だってそうだし、あいつら二人だってそうだ。じゃあ、そんな生きた人間が過ごすこの世界は、完全に虚構とは言い切れないではないか。

 

 八幡は幾つかの対義語を思い浮かべる。例えば、original(本物・独創品)とreplica(偽物・複製品)。例えば、real(現実)とvirtual(仮想)。例えば、true(真)とfalse(偽)。

 

 この世界に閉じ込められて皆が閉塞感に苦しんでいた時、生徒会長の演説があった。彼女の言葉を聴きながら、本物と偽物について少しだけ考えた事を彼は思い出す。内容にあまり違いは無いと思えるのに、片や人の心に訴えかける作品があり、片や胡散臭いとしか思えない作品がある。もしかすると両者を隔てる基準は従来考えていたよりもずっと曖昧で、そして時と場合によって大きく揺らいでしまうものなのかもしれない。

 

 

 今のところ、この世界に巻き込まれた事は彼にとって良い方向へと働いている。いや、彼だけではない。クッキー作りを経て、落ち着きと強さを得たように思える由比ヶ浜も。作品の出来映えは酷いものだったが、やるべき道を見付け、そして彼ならではの特殊な技能に目覚めつつある材木座も。戸塚だって、生来の可愛らしさに加えて勇気を出すような発言が増えた。本人が目指す男らしさに至る事はないのかもしれないが、以前と比べれば彼も変わったのだ。そして、雪ノ下雪乃。

 

 彼女だって、現実の世界では周囲から浮いた存在だったのが、今では同性の友達が何人もいる。あくまでも部長と部員という間柄ではあるが、俺との仲も険悪なものではない。こんな世界に閉じ込められた己の不運を嘆いていたが、物事の見方を変えれば良い変化も少なくなかった。

 

 

 彼はふと、自分が物語の主人公になったような気持ちがした。これでは材木座の事を悪く言えない。自分もまだ完治していなかったのかと自嘲しながらも、彼は自分が主人公を務める作品のタイトルを、思わず口ずさまずにはいられなかった。

 

 

“My youth romantic comedy has been changing in this world.”

 

 

 普通に日本語のタイトルではなく、英語で名付けてしまう辺りに彼の闇の深さがある。しかし、それでも良いじゃないかと彼は思う。現在完了進行形は日本語に訳したら野暮ったい言い回しになりがちだが、端的に言うとこんな感じだろうか。

 

 

「俺の青春ラブコメはこの世界で変わりはじめる。」

 

 

 うん、何と言うか俺には全く似合わない。そう思いながらも、彼は悪い気持ちもしなかった。ずっとぼっちとして生きてきた彼が、これほど知人や状況に恵まれ祝福された一日を送れるなどと、想像すらできなかった。しかし今日は紛れもなく現実の一日なのだ。

 

 

 彼は未だ自分の能力を把握できていない。あくまでも世界が変わった事が原因で今の変化が起きているのだと思っている。しかし、我々は知っている。仮にこの世界に巻き込まれなかったとしても、間違っていながらも素敵な青春ラブコメに遭遇する未来が彼を待っていた事を。その未来を導くのは彼自身の才知であり、その殆どは彼がぼっちの時間に育んだものなのだ。

 

 

 うららかな春の日差しが彼の身体をくまなく照らし、少し火照った身体を海へと向かう風が優しく癒やす。どこまでも続く平和な空を眺めながら、比企谷八幡は満ち足りた気持ちに包まれて、食後の時間を過ごすのだった。

 

 

 

 原作1巻、了。

 




その1.テニス編について。
 本編は原作7.5巻収録の柔道大会編の要素を加味しています。その理由は柔道部の先輩がこの世界に来られない為、部員の復帰という目的が共通している為、そして世界設定の関係から盛り上がるイベントを必要としていた為です。


その2.原作1巻部分について。
 最初の書き出しと最後のシーンが思い浮かんだ事で、この作品を書き始めました。今から振り返ると各話の構成や物語の設定など修正すべき点も多々あるかと思いますが、私の能力ではより良いものに改訂できる気がしないので、このままの形にしておきます。これが私の全力であり限界でもあると理解して頂ければ幸いです。


その3.今後について。
 前回の後書きに書いた通り、少しお休みを頂いてからまた再開する予定です。幕間の数話を挟んでから二巻に突入する構成になります。再開は1ヶ月後の8/14(日)を予定していますが、場合によっては早まるかもしれません。


その4.作品へのご意見や評価について。
 もし本作を読んで何か思う事がありましたら、感想でも評価のついででもメッセージでも構いませんので、お気軽にお知らせ頂けると嬉しいです。良かった点を教えて頂けると嬉しいですし、気になった点や悪かった点を教えて貰えるとそれ以上に喜びます。評価については、付けて頂いた点数を謙虚に受け止め今後の参考にしますので、作品全体を通した率直な印象をそのまま点数として教えて下さると助かります。


その5.謝辞。
 当初の目標通りに原作1巻末までの部分を無事完結できたのは、ひとえに作品を読んで下さる読者様のお陰です。私の拙い物語が、更新後1時間で数百、1回の更新ごとに千数百のUAを頂けるとは、改めて考えると凄い事だなと思います。本当にありがとうございました。

 具体的なお名前は省略させて頂きますが、本作をお気に入りに加えて下さった方々、本作に評価を下さった方々、本作に感想を下さった方々と、その中でも繰り返し感想を書いて下さったお三方、そして作品の構想を聞いて投稿を後押ししてくれた大切な友人に心からの感謝を込めて、ひとまずの結びとさせて頂きます。



追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/16,8/12)


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幕間
01.こうして初めての外出が行われる。


お久しぶりです。今回は1巻から2巻への橋渡し回の前編です。
設定の話が多くなりがちで少し重い話もあるお話ですが、ご了承ください。
それと、地の文が多い本作ですが、たまには気分を変えて会話だけで成立している箇所を設けてみました。率直なご感想を頂ければ幸いです。



 日曜日から月曜日に日付が変わった午前0時。総武高校を覆っていた目に見えぬ障壁は跡形もなく消え去って、学校外に足を踏み出す事が可能になった。しかし深夜という時間的な問題に加えて、大人が確認する前に生徒達を校外に出すわけにもいかない。ひとまずは教師達の権限によって、彼ら全員が許可しない限りは校舎の外に出られないように制限が掛けられた。

 

 夜が明けて月曜日が本格的に稼働を始めると、授業のない教師達は順番に外の世界へと偵察に向かった。帰校した彼らの感想は概ね同じ、「現実とほとんど変わらない」というものである。人通りが多かった場所では大勢のNPCが闊歩しており、驚く事に駅前のサイゼリ○など幾つかの店は営業中である。少なくとも学校周辺には危険がないという判断を前提に、昼休みの職員室で今後の方針が話し合われた。

 

 

 決定にあたっては、「学校外であれ、ゲーム側の世界に行かない限りは危険はない」という運営の保証を内外で得られた事も大きかった。つまり、この世界でも現実世界でも運営会社の言質が取れたのである。ファイル共有を利用した現実側とのやり取りは、最近では運営による検閲が入る事も少なくなり、極めて円滑に機能していた。

 

 運営の対応がこのように協力的なのは、この世界の状況がもはや一朝一夕には変化しないという事を意味する。教師陣にとっては痛し痒しの状態だが、生命の保証に勝るものはないと無理矢理に自分を納得させるしかない。

 

 そんな複雑な思いを抱える教師たちには腹立たしい事に、「この世界での飲み心地をゲストプレイヤーに体験して欲しい」という文言と共に、駅前のサイ○か現実では撤退したはずのスタ○で使えるクーポン券が、正午ちょうどに全ての教師と生徒宛に送られて来た。

 

 運営のお膳立てに乗るのは癪な話だが、生徒たちに学校外の世界も体験させておかないと、万が一この世界に何か急激な変化が生じた時に対応が遅れる可能性がある。何もかも彼らの掌の上で踊らされている感じがして気に入らないが、利用できるものは利用すべしとの意見が出て、ようやく放課後の方針が決定したのであった。

 

 

***

 

 

 この世界で過ごす事になって半月が過ぎ、生徒たちの大部分は新たな環境に慣れたように見える。先週末のテニス勝負というイベントのお陰もあって、校内の空気はそれほど重いものではない。今日から校外に出られるという環境の変化ですらも、若い生徒たちにとっては刺激にこそなれ、憂鬱に感じる者はほとんど居なかった。教師の気苦労など、彼らにとっては何ほどの意味もなさない。

 

 2年F組の教室でも、この日の授業を終えたと同時に生徒たちが各所で口を開き、外の世界についてあれこれ想像を働かせたり、出歩くルートを再確認したりと、騒々しい放課後の幕開けとなっていた。それはこのクラスのトップ・カーストたる彼女たちも例外ではない。

 

 

「スタ○にも惹かれるけど、ドリンクバーで色々と飲んでみたいし」

 

「じゃあ、順番に家の様子を見に行って、それから駅前のサイ○で男子と合流しよっか」

 

「もし男子だけで盛り上がってたら、合流しないで観察してた方が良いんじゃないかな?」

 

「お店の中だと、姫菜が期待するような事にはならないんじゃない?」

 

「ふーん。結衣ってば、私が何を期待してるのか分かるんだね」

 

「そ、それは……みんなで仲良く勉強してる、とか?」

 

「うんうん、まさか男子があんな事に興味を持って熱心に勉強してるだなんて、想像しただけで……」

 

「だから暴走すんなし」

 

 

 と思いきや、特に普段と変わらなかった模様である。三浦優美子が端的に希望を述べ、由比ヶ浜結衣が話をまとめる。それを海老名姫菜が混ぜ返しながら趣味へと走り、手遅れになる前に三浦がブレーキをかける。それぞれが役割を弁えつつも、お互いに遠慮のない仲良し3人娘の会話は、聞く者をほっこりさせる空気を醸し出していた。

 

 今日の放課後は学校行事の扱いで、要は近場への遠足である。生徒たちが各々この世界での自宅を確認して、配布されたクーポンでお茶を飲んで学校へと帰って来る。門限は7時だが、お茶の後にそのまま店で夕食を配膳してもらう事もできる。その場合は位置情報を添えて担任にメッセージを送ることで、門限が1時間延長される。

 

 

「でも、さ。せっかく外に遊びに行けるのに、門限があって学校に戻らないとダメって、小学生じゃないんだからなんとかして欲しいよなー」

 

「……多分みんなそう思ってるよな」

 

「マジ何とかしてくれないとやべーから。いやー、やばいでしょ!」

 

「まあ、何があるか分からないし、最初だから仕方ないのかもな。何もなければすぐに自由に動けるようになるさ」

 

 

葉山隼人を中心とした男子のトップ・カーストの面々も、会話の内容こそ校外への外出の話ではあるが、普段と同じようなテンションで会話をしていた。そんな彼らの会話を耳にして、由比ヶ浜が首を傾げながら葉山に話しかける。

 

「何があるか、って、例えば?」

 

「うーん、そうだな。例えば学校に戻って来ないで、ゲーム側の世界に行ってしまうとか」

 

「それって、簡単には行けないんじゃなかったっけ?」

 

「簡単じゃないけど、不可能でもないみたいだしね。それに、ゲームの世界に行く為の方法を探して外の世界をさまよう生徒も出て来るかもな」

 

「え、それってRPGっぽくない?やべーっしょ!」

 

「そんな連中のせいで自由に出歩けないのは面倒だし」

 

「まあ、校内の雰囲気を考えても、今の段階でそんな事をする生徒がいるとは思えないけどね。教師としては心配なんだろうな」

 

 

 話を盛り上げようとして滑ってしまった葉山グループの男子生徒には気の毒な展開だが、女王様のお言葉はすべてに優先するのである。話が一段落した形だが、話を振った由比ヶ浜は何やら思案顔になっていた。

 

 彼女らは3人のグループだが、門限の時間と全員の自宅を訪問する必要がある事とを考えると、グループの人数は最大で4人が限度だろうと言われていた。それは裏を返せば、もう1人なら空きがあるという事である。

 

 結衣は、おそらく単独行動を取るのであろう部活仲間の2人の事を考えていた。雪ノ下雪乃が突然暴走するとは考え難い。しかし、もう1人の男子生徒は、いきなり無茶な事を始めて彼女たちの前から姿を消してしまうかもしれない。実際にはその可能性は限りなく低いのだが、彼が黒塗りの車に向かって躊躇なく飛び出した場面を目の当たりにしている彼女としては、心配になるのも無理のない事だろう。

 

 

 彼を誘うべきかと悩む彼女の耳に、教師の声が届く。全校生徒が一斉に動くと混乱があるかもしれないので、3年生から順に規制退場という形になっていたのだが、ようやく彼女らのクラスに外出許可が出たのである。恥ずかしいから教室ではあまり話しかけるなと言われているが、この状況では致し方ない。そう考えて彼女は席を立ち、他の生徒たちが先を争って教室の外に出ようとするのを横目に席に座ったままの男子生徒に向けて、ゆっくりと歩いて行くのであった。

 

 

***

 

 

「ヒッキー」

 

「うお……どうした?あんまクラスで話しかけられると、他の連中に注目されるから嫌なんだが」

 

「今はみんな、外に出る事に夢中になってるから良いじゃん。あと、嫌とか言われるの嫌なんだけど」

 

「お前こそ嫌とか言ってるじゃねーか。自分が嫌な事を人にするってどういう事だよ」

 

「もう!今はヒッキーの屁理屈を聞きに来たんじゃないからね」

 

「お、おう。じゃあ何の用だよ?」

 

「あのね……もし良かったら、あたしたちと一緒に行かない?」

 

「は?いや、待て。男1人女3人で行動しろってか?それに誰かに見られたらどうすんだよ」

 

「だって……嫌?」

 

「あ、その。嫌じゃねーけど、なんだ。別に3人で行けば良いじゃねーか」

 

「嫌じゃないなら、一緒に行ってもいいじゃん」

 

「あー、あれだ。俺は自転車だから無理なんだわ」

 

「自転車を置いて、バスとかで行けば良いじゃん。ここだと無料で乗れるって言ってたよ」

 

「確かに高校周辺の交通機関は全て乗り放題とか言ってたけど、そういう話じゃねぇだろ」

 

「で、行くの?行かないの?」

 

「……勘弁してくれ。恥ずかしすぎて余裕で死ねるぞ」

 

「ヒッキー!冗談でも死ぬとか言っちゃダメだからね」

 

「解ったから。もう言わねーから、一緒に行くのは堪忍して下さい」

 

「むー。じゃあ、ちゃんと帰って来てね」

 

「おう。別に、どっか行ったり消えたりしねーよ」

 

「うん。じゃあ、自転車置き場までは一緒に行こ?」

 

「……はあ。お前らに続いて三歩後ろを歩くから、それで満足してくれ」

 

 

***

 

 

 自席から立ち上がる比企谷八幡に背を向けて、結衣は身振り手振りで親友2人に移動を提案する。あちらでも会話が一区切り付いていたのか、女子生徒2人と男子生徒4人もすぐに立ち上がり、総勢8名による臨時パーティーが結成された。

 

 先頭を歩くのはもちろん三浦であり、その傍らには海老名が控えている。本来ならば葉山もその近くにいるのが自然だが、今日の彼は三浦の近くに行くでもなし、男子グループの中央に位置するでもなし、なぜか徐々に後ろの方へと近付いて来た。怪訝そうな顔をする結衣と、あからさまに嫌そうな顔をする八幡に頓着せず、彼は2人に話しかけた。

 

 

「そういえば、結衣とヒキタニくんは同じ部活だったよね。普段はどんな感じで活動してるの?」

 

「うーん。依頼が来ない時は、適当にマニュアル読んだり、お茶したりかな」

 

「そっか。ヒキタニくんは結衣より先に入部してたよね。あっちだと、どんな風に過ごしてた?」

 

「俺が出たのは1回だけだからよく知らんけど、そん時は読書して終わったな。てか、なんでそんな事を聞くんだ?」

 

「なんでって言われると困るけどさ。何となく思いついた疑問を言ってみただけだよ」

 

「ほーん。まあ、最近はともかく依頼とか普通はそんなに来ないだろうし、読書が捗りそうな環境を想像してくれ」

 

「あれ、ヒキタニくんって読書好き?」

 

「あー、ラノベとか適当に読んでるだけだ。雪ノ下みたいにハードカバーとか新書とか読まねーし」

 

「でもヒッキー、課題図書はだいたい読んだって言ってなかったっけ?」

 

「まあ、だいたいな」

 

「へえ。じゃあ今度、小説の話に付き合ってくれないかな?俺も課題図書ならだいたい読んでるし、でも本の話ができる奴があんまりいないからさ」

 

「まあ、そのうちな」

 

 

 何だか妙な話になったものだと困惑する八幡だが、敢えて強く拒否する事もない。適当に話を合わせておけばそのうち忘れるだろうと考えて応対しているうちに、自転車置き場が近付いて来た。立ち止まり、由比ヶ浜と一応は葉山にも向けて「んじゃ、ここで」と語りかけて、八幡は臨時パーティーから離脱する。

 

 道中、あまり会話がなかった葉山グループの男子生徒たちと、はやはちが会話を交わす様子を見て興奮していた女子生徒の視線に気付く事なく、彼は独り自転車にまたがって自宅を目指すのであった。

 

 

***

 

 

 通い慣れた道を自転車で走って、八幡は自宅のある場所へと辿り着いた。その外見は見慣れた我が家そのままの姿だったが、これは特に驚く事ではない。ストリー○ビューで初めて我が家を見たときの興奮は、今では遠い過去の事のように思えてしまう。外見を繕うだけなら、既存の情報だけで充分に可能なご時世なのだ。

 

 彼はいつものように門を開け、自転車を所定の場所に置いて玄関に立つ。普段と違うのは、家の鍵を取り出さなくても、生体認証によって解錠できる点である。家の中に入って施錠して、彼はこの世界で新たに作られた自宅の中を順に見て回る事にした。

 

 

 総武高校の生徒たちが新年度からVR世界を体験できると決まってからは、運営会社から数多くのスタッフが派遣されて来た。その時に、もしも生徒と保護者が希望するのであれば、各々の自宅内部を現実そっくりに設定する事も可能だと提案があったのだ。

 

 内装を担当するプログラマと家の位置情報を設定するプログラマは別にするなど、プライバシーには最大限の配慮を行う事が約束された。そして自宅内部の情報をどの程度提供するかは、それぞれの判断に任された。間取りだけを伝えても良いし、室内の写真や動画を渡しても良い。

 

 多くの生徒たちは詳細な我が家を希望した。せっかく現実そっくりのVR世界を体験できるのだ。ならば最も身近で最も長い時間を過ごして来た自分の家を、現実そっくりにしたいと思うのが、大多数の共通意見であった。八幡もその例に漏れず、彼が提供した数多くの資料によって、彼の自宅は現実そっくりになっているはずだった。

 

 

 八幡は住む人の居ない自宅を順に見て回る。リビングも風呂も両親の部屋も、全ては現実と極めて似通った構造になっていて、自宅にあった物や装飾品も含め、多くの事が再現されていた。これだけの技術を持つ会社がなぜ犯罪に加担したのか、なぜ彼らをVR世界に閉じ込めるような暴挙に出たのか、八幡にはその理由が全く解らなかった。

 

 気を取り直して、彼は自室へと向かう。妹の部屋を覗くべきか少しだけ躊躇したものの、バーチャルな世界であっても彼女に断りなく部屋に入るのは嫌がられるだろうと考えて、手付かずの状態で置いておく事にした。彼女は現実の世界で元気に過ごしているのだろうか。

 

 

 八幡は自室に入って、座り慣れたベッドの上に腰を下ろす。ぐるりを見渡すと、本棚には見慣れた書名が並んでいる。机の上の辞書、窓にかかるカーテン。それら何もかもが懐かしく、そして切ない。どうしてこんな事件に巻き込まれてしまったのだろう。

 

 彼は重力に引かれるままに背中をベッドに横たえ、物思いに耽る。由比ヶ浜の提案を断って良かった。こんな気分で彼女と会話などしたくはない。自宅を見てこんなに落ち込んでいる姿を彼女に見せたくはない。今の彼と同じように沈んだ気持ちになった彼女の事は、常に傍らに寄り添う親友2人が慰めてくれるだろう。俺がその場に居合わせる事にならなくて、本当に良かった。

 

 1人でいる事に慣れているつもりだったが、やはり独りでいるのは辛い。雪ノ下なら、少しは動揺するかもしれないが、最終的には平気な顔で乗り越えるのだろう。俺も独りで乗り越えなければならない。独りは辛いが、じゃあ誰と一緒に居たいかと問われると、こんな状況で一緒に居たいと思える奴はいない。ならば俺は独りで乗り越えるしかないのだ。

 

 

 もう少しだけこのまま横になっていようと考えていた八幡の耳に、玄関の扉が開く音が届いた。

 




前回の投稿後、お休みを頂いている間にUAが三万を突破しました。
また、遅くなりましたが、評価の際に励ましの言葉を書いて下さった方々、本当にありがとうございました。
そして、作品に直接関係する事ではないのですが、8話で雪ノ下長考の際に言及した「鏡の国のアリス」(ちくま文庫)を翻訳された柳瀬尚紀さんが先月末にお亡くなりになりました。読んで楽しい文体で書かれた多くの作品を残してくれた事に、心からの感謝を。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/20,11/15)

誤字報告を頂いて、規制退場→規制解除に修正すべきかずいぶん悩んだのですが、これは不適用とさせて下さい。
作者としては大規模なイベントやライブ後の規制退場を意識した表現だったということ(校外への外出を退場と表現することには確かに違和感があり、それが悩んだ理由の一つです)。
そして運営の規制は日付が変わってすぐに、教師による制限も放課後になると同時に全校一斉に解除されていて、ただ各教室で待機という状況だったことがその理由です(これはシステム的な話なので、教室外への移動という規制が解除されたと考えるとご指摘の表現のほうが適切で、これも悩んだ理由です)。
とはいえ、ご報告を頂けるのは(ちゃんと読んで頂けているのだなと思えて)とても嬉しいことなので、今後も気になる表現がありましたらお気軽にお知らせ頂けると嬉しいです。ありがとうございました!(2017/10/16)


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02.そうして彼と彼女は再会を果たす。

前回の続きで、2巻への橋渡し回の後編です。
今回も設定の話が多く、途中まで少し重い話になっていますが、読み終えてほっこりとした気持ちになって貰えたら嬉しいなと思いながら書きました。



 今から半月前のその時、比企谷小町は彼女が通う中学校に隣接する塾の大教室にて、事件の概要を知らされた。その日、彼女の兄が通う総武高校を始め、県下の複数の高校や大学の研究室で人類初のVR世界が体験できる予定になっていた。それら全ての人達がVR世界に閉じ込められたのか、それとも一部だけの話なのか。詳しい事は判らなかったが、確定しているのは、彼女と同じ塾に通う中学生全員が、この世界に捕らわれてしまったという事実である。

 

 

 運営はVR世界を構築するにあたって、当初からゲームという側面と教育・学術という側面の両立を目標にしていた。先行者のアドバンテージを活かし彼らのVR技術をスタンダードなものにする為には、遊戯と育成と研究という3つの要素を同時に満たす事が必須だとゲームマスター以下の責任者達は考えたのである。

 

 ゲームに参加するプレイヤーの募集はことのほか上手くいった。ソフトが事前予約だけで完売という大盛況である。一方で、教育・学術業界への働きかけは失敗の連続だった。都内の有名高校や大学の反応は芳しくなく、ならばと京阪神に話を持って行っても状況は変わらなかった。全国でも名の知れた有名校は長年積み重ねた自分たちの教育方法に自信を持っていて、VR世界ならではの長所よりも慣れぬ事を導入する短所を重く見ていた。大学も、煩わしい事務仕事が増える昨今、新たな要素を組み込む余裕は無さそうだった。

 

 形式的な断りの言葉の裏側を推測すると、彼らは一様に「他で有用性が証明されてから導入しても遅くはない」と考えている様子だった。もしかすると、横並びの環境を乱される事を警戒したのかもしれない。日頃から大学合格者の数や研究成果などで激しい競争に晒されている立場である。故にこそ、自分たちだけがVR技術を導入する事で他より劣る結果になったり、逆に自分たち以外の学校が導入して他より優れた結果になるのを怖れたのかもしれない。

 

 

 いずれにせよ、運営の当初の目論見は失敗に終わった。彼らは目標を変更して、地域では上位だが全国的な知名度はさほどではない野心ある高校に話を持って行った。何度となく営業職を派遣して、ようやく千葉県下の幾つかの高校が参加を決断した。だがそれは、当初の目標を大きく下回る数でしかなかった。彼らは近隣地域に対象を絞って期間ギリギリまで営業活動を続け、県下の複数の大学の研究室と、そして幾つかの学習塾から参加を取り付ける事が出来たのである。

 

 もしかすると、運営の暴走にはこうした経緯の中で貯め込んだ鬱屈も大きな要因になったのかもしれない。プレイヤーをVR世界に閉じ込めるという暴挙をいつ決めたのか、それがどこまで共有されていたのか判らないが、上層部が心理的に追い込まれる状況だったのは確かだろう。いずれにせよ、起きてしまった事はもう覆らない。このようにして、本事件は数多くの未成年者を巻き込むに至ったのであった。

 

 

***

 

 

 月曜日の午前0時。小町たちが通う塾でも周囲を覆っていた障壁が消え去って、外の世界に出る事が可能になった。半月に亘った彼女らの閉ざされた毎日は総武高校のそれと似通ったものだったが、やはり中学生と高校生では精神的な成熟度が違う。塾内の雰囲気は暗く、そんな中で小町は持ち前の明るさと前向きな姿勢で、多くの生徒を慰めながら過ごして来たのである。

 

 塾の教師によって外へと出られない様に再び制限が掛けられ、その日も彼女らは中学のカリキュラムに沿って授業を受けた。塾に隣接する中学は小町ら多くの生徒達が通っている学校で、そこは当初から解放されていたので、彼女らは昼間の時間はそちらで過ごし放課後に塾の教室に移動する毎日だった。中学で使う教材は直ちに運営から配布されたが、塾の教師達は慣れぬ教科も教える事になってしまい大変そうだった。小町が暗い表情の生徒達に気を配っていたのは、そうした事情もあっての事だったのである。

 

 

 多くの生徒達は自分が通う塾でもVR世界に参加できる事を家族に報告しており、もしも家族が同じようにこの世界に居るのであれば、この塾を訪れる事が予想された。塾の教師達はそう考えて、生徒達を外の世界に出すよりもまずは待つ事を選択した。生徒達を外に出して気晴らしさせてやりたい気持ちもあったのだが、義務教育の期間ゆえに決定には慎重を期さねばならない。本来ならば塾にそこまでの義務は無いのだが、そうして責任を引き受けられる辺り、彼女らは良い教育者に恵まれたと言って良いのだろうし、それは文字通り不幸中の幸いと言えるのだろう。

 

 

 だが困った事に、小町は兄にVR世界参加の事を告げていない。もちろん母親には報告していたが、兄には秘密にしておいてこの世界でビックリさせてやろうと考えていたのである。

 

 単なる勘に過ぎないのだが、彼女は兄もまたこの世界に閉じ込められている事を確信していた。それは日頃から兄をからかっていたように面倒な事に巻き込まれやすい兄の不幸体質を信じていたからではなく、兄が自分をこの世界で独りぼっちにする事などないという妄信的な信頼故であった。

 

 彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて家出をした時に兄が迎えに来てくれた時の何とも言えない表情と、そしてそれ以降、兄が必ず自分よりも先に家に帰って「おかえり」と言ってくれた時の面倒臭そうな声である。他人に悪く言われる事の多い兄だし、実際に小町としても不満に思う点は色々とあるのだが、それでも彼女が居て欲しいと思う時には必ず側に居てくれた。黙って、面倒臭そうに、しかし決して離れる事なく。今回もきっとそうに違いない。

 

 

 小町の頭の中に、もしもという発想はない。もしもこの世界に兄が居なかったら自分がどうなってしまうかなど、欠片も思いはしなかった。生まれてこの方、半月もの日々を兄と会わずに過ごした事など皆無である。だから自分は兄に会いに行かねばならない。自分の無事を伝える為に。そして妹に会えなくて落ち込んでいるであろう兄の事を元気づける為にも。

 

 兄に会いたいという気持ちを表に出すのが恥ずかしいので、兄の為に行くのだと必要以上に自分に言い聞かせながら、彼女は塾の教師に外出許可を求める。兄もかつてこの塾に通っていた事があり、しかし友人関係などが原因で長続きしなかったのだが、幸いな事に覚えられていたようだ。少し苦笑しながら「小町ちゃんの方から迎えに行ってあげた方が良いかもね」と言ってくれた先生にお礼の言葉を告げて、彼女はまず総武高校を訪れ、その後に1人で帰宅の途に就くのであった。

 

 

***

 

 

 見慣れた玄関の扉に手を伸ばす。ここに至って小町は初めて、家の中に兄が居ない可能性を思い付いた。高校を訪れた際に、見知った教師から生徒達の今日の行動を知らされた彼女は、兄と再会する場所が自宅である事を喜び他の事を考えていなかった。実際、帰宅までの道のりなどまるで記憶に残っていない。

 

 兄がこの世界に居る事は既に確認できている。しかし、一旦帰宅した後で長居する事なく高校に帰ってしまう事は、あの兄ならば充分に有り得る事だ。せっかくここまで来たのに、すれ違いになるのは寂しい。小町が高校を訪れて再会するパターンも悪くはないが、自宅で小町を出迎えてくれるパターンには遠く及ばない。

 

 

 少しだけ姿勢を整えて深呼吸をして、小町は改めて扉に手を伸ばす。「もしも家に居てくれたら、小町的にはすっごくポイント高いんだけどなー」などと期待を込めた軽口を叩きながら、少しだけ震える手に力を込めて、彼女はおもむろに玄関を開けた。

 

 決定的な証拠を確認するのを後回しにして、彼女はまず現実そっくりの廊下とその先にある扉に目線を送る。ゆっくりと左右を見渡し、やはり現実通りの家の中の光景を目にして、彼女は決意を固めて視線を下方に移す。彼女の視界が、きちんと揃えられた見慣れた靴を捉えた。

 

 

 兄が家の中に居てくれた事に安堵したのか、はたまた兄と久しぶりに会える事に興奮したのか。プラスとマイナスが慌ただしく移り変わる内心の動揺を何とか抑えようと試みながら、彼女はゆっくりと扉を閉めて施錠する。兄の靴の横に自分の靴を並べて脱いで、しかし普段とは違って「ただいま」を言う事なく、彼女はそっと足音を殺して階段を上り兄の部屋へと向かった。ここはやはり、当初の予定通りに兄を驚かすに、しくはないのだ。リビングの電気が点いていない以上、兄は自室に居る可能性が高い。

 

 兄の部屋の前で少し呼吸を整えて、小町は一気に部屋の中へと突入するのであった。

 

 

***

 

 

 自室のベッドの上で仰向けになっていた比企谷八幡は、玄関を開ける音が聞こえた気がして耳をそばだてる。何となく扉が閉まるような、何となく鍵を掛けるような音が聞こえた気もしたが、確かかと言われると心許ない。少しだけ身構えていたが、やがてここが現実ではなくVR世界だった事を思い出して力を抜いた。誰もここにはやって来ないのに。やはりナーバスになっているようだ。

 

 八幡は気を取り直して、今後の予定を検討する事にする。サイ○かスタ○に行って来いという話だったが、見知った連中に出くわすのも面倒だし、いっその事サボってしまおうか。彼がそんな不埒な事を考えた瞬間、ドアが開いて誰かが部屋へと乱入して来た。

 

 

「じゃーん、小町登場!」

 

「うお、すまん!サボらないから。ちゃんと行くから!」

 

 余計な事を口走りながら、反射的に謝ってしまう八幡であった。

 

 予想外の返答が返って来た事で、小町は一気に冷静に戻ってじとっとした目で兄を眺める。そりゃ、格好良く落ち着いた口調で小町を出迎えてくれる事は期待していなかったが、ちょっとこの対応は頂けない。せっかく久しぶりに会えたというのに、何もかもが台無しである。本当は、予想より斜め下のこの反応によっていつもの距離感を思い出し落ち着けた部分もあったのだが、それへの照れ隠しの気持ちもあって、彼女は兄に容赦の無い指示を出すのであった。

 

 

「ちょっとお兄ちゃん、そこで正座」

 

「は?いや、ちょっと待て小町。ってか小町だよな?」

 

「ふーん。お兄ちゃんってば、長年連れ添った妹の事が判らないんだ。健気に兄に尽くして来たのに、よよよ……」

 

「あー、すまん。そのわざとらしい泣き真似は確かに小町だわ」

 

「うーん。その判定の仕方は、小町的にはポイント低いなぁ……」

 

 さすがに長い期間を仲良く過ごしてきた兄妹だけあって、この程度の会話でも通じる事は沢山ある。小町は兄が少し落ち込み気味なのを瞬時に見抜いたし、八幡は妹が何故かご機嫌なのを把握した。ならば悪い事にはならないだろうと、大人しく妹の言う通りに床に正座をする八幡であった。

 

 

「で、正座させられた理由は?」

 

「あ、えっと。てかお兄ちゃん、さっきの反応は何?」

 

「あー。この後、お茶して高校に帰って来いって話なんだが、面倒だからサボろうかなと……」

 

「はあ、全く……。どうせ誰かと会うのが嫌だからサボろうとか、そんな感じだよね」

 

「うぐっ」

 

 一瞬で意図を見抜かれてしまう八幡であった。俺ってそんなに単純なのかなと悩み始める八幡を楽しそうに眺めながら、小町は敢えてわざとらしく、少し拗ねた風を装いながら口を開く。

 

 

「ま、それは良いとして。せっかく久しぶりの再会なのに、何か言う事はないの?」

 

「あー、小町に会えて嬉しいわ。いつ見ても世界一可愛い」

 

「小町はそこまで嬉しくはないけど、ありがとお兄ちゃん。……でも、ちょっと安心したかな」

 

「は?何にだよ」

 

「この世界にお兄ちゃんが居てくれて。この家で小町を待っててくれて」

 

「……まあ、たまたまだけどな。てか、お前もこの世界に居るとは思わなかったし」

 

「内緒にしてて驚かそうと思ってたからねー」

 

「そか。はあー、お前までこの世界に閉じ込められるとか、そんな事がありませんようにって祈ってたのに。神頼みも役に立たねーな」

 

 兄がいきなり予想外の事を口にした事で、小町の動きが止まる。これだからこの兄は侮れない。そんな事を言われてしまったら、平静を保つのが難しくなるではないか。そんな妹想いの兄を正座させている自分の方がずっと子供に思えてしまうではないか。

 

 なので小町はわざとらしく溜息を吐きながら、兄に向かって手を差し伸べていったん立たせる。そして「えいっ」と言いながら腹に掌底を入れて、兄をベッドに突き倒した。「いきなり何すんだよ」と文句を言う声を無視して、彼女もベッドの端に腰を掛ける。足をぶらぶらさせながら、小町は口を開いた。

 

 

「お兄ちゃんが小町の事を大事に想ってくれるのは嬉しいんだけどね。でも、小町がいないと、絶対お兄ちゃん、やさぐれるでしょ」

 

「え?小町ちゃん。やさぐれる、なんて言い方どこで覚えたの?」

 

「そーゆーのは良いから」

 

「あ、はい」

 

「お兄ちゃんを安心して任せられる女の人が早く見付かると良いんだけどねー。ま、仕方ないから、しばらくは小町が相手したげるね。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「へーへー。ま、こうなったら仕方ないしな。それに、なんだ。この世界で独りぼっちになったと思ってたから、小町が居てくれると、その、助かるわ」

 

 柄にもなく照れながら本音を伝えて来る兄の様子を見て吹き出しながら、小町は先ほど兄の靴を確認した時に感じた安堵とは似て非なる感情に包まれていた。それが安堵という気持ちなのに変わりはない。しかし兄が居てくれた事に対して抱いた感情と、兄の力になれると解って抱いた感情とは、やはり受け取り方が違って来るのである。だから彼女は、きちんと思った事を兄に伝える。

 

 

「あのね、お兄ちゃん。もしも距離が離れる事になっても、お兄ちゃんは独りぼっちじゃないからね」

 

「あー、そっか。……そうだな」

 

「うん。だから変に不幸ぶって、これ以上は黒歴史?を作らないでね」

 

「おい、待て。容赦ねーな」

 

「だって、お兄ちゃんが卒業してからも中学でたまに話題に出るし。そのたびに小町、ちょっと肩身が狭いんだから」

 

「え、マジで?俺ってそんなに語り継がれてんのかよ……」

 

「うん。だから、小町を困らせないように、高校ではちゃんと過ごしてね」

 

「あー、相変わらずぼっちだし確約はできんが……。ま、俺なりに頑張るわ。今の八幡的にポイント高い!」

 

「はいはい。高い高ーい」

 

「俺は赤ん坊かよ。つか、お前も中学で無理すんなよ」

 

 そう言いながら身を起こすと、そのまま自然な流れで、八幡は掌を妹の頭に乗せる。先程まで抱いていた鬱屈とした感情が消え去っている事を自覚して、そのお礼も込めて、彼は優しく妹の頭を撫でた。現実世界での兄妹の空気をそのままこの世界でも再現して、2人はしばらく無言で、しかし満ち足りた気持ちで時を過ごす。

 

 

 その後、八幡の自転車に2人乗りしてサイ○に行き、他からは見えにくい奥まった席で、八幡と小町は久しぶりに2人きりの夕食を摂った。そしてそのまま門限ギリギリまで、楽しく話をして過ごしたのであった。

 

 

 

 原作2巻につづく。

 




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな説明と一部の表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/21,11/15,2/20)


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ぼーなすとらっく! 「憂鬱のお出掛け」

今回は気楽なお話ですので、深く考えず楽しんでいただければ幸いです。




 比企谷家の朝は早い。社畜と化して長い両親が、それでも時間ギリギリまで睡眠をとり大急ぎで朝食を流し込み会社に向けて家を出て初めて、比企谷家は落ち着きを取り戻す。それが現実世界での毎日であった。

 

 比企谷兄妹の朝は遅い。両親の薫陶を受けた兄妹が時間ギリギリまで睡眠を貪り、要領よく朝食を作って食べて学校へと向かう。

 

 比企谷兄妹の休日の朝はさらに遅い。しかしゴールデンウイークに突入した休日のこの日の朝は、平日と変わらぬ光景が展開されていた。

 

 

「いくら塾の模試で早起きだからって、俺まで起こす必要はないだろ……」

 

「そんなの、お兄ちゃんと一緒に朝ごはん食べたかったからに決まってるじゃん」

 

「お前、ただ単に自分だけいつも通りに起きるのが嫌だっただけだろ」

 

「お兄ちゃんは素直じゃないなー」

 

「お前の本音を素直に指摘してるんだが……」

 

 寝起きの不機嫌な声で妹に文句を言いながらも、比企谷八幡は兄妹2人ぶんの飲み物を用意する。兄がそうする事をあらかじめ分かっていたかのように、比企谷小町はテーブルに食事を並べる。いつもと変わらぬ比企谷家の朝であった。

 

 

「で、おにいひゃん」

 

「おい、食べるか喋るかどっちかにしろ」

 

「ん。今日は特に予定ないよね?」

 

「ばっかお前、こう見えて俺は……」

 

「そーゆーのはいいから。いそがしーお兄ちゃんにお願いがあるのです」

 

「なんで『忙しい』だけ棒読みなんだよ……。ま、言ってみ?」

 

「模試が終わってから、外でごはん食べない?」

 

「まあ、模試とか疲れるだろうしな。別にいいぞ」

 

「やった!じゃあ、駅前のサイ○で待っててね」

 

「席を取っとけって事な。んじゃ、適当に昼を済ませてから早めに出るわ」

 

 

 話が決まって、小町は出かける支度に、八幡は二度寝の準備に入る。待ち時間に何を読もうかと考えながら横になる八幡は、読書の時間を奪われる未来など、この時点では予想だにしていなかった。

 

 

***

 

 

 その日の午後。由比ヶ浜結衣は駅近くを歩いていた。既に仲の良い同級生とは解散して、あとは帰るだけだ。

 

 同じ頃、雪ノ下雪乃はとある愛玩動物の写真集を書店で満喫した後、やはり駅前を歩いていた。そして彼女ら2人は巡り会う。

 

 

「あれ?ゆっきのーん!」

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん。お出掛けかしら?」

 

「うん。優美子たちと遊びに来たんだけど、2人ともこの後で用事があるって言うから、あたしだけ残ってぶらぶらしてたんだ。ゆきのんは?」

 

「少し書店に用があって出て来たのよ」

 

 とある動物の写真を、たっぷり時間をかけてこの上なく真剣な眼差しで鑑賞するために出て来たとは言い出せない雪乃であった。

 

 

「ほえー。ゆきのんだし、きっと難しくて高そうな本だよね。すごいなぁ」

 

「いえ、その、それほど難しくはないわね。値段はそれなりにすると思うのだけれど」

 

「それって、ゆきのんが読むから難しくないだけで、あたしだと難しくて寝ちゃいそう」

 

「そんな事はないと思うのだけれど。でもそうね、あの本を開きながら眠れたら良い夢が見られそうね」

 

「本を読みながら眠るゆきのんって、絵になりそうだなぁ……。あ、そだ!ゆきのん、この後は用事ある?」

 

「後は帰るだけだから、少しぐらいなら大丈夫よ」

 

「やった!じゃあお店には入らないで、座れるところでお話しよっ」

 

 

 そんなこんなで落ち着ける場所を見付けて、2人が話に花を咲かせる事しばし。ふと顔を上げた結衣は共通の知り合いの後ろ姿を見付けた。

 

「ね、あれってヒッキーじゃない?本屋さんに入るのかな」

 

「あの猫背の後ろ姿はうちの部員に間違いなさそうね。あれ、猫……?」

 

 思わず猫背の彼に猫耳を付けた姿を想像してしまい、それが意外に悪くない事に苦笑してしまう雪乃であった。表情を緩める雪乃を眺めながら、結衣が1つの提案を行う。

 

 

「ねね。本屋さんから出て来たらヒッキーも誘って、3人でお話しようよ」

 

「それは……どうかしら。いつもの部室を思い出して欲しいのだけれど、私達が2人で会話をする時間がほとんどで、彼はあまり話さないじゃない。それなのに休みの日にまで付き合わせるのは、彼には酷な事かもしれないわよ」

 

「うーん、そっか……。あ、じゃあさ、別々に2人ずつならヒッキーも色々と話してくれるかも!」

 

「それって、私と由比ヶ浜さんが1人ずつ順番に彼と話をするという意味かしら?」

 

「うん、それそれ!」

 

「はあ……。残る1人が時間を持て余す事になるし、それに彼は2人きりでもあまり話をしないと思うわよ」

 

「そうかなー。ヒッキーって結構、話し出したら色々と喋らない?」

 

「あまりそうした印象は無いわね」

 

「ゆきのん相手だと喋りにくいのかなぁ?」

 

「いえ、そんな事はない、と思うのだけれど……。人の事を斟酌せず、好き放題に言われている気がして来たわね」

 

 何を言われた事を思い出したのか、無意識に周囲の気温を下げ始める雪乃であった。少し慌てた結衣が話を逸らすついでに、思い付きで変な事を口にする。

 

 

「ま、まあヒッキーだから仕方ないと言いますか……。じゃあさ、どっちが長い時間ヒッキーと話してられるか、勝負しない?」

 

「由比ヶ浜さん。勝負事は安易に持ちかけるべきではないと思うのだけれど。それに、残る1人は何をしていれば良いのかしら?」

 

「じゃ、じゃあさ。メッセージアプリを立ち上げたままにするから、話を聞きながら会話が途切れたら『結衣ー、アウトー!』って判定する、とか?」

 

「ふむ……。他人の会話を聞くのは気が引けるのだけれど、ルールとしては悪くはないわね。ただ、長引くのも問題だから、上限を設けてくれないかしら?」

 

「え、いいの?じゃあ30分ぐらいを限度に、とか」

 

「では、30分上限で。時間稼ぎの為だけの発言はNGで、沈黙が30秒続いたらアウトで良いかしら?ルールとしてはこんなものね」

 

「……あの、ゆきのん。ホントにするの?」

 

「あら。貴方から挑まれた勝負なのに、自信が無いのかしら?」

 

「むっ!ゆきのんが相手でも、あたしが勝つからね!」

 

 こうして、世にも下らない対決が始まったのであった。

 

 

***

 

 

 先攻は由比ヶ浜。彼女は書店の入り口で八幡を待ち受け、元気な声で話し掛ける。

 

「ヒッキー、やっはろー!」

 

「お、おい。ちょっと外でそれは恥ずいから、声を落として欲しいんだけど」

 

「大丈夫だって。誰も気にしてないよ」

 

「そんな事はないと思うが……。てか、休みの日に偶然だな」

 

「う、うん。偶然だよね!」

 

 不自然に偶然を主張する結衣に首を傾げながらも、休みの日に同級生の女の子と話をしている現状に内心いっぱいいっぱいの八幡は、それ以上の追求はしなかった。話を逸らすかのように彼女は言う。

 

「で、でさ。せっかくだし、時間があるなら、少しお喋り、しない?」

 

「え、ああ。別に時間はいいんだが、その、あれだ。あんま面白い事とか喋れねーぞ」

 

「無理に面白い事を話そうとしなくていいってば。じゃ、行こっか」

 

「ん、どこに?」

 

「え、えっと。その辺の座れるところ、とか?」

 

「あー、そういう事か。てか、お前もそんなビクビクしながら喋らなくていいからな。嫌な事は嫌って言うし」

 

「言っちゃうんだ!今の話の流れだと『何を言われても嫌がらない』とか言うところじゃないの?」

 

「いや、だって、嫌なもんは嫌だし」

 

「やっぱりヒッキーはヒッキーだ……」

 

 少し呆れながらも、いつもと変わらぬ彼の様子に少しほっとする結衣であった。雪乃が潜伏する地点より手前のベンチに腰を下ろして、彼らは会話を続ける。

 

 

「……でさ。優美子は何でも似合うけど、姫菜もカジュアルからオタクっぽい恰好まで何でも着こなせちゃうから、試着してたらキリがなくて」

 

「あー。お前ら3人で店を回るだけで丸一日過ごせそうだよな」

 

 長年にわたって妹の相手をして来ただけに、八幡の傾聴スキルはそれほど低くはない。しかし、主に結衣が一方的に話している現状はルール上問題はないのかと、密かに悩む雪乃であった。そんな彼女の耳に、意外な発言が届く。

 

「てか、今度は雪ノ下も連れてってやれよ。あいつも何でも似合うだろうから、更に時間がかかりそうだけどな」

 

「あ、うん。確かに。ゆきのんなら何でも合いそう」

 

「まあ、あんまり安い店に連れて行ったら怒られそうだけどな。『由比ヶ浜さん、私はこんなに悪い生地を今までに見た事がなかったのだけれど』とか言いそうだし」

 

「え……。ゆきのんの真似、上手すぎない?」

 

「おう。こないだ寝る前に暇だったからちょっと練習してみたら、自分でも結構似てるなって……あれ、風邪かな?なぜか寒気が」

 

「たはは……」

 

 実はすっかり雪乃との勝負を忘れていた結衣であった。手早く時刻を確認すると上限時間に近かったので、交替の支度に入る。

 

「あ。ちょっとあたし、駅前で用事を1つ忘れてた!荷物を持って行きたくないから、ちょっとだけここで見ててくれない、かな?」

 

「おう。俺の方はまだ時間はあるから別にいいぞ。もし長引くようなら連絡くれ」

 

「うん、分かった。ごめんね、ヒッキー……」

 

「いいから、まあ、行って来い」

 

「うん。今日はありがとね。楽しかった!」

 

「いや、それって、戻って来る気ないのかよ」

 

「そうじゃないけど……まあいいや。行ってくるね」

 

「ん。行ってらっしゃい」

 

 由比ヶ浜の記録。30分(上限)。

 

 

***

 

 

 後攻は雪ノ下。彼女は散歩の途中という雰囲気で八幡が座るベンチの前に姿を現し、そして彼と視線を交わした後に、何事もなかったかのように通り過ぎた。

 

「……おい、ちょっと待てって。今、確実に目が合ったよね?」

 

「あら。そんなところに居たとは気付かなかったわ」

 

「はあ。まあいいけどな。こんなところで何してんだ?」

 

「見て判らないのかしら?この辺りを散歩していたのだけれど……。少し休ませて貰っても良いかしら?」

 

「ああ、そういやお前、体力なかったもんな。……あんま無理すんなよ」

 

「ええ。その……お気遣いには感謝するわ」

 

 慣れない事ゆえに、攻撃的な姿勢で会話を始めてしまう雪乃であったが、予想外の八幡の気遣いに更に混乱の度を深めている。そんな彼女の内心に気付かず、八幡が話を続ける。

 

 

「さっきまで由比ヶ浜が居たんだけどな。用事で席を外してるけど、すぐ戻るって言ってたし。あいつが戻るまで、お前も休んでたらいいんじゃね?」

 

「……そうね」

 

「つか、由比ヶ浜と出かけたりとか、あんまねーの?」

 

「まだ、仲良くなって日が経っていないから……。そのうち、そんな事もあるかもしれないわね」

 

「あー。由比ヶ浜の方はいつでも来いって感じだろうから、付き合ってやったらいいんじゃね?」

 

「あら。随分と由比ヶ浜さんの心情を理解しているのね」

 

「そりゃお前、部室であんだけ仲良さそうにしてたら誰でも判るだろ」

 

 ここには居ない共通の知人の話を中心に、意外に話題が途切れる事なく会話を続ける2人であった。それを付近で聴いている結衣は恥ずかしさのあまり、しきりに身悶えしていたのだが。

 

 

「……てかお前って、必要な時以外はあんま外に出ないと思ってたけどな」

 

「そんな風に言われると反論したくなるのだけれど、確かに目的のない外出はしないわね」

 

「だろ?由比ヶ浜とかは、何もなくても外に遊びに行きそうだしな」

 

「あら。由比ヶ浜さんには計画性がないと言いたいのかしら?」

 

「まあ、由比ヶ浜はアレだ。……頭がガハマさんだからな」

 

「……言葉の意味は解らないのに、言いたい内容は伝わって来るのが悔しいわね」

 

 今すぐに2人の前に飛び出して「どういう意味だし!」と問い詰めたい衝動を必死に抑える結衣であった。時計を見ると、もうすぐ時間である。意識を戻すと、雪乃の発言が聞こえて来た。

 

 

「……そういう貴方も、あまり外に出るようには見えないのだけれど」

 

「まあ、できるだけ家で過ごしたいとは思っているな」

 

「そんな貴方が外出した時に限って、私や由比ヶ浜さんと偶然会うというのも面白いわね」

 

 ふと、先ほど由比ヶ浜に言われた言葉を思い出して、八幡は答える。

 

「正直、お前らに立て続けに会った時は『うげっ』って思ったけど、あれだ。意外に、その、楽しかった、かもな」

 

「そ、そう。……突然素直になって、どうしたのかしら?」

 

「なんてか、あれだ。さっき由比ヶ浜に『楽しかった』って言われてな。ちょっと、嬉しかったから、その……」

 

「普段のお出掛けとは違った印象になって、良かったのではないかしら?」

 

「そうだな。てかお前、俺の普段のお出掛けがどんな感じか知ってるのかよ?」

 

「知りはしないけれど、想像は可能だわ。普段の貴方なら……そうね。『ゆーうちゅの、おでかけ』って感じではないかしら?」

 

 悪戯っぽい表情を浮かべながら、雪乃は舌っ足らずな言葉を告げる。一瞬馬鹿にされているのかと思ったものの、彼女が幼児語を口にした衝撃と、発言の時に口を尖らせる彼女の表情が可愛らしくて、八幡は言葉に詰まる。

 

「お、お前……。赤ちゃん言葉で、いきなり何を言い出すんだよ……」

 

「え?その、そういう意味ではなかった、の、だけれど……」

 

 雪乃も途端に恥ずかしくなったのだろう。ベンチに座る二人は互いに顔を赤らめて、他所を向いている。やがて、視線を戻さないまま小声で、彼女は彼に事の真意を告げた。

 

「その……。ちょっと洒落てみただけなのだけれど。普段の貴方はおそらく、”You would choose no ODEKAKE.”なのでしょう?」

 

 雪ノ下の記録。30分(上限)。

 

 

***

 

 

 その後、時間が来るまで3人で仲良くお話して、八幡のこの日のお出掛けは楽しく終わったのであった。

 

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/20,11/15,2/20)


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原作との相違点および時系列(原作1巻〜幕間)

以下は当初、2巻1話の後書きに載せるつもりで書いたのですが。
読む方々の利便性を考えて、一話として独立させました。
ここまでの内容を振り返ったり、これから先を読み進める上での参考になれば幸いです。



■原作との相違点

 登場順に各キャラについて簡単にまとめます。

 

・比企谷八幡

 捻くれぼっちで自身を卑下する事も多いが、極端に卑屈な事は言わない。

 依頼人が来ない時はマニュアル解読に励んでいるので、この世界の設定に詳しい。(07話)

 担任からはヒキタニと呼ばれていて、同級生もそれが正しいと思っている。(14話)

 

・比企谷小町

 環境の影響で、兄への依存傾向が少しだけ増している。

 

・平塚静

 生徒を殴る事はしない。生徒の前では煙草を吸わない。

 

・雪ノ下雪乃

 少しだけ家の話あり。(05話)

 自分から「私って昔から可愛かったから」と言わない程度には常識的。

 マニュアル解読は校内でも群を抜いており、この世界の設定にとても詳しい。(07話)

 三浦グループとも関係良好。(11話,21話)

 

・由比ヶ浜結衣

 少しだけ去年の話あり。(03話)

 八幡に事情を知られる前にお礼を伝達済み。(10話)

 順序立てた話し方には程遠い時があり、聴く人を混乱させることも。

 三浦・海老名・雪ノ下とは気が置けない仲で衝突はないが、八幡との距離感には時に悩んでいる。

 

・三浦優美子

 サッカー部に助言をして、運動部が活気を取り戻すきっかけを作ったため、男女を問わず運動部員に人気がある。(11話)

 テニスをやめた経緯などの過去話あり。(16話)

 時おり女子テニス部の臨時コーチを務めている。(17話)

 

・海老名姫菜

 趣味との付き合い方などの過去話あり。(05話)

 二次創作活動を行っていた過去がある。(11話)

 この世界での初作品で特定層からカルト的な人気を得た。(18話)

 

・葉山隼人

 少しだけ雪ノ下に関係した過去話あり。(05話)

 主体的に動く事はないが、精神的に追い詰められる生徒が出ないよう、それとなく気を配っている。

 

・城廻めぐり

 登場済。(06話)

 

・一色いろは

 登場済。(21話)

 

・材木座義輝

 中二病の経緯などの過去話あり。(12話)

 

・戸塚彩加

 自らの容姿に関係する過去話あり。(15話)

 

 

■時系列

 曜日は、由比ヶ浜の誕生日=月曜日という3巻の設定に合わせています。

 

4/05(木)

 始業式。三浦・海老名・由比ヶ浜がグループ結成。(02話)

 

4/06(金)

 入学式。一色と由比ヶ浜が顔見知りに。(現時点で詳しい描写は無し)

 

4/07(土)

 八幡が奉仕部入部。(01話)

 由比ヶ浜が奉仕部見学。(02話)

 平塚が誰かと電話。(03話)

 三浦が葉山を気にし始める。海老名が二人の友人に趣味を打ち明ける。(05話)

 生徒・教師がVR世界にログイン。閉じ込められる。(0405話)

 雪ノ下がLHRで演説。(04話)

 各々が夜を過ごす。(05話)

 

4/08(日)

 城廻がLHRで演説。(06話)

 ファイル共有を介して現実世界と連絡が可能に。(07話)

 

4/11(水)

 葉山が三浦を部活見学に誘う。(07話)

 由比ヶ浜の依頼。(0708話)

 由比ヶ浜が【謎の暗黒物質X】【黒い物体】【クッキーのようなもの】を作成。(0809話)

 由比ヶ浜が八幡にお礼を言う。奉仕部が三人に。(10話)

 海老名が二次創作活動の再開を決意。(11話)

 三浦がサッカー部を見学。(11話)

 雪ノ下と三浦が口論のち和解。(11話)

 

4/12(木)

 材木座の依頼。(1213話)

 八幡がお尻を堪能。(13話)

 三浦と海老名が奉仕部を見学。(13話)

 

4/13(金)

 材木座の作品を批評。(14話)

 

4/15(日)

 三浦が中学の同級生と和解。(16話)

 

4/16(月)

 八幡がパンチラを堪能。(15話)

 八幡が昼休みに由比ヶ浜・戸塚と会話。(16話)

 三浦の一声で、女テニと戸塚が放課後に合同練習。(17話)

 戸塚の依頼。(17話)

 

4/17(火)

 戸塚と材木座が友人に。(18話)

 戸塚が奉仕部と昼休みの練習。(18話)

 

4/18(水)

 昼休みの練習中に三浦たちが登場。(18話)

 雪ノ下と三浦の意見の相違。平塚の裁定で勝負決定。(18話)

 海老名がテニス勝負の宣伝ビラを作成。(18話)

 

4/20(金)

 テニス勝負。(1920話)

 海老名の趣味が公然のものに。(20話)

 戸塚の依頼を解決。(20話)

 一色と三浦が対峙。(21話)

 八幡が下着やふとももを堪能。(21話)

 

4/23(月)

 校外への外出が解禁。(幕間01話)

 八幡が葉山・三浦グループと自転車置き場まで同行。(幕間01話)

 八幡が小町と再会。(幕間02話)

 

4/29(日)

 八幡がおでかけ中に雪ノ下・由比ヶ浜と偶然会う。(BT)

 




もう少し早くに思い付けば本稿を昨日にでも更新できたのですが、申し訳ありません。
二話を同時刻に更新して良いのか判らないので少し変則的な日程になりますが、次話は明日の金曜日に、その次は日曜日に更新します。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
参照先へのリンクを設定しました。(8/30)
リンクを変更して、後書きを含め細かな表現を修正しました。(2018/9/12)


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原作2巻
01.そんなわけで彼は風に感謝を捧げる。


今回から原作2巻の内容に入ります。
2巻は最終話で章を分けず、それに続く「ぼーなすとらっく!」「幕間」と題した各話も含めた構成になります。その後に章を分けて3巻に入る予定です。
引き続き楽しんで頂けるように頑張ります。



 朝の通学路を、比企谷八幡は自転車をこいで進んで行く。彼の後ろには妹の比企谷小町が乗っていて、兄に向けて元気に語り掛けている。仲の良い兄妹の、いつもと変わらぬ通学風景であった。

 

「さっきジャムってたのは、言われないと気付かなかったなー」

 

「いやお前、ジャムるの使い方が間違ってるだろ」

 

「ちょっとお兄ちゃん、なに言ってるか分かんないよ。大丈夫?」

 

「それはお前だお前っ!」

 

 

 システム的な側面から考えると、2人がこうして自転車で通学するのは無駄の多い行動ではある。この世界に閉じ込められた当初に彼らに割り当てられた個室が自宅のリビングと繋がっているからだ。各々の個室は各々が向かう校舎の上空に位置しているので、リビングから個室を経由して通学すれば教室まで短時間で辿り着ける。

 

 実際に彼ら兄妹も、寝過ごした時などにはそのルートで通学している。しかし、そのような通学の仕方を毎日続けるのも何だか味気ないものだ。朝の時間帯にたとえ数分でも睡眠時間を増やせる事はこの上ない幸福感をもたらすが、それも過ぎてしまえば呆気ない。それよりも2人で一緒に通学する事の方が、1日という単位で考えると充実感を遙かに持続させるのである。

 

 そんなわけで彼ら兄妹は今日も仲良くパン食をして、2人そろって家を出て来たのであった。

 

 

「そういえばお兄ちゃん。この世界でも事故ってあるのかな?」

 

「さあな。まあ、お前が乗ってる時は5割増しで気を付けてるから、安心しとけ」

 

「お。お兄ちゃん、今日は妹への愛が良い感じですなぁ」

 

「言っとけ。てか前みたいに『お尻が痛い』とか『傷物にされた』とか外で騒ぐのは無しな」

 

「あれはお兄ちゃんが、でこぼこ道ばっか走ってたのが原因じゃん」

 

「だから学習したんだよ。つーか、ご近所さんに俺の無実を証明してくれ」

 

「うーん。ま、帰ったら考えとくね」

 

「誤解を残したままこの世界に来ちまったってのも、何だかなー」

 

 既にこの世界に閉じ込められてから1ヶ月半もの時間が経過しており、あまり屈託することなくそれを話題にしている2人であった。良くも悪くも、慣れれば慣れるものである。1年以上前の事故の話もまた、彼らにとっては同じ事なのだろう。逸れた話題を元に戻して、妹が兄に話を振る。

 

 

「でもさ、あのギブスってよく効くよね。早く治ったの、あの石膏のお陰じゃない?」

 

「あれ、最近はグラスファイバー製らしいぞ。あとギプスが正解な」

 

「ふぅん。ま、それはどうでもいいや」

 

「おい……」

 

「新学期にね、また4月が来たよって、同じ日のことを思い出してたんだよねー」

 

「今年は入学式が早かったから、日付で言うともうちょい先だな。てか正直、入学式の日に何もなくて、俺も少しほっとしてたんだが」

 

「2年続けて変な事に巻き込まれてるよね。お兄ちゃん、お祓いとか受けた方がいいんじゃない?」

 

「この世界でもお祓いって効果あんのかね?」

 

「ちゃんとお菓子とかお供えしたら効果あるかもよ?小町的にはプレナの……」

 

「それ、お前が食べたいだけだろ」

 

 

 この世界が稼働した当初から運営会社とタイアップしていた企業だけでなく、最近は色んなお店や商業施設がこの世界でも開業している。閉じ込められた側からすれば、捕囚という犯罪行為を続けている運営に協力するかのような動きは不可解でもあり腹立たしくもある。だが、お店が軒並み閉まっている町並みを眺めながら日常を過ごせと言われてしまうと、それもぞっとしない。結局は、無いよりは有った方が良いという結論にならざるを得ないのである。

 

 

 今やこの世界で営業中の店舗は飲食店から衣類やアクセサリーのお店まで多岐に渡るが、何かを手に入れるには代価が必要である。

 

 飲食という点では彼らゲストプレイヤーには3食が保証されており、通常は学校や家などで配膳を受けるのだが、それと同等の食事内容なら外で無料で食べる事もできる。たまには高級食材を食べたいと思えば、差額を上乗せするか、それとも毎日の献立を少し減らして節約すればいつかは可能になる。節約した費用を食事以外の目的で使用できないのが辛いところだが、こうしたやり繰りが認められているので工夫のしがいがあるし、過去の食事内容から1日ごとの栄養バランスが表示される事もまた、挑戦者たちの意欲を駆り立てる要因になっていた。健康的に節約するのだと彼らは盛り上がっている様子である。

 

 だが、いくら兄妹とはいえ、自分の食事を削ってまで妹にお菓子を買って来るのは割に合わない。食べて消えてしまうものに貴重なお金を費やすのも気が進まない。あまり舐めた事を言うようなら、たしなめなければと兄は密かに身構えるのだが、そんな気配を察知できない妹ではない。八幡の機先を制するように、小町は少し話題を逸らしながら会話を続けるのであった。

 

 

「そういえば、去年もらったお菓子、美味しかったなー」

 

「は?お菓子あげるとか言われても、知らない奴にはついて行くなよ」

 

「違うって。お兄ちゃんが助けたワンちゃんの飼い主さんにもらったの」

 

「ああ、由比ヶ浜か。そういや家に来たとか言ってたな」

 

「およ?お兄ちゃん、学校で会えたんだね」

 

「まあ、一応な。……ってちょっと待て。そのお菓子、確実に俺は食べてないよね?」

 

「あ、今日はここでいいや。小町、もう行くね」

 

 言うや否や、自転車からひらりと飛び降りて、逃げるように去って行く小町であった。「おい、俺のお菓子……」と口には出してみるものの、長年の付き合いにより話がうやむやになるのは確実である。と、校舎の前で立ち止まった小町が振り返って、びしっと敬礼をして来た。

 

「お兄ちゃん、いつも送ってくれてありがとー。では、行ってくるであります!」

 

 

 ひとしきりポーズを取った後に笑顔で手を振ってくる妹の姿を見て、八幡も仕方なくそれに応じる。一瞬で絆されてしまった自身を「チョロいなー、俺」と自嘲するものの、妹を責める気が完全に失せてしまったのだから仕様がない。そんな兄の心情を把握してか、ニコニコと笑顔で見送る様子の彼女に背を向けて、八幡は高校へと向かう。

 

 ふと、自転車の前かごに目を落とすと、自分のものとは違う黒い通学鞄が存在を主張していた。溜息を1つ吐いて自転車を旋回させると、向こうから妹が涙目で走ってくる。いつもと少し違った部分はあったものの、いつも通りに仲の良い兄妹の姿が、朝日の差す道路脇にて観察されたのであった。

 

 

***

 

 

 5月も半ばを過ぎると昼間は暑くなるもので、ベストプレイスで過ごす事を諦めた八幡は、昼食を摂る場所を探して校内をさまよい歩いていた。気温まで現実通りにしなくても良いのにと思うが、寒暖の差がなければ衣替えもなくなるかもしれない。それは健康的な男子高校生にはとても残念な事であり、女子高生の夏服姿を合法的に観察できる機会を失わずに済んだと運営に感謝をすべきなのかもしれない。

 

 暑さのせいか思考が妙な方向へと逸れていくのを自覚しながら、八幡は落ち着ける場所を探す。クラスに居場所がないのは長年の事なので今更だが、せっかく部活動をしているのに部室で寛げないのは遺憾である。とはいえそんな事を口に出せば丁寧な招待を受ける事が確実で、そして見目麗しい同い年の女子生徒2人と一緒に昼休みまで過ごすとなると、寛ぐには程遠い状況にしかならないだろう。

 

 そんなわけで八幡は、テニス勝負の時に約束した「いずれ一緒に昼食を」という約束を回避し続けており、今日もまた午前の授業が終わると早々に教室から逃げ出して、屋上へと続く踊り場に来ていたのであった。

 

 

 屋上に繋がる扉は、普段は南京錠で施錠されて通行ができないようになっている。しかし今日に限っては、その南京錠が外されていた。屋上にリア充連中が集まっているのかと、眉をひそめながら耳を澄ます八幡だが、特に騒がしい様子はない。むしろ扉の向こうには静寂の気配が漂っている。

 

 静かさが嫌にしみ入る俺の耳、などと独りごちて、八幡は屋上に出てみる事にした。当てもなく歩き回る事にも嫌気が差していたし、静かに寛げる可能性があるのなら確かめに行くべきだ。少しだけワクワクしながら、八幡は扉に手をかけておもむろに開く。

 

 

 もしもこの先にボス敵が居れば。八幡はふとそんな事を考える。中二病をぶり返したような発想に我ながら辟易するが、しかしそれも仕方のない事だ。

 

 ゴールデンウイーク真っ只中の今月4日、塔の1階がクリアされたという臨時ニュースがこの世界を駆け巡った。塔の2階へと続く扉を開ける為にアイテムを掲げた瞬間にボス敵が襲って来たとか、ボスの名前は駅名に由来するロックなものだったとか、色んな噂が流れたが詳しい事は判らない。いずれにせよ、そんなニュースを耳にして盛り上がらない男子高校生は稀少だろう。

 

 一方で、1ヶ月も経ってようやく1階をクリアできただけという事実は、ゲーム攻略に参加しない彼らゲストプレイヤーの心情にも暗い影を落としていた。大人しく日常を過ごしながら2年が過ぎるのを待つのが賢明かもしれない。状況の変化は彼らの多くに諦めの気持ちを与え、そして開き直るしかないという気持ちにさせるに充分であった。

 

 

 扉の先にはもちろんボス敵など存在せず、視線の向こうでは青い空が広がっていて、遠くの水平線が垣間見えた。校舎の上には彼らの個室が存在しているはずなのだが、景観を損ねないようにという配慮なのか、いかなる建造物も視認できない。現実そのままの光景を独りで堪能しながら、八幡は屋上をゆっくりと歩いて回る。やがて少し影になっている場所を見付けて腰を下ろし、辺りをぼんやりと眺めながら昼食を摂るのであった。

 

 

***

 

 

 昼食を終えて、八幡は壁に背をつけたままポケットから1枚の用紙を取り出した。職場見学希望調査票と書かれているその紙を広げて、彼はしばし黙考する。彼が今現在、脳裏に思い浮かべている内容を素直に書くと、また呼び出しを喰らう可能性が非常に高い。かといって、他に希望する職業も見学したい職場も、彼には全く思い付かなかった。

 

 青い空に勇気を貰って、彼は長年に亘って抱き続けて来た志望の職種をゆっくりと書き記す。その理由を書き連ねる彼の筆に迷いの色は無い。簡潔かつ丁寧に、読む人全てが納得できるだろうと彼が確信する内容を書き終えて、彼は少し気を緩めて息を吐いた。

 

 

 そのとき、風が吹いた。付近の気だるい空気を吹き飛ばすかのように風が舞い、彼の手元にあった用紙を巻き上げ連れ去って行く。必死に手を伸ばして取り戻そうとするものの、風は彼を弄んでいるかのように、届きそうで届かない距離を維持したままそれを彼方へと運び去ろうとしている。ひときわ強く風が吹いて上空に漂う紙を眺め、遂に八幡は諦めた。

 

 肩をすくめ「押して駄目なら諦めろ」と呟きながら、彼はズボンを叩いて帰り支度に入る。「代わりの用紙を貰いに行かないと」と面倒な気持ちで考えながら歩き出そうとした彼の耳に、誰かの声が届いた。

 

 

「これ、あんたの?」

 

 ややハスキーな声で、どこか気だるげな話し方をする謎の女性。既に屋上には他に人が居ないと確認済みである。改めて周囲を見渡しても、やはり人影は見付からない。首を傾げる八幡に少し呆れた口調で、再び声が掛けられた。

 

「どこ見てんの?」

 

「……上か?」

 

 慌てて視線を上に向けると、屋上から梯子を登った先にある給水塔に寄り掛かって、彼を見下ろす女子生徒の姿があった。風によって没収された用紙を片手でひらひらと示しながら、こちらを見ている。

 

 

 細身で長身の彼女は、青みがかった髪を後ろでまとめて背中まで垂れさせている。リボンを外して開かれた胸元。シャツの裾の部分は緩く結び込まれていて、その下には長くしなやかな足が続いている。改めて彼女の顔を眺めると覇気のない不機嫌そうな表情で、泣きぼくろが印象的だ。そんな彼女が先程と変わらぬ口調で話し掛けてきた。

 

「これ、あんたの?」

 

 リボンが無いので彼女の学年が判らない。とりあえず無言で頷いて、八幡は彼女の反応を窺う。そんな彼の様子を目にして1つ溜息を吐くと、彼女は彼に「ちょっと待ってて」と告げてするすると梯子を下りてきた。

 

 

 そのとき、風が吹いた。気だるい空気をまとう彼女からそれを取り払おうとするかのように風が舞い、彼女の膝上を覆っていたスカートをまくり上げる。しかし彼女は平然としたもので、梯子の途中で手を離してスカートを押さえながらすとっと降り立ち、彼の方へと近付いて来た。

 

「……バカじゃないの?」

 

 用紙を渡す寸前に記入内容が目に入ったのだろう。ぶっきらぼうに紙を手渡しながらそう言うと、彼女はそのまま校舎の中へと消えて行った。専業主夫という彼の長年の志望を見知らぬ女子生徒に知られたわけだが、彼は不思議と落ち着いた気持ちでいた。彼女は他人のプライベートな情報を言い触らすような性格ではないと、この僅かな邂逅で見抜いたからだろうか。

 

「……黒のレース、か」

 

 屋上に残された八幡が、そう呟いた。何やら満足げな彼の口調が、彼の落ち着きの理由を如実に示している。風はただ静かに、彼の発言をかき消すのであった。




2巻の主要テーマでもあるお金の話は、少しずつ説明していきますのでご了承下さい。
ゲーム開始から28日目でのボス撃破はSAOに、出現条件は魔界塔士SaGaに、名前はロマサガ2に敬意を表して設定したもので、それ以上の意味はありません。ちょっとしたお遊び要素として受け取って頂ければ幸いです。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字・誤用を修正し表現を少し訂正しました。(8/27,11/15,2/20)
以下の注とリンクを書き加えました。(9/20)

<注>
ゲストプレイヤー:この世界で主に学業や教育・研究に従事する立場のプレイヤーの事。詳しくは1巻4話を、更に補足として1巻15話の冒頭も参照して頂ければ幸いです。


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02.こんなふうに彼らは日常を過ごしている。

日常を過ごしていく中で、少しずつ物事が動き出して行きます。



 午後の授業を終えてホームルームで職場見学希望調査票も提出し終えた放課後、比企谷八幡は机に座ったままぼんやりと考え事をしていた。今日の朝はいつものように妹と一緒に通学して、今日の昼は屋上で謎の女子生徒と遭遇した。朝昼の出来事が嫌だったわけではないが、誰とも話さないぼっちの時間が最近は減っている。

 

 この後も部活で、かしましい女子部員といかめしい部長様と共に時間を過ごさねばならない。それをさほど嫌とは思っていない事は既に彼も自覚しているのだが、ぼっちの期間が長かった彼としてはバランスが崩れている感じがして落ち着かないのも事実である。贅沢な話かもしれないが、もう少し独りで落ち着ける時間も欲しいというのが本音であった。

 

 

 教室の後ろの方では、彼とも以前に少し関わりがあったクラス内トップ・カーストの連中が盛り上がっている。彼らには、時に独りで過ごしたいと思う彼の心境が理解できないだろう。グループから離れて孤独に過ごしたり、話題が途切れて沈黙が座を支配したり、そうした事態に陥る事を彼らはとても怖れている。

 

 問題は、誰もが同じ怖れを胸に抱いていると連中が考えている事であり、そのせいで八幡はせっかく教室で独りの時間を満喫しているのに、それを彼らのリーダー格である葉山隼人に邪魔されてしまう事がしばしばあった。彼が投げかけてくる小説の話を意外に楽しく感じてしまう事も、逆説的に八幡の苛立ちを加速させている。

 

 もう少し教室でゆっくりしたい気持ちもあったが、彼らに絡まれて面倒な事になるのも回避したい。彼らに悪意がなく、少なくとも表面上は楽しげに語りかけて来ているのは重々承知なのだが、それゆえにこそ雑な応対しか返せない自分が少し嫌になる。「前門の虎、後門の狼」などと大げさな事を呟きながら、彼は静かに席を立って部室に向かうのであった。

 

 

***

 

 

 八幡が廊下を歩いていると、彼を引き止める声が後ろから聞こえてきた。昼休みに覚悟はしていたものの、やはり呼び出しを喰らう事になるのか。八幡はそう考えながらゆっくりと後ろを振り返る。彼の予想通りの人物がそこに立っている事を確認して、内心で溜息をひとつ吐いてから彼は口を開くのであった。

 

「どうしたんですか、平塚先生?」

 

「比企谷……。私が何を言いたいか、解るな?」

 

「も、もちろんです、ごめんなさい。……でもその、ちょっと早すぎやしませんかね?」

 

「少し嫌な予感がしたのでね。担任の先生にお願いして、君の調査票を見せてもらったのだよ」

 

 

 発言とともに平塚静教諭から迸る殺気を感じ取って、八幡は慌てて返事をした。教師が生徒に暴力を振るうとは考えられないが、嫌な話に巻き込まれてしまう事は確実である。その衝撃たるやファーストブリット並かもしれない。そんな事を考えながら平謝りする八幡に、事の経緯を機嫌よく語る平塚先生であった。得意げに胸を張る教師に少し呆れながら、彼は素直な感想を口にする。

 

「何もそんなに急いで確認しなくても……」

 

「君はそう言うが、担任は『またこいつか』という反応だったぞ。私が呼び出して対処する事を提案したら、二つ返事で『いいですとも!』と……」

 

「いや、先生はもっとパワーを別のところに使って下さいよ」

 

「ふっ。君は理解が早くて助かるよ」

 

「じゃあ、俺はこれで……」

 

「それで誤魔化せるとでも思っているのかね?」

 

「はぁ……調査票は書き直しますよ。でも正直、他の志望とか思い付かないんですけどね」

 

 

 八幡はそう言いながら、担任が提示した幾つかの選択肢を振り返る。曰く、千葉県下で醤油や乳製品などを作る工場を見学する事もできるし、身近なところだと千葉のモノレールを整備する工場なども見学できる。日常業務を見学するなら大企業から中小企業まで選び放題だと。しかし、ほんの1日で何が分かるというのだろうか。

 

 とはいえ、そうした高校生にありがちな思考など教師にはお見通しなのだろう。わざとらしく溜息を吐きながらも顔には少し笑顔を浮かべて、教師は生徒に話し掛ける。

 

「比企谷、何もそんなに大仰に考える事はない。実際に見聞きして体験した事が、その後の人生のどこでどう関わってくるのか判らないからこそ面白いのだよ。それがリアルか否かもそれほど大した問題ではない。今の君達に必要なのは体験そのものなのだと、頭の片隅で覚えておいてくれたら嬉しいんだがな」

 

「まぁ、そこまで言われちゃうと反論できないですね。じゃあ面白そうな見学先を探してみますよ」

 

「うむ、それでいい。では部活も頑張りたまえ」

 

 話が一段落して八幡が別れの言葉を口にしようとした時、元気な女子生徒の声が廊下に響いた。

 

 

***

 

 

「あー、こんなとこにいた!」

 

 今日は珍しくクラスで長居をしているなと、部活仲間の男子生徒の動向を確認していたのも束の間、気付けば彼は今日もまたいつの間にか教室から姿を消していた。たまには一緒に部室まで行ってくれても良いのにと、内心でぶつくさ言いながら廊下を歩いていた由比ヶ浜結衣は、当の本人の姿を廊下の先に認めて思わず大声を上げる。びくっと身を少し怯ませる八幡に代わって、その隣にいた教師が口を開いた。

 

「おや、由比ヶ浜。悪いが比企谷を借りているぞ」

 

「べ、別にあたしのじゃないから、全然いいです!」

 

「ふむ。用事は既に終わったから、速やかに返却しても良いのだが?」

 

「俺のレンタル代って、どれくらいなんですかね?」

 

「それはもちろん、君の持ち出しだろう」

 

「借りてくれって頼んだ覚えはないんですけどね」

 

 

 親しげに雑談を交わす2人を眺めながら、由比ヶ浜は相変わらずのふくれっ面である。せっかく同じ部活に所属しているのだし、もう少し仲良くしてくれても良いのに。ふと、もう1つの要望を思い出して、彼女は憤った気持ちに背中を押されてそれを彼に告げるのであった。

 

「てかヒッキー。待ち合わせの連絡とかしたいから、ちょっとメッセージ送って!」

 

「は?なんで俺が送る事になんの?」

 

「だって、いきなり送るとか、その、ちょっとアレだから。できれば先に、メッセージを送り合っておきたいな、って」

 

 少しずつ声が小さくなって行くものの、ここ最近ひそかに提案したいと思っていた事をきちんと口にできて、内心で胸をなで下ろしていた由比ヶ浜であった。

 

 

 この世界では、直接向かい合って話をした事のある相手にメッセージを送る事ができる。わざわざアドレスを聞き出す必要がないという点では手間が省けて良いのだが、そのぶん突然メッセージを送りつける事は避けるべしという何となくのマナーが定着しつつあった。由比ヶ浜の懸念はそうしたマナーを考慮したものであり、そして八幡が疑問に思ったのは、そうしたマナーに接する機会が無かったからである。

 

「まあ、別にいいけどな。んじゃ、俺から送れば良いんだな?」

 

「う、うん。お願い!」

 

「比企谷。女子生徒へのメッセージで、その文面はどうかと思うが」

 

「え、だってタイトル『テスト』、本文『test』以外に書く事って……あ、逆の方が良いとか?」

 

「……経験がないから仕方がないとはいえ、君はもう少し女性と言わず同級生と交流をした方が良さそうだな」

 

「失礼な……。俺だって中学の頃に、女子とメールくらいした事ありますよ」

 

「嘘……」

 

 思いがけない八幡の発言に、固まってしまう由比ヶ浜であった。受けた衝撃を、たははと笑う事で誤魔化そうとする彼女に向けて、八幡は少し自慢げに説明を行う。

 

 

「クラス替えでみんながアドレス交換してた時な。流れに乗り遅れてきょろきょろしてたら、『何かきょどっててウケる!』って声を掛けられたんだわ。まあ、俺が男らしく『アドレス教えてくれ』ってお願いしたら、『え、交換すんの?』って爆笑されたわけだが」

 

「比企谷、それは……」

 

「……その子は、どんな感じの子だったの?」

 

「とにかく健康的で元気な奴だったな。夜の7時にメールを送っても翌朝まで返事が来なかったり、たまに即レスがあっても『ウケる!』って一言だったり」

 

「う、それって……」

 

「比企谷……。私で良ければ寝たふりをせずメッセージをちゃんと返すから、次はこっちに送ってくれ」

 

 凄まじい勢いで同情される八幡であった。平塚先生にもタイトル・本文ともにテストなメッセージを送りつけると、両人から返事が届く。八幡が「では部活も頑張って下さい」と書かれたメッセージを読んだ事を確認して、平塚先生は去って行くのであった。

 

 

 教師を見送った後で並んで部室へと歩を進めながら、八幡は傍らの彼女に話し掛ける。

 

「てかお前、この顔文字は何だよ……」

 

「え、可愛くない?『よ(^0^)ろ(^◇^)し(^▽^)く(^ο^)ね(^ー^)』って完璧じゃん!」

 

「なんでそんなヒエログリフみたいなの使うんだよ」

 

「ヒエログリフって何?流行ってんの?」

 

「世界史でやっただろ……。まあ、2千年ぐらい前に廃れたわけだが」

 

 途中からとはいえ、並んで部活に行ける事を内心で喜びながら、由比ヶ浜は歩きながらの会話を楽しむのであった。

 

 

***

 

 

 部室で2人を出迎えてくれた雪ノ下雪乃と軽く会話を交わした後で、3人はいつものようにマニュアル解読に耽る。しかしそれぞれに集中できない理由があるのか、今日は作業があまり捗っているようには見えない。そんな時、由比ヶ浜に1通のメッセージが届いた。

 

「はあー」

 

「由比ヶ浜さん、どうしたのかしら?」

 

 メッセージを見て深く溜息を吐く由比ヶ浜の顔を訝しげに眺めながら、雪ノ下が少し心配そうに問い掛ける。

 

「あ、何でもな……くはないんだけど、ちょっとうわって思っただけ」

 

「比企谷くん、卑猥なメッセージを送りつけるのは止めなさい」

 

「俺じゃねぇよ。てか、由比ヶ浜に送ったメッセージって、テストの3文字だけだからな」

 

「そんなに自慢げに語れる話ではないと思うのだけれど……」

 

 

 何故か胸を張って語る八幡と、額に手を当てながら呆れた口調で返事をする雪ノ下。そんないつも通りの彼らのやり取りで調子を取り戻したのか、由比ヶ浜も会話に加わって来た。

 

「ヒッキーのせいじゃないんだけど、関係なくもないって言うか……。うちのクラスでね、ちょっと変な噂が広まってるみたいで」

 

「噂?」

 

「うん。まあ、今の時点ではどうにもならないし、しばらく様子見かなって言ってるんだけどね」

 

「ほーん。ま、緊急じゃないなら放っておけば良いんじゃね?」

 

「うん、だね」

 

 由比ヶ浜の語り口調から、ひとまず問題は無さそうだと判断して、雪ノ下は鋭い目つきを緩めて珍しく雑談モードに入る。

 

 

「ところで、貴女たちは職場見学の行き先を決めてしまったのかしら?」

 

「あー、それな。さっき平塚先生に再提出を命じられたんだわ」

 

「どうせ貴方の事だから、ゲームセンターとか自宅とかを希望したのではないかしら?」

 

「だから何で判るんだよ……。専業主夫希望で自宅見学を主張したら怒られた」

 

「はあ、全く……。貴方の所には、運営から勧誘が来ていないのかしら?」

 

「それな。やっぱり雪ノ下にも来てたんだな」

 

「ええ。解読の最中にポップアップが開くから、鬱陶しくて仕方がないのだけれど。嫌がらせ目的でこんな事をしているわけではないのよね?」

 

「たぶん運営のこれまでの傾向からして、本気で勧誘してるんだと思うぞ」

 

 

 それが最近の彼らがマニュアル解読に集中できない理由であった。職場見学は是非こちらにと、解読作業に区切りがつくたびに案内文が表示されるのである。プログラミングの基礎、準備されたツールを使ってこの世界を構築するマインクラフト的な作業、プレイヤーからの要望に対処する現場を見学しても良いし、経理関連の仕事を体験しても良い。他の企業とは比べものにならないほど熱心な内容で見学を要請して来るのである。

 

 運営からの勧誘は等しく全校生徒に向けられているのではなく、マニュアルの解読状況に応じて優先順位が付けられていた。つまり解読作業が抜きん出ている雪ノ下の許には頻繁に勧誘のお知らせが舞い込んでおり、真偽は判らないがゲームマスター直筆と銘打った勧誘の手紙すら届いていた。

 

 どこか愉快犯的な傾向が窺える運営の性格からして、その勧誘はかなり本気のものなのだろう。もう少し勧誘を受ける側の心情に配慮しても良い気がするが、困った事に見学に行く側としても彼らが提示する内容は確かに心惹かれる部分があった。そして、挑戦を持ちかけられて背中を見せる雪ノ下ではない。

 

「本気で勧誘しているのであれば、こちらには断る理由がないわね。鬼が出るか蛇が出るか、とても楽しみだわ」

 

 意欲を燃やす雪ノ下を尻目に、内心で巻き添えになる事を覚悟しつつ、やっぱり自宅見学にならないかなと遠い目をする八幡であった。




少し短めですが、きりが良いので今回はここまでです。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
以下の注とリンクを書き加えました。(9/20)
細かな表現を修正しました。(11/15)

<注>
マニュアル:この世界の事が記されている。マニュアルの仕組みや解読方法は1巻7話の後半を、3人が解読に勤しむ様子は1巻17話の冒頭を参照して頂けると幸いです。


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03.あんまりな事に彼の企みは失敗に終わる。

少しずつ原作との違いが出て来ます。



 翌日の昼休み。比企谷八幡は授業が終わると同時に、可能な限り静かにかつ速やかに教室を出た。そしてそのまま特別棟に向かって歩き出す。昨夜、夕食を終えて寛いでいる時間に由比ヶ浜結衣からメッセージが来て、翌火曜日の昼食を部室で3人で摂らないかと誘われたのだ。市教研に教師陣が参加する為に全ての部活が休みになるので、その代わりに昼休みに集まろうというのである。

 

 普段なら適当にはぐらかすのだが、八幡は今回に限ってその誘いに乗る事にした。それは由比ヶ浜よりも先に届いたメッセージに原因がある。昨日の夕方に平塚静教諭から、職場見学は3人1組だという事を忘れないように、と念を押されたのである。既にホームルームで伝えられていたらしいのだが、職場見学に興味が湧かなかった八幡はすっかりそれを聞き逃していた。

 

 だが、これはチャンスでもある。1人ずつ別々の職場に向かうのであれば個人の希望に沿った場所に行けるが、団体行動では個人の意志が制限される。運営の招待に応じて面倒な事に巻き込まれるのを半ば覚悟していた八幡だが、同じグループの残り2人が別の場所を希望すれば、彼の要望は取り下げざるを得ない。

 

 更に、あれほど運営からの勧誘にやる気を見せていた雪ノ下雪乃とはいえ、同じグループの残り2人の動向に左右されるのは間違いない。別の職場を見学する事になってくれればベストだが、問題を起こしにくい部署に行ってくれるだけでも万々歳である。少なくとも、彼と彼女が同じグループになるはずがないのだから、とばっちりだけは回避できるだろう。

 

 

 以上のような思惑を抱えて、八幡は足早に部室へと歩を進める。早足の理由はもちろん、由比ヶ浜と一緒に部室に向かう事になるのを避ける為である。

 

 放課後に由比ヶ浜と並んで部活に行く事を普段から避けている八幡ではあるが、特に彼女の事が嫌というわけではない。昨日は偶然、途中から一緒になったが、誰かと話しながら目的地に向かうのも良いものだなと思ったほどである。しかし日陰者の自分とトップ・カーストの彼女という身分の違いが彼に引け目を感じさせていたし、同道すべきではないという義務感のようなものがあった。それに高校生男子に特有の気恥ずかしい気持ちもある。

 

 今日はそれに加えて、いつもと違う時間帯という要素も加わっていた。昼休みに普段とは違った行動を取る事には、心を躍らせる気持ちの他に緊張感をも抱いてしまう。本日限定の特別な行動に、由比ヶ浜と並んで歩くという特別な行動を加えると、倍率は更に倍である。八幡がそれを避ける為に、いつにも増して慎重かつ迅速に動くのも、無理のない話であった。

 

 

 部室で由比ヶ浜に怒られる事は確実だろう。八幡はその光景を想像しながらも、心の何処かで安堵していた。叱られたり責められたりして喜ぶ性癖は持ち合わせていないが、彼女が怒ってくれる事を信じているのも確かである。

 

 もしも彼女が彼の行動に興味を示さなくなれば。もしも彼女が他の生徒達と同じように彼を見下すようになれば。そんな未来を想像するのは、今の八幡にはとても怖い事である。彼女ならばそんな事はしまいという信頼の気持ちを彼は彼女に抱いているので、それが裏切られる事がとても怖ろしいのである。文句を言うという事は、未だ彼女が彼を邪険に扱う意図を持っていない事の表れであり、それを確認できると思うが故にこそ、彼は怒られる事を待ち望むのである。

 

 要するに八幡は、彼女から特別扱いされる事も望んでいないが、同時に見放される事も望んでいないのである。最低限の応対をしてくれればそれで満足だと考える、攻略側からすれば面倒なヒロイン属性を持つ八幡であった。

 

 

***

 

 

 部室に現れた由比ヶ浜の怒りを宥めるという一連の定型作業を終えた後、奉仕部の3人は昼食を食べながら話に花を咲かせていた。珍しく八幡が話題を振る姿を残りの2人は訝しげに眺めるものの、昨日の部活で出た話なので、あえて疑問を口にすることは無かった。

 

「昨日の話なんだがな。職場見学って3人1組らしいんだが、お前らって誰と組むかもう決まってんの?」

 

「あたしは優美子と姫菜と組むと思うけど?」

 

「私も、普段の面々で行動する事になると思うわ」

 

「お前ってクラス内で浮いてんのかと思ってたけど、組んでくれる奴はいるんだな」

 

「人の心配よりも自分の心配をしてはどうかしら。私は別にクラスで孤立しているわけではないし、話し掛けてくれる同級生は大勢いるのよ?」

 

「俺の場合は逆にあれだ。2人組しか作れなかった所に入るしかないから、心配する必要は全くない」

 

 心の中で「計画通り」と快哉を叫びつつ腕時計を眺めながら、八幡は胸を張って自身の境遇を説明する。雪ノ下と職場見学を共にする可能性は無いと確認できて、彼は今日ここに来た目的を果たせてご満悦であった。

 

 常よりも更に奇妙な彼の態度に首を傾げながらも、彼女ら2人は春だしそんな事もあるだろうと考えて深く追求しない事にした。次なる話題は、あと2週間を切った中間試験の対策である。

 

 

「由比ヶ浜さんは、中間試験は大丈夫なのかしら?普段、勉強をしているようには見えないのだけれど」

 

「うーん。……しなきゃいけないとは思うんだけど、机に座っても続かないんだよね」

 

「義務感が先に立つと集中力が続かないのも無理はないのかもしれないけれど、最低限はクリアしておかないと後で面倒な事になるだけよ」

 

「それも解ってるんだけどねー。だから努力しないと、とは思うんだけど。なんだか面白くないっていうか、あたしに合わないんだよね。むしろ、勉強が苦手なのがあたしの個性っていうか、さ」

 

 自分の発言に問題がある事は由比ヶ浜も充分に自覚しているのだろう。少し溜息を吐いて遠くを眺めながら、彼女は独り言のように呟く。少しだけ間を置いて、彼女は再び口を開いた。

 

 

「あたしも、ゆきのんみたいに頭が良かったら、勉強が面白いって思えたりしたのかな」

 

「それは違うわ、由比ヶ浜さん。勉強ができるできないに関わらず、最初のうちはどんな勉強でも、覚える事が多くて単調で面白くないものよ。ただ、それを続けていると急に視界が開けて、その勉強の面白さや奥深さが理解できるようになるのよ」

 

「んー。じゃあゆきのんも、勉強って面白くないなーって思いながら暗記に励んでる時もあるって事?」

 

「ええ、そんな事はしょっちゅうあるわね」

 

「そっか。……うん、そうだよね」

 

「ええ、そうよ。でも、そんな時期を乗り越えて、自分が積み上げてきた物事を自覚した時には、とても充実した気持ちになれるのよ。由比ヶ浜さんもそれをクッキー作りの時に体験したでしょう?」

 

「あ、うん。そうだね。……てか、ヒッキーはちゃんと勉強してるの?」

 

 

 振り返れば自分でも子供っぽいと思ってしまう愚痴をきちんと聴いてくれて、正面から正論を説いて励ましてくれる目の前の女子生徒と向かい合うのが急に恥ずかしくなって、由比ヶ浜は半ば強引にもう一人の部員に話を振る。しかし彼の返答は簡潔で、そして彼女とは違う立場である事を表明するものであった。

 

「俺は普段からちゃんと勉強してるぞ」

 

「うそ、裏切られたっ!」

 

「最初からおバカの仲間入りはしてねぇよ。つか俺は国語だけなら学年3位だぞ」

 

「え……。ぜんぜん知らなかった」

 

「全教科で学年1位と2位は確定してるから、あれだ。人外の存在を除けば、俺は人界のトップって事だな」

 

「勝手に人外の扱いにしないで欲しいのだけれど。それに、全国に目を向ければ私以上に勉強ができる生徒は大勢居るのよ、井の中のヒキガエルくん?」

 

「だから、何でお前は俺の過去のあだ名を、いちいち的確なタイミングで披露してくれちゃうのよ?」

 

 

 いつものように、口では喧嘩をしながらも息の合ったやり取りを始める2人を眺めながら、由比ヶ浜は複雑な感情を抱いていた。雪ノ下だけでなく八幡も頭が良いという事実は、自分だけが仲間外れになったみたいで少し寂しい。しかし同時に、同級生のほとんど誰も知らないであろう彼の長所を知れた事はとても嬉しい。彼が実は頭が良くて、得意科目が国語であるという事を知っているのは、この教室に居る自分たちだけなのだ。

 

 しかし同時に彼女は、以前に教室で雑談をしていた際に葉山隼人が何気なく口にした話題を思い出した。国語担当の平塚先生が「国語では学年で3人だけが飛び抜けている」と教えてくれたという話を。あの時は、もう1人の謎の生徒は誰なのだろうと皆が無邪気に色んな名前を挙げていったのだが、挙がった中に彼の名は無かった。しかし多少の交流がある今なら、そして彼と楽しげに小説の話をしている葉山なら、既に気付いていても不思議ではない。

 

 たとえ自分が詳しくない小説の話が切っ掛けだったとしても、八幡の事で葉山に先を越されるのは少し悔しい。それに、その事をもし葉山が同じグループの面々に明かせば、最近クラス内で密かに囁かれている噂にどう影響しないとも限らない。彼女は自分で自分をおバカな存在だと思っているが、しかし人間関係の機微などには目の前の2人よりよほど敏いし頭が働く。

 

 しばらく様子見と言っていたけど気を抜かない方が良いと、彼女は心の中で決意しながら再び会話に加わるのであった。

 

 

「でもさ。ヒッキーって専業主夫志望って言ってたのに、なんでそんなに勉強してるの?」

 

「あー。……まあ、友達いねーし勉強ぐらいしかする事がないってのもあるんだけどな」

 

「実は哀しい理由だった!」

 

「あと、あれだ。俺はスカラシップを狙ってたからな」

 

「……すくらっぷ?」

 

「由比ヶ浜さん、比企谷くんの未来を示唆してあげるのは今は止めておきましょう」

 

「珍しいな、雪ノ下。俺は今もう既に廃棄物の扱いを受けてるぞ。主に自宅で」

 

「はあ……。貴方がそんな態度だと、妹さんも苦労しているのでしょうね」

 

 額を押さえるいつものポーズで呟いて、即座に失言に気付いた彼女は、間を置かず由比ヶ浜の質問に回答を返す。彼に妹が居る事をなぜ知っているのだと、2人が疑問に思う前に。

 

 

「それで由比ヶ浜さん、スカラシップの説明を簡単にするわね。要は予備校などが出す奨学金の事なのよ」

 

「最近の予備校は成績が良かったら学費を免除してくれるんだわ。だから親から予備校代を貰っておいて、スカラシップが取れたら丸々お小遣いにできるって寸法だな」

 

 八幡が説明を引き継いでくれて、何とか話題を逸らせた事に安堵する雪ノ下であった。一方で由比ヶ浜は得意げに語る同級生に白い目を向ける。

 

「それって詐欺じゃん」

 

「ばっかお前。学費を出して成績が上がれば親も満足だし、俺も成績に加えて小遣いが増える。予備校も成績優秀者を確保できて、三方一両得じゃねーか」

 

「とはいえ、その計画は既に画餅なのだけれど」

 

「そうなんだよな……。この世界の物価に合わせて予備校代もかなり安いし、そもそも金を使う機会があんまり無いからなぁ。最初に納入した学費が現金で返ってくるから旨味があったのに、仮想通貨で返って来てもなぁ……」

 

「この世界でしか存在しないものに、お金を使うのは気が進まないものね」

 

「それに、もしお金を使うとしてもベッカムで充分だよね」

 

「ベッカムじゃなくて、ベーシック・インカムな」

 

 

 この世界は所詮はデータに過ぎないという事もあって、物価はとても低く抑えられている。おおよそ外の世界の1割程度で、それでもこの世界に進出した企業からすれば充分に利益が出せる額だ。なぜならば、現実にある店舗や商品を基にして運営会社が何から何まで作成してくれるので、初期費用も維持費も人件費も必要ないからだ。要は暖簾代を得ているようなもので、現時点では大きな利益にこそなっていないものの、損をする可能性もほとんど無い。

 

 そして、この世界で用いられている仮想通貨は現実の日本円との交換が可能である。しかし企業の売り上げのように高額であれば交換する価値があるが、個人の収入程度では交換の手数料が馬鹿にならない。そして企業であれば仮想通貨を使った決済の機会も多くあるので現実の通貨に交換せずとも使い道はあるが、個人では使い道に困ることが多い。

 

 この世界では衣食住が保証されており、参考書なども一定額までは経費の扱いになるので学生達は無料で利用できる。更にはベーシック・インカムと称したお小遣いが月ごとに支給されるので、数少ない出費の機会にもそれで事足りてしまうのである。一応はこの世界でもバイトが可能であり、その代価は各企業ではなく運営から支給されるのだが、敢えてそこまでして金銭を稼ごうとする者はほとんど居ないだろう。

 

 日本円からこの世界で使用される仮想通貨に両替する際には、手数料は掛からない。その理由は、ゲームに従事する一般プレイヤーに課金を促す為である。金に糸目を付けないプレイヤー達は最初から高額な武器などを使用できるが、しかしそれでごり押しできるほど甘いゲームバランスにはなっていない。ともあれ、手数料が引かれるとしても現実の金銭として返してもらう方法が存在している事で、一般プレイヤーの多くはログイン前にかなりの額を課金していたのであった。

 

 一方で学業に従事する彼らゲストプレイヤーの場合は、保護者から受け取った授業料の中から高校や塾が課金して、この世界で必要な支出を一括で賄うという形になっている。もしも生徒達が個別に予備校などに通うのであれば、足りない費用を現実で保護者から受け取って、この世界の仮想通貨で予備校側に支払うという流れになる。この世界でのこうした仕組みによって、八幡の企みは露と消えたのであった。

 

 

「でも、勉強してないのがあたし1人って判って、ちょっとやる気が出て来たかも」

 

「そうね。できれば私も2人揃って一緒に卒業したいから、そのやる気を維持してくれると嬉しいのだけれど」

 

「ちょっと待て。今さらっと俺を除外したよね?」

 

「あら。貴方は純粋な学業よりも、泡銭を稼ぐ方が大事なのでしょう?」

 

「だからその夢は破れたんだっての」

 

「じゃ、じゃあさ。3人で一緒に卒業できるように、今日の放課後とか、試しに勉強会とかどう、かな?」

 

「おい。確か今ここに居るのって、放課後に集まれないからって理由じゃなかったか?」

 

「確かにそうだけど!なんか、そういう言い方をされると、ばりむかーってなるんだけど!」

 

 おどおどと提案していた先程の彼女はどこへやら、ぷりぷり怒って予定を進める由比ヶ浜であった。

 

「じゃ、ヒッキーは今の無神経な発言の責任を取って強制参加ね!ゆきのんも勉強会に来て欲しいんだけど……ダメ?」

 

「し、仕方がないわね」

 

 

 一瞬で事が決してしまい、その日の放課後に近くのファミレスにて勉強会を行う事になった奉仕部の面々だが、互いに隠そうとしながらも、全員の顔には少し嬉しげな笑顔が浮かんでいたのであった。

 




適度な長さになったので今回はここまでです。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
なぜこう書いたのか作者本人にも謎ですが、ケーキ→クッキーに修正しました。(9/2)
ガハマさんらしくないと思えたセリフを一部修正しました。(9/2)
細かな表現を修正しました。(9/21)


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04.どんな世界でも彼らは同じ状況に陥る。

いわゆる倒叙型の構成になっています。



 放課後に誰かと待ち合わせて遊びに行った経験のない比企谷八幡は、今日の勉強会が現地集合というメッセージを見てほんの僅かに違和感を覚えたものの、少し考えた末にそういうものかと納得した。どうせ現地で一緒に長い時間を過ごすのだから、そこに向かうまでの短い時間まで共に過ごす必要はないと考え、八幡は浮かんだ疑問を己の中で解決したのである。それに単独行動は彼にとっても望むところだ。

 

 彼はいつものように静かに教室を出て廊下を歩き、上履きを履き替えて校門に向かう。普段は意識していなかったが、その道中のそこかしこで生徒たちが待ち合わせをしている光景が彼の目に飛び込んで来た。なるほど確かに、こうして普通に観察してみると待つとはとても目立つ行為である。待ち合わせに遅れるべきではないと妹から厳しい教育を受けている彼は、下校途中の他の生徒たちに訝しげな目を向けられる立場に陥らずに済んだ事を悟り、クラスメイトの女子生徒に密かに感謝をするのであった。

 

 

「あ、ここか」

 

 足が覚えているとはよく言ったもので、ぼんやりと考え事をしながら歩いていた八幡は、気が付くと目的のファミレスに着いていた。ざっと席を見渡してみるが、彼が教室を出た時にまだお喋りをしていた由比ヶ浜結衣の姿はもちろん、普段は必ず部室に一番乗りを果たす雪ノ下雪乃の姿も見えない。入り口から見付けやすい席に陣取って、注文は後回しにして、彼はそわそわした気持ちで部活仲間の来訪を待つ。

 

「てか、あいつら……来るよな?」

 

 罰ゲームによる嘘の告白や、女子に手紙を代筆させた男子生徒の悪戯で呼び出された一件など、彼は過去の待ち合わせで碌な目にあった事がない。もし今日もそんなオチが待ち受けていれば、号泣では済まない深刻なダメージを受けてしまうと気付いて彼は少し身構える。

 

「はぁ……そん時はそん時だ」

 

 とはいえ今さら何ができるでもない。1ヶ月半という期間を共に過ごした彼女たちを信じるしかないのである。そこまで考えて八幡は、他人を信じようとする自身の心の動きを自覚して少し呆気に取られたが、それも悪くはないのかもなと思い直し苦笑いを浮かべるのであった。

 

 

***

 

 

「えーと。……あ、ヒッキーいた。やっはろー!」

 

「……遅くなってごめんなさい。その、こうしたお店に来たことがあまり無くて」

 

 しばらくして、待ち合わせ相手の女子生徒2人が揃って姿を見せた。どうやらお店の場所があやふやな雪ノ下の事を考えて、念のため一緒に来る事にしたようだ。彼女らが普通に来てくれて八幡は密かに胸を撫で下ろすのだが、同時にそんな事にすら疑いの目を向けていた自分に幻滅する。複雑に考え過ぎてドツボに嵌まる、いつもの彼の平常運転であった。

 

「じゃあ、先に飲物を取りに行こっか。ゆきのん、こっち」

 

 雪ノ下は最初の外出の際には珈琲店に行ったようで、ドリンクバーの仕組みが分からず戸惑っていた。そんな彼女に破顔しながら、由比ヶ浜が何くれと世話を焼き始める。今までの人生でドリンクバーを経験した事がなかったらしい彼女に驚きながらも、由比ヶ浜の指示に従ってアイスティーをコップに注ぐ彼女の真剣な眼差しを見ると、八幡は彼女を茶化す気持ちが湧いて来なかった。飲み物を無事に入手した彼女がこちらに向けた視線を意識しながら、彼は温かいココアの注ぎ方を実演してみせる。目を輝かせながら納得する彼女を見て、ふと八幡は妹が幼かった頃の事を思い出すのであった。

 

 

「では、勉強会を始めましょう」

 

「ん、了解」

 

「え……。なんで二人とも音楽を聞くの?」

 

 みんなで勉強会をするというのに、ヘッドホンやイヤホンを装着して各々の世界に旅立とうとする2人に呆れる由比ヶ浜だったが、勉強は個人個人で積み上げていくものだと言われると反論できない。中間試験の期日は迫って来ていて、のんびりとお喋りをしている暇はあまり無いのだ。残念に思う気持ちもあったが、真剣に勉強に取り組む2人に触発されて、彼女もまた勉強に取りかかる事にした。しかしその集中力は長くは続かない。

 

 あ、と声を上げた由比ヶ浜の様子に気付いて、八幡がイヤホンを外す。声が聞こえたわけではなく気配を感じ取った様子で、八幡は少し首を傾げながら目だけで彼女に事情を尋ねる。ふと机から目を上げた際に見付けた、見知った少女の後ろ姿を指差す由比ヶ浜。彼女の指に従って入口の方を眺めると、顔は見えずとも彼には見間違えようはずもない大切な妹が、制服姿の男子生徒と並んでお店を出て行く姿が見えた。

 

「妹だ。悪い、ちょっと……」

 

 それだけを告げて妹を追った八幡だが、ちょうど入って来た団体客に邪魔されている間に見失ってしまったらしい。気落ちした様子で席に着いた八幡に由比ヶ浜が声を掛けた。

 

 

「妹さん、追い付けなかったの?」

 

「ああ。何故あいつが男子なんかとファミレスに……」

 

「デートだったりして?」

 

「馬鹿な!ありえん……」

 

「だって小町ちゃん可愛いから、彼氏がいても不思議じゃないじゃん」

 

「よし分かった。やっぱあいつをSATSUGAIして来るわ」

 

「比企谷くん、公共の場で犯罪予告は止めなさい」

 

 ヘッドホンを片方だけ持ち上げた状態で2人の会話を聞いていた雪ノ下が注意を促す。ネタ元の説明をするのは面倒なので、八幡は己の心情を説明する事にした。

 

「あー、すまん。さっきのは言葉のあやだから忘れてくれ。だがな、俺の妹が正体不明の男に連れ去られたんだぞ」

 

「どう見てもただの中学生だったじゃん」

 

「いや、あんなに可愛い俺の妹が相手だ。いつ豹変しても不思議じゃねーだろ」

 

「……ヒッキーって、もしかして、シスコン?」

 

「シスコンじゃねーよ。むしろ妹としてではなく女性として……って冗談だから!ナイフを握りしめるのは止めて!」

 

 

 妹に向ける歪んだ愛情にトラウマでもあるのだろうかと思えてしまうほど機敏な反応で、迷いなくナイフを逆手に握った雪ノ下の姿を見て、八幡は慌てて全力で謝罪する。何が彼女の逆鱗に触れたのか判らないが、倫理に悖る言動に雪ノ下が厳しいのは充分に理解できる。彼の心からの謝罪に対して、彼女は抑揚のない口調でこう答えるのであった。

 

「お兄さんはとんでもない大嘘つきですね。ブチ殺しますよ?」

 

「あ……。やせ我慢もできないほど怖いんだが。つか、棒読みなのになんでそんなに上手いんだよ。妹の事は大事だが、女性として云々は冗談だからな」

 

「さすがはお兄様です」

 

「全く褒められてる気がしないってか、もしかして実刑は確定済み?……ゆきノ下、ちょっと頼むから考え直してくれ」

 

 命の危険すら覚える八幡には気の毒な事だが、端から見れば仲の良い高校生男女がじゃれているようにしか見えない。勉強の成果は今ひとつだったが、こうして彼らの放課後は今日も平穏に過ぎていくのであった。

 

 

***

 

 

 大和は子供の頃から体格が良く、運動の得意な少年だった。温和な顔つきも影響したのか、彼は小学生の頃からクラスの中心として過ごして来た。しかしクラス替えが済んで間もないある日の体育の時間の事。他のクラスメイトが走り終えて暇そうにしている姿は見れば分かるだろうに、ちんたらとグラウンドを走り続ける男子生徒がいた。彼はその生徒に近付いて叱咤激励し、全力で走るように促した。直後に事情を知ったのだが、その生徒は生まれた時から心臓に病気を抱えていて、医師に激しい運動を制限されていたのである。彼は自分の軽はずみな行動を後悔して、同時にクラスの中心としての資質に疑問を持つようになった。

 

 中学生になって、彼は相変わらずクラスをまとめる役割を果たしていた。しかし小学生の頃に抱いた自身の能力への不信感は年々増していた。周囲の友人たちの反応をこっそり窺ってみると、彼が何か決断を下した時に、それに不満を抱いている者が少なくないと嫌でも理解できた。彼の判定に不服なら代案を出せば良いし、いっそ彼に代わってクラスのまとめ役をしてくれたら良いのに。彼はそんな事を考えながら、表立っては行動しないくせに裏で自分を悪く言うクラスメイトに嫌気が差していた。次第に決断をためらう事が多くなり、問題の裁定を他の生徒たちに委ねる機会も増えた。それでも彼は中学卒業までは、己に課せられた役割を何とか果たして来たのである。

 

 優柔不断な行動が増えた事と相関するかのように、彼の成績は上向いていった。人間関係には正解がなく、むしろ周囲を失望させてしまう事が多い。しかし学校の勉強には何でも正解があって、そして教師にやれと言われた事を素直に実行しているだけで、気付いたら結果が伴っていた。彼はそのお陰で、付近では進学校として有名な総武高校に入学できたのである。

 

 

 高校生になって、彼は今までのようにクラスの中心として過ごすのはこりごりだと思っていた。自分には物事の問題点を整理して対処法を提示したり、集団の中で意見が分かれた時にそれを収拾できる能力は無い。誰かの指示に従って愚直にそれを実行する立場がお似合いだと思った彼は、上下関係が厳しい運動部で高校生活を過ごす事にした。ラグビー部での1年間は、時に上級生から理不尽な命令もあったものの、概ね平穏に過ぎていった。

 

 部活動を優先してクラスを顧みなかった彼も、高校2年に進級すると少し認識を改める必要を感じていた。下級生が入って来る以上は、今までのように先輩の命令を盾にしてクラスから逃げ出す事がやりにくくなるだろう。ならばクラスでもそれなりの関係を築いておかなければならない。1年間を部活優先で過ごして来た為に、優柔不断な性格など中学時代に彼の短所とされていた事はクラス内でほとんど知られていない。クラスのトップに祭り上げられない限りは大丈夫だろうと思いながら、彼は自分が庇護を受けられる存在がいないものかと教室を見渡す。そして運良く、同じ運動部に所属している事で多少の面識があった葉山隼人とクラスで一緒に過ごす事になったのであった。

 

 

 大岡は今でこそ小柄な体格だが、小学生の頃は背も高かったし今と同様に足がとても速かった。そんな彼がクラスに君臨する事になるのは当然の成り行きだろう。彼が他のクラスメイトに指示する内容は間違っている事も多かったが、それが笑って許されたのは彼の性格が原因である。どこか憎めない彼の性格は、子供の頃からの特徴であった。

 

 中学でも彼は同じように過ごせると思っていたが、不安材料が2つあった。1つは彼が低学年の頃に憧れの目を向けていた、彼よりも足の速い高学年の先輩たちが、中学から高校へと進学していく中でかつての輝きを失くしていった様子を目の当たりにしたからである。足が速いだけで楽しい毎日を送れるほど中学や高校は甘くないと知っていた彼は、新しい環境に内心密かに怯えていた。

 

 もう1つは彼の身長が伸び出すのが早く、そして成長期が早いと最終的な身長は伸びにくくなるという話を耳にした事である。同級生よりも身長が高い事は彼の自信の源でもあり、そして彼の立場が尊重されている理由の1つでもあると彼はしっかり認識していた。もしもその優位が失われてしまえば、今までのようなクラスでの過ごし方は難しくなるだろう。

 

 彼はできる限り筋トレを避け牛乳を飲み、思い付く限りの対策を行ったものの、結果は芳しくなかった。小学生の頃からの経験と足の速さを売りに鳴り物入りで加入した野球部でも、彼の地位は徐々に低下して行った。中2の途中で成長が止まった事を認めざるをえなくなった時、彼は既にクラスの中心ではなかったし、周囲の友人も彼を特別扱いする事はなかった。それどころか彼が小学生の頃の適当な発言を今頃になって持ち出して、冗談交じりではあったが当時の苦労を語られたりした。

 

 相手の立場に応じて豹変する同級生の態度には辟易したが、かといって彼に残った数少ない友人を袖にするわけにもいかない。この時から彼は周囲に細かな気を配りながら過ごすようになり、やがてそれは彼の生来の人懐こさと共存して、彼の性格を特徴付ける事になる。彼は残りの中学生活を要領良く過ごす事に成功して、それは学業面でも同様であった。志望校のランクが高いと彼を危ぶむ声もあったのだが、何とか彼は総武高校に合格できたのである。

 

 

 高校に入学して、彼はやはり野球部に入る事にした。陸上などの個人競技よりも団体競技の方が自分には向いていると思ったし、足の速い部員が少ないこの高校の野球部なら出番も多くあるだろう。彼は事前に幾つかの部活を見学した末にそう判断したのである。部活を通した友人関係は簡潔でさっぱりしていて、発言や行動の裏を読む必要はほとんど無かった。そうした運動部の良い面が出ていた事も彼には幸運だった。

 

 だが、高校2年に進級する頃、彼はまた少し人間関係に不満を覚えるようになった。中学の途中から彼の特徴になった周囲への気配りだが、それを当然と思われたり、それに気づかれない事に少しずつ嫌気が差して来たのである。彼は自分が周囲に行っている配慮を誰かに気付いて認めて欲しいと思い始めていた。

 

 そんな折に進級に伴うクラス替えが行われ、彼は葉山隼人と同じクラスになった。運動部同士で交流があったので顔と名前は知っていた葉山が、何気ない雑談の中で野球部のムードメーカーとしての彼の働きを褒めてくれた時、彼は自分が求めていたものが目の前にある事に気付いた。こうして彼はクラスでは葉山と行動を共にする事になったのである。

 

 

 大和も大岡も、最初の1ヶ月は葉山グループで大過なく過ごす事ができた。グループ内では葉山を介して繋がる線が非常に強く、葉山以外の面々との直接的な繋がりは希薄だったが、彼らは2人ともそれで良いと思っていた。彼らが求めているのはグループではなく、葉山という個人だったからである。

 

 しかし、そんな関係にも危機が忍び寄っていた。3人1組で行われる職場見学。普段から葉山と彼のサッカー部の同輩を加えた4人で行動しているグループから、1人だけが脱落する。最初の学校外への外出の時には4人が上限だったので問題なかったが、今回は誰かが必ず離れなければならない。

 

 普通に考えると、サッカー部という繋がりがある以上は大和か大岡が別のグループに回る可能性が非常に高い。しかし、ここに来て状況がまた少し変化していた。1年の頃からクラスで孤立していたとある男子生徒の存在がその原因である。

 

 誰とも交わらないはずのその男子生徒と葉山との間には、テニス勝負などのイベントを経て、細くともしっかりした繋がりができていた。現に先月の外出の際にも彼は自転車置き場まで一緒だったし、その後も葉山が機会を見つけては教室で話し掛けている。もしも葉山が彼と一緒の組になる事を望めば、残る枠は1つである。その場合はサッカー部の彼が最後の座を占め、大和も大岡も別のグループに行かされてしまう未来が最も考えられる。

 

 従来であれば彼ら2人には共闘のメリットは無い。しかしライバル2人を蹴落とすという点では彼らは目的を共有する事ができる。もしも首尾よく2人とも排除できて、葉山と大和と大岡で同じグループになれるのであれば、2人としても文句は全く無いのである。

 

 

 その噂を広めようと謀ったのは2人のどちらが先だったのか、詳しい事は判らない。現実の世界であれば適当なアドレスを利用してクラス内にチェーンメールで広める事もできたのだが、この世界ではメッセージの送り主を隠す事はできない。だからこっそりと少しずつ、クラス内で噂を広めるしかなかった。

 

 同じクラブの友人との会話で話を誘導するなどして、彼らは少しずつクラス内で噂を広めていった。最初はクラス内で孤立している男子生徒に関する噂を。そしてサッカー部の彼の噂は、疑われないように彼ら2人の噂と共に。

 

 ライバルの彼らが決定的にクラスの嫌われ者になるような酷い噂を流すつもりは2人には無かった。ただ職場見学さえ乗り切れれば良いのだ。同じサッカー部なら今後いくらでも交流の機会があるだろうし、普段から独りで過ごしているのだから葉山と同じグループになるのを譲ってくれても良いはずだ。悪い噂を真に受けて、今回だけ遠慮してくれればそれで充分なのである。

 

 彼らは注意深く行動していたが、しかし効果については正直疑問であった。最終的に葉山と別のグループになるなら仕方が無いが、やるだけやってみるかという程度の、覚悟も見通しも足りない行動であった。それが予想以上に上手くいって、クラス内に不穏な噂が囁かれるようになって、いちばん慌てたのは彼ら2人である。しかし今更それを悔いたところで、動き出した話は途中で止められないのである。

 

 

 かくして、クラス内の黒い噂に心を痛めた葉山隼人は、それを相談する為にとある部室を訪れる事になるのであった。




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し地の文が多く読みにくいように思えたので、幾つか会話を付け足しました。(9/7)
感想でのご指摘を受けて、小学生の頃から野球経験がある設定に変更しました。(9/7)
誤用などを修正し表現に訂正を加えました。(9/21,11/15)
苗字だけだと響きが良くないかと思い、本話で取り上げた2人に名前を付けてみたのですが、読み返すと単に寒いだけにも思えたのでカットしました。それに伴い前書きを書き直しました。(2/20)


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05.ここにあざとほんわか天使が降臨を果たす。

今回はタイトルの通りです。



 顧問の先生が市教研に出席するので部活が休みになったこの日。一色いろはは部活で使う用具を購買と見比べるために外のスポーツ店に行きたいという名目で、サッカー部の先輩2人を連れ出すことに成功した。連れ出された男子生徒2人としても、この世界のスポーツ用品に各々どんな差異があるのか気になっていたので、彼女の提案に興味を惹かれたのも当然だった。

 

「購買のと比べて、スパイクどうですか?」

 

「やっぱり軽さが違うな。それと履き心地と。ここまで感覚を再現されると脱帽だね」

 

 もちろん彼女にとっては葉山隼人を連れ出すための口実に過ぎないわけだが、だからといってそれを疎かにはできない。内心の思惑はさておき、職務に熱心な様子を示しておくのは大事である。まずは少しずつ機会を重ねて親密さを増して行く。今はその段階なのだと彼女は考えていた。

 

 最終的に付き合うことを目指すのか、それとも特別な後輩というポジションを維持し続けるのか。正直に言うと彼女はそこまで先の事は考えていない。他のどの先輩よりも、葉山と特別な繋がりを持つ事が高校生活を送る上で有利だと考えてアプローチしているだけで、どうしても彼でなければという強い気持ちは未だ沸いて来ない。

 

「ビブスは、こっちのが丈夫ですね〜」

 

「購買のは、すぐに破ける時があるからな」

 

 彼女は自分の魅力をきちんと認識していたし、それをどう活かせば良いのかも理解していた。中学までの多様な経験によって、彼女は男性に対する振る舞い方を熟知していたのだが、その秘訣は相手との距離の取り方にあった。距離を縮めるべき時に縮め、踏み込むべきでない時は少し離れて相手を安心させる。彼女はその判断がとても優れていたのである。

 

 お陰で彼女は特定の男の子と親しくなった時にも、その他大勢の男子から恨みを買わずに済ませられた。彼女の事を勝手にライバル視して醜い嫉妬を燃やす女子生徒もいたのだが、お目当ての男子生徒の前では大人しくせざるを得ない。陰口を叩かれたところで、彼女に好意的な男子の耳に入った時点で勝手に注意して解決してくれるので問題にならなかった。

 

 

「あ、そういえば。ちょっと噂を聞いたんですけど〜」

 

 葉山たちと同じクラスで時おり彼女に話し掛けてくる先輩がいるのだが、彼女はふと彼から聞いた話を思い出した。葉山のクラスで少し嫌な噂が流れているというのである。お店に着いて以来、存在も発言も完全に無視していたもう1人の先輩に目を向けて、彼女は問い掛ける。

 

「最近、何か恨まれるような事をした覚えってあります?」

 

「へ?俺が?……いやー、いろはす。そりゃねーわ」

 

 あまりにも意外な一色からの問い掛けに、戸部翔(とべかける)は少し呆気にとられたものの、すぐにいつもの調子を取り戻した。彼の横に立つ葉山は少し険しい表情になっていたのだが、彼はそれに気付かない。

 

「う〜ん……。わたしは違うって判るから良いんですけどね。戸部先輩が喧嘩っ早いって噂が……」

 

「は?」

「いろは。それを誰から聞いたんだい?」

 

 唖然とした表情で間抜けな声を上げる戸部に被せるようにして、しかし葉山はいつもの口調で後輩に質問をした。

 

「え〜と、ちょっと知らない名前の先輩方が話しているのを偶然ですね」

 

 おそらく一色の身を案じて、そしてサッカー部にまで影響が及ばないかと心配して話してくれたのであろう男子生徒には気の毒な事実が判明した。情報源をぼかす意図もあるのだろうが、どうやら彼女には名前を覚えられていなかった模様である。それなのにここまで夢中にさせるとは、彼女が放つメロメロの威力がいかに規格外であるかが解ろうというものだ。

 

「それって、俺と同じクラスの奴かな?」

 

「う〜ん……。たぶんですけど、違うクラスにまでは広がっていない感じを受けました」

 

 葉山の声に次第に真剣味が混じって来るのに合わせて、彼女も真面目に返事を返す。人差し指を頬に当てて考え事をしている彼女のポーズは、わざとらしくも可愛らしいものだったのだが、葉山には効果がなかった模様である。

 

「そうか。早いうちに手を打った方が良いかもしれないな」

 

「変な噂とかマジ勘弁だわー。隼人くんが動いてくれるなら安心だけど、恨みとかマジ止めて欲しいわー」

 

「葉山先輩。噂の事をもう少し詳しく調べた方が良いですか?」

 

「いや。下手に拡散させるのも嫌だし、こっちで早急に何とかするよ」

 

 どこか急ごしらえで作ったかのような笑顔を向けてくる葉山に微笑み返しながら、「では、お手並み拝見といきますか」と内心で呟いた彼女は、何だか自分が黒幕のような事を言ってるなと気付いて自然な笑みを浮かべる。

 

 彼女は噂を流した犯人やその人物の意図には興味がない。葉山の対応を見て、それによって自分がどこまで踏み込むかを計ろうとするクレバーな彼女には、この程度の噂など取るに足らぬものだと見抜くのは容易であった。

 

 おまけも込みで一緒にお出掛けをするだけでも充分だと思っていたのに、予想外の収穫を得られてほくほく顔の彼女は、普段とは少しだけ違った表情を見せていた。しかしながら残念な事に、彼女の天然の笑顔を識別できる生徒は、一色自身も含めこの場には誰もいなかった。

 

 

***

 

 

 翌日の水曜日。雪ノ下雪乃は部室で昼食を食べるために独り廊下を歩いていた。曲がり角を過ぎて、特別棟へと伸びる通路の先の方へと視線を送ると、そこには見知った顔の女子生徒が佇んでいる。彼女の顔を見据えながらゆっくりと近付いて行くと、向こうもようやくこちらに気付いたのだろう。ほんわかとした笑顔を浮かべながら、城廻めぐりが話し掛けてきた。

 

「こんにちは、雪ノ下さん」

 

「こんにちは、城廻先輩。何か御用ですか?」

 

 雪ノ下の返答は、ともすれば堅苦しく形式的だと受け取られかねない口調だったが、彼女は特にそれを気にする風には見えない。

 

「うーんとね、ちょっと部活の事でお話があるんだ。せっかくだし部室にお邪魔して、一緒にごはんとか、どうかな?」

 

「部活というと、奉仕部の事ですか?生徒会の他の役員の方々も同席されるのでしょうか?」

 

 少しだけ身構えながら、雪ノ下は質問に明確な返答をせず疑問で返す。1年の頃からクラスに知人は沢山いたが、彼女が同学年の何人かと友人関係と呼べる付き合いができるようになったのは2年になってからである。もしも奉仕部という存在がなければ、彼女は同級生から一方的な憧れを受けるだけの、対等とは呼べない関係しか結べていなかったに違いない。

 

 今の自分があるのは奉仕部のお陰だと、己が部活に必要以上の感謝の念を捧げている彼女にとって、その存続を脅かす者は等しく敵である。目の前にいる生徒会長からは底意を感じないが、しかし彼女は()()()が気に入る何かを持っていて、高校生活のうち短くない時間を共に過ごした仲だと聞いている。用心に越した事はない。

 

「うん。奉仕部の事なんだけど、悪い話にはしないから安心してね。一応は2人だけの予定だったけど、……嫌だった?」

 

 いつの間にか距離を詰められて、気付けば手を握られながらゆったりとした口調で話し掛けられていた雪ノ下は、驚きと照れ臭さと警戒感と安心感とが一気に湧き出た自身の感情を何とかコントロールしようと試みるのが精一杯で碌に返事ができない。反射的に首を横に振って、直後に自分の失敗に気付き、雪ノ下は敵意を浄化する存在の恐ろしさを身を以て体験したのであった。

 

 

 連れ立って部室に入って、生徒会長をお客様席に座らせて、雪ノ下は紅茶を淹れながら思考を働かせる。部室で落ち着きを取り戻せたお陰で、先程の彼女の発言に微妙な違和感があった事に気付いた雪ノ下は、それを手掛かりに検証を重ねていた。

 

 少なくとも「悪い話にはしない」という言質は取れている。そして言葉のニュアンスを考えると、彼女の用件は時と場合によっては「悪い話にもできる」ものだと考えられる。更に今の雪ノ下には事情が全く掴めていない事を考え合わせると、生徒会長から詳しい情報を得る事が当面の最善策に思えて来る。後は彼女を信頼できるかだが、底意を感じないという先の自分の判断を信じる事に決めて、雪ノ下は2人分のお茶を机に運ぶのであった。

 

「どうぞ」

 

「ありがとー。……って、すごく美味しい!昔はるさんが淹れてくれたのも美味しかったけど、この世界でもこんな味が出せるんだね」

 

「良い茶葉のお陰です。あちらで部室の写真を撮った時に、置いてあった茶葉の銘柄が写っていたみたいで」

 

「あ、じゃあ特別扱いなんだね。大事に飲もうっと」

 

「さすがに飲み放題とはいきませんが、運営が毎月同じものを補充してくれるみたいなので、遠慮なさらなくても大丈夫ですよ。……さて、お話を聴かせて頂いても?」

 

 気を抜くとほんわかと微笑ましい気分で包まれそうになる自分に活を入れて、雪ノ下は本題をスタートさせる。それに対してあくまでものんびりとした口調で、生徒会長は事情を語り始めるのであった。

 

 

「えとね、まだ大きく広まってはないんだけど、最近ちょっと変な噂が流れ始めてて」

 

「噂、ですか?」

 

「うん。うちの役員の子が報告してくれて。たぶん害は無いと思うんだけど、お知らせはしておこうかなって」

 

「という事は、私か部員の誰かに関する噂でしょうか?」

 

「うーん、惜しいけど不正解。正解は、奉仕部3人の噂、なんだよね」

 

 その返答を聞いて、雪ノ下は微かに眉をひそめる。正解を逃した事への苛立ちもごく僅かにあるが、小学生の頃から体験してきた下世話な噂の気配を感じ取ったのが主な原因である。彼女は少し疲れた表情で、溜息を漏らしながら話の続きを促す。そんな彼女の態度に気を悪くする事もなく、むしろ同情するように頷きながら、生徒会長は噂の内容を語るのであった。

 

「簡単に言うと、『女子生徒2人の弱みを握って調子に乗っている男子生徒がいる』という噂なんだ」

 

「はあ……。比企谷くんは弱みを握っても、いざとなると逃げ出すと思いますよ。なにせ好意ですら素直に受け取れない性格ですから」

 

 少しだけ身を固くしていた雪ノ下が一気に脱力して、その理由を説明する。取り越し苦労だと判って気を抜く雪ノ下に対し、話を持って来た彼女の反応は少し違ったものだった。

 

「あれ、彼って誰かから好意を寄せられてるの?もしかして……」

 

「違います。私ではないですし、それに恋愛的な意味ではなく、彼に以前助けて貰った子から向けられた好意ですね。それを『お礼を受け取るほどの事はしていない』と言って拒絶しようとしていた程ですので」

 

「ほぁー。セリフだけだと格好良く聞こえるけど、違うの?」

 

 素朴な質問に静かに頭を横に振って答えながら、雪ノ下はどう説明したものかと頭を悩ませる。彼が話す姿を見せれば一発で解って貰えると思うが、確かにセリフだけだと印象は全く違ってくる。

 

 雪ノ下は「同じ内容でも、話す人が違えば受け取り方が違ってくるものだけれど」と目の前の少女の演説を思い出して頭の中で呟きながら、少しだけ笑顔を浮かべる。それを見た城廻は、彼女たちが部活内で良好な関係を築けている事を悟り、同じように笑顔を浮かべるのであった。

 

 

「問題が無いなら、それでいっか。でも、もし困った事になったら相談してね」

 

「その、城廻先輩。どうして先輩はそこまで親身になって頂けるのでしょうか?」

 

「うーん。やっぱり、はるさんに沢山お世話になったからかな」

 

 そう言った彼女は、彼女ら姉妹の事情を少しぐらいは聞いているのだろう。のんびりと、同時にきっぱりと、目の前の少女の誤解を解くべく話を続ける。

 

「別にはるさんに頼まれたとかじゃなくてね。先輩からして貰った事を後輩に返すっていうか、そういうのに憬れてたんだ。だからもし雪ノ下さんがちょっとでも『あの時は助かったな』って思ったら、同じ事を下の学年の子にしてあげてくれたらな、って」

 

 目の前の先輩に疑いの目を向けていた事を雪ノ下は後悔していない。注意を払うべき状況だった事は確かだからだ。しかしこんな話を聞いてしまった時点で、雪ノ下が内心抱いていた疑惑は全て氷解してしまった。だから彼女はせめて今の素直な気持ちを伝えようと、口を開く。

 

「城廻先輩が生徒会長で、この高校の生徒はとてもめぐまれていると思いますよ」

 

 自分よりも先輩のはずなのに、年下のように可愛らしく照れる生徒会長を雪ノ下は眺める。噂も大した事はなかったし、独りで過ごすはずだった昼休みも存外に楽しいものになった。そうした事を自覚して、彼女は今こそ心からほんわかとした雰囲気に浸りながら残りの休み時間を過ごしたのであった。

 

 

***

 

 

 授業を後1つだけ残した休み時間。比企谷八幡は教室の後ろの方に注意を払いながら机の上にうつぶせていた。クラス内のトップ・カーストの面々が昼休みに続いて小声で何かを相談していて、教室はいつもとは少しだけ違った雰囲気に包まれている。視覚よりも聴覚に神経を集中していた八幡の目の前で、不意に何かが動き始めた。

 

 目に意識を戻すと、小さく可愛らしい手がひょいひょいと振られている。いつの間にか、八幡の前の席に戸塚彩加が座っていた。

 

「おはよ」

 

「……毎朝、味噌汁が飲みたい」

 

「ええっ?ど、どういう……」

 

「あ。……すまん、寝ぼけてたわ。で、どした?」

 

 危うく男の子にプロポーズしそうになった八幡であったが、内心では「男の娘なら仕方ない」などと全く反省していない模様である。

 

「あのね。職場見学って、もうグループは決めちゃった?」

 

「あー……戸塚はもう決めたのか?」

 

「……うん。ぼくはテニス部でグループになる予定なんだけど」

 

「あ、あれからも上手くいってんだな。部活に活気が出て良かったな」

 

「うん、ありがとね。……でも、最初の外出の時も比企谷くん、独りで行ってたよね。もし誰かもう1人の当てがあれば、ぼく……」

 

「ばっかお前。せっかく部活が良い感じになって来てんだから、俺なんかに気を遣うなって。それに俺って男子の友達がいないからなぁ……」

 

「あの、ぼく、男の子なんだけどな……」

 

 戸塚が何やら小声で呟いているものの、八幡の耳には届かない。職場見学のグループは特に男女別とは決まっていないが、同性の友達が皆無なのに異性の友達に期待できるわけもない。八幡は少し溜息を吐きながら背伸びをして、教室の後方で集まっている面々を横目で窺う。

 

 考えてみると、由比ヶ浜たち女子グループはお互いを名前で呼び合っている。男子が同じ事をやると、眼鏡の彼女が興奮しそうな疑惑を招く危険があるので女子に比べると頻度は少ないが、葉山などはグループ内で名前で呼ばれていたはずだ。では、やましい気持ちなど全くない俺も、目の前の人物を名前で呼んでも良いのではないだろうか。

 

「彩加」

 

 思わず実際に口に出してしまい、慌てたのは当の八幡だった。せっかく戸塚から話し掛けてくれるという今日の良き日を迎えられたというのに、馴れ馴れしく下の名前を呼んでしまっては全てがおじゃんである。彼は必死で弁明をすべく声を出そうとしたが、それよりも先に戸塚がその可愛らしい口を開いた。

 

「……嬉しい、な。初めて名前で呼んでくれたね」

 

「なん……だと」

 

 潤んだ瞳でこちらを見つめながら、八幡にとっては望外の発言を口にした戸塚は、重ねて予想外の言葉を口にする。

 

「じゃあ、ぼくも。……八幡?」

 

 ズキュウウウンという擬音が確かに聞こえた八幡は、戸塚の呼び掛けにシビれあこがれてすっかり放心状態である。休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴って、顔を赤らめたままの戸塚が自分の席に戻るのを見送りながら、八幡は心静かに今の心境を歌に託すのであった。

 

 

『勇気出し 彩加と呼んだら 八幡と 呼ばれた今日は 彩加記念日』

 




9月に入って、良い評価を1つと悪い評価を2つ頂きました。
1巻と同様に区切りまで読んで頂いた上で判定をお願いする作風ですので、低評価をされたお二方にもしもまた読んで頂いた際に「途中で見放したけど持ち直したんだな」と思って頂ける形にできるように。そして高評価を頂いた方の期待を裏切らぬように頑張って書き続けたいと思っています。
これからも本作を宜しくお願いします。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15,2/20)


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06.そこでは活発な議論が交わされる。

今回は久しぶりの依頼です。


 この日の放課後は常と違って、普段の2倍の人数が奉仕部の部室に詰めかけていた。最初に到着したのはいつもの通り部長の雪ノ下雪乃であり、次に現れたのは材木座義輝であった。もっとも彼は雪ノ下が1人待ち受けていることを確認した時点で入室する意思をすっかり喪失してしまい、廊下で友人の登場を待ちわびていた。

 

 彼にとっては気の毒な事に、友人たる比企谷八幡はこの日はなかなか姿を見せなかった。先刻の休み時間に体験した至福のひと時がその後も頭から離れず、他人から見れば気持ちの悪い思い出し笑いを何度となく繰り返しながら、机に座ったままなかなか動こうとしなかったからである。

 

 それに対して、普段は放課後に教室に残って長々とお喋りをしている仲良し3人娘はこの日は楽しげな雰囲気もなく、事務的とも思えるやり取りを男子グループと交わしただけで、すぐさま席を立った。そして幸せに浸る八幡を半ば引き摺るようにして、揃って部室へとやって来たのである。

 

「ちょ、お前らいきなり何なんだよ」

 

「いいから、さっさと歩くし」

 

「正直に言うと絵柄的には、とつはちはイマイチなんだよねー。傍目からすると健全すぎて面白みに欠けるっていうか」

 

「と、とにかく早く部室に行こっ!」

 

「分かったから、頼むから引っ張るなって!」

 

 由比ヶ浜結衣に制服の袖を掴まれたまま連行される八幡は、先程までは戸塚に惑って脳内がピンク色だった事もあり、事態の急激な変化を把握できず戸惑ったままである。少し恥ずかしそうに、ちょこんと彼の袖を握る由比ヶ浜の様子にもまるで気付かず、自分が見目麗しい女子生徒3人に囲まれている事も自覚できぬまま、彼は部室の前に姿を現した。それを見た材木座が思わず魂を飛ばしかけてしまうのも無理のない事であろう。

 

 こうして、久方ぶりに大人数が参加した部活が幕を開けたのであった。

 

 

***

 

 

 廊下での騒ぎから予測はしていたものの、実際に5人の生徒が一気に部室へと入ってくる光景を見て、雪ノ下は少し呆気に取られた表情を見せる。約1名を除き、そして部員の片割れは仕方がないと諦めるとして、普段であれば残りの顔ぶれは彼女にとって親しい面々であり、彼女らが突然部室にやって来たからといって唖然とする彼女ではない。つまり雪ノ下は彼女らの来訪そのものではなく、やってきた彼女らの雰囲気が予想外で少し固まってしまったのである。

 

 問題を早急に解決したいと意気込んでいる三浦優美子とは対照的に、海老名姫菜は普段通りマイペースの様子である。そして由比ヶ浜は怒っているのか恥ずかしいのか、その他にも焦りや苛立ちの表情も窺えて、一見しただけでは事情が全く判らない。とりあえずは席に落ち着かせてからだと考えて、来訪者を招き入れながら各々の配置を指示する雪ノ下であった。

 

 

 全員が椅子に腰を落ち着けている間に部長自ら淹れたお茶を出して、ひとまず教室内の空気は一息ついた形になっている。いつもと同様に雪ノ下の右手に由比ヶ浜が座り、その後ろに三浦と海老名が座る。それはいつかの材木座の依頼の時と同じ配列だが、今回の彼は依頼人ではないので八幡から見て左手に座っている。八幡の右手側のお客様席には、由比ヶ浜が椅子を準備していた。それをお茶を準備しながら確認していた雪ノ下は、最初にその疑問を口にした。

 

「それで、今日は誰か依頼人が来るという事なのかしら?三浦さんと海老名さんが参加してくれる事を歓迎したい気持ちはもちろんあるのだけれど、良かったら事情を教えてくれないかしら?」

 

「あ……。詳しい事は後で話すから、ちょっとだけ待って。もうすぐ隼人くんが来ると思うから」

 

「そう。由比ヶ浜さんがそう言うのなら、詳しい話は彼が来てからにしましょう。今は平塚先生のところかしら?」

 

「うん。依頼の許可を貰いに行ってる」

 

「あーし達も一緒に行くって言ったけど、先に部室に行って欲しいって言われたし」

 

「雪ノ下さんとヒキタニくんに先に話をしておいてくれって言われたんだけど、でも隼人くんが来てから話を始めた方が良いよね?」

 

「……そうね」

 

 普段は合理的な行動が多い葉山隼人だが、今日はどうにも納得できない事が多い。数日前からクラス内で囁かれていた噂を今日になって問題にし始めたり。三浦と海老名はともかく、部員の由比ヶ浜と一緒に平塚先生のところに行った方が依頼の許可がスムーズに下りそうなものなのに、独りで職員室に行く事に拘ったり。

 

 3人娘が不思議そうな表情で彼の今日の行動を振り返っている一方で、雪ノ下には彼の意図が理解できた。おそらく彼が突然この部室に現れる事になるのを避けたかったのだろう。つまり、前もって彼女達の口から、彼の来訪を自分に告げさせるのが目的だったのだろうと雪ノ下は結論付けた。彼女と彼の過去の関係は、未だこの教室に居る生徒達には知られていないのである。

 

 

 少しだけ気を取り直して、しかし苛立った感情は完全には抑えられないままに、彼女は次の疑問へと話を進める。

 

「では、そこの彼の用事を先に片付けたいのだけれど」

 

「おい、そろそろ放心状態から戻って来い。あと、俺は別に裏切ってねーからな。どっちかって言うと、不幸な事に巻き込まれまくってる感じが強いんだが」

 

「ほむん。不幸体質とは、貴様が全てを打ち消す能力に目覚める時が近いのやも知れぬな」

 

「頼むから空気を読め。なんか知らねーけどいつもより口調が厳しいから、てきぱき答えた方が身の為だぞ」

 

「む。だが我って特に言うほどの用事は無かったというか、我の前途が開けた事を貴様に自慢したかっただけで御座候」

 

「はあ……」

 

 期せずして八幡と雪ノ下の溜息が重なる。すっかり興味を失って物思いに耽る雪ノ下と、葉山の様子について小声で語り合うのを再開した3人娘を横目に眺めながら、「職場見学の行き先が出版社になったのでコネができる」「コネを使って作品を売り出して貰える」「売り出した作品が大ヒットして我の前途は洋々だ」という材木座が主張する謎の三段論法をそっくり聞き流す八幡であった。

 

 

***

 

 

 ノックの音がして、1拍遅れて雪ノ下が入室の許可を告げる。それに「お邪魔します」と涼しげな声で返事をしながら、予想通りの人物が奉仕部の扉を開けて教室の中へと入って来た。少しだけ教室内を見渡して、そこに居る顔ぶれを確認しながら各々に笑顔と軽い会釈をして、葉山は用意された椅子へとゆっくり歩いて行く。「ここ、いいかな?」と一言確認を取って、彼は依頼人席へと腰を下ろした。

 

「無事に許可は取れたし?」

 

「ああ。平塚先生に話してみたら問題ないと言われたよ。ただ、事態がエスカレートするようなら教師の立場で介入すると、一応は釘を刺されたけどね」

 

「じゃあ、隼人くんに説明をお願いしても良いかな?」

 

「俺から奉仕部への依頼だし、問題ないよ。結衣に橋渡しして貰って助かった。雪ノ下さんもヒキタニくんも、お世話になるけどよろしく」

 

 流れるような口調で会話をリードする葉山に対し、呼び掛けられた八幡は不器用に頷くことしかできない。しかし雪ノ下は珍しく硬い表情を浮かべて彼に話を促す。

 

「……能書きはいいから、本題を」

 

「ああ、そうだね。……実は最近、うちのクラスで変な噂が流行っててね。教室の空気も少し前とは違って重い感じだし、俺と仲のいい連中が悪く言われてるから腹も立つしさ」

 

 冷たい声で話し掛けられたというのに、葉山の表情は微塵も揺るがない。まるで前もって彼女の反応が判っていたかのように、彼は平然と事情を説明し始める。雪ノ下の口調に少し驚いていた面々も、葉山の対応があまりに平常通りだったので、いつしか彼が語り始めた内容に意識を移してしまった。

 

「噂を流した犯人を見付けて糾弾したいわけじゃないんだ。ただ、こうした噂を流されるのって気持ちのいい事じゃないし、できれば丸く収めたいんだけどさ。俺たちと一緒に対策を考えてくれないかな?」

 

「なるほど。つまり、事態の収拾を図ればいいのね?」

 

「うん。俺たちもできる限りの事はするからさ。奉仕部にも協力して欲しい」

 

「なら、犯人を捜すのが一番だわ」

 

「え……。できれば穏便に済ませたいんだけどな」

 

「自分は矢面に立たず、卑劣な噂を流すだけの連中に思い知らせるには、面と向かって()()()()()のが一番効果的なのよ。悪意を持って噂を広める連中も面倒だけれど、中には善意で噂を流す輩が居るという事も知っておいた方が良いわよ?」

 

 その教室に居た誰もが、彼女のお願いとは脅しの事だろうと脳内でツッコミを入れたが、幸いな事にそれを口に出す蛮勇を発揮する者はいなかった。それに、溜息混じりに話す彼女の様子を見るだけで、特に女性陣には彼女が過去に同種の体験をした事を嫌でも悟れてしまう。

 

 

 沈黙する女性陣と、思わぬ展開に頭を悩ませる葉山を尻目に、何故か大きく頷きながら口を開く者がいた。

 

「ふむ。確かにそれは正論であろう。我も『あいつの相手をするな』と善意で噂を広められた過去があるからの」

 

「あー。そういや俺の場合も、『比企谷菌が伝染るから』ってクラスに広めてた奴はたぶん善意の行動だったんだろうな」

 

「貴方たちの場合は当然の帰結ではないかしら?日頃の行いに原因があるのだから、性根を入れ替える事をお薦めするわ」

 

 せっかくの賛同者を一刀両断する雪ノ下であった。さすがに不満げな表情を浮かべて、しかしちょっと怖いので小声になりながら、八幡は精一杯の抗議を行う。

 

「お前、虐げられている者の味方なのか敵なのかどっちなんだよ……」

 

「そうね。貴方の味方でない事は確かなのだけれど……」

 

 素敵な笑顔を八幡に向けながら雪ノ下は返事を返す。しかし彼女の発言はそこで終わらず、朗々と続きの言葉を宣言するのであった。

 

「一応の形の上ではうちの部員でもあるのだから、それを根拠なく悪く言うのは許せないわね」

 

「ゆきのん……!」

 

 何故か感動した様子で目を潤ませている由比ヶ浜に呆れながら、「これって俺の肩書きが自分に関係してるから怒ってるだけで、奉仕部の部員じゃない俺に価値はないって言われてるよね?」と密かに落ち込む八幡であった。

 

 

***

 

 

 その後の会話によって噂の内容が教室内の生徒達に共有された。噂で悪く言われているのは、戸部・大和・大岡の葉山グループ3名と八幡の計4名である。

 

「比企谷くんの噂だけなら放置しておいても問題は無いと思っていたのだけれど。早めに動くべきだったのかしら」

 

「あ、さっきも思ったけど、ゆきのんってヒッキーの噂を知ってたの?」

 

「ええ。といっても今日のお昼に知ったばかりで、動きようが無かったのだけれど」

 

「そうか。国際教養科にまで広まっていたとなると、ますます早く動いた方が良いね」

 

「そういえば、隼人が今日になって急に動き出したのは何故なんだし?」

 

 少しだけ返事が遅れたものの、素直に話すべきだと思ったのだろう。葉山は簡単に事情を説明する。

 

「……うちのマネージャーが噂を聞いたみたいでね。一年にまで広まるようでは看過できないと思ったからさ」

 

「あー。いろはちゃんって顔が広いから、誰かが教えたんだろうね」

 

「結衣、わざわざ名前を出さなくても……」

 

 海老名が小声で注意をしているが、実は三浦としてはそれほど気にしていない。部活に関する事は口を出さない代わりに、放課後を待たずクラスに押しかけるなどの行為は慎むようにと手打ちが行われていて、彼女らの関係は平衡状態にあるからだ。それに彼女としても、今すぐ葉山と付き合いたいとまでは思っていない。今の関係を維持しながら彼をより深く知りたいというのが彼女の本音であった。

 

 

 ともあれ、葉山の急な行動に納得ができた事で、話し合いは今まで以上に熱気を帯びて来た。それぞれ思いは異なるが、仲の良いクラスメイトを悪く言われて怒る者たち。自らの下僕もとい部員を貶されて立腹する者。悪い噂を流すという武士の風上にも置けぬ輩を成敗したい者。そして目立たぬようにこれだけ気を配りながら過ごしているのにまた悪い噂かと呆れる者まで、彼らは事態の収拾という目標を共有できていた。後はどう対処するかの問題だけである。

 

 八幡は葉山を尋問する雪ノ下の背後で調書を取っているような気持ちになりながら、当事者の情報を整理してみた。それは以下のようになっている。

 

 

 戸部の噂:ゲーセンで他校の生徒を脅したり暴力を振るっていた。

 葉山の評:見た目は悪そうだがノリの良いムードメーカーで、行動に積極的な良い奴。

 雪ノ下の評:騒ぐしか能がないお調子者。

 

 大和の噂:三股をかけている屑野郎。

 葉山の評:冷静かつマイペースで人を安心させる、寡黙で慎重な性格の良い奴。

 雪ノ下の評:反応が鈍い上に優柔不断。

 

 大岡の噂:練習試合で意図的にラフプレーをして相手エースを潰した。

 葉山の評:人懐こく気の良い性格で、上下関係に気を配って礼儀正しい良い奴。

 雪ノ下の評:人の顔色を窺う風見鶏。

 

 八幡の噂:純情な女子生徒2人の弱みを握って調子に乗っている卑劣漢。

 葉山の評:誤解されやすいが優しい性格で、読書量に裏付けられた幅広い知識を持っている良い奴。

 雪ノ下の評:人の好意を信じられない臆病者のくせに捻くれた思考を誇らしげに語り偏った読書遍歴によって得た偏った知識を遺憾なく発揮して日々を過ごすその姿は……(以下数千字ほど略)。

 

 

 八幡が整理したこれらの情報を教室に居る全員で回覧していると、ふと材木座が疑問の声を上げる。八幡の事を何度も裏切り者だと勘違いした彼だからこそ真っ先に気付けたのだろう。

 

「ほう。八幡、主の噂だけ他とは趣が異なるが、それをどう考える?」

 

「は?勿体ぶってねーで、どう違うのか説明しろ」

 

「ほむん。貴様が同じ部活のそこな女子2名とキャッキャウフフしている姿は簡単に確認する事ができる」

 

「お前、言葉の意味を知られたら命の危険があるって事を解ってんのか?」

 

「げふん。つまり主の噂だけは確認が容易であり、そして否定も容易であるという事だ」

 

「……なるほどな」

 

 

 納得の声を上げる八幡と同時に、他の面々も彼に見直したと言いたげな目を向ける。急に多くの視線を集めて挙動不審になる材木座だが、幸いな事に雪ノ下が口に出しながら考察を始めた事で、酷い有様になる事はなかった。

 

「確認という事で言えば、大岡くんの噂も同じ部活の生徒に尋ねる事ができるわね。それに顧問の先生に問い合わせても良いし……」

 

「戸部や大和の噂は否定するのが厄介だし」

 

「優美子の言う通り、無い事を証明するのは難しいからな」

 

「じゃあ、ヒッキーとかより、とべっち達への恨みが重いって事?」

 

「……それはどうだろうな。噂の内容に強弱を付ける事によって、仲間割れとか狙ったのかもしんねーぞ。ま、俺は仲間じゃないから何で巻き込まれたのか意味不明だが」

 

「仲間割れをさせて、犯人にどんな得があるというのかしら?仲間がいないだがやくん」

 

「おい、名古屋弁を使ってまで俺の名前を弄る事はないだろ?」

 

「ほう。葉山グループが仲間割れで弱体化するとなると、我の天下も見えてくるやもしれぬな」

 

「ねーから。つかお前は適当な事を喋りすぎだ。団体行動ができないと大人になって苦労するぞ」

 

「貴方の約束された未来の話は今はいいわ。同族嫌悪とでも言うのかしら?この中で団体行動に一番向いていないのは貴方たちじゃない」

 

「ばっかお前、俺なんて集団から3歩下がって大人しく付いて行くぐらい団体行動に適した男だぞ。今度の職場見学だって俺の意志は全く反映されないだろうが、それを黙って受け入れる覚悟はできてるぞ」

 

「……あ!」

 

 

 すっかり雑談状態になっていた話し合いの場に、由比ヶ浜の鋭い声が響く。皆の注目を集める中、彼女は静かに語り始めた。

 

「えとね、仲間割れして誰が得するかだけど、今度の職場見学って3人1組なんだよね。つまり……」

 

「誰か1人が脱落すれば、他の2人は隼人と同じグループになれるし」

 

「となると、仲間割れで犯人が得をする事になるから、犯行の意図も理解できちゃうね」

 

 3人娘が納得顔で話を進めていくが、他の面々はどうにも納得できない。

 

「あの……そんな事でこんな噂を流すものなのかしら?」

 

「俺もそこが不思議なんだが」

 

「同志を陥れて、己のみ仲間面ができるものでござるか?」

 

 同じグループになる当事者ゆえに葉山も言葉にこそ出さないものの、彼女らの発想に疑問を持っている様子である。

 

「うーん……。一度ハブられると定着しちゃうし、そうなると後の人間関係にも影響しちゃうからね」

 

 とはいえ、そう由比ヶ浜に説明されると理解できる事でもある。意外な展開に教室内の空気は一気に重くなり、新たな仮説にどう対応したものかと誰もが頭を捻っていた。しかしこんな展開であっても、己を貫く少女には関係がないらしい。1つ大きく息を吸って、雪ノ下は口を開く。

 

 

「この仮説が正しいかどうかはともかく、彼らの関係性を確認しないわけにはいかないでしょう。正直に言うと、比企谷くんが巻き込まれた理由がよく判らないのだけれど」

 

「たぶんヒッキー、最近は教室で隼人くんとちょくちょく喋ってるじゃん。それのせいじゃないかな?」

 

「……マジか」

 

「……俺のせいでヒキタニくんまで巻き込んじゃったって事か」

 

「葉山くんが原因かはさておき、そう言われると更に説得力が出て来るわね。……グループの決定は明後日で間違いないかしら?」

 

「うん、どのクラスも同じだったと思うけど。……ゆきのん、何か対策があるの?」

 

「そうね。まず明日は被疑者たちの行動を観察して、容疑が固まれば直接の話し合いに持ち込むわ。絞りきれない場合はまた別の方法を考えましょう。とにかくもう少し情報が欲しいところね」

 

「いや……。俺はまだこの仮説に納得したわけじゃない。だからあいつらの無実を証明する意味でも、明日は俺なりに周囲に気を配って過ごしてみるよ」

 

 葉山にも意地があるのだろう。確かに筋の通った仮説ではあるが、友人を疑いたくもない。だからこそ事態の全貌を掴むべく、彼も真剣な表情を見せていた。

 

 同じクラスの生徒達が葉山グループとその周囲の様子を観察して、雪ノ下は噂がどこまで広がっているのか注意を払う。そうした方針を確認して、この日の部活は終了したのであった。

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/13,21)
約一年に亘って見逃していた由美子→優美子に修正しました。(2017/9/9)


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07.あれほど怖い事は無かったと彼らは後に語る。

事件の大枠は今回で解決です。


 翌日の2年F組の教室では、朝から普段とは違った光景がいくつか見られた。まず葉山隼人は、休み時間が来るたびに異なるクラスメイトに話し掛けては何やら小声で喋っていた。由比ヶ浜結衣が主にクラスの女子に話し掛ける後ろには三浦優美子と海老名姫菜が控えていて、適宜口を挟んでいた。そして時には葉山と3人娘が共同で行動する事もあった。

 

「噂を真に受けはしなかったけど、次はうちが悪く言われるかもって思うとねー」

 

「大丈夫だよ。俺のクラスでこれ以上好き勝手な事を言わせないために動いてるからさ」

 

「うん。もし新しい噂が出たらすぐに誰が言い始めたか調べるつもりだし、その時はあたしたちに協力してね」

 

「だから、つまんない噂にびびんなし」

 

「気分が滅入るようなら、このイラストを見て愚腐腐腐……」

 

 各々の役割分担が的確だったのか、昼休みの時間を迎える頃にはクラスの大半とは話が付いていた。なお、これを機に布教を進めようとしていた海老名だが、多くの生徒からはクラスの雰囲気を明るくする為の方便だと受け止められたようで落ち込んでいた。何事も、ライトな支持を取り付けるのはまだ容易だが、本格的に嵌まって貰うのは難しいものなのである。

 

 

 そうした彼と彼女らの動きとは対照的に、葉山グループの男子生徒3人は休み時間のたびにクラスの後ろの席に集まっていたものの、特に会話をするでもなく暗い雰囲気を周囲に放っていた。クラス内の空気が変化して来ている事には彼らも気付いていたのだろうが、まさか自分たちに関する噂が原因だったとは思ってもいなかったという様相である。

 

 自分たちの噂がこれほどクラス内に広く流布している事を昨日知らされた大和と大岡は、かなりのショックを受けている様子だったが、それは今日も変わっていない。一昨日に知らされた戸部翔も普段なら空元気を振りまくのだろうが、どうにも居心地が悪い様子で、しきりに葉山に視線を送っては彼の帰還を待ち侘びている様子だった。

 

 

 比企谷八幡はそうした彼らの様子をこっそりと観察していた。今まで彼らの事はどうでもいいと思っていたので、事前の知識が全くない。だから推測するしかないのだが、戸部の目を盗むようにして時折2人で目配せをし合っている大和と大岡は意外に仲が良いのかもしれない。そしてそんな2人にあまり話し掛ける事なく、ひたすら葉山へと視線を送っている戸部は、意外にグループ内で孤立しているのかもしれない。

 

「ヒッキー、なにか分かった?」

 

 そんな風に意識を彼らに集中していた彼の耳に、至近距離から小さく話し掛ける声が聞こえて来た。同時になにやら芳しい匂いが彼の鼻腔をくすぐり、つやつやした髪が彼の首筋をくすぐる。耳にかかる甘い吐息を感じながら、その胸の高鳴りを彼女に知られぬようにと願いながら、八幡は何とか返事を返す。

 

「あー、いや。とりあえず、すげー落ち込んでるように見えるんだが。あれ、大丈夫なのか?」

 

「うーん、そうなんだよね。……昨日、噂の話をした時からあんな感じでさ」

 

「場合によっては、観察よりもあいつらのメンタルを優先した方が良いかもな」

 

「めんたる?」

 

 横文字の発音がおばあちゃん並の由比ヶ浜であった。少しだけ頬を緩めて、お陰で余裕も出て来た八幡は、彼女の疑問に対して具体的な話を返す。

 

「なんてか、打たれ弱いみたいだから、精神的なケアっていうの?話とか聴いてやったら良いんじゃね?」

 

「そっか。じゃあ午後は隼人くんに付いて貰うとして……。クラスの根回しはだいたい終わったから、これ以上は噂は広まらないと思う」

 

「じゃあ最低限の仕事は果たしたって事か。正直あいつらを見てると、もし3人の誰かが犯人でも、これ以上は噂とか流しそうにないけどな。まあ演技だったら大したもんだが」

 

「うーん。あれだけ怯えてるんだし、演技じゃないと思うけど……。3人とも今までクラスで目立つ方だったみたいだし、ゆきのんが言ってた悪意ってのに晒された経験がなかったのかも」

 

 言っては失礼なので口には出さないが、珍しく由比ヶ浜の分析が的確なので思わず納得してしまう八幡であった。

 

「あー、なるほどな。今まで巻き込まれた事がなかったのは幸運なんだろうが、こうなると早いうちに体験しといた方が良いのかね」

 

「どうだろ?体験しないで済むなら、その方が良いと思うけどね。女子だったら無理だろうけど、たぶん隼人くんとかは体験した事ないと思うし」

 

「じゃあ、葉山が初体験の時もあんな感じで狼狽えたりすんのかね?」

 

「そんな隼人くんは想像できないけどね。あとヒッキー、ちょっと言い方が……」

 

「いいじゃん!隼人くんの初体験に思いを馳せるヒキタニくんって、これはもう久しぶりに……」

 

「いいから擬態しろし。んで結衣、お昼はそいつも一緒に混ぜるし」

 

「……え?」

 

 

 思いがけぬ三浦の提案に固まってしまう由比ヶ浜であった。先日は部室で昼食を共にしたが、衆人の目に晒された状態で一緒に食べるのは難易度がぐんと上がる。パニックに近い状態で声を出せない彼女に言い聞かせるように、血の噴出を三浦の手で事前に防がれた海老名がその狙いを説明し始めた。

 

「まず、噂の被害者という点ではヒキタニくんも同じだから、1人だけ放っておくのは良くないと思うんだよね。犯人が誰であっても、私達と仲の良い子が標的になった時だけ動くと思われたら面倒だし。言い方が悪くなっちゃうけど、クラスで孤立してるヒキタニくんがターゲットでも私達は許さないよってアピールするのは、今後を考えても大事だと思う」

 

「結衣たちが弱みを握られてるって噂も否定できるし」

 

「それに、ヒキタニくんから事情を伺ってる風に見せかけながら周りを観察して、もし怪しい動きがあったらすぐに情報を共有できるしね」

 

「あーしらがヒキオから話を聞く事にして、隼人があっちに合流したらお昼が別々になるし。少し離れてる方が観察もしやすいし」

 

 こうして口に出した理由に加えて、ついでに彼と彼女が接する機会を増やしてあげようという友人を思っての意図もあるのだが、さすがにそれは表には出さない2人であった。なぜか急に騒がしくなった教室の喧噪に紛れ込ませるように、八幡は彼女らに小声で問い掛ける。

 

「……てかお前ら、俺を疑うって事はしなくて良いのか?あいつらの誰かが犯人だって可能性があるなら、俺が犯人でもおかしくはないだろ」

 

「ヒッキーだったら、もう少し上手くやるんじゃないかな。そういう悪巧みってすこぶる得意そうだし」

 

「それにヒキオは変なところで躓いて墓穴を掘りそうだし」

 

「それと、ヒキタニくんが動くなら隼人くんの噂を一緒に流さないわけが無いと思うんだよね。はやはちの名に掛けて!」

 

「はあ……。信用されてんのか、貶されてんのか」

 

 少しうつむいて溜息を吐きながら、愚痴っぽい事を口にする八幡であった。もしもこの場に雪ノ下雪乃がいたら、止めとばかりにこんな事を言われるのだろう。

 

「だって貴方、噂を広めようにも友達が居ないじゃない」

 

 彼女のセリフから口調までを完璧に脳内で再生して、八幡は頭を上げる。目の前の3人が驚いている事に気付いた彼は、彼女らの視線を追ってゆっくりと後ろを振り向いた。そして彼は、先程の発言が幻聴ではない事を理解したのであった。

 

 

「ゆきのん、急にどうしたの?」

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん。三浦さんと海老名さんも」

 

「ちょうど良いタイミングだったし」

 

「うん。声を掛ける頃合いが完璧すぎて、ちょっとビックリだったね」

 

 そんな彼女らに向けて、雪ノ下は少しはにかんだ表情を浮かべながら事情を説明する。

 

「前もって2人には相談していたのだけれど、由比ヶ浜さんには秘密にしておいて驚かせた方が面白いと言われたものだから……。ごめんなさいね」

 

「ううんっ!じゃあ、みんなで一緒にご飯を食べられるね。ヒッキーも、嫌じゃなかったら……」

 

「嫌ってか、恥ずか死ねる感じなんだが……。まあ、今さら逃げられないんだろうし、お手柔らかに頼むわ」

 

 さっき教室内が騒がしくなったのは、こいつが急に入ってきたせいだったんだなと納得しながら、八幡はすっかり諦め口調で昼食会のお誘いを受諾したのであった。

 

 

***

 

 

「で、雪ノ下は何を2人に相談したんだ?お前が由比ヶ浜を通さないってのも珍しいよな」

 

「あまり大きな声では言えないのだけれど、要するにどうやって脅すのかという相談ね。これは由比ヶ浜さんには不向きな事だから……」

 

 男1人と女4人という珍しい構成で昼食を食べ始めた直後に、八幡は先程から抱いていた疑問をそのまま口にする。ちなみに八幡を両隣から奉仕部の2人が挟み込み、彼と向かい合って三浦と海老名が座る配置になっている。端からは八幡を尋問しているようにも慰めているようにも見えるが、少なくとも彼が女子生徒の弱みに付け込んで調子に乗っているとはとても思えぬ構図であった。

 

「犯人を探すのと平行して、クラス内で脅しを入れておこうと思ってね。優美子だけでも充分だとは思ったんだけど、どうせなら雪ノ下さんにも参加して貰って、初手で特大の一撃をお見舞いするのが一番かなって」

 

 海老名の説明を受けて八幡はだいたいを理解したが、由比ヶ浜はきょとんとしている。彼女の頭の中では「脅す相手をまだ特定していないのにどうやって?」という疑問が浮かんでいるのだが、説明するよりも実行する方が早い。それまでの小声を止めて、女王2人が静かに、しかし教室の隅々まで響き渡る口調で発言を始めた。

 

「あーし、適当な噂を碌に確認もせず広める連中って嫌なんだけど。なんでここまで広がったんだし?」

 

「三浦さんの言う通りね。私もそうした輩は好きではないわ。もうすぐ犯人が見付かると思うのだけれど、貴女たちはどんな対応をするつもりなのかしら?」

 

「二度とこんな馬鹿な事をしないと誓うなら、あーし達も今回は目を瞑るし」

 

「あら。おいたをした生徒をそのままにしておいても良いのかしら?」

 

「二度目は無いし」

 

「そう。なら私も、生徒会長から相談を受けていたのだけれど、今回だけは大目に見るように頼んでおこうかしら」

 

「クラス内の事は、あーしと隼人が何とかするから。外に広まった噂の処理はお願いするし」

 

「了解したわ。たまには別のクラスで食事をするのも良いものね」

 

 

 昨日の部室での話し合いの結果、職場見学のグループ分けが原因で、葉山グループ3人のうちの誰かが犯人ではないかという仮説が急浮上した。しかし視野を広げてみると、仮に犯行の動機を葉山と同じグループになる事に限定したとしても、葉山周囲の人間関係を破壊した上で漁夫の利を狙う第三者が犯人だという可能性は否定できない。だがその場合、最悪クラス内の生徒全員を疑う事にまでなりかねない。

 

 犯人を検挙して後顧の憂いを無くすのが最善の解決法なのは確かである。だが時間的な余裕があまり無い状況も考え合わせると、クラス全員に対する脅しを入れておくのは、事の対処としても悪い手ではない。同じような事件を未然に防げるのであれば、ベストではないがまずまず納得できる結末だと考えた彼女らは、共同で一芝居打つ事にしたのであった。

 

 教室内の反応を見て、効果は抜群だと確認して、彼女らは再び声を抑えて話し合う。

 

 

「それで、彼ら3人の様子はどうなっているのかしら?」

 

「葉山がいる今は普通なんだが、あいつら3人だとほとんど喋ってなかったな。由比ヶ浜とメンタルの弱さについて話してたんだが、あいつらって打たれ弱いのか?」

 

「そうかもしれないけど、昨日今日の話だからね。でも、弱ったところを助けてくれた隼人くんに3人は今まで以上の……」

 

「その辺にしとくし」

 

 どんどんと扱いが適当になっていく海老名であった。そんな彼女に苦笑いしながら、由比ヶ浜が話を進める。

 

「あはは……。ヒッキー、他に何か気が付いた事とかない?」

 

「後はそうだな……。大和と大岡が意外に仲が良いのか?戸部だけ少し違った感じを受けたんだが」

 

「戸部は隼人と同じサッカー部だから、付き合いに温度差があるのかもだし」

 

「でも、今の彼らの怯え様を見ると、3人の誰もが犯人でもおかしくなさそうね」

 

「お前はちょっと自分の怖さを自覚しとけ。正直さっきの脅迫沙汰はトラウマになるレベルだぞ」

 

 八幡の発言に対して、由比ヶ浜と海老名はともかく三浦まで首を縦に振る様子を見て、納得のいかない雪ノ下は反論を行う。

 

「三浦さんまで頷いている理由が解らないのだけれど。今回の私は三浦さんの迫力を増幅させる事に専念していただけなのに、どうしてそんな事を言われてしまうのかしら?」

 

「つまり、最大限に手を抜いてあの怖さって事だろ。もうお前を敵に回そうとするような生徒って居ないんじゃね?」

 

「はあ……。まあ良いわ。正論を言われて怖がるようでは、どうにもならないもの」

 

「開き直ったか。まあ、でも、あれだ。お陰で犯人の特定はともかく、事件としては収束しそうだし、これで良かったんじゃね?今回もお疲れさん」

 

 突然に雪ノ下を労うような事を言い始める八幡に、奉仕部の2人は呆気にとられ、そして三浦と海老名は微かに微笑む。彼女らの親友が彼の何に惹かれているのか、その一端を垣間見られて微笑ましい気持ちになったのである。

 

 

 その後の食事を気軽で楽しい話題と共に済ませて、放課後に簡単に話し合いをしてこの依頼を終わらせる予定を確認して、この日の昼休みは終わりを告げたのであった。




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を修正しました。(9/15)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/21)


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08.どんなに頑張っても彼はフラグを避けられない。

今回で職場見学のグループ分けが決定します。



 その日の放課後、奉仕部の部室には1人を除いて昨日と同じ面々が集まっていた。彼らは前日同様の配置で腰を下ろしていたのだが、今日初めてこの部屋に登場した少女だけは、依頼人席に座る男子生徒の背中に身を隠すようにしながらも他の生徒たちの顔色をしっかりと観察していた。

 

「だから、葉山先輩が2日連続で部活に出ないとか、困るんですけど〜」

 

 そう言いながら一色いろはは、教室内の女子生徒の表情を順に眺めて、1人の女子生徒に意識を集中させることにする。他の女子生徒は当面の間は彼女と利害がぶつかる事がなさそうだったし、彼女の眼の前にいる葉山隼人を除けば、他の男子生徒は平均以下の存在にしか見えない。

 

「あーしも体を動かしたい気分だし、手早く終わらせるから先に部活に行ってるし」

 

「昨日も葉山先輩、遅れて部活に行くって言ってたのに来ませんでしたし。次期部長に2日連続で休まれると大変なんですよ〜」

 

「部外者がいると話が始められないし。だから邪魔しないでさっさと出て行くし」

 

 葉山を挟んで行われている一色と三浦優美子の舌戦に、2人の男子生徒は困惑している。三浦と同じグループの女子生徒たちも自らの旗色が鮮明なだけに口を挟みづらく、互いの言い分を聞きながら心配そうに眺めることしかできない。葉山としても自分が部活をサボっている事は確かなので迂闊に反論できず、「まあまあ」と言いながら2人の女子生徒を手で宥める程度のことしかできない。そんな状況を見てとって、雪ノ下雪乃は少し溜息をついた後に口を開いた。

 

 

「一色さん、だったかしら?奉仕部の部長である私・雪ノ下の責任で、今日は葉山くんを必ず部活に行かせるから、ひとまず貴女だけ先にサッカー部に向かってくれないかしら?」

 

「え〜と、そこまで言われると仕方がないですけど〜。一応は戸部先輩も絡んでいるはずなので、完全に部外者とは言い切れないと思いますよ。それに、噂を葉山先輩に報告したのもわたしですし」

 

「なるほど、確かに一理あるわね。葉山くんに後から報告させるだけでは不十分かしら?」

 

「いえ、それでしたら引き下がりますけど〜……」

 

 元々の彼女の狙いは、三浦の了解のもとに葉山と話す機会を得ることだったので、雪ノ下からこの発言を引き出せた時点で目的は果たしている。しかし葉山から話を聞くだけでは、事件にどう対処したのかを正確に知るのは難しい。事件そのものに興味は無いが、葉山という男子生徒を詳しく知る為には、特に彼がどんな行動をしたかが知りたいところである。それに提案にほいほい飛び付いてしまうと、彼女の意図を悟られて面倒なことになるかもしれない。

 

「念のため先に簡単な結果だけ教えて下さい。噂への対応は、もう大丈夫と考えていいんですよね?」

 

 彼女はそう続けて、視線を由比ヶ浜結衣に向ける。入学式で面識を得て以来、接する機会は少ないものの彼女とは友好関係を築けているし、感覚的に物事を把握するタイプなので葉山とは違った話が聞けることだろう。

 

「うん、大丈夫だと思うよ。隼人くんがクラスで色々と根回ししてくれたし、ゆきのんと優美子が脅してくれたし。……あ、あと一応ヒッキーも頑張ってたし」

 

 最後に付け加えられた情報に、一色は首をこてんと傾けながら周囲の様子を観察する。先輩たちの視線の行方からして、冴えない男子生徒の1人のことなのだろうが、特に頭が切れるようにも見えないし行動力があるようにも思えない。仲間はずれが出るのを避けるために付け加えた、由比ヶ浜らしい発言なのだろうと解釈して、一色は必要最低限の笑顔を件の男子生徒に向けてから再び口を開いた。

 

「解りました。じゃあ葉山先輩、昨日サボった分は明日練習を増し増しですので、覚悟してくださいね〜」

 

 そう言って彼女は部室から出て行き、ようやく依頼の話が始まるのであった。

 

 

***

 

 

「では、まず今後の方針を確認したいのだけれど。お昼に食事をした時には、このままでも事件は収束するという意見が優勢だったわね。私としては、このまま犯人をあぶり出しても良いとは思うのだけれど……」

 

 まずは部長の雪ノ下が口火を切る。犯人に関する部分は敢えてという意味合いでの発言とはいえ、彼女が口にすると本当に実行に移しかねない迫力があるだけに、即座に部員からツッコミが入る。

 

「だからお前は、怖いことを言ってる自覚を持てって」

 

「あら、何か疚しいことがあるのかしら?」

 

「だからそれが問題だっての。脅して冤罪を認めさせるのが検察の仕事じゃねーぞ」

 

「なるほど。比企谷くんにしては良い指摘だわ」

 

 周囲としても2人のやり取りには慣れたもので、苦笑する程度で話に加わってくる。

 

「それに、あの後とか放課後とか、クラスのみんながとべっち達を励ましたりしてたしね。あたしたちも気を付けてるから、すぐに何かが起きることはないと思うよ」

 

「それに正直、冤罪も問題だけど、今の状況だと犯した罪以上の罰を受けることになるからな。俺はこれ以上の犯人追求には反対だ」

 

「隼人の優しさが犯人に伝われば良いけど、何とかなんないし?」

 

「もしあの3人の誰かが犯人だったら、隼人くんの優しさとか頼り甲斐のある胸板とかは伝わってるんじゃないかな。だから大丈夫だよ優美子。隼人くんとあの3人との深い関係はまだ始まったばかりだ!みたいな……ぶはっ!」

 

 

 教室内には気心の知れた生徒しかいないこともあって、海老名姫菜の暴走は久しぶりに放置されてしまった。それでも甲斐甲斐しく出血の後始末をしてあげる辺り、三浦のおかん気質もかなりのものだと言えるだろう。そんな光景を横目に眺めながら、比企谷八幡は話を戻す。

 

「まあ、もし今の状況で動いたら悲惨な目に遭うことは犯人も自覚してるだろうし、当分は大人しくしてるだろ。てか、あの3人の犯人説も微妙な感じだしな」

 

「ヒッキー、お昼休みに言ってたもんね」

 

「……どういう事か、説明してくれないか?」

 

「そういや葉山は昼飯が別だったか。……あの3人だと戸部が少し孤立してる感じを受けたんだが、お前との部活の繋がりとかを考えたら、あいつが噂を流すのも不自然なんだよな」

 

「それと、残りの2人が意外に仲が良いとも言っていたわよね」

 

「ああ。2人して噂に怯えてる感じを受けたし、あんな様子で実は裏で目の前の奴を陥れる算段をしてましたとか、そこまで演技力があるとも思えなかったんだが」

 

 

 ぼっちでいる間に培った人間観察力には定評があると本人自ら主張する八幡だが、さすがに彼ら2人が共謀している事までは見抜けていない。それは2人の共謀が彼という存在を加えた結果として生じたイレギュラーな事態だからで、葉山と戸部と八幡がグループを組むという最悪の結果が現実味を帯びてきたが故の行動だという事に思いが至らないからである。そもそも自分の存在を軽く考えてしまう八幡は、自分がここまで巻き込まれてもなお、自分の存在に押されてトップ・カーストに属する連中が動くなどという可能性に思いが至らないのであった。

 

 この教室にいる生徒の中で他に真相に気付く者がいるとしたら雪ノ下だろう。しかし彼女とて、不完全な情報を基にしては正確な推理を組み立てるのは難しい。

 

 彼ら2人は確かに怯えているが、その対象は噂そのものではない。ほんの気の迷いからこんな噂を流そうと考えてしまった過去の自分たちの行動が、公に糾弾される事に怯えているのである。その意味で彼らには同情を集めたり励ましを受ける資格は無い。だが、彼らが慄然としておののいているのは紛れもない事実であり、そんな彼らに声を掛けようとするクラスメイトの行動は自然なものだろう。そしてそんな光景を見てしまえば、彼ら2人が噂に対して震えているという誤解も相まって、彼らへの嫌疑を優先的に検討する意欲が薄れてしまうのも仕方の無い事だろう。

 

 

「念のために確認したいのだけれど。彼らは罰を受ける事を怖れて震えているわけではないと、貴方達は考えているのね?」

 

 それでも雪ノ下は、真実につながるギリギリの質問を発する。とはいえ彼らはおそらく無実だろうという空気が教室内には漂い始めていたし、彼女としても一応の確認という程度の気持ちでしかない。

 

「ああ、あいつらはそんな連中じゃない。良い奴らだっていう俺の評価は信じてもらえなかったけど。こんな大それた事ができる奴らじゃない、って言えば、雪ノ下さんも信じてくれるかな?」

 

 大それた事態に至ったのは彼らが意図したわけではなく、偶然の影響が大きい。学校外へと世界が広がったとはいえ、閉じこめられた状況には変わりはなく、そのため現実よりも噂が伝播しやすい環境にある事に彼は気付けない。

 

「それにあれだ。罰を怖れてるのなら、3人ともが同じような怯え方をしてるのが不自然だよな。あれって絶対、お前に参考人として尋問されるのを怖れてる気持ちも強いと思うぞ」

 

 そして八幡が共謀という可能性を思い付けなかったのも仕方のない事である。それに彼ら3人が雪ノ下に怯えている事も確かなので、彼の発言には説得力があった。本当は、彼らのうち2人は参考人としてではなく容疑者として尋問される事に怯えていたのだが、戸部が抱く参考人招集への恐怖が甚大だったので見分けが付かなかったのである。強いて言えば、雪ノ下の脅しが効きすぎたという事なのだろう。

 

「解ったわ。では彼らへの容疑はひとまず解消して、噂に対しては経過観察を行うという結論で。依頼は解決という事で良いのかしら?」

 

「ああ、助かったよ。色々とありがとう」

 

 そう葉山が答えて、この日の議題が1つ片付いたのであった。

 

 

 なお余談だが、大きな事件へと発展してしまった事に対して、大和と大岡の2人は特に罰を受けたわけでは無い。しかし彼らとて罪の意識は持っており、ゆえに葉山に対する態度がどこか遠慮したものになる事は避けられなかった。葉山がそれを事件の後遺症と考えて深く追求しなかったのは良かったのか悪かったのか。いずれにせよ、彼らは自らが犯した罪を打ち明ける機会を失ってしまい、良心の呵責に長く苦しむ事になる。戸部に対しても彼らは罪の意識を持ち続けたが、雪ノ下に尋問される可能性に対して恐怖を覚えたという共通体験が勝った。その結果、切っ掛けは間違っていたのだが、彼ら3人は友人としての関係を深めていく事になるのであった。

 

 

***

 

 

「ところで、依頼が終わった以上は余計なお節介かもしれないのだけれど。葉山くんを含めた4人はグループ分けをどうするつもりなのかしら?」

 

「あー、そういやその問題があったな。もう4人別々で良いんじゃね?」

 

「うーん。いきなり別々になっちゃうと、また変な噂を呼んじゃうかもだし。あたし達もうまく説明できないし、それは止めた方が良いと思う」

 

 八幡の適当な解決策に対して、さすがに人間関係では一日の長がある由比ヶ浜が説得力のある返答をする。そんな由比ヶ浜の長所を見直している八幡の横で、口を開く男がいた。

 

「げふん。ならば件の3名を同じグループにするのは如何か?」

 

「あれ、お前いたの?」

 

 せっかく案を出したのに、酷い事を言われる材木座義輝であった。しかし彼は妙に嬉しそうな顔で僚友の問いに答える。辛辣な事を言われるよりも無視される方が辛いと身に染みて理解しているが故の反応なのであった。

 

「うむ。先程までは事情がいまいち掴めず、我が灰色の脳細胞にも活躍の場が無かったが。話が分かれば解決策など我には容易いものよ」

 

「でも中二の案だと、隼人くんとグループを組む男子が得をした形になっちゃうから、ちょっと難しいと思う」

 

「げふうっ!」

 

 大方の予想通りにあっさりと却下されてしまう材木座であった。とはいえ他に名案が出るわけでもなく、話は行き詰まりの様相を見せていた。

 

 

「そういえば、私のクラスも人数の関係で1人余る事になるのだけれど、4人のグループを1つ作る事になっているわ。貴方達も教師に事情を説明して、4人で構成できるようにお願いしてはいかがかしら?」

 

「うーん。あたし達のクラスだと2人余る計算になるんだけど、他のクラスと組んで良いぞって感じだったよね?」

 

「え、マジで?じゃあ他のクラスの奴と行く事になるのかよ……」

 

「自分が余る事を確信しているのもどうかと思うのだけれど」

 

 片手で頭を押さえるいつものポーズを取りながら、律儀にツッコミを入れる雪ノ下であった。そんな2人の会話を聞きながら少し考えていた由比ヶ浜が口を開く。

 

「他のクラス……そっか!あのね、優美子ってどこか行きたい見学先ってある?」

 

「別に。結衣は何か希望を思いついたし?」

 

「姫菜はどう?」

 

「私も取り立てて希望はないよー。結衣が行きたいところがあるなら遠慮しないで言いなよ」

 

「じゃ、じゃあさ。とべっち達と同じ場所に行って欲しいんだけど……」

 

 話の流れを無視するように、突然、突拍子もない事を言い始める由比ヶ浜に、2人の親友は困惑した表情を浮かべる。そもそも戸部たちのグループ分けをどうするかという話をしているのでは無かったのか。そんな疑問を抱えながら、三浦はとりあえずの返事を返す。

 

「同じ見学先にするのは問題ないし。でも隼人たちのグループ分けはどうするんだし?」

 

「あ、それなんだけどね」

 

 そう言って由比ヶ浜は少し楽しそうな表情を浮かべながら一旦口を閉ざす。そしておもむろに彼女のプランを語り始めるのであった。

 

 

「えとね、とべっち達は3人でグループを組んでもらって、隼人くんには優美子と姫菜と組んで欲しいんだ。別に男女別って決まってないし、実質6人で行動するから問題ないと思うし」

 

「確かに問題はないけど、じゃあ結衣はどうするの?」

 

 当然の疑問を海老名が尋ねるが、それに対しても由比ヶ浜は動じない。気のせいか腐った目でおつむの心配をされているような気配を感じるが、別に自分の存在を忘れていたわけではないのだ。

 

「ゆきのんのクラスって、本当だと1人余るんだよね?じゃあさ、ゆきのんと、あたしと、ヒッキーでグループにならない?」

 

「……はぁ?」

 

「……なるほど。由比ヶ浜さん、考えたわね」

 

「ふふん。あたしだって頭を働かせる時はあるんだからね!」

 

「比企谷くん。確か貴方のところにも運営からの招待状が来ていたと言っていたわよね?」

 

「まあ、そうなんだが。どういう事だ?」

 

「私のところに来た招待状に返信して、一緒に見学に行く生徒の名前を教えたら、運営から却下されてしまったのよ。『我々の望む水準に達していない』って。最低でもグループの過半は招待状持ちの生徒にすべしって言われてしまったのだけれど、貴方なら問題はないわよね」

 

「……は?」

 

「正直に言って見学を諦めるのも仕方がないと思っていたのだけれど。行けるとなるととても楽しみだわ。これも由比ヶ浜さんが素晴らしい案を出してくれたお陰ね」

 

「な、なんだか予想以上に喜ばれてるんだけど。……あたしが役に立ったってゆきのんに褒められるの嬉しいし、まあいっか」

「俺は良くない」

「従者は黙って部長の意見に従いなさい」

 

 何だか酷い事を言われているが、彼女が本気で八幡を貶そうとしているわけではない事は既に彼も充分に理解している。そして同時に、こうなってしまうと状況を覆せない事もまた、彼は理解してしまっていた。

 

「それに確か貴方は昨日、『今度の職場見学だって俺の意志は全く反映されないだろうが、それを黙って受け入れる覚悟はできてるぞ』って言っていたわよね?」

 

「げ。もしかして俺、あの時にフラグを立てちまったのか?」

 

 正確には、彼が心の中で「計画通り」と快哉を叫んだ3話の時点でフラグは立っている。なんなら3話のタイトルからしてフラグである。

 

「他に異論は……無いようだし、これで決定で良いわね。では私と由比ヶ浜さんと比企谷くんが同じグループ。葉山くんと三浦さんと海老名さんが同じグループ。そして元被疑者の3名が同じグループね」

 

 普段の落ち着いた様子とは違って、楽しげな口調で雪ノ下が宣言して、これでこの日のもう1つの議題も結論が出たのであった。すべての懸案を片付けて部室を出て行く葉山と三浦と海老名の表情は、とても楽しげなものであった。

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/21,11/15)


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09.ようやく彼と彼女の始まりも終わる。

今回はタイトルの通りです。



 依頼者たちが去った教室では、一気に人数が減ってもの寂しい空気が漂っていた。たまたま遊びに来て相談に巻き込まれただけの男子生徒も、いつの間にかその姿を消していて、室内にはいつもの3人だけである。

 

 雪ノ下雪乃が「お茶を淹れなおすわ」と言いながら席を立つと、由比ヶ浜結衣も机の上に残っていたカップ類を片付けにかかる。それを見た比企谷八幡も同級生らが座っていた椅子を元あった場所に戻す為に動く。程なくして、温かな湯気を立てるお茶をゆっくりと味わいながら穏やかな会話ができる環境が整ったのであった。

 

 

「さて、今回の依頼もお疲れ様だったわね。少し中途半端な印象もあるのだけれど、この程度に抑えておく方が後々の事を考えると良いのかもしれないわね」

 

「うん。ゆきのんもお疲れー!」

 

「そうだな。……お前が色々と話をまとめてくれたから動きやすかったし、友達関係とか俺には解らん部分はそっちが解説してくれたから助かったわ」

 

 この場の雰囲気に相応しい事を言おうと頑張って考えて、彼はそう口にした。とはいえ相変わらず、ふと2人の名を呼ぶ事を恥ずかしく思ってしまう八幡であった。

 

「私としては最低限の仕事しか果たしていない気がするのだけれど。その程度の労力で希望の職場に見学に行ける事になったのだから、何だか申し訳ない気もするわね。やはり犯人は完膚なきまでに叩き潰して……」

 

「待て、待てって。今更これ以上追求しても色んな意味で面倒だ。お前がさっき言ったように、この先を考えると良い落としどころだと思うぞ」

 

「あたしも、とべっち達3人が同じグループになる事で良い方向に行くと思う。今までは隼人くんへの依存?っていうのかな。あんまり表には出さないけど、隼人くん優先って感じで気を遣ってるような感じだったけど、今日の放課後とか3人に一体感みたいなのを感じたんだよね」

 

 彼ら3人が葉山隼人に対する態度には、由比ヶ浜も思う所があったのだろう。グループの輪を乱さぬよう気を配る事を昔から心掛けていた彼女だからこそ、以前から彼らの関係性を危うく見ていたのかもしれない。結果的には今回の依頼が、そうした部分が上手く解消される切っ掛けになった感があった。

 

 しかし、良い話になるはずだった流れをぶった切るように彼はそれに相鎚を打つ。

 

「あー。間違いなく雪ノ下への恐怖で一致してるんだろうな」

 

「はあ……。鬼の首を取ったように何度も繰り返さなくても良いわ。それに集団をまとめるには、恐怖というのは有効な手段の1つなのよ」

 

「……まあ、更に下の存在を作るよりはマシな手段だわな」

 

 自らの過去を振り返りながら小声でそう返事する八幡に、2人の少女は表情を少しだけ曇らせる。彼が高校に入学する以前の事は断片的な話しか知らないが、彼が昨年度をどのように過ごして来たのかは2()()()()把握している。彼への具体的な実害は少なかったが、彼を見下したり無関心を装う生徒たちが、その行為によって仲間意識を育んだのは確かだろう。

 

 少しだけ重くなりかけた部室内の雰囲気を和らげるように、由比ヶ浜が口を開く。

 

「そ、それよりさ。せっかくだし、今日は時間までゆっくりお喋りとかしない?」

 

「たまには、それも良いかもしれないわね」

 

 肩に加えた力を緩めながら、雪ノ下もそれに同調した。普段ならばマニュアル解析に戻るか、それとも試験前なのに勉強は大丈夫なのかと由比ヶ浜に注意を促すところだが、依頼を片付けたという充実感が彼女にそんな発言をさせたのだろう。

 

「ヒッキーも、それでいい?」

 

「……まあ、あんま面白い喋りとかは期待すんなよ」

 

「今更そんな事で気負わなくても大丈夫よ。依頼の報告も兼ねて、平塚先生もお誘いしてみて良いかしら?」

 

 珍しく毒舌を発揮して来なかった雪ノ下に、八幡が意外そうな表情を向けている。そんな彼に苦笑しながら、彼女は自分でも変な事を言い出したものだと自覚していた。少し重くなった場の雰囲気を緩和する為に、半ば身内という距離感の顧問を呼び寄せる。そうした人間関係に配慮した提案を自分がしている事を不思議に思いながら、彼女は教師にメッセージを送るのであった。

 

 

***

 

 

 いつものようにノックもせずドアを開いて、平塚静は部室の中へと入って行った。教室内の様子からして、依頼は無事に解決したようだ。机の上には4人分のお茶が用意されていて、座る者の居ない依頼人席の前では、一際大きな湯気を立ててお茶が存在を主張している。自分の返事を見てから雪ノ下が新たに淹れてくれたのだろうと推測しながら、彼女はその席へとゆっくり歩いて行く。

 

 珍しい事に、席に着くまで生徒達から声を掛けられる事はなかった。てっきり雪ノ下からノックの注意を受けると思っていたので自分から語り掛けはしなかったのだが、少し選択を間違ってしまっただろうか。そんな事を考えながら彼女は生徒達の顔を順に見渡して、おもむろに口を開くのであった。

 

 

「噂を無難に収める手立てができたみたいだな。情報がこちらに届いていなかったとはいえ、比企谷には嫌な思いをさせてしまったな」

 

「いえ、その。……慣れてるというか、今回はあまりきつい内容でもなかったですし」

 

「ふむ。確かに雪ノ下と由比ヶ浜と仲良くなれば、調子に乗っても仕方のない状態だろうしな」

 

「いやだから、調子に乗ってとか無いですって」

 

「由比ヶ浜はともかく、雪ノ下の弱みを握るのは大変だろうに、どうやったんだ?」

 

 完全に面白がって言っているのが丸分かりの口調で教師は生徒に尋ねる。とはいえ、このノリに合わせるには彼女達は純情すぎたので、彼が答えに窮する事はなかった。

 

「あたしはともかくって、どういう意味ですか!」

 

「私が弱みを握られるような粗相をするとでも?」

 

「それだけ君達が仲良さそうに見えるという事だよ」

 

 さすがは年の功で、適当にはぐらかす平塚先生であった。少しだけ気落ちしたような気配がしたが、おそらく気のせいだろう。そんな年齢が気になるお年頃の彼女を尻目に、照れ隠しからいつものやり取りに突入する2人であった。

 

「とはいえ、卑劣谷くんなら予想外の手段を思い付きそうで身の危険を感じますが」

 

「おい、卑劣様みたいな扱いは止めてくれ。禁術とか禁呪とか使いたくなっちゃうだろうが」

 

「貴方の場合は近習にすら見放される展開ではないかしら?」

 

「甘いな雪ノ下。そもそも俺には近習なんて最初から付かない自信があるぞ」

 

「つまり……どういうことだってばよ?」

 

「いや、先生。そんな嬉しそうに話に加わられるとちょっと……」

 

 せっかく楽しいネタに加わろうと思ったのに腰を折られて、いざ涙の平塚先生であった。

 

 

***

 

 

 事件の概要と対策とをおおまかに報告し終えて、教室内は落ち着いた雰囲気になっている。改めて生徒達に労いの言葉を掛けて、ふと平塚先生が何気ない感想を口にする。

 

「しかし、あの葉山が『今の状況だと犯した罪以上の罰を受けることになるから反対』などと言い出すとはな」

 

「ええ、私も正直意外でした。もう少し曖昧に『みんなでなかよく』とか言い出すイメージがあったのですが」

 

「お前、ホントに誰にでも容赦ないのな。戸部たちの切り捨て具合とか、三浦ですらも引いてたぞ」

 

「あはは……。で、でもさ。あそこまで言い切るゆきのん、格好良かったじゃん」

 

 フォロー混じりではあるものの、由比ヶ浜からは確かに格好良いと思っている様子も伝わって来るだけに、雪ノ下としても邪険には扱えない。少し照れながら彼女は口を開く。

 

「そ、そう言って貰えると助かるのだけれど」

 

「でもま、確かに葉山が言う通りではあるか。もし犯人を特定したら、クラス内のカーストは最下位になるだろうしな」

 

「あら、貴方が居るじゃない?」

 

「ばっかお前、常人に俺と同じポジションで耐えられると思うのかよ」

 

 いつものやり取りだったが、今回は意外に早く済んだ。雪ノ下としてもこの議題には気を引かれているのだろう。

 

「それもそうね。とはいえ、自らがしでかした事なのに罰が大きすぎるから不問に付すというのも、何だか微妙な気持ちになるのだけれど」

 

「とは言っても、『目には目を』が基本だからな」

 

「あ、それ知ってる!マグナ・カルタだよね?」

 

「……ハムラビ法典よ。念の為に説明するのだけれど、彼が言っているのは『やられたらやり返しても良い』という意味ではなくて、『それ以上は禁止』という意味なのだけれど。ちゃんと理解しているのかしら?」

 

「も、もちろんだし!」

 

 冷や汗をかきながら思いっきり視線を逸らす由比ヶ浜であった。

 

「まあ、噂の被害者としては犯人がどんな酷い目に遭おうが別に良いんだが……。そいつなら思う存分叩いても良いって勘違いする連中が出て来るのも嫌だしな」

 

「あー、確かにそんな感じになっちゃうよね」

 

「だからといって、自らが犯した罪を謝罪できないというのも……」

 

「ああ。後に引きそうだよな」

 

 何故か途中で口ごもった雪ノ下の発言に続ける形で八幡が補足する。ふと気付くと、平塚先生と雪ノ下が真剣な表情で見つめ合っている。急に教室内の空気が変わった感じがして首を傾げる八幡と由比ヶ浜に、意を決した雪ノ下の声が届いた。

 

「……少し、話を聴いて貰えないかしら?」

 

 

***

 

 

「例えば……由比ヶ浜さんは犬を飼っていたと思うのだけれど、散歩の途中でその飼い犬が他人に迷惑を掛けたとするわね。現場では由比ヶ浜さんが謝罪をして、損害への対処もきちんと取り計らって。その場合に後日、親の立場で関係者に謝罪に行く必要はあるのかしら?」

 

 何だか変な話になった事に引き続き困惑しながら、とりあえず2人は答える。平塚先生はこの話に加わる意志はないのか、コップを持って立ち上がり窓際にまで移動していた。

 

「うーん、どうだろ。あたしが現場で謝って、その他のお金の話とかも済んでるって事だよね。じゃあわざわざ親が行かなくても良いんじゃない?」

 

「……どうだろうな。俺らが未成年って事を考えると、親の責任もあるから顔を出しておいた方が良いのかもな」

 

「でもさ、親が何かしたわけじゃないじゃん。あたしは現場責任っていうの?サブレを抑えられなかったから謝るのが当然だけどさ」

 

「なんてか、一言が無くて腹を立てる連中もいるからな。とりあえず話を通しておくってのも社会人スキルとして大事らしいぞ」

 

 少し思った方向からずれて来た気もするが、話の流れに便乗して雪ノ下は質問を加える。少し訊くのが怖いのだが、しかし知りたいと思ってしまったが故に。

 

「では、その被害者と由比ヶ浜さんのご両親が知り合いだったとして。でも由比ヶ浜さんが知人の娘だと知らなかった場合はどうかしら?」

 

「あー。それだと、話しておいた方が良いのかもね。謝罪とか重いのは要らないと思うけど……」

 

「そうだな。些細な事でも後になるほど言いにくくなるもんだし、後になって判ってぎくしゃくするなら早めに話題に出した方が良いんじゃね?」

 

「なるほど。……解ったわ」

 

 

 どうやら彼女の知りたかった事には答えられたみたいで、2人はほっと一安心する。何だか重苦しい雰囲気になってしまったし、新たに軽い話題でも振ろうかと由比ヶ浜は考えたのだが、それよりも雪ノ下が語り始める方が早かった。彼女は2人を真剣な眼差しで代わる代わる眺めながら核心的な話を持ち出した。

 

「2人に、謝らないといけない事があるのよ。……去年の入学式の日に、比企谷くんが由比ヶ浜さんの飼い犬を助けて入院した時の事なのだけれど」

 

「お、おう。何かあったのか?」

 

「たしかゆきのん、新入生代表の挨拶をしたんだよね?」

 

「……ええ。その日は入学式の打ち合わせもあって、朝早くに車で登校して来たの。……学校の近くで運転手が急にブレーキを踏んで。でも間に合わなかったみたいで、何かがぶつかる嫌な音がして……」

 

「ゆきのん……」

「……」

 

 2人は既に話の結末を悟ってしまった。しかし違っていて欲しいという気持ちもあり、雪ノ下が話し始めた以上は最後まで聴くべきだという気持ちもあって、彼女の独白を遮る事は出来ない。

 

「運転手には見ない方が良いと言われたのだけれど、私は既に、車にぶつかった男の子と自転車とを目に入れてしまっていたの。すぐに駆け寄ろうとしたのに、後々の事があるからそれだけはって運転手に止められて……」

 

「病院にも何度か行って、一言でも謝ろうとしたわ。でも親や家の者からは反対されていたし、どうして良いのか解らなかった。一度だけ病室にまでお邪魔した事があったのだけれど……。あの時、貴方はすっかり眠りこけていたわ。読みかけの『銀河鉄道の夜』の文庫本を握りしめながら」

 

 彼と彼女が最初に部室で向き合った時のことを思い出して、少し苦笑いを浮かべながら彼女は続ける。

 

「同じ部活で過ごすようになってからも、なかなか言い出せなくてごめんなさい。……うちの車のせいで、比企谷くんに怪我を負わせたり、2人の関係を微妙なものにしてしまいそうになって、ごめんなさい」

 

 クッキーの依頼が解決した後に、危うく2人の関係が壊れそうになった時の事を思い出しながら、雪ノ下はそう締め括った。彼女の独白が終わった事を理解して、由比ヶ浜は直ちに口を開く。

 

「ゆきのん。……ずっと言い出せなくて、しんどかったよね?あたしたちは大丈夫だから」

 

「……そうだな。もう終わった事だし今更だわ。お前が何かしたわけでもねーし、その、なんだ。話も通して貰ったし、後は今まで通りって事で良いんじゃね?」

 

 下げていた頭を上げると、2人の部員が優しそうな表情でこちらを見ている。そんな表情に慣れないのか、男子生徒の顔が少し引き攣っているのを見て何だかおかしくなって、雪ノ下はそっと微笑む。そんな彼女の後ろから温かい手が頭に置かれた。

 

「雪ノ下。これにて一件落着だな」

 

 

 こうして、思いがけぬ副産物をもたらしながら、久しぶりの依頼は綺麗に片付いたのであった。

 




急用でほんの少しだけ時間に間に合いませんでした。
重要な回なのでギリギリまで確認して……などと思っていたらこんな事になってしまって申し訳ありません。

タイトルの通り、今回は1巻10話と対になるお話でした。
今話を契機に過去の話を読み返して頂けるなら、とても嬉しいです。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。
最新話ではなく過去の話についてでも構いませんし、非ログインでもハーメルン様のユーザー以外でも感想は可能ですので、思い付いた事をその都度お気軽に書いて頂ければ幸いです。


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10.この世界でも兄妹姉弟は色々ある。

今回から新展開です。



 週が明けて、いよいよ中間試験まであと1週間である。今年度はイレギュラーなことが多かったので日程が遅れ気味になっていて、中間試験も6月にずれ込んでしまった。

 

 今週からは部活も停止期間に入るので、放課後の時間も含めて自分の好き勝手に時間配分ができる。比企谷八幡はそう考えながら、久しぶりの開放感を実感していた。深夜に勉強が捗るようならやれるところまで頑張って、翌日の夕方は早く帰って寝るという事も可能だ。

 

 あの部活に行くのが嫌だという気持ちは既に無いが、しかし時間が拘束されるのも確かである。特に彼のように人生の大半を独りで過ごして来た者としては、慣れない事が多いので微妙に疲れが溜まるのだ。

 

 これが妹のように付かず離れずの距離感を熟知してくれている相手なら問題は無いのだが、親しくなってまだ2ヶ月未満の相手にそれを求めるのも酷である。というより、彼女らに理解されるよりも愛想を尽かされる展開の方が可能性は遥かに高いだろう。

 

 長いぼっち経験で得た教訓から、彼はどんな関係であれ終わる事を前提にして身構える傾向があった。それが現実になった時に、少しでもショックを緩和するために。

 

 

「2時ぐらいまでは頑張れそうだな」

 

 自室の時計の針が12時近くを指していた。だがこのまま寝るのではなく、少し休憩を挟んでからもう少し続けられそうだと彼は手応えを感じていた。少しだけ喉の渇きを覚え、彼は1階のリビングへと降りて行く事にする。夕食を終えてから部屋に引きこもっていたので、廊下を歩いたり階段を降りる程度の動きでも何だか気分が向上してくる。腕を伸ばしたり首の運動をしながら、彼はリビングへと入って行った。

 

 

「おい……。こいつももうすぐ中間じゃなかったか?」

 

 リビングのソファでは妹の比企谷小町がぐーすか眠っていた。彼と同じく試験前という状況だったと思うのだが、肝が太いというか何というか。とはいえ八幡より遥かに要領のいい妹だけに、終わってみればちゃんと帳尻は合うのだろう。

 

 自分の不器用さを少しだけ恨めしく思いながら、しかし中二病が解けた時に自分は所詮は凡人だと理解した八幡は、この後も勉強を続ける意欲を失う事は無かった。その自己評価は過小なのだが、それが勉強をこつこつと積み重ねる行為に繋がっているのだから面白いものである。ともあれ、まずは喉を潤す必要がある。

 

 

 自宅を撮影した写真の中に箱買いしたMAXコーヒーが写っていたのが幸いして、彼の家には毎月一定量のMAXコーヒーが支給されている。しかし試験前など飲む機会が増える時期にはそれでは間に合わない。かといって今の時間にコンビニまで買いに行くのも億劫である。八幡はそう考えて、仕方なくポットに水を補充してスイッチを入れた。

 

 お湯が沸くのを待つ間、手持ち無沙汰の八幡は己が妹の寝姿をぼんやりと眺める。小町は大胆にもお腹を出した状態で、寝息に合わせて波打つ白い素肌や可愛らしいおへそが八幡の目に飛び込んで来る。よくよく見ると彼女はだるだるに伸びた兄のTシャツを着ていて、ブラの肩紐が垣間見える。先程は丸まって寝ていたのですぐには気付かなかったが、下半身はパンツ姿である。

 

「おい、風邪ひくぞ」

 

 これだけ極上の美少女のあられもない姿を前にしても、妹であるがゆえに劣情などは微塵も湧き上がらず、八幡はとりあえず手近にあったバスタオルを掛けてやった。それを胸元に引き寄せながら小町がむにゃむにゃ言っているが、意味のある発言とは思えない。

 

 そうこうしているとポットのスイッチが切れて湯沸かしが完了したので、八幡は戸棚からマグカップを取り出した。そこにインスタントコーヒーをぶち込み、少しお湯を少なめに入れる。砂糖をたっぷり加えてゆっくり溶かして、仕上げに牛乳をなみなみと注げば、彼好みの甘々なコーヒーの完成である。

 

 甘いミルクと砂糖の香りと、インスタントにしては深みのある芳しい香りを堪能していると、くんくんと匂いを嗅ぎつけた小町ががばっと跳ね起きた。

 

 

***

 

 

「……あれ?寝過ぎちゃった?」

 

 まだ充分に頭が働いていないのだろう。状況を完全に把握できているとは思えないが、それでも天然の可愛らしさを発揮しながら小町が呟く。独り言というよりは兄が返事をしてくれるのを確信しているかのような発言に、八幡もオートで返事をしていた。

 

「もしかして、晩飯の後ずっと寝てたのか?」

 

「うーんと……。今何時?」

 

「そうね、だいたい子の刻だな」

 

「お兄ちゃん。相変わらず何を言ってるのか解らないよ?」

 

「あー、12時ぐらいだ」

 

 具体的な数字が出た事で、小町の意識が一気に覚醒したのだろう。この時間帯に相応しくない大きな声で小町は悲鳴を上げる。

 

「寝過ぎたぁー!1時間だけ寝るはずだったのに、5時間も寝ちゃったよー!」

 

「いや、さすがに寝過ぎだろ」

 

「うー……。起こしてくれても良かったのに」

 

「なんで俺が怒られてるのか全然わかんねーぞ。つか今まで部屋で勉強してたからな」

 

「そっか。じゃあ仕方ないか」

 

「納得すんのもはえーな。つかズボン履け。あと俺のシャツを勝手に持ち出すな」

 

「これ、サイズ的に寝巻にちょうど良いんだよ?」

 

 そう言いながら立ち上がった小町は、八幡の目の前でくるっと1回転してポーズを取る。シャツの裾をまるでワンピースのように両手で軽く持ち上げて、演技を終えた後で観客に一礼するかのような姿勢の彼女はとてもキュートである。妹は誰にも渡さんと誓いを新たにしながら、八幡は再び彼女に語り掛けるのであった。

 

 

「んじゃ、そのシャツはやるよ。あとコーヒー飲むか?」

 

「おお、サンクス。じゃあ小町も今度、下着をあげるね」

 

「いや、いらんだろ……」

 

「牛乳を温めて欲しいなー。コーヒーは香り程度で」

 

「ほい、了解」

 

 妹のマグカップを取り出して、ほんの少しだけ入れたインスタントコーヒーをお湯で溶かす。それと並行してミルクピッチャーに牛乳を入れてレンジを動かし、甲斐甲斐しく妹の希望通りに動く八幡であった。

 

「もしかして、晩ご飯からずっと勉強してたの?」

 

「まあな。中間が近いし、今回は範囲が広いからな。もうちょい続けて寝るわ」

 

「お兄ちゃんは真面目だなー。働き始めたら絶対お父さんみたいになるよね」

 

「おい、一緒にすんな」

 

「じゃあ、小町も勉強しようかな」

 

「そうしとけ。じゃあ俺は部屋に戻るから、お前も頑張れよ。……ぐえっ」

 

 そう言って歩き出そうとした八幡だが、シャツを引っ張られて変な声を出してしまった。後ろを振り返って目線だけで「何だよ?」と問い掛けると、妹がにこにこしながら解説してくれた。

 

「小町も、って言ったんだから、お兄ちゃんと一緒に勉強するって意味だよ!お兄ちゃん、まだまだ妹の理解度が足りませんなー」

 

「はあ、そうかよ。……まあ俺の勉強は一応は区切りが付いてるし、じゃあ久しぶりに付き合ってやるよ」

 

「じゃ、勉強道具を持ってここに再集合だからねー!」

 

「はいよ。御言葉のままに」

 

 こうして、彼ら兄妹の夜のお勉強が始まるのであった。

 

 

***

 

 

 兄妹がリビングの机に向かい合って、お互いの勉強に集中し始めてからしばし。ふと八幡が教科書から顔を上げると、自分の顔をじっと見つめている妹と目が合った。

 

「……何だよ?」

 

「んー。小町とお兄ちゃんは仲が良いけどさ。世の中には上手くいってない兄弟姉妹も多いんだろうなーって」

 

「あー。ご家庭の事情とか色々あるんじゃね?知らんけど」

 

「ぜんぜん口を利かなくなったり、暴力とか、そういうのが無いお兄ちゃんで小町は恵まれてるなーって」

 

「あれだ。お前と仲良くしてねーと俺だけ怒られるからな。仕方なくだから勘違いすんな」

 

「んふふー。照れてますなー」

 

「うぜー」

 

 すっかり勉強する気が失せた様子の小町は既に勉強道具を片付けていて、兄との雑談モードに入っている。それを見た八幡は顎をソファの方角に向けて、妹に移動を促した。朝夕の食事時や登校時は必ず一緒に過ごしているので、家族の会話は充分だと思っていた八幡だが、もしかすると小町は話し足りなかったのかもしれない。

 

 八幡は小学生の高学年の頃から親との会話が少なくなって、高校生になってからは必要な時以外はあまり口を利いていない。とはいえ仲が険悪というわけではなく、社畜として彼ら兄妹を金銭的な面で不自由させていない両親にはそれなりの感謝の気持ちを持っている。できればこのまま永久に養って欲しいと思うが、それが夢物語だという事は八幡とて気付いている。

 

 八幡への関与が最低限なのとは対照的に、小町の扱いは至れり尽くせりという表現が相応しい。もちろん母親は時に厳しい事を言ったり叱る事もあるらしいのだが、父親の方は溺愛が過ぎてもはや手遅れであった。しかし今は、そんな両親も小町の近くには居ない。

 

 もう少し意識的に小町と過ごす時間を長くしようと内心で決意する八幡に向けて、あちらも何か考え事をしていたらしき表情のまま小町が口を開いた。

 

 

「塾の友達で最近仲良くなった子がいるんだけどね。その子のお姉さんは、日ごとに帰って来るのが遅くなってるらしくてさ。最近は、日付が変わってから帰って来るのも珍しくないんだって」

 

「ほーん。この世界でも不良とかいるんだな」

 

「でもねでもね、お姉さんはお兄ちゃんと同じ総武高校に通っていて、超真面目な性格なんだって。何があったんだろうねー?」

 

「そうだな……。家の事情じゃないんなら、変な友達とか出来ちゃったんじゃね?あんま言いたくねーけど、お前も友達は選んだ方が良いぞ」

 

「その友達はこの4月から塾に通い出した子なんだけどね。運が悪いと言えば悪いよね……」

 

「……そだな。もう半月でも遅かったら、巻き込まれずに済んだのにな」

 

「でも小町は、お兄ちゃんと一緒に巻き込まれて良かったと思ってるよ」

 

「あー。俺は小町だけでも避けられるなら避けて欲しかったが、まあ終わった事は仕方ねぇな」

 

「うん。仕方ないから仲良くしたげるね。お兄ちゃん、宜しくね!」

 

「まあ、あれだ。小町が困ってたら何でも言えよ。前にも言ったが、高校で奉仕部とかいう変な部活にも入れられちまった事だし、何か俺にできる事もあるだろうし。俺の方こそ宜しく頼むわ」

 

 どこか大袈裟でわざとらしい動きで、しかし自然に浮かび上がった笑顔をまっすぐ兄に向けて、小町はゆっくりと頭を下げる。疑う余地など欠片もない妹の心情を素直に受け入れて、八幡も表情を崩しながらそれに応えるのであった。

 

 

***

 

 

 八幡がはっと目を開けると、そこはリビングのソファであった。夕べは妹とすっかり雑談モードに入ってしまい、会話の途中で強烈な睡魔が襲って来た事は覚えているのだが、どうやらそのまま寝てしまった模様である。

 

 周囲を見渡しても小町の姿は見えず、ふと嫌な予感がして時計を見ると、短針が9と10の真ん中ぐらいに位置していた。完璧に遅刻である。

 

 変な体勢で寝た為か、疲れが残っている身体を何とか立ち上げて、彼はテーブルの上にトーストとハムエッグ、そして置き手紙が載っている事に気付いた。遅刻したくないから先に行くという内容は予想通りだ。PSではなく、セキュリティ・ポイントで朝食をきちんと摂るようにと書かれているのが目を引いたが、ツッコミを入れる元気がない。

 

 焦っても仕方がないので、彼はゆっくりと朝食を済ませる。そして授業の途中で教室に入るのは気が進まなかったので、彼は自転車でゆっくり登校する事にしたのであった。

 

 

 予定通りの時間に高校に到着して、人の気配がない廊下を歩いていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。生徒達の声で一気に騒がしくなった教室の中の様子を窺って、八幡はこっそり後ろのドアから室内に入る。よもや誰にも気付かれる事はあるまいと思っていたのだが、席に鞄を置いて顔を上げると、自分を手招きする国語教師の姿があった。

 

「さて、比企谷。言い訳があるのならば聞こうか」

 

「その、妹と一緒に深夜まで勉強していたら、そのままリビングで寝過ごしてしまいまして……」

 

「ほう。では君の妹も今日は遅刻したのかね?」

 

「いえ、置き手紙と朝食を残して先に登校したみたいで」

 

「そ、そうか……」

 

 下手な言い逃れをしたら存分に叱ってやろうと気合いを入れていた平塚静教諭だが、八幡の言い訳が真実味を帯びているように聞こえて、責める気が急激に失せてしまった。彼女は小町と面識があるだけに、あの少女ならばそうするだろうと思えてしまう事も大きかったのだろう。

 

 

 彼の処分をどうしようかと悩んでいると、彼女の視界がまた別の遅刻者を捉えた。教師の視線を追って八幡も同じ方向に目を向けると、長く背中まで垂れた青みがかった黒髪の少女が廊下を歩いている。そのまま堂々と教卓に近いドアから教室に入って来た生徒に向けて、教師は口を開いた。

 

「川崎……君も重役出勤かね?」

 

 ぺこりと頭を下げて、おそらくは授業でやった内容を尋ねようと思ったのだろう。歩きながら鞄の中から教科書か何かを取り出そうとした事が災いして、その生徒は教卓の前で蹴躓いてしまった。尻餅をつき両足を広げた状態の彼女を正面から見てしまった八幡の目に、その姿がまともに飛び込んで来る。

 

「……黒のレース、か」

 

 そう呟いた彼の声が耳に届いたのだろう。彼女はゆっくりと立ち上がりながら彼の顔を見つめ、そして呆れるようにこう呟くのであった。

 

「……バカじゃないの?」

 




前回の投稿後にUAが5万を超えました。
いつも読んで頂いてありがとうございます!

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(2/20)


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11.その後で彼らは勉強会を行った。

中間テストの直前ですが依頼が入ります。


 午前の授業が終わって昼休みに入り、比企谷八幡は教室で昼食の支度に入った。普段であれば由比ヶ浜結衣に誘われぬようさっさと出て行くのだが、今は試験まで一週間という時期である。復習をしながら独りで食べるという大義名分があるので、彼は安心して席に座っていられたのである。

 

 そんな彼のもくろみ通り、教科書を広げながら食事をしている八幡に話し掛ける者はない。遅刻で始まった時はどうなる事かと思ったが、この調子だと今日はこのまま平穏に過ごせそうだ。そんな事を考えながら重要項目に絞って教科書を斜め読みしていた彼の耳に、メッセージの着信を知らせる音が届いた。

 

 

『ヒッキー、今日は朝どしたの(・∀・)??』

 

『寝坊した』

 

 何か急用でもあるのかと少し身構えながらメッセージを見て、八幡は少しがっくりとしながら返事を返す。打ち込むのも面倒なので音声入力で最小限の返事をしたところ、またすぐにメッセージが返って来た。

 

『体調が悪いとかじゃなくてε-(´∀`*)ホッ』

 

『今んとこ健康』

 

『じゃあさ、今日の放課後みんなで勉強会しよヾ(・ω・ )』

 

『面倒だからパス』

 

『ヒッキー、なんか怒ってる(*’ω’*)?』

 

 思わず教室の後ろを振り返り由比ヶ浜の方へ視線を向けると、こちらを見ていた彼女と目が合ってしまった。胸の鼓動を強めながら彼は即座に目を逸らして、端的に返事を返す。

 

『は?なんでだよ?』

 

『だって、絵文字か顔文字がないと怒ってるように見えるし(*・ε・*) ぶー』

 

『入力が面倒なんだよ。別に怒ってねぇから気にすんな』

 

 女子のトップ・カーストの一角であり、可愛らしい外見と優しい性格の由比ヶ浜から教室で話し掛けられるのも緊張するが、こうして同じ教室に居ながらこっそりとメッセージでやり取りをするのも改めて考えるとドキドキものである。八幡はふとその事に気付き、少し慌て気味に返事をする。

 

 返事をして一息つくかと思った八幡だが、先ほどの由比ヶ浜の様子が落ち着いたものだった事を思い出した。それは彼からすれば、自分だけがあたふたしているようで余計に落ち着かない。意識過剰で慌てているのは俺だけかと少し落ち込んだ気持ちも芽生えさせつつ、彼は続けて届いたメッセージを読む。

 

『せっかく今日はさいちゃんも誘ったのに('∩') ムスッ』

 

『おけ。何時にどこ集合?詳細求む』

 

 教室の後ろの方から、机に両手を叩き付けながら誰かが勢いよく立ち上がった物音が聞こえてくる。思わずびくっと反応してしまい、そのまま身動きできない状態で様子を窺っていた八幡だが、幸いな事に物音の主は再び着席した様子である。

 

 周囲の友人達に言い訳をしたり謝っている彼女の声をぼんやりと聞いていると、彼の許に最後のメッセージが届いた。

 

『今日はカフェで。放課後すぐに席取り( ゚Д゚)<ヨロシク』

 

 

***

 

 

 由比ヶ浜の指令通り放課後すぐに動いた八幡だが、お店に着いて注文の列に並ぼうとしたところで見知った後ろ姿を見付けた。一方の雪ノ下雪乃も、彼女への視線を感じたからか即座に振り返り、2人は視線を合わせる。

 

 普段なら何も見なかったかのように視線を逸らされる可能性が高いのだが、今日に限っては雪ノ下は彼をじっと見つめたままである。少しだけ胸の高鳴りを覚えつつ彼が話し掛けようとすると、機先を制するかのように彼女の指令が届いた。

 

「比企谷くん。注文はまとめて済ませるから、席を確保して貰えるかしら?」

 

「あ、はい。んじゃ、ラテのグランデにキャラメルソース追加で頼むわ」

 

 どうやら彼女は彼をからかうよりも、単に分業を指示する事を優先しただけの模様である。最初の外出の際にこのお店に来ていた為に、注文の仕方に不安がない事も要因の1つなのだろう。揺るぎのない雪ノ下らしさというものを感じ取って逆に安心しながら、八幡は目に付いた4人席を目指して歩いて行く。

 

 

 彼が目指す辺りは机を移動させる事で簡単に人数が可変なエリアで、4人分の空きがあるその隣では制服姿の男女カップルが何やらこそこそと話をしている。女性の方は八幡からは見えないが、男の後ろ姿を見るに体格的には中学生ぐらいだろうか。少し不機嫌になりながら八幡が奥の長いソファに鞄を放り投げると、勢いが良すぎたのか件の女性の近くまで転がってしまった。

 

「あ。す、すんません……」

 

 こちらを非難する事なく、それどころか一瞥もくれず静かに鞄を押し戻す少女に向けてしどろもどろに謝っていると、聞き慣れた声が辺りに響いた。

 

「あ、お兄ちゃんだ!」

 

 声の主へと顔を向けると、そこには嬉しそうに笑顔を浮かべる美少女が居た。妹の比企谷小町と意外な場所で会った事に八幡はびっくりするが、彼とて妹と予想外の形で遭遇するのは嬉しい事である。とはいえあまり喜びを顕わにし過ぎて気持ち悪いと言われるのも辛いので、彼はなるべく平静を装いながら妹に向けて話し掛けるのであった。

 

「……お前、こんなとこで何してんの?」

 

「いやー。ちょっと相談を受けてて?」

 

 向かいの席へと顔を向ける小町に倣って八幡が視線を動かすと、そこには制服姿の男子中学生が座っていた。なぜ小町はこんな奴と2人きりで?などと警戒心を強める八幡に向けて、その男の子はぺこりと頭を下げながら自己紹介を始める。

 

「初めまして。川崎大志(かわさきたいし)です。……比企谷さんから、お兄さんの話は色々と聞いてます」

 

「おい。お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはねぇ!」

 

「……時代錯誤の頑固親父みたいな事を喚かないで欲しいのだけれど」

 

 

 いつの間にか注文を終えて、雪ノ下が彼の背後に立っていた。放課後すぐの時間帯なのでレジに行列が出来ていたものの、注文の品は即座に完成して手渡されるのであまり時間差が付かなかったのである。そして彼女の背後には由比ヶ浜と戸塚彩加の姿もあり、2人も飲物を載せたお盆を手にしている。

 

「お、お兄ちゃん!本当にぼっちを脱却したんだね」

 

「ちょっと待て。本当にってどういう事だよ?」

 

「やー、どうも初めまして。比企谷小町です。兄が大変お世話になっているようで……」

 

 八幡からの抗議をさくっと流して、小町は立ったままの3人に向けて自己紹介を始める。その笑顔が営業用スマイルである事は八幡には丸分かりなのだが、それでも親しげな表情でにこやかに話し掛けられると悪い気はしないだろう。そのまま彼女らに自己紹介をさせる暇を与えず、小町は言葉を続ける。

 

「ささ、まずはこっちに座って下さい!大志くんはそのままで、お兄ちゃんはこっちの端ね。小町が間に入るから。……あ、本当に遠慮なく、奥に座って下さいねー」

 

 迅速に場を整える小町の勢いに気圧され、大人しく戸塚・由比ヶ浜・雪ノ下の順に奥のソファに腰を落ち着ける。彼女らと向かい合って八幡・小町・大志の順に席について、まずは自己紹介が始まったのであった。

 

 

***

 

 

「じゃあ改めて、妹の比企谷小町です。至らぬ部分が多い兄ですが、何卒よろしく……」

 

「たはは……。小町ちゃん相変わらずだね」

 

「結衣さん、お久しぶりです。あのお菓子とても美味しかったですよー。是非また遊びに来て下さいね」

 

 そういえば顔見知りだと言っていたなと八幡が思い出している間に2人の挨拶が終わり、次いで戸塚が自己紹介を始めた。

 

「初めまして。クラスメイトの戸塚彩加です」

 

「うはー、可愛い人ですね。お兄ちゃんってば何があったの?」

 

「戸塚が可愛いのは認めるが、一応言っとくと男だからな」

 

「またまたー。愚兄が面白くない冗談を口にしてごめんなさいです」

 

「いや、あの。ぼく、男の子です……」

 

「え、あ、本当に?」

 

 戸塚の長いまつげや綺麗な肌を凝視しながら半信半疑で首を傾げている小町と、彼女の視線に顔を赤くして身じろぎする戸塚であった。そんな可愛らしい戸塚の姿を脳内メモリーに繰り返し焼き付けていた八幡だったが、さすがに彼からのSOSが尋常ではなくなって来たので、小町に肘打ちをして注意を促す。

 

「ほら、次行くぞ」

 

「では、私の番ね」

 

 兄に言われても注意を他所に向けられなかった小町だが、その一言で意識を彼女へと向けてしまうのだから凄いものである。その声はとても静かで密やかなのに、その場にいる全員の耳に沁み渡るような存在感があった。

 

「初めまして。雪ノ下雪乃です。比企谷くんと同じ部活で部長を務めています」

 

「ほえー。本当に可愛い人ばっかに囲まれちゃって……。あれ、でも、雪ノ下って?」

 

「……ええ。お兄さんに怪我を負わせてしまってごめんなさい」

 

「悪いな小町。もう終わった事だし、あんま気にすんな」

 

「それに、元々はあたしの不注意が原因だし……」

 

「それも終わった話だから、あんま気にすんな」

 

「あ、うん。小町的にはお兄ちゃんが良ければそれで良いんだけど……。雪乃さんって呼んで良いですか?兄もこう言っていますので、もう気にしないで下さいね。結衣さんも。……おふたりとも、兄をよろしくお願いします」

 

 何とか無事に取りなして、張り詰めかけた雰囲気は再び友好的なものへと変化していた。雪ノ下と小町とは互いに笑顔で頷き合っていたし、戸塚は会話の流れから何となく事情を察して、彼女らの仲が険悪なものにならなかった事を喜んでいる。それは由比ヶ浜も同様で、そして八幡もまた身近な存在の間で揉め事が起きなかった事を安堵するのであった。

 

 

「それで、あの……。川崎大志と言います」

 

 知り合いが小町しか居ないこの場で自己紹介を始めるのだから、彼のコミュ力もなかなかのものである。しかし彼が口を開いたのはそれだけが原因ではなく、むしろ切羽詰まった相談事を抱えていたという理由の方が大きかった。

 

「あの、うちの姉ちゃんも皆さんと同じ総武高校の2年なんっすけど、最近ちょっと……」

 

「昨日お兄ちゃんに話したよね?お姉さんが不良になっちゃったって」

 

「あ、姉ちゃんの名前、川崎沙希(かわさきさき)って言います」

 

「あー、あたしたちと同じクラスの川崎さんだね」

 

 八幡と戸塚に同意を求める由比ヶ浜の視線に軽く頷き返しながら、八幡は脳内で記憶を必死に漁る。よもや知らないとは言えない雰囲気なので冷や汗を流しそうになるが、意外に近い記憶に突き当たった。

 

「もしかして、あの黒い……」

 

「そうそう。ちょっと青みがかった、長い黒髪の川崎さんだよね?」

 

 危うく余計な事を口走りそうになった八幡だが、何とかそこで口を閉じる。上手い具合に由比ヶ浜が勘違いしてくれたので事なきを得たが危ないところであった。

 

「でも、ぼくも話をした事がないから分かんないけど、川崎さんって不良って感じとは……」

 

「うーん。なんてか、一匹狼?みたいな感じだよね」

 

「誰かと仲良くするってよりは……独りでぼーっと外を見てる気がするね」

 

 戸塚と由比ヶ浜が彼女の印象を確かめ合っているが、弟からすればそうした情報はあまり好ましいものではないだろう。友達が多ければ良いというものではないが、しかしクラスで友人が居ないという状況は家族としてはあまり聞きたくない事である。

 

 そんな大志の心境に配慮したわけではないのだろうが、雪ノ下が彼に質問を始めた。

 

「その、お姉さんが不良になったのはいつぐらいからなのかしら?」

 

「はいっ!えと、変わったのは今月に入ってからですね。帰ってくるのがどんどん遅くなって……」

 

 雪ノ下に問い掛けられて緊張のあまり声が上擦ってはいたが、彼は何とか質問に的確に答えることができた。その彼の返答を聞いて、その場の面々が頭を働かせる。

 

「外に出られるようになって、この世界で再会した時は、前と変わってなかったんだよね?」

 

「は、はぁ。そうですけど……」

 

 由比ヶ浜に親しげに話し掛けられた事と、彼女の揺れる胸元にどぎまぎしながらも、彼は今度も何とか返事をする事ができた。

 

「ぼくもテニスの練習で遅くなる時があるんだけど、何時ぐらいなの?」

 

「そ、その……」

 

「日付が変わらないと帰って来ないって言ってたよね」

 

 小町のフォローによって事なきを得るものの、何故か戸塚と話をする事が大志には一番難度が高かった模様である。

 

「たまに顔を合わせても喧嘩になっちゃうし、俺が何か言っても『あんたには関係ない』って言われるし……」

 

「家庭の事情って……どこにでもあるものね」

 

 静かに独り言を呟く雪ノ下の陰鬱な表情に各々が驚きの表情を浮かべるが、次の瞬間には、彼女の顔は以前と変わらぬ凛々しいものになっていた。狐につままれたような気がして唖然とする面々を尻目に、彼女は大志に語り掛ける。

 

「私達は奉仕部という部活動を行っているのだけれど……。もしも依頼をする気があるのなら、明日の放課後にでも高校まで来てくれないかしら?」

 

「ゆきのん、今って部活は活動停止期間だけど……」

 

「ええ。だからどの程度の力になれるかは確約できないのだけれど、顧問の平塚先生に話を通して、可能な範囲で相談に乗るという形で如何かしら?」

 

「それで充分っす!あの、よろしくお願いします!」

 

 

 こうして、大志の依頼は奉仕部に受理されたのであった。

 




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
前書きのテスト期間中→中間テストの直前に変更しました。(9/29)
細かな表現を修正しました。(11/15)


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12.あちらの世界の事を彼女は今も引き摺っている。

少しシリアスが入ります。



 翌日の昼休み。雪ノ下雪乃は職員室で平塚静教諭と向かい合っていた。時間帯を考えると周囲は喧騒に包まれていても不思議ではないのだが、彼女ら2人の周囲だけはなぜか張り詰めた静けさがある。他の先生方も、彼女らに近付けないのは勿論のこと遠巻きに様子を窺う事すら憚られるという受け止め方のようで、お陰で2人はゆっくりと話ができる環境にあった。

 

 雪ノ下の要件は、昨日の話を教師に伝える事である。彼女にとっては同学年であり、由比ヶ浜結衣と比企谷八幡にはクラスメイトにあたる女子生徒が、不良と疑われるような行動をしている。今のところは夜の帰宅時間が徐々に遅くなっているという程度だが、しかし日付が変わる時間帯に帰って来るというのはやはり問題であろう。

 

 件の女子生徒の弟から相談を受けた事。そして自分達に可能な範囲で手助けをしたい旨を教師に伝えると、平塚先生はそれに頷きながら口を開くのであった。

 

 

「ふむ。雪ノ下が依頼を受けたいと言うのであれば特に異論は無いが。……君は大丈夫だと思うが時期が時期だ。テスト直前なのに依頼にかまけて勉強が疎かになるのは困るぞ」

 

「それについては、奉仕部で勉強会を行う事で対処する予定ですが……」

 

「君や比企谷と違って、由比ヶ浜は学問的な勉強に頭を使うのはそれほど得意ではない。むしろ彼女の優しさからして、問題を起こしかねない同級生を助けるために頭を使おうとするのではないかな?」

 

 そうした由比ヶ浜の性格は教師に言われるまでもなく雪ノ下も把握している。だがテストへの影響をどの程度と見積もるのかで2人には相違があった。

 

 仕方のない事なのだが、雪ノ下は勉強に掛けた時間とその成果の関係を自身を基準に考えている。由比ヶ浜が依頼のために頭を使う時間を差し引いても、テスト勉強のための時間は充分に確保できると彼女は考えていた。しかし雪ノ下が集中して勉強する2時間と、由比ヶ浜が気を散らしながらたまに勉強して過ごす2時間とでは大きな差があるのだ。

 

 雪ノ下も自身と他者とで勉学に挑む姿勢が異なる事や成果率に違いがある事を理解はしている。とはいえ定期考査直前のこの時期には誰もが必死で勉強するだろうから、そうした違いはさほどの差異にならないだろうと彼女は考えていたし、それが彼女の勉強を捗らせる原動力にもなっていた。優位な立場にあぐらをかいている間に、必死になった誰かに抜かれてしまうなど、彼女には決して許せる事では無い。

 

 だから彼女は教師が伝える内容をきちんと理解できたわけではないのだが、それでも新たに気付く事はあった。つまり由比ヶ浜の性格ならば、勉強の時間を犠牲にしてでも他人の為に頭を働かせるのではないか、という気付きである。テスト直前のこの時期に勉強から現実逃避するという発想は彼女には無いので由比ヶ浜の優しさを過大評価している形だが、仮にバレても由比ヶ浜がいたたまれない気持ちになる程度の影響しかないので問題は無いだろう。

 

 三浦優美子や海老名姫菜に言付けて、由比ヶ浜の勉強をしっかり監督して貰わねばと彼女は内心で決意する。そして教師に向かって頷きつつ、続く言葉に耳を傾けるのであった。

 

 

「それに比企谷も、場合によっては周りが見えなくなる時があるからな。前科持ち、という表現は少し不適切だが……。自らの身を顧みず危険に飛び込める男は希少だが、だからといってその行為を認めるわけにはいかん。比企谷が危険な目に遭うと、心配する子も居るからな」

 

「妹さんや由比ヶ浜さんを哀しませるような事をさせないように、手綱を握れという事ですね」

 

「君もだよ、雪ノ下。少なくとも奉仕部部長として、部員が危険な目に遭う事を看過できる性格ではないと私は思っていたのだが?」

 

 少しからかい気味に目の前の少女に向けて話し掛ける教師であった。安い挑発だが彼女なら乗ってくるだろうと平塚先生は期待していたのだが、その目論見は良い方向に外れる。最初は何か言い返そうという気配もあったものの、意外な事に少女は大人しく指摘を受け入れて、こう返事をするのであった。

 

「それは……そうですね。承りました。部長として、部員の勉学や身の安全に影響しない範囲で、依頼に取り組もうと思います」

 

「うむ。ならば私としては依頼を受ける事に異論は無い。君が言った制限に加え、もしも事態がエスカレートした時は速やかに教師を巻き込むように。その判断も君に任せよう」

 

「では、お願いがあるのですが」

 

 再び意外な返事があった事で、平塚先生はますます興味深い表情を浮かべながら、身振りだけで続きを促した。それに応えて雪ノ下がお願いの内容を告げる。

 

「今日の放課後に依頼人が部室を訪れる事になっていますので、彼と比企谷くんの妹さんの入校許可をお願いします。それと、放課後に川崎さんをここに呼び出してもらって、一緒に部室まで連れて来て頂けると助かるのですが」

 

「いきなり正面突破という事か。勝算はあるのかね?」

 

「それで解決すれば万々歳ですが、まずは当事者から事情を聞かないことには始まらないと思います。それに、当人の知らないうちに、こそこそと事情をかぎ回られるのは嫌でしょうし……」

 

 何やら実感のこもった口調で付け足す雪ノ下の表情を眺めながら、平塚先生は納得顔で頷く。

 

「では、川崎の弟と比企谷の妹への入校許可はこの後すぐに手配しておこう。こちらに顔を出さず、直接そちらの部室に行ってくれて構わない。それから少し遅れるぐらいの時間に川崎を連れて行く手筈で良いかな?」

 

「ええ、よろしくお願いします」

 

「君も段々と、教師を使うのが上手くなって来たな」

 

 最後に冗談交じりにそう呟いて、教師は立ち上がって会談の散会を告げるのであった。

 

 

***

 

 

 その日の放課後。比企谷小町は川崎大志と連れ立って、総武高校に向かって歩いていた。

 

 この4月から同じ塾に通うことになった男子生徒に対して、小町は特別な感情を抱いているわけではない。にもかかわらず最近は2人で話をする機会が多く、何だか変な展開になったものだと彼女は内心で考えていた。

 

 最初に彼に話し掛けたのは、彼が塾の仲間たちに受け入れられ易いようにという単なる配慮からだった。幸いなことに彼は話し下手ではなく、短期間ですんなり仲間に入れた模様である。この世界に閉じ込められたという共通体験が、仲間の絆を強めるという点ではプラスに働いたことも影響したのだろう。

 

 その後しばらくは付かず離れずの仲だったが、今月に入って彼に悩みができたのか、時折ぼんやりと考え事に耽っている姿が見られるようになった。そして誰から聞き付けたのか、小町の兄が総武高校に行っているという話を知って、彼は小町に相談事を持ち掛けて来たのである。

 

 小町としては特定の男子生徒と頻繁に2人きりになる事態は避けたいのが本音だったが、困ったことに兄か姉が総武高校に通っているという生徒は彼女の他にはいなかった。塾の先生を巻き込もうかと思ったが、あまり大事にはしたくないという大志の希望は充分に理解できるものだったので、小町はやむなく彼に付き合って相談に乗っていたのである。

 

 彼の相談に乗りながら、塾の生徒たちにも話しても良いと思う範囲の内容は流しているので、彼女らの仲が疑われている気配は無い。そうした雰囲気を微塵も感じさせない振る舞いをしている小町の姿も、疑惑の払拭に影響しているのだろう。だが、相談が長期に亘るとどうなるかは分からない。

 

 そうした経緯があったので、小町は兄のみならず兄の高校の部活を巻き込んで相談できる状況に持ち込めたことにご満悦であった。後は上手く事が運んで、傍らの男子生徒の悩みを解消できれば全ては解決である。

 

 

 しかし彼女には当面の相談事とは別に、心の中で留め置かれている複雑な感情があった。

 

 今回の件で巻き込んだ、兄と同じ部活の女子生徒2人。彼女らは1年前、兄が入学式の直前に遭った事故の関係者である。事故のきっかけが由比ヶ浜にあり、兄を轢いた車に雪ノ下が乗っていた事はまぎれもない事実であるが、とはいえ彼女らに罪を問えるかと言われると現実的にも感情的にも難しいものがある。

 

 由比ヶ浜は小町が思う以上に事故の責任を感じていて、病院にも何度も来てくれたし自宅にも謝りに来てくれた。彼女の行動に足りない部分があったとは小町は思わない。むしろ彼女の誠意に絆されて、もっと仲良くなりたいと思ってしまう程であった。

 

 雪ノ下が見舞いに来た姿を小町は見ていないが、昨日兄から聞いたところによると、家族の反対をよそに何度か病院を訪れていたらしい。大人の間では示談が成立して、金銭面でも療養面でも充分な配慮をして貰ったし、そもそも車に乗っていただけの彼女を責めるのも酷である。こうしたことは小町も充分に理解していたし、初対面で潔く謝罪の言葉を告げる彼女の凛々しさには、憧れの感情を抱いてしまう程であった。

 

 だが、そうした親しみの感情を持つ事と、理由など関係なく誰かを責めたくなる事とは、どうやら並立するものらしい。

 

 

 兄が事故に遭った時、彼の携帯電話に登録されていた父親の携帯に最初の連絡が入った。次いで母親の携帯に。共働きで仕事が忙しい両親は、既にその時間には会社に着いていた。ひと仕事を終えてから息子の入学式に行く予定だったが、仕事の状況によっては行けなくなるかもしれないと息子に告げねばならないほど、彼らの仕事は山積みだった。

 

 それに対して兄は捻くれた受け止め方をしていたが、母親には入学式に参列する意志はあったし、父親がその意志に反する行動を取るなどあり得ない。両親の意志を前もって聞かされていた小町は、入学式で両親の姿を見付けた兄が狼狽える様子を話して貰うのを、朝から楽しみにしていたのである。

 

 生徒会の役員ゆえに、中学の入学式の手伝いに駆り出されることになっていた小町が支度をしていると、珍しく父親から携帯に電話があった。仕事が終わらず兄の入学式に行けなくなったという言い訳の電話だろうか。ならば兄の為に軽く叱っておかねばならない。小町はそう考えて、電話を受けてすぐに父を責めるような事を言おうとしたが、開口一番に聞かされた「八幡が車に轢かれた」という父の発言がそれを遮る。そして彼女はその言葉の意味を瞬時には理解できなかった。

 

 その後のことを、小町は正確には覚えていない。気が付けば両親と共に病院にいて、兄の命に別状は無く後遺症なども残らなさそうだという医師の話を聞いていた。父の指示に従って、教えられた病院までタクシーを飛ばした記憶はあるのだが、それは自分の記憶なのに他人事のような、どこか違和感のある記憶でしかなかった。兄の無事を聞いてようやく小町の意識が正常に戻ったのだろう。

 

 

 意識が混乱しているさなか、兄が居なくなる可能性と真剣に向き合わざるを得なかった小町は、この事故の後に以前にも増して兄に心理的に依存するようになった。お互いの生活に問題が出るほどではないが、彼女らが普通の兄妹とは違っている事も確かである。そして火種は燻ったまま、いつ何時それが表に出てくるかもしれなかった。

 

 もしもこの世界に巻き込まれたのが兄妹のどちらか一方だけだったとしたら、小町に残されていた火種は爆発してしまったかもしれない。一昨夜に彼女が兄に告げた『一緒に巻き込まれて良かった』という言葉は、理性的にも本能的にも彼女の本心であった。それは事故に遭った側の八幡には解らない事である。残された者がどう思うのか、それに頭を働かせられるほど八幡は成熟していなかったし、残念ながらそうした気遣いを思い付くほどの関係を築けた友人も居なかった。

 

 解らないが故に、八幡にはどうすることもできない。そして両親が側に居ない今、小町の心に残ったままの傷痕は彼女自身が克服するしかなかった。それが大爆発を起こしてしまえば取り返しの付かない事になりかねないが、小規模な爆発なら精神の安定に繋がる。まるで地震のようだが、エネルギーを溜め込み過ぎて大災害に繋がるよりは、こまめに発散してくれた方が良いのである。

 

 こうした自分自身の心理状況を小町は論理的には理解できていない。しかし本能的に、このままでは危ないと思える瞬間が時々あって、そんな時の彼女は誰かに事故の責任を求めた。もしも由比ヶ浜がリードを注意深く握ってくれていたら。もしも雪ノ下が車で登校などしなかったら。兄の行動にも言いたい事はあるが、そんな事をしでかしてしまうのが兄なのだから仕方がない。小町が責を問える対象はごく僅かなのである。

 

 彼女らを内心で責めて精神の落ち着きを取り戻した後で、小町はいつも自己嫌悪に陥る。兄が彼女らと仲良く過ごしていると知ってしまった今となっては、それはますます酷い事になるだろう。だが小町とて、彼女らを責めたくて責めているわけではない。それに表には出していないのだし、心の中でたまに思うぐらいは許して欲しい。そうでなければ、小町が平静を保つのは難しくなるだろうから。

 

 

「えーと、校門まで迎えに来てくれるって言ってたよね」

 

 こちらに歩いてくる途中に確認していた事を再び口にしながら、小町は意識を現実に引き戻す。あの2人と仲良くなりたいというのは彼女の本音なのだ。兄が仲良くしているからという理由もあるし、それに加えて小町自身が直接仲良くなりたいと思ってしまうほど魅力的な2人である。みんなで仲良く夏キャンプなどに行ける仲になれたら、どんなにか楽しいことだろう。

 

 兄の事故のことを意識からなるべく逸らしながら、小町はいつもの自分を取り戻そうと努める。兄のように面倒な思考に嵌まり込むことなく、元気に素直に反応を返すいつもの自分に。それが果たして素の自分なのか?などという余計な考察は、彼女には向いていないので却下である。そんな事よりも場を取り持ったり話を盛り上げたりして、そこに居る人たちを明るくする方が遙かに小町には合っている。

 

 部活中の兄の様子を知れる事や、同じ部活で過ごす彼女らとより一層仲良くなれる事を期待しながら、小町は既に視界に入っている総武高校の校門に向けて歩いて行く。そして彼女は、物思いに耽っている間も心配そうに彼女の様子を窺っていた傍らの男子生徒の視線には、全く気付いていなかった。




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)


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13.どんな世界でも彼女の意識は家族と共にある。

真面目な話が続きます。



 放課後のその部室では、見目麗しい3人の生徒たちが集まって雑談をしていた。奉仕部の部長である雪ノ下雪乃と部員の由比ヶ浜結衣、そして由比ヶ浜と同じクラスの戸塚彩加である。

 

 比企谷八幡は彼の妹である比企谷小町と、ついでに今回の依頼人である川崎大志を校門まで迎えに行って、まだ戻って来ていない。部屋の中で彼女らがテスト対策の話をしていると賑やかな話し声が廊下から聞こえて来て、やがて部室の扉がゆっくりと開かれた。

 

「あ、小町ちゃん。やっはろー!」

 

「結衣さん、やっはろーです!雪乃さんと戸塚さんも!」

 

 部屋の内外から元気な少女の声が行き交って、途端に周囲は華やかな空気に包まれる。小町の挨拶に戸塚は「やっはろー」と応え、雪ノ下は少し迷ったのか反応が微妙に遅れたが、結局は礼儀正しく「こんにちは」と返事をした。

 

「てか、その変な挨拶って流行ってんの?あんま小町に変な事を教えんなよ」

 

「出た、シスコン!」

 

 表面的には「うわっ」という表情をしながらの返答ではあるが、由比ヶ浜の目に呆れの色はなく温かい眼差しである。言われた側にもそれは伝わっているのか、特に気分を害するでもなく軽い口調で言い返す八幡であった。

 

「この程度でシスコン認定されてたら、千葉で兄妹なんかやってらんねーぞ。つか、戸塚までわざわざ悪かったな」

 

「ううんっ!ぼくも昨日一緒に居たんだし、同じクラスの川崎さんの為だしね。それとも……ぼくが付き合うと、八幡は迷惑?」

 

 そう上目遣いで尋ねる戸塚の言葉を肯定できる者など、果たして居るのだろうか。彼の圧倒的な女子力を目の当たりにして、八幡はしどろもどろに否定するのみである。

 

「いや、その……。迷惑なわけ無いっていうか。俺は、戸塚が付き合ってくれると、嬉しいっていうか。……付き合って欲しい、っていうか、なんだ」

 

「良かった。それとね、ぼくが依頼に付き合う代わりに、また入れて欲しいってお願いしたんだ。だから勉強会も一緒によろしくね」

 

「お、おう。勉強会に、入れるって話だよな?うん、大丈夫。全く問題ない」

 

 何故か早口で捲し立てるように喋る八幡であった。そんな彼の様子を見て首を傾げる女性陣だが、八幡が変な事を言い出すのにも慣れてしまったのか、幸いにも追求の声は上がらなかった。そして彼女らの視線は、1人の男子中学生へと注がれる。

 

 

「川崎くんは、その真ん中の席に座ってもらえるかしら?普段ならその逆側の依頼人席に座ってもらうのだけれど、そちらには川崎さんが来ると思うから……」

 

「じゃあ小町は、お兄ちゃんの近くに控えていますねー」

 

 奉仕部の3人の席はいつもと変わらず、由比ヶ浜の右隣には戸塚が座る椅子がある。大志はその更に右側、長机のちょうど半ば辺りに準備された椅子に向かってゆっくりと歩いて行き、小町は椅子を兄の近くに寄せて元気に腰を下ろした。

 

「まずは素直に、川崎さんに事情を尋ねてみようと思っているの。それで川崎くんが納得のいく説明を得られれば良し。話してくれないのであれば、こちらで勝手に事情を探る事になるかもしれないのだけれど……。お姉さんのプライバシーも尊重したいので、その辺りは川崎くんと相談しながらという形になると思うわ。大まかな方針としてはそれで良いかしら?」

 

「それで大丈夫っす。今は親にも相談できないし、途方に暮れていたので本当に助かります」

 

 雪ノ下の説明を充分に理解して素直に返事をする大志からは、安心したような様子が窺える。彼としても最終的に問題が解決するのを望んでいるのは確かだろうが、それ以前に相談できる相手がほとんど居ないという状況を打破できた事を実感して、少し肩の荷が下りた気持ちなのだろう。

 

 そんな彼の心情を知ってか知らずか、雪ノ下は静かに、しかし相手を突き放すような冷たい口調とは違った冷静な話し方で言葉を続ける。

 

「お礼は事が済んでからで良いわ。それに、この世界で脱落するような生徒を出したくないのは私も同じ気持ちだから……」

 

「あー。確かお前、最初の演説でもそんな事を言ってたもんな」

 

「あ、この世界に閉じ込められた日の事だよね?あの時のゆきのん、凄かったなー」

 

 これまでの経験から、話した内容の大部分は聞き流されていると諦めていた雪ノ下にとって、部員2人のこの発言は意外なものだった。彼女の姉はそうした傾向を理解した上で、話のポイントになる部分と結論を強調してその他の部分は流すような論説を行う。しかし生真面目な彼女は姉と違って一切の手抜きを良しとせず、発言の始めから終わりまで全てに気を配った論陣を張るのが常であった。

 

 彼女が既に述べている事に対して、それを聞き逃していたなどと思いもしないのであろう偉そうな態度で反論を寄越す、賢しらぶった連中が居た。結論を早く言えと気の急いた事を言いながら、自身の理解力の無さを棚に上げる連中も居た。もちろん雪ノ下はそうした連中を完膚なきまでに論破して来たのだが、10を聞いて1しか伝わらない相手ばかりだと気が滅入るのも仕方のない事であろう。たとえ彼女が、1を求める相手に10の情報量を与えるような話し方しかできないのだとしても。

 

 前提条件を聞き流され、結論しか覚えてもらえないのはよくある事だった。まれに結論に至るまでの考察を褒められて、嬉しい思いをする事もあった。しかし論理の起点にある彼女の意志に言及する人はほとんど居なかったし、せいぜい家族に否定的に評されるのが関の山だった。

 

 だがしかし、彼女の意志を認めてくれる人も中には居るのだ。それも同学年に2人も。

 

 雪ノ下は改めて奉仕部という存在に内心で感謝を捧げる。そして部員やその家族、親しい仲の生徒や依頼人の期待に全力で応える事を誓いながら、少し照れくさそうに微笑むのであった。

 

 

 程なくして、教室のドアが勢いよく開かれた。

 

 

***

 

 

 川崎沙希は4人きょうだいの長女として育った。彼女の2つ下に弟が居て、そして年の離れた妹と弟が居る。両親は共働きで忙しそうだったが、子供が2人の頃はよくある家族の形だったと言って良いだろう。仕事に奪われた時間を質で補おうとするかのように、両親は2人の子供に惜しみない愛情を与えてくれたし、お陰で彼女と弟はすくすくと育つ事ができた。

 

 運動神経は良いものの人と群れるのが苦手な娘を、両親は色々と相談を重ねた末に近所の空手道場に通わせる事にした。両親としては水泳や体操などを習わせたかったのだが、見学に行った先で彼女が一番興味を示したのが空手だったのだ。幼い彼女は幼いながらに自分の弱点を理解していて、見栄えよりも自分で自分の身を護れる術を求めていたのである。独りで過ごしても大丈夫なように。そして、いざという時には家族を護れるように。

 

 彼女が小学校の高学年に上がる頃に妹が産まれ、次いで2人目の弟が産まれた。それによって、彼女の生活は以前とは違った形になった。子供を4人養う為に、まず必要なのはお金である。両親は今まで以上に仕事で忙しい日々を送ることになり、すぐ下の弟や幼い妹弟の世話は必然的に彼女が受け持つようになった。

 

 もともと彼女は同世代の女の子と一緒に遊ぶのが苦手だった。彼女の口下手にも原因があるが、本質的に話が合わないのである。両親の影響で堅実な考え方をする事が多かった彼女は、同世代の女子が恋い焦がれるアイドルなどに興味が全く湧かなかったし、それに関連したグッズを求めるのは単なる浪費としか思えなかった。そんな無駄な出費などしなくても、可愛いものも格好良いものも幾らでもあるじゃないかと彼女は考えていたのである。

 

 空手を嗜む傍ら、彼女は母親から基本だけ教えてもらった編みぐるみに熱中していた。自分の手で可愛らしいものを生み出せる感動を知っている彼女からすれば、値段の割に質の悪いグッズなどには魅力を感じられなかった。そして逆に同世代の普通の女の子としては、彼女が作る貧乏くさい編みぐるみには魅力を感じなかったのである。

 

 彼女が空手を習っている事は周知の事実だったので、表立った虐めなどに発展したわけではない。ある意味ではこの時、彼女は空手によって身を護られたと言って良いのだろう。彼女と同級生の女子とはお互いに関与しない関係を維持するようになり、そして彼女は独りの時間を家族の為に費やした。

 

 

 中学に入る頃には、平日の家族の食事は彼女が作るようになった。幼い妹と弟の服も、彼女やすぐ下の弟のお古を仕立て直して、節約をしながらも見た目がみすぼらしくないものを着せてあげられるようになった。そして同級生と話題が合わず生活臭がにじみ出る彼女には、中学でも深い仲の友人はできなかった。

 

 長身ですらりとした美人に育った彼女は中学に入ると告白される事も増えたが、誰とも知らない相手と付き合うなど堅実な彼女には思いもよらない事だった。どうして彼らは、ほとんど会話を交わした事のない女性に告白などという大それた事ができるのだろうか。

 

 彼女にとっては人気の少ない場所に呼び出されて告白されるだけでも気の滅入る話だが、問題は断った後にもあった。ちっぽけなプライドを取り繕う為なのか、「川崎と付き合ってもコブ付きだしな」などという心ない暴言を受ける事が時々あったのだ。直接それを言われるのも嫌だが、間接的に耳に入るのも辛いものである。弟たちの世話をするのを嫌だと思った事はないが、苦労がないわけではない。それでも家族の為にと思って過ごしているのに、どうしてそんな風に言われなくてはならないのだろうか。

 

 彼女にはもともと進学希望はなかった。得意科目が体育と家庭科である。進学をせず働きながら家の手伝いをして、早く嫁に行くのが親孝行だと思っていたのだが、中学での日々を経て少しずつ考え方が変わってきた。幼稚な考え方の同級生男子を見て、彼らに生計を託すよりは自分で稼げるようになりたいと思うようになったのである。告白に関連した嫌な経験を前向きな方向に転化できたのは、堅実な両親の教育が良かったのだろう。

 

 大学の学費の事を考えると国公立を目指すのが当然である。そして国公立の大学に入る為には少しでも上の高校に進学しておいた方が有利である。彼女はそう考えて家事の傍ら勉強に身を入れるようになり、そして見事に付近では有名な進学校である総武高校に入学できたのである。

 

 

 高校に入っても家の事を優先する彼女の姿勢は変わらなかった。周囲の同級生との関係は互いに関せずという相変わらずのものだったが、それでも中学の頃とは少し雰囲気が変わっていた。彼女の手作りのシュシュに向ける視線は以前と違って温かいものが多かったし、幼い妹や弟の世話をしている事に対しても同情や見下すような態度を向けられる事は少なくなった。少しずつではあるが、周囲の精神年齢も上がってきたという事なのだろう。

 

 家族の事を第一に、次いで勉強の事を考えながら過ごしていた彼女にとって、この世界に捕らわれた事は状況の激変を意味した。そして彼女は、幼い妹弟の世話をしなくても良くなった、などと考える性格ではなかった。

 

 当初は自分だけが捕らわれたと思っていたが、この世界ですぐ下の弟と再会した事で、あちらの世界に両親と幼い妹弟が残されている事を彼女は把握する。たとえ彼女ら2人の食費などが節約できるとしても、授業料など固定の費用に変化がない以上、両親は仕事の量を減らす事はできない。では、まだ小学生にもなっていない妹と弟の面倒は誰が見れば良いのだろうか。

 

 ここで彼女の方針は決まった。弟と一緒に何としてでも1年でこの世界を出て、苦労しているであろう両親を手助けするのである。その為には勉強を最優先しなければならない。

 

 しかし、そんな彼女の方針に異を唱えるかのように、彼女にとって付き合い慣れた問題が眼前に姿を見せる。つまり勉強の為に予備校に通いたくとも、その為の費用が無いのである。同級生の会話を耳に挟んだ限りでは、予備校に通う生徒は親からその分の費用を余分に出してもらって通う事になるのだという。だが、彼女にはそれは不可能なのだ。

 

 幸いな事に、彼女の高校の学費や弟の塾の費用は既に捻出済みである。後は彼女の予備校の費用と、そして弟が仮に別の塾の夏期講習などに参加したいと思った時には気前よく送り出してあげられるだけの手持ちが準備できれば良い。何の疑問もなく後者を計算に入れられる辺り、彼女のブラコンは相当のものだが、当面誰にバレるわけでもないので問題はないだろう。とにかく先立つ物さえクリアできれば良いのである。

 

 こうして彼女は、この世界では珍しい事にバイトに精を出す学生という肩書きを獲得する。バイトの後にファーストフード店やカフェなどで勉強をして帰る方が家で勉強するより捗る事に気付いて、彼女の帰宅時間は日に日に遅くなっていった。そんな無理が祟って、月曜日だというのに遅刻してしまい授業を受けられなかったのは彼女にとって痛恨の極みだったが、幸いな事に国語担当の教師が親身になって授業内容の概略を伝えてくれたので、勉強の遅れは発生していない。

 

 その教師から、今日もまた放課後の呼び出しを受けた。理由を思い付かず首を傾げながら、彼女は放課後の廊下をゆっくりと歩いて、職員室へと向かうのであった。




原作からの微妙な変更点として、この作品での川崎は勉強優先なので無遅刻無欠席を目指しています。ついでに八幡も、ぼっちはノートを貸して貰えないので遅刻や欠席をなるべく避けるよう心掛けています。

なお、雪ノ下の演説は1巻4話をご覧下さい。
もしもご覧頂いて、更に気になる点などをご指摘頂けると本当に助かります。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)


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14.ここに彼女らの初対戦がはじまる。

この章のボス戦その1です。



 部室の扉に手をかけて、平塚静教諭はいつもの通りにそれを勢いよく開けた。室内には親密な空気が漂っていて、それに気付いた彼女は少しだけ表情を崩しながら部屋の中へと入って行く。教師の後ろにいた川崎沙希は詳しい事情を聞かされていない模様で、この用事が済んだ後の事を考えながら先生の背中に続いていたので、教室にいる面々に気付くのが遅れてしまった。

 

「川崎はこの椅子に座りたまえ」

 

 そう言われて腰を下ろそうとした時になって初めて、彼女は自分と向き合う位置に座っている肉親の姿に気付いたのである。

 

「大志……。あんた、こんなとこで何してんの」

 

 疑問を投げ掛けるというよりは詰問に近い喋り方で、彼女は対面の弟に向けて口を開く。それに対して川崎大志は、とても一言では説明できない事だけに口ごもる。じっと弟の様子を観察していた彼女は1つ息をついて、長机の周囲に集まった面々を順に確認していった。

 

 彼女から見て右手には、同じ学年の有名人である雪ノ下雪乃が上座を占めていた。その隣には同じクラスの由比ヶ浜結衣と戸塚彩加も控えている。妙な組み合わせだなと内心で首を傾げながら視線を左手に移すと、付近の中学の制服を着た女子生徒がいる。弟が時々話題に出して来る比企谷小町という名前の女の子が、もしかすると彼女なのかもしれない。その隣には最近何度か遭遇した同じクラスの男子生徒がいる。名前は知らないが、専業主夫を志望したり遅刻をしたりと、世の中を舐めた軽い男という印象だ。あまり弟に変な影響を与えないで欲しいのだが。

 

 周囲を確認する彼女の様子を眺めながら、平塚先生は雪ノ下を挟んで由比ヶ浜と反対側に椅子を落ち着けて腰を下ろす。そしてそれが合図であったかのように、雪ノ下が口を開くのであった。

 

 

「さて、川崎沙希さん」

 

「雪ノ下……」

 

 お互いに呼び掛けあっただけだが、その声音は対照的だった。冷静さを通り越して冷ややかとさえ表現できそうな口調の雪ノ下に対して、川崎のそれは今にも親の仇とすら言い出しかねない敵意が込められている。思いがけず白熱する2人の間の空気によって、他の生徒たちは口を挟む余裕もなく彼女らの様子を見守るのみである。

 

「そこの弟さんが貴女のことを心配しているという話なのだけれど。学校外での素行について、何か申し開きする事はあるかしら?」

 

 相手から向けられた敵意など涼しい風で受け流して、大上段から斬り込む雪ノ下であった。熱い対決が好きな女性教師は苦笑しながらも目を輝かせている。そして比企谷八幡は、いきなり裁判のような事をおっ始める部長の姿を見て全力で他人のふりをしていた。

 

「あんたには関係ないよ」

 

 余分な事は何も喋らず、ただ端的に会話を打ち切ろうとする川崎であった。どうやら余計なお節介を持ち掛けて来たみたいだが、彼女がそれに乗る必要はない。他の生徒との交流の機会が乏しかったので、親身になってくれる相手にどう対処していいのか分からない川崎だが、眼前の女子生徒は彼女にとって敵である。ならば慣れた対応で問題ない。

 

「現に弟さんから私たち奉仕部に相談が持ち掛けられているのだから、関係はあるわね。それに私としても、同じ高校の生徒が放課後に他人に言えないような事をしているのだとしたら、無関係では済まされないわ」

 

「奉仕部?……部活の事は分かんないけど、大志が心配するような事は何もないし、あたしも人様に迷惑をかけるような事はしてないよ。あんたの勘違いで人を悪者にしないでくれる?」

 

 どうにも会話が噛み合わない2人であった。とはいえ他の生徒たちが口を挟める雰囲気ではないし、彼女らを眺める教師は当面は不介入の姿勢である。そして2人の対話は少しずつ熱を帯び始める。

 

 

「私の勘違いであれば後できちんと謝罪しても良いのだけれど。放課後に貴女が何をしているのか話せないというのであれば、貴女の言葉を信じる事は難しいのではないかしら?」

 

「個人的な事をぺらぺら喋る趣味はないんだよ。とにかくあたしは悪い事はしていない。それ以上の説明って、要る?」

 

「……そうね。確かに、初めて喋るような相手に個人的な事を話すのは気が進まないという貴女の意見には同意するわ。でも、それは弟さんにも言えない事なのかしら?」

 

 自分に非があれば謝罪の用意があると言ってみたり、川崎の主張に一部同意したりと、雪ノ下はうまく会話をリードできている自覚があった。その最大の要因は、先程の雑談の中で部員たちに認められた確固たる意志が彼女の中にあるからだ。自分の目が黒いうちは決して脱落者など認めないと、彼女は内心で誓いを新たにしながら再び対話に集中を戻すのであった。

 

「だから大志が心配するような事は何もないって言ってんの」

 

「現に貴女を心配している弟さんに向かって、同じ事が言えるのかしら?」

 

 雪ノ下にそう詰め寄られて、川崎は一瞬口ごもる。自分の予備校のための費用や弟の予定外の出費にも対応できるようにバイトをしている事は、誰にも教えたくない。かといって、バイトが終わった後に外で勉強してから帰宅している事も、何だか気恥ずかしくて喋りたくない。確かに深夜の帰宅が続いている事を弟が心配する気持ちは理解できる。しかし彼女は勉強を最優先に過ごさなければならないのだ。集中して勉強できている今の環境を、できればこのまま継続したいと彼女は考えているのである。

 

 遅い時間帯に家の外で勉強している事は、高校生としては本来褒められた事ではない。しかしこの世界では、他者から危害を受ける可能性はほとんど無い。中高生の夜の外出をシステム的に制限する事はもちろん容易だが、運営側は深夜のコンビニへの散歩などが良い気分転換になる事を知っていたし、そうした行為を妨げたいとは思わなかった。ならば身の安全が確保された環境にすれば良いという発想で、彼らはこの世界を構築しているのである。

 

 だから川崎からすれば、家の外で勉強している事さえ告げておけば万事は上手くまとまる可能性が高かった。それができなかったのは、ひとえに彼女が他の生徒たちとの交流に慣れていなかった点にある。何をどこまで話していいのか判断がつかず、結果として何も喋らないか全て話すかの両極端の選択しか思い浮かばなかった事に彼女の問題があった。ゆえに彼女は肉親の情に訴える。

 

「大志。あんたが心配する事は何も無い。家族に誓って、あんたに迷惑を掛けるような事はしない。だからもう少し、今の生活を続けさせて」

 

「……それでもし、貴女が悪い道に嵌まり込んでしまったらどうするのかしら?私は、この高校の全ての関係者が無事に揃って外の世界へ戻れるように全力を尽くしたいと思っているし、だからこそ今の危うい貴女をそのまま釈放するわけにはいかないの」

 

 

 それは雪ノ下からすれば勇み足の発言だったと言って良いだろう。彼女が信奉する意思を明確に表明して、それによって川崎に自分が敵では無いと伝える事は悪い手ではないのだが、残念ながら彼女は少し踏み込み過ぎてしまった。その原因は、彼女の意思を部員に認められて必要以上にやる気になっていた事や、彼女も対人の会話経験が乏しく相手との距離を上手く測れなかった事だけではなかった。

 

 雪ノ下が対話の当初から川崎に冷たい視線を送っていたのは、彼女自身に原因があった。つまり、ろくな説明もなく弟に迷惑を掛ける姉という存在に対して、弟と妹という性別の差はあれども同じく下の子という視点から反感を抱いていたのである。

 

 そして不幸な事に、川崎の側にも雪ノ下に反発する要因があった。

 

「あんたのその余計なお節介が、あたしには迷惑だって言ってんの。全校生徒に向けて偉そうに演説してたけど、あたしはあんたの指図は受けないよ」

 

 川崎の当面最大の目標は、姉弟そろって1年でこの世界から出る事である。他の生徒たちと違って、彼女らの家庭はただでさえ余裕のない状況だったのだ。彼女が自分の時間を幼い妹弟のために費やして、それでなんとか維持できていた家族の暮らしは、今やかなり厳しいものになっているだろう。

 

 川崎とて雪ノ下の演説に当初から反発していたわけではない。事件当夜の時点で、生徒や教師の『内部分裂を防がなくては』という姿勢を打ち出すなど誰にでもできる事ではないし、『一部の人だけが可能な案を採用することは、結局は誰にとっても得のない展開に』という指摘も深く頷けるものがあった。川崎家の状況が逼迫したものでさえなければ、こうして雪ノ下に反旗を翻す事はなかっただろう。無事に元の世界に帰る事だけを優先できる状態なら、彼女は喜んで雪ノ下に協力していたかもしれない。しかし前提条件が覆せない以上、譲れないものは譲れないのである。

 

 今の川崎にとって雪ノ下は、生徒の足並みを揃えるために自分の足を引っ張ろうとする敵である。裏切り者と呼ばれようとも、彼女は他の生徒の事など考慮しないで、彼女自身の目標に向けて邁進しなければならないのだ。

 

 

「それで、平塚先生。話がこれで終わりなら、あたしは帰ってもいいですか?」

 

 雪ノ下が気合の入れた反論を行おうと口を開きかけた瞬間、川崎は機先を制して先に声を出す。長年すぐ下の弟とあれこれ言い争いをしていた経験から、川崎は雪ノ下の気配を察知して先んじる事ができたのである。妹属性が姉属性に一歩及ばなかったという事なのだろう。

 

「……ふむ。川崎には突然の話になったが、お互いの主張は出せたみたいだしな。とりあえず今回はいったんお開きにしようか」

 

「これで終わりにして欲しいんですけど。……まあ、帰してくれるならいいです。大志も変なところで油を売ってないで、帰って勉強を頑張んな」

 

 そう川崎は言い捨てて、教室を後にするのであった。

 

 

***

 

 

 部室では、残された面々が困惑した表情のまま、誰も口を開く者がなかった。家族に誓ってという川崎の話し方からして、すぐに悪い事になりそうな様子は無い。しかし雪ノ下が言った通り、もしもこの先に悪い展開に陥ってしまって、あの時に手を打っておけばと後悔するのも避けたいところだ。

 

 対話をしていた当事者である雪ノ下は何やら思案を続けているし、大志はどうすれば良いのか判らない様子である。その他の面々にしたところで先ほどの雪ノ下以上の意見があるわけでもなく、むしろプライベートな事に首を突っ込みすぎたかと危ぶむような雰囲気もある。

 

 そんな中、生徒たちの様子を観察していた平塚先生がようやく口を開いた。

 

「さすがの雪ノ下でも、一筋縄ではいかない様子だな」

 

「そうですね……。やはり情報が足りないですね」

 

 教師の挑発気味の発言に対して、最初は考察に頭を引き摺られた状態のまま生返事を返しただけだったが、瞬時に頭を切り替えた雪ノ下は問題の急所を指摘した。要は依然として判らない事が多いままなのである。

 

 弟にすら何も告げていない上に、川崎の普段の交友関係を考えても、本人以外から情報を得るのは困難である。そうした事前情報から直接対話に踏み切った雪ノ下だったが、初戦の戦果は思わしいものではなかった。だが、話し合ってみて解る相手の性格というものもある。

 

「ただ、ああは言ったものの、川崎さんの性格からして即座に酷い事態に陥る事はないと考えて良いと思います」

 

「ふむ。実際に拳を突き合わせてみて、信頼できる性格だと見抜いたのだな?」

 

「おそらく漫画雑誌の読み過ぎだと思いますが、概ね妥当な表現なのが少し腹立たしいですね」

 

 教師に対して遠慮のない発言をする雪ノ下であった。本人としては今日の昼休みに『教師を使うのが上手くなって来た』と言われて嬉しくて、少し調子に乗って可愛らしい事を言ってみただけなのだが、平塚先生は少々落ち込んでいる模様である。

 

 

「あの……。役に立つ情報なのか判んないっすけど……」

 

 そんな中、大志が何かを思い出したのか、小声で話を始める。見目麗しい女性陣や戸塚には話し掛けにくかったのか、彼は小町を視界に入れつつ八幡に向けて話し掛けた。

 

「姉ちゃん、こないだ独り言で『エンジェルに連絡、忘れないように』って言ってたっす。もし姉ちゃんが変な店に行ってたら……」

 

 エンジェルと変な店が結び付かず首を傾げる女性陣を尻目に、八幡は深く頷く。エンジェルと名の付く店に川崎が出入りしているのであれば、事態は想像以上に切迫しているのかもしれない。

 

「大志。お前の不安が俺には伝わったぞ」

 

 長い沈黙を強いられた事もあって、少し大仰な言い回しで返答する八幡に、大志は我が意を得たりと感動した眼差しで応える。

 

「お、お兄さんっ!」

 

「ははは、お兄さんって呼ぶなよ。……SATSUGAIするぞ?」

 

「だから比企谷くん、犯罪予告は止めなさい」

 

 いつかのファミレスでのやり取りを懐かしく思い出しながら、雪ノ下はひとまず八幡に注意を促す。その上で彼女は今後の方針を語るのであった。

 

「では、そのエンジェルという、お店なのかは判らないのだけれど……。それを手掛かりに、川崎さんが変な事をしでかすのを阻止する方針でいきましょうか。初戦は残念な結果だったけれど、あれで勝ったと思わない事ね」

 

「だからお前、何と戦ってんだよ?」

 

「あら。意外かもしれないのだけれど、私は案外負けず嫌いなのよ?」

 

「意外もなにも、お前は見るからに負けず嫌いだよ!」

 

 そんな八幡の叫び声を合図にして、今日の部活は終わりを告げたのであった。

 




前回の投稿後にお気に入りが200を超えました。皆様のお支えがなければ、ここまで作品を書き続ける事はできませんでした。本当に感謝の言葉しかありません。

総文字数が20万を超えた頃にふと検索してみたら、俺ガイル原作800弱の中で20万字以上の作品は33作ありました。うち、お気に入り200未満は本作含め4作だけでした。数字は残酷ですが、たとえマイナーな作品でも、自分が読みたい・書きたいと思う結末があって、そして3桁を超える方々がお気に入りを維持して下さっている現状がありました。

お盆に連載を再開して以来、より多くの方々に読んで頂けるようにと取り組んだ事の大半は効果がなく、1話と最新話のUA比率(約3%)は悲惨なものです。大多数から見向きされない現実は辛いものですが、それでも私が今書きたいのはこの章の最終話と次巻に繋がる幕間のお話で、それらを本作にお付き合い下さっている読者の方々にも読んで欲しいという思いのお陰で、こうして更新を続ける事ができています。

少し重苦しい話になりましたが、とにかく区切りまでしっかり書き切る事を目指して今まで通りこつこつと話を進めていきますので、よろしくお願いします。


次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を修正しました。(10/9)
細かな表現を修正しました。(11/15)


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15.その決断を彼女は決して迷わない。

すっかりオリ展開になっています。



 時刻は午後11時を回っている。黒のクラッチバッグを片手にネイビーのワンピースドレスを格好良く着こなす大人の女性が、ホテル・ロイヤルオークラのフロントを経て、エレベーターホールへと向かっていた。黒のハイヒールからすらりと伸びる足は薄手の黒いストッキングに覆われていて、バッグを持つ手も黒いレースのグローブに包まれている。彼女の首元ではペールベージュのネックレスが光り、濃紺の髪飾りが静かにその存在を主張している。

 

 エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押して、平塚静はふと今に至る経緯を思い出していた。

 

 

***

 

 

 自宅で夕食を終えた比企谷八幡は、妹の比企谷小町と一緒に食器を片付けてから食後のコーヒーを満喫していた。今日はずいぶんと頭を使ったので、いつも以上に練乳をたっぷり入れてある。小町は糖分控え目で牛乳を多めに加えたコーヒーを味わいながら、兄と並んでソファに座っている。そして彼女は充実感と疲れを共に感じさせる声で、会話を始めるのであった。

 

「雪乃さんって、思った以上にスパルタだったねー。勉強が捗るのはいいんだけど、あれが毎日続くと絶対無理!」

 

「お前な、一応は受験生だろが。雪ノ下がスパルタなのは同感だが、あれぐらい勉強をみっちりやっとかねーと、結局は後で苦労するだけだぞ」

 

「お兄ちゃんって、やっぱり真面目だよね」

 

 小町はため息を吐きながら、口を尖らせて小声でそう呟く。呆れているわけでも、からかっているわけでもなく、むしろ彼女の予想通りの返答なのだが、頭を使いすぎて疲労感のある今の状況では軽口もたたきたくなるものだ。

 

 

 放課後の部室で川崎姉弟を向かい合わせて話をして、その後は間近に迫るテストに向けて集団での勉強会が行われた。嫌な気配をいち早く察して逃げようとした小町だが、長年の付き合いである八幡にはそんな妹の行動はお見通しで、あっさりと回り込まれて万事休す。仕方なく高校生と一緒に勉強する事になったのである。

 

 小町とて受験生という自分の立場は弁えているので、やるしかない状況に持ち込まれると切り替えは早い。どうせなら優等生の雪ノ下雪乃に苦手分野の基礎や躓きやすい部分を教えて貰って、この機会を有効利用するべきだ。そうした彼女の要領の良さが遺憾なく発揮されて勉強に没頭して、ふと我に返った時、小町は今までにない程に頭が疲労しているのを自覚したのであった。

 

 ちょうど良い時間になったので勉強会をお開きにして、できればそのままのメンバーで外で夕食を食べたいと訴えたのだが、頭を重そうにしている彼女に皆が気を遣って今日のところは解散と相成ったのである。食べに行くのは翌日でも良いではないか、と口々に彼女を説得する声を嬉しく聞きながら、小町は兄と一緒に自転車で帰宅したのであった。

 

 

 小町が奉仕部の関係者たちと仲良くしたがるのは、放課後に総武高校に向かうさなかに考えていた事が原因である。兄経由ではなく直接的に、彼女らと一刻も早く仲良くなりたい。お互いに親密な仲になって、1年以上前の兄の事故の事で彼女らをこれ以上は責めなくても済むように。たとえそれが小町の内心で完結していて、表には出ない叱責であったとしても。

 

 彼女が内面に抱えている問題に比べると、川崎大志の問題は申し訳ないが他人事である。兄妹と姉弟と性別こそ違うが、下の子の視点で客観的に見る限り、彼の姉が何か問題を起こしそうだとはとても思えなかった。家族同士で話す機会をもう少し増やせば良いのにと思いはするが、それも彼の姉に伝えるよりは己の愚兄に言い聞かせたい内容である。

 

 既に小町の中では、大志の問題は時間が解決する類いの問題として処理され、優先度はかなり低いものになっていた。とはいえ兄との話題という意味では重宝するのも確かである。ゆえに小町は、食後の雑談の種として、川崎姉弟の話を持ち出すのであった。

 

 

「それで、お兄ちゃんはエンジェルって何のことだと思う?」

 

「そりゃお前、エンジェル=天使=戸塚じゃねーの?」

 

「駄目だこいつ。早く何とかしないと……」

 

 極限まで冷めた口調で、兄の口真似をする小町であった。兄の部屋にあった漫画は読んだもののアニメを見ていない小町は、兄の言い回しを参考にするしかないのである。

 

「ちょっと小町ちゃん。外ではそんな変なセリフを……」

 

「だって一時期お兄ちゃんの口癖だったじゃん。たしか死神のレム、だっけ?」

 

「あー。微妙に惜しいけど、それ言ったのは主人公な。あと今やレムって言えばレムりんの事だからな。死神のレムとか、きょうび聞かねえぞ」

 

「ま、それはどうでもいいんだけどさ」

 

 せっかく妹に最新のネタを教えてあげているというのに、全く興味を抱かれる事なく聞き流されてしまう八幡であった。反抗期の妹を哀しい目で眺めつつ、しかしこれ以上ネタを長引かせると怖い事になるのは明白なので、彼は真面目に頭を捻る。

 

「戸塚も含めてだが、誰かのあだ名って可能性はあんま無いんじゃね?」

 

「なんで?」

 

 短い返答ではあるが、長年の付き合いによって妹の機嫌の悪さが継続しているわけではないと認識した八幡は、少し考えながらゆっくりと説明をしていく。

 

「今日の川……なんか姉弟で紛らわしいな。川崎姉の態度からして、仲の良い友達がいるとは思えないんだわ。それにもし友達がいたとして、あの性格でエンジェルってあだ名を付けると思うか?」

 

「うーん。言われてみると、誰かにエンジェルって呼び掛けてる沙希さんってイメージ違うね」

 

 おそらく余程の剛の者でもない限り、友人にエンジェルと呼び掛ける者はいないだろう。ましてや川崎の印象とはかけ離れ過ぎている。そんな風に兄の意見に頷く小町に向けて、八幡は別の疑問を投げ掛ける。

 

 

「ただ、大志が言ってたように店の名前だとすると、何の為に連絡するんだ?」

 

「そこは川崎弟じゃなくて大志なんだ。じゃあ沙希さんは川崎でいいんじゃない?」

 

「あー、なんかちょっとな」

 

「お兄ちゃんは変なところで恥ずかしがり屋さんだからなー」

 

 女子高生を名前で呼ぶなどハードルが高すぎて論外だが、そもそも名字を呼ぶことにすら気恥ずかしさを感じてしまう、複雑なお年頃の思春期男子高校生であった。その辺りの事情は言わずとも分かれと、憮然とした表情で伝えて来る兄を微笑ましく眺めながら、小町は先ほどの質問に頭を捻る。

 

「連絡かぁ……。みんなで遊ぶから、お店を予約するとか?」

 

「けどお前、川崎に一緒に遊ぶ友達とかいると思うか?」

 

「うーん、そういうの苦手そうだよね。もし一緒に遊ぶとしても、巻き込まれタイプって感じだし」

 

「川崎が予約の電話をするってのも、想像つかねーよな」

 

 そう口にする八幡に、小町は念の為に確認を取っておく事にした。

 

「お兄ちゃんに聞いても無駄かもしんないけど、クラスでテスト明けに打ち上げするとか、ない?」

 

「あー。俺は誘われないだろうから断言はできんが、クラスの大勢で集まるとかそんな雰囲気は無いぞ。あと、やるにしても川崎が手配するのは無いだろ」

 

「じゃあ、何の為に電話をするんだろうね?」

 

「……ありがちな話だと、ホストの指名とかだけどな。川崎の性格には合わねーけど、万が一の時はやばい事になりかねないから、真っ先に可能性を潰しておくべきかもな」

 

 八幡の発言を受けて、兄妹が背筋を伸ばす為に座り直そうとした瞬間、タイミング良く2人の元にメッセージが届いた。

 

 

***

 

 

『こんばんは、雪ノ下です。

 千葉周辺で現在営業中のお店の中で、エンジェルと名の付く場所は以下の2箇所のみの模様です。

 メイドカフェ・えんじぇるている。

 エンジェル・ラダー 天使の階。

 以上、取り急ぎご報告まで』

 

 兄妹はお互いの顔を見ながら、何とも言えない表情を浮かべる。テスト直前の時期なのだからと、川崎が部室を去った後は即座に勉強会に切り替えて余計な話をさせなかった雪ノ下である。おまけに彼女は解散時に「川崎さんの事は心配ではあるのだけれど、各々勉強を第一に過ごすように」という訓示まで述べていたのである。

 

「雪乃さんって……意外に情に篤いのかな?」

 

「あー、なんだ。情に篤いってか、単に負けず嫌いなだけなんじゃね?」

 

 その八幡の解釈に、思わず深く納得してしまった小町であった。しかし同時に彼女は少し心配そうな表情を浮かべて、思い付いた懸念を口にする。

 

「でも、あれだけみんなに勉強を優先するように言ってたのに……。雪乃さん、解散してからずっと調べてたのかな?」

 

「その可能性もなくはないが……。多分これ、雪ノ下からしたら勉強の気分転換に軽く調べた結果じゃね?」

 

 八幡は軽い口調で自身の予測を口にするが、それを聞く小町からすれば大変な事である。気分転換でこれだけきっちり仕事ができる雪ノ下は、一体どんなスペックをしているのだろうか。小町は呆然とした気持ちになりながら、思い付いた事を冗談交じりに口にする。

 

「雪乃さんが本気になったら、比企谷家の秘密とか簡単に暴かれそうだね」

 

「家族の秘密は分からんが、俺の昔のあだ名とかナチュラルに当てて来るぞ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 もはや笑うしかない小町であった。とはいえ雪ノ下が悪意を抱くような性格でない事は彼女も知っているだけに、笑って済む状況なのは幸いである。そんな風に衝撃を受けている小町を尻目に、八幡は何か調べ物を始めていた。

 

「およ。お兄ちゃん、何を調べてんの?」

 

「メイドカフェは分かるが、もう一つがどんな店なのか、って……なるほど」

 

 どうやらすぐに検索結果が出たらしく、八幡は自分だけ納得している。そんな兄に向けてふくれっ面を見せながら、小町は説明を求めた。

 

「で、どんなお店だったの?」

 

「ああ。一言でいうとバーだな。ラウンジって言うの?そんな感じの店だわ」

 

「え、それって……高校生でも入れるのかな?」

 

「分からん。けどまぁ、知ってる人に聞いてみりゃ良いんじゃね?」

 

 そう言いながら八幡はメッセージアプリを開いて、大人の女性に通話を求めるのであった。

 

 

***

 

 

『……比企谷か。何か緊急事態でもあったのかね?」

 

『突然すみません。ちょっと聞きたいんですけど、バーとかって高校生でも入れるもんですかね?』

 

『……正直バーによるとしか言えんが、どんな店だ?』

 

『ホテルの最上階のラウンジ?です』

 

『……顔見知りなら入れるかもしれん。さすがにホテルのラウンジなら高校生にアルコールは出さないと思うが、コーヒーでも飲みに行くつもりかね?』

 

『いえ、その……。今日の部室で大志が言ってた『エンジェル』って名前のお店なんですが、雪ノ下の調べによると2箇所だけみたいなんですよ』

 

『ふむ、それで?』

 

『1つはメイドカフェで、もう1つがホテルのバーなんですけど』

 

『なるほど。君は川崎がホテルのバーに出入りしている可能性を危惧しているのだね?』

 

『ええ。可能性は低くても、万が一の時には影響が大きそうなので……』

 

『ふむ。店の正式な名称と、ホテルの名前は?』

 

『ホテル・ロイヤルオークラ最上階の、エンジェル・ラダー 天使の階です』

 

『海浜幕張のロイヤルオークラだな?』

 

『ええ』

 

『了解した。事が事だし、今夜にでも調べて来よう』

 

 迷いなくそう告げる教師に対して、話を持ち掛けた八幡ですら瞬間絶句した。何とかお礼を口にする八幡に何でもない事のように返事をして、通話は終わった。

 

 

 こうして、平塚先生の夜の調査が始まるのであった。

 




何となく千葉+ホテル+ロイヤルで検索したら、大人なホテルを紹介された件について。

原作からの微妙な変更点ですが、川なんとかさんネタは無し。平塚先生は説得→調査へと役割が変更になっています。3巻の終わりでまた変更点をまとめる予定ですが、こうして少しずつ書いた方が良いのか悩み中です。

次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)


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16.あれこれ考えた末に彼女は手掛かりを得る。

今回は「平塚先生の事件簿」みたいなお話です。



 エレベーターに乗ってホテル・ロイヤルオークラ最上階へと導かれた平塚静は、慣れた様子でバーラウンジに向けて歩みを進めた。店内のステージではピアノ演奏が催されていて、しっとりとした音色に気怠げな雰囲気を漂わせた調べが店の外にまで伝わって来る。

 

 解放されたままの扉を抜けると、そこには落ち着いた佇まいの中年男性が控えていた。彼女に向けて深々とお辞儀をして来店を歓迎した上で、彼は余計な事など何も喋らずゆっくりと先行して彼女をカウンターへと導く。「こちらに」「ありがとう」というやり取りが2人の会話の全てであった。

 

 

 カウンターの前には一面ガラス張りの窓があり、三日月が浮かぶ外界の様子が鮮明に観察できる。そして窓に映る彼女の姿は夜空に映えて、どこに出しても恥ずかしくない様相である。前話で詳述した装いは、結婚式に参列するのに相応しい服装という雑誌の特集を見てそのまま一式を注文したもので、それをあっさりと着こなせてしまう辺りに彼女の素の魅力が窺い知れる。問題は、喋らなければ完璧なのにという注釈がつく事だが、今日この時に関してはあえて言挙げする必要は無いだろう。

 

 この世界を構築する際の手助けになるように、参加者は自宅の写真を各々が許可できると考える範囲で提供していたが、着慣れたこのコーディネイトが写真に収まっていたのは幸運だった。よもやこの世界で結婚式に招かれる事はあるまいと半ば恨み半ば安心していた彼女だが、こうして着る機会が生じるのだから面白いものである。

 

 窓に映る自身の姿から意識を戻して、彼女はカウンターの向こうに控えるバーテンダーを観察する。年齢は先ほど案内を受けた男性よりも若い。おそらく30前後だろう。整っているとまでは言えないが親しみの持てる顔立ちの男性で、こちらを急かさず同時に蔑ろにもしていない絶妙の物腰で佇んでいる。見事なものだと思いながら、彼女は注文のために口を開いた。

 

「そうだな……。”Vodka Martini. Shaken, not stirred.” (ウォッカ・マティーニ。ステアせずシェイクして)」

 

 思わずジェームズ・ボンドを気取ってしまった彼女を一体誰が責められるだろうか。おそらく彼女以外の関係者全てがつっこみを入れる事になるだろう。

 

 だが彼女の眼前に控えるバーテンダーは少しだけ微笑みを浮かべて、まるで彼女に「どこかで1度は言ってみたい台詞ですね」と賛意を送っているかのような眼差しを向けてからカクテルを作り始めた。流れるような手つきに見惚れていると、彼女の前にコースターと空のグラスが置かれ、注文の品が注がれる。「どうぞ」という声に従ってグラスを持ち上げそれを少しだけ舐めてから、彼女は意識を切り替えて行動に移るのであった。

 

 

 まず最初に、彼女はメッセージアプリを立ち上げて、宛先を新着順にソートする。彼女にとってはとても残念な事に、目の前のバーテンダーの名前は無い。ついでに案内してくれた中年男性の名も表示されている中には無い。実際に言葉を交わした相手はリストに自動的に登録されるのがこの世界の仕組みである。つまり、彼らはNPCで間違いないのだろう。

 

 アプリを消して、また少しだけカクテルを口にしながら、彼女はゆっくりと店内を見回す。数組の客とピアニスト、そして2人のNPCが店内に居る全てである。実際に話してみないと判らないが、どの人物も少なくとも外見からは、高校生をこのようなお店に引っ張り込もうとする人種とは思えない。勿論それは、外面を巧妙に装う事に長けた人物と腐れ縁の仲である彼女にとって何の慰めにもならないのだが。

 

 彼女は視線を目の前のバーテンダーに戻して、両肘をついて少し身を乗り出しながら、彼に話し掛ける事にした。

 

「少し尋ねたい事があるんだが。……ここは未成年でも入店できるのかね?」

 

「時間帯によっては可能です、マム」

 

 温かな表情のまま、バーテンダーは返事を口にした。相手がNPCである以上は、こちらが主導的に質問を重ねた方が良いだろう。彼女はそう考えて、具体的に1つずつ質問をしていく事にした。

 

「例えば高校生なら?それと、未成年でもアルコールは注文できるのかね?」

 

「申し訳ありません、マム。質問にお答えする前に、もしも運営に問い合わせすべき内容を含んでいるのであれば、以後の会話を録音しておく事で手続きが省略できる可能性があります。勿論それは強制ではありませんが、録音しても宜しいでしょうか?」

 

「ふむ。……では録音をお願いしよう。それと、マムと呼ばれるのは少し落ち着かないので、以後は控えて貰えると嬉しいのだが」

 

「畏まりました」

 

 

 そのまま質問に答えてくれると思っていたが、バーテンダーは無言を貫いている。考えてみれば、質問の内容を繰り返して、そこから録音しておいた方が都合が良いだろう。彼女はそう思い付いて、改めて先程の質問を繰り返した。

 

「ここは高校生でも入店できるのか、そして未成年でもアルコールを飲めるのか。それが私の最初の質問だ」

 

「夜の10時までであれば入店は可能です。未成年者の飲酒はこの世界全体で禁じられています。つまり未成年者がアルコールを注文する事は勿論、成人した同行者が注文したアルコールを飲ませる事も不可能です」

 

「成る程。では違法なドラッグなども禁じられていると考えて良いのかね?」

 

「違法ドラッグは当然ですが、合法ドラッグと呼ばれるものも禁じられています。これは未成年者に限らず、この世界にログインしている全ての人に当て嵌まります。運営はこの世界において、人を頽廃させかねないものに慣れ親しむ経験を積ませる事を、徹底的に避ける方針です」

 

 運営の自己弁護が過ぎる気もするが、これだけ方針が明確なのは心強い。少なくとも彼女の生徒達が裏の世界に身を落とすような事態は、この世界ではあまり心配しなくても良いだろう。張り詰めていた気持ちを少しだけ緩めて、彼女は話のついでに思い付いた疑問を口にする。

 

「とはいえ、成人ならば酒と煙草は大丈夫なのだろう?それは片手落ちではないのかね。酒も煙草も依存性という点では多くのドラッグと同様の危険性があると聞いているのだが?」

 

「仰る通りです。とはいえ日常生活の延長という側面を重視して、飲酒と喫煙はいわば特別扱いになっております。ご承知かもしれませんが大人になると、飲んで頭の働きを曖昧な状態にでもしなければ、やってられないと思う時がありますので」

 

 目の前のNPCに人生を語られて、彼女は思わず苦笑する。本当に良くできた対応で、これが生身の人間相手の会話ではない事を残念に思うほどだ。このNPCを製作した運営の人間にも色んな事があったのだろう。とはいえそれは、今の彼女が考えるべき事ではない。バーテンダーに同意の眼差しを向けてから、彼女は自分の身分を明かして話を進める事にした。

 

 

「私は高校の教師をしている者なのだが、この店に生徒が出入りしている可能性が浮上したので調査に来たのだよ。飲んで全てを諦めざるを得ない事態に陥る前に、悪い未来を断ち切りたいと思ってね」

 

「それは正しく、そして勇気ある行いだと私は思います。ですが当店に関する限り、高校生は10時までに退席をお願いしています。そして今までに例外はありません」

 

「ふむ。少なくとも今までに高校生がここに来た事はあるのだな。度が過ぎた問題行動を起こした者は、今までに居なかったのかね?」

 

「貴女の定義する度が過ぎた問題行動の範囲が、私には判りません。とはいえ、教育という側面は運営が非常に重視しておりますし、それ故に未成年者の逸脱した行動には特に目を光らせております。そして運営が問題視するような行動が今までに観察された事は無い、とだけお答えします。これ以上の事は運営に直接お尋ね下さい」

 

「いや、その答えで充分だ。問題行動を危ぶむのは、また別の機会に回しても良さそうだな。……では、夜に独りでここに来る高校生は居るのかね?10時までに店を出れば問題ないとはいえ、孤立している思春期の少年少女を唆そうとする良くない連中が居ないとは限らない」

 

 先程のバーテンダーの回答に満足して、少し考えた末に彼女はそう問い掛けた。酒やドラックを用いなくても、話術によって若者を誑かす事は可能なのだ。自分も若者のつもりである彼女は、甘い囁きがどれほど効果的かをよく知っていたのである。

 

「独りで当店にお越し下さるお客様は数名ほど居られますが、その中に未成年者は含まれておりません。また、別々に来店されたお客様が肩を並べて出て行かれた事もありません。勿論エレベーターに乗り込まれた後の事は、私どもも関知しておりませんので、保証できかねますが」

 

「いや、そこまでは私も求めていない。だが、という事は……すまない、少し考えさせてくれ」

 

 

 優しい表情でゆっくり頷くバーテンダーに頷き返して、彼女は頭の中で考察を進める。川崎沙希の性格からして、メイドカフェに行く可能性は低いと彼女は考えたし、通話をして来た教え子も同じように考えている様子だった。だが、ここに独りで客として訪れた高校生は居ないと、目の前の彼は断言した。彼女らの見通しが間違っていたのだろうか。

 

 彼女はそこまで考えた上で、その可能性を取り敢えず棚上げした。せっかく実際にここを訪れているのだ。まずは確認できる事を全て確認しておいた方が良い。そう考えて、彼女は再び口を開く。

 

「ここに連絡をしただけで、まだ訪れていないという可能性は?」

 

「ご新規のお客様で、まだ来店されていない予約段階のお客様ですね?お電話を頂いた代表者の方しか確認できませんが、その中に高校生は含まれていません。また、皆様がログインされた際のデータにアクセスするので、年齢偽装の可能性は無いと考えて良いと思います」

 

 彼女自身も部室で耳にしたように、川崎は自分で「エンジェルに連絡」したはずである。ならばこの可能性も潰えたと考えて良いだろう。他にここで確認すべき事はあるだろうか。

 

「……客として来る以外の目的で、ここに連絡をする可能性は?」

 

 それは彼女にとっては苦し紛れの発言でしかなかった。だが、対面のバーテンダーはNPC故の素直さで彼女の疑問に応じる。

 

「まず、ご家族の帰りが遅いので、当店に問い合わせをするという可能性がございます」

 

「ふむ。今までにそれを理由に高校生から問い合わせがあった事は?」

 

 彼女が知る限り、生徒に加え保護者までこの世界に捕らわれた家族は無かったはずだ。仮に一家揃ってこの世界に捕らわれてしまえば、学費など諸費用の支払いが困難になる。現実世界で振込の手続きをできる人が誰もいなくなるからだ。あまり表立っては言えない事だが、未払いの可能性があればあらかじめ把握しておけるように、早期に学校関係者がそれを調査したはずである。

 

 そうした理由で、彼女は期待をせず機械的に問い掛けたのだが、バーテンダーの回答は彼女の予想通りであった。

 

「高校生に限らず、問い合わせの連絡が店に来た事はありません。なにぶん、連絡をしたい時には直接連絡が可能な状況ですので」

 

 聞く人によっては「ならば最初から言うな」と怒りかねない返答だったが、彼女は彼の発言に残念そうな気配が漂っていた事で、そうした気分にはならなかった。現実世界でも最近は怪しいが、それでも彼女が産まれる前の時代ならあちらの世界では充分に有り得た事が、この世界では殆ど起こり得ない。その事に対して、彼は残念がっているのだろう。

 

 時代に取り残される悲哀のような感傷をNPCから感じるのも変な話だが、ここまでの会話を通して、彼女は目の前のバーテンダーに実在の人に対するのと同じような親しみを感じていた。彼がNPCでさえなければ、と何度目かの呟きを脳内で繰り返して、彼女は話を再開する。

 

 

「そういえば……彼女が独りで来る事ばかり考えていたが、頻回にここを訪れる、高校生を含む一団は居るのかね?いや……高校生で、週に何度もここにやってくる生徒は居るか?と聞いた方が適切だな」

 

 彼女のこの質問は、彼女にとって想定外の要素を含んでいた。つまり先ほど苦し紛れに「客として来る以外」の可能性を尋ねた上で、今回「客として」という制限を発言の中に加えなかったのは、全くの偶然である。だが、彼女があれこれと考えを尽くしたからこそ、この偶然を招き寄せたと言って良いだろう。

 

「お客様として、週に2回以上の頻度でご来店される高校生は、現時点では存在しません。但し、バイトとして平日に当店を訪れる高校生は居ります」

 

「な……!それは何という名前の生徒なのだろうか?いや、まず我が校の生徒なのか確認したいのだが」

 

「申し訳ありませんが、バイトの個人情報をお伝えして良いのか、私には判断が付きかねます。貴女が担任ならばお知らせしても良いのか、同じ学校の教師ならば良いのか、同じ学区の教師ならば良いのか、それ以外の場合でも良いのか、それは運営に判断を仰ぐべき要件だと私は思います」

 

 やっと得られた手掛かりを前にして、勢い込んで詳細を求める彼女だったが、それに対するバーテンダーの口調は苦いものであった。自分ではどうにもならない権限の問題であるが故に、彼にはどうする事もできないのである。

 

 やはり運営に連絡して情報の開示を申請すべきかと彼女は考えたが、本能的に面倒な気がして彼女はそれを躊躇する。だいたい権威だとか規則だとかそうしたものを備える上の存在は、彼女としては苦手なのだ。

 

「ならば、答えられる範囲で教えて欲しいのだが。……そのバイトは平日にここに居るのだね?」

 

「貴女の誠実な姿勢に敬意を表して、少しだけおまけしますと……そのバイトは平日に、そして明日もここに居る予定です。そして、そのバイトはNPCではありません」

 

 実在の人間とまるで区別の付かない様子で、彼はウインクをしながら彼女にその情報を教えてくれた。それに対して彼女も曇りのない笑顔で応える。NPC相手に良い雰囲気になっている平塚先生であった。彼の返答には理由があって、途中から運営が2人の会話をモニタしていた事がおまけ情報に繋がっているなどと、彼女は知らない方が良いだろう。知らない事が人を幸せな気持ちにしてくれる事は、世の中に幾らでもあるのである。

 

 

「とても有意義な時間を過ごせた。また次回はゆっくり時間を取って来よう」

 

「お客様のまたのご来店を心よりお待ちしています。願わくば、その際には貴女の悩み事が完全に解決していますように」

 

 運営を介さない滑らかな口調で、NPCにすぎないはずのバーテンダーは心からそう思いながら、生徒に対して親身になれる彼女を見送る為に先導する。深々とお辞儀をする彼に見送られて、彼女はエレベーターに乗り込みロビーへと降りて行った。

 

 この店でバイトをしている高校生が川崎である保証は無い。もしかすると他校の生徒かもしれない。だがその場合でも、彼女の自慢の生徒達が視界を広げる要因にはなるだろう。

 

 試験直前という時期を危ぶむ気持ちはあるが、しかし良い機会である。だいたい試験直前だけ勉強して何とかなるものでもないし、結果が思わしくなければ彼女が補習をしたり他の教科の先生方にもお願いをすれば良いだけだ。だが、このような勉強の機会は作って得られるものではない。

 

 翌日の部室でどのように話を持って行こうかと考えながら、彼女は楽しげに笑顔を浮かべて、ホテル・ロイヤルオークラを後にするのであった。




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
「客として来る以外」を尋ねた時点で条件を1つクリア→次に「客として」と限定せず質問した事でバイトの情報を解禁という流れが少し伝わりにくいと思えたので、簡単に説明を加えました。(10/20)


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17.どんな相手でも彼女はしっかり報復する。

ボス戦に向けた会議です。



 放課後の部室では、奉仕部の3人と戸塚彩加がテスト勉強の支度をしながら、平塚静顧問が来るのを待っていた。

 

 今日は中学生組の2人はこの教室には居ない。彼女らもテスト直前の時期であり、更に高校受験を控えている身分である。連日のように連れ回すのは避けた方が良いという判断から、比企谷八幡はこの日の朝に妹の比企谷小町に対して不参加を打診したのであった。

 

 話し合いの後で夕食を大勢と共にするのを楽しみにしていた小町は少しご機嫌斜めだったが、前日と同様の濃厚な勉強会が行われる事を仄めかすと物怖じした様子だった。なんでも、確かに効率はとても良かったのだが疲労感も半端ではなく、昨日は家で頭を使った事が何もできなかったらしい。喩えるなら、色んな道を上手くショートカットしながら進むのに長けた小町に、いきなりコース無視の直線的な全力疾走をやらせたようなものだったのだろう。

 

 まだ何も知らなかったカフェでの初遭遇の際に、雪ノ下雪乃からの勉強会の誘いを「高校生組だけでどうぞ」と回避した過去の自分を改めて絶賛している小町を眺めながら、勉強のやり方やペースにも人それぞれあるんだなと朝から黄昏れていた八幡であった。結局、話し合いの結果を後で報告する事にして、今日の放課後は別行動となったのである。

 

 

 昨夜、八幡からの連絡を受けた平塚先生は、即断即決で行動に出た。その場で身支度を調えて家を出ると、帰宅が深夜になる事を見越して、移動しながらその時点での簡単な経緯をまとめて生徒達に周知していたのである。

 

 彼女の予想通り帰宅は午前様になったので、翌朝の通勤途上に「昨日得た情報を基に相談したいので、放課後に部室集合でお願いします。それ以外の時間はしっかり勉強するように」というメッセージを送っていた。それ以上の詳細を書かなかったのは彼女の茶目っ気な性格に原因の大半があるが、文章では上手く伝わらない可能性を危惧した事も確かである。

 

 彼女の生徒達は簡単に噂を広めるような性格ではなく、更に葉山の依頼の際に噂が錯綜して面倒な目に遭ったところなので、中途半端な情報を得たからといって変に騒ぐような事はしないだろうと思う。だが同時に、奉仕部の3人も戸塚も心根の優しい生徒達だ。不完全な情報であっても第三者の為であれば、特に同学年であり大半がクラスメイトでもある川崎沙希の為であれば何か行動に出ないとも限らない。

 

 そうした意図から、彼女は朝の時点では詳しい情報を知らせる事なく、全てを放課後に先送りしたのであった。

 

 

 程なくして、いつものように荒々しく教室の扉が開いて、平塚先生が珍しく誰も伴わず部室へと入って来た。教室内の4人の生徒達を見渡して、「遅くなった」と呟きながら依頼人席へと腰を下ろす。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜結衣の席は普段と変わらず、八幡の位置も変わらない。戸塚の席は今日は八幡寄りになっている。つまり長机の両端に男女別に2人ずつ座っていて、長机の長辺半ばにて平塚先生が彼らと対面する構図になっていた。戸塚の性別が本当に男なのであれば、綺麗に別れた形になっていると言って良いのだろう。

 

 改めて八幡、戸塚、由比ヶ浜の順に顔を見回した後に、教師は雪ノ下に向かって1つ頷く。それを受けた雪ノ下が口を開いて、この日の会議が始まるのであった。

 

 

***

 

 

「では、まず先生から昨夜の詳細を報告して頂けますか?」

 

「うむ。結論から言うと、川崎が昨日のバーのお得意様だという可能性は無い。それに店内だけでなく、この世界全体で未成年者の飲酒・喫煙は禁止されているそうだ。バーテンダーによると、システム的に禁止されているので大人が強制的に飲ませるのも無理という話だ」

 

 平塚先生の返事を受けて、各々がそれを頭の中で検討している。由比ヶ浜は川崎がバー通いをしていなかった事を喜んでいるし、戸塚は無理に飲まされるような事態が起こり得ないと知って安心している様子である。

 

「……という事は、川崎の件は振り出しに戻ったって事ですかね?」

 

 一方で八幡は冷静に物事を捉えていた。酒や大人絡みの最悪の展開は免れた反面、得られたと思っていた手掛かりが手の中をすり抜けて行ったと受け止めていた。可能性を否定する情報が有用なのは確かだが、同時にまた最初から出直しになる事の意味を噛みしめていたのである。それは雪ノ下も同様だったが、彼女は少しだけ顧問の思考を読んでいた点が八幡とは違っていた。

 

「いえ。情報がこれだけなら、平塚先生は朝のメッセージでそう書いたのではないかしら?つまり、メッセージでは伝えきれない他の情報があると考えた方が良いと思うのだけれど」

 

 雪ノ下にしては珍しく、八幡をからかう台詞を含まない真っ当な返事であった。喋りながら、平塚先生がまだ開示していない他の情報について考えていたからなのだろう。

 

「雪ノ下の推測で正解だが。……勿体ぶっているわけではなく、全員に理解して貰う為にも順を追って話したいのだよ。雪ノ下1人が理解しても、他の者の理解が追いついていなければ話し合いにならないからな」

 

 教師らしく雪ノ下をたしなめる平塚先生であったが、実のところ勿体ぶっている側面は否定できない。雪ノ下や八幡を見る彼女の笑顔からはそうした側面が明らかに感じられるのだが、そこを指摘するとまた話が長くなってしまう。仕方がないので後で反撃してやろうと、密かに心に誓う八幡と雪ノ下であった。

 

 

「では、他に得た情報を教えて頂けますか?」

 

「そうだな……。まず高校生は夜の10時に店を追い出される。それから高校生の客はいるみたいだが、馬鹿騒ぎをしたり問題行動を起こす類いの客層とは縁が無いそうだ。それと未成年で独りで来る客はいないとバーテンダーに断言された。……ここまでは大丈夫か?」

 

 雪ノ下は頷きながら、傍らの女子生徒へと視線を移す。由比ヶ浜の理解力を懸念しての行動ではあるのだが、雪ノ下の眼差しは優しく隣の少女へと向けられている。それを受ける由比ヶ浜も特に反発もなければ気負いもなく、尊敬できる仲の良い少女に向けて力強く頷き返していた。そんな彼女らの耳に、意外な声が聞こえて来る。

 

「あの……。ぼく、夜に勉強してて喉が渇いたからコンビニに行った事があって……」

 

 そう話しながら、戸塚が少し恥ずかしそうに顔を赤らめている。話の先が読めないので周囲が困惑する中、由比ヶ浜が大きく頷いて彼に話の続きを促した。

 

「えっと、夜の10時を過ぎて外に出るのはダメだって知ってたけど、その、我慢できなくて……」

 

「ふむ。私はなぜか少し耳が遠くなったみたいだ。気にしないで続けてくれたまえ」

 

 何となく彼の言いたい事を悟って、平塚先生は明後日の方向を向きながら彼の発言を励ます。普段の八幡であれば「それは加齢のせいで」などと余計な事を言って怒られていたのだろうが、戸塚に関する事である故に変な茶々を入れず、傍らの性別不詳の同級生を静かに応援していた。

 

「……夜の10時を過ぎてもコンビニに入れたんだけど、あれってどういう事だったんだろ?」

 

 側に居る八幡に向けて、可愛らしく疑問を口にする戸塚であった。戸塚の魅力の前ではどんな制限もフリーパスになるのではないかと八幡は仮説を立てるが、この2ヶ月弱の付き合いによって八幡の戸塚絡みの奇行は完璧に把握されている。彼が馬鹿な事を言い出す前に、雪ノ下が口を開いた。

 

「おそらく、厳密に時間と年齢で制限を課すお店と、その辺りが曖昧なお店とが、この世界で混在しているのでしょうね」

 

「そうだな。バーテンダーによると運営は教育という側面を重視しているそうだが、同時に何でもかんでも制限するという意図も無いようだ。推測だが、大人が夜に行くような店だけが制限されているのかもしれないな。……ああ、戸塚が夜に何をしたのかは聞こえなかったので安心したまえ」

 

 悪戯っぽい表情を浮かべて、戸塚に話し掛ける平塚先生であった。そして2人の推測を受けて八幡が口を開く。

 

「これは俺の友達の友達の話なんですけど……」

「ダウト!」

「だから反応が良すぎんだろ……。とにかく俺と全く関係ない奴の話だが、高校生でもチェーン店のコーヒー屋とかファーストフード店とかに深夜入れるみたいだぞ」

 

 余人が口を挟む隙間もなく、予定調和のやり取りをする八幡と雪ノ下であった。いつものやり取りに苦笑しながら、同時に少し心配そうな表情を浮かべて由比ヶ浜が心配事を漏らす。

 

「でもさ、そういうお店に行ってるんだったら、尾行?とかしないと見付けられないよね」

 

「……そうね。最悪の場合はそうした手段も考えるとして、まずは平塚先生が持ち帰ってくれた情報をもう少し精査してみましょう」

 

 雪ノ下はそう言いながら、顔を顧問の方へと向ける。生徒からの無言の要請を受けて、平塚先生は情報の続きを説明するのであった。

 

 

「否定の確認の続きになるが、連絡だけでまだ来店していない客の中にも高校生はいないそうだ。そもそもバーテンダーによると、高校生で頻繁にバーに来る客は皆無だという。ここまでは良いかね?」

 

「ええ。つまり次が本題という事ですね?」

 

 話を盛り上げる為に一度区切ったつもりが、雪ノ下に意図を完全に見抜かれている平塚先生であった。そして部長の言葉を受けた部員2人と、今回は助っ人として奉仕部に協力している戸塚が、各々の表情を引き締める。少し予定していた雰囲気とは違った事を残念がりながら、顧問は問題の核心に近付く情報を告げるのであった。

 

「……だが、だ。平日にバイトに来る高校生がいるらしい」

 

「……っ、そのバイトが川崎さんだという確証は?」

 

 この世界で金銭に困る事は稀な為に、バイトという可能性は全員の頭の中からすっかり抜けていた。盲点になっていた事を思いがけず突き付けられて、しかし雪ノ下は即座に驚きから復帰して必要な情報を確認する。だが、それに対する教師の返答は芳しいものではなかった。

 

「バイトの個人情報は流せないとバーテンダーに拒否されたよ。だが、その高校生のバイトは今日も店にいるという事だけは確認できた」

 

「なるほど。……何時頃に店に行けば、そのバイトに会えると思いますか?」

 

 すっかり自分で行く気満々の雪ノ下であった。どうやら水を向ける必要も無かったなと内心で満足しながら、平塚先生は自分の考えを伝える。

 

「客と同様にバイトも10時までには帰らせるだろうな。着替えや諸々を考えると、実際に店内で働くのは9時半が限度ではないかね?」

 

「それですと、もしも2時間だけのバイトでも7時半には店内にいるという事ですね」

 

 問題の解決に繋がる具体的な行動を検討できる事になって、雪ノ下の頭は高速で回転を続けている。そして傍らの女子生徒も、かつてのバイト経験を基に助言を行う。

 

「バイトの曜日が決まってたら、もう少し時間を限定できそうだけど……。昨日あれからバイトに行ったとしたら、5時半からだとギリギリだし。6時からだとしても、もう少し焦ってたかも」

 

「いや、雪ノ下と口論していた時もそうだったが、川崎はあまり表情に出さないタイプかもしれん。だが由比ヶ浜が言う通り、5時半だと時間的に厳しいから……」

 

「早くて6時からって考えていいかもね」

 

 更には八幡と戸塚も考察に加わる。時間を完璧に推測する事は難しいが、ある程度の範囲に絞る事はできそうである。

 

「先生。ホテルの中でどこか集合に適した場所はありますか?」

 

「ふむ。1階のエレベーターホールの付近はどうかね?」

 

「では、そこに7時半に集合して、10分後を目安にお店に入る予定にしましょうか。念の為、5時半から2時間のバイトだった場合に、入れ違いになる可能性を除外したいのですが……」

 

「ああ。元々そのつもりだったが、1階のラウンジで私も待機しておこう。一緒に付いて行かなくても大丈夫かね?」

 

 付いて行く気などさらさら無いのに、敢えて教え子を挑発する平塚先生であった。そしてこの期待に応えない雪ノ下ではない。

 

「ええ、私の方は大丈夫なのですが……。先生はお気に入りのバーテンダーに会いに行けなくても大丈夫なのですか?」

 

 勿体ぶった情報の小出しを散々続けられた恨みを一気に晴らすべく、発言の端々に登場したバーテンダーを話題に出して、恩師を追い詰める雪ノ下であった。八幡の観察によると、この時の雪ノ下はこの日一番の良い笑顔だった模様である。

 

「え、平塚先生、そうなんですか?お、大人だ……」

 

 恋愛話が大好きな由比ヶ浜が少し顔を赤くしながら食い付いて、教室の中では平塚先生の悲鳴が轟いていた。束の間の気晴らしを存分にさせた上で、雪ノ下は機を見て大きく柏手を打ち自分に注意を集める。

 

「では集合場所にはフォーマルな服装で来る事。由比ヶ浜さんはその手の持ち合わせはあるのかしら?」

 

「うげ。多分ちゃんとした恰好って持ってないし。……もしかして、あたしだけ居残り?」

 

「なら、私のを貸すから一緒に家まで来て貰えるかしら?」

 

「え、ゆきのんのお家に行って良いの?やった!」

 

「遊びではないのだし、抱き付かないでくれると嬉しいのだけれど。戸塚くんと比企谷くんは?」

 

「俺は親父のがあると思う。俺で着せ替えする為に、小町が親父の服まで色々写真に撮ってたみたいでな」

 

「ぼくは……持ってないかも」

 

 意気消沈する戸塚に助言をしようとした雪ノ下だが、必死の勢いで戸塚を誘う男の姿があった。

 

「なら戸塚くんは比企谷くんの……」

「なら戸塚も俺んちで一緒に着替えようぜ!」

 

 すっかり発言を台無しにされて、雪ノ下は静かに怒りに震える。しばし息を整えてから、彼女は改めて今後の方針を語るのであった。

 

「では、時間まで勉強会をした後いったん解散して、7時半にホテル・ロイヤルオークラの1階エレベーターホールで集合ね。それまで各自、川崎さんがバイトをする理由について検討しておいて貰えるかしら?比企谷くんは妹さんと川崎くんに連絡して、話を通しておいてくれると嬉しいのだけれど」

 

「ん、了解」

 

 雪ノ下の指示に各自が無言で力強く頷く。そして名前を挙げられた八幡が端的に返事を返したところで、平塚先生が口を挟んだ。

 

「念の為に繰り返すが、バイトの高校生が川崎だという確証は取れていない。他の高校の生徒だった場合、君達はどうするのかね?」

 

「そうですね……。実在の高校生である事には変わりないのだし、乗りかかった船という事でいかがでしょうか?」

 

「ふむ。そうして貰えると嬉しいが深入りは禁物だ。話がこじれた場合はすぐに1階にいる私を呼び出すように」

 

 

 こうして話の大枠は済んだ。そろそろ勉強会に頭を切り換えるべき時間である。雪ノ下の口から勉強会の開始が宣言されるのを待っていた面々だが、意外な事に彼女は全く違う話を持ち出した。

 

「勉強会を行う前に、少し考えたのだけれど……。戸塚くんも由比ヶ浜さんと一緒にうちで着替えても良いわよ?もっとも、うちには男物は無いのだけれど」

 

「えっ……?」

 

「さいちゃんと一緒に、着替え?」

 

「戸塚が……女物の服を?」

 

 女物の服装をする事を恥ずかしがる戸塚と、彼と一緒に着替えをする事を恥ずかしがる由比ヶ浜。そして戸塚の女装姿を想像してしまい、すっかり挙動不審になる八幡であった。そんな彼の様子を見ながら、発言を台無しにされた先程の意趣返しができた事を雪ノ下は喜ぶ。平塚先生の観察によると、この時の雪ノ下はこの日一番の良い笑顔だった模様である。

 

 ひとしきり盛り上がった後で、彼らはしっかり勉強会を行ったのであった。

 




次回は日曜日に更新です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15,2/20)


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18.こうして彼女らは再戦に至る。

この章のボス戦その2です。お好みのBGMと共にどうぞ。



 ホテル・ロイヤルオークラ1階のエレベーターホール前では、慣れない格好に身を包んだ比企谷八幡と戸塚彩加が落ち着かない様子で立っていた。普段は縁のない高級ホテルの雰囲気に気圧されて、どのように振る舞えば良いのか分からないのである。夜は若く、彼らも若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼らの気分は苦かった。

 

 時刻は7時20分。妹の指示通り、待ち合わせの時間から余裕を持って到着した彼らは、きょろきょろと周囲を窺っては俯き、お互いに助けを求める視線を送っては照れたようにそっぽを向くという繰り返しで時間を過ごしていた。

 

 テストまであと数日だし単語帳でも広げるべきかと八幡は思い付くが、どう考えても周囲から浮くことは必至である。待ち合わせ場所で本を読む姿が様になる人もいるのだろうが、自分にそれができるとは到底思えない。それに、場違いではないかと物怖じしている可愛らしい存在が傍らに控えている以上、どのみち集中などできるわけがないのである。

 

 周囲からは見えないように、八幡のジャケットの腰の上あたりをちょこんと摘んだまま怯えている戸塚。彼が手に力を加えたり震えたりするたびに、それが八幡へと伝わって来る。自分がしっかりしなければと八幡は思い、そして少し心の余裕ができたことで、彼は我が家での着替えの場面を思い出すのであった。

 

 

 戸塚を伴って自宅に帰ると、道中で妹にメッセージを送っていたことが功を奏して、既に着替えの支度は済んでいた。戸塚の為に男装と女装の2種類を用意していた辺り、さすがは我が麗しの妹だと八幡は口を極めて褒めちぎったのだが、残念ながら比企谷小町の反応は肉親とは思えぬほど冷ややかなものだった。

 

 変質者を見るような視線で着替えの衣服と共に自室へと追いやられ、リビングを覗いたらダメ。ゼッタイ。と念を押され、服装を整えて手持ち無沙汰で部屋の中をうろうろしていると階下からメッセージが届く。逸る気持ちを抑えて階段を降りると、そこでは男装の麗人とでも言うべきか、凛々しさと可愛らしさが同居した戸塚が恥ずかしそうに待っていた。その姿を見て、ますます戸塚の性別に自信が持てなくなってしまった八幡であった。

 

 どうやら女装も一応は試してみたらしいのだが、戸塚は恥ずかしがるばかりだし妹の発言は要領を得ない。何やら「似合いすぎ」とか「あれで男?」等々うわ言を呟いていて酷くショックを受けている模様である。とはいえ残念ながら時間の余裕はあまり無い。今夜の奉仕部の課外活動を上手く済ませて、この服を脱ぐ時こそは絶対に戸塚と一緒に着替えるんだと八幡は強く決意しながら、自宅を後にしたのであった。

 

 

 強い決意を思い出したことで、八幡の精神は落ち着きを取り戻す。しかし平静を取り戻した彼をあざ笑うかのように、赤いドレスを身にまとった華やかな美女が、真っ直ぐ彼に向かって近付いて来るのが見えた。

 

 親しみやすい顔立ちと大人の落ち着きが同居した彼女は髪をアップにまとめ、首回りは大きく開かれていて、白い地肌はドレスの下の豊かな双丘へと続いている。見てはいけないと思いながらも視線を逸らせない八幡は、彼女の目的が自分だとは露ほども思っていない。彼の背後のエレベーターに向かうのであろう彼女に道を譲るべく、慌てて移動しようとしたところで、ジャケットを掴む戸塚に引き戻されて八幡は変な声を出してしまった。

 

「ぐえっ」

 

「八幡、あれ、もしかして……?」

 

 戸塚が何やら呟いているが、八幡は無様な転倒を避けるべくバランスを維持するのに精一杯でそれどころではない。そして意外な事に、件の彼女は彼らの前で足を止めて、奥ゆかしげに口を開いた。

 

「お、お待たせ……」

 

 視覚情報だけでも限界に近い八幡だったが、彼の前で立ち止まって言葉少なに愛嬌のある声で話し掛けて来る彼女からは、控え目ながらも芳しい香りが漂って来る。聴覚と嗅覚までもが彼女の魅力に晒されて茫然自失の八幡であった。だがそんな彼を訝しく思ったのか、目の前の美女はあろうことか彼の肩をちょこんと指で突いて来る。触覚まで陥落しそうな八幡だったが、幸い彼女の発言で我に返ることができた。

 

「えと、あの……。ヒッキー、だよね?」

 

「……由比ヶ浜か。誰だこの美人ってドキドキして損した……」

 

 八幡の意識としては相手に聞こえぬほどの小声で呟いたつもりだったのだが、緊張からか思った以上に大きな声になってしまった。しかし八幡はそのことに気付いていないし、由比ヶ浜結衣は美人と言われた時点で照れてしまい、その後の八幡の発言はおろか周囲の状況すらも意識に入っていない。そんな2人の様子を眺めて、戸塚はこっそり苦笑するのであった。

 

 

***

 

 

 程なくして、ホテルの入り口方面ではなくラウンジの方角から、漆黒のドレスを身にまとった美女が近付いて来た。

 

 今回は身構えていたので八幡も無様な姿を晒さず済んだものの、艶やかな黒髪を1つにまとめて胸元へと垂れさせたその女性は白い素肌とのコントラストが際立って、見る者をして畏怖の感情を生じさせるほどの存在感を放っていた。とても同い年とは思えない雪ノ下雪乃の姿を見て、八幡は急激に喉の渇きを覚え、自然に呼吸が荒くなる。だが幸いなことに、彼女の発言がいつも通りだったことで彼は事なきを得るのであった。

 

「予定通りの時間ね。戸塚くんはジャケットも似合うのね。比企谷くんは……馬子にも衣装ということなのかしら?」

 

 実は彼女としては最大限に褒めているつもりなのだが、言われた八幡は大きくため息をついて脱力する。とはいえ余計な力も一緒に抜けてくれたのも確かであった。

 

「はあ。お前だって口を開けば中身はいつもと変わんねーだろが。で、平塚先生も居るんだな?」

 

「ええ。ラウンジで打ち合わせをして来たわ。妹さんと川崎くんには?」

 

「簡単に説明しといた。終わったらすぐに連絡するって話にしたんだが」

 

「それで大丈夫よ。川崎さんのバイトの理由については?」

 

「ハッキリとは言わなかったが……どうやら子沢山で生活が苦しい状況ではあったらしい。ただ、あっちではバイトをしていなかったみたいだし、正直分からん」

 

 

 さすがに仕事の話になると話が早い2人であった。問題は彼らがまだ高校生だという事で、由比ヶ浜と戸塚は2人の話に付いていくのがやっとである。必要な情報は交換し終えたと思ったのだろう。雪ノ下が話をまとめにかかる。

 

「川崎さんが何故この世界でバイトをしているのか。彼女と話をしながらそれを探るのが今回の目的ね。他に何か気になる事はあるかしら?」

 

「あー……。一応聞いておきたいんだが、この辺りでエンジェルって名前の店は2つだけって言ってたけど、それは確定なのか?」

 

「ええ。運営に貰ったレア・アイテムのタウンページで調べたから間違いないと思うわ」

 

「……は?お前、どうやってそんなもん入手したんだよ?」

 

 雪ノ下の意外な返答に、思わず素っ頓狂な声を出してしまった八幡であった。由比ヶ浜と戸塚に至っては声も出せずに驚いている。

 

「マニュアルを解読していたら、時々『運営からの挑戦』というイベントがあるでしょう?」

 

「なんか『○○の理由を推測せよ』とか、その手のやつだよな?」

 

「先日、『この世界でオープンした店舗の傾向を調査した上で思う所を述べよ』という課題が出て、どうやら私の解答をお気に召したみたいね」

 

「それでレア・アイテムかよ。まぁ思った以上に真っ当な入手方法だったが、真っ当すぎて逆に殆どの奴にはクリア不可能だろ……」

 

 レア・アイテムの存在も驚きなら、入手方法も驚きである。こつこつと作業を進める実務的な仕事なら自分に向いているかもしれないと密かに自信を持っていた八幡だったが、物事を積み重ねて高みに至る事に長けた同い年の少女を見て、自分には及ばないであろうその才能を目の当たりにして、こっそりと肩を落とす。だが、側に立つ2人の認識は彼とは異なっていた模様である。

 

「でも、ゆきのんも凄いけど、あたしからしたら話について行けてるヒッキーも充分凄いけどなぁ」

 

「うん。雪ノ下さんの話について行けるのって、うちのクラスだと葉山くんと八幡ぐらいじゃないかな」

 

 雪ノ下からも珍しく八幡をからかう台詞は出て来ず、そして2人の言葉を受けて、褒められることに慣れていない八幡は明後日の方向を向きながら頬を掻く。一行が良い雰囲気でまとまったのを見て取って、由比ヶ浜が全員の顔を見回しながら元気に宣言した。

 

「じゃあ、みんなの力を合わせて、川崎さんの為に頑張ろっ!」

 

 こうしてパーティー4人は良い心理状態のまま、最上階のバーラウンジへと乗り込むのであった。

 

 

***

 

 

 エレベーターの扉が開くと、4人の耳に静かなピアノの調べが聞こえて来た。静けさの中に情感を漂わせる演奏は店内から流れて来る。先ほど待ち合わせをしていたエレベーターホール以上に場違いな雰囲気を即座に感じ取って、思わず身を竦ませてしまった3人に向けて、小声で鋭い指示が出された。

 

「戸塚くんは比企谷くんの後ろに。2人とも真っ直ぐ前を見て顎を引いて。背中を伸ばして堂々としていなさい。由比ヶ浜さんは私と同じように。戸塚くんの肘に手を……それで大丈夫よ。では、ゆっくり歩いて進みましょう」

 

 自らは八幡の肘に手を添えて、雪ノ下はバーの中へと歩みを進める。扉を抜けたところに控えていた中年男性が深くお辞儀をすると軽く頷き返し、彼が頭を上げて先導するのを待ってそのまま従う。比較的早い時間帯だからか、店内には他に客の姿は見えない。少し進んだところで、身振りだけでボックス席かカウンターかを尋ねられ、雪ノ下はカウンターへと視線を向ける。こうして彼らはカウンターに並んで腰を下ろしたのだった。

 

 

 カウンターの向こうでは女性のバーテンダーがグラスを磨いていた。彼らに無遠慮な視線を送ることなく、しかし注文には即座に応じてくれそうな距離感を保っている。おそらくは彼女の世話好きな性格が、仕事の上で役立っているのだろう。客を迎えるその姿勢は洗練されていて、同じ年齢とは思えないほどである。会話をする前から圧倒されていた八幡だったが、左隣に座った雪ノ下に肘を突かれ、やるべき事を思い出した。

 

 整った顔立ちですらりとした長身の女性バーテンダーは間違いなく川崎沙希である。彼女に特徴的な泣きぼくろを確認して、八幡はメッセージアプリを立ち上げ、平塚先生に川崎との遭遇を報告する。そして静かに頷く事でそれを雪ノ下に伝え、いよいよ彼女らの再戦が始まるのであった。

 

 

「こんばんは。川崎沙希さん」

 

「……雪ノ下」

 

 涼しい顔で冷ややかに挨拶を口にする雪ノ下と、彼女を認識して親の仇のような表情を浮かべる川崎。彼女らがお互いに向ける視線は前回と変わらず、他の面々は一気に取り残される展開かと思われたが、川崎がいったん視線を逸らした。そして彼女から見て雪ノ下の左隣に座る八幡を一瞥し、雪ノ下の右隣に座る由比ヶ浜、更にその隣の戸塚を順に眺める。

 

「そんな恰好をしてると高校生には見えないな。よく見ないと分からなかったよ。……何か飲む?」

 

「私はペリエを。由比ヶ浜さんは……同じものでいいかしら?」

 

 何を注文すれば良いのか分からないと涙目で全力で訴えて来る由比ヶ浜を見て、雪ノ下は優しく苦笑いをしながら問い掛ける。それに間髪入れず頷く由比ヶ浜の反対側では、八幡が「ペリー?ハリス?」などと混乱していたが、飲物を頼むのであればこれしかないと腹を括ったのだろう。意外に力強い声で彼は注文を告げる。

 

「俺はMAXコーヒーを」

 

 最高に決まったと内心で自画自賛しながら、八幡は無事に注文を終えた事を喜ぼうとしたのだが、隣席から聞こえて来たため息によって盛り上がった気分が霧消してしまった。

 

「はあ……。彼には辛口のジンジャエールを。戸塚くんは?」

 

「えと、ぼくも八幡と同じで」

 

 苦笑しながらグラスを用意すると、川崎は冷蔵庫からペリエとジンジャエールを取り出し、手慣れた様子で瓶の栓を開けてグラスへと注ぐ。自分に倣って3人が出された飲物に軽く口を付けたのを見届けてから、雪ノ下はおもむろに口を開くのであった。

 

 

「さて。探したわ、川崎さん」

 

「お節介は勘弁って言ったと思うんだけど。それとも、今日は横のそいつとデートってわけ?」

 

「まさか。趣味の悪い事を言わないで貰えるかしら?」

 

「たしか奉仕部だっけ?恵まれない奴に奉仕するのも大変だね」

 

 2人の間で口論が行われているはずなのに流れ弾が直撃を続け、思わず涙目になる八幡であった。何故か少しだけほっとしている由比ヶ浜と心配そうに自分を見つめる戸塚に視線をやって、八幡は少し場を落ち着けるべく口を開いた。

 

「お前らな。他人を傷付けるような醜い争いは止めてくれ。俺は上手いこと話を片付けて、さっさと帰って戸塚と着替えたいんだよ!」

 

 仲裁などという慣れない事を買って出るものだから、思わず冗談っぽく本音を口にしてしまう八幡であった。本人としては「言い争いを続けても無益」といった意味の台詞を言うつもりだったのだが、冷静な発言よりも願望が口を衝いて出た模様である。ちゃんと冗談と受け取ってくれたら良いなと恐る恐る周囲の気配を窺うが、そんな彼に向けられる視線は冷たい。

 

「醜いのは貴方の腐った目と、隠し切れない欲望なのではないかしら?」

 

「ヒッキー、さすがにちょっとキモい……」

 

「今のあんたがいちばん醜いぜ……」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜はもちろん、川崎からも散々な事を言われてしまい、目の腐った人はノックアウト状態である。そして当事者である戸塚は何やら落ち込んだ様子を見せていた。

 

「その、やっぱりぼく、男物が似合わないのかな?」

 

 心配そうに己の服装を眺める戸塚を何とか元気付けて、少し疲労感が漂った雰囲気のまま、彼らは本題へと移るのであった。

 

 

***

 

 

「さて、貴女の帰宅が遅いのはこのバイトの為だという事は判ったのだけれど。弟さんが心配しているし、バイトを辞めるわけにはいかないのかしら?」

 

「ん、ないね。9時半で上がらせて貰ってるし、校則とかに違反する事はしてないのに、辞める理由ある?」

 

 どうにも雪ノ下が発言すると喧嘩腰になってしまい話が進まない。雪ノ下の喧嘩を買えてしまうほど川崎の胆力が凄いので、脅しが効かないどころか逆効果にすらなっている模様である。そうした事情をきちんと理解したわけではないのだろうが、雰囲気が良くないと見た由比ヶ浜が口を挟む。

 

「あ、あのさ。川崎さん、なんでバイトしてるの?この世界で働いてるのって珍しいと思うんだけど……」

 

 それは素朴な疑問であったが、だからこそ川崎は素直にその問いに答える。素っ気なく端的に、しかし嘘偽りなく。

 

「別に。お金が欲しいから働いてるだけだよ」

 

「……運営から貰う金だけじゃ足りないのか?」

 

 この世界では運営から毎月お小遣いが支給される。彼らがベーシック・インカムと称するそれは多額というわけではないが、基本的な衣食住の支出を考えなくても良い現状では、普通に過ごしていると余ってしまう程度の額ではある。そうした前提から思わず八幡が疑問を挟んだのだが、彼に向けられたのは苦々しい表情だった。

 

「それで足りないから働いてるんだけどさ。……専業主夫希望とか、職場見学は自宅希望とか、ふざけた事を言ってる奴には分かんないよ」

 

 痛いところを突かれて八幡は口ごもる。元来ぼっちの彼は人と話すのが得意ではないが、奉仕部で日々を過ごす事で、少しずつ他の生徒達とも普通に話ができるようになって来ていた。だがこうして強く拒絶されてしまうと、長年の苦手意識が表面に出て来てしまう。どう返答したら良いのか混乱気味の八幡に代わって、意外な人物が声を上げた。

 

「あのね。八幡は時々よく分かんない事を言ったりもするけど……困ってる人にいい加減な事を言うような性格じゃないよ。そこはぼくが保証するから、もう少し話を聞いて欲しいな」

 

 見た目だけでなく発言の内容も天使のような戸塚であった。そんな彼に勇気を貰って、八幡は先ほど覚えた違和感について頭の中で考える。川崎から受けた強い拒絶は、しかし力強さが全く足りていないように感じたのだ。本質を抉って来る雪ノ下の発言と比べると雲泥の差であり、部活で幾度となく彼女の非情な攻撃に晒されてきた八幡だからこそ即座にその違いに気付けたのかもしれない。

 

 川崎の拒絶からは反発ではなく、理解されない事への諦めの気持ちが感じられる。そしてそれは八幡が親しんだ感情でもある。長年のぼっち暮らしで諦めを積み重ねてきた八幡だからこそ、川崎の気持ちが身近に感じられる気がした。そして雪ノ下と部活で時間を共にした彼だからこそ、たとえ理解されなくとも孤独に立ち続ける強さを知っている。同時に由比ヶ浜と部活を共にした彼だからこそ、たとえ理解されなくても気持ちを通じ合わせる事を諦めない強さを知っている。

 

 故に彼は、川崎の強い拒絶の言葉にも屈する事なく口を開く。

 

 

「川崎……もしかしてお前、進学とか諦めて働くつもりなのか?」

 

 それは見当違いの質問ではあった。だが川崎の心の琴線に触れる質問でもあった。そんな未来を拒絶したからこそ、彼女はこうしてテスト直前の時期にもかかわらずバイトに精を出しているのである。大学に行く為に。1年で元の世界に帰る為に。予備校に行く為に。そしてその費用を捻出する為に。

 

「そんな事はしない!あたしは勉強して大学に行くって決めてるんだ」

 

「そうか……。じゃあ、まとまった金が稼げたらバイトは辞めるんだな?」

 

「ああ。必要な額を稼いだら勉強に専念するよ」

 

 そんな川崎の返事を聞いて、雪ノ下が不用意な発言をしてしまう。それが可能であるが故の発言なのだが、だからこそ問題なのである。

 

「では、もしも誰かがその額を肩代わりしたら……」

 

「あんたには関係ない!誰かに金を恵んで貰う事も考えていない。親が県会議員だか何だか知らないけど、関係ないでしょ!」

 

 川崎の剣幕に驚いたのか、雪ノ下はグラスを倒してしまった。だが川崎の発言内容の方が雪ノ下にとって痛手だった事が次第に明らかになる。雪ノ下は強く下唇を噛みしめて、部員達が見た事も無いほど余裕のない表情を浮かべている。そんな彼女を見て、傍らの少女が迷わず口を開く。

 

「ゆきのんの家の事は今は関係ないじゃん!」

 

「……なら、あたしの家の事も関係ないでしょ。大志から何を頼まれたのか知らないけど、首を突っ込まないでくれない?」

 

「由比ヶ浜さん……私は大丈夫だから。その、ありがとう」

 

 普段よりは弱々しいものの、ショックから抜け出した雪ノ下がそう告げる。気付けば他の客が店内に入って来ようとしていて、どうやら潮時のようだ。そうした状況を見て取って、八幡は口を開く。

 

「川崎のバイトは9時半までって言ってたよな?話の続きがしたいから、通り沿いのファーストフード店に来てくれ」

 

「は?なんで行かなきゃなんないの?」

 

「今回だけだ。話が終わったら、こちらからは二度と大志に絡まないと約束する」

 

 真剣な口調の八幡を見て、川崎は悔しそうな腹立たしそうな表情で悩んでいたが、弟の事を口に出したのが効いたのだろう。仕方なさそうに無言で頷く。それを確認して、4人は席を立った。

 

 

 こうして、死闘の果てに、戦いは最終局面へと移るのであった。




前回の投稿後にUAが6万を超えました。評価やお気に入りも少しずつ増えていて、数字の変化を見ては喜んでいます。原作2巻もいよいよ終わりが見えてきました。引き続き、読んで下さる方々のご期待に応えられる内容にできるよう頑張ります。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
誤字を1つ修正して、少し違和感を覚えた一部の描写を書き直しました。大筋に変更はありません。(10/25)
細かな表現を修正しました。(11/15,2/20)


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19.そこには確かに家族の絆がある。

推敲の時間が取れず、1日遅くなりました。申し訳ありません。
盛り沢山な回になりましたが、メインはこの章のボス戦その3、最終決戦です。



 ホテル・ロイヤルオークラの1階で平塚静先生と合流して、一行は外に出ると通り沿いのファーストフード店に入った。比企谷八幡と戸塚彩加は着替えと平行して慌ただしく食事を済ませて来たのだが、女性陣は支度をするのが精一杯で何も食べていない。それに男性陣としても急ぎの食事ではいささか物足りなかったので、全員がそれなりのボリュームの食べ物を注文していた。

 

 フォーマルな服装の男女5人が揃ってハンバーガーを食べる姿は、傍目からしたらシュールである。当人達もそのことを理解しているのか、とにかく無言で食事に専念していた。そして早々に食べ終えた者たちも容易には口を開かない。結局、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が最後まで食べ終わるのを待ってから、話し合いが始まったのであった。

 

「まずは得られた情報を確認しましょう。川崎さんはお金が必要なのでバイトをしている。そして必要な額を稼いだら勉強に専念すると、そう言っていたわよね」

 

「うん。進学の希望は強そうだったよね」

 

 いつものように雪ノ下が口火を切り、そして戸塚がそれに補足を加える。彼もすっかり奉仕部の面々と仲良くなってくれたんだなと、密かに感慨に耽る平塚先生であった。彼女もまた通常通りの立ち位置で、生徒たちの自主性を尊重しながら彼らの側に控えている。そんな風に教師が見守る中で、由比ヶ浜が疑問の声を上げた。

 

「でもさ、あれだけ大学に行きたいって言ってたのに、どうしてテスト直前までバイトしてるんだろ?この世界で借金とかあるのかな?」

 

「あー……高校生で借金はさすがに無理じゃね?現実でも難しそうだが、この世界の運営の態度からしてリアル以上に厳しいと思うぞ」

 

「川崎さんは『必要な額』と言っていたのだけれど……借金ではないとしたら、この世界でまとまった額を支払う事って何かあるのかしら?」

 

 借金という由比ヶ浜の仮説は八幡が否定したものの、雪ノ下が悩んでいるように他の理由が思い付かない。だが、納得のいく説明を考えるよりも別に気になっていた事を思い出して、八幡は恐る恐るそれを話題に出す事にした。

 

 

「てか、さっき必要額を立て替えるとか言い出してたが……」

 

「……ええ。あれは私の失言だったわね」

 

「いや、失言ぐらい俺も幾らでもあるから、それは良いんだが。……奉仕部の理念と違うんじゃねぇのって思ったのと、その……お前は、いくらか知らんがまとまった額を立て替えられるのか?」

 

 硬い口調で答える雪ノ下に対し、問い掛けた八幡も真面目に応じる。口に出してしまった以上は、思っている事を全て出そうと。そして八幡が口にした疑問は由比ヶ浜と戸塚も気になっていたのだろう。雪ノ下の方へと身体を向ける2人からは、その疑問を口にして良かったのかと怖れる気持ちと、そして答えがあるのならば知りたいという気持ちとが伝わって来る。

 

 だが、緊張しながら返事を待つ3人とは裏腹に、雪ノ下の答えは明快なものだった。

 

「金銭をそのまま与えてしまうと、奉仕部の理念に反する事になると思うのだけれど。理由は判らないけれど学生の身分でお金に困っていて、本人に働いてお金を稼ぐ気持ちがあるのだから、一時的に立て替えて返済先を信頼できる相手に移す事は悪くない手だと思うのよ。ただ、学生同士でお金が絡む関係になってしまうと面倒なのも確かだし、私の言い方も良くなかったと思うわ」

 

「えっと、ゆきのんは借金を払ってあげるんじゃなくて、そのぶんのお金を貸してあげようとしてたって事?」

 

 高校生には馴染みのないお金が関わる話題である為に、戸塚もそして八幡も、雪ノ下の意見に対して是非の判断を直ちに下す事ができない。だが意外にも、由比ヶ浜が話の要旨を整理してくれたので、彼らも話を理解することができた。

 

「ええ。さすがに他人の借金を代わりに引き受けようとは思わないわ。でも私の勇み足だったのは間違いないわね」

 

「ぼく、雪ノ下さんがぽんとお金を出しちゃうのかなって……」

 

「それな。てか、借金を引き受けるんじゃなくて代わりに貸すって言っても、正直あんま変わらん気がするんだが。そもそも普通はそんな発想出て来ねーだろ……」

 

 実家がお金持ちの令嬢に対して、普通の男子高校生が抱くイメージはこの程度が限界なのかもしれない。だが、まとまった額のお金を使う事が可能だからこそ生まれる悩みもあるらしい。

 

「発想よりも、どう実行するかが問題なのよ。こちらが助けたい、助けても良いと思ったとしても、大抵の相手には嫌な顔をされてしまうのが1つ目の問題。それと似た話になるのだけれど、お金を通したビジネスな関係とは程遠い、卑屈な態度をされる事が多いのが2つ目の問題ね。それから……」

 

「ゆ、ゆきのん!それよりも、今は川崎さんの事なんだけど……いちおう知っておいた方が良いかもだから聞くけど、無理には答えなくて良いからね。最悪の場合ゆきのんが、さっき言ってたようにお金を貸すのって、アリなの?」

 

 持てる者の悩みはさておき、本題からいささか外れすぎているだけに、慌てて由比ヶ浜がストップをかける。同時に彼女は先ほど八幡が口にして、そして二度は尋ねるのを躊躇していた疑問に優しく切り込む。それに対して雪ノ下は、友人に隠す事は何もないと言わんばかりの自然な態度で答えるのであった。

 

「ええ。私がこの世界に参加すると決まって、実家ではそれなりの額を課金しているのよ。私がそれをどう運用するのか観察できるし、多額の剰余金が出た場合には会社で使っても良いのだし。だから個人が支払える程度の額であれば、貸与する事はおそらく可能でしょうね」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 まとまった額のお金を使えるという事以上に、お金の使い方や捉え方の違いを目の当たりにしてドン引きする庶民3名であった。なお平塚先生は、この程度の洗礼などとうの昔に受けて、すっかり感覚がずれてしまっている模様である。

 

「教師の立場としては、それは本当に最後の手段だな。その前にこちらで引き受ける事になると思うが……。それよりも、他に話し合っておくべき事はあるかね?」

 

「そうですね。先ほど話に出た支払いの目的と、それから……弟さんや小町さんにはどう伝えるべきか、ですね」

 

「それなんだがな。今からあいつらもここに呼んだらまずいか?」

 

 教師の質問に雪ノ下が即座に答え、続いて八幡が内心で考えていた事を提案する。それを少しだけ頭の中で検討して、平塚先生はあっさりとこう答えるのであった。

 

「では今から私が迎えに行って来よう。危険は無いだろうがこの時間だし2人は中学生だ。塾に車を横付けするので、各々の自宅から個室を経由して塾の前まで来てくれとメッセージで伝えて欲しい。道中で大まかな事情も説明しておこう」

 

「では、私達はその間に川崎さんの意図を……」

 

「その辺りは直接、尋ねたまえ。君達は川崎が来るまで勉強を頑張るように」

 

 雪ノ下の発言を途中で遮って、教師は素敵な笑顔で生徒達に告げる。既にテスト問題を作り終えて開放感に浸る彼女は、ゆっくりと席を立って教え子達に背中を向け、軽く片手を挙げた後に堂々と去って行くのであった。

 

 

***

 

 

 川崎大志は2つ上の姉の背中を見て育った。気立てが良く運動もできる自慢の姉は、身体が大きくて愛嬌がないと姉弟が小さな頃には言われたものだが、思春期を迎える頃にはすらりとした美人に成長していた。過去に姉の容姿を貶した連中はやはり見る目がなかったのだと、彼は改めて姉の事を誇りに思ったものである。

 

 2人目の子供の気楽さで、彼は他人の懐に飛び込む事を自然に行えた。彼は誰とでも仲良くなれたし、甘え上手な面があり、そして両親の教育ゆえに真面目な性格だった。どうして姉が友人を上手く作れないのか、彼には全く解らない。だが、そのお陰で姉が自分と一緒に多くの時間を過ごしてくれるのだから、文句などあろうはずがない。友人と過ごすのも時々なら楽しいが、それでも姉と過ごす時間には遠く及ばなかった。そんなわけで、彼の幼年期の記憶は常に姉と共にあった。

 

 彼の周囲が少しずつ変わってきたのは、姉が小学校の高学年になった頃だった。ちょうど下の妹が産まれ、そして続いて弟が産まれた時期である。もともと学校で独りで過ごす事が多かった姉は家族と一緒に過ごす時間が更に増えて、そして小学校ではすっかり孤立していた。とはいえ虐めなどはなかったし、クラスメイトよりも家族と過ごす方が楽しいという姉の言葉に疑いの気持ちは沸かなかった。今から振り返っても、あれは姉の本心だったと思う。

 

 

 嫌な話が徐々に伝わり始めたのは、姉が中学に進学してしばらく経ってからだった。姉の容姿に目を付けて告白したもののあっさり袖にされた誰かが、幼い妹弟の世話をして過ごしている事を理由に姉を揶揄する噂を流したのである。

 

 家族の為に時間を費やす事を馬鹿にする連中の考え方が、彼には全く理解できなかった。だが多勢に無勢である。姉には擁護してくれる友人が居ない。そして彼が周囲の友人に姉の良さを熱弁したところで、噂の震源地である中学校に与える影響など微々たるものだった。彼は小学生にして己の無力を痛感したのである。

 

 彼が辛い思いを抱えながら姉と接していたある日の事。さっさと働いて早めに結婚すると言っていた姉が、家で熱心に勉強をしている姿に遭遇した。驚く彼に少し照れたような表情を浮かべながら、姉は進学の希望を教えてくれた。幼稚な男に生計を託すよりも自分で稼げるようになりたいと語る姉を見て、彼もまた幼稚な男になどなるまいと、家族の為にしっかり稼げる大人になるんだと心の奥底で誓った。

 

 

 中学3年から塾に通いたいと彼が両親にお願いした時、姉も横で一緒になって説得してくれた。彼が行きたい塾は、英語が少し手薄だったが理数系には良い教師が揃っていて、授業を見学した時にここに通いたいと強く思ったのである。実のところ両親には反対の意図はなく、息子が自分の意志を強く主張するまでに成長した事を喜んで、その嬉しい時間を引き延ばす為にああだこうだと言っていただけという事らしいが、許可してくれたのだから文句は言えない。

 

 こうして彼は4月から塾に通うようになり、そしてこの世界に捕らわれてしまったのである。

 

 

 彼は塾に入りたてだったので、当初はログインする予定ではなかった。他の生徒達は以前からこの世界に来る為の準備を行っていて、例えば彼らの家を現実そっくりにして貰う為に写真や動画を提供していた。それから、こちらの世界で勉強したり遊んだりする為に、ノートや参考書から漫画やゲームまで持ち込めるものは全て用意していた。彼も、そのうちログインする事もあるかと勉強道具の支度は調えていたのだが、初日にログインしたのは全くの偶然である。単に運が悪かったのだ。

 

 不運に見舞われた彼の代わりに何らかの幸運が働いて、姉がログインを回避している事を彼は心から願っていたが、残念ながら姉弟はこの世界で再会を果たした。その時の姉の強い眼差しを彼は今も鮮明に覚えている。必ず1年で元の世界に帰って家族と共に過ごすのだと、そう決意する姉は肉親の目から見てもとても美しかった。

 

 

 だが今月に入って、姉の帰宅が徐々に遅くなって来た。外で変な事はしていないと断言してくれるのだが、両親と切り離された環境で姉との距離が遠くなっていく事は、まだ中学生の彼には辛い事だった。姉が何をしているのか知りたいという気持ちは勿論あるが、それ以上に彼は寂しかった。その気持ちを誰かに、できれば大人ではなく同世代の誰かに聞いて欲しかったのである。

 

 しかしそんな希望を抱く彼には残念な事に、塾の友人の多くは真面目な話を相談するには頼りないように思われた。長年に亘って姉を見てきて、そして姉を悪く言う幼稚な連中を見てきて、彼は自分が抱えている問題を打ち明けても意味のない相手を、何となく判別できるようになっていたのである。

 

 

 そんな時、同じ塾に通う少女の兄が、姉と同じ総武高校に通っている事を伝え聞いた。その少女は見た目の愛らしさと活発な行動力で大勢の人気者だったが、恋愛沙汰に繋がるような雰囲気を巧みに回避する事でも有名だった。

 

 この世界で塾の仲間達と時間を過ごすうちに、彼もまた少女に対して淡い憧れの感情を抱くようになっていたので、相談を切っ掛けに何かが起きる事を期待しなかったと言えば嘘になる。だが彼が相談を決めたのは、少女が時々まとう独特の雰囲気に魅せられた事が大きい。大人のような、孤独なような。家族想いのような、醒めたような。そして彼が抱いていた淡い気持ちは、少女と並んで総武高校へと向かう道中ですっかり消えてしまった。

 

 

 少女の兄の話は、塾の友人達からそれなりに聞いていた。姉の噂の事で思い悩んだ経験のある彼としては全てを鵜呑みにする気は無かったが、少なくとも彼の姉と同じように生きにくい人なのだろうという印象を持っていた。

 

 だがカフェで偶然会ったその男子高校生は、いずれも魅力的な女性たちと確かな信頼関係を築いているように見えた。そして何より、その兄妹の仲に彼は理想的な関係を見たのである。お互いを大切に扱う2人と比べると、自分たち姉弟は片側のベクトルが強すぎる。彼はこの時また己の無力感を味わったが、目標にできる関係を間近で目の当たりにできた嬉しさの方が大きかった。要は彼が姉の力になれるぐらいに成長すれば良いのである。

 

 

 総武高校に向けて歩きながら、当初は高校生たちとの再会を楽しみにしていたのだが、ふと傍らの少女の様子がいつもと違う事に彼は気付く。それは快活な少女には縁が無いと思われるような、苦悶に満ちた雰囲気だった。実際に表情に出ていたわけではない。しかし彼には、少女が何かに苦しんでいる事を察知できた。少女の雰囲気が、いつかの姉とそっくりだったから。幼い妹弟の事で揶揄されていた姉から1度だけ感じたあの雰囲気と、同じだと思ったから。

 

 その少女の苦しみを彼が救えるなどとは到底思わない。おそらく彼女を救えるのは、実の兄だけなのだろう。だが彼は、自分の力不足を泣き叫びたいほど自覚しながらも、少女が苦しんでいる時に自分が側に居たいと思った。自分の姉が大切にしてきたものが、そして自分がこの先ずっと大切にしていきたいと思えるものが、そこにあると思ったから。

 

 

 だから彼は、姉の行動を解明して姉の力になろうと決意する。きっとそれが、少女の苦しみを少しでも緩和する為の手掛かりになると思ったから。

 

 姉の為に、そして自分の幼さ故に動き始めた少年は、このようにして大人への一歩を踏み出したのであった。

 

 

***

 

 

 そろそろ現れる頃ではないかと由比ヶ浜が訴えるので、苦笑しながら勉強会の終わりを宣言した雪ノ下は、勉強道具を片付けながらレジへと視線を送る。目当ての人物がまだ来ていない事を確認して、次に未到着の平塚先生と中学生2人の事を考えていると、入り口のドアが開いた。

 

 彼女らの待ち人は「連日のご来店ありがとうございます」という店員の声にも反応する事なく、慣れた様子でドリンクを選んでこちらへと近付いて来る。特に気負った様子もなく、面倒な事を片付けるだけとでも言いたげな雰囲気で。付近で立ち止まった彼女に向けて、雪ノ下が口を開いた。

 

「そちらの席に座って貰えるかしら?何か食べるものは……」

 

「賄いで食べたからいらない。で、さっさと済ませたいんだけど?」

 

 当然と言えば当然だが、川崎沙希は機嫌悪く言い放った。だが八幡の提案で彼女の弟を待っている現状では話を始める事ができない。どうしたものかと悩む4人には幸いな事に、タイミング良く3人組の客が店に入ってきた。

 

「大志……。またか」

 

 新規の客の中に弟の姿を確認して、川崎は吐き捨てるように呟く。以前に奉仕部とやらの部室に行った時に続いて、この連中はまた同じ事をやって来るのか。今回だけと言っていたが、もう少し約束をきちんとすべきだったと彼女は後悔しながら、しかし事ここに至っては仕方がないので弟が席に着くのを待つ事にする。

 

 弟と、比企谷という同級生の妹とが付近に腰を下ろし、そして国語の平塚先生が少し離れた場所に腰を落ち着ける。それを確認した川崎が挑発するように視線で促すと、それに応えて雪ノ下が話を始めるのであった。

 

 

「さて。貴女がお金を稼ぐ理由を教えて欲しいのだけれど」

 

「言わない。あんたには関係ないって言ってんでしょ」

 

 川崎の声は先程と違って覇気が無く、しかし取り付く島もない対応なのは変わらない。このままでは問答が平行するだけで話が進まないように思われたが、この場に現れた彼女の肉親がゆっくりと口を開いた。

 

「姉ちゃん……何をやってるか、俺にもちゃんと教えて欲しい。今は頼りないかもしんないけど、家族として、姉ちゃんの気持ちを共有させて欲しい」

 

「大志は……この事には関係ないよ。あたしは、自分の為にお金が必要なんだ。変な事には使わないって約束できる。あんたには絶対に迷惑を掛けない。だからこの話は、これ以上は勘弁してくれない?」

 

 いつの間にか頼もしい事を言うようになった弟を眩しそうに眺めながら、しかし川崎は血を分けた少年の提案を優しく拒絶する。一方の大志は、この程度で決意が揺らぎはしないものの、無力な自分を実感せずにはいられない。そんな姉弟に向かって、場違いなほどにのんびりとした元気な声が掛けられた。

 

「どうもー。比企谷小町と申します。大志くんには同じ塾でお世話になってます!」

 

「あ、ああ。大志から話は聞いてるけど……」

 

「えっと。沙希さんがさっき『迷惑を掛けない』って言ってましたけど、下の子からすると正直それって、うーんって感じなんですよ。生意気な事を言えば、迷惑かどうかはこっちが決めるっていうか、まあうちのお兄ちゃんの場合は迷惑ばっかなんですけどね」

 

 しれっと八幡を爆撃する小町であった。さっきのバーでの会話といい、何故にとばっちりで攻撃されるの?と涙目の八幡だったが、この流れで文句を言うと妹に一刀両断されるのは確実である。妹の理不尽に耐えねばならぬ兄の悲哀を存分に味わう八幡であった。

 

「それで、何が言いたいの?」

 

 しかし川崎はその間に落ち着いたのか、冷たい口調で小町に問い掛ける。だがそれを受ける小町は平然としたもので、特に口調を変える事もなく話を続けるのであった。

 

「話して欲しい事は、話して欲しいって事です。教えて欲しいって思った時に、ちゃんと口に出して教えて欲しいんですよ。タイミングを逃すと、宙に浮いちゃう事ってあると思うんですよねー」

 

 小町にしては珍しく抽象的な発言に、兄の八幡ですら意外そうな表情を浮かべている。ましてや他の面々には、彼女が何を想定して話しているのか全く解らない。感じ取れたのは、小町の発言の背後には何か確たる根拠があるという曖昧な直感だけである。

 

 だが、川崎には小町の発言を受けて思い当たる過去があった。彼女は幼い妹弟の世話を嫌だと思った事は無い。だが、どうしてその事を、告白を断った男子生徒に揶揄されねばならないのか。どうしてあたしが、という思いを彼女は誰かにぶつけたくて、それを両親にぶつけようとして、しかし家族の世話を嫌がっていると受け取られるのを怖れて言い出せなかった過去があった。

 

 そしてこの中で唯一、悩み事を抱えながらも決してそれを外に出すまいと苦しんでいた彼女の姿を事前に体験していた少年が、少女の発言に背中を押されて口を開く。ふと浮かんだ推測を、自分の話をするのが苦手な姉に伝える為に。

 

 

「……もしかして姉ちゃん、大学受験の勉強に使うのか?塾とか予備校とか」

 

 それは、学費や受験の費用は親に出して貰うのが当たり前の八幡たちには気付きにくい事だった。予備校が実施する模試などの費用も、保護者から費用を受け取った学校側がまとめて支払うので、そもそも生徒達は金銭の行き来を認識できないのである。

 

 とはいえ彼らが責められる理由はない。苦学生が立派なのはその通りだが、だからといって親に教育費を出して貰うのを恥じる必要もない。しかし、そうした理屈を理解していても、どこか後ろめたく思ってしまうのが人の心の難しいところである。故に彼らは、静かに川崎の返答を待つ。

 

「……まあ、大志の言う通りだね。英語とかは行けそうなんだけど、国立なら数学もやんないといけないしさ。できれば夏に目処を付けておきたくてね」

 

 少しだけ時間が掛かったものの、すっかり弱々しい口調で、川崎は呟くように説明する。受けたい授業が多いほど、必要な費用は鰻上りになる。特に1年で結果を出そうとしている彼女ならば尚更だろう。だからこそ、今がテスト直前の時期であるにもかかわらず、彼女は夏を見据えてバイトを続けていたのである。

 

「……勉強の時間は、確保できているのかしら?」

 

「ああ。……実は、バイトの後にここで勉強してたんだ。家よりも外の方が捗るからって、大志には心配を掛けたね」

 

 誰も口を開きそうにないのを見て取って、雪ノ下が静かに端的に疑問を投げかける。そんな気遣いすらも感じ取れない川崎は、既に雪ノ下への敵意も失せてしまったのか、彼女の質問に素直に答えた。だから「連日のご来店」なのだなと八幡と雪ノ下は理解するが、口に出して言う程の事でもない。彼女らを強く拒絶し立ち塞がった川崎の姿は、今やもう見る影もなかった。そんな相手に、知ったような事を誰が言えようか。

 

 誰も口を開かず、沈黙が場を支配する。しかし川崎としても何かを喋っていたいのだろう。誰も問い掛けてくれる者がいない事を悟ると、彼女は呟くように違う話題を持ち出した。

 

「……そういえばさ。もっと割の良いバイトはないかって話をしてたら、客が言ったんだ。ゲームの世界で稼げば良いんじゃないかって」

 

「なっ!貴女はそれを真に受けたのかしら?」

 

「そしたら、こんな事にはなってないよ。一応は調べてみたけどね。扉はともかく、鍵の在処が判らなかった」

 

「……そこまでだ。川崎、ゲームの世界に行くのは明確な校則違反だ」

 

 意外な話の流れになった事で、さすがに平塚先生が収拾に入る。だが川崎とてそれは理解していた模様である。色んな事を諦めてしまって、しかし家族に関する事だけは何よりも大切にしてきた彼女は、たとえ家族の為であっても我が身を犠牲にしかねない選択をするつもりはなかったのだ。彼女の発言を待つまでもなく、その眼差しから彼女の意志を感知した教師は、黙って話をさせるに任せた。

 

「ええ。家族の為にも、万が一にも死ぬわけにはいかないですし。……ちなみに、扉は東京駅の0番ホームにあるらしいですよ。NPCから教えて貰ったので情報は確かです。ただ、普通の手段では行けないみたいですが」

 

 

 つい先程までは現実的な話をしていたはずなのに、すっかり非現実的な雰囲気になってしまった。この空気をどうしたものかと、さすがの平塚先生や雪ノ下ですら言葉を選びかねていたところ、兄に質問を投げかける呑気な声が各人の耳に聞こえて来た。

 

「ゲームの事は分かんないけど、依頼はこれで解決なの?」

 

「あ、そうだな……。川崎のバイトの理由は判明したし、それこそ金を稼ぎにゲームの世界に行くよりは遙かに健全だと思うが、どんなもんかね?」

 

 妹の問い掛けに答えるのは兄の義務だが、だからといって彼の一存で事が決まるわけではない。そんな彼から話を振られて、雪ノ下は答える。

 

「そうね……。確かに直ちに改善すべき点はほとんど見当たらないわね。強いて言えば、バイトの後に深夜までここで勉強している事が問題視されるかもしれないのだけれど。家よりも効率よく勉強できているのであれば、中止させるのも気が咎めるわね」

 

 何だかんだで川崎に絆されつつある雪ノ下であった。だが由比ヶ浜も戸塚も同じ気持ちでいる様子で、2人は八幡に何とかならないかと視線で訴えてくる。

 

「あー……。そういえば川崎、1つ聞いていいか?なぜ、こんなに焦って勉強しようとしてるんだ?」

 

「……まあ、家族の為だね。うちは子沢山だから、早く現実の世界に帰らないといけないんだよ」

 

 小町の発言を受けて、そして大志に指摘されてからの川崎はすっかり素直になっていた。確かに事態は深刻ではあるが、しかし話してしまえば呆気ない事でもある。

 

「状況は把握したわ。では川崎さんの為により良い方法を全員で考える事で、依頼の完了としましょうか。ちなみにお金を出すつもりはないから、安心してくれて良いわよ?」

 

「……なら安心だ。さっきはあんたに厳しい事を言って、済まなかったね」

 

 本調子には程遠いが、少しだけ笑顔を浮かべて、川崎は雪ノ下の挑発に乗りつつ先刻の発言を謝る。それに対して雪ノ下も、素直に謝罪を返していた。

 

「こちらこそ、誤解させるような失礼な言い方をしてしまってごめんなさい。それに、貴女がバイトをする理由やその行動力には頭が下がる思いよ」

 

「たぶん……誰にだってあるよ。やるしかないっていう気持ちになる時が」

 

 彼女にとっては、この世界に姉弟が共に捕らわれたと把握した瞬間が、その時だったのだろう。やるしかないからやっただけだと語る彼女の言葉は、その場にいる全員の心にゆっくりと浸透してくるようだった。だから八幡は、思わずこんな事を口にする。

 

「……そうか。仲間が必要なときはいつでも来い。俺はあんまり役に立たんかもしれんが、雪ノ下の優秀さは折り紙付きだし、対人関係なら由比ヶ浜だ。癒やされて素直な気持ちになりたいなら断然戸塚だな。元気になりたい時は特別に小町の貸し出しを許してやらんでもない」

 

「お兄ちゃん……突然どしたの?変なものでも食べちゃった?」

 

「なんてか、今、そんな気持ちになったんだわ。まあ、そんな事もあるだろ」

 

 たまには格好良い台詞を口にしたくなるような時も、特に男子高校生にはあるのだ。願わくば、無粋なツッコミとか元ネタの詮索とかはしないで欲しいなと、切に願う八幡であった。そして、そんな兄の態度から、先程の台詞はアニメか何かからの流用だろうなと推測して、優しい妹は深くは追求しないであげようと口を開く。

 

「ふーん、まあいいや。それより小町、テストが終わったらこのメンバーで打ち上げしたいなー」

 

「は?遊ぶ事を考える前に勉強しろ」

 

「勉強をする為のご褒美だよ!それに、もっと仲良くなりたいじゃん」

 

 そう冗談っぽく言い放つ小町だったが、八幡はそんな妹に微かな違和感を覚える。理由は判らないが、らしくなく焦っているような、そんな印象を受けたのである。だが妹の顔を改めて眺め直してみても、今となっては先程の違和感を感じる事すらできない。

 

 周囲を見回してみると、兄妹の会話を聞いて一様に苦笑を浮かべている。自分の勘違いかと気を取り直して、八幡はそもそもの話題を思い出そうと努める。確か雪ノ下が、川崎により良い方法を提示しようとか言い出したのだったか。ならば、彼が最初に言うべき事はこれしかないだろう。

 

 

「……川崎。お前、スカラシップって知ってる?」

 




おまけ:作者が抱くボス戦のイメージ。

ボス戦その1
雪ノ下:右ストレートでぶっとばす。

ボス戦その2
雪ノ下:真っ直ぐにいってぶっとばす。
八幡:搦め手から攻める。
由比ヶ浜:ゆきのんのデバフ解除。
戸塚:八幡に各種バフ。

ボス戦その3
小町:光の玉(DQ3)。
大志:超究武神覇斬(FF7)。


次回でこの章の本筋は終了です。
その後は息抜きの小話を挟んで幕間の話、そして章を新たにして3巻の内容に入る予定です。

次回は日曜日に更新の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)


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20.彼女たちの青春ラブコメはこの世界ではじまる。

2話連続で更新が遅れて申し訳ありません。何とか書き切る事ができました。
今回で原作2巻の本筋は終了です。



 夜のファーストフード店の一角では、フォーマルな装いの若い男女に気楽な服装の数名が混じって、静かに話をしていた。少しだけ離れた席では、そんな彼らを温かく見守る妙齢の女性もいる。

 

 先程までは重い雰囲気だったが、集団の中でおそらく兄妹なのだろう。特徴的な髪の毛の跳ね方が共通している男女の会話が、周囲の人々の表情を明るいものへと変えている。そして2人のうちの兄の方、比企谷八幡が、集団に囲まれた位置にいた女性、川崎沙希にこう話し掛けた。

 

「……川崎。お前、スカラシップって知ってる?」

 

 

 スカラシップとは、簡単に言えば奨学金の事である。細かな違いは色々とあるのだろうが、生徒の学業成績に応じて支給されるという基本は変わらない。大抵の場合は、受講前の成績に加えて受講後の成績や出席率などを基準にして額が決まる。全額免除とはならなくとも、成績に応じて一定の割合で授業料を免除してくれる事もあるので有用だが、いずれにせよ後日返金という形式が殆どなのが川崎には辛いところである。

 

「……一応ね。少し調べてみたけど、大手予備校だと基準が厳しすぎるし、最初に必要な額は変わらないから使えないなって思ってたんだけど」

 

「それな、大手に拘らないなら基準がかなり緩いとこもあるし、大手予備校の模試の成績を考慮してくれるとこもあるから、もう少し色々と調べた方が良いかもしれんぞ」

 

「でも……金銭面だけを重視して、お粗末な内容の授業を受けるようでは本末転倒なのではないかしら?」

 

 八幡とて自分に必要な範囲の事しか調べていないので、簡単な助言程度の事しか言えない。そして雪ノ下雪乃の指摘ももっともである。だが、やはり彼女は少し考え方がずれている模様である。

 

「卒業資格を満たして、この世界を出て行く事を最優先するのであれば、授業内容こそを重視すべきよ。そう考えれば、大手のS予備校かK塾で東都大学コースを受講するか、通信教育Zを利用する以外の選択肢は不要だと思うのだけれど」

 

「いや、ちょっと待て。別に川崎は東大を狙ってるわけじゃねーだろ?それに高2でその辺りのコースを受講するって、どんだけ凄いか解ってんのか?」

 

「川崎さんが言うように一刻も早く現実の世界に帰るつもりなのであれば、この夏の時点でそれぐらいのレベルに辿り着くべきだと思うのだけれど。それにたとえ東大を目指さないとしても、問題を解く為に止まらず、将来大学で学ぶ事を視野に入れた教え方をしてくれる最難関コースは、受講しておいて損は無いという話よ」

 

 雪ノ下の話が雲の上すぎて、唖然とした表情を浮かべる由比ヶ浜結衣であった。当事者の川崎とても、まずは受講料を用意する事に集中していたので、具体的に受けるべき授業の話を持ち出されたところで口を挟む事ができない。

 

「だからお前、受講料の話を忘れてねーか?大手予備校の一番難しいコースって、全部受けたら額が凄い事になるんじゃね?」

 

「こちらの世界で受ける場合は衛星授業と同じ形式になると思うし、会場の固定費なども掛からないから、出費は更に抑えられるはずよ。そもそも、私が受講して、テキストを川崎さんに見せながら授業内容の復習を一緒にすれば、費用は掛からないわね」

 

 さすがにその辺りは抜かりのない雪ノ下であった。テキストをコピーしたり授業内容を録音して共有するなら問題になるだろうが、仲間内での勉強会で間接的に使う事にまで目くじらを立てる運営ではないだろう。

 

 そんな手があったかと、素直に感動している戸塚彩加とは対照的に、川崎は再び浮かない表情である。確かにそれだと費用は掛からないが、雪ノ下の温情に甘える形になる。高度な授業を間接的にでも体験できるのは魅力的だし、現実の世界に帰る為には安いプライドに拘るつもりもない。しかし、雪ノ下にそこまでさせるのは人としてどうなのだ、という疑問を振り払う事ができず、彼女は苦悩しているのである。

 

「成る程な。どうせお前の事だから、『講義の復習をしたり他人に教える事を通して、私にも得られるものがあるのだから』とか言うんだろうが……」

 

「……それは私の台詞を真似たつもりなのかしら?思わず怖気が走ったのだけれど」

 

「ヒッキー、前より上手くなってるし……」

 

 真剣に思い悩む川崎を尻目に、仲の良いやり取りを始める奉仕部3名であった。とはいえ八幡には発言に続きがあった模様で、雪ノ下の挑発に乗らず話を元に戻す。

 

 

「とりあえず雪ノ下の提案は1つの案という事にして、他の手も考えたいんだが。まずはスカラシップの話に戻すぞ」

 

 静かに頷く川崎を見て、八幡は話を続ける。言葉の応酬ができず少しご不満な様子の雪ノ下だが、彼女も特に異論を挟む気配は無かった。故に八幡は話を続ける。

 

「後から返って来るという形でも、トータルの支出を考えるとスカラシップも疎かにできないと俺は思うんだが……ここまでは良いか?」

 

「ああ、問題ないよ」

 

 川崎の反応を窺いながら、上手く話を進める八幡であった。実は彼女が熱心に自分の目を見つめて来るので気恥ずかしくなって、川崎に確認した後に周囲の様子を眺める振りをしながら視線を外していただけだという裏事情は、ここだけの話である。

 

「さっきも言ったが、大手予備校の模試の結果は他の予備校でも参考材料にしてくれる事が多い。だから、今度の日曜にあるS予備校の第1回高2全国模試には全力で挑むべきだと俺は思う」

 

「成る程。つまり、バイトに費やす時間を貴方は問題視しているのね?」

 

 持ち前の理解力の早さによって、またもや周囲を置き去りにする雪ノ下であった。とはいえ、打てば響くような反応は話し手からすると嬉しいものである。問い返す形で、話の主導権を戻してくれている辺りもポイントが高い。なので八幡は機嫌良く頷きながら、周囲に向けて説明を行う。

 

「正直、模試の直前に対策をしても、どれぐらい効果があるのかは分からんが……。優先順位を考えると、今はバイトよりも勉強に時間を使うべきだと思うんだわ」

 

「でも、夏の予備校代も稼がなきゃじゃないの?」

 

「あ、でもさっきの雪ノ下さんの案があるから……」

 

「すまんな戸塚、その話はいったん棚上げな。で、由比ヶ浜の懸念も当然だが、そこも少し検討してみたいんだわ。つまり、バイトと勉強を両立できるような方法が無いか?ってな」

 

 ちょっと良い表情で、いわゆるどや顔で周囲を見渡す八幡であった。さすがの雪ノ下にも彼の意図は読めていないようで、少し悔しそうな様子である。その他の殆どの面々は一様に驚いた表情で、彼が発言を再開するのを待っていた。

 

 そんな彼の様子を見ながら、馬鹿な事を言い出さなければ良いのだがと呆れながらも一応は心配していた比企谷小町は、兄が自分に視線を固定した事に気付く。首をこてんと倒しながら、彼女が目だけで疑問の意を伝えると、八幡はおもむろに説明を始めるのであった。

 

 

「小町が通っている塾は理数系の授業が売りなんだが、英語は微妙なんだわ。教師の知識や実力は問題なかったはずだし、教え方も悪くはなかったが、何てか……」

 

「眠い!」

 

「あれは耐えられないっす!」

 

 間髪入れず、小町と川崎大志とが八幡の言葉を引き継ぐ。小町はともかく基本的には真面目なはずの大志がここまで言うのだから、その英語教師の授業はよほど眠いのだろう。かつて八幡も同じ塾に通っていて、しかし対人関係で嫌気が差してすぐに辞めたのだが、あの時に体験した睡魔の威力は今でもはっきり覚えている程である。

 

「で、さっき川崎は『英語は行けそう』って言ってたと思うんだが……中学生に英語を教える事はできるか?」

 

「……少人数に教えるのはできると思うけど、教室で授業って形だと、やった事がないからどうだろね。それと、塾には他に英語の教師は居ないのかい?」

 

「あー、川崎にメインで授業をして貰うんじゃなくて、アシスタントみたいな感じか?授業の進め方とかは準備してくれてる通りにすれば良いと思うし、ぶっちゃけ代わりに喋ってくれるだけで良いっていうか。とにかく、あの眠気を誘う声さえ無ければ、内容はしっかりしてた筈なんだわ。他の英語教師は国語とか他教科との掛け持ちばっかだから、催眠音波の問題がなくなれば向こうも助かるんじゃね?」

 

 それが八幡のプランであった。さすがに塾の内情を知らない雪ノ下には思い付けない案である。バーでのバイトと比べると、高校受験程度の難易度とはいえ英語に触れながらお金も稼げるのだから、環境の違いは歴然である。教師の実力には問題が無いので、空き時間には高校範囲の質問を行う事も可能だろう。

 

「お兄ちゃん、一瞬で辞めたのに何でそこまで塾の事情に詳しいの?」

 

「ばっかお前、妹が通う塾だぞ?足りない部分は俺が教えないとだし、この程度は把握してても不思議じゃねーだろ」

 

 ふと浮かんだ疑問を小町が無邪気に尋ねるが、八幡は即答で返す。どうやら妹がいる千葉の兄にとっては不思議ではないらしい。だが同時に、周囲がドン引きしている事も不思議ではない。呆れたような疲れたような口調で、雪ノ下が一同を代表して感想を述べる。

 

「はあ……。プランとしては魅力的だというのに、プレゼンをする貴方が残念なせいで、どう評すれば良いのか悩ましいわね。それに貴方の事だから、他にも何か企んでいるのではないかしら?」

 

 さすがに鋭い雪ノ下であった。彼女の指摘に対し、先程までの得意顔から少しだけ照れ臭そうな表情に変えて、八幡は呟くように隠された意図を説明する。

 

「まあ、あれだ。川崎が塾でバイトするようになれば、大志とも一緒に過ごせる時間が増えるんじゃね?」

 

 

 周囲の目が一斉に八幡に集まる。八幡としては、両親が居ない現状で小町と一緒に過ごす時間をもっと増やすべきかと悩んでいたところだったので、そのお陰で思い付いたに過ぎない。川崎姉弟の事を思ってと言えば聞こえは良いのだろうが、心情としては小町の事を考えるついでという程度の重みでしかない。しかし、そうした配慮は誰もが思い付ける事ではなく、それ故にどんな切っ掛けであれ配慮できる人は貴重なのである。

 

 急に言葉を失ったかのような周囲の様子に気付く事なく、八幡は照れ隠しなのか遠方を向いたままである。やがて生徒達は徐々に優しい笑顔を浮かべながら、変わらず八幡を見つめる。特に川崎は、この時に初めて八幡の長所を心から認識できた気がした。

 

 バーで戸塚から言われた言葉を彼女は思い出す。舐めた事を言うふざけた奴だと思っていたが、確かに『困ってる人にいい加減な事を言う性格じゃない』みたいだ。むしろ先程の『仲間が必要なときはいつでも来い』という台詞といい、いざという時に頼れるタイプなのかもしれないと彼女は思う。その台詞は既に彼にとっては黒歴史なので、頼むから触れてくれるなと心底から思っているだろうが。

 

 

 川崎は今までの人生で色んな事を諦めて来たが、その最たるものは友人であった。何故だか解らないが同世代の誰とも話が合わない。それに口下手なので、面白い話や役に立つ話が自分にできるとはとても思えない。きっとあたしと居ても楽しくないだろうし、だから友人もできないだろうと彼女は諦めていた。仲の良い友人が居ないとはいえ疎まれているわけでもない。そもそも、これだけ素晴らしい家族に恵まれているのだから、それで充分じゃないかと。

 

 しかし、仲間と言ってくれたこの男子生徒といい、真剣に自分の事を考えて舌戦を挑んで来たあの女子生徒といい、一体あたしに何が起きたのだろうと彼女は思う。その2人と一緒に自分などの事を心配してくれる同級生が更に2人。そして弟と同い年でおそらく想い人の少女も、彼女の心の奥底までをしっかり見通しているかのように、厳しくも温かい言葉をくれた。いつの間にあたしは、こんなにも祝福された立場になっていたのだろうか。

 

 だからこそ川崎は、2つの意志を口に出して彼らに伝えようと決意する。変な風に思われるかもしれない。もしかしたら彼女の勘違いなのかもしれない。それでも、今この瞬間にそれらを伝えないという選択は彼女には無かった。だから川崎は、ゆっくりと周囲の()()()に向けて口を開く。

 

「あのさ……。あの、みんな、さ。……あたしの為に色々と考えてくれたり、動いてくれて、ありがとね。それで……その。できれば、で良いんだけどさ。嫌じゃなかったら、あたしと、友達になってくれないかな?」

 

 何度も口ごもりながらも、川崎はお礼とお願いという2つの気持ちを言い切る事ができた。そしてこんな話に対しては、誰がこの中で返答するのに一番相応しいかなど、言うまでもない事だろう。間髪入れず、元気な声が川崎に答える。

 

「うん!よろしくね、サキサキ」

 

 予想できた事態に対して周囲は苦笑いである。由比ヶ浜のあだ名のセンスがさっそく炸裂したわけだが、ゆきのんやヒッキーとは違って、近い将来その呼び方を採用する人は他にも出て来るかもしれない。もしも可能であれば、その人の何かが腐っていない事を願うばかりである。もちろん、とうの昔に手遅れなのだが。

 

 

 優しい空気が夜のファーストフード店に充満する。勝負を経た後に友情を構築する光景を目の当たりにして、感動に震えている妙齢の女性も居る。当事者はみな笑顔を浮かべていて、今回の依頼が結果として良い方向に働いた事を心から喜んでいる様子である。そんな彼らを優しく眺めながら、雪ノ下は少し時間を置いて口を開く。

 

「さて。では改めて、私達の提案を繰り返すわね。1つ、日曜日の全国模試まではバイトを休んで勉強に専念してはどうか。2つ、バイト先を弟さん達が通う塾に変更してはどうか。3つ、大手予備校の東大コースを私が受講後に勉強会を行うので、それに参加してはどうか。……最後の提案は、どのみち私は受講すると思うし部員向けに勉強会も行う予定だから、気を遣う必要は無いわ。それに、その……友達、なのだから」

 

 恥ずかしそうに最後に小声で付け加える雪ノ下に、周囲の生徒達の温かい視線と肉感溢れる女子生徒の抱擁とが送られる。勝手に勉強会に巻き込まれる事を決められた八幡は少しだけ文句を言いたげな表情だが、基本的には彼も勉強には真面目な生徒である。最高峰の大学を受験する生徒を対象にした講義には興味を惹かれるものがあったので、あえて口を挟む事はなかった。

 

「……その3つ全部を、採用させて貰う事になると思う。本当に、あたしなんかの為に、ありがとね」

 

「そんな言い方はダメだって。あたし達はサキサキの為だから動いたんだし、『あたしなんか』とか言わないで欲しいな」

 

 川崎を可愛らしく睨み付けながら、友達が多いからと先輩風を吹かせるような言い方をする由比ヶ浜だが、発言の内容は穏当なものである。彼女に続いて、性別が戸塚な人物も口を開く。

 

「うん。ぼくも時々『ぼくなんかが』って思っちゃうから気持ちは解るけど、周りの友達がそれを聞くと、ちょっと寂しくなるんだって。大事な友達に、変な風に謙って欲しくないって言ってたよ」

 

「そっか。なら……ありがと」

 

 川崎の短い感謝の言葉を、彼女に指摘をした2人は笑顔で受け入れる。そして大方の意見が出尽くしたと見た生活指導の教師は、ゆっくりと生徒達の輪に近付いて、そして話を始めるのであった。

 

 

「何とか良い具合に話がまとまったみたいだな。私の方からも少し川崎に提案があるので、検討してみて欲しい。……君達は現実の世界で、PCやスマートフォンで色んな授業を体験した事はあるかね?」

 

「それは、Tunes Uなどで配信されている授業の事でしょうか?たしか大学の授業が主だったと記憶しているのですが……」

 

「世界の授業が受けられるとか聞いた事はありますけど、だいたい英語じゃないんですか?」

 

「ふむ。雪ノ下と比企谷の認識で概ね間違っていない。だが、私が提案したいのは大学受験向けの授業を配信しているサービスの事なのだよ。具体的には、R社のお勉強サプリというものを知っているかね?」

 

 平塚先生が意外な話を持ち出した事で、再び生徒達は真面目な顔に戻っていた。とはいえ、質問に答えた雪ノ下も八幡もそのサービスを利用した事がなかったので、教師の説明待ちという姿勢である。そんな生徒達を見て、教師としては思う所がある様子で、彼女は少し愚痴っぽい事を口にし始めた。

 

「実際には我々教師陣も参考にしているのだから、もっと積極的に生徒に紹介すべきなんだがな。進学校ゆえに自前で授業を行う事に拘ったり、生徒に勧めるのは大手予備校のみという現状は申し訳ない限りだ……が、反省は別の機会にして説明をするぞ」

 

「ええ、お願いします」

 

「お勉強サプリのメリットは、大手予備校出身の講師など質の良い授業が揃っている事、そして利用料が月額980円という事だ。未確認だが、この世界のみで使う設定にすればもっと安価で済む可能性もある。デメリットは受ける授業を自分で選ぶ必要がある事だな。それと、質問をしたり添削を受ける事もできない」

 

「成る程。ならば生徒の相談に親身になってくれる教師が居れば、デメリットは概ね解消できますね」

 

 最近はよく観察される素敵な笑顔で、そう言い放つ雪ノ下であった。さすがの平塚先生も、こう返すのが精一杯である。

 

「……君は本当に、教師を使うのが上手くなって来たな」

 

「日頃のご指導の賜物です。では、今度の模試と中間考査の結果を見て、各々に合った授業を選んで試してみる事にしましょうか」

 

 すっかり会話の主導権を奪ってしまった雪ノ下であった。とはいえ彼女にはまだ何か懸念が残っている様子で、少しだけ言い淀んだ後に口を開く。

 

「……ただ、センター試験は私達も受けられる事になりましたが、各大学の二次試験は見通しが立っていません。実質的には飛び級になるわけですが、それへの対応は不透明です。高認も、この世界でだけ特例で2月にも行われる予定だそうですが……その後の進路も考え合わせると、あちらの世界に戻ったものの途方に暮れる事になりかねません」

 

 できるならば川崎には聞かせたくない話である。しかし、厳しい状況だからこそ話さないわけにもいかない。先程とは一転して暗い表情で語る雪ノ下だったが、そんな彼女の発言の意図を理解して、何かを決意した少年が姉に向けてゆっくりと口を開く。

 

「……姉ちゃんは、この世界で2年しっかり勉強してさ、行きたい大学に行けば良いんじゃないかな。急いで1年で帰る事に拘らないで。……ここにいる皆さんと一緒に過ごせるなら、その方が良いかもって俺は思う」

 

「大志……でも、あたしが帰らないと妹や弟が……」

 

「それは俺が何とかするよ。ずっと姉ちゃんに世話を掛け通しだったし、俺は1年で戻れるわけだしさ。……まあ、高校に落ちないように気を付けないとダメなんだけどさ」

 

「でも……」

 

「いいから。姉ちゃんは俺が落ちないように、塾で英語の授業を頑張ってくれよ。あの先生の授業、マジで睡眠薬みたいだからさ」

 

 姉弟の会話に、誰も口を挟む者はいない。川崎が1年で帰る必要が無くなれば、当面はバイトをする意味もなくなるのだが、それを指摘するのは無粋というものだろう。それに姉の意地として、全てを弟の言う通りにするというのも癪なものである。だから川崎は弟に告げる。

 

「あんたの言いたい事は解ったよ。さっき雪ノ下が言ってたように、受験とかどんな形になるのか分からない部分もあるし、もしあたしが1年で帰れなかった場合はあんたに任せるね。でも……あたしは1年で帰る事を諦めないよ。とにかく勉強とバイトと、やれる事はやるつもりだから」

 

 友人を得て大きく視野が開けた川崎は、家族の為に行動するという一見したところ褒められるべき、しかし他方から見ると自分では何も選択していない状況から、抜け出す事になる。この世界でも家族の愛情に恵まれ、そしてこの世界で初めて親しい仲間を得た彼女は、今までとは全く違った日々を過ごす事になるのだろう。

 

 そうした彼女の変化によって、今までは知られていなかった彼女の長所に気付く者も出て来るだろう。そうした外部からの刺激によって、この場にいる者達との関係も変化があるに違いない。もしかしたら彼女にだって、ラブコメのような事が起きるかもしれない。

 

 つまるところ、彼女の青春ラブコメはこの世界ではじまるのである。

 

 

***

 

 

 話がまとまって、一行は撤収の支度に入る。既に遅い時間帯なので、由比ヶ浜は雪ノ下の家に泊まる事になった。川崎姉弟は本音で語り合った直後だけにお互い気恥ずかしそうにしているが、2人で仲良く家に帰るのだろう。そして、戸塚が八幡に語り掛ける。

 

「八幡、今日はこの服を貸してくれてありがとね。洗って返すとかはできないけど、明日また学校で渡すから」

 

「……え。あの、戸塚?家で一緒に着替えねーの?」

 

「うん。ぼく、これでも結構、空気が読めるんだよ?八幡は小町ちゃんと一緒に帰ってあげてね」

 

 八幡だけに聞こえる音量で、戸塚は少し冗談めかした口調でそう言った。戸塚の意図を完璧に理解できたわけではないが、八幡とても川崎姉弟のやり取りを見て妹の事を構ってやりたい心境になっていたので、ありがたく申し出を受ける事にする。

 

「ん、了解。でも戸塚は1人で帰る事になるけど大丈夫か?」

 

「ならば私の出番だな。戸塚は私の車で送り届けてやろう」

 

 生徒達の色々なやり取りを間近で見て、興奮したり涙腺が緩んだりで、このまま独りで帰りたくない大人の女性がそこに居た。そうした恩師の意図は簡単に見て取れたが、八幡はあえて追求する事なく口を開く。戸塚と過ごせたはずの時間を惜しみながら、しかし同時に翌日の再会を楽しみにして。

 

「じゃあ先生、お願いします。戸塚も先生が暴走しないようしっかり見張っとけよ」

 

 

 こうして平塚先生と戸塚は帰って行った。川崎姉弟も彼らの方へ軽く頭を下げてから帰路に就く。後に残ったのは奉仕部の3名と小町である。

 

「明日からは、今まで以上に勉強を頑張らないといけないわね」

 

「友達のサキサキの為だもんね、ゆきのん」

 

 そんな彼女らのやり取りを、八幡は当事者のような傍観者のような奇妙な立ち位置で眺める。この2人とこんな距離感で過ごせるとは、改めて考えると不思議な事である。すっかり慣れたようでいて、いつまで経っても慣れない気持ちも残っているが、いずれにせよ八幡の顔には微かに笑顔が浮かんでいた。

 

 小町はそんな兄の様子をすぐ傍で眺めていた。入学前から危惧していたが、入学式の直前に事故に遭った事で、兄は高校でもぼっちで過ごすのだろうと小町は覚悟していた。しかし何の因果か、この世界に巻き込まれてからの兄は、面白い縁を次々と結んでいる。中でもこの2人との縁は、事故の関係者だというのに不思議なものだ。

 

 兄の為にも自分が頑張らなければと、そう気合いを入れ直して、小町はこっそりと兄の服を握りしめるのであった。

 

「比企谷くんも、今日のところはお疲れ様。小町さんと一緒に気を付けて帰ってね」

 

「ヒッキー、お疲れー。小町ちゃん、テスト終わったら打ち上げやろうね!」

 

 そう言い残して部活の仲間2人も帰って行った。総勢8人だったのが一気に2人に減って、夜の空気が兄妹にも帰宅を促す。お互いに言葉は無いがしっかり頷き合って、八幡と小町もまた帰宅の途に就くのであった。

 

 

***

 

 

 その公園は彼ら兄妹の帰宅途上にあった。2人にとっては子供の頃から馴染みの公園で、どちらからともなく寄って行こうという話になったのである。彼らとしても、このまま家に帰ってしまうには、この夜の体験は濃厚に過ぎたという事なのだろう。

 

 公園の入り口にあった自動販売機で飲物を買って、2人はベンチに並んで腰を下ろす。そのままぽつりぽつりと、今日の出来事を述べ合うのであった。

 

「……沙希さんは気っ風が良いって感じの格好良さだったけど、雪乃さんは触れたら斬るって感じの格好良さだったし、凄かったねー」

 

「まあ、正直どっちも正面からは相手したくないな。やはり俺の相手は戸塚に限る」

 

「また始まったよ……。てか結衣さんも普段は面白い感じだけど、いざという時には頼りになる感じだよね」

 

「お前な、面白い感じってそれ褒めてねーからな。でもま、やっぱり今日は川崎姉弟だろうな」

 

「うーん。なんだか羨ましいぐらいに仲が良かったよね。お兄ちゃんも、もう少し妹をいたわるとかできないかなー?」

 

 本心からの発言ではない事が見え見えの小町の発言であった。

 

 普段であれば八幡も小町の要求をそのまま容れて、小町を褒めるなり愛情の気持ちを伝えるなり、いつものやり取りをしていたのだろう。しかし、小町の為にもう少し時間を割いて、家族として一緒に過ごす時間を長くすべきかと悩んでいた八幡は、兄妹のいつもの応酬に上手く乗る事ができなかった。

 

「あー……そうだな。前向きに善処するわ」

 

「え?……いや、あの、別にそこまで真面目に返さなくても……」

 

 兄妹の会話が少しずつずれ始める。お互いを大切に思うが故に。そしてお互いに、こちらの事よりも我が身を大切にして欲しいと思っているが故に。

 

 

「時々な、お前が寂しそうな顔をしてる事には気付いてたんだわ。でも正直、どう言葉を掛けたら良いのか、ぼっちの俺には分からなくてな。川崎たちを見てて、せめてもう少し小町と一緒に過ごす時間を増やさないとな、とか考えたりして。まあ、俺なんかと過ごしても、小町は楽しくないかも……」

 

「そんな事ない!それに、さっき結衣さんが言ってたじゃん。『俺なんか』とか言っちゃダメだって」

 

「ああ……そういや戸塚も言ってたな。んじゃ、なんだ。俺と一緒に居ろ!とか?」

 

「お兄ちゃんにオラオラは似合わないかなー。というか小町的には、お兄ちゃんがそんな事を考えてくれてるってだけで、充分に嬉しいのです。だからお兄ちゃんは、結衣さんや雪乃さんたちと仲良く過ごして……」

 

 気丈に振る舞う少女の頬に、静かに一筋の線が下りる。それは一度では終わらず、頬を伝うものに気付いてしまった彼女は、流れるものを止める事ができない。自分でも理由が解らないまま、小町は静かに涙を垂れ流していた。

 

「あれ?なんで小町……」

 

 そう呟く妹の姿を見て、何を考えるよりも先に八幡の手が動いた。小町の肩に手を回して自分の胸へと引き寄せ、そこに妹の顔を押し付ける。肩に回した手はそのままに、もう片方の手は優しく妹の後頭部を撫でる。

 

 そして小町は、その体勢で号泣した。

 

 

 涙が涸れ果てるという事は、もしかしたら無いのかもしれない。ひとたび溢れてしまった涙はいっこうに尽きる気配がなく、しかしさすがに頃合いだと冷静さが戻って来た頭で考えて、小町は意志の力で涙を止める事にする。同時に、泣き止む力を貸して貰おうと、抱き付いたままの兄に向かって話し掛ける。

 

「小町ね。お兄ちゃんが事故に遭ったって聞いた時……じゃないや。お兄ちゃんが助かるって、後遺症とかも残らないって聞いた時かな。本当は大声で泣き叫びたかったの」

 

「……そっか」

 

「お兄ちゃんが目を覚ました時にも、思いっ切り殴ったりしながら、やっぱり泣きたかったの」

 

「……そうだよな」

 

「なんでそんな馬鹿な事をしたんだ、って。小町がどんな気持ちになるのか解ってるのか、って」

 

 八幡は静かに妹の頭を撫で続ける。しっかり聴いていると伝える為に。小町が言う事を全て受け止めるという意志を示す為に。

 

「でも、小町はお兄ちゃんの妹だから。お兄ちゃんがそんな事をやっちゃう人だって知ってるから。だから、お兄ちゃんを責めたくはなかったの」

 

 夜の公園に、少女の呟きが静かに拡散されては消える。

 

「だけど、まだお兄ちゃんが助かるか判んなかった時に、もしお兄ちゃんが、じんじゃっだらってがんがえだら……」

 

 八幡は妹の小さな身体を、力の限りに抱きしめる。その両手を通して、妹に何を伝えたいのかも解らないままに。辛い思いをさせた事への謝罪ではない。自分の事をこれほどまでに思ってくれている事への御礼でもない。泣き叫ぶ妹を元気付ける為でもなければ、己の無力を伝える為でもない。ただ言葉にはできない、したいとは思わない何かを伝えたくて。

 

 

 ひとしきり泣き終えて、小町は独白を続ける。

 

「どうしてお兄ちゃんが、こんな事をしないといけないんだって考えちゃうとね。小町の中に嫌な気持ちが広がって来るの。お兄ちゃんは悪くないって。他に悪い人がいるんだって。……小町、そんな事を考えたくないのに!あの事故は、結衣さんや雪乃さんが悪いんだって、そんな事は絶対に考えたくないのに!」

 

 涙を流している様子こそないものの、身を強く震わせている妹をしっかり抱き留めて、八幡は思う。自分の軽はずみな行動で、妹をここまで深く傷付けていた事を。事故の瞬間に「どうせ俺が死んでも」などと考えていた事を。それらは何と罪深い行いだったのかと。

 

 だが、終わった事は終わった事である。今から何を覆せるわけでもない。そして彼の両手の中には、泣き疲れてぐったりしている妹がいる。彼にとってはかけがえのない、たった1人しかいない妹が。

 

 だから八幡は口を開く。何を言えば良いのかさっぱり分からないが、だからこそ思う事をそのまま伝えるのが一番だろうと、そう考えて。

 

「小町な、変な事は考えるな。あの事故はどう考えても俺が悪い。もし事故の事を思い出して、嫌な気持ちになりそうだったら、そん時は俺の事を怒ってくれたら良いからさ。呼び出してくれたら、すぐに飛んで行くから。好きなだけ罵って、叩いたりとかもして良いから」

 

 八幡としてはこの上なく真剣に話したつもりだが、妹の反応は芳しくない。先程と違った事といえば、彼の背中を撫でるようになった事ぐらい……。と、そこまで考えて八幡は気付く。小町が彼の背中を叩いているのだという事を。

 

 泣き疲れて力が入らないのか、それとも投げやりな気持ちで叩いているのか判らないが、そうした動作を行うようになった妹からは、先程と違って落ち着いたような雰囲気が感じられた。もう少しこうしていれば、いつもの調子に戻るだろう。八幡はそう考えて、妹の頭を撫でながら、その時を待つのであった。

 

 

 ずっと胸の内に秘めていた事を思いがけずぶちまけた公園から、小町は兄と並んで一緒に去って行く。久しぶりに兄妹で手を繋いで、ゆっくりと歩みを合わせながら。

 

 あの時の事故から、彼女の中では幾つかの事が止まったままだった。それは彼女の行動に影響を及ぼして、必要以上に明るく振る舞ったり、時には独りで寂しさを抱える事もあった。だが、そうした事柄は、兄に思いの丈を打ち明けた事で全てが解消したのである。不思議なものだが、治る時は全てが一気に治るという事なのかもしれない。

 

 彼女もまた、この夜を経て少しずつ変わっていくのだろう。兄の友人達との関係も、そして自身の友人達との関係も。もともと交友関係の広い彼女だけに、その変化は川崎よりも大きいかもしれない。しかし、何が変わろうとも彼女は八幡の妹であり、2人の関係は大きな部分では何も変わらない。たとえ彼女がラブコメ展開に巻き込まれたとしても。

 

 ともあれ、彼女の青春ラブコメもまたこの世界ではじまるのであった。

 

 

 夜でも明るい大通りに沿って、兄妹2人はゆっくりと家路を辿る。いつもと少し違った部分はあったものの、いつも通りに仲の良い兄妹の姿が、街灯の照らす道路脇にて観察されたのであった。

 

 

 

 原作2巻、了。

 




原作2巻の本筋はここで終了です。詳しい話はこの章の最終話にて。

実在の組織や団体、サービスなどの名称は、微妙に変化させています。以前は「サイ○」などと表記していましたが、この辺りはどう表現すべきか結論が出ず難しいですね。

原作2巻からお読み頂いた方々には、八幡が過去に小町と同じ塾に通っていた事や、この世界で八幡と再会するまでの小町の心情などをご存じなく、本話の幾つかの場面に唐突な印象を持たれたかもしれません。もしよろしければ、幕間1話幕間2話もご覧頂けると嬉しいです。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
誤字を1つ修正しました。(10/31)
細かな表現を修正しました。(11/15)


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ぼーなすとらっく! 「打ち上げに行こう!」

今回はテストの打ち上げを行うだけの気楽なお話です。



 週末の金曜日、総武高校では中間試験が無事終了して、放課後の生徒達はいずれも開放感に溢れる表情を浮かべていた。担任が注意を促す声も殆どは聞き流されている。この状況では何を言っても無駄だと諦めた教師が、最後に「騒ぎすぎて問題を起こさぬように」とだけ念を押して、教室は一気に興奮の坩堝と化した。

 

「あーしは久しぶりに身体を動かしてくるし」

 

 クラス内に止まらず最近では学年でもトップ・カーストの座を不動のものにしている3人娘も例外ではなく、今からどう過ごすのかを楽しく相談している。

 

「あ、そっか。今日は隼人くんたち、部活だって言ってたもんね」

 

「遊ぶのは明日改めてって話だし、今日は結衣も好きなように過ごしたら良いんじゃない?」

 

 三浦優美子がグループを離れた行動に出る理由を即座に察知して、由比ヶ浜結衣はごく自然な口調で納得の声を出す。それに対して何かを言い返そうとする三浦だったが、タイミング良く海老名姫菜が話を続けたので、反論は宙に浮いたままである。女王の割にぞんざいな扱いを受けている三浦であった。

 

「姫菜は今日はどうするの?」

 

「私も今日は久しぶりに手を動かそうかな。物書きの気分じゃないし、イラストとか」

 

「やっぱり、絵が上手いって羨ましいなー」

 

 問題は、普通の絵を描いてくれない事である。が、彼女のアイデンティティに関わる事なので仕方がないのだろう。アブノーマルな題材だからといって忌避されるいわれはないが、しかし明けっ広げが過ぎるのは恥ずかしいから困る。そんな理由により少しだけ照れながらも、素直に称賛を口にする由比ヶ浜であった。

 

「テスト明けでいきなり依頼はないだろうし、結衣も奉仕部でゆっくりして来なね」

 

 親友の褒め言葉には笑顔だけで返して、海老名が話をまとめに入る。そのまま視線だけを三浦に送ると、彼女も心得たもので、立ち上がりながら口を開く。

 

「じゃ、打ち上げは明日だけど、今日はそれぞれで楽しんで来るし」

 

「うん。みんな、テストお疲れー」

 

「また明日ね」

 

 三浦の発言に由比ヶ浜が応え海老名が締めくくる。そして彼女らは笑顔で、別々の場所へと向かうのであった。

 

 

***

 

 

「……メイドカフェ?」

 

 奉仕部の部室で部員たちのために紅茶を淹れて、雪ノ下雪乃はいつもの席に着いた。各々が紅茶を口に含んで一服して、さて今日はどのように過ごそうかと考え始めた矢先に、由比ヶ浜が今日これからの過ごし方を提案してきたのである。

 

「うん。サキサキの依頼の時に、エンジェルって名前のお店がもう1つあったよね。そこでみんなで打ち上げしない?」

 

「たしか、メイドカフェ・えんじぇるている……だったわね」

 

「すげーな、お前。店の名前とか完全に忘れてたぞ……」

 

 由比ヶ浜の提案を聞いて、あの時に話に出た店の事だろうと見当を付けて、比企谷八幡はそれを確認しようとメッセージアプリを立ち上げかけていた。本来ならば彼の勤勉さは褒められてしかるべきなのだが、記憶力の良い相手というのはこれだから困ったものである。

 

「私が調べてメッセージで伝達したから、覚えているだけよ」

 

 テスト明けで彼女も気持ちが大らかになっているのか、寛大な言葉を下賜される部長様であった。もっとも、八幡へのフォローというよりは、提案しておきながら店の名前とか完璧に忘れてたと焦った表情を浮かべている由比ヶ浜に気を遣っただけなのだろうが。

 

 雪ノ下から届いた発言と笑顔によって、たちまち表情を明るくする由比ヶ浜に、八幡は見ている方が恥ずかしいと苦笑いを浮かべながらも当然の疑問を口にする。

 

「……ちなみに、この3人で行くのか?」

 

「サキサキとか、小町ちゃん大志くんも一緒に行けたらなーって思ってるんだけど……」

 

「それならば、一応は先生にもお誘いを掛けておいた方が、後から面倒がなくて良いわね」

 

「おい。面倒とか言ったら絶対に拗ねるから、面と向かっては言うなよ」

 

 教師や大人の威厳って何だろうなと、哲学的な事を考えてしまう八幡であった。

 

 とはいえ、生徒にとってテスト終了とは解放される事を意味するが、教師にとっては拘束される事を意味する。いつまで経っても終わらない採点という作業に駆り出させるせいで、とても打ち上げには参加できないだろうと考える2人としては、掛ける言葉に気を遣うのも当然だろう。

 

「川崎さんが塾の面接に行くのは週末だったかしら?」

 

「うん。だから今日ならみんな大丈夫かなって思ったんだけど……」

 

「まあ、あれだ。とりあえず誘ってみりゃ良いんじゃね?無理なら無理で中止にできるから話が早いだろ」

 

「むっ。ヒッキー、打ち上げしたくないの?」

 

 したいとかしたくない以前に、誰かとテストの打ち上げをする事に慣れていないので、未知の事はできる限り回避しようと動いているだけの八幡である。それゆえに押されると弱いし、抵抗できない相手には無条件降伏しか手は無いのである。そして、そんな彼の傾向を既に把握している女子生徒が、得意げな笑顔でこう述べるのであった。

 

「小町さんにメッセージを送ってみたのだけれど、『愚兄も必ず参加させますので』という返事が即座に返って来たわよ?」

 

「え?……あ、本当だ。あたし宛てにも届いてる。大志くんも大丈夫だって」

 

「ならば川崎さんも大丈夫でしょうね。弟さんだけを参加させるなんて落ち着かない事を、彼女が選択するはずがないもの」

 

 既に川崎の行動パターンも把握している雪ノ下であった。すっかり内堀まで埋められてしまった八幡だが、せめてもの抵抗を見せる。どうせ行く事になるのであれば、一緒に行きたい奴と行ってやると決意を秘めて。

 

「おい。そのメンバー構成だと大事な奴を忘れてるだろ?」

 

「あー。さいちゃんは今日はテニスだって」

 

「ば……かな……」

 

 思わず机に突っ伏して頭を抱える八幡であった。だが由比ヶ浜の攻撃はここで終わらない。

 

「あ、でも……。今日は軽めに流すから、後で合流するって言ってたよ。お店の場所を教えてねって言ってた」

 

 こうして、気付けば八幡は八方塞がりの状況に陥ってしまい、もはや参加以外の選択肢は存在しない。意外に策士な面を見せる、今日は一味違う由比ヶ浜であった。彼女がテスト勉強にも同じぐらい頭を使ったのかは、現時点では触れない方が賢明であろう。

 

 

***

 

 

 目的のお店の前に、中高生6人が勢揃いしていた。川崎沙希もまた八幡と同様に、友達とテストの打ち上げをするのはこれが初めての経験である。普段と同じように、つまらなさそうな表情を浮かべようと努力しているが、彼女が緊張しているのは誰の目にも明らかであった。

 

 そんな姉を尻目に、川崎大志は少し肩身の狭い思いをしていた。男女比の問題に加え、ここにいる女性陣はいずれも見目麗しい存在ばかりである。だが、どれほど美貌の女性が彼の目の前に現れようとも、あの少女の存在には及ばない。彼はそう考えて、気を取り直そうと試みる。兄に向かって楽しげに話し掛ける比企谷小町にこっそり視線を送りながら、その目の動きは誰にもバレていないと思っている大志であった。

 

「じゃあ、そろそろ行きますか!」

 

「だね。小町ちゃんはメイドカフェって入った事ある?」

 

 小町が元気な掛け声を挙げて、由比ヶ浜がそれに応じる。雑談をしながらお店に向かって歩き始める2人の後に、雪ノ下と川崎、そして八幡と大志が続いた。こうして彼らの打ち上げが始まったのである。

 

 

「お帰りなさいませ、お嬢様。……お帰りなさいませ、ご主人様」

 

 先頭の少女らに声を掛けるメイド姿の店員さんを見て、八幡は挙動不審に陥りかけていたが、相手はさすがにプロである。彼の醜態など無かったかのように、平然と挨拶をして来るメイドさんに何とか頷き返しながら、彼らは店の奥へと導かれて行った。

 

 お店の突き当たりのスペースには正方形のテーブルが備え付けられていて、各辺に2人ずつ最大8人が卓を囲める大きさである。当然のように奥の上座に雪ノ下が座り、その右横には由比ヶ浜が席を確保する。正方形の頂点を挟んで由比ヶ浜の右横には小町が座り、彼女と反対側、雪ノ下の左隣には川崎が腰を下ろした。しばし顔を見合わせた後で、大志と八幡はそれぞれ姉妹の横に腰を落ち着かせるのであった。

 

 

 注文したドリンクには、メイドさんによって魔法のコトバが掛けられる。一座の力関係を見抜く事などメイドさんには容易いもので、最初に選ばれたのはもちろん雪ノ下のドリンクであった。

 

「……なるほど」

 

 こうした知識を何も知らない者から、八幡のように話だけは知っていた者まで、全員が揃ったように同じ呟きを口にする。だが個々のニュアンスは異なるもので、雪ノ下は事象の観察を終えて納得したという表情であり、小町や由比ヶ浜は楽しげな口調である。川崎は少し呆れた様子で、そして八幡と大志は「これが、あの!」という興奮混じりの反応であった。彼らが女性陣から冷たい視線を送られたのは言うまでもない。

 

 メイドさんと一緒にノリノリで魔法を唱える小町と由比ヶ浜。彼女らに強制されて、やむなく声を合わせる八幡や大志。いずれにせよテーブルではそのたびに笑い声が出て、普段は仏頂面の川崎ですら弟の魔法には思わず吹き出していた。打ち上げのスタートとしてはこれ以上ない雰囲気だったと言えるだろう。

 

 場の話題は主に由比ヶ浜と小町が提供したが、彼女らは参加者にまんべんなく話を振るのも上手だった。特に、八幡の残念な返答に慣れている小町は、上手く話を繋げたり時に兄をたしなめながら場を盛り上げていた。そして楽しい時間は過ぎてしまうとあっという間である。遂に、八幡が待ち侘びた人物が来店したのである。

 

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 

 メイドさんに挨拶をされて、しかし戸塚彩加はこうしたお店に入った事がなかったので、どうしたら良いのか分からず固まっている。部活の後に急いで来たらしく、戸塚は中性的な色合いのテニスウェア姿である。何とか勇気を振り絞って戸塚が口を開こうとしたところで、それに先んじるかのようにメイドさんがプロの技を披露した。

 

「お嬢様が、お嬢様がお戻りになられました!」

 

 戸塚は独りで来店したのではなく、集団に遅れてやって来たのだと見抜いたメイドさんは、大声で店の奥へと呼び掛ける。その声によって戸塚を認めた八幡と由比ヶ浜が入り口の近くまで迎えに来て、彼らは首尾良く再会を果たした。メイドさんの機転の素晴らしさを褒めるべきか、それともプロの技を見せるメイドさんですら見抜けない戸塚の性別を考え直すべきか、まさに難問と言えるだろう。

 

 

***

 

 

「お店の前にね、『メイド体験できます』って張り紙があったけど……。みんな、もう済ませちゃった?」

 

 しばしの歓談を経て、ふと話題が途切れた時に、戸塚は気になっていた事を尋ねてみた。遅刻した身としては仕方のない事とはいえ、自分だけ仲間外れになるのは少し寂しいなと思いながら。

 

「いえ……。その張り紙は見逃していたわね。他に気付いた人はいるかしら?」

 

 戸塚の提案に対して意外そうな顔をした雪ノ下が、その表情の理由を説明しながら周囲にも問い掛ける。だが、誰もが首を横に振るのみである。もしかして見間違えたのかと自信なさげな表情を浮かべる戸塚を見て、隣席の八幡が口を開いた。

 

「もしかすると、あれだ。時間によってサービスの違いとかあるのかもな」

 

「うん、そうかもね。バーでも夜10時以降だと店内の雰囲気が変わるって言ってたし」

 

 川崎が八幡に同意するのを見て、雪ノ下は納得の表情で頷いて、テーブルに置かれたベルを鳴らした。即座にメイドさんが招集に応じる。

 

「御用でしょうか、お嬢様」

 

「ええ。メイド体験について、詳しい話を聞かせなさい」

 

 不自然な部分を全く感じさせない口調でメイドさんに命じる雪ノ下から、お嬢様の威厳を感じてしまう面々であった。メイド姿に着替えて男性に奉仕するという説明に眉を顰める雪ノ下だったが、すぐ横から意外な反論が上がる。

 

「ゆきのん。あたし達は奉仕部なんだし、やるしかないじゃん!」

 

 由比ヶ浜がこう言い出してしまえば、雪ノ下が陥落するのは既定路線である。こうした展開を理解し始めた川崎が早々に白旗を揚げた事もあり、こうして5人は従業員の控え室へと連れて行かれるのであった。

 

 

 せっかくなので飲物のお代わりを頼んで、彼女らが順番に持って来てくれる事になった。メイドさんがメイドさんの姿でメイドさんのサービスをしてくれる時点で八幡としてはいっぱいいっぱいなのだが、それが知り合いの女性ともなれば緊張は更に倍である。空になったグラスを何度も持ち上げて、大志とともに手持ち無沙汰を慰める八幡の許に、可愛らしいメイドさんが姿を現した。

 

「ヒッ……旦那様、お飲み物をお持ちしました」

 

 思わずいつものように呼び掛けそうになったものの何とか飲み込んで、無事に一仕事を終えた由比ヶ浜は得意げな表情で八幡を見る。胸を張るようなポーズをされると困るのだがと、八幡はその部分はもちろん由比ヶ浜の顔も恥ずかしくて見る事ができず、明後日の方向を見ながらツッコミを入れるのみである。

 

「お前な……。旦那様じゃなくてご主人様だろが」

 

「え、旦那って……あっ!」

 

 八幡の自爆によって2人して顔を赤らめる、仲の良い主従であった。

 

 

 次に現れたのは長身のメイドさんである。遠目からは格好良く見えるものの、近付いてみると少し面倒臭そうな表情を浮かべているのが観察できる。だが気怠げな彼女の雰囲気は逆に現実感を醸し出していて、まるで自分が本当にお屋敷にいるかのような気持ちになって来る。

 

「あんたの飲物だよ。MAXコーヒーは諦めな」

 

 教えられた台詞を口にするつもりが欠片もない川崎であった。そしてメイドカフェに来てまでMAXコーヒーを注文するとは、八幡の拘りも大したものである。たぶん誰も彼を褒めはしないだろうが。

 

「ん、ありがとな」

 

 苦笑しながらそう返事をして、2人のやり取りはあっさりと終了するのであった。

 

 

 3人目のメイドさんは今までで一番の年下である。可愛らしさと元気な様子を周囲に振りまくメイドさんは、大志の前に飲物を置いて、ゆっくりと台詞を口にした。

 

「ご主人様、お飲み物でございます」

 

 口調といい台詞といい定型から微塵も逸れないその発言からは、個人的な感情など一片たりとも感じ取れない。完璧にお仕事の上での発言だと、聞く者に些少の期待すら抱かせない小町であった。この夜に大志が枕を涙でぬらしたか否かは、深くは触れないのが武士の情けであろう。

 

 

 4人目のメイドさんは女の子としての可愛らしさが際立っていた。由比ヶ浜の明るい可愛らしさや、小町の元気な可愛らしさと違って、そのメイドさんは儚げな可愛らしさを誇っている。ゆっくりと近付いてくる姿を見て、思わず八幡は唾を飲み込む。そして彼は、ゆっくりと口を開くのであった。

 

「ご主人様、お飲み物です」

 

 不満げな口調で戸塚はそう述べるのだが、あまりに似合いすぎるメイド姿の彼を見て八幡は放心状態に近い。彼の姿をカメラに残す事を思い付かないほど、八幡は天使の降臨を前にして我を忘れていた。そんな彼に向けて戸塚が話を続ける。

 

「八幡、ぼくが連れられて行く時に助けてくれなかった。ぼく、怒ってるんだからね」

 

「あ、いや待て戸塚。その、展開が急だったってか、ビックリしてるうちに連れて行かれちまったというか。……あれだ、その、男同士の冗談みたいなもんかと思って」

 

「そ、そっか。男同士だったら、こんな冗談も……あるよね」

 

「そ、そうそう。戸塚は男だからな。冗談だって、冗談」

 

 このようにして、何とか誤魔化す事に成功した八幡であった。

 

 

 最後に現れたメイドさんは、彼女こそが屋敷の全権を握っているのだと一目で判るほどの存在感を放っていた。たとえ主人であろうとも彼女には逆らえない。美しくも凛々しいそのメイドさんは、長年に亘って培って来たかのような文句のつけ様のない立ち居振る舞いで、八幡の許へとやって来た。

 

「ご主人様、こちらをお飲み下さい」

 

 主人の希望など受け入れる気配もなく、自分が差し出した飲物こそが最上であり唯一の正解であると言いたげな態度の雪ノ下。そんなメイドとしての範を示す彼女の姿を見て、店内のプロのメイドさんが涙を流して感動しているのはきっと気のせいだと、そう思い込みたい八幡であった。

 

「うむ。……下がって良い」

 

 かつて身に宿した病を思い出しながら何とか返事をして、こうして彼女たちのメイド体験は終わった。

 

 

 店内では他にも色々な事があったが、そのいずれもが彼らにとっては楽しい思い出となった。そのまま夕食まで頂いて、ご主人様もお嬢様もメイドさんも天使もしっぽり仲良く時を過ごして、こうして彼らの打ち上げは無事に終了したのであった。

 

 

「ではお嬢様、ご主人様、行ってらっしゃいませ」

 




活動報告にも書きましたが、急なPCの不調で昨日はその復旧に追われてしまい、更新が遅れました。結局これで3話連続の遅延となり、本当に申し訳ありません。

昨日のPCトラブルで半日以上も何もできなかった影響で、作品を書く為の時間がしばらく確保できません。次回更新は未定とさせて頂きますが、何とか1週間ほどで書き切れればと思っています。確約はできませんが、目安としてお伝えしておきます。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)


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幕間:またしても彼は元来た道へ引き返す。

職場見学に行く回です。
長いし重いので、時間がある時に読んで頂ければと思います。



 週明けの月曜日は、他学年の生徒達にとってはテストの返却と解説が行われる憂鬱な日なのだが、2年生だけは審判の日が火曜日である。その代わりに、この日の彼らには職場見学というイベントが待ち受けていた。

 

 いつもの時間にクラスに集合して朝のSHRを済ませた後で、事前に決めたグループに別れて各々の希望した場所へと移動する。職場見学は昼をまたいで行われるが、終了時間が見学先によってまちまちなので、現地で解散という手筈になっている。

 

 比企谷八幡は、彼にとっては無情かつ遺憾な結果ではあるのだが、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣という学年でも飛び抜けて人気の高い2人の女子生徒と一緒に、この世界を運営する者達が働いている職場へと向かう予定になっていた。

 

 

「別に俺は、招待して欲しくなかったんだが……」

 

 朝のざわついた教室内で、彼はため息と一緒に小声で愚痴をこぼす。彼が眺めている「貴殿を私たちの職場に招待いたします」と書かれた正式な招待状は、学年でもたった3人の生徒にしか送られていない。そもそも事前に見学を打診された生徒の数からして極めて少なく、彼と同じクラスの葉山隼人ですら運営からの連絡は無かったという話である。

 

 もちろん、放課後の時間をサッカー部に費やしている葉山と、依頼のない奉仕部でこの世界のマニュアル解読に勤しんでいる八幡とでは条件が違う。それは充分に解っているし勘違いなどしようはずもないのに、八幡は心のどこかから沸き上がってくる優越感を抑えられずにいた。だが、同時に彼は、同じだけの時間を費やしている筈なのに彼の遙か先を行く雪ノ下の事を思うと、劣等感をも抱かずにはいられなかった。思春期の男子生徒の内面は、なかなかに複雑なのである。

 

 

 彼を悩ませるもう1つの問題、すなわち雪ノ下と由比ヶ浜と一緒のグループで1日を過ごす事に関しては、既に諦めの境地に達していた。気が付けば2ヶ月にも亘る部活動を経て、彼女らと共に時間を過ごす事に対して身構える気持ちは失せつつある。

 

 気掛かりなのは、他の生徒からどう思われるかという点なのだが、クラス内で広まりつつあった変な噂も一掃できたし、大多数の生徒達の認識は従前と変わっているようには見えない。つまり八幡の立場は羨ましいが、八幡個人は取るに足らぬ存在として無視に近い扱いで、お陰で奉仕部の3人は周囲から害意を持たれる事なく部活動を行えていた。3人が同じグループで職場見学を行う事も多少は噂になったのかもしれないが、目に見えた影響は無かった。ならば八幡としても現状を甘受するしかないのである。

 

 再度ため息を吐いて、八幡は招待状の表示を切って机の上に突っ伏した。ちょうど担任が教室に入って来るのが見えたのだが、八幡はすぐには上半身を持ち上げて姿勢を正す気持ちになれず、クラス委員が号令を掛けるまでそのままの体勢で黄昏れていたのであった。

 

 

***

 

 

 生徒の大半が聞き流していたSHRが終わり、机に座ったまま待機している八幡の周囲でも、楽しそうに行き先や道中の事を話す声が響いている。

 

「じゃあ八幡、先に行くね」

 

 わざわざ彼の机にまで近付いて、戸塚彩加が声を掛けてくれた。「おう」と手短に返事を済ませた八幡は、戸塚がテニス部の友人達と一緒に教室から出て行くのを見送る。今日は良い一日になりそうだとたちまち機嫌を直す八幡に、今度は視線だけを送ってくる生徒がいた。教室のドアの前で振り返った川崎沙希からの無言の挨拶だったのだが、それに対しても八幡は、戸塚のお陰で軽く頷いて返す事ができた。そして、彼もまたいつでも教室を後にできるように、出掛ける支度を再確認するのであった。

 

 

 事前に打ち合わせていた通りに雪ノ下がF組の教室に現れて、彼女と入れ違いに三浦優美子と海老名姫菜がクラスから出て行った。由比ヶ浜から待ち合わせの事を聞いて、雪ノ下が来るのを待っていたのだろう。葉山グループの男子生徒達は、道中で飲む物などを仕入れる為に先に教室を出ていた。既に教室に残っている生徒は数えるほどしか居ない。

 

「では、私達も行きましょうか」

 

 由比ヶ浜と八幡を順に眺めた後で雪ノ下がそう宣言して、奉仕部の3人もまた見学先へと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 運営の仕事場は千葉駅の真上にあった。生徒達がこの世界で最初に過ごしていた個室と同様に、それは確かに駅の上空に存在していながらも、周囲の景観を損ねてはいない。外からは視覚的に捉える事ができないのに、内部からは見晴らしの良い景色が堪能できるその職場にて、3人は別々の部署で見学を行っていた。

 

 

 由比ヶ浜は、プレイヤーからの要望に対処する部署を見学した後で、経理に関する簡単なレクチャーを受ける事にした。担当の人が許可した要望だけを閲覧できたのだが、彼女が思っていた以上にプレイヤーからのコンタクトは頻繁で、かつ内容は多岐に渡っていた。我が儘で一方的な要望もあり、広く大多数に利がある提案もあり。それらは小学生の頃から対人関係で悩み、その結果としてコミュニケーション能力を磨き続ける事になった彼女にとって、とても興味深いものだった。

 

 再集合して3人で摂った昼食の後に行われた経理の話は、詳しい知識を持たず座学に弱い由比ヶ浜には少々厳しいものがあった。だがそんな彼女の様子を見た担当者が具体例を持ち出して、授業形式から実務への活かし方を紹介するという形に変更してくれたお陰で、彼女は今まで意識もしていなかった経理という分野を身近に感じられるようになった。貸借対照表から横領の可能性を見抜いた例などは、話を聞きながら興奮が収まらなかったほどである。

 

 

 八幡は運営が用意してくれたツールを使って、この世界の構築を手伝っていた。現在のこの世界には千葉と東京の2つの都県しか存在していないが、それを7月までには関東一円に、そして10月までには本州全てをカバーするという野心的な計画が立てられている。作業自体は楽しいがとにかく人手が足りないと担当者が説明してくれた通り、八幡が受け持った群馬県は開発の手が及んでおらず未開の地さながらの有様であった。

 

 担当者と協力してマインクラフトを行いながら、八幡はツールの構成やその意図に関する説明を受けていた。彼が普段行っていたマニュアル解読は既に中級者の域に達していて、この世界で実現可能な事を単に読み取るだけでなく、既存の設定に変更を加える事で新たな可能性を考察する段階に至っている。そうした八幡の状況を知らされているのか、担当者が話す内容は難しくはあるものの理解できる内容でもあり、そして彼のように独りで何かに没頭しがちな性格の高校生男子にとっては興味を惹かれて当然のものだった。昼食による中断を挟んだ後も彼が作業に熱中したのは、当然の成り行きであろう。

 

 

 雪ノ下のマニュアル解読は、最近では上級者の域にまで足を踏み入れようとしている。既存の設定に制限される事なく、実現したい事を思い付いた時に0から自分でプログラムが組めるように、彼女の最近は解読と言うよりはむしろプログラミングの教練とでも言うべき状況であった。運営はマニュアルを単なる説明書とはみなしておらず、読む者を教え導く役割を期待して設計しているのだろう。

 

 雪ノ下は、運営が過去に行った会議を編集した動画を見せられて、幾つかの場面で意見を求められた。動画を一時停止して彼女が意見を述べて、複数の担当者が彼女の発言を修正したり対案を提示したり技術的な補足をして、実際に会議に参加しているかのような体験をさせてくれたのである。

 

 もちろん素人の高校生の身に過ぎない以上、彼女が口にした内容には的外れなものも多かったが、運営にとって有益な助言もあった。特に、近々行われる予定のマイナー・アップデートに関する彼女の提案は即座に採用され、そしてそれは多くのプレイヤーから好意的な評価を得る事になる。提言が採用された雪ノ下の機嫌が今までにないほどに上々なので、昼食時に思わず頬を抓ってしまった八幡であった。

 

 

***

 

 

 三者三様の職場体験が終わり、合流を果たした奉仕部の面々は、最後に応接室へと導かれた。この世界を構築した張本人たるゲームマスター(GM)との面談が予定されていたからである。

 

 2人でも座れそうな大きさの1人掛けソファが、低く奥行きのあるテーブルを挟んで並んでいる。さすがに下座を選び、部屋の奥から雪ノ下、由比ヶ浜、八幡の順に腰を落ち着けて、3人は目当ての人物が部屋に来るのを待っていた。先程までの見学の興奮が冷めやらぬ一方で、未知の人物との対談を控えて緊張している面もある。彼らは落ち着かず部屋の中を見回したり、小声で他の2人にどうでも良い話を振ってみたり、静かに意識を集中したりして待ち時間を過ごしていた。

 

 

「すまない、待たせたね」

 

 特に申し訳ないとも思っていない口調で、その人物は部屋に入って来るなり口を開いた。年の頃は20代後半、いたって平凡な顔立ちで、しかしその目の鋭さからは数々の修羅場を潜って来た事が窺える。彼は3人と向かい合ったソファに腰を下ろすと、時間を無駄にする事なく話を始めた。

 

「さて、君達が我々の招待に応じてくれて感謝している。まずは礼を述べておこう」

 

「こちらこそ、素晴らしい場所に招待して頂き、得がたい体験の機会を与えられた事に感謝しています」

 

 GMの発言に対し、含みのある口調で応じる雪ノ下であった。彼女は「場所」という単語に、この職場だけでなくこの世界全体をも含めて皮肉っているのだろうが、それを承知してなお相手は涼しい顔である。軽く頷いた後で手元の資料を確認して、GMは口を開く。

 

「成る程。君が雪ノ下くんか。マニュアルを()()()()使いこなしてくれているみたいだね」

 

「そうですね。学業と両立する必要がありますので片手間ですが、()()()()使えるマニュアルだと思っています」

 

 会話が始まると同時に戦いがヒートアップしている現状に、川崎の時に続いてまたかよと、思わず現実逃避に走りたくなる八幡であった。だが当事者のGMは楽しそうな表情で、雪ノ下の発言を受け流す。

 

「その調子で存分に使い倒してくれる事を期待しているよ。そして……君が比企谷くんだね。雪ノ下くんには劣るものの、君の解読成果も相当なものだ。総武高校の他の学年や教師達を含めても、君達3人が達成した水準は飛び抜けている。誇って良い事だよ」

 

「あー、どうも」

 

 思っていた以上に話しやすい物腰のGMに向けて、普通に返事をしてしまった八幡であった。だがGMの先程の発言には引っ掛かる箇所がある。彼がその事についての疑問を口にしようとした瞬間、先んじるかのように雪ノ下が問いを発した。

 

「私達3人とは、由比ヶ浜さんも含めて、という事ですね?」

 

「その通りだが?……君が由比ヶ浜くんだね。君の許にも他の2人と同様に招待状が届いている筈だが、何か手違いでもあったのかな?」

 

「い、いえ。あたし宛てにも招待状はちゃんと来てましたけど……。その、ゆきのんとヒッキーと一緒だから許可されたのだと思ってて」

 

「成る程。確かに、招待状持ちが過半数であれば見学を許可するように言っておいたが、君はついでで呼んだわけじゃないよ。君達の高校で3人にだけ打診した、見学に来て欲しかった生徒のうちの1人だ」

 

 意外なGMの発言を受けて八幡と由比ヶ浜は驚いているが、雪ノ下は納得の表情である。由比ヶ浜は物事を論理的に理解する事は苦手だが、感覚的に把握する事に長けている。マニュアルに関して言えば、解読を進める2人に囲まれた奉仕部という環境が影響している事も確かだろうが、それも個人の能力なくして活かせる事ではない。

 

 以前にクッキーの依頼を振り返った時に、由比ヶ浜が誰よりも早くサブのスキルを発見していた事を雪ノ下は知った。それ以来、彼女の発想の柔軟さや鋭さに一目置いていた雪ノ下は、GMの発言にも動揺する事はない。的外れな思考も多い反面、誰よりも早く本質を見抜く事も少なくない。彼女は由比ヶ浜をそう評価していたのである。

 

 一方で八幡が驚いているのは、運営からの事前の打診が由比ヶ浜には届いていなかったからである。彼とて2ヶ月という期間を共に過ごして来て、由比ヶ浜の長所は何度も目の当たりにしている。正式な招待状に先駆けて見学の打診が来たと言われれば、少しは考えたかもしれないが最終的には素直に納得していただろう。

 

 だが残念な事に由比ヶ浜は由比ヶ浜であり、彼女がマニュアルを立ち上げた際に運営が何度もポップアップで通知をしていたのだが、よく読まずに全てを反射的に消去していた。それは既に彼女にとって、マニュアルを立ち上げた直後に行う定常作業と化しているのは、ここだけの話である。

 

「由比ヶ浜さん()奉仕部の歴とした一員なのだから、自信を持ってはどうかしら?」

 

 どうやら雪ノ下の中では、由比ヶ浜は奉仕部の一員であり、八幡は奉仕部の下僕もしくは備品という扱いになっている模様である。もう少し待遇を良くしてくれないとぐれるぞと、しかし思っただけで口には出せない八幡であった。

 

 

***

 

 

「さて。君達から何か質問があれば受け付けるが、何か聞きたい事は?」

 

 照れている少女と何やら不満げな少年、そして2人を苦笑混じりに眺める少女を順に見やって、GMは少しだけ時間を置いた後に会話を再開した。彼に問われて、3人の頭には「何故この世界に多くの人を閉じ込めるような事をしたのか」という根本的な疑問が思い浮かぶ。だが、今それを尋ねたところで、満足のいく回答は得られないだろう。雪ノ下はそう考えて、時間を無駄にせず別の疑問を口にする。

 

「マニュアルに関する疑問なのですが、この世界を構築する手助けができる程の人材をあなた方が欲していて、それを育成する為に用意したという側面があると思います。しかしマニュアルには高度なAIが使用されています。何故それを世界の構築に利用しないのでしょうか?」

 

「なかなか面白い質問だね。君の疑問に答える為には、現在のAIが持つ限界を語る必要がある。おそらく君は、世界を構築する場合でも、自動化が可能な部分はAIに任せた方が効率的だと考えているのだろうね」

 

 真剣な表情でゆっくり頷く雪ノ下の反応を確認して、GMは話を続ける。

 

「簡単に言えば理由は2つだ。1つは、AIには行為の意味や世界の美しさを理解できないから。そしてもう1つは、高度なAIは専門知識に長けた人材が扱ってこそ効果を発揮するから。詳しい話は続けて行うが、まずここまでは大丈夫かな?」

 

 早くも目が泳ぎ始めている由比ヶ浜を見て楽しそうな表情を浮かべながら、残り2人の反応を確認して彼は言葉を続ける。

 

「1つめだが、君達もAIを相手に受け答えをした経験があると思う。だがそれは数え切れないほど多くの会話パターンを覚えさせて、それらの選択肢の中から妥当なものを選んでいるだけで、応えた言葉の意味を理解しているわけではない。同様に、AIには美しいものを美しいと認識できない。美醜を区別できないんだ。乱暴な事を言えば、ある風景が多くの人にとって受けが良いからという理由でその風景を選んでしまうんだよ。それが、見る人にとっては強烈な違和感になってしまう」

 

「……美醜を区別できないとは、例えば一部の項目を移項しただけの数式を、元の数式と等価と捉えてしまうという事でしょうか?」

 

「成る程。雪ノ下くんの喩えになぞらえるなら、”a=2”と”a+1=3”とは等価だが、後者の数式を人が見たら計算途上だと判断して落ち着かないだろうね」

 

「けれどAIは違うと」

 

「これは簡単な例なので、最近のAIは普通に”a=2”を選んでくれるんだけどね。選ぶ理由に問題があるのはさっき言った通りだけど、そこも今流行りのディープラーニングで改善が期待されている。ただ……例えばだけど、君は『オイラーの贈物』を知ってる?」

 

「贈り物?……オイラーの等式の事でしょうか?ネイピア数e、虚数単位i、円周率πに対して、『eのiπ乗が-1』という等式ですね」

 

「正解。じゃあ同じ等式を『eのiπ乗に1を足すと0になる』と表現するのと、どっちが良いか考えた事はある?」

 

「いえ……。ただ、端的なのは私が最初に述べた方では?」

 

「そういう意見もあるね。でも、0という特別な数字も式の中に加えた後者の表現を好む人もいる。そして、こうした意見が割れる事柄をAIは苦手にしているんだ」

 

 由比ヶ浜はもちろんの事、数式が出て来た辺りで八幡も理解の努力を放棄したので、部屋の中では2人だけが会話を続けている。そんな状況にようやく気付いたのか、GMは少しだけ肩を動かして場の雰囲気を和らげてから話を続けた。

 

「それで2つめの理由だけど、君は囲碁や将棋でAIがプロ棋士に勝利したという話を知っているよね?」

 

「はい。でも、通り一遍のニュースで知っているだけですが……」

 

「それで構わないよ。じゃあ思考実験だ。もしもこの場に強さが同じぐらいのプロ棋士が2人とAIが居たとする。勝率を最大にするには、どんな組み合わせで対戦したら良いだろうか?」

 

「それは……プロ棋士とAIが組んで、もう1人のプロ棋士と対戦した場合だと思います。ただ、プロ棋士2人が組む場合と比べて明確に差が付くかは判りません」

 

「君の直感は概ね正しい。そしてそれが、我々が人材を欲している理由だよ」

 

「……成る程。正確には人材と、更に高度に発達したAIとを欲している理由ですね」

 

 冗談っぽく両手を挙げて、降参というジェスチャーをするGMだが、残念ながら雪ノ下は相手をやり込められたという感触を得られなかった。とはいえ大きな疑問を解消できてスッキリしたのも確かである。そんな彼女の表情を確認して、GMは他の2人を交互に眺めながら問い掛けるのであった。

 

 

***

 

 

「じゃあ比企谷くんは、他に疑問に思った事とかある?」

 

「そうですね……。さっき、それこそ世界の構築を手伝って来たんですけど。その、今のペースで来月末までに関東全部とか、10月には本州全てとか、間に合うんですか?」

 

「関東までなら何とかなるかもしれないが、本州は普通に考えたら無理だろうね」

 

 平然と不可能を口にするGMであった。何か思いも付かない秘策があるのだろうと期待していた八幡にとっては、肩すかしの返答である。

 

「え……。じゃあ、どうするんですか?」

 

「困った事だよ。君はどうすれば良いと思う?」

 

 そのまま問い返されて、思わず呆れた声を出しかけた八幡だが、GMの目が笑っていない事に気付いてそれを飲み込む。代わりに彼は必死に頭を働かせて、思い付いた事を口にするのであった。

 

「単純にマンパワーを増やす……のは、さっきの話であったけど難しそうですね。専門知識を持った人材を簡単に雇えるはずがない。AIも万能じゃない。なら……逆に、素人に毛が生えた程度の知識でも使えるようなツールを作る?」

 

「どうやら、先程の見学の成果が出ているみたいだね。その発想の転換は大事な事だが、それだけでは解決には至らないな」

 

「ええ。玄人であれ素人であれ、まとまった人数を集める必要があるのは変わらないですよね。でも素人で良いなら……バイトを募るとか?」

 

「まあ及第点と言っておこう。我々は世界を構築する為に使っているツールに微調整を加えて、無料のゲームとして発表する事を考えている。そして現実の世界を再現するというテーマで定期的にコンテストを開く予定だ。君達に明かせるのはこれぐらいかな」

 

「あー。ツールだけ用意して、後はそこら辺の連中に勝手に作らせるインセンティブを与えるって事ですね?」

 

「ああ。発想としてはSNSと同じだよ。ツールを用意しておけば、勝手に情報が蓄積されていく。我々自身の手で全ての情報を打ち込む事に拘っていては、先行者のメリットなど簡単に覆されてしまうだろうな」

 

 見学をしながら抱いていた疑問を解消できて、そして頭を使って考えた事に及第点を与えられて、八幡もまたスッキリとした気持ちで新たな思索に耽るのであった。

 

 

***

 

 

「では由比ヶ浜くん。お待たせした形だが、何か聞きたい事は?」

 

「えっと、あたしは経理の話を聞いて来たんですけど……」

 

 どうやら、八幡の次は自分の番だと覚悟をして、由比ヶ浜は先程からずっと質問の内容を考えていた模様である。部活仲間の2人のように鋭い質問ができるとは思わないが、せっかくなので気になる事を聞いてみようと考えて、由比ヶ浜はGMに問い掛ける。

 

「その……。この状態で、儲かってるんですか?」

 

 いきなり不躾な事を言い出した由比ヶ浜に、雪ノ下も八幡も驚いた表情のまま声が出せない。財務状況に興味を惹かれるのは2人も同様だが、さすがに聞き方というものがある。「他人の財布の中身を詮索するような口の利き方は慎むべきでは」と雪ノ下が口を開きかけたのだが、GMが話し始める方が早かった。

 

「成る程、面白い発想だ。君は儲かっているように見えたのかな?」

 

「いえ……。何となくですけど、その、大赤字じゃないのかなって」

 

「うん。別に怯えなくても良いから、根拠があれば教えてくれるかな?」

 

 眼差しこそ優しくなったものの、GMの表情は真剣なままである。傍らの2人は口を挟むタイミングを失って、無言で由比ヶ浜を応援する事しかできない。

 

「課金とかは多いって聞いたんですけど、返金もできるんですよね?それなのに、この世界でバイトとかしたらお金を稼げるし、実際のお店とかも営業してるし、でも値段が凄く安いし……。お金が通り過ぎるだけっていうか、あんまり残るイメージが湧かないっていうか……。あたしはお金の水筒?とか詳しい事は分かんないですけど、まるっと考えたら儲かる気がしないっていうか……」

 

 おそらくは金銭に対する感覚の違いなのだろう。もしも雪ノ下や八幡が企業の財務状況を調べるのであれば、損益計算書などを参考にしながら情報を積み上げる手段を選択すると予想できる。もちろん2人のやり方のほうが確実だし厳密な数字を出せる。対して個人の感覚は当てにならない事も多い。

 

 だが、正確な数字よりも大まかな傾向を知りたい時に、そしてそれが経営判断を強いられた状況であればなおの事、そうした個人の感覚というのは決して馬鹿にできないものである。

 

「君の直感は間違っていないよ。先ほど君は、おまけで呼ばれたと疑っていたが……なにかの部活かな?その一員である事を、自ら示したと言って良いんじゃないかな」

 

 楽しそうな表情で、GMは由比ヶ浜をそう評した。先程の雪ノ下の発言を念頭に置いたものなのだろうが、由比ヶ浜にとってはこれ以上ない褒められ方である。緊張と不安に苛まれながら自分が思った事を説明していた彼女は、その表情を一変させてすっかり明るい笑顔である。そんな彼女に向けてGMが説明を続ける。

 

「簡単に言うと、今は経営の安定よりも優先する事があるんだよ。返金の事も考慮した潜在的な赤字額を考えても、数年は充分に維持できる状況だしね。でも、心配してくれてありがとう。もし今スカウトするなら、3人の中だと君が最優先かな」

 

 軽い口調で付け加えたGMのこの発言が、思わぬ展開をもたらす事になるのである。

 

 

***

 

 

「えっ?あたしとかより、ゆきのんやヒッキーの方が……」

 

 由比ヶ浜がそう言ったものの、当事者が自薦を始めるような事はできれば避けたいものである。ゆえに沈黙する2人を尻目に、GMが発言の意図を説明する。

 

「気を悪くしないで聞いて欲しい。君達3人はいずれも現時点で優秀な成果を出しているし、このまま才能を伸ばして欲しいと思っている。だが、年齢を考慮しても、君達には足りない部分も多くある。ここまでは良いかな?」

 

「ええ……」

 

 過小評価された事に怒りを表明すれば良いのか、それとも由比ヶ浜が高く評価された事を喜んで良いのか判らず、言葉少なに相鎚を打つ雪ノ下であった。由比ヶ浜はおろおろしているし、八幡は沈黙を続けている。

 

「先ほど発想の転換を行えたように、比企谷くんの視野の広さと関連性を見出す能力は素晴らしいものがある。だが、現時点の君には、確実に雪ノ下くんに勝るという部分があまりに少ない」

 

 それは誰よりも八幡自身が痛感していた事だけに、彼は何も反論できない。そんな彼の内面の葛藤を見て取って、これ以上の説明は不要と見たGMは、次の論評に移る。

 

「AIの話をしていて思ったが、雪ノ下くんの理解力はとても素晴らしい。このまま研鑽を積んで欲しいと切に願う。そして、そこに君の問題があると私は思う」

 

「……どういう事でしょうか?」

 

「先ほど話題に出した時に、君は『オイラーの贈物』という書籍の存在を知らなかった。君のお姉さんは、高校生の頃に軽く目を通したと言っていたけどね」

 

「姉とお会いになった事が?それから、その書籍を読んでいない事で、何か問題があるのでしょうか?」

 

 雪ノ下の口調はすっかり攻撃的なものと化している。しかし、各国の政財界の大物と渡り合って来たGMには通じない。

 

「存在を知らないという事は、その分野の他の書籍も読んでいないという事だよ。その代わりに、君は何に時間を費やして来たのか……。雪ノ下くんの趣味とか特技とか、由比ヶ浜くんは知ってる?」

 

「え、ゆきのんの特技って……料理とか?」

 

「成る程。雪ノ下くんは、料理スキルをこの世界で判定して貰った?」

 

「……上級者と判定して貰いました」

 

 話の流れから、判定結果が良いほど悪く言われると覚悟しながらも、雪ノ下のプライドが嘘をつく事を許さない。

 

「料理の技術をそこまで伸ばす事は、ご家庭で勧められたわけではないよね?おそらく、必要に迫られた結果だろう。だが、その必要は、果たしてあったのかい?」

 

 雪ノ下の料理スキルは、高校入学以来の独り暮らしの成果である。何事にも手を抜かず、毎日しっかり作り続けて来た彼女だからこそ、上級者の域にまで達したのだろう。だが、もしもその時間を他の事に費やしていれば。そう指摘するGMの非情な声が、静かに部屋の中に響く。

 

「いくら能力があっても、人の時間は有限だ。だからこそ、何を学び習熟するかが重要になる。君の現状は……比企谷くんなら分かって貰えるかな。『メモリのムダ使い』だと」

 

「……漫画とか読むのは、ムダにならないんですかね?」

 

 暗い声音で八幡が何とか反論するが、GMは楽しげな表情のままである。

 

「読んで楽しかったし、ムダにならないとも思ったからね。それに、漫画に喩えると今の問題は、それを読んでいる事ではなくて、必要以上に繰り返し読んでいる事だよ」

 

 話の筋が通っているだけに、雪ノ下も八幡もそれ以上の反論を行う事ができない。GMから資質を評価された由比ヶ浜だが、残念ながら彼女の長所はこの場面には不向きである。そんな生徒達の様子を見て、GMが話をまとめに入る。

 

「まあ、厳しい事も言ったけど、君達3人はそれぞれ良い資質を持っている。だからこそ、伸ばし方を真剣に考えて欲しいという事だね。じゃあ、このくらいにしておこうか」

 

 そう言い終えると、GMは躊躇なく立ち上がってそのまま部屋を出て行った。後に残された奉仕部の3人はいずれも暗い表情だったが、ここでいつまでも座っているわけにもいかない。のろのろと立ち上がって、部屋を出た先で待っていた担当者に形だけの御礼を述べて、彼らは職場を後にするのであった。

 

 

***

 

 

 駅の前で「大丈夫だから、とにかく独りにして欲しい」と繰り返す雪ノ下を心配そうに見送って、由比ヶ浜は思いがけず八幡と2人きりになっていた。先程のGMとの会話でも直接的なダメージが無かった彼女は、予期せぬ事態にあたふたしながらも、とにかく会話を途切れさせないように喋り続けていた。八幡の暗い表情に気付く事なく。

 

「ゆきのんの家は判ってるから、もう少ししたら様子を見に行くとか……。ヒッキーはどう思う?」

 

「……由比ヶ浜は、優しいよな」

 

 おざなりの返答を繰り返すばかりの八幡にようやく気付いて、由比ヶ浜は八幡の顔を覗き込むようにしながら問い掛ける。それに対して、八幡は静かな口調で、話の流れに沿わない事を言い始めた。褒められたと素直に受け取った由比ヶ浜が顔を赤らめる。

 

「えっ。ヒッキー、いきなり何を……」

 

「それに、さっきの赤字の話とか、正直に言って見くびってたっていうか。……由比ヶ浜()凄いんだなって」

 

「ヒッキー……」

 

 だが、八幡が言いたい事は全く別の事だとようやく気付いて、由比ヶ浜もまた表情を暗くする。

 

「俺は……雪ノ下の事で、何も力になれねーよ。奉仕部だって……俺が居なくても、俺は必要ないだろ」

 

「そんな……だってヒッキー、ヒッキーが居なかったら、今までの依頼とか……」

 

「たぶん、お前と雪ノ下が居たら、解決できてただろ」

 

 八幡にとって、彼女らと過ごした2ヶ月間は楽しい日々だった。あるいは人生最良の時期だったと言って良いのかもしれない。しかし現実に気付いてしまえば残酷なものである。彼がいくら2人の力になりたいと願っても、彼には雪ノ下に及ぶほどの能力も無ければ、由比ヶ浜のように雪ノ下とは違った能力を持っているわけでもない。彼はどこまでも無力だった。

 

「お前は……雪ノ下の力になってやってくれ。でも俺は……」

 

「そんな事ないよ!ヒッキーだって、ゆきのんもヒッキーと喋ってる時は楽しそうだし、それに……」

 

「俺は大丈夫だから。今は雪ノ下を支える為に。……頼む、行ってくれ」

 

 八幡の言葉を素直に受け止めて、彼の論理に沿って反論を行ったとしても、それは由比ヶ浜には不向きな事である。彼女はもっと別の論点で、あるいは感情的に反論すべきだったのだろう。しかしこんな状況で、八幡が持ち掛けて来た話題をひっくり返すような事など、彼女が言い出せるはずもない。そして、八幡の捻くれた発想にストップを掛けられる人材も、この場には居ないのである。

 

 いつになく決意を秘めた表情で、八幡はおっかなびっくり由比ヶ浜の背後に回り、両手を彼女の両肩に乗せる。そして「頼む」とだけ呟いて、彼は彼女の肩を優しく押した。そのままの姿勢で、俯いたまま自分の方を見ない八幡に、由比ヶ浜は掛ける言葉を見付けられない。

 

「……バカ」

 

 やがて、そう呟いて、彼女は去って行く。最初は早足で、しかしすぐにとぼとぼとした足取りになって。彼女の足音を聞きながら、八幡も由比ヶ浜とは反対の方向を向いて、そしてゆっくりと歩き始めた。

 

 

***

 

 

 独りで家路を辿りながら、八幡は思う。これで良かったのだと。彼があの素敵な2人の女の子に執着したところで、良い事は何もない。自分にとっても、そして何より彼女らにとっても。

 

 八幡は歩きながら、ふと古い流行歌を思い出す。

 

 

“I became alone without noticing my aching heart.”

(俺は独りになった。心が痛んでいるとは悟れぬままに)

 

 俺とは違う状況だなと八幡は思う。自分は独りになって当然の身である。その事で心を痛めるなど、自分にはあってはならない事だ。

 

 

“The two girls are still alive only in my memory.”

(あの2人は俺の記憶の中でだけ生き続ける)

 

 それで充分じゃないかと八幡は思う。俺の記憶に残るなど気持ち悪いと思われるだろうが、このぐらいの事は勘弁して貰おう。だってこの2ヶ月間は、八幡にとって満たされた日々だったのだから。時々は思い出に浸る事ぐらいは許して欲しい。

 

 

“Now I could hear their voices.”

(今も俺は2人の声を聞く事ができる)

 

 たぶん、ずっと時が経った後でも、あの2人の声は覚えているのだろう。同じ時間を過ごすのが自分には勿体ない程の2人だった。

 

 

“Even though our relationships were illusion.”

(たとえ俺達の関係が幻だったとしても)

 

 本当に、一瞬の幻のようなものだった。だが、日陰者の自分が彼女らと一緒に居て良い筈がない。遅かれ早かれ、この展開になっていたのだと八幡は思う。

 

 

 彼らの関係は、この世界で少しずつ時間を積み重ねて、各々にとって掛け替えのないものへと変化しつつあった。しかし八幡は他の2人のそんな想いを信じる事ができない。それがこの展開に繋がったのだろう。どんな世界であれ、この展開は避けられないのかもしれない。

 

 だが、我々は知っている。危機を乗り越えた関係は、以前よりもより強固なものになる事を。曖昧な結論で幕引きをした葉山グループの生徒達とは違って、この危機を乗り越えた奉仕部の3名には、より親密でより素敵な日々を送れる未来が待ち受けている。そしてその未来は、八幡と雪ノ下と由比ヶ浜の3人が自分達の力で掴むべきものなのだ。

 

 

 だが、今だけは、彼が辛い思いを抱えて途方に暮れるのも仕方のない事だろう。

 

 

 日が陰り始めた大通りに沿って、比企谷八幡はゆっくりと家路を辿る。しかしやがて立ち止まり、ぼんやりと虚空を眺める彼の姿が、夕日の差す道路脇にて観察されたのであった。

 

 

 

 原作3巻につづく。




その1.本話について。
 厳しい評価は謹んでお受けしますが、作者としては、ここで辛い展開になる事は避けられないと考えました。作中で述べた以上の補足は殆ど無いのですが、1点だけ。「鬱展開とは話が違うではないか」と思われる読者様もいらっしゃるかもしれません。しかし、本話は原作の展開を逸脱するものではないと考えています。3巻のラストに向けてしっかり書いて行きますので、今後もお付き合い頂ければ幸いです。

その2.原作2巻の構成について。
 可能であれば哀しい形で締め括りたくなかった事、そして本話が実質的には3巻のプロローグという意味合いを持っていた事から、川崎と小町の問題に片が付いた20話で本筋は終了という形にしました。その上で、本話を幕間と題して、3巻に続く構成にしました。

その3.本話で取り上げた流行歌について。
 元ネタは20年ほど前のJ-Popのヒット曲で、判る方にはすぐに判ると思います。著作権の事を考慮して、作品に合わせて歌詞を変更した上で洋楽のような扱いにして、英語の歌詞と日本語訳を載せました。これでも問題だという場合は、速やかに修正しますのでご連絡を頂ければと思います。作者としては、元ネタに触れず自分のオリジナルであるかのように扱うのは原曲に申し訳ないという思いがあり、判る人には判る程度の改変に止めました。

その4.本話で書いたAIなどの話について。
 本話でGMとの会話に出て来た話は、西垣通「ビッグデータと人工知能」(中公)や松尾豊「人工知能は人間を超えるか」(角川)などの書籍と、アルファ碁に関するWIREDのコラムなど幾つかの記事を参考にしています。

その5.今後について。
 本話も結局は時間通りに更新できず、徐々に定期更新が難しい状況になって来ています。年末は時間繰りが厳しく、年度末は月に1つ更新できたら御の字という状況になりそうですが、とにかく書き続ける気持ちだけはありますので、今後もお付き合い頂けると嬉しいです。

その6.謝辞。
 こうして原作2巻末までを無事に完結できたのは、ひとえに作品を読んで下さる読者様のお陰です。本作をお気に入りに加えて下さった方々、本作に評価を下さった方々や評価を入れ直して下さった方々、本作に新たに感想を下さった方々や以前と変わらず温かい感想を書いて下さった方々、そして作品を見守ってくれる大切な友人に心からの感謝を込めて、2巻の結びとさせて頂きます。


追記。
細かな表現を修正しました。(11/15)
誤字報告を頂いて、賃貸貸借表→貸借対照表に修正しました。ありがとうございました!(2018/5/10)


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原作3巻
01.ひたすらに彼女は2人を案じている。


今回から原作3巻の内容に入ります。
重い展開を引き摺って始まるので、この章から読み始めるのは正直お薦めしません。敢えてという読者様には、前話の幕間の話だけは事前に読んでおいて頂けると、以後の展開が理解し易いのではないかと思います。



 季節の移り変わりとは、目にはさやかに見えなくとも着実に進行を続けているもので、この世界でも初夏を経て梅雨の時期へと入っていた。この日の朝は、前日の晴れ模様が嘘のように雨がしとしとと降り続けていて、しかし通学路を歩く生徒達は物憂げな6月の雨に打たれてなお、元気な様子で校舎へと向かっている。

 

 雨を嫌って家からショートカットで通学した生徒が多かった影響か、教室は普段よりも早い時間帯から賑わいをみせていた。グラウンドで朝練ができない運動部の生徒達も加わって、各クラスでは朝から元気な声が飛び交っている。それは、少なくとも表面上は2年F組でも同様だった。

 

 

「やべーっしょ!これ、雨が止まなかったら俺らの練習どうなるよ?」

 

「それな、戸部だけ雨の中で練習すりゃ良いんじゃね?」

 

「戸部なら風邪をひきそうにないし、俺らはここから応援してるから頑張って来いよ」

 

 普段と変わらずトップカーストの面々がお喋りをしていると言えばその通りである。しかしいつもとは違って会話は男子主体であり、どこか無理矢理に話を続けているような気配があった。通常ならば途中で話に加わって来るはずの女性陣は聞き役に徹している様子で、それもまた周囲に違和感をもたらしている。

 

 

 昨日の職場見学を経て、男子3名は以前よりも仲良く元気に振る舞っているように見える。前日は葉山隼人以下の男子4人に三浦優美子と海老名姫菜を合わせた6人で行動していたのだが、クラスで広まりつつあった噂の影響で今なお落ち込みがちの3人をなるべく一括で扱って、彼らが相互に会話を重ねられるような距離感を維持していた。

 

 先日のテスト打ち上げの時から続くそうした葉山の配慮が功を奏して、夕方に解散する頃には、3人は屈託なく喋り合える程度には気安い関係になっていたのである。

 

 そうした事情はクラスの他の生徒達の与り知らぬところではあるが、彼ら3人が仲良く過ごす姿は予想外の事ではない。起こるべくして起きたと言えるのだろうし、むしろ今までの、会話を交わしているのに互いの事を視野に入れていないかのような取り繕った関係の方が異常だったと言えるだろう。

 

 知らぬは当事者と他者に関心の無い者ばかりで、彼ら3人の歪な関係性は、クラス内でも判る人には判っていたのである。

 

 故に現下の問題は、彼ら3人に会話の引き延ばしを無言で要求している三浦以下の3人娘に、中でも見るからに空元気を装っている由比ヶ浜結衣に原因があるのは明白であった。そして彼女の突然の不調の理由が判らないからこそ、騒がしく賑やかなクラス内には、どこか不安げな空気が漂っていたのである。

 

 

 予鈴が鳴って、生徒達は各々の席へと帰って行く。最後まで心配そうな表情で由比ヶ浜に寄り添っていた三浦と海老名も、担任の足音が廊下から聞こえて来ると、名残惜しそうにそれぞれの席へと移動した。それと同時に教室の後ろのドアが開いて、こっそり目立たぬように入って来る男子生徒が1人。彼の姿を目に留めて、由比ヶ浜は見るからに安心したような表情を浮かべたのだが、それを確認できたクラスメイトはいなかった。

 

 

***

 

 

 昨日、千葉駅の近辺で同じ部活の同級生と別れてから、由比ヶ浜は涙をこぼしながら俯いて歩き、時間を掛けて家へと帰った。帰宅途上の彼女は頭の中で、たった1つの疑問、すなわち「どうしてこんな事に?」という疑問だけを繰り返していた。しかし、いくら考えても彼女にはその原因が解らなかった。起きた物事に対して思考を重ねることが元々あまり得意ではない由比ヶ浜は、やがて考察を止めて、ただひたすらに先程の疑問の文句を繰り返すばかりだった。

 

 たとえ原因が解らなくても、取るべき行動はある。気が付けば家に着いていた由比ヶ浜は、落ち着ける自室に閉じこもって、原因の追及よりもまずは自分の行動を振り返る事にした。

 

 だが、結局は同じ事である。「どうして自分はあの場に彼を残してしまったのか」「どうして彼に背を向けてしまったのか」と考えるたびに、彼女の思考は停止する。既に取り返しのつかない今になって初めて、彼女はあの場で彼に縋り付くべきだったのだと、彼が何を言おうとも彼の傍らに居続けるべきだったのだと思い至り、そして後悔の念に苛まれる。

 

 とはいえ、果たしてそんな事が可能だったのだろうか。あの時の彼は、既に決断を終えた人に特有の表情をしていて、それを外部から容易に覆せるとはとても思えなかった。少なくとも由比ヶ浜には無理であろう事が痛いほどに理解できて、彼女は己の無力を、同時に彼との関係をこの程度までしか深められていなかった自身の至らなさを噛みしめたのである。

 

 あの時の彼女にできた事は、ただ彼の要望通りに彼の前から去って行く事だけだった。もしもあの場に居続けたところで、彼は同じ主張を繰り返すだけだっただろう。それは時間を掛けるほどに、同じ主張を繰り返させるほどに、彼の心を深く深く傷付ける事になる。友人関係の機微に長けた由比ヶ浜には、その未来を容易く想像する事ができた。彼女にできたのは、一刻も早く彼の前から去る事だけだったのだ。

 

 

 由比ヶ浜はのろのろと立ち上がると机の前まで移動して、そこにあった写真立てを手に取った。もう1ヶ月以上も前の事になるが、テニス勝負をしていた時に撮った写真が飾られている。同じ部活の仲間2人が真剣な表情で、彼女の親友と仲の良い同級生の男子に挑んでいる姿がそこにはあった。あの時の由比ヶ浜は観客席で2人を心から応援して、同時に同じ場に立てない自分を情けなく思ったものだった。だが、結局のところ、自分だけが蚊帳の外なのは今も変わっていなかったのだ。

 

 悔しい気持ちに再び涙を催されて、由比ヶ浜はしばし部屋の中で立ち尽くす。あの2人は何でも自分の手で解決しようとし過ぎる。もっと他人を、あたしを頼ってくれたら良いのに。そう思ったところで、彼女が2人の力になれていない現状には何らの変化もない。そもそも、あの2人の力になれるような何かが自分にあるとは到底思えない。彼は彼女に劣っている事を気にしている様子だったが、由比ヶ浜からしてみれば、2人とも凄い事に変わりはないのである。

 

 今日の職場見学では、確かにゲームマスターは彼女の事を褒めてくれた。しかし由比ヶ浜には、GMの意図が何となく理解できていた。きちんと言語化して説明できるわけではないが、おそらく自分は「珍しい」から褒められただけで、能力を認められたとかそんな話ではない事を、彼女は自覚できていたのである。

 

 どうしてGMがあんな言い方をしたのか解らないが、彼は2人の事を評価していたからこそ、あんな風に酷評してみせたのだ。逆に自分の場合は、評価の言葉に嘘はないと思うが、「酷評するまでには至らない」と思われていた節がある。確かに褒められたのは嬉しかったが、あの2人が貶される事と引き替えなのであれば、あたしの事なんか褒めて欲しくない!

 

 

 無力感に苛まれていた由比ヶ浜だったが、思考の流れから大切な2人の為に怒りの感情を発揮したことで、ようやく気持ちに余裕が生まれ始めていた。フォトフレームを元の位置に戻した彼女は、ひとまず先程の場所に腰を下ろして憤怒の気持ちを落ち着けて、とにかく自分にできる事をしようと己に言い聞かせる。

 

 まずはメッセージを雪ノ下雪乃に送る。おそらく返事は来ないだろうし、迷惑に思われるかもしれないが、そんな事には構っていられない。彼から「頼む」と言われたからには、あたしには責任があるのだ。あの女子生徒の性格を考えると、送られてきたメッセージを読まずに放置する事はないだろう。ならば定期的に送り付けてやればいい。あたしは彼女の味方だと、その気持ちさえ伝わればそれでいい。

 

 その次は、何をしたら良いだろうか。彼の事は今の由比ヶ浜には何も手出しできない。あの事故の光景を思い出すと、もしや見知らぬ人の為に自分の命を投げ出すような無茶をしてはいないかと、いてもたってもいられない気持ちになる。だが、彼女が何をしたところで、今は彼の気持ちを傷付ける結果しかもたらさない。彼女には祈る事ぐらいしかできないのである。

 

 

 ふと気付けば、メッセージが何件か届いていた。いずれも親しい2人の友人からのもので、最初は夕食の予定を尋ねる内容だったのが、次第に由比ヶ浜を案じる内容へと変化していた。我に返って時刻を確かめると、いつもの夕食の時間が迫っている。

 

 とりあえず「帰宅なう。またすぐ連絡する≦(._.)≧」とだけ返事をして、由比ヶ浜は泣き顔を誤魔化す為に洗面所に向かった。「リビングで待ってるよー」という海老名からの返信を横目で確認しながら軽く化粧を施して、「いまいくヘ(*゚∇゚)ノ」と返しながら、彼女は2人と共有する部屋に続く扉を開くのであった。

 

 

***

 

 

 3人で摂った夕食時の会話は、男女6人で参加した職場見学の話に終始した。三浦と海老名は由比ヶ浜の様子を見て、彼女に何かがあった事を即座に悟り、それは落ち着いて話すべき事だと判断したのである。彼女達に奉仕部も加わって対処したクラス内での不穏な噂の後始末が、良い方向に向かっている事を確認できて、由比ヶ浜は少しぎこちなくはあったが嬉しそうな笑顔を浮かべている。

 

 やがて食事を終えて、空調の効いた部屋で各々が温かい飲物を手にした状態で、2人は由比ヶ浜に向けてゆっくりと頷く。少しだけ目の前の2人に話すのが恥ずかしいという気持ちが浮かんだものの、同じ部活の2人には自分を頼って欲しいとか思っているくせに、自分が友人を頼らないのは間違っているかもと思い直す由比ヶ浜。誰の影響なのか、面倒な思考を発揮する片鱗を覗かせつつ、彼女はゆっくりと今日あった事を説明するのであった。

 

 

「あー。ヒキタニくんらしい話だけど、うーん……」

 

 由比ヶ浜の長い話が終わって、取り敢えず海老名が第一声を上げる。呆れているという気配は無く、彼の行動に深く納得しながらも苦笑しているという様子である。

 

「……ヒキオが悔しがる気持ちは、何となく解るし」

 

 意外な事に、三浦の感想は彼に好意的なものだった。不思議そうな表情を浮かべる由比ヶ浜だったが、続く彼女の言葉に納得する。どこか遠くを見るような寂しげな表情を浮かべながら、三浦は発言の意図を説明した。

 

「上には上が居るって事を身に滲みて理解させられて、せっかく才能があったのにテニスを止めた連中が大勢いたんだけど。……自分に構わないでくれって、ヒキオと同じような反応だったし」

 

「……そっか」

 

「でも、上手くなりたいんなら、続けるしかないんだし」

 

 それは独り言のようだったが、かつてのテニス部の仲間達に向けた言葉でもあり、そして彼に向けた言葉でもあるのだろう。三浦とて彼とは知らぬ仲ではなく、むしろ同じクラスの殆どの生徒よりも彼をきちんと理解している。

 

 重苦しい雰囲気が部屋に立ちこめるが、敢えてそれを無視したかのような明るい口調で、海老名が口を開いた。

 

 

「ちょっと話を整理するね。雪ノ下さんは独りにして欲しいと言って家に帰った。ヒキタニくんは自分は奉仕部に必要ないとか口走って、雪ノ下さんの事を結衣に任せて去って行った。何か間違ってる事ある?」

 

「え、あ……。だいたい合ってる、かな」

 

「じゃあ次は確認ね。結衣はまず、雪ノ下さんの事をどうしたい?」

 

「ゆきのんに……あたしが一緒に居るよ、って伝えたい。あたしは難しい話とかできないけど、ゆきのんの味方だよって。だから、返事が来なくても、どんどんメッセージを送ってあげるんだ、って」

 

 それは、先ほど由比ヶ浜が独りで導き出した答えである。彼女の淀みない答えを聞いて、満足げな誇らしげな表情を浮かべた海老名は、そのまま次の問題に話を移す。

 

「じゃあ、次はヒキタニくんの事ね。結衣は、ヒキタニくんが奉仕部を止めちゃう事を、黙って許可するの?」

 

「絶対イヤ!ゆきのんが許可しても、あたしは絶対……」

 

「少し落ち着けし。姫菜も、結衣を煽り過ぎないように気を付けるし」

 

 三浦の仲裁を受けて、我に返った由比ヶ浜は顔を赤くして照れている。そんな彼女を温かい目で眺めながら、海老名は特に反省している様子もなく、冷静に話を整理する役割に戻る。腐った性癖を発揮する機会さえ与えなければ、彼女はなかなかに優秀なのである。

 

 

「じゃあ、優美子の意見を聞かせて欲しいんだけど。ヒキタニくんの事は、私は少し時間を置いてから修復を図れば良いんじゃないかなって思うのね。その場合に、問題になる事とかってある?」

 

「……先走って、退部届とか出されると厄介だし」

 

 三浦の返事を聞いて、照れていた由比ヶ浜は瞬時に焦りの表情を浮かべていたが、なぜか海老名は落ち着いている。彼女はのんびりした口調で、三浦が挙げた可能性を否定し始めた。

 

「たぶんね、それは大丈夫だと思うよ。だって、顧問が平塚先生でしょ?ヒキタニくんが何を言っても、退部届とか受理しないと思うよ」

 

 海老名の解説を聞いて、心から納得した2名であった。他に問題は無いかとしばらく3人で頭を捻っていたが、すぐに思い付くような懸案事項は見付からない。

 

「じゃあ、念の為にヒキタニくんが変な行動に出ないように気を付けつつ、今週いっぱいぐらいは時間を置いて、雪ノ下さんとも協力しながら対処するのはどうかな?」

 

 そう提案する海老名の意見に、由比ヶ浜も三浦も反論の余地は見出せない。話を打ち明けるのが少し恥ずかしいと思ってしまった過去の自分を反省しながら、由比ヶ浜は自慢の親友2人に心からの言葉を伝えようとする。

 

「優美子も姫菜も、話を聞いてくれて、相談に乗ってくれてありが……」

「ストップ。そういうのは、もういいし」

 

 由比ヶ浜の発言の意図を察して、三浦が彼女の言葉を遮る。きょとんとした表情を浮かべる由比ヶ浜に言い聞かせるように、傍らに控える海老名が説明を行った。

 

「こんな程度の事で、いちいち御礼とか要らないからねー。それに、あんまり素直に御礼を言われると、照れちゃう人も居るみたいだしね」

 

 黙って聞いていた金髪の女王が眼鏡の少女を睨み付けるが、睨まれた方はどこ吹く風である。自分が大切に思う2人のそんなやり取りを眺めていた由比ヶ浜に、いつしか自然な笑顔が戻っていた。そんな彼女の表情を確認して、海老名が口を開く。

 

「でもさ。隼人くんが傍観者に徹してて、それで焦らされているうちに、同じ境遇の男子の間に愛が芽生えていく様子は必見だったよ。結衣もあれを見れば……ぶはっ!」

 

「はあ……。ここで擬態しろとは言わないけど、少しは控えるし」

 

 海老名が暴走して三浦が甲斐甲斐しく世話を焼く。そんな光景を見て、由比ヶ浜の顔に再び自然な笑顔が浮かぶ。

 

 

 こうして懸案事項を片付けた仲の良い3人娘は、翌日の彼の様子に一抹の不安を抱えつつも、普段と同じように楽しい夜を過ごしたのであった。

 




少しずつ更新のペースを戻していきたいと思っています。
次回は日曜か月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(11/18,12/23)
読み返して少し違和感があったので、由比ヶ浜が最後に御礼を言う前後を修正して書き足しました。(11/23)


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02.きっと彼は考え過ぎて失敗を招く。

今回は八幡視点です。



 その日、比企谷八幡はどのようにして家に帰ったのかほとんど覚えていない。考え事に耽りながら、重い足取りで感覚的に歩を進めていたら、気付けば家の近所まで帰って来ていたのである。

 

 メッセージを確認してみると、未読のものは無かった。妹からの連絡が無いという事は、彼女はまだ帰って来ていないのだろう。あの2人からも連絡は無い。それらを確認して一呼吸ついた八幡は、しかし念の為と考えて気持ちを入れ替える事にした。今のくたびれた姿を大切な妹に見せる事はできない。それに、何と言って説明すれば良いのかも分からない。

 

「……帰るか」

 

 当面はできる限り普段通りを心掛けて、怪しまれた時は面倒臭そうに振る舞うことで誤魔化そうと彼は考える。その上で八幡は次の行動を口に出して、それを自分に言い聞かせてから、何とか歩き始めるのであった。

 

 

 自宅に辿り着いて、予想通りに妹が帰宅していない事を確認して、八幡は自室に入ってベッドの上に寝転がる。考える事が多すぎて嫌になるが、考えないわけにもいかない。とりあえず明日をどう凌ごうかと考え始めたものの、すぐに思考は千々に乱れ、そして彼の脳内では先程の光景が映し出される。

 

 あの時にあんな事を言い出したのは突発的な行いだったが、しかし彼女に告げた内容はずっと以前から密かに考えていた事である。彼はあの2人の力になれない自分自身を恥じていたし、あの2人とはそもそも住むべき世界が違うと考えていた。

 

 もしも彼がそんな気持ちを表明したとしたら、2人はそれぞれ違った根拠を持ち出して、そしておそらくは2人とも結論の部分は否定してくれただろう。うち1人からはそれ以外の至らない部分を徹底的に追求されて、総じて見ればマイナスの評価を頂戴する羽目になる気もするが、それでも彼のつまらない悩みなどは歯牙にも掛けず否定してくれた事だろう。

 

 彼女が他人との付き合いを損得だけで考えていない事を、八幡は迷わず断言できる。同様に、もう1人の心根の優しい女の子が他人を突き放す事などないと彼は言い切ることができる。だが、だからこそ彼の悩みは深くなるのである。こちらから手を切らないと、彼女らはいつまでも、こんな自分に対してすら手を差し伸べ続けてくれるだろうから。直接の手助けはなくとも、決して見放そうとはしないだろうから。

 

 

 彼は自分の悩みが取るに足らないものである事を自覚している。しかしだからといって、その悩みから解放されるわけではない。自分でも馬鹿らしいと思いながらも、つまらない拘りを捨て切れないのである。そして、そんなちっぽけな自分を客観視して、更に落ち込む繰り返しであった。

 

 彼は同じ部活だった2人の事を懐かしく思う。そして同時に疎ましくも思う。なぜ自分のような取るに足らない存在を気に掛けるのか。入学式前の事故の件はいずれも清算したはずだ。彼と彼女らとは、同じ部活で過ごしたこの2ヶ月に亘る時間だけを共有しているに過ぎない。それも、このまま時が過ぎれば薄れて行くのだろう。なのに、なぜ。

 

 彼には2人の気持ちが理解できない。より正確には、信じる事ができないのだ。他人からの好意とか特別扱いというものは、彼にとっては幼い頃から縁遠いものだった。それゆえに、ほんの僅かな思いやりでも、ごく些細な気遣いでも、彼はそれらを受け取る事に躊躇し、それらにどう対応すれば良いのか解らないのである。いじめなどの辛い過去は無かったが、しかし経験がない故に、彼は色々と拗らせていたのであった。

 

 

「……小町だけ、か」

 

 メッセージを改めて確認してみると、どうやら妹はもうすぐ帰って来るらしい。相変わらずあの2人からの連絡は無い。それが当然だと自らに言い聞かせながら、彼は肩の力を抜いて息を吐く。彼女らからメッセージが来ない事で自分が安心しているのか、それとも残念に思っているのか、今の八幡にはそれすらも判らない。

 

 妹を出迎えるのは億劫だったが、しかし落ち込んでいる姿を見せて心配させるわけにもいかない。ほんの今朝までは、両親の居ないこの世界では妹と過ごす時間を増やさなければと義務感を発揮して、同時にその時間を楽しみにしていたというのに。妹と過ごす時間を回避したいと考える自身に嫌気が差して、八幡は更に自己嫌悪を深くしながらも、気合いを入れて起き上がる。

 

 リビングに行って、妹が帰って来たらすぐにコーヒーでも出せるようにお湯を沸かして、職場見学の事は適当に話を端折って。これからの行動を逐一、頭の中で言語化しながら、八幡はのそのそと部屋を出て階段を下りて行くのであった。

 

 

***

 

 

 八幡にとっては幸いな事に、妹の比企谷小町は返って来たテストの結果が良好だったせいか、上機嫌で喋り続けている。時どき相鎚を挟むだけで後は勝手に話し続けてくれる妹に、彼は密かに心からの感謝を捧げ、喋り続ける彼女を微笑ましい気持ちで眺めていた。しかし小町はそんな兄の表情が気に入らなかった模様である。

 

「てかお兄ちゃん、笑顔が気持ち悪い事になってるけど、何かあった?」

 

 藪蛇とはまさにこの事で、慣れぬ笑顔など浮かべるものではないと反省しきりの八幡であった。仕方がないので彼は職場見学の話で誤魔化す事にする。

 

「職場見学に行くって言ってただろ?お兄ちゃんな、『働いたら負けだ』と心から……」

 

「また馬鹿な事を言い出そうとしてるよこの愚兄は……」

 

 小町からの冷たい視線を間近で受けて、何か変な性癖に目覚めそうになる八幡であった。専業主夫を目指す身としては、相手がどんな性癖の持ち主でも対応できるよう我が身を磨いておくべきなのかもしれないが、変な形で大人の階段を上ってしまうのはできれば避けたいところである。そんな馬鹿な事を考えて少し落ち着いた八幡は、そのまま妹との会話を続けるのであった。

 

「つか、ゲームマスターが鬼畜でな。我らが部長様ですら軽く捻られてたし、どんだけ優秀なんだよって感じだったんだわ」

 

「ほえー。雪乃さんでもダメなら、働いてる人達って超エリートな感じ?」

 

「あー、でも案内してくれた人とかは普通っぽかったけどな。うちの部員並みの集中力だったし」

 

「じゃあさ。せっかく招待されたんだし、また雪乃さんや結衣さんと一緒に遊びに行ってみたら?」

 

 何気ない会話の流れの中で、兄の就職問題と結婚問題を一挙に片付けようと企む小町であった。運営からの招待を契機にして、兄がより良い未来を掴み取ってくれる姿を夢想する彼女は、八幡が一瞬だけ顔をしかめた事に気が付かない。

 

「まあ、そのうちにな。つか、人の事より受験生は勉強しろ」

 

 せっかく兄の身を案じてあげているというのに、返って来たのは非情な言葉である。唇を突き出して不満を表明した後に、小町はマグカップの中身を一気飲みして兄の顔を見る。

 

「じゃあ、今から小町、部屋で勉強するから。集中したいから晩ご飯は勝手に食べてて!」

 

「あー、了解。明日の朝は俺が準備しとくわ」

 

 兄から提示された冷戦の終結時刻を頷く事で了承して、小町はそのまま自室へと去って行った。家族として一緒に過ごす時間を妹から奪ってしまった事に八幡は自省の念を強くするが、しかし彼も限界が近かったのである。妹には申し訳ないが、勘弁して貰うしかない。

 

 先ほど「()()()部長」「()()()部員」と言った時に声が震えていなかったか。そして、彼女らを固有名詞で呼ぶ事に、こんなにも躊躇してしまうのは何故なのか。八幡はなるべくそれらの疑問を考えないようにしながら、妹の後を追って自室へと引き籠もるのであった。

 

 

***

 

 

 翌日は朝から雨が静かに降り続けていて、兄妹一緒に自転車で通学するのは難しそうな空模様だった。前日に予告した通りに、八幡は少し早めに起きて、2人分の朝食をテーブルに並べて小町が下りて来るのを待っていた。

 

 階段を下りる足音などは聞こえなかったが、ゆっくりと時間を掛けてリビングのノブが動く。続いて静かにドアが開いて、パジャマ姿の妹が部屋の中へと入って来た。

 

「お兄ちゃん、おはよ」

 

「ん、おはようさん。昨日はなんか悪かったな」

 

「まあ、お兄ちゃんだからねー。健気な小町だから良いけど、外では気を付けてね」

 

 小町に底意がないのは明らかなので、八幡は反射的に沸き上がった気持ちを何とか抑える。外で話すような相手など、既に八幡にはほとんど居なくなってしまったというのに。しかし、せっかく仲直りをしたのに、朝からまた微妙な雰囲気など御免である。

 

 小町としても、兄が何かを言いたそうな表情を浮かべた事には気付いていたのだが、昨日の今日で嫌な雰囲気になるのは避けたいところである。少し心配ではあるものの、最近の兄には高校で何人か親しい友人ができた事だし、必要以上に過保護になるべきではないだろう。小町はそう考えて、元気な口調で今からの予定を相談する事にした。

 

「こんな天気じゃ自転車はダメかもねー。小町は生徒会の用事があるから早めに出るけど、お兄ちゃんは?ギリギリまで粘る?」

 

「おー、それも良いかもな」

 

「久しぶりのショートカットだし、粘り過ぎて遅刻とかしないようにね」

 

「へいへい。小町も、あれだ。気を付けてな」

 

 そんな八幡の発言に、言葉ではなく敬礼で返す小町の可愛らしさは、兄の八幡ですら一瞬とはいえ息を呑んだ程である。生徒会の用事を一緒に行う男子生徒は居ないだろうなと、八幡は胡乱な事を考えるが、妹に嫌われるのが怖くて確認する事ができない。

 

 今までも明るく元気だった小町だが、テスト直前のあの日以来、より自然により天然に振る舞えているように見える。妹のそんな姿を眩しそうに眺めていると、彼女から少しだけ元気を貰えた気がした。八幡は高校に行きたくない気持ちを何とか退け、とにかく今日を頑張って過ごそうと、気持ちを入れ替えるのであった。

 

 

***

 

 

 朝のSHRが始まる直前に、八幡はこっそりと教室に滑り込んだ。ほとんどのクラスメイトは彼の存在に気付かなかったが、彼にしっかりとした視線を送って来る女子生徒が1人。彼女からの視線を意識しないように身構えながら、八幡はぎこちなく教室内を歩いて自席に腰を下ろす。

 

 目が合ってしまうとお互いに困るだろうからと、八幡は彼女に視線を送る事なく机の一点を見つめて時間を過ごす。今日はテストの返却と解説だけで1日が終わる予定で、本格的な授業は明日からである。つまり今日は放課後の時間が長い。いきなり退部届を出すわけにもいかないし、何か部活を回避する理由でも無いものか。

 

 

 休み時間が来るたびに、得点を報告し合う同級生の盛り上がりを尻目に、八幡はすぐに席を立って教室の外へと避難した。彼の事をほとんど気に掛けていない大多数のクラスメイトは勿論の事、彼の数少ない知り合いにとっても彼の行動は普段のそれとかけ離れたものではなかったので、特に変な風には思われていない。

 

 3人組の女子生徒だけが彼の動きに気を配っていたが、彼女らとて他にも付き合いがある以上は、彼の事にのみ専念できるわけではない。それに、彼との距離感に悩んでいるだけに、具体的な行動に出る事を躊躇する気持ちも強い。お互いに関わりを持たないまま、時間だけが過ぎて行った。

 

 

 お昼休みの時間になって、八幡はやはり即座に教室を出て行った。相変わらず雨は降り続いていて、彼の後を追って教室を出ようとする生徒はほとんど居ない。

 

 購買に寄り道をして食べ物を調達した後で、八幡は昼食を食べ慣れたベストプレイスへと向かった。よもやこの雨の中で、彼があんな場所で過ごしているとは誰も思わないだろう。雨合羽を装着して、いつもの場所に腰を下ろして、八幡は久しぶりに完璧な孤独にその身を浸す。もしもその姿を端から見られたらどんな風に思われるかなど、今の彼には配慮できるはずもない。

 

 やがて購買が静かになった事を確認して、八幡は雨が当たらない辺りに移動して昼食を始める。味のしないパンを機械的に飲み込んで、飲物でそれを押し流す。淡々と食事を終えて、彼は孤独を満喫していた。これからは、こんな毎日に慣れなければならないのだ。

 

 

 天使を眺めながら過ごしていた昼休みはあっという間だったのに、今日はやけに時間の経過が遅い。まだ昼休みが半分以上も残っている事を確認して、八幡は1つ溜め息をつくと立ち上がった。MAXコーヒーでも補充しておかないと、午後の時間は更に辛いものになるだろう。

 

 この世界でも既に通い慣れた自販機まで辿り着いて、八幡は己のソウルドリンクを購入する。幸いな事に人影はまばらで、この様子だと身を隠す場所を探す必要は無さそうである。八幡は自販機から少し離れた辺りで、ちびちびと飲物をすすりながら時間が過ぎるのを待つ事にした。

 

 

 不意に肩を叩かれて、驚いて振り返ると、そこには白衣を身にまとった生活指導の教師が無言で立っていた。平塚静教諭にどう対処したものかと悩む八幡だが、直接顔を合わせてしまったからには、なる様にしかならない。無言で首を傾げる事で、まずは相手の出方を窺おうとする八幡だったが、教師も何をどう言えば良いのかと悩んでいる様子である。

 

 やがて、彼女の中で結論が出たのだろう。教師は端的に、事の次第を彼にこう告げるのであった。

 

「比企谷。雪ノ下が朝から体調不良で、保健室で休んでいるのだが……。一緒に来るかね?」

 




前回の投稿後にUAが7万を超えました。いつも読んで頂いてありがとうございます。今後も読者様に楽しんで頂ける内容にできるよう頑張りますので、引き続き宜しくお願い致します。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/28)


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03.がむしゃらに彼女は努力を積み重ねる。

今回は雪ノ下視点です。



 職場見学にてゲームマスター(GM)から厳しい評価を受けて以来、雪ノ下雪乃は内から迸る憤りとともに、納得や諦めといった様々な感情をその身に宿していた。今の彼女の身を縛っているものは間違いなく後者であり、それゆえに彼女は怒りや悔しさといった自然な感情を上手く外に出す事ができない。その結果、親しい友人や部活の仲間と普段通りに接する事にも困難を覚え、彼女は一刻も早く独りにならねばと、そればかりを考えていた。

 

 千葉駅の近辺で解散した時に、同学年の女子生徒は心底から心配そうな表情を浮かべていたが、雪ノ下には「大丈夫」と空手形を繰り返すことしかできなかった。とはいえ自分を真剣に案じてくれる存在がいることは、雪ノ下にとってはこの上なく頼もしい事実である。

 

 彼女がいるだけで、それだけで自分は強く在れると思う雪ノ下には、彼女の辛い気持ちは解らない。不安定な状態の雪ノ下に寄り添いたいと願う彼女の気持ちを理解せず、少しでも早く復調して回復を果たした姿を見せなくてはと考える雪ノ下であった。

 

 

 独りで家路を辿りながら雪ノ下は考える。あの時にGMが指摘したことは、確かに彼女としても納得できる内容だった。高校生の身で、自分はなぜ生家を出て一人暮らしをしているのか。何にでも完璧を目指す彼女の性格のせいもあって、家事に奪われる時間は実のところ大きな負担になっている。

 

 だが、独りで家事をこなして勉強にも手を抜かず、そうして終えられた日の最後に、彼女はこの上ない満足感を得られるのだ。明日も頑張ろうと思えてくるあの充実感がなければ、彼女の生活はとうの昔に破綻していただろう。

 

 雪ノ下にとって家事の負担とは、お寺で修行を始めた新入りが長い廊下で雑巾掛けをするようなイメージである。お寺に弟子入りしたからといって、四六時中を仏事の勉強に費やせるわけではない。むしろ掃除などを行って心身を引き締めることで、短時間であっても集中して事に臨める姿勢を育めるはずだ。彼女にとっての家事はそれと同じなのではないかと考えていたのである。

 

 とはいえ、時間が足りていないことも事実である。もしも家事に費やす時間をそのまま勉強に使えるならば、彼女は大学入試とは直接関係のない事柄にも、受験の勉強をしている時により知りたいと思った事柄にも手を出せるのではないか。先ほどGMが話題に出した書籍も面白そうだし、他にも色んな分野で彼女が興味を惹かれることはたくさんあった。

 

 

 しかし、自分がしたい事とはいったい何だろうか。雪ノ下はいつしか、その根源的な疑問に突き当たる。確かに面白そうなことは世の中にたくさんある。一方でGMも言っていたように人の持つ時間は有限である。自分が何をするべきか、まずは時間の配分を考えなければならない。

 

 昨年度までは正直、目の前のことで精一杯だったので、眼前の為すべきことを順に片付けていく以上のことは考えられなかった。しかし今は、奉仕部の同輩達のお陰で気持ちに余裕ができている。そんな心理状態で自分がしたいと思っていたことを振り返ると、なぜかどれもこれもが色褪せて見えるのである。私は本当にこれをしたいと思っていたのだろうか?

 

 

 すっかり住み慣れた高層マンションへと帰り着いて、雪ノ下は制服を脱いで寛げる服装に着替えてからお茶の支度をする。誰かを意識してのことなのか、ロングヘアをゆるいお団子に結び直して、彼女は淹れたての紅茶をリビングの机に運んだ。そして少しだけ休憩をした後に、彼女は先ほどGMが話題にした書籍を購入するために読書アプリを立ち上げた。

 

 自分がやりたいこと。そして自分が為すべきこと。数多ある選択肢の中から何を選べばよいのか、正直なところ雪ノ下には自信がない。とはいえ学生の身の上であれば勉学が第一である。偏差値を重視する教育のやり方を問題視する識者もいるのだろうが、学生の立場からすれば偏差値を上げるという目標は実に判りやすい目標である。彼女にとっても今までならそれで問題はなかった。

 

 だがGMに指摘をされたからには、今まで通りのやり方を継続するのも良くないだろう。雪ノ下は今こそ視野を広げなければならないと考える。若くして数々の偉業を成し遂げ、この世界を構築するまでに至ったGMが言うからには、それは間違っていないはずだ。たかが高校生に過ぎない身であれこれと考えるよりも、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 雪ノ下は今しがた購入したばかりの書籍をぼんやりと眺める。あのGMが未読を問題視したからには、そして彼女の姉が高校在学時にこの書籍に目を通したからには、自分にとっても読んで損のない作品に違いない。むしろ今まさに読むべき一冊なのだろう。ならば読破してやろうではないか。行うべきことを見出した私は姉にだって劣っていないことを、姉ができることならば私にだって大抵はできるのだということを、見せてやろうではないか。

 

 既に雪ノ下の頭の中には、「自分がしたいこととは何か」という先程の疑問はない。自分が主体的に出した結論ではないと気付かぬまま、彼女はゆっくりと書籍を広げ、その内容へと没入していく。幸いなことに明日はテストの返却と解説だけで、その他の授業はない。予習の必要もなければ復習することもない今日ならば、この作品に耽溺しても問題はないだろう。

 

 こうして雪ノ下は夕食も食べず、心優しい同学年の女子生徒が送ってくれた何通かのメッセージにも気付かぬまま、ひたすらに数学の奥深い世界と向き合い続けていたのであった。

 

 

***

 

 

 メッセージの着信を告げる音声で、雪ノ下は眠りから目覚めた。ぼんやりとした頭で周囲を見渡すが、なぜ自分が机に向かったまま眠ってしまったのか、とっさには思い出せない。

 

 のんびりとあくびをしながら、雪ノ下は届いたばかりのメッセージを立ち上げる。「ゆきのんヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ」とだけ書かれたメッセージを目にして少し微笑んで、ようやく彼女の頭が働き始めた。

 

 時間は……まだ大丈夫だが余裕があるわけではない。メッセージは……昨日から彼女が何通も送ってくれていたみたいだが、どう返信したら良いのか思い付かない。深い内容のものも急ぎのものもなかった以上は、申し訳ないが後回しにさせてもらおう。迷惑メールは放置安定である。雪ノ下は読みかけの本はそのままにして一旦アプリを落とす。一晩で読み終えられなかったのは残念だが、また続きを読める機会はあるだろう。

 

 机の上にあった飲物などを片付けて、通学鞄の中身をチェックする。そして雪ノ下はこんな時にも楚々とした佇まいで丁寧に衣服を脱ぐと、熱いシャワーにその身をさらした。朝食を摂る時間がないのが残念だが、おかげで意識はしゃんとして来た。ショートカットをすれば遅刻はせずに済むだろう。

 

 彼女は朝から身体を動かすことの効用を考えて、この世界でもショートカットをせずきちんと通学していた。だが今朝はそんなことは言っていられない。バスタオルにしっかりと水滴を吸い取らせ、艶のある髪を丁寧に渇かしていると、あっという間に時間が過ぎる。寝不足を誤魔化せるように簡単なメイクもしなければならないのに。

 

 何とか支度を終わらせて、急いで高校の上空にある個室へと移動すると、極めて珍しいことに、雪ノ下は走って2年J組の教室を目指すのであった。

 

 

***

 

 

 息も絶え絶えの様子で雪ノ下が教室に入ると、クラスメイトの視線が彼女に集中した。いつにない彼女の珍しい様子に興味を惹かれている者が大半だったが、保健委員の生徒はさすがに鋭く彼女を観察していた。

 

 土気色の表情で苦しそうに喘いでいる彼女は、体調が相当に悪いのだろう。そんな状態でも登校して来た彼女の真面目な姿勢は驚嘆に値するが、無理を重ねても健康を損ねるだけである。どんな生徒であれ身体を休める時には休めるべきであり、ましてや今日はテストの返却と解説があるだけだ。今までの定期試験でも全教科ほぼ満点を維持してきた彼女ならば、無理をしたところで何の益もない。

 

 保健委員の生徒はそうした内容を彼女に言って聞かせたのだが、声が届いているとは思えないほどに彼女の状態は悪い。苦しそうに息をしている彼女を見かねて、保健委員の生徒は職権を活用することに決めた。自分の責任で、彼女を保健室で静養させるのだ。

 

 

 それは保健委員の生徒個人による先走った決定だと言えなくもない。だが、国際教養科という学年に1クラスしかない一団として高校入学以来の日々を共に過ごして来た彼らは、集団の中でも一際輝く存在感を発揮して来た雪ノ下に対して、何か報いたいという気持ちを常々抱いていた。

 

 人付き合いが苦手で歯に衣着せぬ物言いをする雪ノ下に対しても、1年以上にも亘って同級生を続けていると寛容になるものである。彼女としてもクラスではさすがに行動を控え目にしていたのだが、人によっては彼女の不器用さをきちんと理解して、彼女の行く末を温かく見守ろうと考えている生徒すら最近では出始めていた。

 

 この世界に巻き込まれた当初に行われた彼女の演説が、彼らの認識の変化に大きな影響を与えたのは確かである。だが仮にそれが無かったとしても、いずれクラスメイト達は彼女の真価に気付いていただろう。雪ノ下の成績が飛び抜けて優秀だからではなく、彼女が様々な分野の資質に恵まれているからではなく、ただ彼女が彼女であろうとするその姿勢に惹かれる同級生が、きっと現れたに違いない。

 

 そして今、明らかに無理をしている彼女の姿を見て、彼女の手助けをするのは今この時だと考えたのは1人だけではなかった。だからこそ保健委員の生徒の決定は、周囲に反対されることなくクラスですんなり受け入れられたのである。

 

 そんなわけで大勢は決した。何かを言い返したいような素振りの彼女に構うことなく、保健委員の生徒は自分の決定を周囲の生徒に告げて、そして彼女を引き摺って保健室へと押し込めたのであった。

 

 

 保健委員によって保健室から出られないという制限をかけられた雪ノ下は、ようやく落ち着いてきた呼吸で深く息を吐く。ただ単純に走って息が切れていただけだというのに、あの保健委員の慌てぶりとお節介には困ったものだ。クラスメイト達も、誰か1人ぐらいは保健委員に反論してくれてもいいだろうに。

 

 少しだけ嬉しく思う気持ちを誰にともなく押し隠して、仕方がないので彼女はベッドに横になることにした。寝不足で普段通りの体調ではないのは確かなのだ。

 

 受験には関係のない本を読んで夜更かしをした結果の寝不足なので、真面目な雪ノ下としては今の状況を恥ずかしく思うのが正直なところである。一方で、そんな馬鹿げた理由で保健室にいることは、そしてテストの返却と解説の時間という彼女が出席する必要のないタイミングを狙ったかのような行動は、何だか姉を見ているようで少し新鮮であった。

 

 少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべて苦笑して、こんな日もあって良いのかもしれないなどと考えながら、雪ノ下はいつしか夢の世界へと旅立っていたのであった。

 

 

***

 

 

 目が覚めて反射的に時刻を確認すると、お昼休みも半ばを過ぎた時間になっていた。朝とは違って起きたと同時に意識が覚醒した状態にあった雪ノ下は、保健室のドアを無造作に閉める音を耳にして目覚めの理由を瞬時に悟る。果たして、生活指導の平塚静先生の声が、ベッドの周囲を覆うカーテン越しに聞こえて来た。

 

「雪ノ下。そろそろ起きないか?」

 

「……ええ。ノックをせず入って来た先生のおかげで、目覚めはしっかりしています」

 

 少し咳払いして声を整えてから、雪ノ下は特に皮肉のつもりもなく思った通りのことを教師に告げる。言われた側としてもそんな事はとうの昔に把握しているのだろう。教師はのんびりとした口調で返事を返してきた。

 

「体調はどうだ?まだ完全でなければ、午後もこのまま寝ていても良いが」

 

「いえ。おかげでぐっすり休めましたので、もう問題ないと思います。むしろ午前中の時点でも、保健室に閉じ込めるのは過剰な対応だったと思うのですが」

 

「まあ、そう言うな。君を心配している生徒は案外多いという事だよ」

 

 普段なら有無を言わさずカーテンを開けようとするはずの教師が、長々とカーテン越しの会話を続けている。雪ノ下はそれを訝しく思うが、このまま顔を見ない状態で会話が続くのは何となく落ち着かない。仕方がないので自分で動くことにして、彼女がカーテンに手をかけた瞬間。それを見計らっていたかのように、教師が話を続ける。

 

「実際、ここに来る途中で比企谷と会ったのだが……」

 

 雪ノ下は即座に手を止めて、そしてゆっくりと口を開いた。

 

「比企谷くんがそこにいるのでしたら、申し訳ありませんがこの状態で話を続けさせて下さい」

 

「ふむ、普通だな。残念ながら比企谷には振られてしまったので、ここにはいない。今は保健の先生もいないから、君と私の2人きりだな」

 

 雪ノ下は勢いよくカーテンを開けて、目線だけで教師に説明を促した。すっかり回復したようだなと内心で安堵しながら、平塚先生は先程の男子生徒とのやり取りを伝えるのであった。

 

 

***

 

 

『比企谷。雪ノ下が朝から体調不良で、保健室で休んでいるのだが……。一緒に来るかね?』

 

『えっ。……あー、大丈夫なんですかね?』

 

『よく眠っていると保健の先生が言っていたから、大したことは無いみたいだが』

 

『なら、俺が行って寝てる姿とか見られたくないでしょうし、遠慮しておきますよ』

 

『ふむ。君は雪ノ下の寝顔を見たいとは思わないのかね?きっと可愛いと思うぞ?』

 

 少し茶目っ気を出してからかうようなことを言うと、目の前の少年は露骨にうろたえ始めた。

 

『いや、あの、……目が覚めた時に10倍ぐらいにして仕返しされそうなんで』

 

『なるほど。では、由比ヶ浜の寝顔なら?』

 

『……勘弁して下さいよ。生徒をからかって遊んでないで、早く見舞いに行くべきじゃないですかね』

 

『ふっ、想像力が豊かで何よりだよ。高校生の初々しい反応を見るのも楽しいものだな』

 

『ああ、先生はもう社会人ですからね』

 

『ぬわーーっっ!!』

 

 断末魔の声を上げながらも、どことなく元気が無さそうだった男子生徒を少しははげます事ができたかなと教師は思う。それならば、彼の心ない発言にただじっと耐えている若い自分も報われるのだが。そんなことを考える教師に向けて、普段の調子を少しだけ取り戻せた少年は語りかける。

 

『じゃ、みんなに宜しく、お願いします』

 

『どうした?珍しく神妙な事を言っているな。由比ヶ浜にはまだ知らせていないのだが、雪ノ下には伝えておこう』

 

 さすがの平塚先生でも彼が発言に込めた決意に気付くのは難しく、そうして2人は別々の方向へと離れて行ったのであった。

 

 

***

 

 

 寝顔の話から断末魔まではさすがに省略して、教師は目の前の女子生徒に話のあらましを伝える。彼の最後の発言は明らかに彼らしくないものだったが、どうやら雪ノ下には心当たりがある様子である。少しだけ考えをまとめてから、彼女は教師に説明を始めるのであった。

 

「昨日の職場見学で、比企谷くんが少し自信を失うことをGMに言われたのですが……。私達も対処を考えるつもりですが、念のために先生も、彼を元気づけるような手段を考えておいて頂けないでしょうか?」

 

「……なるほど。良案がすぐに出るとはとても断言できないが、考えておこう。君達はどうするつもりなのだね?」

 

「昨日の今日では何をしても効果が薄いと思いますので、今日の部活は中止にしようと思います。私も回復したとはいえ本調子とは言い切れませんし……」

 

「なるほど。では私に学外で用事ができたことにして、2人には中止の旨を伝えておこう」

 

「それは……いえ、助かります」

 

 雪ノ下からの素直な言葉を珍しい気持ちで受け取りながら、平塚先生は改めて目の前の女子生徒を眺める。対応が過剰とは彼女の言だが、体調が普段通りでなかったのは確かなのだろう。

 

 午後からはクラスに戻るという生徒のために、保健室から出られない制限を解いてあげた平塚先生は、彼女を教室の近くまで送り届けた後に職員室へと戻った。昨日あの男子生徒が何を言われたのかは判らないが、それはそれとして彼女ら3人の最近の関係性は教師としては微笑ましく望ましいものである。できるならばこのまま良い方向に向かってくれるようにと、心から願う平塚先生であった。

 

 

 その頃、教室で雪ノ下は迂闊な行為を後悔していた。お昼休みの終了間際まで教師と話を続けていたために、これで彼女は夕食と朝食に続いて昼食も食べそびれてしまったのである。己の名誉にかけても、授業中にお腹を鳴らすなどといった失態は断じて許されない。

 

 まるで死地に臨む侍のように、悲痛な覚悟で授業を受けようとする彼女の姿を見て、クラスメイト達は彼女への尊敬の念を新たにする。学年トップの彼女にとっては、テストの解説など既知の事ばかりだろうに。その姿勢を我々も見習わなくては。

 

 こうして、その日の午後のJ組の授業は、壇上の教師が恐れを抱くほどの迫力に満ちたものとなったのであった。なお、彼女の名誉の為にも、雪ノ下は己の任務を遂行したことをここに明言しておく次第である。

 




ついに50話に到達しました。
いつも読んで下さってありがとうございます。
本当に、読者の方々の支えがなければ、ここまで続けられることは無かったと思います。
できましたら、今後とも宜しくお願いします!

あと1日がなかなか戻せず、今回も金曜日の更新になりました。
次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/28,12/26)


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04.やむをえず彼女は状況を見守る。

由比ヶ浜の視点に戻ります。



 本格的な授業の再開を前に、テストの返却と解説が行われるだけだったその日。由比ヶ浜結衣は、彼女にしては高得点の答案を受け取ったのだが、残念ながら気持ちは晴れなかった。今の彼女にはテストの結果よりも気になることがあり、そちらに意識の大部分を持って行かれていたからである。

 

 

 由比ヶ浜は敢えて言うまでもなく勉強が苦手だったが、それは彼女の頭が悪いこととイコールではない。ある程度の時間を費やして、彼女なりのやり方で勉強すれば、当然結果も出るのである。

 

 彼女はいわゆる丸暗記というものが苦手で、それが勉強への苦手意識に繋がっていた。また彼女の性格的にも、物事を厳密に理解することは不向きであった。そうした性格が原因で暗記が苦手になったのか、それとも暗記が苦手だったのでそうした性格になったのかは判らないが、勉強をする上で暗記能力の差は劇的な違いをもたらす。結果として、由比ヶ浜が勉強を嫌がるようになるのも仕方のないことだったのだろう。

 

 こうした彼女の傾向をきちんと見抜いて、暗記を主にするのとは少し違った勉強法を、彼女と同タイプの人物に伝授することに長けた存在が身近にいたことは、由比ヶ浜にとって幸いだった。同タイプだったのは誰あろう彼女の母親であり、そして学生時代に散々苦労して勉強を教えたのはもちろん彼女の父親である。

 

 

 由比ヶ浜の両親は子供の頃からの腐れ縁と呼べるような関係で、彼女の父は勉強が苦手な昔馴染みを見かねて根気強く勉強を教えていた。当初から彼に下心があったかというと微妙なところである。だが、頭の中身から身長体重まで色んな項目を含めても飛び抜けて高い成長率を誇った、仲の良い女の子の特定の部位に目を奪われがちだったのは、思春期に差しかかった男子としては仕方のない事だっただろう。

 

 由比ヶ浜の母親は、仲の良い男の子のそんな視線に当然のごとく気付いていたが、悪い気はしなかった。むしろ少し嬉しく思ってしまったほどである。そして、そんな自分の気持ちを意識してしまうと、昔から知っている男友達という認識は気付けば別のものに変貌していた。彼女が初恋を自覚した瞬間である。

 

 色気より元気という性格だったこともあり、女子グループで恋話をしていても彼女は正直ぴんと来ないことが多かったのだが、理解できるようになれば一瞬だった。それ以来、彼女は彼と一緒に行う勉強会を心待ちにするようになり、そして成果が出始めてからも何だかんだと理由を付けて、彼と過ごす時間を維持し続けた。

 

 結果として由比ヶ浜の両親は高校も大学でも一緒に過ごすことになり、そして大学生活に慣れた頃にふとした切っかけを理由に付き合い始めてからは、周囲に幸せを放射するかのような微笑ましいカップルとして名を馳せた。彼としては恥ずかしいから人前では控え目にして欲しい気持ちもあったのだが、この頃には諦めの境地に達していたのである。

 

 

 大学を卒業すると、初任給も待たずに2人は結婚した。もはや離ればなれになるなどお互いに考えられず、それならば早いほうが良いだろうと決断したのである。社会人になりたてで薄給だったので新生活は古い公団住宅でスタートしたが、仲睦まじい2人ゆえにすぐに子宝に恵まれた。仕事の面でも順調だった若き父親は、娘の物心が付いた頃に、手狭な団地を離れ新築のマンションを購入して引っ越すことを決めた。全ては順調だった。

 

 両親の愛情を受けてすくすくと成長した女の子は、その心根の優しさゆえに友人関係に悩む時期もあったものの、素直で元気な可愛らしい少女に育った。しかし父親が密かに憂えていた通り、娘は母に似て勉強が苦手だった。夫婦の話し合いでは、嫌なことを無理強いしてもと渋る夫に対して、妻は自らの幸せな人生を振り返って、それもこれも目の前の男性に勉強を教えて貰ったおかげだと強く主張した。

 

 かつてお互いに子供だった頃に使ったノートを古い荷物から引っ張り出して、父親は娘に勉強を教えることにした。小中学生の時期はのびのびと過ごして欲しいのが本音だったが、先を見据えると高校はそれなりの学校に通わせたい。自分や娘の手助けを必要としないほどきっちりと妻が家事をこなしてくれている以上、彼のなすべきことは娘に勉強を教えることである。

 

 当初は手探りだったがすぐに昔の感覚を思い出し、そして娘が母親とよく似ていたこともあり、父娘の勉強会は予想以上に効果的だった。父親はかつて子供だった頃の妻とのやり取りを思い出し、娘の勉強を見ながらそれを再度体験できることに心から感謝した。おそらくは娘から邪険に扱われるようになるまでの間だけに許された、奇跡のような期間なのだろう。父親の教え方に熱意がこもるのも当然だった。

 

 

 かくして、由比ヶ浜は地域でも名の知れた進学校である総武高校に進学した。単純な暗記は最低限に抑える代わりに厳密に覚えて、そして感覚的な理解を正答に繋げる特殊な勉強法で育った彼女は、高校に進学して勉強すべき量が一気に増えたことに圧倒される。その結果、彼女の成績は学年でも下から数えた方が早くなった。

 

 高校生にもなって父親と勉強というのも何だか少し恥ずかしいし、父親としても家族を養いながら高校の内容まで教えるには時間の余裕に欠けた。大学を出て何年も経ってから客観的に振り返ってみて初めて、我が国の高校生はなかなかに高度な内容を学んでいることに気付いたのである。

 

 急速に自分から離れていく娘を眺めながら、父親は覚悟はしていたものの深い哀しみを覚え、そして高校生の頃には簡単に説明できていた内容を基礎から忘れていたことで自らの年齢を自覚した。だが、年齢を重ねても若く元気な性格を維持していて、それが外見にも顕れている妻は泰然としたものだった。

 

 由比ヶ浜の母親は夫を労い、彼の役割が1つ終わった事を自覚させ、そして娘がその役割を引き継ぐ誰かと巡り逢う未来を予言した。それはそれで夫に更なる苦悩をもたらしたのだが、誰もが通る道である以上は諦めて貰うしかない。

 

 

 そうした夫婦のやり取りを由比ヶ浜は詳しく把握しているわけではないが、今日の返却されたテスト結果を知らせると、きっと2人とも喜んでくれるだろう。だが、だからこそ余計に彼女の気持ちは沈みがちになる。

 

 恋愛感情というものは彼女にはまだ理解しがたい部分があるのだが、自分の両親のような仲の良い関係になれるかもしれない、なれたら良いなと密かに思う相手と疎遠になってしまった事実が、彼女を落ち込ませるのである。なまじ両親の仲が良いだけに、そして2人のなれそめから結婚までの話を何度も繰り返し聞いて育ってきただけに、両親とは違って上手くいかない自分を情けなく思う由比ヶ浜であった。

 

 

***

 

 

 休み時間にもお昼休みにも、由比ヶ浜がこっそりと観察していた男子生徒はすぐに教室を出て行って、そしてぎりぎりまで帰って来なかった。あからさまに自分が避けられているようで哀しい気持ちになるが、昨日の今日では仕方のないことだと自分に言い聞かせる。そう簡単に気持ちの整理などできるわけもないのだ。

 

 お昼休みを終えた後の最初の休み時間。由比ヶ浜は誰かからのメッセージが届いていることに気付いた。もしや雪ノ下雪乃からの返信ではないか。一気に表情を明るくしてアプリを立ち上げる由比ヶ浜は、予想外の送り主の名を目にするのであった。もちろん由比ヶ浜にとっては雪ノ下以外からのメッセージは全て予想外だっただろうから、その人物に非はないのだが。

 

 

『こんにちは、国語教師の平塚です。奉仕部の顧問として非常に申し訳ないのですが、学外で用事ができてしまったので、今日の放課後は校内で待機しておくことができません。今日の部活は中止にして、各自テスト開けの開放感を満喫して下さい。今後の部活動については、また明日にでも。以上』

 

 届いたメッセージを側にいる2人にも見せて、由比ヶ浜は意外な展開に首を捻る。少しだけ、これで放課後も彼と顔を合わせずに済むと気付いて、安堵と不満という正反対の2つの感情が彼女の中に沸き起こったのだが、彼女はそれらを意志の力で鎮める。そんなことを思っているようでは、彼の力になどなれないのだ。

 

「じゃあ、気晴らしに遊びに行くし」

 

 念の為に周囲には声が漏れない設定にして、三浦優美子が決定事項のように2人に告げる。昨夜は持ち直したように見えた由比ヶ浜の表情が今朝からまた暗いことで、三浦としても何とかしてあげたい気持ちがあるのである。

 

 

 だが困ったことに、由比ヶ浜が今朝から少し落ち込んでいたのは昨夜のことが原因になっていた。2人に話を聞いて貰って気持ちを持ち直して、その後は楽しく時間を過ごした由比ヶ浜だったが、朝になって罪悪感を覚えたのである。

 

 おそらく同じ部活のあの2人は苦悩しながら夜を過ごしたのだろうに、自分は友人に囲まれてぬくぬくと楽しく時間を過ごしてしまった。距離的にも、そして精神的にも2人から遠く離れてしまったみたいだ。自分はこんな時に何をしているのだろう。そんな風に考えてしまって、由比ヶ浜は朝から沈み込んでいたのである。

 

「そだねー。あの2人のことは、無理に話を解決しようとすると逆効果な部分もあるだろうし。焦らずに、まずは結衣が元気にならないとね」

 

「結衣が落ち込んでると、出そうになった元気も引っ込みそうだし」

 

 そんな由比ヶ浜の反応を見て、自己嫌悪とかその類いの何かに陥っているのだろうと推測した海老名姫菜がフォローを入れる。彼女の発言を聞いて三浦もまた由比ヶ浜の心境を把握して、彼女にしては珍しい言い回しでフォローを重ねる。

 

 自分が落ち込んでも何にもならない。しばらくは状況を見守るしかない。眼前の2人が考えていることが痛いほどに伝わってくるので元気を出したい由比ヶ浜だが、やはり奉仕部の2人との距離が離れたままなのが辛いところである。何か少しでも良いから、状況に改善の兆しでも見られたら良いのにと彼女は思う。現実には、クラスメイトの男子生徒は無干渉を貫いているし、仲の良い部活仲間の彼女からは依然メッセージの返事がない。

 

 すぐには元気になれそうもないが、目の前の2人の気持ちに応える為にも、まずは形からだ。そう考えた由比ヶ浜が空元気を出そうとした瞬間、彼女に新しいメッセージが届いた。

 

 

『拝啓。長雨の季節ですね。由比ヶ浜さんは元気に過ごしている事と思います。テストの結果は如何でしたか。昨日から心配を掛け通しで申し訳なかったのですが、お陰様で私は元気です。今はすっきりした気持ちなので、安心して下さい。言葉では伝え難いのですが、本当に感謝しています。残念ながら平塚先生は用事があるとの事で、私も昨日少し夜更かしをしてしまったので、今日の放課後はすぐに帰宅する予定です。また明日の放課後、部室で待っていますね。貴女の親友2人にも宜しくお伝え下さい。かしこ』

 

 まるで手紙のような文体のメッセージを見て、由比ヶ浜は一気に表情を明るくする。それを見た傍らの2人には、誰からメッセージが来たのかなど丸分かりである。言葉にすることなく「良かったし」という気持ちを込めて由比ヶ浜の肩を叩くと、彼女は満面の笑顔を返してくれる。これでこそ由比ヶ浜だと自らも顔をほころばせながら、三浦は娘を見守る母親のようにうんうんと頷くのであった。

 

 

 何度か繰り返してメッセージを読んだ後で、傍らの2人にも文面を見せる。それを見て「あー、雪ノ下さんのメッセージって感じだね」と楽しそうに呟く海老名と、表には出さないものの「()()()親友2人」という描写に内心不満を呈する三浦。

 

 彼女らとしては放課後に遊びに行くことに雪ノ下も巻き込みたいのが本音だが、先回りして対処されているような文面が少々腹立たしい。次の機会は見ていろよと同じような事を企む2人はお互いの企てに気付いていないのだが、それを言えば由比ヶ浜も気持ちは同じである。

 

 由比ヶ浜は心底から雪ノ下の復活を喜びつつ、同時に少しだけ、何の力にもなれなかった自分を悔しく思う気持ちを抱いていた。結局、雪ノ下は独力で気持ちを建て直して、由比ヶ浜に配慮までしてくれている。自分は2人の力になれないどころか、そんな無力感を持て余して、まるで解消できていないというのに。一緒にいてくれる友人達に頼りっぱなしの状況だというのに。

 

 せめて自分にできる何かがあると良いのにと由比ヶ浜は考え、そして思い付く。いつになるか判らないが、でもできるだけ早く今の状況を解決して、そしてテストの打ち上げの時と同じように大勢で盛り上がるのだ。打ち上げの企画とか、自分にできるのはそれくらいだろうから。それを思い付いて、ようやく由比ヶ浜は心から喜ぶことができた気がした。

 

 

 まずは今日これからの予定が第一である。男子は部活があるだろうから、今日遊びに行くのは女子3人だけになるだろう。その方がかえって気兼ねなく楽しめるから、今日の気持ち的には良いのかもしれない。頼れる2人の友人が言ってくれたように、あたしまで落ち込んでいても仕方がないのだから、とにかく元気になれるように楽しんで来よう。

 

 こうして気持ちを新たにして、由比ヶ浜はその日の放課後を迎えたのであった。

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/28,12/23)


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05.はてしなく彼は思索の罠に嵌まりつづける。

相変わらず拗らせ続ける八幡視点です。



 思いがけない場所で出くわした教師から思いがけない話を聞いた昼休み。比企谷八幡はこれ以上の誰かとの遭遇を避けるために、特別棟へと足を向けた。

 

 放課後はもちろん昼休みにもあの教室にいることが多かった部長様が、今は保健室にいる。もう1人の部員は、クラスで仲の良い友人達に囲まれているはずだ。ならば部室でなら、彼はゆっくりと時間を過ごすことができるだろう。

 

 通い慣れたルートを辿って目的の場所に到着して、八幡はゆっくりと扉に手を伸ばす。

 

 奉仕部の下僕だとか備品だとか散々な言われ様の八幡だが、そうした言葉を発する女子生徒の口調に侮蔑の意味合いが混じっていたことはない。公式には彼も歴とした奉仕部の一員として登録されているし、そうしたことを彼女が手抜きするはずも、幼稚な嫌がらせをするはずもなかった。

 

「誰もいない……な」

 

 その証拠に解錠はつつがなく行われ、無人の部屋が彼を出迎えた。いつだったかのピンク色の歓迎とはずいぶんな違いである。

 

 思えば、初めてのことではないか。彼がこの教室を訪れる時には常に彼女が中にいて、扉を開けた彼に視線を投げて来たものだ。最初期は訝しげに、少し経って関心なさげに、時に攻撃的に。そして最近は「確認せずとも判っているのだけれど」とでも言いたげにちらりと目を向けて、すぐにマニュアルの解読に戻っていた。

 

 

 自分と彼女との関係は、いったい何と表現したら良かったのだろうか。八幡は座り慣れた位置で椅子に腰掛けながら、そんなことを考える。

 

 同じ部活ではあるが、仲間とか友人とか、ましてや親友などとはとても言えないだろう。そもそも男女の間に友情など芽生えるものなのだろうか。八幡は思春期男子が抱え込みがちな命題を思い、そして瞬時に却下する。異性どころか同性の友人すらいない自分には縁のないことだ。そんなことを考えても仕方がない。

 

 彼女と比べると、もう1人の部員との関係は簡単である。クラスメイトや同級生という言葉が彼らの関係には最もふさわしい。だがそれは、たまたま便利な言葉があったので助かっているだけである。実際の2人の関係を何と表現すれば良いのかと考え出すと、やはり難しいものがある。

 

 彼女の立場からすると、常に一緒にいる2人は親友なのだろうし、教室内で共にトップ・カーストを形成している男子生徒たちは友人と呼べる仲なのだろう。だが我らが部長様とは、未だ相補的な関係には見えず表現に困る関係である。「脈は充分にあるが未だ片想い」という辺りが現状に近い言い回しだろうか。あの黒髪の少女でもこうなのだから、まして自分との関係など端的に表現できなくて当然である。

 

 

「いや……違うな」

 

 八幡は自身の考察を訂正する。彼女から見た彼は端的に「負い目のある同級生」だったのだろう。結果的に会えなかったとはいえ、何度も病院や自宅にまで見舞いに来てくれて。1年も経ってなお面と向かって謝れていないことに気を病んで。そして微妙な味わいのクッキーと一緒に謝罪の言葉を貰ったのだ。そんな彼女が今はもうあの事故の事を気にしていないと、どうして断言できるだろう。

 

 謝罪とクッキーを受け取ったあの時に、やはり関係を終わらせるべきだったと八幡は思う。訓練されたぼっちを自認していたというのに、どうしてあの時に情に絆されてしまったのか。あの日の教室に漂っていた温かな雰囲気に接して、自分には縁のないことだと諦めていた他の生徒との親密な関係を夢想してしまったのが、全ての間違いの源だったのだ。

 

 確かにその後しばらくの間は、振り返ってみると自分でも驚いてしまうほどに上手く過ごせていたと思う。ぼっちの時代に培った経験や観察力・考察力を駆使して、色んな依頼を解決する一助になっていたと八幡は自負していた。だが、彼の存在は決定的ではなかった。あの日に、優しい茶髪の女の子に告げたように、彼がいなくても依頼は解決できていただろう。

 

 

「俺が、馬鹿だった……ってことか」

 

 八幡は自身でも意識せず調子に乗っていた過去の自分を断罪する。見目麗しい女子生徒2人と一緒の部活で、問題解決の為の戦力になれていると誤認して。彼に負い目を持つ彼女ら2人の心情につけこんでおいて、自分ではそれに気付かない。

 

 あの自他に厳しい黒髪の彼女が、事故を起こした車に乗っていたというだけであれほど自責の念を抱いていたのを、彼は知っていたではないか。そもそも運転手にすら責任はなく、道路交通法が何を言おうとも、突然車道に飛び出した自分が悪いに決まっているというのに。

 

 それなのに自分は、彼女らと曲がりなりにも円満に部活を行えていたと思い込んでいたのだ。そんな歪な関係など、いつまでも続くはずがなかったのに。彼女らが無理を続けられなくなる前に気付けたのは不幸中の幸いだったが、彼はもっと早くに2人から離れるべきだったのだ。

 

 

 八幡は、今となっては他の誰よりも、自身があの事故を引きずっていると自覚できない。被害者であるがゆえに。そして彼以外の関係者全員がそれぞれの責務を果たしたがゆえに。

 

 タイプの異なる素敵な2人の女子生徒と接しながら、彼とて全く期待を抱かなかったわけではない。だがそれは正しく妄想の域を出ていなかった。普通の友人関係にすら縁のない彼には、異性との恋愛関係など想像できるはずも期待できるはずもなかった。

 

 そもそも、ぼっちとして長い学生生活を過ごして来た彼が心の奥底で第一に求めていたのは、異性ではなかった。大事なのは性別ではなく、彼と向き合ってくれる存在である。だが、彼女ら2人がその気配を、その片鱗を示そうとしていたというのに。そして彼もそれを認識していたというのに。幻想という言葉で、八幡はそれを片付けようとしている。事故の負い目で気遣っていただけだと思い込もうとしている。

 

 予鈴が鳴り、クラスに戻るべく重い腰を上げた八幡だったが、彼の目は午前中よりも更に濁りを深くしていた。

 

 

***

 

 

 午後の最初の休み時間のことだった。八幡はすぐに教室を出て、先程と同様に特別棟へと向かっていた。時間が限られているので部室に入る気はないが、何となく足が向いたのだろう。そんな彼の許に1通のメッセージが届き、八幡は廊下で立ち止まってそれを読み始めた。

 

『こんにちは、国語教師の平塚です。雪ノ下は少し休んで元気になった様子で、特に問題もなく教室に戻りました。さぞかし心配している事と思いますが、安心して下さい。これで当分の間は彼女の寝顔を見るチャンスは巡って来ないと思います。後悔して下さい』

 

 思わずメッセージの文面にグーパンチを見舞いたくなる八幡であった。とはいえあの教師が、普段の印象とはずいぶんかけ離れたこんな軽口を叩くということは、体調不良だった女子生徒はほぼ完全に回復したと見て良いのだろう。

 

 メッセージはそこで終わらず、今日の部活は中止という連絡が理由とともに書かれていた。実はその文面は他の生徒に送ったものと同一であり、八幡はそれを「各自」という言葉から何となく察した。最初は一斉に送ろうとしたのだろうが、彼をからかってやろうと思い付いて個別に送ることにしたのだろう。

 

 メッセージの最後には、今後の部活動について明日にでも話し合うという文面があり、今日の中止は嬉しいが翌日が憂鬱だと気を重くする八幡であった。

 

 

 そのまま部室の前まで歩いて行く気が失せて、八幡は少し早めの時間にクラスに戻ることにした。もともと短い休み時間である。ほんの数分も残っていないのに、わざわざ自分に話しかけてくる奴もいないだろうと考えて、彼は来た道をゆっくりと引き返した。

 

 クラスに戻って自分の席へと向かいながら、八幡はふと茶髪の女子生徒のことが気になって、横目で様子を窺ってみることにした。午前中は少し暗い雰囲気を身にまとっていたが、僅かでも改善していると良いのだが。

 

 そんなことを願いながら八幡が横目を向けると、意外なことに彼女は満面の笑みを浮かべていた。どうやらメッセージを見て喜んでいるようで、それを傍らの親友2人にも読ませている。

 

 

 ほんの数秒前に、彼女が気持ちを持ち直していることを願ったというのに、八幡は彼女の表情を見て上手く歩くことができなくなった。幸いにも自席までは数歩の距離だったので、彼は目立たぬように、しかし倒れ込むようにして椅子に腰を下ろす。

 

 おそらく、あのメッセージは教師からのものだろうと八幡は推測する。部長様の復活を聞いて喜んでいるのだろうし、そこまでは良い。だが、メッセージの後半には今日の部活が中止になる旨が書かれているはずだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 八幡が先刻確認した彼女の表情は、曇りの欠片もない笑顔だった。メッセージには良い事しか書かれていなかったという表情だった。今日もしも部活があれば、特段の理由でもない限り、彼も彼女も出席せざるを得ない。きっと部室で気まずい雰囲気になっただろう。だが、だからといって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 もちろん八幡の推測は完全に誤解である。彼女は教師からのメッセージを受け取った時点では気持ちが晴れておらず、傍らの親友2人が何とか元気付けて平静を保っているという状況だった。深刻な会話が周囲に届いて、更なる問題を引き寄せることになると厄介だと考えた2人が、グループ外には音声が届かない設定にして話をしていたほどである。

 

 今の彼女が顔を輝かせて、彼がクラスに戻って来たことにすら気付かず喜んでいるのは、待ち望んでいた黒髪の女子生徒からのメッセージが届いたからである。そしてそこには、彼女にとって喜ばしいことしか書かれていなかった。

 

 だが、八幡にはそんなことは判らない。自分の早とちりに気付くことなく、むしろ先程の彼の考察が的を射たものだったと証明されたような気持ちになって、彼は人知れず精神に深手を負った。その純真さゆえに、喜びの度合いも哀しみの程度も大きくなりがちなのが、思春期の男子高校生の難しいところである。誤解だと判れば、それだけで彼の傷は即座に回復するだろう。しかし思い込みが解けない間は、彼は苦しい気持ちで過ごさざるを得ない。

 

 テストの解説を行う教師の声をほとんど聞き流して、何とか八幡は放課後まで耐えた。そして目立たぬ範囲で可能な限り急いで教室を出て、個室からショートカットで自宅へと逃げ込んだのであった。

 

 

***

 

 

 過ごし慣れた自室のベッドに横になって、八幡は考え事というよりも、過去の自分の行動を思い出してはそれらに繰り返し怨嗟の声を投げかけていた。彼女があれほどに晴れやかな笑顔を見せていたということは、逆に言えば今まで自分はいかに彼女を苦しませていたかという話になる。

 

 既に彼の頭には、彼女がもっと仲良くなりたいと願う女子生徒のことを考慮する隙間はない。黒髪の彼女のことを思って、彼女の回復を喜んでのあの笑顔だと考察を広げる余裕が彼にはなかった。喜びあふれるあの表情は、彼と会わないで済む安心感がもたらしたものだと思い込んだ八幡は、うかつな過去の自分を呪い己に罵声を浴びせながらベッドの上で転げ回っていた。

 

 

 とはいえ幸いにと言うべきか、空腹は等しく万人に訪れる。ましてや無駄に動き回ったり生産性のない思考に取り付かれていた男子高校生なら、その到来が早まっても不思議ではないだろう。

 

 朝方はまだ少しぎくしゃくしていたので、夕食をどうするか妹と打ち合わせができていない。届いたメッセージを確認してみても、妹も距離を少し測りかねているのか、帰宅時間の他には大したことは書かれていない。

 

 気晴らしに料理でもするかと思い付いて、八幡は勢いを付けてベッドから起き上がり、そしてリビングへと下りて行くのであった。

 

 

 万が一、妹との会話の途中で奉仕部の話題が出た時に誤魔化せるようにと、八幡は豆板醤を多めに入れた麻婆豆腐を作ることにした。辛いとか熱いとか言って果たして誤魔化せるのか八幡にも自信はないが、何の策もないよりはマシだろう。ついでにキャベツを多めに入れた炒飯も用意して、スープとサラダを添えれば完璧である。この献立の話だけで会話が終わると万々歳なのだが。

 

 やがて、平常授業に戻り塾にも通って、1日みっちり勉強してきた妹が少し疲れた表情で帰宅した。夕食の支度もお風呂の用意までできていることに比企谷小町は驚くが、昨日の兄妹の諍いを気にして兄が色々と頑張ってくれたのだろうと彼女は思う。ならば自分も、兄の気持ちに応えて一緒に楽しく時間を過ごすのだと。

 

 小町が話題を途切れさせることなく楽しげに話を続けたおかげで、その日の夕食は兄妹にとって心安らぐものになった。何度か高校での話も振られたのだが、テストの返却があっただけで部活もなかったので八幡にはあまり語ることがない。

 

 彼が内心の苦悩を吐露し始めると時間がいくらあっても足りない事態に陥ったのだろうが、兄としてはそんなことを妹に披瀝する気持ちはなかった。妹としても、兄に少し元気がないのは昨日以来の自分との関係も原因だろうと思っていたので、深く追求するのも申し訳ないという気持ちがあった。

 

 やがて夕食が終わり、兄妹はいつものようにソファに移動して、引き続き楽しく雑談を続けるのであった。

 

 

「そういえばさ。沙希さんの授業、評判いいよ」

 

「ほーん。まあ元々から内容は良かったからな。なんであんな眠い声を出せるんだって問題だけだったし」

 

 川崎姉弟の問題解決には八幡も小町も関わったので、彼としても一安心の情報である。中学生に英語を教えて予備校代を稼ぎ、授業の空き時間には自分の勉強もできて教師への質問も可能、弟と過ごす時間も増えるという至れり尽くせりの塾講師転職案である。それが軌道に乗っていると聞いて八幡も嬉しい気持ちになったのだが、とはいえ彼が素直に川崎を褒めるなど期待はできない。小町が密かに予想していた通りに、彼は照れ隠しから捻くれた返答を返してきた。

 

「うーん、その言い方は小町的にはポイント低いなー。内容もだけど、沙希さんが大人気ってことが重要なんだよ!」

 

「あー、そうか。まあ川崎が人気なのは不思議じゃないが、あれだな。ポイントとかで反応がはっきり出るなら、色々と楽なのにな」

 

 てっきり小町を邪険に扱うような、面倒なことに対処する反応を見せると思っていたのに、兄から返って来たのはポイント制度への全面的な賛意である。それは普段の兄からすると変な発言だった。

 

 やはり兄は少し疲れているのだろうと小町は思う。昨日は見学に行った職場にまた遊びに行ってみればと提案してみたが、よくよく考えると兄はぼっち気質である。見学に行った当日に次の訪問の話を出すのは早計だったと小町は密かに反省する。少しだけ間を置いて、彼女は今までよりもさらに元気な声を出して、こんなことを口にする。

 

「では、そんなお兄ちゃんに……小町ポイント大幅アップのチャンスをあげちゃおう!」

 

「はあ……。まあ、貰えるもんなら貰っとくが」

 

「ダメだよお兄ちゃん、そこは乗っかってくれないと。……じゃあ、今度の土曜日、例の場所に行くからヨロシクね!」

 

「ん?ああ、そういやそんな話があったな。了解っと」

 

 

 そんなわけで、ひとまず小町とのわだかまりは解けた。そのまま2人で仲良くデートの詳細を練る兄妹の楽しげな声が、リビングに響いていたのであった。

 




次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/2)


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06.ちゃんと彼女は日常に復帰する。

今回は雪ノ下視点です。
タイトルが全く思い浮かばず、更新が数分遅れました……。


 昨夜から何も食べていない状態で午後の最初の授業を乗り切った雪ノ下雪乃は、返却された満点の答案用紙を鞄に片付ける時間すら惜しいという様相である。休み時間になったので、朝から不調だった彼女を心配して周囲の生徒達が声をかけようとするのだが、彼女の表情を目の当たりにして誰も口を開けずにいる。

 

 この時間に返って来たテストは満点だったというのに、そして午前に彼女が受け取れなかったテストも大部分は満点かそれに近い点数だろうと予想されるのに、彼女からは一切の気の緩みを感じない。むしろ午前中のテスト解説を聞き逃した事への怒りの感情すら伝わって来るようで、国際教養科のクラスメイト達は、彼女を保健室に押し込めるという決断が間違っていたのではないかと内心で冷や汗を流している模様である。

 

 だが雪ノ下としても、そんな同級生に気遣いができるほどの余裕はない。空腹そのものは、さほどの問題ではない。1日ぐらい何も食べなくとも意外と何とかなるものだ。だが、空腹によって発生頻度が激増するお腹の音だけは如何ともしがたい。幸いにして先程の時間は意志の力で乗り切ったが、次の時間も同じように継続できると考えられるほど彼女は安易な思考の持ち主ではない。

 

「少し、失礼するわね」

 

 昼食を食べ損ねるという失態を演じた自身への怒りを隠すことなく、それでも彼女は誰にともなくそう言い残して、2年J組の教室を出て行くのであった。

 

 

 廊下に出た雪ノ下は、そのまま足早に購買を目指す。とにかく何かをお腹に入れておかないことには次の時間に恥をさらす可能性が高い。明確な対処法があるというのに、それをせず運を天に任せるのは彼女の好むところではない。休み時間は短いとはいえ少しでも食べ物を口にしておく必要があるのだ。

 

 今は休み時間とはいえお昼休みから間がない時間帯なので、廊下を歩く生徒の数は少ない。ましてや購買に向かう生徒などほぼ皆無と言って良く、たとえ彼女が買い食いをしたとしても見咎められる可能性は低いだろう。本当は部室で食べられればベストなのだが、食事時を逃すと各教室で配膳を受けることはできない。今の時間に校内で食べ物を入手できるのは購買だけなのである。

 

 雪ノ下には知るよしもないことだが、もしも食事時以外でも部室で配膳を受けられる設定だったとしたら、彼女は渡り廊下の辺りで目の濁った部員と鉢合わせになって、その結果この時間帯にも昼食を食べ損ねていただろう。あるいは、彼が昼休みに部室に行くという選択肢を思い付かなければ、この時間も引き続いて特別棟に向かうことはなかっただろう。その結果、いつものようにベストプレイス近辺を目指して歩いて来た彼と彼女は、購買の前でばったり遭遇していたかもしれない。それが招く結果はもちろん先程と同様である。

 

 そうした幸運に気付くことなく、雪ノ下は手早く食べられるハムとキュウリのサンドイッチを購買で購入した。時間との戦いであると理解している彼女は飲物もそこで調達して、廊下に少しだけ出張っている柱の陰に気持ちだけ身を潜ませる。「地べたに座るのも立ったまま食べるのも行儀が良くないのだけれど」などと不満げな顔で呟いて、結局は立ったまま食べることに決めて、彼女はせめて行儀良く手を合わせてから、1日ぶりの食事にありついたのであった。

 

 

***

 

 

 食べている途中でメッセージが来たので、雪ノ下は食事を続けながら内容に目を走らせる。顧問からの、今日の部活は休みだと部員2人に通知したというメッセージである。今後の部活動について明日話し合うという予定が文末に書かれていて、少しだけ彼女は気持ちを暗くした。

 

 昼休みに教師に知らされたことだが、あの男子生徒は今日になっても昨日のことを引き摺っているらしい。どの程度の落ち込みようなのか、自分の目では見ていないので何とも言えないが、彼に元気がなければ彼女としても軽口を叩きにくくなるし、それ以上にもう1人の部員が色々と気を回す事になるだろう。何とか明日までに調子を戻してくれると良いのだが。

 

 

 昨日の職場見学は彼女にとってすらも衝撃的なものだったのだ。幸いなことに彼女は為すべきことを見出せたので復調できたが、彼に与えられた課題は厄介である。何かしら彼女を、雪ノ下雪乃を上回るものを身に着けること。彼女の上を行くという時点で既に難事なのだが、真の問題はその先にある。

 

 当然のことだが、雪ノ下は彼よりも劣っているという状況を指をくわえて放置する気はなかった。何らかの点で彼に上回られたと確認できた時点で、再度彼よりも上に行こうと彼女は全力を尽くすだろう。もちろん体力など絶対的に自分に向いていない領域で劣るのは仕方のないことだが、そんな項目で上回ったところで彼の気は晴れないだろう。

 

 つまり、彼に上回られても雪ノ下が悔しいとは思わず、かつ彼が自尊心を保てる事柄をまず見出す必要があるのだ。彼女に劣っている分野を彼が手当たり次第に磨こうとしたところで、その結果が惨憺たるものになるのは目に見えている。成果は出ず疲労感だけが残り、彼の精神状態は今よりも悪化する可能性が高い。『だからこそ、何を学び習熟するかが重要』なのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 とはいえ、雪ノ下としては彼には別の選択肢を選んで欲しいのが本音である。つまり、彼女に劣ることを受け入れて貰って、その上で奉仕部の活動に協力してくれれば彼女にとってはベストである。

 

 そもそも、比べる対象を彼女にするから話が難しくなるのである。客観的に見ても、彼は人並み以上に頭が切れるし機転も利く。捻くれた思考と偏った考え方のせいで誤解されがちだが、実は彼は発想も豊かだし視野も広い。人の好意を信じられない臆病さは改善した方が良いとは思うが、それが絡まない状況であれば、彼は既に雪ノ下の助けになれる程度の能力は有しているのである。

 

 彼の長所を思い出しながら、雪ノ下はふと微笑む。中間試験の前だったので感覚的にはずいぶん昔のようにも思えるのだが、冷静に考えるとまだ3週間も経っていない。彼のクラスで流れていた噂を何とかしたいという依頼が来た時に、噂の渦中にあった彼を含む4人を彼女は寸評したのだった。

 

 あの時は彼の面前でもあったので茶化すような評価をした記憶があるが、彼の捻くれた部分も偏った性向も、彼女は別段嫌いではなかった。むしろ、物事の見方が捻くれていたり読書傾向が偏っていた結果として、彼は自分にはない知識を持つに至ったと雪ノ下は考えていたのである。

 

 そもそも、彼と直接話をした時から、彼女は彼を他の生徒よりも高く評価していたのだ。自分が努力を怠れば抜かれてしまう可能性があると考えたのはいつだったか。それは確かもう1人の部員に、サブのスキルをいつ発見したのかと尋ねた時だった。そう、その時に彼女は考えたのではなかったか。この3人の組み合わせは、意外に相性が良いのではないかと。

 

 

 そういえば、昨日からメッセージを何度も貰っていたのに、彼女に何も返事をしていない。雪ノ下はそれを思い出して、頭を瞬時に切り換える。考え事をしながらも口は動かしていたのだが、それでもまだサンドイッチは残っている。だが休み時間にもまだ少し余裕がある。

 

 口が塞がっているので音声入力は諦めて、雪ノ下はキーボードを呼び出してメッセージを書き始めた。まだ丸1日も過ぎていないというのに、長い間ごぶさたしてしまった気持ちがする。ここはきちんと謝っておくべきだろう。彼の状態がどんなものなのかは判らないが、彼女との仲がぎくしゃくするようでは彼への対処も覚束ないだろう。

 

 拝啓で始まってかしこで終わるメッセージを送信前に読み返して、雪ノ下は満足そうな表情を浮かべた。既にサンドイッチは完食して、腹ごなしができた彼女は実にすっきりした気分で下書きを眺めていた。その気持ちを伝えられる相手が居るとは、なんと幸せなことだろうか。

 

 かくして、遅い昼食も終えてメッセージの返信も終えた雪ノ下は、更にすっきりした気持ちに浸ってその場でしばし佇んでいた。そんな彼女が予鈴を聞いて慌てふためくことになるのはここだけの話である。

 

 

***

 

 

 その後は何事もなく授業を終えて、雪ノ下は常とは違ってすぐに帰宅の途に就いた。朝方はショートカットをしたので帰りは歩くことにしたのだが、珍しい時間に下校している彼女を見ても、誰も声をかけはしない。疎んじられていたり無視されているからではなく、周囲の生徒達が彼女の行動を尊重して彼女の邪魔をしないようにと心がけた結果である。

 

 雪ノ下は順調に自宅マンションへと到着して、いつものように服を着替えてお茶を淹れる。一服した後で軽く各部屋の掃除をして、彼女は返却された答案用紙を取り出した。午後に返って来たものは見直す必要はないが、放課後にまとめて返してもらったテストには念の為に一通り目を通す。

 

 特に問題はなかったので、彼女はそのまま明日の予習に移った。いきなり通常通りの授業に戻るので、気が緩んだ生徒にとっては切り替えが難しいのだが、彼女には容易いことである。むしろ予習復習という毎日の習慣から外れるテスト期間の方が彼女には煩わしかった。

 

 テスト直前には念の為に試験範囲を見直しはするが、そもそも普段から忘却曲線を考慮した勉強スケジュールに従っている彼女が得られるものは少ない。あまり大きな声では言えないが、彼女にとってはテスト直前になればなるほど、試験とは関係のないことに割ける時間が得られるのである。

 

 翌日の予習も簡単に済んでしまったので、雪ノ下は昨日読んでいた書籍の復習に移る。今日は部活もなく早めに帰って来たので、まだまだ時間の余裕はある。普段の高校での授業と比べても復習は手間がかかったが、それでも昨日の続きをたっぷり読めるだけの時間は残っている。

 

 明日からは通常授業なので、今日は無理はできない。そもそも寝不足だったのだから早めに就寝すべきだし、入浴も夕食も今日はきちんと済ませなければ。そう考えた雪ノ下は何とか誘惑を断ち切って、中途で読むのを止めた。

 

 早い時間帯に布団に入って、しかし気が昂ぶっているのかすぐには眠れなさそうだと考えた彼女は、先程の書籍の続きを読むべきかと真剣に考える。このまま眠るべきか、それともたとえ半時間でも続きを読むべきかとベッドで悶々としていた雪ノ下は、やはり疲れていたのだろう。気付けば彼女は安らかな寝顔を浮かべて、夢の世界へと旅立っていたのであった。

 

 

***

 

 

 いつも通りの時間に起床して、普段と同じように支度を終えて、通常通りの時間にマンションを出る。ぐっすりと眠れた雪ノ下はすっかり元通りの1日を迎えていた。

 

 歩いて登校して、余裕を持って教室に到着した彼女は、席の近い同級生と簡単な雑談を交わしながら授業の支度を行う。彼女の予習は完璧で、授業中にも何ら問題は無かった。

 

 そのまま昼休みの時間になり、雪ノ下は少し迷ったものの、通い慣れた部室へと向かうことにした。昨日はお昼にも放課後にも立ち寄れなかったので、何となく様子を見に行きたいと思ったのだ。クラスメイトからのお昼のお誘いを申し訳なさそうに断って、彼女は教室を出る。

 

 廊下に出たところで、見覚えのある生徒が近付いてくることに気が付いた。彼女と同じ学年で、たしか生徒会に所属している男子生徒だったか。彼女はそんなことを思い出しながらその場で立ち止まる。特に年下の女の子に振り回されそうな女難の相を醸し出す彼をじっと見つめていると、彼は少し居心地が悪そうな顔つきで雪ノ下に話しかけてきた。

 

「あの、雪ノ下さんに伝言なのですが」

 

 たしか同級生だったと思うのだが、なぜ敬語なのだろうと彼女は考える。だが深く悩むほどのことでもなく、よくあると言えばよくある事なので気にしないようにして、彼女はしっかりと頷いて話の続きを促す。

 

「会長が……城廻先輩が、雪ノ下さんに相談したいことがあるとの事です。場合によっては奉仕部への依頼に発展するかもと言ってました。なので、その……テスト明けで部活を楽しみにしていた部員もいると思うので申し訳ないのですが、今日は部活は休みにして、放課後に生徒会室まで来て貰えないでしょうか?」

 

「成る程……。相談には時間がかかるのね。今日は部活を中止にして生徒会室に行けば良いとして、部員達も同行させた方が良いのかしら?それと、相談の内容は今は教えて貰えないという結論だと思うのだけれど、明日の部長会議に影響することなのかしら?」

 

「ええと、その辺りは直接お会いして話したいとのことです。部員の方々は、今日のところは来てもらわなくても良いとのことです。とにかく雪ノ下さんと話がしたいと言ってました。……あ、奉仕部にとって悪い話では絶対にないって強調しといて、とも言ってました」

 

「そう……。正直、相談の内容は見当が付かないのだけれど、依頼にも繋がる可能性があることなら拒否する理由もないわね。では、放課後にお伺いするとお伝え頂けるかしら?」

 

「畏まりました。では後ほど」

 

 すっかり返答の仕方が従者のそれになっている生徒会役員であった。

 

 2日連続で部活が中止になるのは心苦しいが、少し時間をおけるのは彼にとって良いことかもしれない。雪ノ下はそんなことを考えながら、来るべき放課後へと思いを馳せるのであった。

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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07.まんざらでもなく彼女は笑顔を浮かべる。

順番を変えて、今回も引き続き雪ノ下視点です。



 お昼休みの冒頭に生徒会長からの伝言を受け取った雪ノ下雪乃は、その内容を吟味しながら食事を摂ろうと考えて、特別棟へと足を進めた。渡り廊下を歩きながら両脇の窓を眺めると、昨日から降り続く雨は今もなお止む気配を見せず、静かに窓ガラスを叩き続けている。

 

 部室に辿り着いてお湯を沸かす手配をして、雪ノ下は独り黙考しながら昼食を始めた。まずは考えるべき事を整理する必要がある。大きく分類すると、生徒会長からの呼び出しの件と奉仕部の件との2つに分けられるのだが、それぞれに影響してくるであろう1つの要素が存在する。つまり明日の放課後に予定されている部長会議がそれである。

 

 

 例年であれば、夏の大会などのイベントを終えて3年生が引退する際に部長が交代する形が一般的だった。それを踏襲している部活も少数あるのだが、今年度に限っては多くの部活がこの時期に代替わりを予定していた。もちろんそれは、この世界に閉じ込められたことが原因である。

 

 運動部にとっては全国大会どころか県大会に参加することすらも夢と消えて、3年生は学業を優先する姿勢を鮮明にしていた。他のことにかまけた結果、万が一にも卒業できない事態に陥れば、この世界で更に1年を過ごさなければならなくなる。彼らの意識が部活動に向かないのも仕方のないことだろうし、それゆえに早い時期での部長交代が多くのクラブで行われる手筈になっていた。つまり明日の部長会議は2年生が多くを占めるだろう。

 

 厳密には部活ではないが、生徒会は例年通りの時期に代替わりを行う少数派に属している。会長を始め3年生の多くが有名大学への推薦を充分に狙える成績を維持しているのも理由の1つだし、選挙を行う余裕がないのも理由の1つである。候補者という点でも、2年生はともかく1年生は高校生活に慣れると同時にこの世界にも適応しなければならず、そんな経験に乏しい状態の彼らに職務を押し付けるのは現執行部としては気の進まない事であった。

 

 

 雪ノ下は情報の少ない生徒会からの相談について考えるのを後回しにして、まずは奉仕部についての考察を進める。目下の最大の問題は、奉仕部の今後の方針をどうすべきかという事である。そして優先度は落ちるが気掛かりなのが、かの男子部員の精神状態である。

 

 さすがの雪ノ下でも、彼が内心で退部を決意しているほどに深刻な状況だとは気付いていない。職場見学を終えて別れて以来、彼とも彼女とも会っていないのだから、それも無理のないことだろう。雪ノ下の精神状態を慮ってか、女子部員からのメッセージにも深刻な話は書かれていなかった。そもそも根が明るい性格の彼女にしてみれば、彼が独りでこれほどに拗らせているなど思いもよらない事である。心配している彼女の想像の更に下を行くのは、彼らしいと言えば彼らしいのだが。

 

 そして同時に雪ノ下は、喪失した自信が一朝一夕に戻るものではないことを身に滲みて理解している。意識を改めるにせよ、新しいことに挑戦するにせよ、とにかく彼に必要なのは時間だと考える雪ノ下は、部活が中止になることを前向きに捉えていた。週が明けて()()()を迎える頃には、彼も少しは落ち着きを取り戻しているだろう。

 

 今の雪ノ下にとっては、奉仕部の活動範囲をどの程度まで広げるべきかを考察する方が優先順位は高い。本音を言えば部長会議までに部員2人の意見を聞いて、常識的な見解や意外な観点からの指摘を得たかったところだが、無いものねだりをしても仕方がない。部活動を中止にして時間を置くことが彼にはプラスに働くと考える彼女は、部員に頼りたくなる気持ちを押し殺して考察に戻る。

 

 

 奉仕部は未だに総部員が3名しかいない。一方で、この世界に巻き込まれた時に彼女が行った演説やテニス勝負という一大興行によって、奉仕部の存在は部員達が思う以上に有名になっていた。もしも一般の生徒達から相談事を一斉に持ち込まれたら、奉仕部の機能がたちまちに不全と化すのは目に見えていた。

 

 現在のところは、依頼に顧問の許可が必要というハードルの高い条件があり、そして雪ノ下の凛とした佇まいに気圧される生徒が大多数なので、気軽に依頼を持ち込む者は出ていない。しかしそれは同時に、深刻な悩みを抱えている者が依頼に二の足を踏むことにも繋がっているだろう。その辺りのバランスをどう取るべきか。

 

 改めて初心に戻って色んな検討を加えた上で、雪ノ下は当初考えていた通りの結論でいこうと決意した。今までの顧問経由のルートに加えて、生徒会経由のルートでも依頼を受けてはどうかと彼女は考えていたのである。

 

 現生徒会長と彼女との関係は良好で、時々お昼休みにお忍びで部室に現れては紅茶を所望されるほどの仲である。部活動を気遣ってか放課後に来訪することはないが、生徒会長が特定の部室に入り浸っているなど過去に例のないことだろう。もちろん未来がどうなるかは誰にも判らないのだが。

 

 

 ひとまず奉仕部についての考察を終えて、ちょうど昼食も食べ終えた雪ノ下は、お茶を淹れようと椅子から立ち上がった。お湯を沸かしたポットは自動的に停止していて、少し温度を下げているはずである。湯冷ましに移した後で急須に注げば、煎茶にぴったりの温度になるだろう。

 

 そんなことを考えながら茶葉を急須に入れようとしたところで、雪ノ下はドアをノックする音を耳にしたのであった。

 

 

***

 

 

「さて。そろそろ新しいバイトに慣れてきた頃だと思うのだけれど、何か問題でもあったのかしら?」

 

 予定を変更して2人分のお茶を淹れて、それを突然の訪問者の前に差し出してから、雪ノ下はゆっくりと口を開いた。部室にいる2人の女子生徒は沈黙に慣れているのか、それまで必要最低限の会話しか交わしていなかったにもかかわらず、特に嫌な雰囲気は伝わって来ない。

 

「そっちはまあ、順調なんだけどさ。その、あの時に世話になったから、ちょっと気になったんだけど……」

 

 どう話せば良いのか悩んでいる様子で、川崎沙希は歯切れの悪い発言を続ける。だが雪ノ下は彼女の性格をとうに把握している為に、特に急かすでもなく、ゆっくりと頷いたり小首を傾げたりしながら、彼女が本題に触れるのを待っていた。

 

「昨日から、そっちの部員2人の様子が、ちょっと変な気がして……。あんたは大丈夫かなって、来てみたんだけどさ」

 

 言うまでもなく、彼女もまたぼっち気質を持っている。そんな川崎にとって同級生の特に異性の名を呼ぶのは心理的に抵抗があるのだろう。名前は名前でしかないと考える雪ノ下にとっては未だ理解しがたい感情ではあるが、少し照れ臭そうに何とか名前を出さずに話を続けようと努める彼女の姿は微笑ましいものだった。

 

「ええ、私は大丈夫なのだけれど……。うちの部員達が心配を掛けてしまったことを詫びるべきなのかしら?」

 

 聞くからに冗談だと判る口調で後半部分を付け加えて、雪ノ下は答える。彼女の返答を受けて川崎も少し気が楽になったのか、素直に思っていたことを語り始めた。

 

「あたしは別に良いんだけどさ。勝手に心配してるだけだし、クラスで直接尋ねようともしてないし」

 

 仲の良い友人2人に加えて男子グループなど大勢の生徒に囲まれている女子生徒に話しかけるのは、ぼっち気質の川崎には難しいことだろう。そして独りで過ごしているとはいえ男子生徒に話しかけるのもまた、彼女には難事だろう。

 

 だが、彼女は自分にできることを考えて、そしてこの部室まで様子を見に来てくれたのだ。そうした川崎の思考の流れをつぶさに読み取った雪ノ下は、笑みを深めながら彼女に簡単な説明を始めた。

 

「職場見学の時に、少し手厳しい指摘を受けたのだけれど……。彼はそれを今日まで引き摺っていて、彼女がそれを心配しているのだと思うわ」

 

 先ほど名前を言い淀んだ川崎に合わせる形で、部員の名を出さず代名詞を口にする雪ノ下であった。からかわれていると理解した川崎は少し不満そうな表情を浮かべるが、かといって挑発に乗る形で2人の名前を口にできるかというと難しい。そんなに簡単にぼっちは脱却できないのである。

 

 

「じゃあ、あたしに何か協力できることってある?」

 

 ゆえに川崎は端的に問い掛ける。2人が困った状況にあるのなら、助けるのが当たり前だと言わんばかりの口調で。そんな彼女と視線を合わせて、雪ノ下は今にも破顔しそうな表情で、具体的な提案を行うのであった。

 

「そうね……。今日は生徒会に相談を持ち掛けられたので部活を中止にする予定なのだけれど、その旨をメッセージにして、このお昼休みが終わる頃に2人に送信するわ。貴女には教室で待機してもらって、メッセージを受信した時の2人の様子を後で教えて貰えないかしら?」

 

「観察役ってことだね。休み時間の様子とかも報告したほうが良い?」

 

「そうね。可能な範囲でお願いできるかしら?生徒会の相談にどれだけ時間が掛かるか判らないのだけれど、貴女は今日のバイトは……」

 

「通常シフトだから家で夕食を食べて、その後なら別に何時でも……」

 

「なら、夜の9時頃にこちらから連絡するわね。それと、2人にメッセージを送る直前に貴女にまずお知らせするわ。他には……」

 

「それぐらいかな。あんまりプライバシーを探りすぎるのも悪いしね」

 

 問題点を共有した後はとんとん拍子に話が進んで、こうして雪ノ下の内心で懸念材料になっていた部員達の件は解決の糸口が見えてきた。とにかく情報を仕入れないことには何も始まらない以上、川崎の協力は願ったり叶ったりである。

 

 それに雪ノ下としては、彼のことは勿論だが、メッセージで不自然なほどに陽気な話しか書いて来ない彼女にも少し違和感を覚えていた。作ったような明るい表情を周囲に向ける人物と長年接してきた彼女にとって、その違和感は黙って見過ごせる類いのものではない。

 

「そうね。では、貴女には迷惑を掛ける形になるのだけれど、お願いするわ」

 

「あたしが無理に協力を言い出しただけだし、気にしなくていいよ」

 

 それぞれの発言を本音で言い合って、こうして珍しい2人による協力関係が成立したのであった。

 

 

***

 

 

 少し早めの時間に部室を後にして、予定通りに部員2人にメッセージを送って、この日の雪ノ下の昼休みは終わった。部員たちからの返信は予想の範疇で、男子部員からは素っ気ない了解の旨が、女子部員からは騒々しく部活の中止を残念がる内容が届いた。

 

 午後の授業は特に問題なく、こうして雪ノ下は放課後を迎えた。雨は依然として降り続いている。

 

 

 雪ノ下が生徒会室を訪れると、意外なことに生徒会長が1人で待っていた。伝言を伝えに来た生徒ぐらいは同席するだろうと思っていたので予想外の事態だったが、気心の知れた相手でもあるし、正直2人きりのほうが話がしやすいのも確かである。おそらく生徒会長がそうした事を考慮してくれたのだろう。

 

「わざわざ来て貰ってありがとねー」

 

 相変わらず、ぽわぽわとした雰囲気を周囲に撒き散らしながら、生徒会長の城廻めぐりが口を開いた。少しだけ首を振ることで応えた雪ノ下を親しげに見つめながら、彼女はまず用件を述べる。

 

「えっと、雪ノ下さんも予想してた通り、1つ目の議題は明日の部長会議のことね。それから2つめの議題は……こっちから済ませちゃおうか。あのね、奉仕部が行った職場見学の詳しい話を聞きたいんだけど、お願いできるかな?」

 

「それは……理由をお伺いしても?」

 

「うん、説明するね。月曜日の職場見学が終わってから、奉仕部の3人の様子が少し変だって、ちょっと噂になりかけてるのね。……あ、今回のは純粋に雪ノ下さん達を心配する感じの噂だから、身構えなくても大丈夫だよー」

 

「そうですか……。私はテスト明けで少し体調を崩しただけで、もう大丈夫です。昨日は部活が休みでしたので、職場見学の後は部員達に会っておらず、2人の事は分からないのですが……」

 

 余計な事は言わないようにしながらも、雪ノ下は特に警戒することなく状況をそのまま伝える。むしろ彼女としては情報が欲しいのが本音なので、生徒会が誇る情報収集の技術の粋を垣間見たいのが正直なところである。

 

「雪ノ下さんも含めてだけど、奉仕部の3人が揃って元気がないって心配してる生徒が何人か居てね。それで、奉仕部の見学先って運営の仕事場だったでしょ?だから、何か悪い情報があるんじゃないかって……」

 

 色んな事が腑に落ちた雪ノ下であった。確かにそれは周囲からすれば心配しても不思議ではないどころか、何としても詳細を知りたいと思うような事柄だろう。むしろ自分達に直接問い掛けてくる生徒が出ていないのが不思議なほどである。おそらく、目の前の人物が色々と手を回してくれたのだろう。

 

 納得したような表情を浮かべる雪ノ下を眺めながら、生徒会長は話を続ける。最後には笑顔を見せながら。

 

「だから、詳しい話が知りたいって気持ちもあるんだけど、まずは結論が知りたいかな。雪ノ下さんの表情を見る限り、たぶん大丈夫そうだけどね」

 

「ええ、私たち生徒全体にとって悪い話は全くありませんでした。ちょっと生意気な部員が鼻をへし折られた程度で、それもじきに解決すると思いますよ」

 

 協力者を得て解決に自信を深める雪ノ下は、軽い口調でそう答えた。今日は変な日である。いったい自分は何度笑顔を浮かべただろうか。そんな事を内心で考えながら、雪ノ下は話題を進める。

 

「では、職場見学の詳しい話はまた時間がある時に回して、本題に移りましょうか。部長会議が面倒な事になるのではないかと予想したのですが……」

 

 こうして、彼女らの相談はその後もしばらく続くのであった。




自業自得ですが、最近タイトルに苦慮しています……。

次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し解りにくいと思われる箇所に一文を加えました。(12/9)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/26)


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08.ゆるやかに彼の周囲が動きはじめる。

今回は八幡視点です。



 前日の夜に妹と楽しく時間を過ごして気持ちが少し軽くなったはずだったのに、比企谷八幡はこの日も起きてみれば憂鬱な気分を引き摺っていた。今日の放課後には嫌でもあの2人に会うことになるだろう。その場で退部を申し出る自身の姿を想像しただけで、彼は全てを放り出してどこかへ逃げ出したい心境に駆られた。

 

 妹との会話を寝不足を装って適当にやり過ごして、今日も早めの時間に登校するという彼女を見送ると、八幡は時間が許す限り、独り自室で放心していた。

 

 自分の恥ずかしい行動を後悔したり、それがもたらす影響を危惧して学校に行きたくないと思った時はあったが、今回はそうした過去の出来事とは少し事情が異なる。今はまだ起きていないということ。自分の行動が短期的には悪い状況を引き寄せると理解していること。そして今はまだ逃げようと思えば逃げられることなどである。

 

 

「なんで、上手くいくと、思い込んでたんだろな……」

 

 過去の黒歴史は多々あるが、それらの行動に出るまでの間は、彼は良い未来を夢想していたものだった。悪い結果になるなど夢にも思わず、この行動が最適だと、行動を起こすのは今この時だと思い込んでいたのである。彼が口を挟めば会話が盛り上がるはずだと、彼が告白をするのを相手は待っているはずだと、行動の直後まで彼は信じて疑わなかった。他者からの反応が返ってくるまで、彼は自らの勘違いに気付くことはなかったのである。

 

 何度か同じような経験をして、さすがの八幡も行動の途中で相手の不穏な空気を察することができるようになった。だがその時点で何か取り繕ったことを言おうとしても既に手遅れなケースがほとんどで、そして行動に出る前に対象者の反応を読むことは彼には依然として難しいことだった。事前に舞い上がってしまうのが原因なのか、それとも、そもそも自分は他人の心をまるで読めない出来損ないに過ぎないからなのか。

 

 いずれにせよ、彼はこの年齢にして他人への期待を捨てて、ぼっちとして過ごすことを決意したはずだった。高校1年の間はそれで何も問題はなかったのである。だが、生活指導の教師によって変な部活に入れられてから、彼を取り巻く全てが変わった。

 

 

 彼女ら2人に自分は何を期待していたのだろうと八幡は思う。素敵な複数の女の子になぜか惚れられるとか、ライトノベルでもあるまいに。普通の女子高校生に興味を持って貰えるような長所が自分には無いと知っている彼からすれば、そんな期待などできるはずもない。そんな風に斜に構えようとする八幡だが、とはいえ思春期男子の悲しい性で、そうした期待を全く抱かないというのも難しいものである。

 

 誰しも、自信というものを全く持たずに日常を過ごすことはできない。たとえそれが客観的には根拠に乏しいものだったり、他者を意味なく見下すものであったとしても。自信を持たない人はそれだけで精神的に不安定になるものである。では、彼はどうだったか。

 

 黒歴史を多く抱え他者への期待を捨てようと決意した八幡だが、それでも彼には密やかな自信があった。同じ中学からは誰一人挑戦しようとしなかった進学校に入学できたことは、彼にはとても重要な意味があった。独りの時間に濫読した小説、同じく時間を費やしたアニメやゲームからは、自分のセンスというものへの朧気な自信を得た。ネットでそれらへの感想を漁ることで、彼は自分の受け取り方のほうが優れていると、自分の分析の方がより深く真理に近いものだと確認できたのである。

 

 同時に彼は上には上がいるとも認識できていたので、それで有頂天になることはなかった。狭い範囲で得意になっているだけで、自分には普通の同級生から尊敬されるような長所は無いと、彼は頑なに考えていた。だが八幡自身は気付いていないが、一般の生徒に受けるような長所を持たないと彼が思い込むほどに、密かに彼が自信を持つ事柄を誰かに認めて欲しいという欲求が無意識下で増大していたのである。もしもそれを認めてくれるのがあの2人であれば、どんなにか素晴らしいことだろうか。

 

 

 今の八幡には、ここまで詳しい自己分析を行うことはできない。精神的な余裕がなく、他者と接した経験に乏しいゆえに。だが彼は、自分が何かをあの2人に期待していたと気付いていたし、それには性的な要素が全く絡んでいないとも思えなかった。あの2人が女の子だからこそ期待した部分があるのだろうと、彼は高校生にありがちな潔癖な思考で受け止める。だからこそ、彼は責任を取らねばならないのだと。逃げることなく、きちんと2人に退部を告げなければならないのだと。

 

「事故のせいで、そのマイナスをプラスに変えるとか、漫画なら王道なんだがな……」

 

 残念ながら、自分がヒーローなどとは縁遠い身だと知っている八幡には、出逢った切っ掛けを覆すことが可能だとは思えなかった。現実は非情である。どこまで行っても、彼と彼女らとは事故の気まずい過去を引き摺って、真実に打ち解け合うことなど無いのだろう。ならばこちらから、形式としては被害者だが事故を引き起こした張本人として、潔く関係を断ち切るべきなのだ。

 

 どうしてこんなにも2人との関係を断つことを焦っているのか、その決断に彼のどんな心情が影響しているのかを考察することなく、八幡は溜め息を1つついて登校の支度に移る。そして昨日と同様にショートカットをして、時間ギリギリに教室に滑り込むのであった。

 

 

***

 

 

 テストの解説で終わった昨日とは違い、本格的に授業が始まったお陰で、八幡は何とか集中を維持することができていた。ぼっちとは寄る辺のない者、誰にも頼ることはできない身である。自分で授業を聞いて自分でノートを取るしかない立場を定期的に自分に言い聞かせて、彼は午前中の授業を乗り切った。

 

 休み時間のたびに彼はすぐに廊下に出て、人がいなさそうな方向へとあてもなく歩いて行った。同じクラスの女子生徒の様子が気にならないと言えば嘘になるが、昨日見た屈託のない笑顔が今の彼には重くのし掛かっていて、とても視線を向ける気にならなかった。

 

 部活が休みと知って昨日はあれほど喜んでいた彼女である。今日の放課後のことを思って暗い表情でいても不思議ではないし、自分のせいで彼女に嫌な思いをさせるのは本意ではない。とにかく今日でちゃんと終わらせるから、2人には今後関わらないから今日だけは勘弁して欲しいと、彼はそんなことを内心で懺悔しながら休み時間を過ごす。一夜明けても誤解に気付かない八幡であった。

 

 

 お昼休みになって、彼は早々に教室を出ると購買に向かった。昨日は部室に誰もいなかったので避難先として活用できたが、今日はおそらく部長様が鎮座ましましているだろう。それに昨日は雨に打たれるという馬鹿げたことをしてしまったが、冷静に考えるとその行動は痛々しい。昨日は幸い誰にも気付かれなかったと思うが、2日続けて取る行動ではないだろう。

 

 晴れていれば何も悩むことはないのだがと内心で恨み言を呟きながら、彼はベストプレイスをぼんやりと眺める。無事に昼食は入手できたが、彼には落ち着ける場所がない。休み時間なら適当に歩き回って時間を潰せるが、動きながら食事を摂るわけにもいかない。昨日から降り続く雨は今もなお止む気配を見せず、静かに地面を叩き続けている。

 

 

「やはり、ここに居たか」

 

 そんな彼に、昨日に続いて話しかける声があった。部活の顧問でもある平塚静教諭の姿を目にして、いつも以上に逃げ出したい気持ちに駆られた八幡だったが、何とかそれを堪えて相手の出方を窺う。退部の為には、遅かれ早かれ対峙するしかない相手なのだ。

 

「……ふむ。まだ少し本調子ではないようだが……。車を出すから、ラーメンでも食べに行くかね?」

 

 生徒の励まし方が昭和の上司さながらの平塚先生であった。教師に誘われても気を遣うだけになりそうだから、元気付けようとするのならば放っておいて欲しいと思いつつも、八幡はなぜか悪い気はしなかった。だから彼は苦笑しながら軽口を叩く。

 

「いや、これ買っちゃいましたし。それに特定の生徒を特別扱いとかしたら、教育委員会に怒られますよ」

 

 もちろん教師の側としても言い分はある。もし誰か他の教師が彼女の行動を問題視したとしても、精神的に落ち込んでいる生徒へのフォローという形で丸く収める自信が彼女にはあった。

 

 若いから当然という理由もあるが、彼女は伊達に面倒な雑務を引き受けているわけではない。いざという時に物を言うのは普段からの行動だと知っている彼女は、目の前の生徒の為であれば、日頃積み立てた信用に訴える事を躊躇しないだろう。

 

「大人の事情を心配する暇があったら、君はまずいつもの調子を取り戻したまえ。教師の心配をするなど……十年早いんだよ!」

 

「あなたには功夫が足りないわ、でしたっけ?まあ、十年の差って大きいですからね」

 

「グ……ズ……ギャアアアム!」

 

 まだお昼だけどお家に帰ろうかなと、残念ながら目の前の生徒には通じていなさそうな断末魔を上げながら、密かにむせび泣く平塚先生であった。

 

 黒髪の女子生徒から、彼を元気付ける手段を考えておいて欲しいと頼まれた平塚先生だったが、彼女にできるのはこの程度である。教師と生徒という立場の違いもあれば、非常に不本意な話ではあるが年齢の差も、ごく僅かほんの少しぐらいはあるのかもしれない。やはり生徒同士に任せようと少しだけ寂しそうな表情を見せて、彼女は口を開く。

 

「どうやら自分で何とかする気はあるようだし、ならば私は何も言わないでおくよ。君達のことは君達で決めたまえ。だが……見たところ、君は昼食を摂る場所に困っている様だが?」

 

 しかし、彼よりもちょっとだけ年長の者としては、言い負かされたままでは終われない。教師は一転して楽しそうな表情を浮かべて、手の掛かる生徒にこんな提案を行う。

 

「私は職員室で作業があるが、空き教室を手配しよう。付いて来たまえ」

 

 独りで過ごす孤独の時間が思春期の生徒達にとって悪いことばかりではないと知っている彼女は、せめて自分に手助けできることをと考えたのである。彼がじっくりと独りの時間を使って、良い未来を選んでくれることを願いつつ、彼女は生徒を空き教室に残して去って行くのであった。

 

 

***

 

 

 少し毒気を抜かれた気分になって、八幡は残りの昼休みを過ごした。本来ならば午後の授業が始まるギリギリまでクラスには帰らないつもりだったが、何だか自分が幼稚なことをしているような気がして来て、彼は少し早めに教室に戻ることにする。長い髪をポニーテールにまとめた女子生徒が彼の帰りをやきもきしながら待っていたことに、彼は当然ながら気付かない。メッセージを受け取った時の表情を彼女に見られていたことにも。

 

 部長様からの直々のメッセージを目にして、八幡は肩すかしを食らったような心境に陥った。今日の放課後に全てを片付けると意気込んでいたのが、今日も部活は中止だと言われたのだからそれも当然だろう。生徒会からの相談が何なのかは少し気になるが、しかし退部する彼には関係のないことである。辞めるのが今日から明日に延びただけだ。

 

 再び硬い表情を浮かべようと考える八幡だったが、なぜか上手くいかなかった。彼は明らかに安心しているのだ。退部が明日に順延になったことで、彼は安堵しているのだ。そんな自分を少し情けなく思いながら、彼は簡単に返信をしたためる。何か余計な事を書いてしまったら、自分が考えていることを残らず吐露してしまいそうな気がして、彼は端的に了解の旨を返した。

 

 返事を終えても、困ったことに昼休みはまだ少し残っていた。手持ちぶさたの彼は同じクラスの女子生徒の様子が気になって仕方なかったのだが、笑顔の彼女を目にしてショックを受けるのも嫌なので確認することもできない。何度か彼女の方角へと視線を向けようとして、そのたびにぎこちなく向き直り、自分の机の一点を見つめ直す八幡であった。

 

 

 その後は何事もなく授業を終えて、彼らは放課後を迎えた。今日の部活は中止と知って昼休みに安心したのも束の間、八幡は再び落ち着かない気分に襲われていた。

 

 もしも一旦気持ちが切れた今の状態で、やっぱり中止は無かったことにと言われてしまうと非常に厄介である。そんな可能性はほとんど無いと解っているのに、彼は変な思い付きから思考を逸らすことができない。もし今日部活があれば、彼は退部のことを言い出すなど不可能だろう。もしやこれは部長様の高度な策略ではないか。

 

 自分の中で冗談にして余裕を取り戻したいのか、それとも大真面目にそんな可能性を危惧しているのかも判らなくなって、彼は一刻も早く教室を出ようと決意した。ホームルームが終わるやいなや、八幡は静かにしかし滑らかな動作で教室を出て、そして個室を経由してショートカットで帰宅する。そうした行動の全てを観察されているとは思いもせずに。

 

 連日の早い時間帯での帰宅になったが、残念なことに家でやるべきことがない。帰宅後すぐに勉強に取り組む気にはなれないし、かといって集中力に欠いた現状では本を読むのも遊ぶのも味気ないだろう。それに、なんだか独りでじっとしているのも気が滅入ってきた。

 

 理想を言えば何かで身体を動かしたかったところだが、独りでできる事など限られているし、万が一でも知り合いに見られるのは避けたいところである。自意識過剰だと自分でも判ってはいるのだが、そう考えてしまうのだから仕方がない。

 

 どうしたものかと少しだけ悩んだ末に、彼は私服に着替えて家を出るのであった。

 




次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を1つ修正しました。(12/16)
細かな表現を修正しました。(2/20)


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09.きっと彼女は決意を果たすことになる。

今回は由比ヶ浜視点です。



 テストの返却と解説だけで普段よりも早い時間に授業が終わった昨日の放課後、由比ヶ浜結衣は仲の良い2人と楽しい時間を過ごして気分をリフレッシュできた。丸一日にわたって連絡が無かった部活仲間の女子生徒からメッセージが届いたおかげで、肩の荷が半分下りたように感じられたことがその要因である。

 

 彼女はまずあたしが元気になろうと改めて自分に言い聞かせた。親しい仲の2人と一緒に過ごす時間はこれからも多く得られるのだろうが、だからといって楽しく遊べるせっかくの機会を塞ぎ込んだ気持ちのまま消費してしまうのは彼女たちにも失礼だ。

 

 親しき仲にも、などと堅苦しい事を考えたわけではないが、それが友人に対する当然の礼儀だと考える由比ヶ浜は、その日は率先して場の盛り上げに貢献した。彼女が得意とする役割を完璧に果たしたことで、昨日の放課後は参加者のいずれにとっても楽しい一時となったのである。

 

 

 一夜明けて、すっかり元の調子を取り戻せたと思っていた由比ヶ浜だったが、残念ながら事はそう簡単には運ばなかった。今や彼女にとって唯一の気掛かりとなっているクラスメイトの男子生徒が、昨日と変わらぬ調子で今日も孤高を貫いていたからである。

 

 休み時間に続いてお昼休みにもすぐさま教室から出て行く彼の背中に「俺と関わるな」と大書されているような気がして、由比ヶ浜は朝方の元気を使い果たし、いつしか沈み込みがちになっていた。こんな事で、今日の放課後に一緒に部活などできるのだろうか。そもそも、彼はもう部活に来てくれないのではなかろうか。

 

 2日前のことになるが、職場見学当日の夜に頼れる友人たちと相談した際、彼が部活を辞めるという未来は顧問の先生がいる限りは実現しないだろうという話になった。だが、いくら理性でそう言い聞かせても、もしもの事を考えてしまうと心中はたちまち落ち着かなくなる。彼が奉仕部から去ってしまった未来を想像するだけで、由比ヶ浜の楽しい高校生活は味気のないものへと変貌を遂げてしまうのである。

 

 彼女は複雑な考察は得意ではない。もしも部から去るのがあの女子生徒だったとしたら、由比ヶ浜は今と同じような感情を抱くのだろうか。もしも部を辞める生徒の相違によって受ける印象に違いがあるのであれば、それは何に由来するものなのだろうか。そうした疑問を彼女が覚える事はない。彼女にとっては嫌な未来だという以上の詳細など必要ないのである。

 

 だから由比ヶ浜は決意を固める。詳しいことを考えるのは自分の性分に合わない。とにかく自分が果たすべきは、彼を奉仕部に引き留めることである。前日の気の置けない友人たちとの楽しい時間のお陰で、自身が果たすべき役割について自信を取り戻すことができた由比ヶ浜は、物事を単純に考えることに決めた。

 

 あれもこれもと考えた結果、全てを疎かにしてしまうのではなく、目の前にある事を1つずつ片付けていこう。そう考えて、少し無理矢理ではあったが由比ヶ浜は笑顔を浮かべた。そして自分の心境を目の前の2人に説明しながら、彼女は来たるべき放課後に備えるのであった。

 

 昨日から降り続く雨は今もなお止む気配を見せず、静かに教室の窓ガラスを叩き続けている。

 

 

***

 

 

 てっきり午後の授業が始まる直前まで戻って来ないと思っていたのに、予想外に件の男子生徒は少し早めの時間に教室に帰ってきた。気のせいか、午前中には明確に感じられた張り詰めた気配が少し和らいだようにも思えて、由比ヶ浜は首を傾げながらも表情を少し緩ませる。

 

 あまりじろじろと見ていると他のクラスメイトから変な風に思われるかもしれないので、由比ヶ浜は意識を自分の周囲に戻して、雑談に加わるチャンスを窺う。教室では普段通りに過ごすのだと思いながら友人たちの会話を耳に入れようとしたちょうどその時、彼女にメッセージが届いた。

 

 

『拝啓。雨が降り止む気配がなく、じめじめした毎日ですね。毎食ごとに献立の写真を送られても反応に困るのだけれど、その後も変わりなさそうで何よりです。さて、昨日の今日で申し訳ないのですが、唐突に生徒会から相談を持ち込まれて、今日の放課後に話を聞いてくる予定です。どうやら長くなりそうなので、部活は休みにしてはどうかと提案されました。明日も部長会議があるので部活がどうなるか、その辺りも話を聞いてこようと思っています。今日のところは部活は中止ということで、楽しい放課後をお過ごし下さい。かしこ』

 

 

 せっかく放課後の部活に向けて意気込んでいたというのに、予想外の展開に由比ヶ浜は頭を働かせることができない。首を捻りながら、無言でメッセージを示しつつ助けを求める視線を寄越す彼女の姿を見て、三浦優美子と海老名姫菜は思わず微苦笑するのであった。いつもと同様に周囲に声が漏れない設定に変えて、彼女らは思ったことを順に口にする。

 

「なんて言うか、間が悪いって言ったら良いのか、時間が稼げたと良い方向に受け取ったら良いのか、うーん……」

 

「難しく考えても仕方ないし、今日の部活は無しって事だけ受け止めれば良いし」

 

「うん、まあそうだね。どうする?今日も遊びに行く?」

 

 そう提案してくれる海老名だが、今日の放課後は部活があると思っていたので彼女ら3人は別行動の予定だった。三浦は久しぶりにテニスで身体を動かすと言っていた気がするし、海老名も創作活動で手を動かすと言っていたはずだ。由比ヶ浜はそうしたことを思い出して、かぶりを振って提案を断る。

 

「優美子も姫菜も、今日は別行動って言ってたじゃん。あたしは、その……ちょっとだけ成績も上がったし、もう少し勉強にも時間を使ってみようかなー、なんて思ってたりして、えっと……」

 

 しどろもどろの口調ではあったが、由比ヶ浜が口にする内容はその場凌ぎの言い訳ではなく本心からのものであると、彼女ら2人はきちんと理解していた。たとえ進学校であっても、下手にガリ勉のようなことを言い出すと渋い顔をされる場合があるのだが、3人の仲は既にそんな次元ではない。それに彼女らにしてみれば、由比ヶ浜が誰と誰を意識してこんな事を言い出したのかまで丸分かりである。

 

「じゃあさ、私は空き教室で夏コミのプロットを練る予定だから、その横で勉強したら?」

 

「なつこみのぷろっと?」

 

 中臣鎌足と同じような発音で、聞き慣れない言葉を繰り返す由比ヶ浜であった。勉強に関する単語かと思ったが、練るということは食べ物なのだろうか。おやつまで用意してくれるとは勉強には最適の環境と言えるのだろうが、さすがに甘えすぎではなかろうか。

 

 由比ヶ浜がそんな見当違いなことを考えているとはつゆ知らず、だが無邪気な疑問を浮かべている様子が伝わって来るので、海老名は珍しく暴走することなく普通に説明を行う。

 

「うん。やっぱり締め切りがないと中途半端になっちゃうからね。夏コミっていう夏のイベントがあるんだけど、その時期に間に合うように作品を仕上げようかなって」

 

 自分が打ち込んでいることを気を許した2人に説明できる嬉しさのあまり、彼女は腐った気配をまとうこともなく普通の高校生のような笑顔を浮かべている。そんな表情の海老名を目にして嬉しい気持ちが伝染していることを自覚しながら、作品の内容には決して触れないようにと互いに目配せを交わす2人であった。

 

 

***

 

 

 放課後の行動を相談していたらお昼休みが終わってしまったので、由比ヶ浜は次の休み時間にメッセージを返信することにした。明日の部活もどうなるか判らないと書いてあるのが不安材料だが、彼女が好きこのんで予定を変更しているわけではないとは由比ヶ浜も理解できるだけに、強くは言えない。

 

 結局、部活が無いのを寂しく思う気持ちと、彼女に会えないのを残念に思う気持ちと、写真をちゃんと見てくれている事へのお礼および今後とも送付を継続する誓いと、あれやこれやを音声入力で詰め込んで返事を済ませて、由比ヶ浜の休み時間は終わった。昨日までは無理矢理に気持ちを奮い立たせてメッセージを送っていたきらいがあったが、今の彼女は自然体に近い。かの女子生徒との仲はほぼ元通りになったと、由比ヶ浜としても手応えを得ているのだろう。

 

 そのまま放課後を迎え、由比ヶ浜は海老名からの提案を受け入れることにした。もう1人の部員との関係を早く改善したい気持ちは強くあるが、彼は今日もホームルームが終わってすぐに姿を消した。仕方がないと何度も自分に言い聞かせながら、1つずつやるべき事を済ませていこうと決意を新たにする由比ヶ浜であった。

 

 雨は依然として降り続いている。

 

 

***

 

 

 テスト期間でもないのに放課後にも夕食後にも勉強をして、その日の由比ヶ浜はいつも以上に熟睡して次の日を迎えた。たまには勉強するのも良いものだ。それにこの調子だと次の期末試験でも良い結果が得られそうだ。わずか1日の勉強だけで調子に乗ってしまう由比ヶ浜であった。

 

 女子のトップカーストの中でもムードメーカーと言うべき由比ヶ浜の機嫌が良く、そして彼女と仲が良い2人の女子生徒も昨日の放課後にそれぞれ満足のいく活動ができたことで、今日の2年F組は普段通りの活況を呈していた。ここ数日の微妙な雰囲気を憂えていた生徒たちも、今日は安心して過ごせている様子である。

 

 残念ながら、今日も時間ギリギリに教室に入ってきた男子生徒だけは、そうしたクラスの盛り上がりにも我関せずという態度である。由比ヶ浜がこっそりと観察したところ、彼は昨日にも増して暗い空気を漂わせているように見えた。そんな彼の印象は彼女の心を当然のごとく傷付けたが、だが3日連続となるとある程度は慣れるものである。

 

 彼女が薄情で冷淡な性格だからではなく、彼女が既に決意を終えているがゆえに、この日の由比ヶ浜は一向に上向かない様子の彼を見ても必要以上に落ち込むことはなかった。とにかく彼女が果たすべきは彼を奉仕部に引き留めるという、ただそれだけの事なのである。

 

 

 この日もお昼休みにメッセージが届いて、やはり部長会議の為に部活は中止になるという話だった。彼女らにとって意外だったのは、中止になるのは奉仕部だけでなく、おおよそ全ての部活が今日は中止になるという事である。生徒会からの一斉通知という形でそれを知ったクラスメイト達は大騒ぎをしているが、一足先にそれを知った由比ヶ浜たちも喧噪から無縁ではない。

 

 生徒会が部長会議をいかに重視しているかがその通知からは伝わって来るが、理由が判然としないだけに、クラス内では生徒会役員へのぼやきの声なども出始めていた。なお、そこで会長を悪く言う声が出ない辺りはさすがと言って良いのだろう。

 

 総武高校には部活もあれば同好会もあるが、それらを分けるのはひとえに予算の有無である。予算の分配を求めない同好会は今回の生徒会の決定にも従う必要はないが、部活である限りは今日は活動を認めない。とにかく部長会議の結果を待て、という通知である。生徒会がこれほどに権力を振りかざす姿は、入学以来誰も見たことのないものだった。

 

 詳しい事情は判らないが、同じ部活の女子生徒が生徒会の決定に一枚噛んでいるのは間違いないのだろう。展開によっては生徒会が四面楚歌の状況に陥りかねないと思えるほどに、クラス内の混乱はまるで収まる気配がない。騒がしい同級生たちを眺めながら、責任感の強い黒髪の彼女に彼らの怒りの矛先が向かわないようにと密かに願う由比ヶ浜であった。

 

 

「じゃ、放課後どうするし?」

 

 仲の良い女子生徒を心配するあまり心ここにあらずという様子の由比ヶ浜だったが、冷静な声を耳にしたことで少し落ち着きを取り戻した。単に遊ぶ予定を相談するだけという軽い口調の三浦だったが、その真意は遊ぶ相談ではなく傍らの友人たちを落ち着かせる事にあったと、当の2人はすぐさま気付いた。

 

「私は……ちょっと予定があるから、今日は無理かな」

 

 何かを考えながらも、海老名はすぐに反応を返す。彼女が言う予定は前もって決まっていた事ではなく、むしろたった今できたような口調だったが、彼女がそれ以上の説明をする気配を見せない以上は詳しいことは判らない。

 

 だが、そのうち話してくれるだろうと海老名を信頼している2人は、そんな彼女の様子にも不満げな反応を見せていない。自然な流れのまま、今度は由比ヶ浜が三浦の問い掛けに答える。

 

「うーん……。じゃあ適当にお店をぶらついて、お茶でもする?あたしはちょっと外に出たい気分なんだけど……」

 

「ならそれでいいし。姫菜も無理すんなし」

 

「大丈夫だよー。じゃあ夜に報告して貰うから、2人で楽しんできてね」

 

 すっかり普段の調子を取り戻して、海老名はそう答えた。周囲では未だ騒ぎが収まっていないが、これもなるようにしかならないだろう。とにかく部長会議の結果を待つしか手はないのである。

 

 

 こうして落ち着かない雰囲気を午後の授業にも引き摺って、この日も放課後を迎えた。仲の良い3人娘は一旦解散して、海老名は1人でいずこかへ、そして残った彼女らは3()()で行きつけの喫茶店にて時間を過ごすことになるのであった。

 




前回の更新後に通算UAが8万を超えました。
本章に入ってからの八幡は悩んでばかりで申し訳ないですが、章が終わる頃には少し成長した姿をお見せできるように、何とかそこに物語を持って行きたいと思っています。
引き続き、本作を宜しくお願いします。

次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/16,23)


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10.のんべんだらりと彼は放課後を満喫する。

今回は八幡視点です。以下、ここまでのあらすじ。

 月曜の職場見学後の決別から、八幡はぼっちを貫いていた。
 火曜は休み時間のほとんどを教室外で過ごし、部活が中止になったのを幸いと放課後もすぐに帰宅した。月曜夜の妹との仲違いは翌日和解できたが、自身の勘違いも加わって、奉仕部を頑なに拒絶する姿勢は日ごとに増すばかりだった。

 退部を申し出る予定だった水曜も部活は中止となり、八幡は肩すかしを食らう。お昼休みには平塚先生から恩情をかけられ、空き教室に居場所を得た。こうした予想外の事態に混乱する八幡は、この日も逃げるように帰宅したものの。家にいてもどこか落ち着かない。
 そこで八幡は家の外に出ることにした。



 何かに追い立てられるような心境で家を出て、比企谷八幡は行き先を決めることなく歩を進める。

 

 独りの散歩は考えごとをするには最適だが、今は頭を使いたい気分ではなかった。だから、ただ足の向くままに、身体を動かすことだけを意識する。全力で現実逃避をしているようなものだが、職場見学からずっと考え通しだったせいか、頭を空っぽにするのが心地よい。

 

「今から……どうしたもんかね」

 

 とはいえ雑念を遮断し続けることはできない。

 家から離れるにつれて、更に遠くへ行きたいという希望が頭をもたげてきて、八幡はしばし惑う。だが、この世界はいまだ千葉と東京の二都県のみ。遠出と言ってもたかがしれている。

 

「そういえば、前に小町と……東京駅、か」

 

 この世界では交通機関はすべて乗り放題だ。四月下旬に校外へと世界が広がった当初は範囲が限定されていたのだが、連休明けには無制限になった。

 

 ちょうど最寄りの駅に着いたので、八幡はその足で京葉線快速に乗り込んだ。妹と「東京駅に早く着くのは良いが他のホームが遠すぎる」と変なノリで盛り上がったのを思い出したからだ。

 総武線快速は階段が長いし、総武線各駅は東京駅に行かないし、などと話が続いたのだったか。千葉の兄妹らしい会話だったなと、八幡は苦笑する。

 

「すっかり忘れてたけど、電車の移動時間はゼロにできたんだよな。現実と同じ時間を費やすか、即座に目的地に移動するかを選べたはずだが……何も考えず普通に乗っちまったな。ま、いいか」

 

 車窓から沿線の景色を堪能しながら、八幡はまだ校外に出られなかった頃を思い出す。

 あの時にクッキーの焼き時間を短縮したように。無駄な時間を省けるのは、この世界ならではの特徴と言って良いのだろう。何より、両方を選択できるのが良い。

 

 駅までの道を頭を空っぽにして歩き、電車内でもぼーっと過ごしていたおかげか、妙に頭がすっきりしている。これなら時間をかけたかいがあったというものだ。

 

「……覚悟はしてたけど、東京駅の構造も現実通りみたいだな」

 

 駅のホームに降りると同時に不満がもれる。とはいえ、こんな軽口を叩けるぐらいには、八幡の精神状態は改善していた。

 

 

***

 

 

「とりあえず……構内図でも探すか」

 

 東京駅に降り立ったものの、別段なにも用事はない。駅を出てもいいし、他の路線に乗り換えてもいい。構内でぶらぶらするのも、このまま帰路に就くのも、すべては八幡の思うがままだ。何よりも、今この周辺には誰も知り合いがいない。

 

 八幡は久方ぶりの開放感に浸りながら、好奇心の赴くままに動き始める。

 

 現実の世界でもここに来たことはあったが、たいていは目的地に向けて通り過ぎるだけだった。だが今は特に目的はない。ならばこの機会に、少しは東京駅に詳しくなってやるかと八幡は考えた。駅から移動するのは、その後でも遅くはない。

 

「出口はバーもなくて通るだけか。確かに切符とか要らないもんな。駅員の数も少なそうだし……乗客はこんなに多いのにな。NPCかプレイヤーか知らんけど、みんなどこに行くんですかね」

 

 道すがら改札口があったので観察してみると、やはり細かな部分では現実世界と違いがある。いつぞや部長様が、この世界での出店傾向を分析してレアアイテムを入手したとか言っていたが。そうした報酬がなくても、現実と違う部分を見て回るだけでも面白そうだなと八幡は思う。

 

「部活をやってたのが、ずいぶん昔に感じるな……。ん、あれは駅ナカか。色んな物を売ってそうだな」

 

 少しだけ感傷に浸ったものの、すぐに気を取り直して、八幡は周囲に目を向ける。

 

「みんな土産とか買って帰るんだろうな。俺は……あ、小町に土産か。それも良いかもな」

 

 東京駅に着くまでは、日常の空間から少しでも遠くに逃げることだけを考えていた。妹との会話を思い出してもなお、八幡を引き留めるには至らなかった。だが、のんびりと電車に揺られたおかげで今は気持ちに余裕がある。

 

「俺が悪いのに小町と喧嘩したり、あげく東京駅まで逃避行とか、冷静に考えると馬鹿なことをしてるよな。ちゃんと帰るのは当然として、土産ぐらいは買って帰ってやらないとな」

 

 このところ関係がぎくしゃくしていたが、その原因は自分にあるのだから。そう考えながら、妹の好みを思い出して候補を絞り込む。

 

 東京ばなな、豆大福、かすてらフレトー辺りが妥当だろうと考えたところで、八幡はNPCとおぼしき売り子さんに話しかけた。

 

 

「すみません、これって試食とか?」

「ご遠慮なくどうぞ。商品は五つセットだとお安くなります。一番人気はこちらの……」

 

 具体的な質問をせずとも、売り子さんは淀みのない口調で的確に説明してくれた。どれもこれもおいしいので、試食を重ねるほどに迷いが深まる気がする。

 八幡は熟慮の末に、清水の舞台から飛び降りる気持ちで和菓子を購入した。

 

 大仕事をやり終えた後のような疲労感を覚えた八幡は、構内図を探して闇雲に歩き回るのが億劫になって、何の気なしに口を開く。

 

「あ、この近くに構内図とか無いですかね?」

「申し訳ありません。私どもには分かりません」

 

 その平坦な口調に、違和感を覚えた。

 

 売り子さんは生身の人間ではなくNPCだったなと思い出しながら、八幡は考察を進める。これは「商品以外の知識を持っていない」ということなのか。要チェックや、と心の中でつぶやきながら質問を重ねる。

 

「近くに駅員さんがいるところって分かります?」

「申し訳ありません。私どもには分かりません」

 

「売り物のこと以外に何か教えてもらえることって無いですか?」

「申し訳ありません。私どもには分かりません」

 

 他人と話すときには挙動不審になりがちな八幡だが、喋るのが苦手というわけではない。気心の知れた相手だと饒舌になることも多いし、落ち着いてさえいれば想定外の発言にも対応できる。

 問題は、親しい相手がほとんどいないので、緊張しながら話さざるを得ないことだが。NPCが相手なら身構える必要もない。

 

 売り子さんとの会話は滞りなく済んで、確認したいことを尋ね終えた八幡は「ふう」と一つ息を吐いた。

 

 

 売り子さんにお礼を言って駅ナカを後にする。

 定型文しか返さないNPCと会話を続けるよりは足を動かす方がましだと、構内を適当に歩いていると、壁面に大きく引き延ばされた構内図を発見した。八幡はそれを常時確認できるようにpdfで保存する。

 

 時刻を確認してみると、駅に着いてからさほど経っていない。八幡は先程の会話を思い出しながら、疲労と好奇心を天秤にかける。

 

 一字一句違わない返事を繰り返されるのはつらいが、駅員もすべてNPCなのだろうか。いや、たとえ全員がNPCだとしても、現実との違いを語ってくれるのならば聞いてみたい。これがゲームなら、その手の情報を教えてくれそうなものだし、尋ねるなら駅員さんが最適だろう。

 

 せっかくここまで来たのだし、同じセリフを言い始めたらすぐに切り上げれば良い。そう考えた八幡は、構内図とにらめっこを始める。

 

「この近くで駅員がいるとしたら、ここか。最初は道案内で話しかけて、その後どうするかだな」

 

 せっかく現実とは違う世界にいるのだから、「アンビリーバブルや」と思わせて欲しい。そんな淡い期待を抱きながら、八幡は気軽な口調で話しかける。

 

「すみません、八重洲口の改札って?」

「八重洲中央口改札でしたら……」

 

 先程の売り子さんと同様に、こちらの質問に答える声は淀みなく、返事の内容も必要十分なものだ。でも仕事以外の情報は持っていないだろうなと、心の中で予防線を張りつつ。八幡はついでを装って口を開く。

 

「道案内以外で何か教えてもらえることって無いですか?」

「ふむ。では最近一押しのスイーツについて教えてあげよう」

 

 予想外の返答に目を白黒させている八幡に、その駅員は熱のこもった声で情報を語る。最後にはこんなことまで教えてくれた。

 

「他の駅員にも色々と尋ねてみなさい。もし君が全員から情報を得られたら、駅長室に行ってみると良い。レアな情報を教えてくれるはずだ」

「あ、えと、ありがとうございます」

 

 意外な展開に顔がにやけてしまう。

 先ほど入手したpdfを詳細に眺めて、八幡は駅員がいそうな場所をしらみつぶしに歩いて回った。幻の車両について熱く語る鉄道マニアの駅員は話が長すぎて閉口したが、それも含めて教えられた情報はいずれも興味深いものばかりだった。

 

「よし。総勢十名って言ってたし、あとは駅長だけだ!」

 

 意気揚々と駅長室に乗り込んだ八幡は条件のクリアを知らされ、選択肢を提示される。

 駅長から教えてもらえるレア情報の筆頭には、こう書かれていた。

 

 

『東京駅の0番ホームについて』

 

 

***

 

 

 中間試験の少し前に、川崎沙希の問題を解決した。あの時に川崎は「ゲームの世界に繋がる扉が東京駅の0番ホームにある」と言った。お店のNPCから聞いたので情報は確かだと。

 

 家族思いの川崎は、ゲームの世界で金銭を稼ぐリスクはリターンに合わないと考えた。だから東京駅まで足を運ぼうとはしなかった。そもそも扉を開く鍵の情報は皆無と言って良く、情報が集まりやすいはずのバーですら雲を掴むような状況だったのだ。

 

「(ゲームの世界か……。小町が心配するだろうし、今日これから行くのは論外だな。家を出た時の心理状態だったら食い付いてたかもって考えると、妹の存在は偉大だな。土産を買って正解だったわ)」

 

 途中からは思考がそれたものの、おかげで落ち着きが戻った。くしくも川崎があの時に口にしたように、八幡もまた、家族の為にも万が一にも死ぬわけにはいかない身だ。これ以上の冒険は避けるべきだろう。

 

 だが、事はそれほど単純ではない。

 

「(扉の情報って、こんなに簡単にゲットできるのか。もし小町や戸塚が、それにあいつら二人がゲームの世界に巻き込まれたら……いや、落ち着け。あいつらはそんな無鉄砲なことはしないはずだ。とはいえ、もう少し詳しく知っておいたほうが良いな)」

 

 駅員全員から話を聞くという条件は、難度が高いとはとても思えない。そんな程度でゲームの世界に行けるのだとすれば、この世界で生きる者に致命的な展開をもたらすおそれがある。この情報を知らんぷりするわけにはいかない。

 

「(べ、別に俺はあの二人の為に動くわけじゃないから。小町や戸塚が巻き込まれないように考えるついでなんだから、勘違いしないでよね……って、勘違いしてたのは俺なんだけどなー)」

 

 扉のことを詳しく知る必要がある。その為には普段以上に冷静にならなければ。

 八幡はそう考えて独りでボケとツッコミを行ってみた。自分の指摘で心が折れかけたが、腹はくくれた気がする。

 

 意を決して、八幡は駅長に話しかけた。

 

 

「えーと、選ぶ前に質問とかって可能ですか?」

「答えられない質問もあるが、答えられる限りは答えよう」

 

 疑い出せばきりがないが、駅長の態度からして嘘を掴まされる事はなさそうだ。運営の性格的にも、その手の罠は考えにくい。

 八幡はそう判断して考察を加速させる。

 

「じゃあ、質問に問題があったらペナルティを喰らうとかあります?」

「ない。君がクリアした条件が白紙に戻ることもない」

 

 慎重に少しずつ確認を進めていこうと考える八幡は、続けざまに問いを発する。

 

「この選択肢ってどの時点で、例えば指で差すだけでも確定するんですか?」

「確定の前に必ず最終確認をするから、心配しなくてもよろしい」

 

 商品の説明しかできない店員さんと比べると、面白い情報を教えてくれた駅員さんは同じNPCでも、より人間味があった。目の前の駅長さんに至っては、生身の人間との違いをほとんど感じない。それどころか親しく思われている気さえした。

 

 考えてみれば、NPCは他者に複雑な感情を抱く必要がないのだから、それも当然かもしれない。そもそも……。緊急性のない考察をここで何とか押しとどめて、八幡は再び口を開く。

 一つの仮説を確認するために。

 

「じゃあ……この選択肢って全員に共通なんですかね?」

「違う」

 

 核心に触れる質問だからか、駅長の返答はシンプルだった。

 八幡は頭の中で仮説を検証する。

 

「(つまり、俺が何かの条件をクリアした状態だから、あの選択肢が出て来たって考えて良さそうだな。一番考えられるのは、やっぱりこれか)」

 

「俺が川崎から0番ホームの話を聞いてたから、この選択肢が先頭に出てきただけで。知らない場合は別の選択肢が出て来た、で合ってますかね?」

「正解だが。それで、君はどうするかね。一度クリアした条件が白紙に戻ることはないので、日を改めて聞きに来てくれても良いが?」

「ええ。よく考えて、必要ならまた聞きに来ますよ」

 

 現時点で0番ホームの話を知っているのは、あの時の面々のみ。八幡も部活をしていなければ知ることはなかったはずだし、川崎が誰かに話すとも思えない。お金に困らない限りは「ゲームの世界で稼ぐ」という情報を得られないし、バーの店員が情報元というのも難度が高そうだ。

 

 そう考えた八幡は、へたに詳細を聞かないほうが良いと結論付けた。

 

 落ち着いた口調で迷いなく返事を伝えると、気のせいか駅長が笑顔を浮かべたように見えた。首を傾げそうになった八幡だが、この駅長なら不思議ではないと思い直す。

 

 八幡には知る由もない事だが、実は駅長はゲームの世界へ向かう人物を見極める第一の番人とも言うべき役割を負っていた。この男子生徒なら無謀な行動はすまいとの判断が、微妙に表情に出たのだろう。

 

 無事に対話を終えた満足感に浸りながら、時刻を確認する。駅長室から辞去すべく立ち上がった八幡はふと「また遊びに来ても良いな」と思った。NPCのバーテンダーに会いに行こうとする教師といい、変なところで似ている師弟だった。

 

 

***

 

 

「ふう。ここまで戻って来たか」

 

 妹より先に帰宅したかったので、帰りは時間を短縮して最寄り駅まで移動した。八幡はそのまま自宅へと向かう。気まぐれで始めた冒険の余波なのか、興奮がまだ残っている。

 

 先程のやり取りを思い出しながら、八幡はうまく事を運べたことに安堵していた。そんな些細な成果が、八幡の自信を少しだけ回復させ、視野を僅かに広げていた。

 

 自分ではいまだ気付いていないが、東京駅に行く前と比べると八幡は決定的に変化していた。その違いは微少なものだが、しかし明確に違う。

 

「小町に、なんて言って渡したら……まあ、そのまま説明すりゃ良いか」

 

 お土産の和菓子を持ち上げて、手渡す場面を想像する。きっと妹は喜んでくれるだろう。

 

 もし「どうして東京駅に」と尋ねられたら、ありのままを語れば良い。職場見学から気持ちがもやもやしていたので気晴らしに行ったと、そう素直に言えば良いのだ。

 なぜ昨日までの自分は、あれほど頑なに妹すら遠ざけようとしていたのだろうか。大したことではなかったのに。

 

「ん、小町からか。どうやら先に帰れそうだな」

 

 自宅が見えてくる頃に妹からのメッセージが届いた。週末の予定は昨夜に相談したはずだが、明日の放課後の用事とは何だろうか。そういえば、明日の部活はどうなるのだろう。

 

 奉仕部を思い出しても、八幡の心が乱れることはなかった。問題は解決せず状況も変わっていない。それでも八幡は投げやりな気持ちとは全く違った意味で、なるようにしかならないと思えた。不思議なものだ。

 

 ただ東京駅まで遊びに行って、NPCの駅長さんと頭を使った対話をして、気持ちが通じたつもりになって帰って来ただけだ。

 八幡の面倒な性格が頭をもたげるも、長くは続かない。勘違いかもしれないが、俺が満足なら、今日のところはそれで良いじゃないか。

 

 

「家に帰るまでが遠足ですよ、っと」

 

 久しぶりに穏やかな心地で自宅の門を抜ける。世界のどこかの部族では通過儀礼というものがあるらしいが、それを成し遂げた連中もこんな心境なのかもなと八幡は思う。バンジージャンプをした事はないが、こんな気分になれるなら体験しても良いかもしれない。

 

 八幡は生体認証を経て自宅に入り、そのままリビングのソファに身体を沈めた。そして妹が帰ってくるまでの時間を、冒険で疲れた身体を癒やすことに費やすのだった。

 




本章は視点が頻繁に入れ替わる構造なので、本稿から視点ごとのあらすじを前書きに用意することにしました。
他に何か改善点などあれば、遠慮なく仰って頂けると嬉しいです。

次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を修正しました。(12/19)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/23)
話の流れが伝わりやすいようにと、いくつか八幡のつぶやきを付け加え細部を修正しました。大筋に変更はありません。(3/23,3/27)
改めて推敲を重ねました。大筋に変更はありません。(2018/8/31)


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11.したたかにあざとく彼女は接近する。

今回は由比ヶ浜の視点です。以下、ここまでのあらすじ。

 職場見学の際に同じ部活の2人と後味の悪い別れ方をして以来、由比ヶ浜結衣は沈み込みがちに日々を過ごしていた。親しい友人たちの助力もあり、まずは自分が元気にならねばと思うのだが、状況はなかなか好転しない。力になりたいという彼女の意志とは裏腹に、当の2人は他人を頼る素振りを微塵も見せない。

 幸いに雪ノ下雪乃は独力で回復して、まだ会えてはいないがメッセージも来るようになった。だが比企谷八幡は孤独に毎日を過ごすばかりである。部活も火曜は顧問が用事で、水曜は生徒会から相談が舞い込んで中止が続いている。木曜の今日も部長会議のため全ての部活が中止になった。用事があるという海老名姫菜と別れて、由比ヶ浜は珍しく三浦優美子と2人で出掛けるのであった。



 にわかに全ての部活が中止となり、思いがけず自由な時間を多くの生徒達が得られたこの日。我先に校外へと遊びに出ても不思議ではないのに、少なくない数の者達が校内に残って部長会議の結果を待っていた。だが彼らの大部分は部長会議で何が議題になっているのかも知らず、それを知る少数の生徒達も口を閉ざしているので詳細は全く伝わって来ない。

 

 会議に深く関与している事が確実な仲の良い女子生徒を思うと、由比ヶ浜結衣も教室で結果待ちをしたい気持ちになるのだが、当人からは心配するなと言われている。彼女からのメッセージを何度も読み直して、大丈夫だと書かれた言葉を信じることにして、由比ヶ浜は昼休みに打ち合わせた通り三浦優美子と2人で出掛けることにした。

 

 校内で用事があるという海老名姫菜とは今日は別行動である。何かあればすぐに知らせると言ってくれた彼女に後を任せて、落ち着かない雰囲気の校内を抜けて、2人は昇降口に辿り着く。靴を履き替えて校舎の外に出ようとした時、彼女らに聞き覚えのある声が掛けられた。

 

 

「あれ、由比ヶ浜先輩?」

 

「あ、いろはちゃん久しぶりー」

 

 一緒に歩いていた女子生徒たちに気軽な口調で「ちょっと用事が」と告げておいて、一色いろはが2人の側へと近付いてきた。少し小走りになった彼女はこんな時にも誰かに見られる可能性を忘れていないのか、可愛く元気な姿を周囲に主張している。よほど目が肥えるか腐ってでもいない限り、彼女の可愛らしさは天然物と区別がつかないだろう。

 

「今の、大丈夫だった?」

 

「大丈夫ですよ〜。サッカー部のマネージャーなんですけど、今日は部活がないですし。三浦先輩もお久しぶりです〜」

 

「ん。そっちも元気そうだし」

 

 一色からの挨拶を受けて、鷹揚に頷く三浦であった。彼女としては面倒な下級生との会話をさっさと切り上げて外に出たいところだが、逃げたような形になるのは望ましくない。直接のやり取りは由比ヶ浜に任せて適当なところで別れようと、彼女はそんな事を考えていた。

 

「お二人は、今からどちらまで?」

 

「詳しくは決めてないんだけど、適当にお店を回ってからお茶でもしよっかな、って」

 

「う〜んと……じゃあ、せっかくなのでご一緒しませんか?」

 

「……は?」

 

 君臨すれども関与せずを貫く予定だったのに、思わず声が出てしまった三浦であった。この一言でも歓迎されていないことは明らかだというのに、一色は気後れする様子もなくそのまま話を続ける。

 

「前はその、落ち着いて話せる感じじゃなかったですし。由比ヶ浜先輩とも三浦先輩とも、一度ゆっくり話してみたかったんですよ〜」

 

 表面的には憧れの先輩と話せる機会を逃してなるものかと必死にお願いをしている健気な後輩を装っているのだが、話しかけられている2人には通じない。由比ヶ浜は彼女に裏の意図があると気付いたし、三浦は彼女の言葉を額面通りには受け取れないと判断した。

 

 三浦も由比ヶ浜も、伊達で学年のトップカーストを維持しているわけではない。言葉の意味を厳密に追求した議論などは不得手だが、言葉に誤魔化されず相手の真意を探る事には長けていた。それは経験のなせるわざであり、2人の性格の違いに応じて得意な相手と苦手な相手があるのだが、結論が一致する場合は信憑性が一気に跳ね上がる。

 

 2人は顔を見合わせてお互いの抱いた感想を伝え合い、そしてやんわりと断る方向で話をまとめようと考えた。だが、一色もまた雑多な人間関係を経験してきた身である。目の前の2人が確認し合っている内容など、彼女にしてみればお見通しである。このままだと体よく断られて話が終わってしまうことも。

 

「それに、こないだの奉仕部、でしたっけ。あそこにいた男子の先輩の事で、ちょっと……」

 

 ゆえに一色は手持ちのカードを切る。サッカー部の便利な先輩に変な噂が立った時に、葉山隼人が奉仕部に相談に行って練習を休んだことがあった。彼女は2日連続で次期部長に休まれるわけにはいかないという名目で一緒に部室に乗り込んで、その時に初めて件の男子生徒を認識したのである。

 

 現時点での一色の認識は「由比ヶ浜に気を遣われている冴えない男子生徒」という程度でしかない。だが、たとえ直接の利用価値を見出せない存在でも、由比ヶ浜に対するカードになるのであれば話は別である。現に今こうして役に立っているのだから、覚えておいて損はなかったという事だろう。

 

「優美子、ごめん……」

 

「気にすんなし。じゃあ、忘れ物がないならこのまま一緒に出掛けるし」

 

 彼の話が出た以上、一色の提案を断ることは由比ヶ浜にはできない。それを百も承知の三浦は、多くを言わせる前に話をまとめにかかる。改めて一色を眺めて鞄を手にしているのを確認して、忘れ物のことまで気遣ってあげた上で、彼女はこれからの行動を宣言するのであった。

 

 

***

 

 

 すっかり顔馴染みになった喫茶店で3人は腰を下ろした。普段とは1名だけ顔ぶれが異なるが、店員がそれについて疑問を口にすることもない。半円形になったソファに由比ヶ浜を真ん中にして腰を落ち着けた3人は、飲物の注文もそこそこにして話を始めるのであった。

 

「いろはちゃん、さっきの話なんだけど……」

 

「あ、えっとですね、一昨日の火曜日に撮ったんですけど〜」

 

 周囲に男子生徒の影も形もないというのに、普段通りに可愛らしく装う一色であった。とはいえ目的通りに2人を対話の場に引っ張り出せた以上、切ったカードを延々と見せびらかすのは悪手だろう。そう考えた彼女は素直に説明を始める。

 

 彼女が取り出した写真は、雨の為にすぐには場所が判らなかったが、どうやら特別棟の一階、保健室横、購買の斜め後ろ辺りを撮ったものらしい。三浦は首を傾げているが、場所に気付いた由比ヶ浜は一気に緊張を高めた様子で身体を硬くしている。彼が1年の時からよくご飯を食べていたという、あの場所だ。

 

 写真を拡大してみると、そこには雨合羽を着た誰かが雨の中で腰を下ろしている姿が写っていた。拡大を最大にしても顔は合羽に隠れていて、それが誰なのかは判らない。しかし由比ヶ浜には、それが誰かは一目瞭然である。

 

「え、これ……?」

 

「最初は正直、危ない人がいるな〜って感じで、念の為に撮ったんですけど〜……。その人、購買に人がいなくなったら雨の当たらない場所に移動して、その時に顔が見えたんですよ〜」

 

 一色がもう1枚の写真を取り出すと、そこにはパンと飲物を片手に食事をしている男子生徒が写っていた。由比ヶ浜がよく知っている彼の姿を、彼に黙って盗み見ている気がして、こんな時だというのに顔を赤らめる純情な由比ヶ浜であった。

 

「他に誰か、これを見た奴って……」

 

「あ、多分わたしだけだと思いますよ〜。雨が降ってたので気付きにくいと思いますし、写真を撮れるのはこの方向からだけですし。変な写真を撮ってるわたしとか、噂になるのは嫌だったんで、ちゃんと周りも確認しましたし」

 

 顔を俯かせる由比ヶ浜を心配そうに眺めながら、気になることを質問しようとした三浦だったが、一色は食い気味に返事を返す。そして自身のイメージを大切にする一色が確認したのであれば、目撃者は他にいなかったと考えても良いだろう。

 

「その、誰かにこの写真を見せたりとかは……?」

 

「え、だって気持ち悪がられるだけですし」

 

 現場の目撃者という線は消したので、後はこの写真の存在を知る者が居ないか確認しようとした由比ヶ浜だったが、一色の返答は珍しく素の口調であった。自業自得とはいえ、ここまで気持ち悪がられている彼は泣いて良いかもしれない。

 

「じゃ、写真は誰にも見せずに消してくれると嬉しいし」

 

「う〜んと、いちおう何があったか教えて貰えませんか?」

 

 絶句している由比ヶ浜に代わって交渉に入る三浦だが、相手も一筋縄ではいかない。一色の要求も当然と言えるものだけに、三浦は念の為に目で確認を取ってから、簡単に説明するのであった。

 

「職場見学で厳しい事を言われて、独りになりたかっただけだと思うし。すぐに結衣たちが解決するから大丈夫だし」

 

「了解です。じゃあ、本題に移っていいですか?」

 

 写真を消すとは確約せず、話を次に移そうとする一色であった。そうした意図は三浦にはお見通しだったが、彼女がこの写真を持っていたところで自分達に対する脅しとしてはもう使えない。誰かに見せびらかす可能性も、先程の一色の反応を見る限りはまず無いと考えて良いだろう。放っておいてもそのうち消去するしかないと気付くだろうと考えて、三浦はそのまま聞き流すことにした。

 

 さりげなく三浦が自分に対する信頼の言葉を口にしたことで少し照れていた由比ヶ浜だったが、彼女も一色が話を逸らしたことには気付いていた。だが彼女としては、雨の中の写真はともかく無防備に昼食を摂っている彼の写真は消すには忍びない気持ちがあった。なにか良い交渉材料はないものかと、そんな事を考えながら、由比ヶ浜もまた聞き流すことにしたのである。

 

 こうして彼の黒歴史は闇に葬り去られぬまま生き延びたのであった。

 

 

***

 

 

「えと、本題って……隼人くんの事だよね?」

 

「ですです。以前の話し合いで、三浦先輩が部活関係の事には関与しない代わりに、わたしは普段の休み時間とかには関与しないって事になったんですけど〜」

 

 4月にテニス勝負をした時に、その直後に一色が乱入して来たことがあった。三浦に引き摺られてどこへともなく運ばれていった一色だったが、葉山の立ち会いの下でそういう形に落ち着いていたらしい。つまり葉山の依頼の際に一色が部室に現れたのは、協定違反を問うという意味合いがあったのだろう。

 

「で?なんか問題ある?」

 

 だがあの時の事も手打ちになったはずだし、協定を三浦の側から見直す必要は今のところ見出せない。もっと仲良くなりたいとは思うが、未だ付き合いたいとかそうした段階には至っていない初心な三浦からすれば、今の環境は悪くないものなのである。彼女の返答がトゲのあるものになるのも仕方のないことだろう。

 

「えっとですね、本来なら夏休みとかって、部活で忙しいはずじゃないですか?でもこの世界だと、夏のインターハイも冬の選手権も無いんですよ……」

 

「……それで?」

 

 一色が言いたい事は三浦にも由比ヶ浜にも伝わった。その点に関しては、同じくこの世界に捕らわれている身としては、少しぐらいは配慮しても良いと思わなくもない。後は程度の問題である。ゆえに三浦は端的に続きを促す。

 

「だから、夏休みに葉山先輩と一緒に出かける時は、わたしも誘って貰えると嬉しいな〜って」

 

「……は?」

 

 三浦にとって本日2回目の絶句であった。そもそも目の前の少女は同じ男子生徒を狙うライバルではないか。確かに今はまだ付き合うとかそうした仲にまで踏み込もうとは思っていないが、誰かに奪われるのを指を咥えて見ているつもりもない。だが、もし奪う気があるのならば、三浦とは別に会う機会を設けろと言ってくるのが普通ではないのか。

 

 そもそも意外な提案をしてきた後輩の少女からは、機会を見付けて何としてでも奪い取ってやるという気概は窺えない。むしろ先程は否定したものの、三浦や由比ヶ浜と仲良くなりたいという言葉の方が、まだ真実味を感じられるようにも思う。

 

 

 一色の発言の意図を完全に読み切れず困惑する三浦は、傍らの頼れる友人に助けを求める。可愛らしい外見からはそう見えないかもしれないが、特に人間関係が絡む場においては、彼女はクラスの誰よりも頼もしい存在なのである。

 

「いろはちゃんの意図を、聞かせて貰ってもいいかな?」

 

「う〜んと……単純に、先輩方と仲良くなりたいってだけだとダメなんですよね?」

 

 少し困ったような表情ながら笑顔を絶やすことはなく、一色は他に誰も見ている者が居ないにもかかわらず可愛らしい仕草を続けながら、内面では必死に頭を働かせていた。

 

 実のところ三浦や由比ヶ浜と仲良くなりたいという彼女の気持ちは偽りではない。そして正直な話、彼女としても今すぐに葉山と付き合いたいという想いまでは抱いていない。一色にも自分の感情から先輩との適切な距離感まで解らないことは山ほどあるのである。

 

 確かに一色の本音としては、同席している2人の先輩と仲良くなりたい()()ではない。彼女らと仲良くなる事で見えてくるものを知りたいがゆえに、一色は先輩たちとの仲を深めたいのである。自分は果たして葉山先輩と付き合うべきなのか。それとも特別に仲の良い後輩の座で踏み止まるべきなのか。

 

 彼女から見て葉山は確かに、男女の付き合いを検討しても良いほどの存在である。自分を安売りするつもりなど毛頭ない彼女から見ても、相手が葉山であれば文句は無い。だがそうした外部的な理由を除いてしまうと、自分が果たして葉山と付き合いたがっているのかどうか、彼女自身にも判らないのである。

 

 だから一色は、同じように葉山に異性としての好意を持っていて、しかし具体的な行動を起こそうとはしていない三浦とゆっくり話してみたいと前々から思っていた。きっと三浦と話すことで、自分の中で何か納得できるものが得られるだろうから。

 

 一方の由比ヶ浜とは、単純に仲良くなりたいという気持ちが強い。もちろん親しくなれたら色々と頼りになるだろうという打算はしっかり意識しているが、純粋に仲良くなりたいという気持ちもまた彼女の中には確かにあるのである。恥ずかしいのであまり公表したくはないが、入学式の日に由比ヶ浜に助けられた恩義というものも、一色の中にはしっかり存在していた。

 

「葉山先輩が、他の人達とどう接しているのかを知りたいんですよ。サッカー部での葉山先輩しか、わたしは知らないから……」

 

 表情や仕草を飾る余裕もないままに、一色は思い付いた事を口にする。どのみち今回のような機会はこの先なかなか得られないだろう。打算や計算ではなく、思い付いた事をなんとか言葉にしてみようと考えて、彼女はそれを2人の先輩に伝えた。受け取った2人にとっては、初めて一色が見せてくれた素の言葉だと思えた。

 

「……じゃ、予定が決まったら連絡するし」

 

 そう三浦が答えて、珍しい3人によるティータイムは終わりを告げる。店の外では、少しずつ日が差し始めていた。

 




次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(1/12)


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12.たゆまぬ努力を彼女は結果に繋げる。

今回は雪ノ下の視点です。以下、ここまでのあらすじ。

 職場見学の際に厳しい指摘を受けた雪ノ下雪乃だったが、それをそのまま受け入れ努力することで普段の調子を取り戻した。部員2名の決別を未だ知らない彼女は、落ち込んだままの比企谷八幡や空元気の気配がある由比ヶ浜結衣の様子を気に掛けつつも、事態が深刻だとは思っていない。

 そんな彼女に生徒会から相談が持ち込まれ、部長会議への対策を共に講じることになった。それと平行して雪ノ下は、彼女らを心配して訪ねて来た川崎沙希の協力を得て、月曜から続いている奉仕部内の悪い雰囲気を一掃しようと動き始めていた。



 今日の放課後は全ての部活が中止だと、生徒会から通知が来た木曜日のお昼休み以来、校内では困惑した生徒達が落ち着かない様子で授業が終わるのを待っていた。不安げに周囲に話しかける生徒が大多数だったが、少しでも事情を知っていそうな生徒ほど口を固く閉ざしている。

 

 雪ノ下雪乃はそうした校内の様子を横目で眺めながら、ひとまず大きな騒動が起きていないことに胸をなで下ろしていた。部長会議が始まるまでは、変に騒ぎ立てられたくはない。そう考えた彼女は()()強権を発揮して、事情を知る者に箝口令を敷いた方が良いと提案したのである。

 

 雪ノ下としては生徒会の相談に乗っている立場なので、あくまでも提案に止めておくつもりだった。しかし彼女の意見を聞いた生徒会長はなぜか一切反駁することなく、そのまま彼女の案を採用したのである。事前の対策も、会議中の処し方も、そして会議の落としどころも全て。

 

 お陰で雪ノ下は完全に生徒会の側に立って部長会議を迎えることになった。もしや私を当事者として引き込むのが目的だったのかと、城廻めぐりに疑いの目を向けてみたものの、もちろん彼女からはそうした陰謀の気配をまるで感じ取れない。そもそも主導権どころか全権すら委任されかねない扱いを受けている現状では、たとえ生徒会が何かを企んでいたとしても簡単に対処できるだろう。

 

 

 雪ノ下は無益な思考を停止して、放課後に思いを馳せる。果たして、上手く対立を収めることができるだろうか。

 

 生真面目で融通の利かない性格の彼女は、実は大人数の中で意見をまとめたり裁定をした経験があまり無かった。彼女の能力やある種の公平性には同世代の誰もが一目置いたが、彼女は自身も含め誰に対しても公平に厳しすぎた。場の空気を重視して曖昧な形で丸く収めることを望む大勢の生徒からすれば、彼女に裁定を任せることは余計な火種を呼び込むことを意味する。ゆえに彼女は凄いと称賛されながら同時に頼りにはされないという奇妙な形で、孤高を貫く事態に陥ってきたのである。

 

 個人に対するように、奉仕部内で対処した時のように振る舞えば、きっと大丈夫だ。雪ノ下はそう自分に言い聞かせる。人数が多くなっただけで基本は変わらないはずだ。クッキー作りの際に部員2人の意見が対立した時だって、上手く収拾できたではないか。

 

 

 緊張の面持ちで、雪ノ下は放課後に少しだけ時間を置いて会議室へと向かった。普通の教室2つ分ほどの広さがあり、部長会議や文化祭の打ち合わせなど多くの生徒が集まる時は大抵この場所が選ばれる。

 

 会議室のドアを開くと、既に教室に着いていた生徒からの視線が一斉に集中する。だがそれに慣れている雪ノ下は、かえって先程までの緊張が解きほぐされたような気持ちになって、ゆっくりと上座に向けて歩いて行った。

 

 教室の形状に合わせる形で、長机がロの字を描いて置かれている。短辺の奥の方から生徒会長以下の役員達が順に並ぶ予定になっていて、雪ノ下の席は長辺の最奥。すなわち長方形の頂点を挟んで城廻と隣り合わせの席である。

 

 打ち合わせ通りの場所に腰を下ろして一息ついて、改めて気合いを入れ直そうと身構えた彼女に、聞き覚えのある声が掛けられた。

 

 

***

 

 

「はろはろ〜。雪ノ下さん、隣いい?」

 

 特徴的な挨拶を口にして、海老名姫菜は雪ノ下の返答も待たずに隣の席に腰を下ろす。当然この場に居てしかるべき立場であるかのように振る舞っているが、彼女はどの部活にも所属していなかったはずだ。驚きの感情が声に出るのを避けられないまま、雪ノ下は素直に疑問を伝える。

 

「海老名さん?……その、どうしてここに?」

 

「うーんと……様子見って感じかなぁ」

 

 実質的には何も情報を得られない返答を受けて、雪ノ下は少しだけ身構える。友人という言葉の定義が未だ彼女には掴みがたいのだが、横の席に座る眼鏡の少女とはそれなりに気心の知れた関係だと思っている。ゆえに警戒というよりは訝しむような表情で、彼女は目線だけで続きを促した。海老名はそれに素直に応じる。

 

「私は別にどっちにも肩入れする気はないから、それは安心してね」

 

 それは雪ノ下が最終的に確認しておきたかった内容だった。しかし色々な話をすっ飛ばしている為に、この言葉だけで安心しろと言われても難しいものがある。仕方がないので雪ノ下は根本的なところから質問をしていくことにした。

 

 

「何も知らない状態では安心しようがないので、幾つか質問をしたいのだけれど……。まず貴女はどこかの部活に所属することにしたのね?」

 

「うん。まだ正式名称は決めてないんだけど、漫画や小説の創作をする部活を作ろうと思ってて。えっち・おー・えむ・おー、って略称で何か良い名前を考えてるんだけどねー」

 

「そう。HOMO……福井先生のフロンティア軌道理論、だったかしら?私も詳しく理解できているわけではないのだけれど、漫画や小説の創作から化学反応を起こそうとする姿勢を表現するには良い名前かもしれないわね」

 

 友人と呼んでも良いかもしれない親しい仲の女子生徒に向けて、最大限に頑張って雑談を行った雪ノ下であった。場を取り持ってくれる由比ヶ浜結衣が不在のこの状況で、彼女の努力は褒められてしかるべきなのだが、残念ながら目の前の相手はそんな高尚なことは微塵も考えていない。

 

 とはいえ、海老名が暴走するのを未然に防いだという点では大いに効果があった。呆気にとられた表情を浮かべる眼鏡の女子生徒は、一拍遅れて吹き出しながら話を続ける。

 

「うん。いい名前だと私も思うんだけど、世間の風当たりが厳しくてねー。……って、こんな話を聞きたいんじゃないよね?」

 

 一応は確認をしておいて、海老名は隣に座る女子生徒が知りたいであろう情報を自主的に説明していく。念の為に外部に音声が漏れない設定に変更して、彼女は言葉を続ける。

 

「えっと、小説を書くのは問題ないんだけどね。絵を描こうとすると、ペンの違いとかがこの世界でも色々あって。それで、部費の話がどんな決着になるんだろうって興味もあったので、様子見に来てみたの」

 

「……貴女は、今日の議題が部費の話だと、どうして……?」

 

「判る人には判ると思うよ。毎年の議題だし、この状況だし。あんまり騒ぎになってなかったから裏で丸く収まったのかと思ってたんだけどね」

 

 耳の痛い話だが、海老名が皮肉を言っているわけではないと理解できているので苦笑するに止める。経緯を知ったのは昨日だったが、すっかり生徒会側に立って思考している雪ノ下であった。

 

 

 雪ノ下は相談の日付から、詳細を説明されるまでもなく事態の推移を把握していた。裏で何とかまとまりかけたが、妥結直前に片方か両方かに不満が出て、それを抑えきれなかったのだろう。その推測は正しく、交渉が決裂した直後に生徒会長は彼女に使いを送ったのである。

 

 相談を受けた雪ノ下は即座の箝口令を主張し、下手な話を言い触らしたり徒党を組んで示威行為を行うような事があれば強行策に出ると、部費を人質にするかのような通知を各部長宛に出させた。その性急さと容赦のなさは、彼女の対応が机上の論に近いものだったことを示している。

 

 だが、そんな経験に乏しい雪ノ下の発案を、生徒会長の城廻はそのまま受け入れてくれた。会議直前の今にして思えば、もう少しマイルドなやり方ができた気もするのだが、所詮は結果論である。それに一度経験を積んだことで、次の機会にはより上手く対処することができるだろう。

 

「そうね。でも、決裂した後でも大きな騒ぎは起きなかったし、何とか上手く収拾してみせるわ」

 

 しばし考えに耽った後で、自信を込めた口調で雪ノ下は答える。過剰な対応だったかもしれないが、とにかく最低限の結果は出せている。後は予定通りに落としどころへと話を持って行くだけだ。大上段から話を誘導したり強制するわけにはいかない以上、まとまった時間が必要な点は正直煩わしいが、既に結果は見えているのである。

 

「そっか。雪ノ下さんなら大丈夫だと思うけど、会議中も隣に居るから安心してね」

 

 海老名にそう言われても、友人関係の経験値が乏しい雪ノ下には、なぜ安心できることになるのか理由が解らなかった。会議中に援護射撃をしてくれるという意味ではないだろう。ただ隣に居るだけで、どうして私の安心に繋がるのだろうか。

 

 だが、そう思ったのは一瞬だった。すぐに雪ノ下はとある女子生徒の嬉しそうな表情を思い出して、海老名の言葉に納得した。確かに、その場に居てくれるだけで安心できる事も多々あるのだ。具体的な行動を起こさなくとも、一緒に責任を引き受けてくれるという姿勢を見せてくれるだけで。

 

 もしかすると、生徒会長の態度も傍らの女子生徒と同じなのかもしれない。いや、最終的な責任が彼女に行くことを思えば、城廻の姿勢は更に踏み込んだものだと言えるだろう。時間になって会議室に入って来たほんわかした外見の先輩を見つめながら、雪ノ下はふとそんな事を思い付くのであった。

 

 

***

 

 

「じゃあ、部長会議を始めるねー」

 

 心が落ち着くような温かい口調なのになぜか教室内に良く通る声で、城廻は会議の開始を宣言した。そして傍らの生徒会役員に、現時点までの経緯を説明させる。

 

 従来であれば、県大会で優秀な成果を出したり時に全国大会に出場する部活には多くの部費が出ていた。そして文化部よりも運動部のほうが多くの予算を獲得する傾向にあった。費用が掛かり、そして結果も出ている部活を優遇するのは当たり前だという理由によって。

 

 しかしこの世界に捕らわれてしまった現在、運動部には対外的な活躍の場が存在しない。つまり結果を出したくとも出せない状況である。一方の文化部だが、例えば美術部であれば作品を現実世界に送り届けるルートがある。書道部や新聞部なども同様で、それらの作品を現実世界のものと同一に扱うか否かで議論は分かれるだろうが、特別参加という形になったとしても彼らには全国大会への道は開かれているのである。

 

 合唱や弁論や演劇といった部活の場合も、この世界で本番さながらの舞台で生徒達が実演した映像を現実世界に届けることができる。他校と競い合うことはできないかもしれないが、現地で映像を流して貰うことは不可能ではない。チアリーディング部なども同じような状況だろう。

 

 だが目標にしていたインターハイなどへ出場する道を断たれ、更に部費まで大幅に削られるとなっては、運動部としても大人しく承諾できることではない。サッカーのスパイクやバスケのシューズなどにも細かな違いが存在するこの世界で、どうせなら部費で色んな道具を使ってみたいと思うのも当然のことだろう。

 

 かくしてお互いの主張は平行線を辿り、何とか妥協点を見出そうとしたのだがお互いに感情面で納得できず、結局は物別れに終わってしまったのであった。

 

 

「というわけで、生徒会の斡旋では話がまとまらなかったんだー」

 

 こんな話題だというのにどこまでもほんわかと、生徒会長は役員の説明に続けて声を発する。事態は面倒な事になっているが、それでも解決できる未来は確実にあると確信しているかのような口調で。

 

「だから、公平な裁定者を依頼しました。……みんな知ってると思うけど紹介するね。2年J組の雪ノ下さんです」

 

「……雪ノ下です。生徒会長の期待に応えるべく、できる限り公平な形で会議をまとめたいと思っています。このまま私が司会を引き継ごうと思いますが、それで問題ありませんか?」

 

 城廻を皮切りに大きな拍手が起こり、遂に会議が始まるのであった。

 

 

***

 

 

 そしてこの日の会議は終わった。そもそもの話をすれば、生徒会が出した妥協案は双方の心情をできる限り汲み上げたもので、それ以上の落としどころなど無かったのである。故に会議の目標は条件の摺り合わせではなく、いかに双方を「仕方ない」と納得させるかにあった。

 

 生徒会から裁定者として依頼された雪ノ下はよくその任務を果たし、持ち前の我慢強さで根気よく両派の不満を受け止めていった。とはいえ雪ノ下に話を聞いて貰えただけで満足してくれた人達は楽だったが、彼女としても同じ事ばかりを繰り返す生徒達には苦労した。ましてや理屈の通っていないことしか言わない連中など、普段の彼女であれば完璧に論破して泣かせていても不思議ではなかっただろう。

 

 だが既に親しい仲と言える戸塚やテニス勝負の際に縁があった城山、そして彼女としてはあまり認めたくはないが葉山の存在も大きく、彼らが他の部長の説得に回ってくれたこともあって、雪ノ下は裁定者としての勤めを最後まで果たすことができた。

 

 残念ながら当初からの懸念の通り、この日だけで全ての部長を説得することはできなかった。納得しきれない少数の生徒達には丸一日を掛けて頭を冷やして貰って、該当者だけが翌日にまた集まることになった。とはいえ明日はもう最終確認をするぐらいのもので、今さら話が紛糾することもないだろう。

 

 

 多くの生徒達が雪ノ下に挨拶をしてから会議室を去って行った。隣の席には今も海老名が控えていて、逆側には城廻がにこにこしながら座っている。明日の仕事が少しだけ残っているとはいえ、彼女は無事に大役を果たしたのである。

 

「城廻先輩、私に大役を与えて頂いて、ありがとうございました」

 

 雪ノ下はそう言って頭を下げたのだが、生徒会長は何のことやらと言いたげな表情である。だが改めて考えてみると、今回の話は生徒会だけでも解決ができただろう。落としどころが変わっていたとも思えず、解決までの道筋は彼女が助言するまでもなくおおよそ決まっていたはずである。

 

 だからこそ、問題の解決だけでなく下級生に経験を積ませる機会としても利用しようと、城廻は考えたのだろう。彼女のことだからそこまで論理的に考えてはいないのだろうが、後輩に経験を積ませてあげたいという意図があったことは明らかである。そしてそれを受け取ったのが生徒会役員ではなく自分だという点をしっかり受け止めて、雪ノ下は心から頭を下げたのである。

 

 理論を積み重ねるだけでなく実際に経験することの大切さ。そして後輩を育てるという温かな城廻の心情を受け継いで行くこと。そうした事を考えながら、雪ノ下は満足そうに笑顔を浮かべた。

 

「雪ノ下さん、お疲れー」

 

 雪ノ下の笑顔を見て、隣に座る海老名が声を出しながら片手を上げハイタッチを要求した。少し照れ臭そうに応えると、今度は逆側の城廻も同じことを要求してくる。

 

「無事に終わったぞー。おー!」

 

 いわゆるリア充のノリと、そしてほんわかしたノリに目を白黒させながらも、雪ノ下は爽快な気分だった。そして、このままの調子で奉仕部の問題も解決するのだと、改めて気持ちを引き締めるのであった。

 




次回、週の半ばの更新で年内は最後になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(1/12,2/20)


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13.ゆきゆきて彼女は兄の幸せを願う。

今回は八幡視点です。以下、ここまでのあらすじ。

 職場見学での出来事を月曜日からずっと引き摺っていた比企谷八幡は、現実逃避の心境で出掛けた先の東京駅で思いがけない情報に出くわした。NPCとの対話を通して、その情報が身近な人々に直ちに悪影響を及ぼすものではないと確認できた八幡は、一仕事を終えた充実感と心地よい疲労感をまといながら帰宅したのであった。



 一夜明けた木曜日。久しぶりに爽快な気分で目覚めた比企谷八幡は妹に朝食を用意してやろうと考えて、勢いよくベッドから起き上がった。窓の外を眺める代わりに天気予報のアプリを立ち上げると、夕方頃には雨が上がって久しぶりにお日様を拝めるという話である。

 

 そういえば、昨日の外出中もずっと雨が降っていたはずだ。しかし行きはなるべく頭を空っぽにして歩こうと思っていた為に、帰りはふわふわとした多幸感の為に、彼は傘を差したのか合羽を着たのかすらもまるで思い出せなかった。

 

 昨日までと今現在の爽やかな気分との違いによって、気の持ちようによって見えるものや受ける印象・記憶がこれほど変わってくるものなのか。そんな事を思う八幡は、以前に小説で読んだような事が自分の身にも起きていることを訝しくも嬉しく思う。今なら簡単に魔法やかめはめ波が使える気がする、などと考えながら、両手を盛んに動かしつつ彼は階段を下りて行くのであった。

 

 

 リビングに入ると、そこには既に妹の姿があった。兄の様子が以前とほとんど変わらない状態にまで戻っていたことを昨夜確認できて、比企谷小町もまた今日の朝は清々しい気分で目覚めた。午前中は雨なので今日も一緒に通学することはできないが、そのぶん少し豪華な朝ご飯を用意して兄を叩き起こしに行ってやろうと彼女は考えていたのである。

 

「あちゃー。お兄ちゃん、もう起きて来ちゃったか」

 

「……もしかして、早くに出る用事でもできたのか?」

 

「そーじゃないんだけどさー。……小町のフライング・ダイビングなんとかが炸裂するはずだったのになー」

 

「ちょっと待て。その被害者は俺か?」

 

 驚愕の表情を浮かべる八幡だが、小町からすれば当たり前すぎて返事をする気も起きない。兄以外の誰に向かって、彼女がボディ・アタックを敢行するというのだろうか。ニコニコしたまま口を開かない妹を見て、彼は「小町ちゃんの恨みを買うこと何かしたっけ?」などと見当違いな独り言を呟いている。そんな兄を見やりながら、彼女は笑顔のまま朝食の支度に戻るのであった。

 

 

 ともに思惑が外れる形になった兄妹だったが、朝から一緒に食事の準備をするというのも実際に行ってみると悪くないものだった。手際よく分担して、当初よりも早めの時間にご飯の用意を終えて、兄妹は食卓に着いた。

 

「ほーいえばさ、今日の放課後……」

 

「おい、いつも言ってるけど喋るか食べるかどっちかにしろ。……昨日の夜に打ち合わせた通りだよな?」

 

「うん。部活がどうなるかは判らないんだよね?」

 

「そうだな。部長会議がどうなるか……雪ノ下が昨日生徒会に呼ばれたのは多分それが原因だろうし、すんなり終わりそうにないかもな」

 

 昨夜にも部長会議のことは妹に説明していたが、雪ノ下雪乃が生徒会に呼ばれたことと関連付けて考えはしなかった。だが少し視野を広げて再考してみると、このタイミングでの生徒会からの接触にはきな臭いものを感じざるを得ない。

 

「雪乃さんって、やっぱり頼りにされてるんだねー」

 

「そりゃお前、論破とかさせたら雪ノ下に太刀打ちできる奴なんてほとんど居ないだろ。何なら流れで俺も含めて論破されるまであるぞ」

 

「じゃあその部長会議ってのも、何とかなるんじゃない?」

 

「まあ、結果は見えてんじゃね?……ただ、時間がどれだけ掛かるかで、下々の部活動に影響が出るんだけどな」

 

 

 部長様から部室待機を命じられるか、それとも部活の中止を通知されるか。結局のところ八幡からすれば指令待ちの状況に変わりはない。部室待機になってもう1人の部員と2人きりで時間を過ごすことになれば気まずいが、それも自らがまいた種だと思えば我慢するしかないだろう。

 

 昨日までは頑なに退部という選択肢しか考えていなかった八幡だったが、今は少し決意が揺れている。だがやるべき事は変わらない。退部する場合でも、あの2人には決断に至る経緯を話しておきたいと八幡は考えていた。今は結論の部分は未定にして、しかし彼が思い悩んでいた内容を2人には伝えたいと思っていた。

 

 八幡には2人に引き留めて欲しいという希望はない。構って欲しいが為に退部をちらつかせるような情けない振る舞いは、特にあの2人の前では絶対に避けたいと彼は考えていた。彼が2人に説明をしたいと考えているのは、今回の件が彼女らの中で尾を引くことがないようにという彼なりの気遣いである。

 

 だが、2人からの反応を遮断して、己の思う事だけを一方的に通知する行為は、果たして気遣いと呼べるものなのだろうか。残念ながら今の八幡にはそこまで考察が及ばない。肥大した自意識が原因なのか、それとも他人の気持ちを考えられないのが原因なのか。これは第三者からの指摘を待つしかないのだろう。

 

 

「部活があるなら仕方ないけど、沙希さんの授業、間に合うなら聞いてみて欲しいなー」

 

「塾で待ち合わせって、八幡的にはハードル高いんだが……」

 

 小町ポイントを意識したような言い回しをする八幡だったが、もちろん妹には通じない。今夜は久しぶりに晩ご飯を外で食べようという話になって、昨夜せっかく待ち合わせ場所まで決めたのだ。今さら予定を変更する気は小町にはなかった。

 

「お兄ちゃんの気にし過ぎだって。この世界だと中には保護者しか入れないから、みんな警戒とかしないし」

 

「あー、まあその点では心配しなくて済むから助かるな」

 

「およ?……もしかしてお兄ちゃん、小町のことを心配してくれちゃったりなんかしちゃったり?」

 

「うぜぇ……。ま、塾に行く前にメッセージ送るわ」

 

 お互いに照れている内心をお互いに隠せたつもりになって、この朝の兄妹の会話は終わった。その後は一緒に後片付けをして、昨日までと同様に小町が先に、そして八幡は時間ギリギリに学校へと向かったのであった。

 

 

***

 

 

 2年F組の教室に着いて、昨日までと同様に独りで過ごすのだと八幡は己に言い聞かせた。冷静になると、昨日の夕方から随分と浮かれていた気がする。よくよく考えてみると、NPCから温かい対応を受けて喜ぶとか、平塚先生のことを全く笑えないではないか。

 

 孤独を意識するがゆえに面倒な思考が再燃しつつあった八幡だったが、しかし自分の感情には嘘はつけないものである。一時的には昨日まで以上に暗い雰囲気を発していたものの、すぐに彼は頭を切り換えることができた。たまたま落ち込んでいた瞬間をクラスメイトの女子生徒に見られていたなど、彼には思いもよらぬ事である。

 

 彼が休み時間のたびに廊下に出るのは連日のことだったので、その行動を意識もしない大多数はもちろんのこと、彼に注意を配っている少数の生徒にも変な印象は与えなかった。しかし八幡の内面は昨日までとは違っていた。平塚先生から空き教室をあてがわれたお陰で行き先があるという安心感と、昨日の放課後以来の高揚した気持ちが、彼の精神状態を改善したのである。

 

 

 お昼休みには彼にもメッセージが届いて、今日は全ての部活が中止になることを知った。その情報から状況が予想以上に面倒な事になっていると理解した八幡だったが、それでも彼の雪ノ下に対する信頼は揺るがない。あの部室で彼女と何度も論戦を行い何度も論破された彼だからこそ、安心して結果を待つことができるのである。

 

 彼は今日も返信内容を簡素に止めたものの、少しだけ迷った後に末尾に「お疲れさん」とだけ付け足すことにした。八幡なりの激励のつもりだったのだが、彼女は彼が状況を把握した上で挑戦的な物言いを送ってきたのだと受け取った。「この程度のことなど、疲れる前に簡単に片付けてみせるわ」などと彼女が盛り上がっていたとは、彼は知らない方が幸せであろう。色々な意味で。

 

 

 放課後になって、彼は今日もまた授業が終わってすぐに帰宅した。部活がない上にショートカットで帰宅したので、待ち合わせの時間までにはまだ充分に余裕がある。

 

 久しぶりに好みの小説を引っ張り出して、八幡はしばし楽しい時間を過ごした。ここ最近は学校にも本を持って行くことがなかったのだが、気分が上向いた証なのだろう。昨日までは何かを読もうという気になれなかったのに、今日の休み時間には手持ちぶさただったのだ。明日からは持って行くようにしようと思いながら、彼は本を片付けた。

 

 外に出ると日が差し始めていたので、八幡は自転車で出掛けることにした。今週は雨が多かったので妹と一緒に登校できていない。久しぶりに自転車で一緒に帰れるとなれば、小町はきっと喜んでくれることだろう。そう考えながら、彼は通り慣れた道を辿って妹が待つ塾へと向かうのであった。

 

 

***

 

 

 通い慣れたイタリアンなチェーン店にて腰を落ち着けて、八幡はすぐにドリンクバーを取りに行って良いのか、それとも順番を譲った方が良いのか迷っていた。彼の隣には妹が座っていて、向かいの席には川崎沙希と川崎大志が座っている。

 

「……なんでこのメンバーなんだ?」

 

 先に川崎姉弟にドリンクを取りに行かせて、彼は横に控える妹に問いかけた。確証はないが、妹はこの展開を狙っていたに違いない。事前に詳細を教えなかったのは八幡を逃がさない為だろう。そうした事情が兄にばれているのは承知の上で、小町は平然と答えを返す。

 

「だって、面白そうじゃん」

 

 お嫁さん候補に発展しそうな女性との会食の場を兄の為にセッティングした、などとは口が裂けても言わない小町であった。ドリンクを持って帰ってきた川崎姉弟と交替で、兄妹は飲物を取りに行く。特に会話を交わすことなく席まで戻って来て、改めて4人での話が始まるのであった。

 

 

「お兄ちゃんさ、沙希さんの授業は聞いてたんだよね?」

 

 まさか聞かれていたとは予想もしておらず、思わず飲物を吹き出しかける川崎であった。そんな彼女を気まずげに眺めながら、仕方なく八幡は口を開く。

 

「まあな。お前が勧めるから最後の方だけ聞いてみたけど、あれだ。内容も良かったし、何てか……ちゃんと先生してんだな」

 

「あ、あんた達のお陰だよ。……授業の内容は先生の授業ノートをそのまま使わせて貰ってるだけだしさ」

 

「でもでも、沙希さんの話し方ってすごく印象に残りますし、ホントに解り易いですよー」

 

「姉ちゃんの教え方は俺の同級生も絶賛してた」

 

「はいはい。あんたらは、お世辞とか言う暇があったら勉強しな」

 

 照れている事に加えてぼっちの性格が出て、八幡に少し上滑りの返事をしてしまった川崎だったが、あまり長引かず冷静になることができた。小町や大志の褒め言葉には適当な対応ができている辺り、教師としての経験が蓄積されつつある証拠なのだろう。

 

 だが川崎は、小町の目が怪しく光ったことには気付かなかった。

 

 

「じゃあ……昨日の授業のことで質問してもいいですか?」

 

「ん?ああ、いいよ」

 

「関係代名詞の授業の後で、お兄ちゃんのことを聞きに来たのってどうしてですか?」

 

 再び飲物を吹きそうになった川崎だが、何とか堪える。とはいえすぐに返事はできそうにない。一方の小町は「授業の後のことでしたねー、てへっ」とでも言いたげに可愛らしく舌を出している。

 

「は?……俺って何か聞き込みされるような悪いことしたっけ?」

 

「あー、うん。ちょっとお兄ちゃんは黙っててね」

 

「……ちょっと教室で前とは違う感じがしたから、気になっただけだよ」

 

「まあ、今週の頭から兄の様子は少し変でしたよねー。でも、昨日の夜はいつも通りだったので、もう大丈夫だと思いますよー」

 

「そ、そう……。なら良いんだけどさ」

 

 小町の勢いに押されながらも、何とか川崎は言葉を返す。一方で八幡は、自分の精神状態をつぶさに妹に把握されていたことに驚きを隠せない。「俺ってそんなに分かりやすいのか……」と少し落ち込み気味の八幡であった。

 

「お兄さん、何かあったんすか?」

 

「……おい、お兄さんって呼ぶな」

 

「ちょっと、うちの弟に殺気を飛ばさないでくれない?」

 

 だが空気を読まない大志の発言のお陰で、八幡も川崎も普段の調子を取り戻せた模様である。せっかく不意を突けたのにと内心で悔しがる小町だったが、彼女の反応から大体の事情は察したので良しとしようと考えを改める。

 

 

 小町の見立てでは、おそらく川崎の独断ではなく、何人か兄を心配している人達が居るのだろう。先程の川崎の返答や態度から女子グループに特有の雰囲気を感じ取って、彼女には妹経由で情報を探るという役割が与えられたのだろうと小町は思う。

 

 純粋な兄に対する興味から質問されたのであればもっと嬉しかったのだが、複数の女子生徒が兄を案じているというのであれば、また別の嬉しさがこみ上げてくる。きっと奉仕部のあの2人も含まれているのだろうし、小町の知らない女性だって居るかもしれない。そんな事を考えて密かに盛り上がる小町であった。

 

 既に昨夜、兄から事情のあらましは聞いている。職場見学に端を発した話を聞きながら、月曜日に「働いたら負けだ」と言い始めた兄の言葉を遮った過去の自分の行いを少し反省した小町だったが、確かに兄が陥りそうなパターンだなという感想を持った。この状態の兄を正常化するのは骨が折れるだろう。

 

 だが幸いなことに、今の兄には同じ高校内で何人か話せる相手がいる。奉仕部の2人には兄の側から少し壁を作っている感じだが、彼女らの性格を思えば正論で、あるいは元気よくその壁を突き破ってくれるだろう。兄がこよなく愛する同性の友人や、目の前の女性だって、きっと力になってくれるだろう。

 

 すっかり雑談の場と化したイタリアン・レストラン内の親密な空気を感じ取りながら、場を盛り上げる発言を適度に挟みつつ小町は改めて思う。兄は一体いつの間に、ここまでの人間関係を築いていたのだろうかと。妹の贔屓目もあって、初対面では受けが悪くても長い付き合いをするには良い物件だと密かに彼を評していた小町だったが、やはり兄には狭くとも深い人間関係が似合うのかもしれない。

 

 願わくば、兄と仲の良いこれらの人達との関係が今後も良い形で続きますようにと、そしてその中の誰かと兄が相思相愛の仲になれたら嬉しいのになと考えながら、特別ゲストを交えた兄妹の久しぶりの外食の夜は楽しい雰囲気のまま更けて行くのであった。

 




1年前にはまさか自分が作品を書くなど夢にも思っていませんでした。
その意味では、楽しく読ませて頂いた他作品のお陰で本作があると言っても過言ではないと思います。
素晴らしい作品を書いて下さった作者様やそれを支えた読者様のお陰で、私も何か書いてみようという気持ちがいつしか芽生え、そして今があります。
作品を書き始めてからは常に読者様に支えられて、お陰で無事に年末まで書き続ける事ができました。

以上の方々に改めて御礼を申し上げて、年末の挨拶とさせて頂きます。
本当にありがとうございました。
皆様にとって来年が良い年になりますよう、心から願っています。


次回は1月9日(月)に更新する予定です。
数話更新した後は、年度末まで月1程度の更新しかできないと思いますが、どうか宜しくお願い致します。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
タイトルの「ゆきゆきて」は、芭蕉の門弟・曾良の「行き行きて倒れ伏すとも萩の原」を意識したものです。「どこまで行っても」ぐらいの意味合いで受け取って頂ければ幸いです。(12/29)
細かな表現を修正しました。(1/12)


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14.きのもちようだと天使は語る。

ご挨拶が遅くなりましたが、今年も宜しくお願いします。
以下、ここまでのあらすじ。

 月曜日の職場見学を終えて以来お互いに顔を合わせていない奉仕部の3人は、各々が受けた衝撃をそれぞれの中で解消しつつあった。

 雪ノ下雪乃は自らの努力で立ち直るきっかけを作り、生徒会からの依頼を受けて主導した部長会議を無事に終わらせたことで自信を深めた。

 由比ヶ浜結衣は頼って貰えない寂しい気持ちを抱えながら、いつでも2人の為に動けるように備えていたが、意外な展開から後輩との仲を深めるなど対人経験を重ねていた。

 そして比企谷八幡は自らの行動に加え妹や教師や同級生からの何気ない気遣いのお陰で、気持ちが少し前向きになった状態で週末を迎えたのであった。



 週末の金曜日は久方ぶりにお日様が顔を覗かせて、長雨続きの日々に束の間の休息をもたらしていた。

 

 夕方まで天気が持つという予報を受けて、比企谷八幡は久しぶりに妹と一緒に自転車で通学する。家を出るまでの会話も道中のやり取りも以前と同じように楽しく親しげなものだったので、この日の八幡は面倒な思考の罠に陥ることもなく、独りで教室で過ごしていても陰りのようなものは窺えない。

 

「(ヒッキー、面倒臭そうなのは相変わらずだけど、痛々しい感じは減ったかも)」

 

「(昨日の夜から更に回復できたみたいだね。妹の存在が強すぎる気もするけど、だからって大志を悪く言うのは控えて欲しいよね)」

 

「(前と変わらない感じになって来たし。あーし的にはもっとビシッとしたらって思うけど、結衣はあれが良いみたいだし……)」

 

「(ヒキタニくん復調の裏には陰に日向に隼人くんの的確な攻めが……そして2人にはこの程度の逆境など愛のスパイスにしかならず……愚腐)」

 

 そんな彼の様子を見て安心した表情を浮かべる、お団子ヘアやポニーテールの女子生徒がいた。金髪縦ロールと鼻から赤い液体を垂らす黒髪眼鏡の女子生徒も見るからにほっとした表情である。しかし八幡はそれほど自分が注目を集めているなど思いもせず、この日も同じような行動パターンを踏襲するのであった。

 

 

 休み時間のたびに平塚静教諭から使用許可を得た空き教室に避難していた八幡は、前日までとは違ってゆっくりと読書の時間を堪能していた。教室に戻りたくないと思うのは今まで通りだが、逃げ出したいという理由と本の続きが読みたいという理由とでは気分がまるで違う。

 

 そんなわけでお昼休みにも早々にクラスを抜け出した八幡は、彼と面識のある少数の生徒達がこの日は揃ってどこか別の場所へ移動したことなど知るよしも無かったのである。

 

 

「……もうちょっと読んでから帰るか」

 

 そのまま何事もなく放課後を迎えて、八幡はすぐに帰宅するのではなく空き教室で読書して帰ろうと思い立った。前夜のメッセージで、部長会議の後始末があるので奉仕部は今日も休部だと連絡を受けている。どうせ家に帰っても特にやることは無いのだし、校内で長居をするのもたまには良いだろう。

 

 八幡はF組の教室を出て、あてがわれた教室へと向かう。彼が去った教室では少し慌てた様子で廊下に出て彼の行く先を窺う生徒が居たのだが、八幡は全く気付かない。空き教室に入る姿をばっちり見られていたなど思いもよらず、彼はゆっくりと読書の続きを楽しむのであった。

 

 

***

 

 

 標的が動いたという連絡を受けて、戸塚彩加は既に整えていた帰り支度のまま急いで校舎を出る。相手は自転車で移動する以上、遅れてしまえば追いつくことはできない。今のところは予定通りなので充分に間に合うとは思うのだが、万が一を考えてしまい焦りながら戸塚は目的地へと急ぐ。

 

「あ……やっぱり八幡だ」

 

 目当ての人物が自転車置き場で悩ましげな表情を浮かべているのを見て、戸塚は一息入れてからゆっくりと話しかけた。八幡はメッセージを表示させている様子で、そして戸塚はその内容に心当たりがある。おそらく雪ノ下雪乃からの「月曜日は時間厳守で部室に」という内容だろう。八幡はきっとあの2人と、月曜日にどんな風に接したら良いのかと悩んでいるのだろう。

 

「よっ」

 

 校庭に差す夕日はまるで戸塚だけの為に存在しているかのようで、少しはにかむ彼の姿を照らして周囲の視線を根こそぎ奪う。八幡も天使と見まごうまでの戸塚の様子に心を奪われかけていたのだが、何とか短く反応を返すのであった。

 

「うん。よっ」

 

 そんな八幡の挨拶を受けて心底から嬉しそうな戸塚は、片手を上げながら口調を真似て返事をする。少し恥ずかしそうに照れ笑いをしている戸塚を見て、再び心を奪われかける八幡であった。

 

「八幡は今から帰り?」

 

「お、おう。戸塚はテニス部は?」

 

「今日は部長会議の続きがあったから、自主トレって形にしたんだ。それと、ぼく……駅前のテニススクールで体験募集しててね。ちょっと行ってみようかなって」

 

 テニス勝負のイベントが終わってからも、戸塚は上手くなりたいという思いを抱えて努力を続けている。そう感じ取った八幡は思ったままの感想を述べる。

 

「すげぇな。ちゃんと本格的にやってんだな」

 

「そ、そんな本格的とかじゃなくて、でも……好きだから」

 

 戸塚が口にした「好き」という言葉のお陰で、本格的に昇天しそうになる八幡であった。きっと暗黒属性であろう腐った目だけでなく、このままでは存在自体を浄化されかねない。そう考える八幡は、戸塚が相手ならそれでも良いかと流されそうになるのを必死で堪えて、クールに去ろうと試みる。

 

「じゃ、じゃあ、スクールだっけ。頑張ってな」

 

 必死に意識を保ったまま自転車に跨がった八幡だが、戸塚に向けた背中にかすかな抵抗を感じた。振り返ってみると、可愛らしい天使が恥ずかしそうにシャツをつまんでいる。

 

「あの、あのね……。スクールの募集って、夜なんだ。だから始まるまでちょっと時間があって……。その、もし暇なら……じゃなくて。一緒に、遊びに行かない?」

 

 男友達を遊びに誘った経験がほとんどない戸塚だったが、遠慮がちなことを言い出しそうになる口を何とか退けて、堂々と目の前の相手に向かって提案を述べる。誘いの言葉を言い終えた時から変わらぬ決意を秘めた目はそのままに。断られる不安などを思ってか、びくびくと頼りなげな仕草の体幹は見るもの全てに庇護欲を催させる。彼のお願いを断ることができる者など皆無であろう。

 

「んじゃ、行くきゃ」

 

「良かった。……あ、でも、どこ行こっか?」

 

 醜態を晒さぬようにと可能な限り短く答えたつもりが、最後で噛んでしまった八幡であった。だが相手は天使である。特に何を言われることもなく、次なる問題に突き当たって悩んでいる戸塚のために八幡は頭をフル回転させる。

 

「あー、そうだな……。電車に乗って千葉縦断とか、今の世界の果てまで行ってみるとか?」

 

「えっと……なんだか大袈裟なことになってない?」

 

「そか?俺は戸塚と一緒ならどこまでだって……」

 

「もう。八幡って時々、大真面目な顔して冗談を言うんだから……」

 

 少し顔を赤らめて拗ねたようなことを言い出す戸塚を眺めながら、どこに行くでもなくこうして話をしているだけで充分だと考えてしまう八幡であった。そんな自分が急に恥ずかしくなって、八幡は自転車から降りると、戸塚を促して並んで校門に向けて歩き始めた。

 

「ま、とりあえず駅の方にでも向いて移動するか」

 

「うん。……別に、特別なこととかしなくて良いんだ。八幡と気兼ねなく話せたら、ぼくはそれで満足なんだけどな……」

 

 言いながら恥ずかしくなったのか後半部分はすっかり小声になってしまったが、戸塚は自分の希望をそのまま伝える。万人に向けられる天使のような側面とはまた少し違った、戸塚ならではの自己主張を耳にして、八幡は自然と真顔になる。

 

「……そだな。気軽に、気の向くままに出掛けるとか、そんな時があってもいいよな」

 

 数日前のちょっとした冒険を思い出しながら、八幡はそう答えた。対する戸塚は思いが通じたことを心から喜んでいる様子で、可憐に微笑みながら話を継ぐ。

 

「例えばね。夜でも気にせず友達を呼び出したりとか。呼ばれた側も、今は焼きそば食べてて硬くなるのが嫌だから8時に出るよ、とか言ってさっさと電話を切っちゃったりとか。そういう関係って、なんだか良いと思わない?」

 

「あー、誰とでもは無理だろうけど、そういう仲の友達ってのも良いかもな。焼きそば食べたのに、ラーメン屋を見付けたら一緒に食べに入ったりとかな」

 

「そうそう!」

 

 深く考えずに言い出した変な話を汲み取って貰えて、戸塚は花がほころぶような笑顔を見せる。

 

 戸塚としては並んで歩く同級生とそうした仲になりたいと思って言っているのだが、相手は鈍感なのか一般論でしか捉えていない様子であり、そこに不満が無いわけではない。だが2人だけで遊びに行くのも初めてだし、そもそも今日のお出掛けも始まったばかりである。

 

 

 会話が途切れてしまったがお互いに気まずいとは思っておらず、しかし相手の様子は気になるのか無言でちらちらと同行者の様子を確認し合う2人。まるで付き合い始めた初々しいカップルのような2人に、行き交う人々は温かな視線を送ってくる。それが急にいたたまれなくなって、八幡は照れ臭そうに口を開いた。

 

「その、なんだ……。後ろ、乗るか?」

 

「ぼ、ぼく重いし……。八幡が散歩とか嫌いじゃなかったら、一緒に歩きたいな、って」

 

「そ、そっか。べ、別に散歩は嫌いじゃないし、良いぞ。最近はあんまりだけど、昔は妹ともよく行ってたしな」

 

「八幡と小町ちゃん、仲良いもんね。八幡の手って大きいし、手を繋いで楽しそうに散歩してる姿が目に浮かぶよ」

 

 これはもしや手を繋ぐことを誘われているのかと、全力で適切な反応を考察し始める八幡であった。黙って片手を差し出すべきか、それとも「繋ぐ?」とか言いながらが良いのか。名前を呼びながらさっと繋いでしまうべきだろうか。あるいは目を見て真剣にお願いすべきか。先程の「好き」に加えて「八幡、大きい」もしっかり覚えておこうと固く誓いながら、彼の悩みは尽きない。

 

 そんな八幡の懊悩など予想だにしていない戸塚は、公園の角を曲がって歩道橋へと進んで行く。国道をまたぐ歩道橋を涼しい風を身に受けて歩きながら、戸塚は思わず口を開く。

 

「気持ちいい」

 

 爽やかな笑顔で健康的な口調で述べるその発言から邪な想像をしてしまった八幡だったが、逆にそのお陰で妄想から脱出することができた。どうやら彼はどのようにして戸塚と手を繋ぐべきかのシミュレーションが過ぎて、意識を別の世界に飛ばしてしまっていたらしい。

 

「そだな。……昼寝とかしたくなるな」

 

「八幡はいつも教室で寝てるのに、まだ寝るの?」

 

「成長期なんだよ。あと、昼間のはシエスタな」

 

 くすくすと微笑みながら、戸塚は冗談っぽく問いかける。それに答える八幡にも普段の捻くれた発想は無い。適当に思い付いたことを適当に言い合える気楽で親密な関係が、そこにはあった。

 

「シエスタ?」

 

「スペインとかだと、昼飯の後で少し寝る習慣があるんだわ。その方が効率が上がるらしいぞ」

 

「あー、確かにご飯を食べた後って眠たいし、効率悪そうだもんね」

 

「そうそう。だから俺の昼寝も許された!」

 

「八幡ってば、別に昼寝に許可は要らないよ」

 

 

 だが、戸塚は本題に入る為に、敢えてこの理想的な関係にひびを入れることを口にする。

 

「……それに、今週は教室でも全然寝てないよね」

 

 

***

 

 

 歩道橋の上で立ち止まって少し距離を置いて、戸塚は八幡と向き合った。目の前の男子生徒は少し困ったような顔になって、視線を逸らしながら頭を掻いている。先程までの温かな雰囲気を一変させてしまったことを申し訳なく思いながら、それでも戸塚は話すのを止めない。

 

「今週の八幡は、先週までとは違ってて。でも、ぼくには何があったのかも、何を悩んでいるのかも、話してくれない、よね?」

 

「あー、えっと……」

 

 何か誤魔化すようなことを言おうとした八幡だったが、真剣な表情の戸塚を見ると何も言えなくなってしまう。真剣に自分のことを案じてくれて、そして悔しそうな顔をしている目の前の存在に何と声をかければ良いのか、八幡には分からなかった。

 

 八幡にとって戸塚とは、言うまでもなく天使である。しかし今この場で彼の目の前に居るのは、確固とした意思を持って彼と向かい合ってくれている、彼と同じ高校生だった。

 

「八幡はね。ぼくとかが何かをしなくても、独りでも、色んな事を解決できると思うんだ。独りで解決したいって思ってるのかもしれないし、それだとぼくが関わろうとするのは余計なお節介かもしれないんだけど。……でもね、八幡の希望とは違うかもしれないけど、ぼくの希望はね。八幡の、力になりたいんだ」

 

 八幡が返事を口にできない様子なのを見て取って、戸塚はそのまま話を続ける。相手の目を見据えて、気持ちのこもった口調で。

 

「去年、八幡と一緒のクラスだったって、たぶん言ってなかったよね?……ぼく、八幡がクラスで、その、誰とも話してなかったのを、何とかしたいって思ってたんだけど、何もできなくて」

 

「あー……それはまあ、仕方ないわ。もう終わったことだし、俺も別に同じクラスの連中と話すこととか無かったしな。……戸塚が気に病むことじゃない」

 

 意外な告白が始まったことに驚いた八幡だったが、話の筋が読めたおかげでようやく反応することができた。彼の知らない間に戸塚に罪悪感を与えていたみたいだが、去年のあれは自業自得の結果だし戸塚に責任などあろうはずがないのである。

 

「うん。八幡ならそう言うと思ってたけど、予想通りだ。さっき、八幡とぼくの希望が違うって言ったけど、これも同じかな?……八幡はそう思っても、ぼくはそう思わないんだ」

 

「いや、でもな。当事者の俺が別に良いって言ってんだから、戸塚がそんな悩みを抱え込まなくても……」

 

「ぼくが、八幡の悩みを分かち合いたいって言ってるの!」

 

 拗ねたような表情の戸塚は相変わらずキュートだったが、その眼差しは常になく鋭い。戸塚としてもどのように話を進めたものかと幾つかのパターンを用意していたのだが、事前の準備は既に破綻して見る影もない。だが戸塚にはむしろ定められたルートで話を展開させるよりも、感情に訴える方が性に合っているのだろう。

 

「戸塚は……なんで俺なんだ?」

 

「なんでって……八幡だからだよ。それ以外の理由って、何かある?」

 

 友人関係の経験値が乏しい上に、そもそもなぜ他人から忌避されるのか解らない八幡からすれば、戸塚がなぜ自分に踏み込んできてくれるのかも解らない。戸塚の感情的な発言を受けて、反射的に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまった八幡は、不満げな様子で可愛らしくこちらを睨んでくる戸塚の返答を聞いた。

 

「なんてか、戸塚だったら友達とか選び放題だろうし、別に俺とかじゃなくても……」

 

「だから、ぼくは八幡が良いの!」

 

 

 幸いなことに通行人はいなかったが、もし2人の会話を聞く者がいたとしたら、あまりの初々しい告白ぶりに居たたまれなくなっていただろう。だが残念なことに、2人はカップルではなく友人なのだが。

 

 お互いに無言で見つめ合っているうちに少しずつ冷静な部分が戻って来て、2人は先程の戸塚の発言が色んな意味で危険な要素を孕んでいることを徐々に理解し始める。八幡はまだ照れ臭そうな顔で済んでいるが、既に戸塚の顔は真っ赤に染まってしまっていた。

 

「戸塚。……心配かけて、済まねーな」

 

 戸塚がしばらくは動けそうにもないのを見て取って、八幡はゆっくりと噛んで聞かせるように、思っている事を口に出して説明を始める。

 

「……月曜日の職場見学で、ゲームマスターのおっさんに厳しい事を言われてな。これも自業自得と言えばその通りなんだが、俺って必要のない存在だなーとか思って、色々投げ出して逃げたいなーとか思って、ここ何日かを過ごしてたんだわ」

 

 何かを口にしようとする戸塚を、おそらく彼の発言を否定するようなことを言ってくれようとしている戸塚を優しく制して、八幡は言葉を続ける。

 

「ホントは、奉仕部とかも辞めようと思ってたんだけどな。でも、このまま逃げたら単なる負け犬だし。お前とか小町とか、俺なんかを応援してくれる奴もいるみたいだし。……もう1つだけ、次の依頼を頑張ってみて、それから考えるわ」

 

「うん。八幡がそう言ってくれるなら、ぼくは次の依頼で八幡が活躍できるように応援してるね。でも、前と同じようにやったら、八幡なら大丈夫だよ」

 

 自分が八幡と向き合ったことによって、彼に少しだけ気持ちの変化をもたらせたことを肌で感じ取って、戸塚はすっかり笑顔になっている。そんな満面の笑みで保証されたからには頑張らないとなと、密かに決意を新たにする八幡であった。

 

「あ、でもね。たしか川崎さんの時にも言ったけど、『俺なんか』とか言わないで欲しいな。八幡はぼくの大事な友達なんだから、そんな風に卑下されるのは……」

 

「そか。俺の性格がこんな感じだから、すぐには治らんかもしれんが。……まあ善処するわ」

 

「うん。ぼくの依頼の時とか、川崎さんの時もだし、八幡はすっごく頼りになるんだから。もうちょっと自信を持って欲しいな。……ぼくが偉そうなことを言うのって、変かもしれないけど」

 

「……そうだな。友達に卑下されたら、確かに嫌な気分になるもんだな」

 

「あ……。もう、八幡がちょっと意地悪だ」

 

「ま、これぐらいはな。やり返させてくれないと、恥ずかしくて後で死ねるぞ」

 

「それは八幡が言ってたように自業自得だから。恥ずかしくてもちゃんと反省して、あんまりみんなに心配かけないようにね。……じゃあ、まだ時間はあるけど、駅に向けて行こっか」

 

 

 2人のデートは、まだ終わらない。

 




長くなったので一旦ここで切ります。
次回は週の半ばの更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(1/12,2/20)


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15.のんけでも惑いそうな天使の魅力に彼は立ち向かう。

前回までのあらすじ。

 八幡と戸塚がデートしています。



 しばしの時を過ごした歩道橋を後にして、比企谷八幡と戸塚彩加はゆっくりと歩いて行く。先程の会話の余韻が残っているのか、無言で足を進める2人はどこか照れ臭そうな様子で、しかし端から見ていると妙な一体感を感じさせるものがあった。

 

 視界が駅を捉え始める頃になって、戸塚は少し歩く速度を落とす。テニススクールが始まるまではまだ時間がある。できればこのまま2人でもう少し話を続けたいところだが、どこに行けば良いのだろうか。

 

 遊びに行く時は同行の女子に連れ回されることが多く、主体的な行動の経験に乏しい戸塚は、迷ったような視線を八幡に送る。歩調が緩んだことで戸塚の悩みに気付いたのだろう。八幡もこちらを見て、戸塚と同じように悩ましい表情を浮かべながら尋ねてきた。

 

「どうする?」

 

「えっと……ゆっくりお話ができるところか、少しの時間でも気晴らしになるようなところか……」

 

 戸塚としては、もっと八幡と話をしていたいというのが第一希望である。だがそれは戸塚個人の希望であり、客観的に考えると辛い気持ちで一週間を過ごして来た八幡のストレス解消になるようなことをしたほうが良いのではないかとも思う。

 

「ゆっくり話をするなら、適当にドリンクバーのある店に入るのが良いんじゃね。気晴らしだと、まあカラオケとかゲーセンとか?」

 

「どこにしよっか?」

 

 先程の対話の後だけに、戸塚が気晴らしをしたいのではなく八幡を思っての提案であることは向こうも理解しているのだろう。八幡の希望通りにしてくれて良いという意図がきちんと伝わっていることを確認できて、戸塚は柔和な笑顔を浮かべるのだが、黙考している八幡はそれに気付かない。天使からの気遣いを無駄にはできないと真剣に悩む彼からすれば仕方のないことであろう。

 

「ま、ムー大にするか。何でもあるしな」

 

「そうだね。……じゃあ行こっか」

 

 八幡も妹以外と遊びに出掛けた経験がほとんど無い。決断を迫られても断固とした返答ができるはずもなく、彼は選択を先延ばしにできることを提案する。ここで戸塚に問い返さない辺りは、一応は妹の教育の成果が出ていると言えるのだろう。

 

 八幡があっさりと行き先を決めてくれて、戸塚は安心すると同時に「何でも揃っている場所に行く」という選択を覚えておこうと密かに思う。全てを同行者まかせにするのではなく、いつか自分もみんなを主導できるように。

 

 

***

 

 

 駅のロータリーを過ぎて、ムー大の駐輪場で自転車を止めて、2人はエレベータに乗り込んだ。まずはゲーセンを見て回ることにする。

 

 エレベータの近くにはクレーンゲームが多く配置されていて、何組かのカップルが楽しそうに過ごしていた。それを見た八幡の目は即座に混濁していく。目当ての品が取れても取れなくても彼らは盛り上がるのだろうが、できればカップルの間で完結していて欲しいものだ。そんな願いとは裏腹に、すぐ隣の異性よりも明らかに周囲に意識を向けている女性を発見してしまい、着いた早々に帰りたくなってしまった八幡であった。

 

 リア充ぶりを周りに誇示するのに忙しい女性とは違って、カップルの男性のほうはゲームに熱中していた。だがどうやら諦めたらしく、付近の店員にお願いしてぬいぐるみを移動して貰っている。最近は何でもありだなと八幡は少し呆れながら、店の奥へと移動する戸塚の後を追った。

 

 

「わぁ、すごい……」

 

 奥のビデオゲームのコーナーにはカードゲームの筐体を主体に、格ゲーや麻雀やクイズなどが並んでいる。不良がいるから出入りしてはダメだと、今までの人生で何度も言われていた為にこうした場所に来たことがなかった戸塚は思わず声を漏らした。隣に立つ八幡は気持ちの悪い笑顔を浮かべているが、おおかた「戸塚の(ゲーセン)初体験の相手は俺だ」などと考えているのだろう。

 

「八幡って、いつもだと何をするの?」

 

「そうだな……2人で協力しながらクイズとかどうだ?」

 

 八幡の年齢では脱衣麻雀などできるわけもなく、その手のいかがわしいゲームを日常的に嗜んでいるなど彼には事実無根のことである。しかし戸塚には言えるはずもないその解答を禁止されてしまうと、何故か八幡には他に解答が思い浮かばなかった。いったい彼は普段ゲーセンで何をしているのだろうか。

 

 仕方がないので話題を逸らして、八幡は一緒に遊べそうなゲームを提案する。周囲の大きな音に負けないようにと考えたのか、戸塚は大きく頷いてくれた。声だけで意思疎通を行うことは半ば諦めて、八幡もクイズゲームが集まっている辺りを指さしながら移動を促す。

 

 歩き始めてすぐに、高校の自転車置き場で感じたのと同じような感触が背中から伝わって来た。おそらく戸塚がシャツの裾辺りをつまんでいるのだろう。そう意識した途端に動きがぎこちなくなる八幡だったが、内心の動揺を気付かれぬように、こんなことは特に何でもない事だと平然とした態度を頑張って維持しながら、にやけそうになる顔を何とか堪えてゆっくり歩く。誰がどう見てもリア充な、初々しい2人の姿がそこにはあった。

 

 

 格ゲーが密集している付近を過ぎる時に、八幡は正直あまり見たくなかった知り合いの姿を発見してしまった。じめじめした梅雨の時期だというのに大袈裟なコートを羽織り、腕にはパワーリストを装着して、わざとらしく偉そうに「くっくっく」などと口にしているのが聞かずとも判る。

 

 彼はどうやら誰かのプレイを眺めながら周囲と談笑している様子である。いずれも細い体躯に眼鏡をかけて遠目からは区別が難しそうな2人を相手に偉そうな素振りを見せている。どうかお友達と仲良く過ごしてくれと内心で願いながら、少し急ぎ足になって近くを通り過ぎる八幡は、自分が既に気付かれているなど夢にも思っていないのであった。

 

 

***

 

 

 無事にクイズゲームの辺りまで辿り着いて、八幡と戸塚は顔を見合わせる。しっかりと八幡のシャツを握りしめていた戸塚はようやくそれに気が付いて、恥ずかしそうに素早く手を離した。それを残念に思いながらも、照れている戸塚の姿を見てすぐさま気分が戻る八幡であった。

 

「さっきね、格ゲーのところで……」

 

「気のせいだ」

 

 食い気味に反応した八幡だったが、きょとんと意外そうな表情を浮かべる戸塚を見ると、危惧した話題ではなかった模様である。コートの男のことなど瞬時に忘れて、八幡は片手を上げて戸塚に謝りながら身振りで続きを促す。

 

「えっと、ゲームを見てるだけの人達が居たと思うんだけど……。ゲーセンだからってゲームをしなくても良いんだね」

 

「あー、そういうことか。格ゲーとかは特に、上手い人は別格だからな。見てるだけで楽しめるってのはあるんじゃね」

 

「そっか。動画サイトで色んなゲームの凄い動きとかを見てると楽しいもんね」

 

「だな。あとは集団で来て順番にゲームをするとかだと、ギャラリーが多くなるんじゃね?」

 

「あ、そっか。みんな友達って可能性もあるよね」

 

「友達ってか……あいつらの場合は、『ゲーム仲間』みたいな感じかもな。そこら辺の普通の友達連中とは、ちょっと違うような気がする」

 

 八幡の説明には少しだけ偏見のようなものが混じっていたが、戸塚には彼の言いたい事が伝わった模様である。例えば同じクラスだからという理由で友達になった場合と、同じ部活だから友達になった場合とでは微妙な違いがある。関係を繋ぐのがクラスという場所なのか、それとも共通の趣味なのかで距離感は全く違ってくるだろう。

 

 少し苦労しながらも戸塚がそうした考えを説明すると、今度は八幡が納得する番だった。何となく近くにいるから一緒にいる場合と、同じようにゲームが好きでつるんでいる場合とでは確かに違う。正直なところゲーセンで群れる連中を内心で少し見下していた八幡だったが、戸塚の説明のお陰で自分の中の何かが浄化されたような気持ちがした。

 

「共通の趣味を持つ仲間ってのも、悪くないかもしんねぇな」

 

「そうだね。ぼくと八幡もクラスメイトって言われるよりも、一緒にテニスの練習をした仲間って言われたほうが嬉しいかも」

 

 戸塚に仲間と言われて心臓を跳ねさせた八幡は、喜びが声に出ないように気を付けながらわざと怠そうな口調で話を続ける。

 

「あー、あの時は楽しかったけど、練習はきつかったなー」

 

「雪ノ下さんが作ったメニュー、ちょっと鬼だったよね」

 

「……鬼・悪魔・雪ノ下って並べても違和感ねぇな」

 

「もう、八幡ったら。あの練習で八幡も凄く上手くなったんだし、そんな言い方はダメだよ」

 

 戸塚に優しくたしなめられて、八幡は思わず頭を掻いた。クイズゲームの筐体の前でゲームをすることなく、2人だけの世界を作っている八幡と戸塚であった。

 

 

***

 

 

「そういえば、雪ノ下さん頑張ってたよ」

 

「えーっと……部長会議だよな?」

 

「うん。雪ノ下さんがまとめてくれなかったら、正直どうなってたか……。葉山くんも凄く褒めてたよ」

 

「ほーん。……そういや、葉山がまとめ役をやってないってのも意外な話だな」

 

「まあ、サッカー部は部費が多くて責められる側だったし、葉山くんも難しい立場だったからね」

 

「だから雪ノ下か……。確かにあいつを引っ張り出さないと収拾がつかなかったかもな」

 

 八幡は部長会議の詳しい内容を知っていたわけではないが、ぼっちとして観察していた事前の動きや戸塚の発言の端々から大まかな状況を理解する。この世界に巻き込まれて部費の配分で揉めていたのを、生徒会が雪ノ下を担ぎ出して収束させたという事なのだろう。

 

 そんな風に考えをまとめていた八幡の耳に、聞き逃せない話が届く。

 

「葉山くんが言ってたけど、雪ノ下さんって、昔はもっと近寄りにくい感じだったんだって」

 

「……昔って、葉山と雪ノ下は昔からの知り合いなのか?」

 

「あ、うん。ぼくもそう思って尋ねてみたら、去年の話だったみたい。2人とも高1の頃から有名だったから、色々な場に担ぎ出されてたみたいで」

 

 もちろんそれは葉山が誤魔化して言ったことなのだが、戸塚も八幡もそう言われると疑う気持ちは沸いて来ない。そもそも葉山と雪ノ下が1年の頃から頼りにされていたのは事実である以上、敢えてそれ以上を追求する者も居ないだろう。実は2人が幼馴染みだと知っている者は、未だこの高校には数えるほどしか居ないのである。

 

「そういう役割を負わされることを考えると、俺とか普通で助かってるな」

 

「八幡が普通って言われると、ちょっと疑問だけどね」

 

 戸塚には珍しく、からかうような口調で八幡の軽口に応える。悪戯っぽい目をしていても戸塚は戸塚であり、八幡はたちまち反論する気を失って苦笑いを浮かべる。2人を覆うATフィールドに対しては既にゲーセンの店員ですら匙を投げている様子だが、楽しそうに会話を続ける当人達は全く気付いていない。

 

 

「葉山くん、何て言ってたかな……。たしか『敬して遠ざけられてた』だったかな?」

 

「あー……雪ノ下らしいっちゃらしいな」

 

「八幡、意味解るの?」

 

 戸塚の問いに対して八幡は手書きアプリを立ち上げ、数文字の漢字を書いて示しながら説明を行う。

 

「もともとは論語の『敬鬼神而遠之(鬼神を敬して之を遠ざく)』から来てるんだけどな。『敬して遠ざける』って、漢字だけ拾ってみ?」

 

「敬……遠。あ、敬遠されてたって事?」

 

「まあ、早い話がそういう事だな。多分あいつの事だから、『凄いですねー』とか言われながら二階に上げられて梯子を下ろされるような扱いだったんじゃね?」

 

「そっか……」

 

 八幡としては容易に想像できる光景でもあり、そして彼女が外に向ける物腰が最近少しずつ変化して来ているのを身近で見ていただけに、あまり深刻には受け取らなかった。しかし八幡の話を聞いた戸塚は見るからに落ち込んで、心配そうな表情を浮かべている。

 

「いや、あれだ。もう昔の話だし、最近の雪ノ下はお前も知ってるだろ?」

 

「うん。……そうだね」

 

「それに『敬して遠ざける』とかって実力が無い相手にすることじゃねぇから。雪ノ下に及ばない誰かが、努力する代わりにあいつの足を引っ張ってただけだろ。そんなのに負ける奴じゃねぇよ」

 

「そうだね。……八幡は、雪ノ下さんのことをちゃんと理解してるんだね」

 

「は?……いや、理解っていうか、身体に染み込まされたっていうか……。あいつの毒舌に晒されてきたから、まあ、これぐらいはな」

 

 戸塚を目の前にしていながら、別の女性のことで恥ずかしがる八幡であった。とはいえこの程度で戸塚が不機嫌になるわけもなく、むしろ八幡と雪ノ下の仲が良いことを喜ぶような口調で話を続ける。

 

 

「今の雪ノ下さんはもう大丈夫だとして、もし同じような状況に陥ったら、どうやって助けてあげたら良いんだろ?」

 

「あー、そうだな……。戸塚は司馬懿って分かる?」

 

「えっと、三国志の人だよね?……たしか、孔明と戦った……」

 

「そうそう」

 

「戦場に出て来ないからって女装道具を贈られた……」

 

「あ、うん」

 

 目の前で頭を捻っている性別不詳の存在に女物の可愛らしい服を贈るべきかと本気で考えたくなってきた八幡であった。どうやら続く説明が出て来そうにないので、八幡は口を開く。

 

「孔明が死んだ後の話なんだが、その司馬懿が名誉職に祭り上げられてな。皇帝を教え導くみたいな役職なんだけど実権が無いんだわ。まあ『敬して遠ざける』みたいな話だわな」

 

「うんうん。それで司馬懿はどうしたの?」

 

「ボケ老人のフリをして敵を油断させて、一気にクーデター起こして数日で実権を握った」

 

「えっと……それって誰にでもできることじゃない、よね?」

 

 軽く苦笑いをしながら、戸塚が素直な感想を述べる。だが八幡にとっては期待通りの反応であり、かつこうした話ができる相手が妹以外に居なかった八幡にとっては自分の話を聞いて貰えるまたとない機会だけに、続きを話す声にも力が入る。

 

「俺の勝手な解釈なんだが、たぶんダメな時ってのはどう動いてもダメなんだわ。だからこの話の肝は、動くべき時を窺って、その時が来たら容赦なく全力で動くべきだって事だと俺は思う」

 

「うん」

 

「だから周りも下手に騒いだりせずにチャンスを待って、動くべき時が来たらそいつに全力で協力すりゃ良いんじゃね?」

 

「うん、なるほどね。さすが八幡だ!」

 

 八幡としては、かつて熱中した三国志の話を簡単に紹介しただけのつもりだが、戸塚は自分よりも遙かに物を知っている同い年の男子生徒に潤んだ目を向けて、尊敬の眼差しで見ている。きらきらと輝くような瞳を向けられた八幡は頬を赤くして、ゲーセンの天井を眺めるのであった。

 

 

***

 

 

 すっかり2人の世界を築いてしまった為に、クイズゲームの近辺から八幡と戸塚以外の人はとうに去ってしまった。八幡はその後も得意げに、司馬懿と卑弥呼の関係などを戸塚に語って聞かせている。耳慣れない知識を教えて貰えることを楽しみながら、戸塚のゲーセンでの時間は過ぎていく。せっかく来たというのに1度たりともゲームをしていない2人であった。

 

 司馬懿の話を終えて、三国志をより詳しく知る為のお薦め本とそれを読む順番についても熱く語った後で、八幡はようやく話し疲れていることを自覚して一息ついた。そんな八幡を戸塚はにこにこしながら眺めている。

 

「ずっと喋ってたけど、八幡は大丈夫?」

 

「あー、ちょっと何か飲みたいかも」

 

「じゃあ、ぼくが何か買ってくるから、八幡はここで休んでて。話を聞かせて貰ったお礼だから、気にしないでね」

 

 八幡が何かを言いたげにしているのを見て、戸塚はそれに先んじて断りを入れる。普通に毎日を過ごしていては決して話題に出ないような面白い話を、今日はたくさん教えて貰ったのだ。飲物を買って来る程度では釣り合いが取れないが、せめてそれだけでもしたいと戸塚は考えたのである。

 

 八幡の希望は「マックスコーヒーか、無ければ炭酸系」とのことだったので、戸塚はコーラを2本持って八幡の待つ場所へと戻って行く。念の為と店員さんにマックスコーヒーの有無を尋ねていたので、少し遅くなってしまった。

 

 戸塚は歩きながら、改めて今日のやり取りを思い出す。歩道橋の上では「次の依頼までは頑張る」と言ってくれて、明らかに週の初めと比べて元気を取り戻してくれた八幡だが、理想としては「奉仕部を辞めない」という言質が欲しい。

 

 戸塚は昼休みに雪ノ下雪乃が語った戦略目標を思い出していた。それは2つから成っていて、八幡を元気付けて元の調子に戻って貰う事と、八幡に奉仕部を辞めさせない事である。彼女は教室に居る面々に向かって、敢えて競争を煽っていた。だが煽られるまでもなく、戸塚は自分の手で八幡に恩返しをしたいと思っていた。

 

 ぼけっと油断している様子の八幡を遠くから眺めて、戸塚は彼に見付からないようにこっそりと近付いていく。今日の八幡の様子からして、奉仕部をいきなり辞めるような事態は考えなくても良さそうだが、はっきりと残留宣言をしてくれないものか。そんな希望を込めながら、無事に八幡の背後を取った戸塚は、彼の首筋に冷たいコーラの缶を当てて驚かすのであった。

 

 

「うおっ!……って戸塚か」

 

「八幡、ちょっと驚き過ぎだって」

 

 いたずらが成功して、目をくりんとさせながら楽しそうに呟く戸塚は小悪魔のようにも見え、しかし天使のオーラは何ものにも汚されることなく存在している。いたずらをされたというのに怒る気になれない八幡は、仕方がないので少し拗ねたような表情を浮かべている。

 

 そんな八幡を見て吹き出しそうになるのを堪えながら、戸塚はふと思い付いた疑問を尋ねてみた。

 

「さっきの話だけどね。司馬懿が名誉職に祭り上げられたって話」

 

「おー、どした?」

 

「それってもしかして、司馬懿が他の国に逃げたりしないようにって意味もあったのかな?」

 

「ああ、多分そうだろうな。反乱を起こしたり他の国に逃げたりしないように、中央で役職に縛っておくってのは良くある話っぽいよな」

 

 八幡の返答を耳にしながら、戸塚の頭の中で何か不思議な経路が繋がったような気がした。瞬時に真顔になって、戸塚は思い付いたことを口にする。

 

「じゃあさ。……もしも八幡を奉仕部の、例えば部長とかにしちゃえば、八幡は絶対に部活を辞められないよね?」

 

「……は?」

 

 

 突然奇妙なことを言い始めた戸塚の話に頭が追いついていないのか、八幡は目を白黒させている。先程のコーラに続いて彼を驚かせたことを内心で喜びながら、戸塚は説明を始める。意外にいたずら好きな天使であった。

 

「もしも八幡が部長を目指すって言ったら、雪ノ下さんも黙ってないだろうね。雪ノ下さんのことだから、八幡の部長就任を阻止した上で、八幡が絶対に奉仕部を辞めないようにしてくれるんじゃないかな」

 

「おい、その展開って、俺の奴隷化が待ったなしになりそうなんだが」

 

「でも、そんなに待遇は変わらないと思うよ」

 

 戸塚としては今の八幡の状況は優遇されたものだと思っている。そもそも時に彼ですら入り込むのを躊躇してしまう程に、今の奉仕部3人の関係性は羨ましいほどの完成度だと戸塚は認識しているのである。ちょっと悔しいので詳しく説明してあげる気はないが、八幡は戸塚の期待通りに少し落ち込んだ表情を見せてくれた。

 

「ぼくの依頼の時もだし、川崎さんの時も思ったんだけど、奉仕部って誰が欠けてもダメだって思うんだ。だからぼくは、八幡に『奉仕部を辞めない』って約束して欲しい。八幡が部活を辞めない状況に持ち込めるなら、さっきの部長作戦だってぼくは本気だよ」

 

「あー、おい。これってもしかして詰んでね?」

 

「うん。八幡が部長になるって言えばぼくは協力するし、八幡がやる気にならなくても雪ノ下さんは黙ってないだろうね」

 

 思い付いた時には正直ここまで考えていなかったが、話しながら考えを進めてみると良い作戦のように思えて来た。策士・戸塚の誕生を前にして、八幡は受けに回ることしかできていない模様である。

 

「いや……でもなぁ」

 

「もしも八幡が今ここで『奉仕部を辞めない』って宣言してくれたら、部長作戦とかしなくて済むんだけどな……」

 

 戦略目標に向けて、一直線に進む戸塚であった。事ここに至っては、戸塚の勝利は目前のように思える。だが、相手は八幡である。

 

「戸塚。その、俺な……俺の為にそこまで考えてくれて、ありがとな」

 

 急に真顔になって、歩道橋での会話を思い出したのか「俺なんか」と言いかけたのを途中で訂正して、八幡は急にお礼を言い始めた。自分の提案が受け入れられたにしては少し様子が変な八幡を不思議そうに眺めながら、戸塚は耳をそばだてる。

 

「平塚先生に無理矢理入れられたような部活だし、辞める辞めないとか正直そこまで拘りは無かったから、戸塚の期待に応えるのは簡単なんだけどな」

 

 おもわず大きな音を立てて唾を飲み込みながら、戸塚は真剣に八幡の言葉を待った。

 

「でも、誰かの為に自分の意志を曲げるような奴が、戸塚が見せてくれた姿勢に値するとは、俺には思えねぇんだわ。だから……悪いけど、戸塚の提案は全部却下だ」

 

「そっ……か。思い付きだったけど、良い案だったと思ったんだけどな」

 

「そだな。正直こうやって感情に訴えるしか手はねーよ。面倒な奴って思われるかもだけど、そこを譲れるような性格じゃねーんだわ」

 

「うん。じゃあ仕方ないし、さっきまでの話は無しね。……今日は八幡と遊べて、楽しかった!」

 

「おう。俺も戸塚と遊べて、楽しきゃったぞ」

 

 緊張の糸が切れたのか、肝心なところで噛んでしまった八幡だった。戸塚としてはもちろん残念な気持ちなのだが、同時に八幡の心の深い部分に触れられたような気がして、そこまで悪い気分では無い。それを証明するかのように陰りの無い笑顔を浮かべて、最後に戸塚は1つの希望を口にする。

 

「じゃあさ、今日遊びに来た記念に、一緒にプリクラとか、どう?」

 

「あー、じゃあ一緒にプリクラ撮って帰るか」

 

 こうして、仲良し2人の楽しいデートは終わりを迎えたのであった。

 




先鋒・戸塚の戦果。
・デートによって八幡の気分高揚に大きく貢献。
・次の依頼までは辞めないという言質を得た。

以下で少し作品の内容には関係のない話を書きます。
面白い話ではないので、興味のない方はここでブラウザバックをお願いします。

次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を1つ修正しました。(1/18)






 前回の更新前後に、直近の10の感想に対して一斉にbadを付けられるという出来事がありました。

 まずは該当する感想を書いて頂いた方々へ、本当に申し訳ありません。
 皆様に非はなく、本作か作者に対して何かを思っての行動だと推測できるので、お気にされないよう願っています。

 そして実行された方へ。何か言いたい事がありましたら、この作品の感想か私へのメッセージでも構いませんので、堂々とお伝え下さい。少なくとも、今後は読者様を巻き込むようなことはお止め下さい。
 こうした行動は関係する誰にとっても益の無い行為ですが、誰よりもご本人にとって時間を無駄にする行為です。
 私個人や本作に対する要求があれば、受け入れられるものは謙虚に受け入れますし異論があれば反論させて頂きますが、対話が可能な限りはそれを拒否するつもりはありません。

 以上、お目汚しで申し訳ないですが、宜しくお願いします。


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16.ゆくりなく彼は彼女と遭遇する。

前回までのあらすじ。

 戸塚とのデートを無事に終えた八幡だったが、彼に奉仕部残留を宣言させようと企む謎の集団の暗躍は続く。果たして八幡は己の意志を貫けるのだろうか?



 週末の土曜日。休みの日には珍しく、比企谷家では朝から外出の支度に余念がない。何を入れるつもりなのか、比企谷小町は空のキャリーケースの中を確認して丹念に掃除をしている。比企谷八幡は兄妹の朝食を用意しているが、それと平行して小さな食器や水を入れたペットボトルをテーブルの端の辺りに並べている。

 

「朝メシできたし、先に食べるぞ?」

 

「あ、そだねー。じゃあ、これはこのまま置いておいて……」

 

 おおかた掃除が済んだキャリーバッグの口を開けたままにして、小町がテーブルに着く。声を揃えて「いただきます」を唱えてから、2人は食事を始めるのであった。

 

 

「でさ、場所は幕張メッセで良いんだよね?」

 

「ああ。広告にも出てたし間違いないだろ」

 

 家で新聞を取っていたのが幸いして、この世界でも八幡はコボちゃんを読み続けることができていた。新聞にチラシが付いているのも現実通りだが、それらはこの世界限定のもので、かつてと比べると量は少ない。その中に「今年も幕張メッセに東京わんにゃんショーがやって来る」という広告が入っていたのである。

 

「せっかくだし、先に色々と見て回りたいよねー。カー君を迎えに行くのは最後かな」

 

「おい。あんだけしっかり準備しておいて、カマクラ待たせるのかよ」

 

「え、だってカー君を連れて会場を見て回るの重たくない?」

 

「いや、まあ、そうなんだが……」

 

 

 この日の午前0時にアップデートが行われて、この世界でもペットの飼育が可能になった。大勢のNPCが闊歩している現状を思うといささか遅すぎる気もするのだが、これは現実世界で飼われていたペットとの摺り合わせに労力を取られた結果である。

 

「カー君、どんな風になってるかなー」

 

「いやま、外見は変わらないんじゃね?」

 

「いちおう、家庭内の序列はちゃんと伝えておいたんだけど……」

 

「待て。それって俺が相手にされない展開じゃね?……ま、現実通りと言えばその通りなんだが」

 

 妹に目線だけで「何か問題でも?」と問われているのを察知して、八幡は話題を収拾する。どうせ今となっては修正は不可能だろうし、「押してダメなら諦めろ」が八幡の基本方針である。扱いが悪くなるわけではないのだし、かえって気楽に過ごせるかもしれない。

 

 

 朝食を食べ終えて、兄妹は協力して最後の持ち物チェックを行った。キャットフードや携帯用トイレ、ビニール袋とタオルに加えて消臭スプレーも入れておく。リードと、少し迷った末に迷子札も念の為に用意しておいた。バスに揺られて帰ってくるのだから、道中の粗相や逃げ出さない為の対策が重要だろう。そう考えて2人は支度を整えたのであった。

 

 

***

 

 

 バスから降りて会場に着くと、予想していた以上の人混みが2人を出迎えてくれた。この光景を写真にでも撮っているのか、小町は八幡を待たせて何かのアプリを立ち上げている。すぐにそれを済ませて、兄と妹はこうした場合にいつも行っていたように自然な形で手を繋いだ。軽く鼻歌交じりに繋いだ手を振り回す小町はご機嫌な様子で、前々から約束していたこの日のお出掛けを堪能している模様である。

 

 アップデートの予定自体は以前から告知されていて、各自ペットを迎えに行く形になることも通知されていた。だが、この世界でも東京わんにゃんショーが行われるのは嬉しいサプライズだった。会場内では犬や猫に加えて珍しい動物の展示もあり、大勢が楽しそうに見物している。小町の機嫌が良いのも当然だろう。

 

「これが入場無料って凄いよねー」

 

「おお、なんたって展示即売会だからな。1匹売れるだけで凄い儲けになるんだろうな」

 

 夢も希望もない返事をする八幡であった。彼ら兄妹のように現実でもペットを飼っていたのでなければ、つまりこの世界で初めてペットを飼う人達からすれば、ここにあるのは単なるデータである。それが売れれば丸儲けなのはソシャゲの例を出すまでもなく明白なのだが、運営が売って終わりという姿勢を明確に否定していることもあり、いささか情緒に欠けた発言だった。

 

「お兄ちゃんさ、去年もペンギンの語源が肥満とか無駄な知識を披露してくれたけど……。女の子とデートする時には、変な知識とか語らないでね。笑って聞いているようでも、内心ドン引きだから」

 

「なん……だと。じゃあ、昨日の戸塚も?」

 

「えっと……。お兄ちゃんの中で戸塚さんが女の子なのは、気持ちは分かるし手遅れだから仕方がないけど、ちゃんと相手の反応も確かめながら話してよね。お兄ちゃんは得意げに話し始めると止まらない時があるから……」

 

 真っ先に戸塚の名前を出してくる兄に苦笑しながらも、今ならいつも以上に真剣に聞いてくれそうだと考えた小町は丁寧な教育を兄に施す。実戦経験が無いのになぜか経験値だけはそこそこ貯まっている八幡であった。

 

 

 オウムやインコに観察され、鷲や鷹や隼に見下されながら鳥ゾーンを過ぎると、ハムスターやフェレットなどの小動物が兄妹を待ち構えていた。それらを見た瞬間に八幡が予想した通り、小町はウサギたちとのふれあいコーナーに突撃したまま一向に動き出す気配がない。

 

 小町には懐いているのに、八幡が近付こうとすると小動物は1匹の例外もなくちょこまかと逃げて行く。動物にまで嫌われるという哀しい気持ちを抱えて手持ちぶさたな時間を過ごしていた八幡は、妹が満足するまで付近のベンチに座って無聊を慰めるのであった。

 

 

 小動物コーナーを抜けると、そこはメインの片割れ・わんわんゾーンだった。販売という側面があるからか、犬種は豊富だが子犬ばかりが並んでいる。この世界ではどの程度の価値があるのか判らないが、いずれの子犬にも血統証明書が付いているとのことである。

 

「去年と同じような感じだねー」

 

「そだな。ここで血統書に意味があるとは思えねぇけど、価格をつり上げる為かね?」

 

「だ・か・ら、そういう話はデートの時にはダメだってば。『安心して一緒に飼えるね』とか言っておけば良いんだよ」

 

「何それ面倒臭い……」

 

 いったい妹は俺をどんな風にしたいのだろうかと、遠い目をする八幡であった。

 

 人気の高いコーナーゆえに、付近は大盛り上がりである。飼うべきか真剣に悩んでいる者もあり、この場で犬とふれあって楽しんでいる者もあり、中には大騒ぎをしながら写真を撮りまくっている女性もいる。姿形が身近な国語教師に酷似している女性にできる限り目を向けないようにして、八幡はコーナーの出口へと向かった。こっそり八幡を観察しようとここで待ち構えていた彼女が、つい写真を撮るのに夢中になって彼を見逃してしまったのはここだけの話である。

 

 

 もう一つの目玉コーナーであるにゃんにゃんゾーンでも、来場者の熱気は変わらなかった。八幡は妹と目を合わせて、挑発的な小町の視線に応える形で口を開く。

 

「この猫ここの猫の子猫こにょ……うがー!」

 

「この猫ここの猫の子猫この子猫ね。……ブイ!」

 

 片手は繋いだまま、勝ち誇ったように小町はVサインを見せつける。兄妹はどうやら気付いていないようだが、第三者から見れば間違いなくリア充の2人であった。もしも見逃されていなければ、2人が末永く爆発する呪いが結婚したいという心の叫びとともに、わんわんゾーンから送られて来たことだろう。

 

 この後に飲物を奢ることが確定してしまった八幡は悔しげに辺りを見渡す。ちなみに八幡が勝った時には各自で飲物代を出すという不平等な勝負なのだが、これも妹の教育の賜物と言って良いのだろう。

 

 付近では猫を前にして難しい表情で考え込んでいる者もいれば、猫の指示に従って遊ばれている者もいる。その中に、猫と向き合ってしゃがみ込んだ姿勢で、喉をこりこりしたり肉球をぷにぷに突いて遊んでいる女の子が居た。八幡からは背中しか見えないのだが、2つに分けて結わえた黒髪にはどこか見覚えがある。

 

 妙に絵になる彼女と猫とのじゃれ合いを写真に収めていた小町も何かに気付いた様子で、傍らの兄に問い掛ける視線を送って来た。ゆっくり頷いて返した八幡は妹と一緒に件の女の子に近付いて行く。

 

「ニャー」

「にゃー」

 

 猫の鳴き声に応えるように、八幡がここ2ヶ月ほどですっかり聞き覚えてしまった声で、その女の子は柔らかい鳴き声を出していた。妹が隣に居ることも忘れて、八幡は胸に抱いた疑問を思わず口に出してしまう。

 

「……お前、こんなとこで何してんの?」

 

 

 雪ノ下雪乃があらわれた。コマンド?

 

 

***

 

 

 この日の早朝から、雪ノ下は幕張メッセの会場内に招待されていた。今週初めの職場見学の時にも彼女らを案内してくれた運営スタッフが直々に雪ノ下の相手を務めている。アップデートが無事に完了していることを確認するのに大わらわな他の運営スタッフを尻目に、彼女が特別待遇なのは理由があった。

 

「開場前から行列ができていますね」

 

「うん。貴女が職場見学の時にあれを提案してくれたお陰で、この世界で動物を飼うことに意味を見出せたからじゃないかな」

 

「いえ。単なる思い付きに過ぎない程度の提案ですし。それを可能にしたのは御社の技術です」

 

 厳しい口調でそう答える雪ノ下だったが、その表情はどこか晴れやかで誇らしげにも見える。それは彼女の提案が受け入れられたこと自体を喜んでいるからではなく、変更内容が彼女の希望に沿った形になったことをこそ喜んでいるからなのだろう。

 

「そうは言うけど、最初の発想ってとんでもなく重要だよ。継続性という貴女の着眼点が良かったからこそ、こうした反応になってるんじゃないかな」

 

「それは……そうだとしたら嬉しいですね。私としては、この世界で動物を飼っても現実に戻ったら無駄になるという、やるせない状況を改善したかっただけなのですが」

 

「うん。やっぱりそれって寂しいよね。ちゃんとした形にするには次の大型アップデートを待つ必要があるけど、データとしては今回のアップデートで問題ないはずだから」

 

 どこか雪ノ下にとって身近な女子生徒を思わせる人懐こい距離感で、運営スタッフは話を途切れさせることがない。強いて彼女と違う点を挙げるとすれば、専門的な話ができることと、こうして雪ノ下の考察を妨げないような配慮を感じることだろうか。

 

 

 今週の月曜日。運営の仕事場で奉仕部3名が別々に見学を行った時間帯に、雪ノ下は今回のアップデート内容を議題にした過去の会議を見せられた。録画され編集された会議の様子を見るのはそれだけでも興味深いものだったが、運営は時折その動画を止めて彼女に意見を求めた。いわば擬似的に会議に参加する形を整えて貰ったのである。

 

 雪ノ下の提案は技術的・金銭的・物理的なコストを考慮しなくて良い立場だからこそ簡単に口に出せたものである。そして運営がその提案を受け入れたのは、この世界に捕らわれたプレイヤーにとって有益であり、そして何より運営にとっても新たな可能性を感じさせるものだったからだろう。

 

 職場見学で自分が提案をした時の事を思い出しながら、雪ノ下は口を開く。

 

 

「私は『睡眠学習』という表現で提案しましたが、厳密に言うと違いますよね?」

 

「うん。どう伝えたら解り易いかな……。質感のある夢という形で記憶に残しておく感じなんだけどね」

 

「それを、この世界にログインする技術を応用して実現させたということですよね?」

 

「そうね。技術としては問題なかったんだけど、特定の個体の中で相矛盾する記憶にどう収拾を付けるかが難しかったみたい。要は、同じ時間に現実とこの世界と、独立した2つの過去を持つことになるから、自我の問題に繋がるんだよね」

 

「つまり、この世界の記憶を残そうとするほど問題が出て来ると」

 

「うん。この世界で飼い主と過ごした記憶をできるだけ残してあげたいけど、その辺りの調整がね……」

 

 運営としても充分な検証時間が取れなかった為に見切り発車という側面は強い。だがそうした事情も公表した上で、現実に戻ってもペットとの繋がりを継続できる仕組みを目指すという運営の姿勢に対しては、多くのプレイヤーが好意的な評価を示していた。

 

「デジタルな技術と言えば0か1かというイメージになりがちですが、全て残るか全て消えるかの2択ではなく、少しは記憶が残るという曖昧な感じのほうが、受け入れられ易いのかもしれませんね」

 

「うん、そうだと嬉しいね。できれば、この世界は紛い物だとか覚えておく価値は無いとか言わずに、ここで過ごした時間も現実だったと思って貰えたら……ってのは贅沢かな」

 

「私達を拉致監禁している犯罪者でなければ、心から賛同するところですが」

 

 言葉としては厳しいが、雪ノ下の口調はあくまでも柔らかい。自分よりも遙かに年長である目の前の運営スタッフでも、こうして迷うことが多々あるのだ。もしもこの世界に捕らわれた意味を見出せれば、その時には自分の中で何かが変わるのではないか。ふと雪ノ下はそんなことを思い付き、そしてこの思い付きを大切に自分の記憶の中に刻み込むのであった。

 

 

「じゃあ、犯罪者からのプレゼントとかは必要ないかな?」

 

「いえ。プレゼントの中身によっては、受け取ることも吝かではないのですが」

 

 悪戯っぽく尋ねる運営スタッフに対して平然と答える雪ノ下であった。

 

「ふぅん。……ま、喜んで受け取ってくれるなら良いか。この会場内の動物をどれでも、持って帰ってくれて良いってゲームマスターが言ってたよ。ただ、大切に育てて欲しいから、1匹だけにしてくれると嬉しいんだけど」

 

「ええ、1匹だけで問題ありません。猫を飼いたいと思いますので、案内して頂けますか?」

 

「了解。存分に選んでくれて良いよ。決まったらメッセージで連絡してね」

 

 こうして、雪ノ下による長い長い吟味の時間が始まったのであった。

 

 

***

 

 

 数ある猫の中から好みの1体を選び出すという至福の時間の邪魔をされて、雪ノ下はゆらりと立ち上がった。相手がどこの誰であれ慈悲は無い。そう考えて、どこか聞き覚えのある声の主を全力で論破してやろうと企む雪ノ下だったが、かすかに残っていた理性がそれに歯止めをかける。何か大事なことを忘れている気がして、彼女は眼前の存在を無視したまま額に手を当てて思索に耽る。

 

「雪乃さん、こんにちはー」

 

「あら、小町さん。こんにちは、お久しぶりね」

 

「おい。俺の姿って……見えてるよね?」

 

「……比企谷くんも居たのね。もしかして、さっきの声は……」

 

「ああ。なんか熱中してたみたいで悪かったな」

 

 普段のからかうような軽い口調とは違って、真面目に何かを考えている様子の雪ノ下に戸惑っているのだろう。柄にもなく遠慮めいたことを口にする八幡を見て、雪ノ下も少し落ち着きを取り戻した。

 

「いえ。何か忘れていたことがあった気がして考えていただけなので、気にしなくても良いわ。……相変わらず仲が良いのね」

 

 目の前に並んでいる血の繋がったきょうだいは、お互いの気持ちが通じ合っているように見える。人前でも堂々と手を繋いで仲の良い様子を見せつける2人を微笑ましく眺めながら、雪ノ下は少しだけ疼く胸の痛みを誤魔化すように口を開く。

 

「じゃあ、私はこれで」

 

「おう、じゃあな」

 

 会って早々に解散するという予想外の展開に唖然としている小町を横目に、雪ノ下はしっかりとした歩調で行き止まりに向かって進んで行った。彼女の前に道は無い。彼女の後ろに知り合いが居る。思わず壁に向かって詩を朗読したくなる雪ノ下であった。

 

 仕方がないので颯爽とターンをして、雪ノ下は先ほど別れを告げた2人に向けて歩いて行く。頼むから何も言ってくれるなと願う彼女の痛切な思いは残念ながら伝わらず、雪ノ下は改めて2人から声を掛けられるのであった。

 

「あの、雪乃さん……?」

 

「なんでお前、壁に向かって突進したんだ?」

 

「……ま、迷ったのよ」

 

 この場で堂々と腹を掻っ捌くことができれば、どんなに気持ちが楽だろうかと雪ノ下は思う。彼女はもう少し自分の性別や生きている時代を考えたほうが良いのかもしれない。

 

 方向音痴を疑うような視線を受けて、いたたまれない気持ちの雪ノ下は一刻も早くこの場から撤退したいと思うのだが、対人経験に乏しい彼女は機転を利かせた言い訳がまるで思い浮かばない。それどころか、今の状態で口を開けば確実に噛む自信がある。万事休すの雪ノ下であった。

 

「あ、あの。良かったら雪乃さん、小町と一緒に回りませんか?」

 

 こうした場面では3人の中で唯一頼りになる小町が事態の収拾に乗り出した。雪ノ下としてもありがたい提案のはずなのだが、何かが頭の片隅で引っ掛かっている。私は大事なことを忘れているのではないだろうか。

 

 

 その時、わんわんコーナーの方角から、長毛のミニチュアダックスが悠然と姿を見せた。飼い主の姿はなく、1頭だけでとことこと歩いて来る。放し飼い状態のその犬は、背後から飼い主か誰かに注意を受けたのだろう。突然スピードを上げて、なぜか八幡に向けて一直線に走ってきた。

 

「ひ、比企谷くん。い、ぬ……」

 

 苦手な犬が自分達に向けて凄い勢いで近付いてくるのを見て、雪ノ下は思わず八幡の背後に回ってシャツの背中の辺りをちょこんと掴む。滅多に見られない彼女の混乱ぶりをもう少し見ていたいとでも言いたげな八幡に必死の視線を送ると、彼はようやく動いてくれた。

 

 妹と手を繋いだまま、同い年の女の子にシャツの背中を摘まれたまま、八幡はあっさりと首根っこを押さえて犬を捕まえる。しかし捕まった犬は暴れるわけでもなく、むしろ嬉しそうに八幡に従っている。どこかで見覚えがあるような、と雪ノ下が考え始めた瞬間に、飼い主の大きな声が会場に響いた。

 

「ごめんなさい!……サブレがご迷惑を!」

 

「あら、由比ヶ浜さん……!」

 

 遅まきながら全てを思い出した雪ノ下であった。目の前の女の子は3人が揃っているのを見て驚いていたが、すぐに事前に立てていた計画を思い出した様子である。

 

「ヒッキー!ここで会ったからには、あたしのアニマルセラピーを試しちゃうからね!」

 

 作戦名を堂々と口にするアホの子が、3人の前に立ち塞がっていたのであった。

 

 

 由比ヶ浜結衣があらわれた。コマンド?

 




次回は金曜日に更新の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
本話だけを読むと雪ノ下と運営の関わりが唐突で説明が不親切に思えたので、雪ノ下と運営スタッフの会話が途切れた箇所に地の文で説明を加えました。
既に2ヶ月前の話になりますが、2巻幕間で書いた「近々行われる予定のマイナー・アップデートに関する彼女の提案」が今回の話に繋がっています。(1/18)

誤字を1つ訂正し細かな表現を修正しました。(1/18,1/23)
誤字報告を頂いて、八幡が負けた時→勝った時に修正しました。ありがとうございます!(10/22)


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17.いじらしくも彼女は彼を思った行動に出る。

前回までのあらすじ。

 飼い猫のカマクラを引き取りがてら妹と東京わんにゃんショーにやって来た八幡は、思いがけず雪ノ下・由比ヶ浜と相次いで遭遇する。この急展開に対してどこか現実離れした感覚を覚える八幡だったが、それは彼の前に現れた2人にも言える事だった。落ち着かない気分のまま勢いだけで、由比ヶ浜は事前に立てた計画を何とか実行しようと図るのであった。



 この日、由比ヶ浜結衣もまた飼い犬のサブレを引き取る為に東京わんにゃんショーに来ていた。連れて歩くのは重いからと後回しにしたどこかの兄妹とは違って、一刻も早くサブレに会いたいと思った由比ヶ浜は他の動物に目を向けることなく指定の場所に直行して、再会と呼ぶには奇妙な出会いを果たしていたのである。

 

 由比ヶ浜が受け取ったサブレは現実の設定を可能な限り盛り込んで外見もそっくりではあるものの、やはり元のサブレと同じではない。だが現実と通じる部分が多々あるだけに、厳密には違うという思いを心のどこかで抱えつつも、彼女は目の前のミニチュアダックスこそがサブレであると思い込もうとしていた。

 

 由比ヶ浜にとってサブレとは家族の一員であり、そして交通事故という辛い思い出を通してではあるが、比企谷八幡と自分とを巡り逢わせてくれた存在である。彼女がことさらにサブレを特別視して、時に現実のサブレに向けていた以上の感情をこの世界のサブレに向けてしまうのも仕方のないことなのだろう。

 

 ずいぶん慣れたとはいえ、この世界に巻き込まれたことで受けた心理的な影響は完全に払拭できるわけもなく、それもまた彼女がペットに向ける気持ちを過剰なものにする要因になっている。そうした経緯から、由比ヶ浜は受け取ったばかりのサブレに構い通しになっていたのであった。

 

 

「あ、ヒッキーと小町ちゃんも着いたんだ」

 

 メッセージが届いて、彼には内緒だがこの後に合流する予定の2人の動向を確認して、由比ヶ浜は緊張の度合いを高める。比企谷家に飼い猫がいることを知っていた彼女は、計画を円満に進める為という言い訳を誰にともなく呟きながら、昨夜のうちに比企谷小町と連絡を取っていた。

 

 目当ての2人は会場を出た後でお茶をする予定とのことで、由比ヶ浜はそこで加わる手筈になっている。早口言葉で勝負をして兄に奢らせる気が満々の小町は、意外にも勤勉に発声の練習をしているらしい。兄妹の仲の良さを感じて苦笑しながら、しかしそのお陰で気分がほぐれた由比ヶ浜は昨夜ぐっすり休むことができたのであった。

 

「今からトリミングして貰って、終わったらちょうどいい時間だよね。予定通りだし……大丈夫だよね、サブレ?」

 

 問い掛けられても首を傾げるしかできないサブレだが、飼い主も別に返事を期待しているわけではないのだろう。不安を紛らわせる為に話し掛けているだけなのだろうし、そもそも人間様が悩んでいる事などサブレには全く解らない。正直そろそろ過干渉が煩わしくなって来たサブレであった。

 

 

 まずは毛並みを整えて貰って、ご満悦な様子のサブレを傍らで休ませながらNPCからしつけのコツを伝授されていた由比ヶ浜だったが、ふと気付けば飼い犬の姿が見えない。首輪にリードを付けておくのを怠っていたのだ。現実世界での嫌な記憶を思い出して、瞬時に他のことを何も考えられない状態に陥った由比ヶ浜は、NPCへのお礼もそこそこに慌ただしく会場を走り回る。

 

 そして、彼女は彼と久しぶりの再会を果たした。

 

 

***

 

 

「あたしのアニマルセラピーを試しちゃうからね!」

 

 この時の由比ヶ浜の頭の中は、事前の計画を何とか遂行しようという思いでほぼ埋め尽くされていた。この計画が何を目的としたものなのか。そもそも計画を立てるに至った要因は何だったのか。目の前の男の子に対する気まずい気持ちだけは何となく覚えていたものの、それすらもこの場の勢いで誤魔化して、由比ヶ浜は八幡に挑む。

 

 この作戦は彼女が憧れる雪ノ下雪乃が立案して、執拗に猫を推す意見だけは何とか退けたが他は彼女のお墨付きを得ている。きっと上手く行くだろう。事前の打ち合わせには無かったが、なぜか今その雪ノ下もこの場に居合わせてくれている。他のことは彼女と一緒に、この作戦を終えてから考えれば良いのである。

 

 由比ヶ浜は唖然とした表情で自分を見つめる3人から意識を逸らさぬように気を付けながら、付近に放置されていた段ボール箱に近付いて行く。この状況に対応しきれず思わず掴んだ手を緩めてしまった八幡から解放され、一旦は飼い主の元に戻るかと悠然と歩いてきたサブレを、彼女はおもむろに箱の中に入れた。秘策・アニマルセラピーの完成である。

 

「どう、ヒッキー?」

 

 もはやこの形に至れば勝利は揺るがないと見て、由比ヶ浜は得意げに八幡に問いかける。犬を避けて彼の背後に回っていた雪ノ下も、予定外の遭遇からこの形に繋げた由比ヶ浜の手腕には驚いていた。強いて言えば、段ボールの中に居るのが猫であれば完璧だったのだが。

 

「いや、あの……俺にどうしろと?」

 

 犬の飼い主が由比ヶ浜だと気付いた時には、どう対応したものかと気まずい思いを抱いた八幡だったが、予想外の奇天烈な展開ゆえにそれどころではない。飼い犬を入れた段ボールを八幡へと差し出すような姿勢で、事は終わったとでも言いたげな様子で得意げに胸を張る由比ヶ浜を眺めながら、途方に暮れるしかない八幡であった。

 

 

「あれ?……ヒッキー、もしかしてサキサキみたいに動物アレルギーとか?」

 

「いえ……。先程は犬を掴んでいたのだし、アレルギーなどは持っていないように思えるのだけれど」

 

 八幡の反応が予想と大きく違う事に2人は首を傾げる。捻くれた言動で勘違いされやすいが、彼はいざという時には他人の為に我が身すら投げ出せるほどの優しさを備えている。それを誰よりもよく知っている2人は計画が思うような方向に進まないことを訝しく思う。彼ならばすぐさま段ボールから動物を拾い上げて、そして改心へと進む流れになるのは明白なはずなのに。

 

 昭和の不良を想定したような2人の杜撰な計画はさておき、飼い主が何をしたいのか全くもって理解できないサブレは、付き合いきれないとばかりに由比ヶ浜に尻を向けて八幡の胸元めがけてジャンプした。先程はいきなり首根っこを掴まれたので一旦距離を置いたが、サブレとしては誰よりも彼にこそ構って貰いたいし、彼とじゃれ合うことで別世界での恩を示したいのが正直なところである。

 

 運営に伝えられた情報の中でも、八幡との関わりは微に入り細を穿つほどの内容だったので、この世界のサブレは彼に対する好感度が振り切れた状態にある。慌ててはいても片手でしっかり抱き留めてくれた八幡に親しげな目を向けながら、全力で尻尾を振って好感度を表に出すサブレであった。

 

 

 予想外の展開に戸惑っていたのは、今も兄と手を繋いだままの小町も同様だった。時間の経過によって少しずつ冷静さを取り戻した彼女は、兄にじゃれついているこの犬こそが、あの事故の発端だったのだとようやく気が付いた。

 

 もしもこの世界に巻き込まれた直後の心理状態であれば、小町はサブレに鬱屈した感情を抱いていただろう。だが川崎大志の依頼を片付けた帰り道、兄の胸の中で号泣して事故の時の心境をぶちまけたことで、彼女は自分でも意外なほどに静かに落ち着いた気持ちで件の犬を眺めることができていた。

 

 もちろん複雑な気持ちが全くないとは言えない。兄が大怪我をした原因の犬を見ても自分は案外平気だなと、どこか他人事のように考えている時点で普通と違うのは確かである。だが起きてしまったことが覆らない以上、こうした前向きな心理状態に至れたのは彼女にとって喜ばしいことに違いない。

 

 

 サブレに優しげな視線を送る八幡の姿を彼の背中越しに眺めながら、雪ノ下は計画の失敗を悟った。改心するもなにも、彼は最初から優しい性格なのである。確かに彼の言動は捻くれているし融通の利かない性格だが、今回の彼と由比ヶ浜のすれ違いは彼の優しさゆえに生じたことなのだと、今更ながらに雪ノ下は理解したのである。

 

 職場見学を終えた時に、恥ずかしい話だが一番余裕が無かったのは自分だったと雪ノ下は思う。形だけを取り繕って自分がさっさと帰ってしまったことで、由比ヶ浜にはゲームマスターに打ちのめされた八幡と独り向き合わせてしまった。

 

 自信を取り戻した雪ノ下には彼と彼女に対する負い目は無い。由比ヶ浜は彼との再会をずいぶん心配していたが、それは後味の悪い別れ方をしたからである。そのことに対して自分にも責任があるのは確かだし、自分も虚勢を張ったような別れ方をしたのだが、それらに関して彼が何かを言って来るようなら容赦なく叩きのめす用意が彼女にはあった。

 

 要するに雪ノ下は、心配をされたり同情されたくはないのである。それは孤高を貫く状況に至る事が多かった彼女にとっては自然な事であり、そしてある意味では幼さを引き摺った感情なのだが、他者との関係を進める上では悪いとは言い切れないものでもある。いつまでも過去を引き摺っていては関係など深まるはずもない。

 

 どこか自分と似たような不器用さを持ち、しかしその源泉が自分自身を保つ為だった雪ノ下とは違って、どちらかと言えば他者に向けた優しさ故のものであることを理解して、彼女は少しだけ微笑む。孤高を装った彼女もまた八幡とは違った種類の優しさを備えていたのだが、今の雪ノ下にはそこまでは理解が及ばない。

 

 とりあえず、お見合い状態のまま固まっている現状を動かそうと考えて、雪ノ下はゆっくりと口を開くのであった。

 

 

「由比ヶ浜さん。残念だけれど、アニマルセラピーは失敗だったと受け入れましょう。貴女には今から、計画とか余計なことは考えないで、比企谷くんと向き合ってみて欲しいのだけれど……。どうかしら?」

 

「えっと、うん……そうだね。じゃあ余計なことは考えないで、ヒッキーと話してみる」

 

「それが良いと思うわ。私は小町さんと一緒に居るから、話が済んだら連絡を頂けるかしら?」

 

 雪ノ下の提案を受けて、一瞬だけ自信なさげな表情を見せた由比ヶ浜だったが、己が為すべきことを思い出したのだろう。彼女の返事は後半になるほど力強さを増すものだった。

 

 こうして八幡たちの要望は全く聞かれぬままに、4人は一旦2人ずつの別行動に移るのであった。

 

 

***

 

 

 意外な展開にも即座に対応して、雪ノ下の腕を取って何処へともなく去っていた小町を見送ると、2人はとりあえず会場の隅のほうへと移動した。いざ2人きりになってみるとお互いに気まずいことこの上なく、八幡と由比ヶ浜は並んで壁にもたれた姿勢で別々の方角へと目を向けていた。

 

「その、なんだ。……月曜は悪かったな」

 

「ううん。あたしも、逃げるような感じになっちゃって、ごめん」

 

 やがてぽつぽつと会話が始まる。頑張って八幡が口火を切ったのは、妹に事の経緯を説明した時に「しっかり自分から謝るように」と厳命されていたお陰である。変に取り繕おうとせず、捻くれた部分も含めて思ったことをそのまま口に出すようにと小町に命じられたのを思い出しながら、八幡は言葉を継ぐ。

 

「その、お前らがこうやって引き留めてくれるのは正直予想外ってか、俺なんかの為になんでここまでって思ったりもしたんだが……。戸塚に言われてな。俺が卑下するようなことを言ったら、戸塚を悲しませてしまうんだと」

 

「うん。さいちゃん、サキサキにも同じことを言ってたよね」

 

「ん?……戸塚も言ってたけど、たしかあの時はお前が言い出したんじゃなかったか?」

 

「あ……ヒッキー、覚えてくれてたんだ……」

 

 八幡が記憶していた通り、友人に卑下して欲しくないと言い出したのは由比ヶ浜で、それに同調したのが戸塚だった。細かい部分ではあるが、ナチュラルにあざとい八幡であった。サブレを抱きしめる力を強めながら、彼女は隣に立つ男の子の声に集中する。

 

「その、昨日戸塚と約束してな。次の依頼までは部活を辞めずに頑張ってみるって言ったら、俺なら大丈夫だって。依頼をちゃんと解決できるはずだって言ってくれてな」

 

「うん」

 

「だからお前らも、その、心配しないで欲しいってか。……俺のことで、落ち込んだような顔をして欲しくないんだわ」

 

「えっ……ヒッキー、見てたの?」

 

「あー……まあ、同じクラスだしな。見たら悪いかと思ってたんだが、つい目に入る時とかあって……」

 

 

 会話が進み始めたと思ったら、途端に恥ずかしそうな表情になって口ごもる2人であった。周囲も気を遣ってか、初々しい2人の周りからは人影が途絶え始めていた。少しだけ間を置いて、どうやら恥ずかしさよりも心配の気持ちが勝った様子で由比ヶ浜が問いかける。

 

「その、ヒッキーも今週は辛そうな感じだったけど……大丈夫だった?」

 

「あー、そだな。……なんか色々と悩んでたけど、途中からどうでも良くなったってか。……なんで俺、こんな些細なことで落ち込んでんだろ、とか思ったりして」

 

「そっか。ヒッキー()、自分で立ち直れたんだね……」

 

 少しだけ哀しげな声を含ませながら、由比ヶ浜は独り言のように呟く。彼女の悔恨は八幡には伝わることなく、彼は普通に返事を返す。最後のほうは小声になって。

 

「自分で、ってか……。妹とか、まあ色んな人のお陰なんだがな。戸塚とか、その、お前らとか……」

 

「……ヒッキーがそんなこと言うなんて、この後の天気とか大丈夫かな」

 

「ほっとけ。捻くれてても良いから思い付いたことをそのまま言えって、小町に言われてんだよ」

 

 何とか冗談っぽい返しをした由比ヶ浜だが、動悸が凄いことになっている。それを気付かれないようにと必死に取り繕う彼女の努力は報われた模様で、こっそりと顔色を窺ってみると、八幡は憮然とした表情を浮かべてそっぽを向いていた。

 

 

 少しだけ可笑しくなって、そのお陰で鼓動が落ち着いてきた由比ヶ浜は、ゆっくりと息を吐いた後で丁寧に返事を口にする。彼女なりに適切な言葉を選んで、今の気持ちを彼にしっかり伝えるために。

 

「うん。そのまま言ってくれたほうが、嬉しいかも。……できればヒッキーには、もっとあたし()を頼って欲しいんだけどな」

 

「あー……それはあれだ。男としてちょっと情けないってか、心理的に抵抗があるんだわ」

 

 この段階に至っても「あたしを」と言い出せない由比ヶ浜もたいがい奥手だが、この話題で男としての矜持を持ち出す八幡も随分なものである。変な拘りを口にする八幡に対して、由比ヶ浜は自分のことを棚に上げて、少し不満げな様子を隠すことなく返事をする。

 

「ヒッキーには色々と助けて貰ったんだから、辛い時ぐらい頼ってくれても良いじゃん。……サブレもそう思うよね?」

 

「うおっ!……さっきも思ったが、その犬って俺に懐きすぎじゃね?」

 

 すぐ横に並んでいる男の子のほうへと顔を向けてあげると、途端にサブレはもの凄い勢いで尻尾を振り始めた。驚いている八幡の様子が妙に可笑しくて、思わず吹き出しながら由比ヶ浜は答える。

 

「そりゃ、命の恩人なんだから当然じゃん。入学式の時のことは、全部このサブレにも教えておいたし……」

 

「はあ……。もう1年以上も前のことだし、あんま蒸し返されると逆に照れ臭いんだが」

 

 褒められたり感謝されることに慣れていないのか、居心地が悪そうに彼方を向く八幡を見ていると、何だかもっと恥ずかしがらせたくなってしまう。少しだけSの気配を見せ始める由比ヶ浜であった。その衝動を何とか追い払って、彼女はゆっくりと本題に入る。

 

 

「じゃあ、今の話をしよっか。……あたし達はヒッキーに奉仕部を辞めて欲しくないし、辞めないって約束して欲しいんだ。たぶんヒッキーは『なんで?』って言うと思うんだけど……。これからも3人で色んな依頼を解決しながら、この世界で過ごしたいってあたしは思う。これって、答えにならないのかな?」

 

 それは由比ヶ浜にとっての正直な気持ちである。もちろん彼と2人でもっと話をしてみたいという気持ちも別にあるのだが、今の3人で過ごしている部活の時間も彼女にとっては既に特別なものになっていた。どちらか1つだけが大事なのではなく、由比ヶ浜にとっては両方ともが大事なのである。

 

「……あの時も言ったと思うが、今の俺が奉仕部に貢献できるとは、あんま思えねぇんだわ。たぶん雪ノ下とお前が居たら、ほとんどの依頼は解決できると思う。お前は友達が多いし、雪ノ下も生徒会とかと繋がりがあるから、人手に困ることも無さそうだしな」

 

「……あの時に言われて、あたしずっと考えてたんだ。でも、ゆきのんみたいな上手な説明はできないけど、ヒッキーが言ってるのは間違ってると思う。……ヒッキーが居なかったら、サキサキの依頼もこんなに綺麗な形で終われなかったし、隼人くんの依頼だって噂の内容の違いとかに気付けなかったし。テニスもヒッキーじゃないと勝てなかったし、たぶんさいちゃんもあんな笑顔にはならなかったよ?」

 

 悪気は無いのだろうが、材木座が関与した記憶がすっぽり抜け落ちている由比ヶ浜であった。噂の質の違いを真っ先に指摘したのは彼である。とはいえ材木座が真価を発揮するのは八幡が側に居てこそだと考えれば、彼女の主張もあながち間違いではないのだろう。彼だけは八幡独自の人脈だと言えるのだから。

 

「あー……まあ、今までが上手く行きすぎてたってか、偶然じゃね?」

 

「偶然だったら、こんなに続かないよ。……あたしだったら、ゆきのんが居てくれても、こんな風に解決はできなかったと思う」

 

 往生際の悪い事を言い始める八幡を真っ向から否定しながら、由比ヶ浜は次第に己の無力を感じ始めていた。彼女はそのまま言葉を続ける。

 

「正直ね、あたしはヒッキーの気持ちがちょっとだけ解るんだ。実際はあたしが一番役に立ってないなって思うし、奉仕部にあたしが居る意味ってあるのかな、って。貢献できないと部に居られないって言うのなら、ヒッキーよりも先にあたしが辞めるべきだと思う」

 

「は?……いや、お前が居ないと雪ノ下の暴走を誰が止めるんだよ。それにお前のことはゲームマスターも評価してたじゃねぇか。俺がやることは雪ノ下でもできるだろうけど、お前の代わりを俺や雪ノ下が務めるのは無理だぞ?」

 

「そんなこと無い。ヒッキーは……ゆきのんは凄いけど、ヒッキーはゆきのんとは違うってあたしは思うの。今までの依頼だって、もしゆきのんだけだったら、違った形になってたと思う。それって、ゆきのんとヒッキーが違うってことにならないかな?」

 

「あのな。もしそうだとしても、俺と雪ノ下の違いは、お前と雪ノ下の違いほど離れているとは思えねぇんだわ。だから完全に同じ結果にはならなくても、ある程度は肩代わりできるだろ。だって雪ノ下だぞ?」

 

 お互いに相手のことを褒めながら自分を下げるという応酬になってきた2人であった。自分はともかく由比ヶ浜には辞めて欲しくないと思う八幡は頑張って説得を続けるのだが、由比ヶ浜にはなかなか頷いて貰えない。彼女は少し深呼吸をして、いつか口にしたのと同じ台詞を呟く。

 

「なんだか、難しくてよくわかんなくなってきちゃった……。もっと簡単なことだと思ったんだけどな……」

 

 クッキーと一緒にサブレを助けて貰ったお礼を言おうとした時に「そこまでされる程のことではない」と主張する八幡と話が平行線になって、由比ヶ浜はこの台詞とともに一旦は諦めかけたのである。あの時は雪ノ下が助け船を出してくれたが、彼女は今ここには居ない。呟きと一緒に弱音を全て投げ捨てて、由比ヶ浜は決意を秘めた目で八幡に告げる。

 

 

「だから、もっと簡単な話にするね。奉仕部に貢献できないから辞めるってヒッキーが言うなら、あたしも奉仕部を辞める。だから……ヒッキーがあたしを奉仕部に居ても良いって思ってくれてるなら、ヒッキーも奉仕部を辞めないって約束して欲しいの」

 

 それは正しく自爆攻撃であった。由比ヶ浜は自分が特別に思う存在を賭けてでも、八幡から部活を辞めないという言質を得たいと考えたのである。彼女にとって奉仕部が特別なのは、彼と彼女が一緒に居てくれてこそだと思ったから。

 

「いや……落ち着け、由比ヶ浜。お前が辞める必要はこれっぽっちも無いってか、その、俺も別に、どうしても奉仕部を辞めたいってわけじゃないんだが……」

 

 この日初めて「お前」ではなく「由比ヶ浜」と呼び掛けた辺りに八幡の混乱ぶりが窺える。ちょっと言っていることが情けないので後半は小声になってしまったが、別に八幡としては奉仕部を辞める確固たる信念などは無いのである。

 

 確かに職場見学では己の無力を痛感したし、奉仕部の力になりたいのに実力が及ばない自身の未熟さを呪ったものだが、だからといって奉仕部から進んで離れたいとは思っていない。八幡が頑ななほどに奉仕部退部を考えていたのは後ろ向きの強迫観念によるものであり、それは彼の黒歴史の系譜に連なるものであった。

 

 自分が奉仕部に在籍していては2人の為にならない。これ以上は彼女らに迷惑をかけない為にも自ら率先して身を引くべきだと、週の前半の彼は自己犠牲に近い思い込みを抱いていた。決して奉仕部が嫌になったわけでも、彼女らのことが疎ましくなったからでも無い。むしろ八幡にも奉仕部に思い入れができたからこそ、月曜日の別れ際に由比ヶ浜に向けてあのようなことを言い始めてしまったのである。

 

 すっかり慌てた表情でごにょごにょと言い訳じみたことを口にしている八幡を見て、由比ヶ浜は攻勢に出る。勝負を決する時は今をおいて他にはない。

 

「じゃあヒッキー、辞めないって約束してくれる、よね?」

 

 優位な立場に立っていることを自覚して余裕のある声で問いかけたものの、由比ヶ浜の心臓はかつてない程の勢いで動いている。たった一言で、こんな程度の約束で、由比ヶ浜は心から安堵し喜びに浸れるのである。その言葉を受け取る時は、もう間近に迫っている。

 

 困ったような表情を浮かべて、ここまで来たら流されても良いのかもしれないと考えながら、八幡はおもむろに口を開く。声を出す間際に、戸塚との会話を思い出しながら。

 

「あのな……。戸塚と約束したんだわ。次の依頼でちゃんと結果を出すって。だから……今の段階で、それは約束できねぇんだわ」

 

「そ……っか」

 

「けどな、あんま口に出して言う事じゃないかもしんねぇけど……。次の依頼で、俺が残っても良いって思えるような仕事をするから……。それまで待ってくんねーかな」

 

 戸塚に対しても内心で決意を新たにするだけで口に出しては約束しなかったことを、八幡は由比ヶ浜に向けてはっきりと告げる。天然にあざとい八幡の発言を受けて、由比ヶ浜は一瞬にして嬉しそうな笑顔へと表情を変えた。

 

「じゃあ、仕方がないから待ってるけど、ちゃんと結果を出してよね」

 

「う……善処します」

 

 もしや早まったかと苦悩し始める八幡を横目に、由比ヶ浜はなぜか肩の荷が下りた気がした。隣に並ぶ男の子の悩ましげな様子を温かく見つめながら、彼女は緊張を解いた声で語り掛ける。

 

「あのね。1つだけ約束して欲しいことがあるんだけど、聞いてくれる?」

 

「ん?ああ、とりあえず聞くだけなら」

 

 すっかり警戒している八幡に苦笑しながら、由比ヶ浜は続きを話す。

 

「サブレに……ヒッキーが助けてくれた現実のサブレに、いつか会って欲しいんだ。もちろんヒッキーが嫌じゃなかったらで良いんだけど……」

 

「あー……。別に嫌じゃないし、それぐらいなら良いぞ。正直、次はどんな難題を出されるんだって思ってたから助かったわ」

 

「もう!……ヒッキーは解ってないみたいだから説明するけど、この世界で突然いなくなったり、現実に戻ったら無関係みたいな感じにはならないでね?」

 

 意外なことに、由比ヶ浜にもまた策士の才能があるのかもしれない。とはいえその策は、彼のことを心配するが故に出て来たものである。彼にとって特に不利益はなく、むしろ彼の安全を保証するかのような形になっているのは、由比ヶ浜の性格が反映されているからだろう。

 

 

 由比ヶ浜が自分に向ける真っ直ぐな感情にどぎまぎしながら、八幡は内心で必死に己の勘違いを戒める。これは男女のラブラブ的なアレではない。同級生として、同じ部活の仲間としての扱いであって、ここで勘違いするようでは中学時代の黒歴史が報われないではないかと八幡は自分に言い聞かせる。

 

 そんな挙動不審の八幡の内心を知ってか知らずか、目標を完全には果たせなかった由比ヶ浜はしかし満面の笑みで、もう1人の大切な部活仲間に向けてメッセージを送るのであった。




次鋒・由比ヶ浜の戦果。
・次の依頼で結果を出すという言質を得た。
・現実のサブレに会うという約束を取り付けて、八幡の逃亡を未然に阻止。

リアル事情により、次回の更新は1カ月後の2/20頃になります。
できれば数話連続で更新して、また1ヶ月お休みを頂く形になると思います。
年度末進行が終わればまたペースを戻せると思いますので、宜しくお願いします。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(1/20)
八幡の心境を説明する文章に論理の飛躍を感じたので、少し書き足しました。(1/23)


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18.がっちりと彼女は自分の気持ちを知る。

お久しぶりです。少し余裕ができたので、本日から数話連続で更新します。よろしくお願いします。
以下、前回までのあらすじ。

 妹と一緒に来た東京わんにゃんショーの会場にて、八幡は奉仕部の2人と出会い、由比ヶ浜と差し向かいで話をすることになった。最初のうちはともに気まずい気持ちを引きずっていたものの、お互いのことを思って意見をぶつけ合った結果、双方にとってひとまず納得できる形に落ち着いたのであった。



 比企谷八幡との対話を終えて雪ノ下雪乃に再集合のメッセージを送った由比ヶ浜結衣だったが、先程まであった張り詰めた気持ちが一気に失せたことで、何を話せば良いのか困ってしまった。別行動だった2人が合流するまで時間はかからないと思うが、その短時間に横にいる男の子と何を喋れば良いのだろうか。

 

「あ……。ゆきのん達って、どっちから来るかな?」

 

「さ、さあな。……ま、まあ、ここにいたら勝手に見付けてくれるだろ」

 

 それでも由比ヶ浜は持ち前の高いコミュ能力を活かして、会話を途切れさせることはない。一方の八幡にも照れ臭い気持ちは残っているのだろうが、傍らの彼女が頑張って話題を振ってくれていることを今さら気付けない彼ではない。ゆえに彼もまた、何とか話を中断させないようにと精一杯の受け答えを続けるのであった。

 

 

 話をするために移動した会場の隅のほうから先程2人と別れた付近まで戻って、八幡と由比ヶ浜は周囲の人の迷惑にならないように大きな柱に並んでもたれかかっていた。別々の方角を向きながらぽつぽつと話を続けていると、由比ヶ浜の視界の中に見覚えのある女の子2人組が姿を見せる。

 

 仲の良い姉妹のように見える2人だが、なぜか小柄なほうの少女は口に右手の人差し指を当てて、由比ヶ浜に何かを訴えながら近付いて来ていた。どう見ても兄を驚かす気が満々の比企谷小町を微笑ましく眺めながら、由比ヶ浜は声のトーンを変えることなく隣の男の子と会話を続ける。彼はまだ何も気付いていないようだ。八幡にとっては、恥ずかしいがゆえに由比ヶ浜とは逆側ばかりに視線を固定していたのがあだになった形である。

 

 そうこうするうちに、こっそりと2人の間に滑り込んだ小町は、触れるか触れないかという絶妙な力加減で八幡の肩を叩いた。思わずびくっと反応してしまった八幡は、ちょうど会話が途切れてしまったこともあって、仕方なく由比ヶ浜に顔を向ける。その結果、妹の人差し指に頬をめり込ませる八幡の姿が、写真のシャッター音とともに観察されたのであった。

 

 

「お前らな……」

 

「お兄ちゃん、話は終わった?」

 

 人をだしにして楽しそうに笑っている3人の女の子をじとっと眺めながら文句の1つでも言ってやろうと口を開いた八幡だったが、残念ながら妹が一枚上手だった。見事に機先を制せられて絶句する八幡に代わって、由比ヶ浜が嬉しそうな口調で質問に答える。

 

「うん。ヒッキー、次の依頼でちゃんと結果を出して、奉仕部で役に立つって証明をしてくれるんだって」

 

「そう。戸塚くんが引き出したのは『次の依頼まで辞めない』という言質だったから、更に一歩前進というところね。そのまま残留宣言まで取り付けてくれても良かったのだけれど……」

 

「そこまで行けたら良かったんだけど、ヒッキーだからさ。最後のところで手強いっていうか……」

 

「そうね。どうでもいい事だと頓着しないくせに、変なところで意地を張るのだから困ったものね」

 

「こんな兄ですが、たまに良いところもありますので、なにとぞ……」

 

「ええ。小町さんに心配をかけないように、私たちが責任を持って矯正するわね」

 

「だからお前ら、ちょっと待て」

 

 すっかり自分を抜きにして話を進める女性陣に内心恐々としながらも、妹がこの2人と仲良くしている光景を見て、少し誇らしげな気持ちも抱いていた八幡であった。

 

 彼にとって小町は、どこに出しても恥ずかしくない自慢の妹である。残念ながら友達がいない身なので自慢する相手はいなかったが、八幡が言って回るまでもなく、小町は自らの価値を自然と周囲に知らしめていた。だが八幡にとっての有象無象に評価されるよりも、彼が認める少数の人たちに妹が評価されるほうが、やはり嬉しさは段違いである。

 

 そうした八幡の心境は当然ながら3人には伝わらなかったが、苦言を呈しながらも彼がそれほど機嫌を損ねていないのは明らかであった。中でも八幡の心情理解に長けている小町にとっては、兄の様子は望ましくも嬉しいもので、つい彼女は軽口を叩いてしまう。

 

「お兄ちゃんもさ、さっさと観念して、奉仕部に居たいですって早めにお願いしたほうが良いんじゃない?」

 

「まあ、あれだ。俺にもこだわりってのがちょっとあるんだわ」

 

 週の初めの余裕がなかった頃の八幡であれば、妹の軽口に過剰な反応を示していただろう。しかし今の穏やかな心境の彼は、この程度の挑発など軽く流してしまえるだけの余裕があった。とはいえ、それはもちろん程度の問題であり、今の彼をしても聞き流せない発言というものはある。

 

「では、そんなこだわり谷くんに、お願いがあるのだけれど」

 

「ん?お前がそんなことを言うなんて珍しいな」

 

 何やら楽しそうな眼差しの小町と、不思議そうな顔の由比ヶ浜を尻目に、雪ノ下はゆっくりと口を開く。

 

「わ、私と、その……付き合ってくれないかしら?」

 

 

***

 

 

 時間は少しだけ遡る。同じ部活の男女2名と別れた雪ノ下は小町と並んで歩きながら、にゃんにゃんコーナーの最奥に向かっていた。さりげなく彼女の近くに控えていた運営スタッフが先導しているので、道に迷う心配もない。

 

「じゃあ、第1希望は決まってるんですねー」

 

「ええ。他の人に連れて行かれたら大変だから、候補が繰り上がるたびに運営に命じて確保してもらっていたのだけれど。せっかくなので全ての猫を見ておきたいと思って」

 

 気のせいか運営を下僕扱いしている感のある雪ノ下だが、そうした細かなことを気にする小町ではない。

 

「うちのカーくんとも、ここで会ったんですよー。だから、遠い親戚みたいな感じで……」

 

「ええ。困ったことがあれば、いつでも連絡してくれて構わないわ」

 

 猫を飼うのは初めてだというのに、自分が困ることはないという前提で話をする雪ノ下であった。彼女の豊富すぎる猫知識にも、ゲームマスター(GM)は苦言を呈しておくべきだったかもしれない。

 

「あれ?……でも雪乃さんって、というかさっき運営って……。係の人って、NPCだけじゃないんですか?」

 

「あまり大きな声では言えないのだけれど、私は運営に招待されてここに来たのよ。私達の前を歩いているあの人が担当なのだけれど、他はNPCだと思うわ」

 

「あー、なるほど……」

 

 雪ノ下の思考にまだそれほど慣れていない小町は、彼女の返答をすぐには理解できなかった。まず最初に「困った時には買ったお店に相談するか運営に連絡すべきでは?」という疑問が湧き、その次に「雪乃さんは猫を飼った経験が豊富なのだろうか?」という疑問が湧き、それらが引き金になって先程は流した彼女の一言が気になり始めて、最後に出た質問に繋がったのである。

 

 だが質問への返答を聞きながらも、小町の思考は別の方向に飛んでいた。少し慎重に話題にすべき内容だとは理解しつつも、兄にも関係することだけに知りたい気持ちを抑えきれず、小町は遠慮がちに話を進める。

 

「その、兄から聞いたんですけど、雪乃さんも職場見学でGMに……」

 

「ええ。恥ずかしい話なのだけれど、不覚を取ってしまったわね」

 

 次はないとばかりに闘志を燃やす雪ノ下だったが、そうした彼女の姿勢は小町にとっては頼もしく同時に不思議なものでもあった。兄が今週まるまるかけて悩んでいたことは、彼女には些細な出来事だったのだろうか。

 

「うちの愚兄が皆さんにも心配をかけてたみたいですが、けっこう落ち込んでたんですよ。雪乃さんは、その、大丈夫でしたか?」

 

「そうね。落ち込まなかったと言えば嘘になるし、私も由比ヶ浜さんや比企谷くんに迷惑をかけたと思うから、その辺りはお互い様ね。小町さんが気にすることはないのよ」

 

 雪ノ下としては小町を思っての発言なのだが、聞きようによっては相手を突き放す内容でもある。彼女の孤高な傾向が出た形だが、面倒な性格の肉親と長年接してきた小町はこの程度では怯まない。

 

「でも、職場見学から時間が経ってないのに運営の招待を受けて、その、無理してないですか?」

 

「確かに招待を受けた時には微妙な気持ちになったのだけれど、この程度で負けてはいられないと思ったら大丈夫だったわ。それに、今回のペット飼育に関するアップデートには私も少し関わったので、見届ける義務と責任があると思ったのよ」

 

 現実の世界で飼っていたペットをこの世界でも、という連続性だけではなく、この世界でのペットとの時間を更に現実世界でも引き継ぐという雪ノ下の発想は、この会場に集ったゲストプレイヤーの反応を見ても明らかなように多くの人に支持されている。

 

 雪ノ下は周囲を眺めて少し誇らしげに胸を張りながら、気負いのない自然な口調で心配そうな表情を浮かべる少女に答える。それを聞いた小町は話の内容よりも彼女の穏やかな口調を根拠にして、安心したように頷くのだった。

 

 

 気を利かせたのか会場の裏側へと姿を消した運営スタッフを見送って、2人は控え室で連絡を待つ。八幡と由比ヶ浜は今頃どんな話をしているのだろうか。

 

「あ、そういえば名前って決めてます?」

 

「猫の名前のことなら、なかなか決め手がなくて……。なにか良い候補はないかしら?」

 

 一瞬だけ兄の心配をしたものの、すぐに別の疑問が浮かんでそちらに意識を持って行かれる小町であった。雪ノ下としても初めての飼い猫ゆえに軽い気持ちで名前を付けたくはなくて、今に至っても悩み続けていたのである。

 

「うーん……。何かこだわりとか、大事にしたいポイントとかってあります?」

 

「そうね……。偶然とはいえ、今日はせっかく貴女たちと会ったのだから、何か関連する名前にできればと思うのだけれど……」

 

「あー、なるほど。奉仕部や小町に関連する名前……」

 

 優しい表情で答える雪ノ下を見つめながら、小町は何とかして期待に応える名前を提案できないかと頭をひねる。しばし考えて、しかし集中力が続かなかったのか、小町はとりあえず思い付いた名前を口にする。

 

「じゃあ、『はまち』ってどうですか?」

 

「猫に、『はまち』……?えっと、出世魚にあやかって、ということなのかしら?」

 

「あー、兄が昔そんなことを教えてくれた記憶はあるんですが、そうじゃなくてですね」

 

 珍しくきょとんとした表情の雪ノ下にニコニコと応えながら、小町は得意げに人差し指を立てて説明を行う。

 

「兄が『()ちまん』で、結衣さんが『ゆいがは()』で、小町は『こま()』なので、一文字ずつ取ってみたんですけど……」

 

「なるほど、それで『はまち』なのね……。小町さん、良い名前ね」

 

「いえいえー。って、本当にそれでいいんですか?」

 

「ええ。貴女が付けてくれた名前なのだから、大切にするわね。何かお礼ができると良いのだけれど……」

 

「じゃあ今度、うちのカーくんと遊びに来てもらえますか?」

 

「もちろん、喜んでお招きに預かるわね」

 

 こうして、八幡が知らぬ間に話が着々と進行するのであった。

 

 

「あれ、でも雪乃さんって、猫を連れ出す時に必要な物とか持ってます?」

 

「今から用意しようと思っているのだけれど……。そのキャリーバッグの中には何が入っているのかしら?」

 

「こんな感じですよー。ちょっと詰め込み過ぎちゃった感じですけど」

 

 てへっと可愛らしく舌を出しながら、小町はバッグの中身を見せる。雪ノ下はそれらを丁寧に確認して、自分が蓄えた知識と照らし合わせている。

 

「いえ、必要十分だと思うわ。これだけの用意があれば大抵の不測の事態には対応できそうね。でも……どこで購入したのかしら?」

 

「ららぽーとで大体は揃いますよー。何なら今から……っと!」

 

 どうやら用意すべきリストは簡単に諳んじられるのに、それらをどこで入手すれば良いのかが雪ノ下には分からないらしい。「お嬢様って感じだなー」と内心で頷きながら小町は返事をし始めて、ふと思い付いたことがあった。言葉を途中で止めて頭の中で少し検討をした後で、小町はこんな提案を行う。

 

「そういえば、うちのキャットフードも在庫が少ないんですよねー。でも小町はカーくんを引き取りに行かないといけないので、兄に買いに行ってもらおうと思ってたんですよ。だから兄を案内に付けますので、今からららぽーとに行ってみたらどうですか?」

 

「そうね……。小町さんを残していくのは心残りなのだけれど、由比ヶ浜さんとの話が上手くまとまっていれば、そのまま3人で行くのも良いかもしれないわね」

 

 雪ノ下には友人と遊びに行った経験が乏しいのだが、こんな場合には一緒に出かけるのが自然なのだろうと考えて、3人での行動を口にする。だがそれは小町の企みとは合致しない展開なので、彼女は慌てて口を挟んだ。

 

「あ、えっと……。結衣さんだけじゃなくて、雪乃さんは兄と話をしなくても良いんですか?」

 

「今の段階で彼を説得することは考えていなかったのだけれど……。そうね、でも明後日のことを考えると……。小町さん。ららぽーとで、その、同世代への誕生日プレゼントを購入することはできるのかしら?」

 

「あ、大丈夫ですよー。えっと、案内図を出しますね」

 

 どうやら雪ノ下にも別の思惑があるようで、由比ヶ浜を加えて3人で行動する線は上手く回避できそうな気配である。この流れのまま話を進めようと考える小町は速やかに雪ノ下の疑問に答える。

 

 いずれこの世界でも兄と一緒に行こうと思っていたので、小町はららぽーとの案内図をpdfで用意していた。それを書類フォルダから取り出して、雪ノ下にコピーを提供した上で、小町は丁寧な説明を行った。

 

「ペット関連だとこの辺りですねー。で、誕生日プレゼントだと、中高生向けならこの一帯を押さえておけば大丈夫かと。ただ、現実だとナンパとか変な人も多かったので、兄を魔除け代わりに使ってもらえたら……」

 

「なるほど。比企谷くんを控えさせておくことで、面倒な応対をしなくて済むのならありがたいわね。……その、お兄さんをそんな風に使って、小町さんには申し訳ないのだけれど……」

 

「いえいえー。小町が提案したって言えば兄も従ってくれるでしょうし、気にしないで下さいねー」

 

 内心で由比ヶ浜に頭を下げつつ、小町は首尾良く兄と雪ノ下とのお出かけをプロデュースした。3人の仲が深まって欲しい気持ちもあるのだが、同時に小町は兄に2人それぞれと関係を深めて欲しいとも思っているのである。

 

 奉仕部の3人で出かける案は潰したし、現地で別行動になるリスクは前もって対処した。更に一押しと考える小町は、こっそりと両目を輝かせながら口を開く。

 

「ではでは、あんな風に面倒なことを嫌がる兄ですので、雪乃さんから誘うというか、なんなら命じる感じでお願いしますねー」

 

「……えっ?」

 

 こうして、八幡が知らぬ間に話が着々と進行するのであった。

 

 

***

 

 

 京葉線に乗って、八幡と雪ノ下は南船橋へと向かっている。海浜幕張からそれほど時間がかかるわけでもなし、現実と同じように2人は車窓を眺めながら電車での移動を楽しんでいた。

 

 雪ノ下のお誘いは思春期男子なら挙動不審に陥っても仕方のない言い回しだったが、慌てたように怒濤の勢いで説明を行った彼女のおかげで誤解の余地は全くなかった。どうせそんなことだと思っていたぜと涙を堪える八幡であった。

 

 雪ノ下の思惑をはっきり確認したわけではないが、話の流れから考えると由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに行く可能性が高い。そう思った小町は由比ヶ浜を昼食に誘って2人ずつに別れる形に持ち込もうとしたのだが、「昨日から緊張してたし、ヒッキーと話して疲れちゃった」と言う彼女に少し違和感を覚えつつ、結局はそのまま解散することにした。駅に向かう3人を見送って、小町はカマクラを引き取りに向かう。

 

 八幡は最後まで「小町が1人でカマクラを連れて帰るのは」と抵抗していたが、ペットを自宅に送り届ける無料サービスがあると雪ノ下に教えられて万事休す。普段なら元気に同行を言い出しそうな由比ヶ浜とも駅で別れて、こうして2人でお出かけをする構図が完成したのであった。

 

 

「ペット用品を買うことは、先ほど言った通りなのだけれど……」

 

「ん?他にも何か買うものがあるのか?」

 

 お互いに無言で過ごす電車内で、無理に話さなくてもいいのは気が楽だなと呑気なことを考えていた八幡だったが、雪ノ下は買い物の目的をどう説明したものかと悩んでいた模様である。刻々と近付く目的地に背を押される形で彼女は口を開いた。

 

「ええ。その、確定ではないのだけれど、次の月曜日は由比ヶ浜さんのお誕生日だと思うのよ」

 

「なにか根拠でもあるのか?」

 

「この世界で貴方に与えられた個室の部屋番号を、教えてもらえるかしら?」

 

「ん?ああ、8081だけど、それがどうした?」

 

「……貴方も素数なのね。誕生日は8月8日でしょう?」

 

 八幡の誕生日を言い当てたことを彼の反応から確信して、雪ノ下は悪戯っぽく微笑む。部屋番号の法則性に気付いていなかった目の前の男の子に向けて、彼女は簡単に解説を行った。

 

「上から3桁が誕生日で、下1桁はおそらくランダムに付けられた識別番号だと思うのよ。誕生日が同じ人もいるでしょうし。1月から9月生まれはそのまま3桁で、10月生まれは0で始まる形みたいね」

 

「んじゃ、11月と12月は?」

 

「例えば12月12日生まれなら、262xになるわ。月に31日が上限なので、百の位は4より上が存在しないじゃない。だから千の位を2にして百の位に5を足す設定にしたみたいね」

 

「……相変わらず、すげぇなお前。自分の部屋番号から法則を導き出すとか……」

 

 呆れるような打ちのめされたような気持ちで八幡は思わず呟くのだが、彼の認識には間違いがある。雪ノ下も自分と同様に他の生徒の部屋番号を知らない前提で考えてしまったが、数は少ないとはいえ最近の彼女には部屋を行き来し合う友人関係が存在している。

 

 とはいえ部屋番号は知っていても誕生日を気楽に教え合うような関係でもないので、雪ノ下はここ2ヶ月、部屋番号と誕生日の関係に気付けずにいた。法則を看破できた理由は別にあり、ここでまた彼を落ち込ませるのは得策ではないと考えた雪ノ下は、あっさりと種明かしをした。

 

「実は、先日の部長会議で名簿を作ったおかげで解読できたのよ。もともと1031という自分の部屋番号には引っかかる気持ちがあったのだけれど、素数だし良い番号だと喜んで済ませていたログイン初日の自分を悔やんだわ」

 

「いや、その、素数だから良いって思考も俺には全く理解不能なんだが……」

 

 部長会議が終わった後の雑談で、9283という部屋番号は素数だからとにこやかに話していた旧知の男の顔を思い出しながら、雪ノ下は苦笑する。素数は喜ぶものという発想が周囲では当たり前だったので、それをあっさり否定する八幡に新鮮な印象を持ったのである。

 

「では、由比ヶ浜さんの部屋番号の良さは理解できるかしら?彼女の番号は6188なのだけれど」

 

「いや、まったく解らんが……。他の、6189とかと違いってあるのか?」

 

「618で始まる他の4桁の数字には、3桁か4桁の因子が必ず存在しているのよ。でも6188だけは、2×2×7×13×17というシンプルな形で素因数分解ができるの。多くの友人に恵まれている彼女にふさわしい数字だと思わないかしら?」

 

 とても楽しそうに解説をしてくれる雪ノ下だったが、もはや八幡は苦笑することしかできない。自分には数学の素質がないんだなと改めて自覚しながら、それでも彼は先程とは違ってなぜか悪い気はしなかった。こうした方面は雪ノ下に任せて、自分は全く別のことに詳しくなれば良いのではないか。

 

 そんなことを考える八幡の耳に、電車が目的の駅に近付いているというアナウンスが届いた。

 

 

***

 

 

 駅の前で2人と別れて、由比ヶ浜は独り帰路に就いていた。先ほど受けた衝撃は今なお彼女の中で燻り続けていて、容易には治まってくれそうにない。

 

「もし、ゆきのんとヒッキーが付き合ったら……」

 

 小さな声で呟いてみて、由比ヶ浜はその仮定を大急ぎで否定する。奉仕部で自分だけが役に立たない存在ではないかと、他の2人からも頼って貰えない程度の存在だと落ち込んでいた時も、彼女は疎外感に苦しんだのである。しかし今しがた想定した辛い未来は、疎外感という生やさしい表現で済むような状況ではなかった。

 

 

 改めて自分に問いかけるまでもなく、由比ヶ浜は彼に確かな好意を持っている。だがそれが恋愛感情と呼べるものなのか、今まで彼女はなぜかそれを断言することができなかった。彼ともっと話をしたい、もっと仲良くなりたいとは思うものの、それが恋だと言われるとぴんと来なかったのである。

 

 由比ヶ浜の恋愛観の源泉には彼女の両親が深く関わっている。今の自分と同じように、母もある時点までは恋愛というものが全く解らなかったと言っていた。だがある日、大きく育った自分の身体の一部分に向ける昔馴染みの視線を感じた瞬間に、彼女の母は恋愛感情というものを完璧に理解したのである。他の誰でもなく、彼に見られるのが嬉しいという自分の気持ちを自覚することで。

 

 だが、由比ヶ浜は母とは違って、そうした幸せな形での自覚には至らなかった。今の彼女が大切に思う特別な存在は4人いるが、その中の2人がもしも付き合うことになったら。その非情な可能性を思いがけず突き付けられて、彼女は自分の気持ちをようやく自覚したのである。凛々しさと可愛らしさが同居している大好きなあの女の子が相手でも、彼を決して渡したくはないという、醜い嫉妬の感情によって。

 

「恋愛って、もっと楽しいと思ってたのにな……」

 

 寂しそうに呟いて、由比ヶ浜は俯きがちになっていた顔を上げる。こうして自分の気持ちに気が付いてしまった以上は、望む得る最高の結末に向けて頑張るしかないのだ。

 

 どうか彼女が彼に異性としての興味を持たないようにと願いながら、由比ヶ浜はゆっくりと家路を辿るのであった。

 




この世界ではメールアドレスが必要ないので、ガハマさんの誕生日を推測する際には個室の部屋番号を使おうと考えて、それを4桁に設定したのが1巻5話でした。
9ヶ月も前にこっそりと用意していた伏線を無事に回収できて、何だかほっとしています。
その頃から本作を読み続けて下さっている方々には変わらぬ感謝を、そして新たに最近になって本作を読み始めて下さった方々にも同じく感謝を捧げたいと思います。

次回は明日更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(2/20,3/2)


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19.はなやかに彼女はこの世界でも輝きを放つ。

前回までのあらすじ。

 ペット用品と由比ヶ浜への誕生日プレゼントとを購入するために、八幡と雪ノ下は2人でららぽーとに向かった。一方、駅前で2人と別れた由比ヶ浜は、ようやく気付いた自身の恋心を持て余しながら、ひとり帰宅の途に就いた。



 南船橋で電車を降りて、比企谷八幡と雪ノ下雪乃はショッピングモールの方角へと歩を進めた。道中に並んでいるお店は現実さながらで、この世界で誰が大型家具を買うのかと首をひねりながら、八幡はゆっくりと車道側を歩いていた。もはや無意識のレベルで、並んで歩く女の子に合わせた行動を取ってしまう八幡であった。

 

「俺だったら、無くなった巨大迷路とか屋内スキー場を再現したいところだけどな」

 

「そうね。営業していた時には来ようとは思わなかったのに、無くなってしまってから惜しむのも不思議な話ね」

 

「失って初めて解る価値、みたいな話なんだろな。まあ、惜しまれないものもたくさんあるとは思うが」

 

「そうね。……貴方がもし奉仕部からいなくなったとしたら、どちらになるのかしらね」

 

 特にからかう様子もなく、雪ノ下は穏やかな口調でそう口にした。戸塚彩加や由比ヶ浜結衣とは違って挑んでくるような気配のないその発言に、八幡は苦笑しながら気楽に答える。

 

「普通なら、惜しまれるのを期待するんだろうが……。俺がもしいなくなったら、さっさと忘れて欲しい気がするな」

 

「それは無理ね。貴方のその特徴的な濁った目やひねくれた発言の数々は、忘れられるはずがないもの」

 

「おい、って言いたいとこだけど、それなんだよな……。小町が言うには、中学時代の俺の行動とか、今なお語り継がれてるらしいし」

 

「黒歴史、と言うのだったかしら。軽率な行いであれ、行動には責任が伴うということは、貴方も知っていたと思うのだけれど」

 

 さすがに学年でも国語の成績が飛び抜けている2人だけに、自らに関することでも仮定は仮定として、感情を排して客観的に淡々と話が進んでいく。

 

 

 職場見学の後に由比ヶ浜と決別して、八幡は彼女に対しては気まずい気持ちを抱えていた。先程2人で話をして、由比ヶ浜の感情に触れることでようやく安心できたものの、もしも彼女があの時のやり取りを受けて深く傷付いていたらと考えると、八幡は今でも冷や汗が流れる心地がする。心配をかけたことは本当に申し訳ないと思いつつも、彼女が自分に笑顔を向けてくれたことでようやく人心地ついた八幡であった。

 

 一方で彼と由比ヶ浜の対話が始まる前に場を去っていた雪ノ下に対しては、八幡は気まずい気持ちは抱いていなかった。もちろん週の前半には奉仕部を辞めるつもりでいたので、それをどう雪ノ下に説明したものかと悩む気持ちはあったのだが、それは説得に骨が折れるという理由であって、自分の行動が彼女に何か悪い影響を与えるのではないかと危ぶむ気持ちは欠片も浮かばなかった。

 

 そして両者に共通しているのは、八幡は自らの行動を彼女らに曲解されたり、悪意を持って解釈される可能性をほとんど考えていなかった。今までの人生で幾度となく同世代の悪意にさらされてきた八幡は、そうした危険性にこそ最大限の注意を払って過ごしてきたはずなのに。

 

 だが、部活で時間を共にすることで彼女らが変な誤解をするような性格ではないと思えたからこそ、八幡には未知の悩みが目の前に現れたのである。いっそ彼女らが他人を簡単に見捨てるような性格であれば、話は簡単だったのに。諦めて終わりという話にできたのにと八幡は思う。

 

 既に日にちが経っているので、由比ヶ浜が雪ノ下に事の次第を伝えていることは八幡も覚悟していた。彼女が仲の良い2人の友人に相談しているであろうとも考えていた。それらはもちろん可能であれば避けて欲しい事態だが、それで由比ヶ浜の気持ちが楽になるなら良いではないかと。自分の行動が原因なのだから仕方がないと、八幡は自分に言い聞かせていたのである。実は生徒会長や別のクラスメイトやあまり接点のない後輩にまで情報が伝わっているとは夢にも思っていない八幡であった。

 

 

 歩道橋を渡って、2人は小町が指定したエリアを目指しながら会話を続ける。

 

「責任か……。まあ、さっき由比ヶ浜が言ってたように、次の依頼で白黒つけるわ。無用の長物ならいる意味がないし、役に立てたら、その……もう少しだけ部にいさせてくれ」

 

「あら。私としては下僕にいなくなられると困るので、きちんと指示に従ってくれると約束できるのならば無用の長物でも構わないのだけれど?」

 

「それ、既に無用じゃなくて有用な存在になってないですかね。てか、お前の指示ならだいたい正しいんだろうけど、自分の意思を持たない奴を使いたいんなら、そういうのが好きな奴を選べばいいんじゃね?」

 

「……そうね。でも、自分の意志と言っても、どこからが自分の意志なのかしら?それに不測の事態を考えれば、曖昧な指示を受けても細かな部分は各自で判断できる人材が望ましいと思うのだけれど」

 

「だからお前は、どんな規模の依頼を想定してんだよ」

 

 結果を出したらという条件付きではあるが、せっかく八幡にしては素直に残留の希望を告げたというのに、ここぞとばかりに挑発してくる雪ノ下であった。久しぶりの感覚を懐かしく思いながら八幡も応戦して、彼の何気ない一言は密かに彼女の痛いところを突く。何とか誤魔化して話にも区切りがついたのだが、もしもこの会話を2人を知る第三者が傍聴していたら、雪ノ下の八幡への評価の高さに驚いていたことだろう。知らぬは当人ばかりである。

 

 

「つか、お前は説得とか、そういうのをして来ないのか?」

 

「ええ。今日のところは純粋に買い物に付き合って欲しいだけよ。貴方を屈服させるのは、また別の機会にね」

 

「なんかあれだな。『決勝で待つ』みたいな感じだな。お前って主人公っぽいけど、実はボス敵のほうが似合うんじゃね?」

 

「そうね。誰かの前に立ちはだかるのも悪くはないかもしれないわね」

 

「待て。確かに俺が言い出したことだが、お前が悪堕ちとか洒落にならんからやめてくれ」

 

オビ=ワン、フォースと共にあれ。(Obi-Wan, May the Force be with you.)

 

さらば友よ(Good-bye, old friend.)……じゃねーよ!俺はウータパウとか行かねーからな」

 

「ええ。由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買いに行きたいのに、変な場所に行かれると困るわ」

 

「お前な……」

 

 雪ノ下もこの手の映画を観るんだなと、普段とは違った印象を得て気持ちが少し軽くなった八幡は、彼女が口にした劇中のセリフにセリフで返す。だがちょうど目的のエリアに到着したこともあってか、雪ノ下は唐突に現実的な話に戻して八幡を置き去りにした。せっかく乗ってやったのにと、少し涙目になる八幡であった。

 

 

 2人の買い物は目的が明確だったからか順調に進み、雪ノ下がペット用品を購入している横で八幡は由比ヶ浜へのプレゼントを見繕った。プレゼントの品物よりも時間を無駄にしない合理的な行動を雪ノ下に褒められて、八幡は微妙な表情を浮かべている。彼女が酷評しないということは彼の選定が合格だという意味に他ならないのだが、未だそこまでは理解が及ばない八幡であった。

 

 そのまま台所用品のお店にやってきた2人は、由比ヶ浜のクッキー作りに協力した時の事を懐かしく思い出しながら彼女に合うものを相談した。黒地に猫の足跡をあしらっただけのシンプルなエプロンを雪ノ下が試着して、八幡に感想を求める。

 

「つーか、素材が良いんだから似合うに決まってんだろ……」

 

「これ、それほど頑丈な素材ではないのだけれど……」

 

「いや、エプロンの素材じゃなくて、お前だお前」

 

 照れくさそうに曖昧な感想を告げたせいで、更に恥ずかしいことを言わされてしまう八幡であった。彼と相談をしながらいくつかの候補を検討した結果、彼女が由比ヶ浜のために選んだのはピンクが基調のシンプルな装飾のエプロンだった。

 

「おい。これで由比ヶ浜がやる気を出してまた大量破壊兵器とか作ってきたら、責任を持って処理しろよ」

 

「比企谷くん、連帯責任という言葉を知っているかしら?」

 

 先程プレゼントへの感想をもらえなかった仕返しとばかりに八幡は軽口を叩くのだが、あっさりと迎撃されて本日何度目かの涙目になっている。そんな彼を横目に、雪ノ下は最初に試着した黒いエプロンをピンクのそれに重ねてレジへと移動するのであった。

 

 

 無事に用事を果たしてあとは帰るだけだと、八幡は肩の荷が下りたような心境で外に出た。彼と一緒に歩くことにもすっかり慣れた感のある雪ノ下が、先に店を出て通りで待っている八幡の隣に自然と並ぶ。しかし、そんな2人の平穏な時間をかき乱す声が、唐突に辺りに響き渡った。

 

「あれー、雪乃ちゃんだー!」

 

 

***

 

 

 この世界が稼働を始めたその日、雪ノ下陽乃(ゆきのしたはるの)は現実世界で予想外のニュースを受け取った。彼女が誰よりも大切に思う妹も含め、仮想空間にログインした全ての人がログアウトできない事態に陥ったというのである。

 

 第一報を受けた時点では運営の何らかのミスだろうと軽く考えていた彼女だが、とはいえ妹が関わっている以上は詳報を求めざるを得ない。人員を動員して、更には自らも調査を始めた彼女は、この事件は運営が意図的に引き起こしたものであるという結論に至った。運営が犯行声明を出す半時間ほど前のことである。

 

 もともと彼女が所属する大学の研究室は今回の仮想空間への参加を決定していた。彼女が時間通りにログインしていなかったのは単純に親に止められたからである。少数での実験で問題が起きなかったとはいえ、全く新しい技術で作られた斬新な機械に真っ先に飛び付くのは彼女の立場を考えると軽率ではないかと指摘されたのだ。

 

 とはいえ彼女の両親は新しい物をただ嫌悪するような頭の固い人達ではない。両親の言い分としては、大勢がログインしてから数時間ほど様子を見て、それで問題がなければログインして良しというものだった。妹が普通にログインしていることを思うと片手落ちのようにも思えるが、2人の娘が揃って未知の世界にログインするという事態が彼らの目には危うく映ったのである。

 

 経営者として結果を残しているだけに、彼女の両親は新しい技術への興味は人一倍にあった。彼らが妹のログインに横槍を入れなかったのは、彼女の機嫌を損ねることを怖れたからでは無論なく、情報を精査した上で滅多なことは起きないだろうと判断した結果である。彼女のログインを遅らせたのも、万が一に備えてという程度の意味合いでしかなかった。

 

 だが、彼女にしろ両親にしろ、運営がこうした犯罪行為に手を染めるとはさすがに予想外であった。事実は小説よりも奇なり。だが、そんな決まり文句を口にして嘆いているだけの者は彼女の肉親には一人もいない。もちろん、彼女自身を筆頭に。

 

 現時点での情報を整理した彼女は運営の意図として、参加者の生命を脅かすような行為が徹底的に避けられていることを見抜いた。彼女は運営の犯行声明を聞くことはなかったが、結果として彼らの脅し文句に踊らされなかったのは僥倖と言うべきだろう。たとえ結論は同じでも、情報を再度検証する時間が無駄になっただろうから。

 

 彼女は大学の研究室から会社にいる両親に通話を繋ぎ、仮想空間へログインする旨を伝えた。綺麗にまとめるだけの時間はさすがに得られなかったが、彼女が収集整理した情報は重要度別に分類して送信済みである。それらを根拠に、彼女は両親にログインの許可を求めた。

 

 彼女は言った。せいぜい海外に留学するのと変わらない程度のリスクしかない。わたしにとっては昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏なものだと。仮想世界での学習効率は現実とは比べものにならないし、この事件に巻き込まれた人達との繋がりはこの上なく強固なものになるだろう。自分が参加することで妹のフォローも可能である。現実世界での面倒な繋がりを一時的に絶てるのも先々を考えると有用だろう。考えれば考えるほどメリットばかりが浮かび上がってくるのだと。

 

 さすがに彼女の両親は、彼女を行動に駆り立てる根源的な要素が妹にあることを見抜いていた。だが同時に、彼女が並べ立てるメリットはいずれも納得できるものだった。彼女が分析した通り、生命の危険さえなければ、メリットがデメリットを大幅に上回ることは明白なように思われた。結局のところ、検証すべきはその一点のみである。

 

 だが彼女の両親は独自にそれを検証することはしなかった。彼らにとって理想的な形で育ってきた娘が、王道を歩んでいたように思えた娘が突然、突拍子もない事を言い出したのである。同時にその行動には説得力のある分析が伴っていた。これを遮るようでは娘のためにならないと、両親は腹を括ったのである。

 

 かくして、彼女は他の犠牲者より数時間遅れでこの世界にログインすることになったのであった。

 

 

***

 

 

 どこかで聞き覚えがあるような誰かに似たような声の主を探して、八幡は黒髪の美人を発見した。艶やかな髪と透き通るほどの白い肌。なぜか少し違和感を覚えるものの、親しみのある表情を浮かべて華やかに立つその女性は清楚な輝きを放っている。同行していた友人達にへりくだるでもなく顎で動かすでもなく、先に行くことをごく自然な形で命じた上で、その美女は彼らのほうへと近付いてきた。

 

「姉さん……」

 

 東京わんにゃんショーの会場で犬に遭遇した時と同じように、雪乃は無意識のうちに八幡の背後へと身体を傾けていた。そんな彼女の動きを見逃してくれるわけもなく、件の美女は楽しげに口を開く。

 

「雪乃ちゃんがデートだなんて、お姉ちゃんショックだなー」

 

「……デートではないわ」

 

「またまたー。彼氏さん、紹介してもらっていいかな?」

 

「だから、彼氏ではないと……」

 

「雪乃ちゃんの姉の陽乃です。雪乃ちゃんのこと、よろしくね!」

 

「はあ、比企谷っす」

 

「……ふぅん。比企谷、ね。……うん、覚えた!」

 

 おどけたような口調とは違って、先程から八幡を観察する陽乃の視線は肌寒ささえ覚えるほどの鋭さだった。だが彼の名乗りを聞いて、一瞬だけ彼女は何かを考えるように視線を緩める。同時に何か得体の知れない圧迫感が彼女からは漂ってきたのだが、不意に彼女が微笑んだことで全ての圧力が消え失せた。

 

「お姉ちゃんのメッセージに全然返事してくれないと思ったら、いつの間にか比企谷くんと付き合ってたなんて、お姉ちゃん寂しいなー」

 

「だから彼氏ではないと。だいたい毎朝毎晩メッセージを送ってくるのはやめて欲しいと何度も言っているのに、迷惑メールが全く減らないのはどういうことかしら?」

 

「えー。だって愛する妹に話すことがありすぎて、朝晩だけだと足りないぐらいだけどなー。あ、でも比企谷くんとメッセージする時間が無くなるって言うのなら、お姉ちゃんも少しぐらいは我慢するよ!」

 

「だから違うと何度言えば……。この男は単に同じ高校の同学年というだけよ」

 

 部活での関係を告げれば確実に面倒なことになると考えて、雪乃は敢えて情報を最小限に止めた。だがその程度の関係の男子生徒と2人きりで出かけているというのも奇妙な話である。

 

「ふーん。つまんないなー」

 

「共通の知り合いに贈る誕生日プレゼントのことで協力してもらっただけなのだから、変な風に受け取らないでくれると嬉しいのだけれど」

 

 遅まきながら情報の不自然さに気付いて解説を加える雪乃だが、既に陽乃は興味をなくしてしまったような表情で彼女の弁明を聞き流している。何とか誤魔化せたかと胸をなで下ろす雪乃は、姉の興味が失せたのは彼女が追加情報を口にする前だったことには気付かなかった。

 

「ま、誕生日プレゼントとか青春って感じだよねー。あまり羽目を外さないように、比企谷くんがしっかり支えてあげてね」

 

「だから違うと言っているのに困ったものね。比企谷くん、そろそろ帰るわよ」

 

「たまには実家に帰ってきて欲しいなー。比企谷くんからも説得してくれない?」

 

 姉妹から話し掛けられてたじたじの八幡を尻目に、陽乃はすっと妹に近付くと、彼女の耳元で囁く。

 

「一人暮らしのことで怒ってたお母さんも、この世界にはいないんだしさ」

 

 お母さんという言葉を聞いて、雪乃は瞬間的に身体を強張らせた。それが周囲にも伝播して空気が固まってしまったような気持ちがして、仕方なく八幡は口を開く。

 

「その、誕生日プレゼントって、もらって嬉しかったものとかあります?」

 

 この状況で自分に向けて話しかけてきた高校生男子に目を向けて、陽乃は少しだけ彼を見直す気になった。とはいえ彼の質問に答えたのはあくまでも気紛れのゆえである。彼女の内心としては適当なところで撤退して、自分には意図的に隠されていたのであろう情報を確認したいのが本音であった。

 

「うーん。みんなが色々と考えてプレゼントしてくれたものだから、どれも嬉しかったけどなー。比企谷くんは?」

 

「あー。俺はその、宇宙イモぐらいしかもらったことがないので……」

 

「宇宙イモ?」

 

「なんか『宇宙一おいしい』とか幟が立っていた屋台で買ったやつみたいで。略して宇宙イモ、って言ってたんですけど、俺に渡した後に逃げるように去って行ったので詳しいことは分かりません」

 

「それ、貴方が誕生日だという衝撃の事実が発覚したので、手持ちの物を与えて逃げただけでは?おそらく貴方に会ったのも偶然でしょう?」

 

「やめろ雪ノ下。詳しい分析を俺は望んでいない」

 

「ふ、ふーん。比企谷くんってば、冗談で場を和ませるなんて、面白い性格なんだねー」

 

 さすがに意表を突かれて、陽乃は撤収の支度に入った。頃合いとしてはいい感じになったのだから、もう少し彼の評価をおまけしてあげても良いかもしれない。陽乃はそんなことを考えながら別れの挨拶を口にする。

 

「じゃあ、比企谷くんが雪乃ちゃんと付き合うことになったら、たっぷり時間をかけてお茶しようねー。雪乃ちゃんにはまた今晩メールするね!」

 

「だから要らないと……」

 

 だが雪乃の言葉を聞くことなく、陽乃はゆっくりとしかし決して振り返ることなく、2人の前から去って行ったのだった。

 

 

***

 

 

 一見したところ友好的な対話のようにも思えるが、当事者にとってはまるで嵐のような時間がようやく終わった。大きな溜め息をついたあとで、雪ノ下はゆっくり口を開く。

 

「ごめんなさいね。うちの姉っていつもあんな感じなのよ」

 

「あー、なんてか外面がすげーな。強化外骨格ってか、あれを作って維持してんのって、疲れないのかね?」

 

「……え?その、貴方は姉の態度や表情が作ったものだと、そう言いたいのかしら?」

 

「ん、違うのか?まあ普通の高校生なら見抜けねーだろうけど、俺は親父から英才教育を受けてるからな。ギャラリーのお姉さんとか、親父が色々と騙されてきた手口は聞いてるから、初対面でフレンドリーな相手には身構えることに決めてんだよ」

 

「……何だか、そんな理由で見破られた姉が少し可哀想に思えてくるのはなぜかしら?」

 

「それにあれだ。姉妹で顔は似てるのに、さっきお前がアナキンのセリフを言った時の笑顔と、全然違うじゃねーか」

 

 駅に向かってゆっくりと歩いていた2人だったが、八幡が少し恥ずかしそうに遠くに視線をやりながら口にした言葉を聞いた雪ノ下は、思わず立ち止まって先程と同じように身体を強張らせた。しかしその反応は驚きがもたらしたものである。あの時とは違って強張りは一瞬で解け、それと同時に彼女は柔和な笑顔を浮かべた。

 

「そう言えば、先程もらって嬉しかったプレゼントを質問していたわね。……パンさんは分かるかしら?」

 

「ん?ああ、あのディスティニィーの?」

 

「ええ。パンさんの原作の原書を誕生日にもらって、辞書を頑張って引きながら夢中で読んだのだけれど……あれは素敵なプレゼントだったわ」

 

 遠い目をしながら雪ノ下は呟く。辞書を頑張って引いていたという話からして、おそらくは小さい頃の話なのだろう。プレゼントしてくれたのは彼女の肉親か、それとも……。そこまで考えていた八幡の視界に、ふと話題のパンさんのぬいぐるみが入って来た。

 

「んじゃ、あのクレーンゲームのぬいぐるみとか、もらったら嬉しいもんかね?」

 

「え?ええ、もちろん嬉しいに決まっているのだけれど……?」

 

 雪ノ下の返答を受けて、八幡は力強くゲームコーナーへと進んで行く。そしておもむろに手を挙げて、店員さんにぬいぐるみを取って欲しいとお願いをするのであった。

 

 

 思いがけない八幡の行動に呆気にとられていた雪ノ下だったが、彼女は八幡が確保したぬいぐるみをしっかり抱きしめて決して離そうとはしなかった。そのまま駅まで並んで歩いて、こうして2人のお出かけは無事に終了したのであった。

 




中堅・雪ノ下の結果。
・本人にやる気がなく乱入者により無効試合に。
・「大将戦で待つ」というメッセージは伝達済み。
・数学の話を持ち出して、意識せず八幡の視野を広げることに成功した。

次回は明日更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(3/2)
誤字報告を頂いて、ディスティニー→ディスティニィーに修正しました。ありがとうございます!(10/22)


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20.まっすぐに彼らは各々の趣味を貫く。

前回までのあらすじ。

 八幡を伴ってららぽーとに来た雪ノ下は思いがけず姉と出会う。始終あちらのペースではあったが何とか退けて、雪ノ下は無事に買い物を終え、思いがけないお土産まで入手できたのであった。



 週が明けた月曜日。校内の雰囲気はすっかり元通りになって、2年F組の教室でも生徒達が楽しげに過ごしている。心配事のない穏やかな日はあっという間に過ぎ去るもので、気が付けば放課後を迎えていた。

 

 この日が誕生日である由比ヶ浜結衣は仲の良い2人と外で夕食をともにする予定で、部活を終えた後で再集合する手筈になっている。葉山隼人が率いる男子のトップカースト集団とは普段からよく遊びに行っているのだが、誕生日のことは彼らには告げていない。

 

 先週はまるまる部活が休みになったので、由比ヶ浜は比企谷八幡とも雪ノ下雪乃ともほとんど話せていなかった。自分から誕生日の話を持ち出すのは少し恥ずかしいが、もしも可能であればあの黒髪の少女にも、更には望み薄とは知りつつもかの男子生徒にも夕食会に参加してもらえたら良いのになと、金曜日までの由比ヶ浜はそう考えていた。

 

 しかし土曜日の東京わんにゃんショーで2人と会って、彼女は良いことと悪いことを1つずつ持ち帰った。良いことは彼との関係を元通りにできたことであり、悪いことは2人が付き合う可能性を思って嫉妬してしまったことである。

 

 先週の初めに八幡に突き放された由比ヶ浜は気分が落ち込みがちで、なかなか調子が戻らなかったが、それは八幡を心配する気持ちが強く彼女を束縛していたからである。自分の中で終わる話であれば、彼女はそれを表に出さず我慢することができたし、お陰で友人達は今日の彼女に何ら違和感を抱いていない。

 

 土日で気持ちを落ち着けられたし、たとえ当事者の2人の前であっても普段通りに振る舞えば大丈夫だと、その点に関しては自分を疑っていない由比ヶ浜だが、今夜2人を誘うべきかは答えが容易に出ない。もしも誘わなければ目の前の友人たちに悩みを気付かれてしまうかもしれない。だがもし2人が一緒に参加することになったら、そして自分達3人が話をしている近くで楽しそうに過ごす2人を見てしまったら、それでも自分は平静を保っていられるだろうか。

 

「いちおう部活で2人も誘ってみようと思ってるんだけど、大丈夫かな?」

 

「別に良いし。結衣の誕生日なんだから結衣が誘いたい奴を誘うし」

 

「うん。2人とも参加するならそれでも良いし、雪ノ下さんだけでも連れて来てくれたら嬉しいかも」

 

 少しだけ2人が断ってくれる事を期待して由比ヶ浜は口を開いたのだが、返って来たのは予想通りの解答だった。自分のことを気遣った返事をしてくれる友人達に対して申し訳ない気持ちを抱きながら、由比ヶ浜はなるようにしかならないと覚悟を決めた。既に運動部の面々は教室から去って久しく、なぜか長居を続けている件の男子生徒を含めクラスに残っている生徒は数えるほどしかいない。

 

「じゃあ……行ってきます!」

 

 努めて元気な声を出して、由比ヶ浜は鞄を持って立ち上がった。悩み事も確かにあるが、同時に久しぶりの部活を楽しみにしている気持ちも強い。無理なく笑顔を浮かべて、彼女はゆっくりと部室に向かうのであった。

 

 

***

 

 

 八幡はこの日も先週と同じように、休み時間のたびに教室を出て過ごしていた。とはいえ回復基調にあった先週の金曜日と比べてもこの日の彼の精神は安定感を増していて、当人は気付いていないが気持ちの悪い笑顔を浮かべることが多々あった。彼に関心を払う少数の生徒達はそんな彼の様子を見て苦笑いを浮かべ、それによって得た安心感に身を委ねながらそれぞれの行動へと復帰するのであった。

 

 

 放課後になって同じクラスの女子生徒が部活に向かったのを確認して、八幡は簡単なメッセージを送った。送信先は、友達の誕生日を祝ったことがないので何をどう言い出せば良いのか分からないと仰る部長様である。

 

 部室で待ち受けて扉が開くと同時にお祝いの言葉を伝えることを八幡は提案したが、性急すぎる気がするし、いつ来るか判らない相手を待ち受けるのはどうなのかと却下された。その際に、彼女が教室を出たら連絡をしろという指令を受けたのである。彼女に遅れること1分以内に部室に来いという仰せとともに。

 

「んじゃ、行きますかね」

 

 ゆっくりと立ち上がった八幡は少し早足で教室を出ていつものルートで部活に向かう。部室の前で深呼吸をしている由比ヶ浜を見付けて首を傾げる八幡だったが、意を決した彼女が開いた扉を閉める前に一緒に部室に滑り込んだ。なぜか普段以上に驚き恥ずかしがる彼女の反応を不思議に思いながら、彼は後ろ手でドアを閉めるのであった。

 

 

 部室ではいつもの通りに雪ノ下がマニュアル解読を行っていた。もはや解読というよりは演習という言葉が適切なのだが、彼女を筆頭に奉仕部3名のマニュアル解読は全校生徒と教師を含めても群を抜いた成果を出しているとゲームマスターが明言していた。実は自分も凄いのだという事実に慣れない八幡は、遙か前を進む雪ノ下との差を思いつつ、後ろとの差はどの程度なのだろうと考えながらいつもの席に着いた。その瞬間。

 

「頼もう!」

 

 特徴的な口調とともに、奉仕部の扉を叩く音が廊下から聞こえてきた。げんなりとした気分で雪ノ下に目だけで問いかけると、対処は任せたという意味の頷きが返ってくる。「ですよねー」と小声で呟きながら腰を上げて、彼は不審な男を部室に招き入れた。

 

「ハチえもーん。絶対に勝てるゲームを教えてよ!」

 

「ない。大人しく負けろ。お帰りはあちら」

 

 ふざけたノリの材木座義輝を軽くあしらう八幡を見て、由比ヶ浜は困ったような笑い顔を浮かべている。雪ノ下はと見てみると早々にマニュアル解読に復帰していた。この方針で良いのだなと確認できた八幡だが、彼が二の矢を継ぐ前に材木座が口を開くほうが早かった。

 

「ほむん。我は平塚女史から正式に許可を得ておるのだ。控えおろう!」

 

「は?何て言って偽装したんだ?」

 

「うむ。我の創作活動に異を唱え、我には才能が無いだの、やることをやってから言えだのと、事あるごとに我の足を引っ張ろうとする不逞の輩に勝負を申し込まれてな。だが相手は2名なのだ。だから勝負の助っ人を願いたいと申し出たら、熱い展開は大歓迎だとあっさり受理されたで御座候」

 

「あー。あの人、少年漫画的な展開が好きすぎだろ……」

 

 頭を押さえる八幡に代わって、一応は話を聞いていたらしい雪ノ下が質問を始める。

 

「では貴方の依頼は、勝負の助太刀と、自分に有利になるような勝負を考えて欲しいという事で良いのかしら?」

 

「うむ。それに相違ない」

 

「貴方が言う、不逞の輩とやらの詳細は?」

 

「遊戯部の1年2名である。貴奴らはリアルでも我をゲームで負かして見下した前科があるゆえに、さすがの我も3つある堪忍袋が切れたでござるよ」

 

「おい。3つの袋は結婚式の話だからな」

 

「げふうっ!」

 

 

 呆れたような口調でとりあえずツッコミを入れると、八幡は視線で雪ノ下に是非を問うた。彼の話が本当なら協力するのもやぶさかではないが、材木座のことだけに話を盛っているという懸念がある。だがそうした可能性は雪ノ下も重々承知のようで、彼女は尋問を続ける。今日は由比ヶ浜が静かだなと考えながら、八幡は依頼の話に意識を戻すのであった

 

「貴方の足を引っ張ろうとする後輩2名に、どういう話の流れで勝負を申し込まれたのかしら?」

 

「む。その、口だけだの、よく知らないのにゲームを語るなと言われ、かっとなってつい……」

 

「おい。お前の方から勝負を言い出したんじゃねーか。……どうする?」

 

「はあ。正直に言って、依頼の形になっていないわね。私闘に口を挟んで一方に肩入れするには、彼の説明だけでは難しいと思うのだけれど」

 

「というわけだ。悪いけど、他を当たってくれ」

 

「待て!……確かに勝負を言い出したのは我だ。だが我の創作活動に対し厳しい事を言われたのも事実なのだ。八幡……貴様は、貴様が大事に思う対象を貶されて、それで黙っていられるのか?それでも日本男児か!」

 

「はあ……。仕方ねーから、とりあえずその遊戯部とやらに会ってみるか。俺の個人的な行動ってことで、奉仕部とは関係なしで良いよな?」

 

 材木座の口調には苛立たされるが、八幡とて趣味を馬鹿にされて悔しい思いをした過去はいくらでもある。正確には最初から趣味そのものを馬鹿にされたわけではなく、友人がいないので趣味の話に飢えていた彼が堰を切ったように話を続けたせいで敬遠され馬鹿にされたのが真相である。

 

 だがもしそうだとしても、最終的には八幡の行動だけではなく、彼が好きだからという理由で趣味それ自体までもを見下されるのが常であった。俺が好きになったからあの作品が馬鹿にされるのかと、当時の八幡はやりきれない気持ちを抱えて過ごしたものだが、ゆえにこそ先程の材木座の挑発を流すことができなかったのである。

 

 

「待ちなさい。奉仕部として依頼を受けるか否かはさておいて、当事者に話を聞くのは適切な行動だと思うわ。一応は平塚先生の許可を受けてこの教室にやって来たわけだし、私たちも同行する義務があるわね」

 

「えっと、それって、依頼を受けちゃう可能性もあるってこと?……その、ヒッキーが言ってた次の依頼って、この中二の依頼になっちゃうの?」

 

 この日は妙に静かだった由比ヶ浜が疑問を口にしたことで、ようやく八幡は彼女が何を思い悩んでいたのかに気付いた。実は彼女はこのこと以上に思い悩む事柄を抱えているのだが、当事者たる2人はそれには全く気付いていない。ましてや材木座は何の話か見当もつかず、落ち着かない様子で窓の外を眺めるのみである。

 

「あ、えーと、どうなんだろな。てか、こいつのこの依頼で結果か……」

 

「とはいえ、約束は約束ね。土曜日にも言ったように無用の長物でも使いようはあるのだから、安心して討ち死になさい」

 

「だから下僕としての再就職を勧めるのはやめろ。ま、依頼にならないケースでごり押しするお前でもないだろうし、とりあえず情報収集に向かいますかね」

 

「ええ。では由比ヶ浜さんも支度をお願いできるかしら?」

 

「あ、うん。すぐに行けるけど……」

 

 2人のやり取りが以前と比べてはるかに親密なように思えて、複雑な表情を浮かべる由比ヶ浜であった。

 

 

***

 

 

 この高校に入学して早々に、秦野と相模は遊戯部を創設した。

 

 秦野は子供の頃からゲームが好きだったが、成長するにつれて彼の興味はいわゆるビデオゲームから離れ、より広い意味でのゲームを求めるようになった。もちろん家庭用ゲームやゲームセンターにあるアーケードゲームにも熱中することはあったが、そうしたコンピュータが関与するゲームだけでは彼の好奇心を完全に満たすことはできなかった。

 

 だが彼の周囲の友人達はありきたりのゲームで満足していた。彼が紹介してくれるゲームは珍しいものが多く、実際に遊んでみると楽しくもあるのだが、遊び始めるまでのハードルが高い。家にあるゲーム機で気軽に遊べればそれで満足だという大多数の意見に彼は必死に抗い、世の中には他にも多くのゲームがあることを伝えようとしたのだが、その結果は芳しくなかった。

 

 彼は痩せ型で目が悪く、子供の頃から眼鏡をかけていたが、運動が苦手なわけではなかった。むしろ長距離走に限れば、学年でも上位に入れるほどの実力であった。だが彼の外見を目にして、さらに趣味がゲームだという話を聞いた多くの大人は、彼が運動を苦手とし屋内で遊ぶことを好む陰気な性格の持ち主だと受け取ることが多かった。

 

 ゲームが趣味だというだけで運動ができないとか性格が暗いとか、どうしてそんなレッテルを貼られなくてはならないのか。彼は理不尽な評価に憤慨して、一時はゲームをやめようと決意もした。しかし彼のゲームへの思いは、容易く断念できるものではなかった。一度は離れようとしたことで、彼はゲームにかける自分の思いの強さを身に滲みて理解して、周囲の意見に流される愚を二度と繰り返すまいと誓った。その結果、彼は次第に孤立を深めて行った。

 

 

 相模は取り立てて説明するまでもない普通の子供だった。普通に友達と遊び普通にゲームをして普通に勉強する。そんな普通が似合う彼の毎日を変えたのは、同姓の1つ上の女の子が原因だった。

 

 小中と同じ学校に通っていたせいで、彼は血縁関係にないその女の子との仲をからかわれて過ごした。女の子にとっても迷惑な話だったと思うが、彼にとってその扱いは最悪だった。

 

 思春期を迎える前から異性に絡んだ面倒な話題を投げかけられ続けた彼は、ネタにされるたびに激高して過剰な反応を示したのだが、そうした彼の行動は火に油を注ぐ結果にしかならなかった。彼をからかっていた連中からすれば、からかいがいのある反応を返す相手なら誰でも良かったのだが、彼はそのことに長く気付けなかった。

 

 不登校になることこそなかったものの、彼は休みの日には家を出ないで過ごすようになり、ひとりでゲームに多くの時間を費やすようになった。平日も家と学校を往復するだけで、彼の毎日は淡々と過ぎていった。秦野と知り合ったのは、そうした頃のことだった。

 

 

 最初のうちは他に遊ぶ相手がいない者同士、ありきたりなゲームをして一緒に遊ぶ程度だった。だが共に周囲の無理解に苛立っていた2人だけに、ある日お互いが不満に思っていたことをぶつけ合って以来、彼らは仲の良い友人になった。

 

 ゲームの腕や知識は秦野に一日の長があったが、他にやりたいことを見出せず友人が楽しいと思うものをより詳しく知りたいと願う相模の成長も著しく、やがて彼らはゲームの腕では同学年の誰にも負けないと自信を持てるほどの域に至った。

 

 

 そんな頃、たまたま地元のゲームセンターに遊びに行って、彼らは奇妙な高校生と出会う。一目見ただけで関わりたくないと思えるほどに気持ちの悪い、オタクを体現したような高校生だったが、彼は周囲から何を言われようとも平気な様子で己を貫いているように思われた。

 

 わざとらしい口調で偉そうに話し、大袈裟にマントを翻し、大真面目に指ぬきグローブを装着しているその高校生に苛立ちを覚えた2人は、格闘ゲームでこてんぱんにした上で彼を見下し、彼がいかに痛い行動を取っているかをこんこんと説明したのだが、残念ながら暖簾に腕押しだった。彼はその後も行動を変えず、恥じる事なくそのゲームセンターに通い続けていた。

 

 

 高校受験が近付いて来て、彼らは仮想世界への参加を決めている高校に限定して志望校を絞り込み、最終的には総武高校を受験することにした。彼らがゲームに傾けていた情熱をそのまま勉強に費やしてみると、成績は面白いほどに上がった。ならば地域で一番の進学校を目指せば良いと彼らは考えたのである。

 

 もっとも、相模にとっては1つだけ問題があった。長年にわたって仲をからかわれ続けた、しかし実際にはほとんど話したことのない同姓の女の子が、彼に1年先んじて総武高校に入学していたのである。彼の悩みを知っていた秦野は一緒に志望校を下げることを提案したが、自分のことで友人を巻き込むのは気が進まなかった。心の中で件の女の子に頭を下げながら、相模は志望校を変更しないと決意したのであった。

 

 

 だが彼らが総武高校に入学したその日、小中に続けて高校まで自分の後をついてきた相模に、同姓の女の子はついに怒りを爆発させた。とはいえ彼女が何かをしたわけではない。彼女の話を聞いて、周囲の人間が勝手に「酷い話」として噂を流しただけである。彼女の怒りは対象こそ間違えていたものの正当なものではある。だがだからこそ噂は説得力を持ち、彼女の希望を無視する形で広く校内に伝わってしまった。

 

 誰がつけたのか、相模・ゲーム部・男という3つの言葉から「サゲオ」なる蔑称まで登場して、彼は高校入学早々に悔しい思いをした。その屈辱に比べれば、この世界に巻き込まれた事など彼には些細な事である。むしろここまで完成度の高いバーチャルな世界で過ごせることは、既に秦野に負けないほどゲームに情熱を捧げるようになった彼には喜ばしいことでさえあった。

 

 とはいえ鬱屈とした気持ちは簡単には解消できない。高校の外へと出歩けるようになって、彼らは馴染みのゲームセンターに向かった。そしてそこで件の痛い高校生と再会したのである。

 

 久しぶりに会った彼は処女作だという原稿を抱えていた。彼らに見下された過去など忘れたかのように「読んでみて欲しい」と渡されたそれは、お世辞にも質の良いものではなかった。だが得体の知れない情熱だけは感じ取る事ができて、彼ら2人はそれを不思議に思った。

 

 彼には明らかに文筆の才能を感じないし、そもそも基本的な素養が欠けていた。だが古今東西のゲームを知ろうと日夜それに時間を費やし、ゲームの内容だけではなく完成までの経緯や逸話にまで知識を広げようと努めている自分達と比べて、稚拙でも実力が足りなくても実際に創作活動を行っている彼はいったい何が違うのだろうか。

 

 彼らの指摘にいちいちショックを受けつつも、逞しく復活して前向きな姿勢を決して手放さない奇妙な先輩に、彼らはいつしか淡い尊敬の念を抱くようになっていた。次は彼が手掛ける小説という分野ではなく、彼らが得意なゲームという分野で勝負をしようと約束して、3人はゲームセンターを後にしたのであった。

 

 

***

 

 

 特別棟の4階から2階へと移動して、奉仕部の3名と材木座は遊戯部の部室を目指していた。材木座の話にはどうも要領を得ない部分があるのだが、それも当事者に尋ねてみれば分かることだ。そう考えながら八幡は集団を先導する。目指す部室の場所は部長様が教えてくれたのだが、口頭での情報は信頼できても彼女の道案内を信頼することはできない。

 

 4人パーティーを率いる八幡の背中を眺めながら、由比ヶ浜は頑張って気持ちを奮い立たせようとしていた。先の懸念はさておいて、まずは彼が奉仕部に居続けてくれないことには話にならない。雪ノ下との繋がりを危ぶむ以前に、自分との繋がりが無くなってしまっては論外である。彼には()()()()()依頼を解決してもらう必要があるのだ。

 

 雪ノ下は今回の依頼について何か考えを巡らせているのか、集団の中で大人しくしていた。彼女が何をどこまで知っているのか、外部からは容易に窺い知ることはできない。だが彼女の性格からして、部員のためにならない事は決して考えてはいないのだろう。

 

 材木座はそんな3人を集団の最後尾から眺めながら、来るべき勝負に向けて気持ちを盛り上げるのであった。

 




次回は明日更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
文章の流れが悪い部分の順番を入れ替えて、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(2/23,3/2,4/7)


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21.ゆるぎなく彼は己の信念を叫ぶ。

前回までのあらすじ。

 由比ヶ浜の誕生日を祝いたいのに、どう話を出せば良いのか分からない雪ノ下と八幡。そんな2人を誕生日の夕食会に誘いたいのに、嫉妬と不安の感情に苛まれて口に出すのをためらう由比ヶ浜。そんな微妙な雰囲気の奉仕部に材木座が現れた。彼と遊戯部との勝負に助太刀をして欲しいという依頼を聞いて、まずは当事者から詳しい事情を聞き出すべく、4人は遊戯部の部室に足を運ぶのであった。



 特別棟の2階にある小さな部屋の前で立ち止まって、比企谷八幡は気怠げにノックをした。少しだけ間を置いて、中から「どうぞー」というやる気のない声が聞こえてきたので、彼らは扉を開いて順番に部屋の中へと入っていった。

 

 部室の中には所狭しと色んなものが散乱していて、よくよく見るとそれらは全てゲームに関するものばかりだった。ボードゲームのパッケージやカードゲームの箱などはもちろん、積み上げられている書籍もタイトルを見る限り何かのゲームを題材としたものばかりに思える。

 

「田舎のおもちゃ屋さんみたいな感じだな」

 

「あー、駄菓子とか売ってそうな?」

 

 思わず呟いた八幡の言葉に、こちらも思わず反応したという体で由比ヶ浜結衣が応答する。そんな彼女に顔を向けて自然な形で頷く八幡だが、実は予想外の反応が返ってきて驚き、二の句が継げなかったにすぎない。だが彼の余裕ありげな反応を受けた由比ヶ浜は、先程まで変な邪推をして悩んでいた自分が急に恥ずかしくなって、勢いよく視線を逸らして率先して部屋の奥に向かうのであった。

 

 

「あ……えっと……」

 

 大きな本棚の奥へと回り込むと、そこには男子生徒が2人いた。上履きが黄色なので1年生だろう。彼らが無言でこちらに向けてくる視線に答えるべく、八幡は困っている様子の由比ヶ浜の前に出て、その上で材木座義輝を手招きした。

 

「邪魔して悪いな。こいつがお前らに用事があるみたいなんだが……」

 

「剣豪さん……。勝負に来たんですか?」

 

「うむ。今こそ約束の刻。貴様らとの度重なる死闘に終止符を打つべくまかり越した。主らにも異存はなかろうの?」

 

「ええ、こっちはいつでもいいですよ。あ、その人が助っ人ですか?」

 

「然り。幾星霜の時を経て、数多の戦場をともに駆けた我が相棒。この男こそ、比企谷八幡その人である!」

 

「あ、1年の秦野と言います。こっちが相模です」

 

「あー、比企谷だ」

 

 仰々しく盛り上がる材木座の横で、普通に自己紹介を行う3人であった。

 

「え、相模って……」

 

 だが由比ヶ浜が思わず呟いたことで、名前を呼ばれた男子生徒が途端に険しい表情を浮かべる。この女の先輩はあの噂のことを知っているのだと理解して、彼は即座に身構える。だがこうした人間関係の問題は彼女が得意とする分野であり、由比ヶ浜は相手の反応を見てすぐに口を開いた。

 

「あ、えっと……。あたし、さがみんとは同じクラスなんだけど、ちゃんと話を聞いてるから。悪いのは、変な風にからかってきた人達だよね?その、相模くんは悪くないって、誤解を訂正するようにしてるから……ごめんね」

 

「なんで、あなたが謝るんですか?」

 

「え、だって、あたしはさがみんと友達だし。あんな噂を立てられて辛いだろうなって気持ちもね、解るって言ったら怒られるかもだけど……少しは解るつもりなんだ」

 

「……言っとくけど、由比ヶ浜がその、噂?とか、流したわけじゃねーからな。俺はその噂のことは知らんけど、こいつは誰かの悪口を言い触らすような奴じゃねーよ」

 

「え、ヒッキー?」

 

「ええ。由比ヶ浜さんは初対面の貴方に対しても、自分に責任がなくても、貴方の辛い気持ちを汲んで親身になれる優しい性格なのよ。それを誤解しないで欲しいわね」

 

「ゆ、ゆきのん?」

 

 八幡が自分にフォローを入れてくれるだけでも予想外だったのに、更に雪ノ下雪乃までが嬉しい事を言ってくれる。2人のことを変な風に考えていた自分が恥ずかしいという思いすら瞬時に消えて、由比ヶ浜は嬉しさと照れくささが同居したようなはにかんだ笑顔を見せるのであった。

 

 

***

 

 

「では、本題に入っても良いかしら?」

 

 八幡と雪ノ下の発言をそのまま受け入れたのか、素直に身構えた姿勢を解いた相模を見やりながら、雪ノ下は即座に場の主導権を確保した。彼女の問い掛けに頭を縦に振って同意した遊戯部の2人に向けて、彼女はまず椅子の準備を命じる。

 

 慌てた様子で付近にスペースを作って、後輩の2人は人数分の椅子を用意し彼らとの間に机を挟んだ。部屋が手狭な上に物が乱雑に散らかっているので、机の向こうに遊戯部の2人、机のこちらに奉仕部の3人が並び、材木座がお誕生日席という配置である。なぜか真ん中の席に座らされて居心地の悪い思いをする八幡であった。

 

「さて。ゲームで勝負をするという話を聞いているのだけれど、勝負の発端から勝負によって相手に要求することまで、詳しく説明してもらえるかしら?」

 

「えっと、剣豪さんは、何て?」

 

「彼の創作を真っ当に批評して、更には半可通のくせにゲームを語る彼に注意をしたら逆上したと聞いているのだけれど」

 

「あ、あれー?ハチえもん、我が言ったことと違うんだけど?」

 

「いや、雪ノ下の把握で合ってると俺も思うんだが」

 

 2人の容赦のない発言には、遊戯部の2人も苦笑いである。少しお互いに顔を見合わせた後で、代表して秦野が口を開く。

 

「まあ、経緯はそんな感じで。要求ですけど、作家になりたいとか偉そうな事を言うのなら、剣豪さんにはちゃんと、やるべきことをやってから言って欲しいんですよね。とりあえずもっと本を読むとか、そういうことをしないのに態度がこんな感じなので、正直いらっとするんですよ」

 

「あー。俺、今から遊戯部の側に付くわ。どう考えても正論だろ」

 

「そうね。私もそちらの意見が正論に思えるのだけれど……。由比ヶ浜さんはどうかしら?」

 

「えっと……中二はなんで小説を書きたいんだっけ?依頼の時になんか言ってたよね?」

 

 

 あっさりと寝返った八幡や彼の判定に同意する雪ノ下とは違って、由比ヶ浜は意外なことに過去の話を持ち出した。あの時のことを思い出しながら八幡が答える。

 

「要は『書きたいから書く』って感じだったな。そういやお前、あの時に言った文法・論理・修辞の三学と文芸評論家スキルって、今どうなってんの?」

 

「あうふ!……その、確認していないでござる……」

 

「なんかもう、勝負するまでもねーな。お前は足りないものがあり過ぎるから、素直にこいつらの要求を受け入れて、少しぐらいは基礎の勉強をしたほうがいいと思うぞ」

 

「……八幡よ。お主の言い分は拙者にはよく解る。だが、我は書きたいのだ。何よりもまず書きたいのだ!……以前の依頼の際に諸君に告げられた問題点は、我も自覚している。参考にできる点は、新作に取り入れてはいるのだ。だが、多くの本を読むことは一朝一夕ではできぬ」

 

「だからって、やらねーわけにはいかんだろ……」

 

「では貴様は、勉強してから書くのが正しいというのか?書いて書いて、どうしても足りないものを勉強するという順では駄目だと申すのか!……我は、勉強が嫌で避けているのではない。勉強の必要性を理解しながらも、今すぐに書きたいから書いているのだ」

 

 いつしか雪ノ下も由比ヶ浜も、そして秦野も相模も口をつぐんで、八幡と材木座の対話を見守っている。彼の発言を内心で反芻して、八幡はゆっくりと口を開く。

 

「じゃあお前は、もし勝ったら何をこいつらに要求するんだ?」

 

「愚問なり!……我が要求はただ1つ。書き上げた作品を読んで思ったままの感想を教えて欲しいという、ただそれだけでござる」

 

 材木座の心からの叫びが教室内にこだまする。それを聞いた各人の反応を順に確認して、雪ノ下は静かにこう宣言した。

 

「勝負は成立ね。同時に、貴方の依頼を正式に奉仕部として受理します。……比企谷くん、貴方に現場の全権を与えるわ。遊戯部と交渉して、勝負の内容やルールを確定させて……この勝負に勝ちなさい」

 

 こうして遊戯部との勝負が始まるのであった。

 

 

***

 

 

 遊戯部の2人の顔を順に見据えて、八幡はおもむろに口を開く。

 

「んじゃ、まずはゲームの内容を決めるか」

 

「あ、えっとですね。せっかくなので、そちらのお二人もゲームに参加しませんか?」

 

「……どういう意味だ?」

 

「勝負は勝負として、俺達は1人でも多くの人にゲームの楽しさを知ってもらいたいとも思ってるんですよ。だから見てるだけじゃなくて、実際に参加して欲しいなと思うんですけど……」

 

 秦野の意外な提案を受けて八幡が訝しげな目を向けると、今度は相模がその意図を説明した。彼らの連携を目の当たりにして苦戦を予想しながら、八幡は両脇の2人を順に眺める。

 

「その場合は4対2になってしまうのだけれど、勝つ気はあるのかしら?」

 

「ええ。団体戦形式でも良いですし、個人戦にして優勝者の所属する側が勝ちという形式でも良いですし」

 

「……そうだな。勝敗のルールは後にして、とりあえずゲームの内容を決めようぜ」

 

「いいですよ。カードゲームならトランプやUNO、花札にドミニオンまでありますし。ボードゲームなら人生ゲーム、カタン、カルカソンヌ、ディプロマシーやおばけ屋敷ゲームも準備できます。よくあるオリジナルとスマホ版で変更点が、みたいな話はなくて、全てが現実通りですよ」

 

 今度は返答の順番が変わって、雪ノ下の挑発には相模が、八幡の提案には秦野が答える。挙げられたゲームの大半を知らないのか、隣では由比ヶ浜が首を傾げている。どうにもやりにくさを感じて、八幡は少し考えた末に口を開いた。

 

「色々と挙げてもらって悪いんだが、初心者の俺らがその手のゲームで勝てるとは思えねーんだわ。お前らも結末が見えてる勝負だったら、さっき言ってたゲームの楽しさ?ってのが味わえないんじゃね?」

 

「そうでもないですよ。()()()()()()()()、ゲームのことでは手を抜きませんし」

 

「そう言われてもなぁ……。この4人で良い勝負ができるゲームって、なんか心当たりねーか?」

 

「……あの、こっちに丸投げして、大丈夫ですか?」

 

 思わず相模に心配されてしまう八幡であった。話し合いが進まないことに業を煮やしたのか雪ノ下が口を開きかけるが、八幡はそれを軽く手を挙げることで遮る。彼女が言おうとしたことは分かっているとでも言いたげに視線を送って、彼は以下のような提案を行った。

 

 

「せっかくだから、この世界限定のゲームとかどうだ?」

 

「……どういう意味ですか?」

 

「この世界のマニュアルって、クイズもできるらしいんだけど、お前ら知ってた?」

 

「ええ。もちろん知ってますし、マニュアルの解読も進んでいるほうだと思うんですけど……大丈夫ですか?」

 

 素朴に疑問を口にする相模に向けて、あえて挑発気味にマニュアルの話を出すと、秦野もまた挑発気味に返してきた。だが解読の進み具合に関しては奉仕部の3人が飛び抜けていると、ゲームマスター自らが保証してくれている。落ち着かない様子で教室の隅を眺めている材木座を横目で確認しながら、内心で「かかった!」と叫びつつ八幡はポーカーフェイスで交渉を続ける。

 

「まあ、俺らもそれなりに解読してるからな。負けてもこいつに勉強させれば良いだけだし、他のゲームよりは良い勝負になるんじゃね?」

 

「確かに、雪ノ下先輩が相手だと手強そうですね」

 

「んじゃ、俺とかが相手の時は手加減してくんねーかな?」

 

「ゲームで俺達が手を抜くことはありませんよ」

 

 どうやら秦野は挑発に乗りやすい性格みたいで、敢えて雪ノ下の名前を出して八幡を煽ってくる。だがその程度で気を削がれるようでは、ぼっちなどやっていないのである。軽口で返しながら、八幡はより自分達に有利なルールを織り込もうと頭をひねる。特に彼の横で不安そうな表情の由比ヶ浜をどのように戦略に組み込めば良いだろうか。

 

「じゃあ、順番に問題を出していって、全員が回答者になる形で勝負するのはどうですか?」

 

「それは……どうだろな。勝敗の付け方にもよるんじゃね?」

 

「4対2の形ですし、正解者の数ではなくて正解者の割合で勝ち負けを決めるとか」

 

「いや、数をごり押しする気はねーけど、割合だとこっちが不利じゃね?」

 

 先に相手に提案をされて、八幡は相手の意図を読みながら話を先延ばしにする。相模の提案はおそらく雪ノ下を警戒したものだろう。彼女を前面に出して破竹の勢いで勝負を決められるような形式を避けて、材木座や由比ヶ浜が足を引っ張ってくれるような形式の勝負を考えているはずだ。彼らが由比ヶ浜をどう評価しているかは判らないが、少なくとも材木座の穴は突いてくるだろう。

 

 そうした八幡の危惧は秦野の提案で確定的となる。いくら雪ノ下が全問正解しようとも、八幡もそれに並んだとしても、他の2人が全滅ではどうしようもない。それに対して遊戯部の2人はいずれも高い正答率を狙えるのだろう。これでは勝負にならない。……いや。

 

 

 八幡は星取り表を計算しながら、ふと思い付いたことを全力で検証する。

 

「(1問ごとに勝敗を決める形だと……。その場合、2対2になるから……。由比ヶ浜は最悪……。問題は材木座、か。)……なあ、ちょっと提案なんだが」

 

「何ですか?」

 

「最初に材木座に問題を出させるから、それでこいつが勝てない場合は俺らは下りるわ」

 

「えっ?……その場合はそちらの負けということで良いんですか?」

 

「え、ヒッキー?」

 

 ここまで黙って交渉を見守っていた由比ヶ浜が思わず声を出してしまう。もしもこの依頼を解決できなければ、彼は奉仕部を去ってしまうのだ。心配そうに自分を見つめる由比ヶ浜に力強い視線を返しながら、八幡はゆっくりと説明を始めた。

 

「そのな、俺らは奉仕部ってのをやってるんだが。部の方針として『飢えている人に魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えよ』みたいなのがあるんだわ」

 

「比企谷くん?……成る程」

 

「要するに今の材木座だと、魚を求めてる形になるんだわ。まずは最低限こいつが勝つ姿を見せてもらわないと、全てを俺らがお膳立てして勝負に勝っても、こいつの為にならねーだろ?」

 

「つまり……どういうことですか?」

 

「最初に材木座が問題を出して、それでお前らのほうが正答率が良かったらお前らの勝ちな。俺たち奉仕部は勝負には関与しない。まあ、材木座が出す問題だからこいつは正解するだろうし、お前らには良くて引き分けの勝負になっちまうが……別に良いよな?正答率って話を持ち出したのはお前らだからな」

 

 遊戯部の2人が正解者の数ではなく正答者の割合という話を持ち出したのは、数が少ない自分たちのほうが有利になるからである。だがもしも自分たちのほうが数が多い状況に追い込まれると、その企みは逆効果となる。

 

「……もしも引き分けの時はどうするんですか?」

 

「だから材木座が勝てない時は俺らは下りる。材木座が出す問題で、こっちで答えるのは材木座だけだ。そんな有利な状況で引き分けで良いとか、ちょっと甘やかしすぎじゃね?」

 

「は、八幡……?」

 

「大丈夫だ。お前が勝てば何も問題は無い。その後の勝負は参加してやるよ」

 

 ことさらに余裕そうな口ぶりで、八幡は材木座を宥める。彼の意図をどこまで読んでいるのか、雪ノ下は楽しそうな表情を浮かべて経緯を見守っているし、由比ヶ浜は頼もしそうな表情で彼の横顔を見つめている。そんな対面の先輩たちへの憤った気持ちを隠すことなく、秦野は細かな確認を行う。

 

「……その後も、1問ごとの勝負を判定するのは正解者の割合ってルールで良いんですよね?」

 

「ああ、そりゃそーだろ。どうする?キミに有利すぎて少しこわいか?」

 

「……いえ。全力で勝ちに行きますよ?」

 

「俺らも同じだから安心しろ。んじゃ、そんな感じで勝負を始めるか」

 

 こうしてルールは決まった。お互いに1人1回ずつ問題を出して、参加者全てが回答者となる。問題ごとに正答率によって勝敗を決めて、最終的に勝ち星で相手を上回った陣営の勝利となる。材木座が問題を出す初回のみ、彼と遊技部2名との勝負になる。

 

 両陣営の数の不均衡を考慮して、問題を出す順番は以下のように決まった。すなわち材木座、由比ヶ浜、秦野、相模、雪ノ下、八幡の順である。当然のように八幡に大トリを譲る雪ノ下と視線を交わし、八幡は己の進退をかけた勝負に挑むのであった。

 




次回は明日更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
1箇所なぜか由比ヶ浜を雪ノ下と書いていた部分を訂正しました。(2/23)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(3/2,4/6)


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22.いざ尋常に彼は勝ちを義務づけられた勝負に挑む。

前回までのあらすじ。

 材木座と遊戯部の勝負に巻き込まれた奉仕部だったが、当事者の話を聞いた上で正式に依頼を受理することになった。両陣営の交渉の末にマニュアルを題材にしたクイズゲームで勝敗を決することになり、八幡は「次の依頼で結果を出す」という己の宣言を遂行すべく勝負に挑むのであった。



 遊戯部の部室で机を挟んで、6人の生徒が勝負に挑もうとしている。部屋の奥の側には遊技部の秦野と相模が座り、秦野と隣り合わせのお誕生日席には材木座義輝が、更に彼とは机の角を挟んで雪ノ下雪乃・比企谷八幡・由比ヶ浜結衣の順に並んでいる。両脇から逃亡を阻止されているような気持ちがして、相変わらず落ち着かない八幡であった。

 

 彼らは一斉にマニュアルを立ち上げてクイズモードを選択した。どこかで聞いたような声のAIに答える形でルールを説明していくと、AIは最後に両陣営に向けて作戦タイムを提案した。

 

『勝負の最中には、不適切な発言や正解をこっそり教えるような行為を禁じます。今から数分間の作戦タイムを認めますが、その際にも問題や解答を教え合う行為は厳禁します。不正は発見次第、過去に遡って検証しますので、お互いに正々堂々と勝負に挑んで下さい』

 

 そう言い終えると、AIは何らかの権限を行使したのだろう。机の対角線に沿って緞帳が下ろされ、お互いグループ内にしか声が聞こえない状態になった。念の為に設定でそれを確認した上で、八幡はゆっくりと話を始める。

 

 

「んじゃ、材木座はさっき言った通りだ。お前しか知らねーような問題を出して、あいつらに勝て。まずはそこからだ。……言っとくが、武士の情けとか馬鹿なことを考えるなよ。この勝負は本気で勝ちに行くからな」

 

「ほむん。八幡よ、本気なのだな……。お主がそう言うのであれば、我も数千年ぶりに封印を解くとしよう。我が真の姿をとくとその目に焼き付けるがよい」

 

「ま、なんでもいいから任せるわ。で、由比ヶ浜だが……」

 

 材木座を適当にあしらう八幡だが、彼から任せるという言葉を受けた材木座は鷹揚に頷きやる気をみなぎらせている。戸塚彩加が見たら羨ましがること確実な男同士の関係がそこにはあった。八幡は次いで由比ヶ浜に視線を向ける。

 

「うん。あたしも頑張るからね!……って言いたいとこだけど、どんな問題を出せばいいんだろ?」

 

「さっきAIが言ってたように、問題の内容を云々するのは御法度らしいからな。で、お願いなんだが……お前の問題の時に、こっちの誰かが間違えてあいつらが2人とも正解するパターンが一番怖い」

 

 ちらりと材木座を見やりながら、八幡は説明を続ける。彼の視界に少しだけ入った雪ノ下は泰然として控えている。

 

「だから安全策を取りたいと思うんだが、その……。それでも良いか?」

 

「うん。さっきゆきのんが言ってたように、今はヒッキーが責任者なんだよね?あたしたちに指示を出してくれるわけだから、何でも言って」

 

「じゃあ……お前には悪いが、引き分けを目指してもらう。全員が解るような問題を出して欲しいんだが……できるか?」

 

「うーんと……。あの時は中二もいたし、たぶん大丈夫!」

 

「ああ、もし材木座がしくじってもお前のせいじゃねーからな。最悪そうなっても手はあるから、心配すんな」

 

「うん。あたしも頑張るから、その……ヒッキー、絶対に勝とうね」

 

 力強い目を真っ直ぐに八幡にぶつけてくる由比ヶ浜をしっかりと見返して、八幡もまた気合いの入った表情で頷き返す。これで作戦の大半は終了である。八幡は正直なところ何の心配もしていない傍らの女子生徒に視線を移す。

 

「解ってると思うが、雪ノ下は一人勝ちを目指してくれ。お前以外に誰にも解けない問題を出してくれたらそれでいい。俺も同じ方針で行くつもりだが……お前に解けない問題ってあるのかね?」

 

「あら、そこは期待に応えて欲しいところなのだけれど?たまには私を上回れるということを、見せてくれても良いはずよ」

 

「だからお前は、なんで味方を煽ろうとするんですかね……。ま、最優先事項は勝つことだからな。お前を楽しませるのはその後でも良いだろ」

 

「ええ。これからも私と由比ヶ浜さんを楽しませてもらう必要があるのだから、こんなところでの負けは許さないわよ?」

 

「今度はプレッシャーをかけてきてますよこの人……。ま、ここまで来たらなるようにしかならんだろ。んじゃまぁ、そんな感じで、お前ら……頼むわ」

 

 八幡が締め括った言葉に三者三様の頷きを返して、こうして彼らの勝負が幕を開けるのであった。

 

 

***

 

 

 お互いの作戦タイムを終えて、あとはAIが勝負の開始を宣言するだけである。だがそこで遊戯部から待ったが入った。

 

「その、もしも勝ち星で並んだ場合って、引き分けになるんですか?」

 

「ん?あー、そうだな……。白黒付けるって言うのなら、個人で一番正答率が高かった奴の側が勝ちって感じでどうだ?」

 

 密かに機を見て言い出そうと思っていたことを相手側から話題にしてくれて、八幡は内心では喜びつつ表向きは素っ気ない態度で返答する。

 

「それは……雪ノ下さんがいる以上、不公平では?」

 

「おい、お前が怖れられ過ぎてるせいで勝負に入れないんだが、そこんとこどうなのよ?」

 

「そう言われても、貴方たちの努力不足を私のせいにされても困るわね。……では、お互い上位2名の正答数で上回った側が勝ちでどうかしら?」

 

「その場合でも、雪ノ下さんが……」

 

「正答率で勝ち負けを判定する以上、こちらのほうが不利なのは貴方たちも理解していると思うのだけれど。そんなに自信がないのかしら?」

 

「……分かりました。勝ち星で並ぶ前に勝負を決めれば良いだけですし、そのルールで行きましょう。一応その場合は公平を期して、第1問の結果は数に入れないことにしますね」

 

 雪ノ下の圧力に屈したのか、それとも煽られてその気になったのかは不明だが、秦野のその返答を受けて補足ルールが決定した。彼は悔し紛れに一言付け足したが、そんな些細なことなど雪ノ下も八幡もまるで問題にしていない。

 

 由比ヶ浜に保険をかけることができたと内心で安堵する八幡を横目に、材木座がおもむろに立ち上がる。ついに勝負が始まった。

 

 

***

 

 

『1問目。材木座くんの問題』

 

「うむ。我が愛用するこの麗しきマントとグローブの入手方法を説明せよ」

 

『考え中……』

 

 最初の勝負に挑む3人はAIの発言を受けて、一斉に手元のボードに答えを書き始めた。先程の真面目な口調から軽い口調へと変わったAIの声を耳にして、八幡は奉仕部3名にしか聞こえない設定にした上で反応する。

 

「おい……。これ、著作権とか大丈夫なのか?」

 

「ええ。運営スタッフによると、担当者が嬉々としてテレビ局に音声使用の許可を求めに行ったとか。他のどんな仕事よりも熱心だったとぼやいていたわね」

 

「ここの運営って、そんなノリの奴しかいねーのかよ……。つか材木座のマントって、そこらの店で買ったんじゃねーのか?」

 

「私の記憶が正しければ、外の世界に出られるようになる前から着ていたと思うのだけれど……」

 

「うん。あたしも覚えてるから間違いないと思う」

 

「成る程な。ま、材木座が勝ったら、打ち合わせ通りな」

 

 八幡がそう言って、幸い禁止事項に抵触することなく彼らの内緒話は終わった。どうやら制限時間も過ぎたらしい。

 

 

『秦野くんと相模くんの答え』

 

「レまむらで購入」

 

『違うよ』

 

 どうやら遊戯部の2人にも材木座がマントとグローブをどうやって入手したのかは分からなかったらしい。勝ち誇ったような表情を浮かべる材木座にAIが告げる。

 

『材木座くんの答え』

 

「購買で50回以上断られると、隠しアイテムとして登場するのである」

 

『正解者に拍手。よくできました。よくできました』

 

 部室に虚しく響くAIの声を聞き流しながら、材木座を除く一同は呆気にとられている。1問目は下りて正解だったと、当初の意図とは違った意味でしみじみと思う八幡であった。

 

 

 こうして勝負は奉仕部の1勝で始まった。続いて問題を出題すべく、由比ヶ浜が元気に立ち上がるのであった。

 

 

***

 

 

『2問目。由比ヶ浜くんの問題』

 

「えっと……。親スキルの数字とは別に、サブのスキルの数字を上げることができる。○か×か?」

 

『考え中……』

 

 各自が手にするボードは本人にしか読めない設定になっている。他の回答者が答えを書き込む様子をぼんやりと眺めながら、八幡は内心で由比ヶ浜を見直していた。確かに材木座の依頼の時に話に出した内容だし、それを更に二択形式にしたことで間違えるリスクを最小限に抑えている。八幡は少し嬉しくなって、他人には気持ち悪いと言われてしまう笑顔を思わず浮かべながら大きく解答を書き込んだ。

 

『……終わり。全員の答え』

 

「○」

 

『おみごとー』

 

 無事に任務を果たして、由比ヶ浜は嬉しげな表情である。それを見た遊戯部の2人は相手方の作戦を察知したのだが時すでに遅し。たとえ彼らの問題で2勝しても、材木座の1勝があるので奉仕部が2連勝で締め括ると勝負は終わる。だが逆に言えば相手方の、特に交渉相手でもあったあの男の先輩の問題を解くことができれば、彼らの勝ちが決まる。

 

 まずは自分達の問題できっちり勝ち切ることを。同時にあの男の先輩のペースを乱し、最終戦に勝負をかけるという方針を、秦野と相模はアイコンタクトで確認するのであった。

 

 

 これで奉仕部の1勝1分け。だが次は秦野が出題する番である。

 

 

***

 

 

『3問目。秦野くんの問題』

 

「この世界で我々は教師に引率されて、正式な学校行事として遠足に来ています。高校から徒歩で10分、そこから電車で1時間、駅を下りて徒歩10分で目的地に着いたのですが、学校に忘れ物をしてしまいました。出かける準備や高校で忘れ物を探す時間を考慮しないとして、忘れ物を取って帰ってくるまでにかかる時間を答えて下さい」

 

『考え中……』

 

 苦手な数学の文章問題を出されたみたいで八幡は瞬間的に眉をひそめた。だがよくよく聞いてみれば問題の内容は小学生レベルである。落ち着いて考えれば大丈夫なはずだと、八幡はまずは気分を落ち着かせる。

 

 秦野が告げた問題をAIがボードで提示してくれて、回答者の多くはそれを眺めながら思案している。だが秦野だけでなく相模もまた即座に解答を終えて涼しい顔でこちらを窺ってくる。問題の中に潜む罠を避けることを心掛けて、八幡は丁寧に解答を書き込んだ。

 

『……終わり。材木座くんと由比ヶ浜くんの答え』

 

「2時間40分」

 

『違うよ』

 

 材木座がうなり声を上げ、由比ヶ浜は悔しそうにしている。この時点で奉仕部側がこの問題を落とすことがほぼ確定した。秦野と相模のいずれかが間違える可能性も残ってはいるが、それは期待薄だろう。もともと相手側に2勝されるという厳しい状況に陥っても勝てる前提で戦術を練っていた以上、八幡に動揺はない。……だが。

 

『比企谷くんの答え』

 

「40分」

 

『惜しい』

 

 自分の名前だけが呼ばれるという予想外の事態を受けて、八幡は動揺する。そのままAIが非情な通知を行ったが、彼はその言葉の意味を理解することができない。

 

『秦野くん、相模くん、雪ノ下くんの答え』

 

「0分」

 

『正解者に拍手。よくできました。よくできました』

 

 八幡には理屈が解らないが、雪ノ下が答えてAIが正解と言っているからには、そちらのほうが正しいのだろう。唇を噛みしめながら、彼は雪ノ下に目だけで問い掛ける。

 

「貴方は、電車での移動時間を省略できるという理由で答えたと思うのだけれど……。正式な学校行事として教師が引率をした場合、遠足の目的地は校内の移動教室と同じ扱いになるのよ。つまり、教師の権限で複数の教室を合体して合同クラスを作ることができるのと同じように、遠足先と校内のどこか適当な教室を合体させて忘れ物を取りに行けば、行き帰りの時間は0で済むのよ」

 

『よくわかる、解説!比企谷くん、解ったかな?』

 

「……ちっ。仕方ねぇな」

 

 

 苦虫を噛みつぶしたような表情で八幡は答える。こんなはずではなかったのに。この勝負に勝って俺は堂々と奉仕部に残留するはずなのに。八幡の思考が暗いほうへと流れようとした時、傍らの2人が口を開く。

 

「ヒッキー!」

 

「比企谷くん、落ち着きなさい。今の現状は……」

 

「あ、余計な事は言わないで下さいね」

 

「不適切な発言は禁止とAIも言ってましたし、状況の分析とかをされると戦術の練り直しだと受け取られかねないですよ」

 

 だが相手もさる者で、言葉を被せながら牽制をしてきた。相模が反応して秦野が詳しい内容を警告する。相変わらずの息の合った連携ぶりに八幡は更にいらいらを募らせるが、俯いた彼はふと雪ノ下が膝の上でピースサインを出していることに気が付いた。

 

「(ピースサイン?……いや、伸ばす指を中指と薬指に変更した?……ということは、2か。どっちみち俺と雪ノ下であと2()勝すれば勝負は終わる。さっき「今の現状は」と言い始めていた雪ノ下のセリフにも合うが……。他はあれだな。俺が正解しようと不正解だろうと、2()人が間違えていた時点でこの問題を落とすのは確定的だった。だから俺の結果は幸い致命的なものではない、か)」

 

 雪ノ下の意図を完全に把握できたのか自信はないが、とりあえず思い付けるだけの内容を考えているうちに、八幡は何とか先程までの精神状態を取り戻すことができた。

 

 気持ちを入れ替えて顔を上げる八幡の表情を見て、遊戯部の2人は悔しそうにしている。彼らの問題で勝ちを伸ばすだけではなく、最終戦に備えてこの男の先輩の精神にダメージを与えられたら完璧だったのだが、持ち直されたのなら仕方がない。

 

 

 これで共に1勝1敗1分け。次は相模の問題である。

 

 

***

 

 

『4問目。相模くんの問題』

 

「個室を合体した状態で、友達の家にショートカットできる条件を教えて下さい」

 

『考え中……』

 

 今度は先程と違ってシンプルな問題である。しかし部屋を合体させる話を繰り返す辺りは挑発と見て良いのだろう。そんな程度で底辺の日々を甘受していた俺が挫けるかと、八幡は不敵に笑いながら解答を練る。

 

『材木座くんの答え』

 

「個室を合体してくれる友達を見付ける」

 

『諦めて下さい』

 

 落ち込んでいる材木座には申し訳ないが、AIの通知を受けた彼の反応を見て八幡は少し吹き出してしまい、それで更に精神状態を回復させることができた。この問題もおそらくは遊戯部の勝ちになるのだろうが、八幡には前問の時のような悲壮感は微塵もない。

 

『由比ヶ浜くん、秦野くん、相模くん、雪ノ下くん、比企谷くんの答え』

 

「外から一度、友達の家に遊びに行くことと、友達の許可をその場で得ること」

 

『正解者に拍手。よくできました。よくできました』

 

 回答者によって微妙に表現は違ったのだが、残りの5人はいずれも2つの条件を明記していた。友達がいない奴には答えられないような問題を出してくる辺りもわざとだろうなと、八幡は相手の意図を鼻で笑う。同時に内心では、いつか友達ができた時に備えてという名目でこの情報を教えてくれた最愛の妹に、八幡は惜しみない感謝を捧げるのであった。

 

 

 これで奉仕部の1勝2敗1分け。だが次はついに真打ちの登場である。雪ノ下はゆっくりと席を立ち、他の回答者を睥睨するのであった。

 

 

***

 

 

『5問目。雪ノ下くんの問題』

 

「そうね……。この世界のタウンページを入手する方法を答えなさい」

 

『考え中……』

 

 雪ノ下が出したシンプルな問題を聞いて、八幡は思わず彼女の顔を見つめてしまった。同時に彼女が先程の2という数字に更に他の意味を込めていたことを悟る。勝ち星で上回るのはもちろんだが、雪ノ下としては勝負が始まる前に出された条件をもクリアしてやろうと考えているのだろう。この負けず嫌いの部長様は、お互い上位2()名の正解数でも相手を上回ることを考えているに違いないと八幡は思う。それ以外に、八幡にも解けるような問題を彼女が敢えて出す意味がない。

 

 そもそも彼女にだけ解ける問題を選んでいれば、確実に勝ちを拾えるのである。だが問題のレベルを下げると、相手にも正解のチャンスを与えることになる。彼女はおそらくその両方を天秤にかけて、この問題ならば大丈夫だと思って出題したのだろう。

 

 それは同時に、八幡が正解を逃した先程の失態を返上する機会を与えられた事をも意味する。現場での全権を委任された身としては少し情けない気もするが、彼女のこのフォローを活かせないようでは更に情けない姿を晒してしまうことになる。八幡はホテル・ロイヤルオークラでバーに乗り込む直前に交わした会話を慎重に思い出しながら、しっかりと解答を書き込んだ。

 

 

『材木座くん、秦野くん、相模くんの答え』

 

「NTTに相談する」

 

『全員はずれ』

 

 まずは第一段階はクリアだと、八幡は逆に緊張の度合いを強くする。材木座は「我の芸術的な解答が何故?」などと嘯いているが、あの調子なら大丈夫だろう。彼が心底から落ち込む姿は八幡をしても想像できない。次いで由比ヶ浜の名前がなかったことに気付いて横目で様子を窺うと、彼女は真剣な表情でAIに名前を呼ばれるのを待っていて、集中しているのか八幡の視線にも気付いていない模様である。

 

『由比ヶ浜くんの答え』

 

「この世界で営業しているお店の傾向を研究して、運営にレポートを出す」

 

『……おまけかな』

 

 この展開には八幡も雪ノ下も心底から驚いていた。由比ヶ浜なりに記憶を辿って、不十分な内容ではあるがAIにおまけをさせるほどの解答を導き出したのである。もしや馬鹿っぽい扱いはブラフだったのかと遊戯部の2人が驚きの表情を浮かべるが、彼らに説明してやる義理もない。

 

 雪ノ下はいつか自分が由比ヶ浜の親友にされたのと同じように、彼女に向けてハイタッチを要求する。それに応える由比ヶ浜は次いで八幡にもそれを要求して、奉仕部サイドの盛り上がりは最高潮である。悔しそうな相手方はともかく、黙って彼女らが落ち着くのを待っていたAIと材木座は空気を読める存在だと褒められても良いだろう。しばしの時を経て、AIの声が響いた。

 

『雪ノ下くんと比企谷くんの答え』

 

「イベント『運営からの挑戦』に参加して、『この世界でオープンした店舗の傾向を調査した上で思う所を述べよ』という課題で、運営がお気に召す結果を出す」

 

『正解者に拍手。よくできました。よくできました』

 

 2人の解答は一字一句たりとも違わないものだった。あの時の会話を正確に思い出した八幡を褒めるべきか。それとも彼がきちんと覚えているという前提で、彼が書きそうな文章に寄せた雪ノ下を褒めるべきか。

 

 

 奉仕部にとっては最高の流れで、勝負は最後の問題に委ねられた。ここまで2勝2敗1分けと全くのイーブンである。最後の出題者たる八幡は、おもむろに席から立ち上がった。

 

 

***

 

 

『6問目。比企谷くんの問題』

 

「ゲームの世界に繋がる扉について、知っている限りのことを述べよ。ただし、最も詳しく書いた者1名のみを正解とする」

 

『考え中……』

 

 これはある意味では八幡の意地であった。自分でも馬鹿げた拘りだと思う。雪ノ下と同じように奉仕部メンバーにだけ解けそうな問題を選ぶべきだったと思うし、先程の彼女のフォローをありがたいとも思う。だが自らの失態を完全に払拭するには、最後ぐらいは一人勝ちを目指さないと、八幡の気持ちが治まらなかったのである。

 

 彼にとってこの1週間で最も印象的だった出来事は、独りで東京駅へと出かけたことだった。あの体験によって、彼の中の何かが変わったのだ。具体的に何がというわけではないが、少なくとも考え方は確実に変わった。うじうじと奉仕部を辞めることばかりを考えていた日々と今と、それらを分けるのはあの日の出来事だったのである。それを問題として採用しないという考えは八幡には思い浮かばなかった。

 

 この段階で、八幡の視界には遊戯部の2人は敵として存在していない。申し訳ないが材木座も由比ヶ浜も彼は相手にしていない。ただ雪ノ下に勝つ機会を活かそうと考えて、彼はこの問題を出したのである。

 

 そしてAIが制限時間の終了を告げる。

 

『……終わり。材木座くん、秦野くん、相模くんの答え』

 

「分かりません」

 

『全員はずれ』

 

 この時点で奉仕部の勝利が確定した。だが今の八幡にとっては積極的に意識を向けるほどの情報ではない。少しだけ由比ヶ浜の解答に期待をしながら、八幡はAIの発言を待つ。

 

『由比ヶ浜くんの答え』

 

「バーでNPCに聞いたら、東京駅に扉があるって教えてくれる」

 

『惜しい』

 

 先程の雪ノ下の問題と同じように、自分の問題にも必死に頭を働かせて答えてくれた由比ヶ浜に、八幡は深く感謝を捧げる。決して勘違いをすることなく、この大事な部活仲間と一緒にこれからも過ごすのだと、彼は改めて己の希望を心の中で繰り返す。実は友達とまで言い切る自信はないので仲間という言葉で誤魔化している八幡だが、以前と比べると彼の変化は明らかだろう。

 

『雪ノ下くんの答え』

 

「バーのNPCから情報を収集すると、扉は東京駅の0番ホームにあると教えられる。ただし普通の手段では行くことができない」

 

『惜しい、惜しい』

 

 問題を出された段階で判っていたことだが、それでも雪ノ下は思い出せる情報を正確に思い出して全力で解答を書いた。あの時に川崎沙希が教えてくれた情報はこれが全てである。つまり八幡は彼女らが知らない情報をいつの間にか掴んでいたのだろう。

 

 負けて悔しくないわけではない。それにゲームの世界に繋がる情報を得て、彼が無茶をしないかと心配する気持ちもある。だが他の大部分の生徒や教師よりも彼を知っていると自負している彼女であっても、男の子の成長は見逃してしまうものらしい。

 

 彼はどのようにして更なる情報を入手して、そして内面の成長をも成し遂げたのだろうか。たとえ「次の依頼で結果を出したら」という条件付きだったとはいえ、彼が自分から「もう少しだけ奉仕部にいさせてくれ」と言い出すなど、以前の彼からは考えられなかったことである。

 

 しばしの間を置いて、まるで雪ノ下が思考に一区切り付けるのを待っていたかのように、再びAIが発言を始める。

 

『比企谷くんの答え』

 

「バーのNPCから扉が東京駅の0番ホームにあるという情報を得た状態で、東京駅で条件をクリアしてNPCに会うと、更に詳しい扉の情報を得られる」

 

『比企谷くん、すごい!おみごとー』

 

 東京駅で成し遂げる条件を詳しく記述しなかったのは八幡が両脇の2人の女子生徒に配慮したからである。もしも彼女らが更に詳しい情報を知ってしまって、ゲームの世界に首を突っ込むような事態になったら、彼は悔やんでも悔やみきれないだろう。この世界での死は現実の死でもあるとゲームマスターが宣言していたし、彼女らの命は1つずつしかないのだから。

 

 結果的には勝てたが、確実に勝つことを優先するのであれば、もっと詳しく記述すべきだった。彼は改めてそんなことを頭の中で検討するが、得られた答えは先程と同じく否である。結果が出ようが出まいが関係なく、八幡は自分の選択に満足していた。優先順位を考えると、この答えが彼にとっては理想なのだ。

 

 

 少しだけ物思いに耽っていた八幡を、周囲は勝利を静かに噛みしめていると受け取ったのか、彼が何かを言い出すまで待ってくれている様子である。ようやく他の面々の気配に気付いて、八幡は苦笑いをしながら勝負のことを思い出した。

 

「んじゃAIに聞きたいんだが、この勝負の結果は?」

 

『成績発表。材木座くん、2問正解。由比ヶ浜くん、秦野くん、相模くん、3問正解。雪ノ下くん、比企谷くん、4問正解。おめでとう。おめでとう』

 

「ま、完勝だな。勝ったのは?」

 

『3勝2敗1分けで、奉仕部の勝ちー』

 

 

 こうして勝負は奉仕部・材木座の勝利に終わった。無事に八幡が結果を出して、材木座の依頼は奉仕部にとって最高の形で幕を閉じたのであった。

 




副将・秦野&相模の結果。
・綺麗な形で勝負に負けて、材木座の依頼を八幡が解決することに貢献。
・結果的に、微妙な雰囲気にあった奉仕部3人の仲を近付けることに成功。
・クイズゲームで真剣勝負ができて当人達も満足している模様。


補足として、各問題に言及している過去の話を以下で整理しておきます。

・材木座:1巻12話です。
・由比ヶ浜:1巻9話1巻14話など。
・秦野:教室の合体は1巻4話、電車での移動時間を短縮できる話は3巻10話、雪ノ下が解説した内容は本話が初出です。
・相模:本話が初出です。遊戯部が出す問題は読者に未知の内容を扱おうと意図的に構成しました。
・雪ノ下:2巻18話です。
・八幡:川崎情報は2巻19話、東京駅の話は3巻10話です。


何とか無事に、当初考えていた連日投稿の区切りまでを更新する事ができました。
次回で本章は終了です。その後は番外編・ぼーなすとらっく・原作との相違点及び時系列をまとめた回を挟んで原作4巻に入ります。

次回は月曜日か火曜日に更新する予定です。
その後また1ヶ月お休みを頂いて、3/27に上記の通り番外編〜という形になります。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(3/2,4/6,4/7)


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23.今ふたたび彼は元いた場所へ帰り来る。

前回までのあらすじ。

 材木座の依頼を受けて、「次の依頼で結果を出す」という決意を胸に、八幡は遊戯部との勝負に挑む。ゲーム内容の交渉からゲーム中の戦術まで全てを雪ノ下に託された八幡は、見事にその期待に応えたのであった。



 特別棟の2階にある遊戯部の部室にて、奉仕部の3人は勝負に勝った喜びを満喫していた。

 

 比企谷八幡は自身が主導した勝負の流れを思い出して改めて手応えを感じていたし、由比ヶ浜結衣は彼が結果を出したことで満面の笑みである。雪ノ下雪乃もまた彼に全権を委任した己の差配に満足しつつ、自分の期待に見事応えた八幡に微笑みを送っている。

 

 そんな3人の目の前では勝ち誇った材木座義輝が遊戯部の2人に向けて何かを得意げに話しているが、その内容は勝利の喜びに浸る彼女らの耳には届いていない。

 

 だがその話にも区切りが付いたのか、ようやく彼らがこちらに向けた視線に由比ヶ浜が最初に気が付いて、彼女の合図によって改めて奉仕部と遊戯部が向かい合う形になった。

 

 

「正直、俺たちの完敗でした。奉仕部の皆さんが真剣にゲームに挑んでくれたおかげで、負けて悔しいけど今は気持ちが充実してるっていうか、今日の勝負ができて良かったです」

 

「剣豪さんへの失礼な要求は撤回しますし、書き上げた作品は喜んで批評しますね」

 

 挑発に乗りやすい側面もあった秦野だが、それだけに勝負が終わってからの切り替えも早いもので、彼は率直に勝負の感想を述べる。続いて相模も彼の性格を反映してか素直に自分たちの要求を取り下げて、材木座の希望を受け入れる旨を宣言した。

 

「はぽん。我が先に告げたように、今日の勝負は我が相棒あってこそである。諸君も我の次ぐらいに此奴を崇めるが良い」

 

「おい、人を勝手に拝む対象にすんな。つか今回の勝負って、お前を崇めるような内容じゃなかっただろ……」

 

 言葉は厳しいが八幡の口調に刺々しい気配はなく、両脇の彼女らも材木座の発言を苦笑する程度で聞き流している。どうやら彼は先ほど遊戯部の2人に八幡の自慢をしていたみたいで、それも情状酌量の余地があると雪ノ下が判断した理由なのだろう。意図せず彼女の毒舌を避けられた材木座であった。

 

「これで材木座くんの依頼は解決ということで良いかしら?……貴方の依頼はうちの部員にとって有益だったと認めても良いのだけれど、これ以上は調子に乗らないように気を付けなさい」

 

「うん。中二の依頼だから大丈夫かなって心配してたけど、()()()()()()になって良かったー」

 

「由比ヶ浜さん!」

 

 遊戯部との勝負という材木座の依頼が八幡の自信を復活させる決定的な要因になったことを雪ノ下は評価するが、彼に釘を刺すことも忘れない。だがそんな彼女の配慮も、不安から解放され嬉しさのあまり余計なことを口走ってしまった由比ヶ浜には届かなかった。そして雪ノ下が反射的に彼女の発言を咎めたことが、彼に不信を抱かせることに繋がる。

 

「……おい。()()()()()()って、どういう事だ?」

 

 穏やかな雰囲気が一変して、八幡は疑り深そうな視線を由比ヶ浜に向けた。

 

 

「むう……。八幡、それは……」

 

「いえ、私が説明するわ。貴方は黙っていなさい。……どうすれば比企谷くんが自信を取り戻して奉仕部に復帰する形になるのかと相談していた時に、材木座くんが提案してきたのよ。全力で勝負をすれば、お互いにより深く解り合えてわだかまりも解けるはずだと」

 

「ゆきのん、あたしに説明させて。……あのね、中二が出した案は最後の手段にしようって話になってたのね。でもヒッキーが、最後のところは断言してくれないけど、あたしたちが思ってたよりも歩み寄ってくれたから。だからあたし、中二の話はなくなったんだと思ってて。それなのにヒッキーが言ってた『次の依頼』が中二の話になっちゃったから、あたしずっと心配で……。黙ってれば良かったのに、嬉しそうなヒッキーの顔を見てたら、つい口に出ちゃって……」

 

「由比ヶ浜さん。私が貴女の言葉を遮ってしまったのが致命的だったのだから、貴女が気に病む必要はないわ。それに材木座くんの依頼の話を進めたのは私なのだから、全ての責任は私にあるわ」

 

 代わる代わる説明してくれる雪ノ下と由比ヶ浜をぼんやりと眺めながら、八幡は事態を上手く把握することができない。そんな彼の様子を見て、雪ノ下は全員に向けて提案を行う。

 

「申し訳ないのだけれど、内輪の話になるので場所を変えましょう。ここから先は私たち奉仕部の話なので、心配には及ばないわ。ただ、その前に貴方たちに証言をお願いしたいのだけれど……」

 

 この急展開にも臆することなく、まずは相模が雪ノ下の意図を理解して、彼女の言葉にかぶせるように発言を行う。八幡に向けて真剣な表情で訴えるように。

 

「ええ。さっきの勝負、俺たちは真剣に勝つ気でやりました。接待プレイとかは絶対にやりません。途中で比企谷先輩を精神的に揺さぶろうと敢えて挑発的な問題を出したりもしましたが、それも勝負の上での話ですし、謝る気はないです」

 

「剣豪さんと感情的に対立してたわけじゃないですけど、いらっとする部分があったのも事実ですし、白黒付けるって話も本当です。俺ら、勝負の提案を受けて楽しみにしてたんですよ。金曜日に剣豪さんからあれが比企谷先輩だって教えられて勝負の日を心待ちにしてたんですけど、あの時にこっちの事に気付いてましたよね?ゲーセンに連れて来てた人、めちゃくちゃ可愛い人でしたね」

 

「ぬう……。まさか気付いていたとは、さすがは八幡。だが、お主に戸塚氏は渡さぬ!」

 

 次いで秦野も八幡にとって意外な話を教えてくれた。あの時のことかと、八幡は戸塚彩加と2人だけで過ごした放課後の時間を思い出す。微かな印象しか残っていないが、確かに材木座の横には2人ぐらいひょろっとしたのが並んでいたようにも思う。そして八幡は材木座の煽りを右から左にと完全に聞き流した。

 

 自分の知らないうちに色んなことが起きていたんだなと、他人事のように考えながら唇を噛みしめている八幡を促して、奉仕部の3人はひとまず部室へと足を運ぶのであった。

 

 

***

 

 

 誰もが一言も喋ることなく部室へと帰り着いて、まず雪ノ下はお茶の支度を始めた。由比ヶ浜もそれを手伝っているが、八幡はいつもの席に座ったままで身動きすらもほとんどしていない。とはいえ彼もここで逃げ出すようなことは考えておらず、先程の秦野のセリフではないが白黒をはっきりさせたいという気持ちだった。

 

 やがて各々の前にお茶が置かれ、そして2人の少女がいつもの席について、普段と同じように雪ノ下がまず口を開いた。彼女はいきなり本題に入る。

 

「言葉を飾らずに説明すると、私は材木座くんの提案を受けて、貴方の自信回復に繋がるような勝負の場を用意したわ。そのことに関して私は何も言い訳できないし、するつもりもないわ」

 

「ゆ、ゆきのんだけのせいじゃないよ!あたしだって話は聞いてたんだし、それにさっき証言してくれたように勝負はずるじゃないし。……勝ったのはヒッキーのおかげなんだから、そんな、哀しそうにしなくても……」

 

「あー……。なんだろな。哀しいってわけじゃねーんだわ。俺のために色々と考えてくれてたんだなって思うし、そもそも最初から俺のせいなんだから、文句とか言えない立場だしな。でも、なんつーか、あれだな。お釈迦様の掌の上ってか、やっぱり俺が奉仕部にいる意味はあんのかなって」

 

 どうやら八幡は再び無力感に苛まれている模様である。だが彼がきちんと対話をする意思があると確認できて、雪ノ下はひとまず胸をなで下ろす。彼が話を拒絶しない限りは、そしてこちらが諦めない限りは、話をまとめられる可能性は残っているのだ。傍らに座る由比ヶ浜の存在すら意識の外に追いやるほどの集中力で、雪ノ下は八幡と向き合う。

 

 

「そう。貴方は、知らぬ間にお膳立てされた状況を良しとしていないのね」

 

「……そうだな。もしお前が俺の立場だったらどうだ?()()()()()()()()()()()()()()()()って事実を突き付けられて、それで納得できるか?」

 

「無理ね。仕組んでいた犯人には報復するとして、仕組まれた状況に対しては……そうね。全てをひっくり返したくなったり、厭世的な気分になるのも解らなくはないわね。でも、状況は状況として、不満があれば自分で再構築すれば良いのではないかしら?」

 

「それが理不尽な状況だったら迷わず再構築するんだろうが、お前にとって都合の良い状況だったらどうだ?」

 

「……知らない間に仕組まれた幸福な状況など、長続きしないものよ。いつかは自分の足で歩き始めるしかないのだから」

 

 先程までよりも遙かに重い言葉の響きを受けて、八幡はかすかに動揺する。完全に聞き役に回っていた由比ヶ浜もまた八幡に向けていた目線をすぐ横に移して、その心配そうな眼差しは変わらない。雪ノ下の迫力に圧倒されないようにと考えながら、八幡は対話を続ける。

 

「それで自分の足で歩ける奴は良いんだろうが……。その状況を仕組んだ奴が、自分では及ばない相手だって可能性もあるんだわ。その、お前には縁がないんだろうけどな」

 

「……そうね。自分よりも優れている相手に対しては、状況によっては大人しく従うのも仕方がないのかもしれないわね」

 

 一転して弱々しい口調で呟くように話す雪ノ下から視線を外して、残る2人は思わずお互いに見つめ合う。すっかり回復したと思っていたが、彼女も今なおゲームマスターとの会話を引き摺っているのではないかと考えたからである。残念ながら今の2人には、雪ノ下が長年にわたって積み上げてきた無力感を察知することはできない。

 

「……でも、いつかは自分の意志で、歩き始めることができる()()だわ。その時にこそ見返してやれば良いのではないかしら?」

 

「どうだろな……。まあ俺としては、優れてる相手にはいはいって従うようなのは好きじゃねーんだわ」

 

 雪ノ下の返答に対しては単なる先送りではないかという感想を持った八幡だが、どうにも話が広がりすぎている。当面の問題はそこではないだろうと考えて、彼は話を元に戻した。八幡の判断は概ね正しい。今の彼には認識できない部分も含めて。

 

 

「でも……勝負をしようって話をヒッキーには内緒で進めたのは確かだけど、勝負はちゃんとしてたじゃん。勝てたのはヒッキーのおかげなのに、どうしてこんな話になっちゃうの?」

 

「そうだな……。俺としても、さっきの勝負は気持ちいいぐらいの内容だったんだが、だから逆にってのはあるのかもな。その、会心の勝負に水を差されたような感じっつーか」

 

「うーん。でもさ、勝負のきっかけも今さら変わらないし、勝負の結果も変わらないじゃん。ゆきのんもヒッキーも難しいことを考えられるのは凄いなって思うけど、無理に難しく考えなくても良い時もあると思うし……。単純に『勝ったー!』って喜んじゃダメなの?」

 

「あー……まあ、お前はそれで良いんだろうけどな」

 

「ヒッキー、それどういう事だし!」

 

 沈黙を続けている雪ノ下に代わって由比ヶ浜が対話を続ける。話の内容は進まないものの、教室内の空気は少しだけ明るいものへと変化し始めていた。全く怖さを感じない彼女の怒りを受けて、ようやく八幡の顔にも少し苦笑いのようなものが浮かんだ。それを確認して、雪ノ下が再び口を開く。

 

「……そうね、この話をこれ以上広げるのは止めておきましょう。由比ヶ浜さんが言う通り、状況を直ちに変えることはできないのだから、むしろこの状況をどう活かすかを考えるべきかもしれないわね」

 

「……まあ、そうだな」

 

「材木座くんの依頼を受けて、貴方の仕事ぶりは充分な評価に値するものだったわ。私はあの時の、4月のテニス勝負の最終盤を思い出していたのだけれど、貴方の手応えはどうだったかしら?」

 

「そうだな……。確かに俺が指示を出して雪ノ下が従うって、あん時以来か。まあ、悪くはないな」

 

「あの時のヒッキーも、さっきの勝負の時のヒッキーもすごく頼もしくて、あたしはやっぱり、この3人でこれからも部活を続けたいなって思ったんだけど……」

 

「ええ。私もこの3人でどんな風に依頼を解決できるのか、先の未来を見てみたい気がするわね。……貴方はどうかしら?」

 

 

 今からの返答次第でこれからの日々が決まるのだと八幡は強く意識して、それゆえに少しだけ間を置いて気持ちを落ち着けて、ゆっくりと思っている通りのことを口に出す。彼が考えていることを誰かがこんなにも真剣に聞いてくれる場は、たとえ相手が目の前の2人であってもめったには得られないだろうと思えたから。

 

「……そうだな。テニス勝負が終わった後で考えたんだが、俺に何か誇れる部分があるとしたら、それはぼっちの時間に培ったものなんだわ。他人とは違ってぼっちだったから、他人とは違う部分が育ったっつーか。そのおかげで、お前らとは違う部分で依頼の解決に貢献できるのが嬉しくてな」

 

「だから、俺が奉仕部に残りたい理由って、かなり利己的な理由なんだわ。お前らがいるから、奉仕部だから依頼が舞い込んできて。お前らだから、俺にも活躍の機会を与えてくれて。他の環境だったら、俺に仕事とか任されるわけねーからな」

 

「正直、ぼっちでいても俺は特に寂しくなかったし、毎日が辛いとも思っていなかった。けど、テニス勝負の時とか、自分が持っている何かを発揮できる機会があるのは良いもんだな、って正直思ってな。お前らと一緒だったら、これからもそんな機会があるかもなって」

 

「でもそれは、見方によっては奉仕部に寄生してるだけっつーか……」

 

「そんなことないよ!」

「比企谷くん、それは違うわ」

 

 八幡の独白を静かに受け止めていた2人が、同時に彼の発言を遮る。こうした経験は何度目だろうと思いながらも、八幡は思わず浮かべた笑顔を引っ込めることができない。

 

 どちらから先に続きを口にしようかと目で相談している2人に軽く咳払いをして、彼は独白を続ける。途中で口を挟もうとする彼女らを今度は未然に遮りながら。

 

「そのな。お前らは優しいから、俺を見捨てることはないだろうなって思ったら、自分で、俺のほうから離れないと、みたいなことを考えたりしてたんだが……。あれだ。俺のことが、俺のやりかたが嫌いだと思ったら、その時は遠慮なく言ってくれ」

 

「……けど、それを言われない間は、俺は奉仕部で自分の力を試してみたい。さっき言ったように思いっきり利己的な理由だから申し訳ないんだが、俺はそういう理由で奉仕部に居たいって思ってるんだわ」

 

 

「……別に、難しいことではないでしょう」

 

 八幡の語りが終わったと認識して、雪ノ下はいつかと同じセリフで話を始める。

 

「貴方は利己的な理由で奉仕部に残留したい。私は3人で先の未来を見てみたい。由比ヶ浜さんは3人で部活を続けたい。では、出すべき結論は?」

 

「うん。それに始め方が正しくなくても、だからって全部が嘘とか偽物じゃないって、あたしは思うんだ。だって、あたしたちの関係だって事故から始まったわけだしさ。今さら、ヒッキーの利己的?な理由とかぐらい、何でもないよ」

 

 更には由比ヶ浜も、彼女なりの考え方を披露する。事ここに至っては、詰んでいる状況を八幡も受け入れざるを得ない。相手が雪ノ下と由比ヶ浜の2人だからこそ、彼と同じ奉仕部の仲間だからこそ、この展開に至ったのである。

 

「仕方ねぇな。……ごめんなさい奉仕部に居たいですお願いします」

 

 東京わんにゃんショーの会場で妹に言われたセリフをそのまま口にして、八幡は素直に頭を下げた。彼の動作を見た2人の少女はともに笑顔を浮かべて、片や歓声を上げ片や静かに頷いて彼の選択を受け入れている。

 

 

 こうして、職場見学の際に生じた行き違いは無事に収束したのであった。

 

 

***

 

 

「えっ、ケーキ?……なんで?」

 

 話し合いを終えて、雪ノ下がお茶を淹れなおし、由比ヶ浜がそれを手伝う。八幡には話をややこしくした罰として、材木座や遊戯部の2人はもちろん戸塚や平塚先生宛にも問題解決の一報を出すという仕事が与えられた。お茶の支度を終えた2人もそれぞれ三浦や海老名、川崎たちへの速報を終えて、部室には久しぶりにまったりとした空気が広がっていた。

 

 大きな問題が片付いてしまうと、目を背けていた小さな問題が浮上してくるのが常である。由比ヶ浜の誕生日祝いをどう話題に出したものかと、この期に及んでも悩んでいた雪ノ下は、とりあえず食べ物の話題から入ることにしたのである。

 

「その、今日はおそらく、由比ヶ浜さんの誕生日だったと思うのだけれど……」

 

「ゆきのん、覚えてくれてたんだ!……って、あたし言ったっけ?」

 

「全知全能のユキペディアさんは何でも知ってんだよ」

 

 そのまま軽口の応酬をしながら、2人は由比ヶ浜に事情を説明していった。それを聞いた由比ヶ浜は嬉しそうに、外に出かけることを提案する。駅前のカラオケなら持ち込み可なので楽しく盛り上がれるだろうと言われ、友達の誕生祝いをした経験に乏しい2人はそういうものかと受け入れる。

 

「他のみんなも呼びたかったけど、いきなりだと難しいよね……」

 

「由比ヶ浜さん。確かにいきなりは難しいと思うのだけれど、祝い事は遅れても何度しても良いものなのよ。誰かさんの部活復帰祝いも兼ねて、また別の日に開催しては?」

 

「うん、そうだね!……じゃあ今日は3人で、いっぱい歌うぞー!」

 

「おい。雪ノ下の体力の無さをちゃんと考慮してやれよ」

 

 もちろん八幡の言葉はスルーされて、時間が半分過ぎた段階で息も絶え絶えの雪ノ下であった。彼女の頭を膝に載せて介抱しながら、由比ヶ浜は八幡と雑談を始める。

 

 

「でもさ。あたしたちの関係って、なんて言えばいいんだろうね」

 

「そりゃお前、部活のな、仲間……とか?」

 

 由比ヶ浜としては今まで忘れ去っていた悩み事がふと頭をもたげて、何の気なしに口にしたことだった。だが目の前の男の子は挙動不審気味に、言われてみると意外に嬉しい言葉を口にしてくれた。

 

「仲間……うん、仲間っていいね。もしかしたら友達よりいいかも」

 

「そ、そうか……。俺にはいまいち友達と仲間の違いが判らんというか、何なら友達の定義からして理解不能だが」

 

「ヒッキーって、友達がいるのに『俺は友達がいない』とか言いそうなタイプだよね」

 

「それが本当にいないんだよなぁ……」

 

 苦笑しながら由比ヶ浜が言うと、八幡は遠い目をして哀しそうに呟く。その時、由比ヶ浜の膝の上から第三者の声が会話に割って入った。

 

「あら。土曜日に『さらば友よ(Good-bye, old friend.)』と語り掛けてくれたのは誰だったかしら?」

 

「それは俺じゃなくてオビ=ワンだろ。……つーか、あん時も思ったけど、お前も映画とか観るんだな」

 

「ええ。……留学していた時に、あちらでお世話になっていたご家族と一緒に観に行ったのよ。それまでは家族とも、友人とも行ったことがなかったのだけれど」

 

 何となく、詳しく質問するのが憚られる雰囲気を感じて、2人は曖昧に相鎚を打つ。だが雪ノ下はまだ由比ヶ浜の膝上から起き上がれないほど疲れていて、そうした微妙な反応に気付いていない。

 

「こちらに帰って来てからも、そういえば映画には行っていないわね。でも、留学していた時は毎日が楽しかったわ。ご主人が映画にも音楽にも造詣のある方で……」

 

 独白を続ける雪ノ下を優しい目で見つめながら手で髪を梳いてあげる由比ヶ浜と一緒に、八幡は穏やかな表情で彼女の話す昔話に集中する。どうやら雪ノ下は留学先では楽しい日々を送れていた模様である。彼女の語りが一段落したところで、由比ヶ浜は小さな声で雪ノ下に語り掛ける。

 

「じゃあ、また今度みんなで行こうよ。友達と映画に行くのって楽しいよ」

 

「そうね。でも、友達の定義があまりよく解らないのだけれど……」

 

「あたしたちは、もう友達じゃん!ね、ヒッキーも」

 

 由比ヶ浜の剣幕に押されて、八幡もらしくない言葉を口にする。

 

「そ、そうだな。雪ノ下、俺と友達に……」

 

「ごめんなさい、それは無理。……たぶん、比企谷くんとは友達にはなれないわね」

 

 あっさりと断られて涙目の八幡だが、由比ヶ浜の顔にも緊張の色が漂っている。友達ではないというのであれば、この少女にとってこの男子生徒は何だというのだろうか。緊張に耐えきれなかった由比ヶ浜は、最後までためらいがちではあったものの決定的な質問を口にする。側にいる八幡が絶句する内容の質問を。

 

「ゆ、ゆきのん?ヒッキーとは友達になれないって、その……。恋人とか、ってこと?」

 

「それも無理ね。比企谷くんと恋人になることもないと思うわ」

 

 問い掛けられた質問に素直に返す雪ノ下に、質問した由比ヶ浜のほうが罪悪感を覚える。だがそれでも、彼女の答えを得て、由比ヶ浜は自分が嫌になる気持ちと安心する気持ちとが同時に浮かび上がってくるのを避けられなかった。

 

 一方で当事者の八幡としても、彼女の返事は納得できるものだった。雪ノ下はいつも正しくあろうとして、決して嘘をつかない。ましてや今の状態では、彼女の返答に疑いの余地はない。それに八幡としても、誰かと自分が恋人関係になるという事態を想定することができないのが正直なところである。妄想ならともかく、現実に誰かと付き合っている想像ができない自分を恥じる気持ちがどこかにあった八幡だったが、雪ノ下の返答を聞いて逆に安心できたのであった。

 

「部活の、仲間……という言葉が先ほど聞こえた気がするのだけれど。私も良い言葉だと思うわ」

 

 今の八幡には、恋人だの友達だのという関係よりも、この雪ノ下の言葉のほうが何倍も嬉しいものだった。緊張を解いた由比ヶ浜と思わず見つめ合って、八幡は今ようやく今日の依頼に対する報酬を得られた気がした。それは逆進的に依頼を無事に解決できたという充実感をもたらして、彼は今回の件をより広い視点で捉えることができるようになった。

 

 そうして再考してみれば、自信を失っていた彼のために他人が勝負の場を用意してくれるなど、彼の人生には未だかつて無かったことではないか。そこに思い至って初めて、ようやく八幡は仕組まれた状況へのもやもやした苛立ちを完全に払拭できたのであった。

 

 

***

 

 

 時間ギリギリまで由比ヶ浜の膝上で静養したおかげか、何とか歩けるまでに回復した雪ノ下はお店の外で今日の解散を宣言する。由比ヶ浜も一応は夕食会への誘いを口にしたのだが、次の約束もある事だし今日は無理強いできないと理解している。八幡が当然のように逃げに徹していたのは少し腹立たしいが、いつもと変わらない彼の反応を見て嬉しいとも思ってしまう、複雑なお年頃の由比ヶ浜であった。

 

 最初に雪ノ下をタクシーに押し込めて、次いで三浦と海老名が待つ夕食会のお店に移動する由比ヶ浜を、八幡はぎこちない笑顔で見送る。俯きながら彼女が去るのを待つしかなかった一週間前とは全く違う清々しい気持ちを胸に、彼はお店の前で独りになった。

 

 一緒に帰りたいからお店の前で待っていて欲しいと妹から連絡があったので、八幡はそのままぼんやりと暮れかけの空を眺める。一年で最も日が長い時期なので、まだ空は明るさを保っている。

 

 

 この1週間で彼らは危機を乗り越え再会を果たした。困難と向き合ってそれを見事に乗り越えた奉仕部の3人は以前にも増してお互いに信頼を抱いていて、それは3人のこれからの毎日を彩り豊かなものへと変化させる。長雨を背景とした味気ないこの1週間の風景とは違って、明るい日差しに照らされた素晴らしい日々が彼らを待ち受けていることだろう。

 

 この1週間で八幡は課題を乗り越え彼の居場所へと帰還した。とはいえ彼が果たしたのは、彼と普通に接してくれる人たちを危険な目に遭わせたくないという覚悟をNPCに示した程度のことでしかない。だがそんな些細なことが、思春期男子には特別な意味を持つのだ。この世界で少しだけ成長した八幡は、ぼっちの時期に培った知識や思考力を総動員して、これからも奉仕部の力となるのだろう。

 

 

 暮れなずむ空を眺めながら、今日あった出来事を漏らさず語って聞かせながら、妹と合流した比企谷八幡はゆっくりと家路を辿る。いつもと少し違った部分はあったものの、いつも通りに仲の良い兄妹の姿が、夕暮れの照らす道路脇にて観察されたのであった。

 

 

 

 原作3巻、了。




大将・雪ノ下&由比ヶ浜の戦果。
・無事に奉仕部は元通りになりました。


その1.原作3巻の構成について。
 各登場人物がそれぞれの思惑を抱えて動く本章は、複雑な構成にし過ぎたかと何度も悩むこともありましたが、何とかこの結末に繋げることができてほっとしています。各キャラの魅力をもっと上手く引き出せるように、かつ読者様を置き去りにするような小難しい展開にならないように、この経験を今後に活かしていきたいと思っています。

その2.今後について。
 前回の更新でお伝えした通り、次回は3/27に更新する予定です。本章の番外編・ぼーなすとらっく・原作との相違点及び時系列をまとめた回を挟んで原作4巻に入ります。

その3.謝辞。
 こうして原作3巻末までも無事に完結できたのは、ひとえに作品を読んで下さる読者様のお陰です。皆様からのお気に入り・評価・感想に支えられて、この作品の今があります。改めてこの場で皆様に、篤く御礼申し上げます。変わらず作品を見守ってくれる大切な友人にも心からの感謝を込めて、3巻の結びとさせて頂きます。


追記。
勝負が仕組まれていた事について、八幡はその行為の意味や価値に気付かない(後日ようやく気付く)という設定でしたが、カラオケ屋さんでの会話を経てそれに気付く形に変更しました。少し物分かりが良すぎるようにも思えて、当初は気付かない(この日の時点では、仕組まれた事に拘るのがどうでも良くなった)という設定にしました。しかし気付きまで至ったほうが物語としてはスッキリすると考え直し、その形に本文を修正しました。(3/2)
その他、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(3/2,4/6)


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番外編:なぜか彼女は会議に追われる日々を送る。

お久しぶりです。今日からまた定期的に更新したいと思っていますので、よろしくお願いします。

今回は雪ノ下視点の番外編です。本筋には書いていない内容を詰め合わせたものになります。



 とある月曜日の放課後のこと。雪ノ下雪乃は部室へ向かう道すがら、ここ最近あったことを思い出してこう呟いた。

 

「気のせいか、妙に会議に縁のある一週間だった気がするのだけれど……」

 

 

***

 

 

 それは1週間前の月曜日だった。運営の仕事場を訪れた彼女らは、まずは別々の部署で職場見学を行っていた。

 

「今週末にアップデート予定なのは知ってるよね?この世界でもペットの飼育が可能になるんだけど、今から流す動画はそれを最終決定した時の会議を編集したやつね」

 

「了解です。もしも途中で質問があれば発言しても?」

 

「遠慮なく言ってくれたら良いよ。それと、途中で何度か意見を聞こうと思うんだけど、緊張しないで……」

 

「ええ。では遠慮なく意見を述べさせて頂きます」

 

 高校生離れした堂々たる態度の雪ノ下に、案内する側が苦笑している。差し迫った仕事を抱えていないスタッフが何人か加わって、彼女以外は全て大人という状況だ。普通なら気後れしそうなものだが、雪ノ下はこうした環境に慣れていた。

 

 

 動画の再生が始まってしばらくして、雪ノ下が内容に、ついて来られているのか確認するために担当者が口を開く。

 

「少し議論が停滞してるけど、現状の論点は解る?」

 

「先ほど経理の方が指摘した問題点を、営業の方が論点を逸らす形で回避しようとして、話が平行線になっていますね」

 

「理解が早いねー。じゃあ、さくさく進めるね」

 

 返答内容によっては理解を誘導する質問をしてあげよう。そう思いながら身構えていた運営の面々は、またもや苦笑いを浮かべていた。会議の様子を見ても物怖じせず、議論の流れも把握できている。ならばこの場で会議を疑似体験させても問題ないだろうと、大人たちは判断した。

 

 

 なにぶん専門的な知識も実務経験も不足しているだけに、雪ノ下の意見は的外れなものも少なくなかった。そもそも第三者の立場で会議の内容を理解するのと、実際に参加しながら状況を把握するのとでは難度が違う。

 

 それでも雪ノ下は最後まで怯むことなく自分の考えを表明し続けた。雪ノ下の娘として過ごして来た過去の経験によって、彼女は不用意な発言を許されない場面とそうでない場面とを判別することができた。今は間違いを怖れず意見を述べて、将来の糧にすべき時だと彼女は考えたのである。

 

「……これで動画は全部だけど、予想以上に早く終わったねー」

 

 ゆえに担当者が会議の幕引きを示唆した時も、雪ノ下は迷わなかった。

 

「ひとつ、提案したいことがあるのですが」

 

「お、頼もしいね。ぜひ聞かせて貰えるかな?」

 

「では、『現実世界で飼っていたペットをこの世界でも飼うことができる』という要素と、『この世界で新たにペットを飼い始めることができる』という要素に加えて、『この世界でのペットの記憶を現実に戻った後も何らかの形で残すことができる』という要素を実現することは可能でしょうか?」

 

「それは……うん、成る程ね。ここは会議の場なので、もう少し詳しい説明をお願いできるかな?」

 

「ええ。たとえこの世界で動物を飼ったとしても現実に戻ったら無駄になるというのでは、二の足を踏む人が多いのではないかと思います。もしもこの世界でのペットとの時間が何かの形で残るのであれば、もっと気兼ねなく……」

 

「うん。提案の内容はだいたい解ったけど、それを実現するには各部門を説得する必要があるよね。技術畑はもちろんだけど営業や広報、何より経理にも承諾を得る必要があるんじゃない?まあ順番に片付けるとして、まずは貴女の提案を一言でまとめるとしたら、何て言えば良いと思う?」

 

 雪ノ下の発言を遮って担当者が口を挟んだが、その発言内容は彼女を誘導するためのものだった。少し呼吸を置いて熟慮したあとで、彼女は再び口を開く。

 

「そうですね。では、『継続性』という表現ではいかがですか?これで広報は納得できるのではないかと」

 

「うん、その表現は良いね。営業の手助けにもなると思うし、多くのプレイヤーに喜んで貰えると思う。長々と説明するのも大事だけど、明確な目標を掲げること、象徴的なワン・フレーズを上手く使うことも覚えておいてね。じゃあ、次は技術的な話かな。漠然とした意見で充分だから、貴女が考えていることを教えて貰えるかな?」

 

「上手く言えないのですが、例えば現実世界に残してきたペットに、こちらの世界で体験した記憶を睡眠学習のような形で伝えることができないかと考えたのですが……」

 

 この雪ノ下の発想を受けて、技術系のスタッフが補足を加えてくれた。この世界の情報を脳に直接入力している技術を応用して、夢を利用する形で実現できるかもしれないと。それに満足げに頷きながら担当者が話を続ける。

 

「じゃあ最後にコストの問題を検討しようか。物理的な側面と金銭的な側面があるけど、どう思う?」

 

「物理的な面は、先程の『継続性』を盾に押し通す形で。金銭的な面も、それを御旗にして営業の方に寄付の依頼を頑張って貰うのと、この世界でのペットの売り上げ増に繋がるという理由で押し切れば良いかと思ったのですが」

 

「うーん。まあ物理的な面は最終的にはそれしかないけど、金銭的な面はもう少し具体的な話が欲しいかな」

 

「では何かのイベントで、例えば毎年この時期に行われている東京わんにゃんショーなどに重ねて宣伝を打つのはいかがですか?」

 

「そうだね。既にそのイベントは告知済みだけど、直前のサプライズとしては面白いかも。それで、あとは主張をとにかく押すって方針なんだよね?」

 

 今までの問い掛けとは重みの違う、軽く付け足されたような確認の言葉に、雪ノ下は首を傾げながらも頷いた。

 

「ええ。理はこちらにあると思うのですが、何か問題でも?」

 

「貴女ぐらいの年齢なら、とことん正論を追い求めるのも悪くはないんだけどね。でも他人を説得するつもりなら、こちらの主張を繰り返すだけじゃなくてね。相手が満足するまで話を聴いてあげることで納得して貰う方法もあるってことを、心の片隅で覚えておいてくれると嬉しいかな」

 

 それは常に正面から事に当たり正論を貫いて来た雪ノ下にとっては、すぐには頷けないことだった。そもそも真っ向から彼女に物申すことなく、陰で文句を言い触らすような輩の話など聞きたくもないと雪ノ下は思う。対話をする価値を見出せない相手は過去に大勢いたのだ。

 

 しかし同時に、彼女は薄々そうした方法にも慣れる必要性を感じていた。大きな目標のためには小異を捨てる選択も有用だと考え始めていただけに、この忠告は彼女の胸にすとんと落ちた。

 

 その後、提案が通った充実感といくつかの課題を得た満足感を胸に、雪ノ下は部員2名と合流してゲームマスターとの対談に臨んだ。ちょうど1週間前のことだった。

 

 

***

 

 

 次の会議は3日後の木曜日に行われた。高校の会議室で開催された、部費の分配が課題の部長会議。生徒会長からの依頼で、雪ノ下はそこに公平な裁定者として招かれていた。彼女が司会を務める形で会議が始まる。

 

「では、まず各部長の意見を確認したいと思います。目で見て分かりやすいように、席替えをお願いしたいと思うのですが、それに反対の方はおられますか?……では、生徒会が示した妥協案に賛成・反対・態度保留で分かれて下さい」

 

 第三の選択肢を設けたおかげもあってか、反対意見も出ず移動はスムーズに済んだ。ロの字型に配置された長机の長辺最奥に座る雪ノ下と同じ側には賛成派が、机を挟んで彼らと向かい合う位置には反対派が、そして教室の下座に当たる短辺には中間派が固まる形だ。生徒会の役員たちは先程と変わらず、上座側の短辺に並んでいる。

 

「それでは、反対派の意見からお願いします」

 

 雪ノ下の凛とした態度に気圧されたのか、事前の情報では過激派と見られていた面々からの発言はない。誰も何も言わないならと、おずおずと手を上げた最初の生徒は、雪ノ下に見つめられながら話を聞いて貰えただけで満足したのだろう。まとまりのない主張を話し終えてすぐ、いそいそと賛成派の側に移動した。

 

 

「運動部と比べて、俺たち文化部はずっと少ない予算でやってきたわけだしさ。環境が変わったんだから、今度は運動部が少ない予算でやり繰りしてくれても良いと思うんだけど」

 

「そうそう。それに今まで『予算を多く貰って当然』って態度だったわけだし、何か一言あって良いと思うんだよな」

 

 だが、それで納得してくれる生徒達ばかりではない。脱落者が多く出ないうちにと考えたのだろう。冷静に理屈を組み立てられる反対派の生徒が次に発言を求め、血気盛んな生徒がそれに続いた。

 

 成る程。運動部に謝罪を求めるような生徒が居るのでは、話がまとまらないのも当然だと雪ノ下は思う。あの2人には別々の面倒臭さがあると考えながらも、彼女は私見を述べることなく引き続き意見を募った。

 

「少し良いかな?この会議で、運動部と文化部の対立が深まるような展開は誰も望んでいない。そうだよね?もしも文化部のことを見下すような態度の生徒が居るなら、見付けしだい教えて欲しい。こちらでちゃんと言い含めて、そんな態度を取らせないようにするからさ」

 

 会議室の雰囲気が悪くなりかけたところで、賛成派の葉山隼人が発言を始めた。場の調和を乱されそうになった時の反応は相変わらずだなと雪ノ下は思う。あまり認めたくはないが、彼の存在は会議を上手く収拾する為には有用なのだろう。

 

「でもさ、こっちで調子に乗ってる奴が居るなら注意するけど、文化部だって『予算が多くなるのは当たり前』って威張ってる奴が居るじゃん。そういうのはどうなのよ?」

 

 だが運動部にも頭に血が上りやすい生徒は少なからず存在している。彼らは火消しをするという葉山の意図に気付かず、逆に今こそ葉山が作ってくれたチャンスだとばかりに攻勢に出た。

 

 

 お互いに相手側を守銭奴扱いして罵り合って、会議室の中が騒然としてきても雪ノ下は動かない。先日の忠告を胸に、話を聴く態度を崩さないようにしようと自制心を働かせていた彼女は、静かであるがゆえに喧噪の中にあって次第に存在感を発揮し始めていた。

 

 葉山はそんな彼女を意外そうな表情で眺める。過去の雪ノ下であれば、議題から外れたほんの些細な雑談でも厳しくたしなめていたはずだ。少しずつざわめきが収まって行く教室の中で、今までとは全く違ったやり方で衆人の注目を集めている彼女。彼が知らない彼女の姿を目の当たりにして、葉山は目を逸らすことができない。

 

「では、賛否両派の意見はひとまず出尽くしたと考えて、態度保留の方々に意見を伺いたいと思います。同時に、賛否を決意された方々は移動して頂いて構いません」

 

 やがて室内が静寂を取り戻し、そこでやっと雪ノ下が口を開いた。ここまで彼女は意見を述べず、ただ進行役に徹していた。だが彼女の意図が生徒会の妥協案に近いものであろうとは簡単に推測できる。彼女の言葉ではなく態度に説得される形で、中間派からは多くが賛成派の位置に移動した。

 

「俺の部は生徒会の案でも予算がかなり増えてるし、もっと増えるなら嬉しいし、正直なところ賛否はどっちでも良いんだけどさ。予算が余ったら来年度に減らされるから無理にでも使ってしまえ、みたいな話が運動部とかでよくあったじゃん。金の分配よりもそういうのを先に改善して欲しいから、俺は態度保留にしてるんだけど」

 

 ただ1人出た中間派からの意見に対しても、雪ノ下は確たる返事を返さなかった。視線だけで生徒会役員を指名して無駄な出費の調査・改善を約束させ、同時にそれが高圧的で窮屈なものにならないよう気を付けることも表明させた。

 

 その解答に満足したのか発言者が席を移動するのに合わせて、反対派の中からも賛成派に鞍替えする生徒が出始める。しかし。

 

「生徒会の雑用を増やさないためにも、無駄な出費をするつもりは無いけどさ。この世界で大会に出られない運動部の代わりに、外の世界でも作品を見て貰える俺たち文化部が、総武高校を代表して頑張ろうとしてるんだしさ。もう少し予算が増えても良いと思うんだよね」

 

「そうだよな。こんな程度じゃ絶対に納得できないな」

 

 

 反対派に残ったのは、どうしても予算案に納得できない一派と、感情的に反対を決め込んでいる一派だった。ここが勝負所だし、そろそろ論破に移るべきか。

 

 雪ノ下が内心でそんな検討を始めた瞬間、隣の席から軽く脇腹を突かれた。奉仕部で彼女の心が逸る時に、彼女が必要以上に部員への口撃をエスカレートさせた時に、いつも適切なタイミングで窘めてくれた女子生徒の存在を思い出す。だが、今この場で隣に居るのはあの少女ではない。彼女の親友とも呼べる存在・海老名姫菜が楽しそうな表情で、目だけで意図を訴えていた。「まだ早い」と。

 

「あのな。それだったら俺の部の予算を削ってくれて良いから、そろそろ話をまとめようぜ。このまま決着がつかず明日も部活が休みになるほうが、俺も部員も嫌なんだけど」

 

 意外なことを言い始めた人物に教室内の視線が集中する。柔道部部長の城山は特に緊張の色も見せず、そのまま話を続ける。

 

「俺たちは最悪、畳があれば活動できるし、部費がゼロでも何とかなるんだわ。柔道着がダメになったらTシャツで乱取りとかやれば良いし、それでも部活中止よりはよっぽどマシだわな」

 

 強い先輩が卒業して弱小クラブを率いることになって、更にはこの世界に巻き込まれて大会への出場もできなくなって、かつて彼は鬱屈した日々を過ごしていた。だが、今はこの教室で裁定者として存在感を放っている雪ノ下が、柔道の楽しさを思い出させてくれた。

 

 テニス勝負の時に言われた彼女の言葉を、彼は今でも諳んじることができる。今の彼が柔道を楽しめているのも、部員達が戻って来てくれたのも、全ては雪ノ下のお陰だと思う城山は、恩を返すは今とばかりに堂々と己の意見を言い切った。

 

 

 そして、彼に続く生徒が現れる。

 

「うん。ぼくも城山くんと同じ意見かな。男テニの部費を削ってくれても良いから、今日で話を終わらせようよ」

 

 城山よりも更に奉仕部との縁が深い戸塚彩加が、健気に力強く表明する。男女を問わず庇護欲をそそられる容姿はそのままに、同時に瞳には強い決意を秘めて。

 

「明日から何日か駅前のテニススクールで体験募集をしててね。ぼく、ちょっと行ってみようと思ってるんだ。良さそうなら自費で通おうかなって。学校の予算が無くたって、部活をしたいと思ってる限りは何とかなるよ」

 

 大勢の前で話すことに慣れていない戸塚は独り言のように呟くだけだったが、彼の意思は教室に居る多くの生徒の耳に届いた。

 

 

 今こそ議論を収束させる絶好の機会だ。雪ノ下はそう考えたものの、今度は自らの意思によって動かないことを選択した。彼女の傍らでは海老名が満足そうな表情を浮かべている。少し腹立たしいが、今日の議論の幕引きの役目はあの生徒に任せたほうが良いと、雪ノ下は考えたのだ。

 

 この期に及んでも雪ノ下が動かないのを見て、彼は苦笑いを浮かべながら口を開いた。

 

「柔道部と男子テニス部だけに、手柄を掠われるわけにはいかないからね。運動部全体として、一律の予算削減を受け入れるよ。こちらの内部での説得は俺が責任を持って行うから、それで納得してくれないかな」

 

 葉山がそこまで言うのであればと、ここまで反対派で頑張っていた面々も次々と賛成派に鞍替えした。それどころか、運動部にここまで言わせても良いのかと、文化部の中からも予算カットを申し出る生徒が現れ始めた。意地になって反対の旗を降ろそうとしない一部の生徒を除けば、大勢は決したと見て良いだろう。

 

 

 そろそろ締めの言葉を口にすべきだと、ようやく雪ノ下は行動に出る決意を下した。今度は隣からも何の異論も出ない。

 

「では運動部全体、および申し出のあった文化部からは予算を一律カットして、それを全て予算増を希望する部活に配分します。昨年度と今年度の生徒会案で部費の増減を一覧にした表は、この会議が終わると同時に全校生徒に自動的に配布されます。今日の会議によって生じた差額については、一両日中の配布を約束します」

 

 たとえ反対派の部長たちが意地を貫こうとしたところで、金の亡者とは呼ばれたくないと部員達に突き上げられれば、結局は予算の増額を返上することになるだろう。事実、今も反対を主張している少数の生徒を除けば、ほぼ全てのクラブが予算カットを申し出ている。

 

 結果が落ち着くべきところに落ち着くのであれば、この程度の脅しは許されても良いだろう。雪ノ下はそんなことを考えながら、会議の閉会を宣言した。今から4日前の話になる。

 

 

***

 

 

 翌金曜日の昼休み。雪ノ下は奉仕部の部室に何人かの生徒を招集した。週の初めから続く奉仕部内の問題を解決すべく、動く時が来たのだ。

 

「最初に平塚先生、彼の動向について報告をお願いします」

 

「ああ。今は私が用意した教室に居るみたいだな。比企谷が放課後もそこで過ごすようなら、教室を出て施錠した時点で自動的に私に報告が来るから、すぐに全員宛に連絡しよう」

 

 平塚静は教師としての温情により、休み時間を過ごす場所に困っていた彼に空き教室を提供した。とはいえ、そこに罠が全く無いとは限らない。彼を陥れるための罠ではなく、彼を元気付けるために利用するだけなのだから許して貰おうと、彼女は内心でそんな言い訳を考えていた。

 

 

「次に川崎さん。昨夜の彼の様子を報告してくれるかしら」

 

「ああ。妹の影響が大きいと思うんだけど、一昨日と比べても回復してるのは明らかだったよ。別にこちらから動かなくても大丈夫かなってあたしは思ったんだけど」

 

「ええ。それも一つの選択だとは思うのだけれど、みんなの意見はどうかしら?」

 

「ぼくは、やっぱり八幡が落ち込んでるなら元気付けてあげたいなって思うよ」

 

「ほむん。落ち込んでいる時に手を差し伸べるのが真の漢というものであろう」

 

「うん。ヒッキーならそのうち自分で立ち直れるかもだけど、あたしに協力できることがあるなら何かしてあげたいなって。ゆきのんは?」

 

「そうね。相手の動きを待つよりも、私なら自分から動きたいところね」

 

 雪ノ下の発言を耳にして、由比ヶ浜結衣は心底から感動したとでも言いたげな目を向けている。場の雰囲気を読んで自らの行動を制限しがちな彼女だからこそ、「自分から動く」と迷いなく口にする彼女の言葉に思うところがあるのだろう。

 

 戸塚も材木座義輝も、彼のために動くことは当然と考えている。そもそも関与に否定的な意見を出した川崎沙希ですら、何か悪い傾向が現れた時には動くことをためらわないだろう。この中では彼と接した時間がいちばん少なく、彼のために取れる行動が限られているために、納得して情報収集の役割を引き受けているに過ぎない。

 

 傍観者に徹している平塚先生を横目で確認して、有益な情報を知らせてくれた川崎に目だけでお礼を伝えて、雪ノ下は残る面々に発破をかけた。職場見学で学んだことを織り込みながら。

 

「では、今回の戦略目標を確認します。比企谷くんを元気付けて元の調子に戻すこと。そして奉仕部を辞めないと約束させること。以上の2点です。()()()()()()、奉仕部を『元通り』にすること。この目標に向けて、各々が全力を尽くして下さい」

 

 

 彼女の言葉にやる気を漲らせる面々を順に眺めて、そのまま雪ノ下は手順の確認に移る。

 

「では、今日の放課後にまず戸塚くんが接触します。最初だからといって遠慮は不要よ。誰が彼から『奉仕部を辞めない』という言質を取れるのか、競争だと考えてくれても良いわ」

 

「そうだね。競争には興味がないけど、八幡に恩返しができるのなら、機会を逃したくないな」

 

 先鋒の戸塚は静かに闘志を燃やしている。

 

「次は明日に接触予定の由比ヶ浜さんね。彼が東京わんにゃんショーに来ることは確実なのね?」

 

「うん。今夜もう一度、小町ちゃんにも確認するし。サブレも助けてくれると思うから」

 

 次鋒の由比ヶ浜もいつになく真剣な表情で大きく頷いている。

 

「私も現場には待機しているので、場合によっては彼に接触することにするわ。でも本命は最後ね」

 

 中堅の雪ノ下は、総指揮の立場ゆえにか個人の武功には拘っていない様子である。彼女はそのまま次の生徒に話し掛ける。

 

「週末で決着がつかなかった場合、材木座くんにも頑張って貰うことになるのだけれど。もう一度、貴方の計画を説明してくれないかしら?」

 

「うむ。我に遊戯部との因縁あり。八幡に助っ人を依頼して、ゲームで勝負を行う予定である。真剣勝負の中でこそ、人の本音は語られるものである。おのおのがた、貴奴の心の叫びを聞き逃さぬよう気を付けられよ」

 

 副将に遊技部を推薦して、材木座は彼とともに戦う道を選ぶ。よもや雪ノ下と由比ヶ浜を加えた全員での勝負になるとは思ってもいない材木座だが、彼の八幡への想いが尽きることは無い。

 

「材木座くんの計画でもダメだった場合は、その日の放課後にこの部室で。私と由比ヶ浜さんの2人で彼に引導を渡す予定なのだけれど。それまでに決着を付けて貰えるとありがたいわね」

 

 最後に控える大将は、雪ノ下と由比ヶ浜の2人。だが雪ノ下の口調に迷いはない。この場所で、由比ヶ浜と2人でならば、必ず奉仕部を『元通り』にできる。そう確信しながら、彼女は改めて競争を煽った。これが3日前の出来事だった。

 

 

***

 

 

 再び月曜日の放課後。部室に着いた雪ノ下は頭の中で状況の整理を行った。

 

「(比企谷くんは、材木座くんが依頼に来ることを知らない。由比ヶ浜さんのお誕生日を祝うことは知っている。それを理由に、由比ヶ浜さんが教室を出たらメッセージを送るよう命じてあるので、連絡が来たらすぐに材木座くんを召還する。この教室で余計な話題が出る前に、遊技部との勝負に話を持って行く必要があるわね)」

 

「(由比ヶ浜さんは、材木座くんの依頼のことは知っているのだけれど、実行は延期になったと思っている。比企谷くんが予想以上に歩み寄ってきてくれたお陰なのだけれど、これで話がややこしくなったわね。でも依頼を知らないと装って貰うには彼女は正直すぎるから、逆に良かったかもしれないわ。とはいえ、彼女のお誕生日をどういう風に祝ってあげたら良いのかしら)」

 

 ただ1人、あらゆる事の成り行きを把握している雪ノ下は、全ての結果が出ているのであろう数時間後の未来を思い浮かべる。そして考える。どうして自分は、奉仕部に『元通り』になって欲しいと思っているのだろうか。

 

 

 色々と欠点はあれども高く評価もしている男子生徒が、彼女が見限る前に離れようとするのを惜しむ気持ちがあるからか。

 

 それとも、彼女が懇意に思うもう一人の部員の気持ちを慮っているからか。

 

 

 まず前提条件として、自分は彼に対して恋愛感情も無ければ友達という意識もないことを雪ノ下は確認する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。では、少し目線を変えてみよう。

 

 今日の計画をどう考えたら良いのだろうか。この1週間の一連の会議を通して、確実に成長できたと手応えを覚えた彼女が、今度は自分が誰かを育てようと考えて勝負の場を用意したに過ぎないのか。城廻が自分にしてくれたことを、今度は自分が彼にしてあげようと思って、舞台を整えているだけなのか。

 

 確かにそれはあると彼女は思う。だがそれは、彼への期待がなければそもそも成立しないことでもある。ならばやはり、彼を惜しむ気持ちがあるということなのだろうか?

 

 思考が堂々巡りに陥ったまま、彼らが部室にやって来る時間が近づいてくる。3人で過ごす時間が近づいてくる。3人で依頼を……。

 

『この3人でどんな風に依頼を解決できるのか、先の未来を見てみたい』

 

 そう。彼女は突然にその気付きを得る。分かってしまえば単純なことだったのだ。雪ノ下はそう考えて苦笑する。これ以上の解答など、今の彼女には考えられない。

 

 

 袋小路に陥った思考を解きほぐすことができて、ゆっくりと息を吐く彼女の耳に、彼からのメッセージが届いた音が聞こえてきた。

 

 

 

 原作4巻につづく。

 




次回は木曜日か金曜日の更新になります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
説明が足りないと思えた部分に補足を加え、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(3/27,4/6,4/14)


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ぼーなすとらっく! 「やはり今この場の男女比率はまちがっている。」

概ね「ぼーなすとらっく!」ですが、一部「幕間」のようなお話です。



 週末の土曜日のこと。この日は珍しく早起きをして、比企谷八幡は録り溜めていたアニメを消化していた。しかし残りが少なくなるにつれて、彼の顔色は次第に冴えないものへと変わって行く。

 

「このままずっとアニメを観て、飽きたら二度寝とかできたら最高なんだが。……せめて、この後の用事が無くなったらなー」

 

 どうやら彼は現実逃避の真っ最中らしい。そんな沈鬱な表情の八幡とは対照的に、元気な声を出しながら女の子がリビングに入ってきた。

 

「おっはよー!って、お兄ちゃんどしたの?何だか疲れてるみたいだけど、もしかして徹夜とか?」

 

「あー、いや。これ以上は溜めたくなかったから、ちょい早起きしてアニメを消化してたんだわ」

 

「消化って……。溜まったのを無理に見るより、ばっさり消しちゃえば?」

 

「安易に1話で切って、最終話の盛り上がりに参加できないフレンズになりたくねーからな」

 

「お兄ちゃんって変なところで真面目だよねー。今日の用事が楽しみで眠れなかったのなら、小町的にはポイント高かったんだけどなー」

 

「どっちかと言えば、中止にならねーかなって考えてたら眠れなくなった感じだな」

 

 口では「しょうがないなぁ」と言いながらも、兄を眺める比企谷小町の表情は明るい。八幡が面倒事を避けたいと思っているのは確かだが、この反応は心底から嫌だと思っているわけではなく、単に恥ずかしがっているだけだ。彼女の目にかかれば、そうした兄の心理はお見通しだった。

 

「じゃあ、ご飯を食べてから軽く片付けて、お兄ちゃんは時間までゆっくりしてたら良いよ」

 

「んじゃまあ2階にいるから、あいつらが来るまでに何かあったら呼んでくれ」

 

 2人で一緒に食事を済ませて簡単にリビングの掃除をして、兄妹は約束の時間を片やそわそわと、片やわくわくしながら待った。梅雨の合間に当たったのか、家の外では気持ちの良い日差しが照りつけていた。

 

 

***

 

 

 正午を遡ること半時間。予定の時刻に目的の家屋の前まで辿り着いた一行は呼び鈴を押した。

 

「はいはーい。ほら、お兄ちゃんも一緒に出て」

 

「え、門まで出るの?何それ面倒臭い」

 

 実のところ訪問者たちも、同じ高校の男子生徒の自宅を訪れることには少なからず緊張していた。だが玄関の扉を開けながら聞こえて来た兄妹の普段通りの会話を耳にして、苦笑とともに余計な力が抜けていくのを感じていた。

 

「小町さん、こんにちは。今日はお招きをありがとう。大勢で申し訳ないのだけれど、お邪魔しても大丈夫かしら?」

 

「雪乃さん、こんにちはですー。狭い家ですが、我が家と思って寛いで下さいねー。何ならそのまま……」

 

「おい、門の前で会話を始めるな。まあ、なんだ。その、ここで解散ってわけには……」

 

「いつものヒッキーだ……。ここまで来てそんなのあるわけないじゃん!」

 

「ですよねー。んじゃま、上がってくか?」

 

「え、あ、うん。えっと、おじゃま、します」

 

 先程の威勢の良さはどこへやら。再び緊張でカチコチになりながら、由比ヶ浜結衣が最初に門を抜ける。そのまま彼女が八幡に続いて家の中へ入っていくと、一行はぞろぞろと後ろに続いた。最後に雪ノ下雪乃が門の中に入って、施錠した小町と並んで家の中へと入っていった。

 

 

***

 

 

 比企谷家のリビングは男女比が大きく傾いた状況にあった。改めてそれを目の当たりにして、八幡は思わず独り言を呟く。

 

「どうしてこうなった?」

 

「あら。貴方の自業自得だという話に、納得したのではなかったかしら?」

 

 くすりと笑いながら、雪ノ下が八幡の呟きに応じる。既にこの話は部室で解決済みではないかと彼女は言った。

 

「俺が色々と変なことを考えて、お前らに迷惑をかけたのは確かだけどな。なんで俺の家で集まる話になったのか、なんでこの面々なのか、改めて考えるとやっぱ変だろ」

 

「まず今回の話は、私が()()()()()()()『猫と遊ぶ約束』をしたことが発端なのよ。由比ヶ浜さんのお誕生祝いが中途半端に終わってしまったことも、その由比ヶ浜さんが奉仕部が『元通り』になったお祝いをしようと言い出したことも加わって、では全てを一度に実行しようという結論に至ったのよ」

 

「いや、ちょっと待て。話の流れに不自然な点は無いが、どう考えてもお前、面白がってやってるだろ」

 

「ヒキオ、ここまで来て往生際が悪いし。あーしの分、飲物とお菓子を持ってきたから、お皿とコップを出すし」

 

 見るからに企み事が上手く行ったという表情の雪ノ下に八幡は噛み付くが、別のお客から待ったが入った。三浦優美子は手土産を自ら分配することもなく、鷹揚に「好きに食べろ」という姿勢を取っていた。

 

「あ、小町ちゃん、あたしも手伝うね。ヒッキーはそのまま、ゆきのんに怒られてたら良いよ」

 

「あたしも、言ってくれたら食器ぐらい運ぶよ。どれを出せば良い?」

 

 食器を出したり他の飲物も用意したりと小町は溌剌と動き回っている。由比ヶ浜が手伝う意思を表明して、それに川崎沙希も加わった。

 

「だから、なんで三浦や川崎まで来るんだ?それに……」

 

「三浦さんも川崎さんも、これで貴方のことを心配していたのよ。貴方がぼっちを気取ろうとも、過去に結んだ縁は無くならないのだから、これからは行動に気を付けてくれると嬉しいのだけれど」

 

「あれ。俺が疑問を訴えてたはずなのに、なんで俺が怒られる展開になってんの?」

 

「話の契機が貴方だからよ。今日は奉仕部が『元通り』になったお祝いを兼ねているのだから、事情を知って気に病んでいた全員を招待するのは当然ではなくて?」

 

「え、ちょっと待って。三浦や海老名さんはまあ、由比ヶ浜が相談してるだろうなと思ってたが、川崎も知ってたのか?」

 

「ああ。言っとくけど、あんたの様子があからさまに変だったからね」

 

 八幡と由比ヶ浜の様子が変だと思った川崎は、雪ノ下のことも心配になって部室を訪ね、そこで事情を知った。だがそうした詳しい話まで説明する必要はないだろう。特に「雪ノ下から情報を聞いた」と伝えることは無用な軋轢を生むことにしかならない。そう考えて川崎は端的な説明に止めた。

 

 彼女の返答を聞いて「マジかー」と落ち込んでいる八幡に向けて、川崎は話を続ける。

 

「でも、この話は他には誰にも言ってないよ。弟も知らないからね。あ、そう言えば大志からあんたに伝言があったんだった。今日の話をしたら『お兄さんパネェっす』と伝えてくれと言われたんだけど、どういうことだい?」

 

「川崎、それは男同士にしか解らんことだ。とりあえずお前の凄みを全開にして『お兄さんと呼ぶな』と脅しておいてくれ」

 

 力なく川崎に伝言を頼んだ八幡は、肩を落としながら目だけでその他のお客を眺める。

 

 海老名姫菜はニコニコしながら「落ち込んだヒキタニくんの後ろから……」などと口走っているが、八幡は聞かなかったことにした。血の噴出にはまだ余裕がありそうだし、どうせ彼女の世話は三浦に丸投げする予定なのだから、気に病むだけ無駄だろう。

 

 そのまま八幡は視線を横に向けて、他学年の2人の間を訝しげに往復させた。

 

「あ、私は生徒会の役員から情報を聞いたんだけどねー。職場見学に行ってから奉仕部の3人の様子が少し変だって報告があって、運営がまた何か厳しい事を言い出したんじゃないかって、みんなで心配してたんだ。でも何もなくて、比企谷くんもちゃんと回復できて良かったね」

 

「あー、心配かけてすんません」

 

 八幡の視線をものともせず、城廻めぐりはぽわぽわとした口調で事情を説明してくれた。生徒会が何を懸念していたのかを教えて貰ったこともあり、八幡は彼女に対してはスッキリした心境でお礼を述べた。まともな人が1人でも居てくれて良かったと、八幡は心から安堵しながら最後の1人に目を向けた。

 

「えとですね〜、わたしも『運営が何か企んでいるのかも』って話を小耳に挟んだので、色んな先輩に話を聞いてみたんですよ〜。そうしたら、えっと……せんぱいの様子が変で落ち込んでるって聞いたので」

 

「おい。色々と不自然なんだが、とりあえず俺の名前を覚えてないよね?」

 

「え〜。何を言ってるんですか、せ〜んぱい?」

 

「あーうん。もういいや」

 

「え〜、せんぱい何だか対応が適当すぎません?」

 

「い、いろはちゃん。そろそろお昼だし、ご飯のこと考えよ?」

 

 由比ヶ浜の仲裁を受けて一色いろはは不満げに頬を膨らませているが、彼女も今の時点では八幡にそれほど興味を抱いていない。名前を覚える価値があると思っていないし、八幡の邪険な扱いも照れているだけだろうとしか思っていない。

 

 八幡がこっそり呟いた「あざとい」という言葉は彼女の耳には届かず、一色は他学年の同性の生徒と仲良くなるという本日の目標を思い出しながら由比ヶ浜の後に従った。

 

 

***

 

 

「あたし、本当にクッキーだけで良いのかな。何か手伝うこととか……」

 

「ええ。今回は1人1品ずつ持ち寄るという話だったのだから、貴女はそれ以上は何もしなくて良いのよ」

 

「それにあれだ。あっちで女王様が退屈そうにしてるから、そっちの応接を頼むわ」

 

 由比ヶ浜が料理の手伝いをしたいという雰囲気を醸し出していたが、雪ノ下と八幡は温かい口調で、しかし内心では必死になって彼女の説得を試みていた。

 

 本日の来客のうち、三浦はお菓子と飲物を持参した。一色は小腹が空いた頃に振る舞うべくケーキを焼いてきた。その他の面々は、各自で下ごしらえを済ませた具材を今からこの場で調理する。つまり、今リビングでは三浦と一色の2人だけという、八幡でなくとも由比ヶ浜の派遣を願いたい状況だったのだ。

 

「では、順番に調理に入りましょう。城廻先輩は食事中も食後も食べられるフライドポテトを。川崎さんは里芋の煮っころがしを。海老名さんはキノコと野菜の卵とじを。小町さんは肉じゃがを。私は由比ヶ浜さんのリクエストでマカロニグラタンを作る予定です。統一感はないかもしれないけれど、たまにはこうした試みも面白そうね」

 

「あれ、比企谷くんは何か作らないの?」

 

「あ、はい。俺はデザートを用意してるので」

 

「へえ。あんた料理もできるんだね」

 

「沙希さん。お兄ちゃんはこう見えて、手抜き料理をさせればなかなかですよー」

 

「こう見えて専業主夫を目指してる身だからな」

 

「あんたまだそんな事を言ってるのかい?」

 

「じゃあ、比企谷くんはお婿さんになるんだねー」

 

「ヒ、ヒキタニくん。婿入りするならお勧めの家が……」

 

「えーと、葉山の家ならお断りで」

 

 

 雑談を交わしながらも、それぞれの得意料理だけに調理は順調に進んでいた。手持ちぶさたの八幡は残りの面々の様子が気になったので、キッチンを離脱してリビングへと移動した。

 

「え〜。名前で呼ぶのはダメですか〜?」

 

「最低限の礼儀は弁えたほうが良いし」

 

「い、いろはちゃん。あたしは別に名前でも良いけど、優美子はその……」

 

「あ、ありがとうございます〜。じゃあ結衣先輩って呼ばせて貰いますね〜」

 

 会話は弾んでいるようだし、この流れで俺が加わっても何もできないと自分に言い聞かせながら、八幡はキッチンに向けて回れ右をした。

 

「ヒキオ、逃げんなし」

 

「え。ヒッキー、いつから居たの?あっちは大丈夫そうだった?」

 

「あ、まあ、みんな手慣れてる感じだったし大丈夫だろ」

 

「せっかくケーキを焼いてきたのに、お腹いっぱいで食べられないとかだと困りますね〜」

 

「その辺も大丈夫じゃね?何だかんだ喋ってたら腹も減るし、いざとなったらお土産で持って帰ったら良いしな」

 

「え〜。でも、食べた時の反応とか見たいじゃないですか〜」

 

「一口ぐらいは食べるだろうし、心配すんなし」

 

 

 そうこうするうちに料理が完成して、八幡と8人の女子生徒は立食パーティーのような形で食事を始めた。食前に雪ノ下から「食べ物を床に落としたり食べながら喋るなどの行為は厳禁」と釘を刺されたので、みんな行儀良く食事を摂っている。

 

 食卓に料理を並べた時にはたくさんあるように思えたのに、食べ始めるとあっという間に無くなってしまった。小町は「料理対決」と言いだして場を盛り上げようとしたのだが、あっさりと「どれも美味しい」という結論に落ち着いて、彼女が密かに企んでいた嫁度対決は不発に終わった。

 

 八幡は料理がきれいに無くなったのを見て、冷蔵庫に用意してあったデザートを各自の前に並べた。

 

「ぷるぷるしてるねー」

 

「あ、はい。牛乳プリンですけど、かたさの好みが判らなかったので……」

 

「大丈夫、美味しそうにできてるよー」

 

「コーヒーはあれですけど、兄のデザートの味付けは甘さ控え目なので、良かったらジャムとか使って下さいねー」

 

「いえ、このままでも美味しくできていると思うのだけれど」

 

「うん、ヒッキー凄いかも」

 

「あっという間に無くなったし」

 

「ゼラチンと牛乳とお砂糖ですか?簡単に作れるのに美味しいですよね〜」

 

「簡単で美味しいって、あんたらしいデザートだね。うちでも作ってみようかな」

 

「ヒキタニくんが白いモノを食べさせてあげようというのに、何故この場には男子が居ないのか!」

 

「あー、えーと。そういや、戸塚とかは呼ばなかったのか?」

 

「さいちゃん、駅前のテニススクールに通うことにしたみたいで」

 

「凄く残念がっていたのだけれど、『じゃあ今度は男子生徒だけで集まろうか』と伝えて欲しいと言っていたわ」

 

 昼間からエスカレートする海老名の発言すら瞬時に忘れて、どうやって戸塚をもてなそうかと八幡は考えに没頭し始める。なお、今日は材木座も誘われたのだが、戸塚の不在と男女比の偏りを知って怖じ気づいたのか「八幡め、リア充のような振る舞いをしおって」などと苦言を呈していたとのこと。ぶれない御仁である。

 

 

***

 

 

 各自が好きな飲物を手に、三浦のお菓子と城廻のフライドポテトに手を伸ばしながら雑談の輪ができていた。雪ノ下は城廻と由比ヶ浜と、小町は川崎と、そして三浦と海老名はなぜか先程に続いて一色と話をしている。

 

 使い終えた食器を片付けながら、八幡は何となく気になって三浦たちの会話に耳を傾けた。

 

「じゃあ、インターハイの決勝は8月に入ってすぐなんだね」

 

「ですです。7月終わりから1週間ぐらいの日程ですね〜」

 

「隼人たちが出られたかは判んないし。でも、その時期に気持ちが落ち込みそうなのは確かだし」

 

「わたしもそう思うんですよ〜。だから、夏休みに出かけるならこの時期が良いかな〜って」

 

「私は聞いてないんだけど、遊びに行くなら一緒にって話になったんだってね」

 

「あーしも気持ちは解るから、今回は我慢して欲しいし」

 

「あ、別に我慢とかしないし大丈夫だよ。一色さんとも仲良くなりたいし」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします〜」

 

「じゃあお近づきの印に、つい先日に描いたこのイラストを……」

 

「……布教は止めておくし」

 

 どうやら不穏なことにはならなさそうで、「家の中で喧嘩とかされたら嫌だしなー」などと、とっさの建前を呟きながら八幡は胸をなで下ろした。

 

 

 その後は小町に捕まったので適当に相鎚を打ちながら周囲を観察していると、由比ヶ浜が各グループを適度に渡り歩くことによって、それぞれの構成メンバーが微妙に変化していくことに八幡は気付いた。

 

 由比ヶ浜が三浦の近くに行くことで、話が続いていたとはいえ決して居心地は良くなかっただろう一色を城廻たちのグループに解放する。次いで川崎を手招きして、前々から川崎と手芸の話をしたがっていた海老名に引き合わせ、入れ替わりで八幡と小町と一緒に話を始める。由比ヶ浜のコミュニケーション能力の高さに八幡は舌を巻いていた。

 

「あ、そういえば。ゆきのーん」

 

「お、奉仕部の3人が集まるようなら、小町はあっちで話してきますねー。一色さんからケーキの作り方を教えて貰ってこようかなー」

 

 同様に小町も場の空気を読んで行動することには長けているだけに、あっさりとグループの変更が済んでしまった。

 

「何だか、部室以外の場所でこうして集まるのは、不思議な気がするのだけれど」

 

「学校の外で会うのって、あんまりないもんね。でも、またカラオケとか、こないだ言ってた映画とか、一緒に行きたいな。ヒッキーも、来てくれるよね?」

 

「あー、まあ、そのうちな」

 

「駄目よ、由比ヶ浜さん。比企谷くんを連れ出すなら、周到に計画をして出掛けるしかない状況に追い込む必要があるわ」

 

「おい、お前って俺のことを何だと思ってんのよ。別に出掛けるのが嫌って意味じゃなくて、その、お前らと趣味の合う映画があるのか、ちょっと不安というかあれでな」

 

 八幡は何やらごにょごにょと言い訳を続けているが、以前と比べて彼が歩み寄ってくれていることを感じ取った2人は柔らかい表情を浮かべていた。顔つきはそのままに、雪ノ下が口を開く。

 

「そういえば、2人にまだ言っていなかったことがあるのだけれど」

 

「ん?ゆきのん、どうしたの?」

 

「何の話かは分からんけど、ここで言える事なら言ってみれば良いんじゃね?」

 

「ええ。職場見学の時に、自分だけ先に帰ってしまってごめんなさい。こうして奉仕部が『元通り』になったから良かったものの、2人には迷惑をかけてしまったわ」

 

「あー、そりゃもう時効みたいなもんだろ」

 

「うん。良い結果になったんだから、もうゆきのんも気にしないでね」

 

「ありがとう。それでも、2人に向かって一度は言っておかないと、と思ったのよ」

 

 引き続き温かな表情を浮かべる雪ノ下と由比ヶ浜に加えて、八幡の目にも優しい光が灯っていた。

 

「じゃあそろそろ、いろはちゃんのケーキの試食をしてみよっか!」

 

 大きな声で全員に向けて由比ヶ浜が話しかけると、全員から即座に賛成の声が返って来た。

 

 

 こうしてこの日の夕刻まで、9人の学生たちは楽しい時間を過ごしたのだった。

 




次回は原作との相違点や時系列をまとめた回になります。
可能ならば明日の金曜日に、それが無理なら月曜日に更新する予定です。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(4/6)


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原作との相違点および時系列(原作2巻〜3巻)

ここまでの内容を振り返ったり、これから先を読み進める上での参考になれば幸いです。



■原作との相違点

 登場順に各キャラについて簡単にまとめます。

 

・比企谷八幡

 中学の時にメールした相手・告白した相手を一人に集約。(2巻02話,1巻10話)

 ぼっちはノートを貸してもらえないので無遅刻無欠席を目指している。

 川崎の苗字はちゃんと覚えています。(2巻15話)

 職場見学でこの世界を構築する手助けをした。(2巻幕間=47話)

 

・比企谷小町

 八幡が事故に遭った時の過去話あり。(2巻12話)

 事故にまつわる諸々の感情を八幡に伝達済み。(2巻20話)

 

・平塚静

 お気に入りのバーテンダーがいる。(2巻16話)

 

・雪ノ下雪乃

 八幡に事情を知られる前に事故の話を打ち明け済み。(2巻09話)

 国際教養科の同級生とも関係を深めつつある。(3巻03話)

 高一の頃から頼りにされ色んな場に引っ張り出されていた。(3巻15話)

 この世界で猫を飼い始めた。名前は()()()。(3巻18話)

 素数と素因数分解が好き。(3巻18話)

 留学時に映画や音楽を堪能した。(3巻19話,3巻23話)

 

・由比ヶ浜結衣

 職場見学で経理のレクチャーを受けた。(2巻幕間=47話)

 両親の馴れ初めから総武高校入学までの過去話あり。(3巻04話)

 八幡への恋愛感情を自覚済み。(3巻18話)

 

・三浦優美子

 葉山への気持ちは「より深く知りたい」段階で止まっている。(2巻06話,3巻11話)

 

・海老名姫菜

 漫画や小説を執筆するために部活を創設。(3巻12話)

 

・葉山隼人

 テニス勝負以来、八幡とはたまに話す仲。話題は読んだ小説の話。(2巻02話)

 雪ノ下と同様に去年から色々な場で頼られていた。(3巻15話)

 

・城廻めぐり

 雪ノ下と仲が良く、時々お昼休みにお茶をしている。(3巻07話)

 

・城山

 部長会議で雪ノ下に借りを返すべく行動した。(3巻番外編=71話)

 

・一色いろは

 簡単な過去話あり。(2巻05話)

 八幡が雨に打たれる様子を写真に撮って保存済み。(3巻11話)

 同性の先輩と仲良くなりたいと思っている。(3巻11話,3巻BT)

 葉山と今すぐ付き合いたいとは思っていない。(3巻11話)

 今のところ八幡の名前を覚えるほどの興味はない。(3巻BT)

 当初の「由比ヶ浜先輩」呼びから原作どおりの「結衣先輩」呼びに。(3巻BT)

 

・材木座義輝

 八幡と戸塚以外からも名前を覚えてもらっている。

 遊戯部との過去話あり。(3巻20話)

 作品は書き続けているが、スキルを磨くことは怠っている。(3巻21話)

 

・戸塚彩加

 八幡と同じクラスだった去年の話を伝達済み。(3巻14話)

 

・川崎沙希

 過去話あり。(2巻13話)

 勉強重視なので可能な限り無遅刻無欠席を目指している。

 バイトを変更。大志と小町が通う塾で英語を教えることに。(2巻20話)

 

・大和と大岡

 過去話あり。(2巻04話)

 

・戸部翔

 元気です。

 

・相模南

 密かに登場済み。(2巻07話)

 遊戯部の相模とは因縁がある。(3巻20話)

 

・川崎大志

 家族のことや小町と話す契機などの過去話あり。(2巻12話,2巻19話)

 

・雪ノ下陽乃

 この世界にログインした経緯などの過去話あり。(3巻19話)

 妹に毎朝毎晩メッセージを送っている。(3巻19話)

 

・秦野と相模

 過去話あり。(3巻20話)

 

 

■時系列

 曜日は、由比ヶ浜の誕生日=月曜日という3巻の設定に合わせています。

 

5/21(月)

 八幡が屋上で川崎の黒を堪能。(2巻01話)

 平塚のお説教。八幡と由比ヶ浜がメッセージを交換。(2巻02話)

 

5/22(火)

 奉仕部の部室で三人が昼食を共に。(2巻03話)

 放課後に奉仕部の三人で勉強会。(2巻04話)

 葉山・戸部・一色の三人でスポーツ用品店に。(2巻05話)

 

5/23(水)

 奉仕部の部室で雪ノ下と城廻が昼食を共に。(2巻05話)

 彩加記念日。(2巻05話)

 葉山の依頼。(2巻06話)

 

5/24(木)

 奉仕部三人と三浦・海老名が二年F組の教室で昼食会。(2巻07話)

 一色が奉仕部の部室に登場。依頼を解決。(2巻08話)

 雪ノ下が八幡と由比ヶ浜に入学式前の事故を謝罪。(2巻09話)

 

5/25(金)

 職場見学のグループ決定。(2巻08話)

 

5/27(日)

 八幡と小町が深夜の勉強会。(2巻10話)

 

5/28(月)

 遅刻した八幡がパンチラを堪能。(2巻10話)

 放課後にカフェで大志から依頼を受ける。(2巻11話)

 

5/29(火)

 雪ノ下と平塚が昼休みに相談。(2巻12話)

 小町と大志を交えて放課後の部室で川崎と対峙。(2巻14話)

 平塚がホテル・ロイヤルオークラに潜入。(2巻16話)

 

5/30(水)

 平塚が生徒たちに情報を伝達。(2巻17話)

 奉仕部三名と戸塚がホテル・ロイヤルオークラに集合。(2巻18話)

 小町・大志・平塚を加えファーストフード店で最終決戦。(2巻19話〜20話)

 帰宅途上の公園で小町が胸に抱えていた感情を吐露。(2巻20話)

 

6/8(金)

 メイドカフェでテストの打ち上げ。(2巻BT)

 

6/11(月)

 職場見学。八幡が奉仕部と決別。(2巻幕間=47話)

 由比ヶ浜が三浦と海老名に相談。(3巻01話)

 八幡が小町と喧嘩。(3巻02話)

 

6/12(火)

 八幡が雨に打たれる。(3巻02話)

 一色が雨に打たれる八幡を目撃。(3巻11話)

 雪ノ下が午前中を保健室で静養して過ごす。(3巻03話)

 

6/13(水)

 雪ノ下が昼休みの部室に川崎を迎える。(3巻07話)

 平塚が八幡に空き教室を提供。(3巻08話)

 雪ノ下が放課後の生徒会室で城廻から相談を受ける。(3巻07話)

 八幡が東京駅に赴き駅長と対話。(3巻10話)

 

6/14(木)

 由比ヶ浜が三浦と一色の三人でお茶。(3巻11話)

 雪ノ下が部長会議を主導。(3巻12話,3巻番外編=71話)

 八幡が塾の授業を参観し、小町と川崎姉弟と会食。(3巻13話)

 

6/15(金)

 雪ノ下が昼休みに会議を招集。(3巻番外編=71話)

 先鋒戦:八幡が戸塚とデート。材木座とニアミス。(3巻14話〜15話)

 

6/16(土)

 アップデートで、ペットの飼育が可能に。(3巻16話)

 八幡が小町と東京わんにゃんショーに行く。(3巻16話)

 次鋒戦:八幡が会場で由比ヶ浜と対話。(3巻17話)

 中堅戦:八幡が雪ノ下とデート。(3巻18話〜19話)

 八幡と雪ノ下が陽乃と遭遇。(3巻19話)

 

6/18(月)

 副将戦:材木座の依頼。(3巻20話〜22話)

 大将戦:八幡が部室で雪ノ下・由比ヶ浜と対話。奉仕部が元通りに。(3巻23話)

 奉仕部の三人で由比ヶ浜の誕生祝い。(3巻23話)

 

6/23(土)

 八幡の家で奉仕部が元通りになったお祝い。(3巻BT)

 




原作1巻〜幕間までは25話を参照して頂けると嬉しいです。

予想以上に時間が掛かって更新が遅くなりましたが、何とか三月中に本章を終わらせることができました。
一週間後の4/7(金)から原作4巻に入ります。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
リンクを変更して、前書き・後書きを含め細かな表現を修正しました。(2018/9/12)


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原作4巻
01.つまるところ彼は必然的に巻き込まれる。


今回から原作4巻の内容に入ります。
本章から読み始めてみようという方々には、前話にて簡単なまとめを用意しましたので、先にそれに目を通して頂けると嬉しいです。
では、本章もよろしくお願いします。



 強い日差しが照りつけている。付近を歩く人たちは一様に疲れた表情で足を動かしている。一刻も早く涼しい場所に避難したいと思いながらも、これ以上は汗をかきたくないと我慢して歩いているのだろう。

 

 八月初日、平塚静はそんな歩行者たちを日陰からぼんやりと眺めながら、生徒たちが来るのを待っていた。集合場所に指定した駅前のロータリーで、彼女は少し早めの時間から待機していた。

 

「平塚先生、おはようございます。お早いですね」

 

「ん、雪ノ下か。おはよう。昨日はよく眠れたかね?」

 

「ええ。新しく解放されたエリアをアップデート初日に体験できるわけですが。それに興奮して眠れないほど子供ではありませんので」

 

「お見通しなら仕方がないが、現地までは自動運転にするつもりだから安心したまえ」

 

 苦笑しながら教師はそう答えた。雪ノ下雪乃に睡眠不足とその理由をあっさり見抜かれたわけだが、彼女ら姉妹と付き合いの長い平塚は慣れたものだった。

 

 それに集合時間にはまだ充分な余裕がある。にもかかわらず雪ノ下が現れたのは、彼女もまた今回の遠出を楽しみにしていたからだろう。眠れないほど子供ではないが、逸る気持ちを抑えられるほど大人ではないといったところか。

 

 おそらく以前の雪ノ下であれば、きっちり五分前に到着していたのではないか。それに比べると現状の変化は、彼女にとって好ましいものだと平塚は思う。精神年齢が高いのも善し悪しなのだ。私のような若々しい行動とまではいかなくとも、これで充分に可愛らしい行動だと言えるだろう。

 

「由比ヶ浜さんは、おそらく最後でしょうね」

 

「ふむ。その根拠は?」

 

「今日を楽しみにして前日までに支度を終えていたにもかかわらず、やっぱりあれも持っていこうとか、どうしてこれを荷物に含めていなかったのか等々、時間が許す限り悩んでいる姿が想像できるのですが」

 

「なるほど。それに由比ヶ浜はあちらとの調整もあるだろうしな」

 

「意外に大人数になってしまいましたね。先生にはお手数をおかけしますが……」

 

「なに、この程度の手間など問題ではないよ。君達は今回の合宿をしっかり楽しみたまえ。もちろん働いてもらう部分はちゃんと働いてもらうがね」

 

 

 そんな雑談を続けていると、戸塚彩加と比企谷小町が連れ立って現れた。なんでも駅の手前で偶然いっしょになったらしい。疲れた様子など微塵も感じられない元気な声で小町が挨拶をした。

 

「おはようございます。今日は小町も誘ってもらって嬉しいです!」

 

「現地では雑用もあるのだし、お礼を言いたいのはこちらのほうだよ。そのかわり時間には余裕があるので、用事がない時は好きに過ごしてくれたまえ」

 

「今日は、比企谷くんは予定通りに?」

 

「はい。朝早くから出かけてました。たぶんビックリしますよねー」

 

「八幡を驚かせるのはちょっと気が引けるけど、こういう悪巧みも()()()()悪くないよね」

 

「お、戸塚さんもワルですなー。でもでも、気兼ねなくイタズラができる関係っていいですよね」

 

 高二に進級してこの世界に巻き込まれてから、兄の交友関係は飛躍的に広がった。なにせ高一の時は友人と呼べる関係など皆無に等しかったのだ。かろうじて体育の時間に言葉を交わす相手がいた程度で、それも深い付き合いではないと小町は聞いていた。

 

 兄が中学の頃は悪ふざけに巻き込まれることが時々あって、そのたびに彼の目は淀みがひどくなっていった。濁ったとも腐ったとも評される彼の目は、好きこのんで身に着けたものではない。同級生の悪意に晒されても自分を見失わないように、自衛のために身に着けたに過ぎない。

 

 そうした経緯を身内ゆえに誰よりもよく知っている小町は、兄を取り巻く環境の変化を人一倍喜んでいた。悪意のかけらも感じられないイタズラを気兼ねなくやり合える仲間。兄がそれを得られたことを、小町は我が事のように嬉しく思っていたのだ。

 

「小町ちゃんとは違ってぼくは家族じゃないし、八幡が気を悪くしないかなって」

 

 晴れやかな笑顔を浮かべている小町に向かって胸に抱く疑念を伝えるのは忍びなく、戸塚は小声でぽつりとつぶやいた。先ほど遠慮がちに示唆した言葉も、その真意は彼女には届いていないのだろう。内心で危ぶんでいることが杞憂に終わることを、天使はこっそりと願った。

 

 長くカースト底辺にあって、時には愚痴をこぼしつつも腐ることなく日々を過ごしてきた兄の境遇を、小町が体験したことはない。捻デレゆえに余人には解りにくい兄のプラスの感情を、彼女はつぶさに把握することができる。しかし彼のマイナスの感情を小町は把握し切れていなかった。

 

 この時点での小町は、兄への甘えが無意識に出ていることには気付いていなかった。彼女がそれを知るにはこの日の夜を待たなければならない。

 

 

「ま、間に合った……。やっはろー」

 

 二分前に現れた由比ヶ浜結衣は、疲れた表情ながらも普段通りの挨拶を口にした。苦笑しながらも小町と戸塚は同じ挨拶を元気に返し、雪ノ下はきちんと挨拶を行う。

 

「では出発しようか。道中の景色を楽しみながら行くとしよう」

 

 くわえていた電子たばこを片手に取って、健康への害について何か言いたそうにしている雪ノ下に目だけで謝意を伝えて、平塚はロータリーに佇むワンボックスカーに足を向ける。

 

「お兄ちゃん、今頃なにしてるかなー」

 

 教師の後を追ってゆっくりと移動していると、不意に小町がそうつぶやいた。

 

「八幡のことだから、新しい世界を楽しんでるんじゃないかな」

 

「ええ。面倒事は避けるのが普通の比企谷くんにしては、終業式の時からそわそわしていたものね」

 

「うん。いつもと違って目が少し輝いてる感じだったよね」

 

 夏休み前の最後の日に、奉仕部の三人は部室に集まってしばしの時を過ごした。その時に見た彼の姿を、今日が待ちきれない様子だった彼の姿を思い出しながら、雪ノ下と由比ヶ浜は先行する二人に続いて車の中へと入っていった。

 

 

***

 

 

「合宿?」

 

「ええ。半分はボランティアなのだけれど、平塚先生は自由な時間も多く取れると言っていたわね。だから奉仕部の合宿と考えてくれたら良いと」

 

 終業式が終わってあとは夏休みを迎えるだけの木曜日。一学期の簡単な振り返りをするという理由で比企谷八幡は部室に招集された。

 

 とはいえこの一ヶ月は簡単な依頼しか来ていないので、本来の用事はすでに済んでいる。女子生徒二人が雑談に花を咲かせる様子を眺めながら、彼は夏休みの過ごしかたについて思いを馳せていた。

 

「何だか楽しそうじゃん。でもちょっと急な話だよね」

 

「話は前々からあったのだけれど、どこかで情報が止まっていたみたいね。夏休み直前にそれに気付いて、慌てて対応を練ったというところかしら」

 

「ふぅん。ヒッキーはどう?」

 

「おい、いきなり話を振らないで欲しいんだけど」

 

「そうは言いつつも、話の流れは把握しているのでしょう、聞き谷くん?」

 

「俺がいつも聞き耳を立ててるような呼び方は止めてくれませんかね。たしか合宿って言葉が聞こえた気がするんだが、夏休みにわざわざ何かやんの?」

 

「ヒッキー、やる気なさすぎだし」

 

 呆れた声色の由比ヶ浜だが、苦笑交じりの表情といい八幡を咎める様子はない。それは雪ノ下も同様で、面倒を避けるという彼の習性は部内で周知されて久しい。今さらそんな程度のことを問題にするほど三人の関係は浅いものではなかった。

 

「来月一日から二泊三日の予定なのだけれど、二人の都合を教えてもらえるかしら?」

 

「あー。それは俺、ダメだわ」

 

「貴方がそう言い切るのは珍しいわね。大抵はどんな理由を捏造しようかとあたふたしていたはずなのだけれど」

 

「うん。ヒッキーの言い訳って分かりやすいよね」

 

「お前らな……。あれだ、来月になると同時にアップデートがあるだろ。職場見学の時に俺が手掛けた場所を見に来ないかって、運営に誘われてんだよ」

 

「今は東京と千葉の二都県だけなのが、アップデートで関東一円にまで世界が広がるという話だったわね」

 

「アップデートにはもう一つ目玉があるらしいけどな。そっちは俺は何も知らんけど、世界を構築するのは楽しかったぞ。いちおう口止めされてるから、詳しいことを喋れないのが残念だが」

 

「あら。俺は群馬県を作っているんだと、職場見学のお昼休みに得意げに語っていたのは誰だったかしら?」

 

「え、俺そんなこと言ったっけ?」

 

 雪ノ下の記憶力の良さに改めておののきながらも、八幡は彼女を忌避することも揶揄することもない。

 

 あの時に別々の部署で行った見学については、自分も楽しかったし他の二人も楽しそうだったという印象が八幡には残っている。それにしても昼休みに合流したときにそんなことを喋っていたとは迂闊だった。とはいえ運営に守秘義務を言われる前のことだしバレるまで黙っておこうと、八幡はそんなことを考えていた。

 

「ええ。『俺はこの世界の神だ』などと言い出しかねない口調だったわよ。何か変な病気でも再燃したのかと……」

 

「速やかに忘れて下さいごめんなさい」

 

 頼むからこれ以上は誰にも広まることなく闇に消えて欲しいなと、八幡は己の過去を反省する。

 

「で、でもさ。ヒッキーが作ったって場所も、いつかみんなで行ってみたいよね」

 

「そうね。()()()その話は実現させるとして、では比企谷くんは()()()()不参加という形にしておくわね。由比ヶ浜さん、合宿の詳しい話は近々また連絡するわ」

 

「うん、分かった!」

 

「俺も行きたかったんだけど、用事があるから仕方ないよなー。お前ら二人で楽しんできてくれよ」

 

「ヒッキー、わざとらしいこと言ってるし」

 

「ふっ。由比ヶ浜さん、堂々とサボれる理由を手に入れて有頂天になっているだけなのだから、たまには大目に見てあげましょう」

 

「お、どうした雪ノ下。今日は妙に優しいな。いやホント、俺も合宿とか行きたかったなー」

 

 もしも見目麗しい二人の部活仲間と一緒に合宿を行う話が現実になれば、おそらく八幡は挙動不審に陥っていただろう。思春期男子なら仕方のないことだが、その反動もあってか今の八幡は安心感に包まれ饒舌になっていた。

 

「合宿といっても、ボランティアや雑用の時間もそれなりにあるみたいだから、比企谷くんは不参加で良かったかもしれないわね」

 

「おいおい、専業主夫志望の俺をなめるなよ。もし参加できていたら率先して雑用とかやるに決まってんだろ。陰ながら支えるとか超得意だぞ」

 

「ヒッキーは認識されてないだけじゃん……」

 

「由比ヶ浜さん、今日のところは言わせておきましょう。()()()貴方が合宿に参加していたなら、人一倍熱心に働いてくれたでしょうに。それを思うと残念ね」

 

「ま、仮定法で話をしても仕方がないからな。こっちはこっちで楽しんでくるわ」

 

 珍しく目を輝かせながら話している八幡を、雪ノ下は柔らかい笑顔で眺める。熱中できる対象を得て彼が楽しそうにしているがゆえに。そして、近い未来に彼を待ち受けている展開を把握しているがゆえに。

 

「では、今学期の奉仕部の活動はこれで終了とします。各自、充実した夏休みを過ごして下さい」

 

「あ、でも、夏休みも時々集まろうね!」

 

「ま、予定が合えばな」

 

 由比ヶ浜の提案に水を差すようなことを言う八幡だが、彼をどう誘い出せば良いかは既に二人とも充分に理解している。それぞれに思惑を抱えながら、こうして三人による今学期の部活動は無事終了した。

 

 

***

 

 

 ここは仮想空間だというのに、気のせいか千葉の街中よりも空気が美味しい気がする。八幡はそんなことを考えながら目的地へと到着した。彼を待ってくれていた運営の人と合流して、そのまま各所を見て回ることにする。

 

「月初めに朝からお疲れさん。見学の時と同じように、気楽に話してくれたらいいからな」

 

「うす。今日はお世話になります」

 

「一般プレイヤーが立入禁止の間に、ひととおり回っておこう」

 

 そう言って歩き始める運営スタッフに従いながら、八幡はふと思い付いた疑問を口にした。

 

「あ、そういえば。電車とバスですんなりここまで来られたんですけど、一般への開放はまだなんですよね?」

 

「ああ。君の情報は登録しておいたから自由に行き来が出来るけど、他の人たちは正午以降だな」

 

「0時のアップデートと同時に解放しなかったのは、どうしてですか?」

 

「それでも良かったんだけど、夜中に移動する人が多く出るのも不健康だし、不測の事態に備えるなら昼間のほうが良いって話になってな。それに最初のアップデートの時、君たちの高校でも教師の権限で出入りを制限されただろ?」

 

「ああ、そういえば放課後までは外出禁止になってましたね」

 

「そうした行為も考慮して決定したって感じだな」

 

 運営に送られた要望に対応する部署を、たしか由比ヶ浜が最初に見学していたはずだ。八幡はそんなことをふと思い出す。この世界に多くの人を幽閉した件については何ら悪びれる様子のない運営だが、細かな部分では対応がちゃんとしてるんだよなと、八幡は複雑な表情で考え込んでしまった。

 

 

「じゃあ、今度は俺からの質問だ。どうして君はこの施設をこの世界で再現しようと思ったんだ?」

 

 設備の老朽化や利用者の減少を理由に、千葉市はこの施設の運営から手を引くことを表明した。そうした動きを受けて、運営の当初の案ではここは立入禁止区域になる予定だったのだ。

 

「千葉の中学生って、何だかんだでみんなここに来るんですよ。自然教室とかそんな感じで。うちの妹も去年来たんですけど、もし現実で施設が廃止になったら、それより下の世代と話が合わなくなるじゃないですか」

 

「ああ、確かにそれは寂しいわな」

 

「あと、どこかの変な運営がやらかしてくれたお陰で、この世界に巻き込まれた千葉の中二の生徒たちって、ここに来られないんですよね」

 

「まあ、その批判は甘んじて受ける。なるほどな」

 

「発想としては、現実では撤退したはずのお店が駅前で健在だったのを見たからですけどね。例のシアトル発祥のコーヒーチェーン店です。最初のアップデートの時にクーポン配ってましたよね」

 

「あれか。スポンサーの意向に従っただけだと記憶しているが、それを契機に発想を広げた君の思考力は面白いな」

 

「ゲームマスターにも視野の広さと関連性を見付ける能力とやらは褒めてもらいましたよ。もっとも、直後に上げて落とされるのを体験しましたが」

 

「ははは。まあ、あの人に言われたら仕方ないわな。で、どうだ。君の記憶通りの施設になってるか?」

 

「ええ。何だか懐かしいですね」

 

 

 そのまま無言で、二人はしばらく時間を掛けて周囲を見て回った。

 

 この世界なら設備の老朽化を心配する必要もないし、定員なども考えなくて済む。中学生の頃を懐かしむ千葉出身者にも楽しんでもらえるだろうし、この世界にいる中二や中一の連中も同じ体験を共有できるだろう。

 

 八幡には中学時代に良い記憶がほとんどない。ここに来た時も、周囲から注目されないようにと静かに時間が経つのを待っていただけで、集団行動を強いられるのが嫌で仕方がなかった。正直に言って、早く家に帰りたいと思いながら過ごしていた記憶しかない。

 

 だが、数年という時間を経て現実そっくりのこの場所を歩き回っていると、八幡はなぜか過去を嫌悪する気持ちよりも、過去を懐かしむ気持ちを強く感じた。

 

 そもそもは、妹が下の世代と断絶する要素を取り除いてやろうと思っただけなのに。今では八幡自身が、下の世代にもこの場所の記憶を持ち帰って欲しいと思っている。できれば自分のようなつまらない記憶ではなく、楽しい思い出として。

 

「場所の記憶って、そこで嫌なことがあったら一緒に嫌悪しそうなものですけど。切り離して考えたほうが良いんですかね?」

 

「その年で、君はなかなか達観しているみたいだな。俺もまだまだ未熟だから、偉そうな事は言えないが。強いて言えば、一緒にするのも切り離すのも自由じゃないかな」

 

「あー。なんか上手いこと言いますね。でも、なるほどなぁ」

 

「あとは、時間が経つと受け取り方も変わるみたいだな。だから自分の中で拘りのある出来事なら、時間を置いて考え続けたほうが良いって、上の先輩が言ってたな。その時には解らなかったことでも、後になって突然理解できることがあるからって」

 

 そこまでの話になると、まだ高校生に過ぎない八幡には遠い話のように思えてしまった。柄にもなく来し方を振り返ってしまったが、今の彼は目先の問題に対処するだけで精一杯なのだ。過去の失敗を考え直すよりも、せっかく得られた今の環境でどう過ごすかが彼にとっては最優先される。

 

 

「お、そろそろ開放の時間だけど、これからどうする?」

 

「特に用事はないんですけどね。早く帰って変なボランティアに巻き込まれるのも嫌だし、夕方ぐらいまではここでのんびりしようかなと」

 

 八幡は少し考えた末にそう答えた。おそらく彼ならそう考えるだろうと、とある部長が予測していた通りに。

 

「なんなら泊まってくれてもいいぞ。ここは君が作った施設だから、利用料金も必要ないしな。友達に心配さえかけなければ、ここで好きなだけ過ごしたら良い」

 

「それも良いかもしれませんね。妹も何か用事があるとか言ってたし」

 

「俺は仕事場に帰るけど、もし残るなら、一般への解放前からここに居たことがバレないように頼むな」

 

「じゃあ、お客の様子をこっそり窺いながら、しばらく個室で引き籠もってますよ」

 

「そのまま出て来ないとかはやめてくれな。見学時の君の協力と、今日の下見に付き合ってくれたことに感謝する。君の将来を楽しみにしているよ。お世辞じゃなくてな」

 

 そう言って運営スタッフは去って行った。気を遣って話しやすい雰囲気を作ってくれていたのは八幡も充分に理解している。そのお陰で、彼にしては口数も多かったし、誤解を怖れることなく思い付いた先から喋っていた気がする。

 

 だが一人になってみると、やはり無意識に身構えていたのだなと自覚してしまう。大きく息をはいて、八幡は個室の手配をしてその部屋へと移動した。

 

 

***

 

 

 どれほど時間が経ったのだろうか。先ほど運営スタッフに言われたことを頭の中で再考しながら窓の外をぼんやり眺めていた八幡の視界に、大型のバスが映り込んだ。

 

 そのまま見るとはなしに見ていると、バスからは小学生とおぼしき集団が順番に降りてきた。この世界はR-12の設定だが、特例として受験を考えている6年生は塾によってはログインを許可されたはずだ。おそらくは、そういうことなのだろう。

 

 自分の中で納得して、八幡は小学生から視線を逸らそうとした。気のせいか女子の比率が高い。女子小学生をこっそり覗く高校生など、誰かにバレたら致命的だ。

 

「あ、あれで全部か」

 

 しかし八幡が目を別に向ける前に、乗降口からは人影が途絶えた。結果的に全ての児童が降りてくる様子を見てしまったわけだが、済んだ事は仕方がない。要はバレなければ良いのだ。

 

「あ、いや。まだいたのか」

 

 紫がかった黒髪をストレートに下ろした少女が一人、バスから降りてきた。そのまま他の児童との距離を少し空けた状態で集団の後をゆっくり追い掛けて行く。

 

 健康的な彼女の様子からは、バスで気分が悪くなったとは考えられない。距離を保っていることを考えると、忘れ物をしたから遅れたという理由でもないのだろう。

 

 

 その時、ふと彼女が振り返った。そして真っ直ぐに宿泊施設の方角を、八幡が隠れている個室の窓を鋭く射貫く。視線をぶつけられたまま、八幡は目を逸らすことができなかった。

 

 やがて彼女は少し俯いて、そして勢いよく振り返って早足で集団の後を追った。

 

 八幡は彼女が視界から消えるまで、少女の後ろ姿から目を離せなかった。




本章からアラビア数字よりも漢数字を多めにするなど、細かな表現上の変更を行っています。
特に大きな変更はありませんが、気になった方が居られましたら申し訳ありません。
今後も、より読み易い形を模索したいと考えています。

次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
冒頭で小町と戸塚が登場するシーンにて、戸塚のセリフと地の文を書き加えました。(4/14)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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02.るんるん気分には遠く彼はここでも苦い光景に遭遇する。

前回までのあらすじ。

 奉仕部の合宿を行うべく、平塚先生の車に乗って雪ノ下・由比ヶ浜・戸塚・小町は千葉村に向かった。彼女らの動きを知らない八幡は、一足先に現地でのんびり過ごしていた。だが偶然にも、彼は集団から距離を置かれた少女の姿を目撃してしまう。



 昼食を兼ねた休憩を挟んで、一行は予定通りの時刻に千葉村に到着した。

 

 乗車人数と比べると車内の空間には充分な余裕があったが、出発してすぐに全員が運転席の近くに集まって、会話を弾ませながらの道中だった。車窓からは山の連なりが様々に形を変えて、見る者たちを飽きさせなかった。

 

 運転席に座っていた平塚静と助手席の雪ノ下雪乃は、長時間のドライブで体がこわばっている気がしたのだろう。車を降りた先で柔軟運動を繰り返している。

 

 それに対して、狭い思いをしながら二列目のシートに並んで座っていた三人はいたって元気な様子で、もの珍しげに辺りを見回している。

 

「千葉村ってこんな感じだったねー。あたしが覚えてるのと全然変わってないよ」

 

「小町は去年来たとこですけど、本当に現実のまんまですね」

 

「八幡のことだから、細かい部分まで頑張って再現しようとしてくれたんじゃないかな」

 

 そんな戸塚彩加の言葉に対して、二人はそれぞれ部活の仲間として、肉親として、少し誇らしげな表情を浮かべた。

 

「ヒッキーって働きたくないとか言ってるわりに、最後は真面目に頑張ってくれるよね」

 

「動く必要がない時はとことん動かないんですけどねー。小町が助けて欲しい時にはちゃんと助けてくれる辺り、要領が良いというか何というか」

 

「そういえば八幡もたしか、小町ちゃんは要領が良いからって自慢してたよ。いい兄妹だなってぼく思ったから記憶に残ってるんだけど」

 

「ヒッキー、小町ちゃんのことを話す時ってすごく嬉しそうだもんね」

 

 彼の口調を思い出しながら楽しそうにそう話す由比ヶ浜結衣。対して比企谷小町は「こういうところが」と小声で言いながら少し照れた表情を浮かべている。

 

 

「私はあちらの責任者と打ち合わせをして来るので、君達はキャンプ場のログハウスに荷物を置いて少し休んでいるといい。残りの連中もじきに来るだろう」

 

「平塚先生。その、比企谷くんは……」

 

「うまく合流できるよう手配してくれたまえ。詳細は後で聞こう」

 

 悪巧みを面白がっている口調で雪ノ下にそう答えて、教師は青少年自然の家に向けて去って行った。一行がサポートする予定の小学生たちはそこで宿泊する手筈になっている。

 

「では、歩きながら打ち合わせをしたいと思うのだけれど。彼の居場所が判らない以上は小町さんにメッセージを送ってもらって、どこかにおびき寄せるのが無難かしら」

 

「ゆきのん。ヒッキーが先に帰っちゃったとか、無いよね?」

 

「うちの兄って、出先で落ち着ける場所がないとさっさと家に帰ってくるんですけど、本屋さんとか近くで気楽に過ごせる場所があると案外そこに居座ったりするんですよ」

 

「私の予想としては、比企谷くんなら夕方までここでのんびりしようと考える気がするわね。小町さんは、今日は用事があると彼に伝えているのよね?」

 

「あ、じゃあヒッキーが早く帰る理由もないよね」

 

 小町が頷きを返す前に、由比ヶ浜がすっかり安心した口調でそう言った。これには当の小町も横で聞いていた戸塚も苦笑いを浮かべている。

 

 穏やかな雰囲気が落ち着くまで少しだけ時間を置いて、戸塚は天使らしい提案を行う。

 

「あのね。みんなで『わっ!』って驚かすのは八幡が少し可哀想だし、ぼくたちも千葉村にいるよって伝えるのはどうかな?」

 

「そうね。逃げられさえしなければ良いのだから、彼の所在を確認した後で今回はその方針でいきましょうか」

 

「うん、あたしも賛成!」

 

「それだけでも兄からすればビックリですよねー」

 

 ちょうどログハウスに到着したので、各自がいったん荷物を置いて再び建物の前に集まった。小町がメッセージアプリを立ち上げて、その内容を全員が見られる状態にする。

 

 こうして兄妹による文字での会話が始まった。

 

 

***

 

 

『お兄ちゃん、今どんな感じ?』

 

『相変わらずアバウトな質問だな。スタッフは仕事場に帰って、俺はまだ千葉村でのんびりしてる』

 

 先程やって来た小学生の集団を目にして以来、比企谷八幡は入村客の様子を見る気が失せて、ベッドで横になりながら考え事に耽っていた。そこに突然メッセージが来たので、彼は頭を切り換える目的もあってすぐに返事を送った。

 

『どこか歩き回ってるの?』

 

『おもいで広場ってあっただろ。駐車場の前の。あの近くの小屋で引き籠もってる』

 

『お兄ちゃん……。せっかく自然の中にいるんだし、外に出てみたら?』

 

『なんか朝から動いてたからか、ちょっと疲れた気分でな』

 

 実際には疲れている理由は明白なのだが、八幡はあえてこう書いた。余計なことを妹に伝える必要はないと考えたのだ。

 

『何かあったの?』

 

『何もねーよ。んじゃ、ちょっと外の空気でも吸って来るわ。つどいの像とか入り口の看板の写真を撮ってくるから、後で送るな』

 

 しかし長年にわたって連れ添った妹の鋭さは侮れない。シンプルながらも八幡には答えにくい問いかけが返って来た。八幡は少し間を置こうと考えて、先程の妹の提案を持ち出して会話を閉じようとする。しかし次に届いたメッセージを見て、彼はその場で固まってしまった。

 

『小町は今、林間キャンプ場にいるから、つどいの像の前で待っててね』

 

「……は?」

 

 こうして彼らは無事に合流した。

 

 

***

 

 

「で、なんでお前ら勢揃いしてこんなとこに居るんだ?」

 

 妹の意向に逆らうという選択肢が存在しない以上、八幡は潔く諦めて像の前で待っていた。そんな彼の視界に見知った人物たちが姿を見せる。大きくため息をついて、八幡は返答の内容をおおよそ予測しながらも基本的な質問を投げかけた。

 

「あら、言わなかったかしら。今日から二泊三日の予定で合宿を行うと」

 

「行き先がこことは言ってなかった気がするが?」

 

「詳細を告げる前に貴方が不参加を表明したのではなかったかしら?」

 

 故意であることを隠そうともせず、しかし雪ノ下は表面的には否認を貫く。二人がこの種の口論を始めた以上は傍観するのが吉だ。そう学習して久しい面々は、口を差し挟むことなく静かにしている。

 

「群馬県を作ったって言っただけなのに、なんでピンポイントにここだと判ったんだ?」

 

「それは私の説明が悪かったわね。貴方は『千葉村を作っている』とは言ったものの『群馬県を作っている』とは言っていなかったのだから。伏してお詫び申し上げ謹んで訂正させて頂きます」

 

「おい、今更すぎるだろ……」

 

 大袈裟な表現で形だけの謝罪を行う雪ノ下に、八幡は呆れたような声で応えた。だがこの時点での雪ノ下は、自身の中に八幡への甘えがあることには気付かない。もくろみがうまくいったと気をよくして、彼女はそのまま言葉を続ける。

 

「さて。こうして無事に比企谷くんも参加できる形になって、合宿は上々の滑り出しね。そういえば貴方は『合宿に参加できるなら率先して雑用を行う』などと供述していた気がするのだけれど?」

 

「俺が何かの容疑者みたいな言い方は止めてくんない?」

 

 せめて一矢でも報いてやろうと、八幡は目の前の少女を挑発しながら話を逸らそうと図る。さすがの雪ノ下も思惑が完璧に嵌まったこの状況では気の緩みが出たのか、彼の期待通りに反論を行ってきた。

 

「少なくとも私たちは、貴方に逃亡のおそれがあると思っていたのだけれど?」

 

「ま、お兄ちゃんですからねー。小町も誘ってもらったし、みんなで一緒に合宿できるんだから、いい加減に諦めたら?」

 

「ごめんねヒッキー……。でも、せっかくだし一緒に楽しもうよ」

 

「八幡が機嫌を悪くするのも解るけど……ごめんね。できたらぼくも八幡と一緒に合宿したいな」

 

「おう。じゃあ今から何をしようか。ってテニスだな。テニスに決まってるよな。じゃあ早速コートに移動して……」

 

 申し訳なさそうに話す戸塚の言葉を聞いて、なぜかほっとした表情を少し浮かべながら、八幡はたちまち態度を豹変させた。そんな彼に向けて一斉に非難の嵐が巻き起ころうとした瞬間。送迎バスがクラクションを鳴らして彼らの前を通り過ぎた。

 

 

***

 

 

「座ってばっかなのも疲れるし」

 

「葉山先輩のお話が楽しいから、わたしはぜんぜん退屈しませんでしたよ〜」

 

「はやはち運命の出逢いに向けてカウントダウンしてたから、私もちょっと疲れたかな」

 

「やっぱ運命ってあるでしょー!」

 

 バスから降りてきた騒々しい集団が、八幡たちの居る像の前に近付いて来た。彼らを代表するように葉山隼人が口を開く。

 

「やあ。俺たちのほうが遅くなったけど、今のところ予定は……」

 

「平塚先生によるとスケジュール通りに進んでいるそうよ」

 

 言葉をかぶせるように雪ノ下が答えて、そのまま口を閉じる。何とも言えない空気が漂い始めるのを嫌って、由比ヶ浜がフォローに入った。

 

「あ、えーと。あたしたちは荷物を置いてきたから、みんなも先にログハウスに行って来たら?」

 

「ログハウスって、テンション上がるでしょ。あ、でもバンガローとどう違うの隼人くーん?」

 

 普段なら相手をするのが面倒な戸部翔だが、この場では多くがほっとした表情を浮かべていた。そのまま少しだけ雑談をした後で、由比ヶ浜が彼らを先導してキャンプ場へと去って行った。

 

 

 彼らが視界から消えるのを待って、八幡が口を開く。

 

「で、なんであいつらも来たんだ?」

 

「三浦さんと一色さんに相談されたのよ。この時期は毎年インターハイが行われているのだけれど、この世界では予選にすら参加できない状況でしょう。そんな葉山くんたちを元気付けるために合同合宿を行いたいと」

 

「理屈は通ってるけど、なんか引っ掛かるな。あれじゃね。あいつらがお前や由比ヶ浜と一緒に遊びたいって目的もあるんじゃね?」

 

「そ、そうなのかしら?」

 

 珍しく挙動不審の気配を漂わせて、雪ノ下がかろうじて反応した。八幡にとっては絶好の反撃のチャンスだったのだが、続いて口を開いた人物のお陰でその機会は永遠に去ってしまった。

 

「もしかしたらそうかもね。合同合宿って言われたから、ぼく参加しても良いのかなって悩んでたんだけど。サッカー部からは葉山くんと戸部くんだけって、ちょっと変だなって思って」

 

「おいおい、戸塚は何にでも参加していいんだぞ」

 

「またお兄ちゃんの病気が始まったよ……」

 

「八幡はそう言ってくれるけど、材木座くんも締め切りがどうとかで参加できないって言うし、ちょっと不安だったんだよ?」

 

「あー、えーと。小町の家に来てもらった時も皆さん仲良さそうでしたし、三浦さんたちがまた集まりたいって思う気持ちも分かりますねー」

 

 このままでは二人の世界を作られてしまうと、慌てて小町が口を挟んだ。普段なら雪ノ下の収拾を待てば良い場面だが、先程から小町が横目で観察している限り、彼女はまだ平静を取り戻せていないように見える。

 

「それなら葉山も戸部も抜きで良かったのにな」

 

「お兄ちゃん、確かにあのイケメンが相手だとやばいよ。絶対に勝てないよ!」

 

「小町ちゃん、八幡には八幡の良さがあるよ。それに三浦さんたちも葉山くんとは一緒に来たかっただろうしね」

 

「と、戸塚さんの発言が眩しすぎる……」

 

「おいおい小町。戸塚が天使なのは当たり前だろ。まああれだ。部の合宿を名目に仲の良い連中が集まったって思えば良いんじゃね。俺まで巻き込むのはどうかと思うが」

 

「はあ……。彼女らの目的がどうあれ、学校行事に準じる形で今回の合宿を計画したので、浮ついた気持ちで参加されると困るわね。あなたたちも気を引き締めるように」

 

 一緒に遊びたいという希望も含めた相談だったのかもしれない。その可能性を指摘されて、嬉しさと照れ臭さで表情が安定しない雪ノ下は、なんとか威厳を作りながら話をまとめた。年下の女の子にまで「雪乃さん可愛いなー」と思われているなど予想だにせず、彼女は真面目な表情を頑張って維持しようと努めるのだった。

 

 

***

 

 

 幸いなことに、葉山たちが戻って来るのと時を同じくして、平塚先生も打ち合わせから戻って来た。場所をおもいで広場に移して、生徒たちは教師を前に思い思いの場所に散らばって話が始まるのを待っている。

 

「今のところ、小学生たちの林間学校は予定通りに進んでいる。今はオリエンテーリングを行っているが、特に時間を競ったりはせず気楽に楽しむ形だと言っていたな。やることがないので、あちらの責任者も暇そうにしていたよ」

 

 コースから外れて迷ったり崖から落ちたりしないように、千葉村に入村した小学生たちは行動範囲が制限されている。更には責任者の地図アプリで全員の位置が常時確認できる。

 

 現実であれば危険な場所には欠かさず監視員を配置する必要があるが、この世界では安全が保証されているために引率者も暇を持て余しているのだと彼女は説明した。

 

「君たちにサポートしてもらうのは次の飯盒炊爨からだ。といっても、我々が食べるぶんを準備しながら、手の空いた者が小学生の間を見て回る程度で問題ない。調理の手助けをするよりも、積極的に話しかけてくれると助かるな」

 

 それを聞いて八幡と雪ノ下が少し表情を硬くした。全員の反応を順番に眺めていた教師はもちろん彼らの変化に気付いていたが、あえて手を差し伸べようとはしなかった。全員の前で言う事でもないし、何を言うにしても実際に行動をした後が良いだろうと考えたのだ。

 

 

 気軽なボランティアだとか、合宿のようなものだとか、生徒たちにそう説明した彼女に嘘はない。だが、それらとは別の意図を持っていたのも確かだった。人付き合いの経験に乏しい二人にとって、この数日間が少しでも良い切っ掛けになればと彼女は考えていた。

 

 当初は奉仕部の三人に仲の良い数人を加えた編成を予定していたが、葉山たちが参加してくれたのは僥倖だったと彼女は思う。それは参加者の人間関係という意味合いだけではない。

 

 生徒たちにはあえて伝えていないのだが、「文化部と運動部が共同で、インターハイの期間中に小学生相手のボランティアを行った」ことは大きな意味を持つだろうと彼女は考えている。今後に与える影響という意味でも、サッカー部という名前が参加する意義は大いにあったのだ。

 

 この場所で過ごす三日間が生徒たちにとって実り豊かな経験になるように。そして予算を巡って揉めた後も水面下で燻り続けている文化部と運動部の対立解消に良い影響を及ぼしてくれるように。

 

 そうしたことを内心で願いながら、平塚先生は注意事項を話し終えた。

 

「小学生がこの広場にいったん集合した時に、君たちを紹介する予定になっている。……そうだな。葉山、代表で挨拶を頼めるかね?」

 

「わかりました。大丈夫です」

 

「もう少しだけ時間に余裕があるので、各々自由に過ごしていてくれたまえ」

 

 

 さすがに遠くに行こうと言い出す者もなく、広場の中で雑談の輪が広がっていた。そんな生徒たちを尻目に、八幡はゆっくりと教師のもとに近付いて行く。

 

「先生。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 

「どうした比企谷。小学生と話をするのは緊張するかね?」

 

 茶化すようなことを口にした平塚先生だったが、八幡の表情を見て口を閉ざす。彼の雰囲気が少し変だと気付いた雪ノ下と由比ヶ浜、更には戸塚と小町も八幡を追って近寄ってきた。

 

「さっき説明にあった地図アプリなんですけど、先生も確認できるんですか?」

 

「小学生たちの位置を確認するという話なら可能だが、それがどうしたのかね?」

 

「ちょっと見せてもらって良いですかね?」

 

 無言でアプリを立ち上げて、彼らにも見えるように表示を変更する。地図の上には小さな黒い点がいくつも存在していた。

 

「ちょっと拡大しますね。……たぶんこれだな」

 

 八幡が地図を限界まで拡大すると、そこには黒い点が四つ固まっていて、ほんの少しだけ離れた場所に黒い点が一つあった。オリエンテーリングは基本的に五人一組で行われているという話だ。

 

「ヒッキー、これって……」

 

 人間関係の機微に詳しい由比ヶ浜が、何かを悟ったように呟く。雪ノ下も小町も、そして戸塚も平塚先生も、すぐに彼女が言おうとしたことを理解した。

 

「小学生も大変だな……」

 

 画面から目を逸らしながら、八幡は力なくそう呟いた。

 




次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
八幡と合流直後のシーンにて、戸塚や由比ヶ浜のセリフに変更を加え地の文を加筆・修正しました。(4/14)
細かな表現を修正し後書きを簡略にしました。大筋に変更はありません。(7/7)


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03.みんなと違う行動をして彼女はみんなから孤立する。

前回までのあらすじ。

 千葉村にて妹と天使を含む奉仕部の一団と合流した八幡だが、葉山グループまで現れたこと・小学生の相手をする必要があることで、ただでさえ少なかった彼のやる気は風前の灯火だった。

 集団から一人離れて入村した少女の姿が頭から離れなかった八幡は、それが到着時だけではないことを確認して何やら考え込んでしまうのだった。



 小学生たちの元気な声に圧倒されながらも、ボランティアの中高生は段取りよく調理を進めていた。日常的に料理を作っている生徒が多いことに加えて、奉仕部が元通りになったお祝い会の時に各々の料理スキルを披露しあっていたおかげで役割分担がスムーズに進んだのも大きかった。

 

 葉山グループの面々はおおむね陽気に過ごしている。一方で、奉仕部を中心としたその他の面々は何か気になることを抱えているかのように、楽しみきれていない様子だった。

 

 とはいえ敢えて話題にするほど深刻ではなさそうなので、まずは目の前の調理に集中しようという無言の合意が両者の間で成されていた。中高生たちの段取りの良さにはそうした理由もあったのだ。

 

「んじゃ、俺らが鍋を見てるから、お前らは小学生の相手を頼むわ」

 

「ああ。じゃあ行こうか」

 

 覇気のない声で比企谷八幡はそう提案する。葉山隼人は特に気を悪くすることもなく、笑顔でそれを了承した。グループの成員を二手に分けて別々の方角へと向かわせて、自身は一人でその中間の辺りを担当する。

 

 葉山グループの五人が去るのを待って、由比ヶ浜結衣が口を開いた。

 

「やっぱり今も、あの子だけ少し距離があるね」

 

「広場に入ってきた時も、同じぐらいの距離を空けていた気がするのだけれど」

 

「ぼくは野菜を運んでたから見てないんだけど、やっぱりそうなんだ」

 

「雑用が入っちゃったから仕方ないですけど、もう少し相談しておきたかったですね」

 

 なにぶんこの世界で林間学校を行うのは初めてだけに、ドタバタするのも仕方がないのだろう。彼女らが事態を把握して相談を始めようとしたところ、運悪く食材の運搬などが済んでいなかったことが判明して、そのまま中高生たちは作業に追われてしまった。

 

 何とかそれを済ませて広場に戻ると、間を置かず小学生に紹介された。ボランティアの中高生たちがいずれも平均を軽く超える容姿だったためか、小学生の間からは男女を問わずざわめきの声が上がっていた。

 

 なお、集団を直視するのが恥ずかしくて猫背で遠くを見ていた八幡だが、彼の老成したような雰囲気とまずまず整っている顔かたちのおかげか、意外に人気を集めていたのはここだけの話である。

 

 

「ふむ。君達は何とかしてあげたいと、そう思っているのかね?」

 

「そうですね。あの子の意思を確認するのが先決ですが、外部からの助けが必要なのであれば、力になりたいと私は思います」

 

 思いがけずキッパリと言い切る雪ノ下雪乃に、その他の面々は少し意外そうな目を向ける。しかし彼女らも気持ちは雪ノ下と同じだった。

 

「あたしも同じような経験があるんだけどさ。たぶんあの子たちも、少し前までは五人で仲良くしてたんだよね」

 

「結衣さんの時も同じだと思うんですけど、些細なきっかけであんな風になっちゃいますよね。仲が良かったはずなのに、悪意を持ってあざ笑ったりして」

 

「ぼくも見たことあるよ。止めたかったけど、すぐに終わるから心配ないって言われちゃって」

 

「ま、順番だったらすぐに終わるってのは間違いではないけどな」

 

 どこか他人事のような口調で八幡がようやく口を開いた。彼の発言の裏になにか重苦しいものを感じて、高校生たちは口をつぐんでしまった。

 

「標的が一人に決まっちゃうと、興味を持たれなくなるまで待つしかないので大変なんですよね」

 

「俺は自分でやらかしたってのもあるけどな。まあ、独りで耐えるのは結構つらいけど、それでも小町がとばっちりを食うよりは、な」

 

「お兄ちゃんがあんな感じだったから、小町は普通にしてるだけで受けが良かったし楽だったんだけどさ。お兄ちゃんに悪意を向けてた人が、小町には笑顔で話しかけてくるの。あれ、嫌だったな」

 

「悪意って、突然のように向けられるから厄介だよな。善人が、少なくとも普通の人間が『急に悪人に変わるんだから恐ろしい』って、どっかの文豪も書いてたし」

 

「たしか漱石だったかしら。他人のこころは分からないものね」

 

「嘘つきのクイズみたいに、どんな時でも嘘をつくとかだと話は楽なんだけどな。常に悪意を持ってる奴なら近寄らなければ済むんだが。急に悪意を向けてきたり、善……まあ、難しいな。やっぱり専業主夫として余計な関係を作らないのが一番だわ」

 

 話に加わってきた雪ノ下と妹の顔を順に眺めて何かを言いかけて、しかし八幡は口を閉ざして代わりに軽口を叩いた。話が深刻になりすぎていることに気付いて、これ以上は広げないようにと。同時に、自分は慣れているのだから、変に気を遣わせるような話題は避けようと考えて。

 

 

「比企谷の将来の夢は夢として、では君達はどうするかね?」

 

 何となく色々なことを察しながら、平塚静は八幡と雪ノ下以外の面々を順に眺める。彼女の視線を受けて由比ヶ浜が、ついで戸塚彩加と比企谷小町がそれぞれの意思を表明した。

 

「ゆきのんが動くなら、あたしもあの子のために頑張る!」

 

「ぼくも、今までは止められてばかりだったから。何かできることがあるなら協力したいな」

 

「小町も同じです。お兄ちゃんは大丈夫だったけど、振り返ってみたらもっと酷いことになってても不思議じゃなかったですし。他人事とは思えないです」

 

「……あのな。もしも本人が要らんお世話だって言ったら、余計な介入は避けた方がいいと思うぞ」

 

 再び覇気のない声に戻って、八幡は念の為に釘を刺した。雪ノ下だけは八幡の意図を察した様子だが、その他の面々は不思議そうな表情を浮かべている。

 

「では、続きは葉山たちも加えて夕食の時に相談したまえ。鍋は私が見ているので、君達もそろそろ小学生とたわむれて来るといい」

 

 平塚先生が話をまとめて、五人は一旦解散となった。三人は元気に、そして二人は憂鬱そうに、小学生の群れへと向かっていくのだった。

 

 

***

 

 

「ちょっと火が強すぎる」

「旨そうな匂いだな」

「早く作りすぎても後で暇になるぞ」

 

 小学生の集団の中を、八幡はステルスヒッキーを使用しながら素早く通り抜けた。全ての班を見て回って、そのうち三班には具体的な助言まで残して、ノルマを達成したと判断した彼は意気揚々と帰還を果たした。

 

 声をかけられた小学生たちが彼の存在に気付かず、「この世界にも幽霊が?」と怯えていたのはここだけの話である。

 

「……比企谷。小学生と仲良くしろとは言わないが、君はもう少し『うまくやる』ことを身に着けるべきだな。同世代が相手でも同じだが、明確に敵対したり、あるいは姿を消すのではなく、無難にやり取りができるよう意識して行動したほうが良い」

 

 だが平塚先生には彼の行動はお見通しだったようで、しっかりとお小言を喰らってしまった。八幡としても自分を案じての助言だと解っているだけに、表立って反論する気はなかった。

 

「雪ノ下が先に戻って来て、今はあそこに居る。料理は私が見ているので、君もあの辺りで休んでいたまえ」

 

 

 教師のお許しを得て、八幡は炊事場を後にした。少し歩いた先にある、金網に囲まれたゴミ捨て場の横。そこで佇む雪ノ下に近付きながら、八幡は声をかけた。

 

「俺より早いって、お前ちゃんと小学生の相手をして来たのか?」

 

「ええ。近くで調理をしていた班の子に話しかけて、じゃがいもの煮崩れの話から化学に繋がる話をしてみたのだけれど」

 

「ああ、うん。だいたい解った」

 

「私があの子たちの年齢の時に、こういう話をしてくれる先達がいればと思いながら話したのだけれど。ままならないわね」

 

「まあ、最近は趣味が多様化してるからな。あれだ。その話を由比ヶ浜とか小町にしても、同じような反応になるんじゃね」

 

「そう言われてみると、その光景がありありと思い浮かぶわね」

 

「だろ。たぶん俺らが聞いても、化学の話は葉山ぐらいしか理解できないだろうし、あんま落ち込まなくても良いんじゃね?」

 

「……そうね。じゃがいもから世界史の話に繋げれば良かったのかしら?」

 

 少しだけ口ごもって同意を返し、続けて雪ノ下は冗談を言った。彼女の軽口を八幡は苦笑することで流している。確かにそれなら、少なくとも八幡も理解はできるだろう。

 

「さっき平塚先生から、『仲良くしなくて良いからうまくやれ』的なことを言われたんだけどな」

 

「何か目的がある場合には、うまくやることはできると思うのだけれど。仲良くしなくて良いのは助かるわね」

 

「だな。問題は、必要を感じないこと、なんだろうな……」

 

「ええ。うまくやること自体は、経験や技術で何とかなると思うのだけれど。自分に理由がないのにそれをするのは……」

 

「欺瞞でしかないよな。まあ、感情を押し殺して仲良くしろって強制されるよりはマシかもしれんが」

 

 高校生らしい潔癖感を発揮しながら、二人は理解を共有できる会話を続けていた。お互いに視線を合わせることなく炊事場を眺めながら話していた二人の前に、一人の少女がゆっくりと近付いて来ていた。

 

 

***

 

 

「カレー、好き?」

 

 広場で中高生を代表して挨拶をした男の人に話しかけられて、鶴見留美(つるみるみ)は即座に身構えた。放っておいてくれたら良かったのにと内心で恨み言をつぶやいて、彼女はどう返事をしようかと考える。

 

 だが冷静に考えるほどに、状況は詰んでいるようにしか思えなかった。もしも「好き」と答えれば高校生に媚を売っていると受け取られるだろうし、「嫌い」と答えればしばらく会話が続くことになるだろう。それをどう解釈されるかは考えるまでもない。

 

「別に。どうでもいい」

 

 少女は素っ気なく返事をして、ゆっくりと炊事場から離れていく。彼女の背後では、声をかけてくれた高校生が困ったような表情を浮かべている。それは見なくても分かるのだが、だからといって彼女にはどうすることもできない。

 

 少しずつ自分の存在を自然の中に溶け込ませるように、決して目立たないようにと気を配りながら、彼女は視界の先に見えたゴミ捨て場に向けて歩いて行った。あの場所なら誰も近付いては来ないだろう。

 

 しかし彼女の予想に反して、ゴミ捨て場の付近には先客がいた。

 

 いずれも揃って容姿の整った中高生たちの中でも、一際輝く存在感を放っていた女性。そして、この歳にして既に何かを悟ったかのような奥深さを感じさせる、なぜか親しみやすさを覚える男性。二人はもしかして付き合っているのだろうか。

 

 二人から見えない位置でゆっくり立ち止まって、少女は様子を窺うことにした。

 

 こっそりと見ている限り、二人からは甘ったるい雰囲気をまるで感じない。親しい仲であることは見れば分かる。だがそれは仲の良い同性の友人に対するかのような、趣味や考え方を共有する者同士が発するような親しさだと少女には思えた。少なくとも男女の仲だとはあまり思えなかった。

 

 その時、風に乗って男性の声が耳に届いた。

 

「……感情を押し殺して仲良くしろって強制されるよりはマシかもしれんが」

 

 はっと顔を上げて、気が付けば彼女は小さく隠していた身体を二人に晒していた。ほんの少しの後悔と大きな不安を抱きながらも、彼女はすぐに動くことを決断した。ゆっくりと、他の人には気付かれないような自然な動きで、少女は二人に近付いて行った。

 

 

***

 

 

 この場所が一般に開放される前から滞在していたことがバレないように、奉仕部に合流するまで八幡は個室に隠れて外部の様子を窺っていた。その時に見た、集団から距離を置かれていた小学生の女の子。まさにその少女が自分たちに向けて近付いてくる光景に出くわして、八幡は夢を見ているような気持ちになった。

 

「ねえ。……どこかで会った?」

 

 はっきりと八幡を見据えて、少女はそう口にした。きわめて現実的な口調で、現実から遊離したような問いかけを。

 

 意外な質問に首を傾げている雪ノ下を横目に、八幡は何と答えたものかと逡巡する。覗き見がバレれば目の前の少女はもちろん、横に立つ部長様に何を言われるか分からない。最悪の場合は存在を抹殺されるまであるとおののきながら、八幡は頭を働かせていた。

 

「あ、やっぱいいや。それより、名前」

 

 一方の少女も自分の発言に驚いていた。彼が向けてくる視線になぜか懐かしさを感じて、以前にどこかで会ったような気がしてしまったのだが、よくよく考えるとそんな偶然はあり得ないだろう。自分の中でひとまず納得して、少女は先程の発言を打ち消した。

 

「名前がどうかしたのか?」

 

「名前を聞いてるって、ふつうは伝わるでしょ?」

 

「普通は伝わらないし、人に名前を尋ねるのであれば、まずは自分から名乗るべきだと思うのだけれど」

 

 ようやく少女の意図を理解できて、雪ノ下が厳しい口調で年長者らしい答えを返した。少しだけ怯みながらも、相手の言葉に納得した少女は自己紹介を行う。

 

「鶴見留美。留美でいい」

 

「そう。私は雪ノ下雪乃。彼は比企谷八幡よ」

 

「つきあってるの?」

 

 念の為に確認しようという程度の軽い気持ちだったのだが、留美は全身に寒気を覚えて軽率な発言を後悔した。唇を引き締めて何度か小さく頷いて「言われずとも理解しました」という意思を高校生に伝える。

 

「さっきの話、ホント?」

 

「どの話だ?」

 

 三人がそれぞれ話題を探して少し間が空いた後で、留美が八幡に向けて口を開いた。話を逸らしたいという思惑もあるが、それ以上に先ほど耳にした話題をもう少し詳しく知りたいと思ったのだ。

 

「えっと、『感情を押し殺して仲良くするのが』って話」

 

「そうだな。俺はできればそんなことはしたくないな」

 

「ええ。誰かと仲良くしたいという感情は、強制されるべきものではないと思うわ」

 

 留美から目を向けられて、雪ノ下も素直に答える。少し表情を明るくして、留美は会話を続けた。

 

「そういうの、私もあきちゃって。ハブられるなら一人でもべつにいいやって。あの子たちとムリに友達しなくてもいいんだよね?」

 

「そうね。とはいえ貴女が中学に入って新しい環境になったからといって、友達になりたい人が現れるとは限らないのだけれど」

 

「そっか……」

 

「たいていの場合は、今のあの子たちと一緒になって、貴女を仲間外れにするでしょうね」

 

 甘い未来を見せることなく、雪ノ下は厳しい現実を突き付ける。まるで自分が体験したことを語るかのように、彼女は留美に向かって静かに断言してみせた。

 

「……何があったんだ?」

 

「クラスでだれかをハブるブームみたいなのがあって。だいたいはハブられた子があやまって終わりだったんだけど、私の番になったらバカらしくなっちゃって」

 

「そうだな。馬鹿らしいよな」

 

 八幡にはそう答えることしかできない。いつしか留美の声には嗚咽が交じり始めていた。

 

「そっか。でも、中学でもこんな感じなのかぁ……」

 

 震える声で絞り出すように呟かれた言葉に、八幡も雪ノ下も返事を返すことはできなかった。




次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(4/21,7/7)


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04.るる綿々と彼らの話し合いは尽きない。

前回までのあらすじ。

 グループ内で疎外されている少女を見て、当人の希望さえあれば手助けをすると雪ノ下は言い切った。由比ヶ浜・戸塚・小町もそれに同調するが、八幡はどこか気乗りがしない様子だった。

 小学生の相手を何とか終えて、炊事場から離れた場所で雑談をしていた八幡と雪ノ下の前に、件の少女が現れる。中学でも同じ事が続くという雪ノ下の予言を聞いて、こぼれそうになる涙をこらえる留美に、二人は掛ける言葉を見付けられなかった。



「ごちそうさまでした」

 

 全ての班が無事に調理を終えて、そのまま食事と後片付けとを済ませると、子供たちは入浴のために速やかに炊事場から去って行った。まだ小学生なので就寝時間を早くする必要があり、そして入浴後も班長会議や各班ごとの反省会が控えているのだ。

 

 そんな多忙な小学生と比べると、ボランティアの中高生は気楽なものだった。既にこの日の仕事は終わっている。それに小学生に合わせてかなり早めの夕食になったので、お菓子などの軽食がこの後で配布される予定になっている。

 

 そんな至れり尽くせりの状況なのに、中高生たちの雰囲気は常とは違って少し落ち着きすぎている感があった。

 

「あの元気はどこから出て来るんだべ?」

 

 夕食のカレーを食べていた時も、戸部翔を始めとして場を盛り上げる術に長けた面々が話を切らせず、小学生からは和気藹々と過ごしているように見えただろう。しかし実態は、各々が話を切り出すタイミングを窺いつつも今ではないと諦めるという繰り返しだった。

 

「さて。何人か、真面目な話をしたがっているように見えるが。どうするかね?」

 

 そうした生徒たちの様子など教師からすればお見通しで、平塚静は夕食後も解散する気配のない中高生に行動を促した。大きなやかんの蓋を開けて水を入れながら、彼女は生徒たちに背を向ける。

 

 片付けを終えて立ったまま指示を待っていた中高生たちは互いに視線を交わした後に、まずは再び食事の時と同じ席に着いた。

 

「今さら堅苦しいことを考えなくても良いだろう。誰でも好きに発言したまえ」

 

 火を落とさずにいたかまどの上にやかんを置いて、平塚先生も席に着いた。

 

 木造の机を挟んで長椅子が二つ並んでいて、右手奥から雪ノ下雪乃、比企谷小町、由比ヶ浜結衣、海老名姫菜、三浦優美子の順に座っている。お誕生日席の一色いろはを挟んで、左手手前から戸部、葉山隼人、戸塚彩加、比企谷八幡が並び、その横に教師が腰を下ろした。

 

 

「じゃあ俺から。みんな気付いていると思うけど、班の中で孤立気味の生徒がいたよね」

 

「あーしも見てたけど、途中からどっか行ったみたいだし」

 

「わたしは葉山先輩が話しかけてる時に近くにいたんですけど、波風を立てないように身を引いたって感じでしたね〜」

 

 まずは葉山が口火を切って、三浦と一色がそれに続いた。女王然としながらも周囲にさりげなく注意を払っている三浦もさすがだが、気が付けば葉山の動きを見逃さない位置をキープしている一色もさすがと言うべきなのだろう。

 

 小学生の相手をして回る時に、葉山は自グループを三浦・海老名と戸部・一色の二組に分けた。単独で動く自身も含めると三つに分かれたはずなのだが、片や一色は彼の行動を把握しており、片や戸部は彼の行動が初耳だったらしい。

 

「困ってる子に話しかけるとか、隼人くんマジ凄いっしょ!」

 

「……本当に、凄いものね」

 

「……そうだな。葉山。お前が話し掛けたのって、あの子を困らせる結果にしかなってない気がするんだが、それをどう思う?」

 

 だが戸部の盛り上がりに冷や水を浴びせるように、雪ノ下が端的につぶやく。褒めているとは到底思えないその口調に誰もが口を閉ざす中で、八幡が口を開いた。彼の質問に苦笑しながら葉山が答える。

 

「そうだね。詳しい話を教えてくれるきっかけにでもなればと思ったんだけど、嫌われちゃったかな」

 

 八幡も雪ノ下も「そういうことではない」と言いたくなる気持ちを抑えて黙り込んでいた。葉山とて全く理解していないわけではないと、二人は彼の口調の端々から勘付いたのだ。

 

 この場では最年少になる小町や引っ込み思案の戸塚は、会話に加わる気配を見せていない。由比ヶ浜は変な諍いに発展しないようにと身構えながらも、まだ口を挟む気はなさそうだ。海老名は何を考えているのか、教師と同様に静かに全員の様子を窺っている。

 

 そんな状況ゆえに、下座に固まっている三浦・一色・戸部の発言が続いた。

 

「隼人の配慮が伝わってないのが悔しいし」

 

「そうですね〜。孤立してる小学生に話し掛けるだけでもハードルが高いですし」

 

「隼人くんさすがだわー。そういや俺が小学生の時にさ……」

 

 そしてそのまま、戸部の過去語りがひとしきり続いた。

 

 

***

 

 

 それは戸部が小学校の低学年の頃にあった出来事だった。

 

 何が原因だったのか今となってはすっかり忘れてしまったが、授業にぽっかり空きができてしまった時があった。担任の教師に急用ができたとか、おそらくはそうした理由だったのだろう。

 

 自由にグラウンドを使っても良いと言われ、戸部たち男子はサッカーをすることにした。クラスには彼ともう一人サッカーの経験者がいたので、二人がじゃんけんをして勝ったほうからメンバーを指名していく形になった。一人ずつ選んではじゃんけんという繰り返しだ。

 

 クラスでも運動に優れた生徒をまずはお互いに分け合って、次のじゃんけんに勝った戸部は、なんとなく目に付いた同級生の名前を口にした。

 

 その生徒は、勉強こそできたものの無口な性格で、そして運動を苦手としていた。こうした形でメンバーを決める時には、最後までは残らないがなかなか指名されないという立ち位置だった。

 

 それが二人目で指名されたことに、当人を含め生徒全員が驚いていたが、戸部に深い考えがあったわけではない。どうせ遊びなのだし目に付いたからという程度の理由でしかなかった。

 

 

 キーパーを買って出た戸部は、その生徒が(下手なので足手まといになると思ったのだろう)攻撃に参加したがらないのを見て、ゴールの近くで控えているように命じた。メンバーが良かったのか、彼らのチームが攻撃する時間は長く続いて、二人のところにはボールがあまり来なかった。

 

 それまでほとんど話したことのない関係だったが、戸部が自陣奥から味方の動きに一喜一憂していると、それに応えて少しずつ口を開いてくれるようになった。

 

 その生徒は「たぶん」と付け加えるのが口癖で、しかし「大丈夫。たぶんね」と彼が言った時にはたいていが良い結果になった。「こっちまで攻められるよ。たぶんだけど」と言うと、多くはその通りになった。

 

 彼の存在がチームのプラスになったかというと微妙だった。攻められることを予想した彼は適切な守備位置に就いて、そしてあっさりと突破された。中盤でボールの奪い合いをしていたときに「誰かがあの位置で受ければ」と言うので背中を叩いて送り出せば、見事に空振りをして尻餅をついていた。

 

 

 だが、この日の経験は、彼の意識に何らかの変化をもたらしたのだろう。

 

 勉強はできても目立たない存在だった彼は、その学年の終わりに初めて班長を務めた。それを皮切りに、補欠の学級委員に選ばれてからは(当選した生徒が家庭の事情で辞退したのだ)学期をまたいで務め続け、最後には生徒会長にまでなっていた。

 

 今では東京の進学校に通っているというその生徒は、戸部に恩義を感じていたのだろう。全てはあの日に指名してくれたおかげだと、彼は常々口にしていたらしい。この世界に巻き込まれる直前まで定期的に連絡を取っていたと、戸部は少し誇らしげに語った。

 

 

***

 

 

 思いがけない戸部の昔話を聞いて、一同は静まり返っていた。教師が手ずから淹れてくれた紅茶を誰かがすする音が、やけに大きく響いている。

 

 話の序盤には無駄な語りを止めさせようと介入を図っていた一部の面々も、現在の状況に繋がる話だと理解できてからは素直に聴き役に回っていた。

 

「だからさ。困ってる子に話し掛けるって隼人くんの行動は、間違ってないと思うんだべ」

 

「あーしもそう思うし。あーしが同級生だったらさっさと話し掛けて、孤立させないように同じ班になってるし」

 

「戸部先輩のお友達って、話し掛けられたきっかけを上手く活かして努力したんでしょうね〜」

 

 だが一色の発言を耳にして、八幡は引っかかりを覚えた。確かに戸部の友達は機会を上手く活用して、自分でもかなりの努力を積んだのだろう。内気な性格の少年が生徒会長にまでなったのだ。自身も内向的な面を持つ八幡には、その困難を想像することができた。しかし。

 

「そいつの努力は凄いって俺も思うけどな。今回の葉山の接触の仕方だと、チャンスを活かすとか無理っぽくね?」

 

「うーん。とべっちの話って、クラスで孤立してるとかじゃなかったよね。今のあの子の状況だと、あたしたちに話し掛けられただけでアウトって言うかさ……」

 

「あー。生意気だとか、そんな風に言われちゃうかもですね」

 

「う〜ん。それは確かにありますね〜」

 

 少し攻撃的な口調の八幡を危うく思ったのだろう。由比ヶ浜がやんわりとフォローを加え、それに小町が自然な形で口添えをする。発言を咎められた一色にも彼女らの意図は伝わっているようで、人差し指を頬に当てて首を傾げる可愛らしい仕草で困ったような表情を浮かべていた。

 

「だからこそ、先ほど一色さんが口にしたように『波風を立てないように身を引いた』のでしょうね」

 

「そう考えると、一人だけ大人びちゃったのが原因なのかもですねー。もう少し年齢が上がると周りも変わってくるとは思うんですけど」

 

「今の問題を解決することにはならないですよね〜」

 

 さすがに雪ノ下は先程の一色の発言を見逃すことはなかった。この状況ではきっかけも何も不可能だということを、彼女は最初から理解していたはずだ。そんな裏の意図を込めて軽く挑発してみたものの、小町がすぐに口を開いたこともあり、一色はそれに乗じて平然と流している。

 

 実は一色としては、この状況を受けて葉山がどう行動するのかを観察したいのが本音だった。それは二年F組に変な噂が流れたいつぞやと同じであり、クレバーな彼女にとっては当然の帰結でもある。一色の行動原理はいたってシンプルなのだ。

 

 確かに孤立している少女のことは可哀想だとは思うが、そうした女子生徒の関係性に詳しい彼女は問題が簡単に解決できるとは到底思えなかった。率直に言って、現在の状況は詰んでいると一色は考えていた。

 

 

「ぼく、ちょっと考えただけど。教育実習のお兄さんとかお姉さんっていたよね?」

 

「小学生の頃って、すっごく大人に思えましたよねー」

 

「うん。クラスで揉め事とかあったら相談できるし頼もしかったんだけど、実習期間が終わったら来なくなるよね。だから……」

 

「私たちが介入しても恒常的な解決にはならないと、貴方は言いたいのね」

 

 会話に手詰まり感が出始めて沈黙が長くなりかけた時に、ずっと考え込んでいた戸塚が口を開いた。小町の相鎚を得て思っていたことを口にした戸塚に、雪ノ下が確認の言葉を投げる。

 

 戸塚が頷くのを見て、次にまだ発言する気配のない海老名を横目で確認して、雪ノ下はそのまま一色を見据えた。それに観念したのか彼女が口を開く。

 

「わたしも正直、外部から解決するのは難しいかな〜と。こういうのって、事前に根回しをして避けるのがベストで、ここまでの状況になっちゃうと自分も相手も手詰まりになっちゃうんですよね〜」

 

「あたしも、いろはちゃんが言いたいことは解るかも。ハブられてる側も何もできないけど、相手も状況をどう動かしたらいいのか、分かんない感じになるんだよね。その、ハブってるほうが悪いのは絶対そうなんだけどさ。あっちはあっちで『一言謝ってくれれば』みたいなことを期待し出すっていうかさ……」

 

「なんかそれも都合の良い話だな。俺はハブられる側しか経験してないからよく解らんが」

 

「そうね。相手側に働きかけるのは最後の手段として、まずは孤立しているあの子のために何ができるかを検討したいところね」

 

 一色の本音らしきものを引き出して、更にそれに由比ヶ浜が補足を加えてくれたことで、雪ノ下も八幡も相手側の考え方は把握できた。二人は共にそれを認めようとは思わなかったが、相手側の思惑も場合によっては利用できるかもしれないと、念の為に記憶しておくことにした。

 

 その上で雪ノ下は話を戻したのだが、彼女の提案に真っ先に口を開いたのは葉山だった。

 

「それなら、やっぱり直接あの子と向き合って、問題を正面から解決すべきだと俺は思う」

 

「……貴方には無理なのではないかしら?」

 

「何も手を打たないで、誰かが解決するのを待つだけなのは嫌なんだよ」

 

「それが、あの子を更に悪い状況に追い込むとしても?」

 

「……そうだな。そうかもしれない。でも、俺は何かを……」

 

 二人は、他の面々が全く口を挟めないほどの緊張感を発していた。強くお互いだけを見据えて、声を荒げることもなくどこまでも静かに、雪ノ下と葉山は言葉を交わす。

 

 この二人の間に割って入れるのは自分だけかと大きくため息をついて、平塚先生は傍観の構えを解いた。

 

「葉山。それに雪ノ下も、いったん頭を冷やしたまえ。そうだな……比企谷、それから海老名に進行を任せるので、少し話をまとめるように」

 

 

***

 

 

 葉山は戸部の昔話を聞きながら、なぜ自分は小学生の時に彼と同じ事ができなかったのかと悔やんでいた。

 

 彼は今まで戸部を軽んじたことは一度もない。だから戸部にできることなら自分にもできると、そうした傲慢な前提をもとに悔やんでいるわけではなかった。むしろ、戸部の長所を校内の誰よりも知っていると自負する葉山からすれば、「やはり」という気持ちのほうが強かった。

 

 クラスの中で埋もれていた才能に羽ばたくきっかけを与えた戸部の行動は、彼ならばできて当然だろうと葉山は考えている。それが偶然の結果だとも思っていない。考えなしに行動しているように見えて、その実は優しい彼の性格には、葉山も昨年度から何度も助けられてきたのだ。

 

 葉山も、そして雪ノ下も気付いていないのだが、葉山と戸部の関係はどこか雪ノ下と由比ヶ浜の関係を連想させる部分があった。多くの人から期待を集める二人にはできないことを、一般には二人に大きく劣ると見なされがちな戸部と由比ヶ浜が軽々とやってのける。それによって二人は何度となく救われたことがあった。

 

 

 つまり問題は戸部とは全く関係がなく、葉山ができなかったという一点にある。

 

 

 あの数多の才能に恵まれた少女が、それらを遺憾なく発揮できる環境を整えてあげたい。かつて葉山はそう心から願い、そして彼の試みは無残な失敗に終わった。単に結果に繋がらなかっただけでなく、彼が行動を起こしたことによって、かの少女の状況は更に悪化していた。

 

 もしもあの時に戸部が横にいてくれたら、もっと良い結果を導けたのではないかと葉山は思う。だがそんな架空の話を想像しても現状は変わらない。彼が失敗したという単純な過去は、何があろうと覆ることはない。

 

 戸部の成功を妬む気持ちは葉山にはない。彼の性格が、彼との長い付き合いが、葉山にそんな気を起こさせることを妨げていた。しかし葉山とて成人すらしていない高校生の身であり、妬心と無縁ではいられない。

 

 もしも戸部ではない他の誰かが同じ小学校にいて。もしもその誰かが少女を取り巻く環境を綺麗に解決していたらと考えると、さすがの葉山も嫉妬の気持ちを抑えられる自信がなかった。自分ではない誰かが彼女を変えてしまうなど、彼にとっては悪夢でしかない。

 

 

 平塚先生の調停を受けて、早く落ち着こうと自制の念を強くしながらも、葉山は進行役に指名された男子生徒に目を向けることができなかった。

 

 

***

 

 

「んじゃ、さっさとまとめるぞ。いちおう、何とかできるなら何とかしたいってのは、全員の総意で良いんだよな?」

 

 たとえ面倒な事であっても、やるしかないのであれば手短にと自分に言い聞かせた八幡は、気怠げに口を開いた。既に出た話をまとめるだけなら彼にはそれほど難事ではない。

 

 元気よく返事をする者から頷くだけの者まで、全ての意思を確認した上で彼は言葉を続ける。

 

「まず、状況を動かすのは難しいって考えてるのが、俺と戸塚と由比ヶ浜と一色って感じか。手詰まりって認識は俺も同感だし、何をするにせよ本人の意志が確認できない以上は動きようがないと思うんだよな。ま、これは個人の意見だし、反論は後な」

 

「その整理の仕方だと、積極的に動く側を先にまとめるのが早いかな。とべっちと優美子と隼人くんは積極介入派だよね。介入の具体案次第だけど、私もどっちかと言えばこっち寄りかな」

 

「あたし、姫菜はいろはちゃんと近いのかなって思ってたから、ちょっと意外」

 

「方法次第だと思うんだよね。要はその女の子が夢中になれる何かを紹介してあげれば、私たちが関わった後にも趣味って続けられるわけだしさ。私にとってはBLだけど、映画でも音楽でも演劇でもいいし、バレーとか体操とか身体を動かす系でも良いしさ。料理とか裁縫とかでも良いじゃん。そういうのがあれば、人間関係に多少悩んだとしても、何とかなったりするよ」

 

 海老名が予想以上にまともな発言を続けたことで、介入派にも少し勢いが出て来た。

 

「落ちが怖いけど、姫菜の意見には納得できるし」

 

「海老名さんマジまとめる能力凄すぎっしょ!」

 

「まあ落ち着け。先に全員の旗幟を鮮明にするか。あとは小町と雪ノ下だが……」

 

「小町はさっき言ったように、もう少し年齢が上がれば何とかなると思うんだよね。でも早く解決するならそれもアリだし、方法次第っていう海老名さんの意見が近いかなー」

 

「私は彼女が望むのであれば、考え得る限りの手段を費やしてでも、手助けしたいと思っているわ。ただ、稚拙な方法を看過できないというだけなのだけれど」

 

「だから落ち着けって。方法次第でって意見が多くなってきたけど、先にこっちか。俺もさっき言ったけど、本人の意志を確認するのが大前提って意見を、この場で共有することはできるか?」

 

 八幡は逸れそうになる議論を何とか取りまとめようと苦心しながら、少しずつ合意を形成しようと考えていた。一度言葉を切って、順に顔を見渡していく。彼の視線が葉山のところで止まった。

 

「葉山。もしもあいつが手助け無用って言い出したら、それでも介入するか?」

 

「……いや。見逃すのは心苦しいけど、それが当人の意思なら、従うしかないのかなって思うよ」

 

「とべっちも優美子も、その状態で敢えて介入しようとは考えてないよね?」

 

 海老名が続けて確認をしたことで、この点に関しては全員の合意が得られたと考えて良いだろう。

 

「んじゃ、本人の意志を確認するために俺たちに何ができるかを各自で考えて、明日の昼にでも話し合う感じかね。それと平行して、もしも介入するなら具体的な方法を考えることと、俺たちの手に負えないと判断したら潔く手を引くことを、この場の合意ってことにするか」

 

「うん。ヒキタニくんのまとめで良いんじゃないかな。ところで方法なんだけどさ、ホモが嫌いな女子はいないと私は思います!」

 

 三浦の予想通りの落ちが始まった形だが、海老名が暴走を始めたということは、彼女は話が円満にまとまったと考えているということでもある。それをよく知る三浦と由比ヶ浜は苦笑をしながら、両側から彼女の介抱を始めるのだった。

 




次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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05.みごとに彼らは合宿らしい会話をする。

前回までのあらすじ。

 食事を終えて小学生が去った炊事場で、中高生たちは話し合いを行った。グループで孤立している女の子に何ができるのか。意見を述べ合いながら、それぞれがかつての自分を振り返り、そして同席している他者の過去を思いやっていた。

 ともに「何とかしたい」という気持ちは一致しながらも、葉山の関与に対して雪ノ下は否定的な意見を述べる。教師は二人を落ち着かせ、八幡と海老名に話をまとめさせた。当人の意思を確認し尊重すること。介入するなら具体案を考えること。それらを承認して全体での話し合いは解散となった。



「じゃあ、お先に」

 

 話し合いに続いて起きた流血騒動を、女性陣が手慣れた様子で処理している。先に行ってくれて良いとの提案を受けて、男性陣は別れの挨拶を済ませログハウスへと向かった。

 

 比企谷八幡は個室を確保しているので別行動でも良かったはずだが、彼にしては珍しく大人しく同行している。戸塚彩加と離れがたいという気持ちも少なからずあるものの、話し合いのまとめを任された責任感が彼の行動を後押ししていた。

 

 先程はひとまず落ち着けたが、よくよく妥結事項を確認すると何も決まっていないことがすぐに分かる。もうしばらく付き合うしかないだろう。八幡は消極的ではあったが自分の意志で、男性陣ともう少しともに過ごすことを決めたのだった。

 

 

「あのね。八幡や海老名さんが話をまとめてすぐに解散したのって、葉山くんと雪ノ下さんを引き離すためなんだよね?」

 

「あーっと。もしかして、露骨だったか?」

 

 先を歩く二人には届かない小声で戸塚が八幡に話しかけた。意図を見抜かれてどう反応したものかと少し悩んだ末に、八幡は小さく頷いて、逆に気になったことを問い返した。

 

「ううんっ。別に無理矢理みたいな感じは受けなかったよ。でも、みんな薄々そうしたほうが良いって思ってたんじゃないかな」

 

「そっか。葉山の行動は俺もどうかと思ったし、さっきもストレートに釘は刺したつもりなんだが。雪ノ下の言い方は俺以上に容赦なかったからな」

 

「葉山くんの反応を見てると、雪ノ下さんの指摘は全て納得してるって感じだったよね」

 

「いつだっけ、戸塚と遊びに行った時に教えてくれたよな。あの二人が一年の頃から色々な場に担ぎ出されてたって。そん時に葉山が何かヘマをして雪ノ下が尻拭いしたとかかね?」

 

「部長会議の翌日だよ。ぼくはちゃんと覚えてるのにな……」

 

 一緒に遊びに行った日のことを戸塚はきちんと覚えているというのに、八幡は日付があやふやらしい。それが不満で、戸塚は少し拗ねたような口調とともに八幡を上目遣いで眺めた。

 

 途端にあたふたし始めた姿を見て、戸塚の心の中に一瞬にして嬉しい気持ちが沸き上がってきた。あの日のことを蔑ろにしているわけではなく、八幡なりに良い思い出として記憶してくれているのだと、確認できた気がしたのだ。八幡に言い訳をさせるのは気の毒なので、戸塚は話を元に戻す。

 

「でもどうだろ。葉山くんって自分のミスもちゃんと認めるっていうか、隠すような性格じゃないと思うんだけど」

 

「えーと、どういう意味だ?」

 

「その、葉山くんが何か大きな失敗をしたのなら、話題になるんじゃないかなって」

 

「あー、そういうことか。つっても俺は校内の話題とは縁がなかったから分からんけど。話題になるほどの失敗がなかったのなら、あの二人は何を念頭に置いて言い合いをしてたんだろな」

 

 慌てた気持ちを引きずって、八幡は戸塚の意図がすぐには理解できなかった。補足してもらって納得はできたが、今度はぼっちゆえに戸塚の意見を吟味することができない。戸塚に嘘はないと信じて、話題にならなかったという情報は事実だと考えるしかないだろう。

 

「ただ単に、あの女の子への対応に怒ってただけかもしれないけどね。雪ノ下さん、意思さえ確認できたら何としてでも助けるとか、そんな勢いだったよね」

 

「俺らが考えすぎてるだけで、案外そうなのかもな。それだと引き離す意味はなかったことになるけど、あの人数で話し合いってのも効率悪いしなあ……」

 

「うん。男女で分かれたのは良かったと思うよ」

 

 今更ながらに「戸塚ってやっぱ男……だよな?」と考え込んでしまう八幡だった。そんな迷いを振り払うべく「戸塚の性別は戸塚」などと内心で繰り返しながら、八幡は少し気合いを入れ直した。

 

「んじゃ、しっかり話し合いを続けますかね」

 

「八幡って、やっぱり真面目だよね。奉仕部の依頼とか、真剣に仕事をしてる八幡も良いけど、たまには気軽に遊びに行こうね」

 

 八幡の決意表明に思わず吹き出しながら、戸塚は親しい仲の友人をそう評した。続けて遊びの誘いを口にすると八幡は黙って大きく頷いてくれた。八幡に口を開く余裕がないとはつゆ知らず、戸塚は男同士の簡潔な意思疎通を嬉しく思う。

 

 ふと進行方向を見ると、前を歩いていた二人の姿がログハウスに吸い込まれていくところだった。

 

 

***

 

 

 二階建てのログハウスに入って、まずは一通りの間取りを確認した後で、四人は一階のリビングに腰を下ろした。もともと置かれていた大きなダイニングテーブルと椅子はキャンセルして、気軽に寛げるように背の低いテーブルとソファに変更する。

 

 キッチンに置かれていたお菓子などをテーブルに移して、冷蔵庫から飲物を取り出してコップに分けて、まず彼らは乾杯を行った。

 

「んじゃ、隼人くんも戸塚もヒキタニくんも、お疲れーっす!」

 

「戸部も盛り上げとかお疲れさん」

 

「ぼく、戸部くんの昔の話を聞けて良かったなって。ね、八幡」

 

「おう。なんつーか、見直したわ」

 

 戸部翔の音頭に従って、各々が一口ずつ喉を潤してから、葉山隼人が戸部をねぎらう。続けて戸塚が口を開き、そのまま話を振ってくれたおかげで、八幡もすんなりと輪の中に入り込むことができた。

 

「いやー、照れるっしょ。でも、俺が何かしたわけじゃなくて、あいつにもともと才能があっただけだべ」

 

「才能があっても、きっかけとか活かせる場面が無いと持ち腐れだからな。正直、騒ぐだけのお調子者かと思ってたけど、いいとこあんだな」

 

「ちょ、ヒキタニくん酷いっしょー。本音で話してくれるのは嬉しいけど、俺だって……あー、騒いでるだけかもー」

 

 自らの額を叩きながら戸部が笑っている。カースト上位にありがちな他の生徒を見下す雰囲気はそこには無い。彼のノリをうざったいと思う気持ちに変わりはないが、八幡は彼の過去の話を聞いて、更には彼の性格に身近に接して、気楽に話ができるようになっていた。

 

「そういや、あとの二人は来なかったんだな」

 

「ああ。大和と大岡も誘ってはみたんだけどね。その、雪ノ下さんが怖いって」

 

「あの昼飯の時の雪ノ下さん怖かったわー。俺っち被害者なのに、警察に行きたくないみたいな感じっつーか」

 

 二年F組で変な噂が広まりだした時に、雪ノ下は三浦と結託してクラス内で脅しを入れたことがあった。あの事件の犯人や詳細は不明なまま終わってしまったが、噂がぴたりと止んだのは彼女の功績だろう。三浦と一緒に実行したはずなのになぜ自分だけが怖がられるのかと、雪ノ下本人は腑に落ちない様子だったが。

 

「あー。関係のない余罪とかまで自分から白状しそうだもんな」

 

「だしょ。朝練の時の早弁とか絶対にバレるわーって」

 

 実は戸部と大岡・大和では恐怖の理由が異なる。彼らが結託して班分けのライバルたる戸部と八幡の()()を蹴落とそうとしたことは明るみに出ていない。とはいえ影響が全く無かったわけではなく、職場見学の前後からグループ内の関係性がどこか変質してしまったきらいがあった。

 

「あの時はヒキタニくんにも迷惑をかけたね。俺とよく本の話で盛り上がってるからって、まさかヒキタニくんの悪い噂まで流そうとするとはね」

 

「いや、あんま盛り上がってねーだろ。基本お前が強引に絡んで来るだけで。まあ、ちょっと楽しいのも確かだけどな」

 

「八幡、また小町ちゃんに捻デレって言われちゃうよ」

 

「海老名さんも盛り上がるっしょ!」

 

「それ、噂よりも海老名さんのが怖いよな。だからまあ、気にすんな」

 

「そう言ってくれると助かるけど、俺がもっとしっかりしてればってね。大和も大岡も、あれ以来クラスの連中と積極的に話すようになったし、結果的には良い方向に進んだ気もするけどさ。ちょっと俺たちとは壁ができた部分もあってね」

 

「隼人くんと一緒のグループになるために、誰かが俺ら()()を蹴落とそうとしたんじゃないかって。自分が原因だって、隼人くん悩んでてさ」

 

「あー、そういうことか。でもま、犯人が勝手な考えでやったことまで、お前が責任を引き受けるのは違うだろ。頭がおかしい奴らの妄想に付き合ってたらキリがないぞ」

 

「そうは思うんだけど、何か違った結果にできたんじゃないかって気持ちが俺の中で残っててさ。あの二人、優美子たちとも少し距離ができててね」

 

「それ、ぼく何となく分かるな。女の子に助けられた形だから、ちょっと恥ずかしいっていうか情けないみたいな気持ちになっちゃったんじゃないかな」

 

「戸塚が言ったのと同じことを言ってたよ。結衣とか姫菜も、俺たちの前で誕生日の話をしないように気を遣ってたみたいだし。普通に遊びに行くぐらいなら問題ないみたいだけど、誕生日の集まりとかだと身構えるみたいでさ。なかなか上手く行かないもんだね」

 

 少しだけ疲れた様子を見せながら、葉山は苦笑いを浮かべた。あの事件に関しては彼には何ら責任がないというのに、実は一番割を食ったのは葉山だった。彼にだって悩みはあるし、できないことも多々あるのだ。

 

 八幡はふと、なぜ自分がこいつらと仲良く過ごしているのかと不思議に思う。校内で誰もが認める男子のカースト最上位であっても、悩み事は尽きないのだと理解して、八幡は葉山との距離が少し縮まったのを自覚した。それが逆に彼に俯瞰の視点をもたらしたのだろう。

 

 同時に本来の議題を思い出して、八幡は口を開いた。

 

「ま、その辺は文化祭とか、クラスで一緒に盛り上がってたら、おいおい解決するんじゃね。だから今は、目の前の問題を片付けるか」

 

 

***

 

 

「さっきの話し合いは、意思確認の方法と介入の具体案を検討するって結論だったね。俺はできれば、問題が目の前にあるのに見逃すようなことはしたくないな」

 

「だからって、当人を説得するとか論外だぞ。由比ヶ浜が言ってたように、今の状況で俺らが接触したら、それだけで更にあいつが不利になるだけだしな」

 

「戸部くんでも話しかけるのは無理かな?」

 

「やー、適当に話を続けるだけなら、って感じっしょ。事情を聞き出すとか説得とかだと無理だべ」

 

 予想以上に冷静に自己分析ができている戸部を、八幡は不思議そうに眺める。

 

 とはいえ、よくよく考えれば彼も総武高校の入学試験に合格しているのだ。今までは成績を見せ合って盛り上がっているリア充を理解できなかったが、実は得意教科や成績という側面から相互理解を深めようとしての行動ではないか。漠然と決めつけていた「優越感に浸る」以外の動機もあるのかもなと八幡は思った。

 

「そういえば戸塚って、カレーを作ってた時は積極的に関与するような意見じゃなかったか?」

 

「八幡、ぼくが言ったことを覚えててくれたんだ……。できることがあれば協力したいって気持ちは今も変わってないんだけどね。ぼくたちが動いて、逆に状況が悪くなるかもって可能性を知っちゃうと、どうしても慎重になるよね」

 

「なるほどな、そういうことか。教育実習のたとえ話も解りやすかったし、恒久的に問題を解決するってやっぱ難しいよな……」

 

「ヒキタニくんの妹ちゃんって、時間が解決するかもって言ってたっしょ?」

 

「ああ。けどそれだと葉山が納得いかねーんだろ?」

 

「そうだね。俺たちが介入して事態が悪化する可能性もあるけど、放置することでもっと酷い事態に陥る可能性もあるからさ」

 

「確かにそれもあるんだよな……。あー、ちょっと話を進めるか。もし介入するとしたら、どんな手がある?」

 

「小学生全員を集めて、ってのは反対されるよね」

 

「葉山も解ってるだろ。表面的に素直な返事をしてみせるだけで、何も変わらんと思うぞ」

 

「引率の先生にこっそり事情を説明するのはどうかな?」

 

「戸塚の意見はアリと言えばアリだけど、たぶん向こうも事情は把握してると思うぞ?」

 

「俺たちが一日目で気付いたぐらいだからね。それに教師を引っ張り出して来ても、こういう場合は無力なだけじゃないかな」

 

 奇妙な説得力を伴わせて葉山がそう述べた。今の状況を見る限り、教師は頼りにできないと。彼に賛成した上で、八幡は更に情報を重ねる。

 

「あの感じだと、他の小学生も頼れなさそうだよな。……いっそ何か事件でも起こすか?」

 

「ヒ、ヒキタニくん過激っしょ。てか事件を起こしたら解決するんだべ?」

 

「まあ、学校内の関係が全てじゃないって解らせれば、色々と雰囲気は変わると思うんだがな」

 

「姫菜の案を相手方に適用するみたいな感じかな?」

 

「そっか、そういう理解の仕方もあるか。海老名さんの案だと、本人の意識を変えるために趣味とかを紹介するって感じだったよな」

 

「ああ。ヒキタニくんが言った事件を起こす案だと、周囲全体の意識を無理矢理にでも変えるって形だよね」

 

「でも、それって問題にならないのかな?」

 

「分からん。ただ、戸塚がやると問題になりそうだけどな」

 

「えっ、八幡それどういう意味?」

 

「実行犯に求められるのは、素直さとかじゃないってことだ。戸部も無理だろうし、たぶん葉山もダメだろうな」

 

「それで君にしわ寄せが行くんだったら、俺としては反対したいところだな。対案を出せと言われると難しいけどさ」

 

「まだ時間はあるからな。そういうのは最後の手段に取っておいて、そのまま使わずに済むのがベストだな」

 

「時間はあっても、あの子と接触して情報をもっと得られない限りは、この辺りが議論の限界かもしれないね」

 

「葉山はそう言うけどな。小学生連中を支配している空気を変えれば何とかなりそうだって思い付けただけでも、この話し合いの価値はあったんじゃね?」

 

「もしかして八幡って、最初から思い付いてたの?」

 

「マジかー。隼人くんも凄いけど、実はヒキタニくんってスゴタニくんだべ?」

 

「いや、さっき葉山が『教師は無力』みたいなことを言っただろ。じゃあ生徒もダメだろうなって思ったら、なんか閃いた感じだな。だから葉山をその褒め方で褒めてやってくれ」

 

「いや、俺は戸塚の案にダメ出ししただけだよ。でも結果的にはヒキタニくんの閃きに繋がったわけだから、戸塚の提案が良かったってことじゃないかな」

 

 八幡もそろそろ戸部のあしらい方が見えてきたのか、彼のノリにそのまま反論するのではなく、ノリが葉山に流れるように戸部を誘導した。しかし葉山とて長年の付き合いである以上は負けていられない。戸塚を立てることで見事に回避した。

 

「じゃあスゴカ……って何だかICカードの名前みたいで変だべ。こうなったら、全員が凄いって結論で良いっしょ!」

 

 今の時点で可能なことは全て終えて、しかし男子高校生たちの語らいはまだ終わらなかった。

 

 

***

 

 

「じゃあそろそろ、あれ行くべ。夜の話っていえば、恋バナっしょ!」

 

 ますます盛り上がる戸部のノリに、他の三名は苦笑で応えている。だが既にログハウスに着いた時点で気持ちがほぐれていたことに加えて、先程までの議論ですっかり気安い雰囲気になっていたので、八幡は特に身構えることもなく口を開いた。

 

「あー、鯉の話な。あれだろ、家康が信長からもらった酒と鯉の料理を……」

 

「それって生き物の鯉の話だべ。恋バナは……」

 

「あー、あっちか。秀吉が死んだときに家康が鯉を……」

 

「だーかーらー。ヒキタニくん、家康と鯉の話に詳しすぎっしょ!」

 

「八幡、その話あとで教えてね」

 

「俺も興味があるから、その話を続けてくれても良いんだけど?」

 

「俺っちも正直ちょっと興味あるけど、そういう話って教室でもできるじゃん!」

 

 思わずマニアックな話を口にしてしまった八幡だが、戸塚からの反応はともかく葉山や戸部までが興味を示してくれたことに内心で驚いていた。今までであれば、彼のこうした発言は冷笑されるだけで終わるのが常だったのだ。

 

 八幡の驚きは少しばかりの嬉しさと、こんなことに喜んでいる自分を照れ臭く思う気持ちに発展する。それらの感情を誰から隠そうとしたのか、自分でも解らないままに八幡は優しい気持ちで口を開いた。

 

「じゃあ、面白い話はできねーけど、聞くだけなら付き合うぞ。どうせ話したいんだろ?」

 

「うん。戸部くんが話したいのなら、ぼくたちもちゃんと聞くよ」

 

「そういえば、大和や大岡ともこの手の話はしたことが無かったな」

 

「おっ、じゃあさ……。って、改めて話そうとしたら緊張するべ」

 

 リビングにストレートな罵声と可愛らしい抗議の声と真面目にたしなめる声が響いた。

 

「じ、実はさ。俺、海老名さんが良いなって思ってんだよね」

 

「なんか理由とかきっかけとかあんのか?」

 

「いやー。秘めたる魅力っつーか、そういうのが良いなって」

 

「でも、三浦さんや由比ヶ浜さんと比べると、あんまり話してないよね?」

 

「そうだな。特に優美子と盛り上がってるイメージがあったけどな」

 

「いやー、優美子は普通に話すだけなら気楽で良いんだけど、付き合うのはちょっと怖いっしょ?」

 

 男子しかいない環境ゆえに、なかなか容赦の無いことを言い始める戸部だった。なぜか少しだけ鼓動を強くしながら、八幡は思い付いた疑問を口にする。

 

「んじゃ、由比ヶ浜はどうなんだ?」

 

「結衣も良いなって思うけど、なんてか、競争率高いじゃん?」

 

「おい。それだと楽なほうを狙っただけって言ってるようにも聞こえるんだが?」

 

 なぜ自分が苛立っているのかも解らないままに、しかし声に感情を反映させるのは可能な限り控えて、八幡は戸部を問い質す。八幡の不穏な様子を悟ったのか、戸部が答える前に葉山が口を挟んだ。

 

「まあ、姫菜も楽な相手だとは思わないけどね」

 

「でも、男子でも引いてる奴がいるし、狙い目だべ?」

 

「ぼく、まだ恋愛とかよく分かんないけど、そんな理由で付き合っても上手く行くのかな?」

 

「付き合ってから詳しく知るって流れもありっしょ?」

 

「俺も恋愛はよく分からんから、何とも言えんが……。新解さんにはたしか『他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むような愛情』って書いてたし、戸部のはなんか違う気がするんだが」

 

「そうだな。今の段階だと、具体的に動くのは止めておいたほうが良いかもな」

 

 流れに乗る形で、葉山が再び戸部をたしなめる。しかし話はそれで終わらなかった。

 

「隼人くんが言うなら了解っしょ。その代わり、海老名さんへの気持ちがちゃんとしたものだってなったら、協力してほしいべ」

 

「まあ……」

 

「そうだね……」

 

「そうだな……」

 

 行きがかり上、否定をするわけにもいかず、三人は生返事を返した。それを承諾と受け取って、戸部は再びテンションを上げる。

 

「あ、じゃあさ。戸塚とヒキタニくんはよく分かんないって言ってたけど、隼人くんは好きな子ぐらいいるっしょ?」

 

「もう恋バナは充分だろ。そろそろ寝ようぜ」

 

「ちょっとだけ。イニシャルだけでもいいから!」

 

 話に興味がない八幡とおろおろしている戸塚を尻目に、葉山は深くため息をついた。このログハウスに来てから長く話をしたおかげで、彼を過剰に意識する気持ちを忘れていたというのに。

 

 普段なら軽く流すはずの戸部の問いかけに、葉山はあえて答える気持ちになった。牽制というほど意識的なものではない。強いて言えば、葉山も口に出して言ってみたくなったのだろう。誰かに伝えるという意図はさほどないが、それによって何かが変わるのであれば、それでも構わないという程度の軽い気持ちで。

 

「Yだよ。じゃあ、俺は先に寝るから」

 

 自分の発言が三人の中に染み込んでいくのを感じながら、葉山は布団が並んで敷かれている二階へと消えて行った。




次回は月曜に更新する予定です。
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追記。
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06.ひき下がることなく彼女は己の意思を示す。

前回までのあらすじ。

 夕食後の話し合いを経て、中高生たちは男女に分かれて解散となった。ログハウスに帰った男性陣は友人を話題にした雑談を挟みつつ、先程の話し合いで決定した内容を更に前に進めていた。

 話が一段落ついて、戸部はおもむろに恋バナを始める。彼の気持ちが恋愛と呼べるものなのか納得がいかない三人は、将来の協力要請に生返事で応えた。戸部が葉山に話題を振ると、意外にも葉山はあっさり好きな子のイニシャルを口にして、そのまま寝床へと消えて行った。



 男子が去った後の炊事場で、女性陣はそれぞれ顔を見合わせた上で、無言で女子会の開催を決定した。平塚静が仲間になりたそうにこちらを見ていたが、由比ヶ浜結衣が申し訳なさそうに苦笑すると、先生はすぐ鷹揚に頷いた。

 

 この後で彼女らが交わすやり取りを考えると、教師が同席しないほうが話しやすいだろう。それに平塚先生にも今後の思惑があるだけに、彼女らの話が早く終わってくれたほうが動きやすいのも確かだ。

 

 そんなわけで教師は一人その場を離れて、今日の出来事を振り返りながらチャンスを待つことにしたのだった。

 

 

***

 

 

「一階のリビングと二階と、どっちが良いかな?」

 

「二階だと、疲れたらすぐに寝かし付けられるし」

 

 六人でログハウスに戻って、まずは話し合いをどこですべきかと由比ヶ浜が意見を募る。間を置かずに三浦優美子が、世話好きな性格をのぞかせつつ返事をした。反対意見が出なかったので彼女らはそのまま二階に上がった。

 

「姫菜はとりあえず休んでるし」

 

 本来なら和室と洋室に分かれている間取りを大部屋に変更して、奥にベッドを一つだけ用意する。そこに海老名姫菜を寝かせて、三浦はベッドの側面に背中を預ける形で腰を下ろした。その右横に由比ヶ浜が座って、横長の机を出現させる。机の向かい側には比企谷小町。その小町からは左手、由比ヶ浜からは右手の位置には雪ノ下雪乃。最後に小町の右横、三浦の対面に一色いろはが腰を落ち着けた。

 

 疲れないように座椅子やクッションをふんだんに用意して、机の上にはお菓子と飲物も並べて、こうして彼女らの女子会が始まった。

 

 

「じゃあ本題から行くし。隼人と何があったんだし?」

 

「特に説明するほどのことはないのだけれど。去年から学校行事などでよく顔を合わせていたという程度ね」

 

「その、ゆきのんを問い詰めるとか、そんな気持ちはあたしも無いし優美子もそうだと思うけど。少しぐらいは事情を教えてくれないと、話が進まないって言うかさ……」

 

「ここで聞いたことをよそで言い触らしたりしませんし、最低限のことは話して欲しいな〜って」

 

 三浦が口火を切って、雪ノ下がそれをあっさり却下する。だが雪ノ下のこの頑なな姿勢を和らげてもらわないことには、全体での話し合いは明日も同じ展開にしかならないだろう。そう案じた由比ヶ浜が状況を素直に説明して、一色が補足を加えた。

 

 ここで、いきなり急進的な話になるのもどうかと思った小町が口を開く。

 

「でも、雪乃さんが言いにくいなら、先に別の話をしても……」

 

「いえ、大丈夫よ。そうね……。以前に少し生徒間の関係がこじれた時があって、葉山くんが上手く収拾できなかったのよ。その時は私が何とか解決できたのだけれど、また同じことを繰り返すのかと思ったら、つい感情的になってしまって」

 

 嘘こそついていないものの、事件が高校入学後のことだと思わせる口ぶりで、生徒間のこじれた関係に関与していない風を装いながら、雪ノ下は殊勝に頭を下げた。

 

 思いがけずすらすらと事情を説明されて、残りの面々は彼女が口にした以上の情報を知りたいと思いつつも、とっさには質問が出て来ない。少し強引に口を開かせたという負い目もあって、部屋の中は沈黙に包まれていた。

 

 

「隼人くんのことだから、直接対話の場を設けたりとか、生徒全員を集めて語りかけたとか、そんな感じ?」

 

「そうね。実際に生徒を集めるまでは行かなかったのだけれど、そうした案も出していたわね」

 

 そうした室内の空気を気にすることもなく、ベッドの上から海老名が発言した。()()()の葉山はクラスの小学生全員に向けて語り掛けていたが、()()()()生徒を招集するようなことは起きていないはずだ。雪ノ下はそう考えて、注意深く返事をする。

 

「そっか。じゃあ隼人くん立ち会いで対話したけど、喧嘩別れに終わったって感じなんだね。雪ノ下さんはどう収拾したの?」

 

「どう説明すれば良いのかしら。その、関係がこじれた理由を精査して、どちらに非があるのか客観的な指標で提示したのだけれど……」

 

 自分が当事者では無いという前提で話をしている以上、矛盾のない形で説明をまとめねばならない。変な噂を流した犯人を全て特定して友好的にお話をした、などと言うわけにはいかない。雪ノ下は内心ではかなり苦労をしながら、表面的には平然と質問に答えた。

 

 彼女の手腕をよく知る由比ヶ浜や三浦、兄からよく話を聞かされている小町は納得の表情を浮かべている。一色は詳しい話には興味が無いのか少し退屈そうだ。

 

 一方の海老名だが、彼女には事前情報があった。とはいえそれは由比ヶ浜や三浦も知っているはずの情報だった。

 

 F組で噂が広まって葉山が奉仕部に相談に行った時のこと。雪ノ下にも変な噂を流された過去があり、彼女は犯人に直接「お願い」をして解決したと言っていた。そんな嫌な過去を持つ彼女が、関係がこじれた程度の軽い諍いに介入して理非を正すものだろうか。抽象的な思考ができる海老名には、そこが納得できなかった。

 

 そもそも、先ほど雪ノ下と葉山が対峙したときの緊張感と比べると、今の話では迫力不足だと海老名は思う。雪ノ下がここまで肩入れする必要性も、葉山が頑張って対応策を練る必要性もまるで感じられない。

 

 考えられるとすれば雪ノ下か葉山のどちらかが当事者のケースだが、()()()()()()葉山が他の生徒と問題を起こしたなど聞いたことがない。雪ノ下が上級生と揉めた件は知っているが、それは妥協を知らない彼女だけの責任ではなく、むしろ相手側に問題があったはずだ。

 

「雪ノ下さんが解決して、隼人くんは何て?」

 

「特には何も。ただ、何だか申し訳なさそうな表情をしていたわね」

 

 やはり変だと海老名は思う。葉山がそこまで反省するには、説明された事件では軽すぎる。それに、仮に学校外での出来事だったとしても、校内で全く話が出ていないのは不可思議だ。だがそれ以上を検討するには情報があまりにも少なすぎるし、ここでそれを暴き立てて良いのかという根本的な問題もある。

 

 いつか、雪ノ下と差し向かいで話し合う必要があるのかもしれない。特に三浦と由比ヶ浜には絶対に関与されない形で。そう考えながら、海老名は話を進めるために口を開いた。

 

「じゃあ、隼人くんにそんな顔をさせないためにも、今回は念入りに対策を練らないとね」

 

 

***

 

 

「うん、あたしも姫菜の言う通りだと思う。ゆきのんの話は、みんなもういいよね?」

 

「わたしはもう少し葉山先輩との関係とか聞いてみたいとこなんですけど、後でいいですよ〜」

 

「そう言われるとあーしも気になるけど、今はいいし」

 

 海老名の発言を由比ヶ浜が受けて、一色と三浦も同意を返した。高一の頃に葉山と雪ノ下がどんな関係だったのか、それを詳しく聞いてみたい二人だったが、まずはこの場の議題を優先させる態度を示した。

 

 引き続いて小町が話を進めるために口を開く。中学でも生徒会で活動していたためか、物怖じすることなく思ったままを彼女は述べた。

 

「じゃあ、あの女の子の話ですね。お兄ちゃんが本人の意志を確認って言ってましたけど、実は今の状況に満足……じゃないや、なんて言えば良いんだろ。ホントは嫌だけどもっと嫌なことよりはマシというか」

 

「小町さんが言いたいのは、彼女が納得して今の状況に甘んじているという意味かしら?」

 

「あ、雪乃さんが言ったような感じです。その、前に道徳で『仲間内でそんな扱いはダメだ』って話になったときに『じゃあ仲間じゃなくて良いじゃん』って言い出した子がいたんですよ」

 

「それ、関係がゼロになるよりは、扱いが悪くても交流があるだけマシって話だよね。あたしも正直、それもあるかもって思ってたんだけどさ」

 

「相手をしてやってるだけ、って虐める側が言い出すのは違いますよね〜」

 

「小町もそう思います。その、ちゃんと信頼というか、分かり合っている仲なら適当な扱いでも良いと思うんですけどねー」

 

「ぞんざいな態度で『あちらも喜んでいる』などと言い放ったり、そのくせ飽きれば見向きもしないという輩は、どこにでも居るものね」

 

 雪ノ下がいったん話をまとめて、会話に加わっていた小町と由比ヶ浜と一色は大きく頷いた。しかしそこで三浦が口を開く。年下をいたわるような眼差しで、同時に間違いは正したほうが良いという強い意志を秘めながら、彼女は小町に向かって話しかけた。

 

 

「あーしは、適当な扱いをする関係に良いことなんて無いと思うし」

 

「うーん。適当っていうと表現が悪かったかもですけど、気兼ねなく物を言い合える関係って良くないですか?」

 

 真面目な話をしてくれていると理解できるだけに、小町も少し畏まりながら返事をした。

 

 ベッドに寝転がったまま膝で三浦の背中をぐりぐりしている海老名は、どうやら彼女と同じ意見らしい。その他の面々は彼女の意図を図りきれていない様子で、小町の言葉に頷く素振りを見せている。

 

 だが三浦は細かな表現の問題を言いたかったわけではない模様で、一色を目で示しながら言葉を続けた。

 

「こいつが言った通りだし。『虐める側が言い出すのは違う』のと同じで、適当な扱いをした側が『気兼ねなく』と言い足すのは順序が逆だし。先に相手への思いやりとかがあって、それを受けて『気兼ねなく』ってのが礼儀だと思うし」

 

「なるほど。確かに貴女の言う通りだと思うのだけれど、相手側の意思が確認せずとも明確な状況なら問題ないのでは?」

 

「相手がどう思ってるのか、分かるようで分からないもんだし。あーしは確認したほうが良いと思うし」

 

 ここまで三浦に言われても、雪ノ下も小町も彼女の主張が腑に落ちなかった。相手への思いやりの気持ちが自分にあり、かつ相手もそうだと確認せずとも明瞭な状況で、三浦が言う確認を行うことは逆に相手に失礼ではないかと彼女らは思った。

 

 一方で、先程は小町や雪ノ下に同調していた由比ヶ浜と一色は、気になることを思い出したとでも言いたげな表情で考え事に耽っている。

 

 

 少しだけ沈黙が場を支配したが、このまま話が逸れたり言い争いになったら困ると考えたのだろう。由比ヶ浜が議題を元に戻すべく発言を行った。

 

「えっと、たしかヒッキーがまとめてくれた中には、あの子の意思を確認するためにあたしたちができることを考えよう、みたいなのがあったよね」

 

「でも実際、あの子に話しかけるのって難しいですよね〜」

 

「同じ班の子が一緒に居るときは絶対ダメですよねー」

 

「彼女だけをこっそり呼び出したいところだけれど、小学生のスケジュールを見ると団体行動ばかりなのよね」

 

「あれ。ゆきのん、あの子にメッセージ送れるの?」

 

「隼人が話しかけてたから、この世界だと一度話した相手にはメッセージを送れるはずだし」

 

「三浦さんの言う通りね。それに私と比企谷くんもあの子と少しお話をしたので、メッセージを送れると思うわ」

 

 彼女から聞き出したことをこの場でどこまで伝えて良いものかと考えながら、雪ノ下はひとまず接触の事実を告げた。だが雪ノ下の口調から、おそらくは葉山が受けたのと同じような対応だったのだろうと一同は考えた。それ以上は追求することなく、由比ヶ浜が話を先に進める。

 

「じゃあさ。ヒッキーとゆきのんと隼人くんだったら、ゆきのんからのメッセージが一番安心できるだろうし、『体調が悪くなったとか理由を付けてこっちにおいで』って誘ってみるのはどうかな?」

 

「そうね。ただ、逆に混乱させる結果にしかならない可能性もあると思うのだけれど」

 

「班の様子が今日と同じとも限らないですしね〜」

 

「届いたメッセージに気付かれて、それを見せろとか言い出されると困ると思うし」

 

「じゃあ、班の様子を観察しながら、あの子が一人でメッセージを確認できそうな時に送るとか。お兄ちゃんの隠蔽スキルが欲しいですね」

 

「ヒッキーに観察してもらって、覗き見がバレたら犯罪になっちゃわない?」

 

「ヒキタニくんなら、小学生よりも男湯を観察してくれると信じてます!」

 

「比企谷くんを観察に巻き込むなら、女子とペアという形にしようと思うのだけれど」

 

「交替で班の様子を窺いながら、メッセージを送る方法で良いと思うし」

 

「午前中は自由行動って書いてありますけど、どこに行くんでしょうね〜?」

 

「あんまり遠くに行かれると、交替で観察とか難しいですよねー」

 

「でもさ。やっぱり見ちゃったからには、できるだけのことはしてあげたいなって、あたしも思うんだよね」

 

 途中で変な発言も混じってはいたが、彼女らが女の子の状況に胸を痛め、何とかしてあげたいと思う気持ちは共通していた。ゆえに、この由比ヶ浜の一言によって、曖昧な部分は残しつつも翌日の基本方針が決まったのだった。

 

 

***

 

 

「じゃあ、話も落ち着いたことですし〜、葉山先輩の去年の話を……」

 

「その前に、確認したいことがあるし」

 

 気楽な口調でまずは一色が口を開いたのだが、三浦がそれを一瞬で却下する。一色が「あれっ?」という表情を浮かべるのを尻目に、三浦は雪ノ下に話しかけた。珍しく語尾を変形させずに、彼女はストレートに問いを発する。

 

「過去の失敗から、隼人の対応に不安があるって気持ちは理解したし。あーしが気になったのは、隼人のやる気まで否定してるように思えたんだけど?」

 

「そうね。言葉を濁さずに答えようと思うのだけれど。無能な日和見主義者よりも、無能な行動家は害悪だと考えているわ」

 

「無能か有能かは、結果が出るまで判らないし」

 

「過去からの演繹によって、ある程度は判別できると思うのだけれど」

 

 かつて三浦と雪ノ下はテニス勝負で対立したことがあった。しかしその時でさえ、お互いの主張が平行線だったのが原因で、感情的に対立したわけではない。ゆえに勝負が終わった後は、彼女らは以前にも増して親密な間柄となった。

 

 その後も由比ヶ浜を介して少しずつ積み上げた時間のおかげで、彼女ら二人は外部から見れば友人と呼んでも差し支えない関係に至っていた。友人の作り方が独特だったり、友人がほとんど居なかったために、変な遠慮が二人の間に残っていたに過ぎない。

 

「過去で全てが決まるなら、今のあーしたちの意思とか意味ないし!」

 

「過去で全てが決まるのではなく、過去を参考に色々な要素を組み合わせて未来を変えられると思うからこそ、現在の私たちの意思が大切だと思うのだけれど」

 

「じゃあ、組み合わせに入れてもらえず、排除されるだけの意思に存在価値は無いって?」

 

「それは、ある問題に限った評価を一般的な評価だと勘違いしているのではないかしら。他の場面で輝けば良いと思うのだけれど」

 

「何よりも自分が結果を出したいと思ってる場面で除外されて、他で評価されて喜べると思ってんの?」

 

「それは……。でも、それが当人の限界であれば、仕方がないのでは?」

 

 次第に語尾も安定しないことが多くなり、三浦の発言はますます感情的になっていった。彼女自身にも、なぜこんなに必死に彼の代弁をしているのか解らないままに、三浦は発言を続ける。一色や小町はもちろん、由比ヶ浜と海老名でさえも、今の三浦に声をかけることはできない。

 

 この世界に巻き込まれて、インターハイの予選にすら参加できない悔しさ。あの小学生を何としても助けたいという意思を示しても、目の前の女子生徒に一言で却下される悔しさ。それに反論できない悔しさ。納得してしまう悔しさ。そうした葉山隼人の悔しさを、三浦はなぜか我が事のように自然に理解することができた。

 

「それが当人の限界でも、周りが助けてあげれば、結果に繋がることだって」

 

「そうね。他の要素を加えることで、除外しなくて済むこともあるかもしれないわね。でもその場合でも余計な意思は忘れてもらわないと、変なところで暴走されては全てが台無しになるわ」

 

 三浦にとっては、意思こそが最上の価値を持っている。中学のテニス部に所属していた頃、やる気のない部員は山ほど見てきた。そんな連中に対して、やる気のある部員がどれほど努力を重ねても実力で劣り、遂には才能を理由に部を去って行ったことが何度もあった。

 

 結果が全てとは、雪ノ下に言われるまでもなく三浦も骨身に染みて理解している。しかしそれでも。努力する意思を放棄しろと言われて、三浦はそれに従容と従うつもりはない。結果が出ないと教え諭すことと、結果が出ないからと意思を挫くような行動にでることとは、彼女の中では厳密に峻別すべき事柄なのだ。

 

「あーしはそうは思わない。それで暴走されるようなら、他の要素とやらが加え足りなかったせいだってあーしは思う。あーしは……あーしだったら、隼人を暴走なんてさせない!」

 

 目の前の女子生徒が憎いわけでは決してない。だが彼をこれ以上貶すようであれば、内心もっと仲良くなりたいと考えているこの黒髪の少女であっても、容赦はしないと三浦は思う。他の全てを犠牲にしても悔いないと思い込むほどの愛情を胸に抱いて、三浦は口を開く。

 

「あーしは、隼人と一緒にあの子を助けるから」

 

 そう宣言して、三浦は部屋の反対側にベッドを用意すると、全員に背を向けて布団にくるまった。

 




次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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07.きまぐれな散歩が彼を彼女の元にいざなう。

前回までのあらすじ。

 夕食後の女子会で雪ノ下と葉山の関係が話題に上がり、雪ノ下は最低限の説明を行った。大半の納得を得られたものの、彼女の説明では不十分だと受け取った海老名は、いつか二人だけでじっくり話し合うべき時が来るかもしれないと思う。仲の良い二人のためにも、そして雪ノ下自身のためにも。

 留美の意思を確認する方法を打ち合わせて話に区切りがついた後で、三浦が雪ノ下に問いを発した。「葉山の意思そのものまで否定するのはまちがっている」と考える三浦は対話を重ねるごとに感情を昂ぶらせ、ついには明確に葉山の味方をすると宣言した。



 葉山隼人が好きな女の子のイニシャルという爆弾を残して二階へと去った後、残された三人は何ともいえない表情でお互いの顔を見合っていた。だが詮索をしても埒があかないと諦めて、まずは戸部翔が葉山の様子を窺いに行った。

 

「隼人くん、怒ってるかもって思ってたけど大丈夫みたいだべ」

 

「八幡は個室に帰っちゃうの?」

 

 戸部が二階に上がると、葉山のほうから苦笑まじりに謝られたらしい。報告に戻って来てくれた戸部を含め三人はひとまず安堵の息をついた。

 

 とはいえ不安が完全に去ったわけではなく、今後のことを思うと感情的に落ち着かない。そして葉山が好きな女の子の情報を知ってしまった者同士、連帯の気持ちが生まれるのも当然だろう。

 

 戸塚彩加は事情を知る者がこの場から一人減ることを怖れるように、そっと比企谷八幡に問いかけた。戸部も内心では同じような心情だったみたいで、珍しく息を呑んで八幡の反応を待っている。

 

「まあ、そうだな……。荷物を取ってきて、今日はこっちで寝るか」

 

 降って湧いたようなぎくしゃくした雰囲気に戸塚が怯える気持ちは八幡にも理解できた。

 

 戸部にしても自業自得という部分はあるものの、おそらく葉山なら流してくれるだろうと思って訊ねたのだろう。まさか葉山が素直に答えるとは八幡も予想外だったので、戸部を責める気持ちもさほど沸いては来なかった。

 

 もしも責めるのであれば、その対象はログハウスでの男だけの話し合いに自主的に参加を決めた、自分の判断だろうと八幡は思う。やはり面倒なことに首を突っ込まなければ良かったかと少し反省するものの、八幡はすぐにそれを否定する。

 

 好むと好まざるとにかかわらず、この千葉村にいる連中とは、既に浅からぬ関係を積み上げてきた。ぼっちを愛しリア充を敵視する八幡ではあるが、それは彼にとって楽だから、彼とは相容れぬ部分があるからだ。

 

 だが今ここにいる面々は、彼にリア充としての価値観を押し付けてこない。イベントに彼を強引に巻き込もうとすることはあっても、彼の意思を全く無視することはない()()だ。ならばその程度の扱いの悪さなど、彼が問題にするまでもない。

 

 彼の優しさが誰かの甘えを助長していることに、八幡はまだ気付いていなかった。

 

 

「じゃあ、八幡が帰ってくるまで起きて待ってるね」

 

 お父さんの帰りを待つ幼児のような可愛らしいことを口にして、戸塚が微笑みかけてくれる。思わず視線を逸らしながら、八幡は冗談で応えた。

 

「お肌が荒れたら大変だから、戸塚はもう寝なさい。つか、今日一日ずっと動いてて疲れただろ。戸部もさっさと寝ててくれて良いからな」

 

「ヒキタニくんマジかっけーっしょ。隼人くんが教室で話しかけてるのって、クラスで孤立しないようにって意味だと思ってたんだけど、マジ頼れる感じで納得だわー。海老名さんやっぱスゲーっしょ!」

 

「おい、その結論はやめろ」

 

 反射的に素で応えてしまったものの、重苦しかった場の雰囲気はいつの間にか霧消していた。それに気付いた八幡は苦笑して、ゆっくりと腰を上げた。

 

「んじゃ、散歩がてら行ってくるから、先に寝といてくれな」

 

 そう言い残して、八幡はログハウスを後にした。

 

 

***

 

 

 布団にくるまった三浦優美子の背中を眺めながら、雪ノ下雪乃は一つ深呼吸をして口を開いた。

 

「由比ヶ浜さん、海老名さん。申し訳ないのだけれどお願いね。私は外に出て、少し頭を冷やしてくるわ」

 

「あ、じゃあ小町も……」

 

「わたしはお風呂に行ってきますね〜。小町ちゃんも一緒に行かない?」

 

 三浦のことは気になるものの、自分には何もできないと理解した雪ノ下は後を二人に託した。雪ノ下を一人きりにするのは良くないと思った比企谷小町が同道を申し出ようとしたが、一色いろはがマイペースな口調でそれを遮る。

 

 夜に一人で外に出ても危険が有るわけでもなし、雪ノ下の性格を考えれば一人で行動させたほうが良いだろうと一色は判断した。三浦たちと深い話ができるほどの仲になりたいと企んでいる彼女だが、それも含め彼女の行動原理は「葉山とどんな関係を築くべきか」という課題に直結している。

 

 冷静に考えれば、三浦と雪ノ下の言い争いを暗に煽って参考にすべき情報をより多く仕入れるのが、一色にとっては最も益のある行動のはずだ。少しだけ、なぜか由比ヶ浜結衣に対しては損得を除外して仲良くなりたい気持ちもあるのだが、それ以外の面々と仲良くなる必要はないはずなのに。

 

 同性の友人がいないわけではないが、一色は付き合いを最低限に抑えていた。常に男性を間に介した付き合いにすることで、彼女は女性同士の面倒な関係から免れていた。同じ努力をするのであれば、同性よりも異性と上手く関係を築ける能力を磨くほうが有益に決まっていると、彼女は考えていた。少なくとも今までは。

 

 内心で「なんでわたしが気を回したことを言わないといけないんですかね〜」と不満を漏らしながら、密かに「雪ノ下先輩に一つ貸しですよ〜」などと口を尖らせながら、一色は自分がそれを全く嫌がっていないことに気付いていない。

 

 

 なぜか上機嫌でお風呂の準備を始める一色を怪訝そうに眺めて、その他の面々もまた彼女の発言に沿った形で動き始める。由比ヶ浜と海老名姫菜はこの部屋で三浦とゆっくり話をするために、小町は一色と一緒にお風呂に行くために、それぞれ動き始めた。

 

 そして雪ノ下は一人ログハウスを後にして、木立の中へと歩いて行った。

 

 

***

 

 

 それほど多くはない荷物をさっさと回収して、八幡は再び外に出た。このまま戸塚が待つログハウスに直帰しても良いのだが、月があまりに綺麗なので、すぐに屋内に戻るのがなんだか勿体ない気持ちがする。

 

 八幡は少し迷っただけで、ログハウスとは反対側へと歩みを進めた。木々の間を縫うように、キャンプ場から更にその奥へと八幡をいざなうように道が続いている。

 

 歩きながら左右を見渡すと、夜の暗闇の中でも一面の緑が存在を主張していた。木々はいずれも葉をふんだんに生い茂らせ、風が吹くとざわざわとお互いを擦り合わせる音が響いてくる。

 

 八幡はゆっくりと、ただ道に従って歩いて行った。道を踏みしめる自分の足音が妙に鋭く聞こえてくる。まるで自分と葉っぱと、それ以外の音がこの世から消えてしまったみたいだ。普通なら聞こえるはずの虫の声も、川の水が流れる音すらも。

 

 空を眺めると、大きな月が彼を見下ろしていた。星々もまた都会ではありえないほどの輝きを放っている。自分の周囲を昼間とは全く違った印象にしているのは、月の魔力か。それとも星の光か。いつの間にか立ち止まっていた八幡は、幻想的な世界に知らず入り込んでしまったような心地がした。

 

 

 ふと、かすかな響きが耳に入った。

 

 どれほどの時間、ここで立ち尽くしていたのだろう。八幡は一度は我に返ったものの、音が聞こえてくる方角へと引き寄せられて行く自分の身体をどこか他人のように感じていた。夢心地が続いているようで、八幡は道を外れて危なっかしい足取りで木々の間を歩いて行く。

 

 進むにつれて音は次第に大きくなった。誰かが歌を歌っているようだ。ささやくような、同時に力強いその女声に、八幡は聞き覚えがある。果たして木々の間から、かの黒髪の少女の姿が浮かび上がってきた。

 

 月明かりすら弾き返すほどの白い肌。長い髪は彼女の呼吸につれて静かに複雑に姿を変える。この距離からは表情までは窺えないが、自然体でしっかりと足を踏みしめて、両の拳に力をこめて彼女は歌う。

 

 

“Wenn du versprichst, nicht zu verblassen.”

“Ich werde dich nie gehen lassen.”

“Ich lasse Dich niemals gehen.”

 

 最後に何度か同じフレーズを繰り返して、彼女はゆっくりと歌い終えた。そして月を眺めながらぽつりとつぶやく。

 

「そこに居るのでしょう。比企谷くん、出てらっしゃい」

 

 

***

 

 

 時間をかけて足をしっかりと動かしながら、八幡は雪ノ下が待つ場所まで近付いて行った。歌が終わって風も止まって、自分の足音だけが響いている。やがて彼女と向き合って、辺りは静寂に包まれた。

 

 場違いな役者が舞台に上がってしまったような心地がした八幡だったが、どうやら主演の女優はそうは思っていないらしい。歌い終えて上気した頬を柔らかく整えて、雪ノ下は口を開いた。

 

「どうして、こんなところに?」

 

「なんでだろうな。外に出たら月が綺麗だったから、そのまま適当に歩いてみただけなんだが」

 

 お互いに現実感が失せたような感覚を引きずったまま、二人は会話を始めた。近い距離で見つめ合っているのに恥ずかしさを感じない自分を不思議に思いながら、八幡は素直に答える。

 

「月も綺麗だけれど、星の光も素敵だと思わない?」

 

「だな。月と比べると光は弱いけど、輝きがなんてか違う気がするな。何となく、さっきのお前の歌を連想するっつーか」

 

「私の歌?」

 

「大声で主張してるわけじゃないのに芯の強さを感じるというか。俺は評論家じゃないし上手く説明できないけど、そんな感じの印象を受けたんだわ」

 

 適切な説明ができない自分にもどかしさを感じながらも、八幡は落ち着いてゆっくりと返事を返す。焦らなくとも時間はたっぷりある。この場には他に誰も居ないし、誰にも邪魔されることはない。八幡はなぜかそれらを確信できた。

 

 雪ノ下もまた同じ感覚を共有しているのか、ゆったりと会話の流れを楽しんでいるように八幡には思えた。

 

「そう、それは嬉しいわね。さっきの歌は直訳すると『星の光』というタイトルなのよ」

 

「ほーん。なんか最後のほう、同じフレーズを繰り返してたよな。つか何語なんだ?」

 

「ドイツ語の歌よ。少し古いものの、あちらでは有名な曲なのだけれど。こちらでは一部の洋楽好きにしか分かって貰えなかったわね。聞けば知っているという程度かしら」

 

 少しずつ現実感を取り戻しながら、二人の会話は進む。

 

「最近は中二病でも、洋楽にはまる奴は少なくなってるらしいからな」

 

「貴方が食事の前に言っていたように『趣味が多様化』しているのが理由かしら。共通の話題というものが確実にあれば、もう少し雑談が楽なのだけれど」

 

「お前でも雑談に気を遣ったりするんだな。そういやさっきのフレーズって、どういう意味か聞いてもいいか?」

 

 少しだけ微笑んで、雪ノ下は再び幻想的な雰囲気をまとってゆっくりと口を開いた。お互いに顔を見合わせたまま、歌うように、ささやくように。

 

 

『貴方が、消え失せたりしないと約束してくれるのなら』

『私は決して貴方を離さないわ。絶対に』

 

 

 雪ノ下と見つめ合いながら八幡は思う。曲を知っていたら、返事ができたのにと。彼女が口にしたのは単なる歌詞である以上、そこに必要以上に深い意味を求めるべきではない。だから意味が、会話が成り立つことは重要ではないのだが、曲にまつわる何かを返したいと八幡は思った。ららぽーとでのオビ=ワンとアナキンのように。

 

「星の光って、何年も前のから何億年も前のまであるんだってな。そんなのですら消えねーんだから、人間一人が消え失せるとか心配しなくても良いんじゃね?」

 

 八幡が口に出せたのは屁理屈でしかない。曲を知らない今はこれで精一杯だが、この合宿から帰ったら雪ノ下が教えてくれた歌をきちんと聞こうと八幡は思った。知らなかった過去は取り戻せないが、雪ノ下に教えて貰った歌というスタートは悪いものではない気がした。

 

 そんな八幡の返答を楽しそうな表情で受け取って、雪ノ下は語る。

 

「そうね。とはいえ他人との関係というものは、一瞬で変容することもあるのよ。だから私は約束を求める気持ちも理解できるし、あちらの契約への考え方に頷ける気持ちがあるのだけれど」

 

「そういや、こっちと向こうで契約の考え方が違うって誰か言ってたな。契約書の厚さが全然違うとか、人情が通じないとか」

 

「どちらが良いという話ではないのだけれど、私にとっては曖昧な口約束は対応に困るのが正直なところね」

 

「ああ。そういうのもあってお前、あっちでは楽しく過ごせてたんだな」

 

 雪ノ下が留学先で楽しく過ごしていたと口にしたことを八幡は思い出した。先程の歌もその時に覚えたのだろうし、彼女の中で異国での日々は大切な経験として根付いているのだろう。

 

「別にこちらが楽しくないというわけではないのよ。ただ、根本的なところで私の考え方が伝わらなかったり、逆に他の人の思考や行動が理解できない時があるだけで」

 

「いいんじゃね。俺もそんな時はあるしな。読んだ本の感想とか、全く理解できんやつとか余裕であるぞ。最近だと映画になった『沈黙』とかな。あれを読んで『人間は弱いんだ』とか言って自分の弱さを棚に上げてる奴、絶対に友達になりたくねーなって思うわ」

 

「貴方が言いたいのは、物語の登場人物の行動なり発言なりを勝手に歪めて自己正当化する人たちのことね。そこには同意するのだけれど、私は原作を読んだときに、その『弱さ』に違和感を覚えたわね。それを姉に告げても適当に流されて終わりだったのだけれど」

 

「あれだな。自分の感想が絶対とか思わんし、反論されると腹も立つけど嬉しかったりするよな。流されて相手にされないのが一番、なんというかガックリ来るな」

 

「父の仕事が忙しくない時には、話を聞いて貰えたのだけれど。そんな時ばかりではなかったから」

 

 珍しく自分から家族の話を始めた雪ノ下に、八幡は黙って頷く。雪ノ下も自分と同じように、今この時であれば何を口にしても大丈夫だと、そんな不思議な気持ちでいるのではないかと考えながら。

 

「高校で一人暮らしをする時にも、父には助けてもらったし……。そういえば、貴方は鍋に火をかけている時に漱石を引用していたわね」

 

「ん、そういえばそんなことも言ったな。親父さん、漱石が好きなのか?」

 

「解説を読むために全ての出版社の文庫を購入したり、月報だけを目当てに全集を買い集める程度にはね。貴方なら、三四郎のあれはどう訳すのかしら?」

 

「あれか。”Pity’s akin to love.”だよな。まあ無難に『憐れみは恋に通ず』とかで良いんじゃね。俺に芸術センスを期待しても無駄だぞ」

 

「それも東西で違うのかしら。それとも同じなのか。貴方の意見は?」

 

「わからん。そもそもLOVEとは何ぞや、みたいな段階だぞ俺の場合」

 

 八幡の返事に苦笑しながら、雪ノ下は思い出す。自分に向かって『隼人を暴走なんてさせない』と宣言した彼女の言葉を。あれは果たして憐れみなのか同情なのか。それともあれが愛なのだろうか。それを頭の片隅で考察しながら、軽口を叩く。

 

「でも貴方の場合は、同情や憐れみで寄って来られても拒絶するのでしょう?」

 

「あー、どうだろな。昔は即拒絶してたと思うけど、今はわからんな」

 

 職場見学の後で由比ヶ浜を拒絶して、その後の一週間を経た八幡は、今となってはそれを断言することができなくなった。一口に同情と言っても、行為の主と受け取り手の関係やそれぞれの考え方によって、色々と違ってくるのだと彼は既に知っている。

 

「そうしたことから始まる愛もあると、貴方は考えるのね」

 

 意外ではあったがなぜかすぐに納得して、雪ノ下は頷きながら問いかけた。もしかすると自分はとても貴重な瞬間を目の当たりにしたのかもしれないと考えながら。

 

「あるかもしれんとしか言いようがないな。世の中、知らないことやわからないことは鬼のようにあるよな」

 

「知っていることならそれなりに対処はできるのだけれど。知らないことだと、どうしたら良いのか途方に暮れる時があるわ」

 

 彼女には珍しい弱音も、この場であれば口にしても平気な気がしたのだろう。実際に八幡は彼女の言葉を流すことなく、思ったままの返事を口にする。

 

「それが普通だろ。つか、一度経験しただけで次からほぼ完璧に対処できるとか、普通は無理だってお前知ってる?」

 

「あら。二度も三度も同じ失敗を繰り返すのは悔しいじゃない。それに他人の失敗から学ぶことができれば、自分で失敗するのは更に少なくて済むわよ」

 

「だから常人にはそれが難しいんだっての。まあせいぜい俺の失敗を糧に危機を乗り越えてくれ」

 

「貴方の黒歴史全てを体験するのは難しいと思うのだけれど。貴方が真剣に向き合った失敗は、それを見ていた私も乗り越えたいと……乗り越えると()()するわ」

 

 少しだけ八幡をからかった後で、雪ノ下は何を想定したのだろうか。八幡には具体的な内容は分からなかったが、目の前の女の子の決意だけは強く伝わって来た。

 

「良く分からんけど、お前なら大丈夫だろ。つかあれだ。言葉の端々で俺を攻撃してくるの、もう少し手加減してくれませんかね?」

 

 今日どこかで言われたことを朧気に思い出して、しかし明瞭には思い出せない自分にもどかしさを感じつつ雪ノ下は口を開く。言葉を発しながら、ようやく思い出した。三浦が小町に語っていた話だ。

 

「手加減が必要なら……。もしも貴方が不快に思っているのであれば、私も控えようと思うのだけれど?」

 

「いや、不快ってほどじゃないっつーか。なんか妙に優しいけど、お前ホントに雪ノ下か?歌の精霊とかじゃねーよな?」

 

「さすがにその言い方は酷いのではないかしら?」

 

「あー、すまん。今のは俺が言いすぎた」

 

 八幡の素直な謝罪に、雪ノ下は静かに首を横に振って応える。少しだけ、あの時の三浦の意図が解ったような気がした。それを目の前の男の子に悟られないように、雪ノ下はわざと美禰子が三四郎に語りかけるような口調で返事を終える。

 

「手加減が必要だったり不快に思う時があれば、その時は遠慮なく言っていらっしゃい」

 

「……何だよその言い方は。あれだ、そのうち言い負かしてやるから、手加減とかもやっぱ無しな」

 

「ええ。楽しみにしているわ」

 

「全く信じてねーだろ。いつか、お前を、口で負かす」

 

 言っていることは小学生並みで情けないのだが、自分に本気で対抗しようとする姿勢を新鮮に感じて、雪ノ下は思わず八幡の発言を繰り返す。

 

「いつか、私を……。楽しみにしているわね」

 

 

 その後は特段の話をすることもなく、二人で静かに月夜の空を眺めて過ごした。先に帰って欲しいと言われ、八幡は素直にそれに従った。最後に「また明日」と顔を向け合って約束して、八幡は振り返る事なくゆっくり足を進めた。まるで後ろを向いてしまえば全てが台無しになると怖れているかのように。

 

 雪ノ下と別れログハウスへと帰る道すがら。八幡は遅まきながら、彼女が母の話を一切口にしなかったことに気が付いた。

 




著作権を尊重して、作中の楽曲は歌詞に変更を加えた上でドイツ語に翻訳しました。
原曲の歌詞は英語で、知名度は作中で語られている通りです。

次回は月曜か火曜に更新する予定です。
来週末は一度お休みを頂いて、次々回は連休明けの月曜日に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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08.がっつりと彼らは本音で語り合う。

本話は途中からシリアスな内容になります。文字数も多いのでご注意下さい。

以下、前回までのあらすじ。

 個室に荷物を取りに戻った八幡は少し散歩をすることにした。一方、頭を冷やすために外に出た雪ノ下は木々に囲まれた環境で静かに力強く歌う。その歌声に引き寄せられた八幡は雪ノ下と二人きりで、ゆったりと話に興じるのだった。



 比企谷八幡はだらだらと道に沿って歩いていた。行きには気付かなかったが、どうやら彼はずいぶん遠回りをしていたらしい。

 

 雪ノ下雪乃が指し示した方角に向かうとすぐに道に出て、そこは彼らが男女別で泊まっているログハウスからさほど離れていなかった。行きには三角形の二辺を費やした行程が、帰りは一辺で済んだ形だ。

 

 不思議なことに、先程は聞こえなかった川のせせらぎや虫の声が、うるさいぐらいに八幡の耳に入ってくる。こんな状態では、さっきの場所で雪ノ下が歌声を張り上げたところで誰にも気付かれないだろう。

 

「あ、ヒッキー!」

 

 八幡がそんなことを考えていると、付近の雑多な音を切り裂くような元気な声で呼びかけられた。こちらに向けて手を大きく振り回しながら、由比ヶ浜結衣が道の向こうに立っていた。

 

「こんなとこで、どうしたんだ?」

 

「えーと……。ちょっとゆきのんがね、お散歩に行っちゃって。帰りが遅いから探しに行った方がいいのかなって」

 

「この世界なら危険もないし大丈夫じゃね。そのうち帰ってくるだろ」

 

「それはそうなんだけどさ。でも……。あれっ、ゆきのんの匂い?」

 

 雪ノ下と三浦優美子が衝突したことは口に出さず、由比ヶ浜は適当な言い訳を八幡に告げた。雪ノ下の帰りが遅いので心配しているのも事実だが、大勢が居る場ではできない話をしたいというのが主要な理由だ。

 

 八幡は先程まで雪ノ下と一緒に過ごしていただけに、彼女の安全を保証しようと思えばできるのだが、何となく二人で逢っていたことを口にしないほうが良いような気がして一般論で返した。しかし由比ヶ浜が妙なことを言い始めたので、慌てて口を開く。

 

「カレーの匂いの間違いだろ。つか何かあったのか?」

 

「あ、うーん。明日になったら分かるかもだけど、今はちょっと」

 

「そか。じゃあ俺はこれで」

 

「ちょ、ヒッキー待つし。ゆきのんが帰って来るまででいいから、ここで一緒に待ってくれると、その、助かるんだけど……」

 

 おどおどと提案してくる由比ヶ浜を見ていると、八幡も邪険には扱いづらい。秘密を抱えている後ろめたさもある。一緒に探しに行くとなると色んな意味で面倒だが、ただ待つだけなら労力も隠蔽工作もほぼ必要ない。

 

 わざとらしく一つ大きく息をついて、八幡は目についた巨大な石の上に腰を下ろした。

 

 

 由比ヶ浜が自分のすぐ横におそるおそる座ってくるのを見て、必死に呼吸を落ち着けながら八幡は口を開く。直前に匂いの話が持ち上がったせいで、由比ヶ浜の匂いをつい意識してしまう。

 

「ここからだと、女子だけじゃなくて俺らのログハウスも見えるんだな」

 

「うん。これ以上離れちゃうとどっちも見えなくなっちゃうし、行き違いになるのも嫌だしね」

 

「メッセージは?」

 

「あ、そっか。って、平塚先生から何か来てるんだけど」

 

「げ。こっちにも来てるけど、長いな。要約すると『一定時間以上、夜に外を出歩いたら引率者に連絡が入る』ってことと、『小学生と違って具体的な位置は判らない』って状態みたいだな。疚しいことがないなら返事をしろってさ」

 

「や、疚しいことって……」

 

 恥ずかしさが急激に閾値を超えたのか、はたまた何を想像してしまったのか、由比ヶ浜が即座に顔を赤らめて口ごもる。すぐそばに座る女の子のそうした反応に、八幡もまた慌てて口を開く。

 

「あー、その、あれだ。同じ部活なんだし、さっきの話し合いのこともあるからな。別に俺らが外で喋ってても、疚しくも何ともないだろ。たぶん」

 

「そ、そうだよね。あたしも別に……。あ、じゃあ真面目な話し合いをしなくちゃだね?」

 

「まあ別に雑談を挟むぐらい良いだろ。平塚先生がその辺りから監視してるわけでもないだろうし」

 

 自分で言っておきながらあの先生ならやりかねない気もして、思わず念入りに付近を見渡す八幡だった。返事をする件については二人の頭からすっかり抜け落ちている。

 

 せっかくなのでと必死に話題を探して、由比ヶ浜が口を開いた。

 

「雑談……。ヒッキーって、外で喋るのは疚しかったり嫌だったりしないよね?」

 

「夏休みになんか奉仕部で集まるって話か?」

 

「……そうだね。前に言ってた映画とか、あと花火大会とかもあるみたいだし」

 

 自分が「二人きりで」という部分を曖昧にしたのが原因なのだし仕方がないと、由比ヶ浜はすぐに気持ちを入れ替えて話を続ける。たとえ三人で行く形になっても、行けないよりはマシだと思いながら。

 

「まあ、そのうち……じゃねーな。行けそうなら行くから、連絡くれ」

 

 いつまでも彼女らに気を遣わせるわけにはいかないと、八幡は少しだけ前向きな返事をした。意外そうに見つめてくる由比ヶ浜に照れ臭さを感じながらも、八幡は言葉を続ける。先程もう一人の女の子と話していた時と同じ自然な口調で、そっぽを向きながら。

 

「お前らと遊びに行くのは、嫌じゃねーよ」

 

 いつか複数形が取れる日が来ればと思いながらも、由比ヶ浜は八幡の言葉に喜びをこらえることができない。自分だけではなく、八幡があの少女にも親しい気持ちを持っていると確認できたことがこんなにも嬉しいとは。もしかしたら最大のライバルになるかもしれないのに。

 

「うん。じゃあ連絡するね!」

 

 一瞬で元気を取り戻して、由比ヶ浜はいくつかのイベント計画を頭の中で立ち上げる。機嫌良く足をぶらぶらさせて、今にも鼻歌を始めそうなほど上機嫌な彼女を、八幡は苦笑しながら眺めていた。沈黙が苦にならない八幡はそのまま由比ヶ浜を見守る。

 

 

 不意に、背後から足音が聞こえた。音の主は静かに二人に話しかける。

 

「こんなところで何をしているのかしら。由比ヶ浜さん、逢い引きがやくん?」

 

 そう口にした雪ノ下の目尻には、優しい笑みが浮かんでいた。

 

 

***

 

 

 引率者用のログハウスに招き入れられた四人は、中の様子を見てしばし立ち止まってしまった。

 

 四人が居る入り口の方角に向けて長机が伸びていた。こちら側とむこう側と、長机の両端には椅子が二つずつ近い距離で置かれている。机の真ん中辺り、いわゆる依頼人席にも一つ椅子が用意されていて、そこに座った平塚静が来訪者を楽しそうに眺めていた。

 

「部室みたいで盛り上がっちゃうね。ゆきのん、行こっ!」

 

「じゃあ、小町とお兄ちゃんはこっちの椅子ですね」

 

 雪ノ下と由比ヶ浜がいつもの席に向かうのを見て、以前に依頼の付き添いで部室を訪れたことのある比企谷小町も淀みなく動いた。八幡もまた普段通りの席につく。全員が腰を落ち着けるのを待って教師が口を開いた。

 

「個別に呼び出そうかとも思っていたが、やはり君たちは縁が深いのかもしれないな。各々、どうして外に出ようと思ったのかね?」

 

「軽い散歩の予定が、星の光が綺麗でつい長居をしてしまいました」

 

「ゆきのんの帰りが遅いから、探しに行った方がいいのかなって」

 

「結衣さんが居なくなって、いろはさんはお風呂から帰って来ないし布教が始まっちゃうしで逃げてきました……」

 

 奉仕部三人が集まって平塚先生にどう返事をしようかと悩んでいたときに、小町がもの凄い勢いで飛び出してきた。その時は事情が判らなかったが、長風呂にも布教にも付き合いきれなかったということなのだろう。小町にいつもの元気が無いのも納得だと、深く頷いてしまった面々だった。

 

 少しだけ雪ノ下を見やって、八幡が最後に口を開いた。

 

「月を見てたら、すぐに寝るのが勿体ない気がしたんですよ。適当に歩いてたら由比ヶ浜がいて、そこに雪ノ下が来たんだっけか?」

 

「最後に小町さんが加わって、平塚先生に連絡を入れたらここに招待して頂いたという流れですね」

 

 八幡に頷きながら話を引き取って、雪ノ下が説明を終えた。

 

 先ほど何となくで由比ヶ浜に隠した時とは違って、今の八幡は意識的に情報を隠した。この場の面々にすら話せない秘密ができたことに八幡は内心でびくびくしていた。雪ノ下が堂々として見えるだけに、これは性格の違いなのか男女の違いなのかと考え込んでしまう八幡だった。

 

 

***

 

 

「では奉仕部の臨時集会を始めようか。部外者というと葉山たちには気の毒だが、ここには身内しかいないと考えて、思ったままを喋ってくれたまえ。言い過ぎを気にせず、逆に他者が言い過ぎた時にはためらわず指摘できるような、そんな話し合いが理想だな」

 

「ある種の無礼講ですね。思った事はそのまま口にしろと。とはいえ、議題を教えて頂かないことには……」

 

「雪ノ下の指摘も尤もだな。では最初に比企谷との合流についての話をしよう。詳細を教えてくれるかね?」

 

 平塚先生の進行で話し合いが始まった。小町や八幡は意外な議題を耳にして不思議がっているが、雪ノ下には思うところもあり、顧問への報告に慣れていることもあって、簡潔に経緯を説明する。

 

「なるほど。比企谷と現地で合流してビックリさせようとしたことは、黙認した私に最終責任があるな。だがその口ぶりだと雪ノ下は既に問題点を把握できているのではないかね?」

 

 なるべく判決を押しつけるのは控えて、できれば生徒たちだけで気付いて欲しいと考えながら、教師は話を誘導する。

 

「話の流れで合宿の詳細を説明できなかったという言い訳はありますが、現地での結末を高い確率で予想しながらも、比企谷くんを騙す形で話を進めた私に問題があったと思っています」

 

「え、それってゆきのんだけの責任じゃないじゃん。あたしだって、部室では分かってなかったけど、合宿の詳しい話を聞いてもヒッキーに何も言わなかったんだしさ」

 

「由比ヶ浜さんは何度も『大丈夫かな』と口にしていたでしょう。それを押し通したのは私なのだから」

 

「お前らな。別に俺は気にしてないから、責任とか問題とか考えなくていいぞ。そもそも、普通に誘ったら俺が逃げると思ったから、こんなやり方にしたんだろ?」

 

「お兄ちゃんもこう言ってますし、気にしなくても良いと思いますよー」

 

 気楽な調子で小町が兄の言葉に続く。肉親ゆえに、休日でもなかなか外に出ようとしない八幡に手こずった経験が多々ある小町は、兄の言葉を額面通りに受け取っていた。

 

 だが雪ノ下は、柔らかい表情で諭すように小町に語りかける。

 

「小町さん。先程の三浦さんの忠告を覚えているかしら。適当な扱いはダメだと言っていたと思うのだけれど」

 

「確認した方がいいって話ですよね。でも雪乃さんも言ってませんでしたっけ。確認しなくても分かり切ってるなら問題ないっていうか、逆に相手を疑ってるようで失礼かなって思うんですけど」

 

「私もそう思っていたのだけれど、お互いの気持ちを何度も確認するのも悪い事ではないと思い直したのよ」

 

 木々に囲まれて彼と会話をしたつい先程のことを雪ノ下は思い出す。

 

「うーん。でも三浦さんだって、戸部さんの扱いはかなり適当ですよね。真剣に言ってくれてたのは分かるんですけど、あんまり説得力が無いっていうか、例外が多くありそうだなって」

 

「とべっちは、こっちが確認する前に『大丈夫』って言ってくる感じなんだよね……」

 

「それも鬱陶しいほど頻繁に、だろ?」

 

 苦笑しながら由比ヶ浜が話に加わって、それに八幡が口を添える。男子会を経たためか、言葉の割には彼の口調は穏やかで親しげなものだった。誰かが新たなカップリングを見出す日も近いのかもしれない。

 

「じゃあお兄ちゃんはさ、仕組まれた形で合流したのって、実は嫌だったの?」

 

 何となく兄までが自分に反対の立場に思えて、小町は少しだけふくれた表情を浮かべながら質問を投げた。そうではないと即座に否定して欲しいと思いながら。

 

「あー、仕組まれるのが嫌っつーか、それはもう六月に散々話し合ったことなんだけどな。雪ノ下も由比ヶ浜も覚えてるよな」

 

「……そういえばそうだったわね」

 

 もちろん雪ノ下も覚えているが、彼女が考えていた以上に八幡はあの時のやり取りを大事に思ってくれているのかもしれない。八幡の言い草からそんなことを考えてしまい、少し反応が遅れてしまった。

 

 普段は打てば響くような反応を返す雪ノ下が一拍遅れたことに、八幡は少し怪訝そうな表情を見せる。だが何かを気にしているのであればきちんと否定すべきだと考えて、彼は素直に思うところを述べた。

 

「それよりも、ぶっちゃけ策を弄さないと俺が参加しないって思われてるのが情けないっつーかな」

 

「えっ?」

 

 期せずして女子生徒三人の声が重なる。それに少し怯えながらも、八幡は言葉を続けた。

 

「こんな事でお前らに気を遣わせるのも悪いなって、最近やっと思えて来たんだわ。特に小町には昔から迷惑かけたしな。だからまあ、何かあったらストレートに訊いてくれたらいいし、その代わり頻度とかは考慮してくれ。平均よりも面倒な事を嫌がる率は高いから、その辺を斟酌してだな……」

 

 何やら八幡が色々と予防線を張っているようだが、三人の耳には届いていない。小町は兄の成長を、雪ノ下と由比ヶ浜は彼の変化を喜んでいる。しかし、それでこの話し合いが終わるわけではなかった。

 

 

「比企谷の変化は好ましいが。自分の方が気を遣いすぎていると、そうは思わないかね?」

 

「どういう事ですか?」

 

 教師が問いかけを発して、女子生徒たちは一瞬で口をつぐみ、八幡は意外そうな表情で詳細を求めた。

 

「雪ノ下や由比ヶ浜、小町くんに気を遣わせないようにと、君自身が気を遣いすぎているのではないかという事だよ。だが、まずは話を戻そう。雪ノ下は今回の自分の行動についてどう分析しているのかね?」

 

「職場見学の班分けの時に、比企谷くんが私たちと同じ班になるわけがないと思い込んで大口を叩き、墓穴を掘ったことがありました。あの時は偶然でしたが、比企谷くんの憮然とした表情が何だか可笑しくて、それを意識的に再現しようと思ったのが原因だと思います。結果として、その目的のためには部員を騙したり陥れても罪を感じない心理状態に至っていました」

 

「ふむ。過度の自省、とまでは行かないか。気付いたきっかけは?」

 

「先ほど話題にした三浦さんの忠告と、それから……。実は今日、口にした後もずっと違和感を抱いていた発言があります。合流直後に比企谷くんに向かって『伏してお詫び申し上げ謹んで訂正させて頂きます』と言ったのですが。こちらとしては冗談のつもりでも、それは三浦さんが言った『虐める側の言い分』でしかないと、やっと理解できました」

 

「おい。俺は別に虐めとか思ってねーぞ」

 

「貴方がそう思うのは自由なのと同じように、私も自分の考えに至らぬ部分があったと認めるのは自由だと思うのよ。貴方が虐めだと思っていないから自分に過ちは無いなどと、そんな厚顔無恥は御免だわ。貴方だって、自分が悪いと思った時には素直に謝っているじゃない」

 

「あー、じゃあ言わせて貰うがな。お前って友達少ないし、対等の立場じゃないのがほとんどだろ。尊重される形が基本でお前もそれに応えようとするから、誰かを弄るとか今まで縁が無かったんじゃね。要は経験がなかったんだから、一度エスカレートするぐらい仕方ねーだろ。その日に気付いたんなら、さっさとクーリングオフして無効だ無効」

 

 八幡が厳しい言葉を並べ立て始めたことで由比ヶ浜と小町が心配そうな表情になったが、当の雪ノ下に変化は見えない。まるで自分を擁護してくれる結論になると分かっていたかのように、彼女は八幡が話し終えるのを待ってすぐに口を開いた。

 

「それが先ほど平塚先生が貴方に言った問題点よ。私を気遣ってのことだと解ってはいるのだけれど、相手に反省の機会を与えないのは単なる傲慢だわ」

 

「えーと、つまりヒッキーが色々と背負い込みすぎってことなのかな。あたしたちが間違った時にも責めないどころか気付かせない、みたいな感じ?」

 

 話の内容が難しすぎてなかなかついて行けないものの、何となく感覚で問題点を察して、由比ヶ浜が口を挟んだ。だが八幡は強引にでも話を逸らそうと、茶化すような口調で返す。

 

「ばっかお前、細かいことをいつまでもうじうじと責め続けるのが俺だぞ。そんな格好いいこと……」

 

「お兄ちゃんって、どうでもいいことだとそんな感じだけど、小町が本気で悩みそうなこととかは先回りして潰そうとするもんね」

 

 だが投げやりな口調で小町が八幡の発言を遮った。一つため息をついて、彼女はそのまま言葉を続ける。

 

「小町にもやっと、三浦さんが言いたかったことが解ったよ。お兄ちゃんには『気兼ねなくイタズラができる』って思ってたけど、それって小町が甘えてただけで。本当は小町が無理強いしちゃいけないことだったんだなって」

 

「小町は別に……」

 

「男子が弄りとかやってるの見て、最低だって思ってたのに。お兄ちゃんが嘘告白とかされて、どんなに辛いか知ってたのに。お兄ちゃんが平気そうにしてても、嫌な事が全く無いわけじゃないって分かってたのにな。なんで小町、『悪意のないイタズラを気兼ねなくやり合える仲間』ができて良かったとか考えてたんだろ。小町がしてることを、他の人を持ち出して言い訳してただけじゃん。自分に悪意が無いからいいんだって、正当化してただけじゃん……」

 

 声を荒げることもなく淡々と、しかし今にも泣き出しそうな声で小町が独白を終えると、教師が静かに口を開いた。

 

「比企谷。君は調理の時に『善意であっても』と言いかけて、小町くんたちに気を遣って途中で止めただろう。漱石の話を出した時だ。悪意が無くても、時には善意であっても重たく感じる時があると、素直に口に出したほうが良いと私は思う。少なくともこの場に居る彼女達なら、君も今さら発言を曲解されるとは思わないだろう?」

 

 八幡が周囲を見回すと、心配そうにおろおろしている由比ヶ浜はともかく、行動と発言を悔いて厳しい表情の雪ノ下と沈んだ表情の小町にはかける言葉が思い浮かばなかった。自分としては一つ足を踏み出したつもりだったのに何故と、八幡は現状の不条理を恨み、そこで踏み止まる。

 

 

 そして八幡は静かに口を開いた。

 

「善意でもしんどい時があるってのは、先生が言った通りです。けど、やっぱり俺は善意と悪意の間で区別を付けるべきだと思いますよ。今回の合流の時に小町や雪ノ下にいらっとしなかったと言えば嘘になりますけど、嫌じゃなかったのも確かなんですよ。その、正解か間違いかで言えば間違いだとは思いますけど。お前らをそこまで落ち込ませるような失敗じゃないって俺は思う」

 

 最後に雪ノ下と小町を順に見やって、八幡は静かに言葉を付け加えた。そして少し間を置いて、教師と目を合わせて再び口を開く。

 

「さっき言ったように、俺も少しずつですけど変わりたいと思ってます。同級生の大部分とは仲良くできねーなって今でも思ってますけど、ごく一部とはそうじゃないって。ただ、偉そうに雪ノ下に言っておいてあれですけど、俺は少ないどころか友達関係皆無でしたし、色々と間違えまくるんじゃないかなって」

 

「その時はあたしたちが『違うかも』って言えばいいじゃん。その代わりヒッキーも、あたしたちが何か間違ったことをしたら、ちゃんと教えて欲しいな。ゆきのんも小町ちゃんも、それでいいよね?」

 

 二人が神妙に由比ヶ浜に頷き返すのを見て、教師が口を開いた。

 

「比企谷の変化は間違っていないと私は思う。同時に、過剰な優しさは誰にとっても良くないことだ。それさえ覚えておいてくれたら、今回の君たちの失敗は無駄にはならないと私は思うんだがな。では、改めて乾杯といこうか」

 

 各々が好みの飲物を注ぎ足してグラスを合わせ、しばし無言でお菓子を頬張る。こうしてこの夜の議題が一つ終わった。

 

 

***

 

 

「そういえば、小町くんはだいたい知っているとして。雪ノ下と由比ヶ浜は、比企谷の過去の話を知りたくはないかね?」

 

 思わず飲物を吹き出しそうになる八幡だった。もう俺の話題は勘弁してくれと、じとっとした目で教師を見るものの、残念ながら効果は無さそうだった。

 

「真面目な話を蒸し返すことになるかもしれませんが、過去に同級生からどんな扱いを受けていたのか、私は知りたいと思います。今回の小学生の問題を見て、余計にそう思いました」

 

「あたしも知っておきたいなって思う。ヒッキーは、昔の自分のことがあるからあの女の子を助けたいってわけじゃないんだよね?」

 

「そうだな。なんてか、誰かに自分の過去を勝手に重ねて同情するのは嫌なんだわ。するのもされるのもな」

 

「ヒッキーが言いたいことは何となく解るよ。ゆきのんは?」

 

「同情が嫌という話なら同感ね。助ける理由ということであれば、私は比企谷くんよりも先に由比ヶ浜さんの話を知りたいわね。おそらく貴女も、留美さん……あの小学生の女の子と同じような経験をしたのでしょう?」

 

「留美ちゃんって言うんだ。あたしの過去なんて、正直どこにでもある話だと思うよ。順番が来てみんなから距離を置かれて、ごめんなさいって謝るのを繰り返してただけで。あたしはかなり悩んじゃったほうだけど、これで仲間扱いして貰えるって喜んでた子も多かったし」

 

「考え方は人それぞれだとは思うのだけれど。私としては、由比ヶ浜さんのようにあの子が悩んでいるのであれば、力になりたいと思っただけよ。それに……」

 

「えっ。ゆきのんが留美ちゃんを助けるのって、あたしのためってこと?」

 

「それだけではないのだけれど、あの子を見て貴女の小さな頃を想像したのは確かね。だからあの子にも、貴女のように素直に育って欲しいと思ったのよ。もしかしたらあの子の現状を見て、自分の過去を重ねて悩んでいる人も居るのかもしれないわね」

 

 ずっと直視することを避けていた幼馴染みの顔を自然と連想しながら、雪ノ下はそう付け加えた。自分の厳しい態度を見て、当人も周囲もおそらく勘違いしていることだろう。だが不思議なことに、彼への反発や苛立ちは、あの小学生の女の子を見た時になぜか消え失せてしまった。

 

 それは精神的な余裕の現れなのかもしれない。今が満ち足りたものであれば、過去に拘泥する必要は薄れるものだ。雪ノ下にはそれ以上の解釈は不要だったし、おかげで色んな事に気付けた気がした。

 

 彼があの小学生を通して誰を見ているのか。彼が今なお過去に拘っている理由を雪ノ下は充分に理解している。だからこそ、見込みのない行動を認めるわけにはいかない。こちらから手を差し伸べる気は起きないが、誰よりも彼自身のために、失敗を重ねさせるわけにはいかない。

 

 この夏までの、悪い意味で彼を意識していた彼女であれば、失敗すると知りながらも彼を煽っていたかもしれない。だが今の彼女に彼を意識する理由は無い。そして雪ノ下は、自分とはもはや無関係に近いからといって、昔馴染みを見放せるような性格ではなかった。彼女の優しさがそれを許さなかった。

 

 

「雪乃さんって、あの子に自分を重ねてたわけじゃないんですね。その、雰囲気とか似てるからかなーって思ってたんですけど」

 

「あ、あたしも思った。あの子、ゆきのんと少し似てるよね。だから、ゆきのんが助けたいならあたしもって思ったんだけど」

 

「すげーきっぱりと助けるって言い切ってたから、どんな風の吹き回しかと思ったんだが。由比ヶ浜のためとはな」

 

「比企谷。雪ノ下はとても優しい子だよ。その雪ノ下が由比ヶ浜のためにあの子を助けたいと思い、由比ヶ浜は雪ノ下のためにそれを手伝いたいと思う。昨今の少年漫画でもここまでの関係は珍しいのではないかね?」

 

 平塚先生が最後に少し冗談を加えたものの、褒め殺しにあった雪ノ下は恥ずかしさにいたたまれず挙動不審に陥っている。それを見た八幡は昼間の光景を思い出して、そのまま口を開いた。

 

「そういやお前、三浦と一色が一緒に遊びたいんじゃねって言った時も照れてたよな」

 

「あれは不覚だったわね。その、三浦さんとはそうした話も出ていたのだけれど、一色さんは意図が解らない部分があったのよ。それに年下との親しい関係は今まで無かったことなので……」

 

「あー、そっちか。確かに何を企んでるのか分からん部分はあるけど、適当に付き合ってやりゃ良いんじゃね?」

 

「他人事だと思って。話を戻すわよ。比企谷くんと小町さんは、あの子をどうして助けたいと?」

 

「小町はお兄ちゃんの状況を重ねてたってのが理由ですね。でもお兄ちゃんが乗り気じゃなかったから、無理に手を出さない方がいいのかもって思ったりして」

 

「乗り気じゃないっていうか、状況が分からんという感じなんだよな。俺の場合は過去の経験とか色々あったし、ぼっちの立場で虐めの光景とか見てきたからな。本人が困ってて、俺にできることがあるならって感じだな」

 

 お世辞にも良い経験だとは言えないが、それも使いようではないかと八幡は考え始めていた。今までは自虐ネタにするぐらいだったが、自分が少し積極的になるだけで新たな使い道が出て来るのではないか。それが困っている誰かを助けることに繋がるのなら、何だか不思議なことだと八幡は思った。

 

 そんな八幡の微妙なニュアンスを読み取って、雪ノ下は端的な質問を発する。

 

 

「貴方は過去に、虐められていたわけではないのね?」

 

「だな。大抵は無視っていうか、居ないものとして扱われてた感じだな。俺が何かをやらかした時には一斉に攻撃されたけど、それも機序がよく分からんっつーか。他の連中と同じような事をした時でも俺だけ変な風に言われるんだよな。ただ、ほとぼりが冷めたら普段は蚊帳の外って感じで。他の虐められてる奴とかは四六時中だから大変だなーとか思ってたわ」

 

「他に虐められている生徒が居た場合でも、貴方が何か目立つことをした時にはすぐさま標的になるという感じかしら?」

 

「だいたいそんな感じだな。あとそういう時って、その虐められてた奴が真っ先に何かを言ってくるんだよな。俺っていう新しい標的に役割をなすり付けてやろうとか、そんな風に必死になるならまだ解るんだが。説明しにくいけど、当人は全く悪い事だと気付いてない感じなんだよな。善意でやってると思い込んでたり。他の連中に厳しい事を言われる前に優しく言い聞かせてやってるんだ、とか意味不明なことを言われたりな」

 

 八幡本人は虐めではなかったと言っている。彼の発言通りであれば、嫌な目に遭う頻度も普通の虐めよりは遙かに少なかったのだろう。だからといって、目の前の男子生徒の過去を虐めではないと言い切ることは、この場に居る女性たちにはできなかった。特に、自分の発想や行動は善意に基づいたものだと思い込んで失敗したばかりの小町には。

 

 確かに彼のケースは悲惨な虐めとは趣が異なる。八幡の過去の体験を虐めという言葉で表現するのは難しいかもしれない。しかしそれでも、彼が一般的な虐めの被害者と比べて苦しまなかったという話にはならないはずだと彼女らは思う。

 

 考え込んでしまった生徒たちに代わって、教師が話を促す。

 

「なるほど。しつけだと思い込んで暴力をふるうという虐待の形に似ている気がするな。続けたまえ」

 

「あ、そういえば虐待された子供が親になったら虐待する率が高いって、何かで読んだ記憶がありますね。そういう関係しか知らないからとか、そんな環境を乗り越えて自分は親になったんだからとか、そんな風に考えるみたいで。それを知った時は、何だかやるせないなって思いましたけど」

 

「虐待の連鎖にも色んな理由があるみたいだが、予防や対策の面から理由付けをしたものは頷けるものも少なくないな。例えば親の自己評価が低いという点に注目して、そこを改善しようと取り組む動きは真っ当なものだと私は思うよ。それと……虐待と関連付けるのであれば、君が受けていたのはネグレクト、日本語で言う育児放棄に近い扱いではないかな」

 

 わずかに言い淀んだものの、教師は思い付いた事を結局は口にした。この程度の指摘など、自慢の生徒たちなら乗り越えてくれるだろうと考えて。

 

「ということは、俺が受けてたのって虐めになるってことですかね?」

 

「私に言えるのは、軽く流して良い話ではなかったということだな。それと、君が素直に育ってくれて良かったと私は思っているよ。これは先ほど雪ノ下が由比ヶ浜に言った言葉だったかな」

 

 ここからは生徒たちに会話を委ねようと、平塚先生は温かい微笑を浮かべながらそう締め括った。言及を受けた二人の女の子はいずれも照れ臭そうにしている。そして意外なことに、真っ先に口を開いたのは最年少の少女だった。

 

「その、ちょっと小町の意見を言いますね。多分お兄ちゃんを無視してた人たちって、お兄ちゃんが一人で居ても平気そうにしてるのが、理解できなかったんじゃないかって思うんですよ。だからお兄ちゃんが何かやらかして、あの人たちにも理解できるような攻撃の理由ができたら実行して。普段はどう扱ったらいいのか分からないから距離を取ってたとか、そんな感じかなって」

 

「要は、俺がぼっち気質なのが問題だったってことか?」

 

「うーん、ちょっと違うかな。もしお兄ちゃんがぼっち気質じゃなくて一人で居るのを辛く思ってたら、普通に虐めになってたと思う。だからそれが問題っていうよりは、ぼっちがお兄ちゃんを救ってくれたって言うかさ」

 

 ぼっちが自分を救ってくれた。それは八幡にとって嬉しい指摘だった。とはいえ妹の発言の裏側にある感情を見逃すわけにはいかない。八幡は照れ隠しの気持ちもあって、おどけた口調で小町に問いかける。

 

「ほーん。なんかそれ、しっくり来るな。てか、言ってる内容は的を射てると思うんだが、それ以前に小町ちゃん、まださっきのことを気にしてるでしょ。しつこい人は嫌われちゃうわよ」

 

「うん、謝るからその話し方は止めて。でも小町だってさすがに気にするよ。なんで今日の朝までに気付かなかったんだろって思っちゃうもん」

 

「それは今お前が言った通りだろ。俺が一人で居ても平気なぼっち気質だったから、俺に知り合いができた時にお前もどう受け止めたら良いのか分からなかったんだろ。要は雪ノ下や俺と同じで、お前も未経験のことだったんだから仕方がないって諦めろ」

 

「ヒッキー、謎の説得力だし」

 

「小町さんが落ち込んだままだと、私も反省が足りないのかと思ってしまうのだけれど。だから悔やむ気持ちは胸に秘めて、この先の話をしましょう」

 

 仲の良い兄妹のやり取りに由比ヶ浜が苦笑して、雪ノ下は力強く手を差し伸べる。小町が頷くのを確認して、雪ノ下は再び口を開いた。

 

 

「比企谷くんの過去を応用するのであれば、留美さんが一人でも平気な強さを身に着ければ問題は解決する気がするのだけれど。実現性は正直疑問ね」

 

「お兄ちゃんは例外として、そんな簡単に平然とはできないですよね」

 

「あたしがハブられてたのってホントに短かったけど、それでもかなりしんどかったからね。今まで普通にできてたことができなくなったりするしさ」

 

「俺のを強さと言って良いのか分からんけど、周りに同調していない時点で、あいつもかなり強さを発揮してる気がするけどな」

 

「そうね。少なくとも、『自分の弱さを棚に上げて』弱い者虐めに精を出す人たちよりも、留美さんのほうがはるかに強いと思うのだけれど。残念ながら多勢に無勢なのよね」

 

 先程の二人だけの会話を意識的に織り込みながら、雪ノ下はそう答えた。横目で軽く確認しただけだが、『沈黙』の感想に文句を付けていた彼にも意図は伝わっている様子だ。話し合いの疲れを少し癒やせた気がして、雪ノ下はここからどう話を進めるかを考える。

 

 だがそこで、教師からの指摘が入った。

 

「あまり口を挟みたくはないが……この場合、強さは両刃の剣になる可能性も高い。もう少し慎重に考え直した方が良いのではないかね?」

 

「どういう意味ですか?」

 

「ふむ、比企谷でも解らないか。他もそうみたいだな。弱さこそが大事な場面もあるということなのだが……。さっきも言ったが、調理の時に雪ノ下と比企谷は漱石を話題にしていたな」

 

 平塚先生が意外な話を始めたのだが、名前が挙がった二人はつい先程の三四郎の話題を思い出していた。内心の狼狽を何とか外に出さないようにして、二人は軽く頷く。

 

「君たちなら藤村操の話を知っているだろう?」

 

「華厳滝ですね」

 

「たしか漱石の一高での教え子でしたっけ。自殺直前に叱りつけたのを漱石が苦にしていたとか、そんな感じでしたよね?」

 

「由比ヶ浜や小町くんが知らないのも無理はないので安心したまえ。今から百年以上前に、雪ノ下が言った華厳滝で自殺した高校生の名前だよ。ちょうど比企谷たちと同じ年齢だったはずだ」

 

 残る二人に配慮しながら、教師は少しずつ説明を加えていく。

 

「漱石との関係は比企谷が言った通りだが、特に『草枕』で彼の死に言及している。動機は理解できないと断りつつも、彼の死の壮烈を漱石は受け止めた。漱石の他にも、藤村の友人は『僕は真面目が足りなかったから自殺し得なんだ』と言った。『自殺しないのは、勇気が足りないから』と言った学生もいた。後に岩波書店を創立した男だよ。こうした受け止め方を、君たちはどう考えるかね?」

 

「強さがないと自殺には至らないということですね」

 

 ここまでヒントを出されれば、雪ノ下にとって答えるのは難しくなかった。一方で八幡は、教師のヒント以外の方角からも思考を進めていた。

 

「強さ以外に、自殺のハードルって人によって違う気もするけどな。でもま、言いたいことは解りましたよ」

 

 そう口にした八幡に意味ありげな視線を送って、教師は話を続ける。

 

「強さだけを重視していると最悪の事態に繋がる可能性があると、それを頭の片隅に置いて、あとは全員で対応を検討したまえ。今日はもう少しだけ話し合いを続けて終わりにしよう」

 

 

「えっと、他に話す事ってあったっけ?」

 

「小町的には思い込みに気付ける秘訣とか、そういうのがあれば教えて欲しいなーって」

 

「まだ気にしてたのかよ。小町もこうなると強情だからな……」

 

「小町さんの要望はまた後で考えましょう。それよりも今は、先生が案じていることを話し合った方が良いわ。正確には、案じていたことと言うべきね」

 

「察しが良いな。比企谷はともかく、由比ヶ浜と小町くんは分からないかね。乾杯の後に何を話題にしたか、思い出してみたまえ」

 

 優しい表情で真面目な口調で、教師は生徒たちに問いかける。

 

「えーと、たしかヒッキーの過去だっけ?」

 

「でもお兄ちゃんの過去って、逸話はいろいろありますけど、失敗のパターンとか同じような感じですよ?」

 

「はあ……。そんな心配をさせてたんですね。確かに今でもぼっちだったらどうなってたかは分かりませんけど、今さら自殺とかしませんよ」

 

 由比ヶ浜と小町は依然として首を傾げていたが、八幡には教師が言いたいことがようやく理解できた。大きくため息をついて、彼は恩師を呆れたように見据えながら断言した。

 

 八幡の発言を耳にして、由比ヶ浜と小町は同時に同じ過去を思い出していた。彼が入学式で事故に遭った時のことを。それによってようやく二人は、強さが秘める危うさを実感することができた。

 

「事故の後に比企谷と初めて会った時だったか。虐げられた環境にも慣れる強さを持っていると思ったよ。果たして君は、入学直後の二週間を棒に振っても歯牙にも掛けず、ぼっち生活とやらを満喫していたな」

 

 強く八幡を見据えながら、平塚先生は話を続ける。事故の関係者である雪ノ下も由比ヶ浜も口を差し挟むことはない。その話は三人の中では既に解決しているから。

 

「君たちは先程、このたびの合流が仕組まれていたという話をしていたな。だが、最初に仕組んだのは私なのだよ。比企谷を奉仕部に入部させるためにな」

 

「それは俺の……」

 

「比企谷、それは言わなくてもいいことだ。私は教師として、責任を引き受ける覚悟で君を奉仕部に連れて行った。雪ノ下と引き合わせて、偶然にも由比ヶ浜の協力も得られることになった。この世界に巻き込まれた時にはずいぶんと心配したものだが、その後は君たちがよく知っている通りだよ」

 

 この世界に巻き込まれた当日に、彼を心配そうに見つめる教師の姿があったことを八幡は思い出した。理不尽な状況に巻き込まれるのは慣れていると、たしか自分はそう考えていたはずだ。だから心配しなくても大丈夫だと。

 

 だが、そんな思い込みは教師にはお見通しだったのだ。そして自分が気付けない側面から自分の身を案じてくれていた。八幡はようやくそれを理解することができた。

 

「今回の合流の件を黙認したこと。そもそも半ば強制的に比企谷を奉仕部に連れて行ったことからして、私に全ての責任がある。そういう結論で、今回の件は全て流してくれないかな。彼女らの責任を比企谷が流してくれることと、君たちが自責の念を流してくれることを私は希望するよ」

 

 ここまで恰好良いことを言われてしまっては、そのまま認めるしかないではないか。八幡はそう考えるものの、思春期男子としてはここまでの完敗は認めがたい。何とか一矢報いねばと、彼はゆっくり口を開く。

 

「一つだけ条件があります」

 

「聞こう」

 

 即答で返されて怯みながらも、八幡は気を引き締めて言葉を継いだ。

 

「小町がさっき口にした『思い込みに気付ける秘訣』ってのを教えてやって下さい。それで先生の責任も含めて全て流しますよ」

 

「なるほど。確かに今の君なら、自殺の心配をしなくて済みそうだな。秘訣というほどではないが、この『責任』というものを意識しておくべきだと私は思っているよ。自分の行動に責任を持って、あとは考え続ける事だな。そうすれば間違った思い込みはいつか気付けると、私は楽天的に考えているよ」

 

 各々が恩師の言葉を胸に抱いて、この日の臨時集会は解散となった。満足げな表情で教え子たちを送り出す教師の姿とともに、この日の記憶は四人の中に長く残ることになるのだった。




次話でその他のキャラの動向を書いて一日目は終わりです。

本章では作者なりに虐め問題と向き合ってみたいと思い、特に雪ノ下と小町には少し損な役回りをさせた形になりましたが、その責任はもちろん作者にあります。

単に作者の意見を代弁させるのではなく、登場人物たちが虐めに対してどう考えるのか、あるいはどんな過去があったのか、各々のらしさが出るようにと気を付けながら書いたつもりですが、率直な印象を教えて頂けると嬉しいです。

次回は週末ではなく月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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09.やすんでしまう前に彼らはそれぞれ思考を巡らす。

前回までのあらすじ。

 雪ノ下に別れを告げてログハウスに向かう途上で、八幡は由比ヶ浜と出逢う。二人の話が落ち着いた頃合いで雪ノ下が、次いで小町が合流すると、そのまま四人は平塚先生にお呼ばれする形になった。

 教師臨席のもとでの会話は参加者それぞれに意外な事実や新しい気付きを与え、各々の行動を考え直すきっかけとなるのだった。



 時間は少し遡る。長風呂に音を上げた比企谷小町を浴槽から見送って、一色いろはは一人お湯に身を浸しながら先程の女子会について考えていた。具体的には、三浦優美子が口にした二つの発言を。

 

 

『適当な扱いをする関係に良いことなんて無い』

『隼人を暴走なんてさせない』

 

 

 適当な扱いに関しては自分にも身に覚えがある。男子生徒たちを日々うまくあしらっている自覚がある一色は、しかし反省には程遠い心境だった。

 

 彼女はおおよそ人間関係に平等なものはないと考えている。貢ぐ者と貢がれる者、気を遣う者と遣われる者、命じる者と命じられる者。二者の関係に限ってもそこに平等はなく、ただ公平さが問われるだけではないかと思っていた。

 

 男子生徒から捧げ物を受け取って、それに相応しい扱いを返す。その男の子に見栄えや行動力など他と比べて評価すべき点があれば、更に扱いは良くなる。傍目からは差があるように見えたとしても、彼女の中では公平な扱いなのだ。そこに妥協は無い。

 

 

 お湯を滴らせながら浴槽から立ち上がり、洗い場の椅子に腰を掛けて水分を補給して、火照った身体を冷ましながら一色は思考を再開する。

 

 この世界でも長時間の入浴を怠っていないように、一色は己の価値を高めることには決して手を抜かない。男子が望む理想的な女の子を演じるために、時間と労力を惜しげもなく注ぎ込んでいる。だからこそ彼女は自らの行動の価値を理解しているし、適当な扱いですらも報酬に値すると考えていた。

 

 そもそも、と彼女は思う。女王や姫が率先して思いやりを示したり、下々の意思をわざわざ確認する必要があるのだろうか。そんな行動を取ってしまえば、身分制などすぐさま崩壊してしまうのではないか。自らの努力によって現在の地位を得たと考えている彼女にとって、そんなイレギュラーな出来事など認めるわけにはいかない。

 

 とはいえ体制崩壊の危機には常に備えておく必要がある。たとえ女王の権威が失墜しても自分だけは特別な地位を保てるように。その目的のために取り巻きの意思を確認することは確かに重要だろう。一色は最終的に、三浦の発言の意図をそう解釈した。

 

 最後に彼女はあの時に感じた危惧をもう一度だけ確認する。三浦は『相手がどう思ってるのか、分かるようで分からない』と言った。中学と同じやり方が高校でも充分に通用すると確認できているつもりの一色だが、見えない落とし穴の存在を一瞬疑ったのだ。

 

 だがそれはやはり杞憂だろうと彼女は思う。自分も高校生になったのだから、磨き続けてきた己の価値は中学の頃より更に上がっていることだろう。弱気になる理由など何もない。彼女はそう結論付けた。

 

 己が積み重ねてきた過去に自信を持っているがゆえに、周囲の特に同性からの反応が中学とは少しずつ違って来ていることに、一色は気付けないでいるのだった。

 

 

 再び身を浴槽に沈めて、三浦のもう一つの発言を検討する。今の自分にとってはこちらのほうが大問題だと、一色は下唇に力をこめて険しい表情を浮かべた。それでも愛嬌を失っていない自分を鏡ごしに確認して、彼女は考えを進める。

 

 仮に三浦の気持ちが確定したのだとして、自分に何ができるだろうか。そもそも自分は何をしたいのだろうか。みすみす葉山隼人を奪われるのを看過するのは悔しいが、かといって自分が奪ってやると思えるほどの気概はない。

 

 結局のところ、葉山という人間の全体像が見えて来ないのが問題なのだろうと一色は思う。勉強もスポーツもそつなくこなし、性格も外見も悪い部分は全く窺えない。とはいえ、あまりにも欠点が見えなさすぎると彼女は考えていた。

 

 葉山がよほど上手く隠しているのだろうか。その場合は、なぜそこまでひた隠しにしようとしているのか。誰にだって欠点の一つや二つはあるし、それらは何かの拍子に外に出るものだ。自分の擬態にしたところで、高校生でも見抜ける人は見抜けるだろう。だからこそ彼女は見抜いた人向けの対策も怠っていないのだ。絶対に見抜かれない努力をするよりもよほど有益だと考えるがゆえに。

 

 あるいは彼の中身は空洞のようなものなのだろうか。実は彼には何かが決定的に欠けているのだろうか。時おり見せる覇気のなさといい、これも否定しがたい仮説ではある。だがそれならば、夕食後の話し合いで彼はなぜあそこまで小学生を助けることに必死になっていたのか。辻褄が合わないと彼女は思う。

 

 

 お湯から肩を出して水滴をタオルに丁寧に吸収させて、半身浴の姿勢になりながら一色は考察を再開する。

 

 いずれにせよ、ハブられている小学生への対応を進めていけば色んなことが明らかになるはずだ。自分の行動を決めるのはそれからでも遅くはないと彼女は考える。

 

 この世界に巻き込まれて多くが落ち着きを失っていた頃、葉山が三浦をサッカー部の見学に招いたことがあった。当面は状況の変化を期待できない以上、落ち込みがちな部員の気持ちを少しでも盛り上げたいと考えた葉山は、三浦の助言によってそれを果たすことができた。

 

 あの時の三浦の行動全てを、一色は静かに観察していた。だから彼女のやり方は分かっているし、それでは現下の問題は解決しないと考えている。女王気質で自らは具体的な策を持たない彼女には、葉山の暴走を防ぐことはできても、解決させることはできないだろう。彼が内面に何を抱えているにせよ、そもそもこの状況と葉山の性質とでは相性が悪すぎると一色は思う。

 

 もしも解決できるとすれば、それは雪ノ下雪乃だろう。女王然としたところは三浦と同じだが、あの先輩には権威に加えて地力がある。まるでチェスのクイーンのように、盤上を縦横無尽に動き回れる彼女であれば解決は可能かもしれない。だがそれは三浦と葉山が望む形ではない。やはり詰んでいるのだ。

 

 チェスを指したことはないが男子からチェスのたとえ話を何度か聞かされた一色は、続けてこうも思った。雪ノ下が失敗するとすれば、それは動き回った末にポーンに討ち取られる形ではないか。いまだ名前を覚えていないあのせんぱいみたいな伏兵に敗れるのではないかと。

 

 

 さすがに長湯が過ぎたのか、集中力にかげりが出て来た。思考が脇に逸れたせいでそれを自覚した一色は、再び洗い場の椅子に腰を落ち着けて外に出る支度に移った。しばらくはそれに意識を集中する。

 

 もしも実際に雪ノ下が不覚を取るようなことがあれば、その時はあの男子生徒の名前をちゃんと覚えてあげても良いな。一色はふとそんな事を考える。だが空想の上では面白いが、現実にはそれは難しいだろう。

 

 あざとさを警戒されているとはつゆ知らず、自分が顔を向けるとそそくさと恥ずかしそうに視線を逸らすせんぱいの姿を思い出しながら、一色は立ち上がって浴室を出た。

 

 

***

 

 

 もう少しだけ時間は遡る。雪ノ下が散歩に、一色と小町がお風呂に行って、部屋には気心の知れた三人だけが残った。海老名姫菜と由比ヶ浜結衣はゆっくり話を聞くつもりだったが、近い未来に一色が予想した通り、三浦には意志はあれども策がなかった。

 

 ひととおり三浦が心情を吐露し終えると、二人は三浦の覚悟を心から称賛した。あの雪ノ下に向かって啖呵を切れるだけでも大したものだが、二人はそれ以上に、他人の意思を尊重する三浦の純粋な気持ちに心を打たれたのだ。

 

 とはいえ気持ちだけでは現実は動かない。小学生の様子を窺う際に三浦と葉山をペアにすることはできるだろうが、それ以上の行動案は三人寄っても全く思い浮かばなかった。

 

「どんなに良い案を思い付いても実行できないと意味がないからね。今日はそろそろ休んで、しっかり睡眠を取って明日に備えたら?」

 

 話の切れ目を上手く利用して海老名がそう提案すると、三浦は静かに頷いた。一日中身体を動かした上に感情を爆発させた三浦は、そう言われてやっと重い疲労感を自覚した。のっそりと再びベッドに入った彼女は、ほどなく寝息を立て始める。

 

「こっちは見てるから、結衣はあっちを迎えに行ってきたら?」

 

 小声で、念の為に具体的な名前は出さずに、海老名は由比ヶ浜に提案する。三浦が寝入ったと確認できた頃から少しうずうずし始めた由比ヶ浜に、気持ちはお見通しだと言わんばかりのウインクを送りながら。

 

「……じゃあ、優美子のことはお願いね。こっちは任せて」

 

 三浦を見捨てる形になるのではないかと少しだけ躊躇した由比ヶ浜だったが、海老名の目を見て瞬時に気持ちを切り替える。板挟みになる状況でもなし、単なる役割分担だと即座に思考を切り替えて、由比ヶ浜は力強い言葉を残して部屋を出て行った。

 

 

 しばらくしてお風呂から小町が帰ってきた。規則正しい寝息の三浦を片手で指さしながら、海老名は人差し指を口の前に立てて小町に意志を伝える。次いで手招きをして、小声で会話が出来る距離まで小町を近付ける。

 

「優美子は大丈夫だと思うから心配しないで。結衣は雪ノ下さんを迎えに外に出てるんだけど、目の届く範囲より遠くには行ってないはずだから、よく覚えておいてね。でさ、実は描き上げたばかりの絵があるんだけど……」

 

 小町が声にならない叫びを上げながら、部屋どころかログハウスからも出て行くことになるまで、そう時間は掛からなかった。

 

 

 一色が帰って来たら何を話そうかと思いながら、海老名は次第に考察を深めて行った。

 

 海老名としても、あの小学生の女の子は助けられるものなら助けたいと思う。だが何事にも優先順位というものがある。彼女の状況を解決しようと動いた結果、自分の周囲の人間関係に深刻な亀裂が入ってしまう展開を海老名は望んでいなかった。

 

 奇しくも一色と同じように、海老名もまた三浦と葉山に問題の解決は不可能だろうと考えていた。異なるのは雪ノ下にも難しいだろうと考えていることだ。

 

 由比ヶ浜を通した付き合いに加えて部長会議に居合わせた件もあり、海老名は雪ノ下の至らぬ部分もしっかりと把握している。例えば関係者全員を尋問することで事態の経緯や原因を詳細なレポートにまとめることは、雪ノ下ならば可能かもしれない。しかしそれが問題の解決に繋がるかというと、なかなか難しいだろう。

 

 もしも雪ノ下がハブられている当事者であれば、あるいは小学生と日常的に接する立場の人間ならば、そうした行動にも意味があるのだろう。だが二泊三日を一緒に過ごすだけの関係である以上、その方法では恒久的な解決は得られないと海老名は思う。

 

 では、葉山のカップリング相手に最適だと考えているあの男子生徒ならどうだろうか。

 

 小説を読む依頼の時には自分も同席したが、彼の提示する解決案は明快なものだった。バーでバイトをしていた同級生に提示した解決案は意外だが妥当なものだと、由比ヶ浜の説明を聞いて思った記憶がある。遊戯部を相手にした立ち回りは痛快だった。更に詳しい話を聞きたくて、勝負の流れを知るだけで満足していた三浦を説き伏せてまで雪ノ下を三人の部屋に招待したぐらいだ。

 

 もしもこの問題を解決できる人材が居るとすれば、それは彼だろうと海老名は思う。同時に、彼でも無理ならば自分たちは手を引くべきだと。

 

 まずは三浦と雪ノ下の対立が周囲を巻き込んだ深刻な事態にまで発展しないように。次いでその範囲内で彼に解決策を考えてもらえる流れに持ち込めるように。そして無理だと判断したら即座に撤退できるように。

 

 海老名は自分を取り巻く現在の環境が変化することを望んでいない。もしも三浦と由比ヶ浜のいずれかあるいは両方の気持ちが成就して、それによって変化が生じるのでない限りは。

 

 自らも解決法を持たない海老名は、明日も黒子に徹しながら動く機会は逃さないようにしなければと、静かに決意を固めるのだった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、同級生が帰ってくるまで起きていたいと思う戸塚彩加は睡魔の襲来を何とか退けようと、布団から起き上がってお水を飲むことにした。

 

 そんな戸塚の動きを目で追いながら、少し考えた末に葉山は、コップに水を注ぐ戸塚に向けて静かに声をかけた。

 

「俺にも貰えるかな?」

 

「あ、葉山くんも起きてたんだね」

 

 大いびきで眠ったままの戸部翔に苦笑しながら、葉山は戸塚の横に座ってコップを傾ける。

 

「あの女の子、できれば何とかしてあげたいね」

 

「戸塚は……。答えにくかったら答えなくて良いんだけどさ。ああいう経験ってあったのかな?」

 

「ぼく自身は無かったけど、周りでは時々ね。からかわれそうになっただけでも誰かがすぐに助けてくれたから、ぼくは大丈夫なんだけど。虐められてる子を助けようとしても誰かに止められて、ぼくは何も行動できないんだ。そんな感じ」

 

「そっか。嫌な事を話させて悪かったかな」

 

「ううん。それにぼくにも問題があったからね。本当に助けたいと思ってたら、止められても引き下がらなければいいのに、何も言えなくなっちゃって……」

 

「見てるだけしかできないって、辛いよな」

 

 実感のこもった声音で葉山がつぶやく。戸塚は過去の自分の辛さを理解してくれたような気がして、そのまま話を続けた。

 

「去年もね。八幡と同じクラスだったんだけど、ぼく何もできなかったんだ。八幡は『クラスの連中と話すこととか無かったし、一人でいても大丈夫だったから』って言ってくれたんだけど」

 

「ヒキタニくんは話しかけに行ってもすぐに逃げようとするからね」

 

 少しだけ表情を戻して、苦笑しながら葉山が口を挟む。

 

「でも話してたら、仕方ないなって顔しながら相手してくれるでしょ?」

 

「そうだな。俺も時どき本の話とかするんだけどさ。面白い解釈とか発想とかが聞けるから喋ってて楽しいし、もっとクラスの連中と仲良くしたら良いのにって思うんだけど。本人の希望が希望だからね」

 

「八幡があんまり大勢と仲良くなっちゃうと、ぼくが話せる時間が減っちゃうからなあ。だから八幡の希望を尊重ってことでぼくは良いんだけど」

 

 いつの間にか布団に身体を投げ出すようにして、戸塚は半ば睡魔に襲われていた。戸塚にしては珍しい発言だなと顔を上げて、話し相手の状態に気付いた葉山は、少し声を大きくして話しかける。

 

「戸塚、寝るならちゃんと布団に入れよ」

 

「うん、はいった。さっき八幡が言ってたよね、『戸塚がやると問題』って。あんな風にハッキリ言ってくれるから、じゃあぼくはぼくが出来ることをしようかなって、そう思わせてくれるんだよね。はちまんはすごいなあ……」

 

「……話せて良かったよ。おやすみ」

 

 

 自分も布団に身体を入れて、葉山はゆっくりと頭を働かせた。自分の無力感を、傍観しかできないもどかしさを戸塚と共有できた気がして、彼は少し落ち着いた気持ちになっていた。

 

 戸塚から問い返されたら適当に誤魔化そうと考えていただけに、少しだけ罪悪感は残る。しかしたとえ自分勝手だと言われても、寝てしまう前に戸塚と話せて良かったと葉山は思った。

 

 全体で話し合った時の彼女とのやり取りを葉山は思い出す。あの小学生を何としても助けたいという意思を示しても、かの女子生徒に一言で却下される悔しさ。それに反論できない悔しさ。納得してしまう悔しさ。それが少しだけ軽くなった気がしたのだ。

 

 あの時は彼女を救えなかったし、そもそもどう行動すれば良かったのかすら分からないままだ。だが今は自分の横に戸部がいて、戸塚も、更には()もいる。今度こそ、あの時の彼女と似た状況にある女の子を救ってあげるのだ。今は「自分の手で」というつまらない拘りよりも、まずは問題を解決することだと葉山は考えた。戸塚が最後に教えてくれたように、自分に出来ることをするのだと。

 

 かつて全力で彼女を救おうとして結果を出せず、そして全力を出さなくても大抵の事はできてしまうがゆえに、葉山は時おり覇気のない行動に出ることがあった。だが今こそ自分にできる範囲のことに全力を尽くすのだと葉山は思った。

 

 

 それは長い間ずっと同じ場所に留まっていた葉山にとって、新たな一歩だったのは間違いない。だが同時に、周囲と比べて圧倒的に遅れているのも事実だった。自分ではなく他の誰かのために、あるいは留美自身のために助けたいと思う他の面々と違って、残念ながら葉山は依然として自分のために彼女()()を助けたいという域に止まっていた。

 

 部長会議の時に得た違和感を葉山は思い出す。()も所属している部活動を経て、彼女が変わってしまったのではないかと危惧した時のことを。だが今日の全体での話し合いを思い出す限り、自分への反発は変わっていないように思えた。敵意を向けられて安心するのも妙な話だが、彼女が今もあの時のことを気にしてくれているのを知れて良かったと葉山は思った。

 

 だが、それは彼の勘違いに過ぎない。雪ノ下があの時のことを気にしているのは確かだが、彼への苛立ちは既に彼女の中には無い。

 

 部長会議での手応えをもとに、雪ノ下はこの一月半で自分の至らぬ部分を見つめ直していた。その全てを即座に改善できるはずもないのだが、改善できた点もあったのだ。

 

 かつての自分の境遇を連想させる小学生の女の子を見て、雪ノ下は葉山への拘りが消え失せていたことに気が付いた。その理由について雪ノ下は簡単な解釈以上のものを求める気は無かったが、大雑把に言えば日々の積み重ねがそれを可能にしたのだろう。

 

 葉山が同じ状態に至るためには、彼もまた雪ノ下と同じだけの積み重ねをする必要がある。だが何にせよ、彼の中で止まっていた時計が動き始めたことも確かなのだ。

 

 

 静かな室内に三人の寝息が響く。こうして合宿の一日目は終わりを告げた。

 




作者注:雪ノ下が留美を助けたい理由について。

原作4巻に「由比ヶ浜さんにもああいう経験があるんじゃないかと思った」(p.174)および「たぶん葉山君もずっと気にしている」(p.176)という雪ノ下の発言があり、作者としては原作準拠のつもりです。
原作と異なるのは、その後で葉山との関係を説明しているのですが、本作ではまだ知られていません。


今日で連載を開始してちょうど一年になりました。
読者の皆様に、これまでの御礼を心からお伝えさせて下さい。
本当にありがとうございます。
今後とも宜しくお願いします。


お礼だけで以下を付け加えるのを忘れていたので追記しました。(5/8)
次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
葉山が八幡を指して「彼」と言っている場合と普通の人称代名詞とで読みにくい箇所があったので、後者を訂正した上で前者には圏点(強調)をつけました。(5/9)
戸塚が声をかけられた→葉山が声をかけた、という描写に変更しました。(5/13)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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10.ここでようやく彼は同じ土俵に上がった。

前回までのあらすじ。

 八幡と雪ノ下、八幡と由比ヶ浜が順に二人きりの時間を過ごし、それに続けて小町と教師も加えた五人で対話を行っていた頃。他の生徒たちも今日を振り返りながら明日に向けて頭を働かせていた。それぞれの思惑を抱えながら、合宿の一日目がようやく終わった。



 どこかからスズメの鳴き声が聞こえてくる。それに電子音が加わって、チュンチュンとピピピという音が耳障りに響き始めてようやく、比企谷八幡は重いまぶたを開いた。

 

 昨夜は遅くまで複数の女性と(うち一人は実妹だ)濃密な時間を過ごしたせいで、ログハウスに帰ってからもすぐには寝付けなかった。だから眠り足りないと感じてしまうのだろう。

 

 ようやく動き始めた頭でそんなことを考えながら、八幡は視界に大きく映り込んでいる可愛らしい寝顔を眺める。無遠慮に目を下に動かすと、どうやらすぐ側で小さく丸まって眠っている様子だ。まだ夢の中なのだろうか。

 

 このまま起きたくないなと思いつつ、戸塚彩加の寝姿を記憶に焼き付けることに全力を注いでいると、目の前の天使が目を覚ました。

 

「あ、目覚まし……。八幡、おはよ」

 

「お、おう」

 

「もう少ししたら起こそうと思ってたのに、ぼくも寝ちゃってたみたい」

 

 どうもこれは現実の光景らしい。タイマーを止めて上体を起こし大きく伸びをする戸塚は布団をかぶっておらず、八幡の横でつい一緒に眠ってしまったのだろう。

 

 アラームをセットしておいて良かったと呟いている戸塚を見つめながら、看病イベントからの寝落ちってこんな感じなのかなと変な事を考える八幡だった。

 

「八幡が疲れてるように見えたから、葉山くんと戸部くんには先に行って貰ったんだけど。ぼくたちもそろそろご飯に行こうよ」

 

「あー、そういうことか。待たせて悪かったな」

 

 状況を把握して八幡は勢いよく起き上がった。朝食は青少年自然の家まで食べに行く必要があるので、手早く支度をして布団を片付けてから、二人は並んでログハウスを出た。

 

 

***

 

 

 広い食堂に入ると既に小学生たちの姿は無く、お馴染みの面々が顔をそろえていた。二人の登場にすぐに気付いた平塚静が口を開く。

 

「おはよう。君たちが最後だな。比企谷がなかなか起きそうにないと聞いていたが、ゆうべはお楽しみだったのかね?」

 

「なっ!」

 

「はあ……。それなりに有意義だったんじゃないですかね」

 

 部屋のあちこちで過剰な反応が見られたものの、当の八幡は教師の性格を知っているだけに涼しい顔で反応する。いわば、からかわれ慣れている形だが、昨夜の対話の内容が内容だけに八幡は思わず「他の連中とこんな状態に至るには、どうすれば良いんだろうな」などと考えてしまうのだった。

 

「後でまとめて伝えれば良いかなって、先に話を始めてたんだけど、悪かったかな?」

 

「いや、俺が寝てたせいだしそれで良い。先に朝食も済ませたいし、話に区切りが付いたら教えてくれ」

 

 平塚先生の軽口にも影響を受けなかった葉山隼人が爽やかな口調で確認を取る。返事をしながら八幡が周囲を見回していると、奥の方から比企谷小町が食事を載せたお盆を持って歩いてきた。

 

「お兄ちゃん、こっちこっち。戸塚さんのぶんもありますよー」

 

「あ、じゃあヒッキーのはあたしが受け取るから、さいちゃんのご飯をお願い」

 

 八幡が動き出す前に座るべき席が決まってしまった瞬間だった。教師のからかいはともかく、昨日の今日でいきなり顔を合わせるのは少し恥ずかしい八幡だったが、潔く諦めて指定の席に向けて歩いて行った。

 

 

 雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が並んで座る真正面の席に八幡は腰を下ろした。二人への意識が強く周囲が疎かな八幡は特に疑問に思っていないが、その横に座った戸塚は中高生が明確に二つのグループに分かれていることが少し気になった。特に同じクラスの三人娘が離れた配置になっているのは不思議な光景だった。

 

「戸塚さんも、どうぞー」

 

 しかし戸塚が疑問を口にするのを妨げるかのようなタイミングで小町がお膳を持って来てくれたので、まずは食事に集中することにする。ただでさえ食べるのが遅くて申し訳なく思う時が多いのだ。戸塚は食べ物をしっかりと噛みながら、素材を味わいながら朝食を堪能した。

 

「あたしがやったげるね」

 

 戸塚の横では八幡がお代わりしていて、それを提案をした小町ではなく由比ヶ浜が茶碗を受け取って、いそいそとお櫃からご飯を盛っていた。そんなほのぼのとした光景を目の当たりにして、戸塚の意識から先程の疑問が薄れていった。

 

 

「じゃあ、とりあえず現時点での情報をまとめたから、聞いてくれるかな」

 

 八幡と戸塚が朝食を終えるのを待って、葉山が口を開く。そして昨夜の男女別の話し合いを整理してまとめた結果を、午前中の予定と一緒に教えてくれた。

 

 まず男性陣には夜のキャンプファイヤーの準備という力仕事が待っている。女性陣にはさして仕事が無いので、小学生を観察する班と休憩する班の二手に分かれる。距離を置かれている当人に接触できる機会を窺って、できれば詳しい事情を聞き出すのが目的だという。仕事を終えた後は男性陣も二手に分かれてそれを手伝う。

 

 そこで得られた情報をもとに、お昼に集合した時に最終的な方針を検討する。一つの案として、本人の意識を変えることよりも周囲全体に何かしらの働きかけを行うことで、場の空気を改善するという解決策が取れないものか。葉山は男子からの提案をそう紹介していた。

 

「ふむ。場の空気に注目するのは良い策だと私も思う。だが具体案が難しいのも君たちなら理解しているはずだ。無茶なことをさせるつもりはないので、心しておくように」

 

 指摘すべき点を明確に口にした上で、平塚先生は生徒たちの自主性を尊重した。最終的な責任を自分が引き受けるという気概と、それにもかかわらず細かな口出しはしないという包容力を示しながら、教師は生徒たちの行動に承諾を与えた。

 

 

 少しだけ間を置いて、彼女は別の用件を伝えるために再び口を開く。

 

「ところで、夕方のスケジュールについてだが。本来ならば肝試しの予定だったが、このデジタルな世界でお化けなど馬鹿馬鹿しいという意見が出たみたいでな」

 

「言われてみたらその通りっしょ!」

 

 夜の班会議で小学生が口にした意見に、戸部翔が諸手を挙げて賛同した。真面目な話の時は大人しくしていたものの、ここぞとばかりに盛り上がる戸部を見て、周囲は苦笑している。そんな戸部に一つ頷いて、平塚先生は話を続ける。

 

「それとは別に、この世界にも幽霊が出るのではないかと怖れる声もあるらしい」

 

「え、そうなの?」

 

 由比ヶ浜が小学生の怯えを素直に受け取って、傍らの女子生徒に少し心配そうな眼差しを向ける。問われた側は仕方がなさそうに口を開いた。

 

「そんなはずは無いと言いたいところだけれど。あの運営なら、幽霊を見せるためのプログラムを嬉々として仕込みそうなのが困ったところなのよね……」

 

「え。つまり本物の幽霊ってことですよね〜?」

 

 雪ノ下の説明を聞いて、無理矢理に語尾を伸ばそうとはするものの、一色いろはも普段の調子からは程遠い声になっていた。にもかかわらず「怯えている自分を演出しているだけでは」と八幡に疑われていることは、お互いのためにも知られないほうが良いのだろう。

 

 一色の様子を窺ったことで、今日はなぜか反応が薄い三浦優美子と海老名姫菜が気になった。八幡はそのまま彼女らに目を向けようとして、自分の袖を掴む可愛らしい手に気が付いた。どうやら戸塚も幽霊が怖いらしい。

 

「あれだ。幽霊って正体不明だから怖いって部分があるだろ。れっきとしたプログラムだったら実在する動物とかと変わらんだろうし。運営の性格はともかく、今さらこの世界で俺らを危険な目に遭わせることもないだろうしな。だからもし幽霊が出ても、動物を見るのと同じような感覚でいたら良いんじゃね?」

 

 八幡の解説を聞いて、戸塚や由比ヶ浜はもちろん一色までもがほっとした表情を浮かべていた。その反応を、一色とは集団の中で年下という共通点もあり、一緒にお風呂に入るなどして関係を少しずつ深めていた小町が興味深そうな目で見ている。

 

「話の盛り上がりをぶち壊す時もありますけど、こういう時のお兄ちゃんの説明って、不思議な説得力があるんですよねー」

 

「なるほど。ではそんな比企谷に、肝試しの代わりのイベントを考えて欲しいのだが」

 

 生徒たちの反応を楽しげに眺めていた平塚先生だったが、八幡が会話に加わったことで本来の目的を思い出した。雑談がこれ以上広がる前にと、教師は希望を端的に口にする。

 

「えっと、なんで俺が?」

 

「その疑問は当然だな。説明しよう。幽霊に怯える声は小学生から上がったのだが、子供たちは憶測で怯えていたのではなく、『幽霊がいた』と言って怯えていたらしい。具体的には昨日の夕方、カレーを作っていた時だな」

 

「それってもしかして……」

 

「さっさと事を済ませようと、君ができる限り気配を隠して小学生の各班を見て回ったのが原因ではないかと私は考えているのだが。何か申し開きはあるかね?」

 

 がっくりと頭を垂れる八幡に苦笑しながら、平塚先生はこう言って話を締め括った。

 

「小学生が楽しめるイベントが望ましいが、百歩譲って子供たちに()()()()をもたらすイベントなら許可しよう。しっかり考えたまえ」

 

 

***

 

 

 教師に言われたことを考えながら、八幡はキャンプファイヤーの準備に勤しんでいた。自分の失敗が招いたことではある。しかし、あの女の子の状況を変えるための具体案をイベントに組み込めるのだと考えれば、普段はやる気のない八幡でも積極的に知恵を絞りたくなるものだ。

 

 女性陣からは、状況に変化があればすぐに連絡が来る手筈になっている。できれば早めに情報が欲しいと思いながら、八幡は手を淡々と動かして木材を組んでいた。そんなふうに効率よく仕事をこなす八幡に、薪を運んできた戸塚が話しかける。

 

「ちょっと休憩しようかって」

 

「おお、もうこんな時間か。んじゃこれ終わったらそっち行くな」

 

 仕事に切りを付けて、八幡は薪割りをしていた戸部と葉山に合流した。この後は彼らも二手に分かれる手筈になっている。今さら気を遣う相手でもなし、別行動になる前に顔を出しておくかという気持ちで八幡は集団の末尾に控えていた。

 

「何か良い案があると良いんだけど、昨日の今日では難しいね」

 

 葉山が少し困ったような表情で話しかけてくる。

 

 先ほど明るみに出たステルスヒッキーの失敗があるだけに、今は大人しく集団行動に従っている八幡だが、葉山と仲良く喋っている構図はいつまで経っても慣れない。より正確には、慣れたと思える時と慣れないと思える時があって、今は後者だ。おそらく自分と相手と、両方に問題があるのだろうと考えながら、八幡は返事を返す。

 

「とにかく情報次第だな。今のところは、下手の考えにしかならんだろ」

 

「休むに似たり、か。確かに今は別のことを考えたほうが良いのかもね」

 

「だな。適当な雑談とかしてたほうがマシじゃね?」

 

 そう言われて、昨日からずっと気になっていたのだろう。戸塚が意を決して口を開いた。

 

「じゃあぼく、八幡が昨日言ってた話を教えて欲しいな」

 

「あ、あれだべ。家康と鯉の話っしょ?」

 

「うん。何だか面白そうな話だなって、実は早く聞きたかったんだよね」

 

 真面目に語るべき話があるだけに、戸塚も我慢をしていたのだろう。葉山も苦笑しながら賛同して、三人は八幡の話を聴く体勢になっていた。

 

「そこまで期待されると逆に怖いんだが、まあいいか。家康が禁裏に献上しようと思ってた鯉と、信長からもらった酒を、三河武士が勝手に飲み食いし始めてな」

 

「え、それって大丈夫なの?」

 

「もちろん大丈夫じゃなくて、家康は首謀者を斬る気満々だったけど、最期に言い分を聞いてやるかってそいつと対面したんだわ。で、その時は領内で鶏を盗んで死罪待ちとかそういう奴が多くてな。酷い飢饉でもあったんだろな。だからその三河武士は言うわけよ。『この状況でも法に従って人を死なすって言うのなら、俺が真っ先に殿に殺されるわ』ってな。それで勝手に同僚に酒と鯉料理を振る舞って、自分もたらふく食べてから牢に入ったんだと。牢越しに家康を『鶏とか畜生を人より大事にするバカ殿め』とか罵って、まあ許された」

 

「許されるんだ……」

 

「形式的な決まり事よりも人材が大事なのは確かだからな。それに家康は、信長の手前とか禁裏に申し開きがとか余計な事を考えてたから目が曇りかけてただけで、部下に罵られて『自分がこいつらを護る』って発想に辿り着いたみたいでな。そのための法だし同盟だし官位官職だろってな」

 

 

 その時、葉山に一つの閃きが走った。誰かの手前とか申し開きとか、余計な思考に絡め取られて動けなくなっていたのは、まさに自分の事ではないかと。広い視野を持って他への影響を考えるのも確かに悪くはないだろう。しかしそれが自分の大事な存在を苦境に追いやることに繋がるのであれば、何の価値も無いではないかと。

 

「信長に会って酒の味を訊かれた時に、家康は素直に自分の責任だって事の経緯を謝ったらしい。でもそこに例の武士が登場してな。『それがしの責任だから斬れ』とかって信長にも言い放つわけよ。でも同盟国の部下をそんな理由では斬れんわな。『殺してしまえ』の信長が『頼むから帰ってくれ』って……」

 

 葉山が唐突に得た気付きをもとに自省を深めていることに他の三人は気付かない。奇しくも昨夜、小町と奉仕部の三人に教師が教えた「責任」について、葉山は考え始めていた。八幡の話はそのまま雑談として続いていたが、葉山にとってその先の話はさして重要ではなかった。

 

「三方原で家康が信玄に大敗した時にもその武士が出て来てな。『殿の身代わりをするから早く逃げろ』って敵に向かって行ったらしい」

 

「最期まで凄い活躍だったんだね」

 

「んで、普通に生きて戻って来たらしい」

 

「その人、凄すぎっしょ!」

 

 八幡はこの話を披露できたことに喜んでいるし、戸塚と戸部は話を聞けて喜んでいた。そして葉山もまた別の理由で喜んでいた。既に「自分の手で解決する」という拘りは克服していた葉山だが、ここで初めて「誰のために?」という意識が芽生えたのだ。気付いてみれば当然のことだが、気付かない間は気付けないものだと、葉山は内心で苦笑する。

 

 あの小学生を助けたいと思ったそもそもの動機が、自分のためである事を葉山は否定しない。そこを偽っているようでは話にならない。しかし行動の理由は状況に応じて変化することもあるのだ。

 

 現在の問題を解決することによって、過去と比べて成長した自分という幻想を得る。昨日と違って今の葉山は、そんな理由には拘泥しない。もちろん過去の罪滅ぼしのためでも無い。かつての幼馴染みと似た状況にある()()()()()()、自分にできることをする。そして自分にできないことは、たとえ内心では複雑な思いがあろうとも、最適な人材に解決を委ねる。それが嫌だと言うのならば、将来に向けて自分が成長するしかないではないかと葉山は思った。

 

「秀吉絡みのやつは、とんち話みたいなもんだからな。朝鮮半島で戦争してる時に秀吉が死んだら困るってんで、死んでないアピールのために生臭料理を出したんだわ。で家康宅にも料理して食べてくれって生きた鯉が届いたんだけど、『太閤の病気快癒を祈ってお前の命を助ける』とか言って食べなかったんだと。実際には喪中だから生臭を食べるのも問題だし、かといって実は秀吉が死んでるって疑われるような行動はダメだしって状況で、家康はそんな感じの切り抜け方をしたらしいな」

 

 葉山に直接的な気付きを与えたのは、この男子生徒の雑学だった。だが葉山はその解釈に満足しない。小さな頃から知っているあの女の子が、自分の知らないうちに変化するのではないか。自分が知らない姿に成長するのではないかと危惧したことが、その焦りがこの気付きをもたらしたのだと葉山は思った。

 

 それは目の前の男の影響を認めたくないと思っての解釈ではない。単なる一つの知識や会話が原因なのではなく、この男の存在そのものが原因なのだと、葉山は思った。だからこそ、自分がこの男に対抗するためには、自分に合った形で成長をしなければならないと。

 

 

 話に区切りが付いて、戸部と戸塚が感想を言い合っている最中。件の小学生からメッセージの返事が来たというしらせが届いた。

 




次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7,7/15)


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11.まざまざと彼は彼女らを実感する。

前回までのあらすじ。

 戸塚と顔を間近に突き合わせて目覚めた合宿二日目、八幡はこの日の夕方に予定されていた肝試しの代わりに別のイベントを考えることになった。

 夜のキャンプファイヤーの準備をしていた男子生徒たちは、休憩時に気楽な雑談を始めた。それは葉山に思わぬ閃きをもたらし、ようやく彼は意識の上では他の生徒たちに追いついた。しかし彼女が既に変化・成長していることに葉山は未だ気付いていない。

 そんな風に寛いでいた彼らに、留美から返事が来たというしらせが届いた。



 残っていた仕事を手早く片付けて、比企谷八幡は女子生徒たちに合流すべく道を急いでいた。とはいえ件の小学生からの返事は必要最低限の内容だったので、合流場所などの詳しい情報を改めて送付して、今はまた返事待ちという状況らしい。

 

 だから急ぐ必要はないと言われたのだが、八幡には足を速めるべき理由があった。

 

 小学生よりも先に自分たちが落ち込んでしまわないようにと、女性陣は相談の結果、河原で水遊びをして気分転換を図っているというのだ。更に妹から別途得た情報によると、全員が水着を持参しているとのこと。

 

 だが、自分の妹も含め女性陣はみな見目麗しい者ばかり。慮外者の不躾な視線に彼女らの肢体を晒すのは絶対に避けなければならない。胡乱な輩の企みを未然に防ぎ、その過程でちょっと目が滑って美味しい思いをするぐらいの役得があれば良いなと胡乱なことを考えながら、八幡は足を進める。

 

 要領よく仕事をこなした八幡とは違って、他の男子三名はまだ仕事が終わっていなかった。にもかかわらず、彼らは仕事を終えた八幡を引き留めるどころか、先に合流してくれと言ってくれた。戸塚彩加が天使なのは以前から知っていたが、他の二人も良い奴じゃないかと八幡は思う。葉山隼人と仲良く喋るのは慣れないなどと考えていた八幡はどこに行ってしまったのだろうか。

 

 そういえば戸塚は「水辺に行くのなら、濡れてもいい服に着替えてから合流するね」と言っていた。もしや戸塚も水着姿になるのだろうかと期待に胸を膨らませながら、八幡は素晴らしいスピードで目的地の付近に到着した。やる気のなさでは折り紙付きの彼の意識すら、情欲には勝てないということなのか。八幡もまた健全な男子高校生だったということなのだろう。

 

 

「やっぱり、気持ちいいですねー」

 

 少し無理矢理に気持ちを盛り上げているような妹の声が八幡の耳に届いた。厳しい状況にある小学生を目の当たりにしながら自分たちだけが楽しんでいることに、多少の罪悪感を覚えているのだろう。

 

 だがこちら側に気持ちのゆとりがないと、何をするにも相手に伝わりにくくなるものだ。最近ではずいぶん改善できたが、対人への緊張から挙動不審になりがちだった八幡はそれをよく知っていた。誰が提案したのか分からないが、適切な行動だと八幡は思った。

 

 真面目な顔で彼女らの行動を称賛しながら、八幡は声のする方角へと近付いて行く。せめて一目と思いながら木々が途切れる場所を目指して歩いていると、足下が疎かになっていたのだろう。ぱきっと大きな音を立てて小枝を踏み抜いてしまった。八幡の周囲の時が止まる。

 

「誰なのかしら。大人しく出て来なさい」

 

 滑らかな動きで由比ヶ浜結衣と比企谷小町の前に立って、雪ノ下雪乃が即座の投降を呼びかけた。夜に見た時とはまた印象の違う、透き通るような白い素肌をパレオで隠しながら傲然と立つ雪ノ下を木陰から眺めて、八幡は思わずごくりと唾を飲み込んだ。視線を逸らそうにも、今度はブルーのビキニにスカートが可愛らしい由比ヶ浜が目に入り、その胸元を凝視してしまう。何とか横に目をやれば、淡く黄色がかったビキニを身に着けた小町が可愛らしく首を傾げている。

 

「さっさと顔を出すし」

 

 こちらも海老名姫菜と一色いろはの一歩前へと踏み出して、三浦優美子が通達する。ラメ入りのトライアングルビキニを見事に着こなして恥じる色を見せない三浦を見て、またも八幡は目を離せなくなってしまった。次の展開を半ば予測しながら視線を動かすと、濃紺の競泳水着が映える海老名が眼鏡の奥で目を光らせたように思えた。寒気を感じて目を離すと、シンプルなピンクのビキニを身にまとい紐の結び方がどうにもあざとい一色が目に入る。

 

 ここまでの眼福を得られたのだからと、死を覚悟しながら八幡は河原に近付いて行った。両手を挙げて無抵抗を主張しながら、八幡は二人の女王の御前へと進み出た。

 

「その、いちおう急いで来たんだが。俺はどうすりゃ良いんだ?」

 

 誰も口を開かないので、仕方なく八幡はお伺いを立てることにした。見知らぬ者への緊張感が、よく知っている男子生徒への羞恥心に変化していることに気付かず、八幡は明後日の方向を眺めながら質問を発した。

 

「うりゃー!」

 

 そこで小町が動いた。兄に向けて容赦なく大量の水を浴びせかける。唖然として突っ立っている八幡の手を取って川の中へと歩いて戻り、そこで小町は手を離した。更に水をかけてやろうと思ったのだろう。しかしずぶ濡れの八幡の姿を見て、小町は思わず噴き出してしまった。

 

「この調子だと隠れて覗いてたわけでもなさそうですし、兄も反省してますので……」

 

 そんな小町の発言に全員が納得したのか、辺りの雰囲気が途端に緩まって平穏な空気が戻って来た。しかし妹にやられっぱなしで黙っている八幡ではない。空気など読むものではなく壊すものだとばかりに、八幡は容赦なく妹の背後から水をかけた。幼い頃に兄妹で水遊びをした時の事を思い出しながら。

 

「小町ちゃん、あたしと一緒にヒッキーにやり返そっ!」

 

 兄と似た表情で唖然としている小町を見て、由比ヶ浜が噴き出しながら加勢に入った。初めのうちこそ由比ヶ浜に遠慮して小町にばかりやり返していた八幡も、次第に余裕がなくなってきたので容赦なく反撃を加え始めた。そこになぜか一色が加わって、両手ですくった少量の水を小町に向けて「えいっ!」と投げる。八幡の味方というよりは小町と遊びたかったのだろう。

 

 由比ヶ浜の苦境を見逃すはずもない三浦が参戦して、海老名は両軍のバランスを取ろうとするかのように優勢な側へと攻撃を加えていた。一人だけ乗り遅れた雪ノ下が少し離れた場所でおろおろしていると、ようやく気付いた由比ヶ浜が激戦地から抜け出して、雪ノ下に手を差し伸べる。

 

「ほら、ゆきのんも一緒に!」

 

「えっ。その、急に引っ張られると……」

 

「おい、危ねーぞ……ってマジか!」

 

 二人の少女がバランスを崩して、それに気付いた男子生徒を巻き込みながら派手な水しぶきを上げた。助けの手こそ届かなかったものの、二人に怪我をさせたくない八幡は、身を挺して彼女らのダメージ軽減を図る。

 

 かくして、ラブコメの神様は再び彼に微笑んだ。

 

 

 川の深さはせいぜい膝下ぐらいしかない。水しぶきがおさまった後には、自らの身体をクッションにして雪ノ下を護り、由比ヶ浜を救うために左手を大きく伸ばした八幡の姿があった。問題は、彼のその左手が、青い布越しに何かをしっかり掴んでいることだった。

 

 今までに経験したこともないような柔らかい何かの感触が左手から伝わって来る。しかし同時に、彼の身体の前面からも、今までに経験したこともないような柔らかな感触が伝わって来る。左手と比べると遙かに控え目ではあるものの、()()の大きさとは関係なしに女の子の身体とはこれほど柔らかいものなのかと、八幡は情けない体勢で固まったままそんなことを思う。

 

 妹がスキンシップをしてくることは珍しくないが、身体の軽さや小ささを思う事はあれども、八幡はそこに女性を感じることはなかった。しかし今は違う。柔らかな感触にしろ芳しい匂いにしろ、伝わって来るのは同い年の女性が放つ圧倒的なまでの存在感だった。彼と同じく固まったままの二人からは荒い息づかいが伝わって来る。目のすぐ前には白いうなじがあって、他に視線を動かすことができない。

 

 二人の女の子もまた八幡と同様に、同い年の異性を肌越しに感じながら固まっていた。鷲掴みにされていることに加えて、彼の手首から上腕が自分のお腹に直接触れていることを由比ヶ浜は自覚している。雪ノ下に至っては、少しずれているものの正面から抱き合っている形に近い。

 

 この急展開を受けて他の面々もしばし固まっていたのだが、さすがに再起動は早かった。容赦なく一色と小町が写真を撮っては三浦に怒られ、その傍らで海老名が順番に二人の女の子を八幡から引きはがす。

 

 こうして、当事者三人には他のことなど吹き飛んでしまったかのような心境をもたらし、雰囲気が重くなりがちだった女性陣には、アクシデントも含め良い気分転換になったのだった。

 

 

***

 

 

 ここで朝食後にまで時間は遡る。作業に向かう男子生徒たちを見送って、女子生徒たちはひとまず一息ついた。グループがくっきり分かれていることを不審に思った男子もいたかもしれないが、少なくとも疑問を口に出される展開は回避できた。雪ノ下と三浦が冷戦状態にあることは、遠からず判明するにしても朝から説明したい話ではないと彼女らは考えていた。

 

「じゃあ打ち合わせ通りに分かれよっか。ゆきのんと小町ちゃんとあたしの三人が一緒に行動して、後でヒッキーとさいちゃんが合流するんだよね。そっちは優美子と姫菜といろはちゃんの三人で、隼人くんととべっち待ちだね」

 

 朝食の時点で既に班分けは済んでいたものの、由比ヶ浜がそれを改めて確認する。そもそも三浦と葉山を組ませる以上、そこに戸部翔と一色が加わるのは当然のことで、その時点でグループの可変性はほとんど残っていない。

 

 海老名と雪ノ下に部活絡みの繋がりがあることや、由比ヶ浜と一色の関係が良好なことを考えると、ここだけは入れ替えが可能に思える。しかし一色にも働いてもらうには情に訴える由比ヶ浜よりも、一色の思考を理解した上で敢えてそれを無視する形で関与を促せる海老名のほうが適任だろう。葉山の他にも雑多な意見をまとめられる人材を確保できるという点でも。

 

 一方で扱いの難しい雪ノ下や八幡に存分に動いてもらうためには、やはり海老名よりも由比ヶ浜の方が適任だ。戸塚とも関係良好な由比ヶ浜ならば、存在が埋没しがちな戸塚の発想をすくい上げることも期待できる。小町には昨夜のカルチャーショックが残っているだけに、海老名が同じ班なら身構えてしまうだろう。

 

「まず私たちが先に観察だったよね。小学生はこの建物の前に15分に集合・点呼で、9時半から動くはずだから。隼人くんたち、ちょうど小学生がいないタイミングで外に出られたのかな」

 

「葉山先輩は小学生がいても別に苦にしなさそうですけど〜」

 

「お兄ちゃんは挙動不審になりそうだから、タイミング良かったかもですねー」

 

 雪ノ下と三浦に「朝から面倒ごとは避けて欲しい」と自重を促した手前、由比ヶ浜に海老名が応える形で話が進んで行った。そこに一色が軽口を挟むと、葉山を気にしていると同時に別の誰かのことも念頭に置いているなと受け取った小町が更に軽口を添える。

 

「小学生があれだけ大勢いたら、あたしでも『うわっ』てなっちゃいそうだけどね。えっと、平塚先生。あの小学生グループがどこにいるかって判るんですよね?」

 

「うむ。比企谷が昨日あのグループの子供たちを私のアプリで確認した時に、念の為にマーキングしておいた。今はここの前で5人で固まっているようだな」

 

 年下組の会話に由比ヶ浜が軽くフォローを入れて、そのまま教師に問いかけた。平塚静は地図アプリを立ち上げながらそれに答える。時間を確認すると、そろそろ動き始める頃合いだ。

 

 

 おそらくは引率の先生が小学生に注意を与えていたのだろう。つい先程までは細々とした声が食堂にも聞こえていたのだが、それが止むと同時に小学生たちが一斉にお喋りを始めて、外は一気に賑やかになった。

 

「すごいパワーですね……」

 

 この一団では最年少の小町ですら「ついていけない」という気持ちを言外に含めたつぶやきを漏らしている。その他の面々も苦笑しながら、耳を澄ませて盛り上がりが収まるのを待っていた。

 

「……どうやら、例の女の子だけはこの建物に残っているようだ。他の四人は、おそらく仏岩コースでハイキングの可能性が高いな。往復で三時間弱の行程だったはずだ」

 

 しばらくして、じっとアプリを眺めていた教師が低い声音で情報を生徒たちに伝えた。市民ロッジを通り過ぎて北に向かって歩いて行く四人の小学生の動きを、平塚先生はそう解釈した。

 

「それって……」

 

 由比ヶ浜が途切れさせた言葉を引き継げる者はいない。暗い顔の女子生徒たちに言い聞かせるように、教師はゆっくりと口を開いた。

 

「思っていた以上に状況は逼迫しているのかもしれないな。君たちに動くなとは言わないが、まずは気分を入れ替えるように。そんな重苦しい表情では、助けられる側も困ってしまうからな。少し水遊びでもして来るかね?」

 

 あえて気楽な口調で教師はそう提案した。自らの意図がきちんと伝わっていることを確認して、彼女は再び口を開く。

 

「手に負えないと思ったらすぐに手を引いて私に連絡しなさい。私も今から別に動くつもりだが……そうだな。念のために今から10分後に小学生の位置を確認して、その後は20分おきに状況を報告しよう。宛先は由比ヶ浜と海老名で良いかね?」

 

 昨夜の雪ノ下と三浦の諍いを、平塚先生は誰に報告をされるでもなく把握していた。朝から生徒たちの動きを見ていれば、その程度を洞察するのは難しくはない。慌ただしく指示を与えると、教師は食堂から去って行った。

 

 

「交替で観察と休憩って話だったけど、これからどうしよっか?」

 

「とりあえずメッセージを送ってみるべきかもね。雪ノ下さんに任せても大丈夫かな?」

 

 由比ヶ浜が口火を切って海老名がそれに答える。観察の段階では二人にあまり仕事を振りたくはなかったのだが、この展開では仕方がない。

 

『昨日お話をした雪ノ下です。もし良かったら、今日の午前中にももう少しお話しできればと思うのですが、いかがですか』

 

 とはいえ、さすがの雪ノ下でも書ける内容はこの程度しか思い浮かばなかった。自分は貴女の味方だとか、そうした類いの言葉を加えようとしても、どうにも嘘くさくなってしまうのだ。もしも自分が彼女の立場だったら、変な事を書かれるほどに信頼性が失われるように思えた。昨日のやり取りで少しでも良い印象が残ってくれていることを願いながら、雪ノ下はシンプルなメッセージを送付した。

 

「返事が来るのを待ってる間に、先生が言ってたように気分転換でもしよっか」

 

「明日がどうなるかも分からないですし、せっかく水着を持って来たんだから、本当に水遊びに行くのも良いかもですね〜」

 

 気楽な口調で一色がそう提案する。そしてこの場に居る者達は既に、彼女が話を進めるためにわざとそんな口調で発言したことを理解している。少しだけ罪悪感を覚えながらも、女子生徒たちは支度を始めた。

 

 

『昨日の二人だけなら』

 

 水辺に移動して川の中へと足を踏み入れようとした時に、返事が届いた。青少年自然の家のどこかで落ち合うか、それとも今のこの場所にまで出て来てもらうかで意見が分かれたが、結局は両論併記で返事をすることにした。内容よりもスピードが重要だと考えたのだ。

 

 メッセージが来たらすぐに気付けるように着信音を最大にして全員に聞こえる設定にして、彼女らは川へと足を踏み入れた。




次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/7)


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12.ちいさくとも彼女は確かな手応えを得た。

本話は冒頭からシリアスなお話になります。
以下、前回までのあらすじ。

 合宿二日目の朝、さしたる仕事がなかった女子生徒たちは事態の変化を受けて、すぐさまメッセージで接触を図ることにした。当事者以上に思い詰めていても仕方がないと教師に指摘され、留美からの返事を待つ時間に彼女らは水遊びをして気分転換を行う。そこに一人合流した八幡にラブコメの神様が微笑んだ。



 前日の夜、小学生たちは班ごとに分かれて宿泊室で過ごしていた。体育館で行われた班長会議の概要を全員に伝えて、今は引き続き班会議の時間だ。翌日の予定を林間学校のしおりで確認して、それから各自が今日あった出来事を記入する。全員のしおりを班長が回収して先生に提出して、それでようやく一日が終わる。

 

 鶴見留美は淡々と、無味乾燥な内容を書き記していった。みんなとオリエンテーリングをしました。みんなとカレーを作りました。みんなとお風呂に入りました。みんなと……。

 

「えっと、明日の自由時間はハイキングだよね」

 

「往復で三時間ぐらいって書いてるし、二時までに帰ってればいいんだから余裕だよね」

 

「うん、足がおそい誰かさんに合わせても余裕だねー」

 

「でも二時半からおふろって何とかならなかったのかな?」

 

「肝だめしと晩ごはんとキャンプファイヤーがあるからねー。あ、肝だめしって変更になるかもってさ」

 

 沈黙を嫌って一人が口を開くと、そのまま四人だけで会話が続いた。途中で話題を向けられて留美は密かに身構えたのだが、話が逸れたおかげで事なきを得た。そのまま班長が詳しい話を説明する。

 

 鬱蒼と木々が茂っている中に向かうとはいえ、肝試しは四時半というまだ明るい時間帯に始まる。更にこのデジタルな世界でお化けなどいるわけがないという意見や、逆にこの世界でも幽霊を見たという意見も出て、肝試しがそのまま実行されるのか不透明な状況になっていた。

 

「肝だめしはどっちでもいいけど、あのお兄さんたちがお化けになったところは見てみたいね」

 

「あ、それ見たーい」

 

「きゃーとか言って抱きついたりして?」

 

「えー、大胆すぎじゃない?」

 

 留美はしおりに書き込む手を止めて、夕方に会った二人がお化けに仮装している姿を想像してみた。あの女の人だったら、黙って立っているだけで見る者を萎縮させるような姿になるのではないか。あの男の人だったら、怖がらせて泣かせてしまった子を何とか元気付けようと、仮装した姿のままでおろおろしているのではないか。

 

 そんなことを想像してつい小さく笑顔を浮かべていると、目ざとく見付けられてしまった。

 

「あれ。鶴見ってもしかして色気づいてる?」

 

「さっきカレー作ってる時にも、お兄さんに話しかけられてたもんね」

 

「自分から動かなくても、お兄さんが寄って来てくれるって余裕かましてるんだよねー?」

 

 少しだけ弾んだ気持ちはあっという間に消え失せて、留美は能面のような表情をまとった。そのまま静かに嵐が通り過ぎるのを待つ。

 

 だが何も反応を示さない留美を見て、誰かがわざと聞こえるように舌打ちをした。びくっと反応しそうになる身体を何とか抑えて、留美はしおりに顔を向けたまま身動きをせず耐えていた。

 

「あ、そっか。今日のできごとを書きながら、お兄さんのことを思い出してたんだ?」

 

「ふーん。どんなふうに書いたのか、見せて?」

 

 無理に留美からしおりを取り上げるようなことはせず、自主的に提出を促す。先生に届ける前にどうせ確認が入るのだろうと覚悟していた留美ではあったが、この話の流れはさすがに想定外だった。見せた後の展開を嫌って、留美は思わず反駁してしまった。

 

「大したことは書いてないし、別にいいでしょ」

 

「じゃあ別に見てもいいじゃん。いいから見せて」

 

 一つ余計なことを言ってしまったと後悔しながら、留美は大人しくしおりを渡す。

 

「何これ。あったことを書いてるだけじゃん」

 

「えーっと。『みんなでカレーを作りました』って、鶴見は立ってただけだし、途中からいなくなってたじゃん。せめて『おいしかった』とか、『作ってくれた班のみんなに感謝』とか、そういうの書いたほうがいいんじゃないの?」

 

 順番にしおりを回覧されて、悪態をつかれる。投げかけられた言葉には攻撃的なものもあれば、場の雰囲気を壊さないように言ってみたという程度のものもあったが、そうした差異は留美には今さらどうでもいいことだった。

 

 言われた通りのことをただ機械的に書き加えて、留美はしおりを班長に渡す。これでようやく一日が終わったと、少し安心したような気持ちで。しかし、特に攻撃的な二人の小学生は、この程度では済ませてくれなかった。

 

「っていうかさ、自分勝手なことをしてる鶴見に、こんなに気をつかってるのにさ。お兄さんにまで気をつかってもらって、いい身分だよね」

 

「明日もどうせ遅れてついてくるんでしょ。またお兄さんに声をかけてもらえるチャンスだよね」

 

「だって、あれ以上は近づくなって……」

 

「あれ。別にそんなことを言ったつもりはないんだけどなー。みんなに合わせた行動ができないなら仲間じゃないし、仲間じゃないなら近づく必要もないよね、ってだけなのにさ」

 

「鶴見って、さめてるように見えて、実はロマンチックなの好きだからさ。お兄さんに助けてもらうシーンとか想像して、自分に酔ってるんじゃないの?」

 

 かつて仲が良かった頃には、目の前の少女とはお互いに名前で呼び合っていたものだった。その頃には親しげな雰囲気の中でからかわれた言葉が、今では緊迫した雰囲気の中で冷たく言い放たれている。

 

 中学生になるまで、あと半年。しかしその半年が、小学生の身には永遠にも近く感じられてしまう。それに、あの高校生のお姉さんが言っていた通りであれば、中学に入っても状況は変わらないかもしれないのだ。

 

 それならもう、こんな中途半端に取り繕うような関係なんていらない。たとえ独りぼっちになっても、ハッキリしてるほうがいい。どこか投げやりな強さを発揮して、留美は口を開いた。

 

「じゃあ、明日のハイキングは四人で行けばいいじゃん。私は気分が悪いからって、ここで寝てるから」

 

「鶴見さあ。そういうわがままが班に迷惑をかけてるって、わかってる?」

 

「ホントにねー。ま、いいじゃん。鶴見が言い出したことなんだしさ。先生にサボりがバレても鶴見のせいだから、班のみんなを巻き込まないでよね?」

 

「点呼の時にめだつのは嫌だし、朝だけは出て来てよね。その後は鶴見の好きにすれば?」

 

 思いがけない留美からの反撃を、逆に責任を全て押し付ける形にして処理したことで、ようやく二人の意識から留美の存在が薄れてくれた。そのまま四人で行くハイキングの詳細を楽しげに語る同い年の少女たちをぼんやりと眺めながら、留美はようやく一日目が終わったことを実感していた。

 

 

***

 

 

 時は二日目の午前中に戻る。川遊びの最中にアクシデントが発生して、当事者たちが恥ずかしそうに顔を背け合っていた時のこと。これぞ天の助けとでも言いたいぐらいのタイミングで留美からのメッセージが届いた。

 

『外には行きたくない』

 

 本来なら雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣から詳しい事情を聞くところだが、先ほど肌を触れあわせた感覚がまだ強く残っているだけに、おいそれと彼女らに近付くことができない。そんなわけで比企谷八幡は妹から詳しい話を聞き出すべく、集団から少し離れることを手振りで指示した。

 

「えっと、同じ班の子たちはハイキングに行ってて、独りで自然の家に残ってるみたいなのね。で、『お話しない?』ってメッセージを送ったら、お兄ちゃんと雪乃さんをご指名みたい」

 

「で、場所の詳細を送ったらあの返事か」

 

「うん。ここに来てくれたら気分転換になるかなって思ったんだけど……」

 

「楽しそうにしてるところを、他の連中に見られたら嫌だろうしな。んじゃ、俺と雪ノ下で自然の家まで行ってくるわ」

 

「お、お兄ちゃんってば大人の余裕だね。さっきのことがあったばっかなのにさ」

 

 途端に先程の恥ずかしい気持ちが蘇ってきて、何とも言えない表情を浮かべる八幡だった。兄のその反応を見て、比企谷小町は手振りだけで詫びを入れる。

 

 集団に視線を送ると、どうやらあちらも同じ結論に至ったようだ。八幡と雪ノ下を送り出して、残りの面々はここで男性陣を待って話し合いを行うのだとか。

 

 気分転換もできたし川遊びは終わりだと、水着の上からパーカーやポンチョを羽織り始める女性陣を眺めながら、八幡は自分だけが彼女らの水着姿を堪能できたことに感謝を捧げた。しかし先程のアクシデントについては今なお生々しい感触が残っているだけに、感謝して良いものやら判断がつかない八幡だった。

 

 後日、戸塚彩加の水着姿を見られなかったことに気が付いて、八幡が感謝を取り下げ恨みを捧げることになるのはここだけの話である。

 

 

***

 

 

 雪ノ下と並んで歩きながら、八幡は更に詳しい情報を受け取っていた。特に、朝の点呼の時には五人で外に出ていたのに解散と同時に四人だけがハイキングに出たと聞いた時には、思わず拳を握りしめてしまった。

 

「置き去りにされる段階を通り越してるな。かなり状況は悪いと考えるべきだろな」

 

「ええ。独りで残ることを納得させた形だから、支配が更に強くなったと考えたほうが良いわね」

 

「その、お前は言い訳とは取らないと思うが……。昨日の俺たちとの会話が、何かの引き金になった可能性はあると思うか?」

 

「あの時点では考えていなかったのだけれど、平塚先生から『強さが持つ危うさ』を教えて頂いた今となっては、関連性があると考えるべきね。『中学になっても』と厳しい事を言ったのは私なのだから、貴方は気にしなくても良いと思うのだけれど」

 

「ばっかお前、その場にいたんだから俺も同罪だろ。『相手に反省の機会を与えないのは単なる傲慢』とかって言ってたのは誰だっけな?」

 

 お互いに先程の気恥ずかしさは完全には無くなっていないものの、優先して相談すべき事柄があるおかげで二人は滞りなく意見の交換を行えていた。八幡の軽口にふっと笑みを浮かべて、雪ノ下は返事を返す。

 

「それなら、一緒に反省して一気に挽回と行きたいところね」

 

「だな。まだ俺らと話をする意思はあるみたいだし。今のうちに何とかしないとな」

 

 既に留美宛には『自然の家に着いたら連絡するので待っていて下さい。比企谷くんも連れて行きます』という返事を出している。それを思い出した八幡は、留美が他の小学生に見られることを気にするだろうなと考えて、歩きながら平塚静に連絡を取った。

 

「自然の家の近くまで誰か小学生が帰ってきたら、こっちに連絡を入れてもらうとかって出来ますかね?」

 

 平塚先生の返事によると、アプリの地図上で範囲指定を行う事で、小学生がその線を越えるとすぐに通知が来る機能があるとのこと。帰って来た小学生に気付かれず解散できるように連絡をお願いして、八幡は一息ついた。

 

 教師からはそれに加えて、留美と同じ班の小学生たちは歩いて一時間以上離れた場所にいるので当分は大丈夫だという追加情報が届いた。教え子たちは平塚先生からのありがたい気遣いを受け取って、気持ちを切り替える。

 

 事前にできることは他にはもう無いだろう。後は顔を合わせてどうなるかだと考えながら、二人は自然の家へと近付いて行く。

 

 宿泊室で話をするのは嫌だろうなという八幡の意見を受けて、雪ノ下は留美に『研修室まで来て下さい。付近に他の小学生が来たら連絡が入るので、気にしなくても大丈夫です』というメッセージを送った。

 

 

***

 

 

 畳敷きの広い研修室を半分以下に区切って、八幡と雪ノ下はテーブルと座椅子を並べていた。喩えるならば、ひなびた温泉旅館に到着して部屋に足を踏み入れた時に見られるような光景がそこにはあった。少し違うのは机が正方形で、時期が冬ならそのまま炬燵にできそうな形をしている。

 

 例によって上座に腰を落ち着けて、両脇に八幡と留美を迎える形で雪ノ下が鎮座ましましている。八幡もまた指定された場所に腰を下ろして、雪ノ下に倣って仕方なく正座で過ごしていると、遠慮がちなノックの音が聞こえてきた。

 

「どうぞ、遠慮なく」

 

 昨日からの林間学校のイメージとは全く違う室内の光景に、留美が驚いた顔をしている。入ってきた時の硬い表情が解きほぐされていくのを見て、高校生の二人もまた肩の力を少し抜いた。

 

「和菓子と、それから日本茶も淹れてあるわ」

 

 まるで家族旅行でもしているかのような雰囲気に、留美の顔にも微かな笑顔が浮かび始めていた。全員が足を崩してお茶菓子を頬張り、しばし無言の時が過ぎる。しかし八幡が口を開くと、留美は再び冷たい表情に戻った。

 

「えっと、鶴見だったよな?」

 

「……留美でいい」

 

 縋るような口調で希望を告げる少女の意図が読めなくて、八幡は真面目な表情のまま目だけで雪ノ下に助けを求めた。いくら小学生とはいえ、あるいは相手が小学生だからこそ、名前で呼ぶことは八幡にとってハードルが高いのだ。

 

「留美さん、で良いかしら。苗字で呼ばれるのは嫌なのね?」

 

「苗字が嫌いってわけじゃないけど。名前がいい」

 

「つっても、留美さんって俺が言うのはしっくり来ないしな。留美ちゃんだと犯罪を犯してるみたいだし、男子高校生には厳しいものがあるんだが」

 

「留美でいい。私も八幡って呼ぶから。お姉さんは雪乃さんでいいんだよね?」

 

「それで大丈夫よ。留美さん、名前の話を聞かせてもらえるかしら?」

 

 まさかの呼び捨てに八幡が驚いていると、礼儀作法にはうるさいはずの雪ノ下がそのことには触れず、そのまま話を促していた。釈然としない気持ちで八幡は聴き役に回る。

 

「うん……。前はみんな名前で呼び合ってたんだけど、今みたいになってからは苗字でしか呼ばれてなくて。だから……」

 

「嫌な話をさせちまったな。教えてくれてありがとな、留美」

 

 だが留美の意図を把握してからの八幡の動きは早かった。八幡からの呼びかけに、留美はほっとしたような表情を浮かべている。

 

「ううん。私こそ、八幡に犯罪者みたいな呼びかたをさせちゃって、ごめんなさい」

 

「あー。やっぱ呼び捨てでも犯罪者みたいになるのかね?」

 

「人によるのではないかしら。あとはロリ谷くんの日頃の行いね」

 

「おい。その冗談は洒落にならんっつーか、留美が冗談を真に受けたらどうしてくれるんだよ」

 

 とはいえ八幡の心配は杞憂だったみたいで、年長者二人のやり取りに目を丸くしながらも、留美は悪い風には受け取っていない様子だった。呼び捨ての強制を素直に謝って来たことといい、今まで留美は良い育ちかたをして来たのだろうなと二人は思った。

 

 

「さて。私たちは留美さんに、できる限りのことをしてあげたいと思っているのだけれど。ゆっくりとで構わないから、今の状況を教えてくれないかしら?」

 

「どうして、私のために?」

 

「私たちも、留美さんの年齢の頃には色んなことがあったのよ。今の貴女と同じような目に遭って、それでも明るく育っている、と、友達がいるのだけれど。留美さんが今のままの状態だと、その子が哀しむと思うから。過去を気にして悔やんだりは、今更して欲しくないのよ」

 

 留美と差し向かいであれば躊躇することもなかっただろうに、すぐ横で八幡に聴かれていると思うと、雪ノ下は由比ヶ浜のことを友達と表現するのが急に恥ずかしくなって少しつっかえてしまった。だが口にした言葉は全て本音だと、雪ノ下は強い意志をこめながら自らの動機を語る。由比ヶ浜と、そして最後には別の誰かのことをも想定しながら。

 

「俺らと一緒に来てる由比ヶ浜って奴のことなんだけどな。そいつも留美と同じように順番が来てハブられて、謝って許してもらったんだと。何か別の方法があったんじゃないかって、何年も前の事でも悩み始めるような優しい奴なんだわ」

 

 そこで少し言葉を切って、八幡は少しだけ躊躇した後で再び口を開く。

 

「つーか、ちょっと嫌な事を聞くかもしれんが……。順番にハブるってのは今回の留美も同じだよな。さっさと謝って無かったことに、ってのはもう無理なのか?」

 

「……うん。私が流れをとめちゃったから。でも、みんなといっしょになって、ハブってる子に思ってもないようなひどいことを言うよりは、今のほうがいい」

 

 自分の行動に責任を持てる小学生が、この状況にあっても今のほうがいいと言い切れる強さを持つ小学生が、果たしてどれほど居るのだろうか。だが、だからこそ留美は現状に嵌まり込んでしまったのだと二人は思う。同時に、こんな理不尽なことはまちがっていると。留美に相応しい扱いは、このようなものではないはずだと二人は思う。

 

「そのな。俺も長年ぼっちだったし、雪ノ下も最近まで友達らしい友達がいなかったみたいだから、俺らが言うのもアレだけどな。ぼっちはつらいぞ」

 

 昨日の晩に妹から言われた『ぼっちが自分を救ってくれた』という言葉を思い出しながら、八幡は話を続ける。あの時は嬉しさが勝っていたこともあって特に反論しなかったが、妹が言うほどぼっちで平気だったわけではないのだと、留美と雪ノ下に言い聞かせるように。

 

「正直気楽なのも確かだし、周りから見たら平気そうに見えるんだろうけどな。同情するような、惨めな奴を見るような目で見られると、かなり精神的に来るものがあるんだわ。あと、昨日たしか由比ヶ浜が『今まで普通にできてたことができなくなった』って言ってたけど、何をするにも一人だと困ることも多いからな」

 

「そうね。私の場合は、こちらから声をかければ従ってくれるのだけれど、対等な関係ではなかったから。それに集団が相手だと、個人ではどうしても限界があったわね」

 

「八幡も雪乃さんも、今からでも謝ったほうがいいって思ってる?」

 

 少し自信を失ったような表情で、留美が細々とした声で問いかけた。返答の難しさに頭を掻きながら、八幡は少しずつ言葉を選びながら口を開く。

 

「正直、状況が改善するなら謝るのも手だとは思う。けど、詳しい状況は分からんけど、謝っても逆効果って場合もあるしな。そもそもこっちに謝る理由なんてないし、俺だったら謝りたくねーな」

 

「比企谷くん。言っていることが矛盾しているのだけれど」

 

 苦笑しながらツッコミを入れつつ傍らを窺うと、留美はぽかんとした表情を浮かべていた。良い傾向だと考えながら、雪ノ下はそのまま言葉を継ぐ。

 

「でも私も、謝る必要なんて無いと思うわ。留美さんにもよく覚えておいて欲しいのだけれど、本来ハブられる側に落ち度なんて無いのよ。悪いのはハブる側に決まっているのだから、あちらの理屈に従う必要なんてこれっぽっちも無いわね」

 

「おい。俺をたしなめてたはずのお前が更に過激なことを口にしてるって解ってんのか?」

 

「でも、貴方も同じ意見だと思うのだけれど」

 

「まあな。どう考えてもこっちが被害者だからな。被害者にも何かを改善することはできるだろうし、それで問題が解決することもあるとは思うが、だからって被害者に責任はねーだろって思うな」

 

「そうね。これが一般社会の話であれば、被害者が警察に行って『君にも責任がある』なんて言われたら職務怠慢という話になると思うのだけれど。学校で先生に相談に行くと『君にも責任がある』と言われるのは珍しくないのよね」

 

「それどころか、加害者連中が『先生に話すのは卑怯』とか馬鹿みたいな事を言ってくるよな。馬鹿の相手をするのに権力を持ち出して何が悪いんだってな。まあ実際には、頼りにならない先生が多いから権力もあてにはできないわけだが」

 

 長年の鬱憤を晴らすかのように、八幡も雪ノ下も過激な発言を続けていた。留美もまた二人が口にする言葉の意味を理解できる境遇ゆえに、自分が薄々疑問に思っていたことを二人が肯定してくれたような気がした。

 

「それもそうね。話を戻すと、留美さんには謝る必要も、責任を感じる必要もないと思うわ。ただ、相手の出方に応じて対応を変えることで、被害者の側からも状況に変化を起こせると私は思うの」

 

「それって、どうやって?」

 

 現状を打破する具体案があるのかと、留美は期待を込めた視線を雪ノ下に送る。だが雪ノ下は真っ直ぐに少女を見据えながら、噛んで含めるように言い聞かせる。

 

「今から話すことは、留美さんが期待している内容ではないと思うのだけれど。でも、しっかり覚えておいて欲しいのよ。何よりも、身の安全を第一に考えること。そして、身の危険を感じたら即座に逃げること。それが、何よりも大切なことだと私は思うの」

 

 あまりにも意外な雪ノ下の発言に、留美も八幡も面食らっていた。雪ノ下ならばもっと力強い発言をしてくれるだろうと思い込んでいたのだ。しかし八幡は昨夜のログハウスでのやり取りを思い出して、昨日の今日で教えられる側から教える側へと変貌を遂げている雪ノ下の学習能力に驚愕する。

 

「留美さんは、孟母三遷という言葉を聞いたことはないかしら?」

 

「モーボ?」

 

「孟子という古代中国の偉人が居るのだけれど。そのお母さんを孟母と呼んでいるのよ。孟母三遷とは、子供の教育のために三度も住む場所を変えたという故事から生まれた言葉なの。ここまでは大丈夫かしら?」

 

 留美が話の流れを理解していることを確認して、それから少しだけ八幡のほうを見やって、雪ノ下は言葉を続ける。

 

「逆に言えば、孟子ほどの偉人であっても、勉強を続けられる環境にないと堕落してしまうのではないかと私は思ったのよ。何だか、比企谷くんみたいな捻くれた発想で申し訳ないのだけれど」

 

「おい」

 

「冗談よ。だから留美さんにも覚えておいて欲しいの。自分がダメだから、自分に責任があるから、環境が変わっても同じだとか考えないで。孟子ですら環境が悪いとどうにもならないのだから、私たちなら余計に環境が大事だと思うのよ。環境がダメだと思ったら、迷わず場所を移すこと。さっき言ったように、逃げることをためらわないで欲しいの」

 

 昨日ここで合流した直後に、一色が一緒に遊びたがっているのではないかと指摘されて照れていた雪ノ下の姿を、八幡はふと思い出した。昨夜その話をネタにした時には『年下との親しい関係は今まで無かったことなので』などと言っていたが、ここまできちんと年下の相手ができるのなら上出来だろうと八幡は思う。

 

 

「ま、確かに逃げるのが一番大事だな。それで、今の状況をできたら確認したいんだが。もし言いかたが悪かったら謝るからすぐに言ってくれ。留美は今、小学生の中で孤立してる状況なんだよな?」

 

「……うん。孤立っていうか、誰も助けてくれない状態」

 

「じゃあ、お前を……」

 

「留美」

 

「すまん。留美をハブってる連中に逆らうのは難しいか?」

 

 悪気があって口にした言葉ではないが、名前を呼ぶようにと即座に指摘が入ったことを八幡は好ましく感じていた。この調子ならもう少し突っ込んだ話をしても大丈夫だろう。

 

「逆らえないわけじゃないけど。昨日も『ハイキングは四人で行けばいいじゃん』って言ったら、私のわがままで班に迷惑をかけてるって。私の責任だから班のみんなを巻き込むなって言われちゃって……」

 

「そこはあれだ。さっき雪ノ下が言ったように、留美に責任なんかねーからな」

 

「ええ。加害者連中に都合のいい理屈など、気にしなくても大丈夫よ」

 

 雪ノ下に保証してもらってほっとした表情の留美を眺めながら、八幡が再び口を開く。

 

「その、あんま聞きたくねーかもしれんが、今から加害者連中の目論見っつーか、状況がこのまま悪化したらどうなるのかを説明するな。事前に知っておくことで、色々と防げることがあるんじゃないかって思うから話すんだけど、しんどかったらすぐに言えよ。留美を苦しめるために話すんじゃねーからな」

 

 しっかりと頷く留美を見て、小学生ながら驚くほどの芯の強さを見せる少女に朧気な敬意すら抱きつつ、八幡は話を続ける。

 

「今の加害者連中がやってるのは、留美の無力化だと俺は思う。どう反抗しても自分たちには敵わないって思い知らせるために、留美の言葉とかを逆手に取って、悪い方に解釈させるように誘導してるように思えるんだわ。で、もしも無力化が完了したら、その次は透明化という段階に入るはずだ。明らかにハブってるのに外からはハブってるように見えない状態っつーか。教室とかでも肩とか組んで仲良さそうにしてるのに、本人たちは全く笑ってないみたいな状態だな」

 

「おぞましい以外の何物でもない状態ね」

 

「俺もそう思う。だからそうなる前に逃げるのが大事だってのは、さっき雪ノ下が言ってたよな?」

 

 頷きを返す留美は硬い表情ではあるものの、冷静に理解できてもいると八幡は判断した。そのまま彼は言葉を続ける。

 

「で、無力化の段階に戻るんだが。相手が動いた時ってのは、こっちにとってもチャンスなんだわ。標的を無力化できないでいると、『実は大したことないんじゃね』って加害者に疑いを持つ奴が増えて来るからな。どんなこじつけでも良いから連中の無理難題を避け続けていれば、時間は留美に味方してくれるってのを知ってて欲しい」

 

 戸塚に話した家康のとんち話を八幡は思い出す。こじつけであれ、とにかく目の前の危機を避け続けていればいつか大きなチャンスが来るというのは、まさにあの昔話の通りではないかと。苦境を凌いだからこそ関ヶ原に繋がったのだろうと八幡は思った。

 

 

 八幡はかつて集団から疎外されている自分が透明になった気がして、同じようなことがあるのかと父親のパソコンで調べてみたことがあった。その時に孤立化・無力化・透明化という虐めを段階的に分類する考え方を知ったのだった。

 

 自分が思っていた透明な状態と比べても、そこで紹介されていた透明化という状況は遙かに酷いものだった。今より小さかった八幡は自分がそうではないことを知って安心したのだが、まさかこんなところでかつての知識が活かせるとは思ってもいなかった。

 

 少しだけ、自分より酷い状況があるのを知って安心してしまった過去の自分に罪悪感を覚えつつ、それを挽回するのが今だと考え直して、八幡は言葉を続ける。

 

「後は何か伝えておくことって……あれか。もし留美が今の立場から解放されたとして、逆の立場になってもやり過ぎないようにな」

 

「虐めの連鎖を防ごうと、貴方は考えているのね」

 

 きょとんとしている留美に苦笑していると、雪ノ下が的確なフォローを入れてくれた。

 

「それもあるんだが、虐められたから同じ目に遭わせてやるって、なんか同レベルみたいで嫌じゃね?」

 

「なるほど。貴方らしい意見ね。留美さんはどう思うのかしら?」

 

「私は……私が謝っても、べつの誰かがまたハブられるのなら嫌だなって思ってたから。そんなことはしたくない」

 

「それで良いんじゃね。あとあれだ。俺らは高校で奉仕部って部活をやってるんだわ。だから、いざとなったら安心して頼って来い。留美のために雪ノ下が頑張ってくれるはずだ」

 

「そうね。こんな他人任せなことを言っていても、いざとなれば比企谷くんは留美さんのために動いてくれると、私が保証するわ」

 

「んじゃ、今の時点で言いたいことは伝えたし、そろそろ解散するか。他の小学生の前では他人のフリでも良いからな。あ、肝試しの代わりのイベントを考えてるから、楽しみにしててくれ」

 

 

 この部屋でのやり取りによって、状況に何か大きな変化があったわけではない。しかし気持ちの上で、留美にとっては得がたい経験になったのだった。




本話における留美側の展開および八幡の発言は、中井久夫「アリアドネからの糸」(みすず書房)から多くの着想を得ました。その他の参考書籍は章の終わりに記載する予定ですが、本書には特にここで名前を挙げて感謝の気持ちを表明させて頂きます。


次回は月曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/15,7/26)


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13.はなばなしく彼らは議論を重ねる。

前回までのあらすじ。

 朝の点呼には出た上で、留美は午前中の班行動には同行しないことになった。この一連の行為に関して全ての責任を押し付けられて、宿泊室で孤独に過ごしていた留美に、雪ノ下からのメッセージが届く。

 研修室で待つという雪ノ下と八幡のもとに足を運んだ留美は、そこで二人から色んな話を教えられた。二人の経験に基づいた説得力のある話を聞けたことで、留美はずいぶんと気持ちが楽になった気がした。



 研修室から出て行く鶴見留美を、比企谷八幡は部屋の入り口まで足を運んで送り出した。彼に見送りを命じた雪ノ下雪乃は、自宅に部下や年下のお客を招いた時の両親の行為に倣って自身は動かなかったものの、やはり自らも動くべきだったかと少しだけ反省していた。

 

 ドアを閉めて振り返り、八幡は今後の行動を目線だけで問いかける。雪ノ下はそれに対し、先程まで彼が座っていた場所に目を向けることで応えた。

 

 八幡を見送りに立たせた雪ノ下は時間を無駄にすることなく、留美との対話が無事に終わったとだけ部員に報告した。すると即座に返事が来て、おかげで雪ノ下はあちらの状況も把握できたのだった。こちらに向かって移動を始めるという彼女らが集合場所の食堂までやってくるには、もう少し時間がかかるだろう。

 

 雪ノ下の視線を受けて再び同じところに座り直した八幡は説明を聞いて頷いた。そのまま雪ノ下が話を続ける。

 

「先程の無力化と透明化の話は興味深かったわ」

 

「どっかの偉い先生が言ってた受け売りだし、定説ってわけでもないみたいだがな」

 

「特に、無力化の過程で時間をかけすぎると、逆に周囲から加害者への疑いが生まれるという話が重要だと思ったのだけれど。朝食後に聞いた男子からの提案と重なる部分があるわね」

 

「周囲に働きかけて場の空気を改善するって話だよな。周りの連中の意識を無理矢理にでも変えるって話をあんな風にまとめるとか、葉山も何だかんだで能力高いよな。お前が居るから学年一位になれないだけで、俺なんかおかげで万年国語三位だしな」

 

「それを悔しく思うのならば、次で葉山くんを抜けば済む話ではないかしら?」

 

 葉山隼人の話を出されても涼しい顔でこう答える辺り、雪ノ下は引き続き良い精神状態を保てているのだろう。言われて苦笑している八幡にも余裕が窺える。昨夜の様々なやり取りを経て、後顧の憂いなく事に当たれる心境に二人は至っていた。

 

「それ、自分は抜かれないって思ってるだろ。ま、その話は二学期に入ってからとして。お前は何か手があるのか?」

 

「事態の改善だけを目指すのであれば、ね。とはいえ条件的にも責任という点でも厳しいのが正直なところね。留美さんが期待していたような一発で状況を変える手は思い付かないわ」

 

「そういや、逃げることを勧めてたのは少し驚いたな。あれも昨日の話が原因なのか?」

 

「最悪の事態は避けたいと思いながら話したのは確かね。それと私の留学も、ある意味では逃げから始まったようなものだったから……」

 

「あれだ。『間違った始まり方でも、新しく関係を作っていけば』ってクッキーの時に言ってきたのはお前だろ。職場見学からごたごたしてた時には由比ヶ浜も『始め方が正しくなくても』って言ってたし。どうせお前のことだから『逃げて正解』って側面を過小評価して、『逃げた』って部分だけを気にしてるんだろうけどな。さっきの孟母三遷と同じで、結果が良かったんだからいいんじゃね。留学、楽しかったんだろ?」

 

 

 彼らが同じ部活で時を過ごすようになって、既に四ヶ月近い月日が流れている。この世界に巻き込まれたことや多くの事件に遭遇したことで、奉仕部の三人は濃密な時間を共にしてきた。中でもこの二人は記憶力が優れているために、過去の部員同士の発言を引き合いに出して会話を落ち着かせる傾向が最近は特に増えていた。

 

「そうね。だから留美さんにも、この先で楽しいことを経験してもらいたいわね。肝試しの代替イベントは固まっているような口ぶりだったと思うのだけれど、比企谷くんは何か打つ手があるのかしら?」

 

「葉山とか、他の連中のアイデア次第だけどな。自案に拘る気はないし。俺の案だと不確実な部分が残る上に、特に雪ノ下に協力してもらう必要があるんだが……正直、嫌な思いをさせてしまうかもしれん」

 

「構わないわ。結果が良ければ、嫌な思いぐらいは安いものよ。とはいえその口調だと、詳しい内容は後のお楽しみということなのかしら?」

 

「お前の案だって詳しいことは話してねーだろ。どうせ後で説明するんだし、二度手間を避けただけだっての」

 

「確かにその通りね。ではもう一つだけ。結局さっきの話の中で、貴方が留美さんを助けたい理由は明確になっていなかったと思うのだけれど。誰にも言えない理由なのかしら?」

 

 まるで八幡の意図を見通しているかのように、雪ノ下は悪戯っぽく微笑みながら問いかける。男性の態度からしてバレバレだろうに、それでも愛情表現を言葉で要求する女性ってこんな感じなのかなと場違いなことを考えながら、八幡は仕方なく口を開く。

 

「昨日、言ってただろ。お前は由比ヶ浜のために、由比ヶ浜はお前のために留美を救いたいって。部活をずっとやって来て今更かもしれんけど、奉仕部ってこういう部活なんだなって改めて思ってな。俺は正直、結果第一ってか、介入して事態を悪化させるのは一番ダメだろって思ってたけど。そんな斜に構えた傍観者みたいな立ち位置じゃなくて、俺も奉仕部の一員として留美の状況を改善してやりたいなって思えたんだわ」

 

「そう。私は由比ヶ浜さん(と葉山くん)のために。由比ヶ浜さんは私のために。そして比企谷くんは同じ奉仕部の一員として、私たちのために留美さんを救いたいと考えているのね」

 

 葉山との過去の一件に事情を知らない他人を巻き込んでいるようで、申し訳なさを少しだけ感じながらも、雪ノ下は口に出す必要のない部分は内心で飲み込んだ。そちらに意識を多く奪われていたために、後半はすぐ横にいる男の子の発言内容を繰り返すだけになったのだが、そのせいで八幡はこの上ない気恥ずかしさを覚えていた。

 

 先ほど連想したことを再び思い出しながら、ラブラブなカップルの会話は俺には絶対無理だなと考えながら、八幡は頑張って真面目な表情を維持しつつ言葉を付け足す。「雪ノ下と由比ヶ浜のために」「二人と共に」という恥ずかしい理由を少しでも薄めようと目論見ながら、同時にこの理由も忘れるわけにはいかないと思いながら。

 

「あと、留美と長い時間話してみて思ったけど、あいつはこんな扱いを受けて良い奴じゃねーよ」

 

「それは私も同意見ね。実際に話してみて、助けたいという気持ちが強くなったわ。……では、そろそろ食堂に向かいましょうか。方針がすんなり決まると良いのだけれど」

 

「あ、メッセージを送りたい先があるから、少しだけ待ってくんねーかな?」

 

 そう言って八幡は、念のために二人と一人にメッセージを送った。

 

 

***

 

 

 少しだけ時間は遡る。川べりでは中高生たちが難しい顔で集まっていた。

 

 残っていた女子生徒たちに男性陣が合流して、当初こそ水遊びに参加できなかった愚痴を戸部翔がおもしろ可笑しく口にすることで明るい雰囲気にできていたものの、留美の現状を女性陣が説明し始めると辺りは重苦しい空気に包まれた。

 

「隼人が……あっちの先生とか他の小学生に上手く説明して、問題を解決するってできないし?」

 

「そうだな……。昨日の話し合いでも、ハブられてる子に話しかけるのは難しいってことだったから。それに比べると可能性はあるかもね」

 

「じゃあ、あーしがフォローするから、説明の仕方を考えて欲しいし」

 

「うーん。まだ方針を固定するのは早いし、他の意見も聞いた方が良いんじゃないかな」

 

 煮え切らない葉山の返答に三浦優美子は内心で歯軋りをするものの、自分でも無茶振りをしている自覚はあるだけに、主張を繰り返すことができない。

 

 女性陣は昨夜の雪ノ下と三浦の諍いをどこまで話したものかと判断がつきかねていて、なかなか口を開こうとしない。戸部は先程までは頑張って場を盛り上げていたものの、今の三浦に言葉をかけるのは怖いという気持ちもあり、そもそも真面目な話には口を挟みづらい。こうした分野では彼は葉山に全幅の信頼を置いているのだ。

 

 そんな一団の中で、三浦とはテニスの練習を通して縁があるために怯える気持ちが少ない戸塚彩加が口を開いた。

 

「雪ノ下さんと八幡なら、何か別の解決法を考えてるんじゃないかな」

 

 雪ノ下の名前が出たことで三浦の反応を気にしながら、女性陣は各々が考え事に耽っていた。

 

 一色いろはは昨夜と同様に、葉山には解決が難しくとも雪ノ下なら解決できるだろうと考えていた。まだ名前を覚える気のないせんぱいについては、雪ノ下と並んで女子小学生から指名を受けたことに多少の意外感を抱きつつも、相変わらずさしたる関心はない模様だ。

 

 比企谷小町も雪ノ下なら鮮やかに問題を解決するだろうと考えていた。八幡については肉親ゆえに、集団が抱える問題を見事に解決するようなタイプではないと思い込んでいる。とはいえ兄の能力を疑っているわけではなく、八幡には助言役とか裏方のような役割が似合うだろうと考えていた。

 

 海老名姫菜も昨夜と同様に、葉山にも雪ノ下にも解決は難しいだろうと考えていた。あとは八幡次第だが、自由時間に留美が一人だけ居残りをさせられている現状は思っていた以上に厳しいと言わざるをえない。中高生に何とか出来る段階を超えていると海老名は考えていた。

 

 由比ヶ浜結衣は同じ奉仕部の二人のことを信じている。雪ノ下と八幡なら単独でも解決できるかもしれないが、二人が協力すれば解決は間違いないと。だが同時に、由比ヶ浜は二人に期待が集まり過ぎることを心配していた。あの二人が変な気負いを感じることなく、問題の解決に全力を注げる環境を整えるのが自分の役割だと、由比ヶ浜は考えていた。

 

 そして三浦優美子は。唇を強く噛みしめながら、それでも女王の矜持として、雪ノ下の失敗を願うようなことだけは絶対にしたくないと考えていた。己の力不足を、ライバルの足を引っ張って誤魔化すようなことは絶対に嫌だと。

 

「全員で話してみないと分からないし、少し早いけど移動しようか」

 

 葉山がそう提案したのとほぼ同時に、由比ヶ浜のもとにメッセージが届く。詳しいことは書かれていなかったが、留美との対話が無事に終わったという一文を由比ヶ浜は全員に伝達する。そして早口で音声入力を行ってこちらの状況を書き送った。

 

「川遊びもしたかったけど、仕方ないから移動するべ」

 

 未練を自ら断ち切るように、残念そうに口を開いた戸部に全員が苦笑しながら、一行は青少年自然の家に向けて移動を始めた。

 

 

***

 

 

 朝にも集まった自然の家の食堂にて、中高生が勢揃いしていた。小学生を引率する先生たちと何やら相談事をしていた平塚静も戻って来て、総勢十一人が部屋の奥で一塊になっている。

 

 特に申し合わせたわけでもなく、彼らは昨日の夕食時と同じ配列になっていた。机を挟んで右手奥から雪ノ下、小町、由比ヶ浜、海老名、三浦の順に座っている。お誕生日席の一色を挟んで、左手手前から戸部、葉山、戸塚、八幡、平塚と並んでいる。

 

「まずは私の話から始めようか。あちらの引率の先生方は、とにかく問題が明るみに出るのを怖れているようだな。状況は掴んでいるものの、遠からず収束するだろうと、考えているというよりは期待しているという状態に思えたよ」

 

 どこか疲れたような声音で平塚先生がまず口を開いた。居並ぶ中高生の胸に憤りの気持ちが湧き上がるが、教師の対面に座る女子生徒が話を始めると、じきに全員が落ち着きを取り戻した。

 

「今はアップデート直後の時期ですので、保護者に連絡が行くのではないかと普段以上に怯えているのかもしれませんね」

 

「関東地方の解禁と並ぶアップデートのもう一つの目玉か。メッセージで何人かから感想が届いてるけど、リアル世界とのビデオ通話は概ね好評みたいだね」

 

 雪ノ下の指摘に対して、昨日の重苦しいやり取りが嘘のような気軽な口調で葉山が情報を重ねる。送られてきた感想の中には()()()からのものも含まれていたのだが、さすがにそれをこの場で公表するような愚は犯さない。

 

「あれって肉親だけとか場所限定とか、制限が多すぎですよね〜」

 

「こっちと向こうと、同じ場所じゃないと話せないってケチですよねー」

 

「下手に範囲を増やすと収拾がつかなくなりそうだしな。昨日ざっと読んだ限り、基本は自宅どうしで話すだけで、最初に用意されてた個室のみ例外でリアルの自宅に繋がるんだっけか。親と話すこともあんま無いし、小町に任せるわ」

 

「肉親限定は遠からず解除したいとマニュアルに書いてあったのだけれど、場所の限定はあまり考えてなさそうだったわね。いずれにせよ、今この場では検討しても仕方がないことなので、話を戻すわよ」

 

 一色から小町へと話がどんどん横道に逸れそうになっていたのを八幡が押しとどめ、雪ノ下が話題を戻した。そのまま彼女は話を続ける。名前で呼ばれることに拘っていた留美のために、今この場では軽々しく固有名詞を出さないようにと気を付けながら。

 

 

「おそらく引率の先生方が怖れているのは、被害者一人から連絡が行くことではなく、問題が大きくなって大勢の生徒から保護者に連絡が行くこと、なのでしょうね」

 

「雪ノ下の言う通りだろうな。多数を優先して一人を犠牲にする考え方には言いたいこともあるのだが、子供たちの世界に大人が上手く口出しできないという事情もあると言えばある。それでも現状を鑑みれば外からの介入が検討されて然るべきだと思うのだが、正直に言って説得は難しいな。力不足を実感するよ」

 

 口元を寂しく感じたのか煙草を吸いたそうな表情を浮かべて、しかし平塚先生は自重して話の聞き役に回る。

 

「その、先生や子供に受けが良さそうな隼人とか……が、当事者以外を説得するって難しいし?」

 

 雪ノ下を見据えて、珍しく言葉を濁しながら三浦が発言する。雪ノ下をどう呼ぶべきか、そもそも雪ノ下に動いてもらうようなプランを自分が提案して良いのか躊躇したために、こうした中途半端な物言いになったのだ。並んで座っている海老名と由比ヶ浜が、雪ノ下に協力を要請する三浦を見て少しほっとした様子なのにも気付かず、三浦は雪ノ下の返事を待つ。

 

「貴女の提案は検討に値すると思うのだけれど、正直に言って時間が足りないわね。今日と明日でいくら頑張ったところで、林間学校が終わってしまえば話は有耶無耶になると思うわ」

 

「だからって、何も手を打たないよりは、少しでも説得したほうが良いと思うし……」

 

 三浦とてそうした正論は言われるまでもなく理解している。先ほど川岸で葉山に無茶ぶりをしたのも、他に手がないことに三浦自身が気付いているからこそだ。なまじっか昨夜大口を叩いただけに、弱々しい口調で三浦は雪ノ下に縋ろうとする。しかし。

 

「見込みのない行動に時間を費やすのは愚の骨頂よ。他のプランを考えるべきだと思うわ」

 

 雪ノ下は意志を曲げない。こんな程度で挫けている場合ではないと、雪ノ下は他者にも強さを求める。その気迫が三浦の心に火を灯す。

 

「せっかく下手に出たってのに、その態度。あーし、あんたのそういうところ、好きじゃない」

 

「あら。問題の解決のために必死になっている今の貴女を、私はけっこう気に入っているのだけれど」

 

 もはや怒っているのか照れているのか周囲からは判別できないほど顔を赤らめて、三浦が絶句していた。だが彼女とて女王としての誇りがある。らしくない発言を続けた三浦は最後に、彼女らしい言葉を口にした。

 

「じゃあ、見込みのあるプランをさっさと教えるし」

 

 女子生徒たちは一様に安堵の表情を浮かべていたし、三浦と縁のある戸塚や戸部も彼女らしさが戻って来たことを実感して苦笑いしている。平塚先生と八幡はしばらく傍観者に徹しようとしている様子だ。そんな全体の空気が弛緩した状態で、葉山が口を開いた。

 

 

「朝にも言った『周囲に働きかけて場の空気を改善する』って話だけどさ。雪ノ下さんが協力してくれるなら、できるかもしれないって思ったんだけど、どうだろう?」

 

 自分の協力が必要だと言われたのは、先程の研修室で八幡に言われた時に続いて二度目になる。しかし雪ノ下は葉山の口調から八幡とは違う何かを、他人を単なる手駒としか見ず悪びれもしない()()()と似た何かを感じ取って身構えた。

 

 この夏までの雪ノ下は葉山を内心で嫌悪していたが、それは彼女自身も過去を引き摺っていたからだった。過去のあの事件が心から離れず、葉山が何か行動をするたびに「あれほど盛大に失敗しておいて何を偉そうに」という気持ちが沸いていたのだ。

 

 だが今しがた感じた嫌悪感はそれとは別種のものだった。よく知っていたはずの、性格全てを見切っていると思っていたはずの顔馴染みが、雪ノ下の知らない間に良くない方向へと変化しようとしている。

 

 葉山に小学生の時と同じ失敗を繰り返させるわけにはいかないと昨日から考えていた雪ノ下だったが、この状態は更に危うい。どうして彼がこんな形でやる気になっているのか、彼の動機が昨夜窺えたそれとは異質なものに思えてしまって、雪ノ下は緊張感を募らせる。生兵法とはまさに今の葉山のことだと雪ノ下は思った。

 

「集団への情報操作は、貴方には難しいのではないかしら?」

 

「そうだね。俺もそう思ったから、雪ノ下さんに協力して欲しいってお願いしてるんだけどさ」

 

「貴方の意図が解らないのに、お先棒を担ぐような真似は御免だわ」

 

「俺は別に変なことは考えてないよ。昨日は正直、過去の自分の失敗を見てる気がして、何とかしたいって考えてたんだけど。今はあの子のために、状況を改善してあげたいって考えてるだけなんだけどね」

 

 昨夜の女子会で雪ノ下が説明した話が今の葉山の発言に重なって、女性陣の多くは葉山を少し見直していた。昨日と比べて葉山が成長していると受け取ったのだ。雪ノ下が昨日、曖昧な話で誤魔化したことが、手痛いしっぺ返しとなっている形だった。

 

「その、隼人の提案を引き受けるか、その判断には口を挟まないし。だから隼人の話だけは、聞いてあげて欲しいし」

 

「……分かったわ。葉山くん、説明を」

 

 あの三浦に懇願されて、雪ノ下はそう答えるしかなかった。

 

「俺に集団を説得できるだけの能力がないって前提で、それでもみんなを説得するにはどうすれば良いのかなって考えてたんだ。結論は、偽らざる情報を出すこと。雪ノ下さんに関係者全員と、確か五人の班だったからその全員とじっくり話してもらって、そこで得た情報を公表することで全体を説得できないかなって考えたんだけど、どうだろう?」

 

 やはり、体よく利用するつもりなのかと雪ノ下は思った。情報が公開される前提で当事者からどこまで聞き出せるのかも未知数なら、肝心の被害者当人への影響も未知数だ。確かに葉山のプランであれば、場の空気は改善できるかもしれない。しかしそれが被害者の救済に繋がるとは限らない。目先の問題の解決を目指して、大本の目標が疎かになる彼らしい提案だと雪ノ下は思った。

 

 とはいえ葉山としては、現状で彼に可能な精一杯のことを行おうとしているのも間違いない。自分には()()()のような情報操作は不可能だと分を弁えて、正しい情報を前面に出して問題の解決に挑む姿勢は彼らしいものだと言える。雪ノ下が過剰に反応した「他人を利用する」という部分も、葉山が意識下では今なお幼馴染みに甘えているという程度の話でしかない。

 

「私としては、加害者には糾弾を、被害者には救済を与えるという前提で尋問……じっくりお話をして、加害者の意識を変えることで全体の空気をも改善するという順序のほうが良いように思うのだけれど」

 

 これが雪ノ下が思い描いていたプランだった。三浦の案と比べると話す相手が圧倒的に少なくて済み、葉山の案と比べても当事者の説得に重きを置いているために、全体の説得に掛かる時間を考慮しなくて済む。しかし既に彼女自身が八幡に告げているように、条件的にも責任という点でも厳しい部分があった。

 

 このプランをきちんと実行できれば、留美の状況を改善できるという自信が雪ノ下にはある。だが昨夜に海老名が危ぶんでいた通り、雪ノ下は当事者たる小学生たちと身近に接する存在ではない。それが大きな壁として立ち塞がっていた。

 

 単なるボランティアの一高校生に過ぎない今の雪ノ下の肩書きでは、たとえ加害者たちに接触しても問答無用で尋問を行うようなことはできず、それよりも先に平塚先生の責任問題に発展するだろう。

 

 仮にそれらをクリアして当面の問題が改善できたところで、恒久的な解決には程遠い。状況は一時的に改善しても留美の孤立化が解消できない可能性があり、更には別の加害者たちが現れる可能性も無視できない。それに対して、あくまでも雪ノ下は部外者に過ぎないのだ。

 

 

 会議は踊る、されど進まず。プランの同時進行を主張する葉山と、共存は不可能だと反論する雪ノ下。雪ノ下のプランに危うさを感じて、消極的な否定をそれぞれ感情面から、そして理論面から行う由比ヶ浜と海老名。深い議論には興味を持てない小町と一色の年下組。議論に加われないことを歯がゆく思いながらも、それぞれ八幡と葉山に視線を送ることしかできない戸塚と三浦。この面々なら最後には上手く行くはずだと楽天的な戸部。

 

 そんな中、横に座る教師からの視線に根負けして、ついに八幡が口を開いた。




次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/15)


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14.やっとの思いで彼は何とか自説を通す。

前回までのあらすじ。

 留美とゆっくり話をして、八幡と雪ノ下は彼女を救いたいという思いを強くした。その他の面々も各人なりの悩みや考察を抱えながら合流して、教師を交えての話し合いが始まった。

 三浦の提案に続いて葉山がプランを語り、雪ノ下も自説を主張する。まとまる気配のない話し合いの中、ついに八幡が口を開いた。



 平塚静に引き連れられて、比企谷八幡と雪ノ下雪乃は引率者向けのログハウスに足を運んでいた。その他の生徒たちは小学生と鉢合わせにならないように、彼ら二人が鶴見留美と会っていた研修室で夕方のための準備に勤しんでいる。

 

 由比ヶ浜結衣が「こっちは任せて」と力強く請け負ってくれた姿を二人は思い出していた。彼女がそう言ってくれたからには、こちらもしっかり支度しなくてはと気合いを入れる。

 

「では……転移門(ゲート)を開くでありんす」

 

 何やら芝居がかったセリフを口にする平塚先生を軽くスルーして、二人はログハウスの二階が別の部屋と繋がる光景を静かに眺めていた。

 

 今回のボランティアは学校行事に準じる形で、教師引率のもとで行われている。運動部と文化部の間にあるわだかまりを解きほぐすために、半ば公的な行事という形にして後々利用しようと考えた平塚先生の取り計らいだ。それが思わぬ形で功を奏した。

 

 私的な活動ではないために、千葉村へと来訪した生徒たちは移動教室と同じ扱いになる。つまり教師の権限によって合同教室を作れる状態にあり、平塚先生は遠く離れた総武高校の教室と、具体的には彼女の管理下にある奉仕部の部室とログハウスの二階とをリンクさせた。

 

「あの時のクイズを思い出すわね」

 

「俺はあの問題を間違えたから、あんま良い記憶じゃないけどな。実際に自分でやってみると、高校に戻る時間が0で済むって便利なもんだな」

 

「貴方が不正解になった問題は大勢に影響を及ぼさなかった上に、最後の問題で一人勝ちしたのだからそれほど気にしなくても良いと思うのだけれど」

 

 相手をたしなめるようなことを言いながらも、自分もまた八幡が出した最後の問題を落としたことを悔しがるような口調で雪ノ下が応じる。同じような部分に拘っているなと苦笑しながら、八幡は自分の思いを口にした。

 

「なんて言うか、例えばお前が98点の答案を見て減点2点を悔やむようなもんじゃね。他の部分は完璧でも、完璧だからこそ悔やむ、みたいな」

 

「なるほど。確かに今回は満点を目指したいところね」

 

「だな。予定通りに行っても不確定要素が残るから、せめてできる範囲は完璧にしとかないとな」

 

 お互いに頷きあった後で教師へと視線を送ると、平塚先生もまた生徒たちに軽く頷き返して身を翻し、階下へと姿を消した。

 

 それを見送った雪ノ下は八幡と並んで部室側の出入り口へと向かい、高校の廊下に続く扉をゆっくりと開いた。

 

 

***

 

 

 時は遡って、青少年自然の家の食堂にて話し合いが過熱していた頃。すぐ横に座る教師の視線に耐えかねて、ついに八幡が口を開いた。

 

「ちょっとお前ら、落ち着けって」

 

 しかし白熱した言い争いを続けている面々に八幡の小さな声は届かなかった。憮然とした表情の彼を見て噴き出しながら、教師が一つ大きな拍手を打つ。

 

「少し落ち着きたまえ。比企谷が何か言いたいことがあるみたいなので、聞いてやってくれないかな」

 

「先生に無理矢理けしかけられただけって気が……まあ良いですけどね」

 

 文句を言いながらも、慣れたポジションに戻れた気がして八幡は普段以上に冷静だった。自分の呼び掛けに応えて全員がぴたりと議論を止める光景を試しに想像してみると、それは何だか自分ではないみたいで落ち着かない。

 

 やはり俺はリア充にはなれないなと、どこか安心したような気持ちで、八幡は今から口にする内容を急いで検討する。葉山隼人の案と雪ノ下の反論。雪ノ下のプランと由比ヶ浜・海老名姫菜の反論。そして自分の計画をどう話すべきかを考えながら、まずは議論の収拾を目的に八幡は口を開いた。

 

「お前らがヒートアップしてるのって、状況が逼迫してきたって考えてるからだよな。確かに時間的な余裕は無くなってきたと思うが、だからってお粗末な案を実行するのも問題だよな?」

 

「それは、俺の案のことかな?」

 

 この期に及んでも笑顔を絶やさない葉山を八幡は疑わしげに眺める。この男のこうした部分が、話していて落ち着かない理由なのだと八幡は思う。下座から燃えるような視線を送ってくる女王様には気付かないフリをして、一つわざとらしくため息をついて八幡は口を開く。

 

「具体的な話はもうちょい後な。今のは単なる一般論だ。昨日の夜には合意できたことなんだが、俺たちには手に負えない状況でも無理矢理介入するって奴はいないよな?」

 

 全員の意思をいちいち確かめて、否定の確認によって八幡はまず主導権を確保する。ぼっちの時に自分がされて嫌だったことを応用しながら八幡は話を進めていった。

 

「じゃあ、急いで介入しないと当事者が危ういからって俺らが焦るのも無しな。冷静に、可能性が一番高いプランを選ぶ必要があると俺は思うんだが」

 

 反論しにくい形で話を進めつつ、八幡はプランの検討段階に入る。とはいえ時間が無いのも確かなので長々と議論をするつもりはなかった。客観的に見ても自案が一番効果的だと考える八幡は、自分のプランを全員に押し付けるつもりで話を進めていた。

 

 

「んじゃ、お待ちかねみたいなので葉山の案から行くか。雪ノ下の協力で得た正確な情報を前に出して、ってのは悪くはないと思うが。結局は、全員を集めて説得するって形と変わらないんじゃね?」

 

「全員に向かって情に訴えたり、道徳の授業にあるような理想論を言い聞かせて説得するのとは違うんじゃないかな。シンプルに真実を明るみに出せば、六年生ぐらいなら納得してくれると俺は思うんだけどな」

 

 おそらく、と八幡は思う。葉山の周囲は恵まれた家庭の子供たちばかりだったのだろう。生まれが良くても性格がねじ曲がることは珍しくないが、少なくとも葉山の前では全員が育ちの良い顔だけを見せていたのだろうと八幡は思った。

 

「大人や世の中を一番舐めてるのが小六ぐらいの連中だぞ。お前が思うほどあいつらが純真だったら、同じ班であからさまにハブるとかするわけねーだろ。真実を出せば錦の御旗になるってのは、ちょっと甘いんじゃね?」

 

「あ、えーと。さっきのゆきのんの反論とは、ちょっと違った面からの意見だよね。ゆきのんはヒッキーの話をどう思う?」

 

 八幡の鋭い口調が他の面々に悪い印象を与えないようにと、少し強引に由比ヶ浜が口を挟んだ。すぐ横では海老名が少し残念そうな表情を浮かべている。

 

 由比ヶ浜とて議論を先延ばしにできる状況ではないと理解しているので、少し目先を変えて話を進めようと考えたのだろう。自分が深い議論に加わるのは難しいと自覚できている由比ヶ浜は、頼れる友人に話を振った。

 

「私たちからすれば驚きの真実でも、多くの小学生たちは既に薄々知っていると思うのよ。だから比企谷くんが言う通り、それが錦の御旗になるとは私も思えないわね」

 

「意外な真実を突き付けるって形にはならねーよな」

 

「それでも、具体的にどんな行為があったのかを明るみにすれば……」

 

「それをされて、当事者が喜ぶと思うか?」

 

 この八幡の指摘にはさすがの葉山も押し黙る。海老名もまた不気味に押し黙っているが、どうやら噴出するまでは放置という扱いを受けている様子だ。

 

 葉山に同情の余地があるとすれば、彼はあまりにも過去に囚われすぎていた。小学生時代の雪ノ下の解決法が深く深く脳裏に焼き付いていた。関係者の全ての行為を究明して、その情報を突き付けて全員に屈服を迫った雪ノ下のやり方を、葉山は今でも鮮やかに思い出すことができる。だがそれは、雪ノ下が当事者だったからこそ可能な方法だったのだ。

 

「つーわけで、まず葉山の案はボツな。さっき雪ノ下が反論してたように、被害者の救済に繋がる保証がないこと。それから今話したように、場の空気も改善できる保証がないことがその理由な」

 

 八幡としては感情的な恨みが残らないようにと敢えて理由を明確にしたのだが、残念ながら彼の意図は葉山には伝わらなかった。下座から攻撃的な視線が飛んでこない辺り、炎の女王には何とか伝わっているらしい。

 

 他人の気紛れな感情に振り回されることが多かった八幡は、ぼっちだった頃にそれを理解することを諦めて論理に傾倒していた。だが人間は感情の動物である。自分なら「そう言われたら納得するしかない」と思える理屈でも、それで他人が納得してくれるとは限らない。

 

 自分よりも国語の成績が良く、難しい話題でも話のテンポが落ちないほどに地頭がよく、常に余裕のある笑みを絶やさず、たとえ弱音を口にしても品を落とすことのない男。リア充の頂点に君臨する葉山が内心では自分の説明を受け入れていないことを、八幡は想像すらしていなかった。

 

「……仕方ないね」

 

 だが、そう答えた葉山に、八幡はこの上ない違和感を覚えた。てっきり「俺もまだまだだな」的な弱音を吐いて、場の雰囲気を悪化させないように取り繕うのではないかと思っていたのだ。自分の知らない誰か別の男を見ているような感覚を覚えて、八幡は慌ててそれを打ち消す。余計なことを考えていられるほど時間の余裕は無いのだ。

 

 

 そうした八幡の内心を知らず、葉山は現実に打ちのめされていた。昨日の夜に「自分の手で解決する」という拘りは捨てたはずだった。午前中の休憩時には「自分のためではなく、被害者当人のために」という気持ちに至ったはずだった。

 

 しかし八幡に自説を却下された今、葉山はそれをなかなか受け入れられずにいた。机上で悟りを開けたと思うことと、現実を前にして悟りを開けることは別物なのだ。そのように自分の現状を客観視して言語化することはできるが、しかしそれでも感情は収まってくれない。

 

 葉山はふと、雪ノ下が部長会議を無事に終えた時のことを思い出した。彼女は実戦で結果を出したのに、自分は計画段階で挫折している。彼我の距離を自覚して、そこで葉山はようやく少し落ち着きを取り戻した。それでも追いかけるしか選択肢は無いと、葉山は自分に言い聞かせる。

 

 

 雪ノ下はそんな葉山の葛藤をある程度まで把握していた。姉には簡単にできることが、そして自分にも何とかできることが彼にはできない。そうした時に浮かべていたのと同じ表情をしていると雪ノ下は思った。

 

 少しだけ八幡に視線を送って、雪ノ下は内心でため息をつく。どうして男の子はこうなのだろうか。

 

 すぐ横に座っている比企谷小町が昨夜言っていた通り、八幡はどうでもいいことだと文句をぶちぶち言うくせに、大事なことや近しい人にとって深刻なことに対しては、何も不平を漏らさず真剣に向き合う傾向がある。

 

 そして葉山もまた、雪ノ下が知る限りでは似たような傾向がある。彼が弱音を吐くのは、彼にとってはどうでもいいことか、あるいは既に彼の中では解決済みのことばかりだったと記憶している。本気で現在進行形で悩んでいる場合に、彼は決して弱音を口にしない。

 

 分かりやすいと言えば分かりやすいが、こうした男の子の傾向は困ったものだともう一度だけ内心でため息をついて、雪ノ下は気持ちを切り替えて話を促すことにした。

 

 

「では次は、私のプランね」

 

 八幡の目をしっかりと見据えながら、雪ノ下は口を開いた。話し合いと銘打っている以上、他の参加者からも意見を募るべきなのだろうが、現状では時間が惜しい。自案の綻びを自覚して、そんなプランに拘るつもりもない雪ノ下は、目だけで八幡に遠慮は無用と伝える。

 

「まあ、あれだ。雪ノ下の負担が大きすぎるって由比ヶ浜の指摘にも頷けるし。海老名さんの、取り調べまがいの行動が取れるほどの権限が俺らには無いって指摘もその通りだよな」

 

「令状とかが簡単に取れたら良いけど、それはそれで怖い気もするし仕方がないよねー」

 

 好みのカードが終わってしまった現実を何とか受け入れて、名前が挙がった機会を捉えて海老名が口を挟む。八幡はそれに応えるべく口を開きかけて、ふと思い付いた仮定の話をそのまま言葉にしてみた。

 

「雪ノ下の尋問なら100%起訴まで行けそうだし、確かに怖いな」

 

「絶対やべーっしょ!」

 

 それに戸部翔が本心から賛同して、葉山の案を却下する前後で生まれた重苦しい空気が少し改善した。この機会を逃すまいと思ったのか、それとも気分で尋ねただけなのか。のんびりした口調で一色いろはが口を開く。

 

「あの〜。さっきからせんぱい、雪ノ下先輩や葉山先輩のプランを否定してますけど〜。他にプランってあるんですか?」

 

「あ、ぼくも八幡の案を聞いてみたいな」

 

 それに戸塚彩加も便乗してくれた。この先どんな話の流れで自説の説明に持っていけば良いのか内心で困っていた八幡は、あざとつ可愛い二人に片や少しだけ、片や大いに感謝しながら話を始めた。

 

 

「んじゃ、雪ノ下の案は一旦保留ってことで。つっても、どう説明したもんかな……」

 

「そういやお兄ちゃん、肝試しの代わりのイベントってどうなったの?」

 

 真面目な議論の場でもあり全員が年上という状況もあってなかなか口を挟めなかった小町が、肉親の気安さで助け船を出す。何だか上手く誘導されているような気持ちになって来た八幡だが、捻くれている場合でもないのでそちらから説明を始める。

 

「体育館に小学生を集めて、班ごとに色んなゲームを体験させるのはどうかと思ったんだが」

 

「貴方のことだから、状況を改善するためのプランと繋がっているのよね?」

 

「ま、ぶっちゃけその通りなんだが。察しが良すぎじゃないですかね?」

 

「それで、あたしたちはどうしたらいいの?」

 

 詳細を述べるまでもなく自分の案に従ってくれそうな奉仕部の二人に苦笑しながら、八幡は説明を続ける。

 

「トランプとか有名なゲームからマイナーなゲームまでを色々と混ぜて、各班が体験するゲームを抽選で決めてもらう形を考えてるんだわ。できれば適当にお前らにも参加してもらって、一緒に楽しくゲームしてるって感じで盛り上げてくれると嬉しいんだが。で、問題の班には、とあるゲームをしてもらおうと思ってる」

 

「それって、何か問題にならないよね。八幡が昨日……」

 

「まあゲームの中での話だからな。事件が起きてもゲームが終われば問題ないだろ」

 

 男子だけで会話をしていた昨夜、八幡が「事件でも起こすか」と口にしたことを思い出して戸塚が心配そうに口を挟んだ。それに対して八幡は反射的にどや顔で答えてしまい、その場の全員が思わず身を引いてしまった。

 

「比企谷くん。犯罪行為はさすがに認めがたいのだけれど」

 

「違うっての。要はゲームの中で、ハブってる連中の友情を破壊してやろうってだけなんだが」

 

 八幡の説明を聞いて、全員が更に半歩引いた状態で彼を眺めている。どう説明すれば伝わるのだろうかと考えながら、八幡は言葉を続ける。

 

「まず、ハブってる連中の繋がりを壊すことができれば、誰かが単独でハブられることもなくなるはずだ。これは別に良いよな」

 

「それって全員をぼっち状態に引きずり下ろすってことだよね。お兄ちゃん、どうやったらそんな発想ができるの?」

 

 補足を加えてくれているのか、それとも単に兄をディスっているだけなのか少し悩んだものの、八幡は深く追求しないことにして話を続ける。

 

「たまたま使えそうなゲームを知ってただけだっての。つっても俺もやったことはないから、詳しい奴に教えて貰うつもりなんだけどな」

 

「えーと、周りの小学生は楽しくゲームをして、その班だけが問題のゲームをするんだよね。ヒキタニくんもそのゲームに加わるってこと?」

 

「そのつもりだ。俺と、あと雪ノ下にも頼みたいんだが」

 

「それで状況を改善できる可能性があるのなら、私は構わないわ。小学生以外には私たち二人だけで良いのかしら?」

 

「小学生を合わせると七人になるからな。人数的には充分だろ」

 

「他の誰かじゃなくて、ヒキタニくんと雪ノ下さんがそのゲームに参加する理由を聞いても良いかな?」

 

「葉山には昨日言ったよな。お前らには向いてないってことと。あと、俺も雪ノ下も子供と一緒になって楽しく遊ぶのは苦手だからな。適材適所で考えただけなんだが」

 

「……意外にお兄ちゃんって、小さな女の子の相手をするの、上手な気がするんだけどなー」

 

 どこまで意図的なのかは不明だが、海老名や葉山が上手く口を挟んでくれたことで、八幡は何とか説明を進めることができていた。小町が小声で何かを呟いていた気もしたのだが、幸いなことに八幡の耳には届かなかった。

 

 とはいえ単発の質問に答えながら話を進める今の形には限度がある。そろそろ腰を据えて全体像を説明したほうが良いかと八幡が思い始めた矢先に、横に座る教師が口を開いた。

 

 

「比企谷。その説明だと皆も納得しないだろうし、ゲームの詳細と君の狙いをきちんと説明したまえ。その前に念の為に確認したいのだが、ゲームの中で小学生を脅すようなことはしないと約束できるかね?」

 

「暴力を背景に脅すとか、問題になるような行動はしませんよ」

 

「ふむ。君の言い方だと、問題にならない範囲では脅すと言っているようにも聞こえるのだが……。聞き方を変えよう。今の被害者と加害者の関係を打ち破るために、君が加害者を虐めるという形はとらないと、約束できるかね?」

 

「虐めに虐めを重ねるようなことは考えていませんよ。それに、あくまでもゲームの中での話ですし」

 

「なるほど。少し話が逸れるかもしれないが、良い機会だから全員に聞いて欲しい。先ほど比企谷が『大人や世の中を一番舐めてるのが小六ぐらい』と言っていたな。では小六ぐらいの子供たちには強引に力尽くで言い聞かせないと、具体的には体罰などを与えないと理解して貰えないと、そう考えてはいないかね?」

 

 教師が静かに一人ずつ全員の顔を確認するが、頷いた者はいなかった。体罰には皆が否定的な気持ちを抱いていると確認できて、平塚先生はほっとしたような表情で話を続ける。

 

「私の個人的な意見だが、体罰でしか解決できないという発想は集団による虐めと同じ発想だ。数を背景にする代わりに、暴力を背景に対象を支配して管理下に置こうとするわけだからな。君たちが大人になって、いつか親になった時にも、このことを覚えていて欲しいと私は思うよ」

 

「子供を支配して自らの管理下に置くことで、自らの所有欲を満たすような形はダメだと。そういうことですね?」

 

「雪ノ下のその解釈は少し極端な気もするが、自分はそんなことをしないと気を付けてさえいれば、それで良い。ここまで教えておけば君と比企谷なら暴走はしないだろうし、以後は詳しい話を打ち合わせたまえ。私はこれ以上口を挟まないことにするよ」

 

 その言葉を最後に傍観者に戻った教師にも自分の意図をしっかり聞かせるつもりで、八幡はゲームの内容と自分の狙いを丁寧に語った。雪ノ下の案に代わって八幡のプランが採用される運びになって、何とか話し合いは円満な決着を迎えた。




次回は月曜か火曜に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/15,7/26)
誤字報告を頂いて、礼状→令状に修正しました。ありがとうございました!(4/26)


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15.まぎれもなく彼女は自らの手で進む道を選び取る。

本話ではゲームの話が重要な位置を占めているので、このゲームに興味を惹かれない方々には煩わしい内容になっているかもしれません。もし分かりにくい点がありましたら、感想などでお気軽にお尋ね頂けると助かります。

以下、前回までのあらすじ。

 葉山の案をボツにして、雪ノ下の案も却下する流れを作った上で、八幡は自案を紹介して何とか無事に了承を得た。イベントの準備は他の面々に任せる形にして、背中を押してくれた教師の忠告を胸に、八幡と雪ノ下はいったん総武高校に戻った。



 雪ノ下雪乃が特別棟の廊下に繋がるドアを開けると、そこには同じ学年の生徒が一人立っていた。誰もいないと思い込んでいた上に意外な顔に出くわしたことで、さすがの雪ノ下もビックリした様子だ。相手もまた比企谷八幡だけが来ると思い込んでいたらしく、雪ノ下の後ろから現れた八幡に恨みがましい視線を送って来る。

 

 実は八幡はもう一つのメッセージのことをすっかり忘れていたのだが、それをおくびにも出さず同級生を奉仕部の部室に招き入れて、三人でしばし相談を行った。すぐに動いてもらうべく、その生徒を先に送り出してから、二人は当初の予定通りに移動を始めた。

 

「こんなことを隠しているとは思ってもみなかったのだけれど」

 

「第一段階がどうなるか、まだ分からんからな。まずは今からの準備次第だし、気持ちを入れ替えて頑張らないとな」

 

「ごまかしかたが下手なのか、ごまかす気がないのか……」

 

 艶やかな黒髪をかき分けて額に手を当てながら、呆れた口調で雪ノ下が呟く。そのまま視線をじろりと向けて「他に隠している事があればすぐに吐け」と伝えるものの、傍らの男の子は平然とした素振りで別の話を口にした。

 

「そういや由比ヶ浜も面白いことを思い付くよな。確かに口だけよりも、あれがあると違うもんな」

 

「はあ……。今頃は頑張って作っている頃でしょうね。後を任せたことといい、由比ヶ浜さんの思い付きや配慮を無駄にしないためにも、私たちが上手く展開を進める必要があるわね」

 

「お前にも、あいつらを説得するのに協力してもらったしな。つーか、研修室の時よりも更にやる気になってねーか?」

 

「そうね。昨日と比べて理由が二つ増えたせいだと思うわ」

 

「二つって、一つは留美本人と会ったことだろうけど、もう一つって何だ?」

 

「あの三浦さんがなりふり構わず、この問題の解決のために積極的に発言していたのを、貴方も聞いていたでしょう?」

 

 由比ヶ浜結衣のために。葉山隼人のために。鶴見留美のために。そして三浦優美子のために。複数人の思いをしっかりと受け止めて、雪ノ下はふと思う。この横にいる男の子のことも、数に加えるべきではないかと。奉仕部の一員として自分と由比ヶ浜のために留美を助けたいと考えながらも、強引に口を開かせない限りは自らの意図を口にしない、この不器用な男子生徒のためにも。

 

「なるほどな。三浦の理想は葉山の手でって形だったと思うが、解決できないと意味がないからな。つっても、大口を叩いて結果が出ませんでした、とかだと話にならねーけど……」

 

「不安になるのは理解できるのだけれど、貴方の案が他より優れていたのは確かなのだから。あとはどこまで予定通りに実現できるかを考えたほうが良いと思うわ」

 

「さいですか。んじゃ、あいつらは部室で待ってるみたいだし、さっさと行きますかね」

 

 会話によってお互いに良い影響を与え合いながら、雪ノ下と八幡は並んで廊下を歩いて行く。そうして二人は特別棟の二階へと移動した。

 

 

***

 

 

 午後四時半。班ごとに分かれて体育館の床に座る小学生たちに向かって、ステージの上から遊戯部の秦野と相模が声を張り上げていた。

 

「小学生のみんなには、今から色んなゲームを体験してもらいます!」

 

「どんなゲームをするか、班ごとにくじを引いてもらうんだけど……実は一つだけ、みなさんには難しいかもしれないゲームがあります」

 

「十二歳以上が対象なんだけど……みんなにできるかなー?」

 

 今に至っても二人は内心「どうしてこんなことに」という疑問を抱いていたが、あの先輩がたに「他に適任がいない」と協力を要請されたのだから仕方がない。そんなわけで二人は慣れない進行役を頑張ってこなしていた。

 

 挑発するような秦野の声に、小学生たちが大声で応じる。それを受けて相模が更に場を盛り上げるべく口を開く。

 

「そしてこのゲームには特別に、高校生のこの人たちにも参加してもらいます!」

 

「雪ノ下です。どの班が私たちと一緒にこのゲームをすることになるのか、楽しみにしているわ」

 

「比企谷だ。少し難しいゲームかもしれないけど、みんなで楽しくやろう」

 

 雪ノ下は今からの展開を思って、八幡は大勢の前で喋ったことで、これらの短い言葉を言い切るだけでどっと疲れた様子だったが、幸いなことに小学生の反応は上々だった。

 

 出来レースのくじ引きを見るとはなしに見ながら、二人は驚いた表情を浮かべている留美に視線を向けないように苦労していた。今の段階で留美に注目が集まることは絶対に避けなければならない。特に同じ班の他四人には絶対に。

 

 二人の心配はどうにか杞憂に終わり、留美の驚きは同じ班の小学生には気付かれずに済んでいる。自分たちの班がくじを引き当てたことで、四人の意識が留美にまで及んでいないのも影響したのだろう。

 

 遊戯部の部室から持ち出したゲームの箱を大きく掲げながら、二人はゆっくりと留美たちの班へと近付いて行った。

 

 

***

 

 

 ディプロマシーという名のゲームがある。古典的なボードゲームでルールは単純だが、販売から半世紀を経て今なお多くの人の心を捉えているのは、運の要素を極力排した点にある。最初に誰がどの国を担当するのか決める時を除けば、あとはプレイヤーの戦略と交渉次第で全てが決まる。

 

 ぼっちで中二病を患っていた頃の八幡がこのゲームに興味を持ったのは、一般的なテレビゲームと比べると知名度で劣ること、つまりレアなものに目を惹かれやすいお年頃だったことも大きいが、何よりもその異名に惹かれたからだった。

 

 曰く、「友情破壊ゲーム」と。

 

 このゲームは二十世紀初頭の欧州列強、すなわちイギリス、ドイツ、ロシア、トルコ、オーストリア・ハンガリー、イタリア、フランスの7ヶ国を各々が担当して覇権を争う。欧州全土で34ある補給地のうち18カ所を支配下に置いた国の勝利となる(なお国名との混乱を避けるため、以下では地図上で分割された52の陸地を【地名】で表記する。例:イギリスは【ロンドン】【リヴァプール】【エディンバラ】という3つの補給地と【ウェールズ】【ヨークシャー】【クライド】の計6つに分割されている)。

 

 その名の通り「外交(ディプロマシー)」によって各国の明暗がくっきり分かれるこのゲームでは、プレイヤー間の交渉のために時間がたっぷり設けられている。いかに口約束を遵守するか、そしてどのタイミングで裏切るかが重要になる。運という言い訳ができないためにそれらの行動は尾を引きやすく、それが前述の異名に繋がっていた。

 

「他のプレイヤーと相談して、協力したり裏切ったりしながら進めるゲームなんだけど、いちおう注意しとくぞ。ゲーム中の交渉内容はぜんぶ記録されていて、脅したり金を使ったりしたらすぐにAIからストップが入るからな。変なことはしないように」

 

「とはいえ話す内容は全て口約束なので、必ずしも守る必要はないのよ。複数の相手と交渉をして、その中から条件の良い相手や協力したい相手を選んでゲームを進めて行く形ね」

 

「ハンデとして、俺ら二人はお互いに交渉をしない。お前らに交渉を持ち掛けることもなしだ。お前らからの交渉はアリだけど、全員が聞いている状態での交渉のみな」

 

「貴女たちが小学生同士で交渉をする場合は、当事者以外の人には聞こえない形にできるので、いくらでも内緒話をして貰って構わないわ。みんなで頭を使って相談して、私たちに挑んで来てくれても良いのよ?」

 

 雪ノ下はそう言ったものの、小学生たちの態度からして留美を含めた全員が協力する形にはならないだろう。だがそれは高校生二人にとっても予定通りの展開と言える。八幡が明言したように、このゲームの中で高校生同士で交渉するつもりはないが、それは事前に意見を打ち合わせ済みだからする必要がないだけのことだ。

 

 小学生を騙しているようでさすがの八幡でも気が引けるが、彼女らの自業自得でもあるのだし諦めてもらおう。相方が目的に向かって直線的に進む雪ノ下だから良かったものの、もしも葉山が参加していたら話が面倒だっただろうなと八幡は思った。

 

 

 引き続いて高校生たちは盤上の駒の動きを説明する。陸軍と海軍があること。いずれも隣接地にしか移動できないこと。陸軍は海域には移動できず、逆に海軍は海と繋がる陸地のみで内陸部には移動できない。移動先が重なったり既に別の駒がいると戦闘になるが、その場合は単純に数の論理が適用される。同数だと守備側の勝利となるので、攻めるには数を揃える必要がある。

 

「例えば【ミュンヘン】に陸軍がいて、その後ろから同じ国の陸軍に支援されている場合、相手の戦力は2だよな。それに勝つには3つ軍を用意して【ミュンヘン】の周りに配置しないとダメだ。攻める軍が隣り合ってる必要はないけど、【ミュンヘン】と繋がる土地にいないと協力できないってことだな」

 

「この場合だと、【ミュンヘン】は7つの地域に囲まれているから、守る側が周囲の3つの地域に軍を置いて支援したら絶対に陥落しないの。その場合は周囲で支援する軍隊のどれかを先に無力化する必要があるということね」

 

 長々と説明しても小学生が退屈するだろうと考えて、二人は最後にゲームの進め方を説明して話を締め括る。

 

「一年のうち春と秋の二回動けるのな。全員が自分の持ってる軍隊すべてに命令を出して、それが出揃ったら一斉に移動する形なんだが。そこで動きがかち合ったりしたらさっきみたいな戦闘になるってことな」

 

「秋の動きが終わった時点で、支配下にない補給地を軍が占領していたら、春からは新たな領土として認められるの。春にいても秋に他へと移動したら意味がないので気を付けてね。軍の数は、補給地と同じ数まで増設できるのだけれど。もしも逆に補給地を奪われてしまったら、その数に応じて自分の軍隊を減らさないといけないの。これもよく覚えておいてね」

 

 こうして最低限のルールを把握させた上で、担当国を決めるくじ引きが始まった。

 

 

***

 

 

「では、貴女たちから先にくじを引いて国を決めると良いわ。私たちは最後ね」

 

 雪ノ下がそう言って促すと、班のリーダー格の小学生が大人しそうな生徒を煽って最初にくじを引かせた。留美が最初に引かされることはないと二人が睨んでいた通り、その子はオーストリア・ハンガリーを引き当てた。大陸の中央にあって他国に囲まれやすいこの国さえ回避できれば、留美も即座にゲームオーバーとはならないだろう。

 

 続いてリーダー格の子がフランスを、同じぐらいに発言権がありそうな子がトルコを、もう一人の子がイタリアを引いた。小学生の誰からも何も言われなかった留美が、高校生たちが頷く様子に背中を押されてドイツを引いた。雪ノ下がイギリスを引き、自動的に八幡がロシア担当に決まった。

 

 どう進めるべきかと悩む高校生二人に、班のリーダーの子が物怖じせずに話しかける。

 

「あのね。補給地がゼロになったらどうなるの?」

 

「その時点で、その国が滅亡したってことになるんだろうな」

 

「ふーん。ゲームの中のことだし、べつに滅ぼしちゃってもいいんだよね?」

 

 この子が虐めの主犯格だと高校生たちは理解した。同時に、彼女が何を目論んでいるのかも。それが自分の計画と似ていることを自覚して、八幡は少しうんざりした気持ちになった。ゲームという言い訳は使いようによっては酷い使い方もできるのだと。先んじて自分たちに忠告をしてくれた教師にはなかなか頭が上がらないなと思いながら、八幡は気のない口調で答える。

 

「ま、ゲームはゲームだからな」

 

「じゃあさ。そこの子っていつも『一人でできる』って言ってんだよね。だからせっかくだし、このゲームで小学生だけで勝負してみたいなーって思ったんだけど」

 

「はあ。何が言いたいんだ?」

 

「高校生のお兄さんとお姉さんが、その子を助けるんだったらズルいなーって」

 

 大人の教師を舐めている小学生なら、高校生を舐めないわけはないだろう。そう思ってはいたものの、実際にこんな拙い理屈を持ち出されると、八幡ですら怒りの感情が込み上げてくる。頭を冷やしながらどう答えたものかと考える八幡に代わって、冷静な声で雪ノ下が口を開いた。

 

「なるほど、小学生だけで勝負してみたいと貴女たちは考えているのね。では私たち高校生は()()()()()()()()()()()()()するから、思う存分に勝負してみなさい」

 

「おい、雪ノ下……」

 

 雪ノ下の意図を完全に読み取って、呆れた口調で八幡が口を開きかける。横目で確認した限り、留美は雪ノ下の発言を深刻に受け止めていない。それもあって八幡はのんびりと話しかけたのだが、せっかく得られた同意を打ち消されると考えた小学生が目ざとく口を挟んだ。

 

「ありがとうございます。小学生同士で勝負を楽しみますね!」

 

「一つだけ、これは交渉ではなくて約束して欲しいのだけれど。四人と一人の勝負とはいえ、貴女たち()()()()()()()()ゲームをプレイし続けて欲しいのよ。このゲームを楽しんで欲しいと思うのだけれど、どうかしら?」

 

「ええ、もちろん約束します!」

 

 心底から呆れているという気持ちを全身で主張しながら、八幡は小学生相手に本気で事を運ぶ雪ノ下に何とか苦笑いを送った。当初の予定を更に盤石にできる流れにはなったものの、由比ヶ浜にあれを用意してもらって良かったと改めて思う八幡だった。

 

 

***

 

 

 ゲームは高校生たちが予想した通りに始まった。先ほど【ミュンヘン】を例に攻め方の説明をしたこと、留美がドイツ担当になったことから予測は容易だったとはいえ、一年目の春の時点で【ミュンヘン】は三方から包囲されていた。

 

 小学生たちはトルコ軍の到着を待って留美を叩くつもりだったのだろう。虐める側が脱落者を許さず全員参加という形に拘るのは良くあることだ。だが留美の行動が彼女らの思惑を上回った。

 

 各国は初期状態で等しく3つの補給地を持っている。ロシアのみ4つの補給地を有しているが、北と南で分断されがちなので必ずしも優位とは言えない。そして補給地の数は軍の数に等しい。

 

 留美率いるドイツ軍には3つの部隊があるものの、うち1つは海軍なので内陸部の【ミュンヘン】を維持する戦力は2しかない。どう頑張っても4人を相手に持ち堪えることはできない状況だった。

 

「あれ。鶴見ってば、陸軍を【ミュンヘン】から移動させても大丈夫?」

 

「みんながそろうまで攻撃されないとか思ってないよね。待たなくていいから、攻撃しちゃって?」

 

 リーダー格のフランスと、次いで発言権がありそうなトルコが話を進める。【ミュンヘン】を捨てて【ベルギー】と【オランダ】を確保する留美の作戦は彼女らも見抜いていたものの、強者の余裕でそれを見逃したのが彼女らにとって致命傷になった。

 

 一年目の秋に留美は【ベルギー】と【オランダ】に加えて【デンマーク】も確保した。【ミュンヘン】は落ちたが差し引きで補給地を2つ増やした形だ。【ベルギー】に隣接する2つの地域に軍を進めたフランスは、翌春に留美の【ベルギー】支配がぬか喜びに終わる展開を考えていたのだろうが、軍が増設できることを見落としていた。そして何よりも。

 

「お姉さん、手助けしないって約束したじゃん!」

 

「あら。『その子には関わらないように』という約束だったでしょう。だから私はドイツには手を出していないし、目の前に軍のいない補給地があったから移動してみただけなのだけれど」

 

 フランス海軍が補給地を増やすべく【スペイン】に出かけた隙に、初手で英仏海峡を押さえていた雪ノ下のイギリスはあっさりと対岸の補給地を確保した。その占領が陸軍によって行われたことで、隣接する【パリ】もまた危機に瀕していた。フランスは翌春に慌てて軍を引き戻すしかできず、この時に【スペイン】から【ガスコーニュ】へと海軍を中途半端に動かしたこともまた悪手になった。

 

 

 【チュニス】をイタリアが、包囲していた【ミュンヘン】をオーストリアが、【ブルガリア】をトルコが占領して、他の小学生たちは揃って補給地を4に伸ばしていた。しかし初手で黒海を押さえ次いで【ルーマニア】を占領した八幡のロシアがトルコの出鼻を挫いていた。

 

 北欧を【スウェーデン】と【ノルウェー】の線で分断して、互いに補給地を1つずつ加えてすぐさま軍を引き返した八幡と雪ノ下は、当面の敵に全力を注げる形になっていた。まずはトルコとフランスを叩く。

 

 小学生の反応を見ながら、雪ノ下は二年目の秋に再び電撃的な動きを見せ【スペイン】を奪取した。八幡も【セルビア】と【ブルガリア】を確保し、留美は【ミュンヘン】を奪回した。この辺りでゲームの趨勢が決まった。

 

 

***

 

 

 ゲーム開始から一時間が経って、進行役の二人がおもむろにマイクを握った。相模が落ち着いて話を進め、秦野がやや挑発気味に詳しい話を紹介する。

 

「ではここで、高校生と一緒にゲームをしている班がどうなっているのか、途中経過をお知らせします!」

 

「うーん。やはり小学生では高校生に勝てないのか。連携禁止というハンデがあっても、雪ノ下先輩と比企谷先輩の支配地は6と8まで伸びています。しかしグループで戦っている小学生たちは4、4、3、2と元気がありません」

 

「でも、一人で頑張っている子もいるみたいですね」

 

「ええ。鶴見さんはなんと、6つの拠点を維持して高校生に対抗しています。誰かに助けてもらっての数字ではありません。全て独力です。鶴見さんにはこのまま頑張って欲しいですね」

 

「では、途中経過をお伝えしましたー」

 

 八幡が彼ら二人に進行役を依頼したのは、この実況をしてもらう目的があった。このゲームに詳しくないと実況はできないし、昨日いなかった二人なので白々しいことでも口にできるという狙いがあった。

 

 実際には遊戯部の二人にも留美の大まかな状況は説明済みで、それを聞いた彼らは義憤に燃えていた。まさか進行役を任されるとは思っておらず、壇上に上がってからもしばらくは戸惑いが強かった二人だが、ゲームの様子をモニターすることで留美が受ける扱いの酷さを目の当たりにしてしまい怒りを再燃させていた。

 

 いじめグループの日頃の行いを知っている小学生なら、この程度の情報でも内実を把握できるだろう。あくまでもゲームの話とはいえ、集団で一人を潰そうとしながらも果たせていない加害者たちの情けない姿を、他の小学生たちはどう見るだろうか。

 

 展開は順調に八幡の思惑通りに進んでいた。

 

 

***

 

 

 三年目は八幡のロシアにとって華々しい年になった。トルコ本国に攻め込んだロシアは補給地を一気に3つ増やし、トルコは【ギリシア】に逃れた陸軍1つを残すのみである。

 

 対する雪ノ下のイギリスはついに地中海にまで海軍の支配を伸ばし、補給地こそ1つ増やしたに止まったが着々と海上帝国を築きつつあった。

 

 留美はこれ以上の勢力拡大を望まず、6つの補給地を維持することに専念していた。せっかく高校生たちが『関わらない』と言ってくれた以上、彼らへの攻撃は控えるべきだろう。頑張れば【ウィーン】ぐらいは取れそうだが、それは他の小学生を攻撃することを意味する。後々のことを考えて、留美は専守防衛を選択した。

 

 

 四年目は、まず小学生たちに動きがあった。孤立無援のまま【パリ】に引き籠もっていたフランス陸軍が南へと、同時に【マルセイユ】の陸軍も東へと移動を始めた。

 

「イタリアって、まだ4つも補給地があるじゃん。このままだと【パリ】も【マルセイユ】も維持できないから、【ヴェネツィア】を譲ってくれない?」

 

「えっ。でもイタリアも【ティロル】が危ないし、フランスが【ヴェネツィア】を占領しても【マルセイユ】は維持できないんじゃない?」

 

「ずっとは無理だけど、イギリスが陸軍を3つ集めるまで時間がかかるじゃん。その間にイタリアとオーストリアが協力して、もう一度【ミュンヘン】を……」

 

「ぜったい無理。今は【ギリシア】にいるトルコ陸軍に助けてもらって維持できてるけど、オーストリア軍を動かすとかぜったい無理」

 

「でもさ、このままだとみんな滅亡するだけだしさ。担当してるトルコは今【ギリシア】にいる陸軍だけだし、オーストリアもたぶん【トリエステ】の海軍だけになるだろうし。だからイタリアがフランスに【ヴェネツィア】を譲って、【ティロル】を取られても【ローマ】と【ナポリ】が残れば、みんなで近い場所にいられるじゃん。もうそれぐらいしかできることって無いよ」

 

 情勢を見たトルコ担当の子が取りなして一応は【ヴェネツィア】割譲が決まったものの、この一件は四人の小学生たちの中でわだかまりとして残った。

 

 

 雪ノ下のイギリスが【チュニス】と【パリ】を加え、八幡のロシアは【ブダペスト】と【ウィーン】を加えた。雪ノ下との睨み合いに備えて、八幡は急いで海軍を増設して東地中海からイオニア海までの制海権を確保したが、相手は翌年に悠々と【マルセイユ】を落とし、欧州の地図は彼ら二人によってほぼ二分された。

 

 五年目が終わった時点の勢力図は、八幡のロシアが13、雪ノ下のイギリスが10、留美のドイツが6、イタリアが2、フランスとオーストリアとトルコが1ずつ。小学生たちにできることは二強の決着を待つことしかなかった。

 

 

「やっと五年目が終わりか。このゲーム、かなり時間がかかるんだな」

 

「もう夕食の時間まで15分ほどしかないわね。あと一時間で終わらなければキャンプファイヤーも始まってしまうのだけれど、それまでに決着はつくのかしら?」

 

「さあな。お前が降参したらすぐに終わるんじゃね?」

 

「そのセリフはそっくりそのままお返しするわ」

 

 現状を小学生に知らしめるための発言のはずが、普通に仲良く挑発し合う二人だった。わざとらしく留美を眺めて、八幡は口を開く。

 

「そういや、『四人は最後まで』ゲームをプレイするって約束してたよな。でも、一人でプレイしてたお前は約束に加わってなかったし、先に夕食に行っても良いぞ?」

 

 雪ノ下の約束のおかげで話を出しやすくはなったものの、この後の予定を盾にして小学生を脅す形に変わりはない。留美に向かって敢えて「お前」と呼び掛けたこともあって、八幡は口の中に苦いものを感じていた。だが、ここまで来たら事は予定通りに果たさなければならない。

 

「そうね。10分前には食堂に移動を始める予定だったから、貴女はその時に体育館を出たら良いわ」

 

 八幡も雪ノ下も、留美がこの展開で他の小学生を見捨てる性格ではないと信じていた。更には研修室で話した時に『逆の立場になってもやり過ぎないように』と忠告を伝えている。あの時に自分が言った言葉を覚えてくれていることを八幡は願い、同時に、自身の忠告が平塚先生に言われたそれと似通ったものであることに今更ながら気が付いた。

 

「それって……。ドイツはどうなるの?」

 

 小学生の中には「不公平だ」と怒って文句を言っている子もいるが、ゲームで疲れたのか先程までの勢いは無い。それに他の三人は事情を把握したのか、既に諦めている様子だった。四対一でも留美を屈服させることができず、それに加えて高校生にいじめの現場を押さえられたのだから当然だろう。

 

 交渉によって年長者二人をうまく部外者にできたとフランス担当の子は思っていたのだろうが、最初から高校生にはお見通しだったのだ。彼我の上下関係が確定したことを自覚して、ようやく彼女らも留美に酷いことをしていたと思い至ったのか。誰かがぽつりと呟いた「罰が当たった」という言葉が虚ろに響く。

 

 留美もまた長時間のゲームに疲労の色を隠せていなかった。しかし虚空に消えた呟きを睨み付けるかのように口を結んで、そしてゆっくりと、誰もが予想していなかった質問を口にした。

 

 それを名残を惜しむほどゲームを楽しんでくれたという意味に受け取って、八幡は返事を返す。

 

「まあ、委任みたいな形になるのかね。俺と雪ノ下の共同統治って形でも良いし、とにかく悪いようにはしねーよ」

 

「もし委任しても、ドイツって私の国だよね。私もちゃんとゲームに参加してるよね?」

 

「ええ。貴女がここまで育てたドイツとの繋がりは、委任で断ち切れることはないのよ」

 

「だな。補給地を6つに増やしたのはお前だし、一人だけ結果を残したんだから、先に解散しても別に良いんじゃね?」

 

 この話の流れであれば、いっそ先に行かせても良いかもしれないと八幡は思った。既に【ヴェネツィア】割譲などで四人の小学生には亀裂が入っている。そもそも彼女らが後から留美に何を言ったところで、負け犬の遠吠えにしかならないだろう。

 

 雪ノ下もまた留美と一緒にゲームをして、彼女の小学生離れした行動力には驚かされただけに、このまま行かせても良いと思い直していた。留美であればここまでのお膳立てがあれば、この先は真っ当に力強く歩いて行けるだろうと。

 

 

 二人の高校生が暖かい眼差しで決断の言葉を求めている。他の小学生を見る時には突き放したような、そして濁ったような目をしていることを考えると、こんなことを言ったら二人を失望させてしまうかもしれない。それでも留美は。

 

「ご飯を食べたら戻って来るから、それまでは()()委任でお願いします。じゃあ、みんな行こっ!」

 

 それでも留美は、四人に手を差し伸べる道を選ぶ。せっかくの好意を無にしてでも、他に優先すべきことがあるのだと考えるがゆえに。

 

 八幡と雪ノ下にとっては、留美のこの発言は完全な不意打ちになった。絶句する高校生二人を尻目に、呆然としている他の小学生に向けて留美は必死に語りかける。

 

「ほら、せっかく委任でも『ゲームに参加してる』って認めてくれたんだから、みんな早く行こっ。『最後までプレイする』ってのが委任だとどうなるか微妙だから、早く食べて戻って来よっ!」

 

「あー、そういうことか」

 

「なるほどね。……貴女のお名前を、この場で教えてもらっても良いかしら?」

 

 留美の意図を十全に理解して、高校生二人は納得の声を上げた。雪ノ下は目の前の小学生に敬意を表する気持ちを隠すことなく、そのまま言葉を続ける。今この場において、留美に名前で呼びかけない選択はないと考えるがゆえに。

 

「……鶴見、留美」

 

「留美さん。このゲームは貴女の勝ちよ。私たちはドイツに降参するわ」

 

「ここまでの駆け引きをやられたら脱帽だわな。つーわけで、委任とか関係なしにゲームは終わりだ。せっかくあれを用意したのにな」

 

「ごめんなさいね、時間を人質にとって脅すようなことをして。もともと5分前になったらこれを出す予定だったのよ」

 

 そう言って雪ノ下は、由比ヶ浜お手製のプラカードを取り出した。そこには大きく「ドッキリ」と書かれている。

 

 八幡のもともとの計画では、一人だけ食事に移動できる留美が一緒に残ることで他の小学生たちの罪悪感を煽るつもりだった。その上で、のちのち問題にならないように「ドッキリ」という形で収拾するはずだったのだが、留美が一枚上手だったらしい。

 

 

 留美もまた、そんな高校生たちの説明を聞いて納得していた。彼ら二人が自分のために何かを計画しているとは思っていたが、ここまで大きな計画だったとは思わなかった。

 

 留美が一人だけ食事に立たなかったのは、八幡に「逆の立場になってもやり過ぎないように」と教えてもらったからだ。もしもそう言われていなければ、他の小学生を見捨てていたかもしれない。

 

 それに、と留美は思う。委任に関するこじつけ話も、八幡に「どんなこじつけでも良いから、連中の無理難題を避け続けていれば」と教えてもらったことが大きい。無理難題を八幡たちが言ってくる形になったのは何だか可笑しいなと、留美は少し顔を綻ばせる。

 

 

 こうして、彼らのゲームは無事に終わった。

 

 

***

 

 

 八幡と雪ノ下以外の中高生も入れ替わりで参加して、時間いっぱいまで楽しくゲームで遊んでいた他の班の小学生たちが、食堂に移動する支度を考え始めた頃。モニターを見ていた遊戯部の二人は慌ててマイクを掴んで、全員に向かって話しかけた。

 

「ここでゲームの続報が入りました!」

 

「戦力比は高校生の13と10に対して小学生グループは2、1、1、1と壊滅寸前。何とか鶴見さん一人が6を維持していたものの、やはり高校生には勝てないのかと誰もが思ったその時。一人だけ諦めていない子がいたのです!」

 

「それはもしかして……」

 

「ええ、それが鶴見さんです。小学生グループに手を差し伸べて、高校生を相手に堂々と交渉を重ねて、ついに説得してしまいました!」

 

「小学生が高校生に勝ったんですね?」

 

「もちろん戦力比は開いていたので、高校生の二人が譲ってくれたと考えるべきかもしれません。それでも、このゲームの勝者が鶴見さんなのもまた厳然たる事実です!」

 

「なるほど。小学生の皆さん、おめでとうございます!」

 

「勝利の立役者、鶴見さんに大きな拍手を!」

 

 同じ小学生ゆえに、あの班の状況を大人よりも高校生よりも詳しく理解していた子供たちは、この思わぬ展開を受けて大きな喝采を送った。驚きの気持ちと、そして自分たちもまた抑圧から解放されたような気持ちで、体育館にいるほぼ全員が大声を上げていた。

 

 

 その光景を見ながら秦野は思う。ゲームの可能性と、そして自分たちをこの場に呼んでくれた先輩がたへの感謝の気持ちを。

 

 彼は小学生の頃から色んなゲームに夢中になったが、ゲームと言えばテレビゲームで満足していた周囲は彼を奇異の目で眺めるだけだった。それがどうだ。今日は多くの小学生が色んなゲームを楽しんでくれた。そしてあの古典的なボードゲームが、小学生たちの虐めで凝り固まった関係を吹き飛ばしてしまったのだ。ゲームにはこれほど大きな可能性があるのだと、彼は泣きたいくらいに嬉しい気持ちに浸っていた。

 

 そんな秦野を、相模は苦笑いしながら眺めていた。彼もまた先輩に対して感謝の念を抱いていたが、それはこの場に呼ばれた時点で、既に彼の心の中にあったものだった。

 

 昨日解禁されたばかりの千葉村を、秦野と相模が訪れたことはない。そのため、奉仕部の部室を経由して一瞬で行き来ができる先輩たちとは違って、彼ら二人は電車やバスを乗り継いで急いでここまで駆けつけたのだ。

 

 もちろんこの世界では道中の時間が省略できるので、さほど遅れることなく二人は到着できたのだが、相模はその扱いに思わず噴き出してしまった。自分がクイズ勝負で出した内容を、そっくりやり返されていることに気付いたからだ。

 

 相模が出した問題は「友達の家にショートカットできる条件」だったが、移動教室でも原理は同じ。つまり、一度も訪れていない先にはショートカットできないのがルールだ。

 

 明らかにあの時のクイズを念頭に、茶化すような口調で「早く来いよ」などと言ってきた目が残念な先輩。昨日までの相模にとっては「親しい先輩の友人」という距離感だった彼のことを、相模はもはや赤の他人とは思えなかった。ゲームを通して少しずつ不思議な縁が増えていく。今の相模にとっては、あの人もまた直接の「親しい先輩」なのだ。

 

 

 こうして八幡の思惑を大きく上回る形で、多くの人たちに多大な影響を残して、肝試しの代替イベントだったゲーム大会は好評のまま幕を閉じた。




3巻21話で色んなゲームを挙げる中にディプロマシーが含まれていたことから、「友情破壊ゲーム→もしや4巻で」と見抜いた読者様がおられましたら脱帽です。

どこまで需要があるか分かりませんが、膠着状態に至るまでの各国の動きを活動報告「作中遊戯のお話」に挙げておきます。興味のある方は地図を見ながら楽しんで頂けると嬉しいです。

次回は金曜に更新予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
陸地を【地名】表記にして、留美の発言前後に地の文を書き加えました。(7/26)
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/26)


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16.はっきりと彼らはお互いを視野に入れた。

前回までのあらすじ。

 ゲームを利用して加害者たちの関係に亀裂を入れ、ゲームの実況を行うことで小学生全体を取り巻く空気を改善する。八幡のこの計画は、留美がゲームで結果を残したこと、更には土壇場で加害者たちに手を差し伸べたことで、予想以上の成果をもたらした。



 小学生たちがキャンプファイヤーで盛り上がっている。この日の朝、点呼が終わって自由行動に移った時の盛り上がりと比べても、今は格段の違いがあった。朝ですら小学生の元気にはついて行けないと考えていた中高生たちだったが、もはや呆れるしかない心境に至っていた。

 

 体育館で色んな班に混じって小学生と遊んだおかげか、その後の夕食時にも今のキャンプファイヤーの時にもボランティアの面々は事あるごとに子供たちから話しかけられていた。そのために落ち着いた話が未だできておらず、後片付けが終わった後で彼らは引率者用のログハウスに集合する手筈になっている。

 

「全体の空気は改善できたと考えて良さそうね」

 

「だな。しかし、ここまで上手く行くとはな」

 

 盛り上がる小学生たちも、接する機会がほとんどなかった雪ノ下雪乃と比企谷八幡には話しかけにくいものがあるのだろう。だから二人は人混みからは少し離れて、燃えさかる炎を眺めていた。

 

「もしかすると、私たちが手を出すまでもなく、留美さんなら上手く解決ができていたのかもしれないわね」

 

「かもな。あの加害者連中がノーミスで行かない限り、留美のターンになった時点で反撃されて終わり、みたいな感じかね」

 

「そうね。でもそう考えると、相手が主導権を手放さない限りは留美さんですら動けない状況だったのだから、貴方のプランは有益だったと言って良いと思うのだけれど」

 

「プランの時点だと、やってみてどうなるかっていう不確定要素が色々あったからな。お前が加害者連中から上手い具合に話を取り付けて、分かりやすい展開にできたのが大きかったんじゃね?」

 

 雪ノ下は主にプランの面で、八幡は主に実行の面で、各々に改善の余地があったと考えているからなのだが、結果として二人は互いを褒め合う形で会話を進めていた。負けず嫌いで自分に厳しく他人に寛容な今の彼らは、傍目から見れば似たもの同士の二人だった。

 

「噂をすれば、留美さんが何だか疲れたような足取りで歩いてくるわね」

 

「あれだけ実況で盛り上げられたらどうにもならんだろうな。俺なら五秒で倒れる自信があるぞ」

 

 胸を張りながら妙な自慢を始める八幡を横目に、雪ノ下は鶴見留美の周囲を注意深く眺める。推測した通りに、留美の後ろには同じ班の小学生四人が少し距離を置いて続いていた。

 

 

 彼女たちの班はキャンプファイヤーの盛り上がりから取り残されていた。留美だけは色んな班から声をかけられ、時には大勢の中に強引に連れて行かれて、ゲームの話や高校生の話を根掘り葉掘り聞かれていた。こうした扱いを受けるのが得意ではない留美は口ごもることが多かったが、小学生たちは寛容だった。彼らとしては留美と何かを話せたらそれで満足という心境だったのかもしれない。

 

 留美が疲れていることは誰が見ても明らかなので、それほど長くは拘束されずに済んでいた。しかし話が終わるとまた別の小学生が近付いてくるので、完全に解放されるまでには時間がかかった。そしてその間、同じ班の残り四人は留美と微妙な距離を保ったまま、身を縮めながら話が終わるのを待つしかなかった。

 

 ようやく一区切りついて、自分に話しかけてくる子がいなくなったのを確認して、留美は引率の教師を探して一足早い解散を了承してもらった。特別に班長会議も班会議も免除してもらって、彼女らは部屋に帰るところだった。

 

「あ……」

 

 進む先に二人の高校生がいると最初に気付いたのは留美だったが、思わず立ち止まった上に声まで出してしまったことで、全員が八幡と雪ノ下を認識した。四人は思わず俯いてしまったが、ほどなく留美が彼らに向かって歩き始めたことで、四人もそれに従うしかなかった。

 

 先程まで一緒にゲームをしていた高校生に向かって、笑顔を浮かべそうになる。留美はそれを必死で堪え、表情を消したまま二人に軽く頭を下げて、立ち止まることなくすぐ横を通り過ぎた。下を向いたまま目だけで様子を窺っていた四人もそれに続いて、小学生たちは自分の部屋へと帰って行った。

 

 

「なんてか、報われねーな」

 

「報われたいと思って実行したわけでもなし、『結果が良ければ、嫌な思いぐらいは安いもの』だと言ったはずよ」

 

「つっても、あの時にわざわざ名前を聞き直したのって、他の連中がいる前でも話せるようにってことだろ?」

 

「そうね。でもそれは、今すぐでなくても良いと思うのだけれど」

 

 雪ノ下の苦しい言い訳に、八幡は苦笑いを浮かべて応える。

 

 深刻な話だけではなく、先程のゲームの感想とか振り返りとか、あるいはもっと気楽な話も含めて留美と色んな会話をしてみたい。彼女と接するごとにそんな思いを強くしていた二人だったが、それは今すぐには叶いそうにない。

 

 だがこの世界にいる限り、その気になればいつでもメッセージを送ることができる。小学生ながら二人を思わず脱帽させてしまった留美との繋がりは、これで消えるわけでは無いのだ。

 

「そのな、今さっきの留美の行動は意図が分からんけど、悪い感じじゃないと思うんだわ」

 

「そうね」

 

「昨日ここに来た時に運営の人に言われてな。『時間が経つと受け取り方も変わる』とか、『その時には解らなかったことでも、後になって突然理解できることがある』とか言ってたかな。留美もまだ小学生だし、一日でこれだけ状況が変わったら、どう受け取って良いのか分からないんじゃね?」

 

「……逆に、今の私たちが留美さんの意図を受け取り損ねていて、もう少し時間が経てば理解できるのかもしれないわね」

 

 傍らの女の子を宥めていたつもりが別の解釈を持ち出されて、八幡は再び苦笑した。そのまま彼は自らが話題に出した運営とのやり取りに思いを馳せる。

 

 八幡が作ったこの千葉村の記憶が、今はまだ嫌な印象が勝っていたとしても、いつか留美にとって楽しい記憶に変わりますように。時間はいくらかかっても良いから、いつかそうなって欲しいと八幡は静かに願う。

 

 視線の先では、キャンプファイヤーの火がずいぶんと小さくなっていた。

 

 

***

 

 

 引率者用のログハウスにて、お昼と同じ配置で中高生が席を並べていた。既に遊戯部の二人は帰宅している。生徒たちの顔ぶれを見渡して、口火を切るのは教師の役目とばかりに平塚静が口を開く。

 

「さて、ご苦労だったな。実況を聞いていただけで、ゲームの様子を詳しく知っているわけではないのだが、概ね予定通りに事が運んだと受け取って良いのかね?」

 

「予定以上の結果と考えて良いと思います。まさかあの場面で、加害者に手を差し伸べるような行動に出るとは完全に予想外でした」

 

「マジかー。それってかなり凄くね?」

 

 雪ノ下の説明を聞いて、下座では戸部翔が盛り上がっている。全員があの時の実況を聞いてはいたが、「手を差し伸べて」という説明が文字通りの意味だったと知って誰もが驚いている。普段なら戸部のノリには面倒な気持ちが先に立つのだが、今日この時ばかりはみな同じ気持ちだった。

 

 全員の気持ちを代弁したご褒美だとでも言うように、代表して海老名姫菜が同調する。

 

「とべっちが言う通りだね。小学生でそれって、しかも雪ノ下さんの前で行動に出たのは凄いよねー」

 

「その凄さはあーしが保証するし」

 

「俺も保証しようかな」

 

「んじゃ俺も」

 

 雪ノ下と向き合うのがいかに困難でいかに凄いことなのか、三浦優美子ほどそれを保証できる人材も少ないだろう。そう思っていた一同だったが、爽やかな口調で、更には面倒そうな口調で同調する声の主を見て、その都度納得してしまった。

 

「みんな、ゆきのんと正面から向き合えて凄いなー」

 

「ぼく、由比ヶ浜さんも充分に向き合えてると思うんだけど」

 

「由比ヶ浜のは向き合うっつーか、手綱を握ってるって感じだけどな」

 

「お兄ちゃん、雪乃さんが額に手を当てて呆れてるよ。早く謝らないと!」

 

「でも雪ノ下先輩って意外に面倒見が良いし、外からの印象とは違いますよね〜」

 

「一色さん、意外とはどういう意味かしら?」

 

「や、だってゆきのんの優しさって伝わりにくいって言うかさ。あたしたちが解ってるからそれでいいやって気もするんだけど」

 

「そろそろ雪ノ下の限界が近そうだから、その辺りにしておきたまえ」

 

 めいめいが好き勝手なことを言い合っている様子を微笑ましく眺めながら、しかし話が終わらなくなりそうなので教師がストップをかけた。

 

「はあ……。真面目な話に戻しますが、今回の結果によって被害者の状況は改善できたと思います。それから加害者と被害者が入れ替わる可能性も、あの子の性格を考えると大丈夫ではないかと思うのですが、……」

 

「なるほど。今朝の時点では逼迫した状況だったのだし、今日のところはそれで満足しても良いのではないかね?」

 

 雪ノ下の言葉を途中で遮って、平塚先生が話をまとめにかかる。教師の意図を理解して、雪ノ下は一つ頷いた後で別の話を持ち出すために口を開いた。

 

「それで、比企谷くんから話があるのですが」

 

「……ああ、あれか」

 

 二人の何やら訳ありげなやり取りを聞いて、葉山隼人と由比ヶ浜結衣が思わず身構える。とはいえ当然ながら、八幡の話は二人が危惧するような内容ではなかった。

 

「まずは状況を改善することを考えていたので、説明してなかったんですけど……」

 

 八幡の説明を聞き終えて、雪ノ下を除く中高生たちは呆れたような表情で彼を眺めている。そして平塚先生は。

 

「今から順次打ち合わせをして来るが、君はもう少し報告連絡相談を考えて動きたまえ。せっかく発想が良くても、それを実現するには他人に動いてもらう必要があると、君も理解できているだろう?」

 

 大急ぎでお小言を告げると、そのまま勢いよくログハウスから去って行った。

 

 

***

 

 

 集まりはそのままお開きになって、教師の帰りを待つという女性陣に後を任せて男性陣は自分たちのログハウスへと移動していた。

 

「八幡は、今日は……?」

 

「あー、それな。ちょっと一緒に行くか」

 

 八幡がこのまま一人で個室に帰ってしまうのではないか。内心でそんな恐れを抱きつつ戸塚彩加が尋ねてみると、要領を得ない返事が返って来た。少なくともログハウスまでは同行してくれそうなので、戸塚は八幡と並んで歩き始める。昨日と同じで、先を歩くサッカー部の二人について行く形だ。

 

「その、ちょっと戸塚に話すことがあってな」

 

「ん、どうしたの?」

 

 どう話を切り出したものかと悩んでいる様子だったが、戸塚が我慢強く待っていると、八幡はゆっくりと話し始めた。

 

「昨日、ここで合流した時のことなんだが。その、話をややこしくしない為に、戸塚を理由に合流のあれこれを有耶無耶にして会話を切ろうとしただろ?」

 

「えっと、ぼく何か変なことでも言ったっけ?」

 

「いや、そうじゃなくてだな。戸塚が取りなしてくれたのに乗っかって、話の流れを誤魔化したっつーか、それが戸塚に申し訳なかったっつーか、えっとだな……」

 

 もっと深刻な話かと少し緊張していた戸塚は少し噴き出して、身体の力を抜きながらゆっくりと答える。

 

「八幡ってば、気にしすぎだって。ぼくも悪い風には受け取ってないし、他のみんなもそうだと思うよ」

 

「それなら良いんだけど、あれだな。人間関係ってどこまで気を遣ったら良いのかよく解らんよな……」

 

 昨夜の女性陣との話し合いがあっただけに、身近な他者との距離感に八幡は悩んでいた。そうした詳しい事情は把握できていないものの、八幡を優しく眺めながら、自分にも教えられることがあると知って内心で喜びながら戸塚は口を開く。

 

「ある程度は適当で良いと思うけどね。よっぽどの事でもないと、由比ヶ浜さんや雪ノ下さんが八幡を悪く思うとか無さそうだし。だから、後から気付いたことがあったらその時に謝るとか、他のことで借りを返すとか、そんな風に思っていれば良いんじゃない?」

 

「そっか。なんか由比ヶ浜も同じようなことを言ってた気がするな」

 

「じゃあ尚更それでいいんじゃないかな。ぼくだったら、気を遣うぐらいなら一緒に遊びに行ってチャラって感じで……あ、じゃあ夏休みのうちに一緒に遊びに行くの、昨日も言ったけど約束ね!」

 

 そう言って戸塚は眩しい笑顔を見せる。それに応えようとして、ようやく八幡はぎこちない笑顔を浮かべることができた。

 

「ああ。んじゃ約束な」

 

 実は八幡としては、昨夜こうして並んで歩いていた時に戸塚から「葉山には話題になるほどの失敗がなかった」という情報を聞いて、思わずそれを疑ってしまったことも気になっていた。

 

 もちろんそれは内心での反応であって、表に出したわけではない。そもそも情報を吟味しようとしただけで疑ったわけではないのだが、色んなことが積み重なってみると何が正しいのか分からなくなって来たのだった。

 

 八幡は昨年度まではぼっちを満喫していたので、妹との関係さえ考えていればそれで済んでいた。しかし今年度になって交友関係が一気に広がって、更には失いたくないと思う対象が増えたせいで八幡は悩みごとが増えた。

 

 だがこうした悩みも、八幡なら別の機会に上手く活かしていくことになるのだろう。今日もまた自分の意志で、八幡は男性陣と一緒にログハウスに泊まることを決めた。

 

 

***

 

 

 懸案事項が片付いたので、昨日とは打って変わってどうでもいい話ばかりで盛り上がって、男子生徒たちは日が変わるまでには寝床に就いた。戸塚が一番最初に眠そうな顔になったのだが、布団に入って寝入ったのは戸部が一番早かった。

 

 妙に冴えた頭で、八幡は嫌な予感を感じ取っていた。平塚先生のログハウスに全員が集まっていた時にしろ、先程まで男子生徒だけで盛り上がっていた時にしろ、八幡は葉山と喋っていても嫌な感じは受けなかった。だがおそらく、今は違う。

 

 キャンプファイヤーの準備をしながら休憩時に話をした時や、お昼にプランの打ち合わせをしていた時、特に葉山の案を却下した時の彼の様子を八幡は思い出す。それらにどんな共通点があるのか判らないが、今この場にいるのは確実に、話をしていても落ち着かない時の葉山だろうと八幡は思った。

 

「ヒキタニくんはさ」

 

 果たして、こちらが起きているのか確認すらせず葉山が口を開いた。

 

「雪ノ下さんの代わりに俺があのゲームを一緒にしていたら、どうなってたと思う?」

 

「さあな。もう終わっちまったことだし、今さら無意味な仮定だな」

 

「思考実験だと思って、少しだけでもお願いできないかな?」

 

「そう言われてもなぁ……。あれじゃね、お前が小学生四人を引き連れて攻めてきて、俺が呆気なく滅亡するとかじゃね?」

 

「それだと、被害者の状況を改善することはできなかっただろうな」

 

 考えるのが面倒になって、八幡は天井を眺めながら適当な答えを口にする。だが葉山はその答えに頷ける部分があったのか、静かに独り言のように呟いた。

 

「逆に聞きたいんだが、ゲームの目的は昼間に話したよな。それを理解して、その上でお前は容赦なく小学生を攻められるか?」

 

「……難しいだろうね。別の方法がないか模索しながら、現状維持を続ける気がするな」

 

「その時点で、お前はあのゲームには向いてねーよ。実際、俺らが優勢になったのは、小学生が時間を浪費してくれたおかげだしな」

 

「でもさ、本来あのゲームで重要なのは外交だったよね。その辺りに、何か別の方法がなかったのかなって」

 

 葉山の指摘を受けて八幡は少しだけ考えを広げてみる。自分と雪ノ下が適任だと思ったのは方針がほぼ決まっていたからだった。だが別の方法なら、葉山の能力が発揮できるような方法なら、また別の結果を得られたのだろうか。

 

「お前なら、小学生四人に言うことを聞かせるのはできたかもな。それでも五人全員は無理な気がするが、どう思う?」

 

「五人目の被害者の子か……。その子を一緒にすることで、他の四人も言う事を聞かなくなるって意味だよね?」

 

「たぶんな。で、そうなった時にお前は四人を見捨てられないだろ?」

 

「見捨てるべきじゃないって俺は思うんだよ。加害者を何とかするってのは、ヒキタニくんの戦略と同じじゃないかな?」

 

「違うな。俺は加害者を潰すために動いたんだわ。小学生を相手に本気を出してな。お前の場合は加害者の過激な行動を抑制しようとして、結果的に加害者を守る形になってねーか?」

 

 大きくため息をついて、葉山は言われた内容を整理する。被害者を入れると収拾がつかないので加害者とだけ向き合って、彼らの酷い行動を抑えているつもりが、外から見れば加害者の盾として機能している自分。整理しなくても納得できた話を、彼はもう一度自分の中で受け止めた。

 

「特に被害者の目線で考えれば、俺と君の行動はまるで違って見えるんだな。ここまで言われないと解らなかったよ」

 

「全員を仲裁して、それで成り立つゲームなら良かったんだろうけどな」

 

 得体の知れなかった葉山の実体が定まっていくような気配を感じて、八幡はぽつりと呟く。人生をこの上ないクソゲーだと考えていた過去の自分と、そうでもないかもしれないと考え始めた今の自分を頭の中で比較しながら。

 

「それでも……比企谷くんとは仲良くできなかったろうな」

 

 だから八幡は葉山の言葉に反応するのが遅れてしまった。思わず顔を横に向けると、葉山は仰向けの体勢のまま虚空に向かって言葉を続ける。

 

「全員を仲裁できたら全員が良い結末を迎えられるゲームがあったとしても、きっと別の最適解を見付け出すんだろうな」

 

「囚人のジレンマみたいな話だな。まあ、どう考えてもディストピアとしか思えねーし、そもそも買いかぶり過ぎじゃね?」

 

「そんなことは無いって、否定されると思うけどな。……結衣とか、戸塚とかに」

 

「どうだかな。みんなと仲良くできるお前が仲良くできないとか言い出すほど、俺ってぼっち気質みたいだしな。さすがにちょっと傷付くぞ?」

 

「役に立つことを教えてもらったお礼だよ。どうでもいい奴に嫌われたところで、そんなに傷付かないんじゃない?」

 

 先程までとは関係が一変して、悟りを開いたかのように淀みなく話す葉山に、八幡が頭を働かせて何とかついていく形になっていた。自分の中の何かが深い部分まで見通されているような気がして、八幡は適当な受け答えを止める。

 

「どうでもいいって思ってても、気付いたらどうでもよくなかったって時があるからな。それにぼっちは他との関わりが少ない分だけ、一撃の記憶が残るんだわ。傷付かないとか無理だろ」

 

「そっか。なら訂正するよ。悪い冗談だった」

 

 あっさりと前言を翻した葉山を八幡は再度眺める。視線の先には、右手を身体の正面に突き出し大きく掌を開いて虚空を掴もうとする葉山の姿があった。一つ息を吐いて、この妙な空気を変えようと八幡は言葉を発する。

 

「なんか、変な話になっちまったな」

 

「いや、俺は有意義だったよ。だからもしもヒキタニくんを傷付けたのなら、改めて謝るよ」

 

 いつもの葉山に、それも一緒に話をしても気にならない葉山に戻った気がして、八幡はかぶりを振った。そのまま八幡は口を開く。

 

「変な合宿だったな」

 

「たぶん、ずっと先になっても覚えてる気がするよ。良い思い出としてね。おやすみ」

 

「ああ、おやすみ」

 

 この合宿を良い思い出にするという静かな決意を胸に、葉山は会話を打ち切った。

 

 それを聞いた八幡は、自分にとってどうでもよくない連中が、失いたくない対象が、繋がりを持つ人たちが、ここ千葉村での二泊三日を良い思い出として持ち帰ってくれるように願いつつ、ゆっくりと眠りに落ちていった。




更新が遅れて申し訳ありません。
明日の夜もどうなるかわからないので、普段とは違う時間帯ですが今夜のうちに更新することにしました。

次回は月曜に更新する予定です。もし火曜になったらごめんなさい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/26,7/28)


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17.やるべきことを終えて彼女らは各々の課題と向き合う。

前回までのあらすじ。

 八幡が考えていた以上にゲームの効果は大きく、留美は他班の小学生から絶えず話しかけられていた。疲労で体力の限界が近かったこと、同じ班の子たちが居心地悪くしていたことから、留美はキャンプファイヤーを早めに切り上げて部屋に戻った。

 小学生が解散した後、全員が集まる中で雪ノ下がゲームの詳細を伝え、八幡がもう一つの計画を明らかにする。さすがに苦言を呈しながらも平塚先生はすぐに動いてくれた。やることがない生徒たちはそのまま解散して、八幡はこの日も男子生徒たちと行動を共にする。その結果、八幡は葉山と濃密な一時を過ごす事になるのだった。



 男子生徒たちを見送って、女子生徒たちは引率者用のログハウスで平塚静の帰りを待っていた。昨日から一同の頭を悩ませていた問題に大きな進展があったので、今は肩の荷が下りたような気持ちで各々が気楽に過ごしている。

 

「そういえば。さっきのゲームって、展開をもう一度詳しく再現できる?」

 

「ええ。説明の際に必要かもしれないと考えて、念のためにゲームを預かっているので、そのまま再現できると思うわ」

 

 雪ノ下雪乃のこの返事に、問いかけた海老名姫菜が目を輝かせる。海老名も今日の昼まではこのゲームを知らなかったので、どんな風にゲームが進んで行くのか見てみたい気持ちが一つ。それに加えて、参加者それぞれがどんな意図をゲームに託したのか、可能な範囲でそれを知りたいという気持ちがもう一つの理由だった。

 

 雪ノ下がゲームを箱から取り出して広げ始めると、自然と他の面々も周囲に集まってきた。駒の動きを口で伝えられるよりも、目で把握できるほうが理解し易いし面白い。改めて基本的なルールを簡単に説明した上で、雪ノ下は各軍の動きをゆっくりと再現してみせた。

 

「雪乃さんの攻撃が容赦なさすぎる……」

 

「でもでも〜、小町ちゃんのお兄さんもけっこう鬼ですよこれ」

 

 比企谷小町が恐れおののく横で、一色いろはが素の声で感想を述べる。小学生の動きを見切っているとしか思えない雪ノ下の行動といい、小学生がどう動いても無理な状況に持ち込んでいる比企谷八幡の戦術といい、それらを盤上で再現されると一同は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

「ヒッキーのさっきの動きって、支援が1つ少なくても大丈夫だよね。あえて数を見せつけたとか、そんな感じ?」

 

「あーしとテニスをした時も、計算しながら行動してる感じだったし。ヒキオのことだから、威圧して相手の動きを止めようとしたんだと思うし」

 

 大局を見て考察するのは苦手でも、局所での数の比較には鋭い感覚を見せる由比ヶ浜結衣が疑問を呟く。すると八幡と真剣勝負の経験がある三浦優美子が推測を述べる。

 

 

 このように各々が気軽に口を挟みながらゲームの流れを確認し終えたところで、再び海老名が口を開いた。

 

「やっぱり、私も含めて他の人には二人の役割はできなかったと思うけど。雪ノ下さん、嫌な気持ちとか残ってない?」

 

「大丈夫よ。ゲームであっても、ルールの中で全力を尽くすのは当然だと私は思うのだけれど」

 

 個々の行動以前に、平然とこう口にできる雪ノ下の姿勢こそが一番恐ろしいと一同は思った。同時に、それこそが雪ノ下を雪ノ下たらしめているのだろうと。ゲーム中の行動に対して、雪ノ下は何ら後悔をしていないのだろうと彼女らは思い、ひとまずの安心や先々の危惧や、それらがない交ぜになったような感情を抱くのだった。

 

「あちらとの打ち合わせのために、一度このログハウスに戻ってくるみたいね」

 

 平塚先生から雪ノ下に連絡が入り、女子生徒たちは撤退の支度を始めた。まだまだ打ち合わせが長引きそうな教師の苦労を思うと、彼女らがここで居続けるのは問題だろうという話になったのだ。

 

 時間に追われる状況なのに「もっと文句を言ってやれば良かった」と八幡に憤る平塚先生を何とか宥めて、女子生徒たちはログハウスに戻った。

 

 

***

 

 

 自分たちが寝起きしているログハウスに戻って一息つくと、もともと体力がない上に一日ずっと動き回ったり頭を使ったりした影響が出たのか、雪ノ下が他の面々への挨拶もそこそこに寝床へと去って行った。とはいえ身体は疲労困憊でも頭は妙に冴えていて、すぐには眠れそうにない。

 

 年下の機敏さで雪ノ下を二階のベッドまで連れて行った小町は、それを聞いて雪ノ下が眠りに就くまで話に付き合うことにした。

 

「さっきのゲーム、うちの兄が足を引っ張ってなくて良かったです」

 

「計画通りに事をなしたという感じだったわね。比企谷くんなら、あの程度のことなら心配しなくても大丈夫よ」

 

「およ。雪乃さんが妙に高評価だ」

 

 そんな小町の返答に、雪ノ下は楽しそうな表情を浮かべながらゆっくりと応える。

 

「三人で一緒に部活をするようになって、もう四ヶ月近くになるのだし。過小評価はしていないつもりよ」

 

「そのうち盛大にやらかすんじゃないかって、妹としては不安なんですけどねー」

 

 今度は雪ノ下の評価をそのまま受け入れて、しかし小町は別の心配事を口にした。順調な時ほど逆に不安が募るというのは、兄と一緒に積み重ねてきた過去からの経験則だ。

 

 新しい学年ではクラスに何とか溶け込めたみたいだと喜んでいたら、突然の告白によってそれを台無しにしてしまったり。進学先の高校では中学の知り合いがいないのでのびのびと過ごして欲しいと思っていたら、入学式の前に事故に遭ってぼっちが確定したり。

 

 逆に、この世界に巻き込まれて妹にも会えず寂しがっているのではないかと心配していたら、小町の厳しい査定を軽くクリアできるほど外見も性格も優れている女の子二人と同じ部活で過ごしているというのだから、開いた口がふさがらない。苦境のほうが安心できるとはどういうことなのかと、いつか兄を問い詰めたいと思う小町だった。

 

 

「小町さんの心配も理解できるのだけれど。比企谷くんなら、理由なくやらかすことはないと思うわ」

 

「うーん。でも、変な風に考えた結果、みたいなやらかしをしそうで……」

 

「この間のように、黙って去って行こうとするのも今後はないでしょうし……少なくとも、必要もないのに他人に迷惑をかけるような行いはしないのではないかしら?」

 

 小町を温かな目で見つめながら、雪ノ下は真面目な顔でそう告げた。

 

 情で心配する小町に対して、雪ノ下は理によってそれを否定する。雪ノ下とて、同じ部活の仲間としての情は既に十二分に持ち合わせているのだが、小町が抱く肉親の情にはまだ遠く及ばないのが現状だった。雪ノ下が否応なく情に動かされる域に至るには、結果を理で判定するのではなくやり方を情で問うようになるには、もう少し時間を積み重ねる必要があるのだろう。

 

「だったら良いんですけど、心配な気持ちって消えないんですよねー。その、雪乃さんはどうしてそこまで、兄のことを断言できるんですか?」

 

「同じ部活で過ごした四ヶ月間と、それから……事故のことがあったから。やはりきちんと謝るべきか、どう接するべきかと考えながら過ごしていた一年間があったから、他の人よりも私は比企谷くんのことに詳しいのよ」

 

 肉親の前で事故の話を出す以上、真面目な表情は維持したままだったが、雪ノ下の目は優しかった。その視線を受け止めて、小町のほうから相好を崩す。

 

「兄が気を遣わせてしまってすみません。たぶん雪乃さんが悩んでいた間も、のほほんと過ごしていたと思いますよ」

 

「優雅なぼっち生活を、などと口にしている気がするわね」

 

 八幡に対する認識を確認し合って、二人は控え目に笑い声を上げた。

 

 

「小町さんに一つ、お願いがあるのだけれど」

 

「いいですよー。なんでも来いです!」

 

「留美さんの……あの小学生のことなのだけれど。おそらく、同じ班の加害者のことを思いやって、私や比企谷くんには話しかけて来ないと思うのよ。だから……」

 

「了解です。変なことにならないように、明日は気を付けて見てますね」

 

 実のところ、雪ノ下はこれを由比ヶ浜に頼もうと考えていた。最近はマシになって来たとはいえ、他者と付き合うのが苦手な雪ノ下にとって、誰かに頼み事をするのは依然としてハードルが高い行為なのだ。

 

 例えば指示や命令であれば、適切な伝え方ができると雪ノ下は思う。何らかの交換条件を伴ったお願いであれば、それも普通に伝えることができるだろう。しかし見返りの伴わないお願いをするのは、雪ノ下にとっては下手なテスト問題よりもよほど難しいことだった。

 

 だが、八幡を話題にして心を通わせたことで、今の雪ノ下は小町に対して身構える気持ちがほとんどない。更には鶴見留美のことを考えると、八幡の妹という肩書きは他の高校生にはない利点だ。留美の相手をしてもらうには、小町は由比ヶ浜以上に最適な人材だと思い付いて、お願いをする気になったのだった。

 

「比企谷くんの妹だと伝えれば安心してくれると思うから、お願いね」

 

「お兄ちゃんって、意外に年下受けが良かったりするんですよねー。じゃあ明日、上手く機会を見付けて話をしておきますので、雪乃さんは安心して休んで下さいね」

 

 小町の言葉を聞いて、多くの人の気持ちを背負って留美の境遇を改善するために一日中動き続けた疲れが、一気に押し寄せてきた気がした。これで無事に責任を果たせたとようやく安心して、雪ノ下は急激に睡魔に襲われる。

 

「小町さん、おやすみなさい」

 

 何とかぽつりと呟いて、雪ノ下はそのまま夢の世界へと旅立っていった。だから雪ノ下は、小町の最後の言葉を耳にすることはなかった。発言の中に色んな意味と気持ちを込めて、小町は楽しげな口調でこう述べる。

 

「雪乃さん、おやすみなさい。お兄ちゃんのこと、よろしくお願いしますね!」

 

 

***

 

 

 ログハウスに帰って早々に二階に移動した雪ノ下と小町を見送って、残った四人はいったん腰を落ち着けようとした。しかし三浦が口を開いたことで、その動きは未遂に終わった。

 

「ちょっと二人で話があるし」

 

「聞かれたくない話っぽいし、部屋を分けよっか。私たちはここで待ってるから、優美子たちはゆっくり話して来なね」

 

 指名を受けた一色がきょとんとしながらも三浦に従う素振りなのを見て、海老名がそう提案した。二階に繋がる部屋にはそのまま海老名と由比ヶ浜が残り、三浦と一色は新しく作った個室へと二人で去って行った。

 

「今日は色々あったねー」

 

「はやはちの絡みがたくさん見られたし、私は満足な一日だったなー」

 

 そんなまとめ方をする海老名に由比ヶ浜は苦笑する。仲良くなった当初はこうした話題になるたびに「想像しないように」と気を張る必要があったが、今やこの手の話は慣れたものだった。その感覚は普通ではないと、由比ヶ浜はもう少し慎重になったほうが良いのかもしれない。

 

「たぶん優美子、隼人くんの話だよね?」

 

「だろうねー。ずっと『分かんない』とか『そんなんじゃない』とか言ってたけど、覚悟が決まったのかな?」

 

「そうだとしたら、きっかけは昨日のゆきのんとのアレだよね?」

 

「だよね。優美子は気に入った相手には世話好きだし、母性本能とかかな?」

 

 未だ異性に対してそうした感情を抱いたことのない海老名が、首を傾げながら推測を口にする。それに対して、由比ヶ浜はちくりと痛む胸のうちを悟られないようにと、身構えなければならなかった。

 

 同学年の誰よりもまばゆい存在感を放ち、実際に話してみると可愛らしい性格も持ち合わせているあの女の子が相手でも、彼を決して渡したくない。東京わんにゃんショーからの帰り道に、そんなわがままな嫉妬心によって自らの感情を自覚した由比ヶ浜にとって、想い人への真っ直ぐな気持ちがきっかけであろう三浦は別次元の存在にすら思えた。

 

 改めて確認するまでもなく、由比ヶ浜は雪ノ下と親しい仲だ。もっと仲良くなりたいと思っているし、雪ノ下には幸せになって欲しいと思っている。同時に由比ヶ浜は雪ノ下と八幡にももっと仲良くなってもらいたいと思っている。由比ヶ浜の中でも奉仕部は既に特別な存在なのだ。

 

 実際に昨夜、八幡が自分と雪ノ下に親しい気持ちを持ってくれていると確認できて、由比ヶ浜は我が事以上に雪ノ下への気持ちを喜んだ。もしかすると最大のライバルになるかもしれないが、ライバルなら別に良い。だが、もしも奪われるのであれば。その時に自分が二人をどう思うのか、由比ヶ浜はそれを考えるだけでも恐ろしくなる。

 

 八幡を誰かに渡すのは絶対に嫌なのに、同時に八幡と雪ノ下がもっと仲良くなって欲しいと思っている。結局のところは、自分との仲を越えない範囲で仲良くなって欲しいという、傲慢なわがままに過ぎないのではないか。

 

 

「おーい、結衣ー?」

 

「あ、ごめんごめん。ちょっと疲れてたのかぼーっとしてた」

 

「疲れてるなら先に寝てくれても良いよ?」

 

「うん、まだ大丈夫。そういえば姫菜って、どうして隼人くんとヒッキーなの?」

 

 気楽な話をしたくなって、由比ヶ浜はふと思い付いた疑問を口にした。言った直後に我に返って、由比ヶ浜は海老名の勢いを止めるべく身構えたのだが、意外にも冷静な返事が返って来た。

 

「うーん、どうしてだろ。何でかそのカップルが私の中では腑に落ちたんだよねー」

 

「その、とべっちとか、さいちゃんじゃダメなんだよね?」

 

「ダメとは言わないけど、ベストじゃないって感じかなー。というか、結衣って普通に考えてくれるんだね」

 

 海老名の「普通」の意図が分からず由比ヶ浜が首を傾げていると、珍しく暴走の気配を全く見せず詳しい説明が始まった。

 

「よくある話なんだけどさ、BL好きって言うと『男どうしなら何でも良い』って受け取られちゃうんだよねー。でもさ、男女の恋愛ものが好きな人たちだって好みがあるじゃん。それと同じ感覚で結衣が考えてくれてたのが『普通』だなって。そういうの、案外珍しいから嬉しいんだよねー」

 

 感情を込めずさらっと「嬉しい」と言い放つ海老名の口調に、由比ヶ浜が騙されることはない。誤魔化しかたこそ異なるものの、こうした捻くれた照れかたに由比ヶ浜は慣れているのだ。

 

 そして海老名が語る内容にも頷けた。異性が好きなことと、異性なら誰でもいいということには大きな隔たりがあるはずなのに、同性だと後者のように受け取られやすいのは何故だろうか。言われてみれば不思議な話だと由比ヶ浜は思った。

 

「自分とは違うって、一人を好きになる『普通』の人とは違うんだって、そんなふうに突き放して考えようとしてるのかな?」

 

「あー、そっか。昔のドラマとかで、浮気した女の人に『売女め!』みたいなこと言うじゃん。でもだいたいは旦那さん以外の特定の誰かと浮気しただけで、大勢と浮気したいと思ってたわけじゃないだろうにね。それも『自分とは違う』とか『普通じゃない』みたいなレッテルを貼りたいと思って言ってるのかもねー」

 

「まあ、あたしも浮気はダメだって思うけどさ。あれだよね、友達どうしでも『大勢に色目を使って』みたいな陰口を言われることってあるけど、あれも同じかな?」

 

「だね。虐めとかでも『違う』って部分がきっかけになるの多そうだよね」

 

 

 図らずも雑談がタイムリーな話に繋がって、二人は少し押し黙る。だが由比ヶ浜がすぐに沈黙を破って話し始めた。

 

「姫菜は……虐めとかは大丈夫だった?」

 

「まあ、昔は趣味を隠してたからねー。最初のうちは隠すのも下手だったからバレる時もあったけど、何とか誤魔化しているうちに誤魔化すのにも慣れてきて。表向きは平穏に、裏では趣味をって感じだったかな」

 

 もう少し事態は複雑だったのだが、自分でも未だどう解釈したら良いのか分からない部分がいくつかあるので、海老名は過去を簡略化した。特に、趣味が薄々バレている時でも、逆に全くバレていない時でも関係なく、何故か自分に対してだけは風当たりが強くないケースが珍しくなかったのだが、あれをどう理解すれば良いのだろうか。

 

 海老名の解釈としては、「大人しいけれどミステリアスな部分がありそう」という自身のイメージが良い方向に作用したのではないかと考えているのだが、かといって何度も特別扱いを受けるほどの魅力が自分にあるとまでは思えなかった。だからそれだけでは説明できない何かがあるのだろうと考えていた。

 

 周囲の扱いをそのまま自分の実力だとは勘違いせず、違和感を抱えて過ごして来た海老名は、いつかその理由を知りたいと思っていた。実は彼女のこうした考えかたそのものが理由の一つだったりするのだが、海老名はそれに気付かない。

 

 異性への興味の持ち方がずれていることも含め、色んな事柄が海老名の中では複雑に絡まり合って存在している。今では海老名本人ですら解きほぐすのが困難なほど複雑に。

 

「そっか。今は趣味を表に出せて、良かったねって言って良いのかな?」

 

「うん、正直助かってるよ。はやはちとか気軽に言っても大丈夫だし」

 

 話を元に戻しながら、海老名が楽しそうに呟く。自分がはやはちを好むのは、三浦と由比ヶ浜といういつも一緒にいる二人の影響も大いにあるのだが、さすがにそれは口には出さない。

 

 あの二人の男の子を見る限り前途は多難だろうとは思うが、それでも三浦と由比ヶ浜の想いが成就する日が来ることを海老名は密かに願った。そして海老名はまだ、自分の恋愛に関しては何も考えていなかった。

 

 

***

 

 

 二人で個室に入って、三浦と一色は狭い部屋の中で向き合った。無駄に豪華な一人掛けソファを二つ用意して、二人は話を始める。まずは三浦が己の意思を端的に伝えた。

 

「あーしは、隼人と付き合えるように頑張ろうと思うし」

 

「わたしとしては、頑張って下さいね〜、としか言えないんですけど?」

 

 やはり三浦の気持ちは確定したのだなと一色は思う。それに対して、自分の気持ちは未だあやふやなままだ。まさか四ヶ月も費やして進展がないとは意外だったと、一色は少し自嘲する。だがそれだけに、成し遂げた時の充実感には期待できるだろうと一色は考え直す。

 

「じゃあ、部活の時間でも隼人に会いに行っても良いんだし?」

 

「あ〜、それはそれで困りますね〜」

 

 そもそも葉山隼人という人物を把握し切れていない点に問題があると一色は再認識する。最終的な方針を決めるためのお昼の話し合いの時に、少しだけ彼の本性のようなものが垣間見えた気がしたのだが、それも確定的なものではなかった。

 

「というかぶっちゃけなんですけど〜、今の段階で葉山先輩と付き合えると思います?」

 

「たぶん無理だし」

 

 あっさりと否定する三浦を眺めながら一色は考える。異性としての好意があるのか定かではないが、葉山が現時点で関心を持っている女性は、自分が知る限りでは一人しかいない。三浦は彼女のことをどう考えているのだろうか。

 

「葉山先輩に、好きな人っていると思います?」

 

「意識してるのは確かだけど、好きとは違うと思うし」

 

「それって、三浦先輩の願望ってことは……ないですよね〜」

 

 睨まれてしまったのでトーンを下げたが、これで三浦の優先順位がおおよそ把握できたと一色は思った。一番警戒しているのが雪ノ下で、次が葉山の態度だろう。誰とも付き合う気はないと宣言するかのような葉山の態度は、確かに攻略が難しい。だがそれ以上に扱いに困るのが雪ノ下の存在なのだろうと、一色は他人事のように思った。

 

「できれば協力して欲しいし」

 

「え〜っと。何をですか?」

 

 その雪ノ下への対策なのか、それとも葉山の態度を軟化させることなのか。三浦が付き合えるように協力しろということなのか、あるいは一色の望みでもある葉山の本性を知ることなのか。少なくとも協力を求めている時点で、自分のことはさほど警戒していないのだろうと一色は思った。

 

「隼人のことを、もっとよく知りたいし」

 

「う〜んと。それだったら、戸部先輩とかのほうが……」

 

 再び睨まれたので一色は言葉を途中で止める。本性を知りたいと思う自分の希望にも近いが、三浦の意図は葉山の態度軟化にあるのだろう。少し考えて一色は口を開く。

 

「そもそも、気持ちが固まったのって昨日のあの時ですよね?」

 

「ちょっと違うし。あの時も気持ちは傾いてたけど、付き合いたいって思ったのは昼の話し合いの時だし」

 

 何故だろうかと一色は思う。葉山にとっては良いところのない話し合いだったと思うのだが。それに。

 

「三浦先輩が雪ノ下先輩を相手に頑張ってた時も、葉山先輩って特に動いてくれませんでしたよね。自信ありげに話し始めたプランもあっさり却下されてましたし。それでどうして付き合いたいって話になるんですか?」

 

「なら、プランが採用されたヒキオと付き合いたいと思うし?」

 

「ないですね」

 

 もはや語尾を伸ばすことも忘れて、真顔で一色は答える。その返事を苦笑されて、まるで「ヒキオのことを知りもしないくせに」と言われているような気がして、一色はわざとらしく膨れた顔を作ってみせる。何度かあった奉仕部との関わりによって、そして何よりも由比ヶ浜から話を聞いて、三浦が八幡をよく知っていることに一色は気付かない。

 

「周りの目を気にしてたら、ヒキオとは付き合えないし」

 

 一色が葉山に拘っている理由を三浦はこう考えていた。葉山という個人ではなくステータスが目的なのだろうと。つまりは周囲に見せるのが目的なのだろうと。

 

 だから「付き合う」という表現をあえて使って、三浦は挑発的な言葉を吐く。それは葉山のことも、そして八幡のこともまるで見えていない一色への苛立ちなのか、それとも憐れみなのか。

 

 三浦はもちろん知人・友人としての付き合いを言ったつもりだったが、予想通りに相手は食い付いてきた。

 

「周りがどうこうじゃなくて、興味が湧かないだけなんですけどね〜」

 

「見えてないだけだし。それに隼人を狙っても無理だから、周りから『やっぱり』とか言われるだけだし」

 

 あのせんぱいのことはどうでもいいけれど、確かに葉山に関する指摘はその通りだと一色は思う。落ちない相手に拘ってこちらが株を下げるようでは意味がない。だがそれも落としてしまえば済む話だ。葉山の内面を見通すことができれば、その時点で勝利は決まったようなものだと一色は考える。そのためには。

 

「じゃあ、条件付きなら良いですよ。葉山先輩のことをもっとよく知るために協力しますよ〜」

 

「さっさと条件を言うし」

 

「三浦先輩が付き合いたいって思った理由を、詳しく教えて下さい」

 

 それもまた葉山の内面を知るためには重要な意味を持っているのだろう。そして三浦に協力することで葉山の本性を掴めたその時こそ、自分がどう行動すべきかが明らかになると一色は考えた。だが。

 

「単純なことだし。あーしが磨いて光らせたいって思ったんだし」

 

 だから三浦は葉山の失敗に拘らない。葉山のステータスもどうでもいい。それは実に三浦らしい発想だった。そんな三浦の物言いに、ふと頭に浮かんだことを一色は口にする。

 

「もしかして、結衣先輩って昔からあんな感じじゃなかったんですか?」

 

「去年は知らなかったし、二年になって最初に見た時はもっとおどおどしてた気がするし」

 

 確かにそうだったと一色は思い出す。入学式の直前に偶然会った由比ヶ浜は、親しみやすさこそ今と同じだが、どちらかと言うと「使い易い便利な先輩」というイメージがあった。しかしこの世界で再会した時には(ちょうど三浦たちがテニス勝負をした時だ)、隙を感じる以上に奥深さを感じた。いわば「頼れる先輩」へと変貌を遂げていたのだ。

 

 そうした由比ヶ浜の変化は三浦だけの手によるものではない。もちろん雪ノ下や八幡の影響もある。そもそも、表に出せなかっただけでそれが既に由比ヶ浜の中には備わっていたからこそ、短期間で一色の印象を変更させることができたのだろう。

 

 だが今の一色にはそこまで考えが追いつかない。三浦が自分の横にいるのに相応しい相手として由比ヶ浜を選んだのではなく、三浦と並び立っても違和感のない存在にまで由比ヶ浜を育て上げたのだと受け取って、先ほど周囲の目の話を持ち出した三浦の意図を一色はようやく理解した。

 

「なるほど、三浦先輩のお気持ちは解りました。でも、せっかく葉山先輩を光らせても、わたしが取っちゃうかもしれませんよ〜?」

 

「無駄だと思うけど、やりたいならやってみれば良いし」

 

 一色は自分に相応しい相手を選ぼうと思っているし、自分に相応しい存在になるために相手が努力するのが当然だと考えている。しかし三浦は既成の存在には満足せず、自分の手を加えることを望んでいるのだろう。

 

 一色はそんな三浦の考えを否定する気はない。一色からすれば、たとえ今の葉山が内面に問題を抱えていたとしても、自分に相応しい存在にまで成長した時点で奪えば良いだけの話だ。三浦の許しも得た以上、一色にとって悪い話は何もない。

 

 

 そんなことを考える一色を眺めながら、三浦は思う。目の前の女の子は、まだ自分の気持ちを把握することすらできていないのだろうと。他者との単純な関わりの中でしか自分の存在を理解できないのだろうと。

 

 三浦が語った「葉山と付き合いたい理由」が半分でしかないことを一色は知らない。一色にも理解できる理の部分しか話しておらず、情の部分は伝えていないのだが、一色はそれを疑問に思う素振りすら見せなかった。

 

 昼の話し合いの時に、自分が動いても葉山が協力してくれなかったこと。葉山の案が簡単に却下されてしまったこと。一色が言った通り、これらは理屈の上ではマイナスに働くが、愛情とはそれだけで量れるものではない。これらを目の当たりにして、それでも逆に情が増しているのを自覚して、三浦はようやく自分の気持ちに観念したのだった。

 

 

 女性どうしの関係ですら、男性を介してやり過ごせてしまうぐらいに異性の扱いが上手かったせいで、一色は今まで同性だけで関係を築いた経験がほとんどなかった。実のところ、同性とこんなに長い時間一緒に過ごしたのは今回の合宿が初めてだった。所々でサッカー部の二人の存在をちらつかせてみたものの、同行者はいずれもそんなことには動じない面々だった。

 

 一色としては、そんな環境でも自分が上手く立ち回りできたことに手応えを感じていたのだが、経験値の低さは一度の成功では補いきれるものではない。そしてそれは異性との画一的な関係についても言えることだった。

 

 大勢の異性にちやほやされて、その中の特定の異性と親しくなっても周囲の恨みを買うことなく、今まで一色は上手く過ごして来た。だがその親しさとは、肌が触れあうほどの距離まで近付くことを許すとか、休日でも同行を許すとか、そうした意味での親しさに過ぎなかった。それはその他大勢との関係と本質的には変わらない。

 

 現時点で一色に可能なのは異性を使うことであって、異性との仲を深めることではない。何かをしてもらって何かを返すという対価を通した関係しか築けない今の一色を、三浦が警戒することはない。

 

 だが、長年伸び悩んでいた才能が突然開花することもあると三浦は知っている。今は著しく偏った形だが、一色の対人関係の才能が開花した時にその魅力に抗える男性がどれほどいるのかと考えると、三浦もうかうかしてはいられない。

 

 ふと由比ヶ浜のことを思い出して、三浦は更に気持ちを引き締める。現時点で一色は八幡を歯牙にもかけていない。おそらくは点としての認識に止まっていて、彼が何をしたとか彼を取り巻く人間関係がどうといった情報の羅列を知っているだけで、彼という存在のことは何も知らないのだろう。

 

 だが、もしもそれらの点が繋がる事があれば。単独の情報にはそれほど心を惹かれなかったとしても、それらが全て特定の一人の人物に帰結すると気付いてしまえば、その時に彼女の心にどんな感情が芽生えるのかは予測が付かない。願わくば由比ヶ浜のためにも、一色には八幡という存在に気付かないままでいて欲しいと三浦は思った。

 

 

 葉山のことをより深く知るために協力し合うこと。引き続きクラスと部活とでお互いが葉山と過ごす時間を尊重し合うこと。葉山と付き合えると思った時には、個々で勝手に動いても構わないこと。いずれかが無事に付き合えた時には、潔く諦めること。

 

 これらを改めて確認して、三浦と一色の対談は終わった。

 

 

***

 

 

 少しだけ時間は遡る。引率の教師から許可を得て、キャンプファイヤーを早めに切り上げた留美は、同じ班の四人を引き連れて宿泊室へと戻った。道中は誰も口を利かず、留美の後ろを少し距離を開けてついてくるだけだった。

 

「先に寝るから」

 

 怒ったような泣き出しそうな声で、今日の昼まではリーダー格だった女の子が誰にともなく宣言して、そのままベッドに潜り込んだ。ゲームではフランス担当だった彼女は最後まで文句を口にしていたが、全体に向けてゲームの結果が知らされ多くの小学生が留美を祝福する光景を見てからは黙り込んでしまっていた。

 

「今日はもう、寝たほうがいいよね」

 

 ゲームではトルコを担当していた女の子が続けて口を開いた。リーダー格の女の子に次いで発言権があり、留美がハブられるようになるまでは仲が良かった彼女は、今さら自分に言えることは何もないとでも考えているのか、苦しげな表情を浮かべていた。

 

「あ、じゃあ……」

 

「お、おやすみ」

 

 残りの二人も遠慮がちに言葉を発して、部屋の中は沈黙に包まれた。

 

「……みんな、おやすみ」

 

 すぐには関係が戻らないとしても、根気強く「やり返すつもりはない」ことを伝えて行かねばと考えながら、留美はこの日は「誰も仲間外れにする気はない」という気持ちだけを伝えた。

 

 

 こうして、合宿の二日目は波瀾万丈な展開を見せつつも、何とか無事に終わった。




この二週間ほどで急に慌ただしくなって来て、帰宅時間も書く時間をどの程度確保できるかも、正直その日にならないと判らない状況です。
なので確約はできませんが、次回は金曜か最悪でも土曜に更新できるよう頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/26,7/28)


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18.とにもかくにも彼らは無事に合宿を終える。

今回のお話で本章は完結です。

以下、前回までのあらすじ。

 留美の問題がひとまず山場を越えたことで、中高生たちは各々の問題と向き合っていた。この合宿を通して、少しずつ彼らの関係にも変化が生まれ始めていた。



 翌朝、小学生たちは体育館に集まって、壇上からの説明に耳を傾けていた。本来なら荷造りや大掃除、使用した寝具などを片付ける時間帯だったのだが、予定は大幅に変更になっていた。

 

「なんか大がかりな話になってますね」

 

「……誰のせいだと思っているのかね?」

 

 体育館の隅のほうでは、適度に散らばって中高生たちも控えていた。その中にいた比企谷八幡がぼそっと感想を述べると、横に立っていた平塚静が呆れた口調で応じる。昨夜から彼には色々と言いたいことが山積みだったので、近くにいるようにと厳命していたのだった。

 

「最初はあの班だけに話をすれば良いやって思ってたんですけどね」

 

「こっそりと呼び出すわけにもいくまい。それに全体にとっても大事な話になるはずだよ」

 

「まあ、焚き付けた自覚はあるので文句は言いませんけど。昨日の今日で、よくここまで話がまとまりましたね」

 

「打ち合わせを重ねて形式を整えて、引率の先生がたが頑張ってくれたおかげだよ」

 

 軽い口調で教師は言うが、八幡はどこか納得しがたい気持ちがあった。それは表情に出さずとも平塚先生にはお見通しで、わざとらしく息を吐き出してから彼女は言葉を続ける。

 

「君はおそらく『今頃になって動いても』と考えているのだろう?」

 

「まあ、そうですね。あれだけ見て見ぬ振りをしておいて、今さら偉そうな顔で動かれてもなぁ、とは正直思います」

 

「そうだな。ただ、大人とて万能にはほど遠いのだよ。できないことも多いし、無力感を感じる頻度は君たちと変わらない。むしろ君たち以上かもしれないな」

 

「それを聞くと、大人になりたくないですね」

 

「時の流れは平等だから、嫌でもなるしかないんだがな。……話を戻そうか。君たちが問題の中心に切り込んで、全体の雰囲気を変貌させたからこそ介入の糸口が生まれた、とは考えられないかね?」

 

「そう言われるとずるいというか、そんな程度では乗せられねーぞって身構えたくなりますけど」

 

 八幡の捻くれた受け取り方に苦笑しながら、教師は言葉を続ける。

 

「いずれにせよ、動ける時というのは限られているのだよ。我々に可能なのは、その時を見逃さないように待つことしかない。介入すべきだと分かっているのに手が出せない時ほど虚しいものはないと、昨夜誰かが呟いていたよ」

 

「それって、責任逃れってわけでもなさそうですね」

 

「私も正直、昨日の昼にはそれを疑いかけていたのだがね。昨夜の動きようを見ると、慎重に我慢を重ねていたのだなと受け取れたよ。ダメな時に動いても、逆効果にしかならないからな」

 

 教師にそう言われて、八幡は反射的に古い記憶を思い出した。いや、古いと言ってもせいぜい一ヶ月と少し前のことだ。由比ヶ浜結衣と決別していた時期に戸塚彩加と一緒にムー大に行って、たしか同じような話をしたはずだと八幡は考える。

 

 かつての雪ノ下雪乃が「敬して遠ざけられる」状態だったと葉山隼人から聞いて(二人は今もそれが去年の話だと思っている)、戸塚は八幡に尋ねたことがあった。もしもまた同じような状況に陥ったら、どう助ければ良いのかと。その時に八幡が口にした答えが、今の平塚先生の発言と重なったのだ。

 

 過去の自分の発言を八幡は思い出す。たしか「ダメな時はどう動いてもダメ」だと、「動くべき時が来たら容赦なく全力で動くべき」だと、偉そうにそんなことを言ったはずだ。あの時も今も戸塚の優しい性格は変わらないなと思いながら、八幡は教師の言葉を再び自分の中で噛みしめる。

 

 自分がしたことも、引率の教師たちがしたことも、動くべき時に容赦なく動いた点では変わらない。それでも何だか上手いタイミングで手柄を掠われたような気がするし、そもそも教師という存在を信用したくないという気持ちも根強い。だがその例外が、信頼しても良いと思える教師が言うのだから、ここは大人しく受け入れておくべきなのだろうと八幡は思った。

 

 

「しかし、堂々としたものだな」

 

「大勢の前で喋ることに慣れてきたんじゃないですかね」

 

 二人の視線の先では、川崎沙希が塾の説明を行っていた。彼女の弟や八幡の妹が通っている塾で英語教師のバイトをしている川崎は、新たに小学生向けの英語のクラスを開設したこと、その勧誘に来たことを説明していた。

 

 

***

 

 

 雪ノ下と一緒にいったん総武高校に帰った時に、八幡は部室の前で待たせていた川崎と三人で打ち合わせを行った。八幡の当初の案では留美だけに、あるいは問題の班の子供たちだけに川崎が話しかけて塾へと誘ってもらう形だったが、それでは唐突すぎるし相手も要領を得ないだろうと反対された。

 

「じゃあいっそのこと、塾として公式に小学生向けの授業を開いたらいいんじゃね?」

 

「比企谷くん、そんなに簡単に実行できることではないと思うのだけれど」

 

「あんたは何か良い案でもあるのかい?」

 

 あの時の会話を八幡は思い出す。我ながら風呂敷を広げたものだと呆れながら。

 

「いじめの話の延長みたいなもんだけどな。小学生は今年度で卒業だから、俺らと違って来年三月にはリアルに戻れるはずだろ。でもあっちに帰っても、この世界に捕らわれたって肩書きはついて回ると思うんだわ」

 

「……たしかに、新たないじめの要因になる可能性は大いにあるわね」

 

「そんな時に、この世界に関係した連中で集まれる場が他にもあったら、なんてか心理的に助かるんじゃね、って思ってな」

 

「つまり、リアルでも継続することを前提に新しいクラスを開設するってことかい?」

 

「継続もだし、もっと色んな塾とかを自由に行き来できる形にしたら、いじめとかが起きそうになってもすぐに環境を変えられるだろ?」

 

「少し話を整理したほうが良いわ。比企谷くんの今の話は、この世界に捕らわれた子供たちの内部でいじめが起きた場合ね。さっきの話は、外部から差別を受けた場合だったわね。その二つの効果を狙っていると考えて良いのかしら?」

 

「あと、塾としてもこの世界に巻き込まれたことで収入もがた落ちだろうし、経営とか大変だろうからな。小学生のうちからこの世界で囲い込んでおくと、何かと都合が良いんじゃね?」

 

「経営陣に相談してみないと、バイトの身では何とも言えないけどさ。今みたいに言って説得したら、新しいクラスを開くのも難しくない気がするね」

 

「とはいえ比企谷くんの考えだと、小学生を特定の塾に独占させるつもりはないのでしょう?」

 

「それは追々って感じだな。普段の顔ぶれと付き合うしかない状態と、一つでも他に違う関係性がある状態とでは、それだけで気持ちが全然違うだろうしな」

 

 八幡の提案は、もしもリアル世界であれば生徒の取り合いに繋がって話が簡単には進まなかったかもしれない。しかしこの世界では教師の数が圧倒的に不足していた。生徒は初日に揃ってログインしたが、教師は授業がない限り、そしてこの世界への関心が強くない限りはログインしなかった者も多かったのだ。

 

 たとえ生徒が数人でも数十人でも、教科別に最低限揃えるべき教師の数に変化はない。ゆえにどの塾でも一人の教師が多数の教科をかけもちしたりと、自転車操業で何とかやり繰りしていた。

 

 それでも他の塾との協力に踏み切れなかったのは、ひとえに経営の問題だった。生徒を分け合うことで現場の負担は減っても、月謝が減ることで経営が成り立たなくなってしまえばどうにもならない。

 

 川崎が持ち帰った提案を聞いて、更には平塚先生たちと話を重ねる中で、塾の経営陣は高校生たちが思い付かなかった一面、すなわち評判という点に注目した。川崎はいじめの具体的な話を出さなかったが、一般論として「生徒たちの閉塞しがちな関係性を広げる効果」は伝えた。経営陣はそれを宣伝に活かそうと考えたのだった。

 

 業務に追われ時間の余裕がないとはいえ、バイトの川崎を説明に来させた辺りに、新しく開設する授業への塾の本音が垣間見える。経営陣としては「この世界で経営よりも生徒を重視した取り組みを初めて行った」という評判を得て、あわよくば寄付などの収入を得るのが主目的で、授業内容は程々で良いと考えていた。とはいえそれは相手側の要請も受け入れての結論で、好きこのんで手抜きをしようとしたわけではない。

 

 小学生を引率する教師たちとしては、同様の評判を得られる上に、授業が程々なら生徒を川崎の塾に奪われる心配も少なくて済む。実利的な面で相手と思惑が一致したこと・共存のめどが立ったことに加えて、教師らは目の前でいじめが行われていても何もできなかった無力感を抱えていただけに、変化をためらわなかったことも大きかった。

 

 かくして、川崎の塾と、小学生を引率する教師たちと、いじめの再発を心配する平塚先生や八幡たちと、いずれの三者にとっても満足がいく形で話がまとまって、この説明会が行われることになったのだった。

 

 

***

 

 

 川崎の話が一通り終わって、今は質問を受け付ける時間になっていた。質疑に移る際に、今後は塾に限らず習い事なども積極的に紹介していくと教師が口にしたために、体育館は全体的にざわついた雰囲気になっていた。そんな中で、英語に興味のある小学生たちが熱心に質問を投げかけている。

 

 鶴見留美は壁に近い位置で同じ班の子供たちと輪になって座っていた。今日になっても必要最低限の会話しかできておらず、班の中では閉塞感が漂っていただけに、他の塾で授業を受けるという選択肢は彼女らにとって魅力的に思えた。しかし自分だけならともかく、この中の誰か一人でも一緒に行くのであれば状況は同じだと、諦めたような空気が辺りを支配していた。

 

「こんにちはー。ちょっと良いかな?」

 

 そんな重苦しさをものともせず、比企谷小町が班の中にずかずかと入って来た。雪ノ下には昨夜「上手く機会を見付けて」などと言っていた気がするのだが、正面から堂々と乗り込む小町だった。兄がハラハラしながら観察しているのを肌で感じつつ、小町は小学生の返事を待たずに話を続ける。

 

「昨日のゲームのことを教えて欲しいのに、あの二人って口が堅いっていうか、ぜんぜん喋ってくれなくてさ。どんな感じでゲームが進んだのか、お姉さんに教えて欲しいなーって」

 

 細かな部分で工夫をしながら、小町は珍しくお姉さんぶった話しかたをしていた。詳しい話を聞いていないことにして、彼女らが中高生や教師から断罪される不安を少しでも和らげようと図りつつ、小町は少しずつ標的に近付いて行った。

 

「あ、でもゲームだからって、負けた話をするの嫌だよね。たしか、勝ったのは鶴見さんだったっけ。他の人には聞こえないようにするから、ちょこっとだけでも話して欲しいなーって」

 

 元気よく話しかけてくる小町の勢いに圧倒されながら、留美は班の女の子たちを順に眺める。勝手にすればとでも言いたげに目を逸らす者、力なく頷く者、慌てて目を逸らす者たちを確認して、留美は口を開いた。

 

「じゃあ、ちょっと離れた場所に行きましょうか。いちおうほかの人には会話が聞こえない設定にしますね。……これでいいですよ」

 

「うん、ちゃんと設定できてるね。改めましてこんにちは。八幡の妹の小町です!」

 

「えっ。妹って、八ま……ひ、ひき……あの男の人の妹さんですか?」

 

「あー、うん。お兄ちゃんが小学生に名前で呼ばせてるって、事前情報にはなかったけどなー。ま、遠慮しなくても大丈夫だよ。小町も小町で良いからね!」

 

 少し横を向いて呆れた顔になりながらも、小町はにこやかな笑顔に戻して留美に語りかけた。

 

「えっと、小町さんは八幡……さんの妹さんなんですね」

 

「呼び捨てって情報も聞いてないなー。ちなみにフルネームは比企谷八幡だから、覚えておいてね!」

 

 少し濁った目で遠方の兄を一瞥して、気が済んだのか小町は再び笑顔で話しかける。比企谷という姓を教えておけば、それに続けて自分の名前を並べてくれそうだなと思いながら。

 

「比企谷……。その、お兄さんにはお世話になりました。まだ問題は残ってますけど、前と比べたら何とかなるかなって思ってます」

 

「そっか。良かったね」

 

 比企谷という姓をぽつりと呟いて、すぐに我に返った留美は丁寧なお礼を口にする。それに対して小町はさらりと返事を述べた。そのまま小町は話を続ける。

 

「雪乃さんって言って分かるかな。雪乃さんとかお兄ちゃんには話しかけにくいだろうからって、小町が仲介役をお願いされたのね。だから、メッセージとか何でも気軽に送ってね。これがさっき話しかけた目的。正直に言うと、ゲームには別に興味がなかったりして」

 

 可愛らしく舌を出す小町につられるようにして、留美もまた強張らせていた表情を柔らかくする。そのまま二言三言と言葉を交わして、二人は会話を打ち切った。

 

 小学生の輪の中に戻る留美を見送って、小町はそのまま兄のところに行こうとする。だが、小町を呼び止める声があった。

 

 

「その、すみません。もう少しゲームの話をしてもいいですか?」

 

 声を上げた小学生は留美を見ようとはせず、今にも裏切り者と叫び出しそうな子には寂しそうな眼差しでそれを否定して、他の二人にも頷きかけた後で小町に近付いて来た。

 

「うーんと、じゃあこっちで話そっか」

 

 先ほど留美と話していた辺りに戻って、今度は小町が音声の設定をして、小学生に優しく問いかける。

 

「話したいのは、ゲームの話じゃないよね?」

 

「ごめんなさい。る……鶴見さんのことで、でもなんて言ったらいいのか……」

 

「名前で呼ぼうとしたってことは、仲が良かったんだね」

 

 小町は何の気なしに口にしたことだったが、小学生の女の子は途端に顔をうつむけて辛そうにしている。それを見た小町は冷静に話しかけた。

 

「余計なことを言っちゃったね。続けて?」

 

「いえ。その、言いわけをしたいわけじゃないんです。けど、なんであんなひどいことを、る……鶴見さんに言ったのか、自分でも分からなくて、こわくて……」

 

「誰も聞いてないし、留美ちゃんで良いんじゃない?」

 

「いえ。名前で呼ぶような資格なんて、もう無いと思います」

 

 実のところ小町は行きがかり上しかたなく話に応じただけで、長引かせる気はなかった。しかし諦めの色が濃いこの発言を聞いて、ようやく小町はすぐ横の小学生ときちんと向き合った。あえて強い口調で小町は自分の意見を述べる。

 

「友達に資格がいるとか考えるほうが、間違ってるんじゃない?」

 

「でも、あれだけひどいことを言ったのに、自分では分かってなかったなんて……」

 

「どんなことを言ったの?」

 

「えっと、『サボりがバレても鶴見のせいだから、班のみんなを巻き込まないで』とか、今思えば突き放すようなことばかり言っちゃってて……」

 

 論理を展開するのは得意ではないが、勘が鋭い小町は目の前の女の子の気持ちがそのまま理解できた。それをどうまとめたら良いのかと少しうなり声を上げていた小町だったが、不安そうな表情を見て口を開く。

 

「今は違うって分かるけど、その時はそれが正しいって思ってたんだよね。……小町もさ、同じ経験があるよ」

 

「お姉さんも?」

 

「うん。しかも一昨日」

 

 むすっとした表情の小町を、女の子が驚きの目で見ている。なんでこんな話を小学生に聞かせる展開になってるのかなと、半ば自嘲しながら小町はゆっくりと話を続ける。

 

「どう言ったら良いかなー。せっかく良い友達ができたんだしこれぐらい我慢してって言いながら、みんなでいじってた、みたいな?」

 

「あ……少しぐらいがまんしたらって思ってたの、同じかもです」

 

「そっか。その時は、あっちが勝手なことを言ってるように思えてね。自分のほうが正しいのにどうして素直に従ってくれないんだろうとかさ」

 

「それも分かるかもです。早くもとに戻って欲しいって思いながら言ってたっていうか。向こうが意地をはってるから、こっちもきびしいことを言わなきゃって……」

 

 揃ってため息をついて、小町は苦笑いを浮かべたまま傍らの小学生に話しかけた。

 

「そんな感じだから、一度間違っただけで資格がどうって、そこまでは思わなくて良いよ。反省はちゃんとするべきだと思うけどね」

 

「そう、でしょうか……。でも、なぐさめてもらいたかったわけじゃないんです。前みたいな関係には戻れなくても、せめて同じようなことはしたくないなって。でもどうしたらいいのかなって」

 

「さっきも言ったけど、小町がしくじったのは一昨日だからね。そんな秘訣とかあるなら小町が知りたいよ」

 

「ですよね……」

 

「あー、もう。じゃあ特別に、秘訣を伝授しちゃおう。えとね、『自分の行動に責任を持って考え続けていれば、間違った思い込みはいつか気付ける』って、偉い人が言ってたよ」

 

「えっと、『行動に責任を持って考え続けること』ですね。むずかしそうだけど、やるしかないかぁ……」

 

「小町の課題でもあるから、簡単にやられるとこっちも困っちゃうけどね。まあ、話を聞いた仲だし、何かあったら連絡してきても良いよ」

 

「……はい。もしもあの子が困ってたら、その時はおねがいします」

 

 こうして二人の話は終わった。班に戻る女の子を見送って、「何だかんだで小町も甘いなー」と内心で呟きながら、小町は肉親の待つ場所へと歩いて行った。

 

 

***

 

 

 小町が留美と、更には同じ班の小学生と相次いで会話をしている様子を窺いながら、八幡は考え事に耽っていた。そんな八幡に、並んで同じ光景を見ていた教師が再び話しかける。

 

「君は先ほど、教師を信頼していないような口ぶりだったが。当事者以外の小学生も信頼には値しないと考えているのかね?」

 

「まあ、そうですね。いじめには参加してないって言っても、黙って見てるだけでも同じだろって正直思いますからね」

 

「ふむ。加害者と被害者の他に傍観者が存在している形だな。それは加害者と同罪だと」

 

「昨日は傍観者の雰囲気をぶち壊して、被害者と加害者の関係を一気に逆転させることができましたけど。でも、あんな風に掌を返されるのは、見ていて楽しいもんじゃないですね」

 

 ゲームが終わった後で留美に親しげに話しかける大勢の小学生を思い出して、八幡は苦々しげに言い放つ。自分がそう仕向けて、彼らを利用する形で問題の解決を図っただけに、嫌悪感をストレートにはぶつけられないもどかしさが八幡を苛立たせる。

 

「あの被害者の女の子は、今後は被害者にも加害者にもならないと私は思うのだが?」

 

「俺もそう思いますけど、どういう意味ですか?」

 

「では彼女は傍観者になるのではないかね?」

 

「あー、いや。あいつなら傍観してないで、行動に出るんじゃないですかね」

 

「なるほど。それを仲裁者と呼ぶのだが、では傍観者と仲裁者の違いはどこにあると思うかね?」

 

「それは……個人の違いじゃないですかね」

 

 八幡の答えに満足そうに頷きながら、教師は話を続ける。

 

「君は一昨日の晩に、『同級生の大部分とは仲良くできないけど、ごく一部とはそうじゃない』と言っていたな。だが一年前には、君はそのごく一部ですらも大部分と同じだと考えていたはずだ。違うかね?」

 

「気付いてないだけで、傍観者の中にも仲裁者がもっと存在してるってことですか?」

 

 痛いところを突かれて、八幡は何とか先回りしようと話を一気に進める。生徒の健気な反抗に苦笑しながら、教師は口を開く。

 

「我々の仕事は、傍観者の中から仲裁者が一人でも多く出やすい環境を作ることだよ。君も知っているように、漱石は普通の人間が『急に悪人に変わるんだから恐ろしい』と書いた。だが、そこで多くが善人に変われるような、そんな場を整えられたら理想だと私は考えているのだがね」

 

「要は状況次第で、普通の人が悪人にもなれば善人にもなると。多分まだ気にしてるだろうし、小町にはその話は言わないで下さいね。なんであのとき悪人に、とか考えそうですし」

 

 自分の中では大したダメージもなく解決した話なのだが、妹はまだ引き摺っているのだろうと考えてこう口にして、八幡はすぐさま後悔した。隣では彼のシスコンぶりを見た教師が笑いをかみ殺している。

 

「失礼。悪いことではないが、君たち兄妹はお互いに過保護なのかもしれないな」

 

 拗ねているのか反応を寄越さない八幡を横目で眺めて、平塚先生はそのまま言葉を続ける。

 

「それと比べると、君がゲームの時に雪ノ下を頼ったこと、ゲームの準備をする際に後を由比ヶ浜に託したこと、今日の説明会を実現させるために川崎を頼ったことは、確かな進歩だと私は思うよ。先日は『君自身が気を遣いすぎているのではないか』と指摘したが、それが役に立ったのなら嬉しいな」

 

「元ぼっちなので頼れる相手が少ないんですよ。それに、あいつらに気を遣うよりも結果を出したかったですし」

 

「どんなに発想が良くても、頭の中で止まっている段階では意味を持たないからな。当事者の状況は打破できたし、小学生全員が外部への繋がりを得られた。君はちゃんと結果を出したと私は思うよ」

 

「場の空気を変えるとか、趣味を紹介して世界を広げるとか、他の連中が言ってたことの受け売りですよ。ゲームも雪ノ下がいなかったら酷い展開になってた可能性がありますし」

 

「ふむ。そこは少しお小言を述べようと思っていたのだが、ゲームに関して私が言うことは無さそうだな。それと、思い付いた切っ掛けは何であれ、それをプランの形にして無事に遂行できたのだから、今日ぐらいは胸を張ったらいいさ」

 

 照れているのか自己評価が低いのか、いずれにせよ自分にとっては自慢の生徒の一人なのだから、もっと自覚を持って欲しいと平塚は思う。()ぼっちと自称する辺りに進歩は見られるが、これは二学期の課題だなと、教師は心の中でメモをしたためた。

 

「元ぼっちが二学期にはどこまで友人を増やすのか、今から楽しみだな」

 

「どうですかね。友人とか、大抵は向こうから却下されそうな気がしますけどね」

 

「雪ノ下や由比ヶ浜を始め、今や多くの例外を見てきただろう?」

 

 そう言われて八幡は閉口する。だがたとえ相手が彼女らであっても、出会う場面が違っていればやはり却下されたのではないかと八幡は内心で考えていた。

 

 話が終わったのか、留美たちから離れてこちらに近付いてくる小町を見ながら八幡は思う。もしも留美の年齢の時にあの二人と会っていたら、どうなっていたのかと。

 

 もしも彼女らと同じ小学校だったら。そう考えて八幡は自嘲する。おそらく助けられて終わるだけだろうと。それ以上の関係など生まれなかっただろうと。雪ノ下の強さも由比ヶ浜の優しさも、おそらくは生来のものだ。だが今の自分が武器にしているものは、ぼっちの時代に培ったものがほとんどだった。それらを持たない八幡に、彼女らが興味を示すことは無かっただろうと。

 

 ゆっくりと自分に向かって妹が近付いてくる。ぼっちになる以前から妹が懐いてくれていたことに、彼の魅力はぼっち時代に培ったものだけでは無いことに、八幡はいまだ気付いていない。

 

 

***

 

 

 無事に説明会も終わって、川崎は慌ただしく塾に帰っていった。経営陣に結果を報告して、すぐに取り掛かるべきことがたくさんあると彼女はぼやいていたが、自分が同級生の力になれたことや仕事への充実感などで川崎の表情は明るかった。

 

 小学生たちの退村式を見守って子供たちが乗り込んだバスを見送ってから、中高生たちも撤収の準備に入った。全員を乗せてやろうと誘う教師の申し出をやんわりと断って、葉山は来た時と同じ面々を引き連れてバスと電車で帰路に就いた。

 

 往路のメンバーに八幡を加えて、残った一同もまた帰宅の途に就いた。道中は順調で話も尽きず、彼らは集合場所だった駅前まですんなりと移動した。そこで誰が待ち受けているのかも知らず。

 

 

 駅前のロータリーでワンボックスカーを止めて、一行は車を降りた。そこに送迎リムジンが音もなく近付いてくる。その車に八幡は見覚えがあった。

 

「はーい、雪乃ちゃん」

 

「わざわざこの車を選択するとは、趣味が悪いわね」

 

 運転手にドアを開けさせて後部座席から登場したのは雪ノ下陽乃だった。そんな姉に向けて雪乃がため息混じりに苦言を述べる。それによって陽乃の意図を理解した八幡は、黙って推移を見守ることにした。だが。

 

「……ふぅん。雪乃ちゃん、事故の件は上手く話を付けたんだね」

 

 陽乃の整った外見に驚いている由比ヶ浜を一瞥で済ませ、八幡には楽しそうな顔を見せた上で、陽乃は状況を把握した旨を妹に告げる。一瞬にして主導権を取り戻した陽乃は、そのまま戸塚や小町には目もくれず旧知の仲に話しかけた。

 

「静ちゃん、お疲れー。アップデートの話は聞いてると思うけど、リアル世界とビデオ通話ができるようになって、お母さんが早く雪乃ちゃんを連れて来いってしつこくてさ。もう解散だろうし問題ないよね?」

 

「陽乃、少し落ち着きたまえ。部の合宿で二泊三日をともに過ごしたのだから、名残を惜しむ時間ぐらいは待てないかね?」

 

 リムジンを見せて主導権を握るつもりが失敗に終わって、やはり目の前の教師やここにはいない弟分から得た情報だけでは現実と大きな乖離があると陽乃は判断した。ららぽーとでの遭遇時と同じ結論に至った陽乃は、部活での妹の様子をごく控え目にしか教えてくれない平塚に軽く意趣返しをするつもりで口を開く。

 

「そりゃあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、名残を惜しむぐらい仲良くなってくれたのは嬉しいけどさ」

 

 一同がこの世界に巻き込まれる直前に、目の前の教師と電話で話した時のことを陽乃は思い出していた。妹と事故の被害者との顔合わせがつつがなく終わったと、報告を受けた時のことを。随分と仲が良くなったものだと楽しそうに二人を見やりながら、陽乃は拗ねた口調を取り繕いつつ爆弾を投下した。

 

「……何を言っているのかしら?」

 

「説明しないと解らないのかな。雪乃ちゃんが事故のことを引き摺っていたから、なら当事者どうしで顔を合わせてみたらどうかなって、静ちゃんに提案したのがお姉ちゃんだったのです」

 

「陽乃、その辺りにしておきたまえ。陽乃の提案は事実だが、比企谷を奉仕部に入れるよう取り計らったのは私だよ」

 

 平塚先生はそう言ったものの、意外な事実を突き付けられてさすがの雪乃も驚いたのか声が出ない。八幡も由比ヶ浜も沈黙したままで、戸塚や小町は口を挟むこともできず黙って推移を見守るしかなかった。

 

「じゃあそういうことで、雪乃ちゃんは連れて行くね。……お母さんが待ってるよ」

 

 とどめとばかりに母に言及して、陽乃は固まったままの雪乃をリムジンに乗せると自らもそれに続いた。呆気にとられた一同を尻目に、車は滑らかに動き始め、すぐに視界から消え去った。

 

 

***

 

 

「雪乃ちゃん、ごめんねー。実は仕組まれてたって知って、驚いちゃった?」

 

 車内では陽乃が雪乃に話しかけていたが、雪乃は反応を見せなかった。ちょっと効果が大きすぎたかなと陽乃は少しだけ反省する。こんな所で使ってしまわないで、もっと面白い場面まで温存したほうが良かったかもと。

 

「これもお姉ちゃんの愛情だと思ってさ。実際に比企谷くんと仲良くなれたし、良かったじゃん」

 

 だが陽乃は勘違いをしていた。確かに雪乃は事実を知らされて、更には()()()の話を出されて完全に後手に回ってしまったが、それでも白旗を揚げたつもりはなかった。

 

 反応を示さない雪乃に話しかけるのは飽きたのか、陽乃は何か読み物を始めようとしていた。そんな姉を横目で窺いながら、雪乃はゆっくりと考えを進める。

 

 あの木々に囲まれた空間で、雪乃は八幡と約束したのだ。彼が真剣に向き合った失敗は、それを見ていた自分も乗り越えると。あの時に想定していたのは今の状況ではないのだが、だからといって今を例外として扱えるほど雪乃は大人しい性格ではない。

 

 由比ヶ浜の誕生日にあった出来事を雪乃は思い出す。あの日に彼が語ったこと、仕組まれた状況を目にして彼が考え、悩み、そして得た結論を雪乃はつぶさに思い出すことができる。ならば何も問題は無い。自分もまたこの状況を乗り越えることができると雪乃は思う。

 

 そもそも、と雪乃は考えを続ける。昨夜小町に話した通り、自分と八幡の関係は事故の日にまで遡るのだ。決して姉に橋渡ししてもらって生まれた関係ではない。百歩譲って姉のおかげという部分を認めたとしても、その後の関係を築いてきたのは自分たち三人だ。この程度の貢献で姉に感謝を捧げていては、()()()になど一生逆らえないではないかと雪乃は思う。

 

「姉さん。……些細な貢献を多大に喧伝して、気が済んだかしら?」

 

「……そっか。比企谷くんのことを信頼してるんだねー」

 

 だが雪乃は姉を甘く見ていた。妹が何を背負って、何に頼って優位な気持ちを維持しているのか、陽乃はたちどころに見抜いてしまった。そんな脅しには応じないと、更に気持ちを依存させようとする可愛らしい妹を観察しながら陽乃は考える。奉仕部のことは、自分が直々に把握しておく必要があると。

 

 たとえ平塚に詳細をはぐらかされても、葉山の報告に満足していなくても、今までの陽乃はそうした状況すらも楽しんで受け入れていた。そこには、自分が見ぬ間に妹が成長して驚かせてくれたら良いのにという願望も含まれていた。だが妹自身の手によるのではなく、第三者の手で変化するおそれが出て来た以上は、事前にそれを把握しておくべきだろう。陽乃や母にとって望まぬ成長にならないように。

 

 リムジンの後部座席で睨み合いながら、姉妹はいずれも来る二学期に、彼と会う日のことを考えていた。

 

 

***

 

 

「ヒ、ヒッキー。ゆきのん大丈夫かな?」

 

 雪ノ下姉妹が去ってしまった駅前で、急展開に呆気にとられていた由比ヶ浜はようやく我に返った。事が姉妹のことだけに、どこまで踏み込むべきかも分からないまま由比ヶ浜は八幡に助けを求める。

 

「ん。まあ大丈夫だろ」

 

 だが平塚先生ですらも意外に思うほどあっさりと、八幡はそう答えた。問いかけた由比ヶ浜はもちろん小町も戸塚も驚いている。

 

 だが八幡の断言には根拠があった。彼もまた一昨夜の約束を覚えているのだ。そして自分が六月にどんな状況と向き合ったのかも。由比ヶ浜をしっかりと見据えながら八幡は口を開く。

 

「お前の誕生日に、部室で話しただろ。仕組まれてた状況をどう考えるかって、俺ら三人で。あの時に一度経験してるんだから、雪ノ下なら大丈夫だろ」

 

「あ、そっか。……でも相手はお姉さんだし、ホントに大丈夫かな?」

 

「四月からずっと、雪ノ下の規格外ぶりを一緒に見てきただろ。俺らが心配するだけ無駄だと思うがな」

 

「……うん、そうだね」

 

 八幡の言葉から奉仕部の絆のようなものを感じて、由比ヶ浜は黙って頷いた。これで不安が消えたわけではないが、喜びの気持ちが今は勝っていた。自分たち三人がこの数ヶ月で積み上げてきたものを由比ヶ浜は思う。

 

 

 そんな二人を小町は微笑ましく見守っていた。昨夜雪ノ下に兄のことをお願いした小町だが、相手が由比ヶ浜でも全く異存はない。それに、今語られていた三人の関係性に小町は羨ましさを感じていた。

 

 出発時、兄が仲間を得られたと喜んでいた時のことを小町はあえて思い出す。兄のように自己をきちんと分析できるわけではないが、自分という要素がその喜びに多く反映されていたのが問題だったと小町は考えていた。

 

 ただ単純に兄の状況を喜ぶのではなく。むしろ喜ぶ対象は「仲間に恵まれた兄を持った自分」だったのではないかと小町は疑っていた。だから兄自身の気持ちよりも周囲の理屈を優先して、いじりを受け入れて当然という発想にすら繋がったのではないかと。

 

 そういえばあの時は「自分の教育の影響も大きかった」と小町は確かに考えていた。だから集合時の不満そうな表情を見て、小町は内心で呆れていたのだ。「人の努力も知らないで」などと考えながら、小町は兄にさっさと諦めるよう促したのだった。

 

 兄譲りの面倒な思考の罠に嵌まりかけていた小町だったが、そんな小町だからこそ、兄に言われたこともまた心にしっかり刻み込まれていた。ぼっち気質の兄に仲間ができたことをどう受け止めたら良いのか分からなかった。未経験だから仕方がない。兄は自分にそう言ってくれたのだ。

 

 そして今。この胸に抱いている羨望の気持ちは、自分とは完全に切り離されたものだと小町は思った。正直それを認めるのは少し寂しい。兄が自分から遠ざかって行くような気持ちになる。だが「仲間に恵まれた兄」には少なからず貢献できたと考えている小町でも、この三人の関係性に貢献できたとはとても思えなかった。それほどに、小町の目にはこの三人の関係が特別なものに見えたのだ。

 

 だからこそ、今のこの羨ましさは純粋に兄を想っての気持ちだと言えるのだろう。慣れない面倒な思考を切り捨てて、小町は静かに笑顔を見せた。

 

 

 平塚先生もまた二人を微笑ましく眺めていた。本来は八幡と雪ノ下を引き合わせるだけの予定だったが、そこに居合わせたイレギュラーが全てを変えてくれた。由比ヶ浜が加わったことで、奉仕部は今に至る関係を築くことができたのだ。自分の貢献など些細なことだと教師は思い、元教え子にそう語りかける自分を想像する。既に賽は自分や陽乃の手を離れてしまったのだと、平塚は内心で話を続ける。

 

 

 そして戸塚は、二人を温かく見つめる二人の姿をも視界に収めていた。いつも誰かに守られて自分では行動できないことが多い戸塚は、今回の合宿でもさほど貢献できたわけではない。だが誰よりも優しい眼差しを備えた戸塚は、他人の関係性を把握するのに優れていた。

 

 去り際に見た小学生たちを戸塚は思い出す。一人は混乱で、一人は自責で、もう二人は怯懦で、関係の再構築は難しそうに見えたが、それでもあの少女の覚悟を見てしまえば、問題はいつか解決するのだろうと思わずにはいられなかった。

 

 そして今、戸塚の目の前では、親しい仲の友人たちが強固な関係性を見せてくれている。ここまでぴったりと当て嵌まる組み合わせを戸塚は他に知らない。その眩しいばかりの輝きに、戸塚は三人の関係がこのまま長く続いてくれることを願わずにはいられなかった。

 

 

 今この場に、先行きを不安に思うような要素は微塵もない。この世界で少しずつ積み上げてきた三人の関係があれば、どんな難題でもクリアできると誰もが考えていた。この合宿でもそうだったのだから、この先もそうに違いないと。

 

 彼らの心情を反映するかのように、空には雲一つ見えない。そして彼らの関係性を祝福するかのように、強い日差しが照りつけていた。

 

 

 

 原作四巻、了。

 

 原作五巻につづく。

 




その1.今後について。

 本章には、ぼーなすとらっく!(BT)はありません。原作五巻がBTに近い内容で、かつ作中で日にちの余裕がないからです。リアル事情が落ち着くまで次回更新日を確約できない状況なのが申し訳ないですが、何とか早めに戻って来られるように頑張ります。念のため、作品は一旦「完結」にしておきます。


その2.本章について。

 本章ではいじめ問題を各キャラがどう考えるかという要素を加えました。とはいえ私がいじめ問題について語れることは殆どなく、せいぜい「死ぬのはダメ」という程度です。だから作中で各キャラが語った意見は(これはいじめに限らずどんな話題でも同じですが)私の代弁ではなく「彼らが言いそうなこと」を書いたつもりです。

 留美以外の小学生の名前を出さなかったのは、本作での扱いが原作よりも酷いからです。前章の八幡や本章の葉山のように本人の成長に繋がるなら悪い扱いもありだと思いますが、ただ留美の足を引っ張るだけのキャラに成り下がっている以上、原作キャラとは別のオリキャラとして捉えて頂けると助かります。

 改めてまとめると、章の前半で中高生の関係を修正して、特に奉仕部入部の辺りを再整理して。後半で留美の問題に挑んで中高生の関係にも変化を生じさせて。最後に一巻三話で用意してあった伏線を手に登場した陽乃に反撃することで関係性に更なる変化が、という構成でした。


その3.参考書籍、あるいは読書案内のようなもの。

 いじめ問題に興味をお持ちの方々に向けて、本章を書くために読んだ五冊を私の印象を添えて紹介しておきます。以下敬称略。

・中井久夫「アリアドネからの糸」(みすず書房)
 冒頭20ページ程度を占める「いじめの政治学」の中に、いじめ問題のほぼ全てが書かれているとすら思いました。既に12話で紹介済みですが、八幡が留美に語った内容の多くは本書のおかげです。子供が読めるように平易に書き直した「いじめのある世界に生きる君たちへ」(中公)という作品もありますが、個人的には本書を子供に読み聞かせるか一緒に読むほうが良いと思います。

・なだいなだ「いじめを考える」(岩波ジュニア新書)
 本書も一冊でいじめ問題のほぼ全てをカバーできていると思いました。上記の中井が簡潔かつ深い作品だとすれば、本書は読み易くかつ深い作品と言えそうです。主に平塚先生の言動が本書の影響を受けています。ジュニア向けの新書ながら大人が読むに堪える作品だと思いますし、作中には俺ガイルの一部キャラも(地名としてですが)登場しますので、まず読むなら本書をお勧めします。

・森田洋司「いじめとは何か」(中公新書)
 いじめ問題を一般化・抽象化した形で理解したいのなら本書が一番適切だと思います。ただし硬めの新書を読み慣れていない人には少し読みにくい作品です。被害者と加害者だけではなく、周囲の環境や傍観者に目を向けた記述をする際に大いに参考になりました。

・内藤朝雄「いじめの構造」(講談社現代新書)
 紹介されている事例が豊富でそれらの解釈も興味深いものがありました。ただし事例の選択には不透明な部分があり、過激なもの・都合の良いものを集めているとの批判は出そうです。上記の中井の作品にも言及があり、その引用箇所および解釈に私は少し疑問を覚えました。著者のノリやネーミング(「破壊神と崩れ落ちる生贄」等々)も合わない人は合わないかと。主に八幡の過去を補強するのに役立ちました。

・尾木直樹「いじめ問題をどう克服するか」(岩波新書)
 大津の事件を詳しく知れることと、事前の知識がなくても読み易いという利点はあります。しかし教育制度や海外の事例に言及しても内容はいずれも空疎で、理想論に過ぎる印象でした。いじめというメジャーなテーマにも拘わらず、巻末に挙げられた参考文献の半数が自著なのを見ると、やっつけ仕事と批判されても反論できない気がします。問題をさらっと理解するには良いのかも、という感じでした。


その4.二次創作の考え方。

 最近「文字が多いだけでほぼ原作通り」というコメントを添えて低評価を頂きました。

 この作品では登場人物を少し普通寄りに改変した程度で、概ね原作と地続きのキャラだと思っています。物語の要請上、多少の主人公補正はありますが、特徴的だけど現実にも居そうな高校生という範囲に何とか収まるようにと考えています。なので作中で各人が失敗をしたり、時には三歩進んで二歩下がることも珍しくありません。

 そして同じキャラが同じような場面に遭遇して行動する以上、原作からの大幅な逸脱はありませんし、その中で微妙な変化が積み重なって行く様子を描きたいと思っています。原作の展開を尊重しながらも、少し違った流れから同じセリフが飛び出したり、あるいは特定のセリフが別人によって語られたり。そんな些細な違いを生み出すことに拘るのも、二次創作の一つの形ではないかと私は思います。

 だから私は「ほぼ原作通り」という批判にはお応えできません。視点を変えたり思考を掘り下げたり微妙に解決法を変更したり、「ほぼ原作通り」の展開の中でいかに自分の色を出すかを考えているからです。オリジナル展開を違和感なく書けている作品を評価する気持ちは私も同じです。しかしそうでない作品=低評価というご意見に私は同意しません。

 とはいえ上記コメントの主旨はそこではなく、おそらく「冗長で読んで面白くない」と言いたいのだと思いますし、そこは謙虚に受け止める所存です。読んで面白いと思って頂けるように、分かり易くかつ書き落としがないように、現状に満足せず少しでも良いものをお届けしたいと考えていますので、宜しくお願いします。


その5.謝辞。

 各キャラがいじめをどう考えるのか。もしも八幡が無力化・透明化という話を知っていたら。八幡はディプロマシーというゲームとどう出会いどう活かすのか。そうした仮定で話を進める際には、他の二次作品が参考になりました。事前のお知らせもなく作品名を出すのは失礼かもしれませんので、ソロで可能な趣味に没頭する八幡を描いたとある作品に、こっそり感謝を捧げたいと思います。

 またそれ以外にも、一色が出る回ではあの作品とか、城廻が出る回では、城山が出る回では、陽乃が先生が等々、直接の影響こそないものの、特定の作品を読んでいたおかげで書けたと思えた回は過去に何度もありました。それらの二次作品にもこの場を借りてこっそり感謝を捧げさせて下さい。

 そして何とか原作四巻も完結まで持って行けたのは、もちろん本作を読んで下さる読者様のお陰です。厳しいご意見を頂くと辛い気持ちにはなりますが、反応を頂けるだけでも恵まれているのだと思い直して、少しでも改善できるようにと考えながらここまで書き続けてきました。もはや気持ちをお伝えしようにも語彙が尽きてしまった気がしますが、お気に入りや評価や感想や助言を下さった方々に、更にはこの作品を見守ってくれる大切な友人にも心からの感謝を込めて、四巻の結びとさせて頂きます。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(7/28)


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原作5巻
01.さそわれて彼女らは彼の家を訪う。


お久しぶりです。
今回から原作5巻に入ります。
引き続き楽しんで頂けるように頑張ります。



 千葉村から帰ってきて一週間が過ぎた。比企谷八幡は可能な限り家の外に出ることなく、妹の比企谷小町以外とは顔を合わせぬまま夏休みをだらだらと過ごしていた。

 

「あーっ。お兄ちゃん、またソファでごろごろして。たまには外に出てみたら?」

 

「お、小町か。今まで勉強お疲れさん。コーヒーでも飲むか?」

 

「はあ……。お兄ちゃん、話題を逸らすスキルが日に日に上手くなってない?」

 

「そりゃお前、専業主夫に必須のスキルだからな。仕事疲れの嫁さんの愚痴に付き合ってたら身が持たねーだろ?」

 

 軽口を叩きながらも、八幡は文庫本を置いて軽快に起き上がるとコーヒーの支度を始めた。その行動は確かに、パートナーを支え家事を切り盛りする主夫の鑑のようだった。

 

「でもさ、お兄ちゃん。仕事をばりばりして養ってくれるお嫁さんの当てはあるの?」

 

「さあな。なるようにしかならんだろ」

 

 以前であればこの手のツッコミを受けると、八幡は口を尖らせて否定するか黙り込むのが常だった。しかし今は気持ちに余裕があるのか、妹の指摘をさらりとかわして平然としている。

 

「うーん。雪乃さんだったらお兄ちゃんを家で遊ばせておくわけないし、結衣さんを働かせて家でふんぞり返ってたらいたたまれなくなりそうだし、沙希さんだと働いてきなって家を追い出されそうだし、いろはさんならお兄ちゃんを上手く言いくるめて働かされそうだし……。無理じゃない?」

 

「おい、知り合いの名前ばっか出すなって。それに一色とか俺に興味を持つわけねーだろ」

 

「ふーん。てことは、他の三人なら可能性があるって考えてたりなんかしちゃったり?」

 

「日本語が乱れてるぞ。あいつらはそういうんじゃねーけど、あれだ。なんか想像はできるよな」

 

 明後日の方向を向いて照れながら八幡はぼそっと呟いた。そんな兄に苦笑いを向けつつ、小町は受け取ったコーヒーを一口飲んで会話を続ける。

 

「行動パターンを想像できるぐらい仲良くなれるなんて、春頃には思ってもなかったよね」

 

「そもそも知り合ってもなかったしな。考えれば考えるほど変な一学期だったわ」

 

「二学期が楽しみ?」

 

「いや、夏休みが永遠に続いてくれたら良いなって思ってるけど?」

 

「あ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだ……」

 

 そう言いつつも小町の声に呆れた色はなく、兄に向ける目は優しい。

 

「ぼっちは人が近くにいるだけでも疲れるんだわ。最近は葉山とかも教室で話しかけてくるし、沈黙は金って言葉をあいつら知らねーんじゃねーのか」

 

「こないだの千葉村で仲良くなってたみたいだし、二学期からは戸部さんも話しかけてくれるんじゃない?」

 

「マジかー。やっべー。語彙が減りそうで不安だわ」

 

 相手に応じて微妙に返事を変えてくる兄の言葉に、小町は思わず噴き出しそうになった。とはいえ申し訳ないがそろそろ時間だ。兄が大喜びして反応しそうな人物の名を出すのは避けて、小町は飲み終えたコーヒーカップを手に立ち上がる。

 

「んじゃ、そろそろお迎え、よろしくねー」

 

「ま、由比ヶ浜に炎天下で歩かせるのは可哀想だしな。ちょっと行ってくるわ」

 

 そう言って八幡はリビングから、高校の上空に位置する自分専用の個室に移動した。

 

 男女で個室を合体することはできないが、個室に招き入れることや自宅までショートカットすることは可能だ。幸い彼女は大勢の女子生徒たちと一緒に(あの時の男女比率は酷かったと八幡は思い出す)八幡の家を訪れたことがあるので、ショートカットの条件は満たしていた。

 

 個室で文庫本の続きを読んでいると、来訪者を告げる音が控え目に鳴り響いた。

 

 

***

 

 

「や、やっはろー?」

 

「なんかいつもの元気がないけど大丈夫か。夏バテとか気を付けろよ」

 

 男子生徒の個室におそるおそる足を踏み入れながら、由比ヶ浜結衣は見当違いの優しさを発揮する八幡に何と応えようかと考える。ひとまず彼女は、内開きのドアを押さえてくれている彼の横顔にちらりと視線を送ってみた。女の子を部屋に招き入れることを強く意識しているのが丸分かりのあたふたとした挙措を見て、ようやく由比ヶ浜は落ち着きを取り戻す。

 

「ヒッキーこそ、全然外に出ようとしないって小町ちゃんが心配してたよ。あ、靴をここで脱いでても大丈夫かな?」

 

「移動先がリビングだから、ここで脱いでくれると助かるな。ほれ、スリッパ」

 

 目的語を省いた自分のせいなのだが、エロい意味で受け取られていないことを願いつつ八幡はスリッパを差し出す。素直にそれを受け取って履き替えている由比ヶ浜を見て、誤解されなくて良かったと安心し同時に自分だけが意識過剰なのかと落ち込みながら、八幡は頭の中で進行しそうになる裸スリッパな妄想に必死でストップをかけるのだった。

 

 

***

 

 

 八幡に続いて由比ヶ浜がリビングに姿を見せると、冷蔵庫の中身を物色していた小町が振り返った。

 

「結衣さん、お久しぶりです!」

 

「小町ちゃん、やっはろー。ちょうど一週間ぶりだね」

 

「やっはろーです。合宿が1日からで今日はもう10日って、時間が経つの早すぎですよねー」

 

「ま、勉強のことはあんま考えすぎんなよ」

 

 受験生の小町が日にちの経過から何を考えているのかを瞬時に把握して、八幡が口を挟んだ。それで小町の心情を理解した由比ヶ浜は、この兄妹なら大丈夫だろうと笑顔で二人を眺めている。

 

「晩ご飯にはまだ早いので、お茶でもどうですか?」

 

「あ、先にサブレを出したいんだけど、いいかな?」

 

「了解です。家族旅行、楽しみですね!」

 

 この月初日のアップデートで現実世界との通信手段が確立されて、運営は矢継ぎ早にキャンペーンを打っていた。お盆の時期に合わせた旅行企画もその一つで、毎年この時期に家族旅行を行っていた由比ヶ浜は両親と相談の上それに参加することにしたのだった。

 

「久しぶりにあっちのサブレとも会えるしね。できたらこっちのサブレと会わせてあげたかったんだけど」

 

「自分じゃない自分を見たら、自我がどうなるか分からんって話だったよな」

 

「でもさ、なんでリアル側はペットOKで、こっちのペットは駄目なんだろ。お兄ちゃん分かる?」

 

「勝手な推測だけど、たぶんペットの動きとかのデータをもっと集めたいんじゃね。あっちでスマホとかのカメラで撮ってこの世界で再現するわけだから、二泊三日でもかなりのデータ量になりそうだよな」

 

「こっちだと実際に隣にいるように再現してくれるけど、あっちだとスマホ越しなんですよ。お父さん、一昨日のためにわざわざ大きなタブレットを買ったみたいで」

 

「も、もしかして小町ちゃんのお父さんって?」

 

「まあ小町を溺愛してるな。俺がドン引きするレベル」

 

「そ、そうなんだ……。じゃ、じゃあサブレを出すね」

 

 

 苦笑いしながらも、会話に区切りが付いたので由比ヶ浜はキャリーバッグを開けてサブレを引っ張り出す。今すぐにでも八幡の胸に飛び込みたいと主張するサブレを必死で宥めながら、由比ヶ浜は再び口を開いた。

 

「ヒッキーと小町ちゃんは、家族で食事したって言ってたよね?」

 

「あのホテル・ロイヤルオークラでな。最初は場違いかと思ったけど、料理は旨かったな」

 

「家族で旅行とか食事って、お兄ちゃんが中二病を発症してからは行ってなかったから久しぶりだったよね」

 

「あれは中二病っつーか、中学ぐらいになったら家族とどっか行くの恥ずかしくなるだろ?」

 

「うーん。あたしはそんなことはなかったけどなー」

 

「お兄ちゃんが出て来たから、お母さんもお父さんも機嫌良かったよね」

 

「いや、親父のほうは嫌がってただろ。なにせ第一声が『その世界で美人に騙されたら思いっきり笑ってやるからな』だったし」

 

「お父さんも捻デレだからなー。あれでお兄ちゃんのことを心配してるんだよ」

 

「だからって『そっちの世界でも働いたら負けなのか?』とか息子に尋ねることじゃねーだろ」

 

「ヒッキーのお父さん……なんか簡単に想像できる気がしてきたかも」

 

「たぶん大丈夫ですよー、その想像で。いちおう確認のために今度会ってみます?」

 

「えっ。ヒッキーのお父さんと会うって……ムリムリ!」

 

「ご希望なら母も同席させますので、いつでも言って下さいねー」

 

「おい、由比ヶ浜が困ってるからその辺にしとけ」

 

 胸の前で掻き抱かれたサブレが苦しそうにしていたが、八幡の一言のお陰で拘束が緩くなった。積年の恩に当座のお礼の気持ちも加えて、サブレは力いっぱい尻尾を振って八幡にアピールするのだった。

 

「そういや、三浦とか海老名さんに預けるのは考えなかったのか?」

 

「二人ともペットを飼ったことがないって言ってたし、ちょうど小町ちゃんとメールしてたから」

 

「ぜひ小町たちにお任せあれ、って。サブレとお兄ちゃんも、お互いに会いたがってるんじゃないかなーって思ったんだけど?」

 

「あー、まあここまで懐かれたら悪い気はしないしな。だから俺が嫌がってるんじゃないかとか余計な心配しなくていいぞ」

 

 千葉村での反省点を活かしながら兄妹が会話を進める様を、由比ヶ浜が微笑ましく眺めている。

 

「あ、そういえば結衣さんって、雪乃さんと連絡取れてます?」

 

「うん。ゆきのん、家のこととかで忙しいみたいだけど、連絡は取れてるよ?」

 

「ならいいんですけど、『今日うちに結衣さんが来るから雪乃さんも一緒にご飯どうですか?』って送ったら、『なかなか時間の余裕がなくて。ごめんなさい』ってだけ返って来て」

 

「その文面が雪ノ下の普通だから、心配しなくて良いと思うぞ?」

 

「だね。解散した時にヒッキーが断言してくれたけど、やっぱり大丈夫だったみたい。その、職場見学の時は急にテンションの高いメールが返ってきたりして、今思うとゆきのんも大変だったのかなって」

 

「まあ、終わったことだしあんま気にすんな。じゃあそろそろ料理を作ってくるから、小町は由比ヶ浜の相手を頼む」

 

「あ、あたしも手伝う。誕生日にゆきのんから貰ったエプロンも持って来たし」

 

「いや、お前は今日はお客様だからな。雪ノ下のプレゼントなら汚すのも悪いし、我が家と思って寛いでてくれ!」

 

「わ、我が家って……」

 

「うーん。お兄ちゃんって最近、天然で変な事を口にするようになったけど、大丈夫かな?」

 

 照れる由比ヶ浜を見ながら、言葉の割には全く心配を感じさせない口調で、小町はそう呟くのだった。

 

 その後は八幡手製の晩ご飯を食べて、話題が尽きないまま名残惜しくもお開きになった。再び個室経由で由比ヶ浜を見送って、こうして三人の楽しい時間は過ぎていった。

 

 

***

 

 

 その翌日、八幡は意外な人物からのメッセージを受け取っていた。海老名姫菜である。

 

『はろはろー。二学期に向けてちょっと話したいことがあるんだけど、今日とか時間ないかな?』

 

 ちょうどお昼時だったので小町に見せると、妹は自宅に招待することを提案してきた。暑い中を歩きたくないでしょ、という理由はもっともらしいのだが、引き籠もり状態で夏休みを満喫している八幡に苦言を呈していたことを思うと妹の意図が読めない。だが反論の余地もないだけに、八幡は仕方なく前日と同じようにして海老名を我が家に招き入れるのだった。

 

「小町、連れて来たぞ」

 

「はろはろー。小町ちゃんって呼んで大丈夫かな?」

 

「大丈夫ですよー。ちょっと兄の口調が移っちゃったので、海老名さんって呼んで良いですか?」

 

「うん。なんでか下の名前より上で呼ばれることが多いんだよねー。優美子ですら最初そんな感じだったし、呼びにくいのかな?」

 

「なんでか分からんけど、海老名さんのほうがしっくり来るんだよな。上条さんとかゴンさんみたいな感じかね?」

 

「ふーん、なるほどね。まあ私は別に気にしないから、呼びたいように呼んでねー」

 

「じゃあ海老名さんで。その、千葉村の時はありがとうございました」

 

 腰を落ち着けてお互いの呼び方を確認し終えると、小町はそう切り出した。首を傾げているのは八幡だけで、海老名には小町の意図が通じているらしい。

 

「あー、バレちゃったか。まあ勧誘は本気だったんだけどね」

 

「ちょっとあの絵は、その……」

 

「うん。次はもう少し控え目なやつを見せるね」

 

「いや、妹を変な道に誘わないで欲しいんですけど?」

 

 なぜか敬語になりながらも、八幡にも少しずつ経緯が読めてきた。おそらく海老名は合宿一日目の夜に、小町が由比ヶ浜や雪ノ下と合流できるように敢えて過激な絵を見せたのだろう。小町が逃げ出すほどの絵とはどんなものかと思わないでもない八幡だが、これは踏み出してはいけない道だと必死に自制心を働かせる。

 

「あの時はヒキタニくんとも合流できて、奉仕部の三人と小町ちゃんと平塚先生でじっくり話ができたって結衣が喜んでたよ」

 

「小町にとっても充実した時間になりましたし、だから海老名さんには一言お礼を言わないとなーって思ってたんですよ」

 

 八幡の抗議をさらりと流して海老名がマイペースで会話を進める。それに小町が答えることで、自宅への招待を要請した理由を八幡はようやく理解できたのだった。

 

 彼ら二人が外で会う事になれば小町は海老名と話ができず、かといって兄について行こうにもお礼を伝え終えたら話の邪魔になる可能性がある。妹はそう考えて、この家に来てもらうことを望んだのだろう。

 

 そんな八幡の推測を裏付けるように小町が口を開いた。

 

「じゃあ小町は部屋にいるので、先に用事を済ませて下さいねー。終わったらまたお話したいです!」

 

「うん。じゃあヒキタニくんと相談して、オススメの絵を見繕っておくねー」

 

「あ、それは無しで」

 

 恐ろしいほどの真顔になってそう返す小町を見て、海老名が思わず噴き出していた。噴き出すといえば鼻血だったはずの彼女を見やりながら、こんな反応もできるんだなと感心しきりの八幡だった。

 

 

「んで、二学期に向けてってことは文化祭とかか?」

 

「おー、さすがに鋭いね。話そうか悩んでたサブのほうなんだけど、じゃあそっちから話そっか」

 

「ま、話しやすい順で良いんじゃね?」

 

 今まで直接向かい合って話す機会がほとんどなかった海老名だけに、どんな口調でどんな距離感で喋れば良いのかと八幡は少し身構えていた。だが相手が気安い口調で話してくれたので少し肩の力を抜くことができた。さすがはトップカーストの一員だなと思いながら、八幡は話に耳を傾ける。

 

「えとね、例年通りだとクラスごとに出し物をするはずだよね。できたら劇の脚本を書きたいなって思ってさ」

 

「ほーん。なんでそれを俺に話すんだ?」

 

「え、だって主役だし、先に話を通しておかないと駄目じゃん?」

 

「いや、さっき話そうか悩んでたとか言ってなかったか?」

 

「だって脚本もできてないのにさ。渾身の脚本を書き上げて、それを見せながら主演をお願いするのが筋じゃん?」

 

 話しながら段々と頭が痛くなって来た八幡だった。海老名の返答を予測しながらも、彼は一縷の望みをかけて問いかける。

 

「念のために確認しておきたいんだが、それってBLがテーマじゃねーよな?」

 

「んと、BL以外に掘り下げるべきテーマなんてあるの?」

 

「駄目だこいつ……もしかして相方は葉山か?」

 

「ご名答。さすが、二人は響き合ってるね!」

 

「ねーから。つーか意味不明だから!」

 

 どこかの部長様のように片手を頭に当てて、八幡は疲れた声で話を続ける。

 

「それ、俺が却下したらどうなるんだ?」

 

「んー、別にどうも。他のキャストを募るしかないんだろうけど、その時に考えれば良いんじゃない?」

 

「なんか腑に落ちねーな。脚本を見せながらお願いするとか言ってた割に、なんか企んでねーか?」

 

「あー、そういうわけじゃなくてさ。その、ヒキタニくんは嫌がるかもだけど、結衣から少し話を聞いてるんだよね。だから本気で嫌ならそれを強制はしないよ、って感じかな」

 

「あー、由比ヶ浜から話が行ってるのは別に嫌じゃないっつーか、そこまで気を遣われるほうが嫌かもしれん。強制されるのは確かに嫌だけどな。んじゃ、脚本を見て決めるって事で良いのか?」

 

「始業式の日までには完成させるから、よろしくねー」

 

「はいよ。んじゃメインのほうに行くか」

 

 話の内容はともかく、会話がスピーディーに進むことにお互いに気を良くしながら、話は本題に移った。

 

 

「こないだの千葉村での合宿なんだけどさ。それのレポートを平塚先生にお願いされてね」

 

「たしか学校行事に準じる形だって言ってたし、形式を整える必要があるってことか」

 

「それもだけど、ヒキタニくんも文化部と運動部が予算を巡って対立してたの知ってるよね?」

 

「それがなんで……ああ。仲良く合宿しました、みたいな発表でもするのかね?」

 

「そうそう。まずは形からっていうか、融和の象徴みたいなのを発表しておくのは悪くない案だと思うよ」

 

「それは分からんではないけど、話す相手を間違ってねーか?」

 

「雪ノ下さんは色々と忙しいみたいでさ。ちょっと別件で話したいこともあるから、できれば夏休みのうちに会っておきたいとこなんだけどねー」

 

「別件?」

 

「緊急の話じゃないし杞憂に終わるかもだから、まあ良いんだけどさ」

 

 どうやら詳細を明かす気はなさそうだと判断して、八幡は意識を別に向けた。千葉村で違和感を覚えた雪ノ下と葉山の過去を海老名は危惧しているのだが、差し迫った問題ではないだけに彼女も話を元に戻す。

 

「でね、確かに雪ノ下さんと隼人くんに最初に話をすべきなんだけど。あの二人って去年から校内で注目されてたし、今さら目立つ要素の一つや二つ増えたところで、環境は変わらないと思うんだよね」

 

「まあ確かにそうだろうな。つか、その文脈だと俺の環境が変わるって言いたそうだけど、俺って所詮は奉仕部の下僕扱いだぞ?」

 

「それがそうでもないと思うんだよねー。テニス勝負の時はそんな感じだったと思うけど、5月にクラスで噂になったり、6月に部長会議を雪ノ下さんが綺麗に裁定したりしたじゃん。ヒキタニくん個人にもだし、特に奉仕部に興味を持ってる生徒はかなり多いと思うよ。それに加えて夏休みのこの話を持ち出したら、色々と動きが出て来ても不思議じゃないって思うんだよねー」

 

「なるほどな。ま、俺に興味を持つってのは無いだろうけど、奉仕部への注目度が更に高まると色々と厄介なことも出て来るかもな。あいつらが変な事に巻き込まれないように気を付けとくわ」

 

「それは過小評価だと思うけどなー。ま、前もってここまで話しておけば、ヒキタニくんなら何とかしてくれるでしょ」

 

 今までは由比ヶ浜の親友という扱いで直接の接点が無かったはずなのに、どうしてこんなに高評価なのだろうと思いながら、八幡は静かに頷いて会話を終えた。海老名の分析が正しかったと身をもって知ることになるとは、この時の八幡は夢にも思っていなかった。

 

 その後は再び小町も加わって、意外にも受験に関する有意義な話で盛り上がった。最後にこんなことを言い残して、この日のお客はまだ日の高いうちに帰って行った。

 

「優美子をおいて晩ご飯を頂くのも心配だし、結衣がいないのに二人で居座るのも悪いしね。また大勢で集まる時はよろしくねー」

 

 

***

 

 

 そしてその夜、八幡に待望のメッセージが届いた。明日の夕食は外で食べると妹に告げて、八幡は逸る気持ちを何とか抑えようと苦労しながら寝床に就くのだった。

 




5巻は急ぎ足で終わらせて6巻に入る予定です。
理想は年度末進行に入る前に6.5巻まで書き切れる事ですが、しばらくは週一更新になります。
どこかのタイミングで週二ペースに戻したいと考えつつも、無理はできないのでご了承下さい。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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02.(ブラコンと)あざとさと切なさととつ可愛さと。

前回までのあらすじ。

 夏休みを自堕落に過ごしていた八幡は、自宅に続けざまに同級生女子を迎えていた。由比ヶ浜がサブレを預けに、海老名が二学期の相談に現れて、もはやぼっちとは名ばかりの状態である。そんな八幡のもとに、翌日の予定を尋ねるメッセージが届いた。



 翌日、比企谷八幡は実にすがすがしい気分で目覚めた。午前中はテニススクールがあるので、待ち合わせは午後、各自で昼食を済ませてからという話なのだが、まだ早朝の時点で気が急いて仕方がない。

 

 今日は外で遊ぶ予定だが念のためにと、誰にともなく言い訳をしながら、八幡は朝からいそいそと働いていた。妹の部屋を除いて家中の掃除を済ませると、そのまま朝食の支度に入る。夏休みに入って以来、充実の専業主夫ぶりを見せる八幡だったが、今日ほど家事が完璧な日はなかったと妹は後に語っている。

 

 まだ寝ぼけまなこの比企谷小町を促して食事を済ませ後片付けを終えると、八幡はそのまま昼食の準備に入ろうとした。気が急きすぎである。

 

「お兄ちゃん、いつも午前中は勉強してたけど、今日はしないの?」

 

「まあな。今日に備えて昨日のうちに済ませておいたんだわ」

 

「なんだろ、この無駄な有能感は……」

 

 妹の呆れ声も八幡の耳には届かない。あえて聞かせるように大きく息をはいて、小町は兄に問いかける。

 

「じゃあ待ち合わせの時間まで予定は無いんだよね?」

 

「あー、まあそうだな。そういや小町、今日着ていく服ってこれで大丈夫かな?」

 

「それでいいんじゃない。それよりさ」

 

 投げやりな口調で、それでも律儀に返事を返して小町は言葉を続ける。

 

「サブレが来てからカー君が落ち着かないみたいでさ。ちょっと散歩でもさせようかなって」

 

「ほーん。ま、外に出しておいたら勝手に歩き回って勝手に帰ってくるんじゃね?」

 

「じゃなくて、サブレを散歩に連れて行くんだよ」

 

「ああ、確かに疲れてる時って気晴らしに外に行くよりも家で寝させろってなるもんな」

 

「やっぱりペットって、飼い主に似るのかなぁ?」

 

 目の前の兄に加えて、休日に家でぐったりしていた両親の姿を思い出しながら小町が呟く。

 

「さあな。ま、散歩に連れて行くなら気を付けてな」

 

「えっ。お兄ちゃんも一緒に行くんだよ?」

 

「いや、だから今日は予定が……」

 

「お昼ご飯の後でしょ。この世界だとペット連れでもほとんどのお店に入れるし、サブレを連れてお散歩に行って、お昼ご飯を食べて解散でいいじゃん。お兄ちゃん、小町とデートしたくないの?」

 

 少しだけ唇を尖らせて、しかし目は笑っている小町に向けて、八幡が否を返せるはずもない。きざなセリフでも言ってやろうかと思いつつも自分には似合わなさそうなので、八幡は普通に答える。

 

「ほいじゃ、一緒に出かけるか。小町も勉強中心の毎日だったし、息抜きにもなるだろ」

 

 変に凝ったセリフよりも妹への気遣いを自然に口にするほうが遙かに効果的だと、気付いていないのは本人ばかり。少しだけ照れた表情を見せつつも、喜びを過度に表に出さないようにと妙なところで拘りながら、小町もまたいそいそと外出の支度に移るのだった。

 

 

***

 

 

 夏真っ盛りとはいえ午前中は日差しもそれほど強くはなく、やわらかい風が途切れなく吹いていた。リードをつけたサブレに導かれるようにして、兄妹はのんびりと陽のあたる坂道を昇る。

 

「そういや自由研究はできたのか?」

 

「うん、まあ無難な感じでね。お兄ちゃんに手伝ってもらった去年は変に目立っちゃったからさ」

 

「その辺りの調整って、面倒臭そうだな……」

 

「手伝ってもらって悪いなーって思うんだけど、周りから浮いちゃうほうが、あとあと面倒だからね」

 

「ま、目立たないようにってのは分かるけどな。俺も他の連中が行きそうにないタイミングで予備校の予定を入れてるし」

 

「明日から五日間だっけ。お盆の時期だし確かに少なそうだよね。夕方には帰れるんだっけ?」

 

「その代わり朝一からだけどな。……こう見ると、この辺りも微妙に変わってんだな」

 

 お互いの顔を見ることもなく、二人は視線をきょろきょろと彷徨わせながら会話を続けていた。

 

 現実では撤退した大手チェーン店がこの世界では営業を続けているケースもあるにはあるが稀といって良く、民家などは完全に現実に即している。新築の家や取り壊されて空き地になっている空間を眺めながら、八幡は物思いに耽る。

 

 変わってしまったことを惜しむ気持ちとは、いったい何なのだろうか。多くの人が過去を懐かしみ変貌を遂げた今を見て寂しがる。ならば変化することは、成長のためとはいえ何かを切り捨てることは、手放しで褒められるべきことではないのだろうか。

 

 きっと、変わらないことで、成長や未来から逃げ出すことでも得られるものはあるのだろうと八幡は思う。要は取捨選択の問題だろうと。そして八幡はあの子のことを思い出す。正確には、あの小学生に向けて部長様が話していた内容を。

 

 あの時の彼女の言葉を、「逃げることをためらわないで欲しい」と口にした彼女の姿を八幡は脳裏に蘇らせる。逃げることで失うものと、逃げることで得られるもの。それを見極めて欲しいと彼女は言いたかったのだろう。

 

 何も失わずただ得られるだけの選択肢があれば、誰だってそれを選ぶだろう。だがそんなうまい話は大抵が詐欺だ。父親の薫陶を受けて人一倍そうした気配に敏感だった八幡は、騙されることに臆病になった八幡は、最近ではそうした場面で立ち止まることが多かった。ただ立ち止まって状況が変化するまで耐える。これならば無様な姿を晒す危険性は少ないだろうと思うがゆえに。

 

 しかし、と八幡は思う。他人からの好意というものもまた、うまい話に見えるものだ。今までは一律に突っぱねておけばそれで良かった。自分には無関係だと、何かが去って行くのを待つだけで良かった。だが自分に向けられる好意も僅かながら存在するのだと知ってしまった今となっては、見極める必要が出て来た。

 

 それを受け入れて前に進むのか、それとも一目散に逃げるのか。あるいは今まで通りに立ち止まって待つのか、あえて立ち向かう選択だってある。そしていずれにせよ、変化してしまった物事は元通りにはならない。

 

 ならばせめて、成り行きに任せるのではなく自分で選びたいものだと八幡は思った。たとえ後になって後悔する選択だったとしても、それを他人に選ばせるような、それを他人のせいにするような無様な真似は御免だ。自意識が高いのは百も承知で、それでも八幡は自分で決断を下すことに拘る。

 

 

「おーい」

 

 不意に八幡の手を暖かいものが包み込んだ。サブレのリードを持っていないほうの手で、小さくとも意図を疑う必要のない手のひらで、妹が自分の手をにぎにぎして来る。それをしっかり握り返して立ち止まると、八幡は息をはく。

 

「すまん、ちょっと考え込んでたわ」

 

「なに考えてたの?」

 

「いつか、今の関係も変わっちまうんだろうなって。……それ、持つわ」

 

 妹から受け取ったリード越しにサブレの興奮を感じながら、一貫して自分に好意を示し続けるミニチュアダックスに八幡は苦笑いを送る。そして「誰との関係を念頭に置いているのか」を掴みきれず気軽に口を開けない小町をよそに、八幡はその場で話を続けた。

 

「俺は大学も家から通学範囲内にする予定だし、限界まで働かないつもりだが……。俺が変わらなくても、周りが変わることもあるんだよな」

 

「でも変わらない人だっているし、お兄ちゃんこそ変わる時は一気に変わっちゃう気がするけどなー。高校に入った時もそうだったじゃん」

 

「あー、そういやそうか」

 

「たぶんお兄ちゃん、中学の同級生のこととか忘れてるんだろうけどさ。噂ってなかなか無くならないもんだよ。それに残された側がどんな風に思うのか、とかも鈍いよね?」

 

「それを言われると、返す言葉がねーな」

 

 入学式の日に遭遇した事故のことを、更には小町が事故の時の気持ちを吐露した公園での一幕を八幡は思い出す。横手のほうを眺めていた小町は、そんな兄の言葉を打ち消すように、繋がった手に力をこめて語る。

 

「お兄ちゃんとの間では終わった話だけど、同じことを他の人にはしないでね。小町だから良かったけどさ、あれ、辛いんだよ?」

 

「……だな。断言できるほどの自信はねーけど、可能な限り善処するわ」

 

「うん。どうでもいい人には言わせとけばいいんだけどさ。配慮したほうがいい相手には、ちゃんと考えてあげてね」

 

「配慮か……。そういや雪ノ下は一人暮らしだけど、あの一家だと残された者の気持ちとか関係なさそうだな」

 

「雪乃さんの家庭環境を知らないから分かんないけど、あのお姉さんは凄かったよねー」

 

「できるならもう会いたくねーな。ついでに、似たタイプに成長しそうな一色にも会わないで済むなら嬉しいんだが」

 

 あんな域にまで成長するとは思っていないものの、本質的には似たタイプだろうと考えて八幡は軽口を叩く。その希望が叶うはずもないことは自明なのだが、本人だけはそれを理解できていない。ほんのすぐ横を眺めながら、小町が言いにくそうに口を開いた。

 

「お兄ちゃん、あのさ」

 

「おいおい、このタイミングで陽乃さんが出て来たら泣くぞ?」

 

「じゃあ、わたしだったら喜んでくれますか、せ〜んぱい?」

 

 小町のすぐ横では、一色いろはがニコニコしながら立っていた。

 

 

***

 

 

「で、なんでお前ここに居んの?」

 

「え〜。その言い方は酷くないですか〜?」

 

 先程の失言を聞かれてしまったと腹を括った八幡は、取り繕うことなく質問を投げた。問われた一色も平然とそれに応じる。しばらくは様子を見ていようと一歩引いた小町をよそに、二人は会話を始めた。

 

「正直、こんな午前中から一人で出歩くようなキャラとは思ってなかったんだが」

 

「ですよね〜。わたしも変な人に絡まれたら怖いなって思ってたから、せんぱいに会えて良かったです」

 

 片手はリードで、片手は小町の手で塞がっているのをちらりと確認して、一色は八幡のシャツの裾をちんまりと、しかし相手がしっかり気付く程度の強さで握りしめる。思わずびくっとしてしまった身体を意思の力で固定して、八幡は話を続ける。

 

「戸部とか呼び出せば良かったんじゃねーの?」

 

「それがですね〜。今日は朝からサッカー部の備品を買い出しに来たんですよ〜。戸部先輩もついて来た一年生も、大きな荷物を抱えて高校に移動してるので今は無理っていうか……」

 

「どうせお前、『一人で帰れるから大丈夫ですよ〜』とか言いながら、大荷物の連中を涼しい顔で見送ったんだろ?」

 

「むっ、せんぱいの中でわたしって、どういう扱いなんですか!」

 

「あー、なんつーか、あれだ。一言でいうと、あざとい」

 

「なんでですか〜。もう、可愛い後輩に失礼ですよ、せんぱい?」

 

「あのな。俺は天然あざとい小町と日々仲良く暮らしてんだぞ。養殖あざといお前の演技を見破れないわけねーだろが」

 

「なるほど〜。だから『会わないで済むなら嬉しい』って考えてるんですね〜?」

 

 部外者だと思っていたら急に流れ弾が飛んで来て、小町は「これだから」と赤面している。その傍らで一色は、口調も顔の表情も変わらないのに、話す内容だけを急に変えた。擬態を見破られたと理解して、それでも焦る様子をかけらも見せない一色。それに少し虚を突かれた八幡は、一呼吸おいてから返事を口にした。

 

 

「バレてもその口調は変えないのか?」

 

「う〜ん。特に変える必要はないと思いますけど〜。せんぱいがご希望なら、違う話しかたにしましょうか?」

 

「いや、別にいい。つーか『会わないで済むなら嬉しい』は失言だわな。面倒な目に遭いたくないってだけで、特にお前を意識して言ったわけじゃなかったのに、なんでか具体例で口に出て来たんだよな。正直すまん」

 

「別にいいですよ〜。無意識にわたしの名前が出て来たってことは、普段からせんぱいがわたしを意識してくれてたってことですよね〜?」

 

 とっておきのウインクを送りながら、一色は悪戯っぽく微笑む。警戒心は強くとも女性と甘い時間を過ごした経験がほとんどない八幡は、目に見えてうろたえ始める。話を早く終わらせたいという意図もあるにはあったが、せっかく素直に謝ったのにどうしてこんな仕打ちを受けているのかと、八幡は恨み言を頭の中で呟く。

 

「お兄ちゃん、口では否定してたのに、実はいろはさんのことを……?」

 

「ちょっと待て小町。話を勝手に進めるな」

 

「ど、どうしよう小町ちゃん。わたし、今まで告白とかされたことないんだけど〜。あ、でもまだちゃんと言われたわけじゃないし……」

 

「嘘つけ。あざと可愛いお前が告白されてないとか、ありえねーだろ。頼むから小町も変な小芝居を煽るなって」

 

「あー、うん。お兄ちゃんってあれだよね」

 

 なぜか急に冷めたような突き放したような口調で話し始める妹に首を傾げつつ、八幡は急に顔をうつむけてしまった一色に話しかける。

 

「お前も俺なんかをからかう暇があったら、ちゃんとサッカー部の面倒を見てやれよ。葉山とかがインターハイに出られなくて悔しがってんじゃないかって、教室で聞き耳を立ててた時に誰かが言ってたしな」

 

「お兄ちゃん、情報源は聞き耳なんだ……」

 

「まあな。寝たふりをしつつ、いかに精度の高い情報を集められるかで、ぼっちの行動の質は左右されるからな。移動教室なのに俺だけ知らないなんて目に何度遭ったことか」

 

 そんな八幡の戯れ言を聞き流しながら、一色は静かに頭を働かせていた。先程だしぬけに「可愛い」と言われた衝撃は何とか克服済みだ。

 

 千葉村でも二泊三日を過ごした仲ではあるが、女性同士で過ごす時間が長かったこと・基本的には葉山グループとして行動していたことで、このせんぱいとの直接の付き合いはほとんどなかった。びくびくと自分を窺う様子から、女性慣れしていない男子と同様にこのせんぱいも照れているだけなのだろうと一色は考えていた。

 

 しかし今日の出会い頭の失言といいここまでの会話といい、浮かび上がってくるのはこれまでにないタイプの男性像だった。自分の擬態が少なくとも葉山には見透かされているのだろうと考えていた一色だったが、ここまで見通してなお平然と会話を続けられると、少しばかり自信が薄らいでしまう。

 

 未だ一色は八幡の全体像を把握できていない。八幡の軽口や、女性経験が少ないことが丸分かりな態度によって、同じようなタイプの男性を多く見てきた一色は経験則から深入りする必要性を感じていない。

 

 だが少しだけ、千葉村の時よりも心持ち大きくなった八幡への興味を、この日の一色は持ち帰ることになるのだった。

 

「お兄ちゃんの戯れ言は置いておいて。せっかく久しぶりに会えたんですし、いろはさん今からお昼をご一緒しません?」

 

「え〜っと、兄妹水入らずでお出掛け中だったのに、いいんですか?」

 

 どうしたものかと決めかねて、とりあえず一色は八幡に問いかけた。その時。

 

「ひ、比企谷っ!」

 

 黒のドレスをまとった何者かが、三人が佇む場所に向けて猛烈な勢いで近付いて来ていた。

 

 

***

 

 

「せっかく両手に花の状況だったのに、何だか済まなかったな」

 

「いえ、その、先生も無事に披露宴を抜け出せたみたいで何よりです」

 

 平塚静はこの世界でも結婚式に出席する羽目に陥っていた。それは同業の親戚の女性が「どうせだから日程通りに、この世界で式を挙げたい」と言い出したのが原因だった。

 

 今現在の段階で、外の世界と映像通話を行うには条件が二つある。通話を行う両者が同じ場所に(自宅なら自宅に)居ること。そして両者が肉親であることである。

 

「なあ比企谷。親戚はどこまでが肉親に入るんだろうな?」

 

 こちらの世界で挙行された式や披露宴の様子は、現実世界のホテルに設置された巨大モニターに映し出されているらしい。既にリアル世界の両親と食事を共にした八幡にとってその光景を想像するのは難しくないが、まさか二つの世界を結んで結婚式ができるとは、話を聞くまで思ってもみなかった。

 

「列席者の中には友人とかって居なかったんですか?」

 

「今回はこちらの世界での挙式で、現実に戻ってからも行うつもりらしいな。だから今回は親族だけの集まりだと」

 

「んで、ホテル備え付けの教会から出て来たら俺の姿が目に入ったので、生徒への指導を言い訳に抜け出してきたと。小町も一色もかなり引いてましたし、とりあえずは別行動にしましたけど、後でフォローしておいて下さいよ?」

 

「だって比企谷、あれは地獄の時間だぞ。コース料理を食べる暇もなく、『その世界なら今までにない出会いがあるんじゃないのか』だの『今度の見合い写真はデジタルで送る』だの、もう少しこの世界に捕らわれたことへの同情があっても良いと思わないか?」

 

「まあ命の危険がないってのは周知されましたし、最大でも二年で解放されるわけですしね。もうあっちの世界からしたら、ちょっと遠い外国に行ってるのと変わらない扱いでしょうね」

 

 冷静な生徒からの説明にがっくりと項垂れる教師は、普段の凛とした佇まいからは程遠い。少し気の毒になって来て、八幡は、切なそうな表情のまま俯いている先生に一つの提案を行う。

 

「じゃあ先生、あんまり食べてないんですよね。一緒にラーメンでも食べに行きませんか?」

 

「ラ、ラーメン?」

 

 ラーメンという言葉だけで、人はここまで至福の表情を浮かべることができるんだなと八幡は思った。

 

 

***

 

 

 近くにある有名店に並びながら、八幡は平塚先生と雑談を行っていた。ようやく教師にも落ち着きが戻って来て、生徒は内心で胸をなで下ろしていた。

 

「しかし、君がこの状況で妙な理屈をこねないのは意外だな」

 

「順番に並ぶのは嫌いじゃないですよ。秩序が保たれていれば気にならないんですけど、フォーク並びを無視する客とかいたら嫌ですね」

 

「ふむ。君なら町田康の小説のように奇行に奔りそうではあるな」

 

「それ懐かしいですね。あと、自分もいつかリア充とかクラスの人気者になれるのかなって思ってた頃は、どうでもいい行列に並んでもみたんですけどね」

 

「なるほど。リア充を敵視する段階を挟んで、今は気にならなくなった段階かね?」

 

「リア充もリア充で大変なんだろうなとは思うようになりましたね」

 

「孤独と自由はいつも抱き合わせなんだろうな。そして君は自由を満喫していたわけだ」

 

「好きかどうかも分からないのに流行ってるから並ぶとか、そんな不自由は嫌ですね」

 

 そんな会話を続けていると思いのほか列が早く進んで、二人は店内に招き入れられた。麺の固さを指定して、二人は食事をしながら話を続ける。

 

「専業主夫志望の割には施しは受けないとか、君の基準が私には判らないのだが」

 

「その辺りは気分ですかね。そういえば先生は、夏休みの仕事とかって?」

 

「ああ、二学期の授業に備えて色々と支度をすることもあるし、地域の仕事もあるしな。正直休む暇がないよ。次の週末も花火大会で駆り出される予定だし。君は見に行かないのかね?」

 

「今のところ予定はないですね」

 

「ふむ。自治体のイベントだから、雪ノ下たちも来るかもしれないぞ?」

 

「陽乃さんのほうなら、相手するのが面倒なのでパスで。雪ノ下が来るなら由比ヶ浜から招集が掛かりそうですし、それは拒否しても無駄っぽいので大人しく参加してきますよ」

 

「君は陽乃のことをどう思う?」

 

「まあ優秀なんじゃないですかね。正直、姉妹で同じレベルってどんだけ育て方が凄いんだって思いますけど、近寄りたくはないですね」

 

「なるほど。君はやはり陽乃の内面に気付いているんだな」

 

「親しみやすい外面をまとってるってことですよね?」

 

「それを継続している内面の意思も含めてだよ。強かさと言っても良いが。陽乃は内面に気付かれるとかえって喜ぶ性格でな、お陰で私は色々と巻き込まれたよ。文化祭で二年連続でベースを弾かされたりな」

 

「それを聞くと、ますます関与したくないって思いますけど?」

 

「それでも、君が奉仕部に所属する限り避けては通れないさ。陽乃が暴走しないように対処するつもりだが、平常運転でもかなりの影響力があるのが頭の痛いところだな。だから比企谷が巻き込まれてくれる方が私としては助かるのだが?」

 

 にやにやと笑みを浮かべながら、しかし目だけは真剣に、教師は教え子に話しかける。面倒臭そうに頭を掻いて八幡は答える。

 

「まあ、俺にできる範囲のことしかしませんよ?」

 

「それで良いさ。誰しも限界はあるし、それを許せる時が来るものだよ。今の君なら無力感に苛まれるのだろうが……比企谷、その先だよ。行列の秩序が保たれなくても、望みが叶わなくても、人にはそれぞれの性格に応じてその先が用意されているものだ。嘘くさい一般論だと、今の君は考えるかもしれないがね」

 

「いえ……。いちおう覚えておきますよ。んで、それを実感できた時にはお礼に来ます」

 

「ああ、それで良いさ」

 

 ともに麺のお代わりをしてスープを全て飲み終えて、こうして平塚先生による臨時の講義は終わった。

 

 

***

 

 

 この後も用事が立て込んでいるという平塚先生と別れて、八幡は少し早めの時間に集合場所に到着した。この後の予定のことを思いながら、八幡は過去を思い出す。

 

 戸塚彩加とは映画を見に行く約束になっているが、実のところ八幡は家族以外と映画を見るのはこれが初めてだった。家族と見たのも、今は亡きマリンピアの映画館で小町と見たのが最後だ。中学からは一人で気楽に映画を見に行っていたので、八幡は少し緊張していた。

 

「ところで私は誰でしょう?」

 

 緊張で周りが見えていなかった八幡は、不意に肩をつつかれてビックリしてしまった。声の主に顔を向けると、そこには意外な人物が立っていた。

 

「えっと、城廻先輩?」

 

「うん、そうだよー。比企谷くんって何度も呼んでるのに返事してくれないんだもん。何かあった?」

 

「あの、ちょっと考え事してたので、すみませんでした」

 

「なんにも無いならいいよー。比企谷くんは誰かと待ち合わせ?」

 

「あ、はい。今から映画でも見に行こうって」

 

「そうなんだー。えーっと……それって、ご一緒してもいいかな?」

 

「俺はいいですけど、待ち合わせ相手もいいって言うとは思いますけど……」

 

 戸塚が断る場面など想像できず、しかし一般的には約束になかった人を勝手に参加者に加えるのは問題なのではないかと考えて、八幡は歯切れの悪い口調で答える。

 

「待ち合わせの相手って、知ってる子かな?」

 

「そうですね。テニス部の戸塚って分かります?」

 

「部長会議でも頑張ってくれてた子だよね。ちょっと話してみたかったしちょうど良かったかも」

 

「はちまーん」

 

 そこにタイミング良く戸塚が姿を見せる。城廻めぐりが八幡と並んで立っているのを見て少し驚きながらも、戸塚は二人に可愛らしい声で挨拶をした。

 

「遅くなってごめんね。会長、こんにちは」

 

「こんにちはー。比企谷くんとは偶然会ったんだけど、これから映画をご一緒してもいいかな?」

 

「ぼくなら大丈夫ですよ。会長も色々と大変だと思いますし、しっかり息抜きして下さいね」

 

 八幡が想像していた以上に天使な対応を見せる戸塚だった。それを見て昇天しそうになりながら、八幡は何とか会話を進める。

 

「あ、でも今日はホラーを見ようって言ってたんですけど、大丈夫ですか?」

 

「うーんと、たぶん大丈夫だよー。もう駄目ってなったら先に出てるから、その時はごめんねー」

 

 そうして三人は映画館へと入っていった。最前列には真夏なのにコートを着た男がいて、映画が始まる前から鼻息を荒くしていたが、八幡は見なかったフリをすることにした。

 

 なぜか八幡を真ん中に挟んで、映画鑑賞が始まった。手すりに手を載せようとして両隣とかち合ってしまい恥ずかしい思いをしたり、怖い場面や大音量があるたびに両側から服をつままれたり。そんな理由であまり内容が頭に残らないまま、八幡にとって初めての友達との映画鑑賞は無事に終わった。

 

 映画館を出て、下りた先のカフェに腰を落ち着けて四人は一息つく。

 

「なあ。今さら突っ込もうとは思わねーけど、お前いつから一緒に居たんだ?」

 

「ふむ、上映が終わって退場する時であるな。見知った顔を見付けてしまい、両手に花とはこの不届き者めと近付いてみたのである。我としては奉仕部に緊急連絡すべき事案だと思うのだが?」

 

「頼むから止めてくれ。つか戸塚も笑ってないで止めてくれよ……」

 

「ごめんごめん。八幡と材木座くんが仲良さそうに話してるから口を挟めなくて。ちょっと悔しいなって思ってたんだよ?」

 

「ぐはぁ」

 

 そんなとつ可愛い発言を聞いて材木座義輝がダウン寸前にまで陥っている。そうした男子生徒三人のやりとりを、城廻は楽しそうに眺めるのだった。

 

「つか戸塚の話だと、お前って夏コミの原稿を書いてたんじゃねーの?」

 

「うむ。原稿は完成したのだが、遊戯部の二人にダメ出しされてな。パクリが酷すぎるからさすがに自重しろと言われてしまったのだ」

 

「おい、偉そうに言えることじゃないだろ。あの二人に感謝しとけよ」

 

「そういえば海老名さんも何か書いてるって言ってたよね?」

 

 八幡は文化祭の劇のために脚本を書くという話は知っていたものの、夏コミの話は初耳だった。

 

「え、あの人、夏コミでも何かやるのか。多才なのは良いけど、あんまこの世界でやおい文化を広めて欲しくないんだが」

 

「んーと、比企谷くん、やおい文化って何?」

 

「あ、ぼくも知りたい!」

 

「八幡……説明は主に任せた!」

 

 平然と裏切った材木座を一睨みして、八幡は仕方なく口を開く。

 

「あれだ、やまなしオチなし意味深長の略らしいんだけど、要は同人誌のことらしい。同人誌は分かりますよね?」

 

「うん。谷崎や川端の『新思潮』とかだよね?」

 

「最近は漫画家さんが出したりもしてるんでしょ?」

 

 城廻と戸塚からの曇りなき回答を聞いて、八幡は思わず小声で材木座に助けを求める。

 

「なあ。もう別の話に強引に持ってった方が良いよな?」

 

「然り。まさかやおいが『やめて、おしりが、いたい』の略だなどと、この二人には知られるわけにはいかぬでござる」

 

「なにそれ俺も初耳なんだけど。お前すげー詳しいのな」

 

「ぐふぉうっ!」

 

 その後は何とか話題を逸らして、こうして珍しい四人組の集まりは意外に話が尽きないまま終わった。この出会いがどんな未来に繋がるのか、それを朧気ながらも予測できているのは、この場では一人だけかもしれない。

 

 

***

 

 

 その翌日、予備校から帰ってくると八幡は席を温める間もなく個室へと移動した。由比ヶ浜結衣が旅行から帰ってきたのだ。急かしたことを謝ってくる由比ヶ浜を宥めながら、数日前と同じようにリビングに招き入れる。

 

「結衣さん、お帰りなさい!」

 

「小町ちゃん、ただいまー」

 

 既に日が暮れかけているからか、いつもの挨拶を口にせず由比ヶ浜は話を続ける。

 

「これ、ご当地のお菓子だって。小町ちゃんと一緒に食べてね」

 

「おー、なんか悪いな。つかリア充って大変だよな」

 

「ん、どしたのヒッキー?」

 

「いやだって、クラス全員に向けて土産物のお菓子を配ったりとか。休み明けとかに、俺には真似できねーなって思いながら見てたんだけど」

 

「あー、でもそれが好きな子もいるしさ。あたしも苦にはならないタイプだから」

 

「あとあれだ。クラス全員って言いながら、俺だけ分け前がなかったりな」

 

「まあ、お兄ちゃんあるあるですよねー」

 

「うーん。でもどうだろ。今のヒッキーだと、そんなことはないんじゃないかな?」

 

「おお、お兄ちゃんってばいつの間に地位向上を果たしちゃったのよ?」

 

「いや、知らんけど。つか、この間、海老名さんがうちに来たんだけどな」

 

「あ、姫菜から聞いてるよ。話がスムーズに済んで良かったって言ってた」

 

「なんか海老名さん、やたらと俺を高評価してたんだが、お前どんなことを喋ってんの?」

 

「って言われても……優美子と姫菜には依頼のこととかも話してるから、ヒッキーの活躍もよく知ってるからじゃないかな。あ、特に姫菜は遊戯部とのゲームの詳しい話とかもゆきのんから聞いてたし、だからじゃない?」

 

「あー、そっか。そういや直接喋った記憶があんま無いから忘れてたけど、千葉村のゲームの詳細とかも知られてるんだよなー」

 

「もしかしてヒッキー、あのゲーム嫌だった?」

 

 小学生が相手でも「ルールの中で全力を尽くすのは当然」と言い切った雪ノ下雪乃の姿を思い出しながら、少し心配そうな口調で由比ヶ浜が尋ねる。

 

「嫌じゃないけど、もう少し上手くできたんじゃねーかなって思ってるんだわ。だからなんての、間違った部分を訂正してない答案を見られてるような感じっつーかな」

 

 それを聞いて由比ヶ浜が思わず噴き出した。

 

「ゆきのんもそうだけど、ヒッキーも間違ったところを真剣に受け止めすぎだって。完璧しか駄目って言われたら、あたしなんて困っちゃうよ?」

 

「いや、お前はもう少し危機感を持ったほうが良いと思うんだが?」

 

「むー。これでも中間より期末のほうが成績は上がってたんだからね!」

 

「ま、だからこのまま頑張れってことな」

 

「お兄ちゃん、ホントに誤魔化しかたが上手くなってるよなー」

 

 できるだけ二人の会話に口を挟まなかった小町だが、思わずこう呟いてしまうのだった。

 

 八幡の心配の根幹には、相変わらずの自己評価の低さが原因として存在しているのだが、小町も由比ヶ浜もそこには気が付かない。とはいえそれは八幡本人が克服すべき問題であり、二学期に彼が挑むべき事柄なのだろう。

 

「あ、そういえばさ。パパとママに成績上がったよって言ったら、プレゼントもらったの」

 

「ほーん。何をもらったのかって聞いても良いのか?」

 

「お兄ちゃん、そこは聞かない選択はありえないよ!」

 

「たはは。あのね、家にある浴衣のデータを送ってもらったんだ。だから……」

 

 一気に身体を緊張させて、由比ヶ浜が続きを口にする。

 

「だからヒッキー、あたしと一緒に、金曜日の花火大会に行かない?」

 

「だとよ。小町も行くよな?」

 

「お兄ちゃん。小町に頼ってないで、そろそろ自分で対処しなよ。小町はそろそろ勉強に戻るけど、結衣さんもまた遊びに来て下さいね。その時には花火の話も聞かせて下さい!」

 

 そう言って小町は自室に戻っていった。妙な雰囲気になって口を開きにくい二人だったが、妹にあそこまで言われて黙っているのは情けないと思った八幡が頑張って話を始める。

 

「その、雪ノ下も一緒なのか?」

 

「ううん。ゆきのんだけ行けないのは残念だし、(出し抜いてるみたいで)申し訳ないなって思うんだけど、家でする用事があるからその日は行けないんだってさ」

 

「そっか。……んじゃ、二人で行くか?」

 

「えっ……と。ヒッキー、いいの?」

 

「まあ、お前がせっかく浴衣を着られる機会でもあるし、ちゃんと口に出して誘ってもらって、それを無下にするのもなんかあれだしな」

 

 ごにょごにょと説明を続けながら、同時に内心では「勘違いしないでね」と由比ヶ浜の声で念を押されている自身を想像しながらも、こうして二人の約束は成った。

 

 なお、前回と同様に個室経由で由比ヶ浜を送っていったのだが、二人ともに恥ずかしさで限界だったこともあり本来の用件をすっかり忘れてしまっていた。個室の入り口で由比ヶ浜を見送った五分後に「サブレ忘れてた!」と言いながら由比ヶ浜が戻って来たことは、その後の二人の間で長くネタにされる事になるのだった。




更新が遅れて申し訳ありません。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/26)


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03.レアな対応にも彼は自身の行動を曲げない。

前回までのあらすじ。

 小町と一緒にサブレを散歩させていた八幡は、その途上で一色や平塚先生と遭遇した。一色とは仲を少しだけ深め、先生からはいつか役に立つかもしれない助言をもらって、八幡は戸塚との待ち合わせ場所に向かう。そこに偶然現れた城廻と映画館にいた材木座を加えた四人で、この日は楽しく過ごした。

 その翌日。家族旅行から帰ってきた由比ヶ浜は八幡を花火大会に誘う。妹にも背中を押されて、八幡と由比ヶ浜は二人きりで出かけることになった。



 週末の金曜日。比企谷八幡は落ち着かない気持ちで夕方が来るのを待っていた。自宅の家事はこの日も完璧だったのに、彼は何度も同じ場所を磨こうとしたり、乾燥させた食器を再び洗おうとしたり、およそ専業主夫を目指す者としては相応しくない行動を重ねていた。

 

 とはいえそれも無理からぬこと。話の成り行きから雪ノ下雪乃と一緒にららぽーとで買い物をした経験があるのみで、妹以外の異性と二人きりで出かける約束をするなど八幡の人生では初めてのことなのだ。

 

 たとえその相手が、一学期に濃密な日々を共に過ごしたお陰で比較的気心の知れている由比ヶ浜結衣だとしても。あるいはよく知った相手だからこそ余計に、八幡の心中は平穏には程遠い状態だった。

 

「ちょっとお兄ちゃん。予備校から帰ってきてからずっと動いてるけど、いい加減に落ち着いたら?」

 

「大丈夫だ小町。俺は落ち着いているし勘違いもしていない」

 

 そう答えて本日五回目となるトイレ掃除に向かおうとする兄の背へと、比企谷小町は慌てて手を伸ばす。何とかその場に引き留めて、小町は口を開いた。

 

「もしまだ汚れがあったら小町が綺麗にしておくからさ。お兄ちゃんは出かける支度でもしたら?」

 

「服から持ち物から五回ぐらいは確認したし、もうやることがねーんだわ」

 

 意図的に回数を半分にして申告したものの、どうやら妹の目は誤魔化せていないらしい。今日はすっかり見慣れた呆れ顔で、小町は兄を諭す。

 

「それだけ確認したんなら、あとは時間までどっしり待ってれば?」

 

「いや、俺が出かけて居ない間に、小町が家のことで困らないようにだな」

 

「へーえ。お兄ちゃんってばもしかして、今日は帰ってこないつもり?」

 

「ちょ、そ、そんなことあるわけねーだろ!」

 

 色々なことを考えすぎて自滅してるパターンだなと内心で苦笑いをしながらも、初々しい兄の様子に頬を緩める小町だった。

 

「じゃあ小町も付き合ってあげるから、時間までコーヒーでも飲んで待つ?」

 

「それ、お前が勉強をさぼりたいだけじゃね……って言いたいけど、今日は助かる。悪いな」

 

 妹のせいにして照れ隠しをしようとした八幡だったが、話の途中で思い直して素直に小町の提案を受け入れた。八幡が淹れたコーヒーを片手にどうでもいい雑談で時間を過ごす。そのお陰で、八幡は何とか挙動不審に陥る事なく、待ち合わせの時刻を迎えられたのだった。

 

 

***

 

 

 自宅のリビングから個室を経由して、八幡は待ち合わせ場所へと向かった。当初は高校の正門前の予定だったが、日差しの強さを考慮して昇降口に変更することをメッセージで伝えてある。

 

 念のために一度校舎を出て、相手が正門の辺りで待っていないことを確認した上で、八幡は集合五分前から昇降口にてぽつねんと立っていた。これらは全て妹の教育の賜物である。

 

 柱に背を預ける八幡は校舎内からは見えにくい位置にいる。そんな彼に気付くことなく、時おり生徒たちが目の前を通り過ぎて炎天下へと去っていった。自分たちと同じく、家からショートカットができるので待ち合わせに便利だと考えたのだろう。

 

 

 彼らと同様に、俺たちも友達同士で出かけるだけだ。今日は同じ部活の同級生なので誘われただけだ。二人きりなのは部長様の予定が合わなかったから。そして優しいあいつが俺の性格を慮ってくれた結果だろう。常に一緒に過ごしている二人の女子生徒すら呼んでいないのだから、俺も彼女の信頼に応えねばならない。決して勘違いをしないように。もう中学生の頃とは違うのだ。

 

 袋小路に入ったまま抜け出せないかに思えた考察は、視界の端に見知った後ろ姿を捉えたことで霧散した。制服ではなく浴衣であっても、いつものお団子ではなくアップにまとめた髪型であっても、今さら八幡が彼女を見間違うはずもない。

 

「おい」

 

 だが危なっかしい足取りで、校舎の外を窺うようにしてきょろきょろと辺りを見渡している由比ヶ浜に、八幡の声は届かなかった。たとえ人影がまばらであっても、人前で誰かの名前を大声で呼ぶことは、ぼっちにとっては難事である。なんでリア充はこんな恥ずかしいことを平気でできるんだろうなと思いながら、仕方がないので八幡は反動をつけて柱から離れると、背後から由比ヶ浜の肩をちょんと突いた。

 

「ひゃあっ……って、ヒッキーじゃん。お、驚かさないでよ!」

 

「いや、むしろお前の反応にこっちが驚いてるんだが……」

 

 理不尽なお叱りを受けた八幡だが、気配を消すようにして佇んでいたのを自覚しているだけに反論にも力がない。それに振り向いた由比ヶ浜の浴衣姿を正面から目の当たりにしてしまい、二の句が継げなくなってしまった。

 

「そ、その。待った?」

 

「いや、えーと……さっき来たとこだし、まだ待ち合わせ時間になってねーだろ?」

 

「ちょっと着付けに手間取って、ギリギリになっちゃったからさ」

 

「時間は大丈夫だから心配すんな。その、あれだ、浴衣も良いけど帯も良いな」

 

 言い終えたそばから「お兄ちゃん、言うに事欠いて帯を褒めるなんてポイント低いよ。結衣さん本人を褒めないと!」という幻聴が頭に浮かび、人知れず頭を抱える八幡だった。

 

「あ、ありがと。これ、ママがあたしのために、時間をかけて選んでくれた帯なんだ。だから、褒めてくれると、うん、嬉しい」

 

「そ、そうか」

 

「うん、そうだ」

 

 意中の相手と二人で出かけた経験こそないものの、リア充として場数を踏んでいる由比ヶ浜は八幡よりも先に普段の調子を取り戻していた。そんな彼女の笑顔に引っ張られるようにして、八幡も何とか落ち着きを取り戻す。

 

「んじゃ、そろそろ行くか。幕張に移動するかもって話も出てたみたいだけど、結局は千葉みなとでやるみたいだな」

 

「うん、下りで一駅だね。混んでるかな?」

 

「千葉みなとの駅とか、今日が一年で一番混むんじゃねーかな。……大丈夫か?」

 

「一駅だし何とかなる、かな。浴衣もだけど、これがね」

 

 歩きながら下駄を履いた足を少し大きく持ち上げて、由比ヶ浜は不安そうな表情を見せる。瑞々しい素足と、控え目ながらも綺麗に彩られたフットネイルが目に入って、八幡は思わず視線を逸らしてしまった。

 

「素足だったら、踏まれないように気を付けねーとな。下駄も慣れてなさそうだし、足を挫いたりすんなよ」

 

「うぇっ。ヒッキー、なんでバレてるし?」

 

 見透かされて思わず変な声が出てしまった由比ヶ浜だった。苦笑しながら八幡が答える。

 

「歩き方からして危なっかしいからな。電車に乗っても、真ん中のほうとか行くなよ?」

 

「何だかヒッキー、お兄ちゃんみたい。じゃあ窓際で立ってるから、その、護ってくれる?」

 

「え、あ、おう。任せる」

 

「ちょ。そこは『任せろ』じゃないの?」

 

「うるせーな。……噛んだんだよ」

 

 小声でぼそっと付け足す八幡に噴き出しながら、由比ヶ浜は上機嫌の中に少しの不安を織り交ぜた心境で、駅の改札へと足を進めるのだった。

 

 

***

 

 

「そういえばさ。ゆきのんの勉強会、できたら一日でやりたいって」

 

「ほーん。リアルと連絡がつくようになってから、あいつもやたらと忙しそうだよな。この日だけは空けるから、みたいな意味なんだろ?」

 

「そうみたい。こういう話を聞くと、ゆきのんの家ってあたしたちとは違うんだなーって思うよね」

 

 金銭の話ゆえに慎みとして口には出さないものの、二人はともに、川崎沙希のバイト先に乗り込んだ時の話を思い出していた。川崎が必要とする額を雪ノ下が一括で立て替えて、返済先を信頼できる相手に移すという彼女の提案は、結果的には的外れだったが庶民には決して出せない発想だった。

 

 高校生にして既に大金を動かすことに慣れている様子の雪ノ下を思い出しつつ、車窓から沿線の景色を少し眺めた後で、八幡が言葉を続ける。

 

「家の手伝いって、普通は家事とかのはずなんだがな」

 

「家の仕事を手伝うってのもだし、実際に手伝えちゃってるのも凄いよね」

 

 雪ノ下の凄さを同学年の誰よりも知っている二人は、同時に彼女の弱点も把握している。

 

「あいつの体力が無いのは由比ヶ浜も知ってるよな。無理はさせないようにしねーとな」

 

「うん、だね。ヒッキー、二人でゆきのんを助けるって、約束!」

 

「お、おう。だな。つーか、お前がもっと勉強したら雪ノ下の負担が減るんじゃねーの?」

 

「むー。それはそうなんだけどさ。あたしだって、前と比べたら全然……」

 

「そうだったな。なんか真面目な話を茶化したくなっただけだし、気にすんな……うおっ?」

 

 その時、電車の減速によって他の乗客からの圧力が背中に加わって、八幡は上半身が伸びた状態で由比ヶ浜に覆い被さる形になった。両手を扉につけて力を入れて、おかげで列車の入り口付近に避難させていた由比ヶ浜との密着こそ回避できたものの、両者の顔は非常に近い位置にある。

 

 甘い香りが八幡の鼻をくすぐり、情の深そうな大きな目に吸い込まれそうになる。両者ともに無言のままだが、互いの荒い息づかいが耳に直接伝わって来る。

 

「わ、悪い」

 

「う、ううん。大丈夫」

 

 列車が駅のホームに滑り込む頃になって、ようやく由比ヶ浜と距離を空けることに成功した八幡は何とか一言、絞り出すように告げる。それに答える由比ヶ浜は、噂に聞いていた壁ドンを思いがけない形で体験してしまった衝撃が抜けきらず、顔を赤らめたまま下を向いてしまうのだった。

 

 

***

 

 

 駅を出て広場に足を踏み入れた時点で、花火大会が始まるまで一時間強。小町とならば適当に話しているだけで時間がどんどん過ぎていくので、暇を潰すという発想をしなくて済む八幡だが、今は違う。この中途半端な時間をどう過ごしたら良いのかと、頭を必死で働かせていた八幡は、しかしそれが無駄に終わりそうだと知って胸をなで下ろした。

 

 彼の横では由比ヶ浜が、軒を並べる屋台の群れに首ったけになっている。

 

「ねね、りんご飴とわたあめ、どっちがいいかな。どっちも、ってアリ?」

 

「おい」

 

 太るぞ、と言いかけて、すんでの所で八幡は口を閉ざした。女性への禁句の中でも最たるものだと散々っぱら言い聞かされていた八幡は別のことを考えようとして、でも()()も要は脂肪なんだよなぁと怪しからぬ事を思い浮かべる。その不躾な視線がバレていないと、思っているのは当人ばかりである。

 

「もう。太るぞって言いたそうだけど、ヒッキーの視線、なんかいやらしい……」

 

「ちょ、待て、誤解だ。あーっと、ほら、わたあめ。あの屋台で良いよな。買いに行くぞ!」

 

 自分でガン見しておいて誤解も何もないのだが、あの時はとにかく必死だったと八幡は後に述懐している。減るものでもなし五回や十回などと口走る大人にはならず、このままピュアな心を持ち続けて欲しいものである。

 

「じゃあ、ヒッキーにも半分わけたげるね」

 

「えっと、どうやるんだ?」

 

 必死の勢いで入手した袋入りのわたあめを手渡すと、由比ヶ浜は大輪の笑顔でそう告げる。普段の同性を相手にしたノリで言ってしまった直後に自分でも気付いてしまい、更には「リア充ならではの特別な方法があるのではないか」と無邪気に尋ねた八幡のせいで顔を赤くしながら、由比ヶ浜は慌てて答える。

 

「ど、どうしよっか?」

 

「あー、そうだな。お前、この焼きそば食べる?」

 

「あ、うん」

 

「んじゃ、ちょっと待ってろ」

 

 そう言うと八幡は目の前の屋台に近付いて注文を入れる。先にお金を払って、焼きそばをパックに入れてもらう間に綺麗な割り箸を二つ確保した。

 

「あと一つ二つ買ってから、座れるところを探すか」

 

 戦利品を掲げながら八幡がそう提案した直後、彼の背後から女の子の声が聞こえて来た。

 

 

***

 

 

「あれ、ゆいちゃん?」

 

「おー、さがみん」

 

 後方をちらりと確認して、八幡は内心で頭を抱えていた。顔や声に覚えはないが、遊戯部との勝負に出向いた時に由比ヶ浜が口にした同級生がこいつなのだろうと八幡は確信する。

 

 ほんの数十秒前であれば、焼きそばの屋台の前から動かないことで、由比ヶ浜とは他人のフリができたのに。そう八幡が後悔したところで現状は覆らない。

 

 クラスや学年の枠を超えて校内でも指折りのトップカーストに所属する由比ヶ浜が、自分のようなカースト底辺の存在と二人で花火大会に来ていた。そんな不名誉が広まる危険性を、どうして俺はあらかじめ予測できなかったのか。由比ヶ浜が誘ってくれたからと、周囲への影響を深く考えずにひょいひょい乗っかってしまった過去の自分を断罪しながら、八幡は必死で頭を働かせていた。

 

 たしか海老名姫菜が忠告をしてくれたはずだ、と八幡は思い出す。奉仕部に注目する生徒が増えているので用心しろという話だったか。ならばそれを逆に利用できないものか。自身を低く見積もるがゆえに、八幡は自分もまた心配されていたことを忘れていた。

 

「そっか。ゆいちゃん、ヒキタニくんと一緒に来てたんだー」

 

 だが相模南(さがみみなみ)のこの発言によって、八幡は混乱に陥る。雪ノ下も近くにいると仄めかすことで「奉仕部で花火に来ている」という話に持っていこうと考えていた八幡は、奉仕部の下僕という以上に自分のことを知られているとは思ってもみなかった。見下す気配のない口調も気になるがそれ以上に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 もちろん八幡の姓は比企谷であってヒキタニではない。しかしクラスの担任すらもヒニタニと思い込んでいる現状では、それを訂正するほうがクラス内で目立つから嫌だと、八幡は海老名に告げたことがあった。最初に材木座の依頼を受けた時だ。だがそれにしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「相模、その……」

 

「今日はゆいちゃんと一緒みたいだから遠慮するけど、うち、ヒキタニくんと話してみたいなって思ってたんだ。二学期になったらよろしくね」

 

 何を問えば良いのかも分からないまま相模に話しかけようとした八幡は、更に意外な反応を得た。狐につままれたような表情の八幡を置いて、由比ヶ浜と相模は二言三言を言い交わすと無事解散となった。相模に向かってぎこちなく手を振り返しながら、八幡は由比ヶ浜に疑問をぶつける。

 

「なあ。……どうなってんの?」

 

「んっと、何が?」

 

「俺って、カースト底辺のぼっちだったはずなんだが」

 

 何となくアイデンティティ・クライシスに陥りながら、八幡は呆然とした表情のままゆっくりと歩き始める。付近は既に見物客であふれていて、腰を下ろしてゆっくりできそうなスペースはもはや見当たらない。少し遠くまで行くしかないだろう。

 

「あー。それってヒッキーの思い込みっていうか。こないだお土産の話をした時も、クラスでハブられるとか『そんなことはないんじゃない』って言ったじゃん」

 

「いや、でもな。カーストなんてまずひっくり返らないもんだぞ?」

 

「はあ……。あのねヒッキー。周りの影響でってなるとヒッキーは嫌がるかもだけどさ。ゆきのんと同じ奉仕部に居て、なんでか印象には残りにくい感じだったけどテニスでも活躍して。全校向けだと今のところそれぐらいだけど、クラスだと隼人くんがちょくちょく話しかけに行ったり、さいちゃんと仲良くしてたり、サキサキの無言の圧力がヒッキーには効いてないって見る人が見れば分かるだろうし、あたしたちとも、その……仲がいいわけだしさ。そんな同級生がいたら、どう思う?」

 

「……リア充だな」

 

「そういうこと。ヒッキーが自分で自分をどう思ったとしても、周りからだと『どんな奴なんだ』ってなったり、『できるなら仲良くしたい』って思うのが普通じゃないかな?」

 

「あー、えーと、理屈は解った。けどな、なんつーか落ち着かねーな」

 

「でも、慣れるしかないって思うよ。二学期からはとべっちもどんどん話しかけて来そうだしさ」

 

「それな、小町にも言われたわ。マジかー、やべー」

 

 もはや諦観の域に達した八幡が口真似をすると、由比ヶ浜が楽しそうに笑う。

 

「けどヒッキー、クラスで色んな子に話しかけられたとしても……」

 

「ああ、調子に乗って失敗すんなって言うんだろ。俺の実力じゃなくて周りの威を借る状態なんだし、勘違いはしねーよ。つか、話しかけられても今まで通り俺は逃げるから大丈夫だ」

 

 ここに至ってなお自己評価の低さを隠そうともしない八幡に対して、そういう意味じゃなかったんだけど、と思いながら。同時にこの状況でも節を曲げない八幡を頼もしく見つめながらも、由比ヶ浜は反射的に反論する。

 

「いや、そこは逃げんなし。って優美子みたいな口調になっちゃったじゃん!」

 

「お前な、女王様の口真似とかして大丈夫なのか?」

 

「優美子はあれで反応が可愛いし、ぜんぜん大丈夫。むしろゆきのんが……」

 

「ああ、お前はやめとけよ。雪ノ下の物真似は俺が特許申請してるからな」

 

「ちょ、ヒッキー。それどういう事だし?」

 

 二人が会話を続けながら腰を落ち着ける場所を探していると、ロープ向こうの有料エリアから。

 

「比企谷くん、はっけーん!」

 

 そんな楽しそうな声が聞こえて来た。

 

 

***

 

 

 暇を持て余していた雪ノ下陽乃のお声掛かりで、二人は貴賓席から花火の開始を待っていた。

 

「ううっ、やっぱりセレブだ」

 

「まあねー。えっと、何ちゃんだっけ?」

 

 千葉村から帰ってきて駅前で解散した時に見た妹への拘りようからして、奉仕部の部員名など確実に把握しているだろうに、陽乃は平然と由比ヶ浜に問いかけた。質問された側は気付いていないが、すぐ側で陽乃の反応を眺めていた八幡は、内心でため息をつきながら事態を見守る。落ち着かない時間になりそうだと覚悟しながら。

 

「あ、由比ヶ浜です。由比ヶ浜結衣。その、陽乃さんって呼んでもいいですか?」

 

「うん、それ推奨。比企谷くんも遠慮なく呼んでね。なんなら呼び捨てでもいいよー?」

 

「はあ。それで雪ノ下さん、今日は妹さんは?」

 

「強情だなー、比企谷くんは。雪乃ちゃんはお留守番だよ。こういう場には私が出るって、前々からの決まり事だからね」

 

「ゆきのんも一緒に見たかったなー」

 

 由比ヶ浜の言葉は本心からのものだ。しかし会話の流れを少し逸らすために、敢えてマイペースな発言をしたのだと八幡は気付いた。だが、陽乃がそれに気付かないはずもない。まるで二人に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、陽乃は話を戻して語り続ける。

 

「雪乃ちゃんも、この世界に巻き込まれた当初は頑張ろうとしてたみたいだけどね。わたしも居るって判ってからは、また一歩引いちゃったんだよねー」

 

 この世界に巻き込まれた当初、全クラスに向けて行われた雪乃の演説を八幡は思い出す。確かにあの時の姿勢と今とは違う。しかし、あの危うい状態の彼女よりも、今のほうがずっと良いはずだと八幡は思う。それに陽乃が語る雪乃像は、どうにも作られた感を覚えてしまう。まるで大本営発表を聞かされているような気持ちがして、八幡は話を逸らそうと試みる。

 

「そういや、あのモニターってリアルの映像ですよね。こっちの様子もあっちで映してるんですか?」

 

「ふうん。比企谷くんはそう考えてるんだねー。映像通話の制限について、疑問に思わなかったのかな?」

 

 発言の前半と後半で話が切れていることを八幡は理解する。前半は八幡の思考を読んで、そして後半は雑談として口にしたのだろう。つまりは話を逸らすという意図も見抜かれているわけだが、雑談に入るのが八幡の望みの展開なので、そのまま平然と答えを返す。

 

「この間、平塚先生に遭ったんですけど、リアルと繋がった状態の結婚式に参加したみたいで。それを聞いて、アップデート当初の設定のままだと難しいだろうなって思ってたんですよ」

 

 まるで災難に遭ったかのように語る八幡の口調からおおよその出来事を推察して、陽乃は楽しそうな表情を見せる。この目の前の男の子は、思っていた以上に面白い存在だと。わたしの内面に気付いて、わたしに巻き込まれることを悟って、それを諦めている辺りが面白い。

 

「あ。肉親限定のはずなのに、ってこと?」

 

「たぶん由比ヶ浜の推測通りですよね。どうしたってこの状況だと、一般客まで映り込むのは避けられないでしょうし。仕様が変更されたとは聞いてないので、モデルケースというか実験みたいな感じですかね?」

 

「ま、一応は合格かなー。通話を繋げる時と切る時だけは肉親同士で、あとは一定時間ごとに肉親の存在を確認する、みたいな感じで落としどころを探ってるんだってさ」

 

「じゃあ、あっちには……」

 

「雪ノ下のご両親か、どっちか片方が居るんだろうな」

 

「仲良く二人で参加してるんだよねー。もう、年がいもなくイチャイチャする親って、ガハマちゃんどう思う?」

 

「あー、えーと、うちの両親もそんな感じなので……たはは」

 

 由比ヶ浜が居てくれるお陰で、深刻な話からは逸れている。この姉妹と親との関係は、その詳細は今はまだ耳にしたくないと八幡は思う。そんな希望を見透かして、しかし時期尚早については見解を同じくするのか、陽乃は口の端だけで八幡に笑いかける。今日はここで勘弁してあげようと。

 

 まるで対等とは思われていない陽乃の対応を通して、八幡はららぽーとに雪乃と出かけた時のことを思い出していた。戸塚や由比ヶ浜が、奉仕部に八幡を連れ戻そうと頑張っていた時も、雪乃は『貴方を屈服させるのは、また別の機会に』と言っててんで本気を見せなかった。あの時の雪乃と、今の陽乃と。やはり姉妹だなと八幡は思う。似ていない部分も多々あるが、似ている部分も色々とある。

 

「比企谷くんはさ。誰かに好かれるために無理に取り繕って、それで得たものってどう思う?」

 

「まあ、欺瞞って言って良いんじゃないですかね。いつかはボロが出るでしょうし」

 

「ガハマちゃんは素って感じだもんねー。でも、それだと……雪乃ちゃんは、また、選ばれないんだね」

 

「いや、意味が分かんないですって。それに姉妹でも似てない部分は多々あるでしょ?」

 

 不穏なものを感じて、八幡は反射的に返事を返した。陽乃の意図を読めているとはとても言えない状態だが、何となくの勘を発揮して八幡は陽乃に抗う。

 

「例えばさ。静ちゃんが言ってたけど、雪乃ちゃんは優しくて正しいんだって。それって、比企谷くんとどう違うんだろうね?」

 

「俺はぼっちだし間違ってばっかだし、優しくも正しくもないですよ」

 

「ガハマちゃんの評価は違うっぽいけどなー。ま、それと同じだよ」

 

 単なる言葉遊びなのか、それとも本質を裏に潜ませているのか。それらを読み取れないままに花火はフィナーレを迎える。とりあえず言いたいことは言い切ったのか、陽乃は最後まで花火を鑑賞すると、そのまま二人に背を向けて去って行った。

 

 

***

 

 

「なんか、話が濃すぎて花火の印象が薄れちゃったね」

 

 八幡に自宅まで送ってもらう途上で、由比ヶ浜がぽしょっと呟いた。高校で解散しようと主張する由比ヶ浜と、自宅まで送って行くと主張した八幡で先程までは意見を戦わせていたのだが、由比ヶ浜が折れた形だった。

 

 もちろん八幡に下心があるわけではない。最初に平塚先生に奉仕部に連れて行かれた時に言われた通り、八幡にそんな度胸はない。少なくとも今はまだ。

 

 八幡が心配したのは、高校への帰り道で他の生徒と鉢合わせをする可能性だった。八幡からすれば謎の友好的な態度を見せられて、相模との遭遇が問題に発展することは無さそうだ。だが他の生徒に目撃されたらどうなるか分からない。だから自宅のマンションまで送っていくと、八幡は主張したのだった。

 

「雪ノ下さんが何を言いたかったのか良く分からんけど……あれだな。できれば関わらないほうが良い相手って居るよな」

 

「それはあたしもそう思うけど……」

 

 八幡とはまた別のことを想定しながら少し言い淀んで、しかし由比ヶ浜は言葉を続ける。

 

「でもさ、ヒッキーも自分に関わって欲しくないって思ってるんだろうけどさ。……それは無理だよ」

 

「無理か?」

 

 由比ヶ浜の言いたいことが全く掴めず、オウム返しに八幡は答える。

 

「うん。多分さ、この世界に巻き込まれなくたって、ヒッキーとあたしとゆきのんは奉仕部で一緒になってたと思う。それで、やっぱり陽乃さんとも関わりができてさ。関わりたくないなーって言いながらヒッキーが頑張るの」

 

「おい。それって俺の人生どうなってんの?」

 

「ヒッキーはヒッキーだってことだよ。だからあたしは、だけど、あたしもヒッキーや、ゆきのんの力になりたいから、だから、その時は……」

 

 なにか言葉にならない感情を伝えようとして、今だけでなく未来のことも含めて伝えようとしているみたいで、八幡は由比ヶ浜の支離滅裂な言葉に反応できない。

 

 由比ヶ浜が大きく息を吸って、決定的な言葉を告げようとする。八幡はそれを妨げることができない。ただその言葉を待つしかなかった八幡の耳に、メッセージの着信音が聞こえた。

 

「あ、メッセージ。……ゆきのんだ」

 

「こっちにも来てるな。勉強会、来週の土曜はどうかってさ」

 

「そっか。……ヒッキー、もうここでいいよ。あのマンションだから」

 

「その、お前……さっき言おうとしてたことは、良いのか?」

 

「うん。今じゃないなって思ったから。たぶん陽乃さんと同じ」

 

「よく分からんけど、その、雪ノ下さんと遭遇したのはアレだったけど、今日はあれだ、ありがとな」

 

「ううん。また一緒に遊びに行こうね。今度はゆきのんも一緒に」

 

「だな」

 

「でも……」

 

「どした?」

 

()()行こうね。おやすみ」

 

「ああ……おやすみ」

 

 そのまま振り返ることなく、由比ヶ浜は八幡の前から去って行った。

 

 彼もまた踵を返して家路に就く。照りつけるような強い日差しに身体を投げ出したい気持ちに駆られながら、比企谷八幡は夜の道を静かに独り、自宅に向かって歩くのだった。

 

 

原作五巻、了。




本章は次回の幕間の話と、その次の相違点・時系列のまとめで終了です。
短いスパンでは六巻の、そして長いスパンでは九巻までのプロローグのような扱いなので、本章について取り立てて述べることはありません。
今までの流れのおさらいと、将来への流れを作って、あとは可能な限り各キャラを魅力的に描きたいと思って書きました。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(8/26)


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幕間:限りなくリア充に近いぼっち。

前回までのあらすじ。

 基本は家に引き籠もって妹と過ごしつつ、八幡は夏休みにも由比ヶ浜・海老名・一色・平塚・城廻・戸塚・材木座らと旧交を温めていた。にもかかわらず、本人は今なおカースト底辺のぼっちを自称している。

 由比ヶ浜と二人きりで花火大会に出かけた八幡は、会場で相模や陽乃と遭遇する。前者からは予想外の、後者からは表面的には予想通りの友好的な応対を受けて、八幡は二学期に向けて考えることが増えてしまった。由比ヶ浜は心配を胸に秘めつつも、第三者から見た八幡の現状を彼に伝え、慣れるしかないと告げる。今までは疎遠だった面々との、そして既に親密になった面々とも、関係の再構築が求められつつあった。



 家からほとんど外に出ないまま暑い毎日を過ごしていると日付の感覚がなくなるもので、気付けば翌週の土曜日になっていた。自転車で出かけるのがすっかり億劫になった比企谷八幡は、この日も自宅からショートカットで個室に移動して、そのまま高校内へと足を進めた。

 

 今日は朝から雪ノ下主催による勉強会の予定だ。開催場所である奉仕部の部室へと、八幡は軽快に歩を進める。ほぼ一ヶ月ぶりだというのに、足が道筋を覚えているという感覚がある。実は、己が上機嫌であることも軽い足取りの要因なのだが、八幡はそれを自覚していなかった。

 

「ういっす……ってお前ら早いな。まだ五分前にもなってないぞ?」

 

 集合時刻の五分前には到着するよう余裕を持って出て来たはずなのに、既に部室では八幡以外の全員が顔をそろえていた。五月の終わりに、あの時の依頼に関与した高校生たちが一斉に八幡に視線を送る。

 

「比企谷くん、お久しぶりね。遅刻をしたら新しいあだ名をつけてあげようと思っていたのだけれど」

「ヒッキー、やっはろー!」

「八幡、この間は楽しかったね。元気だった?」

「あんたもとりあえず座りなよ。大志があんたのことばっか話すから、久しぶりって気がしないね」

 

 四者四様の語りかけにどう反応したものやらと思いつつ、八幡はひとまず苦笑いと頷きだけで済ませると、勧めに応じて座り慣れた自席に腰を下ろした。

 

 長机は普段よりも黒板に近い位置にあった。天井からはスクリーンが下ろされていて、黒板の左半分を覆い隠している。

 

 長机の長辺、その黒板側は、いつもなら依頼人が座るのだが、この日は雪ノ下雪乃が席を占めていた。普段の彼女の指定席には川崎沙希が、その横にはいつも通りに由比ヶ浜結衣が、そして八幡の隣には戸塚彩加が腰を落ち着けている。

 

「あのな。ぼっちに一気に話しかけるとか、お前ら鬼か。動揺して返事を噛んでいたたまれなくなって自宅に逃げ帰って小町の手料理で慰めてもらうまであるぞ?」

 

「最近のあんたの妹を見てると、叩き出されそうだけどね」

 

「小町ちゃん、最近ちょっと変わったよね。あたしもヒッキーが追い出される気がする」

 

「小町さんにも思う所があるのでしょうね。そもそも、今の比企谷くんなら逃げる必要はないと思うのだけれど」

 

「うん。みんな八幡と仲良しなんだし、そんなに気にしないでいいのに」

 

「いや、戸塚の気持ちは嬉しいんだが……なかなか慣れなくてな。ま、とっとと始めようぜ」

 

 天使からの宣告に歓喜して思わず弱音が漏れそうになった八幡は、照れ隠しの意図もあって勉強会の開始を要請した。そんな彼に優しい目で苦笑いを送るその他四人。だが八幡がまた挙動不審に陥る気配を感じて、雪ノ下が気持ちを切り替えて発言する。

 

「では、さっそく英語から始めましょうか。まずは私が受講した内容から、現時点で履修済みの文法項目を抜き出してみたのだけれど……」

 

 そう言いながら雪ノ下は高校()年生向けの東大英語のテキストをスクリーンに映した。五月に川崎に提案した「大手予備校の東大コースを受講後に復習を兼ねた勉強会を行う」という約束を果たすべく、こうして雪ノ下による講義が始まった。

 

 

***

 

 

「なんか午前中でへとへとなんだが……」

 

「あたしなんて頭がぱんぱんでもう何も入らないよ……」

 

「ぼくも、こんなに濃密な勉強はしたことなかったかも……」

 

「あんたの好意は凄く嬉しいんだけどさ。さすがに詰め込みすぎって気がするよ……」

 

 高三向け東大英語(雪ノ下スペシャルミックス)の学習効果は絶大で、参加者の誰もが英語への手応えを実感した。同時に全員がこの上ない疲労感を自覚していた。

 

「わ、私も受講時には英語の奥深さを実感したので、何とかそれを伝えたいと思ったのだけれど……」

 

「いや、それは本当にありがたいと思うんだが、俺が受けた予備校の授業って何だったのか疑問に思えて来てな。『ポイントを押さえろ』とか『大事なところを見極めて読め』みたいな読解は邪道ってことだろ?」

 

「ええ。構文把握で満足せず、文脈を読み取って綺麗な日本語に訳せてこそ価値があると仰っていたわね。私もそれに同感なのだけれど」

 

「だからって、このスピードで読解してたら日が暮れるぞ。現に午前中に英国をやる予定が、英語しか終わってないからな。ま、俺は数学は必要ないからこれでも良いんだが」

 

「大丈夫よ。時間が足りないことを見越して、要点をプリントにまとめてあるわ」

 

「あんた、そういう問題じゃなくない?」

 

 何とか川崎が口を挟むものの、由比ヶ浜も戸塚も口を開く余裕はなく、反論を行えていた八幡も今の雪ノ下の発言で心理的なダメージを負った様子である。

 

「その、教えて頂いた先生も、テキストを最後まで終わらせられなくて。でも充実した内容のプリントを配って頂いたわ。だから私も……」

 

「なあ。それって授業の計画時点で色々と無理があったってことじゃねーのか?」

 

「……むしろ『教えるべきことを教えていないから早く進むのだろう』と他の先生方を批判しておられたわね」

 

「ここの運営連中といい、頭の良い奴って変なのしかいねーのかよ……」

 

 

 ともあれ嘆いていても仕方がないので、五人は体力と精神力を回復させるために昼食を摂った。食事中だけは勉強の話は止めて欲しいという由比ヶ浜の懇願を受け入れて、雪ノ下が口を開く。

 

「そういえば、比企谷くんは誕生日をどう過ごしたのかしら?」

 

「えっ。ヒッキーって誕生日いつ?」

 

「あー、言ってなかったか。今月の八日だったんだが」

 

「えー。言ってくれたらみんなでお祝いできたのに……」

 

 おそらく小町が気を遣ったのだろうと八幡は推測した。ぼっち気質の兄のためにも千葉村から間を置かずに大勢で集まることは避けて、ならば誕生日の情報自体も伝えないほうが良いと考えたのだろう。その結果、家族で久しぶりに集まることになったのだから、妹の選択は正しかったのだろうと八幡は思った。

 

 見るからに残念そうな様子の由比ヶ浜に苦笑しながら、川崎も戸塚も三人の会話には入ろうとしない。そんな二人を横目でちらりと確認して、苦笑いが移ったまま雪ノ下が会話を続ける。

 

「由比ヶ浜さん。そうしたことを比企谷くんが恥ずかしがって逃げるのは、貴女もよく知っているでしょう?」

 

「それは分かってるけどさ。せっかくの誕生日なんだし……」

 

「一応な、家族で食事とかして来たから。誕生日はぼっちじゃなかったし、心配すんな」

 

「やー、えーと、そんな心配はしてなかったんだけどさ。ってそれって、こないだ言ってたやつ?」

 

「おお。ホテル・ロイヤルオークラに行ってきたってやつな」

 

「へえ。あんた、意外に親孝行なんだね」

 

「八幡たちと一緒にバーに行ったの、懐かしいね」

 

「今度は川崎さんも客として、ここにいる全員で行くのも良いと思うのだけれど……」

 

 なにぶん他の生徒達と遊びに行った経験に乏しいだけに、雪ノ下が小声で提案を行う。しかしそれを聞き逃す由比ヶ浜ではなく、この提案は瞬時に約束へと昇格するのだった。

 

 

「あ、そういえばさ。こないだ花火大会でゆきのんのお姉さんに会ったんだけど」

 

「ええ、聞いているわ。比企谷くんや由比ヶ浜さんと一緒に花火を見たと、何だかはしゃいでいたわね」

 

「あ、うん……」

 

 雪ノ下は「二人きりで」と口にしたわけではないのに、何だか隠し事が明るみに出てしまったような心地がして、由比ヶ浜は恥ずかしそうに俯いてしまった。とはいえ奉仕部の仲の良さを体感してきた戸塚や川崎からすれば、由比ヶ浜()()が八幡を誘うことに不思議はない。よもや二人きりとは思いもせず、戸塚と川崎は首を傾げている。

 

「人前に出るのは自分の役目だって陽乃さんが言ってたけど、なんか大変だな」

 

「あれ。ヒッキーって陽乃さんのこと、名前で呼んでたっけ?」

 

 由比ヶ浜が恥ずかしがっていることに加え、自分まで飛び火しないようにという意図もあって話を進めようとした八幡だったが、まさかの背後からの攻撃を受けてしまった。

 

「あー。あの日は名前で呼んだら向こうの思うつぼって感じだったから拒否したけど、どっちも雪ノ下だと判りにくいしな」

 

 

 そうは言ったものの、八幡は発言の矛盾に気付いていた。姉妹で判りにくいから名前で呼ぶのであれば、雪ノ下を名前で呼んでも良いはずだ。もちろん面と向かって直接呼ぶのは論外だとしても、当人が居ない所でならば名前で呼んでも良いはずだ。しかし今の八幡にはそれもできない。また、仮に由比ヶ浜に兄弟姉妹がいたとしても、八幡はやはり名前では呼べないだろう。

 

 雪ノ下陽乃を気楽に名前で呼べるのは、馴染みが薄いからだと八幡は自覚している。考えてみると不思議だが、関係が深まったために二人を名前で呼ぶことができなくなった。この感情の根幹にあるのは何なのか、八幡は知りたくもあり、そして知りたくないとも思っている。

 

 リア充の男子生徒達が由比ヶ浜を名前で呼んでいるが、と八幡は思う。あれもやはり、関係がそれほど深くないからこそなのだろう。もしも自分が二人を名前で呼ぶことがあるなら、それは今よりももっと関係を深められた時だろうと八幡は考える。だが果たして、そんな時が来るのだろうか。

 

 花火大会で偶然会った相模南のことを八幡は思い出す。彼女から友好的な対応を受けて混乱していた八幡に、由比ヶ浜がその理由を教えてくれた。それは筋の通った話だったが、要は自分の力によるものではなく他人の威を借りた結果である。自意識の高い八幡としては、複雑な思いを抱いてしまったのも当然だった。

 

 自分というものを他人以上に信じられないものとして扱ってきた八幡は、自己評価の低さを自覚している。

 

 もちろん、自分が優れていると思う分野もある。同じ中学からはただ一人、この辺りでは一番の進学校である総武高校に合格した。国語が学年三位だったり、中二病の頃に培った知識や経験だったり、それらは奉仕部が受けた依頼を解決するために彼が使った武器であり、それが効果を発揮したことで八幡は更に自信を深めることができた。

 

 だが、苦手を自覚している分野もまた、八幡自身が何らかの手応えを得られない限りは苦手意識が残ったままなのだ。

 

 だからこそ。多くの人から評価されるような何かを得たいと八幡は思う。思うようになった。ぼっちでカースト底辺の割には一部のスペックが高い自分に、かつての八幡は満足していた。だが今は、それだけでは満足できない。その先を考えると、自分の中だけで満足して終わりというわけにはいかない。

 

 他人など信じられないと思っていた頃とは違う。信じても良いかもしれないと思う他人を見付けて、八幡はようやく自分を信じたいと思うようになった。だからこそ、他人からも一目置かれるような何かを得たくなった。そうして初めて、他人のことを信じられるようになるのではないかと八幡は考えたのだ。

 

 一つ先に進むと、更に先を求めたくなる。二人との距離を更に縮めるために。彼女らの家の事情を知ったり、彼女らと個人の仲を深める前に。何か他人に誇れるものを得たい。

 

 それはこの年代に特有の潔癖さが反映された思考である。彼が行列に秩序を求めたのと同様に、順序というものを意識してそれに囚われてしまう青さは、しかし順番に課題をクリアして目的へと近付くための原動力にもなる。

 

 かつて奉仕部を離れようとして、だが戸塚や由比ヶ浜との対話を経て「次の依頼で結果を出す」と決意した時と同じように。八幡は心中でこっそりと「次の依頼でも結果を出す」ことを誓った。

 

 

「そういえば、姉さんは文化祭について何か言っていなかったかしら?」

 

「うーんと。特に何も言ってなかったよね、ヒッキー?」

 

「だな。文化祭どころか、高校の話すらなかったと思うが。……平塚先生が文化祭でベースを弾かされたって言ってたけど、その話は違うんだろ?」

 

 今まで一人で考え込んでいたことをおくびにも出さず、八幡が同意を重ねる。二人の返事を聞いて雪ノ下は納得の表情を浮かべていた。

 

「ええ、それは今から二年前と三年前の話ね。姉さんは私達と入れ替わりで卒業だったから。……ということは、なるほど。姉さんはそう考えているのね」

 

「おい。お前ら姉妹で勝手に楽しんで勝手に納得すんな。っつーか、俺らを介してお互いの意図を探り合うとか止めて欲しいんですけど」

 

「なんだか凄い姉妹だね。うちは下の子が小さいからってのもあるけど、直接話せるほうが楽しいけどね」

 

「ぼくも、雪ノ下さんのお姉さんを見た時は圧倒されちゃったからなあ……」

 

 笑うしかない由比ヶ浜と呆れ顔でツッコミを入れる八幡を見て、川崎も戸塚も苦笑している。川崎の呟きを耳にして、家族との連絡手段を得られたお陰で快活な調子を取り戻しつつある彼女に見えないように、四人はこっそりと目配せを送り合う。

 

 続けて戸塚が言葉を発すると、あの駅前での光景を思い出して八幡と由比ヶ浜は頷きを返した。だが雪ノ下は平然としたもので、全員に教え聞かせるように八幡への返事を行う。

 

「正確な情報は、いくらあっても足りないということはないわ。ただそうなると、少し面倒なことになりそうね」

 

「不吉な予言っぽくて怖いんだが。てか、お前らJ組は文化祭で何をするんだ?」

 

「それは二学期になってのお楽しみね。まだ何も決まっていないの」

 

「それって、お前にだけ情報が回ってきてないとか……」

 

「残念ながら、私たちのクラスは去年から同じ顔ぶれだし、意外に仲が良いのよ。とはいえ、最近は仲が良すぎて困るという気配が出て来たのだけれど……」

 

 由比ヶ浜に縋り付かれた時と同じ表情を浮かべている雪ノ下を見て、八幡は心の中で彼女にエールを送った。クラスでも部活でもとなると雪ノ下でも大変だと思うが諦めて頑張ってくれと、八幡は他人事ゆえに静観する。当の由比ヶ浜は話を理解できておらずきょとんとしているが、敢えて教えなくとも問題はないだろう。

 

 そういえば、と八幡は思う。かつては雪ノ下も孤高を貫いていたはずだ。その時と今と。改めて比べてみても、やはり今のほうが良いと八幡は思った。

 

 おそらくは過去の自分と同じように、他人に掌を返され拒絶された雪ノ下。自分とは違って、高いところに祭り上げられるという形で排斥された雪ノ下。だが、由比ヶ浜が彼女の心の壁を突き崩した。

 

 今の雪ノ下は他人を信じることができるのだろう。それは彼女に、万人に認められるような才知が備わっていたから。そんな自分に自信があったからではないか。だからこそ信じられる他人を得てすぐに、雪ノ下は今の状態へと落ち着けたのだろうと八幡は考える。

 

 雪ノ下の自信が、あるいは誰の自信であっても、それが時に簡単に揺らいでしまうほど曖昧なものであることを。既に忠告を受けていたにもかかわらず、そんな時に雪ノ下がどのような思考経路に陥るのかを、八幡はまだ知らない。

 

 

「じゃあそろそろ、勉強会を再開しようか。せっかく雪ノ下が教えてくれるんだし、あんたらももう少し頑張ろうよ」

 

 塾のバイトで培った経験を活かして、話の切れ目を捉えて川崎が全員に提案を行う。確定でこそないものの、全員が理系よりも文系を考えていることもあって、数学の授業は各自プリントでという話になった。午後は国語をみっちりとこなして、こうして雪ノ下主催の勉強会は終わった。

 

 

***

 

 

 それぞれテニスの練習と塾のバイトに向かう戸塚と川崎を見送って、三人は部室でお茶を楽しんでいた。

 

「放課後ティータイムって感じで、平和だな」

 

「さっきまで詰め込みすぎて頭が痛かったけど、癒やされてる気がするし」

 

「その、由比ヶ浜さん。せっかく覚えたことを忘れられては困るのだけれど」

 

 そんな苦言を呈しつつも、久しぶりに三人揃って部室で時間を過ごしている現状ゆえに、雪ノ下の表情は柔らかい。

 

「お前はそう言うけどな。あれ、予備校の授業だけじゃなくて、平塚先生が言ってたお勉強サプリとか模試で出た問題とか、色んなものをぶち込んでるだろ?」

 

「なにも一度で全てを理解する必要はないし、せっかく学習した成果を詰め込むのは悪いことではないと思うのだけれど?」

 

「確かに繰り返し復習したら力がつきそうだけど、受ける奴のことも考えておけよ。特に由比ヶ浜な」

 

 飼い犬を連想させるような勢いで由比ヶ浜が繰り返し首肯している。それを見た二人は、難しい話はこれで終わりだと無言で頷きあって、別の話に移った。

 

「先程の文化祭の話を蒸し返すことになるのだけれど」

 

「面倒なことになりそうとか言ってたよな。あんま聞きたくない気もするけど、どういう意味だ?」

 

「どのみち困難な事態に陥れば依頼が来るのだから、私達も巻き込まれることを覚悟すべきだと思うのだけれど。とはいえ、あまり不吉な話ばかりだと気が滅入るので、今日は楽しい話をしましょうか」

 

「えっと、もしかして奉仕部の三人で、文化祭で何かやるとか?」

 

 一転して楽しそうな表情を浮かべて、由比ヶ浜が話に食い付いた。八幡は二週間ほど前に妹が口にした「ペットって飼い主に似るのかなぁ」という呟きに「逆じゃね?」と脳内でツッコミを入れつつ、話の推移を見守る。

 

「確定ではないのだけれど、この世界に巻き込まれたことで、有志の出し物が例年ほど揃わないのではないかと思うのよ。だからもしもに備えて、私達にできることを相談しておきたいと思ったのだけれど」

 

「うーん、三人でできることかぁ……。隼人くんたちはバンドをするつもりって言ってたけど、そういえばパート分けもまだなんだよね」

 

 由比ヶ浜の呟きに、雪ノ下が僅かに顔色を変える。リア充グループでバンドを組むという話になれば、由比ヶ浜はそこに名を連ねることになるだろう。そうなれば奉仕部で一緒に何かをするという話はお流れになる可能性が高い。掛け持ちができるほど時間の余裕は無いだろうから。

 

「あっちは全部で……お前を入れると七人になるよな。こっちは人数ギリギリだし、職場見学の時みたいにお前だけこっちにってわけにはいかねーかな?」

 

 雪ノ下の表情から思考までを見抜いて、八幡が一つ提案を行った。リア充グループへの言い訳を用意して、部長様の御心のままに話が進むためのアシストを行う。

 

「あ、うん。それだったら優美子たちも納得してくれると思う。正直、人数が多すぎてパート分けが上手く行かないって感じだったし、そのほうが助かるかも」

 

「んじゃ、それでいいんじゃね。雪ノ下は何をやろうと考えてるんだ?」

 

 八幡のお膳立てを受けて悪戯っぽい笑顔を浮かべて、雪ノ下は口を開く。

 

「実は私も、この三人でバンドを組むのはどうかと考えていたのだけれど、いかがかしら?」

 

「でもあたし、楽器の経験なんて無いんだよね……」

 

「俺も何も弾けないんだが、短期間で何とかなるもんなのか?」

 

「それを今から確認しようと思うのだけれど。とりあえず、部長権限で部室内をスタジオに換装するわね」

 

 いつになくノリノリの部長様だった。

 

 

***

 

 

 八幡と由比ヶ浜に順番にドラムスを叩かせた結果、楽器の振り分けは以下のように決まった。

 

ギター:雪ノ下

ベース:由比ヶ浜

ドラムス:八幡

 

「んで、ヴォーカルはどうするんだ?」

 

「そこが悩ましいところね。私だと一曲を歌いきれば疲弊してしまいそうだし、由比ヶ浜さんか比企谷くんに任せたいところなのだけれど」

 

「ベース弾きながらって、難しくない?」

 

「俺もドラムで精一杯なんだよな。お前が言うように、確かに両手と右足は別々に動かせたけど、左足はダメだったし裏のリズムが入ると途端に叩けなくなる状態だしな」

 

「それでも、いきなり叩いて両手と右足が動かせるのなら上等よ。短期間で形にする必要がある以上、楽器の担当はこれで確定ね」

 

「それって、ヒッキーに才能があるってことなんだよね?」

 

 消去法でベースを任されたと思っている由比ヶ浜が、少し小声になって問いかける。そんな部員の心情を理解して、雪ノ下は優しく反論を行った。

 

「由比ヶ浜さんもクッキーの依頼を覚えているでしょう。あの時に『才能の有る無しは、最低限の努力をして初めて判定できるもの』だと言ったはずよ」

 

「うん。それは覚えてるけどさ……」

 

「バンドを組む時にはドラムスがネックになることが多いから最初にそれを決めたのだけれど、決して消去法で貴女にベースを任せたわけではないのよ。それに比企谷くんに才能があるかというと、『まだ判定できない』が正直なところね」

 

「特に練習とかしたわけじゃねーしな。それにどうせ雪ノ下だと、最初から両手両足が動いたんだろ?」

 

「ええ。裏のリズムも普通に叩けたわね」

 

 特に誇るような素振りも見せず、あっさりと八幡の推測を肯定する雪ノ下だった。

 

「俺はバンドは初心者だから、適当なことを言ってるかもしれんが。由比ヶ浜の性格を考えると、俺と雪ノ下が暴走するのを防ぐって意味でも、ベースって役割が一番合ってると思うんだがな」

 

「私もそう考えているわ。それに才能の話に戻すと、今必要なのは才能の有無よりも、『序盤の成長が早い』ことなのよ。短期間でそれなりの状態に仕上げることが求められているわけだから、才能とはまた違う話ね」

 

 二人の説得を受けて、何か思い当たったことがあったのか由比ヶ浜が口を開いた。

 

「そういえばさ。隼人くんのグループに大岡くんっているじゃん」

 

 雪ノ下はF組に変な噂が流れた時の被疑者の一人として彼のことを覚えていた。そして八幡は「あの童貞風見鶏っぽい奴だな」という覚え方をしていた。友人の友人に対して、何気に酷い扱いをしている二人だった。

 

「大岡くんって身長が伸びるのが早かったみたいでさ。結局、他の子よりも早くに成長が止まって、身長がどんどん追い抜かれて悲しかったって、冗談っぽく言ってたんだけど。ゆきのんがさっき言ってた『序盤の成長が早い』って、そういう意味だよね?」

 

「ええ、それで合っているわ。そういえば、あの噂の後は、特に変わったことは?」

 

「うん、変なことは何も起きてないし大丈夫だよ。ね、ヒッキー?」

 

「まあ俺はお前ほどクラスのことに詳しくないけど、見てる感じだと大丈夫なんじゃね?」

 

「それなら良いのだけれど、もしもまた問題が起きた時は……」

 

「うん。できるだけあたしたちで何とかするけど、もしどうしてもダメだったら……ごめんだけど助けて欲しいな」

 

「ま、由比ヶ浜の得意分野だし、むしろ俺らができることのほうが少ないだろ。お前に無理な範囲のことは何とかするから、その時は遠慮なく言ってくればいいんじゃね?」

 

「ええ。今度こそ犯人に心からの後悔をさせてあげるわ」

 

「ゆきのんが過激すぎる……。でも、うん。ヒッキーが言う通り、あたしの得意分野なんだよね。だから最後には、あたしが頑張るから」

 

 言葉に意思を込めて、由比ヶ浜が力強くそう言い切った。そんな彼女を二人は頼もしく眺めている。

 

「話が逸れたけど、ヴォーカルの話な。ちょっと思い付いたんだが、雪ノ下が一番を歌って、由比ヶ浜が二番を歌うとかだとダメなのか?」

 

「あ、それなら何とかなる……かな。あたしも練習する前から弱音を吐いたりしないから、ちょっと頑張ってみよっか」

 

「私の体力が無いのが原因の一端なのだし、由比ヶ浜さんも気負い過ぎないようにね」

 

「うん。まだ曲決めとか色々あるだろうけど、三人で演奏できるって何だか楽しみだね。不謹慎かもだけど、有志が集まらないほうが良いかもって思っちゃいそう」

 

「ま、それぐらいの意気で良いんじゃね。とりあえず、詳しいことは二学期になってからだな。それまでは基礎練とかしてれば良いのかね?」

 

「ええ。どうなるか分からない話だけれど……。私も由比ヶ浜さんと同じく、有志が少ないことを望みたくなって来たわね」

 

「んじゃ、性格の悪い願い事なら任せとけ。たぶん叶うから、そん時は三人で頑張るか」

 

 八幡の軽口に二人が頷いて、こうして二学期に向けた準備は整った。

 

 

 お互いがお互いに理想を押し付けず、勝手に理解した気にもならず、今の奉仕部の三人は釣り合いの取れた関係にある。それぞれ知らないことはどうしようもないが、知っていることであれば瞬時に太鼓判を押すことができる。千葉村からの解散時に、八幡が雪ノ下を「大丈夫」と断言したように。

 

 文化祭で、彼らはどのような形で関係を深めることになるのだろうか。

 

 二学期はもう目前に控えている。

 

 

 

 原作六巻につづく。




本話は原作にないお話が主なこと、次巻に繋がる要素が多いことから「幕間」という扱いにしました。
楽しい夏休みが終わって、次々回からは二学期、そして文化祭が待っています。
盛り上がる内容にできるように、引き続き自分に可能な精一杯で書き切ろうと思っていますので、次章も宜しくお願い致します。

次回は相違点・時系列のまとめで、一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/1,9/9,4/2)


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原作との相違点および時系列(原作4巻〜5巻)

ここまでの内容を振り返ったり、これから先を読み進める上での参考になれば幸いです。



 全般的には、各キャラの過激なエピソードを除外して、「原作の個性を活かしつつ現実に居そうなキャラ」という枠に収まるように調整しています。特に原作1巻は除外が多めです(具体例は後書きにて)。

 

 また、この世界に巻き込まれた事で原作よりも少しだけ前向きな行動が増えています。各キャラのコアの部分は変えないように心掛けているつもりですが、違和感がありましたらお気軽にお伝え下さると助かります。

 

 

■原作との相違点(各キャラについて登場順に)

 

・比企谷八幡

 職場見学で千葉村を作成。(4巻01話)

 奉仕部の二人をはじめ何人かとは前向きな関係を望むようになった。(4巻07話,4巻08話,4巻18話)

 雪ノ下と約束を交わす。(4巻07話)

 過去に同級生から受けた扱いを奉仕部の二人に説明済み。(4巻08話)

 父親のパソコンでいじめの話を調べたことがある。(4巻12話)

 友情破壊ゲームと呼ばれるボドゲを知っていた。(4巻15話)

 クラスメイトからの扱いに変化が出始めているようです。(5巻03話)

 

・比企谷小町

 兄への甘えを自覚して成長を果たした。(4巻01話,4巻08話,4巻18話)

 小学生と高校生の仲介役を請け負うことに。(4巻18話)

 少しずつ兄離れの行動も出始めているが基本はブラコン。(5巻02話)

 

・平塚静

 千葉村での合宿には、文化部と運動部の融和を示すという意図もあった。(4巻02話)

 奉仕部に八幡を入部させた理由を説明済み。(4巻08話)

 

・雪ノ下雪乃

 気安い部活仲間への甘えを自覚して成長を果たした。(4巻02話,4巻08話)

 小学生時代の葉山の失敗を、去年のことだと女性陣に説明。(4巻06話)

 父親との仲は良好。(4巻07話)

 八幡と約束を交わす。(4巻07話)

 葉山に拘る気持ちは薄れたものの、時に再燃する模様。(4巻08話,4巻13話)

 入学式前の事故以来ずっと見てきた八幡を高く評価し親しく思っているが、情に動かされる域には至っていない。(4巻17話)

 

・由比ヶ浜結衣

 八幡と雪ノ下にももっと仲良くなって欲しいと望みつつ、二人が付き合う未来は望んでいない。(4巻08話,4巻17話)

 自分の役割を自覚して、八幡や雪ノ下が動きやすい環境を作り上げることに全力を尽くそうと考えている。(4巻13話)

 

・三浦優美子

 この世界でインターハイの予選にすら出られない葉山のために、奉仕部との合同合宿を一色と企画。(4巻02話)

 基本は女王として君臨するだけだが、物事の筋目や基本を疎かにする人には厳しく応対する。他者の意思を尊重したいと考えている。(1巻16話,4巻06話)

 策を持たない身ながら葉山のために、問題解決に向けて必死に頭を働かせた。(4巻13話)

 葉山への感情をようやく自覚した。(4巻17話)

 

・海老名姫菜

 葉山との過去の話は、雪ノ下の説明だけでは理屈に合わないと思っている。(4巻06話)

 八幡のことは高評価。(4巻09話,5巻01話ほか)

 少しだけ過去話あり。(4巻17話)

 千葉村のレポートを平塚から依頼された。(5巻01話)

 

・葉山隼人

 自分と違った長所を持つ戸部を高く評価している。(4巻04話)

 八幡への対抗意識が明確に。(4巻04話,4巻16話)

 小学生を集めて話をするだけでは解決しないと理解できている。(4巻05話)

 自分の手によらず、自分のためでもなく、小学生の現状そのものを改善したいと思い至るようになった。(4巻09話,4巻10話)

 目先ばかりを見て、本来の目的を見失いがちな傾向がある。(4巻13話)

 真実を出せば分かってくれるはずだと小学生の純真さを疑っていない。(4巻14話)

 弱音を吐く時は、内心どうでもいいことか既に解決済みのことばかり。(4巻14話)

 

・城廻めぐり

 八幡・戸塚・材木座と映画を鑑賞しカフェでお茶を共にした。(5巻02話)

 

・一色いろは

 葉山のために、合同合宿を三浦と企画。(4巻02話)

 自分では全て計算尽くで行動しているつもり。合宿を共にした女性陣への好意が芽生えていると未だ気付いていない。(4巻07話)

 同性からの反応が少しずつ変化している事にも気付いていない。(4巻09話)

 三浦との協力関係を継続。(4巻17話)

 未だ八幡の全体像を理解できていないが、意識しないままに情報は順調に蓄積している。(4巻17話,5巻02話)

 

・材木座義輝

 映画鑑賞が縁で、生徒会長とも知己を得た。(5巻02話)

 

・戸塚彩加

 八幡との仲を順調に深めています。(4巻05話,4巻16話,5巻02話)

 

・川崎沙希

 バイト先の塾で小学生向けの英語の授業を受け持つことに。(4巻18話)

 

・大和と大岡

 雪ノ下恐怖症から抜け出せず。三浦たちともまだ少し距離がある。(4巻05話)

 

・戸部翔

 過去話あり。(4巻04話)

 海老名への気持ちが確定した時は協力して欲しいと、葉山・八幡・戸塚に要請済み。(4巻05話)

 

・相模南

 なぜか八幡に友好的に接する。(5巻03話)

 

・雪ノ下陽乃

 事故を引きずる雪ノ下と被害者の八幡を、同じ部活に入れるよう平塚に提案。(4巻18話)

 

・秦野と相模

 ゲーム大会のために千葉村まで駆り出されたが、実りある体験となった。(4巻15話)

 

・鶴見留美

 二日目に宿舎で独り残った経緯あり。(4巻12話)

 ゲーム大会の勝者となる。(4巻15話)

 

 

■時系列

 曜日は、由比ヶ浜の誕生日=月曜日という3巻の設定に合わせています。

 

7/19(木)

 終業式。奉仕部で一学期の振り返り。(4巻01話)

 

8/1(水)

 アップデートで、関東一円まで世界が広がる。(4巻01話)

 同時に、現実世界と映像通話が可能に。(4巻13話)

 八幡が運営の人と一緒に公開直前の千葉村を散策。(4巻01話)

 平塚・雪ノ下・由比ヶ浜・戸塚・小町が駅前に集合。車で千葉村へ。(4巻01話)

 千葉村で八幡と合流。更に葉山・戸部・三浦・海老名・一色とも合流。(4巻02話)

 八幡と雪ノ下が留美と顔を合わせる。(4巻03話)

 夕食後、生徒全員での話し合い。(4巻04話)

 男子会と女子会の開催。(4巻05話〜06話)

 八幡が雪ノ下と夜のデート。(4巻07話)

 奉仕部と小町・平塚による臨時集会。(4巻08話)

 一日目が終わる。(4巻09話)

 

8/2(木)

 男子四人がキャンプファイヤーの準備に勤しむ。(4巻10話)

 八幡が水着姿の女子中高生を堪能。(4巻11話)

 八幡と雪ノ下が研修室に留美を迎える。(4巻12話)

 生徒全員でお昼の話し合い。(4巻13話〜14話)

 肝試しの代替イベントとしてゲーム大会を開催。(4巻15話)

 八幡と葉山が夜のお話。(4巻16話)

 二日目が終わる。(4巻17話)

 

8/3(金)

 川崎が小学生向けに新設する英語クラスの説明を行う。(4巻18話)

 小町が留美ともう一人の小学生と会話を交わす。(4巻18話)

 小学生を見送り葉山グループと別れ、戻ってきた駅前で陽乃と遭遇。解散。(4巻18話)

 

8/8(水)

 比企谷家食事会。(5巻01話)

 

8/10(金)

 由比ヶ浜が翌日からの家族旅行のため、サブレを比企谷家に預けに来る。(5巻01話)

 

8/11(土)

 海老名が二学期の相談に来る。(5巻01話)

 

8/12(日)

 八幡と小町がサブレ同伴でデート。一色・平塚と遭遇。戸塚・城廻・材木座と映画鑑賞。(5巻02話)

 

8/13(月)

 由比ヶ浜がお土産を持って来訪。花火大会のお誘い。(5巻02話)

 

8/17(金)

 八幡が由比ヶ浜と花火デート。相模・陽乃と遭遇。(5巻03話)

 

8/25(土)

 雪ノ下主催の勉強会。参加者は奉仕部三人と戸塚・川崎。(5巻幕間=95話)

 奉仕部三人によるバンド計画を立ち上げ。(5巻幕間=95話)

 

 

■この世界特有の設定

 よく使うものを簡単にまとめます。

 

・時間短縮

 クッキーの焼き時間や(1巻09話)、乗り物で移動する時間などを省略できる(3巻10話)。現実通りに時間を費やすことも可能。

 

・教室の合体

 教師の権限で複数の教室を合体できる(1巻05話)。合同教室の対象は距離に左右されないので、例えば遠足先の一室などとも合体が可能(4巻14話)。

 

・教室内部の換装

 クラスなら委員長、部活なら部長の権限で、教室内を自由に換装できる。備品だけでなく環境の指定(追い風を受けながらテニスコートでサーブを練習する等)も可能(1巻20話)。

 

・個室の合体

 ログイン当初から、各自が所属する建物(例えば総武高校の校舎)上空に個室が用意されている。同性(5巻01話)かつ全員の了承があれば個室を合体できる(1巻05話)。換装の自由度は低く、教室はもちろん外部の宿泊先にも劣る(4巻05話)。

 

・個室と自宅とのショートカット

 個室と自宅とはショートカットで行き来ができる(2巻01話)。個室の主の許可と、以前にその自宅を訪れていれば他者にも可能。(3巻22話)。

 

・現実世界との映像通話

 現実世界の同じ場所にいる肉親とは通話ができる。例えば自宅、同じホテルのレストラン、同じ旅行先などで通話が可能。相手はタブレットやスマホ越しに、この世界では目の前に肉親の姿が再現される。

 通話が結ばれた後は肉親以外とも話せる方向で改良が進められている(5巻03話)。




本話と合わせて、原作1巻〜幕間までをまとめた25話や、原作2巻〜3巻までをまとめた73話も参照して頂けると嬉しいです。

一週間後から原作6巻に入ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
読みやすいように項目分けを増やし、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/9)
リンクを変更して、細かな表現を修正しました。また、今までにご指摘を頂いた(=誤解を生みやすそうな)ことも「相違点」として記述していたのですが、さすがに細かいと思い本文からは削除しました。このあと改行後に添付しておきます。(2018/9/12)









■原作との相違点(以下、例えば原作1巻25ページ参照→1-25と表記します)
 正確性を重視し備忘録も兼ねているので、参照先が多い項目もあります。ご了承下さい。

・変更or除外されたもの
 気になる女性に積極的な行動に出る中学時代の八幡。(1-25,1-119,1-160,2-33,2-71,3-63,3-287ほか)→一人に集約。(2巻02話,1巻10話)
 奉仕部内の勝負。(1-43)
 小学生の時にリコーダーの先だけ交換した八幡。(1-68)
 高二でまだとか恥ずかしいと言い出す由比ヶ浜。(1-84)
 八幡に買いに行かせた野菜生活をひったくって飲み始めお金も払わない雪ノ下。(1-90)
 1巻での三浦の振る舞い全般。(多いので略)

 遅刻が多い八幡と川崎。(2-137,2-162)→無遅刻無欠勤を目指している。(2巻13話の後書き)
 川崎をナンパする葉山。(2-201)
 同好会は無い。(3-167)→部費が下りるのが部活、下りないのが同好会に変更。(3巻09話)
 雪ノ下母が強く父はそれをフォローする役回り。(5-189)→母の強さは同じだが父の意見が優先される関係に。年齢を感じさせないほど夫婦仲が良い。(4巻07話,5巻03話)
 三浦は「結衣がヒキオと付き合うわけない」と発言。(7-212)→由比ヶ浜の気持ちを知っている。(1巻12話,4巻17話ほか)

・実は原作通りのもの
 両親と仲の良い八幡。(1-243,3-73,5-140,7-100,8-241ほか)→家族で食事に。(5巻01話,5巻幕間=95話)
 雪ノ下が留美を助けたい理由。(3-174,3-176)→由比ヶ浜と葉山のため。(4巻08話)


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原作6巻
01.さまざまな思惑をよそに彼は逃亡を試みる。


本話から原作六巻に入ります。
本章から読んでみようという方々には、前話をはじめ区切りごとに簡単なまとめを用意していますので、先にそちらに目を通して頂けると嬉しいです。



 秋らしいうららかな日和の九月初日。比企谷八幡は、自転車から飛び降りて元気に中学校へと走り去る妹を見送ると、ゆっくりと高校の校舎に向けてペダルを漕いだ。

 

 天気予報によると、またすぐに暑さがぶり返すという話だが、今日は台風一過の影響か過ごしやすい一日になるらしい。このぽかぽかした陽気に相応しい一日になると良いのだが、と考えながら、八幡は自転車を止めて待ち合わせ場所へと向かった。

 

 

 二学期早々に朝一から面倒だなと思いつつ、八幡は通い慣れたベストプレイスへと歩を進める。通学の道中で、妹が憂鬱を共有してくれたお陰で精神的には助かっているが、それでも相手に会う前から肉体的な疲労感が湧き出て来そうになる。一度立ち止まって廊下で大きく伸びをして、八幡は再び歩き始めた。

 

 目的地が見えてくると、どうやら待ち合わせの相手は既に到着しているらしい。ほぼ同時にこちらに気付いて、小さく手を振ってくる眼鏡の女子生徒。歩きながらぎこちなく片手を挙げることでそれに応えて、八幡は歩く速さはそのままに、海老名姫菜へと近付いて行った。

 

 

「はろはろー。さっそく読んでくれたみたいだね」

 

「まあ、覚悟はしてたけどな。予想通りというか更に斜め下というか。これ、クラスの話し合いで通るのか?」

 

 夏休みに八幡の家に来た時の約束通り、海老名は昨日の夕方頃に、画像とテキストデータを添付したメッセージを送って来た。文化祭ではクラスで劇をしたいという希望を持つ彼女は、その脚本を始業式までに書き上げて主演候補たる八幡に見せると伝えていたのである。

 

「他にやる気のある人がいれば別だけど、こういうのって自分から提案するのは珍しいからね。少しは揉めるだろうけど、消極的な賛成って感じで落ち着くんじゃない?」

 

「はあ、マジか。正直に言うとテキストだけで力尽きたから、画像は見てないんだけどな」

 

「心配しなくても、画像は千葉村のレポートだよ。始業式で全校向けに一般公開されるみたいだし、見てないならその時でも良いんじゃない。この劇のイメージイラストとか、そんなのは一般回線で送れるわけないじゃん。恥ずかしい……」

 

「ちょっと待て。どんなのを描く気なんだよ……ってやっぱ無し。見せなくていい!」

 

 奇妙な理由で照れていたかと思えば、次の瞬間には流れるような動作で画像を目の前に展開しようとする。そんな海老名を必死で制して、八幡は妹と一緒にため息をついた先程の記憶を思い起こしていた。

 

 落ち込んだ八幡を妹が元気付けるという構図は良くあるが、ともに落ち込んでくれるという構図はなかなかレアである。海老名の趣味によって被害を受けた者同士、それによって普段以上に妹との絆を実感して、何とか八幡は口を開く。

 

「ちょっと気になったことを言って良いか?」

 

「もちろん。主演候補の意見はなるべく反映させたいって思ってるよ?」

 

 といってもBLという要素が作品の根底に存在している以上、そこを撤回する気は無いのだろうし言うだけ無駄だろうと潔く諦めて、八幡は読みながら違和感を覚えたことをそのまま告げる。

 

「これ、俺と葉山を念頭に置いて書いてるように見えて、実はちょっと違う気がしたんだよな。改変の余地を残してるっていうか、むしろ改変後の脚本が既にあって、それを隠されてるような気がしたんだが?」

 

「おー、そこまで見破られるとお手上げかな。ヒキタニくん、進路の希望がないなら編集者とか考えてみない?」

 

「それって、BL作家の担当になったらこの手の原稿を山ほど読むことになるんだろ。小町が嘆く未来しか見えねーから却下だな」

 

「小町ちゃんを理由にする辺り、ヒキタニくんらしいよねー。えとね、私も正直に言うと、ヒキタニくんが主演を引き受けてくれる自信が無いんだよね。だから次善の脚本を用意したんだけどさ」

 

「ま、バレてるなら話は早いか。確かに俺は断ろうと思って来たんだけどな。『嫌なら強制はしない』って言ったのはそっちだし、悪いな」

 

「大丈夫だよ。隼人くんの相方候補には目星が付いてるし」

 

「なあ。それってまさか、戸塚じゃねーよな?」

 

 昨夜自室で原稿を読んでいた時から危惧していたことを、八幡は口に出した。外れて欲しいと思いつつもおそらくは無理だろうと覚悟していた通り、海老名は静かに大きく頷いた。

 

 あの可愛らしい同性の友人が自分のせいで犠牲になるのかと思うと、八幡にも罪悪感が浮かび上がってくる。だがそれは後でじっくり問い詰めることにして、八幡はふと気になったことをそのまま尋ねることにした。

 

 

「朝っぱらからこんな話をするのもアレだが……普段から『はやはち』とか言ってるのって、もしかして……」

 

「それは違うよ。私は絶対にはやはちがベストカップルだと思ってるし、二人を主演に劇をやりたいのもホント。そこは疑わないで欲しいかな」

 

「あ、すまん……。って、なんで俺が謝ってんの?」

 

 八幡の素直な反応に、海老名が思わず噴き出している。ばつの悪い思いを抱きながらも、八幡は夏休みに自宅で見た光景を思い出していた。

 

 小町の反応を見て、今と同じように噴き出して、楽しそうな表情を浮かべていた海老名。噴き出すと言えば鼻血だったはずの彼女にもこんな一面があるのかと思った記憶がある。だから八幡は、はやはち推しが擬態で今が素なのではないかと疑ったのだが、本人から即座に否定が入った。

 

 首を傾げながら説明を待つ八幡に、海老名が苦笑しながら語りかける。

 

「ただね。今の段階だとはやはちよりも、はやとつ&とつはやリバーシブルのほうが完成度は高いと思うんだよね!」

 

「ちょっと待て意味が解らん。いや……俺にやる気がないからって意味か?」

 

 葉山と変な関係になることはもちろん、一緒に仲良く劇をするのもできれば御免被りたいと考える八幡は、完成度という言葉から推測した内容を口にした。海老名は意図の読めない笑顔を浮かべながらゆっくりと説明を始める。

 

「例えばさ。男子だとサッカーとかでよく話題にしてるよね。戦術に合った選手が良いのか、それとも選手に合った戦術が良いのか、みたいな話」

 

「あー。俺は話す相手が居なかったから、ネットでその手の記事を見ただけなんだが。まあ言いたいことは解るな」

 

「私はさ、出演者を活かすような、出演者にばっちり合った脚本を作って最高の劇にしたいって考える派なんだよね。脚本を押し付けたり合わせて貰うんじゃなくてさ。だから、今のヒキタニくんだと難しいんだよねー」

 

 目下の自分に足りないと思っていることを見破られた気がして、しかし問題点を共有してくれる他者を得られたような感覚も同時に少しだけ感じて、八幡は思わず口に出して呟いた。

 

「なんか、お互いに闇が深そうだな。……夏休みに雪ノ下姉に会ったけど、あの人ともベクトルが違う気がするし」

 

「雪ノ下さんのお姉さんのことは分かんないけど、こんな趣味を持ってる時点で、たしかに闇は深いかもね。それを見抜くヒキタニくんも大概だと思うけど」

 

 お互いを例に出して具体的に話しているようで、その実は一般論の域を出ない会話を二人は行う。他人が見たいと思う表情を顔に貼り付けることで内心を隠すあの人と、アルカイックな表情を浮かべて内心を隠す目の前の女子生徒と。二人の境遇を思うと違って当然だと八幡は思った。

 

「やっぱり、朝からする話じゃなかったな。悪かった」

 

「じゃあ今度は夜に、はやはちの良さについてじっくり語ろっか」

 

 八幡が話を戻そうとして率直に謝ると、海老名もまた普段通りの雰囲気に戻った。中二病だった頃に、自分の妄想に付き合ってくれる友人が居たらと考えたことをふと思い出して、八幡は内心で苦笑いする。話してみると面白い相手というのは、意外に身近にいるのだなと思いながら。

 

「まあ機会があればな。んで、戸塚が候補だとしても、俺と同じように強制はしないんだよな?」

 

「うん。無理にやらせても良い作品にはならないからね。でも、引き受けてくれると思うよ?」

 

「引っ込み思案の戸塚がか?」

 

「それは一面だと思うなー。意外に責任感が強いし、ヒキタニくんにも頼って欲しいって思ってるはずだよ」

 

「あー、まあ、そうだな。戸塚が自発的にやりたいって言い出すんなら、俺の出番はねーな」

 

 海老名の説明で憂いが一気に消えて、むしろ過保護な扱いをしようとした自分を恥じる八幡だった。そんな八幡に海老名が楽しそうに話しかける。

 

「でもさ。ヒキタニくん、隼人くんのことは心配もしてなければ、引き受けないって可能性すら考えてなかったよね。やっぱり二人は響き合ってるね!」

 

「それ、意味不明だって夏休みにも言ったよな。話が終わりなら、先に教室に行って欲しいんだが」

 

「私は別に、一緒に教室に入っても良いんだけど?」

 

「頼むから勘弁して下さい」

 

 その返答を予期していたように、海老名は小さく八幡に頷きかけると、迷わず背を向けて歩き始めた。「二学期もよろしくね」とだけ言い残して。

 

 

***

 

 

 海老名を見送った八幡は、いつもの自販機で甘いコーヒーを入手して先程のやり取りを振り返っていた。出演を断ったことに後悔はないが、多少の罪悪感は避けられない。文化祭から、少なくともクラスから逃げる手はないかなと考えながら、八幡は飲物を堪能し終えると歩き始めた。

 

 時間に余裕を持って待ち合わせをしたはずが、もうすぐ予鈴が鳴りそうな気配がする。廊下を歩く他の生徒達の様子から、八幡はそう判断して足を速めた。ガラス張りの階段に辿り着いて、二段飛ばしで無心で昇る。

 

 ふと視線を感じて顔を上げると、踊り場に見知った顔があった。温かな太陽の光を背に、雪ノ下雪乃が自分を見下ろしている。一学期初めの感覚に戻って、氷の女王と同じ高さで並ぶのは不敬ではないかと階段の途上で足を止めた八幡だったが、不思議そうに首を傾げている雪ノ下を見て一気に同じ場所まで足早に上がった。

 

「お久しぶりね」

 

「こないだ会った気もするけどな。今日から二学期だけど、変な依頼が来ないと良いな」

 

「そう言いつつも、いざ仕事となれば真面目に働くのでしょう、捻くれ谷くん?」

 

「まあ、働かないとどっかの部長様が怖いからな」

 

 急ぎ足で階段を上っていたはずの生徒達が、二人を遠巻きに眺めている。だが八幡も雪ノ下も、久しぶりのやり取りを行える機会を偶然得られたことで、部室に居るかのような心地になっていた。日頃からぼっちの観察力を強調していた八幡だが、夢中になると周囲が見えなくなるのもまたぼっちの習性であることを、彼は失念していた。

 

 周囲の様子に気付くことなく、二人は会話を続ける。

 

「そういや海老名さんがお前に会いたがってたけど、夏休みに会えたのか?」

 

「残念ながら家の用事が色々と入って、どうにも余裕が無かったのよ。夏休みが終わってからのほうが時間の都合が付くだなんて、変な話だと思わないかしら?」

 

「まあお疲れさん。つか余裕って言うなら、何も土曜日から始業式をしなくても良くねって思うんだが」

 

「文化祭が二週間後に迫っている以上、朔日から始まるのは逆に日程的には助かるわね。もっとも、責任を問う相手は明確だと思うのだけれど」

 

「日程を硬直させた運営のせいだよな。それにせっかくの土曜なのに午後まで拘束されるのも勘弁して欲しかったな」

 

「クラスで役員を決めて、文化祭実行委員会と平行してクラスの催しを話し合って、それが終わってから今学期の部活はじめなのよね。確かに詰め込みすぎではあるのだけれど」

 

「ま、今学期もお手柔らかに頼むわ」

 

 二人の会話が一段落するタイミングを見計らったかのように、階下へと繋がる階段に群がっていた生徒達が中央で分かれる。踊り場で会話をしている二人の姿を遠くから見付けて、明るく元気に駆け寄ってくる女子生徒を導き入れるかのように。

 

「ゆきのん、ヒッキー、やっはろー!」

 

「おはよう、由比ヶ浜さん。今学期もよろしくね」

 

「朝から元気だな。部活は今日からみたいだし、また後でな」

 

「ちょ、ヒッキー。同じクラスなのに何を言ってるんだし!」

 

「ばっかお前、一緒に教室に入るとか恥ずかしくて無理に決まってんだろ。変な誤解をされるのもアレだし、先に行って良いぞ」

 

「じゃあ、ここでゆきのんと喋ってるのは恥ずかしくないの?」

 

「え、あれ、なんでこんなに人が居るんだ?」

 

「もう。ほら、ゆきのんもヒッキーも、そろそろ予鈴だから急ぐよ!」

 

「ゆ、由比ヶ浜さん。廊下を走らなくても間に合うみたいだから、引っ張らないで落ち着いて」

 

 そんな三人の仲の良い様子が噂になって、この日の放課後には全校にまで広まるのだった。

 

 

***

 

 

 始業式が終わって、八幡は微妙な視線を多数受けながらも教室でぼっちを貫いていた。机に突っ伏して、これ見よがしにイヤホンを装着して音楽を聴いているフリをしながら、LHRの開始を待つ。

 

 

 同級生達が八幡に話しかけたそうにしているのは、複数の理由がある。

 

 一つは、始業式で公開された千葉村のレポートを読んだから。海老名が端的に記した奉仕部の活躍の中に、いじめの問題は含まれていない。しかしゲーム大会を開催して小学生を楽しませたこと、塾を動かして小学生向けの英語クラスを創設させたことは書かれていた。八幡が決して奉仕部のおまけではなく、これらに少なからぬ貢献をしたと明記されていたのだ。

 

 更に決定的だったのは、レポートに使われていた写真だった。小学生とゲームに興じる雪ノ下と八幡が大写しになっているだけでなく、別の小学生グループとゲームをしながらも二人の様子を案じる由比ヶ浜結衣の姿も一目で分かる。更に目をこらしてみると、また別の小学生たちと遊んでいる戸塚彩加や比企谷小町の姿も写っている。誰が撮ったのか、ゲームの盛り上がりや中高生達の性格がそのまま伝わって来るような写真だった。

 

 写真は他に二枚あって、小学生の調理を助ける葉山グループの写真、そして中高生が勢揃いして小学生の退村式を見守っている写真が採用されていた。特に後者からは、問題を解決して満足げな表情を浮かべる参加者たちの親しげな様子が垣間見えて、運動部と文化部の融和という目的を見事に体現していた。

 

 

 二つ目の理由は、朝の一件が噂となってクラス全員に知られてしまったからだった。もちろん八幡たちが同じ部活でそれなりに仲良くしていることはF組の生徒であれば誰もが知っていたが、ここまで仲が良いとは思っていなかったのだ。

 

 偶然にも階段の踊り場付近に居合わせて、具体的な会話の中身を耳にしたクラスメイトはもちろんのこと。噂で内容を伝え聞いた程度の同級生であっても、三人が和気藹々と会話に興じていたと聞けば、八幡の印象が一変するのも無理のないことだった。

 

 

 そして三つ目の理由は、騒がしい同級生の行動に原因があった。つまり千葉村で八幡との仲を深めた戸部翔が、朝に由比ヶ浜と一緒にクラスに入ってきた時も、始業式が終わって教室に帰ってきた時も、親しげに八幡に話しかけて来たからだった。

 

 葉山隼人が折を見ては八幡に話しかけている姿を、同級生は一学期から目の当たりにしている。だが戸部が千葉村で口にしたように、多くの生徒達はそれを、八幡がクラスで孤立しないための行動だと受け取っていた。だが戸部の言動からは、そうした気遣いは全く窺えない。八幡と話したいから話しかけるというシンプルな戸部の行動は、クラスメイトの認識に変更を促し、八幡の印象を改善させる一助となっていた。

 

 

 八幡は奉仕部の仕事を仄めかして、音楽を聴く必要があるからと戸部を追い払って、今の小康状態を得た。彼は今、かつてない同級生からの視線を受けて、ストレスが最高潮に達していたのだった。

 

 

***

 

 

 委員長が教壇に上がって、LHRが始まった。最初の議題は文化祭実行委員の選出である。実行委員会が始まる時間までに選定を終えて、委員二名を送り出した後でクラスの出し物を相談する予定になっていた。

 

 とはいえ実行委員になると、クラスの出し物にほとんど関与できなくなってしまう。高二という一番気兼ねなく文化祭を楽しめる学年なのに、クラスの盛り上がりに参加できないのは嫌だ。生徒達がそう考えるのも無理はなく、ゆえに立候補者が出ないことは予測できた。

 

「あー。えーと、委員に立候補したいんだけど」

 

 だから八幡がか細い声で立候補を名乗り出ると、委員長は勿論のことクラス全員が驚きの声を上げてしまった。

 

 クラスから逃げたいという朝からの希望に加えて、本人の意識としては針のむしろ状態だったこともあり、八幡は自分の行動を合理的なものだと考えていた。しかしストレスが彼を行動に駆り立てたことも否定はできない。いずれにせよ、彼の希望は即座に受理されたのだった。

 

「なあ。俺らもしかして、すげー誤解をしてたのかもな」

「ヒキタニくんって、見た目で勝手に決めつけてたけど、実は頼りがいがあるんじゃない?」

「一度ゆっくり話してみたいよな」

「せっかく二学期に話す約束までしたけど、うちの行動って遅かったのかな」

「一学期から話しかけてた葉山くんって、やっぱりさすがだよね」

「ヒキタニくん、マジ頼れる男だべ。実行委員会で疲れたら、いつでもクラスに帰って来て欲しいっしょ!」

 

 そんな風にざわつく教室の中で、葉山は冷静に周囲を観察していた。まだ女子の委員が決まっていない。その人選によっては、先々のことを考えてフォローを入れた方が良いだろうと考えつつ、葉山は静かに盛り上がりが収まるのを待っていた。

 

「じゃあ、女子で誰か、立候補っていませんか?」

 

 委員長が再び口を開いたものの、それに応える声は今度は上がらなかった。八幡のことを見直して、可能なら話してみたいと言っていた生徒であっても、クラスの出し物に参加できなくなるデメリットを受け入れてまでとはさすがに思えない。

 

 自然、女子生徒達の視線は一人に集中することになった。彼と同じ部活なのだから犠牲になってくれとの無言の圧力を受けて、由比ヶ浜は手を挙げそうになる。しかし。

 

「結衣が抜けたら、クラス内で諍いがあった時に誰が収拾するんだし?」

 

 数の圧力などものともせず、女王がそう言い放った。

 

 三浦優美子は裁定はできるが、その後のことは他者に委ねるしかない。つまり後始末に動く人材が居ないと女王の能力は半減する。海老名は事態の収拾もその後のフォローもできるが、それらの行動は気まぐれだ。気が向いた時や当事者が彼女と親しい仲であれば頼りがいがあるが、大抵の場合、海老名は静観を良しとしている。由比ヶ浜の調整能力があるからこそ、クラス内は平穏に保たれているのだった。

 

 三浦の発言が数秒遅かったら、おそらく口を開いていたであろう葉山は、一度肩の力を抜いて再び静観に戻る。

 

「ま、立候補が結衣の希望だったら仕方がないけど、無理に押し付けることじゃないからねー」

 

「あ、やー。希望ってわけじゃないんだけど。あれ、でもあたしって、クラスでの仕事確定済み?」

 

 海老名への返事に続けて小声で「一応は得意分野だからいいんだけどさ」と呟きながら、由比ヶ浜は夏休みの勉強会の後で部活仲間の二人に「頑張る」と言ったことを思い出していた。自分が得意なことで、あの二人の手を煩わせるわけにはいかない。そんなことでは、二人の力になどなれないだろうから。

 

 だが由比ヶ浜が実行委員になれない以上、話は振り出しに戻ってしまった。

 

 

「結局はさ。委員になったらクラスとは別、みたいな感じになっちゃうデメリットが、大きすぎると思うんだよね。だから委員にはクラスにも友達が多い人にお願いして、それに加えて二人の委員とクラスの橋渡しをするような役職を設けたらどうかな?」

 

「やっぱり隼人くんもさすがっしょ!」

 

 満を持して葉山が口を開くと、戸部を始め賛同の声が次々と上がった。しかしようやくストレスから解放されて落ち着きを取り戻しつつある八幡は、葉山の提案に微かな違和感を覚えた。まるで女子の立候補者を誘導しているかのように。更には未来で起き得ることを予測して、それへの対処のために新たな役職を提案しているように聞こえたのだった。

 

 とはいえ、クラスメイトの情報に乏しい八幡に葉山の真意は読み取れない。こっそりと態度を窺ってみても、今の葉山は八幡が苦手な葉山ではない。つまり、葉山の提案に無理筋の要素はあまり無いのだろう。葉山という人間を信頼できるとはとても言えない八幡だが、葉山の能力にはある程度の信頼が置ける。

 

「じゃあさ。女子みんなで助けるから、相模さん、どうかな?」

 

 トップカーストの三人娘を除くと、このクラスで顔の広い女子と言えば一番手は相模南である。こうした声が上がるのは時間の問題でしかなく、そして一度名前が出てしまえばそれを相模が拒否できないこともまた、葉山が予測した通りだった。

 

「そうだね。相模さんなら問題なくやれると思うんだけど、お願いできないかな?」

 

 この一声が決め手となって、実行委員は八幡と相模に決まった。葉山はそのまま言葉を続ける。

 

「それで、さっき言ってた橋渡しの役職なんだけどさ。ヒキタニくんと相模さんにクラスの情報を伝えたり、二人に何かがあったら代わりに実行委員として動いてもらったりってのを考えてたんだけど、どうだろう?」

 

 そんな葉山の発言を受けて、八幡は確信する。相模を選んだことも意図的なら、この新たな役職に選ぶべき人物もまた、葉山の中では確定しているのだろうと。相模の性格を詳しく知らない以上、八幡にはこれからの展開を予測することはできない。だがどんなアクシデントが待ち受けていようとも、そして大部分の同級生のことをほとんど知らない八幡でも、自信を持って推薦できるクラスメイトが一人、存在する。

 

 葉山の意見に賛同するその他大勢の声を完全に無視して、八幡は由比ヶ浜を眺める。責任感を全身に漲らせながらも、それに押し潰されることなく葉山の指名を待っている由比ヶ浜を。葉山が目線だけで意思を問うて、由比ヶ浜は小さく頷いてそれに応えている。そんな二人を不快に思いながらも、八幡は部活以外で彼女と一緒に仕事ができることに、盛り上がる気持ちを抑えられないでいた。

 

「正直この役職って、結衣以外にはできないと俺は思うんだけど。頼めるかな?」

 

「うん、任せといて!」

 

 委員長の進行を待つまでもなく、こうして人事が確定した。葉山はそのままフォローのために話を続ける。

 

「優美子も姫菜も、色々と働いてもらうことになるかもしれないけど、頼むな」

 

「実行委員も結衣も含めて、クラス全員で盛り上がる文化祭にするし」

 

「私も色々と考えてるから、隼人くんの頑張りにも期待してるね!」

 

 海老名の意味深な発言を深く考えることなく、安易に頷いてしまったことを、葉山は程なく後悔することになるのだった。




原作六巻からの変更点(日程について他一件)について、以下で簡単に説明します。
細かな説明は要らないよという方は、ここで引き返して下さい。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
説明が不十分に思えた箇所を書き足して、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(9/22,10/14,4/2)





・日程について
 原作6巻は「文化祭まで一ヶ月近く」(p.17)という時点からのスタートになっています。しかしその場合、体育祭と修学旅行を含めた三つのイベントが約一ヶ月の間に集中するスケジュールになります。

 一方で、原作7.5巻冒頭にある由比ヶ浜のスケジュール帳によると、文化祭は9/14〜15、体育祭は10/10、修学旅行は11/12〜15で、各イベントごとに時間の余裕があります。そうした理由から、本作ではこちらの日程を採用しました。ちなみに夏休みの開始、千葉村、由比ヶ浜の家族旅行、花火大会の日程も全て7.5巻の記載に合わせています。

 二学期の始業式が9/1なのは原作5巻214ページの記載に従いました。曜日を由比ヶ浜の誕生日に合わせるとこの日は土曜日になるのですが、一学期の中間考査が六月にずれ込んだ時と同様に、都合の悪いことは大抵この世界のせいになります。ご了承下さい。


・肩書きの変更
 原作ではルーム長(p.43)という呼ばれ方だったのを、委員長に変更しました。


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02.がんばるよりも彼女は安易に見える道を選ぶ。

祝・12巻発売!
以下、前回までのあらすじ。

 始業式に先駆けて海老名と待ち合わせた八幡は、クラスの劇に参加しない旨を伝える。自分が辞退することで戸塚が犠牲になるのを心配した八幡だが、戸塚の芯の強さを説明されてひとまず納得した。だが罪悪感は少しだけ残る。

 教室に向かう途上で雪ノ下と鉢合わせた八幡は、普段の注意深さを忘れてその場で話し込んでしまった。途中からは由比ヶ浜も加わって、これにより三人の仲が非常に良好なことは校内で周知されるに至った。

 クラス内で注目を集めることになった八幡は、居心地の悪さや罪悪感から逃亡を試みる。文化祭実行委員に立候補してクラスから距離を取ったつもりだったが、もう一人の実行委員に相模が、更には葉山の提案によって由比ヶ浜が二人とクラスを繋ぐ役割を担うことになり、八幡を取り巻く人間関係は少しずつ複雑さを増していた。



 思いのほか早く文化祭実行委員の選出を終えた二年F組では、各々が昼食の支度に入っていた。話し合いが紛糾すれば食事の時間が無くなる可能性もあっただけに、生徒達の顔は明るい。

 

「委員会が始まる前に、ちょこっと打ち合わせしとこっか。一緒にご飯を食べながらでもいいけど……ヒッキーとさがみんはどう思う?」

 

「うちはどっちでもいいよー。ヒキタニくんは?」

 

「あー、えーっと、俺は昼があれだから、さっさと済ませてくれると、その」

 

 花火大会にて顔合わせはしたものの、いまだ適切な距離感を把握できていないために、比企谷八幡はしどろもどろに返事をする。そんな八幡を優しく眺めつつ、由比ヶ浜結衣がフォローに入った。

 

「さいちゃんの練習に協力しながら外でご飯を食べるのって、気持ちよさそうだもんね。じゃあ、優美子とかを待たせるのも悪いし、ちゃちゃっと終わらせよっか」

 

 八幡の曖昧な言い訳に明確な理由を与えて、八幡抜きで相模南と昼食をともにするルートも三浦優美子の名前を出して回避した上で、由比ヶ浜は話を進める。勉強には向かない由比ヶ浜だが、こうした気配りにかけては敵わないなと八幡は思う。もっとも、八幡の助言のおかげで助かった時もあったので、由比ヶ浜に言わせればお互い様となるのだろうが。

 

 由比ヶ浜は八幡の意図を充分に把握していたので、相模と一緒に食事をすることも一緒に会議室まで移動することも避けたいという彼の要望に応えた形だった。だが「自分ですら二人きりで部室に行ったことはないのに」という気持ちが全く無かったとは言えず、そしてそんな感情は女子の間では伝わりやすい。

 

 相模としては、由比ヶ浜はともかく三浦と一緒に食事をするのは勘弁して欲しい。だから別々なら別々で問題はないのだが、あからさまでこそ無いものの、由比ヶ浜からはこの男子生徒を自分から遠ざけたい意向が窺える。それは少し面白くない。

 

「ヒキタニくんとは、これからも実行委員同士で話す機会はたっぷりあるだろうし、今は簡単な打ち合わせで充分だよね」

 

「お、おう、そうだな。面倒な仕事の話とか、できるだけ後回しにしたいもんな」

 

 親密さをアピールしてくる相模の口調にわざとらしさはない。友達が多いという話だったし、さすがはカースト上位だなと八幡は思う。相手のことをよく知らないので、相模と向かい合わせであれば八幡は疑問を覚えなかったかもしれない。親しげな態度の理由は、今朝からの一連の出来事のせいだろうと済ませていたかもしれない。

 

 だが由比ヶ浜をちらりと横目で確認して、それでは理解が浅いと八幡は気付く。詳しいことはこの場では確認できそうにないので部活の時間を待つしかないが、由比ヶ浜と相模の間には色々と複雑な事情がありそうだ。だから八幡は、相模に当たり障りのない言葉を返した。

 

「ヒッキー、相変わらずやる気なさすぎだし。でも確かに、最初から難しい話とか嫌だもんね。えっと……お互いの情報をどう共有するかってことだけ決めとこっか」

 

 そんな八幡の発言に便乗して、由比ヶ浜は軽く突っ込みを入れる。頭の中で「さすがの誘い受け」という腐った声が聞こえた気がしたが、八幡の配慮に内心で感謝をしつつ由比ヶ浜は言葉を続けた。今は最低限だけ決めて早めに解散しようと考えながら話を進める。

 

「一日が終わってから情報を持ち寄るか、放課後が始まる前に情報を整理するかだな」

 

「やっぱり、終わってすぐのほうが、伝え忘れることが少なくなりそうじゃない?」

 

「だな。じゃあそんな感じで、相模もそれで良いか?」

 

「あ、うん。うちもそれでいいと思うよ」

 

 話し始めた頃は居心地悪そうにしていたのに、由比ヶ浜との会話をこなすことで目に見えて落ち着きを取り戻した男子生徒を、相模は冷静に観察していた。自分だけが部外者みたいで(二人が同じ部活である以上、それは確かにその通りなのだろうが)、不機嫌な気持ちが芽生えそうになる。相模はそれを静かに堪える。

 

 今はともかく、実行委員会が始まってしまえば由比ヶ浜は手が出せない。焦る必要は無いし、二人の会話を聞いている限り、この男子生徒は思っていた以上に有能そうだ。実行委員になってしまったのは予定外だったが、これなら自分の負担が大きくなることも無いだろう。彼と仲良くなることは、相模が目標に至るための一助になるはずだ。

 

「じゃあ、俺はこれで」

 

「あ、ヒッキーちょっと待って。今日は委員会の後に部活があるけど、集まりってどうしよっか?」

 

「あー……。初日だし、あんま話すこともないと思うんだよな」

 

 面倒臭いという感情を隠しもせずに八幡はそう答える。だが相模としても避けられる手間は避けたいのが本音だ。クラスで決めたことに表立って反抗しようとは思わないが、情報の共有ならわざわざ由比ヶ浜に頼らなくとも、普段からつるんでいる同級生に確認すれば済む。

 

「じゃあさ、今日は部活の時にヒキタニくんとゆいちゃんで話してくれると、うちも助かるかも。こっちも他の子にちゃんと聞いとくからさ」

 

「そう、だね。じゃあ今日はそうしよっか」

 

 先行きに一抹の不安を抱きつつも、由比ヶ浜とて無理に三人の集まりを強制しようとは思わない。色々と配慮が必要な相模が加わるよりも、相手が八幡だけのほうが話も早いし楽しい時間を過ごせるからだ。初日という言い訳もあるので、由比ヶ浜はその提案を受け入れることにした。

 

「んじゃ、また後でな」

 

「あ、えっと、うちは直接会議室に行けばいいのかな?」

 

「おう。由比ヶ浜とは部室でだな」

 

「うん。じゃあ二人とも頑張ってね!」

 

 

 廊下に出る八幡と、教室の後ろの方へと戻る相模を見送って、由比ヶ浜は一息つくと自分も二人の友人が待つ場所に移動しようとする。だが三人の会話が終わるのを近くで待っていた女子生徒が、遠慮がちに話しかけて来た。

 

「あのさ。……なんか大変だったら、あたしも協力するからさ」

 

「うん。今のところは大丈夫そうだけど、忙しくなってきたらお願いするから、サキサキも覚悟しといてね」

 

 クラスの為にという意識はあまり持たない川崎沙希だが、親しい友人の為となれば動くことを厭わない。わざわざ協力を申し出てくれた川崎に、嬉しさを隠すことなく由比ヶ浜が応える。

 

「あんたやあいつの代わりに、あたしが立候補できれば良かったんだけどさ。色々とアレだし……」

 

「あたしも同じだし、気持ちは解るよ。だから今はクラスで一緒に頑張ろっか」

 

 実行委員が男女一名ずつであり、かつ男子が先に決まってしまった状態では、立候補にかなりの勇気がいる。小中学生の頃のように露骨にはやし立てたりはしないだろうが、そのぶん水面下で何を言われるか分かったものではない。同じ部活という言い訳があっても、あるいはだからこそ余計に躊躇してしまった由比ヶ浜ゆえに、川崎の迷いは充分に理解できた。

 

 川崎に皆まで言わせず同意を返すと、ほっとした様子と同時に頼りがいのある気配が戻って来た。塾での経験に加えて、勉強会でも見られたように肉親との会話が川崎に良い影響を与えているのだろう。

 

 そんなことを考えたからだろうか、由比ヶ浜の背後から可愛らしい声が会話に加わってきた。

 

「男女一人ずつじゃなかったら、ぼくが立候補しても良かったんだけど……」

 

「やー、えっと、さいちゃんの場合は……」

 

 クラスの話し合いがどうなるか判らなかった以上、今日は中止にするのが合理的だろうに。八幡ならそう思いながらも彼に称賛の目を向けるのだろうが、当人は二学期の初日ゆえに僅かな時間であってもお昼の練習をしたいと考えたのだろう。手早く食事を済ませてコートに向かおうとする戸塚彩加が、すぐ側に立っていた。

 

 そんな戸塚を眺めながら、ジャージ姿だったら男女一名ずつと言われても納得しそうだなと由比ヶ浜は思う。同時に、もしそうなったら彼が大はしゃぎするだろうということも。だが続く言葉を聞いて、戸塚が自分と同じく勉強会のとある一コマを思い出していることを知って、由比ヶ浜は笑顔になった。

 

「だから川崎さんも気にしないで、向こうにいる妹さんや弟さんに自慢できるようにクラスの出し物を頑張ろうよ」

 

「うん。さいちゃんの言う通り、みんなで頑張ろっ!」

 

「そうだね。じゃあさ、誘う時は遠慮なく誘って。協調性にはあんまり自信がないけど、言われた仕事はちゃんとするからさ」

 

 他のクラスメイトからすれば珍しい組み合わせの三人だが、多くはこれも由比ヶ浜の人徳なのだろうと考えて済ませていた。だが相模は内心で、「どうして由比ヶ浜だけが」という思いが湧き上がるのを押さえきれないでいる。

 

 とはいえ、感情が外に出ていない以上は誰に気付かれることもない。

 

 そんな風に思われているとは想像だにせず、三人は盛り上がった気分のまま別れた。クラスの出し物が、小さな子供にはとても話せないような内容になることを、彼女らはまだ知らない。

 

 

***

 

 

 集合時間の数分前に会議室のドアを開けて、八幡は予想以上に多くの生徒が集まっている光景に驚いてしまった。更に面倒なことに、先程のF組と同じく好奇心のこもった目で、たくさんの生徒達がこちらを見ている。居心地の悪い思いで手足をぎこちなく動かしながら、八幡は人が少なそうな辺りに腰を下ろすと人よけのためにイヤホンを装着した。

 

 せっかく戸塚と楽しい昼休みを過ごせたのに、また同じ状況かと八幡はこっそりため息をつく。由比ヶ浜と花火大会に行った時に相模と遭遇して、それは幸い大事には至らなかったものの、以後は用心せねばと考えていたはずなのに。二学期早々に大勢の前で三人で話し込んでしまったことを、八幡は悔いる。

 

 何とか気分を変えて、音楽に集中しているフリをしながらこっそり周囲を見渡すと、相模が女子生徒数人と話し込んでいる姿が目に入った。相模とは僅かな会話しかしていないが、あの調子だと時間ギリギリに来るのだろうと思っていただけに、意外な積極性を訝しく思う。花火大会の時に自分と話してみたいと言っていたことにも、やはり裏の意図があるのだろう。

 

 

 その時、ドアが開いて一人の生徒が会議室に入ってきた。誰かが登場するたびに入り口に視線を向けてはすぐに逸らすという繰り返しだった今までとは違って、彼女が放つ存在感ゆえに、教室内のほぼ全員がその女子生徒の動きを逐一、目で追ってしまう。

 

 そんな注目を集める状況にも、いつものことだと動じなかった雪ノ下雪乃だったが、教室内に見知った顔を見付けて意表を突かれてしまった。その場に一瞬だけ立ち止まって、そのまま雪ノ下は旧知の男の隣に移動すると腰を下ろした。

 

「クラスで欠席裁判……をされるほど認識されているとも思えないし、他薦は更にあり得ないし、担任が平塚先生なら強引に押し付けられた可能性も考えられるのだけれど。どうして貴方がここに居るのかしら?」

 

「お前な……。まあ聞いて驚け。実は自ら立候補したんだわ」

 

「でしょうね。おおかた朝の出来事などがあったせいで、クラスに居るのがいたたまれなくなったといったところかしら?」

 

「そこまで把握してるのなら、わざわざ問いかける必要は無いんじゃないですかね」

 

 気怠げにイヤホンを取りながら、八幡は仕方なく会話に応じる。部室にいる時と同じように話しかけてくる雪ノ下に対して、朝の失敗を繰り返したくない八幡は普段より素っ気なく応じていたのだが、それも雪ノ下にはお見通しだった。

 

「特にやましいことは無いのだし、堂々としていれば良いと思うのだけれど」

 

「いや、それでお前らに……まあ、そうだな」

 

 お前らに迷惑が掛かるのなら、と言いかけて、八幡は口をつぐむ。自分と親しげに話す程度のことは、雪ノ下はもちろん由比ヶ浜にとっても避ける必要は無いのだろう。既にそれだけの地位を、彼女ら二人は高校内で確立しているのだから。

 

「俺の事情はお見通しとして、お前はクラスの方は大丈夫なのか?」

 

 文化祭でJ組が何をやるのか知らないが、雪ノ下が居るのと居ないのとでは作業効率に大きな違いが出るはずだ。雪ノ下ほどの人材をみすみす手放すとはとても思えず、八幡は不思議に思って質問してみることにした。

 

「……色々あったのよ。少しだけ、先程の発言を訂正するわ。堂々としていれば良いとは言い切れない時も、確かにあるのよね」

 

 自分と同じような視線に雪ノ下が晒されて、そして自分とは違って多くの質問が飛んだのだろうと八幡は理解した。八幡と由比ヶ浜が同じ部活でそれなりに上手くやっているという事前の知識があったF組でもああだったのだ。ましてや、J組が全校に誇る才媛たる雪ノ下がよく知らない男と親しげに話していたとなると、大騒動になるのも当然だろう。

 

「ま、やましいことが無い以上は、堂々としてるしかないんじゃね?」

 

「申し訳ないのだけれど、そんな待ちの姿勢は御免だわ。だから私は説明責任を果たした上で、文化祭に関するJ組の全権を求めて受理されたのだけれど」

 

 自分にも責任があるのだし、と考えてフォローに回った八幡だったが、雪ノ下から返って来たのは斜め上の回答だった。冷静に頭の中で雪ノ下の発言を吟味して、八幡は口を開く。

 

「つまりあれか。実行委員もやりつつ、クラスのこともお前が全部監督するってことか?」

 

「最終的な決定権を握っただけで、細かなところにまで口を出す気は無いのだけれど。だから体力のことは心配しなくても大丈夫よ」

 

 八幡の心配を先取りして雪ノ下はそう告げる。とはいえ実行委員の仕事がどの程度の負担になるのか判らない以上、気を付けておくべきだなと八幡は思った。

 

「それでも、あんま抱え込みすぎないようにな。今朝のことは俺にも責任があるし、痛くもない腹でも、探られると気が滅入るからな」

 

「そうね。ただ、私にも少し思惑があるのよ。貴方なら、いずれわかるわ」

 

 秘密めいた表情を浮かべる雪ノ下を見て、おそらく姉に関する事なのだろうと八幡は思う。たとえ正式な依頼が無くとも、部長様のご意向である以上は盛り上がる文化祭にしないとなと、八幡はこっそり気合いを入れ直した。その時。

 

 

「あ、ヒキタニくんも来てたんだ。えっと、雪ノ下さん、だよね。うち、相模南です。ヒキタニくんと同じクラスで実行委員になったんだけど」

 

 いつの間に近くに来ていたのか、相模が八幡の横から雪ノ下に声をかけた。おそらく雪ノ下が会議室に入ってきた時から動きを追っていて、友達との会話を切り上げて話しかけるタイミングを見計らっていたのだろうと八幡は推測する。

 

「雪ノ下です。相模さん、同じ実行委員同士、よろしくね」

 

 隣に座る男子生徒にも一応は声をかけているものの、明らかに意識を自分のほうに向けて話しかけてくる相模に対して、雪ノ下は当たり障りのない返事を行う。

 

 誰かに仲介させて自身を売り込んでくる人は、国際教養科という特異な環境のおかげもあって高校ではほとんど無かったが、親絡みの付き合いでは今も(残念ながらこの世界に来てからも)頻繁に体験している。もちろん姉と比べるとその数は微々たるものだが、それでも高校生を相手に対処を間違えるほど経験に乏しいわけではない。

 

「うち、雪ノ下さんと話してみたいってずっと思ってて。だから仲良くして欲しいなって。えっと、ヒキタニくんと同じ部活なんだよね。今朝は階段のところで何を話してたの?」

 

「部活の予定とか、文化祭が近付いているわねとか、取り留めもない話題ばかりよ」

 

 物理的な配置を見ると自分を挟んで行われている会話なのに、二人の意識の中に俺は入っていないのだろうなと思いつつ、八幡は心の中で納得していた。俺と話してみたいと言った花火大会の時の相模と、雪ノ下と話してみたいと言った今の相模とでは、明らかに気の入れようが違う。

 

 夏休みに腐女子から忠告を受けた時には、既知の連中以外に自分に話しかける生徒が出て来るとは思ってもいなかった八幡だが、少し考えてみれば分かる話だった。俺に興味を持って話しかけてくるのではなく、雪ノ下や由比ヶ浜に取り次いでもらいたいが為に話しかけてくるのならば大いに有り得ると、八幡は納得する。

 

 二人の会話は「普段、奉仕部で何を話しているのか」という話題に移り、推薦図書の名前を次々と出して来る雪ノ下に、相模が引き攣り気味の表情で何とか相鎚を打っている。それを聞いて苦笑いしながら、あまりにも解りやすい相模の行動に雪ノ下も内心で苦笑しているのだろうなと八幡は思った。

 

 相模は確かにカースト上位の存在なのだろう。外見にしろ会話のスキルにしろ、なるほどと納得できる部分は多々ある。しかし決してトップカーストには至らない。その原因は、彼女の思惑があまりに解りやすく、そして相模自身がそうした脇の甘さに気付いていないからだろう。自分では気付けない不用意な発言によって、印象を悪くするタイプだなと八幡は判断した。

 

「そういや、実行委員長は二年から選ばれるって聞いたんだが、それにも立候補するのか?」

 

 模範的な対応の中に茶目っ気を混ぜて、相模を煙に巻いている雪ノ下に向かって、八幡は話の切れ目を活かして問いかけた。さすがに相模が哀れに思えてきたという事情もあるが、さっきから気になっていたのも確かだった。雪ノ下の思惑が何であれ、由比ヶ浜と一緒に彼女を助けると約束をした以上は、無理をさせるわけにはいかない。

 

「今のところ、実行委員長になる気は無いわね。祭り上げられるのはあまり好きではないのよ」

 

「まあ、そうだな。お前なら、祭り上げられてもお手上げとはならんだろうけど。普通なら対応しようがないしな」

 

「それって、委員長を無理に押し付けられるってこと?」

 

「いや、そこまでの話じゃなくて、なんつーか。委員長になってみたけど権限が少なくて何もできないとか、そういう話だな」

 

 雪ノ下との仲を深めるべく、健気に会話に参加しようとする相模に対しても、八幡はようやく普通に返事ができた。これぐらいの距離感で良さそうだなと思いながら、八幡は話を続ける。

 

「それに無理に押し付けるとなると、ほとんどいじめの領域だしな。気に入らない奴をクラスの委員長に祭り上げるとかありがちだけど、大人数で結託されると手の打ちようがないから悪質だよな」

 

「頭の痛いことに、教師に対しても『あの子が相応しいと思います』って言えてしまうのよね。任期を全うする以外にほとんど手がないのが厄介ね」

 

「まあ、遊びでそんなことをやるような歳でもないし、そこまで怨みを集める奴もなかなか居ないだろうし、俺らには関係のない話だな」

 

 そう言って八幡は雑談を終結させる。見知った教師や生徒会長が会議室に入ってきたのが見えたからだ。

 

 話している間は雪ノ下と相模に、そして今は教室の入り口に意識を集中しているために。八幡は近くに座っていた一年生の実行委員が、彼をせんぱいと呼ぶ少女と同じクラスの女子生徒が、彼らの会話を聞いて何やら考え込んでいたことに、最後まで気付かなかった。

 

 

***

 

 

「みんなで頑張ろう、おー!」

 

 この世界に巻き込まれて間もない頃に全校生徒に向けて演説をした時と同様に、城廻めぐりは会議室内のほぼ全員が唱和するまで、この発言を繰り返した。懐かしい記憶を思い出しながら、八幡も雪ノ下も小さな動作でそれに加わる。

 

「じゃあ最初に、実行委員長を決めよっか」

 

 だが話がこの日の本題に移ると、誰も身動きをしなくなった。生徒達のやる気のなさを嘆いていた体育教師が雪ノ下の存在に気付いて、立候補の意思を確認する。姉の話を出された雪ノ下は、しかし淡々とした口調で教師に答えた。

 

「姉が実行委員長を務めた三年前よりも、無役だった二年前のほうが盛り上がったと記憶していますので」

 

 雪ノ下の発言に嘘はない。現場の責任者として文化祭を成功に導いた三年前よりも、確たる肩書きこそ無いものの更に上の立場から文化祭を成功に導いた二年前(城廻が一年生の時の文化祭だ)のほうが、盛り上がりという点でも両親からの評価という点でも上だったのは確かだった。

 

「うん、確かにあの年は凄かったなー」

 

 陰の最高責任者の活躍ぶりを、城廻は懐かしそうに語って聞かせる。それを聞いた実行委員の多くが、その活躍を雪ノ下にだぶらせて、彼女はきっと姉と同じ役割を担うつもりなのだろうと考えるのも当然だった。

 

 その中でも、一番目端の利いた生徒が静かに手を挙げた。雪ノ下から全面的にバックアップを受けられる環境だと思い込んだ相模が、名を成すには最高の状況だと早とちりして、委員長への立候補を名乗り出たのだ。

 

「うちも実行委員長として成長したいので、みんなも一緒にスキルアップ、頑張りましょう!」

 

 雪ノ下の冷ややかな態度にも、八幡が内心で呆れていることにも気付かず、相模はそう宣言する。大きな拍手を受けながら腰を下ろすと、相模は拝むような姿で雪ノ下に話しかけた。

 

「さっき言ってたこともあるし、雪ノ下さんって奉仕部だよね。文化祭への協力、お願いね!」

 

「そうね。一応は形式として、平塚先生の許可を得る必要があるので、詳しい依頼内容を説明して来て欲しいのだけれど」

 

「えっと、平塚先生に言えばいいってことだよね。うん、分かった!」

 

「許可が下りたら、部室まで来る必要は無いので、メッセージで報告して貰えるかしら?」

 

 型通りの返事に終始する雪ノ下だが、逆にその姿勢に頼りがいを感じているのか、相模はこれで成功間違いなしという表情を浮かべている。思わぬ展開にこっそりため息をつきながらも、今はこのまま見守るしかないと考えて八幡は静観を続ける。

 

 部室に来なくても良い理由は、おそらく相模に聞かれたくない話をする為だろうなと考えつつ。その意図が八幡に伝わっていることを確認して、少しだけ目線を逸らしながら小首を傾げる雪ノ下に目の動きだけで応えつつ。ここまで来ると部室に移動するのが楽しみになって来た八幡だった。

 

「この後、奉仕部内で相談をする予定だけれど。数分で済むので、明日の夕方に時間を作ってもらえないかしら?」

 

「えっと、連絡を待ってればいいのかな。雪ノ下さん、うちの為にありがとね!」

 

 城廻以下の生徒会役員は、実行委員長を決めるのにもっと時間が掛かると思っていたのだろう。この日は他に議題もなく、週明けからの本格稼働を約束して、委員会はお開きになった。

 

 

***

 

 

 部室に移動して、疲れた表情の由比ヶ浜を雪ノ下と二人で出迎えて、八幡はようやく色んな事から解放されたような気持ちがした。考えてみれば朝からずっと、これまでにないほど多くの視線を集めていたのだ。こんなのは俺の役柄じゃないと思いながら、八幡はずずっと紅茶をすする。

 

「姫菜の提案だから、あんまり大っぴらには反対できないしさ」

 

 クラスでは腐女子の提案の他には良い案が出ず、彼女の予測通りに無事採用される運びになったらしい。親友とも言える存在ゆえに由比ヶ浜も他生徒との板挟みになって色々苦労をしたのだろうが、こっちも大変だったんだよなと八幡は現実逃避気味に思う。

 

「こちらも、相模さんから依頼を受ける形になったのだけれど」

 

 由比ヶ浜の愚痴を根気強く最後まで聴き続けて、ようやくいつもの陽気な雰囲気を取り戻した部員に安堵の表情を送ると、雪ノ下は委員会での出来事を説明し始めた。特に補足する必要も無いほど必要十分な内容だったので、引き続き八幡は紙コップに淹れてもらった紅茶を少しずつ味わっていた。

 

「それってさ、さがみんに都合のよすぎる形じゃないかな。奉仕部の理念だっけ、それにもそぐわない気がするんだけど……」

 

「だよな。俺もそう思ったのと、最後に相模と明日会う約束をしてただろ。あれの意図が判らなかったんだが」

 

「簡単なことよ。由比ヶ浜さんが懸念してくれたように、奉仕部の理念は、『助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事』なのよね。私は一言も、相模さんが望む形で協力するとは言っていないのだけれど」

 

 そういう事かと、八幡は雪ノ下の意図を理解した。由比ヶ浜は首を傾げたままだが、詳しいことは分からなくとも雪ノ下への信頼ゆえに、その表情は既に明るさを取り戻している。

 

「相模さんが実行委員長に相応しい域に至るまで、成長の手助けをしようと思うのだけれど」

 

「それって……スパルタってことだよね?」

 

 まさかの相模改造計画を聞いて、由比ヶ浜の顔が引き攣っている。雪ノ下が主導するからには、教育方針はスパルタにならざるを得ないだろう。相模の前途を思って、心から同情する由比ヶ浜だった。

 

 

 だが、事態は奉仕部の三人にとって思わぬ方向へと進む。

 

 週明けの月曜日、相模は高校に姿を見せなかった。

 




次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/14,10/28)


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03.みのがして今回だけは不問にしようと彼女は提案する。

前回までのあらすじ。

 文化祭の実行委員会に出席した八幡は、そこで雪ノ下と再会した。クラスの出し物の最終決定権から実行委員まで、およそ文化祭に関するJ組の全権を握ったという雪ノ下は、思惑あっての行動だと八幡に告げる。委員長を決める話し合いの中で、陽乃が二年前に無役で大活躍したことを城廻から教えられて、それが雪ノ下の思惑に繋がるのだなと八幡は理解した。

 雪ノ下が裏で全面的に支えてくれると早合点した相模は、肩書きに目が眩んで委員長に立候補する。抜け目なく奉仕部の話も持ち出して雪ノ下に協力を要請した相模だが、それを引き受けた雪ノ下の真意は、相模を委員長に相応しい域にまで教育することにあった。

 しかし週明け早々の月曜日、相模は高校を休んだ。



 週明けの月曜日、F組では朝から騒がしく生徒達が動き回っていた。今日も視線を集めるのかなとこわごわ教室に入ってきた比企谷八幡は、拍子抜けとも安堵ともつかない心境でいったん席に着く。

 

 八幡としては可能なら時間ギリギリに登校したかったのだが、中学で生徒会の雑用があった妹を送ってあげる必要があり、中途半端な時間になってしまった。注目を集めていない現状には一安心したものの、そうなると今度は普段と違うクラスの様子が気になるもので、八幡はこっそり聞き耳を立てることにした。

 

「あ、おはよ。今日は早いね」

 

「おう、小町を送ってく必要があってな。って、戸塚は朝練はどうしたんだ?」

 

「文化祭まで放課後の部活がお休みになるから練習したかったんだけど、相模さんのことを聞いて気になっちゃって」

 

 だが戸塚彩加が話しかけてくれたので、八幡は朧気ながらも状況を把握できた。相模南がさっそく何かをやらかしたのだろう。

 

 土曜日に由比ヶ浜結衣を交えた三人で話していた時にも、できる限り手を抜きたいという相模の思考は伝わって来た。文化祭の実行委員長に立候補したのも、雪ノ下雪乃が陰ながらタクトを揮うのであれば、労せずして表の名声を得られると考えたからだろう。

 

 可能な限り楽をしたいという発想は、八幡も嫌いではない。だが、施しを受けたり一方的に養われるだけの立場に甘んじたり、そうした他人に迷惑をかけるような行為となると話は別だ。長くカースト底辺として過ごしたために迷惑をかけられる側だったこともあり、自意識の高さもあって微妙な気持ちを抱いてしまう。

 

 夏休みに教師とラーメンを食べた時にそうした話題を出されて、照れ隠しのために話を逸らしたことを思い出しながら、八幡は口を開く。

 

「相模がなんかサボったのか?」

 

「サボったんじゃなくて、病欠みたいだよ。微熱もあるみたいだし、台風が来て気温の変化も大きかったから体調を崩したんじゃないかな」

 

 病欠なら仕方がないかと、八幡は勝手な先入観で相模を見ていたことを少しだけ反省する。程なくその反省は撤回されることになるのだが、どんな理由であれ相模が欠席となると、今は多方面に影響が出てしまう。それを思って、また面倒なことになりそうだなと考える八幡だった。

 

「ヒッキー、やっはろー。ゆきのんと少し相談したんだけどさ」

 

 八幡が戸塚の言葉を頭の中で反芻していると、教室の中だから少し自制したのだろう。後ろから小声でいつもの挨拶をして、由比ヶ浜が話しかけて来た。耳元でささやかれる声に身体をびくっと反応させた八幡は、何でもない風を装いながら、由比ヶ浜に軽く頷くことで先を促す。

 

「お昼に奉仕部の部室で集まろうって話になったんだけど、大丈夫?」

 

「昼に部室に行けば良いんだよな。戸塚、悪いけど今日の昼練はそういうわけで……」

 

「うん。ぼくのことは気にしないでいいから、実行委員も頑張ってね」

 

「あたしはもう少し、さがみんの友達とかから情報を集めとくから。じゃあ後でね」

 

 精力的に動き回る由比ヶ浜を、八幡は戸塚と一緒に見送った。おそらく由比ヶ浜は、相模欠席の第一報を聞いてからずっと動いているのだろう。教室で情報を集めながら雪ノ下にも報告を入れて、八幡が登校した頃にはほぼ対応を固めていたのだろう。

 

 そうした由比ヶ浜の働きに応えるべく。未だ内心では気恥ずかしい気持ちが湧き上がるのを避けられない八幡だったが、今日は大人しく部室で一緒に昼食を摂ろうと覚悟を決めるのだった。

 

 

***

 

 

 授業が終わってすぐに教室を出て、購買でしか入手できない少し高価な飲物を二人のために購入して、八幡は奉仕部の部室へと移動する。ドアを開けると、そこではいつものように雪ノ下が待っていた。どうやら由比ヶ浜はまだ到着していないらしい。

 

「こんにちは、比企谷くん。今日はごめんなさいね」

 

「おう。……って、お前が謝ることじゃないだろ?」

 

 無言で静かに首を振って応える雪ノ下の仕草を、三人が揃って話が始まったらすぐに分かるという意味なのだろうと受け取って、八幡はそれ以上は何も言わずいつもの席に腰を下ろした。

 

「やっはろー。ってヒッキー、なんで先に行くし!」

 

「いや、一緒に部室に行くとか恥ずかしくて無理だろ。あと、これを買いに行ってたからな。お前も雪ノ下も、朝から色々と動いてお疲れさん」

 

 購買限定の飲物を差し出されて、二人の女子生徒は少しだけ固まってしまった。もしや気持ちの悪い行動を取ってしまったかと、八幡は瞬時に後悔する。しかし、口に出しかけた文句をどう処理すれば良いか分からず口ごもりながらも小声でお礼を告げてくる由比ヶ浜や、苦笑しながらお礼を言って受け取る雪ノ下を見て、今度は照れ臭くなって来てそっぽを向く八幡だった。

 

 

「では、食べながら話を進めましょうか」

 

 確かに一緒に昼食を食べるつもりではあったが、確認すらされないことにほんの少し物足りなさを感じつつ、八幡は配膳を受け取った。今さら八幡がこの程度のことで逃げるとは思っていない二人にとっては当たり前の行動なのだが、男子高校生とはかくも面倒な思考の持ち主なのである。

 

 そんな八幡の葛藤に気付くことなく、雪ノ下が分かりやすく現状を説明する。

 

 相模が体調を崩したという戸塚から得た情報は、問題の一部分に過ぎなかった。確かに気候の影響もあるのだろうが、微熱は風邪の前兆ではなく、いわゆる知恵熱の可能性が高いと雪ノ下は推測する。なおその際に、こうした知恵熱の使い方は誤用であるとユキペディアさんが熱っぽく語ってくれたのはご愛敬。

 

 そして雪ノ下は、先ほど謝った件を口にした。つまり相模が熱を出したのは、雪ノ下が一晩で作った相模のための教材に原因があるのだという。

 

「いや、お前の作った教材ってだけで破壊力が高いのは分かるけど、さすがに病気になるほどじゃないと思うんだが……違うの?」

 

 日曜日の夕方に会う約束をしていたのは、それを渡すためだったのかと納得しながら、八幡はおそるおそる問いかける。冷静になって考えてみると、雪ノ下が本気を出せば、教材だけで相模を病気にできそうな気がしてきた八幡だった。

 

「夏休みに勉強会のためにまとめてくれたやつも破壊力は高かったけどさ。でも、少しでも覚えやすいようにって気を遣ってくれてるのが伝わって来たし、あたしでも病気になるまでは行かなかったんだけど……」

 

「その、二人して破壊力が高いと言われると、少し反論したくなるのだけれど」

 

「でもさ、昨日さがみんが友達に送った写真を見たら、あたしも『うっ』ってなったんだけど」

 

 そう言いながら由比ヶ浜は、同級生から転送してもらった写真を二人に見せる。この世界ではテキストのデータだけを目の前に表示させて読むのが一般的だが、あえて質感を伴った本の形で具現化させることも可能だ。写真には、有名大学の赤本や電話帳もかくやと思わせる厚さの、雪ノ下謹製による文化祭対策マニュアルが、たけのこの里(空き箱)とともに写っていた。

 

「まあ、あれだ。勉強ができる奴って自分を基準に考えがちだけど、普通はこんなのを一晩で作るのはもちろん、読破するのも無理だからな」

 

「その、内々で読む物だからと著作権などを考えずに、色々とコピーをして作っただけなので、それほど手間はかからなかったのだけれど……」

 

「ゆきのんのことだから、読みやすいようにとか色んな配慮はしてくれてると思うけど。この量を見ただけで気分が悪くなるって子もいたんだよね……」

 

「ざっと目を通して欲しいとは言ったものの、困った時に辞書を引くように使って欲しいと言ったつもりだったのだけれど……」

 

「つーか、この空き箱は大きさ比較の為なのか?」

 

「この量を見て、読む気が全然出て来なくて、気付いたら一箱空けてたって言ってたみたい」

 

 二人の反応を見て、自分が思っていた以上に教材に問題があったことをようやく理解して、珍しく居心地の悪い思いをする雪ノ下だった。とはいえ八幡としては、由比ヶ浜の発言に気になる点があったので、これ以上は追求することなく話をそちらに移した。

 

「とはいっても、雪ノ下が一般人向けを大きく逸脱した教材を作ったのって、悪いことではないんだよな。辞書的に使うなら尚更だし。それより気になったのが、結局相模って、これを全く読んでないってことなのか?」

 

「……うん、たぶんね。読まなきゃって思いながら時間がどんどん過ぎていって、熱っぽくなってくるし寝ないといけないし、でも全然読めてないしって感じだったみたい」

 

「なんかあれだな。カースト上位の割にはひ弱っていうか。相模ってどんな性格なんだ?」

 

「うーん。普段は友達も多いし普通に色々こなせるんだけど、どう言ったらいいかな。……本番に弱い、とか?」

 

「あー」

 

 深々と納得してしまった八幡だった。

 

 話のついでに八幡は、相模と由比ヶ浜の関係や、遊戯部と勝負した時に由比ヶ浜が口にした噂について教えてもらうことにした。本当なら土曜日に聞きたかったのだが、クラスの出し物が腐っていたせいで由比ヶ浜の疲労感が尋常ではなく、あまり突っ込んだ話ができなかったのだ。

 

「一年の時は同じクラスで、わりと目立つグループだったんだけどさ。二年になって、あたしが優美子や姫菜と仲良くなってからは距離ができちゃって。さがみん、クラスであたしより下の扱いを受けてるのが嫌なんだと思う。でも、色々と気を遣う部分はあるけど、あたしはさがみんと友達だって思ってるんだけどな……」

 

「さがみん、遊戯部の相模くんとは小中高が同じみたいでさ。姉弟じゃないのに同じ苗字だからって、結婚とかどうとか、小学生の頃からからかわれてたんだって。さがみんも、相模くんが悪いんじゃなくて、からかってくる子が悪いんだって分かってたのに、高校も同じだって判った時は我慢の限界だったみたいで。それを周りの子が聞いて、同じ高校を受験した相模くんのせいだって色々と酷いことを言い触らしたみたいでさ」

 

 つくづく運に恵まれないタイプというか、余計な事を口にしてしまって後で後悔するパターンなのだろうなと八幡は思った。上条さんやスパーク君とは少し違った印象を受けるが、不幸体質と言えば相模もそうなのだろうと、八幡は今も続いているライトノベルや昔父親の書棚で見付けたライトノベルを連想しつつ理解した。

 

 

「でもこれ、相模の体調が回復しても、教材を全く読めてない状態なんだよな。それで実行委員長とか大丈夫なのか?」

 

「平塚先生や城廻先輩からも、引き継ぎの資料をもらっているはずなのだけれど。それを読んでいれば、最低限の仕事はできるはずよ」

 

 八幡と由比ヶ浜が話している間に気持ちの整理をつけたのか、雪ノ下が普段に近い声色で答える。

 

「でも相模の性格を考えると、その辺りの資料もギリギリまで読み始めない気がするんだよな……」

 

「あたしも正直そんな気がする」

 

「始まって早々に頭の痛い状況になってきたわね……。由比ヶ浜さん、相模さんは明日には出て来られるのかしら?」

 

「無理して読まなくて良いから、って言えば明日は大丈夫だと思う。けど……」

 

「ええ、それで良いわ。相模さんのお友達にそう伝えて貰えるかしら?」

 

 何となく雪ノ下から覚悟を決めたような気配を感じて、八幡は疑問を投げる。

 

「今日の実行委員会はどうするんだ?」

 

「状況を説明して、明日に延期するしかないでしょうね。由比ヶ浜さん、申し訳ないのだけれど、一緒に出てくれないかしら。放課後時点での相模さんの容態を説明したり、他にも補足をお願いするかもしれないから」

 

「うん、もともとそういう役割だし大丈夫。あ、部活は文化祭まで休みってことで良いんだよね?」

 

「そうね。生徒会の方針としては、部活中止ではなく自由参加という扱いみたいだけれど。私達に余裕がない以上は、休部にしたほうが良いでしょうね」

 

 それが合理的な判断だと分かってはいても、やはり寂しいのだろう。由比ヶ浜がことさら元気な声で雑談を始める。

 

「でもさ、さっきは悪い風に言っちゃったけど。あんな教材を作っちゃうなんて、やっぱりゆきのんは凄いなって。何だっけ、多くても大丈夫、みたいな話をこないだ漢文で習ったよね?」

 

 多い日でも大丈夫、などと妄想してしまい口ごもる八幡だったが、幸い二人にはバレていない模様である。珍しく授業の話を持ち出してきた由比ヶ浜に微笑みかけて、雪ノ下が説明を始める。

 

「それは『多々益々弁ず』ね。多ければ多いほど良いという意味なのだけれど、私はそれとは違うわね。目の前のことから順番に一つずつ片付けるしかできないから、自ずと限度はあるわ。むしろ比企谷くんのほうが、上手く手抜きをしたりして、多くの人を扱えるかもしれないわね」

 

 からかうような口調ではあったが、予想外のタイミングで雪ノ下からお褒めの言葉を頂いて、ぽかんとした表情を浮かべてしまった八幡だった。

 

「いや、お前らの方が人望があるし、俺には無理だろ」

 

「ゆきのんもヒッキーもお互いに謙遜してるけど、二人とも凄いってあたしは思うけどな。あ、『お互い』って夏休みの勉強会で出て来たよね。たしか、”mutual”……だっけ?」

 

「ええ、正解よ」

 

「ゆきのんが教えてくれた通り、単語で覚えるよりも言葉の組み合わせの方が覚えやすいね。”mutual security treaty”って、口に出して言いやすい気がするし。たまに最初の単語が出て来なくて困るんだけどさ」

 

「まあ、日米安保の正式名称は、”The treaty of mutual なんたらかんたら”らしいけどな」

 

「そうね。ちなみに旧安保は片務的な条約だったので、新安保になって”mutual”という言葉が追加されたのよ。こんな風に現代史と合わせて覚えると、更に理解が深まるわよ」

 

 自分のせいではあるものの、完全に授業が始まってしまい苦笑する由比ヶ浜だった。しかし二人はこれを授業ではなく雑談とでも考えているのか、気楽な口調で話が続く。

 

「現代史と関連付けるなら、安保よりは”MAD”とか教えた方が良いんじゃね?」

 

「貴方、”destruction”という単語に浪漫を感じていそうだものね」

 

「まあ、中二病になったことのある奴なら同意してくれると思うけどな」

 

 そんな二人の会話を微笑ましく聞いていた由比ヶ浜だが、全く関係のない話を思い出した。

 

「あ、そういえばさ。バンドってどうしよっか?」

 

「そうね……。今日みたいにお昼休みに集まって練習するか、それとも実行委員会が終わってから集まるかね。最終下校時刻が過ぎても、申請を出していれば部室は使えるはずだけれど」

 

「有志がどれくらい集まるか、早く把握したいよな。練習しても無駄だってなったら嫌だし」

 

「大丈夫よ。いざとなったら無理矢理にでもねじ込むから」

 

 良い笑顔を浮かべて過激なことを言う雪ノ下だった。苦笑しながら由比ヶ浜が口を開く。

 

「えとね、選曲なんだけどさ……」

 

「なるほど。確かにそれは良案かもしれないわね」

 

「それだったら、俺はこの曲とか……」

 

「これならあまり難しくはないし、良いかもしれないわね」

 

 このようにして、奉仕部三人の昼休みは、楽しい話で幕を閉じたのだった。

 

 

***

 

 

 この日の放課後、会議室では定刻に実行委員会が始まった。しかし当然ながら教室の前方には実行委員長の姿はなく、代わりに雪ノ下と由比ヶ浜の姿があった。八幡はそれを下座から見守る。

 

「奉仕部の雪ノ下です。実行委員長の相模さんが本日病欠した件について、説明します」

 

 相模から協力を頼まれたこと。委員会をスムーズに運営するために必要な複数の能力をいかにして修得するか、その為に読破すべき本やら動画やらをまとめ演習問題まで収録した教材を作成したこと。その他にも過去二十年間の文化祭を振り返って、ケースごとに対策を整理したこと。その他諸々まとめたものも合わせて、文化祭対策マニュアルと名付けて相模に託したこと。そのせいで相模が体調を崩したことなどを雪ノ下は説明した。

 

「昼過ぎには普通に近い体調に戻ったみたいで、明日には出て来られると言ってました」

 

 引き続いて由比ヶ浜が相模の病状を説明して、その上で雪ノ下は今後のスケジュール案を提示する。

 

「一日のロスは厳しいですが、委員長だけ決めて土曜日に解散したのは、各々が週末に資料を読んで仕事をきちんと把握した上で、週明けから一気に動こうと考えたからだと思います。つまり相模さんが先日口にしたように、我々下級生のスキルアップを見据えて、生徒会や先生方がこのような形にしたのだろうと考えています」

 

 二年生や一年生が成長できる機会を与えようとしているのだろうと、雪ノ下は説明した。生徒会長の性格を考えてもこれは確実だろうと雪ノ下は思っていたし、事実その通りなので、生徒会役員の中には苦笑している者もいる。

 

「なので今回だけ、予定の一日延期を提案します。相模さんも、仕事への責任感から体調を崩したのだと考えて、今回だけは責めないで欲しいと私は思います。委員長以下、実行委員全員で、文化祭を成功させましょう」

 

 事前に由比ヶ浜から言われていた通り、相模については事実を少し歪曲して伝えて、一体感を煽る形で雪ノ下は発言を終えた。だがそれに踊らされない冷静な者も中には居る。奇しくも、雪ノ下と同じクラスのもう一人の実行委員が手を挙げて発言を求めた。

 

「雪ノ下さんの提案に基本的には賛成ですが、それで我々の負担が増えることを懸念しています。僕はクラスで保健委員を務めていて、雪ノ下さんが無理をして体調を崩さないように気を付けろと、クラスのみんなからきつく言われています。絶対に無理をしないって、この場で約束して貰えますか?」

 

 六月にあった職場見学の翌日。睡眠不足で登校してきた雪ノ下の体調を案じて、保健室に引っ張っていったのがこの男子生徒だった。女子の比率が圧倒的なJ組ゆえに男子は肩身の狭い思いをしているのだが、そんな状況でもこの生徒は、必要とあらば歯に衣着せぬ物言いをためらわない性格だった。ゆえに雪ノ下は実行委員の相方としてこの男子生徒を指名したのである。

 

「先ほどの説明の通り、私には今回の件で責任があると考えています。そのため、今後の委員会運営に問題を来すようなら、私は副実行委員長として奉職する覚悟があります。副委員長は一年生が就任するのが慣例ですが、過去には複数名の就任例もありますので、それに類した形になると思います」

 

 だが、J組の保健委員に向けて、全く正反対の返事を告げる雪ノ下だった。彼はもちろんのこと、教室内の大多数が首を傾げる中で、八幡と由比ヶ浜だけは雪ノ下が続いて口にする内容が予想できた。責任感が強く正攻法が似合う雪ノ下が好みそうなロジックゆえに。

 

「どのような肩書きになるにせよ、私は文化祭のために力を尽くそうと考えています。だから貴方には、みなさんには、私が過労で倒れてしまわないように協力してくれることを望みます」

 

 責任ある立場の者として、大勢を引っ張っていくとはこういうことなのだろうと八幡は思う。やはり自分ではなく、雪ノ下のほうが多数を率いるには相応しいと考えながら。だからこそ自分も自分なりに、雪ノ下の仕事を少しでも減らしてやらないとなと、教室前方にいる由比ヶ浜と目配せを交わす八幡だった。

 

 

***

 

 

 実行委員会はその後すぐにお開きになって、今日は各自クラスを手伝うことになった。会議室の前で雪ノ下と別れて、八幡は逃げるタイミングを失って由比ヶ浜と一緒に教室に向かう。緊張しながら足を動かしていた八幡だったが、普段以上に気を遣って何くれと話題を振ってくれる由比ヶ浜のお陰で、教室までの道中は思った以上に楽しい時間となった。

 

「配役が決まって、やっと動き出したとこみたいだね。あたしは優美子たちと合流するけど、ヒッキーはどうする?」

 

「んじゃ、俺は戸塚と……ぐえっ」

 

「さいちゃん、今は隼人くんたちと真剣に打ち合わせしてるみたいだし、ヒッキーも一緒に行こ!」

 

 希望を聞いておきながら、結局はそのまま八幡を連行する由比ヶ浜だった。とはいえ戸塚のことを思うと由比ヶ浜の言葉には頷けるだけに、後で必ず会いに行こうと心中で固く誓いを立てて、八幡はトップカースト三人娘と時間を過ごすことになった。

 

「あのな、ちょっと良いか?」

 

 始業式の朝に海老名姫菜の出演要請を断ったこともあり、少しだけ罪悪感が残っていた八幡は、監督・演出・脚本を兼ねる腐った女子生徒に話しかけた。

 

「どしたのヒキタニくん。もしかして特別出演の決心でも……」

 

「いや、それは無い。じゃなくてだな、具体的な数字までは言わなくていいけど、演技スキルって高いよな?」

 

 面と向かってみると名前はもちろん姓でも何となく呼びにくさを感じて、八幡はぶっきらぼうな物言いで海老名に尋ねる。さすがに八幡の意図が読めないのか、海老名は不思議そうに口を開いた。

 

「まあ、けっこう高いんだけどさ。これって演技の実力じゃなくて、演技してた時間の長さを判定するんだよね?」

 

 この世界のスキルは、基本的には当人の実力や熟練ぶりを無理矢理に数字で表現しているだけで、目安としての意味しか持たない。ある一定の数字を超えたら能力が身に付くとか、そうしたゲーム的な要素は存在していないはずだった。

 

 そう理解している海老名は、ゆえにテストの点数を聞く程度の意味しか持たないはずの質問を受けて困惑している。しかし、奉仕部で依頼人を待つ時間を利用して、この世界について書かれたマニュアルの解読を雪ノ下たちと一緒に行ってきた八幡は、海老名が知らない特殊な仕組みを多数把握していた。

 

「事前に申請が必要なのと、監督か演者の演技スキルが200以上って条件があるんだけどな。演劇の時に、小道具を使って人を宙に浮かすとかやるだろ。そんなことをしなくても、その場限定で浮いたり回ったりできるようになるんだわ」

 

「それ、ちょっと面白いじゃん。申請したことしかできないんだよね?」

 

「街中とかで人間離れした行動をされても困るしな。この世界ではリアル感を重視してるし、場所とか時間とか目的とか色んな制限はあるけど、劇のためなら上手く活かせるんじゃね?」

 

 八幡がこの仕組みに気付いたのは、実はステルスヒッキーが原因だった。千葉村でステルスヒッキーを使用した時に痛い目を見て、いくら気配を隠すのが得意だと言っても現実以上に他者から気付かれない状態になるのはおかしいと、八幡は疑問を持った。そしてマニュアルと格闘した結果、八幡は演技スキルから派生する特殊効果を解明したのだ。

 

 八幡や海老名以上に普段から大仰な演技をして過ごしている材木座義輝の協力を得て、八幡は夏休みの間にこの仕組みの理解を更に進めて、海老名に説明したようなルールを把握するに至った。テニス勝負の時に材木座が何度か姿を消したのも同じ仕組みによるのだが、これらは個人限定で発動にもムラがある。しかし運営への申請というプロセスを挟むことで一般化できるというルールだった。

 

「出演できないお詫びってことで、劇で使ってくれ」

 

「ぷっ。ヒキタニくんって、ぼっちを気取ってる割にはあれだよね。義理堅いって言うか、むしろ過保護?」

 

「それな、この間の待ち合わせの時に戸塚の話をしただろ。あの時に自分でも思ったから、あんま言わないでくれない?」

 

 とはいえクラスに最低限の貢献ができたことで肩の荷が下りた八幡は、戸塚に話しかけるタイミングが一向に訪れないことを嘆きつつ、三人娘の仕事ぶりを眺めながらしばし時を過ごした。

 

 

「ん、メッセージか?」

 

「あたしもメッセージ……ってゆきのんだ!」

 

「予想はしてたけど、あんま良い話じゃねーな」

 

「だね。でもいつかは来るって思ってたし、何とかなるよ」

 

 明後日の水曜日、雪ノ下陽乃がOB・OG代表として来校し、実行委員会に参加するというしらせが届いた。




先日、最新12巻の一場面を、別視点から想像力を働かせて書いてみました。

「原作の裏側で。」という一話完結の作品で(13・14巻が出た時に再利用するかもですが)、サブタイトルは「それゆえに一色いろはは画策し、このように由比ヶ浜結衣は受け止める。」です。

発売直後でもあり著作権を考慮して会話文の引用は最低限で済ませたので、少し読みづらい部分があるかもしれませんが、目を通して頂けると嬉しいです。


次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/14,4/2)


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04.みた目は内気そうなのに彼女は意外に有能だった。

前回までのあらすじ。

 週明け早々から実行委員長の病欠という事態に直面した奉仕部三名は、昼休みに対応を協議した。相模の行動や性格を由比ヶ浜から説明されて、先行きに不安を覚える八幡だったが、予定の一日延期を口にする雪ノ下に迷いはない。その後は雑談やバンドの打ち合わせをして、三人は楽しく時間を過ごした。

 放課後の実行委員会にて、雪ノ下は相模を擁護し全員で文化祭を成功させようと訴える。雪ノ下の体調を心配する同じJ組の実行委員の発言も上手く活かして、委員会は盛り上がった状態で乗り切ることができた。

 その後は各自クラスを手伝うことになり、八幡は海老名に一つ有益な情報を伝える。そのままトップカースト三人娘の仕事ぶりを眺めていた八幡のもとに、水曜日に陽乃が来校するというメッセージが届いた。



 翌日の火曜日、二年F組の教室では、無事に登校してきた相模南の周囲に朝から生徒たちが集まっていた。さすがにカースト上位の貫禄か、心配をかけたことを謝る相模の仕草は落ち着いたものだったし、誰かが相模に反感を抱いている様子も無かった。

 

 あるいは仲の良い連中なら、相模が本番に弱いことに慣れているのかもしれない。由比ヶ浜結衣から得た情報を思い出してそんなことを考えながら、比企谷八幡は自席で一人聞き耳を立てていた。

 

 委員会の予定が一日遅れたために今後のスケジュールが厳しくなるだろうが、それでも今はまだ余裕がある。いざとなれば副委員長に就任するという意思を示しつつも、現時点では表に出ることを考えていない雪ノ下雪乃の態度を思い出して、八幡は雪ノ下への信頼ゆえに、相模の失態もさほど気にならないでいた。

 

 むしろ、土曜日には自分に集中していた視線が今やほとんど感じられないことを思うと、クラスの雰囲気を変えてくれた相模には感謝すべきなのかもしれない。八幡はそんなことを考えながら、授業の支度を始めるのだった。

 

 

***

 

 

 お昼休みになって、八幡は素早く教室を後にすると、昨日と同様に奉仕部の部室に移動する。

 

「よし、由比ヶ浜には気付かれてねーな。今日は購買には寄らなくて良い、と」

 

 そう言われた時は、二人のために飲み物を買って行くのはやはり気持ちの悪い行動だったかと落ち込みそうになった八幡だったが、雪ノ下が苦笑まじりに説明してくれた。部活が休部になるために、部員三名が落ち着いて紅茶を楽しめる時間が持てなくなる。だから昼休みに、という雪ノ下の提案には由比ヶ浜が諸手を挙げて賛成していたし、八幡にも否やは無かった。

 

 廊下にまで漂ってきた茶葉の香りを吸い込みながら部室に入り、雪ノ下と軽く挨拶をかわして食前のお茶を堪能して、遅れてやって来た由比ヶ浜のお怒りをいつものように軽くかわして、八幡は二人と一緒に昼食を摂る。

 

「正直、夏休みに基礎練だけやってた時はやる気が出なかったんだが。曲に合わせて練習するのって楽しいもんなんだな」

 

「でも、自分で弾いてみて初めて、プロって凄いんだなって思っちゃった。あんなにベースがうねうね動いてるなんて……」

 

「それな。ヴォーカル以外はおまけだろとか思ってたの、ちょっと反省したわ。なんでこんな叩き方をするんだよって、今度は変態扱いしたくなって来たけどな」

 

 昨日クラスの作業が終わった後で、三人は再び部室に集合して、初めてのバンド練習を行った。由比ヶ浜が提案した選曲基準に合った曲をいくつか、八幡推薦の曲も含めて軽く合わせただけなのだが、それでも二人にとっては楽しい経験になったのだろう。部員二人の好意的な反応を見て顔をほころばせながら、雪ノ下が口を開く。

 

「時間の余裕があれば、じっくり弾き比べて課題曲を相談しても良いのだけれど。あと十日ほどしか無い以上は、昨日弾いた曲の中から一曲を選ぶのが無難かしら。多くても二曲が限度ね」

 

「だな。そういや葉山たちもバンドをするとか言ってたけど、あいつらは何曲ぐらいやるんだ?」

 

「練習する時間があんまり取れないみたいで、とりあえず二曲で申請を出すって言ってたよ。隼人くんは余裕がありそうだけど、ベースの大和くんとかキーボードの大岡くんとか固まってたし。戸部っちは、まあ、いつもの感じだったけど」

 

 たははと笑いながら由比ヶ浜が答える。彼らの反応を容易に想像できる自分に内心で苦笑しながらも、リア充と同じような行動をしている己の境遇を思い、改めて不思議な気持ちになる八幡だった。

 

「その構成だと、三浦さんや海老名さんは?」

 

「姫菜はクラスの出し物に集中したいって、バンドには参加してないんだよね。優美子はギター弾きながらヴォーカルをやるんだけど……」

 

 疑問に思った雪ノ下が話に加わると、由比ヶ浜は少し歯切れの悪い口調で答える。どうしたのかと首を傾げる二人に、由比ヶ浜は意を決して事情を説明する。

 

「その、いろはちゃんもキーボードで参加してるんだよね。あたしと姫菜が居ないから、色々と大変みたいでさ。バンドには参加しなくてもいいから、たまに練習を見に来るぐらいできないかって隼人くんに相談されたりして」

 

 なるほどと納得する二人だった。男性陣の苦労を思うと同情を禁じ得ないが、たくましく生きてくれと八幡は内心でエールを送った。

 

「クラスの事に加えて相模さんのフォローの仕事もあるし、私達のバンドの練習もあるし、いくら由比ヶ浜さんでも難しいでしょうね。あまり気に病まないほうが良いと思うのだけれど」

 

「うん、それはそうなんだけど……。実はさ、奉仕部でバンドをするって、隼人くんたちには言ってないんだよね。優美子と姫菜には言ったんだけど、有志が少ない場合にバンドをするって話だったじゃん。決定じゃないからちょっと言いづらくて、奉仕部の仕事ってだけ説明して、そのままになっちゃったんだよね」

 

「言い出しづらいことや、できれば言わないままで済ませたいことは、確かにあるものね」

 

 雪ノ下の呟きを耳にして、八幡も由比ヶ浜も怪訝な表情を浮かべている。それに気付いた雪ノ下は口調を入れ替えて、諭すように話を続ける。

 

「例えば比企谷くんの事故の話を、私も由比ヶ浜さんも口に出すのに一年以上かかったじゃない。私はともかく、由比ヶ浜さんがその話を隠そうとしたとは考えていないと思うのだけれど……」

 

「いや、お前だって隠すとか責任逃れとか、そんなことは考えてなかっただろ。もうとっくに話がついた事だし……」

 

「うん。ゆきのんだけが、自分を悪く言うようなのは良くないよ」

 

 言葉をかぶせるようにして部員二人が順次口を開き、それを聞いた雪ノ下は嬉しいような困ったような表情で返事を返す。あるいは雪ノ下には、漠然とした予感があったのかもしれない。

 

「……そうね。他人のことなら、敢えて口にしないのも仕方が無いと考えられるのに。自分のことだと反省が先に立つのよね。清濁を併せ呑む域に至るのは難しいわね」

 

「それだけ責任感が強いって事だろ。んじゃ、食後のお茶も堪能したし、そろそろ練習しますかね」

 

「うん。ちゃちゃっと二曲まで候補を絞って、集中して練習しよっか」

 

 お昼休みと放課後を合わせて一日二時間。雪ノ下が設定した練習ノルマをこなすべく、気持ちを入れ替えて演奏に集中しようとする二人の姿を見て、ようやく笑顔になる雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 放課後になって、同級生がクラスの出し物の準備をしている様子を少しだけ眺めてから、八幡は気配を殺して教室を出た。

 

 可愛らしい同性のクラスメイトと片言でも話ができればと思っていたのだが、劇の打ち合わせを真剣に行っている彼の様子を見ると今日もそれは無理そうだ。ならば相模と一緒に移動する状況に陥らぬよう、さっさと教室を離れようと考えて、八幡はそのまま会議室に入った。

 

 この日も八幡は人が少ない辺りに腰を落ち着ける。だが、彼に少し遅れて会議室に到着した雪ノ下が横に座ったことで、たちまち周囲の人口密度が高くなった。

 

「お前な。わざわざ横に座らなくても、他にも席はあるだろ?」

 

「比企谷くんが隣にいると、何故だか話しかけられる事が少なくなるから助かるのよ。落ち着かないようなら、離れて座っても良いのだけれど?」

 

「この話の流れで追い払ったら、俺が完全に悪者じゃねーか。まあ……じゃあついでだ。副委員長には、まだ就任する気は無いんだよな?」

 

 無駄な抵抗はさっさと諦めて、どうせならと八幡は話を振った。今日は役決めから一気に仕事が動き出すはずなので、こうしてのんびり話せるのも今のうちだけだろう。

 

「そうね。できれば就任することなく、委員会が上手く回って行けばと思っているのだけれど。見極めを間違えないように、とも思っているわ」

 

「いざという時は、ってことか。でもぶっちゃけ、なんで副なんだ。あんま大きな声では言えねーけど、お前が委員長の座を襲っても、それほど文句は出ないと思うんだが」

 

 さすがに話が話なので、小声で八幡は語りかける。それに応じる雪ノ下も小声で、ゆえに二人は顔を近付けた状態で話を続ける形になった。

 

「全員で委員長を選んだのだから、それで事が上手く運ばないのであれば、私にも責任があると言えるのではないかしら。それに、取って替わるのは簡単なのだけれど、副という制限された立場で事態の改善を図るのも、面白いかもしれないと思ったのよ」

 

 いずれにせよ最終的には上手く収めてみせるという自信が雪ノ下から伝わって来て、八幡はさもありなんと納得する。

 

 結果だけを見る雪ノ下とは違って、立場にも目が行ってしまう自分の卑小さを、しかし八幡は恥じようとは思わない。自分が雪ノ下と同じになる必要はないと考えるがゆえに。

 

 だから八幡は自分の価値観に従って、念のために問いかける。

 

「相模の下に就くとか、普通なら降格人事みたいで嫌がりそうだけどな。その辺りは気にしないって事だよな?」

 

「貴方なら、この例を出せば納得するのではないかしら。少し畏れ多いのだけれど、要は児玉源太郎と同じよ」

 

「いや、大山巌の下で働けるのと比べたら雲泥の差だろ。まあ、でも確かに納得はできたけどな。大臣を辞めて降格を受け入れて、対ロシアの最前線に身を投じた児玉を意識するとか、そこらの中二病でも無理だぞ?」

 

 意外な名前が飛び出したことに内心で驚きつつ、八幡は返事を返した。最初は半分茶化すように、次いで真面目に。

 

 日露戦争が間近に迫る中で、他に適任が居ない状況を鑑みて火中の栗を拾った児玉源太郎のことを八幡は思い出す。歴史上の人物を引き合いに出す雪ノ下からは、仕事に対する強い責任感が伝わってきた。たしか旧陸軍で降格人事を受け入れたのは児玉だけって話だったよなと記憶を探りながらも、なぜ雪ノ下がここまで真剣なのかと八幡は訝しむ。さすがに入れ込みすぎではないだろうか。

 

 そんな八幡の疑問が伝わったのだろう。雪ノ下は端的に理由を口にした。

 

「成長したいと考えているのは、相模さんだけではないということよ。もっとも、結果を得られることと自身の成長とは、厳密にはイコールではないのだけれど」

 

 おそらく、雪ノ下のやる気の源には姉への意識が強く作用しているのだろうと思いつつ。それでも、物事が良い方向へと進んでいる間は無理に引き留めることもないだろうと考えて、八幡は話をまとめにかかる。

 

「ま、そこまで考えて、責任を負う覚悟もあるんなら、俺に言えることはねーな。あんまこき使わないでね、ってぐらいか?」

 

 ようやく顔の近さを自覚して、冗談交じりに喋りながら背中を伸ばす八幡に、雪ノ下は一笑するだけで応える。雪ノ下がどんな役職に就くにしろ、仕事に追われる日々が待っているのだなと理解して、八幡はがっくりと肩を落とした。

 

 周囲の生徒達がそんな二人をどう見ていたのか、八幡は気付いていない。

 

 

***

 

 

「えっと、じゃあ、今日からよろしくお願いします!」

 

 実行委員長の相模が前日の件で頭を下げると、会議室には暖かい拍手が湧き上がった。昨日の雪ノ下の発言によって煽られた実行委員としての一体感が、この日も持続していたのが功を奏したのだろう。

 

「じゃあ、役割分けからお願いねー」

 

「あ、はい。えっと……」

 

 しかし城廻めぐりの指示を受けて、委員長として話を進める段になると、たちまち相模は狼狽した姿を見せる。とにかく謝ることだけを考えていた相模は、雪ノ下が用意した教材はもちろん、城廻たちから渡された資料すらも読んでいなかった。

 

 体調を崩したという言い訳があったので結局何も読んでこなかったのだろうなと、八幡は推測する。そうした行動を取る生徒は、正直あまり珍しいことではない。自分にしたところで、もっときちんとした言い訳がある状況ならサボってしまうだろうなと思う。すぐ横に座っているこの女子生徒ほどの責任感など、凡人が持ち得るわけもない。

 

 とはいっても、仮にも実行委員長に自ら立候補した者として、最低限の責任は果たしてもらいたいものだと八幡は思う。今はまだ相模を励ます雰囲気が強いが、風向きがいつ変わっても不思議ではない。

 

 それを充分に理解している城廻は、変な間が生まれることを避けるように、相模の横から助け船を出していた。

 

「うーんと。じゃあまず、相模さんを助ける副委員長を決めるのはどうかな?」

 

「あ、はい。じゃあ……誰か立候補、いませんか?」

 

 会議室の中はしんと静まり返っている。その原因の一端は、前日に副委員長への就任を仄めかした雪ノ下にもあるのだが、委員長の説明不足という側面も大きい。今後も続くであろう城廻の苦労を思って、仕方なく雪ノ下は口を開いた。

 

「私は今のところ立候補する気はありませんし、副委員長は一年生が務めてきたのが慣例です。まずは一年生から立候補を募るのと、それと平行して役職の具体的な仕事内容を話し合うのはいかがでしょうか?」

 

 自分で物事を決めるのではなく、他人に仕事を任せることの不便さを冒頭から思い知らされながらも、雪ノ下は城廻に倣って提案の形で話を終えた。それを聞いて、当事者であることを自覚した一年生たちが小声で相談を始める。

 

「要するに委員長を助けるんだよね?」

「あと、委員長が居ない時には代行するとか?」

「居ない時なんて……あ、そっか」

「病欠の他に、来賓の相手をしてて委員長不在なんてケースもあるんじゃない?」

「色々できないと難しいだろうし、一年だと厳しそう」

「いくら慣例とは言っても、今年は負担が大きそうだよな」

 

 上に立つ者が頼りないとこうなるよなと、八幡は思う。立場が上だからといっても、実際にその人の下で仕事をするとなると、厳しい目で批評するのは当然だろう。初手を間違えた相模の評価が芳しくないのも当たり前のことでしかない。

 

「その、雪ノ下先輩が作られたというマニュアルなんですが、私達にもいただけませんか。あと、質問があったら相談に乗ってもらってもいいですか?」

 

 だが、こんな状況でも前向きな生徒は居るもので、一人の女子生徒が意を決して立ち上がって、雪ノ下に質問を投げた。自分が作った教材にも問題があったと考えている雪ノ下は、やる気を見せながらも内気な性格が窺える後輩の姿を目の当たりにして、少し慎重に確認をする。

 

「全てに目を通さなくても、辞書的に使ってくれても良いので、貴女の負担にならないのなら喜んで進呈するわ。相談のことも、もちろん大丈夫よ」

 

「ありがとうございます。じゃあ、副委員長に立候補します。一年の、藤沢沙和子(ふじさわさわこ)です。よろしくお願いします」

 

「うん、よろしくねー。じゃあ、前の方に来てくれるかな。本牧くんが一つずれて、相模さんの隣に席を作って……」

 

 生徒会の一員である本牧牧人(ほんもくまきと)が城廻の指示通りに席を空けて、立候補した藤沢がそこに座った。本牧が生徒会長からの使いとして、部長会議の話を持って来た時のことを懐かしく思い出して、雪ノ下はあの時と同じように物事が上手く進むのではないかと考える。たった一人の行動によって、ずいぶんと雰囲気が変わるものだなと雪ノ下は思った。

 

 

「じゃあ最初は、役割決めですよね。その、資料を読んではみたんですけど、あんまりイメージが湧かなくて……」

 

 副委員長の藤沢が最初は相模に、次いで自分に顔を向けるのを見て。更には相模から必死に助けを求める視線を受け取って、雪ノ下は説明のために口を開いた。

 

 例年ならば、宣伝広報・有志統制・物品管理・保健衛生・会計監査・記録雑務という分け方をしていたこと。各々の簡単な仕事内容を説明して、更には来賓対応は生徒会が、一般客の受付は保健衛生が担っていたことを付け加える。最後に、今年度は特殊な環境下にあるために、いくつか見直しが必要ではないかと提案して、雪ノ下は腰を下ろした。

 

「今年って、運営との打ち合わせもあるんですよね?」

 

 分からないことを素直に尋ねる姿勢に加えて、質問からは勘の良さも窺えて、雪ノ下は副委員長の資質に満足しながら頷きを返す。少し考えていた藤沢は、相模に相談を持ち掛けるように口を開いた。

 

「去年までと同じ来賓の方々は、生徒会で対応してもらうほうが良いですよね。でも運営とか、今年初めて繋がりを持つ方々だと、生徒会よりも私達が受け持ったほうが……」

 

「えっと、でもうちも運営とは話したことないし……」

 

「あ、そういえば雪ノ下先輩って、職場見学で運営の仕事場に行かれたんでしたっけ?」

 

 この女子生徒は良い発見だったと思いながら、雪ノ下は一つ頷いて、話を進めるために提案を行う。

 

「例年までの役割に加えて、渉外という部門を設けることを提案します。具体的には運営や、現実世界に関係した諸々を扱うのが仕事ですね。先月から現実世界との映像通話が可能になって、場所の限定こそ従前通りですが、もはや肉親限定という制限は無いに等しくなっています。現実世界の校舎内にモニターを設置して、あちらでも一般客を募る予定である以上は、担当を分けて対策を練るべきかと思うのですが、いかがですか?」

 

 映像通話のシステムが稼働して以来、この世界に存在する高校や大学で文化祭が行われるのは総武高校が初めてだった。ゆえに今回の文化祭では、運営からも大きな援助を受けていた。雪ノ下が話に出したモニターの設置などがそれに当たる。

 

 もちろん運営が関与を深めたせいで日程が硬直して、二学期開始と同時に、校内が文化祭の準備一色になったという負の影響もあった。しかし教師陣にしても、二週間で文化祭を片付けてその後じっくり授業を行えるのであれば、そちらのほうが望ましいという意見が多かった。何と言っても総武高校は進学校なのである。

 

「個人的には、運営とのパイプがある雪ノ下先輩に、その渉外部門の責任者を引き受けて頂けると助かるのですが……。相模先輩はどう思われますか?」

 

「うちもそれに賛成だけど、雪ノ下さんはどう?」

 

「あ、えっとね。明日の委員会が終わった後で運営との話し合いを予定してたんだけど、じゃあ雪ノ下さんに行ってもらえるかな?」

 

 藤沢が上手く相模を誘導して、そうして問いかけられた言葉に雪ノ下が頷こうとしたところで、城廻が口を挟んだ。自分が賛成する前に役割を引き受ける前提で話を進めて、それなのに何故か憎めない生徒会長に微妙な視線だけを送ると、雪ノ下は再び立ち上がって口を開いた。

 

「明日の件については了解しました。ただ、引き受ける条件というと大仰ですが、一つお願いしたいことがあるのですが」

 

「何でも許可するから大丈夫だよー」

 

「その、城廻先輩。委員長や副委員長の意見も確認した方が良いと思うのですが……まあ、今更ですね。渉外部門の一員として、比企谷くんを推薦したいと思います。理由は、私と同様に運営とのコネクションがある事。奉仕部内でマニュアルの解読を進めた結果、校内では私に次いでこの世界のことに詳しいと運営からお墨付きを得ていることです」

 

 生徒会長の気軽な保証を、首を縦に振ることで追認する二人の姿を見て、雪ノ下は細かな指摘を諦めて要望を口にした。委員会が始まる直前に雪ノ下と八幡が顔を寄せ合って話していた光景を見ていた委員たちから、思わずどよめきが漏れる。しかし雪ノ下にとってはそれも計算のうちだったのか、すぐに再び話を続ける。

 

「基本的には、私と比企谷くんは別行動になると思います。私が運営の仕事場に出向いて打ち合わせをしている間は、運営絡みの問題が起きた時に備えて校内に待機してもらって、当日の対策を練るなどの仕事をしてもらう予定です。比企谷くんが校外に出る場合はその逆ですね」

 

 雪ノ下と同じ部門で仕事ができるのかと思いきや基本は別行動という、上げて落とされた形の八幡だったが、雪ノ下の狙いは八幡も理解できていた。あらぬ疑いを持たれないようにと八幡が気にしているのを察知して、わざと周囲に一瞬だけ疑いを持たせた上で、それは誤解だと示したのだろう。

 

 父親と同じように自分にも社畜の素養があると薄々感じていた八幡だが、どうせ仕事をするのであればやりがいのある環境で仕事をしたいものだ。八幡の実力を認め、自分が不在の時には後を任せると言っているようにも受け取れる雪ノ下の信頼に応えるべく、八幡は密かにやる気を漲らせるのだった。

 

 その後、当日の仕事が多く事前には暇になりがちな部門では他との掛け持ちをするなどの修正を施した上で、委員たちの希望を募って役割分けを終えると、文化祭実行委員会は一斉に動き始めた。

 

 

***

 

 

 日が変わって水曜日。この日も八幡は真面目に授業を受けて、昼休みには奉仕部で昼食とバンド練習を行って、放課後には軽くクラスの様子を観察した上で会議室へと向かった。天使と話せていない現状を失意を持って受け止めつつ、八幡はゆっくりと足を動かす。

 

 会議室のドアを開ける瞬間に嫌な予感が走って、八幡は中に入るのを延期して付近を散歩してこようと思い直した。しかし八幡の行動に先んじて部屋の中からドアが開いて、雪ノ下陽乃が姿を見せる。自分の運勢はどうなっているのだろうと思いながら、仕方なく八幡は口を開いた。

 

「あ、教室に忘れ物をしたんだった……うげっ」

 

「ちょっと比企谷くん、お姉さんにその対応は無いんじゃない?」

 

「あ、雪ノ下さんこんにちは。じゃあ俺はこれで……うぐっ」

 

「からかう気も失せちゃったし、横に座ってるだけで良いから、中に入ったら?」

 

 さすがの陽乃も呆れ顔で、お陰で言質を得られたと内心で安心しながら八幡は人の少ない辺りに腰を下ろした。妹とよく似た陽乃の外見から、他の生徒達も彼女のプロフィールは悟っているのだろうが、遠巻きに眺めるだけで近寄っては来ない。

 

「はるさん、お久しぶりです!」

 

「お、めぐりも元気そうだね。優秀な後輩は育ちそう?」

 

「ええ、お陰様で。はるさんの苦労が今になって分かりました」

 

「嬉しい事を言ってくれるよね。比企谷くんもめぐりを見習ったら?」

 

「社交辞令を真に受けるなと親父にきつく言われてるんで、自分でも言わないようにしてるんですよ」

 

 幸いなことに城廻が会話に加わってくれて、八幡はストレスが軽減された状態で過ごすことができた。珍しく時間ギリギリに会議室にやって来た妹を値踏みするような目で眺める陽乃を見てしまい、落ち着かない気持ちになりながら、八幡は無事に委員会が終わってくれることを願った。

 

 

***

 

 

 この世界に巻き込まれた事で有志の参加が少なくなるのではという懸念は杞憂だったなと、八幡は思う。会議は順調に進んでいて、心配したような陽乃の暴走も無く、OB・OGはこの世界に巻き込まれた者同士、協力は惜しまないという意見が大半だという。

 

 だが、そうして気を抜いた時にこそ危機が訪れると、八幡は身を以て知る事になった。

 

「そういえばさ、隼人は有志に参加するの?」

 

 誰のことを話題に出しているのか、それは委員全員が理解していた。しかし、なぜ陽乃が彼を下の名前で親しげに呼ぶのか、その理由は誰にも分からなかった。教室前方で疲れた表情を浮かべている平塚静と、今日は八幡から離れて座っている雪ノ下の他には誰も。

 

 そして、そんな教室内の雰囲気を見逃す陽乃ではない。全ての事情を瞬時に理解して、陽乃は静かに口を開く。

 

「あれっ。もしかして雪乃ちゃん、わたしと隼人と雪乃ちゃんが同じ小学校だったって、内緒にしてたの?」

 

 無慈悲な宣告が、教室の中に響き渡った。

 




祝・100話!
長々とした作品になっていますが、ここまで読んで頂いて本当にありがとうございます!

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し分かりにくい箇所に説明を加え、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/7,14)


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05.なみなみならぬ注意を払い彼女は何とか場を乗り切る。

前回までのあらすじ。

 奉仕部三名のバンド練習は順調に進んでいたが、由比ヶ浜はそれを親友二人の他には伝えそびれていた。有志の数によっては実現しないという話だったこと。そして葉山のバンドに三浦と一色が顔をそろえ雰囲気が重いと知りつつも、由比ヶ浜も海老名も不参加という後ろめたさがあることが原因だった。現状での由比ヶ浜の負担を思い、気に病まない方が良いと雪ノ下は諭す。言い出しにくいことは確かにあると、由比ヶ浜に同意しながら。

 放課後の実行委員会にて、相模の復帰は暖かく受け入れられた。地味に有能な副委員長も得られて、役割分担を終えた委員達は一斉に動き出す。現時点では副委員長に就任する気はないと表明する雪ノ下は、歴史上の人物の名を出して「成長したい」という意思を八幡に告げる。それを聞いて、更には八幡への信頼が伝わって来る雪ノ下の発言を受け止めて、八幡もまた密かにやる気を漲らせた。

 しかし翌日の放課後、OB・OG代表として委員会に出席した陽乃の発言をきっかけに暗雲が立ち込める。葉山が有志に参加するのかと尋ねた陽乃は、教室内の反応から妹の彼への処し方を把握して、こう述べるのだった。



「あれっ。もしかして雪乃ちゃん、わたしと隼人と雪乃ちゃんが同じ小学校だったって、内緒にしてたの?」

 

 驚きの中に、ことさらに明るい声色を混ぜながら問題発言を言い終えると、「お姉ちゃん、もしかしてやらかしちゃった?」という態度をまとった雪ノ下陽乃は大袈裟な身振りで周囲の反応を探った。

 

 隣の席に座っている比企谷八幡は、やはり外面に騙されてはくれないようだ。しかし情報そのものは意外だったみたいで、まだ他へと意識を向けられる余裕は無さそうだった。それを面白いと思った陽乃は、彼には声をかけずに済ませる。妹の反応は確認せずとも分かるし、平塚静の反応も分かる。そう考える陽乃は教室前方へと視線を向けた。

 

 生徒会長の城廻めぐりは、やはり面白い反応を見せてくれた。わたしの発言自体は全く疑っていない。しかし同時に、妹が内緒にしていたのか否かの判断は保留にしている。わたしたちが同じ小学校だったという情報を聞いて混乱するだけの生徒や、妹が内緒にしていたのは何故だと勝手に疑問を膨らませてくれる生徒ばかりのこの状況で、情報に惑わされない城廻の反応は得がたいものだと陽乃は思う。

 

 残念ながら、生徒会のその他の面々に面白い人材は居なさそうだった。実行委員長は驚き過ぎで手応えが無かったし、副委員長は発言内容を冷静に受け止めてはいるものの、どうやら男女の機微には疎いようだ。あれでは男子生徒から休日に誘われても、仕事の話だと受け取るのではないだろうか。遠くない将来に起きるであろう悲劇の被害者に、陽乃は少しだけ黙祷を捧げる。

 

 とはいえ、あの気弱そうに見えるおさげ髪の女子生徒が副委員長に立候補したのは事実なのだから、今後の成長次第では面白い人材に育つかもしれない。先程までの受け答えを振り返ってみても、その素直な姿勢からは伸びしろを感じる。それに眼鏡をコンタクトにして髪型や服装に気を使い始めると、周囲の印象も変わってくるだろう。そう考えた陽乃は、藤沢沙和子の評価を保留にした。

 

 頬の辺りに視線を感じて再びすぐ横に目を向けると、内心の葛藤から復活したのか八幡がじとっとした目で陽乃を見ていた。意味深な笑顔を見せて、健気な男の子を思索の罠に誘おうとした陽乃だったが、残念なことに八幡は目を明後日の方向にそらして回避した。照れた表情だけで我慢するかと考えて苦笑すると、ようやく陽乃は自分を射貫く鋭い視線と向き合った。

 

 

「特に言う必要も無いと、考えていただけなのだけれど」

 

「そっかー。ごめんね、お姉ちゃんてっきり……」

 

「姉さんと仲が良いからといって、私まで仲良くする必要は無いでしょう?」

 

 聞く者を凍り付かせるような冷たい声音が、静かに会議室に響き渡った。まだ夏は完全に終わっていないというのに、多くの生徒達は寒気を感じて思わず身震いしている。しかし陽乃は平然としたもので、明るい口調で妹に応じる。それを皆まで言わせず、畳みかけるように雪ノ下雪乃は言葉を続けた。

 

 そんな妹の主張を、陽乃は微妙な笑顔をまとって受け止める。今のところは合格だと、内心では考えながら。葉山のことを覚えていなかったと答えた時はもちろん、あまり親しくなかったと答えた場合でも陽乃は即座に爆弾を再投下するつもりだった。

 

 彼女ら姉妹と葉山隼人が幼馴染みだったという情報を陽乃が敢えて伏せていることを理解して、妹は注意深く発言している。感情に流されていない妹の様子を確認して、ようやく過去から距離を置けたかと考えながら、陽乃は寂しそうな声で呟く。

 

「わたしは隼人と雪乃ちゃんにも、できれば仲良くして欲しいんだけどなー」

 

「少なくとも、葉山くんが有志でバンドをすると知っている程度には共通の友人がいるのだから。別に拒絶してはいないのだし、仲良くなるかどうかは本人たち次第ではないかしら。姉さんの雑談には後で付き合ってあげるから、今は無駄口を避けて欲しいのだけれど」

 

 偽りを口にせず話をまとめた妹を心の中で評価しつつ、陽乃は内面を反映した笑顔で返事をする。

 

「じゃあ雪乃ちゃん、当日は一緒に隼人のバンドを観ようね。それと言質は取ったから、後で雑談、楽しみにしてるよー。委員長ちゃん、会議を続けてくれる?」

 

「あ、はい。えっとじゃあ、次は……」

 

 おおよそ確認できることは確認して、妹からの挑発を自分へのご褒美に変えて、陽乃は勝ち誇った表情を浮かべたまま両手を後ろに回すと大きく背中を反らした。すぐ横では純情な男子生徒が慌てて顔を別方向に動かしているが、胸部の膨らみに向けられていた彼の視線は確認済みだ。八幡への報酬はこの程度で充分だろうと考えながら、陽乃は話題という形で貢献した弟分への褒賞を何にしようかと考え始める。

 

 陽乃が明かした情報によって、妹の周囲にどんな影響が出るのか。更には文化祭実行委員会にどんな変化が訪れるのか。陽乃はそれを知るよしもないが、仮に知っていたところで陽乃はこう言うのだろう。悔しそうに自分を見つめる妹を楽しげに眺めながら、陽乃は誰にも聞こえないほどの小さな声で、こう告げる。

 

「あとは、雪乃ちゃんが頑張ってねー」

 

 

***

 

 

 多少の波乱はあったものの、OB・OGからの反応は上々だと確認できて、実行委員会の全体会議は無事に終わった。今日は渉外と宣伝広報と有志統制にリソースの大半を振って、委員達はただちに仕事に向かう。しかし彼らの動きと平行して、校内ではもの凄い勢いで情報が拡散していた。雪ノ下と葉山が同じ小学校だったという情報である。

 

 

 当事者の一人である雪ノ下は、委員会が終わるとすぐさま運営の仕事場に向かった。渉外部門の責任者として、運営との話し合いに参加するとは前日から決まっていたことだ。委員会が長引いたせいで時間の余裕が無かったのは、雪ノ下にとっては幸いだっただろう。

 

 奉仕部のバンド練習もこの日は各自でという話になっていたので、雪ノ下は雑談の履行を迫る姉を正論で退けて(代わりに帰宅後の予定が埋まってしまったが、場所を実家ではなくマンションにできたことで雪ノ下は更に少し溜飲を下げた)、直帰するので後はよろしくと言い残して一人去って行った。

 

 

 もう一方の当事者である葉山は、この日も教室で劇の練習をしたり監督から熱い演技指導を受けたりして過ごしていた。だがクラスメイトの大半が時を同じくしてメッセージを確認して、そのまま自分に好奇心のこもった視線を送ってくるのを見て、今日は実行委員会に参加しているというあの人がまた何かやってくれたのだろうと葉山は悟った。

 

 可能ならば先に内々で事情を把握したかったが、彼と特に仲の良い三人の男子生徒や三人の女子生徒にはメッセージが届いていない様子だった。葉山に情報が伝わることを、そしてそれ以上に三浦優美子に情報が伝わることを怖れて誰もメッセージを送れなかったのだろうなと推測しながら、葉山は一つ大きくため息を吐くと同級生に向けて話しかけた。

 

「俺に答えられることなら答えるけど、何かあったの?」

 

 普段と変わらぬ口調で問いかける葉山の姿を見て、クラス内にはひとまず安心したような空気が漂った。しかし誰が葉山に質問するのかを巡って、生徒達は激しく目配せを交わし合う。そう長くは待たされないだろうと考えた葉山が、笑顔を貼り付けたままクラスメイトの顔を順に眺めていくと。カーストの中間辺りに位置する女子生徒が、葉山に見つめられる前にと口を開いた。

 

「葉山くん、J組の雪ノ下さんと小学校同じって、ホント?」

 

 質問が予想よりも軽いものだったことに、葉山は内心で安堵した。

 

 雪ノ下との関係を問われたらどう答えるべきか、それは葉山が総武高校に入学以来ずっと考え続けてきた問題だった。校内のイベントやら何やらで雪ノ下と顔を合わせるたびに、つまり高校という場で雪ノ下との関係が積み上がって行くほどに、葉山は解答に微調整を加えながら来るその日に備えていた。

 

 現実とは、意外にたわいもないものだなと考えながら、葉山は苦笑いを浮かべて簡潔に答える。

 

「ああ。それがどうしたの?」

 

 情報の正しさを確認できて、しかしそれ以上は何を問えば良いのか分からなくなって、生徒達は葉山の問い掛けに反応できない。だが全身を葉山に晒している生徒はともかく、別の生徒の後ろに身を隠せる何人かは、たった今得られた情報を拡散すべく必死にメッセージを書いている。

 

 内心では冷ややかに、しかし表面上は仕方がないなという顔をしながら、葉山は自分の周囲にいる男女六人に話しかけた。

 

「そういえば、みんなにもこの話はしてなかったよな」

 

「は、隼人……。それってホントなんだし?」

 

「ああ。別に隠すことでもないしね」

 

 三浦がここまでの反応を見せるのは意外だった。だが、それよりも今はもう少し詳しい情報が知りたい。葉山はそう考えて他のクラスメイト達の様子を窺う。これぐらい何でもないことだと軽い様子の葉山を見て安心したのか、葉山の期待通りに上位カーストの女子生徒が口を開いた。実行委員長の相模南と仲の良い彼女らであれば、正確な情報を得られるだろうと葉山は思う。

 

「その、雪ノ下さんのお姉さんが、どうして同じ小学校なのを内緒にしてるのって雪ノ下さんに尋ねたみたいで」

 

「うーん。別に言う程のことでもないからじゃないかな?」

 

「雪ノ下さんもそんな感じに答えたみたい。でも葉山くん、雪ノ下さんのお姉さんとは仲がいいんでしょ?」

 

「仲が良いっていうか、面倒見の良い人だからね。中三の時にここの文化祭を見に来た奴って、俺だけかな?」

 

 周囲を見回しながら葉山が問いかけると、俺も私もと手を挙げる生徒がちらほら見えた。彼らに頷きながら葉山は言葉を続ける。

 

「あの時に雪ノ下さんのお姉さんを見た奴なら、俺が言うことにも納得できるんじゃない?」

 

 葉山の言葉を受けて、先ほど手を挙げた生徒達が口々にあの人の凄さを強調してくれる。しばらくそれらに耳を貸して、この程度で済むなら楽だけど念のため最後まで気を抜かないようにと考えながら、葉山は情報源の女子生徒に目を向けた。そのまま優しく頷いてあげると、教室の喧噪はたちまち止んで、彼女は再び話し始めた。

 

「お姉さん、雪ノ下さんにも葉山くんともっと仲良くして欲しそうだったけど、雪ノ下さんは当人同士の話でしょって取り合わなかったみたいで。だから、大した話じゃなかったんだけどさ……」

 

「そうだね。俺もみんなと同じF組じゃなかったら、ここまで仲良くなれなかっただろうしさ。せっかくだし、このまま文化祭に向けて盛り上がろうぜ」

 

「だな」

 

「俺もそう思う」

 

「盛り上がるしかないっしょ!」

 

 発言の最後に、葉山が周囲の男子生徒三人に顔を向けて言葉を付け足すと、彼らもまた良い具合に反応を返してくれる。トップカースト三人娘はまだ少し微妙な顔つきのままだったが、すぐにいつもの調子に戻るだろうと考えて、葉山はそれ以上は余計なことを口にしなかった。それは結果的には双方にとって、正しい選択となった。

 

 メッセージを受け取ってからずっと葉山の様子を窺っていた同級生たちは、既に話は終わったと考えているのか、返事を送ったり周囲と雑談したりしながら一人二人と文化祭の準備に頭を切り換えていった。葉山たち男性陣もまた、劇の練習に戻る。

 

 そんな彼らから距離を置いて互いの顔を見合っていた三人の女子生徒達は、同時に力を抜いて深呼吸することで意思の統一を果たした。彼女らを代表して由比ヶ浜結衣が、関係各位に向けて今夜の女子会の開催を通知するのだった。

 

 

***

 

 

 宣伝広報と協力しながら現実世界向けに文化祭の情報をどう通知するかを相談して、ホームページからポスターまでを最終確認段階にまで仕上げたところで、八幡は最終下校時刻を迎えた。

 

 急いで帰宅の準備をして、相模の希望に従って昨日と同様に会議室まで来てくれた由比ヶ浜と情報の共有をして、この日の仕事がようやく終わった。ずいぶん長い一日だった気がするなと八幡は思う。

 

 一刻も早くお仲間と合流したそうにしている相模を適当に手を振って見送ると、会議室には八幡と由比ヶ浜以外に誰も残っていなかった。とはいえ生徒会役員が座っていた辺りには荷物もあるし部屋の鍵らしきものも確認できたので、このまま帰っても問題はないだろうと八幡は判断する。

 

 部員を登録することで部室の自動解錠が可能になって以来、八幡は鍵というものに縁がなくなって久しい。この世界では自宅に入る時は最初から生体認証だったし、千葉村で個室を取った時も個人認証だったので鍵は必要なかった。でも不特定多数が出入りする会議室では今でも鍵がいるんだよなと妙なことに納得しながら、八幡は由比ヶ浜と一緒に廊下に出た。

 

「お前も今日は家で練習すんの?」

 

「うん。ちょっと用事ができちゃったから時間配分が難しいけど、練習はちゃんとするつもり」

 

「そっか。んじゃまた明日な」

 

「うん……」

 

 実行委員の仕事で疲れているだけなら良いのだが、八幡に元気が無さそうなのが少しだけ気にかかる。とはいえこの後のスケジュールが詰まっている上に、由比ヶ浜にも精神的な余裕はあまりない。葉山の弁明を真に受けず、それどころか雪ノ下と葉山は小学生の頃からの長い付き合いだったのだなと確信している由比ヶ浜は、この後の女子会がどんな話になるのかを考えて気が重かった。

 

 まだ解散したくないなという気持ちが湧いて、少しだけ返事を延ばしていた由比ヶ浜だったが、不思議そうに自分を見つめてくる八幡に気付いて慌てて口を開こうとする。しかし、それよりも先に八幡が独り言を呟いた。

 

「ん、メッセージって……材木座か」

 

 たちまち面倒臭そうな雰囲気をまとった八幡を眺めると、先程までの元気が無さそうな様子はどこかに飛んで行ってしまったようだ。それを確認して少し気を緩めて、由比ヶ浜は目線だけで八幡に「メッセージの内容を教えて」と伝える。軽く頭を掻いた後で、仕方なさそうに彼は説明してくれた。

 

「せっかく脚本を書いたのにクラスで採用されなくて、落ち込んでるから気晴らしを手伝えだとさ。カラオケに行くから正門の前で待つとか言ってるんだが……個室からショートカットで家に帰るかね」

 

「ちょ、ヒッキー。それは可哀想すぎない?」

 

「いやでも、材木座だしなぁ……」

 

 嫌いという感情は伝わって来ないものの、心底から面倒臭いと考えているのだろう。そんな八幡に苦笑しながらも、由比ヶ浜は自分の重い気分もまた少しだけ軽くなっていることに気付いた。外見といい中身といい、仲良くしたいとはあまり思えない材木座義輝だが、少しだけ彼の存在を見直した由比ヶ浜だった。

 

「あのね。あたしの勘違いかもだけど、ヒッキーもちょっと元気がないように見えたのね。だからせっかくだし、中二と一緒にカラオケで気張らしして来れば?」

 

「あー、なんか仕事で疲れただけなんだが、気を遣わせて悪いな。つか材木座とサシって、気を遣わなくて良いのは楽だけどひたすら面倒なんだよな……」

 

 密かに落ち込んでいることに加えてその理由までをも見透かされたような気がして、八幡は内心では慌てつつも何とか平静を装って返事を返した。とはいえ由比ヶ浜の心配は善意からのものだと理解できているだけに、気晴らしに行くべきか面倒を避けるべきか、どちらを優先しようかと八幡は悩む。

 

 しかし材木座と八幡は一年の頃からの付き合いである。八幡がこの程度の誘いにほいほい乗るとは考えていない材木座は、とっておきの一手を放った。再びメッセージが届いて、それを見た八幡は勢いよく宣言する。

 

「やっぱり持つべきものは友達だよな。落ち込んでいる材木座の気晴らしに付き合って、今からカラオケに行ってくるわ!」

 

 こうした八幡の豹変の理由は一つしかないと、由比ヶ浜は呆れ顔を八幡に向ける。しかし有頂天の八幡にはそれすらも通じない。大きく息を吐き出して、由比ヶ浜はやる気を漲らせる八幡に話しかける。

 

「ヒッキー、分かり易すぎ。どうせ、さいちゃんも来るってメッセージが来たんでしょ?」

 

「え、なんで分かったの?」

 

 分かるに決まっているだろうと思いながらも、由比ヶ浜はそれを口にするのを避けた。また少し疲労感が増してしまったが、それでも先程までと比べると肩の荷が軽くなったように思う。それに元気のない八幡を見るよりは、こうして調子に乗っている八幡のほうが遙かにいい。

 

「あのね。ゆきのんを助けるって約束、覚えてる?」

 

「ん、まあな。それがどうしたんだ?」

 

「あたしの目が届く範囲は頑張るから、ヒッキーができる範囲のことはよろしくね」

 

 夜の女子会に向けて気持ちを切り替えようとする由比ヶ浜をじっと眺めて、真面目な話をしているのだなと受け取った八幡は静かに返事を返す。

 

「あんま頑張りすぎないように、お前も適当に気張らししとけよ。俺もできる範囲で見ておくし、あれだな。そのためにも今から気張らしに行ってくるわ」

 

「うん。ゆきのんを助けるのはもちろんだけど、ヒッキーも何かあったら相談してね。これも約束!」

 

「ほいよ。お前も抱え込みすぎないように、相模みたいに倒れる前に言って来いよ。うちみたいに妹と暮らしてると注意してくれるけど、一人だと……って三浦と海老名さんがいれば大丈夫か」

 

「だね。でもヒッキーもありがと。って、小町ちゃんにカラオケ行くって連絡しなくていいの?」

 

「あ、やべ。今から書くわ。じゃあ……」

 

「あたしも連絡することがあるから、先に書き終わったらちょっと待っててね」

 

 そう言うと由比ヶ浜は八幡と並んで、こっそり同じ宛先に向けてメッセージを書いた。開催場所を悩んでいたのだが、八幡がカラオケに行くのであればちょうど良いかもしれないと考えながら。

 

 ほぼ同時にメッセージを送り終えて、受け取り先ではビックリしているだろうなと想像してみて少し可笑しくなって、由比ヶ浜はようやく元気な笑顔を見せて八幡と向き合った。

 

「なんか、お前のほうが元気がなかったんじゃねーのか。今は大丈夫そうだけど、ホントにちゃんと気晴らししろよ?」

 

 そんな八幡の心配を受けて更に笑顔を輝かせて、由比ヶ浜は元気にこう締め括った。

 

「じゃあヒッキー、また明日!」

 

「おう、また明日な」

 

 こうして彼らはそれぞれの友人と合流すべく、別々の方角に向けて足を運ぶのだった。




今回は少し短めですが、ここで切ります。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/14,10/28,4/2)


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06.みんなの期待に応えられるように彼は少しずつ決意を重ねる。

前回までのあらすじ。

 姉の問題発言に対して、雪ノ下は慎重かつ冷静な返答でそれを何とか回避した。委員会の会議は無事に終わり、雪ノ下は予定通り運営との打ち合わせに向かう。姉妹のやり取りが校内にて大きな波紋を呼んでいることを知らないままに。

 妹の対応を筆頭に、満足のいく情報を多く得られた陽乃もまた、長居をすることなく高校を去った。唯一残った当事者である葉山は、拡散された情報が「同じ小学校だった」という程度で済んでいたこともあり、クラスメイトの質問をそつなくかわす。しかしF組のトップカースト三人娘だけは葉山の返答に納得しておらず、女子会の開催を密かに関係各位に通知した。

 この日の八幡は黙々と仕事をこなして過ごした。そんな彼のもとに材木座からカラオケのお誘いが届く。由比ヶ浜に元気の無さを見抜かれ気晴らしを勧められた上に、戸塚同伴という彼には抗いがたい情報を伝えられて、八幡は由比ヶ浜と別れ集合場所へと赴くのだった。



 個室経由でいったん自宅に帰るという由比ヶ浜結衣を見送って、比企谷八幡は昇降口へと足を進めた。既に最終下校時刻を過ぎているので、生徒の姿はほとんど見えない。正門にて待つという材木座義輝だが、この状況なら彼の中二発言が炸裂したところで、悪目立ちを怖れる必要はないだろう。

 

「おや、まだ残っていたのかね?」

 

 歩きながら「それにしても、どうして戸塚が」と考察に浸っていたために、八幡は目と鼻の先の教室から廊下に出て来た平塚静に話しかけられるまで気付かなかった。意外そうな表情を浮かべる顧問の前で、八幡は立ち止まる。

 

 教師本人に対して含むところはないのだが、できれば今日はもう奉仕部関係者とは話をしたくなかった。そんな気分の八幡だったが、出会ってしまったのなら仕方がない。普段より少しだけ重く感じる口を開いて、平静を装いながら返事をする。

 

「先生こそ、まだ仕事ですか?」

 

「……近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事に汚されていてな」

 

「あー、えーと、自分を見失わないようにして下さいね」

 

 質問に質問で返したのは悪くなかったと思うのだが、平塚の仕事への怨みを引き出す形になってしまい内心で後悔する八幡だった。だが、往年のヒット曲ネタに何とか反応できたおかげで、眼前の教師はみるみるうちに元気を取り戻した。

 

「ふむ。やはり君のネタへの反応には素晴らしいものがあるな。他の生徒ではこうはいかないぞ」

 

「先生はリアルタイムで聞いてたんでしょうけど、俺らからすれば生まれる前のヒット曲ですしね」

 

「うぐっ。いや、私だって当時は子供も子供だぞ……」

 

 と思いきや、八幡が無情な現実を伝えると再び落ち込む平塚先生だった。相手をするのが面倒だなと内心で思いながらも、先程まで感じていた奉仕部関係者への忌避感が霧消していることに気付いて八幡は苦笑する。おかげで、こんな質問を口にしても今は平気だ。

 

「陽乃さんはもう帰ったんですか?」

 

「ああ、陽乃も何かと忙しい身だからな。妹と雑談の約束を取り付けられて、喜び勇んで去って行ったよ」

 

「あの人、妹のこと好きすぎでしょ。どう考えてもアプローチに問題がある気がしますが」

 

「それでも姉妹だからな。あの二人なら、最後には丸く収めるさ」

 

 

 それは平塚先生が雪ノ下姉妹を信頼しているという、ただそれだけの話なのだろう。しかし今の八幡は、自分がその他大勢扱いをされたような気がして教師の発言を素直に受け止められない。

 

 この総武高校では、少なくとも同学年では、ほぼ確実に二年F組では、間違いなくF組男子の中では、自分が()()()()のことを一番よく知っていると思っていた。一番仲が良いと勝手に思い込んでいた。だってまさか、()()()()が小学生からの付き合いだなんて、思ってもいなかったから。

 

 思い返してみると、違和感は先週の土曜日にもあった。クラスと文化祭実行委員の橋渡し役を()()()()が目だけで相談して決めてしまった時に、八幡は不快感を抱いた。それは、クラスの中では自分が部外者に過ぎないという無情な現実を突き付けられたからではなかったか。

 

 ぼっちを満喫していた頃は、疎外感など問題ではなかった。自ら望んで得た自由を謳歌していたつもりだった。だが、誰かと親しい仲になってしまうと、こんなにも感情が不自由になってしまうだなんて、思ってもいなかった。自分がこんなにも幼稚で我が儘な独占欲の持ち主だったなんて、今まで知らなかった。

 

 もしも平塚先生が正しくて、雪ノ下姉妹が最後には二人で丸く収めるのだとしても、それは八幡が不要だという意味にはならない。そんな当たり前の論理を、感情が否定する。己が役立たずであるかのように、自分が除け者にされているかのように受け取ってしまう。

 

 小学生の途中から昨年度まで、八幡にとって他人の感情ほど理解に苦しむものはなかった。だが気付いてみれば当たり前だ。自分の感情ですら、こうして理解不能なのだから。

 

「比企谷、疲れが出ているようだが大丈夫かね?」

 

「……やっぱり、ぜんぜん知らない連中と相談しながら仕事するのって、疲れるんですかね?」

 

「始まったばかりで、加減が利かないのかもしれないな。今日は早く帰って休みたまえ」

 

「それが、今から戸塚とかとカラオケに行って気晴らしをしようって話になってて……」

 

 内心で考えていた事をおくびにも出さず、頑張って別の言い訳を口に出してみると、いたわるような目で見つめられてしまった。八幡は情けないような申し訳ないような気持ちになりながら、しかし悩みをそのまま打ち明けるわけにもいかず、とりあえずこの後の予定を説明する。

 

「なるほど。君は存外いい友人関係を築けているみたいだな。それを大切にしたまえ、というと押し付けがましく聞こえるかね?」

 

「いえ。見捨てられないように気を付けますよ」

 

「ならば君に、先程のこの言葉を返そう。自分を見失わないようにしたまえ」

 

 まるで少年のように悪戯っぽく目を輝かせながら、平塚先生はそう言って八幡に背中を向けた。どこまで内心を見抜かれていたのかと、今更ながらに恥ずかしくなって来た八幡だったが、理解不能だった感情はいつの間にか自分の中から消え失せていた。

 

 

***

 

 

「ほむん。武蔵を気取るか八幡よ。しかし我はお主の遅刻ごときに心を乱されぬ。既に校舎を出て、我を背後から襲うつもりであろうが無駄なことよ。我が心眼は貴様の姿をとうの昔に捉えておるのだ」

 

「悪い、遅くなった」

 

「ぴげぇえっ!」

 

 なぜか校外の一地点を見据えてぶつぶつと呟いていた材木座に八幡が背後から話しかけると、奇声が周囲に響き渡った。声をかけた側もかけられた側もビックリである。

 

「わ、我の更に裏をかくとは、さすがは八幡。手下どもでは相手にもならぬか」

 

「いや手下とか居なかったし、俺は校舎から普通に歩いて来ただけなんだが……。ま、さっさと移動しようぜ」

 

「ほほう、今宵の虎鉄は血に飢えておると。一刻も早く真剣勝負を望むと、貴様は言いたいのだな?」

 

「ちょっと待て。今日もカラオケで採点バトルやるのかよ。それとお前、近藤勇は幕末だからな。時代設定はちゃんとしとけよ。あとついでに言うと、近藤は虎鉄を持ってなかったって説が濃厚らしいぞ」

 

「無論、死ぬまで」

 

「おい。ちょっと面白いことを言ってやったみたいなそのドヤ顔はやめろ。虎鉄を探し求めて死ぬまで徘徊したけど結局力尽きた近藤さんを想像しちまうだろうが!」

 

「悪・即・斬!」

 

「お前それが言いたかっただけだろ!」

 

 そんなこんなで、なぜか普通に会話が成立している二人だった。

 

 

「んで、戸塚を呼んだのはどういうことだ?」

 

「いずれ分かることを、今説明する必要もあるまい。それより八幡よ、今宵の貴様はどの得物を選ぶのだ?」

 

「ちっ。戸塚が来なかったら俺は即帰るからな。……アニソンよりも、今日はボカロでも歌うかね」

 

「ほう、それは興味深い。ずばり貴様の初手は……『千本桜』と見たり!」

 

「ふっ、甘いな材木座。悪いがダウナー全開で『トリノコシティ』の世界に浸らせて貰う!」

 

「なんと八幡よ、お主それほどまでに、こたびの噂が痛手であったか……」

 

「おい。なんでお前がさっき広まったばかりの噂を知ってんだよ?」

 

「校内屈指の美女二人ときゃっきゃうふふな日々を過ごしていた身の程知らずな八幡よ。いきなり現れた幼馴染み属性の男にヒロインが寝取られ、貴様独りが取り残される駄作の呪いを、とくと思い知るが良い。悪・即・斬!」

 

「だからお前、それが言いたいだけだろ。つか幼馴染みじゃねーから。小学校同じってだけだからな。あとその構えはアバン先生の必殺技だ!」

 

「ふっ。我ほどの達人ともなれば、決まりきったレイアウトを消したところで効果は変わらぬ」

 

「意味が分からんっつーかお前、『Tell Your World』歌うつもりかよ。いちおう真面目に忠告しとくけど、戸塚の前で振り付けとかやるなよキモいから」

 

 そんなこんなで、他の誰であっても口を開かせるのは難しいであろう八幡の悩みを、馬鹿馬鹿しい形で解消してしまう材木座だった。息の合った二人の会話はこの後も途切れることなく、カラオケ店の前で待っていた戸塚彩加に羨ましそうな目で見られるまで続いた。

 

 

***

 

 

「我が先陣をつかまつる!」

 

「あ、お前そのまま何曲か歌っててくれる?」

 

 三人でカラオケに入った八幡だが、よくよく考えると、せっかく戸塚と一緒に居るのに歌って時間を浪費するのは勿体ないという結論に至った。ここのところ戸塚が劇の練習に真面目に取り組んでいるために、ほとんど会話ができていない。今は戸塚とお喋りができる絶好のチャンスなのだ。

 

「んで、戸塚はどうして今日、材木座の企画に乗ったんだ?」

 

「えっ、と。材木座くんの企画っていうか、それは後でね。八幡が元気なさそうにしてるって聞いたから来たんだけど……迷惑だった?」

 

 この声とこの表情とこの仕草とを永久保存できるのであれば大枚を叩いても惜しくはないと思いながらも、せめて八幡は記憶の中に戸塚の姿を鮮明に焼き付けておいた。可能なら別角度からも保存しておきたかったところだが、戸塚にそろそろ怒られそうなので仕方なく話を進める。

 

「迷惑どころか、普通に嬉しいぞ、彩加」

 

「は、八幡ってば、ぼくが恥ずかしがってるのを見て楽しんでない?」

 

 小動物のように目をうるうるさせる戸塚を堪能して、さすがに怒られそうなのでやむをえず話を進める。

 

「そういや、また戸塚に謝る……とは違うか。ちょっとお礼を言いたいことがあるんだわ。さっき由比ヶ浜と話してて、なんか元気がなさそうに見えてな」

 

「由比ヶ浜さん、色んなところに顔を出してフォローとかしてるから、疲れてるのかも。あ、でも八幡が元気付けてくれたんだったら、ぼくがお礼を言うべきじゃない?」

 

「いや、また戸塚の話を出して受けを取ったっつーかな。千葉村で二日目の夜に話したのと同じような感じっつーか。戸塚と会えるぜって俺がテンションを上げて由比ヶ浜がツッコミを入れる、みたいな」

 

「それって、ぼくと会うのに無理矢理テンションを上げてるってこと?」

 

「違う違う。戸塚と会えて楽しいのは本心だっつーの」

 

 ちょっと拗ねたような表情を浮かべる八幡を見て、先程ストレートに嬉しさを告げられた時よりもドキッとしてしまった戸塚だった。材木座の歌声が響き渡る劣悪な環境下で、二人はともに顔を赤らめながらちらちらと互いを窺う。幸いなことに曲がすぐに終わって室内が明るくなったので呪縛が解けたが、あのままだとどうなっていたのだろうと残念半分安堵半分の八幡だった。

 

「ちょっと情けない話なんだけどな。リア充の由比ヶ浜とどんな話をしたら良いのか、今でも結構悩むんだわ。あいつが振ってくれる話題に応えるだけだとなんか悪いし。でも俺があいつに自信を持って話せるのって、ぼっちあるあるとか、戸塚ネタとか雪ノ下の物真似とか小町の自慢とか、それぐらいなんだよな……」

 

 八幡は相変わらず真面目だなと、くすっと笑いそうになるのを何とか我慢して、戸塚は努めて明るい声で話を始める。

 

「由比ヶ浜さんは話し上手で聞き上手だから、八幡が思い付いたことをそのまま喋っても大丈夫だと思うけどなぁ。ぼくの話題で二人が盛り上がるんなら、別にそれでもいいし。もう今更、謝るとかお礼とか無しね」

 

「ん、了解。でも正直、男相手だと歴史関連の話をしてりゃ何とかなるって気が最近してきたけど、女子が好きそうな話題なんてぜんぜん分からんぞ」

 

「でもじゃあ、雪ノ下さんとはどんなことを話してるの?」

 

「あー、雪ノ下の場合は課題図書の話とか、歴史の話とかも通じるから気が楽なんだよな。この間も児玉源太郎とか、あと韓信の『多々益々弁ず』とかも話題に出して来たし……って、これを言い出したのは由比ヶ浜だったか」

 

「こないだ漢文で習ったやつだよね。あんまり気にしないで、由比ヶ浜さんにも歴史の話をしたらいいんじゃないかな?」

 

「案外そうなのかもな。つーか、韓信か……」

 

「国士無双って格好いいよね。八幡も司馬遼太郎の『項羽と劉邦』読んだ?」

 

「おお。通しでも三回読んだし、一部だけなら何度読んだか分からんぞ」

 

「一番記憶に残ってるのって、どの場面?」

 

「そうだな……例えば韓信が平然と股くぐりをする場面とか、馬鹿は相手にしないでぼっちでも強く生きようって思えて好きだったな」

 

「うん。そういう話をすれば良いんじゃない?」

 

「かもな。今度また試してみるわ」

 

 以後はお礼は無しと言われたばかりなので、八幡は心の中だけで戸塚に感謝の気持ちを伝える。先程から、悩みに役立つ何かを思い付きそうで思い付けないもどかしさを抱えながら、()()()()に取り残されないためには何をすれば良いのだろうと八幡は静かに物思いに耽る。

 

 そんな八幡を戸塚が暖かく見守り、材木座が完璧な振り付けとともに曲を歌い終えた時。部屋の扉がゆっくりと開いて、この企画の主催者にして本日最後の参加者が登場した。

 

 

***

 

 

「お待たせー。どの部屋か分かんなかったから、ちょっと時間がかかっちゃって」

 

 よく分からないことを喋りながら部屋に入ってくる城廻めぐりを、八幡は呆気にとられたような表情で眺める。城廻の背後に控える生徒会役員らしき黒子の集団を見て、ふと思い付いたことがあったので材木座に視線を送ると、八幡の予想通りに「部屋番号を連絡するのを忘れていたでござる」と必死に謝る怪しい男の姿が視界に入った。

 

「城廻先輩が、どうしてここに?」

 

「ふっふっふ。実は、今日の黒幕は私なのでしたー」

 

 セリフの割には怪しさを全く感じさせない口調で、城廻がネタばらしを始めた。

 

「比企谷くんも薄々分かってると思うけど、文化祭の実行委員会の中でも、替えが利かない人材って何人か居るんだよね。比企谷くんは誰だと思う?」

 

「城廻先輩と雪ノ下と、あとはぶっちゃけ、役職としての正副委員長ぐらいですかね。副のほうは頭数に入れても良さそうですけど」

 

 いきなりの質問に戸惑いながらも、八幡は思ったまま容赦のない回答を口にした。言い終えた後で、もう少しオブラートに包むべきだったかと思い直していた八幡に、少し苦笑いをしながら城廻が答える。

 

「遠慮のない意見ははるさんで慣れてるし、気にしないでいいよー。でも、私はもちろんだけど雪ノ下さんだって、一人で全ての仕事ができるわけじゃないよね。戸塚くんが付け足すとしたら、誰を挙げる?」

 

「八幡と、実行委員じゃないけど由比ヶ浜さんと。それから部屋の外にいる生徒会役員の方々も外せないなって思います」

 

 おそらくは人海戦術でこの部屋を探し当てて、生徒会長を中に入れた後は大人しく廊下で待機していた黒子集団から、感動の声が上がる。彼らからこれほどまでの忠誠を集める城廻のキャラクターがそろそろ分からなくなって来た八幡だった。

 

「うん。生徒会役員のみんなにはいつも助けてもらってるから、そう言ってくれると私も嬉しいな。でね、問題は奉仕部の三人が、いずれも替えが利かないってことなのね。文化祭を成功させる為には欠かせない戦力だけど、もしも誰か一人でもダウンしちゃったら、負の影響が大きいなーって」

 

「それは買い被りすぎっていうか。雪ノ下と由比ヶ浜はともかく、俺はそこまでの存在じゃないですよ」

 

「うーんと。比企谷くんは、雪ノ下さんの推薦を覚えてるかな。渉外部門の責任者を引き受けてくれた時の話なんだけど、あれ、どう思った?」

 

「それは覚えてますけど……言わないと駄目ですかね?」

 

 気の進まない表情で八幡が回答を延期したものの、城廻は一言も喋ることなくニコニコすることで発言を促している。当たり前のように根負けして、仕方なく八幡は口を開いた。

 

「勘違いだとは思いますけど、雪ノ下が外に出ている時には後を任せた的な、そんな風に言われているような気がして、嬉しいけど怖いみたいな感じでした。でも自分で言っておいてなんですけど、雪ノ下の代わりとか誰にもできないと思いますし、思い上がりですよね」

 

「でも、比企谷くんは嬉しかったんだよね?」

 

「まあ、自分にできる範囲の仕事はやろうかなと。由比ヶ浜とも、雪ノ下を助けるって約束しましたし」

 

 照れ隠しの気持ちもあって、八幡は内面ではなく外部の理由を持ち出した。三人の関係性が垣間見えて、城廻は笑顔を一層深めながら話を続ける。

 

「奉仕部の三人の関係はいいなーって思うよ。でも三人ともに仕事を抱えてると、お互いに助け合うのは難しくなってくると思うの。でね、夏休みにこのメンバーで偶然集まったよね?」

 

「つまり、奉仕部以外でも雪ノ下にはJ組がいるし、由比ヶ浜にはF組だけじゃなく学年を越えた人脈があるから、俺が一番脆弱だと?」

 

「うん。そこは言葉を濁しても仕方がないからね。比企谷くんはさっき、雪ノ下さんの仕事は誰にも肩代わりできないって言ってたけどさ。雪ノ下さんの仕事を完全ではないけど肩代わりできる比企谷くんがもしもダウンした時に、その比企谷くんの仕事を肩代わりできる人材って、他にはもう見当たらないんだよねー」

 

「なんか不思議なんですけど、どうしてそこまで俺のことを高評価するんですか?」

 

「比企谷くんの隣で、戸塚くんが何か言いたそうにしてるよー?」

 

 少しだけ、城廻の生徒会長としての強みを感じた八幡だった。こうして上手く人材を活かすことで、城廻は多くの成果を出し多くの支持を集めてきたのだろう。

 

「八幡はいいかげん、自分を過小評価するのをやめたほうが良いと思うな。材木座くんもそう思うでしょ?」

 

「然り。我が好敵手よ、貴様はもっと大きな場で輝ける才能を持っているはず。檜舞台で先に待って居るぞ!」

 

「いや、お前に活躍の場はねーだろ……」

 

「比企谷くんは、戸塚くんや材木座くんからも、それから雪ノ下さんや由比ヶ浜さんからも評価されてるんだしさ。私も、それから多分はるさんも期待してると思うんだよね。だから今日の用件は二つ。一つは、みんなの期待を受け止めてくれること。受け止めて大きな結果を出そうとまでは考えなくて良いから、でも期待を受け止めるぐらいはして欲しいなーって」

 

「あー、ちょっと恥ずかしいけど善処します。んで、二つ目は?」

 

「ちょっとやばそうだなって思ったら、ここに居るメンバーを頼ること。私も数に入れてくれて良いからね?」

 

「それも善処しますけど、俺からも質問いいですか?」

 

 話をするほどに城廻の生徒会長としての凄さや懐の深さを感じて、それと同時に膨らんでいく疑問が八幡の中にあった。城廻の頷きを受けて、八幡はシンプルにそれを尋ねる。

 

「文化祭の成功の他に、城廻先輩は何を求めてるんですか?」

 

「んーと、雪ノ下さんにはバレバレだったけど、そういう話が出たの、覚えてないかな?」

 

「もしかして、相模が病欠して雪ノ下が一日延期を提案した時に言ってたやつですか?」

 

「そうそう。比企谷くんもちゃんと覚えてくれてたんだねー」

 

「下級生に成長の機会を与えたいってやつですよね。でも、どうしてそこまで?」

 

「はるさんの影響ってのも大きいんだけどねー。でもはるさんの受け売りじゃなくて、私も人材こそが宝だって思ってるのね。ここだけの話にして欲しいんだけど、もしも文化祭の成功と下級生の成長と、どっちか一つしか選べないってなったら、私は迷わず成長を選ぶと思うよ」

 

 それは雪ノ下がいる限り、そして雪ノ下を支える由比ヶ浜がいる限り、起こり得ない未来だと八幡は思う。だがそれはそれとして、城廻の行動の根幹が、ようやく自分にも理解できた気がした。

 

「分かりました。あと、今日の用件って実はもう一つありましたよね?」

 

「それは、材木座くんと戸塚くんが先に済ませてくれてたんだよねー。だから、私の用件は二つだけだよ?」

 

 さすがは雪ノ下陽乃が特別扱いをする人材だなと八幡は思う。あの人のような凄みはなく、むしろ素直さが前面に出ているのに、だからといって話が浅いわけでもなければ、問題を見落とすようなこともない。

 

 今日のあの人の発言程度で動揺しているようでは俺もまだまだだなと思いながら、八幡は先日の雪ノ下のセリフを思い出していた。副委員長への就任について、いざという時の見極めを間違えないようにと語っていた彼女と同様に、自分も戸塚や材木座に頼るべきタイミングを見逃さないようにしなければと八幡は思う。

 

 そして可能であれば、()()()()が危機に陥った時には自分の手で助けられるぐらいの余裕を得たいものだと、八幡はそんなことを考えるのだった。

 

 

 同時刻、彼の自宅のリビングに彼女らを含む女子数名が集まっていることを、八幡はまだ知らない。




今回も何とか更新できましたが、近いうちに一度、更新が流れる週が出ると思います。
週二更新に戻すなど夢のまた夢という現状ですが、ご理解下さい。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/28)


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07.しっかりと彼女らは己の意思を見込んだ者へと託す。

本話は文字数が多く、過去の話を色々と創作しているのでご注意下さい。

以下、前回までのあらすじ。

 下校途中に平塚先生と会い、更にはカラオケに向かう途上で材木座と独特のノリで会話をしたことで、八幡は心中に隠していた悩みが随分と軽くなったのを感じていた。雪ノ下と葉山が同じ小学校だったと知って、奉仕部の二人と一番仲が良いのは自分だと思い込んでいたことや小学生時代の二人への嫉妬が顕わになったのだが、そんな己の恥ずかしい感情を八幡は何とか受け止める。

 カラオケ店での戸塚とのやり取りを経て、密かに悩んでいた由比ヶ浜への接し方にも多少の目処がついた。それに続く城廻との会話によって、顔馴染みの面々から向けられている期待を八幡は自覚し、同時にいざという時には彼らに頼ることを教えられた。

 そんな風に八幡が、下級生を育てるという城廻の意思を受け止めていた頃。彼の自宅のリビングでは女子会が行われていた。



 迷惑なら遠慮なく断って欲しいと、由比ヶ浜結衣が受験生を気遣いながら送ったメッセージは、やる気にあふれる返信を招き寄せることになった。比企谷小町の性格からして迷惑などとは欠片も考えておらず、勉強の気晴らしができるので嬉しいという返事も心からのものなのだろう。

 

 高校からいったん自分のマンションに戻った由比ヶ浜は、小町の了解を受けて、参加者各位に集合場所と集合時間を通知した。全員が一度は比企谷邸を訪れたことがあるのでショートカットでの移動が可能だが、今日は比企谷八幡が遊びに出かけているのでいつものルートが使えない。そのため、小町が通う中学校の前で待ち合わせて、彼女の個室を経由して訪問することになった。

 

 待ち合わせよりも少し早めの時間に、由比ヶ浜は個室に戻る。三浦優美子と海老名姫菜の三人で共有状態にあるその個室では、二人が既に訪問の準備を終えて寛いでいた。三浦と同じく葉山隼人のバンドに参加している一色いろはは、練習の汗を軽く流してくると言って自室に戻ったらしい。最後の参加者にして本日の主役とも言える雪ノ下雪乃も、運営との打ち合わせを無事に済ませて予定時刻には間に合うとのこと。

 

 そこまでを確認し終えて、由比ヶ浜はひとまず安堵の息を漏らした。

 

「なるようになるから、結衣もあんまり気負いすぎないほうが良いよ」

 

「うん……。だね!」

 

 今から始まる女子会を思ってか、三浦は口数少なく黙り込んでいる。海老名が趣味に走ることなく由比ヶ浜のフォローに徹している辺りも現状の難しさを反映していると言えそうだが、それでも発言の内容は妥当なものだ。そう考えて、由比ヶ浜はことさら元気な口調で海老名に応えた。

 

 今日の集まりの目的を達成するまでは、あまり雑談をしたくない。雪ノ下と葉山が同じ小学校だったという話を、小町を含めた参加者全員が既に知っている状態なので、皆の気分は同じだった。いずれも時間ギリギリに中学の校門前に集まった一同は、余計な口を利くことなく静かに、小町の案内に従って比企谷家のリビングに移動した。

 

 

***

 

 

 ホストの小町を含めて総勢六人の女子生徒たちは、リビング奥にあるL字型のソファに腰を下ろしてひとまず息をついた。本日の集まりを仕切っている由比ヶ浜が小町と一緒に全員の飲物を用意して、テーブルの上に並べる。既に夕食の時間帯なので、お菓子は出していない。

 

 席順は、ソファの端から三浦・海老名の順に並び、その左横のちょうど角になる辺りに雪ノ下が、そしてソファの逆側の端には一色が座っていた。由比ヶ浜は、三浦から見て九十度右手にオットマンを置いてそこに座り、小町は食卓から椅子を持ち出して、一色の九十度左手に身を定めた。

 

 

「言い訳があるなら聞くし」

 

「言い訳は、特には無いわね」

 

 開口一番、三浦が本題に切り込んだ。だが雪ノ下はそれを即座に切って捨てる。

 

 そんな二人の間に挟まれたら萎縮するのが普通だろうに、海老名はソファに深く腰掛けて、呑気に飲物を堪能していた。急ぐ素振りも見せずゆっくりとグラスをテーブルに戻して、ふうと一息わざとらしく間を置いて、海老名はおもむろに口を開く。

 

「夏休みに雪ノ下さんと話せてたら、もう少しマシな形で収拾できたのになー」

 

「あ、えっと、姫菜は今回のことを予想してたの?」

 

「うーん、予想って言うか、隼人くんとの間に何かあるんだろうなーとは思ってたからね」

 

 唇を突き出すようにして、不満げな表情で独り言のように語る海老名に、由比ヶ浜が疑問を発する。そちらを見るでもなく、まるで別の時空を眺めているような朧気な目つきのまま、海老名は口だけを動かして返事をした。それに噛み付いたのは、既に戦闘モードに入っていた雪ノ下だった。

 

「どうしてそう思ったのか、教えてもらえると嬉しいのだけれど」

 

「わたしは、葉山先輩との間に去年何かあったんだろうな〜って思ってたんですけど、それとは違うんですよね?」

 

 可愛らしく首をこてんと横に倒して、一色がわかんないな〜という表情を浮かべている。それを受けて海老名は、平然とこう口にした。

 

「あ、そういえば雪ノ下さんって、去年隼人くんと何かあったの?」

 

「……そうね。私も葉山くんも、何か校内で問題が起きた時には、一年代表のような形で担ぎ出されることが少なくなかったから、それで何度か顔を合わせたわね。ただ、特に深い交流は無かったと思ってくれて結構よ」

 

「それを信じろと言われても、今の状態だと難しいし」

 

「小町的には雪乃さんを信じてますけど、三浦さんの言い分も分かるなーって。あ、千葉村では小町の至らぬ部分を指摘してもらって助かりました。ありがとうございます!」

 

 海老名に毒気を抜かれた雪ノ下が事実をそのまま説明したものの、それに対する三浦の反応はもっともだと、多くが小さく頷いていた。再び重くなりそうな雰囲気を嫌ったのか、そこで小町が口を挟む。天然あざとい顔を両者に向ける小町に、今度は多くが苦笑いを浮かべている。

 

「大したことは言ってないし。改善できたんなら、自分の努力のお陰だし」

 

 そう言ってそっぽを向く三浦に、皆の苦笑の対象が移る。この機を活かして話を元に戻すべく、由比ヶ浜が口を開いた。

 

「とりあえず去年のことは、ゆきのんの説明通りってことで後回しにしよっか。今日の話はそれじゃないって思うんだけど……どう?」

 

 雪ノ下と三浦の双方に気を遣いながら、無難な物言いで話を収束させる。由比ヶ浜の配慮に気付けない二人では無いだけに、不承不承ながらともに頷いた。そこで海老名が再び口を開く。

 

「千葉村の時の話を蒸し返すけどさ。あれって去年の話じゃなくて、小学生の時の話だったんだよね?」

 

「……話の筋は通っていたと思うのだけれど、どうしてその結論に至ったのかしら。貴女以外には、去年の話として伝わっていたように思えるのだけれど?」

 

 ほぼ自白していることを承知の上で、雪ノ下は押して海老名に尋ねる。この場の面々にかつての作為をごまかすことよりも、今日の姉とのやり取りにおいて自分に気付けない失敗を犯している可能性を検討するほうが、遙かに優先度は高いと思うがゆえに。

 

「みんな、何となく違和感は残ってたと思うよ。明確な根拠を求められると難しいけどさ。説明してくれた話だと、あの時の雪ノ下さんと隼人くんの間の緊張感には釣り合わない気がしたんだよね。それに、隼人くんがあんなに反省するほどの失敗をしたって、そんな話は聞いたことが無かったしさ」

 

「葉山先輩って、悪い噂がぜんぜん無いですよね〜。それも隠してるとかじゃなくて、本当に無いんだな〜って感じですし」

 

 弱みがあるなら握ってみたいものだと、そんな風にも受け取れそうな発言内容をあざとく可愛らしくコーティングした口調で言い終えると、一色は憧れの先輩を思い出して少し照れているかのような表情を浮かべた。この状況でもぶれないんだなと半ば感心し半ば苦笑している由比ヶ浜を尻目に、三浦がぽそっと呟く。

 

「小学生時代のことを隠して、去年のことだと嘘を吐いたのは、どうしてなんだし?」

 

「嘘、ではないわ。嘘を吐くことは、偽りを口にすることは、誰よりも私自身が戒めていることだから。話を誘導したのは認めるし、それは貴女たちに対して申し訳なかったと思うのだけれど……。言い出しづらいことや、できれば言わないままで済ませたいことは、貴女にもあるでしょう?」

 

 三浦の発言が攻撃的な色をまとっていなかったためか、雪ノ下の返答にも刺々しさは無かった。昨日の昼休みに部室で聞いたのと同じセリフが繰り返されていることに気付いて、由比ヶ浜は敢えて、今日噂を聞いて以来ずっと尋ねたかった疑問を口にした。

 

「その、やっぱり隼人くんとゆきのんって、小学生の頃は仲が良かったの?」

 

 雪ノ下は静かに一瞬だけ目を閉じて、そしてゆっくりと丁寧に、良く通る声で話を始める。

 

「……そうね。あまり他言して欲しくは無いのだけれど、きちんと説明するわね。私と姉さんと葉山くんは小学校が同じだったのだけれど、それ以前に親同士が公私ともに仲の良い関係だったので、いわゆる幼馴染みなのよ」

 

「……っ!」

 

 意外に打たれ弱いのか、三浦は気丈に振る舞おうとはしているものの、説明を聞いて泣き出しそうな顔になっている。そんな三浦を、雪ノ下は申し訳なさそうに眺める。しかし一度話を始めたからには中途で終わると余計な誤解を招くだけだと考えて、雪ノ下は再び口を開く。他には誰も、何も言葉を出そうとはしない。

 

「姉さんが小学校を卒業した後で、私がクラスの女子全員を敵に回すような形になってしまって。葉山くんは最初、私を助けようとしたと思うのだけれど、彼の行動は状況を悪化させるだけだった。結局、私が当事者全員と話を付けて問題は解決したのだけれど。その時には、私も葉山くんも、お互いにどう接したら良いのか分からなくなっていて。それは今も変わっていないわ。だから私達の間には、貴女が心配するようなことは何も無いのよ」

 

 雪ノ下は最後にそう言い添えて、淡々と続けた説明を終える。しかし誰も口を開かない状況に変化はなく、最後に話しかけられた形の三浦が時折なにかを言おうとするものの、明確な言葉にはならない。

 

 話を聞いた五人は、それぞれ当事者たる雪ノ下と葉山への思いを抱えながら、今知ったばかりの二人の過去を咀嚼して理解に努めていた。話をした雪ノ下は、初めて第三者にこの話を伝えられた満足感と、そして幾ばくかの寂寥感を感じていた。この話が遂に完全に、自分の中では過去のものになってしまったと思えたがゆえに。

 

「話したくないことを話させちゃって、ごめんね。でも、ありがとね、ゆきのん」

 

 それからどれほど時間が経ったのか。最初に口を開いたのは、やはり彼女だった。由比ヶ浜のこの発言で場の呪縛が解けたのか、まるで曲を歌い終えて電気が点いたカラオケ店の部屋のように、比企谷家のリビングが明るさを取り戻す。

 

「うん、私もごめん。事前に分かってたのに対処できなかった苛立ちが出てたなって正直思うし、でもそれって、雪ノ下さんが悪いわけじゃないのにね。あー、でもちょっと悔しいなぁ。日曜日に雪ノ下さんと会えてればなー」

 

「文化祭のために、相模さんに渡す教材を作っていたのだから、仕方がないわ。貴女が気に病むことではないし、巡り合わせが悪かっただけだと思うのだけれど」

 

 珍しく何を装うでもなく、海老名が素直に悔しがっている。それを宥める雪ノ下の言葉を聞いて、密かに相模南にも原因の一端があるような気がしてきた由比ヶ浜だが、彼女の責任を追及するのは堪える。巡り合わせが悪いことにかけては、おそらくこの場の誰よりも上で。彼女がずっとそれに苦められてきたことを、由比ヶ浜は知っているから。

 

「うちのお兄ちゃんも色々ありましたけど、雪乃さんや葉山さんでも色々あるんですねー」

 

 しんみりなりかけた部屋の空気を、小町の思い付きの発言が元に戻す。どこまで意図的なものなのだろうと考えながら、自分もその技を会得できないかなと考えながら、一色がそれに続く。

 

「ちょっとわたし的には、利用できそうにない情報だったのが残念ですね〜。ま、不戦勝になるなら別にそれでもいいんですけど」

 

 語尾にハートマークを付けているような語感を残して一色がそう言い終えると、先程までは涙目だった三浦が挑発に応える。

 

「口だけで行動に移さないのは不戦敗って言うんだし。それより……嘘を吐かないのは、その時の経験と関係があるんだし?」

 

 一色が反論のために口を開こうとするのを目で抑えて、これ以上はこの場で争うつもりは無いという意図が伝わったのを確認すると、三浦は珍しく少し言い淀んで、しかし尋ねる機会は今しか無いと考え直して言葉を継いだ。問われた雪ノ下は一瞬だけ目を大きく開いて、そして静かに首肯する。

 

「ええ。決定的な偽りを口にして物事を収めるような真似はしたくないと、その時に決意したのよ」

 

「あーしも、その気持ちは何となく分かるし」

 

 二人の間で一つの想いが共有されて、こうしてこの日の女子会はその目的を果たした。

 

 

***

 

 

 急な女子会を開かせたお詫びという名目で、小町をアシスタントにした雪ノ下が残りの四人に料理を振る舞って。多少の無理矢理感はあるものの、比企谷家のリビングは明るい雰囲気に戻っていた。

 

 雪ノ下が調理している間は決して手を触れさせなかったが、せめて後片付けぐらいは一緒にとせがむ由比ヶ浜をようやく受け入れて、二人はキッチンに横並びになって手を動かしている。

 

「そういえばゆきのん、家で陽乃さんが待ってるんじゃなかったっけ?」

 

「ええ。だから由比ヶ浜さんのお誘いがあって助かったわ。小町さんの迷惑にならない範囲で、できるだけ粘りたいのが正直なところね。理想としては、今日は帰宅できないような急用でも入ると良いのだけれど」

 

 しれっと酷いことを言う雪ノ下もまた、普段の調子を取り戻している様子だった。微妙な表情でたははと笑う由比ヶ浜に、雪ノ下は事情を説明する。

 

「あの人も、もちろん私もだけれど、知るべきことや学ぶべきことはまだまだ沢山あるから、一人の時間を持て余すということがないのよ。だから一晩ぐらい待ちぼうけを喰らわせたところで、残念ながら意にも介さないでしょうね」

 

 理屈は通っているようでも、何だか色々とおかしい気がした由比ヶ浜だったが、それ以上の追求は避けた。代わりに聞いてみたかったことを思い出したので、それを尋ねることにする。

 

「あのね。陽乃さんが高校生の時の文化祭なんだけどさ。最近色々と噂で聞くことが多いんだけど、どんな感じだったのかなって」

 

「……そうね。私達にも関係のあることだから、これが終わったら全員の前で話しましょうか」

 

 そのまま手早く片付けを済ませると、二人はソファで寛いでいる他の四人に合流した。由比ヶ浜と座る場所を入れ替えて、オットマンに腰を下ろした雪ノ下は、高校時代の姉の話を語り始めた。

 

 

***

 

 

 高校二年の秋に実行委員長として文化祭を大成功に導いた雪ノ下陽乃は、しかしその結果に満足していなかった。自分が現場に出て指揮を執ればこのぐらいはできるだろうと予測した、その通りの結果に過ぎなかったからだ。

 

 せっかく自ら前線に出たというのに、予想外のことは何も起こせなかった。目論見通りに事を進められる時点で人材として一級品なのは理解しているが、自分がその程度で満足してしまうのは面白くない。予測を下回るのは論外だが、予測通りの結果しか得られないのも駄目だ。高校の文化祭ですら予測を上回る成果を出せない者が、社会に出てから大きな成功を収められるはずがない。

 

 正直に言うと、親の取り巻きが口にした最後の所論に対しては異論があった。だがそれはそれとして、結果に満足していないという事実は変わらない。陽乃は自らの行いを顧みて、そして改善点を見出した。

 

 陽乃にとって人材とは、こちらの意図を忠実に履行できる者を指していた。文化祭の実行委員会の規模なら当然のこと、たとえ親の会社で一番大きな部署であっても、その隅々までもを把握して動かしていけるだけの自信を陽乃は既に有していた。ならば陽乃に必要な人材とは、動きの予測できる駒に他ならない。

 

 だが予想以上の成果を求めるのであれば、こうした人の使い方そのものを見直す必要がある。そう考えた陽乃は、やはり青かったと言うべきなのだろう。予測そのものを高める方向性に陽乃はもちろん気付いていたが、更に上を、今までに見たこともないような地平を陽乃は求めてしまった。

 

 七面倒くさい生徒会長などを務める気はさらさらなかった陽乃は、文化祭で自らの忠実な代弁者として働いた生徒にその名誉を与えた。今まで通り意外性のない退屈な高校生活を過ごして、気付けば陽乃は最終学年に進級していた。

 

 三年になっても、日々は淡々と過ぎていった。面白いことを求めて周囲にもそれを強要する陽乃は、しかし取り巻きの生徒達が楽しく過ごしているのとは裏腹に、何をしても楽しめなかった。全ては実行する前に結果が見えていたし、それを確認するだけの退屈な日々だった。

 

 そんな陽乃の無聊を慰める唯一の存在は、生活指導の教師だった。意味なく問題行動をしようとは思わないが、妥当な理由があれば校則を無視するのも当然と考えていた陽乃は、それでも一年や二年の頃は面倒を避けて過ごしていた。教師からのお小言というこの上なく無駄な時間を避ける為には必要な手間だと考えていたからだ。だが三年になって倦んだ日々を過ごしていた陽乃はその教師の厄介になることが増えて、そして少しずつ彼女との縁を重ねて行った。

 

 互いの理解を深め合っていた二人は、しかし教師と生徒の関係に束縛される。それ以上は踏み込めないと哀しそうに告げる教師に、陽乃は皮肉な表情で応えるしかなかった。もはや陽乃にとっては、かつて思い描いた理想を求めて最後の文化祭を待つことしか、楽しみは残っていなかった。

 

 その年の文化祭実行委員には、陽乃が面白いと思う人材が二人参加していた。一人はおでこが目に付く一年の女子生徒で、物事の本質や他人の性格を捉えるのが上手い割にはまるですれていないのが印象的だった。もう一人は二年の女子生徒で、この高校には珍しく正面から陽乃の言動を否定してくる行動力に恵まれていた。

 

 陽乃はその二人を文化祭の正副委員長に誘導して、しかし二人の仕事内容に関してはノータッチを貫いた。委員会では陽乃派の大多数の生徒と委員長との間で何度となく激しい議論が交わされたが、完全な決裂に至ることは一度もなかった。それは副委員長の資質の賜物と言って良いのだろう。

 

 委員長の意見には頓珍漢なものが多く、彼女は残念ながらその行動力に見合った思考力は持ち合わせていないようだった。高校内をほぼ完全に掌握している陽乃と正面切って対立している時点でそれは予想できたが、だからといって彼女の発想が全て無駄だという話にはならない。試験で満点を取るのは難しいが、同様に零点を取るのもまた難しいものなのだ。

 

 陽乃が見たいものはきっと、そうした答案の中にある。低得点者がたまたま書いた、模範解答とは異なるルートの正解にこそ、陽乃が求めるものがある。そうした自分の直感に従って、陽乃は少しずつ、自由な動きかたをする生徒を増やしていった。秩序の中に混沌を、そして混乱の中には規律を。

 

 結果としてその年の文化祭は、陽乃の予測とは少し違った面を持ち合わせたものになった。もちろんそれは、自由に動いて良しと陽乃が解き放った生徒達のことを、陽乃が深く分析しなかったことに原因がある。いかに陽乃とて、知らない要素までを組み入れた形で未来を予測するのは不可能だからだ。

 

 ともあれ陽乃の目的は果たされた。だが、やはり物足りなさが残る。文化祭の正副委員長から、生徒会長と書記へと肩書きを変えた二人の後輩を見て、自分が最後にこの高校に残すもののことを陽乃は考える。面白い後輩を残すという発想は陽乃にとって、最近の思い付きの中では飛び抜けて魅力的なものに思えた。

 

 だから陽乃は二人を鍛えることに決めた。大学入試は目前に迫っていたが、陽乃の学力に見合った志望校(この国の最高学府)に進学する案は親に却下されていた。地元の国立大学のしかも医学部以外と来れば、陽乃にすれば落ちるほうが難しい。ゆえに時間の余裕はたっぷりとあった。

 

 高三の秋というこの時期に、陽乃は新たな部活を設立した。顧問に件の生活指導の教師を据えて、来年度以降もこの部活は必ず存続させるという約束を生徒会と文書で取り交わして。巷の男子高校生が耳にしたらあらぬ希望を抱きそうな名前の部活は、こうして産声を上げた。

 

 生徒会の手に余る仕事を積極的に引き受けたり、時には生徒会や教員たちとの対決も辞さず、生徒達の自由な発想を面白い形で実現させるために陽乃は動いた。生徒会長との間の溝は更に深まったが、なぜか書記からは懐かれてしまった。にもかかわらず、生徒会長と書記の仲はその後も良好に見えた。それもまた彼女の資質がなせる業なのだろう。

 

 自由登校の時期になってからも最後まで部活動を続けた陽乃は、親が指定した大学・学部に難なく合格して卒業式の日を迎えると、潔く総武高校から去って行った。陽乃が発足させた部活は、四月に新入部員が入るまでの間、しばしの休眠期間に入った。

 

 

***

 

 

「じゃあ、陽乃さんが奉仕部の創始者ってことですか?」

 

 既に誰も歌わなくなって久しい室内で、カラオケ店お薦めのメニューで夕食を済ませて。お腹が膨らんで気分が落ち着いた八幡たちは、城廻めぐりが語る昔話を傾聴していた。総武高校の歴史の中でも屈指の盛り上がりと言われた二年前の文化祭と、それを裏から指揮した存在について、城廻は知っている限りのことを後輩三人に伝えた。

 

「さっきはるさんが楽しそうに、『こんな名前の部活を、雪乃ちゃんが設立するわけないよねー』って言ってたよ」

 

「それ、俺が質問するのを予測して、前もって答えを城廻先輩に伝えてたように聞こえるんですけど……」

 

 あの人は何でもありだなと呆れる八幡だった。

 

 当時の陽乃が何をどこまで考えてああした行動に出ていたのか、それは城廻ですら完全には把握しきれていない。そのため聞き手側で補完する必要があったのだが、だいたいこんな感じだろうと八幡は結論付ける。陽乃の行動原理を「退屈な日常に飽きた大魔王のお遊び」と仮定してみると、一応の筋道が立つような気がしたのだ。このことを知ったら陽乃はきっと、わざとらしくぷんぷん怒るのだろうが。

 

「ふむ、創作意欲の湧く話よの。八幡よ、原稿の初読みは週明けぞ。刮目して待つがよい!」

 

「雪ノ下さんとはちょっと違った、あのお姉さんらしい話だったよね」

 

 材木座義輝が何やら高笑いしているが、戸塚彩加にこそっと耳打ちされて八幡はとても寛容な気持ちになれた。今なら誰がどんなにうざい行動をしても、見逃してやろうと思えるのが不思議だ。

 

 程なく材木座が息切れを起こしたので、八幡は城廻に話の続きを促す。それを受けて、彼女は再び話し始めた。八幡たちが高校に入学した後の話を。

 

 

***

 

 

 ようやく陽乃が卒業したと思ったら入れ替わりで妹の入学が決まって、彼女が当然のように一人で奉仕部の活動を再開すると聞いて、報告を受けた生徒会長は椅子に座ったまま挙動不審に陥っていた。入学前のオリエンテーションを受けていた彼女から、誰かが無謀にも部活の希望を聞き出したらしい。

 

 実際に見もしないで、妹もきっと陽乃と同じ性格なのだろうと決めつけた生徒会長に非があったのは確かだが、同情の余地もまた大いにあったと言うべきだろう。それほどまでに、陽乃から受けた被害は甚大だった。主に生徒会長の精神面で。

 

 可能ならば関わりたくないという生徒会長の希望とは裏腹に、顔合わせの機会は程なく訪れた。新入生代表として入学式で挨拶をする予定の彼女と、在校生代表として挨拶をする予定の生徒会長は当日の朝、式が始まる直前に相まみえた。

 

 初めて会った彼女は、他人をまるで寄せ付けないほどの冷たい迫力に満ちていた。それが彼女の余裕の無さを反映していること、彼女の乗った車がほんの先刻に事故に遭ったことを、生徒会長も城廻もこの時には知らなかった。それは不幸な思い違いだった。

 

 きっかけは些細なこと。彼女のちょっとした振る舞いを、生徒会長が軽く咎めた程度のことだった。しかし彼女は下級生にあるまじき態度で、その指摘がいかに無意味でいかに押し付けがましいものであるかを、最初から最後まで論理的に語った。

 

 彼女にしてみれば、余裕の無い状態で思わず口火を切ってしまったことを後悔しつつも、入学式早々から感情的にならないようにと必死で堪えた結果なのだが、一言も言い返せなかった生徒会長の印象は全く違った。

 

 二人の諍いの場には何人かの新入生が居合わせていて、噂はそこから広まった。妥協を知らない彼女の性格にも多少の批判が寄せられたが、彼女の論旨が明瞭だったこともあり、生徒会長の些細な指摘が話の発端だったこともあり、校内の世論は生徒会長に問題があったと結論付けた。彼女の姉と生徒会長の不仲が全校に知れ渡っていたことも大きかったのだろう。

 

 以来、生徒会長は彼女との関わりを徹底的に避けた。持ち前の行動力を活かして、奉仕部に依頼が行きそうな案件は最優先で対処した。時おり彼女が一年代表のような立ち位置で生徒会長の前に現れることがあったが、大抵は別の男子生徒が同じく一年代表として控えていたので、無難にやり過ごすのは難しくなかった。

 

 秋の選挙を経て城廻が生徒会長に就任してからも、推薦で進学が決まっていた前会長は奉仕部の仕事を肩代わりし続けた。自分や生徒会が迷惑をこうむらないように、奉仕部に仕事をさせないようにという前会長の本来の意図は、この頃には半ば忘れられていた。

 

 ただひたすらに己の為すべきことを果たし続けるその行動力はかつて、前会長が誇る唯一の長所だった。そんな前会長はいつしか、大抵の仕事をこなせるまでになっていたが、当人も周囲もそれを深く追求することはなかった。

 

 自由登校の時期になってもそれを続け、卒業式を境にぱったりと姿を見せなくなった前会長の行動は奇しくも、一年前の陽乃と重なって見えた。

 

 

***

 

 

「生徒会長と揉めた話は知ってたけど、事故の直後だったとはねー」

 

「貴女には少し前にも同じことを言ったと思うのだけれど、これも巡り合わせが悪かったのよ。だから、由比ヶ浜さんが責任を感じることはないのよ」

 

 雪ノ下が昨年度までの話を語り終えると、海老名が最初に反応を見せた。先程までの会話を振り返りながらそれに軽く応じると、雪ノ下は続けて海老名の奥に座っている由比ヶ浜を気遣う。

 

「誰が悪いかって言えば、車道に飛び出したお兄ちゃんですからねー。あの時に小町がどれだけ心配したか、お兄ちゃんってば今でも、分かってるつもりで分かってないんだろうなー」

 

 小町もまた由比ヶ浜を気遣ってか、軽い口調で兄をくさす。とはいえ、それは兄妹の間では決着した話なので、小町の口調は柔らかくそして温かい。それを真似るような声で、続けて一色がぼそっと呟く。

 

「なにげに先輩方って、入学直後から色々と複雑な関係になってますよね〜」

 

「あれ、でもいろはちゃんも入学式の日に……」

 

「結衣先輩、ストップです」

 

 小町の声を真似ていたのは一瞬だけで、由比ヶ浜の発言に言葉をかぶせて可愛らしく圧力をかける一色だった。養殖から天然への脱皮は、なかなか一筋縄ではいかないものらしい。

 

 とはいえ由比ヶ浜の意識を別に向けたことで、当人を含めた全員がほっとしたのも確かだった。気遣いの必要が無いのならば、素直に己の欲するところを為すべしとばかりに三浦が口を開く。

 

「んで、二年になってからはどうだったんだし?」

 

 三浦の催促を受けて雪ノ下は三たび、過去の話を語り始めるのだった。

 

 

***

 

 

 城廻が三年に進級してこの世界に捕らわれてからも、彼女との関係は冷ややかなままだった。ログイン当日の彼女の演説を契機に、非常時を理由に関係の改善ができないものかと模索したが、彼女の反応は芳しくなかった。

 

 城廻個人には問題がなくとも、前会長とも彼女の姉とも仲が良かったことは知られている。それでも生徒会と奉仕部の冷戦状態を放置するつもりのない城廻は、静かに次の機会を窺っていた。

 

 前会長の行動力も、そして陽乃の才覚も持ち合わせていないと自覚している城廻は、他人に頼ることに迷いが無かった。同時に、自らが動く前に情報を集めることを重視した。自分の能力や性格を考えると、アドリブで対応を求められる機会を減らすことが結果の向上に繋がると理解していたからだった。

 

 変化は急激に訪れた。奉仕部に男性部員が加わって、すぐさま女性部員がそれに続いた。どうやら依頼も舞い込んでいるらしい。彼女が入学してから一年以上に亘って閑古鳥だった奉仕部は、にわかに活況を呈していた。

 

 そうした情報を得ても、城廻は動かなかった。現時点では顧問の伝手によって依頼が続いているに過ぎない。それに、生徒会が奉仕部に関与するに足る理由も無い。彼女と直接向かい合った数少ない過去の記憶から、無用な介入は逆鱗に触れるだけだと理解している城廻は焦らず静観を続けた。

 

 この世界に巻き込まれてからの奉仕部の活躍は目覚ましく、発端は個人的な依頼に過ぎなかったというテニス勝負を一大興行として成功させた時点で、彼女の名は校内に燦然と響き渡った。だが城廻からしてみれば、彼女はあの陽乃の妹である。これぐらいの活躍は当然だと、なぜか当人以上に鼻高々な城廻だった。陰ながら見守るのが高じて、親馬鹿のような心境に陥りかけていたのだろう。

 

 そして、待ちに待った機会が訪れた。とはいえそれは、奉仕部の男性部員が悪い噂を流されているという、あまり好ましくはない形だった。情報を精査した結果、放置していてもそれほど害のない噂だと思われたが、早期の対処が可能であるならばそれを怠る理由もない。

 

 城廻は意を決して、自ら奉仕部の部室に赴いた。部室前の通路で一対一で向かい合ってみると、彼女は最大限にこちらを警戒していた。変な企みは逆効果だと考えた城廻は、苦手なアドリブに賭けることにする。それが一番、彼女の警戒を和らげるだろうと考えて。

 

 変な意図はないと幾度となく伝えて、部室に招き入れられてからも取り繕うことなく素直に接した城廻は、遂に彼女の疑いを晴らした。話の流れで、今まで誰にも告げたことのないはずの下級生への想い(先輩からして貰った事を後輩に返す)まで伝えてしまい、照れ臭さが最高潮に達した城廻だったが、自分を見る彼女の視線は温かかった。

 

 この時を契機に、城廻は彼女を陽乃の妹としてではなく、雪ノ下雪乃として見るようになった。

 

 

***

 

 

「あれ。もしかして私、また余計なことまで喋っちゃった?」

 

 できれば、後輩を温かく見守る先輩になりたいのになと城廻は思う。雪ノ下にしろ目の前の男子生徒達にしろ、この面々を相手にしていると、後輩から温かく見守られる先輩というポジションに陥ることが多いのはなぜだろうか。

 

「会長の気持ちは、雪ノ下さんにも届いていると思いますよ。ね、八幡?」

 

「だな。あれだけ寄らば斬るを実践している雪ノ下が、城廻先輩に対してだとなんと言うか、陽乃さんよりも身内みたいな感じの扱いなんだよなー」

 

「我なんて、斬られる以外の対応を受けたことが無いでござる」

 

 戸塚の呼びかけに応える八幡は、城廻を更に照れさせるようなことを口にした。とはいえ、よくよく聞けば各方面に喧嘩を売っているような内容でもあるので、この発言が彼女らに伝わらないことを八幡は祈るべきなのだろう。

 

「じゃ、じゃあそろそろ、今日はお開きにしよっか」

 

「ですね。なんか色々とありがとうございました。その、何かあったら頼るかもしれませんけど、俺よりも、できればあいつらをよろしくお願いします」

 

 城廻が解散を提案すると、八幡はそう言って頭を下げた。そんな自分の行動に自分で驚き、八幡は同時に納得してもいた。八幡がこれほど素直になる相手は他にはあの恩師ぐらいだが、彼女の前ですら多少の対抗意識というか、変な意地みたいなものを張ってしまうことがままある。だが目の前の先輩には、そんなものは必要ないのだと思わせてくれる何かがある。

 

 よくよく話してみないと判りにくいけれど、自分たちは地味に凄い生徒会長を戴いているんだなと、八幡はそんなことを考える。

 

「また集まるぞー。おー!」

 

 こうして唱和を強制するのは勘弁して欲しいけれど、と心の中で付け足す八幡だった。

 

 

***

 

 

 そして同時刻。

 

「じゃ、あーしらは帰るし」

 

「色んなお話も聞けましたし、雪ノ下先輩のお料理も、また食べさせて下さいね〜」

 

 三浦がそう宣告して立ち上がると、一色がそれに続いた。おいしいものが好きな可愛らしい女子高生を演じているのが丸分かりだが、雪ノ下が作った晩ご飯をまたいつか味わってみたいというのは本音のようだ。

 

「じゃあ小町は、皆さんをちょっと送ってきますねー」

 

「うん、お願いね。雪ノ下さんは、ちゃんとヒキタニくんに過去の話を説明しといてね。結衣が同席してたら大丈夫だろうし、いざとなったら小町ちゃんを頼ってもいいんだしさ」

 

「そ、その。やっぱり今夜中に話さないと駄目なのかしら?」

 

「だってゆきのん、さっき『小町さんの迷惑にならない範囲で、できるだけ粘りたいのが正直なところね』って言ってたじゃん。それに、こういう話は早いほうがいいよ。さいちゃんにはあたしかヒッキーが伝えておくけど、ヒッキーにはちゃんと直接伝えるのがいいと思う」

 

 解散直前に今日の話をざっと振り返った彼女らは、千葉村に集まった面々にはきちんとした情報を伝えておくべきだという結論に至った。誰か一人、お調子者の男子生徒が忘れられている気もするが、彼への説明には葉山が責任を持つべきだと、彼女らは考えているのだろう。たぶん、きっと。

 

 

 小町が三人を見送りに出かけて、家の中には雪ノ下と由比ヶ浜だけが残った。ソファに並んで座ってぽつぽつと会話を続けながら、二人は静かに同じ部活の男子生徒が帰宅するのを待っていた。




本話で書いた過去の話は原作とは違う可能性がありますが、続刊の内容に合わせた修正はよほどのことがない限り考えていません。この点ご了承下さい。

よろしければ、前回の女子会(4巻6話)や、雪ノ下視点で見た城廻との和解(2巻5話)も合わせてどうぞ。

次回は来週の木曜日、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
更新時間は22時から深夜2時までの間で、それ以外の時間帯には更新はないとお考え下さい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
少し説明を付け足して、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(10/29)


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08.ろくでもない案でも彼女なら大丈夫だと彼は語る。

前回までのあらすじ。

 比企谷家で行われた女子会は、雪ノ下が葉山と幼馴染みだったことから小学生時代の事件まで全てを簡潔に説明して、ひとまずは無事に終わった。ようやく過去を相対化できたと考える雪ノ下、そして得られた情報を各々なりに受け止めるその他の一同は、この日の話はここまでにして歓談に移る。

 雪ノ下お手製の夕食を堪能し終えた女性陣は、陽乃が関与した過去の文化祭の話を皮切りに、雪ノ下姉妹と生徒会との過去のいきさつを知ることになる。くしくも同時刻、カラオケ店では八幡たちが城廻から同じ話を教えられていた。

 雪ノ下と城廻の長い話が終わって、二つの集まりは解散となった。葉山との関係を今夜のうちに八幡にも伝えておくべきだと勧められ、雪ノ下と由比ヶ浜はそのままリビングに残って、八幡の帰りを待つのだった。



 カラオケ店の外で解散した後、比企谷八幡は再び高校へと向かっていた。材木座義輝と校門前で合流してそのまま徒歩で出かけてしまい、自転車を置き忘れていた為だった。

 

 最終下校時刻が過ぎても、生徒や教師は高校内に自由に出入りすることができる。それは校外への外出が解禁された当初から可能だったのだが、当時はそれ以外には保護者にのみ立ち入りが認められていた。つまり関係者以外にとっては、入校のたびにいちいち許可が必要だったのである。

 

 それが今や簡単な認証だけで、時を問わず誰もが校内に足を踏み入れることができる。現実世界以上にこの世界では安全が確立されている為に。そして校内にいる間は全ての行動が記録されることへの同意を、認証の際に求められるのと引き替えに、それが可能になったのだった。許可を求める煩わしさを避けるか、それとも行動を記録される煩わしさを避けるかは各人の判断次第である。

 

 ちなみに先刻、女子会に臨む面々がしずしずと移動したのは、行動が記録されているという事情もあってのことだった。個室を経由して比企谷家のリビングに着いて、ようやく一同が息をついたのにはこうした理由もあったのだが、それはさておき。

 

 

 自転車置き場に辿り着いた八幡は、このまま自転車で帰宅すべきか、それとも個室からショートカットで帰るべきか悩んでいた。だがもともと心理的にも体力的にも疲れていた上に、既に夕食を済ませて気怠い気分だったこともあり、八幡は深く考えずにショートカットを選ぶ。翌朝に妹と一緒に登校できないのは残念だが、たまには大目に見てもらおう、などと考えながら。

 

 そんな風に安易に楽な道を選んだことを、程なく八幡は後悔することになる。

 

 個室に辿り着いて、入り口で脱いだ靴を右手の指二本でぶら下げて。八幡はすっかりリラックスした気分で、自宅のリビングにショートカットするために足を踏み出した。そこで誰が待っているのかを知らないままに。

 

「小町ーっ。帰ったぞ……おっ!?」

 

「お帰りなさい、比企谷くん」

 

「ヒッキー、おかえりー!」

 

 リビングのソファには何故か、雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣が並んで座っていた。夜にはやっぱりやっはろーは使えないのかと、どうでもいい情報を頭の片隅で再確認しながら、八幡は己の姿を省みる。

 

 お土産の寿司折りをぶら下げるように靴を持ち、上機嫌で家族に呼びかける先程の自分を思い出して。もしも将来酔っ払って帰宅しても、状況を確認するまでは決して油断すまいと心に誓う八幡だった。

 

 

***

 

 

 恥ずかしさを誤魔化すように自分のこれからの行動を説明して。その発言通りに、玄関に靴を置きに行ってそのまま自室で寛いだ服に急いで着替えて。心を落ち着けながら八幡が階下に下りてくると、ちょうど妹がリビングに帰って来たところだった。

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー」

 

「おう。小町も遅かったんだな。って……あれ、でも、お前らはなんで?」

 

 中学校の校内で迷わないように念のためと、比企谷小町はお客三名を校門前まで見送った。そのせいで時間がかかって、兄の帰宅に間に合わなかったのは残念だったなと考えながら、小町が質問に答える。

 

「お兄ちゃんが遊びに行くって言うから、ちょっと女子会をね。雪乃さんが作ってくれた晩ご飯、すっごく美味しかったよー」

 

「やー、えっと、さっきまでは優美子とか姫菜とかいろはちゃんも居たんだよね。小町ちゃんが見送りに行ってくれて、今帰って来たって感じ?」

 

 いきなり本題に入るのは避けようと考えた由比ヶ浜が説明を追加する。雪ノ下が何故か静かだなと思いながら。でもそういえば随分昔に思えるけれど、実行委員会で姉妹対決があったのは今日だし疲れていても当たり前かと考え直して、八幡は口を開く。

 

「なんでお前らは帰らなかったんだ?」

 

「お邪魔なら、このまま帰っても良いのだけれど?」

 

「もう、ゆきのんってば。それに、帰っても陽乃さんが待ってるだけだよ?」

 

「ぐっ……。仕方が無いわね」

 

 珍しく往生際の悪い雪ノ下をあやすようにたしなめるように、由比ヶ浜が笑顔で相手をしている。そんな二人の様子を不思議そうに、同時に微笑ましく眺めながら、八幡は小町に顔を向けて首を傾げる。

 

「まま、お兄ちゃんも座って座って。ちょっと間を空けてもらって良いですか?」

 

「えっ……と、ヒッキーがあたしたちの間に座るの?」

 

「あー、空けなくて良い。ってか小町の戯れ言に付き合わなくて良いからな。俺はオットマンに座るから、小町がソファに行ったらどうだ?」

 

「仕方ないなぁ。じゃあ小町は飲物を用意してくるから、先に始めといてねー」

 

 そう言ってキッチンに移動する妹を見送って、八幡は二人の正面にオットマンを置いて腰を下ろした。少し迷ったものの、今日は雪ノ下よりも由比ヶ浜のほうが話が早そうな気がしたので、八幡は顔をそちらに向けて、視線は時々逸らしながらも語りかける。

 

「なんかバンドの打ち合わせとか、それともまた予想外のアクシデントでもあったのか?」

 

「あれ、ヒッキーはあんまり気にしてなかったのかな。その、ゆきのんと隼人くんが小学校同じだったって話なんだけど……」

 

「あー、まあ、気にならんと言えば嘘になるけど、昔の話だろ?」

 

 放課後に関わった色んな人たちのお陰でようやく心の落ち着きを取り戻した八幡だったが、自分が動揺していたことを雪ノ下本人に知られるのも、由比ヶ浜に知られるのもできれば避けたい。そう考えて八幡は平然とした風を装った。

 

 そんな八幡の様子を見て、下校前に元気が無さそうに見えたのは本当に仕事で疲れていたのか、それとも他の理由だったのかなと内心で首を傾げながら、由比ヶ浜が口を開く。

 

「昔の話って言っても、実際にゆきのんと隼人くんは同じ高校にいて、これからも色々と関わりがあるだろうしさ。ヒッキーも、千葉村の時に二人のやり取りが変だなって思わなかった?」

 

「そういやお前、葉山には容赦が無かったよな。でもな、由比ヶ浜。俺なんて葉山以上に酷い扱いを受けてるんだが、その辺りはどう思うよ?」

 

 少しだけ雪ノ下を眺めて語りかけて、すぐに由比ヶ浜へと視線を移すと八幡はこう問いかけた。言われてみればその通りなので、由比ヶ浜も苦笑いで応えるしかない。そこに小町が戻ってきた。

 

「お飲み物をお持ちしましたー。ささ、では皆様グラスをお持ち頂いて、乾杯のご唱和を……」

 

「小町も小町で、なんでそんなにテンション高いんだ?」

 

 カラオケ店でのやり取りを思い出して、唱和するのはもう懲り懲りだと思いながら八幡が疑問を伝える。だがそう言いながらも律儀にグラスを持ち上げる八幡を見て、由比ヶ浜と、そしてようやく雪ノ下にも笑みがこぼれた。

 

 唱和したのは由比ヶ浜と小町だけだったが、各自が喉を潤してグラスを置いて、そして雪ノ下が口を開いた。

 

 

「正直に言うと気が進まないのだけれど……。貴方にも、正確な情報を知っておいて貰ったほうが良いと思ったのよ。これは女子会の総意でもあるのだから、謹んで拝聴なさい」

 

「いや、お前が居丈高になってる時点で色々と思うところはあるけどな。気が進まないんなら、無理に言うこともないんじゃね?」

 

 先輩から聞いた昔の話を、かつて雪ノ下が当時の生徒会長と揉めた時の話を思い出しながら、八幡はそう答えた。その時と同様に今の雪ノ下にも余裕がないのであれば、落ち着くのを待ってからでも良いのではないかと八幡は思う。

 

 そうした八幡の配慮を感じ取って、雪ノ下もまた先ほど話したことを思い出していた。雪ノ下が生徒会と和解に至ったのは、目の前の男子生徒と自分たちに関する妙な噂が流れたことが切っ掛けだった。八幡が他人の弱みを握って脅すような性格だとは当時も思っていなかったが、今はもっと彼のことを知っている。それと同じように八幡もまた、昔よりも自分たちのことを知ってくれているのだろうと雪ノ下は思った。

 

「いえ、失言だったわね。貴方にも知っておいて欲しいと、私も由比ヶ浜さんも考えたからこそ、貴方の帰りを待っていたのよ」

 

 だから雪ノ下は素直に誤りを認めて、そして昔語りをする覚悟を決める。八幡にそれを話すことに漠然とした抵抗を覚えるのは何故なのか。それが、女子会の通知を受けて気を重くした時と同じ感情に由来するものなのか。その答えはすぐには出そうにないが、少なくとも単純な男女間の感情によるものではないと雪ノ下は思う。

 

「んじゃま、ゆっくり話してみりゃ良いんじゃね?」

 

「そうね。とは言っても、話はすぐに済むのだけれど」

 

 由比ヶ浜と小町に見守られながら、雪ノ下は女性陣に対したのと同じ心情で同じ口調で、自分と葉山が幼馴染みだったことを八幡に告げた。

 

「幼馴染み、って……材木座が正解かよ!」

 

 そして、八幡の予想外の返答によって、その雰囲気は台無しにされた。

 

 

「ヒッキー、中二とどんな話をしてたんだし?」

 

「お兄ちゃん。ちょっとその反応は、小町的には判定外って言うかさ」

 

 当事者の二人を置き去りにして付添人の二人がお怒りのご様子だが、八幡にしてみれば内心を気取られないための精一杯の反応である。カラオケに向かいながらの道中で材木座の挑発を受けても、小学校が同じだけだと反論を口にすることで、八幡は心の平穏を保っていた。だが、実際に当人から幼馴染みという言葉を聞かされると、思いのほかショックが大きかった。

 

 とはいえそれは、既に材木座によって語られた言葉でもある。確かにショックではあったが、全くの不意打ちで聞かされるよりも遙かにマシだったのは言うまでもなく。だから八幡は何とか顔を雪ノ下に向けることができた。

 

「そう。もしかして貴方は、私と葉山くんの過去の関係を、賭けの対象にでもしていたのかしら?」

 

 いつもの凍て付くような声音ではなく、平坦な口調で雪ノ下が問いかける。その意図が読めず、固唾を呑んで二人を見守る姿勢に移行した由比ヶ浜と小町は、八幡の反応を待った。室内に漂う期待を受けて、八幡は仕方なく口を開く。

 

「あいにくだが俺は昔、嘘告白が成功するか否かって賭けの対象にされた側なんでな。んなことをするわけねーだろ。……単に材木座が『実は幼馴染みだったらどうする?』って煽るようなことを言ってきたから、軽く締めただけだ」

 

 自分の黒歴史を披瀝して雰囲気を変えようと思ったのに、返って来たのは沈黙だけだった。やむなく八幡は、少しだけ虚偽を混ぜつつも材木座とのやり取りを説明する。本当に、もう少しちゃんと締めてやれば良かったと思いながら。

 

 八幡の返答を受けて、納得顔で雪ノ下は口を開く。その口調は軽く、側に居る二人の女の子はほっと胸をなで下ろしている。

 

「どう言えば良いのかしら。別に怒っているわけではないのだけれど……そうね。貴方や由比ヶ浜さんに、それから女子会に集まってくれた彼女達にもいつか話す時が来るのだろうと、身構えていた過去の私が莫迦らしくなってくるわね。少し前に貴方が言ったことが的を射ていると思うのだけれど。私と葉山くんが幼馴染みだったのは、昔の話でしかないのよね」

 

 話しながら考えがまとまって気持ちがスッキリしたのか、雪ノ下は凛とした佇まいの中に優しさをにじませて、そう言い終えた。露骨にほっとしている三人にくすりと笑いかけて、雪ノ下は続けて、小学生の時にあった事件を八幡に説明した。

 

「その状況を小学生が自力で解決するって、やっぱ昔からとんでもなかったんだな……」

 

 そんな八幡の呆れ声の中に気安い感情を見出して、雪ノ下は本来の調子を取り戻していく。それが雰囲気で伝わったのだろう。横に座っている由比ヶ浜も斜め横に座っている小町も、先程の女子会の時にはどこか無理矢理に場を明るくしているきらいがあったのに、今や普段通りの楽しそうな表情に変わっていた。

 

「貴方に伝えたかったことは以上よ。今日の話はこれでお終いね」

 

 こうした全員の反応を確認して、雪ノ下が終幕を宣言しようとする。しかし、それを八幡が遮った。

 

 

「いや、お終いじゃねーだろ。陽乃さんの思い付きの発言で今回ここまで翻弄されたんだし。来週もまた来るんだから、対策を考えておいたほうが良いんじゃねーの?」

 

 それは由比ヶ浜や小町にとってはもちろん、雪ノ下にとっても意外な提案だった。しかし考えてみれば、姉の行動を受けてからどう対処するかを検討するよりも、前もって積極的に対策を練ったほうが効果があるのは間違いない。

 

 なまじっか姉のことをよく知っているだけに、何を言い出すか分からないからと、雪ノ下は事前の対策をはなから諦めていた。第三者の目線で見れば当たり前のことが、当事者にはなかなか気付けない場合があると知ってはいたが、これがそうなのだなと雪ノ下は思う。型にはまった友人関係しか築けなかったかつての自分には体験できなかったことが、今はできているという手応えとともに。

 

「ヒッキー、もしかして何かいい案があるの?」

 

 そして、こうした話題には頭脳労働向きではない由比ヶ浜が真っ先に食い付く。八幡であれ雪ノ下であれ、二人がこんな風に口を開く時には、自分には思い付けないような凄い話を聞かせてくれるのが常だ。それを経験則で知っている由比ヶ浜は、期待に満ちた目で八幡を見つめる。

 

「その、貴方は何か、姉さんへの対策を思い付いているのかしら?」

 

 普段なら八幡の思い付きを誰よりも早く正確に把握する雪ノ下だが、今日この日ばかりは八幡の発想について行けそうにない。だが、たまにはそれも良いだろうと思えるだけの余裕が今の雪ノ下にはあった。

 

 真っ直ぐに期待のこもった目を向けてくる二人と、お兄ちゃん大丈夫かなとやや不安そうな眼差しの小町を順に確認して、八幡はおもむろに口を開いた。

 

「あのな、このあいだ部室で話に出しただろ。確か由比ヶ浜が”mutual”とか言い出して」

 

「えーっと、相互安全保障条約の話だっけ?」

 

 一学期の由比ヶ浜であれば平仮名の発音で口にしそうな単語を、漢字できちんと言えていることに少しだけ笑みを深めて、しかし八幡はそれを否定する。

 

「じゃなくて、その後の話なんだけどな」

 

「貴方、まさか……!」

 

 どうやら八幡の企みに気付いたらしい雪ノ下に、目だけで少し落ち着けと伝えて、八幡はまず前提の確認を行う。

 

「陽乃さんが言ってたように、OB・OGは文化祭に協力を惜しまないって姿勢なんだよな。で、それは陽乃さん本人も例外じゃないって考えて良いのか?」

 

「ええ。むしろOB・OG代表としての立場がありながら、在校生に難癖をつけて文化祭を台無しにするような事態が明るみに出れば……。姉さんの過去の成功も今の面目も、丸潰れになるでしょうね」

 

 まずは片側の確証を終えて、八幡は続けて確認を行う。

 

「逆に、陽乃さんが本気で今年の文化祭を潰してやるって考えたら……」

 

「それを座視するつもりはないのだけれど。今の私の力では、おそらく防げないでしょうね。花火大会の時に姉さんから聞いたと思うのだけれど、私と姉さんとでは役割が違うから。人脈という点で大きな差があるのよ」

 

「つまり、お互いにその気になれば、お互いを潰すことができる状況だよな」

 

 もう片側の確証も終えて、八幡はそう結論付ける。話に全くついて行けていない由比ヶ浜と小町も、八幡と雪ノ下の間に漂う不穏な空気を感じ取って、口を開くことができない。

 

「貴方は私に、それをやれと言うのかしら?」

 

「違うっつーの。実際に核戦争を起こすのが主眼じゃねーだろ。ただ、いざという時には覚悟を決めるって姿勢が陽乃さんに伝わらないと、意味がねーけどな。だから雪ノ下がこの話のキーなのは確かだ」

 

「え、えっと。ゆきのんでもヒッキーでもいいから、詳しく説明して欲しいんだけど……。なにか危険なことをするとか、そんなんじゃないよね?」

 

 おどおどとした口調で、しかし身近な存在を危険に晒すことには断固反対するという姿勢を垣間見せて、由比ヶ浜が会話に加わった。視線を交わして譲り合った末に、発案者の八幡が説明を始める。

 

「こないだ部室でちらっと言った”MAD”ってやつな。”Mutual Assured Destruction”の略なんだが、日本語で言うと……」

 

「相互確証破壊、ね。ただ、破壊という言葉が含まれているのだけれど、由比ヶ浜さんが心配するような危険なことは無いのよ。むしろ、二国間の平衡状態を得るための理論なの」

 

 八幡に説明を譲ったはずがユキペディアの血が騒いだのか、八幡のセリフを奪って平然としている雪ノ下だった。憮然とした表情の八幡に微笑みかけることで謝意を伝えて、雪ノ下はそのまま由比ヶ浜への説明を続ける。

 

「この世界は現実と比べて、記録という点で優れているので、姉さんの問題行動を根拠を添えて証明することができるのよ。たとえ姉さんが本気で私達を叩き潰したとしても、証拠を全て取り上げるのは事実上不可能だわ。ここまでは大丈夫かしら?」

 

「陽乃さんが悪いことをしても、証拠が残っちゃうってこと?」

 

「私達の手元にね。その逆に、私達がいくら姉さんを告発したとしても、文化祭や私達を本気で潰すと決意されたら打つ手は無いわ。どれだけ抵抗しても、残念ながら結果は見えている状態なの。これも良いかしら?」

 

「だから、相互……破壊ってこと?」

 

「お互いの確証が得られたら、後はどちらが行動に出ても、お互いに破壊されて終わるという結末が確定してしまうのよ。だからお互いに動けないという理論なの」

 

「ちょっと分かりにくいんだけど、実際に破壊し合うってことじゃないんだよね?」

 

「まあ、要するにお互いに脅し合ってる状態だわな。どっちが動いてもお互いの破滅が待ってるから、平和に行きましょうね、みたいな感じかね」

 

 その為には、相手が動いたら自分も必ず動くという覚悟が、更には決して最後まで思考停止に陥らないという姿勢が問われるわけだが、由比ヶ浜の優しい性格を考慮して八幡はそこまでの説明を避けた。解りやすさを優先して正確性を犠牲にした八幡に、雪ノ下が無言の圧力を掛けるが、目線で由比ヶ浜を示されて不承不承ながら矛を収めた。

 

「お兄ちゃんの案だし、何だかろくでもない事になりそうなんだけど、大丈夫?」

 

「まあ、実行するのは俺じゃねーからな。雪ノ下なら適切に運用してくれるだろ」

 

 適当な口調ながらも、その奥に信頼の気持ちを感じ取った雪ノ下は、話の終わりが見えて残念に思う自分に気付いていた。一年前には無味乾燥に思えた高校生活だったが、こんな日々がこれからも続いて欲しいと思いながら、雪ノ下は口を開く。

 

 

「そうね。姉さんへの対策も立ったことだし、せっかくなのでもう少し雑談でもしましょうか」

 

「やった。難しい話が続いてて、そろそろ限界だったんだよねー」

 

「じゃあ小町は、飲物のお代わりを取ってきますねー」

 

「俺がやるから小町も座ってろ。なんか希望はあるか?」

 

 雪ノ下の珍しい提案に即座に由比ヶ浜が賛成して、小町が動こうとしたものの八幡が先んじる。各自の希望通りの飲物を持って来た八幡は、なぜか立ったままこんなことを口にした。

 

「さっき小町が、雪ノ下と由比ヶ浜の間に俺を座らせようとしてたよな。この際お前が座ったらどうだ?」

 

「お、お兄ちゃんナイスアイディーア。お二人さえよければ、小町が間に座ってもいいですか?」

 

 先程まではソファの角に雪ノ下が座り、L字型ソファの両端に由比ヶ浜と小町が腰を下ろしていたのだが、小町が二人の返事を待つことなく強引に割り込んで、今はソファの片側に三人が並んでいる形になった。

 

 小町の怪しげな発音と即座の行動力に苦笑しながら、八幡は「ちょっと待ってろ」と言い残すと廊下に出て行った。首を傾げる三人だったが、ほどなくして帰って来た八幡が抱えているものを見て、たちまちその意図を了解する。

 

「ほれ、雪ノ下」

 

 そう言ってカマクラを差し出す八幡に、雪ノ下が驚きの残った目を向けて嬉しそうに「ありがとう」と口にした。雪ノ下が猫好きであることはとうの昔にバレているし、一方の由比ヶ浜が猫を少し苦手にしていることも八幡は把握していた。ゆえに事前の席替えを実行したのだった。

 

「んじゃついでだし、バンドの打ち合わせでもするか」

 

「お兄ちゃん、ホントにバンドをやるんだねー。昔お父さんが断念したギターを物置から引っ張り出して来て、なんか格好だけつけてた時には、こんな日が来るなんて思わなかったよ。よよよ……」

 

「だからわざとらしい泣き声とか俺の黒歴史の紹介とか止めて欲しいんだけど。つかお前らも笑いすぎだろ……」

 

 せっかく良い思い付きを実行に移して満足げに腰を下ろした八幡だったが、妹の発言で色々と台無しである。Fコードの壁を乗り越えられず、父に続いてギターに挫折した過去の苦い記憶を思い出しながら、八幡はキッチンの方角を眺めてふて腐れる。

 

「今度は比企谷くんがギターでも面白いかもしれないわね」

 

「じゃあ、ゆきのんがドラム?」

 

「それでも良いし、小町さんが叩きたいなら挑戦してくれても良いわよ。ただ、ちゃんと合格してからの話ね」

 

 一気に現実に引き戻された小町だったが、雪ノ下の応援の気持ちを感じ取れないほど鈍感ではない。心の中にある不安は考えないようにして、小町は受験のことだけを考えようと努める。今日はいい気晴らしができたことだし、寝る前に少しだけでも勉強を頑張ろうかと小町は思った。

 

「じゃあさ、小町ちゃんのやる気に繋がるように、あたしたちも演奏を頑張らないとね!」

 

「そうね。課題曲はこの曲で良かったのかしら?」

 

「それなんだがな。この曲とかは難しいのかね?」

 

 八幡が名前を挙げた曲を、頭の中で演奏しているのだろうか。少し時間を置いた後で、雪ノ下が口を開く。

 

「そうね。比企谷くんがこの前に挙げた曲と比べると、少し難しい部分はあるのだけれど……由比ヶ浜さんの選曲基準にも合っているし、悪くないと思うわ」

 

「ま、とりあえずは練習だな」

 

「そうね。……比企谷くんと由比ヶ浜さんは、今日の練習はもう済ませたのかしら?」

 

 何やら少し考えた末に、雪ノ下はそう問いかけた。首を横に振る二人を責めることなく、むしろ嬉しそうな表情になって、雪ノ下は言葉を続ける。

 

「では、解散の前に今から部室で練習しましょうか。その、少し考えていることがあるのだけれど。貴女たちが練習している横で、ヴォーカルのメロディーと貴女たちの担当パートの音だけを録音したものを用意しようと思うのだけれど」

 

「えっと、それってゆきのんが実際に弾いて録音するってこと?」

 

「そうね。ベースはエレクトーンを使えば一度で録音できそうだけれど、ドラムスはダビングを重ねないと難しそうね」

 

 なんだか凄そうなことを簡単に口にする雪ノ下に、八幡も由比ヶ浜も小町も苦笑するしかない。それに実際に聞いてみないと判らない部分があるとはいえ、雪ノ下が作ろうとしているものは二人にとって有益なものに思える。

 

「すぐに移動するなら、雪乃さんと結衣さんが小町の個室で脱いだままの靴を取ってくるけど?」

 

「や、いいよ小町ちゃん。ちょっとだけ個室にお邪魔して靴を取ってきて、それからヒッキーの個室を通って部室に移動しよっか」

 

「あー。さっき靴を玄関まで持っていったのに。ま、仕方ねーか」

 

 小町の提案をきっかけに話が進んで、どうやらこの日の集まりにも終わりが見えてきた。そんな雰囲気を感じ取って、雪ノ下が口を開く。

 

「ではそろそろ移動しましょうか。小町さん、今日は本当にありがとう」

 

「いえいえー。雪乃さんも結衣さんも、お兄ちゃん関係なしにまた遊びに来て下さいねー!」

 

 こうして、良い点でも悪い点でも盛り沢山だった一日がようやく終わった。




次回は来週の木曜日、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を一つ修正し細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/3,18,4/2)


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09.めざすべき方向を彼と彼女はそれぞれ見据える。

本話も文字数が多めで少しシリアスな話が含まれます。ご注意下さい。

以下、前回までのあらすじ。

 由比ヶ浜と一緒に八幡の帰りを待っていた雪ノ下は、自分と葉山の関係や小学生の時の出来事を伝えた。内心の動揺を誤魔化すために八幡が口にした言葉は、自分が悩んでいたことは昔の話であり、第三者からすればそれほど深刻な話ではないという気付きを雪ノ下にもたらす。そんな雪ノ下の復調を受けて、由比ヶ浜も小町も普段の調子に戻って行った。

 続けて八幡が陽乃対策の必要性を主張し、案を述べる。雪ノ下の了承を得て、更には危険な話ではないと説明して由比ヶ浜から了解を得て。最後に小町の心配を、プランの運用者である雪ノ下への信頼を理由に退けて、対陽乃の基本方針が決まった。

 その後はバンドの打ち合わせをして部室で練習を行って、濃密な一日がようやく終わった。



 一夜明けた木曜日。比企谷八幡が教室に入ると、この日も由比ヶ浜結衣が忙しなく動き回っていた。八幡には見覚えのないクラスメイトと話していたかと思えば、所属するトップカーストの面々に近付いて何かを相談して、今度は立ったままで誰かにメッセージを送ろうとしている。

 

 そんな由比ヶ浜の邪魔にならないようにと、八幡は可能な限り気配を消して自席まで移動して、ゆっくりと周囲を見回した。クラス内の雰囲気はそれほど緊迫しておらず、ばたばたと動いていた割には由比ヶ浜の表情からも余裕が窺える。そして何よりも残念なことに戸塚彩加の姿が見えない。おそらくは朝練の真っ最中なのだろう。これらを勘案して八幡は、事は切迫したものではないのだろうと結論付けた。

 

「あ!」

 

 自己の存在感を無に近付けたまま周囲を観察していたはずが、メッセージを送り終えたらしい由比ヶ浜と目が合ってしまった。仕方なく軽く手を挙げて「お疲れ」という意図を伝えると、由比ヶ浜は心持ち首を傾けることで「お昼は部室で大丈夫?」と尋ねてくる。それに小さく頷いて応じると、由比ヶ浜は笑顔で「よしっ!」と口にして、ぱたぱたと小走りで廊下に出て行った。他のクラスに用事があるのだろう。

 

 昨日の夕方であれば、由比ヶ浜が事情を説明に来ないことで精神的なダメージを受けていたかもしれない。自分が要らない子ではないかと落ち込んでいたかもしれないが、カラオケから自宅での会合までを経て、八幡はすっかり普段の調子を取り戻していた。だから根拠に乏しいことで悩みはしないのだが、下手に心理的な余裕があるせいで、今の八幡は根源的な悩みと向き合える状態にあった。

 

 

 今朝の由比ヶ浜が何を理由に動き回っているのかは判らない。先程から確認している通り、問題は深刻なものではないのだろう。では何故、おそらくは些細な問題の解決の為に、由比ヶ浜がここまで動かなければならないのだろうか。

 

 誰にも話しかけられないように机に突っ伏して、寝不足だから邪魔をするなという雰囲気を最大限に醸し出しながら、八幡は独り思索に沈んでいく。

 

 昨日の生徒会長との話を八幡は思い出す。文化祭に向けて替えが利かない人材を問われた八幡は、城廻めぐりと雪ノ下雪乃の名前を挙げた。続いて戸塚が、八幡と由比ヶ浜と生徒会役員の名を挙げた。自分の名前が含まれているのが何やら面映ゆいが、それにしてもこれだけ大勢の生徒が居るのにたったこの程度かと八幡は思う。一年生にまだ遠慮があり、三年生が受験優先だとしても、もう少し頼れる人材が居ても良いのではないか。

 

 もちろん、クラスの出し物の為に必要だという理由で実行委員に入っていない人材も居るのだろう。二年F組なら海老名姫菜がそれに該当する。もし彼女が実行委員会を手伝ってくれれば、きっと有能な戦力になっただろう。布教活動が大規模になるという負の側面から目を逸らしながら、八幡はそんなことを考える。

 

 だが、話をクラスに限定しても、やはり状況は同じではないかと八幡は思った。このF組の中で文化祭に向けて外せない人材は、劇の主役を務める二人(戸塚と葉山隼人)、監督・演出・脚本を兼ねる海老名、クラスに睨みを利かせる三浦優美子、そして人間関係のトラブルに強く各々が動きやすい環境を作ってくれる由比ヶ浜ぐらいだろう。

 

 葉山グループの一員としてクラス内ではトップカーストに位置する男子生徒達は、葉山にとっては必要かつ有用な連中なのだろうが、個々で考えると必須の人材ではない。かろうじて戸部翔がムードメーカーとしての役割を期待できる程度で、他の二人は表舞台に立ちたくない理由でもあるのかと言いたくなるほどだ。

 

 もしかすると男子だけの場では違った姿を見せるのかもしれないし、五月に主にクラス内で広まった嫌な噂の後遺症が今なお残っているのかもしれない。そうした扱いに慣れている八幡とは違って、目に見えない誰かからの悪意に初めて晒されたのなら(実際は、それを悪意と自覚できぬまま他者に向けて、それがもたらす影響に怯えてしまったからなのだが)、考え方や行動が変容することもあるだろう。

 

 ともあれどんな理由があるにせよ、そうした彼らの立ち位置は同じくトップカーストに属する三浦たちからの扱いでも明らかだった。だが、その話は今はどうでも良いことだと思い直して、八幡は思考を元に戻す。

 

 

 雪ノ下が文化祭の成功に向けて、並々ならぬ闘志を燃やしているのは知っている。おそらくは姉の存在が原因なのだろうが、今のところそれは良い方向に作用していると八幡は考えていた。

 

 だがそもそも、たとえ雪ノ下にどんな理由があろうとも、そして奉仕部として依頼を受けた状況であったとしても、雪ノ下がここまで個人の時間と労力を費やす必要は果たしてあるのだろうか。

 

 もちろん雪ノ下にしてみれば、ほんの些細な労力なのかもしれない。しかし、あの質も量も桁外れの文化祭対策マニュアルを一晩で作れるからといって、その恩恵を安易に享受するだけで良いのだろうか。むしろ雪ノ下は、その一晩という時間を他に向けるべきではないか。職場見学の際にゲームマスターが雪ノ下本人に伝えたように、もっと別の有意義なことに時間を費やすべきではないか。それだけの才能が、価値が雪ノ下にはあると八幡は思う。

 

 

 簡潔に言ってしまえば、高校の文化祭ごときの為に雪ノ下と由比ヶ浜を酷使するのはあまりに勿体ないではないかと、八幡は疑問を持ってしまった。

 

 とはいえ、当人達に文句がないのであれば、八幡に二人を止める権利はない。そしておそらく、二人に否やは無いのだろう。では、八幡は。

 

 

 八幡は改めて、己の行動を振り返る。二人が文化祭のために動いていたから自分も動いていたのだろうか。一部分は正しいが、それが全てではなかったと八幡は思う。では依頼だから動いていたのか。それは確かにその通りだと八幡は思う。

 

 まだ二週間も経っていない、夏休み最後の土曜日に行った勉強会のことを八幡は思い出す。あの時に八幡は心中でこっそりと「次の依頼でも結果を出す」ことを誓った。それは何故か。目に見えた結果を出したいと思ったから。それは、何か他人に誇れるものを得たいと思ったから。それによってようやく自分を、そして他人を信じられるようになると思ったから。そうして初めて、自分に好意を向けてくれるごく僅かな人たちと、きちんとした形で向き合えると思ったから。

 

 では、今の自分はあの二人と、きちんと向き合えていないのだろうか。その通りだと八幡は思う。だから歪な受け止め方をしてしまうのだ。誰かに嫉妬をしたり、こんな風に二人を摩耗させるなと考えてしまうのは、その根本的な原因はそこにあると八幡は思う。

 

 では、あの二人と一緒に依頼と向き合ったり仕事をしたりバンド練習をしている時に感じる気持ちもまた、間違ったものなのだろうか。あの時間を楽しいと感じている自分は……。

 

 楽しいなぁ、と。そう口の中で呟いた。誰にも聞こえないはずの音量で。机に突っ伏したまま。

 

 そう。楽しいのは間違っていない()()だ。そこが崩れてしまえば何もかもが無意味になる。その恐怖感に背中を押された部分はあったにせよ、八幡は心中に湧き起こった疑問を退ける。今のままでも、二人ときちんと向き合えていない自分でも、楽しいと思うことができる。それはあの二人の魅力が為せる業なのだろうし、だからこそ、二人ときちんと向き合えた時にどんな感情を抱くのか、それを知りたいのだと八幡は思う。

 

 ではその為には何でもやるのかと自問して、八幡は沈黙する。そしてふと、二人の扱いに不満を抱いたのは、単なる自己の投影ではないかと思い付いた。自分と彼女らを同一視して、あたかも自分が二人と同じ状況に陥っているかのように考えて、ゆえに過剰反応したのではないかと八幡は推論を立てる。

 

 なぜならば、どうでも良い連中のためにどうして自分の時間や労力を費やさなければならないのかと考えているのは、他ならぬ八幡自身だから。

 

 それがあの二人の為ならば、あるいは八幡とも面識がある彼女らと親しい連中のためであれば、それも良いと八幡は思う。顧問が認めた依頼人のためならば、それもありだと八幡は思う。だが文化祭の為とはいえ、そして彼女らの為という部分も依頼だからという部分も確かにあるとはいえ、どうして自分が有象無象の全校生徒のために働かなければならないのか。

 

 問題の本質はここだと考えて、八幡は再び当初に提起した課題に戻る。おそらくは程度の問題だ。だがだからこそ限度というものがある。もしもあの二人が倒れてしまうようなことがあれば、事態があの二人の意に沿わぬ方向に進むのであれば、自分は断固としてそれらの解消のためだけに動こうと八幡は思った。

 

 

 気が付けば朝のホームルームが終わって、この日最初の授業が始まろうとしていた。

 

 

***

 

 

 昼休みにいつも通りに気配を殺して教室を抜け出して、八幡はゆっくりと部室に向かっていた。雪ノ下と二人きりになることに、少しだけ気後れする気持ちがあったからだった。とはいえその原因は雪ノ下にあり八幡には無い。

 

 昨夜、八幡の家のリビングで真面目な話が終わって雑談が始まった時に、八幡は思い付きでカマクラを連れて来て雪ノ下へと託した。それは本当に良い思い付きだったと八幡は考えているし、事実雪ノ下は一日の疲れが吹き飛んだと言いたげな表情で、優しくカマクラをあやしていた。

 

 だが、色々と破壊力が高かったのも確かだった。カマクラの前足を両手で持って、ギターの話をしながらピッキングの動きをさせたり、ドラムスの話をしながらドラムロールをさせたり。それらの音を口ずさみながら披露するものだから、他の三人はほとほと反応に困ってしまった。

 

 楽しそうだし可愛いし面白いからこのままやらせておこうと視線だけで意思統一を果たして、雪ノ下の動きを一切遮らず何事も起きていないかのように振る舞ったのは良かったのか悪かったのか。部室に移動して練習をする段になっても猫と一体化したままの雪ノ下からようやくカマクラを取り上げて、それまでの行動の記憶が一気に脳裏に浮かんだのだろう。雪ノ下は静かにぷるぷると震えた後で、何事も無かったかのように移動を宣言した。

 

 そして昨日の今日である。八幡は部室の近くで立ち止まって、静かに由比ヶ浜の到来を待った。

 

 

「ヒッキー。なんで先に行くし!」

 

 しかしようやく現れた待ち人は、この日はひどくお怒りだった。だが由比ヶ浜がいつも以上に怒っている理由が判らないだけに、八幡は首を傾げて説明を求める。ぷんぷんしながら由比ヶ浜が口を開いた。

 

「だって朝、『お昼は部室まで一緒に行こ?』って尋ねたら、頷いてくれたじゃん!」

 

「いや、ちょっと待て。俺は『お昼は部室で大丈夫?』って意味に受け取ったんだが」

 

「それだったら毎日のことだし、こんな風に軽く頷きながら目だけで尋ねればいいじゃん。こうやって首を横に動かしたんだし、いつもと違う話だなって……ってごめん。よく考えたら無理かも」

 

 由比ヶ浜の可愛らしい仕草に内心ではドキドキしながらも、話しながら冷静に戻ってくれて良かったと八幡は思った。とはいえ、朝方の由比ヶ浜が嬉しそうにしていた理由を理解してしまい、八幡は少しだけ申し訳ない気持ちになる。だが「お昼は部室」までは伝わっていたのだしとポジティブに受け止めた由比ヶ浜がそのまま話を続けた。

 

「あ、でもさ。最初にヒッキーが手をこうやって動かしたのって、『お疲れ』って意味だよね?」

 

「おう。てかよく解ったな」

 

「よかった。あたしが尋ねたのも、あとちょっとだったし。次はちゃんと伝えるからね!」

 

 由比ヶ浜は自分をよく見てくれているなと八幡は思う。人間観察はぼっちの特質だったはずなのにと思いながらも、今日はやはり心理的な余裕があるからなのだろう。八幡は捻くれた思考に陥ることなく、由比ヶ浜の美点をそのまま受け入れることができた。だが要望を受け入れるかといえばそれは別の話である。

 

「つか、そういう恥ずかしいことからは逃げるから、解るも解らないも無いんだけどな」

 

「むー。でもさ、恥ずかしいっていっても昨日のゆきのん……やばっ!」

 

「おい。もし聞こえてたらお前が責任取れよ?」

 

「ちょ、ヒッキー、見捨てないでよ。だって昨日のゆきのん、めっちゃ可愛かったじゃん」

 

「確かに猫語で歌いながらカマクラの手を動かす雪ノ下が可愛かったのは認めるが、俺を共犯にするのはやめろ」

 

「ぶー。ゆきのんに聞こえてませんように。じゃ、部室に入ろ。……やっはろー!」

 

 何に対して祈ったのか、そもそも効果があるのか分からず困惑する八幡の手を取って、由比ヶ浜は今日も元気よく、部室の扉を開けながら挨拶を送る。全てのやり取りを耳にしていた雪ノ下は、由比ヶ浜に軽く頷きを返すのがやっとだった。なお余談ながら、この日の三人の会話の中には猫のねの字も出なかった。

 

 

***

 

 

「じゃあ、今日の昼は練習する時間も無いんだな」

 

「私が忙しいだけで、比企谷くんと由比ヶ浜さんはここで練習していてくれても良いのだけれど」

 

 廊下での会話がどこまで伝わっているのか(雪ノ下の反応を見る限り、全く伝わっていないとは二人には思えなかった)、びくびくしながら席に向かうと、雪ノ下がお茶も出さずにすぐさま配膳を始めた。ものすごく怒っていらっしゃると考えて更に身をすくめる二人だったが、雪ノ下は少し顔を赤くしながらも、食事を急ぐ理由を説明してくれた。

 

「全校放送は、ちょっと手伝えることが無いなって思うけどさ。さいちゃんと話をするなら、あたしたちも一緒に行くよ。ね、ヒッキー」

 

「だな。てか、お前が自ら説明しなくても、俺か由比ヶ浜が伝えて終わりで良い気もするんだが」

 

「どうせなら、この際だから自分で伝えてみようかと思ったのよ」

 

 女子会で説明して八幡にも伝達した内容を、昼食後にテニスコートに出向いて戸塚にも直接告げるつもりだと雪ノ下は言った。

 

 確かに雪ノ下と戸塚は、顔を合わせた機会こそ多いものの、二人だけで向かい合ってやり取りをした場面はほとんど無かった。だから八幡と由比ヶ浜は気を回して、戸塚には二人のいずれかが話を伝えておくと提案したのだが、雪ノ下の考えは違ったらしい。対話を回避する理由も無いのに、今回ですら直接向き合うのを避けるようでは、関係が深まらないまま終わるだけだと雪ノ下は主張した。

 

「うーんと。じゃああたしとヒッキーは、草葉の陰から見守ってるね!」

 

「おい、それだと俺ら死んでるからな」

 

「由比ヶ浜さん。草葉の陰とは、墓の下とかあの世って意味なのだけれど」

 

 国語三位と一位による容赦のない指摘に、由比ヶ浜があわあわとしている。その姿に苦笑しながら、雪ノ下が発言を続けた。

 

「戸塚くんと話をして、それから生徒会室に移動して校内放送を行って。今朝からの馬鹿げた騒動を私が完膚なきまでに叩き潰している間に、二人はバンドの練習をしてくれて良いのよ?」

 

 廊下での会話はかなりダダ漏れだったのだなと冷や汗を流しながら、部長様のかたじけないお言葉に二人は何度も深く頷いていた。とはいえ事情を把握しているのであろう由比ヶ浜とは違って、八幡は校内放送を行う理由も、今朝からの馬鹿げた騒動とやらも把握できていない。それを口にすると、雪ノ下が簡単に説明してくれた。

 

「要するに、部長会議の時に最後まで意地を張っていた残党が、昨日の噂を耳にして行動に出たのよ。具体的には掲示板にビラを貼って、私と葉山くんに謀られたから予算配分は無効だと主張しているのだけれど。小学校が同じというだけで人はどれほど発想を飛躍させられるのか、ケーススタディとしては面白いかもしれないわね」

 

 密かにショックを受けたり妬心を抱いた者としては、そんな研究は止めて欲しいですと心の中で呟く八幡だった。とはいえ確かに、これほど人によって受け取り方が違う情報もなかなか無い気がする。先程の由比ヶ浜との間に起きた非言語的コミュニケーションの齟齬と比べてしまい、あの動きであそこまで伝えられた自分たちは実は凄いのではないかと、少し照れくさい気持ちになってきた八幡だった。

 

 そうした気持ちを誤魔化すように、八幡は思い浮かんだ心配事をそのまま口にする。

 

「その、なんだ。昨日もあれから陽乃さんと一緒に過ごしてたんだろうし、今日の昼もそんなハードスケジュールだろ。お前、体調とかは大丈夫か?」

 

「そうだよ、ゆきのん。無理しないで、休める時には休んでね」

 

「正直に言うと、由比ヶ浜にも同じことを言いたいけどな」

 

「うえっ、って変な声が出ちゃったじゃん。その、ヒッキーが心配してくれるのは嬉しいけどさ。あたしは元気が取り柄だし、ゆきのんやヒッキーと違って、動いてどうにかするしかできないから……」

 

「それでも、由比ヶ浜さんが集めてくれた情報や、色んな配慮によって、私は随分と助かっているのよ。だから自分を卑下しないで、もっと自信を持って欲しいのだけれど」

 

 良い話だなぁと傍観者ぶりたい八幡だったが、助かっているのは自分も同じである。だがそれを口にするのも恥ずかしいので、八幡は由比ヶ浜の目を見てゆっくり頷くに止めた。今回は意図が完全に伝わっていることを確信しながら。

 

 そんな二人を温かく見守った後で、再び雪ノ下が口を開く。

 

「比企谷くんにも、心配を掛けているとは思うのだけれど。貴方も知っているように、奉仕部で過ごす時を除けば、授業中も放課後も保健委員が近くに控えているのだし。最近では家のことに時間を費やす必要も無くなったので、今の調子なら大丈夫よ」

 

 そういえば、それも少し面白くないと思ってしまったんだよなと八幡は記憶を蘇らせる。雪ノ下の指名で実行委員に抜擢という辺りが気に入らないなと、実行委員会の渉外部門に身を寄せることになった自身の経緯を完璧に棚上げしながら八幡は思った。

 

 とはいえ苛立つほどでもないのは、雪ノ下が彼に求めているのは健康面の指摘だけだと理解できているからなのだろう。雪ノ下の横暴もとい要望に応えるのは大変なんだからなと、頭の中で上から目線で愚痴をこぼしていたせいで、八幡は後半の発言を聞き流してしまった。

 

 少しだけ残念そうに、しかし事情が判明した時の反応が楽しみだと考えながら、雪ノ下は話を続ける。その時には由比ヶ浜と同じように、彼も驚いてくれるだろうと期待しながら。

 

「問題があるとすれば、運営との打ち合わせに出向いている時かしら。守秘義務があるので誰かを同行させるわけにもいかないし、難しいところね」

 

「ちょっと待て。守秘義務って、お前また運営と何かを開発してたりするのか?」

 

「前はたしか、この世界でペットと過ごした記憶を残せるように、ゆきのんが考えてくれたんだよね?」

 

 八幡と由比ヶ浜の食い付きが良いことに気をよくしながら、しかし現時点で話せることは無いだけに、雪ノ下は概略を述べることしかできない。

 

「今度の文化祭を盛り上げるために、あと一週間強で間に合うようにと、運営は今てんやわんやなのよ。そんな状態なのに全体の統制は取れているのだから、あのゲームマスターの手腕には学ぶところが多いわね」

 

「ほーん。ま、当日のお楽しみって感じかね。とりあえず今の優先事項は、さっき言ってた全校放送だろうしな」

 

 そうした事情を良い形に受け取ってもらえて、話が元に戻ったことに雪ノ下は苦笑する。隣で「あ、そうだった!」と意識を引き締めている由比ヶ浜をちらりと確認していると、予想外に八幡がそのまま話を続けた。

 

 

「ちょっと思ったんだけどな。六月の話をまだ持ち出そうとしてる時点で、そいつらがろくでもない連中だってのは分かるし、そんな奴らのために時間を使うのって、なんかアホらしくね?」

 

「そうね。貴方の主張はとてもよく理解できるし、私も馬鹿馬鹿しいことだと思っているわ」

 

 今朝からずっと考え続けていたことを、その真剣さをなるべく表に出さないように注意しながら、八幡は軽い口調で雪ノ下に尋ねる。けれども問われた雪ノ下は真面目な表情を八幡に向けて、こう答えた。なぜならばこの問題は、かつて雪ノ下の頭を悩ませた問題でもあるのだから。

 

 くだらない連中に合わせる形で自分の行動を決定されてしまうような、そんな世界は間違っている。かつての雪ノ下はそう考えていた。だから自分がこの世界を変えるのだと。だが、()()()()に巻き込まれて色んな縁に恵まれて、雪ノ下は次第にその考え方を変化させていった。

 

 おそらく姉は、姉妹ともにこの世界に巻き込まれたのだと知った私が、一歩引いたと受け取っているのだろう。母に課せられた各々の役割に従うために。あるいは、思考停止の結果だと考えているのかもしれない。だがどちらも違うと雪ノ下は思う。

 

 強いて言えば、自分自身と自分の周囲を精確に観察するために一歩引いたのだと、雪ノ下は心の中で呟く。そこには明確な差異があると雪ノ下は思う。母や姉といった自分以外の存在によって引かされるのと、はっきり自分で判断して引くのとでは全く違う。

 

 それに私は自分の問題に、余裕がなくなった時に陥りがちな傾向に気が付いているし、既に対策も講じている。一つは可能な限り余裕を持ち続けること。もう一つは頼るべき対象であっても「何もかも敵わない」とは思わないこと。後者はこの世界でゲームマスターと対話をして打ちのめされ、しかし以後は接する機会が無かったお陰で学べたことだった。日常的にあの人と顔を合わせる環境だったら危なかったと雪ノ下は思うが、それは仮定の話でしかない。

 

 自分と対等な関係で、そして自分とは違ったアプローチで物事に挑める存在を得られたなら、問題は綺麗に解決するのではないかと雪ノ下は思った。そしてそれは現実のものとなっている。むしろ、解決法を思い付く前に現実がそうなっていたと言ったほうが正しいのだろう。

 

 どこまでが偶然でどこまでが作為でどこからが必然だったのか、今となっては判別できないし、それをする必要もないと雪ノ下は思う。なんであれ同じ部活に集まったこの三人は、お互いを補い合うことができると雪ノ下は確信している。そして、他の二人のやり方を見て、私は正攻法以外にもやり方があるのだと、同時に正攻法にも別の意味を持たせることができるのだと学ぶことができた。そう内心で考えながら、雪ノ下は話し続ける。

 

「とはいえ、それも使い方次第だと思うのよ。一つの目的の為だけに一つの行動を行うのであれば徒労になるとしても、その行動によって別の目的を果たせるのであれば、話は違ってくるでしょう?」

 

 本当は、これは自分が偉そうに言える話ではないのだと雪ノ下は思う。目の前の二人から学んだことを言葉にして返しているだけなのだから。行動に複数の意味を持たせること自体は、自分も以前から実行していた。だが過去の自分には視野が足りなかったと雪ノ下は思う。だから世界を変えるなどという途方もない方向に思考が向いて、それ以外に目を向けることができなかったのだと。

 

 目下の問題である反対派の残党に対しても、かつての自分ならただ正面から正論で叩き潰すだけだっただろう。だが由比ヶ浜ならそんな彼らにすら気を配って、今後もそれなりの毎日を送れるようなフォローを考えるのだろう。八幡なら問題の根本に目を配って、彼らが二度と同じような話を持ち出さない形で潰すことを考えるのだろう。いずれも、かつての自分には思いもよらないやり方だ。

 

「なんかお前、陽乃さんの域に至ってねーか。楽しそうなのも誰を利用するのも結構だけど、由比ヶ浜の忠告ぐらいはちゃんと聞くようにしろよ」

 

 残念ながら、自分だけでは未だ姉の域には至らないと雪ノ下は思う。だが昨日のようにこの男子生徒が案を出してくれて、そして今まで同様にこの女子生徒が支えてくれるのであれば、相手が姉であっても、あるいは()()()にすら対抗できる気がする。これは決して二人に依拠した形ではないと、雪ノ下()思う。

 

 そんなことを考えながら静かに笑みを浮かべて、雪ノ下は八幡の片手落ちの意見を訂正する。

 

「あら。貴方の話は聞かなくても良いのかしら?」

 

「もう。ゆきのんもヒッキーも、『お互いに助け合おうぜ』って言えば済むのにさ。今日の問題は、ゆきのんが全校放送で何とかしてくれそうだけど。また何かあったら三人で協力して解決するって、約束だからね!」

 

 挑発気味に八幡に語りかける雪ノ下を見て、由比ヶ浜が呆れながら口を開く。捻くれた二人の物言いに対して模範解答を提示して、話をまとめにかかった。苦笑しながら八幡が応える。

 

「へいへい。つっても、お前らに頼るほどでもない時は、勝手に解決しても良いんだろ?」

 

「……そうね。逆に比企谷くんは、私達が勝手に解決しても大丈夫なのかしら?」

 

 二人の負担を懸念した八幡が軽い口調で問いかけると、対照的に雪ノ下は重い口調で応える。由比ヶ浜と八幡が首を傾げていると、雪ノ下が続けて説明を始めた。

 

 

「貴方が奉仕部から距離を置いていた時に、私達が色々と動いていたことがあったでしょう。その話は済んだ事だと分かった上で繰り返すのだけれど。私や由比ヶ浜さんが貴方の単独行動を信頼するのと同じように、貴方も私達の行動を信頼してくれていると考えて良いのかしら?」

 

 雪ノ下の頭には、八幡が千葉村で呟いた言葉があった。二日目夜のキャンプファイヤーの時に、一緒にゲームをした小学生の集団とすれ違っても、あの女の子は声をかけてくれなかった。その時に八幡が口にした言葉を雪ノ下は思い出す。あちらの事情は二人とも充分に理解していたので、おそらくは軽口のつもりだったのだろう。しかしその中には、まぎれもない彼の本音があったと雪ノ下は思う。

 

『なんてか、報われねーな』

 

 あの時に八幡は、己の行動が報われないことよりも、雪ノ下の行動が報われないことを気遣って声をかけてくれた。おそらく本人としてはそれほど深い意図は無かったのだろう。だがだからこそ、八幡の素の感情が伝わって来たように雪ノ下には思えた。

 

 自分や、おそらく由比ヶ浜の行動も報われて欲しいと、この目の前の男子生徒は考えているのだろう。しかしその思いと信頼とは別個のものだ。そしてそれをはき違えると、自分が頼るべき対象だと思っていた存在は、その意義を変える。最悪の場合は、姉が言う「もっとひどい何か」へと変貌してしまう。

 

「そう……だな。信頼してる、っつーか。……信頼したい、って思ってる」

 

 実は雪ノ下の指摘は、最近の八幡にとってはクリティカルな問題だった。クラスの出し物について海老名と話していた時に言われた「過保護」という言葉や、由比ヶ浜と花火大会に行く道中で言われた「お兄ちゃんみたい」という言葉が、ふとした時に頭の中で蘇って八幡を悩ませていた。

 

 昨日カラオケの店内で戸塚に相談したことを八幡は思い出す。由比ヶ浜とどんな話をすれば良いのかという相談は確かにこのところ八幡が悩んでいたことなのだが、同時にある意味では建前だった。それを隠れ蓑に、ヒントだけでも得られればと思いながら話題に出したに過ぎなかった。真剣に答えてくれたのに申し訳ないとは思うが、いくら相手が戸塚でも、悩みを全て打ち明けられるわけではない。

 

 八幡にとって、最も身近な異性と言えば妹である。もちろん肉親であるがゆえに性的な感情は持ち得ないが、妹に対するのと同じように異性と向き合うのは、八幡にとって最も気安い選択だ。そしてそこにこの問題の本質があるのだろうと八幡は思う。

 

 相手が妹であれば、実際に「お兄ちゃん」であれば、ある程度は「過保護」になっても許されるのだろう。だが由比ヶ浜や雪ノ下に対してはそれは許されない。助けたいのに、手を出したいのに出せないという状況はきっとあるだろう。そんな時に、自分は果たして二人を信頼して、ただ見守るだけの状況に耐えられるのだろうか。

 

 昨日の夕方、由比ヶ浜は元気が無さそうに見えた。だが八幡は、どこまで踏み込んで良いのか分からなかった。そもそも雪ノ下と葉山が同じ小学校だったという話を聞いて落ち込んでいたので、仮に踏み込む限界が見えていたとしても、踏み込む勇気はおそらく無かった。だから戸塚と一緒にカラオケに行けることを少し大袈裟に喜んで、由比ヶ浜の気を晴らそうとした。

 

 由比ヶ浜と海老名の着目点は正しいと八幡は思う。自分が楽だからとそうした対応を続けていれば、いずれ破綻する。だから八幡は二人を信頼できるようになりたい。しかしその為には、自分を信頼できないと難しい。自分の決断すら信頼できないようでは、二人と適切な関係を築くなど絵空事だろうから。

 

 信頼できるとは断言できず、しかし八幡はギリギリの言葉を、彼の心情を表すのに最も適切な言葉を口にした。

 

「ええ、それで良いわ。信頼は、押し付けるものではないのだから。由比ヶ浜さんの誕生日に話し合った時に、貴方は『俺のやりかたが嫌いだと思ったら、その時は遠慮なく言ってくれ』と口にしたわね。もしも私達の行動が信頼に値しないものだと思ったら、その時は貴方も遠慮なく言ってくれたら良いわ。もちろん私も由比ヶ浜さんも、貴方の信頼を裏切るような行動をするつもりはないのだけれど」

 

「うん、だね。ただ、つもりだけはあっても、実際にどうなるかは分かんないからさ。ゆきのんやヒッキーが失敗するのって、あんまり想像が付かないし、あたしが一番迷惑をかけるかもだけど。もしゆきのんやヒッキーが何か小さな失敗をしたとしても、次の機会にそれを返すって感じにして、仲違いはして欲しくないなって」

 

「まあ、あれだろ。どう考えても俺がお前らに見捨てられる可能性が一番高いだろ。だからお前の心配は杞憂っつーか、俺が問題を起こした時には雪ノ下に取りなして欲しいっつーか、そんな感じだな」

 

 威張って言えるような内容ではないのに、八幡は敢えて胸を張って堂々と言い切った。いつものように雪ノ下が片手を頭に当てているが、その表情は明るい。いつものように由比ヶ浜が唇を尖らせているが、その目は笑っている。

 

 悩み事が全て解決したわけではないのだが、と八幡は思う。解決したわけではないのだけれど、と雪ノ下は思う。二人は何を悩んでいるんだろう、と由比ヶ浜は思う。それでも、三人は前を向いて動き出すことができる。

 

「そろそろ、テニスコートに移動しようと思うのだけれど?」

 

「じゃあ、あたしとヒッキーは立会人だね。口は出さないけど、一緒に居たいなって」

 

「おい、俺の行動まで決めちゃうのかよ。ま、戸塚と会うのに文句はねーし、その後は別行動って感じかね。お前が全校放送をしている間はここに戻って練習したいから、出る前に部室をスタジオに換装しておいてくれると助かるんだが」

 

「あ、でもゆきのんが話してる間は、練習を中止して一緒に見ようね!」

 

「由比ヶ浜さんと比企谷くんに見られていると思うと、私も迂闊なことは口にできないわね。信頼を失わないように気を付けようと思うのだけれど」

 

「お前、失敗するとか欠片も考えてねーだろ。思ってもないことを言うのは信頼って点でどうなんですかねっつーか、校内放送って映像なのな。ログインした日にお前が演説した時みたいになるのかね?」

 

「あの時のゆきのん、凄かったなー」

 

 部室を出てからも、三人の会話はこんな風に途切れることなく続くのだった。




次回は来週の木曜日、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(11/18)


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10.ぐるぐると色んな事が繋がっているのだと彼女は語る。

今回も文字数多めですが、シリアスは少し抑えたつもりです。

以下、前回までのあらすじ。

 翌木曜日も由比ヶ浜は朝から忙しなく動いていた。緊急性はなさそうだと思いながらも、八幡はその姿を見て根源的な疑問を抱かずにはいられなかった。どうして雪ノ下と由比ヶ浜が、更には自分が、これほどまでに時間と労力を費やさなければならないのかと。いざという時に優先すべき事項を整理して、八幡はひとまず考察を終えた。

 今日の昼休みは雪ノ下の用事が山積みで、昼食後に戸塚と会って更には生徒会室で全校放送を行うらしい。そうした話の合間に雑談を堪能しながら、八幡は思う。雪ノ下の奇行を温かく見守ったり、由比ヶ浜と仕草だけで意図を伝え合ったり、ふと気付けば凄いことをしているなと。

 そんな気恥ずかしい気持ちを誤魔化すように、八幡は二人の体調を気遣った後で、朝から悩んでいた問題を軽い調子で口に出した。だが雪ノ下はそれを真剣に受け止めて、部員二人から学んだことを言葉という形にして二人に返す。

 そのまま対話が続いて、基本は三人で助け合いながらも各自で解決できる時は勝手に動くことを、全員が確認し合った。それぞれ抱えるものがあるだけに確たる信頼とまでは言えないが、三人の間には確かに、相通じる何かが存在していた。



 テニスコートでは、男子テニス部の部員数名が昼の練習に参加していた。奉仕部三名の姿を認めた戸塚彩加は部員に指示を送ると、照りつける日差しをはね返すような力強い足取りで単身移動を始めた。目的地は、比企谷八幡と初めて会話をした場所。特別棟の一階、保健室横、購買の斜め後ろに位置する、八幡がベストプレイスと呼んでいる辺りだ。

 

 戸塚は既に朝の時点で、雪ノ下雪乃からのメッセージを受け取っていた。そこには、昨日の噂について直接説明したいと書かれてあった。自分が彼や彼女から仲間として認められているのを目に見える形で確認できた気がして、感情が表情や動きにも出ていることを自覚しながら、戸塚は足を進める。

 

「さいちゃーん、やっはろー!」

 

 声が届く距離まで近付くのが待ちきれないといった様子で、由比ヶ浜結衣が大声で呼びかけてくる。更なる笑顔になって、戸塚はてててっと三人に駆け寄った。日陰に入って、火照った体が冷まされていくのが心地良い。

 

「なにか奉仕部で良いことでもあったのかな。三人とも、すごく楽しそうっていうか、元気な感じがするよね」

 

「うん。みんなで頑張ろって、さっき盛り上がってたんだ」

 

 お互いに挨拶を終えた後で戸塚が三人の印象を口にすると、由比ヶ浜がひときわ元気な声で答えてくれた。由比ヶ浜を見守る二人の表情が穏やかなのを確認して、戸塚は再び視線を戻す。少しだけ由比ヶ浜の肩が下がっていたように見えたのだが、おそらく気のせいだろうと戸塚は思った。

 

「戸塚、これ。んで、俺らは少し離れてたほうが良いのかね?」

 

「別に隠すこともないのだし、戸塚くんさえ良ければ離れなくても大丈夫よ、由比ヶ浜さんは」

 

「固有名詞を出して助詞で強調してまで、俺をぼっちにする必要は……あ、でも」

 

「ぼっちなら良いか、と貴方なら言うのでしょうね……」

 

 八幡が一声かけてから、スポーツ飲料の中では戸塚が一番贔屓にしている飲物を投げてきた。それをしっかり受け止めて、こんな些細なことをちゃんと覚えてくれているのが嬉しいなと思っていると、二人の間で会話がどんどん進んでいた。戸塚は苦笑するしかない。

 

 すぐ横に目を向けると、由比ヶ浜が同じような表情を浮かべていた。聞きようによっては雪ノ下による八幡いじりとも受け取れるやり取りだったが、危うさを感じた千葉村初日の会話とはうって変わって、今はこんな発言からもお互いを信頼する気持ちが伝わって来るように思えた。二人がともに、会話のオチを最初から見通していたように感じられたからだ。

 

 

「じゃあ、八幡と由比ヶ浜さんが一緒にいるこの状態で、話してもらっていい?」

 

「ええ、大丈夫よ」

 

 戸塚がそう提案すると、雪ノ下は事も無げに頷いた。念のために全員で周囲を見回して、人影がないのを確認する。そして、雪ノ下と葉山隼人が幼馴染みであること、小学生のある時期から疎遠になったこと、その切っ掛けとなった事件について戸塚は余さず説明を受けた。

 

「ぼくね、運動部の集まりとかで葉山くんとも去年から何度か喋ってて。その時には理由が分からなかったんだけど、何でもできそうな葉山くんが、たまに会話が途切れた時とかにさ。全く別のことを考えてるのか、遠い目をして、何だか寂しそうに見える時があったのね。ぼくは二人の過去に対して、偉そうなことは何も言えないけど……。葉山くんも色々と悩んでたんだろうなって思っちゃった」

 

 戸塚が葉山を擁護するかのような物言いになるのは、運動部所属で縁があったことに加えて、千葉村でともに過ごしたことも影響していた。一日目の夜に、葉山が実感のこもった声でぼそっと呟いた言葉を、戸塚は今でも明瞭に覚えている。

 

『見てるだけしかできないって、辛いよな』

 

 誰かを助けたいと思っても、そのたびに周囲から「戸塚王子が手を出さなくても」と止められて、何もできずに傍観するしかなかった自分と。幼馴染みを助けたいと思って動いて失敗して、何もしないことが最善の選択だと理解せざるを得ない状況に追い込まれた葉山と。あの時の言葉には、そうした気持ちが込められていたのだろうなと戸塚は思う。

 

 そしてもう一つ、気になる発言を思い出して、戸塚はこっそりと八幡の様子を窺う。自分の感想を聞いて、八幡は複数の感情が内面で覇を競っているかのような複雑な表情を浮かべている。同じことを思い出しているのだなと戸塚は思う。好きな子のイニシャルだけでもと戸部翔に言われた葉山は、こう言ったのだ。

 

『Yだよ』

 

 あの時ですら、一番可能性が高いのは雪ノ下ではないかと戸塚は思った。おそらく八幡も戸部も同じ気持ちだっただろう。そして雪ノ下と葉山の過去を知った今、その可能性は更に高まったと戸塚は考える。

 

 もしもそれが正しいとしたら、つらかっただろうなと戸塚は思った。自分はまだ恋愛の何たるかを理解できるとは思えないし、だから何に対しての感想なのか、現状に対してなのか経緯に対してなのか、それとも契機に対してなのかも全く分からなかったが、ただつらかっただろうなと戸塚は思った。

 

「とはいえ、ここに居ない人の話をしても仕方がないと思うのだけれど」

 

 物思いに耽る男性陣を見かねてか、雪ノ下が少し強い口調でそう述べた。その強さは今ここにいる面々に向けられたもので、葉山に対してではない。幼馴染みに対して過剰に反応する必要も理由もなく、ただ事実を口にしてこの場の一同に注意を喚起するために強く言っただけだと、そんな風に戸塚には思えた。そしてそれは、今の雪ノ下の心境を反映したものなのだろう。

 

「まあ確かに、葉山の悩みは葉山が解決するしかねーからな」

 

「隼人くんが助けて欲しいって言い出すのも、なんだか想像つかないや」

 

 八幡の発言に続いて由比ヶ浜が口を開いて、場の雰囲気が柔らかくなった。だが何故か戸塚には、由比ヶ浜の発言の余韻が気になった。先程の見間違えが頭に残っていたから変な風に考えてしまったのだろうと戸塚は思う。まるでほっと息をついたかのような、助けが要らないことに安心したかのような感じを受けたのだが、これも気のせいだろうと考えることにした。

 

「いや、でも前に依頼があっただろ。あれは違うのか?」

 

「変な噂でクラスがぎくしゃくする前に事を収めるには、奉仕部に依頼するのが最善だと、あの時は考えたのでしょうね。葉山くんなら、その辺りの優先順位を間違えることはないと思うわ。それに……いえ、校内放送の準備が整ったら連絡が入る手筈になっているのだけれど、まだ余裕がありそうね」

 

 おそらく葉山にとっては、身近な四人の男子生徒を対象にした噂でさえも、興味を惹かれるものではなかったのだろうと雪ノ下は考えていた。だから自分の手で解決することに何らの拘りもなく、簡単に他者を頼ったのだろうと。問題を解決すべき責任があるとは考えたのだろうが、役割を果たすという以上の意図は無かったのだろうと雪ノ下は思う。

 

 むしろ問題の解決よりも、奉仕部との繋がりを得ることこそが目的だったのかもしれない。いきなり部室に来るのではなく、葉山が一人で顧問の許可を得ている間に女性陣を先に寄越して事情を説明させた辺りからも、何に一番注意を払っていたかは明らかだ。自惚れや勘違いの可能性を一応は考慮して、その上で雪ノ下はあの時のことをそう解釈していた。

 

 だが、そうした話をこの場の面々に敢えて伝える必要もない。そう考えて雪ノ下は話題を逸らした。

 

 

「じゃあさ、連絡が来るまで、さいちゃんも一緒にお話しよっ。最近は勉強以外にも難しい話が多いから、あたしの頭が限界なんだけど……」

 

「うん、いいよ。由比ヶ浜さん、一学期の途中から勉強も頑張ってたもんね」

 

 何度か一緒に勉強会をしているので、戸塚は由比ヶ浜の努力を知っている。だから由比ヶ浜の誘いにすぐに応えて、お陰で再び重くなりかけていた場の空気が緩くなった。それに便乗するように雪ノ下が口を開く。

 

「その、雑談の中にも勉強の話を含めるのは、由比ヶ浜さんの頭には負担だったのかしら?」

 

「ゆきのん、それって気遣ってくれてるようで、ちょっと言い方が変じゃない?」

 

「馬鹿にしたつもりはないのだけれど、由比ヶ浜さんも言葉の微妙なニュアンスによく気が付いたわね」

 

「比企谷くん。それは誰の物真似なのかしら?」

 

 由比ヶ浜の指摘を受けて、雪ノ下が「そんなつもりでは」という表情で少し慌てている隙に、八幡が変な声色で会話を続けた。周囲の温度が一気に下がったが、そんな三人を見て苦笑していた戸塚が口を開いたことで気温が元に戻る。

 

「八幡が話してくれたんだけど、雪ノ下さんって雑談の中に韓信とか児玉源太郎の名前が出て来るから気が楽だって言ってたよ。羨ましいなって、ぼくも聞きたいなって思ってたんだけど、由比ヶ浜さんは歴史の話とか聞くと疲れちゃうかな?」

 

「ううん、そんなことないよ。あたしも授業だと眠くなっちゃうんだけど、ゆきのんやヒッキーが説明してくれたらへーってなるし、聞いてて楽しいなって」

 

 八幡に向けて「ね?」と可愛らしいウインクを送って、戸塚は頼れる友人の悩みを一つ解消できたことを内心で喜んでいた。たとえ歴史の話でも、由比ヶ浜なら喜んで聞いてくれると証明できてご満悦の戸塚は。自らの可愛らしさを自覚できていない戸塚は、八幡が今それどころではない状態に陥っていると気付いていない。

 

「あ、でね。韓信は漢文で習ったから分かるんだけど、児玉源太郎ってどんな流れで出て来たの?」

 

「ん、ああ、そういえば、言われて納得はしたけど、けっこう唐突だったよな?」

 

「ゆきのんがやる気だ、って話で出て来た人だよね?」

 

 戸塚が潤んだ目を雪ノ下に向けたことでようやく少しだけ余裕を得られた八幡は、言葉を呟きながら徐々に正気を取り戻していった。その話が出たのは実行委員で集まっていた時だったので由比ヶ浜は直接は耳にしていないのだが、クラスと実行委員との橋渡し役であるために八幡から報告を受けて知っていた。

 

「どう説明しようかしら。戸塚くん、児玉源太郎と聞いて思い浮かべるものは?」

 

「えっと、日露戦争とか、司馬遼太郎の『坂の上の雲』とか。でもぼく、まだ読んでないんだよね……」

 

「迂闊に読み始めると八冊全てを読破するまで止まらなくなるから、気を付けたほうが良いわよ」

 

 二人の会話を聞きながら、雪ノ下でもそうなるのかと新鮮な驚きに浸っている八幡だった。もしもスラムダンク全巻を進呈しても、やはり自分たちと同様に読み終えるまで止まらなくなるのだろうか。まだ混乱が残っているのか、そんな馬鹿げたことを考えている八幡の横で会話が進む。

 

「では質問を変えて、児玉源太郎と縁が深い人物と言えば?」

 

「乃木希典、かな?」

 

「あ、たしか自殺した人だよね。昔パパが赤坂の乃木神社に連れて行ってくれたから知ってるんだけどさ」

 

 意外な理由で由比ヶ浜が会話に加わって、八幡はようやくなるほどと納得がいった気がした。勉強や読書以外でもこうした知識を得られると、気付いてしまえば当たり前のことなのに。勉強が苦手だから、読書をしないから知らないだろうと決めつけるのは早計だなと八幡は思った。そこに雪ノ下からの質問が届く。

 

「では比企谷くんに問題。乃木希典の自殺を受けて書かれた文学作品を二つ」

 

「鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』と……なるほどな、漱石の『こころ』か」

 

「漱石って、平塚先生が色々と教えてくれたよね。教え子が自殺しちゃった、とかさ」

 

「そういえば、あの時に岩波書店の創業者の話が出たのを覚えているかしら。岩波が出した最初の小説が、漱石自ら装丁を手掛けた『こころ』なのよね。……どうやら準備ができたみたいね」

 

 ユキペディアを存分に発揮しながら、雪ノ下は発想の一端を、更には色んな事が繋がっているのだという気付きを三人に伝えた。雪ノ下が意図するところの全容は未だ見えて来ないが、少なくとも過去にみんなで体験したことを糧に行動しているのだと理解して、八幡たちは気を引き締める。そこにメッセージが届いて、雑談はお開きになった。

 

 生徒会室へと移動する雪ノ下を見送って、三人もまた行動に移る。

 

「さいちゃんも、奉仕部の部室で一緒に見る?」

 

「迷っちゃうけど、ぼくはやっぱりテニス部のみんなと一緒に見るよ」

 

「雪ノ下の話が終わってからも雑談に巻き込んで、練習を邪魔して悪かったな。今度なんか奢るから、その、あれだ。また遊びにでも行こうぜ」

 

「今日も飲物をもらっちゃったし、気にしないで。けど、遊ぶのは絶対に行こうね!」

 

 そんなふうに話を締め括って、彼らは二手に分かれた。数日前、会議室から教室まで由比ヶ浜と二人で歩いた時には随分と緊張したものだが。今は比べ物にならないほどリラックスしているなと、八幡は心境の変化を不思議に思う。

 

 会話を途切れさせないように由比ヶ浜が細かなところまで気遣ってくれたあの時とは、微妙な違いがあることに。会話の合間にほんの少し、間が差し挟まれる時があることに、八幡は気付いていなかった。

 

 

***

 

 

 お昼休みも残りが見えてきた頃になって、この後すぐに生徒会が校内放送を行うという音声通知が全校に響いた。放送は映像形式で、校内に居る者には最寄りの教室の教卓に話者の姿が映し出される形になること。その他の場所に居る者には音声のみが届く等々、注意事項が続けて語られている。

 

 男子テニス部の面々も手近な教室に移動したのだろうなと思いながら、八幡は由比ヶ浜と並んで座って放送が始まるのを待っていた。部室内はバンド練習ができるようにスタジオに換装された状態になっていて、ドラムセットやアンプなどが所狭しと置かれているので、パイプ椅子に腰を下ろした二人は肩が触れ合うような距離にある。

 

「ち、近いな……」

 

「ご、ごめん。ちょっと離すね……って、やっぱ無理っぽい、かも」

 

「い、いや。由比ヶ浜が良いなら、別に俺は、大丈夫だから。その、悪いな」

 

「あ、あのさ。入学式とかで並んで座るのと同じだって考えたら、えっと、どうかなって?」

 

「お、おう。あー、雪ノ下はまだ出ないのかね」

 

 密室に二人きりで肩を寄せ合っている現状を入学式と比較するのは悪いけど無理だと結論付けた八幡は、無理矢理に話題を逸らす。

 

 そんなふうに、ともに緊張の面持ちで教卓の辺りを眺めながら落ち着きなく過ごしていると、ようやく人の姿が浮かび上がった。生徒会長の城廻めぐりが自己紹介をして、そのまま話を続ける。

 

『えっと、部活の予算を見直すべきだという提案に対して、校内放送という形でお返事したいと思います。六月の部長会議で話をまとめてくれた雪ノ下さんに、今回も来てもらいました。じゃあ、よろしくねー』

 

『奉仕部の雪ノ下です。今回も会長から委任を受けて、この話を預かることになりました。よろしくお願いします。では早速ですが、今から全校生徒に宛てて書類を送付します。文書フォルダをご覧頂けますか』

 

 城廻が一歩下がったと思ったら映像が消えて、代わって雪ノ下の姿が浮かび上がる。よくできた手品のようだなと思いながら、すぐ横の由比ヶ浜に倣って八幡も文書フォルダを参照する。テキストを開くと、昨年度と今年度の予算額およびその増減を部活ごとに整理した表が眼前に展開された。

 

「まあ、雪ノ下らしい正攻法だな。つか、これだけ増やしてもらってるのにまだ不満を言うって、何様のつもりかね」

 

「うーん。これ以上の予算を欲しいって、本気で思ってるわけじゃないのかもね」

 

 思わず八幡が呟くと、由比ヶ浜が普通に返事を返してくれた。ドキドキしていたことをすっかり忘れていたなと思いながら、八幡は再びそちらに気を取られないように身構えつつ会話を続ける。

 

「結果が欲しいんじゃなくて、ただ文句を言いたいがために騒ぎ立てる連中って、どこにでも居るよな」

 

「さっきもヒッキー、相手するのが馬鹿らしいって言ってたよね。あれ、ゆきのんが言ってたんだっけ。まあいいや。頑張れー、ゆきのん!」

 

 発言者や細かな表現や人物の名前などの記憶は曖昧ながらも、勘所は外してないんだよなと八幡は思う。先程の四人での会話の時にも、そして今も、由比ヶ浜は話の一番大事な部分は押さえている。そういえば遊戯部とクイズをした時も頑張ってたもんな、と八幡は思う。そんな由比ヶ浜が、そして雪ノ下が、こんな連中のために時間を費やしている。

 

 思考が横に逸れそうになるのを何とか堪えた八幡は、教卓に映し出されている雪ノ下の映像を眺めた。

 

 

『予算案を全くの白紙状態から見直すべきだという要望ですが、この現在の予算表のどこを問題視しているのか、具体的な指摘は何もありませんでした。生徒会が内容証明・配達証明の形でメッセージを送って、当事者に問いかけてくれたのですが、お昼の校内放送までに返信を求めたにもかかわらず何も反応がありません』

 

 メッセージ送付を主導したのは雪ノ下だろうなと八幡は苦笑いしている。こうした正当な手続きを積み重ねて行く形では、雪ノ下には敵わないなと八幡は思う。だが、一学期であれば落ち込んだかもしれない事実でも、今の八幡は素直に受け止めることができる。雪ノ下が正攻法を担ってくれるのなら、自分は搦め手を考えれば良いのだから。

 

『それに、もしも一部分を変更するとなれば、他の部活からも要望や批判が出ると予想できます。それに対して今回の提案者が説得力のある説明をできるとは、現時点での反応を見る限り私には思えませんでした。彼らの唯一の主張は、私と二年F組の葉山くんが同じ小学校だったのを隠して不正を行ったというものですが』

 

 そこで言葉を切った雪ノ下を眺めながら、八幡が苦笑交じりに呟く。

 

「要するに、雪ノ下の目的はこれか。だから校内放送の前に戸塚と話しに行ったんだな」

 

「ゆきのんのそういう、なんていうのかな、ちゃんとしてるところ。やっぱり凄いなって」

 

「筋を通すってこういう事なんだろうな。不穏な噂が流れてるから今がチャンスだって動いたんだろうけど、関係者は迷わず成仏してくれ」

 

「たぶん、そういうことなんだろうね。噂はあれで終わりなのかなって疑ってる子も多かったし、ゆきのんたちを問い詰める空気に便乗しよう、みたいな感じでさ」

 

「ま、相手が悪かったとしか言いようがないな」

 

 そう八幡が締め括って、二人は映像の雪ノ下を注視する。二人の会話が終わるのを待っていたわけではないのだろうが、タイミング良く雪ノ下が再び口を開いた。

 

『六月の部長会議において、私は何ら議論を誘導するような発言はしておりません。図書室に議事録があるので、私の発言が信用できないという方は、そちらを確認して下さい。葉山くんは運動部の取りまとめのような役割を以前から担っていましたし、私と共謀して彼に何の得があるのか、私には分かりません。そもそも、小学校が同じというだけでここまでの疑いを持たれるのであれば。今回の提案者の方々は、同じ小学校同士で普段どんな企み事をしているのか、後学のためにも教えて頂けると助かるのですが』

 

 ものすごく怒っていらっしゃると考えて、昼食時に続いて身をすくめる二人だった。

 

 

 一方の雪ノ下は、話をしながら懐かしい気分に浸っていた。それは以前ならあまり思い出したくないと思っていた感情であり、交際の申し出を断る際に頻繁に感じていたことだった。

 

 無遠慮な告白は最近ではめっきり体験しなくなったが、入学してからしばらくの間は酷かった。そのたびに雪ノ下は、意味と響きとを完璧に計算して組み立てた辛辣な言葉を告げて、彼らを撃退したものだった。

 

 彼らは誰一人として、私の意図に気付かなかったのだろうと雪ノ下は思う。一つは、告白という行動に出た者に最低限の敬意を表して、嘘偽りなく誠意ある返事を行うこと。一つは、当人の中で尾を引かないように、同時に安易に行動に出る者への抑止力になるように、容赦なく一刀で切り捨てること。そして最後に、そんな私の発言を受けて、それでも向かって来る男の子がいつか現れるのではないかと密かに期待していたこと。

 

 雪ノ下は誰かに告白をした経験がないので片手落ちの状態だが、振られた者よりも振る者のほうが辛いのではないかと考えている。誰かの想いを断るという行為は、何度繰り返してもなかなか慣れるものではなかった。だからといって、姉のようにそうした機会を巧みに回避することは、雪ノ下にはできなかった。つい正面から受け止めてしまうのは、最後の意図が大きく影響しているのだろうと雪ノ下は考えている。

 

 雪ノ下が完璧に計算した辛辣な言葉を告げても、それでも向かってくる男の子が居たとして。しかしそれはスタートに過ぎない。その時点ですぐさま恋仲になれるわけもなく、そもそも恋愛とはどういうものなのか、自分にはこの先もずっと分からないのではないかと思う時もある。とはいえそんな悩みも、現実には空疎なものでしかない。何故なら、そんな男の子は現れる気配すら無かったのだから。

 

 交際を申し込まれて断るたびに、雪ノ下は誰にもねぎらって貰えないつらさと、明快な応対を果たせた充実感と、そして見果てぬ夢を抱いている寂しさとを感じていた。自らの意図が誰にも伝わらないことを残念に思い、同時に安心してもいた。それを繰り返しているうちに、おそらく噂が伝わったのだろう。二年への進級が近付く頃には、もう誰も雪ノ下に告白して来なくなった。諸々の感情を抑えた雪ノ下は、それをシンプルに、煩わしさが減ったとだけ受け止めた。

 

 そして二年へと進級して、雪ノ下は彼と出逢った。入学式の日から一方的に知ってはいたが、向かい合って話したのは今年度になってからだった。雪ノ下が思ったままの辛辣な言葉を口にしても、それでも平然と厳しい意見を主張してきたのは、彼が初めて部室に来た時。まだこの世界に捕らわれる前のことだった。

 

 正直に言うと、恋愛の相手としては未だにぴんと来ない。彼と恋人になった自分も友達になった自分も想像することができない。それは由比ヶ浜の誕生日にカラオケ店にて、友達になろうという彼の申し出を断った時と変わらない。私と彼とはそうした関係ではないのだろうと雪ノ下は考えているし、むしろ部員同士で付き合うほうがしっくり来るようにも思う。当人たちの意思が雪ノ下には分からないので、こんなことを考えていると知られたら怒られるのかもしれないが。

 

 だがそれはそれとして、彼の存在が雪ノ下にとって特別なのも確かだった。彼と彼女なら私の意図を解ってくれるだろうし、あの二人とならどんなことでも実現できるのではないかとすら雪ノ下は考えている。私にとって特別な二人のうちの一人が彼なのだ。それ以上は()()()()()必要ないと雪ノ下は思う。

 

 おそらく今も部室から見守ってくれているのであろう二人に思いを馳せて、雪ノ下は現在進行形で抱いている感情と向かい合う。当事者には、私の意図は今回も、何も伝わらないのだろう。だがそれでも良いと雪ノ下は思う。今はまず事態を収拾するために動こうと思いを新たにして、雪ノ下は再び口を開く。

 

 

『ここで明言しておきたいのは、小学校を卒業してから最近に至るまでずっと疎遠だった葉山くんとの仲を無遠慮に疑うような姿勢を、私は批判しています。もしも予算配分に対して何かしらの意見をお持ちなのであれば。あるいは部活動に対して何らかのご不満なりがあれば、生徒会まで気軽に申し出て欲しいと会長が仰っています。その際には、ご希望があれば私も同席します。今回の話が、単に一時的な感情の盛り上がりが原因なのであれば、このまま水に流すという結末になることを我々は望んでいます』

 

 正直なことを言えば、正論でとことんまで叩き潰しても良いのだがと雪ノ下は思う。だが由比ヶ浜なら、このように当事者に温情を残す形を選択するのだろう。そして八幡なら、弾圧するほどに意地になって余計に面倒な目に遭うぞと言うのではないか。昨日からの噂に終止符を打つという裏の目的も果たせたことだし、この程度で勘弁してあげようかと雪ノ下は思った。むしろ彼らの蠢動は、雪ノ下にとっては非常に都合が良かったとすら言える展開になっているのだから。

 

 全校生徒に対してここまで説明しておけば、仮に姉が幼馴染みの話を暴露しても乗り切ることができると雪ノ下は思う。そもそも雪ノ下は嘘を一切口にしていない。ずっと疎遠だったのは事実であり、だからこそそれ以前の関係を表に出すのが面倒だった。ただそれだけの話だし、そこに偽りはない。姉の言動に対しては色々と言いたいこともあるが、終わってみれば良い結果に繋がったのだから、多少は情けをかけても良いだろう。

 

 そんなことを考えながら雪ノ下が一歩下がって、再び城廻が姿を見せる。文化祭が近いので今は部活は自由参加という形になっているが、部活も文化祭もみんなで頑張ろうと、城廻はいつものように唱和を求める。生徒の大多数が口を揃えて、ようやく校内放送は終了となった。

 

 

「うまく行ったみたいだし、やっぱゆきのんって凄いよねー」

 

「もっと当事者連中を叩き潰すのかと思ってたけど、もしかしたらお前の影響もあるのかもな」

 

「え、っと。そうなの?」

 

「雪ノ下本人がさっき、『随分と助かっているのよ』って言ってただろ。お前の役割は俺にも雪ノ下にも真似できねーし、『もっと自信を持って欲しい』って言われたのを、そのまま受け取ったらどうだ?」

 

「あたしは、どこがってわけじゃないけど、ヒッキーの影響かなって思いながら聞いてたんだけどさ」

 

「今回の話はほぼ正論だし、俺の捻くれた思考が入り込む余地ってあんま無くね?」

 

「うーん。そういうのじゃなくて、見切り方っていうか……分かんないしいいや!」

 

 奉仕部の部室では校内放送が終わった後も、二人が並んで椅子に座ったまま感想を言い合っていた。この距離感に慣れたのか、それとも感覚が麻痺してしまったのか。あるいは話をしながらも、二人が頭の中では別のことを考えていたからなのかもしれない。

 

 由比ヶ浜は、文化祭から体育祭を経て修学旅行に至る今後の日程を思い浮かべながら、奉仕部三人の未来に思いを馳せていた。不安や心配をそこに反映させたい気分ではなかったので、由比ヶ浜はただ来るべき楽しい日々を思い描いていた。

 

 八幡は、先ほど四人で雑談した時に聞いた話を、今は教卓から消えてしまった雪ノ下の残像に重ねていた。

 

 おそらくは鴎外よりも漱石だろうと八幡は思う。たしか「こころ」の作中で、先生は「明治の精神に殉死するつもりだ」と言っていた。その決断に決定的な役割を果たした乃木の自刃は、明治天皇に殉死した形だった。そして児玉は、日露戦争で全ての生命力を使い果たしたかのように、戦後すぐに急死したはずだ。

 

 雪ノ下が何かに殉じるとはとても思えないが、ではどんな意図を秘めているのだろうか。仮に自分の中にある何かを殉死させるのだとしたら、それは何なのだろうかと八幡は思う。だが、それを考察するには圧倒的に情報が足りないのが現状だ。今は不吉なことに頭を使わず、問題が一つ片付いたことを喜ぶべきなのだろう。

 

 八幡は顎に手を当てて、由比ヶ浜は両手の指を絡めて膝の上に置いて、いずれもお互いとは反対側へと視線を向けながら物思いに耽っていた。そこにがらりとドアが開いた音がする。

 

「……二人とも、練習はどうしたのかしら?」

 

 首尾良く任務を果たしてきた雪ノ下が練習をサボっている二人を見付けて、こうして居残り練習のノルマが課されることになるのだった。

 

 

***

 

 

 この日、三浦優美子は朝から機嫌が悪かった。とはいえ、それをそのまま表には出したくない理由があったので、周囲にもそれほど問題は起きていない。

 

 昨夜の女子会で聞いた話は、三浦の中で今も残ったまま、暗い気分を誘起していた。雪ノ下と葉山の過去を知って、やはり最大の障害は彼女なのだと認めてしまうのが、三浦は嫌だった。だが現実を見ないままでは何も事が進まない。

 

 少し気分を変えるために、良かったことを考えようと三浦は思う。女子会の場所を提供してくれた中学生の少女から、天然な口調でお礼を言われたことを三浦は思い出す。

 

 

 千葉村で「適当な扱いをするのは良くない」と、「相手がどう思ってるのか、分かるようで分からないもんだ」と口にした時には、正直に言うとあの少女には何らの思い入れもなかった。三浦はただ己の過去を振り返って、中三で女子テニス部を引退した時の嫌な経験から、年長者として忠告をしたに過ぎなかった。自分の気持ちが他の部員にはまるで伝わっていなかったという残酷な事実を突き付けられて、独り部室を後にしたあの時の思いを、勝手に重ねていたに過ぎなかった。

 

 三浦の忠告がどうやら役に立ったらしいとは、由比ヶ浜から簡単に聞いていた。だが三浦本人としては、それほど重要なことを言ったとは思っていなかったし、だから昨日いきなりお礼を言われて少し驚いてしまった。だが素直にそうした感情を伝えてくれた少女の行動はとても微笑ましく、なぜか中学時代の苦い体験すらも、少しだけ報われたように感じられた。

 

 三浦は中三のあの日を最後にテニスをやめた。今でも時どき女テニの練習に付き合ってはいるが、部活に入るつもりはない。何故なら今の三浦には、テニスで上手くなることよりも、優先したいことが幾つかあるから。葉山と特別な関係になりたいという想いもその一つだし、ただ女王として君臨するだけでなく内実の伴った統治をしたいと考えているのもその一つだった。

 

 後者には、中学時代の経験に加えて昨年度のことも影響していた。意味のある深い会話など何もできず、三浦が敢えて理不尽なことを口にしてみても女王様のお戯れとして処理されるような、そんな関係は二度と御免だと三浦は思う。お飾りの女王や我が儘な女王ではなく、どうせなら統治を讃えられるような女王になりたいと三浦は考えていた。

 

 とはいえ事細かに口を出して配下を導くような真似は、三浦の性格的に不可能だった。三浦はただ誰かが物事の筋目や基本を疎かにしていたら注意をするだけで、基本的には放任主義だった。揉め事があった時には明確な裁定を下して、後のことは下々に任せる形が合っていた。注意するだけでも、裁定をするだけでも、それによって話は随分と簡単になる。そこにこそ自分の存在意義があると三浦は考えていたし、実際に高二になってからクラスは上手く回っていた。昨日もらったあの少女からのお礼は、そんな三浦の自信を更に裏付けるものになったと考えて良いのだろう。

 

 

 しかし、昨日の主題はそれではなかった。そして、色々と文句を言いたい気持ちは確かにありながらも、三浦は雪ノ下を相手に感情を爆発させる気にはなれなかった。千葉村でやってしまったからという理由が一つ。そして、雪ノ下の心情を理解できてしまったことがもう一つの理由だった。

 

 昨日の真面目な話し合いの最後に、雪ノ下は「決定的な偽りを口にして物事を収めるような真似はしたくない」と口にした。それは紛れもなく、三浦が中三の夏に部室で抱いたのと同じ想いだった。あの時に三浦はいい加減な形で済ませたくないと考えて、敢えてストレートな物言いで問題を指摘して、そして誰からも反応を得られなかった。その経験があっただけに、三浦は雪ノ下の気持ちを我が事のように理解できた。だから、雪ノ下を責めようという気持ちが沸いてこなかった。

 

 葉山との仲を深めたいと思うのも、中三のあの経験を上手く活かしたいと思うのも、三浦にとってはどちらも大切なことだった。では、その二つがかち合ってしまったら、自分はどちらを優先させれば良いのだろうか。

 

 葉山のことを優先させるのであれば、雪ノ下を責めるなり手出しをさせない約束を取り付けるなりすべきなのだろうし、その為には共有された感情が犠牲になるのも仕方がないのだろう。だが、それを三浦は望まなかった。そして、まだ葉山と付き合える目処が立っていないのだからと自分の中で言い訳をして、昨日の話を穏便な形で終わらせた。だが、解消されないもやもやした思いが一夜明けても残っている。昨日の自分の行動は、本当に正しかったのだろうか。

 

 普段であれば、女テニの練習に参加することで気分を紛らわせることができた。しかし今は文化祭の直前なので、部活は自由参加になっている。それにそもそも総武高校には、三浦が本気で打ち合える相手はごく僅かしか存在しない。そしてその筆頭は、三浦が現在抱えている悩み事の当事者なのだ。雪ノ下を相手に思い切りボールを叩けたらどんなに気持ちが良いだろうと思いながらも、今の三浦には彼女を誘うことができない。

 

 鬱屈した思いを更に重ねて、三浦は放課後のことを思う。クラスの出し物が順調に進んでいるので、昨日から三浦たちは有志の出し物のためにバンド練習を行っていた。放課後の前半はクラスを手伝って、後半は練習するというスケジュールだ。そこには三浦にとっては恋敵とも言える後輩も参加している。今の気分のまま彼女の相手をするのは正直厳しいものがあった。

 

 三浦は女王としてクラスに君臨しているが、動かせる手足は限られている。ましてや、三浦が頼れる存在となると実質的には二人しか居ない。彼女らがともに忙しい日々を過ごしているのは重々承知しているが、今だけは自分を助けて欲しいと三浦は思う。

 

 海老名姫菜がクラスの出し物を取り仕切っている以上、由比ヶ浜を頼る以外の選択肢は三浦には無かった。ただ練習の場に居てくれるだけで良いからと言って、三浦は由比ヶ浜をバンド練習に誘った。この日も、そして翌日の金曜日も。更には土曜日も。

 

 

***

 

 

 相模南はこのところ毎日「こんなはずではなかったのに」と思いながら過ごしていた。実行委員長の仕事は思っていた以上に大変で、誰かの手助けがなければ一日たりとも務められる気がしなかった。

 

 それに加えて副委員長の一年生が地味に優秀なので、相模は下手に手を抜くこともできない。おどおどとした彼女の性格は演技ではなく生来のものだと理解はしている。だがもの凄く穿った見方をすれば、相模を矢面に立たせておいて、自分は安全な場所で順調に経験を積んでいるようにも見えてしまう。それは本来、うちが目指していたポジションなのにと相模は思う。

 

 小さな頃からずっと、うちは運がないというか、巡り合わせの悪いことばかりを体験してきた記憶がある。もう一人の実行委員と顔馴染みになって、そこから上手い具合に雪ノ下と知り合えたところまでは順調だったのに。名だけを得られれば良かったはずのうちがこんなに苦労をしている反面、肩書きを持たない雪ノ下はみんなから頼りにされて輝いているように見える。

 

 そもそも、一年の頃にはうちと同じような立ち位置だったのに、と相模は矛先を変える。高二になってクラスどころか校内でも指折りのトップカーストになった由比ヶ浜は、うちと何が違うというのだろうか。なぜか三浦に気に入られて、気が付いたら雪ノ下とも親しい仲になっていて。一年の頃にはあったおどおどとした雰囲気は、最近では欠片すらも感じられない。運以外の理由があるなら教えて欲しいものだと相模は思う。

 

 葉山の提案なので仕方なく一日の終わりに話し合いをしているが、由比ヶ浜と顔を合わせるたびにイライラした気持ちが湧き上がってくる。本当は、由比ヶ浜に当たりたいわけではないのに。由比ヶ浜の優しい性格は、去年から付き合いがあるうちもよく知っているのだ。だけど、どうしても苛立ちをぶつけないと気が済まないのだ。由比ヶ浜なら許してくれるだろうと、相模は甘えることしかできない。昨日も今日も、そして明日も明後日も。

 

 

***

 

 

 文化祭に向けて、こうして木曜日と金曜日が過ぎていった。来週からは授業が半日になって、午後の時間がまるまる使えることになっている。それにこの世界では、教師やクラス委員長の権限で、校内の環境を自由に変更することができる。つまり飾り付けなどに時間を費やす必要がなく、全体の仕事量は例年と比べて確実に少なく済んでいた。

 

 それでも日程が迫っているだけに、土曜日にも多くの生徒が登校して文化祭の準備に従事していた。それに仕事は減っても生徒の数は当然そのままで、ゆえに人間関係の揉め事は従前通りの確率で発生している。由比ヶ浜が身体を休める時間はこの日も無かった。

 

 生徒会および文化祭実行委員会からの通達によって、日曜日は完全休養日に指定されていた。土曜日さえ乗り切れば休めると、あるいは少し無理をしてしまったのかもしれない。

 

 

 週明けの月曜日、雪ノ下と由比ヶ浜は高校に姿を見せなかった。




次回は来週の木曜か金曜、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/13)


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11.りくつよりも感情で彼女は話を動かす。

前回までのあらすじ。

 過去の葉山との関係を戸塚に説明した雪ノ下は、続けて生徒会室に移動して校内放送を行った。部費の見直しを要求する意見を正論で退け、同時に葉山との噂に決着をつけた雪ノ下は、由比ヶ浜や八幡の考え方を取り入れた形で話を締め括った。

 雪ノ下から話を聞いた戸塚は、葉山が千葉村で好きな人のイニシャルを呟いたことを思い出していた。だがそれを話題に出すのは避けて、移動待ちの雪ノ下に以前の発言の意図を尋ねる。雪ノ下が何を考えて歴史上の人物に言及したのか、その理由の一端を三人は知った。今は情報不足ゆえに深い考察は諦めて、由比ヶ浜と並んで校内放送を見守った八幡は、問題が一つ解決した事を喜ぶ。

 だが、周囲が気付かぬうちに疲労は蓄積していた。週明けの月曜日は先週と同様に、欠席者が出た状態で始まるのだった。



 重陽の節句に当たる日曜日は真夏の暑さがぶり返していて、少し歩いただけでも汗が浮かび上がってくる。夕刻というにはまだ早く昼下がりというには遅い微妙な時間帯に、比企谷八幡は汗が流れるのも厭わず早足で待ち合わせ場所へと向かっていた。

 

 後々どのようにでも動けるようにと高校に自転車を置いて、そこからは徒歩で駅まで移動して京葉線に乗り込んで。二駅とはいえ沿線の景色を眺める気分ではなかったので時間を短縮して、八幡は海浜幕張の駅に降り立った。

 

 道中こまめに位置を連絡していたお陰か、八幡が駅の外を眺めると、相手もちょうどこちらに向けて歩いてくるところだった。レース柄の日傘を優雅に傾けた白いワンピース姿の雪ノ下雪乃は、人混みの中にあっても存在感が際立っていた。しかしその表情はどこか暗い。

 

「メッセージを文字通りに受け取って、見舞い品とか何も持って来なかったんだが……」

 

「ええ、それで大丈夫よ。メッセージを見てすぐに出て来てくれたのでしょう。何だか急かしたみたいな形になって申し訳ないのだけれど」

 

 挨拶もそこそこに二人は歩き始める。並んで足を動かしながら、まずは重要度の低い話から会話が始まった。

 

「事態が事態だし、それは気にすんな。……んで、由比ヶ浜の具合は?」

 

「お昼を食べて今はまた眠っているのだけれど。疲労が原因とはいえ、一日中ずっと寝ていられるわけでもなし。夜にしっかり眠れるように、由比ヶ浜さんが起きたら三人で打ち合わせをしておこうと思うのよ」

 

 八幡が事の核心に一気に踏み込むと、雪ノ下は今後の予定も加えてそう返事をした。少なくとも、由比ヶ浜結衣の病状は一刻を争うものではないらしい。

 

 文化祭の準備で忙しかった一週間分の疲れを癒やすべく、八幡は昼食後も自宅でだらだらと過ごしていた。そこに雪ノ下からメッセージが届いたのだ。もしや仕事の指令かと恐る恐る開いてみれば、「由比ヶ浜さんが倒れたので身一つですぐに出て来て欲しい。海浜幕張で待つ」と書かれてあった。取るものも取り敢えず慌てて八幡は自転車に飛び乗って、そして今に至っている。

 

「つっても、由比ヶ浜の気苦労を増やすような話題は避けたほうが良いんだろうな」

 

「悩ましいところだけれど、私達が何かを隠そうとしても、感情の機微に敏感な由比ヶ浜さんを欺けるとは思えないのよ。だから逆に、懸念材料などもそのまま口に出すほうが、却って良いのではないかと思うのだけれど」

 

「ま、それもそうか。んで、俺らはどこに向かってんの?」

 

 花火大会の後に由比ヶ浜を途中まで送って行った時のことをようやく思い出して、八幡は首を傾げた。由比ヶ浜が個室に居るなら高校から行けば良いし、マンションも方向が違う。そんなことすら今まで気付けなかったとは、我ながらずいぶん余裕がなかったのだなと八幡は思う。

 

「私が由比ヶ浜さんを引き取って、今は客室に寝かせているのよ。午前中は三浦さんと海老名さんも居たのだけれど、二人も文化祭に備えて身体を休めておくべきだし、今は帰って貰ったわ。……ここよ」

 

「って、このタワーマンションに住んでんのかよ。おい、エントランスにソファが置いてあるぞ?」

 

 小市民な反応を見せる八幡に、思わず雪ノ下がくすりと笑みを浮かべる。そういえば笑ったのはいつ以来だろうと思いながら、午前中に連絡を受けてからずっと気が張っていたことを雪ノ下は自覚した。

 

 雪ノ下が生体認証でオートロックを解錠して、二人はエレベーターに乗り込む。十五階で降りて、表札が出ていない部屋の前で立ち止まって再度の認証を経て、八幡は雪ノ下の部屋へと招き入れられた。

 

 

***

 

 

「お帰りなさいませ、ご主人様」

 

 先に入るように雪ノ下に促されて、扉を開いて一歩踏み出したところで、八幡はそう声を掛けられた。驚いて顔を上げると、こちらに向かって深くお辞儀をするメイドさんの姿が目に入る。扉を片手で開けたまま立ち止まってしまった八幡は、ぎぎぎという擬音が似合いそうな動きで首を後ろにやると、目だけで雪ノ下に問いかけた。

 

「貴方も見覚えがあるのではないかしら?」

 

「もしかして、一学期の中間で打ち上げした時に行った、メイドカフェ・えんじぇるている……だっけか?」

 

「ええ。川崎くんの依頼解決のお祝いも兼ねてだったわね。あの時にどうやら気に入られたみたいで、是非私の下で働きたいと言うので雇うことにしたのだけれど」

 

 本当にこいつは何でもありだなと、呆れを通り越して感心してしまう八幡だった。実際にメイドさんを雇うことよりも、それを簡単に語ってしまえることのほうが恐ろしいと思いながら。

 

 だが混乱が収まってみると、メイドさんを雇うという雪ノ下の選択は確かに理に適っていると八幡は思った。雪ノ下の体力の無さや、ゲームマスターに指摘された時間配分の問題も、家事をメイドさんに任せれば一気に解決する。

 

 そういえば半ば聞き流してしまったが、木曜日に戸塚彩加と話しに行く前に部室でそんなことを聞いたような気がする。たしか「家のことは大丈夫」と言っていたように思ったのだが、その根拠はこれかと納得した八幡だった。

 

 八幡が期待通りに驚きの表情を見せてくれて、更にそれが納得顔に変わる過程を余さず観察して、雪ノ下は満足そうな表情を浮かべている。一つ頷いて、雪ノ下は部屋の上がり口に控えるメイドさんに話しかけた。

 

「その後、由比ヶ浜さんは?」

 

はい、閣下。(Yes, Your Highness.)お嬢様は静かに眠っておられます」

 

「そ、その呼びかけは、人前では避けるように厳命したと思うのだけれど?」

 

「申し訳ございません。お嬢様のご容態にばかり気を取られていたせいで、つい。お許し下さい、閣下(Your Grace.)

 

 絶対にわざとだよなと八幡は思った。

 

 

 靴を脱いで廊下に足を踏み入れると、ドアが幾つか目に入った。洗面とお風呂場やトイレを除いて、おそらく3LDKなのだろう。現実世界でもこれと同じ構造の部屋に一人で住んでいたんだよなと、八幡は雪ノ下の境遇を思う。

 

 ひとまずは奥のリビングに案内されて、ソファに一人、所在なさげに腰を下ろす。由比ヶ浜の様子を確認しに行った雪ノ下に代わって、メイドさんがお茶を淹れてくれた。それをずずずっと味わっていると、雪ノ下が姿を見せる。いつの間に着替えたのか、白いサマーニットにふんわり緩い白のマキシ丈スカートを合わせている。

 

「ドアを開けた音で起こしてしまったみたいで。比企谷くんがお見舞いに来ていると伝えたら、少し悩んでいたみたいだけれど。打ち合わせをするなら自分も一緒に、というのが由比ヶ浜さんの希望よ」

 

 かつて急に友達が家に訪ねてきた時の妹の様子を思い出して、髪とかメイクとか女の子は気にすることがたくさんあるから大変だよなと八幡は思う。あまりじろじろと見ないようにしようと考えながら、八幡は口を開いた。

 

「それって客室で話すってことか、それともリビングまで出て来られるぐらいには回復してるってことなのか?」

 

「顔色はずいぶん良くなったと思うのだけれど、できれば寝かせておいてあげたいわね。客室に移動しても貴方は大丈夫かしら?」

 

「こっちは招かれた側だからな。家主が入って良いって言うんなら、まあ、別に」

 

 雪ノ下の私室に入るわけではないのだしと、八幡は気楽な調子を装って返事をした。それに軽く頷いて、雪ノ下は背を向けると歩き始める。ついて来いという意味に受け取って、八幡はよっこいしょと言いながら立ち上がると、由比ヶ浜の待つ客室へと移動した。

 

 

***

 

 

「ヒッキー、わざわざごめんね……」

 

「いや、別にだらだらしてただけだし、あんま気にすんな。以後は謝るの禁止な」

 

 客室では開口一番、由比ヶ浜に謝られてしまった。恥ずかしそうに顔を少し手で隠して、首から下は布団にくるまって横になった状態の由比ヶ浜だが、手の袖口や襟の部分が見えているのでパジャマの柄が想像できてしまう。今現在の由比ヶ浜の全身像を思い浮かべてしまいそうになり、慌てて頭の中で素数を数える八幡だった。

 

 ベッドの近くにはラタンチェアが向かい合わせになっていて、すぐ横にはガラス天板をラタンでフレームした小さなサイドテーブルもある。八幡と雪ノ下が椅子に腰を下ろすと、二人の後ろに控えていたメイドさんが手に持っていたお盆をテーブルに載せた。リビングで飲みかけになっていたカップをメイドさんが新しいものに取り替えてくれたのだろう。二人分の淹れたてのお茶が、湯気を出して存在を主張していた。

 

 由比ヶ浜の枕元にあったストロー付きの吸い飲みも新しいものに替えて、メイドさんはドアの前で深々と一礼すると「ご存分に」と言い残して部屋を出て行った。そして三人の話し合いが始まる。

 

「由比ヶ浜さんに負担をかけ過ぎていることは分かっていたのだけれど、他に適任が居ないからと無理をさせてしまったのが悔やまれるわね」

 

「まあ、考えようによっては不幸中の幸いっつーか、まだ日数的には余裕がある今で助かった気もするけどな。文化祭前日とかに由比ヶ浜が倒れてたらって思うと、な」

 

 謝るのは禁止と言われてしまったので、由比ヶ浜は布団を顔まで持ち上げて「うー」と唸ることしかできない。由比ヶ浜の責任感を理解している二人は、そのまま本題に入ることにした。

 

 

「まずは今後の展開を整理するわね。今週の金曜日と土曜日の二日間に亘って文化祭が行われる予定なのだけれど。当日には、この世界に巻き込まれた校外の人たち、これはごく少数ではあるのだけれど下は小学生から、上は大学生や社会人まで幅広い年齢層の人たちに向けて門戸が開かれるので、対応が難しいわね」

 

「いくらこの世界では現実以上に安全が確保されてるからって言っても、当日はどうしてもぶっつけ本番になっちまうからな。それに加えて、現実世界からのゲストにも対応する必要があるわけだし、頭が痛いな」

 

「そちらのほうは、できるだけ運営に仕事を負わせる方向で話を進めているのだけれど。我が校の生徒と顔見知りの誰かが揉めるとか、そうした内輪の事態になれば私たちが収拾するしかないから、覚悟を決めておいたほうが良いわね」

 

「当日は臨機応変に。その為にも体力と気力が万全の状態で本番を迎えないと、って感じかね」

 

「一般客の受付を担う保健衛生と、現実世界に関する諸々を扱う渉外とで、事前に考え得る限りのシミュレーションを行うぐらいね。この辺りの詳しい話は文化祭実行委員会で話し合うとして。……私達にとって問題なのは、水曜日にまた姉さんが来ることなのよね」

 

 急に歯切れが悪くなった雪ノ下を見て、ベッドで聞き役に回っていた由比ヶ浜が口を開いた。

 

「でもさ、それってヒッキーが対策を考えてくれてたじゃん。あたしには全部は理解できなかったけど……」

 

「案は案として、ちゃんと運用できるかって問題もあるからな。雪ノ下なら大丈夫とは思うが、相手はあの陽乃さんだし。由比ヶ浜に無理をさせたくはないけど、雪ノ下が劣勢になったらお前を巻き込むかもしれんぞ」

 

「うん、その時は遠慮なく巻き込んで。あたしもその時に備えて、今はしっかり休んどくからさ」

 

「ただ……夏休みの勉強会の時の話を覚えているかしら?」

 

 それでも雪ノ下には別の懸念があるようで、重苦しい話し方は変わらない。目を見合わせた八幡と由比ヶ浜だが、より正確に記憶しているであろう八幡が会話を引き受ける形になった。

 

「たしかあれだよな。俺と由比ヶ浜が花火大会で、陽乃さんとは文化祭の話をしなかったって言ったら、お前が『少し面倒なことになりそう』とかって」

 

「ええ。姉さんの性格は、二人ともある程度は把握していると思うのだけれど。基本的に姉さんは、興味のない対象には関与しないのよ。ただ、興味を持つと構い過ぎるきらいがあって。色々と難題を押し付けてくるのよね……」

 

 過去の様々な経験を思い出しているのか、遠い目をしてため息をつく雪ノ下だった。話が少し飛躍しているのか理解が追いつかない部分があるなと思いながら、八幡が口を開く。

 

「陽乃さんの愉快犯的な傾向は俺も何となく分かるんだが、文化祭のことを何も言わなかったのと、どう繋がるんだ?」

 

「深読みし過ぎなのかもしれないのだけれど。姉さんがこれだけ何も口出しをしないで、むしろ卒業生の有志を取りまとめたり妙に協力的なのは、既に何かしらの波乱要素が潜んでいるからではないかと。私にはそんな気がしてならないのよ」

 

 実の妹にそう言われてしまうと、八幡も由比ヶ浜も否定はできない。だが八幡には別の心当たりがあったので、それを言ってみることにした。

 

「あのな、この間ちょっと人材について戸塚とかと喋ってたんだけどな」

 

「あ、さいちゃんとカラオケに行った時だよね。城廻先輩が主催って、あの時ヒッキーは教えてくれなかったと思うんだけど!」

 

「いや、最初は材木座だけだと思ってたし、俺もカラオケに行ってから知ったんだからな」

 

「むー」

 

 不満そうに頬を膨らませている由比ヶ浜を何とか宥めて、どうして俺は怒られているのだろうと内心では首を傾げながらも、八幡は話を続ける。

 

「由比ヶ浜が疲労で倒れた今、問題がハッキリ見えたと思うんだよな。正直に言って、文化祭の為に外せない人材ってお前らぐらいだろ。だから、お前らに何かがあると途端に何も進まなくなると思うんだわ。雪ノ下が警戒する波乱要素とは少し違うかもしれんが、ごく少数の存在で回ってる組織って時点で、かなり危ういと思うんだよな」

 

 水曜日には外せない人材リストの中に生徒会長の名前も含めていた八幡だったが、由比ヶ浜の剣幕を怖れてここでは除外することにした。こうした気遣いって大変だよなと思いつつも、八幡は由比ヶ浜が感情的な反応を見せること自体は嫌ではなかった。それで少しでも由比ヶ浜が元気になるのなら、構わない気がする。

 

 これは、先日悩んでいた「お兄ちゃん」とか「過保護」とはまた少し違う気がするなと八幡は思う。だが今は、それを掘り下げるのを避けて話を続けることにした。雪ノ下に向けて八幡は問いかける。

 

「だから、あれだ。由比ヶ浜は明日は休ませるのか?」

 

「ええ。ここで無理をさせないで、明日一日で完全な体調に戻して欲しいと思っているのだけれど。そのために、日中にも看護ができるこのマンションに由比ヶ浜さんを引き取ったのよ」

 

 そう説明を受けて合点がいった八幡だった。今日の日曜日なら同級生が面倒を見られるが、明日の午前中は授業があるし午後は文化祭の準備がある。だから雪ノ下は、メイドさんに由比ヶ浜の看病を頼むつもりなのだろう。

 

 ここが勝負所だと考えて、八幡はいったん肩の力を抜いてお茶で喉を潤して、そして再び口を開く。しっかりと雪ノ下の目を見据えて。ちょっと怖いけど視線を逸らさないようにして、こう述べる。

 

 

「俺は、明日はお前も休んだほうが良いと思う」

 

「……比企谷くん。理由の説明を」

 

 冷静を通り越して冷ややかとさえ言えそうな口調で、雪ノ下がそう返してきた。雪ノ下のことを知らない頃なら、あっさりと撤退していただろう。だが今の八幡は、その冷ややかさの中にどんな感情が潜んでいるのかを知っている。

 

 かつて、この世界に巻き込まれる前に部室で相対した時に、八幡はそれが何かを知りたいと思った。何故と問われると分からない。だがそう思ったからこそ、柄にもなくあの時に踏み込んだのだ。

 

 今も八幡は、相手の全てを知っているとはとても言えない。相手のことを分かったつもりになって、勝手なイメージや理想を押し付けようとは思わない。だが、全く知らないわけではないし、この二人のことなら知っていることも少なからずある。

 

「お前の体力もそろそろ限界だろ。さっきも確認したように、水曜以降は面倒な展開が目白押しになりそうだしな。休むなら今しかないと、俺は思う」

 

「それは、貴方の見込み違いではないのかしら。先日も言ったと思うのだけれど、体調を保健委員にチェックさせたり、家事をする必要もなくなって、それでも私が倒れるとでも言うのかしら?」

 

 二人の間に入れない由比ヶ浜は、しかし目を軽く閉じて事態の推移を見守っている。現時点では無理に介入する必要もないと、充分に理解しているから。

 

「あのな。木曜日に戸塚と喋った時のことを覚えてるか。本題に入る前に、俺と由比ヶ浜が離れなくても良いのかって話をしてた時なんだがな」

 

 別に隠すことでもないのだからと言って、雪ノ下は二人が話の場に居合わせることを拒まなかった。むしろ内心では居てくれたほうが心強いと思っていたはずだ。だがなぜ今その話が出て来るのだろうかと雪ノ下は思う。もしや、あの時に八幡を軽くからかうつもりで口にした言葉が、度を過ぎていたのだろうか。

 

 軽く頷いた後で雪ノ下が頭の中で思考を巡らせていると、八幡が少し困ったような表情になって話し始めた。

 

「あー、あれだ。オチも見えたしってことで話に乗っかったのは俺だし、別に嫌な思いとかはしてないから大丈夫だ。ただな、いつもの切れが無かったんだわ。だから、もしかして疲れが溜まってきてるのかもなって」

 

「でも、それだけが根拠というのは……」

 

「あの後で、俺がお前の声真似をしたのも覚えてるか。あれも、お前が由比ヶ浜に言った言葉が少し変だったのが切っ掛けだったよな。普段のお前なら、あんな風に由比ヶ浜にも誤解されるような言葉遣いをするわけねーだろ」

 

 短時間で二度も違和感を感じて、だから八幡はそれ以来、今まで以上に雪ノ下の体調を懸念していたのだった。それを雪ノ下も感じ取って、場にしばし沈黙が降りる。

 

「あの日は陽乃さんが来た翌日だったし、日が経てば疲れも取れるかと思ってたんだがな。昨日一昨日と、細かいミスが何度かあったの、お前は気付いてねーだろ。言い間違いとか些細なことばっかで、特に悪影響も出てないけどな。でも、万全の状態には程遠いし、このままだといつ倒れても不思議じゃないと俺は思う。結局は今日も……」

 

 雪ノ下が口をつぐんでいるのを確認して、八幡が話を続ける。だが途中で言い淀んでしまい、再び沈黙が場を支配しようとしたところで、別の声が上がった。

 

「ヒッキー。あたしに気を遣わないで、思ってることをちゃんと言って欲しいな」

 

「……そうだな。今日も由比ヶ浜が倒れて、朝から休む暇もなく色々と動いてたんだろ。由比ヶ浜が明日も休むとなったら、そのぶんお前の負担は確実に増えるし、疲労は蓄積する。明日が最後の、身体を休めるチャンスだと俺は思う」

 

「そうね。貴方が言いたいことは理解したわ。その分析が正確なものだということも。でも、まだ実際に倒れたわけではないのに、高校をずる休みするというのは……私には難しいわ」

 

 それは邪法を好まない雪ノ下らしい発言だった。今の雪ノ下は正攻法以外のやり方も知っている。だが、正攻法で事が収まる可能性があるのに。つまり、倒れなければ休む必要はないと思えてしまえる状況ゆえに。学校に行ける程度には元気なのに、敢えて休むという手段を取ることが雪ノ下にはできない。

 

 このままだと倒れる可能性が高いと解ってはいるが、確実に倒れるというわけではない。だが同時に、もしも倒れてしまえば大変なことになるのは雪ノ下も理解している。そんな迷える状況において、人が最後に頼るのは己の信念に他ならない。正攻法が持ち味の雪ノ下だからこそ、変則的な手段を取るには難しい状況にあった。

 

 八幡もそれを理解できるだけに、正攻法が似合う雪ノ下の姿を何度も見てきただけに、それ以上は無理強いすることができない。カースト底辺ゆえに色んな言動を批判され嘲笑されてきた八幡だったが、だからこそ誰かの一番の長所を否定したいとは思わないし、ちゃんとした信念を持つ者にそれを曲げさせたいとも思わない。それが雪ノ下なら尚更だ。それよりは、信念に殉じて失敗するほうが遙かに良いのではないかとすら八幡は思う。

 

 だから、それもアリかと八幡は考えを改める。仮に雪ノ下が倒れても、死ぬ気で撤退戦をやればそれなりの形にはなるだろう。高校の文化祭で失敗したところでリスクは低いし、むしろ失敗できる時にしておいたほうが将来の糧になるとも言える。雪ノ下なら失敗の経験を大いに活かすに違いない。

 

 だが。けれど。それでも。できれば雪ノ下が失敗する姿は見たくないと八幡は思った。いや、違う。そんな雪ノ下を見るのは嫌だと八幡は思った。しかし自分にはもう打てる手はない。だからこそ八幡は、もう一人に視線を送る。ベッドに倒れ伏している病人を頼るしかない自身に苛立ちを抱きつつ、それでも八幡が送るのは信頼の眼差しに他ならない。

 

「……あのさ。現実だったらね、学校を休んだらママが家に居てくれて、安心できるんだけどさ。あ、その、メイドさんを信頼してないってわけじゃないんだけど。でも、ゆきのんが居ない部屋で一人で寝てるのって、ちょっと寂しいなって。だから、あたしが一緒に居て欲しいから、明日はゆきのんにも学校を休んで欲しいなって。ダメ……かな?」

 

 由比ヶ浜の言葉を聞いて、まるで呪縛が解けたかのように柔和な笑みを浮かべて、雪ノ下は静かに頷いた。二人に向かって順に目を向けて、そして口を開く。

 

「分かったわ。明日は二人で体調回復に努めましょう。比企谷くん、明日は大きな問題は起きないと思うのだけれど……」

 

「まあ、やばくなったら連絡するから、安心して体力回復に励んでくれ」

 

 こうした言い方のほうが「俺に任せろ」と言われるよりも頼りがいがあると思えるのは何故だろうかと雪ノ下は思う。おそらく、八幡が言葉を偽らず口にしているからなのだろう。本当に緊急の出来事があれば、八幡は迷わず連絡してくるだろう。同時に、連絡がない限りは大丈夫だと考えられる。そこに安心できる理由があるのだろうと雪ノ下は思った。

 

 

「その代わり、火曜日からは全力で事に当たると約束するわ。まずは相模さんへの対応を変更しようと思うのだけれど」

 

「まあ、ちょっと甘やかし過ぎだったよな。当初の相模スパルタ計画はさすがに行き過ぎだとしても、委員長なのに並の仕事で大目に見てたのはちょっとな」

 

「あたしも、もうちょっとさがみんに言うべきことは言ったほうがいいなって。結局は本人のためになってないんだよね……」

 

 巡り合わせが悪く不幸体質な相模南の傾向を知っているだけに、由比ヶ浜はどこか相模に甘い部分があった。それが外的な対応だけに止まらず、内心でも相模を悪く思わないようにしたいと考えていたことで、余計に由比ヶ浜の中ではストレスになっていた。体調を崩した一番の原因は自分にあると由比ヶ浜は考えているが、二度とこんなことにならないように改善できる部分は改善しようと思ったのだった。

 

「そういやあれだな。会長にこの前、いざという時には雪ノ下にはJ組が、由比ヶ浜には友人が多く居るけど、俺にはほとんど居ないからって心配されたんだけどな。逆に、由比ヶ浜に友達が多いから色々と頼まれて、身動きができなくなった部分も大きいと思うんだよな」

 

「あのね、優美子が言ってたんだけどさ。いざという時に優美子はあたしを頼れるけど、あたしが困った時には何にもできないって、今朝ちょっと落ち込んでたんだよね。あ、これ内緒ね。でも、あたしは違うと思うんだ。上手く言えないけど、問題の解決はできなくても一緒に困ってくれるってだけで、ぜんぜん違うって思ったのね。優美子があたしの役割を肩代わりできなくても、一緒に居てくれるだけで安心だなって、そういうことを伝えたんだけどさ。って、何が言いたいか分かんなくなって来ちゃった……」

 

 たしかに由比ヶ浜が話す内容は、八幡の話からは逸れていた。だが、有象無象の存在を意識して話をしていた八幡だったが、由比ヶ浜にとってはみんな名前のある親しい相手なのだろうと思い直した。

 

 普段は何も考えていないようで、それでも男子生徒との会話などでは避けるべき部分を上手く避けている。今回は色んなことが一気に重なっただけで、普段なら由比ヶ浜は上手く対処できるのだろう。変な邪推は、逆に由比ヶ浜に対して失礼かもしれないと八幡は思った。

 

「そういえば、クラスのほうは順調なのか?」

 

「うん。サキサキが衣装作りですっごく貢献してくれてるし、主役二人のメイクとか凄いよ」

 

「それって単に、戸塚と葉山に女子連中が群がってるだけじゃね?」

 

「そうとも言う、かもしんない。でもさ、クラスTシャツとかもできたしみんな盛り上がってるよ。あ、ヒッキーのは背中の名前ヒッキーにしといたから!」

 

「おい。まあ、去年の『比企谷クン』よりはマシって考えれば……でもなぁ。つか去年のあれ、『クン』だけ片仮名だったんだが、そのセンスはどうなんだって言いたいよな」

 

「F組は順調そうね。私達のバンドも練習ノルマはクリアできているし、本番が楽しみね」

 

 八幡の不満をさくっと流して、別の話題を持ち出す雪ノ下だった。この切れがあるのなら、明日は休ませなくても良いのかもしれないとちょっと思った八幡だった。とはいえ少し悔しいので、思い出した話を持ち出すことにする。

 

「あのな、校内放送の時に最初に会長が喋って、その後で映像がお前に入れ替わっただろ。あれで思い付いたんだけど、お前って演技スキルは高いのか?」

 

「幸いなことに、演技をする必要があまりない生活を送れているので数値は低いわね。演技の実力ではなく演技していた時間を判定するスキルである以上は、当然の結果なのだけれど」

 

「じゃあ、演技スキルが200を超えてる俺が申請するから、こういうのはどうだ?」

 

 本来なら演劇の際に効果を発揮する裏要素なのだが、バンドという出し物をする上でも使えるのではないかと考えたのだ。思い付きを説明すると、雪ノ下が乗り気な口調で応えてくれる。

 

「なるほど。では表現をこう修正して、申請しておいて貰えるかしら?」

 

「それは良いけど、タイムスケジュールが決まらないと難しいな」

 

「大丈夫よ、この時間帯を確保する予定だから」

 

 未だ文実では渉外部門の責任者に過ぎないはずなのに、実行委員長にすら不可能に思える強権をちらつかせる雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

「んじゃ、そろそろ話は終わりかね。俺も家に帰ってしっかり休んどくわ」

 

 気付けば夕方近くになっていた。八幡は時間を確認して、そう言いながらゆっくりと立ち上がる。

 

「あ、えっとね。お見送りしたいから、その、ちょっと待っててくれる?」

 

「いや、無理せずそのままで良いぞ?」

 

「ううん。せっかくお見舞いに来てくれたんだしさ。最後ぐらいはちゃんとお見送りしたいの」

 

「比企谷くん。パジャマの上に何かを羽織らせるから、少し廊下で待っていてくれるかしら?」

 

 雪ノ下にそう言われてしまうと、八幡にも由比ヶ浜の行動を拒否できなくなった。こうした些細な行動が多くの生徒からの信頼に繋がるのだろうなと八幡は思い、大人しく廊下で待つことにした。

 

 

「……ご主人様。ご主人様」

 

 廊下に出て、客室のドアを背にぼんやり過ごしていると、誰かが八幡を手招きしていた。雪ノ下お抱えのメイドさんだろう。

 

 メイドさんは客室とは違う別の部屋に居るみたいで、手だけを廊下に出して八幡を呼んでいる。訝しみながら八幡が件の部屋に近付いて行くと、ドアが内向きに開くと同時に手を取られて、八幡はその部屋の中に入ってしまった。

 

 部屋の中は綺麗に整理されていた。無駄なものがほとんどなく、ただベッドの片側だけに、ぬいぐるみや猫関連のあれこれが固まっている。その中に、見覚えのあるパンダを見付けた。クレーンゲームで店員さんに取って貰って、彼女にプレゼントした記憶がある。大切に扱って貰ってるんだなと、八幡はパンダに心の中で呼びかけた。

 

 そこでようやく八幡は、自分が雪ノ下の部屋に侵入してしまった事実を認識した。もしもバレたらどうなることやら、想像もしたくない。たちまち挙動不審に陥りかける八幡だったが、メイドさんが手を離してくれない。無理にふりほどくわけにもいかず困っていると、メイドさんが空いているほうの手で机の辺りを指差した。

 

 雪ノ下の机の上は綺麗に片付けられていたが、育ちの良さを表すように写真が幾つか飾られていた。家族の集合写真らしきものが多かったが、由比ヶ浜と一緒にテニスウェア姿で写っているものもある。あの時は良い思いをさせて頂きましたと緩んだ顔になって、着替えの途中で部室に乱入してしまった過去を懐かしむ八幡だったが、その横の写真に自分が居るのを見て真面目な顔に戻った。

 

 それは、海老名が作成した千葉村のレポートでも採用されていた写真。小学生とゲームに興じる八幡の姿が雪ノ下と並んで写っていた。それを由比ヶ浜が写真の中から見守ってくれている。

 

 写真の中の光景をじっと見つめながら、八幡は自由なほうの手で優しくメイドさんの手を叩いた。メイドさんが自分に何を見せたかったのか、それをしっかり理解したと伝わったのだろう。掴んだ手は離されて、しかし八幡はその場からしばらく動けなかった。

 

 八幡の心の中にやる気が漲ってくる。どうして高校の文化祭ごときのために時間を費やさなければならないのかと考えていた八幡は、もう今は居ない。それは自分の想いではなかったのだと八幡は理解したが、それを掘り下げるのは今ではないと思う。それよりも、あの二人がやる気なのだから自分もやる気を出そうと、八幡はシンプルにそう思った。

 

 隣に立っていたメイドさんが、急に慌てたように背中を押してくる。どうやって把握しているのかは分からないが、二人が廊下に出て来ようとしているのだろう。八幡もまた焦りながら雪ノ下の部屋を出ると、ちょうど客室のドアが開こうとしていた。間一髪だったなと八幡は思う。

 

 雪ノ下の個室経由で移動する気分になれず、八幡は玄関で二人に別れを告げた。二人の後ろからはメイドさんがウインクを送ってくれるが、二人にバレると怖いので軽く手を挙げることでお礼に代えた。

 

 

 文化祭まで、あと五日に迫っていた。




前話の更新後に、お気に入りが500を超えました。
この作品を見付けて下さって、そしてお気に入りに加えて頂いて本当にありがとうございました。

原作12巻の発売を受けて、ここ数話は悩みながらの執筆が続いていました。

具体的には、陽乃の言動を原案から修正して(同時に5話以降の構成に変更を加えて)雪乃の過去と家の事情をほぼ確定させたこと、パワーワードになった「妹扱い」「過保護」で話を広げるのは凍結して原作に沿った落ちをひとまず付けたこと、原作がシリアスを深めているのに合わせるべきか軽めの展開に抑えるべきかを検討した末に当初の方針で行くと再確認したこと、などがありました。

これらを何とか片付けて、本来のルートに戻れたのと時を同じくしてお気に入りが大台を超えて。なんだか読者の方々からねぎらって頂いたような気持ちがしたので、今回こうしてお礼を書いてみました。

皆様が読んで下さるお陰で、この作品の今があります。
そのご恩に対しては、お礼の言葉を繰り返すよりも、作品の中身でお返しすべきだと私は考えています。
できましたら、今後とも本作をよろしくお願い致します。


次回は来週の木曜か金曜、それが無理な場合はその後の数日内に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/13)


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12.めだちたくない彼が今日は違った姿を見せる。

本話は八幡の内面描写が多めでシリアス寄りの内容になっています。八幡の思考の流れが伝わりやすいように書いたつもりですが、分かりにくい部分があればご指摘を頂けますと助かります。

以下、前回までのあらすじ。

 日曜日に八幡は緊急の呼び出しを受けて雪ノ下のマンションを訪れた。疲労で倒れた由比ヶ浜が寝かされている客室にて、三人は打ち合わせを行う。

 水曜日に来襲する陽乃への対応や、ごく少数で回っている組織の問題などを話題にした後で、八幡は雪ノ下にも休養が必要だと告げた。疲れが溜まっていることは認めながらも、自身の性格的にも倒れる前に休むのは難しいと雪ノ下は答える。だが、理に適った八幡の勧めに由比ヶ浜のお願いが加わると、雪ノ下はあっさりと二人に従うことを決めた。

 月曜日に休んだ分は火曜日以降に取り戻すと、雪ノ下も由比ヶ浜も意欲を燃やしている。クラスの出し物もバンドの練習も順調だ。そして八幡もまたメイドさんの手引きによって、こっそりと雪ノ下の心情に触れて、静かに気合いを入れ直すのだった。



 月曜日のお昼休み、比企谷八幡は一人部室で過ごしていた。

 

 今日の八幡は、朝から普段以上に他者との関わりを避けて過ごしていた。だが、周囲も八幡の状況を理解してくれているからか、あるいは八幡以外の経路から事情を把握しているからか。いずれにせよ、八幡に気軽に話しかけてくる生徒は居なかった。お陰で午前中は授業も休み時間も平穏に過ぎた。

 

 そして今、昼食を摂りながらも心ここにあらずという様子の八幡は、頭の中では今学期に入ってからのことを振り返っていた。

 

 

 クラスの劇で主役に抜擢しようとする海老名姫菜の要望を断って、結果として戸塚彩加を生け贄に捧げる形になった罪悪感と。更にはクラス内で注目を集める立場になってしまった苛立ちと。それらから逃亡しようとして、文化祭実行委員に立候補したこと。それが何故か由比ヶ浜結衣と、更には雪ノ下雪乃とも一緒に仕事をする形になったこと。

 

 あの時にあったのは素直な嬉しさだけだったと八幡は思う。一学期から夏休みにかけて多くの時間を共有したことで、あの二人なら自分を上手く動かしてくれるだろうし自分もあの二人の力になれると、八幡は考えることができた。二学期にも同じような日々を過ごせるのだと実感できて、盛り上がる気持ちを抑えられなかったあの時のことを、八幡は鮮明に覚えている。

 

 だが同じクラスの相模南が実行委員になって、自分を仲介に雪ノ下に近付いた彼女を見て、八幡は己の立場を知った。それ以降は話しかけてくる連中を警戒して、雪ノ下や由比ヶ浜に近付く為ではないかとの疑いを解かなかったのは正しかったと八幡は思う。

 

 なぜなら、二人の威光を借りたいと思う輩は相模を筆頭におおぜい居たが、二人を参考に自身を高めたいと考える生徒はほとんど居なかったから。現在直面している人材難がその証拠だ。せいぜい副委員長の藤沢沙和子ぐらいだろうか。

 

 それにしても、実行委員長に就任して早々に知恵熱で欠席したりと、相模には振り回されたなと八幡は思う。あの日に朝から動き回っていた由比ヶ浜を見て、更には雪ノ下がせっかく作った教材を相模がわざわざ具現化して写真に撮るといった余計な行動をしていた辺りで、八幡は最初の疑問を抱いたのだった。

 

 雪ノ下の責任感には凡人の身では到底及ぶべくもないが、由比ヶ浜の責任感もかなりのものだと八幡は思う。あの二人と比較するから基準が高くなるのだと理解はしているが、それでも役職に見合った責任感ぐらいは持って欲しいものだ。あの時点では、相模個人に対する不満だけだったなと八幡は思う。

 

 その他の名もなき面々が気になり出したのは、雪ノ下陽乃の爆弾発言を何とか飲み下せた後だった。だがその前に、あのネタバレは最悪だったと八幡は慨嘆する。

 

 葉山隼人と同じ小学校だったという、たったそれだけの情報で、八幡の心は大きく揺さぶられた。まるで小さな子供みたいに、幼稚で我が儘な独占欲を今でも持っているのだと自覚して。自分こそが二人と一番仲が良いのだと、そんな傲慢な思いを抱いていたことを知って。ほんの数日前のことではあるが、今にして思えば、どうして自分はそんなちっぽけなことに拘っていたのだろうと八幡は思う。

 

 だがあの時の八幡は、自分が部外者で、その他大勢に過ぎない立場で、役立たずの除け者であるかのように思ってしまった。仕事を終えて由比ヶ浜と別れた時は、今日はもう奉仕部関係者とは会いたくないとすら思っていたのに。その後に会った教師や先輩や同級生のお陰で、落ち着きを取り戻すことができたと八幡は振り返る。

 

 そして雪ノ下本人の口から、葉山と幼馴染みだった過去を伝えられて。結果的にはあれで吹っ切れたと八幡は考えている。だが、自他を問わず感情は不可解だという気持ちに加えて、二人に取り残されたくないという気持ちも残った。それにカラオケに行く直前の会話で、由比ヶ浜から「できる範囲のことはよろしく」と頼まれている。だから今日は頑張らないとなと八幡は思う。

 

 ちらりと時計を確認すると、まだお昼休みが終わるまでには充分な時間があった。いつの間にか食べ終えていたお膳を片付けて、もう少し頭の整理していても大丈夫だなと考えた八幡は、再び思索の中へと没入する。

 

 

 その他の名もなき面々、あるいは八幡が有象無象と呼んでいる生徒たちの動きは、少しずつ目に付くようになってきていた。雪ノ下と葉山の関係を邪推することから始まって、ろくに仕事もしないくせに態度だけは一丁前な生徒を、八幡は何度か目の当たりにした。そういえば、今更ながらに部費の話を蒸し返した反対派の残党たちも、言ってしまえば同じ穴の狢だろう。

 

 ビラを貼るなどの馬鹿げた行動に出たあの連中とは違って、一つ一つの振る舞いは些細なものだ。人数も頻度も、現時点ではそれほど多くはない。だが八幡は彼らを、唾棄すべき連中だと思わずにはいられなかった。同時に、その判定には二人の存在が大きく寄与していることも八幡は自覚していた。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜がどうしてここまで労力と時間とを費やす必要があるのか。こんな連中のために。たかが高校の文化祭のために。他に頼れる人材は居ないのか。八幡はそんな疑問を抱いて、その原因をひとまずは自己投影に求めた。そんな連中に良いように使われるのは嫌だと考えているのは俺だと、そう解釈しようとした。

 

 今にして思えば、自分はそんな状況には慣れていたはずなのに。文化祭ごときのためになぜ俺が、などと考えるのは、「押してダメなら諦めろ」を信条とする自分には過ぎたる自意識だと八幡は思う。

 

 やはりあれは、あの二人が疲労を溜め込んでいく姿を見ていたがゆえの発想なのだろう。それが自分でも意外に思えるほど激しいものだったので、別の解釈を求めようとしたのだろう。だが今の八幡は、大人しく正しい解釈を受け入れることができる。

 

 それを気付かせてくれたのは、昨日のメイドさんの行動と、由比ヶ浜の感情的な反応だった。

 

 雪ノ下が部屋に飾っている写真を見せてくれたメイドさん。あれによって八幡は、二人に対する照れくさい気持ちを相対化させることができた。おそらくまた近いうちにその感情は再発するのだろうが、今は素直に、それよりも大事なことがあるのだと受け止められる。

 

 そして、八幡もカラオケに行くまでは知らなかった主催者の情報を、どうして放課後に教えてくれなかったのかとぶーたれていた由比ヶ浜。八幡はそれを嫌とは思わなかったし、むしろ由比ヶ浜が元気になるのならそれで良いとすら思えた。

 

 それは、このところ悩んでいた「過保護」とか「お兄ちゃん」とは由来が違うと八幡は思う。それらは本来は不必要なもので、ただ他の対応が分からないために、あるいは別の感情に突き動かされて発動する類いのものだと八幡は考えていた。対等ではない歪でイレギュラーな関係に思えて。それは相手に対して失礼ではないかと思えて、だからこそ八幡はそれらを警戒して用心して人知れず悩んでいたのだった。

 

 とはいえ、例えば自分が何かを引き受けることで別の誰かが助かるという構図があったとして。そこに妙な感情や動機が差し挟まれる余地がなければ、この問題は発生しない。ここで問われているのは行動の内容や結果ではなく、行動の理由だと八幡は思う。過保護だから、お兄ちゃんだからという動機の部分に原因があるのだと。

 

 ゆえに重視すべきは、お互いの関係性を明確にすること。それが同級生という関係性の中に、あるいは同じ部活の仲間という枠内に収まるのであれば。結果として自分が怒られるぐらいは何でもない。実際の行動によって発生する多少の理不尽など些細なことだ。

 

 人によっては、それを自虐とか自己犠牲と呼ぶのかもしれない。しかし当の八幡は慈善行為を行っているつもりもないし、別に自らを犠牲にしているつもりもない。限度を超える事にまで首を突っ込む気はないし、ただ何を重視するかの観点が違うだけだ。長年カースト底辺で過ごして来ただけに、不合理な扱いには慣れている。それで事が簡単に片付くのならば、特に文句はないと八幡は思う。

 

 千葉村で教師から得た助言を八幡は思い出す。自分のことを「虐げられた環境にも慣れる強さを持っている」と評した彼女は、その強さこそが危ういのだと教えてくれた。だから、限界だけは常に意識しているし、自分は大丈夫だと八幡は考えている。

 

 とはいえ自分は大丈夫でも、それを見た近しい人たちにとってもそうとは限らない。だから、あの二人に怒られるのは仕方がないとしても、あの二人を失望させたり哀しませたりしないように、その一線も意識しなければならない。

 

 俺の意図が伝わらないのなら、誤解されるのなら、その程度の関係だったということだ。そんな無様な思考放棄は絶対に避ける。なぜなら、相互確証破壊を提案した責任が俺にはあるから。最後の土壇場に至っても理性を保つ必要のある案を雪ノ下に提示しておいて、自分は早々に感情に身を任せるなど八幡には耐えられることではない。こうした面での自意識にかけては、人後に落ちない自信がある。

 

 

 いずれにせよ、と八幡は思う。有象無象への対応は、ハッキリと問題になった時に考えれば良い。そうした連中の言動に一喜一憂したり考え過ぎたりして時間を費やすよりは、目の前の問題を片付けていくべきだ。それよりも、あの二人のことを考えるべきだ。

 

 今日休ませたことが、雪ノ下の長所や信念に悪い影響を及ぼす結果にならないように。その為にも、今日だけは問題を起こさせるわけにはいかない。休んだことを後悔させるような展開だけは絶対に避けなければならない。

 

 そして自分にとっては有象無象であっても、その中に由比ヶ浜にとっては親しい連中が大勢いることも覚えておかなければならない。彼らをむやみに敵視するのではなく、できれば味方に、最低でも中立の立場で居てもらう必要がある。

 

 あの二人がやる気なのだから自分もと、昨日得られた単純明快な行動原理を胸に。時計を確認した八幡はゆっくりと椅子から立ち上がると、奉仕部の部室を後にした。

 

 

***

 

 

 予定の時刻よりも少し早めに会議室に入って、八幡はいつも通りに人気の少ない場所に腰を下ろした。先週の後半には、雪ノ下が八幡の隣に座るのを見越した実行委員たちが周囲の席をたちまち埋めていたものだが、今日はそんな動きも無い。

 

 分かりやすいものだと八幡は思うが、特に不満があるわけでもない。先程まで部室で頭を使っていたわけだし、全体会議が始まるまでは頭を休めて静かにぼんやり過ごせそうだ。そんなふうに、この環境を前向きに受け入れる八幡だった。

 

 

「で、では、会議を始めたいと思います」

 

 時間が来て、委員長の相模が会議の開催を宣言する。だが続く言葉がなかなか出て来ない。すぐ横に座る副委員長の藤沢が「相模先輩?」と呼びかけても狼狽が酷くなるだけで、相模にとっては逆風にしかなっていない。雪ノ下に対して煙たく思う気持ちは少なからずあった。だが、その雪ノ下が居ない今、委員会をまとめるという大役が本当に自分に果たせるのかと、既にいっぱいいっぱいの相模だった。

 

 幸いなことに宣伝広報の責任者が空気を読んで手を挙げて、前回までと同様に仕事の進捗状況を説明してくれた。そのまま有志統制・物品管理・保健衛生・会計監査・記録雑務と続き、最後の渉外部門に至ったところで再び会議の流れが途絶える。

 

 雪ノ下が欠席している今、渉外部門の現状に一番詳しいのは八幡だが、誰がどう見ても全体への発表に向いているとは思えない。そんな自他共に認める状況ゆえに、八幡は三年の先輩に頭を下げて、分かる範囲で報告をしてもらった。それが終わると、またもや会議が停滞する。

 

 月曜日は休むと決めた直後、真っ先に「相模への対応を変更する」と口にした雪ノ下は正しかったと八幡は思う。トップがこれでは、舐めた態度の有象無象が跋扈し始めるのも当然だろう。今までは雪ノ下の存在が歯止めになっていたが、今日は厳しいかもしれないと八幡は憂慮する。

 

「えーっと、じゃあまず、今日の方針を相談するのはどうかなー?」

 

 状況を見て、やむなく城廻めぐりが提案を出した。会議の冒頭からこの調子では先が思いやられるが、とはいえ話を進めないことにはいつまで経っても終わらない。口を出しすぎたり自分が表に出ないようにと配慮をしながら、それでも城廻はほんわかとした口調で、場の空気を少しだけ軽くしてくれた。

 

「やっぱり今日も、宣伝の打ち合わせと、当日の行動を確認するのが主になると思うんですけど……それでいい、ですよね?」

 

 土曜日の会議を思い出しながら藤沢が口を開くも、今までであれば話しながらでも雪ノ下の反応が窺えたのに、今日はそれができない。何とか最後まで言い終えたものの、気弱な性格が顔を覗かせ始めている。

 

 難しいものだと八幡は思う。雪ノ下の凄さは八幡も重々理解しているが、それにしても一人が欠けただけでこうまで変わるものなのか。

 

 だが逆に考えれば、人前に出るのが得意には見えない藤沢でも、雪ノ下が居た時には副委員長に立候補したり役職に見合った仕事をこなせたりできていたのだ。今日は無理としても、雪ノ下の手助けがあれば仕事ができるという人材をもっと増やすべきなのだろうなと八幡は思った。しかし。

 

「大丈夫なのかな、今日の会議」

「雪ノ下さんが居ないと、どうにもならなくない?」

「無駄な仕事とかさせられたら嫌だよね」

「どうでもいいから、早く決めて欲しいよな」

「いっそのこと、生徒会長が進行をやってくれたらいいのに」

「だってそれは、ねえ。委員長が一応いるんだしさ」

 

 本人たちは声を抑えて話しているつもりなのかもしれないが、こうした声は意外に通るものだ。発言者を特定するのは手間が掛かるし、それができても開き直られたらどうにもならない。会議室に集まっている実行委員は多かれ少なかれ、同じようなことを思っているのだから。

 

 槍玉に挙がっている相模は、きつく唇を噛みしめて、しかし何も言い返すことができない。藤沢の名前が挙がっていないだけ助かっていると考える八幡だが、だからといって一年生に現状の打破を期待するのはさすがに酷だろう。痛いのは、城廻を待望する声が少しずつ出始めていることか。これでは会長も動きにくいだろうなと八幡は思う。

 

 そんな八方塞がりの状況の中、予想外の生徒が手を挙げて発言を始めた。

 

 

「副委員長の提案に同意します。雪ノ下さんが明日、万全の体調で復帰した時にスムーズに事を進められるように、先週からの流れに従って各自で仕事を進めておくべきだと思うのですが」

 

 雪ノ下と同じ二年J組の実行委員が、そう発言した。その責任感と物怖じしない性格は尊敬するが、と八幡は思う。付け加えて言えば、雪ノ下への信頼も相当のものだ。だが、今の状況でそれは筋が悪い。

 

「なに言ってんだか。雪ノ下さんと同じクラスの保健委員だからってさ」

「だから余計にだよ。雪ノ下さんに学校を休ませといて、罪悪感とか無いのかな?」

「雪ノ下さんが疲労を溜め込んだのは、あいつのせいじゃないような……」

「でも、雪ノ下さんが倒れるを防ぐのが、あいつの任務だったろ?」

「どっちにしても、偉そうに語れる立場じゃないよな」

「仕事をしました、無駄になりました、ってなった時に、どう責任を取るつもりなんだろな」

 

 先程までは囁き声だったのに、今や普通の喋り口調でこうした話が語られている。まずいな、と八幡は思う。有象無象は確実に生け贄を求めている。同時に、サボれそうなら仕事をサボりたいという意図が垣間見える。

 

 割れ窓理論というものがあったなと、八幡はふと思い出した。窓が割れたまま放置されているこの場所なら、ゴミを捨てても大丈夫。落書きをしても大丈夫。もう何枚か窓を割っても大丈夫。そんな積み重ねがモラルの低下を引き起こし、やがては犯罪の温床になるという理論だ。

 

 雪ノ下が健在であれば、こいつらが適当な口を叩くこともなかっただろう。だが、小声で自分勝手なことを口にしても、実行委員長が何らの手立ても打てなかったことで。軽微な問題を解決できなかったことで、連中は更にエスカレートしているのだ。

 

 どこかで歯止めをかける必要があるが、雪ノ下が居ない現在、それが可能なのは正副委員長と生徒会長ぐらいだろう。臨席している教師の口添えは、こうした問題では逆効果になるおそれがある。そして副委員長には荷が重く、生徒会長が前に出られない状況を勘案すると、残るは実行委員長の相模だけ。頭の中で状況を整理して、八幡はこっそりとため息を吐く。

 

 そうした八幡の考察が伝わったわけでもないのだろうが。誰にとっても意外なことに、沈黙を続けていた相模が大きく深呼吸をして、そして口を開いた。

 

 

「えっと、注目をお願いします。その。うちが休んだ時に、雪ノ下さんが、仕事の一日延期を提案したと聞いています。だから今回も、今日はクラスの出し物とか有志の準備に専念して、明日からみんなで一緒に頑張るのはどうかなって」

 

 最悪だ、と八幡は思う。せっかく口を開いたと思えばそれかよと。しかし現状では八幡にも打てる手が無い。相模の提案はさざ波のように静かにしかし確実に全員の心へと染み渡っていく。一度口に出された「今日は仕事は無し」という提案を覆すのは、今となってはほぼ不可能だろう。

 

 雪ノ下の先例を思い出したように、相模は決して頭の働きが鈍いわけではない。それに、有象無象が醸し出す会議室内の雰囲気を正確に読み取ったからこそ、この発言なのだろう。事を収拾すべく動いた相模の責任感は褒められるべきものだ。

 

 だが、だからこそ最悪だと八幡は再び思う。顔の見えない大多数の声に誘導される実行委員長など、その存在に益が無いどころか害悪ですらある。

 

「そういえば、あの時の雪ノ下さんも一日延期を提案してたよね」

「俺も正直忘れてたけど、それを思い出すなんて、委員長もやるじゃん」

「立候補した割には頼りないなって印象だったけど、土壇場になると違うもんだね」

「でも、今の段階で一日延期って、大丈夫なのかな?」

「せっかく委員長が良いこと言ったんだし、余計なお世話じゃね。間に合わす自信があるんだろ」

「俺も委員長を支持するよ。やっぱ、いざとなると流石だよな」

 

 こっそりと相模の反応を窺うと、どうやら褒められて喜んでいるようだ。雪ノ下や由比ヶ浜が温情を掛けていたのは逆効果だったなと八幡は理解する。おそらく相模には、二人の意図が何も伝わっていないのだろう。

 

 自分の仕事に対する客観的な評価を求めていなかったのは勿論のこと。果たすべき仕事の基準を下げてもらっても、相模には何の意味も無かったのだろう。それよりも、ただ相模は褒められたかったのだろう。さすがは実行委員長だと、そう言われたかったのだろう。

 

 内実をすっ飛ばして結果だけを求めることがどれほど危ういか、相模は理解していないのだろう。この話をすればみんなに大受けして、クラスの人気者になれるはずだ。このタイミングで告白の言葉を口にすれば絶対に上手く行く、相手は俺の言葉を待っているのだ。そうした過去の痛い記憶を思い出しながら、自分のずっと後方を走っている相模の姿を八幡は幻視した。

 

 雪ノ下があの時、「今回だけ、予定の一日延期を」と口にした時に、どれほどの覚悟を秘めていたか。おそらく、担いうる限りの責任を一手に引き受ける気持ちだったのだろう。あの姿を見て、八幡は「責任ある立場の者として、大勢を引っ張っていくとはこういうことなのだ」と、しみじみ理解させられたというのに。

 

 誰の言葉だったか。「選ばれた人間とは、自分がすぐれていると考える厚顔な連中ではなく、高度の要求を自分に課す人間」だと、どこかで目にした記憶がある。自分がすぐれていると言って欲しい相模は、その両者の間に位置するのか、それとも更に下に配置すべきなのか八幡には判別が付かないが、それにしても雪ノ下とは何という違いだろうか。

 

 そして、自分たちが仕事をサボることに対してもっともらしい言い訳を求め、更には誰かを糾弾すべく数の暴力を揮う気が満々の有象無象。あるいは群衆、あるいは大衆と言っても良いのだろうが、そんな連中の思い上がりにどう対処したら良いのだろうか。頭の痛い状況だなと八幡は思う。

 

 

 だが、このまま放置するわけにはいかない。四日後には文化祭の本番を迎えるというのに。丸一日、仕事を何もしませんでしたとは、流石の雪ノ下でも想像の埒外だろう。せっかく二人を休ませたというのに、仕事の量は変わらず使える時間が一日減っただけという結末になるのは絶対に避けたい。何か策を弄する必要がある。

 

 そう考える八幡は、先程の部室での考察を思い出していた。自分にとっては平たく有象無象であっても、由比ヶ浜や雪ノ下なら上手く使える人材がいるかもしれない。そうした連中をせめて中立にまで戻すことができれば、会議室の雰囲気も変わるはずだ。それは、考えてみれば千葉村で体験したことと同じではないかと八幡は思う。

 

 そして八幡は更に記憶を探る。この場面で参考にできそうな話を、どこかで読んだはずだ。そう、あれだ。たしか、働く蟻は二割だけだという話。城廻率いる生徒会役員と、雪ノ下の薫陶を受けた面々、それに会議の冒頭で空気を読んで発言してくれた宣伝広報の責任者などを合わせると、だいたい二割ぐらいだろう。

 

 さっき思い出した割れ窓理論を知った時も、ぼっちから見た世界の成り立ちを、当時の八幡が感じていた身の回りの理不尽を解説してくれた気がした。働き蟻の法則に対しても、不合理な状況を公然のものにしてくれたという感想を八幡は抱いた。

 

 だからこそ、今この状況でなら、それらの理論を活かせるはずだと八幡は思う。何故ならば、有象無象が作り出そうとしている空気は、長くカースト底辺にあった俺がずっと敵視してきたものと同じだから。

 

 リア充は確かにうざったい。爆発するなら派手にやってくれと思う。だが、トップカーストの不幸を願ったところで自身の扱いは変わらないし、そもそも自分が何かをやらかした時に真っ先に何かを言ってくるのは、決まってカースト下位の連中だった。

 

 千葉村で一日目の夜に、あいつらにも話した記憶がある。かつての同級生らが「善意で忠告してやってるんだぞ」という態度で何かを言ってくる姿を八幡は思い出していた。彼らの顔も名前もまるで思い出せないが、声の調子や話す内容などは何故かよく覚えている。あの連中にそれが正しいと思い込ませる何かこそが自分の本当の敵だと、ラスボスはそれだと八幡は考えていたし、今もそれは間違っていないと思う。

 

 ならば考えろ。長年意識してきたラスボスが目の前に現れたのなら、八幡にとってはチャンスのはずだ。仇敵を葬り去る機会を得て、更にそれが雪ノ下や由比ヶ浜の手助けに繋がるのなら、挑まないという選択肢は無い。そう考えて八幡は、働き蟻の話にまで頭を戻す。

 

 働くのは全体の二割だけだという話が、働き蟻の法則の全てではない。それに加えて、サボるだけでただ乗りしようとする連中もまた二割は居るらしい。この2対6対2という比率を念頭に、中間層たる6をどちらに引き寄せるかが重要だと書いてあったのを八幡は覚えている。

 

 今の雰囲気のままでは、サボろうとする側の二割に引き寄せられてしまう。何か反撃の切っ掛けがあればと八幡は思うが、その機会が見えて来ない。手段は朧気ながらも見えてきたが、とにかく時間が足りない。

 

 そんな八幡の焦りを裏付けるように、委員長が口を開く。

 

 

「じゃあ、今日の仕事は……」

「でもそれだと、雪ノ下先輩に怒られたりとか……?」

 

 ギリギリのところで相模の発言に待ったを掛けたのは、副委員長の藤沢だった。

 

 おそらく立候補の動機は雪ノ下への憧れなのだろう。雪ノ下の手助けを確認していた藤沢の口調を、八幡は思い出す。そしてだからこそ、雪ノ下に怒られるのが、失望されるのが怖いのだろう。たとえこの場の雰囲気に逆らうことになっても、たとえ生来気弱な性格であっても、それ以上に嫌なことが藤沢にはあるということなのだろう。

 

 姿がなくても、最後に頼れるのは結局雪ノ下かと八幡は苦笑する。だがお陰で、思い詰めていた自分に気付かされた。アドリブが多めになるだろうが、策は一応ある。今の会議室内に漂うこの雰囲気をぶち壊すことさえできれば、後は会長あたりが何とかしてくれるだろう。

 

 できれば俺も、他人に認められたかった。他人に誇れるものを得て、自分や他人を信じられるようになりたかった。だが、そのルートを捨ててでも、食い止めなければならないことがある。

 

 だから機会を逃さないように集中しようと、八幡は身構える姿勢に移った。

 

「雪ノ下さんって、この間の校内放送の時もだけど、怒ると凄く怖いもんね」

「むしろ我々にはご褒美です」

「いや、普通は避けられるなら避けたいだろ。文字通り、身が凍るぞ」

「でもさ。そもそも雪ノ下さんの体力が無いのが問題じゃないの?」

「じゃあお前、雪ノ下さんの代わりに同じだけ仕事をやってみろよ」

「量もだけど質も凄いからな。俺らには絶対無理だと思うぞ」

 

 ごく一部、変な反応も含まれていた気がするが。雪ノ下に責任を転嫁するような意見に対してすぐさま反論が出る辺り、救いはあるなと八幡は思う。このまま話が前向きに進んで行けば、無理に介入する必要も無くなるのだが。

 

 しかし、正副委員長の間で話が割れている状況ゆえか、有象無象の雑談は収まらない。雪ノ下と由比ヶ浜が一緒にいることは伝わっていないのか、誰かが心配そうな声を上げる。

 

「雪ノ下さんって、今は家で一人で寝てるんだよね?」

「この世界で病気になったら、凄く心細いよね。たぶん、雪ノ下さんでも寂しいんじゃないかな」

「あ、じゃあさ。みんなでお見舞いに行くのはどうかな?」

「えっ。でも、迷惑かもだし……。それにたしか、誰も家に行ったことが無いって」

「こんな状況だし、先生に聞いたら教えてくれるんじゃない?」

「だね。もしかしたら雪ノ下さんも、みんなが来るのを待ってるのかも」

 

 そんなわけあるかと八幡は思った。反射的に声が出そうになるのを抑えた俺を、褒めて欲しいぐらいの心境だ。

 

 自分が仕事をサボりたいだけなのに、みんなを理由に話を進めようとする連中に向かって、八幡は静かにため息を吐く。いきり立って何かを言って来てくれると助かるのだが、予想通りに何も反応は無い。どうしたものかと八幡は思う。

 

「いきなり訪ねる前に、せめてメッセージを送ったほうが良いんじゃない?」

「でもさ、ゆっくり休めるようにって、欠席者へのメッセージは禁止されてるじゃん」

「受信側で除外設定ができたでしょ。生徒会長なら大丈夫じゃない?」

「あ、大きく両手で×印だ」

「やっぱりさ、お見舞いはやめようよ……」

「でも、誰かが様子を……あ、じゃあ委員長に行ってもらうとか?」

 

「えっ、うち……が行くのは無理っていうか。えっと、その。あ、じゃあさ。ヒキタニくんに行ってもらうのは?」

 

「……は?」

 

 

 反射的に声が出るのを堪えて、八幡は意図的に少し間を置いてそう口にした。せっかく得られた機会を、逃すわけにはいかない。続く相模の返事に合わせてどっこいしょと立ち上がりながら、八幡は相模の顔を見据える。

 

「え、だって、同じ奉仕部だしさ。あ、それに奉仕部なんだから、こういう場合には動いてくれるんでしょ?」

 

「いや、奉仕部って別に何でも屋じゃねーし。つか、今日の仕事はどうするんだ?」

 

 馬鹿げたお見舞いの話などは闇に葬って、八幡は本題を口にする。とにかく一日分の仕事を進めておく必要がある。人前で話すのは慣れないが、だからこそ人を呑むような態度で、人を小馬鹿にするような話しかたで補おうと八幡は思う。人を。そう。人だ。

 

「だから仕事は一日延期で……」

 

「雪ノ下がいねーと、何にもできないんだな」

 

 相模には悪いが、過剰攻撃になるとは思うが、恨むなら委員長に立候補した自分を恨んでくれと八幡は思う。八幡が突然強く言い放った言葉に、相模も誰も反応できていない。今がチャンスだ。

 

「あのな。よく、良い話だなーって感じで、『人という字は』って話をするよな。人と人が支え合って、みたいなやつな」

 

 両手とも五本の指をぴったりくっつけて伸ばして、八幡は左手の先を二時の方向に、次いで右手の先を十時の方向に向けて、右手の先を左手中指の付け根の辺りにくっつける。八幡から見て、少し倒れかかった人の字ができていた。

 

「でもな。よく見ると、こっちの右手のほうは左手を支えてるけど、左手は右手に乗っかってるだけだろ。で、この右手が雪ノ下で……左手がお前らな。雪ノ下が居ないからって……」

 

 そう言って言葉を切った八幡は右手だけを離す。そして左手をそのままの状態に保ったまま、言葉を続けた。

 

「せめて、この姿勢を保つぐらいのことはしようぜ。支えもないのに、もたれたままで。一緒に倒れてどうすんだよ」

 

 最後まで声を荒げることなく淡々と言葉を吐き出して、八幡はそこまで言い終えるとゆっくり腰を下ろした。

 

 

***

 

 

 全体会議の雰囲気は一変した。八幡に正面から喧嘩を売られて、有象無象の面々は何も実のある反論ができなかった。そして誰かが声を荒げて八幡を罵倒しようとした直前に、教師の声が響き渡った。

 

 困ったような表情の平塚静は、雪ノ下へのお見舞いは不要なこと。更には、文化祭までの日数的にも、継続して仕事をしたほうが良いと告げると、この場を収拾するために城廻を指名して発言を終えた。

 

 後を託された城廻はいつもと変わらぬ元気な声で、土曜日の続きの仕事を各自が行うように要請した。ほんわかとした声で「仕事をサボったらダメだよー」と釘を刺すと同時に、仮に各自の判断で始めた仕事が見当違いだったとしても、雪ノ下に怒られないように自分が取りなすと明言した。だから各々がやるべき仕事を考えて、それをどんどん進めてくれと。

 

 

 そして会議は終わり、実行委員はそれぞれの仕事に向かっていった。ほぼ全員が動くまで自分は動くまいと考えていた八幡だが、それよりも前に近付いてくる人物がいた。生徒会長の城廻だ。

 

「君、最低だね!?」

 

 そんなセリフも、城廻が口にするのを聞くと笑ってしまいそうになる。だがつい先程の蛮行があっただけに「反省の色が足りない」と怒られそうなので、思わず吹き出しそうになるのを何とか堪えて八幡は頷くに止めた。

 

 結局のところ、と八幡は思う。誰かがサボるせいで真面目に取り組んでいる奴があおりを受けるのが、俺には納得できないし看過できないんだよなと。できれば、そうした連中には報われて欲しいものだ。千葉村での八幡の発言を根拠に木曜日に雪ノ下が想像した通り、八幡はそう考えていた。

 

「真面目な子だと思ってたよ」

 

 正直に言うと自分でも、大勢の場であんな事を言えたのは意外だった。だが俺は真面目ではないよなと八幡は思う。戸塚がよく「真面目だ」と褒めてくれるが、これも観点というか考え方の違いでしかないと八幡は思う。

 

 俺はおそらく、ボロが出て誰かを最後には失望させてしまうのが怖かったのだろう。けれども今日は、こんな形のボロぐらいなら別に良いと八幡は思った。おそらくあの二人なら、そして戸塚を始めとしたごく少数の連中も、これをボロとは思わないだろうから。

 

「さっきの演説なんだけどね。はるさんが聞いたら、映像を見たいって言うと思うんだよねー」

「ごめんなさいそれは勘弁して下さい!」

 

 言われるがままを受け入れようと考えていた八幡だったが、思わず凄い勢いで反応してしまった。ぽわぽわと笑う城廻の顔を見て、八幡はがっくりと肩を落とす。

 

「城廻先輩も冗談とか言うんですね」

 

「比企谷くんだって、さっきみたいなことが言える子だって思ってなかったよー。だから、お互い様だね」

 

 それだけ言うと、「じゃあ、仕事を頑張ろう、おー!」と唱和させて、城廻は会議室の前の方へと帰って行った。

 

 

***

 

 

 そして今、八幡は渉外部門の面々と一緒に、会議室の後ろのほうで仕事をしていた。誰も八幡に話しかけてこないが、大量の仕事を押し付けられたりとか、逆に仕事を何もさせて貰えないような状況にはない。

 

 八幡は先週に続いて、当日に発生しうる問題を検討していた。特に現実世界からのゲストにどう対処すべきか、ブレストで出た意見を整理しては回覧してという繰り返しを行っていた。先程の会議で報告を行ってくれた三年の先輩と、雪ノ下と同じJ組の保健委員が、八幡から書類を受け取っては全員に回してくれる。お陰で支障なく仕事ができていると、八幡は二人に対して頭が下がる思いだった。

 

 

 不意に、教室内が緊張に包まれたような気配を感じた。八幡が頭を上げると、会議室の前の方で正副委員長が顔を青ざめさせてお互いを見ている。二人の様子を素早く察知して城廻が話しかけようとしているが、何かあったのだろうか。

 

 その時、渉外部門の全員が同時にぴくりと身体を動かした。メッセージが届いたのだ。周囲の様子が気になりながらも、まずは確認だと考えて八幡はそれに目を通した。

 

 たしかに、できる限り早くとは言った。自分たちの予定も運営に伝えていた。今週からは午後の授業がないので、最終下校時刻までずっと高校に居るはずだと。だから運営の都合が付き次第、いつでも良いですよと答えたはずだ。

 

 だが、どうしてよりにもよって、雪ノ下が欠席している今日なのだろうか。

 

 雪ノ下が渉外部門の全員に送ったメッセージは、以下のような内容だった。

 

『正副委員長と渉外部門の責任者である私宛に、つい先ほど運営から通達がありました。今から一時間後に、現実世界の現地テレビ局および新聞社による合同取材のために、会議室にて映像通話を繋げるとのことです。現場の状況および判断を、比企谷くん経由で教えて下さい』

 

 取材まで、あと一時間に迫っていた。




更新が遅れて申し訳ありません。
年末から年度末にかけて更新の頻度が落ちますが、三月下旬まではご容赦下さい。

次回は来週の半ばに更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。

最後の雪ノ下からのメッセージ内で「音声通話」と書きましたが、正しくは「映像通話」の間違いです。私の完全な見落としですし、もしも「映像通話ではない理由は?」と深読みして下さった読者様がおられましたら、本当に申し訳ありません。

せっかく描写の端々で伏線を匂わせても、こうしたミスがあると読み込んで頂けないわけで。今後は見落としを完璧に防ぐ、とはとても断言できませんが、気付いた時点でこうした説明文を添えて修正する事はお約束しますので、できましたら今後とも本作をよろしくお願い致します。

また、パレートの法則に言及していた部分が不正確で冗長にも思えたので削除・訂正しました。
ちなみに、割れ窓理論も働く蟻は二割という話も、原作八幡のモノローグに出て来ます。

その他、細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/14,4/2)


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13.ぐだぐだした空気すらも彼女たちは一変させる。

非常に長くなってしまったので、ご注意下さい。

以下、前回までのあらすじ。

 雪ノ下も由比ヶ浜も居ない月曜日のお昼休み。八幡は独り部室にて今学期のあれこれを振り返って、あの二人がやる気なのだから自分もと気合いを入れ直した。

 だが午後に行われた文実の全体会議は遅々として進まず、雪ノ下が健在の折にはついぞ見られなかった勝手気ままな雑談が会議室内に飛び交っていた。委員長の相模もそんな雰囲気に押されて、仕事を延期しようと言い出す始末。かろうじて副委員長の藤沢が待ったを掛けたものの、状況は手詰まりだった。

 八幡は会議室内の空気をぶち壊すことを企てて、機会を捉えてそれを実行に移した。平塚先生と城廻がその後の混乱を収拾してくれて、何とか今日の仕事を進められる目処が立ったと思ったのも束の間。今から一時間後に、現地マスコミによる合同取材を行うために、現実世界と映像通話(注)を結ぶという通知が運営から届いた。

(注)前話の後書きにも書きましたが、初稿で「音声通話」とあったのは作者のミスです。この時点で映像通話を避ける必然性は全く無いのに、読者様を混乱させかねない表現を見落としたまま長く気付けず、申し訳ありませんでした。



 現地テレビ局と新聞社による合同取材が行われるまで、あと一時間。

 

 比企谷八幡は、もう一度その現状を頭の中で自分に言い聞かせて、そして順繰りに教室内を見渡した。意識を自分の内面から戻して、焦点をまずは遠方に合わせる。正副委員長と生徒会長が顔を突き合わせて話し合っているが、その会話は途切れがちに見える。

 

 視界を左右に広げると、ただならぬ雰囲気を全員が感じ取っているのだろう。会議室内のほとんどの生徒は、主に生徒会長の城廻めぐりに視線を当てて、話し合いの結末を待っている。そして少数ではあるものの、八幡を始めとした渉外部門が妙に浮き足立っていることに気付いて、こちらのほうに訝しげな目線を送ってくる生徒も居る。

 

 意識を自分の周囲に向けると、雪ノ下雪乃からのメッセージに自分の名前が書かれていたからだろうか。渉外の面々が指示待ちといった様子で、ちらちらと八幡の様子を窺っているのが見て取れた。

 

 先程あれだけ空気の読めない発言をした自分が、こうして普通に近い扱いを受けられるのは、やはり雪ノ下のお墨付きのお陰なのだろうなと八幡は思う。それに加えて、ほんの数日ではあるが先週から一緒に仕事をしていることも影響しているのかもしれない。だが今は理由を追及できる状況でもないので、八幡は遠慮なくそうした扱いを利用することにした。

 

 

「んじゃ、ちょっとすんません。渉外全員で話し合いをするので、近くに集まって貰えますか?」

 

 他人に指示を出し慣れていない八幡の声は、それほど大きくはなかったものの、幸い聞き返されることはなかった。言葉が明瞭ではなくとも、八幡の身振りだけで言いたいことが伝わっていたせいもあるのだろう。

 

 自分たちの行動に目を向ける生徒の数が少しずつ増えているのを視界の端で確認しつつ、八幡は近くに集めた同じ部門の生徒たちを見渡して、そして口火を切った。

 

「えっと、雪ノ下が送ってきた内容以外に、何か情報を知ってる人って居ます?」

 

 全員が首を横に振るのを確認して、そのまま八幡は話を進める。本来であれば、先程の全体会議で進捗を説明して貰った先輩に進行役を譲るべきなのだろうが、今は時間が惜しい。こんな程度で怒るような性格ではないことを願いつつ。同時に、怒られるならその時は大人しく怒られようと考えながら八幡は言葉を続ける。

 

「たぶん委員長とかの様子を見る限り、今のところ判明しているのはあれで全部みたいですね。じゃあ……合同取材がどれほどの規模か分かんないですけど、正副委員長以外に誰かを同席させるべきなのか。それから、想定される質問と模範解答を検討して。あ、運営の人も同席するのか確認もしておきたいし……」

 

「それに、雪ノ下さんになんて言って返事をしたら良いのか……」

 

「いや、それはもう少し後にしようぜ。最悪、雪ノ下に出て来て貰うことになるが……雪ノ下の知恵を借りるにしても、俺らが混乱したまま何を相談して良いのかすら分からん状態だったら話にならんからな」

 

 取材の光景を想像しながら、思い付くまま課題を口にしていた八幡だが、そこで雪ノ下と同じJ組の実行委員が口を挟んでくれた。このまま独白を続けるべきかと思い始めた矢先のことゆえ、意見を出してくれて助かったと内心では思っているのに、やはり八幡にも焦りがあるのだろう。提案を頭から否定してしまい、もしかしてやらかしてしまったかと心の中では冷や汗の八幡だった。

 

 だが幸いなことに、別の生徒が続けて発言してくれた。全体向けに発表してくれた例の先輩だ。

 

「そういえば、今日の会議でも話題に出なくて、どうしたもんかと思ってたんだけどな。今年の文化祭のスローガンって、まだ決まってないよな。取材で聞かれたら……?」

 

 その他の生徒たちも「そういえば」と口を開き始めるのを見て、八幡は内心で胸をなで下ろしていた。確かに先輩の指摘は緊急の課題なのだが、有益な指摘をしてくれたと同時に他の面々が口を開きやすい環境を作ってくれたのも大きいと八幡は思った。これなら、何とか話を進められそうだ。

 

「逆に、取材の時に発表すべく温存してたって形にしたら効果的かもですね。っておい、なんか『うわぁー』って目で見られてる気がするんだが」

 

「いや、悪知恵が働くもんだなって思ってさ。じゃあ今からスローガンを考えるってことだよな?」

 

「だな。こういう面での雪ノ下のセンスは期待できねーから、この場で考えたほうが……いや、他の部門も巻き込んで相談した方が良いな。この中で顔が広い人って誰か居ます?」

 

 気安く合いの手を入れてくれるJ組の実行委員に少し驚きつつ、内心で「ふっ、好感度を上げてしまったか」などと馬鹿なことを考えて平静を取り戻して、八幡はそう問いかけた。

 

「じゃあ、わたしが。暇そうにしてる他の部門の人たちを集めて、スローガンの相談をしたらいいんだよね?」

 

「ですね。さっき会長が『各々がやるべき仕事を考えて、それをどんどん進めてくれ』って言ってましたし。首脳陣は取材の対策だけで余裕がなさそうですし、勝手に進めて良いんじゃないですかね」

 

「でもさ、雪ノ下さんの意見を聞かなくても本当に大丈夫?」

 

「なんか難しそうな四字熟語とか出して来そうですしね。それが『一意専心』ぐらいならともかく、『八紘一宇』とか『上意下達』とか『絶対服従』とか言い出しかねないですし」

 

「ちょ、雪ノ下さんにそこまで好き放題言えるのって、君ぐらいしか居ないよね」

 

 八幡としては真顔で言ったつもりなのだが、三年の女性の先輩には冗談として受け取られたみたいだ。いずれにせよ、前向きに動いてくれるのなら、発言をどう解釈されようとも構わないと八幡は思った。渉外からも何人かを引き連れて、他の部門の生徒にどんどん声を掛けている先輩を頼もしく眺めて、八幡は頭を切り換える。

 

「んじゃ、雪ノ下に何て言って報告して指示を仰ぐかだが……。委員長を無視するのは問題だろうし、誰か二人組で状況を聞きに行って貰えませんか。俺が行くのは問題だと思うので」

 

「ぷっ、あんなパフォーマンスをしちゃったら無理ですよね。えっと、二人組の理由を聞いてもいいですか?」

 

「あー、えっと。一人が委員長たちに張り付いて、一人が定期的に報告に来て欲しいって感じなんだが。とりあえず最優先で、運営に連絡を取ったか確認して欲しいんだわ。連絡してたらその内容を、取ってなかったら大きく×印でも出してくれ」

 

 先程の行動によって、実行委員から総スカンを喰らっていると思っていた八幡だが、意外に好意的な後輩女子(わりと可愛い)の反応に少しドキドキしてしまった。だが、あの二人は勿論のこと、どこぞやのあざと可愛い後輩と比べてもまだまだだねと奇妙な口癖を内心で呟いて心を落ち着けて、八幡は具体的な指示を出した。

 

 それに応えて、後輩の男女二人組が動き始める。息の合った様子の彼らを見て「あれっ、もしかして?」と思わなくもない八幡だったが、犬に食われるのは嫌なので思考を戻す。程なく、彼らから大きな×印が送られてきた。

 

「んじゃ雪ノ下から運営に連絡を取って貰って。運営からも同席者が居るのかから始まって、搾り取れるだけの情報を搾り取って貰うのと。取材に来る連中についても事前情報を知りたいよな。後は……」

 

「先の話だけど、取材の結果がどんなふうに報道されるのかも気になるな」

 

「あ、ですね。正直、取材の後のことは考えてなかったので助かります。とりあえずそんな感じで雪ノ下にも動いて貰うので、平行して想定問答集の作成に入って貰って良いですか?」

 

「オッケー。そっちは俺が主導するから、雪ノ下さんへの連絡を頼む」

 

 今日はこの先輩にお世話になりっぱなしだなと思いながら、八幡は群れから少し離れて、雪ノ下に音声通話を申請した。

 

 

***

 

 

『比企谷くんね。今、何か見られて困るような状況には無いわよね?』

 

「まあ、会議室の隅に居るだけで、別に見られても大丈夫だとは思うが」

 

『なるほど、定位置というわけね。何か問題を起こしたのでなければ良いのだけれど……その話は後にして、会議室の様子も見たいので、すぐに映像通話でかけ直すわね』

 

「おい……って切りやがった」

 

 何を根拠にそう考えたのかは分からないが、現状を正確に推測してくる雪ノ下に八幡は苦笑いするしかない。今日も丸一日は休ませることができなかったが、八幡に斬りかかる言葉の刃は鋭い。どうやらかなり回復したみたいだなと、少しだけ肩の荷が軽くなった気がした八幡だった。

 

「ん、てことは、雪ノ下も人前に出られる格好になってるってことか」

 

 そう呟いた八幡に応えるように、映像通話の許可を求めるポップアップが眼前に提示される。それを受諾すると、八幡の身体の正面に、相手の上半身を原寸大に表示できる程度の大きさにまで画面が広がった。

 

『お待たせしたわね。会議室の中を見渡せるように、少し身体の位置を……ええ、それで大丈夫よ。混乱が酷いのではないかと危惧していたのだけれど、幾つかのグループにまとまって話し合いをしている様子だし、指揮系統は維持できているみたいね』

 

「まあ、下の勝手な判断で動いてるだけなんだがな。つーか制服姿なのな」

 

『ええ。いざという時にはすぐに動けるようにと着替えてみたのよ。一日中ずっと寝ていられるわけでもなし。午後からは由比ヶ浜さんと一緒に運動をしていたので、気にしなくても大丈夫よ』

 

 ずっと寝ていられないとは、たしか昨日も言っていたなと八幡は思い出す。体調を回復させるために一日をどう過ごすべきか、その行動規範もさすがは雪ノ下だと言うしかないのだろう。これなら、ずっと一緒に居るはずの由比ヶ浜結衣も元気を取り戻しているはずだ。

 

 先程の発言の切れ味から雪ノ下の回復具合を実感できたこともあり、少し気の抜けた八幡は話を聞きながら思わず、二人がくんずほぐれつな運動をしている様を想像してしまった。慌てて頭を振ってそのイメージを追い払う(なお八幡の名誉のために明記しておくが、想像の中の二人はあられもない姿ではなく、Tシャツにブルマー着用という実に健全な身なりだった)。

 

「もしかして、フィットネス用のマシンとかも家にあるのかよ。まあ確かにお前はもう少し鍛えたほうが良いとは思うが……って雑談してる場合じゃねーな。結論から言うと、お前が知ってる以上の情報はこっちには無い。だから運営と連絡を取って、同席者の情報とか取材に来る連中の情報とか、色々と仕入れて欲しいんだが」

 

『そこは予想通りね。既に運営とは連絡を取ったわ。同行者は、職場見学の時に私の相手をしてくれた人と、貴方の相手をしてくれた人の計二名よ。運営も気を遣ってくれたのかしら』

 

「あー、あの人か。先月も一般公開直前に千葉村を案内して貰ったし、顔見知りが来るのは助かるな。んで、取材陣は?」

 

『今回の取材を主導しているのは、国営放送の現地支局から一名、地元ローカルのテレビ局と新聞社から各一名の計三名よ。国営放送の千葉放送局はFM放送のみだったと思うのだけれど、ニュース媒体もその三つだと考えるのが自然かしら』

 

「FMってことは『昼どき情報ちば』で紹介されるんだろうな。ラッカ☆人に呟いて貰えるとか、想像したらちょっと胸熱なんだが!」

 

『貴方の千葉好きには、時々ついて行けないと思う時があるわね……』

 

 画面の向こうでは雪ノ下が頭に手をやっているが、その所作はすっかり普段通りのものだ。そもそも、こちらが連絡する前に現場の状況を推測してここまで動いている時点で、雪ノ下の体調はほぼ回復しているのだろう。とはいえ雪ノ下を呼び出さずに済ませられるのなら、今日ぐらいは家で過ごさせたいと八幡は思う。

 

「んじゃ最後な。今回の取材、お前が出て来るべきだと思うか?」

 

『正直に言うと、その程度なら正副委員長で何とかして欲しいのが本音ではあるわね。ただ、取材に来る人たちの性格次第という部分があるのと、答えに詰まった時にフォローできる人材が居ないのよね。城廻先輩はフォローされる側が合っていると思うのだけれど、他に適任が居るかというと……』

 

 だから後輩から温かく見守られるのではなく後輩を温かく見守る先輩になりたいのにと、城廻がぽわぽわ怒っている姿を想像してしまった八幡だった。

 

「一応こっちで想定問答集を作ってはいるんだが。城廻先輩も含めて、みんなアドリブに弱そうなのがちょっと心配ではあるな」

 

『家に居ながらでも、その問答集の添削ぐらいならできると思うのだけれど。決め手に欠けるわね』

 

「ま、今日は休むって話だったし、ひとまず自宅待機で良いんじゃね。取材の面々を見て、やばそうだったら即連絡するけどな」

 

『ええ、お願いね。問答集は、グループ内で共有する形で』

 

「はいよ、了解。んじゃ、お前を呼ぶ呼ばないにかかわらず、取材開始の時間ぐらいにまた連絡するわ」

 

 しっかり頷いた雪ノ下としばし見つめ合って、恥ずかしさから先に目を逸らした八幡は、そのまま通話の終了を選択した。

 

 

***

 

 

 雪ノ下の容赦のない添削をくぐり抜けた想定問答集を、取材を受ける三人に送り届けさせて。再び教室の隅に戻った八幡は、入り口付近の一角を眺めて過ごしていた。椅子を六つほど並べられる長さの机を向かい合わせにして、取材を受けるために急遽作られたブースには、既に五人が腰を下ろしている。

 

 机の両端には、運営から派遣された二人が座っていた。こちらの姿を認めて片手を挙げる旧知の男に、八幡は軽く頭を下げかけた後で、彼に倣って片手を挙げることで応えた。

 

 その彼の隣には、城廻に代わって生徒会を代表する形で、本牧牧人が控えていた。苦労人の気配が漂う本牧だが、だからこそ縁の下で誰かをフォローする役割には適していると城廻から推薦を受けて、今日は一行に名を連ねることになったのだった。おそらく、その城廻の評価は正しいのだろうと八幡は思う。

 

 本牧の横には副委員長の藤沢沙和子が。更にその横には委員長の相模南が。そして一つ席を飛ばした横では、職場見学や東京わんにゃんショーで雪ノ下の相手を務めた運営の女性が、旧知の生徒との再会が叶わず目に見えて落ち込んでいた。子供のように喜怒哀楽が素直な彼女を見て、大人にも色んな人が居るんだなと八幡は思う。願わくば、今日の取材陣がまともな人たちばかりでありますように。

 

 

「ふーん、まあまあ凄いね」

「本当に、現実と言われても違和感がないぐらいに精巧な世界だな。ワシの想像を超えとるわい」

「みなさーん、こんにちはー!」

 

 唐突に、五人と向かい合った席に三人の大人が姿を現した。いずれも座った姿勢になっているが、現実世界でもそうとは限らないと運営の人が先ほど説明してくれた。夏休みに現実世界の両親と食事をした八幡は、そう言えばあの時もずっと座ったままだったよなと、その説明に納得している。とはいえタブレットなり既に教室に備え付けられているというモニターなりを、彼らが食い入るように覗き込んでいるのは確実だろう。

 

 正式な取材開始に先立って、ブースではお互いの自己紹介が行われている。最初に発言した男が少し嫌な感じだなと思いながら、八幡は雪ノ下に連絡を取るべく、今度は最初から映像通話を申請した。

 

「どうだ、見えるか?」

 

『ええ。……アラサーぐらいに見える男性記者が、少し嫌な感じかしら』

 

「なんか検察みたいにネチネチ言いそうな感じだよな。初老の男の人は温厚っていうか『ホトケの何とかさん』って感じだし、もう一人の女性記者は年相応にミーハーな感じで扱いやすそうなんだけどな」

 

 そう言い終えて、気付けば画面の向こうでは、すぐ近くに置いてあったらしいお盆で顔を隠して雪ノ下がぷるぷる震えている。やがて身震いが止んでお盆が視界から消えると、そこには喜色で頬を少し上気させ、口元をほころばせる雪ノ下の顔があった。ぷっくりと膨らんだ血色の良い唇が動く。

 

『比企谷くん……採・用』

 

 嬉しそうな顔で「却・下」とか言われるよりはマシかもしれないが、何だかここまで受けると却って気恥ずかしい。そう思いながらも八幡は、念のために雪ノ下の意図を確認する。

 

「んじゃ、あいつらのコードネームは、ケンサツとホトケとミーハーな」

 

『そんな昭和のセンスも、たまには悪くないわね』

 

 あれっ、と思っていたのとは違う反応が返ってきたことに戸惑う八幡だが、既に正式な取材が始まってしまった今となってはお互いのセンスを競っている場合でもないので話を進めることにする。

 

「今のところ、台本丸読みだけど話は進んでるな。相模が一行飛ばして読んだ時も、すかさず本牧がフォローしてたし」

 

『相模さんは緊張しすぎる時があると思うのだけれど、それは何とか改善できないのかしら?』

 

「どうだろな。失敗を重ねるほどに緊張するって悪循環だよな。でも由比ヶ浜が、相模は不幸体質だって言ってただろ。それなら日頃から身構えてるぐらいでちょうど良いのかもしれんし、何とも言えんな」

 

『もしかしたら、第一歩に問題があるのかもしれないわね。たとえ小さなことでも、成功の一歩を踏み出せれば違ってくるような気もするのだけれど』

 

「それもどうかね。目標とか理想が変に高いのが問題って気もするけどな。……って、ちょっとやばいな」

 

 二人が相模の改善案を検討している間に、取材はいつの間にか熱を帯びたものになっていた。問題は、記者が問うているのが文化祭に関するあれこれではなく、この世界に巻き込まれた事件についてのものだったことだ。

 

「本当に、この世界に閉じ込められて悔しいとか哀しいとか腹立たしいとか、そうした気持ちは無いんですか?」

「まあまあ。そうきつい口調だと、生徒さんも返事をしにくいだろうさ」

「でも、現実とは違った体験ができるんでしょ。みんな揃ってアリーナ最前列でライブを観たりとか、羨ましいなー」

 

「そんな気楽なことを言っている場合じゃ無いですよ。これだけの数が年単位で捕らわれている事件なんですよ!」

「まあまあ。千葉に着任して早々という話だし、義憤に燃えるのも分かるが、ワシらの間で揉めても仕方が無かろう」

「最近では保護者も、全寮制の学校に行かせてるような感覚になってるって言いますしねー」

 

 要するに、ケンサツだけ意識のズレがあるのだなと八幡は思った。その正義感は結構なことだが、今更この環境に巻き込まれたことへの怒りを表明しろと言われても、既に自分たちは半年近くをこの世界で過ごしているのだ。いつの間にかすっかり適応していたのだな、とは思うが、嘆くような段階はとっくの昔に終わっている。この記者は、被害者はいつまでも哀しみを湛えているべきだ、とでも考えているのだろうか。

 

 ホトケもミーハーも、ケンサツとはまともに話をしたくないように見える。おそらくあの二人は、先程まで相模が読んでいた台本のコピーが手に入れば、すぐにでも退席したいと言い出すのではないか。だが、ケンサツにお帰り頂くのは骨が折れそうだ。

 

「あれだな。短期決戦で叩き返した方が良いのかもな」

 

『その後で全体会議を行えば、貴方の今日の行動に対しても、少しはフォローができると思うのだけれど』

 

「げっ。お前、誰かから何か聞いたのか?」

 

『さあ、どうかしら。比企谷くんの自己申告を楽しみに待っているわね』

 

 やっぱり、あのケンサツよりも、もしかしたら本物の検察よりも、万全の状態で本気モードの雪ノ下のほうが怖いかもしれないと八幡は思った。

 

 だが、覆水は盆に返らない。知られてしまったことは覆せないし、お盆の向こうに隠れていた雪ノ下のあの表情を見たこともまた、無かったことにはできない。怖いことや嬉しいこと、悔しいことや楽しいことを積み重ねた先に、今の自分があるのだと八幡は思う。だからこそ、あの記者の戯れ言をこのまま聞き続けるのは御免こうむりたい。

 

「あのな。今回の取材に対して、俺が出張ってもできることは無さそうなんだわ」

 

『そうね。でも私なら、上手く対処ができると思うわ』

 

「だろうな。ところで、由比ヶ浜はどうしてる?」

 

『できれば今日も一日休ませたいと思って、貴方と通話をした後で客室に移動して貰ったのだけれど……どうかしたのかしら?』

 

「お前ら二人に頼みがある。由比ヶ浜を呼んでくるか、客室まで移動してくれるか?」

 

『そうね……昨日と同じ形だし、良いでしょう。客室に移動するわ。少しだけ待っていて欲しいのだけれど』

 

 一時的に画面が暗くなって、音だけが聞こえてくる。昨日お邪魔したばかりなので鮮明なままの記憶を脳裏に蘇らせて、八幡は雪ノ下の後を追って客室に移動している自分を想像する。

 

 だがそれをぶち壊すかのように、会議室の前のほうからは、感情的に声を荒げてケンサツが何やら偉そうに演説をしているのが聞こえてくる。高校生を相手に、そして犯罪を起こした組織に属するという弱い立場にある運営の二人を相手に、随分とご立派なことだ。

 

『ヒッキー、やっはろー!』

 

「おう。かなり元気になったみたいだな。んで、早速で悪いんだが、お前らに……」

 

『ヒッキーがお願い事をするなんて珍しいし、大丈夫だよ。何でも言って!』

 

 昨日と同様にベッドに伏せっているか、あるいは玄関までお見送りに出て来てくれた時の格好なのかと思いきや。意外にも制服姿で、由比ヶ浜が雪ノ下と並んで画面に映っている。おそらくは雪ノ下にとっても想定外の姿だったのだろうが、これが由比ヶ浜なのだと八幡は思う。強くて優しい女の子。そして、優しくて強い女の子。

 

 この二人を、結局は今日一日すらも休ませることができなかったなと思いつつ。それでも八幡は自分のために、そしてついでに有象無象の連中のために、現状の最適解を選択する。

 

 この世界に対する想いは、あんなぽっと出の記者に偉そうに語られるほど軽いものでは無い。そんな自分の中にある嫌悪感を第一に。そしてついでに、同じ環境下の生徒たちならきっと、あんなふうに言われたら何かしらの葛藤を覚えるだろうから。個人的な願望のあくまでもおまけとして、それを解決するために、二人を頼る。

 

「雪ノ下には、取材を受けてるあいつらの助っ人に来て欲しい。んで、由比ヶ浜も一緒に来て貰って、雪ノ下の活躍ぶりを、俺と一緒に見届けて欲しいんだわ」

 

 由比ヶ浜だけを蚊帳の外扱いにしないために。そして、この世界に巻き込まれた意味を再考せざるを得ない現状において、俺が二人に、側に居て欲しいと思うがゆえに。

 

 これは別に男女のあれこれ的なあれではないと八幡は思う。そうではなくて、あるいはそれよりも、この世界に巻き込まれてからの長い時間を共に過ごした仲間と一緒に、同じ仲間があのくだらない記者を返り討ちにする姿を見たいという我欲によるものだと八幡は思う。

 

 そして、長く虐げられた環境で過ごして来た者として、この世界に巻き込まれるという不運を共有した連中のことを見捨てたくないという気持ちも八幡にはあった。別に良い子ぶりたいわけでは無い。ただ、カースト底辺の自分を見下して悦に浸っていたような連中と同じにはなりたくないから。だから、自分の要望を叶えるついでに、他の生徒たちが抱いているであろう陰鬱な気持ちも吹き飛ばしてやろうと八幡は思う。

 

『了解。今すぐ個室から移動して、数分で会議室まで行けると思うわ』

『あたしも一緒に行くから。待っててね、ヒッキー』

 

 このようにして八幡は、雪ノ下と由比ヶ浜を会議室に召喚した。

 

 

***

 

 

 二人の女子生徒が会議室に姿を現すと、記者の演説によってざわついていた教室内に、涼やかな風が流れ込んだような錯覚に陥った。自分で呼んでおいて変な話だが、登場しただけでここまで劇的な反応を得られるのかと八幡は思う。

 

 二人は入り口で顔を見合わせて頷きを交わすと、一人は教室後方隅に向けて、そしてもう一人は取材が行われているブースに向けて動き始めた。問題など最初から何も起きていないとでも言いたげに、見る者を安心させる静かで深みのある笑顔を湛えて由比ヶ浜が近付いてくる。それを待てず、気付けば歩き出していた八幡は、教室の真ん中辺りで部活仲間と合流した。

 

「失礼します。所用で遅くなりました。()()()()()()()()()()()()()……」

「あ、別に名乗らなくていいよ。最近は個人情報が煩いし、名前は出さないからさ。それよりも今、どうして君たちが犯罪組織の連中と仲良くしてるのかって話をしてたんだけど、って君もか」

 

 発言を遮られても雪ノ下は反応を見せず、流れるような所作で空いている席に腰を下ろした。そして隣に座っている運営の女性に軽く頭を下げて挨拶をしたところで、その行動を咎められてしまった。可愛らしく首を傾げる雪ノ下に矛先を向けて、記者が語る。

 

「あのね、君たちは知らないだろうけど、ストックホルム症候群ってのがあるのね。犯罪者と長い時間一緒に居ることで情が移るっていうビョーキなんだけどさ」

 

 第一印象からして嫌な感じを受けたが、こちらを小馬鹿にするような言い回しや、妙に舌っ足らずな話し方や、病気をわざわざビョーキと発音するなど、どうにも嫌悪感が止まらない。とはいえ発言の主旨が把握できないので、もう少しだけ待ちの姿勢を維持しようと雪ノ下は思う。

 

「子供ならそうなっても仕方がないけど、君たちは高校生だろ。ビョーキを自覚して、犯罪者をやっつけようとか思わないのかな?」

 

「それを思わないのが、ストックホルム症候群の特徴だと思うのですが?」

 

 待ちの姿勢を維持できなかった雪ノ下だった。とはいえ雪ノ下にも言い分はある。どう贔屓目に評価したところで、この記者が聞きかじりの生半可な知識に振り回されているのは明白なのだ。他の生徒たちに変な誤解をさせないためにも、誤りは正しておくべきだろう。

 

 既に他の記者二人は匙を投げているのか、傍観を決め込んでいる様子が窺える。ならば別に論破しても構わないだろうと雪ノ下は思った。

 

「へえ。聞いたような口を利くけど、君はストックホルム症候群の何を知ってるって言うんだい?」

 

「そうですね。例えば大人であってもそうした感情は芽生えるという話ですし、そもそも病気というよりも環境に対する適応行動だと主張する意見もあったと思うのですが」

 

「だから高校生なら仕方が無い、無罪だ、って言うんだろ。でもさ……」

 

「それが大人であっても、仮に精神科が専門の医師であっても起こりうるという話を私はしています。責任の話はしていません。貴方はよど号の事件を知っていますか?」

 

「あ、ああ。もちろんさ」

 

「では、ストックホルム症候群との関連を説明して頂けますか?」

 

「いや、それはあれだ。今は関係ない話だよ。それよりも君たちが犯罪者である運営の連中と……」

 

「私たちをこの世界に閉じ込めるという犯罪行為は、運営のごく一部、上層部のほんの一握りが決定したと伺っています。犯罪者を出した組織の全ての人員を犯罪者扱いなさるのであれば。もしもマスコミが、貴方の同僚の誰かが犯罪を犯した時には、貴方も犯罪者扱いされるのを受け入れるのですか?」

 

「そんなわけないだろう。それとこれとは話が違うよ。そもそも今の議題はね……」

 

「今の議題は文化祭についてだと、私は考えていたのですが。ところで、取材が始まってからの全てのやり取りは、運営に依頼して、この世界の視点で録画している形ですよね。運営を悪く言ったからといって動画を渡して貰えないとは思いませんが。運営も動画をノーカットで公開する用意があると聞きましたし、そうなると貴方がたの手による修正は不可能です。貴方はもう少し、発言に気を遣われた方が良いのではないでしょうか?」

 

 雪ノ下がそう言い終えると、ようやく状況を把握できたのだろう。今までの威勢の良さはどこへやら、記者はがっくりと肩を落とした。そんな彼に向かって、初老の記者が話しかける。

 

「お前の負けだな。雪ノ下のお嬢ちゃん、ワシに免じて、この場はここまでで許してくれんか?」

 

「げえっ。まさか、雪ノ下?!」

 

「転勤してすぐで、世間の耳目を引くような記事をものにしたかった気持ちは分からんでもないが……お前の手に負えるような相手ではなかったな。記事はきちんとしたものにするから、ワシらはこの辺りでお暇させて貰おうか」

 

「じゃあねー、雪ノ下のお嬢さん。お父様によろしくねー。スローガンが千葉音頭だし、文化祭、応援してるね!」

 

 そう言い残して、三人はこの世界から去って行った。

 

 

***

 

 

 記者を撃退して湧き上がる実行委員たちの声を背に、雪ノ下は引き続いて全体会議の開催を要請した。今日は既に会議を終えていると、少しだけ渋る相模だったが、雪ノ下に「仕事を倍にする」と脅されるとあっさりと陥落した。外に出ている者も戻って来られるように会議まで少し待ち時間を設けたので、八幡たちは三人で集まってその余暇を過ごしていた。

 

「ゆきのん、なんとか症候群なんてよく知ってたよねー」

 

「たまたま、そんなタイトルの曲を知っていただけなのだけれど。だから大したことでは無いのよ」

 

「つっても、普通なら意味を調べるまではしないだろうからな。やっぱあれか、途中からドラムの右足が攣りそうな……」

 

 八幡からの予想外の質問に目を丸くしながら、雪ノ下が答える。

 

「貴方もあの曲を知っているのね。とはいえ、バスドラを連打するのはコツがあるのよ。また今度、教えてあげるわね」

 

「あー、ちょっと夏休みに興味を持ったバンドだから、あれだ。俺もたまたまだな」

 

「ゆきのんが知ってる曲なら洋楽なんだろうけど、ヒッキーが聴くのって珍しいね。もうちょい早く分かったら、それを課題曲にできたかも?」

 

 三人でバンドの課題曲を話し合っていた時に判明したのだが、雪ノ下は留学していた頃に馴染んだ洋楽を、八幡はアニソンやボカロを、由比ヶ浜は売れ線の曲を主に聴いているので、三人どころか二人が共通で知っている曲すら珍しいという事情があった。

 

 幸いなことに課題曲は由比ヶ浜が提案した基準に沿って確定できたが、もしかしたら別の選択肢があったのかもと由比ヶ浜が首を傾げている。そんな無邪気な反応を前にして、内心で焦っている二人だった。

 

 何故ならば、二人が話題にしている曲は、千葉村で雪ノ下が歌っていた曲と同じバンドの作品だったから。自分の影響で八幡がこのバンドの曲を聴き始めたのだと知った雪ノ下も、そしてそれをつい口にしてしまい雪ノ下に知られることになった八幡も、長く友人が居なかっただけにこうした経験は初めてなので、照れ臭さが半端無い。結果、慌てて話題を逸らす二人だった。

 

「いや、今の課題曲で充分だと俺は思うぞ!」

 

「そ、そうね。色々とレパートリーを増やす前に、今の曲をしっかりマスターできるように考えたほうが良いと思うのだけれど。と、ところで、スローガンが千葉音頭ってどういう意味だったのかしら?」

 

「な、なんか話し合って貰った結果、そういう事になったみたいだな。まあ良い曲だし良いんじゃね?」

 

 そんな二人を、ますます不思議そうな目で眺める由比ヶ浜だった。

 

 

***

 

 

「では、全体会議を開催します。まず初めに、先程の取材に参加する際に、私は皆さんに無断で副委員長を名乗りました。改めてこの場で立候補したいと思うのですが……」

 

 すっかり相模を差し置いて、当たり前のように会議の進行をしている雪ノ下だった。本来であれば越権行為だが、先程の全体会議での失態に続いて取材でも目に見えた結果を残せなかったことで、相模に対する風当たりは一段と厳しいものになっていた。

 

 雪ノ下が臨席している状況ゆえに変な雑談が出ることもなく、表立って批判が出る段階にも至ってはいないが、何か問題が起きた時にはどうなるか分からない。そうした状況を鑑みて、本日二回目の全体会議は雪ノ下主導の下に行われる運びとなった。ちなみに藤沢は目を輝かせて、今や完全に前面に出た雪ノ下の一挙手一投足を見守っている。

 

 割れんばかりの拍手で認証を受けて、雪ノ下は改めて副委員長として口を開く。

 

「では副委員長として、今後の方針を提案します。まずは委員長の相模さんに。私たち奉仕部は、『助けを求める人に結果ではなく手段を提示すること』を理念として掲げています。ゆえに個人のやる気に関しては深入りを避けていたのですが」

 

 それが雪ノ下が手加減していた理由だった。本人にやる気が無いのに何かを強制することは、本来的には奉仕部の主旨に合致しないのだ。更には相模が早々に倒れたこともあって、どうしても無理強いを避けるという選択になりがちだった。だが、それはもう通用しないと雪ノ下は思う。

 

 副委員長の肩書きに加えて、相模の依頼を受けた奉仕部の名前を出すことで一時的に委員長以上の立場を確保すると、雪ノ下はそのまま上意下達で相模に通達を送る。

 

「日程がここまで迫ってくると、そうした悠長なことは言っていられません。実行委員長としてきちんと仕事をして貰えるように、教えるべき事は教えますが、ノルマを減らす事は以後無いと考えて下さい」

 

 それを聞いて、可哀想なぐらいに相模がビビっている。とはいえ雪ノ下のことだから、相模にこなせない量の仕事は出さないだろうと八幡は思う。もちろん限界ギリギリまでは出すだろうが、それをクリアできれば確実にスキルアップはできるはずだから頑張ってくれと、すっかり他人事のような顔をしている八幡だった。

 

 それに、決して人望があるとも有能だとも言えない実行委員長にもきちんと仕事をさせることで、相模の株をこれ以上は下げないようにしながら同時に他の実行委員にもサボる口実を与えないという効果が期待できる。俺も気を抜けないなと八幡は少しだけ背筋を伸ばして、続く雪ノ下の発言を待った。

 

 

「そして、今までは全体会議の結論に従って各自が動く形でしたが、城廻先輩の提案を私も踏襲したいと思います。我々の指示に従って仕事をするだけではなく、各自の判断でどんどん仕事を進めて下さい。こちらが後からフォローできる場合はそうします。委員長以下の首脳陣と皆さんとがお互いに率先して仕事を見付けて、お互いにそれを助け合うような有機的な関係を目指したいと思います」

 

 何だか、真・実行委員長の所信表明演説みたいになって来たなと思う八幡だった。

 

 とはいえ実際には、雪ノ下が仕事を先導する形がほとんどになるのだろう。誰かが勝手に仕事をして失敗して、それの尻拭いも増えるのだろう。だが、サボりたいとか楽をしたいといった後ろ向きの原因で仕事が増えるよりも、前向きな失敗の埋め合わせをするほうが遙かにマシだと八幡は思う。

 

 どんな仕事であっても一定の質を期待できる人材は少ないが、たとえどれほど拙い人材であっても出せるものがある。それは仕事に対する熱意とも、前に進む意思とも呼べるもので、それらが無いと大きな仕事ほど上手く行かないし人材も育たない。なぜなら、大きな仕事になるほど人が多く必要だし、誰しも最初は拙い仕事しかできないのだから。

 

 現実を無視して感情論や精神論だけで先走るのは論外だが、先ほど雪ノ下も言及していた個人のやる気という要素は決して侮れない。特に上の立場の者にやる気が無いと、それは簡単に組織全体にまで伝播してしまう。自分たちのやる気を上は掬い取ってくれないのだと失望してしまうからだ。だが逆に、下の立場の者たちの熱意を汲み取って、存分に活かしてくれる存在がトップに君臨すれば。

 

 先程の会議の途中で、「雪ノ下の手助けがあれば仕事ができる連中」を、もっと増やすべきだと八幡は思った。だが献策するまでもなく、雪ノ下はそれを知っている。ならば俺が果たすべきは、雪ノ下を他方面に回せるように自分の身の回りの仕事をきちんとこなすこと。そして正攻法では対処が難しい時に搦め手を提案することだ。

 

 気が付けばいつの間にか、奉仕部の三人で役割分担が確定しているなと八幡は思った。雪ノ下が正攻法で、俺がそれをフォローしつつ奇策で、そして由比ヶ浜が二人を背後から支えてくれる。この関係を、どう解釈すれば良いのだろうか。

 

 帰宅することもクラスに移動することもなく、今も自分の横で雪ノ下の発言を見守っている由比ヶ浜をちらりと見て、八幡は思う。もしかすると俺はもう、ぼっちの時の強さを失ってしまったのかもしれない。この二人に()()()()()()()しまったのかもしれないと。今日この場に雪ノ下だけではなく由比ヶ浜も呼び出したのがその証拠だ。

 

 だが、それこそが絆を作るということだ。かつて幼い八幡に、本の中からキツネがそう教えてくれた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()八幡はそれを心の中で繰り返す。あの作品で、王子さまがそうしたように。

 

 捻くれていた頃には、飼い慣らすという表現が、仲良し大好きな連中をあてこすっているように思えて痛快だった。だが、自分が飼い慣らされた今となっては、印象が違うなと八幡は思う。もしかするとこの先、我慢できなくなる限界が来るのかもしれないが、今のところはそれほど悪くは無い。個人の自由はぼっちだった頃と比べると制限されているが、それも苦痛に感じるほどでは無い。

 

 問題は、他人に認められるという成果を得てあの二人と向き合うルートが閉ざされてしまったことだが、本日最初の全体会議で人の字の話を披露したことに後悔は無い。あそこで実行委員を仕事に引き留めておかなければ、仮にその後で取材の話が発覚して雪ノ下が助けに来てくれたとしても、こうした盛り上がりを作ることは不可能だっただろう。つまり、やる気に溢れている今の実行委員会には、八幡に対する反感という要素も少なからずあると、八幡本人も自覚していた。

 

 

「だから、私がただ一方的に皆さんを支えるだけだと考えている委員が居るとすれば。それは誤解だと、私はその委員に伝えたいと思います。一週間前に、相模さんが倒れた時に私が言った言葉をここで繰り返します。『みなさんには、私が過労で倒れてしまわないように協力してくれることを望みます』と。私は最初から、みなさんの助けを求めて来ました。それは肩書きが加わった今も変わりません。とはいえ……私の身を案じてくれた委員の方々には感謝していますし、彼らも含め全員で、土曜日までの一週間を最高のものにしたいと私は考えています」

 

 だから、その気持ちは嬉しいが、と八幡は思う。由比ヶ浜や、もしかしたら城廻の影響も受けての発言なのだろうが、下手に異分子まで混ぜ込んで全員に拘るよりも、異物を明確に敵対者として扱ったほうが全体の意気が上がるはずだ。

 

 ゆえに八幡は無頼を気取るような声で、敢えて立ち上がることもなく口を開く。

 

「つっても、お前が倒れたのは、俺らが不甲斐なかったせいじゃね?」

 

 たちまち、会議室内の視線が集中する。だが、この程度の扱いなら、問題は無いと八幡は思う。すぐ横からは呆れているような気配が伝わって来るが、見捨てられるということは無さそうだ。さっきは割と普通に対応してくれた渉外部門の面々も、こうなっては俺を切り捨てるしかないだろうが、それも仕方が無い。先程の扱いがボーナスステージだったのだと思えば、それほど悪い気分では無いと八幡は思う。だが。

 

「比企谷くん。……却っ下」

 

 狙い通りの魚を見事に釣り上げたとでも言いたげな表情で、雪ノ下がそう宣告した。

 

 雪ノ下の意図が解らず慌てる八幡は頭の中で、先ほど想像した「却・下」ではなくて「却っ下」だったかとどうでも良いことを考えながら。やっぱり想像よりも実物のほうがインパクトがあるなと内心で頷きながらも、予想外の展開に思考が追いついていない。その隙を突くかのように、雪ノ下が話を続ける。

 

「貴方が先程の全体会議で何をしたのか、詳しい話は分からないのだけれど。文実の嫌われ者を演じるのは、貴方には()()()よ。つまらない工作に励む暇があるのなら、今日以降の仕事ぶりで語って欲しいと思うのだけれど」

 

 そこまで言われて、八幡はようやく雪ノ下の意図を理解できた。雪ノ下は「みんなで仲良く」という形にすることで八幡の失態を覆い隠そうとしたのではなく、失態は失態として別の形で挽回しろと言いたいのだろう。

 

 先程も振り返った通り、八幡にはあの時の行動に悔いは無い。だが正確に言うと、手段には多少の悔いがある。もっと別のやり方があったのではないか。あるいは、自分の立場が今とは違うものであれば、取りうる手段がもっと沢山あったのではないか。だが、間違った答えを選んでしまった以上は、それを覆すことはできない。覆水は盆に返らない。

 

 だからこそ雪ノ下は、問い直してくれたのだ。他の実行委員に向かって、俺がどんな仕事ぶりを見せるのか。新たな問いがあれば、新たな答えを出すことができる。一度出してしまった間違った答えを取り繕うよりも、よほど健全だ。なぜならば、誰かのたった一つの行動によって、人は簡単に悪印象を持てるけれども。その悪印象を否定することは、時に百や千や万の言説によってすらも果たせない場合があるのだから。

 

 結局のところ、それは八幡が先ほど考えていたのと同種の結論だった。後ろ向きの失敗よりも前向きの失敗の埋め合わせをするほうが遙かにマシだと、八幡はそう考えていたではないか。あれは「何を」埋め合わせるかという話だった。そしてこれは「どうやって」埋め合わせるかという話だ。どちらにしても、後ろ向きよりも前向きのほうが良いのは当たり前だと八幡は思う。

 

 おそらく俺は、これからも失敗を重ねるのだろう。けれども、どうせならせめて前を向いて失敗したいものだ。そしてまた新たな問いを見付けて、新たな答えを出す。失敗したことをどう取り繕おうかと後ろ向きに考えるのではなく、前向きな行動によって汚名を返上する。

 

 過去のある時点で自分が前向きだったか後ろ向きだったかは、自分が一番よく知っている。その自分自身という厳しい観察者から合格を得られたなら。別に他人に認められるような成果を出せなくても、胸を張って二人と向き合えるかもしれないと八幡は思った。

 

「人使いが荒い副委員長様だな。んで、会議はこれで終わりなのか?」

 

「そうね。すぐにでも仕事に入りたいという貴方の希望を汲み取って、これでお開きにしても良いのだけれど」

 

「まあ、副委員長になったからには渉外に掛かりっきりってわけにもいかんだろうし、のびのびと仕事をさせて貰うわ」

 

「残念ながらその逆よ。へらず口をたたけるぐらいだから、もう少し仕事を増やしても大丈夫そうね。今から有志統制の見直しをするので、貴方も参加するように。もちろん、渉外の仕事は従前通りにこなして貰うから、時間配分を考えたほうが良いわよ?」

 

「ヒッキー。ゆきのんがノリノリだから、今は逆らわないほうがいいと思うよ?」

 

「マジか……」

 

「では、全体会議はここまでとします。みなさんも耳にした通り、比企谷くんですらこれほどやる気なのだから、全員で最後まで全力で走り抜けることができると私は確信しています。この世界に捕らわれたことなどは何らのハンデにもなっていないと示すためにも、過去最高の文化祭を我々は目指します。みなさんの力を貸して下さい」

 

 こうして実行委員たちは今までにないほどの大きな熱意を胸に、それぞれの仕事へと向かうのだった。

 

 

***

 

 

 そして八幡と由比ヶ浜もまた、会議の直後に教室前方へと招集を受けた。先程の発言通りに有志統制の見直しをするのだろうが、付近の委員たちは別の仕事に従事しているようで、二人は首を傾げていた。そこに雪ノ下から声が届く。

 

「すぐに済むから、二人にも横に座って貰えるかしら?」

 

 それに素直に従って、上座から順に雪ノ下・由比ヶ浜・八幡の順に座る。それ以上は説明することなく、黙って目を瞑っている雪ノ下を二人が訝しんでいると、廊下の辺りからざわつくような声が聞こえて来た。

 

「メッセージを見て、どうやら来てくれたみたいね」

 

 誰が、と八幡が問いかける前に、答えのほうが先に会議室内に入ってきた。葉山隼人が、相変わらずのにこやかな笑顔と共に登場した。

 

「俺にメッセージをくれるって、もしかしたら初めてじゃないかな?」

 

「かもしれないわね。とはいえ、仕事の話なのだけれど」

 

「だろうね。いきなり仲良くなれるわけでもないし、その辺りは仕方がないさ」

 

 他人に聞かれることを、どこまで意識しながら話しているのだろうと八幡は思う。密かに聞き耳を立てている周囲に向けて、二人は疎遠な関係を強調しているのだろう。この二人を取り巻く環境は昔からこうだったのだろうなと、八幡はひとまず現時点ではそこまでの解釈に止めた。

 

「共通の話題も特に無いし、雑談をしている時間も無いのだから、どうにもならないわね」

 

「陽乃さんに押し付けられた厄介事とか、そんな話なら長々とできそうだけど?」

 

 少しだけ苦笑いを浮かべて、雪ノ下は葉山の問い掛けに応える。話の先が見えないので、八幡も由比ヶ浜も二人の会話を見守るしかできない。

 

「どうせ未来の対策には繋がらないのだから、そんな話は止めておきましょう。貴方を呼んだのは、水曜日に備えてでは無いのよ」

 

「じゃあ後は、有志の出し物とか?」

 

「正解よ。結論から言うと、貴方のバンドは二曲で申請を出していたと思うのだけれど。それを五曲に増やして欲しいというのが本題よ」

 

「ご……五曲はさすがに、俺はともかく他の連中が厳しいからさ……」

 

 さすがに驚いて、雪ノ下に再考を求めようとする葉山だが、冷ややかな声がそれを遮った。

 

「貴方のことだから、せめて三曲、できれば四曲にまで増やすことを考えていたと思うのだけれど。内実は、毎日のように由比ヶ浜さんに仲裁して貰わないと、バンド内の雰囲気が保てない程の状態なのでしょう。私にもその責任の一端はあると思うし、貴方もそれを認識していると思うのだけれど。抜本的な解決をしろとは言わないわ。ただ、いがみ合う余裕も持てないほどのノルマを与えれば、当面の問題は先送りできるのではないかという、単なる提案よ」

 

 つまり、バンドのメンバーでもないのに連日彼らの練習に付き合っていた由比ヶ浜の負担を減らすべく、雪ノ下は葉山を呼び出したのだろう。ちょっと予想外の展開だなと思いながら、八幡は引き続き傍観者に徹する。思いがけず話題の人となった由比ヶ浜もまた、口を挟むことはしない。

 

「いや、雪ノ下さんに責任は無いよ。陽乃さんには少し言いたいことがあるけどね。主旨は理解したし、ここは話に乗っからせて貰おうかな」

 

 つまり、葉山は当面、抜本的な解決をする気はないということなのだろう。何だかなと思いながらも、そうした問題を他人が強制できるわけもないので、八幡は口を閉ざしたまま隣席の様子を窺った。検討すべき情報が一気に押し寄せて、由比ヶ浜があわあわしている。とはいえ昨日今日と休養したお陰か、時間さえあれば上手く整理できそうに見える。由比ヶ浜のどこを見てそんな判断を下しているのか自分でも不思議に思う八幡だが、その直感はおそらく間違っていないと思えた。

 

「ただ、貴方にはまだ余裕がありそうよね」

 

「そ、それってどういう意味だい?」

 

 さすがに少し怯えた様子で葉山が問いかけている。考えてみれば、雪ノ下姉妹と一括りにした時に、その最大の被害者は間違いなくこの男なんだよなと八幡は思う。小学校が同じとか幼馴染みとか言われて嫉妬めいた感情を抱いたものだが、少なくとも姉のほうはノーセンキューだなと八幡は思った。

 

「それほど大した話では無いわ。有志の取りまとめは、卒業生については一括して姉さんが引き受けてくれているのだけれど。在校生の有志取りまとめを、貴方にお願いしたいと思うのよ」

 

「陽乃さんもそうだけど、それってお願いじゃ無いよね?」

 

「その代わり、貴方のバンドには有志の大トリを任せようと思うのだけれど?」

 

 葉山の問い掛けには答えず、雪ノ下は葉山にそう提案した。少しだけ時間を置いて葉山が口を開く。

 

「まあ、雪ノ下さんに期待されるのは悪い気がしないし、大トリはともかく有志の取りまとめは俺が適任なんだろうなって思うけどさ。ところで、奉仕部では出し物はしないのかい?」

 

「それは当日のお楽しみよ。現時点では秘密ね」

 

 なぜか、妹がかつて漫画の影響を受けて、”A secret makes a woman woman.”と繰り返していたのを思い出した八幡だった。おそらく雪ノ下は、由比ヶ浜が葉山たちにバンドのことを言いそびれていたのを逆手に取って、当日のサプライズを計画しているのだろう。昨日のお見舞いの際に、雪ノ下が()()()()()を確保すると口にしたカラクリが何となく見えてきた八幡だが、それをこの場で口に出すのは控える。

 

 結局、どうして俺たち二人を同席させたのか理由が分からないなと、そんな鈍感なことを思う八幡だった。それが八幡と同じ理由によるものだと、気付いているのはこの場には一人しか居なかった。

 

 

***

 

 

 その後、八幡は渉外部門に戻って仕事をこなした。他の委員たちの対応は以前と変わっていなかったが、それはもしかすると由比ヶ浜の存在も大きかったのかもしれない。由比ヶ浜は今日はクラスに行く気は無さそうで、八幡の隣で仕事を手伝ったり、雪ノ下と一緒に予算の見直しをしながら元気な様子を見せていた。

 

 雪ノ下は複数の部門を視野に入れて、必要があれば生徒会役員を伝令に出して仕事に微調整を加えつつ、委員長の仕事を監督しながら予算の見直しを行っていた。休ませたお陰で絶好調だなと呆れ気味に八幡は思う。

 

 そうして最終下校時刻を迎え、今日の実行委員会は解散となった。そのまま部室でバンド練習を行うべく、三人は会議室を後にした。特別棟の廊下を歩いていると、おそらく待ち構えていたのだろう。平塚静が部室の前に立っていた。

 

「雪ノ下と比企谷に用事があってな。順番に、少し時間を貰えるかね?」

 

「それは、時間が掛かる用事でしょうか。既に最終下校時刻は過ぎているので……」

 

 とっさに言い訳を口にして、雪ノ下は自分のその発言に少し驚いていた。できれば邪魔を避けて、早くこの二人と練習を行いたいという気持ちが出てしまったのだろう。

 

「なに、大した話じゃないさ。文理選択がまだ出ていないみたいだが、君は国際教養科だし、深く考えずに気楽に書いてくれと、それを言いに来たのだよ」

 

 雪ノ下がその手の提出物を出していないのは意外だなと八幡は思い、すぐに心当たりに行き着いた。やはりこれも、疲労が溜まっていた影響なのだろうと。とはいえ、自分はちゃんと私立文系で提出したはずなのだが、いったい何の用事だろうか。

 

「それと比企谷だが……。ついでだし、二人の居る場で尋ねようか。最初の全体会議での君のパフォーマンスについてだよ」

 

 あ、忘れてた、と内心で冷や汗を流す八幡だった。とはいえ八幡が心配するほどには怒っていないみたいで、平塚先生は苦笑交じりに話を続ける。

 

「君はあの時、千葉村での教訓をどこまで活かしていたのかね?」

 

 八幡を責めるつもりは無いと、その声音が言っている。だが真剣な話なのだと、その目が語っている。恩師の問い掛けを受けて、八幡は身を引き締めて、そして答える。

 

「強さこそが危ういから、限界を常に意識する事と。それから、こいつらとか戸塚とかに怒られるのは良いとして、失望はさせないようにって、そんな感じです」

 

「なるほど。あの時の君の行動を、二人なら許してくれると考えていたのかね?」

 

「ですね。これぐらいならと思って、行動に出ました。特に後悔はしていません」

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も、詳しい話は未だ聞いていないのだが。悔しいことに八幡の行動は、確かに彼女らの許容範囲に収まっているように思う。そんな二人の様子も確認した上で、教師は大きく息を吐いてから口を開いた。

 

「ふう。ならば今日のところは、お小言は勘弁してやろう。二人に感謝するようにな。では、練習を頑張りたまえ」

 

 忠告すべきか、それとも様子を見るべきか。教師であっても悩みは尽きないなと平塚は思う。今回は、三人の仲に免じて様子を見ることを選択した。文化祭でこの三人がまた少し成長を遂げることを願いながら、教師はゆっくりと生徒たちの前から去って行く。

 

「ヒッキーは、もう少し怒られてもいいって思うんだけどな」

 

「そうね。私たちが休んでいる間に何をされるかと思うと、ゆっくり休めない気がするのだけれど」

 

「お前らな……。でもま、さっき雪ノ下が言った通りだろ。過去最高の文化祭にしてやろうぜ」

 

 八幡が話題を逸らそうとしているのは明白だが、それでも二人はその発言に応えて大きく頷く。そして三人は仲良く揃って、部室の中へと姿を消した。

 

 

 文化祭まで、あと四日。そして、雪ノ下陽乃が来るまで、あと二日。




次回は来週末に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/16)


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14.リアルも含めた幅広い情報を彼女は持っている。

前話に引き続いて文字数が非常に多くなっています。
時間の余裕がある時に楽しんで頂ければ幸いです。

以下、前回までのあらすじ。

 現実世界からの合同取材まであと一時間。渉外部門の生徒たちが協力的だったお陰で、八幡は限られた時間内に幾つか対策を出せた。雪ノ下と映像通話で繋がった状態で、八幡は取材の様子を注視する。

 だが取材が進む中で、記者の一人が血気に逸る。いつしか話題は文化祭から逸れて、この世界に巻き込まれた事件に関する質問ばかりになっていた。それを見た八幡は、雪ノ下と由比ヶ浜の召喚を決断する。記者は無事に雪ノ下によって撃退された。

 合間の時間に、八幡と雪ノ下が少し照れ臭い思いをして。その後の全体会議で、雪ノ下は八幡に、先程の問題発言を以後の仕事で挽回するよう通達した。前向きに全力で仕事を行う決意を固める二人の姿とその意思を、由比ヶ浜が静かに見守っていた。

 会議に続けて有志統制の見直しをして、その後も仕事は順調に進んだ。バンド練習の為に移動した部室の前で平塚先生とも話をして、ようやく長い一日が終わった。



 翌日の火曜日は、比企谷八幡が見る限り全てが順調に進んでいた。

 

 昨日の全体会議で雪ノ下雪乃に発破をかけられた生徒たちは、やる気に満ちていた。それは午前中の授業を受ける態度にまで及ぶほどだった。それも、早く仕事がしたいから早く終われというようないいかげんな姿勢ではなく。自分たちが熱心に授業を聞けば、そのぶん時間が早く進むとでも考えているかのような様子だった。

 

 そんな文実の生徒たちの姿勢は周囲にも伝わって、有志や部活そしてクラスの出し物に取り組む生徒たちにも影響を及ぼしていた。この日の校内は、至る所でやる気に満ちていた。

 

 

 そんなふうに全校の雰囲気を変えてしまった当の本人は、この日は派手な動きを見せなかった。もちろん、雪ノ下の普段の基準と比べれば、という話ではある。他の委員を上回る量の仕事を普通にこなしていたのだが、それでも動きをセーブしているのは八幡の目から見れば明らかだった。

 

 おそらく理由は二つ。一つは、単純に翌日に備えて体力を温存しているから。姉の来襲という、どう考えても平穏に済むはずの無いイベントを翌日に控えているためだろう。

 

 もう一つは、雪ノ下が率先して片付けるべき仕事の量が減っているから。これは文実メンバーの熱心な仕事ぶりを褒めるべきなのだろう。負担が減ったのなら、減った分だけ新しい仕事を見付けるべきだという意見もあるのだろうが。この状況を見て、雪ノ下が楽をしていると解釈するのは違うと八幡は思う。

 

 トップが果たすべき第一の役割は、一兵卒と同じ仕事をすることではなく、全体を動かすことだ。全体が上手く動いている間は、トップは昼寝をしていても許されると八幡は思う。何となく、自分にとって理想の環境のようにも思えるが、問題は雪ノ下と違って人望に欠けることだろう。そこを解決して昼寝に勤しめる立場を目指すよりは、誰かの下で周囲を気にせず働くほうが、自分には合っている気がする。社畜精神って遺伝するのだろうかと真面目に考えたくなる八幡だった。

 

 だが周囲を気にせずとは言っても、目に付くものは目に付いてしまう。わざわざ時間と労力を割かずとも、自分を取り巻く環境を八幡はほぼ正確に把握していた。

 

 同じ渉外部門の生徒たちは、わりに気兼ねなく接してくれている気がする。その他の部門の生徒たちは、やはり大なり小なり八幡に反感を抱いているようだ。とはいえ、そちらのほうが自然だと八幡自身も思うし、だから特に文句も出ない。

 

 おおむね、八幡と関わりの少ない生徒ほど反感を持っていると考えて良いのだろうが、ここに少しだけ違う要素が絡んでいる。つまり八幡との関わり以上に(そもそも八幡と関わりのある生徒は簡単に数えられる程度の数しか居ない)、雪ノ下との関わりの深さに応じて反応が違うように思えた。虎の威を借るようで申し訳ないが、とはいえ相手が勝手にそう思うのは俺の責任じゃ無いよなと考えて、気にせず仕事に勤しむ八幡だった。

 

 

 奉仕部のもう一人、由比ヶ浜結衣は、先週とは違って頻繁に会議室に姿を見せていた。クラスに顔を出して文実にも顔を見せて、一見すると負担が増しているようにも思えるのだが、そこに由比ヶ浜なりの計算があることに八幡は気付いていた。おそらくは状況を適宜確認して、問題の早期発見と早期解決を目指しているのだろう。

 

 先週は色んな問題が一気に押し寄せてきたこともあり、どうしても受け身になりがちだった。大きな問題になってから相談が来て対処するという形が多く、それを解決している間に、別の場所で揉めごとが膨らんでいるという悪循環になっていた。由比ヶ浜のことだから論理的に考えて行動パターンを変更したのではなく、経験則に従ったのだろう。この由比ヶ浜の決断は正しいと八幡は思った。

 

 雪ノ下が全体を見ながら進むべき先を指し示して、由比ヶ浜が全体を見ながら綻びが出そうな所を未然に防いで。これで仕事が上手く行かないなら嘘だよなと八幡は思う。今の環境なら、最前線で存分に仕事ができるというものだ。これは俺に限った話ではなく、他の多くの委員も同じように考えているのが伝わって来る。文化祭に向けて欠かせない人材が少ないと嘆いていた八幡だが、それ以前に、二人の使い方を間違えていたということなのだろう。

 

 雪ノ下に目先の仕事を片付けさせながら全体の指揮をさせたり。由比ヶ浜に人間関係の揉め事を解決させるためとはいえ、転戦につぐ転戦を強いるようなやり方に問題があったのだ。二人を正しく配置すれば、その他の委員たちも巻き込んで大きな仕事ができる。奉仕部の三人だけでは成し遂げられないような規模の仕事が可能になるのだ。

 

 そこに、もっと早く気付くべきだったなと八幡は思う。だが後悔はしない。せっかく各々の役割分担が板に付いてきたのだから、次の機会があればもっと上手くやれるはずだと、八幡は前向きに反省していた。

 

 

 とはいえ肩書きという点から考えると、副委員長の雪ノ下が采配を揮う今の形は褒められたものではない。

 

 だが委員長としての相模南の権威は、今や風前の灯火となっている。雪ノ下の監督を受けることによって、かろうじて委員たちからの批難を免れているのが現状だ。実質的な最高責任者が雪ノ下であることは誰の目にも明らかだったし、個人の能力を比較してもそのほうが遙かに自然に思える。

 

 それは本人も自覚しているのか、昨日今日と相模は雪ノ下の隣で大人しく仕事に励んでいた。とはいえ心の中では不満が積み重なっているようで、由比ヶ浜が八幡と連れ立って相模に話しかけるたびに、剣呑な目つきで睨み付けられた。半ば以上は俺の自業自得だが、本来であれば雪ノ下や由比ヶ浜に向けたいであろう感情も、こちらに向けて発散しているようだ。だが、それで良いと八幡は思う。

 

 由比ヶ浜にはクラスの状況を相模と八幡に知らせる役割がある。だから先週も毎日、仕事が終わった後で会議室に来て貰って、お互いの情報を交換していた。その際に相模が由比ヶ浜に対して、厳しいことや、わがままめいたことを口にする場面がたびたびあった。おそらくは由比ヶ浜への甘えもあるのだろう。それでも横で聞いていて嫌な気持ちになったものだが、今や相模の標的は八幡に絞られている。

 

 仕事だからって、さがみんと話をするのに無理に付き合わなくてもいいよ。由比ヶ浜が時々そんなことを口にしようとしたが、八幡はそれを最後まで言わせず、率先して相模のもとへと足を運んだ。相模を挑発するためでは無論なく、由比ヶ浜の方針転換に賛同していたからだ。

 

 仕事の後で一気に話をするのではなく。できる限りリアルタイムで情報を共有できるように、クラスに動きがあるたびにそれを相模にも伝えに行く。これも先程の早期発見と同じ発想なのだろうと八幡は考えていたし、相模の矛先が自分に向くのも八幡からすれば望むところだ。反対する理由は何もなかった。

 

 

 このようにして充実の火曜日が過ぎて、日付は水曜日に変わった。夕刻前、おそらく四時前頃に。雪ノ下陽乃が、来る。

 

 

***

 

 

 水曜日の午後、文化祭実行委員会は前日と同様に活況を呈していた。卒業生代表を交えて話し合いを行うために、この日の全体会議は夕刻に開催される予定になっている。そのため、会議室に集まった生徒たちは時間を無駄にすることなく、我先にと仕事に没入して行った。

 

 そして時刻は三時半過ぎ。会議室の奥では、奉仕部の三人と顧問の平塚静が顔を揃えていた。若手教師ゆえに多くの仕事を抱え込んでいる平塚は、全体会議こそ欠かさず参加しているものの、それ以外の時間帯に顔を見せるのは珍しい。

 

「会議の前に、少し打ち合わせが必要だと思ったので出て来たのだよ。君たちは安心して仕事に勤しみたまえ」

 

 首を傾げるその他の委員たちにそう説明すると、平塚は教師の権限で教室の一部分を分割した。新しく作った部屋は廊下からは隔たっていて、出入り口は会議室の中とだけ繋がっている。内部は数人で一杯になる程度の大きさで、長机とパイプ椅子が幾つか並べられただけの殺風景なものだったが、顔を突き合わせた話し合いには充分だろう。

 

 

『戦力の逐次投入は愚策って考えると、最初から全員で、陽乃さんに先制攻撃をかけるのが良いと思うんだよな』

 

『つまり貴方は、由比ヶ浜さんに最初から同席して貰いたいと考えているのね。日曜日には、いざとなったら巻き込むと言っていた気がするのだけれど』

 

 その小さな教室を眺めながら、八幡は昼休みに部室でかわしたやり取りを思い出していた。先日の記者ならともかく、今日の相手は簡単にはいかないはずだ。雪ノ下が劣勢になってから由比ヶ浜を呼び出そうとしても、そんな余裕は無いと考えるのが妥当だと八幡は思い直したのだった。

 

『由比ヶ浜だけじゃなくて、平塚先生も巻き込もうかと思ってるんだけどな。陽乃さんがそう簡単にボロを出すとも思えねーし。そもそも、挑発に乗ってくれるのかも怪しいしな』

 

『なんだか、はぐらかされちゃう気がするよね。ヒッキーの屁理屈ともちょっと違う気がするし……』

 

『姉さんは相手に言質を与えないのは当然として、変なところで筋が通っているのよね。例えば、「善く士たる者は武ならず」という言葉があるのだけれど』

 

『ヒッキー……』

 

『漢文の授業ではやってないから、泣きそうな顔にならなくていいぞ。立派な武士は猛々しくないし、怒らないし争わないし謙虚だ、とかって続くんだったかな。老子の言葉だろ?』

 

『ええ、老子の「不争の徳」の一節なのだけれど……少し正確さには欠けるものの、よく知っているわね』

 

『まあ、太上老君の怠惰スーツは俺の憧れだったからな』

 

 あの時は、少し驚いた表情の雪ノ下が一気に呆れ顔になったな。八幡はそう思い出して苦笑いする。詳細は分からなくとも、八幡が漫画かアニメの話をしていると理解したのだろう。これはスラムダンク全巻に加えて封神演義全巻もいつか読ませねばなるまいと、固く決意する八幡を尻目に、雪ノ下は話を続けたのだった。

 

『姉さんが謙虚とか争わないと言ったら、由比ヶ浜さんも比企谷くんも意外に思うかもしれないのだけれど。実際には、実力を誇示するのも行使するのも、それが必要な場面だけなのよね』

 

『つっても、お前相手には四六時中、挑発をかけてる気がするんだが?』

 

『それは……それにも、()()()()()()()()があるのよ。もちろん、理由があるとは理解しても、その理由を受け入れようとは思わないのだけれど。話を戻すと、私が先日さっきの老子の言葉を話題に出した時に、姉さんに言われたのよ。相手によっては、尊大に振る舞うほうが上手く行く時もあると。特に女性の身で謙虚に振る舞うと、逆にこちらを見下して無理を言ってくる輩が少なくないと言っていたのだけれど』

 

『でもそれって、ちょっとだけ分かるなって。この間の記者の人もそんな感じだったじゃん。あたしがお馬鹿なことを言って話を終わらせようとしたら、逆に踏み込んでくる人って時々いるんだよね……』

 

 そう口にした由比ヶ浜に心から同意するような表情で、雪ノ下が話を続けた。あれを見て、雪ノ下も同じような目に遭ったことが何度かあるのだと理解して。あのとき八幡は、二人にこんな表情をさせた見知らぬ誰かに苛立ちを覚えたのだった。

 

『だから、老子の結論が「不争」なのであれば、状況によっては謙虚よりも尊大な態度のほうがそれを実現できると姉さんは言うのよ。謙虚が有効な場合には謙虚に、尊大が有効なら尊大に振る舞うべきだと。話を混ぜっ返されただけという気もするのだけれど、姉さんの性格を表しているとも思えるのよね』

 

『ほーん、なるほどな。「争わない」という結末はそのままに、途中の論理を臨機応変に改変するって感じかね。確かに陽乃さんらしい気もするが……でも、あの人の愉快犯的な傾向はどう解釈するんだ?』

 

『それも、「楽しいものが見たい」という思いを実現させるべく、姉さんなりの論理に基づいて行動に出ていると考えられないかしら。だから私は、姉さんが今度の文化祭にどんな思いを重ねているのかさえ突き止められれば、後は逆算で話をつけられると思うのよ。貴方が案を出してくれたお陰で、話をつける方法は既にあるのだから』

 

『そうだな。じゃあ雪ノ下が正面から問い詰めて、俺が横から揺さぶりをかけて、由比ヶ浜に陽乃さんの微妙な反応を解読して貰うって感じかね。あとやっぱり、平塚先生に同席して貰ったほうが陽乃さんの口が滑りやすい気がするんだよな』

 

 白衣の教師からも無事に同意を得られて、こうして陽乃を迎え撃つ準備は整った。

 

 

 ここまでの経緯を頭の中で振り返っていた八幡は、小さな教室から目を離して二人に話しかけようとした。その時。やる気に溢れる生徒たちの声が、先程までは廊下からも聞こえていたのに。それがぴたりと止んだ。

 

 室内に居る全員が来訪者の存在を察知して、視線が会議室の入り口に集中する。

 

 程なく、注目を集める状況など歯牙にもかけず、ドアを開けた向こうで自然体で佇みながら。その人物は三人の生徒と一人の教師に向かってにやりと笑うと、こう言った。

 

「ひゃっはろー!」

 

 

***

 

 

 準備万端で待ち構えていたはずなのに、陽乃の第一声で度肝を抜かれてしまった。一瞬の混乱から立ち直って、八幡は何と言って反応すべきかと頭を働かせようとする。だが、廊下が再び騒がしくなっているなと余計なことに気を取られている間に、八幡に先んじて教師が口を開いた。

 

「陽乃。全体会議の前に少し打ち合わせをしようと思うのだが、こちらに来てくれるかね?」

 

「へえ。これって、静ちゃんの差し金なんだ。ま、別に何だって良いけどね」

 

「私が用意したのは話し合いの舞台だけだよ。単なる立会人だと思ってくれたらいいさ」

 

 そう答える平塚に、余裕のあるしかしどこか冷たい笑顔で応えると、陽乃は奉仕部関係者が集まる場所に向けて移動を始めた。陽乃の歩みに合わせて、教室内の全員の視線が動く。その間隙を突くかのように、予想外の声が再び会議室の入り口から上がった。

 

「その話し合いに、俺も同席させて貰って良いかな?」

 

「ふむ、葉山か。よろしい、君も来たまえ」

 

 陽乃が通った後をなぞるかのように、葉山隼人が近付いてくる。途中で足を止めていた陽乃も、教室の奥に向けて移動を再開した。

 

 スタートから予想外の事が多すぎるなと思いながら、八幡は二人の様子をこっそりと窺う。雪ノ下は感情を昂ぶらせることもなく、姉との対決に備えて自然体を維持している。由比ヶ浜にも緊張の色は見られない。こちらは良い意味で予想外だなと八幡は思った。二人を信頼していないつもりはなかったが、少し心配が過ぎたかもしれない。

 

 近付いてくる二人を待つことなく、最初に平塚が。次いで雪ノ下・由比ヶ浜の順に、話し合いを行う教室の中へと身を消した。八幡がそれに続いて、少し遅れて陽乃と葉山も小さな教室の中に入ってきた。葉山が後ろ手にドアを閉めると、入り口の反対側に当たるお誕生日席に教師が座り、それに向かって右手奥から雪ノ下・由比ヶ浜・八幡が、左手奥から陽乃と葉山が腰を下ろす。

 

「最初に思ったよりは楽しい打ち合わせになりそうかな。で、議題は何なのかな、雪乃ちゃん?」

 

 

 陽乃がそう口火を切って、こうして話し合いが始まった。陽乃の鋭い眼光もまるで意に介さず、問いかけられた雪ノ下が静かに口を開く。

 

「その前に。反対という意味では無いのだけれど、葉山くんはどうしてここに?」

 

「在校生の有志取りまとめという役割を引き受けた以上は、俺も当事者だって思うんだけど?」

 

 平然とそう返す葉山の表情を窺いながら、八幡は一筋縄ではいかない思いを抱いていた。

 

 雪ノ下から役割を振られた月曜日の時点で、葉山はここまでの展開を思い描いてはいなかったはずだ。だがどこかの時点で、その肩書きを利用できると思い付いたのだろう。話し合いに加わることが目的なのか。あるいは他にも思惑があるのか。葉山が何を意図しているのかは分からないが、まずは敵か味方かを見極める必要があるなと八幡は思った。

 

「なるほど。とはいえ、先週の姉さんの放言のせいで被害をこうむった貴方なら。有志取りまとめの肩書きが無くとも、当事者と言って良いように思うのだけれど?」

 

「ああ、そういえばあれには苦労したよ。クラスで問い詰められるしさ。結衣はあの場に居たから覚えてると思うけど、アドリブの試験にしてはちょっと悪趣味だったかな」

 

「隼人ならそれぐらいは大丈夫でしょ。雪乃ちゃんにも落ち着いて対応されちゃったし。お姉ちゃん、面白いサプライズだって思ったんだけどなー」

 

 おそらく雪ノ下も、葉山の真意を見極めるべく探りを入れているのだろう。陽乃の言葉や態度からして、二人が結託しているとは思えないが、と八幡は推測する。こちらの味方とも思えないだけに、警戒は怠るべきではないだろう。

 

 八幡と由比ヶ浜が口を閉ざしている横で、雪ノ下が呆れた口調で話を続ける。

 

「はあ。その話は散々したから、蒸し返すのは勘弁してあげようと思うのだけれど。そろそろ本題に入っても良いかしら?」

 

「お姉ちゃんが隼人を呼び出したんじゃないって、確認できて安心した?」

 

「最初から、そんな心配はしていないわ。姉さんが答えをはぐらかさないように、葉山くんを利よ……協力して貰おうかと思っただけなのだけれど。どちらにせよ、本題と比べれば些細な話ね」

 

 両手の指を絡ませた上に顎を載せて、姉が余裕の表情で問い掛ける。対する妹は背筋を伸ばした姿勢のまま、不穏な表現をちらつかせている。

 

 姉妹揃って、葉山を利用して心理的に優位に立とうと考えたのだなと。改めて葉山の立場に同情したくなる八幡だった。だが当の葉山は涼しい顔で、自らの扱いを特に気にする素振りも無い。

 

 千葉村で葉山から嫌な雰囲気を感じ取った時には、決まって彼の我が出ていたように思う。しかし今は、葉山個人の意図や思惑はほとんど伝わって来ない。敢えて言えば、何かしら責任感のようなものが伝わって来るが、それは葉山の感情とは切り離されているように思える。今のところ、葉山が変な動きを見せる可能性は低そうだなと八幡は思った。

 

 

「じゃあ、お姉ちゃんにも教えて欲しいんだけど。雪乃ちゃんの本題って、なーに?」

 

「端的に訊ねるわね。姉さんは、文化祭の邪魔をする気なのかしら?」

 

 余裕のある表情を浮かべたまま、陽乃が軽い口調で問いを発する。それに動じること無く、雪ノ下は一気に本題に入った。それでも、陽乃の表情は揺るがない。

 

「ひっどーい。雪乃ちゃんや後輩の成功を祈ってるに決まってるでしょ?」

 

「結果的に、先週の姉さんの発言によって、時間や労力のロスが生じたのだけれど?」

 

「だってまさか、雪乃ちゃんが隼人との関係を内緒にしてるなんて思わないでしょ。ね、比企谷くん?」

 

 突然話を振られたものの。そろそろ来る頃かと思っていたので、八幡にも動揺は無い。慌てることなく面倒臭そうに口を開く。

 

「昔の話をどの程度話すかなんて、友達が居なかったので俺には分かんないですね」

 

「比企谷くんは相変わらずだねー。そんなに身構えなくても、優しいお姉ちゃんですよー。じゃ、ガハマちゃんは?」

 

「あたしにも、話しにくいことってありますし。でも今回もだし、ゆきのんなら時間が掛かっても、いつかちゃんと話してくれるって思ってます。だから、その時を待とうって」

 

「なるほどねー。でもさ、わたしが話題に出したから昔の話もできたんだし、却って色んなことがスッキリしたんじゃない?」

 

「それは……」

 

 陽乃の主張を聞いて由比ヶ浜が口ごもる。だが、その問いに答えるべきなのは、発言を真に受けやすい由比ヶ浜ではないと八幡は思う。陽乃が論点を逸らしていることを指摘できる雪ノ下か。あるいは、ニヒリストの役割だ。

 

「それで実際に仕事が捗るんなら良いですけどね。知っていようが知っていまいが、結局はあんまり大差ない気がするんですけど」

 

「お、ニヒルだねー。『人生は無意味だ』なんて文学青年みたいなことを言い出しそうだけど。虚無主義が昂じて決闘とか自殺とかしたら、お姉ちゃん泣いちゃうよ?」

 

「陽乃。言い過ぎだ。比企谷も気にしないようにしたまえ」

 

 だが、陽乃が繰り出す話題の転換には、さすがの八幡もついて行けない。それに千葉村で教師から得た忠告と内容が重なる以上は、陽乃の発言を聞き流すこともできない。あの時のやり取りを陽乃が知るはずも無いのだが、それでも八幡は身構えざるを得ない。

 

 周囲をこっそり見回すと、由比ヶ浜はもちろん雪ノ下や葉山ですらも、陽乃の真意を測り損ねているようだ。と、八幡がそこまで確認したところで、教師が助け船を出してくれた。

 

「はいはい。静ちゃんも、雪乃ちゃんや比企谷くんには過保護だね」

 

「それでもやはり、限界はあるさ。相変わらずな。だからこそ手の出せる範囲では、つい口を挟んでしまうんだろうな。悪い癖だよ」

 

 陽乃の物言いをそう回避すると、教師は「話を続けたまえ」とでも言うように。椅子の背に体重をかけて静観の姿勢に戻った。

 

 

「では姉さんは、文化祭の邪魔をする気も無いし、私たちを助けてくれると考えて良いのよね?」

 

「雪乃ちゃんたちが間違ったことをしなければ、って限定は付くけどね。何事にも限界ってあるみたいだしさ」

 

 まずは一つ言質を得ようとする雪ノ下に対して、さすがに陽乃は口約束であろうとも、安易なことは口にしない。教師をからかう言葉まで付け足して、依然として対話は陽乃のペースで進んでいた。だがそこで、苦い顔をした葉山が口を開く。

 

「また、そういうことを……。陽乃さんの思い付きの会話に付き合ってると、時間がいくらあっても足りないからな。それぞれ忙しい身だし、もう少し前向きに話さない?」

 

「ふーん。隼人も一丁前な口を利くようになったか。お姉ちゃん、ちょっと嬉しいけどちょっと寂しいなー」

 

「だから、思い付きで話を横に逸らさないようにと。葉山くんが言ったそばから姉さんは……」

 

「で、本題って他にもあるのかな、雪乃ちゃん?」

 

「……っ!」

 

 葉山の存在は、今のところは自分たちへの援護射撃になっているなと八幡は思う。だがそれでもなお、陽乃のペースを乱すには至っていない。どころか、雪ノ下が反射的に挑発に乗りかけるなど、現状はこちらの劣勢と見て良いのだろう。だがそれでも、手助けを必要とする段階にまで雪ノ下が追い込まれたわけでもなく。俺にも由比ヶ浜にもまだまだ余裕はあると八幡は思う。

 

 そんな八幡の分析が伝わったのか。昂ぶりかけた感情を自ら鎮めて、雪ノ下は再び姉に問いを発する。内心で抱いている疑問点を、一点に凝縮した質問を。

 

 

「じゃあ、お待ちかねの本題よ。……姉さんは、何を知っているのかしら?」

 

「うーん。そう言われても、お姉ちゃんも知らないことだらけだよー。雪乃ちゃんから見たら、何でも知ってるように見えるかもしれないけどね」

 

「知ってることだけでいいわ。文化祭に関係することで、私たちが知りようのないことについて。洗いざらい話して欲しいのだけれど?」

 

 姉の挑発を今度は一顧だにせず、雪ノ下は姉にそう告げた。

 

 日曜日に奉仕部の三人で打ち合わせをした時に、八幡が組織の構造上の問題を指摘してくれた。だが雪ノ下には肉親ゆえの確信があった。姉は別の何かを見ていると。それも、文化祭の成否に関わるような何かを。おそらくは負の影響を及ぼす情報を隠し持っているはずだと。

 

「可愛い妹のお願いだし、叶えてあげたいところだけどねー。守秘義務は雪乃ちゃんも知ってるでしょ?」

 

「ええ。ということはやはり、運営が絡んでいるのね」

 

 雪ノ下が確認を入れるが、それに対して陽乃はこの日初めて黙秘を選択した。この場に集う面々の前では、外見を取り繕ったところで効果が無いと考えたのか。その表情に笑みは無く、静かに冷たく妹の反応を窺っている。

 

 こうして静かに座っているのを見ると、確かに姉妹だなと八幡は思う。普段の陽乃は、活発な言動によって周囲を掻き回す印象が強い。だから妹と比べると、動と静で好対照にも思えるのだが。黙っていると、二人はとてもよく似ている。そして、いつもの姿とのギャップがある分だけ、何を考えているのか分からない今の陽乃からは怖さを感じると八幡は思った。

 

 そこまで観察して、八幡は視線を横に向ける。姉と同様に落ち着いた姿勢で冷ややかな表情を浮かべる雪ノ下だが、頭の中は高速で動いているのだろう。姉への警戒を怠らないようにしながらも、その頭脳を働かせて数多くの可能性を検証しているのだろう。その姿からは頼もしさを覚えると八幡は思った。

 

 おそらくは二人とも、他者からの期待を受け続けて、そして結果を出し続けてきたのだろう。だが周囲からの反応もまた、好対照だったと考えて良さそうだ。その能力を評価されているのは共通している。しかし姉はそれゆえに絶賛され、そして妹はそれゆえに疎まれることが多かったのだろう。

 

 けれども俺の印象は、そしておそらく由比ヶ浜の印象も、それとは逆だと八幡は思う。たとえ全世界の俺たち以外の全員が違う印象を持ったとしても、自分たちだけはそれに与することはない。一見しただけでは分かりにくい雪ノ下の気質を、意外に不器用な性格の奥にある雪ノ下の優しさを、俺たちは何度も目の当たりにしてきたのだから。

 

 ともに口を開くこともなく、姉妹は自然体で向かい合っている。そういえば、陽乃が会議室の外から第一声を発した時にも。陽乃はドアの向こうで自然体で佇んでいたし、それを待ち受ける雪ノ下もまた自然体だった。やはり二人は似ていると八幡は思う。同時に、こちらが劣勢だと思っていたが、冒頭からさほどの変化はないのだな、とも。

 

「私にも守秘義務が課されているので、この場であまり多くは話せないのだけれど。こちらに伝わっている以上に、運営の計画は順調だと考えて良さそうね。その詳細は問わないけれども……では姉さんは、運営からの発表がどの時点になるか、知っているのかしら?」

 

「たぶん、当日のサプライズじゃないかな。現実世界のお客さんなら単純にビックリで済むけど、こっちで対応する身としては大変だよねー」

 

 これは、ヒントをくれていると受け取って良いのだろうか。八幡はそう考えて少しだけ思い悩む。そして最終的には、陽乃の発言には真実が含まれていると判断した。

 

 なぜならば、雪ノ下は嘘を吐かないから。言いたくないことや言うべきではないことを誤魔化すことはあっても、ハッキリと嘘を口にすることは頑なに避けている印象がある。その避け方に違いがあるだけで。陽乃は話を混ぜっ返して誤魔化すことが多いだけで、発言に責任を持つという点において姉妹の姿勢は同じではないかと思えたから。

 

 とはいえ、どうしてわざわざヒントを出してくれたのかという疑問は残る。それについて考えながら八幡がじとっとした目で陽乃を眺めていると、急に視線が合ってしまった。うげっと思う間もなく、陽乃が口を開く。

 

 

「その何でも疑ってかかる性格は嫌いじゃないけどね。少しぐらいはお姉ちゃんを信じてくれても良いんじゃないかな、比企谷くん?」

 

「俺には妹さえいれば充分なので、自称お姉ちゃんの発言は受け入れられないですね」

 

「ヒッキー、最後はわりと格好いいこと言ってるのに、理由がシスコンだし……」

 

「由比ヶ浜さん、残念ながらもう手遅れよ。Movin’ on without シス谷くんで話を進めましょう」

 

「おい。その上手いこと言ってやったみたいな表情が少し腹立たしいんだが」

 

「そもそもは、材木座くんの依頼の時だったかしら。貴方が口にしたネタを思い出してしまったので、ついAutomaticに口に出ただけなのだけれど」

 

「お前、あれだろ。月曜にスローガンの話が出た時に、俺が『雪ノ下のセンスは期待できない』とか言ったのを耳にして、意趣返しの機会を狙ってただろ。頭の良い奴が仕込んだネタって、色々と詰め込んでるせいか、パッと聞いた時に反応に困るんだっつーの。いつだったかの『憂鬱のお出掛け』とか、まさにそんな感じだっただろ?」

 

「そう。私たちが休んでいる間に、貴方はそんなことを陰で口にしていたのね」

 

「えっ、と、あれ。誰かから聞いたんじゃねーのか?」

 

「ええ。報告は受けているわよ」

 

「聞いてんじゃねーか!」

 

 二人の間に挟まれた由比ヶ浜は背中をのけぞらせて、「また始まった」と言いたげな表情を浮かべている。葉山は、興味深そうに視線を二人の間で行き来させている。教師は、早く仕事が終わったら久しぶりにカラオケに行きたいなと現実逃避をしている。そして陽乃は、二人のやり取りを聞いて爆笑していた。

 

「あっはははははっ。あー、お腹痛い」

 

「さすがに笑いすぎだよ」

 

「だって隼人も聞いたでしょ。雪乃ちゃんも相変わらず可愛いけど、比企谷くんも良い味を出してるよねー。うん、有能!」

 

 横からたしなめる葉山の意見を聞き流して。誰からそんな知識を得たのかは分からないが、陽乃が「グッジョブ」という意味で八幡を有能と評した。この人の頭の中はどうなっているのやらと、ますます疑問を深めながら八幡がぼそぼそと苦情を申し立てる。

 

「いや、一方的にやられてるだけで、とても有能とは思えないんですけど……」

 

「そうかな。俺も()()()は良い味を出していると思うし、君が役立たずだとか無能だとかは、この校内の誰にも言えないはずだよ。俺も含めてね」

 

「お、おう……なんか変なもんでも食ったのか?」

 

 もしくは、例の腐女子の教育がついに実を結んでしまったのだろうか。褒められ慣れていない八幡は背筋がぞわりとするのを避けられず、葉山の反応を恐る恐る窺っている。

 

「そんな変な話じゃなくてさ。月曜日の文実での出来事を、俺も聞いたんだよ。自分にヘイトを集めて、集団を団結させようとしたんだろ?」

 

「へえ。比企谷くんも分かってるねー。明確な敵の存在こそが、集団を団結させるのであーる」

 

「君のあれが無かったら、雪ノ下さんが後でいくらフォローしたとしても、ここまで全校が盛り上がることは無かったんじゃないかな」

 

「確かに、それは私も同意見ね。とはいえ、誰かを生け贄に捧げるような形を取るよりは、恐怖で集団を統制した方が良いとも思うのだけれど」

 

 葉山と陽乃のやり取りに加わって、八幡の活躍を認めてくれたのかと思いきや。八幡をたしなめる意見を挟んで、怖い結論に至る雪ノ下だった。だが、雪ノ下が何を想定しながら話しているのかは、横に座る二人には伝わっている。

 

「恐怖って言うけどさ。ゆきのんは厳しいことを言ってるようで、無茶なことを押し付けたりとかしてないじゃん。それに、他の人以上に自分にも厳しいから、みんながついて来てくれるんじゃないかな。あと、生けにえっていうか……誰かをみんなより下の立場にしばり付けて、見くだしたりすることで仲間意識を作るようなのって、あたしは嫌だな」

 

「人を見下して自尊心を得るような奴らって、その程度だってことだからな。あんま気にすんな」

 

 それは五月のこと。葉山の依頼を片付けて、依頼人や関係者が去った部室で、三人で交わした会話があった。二年F組で嫌な噂が広まった時の被害者のうち八幡を除く三名が、雪ノ下への恐怖感で団結していると。今までに無かった一体感を感じると由比ヶ浜が話題を出した時に。

 

 あの時に、集団をまとめるためには恐怖は「有効な手段の一つ」だと雪ノ下が口にした。それに対して八幡は「更に下の存在を作るよりはマシ」だと答えた。あの頃には、この二人とここまで深い協力関係を築けるとは思ってもいなかった。当時の関係性が既に奇跡のようなもので、遠からず終わってしまうと思っていた。だから何か案を練っても、まず単独行動ありきという考えかただった気がするなと八幡は思う。

 

 そして今。八幡と雪ノ下は共に、文化祭に向けて全校生徒がほぼ理想的な形でまとまっていると考えていた。八幡への不満が一部で残っている点が懸念材料だが、八幡本人はこの程度なら問題ないと考えているし、雪ノ下は結果によってそうした意見を黙らせることができると考えている。そして両者ともに、一人ではなく二人でもなく三人が居たからこその現状だと思っている。

 

 だから八幡は、視線を横から斜め前へと移して、陽乃の顔をじっと見据える。

 

 一人一人なら太刀打ちできないかもしれない。雪ノ下の正攻法も、俺の捻くれたやり方も、由比ヶ浜の人望も、どの分野であっても個別に挑む限りは、陽乃を上回るのは難しいのかもしれない。三歳という年齢の差は、現時点では覆すのが困難だ。だが、三人であれば。攻め方を変えながら三人で挑めば、相手が陽乃であっても上を行く事ができるはずだ。現に、先程の雪ノ下のセンス自体はともかくとして。あれから始まった雑談において主導権を握っていたのは、間違いなく自分たち三人だったのだから。

 

 

「んで、話を戻しますけど。運営からの発表が当日まで無いのなら、こっちで勝手に空想を働かせながら対処を考えるしか無いですね。他に話せることって何か無いですか?」

 

 だから八幡は、陽乃がヒントを出してくれた理由を考えるのを止めた。話題を元に戻して、そして搾り取れるだけの情報を搾り取ってやろうと思う。そんな八幡の意図を感じ取って、雪ノ下が便乗する。

 

「そうね。私は姉さんの守秘義務について知りたいわね。運営と正式に契約を交わしていると考えて良いのかしら?」

 

「何だか雪乃ちゃんたち、面白い関係になってるね。静ちゃんが色々と口出ししてるからかな?」

 

「当人たちの努力の賜だよ。それよりも、質問に答えてやったらどうだ?」

 

 それでも陽乃は余裕の表情で、教師に話題を振ることで雰囲気を変える。質問を差し返される形になったが、少し時間を得られたことで腹は決まった。

 

「雪乃ちゃんの守秘義務は口約束のレベルだけど、わたしは大学も含めた契約なんだよね。運営の仕事場で過ごす時間は、大学での実験の代わりに単位として扱って貰えるし、色々と至れり尽くせりな状況だよー。比企谷くんも進学先として考えてみない?」

 

 陽乃の話を聞きながら、八幡は千葉村で雪ノ下が歌っていた曲のことを思い出していた。月曜日に続けて今日もとなると、頻度的にどうかと思うのだが。あの夜のことは前後も含めて強く印象に残っているだけに、仕方が無い。そう心の中で誰にともなく言い訳をする八幡だった。

 

 あの時に雪ノ下が語ったこと。我が国における曖昧な口約束よりも、海外の契約に対する考え方のほうが頷ける部分があると、そう雪ノ下は口にした。自国と他国の善し悪しは、こんなたった一つの要素だけで決まるものでは無いとしても。雪ノ下が自分に合った環境を求めるのであれば、海外の大学という選択もあるのだろうなと八幡は思った。

 

 おそらく、先日たまたま文理選択の話を聞いたせいで、こんなことを考えてしまうのだろう。だが、決断の時はそれほど遠い先では無い。それに、進学に付随して考えるべき問題もある。未だ情報が少ないゆえに深くは考えないようにしているが、この世界に巻き込まれた者特有の悩み事がある。

 

「俺は理系は壊滅的なので、却下で。あ、えっと。大学生としてのメリットは何となく理解できたんですけど、雪ノ下さん個人のメリットって何かあるんですか?」

 

 そんなふうに考え事に意識を奪われかけていたので、八幡は陽乃からの問い掛けに素で答えてしまった。焦らず何とか誤魔化そうとしたものの、陽乃にはバレバレだったみたいで茶化すようなことを言われてしまう。

 

「陽乃で良いって言ってるのに、比企谷くんも頑固だなー。たまには名前で呼んで欲しいって、ガハマちゃんもそう思うよね?」

 

「やー、その。名前呼びって、隼人くんとかもだし、あんまり珍しくないので……。どっちかっていうと、苗字呼び捨てのほうが逆に新鮮かもなって最近思ったりして」

 

「そうね。私も普段は、同級生や先輩からも何故か『さん』付けで呼ばれることが多いのだけれど。そういえば三年の先輩が、『雪ノ下さんのことをあんなふうに言えるのは比企谷くんぐらいだね』と言っていたのだけれど。貴方はいったい何を言ったのかしら?」

 

「ちょ、ちょっと待て。それは誤解だと思うんだが、とりあえず話を戻そうぜ。えっと、雪ノ下さんがただ単位を取るためだけに、運営の仕事場に顔を出してるとは思えないですし。何か個人的な思惑とかもあるんですよね?」

 

「比企谷くんは、雪乃ちゃんやわたしのことを何だと思っているのかな。わたしは普通の大学生だし、雪乃ちゃんも普通の高校生だよ。二人とも、普通の女の子なんだけどなー」

 

 この場に居る全員が「お前が言うな」と内心で唱和したものの、それでも陽乃が会話の主導権を奪い返すまでには至っていない。雑談を挟みながらも、少しずつ奉仕部の三人が話を先導する時間が長くなって来ていた。

 

「でも多分、家の仕事とか将来のこととかも関係してるんですよね。バーチャルな技術によって、例えば設計とかも目に見える形で出したりとか」

 

「でもそれは、図面を見ればおおよそは理解できると思うのだけれど。姉さんがわざわざ運営の仕事場に出入りするには、理由としては弱いわね」

 

「いや、ちょっと待て。お前なら図面を見ただけでも、頭の中で立体的に構築できるんだろうけどな。普通はイメージできないと思うんだが」

 

「イメージと理解は違うのよ。例えば数学で立体の体積を求める問題があったとして。それがどれほど複雑な形をしていても、数式として理解できればイメージは必要ないと思うのだけれど」

 

「なるほどわからん。つーか話が逸れてるから元に戻すぞ。図面を見るだけで理解できるお前らは別として、普通は目で確認したいと思うんだよな。んで、今だったらパソコンとかタブレットで確認できる程度だけど、実際にこの世界に来て確かめられたら……」

 

「でもさ。あたしだったら、そのためだけにログインするのはちょっとって思うと思うんだ。タブレットで見るだけなら気楽にできるけど、ログインするのはさ」

 

「というか比企谷くん、雪乃ちゃんと一緒にわたしまでさらっと異常扱いしてなかった?」

 

「むしろ葉山も含めた三人を異常扱いしたつもりだったんですけど?」

 

「俺をこの二人と同列に扱ってくれるのは嬉しいけど、ちょっと無理かな。立体問題を解く時にも、形をイメージしながら解くのが好きなんだよね」

 

「あー、悪いけど却下だな。お前らは数学が解けるグループ。んで、俺と由比ヶ浜は解けないグループな。こっちが普通でそっちが異常。その異常な才能を活かして社会の役に立ってくれ。アンダスタン?」

 

 

 そんなふうに、気付けば部室にいる時と同じような感覚で、奉仕部の三人を中心に会話が進んでいた。話の流れを追いながら、途中からはにやにや顔になっていた教師が陽乃に語りかける。

 

「さすがの陽乃も、この三人のやり取りには口を挟みづらいかね?」

 

「正直ちょっと見くびってたかなーとは思うよ。心配の種が無くなったわけじゃないけど、そうだね。文化祭だけなら協力してあげても良いかなー」

 

 三人を認めるようなセリフの割には余裕のある表情を維持したまま。そして相変わらず上から目線で陽乃はそう答えた。だが奉仕部の三人の顔に喜色は無く、警戒の色が強く浮かんでいる。三人から全く信用されていない陽乃だった。

 

「ま、わたしは推理ごっこを見たいわけじゃないからね。今までの話で、運営が何を意図しているのかはだいたい予測できると思うし。これ以上のヒントは必要ないかな、ってのがお姉ちゃんからの最後のヒントだね」

 

 それでも陽乃は平然とそう語ると、そのまま予想外の話を続けた。

 

「じゃあ今から、雪乃ちゃんも比企谷くんも思い付けなかった話をしてあげよう。運営の話とは違って、こっちは特に口止めされてないんだよね。ま、信じるか信じないかは自由だけど」

 

「御託は良いから、早く本題に入って欲しいのだけれど」

 

「はいはい。雪乃ちゃんはせっかちだなー。例年のことだけど、高二の全国模試って、K塾が五月末と八月のお盆明け、S予備校が六月初めと十月の体育祭の頃だよね?」

 

「それが何か……いえ、先月の結果が出ているのね。私たちは文化祭が終わった後で結果を受け取る予定なのだけれど」

 

 察しの良い雪ノ下の発言を聞いた八幡は、雑談を重ねる中で忘れかけていたことを思い出した。先ほど考えていた、進学に関する悩み事を。

 

「静ちゃんはもう知ってると思うけど。結論から言うと、この世界に巻き込まれた生徒たちの成績が、もの凄く伸びてるんだよね。どのくらいかって言うと、現実世界のいくつかの中学や高校が今週末に、総武高校の文化祭を生徒に見学させようと慌てて決定するぐらいにね」

 

 陽乃が語る情報を聞いて、全員が息を呑んだ。陽乃の口調からして、成績が上がっているのは総武高校だけではなく、この世界に巻き込まれた全ての学校に共通する傾向なのだろう。そんな模試の結果が明らかになった直後に、おあつらえ向きのタイミングで総武高校の文化祭が行われる。どれほどの数が訪れるのか、もはや全く予測がつかない。

 

「つまり、六月の時点でも全体の成績が急上昇していたのに、今回はそれに輪をかけた結果が出ているのね。それにしても、見学程度で何が分かるというわけでもないと思うのだけれど」

 

「保護者からの突き上げとか、単純に生徒たちが見に来たいと思ってくれているのかもな。私も模試の結果は知っていたが、現実世界でそんな動きになっているとは思わなかったよ。教師としては嬉しい反面、文化祭に備えてという点では難しいな」

 

「入学者が集まらないんじゃないかって心配は大丈夫みたいですけど。今度は倍率の心配が出て来ますね。小町は大丈夫かな……」

 

 すっかり文化祭のことも、そして自分たちの進学のことも、頭の中から抜け落ちている八幡だった。苦笑しながら由比ヶ浜が口を開く。

 

「まだ二月まで時間はあるし、みんながついてるから小町ちゃんなら心配ないよ。それよりヒッキー、文化祭のことを考えないと」

 

「あー、だな。今から小町の受験の心配をしてたら、ごみいちゃんウザいって家から叩き出されそうだし。あいつ、文化祭を楽しみにしてるって言ってたしな」

 

「文化祭を頑張る理由が全て小町さんの為というのも、少し度を越している気がするのだけれど。それで姉さん、情報はそれでお終いなのかしら?」

 

「これでも、予備校でバイトをしている知り合いとか、色んな所から仕入れた情報なんだけどなー。雪乃ちゃん、もしかしてお姉ちゃんを便利屋か何かだと思ってない?」

 

「まずまず使える手駒だと思っているのだけれど。何か不満でもあるのかしら?」

 

「へーえ。割に高評価なんだね」

 

「ええ。私は姉さんのことを、それなりに高く評価しているのよ。もっとも、姉さんが今までにやって来たことは、私にも大抵は出来ると思うのだけれど」

 

「じゃあ、文化祭を成功に導くこともお願いできるかな?」

 

 

 仲良く剣呑な会話を続けていた姉妹の間に口を挟んで、葉山が涼しい顔をしている。さすがに年季が入っているなと、ようやく妹以外のことにも頭が回るようになって来た八幡だった。

 

「なるほど。貴方がこの話し合いに参加した目的はそれだったのね。条件は何かあるのかしら?」

 

「そうだね。相模さんを含めた全員で、ってのはどうかな?」

 

「ええ、大丈夫よ。奉仕部への依頼もあるのだし、相模さんを蚊帳の外に置くような扱いはしないと約束するわ」

 

「そのぶん、ひたすら働かせるけどな」

 

「ヒッキーが言うように、ちょっとそこが不安だよね。あたしたちもさがみんのことは気を付けてるけど、何かあったら隼人くんも……」

 

「ああ、俺もそのつもりだよ。ただ、全体を指揮できるのは、俺たちの学年では一人しか居ないだろうからさ」

 

 葉山が雪ノ下に信頼の目を向けている。それだけならば納得は容易だが、雪ノ下にしか指揮が出来ないと言うとは意外だった。葉山が、自分には指揮できないとあっさり認めるようなことを口にしたのは予想外だった。そんなことを思いながら八幡が驚きの目で葉山を見ているが、それは陽乃にとっても同じだったらしい。

 

「隼人がそんなことを言うなんて、ちょっとビックリだなー。ま、変化の第一歩って感じだけどね」

 

 少しだけ、陽乃のセリフにイラッとした八幡だった。葉山の変化がどんな心境によるものなのかは分からないが、それでもその言い方は無いのではないかと思ったのだ。この間の記者もそんなふうに他者を見下すところがあったが、雪ノ下と似た表情でそんなことを言って欲しくはない。

 

 だが少し冷静になってみると、葉山と陽乃の付き合いはずっと昔からのもの。俺が知るよりもずっと前からの関係だ。そして、当の葉山が特に怒る素振りを見せていないのだから、俺がイライラするのもお門違いかと八幡は思い直した。

 

「第一歩を踏み出すのが一番難しいって、俺は思うんだよ。どうしても、身動きできない状況が多いからさ。陽乃さんなら分かってくれると思うけどな」

 

 そんな葉山の発言を聞いて、陽乃は静かに苦笑するとそれ以上の反応を見せなかった。弟分の発言を黙認したということなのだろう。

 

 葉山は先ほど八幡のことを「無能とは誰にも言えない」と評した。だが一般的に見て、八幡よりも葉山のほうが有能なのは確実だろう。そしてそれゆえに、葉山は身動きできない状況に陥ることが多いのだ。俺が月曜日にしたような、あんな自由気ままな行動に出ることが許されないのだ。

 

 それは、ある意味では残酷なことだと八幡は思う。雪ノ下にもそうした傾向はあったが、能力があるがゆえに、それを正しく発揮できる場を得られない。あるいは能力に溺れるような性格であれば、他者を顧みない性格であれば、逆に良かったのかもしれない。だが、優しい性格の持ち主ほど、貧乏くじを引くことになる。自分が動いた結果が、自分が誰かを選んだ結果が想像できてしまって、あげく何もできなくなるからだ。

 

 八幡は月曜日に続けて、あの作品のことを思い出す。クラスで行う劇の原作でもあるあの作品の中で、キツネが教えてくれたことを。絆を作る為には、飼い慣らす為には、多くの中から誰か一人を選ばなければならない。では、何かを選べない人には、絆を作ることはできないのだろうか。おそらくその通りなのだろう。それはとても残酷なことだと、八幡はもう一度思った。

 

 

「で、雪乃ちゃんはどうなのかな?」

 

 八幡がそんなふうに物思いに耽っている間に、気付けば再び姉妹が対峙していた。姉の問い掛けに、妹がシンプルに答えを返す。

 

「私は、当面の目標としては、文化祭を過去最高のものにしてみせるわ」

 

「それって、二年前よりも、ってことだよね?」

 

「ええ、勿論よ。だから姉さんも手伝って」

 

 姉妹の間で、激しい火花が散っているように八幡には思えた。ここが最後の勝負所なのだろうと理解して、由比ヶ浜と軽く頷きを交わす。

 

「そうだねー。ま、雪乃ちゃんにお願いされるって初めてだし、手伝ってあげても良いよ?」

 

「どうやら勘違いしているようね。これは個人的なお願いではなく、文化祭実行委員会からの通達だと考えて欲しいのだけれど。要するに姉さんには、絶対服従を求めているのだけれど?」

 

 やっぱりその四字熟語を使うのかと、予想が当たったにもかかわらず微妙な表情の八幡だった。

 

 一方の陽乃は、心底から楽しそうな表情になって妹を見つめていた。情報を与えたほうが面白いことになる。陽乃はこの打ち合わせの途中でそう腹を括って、妹に様々な情報を提供した。その結果がこの仕打ちだ。弟分の変化にも少しばかり驚かされたが、やはりこの妹の変化には及ばないと陽乃は思う。さて、どう対応したら一番面白くなるだろうか。

 

「そう言われても、お姉ちゃんには雪乃ちゃんが間違ったことをした時に、それを訂正させる義務があるのです。だから、その提案は……却っ下」

 

 嬉しそうに提案を却下する表情も瓜二つだなと、何だか頭が痛くなって来た八幡だった。隙があれば少しでも相手より上の立場を確保しようとする妹といい、それを楽しみながらも笑顔で拒絶する姉といい、どうして俺はこの二人に関わる羽目になったのかと八幡が嘆いている。その横で、由比ヶ浜が口を開く。

 

「ゆきのんの絶対服従は冗談だって、陽乃さんなら気付いてますよね。それに、もしゆきのんが間違ったことをしたら、あたしたちもすぐに修正に動きます。何よりも、ゆきのん本人が動くはずです。なのに、間違う前から訂正とかって話を出すのは、ちょっと違うんじゃないかなって」

 

「ほほう。ガハマちゃんも言うねー。うんうん、ガハマちゃんみたいな娘、お姉ちゃんも好きだなー」

 

「それで、もし私が絶対服従を取り下げたら、姉さんは手伝ってくれるのかしら?」

 

 由比ヶ浜の援護射撃を受けて、雪ノ下がトゲのある口調で穏便な提案を行う。どうせこの程度で話は決着しないだろうと考えているからなのだが、その読みは正しかった。

 

「それでも、雪乃ちゃんの指示に全て従えって言うんでしょ。お姉ちゃん、これでも昔、文化祭を二年連続で成功させた実績があるんだけどなー。それを奴隷のように使うだけって、ちょっとどうなのかなって思わない?」

 

「んじゃ、陽乃さんにも自由に裁量を与えて、文化祭の成功のために動いて貰ったら良いんじゃね?」

 

 そこで八幡が、陽乃の主張を全面的に認めるかのような提案を行う。さすがの陽乃も訝しがって、すぐに反応を見せようとはしない。が、思い至ったことがあるようで、それほど間を置くことなく口を開いた。

 

「もしかして雪乃ちゃん、全ての責任を引き受けるつもり?」

 

「ええ、勿論よ。だから姉さんも手伝って」

 

 先程と寸分違わぬ言葉を返して、再び雪ノ下は姉の反応を待つ姿勢に戻った。どこまで本気なのかと、陽乃は眼光鋭く妹を射貫く。だが雪ノ下は身じろぎもしない。

 

「もしもの話だけどね。わたしが文化祭を潰してやるって言ったら、雪乃ちゃんはどうするの?」

 

「簡単よ。その時は、姉さんを潰すわ」

 

「雪ノ下の家のことは?」

 

「関係ないわね。文化祭の成功のためなら、私は引く気は無いわ」

 

 おそらく、ほんの十数秒ほど。しかし当事者たちにとっては数分にも数十分にも思える時間が過ぎて。向かい合っていた姉妹のうち、姉が先に目を逸らした。だがその表情は明るい。

 

「たぶん、発案は比企谷くんじゃないかな。要するにMADをやりたいんでしょ?」

 

「ええ、その通りよ。それで、姉さんの結論は?」

 

 自分が発案者では無いと指摘されても揺るがない妹を見て、これだけ面白いものが見られたなら充分に元は取れたと陽乃は思った。だから端的に、妹に答える。

 

「じゃあ、史上最高の文化祭にしてあげるね」

 

「全体の指揮を執るのは私よ。姉さんは私の邪魔をしないでいてくれたら、それで充分なのだけれど」

 

「もう。雪乃ちゃんはツンデレだなー。じゃあ比企谷くんもガハマちゃんも隼人も、当日はよろしくね」

 

 

 こうして、何とか陽乃の協力を取り付けて。この日の全体会議は今まで以上に盛り上がる結果になった。

 

 

***

 

 

 そして、最終下校時刻まであと半時間を切った頃。仕事に勤しんでいた八幡の肩を、誰かが叩いた。

 

「んっ。って、嫌な予感しかしないんですけど?」

 

「もう。雪乃ちゃんも比企谷くんも、わたしの扱いが適当すぎない?」

 

 それは日頃の行いのせいだろうと言いたい八幡だったが、面倒な反応が返ってくるのは予想できる。だから八幡は曖昧な形で話を流して、首を傾げることで用件を尋ねた。

 

「さっきも言ったけど、あれの発案は比企谷くんでしょ。お陰で色々と面白いものが見られたから、ちょっとお礼でも言っておこうかなってね」

 

 面と向かって話していると、やはり華のある人なのだなと八幡は思う。どちらかといえば目立つことを避けようとする妹とは違って、陽乃はスポットライトに照らされるのが似合っている。普通なら、俺がこんな人と話をするなんてありえないよなと八幡は思うが、そんな男子高校生の心の動きなど陽乃にはお見通しだった。八幡の返答を待つことなく、そのまま陽乃は話を続ける。

 

「それなのにさ。比企谷くんの自己評価が低いままだと、お姉ちゃんちょっと寂しいなーって」

 

「だから俺には妹だけで充分ですって」

 

「じゃあ、妹ならいいんだ。分かったよ、八幡お兄ちゃん!」

 

「普通にチェンジで」

 

 八幡がそう言っても陽乃は気分を害したような気配も無く、そのまま八幡の隣の椅子に腰掛けて考え事に入った。それならどこか別の場所に移動してくれませんかねと言いたいのが本音だが、面と向かって言える勇気はない。それにしても、黙っているとやっぱり似ているなと、本日何度目になるのかも分からないことを八幡は思う。

 

 考察を続けている陽乃をぼんやりと眺めていると、ふと思い出した疑問があった。陽乃の考察が一段落したら尋ねてみようと思いつつじっと見つめていると、視線に気付いた陽乃が首を傾げる素振りを見せた。邪魔をしたかなと少しだけ申し訳なく思いつつ、せっかくなので問いを発する。

 

「その、陽乃さんって、どうしてヒントを出したり情報を教えてくれたりしたんですか?」

 

 それは、話し合いの中で一時的に棚上げしていた疑問だった。そして、今となってはおおよその見当がついていることでもある。だが八幡は、できれば陽乃の口から回答が聞きたいと思った。

 

「そんなの、そっちのほうが面白いと思ったからに決まってるじゃない。比企谷くんも分かるでしょ?」

 

「じゃあ、どうして妹に、事あるごとにちょっかいをかけるんですか?」

 

「さっきはわたしが答えたから、今度は比企谷くんに答えて欲しいなー。どう考えてるのか、お姉ちゃんに教えてくれない?」

 

「そうですね……。戦争があるから、争いがあるから技術が発展するって話があるじゃないですか。だから雪ノ下の……」

 

 教えて欲しいと言ったのは陽乃なのに。八幡が素直に陽乃の言葉に従って、ちゃんと真面目に答えを用意したというのに。陽乃は八幡の発言を途中で遮った。唇に触れる柔らかい指の感触が、今までに体験したどんなものとも違って思えて、八幡は危うく挙動不審に陥りそうになる。

 

 だが八幡のそうした反応も陽乃にはお見通しなのだろう。限界を迎える直前に指は離された。すっかり手玉に取られているなと、大きく息を吐く八幡に向かって、陽乃が悪戯っぽく言葉を告げる。

 

「お姉ちゃん、勘の良いガキは好きじゃないなー」

 

 おそらく、雪ノ下の成長のために。遠い昔に敵役を自ら買って出て、今も変わらず妹を導いているのではないかと八幡は思った。そうでもなければ、大学もあり家の仕事もある陽乃がこんなに頻繁に顔を出すなどあり得ないと。多少は願望も含まれているとは思うが、これが少なくとも真実の一端ではあるのだろうと考えていた。だが。

 

「けど、まだ半分かな。雪乃ちゃんと合わせて一本ってわけにもいかないし……うーん、ギリギリだけど単位はあげようかな。これからも励むよーに」

 

 予想外の宣告に、八幡の頭が真っ白になった。それを見てくすくすと笑いながら、陽乃は会議室の前の方へと去って行く。妹と、そして旧知の後輩が待つ場所へと。

 

 陽乃が目的地に辿り着くまで見送ってしまって、ようやく八幡は再起動を果たした。考えてみれば、あの姉妹のことを分かったつもりになるには、俺にはまだまだ足りないものが沢山ある。だが、足りないものは少しずつ埋めていけば良い。そう思いながら、八幡は仕事に戻った。

 

 

 最終下校時刻の直前に再び陽乃が近付いて来て、生徒会長との会食に同席を求めてきた。八幡はそれを謹んで固辞する。二人で積もる話でもして下さいと告げると、陽乃は膨れた顔をしていたが、どこか嬉しそうにも見えた。やはり生徒会長のめぐりんパワーは凄いのだなと八幡は思う。

 

「じゃあまた今度、埋め合わせでお姉ちゃんに付き合って貰うからねー」

 

「だから埋め合わせも何も……あ、じゃあちょっとだけ、頼まれ事をお願いしても良いですか。会長にも伝言をお願いしたいんですけど」

 

 ふと思い付いたことがあったので、八幡はそれを陽乃に相談してみることにした。どうなるかは当日の成り行き次第だが、面白いことを求める陽乃からも賛同を得られたことで、少しだけ気が楽になる。去年はそんなことを思わなかったのに。今年は文化祭が待ち遠しいなと八幡は思った。

 

 

 水曜日はこうして無事に終わり、翌日の木曜日も全てが順調に進んだ。陽乃からもたらされた情報によって、当日は出たとこ勝負になると多くの実行委員たちも覚悟を決めている。事前に果たすべき支度は全て終えて、こうして総武高校は金曜日を迎えた。

 

 今日から二日間に亘って、文化祭が始まる。




年内にここまでは書き終えたいと思い、気付けば連続の二万字超えになってしまいました。
楽しんで頂けていると良いのですが、文章量が増えて本当にごめんなさい。。

今年の更新はこれで最後です。
年明けは11日頃に更新して、2月は半ば過ぎ(おそらく20日頃)の更新になります。
この時期は月一の更新で精一杯ですので、ご容赦頂けると助かります。

では皆様、良いお年を。
来年も宜しくお願い致します。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(12/28)


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15.とざされた世界でも彼らは存分に祭りを楽しむ。

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。

以下、前回までのあらすじ。

 火曜日から木曜日にかけて、奉仕部三人の役割分担が定まって行くのに比例して、文実の仕事はその充実度を高めていった。委員長の相模が雪ノ下の監督下に置かれていたり、委員たちの一部に八幡への不満が残っているのが懸念材料だが、奉仕部の三人を始め実行委員の大半は文化祭の成功に向けて邁進していた。

 水曜日には再び陽乃が来校した。話し合いに突然参加してきた葉山の思惑を組み込みながら、三人は陽乃に文化祭への協力を約束させた。陽乃に自由な裁量を与えたこと、そして陽乃から得た情報もまた懸念すべき内容だったが、それらを飲み込んでなお、文化祭を史上最高のものにできると三人は考えている。彼らを筆頭に多くの実行委員が覚悟を決める中で、総武高校は文化祭の初日を迎えた。



 ざわめきが、照明が徐々に落ちていくのに従って静まっていく。外部からの光を遮断された体育館の中には、総武高校の全校生徒が集まっていた。金曜日の午前九時。例年よりも一時間早く、今年の文化祭が始まる。

 

 ステージの上奥には巨大なスクリーンが設けられていて、先程までは絶え間なく、過去に行われた文化祭の様子を映し出していた。静止画もあれば動画もあったが、それらは一様に画面右下に日付が明記されていた。そしていずれも、音声を伴っていなかった。二十年以上昔のものから最近まで、ランダムに映像が移り変わった後に。三年前、二年前、そして去年の文化祭が映し出されて消える。

 

 そして今。照明が落ちて一旦は暗闇に包まれた館内で、スクリーンの上に「30」という文字が点灯した。その明るさに目を慣らすことに集中しているからか。それとも、減っていく数字をじっと眺める以外の行動を思い付かないからか。誰もが声を出すことはおろか、咳をしたり唾を飲み込むことさえ忌避して、ただ画面を凝視している。

 

 そんな独特の静けさの中で、数字が一桁に入る。もはや息をすることすら憚られるような、一段と深い静寂に、生徒たちは支配されている。だが数字が「5」に至ってようやく呪縛が解けたのか、あるいは逸る気持ちを抑えきれなくなったのだろう。大きく息を吸い込んだ生徒たちは、事前に打ち合わせをしたわけでもないのに、数字の「4」を唱和するとそのままカウントダウンに入る。

 

 「3」「2」「1」に続いて大勢の声が「0」を告げると同時に、ステージ上の一点にスポットライトが集中した。片膝をついて後ろを向いた姿勢の誰かが、滑らかな動作で立ち上がりながら反転して、ステージ下に集う生徒たちに顔を向ける。スクリーンにもその姿が映し出されているので、遠目からでもそれが誰かは一目で判った。

 

「お前ら、文化してるかー?」

 

 マイクを片手に、もう片方の手で大きく生徒たちを指差しながら、城廻めぐりが叫ぶ。意味をなさない大声でそれに応える観衆に畳みかけるように、城廻は続けて声を張り上げる。

 

「千葉の名物ー?」

『踊りと、祭りー!』

「同じ阿呆ならー?」

『踊らにゃ、シンガソー!!』

 

 今年のスローガンで全校生徒を煽る生徒会長の姿がそこにはあった。そんな謎の大盛り上がりの中で、スピーカーからノリの良い曲が流れ始める。オープニングアクトが始まるのだ。

 

 スクリーンには、今年度の表記に続いて「総武高校文化祭」の文字が躍る。そしてその下にスローガンが登場して、生徒たちの興奮は再び絶頂に至った。その熱気は、最後にこの文字列が付け足されても、ひとかけらも損なわれることはなかった。

 

 

“in This World.”

 

 

***

 

 

『曲が終わるまで、あと二分です』

 

 記録雑務の委員たちは体育館の各所に配置されていた。その全員が音声通話で繋がっていて、それを通して現状を報告している。二階のPA室からステージ上を眺めながら、それらの情報を統合していた雪ノ下雪乃は、傍らに控える二人に話しかけた。

 

「最後の三語を付け足しても、動揺は見られなかったわね」

 

「だね。逆にみんな『この世界で』ってのを見て、気合いを入れ直してたっていうかさ」

 

「やっぱ、お前のあれが大きかったんじゃね。『この世界に捕らわれたことなどは何らのハンデにもなっていないと示すためにも』ってやつな」

 

「それは、実行委員しか聞いていないと思うのだけれど……」

 

「あの日とか翌日とか、口コミが凄い事になってたの、ゆきのん聞いてないの?」

 

「まあ、口コミの影響は俺も初耳なんだが。お前の場合は、この世界に巻き込まれた直後の演説とかもあったしな。話題になるのも当たり前か」

 

 今の生徒たちの精神状態なら大丈夫だろうと思ってはいても、実際に反応を見るまでは安心できないものだ。だが、この「現実」を避けているようでは、過去最高の文化祭という目標など画餅にしかならないだろう。

 

 ステージを見下ろす出窓に張り付いて、普段の大人しい様子からは想像もできないほどの興奮状態にある女子生徒に優しい視線を送りながら。まずは初戦を突破できたことを、奉仕部の三人が喜び合っていた。

 

 

『あと一分です』

 

『了解。相模さんのスタンバイをお願いします』

 

 委員から報告を受けた雪ノ下は通話を繋げて、ステージ裏に向けて指示を出した。通話を受信のみの状態に戻すと、雪ノ下は再び二人に顔を向ける。室内にいるもう一人にはあまり聞かせたくない話題なので、声を小さくして話しかける。

 

「委員長を勤め上げることで、相模さんが何か手応えを得てくれたら良いのだけれど……」

 

「つっても、ここ何日かは、お前が言う通りに仕事をしてただけだしな。でもま、終わった後で褒めちぎっておけば、当分の間は何とかなるんじゃね?」

 

「こないだ放課後にヒッキーが言ってたよね。さがみんは、ちやほやされたいだけだって。確かにその通りだなってあたしも思うけど、でも……」

 

「そうね。無理強いすることではないのだけれど。欲を言えば、考え方を改めるような何かを掴んで欲しいわね」

 

「どうだろな。ま、雪ノ下の仕事ぶりを間近でこれだけ見て、それでも何も思わないって言われたら、どうしようもないけどな」

 

「うん、その時はその時だけどさ。でも、文化祭が終わるまでは、さがみんにお手本を見せるためにも頑張らないとだね」

 

 由比ヶ浜結衣の言葉に、雪ノ下が責任感をまといながらも軽く頷く。比企谷八幡は仕方がないなという表情を浮かべながら、へいへいと大仰に頷いている。

 

 

『ダンス同好会とチアリーディング部の皆さんに、もう一度大きな拍手をー!』

 

 そこでタイミング良く音楽が止んで、ステージから司会の城廻の声が聞こえて来た。もう少しほんわかとした進行をするのかと思いきや、こうしたノリも出せるのだなと。三人は先輩の意外な一面に目を細めている。相変わらず後輩から見守られる立場の城廻だった。

 

『続いて、実行委員長から開会の言葉をいただきます。今年の文化祭実行委員長は、二年F組の相模南さんです。では、どうぞー!』

 

 緊張の面持ちで、相模南がステージ中央へと歩いて行く。オープニングアクトを務めた生徒たちをねぎらうべく、城廻が観客を煽っている間に、ステージ上はその様相を変えていた。複数のライトに照らされて、マイクスタンドが一つぽつんと立っている。そこまで何とか辿り着いて、相模は立ち止まる。

 

『ごつん』

 

 ステージの下に集っている全校生徒に目を向けられないのはもちろんのこと。すぐ近くにあるマイクの位置すらも把握できないほどに緊張していた相模は、一礼をしようとして派手に頭をぶつけてしまった。ぶつけられた被害物たるマイクが、その音を館内にくまなく響かせる。

 

『頑張ってー』

『つかみはバッチリだぞー』

『落ち着いてー』

 

 先程の時点でも、傍目から見て緊張していることが丸分かりだったのに。今や相模はすっかり余裕をなくしていた。観客側からもそれが見て取れるだけに、相模にかけられる声は温かいものばかり。だが、それを受け取る側がどう思うかは別だ。今の相模の内心が、八幡には手に取るように理解できた。

 

「こういう時って、励まされようが貶されようが同じなんだよな。何も言われないのがまだ一番マシっていうか。まあ、観客に悪気がないのも分かるんだが、どうしたもんかね」

 

「ここから相模さんに音声通話を繋げても、効果は薄いと考えて良いのよね。では……」

 

「じゃあさ、司会の城廻先輩に助けてもらうのは?」

 

「あー、なるほどな。確かにあの性格だし、会長が適任かもな」

 

『雪ノ下です。城廻先輩にステージの袖まで来て貰って、相模さんに寄り添って欲しいと。それだけで伝わるはずなので、お願いします』

 

 雪ノ下の指示を受けて、実行委員が城廻を手招きしたのだろう。しかし城廻は舞台袖に移動することなく、小首を傾げながら相模を、次いで自分を指差して、その指を静かに相模の方へと移動させる。先程とは逆の側に首を傾げる城廻を眺めながら、雪ノ下が口を開く。

 

『城廻先輩に意図が伝わっているようなので、OKだけ出して下さい』

 

 間を置くことなく、ステージ上では城廻が相模に寄り添って、何やら指示を出している。話の内容は分からないが、出来の悪い娘に「ハンカチ持った?」などと確認している優しい母親みたいな雰囲気だなと八幡は思った。

 

 

「さがみん、挨拶の原稿を探してるみたいだね。それ読めば終わりだから、頑張れー!」

 

「まあでもあれだな。委員長の挨拶の後に副委員長の挨拶があるのは、なんか変な感じだな」

 

 ステージ上では相模が原稿の操作を誤って具現化してしまい、ひらひらと舞うようにして逃げる原稿用紙を城廻と一緒に追いかけている。手に汗を握って相模の応援を続けている由比ヶ浜を見て、ここにも母親が居たかと苦笑しながら。そういえば以前に屋上で、風に煽られた用紙を追いかけたことがあったなと思い出しながら。八幡は話題を仕事に戻した。

 

『午後からの話を説明する必要があるのだから。委員長が開会の言葉を述べて、副委員長が細かな注意事項を述べるという形で問題ないと思うのだけれど?』

 

「それはまあ、そうなんだけどな。役割分担を考えても、その形が一番だとは思うんだが」

 

『比企谷くん。人と人とが支え合って、「人」という字が出来ているのよ?』

 

「おい。お前がそう言うなら俺も言わせて貰うけど、オープニングとエンディングで副委員長の挨拶が計三回って、どう見ても間違ってる気がするんだが」

 

『とはいっても、閉会の言葉は藤沢さんでしょう。私はその前に少し総括をするだけなのだし、文化祭が無事に終わりさえすれば何も問題はないと思うのだけれど』

 

「あ、そういえばさ。藤沢さんって呼ぶのもよそよそしいし、『さわっち』とかどうかな?」

 

「一色と同じように、普通に『名前にちゃん付け』で良いんじゃね?」

 

 気が逸っているのか、雪ノ下は気安い相手に少し攻撃的な姿勢を向ける。それを気遣った由比ヶ浜が話題を逸らした。普段から雪ノ下の口撃に慣れている八幡からすれば何でもない会話ではあるのだが、せっかくなのでそれに乗っかることにした。

 

「うーん。たしかに『さわちゃん』も悪くないんだけどさ」

 

「あ、いや。なんかコスプレを始めたり、ギター持ったら性格が変わりそうだし、それは止めてくれ」

 

「ぶー。じゃあ、『ふじっぺ』とか?」

 

「時々思うんだけどな。文字数が多いよな、女子のあだ名って。楽しそうだし、見てる分には別に良いってか、むしろもっとやってくれって感じだけどな。男だったら名前を分割とかして、二文字ぐらいで呼びたい気がするんだわ」

 

『なるほど、「はち/まん」という形に分割するのね。もっとも、貴方をそう呼ぶ男性の友人が果たして居るのか、定かではないのだけれど』

 

「おい、その分割の仕方はトラウマだから本気で止めてくれ。あれは自分の黒歴史よりも辛いものがあったぞ」

 

「さっきから、ヒッキーが言ってることがぜんぜん分かんないんだけど……まあいいや。で、どれにする?」

 

 由比ヶ浜の視線の先では、オープニングの前からずっと一緒の部屋に居た藤沢沙和子が必死に出窓に張り付いて、話が聞こえなかったふりをしていた。それを見て苦笑しながら、雪ノ下が口を開く。

 

『相模さんも何とか原稿を読み終えそうだし、そろそろ私も移動するわね。藤沢さん、この後の指示出しをお願いね。由比ヶ浜さんが助けてくれるし、比企谷くんはこき使ってくれたら良いわ』

 

『了解です、副委員長。舞台の袖でお待ちしています』

 

 実行委員からの予想外の返事が、奉仕部の三人を驚かせた。冷静になって振り返ってみると、城廻に手助けして貰うように伝達した時からずっと、通話を繋げたままだった気がする。とはいえ由比ヶ浜と八幡はずっと受信のみの状態だったはずなので、会話の全容は伝わっていないはずだ。

 

 そう考えることで何とか動揺を鎮めて、雪ノ下が実行委員に向けてそれを確認しようとしたところ。

 

『その、先程から独り言を聞かせてしまって、申し訳なかったと思うのだけれど……』

 

『いえ。音声通話のマイクが良いのか、お二人の声もこちらに届いていたのですが……』

 

 今学期が始まった頃には、階段の踊り場で三人が話していただけでも大騒動だったというのに。どうして俺たちは、プライベートな会話を垂れ流す羽目に陥っているのかと。いっそこの場で悶えたくなってきた八幡だった。

 

 

***

 

 

『副委員長の雪ノ下です。午後から一般客を受け入れるにあたっての注意事項を、今から説明します。オープニングの盛り上がりに水を差すような形になりますが、大事なことなのでよろしくお願いします』

 

 城廻に連れられてステージを後にした相模と入れ替わるように、雪ノ下が壇上に上がった。実行委員にマイクスタンドを片付けさせて、自らはワイヤレスのハンドマイクを握った雪ノ下からは、先程の動揺は微塵も窺えない。それどころか、大勢から注目されることに慣れている者特有の余裕が感じられた。

 

『まず、午後一時から一般向けに開放される予定である事は、皆さんもご存じだと思います。そして今までの傾向から正午ちょうどに、運営から何かしらの通達があると推測されます。とはいえこの話は後回しにして、先に開放後の話を済ませたいと思います』

 

 そのまま雪ノ下は説明を続ける。外部からの一般客は、明日の土曜日は無制限だが今日は中高生のみ参加できること。その一方で、この世界に居る人たちは両日共に制限無しという形であること。これらは運営との打ち合わせによって前々から決まっていたことなので、聴衆からも特に大きな反応は無い。

 

『今日は平日なので、一般客はそれほど多くはならないと予測しています。ただ、現実世界の一部の中学や高校が課外学習という形で、生徒たちに我が校の文化祭を体験させることを急遽決定したという情報があります。基本的には明日の予行演習ぐらいの気持ちで良いと思うのですが、総武高校の生徒として恥ずかしくない対応をお願いします』

 

 

 そんなふうに説明を続ける雪ノ下を、PA室から三人が見守っていた。

 

「なんか、教師よりも教師らしいことを言ってるよな」

 

「それがゆきのんのいいところじゃん。さわっちもそう思うよね?」

 

「あ、その……」

 

「まあ、俺も経験したことだけどな。由比ヶ浜のあだ名は、さっさと諦めるのが一番だと思うぞ」

 

「ちょ、ヒッキー。諦めるって何だし。それに、まだ決まったわけじゃないっていうかさ。どれにしようか迷ってるんだけど」

 

 返事に窮する藤沢に軽く言葉をかけて、しかしそれ以上はフォローが思い浮かばないので、八幡は話の腰を折ることにする。さっき雑談を実行委員に聞かれたことを、由比ヶ浜は気にしていないのかなと思いつつ。それも話が続きそうに無いので、八幡は真面目な表情に戻る。

 

「正直どうでもいいから話を戻すぞ。午前中は校内オンリーで、午後一時からは外部にも開放されるけど、学校とか仕事がある連中は来るわけ無いって状況だよな。確かに小町も、今日は授業があるから明日ゆっくり来るって言ってたしな」

 

「うちのママとかも、来るなら明日だって言ってたよ」

 

「いや、だから今日は外部からは中高生のみだからな。いくらお前の……」

 

「たまにクリーニングに出す前に、あたしの制服を着てたりしてさ。ママってば、けっこう似合ってたりするんだよね……」

 

「なあ。お前の母親って、娘の制服を着て高校の文化祭に来るような天然な性格なのか?」

 

「あー、うん。否定はできない、かも?」

 

「まあ、悪いことは言わんから、全力で止めとけ。つーか、親なら現実世界とでもすぐに通話が繋がるけど、お前って学外の友達とかも多そうだよな。そいつらを呼んだりはしないのか?」

 

「うーん、そうなんだよね。呼びたい子も何人かいるんだけど、連絡がね。ママにお願いするしかないんだけどさ」

 

「なんか、交換手が電話を繋いでた時代みたいだよな。あ、昔は電話が自動で繋がるんじゃなくて、最初に交換手にお願いして、手動で回線を繋いで貰ってたらしいぞ。今でも企業の内線とかだと『社長にお繋ぎします』ってなるんじゃねーの。働きたくないから知らんけど」

 

 由比ヶ浜と藤沢が不思議そうな表情をしていたので、八幡は慣れない解説役を務めた。こんな時にユキペディアさんが居れば楽なのになと思いつつ説明を終えると、幸いなことに二人は納得してくれたようだ。

 

「話が一度で済んだらいいですけど、何度も仲介して貰うのって、いくら親でも気が引けますよね……」

 

「だね。実際には、『来る?』『行く』ってだけでは話がまとまらないしさ。あ、でもヒッキーがさっき『男だったら』って言ってたよね。男の子同士だったら、もっと話が早いのかな?」

 

「どうだろな。話は早く終わるかもしれんが、『行けたら行く』って感じの結論に落ち着くんじゃね。それよりも、向こうの現実の家に訪ねて来てくれたら、話が一度で済みそうだけどな。ま、それも難しいか」

 

「親と顔見知りの友達なら……でも、やっぱり難しいですよね」

 

「親からすれば家に上げづらいし、訪問者側にとってもハードルが高いよな。よっぽど行動力がある奴とか、後は恩とか怨みを感じてる奴とか……」

 

「なんでヒッキーは、そこで怨みなんて条件を思い付くんだし」

 

「あー、怨みってのは違うか。じゃなくて、あれだ。罰ゲームとかな。ドラマとか見てたら、遺族にお悔やみを言いに行く奴って貧乏くじみたいな感じがするだろ。あんなのを思い浮かべてたんだけどな」

 

 いつぞやの全体会議では、雪ノ下のお見舞いに行く話が出ていた。あれは仕事をサボる口実だったから乗り気だっただけで、仕事の後に行くという話であれば委員たちの反応はまるで違っていただろう。

 

 そこまで考えて、話がどんどん脇道に逸れていく現状をようやく認識した八幡は、ステージに注目するよう二人に手振りで示す。八幡と由比ヶ浜にとっては周知のことであり、藤沢にも共有済みの情報を。すなわち予想される運営からの通達を、全校生徒に向けて説明し終えた雪ノ下の姿がそこにはあった。

 

 

 オープニングのセレモニーはそのまま無事に終わった。雪ノ下が話をしながら時間を上手く調整したお陰で、生徒たちは定刻通りに、体育館から一斉に各教室へと散らばっていった。いよいよ文化祭が本番を迎える。

 

 

***

 

 

 時は少し遡って、この日の午前七時半。総武高校の近くにある喫茶店でモーニングを食べながら、奉仕部の三人が話をしていた。そこにもう一人が加わる。空いていた八幡の隣の席に躊躇なく腰を下ろして、雪ノ下陽乃は三人と同じものを注文した。

 

「どっちかが、比企谷くんの隣に座ってあげたら良いのに。あ、もしかして。恥ずかしがってる?」

 

「三人だとこの配置が定着しているので、特に他意は無いのだけれど。それよりも姉さん、ちゃんと読んできたのよね?」

 

「はいはい。そういうことにしといてあげる。で、雪乃ちゃんは誰にそれを言っているのかな?」

 

「やー、その、日付が今日に変わってすぐに出た論文ですよね。ゆきのんはともかく、あたしには読めないから、陽乃さんに来てもらって助かります」

 

「雪ノ下が深夜零時過ぎにメッセージを送ってくるって、ちょっとびびったよな。でも理由を説明されたら納得だったわ」

 

 この時間にこの場所で集合すること。その理由は、ゲームマスターが午前零時過ぎに発表した論文の内容を検証するためだと、昨夜の雪ノ下からのメッセージに書かれていた。運営から何かしらの発表があると予想される正午に先駆けて、その内容を概ね推測するために。この四人が早朝から集まったのだった。

 

 

「わたしが一気に説明しても良いんだけど、雪乃ちゃんの理解を聞いてから補足した方がスムーズかな?」

 

「あと数時間とはいえ守秘義務のこともあるのだし、それが良いでしょうね。正直に言うと、私はせいぜいウェアラブル端末ぐらいを想定していたのだけれど」

 

「それって、あれか。一般客が現実世界の校内で、設置されたモニター以外からも、歩きながらこの世界の情報を得られるようにって感じか?」

 

「ええ。なにも各教室のモニターから大きな音を出さなくても、廊下を歩いているとイヤホンを通して最寄りの教室から音が聞こえてくるような、そんな程度の想定だったわ。美術館の音声ガイダンスのことを考えれば、今さら運営がその程度で満足するとは思えないのに。不覚だったわ」

 

「まあ、論文を出すまでは箝口令が徹底してたしね。最近は特に厳しいみたいだよー。雪乃ちゃんが聞かされてたのは、マスコミに情報が流れることも見越したダミーだったんじゃない?」

 

 一介の高校生からすれば別世界の話にも思えるが、自分たちが気付かぬうちにそこに足を少しだけ踏み入れていたのだと八幡は自覚した。新しい技術をめぐる国内外の競争と、そして自分たちの置かれた立場を、八幡は嫌でも理解せざるを得ない。

 

「えっと、あたしには理解できない内容かもだけど、ここで話してても大丈夫なのかな?」

 

「一応は他の人に会話が聞こえない設定にしたのだし、それに論文が出た以上は大丈夫だと思うのだけれど。おそらく今頃は世界中で、この内容を多くの研究者が精査しているはずよ」

 

「つーか今更だけど、陽乃さんを呼んだのはなんでだ?」

 

「酷いなぁ、比企谷くんのその扱い。お姉ちゃん情けなくて涙も出て来ないよ。よよよ」

 

「いや、その突っ込みどころ満載なセリフはどうかと思いますけどね。雪ノ下だけだと、解釈を間違う可能性があるってことで良いのか?」

 

「ごく普通に使われている言葉が、特定の専門領域では全く違う意味で使われることもあるのよ。それに、論文の文章自体も独特なので、読み慣れていないと誤読の恐れが多々あると聞いているわ。だから仕方なく姉さんを頼ることにしたのだけれど」

 

「ほへー。なんだか、あたしとは別世界って感じ?」

 

「安心しろ。俺も似たようなもんだ」

 

「あ、そういえばヒッキー。今日のお昼はクラスで用意してるから、食べに行ったりしないでね」

 

「ほいよ、了解。受付をやってれば良いんだよな。ま、その話は後にするか」

 

 負けず嫌いな雪ノ下の性格が表に出ようとしていたが、由比ヶ浜が何気なく呟いた言葉でそれは奥へと姿を消した。それを確認しながら由比ヶ浜に同調して、少しだけ雑談を重ねた八幡は再び雪ノ下に顔を向けた。

 

 

「結論から言うと、私たちのように感覚や運動機能のほぼ全てをこちらの世界に移すのでは無くて。幾つかを部分的にこちらの世界に移すという、いってみれば部分的にログインする仕組みを新たに開発したと。そういう話で合っているのかしら?」

 

「気軽にログアウトできるっていうおまけ付きでね。この技術のお披露目は、文化祭とは別の場所で行うみたいだから。その辺の影響は考えなくて良いと思うよ、雪乃ちゃん?」

 

「なるほど。論文によると、部分的なログインで可能なのは視覚と聴覚、それから味覚の一部と耳の周囲の感覚だったかしら。要するに見ることと聞くことは出来るのよね」

 

「それから運動能力は、移動することと顔や身体の向きを変えることだけだね。これ、視点の移動を行ってるだけで、運動系の経路はこの世界では再現されていないって考えて良いんじゃないかな。雪乃ちゃんだけじゃなくて比企谷くんでもガハマちゃんでも、何か質問があれば言ってね?」

 

 さすがに優秀な姉妹ゆえか、真面目な話をしている時には頼りがいがあるなと八幡は思う。陽乃からも普段のおちゃらけた様子が消えて、後輩の学習を親身になってみてくれている先輩という印象だ。いつもこうなら文句は無いのになと、そんなことを思ってしまう八幡だった。

 

 

「その、気軽にログアウトできるっていうのは……あたしとかじゃ無理なんですよね?」

 

「そうね。私たちをこの世界に縛り付けているのは、乱暴に言ってしまえば同期の問題なのよ。これも腹立たしいことに、あのゲームマスターの論文が根拠になっているのだけれど」

 

「日本時間で四月七日の午後五時にその論文が発表されて、犯行声明もその時だったかな。ログアウトできないって説明を雪乃ちゃんたちが受けたのが五時半ぐらいだっけ。あれ以来、有力な反論も幾つか出てるんだけど、まだ決め手に欠ける状態なんだよね。そもそも、理論的に大丈夫だからログアウトさせますって、誰が決定できるかって問題もあるんだけどねー」

 

「そっちの事情はなんか解りやすいんですけど、同期の問題ってのが……」

 

 姉妹で少しだけ目配せをし合って、より専門知識に詳しい陽乃が説明を引き受けたのか、そのまま解説を始める。

 

「脳の中での知覚と現実の世界では、時間的にズレがあるって話は知ってるかな。これ、正確に説明しようとしたら長い話になっちゃうんだけど……さわりだけで良いか。例えばね、脳の中で『手のこの辺りを触られた』って感覚を担当する部分があるのね。そこを電気で刺激するのと、実際に手のこの辺りを刺激するのとだと、感覚が同時に起きるとは思わないよね?」

 

「え、っと。あたしも、なんか変だなってのは思うんですけど……」

 

「その、皮膚から脳まで感覚が伝わる時間の分だけ、感覚がずれる気がするんですけど」

 

「うん。比企谷くんの推測が、わたしが言って欲しかったことだね。実はこの実験を行った人は、逆に皮膚からの方が早く感覚が起きるだろうって推測してたんだけど。って、あー、ごめん。今のはちょっと意地悪だったなってわたしも思うから、雪乃ちゃんもそんなに睨まないでよー」

 

「正確さに拘りたい気持ちは解るのだけれど、せっかく得られた理解を乱してしまったら本末転倒ではないかしら。とにかく、意識の時間と現実の時間にズレがあること。そしてこの世界の時間ともズレがあるということが話の基本なのよ。そこから、ログアウトできないという結論までには、多段階の論理が積み重なっているのだけれど。その部分は私にも姉さんにも正直お手上げね」

 

「解るような解らんような感じだけど、それが部分的なログインだと同期が楽だってことか?」

 

「意識の大部分をこの世界に移している私たちとは違って、ズレが少ないので同期が簡単だというふうに私は受け取ったのだけれど?」

 

「雪乃ちゃんのその理解で良いんじゃないかな。他に何か質問は?」

 

 陽乃にそう言われて、今度は八幡が口を開いた。

 

 

「先月頭に、現実世界の親と一緒に家族で食事をしたんですけど。あっちだとスマホとかタブレット越しに見るって感じですけど、こっちの世界では親が隣に居るように再現されますよね。でも顔とかは割とリアルだったんですけど、首から下はそんなにっていうか、ずっと座ってるだけだったんですよね。この間取材に来た記者とかもそんな感じでしたし」

 

「たぶん、今回のゲストも同じような再現具合じゃないかな。さっき雪乃ちゃんが言ったように触覚とかはほとんど無いから、身体をぶつけても何にも感じないだろうし。無駄な情報量を省くって点から考えると、そうだね。全身は見えてても、手を伸ばしてもさわれないどころか、そのまま素通りするんじゃないかな。要するにお化けみたいな感じだね。雪乃ちゃん、怖い?」

 

「こ、この世界のプログラム上の欠落によるお化けなど、特に怖いとは思わないのだけれど」

 

「うんうん。現実世界のお化けって怖さが違うよねー」

 

 実はお化けが苦手なのかと、また一つ雪ノ下のことに詳しくなった八幡だった。

 

 千葉村で二日目の朝に肝試しの話をしていた時には平気そうだったが、よく考えてみれば雪ノ下が先ほど口にしたプログラム云々の話は、あの時に八幡が捻り出した屁理屈とそう変わらない。だがそれを指摘したら怖い反応が返ってくるのは火を見るよりも明らかなので、心の中で突っ込むだけに止める八幡だった。

 

 

「じゃあ結論としては、一般客は各教室でモニターを眺める連中と、その論文にあるような部分的なログインをしてくる連中がいるってことですよね。この間の記者みたいに変な事を言ってくる奴が居たら、お帰り頂くのが面倒そうだよな」

 

 姉妹の間を何とか由比ヶ浜に仲裁してもらって、少し疲れた様子の女性陣に苦笑しながら八幡が話を進める。

 

「とはいっても、現実世界でも面倒な人は面倒なのだから、それほど大差が無いと考えるべきかもしれないのだけれど。とにかく、午前中は校内のみで、午後は少数の一般客を受け入れて。一つずつ課題をクリアして明日に繋げられる形だし、流れとしては悪くないわね」

 

「うん。お客さんと揉め事とかが起きたらあたしも頑張るし、相手が大人とかだったら先生を呼べば良いんだしさ。今からあんまり身構えすぎないようにして、あと二日間を頑張ろっ!」

 

「そうね。それに大人との揉め事なら、無駄に顔が広い人がそこに居るのだから。遠慮なく使い倒せば良いと思うのだけれど」

 

「ちょっと雪乃ちゃん、お姉ちゃんこれでも大学生なんだよー。今日も一限から授業があるし、そりゃあ午後の実験は早く終わらせることもできるけどさ。ちょっと最近、姉使いが酷いんじゃないかな?」

 

「先日も言ったように、私は姉さんのことを、それなりに高く評価しているのよ。この程度の事ができないとは、思ってもいなかったのだけれど?」

 

 おそらく陽乃が求める答えとは違うのだろうが、と八幡は思う。妹にちょっかいをかける理由を水曜日に陽乃に問い掛けたものの。妹のほうから突っ掛かる場合も多そうだよなと、そんなことを考えてしまう八幡だった。

 

 

 ふと気付けば、既に時刻は午前八時を大きく回っていた。店を出た一同は三人と一人に分かれて、前者は文化祭の遂行のために。後者は知識の吸収のために。各々が全力を尽くすべき場所へと移動する。

 

「何だかんだでお前、陽乃さんのことを高く評価してるんだな」

 

「あ、あたしもそれ思った。それに、時間のズレが何とかって説明してくれてた時の陽乃さん、教えかたがゆきのんと似てるなーって」

 

「そうね。……私も昔は、ああなりたいと思っていたから」

 

「いや、ならなくていいだろ。そのままで。姉妹なんだし似てる部分もあるんだろうけどな。お前と陽乃さんでやり方が違う部分も色々あるし。この間、謙虚か尊大か、みたいな話があったけど、要は自分にあったやり方で良いんじゃね?」

 

「でもさ。ヒッキーに合ったやり方って、見てて時々不安になるんだけど、大丈夫だよね?」

 

「そうね。人のことを言う前に、比企谷くんにも考えて欲しい事があると思うのだけれど。それと由比ヶ浜さん。時間のズレの話は、また近いうちに補習を行うわね」

 

 そんなふうにお互いにお互いを順に槍玉に挙げ合いながら。三人は揃って校舎の中へと姿を消した。

 

 

***

 

 

 オープニングのセレモニーを終えて体育館を後にすると、八幡は由比ヶ浜と連れ立って二年F組の教室へと移動した。クラスの出し物にはほとんど貢献できていないので、少し肩身が狭い思いがする。だが、何となく感じる違和感はそれだけが原因とは思えない。

 

 そう考えた八幡は、クラスメイトが自分に向ける視線を吟味することにした。すると一つの推測が浮かび上がってくる。おそらくは相模から、実行委員会でのあれこれが伝わっているのだろう。考えてみれば当たり前のことだ。それでも自分が完全に悪者というわけではなさそうなので、八幡は特に何も手を打たず放置することにした。

 

 そもそも初めての公演を前にして、クラスの中は異様な熱気に包まれている。海老名姫菜が最後まで少しでもクオリティを上げようと、容赦のない指摘を各所で繰り返して。三浦優美子が「隼人と比べたらみんなモブだし」という謎の理論で出演者の緊張をほぐしていく。

 

 そんな教室からいったん廊下に出て。八幡は事前に由比ヶ浜から依頼されていた通りに、出入り口横に準備された受付に腰を下ろす。午後になると現実世界からの客に応対することもあるのだろうかと、八幡には珍しく他者との遭遇に少しワクワクしながら時間を過ごしていた。文化祭の熱気に、どうやら俺もやられたみたいだと八幡は思う。

 

「あ、ヒッキー。ちょっとこっちに来て」

 

 由比ヶ浜に呼ばれて再び教室に足を踏み入れると、そこではクラスメイトが円陣を組んでいた。相模が居る一帯から冷たい視線が送られて来るが、どこかの部長様が放つ冷気と比べるとクーラーと猛吹雪ほども違う。

 

 由比ヶ浜に迷惑が掛かるようなら遠慮もしたが、クラスの大部分はどっちつかずの状態に思えたので、八幡は遠慮なく輪の末端に加わることにした。輪の真ん中に居る海老名は別格として、由比ヶ浜と三浦から始まる辺りが輪の先端で、八幡が輪の末端だ。先端と末端が隣り合わせだなどとは、気が付いても口にしてはいけない。

 

 そんなくだらないことを考えながら、八幡は海老名の掛け声に続けて。小声ではあったけれども同級生と声を揃えて、劇の成功を誓った。

 

 

***

 

 

 公演時間を迎えて、八幡は受付を打ち切ると自らも教室の中へと移動する。海老名の初稿こそ読んだものの、主演が八幡では無くなってからの台本には目を通す時間が無かった。だから八幡は新鮮な気分で劇を眺めることができると思っていたのだが、初稿と比較できてしまうという落とし穴が待っていた。

 

 最初に目を奪われたのは、戸塚彩加の可憐さ。次いで、川崎沙希が作ったという衣装だった。二人とも、大したものだと八幡は思う。その他のクラスメイトも海老名の演技指導には苦労したのだろうが、本番ともなればコント的な扱いでも楽しそうにこなしていた。

 

 八幡が提案した演技スキルは、場面の切り替えの他にも、原作のあのイラストを効果的に提示するためにも使われているようだった。この辺りの演出はさすがだなと八幡は思う。

 

 そして八幡が待ち望んでいた場面になる。あのキツネが現れたのだ。王子さまのセリフは、八幡が見た原稿では「やらないか?」だったのだが、ここでは原作に近いものに変更されていた。だがそのぶん、キツネのセリフが酷かった。

 

「俺をテイムして、その道に目覚めさせてくれ!」

 

 なんですかこれはと八幡は思った。キツネの教えを受けてテイマーとなった王子さまが男色の王国を築くという、監督脚本演出は誰だと叫びたくなるような超展開がそこにはあった。ちなみに三つの役職は全て一人の腐女子が兼ねている。

 

 この間の月曜日に思い出したように、キツネが口にする「飼い慣らす」という表現は幼い頃の八幡にとってはお気に入りだった。中学の頃には、原文のフランス語では”apprivoiser”という単語であること。さらに英語では”domesticate”とか”tame”に当たるということを調べたりもした。

 

 おそらく海老名も、そうした語源を調べた上で脚本を書いたのだろう。だがその結果がこれである。時間と労力をかけても方向性がアレだとこうなるんだなと、苦笑するしかない八幡だった。

 

 それでもラストシーンが終わると、クラスの中は大盛況に包まれた。王子さまがヘビに噛まれて王国は瓦解し、「ぼく」のモノローグで幕が下りた。「ぼく」を担当した葉山隼人の名を大勢が叫ぶのを聞いて初めて、そういえば葉山も出ていたなと気付いた八幡だった。戸塚ばかりを見過ぎた結果であることは言うまでも無い。

 

 

***

 

 

 八幡が再び受付に腰を下ろして、稀に来る客に次回の公演時間を教えながら過ごしていると、大きなビニール袋を抱えた由比ヶ浜が現れた。そのまま机を回り込んで、八幡の隣の椅子に腰を下ろす。

 

「これ、お昼のハニトー!」

 

「いや、ちょっと待て。これ一斤あるだろ?」

 

 生クリーム盛り盛り、トッピング増し増しの恐ろしい姿にも臆することなく、由比ヶ浜は手でちぎって紙皿に取り分けると、おもむろにかぶりついていた。軽い雑談を重ねつつ、二人が食事を進めていると。もぐもぐと食しながら、由比ヶ浜は何でもない口調で全く別の話を始めた。

 

「さっきの円陣、嫌じゃなかった?」

 

「まあ、クラスの仕事をしてないから肩身が狭かったのは確かだけど、肩身が狭いのって今に始まったことじゃねーからな」

 

「何だか、ヒッキーらしいね」

 

 おそらくはこれが本題だったのだろうと思いつつ。どうやら答えに満足してくれたようで、八幡は密かに胸をなで下ろす。ついそのまま由比ヶ浜の食べっぷりを眺めていると、唇にクリームがついていた。それを舐める舌の動きが艶めかしくて、八幡は思わず視線を逸らした。その先に、見知った後ろ姿を見付ける。

 

「あれ、ゆきのん……って行っちゃった」

 

「見回りの最中だったみたいだし、気付かなかったのかもな」

 

 少しだけ違和感を覚えながらも、二人はそれほど気にすることなく食事を続けた。

 

 

「そろそろ十二時だね。運営の発表って、やっぱりあの通りかな?」

 

「まあ論文の内容を聞いてる限りは、大きく外れてるとは思えねーけどな。そういやこれ、外の店で買ってきたんだろ。支払とかってどうしたらいい?」

 

「うーんと、どうしよっか。別にあたしのおごりでも良いんだけど?」

 

「いや、そういうのはちゃんとした方が良いだろ。養われたいとは思うが、施しを受けようとは思わんしな。つっても、この世界では金の苦労とかあんま無いけどな」

 

「だから別に良いって言ってるのに、ヒッキーって面倒臭い時があるよね」

 

「それを言うなら、雪ノ下もけっこう面倒臭いだろ」

 

「だねー。でもさ、ゆきのんは可愛いじゃん。ヒッキーは、うーん、なんだろ。あ、ゆきのんと違って、放って置いたらいつまでもそのまんまって感じがするんだよね」

 

「あー。まあ、働きたくないとか言ってるし、その印象は合ってるかもな」

 

「でしょ。ゆきのんも面倒臭い部分はあるけど、それでも動こうとしてくれるけど。ヒッキーは……うーん。でもさ、前と比べると動こうとしてくれてるのが分かるから、不満とかってわけじゃないんだけどね」

 

「まあ、いきなり性格を変えるとか無理だからな。今後にご期待下さい的なアレで良いんじゃね?」

 

「それもヒッキーらしいね。そういえばさ、前にゆきのんが、いつだっけ。ヒッキーが奉仕部を離れてて、連れ戻そうってみんなで集まってた時だったかな。その時にゆきのんが、『相手の動きを待つよりも、私なら自分から動きたいところね』って言ってて、何だか凄いなーって思ったんだよね」

 

「ほーん。まあ雪ノ下らしいっちゃらしいな。んで?」

 

「うん。だからあたしもさ。いざとなったら、待つよりも……自分から行くの」

 

 声の口調に変化は無い。しかし八幡には、相当の決意を秘めて由比ヶ浜が言い切っているのが理解できた。決意の内容は分からない。けれども決意の深さは理解できてしまった。返す言葉を持たない今の八幡に口を開かせる時間を与えず、由比ヶ浜はそのままこう続ける。

 

「そう、決めたんだ」

 

「……そうか」

 

「うん、そうだ」

 

 おそらく、由比ヶ浜が動いた時には、自分を取り巻く今の環境は大きく変貌を遂げるのだろう。もう少しだけ今のままで、と考えるのは自分のわがままに過ぎないと知ってはいても。それでも八幡は、反射的にそれを願わずにはいられなかった。そんな自分に嫌気が差して、八幡は話を元に戻す。

 

「じゃああれだ。お前が自分から動いて取り立てられる前に、今日の支払は何かで返すわ」

 

「……ふう。ヒッキーらしいね」

 

 本日三度目のそのセリフは、少しだけ違った印象を受けた。

 

 すっかり普段と同じ様子に戻って別の雑談を始める由比ヶ浜に苦笑していると、高校内に時報が響き渡る。この日の生徒たちにとっては特別な意味を持つ、正午を告げる鐘の音が。校内にくまなく伝わって消えた。




そんなわけで、戌年の1月11日に通算111話をお届けしました。
次回は間隔が空いて申し訳ないですが、2月20日頃の予定です。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。大筋に変更はありません。(1/13)
なぜか全角ダッシュになっていた箇所を全角長音に、演劇スキルと書いていたのを演技スキルに修正しました。(4/2)


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16.つまらない連中は相手をするだけ無駄だと彼は思う。

本話はシリアスな内容が含まれますのでご注意下さい。
以下、前回までのあらすじ。

 文化祭の初日、午前中は大過なく過ぎた。委員長の相模が挨拶で少しヘマをしたり、奉仕部三人の愉快な会話がダダ漏れになるなどのアクシデントこそあったものの、多くの生徒たちはそれらも含めて文化祭を満喫していた。

 二年F組では、今日は八幡もクラスの一員として受付の役務に服していた。無事に終わった初回の公演を見届けて、由比ヶ浜と会話を重ねながら昼食を摂って、一般客が訪れる午後に備える。早朝から雪ノ下姉妹と一緒に対策を立てていたこともあり、八幡は程よい緊張感とともに正午の鐘の音を聞いた。



 午前に行われた初回公演に続いて、午後二時からの第二回公演も大盛況の中で幕を閉じた。二年F組主催の演劇は既に大きな話題になっていて、明日の動員も期待できそうな雰囲気だった。出演者の顔ぶれに加えて、観た客が思わず誰かに話したくなるようなぶっ飛んだ脚本も功を奏したのだろう。

 

 監督・脚本・演出を兼ねる海老名姫菜以下、クラスの首脳陣や出演者の多くは今度は参加者として文化祭を堪能すべく、有志の出し物が行われている体育館や他のクラスへと移動して行った。

 

「ホントに、ヒッキーは交替しなくていいの?」

 

 そんなクラスメイトたちを見送って、比企谷八幡は引き続き教室の出入り口で受付の仕事をしていた。明日は文化祭実行委員としての仕事があるので、クラスに貢献することができない。それに準備期間中もクラスとの関わりがほとんど無かったので、このぐらいはやらせて欲しいと八幡は答えた。

 

 それが実は建前で、八幡の本音が「独りで座ってるだけで仕事になるんだから楽なもんだ」であることに気が付いている由比ヶ浜結衣は、しかしそれを指摘することなく八幡の希望を尊重した。

 

「今日の公演はもう無いし、あんまり仕事はないと思うけどさ……何かあったらすぐに呼んでね」

 

「まあ、明日の公演時間を教えるのと、教室で今日の公演のダイジェストが観られるって伝えるぐらいだしな。リアルの客も予想以上に大人しいし、特に問題ないだろ。それよりお前も楽しんで来いよ。言っとくけど、生クリームは当分は見たくないし、差し入れとかも考えなくて良いからな」

 

「ヒッキー、何だかなんだ言いながらハニトーを全部食べてくれたもんね。美味しいって言ってくれたのは嬉しいけど、次はちゃんと量のことも考えるね」

 

「おう。てか味が良かったのは本当だからな。あんま気にすんな」

 

 話し方なのか素振りなのか原因ははっきりしないが、どことなく由比ヶ浜が普段よりも大人びて見えて、いつもよりも心持ち丁寧に応対してしまう八幡だった。思い当たる原因はもう一つあって、先程の由比ヶ浜の発言を気にし過ぎだと、八幡は自分で自分に突っ込みを入れる。

 

 八幡がそんなふうに内心で葛藤しているとは夢にも思わない由比ヶ浜は、軽く頷きを返してから、また別の話を始めた。

 

「リアルからのお客さんは大体ゆきのんと陽乃さんの想像通りだったし、今のところいい感じだよね」

 

「だな。てか事前には思い付かなかったけど、課外学習扱いってことは引率の先生が居るわけだし、あんま変な行動はできねーよな」

 

「あとやっぱりさ、ログアウトできなかったら怖いなって思うと思うんだよね。いくら運営とかが大丈夫だって言っても、実際にあたしたちがこの世界に閉じ込められてるわけだしさ」

 

「それって……ああ、部分的とはいえ実際にログインしてくる連中はそれなりに肝が据わってるから、変な奴らは少ないって意味な。どっちにしても、ちょっとびびり過ぎだったか?」

 

「でもさ、明日は中高生だけじゃなくて普通の人も来るじゃん。ちゃんとログアウトできるって分かったら、ログインしてくる人も増えそうだしさ。だからゆきのんが言ってたように、予行演習って考えたら……」

 

「ま、それもそうだな。そういや、隣のE組でやってるジェットコースターだけどな。リアルの客に合わせて仕様を変更するらしいぞ。さっき暇だから聞き耳を立ててたら相談を始め出して。うちのクラスは演劇で良かったよな」

 

「モニター越しだと見てるだけだし、ログインしても……たしか、見るのと聞くのしかできないんだっけ。がたがた揺れてるのが伝わって来ないと、面白くないよね」

 

 今朝方の話し合いを思い出して、由比ヶ浜がそう答えた。

 

 視覚と聴覚だけは保たれていて、他の感覚はほとんどが無効だというリアルからの来訪者。八幡はそんな彼らのことを想像してみた。がたがたとした揺れを感じるのは、触覚とは少し違う気がするが、ではその感覚を何と呼ぶのだろうか。その他にも、いわゆる五感には含まれない感覚があるのだろうか。普段は気にも留めないようなことだが、よくよく考えてみると面白いものだなと八幡は思った。

 

「視覚と聴覚と、あとは味覚の一部って話だったけど、味の再現性は低いらしいぞ。食べ物を出してるクラスがリアル客に備えて変更しはじめたら、ちょっと面倒だな」

 

「仕事の何が嫌って、赤で訂正が入った書類の山を見た時だよね。ゆきのんが書類をさくさく処理してるのを見ると、ほえーって感じでさ」

 

「まあ、あいつの事務処理能力は凄いよな。この世界だと食べ物の情報が出るから食中毒とかの心配は無いし、保健衛生の認可も省略できるけど、申請書類の量は同じだしな……」

 

 そんなふうに会話を続けながら、由比ヶ浜がかつてとんでもないクッキーを生み出した時のことを八幡は思い出していた。製作者を除く全ての者に、強烈なデバフ効果を定期的にもたらすあの凶悪なアイテムは、一体何だったのだろうかと八幡は思う。生命の危険を乗り越えた後でアイテムの解説文を読んで、これはこの世に存在してはいけない物質だと思ったあの時のことを振り返って、八幡は冷や汗を流しながらも苦笑いする。

 

「おーい。結衣も早く来なよ。ヒキタニくん、結衣を借りていく代わりに……」

 

「あー、気を遣って葉山とか置いていかなくて良いからな。ぼっちで受付をしたい年頃なんだわ」

 

「だよねー。ちょっと隼人くんネタもパターン化してきてるから、新しいカップリングを考えておくね」

 

「いやもう本当にお気遣い無く。つーか止めて下さい」

 

 最近はようやく海老名の扱いにも慣れてきたと思っていたのに、変なアドリブを混ぜないで欲しいと心から思う八幡だった。

 

 

***

 

 

 そこに居るだけで華やかな雰囲気を醸し出すトップカーストの女子生徒たちを見送って、八幡は念願通りにだらだらと時を過ごしていた。彼女らと居ても緊張することは少なくなったが、華が消えて物寂しくとも平穏な環境のほうが落ち着けるなと八幡は思う。

 

 由比ヶ浜たちを見送ってから程なくして、相模南の一派が教室に帰ってきた。クラスの仕事にあまり関わっていない点では八幡と同じ立場の相模だが、実行委員長の肩書きは便利なもので、適当に出歩いていても相模を非難する同級生は居ない。

 

 相模と同じグループの生徒たちは、劇に出演するのではなく裏方に回っていた。そもそも海老名が脚本を書いている時点で女子の出演者は求められていなかったのだが、仮に出演を要請されても彼女らは断っていただろう。そこには、メイクなり衣装合わせなりの理由を付けては葉山隼人に話しかけて、あわよくばトップカーストの三人娘以上に、そこまで行かなくともせめて同程度には葉山グループと親密になりたいという、彼女らなりの計算があった。

 

 だが蓋を開けてみれば、劇の練習時に葉山や戸塚彩加に話しかけるライバルの数は多く、特に衣装作りの腕が飛び抜けている怖い女子生徒の存在が致命的だった。

 

 もちろん川崎沙希としては彼女らの邪魔をしたつもりはなく、衣装に関して妥協はしたくないから言いたい事があるなら言ってくれという心境だったのだが、本音では衣装は二の次である彼女らにそれが伝わるはずもない。葉山に近付くための別の理由を思い付けるわけもなく、こうして彼女らの思惑は泡と消えた。

 

 結果として、衣装を手直しする必要が出たらすぐに対処すべく公演時には教室で待機する予定の川崎とは違って、彼女らは初回公演を観てしまうと手持ち無沙汰になってしまった。第二回公演に向けて盛り上がるクラスの輪には一応参加したものの、彼女らはそのまま教室を離れて他クラスや体育館を一通り見て回って、そして劇の出演者たちと入れ替わるようなタイミングで帰ってきたのだった。

 

 八幡を一瞥することもなく、その一団は歩みを緩めず教室の中へと入っていく。これでは、八幡の存在を強く意識していることが却って丸分かりではないかと思うのだが、彼女らにしてみれば大きなお世話だろう。無視をしたその当人に心配されるのは嫌だろうなと考えて、八幡は特にリアクションを起こすことなく、そのまま彼女らの好きにさせた。

 

 

***

 

 

 また少し時間が過ぎて、八幡はふと校内が活気づいていることに気が付いた。

 

 正午に運営からの通達があった時にも、午後一時になって一般客を迎える段になっても、未知への緊張からか校内の雰囲気はどこか重苦しいものがあった。そして来客側としても、モニター越しであれ部分的なログインをした者であれ、また何か事件が起きるのではないかと身構える気持ちが強かったので、校内にはぴりぴりとした空気が漂っていた。

 

 運営が別の場所で行ったデモンストレーションによって、新しい技術(彼らはログイン/ログアウトという言葉を避けて、バーチャル・リアリティ=VRを体験する/体験をやめるという表現を使っていた)の概要は即座に広まった。犯罪を引き起こした組織であるにもかかわらず、司法当局といかなる取引を交わしたのか。発表の場には多くの著名人が顔を揃えて、実際にVR体験(八幡たちが言う部分的なログイン)を行っていた。

 

 だが、有名人には危害を加えず名もなき一般人を標的にしている可能性も否定はできない。そのため、文化祭の一般客もモニター越しの参加者が大半で、部分的なログインを行った勇気ある者はごく僅かだった。それでも、挑戦者たちの全員が無事に現実世界に帰還できていること、そしてゲームマスターが論文の中で「外部から無理矢理リンクを断ち切っても、フルダイブとは違って健康被害は発生しない」と保証していることもあり、新しい技術の体験者は少しずつその数を増やしていた。

 

「由比ヶ浜が言った通り、ログインして来る奴が増えてるのかね?」

 

 八幡を始め校内の生徒たちには、一般客がモニター越しとログインとで、どの程度の比率になれば適切なのかが判らない。初めてのことなので何もデータが無いからだ。だが、実際に来校者の姿を見ることで、遅まきながらもある程度の推測が可能になる。

 

 課外学習という形で総武高校の文化祭を体験しに来た中高生たちは、やはり教育熱心な学校が大半なのだろう。ゆえに保護者たちが我が子の安全を求める声も大きく、結果として大多数がモニター越しでの体験になっているのではないか。引率教師の責任ということを考えても、その推測は妥当だろうと八幡は思う。

 

 そして今の校内に満ちている活況を見るに、そうした層とは違った連中が多くログインして来たと考えて良さそうだ。社会人が仕事を終えるにはまだ早いので、学生が主体なのだろう。ニュースを見て興味を持って、学校帰りに寄ってみた、といったパターンが多そうだ。

 

「つーか、俺もそうだったけど、ゲームマスターの論文を信用し過ぎだろ……」

 

 八幡自身も先ほど由比ヶ浜に言われるまでは気付かなかったが、犯罪者の「大丈夫」を信用するのも変な話だ。なのに、八幡だけではなくあの雪ノ下姉妹ですらも、論文が保証する内容には疑いの目を向けていなかった気がする。もちろん論文を深く読めない八幡とは違って、彼女らは論文の中に相応の根拠を見出しているのだろう。だが、それとは別の理由もありそうだと八幡は思う。

 

 おそらく「自分たちがログアウトできない」という重い事実が、そして「外部から無理に断ち切ろうとしたら、重大な損傷が発生する」という論文の記述が、ゲームマスターを信用する気持ちに繋がっているのだろう。つまり、目の前の事実に勝る説得力はないということだ。事実、俺たちは脳だか神経だかがやられる可能性があるから、定められた期間以外にはログアウトができないのだし、そうした危険性を指摘しているゲームマスターが大丈夫だと言うのなら、部分的なログインは安全なのだろうと反射的に受け入れてしまう。

 

「あれか。ストックホルム症候群って、こんな感じなんだな……」

 

 月曜日の取材を思い出しながら、八幡は物思いに耽る。だが、八幡の平穏な時間は長くは続かなかった。

 

 

***

 

 

 がやがやとした声が廊下を伝って、徐々に近付いて来ていた。現実世界に居る運営の人たちに協力させて、柄の悪い連中は入り口の時点で極力お帰り頂く予定だと副委員長様が仰っていたので、騒々しいとはいえ大した連中ではないのだろうと八幡は思う。

 

 そのまま物思いを続けようとした八幡の推測は正しく、そして八幡以外の者であればなんの問題も起きなかったのだろう。だが、問題は。

 

「あれっ。もしかして、あいつ……比企谷?」

「え、マジ?」

「あいつ、総武に行ってたんだな。お前ら知ってた?」

 

 微妙な距離を空けて立ち止まって、聞こえよがしに会話を始める三人の声を聞いて、八幡は反射的に身を固くさせる。右肘をついて視線を廊下の天井付近に向けていた八幡は、その姿勢のまま眼だけを動かす。三人の顔も名前もまるで思い出せないが、声の調子や話の展開は、中学の頃と変わっていない。

 

 おそらく今も、彼らの立場に変化はないのだろう。トップカーストには程遠い、カースト下位に属する者たち。そしてカースト底辺の八幡が何かをやらかした時には、決まって真っ先に口を挟んできた連中が、そこに居た。

 

「比企谷って成績良かったっけ?」

「なんか、教室の隅のほうでずっと変な本を読んでたよな」

「あれだろ、二次元の美少女が表紙の……ラノベって言ったっけ?」

「ぷっ、美少女ってお前……」

「お、俺は読んでないからな。てか他になんて言ったらいいんだよ?」

「何でもいいけど、総武に入れたってことは成績は良かったんだろうな、成績は」

 

 頑なに姿勢を維持したまま、八幡は小さく舌打ちをする。どうせ、こちらに責められる理由がない時には、敢えて関わろうとはして来なかったような連中だ。言わせておけばじきに飽きるだろうと八幡は思う。

 

「まあ、成績は良くても、普段の行動とか態度がな」

「協調性は無いし、奇行に奔るし、そのくせ同級生を見下して偉そうにしてたよな」

「俺たちがせっかく忠告してやっても無視したりな。って、それは今も変わってないか」

 

 何がおかしいのか分からないが、一斉に笑い出した三人を横目で捉えて、「品の無い連中だ」と八幡は思う。自分たちが見下される理由に気付けないどころか、カースト下位の分際で自分たちが見下されるわけがないと思い込んでいる辺りが痛々しい。俺のことを馬鹿にしているようで、その実は自分たちの馬鹿っぷりを披露しているに過ぎないと、高校生にもなれば気付いて欲しいものだと八幡は思う。

 

 だが、無意識に息を吐いたことが、連中の癇に障ったらしい。

 

「おっ。そのため息の吐きかた、久しぶりに見たわ」

「総武に入った俺は、お前らと違って偉いんだぞー、みたいな?」

「あー、そんな感じで内心で思ってそうだよな」

 

 まるで成長していないと言うよりも、これは悪い方に成長していると言うべきなのだろうなと八幡は思う。相手にしなければ良いと思っていたが、勝手に人の内心をでっち上げるなど鬱陶しさが増している。どこぞやの部長様を一目見れば、自分が偉いなどとは思えるはずもないだろうに。あるいはこの連中は、あいつを見てもその凄さを理解できないのかもしれないなと八幡は思う。こいつらと同じ高校に進まなくて良かったと、頑張って上の高校を目指したかいがあったと八幡は思った。

 

「なあ。あの左手の腕章って、もしかして、文実?」

「え、マジか。あの比企谷が文実って……でも、どうせフリだけだろ」

「いかにも仕事してますって感じで偉そうなことを言いながら、実はサボってる、とかな。今もそんな感じだよな」

 

 反射的に左手を隠そうとしたが、変な動きをすれば却って連中に口実を与えるだけだ。そう考えて、八幡は身動きをせずに我慢している。どうして俺は、ここまで言われて黙っているのだろうか。()()()なら反論の余地なく論破するのだろうし、()()()だって違うと思った時にはハッキリそう口にするはずだ。なのに……。

 

 

「ヒッキー!」

 

 今まさに思い浮かべていた彼女の声を聞いて、八幡は思わず顔を上げてしまった。顎を乗せていた右手も机からずり落ちて、普通に座っているような姿勢になる。

 

 由比ヶ浜は受付の机の前まで走ってくると、八幡を背後に庇うようにして件の三人と向かい合う。見るからにリア充な女子生徒の登場を見て、狼狽する三人。しかし、八幡が推測した通り、彼らは悪い方に成長していた。リア充を見てビビリながらも、即座に白旗を揚げることはしない。

 

「お前、なんで……?」

「これ」

 

 由比ヶ浜が手早く操作をして、つい先ほど届いたメッセージを見せてくれる。差出人は意外にも相模。そして本文には「ヒキタニくんが絡まれてるみたい。どうしたらいい?」と書かれてあった。

 

 一瞬だけ、相模が意地悪く嗤う姿を連想した。だが、今の状態でこいつらには会いたくないという八幡の捻くれた発想を、相模に理解できるとは思えない。だからこれは八幡に対する嫌がらせというよりは、仕方なく由比ヶ浜に連絡したということなのだろう。相模自身は関わる気はさらさら無いが、教室に居るのに我関せずを貫いて、後々問題になったら面倒だと考えた結果だろう。

 

 だが、そんな相模の保身行為によって、八幡は窮地に陥っている。こいつらを、こんな連中とは関わらせたくなかったのに。俺がさっさと撃退していたら、あるいはさっさと逃げ出していたら、こんな事態にはならなかったのにと八幡は思う。

 

「ヒッキーに、何か用?」

 

 攻撃的な感情を隠すことなく、由比ヶ浜が三人に問い質す。だがその激しさゆえに、普段の由比ヶ浜とは違って相手に逃げる余地を与えていないがゆえに、三人は一目散に逃げ出すことなくこの場に留まることができた。

 

「ぷっ、ヒッキーって……」

「比企谷にぴったり過ぎるよな」

「そいつ、偉そうなのは態度だけで碌な奴じゃないですし、庇う価値とか無いですよ?」

 

 誰一人として、由比ヶ浜と視線を合わせられる者は居ない。不自然に顔を八幡に向けて、発言だけを由比ヶ浜に聞かせている形だ。

 

「あたしはそう思わない。じゃあ、他に用事が無いなら帰って」

 

 そして、由比ヶ浜の言葉に一切の迷いが無かったがゆえに、三人は彼女を憐れむ気持ちになった。それは即座に八幡への悪評に繋がる。

 

「こんな子をだまくらかすなんて、中学の頃よりたちが悪くなってるよな。ちゃんと教えておいた方が良いんじゃない?」

「昔の話ですけどね、そいつがバイトを始めてすぐにバックレたんですよ。なのに俺を使いこなせない店長が悪いとか、俺とまともに会話できない店員は辞めろとか、親が勝手に謝りやがってとか、そんなことを言ってた奴ですよ?」

「あと、くじ引きで学級委員になったのに、一週間で職務放棄したりとかな」

 

 三人の言葉に、八幡は内心で反論を述べる。中学の頃よりたちが悪くなってるのはお前らだし、俺は別に由比ヶ浜を騙そうなどと思ったことはない。むしろ、こいつらだけは騙したくないと思っているし、俺のせいで迷惑が掛かるような事態にはなって欲しくない。なのに、今は……。

 

 バイトの話は、確かにバックレたのは事実だ。けど、こいつらあの時の俺の戯れ言を聞いてたのかよ。バイトもまともに出来ない自分が情けなくて、無理に強がって適当なことを言ってただけなのに、なんでこんな馬鹿げた話を覚えてるんだか。お前らだって、悪いのは自分じゃないってよく責任転嫁してただろうが。

 

 学級委員の時のアレは、俺の黒歴史だからな。どうせお前らも、あの時に噂を広めてくれたんだろうけど、それを善意だと思ってやってる辺りが変わってねーよな。今改めて思ったけど、やっぱりお前ら碌でもねーわ。お前らが俺を責める根拠って、何年か前のことばっかじゃねーか。しかも都合の悪い部分はしっかり伏せて説明してやがるし、やっぱりたちが悪いのはお前らの方だろが。

 

 

 だが、こうした思いを口に出すことが、八幡にはできない。中学での三年間によって、どうしようもないほどに彼らの性格を把握してしまったから。

 

 八幡は水曜日に葉山が言った言葉を思い出す。葉山が「身動きできない状況が多い」と口にしたのを耳にして、八幡はこう思ったのだ。

 

『優しい性格の持ち主ほど、貧乏くじを引くことになる。自分が動いた結果が、自分が誰かを選んだ結果が想像できてしまって、あげく何もできなくなるからだ』

 

 八幡には、葉山が誰かを選ばない理由が分からない。正確には分かりたくないと言うべきなのかもしれないが、いずれにしても葉山のことはどうでも良い。これは葉山の言葉を聞いて、雪ノ下雪乃を想定しながら思ったことだ。そして、雪ノ下とは違って優しい性格には程遠い自分にも後半部分は当て嵌まると、あの時に八幡は思った。

 

 そして現在。自分が何をどう言っても、この三人が決して納得しないことを、八幡は想像できてしまう。こいつらは話の内容を聞かないで、話している相手しか見ないのだ。その割に、こちらの言葉に矛盾を見付けたら嬉々として指摘して来やがる。結局のところ、こいつらの中で、俺が悪いという結論は最初から決まっているのだ。そんな連中に、何を言えるというのだろうか。

 

 でも今は。俺一人ならこいつらが諦めるのを待てばよかったけれど、今は由比ヶ浜が巻き込まれている。俺のために、頑張って、慣れない弁明を試みてくれている。

 

「昔のことは知らないけどさ。それに、さっきヒッキーが文実なのを馬鹿にしてたみたいだけどさ。今のヒッキーは文実に欠かせないぐらいの働きぶりだし、生徒会長や副委員長にだって認められてるんだよ」

 

 この三人はきっと、由比ヶ浜の微妙な発言を見逃さないだろう。そう八幡が思った通り、三人はそこを突く。

 

「でもその言い方だと、委員長には認められてないってことですよね?」

「というか、委員長には見る目があるけど、生徒会長とか副委員長には見る目が無いってことだよな」

「同じ高校の生徒を庇いたいって気持ちは分かりますけど、こいつは恩を仇で返すような奴ですよ。さっき言った学級委員の時も……」

 

「もういい」

 

 自分のことなら、何を言われても良い。だが、文化祭の為にあれだけ頑張っていたあいつを貶されるのは我慢できない。それに、こいつの優しさを曲解されることにも耐えられない。小学生の頃からずっと、自分のことだけではなく周囲の連中のことまで色々と考えて。時には身を切るような思いで悩んで苦しんで。その末に今のこいつの優しさがある。それを八幡は知っているから。

 

 この三人のやり口は、中学の頃から何も変わっていない。要は「一人に傷を負わせてそいつを排除する、一人はみんなのために」というやつだ。その標的が相変わらず俺だという辺りに、こいつらの情けない日常生活が垣間見える。きっと、他に見下せる奴が居ないのだろう。

 

 なら遠慮なく、お望み通りの展開にしてやろうと八幡は思った。こいつらに知ったような口で雪ノ下と由比ヶ浜のことを語らせるぐらいなら。そんな戯れ言を聞くぐらいなら、股をくぐれと言われてその通りにする方がよっぽどマシだ。

 

「由比ヶ浜。約束は覚えてる。まだ大丈夫だ。やばいと思ったら連絡する」

 

 先週の木曜日。部長会議の残党をひねり潰すべく、雪ノ下が校内放送に向かう前に、部室で由比ヶ浜が口にした「何かあったら三人で協力して解決する」という約束。そしてその前日の水曜日。カラオケと女子会に向けて二人が別れる直前に、由比ヶ浜が口にした「何かあったら相談してね」という約束。

 

 その二つを念頭に置いて、八幡は小声で由比ヶ浜に話しかけた。まだ今は、お前らに頼るほどでもない、と。八幡の意外な発言にとっさに反応できない由比ヶ浜を置き去りにして、椅子から立ち上がりながら口を開く。左手に巻いた文実の腕章を取り外しながら。

 

「せっかく真面目に高校生活を送ってたのに、いつまでも昔のことを持ち出しやがって。お前らがそう言うんなら、もういい。俺がまともに文実とかに入ってるのが目障りなんだろ。お前らのご希望通りに辞めてやるから、俺以外の生徒には関わるな」

 

 考えてみれば、思った通りのことをこいつらに向かって言い切れたのは初めてかもしれないと八幡は思った。そのまま由比ヶ浜の正面に回って、腕章を手渡す。しっかりと由比ヶ浜の目を見て、「頼む」とだけ伝えると、八幡はそのまま、いずこへともなく去って行った。

 

 

***

 

 

 おそらく教室の中から廊下の様子を窺っていたのだろう。八幡が足音を立てて去って行くと同時にドアが開いて、相模たちが顔を覗かせた。八幡の剣幕に圧倒され、由比ヶ浜に睨み付けられていた三人は、新たな助っ人が登場したと考えたのか目に見えて狼狽を始めた。

 

「お、俺たちは嘘は言ってない、です」

「そ、そうだ。明日は中学の連中を連れて来ますから」

「あ、明日みんなに説明してもらったら納得できると思いますし、今日は……さよなら!」

 

 そして競うようにして、我先にとこの世界から去って行った。三人が消えた後もしばらく動かなかった由比ヶ浜は、一つ息を吐くとのろのろと机を回り込んで、八幡が座っていた椅子に腰を下ろした。

 

「ゆ、ゆいちゃん?」

 

「あ。ごめん、さがみん。せっかく連絡してくれたのに、お礼を言ってなかったよね」

 

 教室に居たのに介入しなかった後ろめたさに加えて、八幡が文実を辞めるという超展開について行けない相模は、慌ててぶんぶんと首を振るしかできない。だが、その背後では。八幡が責められるのも当然だと考えていて、そして八幡の辞任には「それ見たことか」と思っている相模の取り巻きたちが、先ほどのやり取りを彼女らなりに解釈して各方面へと広めていた。

 

「結衣。説明するし」

 

「あ、優美子。来てくれたんだ……。ヒッキーの中学の同級生なのかな。昔のことでヒッキーを責めてて、じゃあ文実を辞めるってヒッキーが……」

 

 相模からのメッセージを受け取って、慌てて教室に向かった由比ヶ浜には「そのまま回ってて」と言われたものの。由比ヶ浜のことが心配で文化祭を楽しむ気持ちになれない三浦優美子は、海老名だけを引き連れて二年F組に戻って来た。少しだけ距離を置いて、三浦とはそりが合わない為にそれには同行しなかったものの、同じく由比ヶ浜を心配した川崎もまた別ルートから戻って来ている。

 

「うーん。ヒキタニくんが、そんな職務放棄みたいなことをするって……もう少し詳しく話してくれる?」

 

 由比ヶ浜の説明はいつも以上にしどろもどろで、彼女のショックの大きさが窺えた。事情聴取は海老名に任せて、日頃の不仲をひとまず棚上げした三浦と川崎は、いずれも八幡とはすれ違っていないことを確認し合っていた。彼女らが通ったのとは別のルートから、八幡は姿を消したのだろう。

 

 由比ヶ浜に質問するのと平行して相模からも情報を得ていた海老名は、相模の取り巻きにも目を光らせていた。彼女らの行動を制止する権限も理由も自分には無いが、せめて動きだけは把握しておこうと海老名は思う。その情報はきっと、あの頼れる女子生徒が対策を立てる際に、役立ててくれるだろうから。

 

「とりあえず、あたしがあいつの代わりに受付に座ってるよ。明日の午後は受付をする予定だったし、あんたたちと違って顔も広くないからね。だから……」

 

「了解したし。結衣。落ち込んでないで、すぐに……」

 

「うん。ゆきのんに連絡、だよね。姫菜。悪いけど、まだちゃんと説明できる自信が無いから、ゆきのんに……」

 

「大丈夫、最初からそのつもりだから。せっかくだし、ここに来てもらおっか」

 

 相模の取り巻きを意識しながら、海老名がそう提案する。今日はもうすぐ終わりだが、明日に備えて対策を立てておく必要がある。雪ノ下がこの面々を率いれば、問題はきっと解決するはずだと海老名は思う。

 

 雪ノ下に宛てて急いでメッセージを書き終えると、頼れる友人たちを眺めながら、由比ヶ浜は内心で先程の対応を悔いていた。あたしがもっと上手くあの三人に対処できていたら、こんなことにはならなかったのにと。

 

 だが、由比ヶ浜の真っ直ぐな受け答えがあったからこそ、翌日の展開に繋がるのだ。今日の時点では、由比ヶ浜の応対に改善の余地があったと考える人もいるのかもしれない。しかし、文化祭が終わった明日の時点で由比ヶ浜がどう評価されるかは、その時になってみないと分からない。

 

 由比ヶ浜の左肩を三浦が叩いて、右肩には川崎が手を乗せている。海老名が静かに頷きかけると、由比ヶ浜はしっかりと、それに頷き返すのだった。

 

 

***

 

 

 二年F組の教室を離れた八幡は、普段は通らないようなルートを敢えて辿って、その後は当てもなく足を動かしていた。

 

「平然と股をくぐるには、ほど遠かったな……」

 

 あの連中に言いたいことを言ってやった自身の言動に後悔は無い。だが八幡は自分の発言の中に、八つ当たりの要素が含まれていることに気付いていた。そして、辞めると言えば聞こえは良いが、要は職務放棄だということにも。

 

 歩きながら八幡は、カラオケの時に戸塚と交わしたやり取りを思い出していた。今から二千二百年も前に、大望と比べれば些細なことだと言って、己を馬鹿にする者たちの要求をそのまま受け入れた男の話。あの韓信の股くぐりの話だ。

 

 馬鹿と同じ土俵に上がって馬鹿の相手をすることほど、馬鹿らしいことは無い。韓信の故事を知った時に、八幡はそう思ったはずなのに。だが、あの状況では、他の手段を思い付かなかった。

 

「ただ、まあ。由比ヶ浜なら俺よりも上手く、文実の仕事をしてくれるだろうな」

 

 もちろん仕事によって向き不向きはある。だが学業という面では不安の残る由比ヶ浜でも、こうした仕事の面では得意分野を上手く活かして、八幡以上の成果を出せるだろう。なぜならば、八幡は最終的には一人で仕事をするしかないが、由比ヶ浜には多くの友人が居るのだから。

 

 八幡にとっては、変に誰かと仕事をするよりも、一人の方が効率が良い。文実を経験したことで複数での仕事にも慣れてはきたが、本来的にはぼっちが良いと思ってしまう。それに一人なら、この間の人の字のような発言や、つい先程のようなスタンドプレーだって可能だ。

 

 最近では、面倒なことはしたくないという心境にすっかり浸っていたが、もともと八幡は目立つことが嫌いでは無かった。だが、目立つような行為をしても上手く行かなかったり、期待したのとはまるで正反対の反応が返ってくるので、もしかすると俺のノリが変なのかと疑うようになり。そして次第に、他者との関わりを減らしていった。

 

 他人のことはよく解らない。どうしてそんなノリが面白いのだろう。どうしてそんな発言にみんなが深く頷いているのだろう。どう考えても深みの無い、外側を取り繕っただけの意見なのに。どうして俺が言ったことを、みんなは軽く扱うんだろう。それどころか、時に馬鹿にされるのは何故なのか。

 

 そんな八幡が、誰かと協力して仕事をするなどできるわけもなかった。他者との繋がりを、誰かと共有できる何かを疑ってしまう八幡には、それは不可能だ。でも、それは八幡だけに問題があるのだろうか。俺の価値観とか物の考え方を全否定して、自分たちのそれを押し付けてくる連中にも、原因の一端があるのではないか。

 

 こうした疑問を抱きつつも、外部の在り方を受け入れていた八幡だったが、二年に進級してこの世界に巻き込まれて、周囲の環境は大きく変化した。今の八幡には、信じて任せられる相手が、少なくとも二人は存在する。

 

「いや、違うな」

 

 そこまで考えて、八幡は歩きながらかぶりを振る。

 

 それでは、戸塚のことを軽く見ていることになる。二学期の初日に海老名が言っていたように、戸塚はあれで意外に頼りがいがあるのだ。だから俺が信じて任せられる相手は少なくとも三人、ごく特殊な状況に限れば四人は存在する。あんまりあいつを頼りたいとは思えないが、使い倒しても良心が痛まないとか思ってしまえる辺りは、やはり特別なのだろう。

 

 一人で仕事をすることの利点は、それが上手く行かなかった時に現れる。誰が悪いの悪くないのと責任を押し付け合うことなく、明確に自分が悪いと言い切れるからだ。先程の発言だって、由比ヶ浜が普段の調子を取り戻したら「なんかもう!」とか言って怒られるのだろうが、由比ヶ浜には俺を責めるだけの理由があるのだから当然のことだ。どう考えても、さっき俺が言ったこと・やったことには問題があるのだから。

 

 では、誰かを信じて任せた仕事が失敗した時には。その場合でも、この三人ないし四人なら、納得できる。最後の一人だけは納得しないで思いっきり罵倒とかしてそうだが、残りの三人なら「こいつらに任せて駄目なら仕方が無い」と思える気がする。それは俺があいつらを、使うのが気恥ずかしい言葉ではあるけれども、信頼しているということなのだろう。

 

「あれ、ここは……」

 

 どんなルートを辿ったのか一切記憶に無いのだが、気付けば馴染みの場所まで歩いてきていた。見覚えのある自販機が目に入って、八幡はせっかくなので甘ったるい飲物を購入する。飲み慣れたものを飲むには飲み慣れた場所が良いかと、八幡はいつもの場所に移動して、そして歩いてきた方角を慎重に窺う。

 

「まあ、あいつらが追いかけてくることは無いと思うが……」

 

 部長様にまで連絡が行くのは時間の問題だろうが、あの二人が仕事の優先順位を違えることは無いはずだ。まずは八幡が果たすはずだった役割を整理・分担して、そしておそらく、あの連中がまた現れた時の為に対策を練ろうとするはずだ。これが俺の自意識過剰だったら良いのだが、きっとあいつらはそうするのだろう。

 

 信頼している二人の行動を推測して、八幡は気恥ずかしさや情けなさの中に嬉しさを感じてしまい、天を仰ぐ。

 

「あーうー。……うひゃあっ?」

 

 飲物を片手に天に向かってうなり声を上げていた八幡は、背後から肩をつつかれて思わず奇声を発した。

 




予定より少し遅くなりました。申し訳ありません。

次回の更新は3月1日頃の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を一つ修正しました。大筋に変更はありません。(2/23)


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17.かわいくともあざといのが厄介だと彼は思う。

各キャラを書くのが楽しくて、気付けば文字数が非常に多くなってしまいました。。
お時間の余裕がある時に、楽しんで頂ければ幸いです。

以下、前回までのあらすじ。

 初日の文化祭は、校外およびリアル世界からの来客を受け入れる午後になっても平穏に過ぎていた。その理由を推測するなどして独りの時間を満喫しつつ、八幡は二年F組の教室前で受付の席に座っていた。

 だがそこに中学の同級生が現れる。相も変わらず、カースト下位の者にありがちな歪んだ見下し方をしてくる連中に辟易する八幡。思いがけず由比ヶ浜が助けに来てくれたものの、奉仕部の二人を貶すような物言いをされてしまい我慢の限界を超えた八幡は、連中が目の敵にしていることを解消してやろうと考える。俺が文実を辞めるから他の生徒には関わるなと言い残して、八幡は去って行った。

 八幡の意外な反応に、みっともないほど狼狽えながら、連中もこの世界から姿を消した。由比ヶ浜のもとに集まって、今後の対策を練ろうとする女子生徒たち。一方の八幡は、遠回りの末に過ごし慣れた場所へと辿り着いていた。歩いてきた方角を窺いながら、心中の複雑な感情を声を出すことで解消していた八幡の肩を、誰かがちょこんと突っついた。



 その教室の中では、男子生徒と女子生徒が真っ二つに分かれて言い争っていた。それには加わらないものの、心情的には男子生徒たちの(と言うよりも、正確には自分の)味方である数人の女子生徒に背中を押されて、一色いろはが廊下に姿を見せた。

 

 半身でクラスを振り返って、可愛らしく口を尖らせて「む〜」と独り言をつぶやいて。それ以上は背後を気にすることなく、一色は歩き出した。いかにも文化祭を楽しんでいますと言わんばかりの表情と身のこなしで、時折すれ違う顔見知りの生徒には愛嬌を振りまきながら、一色は人口密度の少ない辺りを目指して歩いて行く。

 

 

 今年の文化祭の出し物は、手作りのケーキやお菓子を前面に出した喫茶店に決まった。一色の趣味がお菓子作りであると、誰かから(おそらくサッカー部の一年あたりから)聞き出したのだろう。一色に対抗意識を燃やす女子生徒たちがわざとらしく、自分をクラスの出し物の責任者に祭り上げようとした時のことを思い出しながら一色は歩く。

 

「せっかくの土日を、悪知恵を働かせるために費やすだなんて、暇な人たちですよね〜」

 

 始業式の後に行われたLHRでは良い案が全く出ず、そして週明けの月曜日に再開された話し合いで、彼女らがそんな提案を出してきたのだ。

 

 そのグループから文化祭の実行委員が出たことは知っているが、そこが悪知恵の出どころであるのを一色は知らない。文実で会議が始まる直前に、その委員がとある雑談を耳にして着想を得たことも。その雑談を交わしていたのが、一色とは浅からぬ縁の二人。つまり、また手作りの夕食を食べたいものだと考えている凛とした佇まいの先輩と、一見して大したことは無さそうなのに意外に観察眼が鋭いと身を以て知った気怠そうな佇まいのせんぱいであることも。

 

 一色としては、クラスの出し物のためにお菓子を作るぐらいなら何の問題も無いが、責任者にされてしまうと厄介だ。あの子たちはどうせわたしの足を引っ張る気なのだろうし、男子生徒たちが協力してくれるとしても、その報酬をわざわざ自分が出すのも面倒な話だ。

 

 クラスの出し物が成功しようが失敗しようが、さほど思い入れは無いというのに。どうしてわたしが、働いてくれた男の子たちの話を聞いてあげたり、場合によっては何人かで一緒に遊びに行ったりしなければならないのか。そんな時間があれば、もっと自分のために、自分を磨くために使いたいのにと一色は思う。

 

「まあ、上手く利用できたから良かったですけどね〜」

 

 有志の出し物で葉山隼人がバンドをすると知って、一色はそこにキーボード担当として名乗りを上げた。メンバーが全員二年だということ、既に夏休み後半からバンドが動き始めていたことを理由に葉山は返事を濁したのだが、前者はともかく後者に関しては、人数が多すぎてパート分けの段階で行き詰まっていることを一色は知っていた。お調子者の先輩から得ていた情報だ。

 

 とはいえ、もともと大所帯ゆえに一色加入の話は立ち消えになるかと思われたが、二学期に入って風向きが変わった。奉仕部で仕事があるから、クラスの出し物に専念するからと、二人の女子生徒が立て続けにバンドへの不参加を表明したのだ。葉山以外のメンバーが自分の演奏で手一杯なこともあり、普段の奔放な振る舞いとは違って(その言われようはどうなのかと一色は頬を膨らませたのだが)演奏面で他者のフォローができる一色は、無事にバンド加入を果たした。

 

 一色が今回利用したのは二つ。一つは、葉山の名前をちらつかせつつ、バンド練習があるのでクラスの責任者は務められないと言って逃げたこと。その結果、言い出しっぺのあの子たちがクラスの出し物も取り仕切ることになって、それはそれで多少の面倒はあったのだが、自分が責任者になるよりは遙かにマシだ。

 

 そして二つ目は、文化祭の数日前に行われた試食会で作ったお菓子を、出来映えを教えて欲しいという名目で葉山に食べてもらったこと。

 

 もちろん、ほぼ同時に、葉山以外の三人の男子生徒にも同じものを食べてもらった。だがタッチの差とはいえ、一番最初に食べてもらうなら葉山が良いと一色は思ったし、葉山としても、他の男子生徒が食べ始めるのを待ってから食べるような姑息な真似はしなかった。おそらく葉山だけに食べてもらおうとしても断られただろうから、これは一色と葉山がお互いに妥協をした結果と言えるのだろう。

 

 ちょうどバンド練習に行く時間に完成するように時間を調整して、できあがったお菓子を全て持って行ってしまったことで、同級生男子からは少しだけ不評を買ってしまった。しかしそれも、葉山先輩大好きアピールをしながら「慌てて全部持って行っちゃった(てへ)」と口にすることで解決できるのだから楽なものだ。葉山たちの食べ残しを(と言っても汚いものではないのだが)綺麗に平らげてくれて、一色はご満悦だった。

 

 男子生徒との仲を重視する一色ではあるが、数はそれほど多くないとはいえ同性の友人も存在する。一色と仲の良い女子生徒たちは、どちらかと言えば大人しい性格の子がほとんどで、しかし見た目なり成績なり運動能力なりで他の生徒を大きく上回っている部分が何かしらあった。一色も含めクラスを牛耳るような野望には乏しいのでトップカーストというわけではないが、クラスの中で無視できない一団であるのは確かだった。

 

 そんな彼女らと休日を共に過ごす時などに、一色は手作りのお菓子を振る舞うことがあった。だが、男子生徒に食べさせたことは今まで無かった。その初めてが葉山だったことで、一色は一定の満足感を得たが、同時に心の片隅では「こんな程度か」とも思っていた。だが冷静に考えて、この高校で誰が一番と考えると、葉山以外の名前が出て来ない。だから自分の行動は間違ってはいないのだろうと一色は思った。

 

 一色は気付いていない。かの豊満な体つきの親しみやすい先輩の誕生日を祝うために(同時に、奉仕部が元通りになったお祝いのために)、あのせんぱいの家で開催された集まりに参加した時のことに。各自が一品ずつ持参という話だったので、ケーキを焼いて持って行ったことに。それを、大勢の女子生徒に混じって一人だけ居た、かのせんぱいに食べられていたことに。実は初めてが彼だったと知った時に一色が何を思うかは、今の時点では誰にも分からない。

 

 

「外からの人は味覚が鈍いって話なのに、わたしのレシピに言い掛かりをつけるのは、意味が分かんないな〜」

 

 目下の問題を思い出しながら、一色が小さくつぶやいた。お菓子作りの経験が無い同級生のために、いくつかレシピを書いたのだが、それを責められるとは思ってもいなかった。

 

 味が不評なのは、一色としても悔しい気持ちがある。しかしその原因は一色には無いはずだ。実際、他のクラスの生徒たちや、数は少ないもののこの世界に巻き込まれた校外の人たちには、一色たちの手作りのお菓子は好評なのだ。

 

 だが、リアル世界からの来客には、微妙な味の善し悪しは伝わらない仕様らしい。わたしのレシピを見て初めてお菓子を作って、それが不評で哀しむ気持ちは分からないでもない。誰かを恨みたい気持ちも分からないではないが、わたしだってそんなことで責められたくはない。

 

 わたしを責めようとする女子生徒たちに男子が一斉に反発して、結果的には余計に話がこじれてしまった。逆にあの子たちこそが悪いと男子生徒らが責め立てたことに、普段は中立的な立場の女子生徒たちが反発したからだ。確かに、味の問題に関してはあの子たちにも責任は無いわけで、一色たちのグループとしても男子を積極的に支援することには及び腰だった。

 

 少し時間を置けば、双方とも冷静になるだろう。そう言った友人の見込みはおそらく正しく、当事者のわたしがいったん場を外すことも、言い争いを早く収拾するには良い選択なのだろう。

 

「けどやっぱり、面白くないですよね〜」

 

 不満をつぶやきながら、とりあえず目に付いた自販機で飲物を購入すると、一色はとある場所で立ち止まる。購買の斜め後ろという位置なのに、周囲の壁などが微妙な配置だからだろうか。生徒には気付かれにくいその場所のことを、一色は六月に偶然知った。

 

 あの時。合羽姿で雨に打たれて孤独に身を浸しながら、自身を哀れな主人公という役柄と同化させていた、とあるせんぱいの姿を見付けてしまい。怪しい人が居ると思って写真を撮ったのが、この場所を知った切っ掛けだった。改めて思い返しても、あの時のせんぱいはこの上なく怪しかったと一色は思う。

 

 飲物を一口含んで、友人から連絡が来るまでどう過ごそうかと考えていると。まさに先ほど連想していた怪しい人が、後方を何度も振り返りながらこの場所に姿を見せた。こちらのことには、どうやら気付いていないようだ。

 

 せんぱいは、何か心の中では収まりきれない感情を抱えているのだろうか。何度か不審な挙措を見せた後で、おもむろに天を仰ぎ始める。おそるおそる彼の背中に指を伸ばそうとするも、うなり声を上げ始めたので、びくっと動きを止めてしまう一色。だが何とか思い直して、一色は彼の背中を指でちょんと突く。

 

「あーうー。……うひゃあっ?」

 

 奇声を発しながら振り返る比企谷八幡の顔を睨み付けて、彼に触れた指を逆の手の指で包み込みながら。驚きたいのはわたしのほうですよと、心の中で叫ぶ一色だった。

 

 

***

 

 

「で、なんでお前がこんな所に居るんだ?」

 

「せんぱいこそ、誰かから逃げて来たんですか?」

 

 しばし顔を見合わせて、互いに少し落ち着きを取り戻した二人は、ぽつりぽつりと会話を始めた。夏休みに会った時に、一色のあざとい外面の奥を八幡が見通していること、見通されてなお一色が平然とそれを続けられることをお互いに認識し合っているので、二人の会話に遠慮は無い。

 

「い、いや。逃げて来たわけじゃねーぞ。戦略的撤退っつーか、転進ってやつだな。つか、なんでそう思ったんだよ?」

 

「さっきから歩いて来たほうをずっと気にしてますし、そりゃあ逃げてきたんだろうな〜って思いますよ?」

 

 呆れ顔でそう答える一色に、八幡は。

 

「いや、だから、逃げたわけじゃ……はあ、まあいいや。確かに逃げたと言われても否定できねーしな。んで、お前は?」

 

「え〜っと、お前とか言わないで、ちゃんと苗字で呼んでもらえませんか?」

 

 逃げてきたことを素直に認めたというのに、八幡は更なる試練を課されていた。不満そうな表情の中にも愛嬌を混ぜることを忘れない、何をしても何を言ってもあざとい後輩の姿を見て、八幡は目を泳がせる。

 

 もちろん名前で呼べと言われるよりは遙かにマシだが、舐めた性格の後輩とはいえ見た目は可愛らしい一色を苗字で呼ぶなど、八幡からすればハードルが高い。あの二人ですら最初はなかなか慣れなかったのにと思いながら、八幡は口を開く。

 

「いや、だって、お前も先輩って呼んでるじゃねーか」

 

「先輩のことを先輩って呼ぶのは、みんなしてるじゃないですか〜。せんぱいだって、生徒会長のことは城廻先輩って呼んでましたよね?」

 

「いや、だってお前の場合は……はあ、まあいいや。んで、一色は何があったんだ?」

 

「な、なんでそんなすぐに諦めて苗字で呼んじゃうんですか。も、もしかして。わたしのこと、口説いてたりします?」

 

「はあ。もう俺には、お前が何を考えてるのかさっぱり分からん……」

 

 先ほど驚かされたことへの意趣返しという気持ちもあって、少し八幡をからかってやろうと考えていた一色だったが、八幡が普段以上に「押して駄目なら諦めろ」の精神を発揮するものだから却って藪蛇になっていた。真顔で問い掛ける一色に対して、今度は八幡が呆れ顔になっている。

 

「ごほん。えっと、特に何がってわけじゃないんですけどね〜。ちょっと息抜きというか、連絡待ちです。せんぱいは誰に追われてるんですか?」

 

「まあ、お前が……一色がそう言うんならそれでいいけどな。俺は、その、あれだ。暗闇に包まれし時代のおぞましき遺物から、とかかね」

 

「そ〜いうのはいいんで。要するに、恥ずかしい過去から逃げ出してきたってことですよね?」

 

「な、なんでお前、さっきの言い方で理解できちゃうのよ。もしかして隠れオタクとか……」

 

「そんなわけないじゃないですか。せんぱいみたいな人が昔言ってたことを思い出して、こんな感じかな〜って……実は大正解だったりします?」

 

 八幡からのあり得ない質問に素で答えると、一色は再度確認を入れる。その問い掛けに答えず、視線を遠くに飛ばしている八幡を見て、ようやく一色は先ほど驚かされたことを帳消しにできた気がした。もはや背後を窺うことも忘れて、一色との会話に意識の大部分を持って行かれている。そんな八幡の様子を見て更に気を良くした一色は、姫の気まぐれのような慈悲を行う。

 

「ここまで追ってくる可能性があるのなら……場所を変えませんか?」

 

「あ、忘れて……そうだな。つか、その言い方だと、お前も付き合ってくれるってことか?」

 

「せんぱい。お前呼び一回ごとに、借り一つにしますよ。友達から連絡が来たらすぐにそっちに行きますけど、それまでなら別にいいですよ?」

 

 平然と「付き合って」などと言ってくる八幡に、冷静を装いながら別件で注意を与えて。一色はそのまま首を軽く傾けて、目をきょとんとさせながら同意を返す。さすがに照れくさそうな八幡の様子を窺っていると、覚悟を決めたのか、意識がしゃんとしたのが伝わって来た。

 

「んじゃ、頼むわ。どこか場所の当てでもあるのか?」

 

「そうですね〜……じゃあ、奉仕部の部室の前に再集合で」

 

「あー。それって、別々に移動するってことか?」

 

 同級生にして同じ部活の女子生徒にこんこんと言い聞かされてきたことだが、どうやらリア充はいついかなる時にも集団行動を是とするらしい。最近ようやく、時と場合と相手によってはそれを受け入れられるようになってきた八幡だったが、一色の提案はそれとは異なるものだった。首を捻りながら八幡が疑問を述べると、一色は。

 

「え。だって一緒に歩いてて、変なふうに言われたら困るじゃないですか」

 

 真顔でそう言われてしまうと、それはそれで哀しいものだなと思ってしまった八幡だった。だが別行動のほうが気楽なのも確かなので、一色の意見に抗議する気持ちは沸かなかった。

 

 近い将来、八幡に「別行動を提案しても良いんだ」という無駄な知識を与えたことを一色が後悔する事態になるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

 

***

 

 

 誰かに追われているのはせんぱいですし、先に行ってくれていいですよと言われ。八幡はそれに従って早々に移動を開始した。せっかく購入した千葉のソウルドリンクをほとんど飲めていないが、それは向こうに着いてからにしようと八幡は思う。

 

 道中で見知った誰かと遭遇することもなく、部室の前で大人しく一色を待っていると、何やら鼻の辺りがむず痒くなってきた。一つ大きなくしゃみをして、八幡はふと先ほど考えていた人物のことを思い出す。独りで当てもなく歩いていた時に、俺が信じて任せられる相手に含めないのは良くないと反省した、性別だけは未だに信じられない彼のことを。

 

「さっきの話を聞いたら……連絡してくるだろうな」

 

 そう考えた八幡は、あの二人の対応を想像した時と同様に、気恥ずかしいような情けないような嬉しいような奇妙な感情に陥る。だが彼になら、あの二人にはできないようなこともできるのではないか。具体的には、今日のことを理由に晩ご飯に誘うことが。むしろ、向こうから連絡が来る前に自分から動いたほうが、後々恐縮しなくて済みそうな気もする。

 

 それが言い訳なのか、それとも一片の矜持なのか自分でも分からないままに。八幡はアプリを立ち上げると、お誘いのメッセージを送付した。送り終えて一息ついていると、廊下の向こうから一色の声が聞こえてくる。

 

「せんぱい。上です、上」

 

 一色の提案が部室で過ごすというものなら、何か理由をつけて回避しないとなと思っていた八幡だったが、どうやら純粋に待ち合わせ場所として選んだだけらしい。一色から大きく距離を空けて、「スカートの中を覗かれた」などと冤罪をかけられないように身構えながら(ふくらはぎや、ふとももの裏が綺麗だなと思うぐらいは勘弁して欲しい)、八幡は特別棟の階段を上がっていく。

 

 階段の上は踊り場になっていて、そこのガラス戸が開いていた。その先は空中廊下に繋がっている。特別棟と校舎を結んでいる廊下は、この階では屋根がなく吹きさらしになっていて、夏場は暑さのために、冬場は寒さのために、この空中廊下を使う人はほとんど居ない。

 

 一色は空中廊下の真ん中辺りに立っていた。屋根が無いとはいえ、廊下には手すりもあるし、両側はともにガラスで外部から遮蔽されている。そのガラス越しに降り注ぐ夕日を眩しそうに眺めながら、一色が八幡を待っていた。

 

 

 俺は、どうして一色の誘いを受け入れたのだろうと八幡は思う。中学の同級生と遭遇したのはつい先程だし、二年F組の教室を離れたのは独りになりたいと思ったからだ。一色を適当にあしらって、さっさとまた独りになれば良かったのにと。

 

 とはいえ八幡には心当たりがあった。午前中に体育館で行われたオープニングのセレモニーを八幡は思い出す。人前で緊張して、マイクに頭をぶつけた相模南のことを。

 

 あれを見て八幡は「励まされようが貶されようが同じ」だと、「何も言われないのがまだ一番マシ」だと言った。気を遣われるといたたまれなくなるし、かといって攻撃的な物言いをされるのはやっぱり嫌だ。だから触れられないのが一番だと。

 

 そして、やはりそれは正しかったと、八幡は先ほど自らの身で味わうことになった。

 

 一色とは、夏休みに偶然会った時のやり取りがあったので、お互いに遠慮の気持ちが無かった。それにおそらく一色は、俺のことなどはどうでも良いと思っているはずだ。だがだからこそ、今の俺にとっては会話をするのが楽な相手だ。

 

 好きの反対は嫌いではなく無関心だと言ったのは、マザー・テレサだったか。その言葉を最初に知った時には微妙な感情を抱いたし、今も「反対」という言葉には少し抵抗があるのだが、それでも無関心という項目を持ち出してくる感覚は理解できると八幡は思う。好意を向けられるのも嫌悪感を向けられるのも勘弁して欲しい時に、無関心というのは本当に助かるのだ。

 

 他人から認識すらされない状態は、やはりつらい。けれども、せっかく認識されても罵倒されるだけなら、それもつらい。場合によっては、下手に慰められるのもつらい。認識はされて、しかしすぐに目を逸らされる程度の無関心が一番良いと、そう思えてしまえる状況が時にあるのだ。

 

 つい先日も思ったことだが、俺は少し弱くなったのだろう。ぼっちとしての強度は確実に低下している。最近では、それが良いことなのか悪いことなのかも分からなくなってきた。少なくとも、この変化には良い面もあるのだと、知ってしまった。

 

 だからだろうか。以前なら突っぱねるだけだっただろうに、今もこうして一色の提案を受け入れている。文化祭の盛り上がりを離れて、見た目だけは本当に可愛らしい後輩と二人きりで、こんな場所に居る。そんな自分をふと俯瞰で見てしまい、不思議な気持ちに浸る八幡だった。

 

 

「それで、せんぱいは過去に何をしでかしたんですか?」

 

 一色の声に同情の色は無く、からかうような気配こそあるものの攻撃的なものではない。ただ待ち時間を過ごすための話題を提供するようにと、わたしを退屈させないようにと命じるお姫様のような物言いで問い掛けてくる。

 

 だから八幡も、変に虚勢を張ること無く、そのままを答えることができた。

 

「別に、ぼっちをやってただけだ。ただ、カースト下位の連中からしたら、いじりやすい対象だったみたいでな。さっき久しぶりにその連中に会って、昔と同じように見下してくるから、一言ちょっと言ってやっただけっつーか」

 

「でも、そのあと逃げてきたんですよね?」

 

「あー。その場に由比ヶ浜が居てな。俺が居ないほうが話が早いかと思って、後を任せたというか……はい、逃げました」

 

 少しだけ虚勢を張ろうとしたが、一色にじっと見つめられてあっさり陥落した八幡だった。

 

「結衣先輩が頼りになるのは分かりますけど……わたしもバンドのことで少し迷惑をかけたので、偉そうなことは言えないんですけどね〜」

 

 一色があいつを名前で呼ぶようになったのは、あいつの誕生日という名目で俺の家に集まった時だったよなと八幡は思い出す。そういえば、あの時に一色はケーキを焼いてきてくれたのだったか。女子の人間関係は八幡にとって、どうにもつかみ所のない部分があるのだが、一色でもあいつには気配りをするんだなと八幡は思った。

 

「まあ、確かに言い訳なんだがな。俺が何を言っても、俺が悪いって結論は変えそうに無い連中だから、俺が居てもできることが無いんだわ。情けねーけどな」

 

「何を言っても突っ掛かってくるような相手だと、当事者が場を外すのが正解なのかもですね〜」

 

 どことなく投げやりな口調ではあるものの、一色の発言に真実味のような感触を覚えて、八幡は一色の様子を窺う。ともに飲物を片手に手すりに片ひじを乗せて、ガラス越しに遠くを眺めながら横並びで話を始めたはずが。いつの間にか、顔だけはお互いに向けて話す格好になっていた。

 

「それが正解だとしても、なんか納得いかねーって気分は残るよな。でもま、ああいう連中に態度を変えさせるには、自分がカースト上位になるとか、肩書きを変えるようなことでも無いと難しいんだろうなって思ってたんだが。案外、そうでもないのかもなって思ったな」

 

「ん〜と。それって、どういう意味ですか?」

 

「自分の心の持ちようって言ったら、胡散臭そうに聞こえるかもしれんが。なんか、思ってたことを口に出せただけでも違うっつーか。それでもう解決なんじゃねって思ったんだわ。ちょっと分かりにくいか?」

 

「そうですね〜。せんぱいがカースト上位になるとか、その人たちが絡んで来ないような肩書きを手に入れるのは、難しいだろうな〜とは思いますけど……」

 

「おい。お前、分かってて言ってるだろ。つーかそれは俺も重々承知してるから、わざわざ言語化しないでくれない?」

 

「え〜。ちょっとした冗談じゃないですか〜。あとせんぱい、お前呼びは借り一つだってさっき言いましたよね?」

 

「うげ、マジか……。まあ、通じてるみたいだし話を戻すぞ」

 

 意外に素直に借り一つを受け入れている八幡を見て、却って言い出したほうの一色が、何か悪いことを押し付けているように思えてしまう。そんな軽い罪悪感を払いのけるような気持ちで、時おり強く吹く風には語尾を伸ばすことで対応しながら、一色は話を続ける。

 

「その人たちに向かって、今までは言えなかったことを言えたから、せんぱいの中では解決したような気持ちになったってことですよね。でも結衣先輩とか、あと雪ノ下先輩とかも、その話を聞いても解決したとは思わないんじゃないですか?」

 

「まあ、そうなんだよな。あいつらが対策を立ててくれたり動いてくれるのは嬉しいんだが……」

 

「せんぱいって、あれですよね〜。付き合ってるのに何度も何度も『好き』って言わせて、相手の気持ちを確かめないと気が済まない人みたいですよね〜」

 

「え、っと。なんでそうなるんだ?」

 

「だってそうじゃないですか〜。自分の中では解決してるって言うのなら、結衣先輩とか雪ノ下先輩には動かなくていいって伝えればいいだけなのに、それは言わないですよね?」

 

 あの二人なら、自分のために動いてくれるのだろうと思っていたし、それは二人を信頼しているからだと思っていたが。もしかすると俺は、二人を試すようなことをしているのかもしれない。八幡はそう考えて自己を省みる。だが考えれば考えるほど、それを否定する材料が皆無に近いと思い知らされるだけだった。

 

「そ、れは……」

 

「あ、別にそれが悪いって意味じゃないですよ〜。確かめられて嬉しいって人も、大勢いるみたいですし。それに、せんぱいの中では解決してるっていうのも、いいことだと思いますけどね〜。それって、言ってみて初めて分かった、みたいな感じだったんですか?」

 

「あー。正直に言うと、葉山の受け売りなんだわ。あいつが前に『第一歩を踏み出すのが一番難しい』とか言ってて……あ、いや。その前に雪ノ下も言ってたな。たしか『たとえ小さなことでも、成功の一歩を踏み出せれば違ってくる』とか何とか。だから、解決策は既にあったんだよな。俺が気付かなかっただけで」

 

 

 雪ノ下陽乃と話し合いをした時に、葉山が口にした言葉を。そして取材に来た記者たちを眺めながら、部長様と映像通話を行った時の言葉を、八幡は思い出していた。だが感傷に浸る時間など与えぬとばかりに、一色が食い付いてきた。

 

「もしかしてせんぱいって、葉山先輩とかなり仲がいいんですか?」

 

「いや、特に深い関係には無いから止めてくれ」

 

 とある腐女子からの悪影響によって、反射的に拒絶反応をしてしまう八幡だった。もしも万が一何かの手違いが起きて俺の抱き枕とかが販売される運びになったらあの人に買い占められそうだよなと、八幡は思わずそんな妄想を働かせてしまう。だが、一色にとっては関係の無い話だ。葉山が腐の世界にでも堕ちない限りは。

 

「あ、そっか。考えてみれば、千葉村でも一緒でしたよね〜」

 

「おい。もしかしなくても、俺が居たのを忘れてただろ?」

 

 こてんと首を動かして「なんのことですか?」と伝えてくる一色に、八幡は盛大なため息で応える。一色に俺への関心が無いというのは、たしかに今の心境的には助かるのだが、このままだと変な性癖に目覚めそうだなと思ってしまった八幡だった。

 

「じゃあ……さっきの借り一つですけど、葉山先輩のレアなネタ一つでどうですか?」

 

「有志のトリでバンドをやるらしいぞ。これで返済完了だな」

 

「それって、わたしも出るんですけど……。レアには程遠いネタじゃないですか〜!」

 

 そういえば、ハニトーの返済はどうしようかなと考えながら八幡が気軽に答えるも、当然ながら一色は納得しない。最初は呆れながらの返事だったのが、徐々にお怒りの度合いを見せていた。仕方が無いので、八幡は話を逸らすことにする。

 

「んで、おま……一色も同じような感じだったんだろ。クラスの出し物とかが原因かね?」

 

「え、せんぱいちょっとキモいです。それって、俺だけがお前を理解してるんだぞ的なあれですか?」

 

 しかし一色からの反応は散々なものだった。途中からは少し早口になったものの、それほど長い台詞では無かったので、八幡は何とか聞き取ることができた。

 

「違うっつーの。出し物は何をしてるんだ?」

 

「む〜。一応は喫茶店になると思うんですけど、手作りのケーキとかお菓子を売りにしている感じですね」

 

「あー、あれか。味覚の問題とかで揉めたのかね。さっき由比ヶ浜とも、食べ物を扱ってるクラスとかが一斉に修正を出してきたら大変だなって話をしてたんだが……明日は、裏方の仕事なら手伝っても大丈夫かね?」

 

「その、尋ねておいて勝手に悩み始めるのはどうかと思うんですけど〜。でも、せんぱいだし仕方が無いですね……」

 

「あ、すまん。どうせ、お前が上手に作ったケーキとかに、変な言い掛かりを付けられたんだろうけどな。美味しいものが理解できない可哀想な奴なんだと思って、憐れんでおけば良いんじゃね。実際、お前の手作りケーキってかなり旨かったからな」

 

「あれっ。せんぱい、いつわたしのケーキを……って。あ、ああ〜っ!」

 

 八幡の二度にも及ぶお前呼ばわりすら、一色の頭には残らなかった。八幡としては、先ほど思い出したケーキの話を気軽に出しただけのつもりだったのだが、一色にとっては一大事である。

 

「せんぱい。今すぐ綺麗さっぱり忘れて下さい。あれは無かったことにしてくれると、ひっじょ〜に助かります!」

 

「は。何言ってんのお前?」

 

「だから、ケーキを食べたのは無かったことにして下さいって言ってるのに〜。もう、なんで、よりにもよって、せんぱいなんですか。わたし、初めてだったのに。知らない間に食べられちゃってたなんて……」

 

「ちょ、おま。ちょっと語弊がある言い方は止めて欲しいというか、話がぜんぜん見えて来ないっつーか、むしろ嘆きたいのは俺の方なんだが……」

 

「だからわたしの初めてを返して欲しいって言ってるじゃないですか〜。無かったことにして下さいって……」

 

「誰にも聞かれてないからいいけど、その表現は本気で誤解を招くから止めてくれって……」

 

 二人に宛ててメッセージが届いていることにも気付かず。八幡と一色はしばらくそんなふうにして、奇妙な言い争いを続けるのだった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、二年F組の教室を雪ノ下雪乃が訪れていた。そこで待っていた由比ヶ浜結衣を始めとする女子生徒たちから、まずは簡単に事情を聴取する。

 

「そう。話は概ね理解できたのだけれど……」

 

 そう言って、雪ノ下は周囲の面々を順に視野に入れた。由比ヶ浜のすぐそばには三浦優美子と海老名姫菜が控えている。そして三浦の隣には葉山も居て、その横には戸部翔の他に大岡と大和も居る。雪ノ下が女性陣と話をしている間に、情報を聞いた彼らもまた教室まで戻ってきたのだ。

 

 少し視線を伸ばすと、八幡に代わって廊下で受付の仕事をしている川崎沙希の後ろ姿が目に入った。先ほど教室に入る時に一言、事態の収拾を頼まれている。その期待には背かないと雪ノ下は思う。

 

 その他のF組の生徒たちは、こちらを遠巻きに眺めている。それなりの数の生徒が控えているが、いずれも噂を聞いて徐々に集まって来たのだろう。その中に相模と、相模と同じグループと思しき一団を認めて、雪ノ下は彼女らの様子を記憶に止めておく。何かを言いたげな海老名の目の動きからして、彼女らには注意を払っておくべきだろう。

 

「比企谷くんが中学生の時の話が、今回の事態の引き金になっていると考えて良いのよね。とはいえ、あまり過去の話を大勢に広めるのは良くないと思うのだけれど……あなた達は他に何か、今回の件に関して気になることとか、知っていることはあるのかしら?」

 

 クラスのその他大勢に向かって、雪ノ下は問い掛ける。教室に居る生徒全員が、自分の発言をしっかり耳にしていると理解している雪ノ下は、まずはそこから片付けようと考える。首を横に振るばかりで有用な情報をまるで持たない生徒たちを、雪ノ下は笑顔でねぎらった。

 

「ありがとう。また何か気になることを思い出したら、私でも由比ヶ浜さんでも良いから連絡をしてくれると助かるのだけれど……お願いね。では、相模さんはどうかしら?」

 

「う、うちは……さっき、ゆいちゃん達に言ったので全部なんだけどさ」

 

「そう、分かったわ。お友達も同じだと考えて良いのよね?」

 

「う、うん。みんなうちと一緒に居たし、うちらしか知らないような話は無いんじゃないかな」

 

 そう答えた相模に一つ頷きを返すと、相手は目に見えてほっとしたような表情を浮かべた。相模個人には問題は無さそうだと考えつつ、雪ノ下は教室にいる全員に言い聞かせるように言葉を発する。

 

「では、文化祭実行委員会の副委員長として、そして比企谷くんが属する奉仕部の部長として、この件は私が預かります。生徒のプライバシーを考慮して、会話は外部に漏れない設定にするつもりなのだけれど。こちらのことはあまり気にしないで、せっかくの文化祭なのだし楽しんで来て下さい」

 

 雪ノ下がそう告げると、安心したように大勢の生徒が教室から出て行った。その中には相模たちの姿もあったが、特に誰もそれを咎めようとはしない。何人か手持ち無沙汰な様子の生徒が教室に残っているものの、それを気にすることなく音声の設定を行うと、雪ノ下は周囲の者だけに聞こえる声で話を始めた。

 

 

「先週、姉さんが来て、私と葉山くんの過去の話が噂になった時に、ここに居る人たちには何もメッセージが届かなかったと言っていたわよね?」

 

「ああ。たぶん俺に直接情報が行ったりとか、優美子に情報が行って怒られたりするのを避けたかったんじゃないかな」

 

 葉山の返答に一つ頷いて、雪ノ下は思考を進める。対八幡という観点から生徒間の関係性を整理すると、反対派の急先鋒は相模一派と考えて良いのだろう。相模本人が微妙な立ち位置なのは良い意味でも悪い意味でも気になるが、それはひとまず置いておこうと雪ノ下は思う。

 

 そしてその他大勢は中間派と考えて良いのだろうが、情報次第でどちらにも転びかねないとはいえ、現時点においても八幡に批判的という域には至っていないように見えた。

 

 確実に八幡を擁護してくれると期待できるのは由比ヶ浜・三浦・海老名・川崎の四名だけだが、先週の一件におけるメッセージ伝達の範囲からして、葉山以下の男子生徒四名は反対派から味方とは見なされていない。ならば遠慮なくこちら側に取り込ませてもらおうと雪ノ下は思う。

 

「そういえば、戸塚くんの姿が見えないのだけれど?」

 

「さいちゃんにも、情報は伝わってると思うんだけどさ。二回目の公演が終わってから、テニス部の後輩に相談を受けたみたいで……やっぱり無理にでも呼んだほうがいいかな?」

 

「大丈夫よ、由比ヶ浜さん。その必要はないわ。戸塚くんには別ルートで動いて貰ったほうが良いと思うのよ。だから、もしもメッセージが来たら、そう伝えて貰えるかしら?」

 

「うん、わかった!」

 

 そのまま雪ノ下は頭の中で状況を整理する。八幡に代わって受付をしてくれている川崎は動かせないが、自分を入れて八名の手駒があれば、何とかなりそうだと雪ノ下は思う。

 

「まずは明日の対策から話を始めるわね。比企谷くんの中学の同級生は、明日も来るという話なのだけれど。相手がいつ来るか分からないという状況は避けたいわね」

 

「……それなんだけどさ。俺たちに任せてくれないかな?」

 

「ああ。さっきこの三人で話してたんだけどさ」

 

「俺っちも大和も大岡も、去年から練習試合とかで、他の高校とは繋がりがあるんだべ。リアルの連中に連絡するのは難しいけど、海浜とか、この世界に巻き込まれた連中だったら簡単に連絡できるっしょ!」

 

 三人の男子生徒からの意外な反応に、雪ノ下は訝しそうな視線を向けている。しかしそれにも怯むことなく、三人は自分たちに任せて欲しいという意図を態度で示していた。一学期にF組で妙な噂が広まった時には、雪ノ下にあれほど怯えていたというのに。今の彼らは一歩も引く気配を見せない。

 

「その、もう少し詳しい理由を聞いても良いかしら。戸部くんは千葉村でも一緒だったけれど、大岡くんと大和くんは率直に言って、比企谷くんとそれほど仲が良かったとは思えないのだけれど?」

 

「罪滅ぼしって言うと変かもしれないけど、俺たちがもっとしっかりしてたら、ヒキタニくんを変な噂に巻き込むことも無かったんじゃないかってさ」

 

「あの頃の俺らって、正直に言って隼人くんに頼り切りっていうかさ。そんな情けない関係じゃなくて、男連中でしっかり関係を作れていたら、あんな噂とか無かったはずだって」

 

「俺っちは、そこまで深く考えて無かったべ。でもま、ヒキタニくんが困ってるなら、動かないわけは無いっしょ!」

 

 大岡も大和も、過去の自分たちの罪業がバレても良いと言わんばかりの態度で、雪ノ下と向き合っていた。既に噂が広まってから数ヶ月が過ぎて、今更あの時の犯人を追求しても誰の得にもならない。そんな現状を理解して、自己保身のためではなく要らぬ混乱を招かないために、二人は詳しい話に関しては口をつぐむ。

 

 それはやはり卑怯な振る舞いなのだろうと二人は思う。だが、言うべき時を逃してしまうと、言っても仕方が無くなるのだということを、二人はこの数ヶ月間で身を以て理解した。噂を流すという馬鹿げた行動に出た自分たちが悪かったのは当然として、悔い改めるのを許されないことが、誰にも話せない秘密を抱えて生き続けることが、これほど辛いとは二人は思ってもいなかった。特に、何も知らない戸部のことを思うと、二人はやりきれない気持ちになる。

 

 だが、それもこれも全ては自分たちが招いたことだ。それに、一人で抱え込まずに済んでいるだけ自分たちは助かっている。そう考える二人は、自分たちが八幡の役に立てる機会を見逃そうとは思わない。こんな程度では自己満足に過ぎないと分かってはいても、それでも行動に出ないという選択肢は彼らには無い。八幡と、そして戸部のためならば、自分たちが動くのは当たり前だと彼らは思う。

 

 すぐ近くでは鼻から大量の血を流している者がいるが、介抱係の金髪のおかんを除けば誰もそれには反応していない。三人の男子生徒を順に何度か眺めた後で、雪ノ下が口を開いた。

 

「貴方たちが言いたいことは分かったわ。でも一つだけ。葉山くんを除け者……というと語弊があるかもしれないのだけれど。葉山くんとは別行動なのは、何故かしら?」

 

「こっちは聞き込みみたいなものだしさ。とにかく動けば動くほど成果が出るような仕事だから、俺たちだけでも大丈夫だって」

 

「隼人くんには、もっと頭を使うような役割を任せたら良いんじゃないかって。俺ら、昔は隼人って呼んでたのに、いつの間にか隼人くんになってるしな。雪ノ下さんが凄いのは知ってるけど、隼人くんもけっこう凄いんだぜ?」

 

「ヒキタニくんが困ってるから教室ではあんまり話しかけない方が良いぞ、とかって、隼人くんはいつもいいアドバイスをくれるんだべ。俺っちとかだと雪ノ下さんの発想についていくのは難しいけど、隼人くんなら何とかなるっしょ!」

 

「そんなおだてるようなことを言っても、俺だけを仲間外れにした事実は消えないからな。じゃあ、そっちの方は頼む。ヒキタニくんと同じ中学の生徒を見付けて、明日の予定を聞き出すこと。それを、できるだけ目立たないようにやって欲しい。できるか?」

 

「おう」

「俺も大丈夫」

「目立たないように頑張るっしょ!」

 

 約一名だけは微妙に不安が残るので、後で葉山の監督下において行動させることになった。戸部だけを残して、大和と大岡はそのまま校外へと去って行った。

 

 

「では、闖入者たちへの対策は一旦終わりにして、次に行きましょうか」

 

「え、でも。もし予定を聞き出せなかったり、相手に話が伝わったりしたら……」

 

「大丈夫よ、由比ヶ浜さん。その場合でも何とかなるようには備えておくから」

 

 二人のやる気を削がないためにも口には出さなかったが、雪ノ下は運営を巻き込むことを考えていた。この世界での仕様によって、八幡と中学の同級生とのやり取りは揉め事と認定され録画が残っているはずだ。話を聞く限り、彼らを出禁にするほどでは無さそうだが、要注意人物としてリストに入れるぶんには問題ないだろう。

 

 その場合、現実世界の校舎前にて来訪者の選別をしている運営の人たちが(今回の場合は、正確にはリストを参照したAIが)彼らを認識した時点で連絡が入るので、時間的な余裕はさほど無い。だから二人が首尾良く情報を得てくれた方が助かるのは確かだが、失敗に終わっても何とかなるという雪ノ下の言葉もまた事実だった。

 

「問題は、クラスへの影響と文実への影響だね。クラスはこんな感じだけど、文実のほうは?」

 

「私の目が届く範囲では問題は起きないと思うのだけれど。比企谷くん個人への不満ややっかみは、少なくないというのが正直なところね。だから出回る情報次第では、少し面倒なことになるかもしれないわ」

 

「姫菜が復活したら詳しい話を聞いて欲しいんだけど、どうも相模さんの一派が、ヒキタニくんの話をおもしろおかしく広めてるみたいでさ」

 

「さがみん本人は、そんな感じじゃ無いんだけど……」

 

「そうね。当人よりも話を聞いた周囲のほうが、激高したり過激な行動に出るケースがあると思うのだけれど。今回もその形だと考えて良いのかしら?」

 

「あんまり認めたくは無いけど、そんな形だろうね。俺もそれとなくは宥めてるんだけど、すぐに違う話を始めたりして、ちゃんと聞いてはくれないしさ」

 

「振られた本人よりも、周りが『どうして振ったんですか!』って言ってくるようなパターンだべ?」

 

「その具体例は適切だと思うのだけれど、何だか頭が痛くなってくるわね……」

 

 雪ノ下と葉山のやり取りを中心に、時おり由比ヶ浜と戸部が口を挟む形で話が進んでいた。ようやく血が止まった海老名は、三浦の膝に頭を乗せて、女王様にうちわで扇がれながらぐったりしている。そんな二人の様子を見て少し気持ちに余裕が生まれたのか、葉山が気楽な口調で尋ねる。

 

「でもさ。雪ノ下さんなら、何か良い案が浮かんでるんじゃない?」

 

「そうね。……一応、考えている案はあるのだけれど。ただ、比企谷くんへの悪印象がこれ以上広まれば、どうなるかは分からないわね」

 

「そんな、ヒッキーがこれ以上って……」

 

「ええ。だから由比ヶ浜さん……あなたを頼らせてもらっても、いいかしら?」

 

 静かな口調に強い信頼を潜ませて、雪ノ下がそう尋ねる。一瞬だけ驚きの表情を浮かべた由比ヶ浜は、すぐに破顔してこう答えた。

 

「そう言ってもらえるの、待ってたよ!」

 

「葉山くん、聞いての通りよ。私と由比ヶ浜さんはそちらに集中したいので、貴方は状況をこれ以上悪化させないように、采配を執って欲しいのだけれど」

 

「俺が、かい?」

 

「だって、隼人くんしか居ねーべさ?」

 

「戸部くんの言う通りよ。大和くんと大岡くんの推薦もあるのだし。それに、貴方は比企谷くんとはクラスメイトでしょう。明日もこのクラスを訪れることが予想される闖入者への対応は、全て貴方に一任するわ。それと可能な範囲で良いので、変な情報が回りすぎないように、ある程度の統制をして貰えると助かるのだけれど?」

 

「ちょっとそれは、陽乃さん並に要求が高くないかな。でもま、せっかくの雪ノ下さんからのご指名だし、俺ができる範囲のことはするよ。戸部、それから優美子と姫菜も協力して欲しい。じゃあ……ここで二手に分かれようか」

 

「ええ。では、お願いね」

 

 

 その言葉に見送られて、葉山は二人からは少し距離を置いて、自身が引き連れた面々と相談を始める。それを眺めながら、雪ノ下は由比ヶ浜に話しかけた。二人だけで相談ができるのならば、隠すことは何も無い。

 

「由比ヶ浜さん。まずは役割分担なのだけれど。明日は仕事が山積みになりそうだし、比企谷くんを遊ばせておく余裕は無いと思うのよ。だから……申し訳ないのだけれど、比企谷くんを私と由比ヶ浜さんの監督下に置いて、ほとんどの時間を三人で過ごす形になると思うわ」

 

「え、っと。別にそれで大丈夫だけど……ゆきのんは、何か気になることでもあるの?」

 

 由比ヶ浜には隠すことなど何も無いのだが、雪ノ下はどこか奥歯に物が挟まったような言い方をしてくる。それを不思議に思って問い掛けると、雪ノ下は慌ててかぶりを振った。

 

「いえ……その、クラスにはほとんど顔を出せなくなると思うのだけれど、大丈夫かしら?」

 

「うん、今日の調子だとぜんぜん大丈夫。姫菜は、まあ、話題によってはあんな感じになっちゃうけど、クラスの出し物のことは超真剣にやってるしさ。優美子も居るし、サキサキもさりげなくフォローしてくれたりするから、心配しないで」

 

「そう。では本題に入るわね。私は今からプログラムを組もうと思うのだけれど……」

 

「それって……でもさ、ヒッキーだと……」

 

「なるほど、確かにその通りね。では、由比ヶ浜さんには動きの確認と……」

 

「うん、大丈夫。ゆきのんの負担が大きいかもだけど、あたしも傍で一緒に見てるからさ」

 

「仕事の量は重要ではないわ。由比ヶ浜さんが今言ったように、私が困った時に傍に居てくれて、貴女に頼れる時には頼れるというだけで、その、それが、重要なのよ」

 

「照れてるゆきのん、可愛いなー。って、その目はちょっと、怖い、かも……」

 

 詳しい打ち合わせも順調に終わって、二人は何やらじゃれ合っている。珍しく年相応のふくれっつらを見せていた雪ノ下が、ぽつりとつぶやく。

 

「……比企谷くんの反応が楽しみね」

 

「だね。でもさ、正直に言うとあたし、ヒッキーにも怒ってるんだよね。一番はあたし自身に怒ってるんだけどさ。でも、相談してねって言ったのに……」

 

「そうね。誰かを見くだすことで仲間意識を作るようなのは嫌だと、由比ヶ浜さんが言っていた通りの相手だったのに。貴女が怒りたくなるのも無理は無いと思うわ」

 

「あれ。もしかして、ゆきのんも怒ってる?」

 

「ええ。普段は色々と屁理屈を言うくせに、こんな時だけ言い訳をしないで黙って立ち去るだなんて、ちょっと卑怯だと思うのだけれど。これでは、私たちも言い訳できないじゃない。もちろん、何に対しても誰に対しても言い訳をするつもりはないのだけれど、それを強いられるのは少し気に入らないわね」

 

「ちょ、ゆきのん、落ち着いて……」

 

「でも由比ヶ浜さんも、ちゃんと仕事をした人には、報われて欲しいと思うでしょう?」

 

「……だね。でもさ、それと同じぐらい『なんかもう!』って言いたい気持ちもあるんだよねー」

 

 そんなふうに八幡への不満を言い合いながらも、二人は楽しそうに笑顔を交わしている。誰かさんが今頃くしゃみをしているかもしれないわね、などと付け足しながら。

 

 

 そんな二人の様子とは対照的に、葉山たちは真剣な表情で話し合いを続けていた。葉山が話を主導して、そこに各々が口を挟む形で対策を進めていく。

 

「モニター越しに何かを言ってくるようだと対応が難しいけど……大岡と大和に言って、何とか部分的なログインをしてもらう形に誘導したいな」

 

「結衣から聞いた限りだと、モニター越しに何かを言ってくるよりは、ログインして直接言ってきそうな性格みたいだけどね。けどその場合でもさ、ログアウトして逃げられたら終わりなんだよねー」

 

「逃がさない方法か……ヒキタニくんなら何か考えつくかもしれないけど、俺には難しいな」

 

「隼人で難しいなら、ヒキオにも難しいと思うし。それに、居ない奴を頼っても仕方が無いし」

 

「優美子のそのフォローは嬉しいけどさ。ヒキタニくんの思考経路って、どこか独特な気がするんだよね。だから俺とか、時には雪ノ下さんにだって思い付けないようなことを、ヒキタニくんなら言い出すんじゃないかなって。俺の変な願望なのかもしれないけどさ」

 

 そう言ってからしまったと思って海老名の様子を窺うも、どうやら真面目に頭を働かせるモードに入っているみたいだ。もしかしたら血が枯れてしまったという可能性もあるのかもしれないが、深くは考えないでおこうと葉山は思った。

 

「じゃあ、ヒキタニくんに連絡を取ってみるべ?」

 

「いや、それは止めておこう。俺たちが連絡するよりも適任が居るし、たぶんもう動いてるんじゃないかな」

 

 葉山は思う。今回のクラスで行われた劇の共演者として、あいつのことは俺がよく知っている。俺が一番とは思わないし、そこに拘るつもりも無いが(そこに拘り始めたら身の破滅だと、葉山は再び海老名の様子をこっそり窺う)、彼に任せておけば大丈夫だと思えるほどには彼のことを知っている。その「彼」という呼称が正しいのか、一抹の不安は残るのだけれど。

 

「確実を期すなら、外部の協力者が欲しいところだな。でも、連絡の手段が限られてるのがネックかな。よっぽど行動力がある奴とか、この世界の誰かに恩を感じてる奴がいたら、ニュースを見て連絡をくれるかもしれないけどさ」

 

「それって、どういう意味だべ?」

 

「まあ、あり得ない話だけどね。俺たちのリアルの自宅まで訪ねて来てくれるような奴が居たら、親に音声通話を繋いでもらって、そのまま詳しい相談ができるだろ?」

 

 それが奇しくも、午前中に八幡が由比ヶ浜たちに説明した案と同じであることを葉山は知らない。そして、自分の説明を聞いた戸部が何かを考え込んでいることにも、葉山は気付かなかった。

 

「……たぶんだけど、大丈夫な気がするべ」

 

「ああ。始まる前から悲観的なことを考えていても仕方が無いからな。雪ノ下さんも考えてると思うけど、運営を巻き込んで何とか逃がさないような形を整えて、上手く話を付ける方向で行こう。じゃあ、もう少し話を詰めていこうか」

 

 そうして、彼らの話し合いはそのまましばらく続くのだった。

 

 

***

 

 

 話し合いが終わってからも、サッカー部の繋がりを活かして他校の生徒たちと連絡を取って。再び合流した大和と大岡も交えて四人で夕食を済ませると、戸部は葉山たちと別れて、個室からショートカットで自宅に移動した。

 

「こんな時間に呼び出すのは……気が引けるけど仕方ないべ」

 

 そうつぶやいて、戸部は両親に向けて映像通話を申請する。戸部の頼み事を聞いた両親は息子の非常識を指摘したが、最後には言う通りにしてくれた。そして。

 

「これでたぶん大丈夫だべ。たぶんだけど」

 

 そう言って、戸部は明日に備えてそのまま眠りに就いた。

 

 

***

 

 

 八幡の一件を報告されて、しかし城廻めぐりは雪ノ下に全てを一任した。可能ならば先週と同じように動きたかったが、当事者のフォローはあの子たちに任せようと城廻は思う。それよりも、今の城廻には、他にやるべきことがあるのだから。

 

「もしかしてあの時、はるさんは何か予感があったのかなー?」

 

 生徒会役員たちと別れて帰宅の途に就いた城廻は、ふと先日の水曜日のことを思い出した。卒業生代表として総武高校を訪れた陽乃と、ホテルのレストランで会食した時のことを。

 

 

『文化祭は順調そうだけどさ。めぐりが気にしてた、あっちのほうは?』

 

『うーん、なかなか人材が出てこないんですよね。雪ノ下さんが凄すぎるのもあって……』

 

『まあ、雪乃ちゃんがどう動くかだけどさ。他に具体的な候補は?』

 

『誰も出なかったら、本牧くんが出るとは言ってくれました。でも、どちらかと言うと縁の下で支えるのが合ってるって、本人も自覚してて……』

 

『雪乃ちゃん以外にもう一人いた、あの副会長ちゃんは?』

 

『まだ一年なのと、誰か支えてくれる人が居たら良いんですけど、もともと気弱な性格みたいで。本牧くんと組み合わせるにしても、もう一人ぐらいは強力な支え手が欲しいですねー。今の段階だと書記ぐらいが適任だと思うんですけど、でも、立候補して人前で演説とか大丈夫かな?』

 

『その辺りは、じゃあさ。めぐりの任期中に規約を変えて、人前に出るのが苦手な人材を逃がさないように、会長だけを選出するのも一つの手だね。それで、選ばれた会長が他の役員を指名……だと権限が強くなり過ぎるか。じゃあ、人事案込みで会長選挙って形が無難かもね』

 

『でも、立候補が出ないと結局は……』

 

『それは、わたしにも何ともできないよねー。勝手に向かって来るような人材が居たら、話は楽なんだけどさ』

 

『そういえば会長って、いつもはるさんに挑みかかってましたよね。「絶対に先輩の思い通りにはさせないよ。絶対に」って、あの時の会長、格好良かったなぁ』

 

『こらこら。今の生徒会長はめぐりなんだから。でも、確かに懐かしいね。あの子なら、めぐりが困ってたら飛んで来るんじゃない?』

 

『どうしても会長って言うとあの人を思い浮かべちゃって。どんな呼び方よりも、会長って呼ぶのがしっくり来るなーって』

 

『めぐり。もし困ったことがあったらね、現実世界のあの子を呼び出すことも、頭の片隅に入れておいたら良いよ。この世界と現実とで、分断されてるように思うかもしれないけどさ。あの子の行動力なら、そんなの問題にもならないよ。たしかご両親とも顔見知りだったよね?』

 

『うーん。そんなふうに会長に迷惑をかけたくはないんですけどねー。でも、そうですね。後輩たちを守るためなら、その手もあるって覚えておきます』

 

『うん、そんな感じで良いんじゃない。でも正直に言うと、文化祭であの子を呼び出すような事態には、なって欲しく無いなー。せっかく管弦楽部のOB・OGを集めて、土曜日の有志に出る予定だからさ。ま、そうなったとしても、めぐりの判断は尊重するけどね。そういえば、比企谷くんが……』

 

 

 自宅に帰った城廻は、両親に向けて映像通話を申請する。よく知った仲とは言え、こんな時間に呼び出すのは非常識だと、怒られるかもしれないなと身構えていた城廻だが。自分の認識が甘かったことに、かの人の行動力をずいぶん低く見積もっていたことに、城廻は程なく気付かされるのだった。

 

 

***

 

 

 戸塚彩加からの快諾を得て、妹に連絡を入れた上で意気揚々と待ち合わせ場所に向かった八幡だったが、そこには怪しげな男が待ち受けていた。いつもと変わらぬ彼の服装を、今更どうこう言う気にもなれない八幡は一言、念のために確認を行う。

 

「……戸塚だよな?」

 

「然り。かの御仁の海よりも広き思いやりと海よりも深き心配りには、拙者つくづく感服つかまつった!」

 

「お前の比較対象って海しかないのかよ……」

 

 一日分の疲れがどんと肩の上に乗っかってきた気がしたが、這いつくばった姿勢で戸塚を迎えるわけにはいかない。疲れるようなことばかりを言ってくる材木座義輝の相手を適当にこなしながら、八幡は一日千秋の思いで戸塚を待った。幸いなことに、さほど時間を置かず戸塚が姿を見せる。

 

「その、城廻先輩にも連絡してみたんだけどね。どうしても外せない用事があるから八幡に謝っておいて欲しいって、逆にお願いされちゃって……」

 

「いや、そりゃ生徒会長なんだし、文化祭の初日だし、仕方ねーだろ。つか、城廻先輩が忙しいのって、俺が問題を起こしたのが原因かもしれないしな。もしそうだったら、こっちが謝らないと……」

 

「その辺りの詳しい話は聞けなかったんだけどね。じゃあ、行こっか」

 

 駅前なら何でもあるし、と言って二人を先導する戸塚の背中を、八幡は頼もしげに眺めている。何でもあるところに行けば良いって、実は八幡に教えてもらったことなんだけどなと思いつつ。背中に視線を感じながら、戸塚は第一候補のお店の近くで足を止めた。

 

 

 二人から同意を得られたことで、戸塚はイタリアンなチェーン店に足を踏み入れた。何度か来たことがあるだけに三人とも慣れたもので、それぞれ好きな食べ物とドリンクバーを注文する。

 

「詳しい話は、あんまり聞かないほうがいい?」

 

「いや、なんつーか……俺の中では、結構どうでもいい話になってたりするんだけどな」

 

 食べながら話に加わろうとする材木座を「行儀が悪い」と言って排除して、八幡はそのまま戸塚と会話を続ける。

 

「我慢してるとかじゃなくて、八幡は別に平気だってこと?」

 

「なのかね。あいつらに思ってることをそのまま言えたから、後はもういいやって感じになったんだよな。まあ、今更かよってのは自分でも思うけどな」

 

「でも、今更って言うけどさ。八幡が気にならなくなったのなら、それはいいことだって思うんだけど……」

 

「それ、さっきも……自分の中で解決してるならいいか、ってな。俺もそれは思うわ」

 

 一色にも同じことを言われたなと思い出した八幡は、彼女と会っていたことをどう説明したものやら迷ってしまい、結局は話を濁した。少しだけ間を置いて、そのまま八幡は言葉を続ける。

 

「でもな。この間ちょっと思ったんだが、それって雪ノ下が小学生の時には克服してたことだったりするんだよな……」

 

 先ほど中学の同級生と対峙していた時に思い出したことを、八幡は内心で繰り返す。

 

『優しい性格の持ち主ほど、貧乏くじを引くことになる。自分が動いた結果が、自分が誰かを選んだ結果が想像できてしまって、あげく何もできなくなるからだ』

 

 雪ノ下は小学生の時に一度は何もできなくなって、しかしすぐに自ら動いてその状況を打破した。俺は高二にもなってようやく、自分から動くことができた。そういえば、あまり意識はしなかったが、あの時に動けたのは「自分から行く」と宣言した由比ヶ浜の影響もあったのかもしれない。気付かないうちに、あいつから勇気をもらっていたのかもしれないなと八幡は思った。

 

 

「八幡は、雪ノ下さんと由比ヶ浜さんとは、対等でいたいんだよね?」

 

「そう……かな。まあ、そうだな。部長と部員とか、それぐらいの格差なら気にしないんだが、明確な上下関係になるのは嫌かもな」

 

「ぼくからしたら、八幡は雪ノ下さんや由比ヶ浜さんと同じぐらい凄いなって思うけどなぁ。あ、そういえばね。八幡の今日の話を聞いて、ぼく、韓信の股くぐりの話を連想したんだけど……もしかして、意識とかした?」

 

「あー、その、あれだ。正直、意識はしたんだけどな。でも、大人しく股をくぐる域には程遠いなーって」

 

「平然と股くぐりができちゃう韓信って、やっぱり凄いよね。でも八幡もさ、思いがけない手で相手に一撃を浴びせて、それですぐに撤退しちゃうって、やっぱり韓信みたいだなって。それでね、色々とフォローをしてくれる由比ヶ浜さんが蕭何で、頭が良くて交渉とかもできちゃう雪ノ下さんが張良だって考えたら面白いなぁって。あ、勝手にそんなふうに言われたら、八幡も迷惑だよね……?」

 

「いや、今さら戸塚が何を言っても、迷惑とか思わねーから気にすんな。それに、その配役はなんか良いなって俺も思うわ。その……実は俺も同じようなことは考えてたんだけど、雪ノ下は劉邦だって思っててな。んで、さっき言ったようにあいつらとは対等でいたいから、配下になるのはなーとか妄想してて」

 

「でもじゃあ、劉邦って誰になるんだろ?」

 

「それなあ……。平塚先生もちょっと違うし、誰か他の人を据えるのもやっぱり違うしな。今んとこ三人で上手く役割分担ができてる気はするんだが、劉邦を皇帝にするとか、はっきりした目標みたいなのがないと、いつまで続くかって気もするんだよな」

 

 すっかり二人だけの世界に入っている八幡と戸塚を尻目に、材木座はせっせと追加注文を行っていた。

 

「八幡は、奉仕部って関係だけでは終わらせたくないって思ってるんだね」

 

「なんか、今日の戸塚は攻めてくるよな。まあ良いけど……そうだな。さっきのと似た話になるんだが、別の妄想を聞いてくれるか?」

 

 戸塚が大きく頷くのを見て、そのまま八幡は話を続ける。由比ヶ浜から相模の不幸体質を聞いて、その時に連想した古いラノベの話を。

 

「かなり昔の作品だから、名前ぐらいしか知らないかもな。俺も親父の本棚にあったから知ってるだけだし、それに今から話すのは『戦記』じゃなくて『伝説』のほうなんだけどな。まあ聖騎士みたいな奴がいて、暗黒戦士みたいな奴もいて、そいつらはいずれ覇権を掛けて争うしかないだろうって、みんな思ってたんだわ。けど大賢者さんがな、『二人の上に立つ人が居れば良いじゃない』とか言い出してな。子供心にすげーって思ったんだわ」

 

「あ、そういう話ってすごい好きかも。それで、どうなったの?」

 

「いや、それ以上はネタバレになるから、気になるなら今度貸すわ。んで、そこからはさっきの劉邦と同じでな。俺があいつらと対等で居るためには、何か上位の存在を置いたら良いんじゃね、的な」

 

「うーん。でもさ、誰か他の人が加わるのは嫌なんだよね。じゃあ、何か宗教とか……は難しいよね」

 

「それよりは、理念とかかね。ま、妄想の話はこれぐらいにしとくか。それより、あの後どうなったのか、聞いてもいいか?」

 

 

「あ、そうだね。えっと、相手はすぐにログアウトしたって言ってたよ。でも、自分たちが言ってることは本当だって、明日また来るって言ってたみたいで……」

 

「はあ。つくづく手間の掛かる連中だよな。何年も前の話に、よくそこまで拘れるもんだわ。自分らの話でも無いのにな」

 

 そろそろ仲間に入れて欲しい材木座が何やらわめいているので、話しながらつまめるものを注文しなかった奴に慈悲は無いと、八幡はそう宣告した。それを聞いて早く食べ終わることに専念し始めた材木座を見て、戸塚が苦笑いをしている。

 

「それから雪ノ下さんを呼んで、葉山くんとかと対策を練ってるって言ってたよ。それに、八幡が平気だとしてもさ。その、友達を悪く言われたら……ぼく、なんだか嫌だな」

 

「うむ。戸塚氏の言や善し。復讐するは我にあり。八幡よ、雪ノ下女史がその連中をけちょんけちょんにする様を、明日は鑑賞しに行くとしようぞ」

 

「お前、もう食べ終わったのかよ。あと、けちょんけちょんとか今日び使わねーからな。それに……まあいいや。とにかくお前の案は却下な」

 

 せっかく、可愛らしい戸塚の姿を頂きましたと勝利宣言が口から出かかったというのに、材木座の発言で台無しだ。あざとさを伴わない可愛らしさがどれほど尊いか、いつか絶対に解らせてやる。八幡はそんなことを思いながら、それでも律儀に材木座の相手をしていた。そんな二人を、相変わらず仲がいいなと微笑ましく眺めながら、戸塚が話を進める。

 

「それでね。こっちが待ち構えていても、ログアウトして逃げられちゃったら困るなって話になってるみたいでさ」

 

「あー、それはそうだよな。ログアウト、か……」

 

 戸塚の説明を受けて、八幡はしばし考察に耽る。部分的なログインの仕様は、今日一日で色々と理解できたつもりだ。初めは視覚と聴覚だけという認識だったが、ジェットコースターのがたがたを感じられないとか、味覚が不十分なのが原因なのに味に文句を言われたりとか。人間の感覚というのは不思議なもんなんだなと、思い知らされた気がした一日だった。そういえば……。

 

「なあ。もしかしたら、なんだけどな……」

 

 そう言って八幡は思い付いた仮説を説明する。それを聞いて目を輝かせている戸塚にはぎこちない笑顔を返し、「やるではないか」という視線を送ってくる材木座には罵倒で応えた八幡は、全く違う用事を思い出した。

 

「陽乃さんにメッセージを送るのを忘れてたから、ちょっと話から抜けるな」

 

 そう言って、文面を考える事に意識を集中する。

 

 

 水曜日に来校した陽乃に、八幡は一つ相談を持ち掛けた。陽乃に頼み事をすれば埋め合わせに何を要求されるか分からないので、普段ならそんなことはしないのだが、あの時の八幡には勝算があった。妹を絡ませて、その上で陽乃を楽しませることができれば、過酷な取り立ては回避できるのではないかと考えたのだ。

 

 しかし今となっては、その望みは潰えた。それどころか、多大な借りを作ることを承知の上で、頼まなければならないことがある。

 

 先ほど戸塚に説明したように、中学の同級生のことは八幡の中ではどうでもいい話になっていた。しかし他の生徒がどう思うかは別だ。自分に対するクラスメイトの対応を、そして実行委員の態度を冷静に観察してきた八幡は、静かに断を下す。この文化祭で、自分が表舞台に出るのは止めた方が良いと。

 

 それは、八幡にとっても苦渋の選択となる。あの二人と一緒にバンド演奏をする道が断たれるからだ。だが、文化祭の成功という一番の目標を優先するのであれば、仕方のない犠牲だと考えるべきなのだろう。

 

 そして、たった一日の練習時間で自分の代役を務められるような人材を、八幡は他に知らない。それに、自分のせいであの二人の演奏が聴けなくなるだなんて、そんな事態にはなって欲しくない。となると、八幡に取れる行動は一つだけ。

 

『明日のことで相談があるんですけど、少しで良いので話す時間をもらえませんか?』

 

 陽乃に宛ててメッセージを送って、八幡は身振りだけで「返事待ち」だと二人に伝え、そのまま目を閉じようとした。その時。

 

『高く付くから止めた方が良いと思うなー。清水の舞台から飛び降りて来なさい。お姉ちゃんより』

 

 間を置かず返って来たメッセージを見て、「あの人にはどこまでお見通しなんだよ」と八幡は思う。だが、そこまで言われたら仕方が無い。明日はできるだけ自分に罵倒が集まるように、あの二人が悪く言われるようなことの無いように、振る舞わなければならない。

 

 それが困難なことは理解できるのに。もしもあの二人が罵声を浴びるようなことになったら、自分がどんな行動に出るか八幡自身ですら予測できないのに。それでも、それに挑めることが八幡は嬉しい。あの二人と同じステージに立つ自分を想像するだけで、気分が高揚するのを感じる。

 

「……結局は、予定通りって感じだな。んで、何の話をしてるんだ?」

 

 八幡はそう言って、戸塚と材木座の話に加わった。男子生徒にありがちなくだらない雑談を堪能しながら、八幡は明日に向けて思いを馳せるのだった。

 




微妙に更新が遅れ気味で、申し訳ありません。
原因:なんで書き終わらないんだろ?→文字数確認→Σ(゚д゚;) ヌオォ!?

次回の更新は3月15日頃……は厳しいので、20日までには何とかという予定にさせて下さい。
その後の予定が厳しくなるだけなので、できる限り早めに更新したいとは思っています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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18.さっきまでの友人に彼女はとつぜん突き放される。

文字数の多さに加えて、本話にはオリキャラが登場します。ご注意下さい。
以下、前回までのあらすじ。

 外部からの客にお菓子の味が不評なのは、味覚に関するシステム的な問題なのに。その教室はレシピを提供した一色を糾弾しようとする女子生徒と、それに反発する男子生徒で真っ二つに割れていた。ひとまずこの場から離れたほうが良いと勧められて人が少ない場所へと向かった一色は、避難先で八幡と遭遇する。

 特別棟と校舎を結ぶ空中廊下に移動した二人は、お互いを(消去法的な意味で)気分転換には良い相手だと考えていた。二人の会話が途絶えることなく、時間があっという間に過ぎた意味を、二人はまだそれほど深くは理解できていない。

 同じ頃。二年F組の教室では、三浦たち三名と雪ノ下、更には葉山グループ四名も加わって話し合いが行われていた。予想外に協力的な大和と大岡には闖入者の明日の予定を探らせて、葉山・戸部・三浦・海老名にはF組における対処を任せると、雪ノ下は由比ヶ浜と二人で対策を練る。彼女らとは別に川崎も戸塚も、更には戸部も城廻も、各々ができることを率先して引き受け行動に移していた。

 戸塚と材木座と一緒に夕食を食べながら、八幡は明日の備えと、それから少し先の未来を見据えた雑談を交わした。そして文化祭は二日目を迎える。



 中央階段を昇った先には、屋上に繋がる扉がある。生徒たちが安易に外に出られないように扉には南京錠がかけられているし、人が通ることのない階段は今や文化祭の荷物置き場と化していた。

 

 その鍵が現実世界と同様に見かけ倒しであることは、女子の間では広く知られている。とはいえ障害物を乗り越えて屋上に出るのは面倒だと考えたのだろう。段ボールが階段を埋め尽くす手前の辺りで、女子生徒数人が早朝から集まっていた。

 

「だからー、今日のトップは雪ノ下さんじゃなくて南ちゃんでしょ?」

「っていうか、雪ノ下さんが凄いのは分かるけど、南が軽く扱われてるみたいで微妙だよねー」

「で、でもさ。昨日は予行演習みたいなものだから、本番の今日はうちに任せるからって……」

 

 その中の一人を焚き付けるように、会話が進む。

 

「じゃあ、相模が思った通りにやったらいいじゃん。文実で余計な対立を引き起こしたり、他校の生徒と問題を起こしたり。悪いのはあいつだって()()()言ってるよ」

「相模さんに同情してる生徒って、かなり多いと思うよ。実行委員の前でびしっと言ったら、()()()気持ちを引き締めるだろうし。それが相模さんの仕事じゃないの?」

「それって……うちがびしって言わないと、やっぱりダメなのかな?」

 

 彼女の逃げ道を塞ぐかのように。

 

「南ちゃんの優しさは、あいつには伝わらないんじゃない?」

「むしろ余計に調子に乗りそうだし、南がちゃんと言ったほうがいいって」

「文実の他の委員も、相模が注意してくれるのを待ってるんだと思うなー」

「相模さんが委員長らしさを見せないと、逆に雪ノ下さんに怒られちゃうかも?」

 

 どうしてみんなバラバラなのだろうか。仲の良いグループなら、普通はだいたい呼び名が同じになると思うのに。うちの場合だけ、どうしてここまでバラバラの呼び方になるのだろうか。ずっと抱いていた疑問をこの日も胸の奥にしまって、相模南は自信なさげに彼女らに応える。

 

「そ、そうだよね。うちが委員長なんだしさ。ちょっと、頑張ってくる、から……」

 

 そう口にした自分を、目の前の面々が励ましてくれる。その声を、相模はずっと遠くに感じていた。こんなに身近に居てくれてるのに。去年はもっと仲が良かった(でもあだ名のセンスは微妙な)あのクラスメイトと話している時には、いつだって彼女をすぐ近くに感じられるのに。

 

 だが、眼前の彼女らに隔たりを覚えてしまった自分の弱気を、相模は強引に払いのける。

 

「そろそろ時間だし、体育館に移動しよっか」

 

 反論が出ないと分かり切っていることなら、こんなふうに自然に、堂々と、提案できるのに。内心ではそんなことを考えながら、相模は女子生徒たちを後ろに従えて歩き始めた。

 

 

***

 

 

 文化祭の二日目に当たる土曜日。生徒たちはこの日も午前九時に体育館に集合した。「特に連絡事項は無い」という教師陣の意向を生徒会長が伝達して、「今日も頑張るぞー」「おー」とみんなで唱和して、集まりはあっさりお開きとなった。

 

 基本的に総武高校は生徒たちの自主性を重んじる校風である。それに加えて文化祭の主役は生徒だと考える教師たちは、必要以上に表に出ないように心掛けていた。

 

 一般開放の十時に向けて、生徒たちは各所に散らばっていく。とはいえ文化祭実行委員だけは話が別で、これから会議室に集まってのミーティングがある。

 

「なあ。できる限り影を薄くしてるから、釈放して欲しいんだが?」

 

「貴方を一人で野に解き放てば、何をしでかすか分からないと思うのだけれど?」

 

「ヒッキーが大人しくしようって思ってても、面倒なことが向こうから来るかもだしさ」

 

 会議室に移動する生徒たちの中に、見目麗しい女子生徒二人に挟まれているにもかかわらず嘆き節の男子生徒が一人。言わずと知れた比企谷八幡が、今日も死んだ魚のような目で、しきりに周囲の反応を気にしている。

 

「どう贔屓目に見ても、目立ちまくってるんだよなぁ……」

 

 周りの生徒たちの感情を綜合すると、「速やかに爆発しろ」になるのだろうか。ラブコメ的なきゃっきゃうふふがあるわけでもなし、替われるなら替わってくれというのが八幡の本心なのだが、それを口にしても反感を増すだけの結果にしかならないだろう。

 

 一見したところ、綺麗と可愛いに挟まれて文化祭を満喫しているリア充。しかしてその実体は、怒らせると怖い二人に連行されている哀れな奴隷である。今日に限って言えば、八幡の自由意思はほぼ制限されている。自分が一悶着を起こしたのが原因なので、この境遇に文句は無いのだが。

 

「こいつらが二人揃ったら、それだけで存在感が凄いって、もうちょい自覚してくれないもんかね……」

 

 一日が始まって早々に、ぼっちになりたいと疲れた頭で考え始める八幡だった。

 

 

***

 

 

「じゃあ今から、文化祭実行委員会の話し合いを始めます。えっと、まずはうちから。昨日、他校の生徒と揉め事があって。その、お互いに言い分はあると思うんだけど。穏便に済ませたいから、あの。今日は、裏方に引っ込んでいてくれないかなって……どう、かな?」

 

 委員全体に向けてでも当事者にでもなく。相模は途中からは明らかに、傍らに座している雪ノ下雪乃に向かっておそるおそる問い掛けていた。小首を傾げる反応しか寄越さない雪ノ下に内心で焦っていると、逆側の席からフォローの声が上がる。

 

「その説明だと分からない人もいると思いますし。相模先輩、もう少し詳しく話していただけると……」

 

「あ、うん。……うちのクラスで起きたことなんだけど、噂でだいたいは聞いてるよね。ヒキタニくんと中学の同級生の間で言い争いみたいなのがあって、今日も来るって言ってて。だから、顔を合わせないようにしたほうが良いんじゃないかって、うちは思ったんだけど……」

 

 もう一人の副委員長である藤沢沙和子が助け船を出して、相模が話を進めると。

 

「この会議室は実行委員会の本部が置かれてるし、人の出入りも多いよな。じゃあ……奉仕部の部室でせっせと書類仕事でもやっとくわ」

 

「待ちなさい。貴方の場合、仕事をサボろうとする意図が無いのが逆に厄介よね。でも、率先して引き籠もろうとしても、残念ながらそれは通らないわ。今日は私と由比ヶ浜さんの支配か……監督下に置いて、もしも当事者が再び来校したら公衆の面前で引き合わせようと思っていたのだけれど?」

 

 予想外に乗り気な様子で、当の八幡が相模の提案を受け入れようとしていた。それでも雪ノ下が待ったを掛けたのは予想通りだと、相模が密かに安堵したのも束の間。てっきり部員を庇うものだと思っていたのに、まさか八幡をあの連中にけしかけようとするなんて、相模に推測できるわけもない。罰をちらつかせつつ注意だけできればベストだと、そんな中途半端なことを考えていた相模は、密かに内心で途方に暮れる。

 

「なあ。いま確かに『支配下』って言いかけたよな。今日の来校者数が事前予測の時点で、過去最大だった二年前の軽く数倍になるって話は聞いたし、奴隷のようにひたすら従順に働く手駒が欲しいのは分かるんだが。俺と中学の連中を引き合わせるのは、さすがに問題じゃね?」

 

「だから『自分は表舞台に出ずに引っ込んでいる』と続けたいのよね。では、ここで決を採りたいと思います。私の提案のほうが、比企谷くんにより多くの仕事をさせ、より多くの苦痛……貢献をさせる結果になると私は思います。揉め事の解決もお約束します。賛成の方は挙手を……ありがとう」

 

 ほとんど満場一致だった。

 

 最初の発言者でありながら、すっかり脇役に転落してしまった相模に向けて、雪ノ下が確認を行う。

 

「相模さんは、何か付け足すことはあるかしら?」

 

「うち……うちは、これ以上、変な揉め事を起こして欲しく無いから。みんなの決定には反対しないけど。他校と揉めたり文実で対立を煽るようなことを言ったり。そういうの、ちゃんと謝って欲しいって思う。だって、悪いのはヒキタニくんでしょ?」

 

 委員長としてびしっと言わないと。悪いのはこいつなんだから。そうしないと、逆に雪ノ下に怒られてしまう。先ほど中央階段で聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。心の片隅では気付いているのに。自分にも問題があるという囁き声から耳を閉ざして、相模は責任を八幡に押し付ける。

 

「そうだな。色々と混乱させてすまなかった。……ごめんなさい」

 

 制止しようとする雪ノ下に先んじて、八幡はそう言って頭を下げた。最初は相模に向かって、続けて実行委員をぐるりと見回した後に、謝罪の言葉を口にする。

 

 雪ノ下が言いたいことは解る。俺が悪いとは言っても、責任が全て俺にあるわけではなく、特に文実関連の話は相模の責任も重い。けれども一般公開を間近に控えた今の時点でそんな話を出しても、益が無いどころかデメリットしか無い。この程度の言葉と行動で相模の気持ちが済むのならば、安いものだと八幡は思う。

 

 だが、雪ノ下が危惧していたのはそれだけではない。今日も八幡の横に座っている由比ヶ浜結衣には、雪ノ下の心配が伝わっていた。

 

 昨日の一件について、相模は教室に居たために実情に近い情報を持っている。しかし多くの実行委員は誇張された噂という形で情報を得たので、実情以上に「八幡が悪い」と思っている。当事者に近い立場の相模が謝罪を要求して八幡が素直に謝ったために、彼らの認識が補強された形になってしまった。

 

 だが、もしも。実情がそれとは大きく異なっていて、むしろ八幡が絡まれたに過ぎないという事実が周知されたら。謝る必要のないことで謝ってみせた八幡の扱いが変わると同時に、集団の感情は一体どこに向かうだろうか。

 

「じゃ、じゃあさ。他校の生徒と引き合わせるなら、問題が無いかどうか、いちおう他の委員にも立ち会って欲しいんだけど。それでいい……よね?」

 

「……そうね。比企谷くんと同じクラスなのだからと、葉山くんが率先して対策を練ってくれているのだけれど。たしか、その生徒たちが来るのは午後になるという話だったわ。詳しい情報を葉山くんに確認してから、同伴する委員を選べば良いのではないかしら?」

 

 形式上は相模が委員長で、雪ノ下は副委員長である。相模の提案がこの場で体裁を整えるためのものでしかなく。相模自身にとっても後々面倒なことになるだけだと判っていても。それを頭ごなしに却下することは雪ノ下にもできない。

 

 嫌な未来が見えてしまった由比ヶ浜は、雪ノ下とこっそり目配せをして、人知れずため息をついた。

 

 

***

 

 

 昨日の一件があっただけに、八幡は今日の朝に至っても、由比ヶ浜はもちろん雪ノ下とも連絡を取る気が起きなかった。本来なら本日の指令を仰ぐべきなのだろうが、二人から何も連絡が来なかったのをもっけの幸いと、八幡は時間ギリギリに登校する。二年F組の教室は敷居が高いからと、荷物を奉仕部の部室に置きに行った八幡は、そこで二人に捕まる形になったのだった。

 

 その後、体育館から会議室を経て、三人は再び部室へと帰って来ていた。十時までに打ち合わせを済ませておくべき事が幾つかある。部屋には三人の他に、会議室から同伴していた平塚静もいる。

 

「じゃあ、バンドは予定通りで大丈夫ってことだよね?」

 

「まあ、そうだな。どうせバレてると思うから正直に言うけど、俺は表舞台に出ないほうが良いなって、一旦は決断したんだけどな。代役にあっさり断られたんだわ」

 

「姉さんに借りを作るのは、極力避けた方が良いと思うのだけれど……なんの留保も無くあっさり断るのは、姉さんにしては珍しいわね」

 

「まだ代役の名前を言ってなかったと思うんだが、なんでそうすぐに推測しちゃうのよ。しかも確定事項として話を進めてるし、ほんと何なのお前?」

 

 一番気にしていることをまず由比ヶ浜が確認して、それに八幡が答える。雪ノ下の反応には、八幡にとって少し冷や汗ものの内容が含まれていた。それを誤魔化す意図もあったとはいえ、呆れる気持ちも偽りでは無い。苗字ではなく「お前」って呼べるのは楽だよなと、八幡が現実逃避のついでにそんなことを考えていると。

 

「陽乃は、目を付けた相手には徹底的に構おうとするからな。それも、相手に応じていちいち対応を変えるのだから、褒めて良いのか呆れれば良いのか、私もずいぶんと悩んだものだよ。例えば城廻に対しては、頼れる先輩という姿を見せていたはずだが……比企谷なら基本はからかう姿勢で、由比ヶ浜ならある種のミラーゲームになるのだろうな」

 

 八幡の代わりに口を挟んだ平塚が、雪ノ下陽乃の性向を解説してくれた。言われた由比ヶ浜にも雪ノ下にもミラーゲームの意味が伝わっていない様子だったが、片や感覚的に理解して、片や納得できる独自解釈を導き出して、二人から質問が出ることはなかった。

 

「まあ、あの人って、妹相手だと気合いの入り方が異常だよな。つーか今回も、色々とやってくれたんだろ?」

 

「ええ、そうね……現実世界が何やら騒々しいことになっているみたいね。自由裁量を与えた時点で、ある程度の予測はしていたのだけれど」

 

「あたしが聞いたのは、地元の商店街を説得して、あっちの高校のグラウンドで屋台を出してもらってるって」

 

「あの人、こっちの世界に捕らわれてる身で、どうやって説得したんだろうな。しかも『捕らわれの生徒たちにご支援を』とか変な横断幕も出てるってさ。小町が親父にお願いして見に行かせた情報だから、確かだと思うぞ。あと、雪ノ下建設な」

 

「……できれば、それは話題に出さないで欲しかったのだけれど。部分的なログインとはいえ、現実世界で視覚と聴覚が失われる以上は、個室なりを用意するのが妥当。簡単な説明に従って装着できる機材と、ログアウト時に感覚の同期が遅延した場合に備えてシートベルト付きの椅子が配置できる間取りにして。火事などの緊急時には即座に避難できるように、脱出経路を各部屋均等に複数配備した図面を引いて。聞いたところによると、久しぶりに父が自ら手掛けたらしいわ。最近は社員に経験を積ませるために、設計は助言程度で済ませていたという話だったのだけれど」

 

「ああ、うん。なんかすまん。つか、プレハブって言うのか張りぼてって言うのかよく分からんけど、そんなすぐに作って壊せるもんなのか?」

 

「事前によほど綿密に計画を立てて、それで何とか……という感じかしら。ただ、娘の私が言っても説得力が無いかもしれないのだけれど。あの人たちは運営からも姉さんからも、特に裏情報は仕入れていないと思うわ」

 

「まあ、運営との接触は分からんけど、陽乃さんがこっそり伝えるってのは無理だろうな。現実との通話を全て保存してるとは思わねーけど、きな臭い話題が無いかチェックされてるのは確かだろうし。最近のAIの進歩と、疑わしきは保存ってな物量作戦を相手にして欺けるとは……それでも陽乃さんならって気もするけどな」

 

「でもさ。陽乃さんって、必要の無いことはやらないって感じなんだよね?」

 

「ん、それって……ああ、雪ノ下の両親なら陽乃さん以外の情報網も持ってるだろうし、敢えてこっそり伝える必要も無いって意味か。よくそこに気付いたな」

 

 意外に鋭い意見を出してくる由比ヶ浜に八幡が驚いていると。

 

「ヒッキーが言ったような、そんな詳しい話じゃなくて印象っていうかさ。ゆきのんや陽乃さんがこんな感じだし、じゃあ親ならもっと凄いんじゃないかなって」

 

「……そうね。世の中に出回っている情報と、当事者の性格や思考の傾向を把握すれば、大方のことは読めると言っていたわね。特にゲームマスターの場合は指針が明確で行動に無駄がないから、至極読みやすい、と」

 

「そういや、ずいぶん前に思えるけど昨日の朝だよな。文化祭が始まる直前に俺たちも論文の解読をして、運営の方針を推測してたわけだし。それを大人ができないって話にはならんよな。じゃあ、情報を読み解いて建築計画を整えて持って行って受注に成功したと、そんな感じかね」

 

「おそらく、紹介の時点で姉さんが絡んでいるのでしょうね。運営から相当の信頼を得られない限りは、スタートラインにも立てなかったはずよ。もちろん他の業者もコンペに参加したとは思うのだけれど。運営が情報の漏洩にあれほど目を尖らせていたからこそ、逆に情報力の差が決め手になったのではないかしら」

 

「なるほどな。振り返ってみると、陽乃さんの行動もほとんどが理に適ったものだったんだな。もっと理不尽っつーか、気分で行動してる部分もあるのかなって思ってたんだが」

 

「そうだな。陽乃は……もしも陽乃に協力を要請したいと思ったら、理詰めで行くのが一番だと私は思うよ。逆に、感情論に無理やり理屈を乗せて説得しようとしたら、無残に切り捨てられるだろうな。それは、たとえ私であっても、な」

 

 そう言われて、三人は陽乃と平塚が積み重ねてきた関係を思う。過ごした時間の長さで言えば、もちろん身内には遠く及ばないのだろう。だが陽乃が高校三年間のうち幾ばくかの時間を費やして、そして二人は今の関係に至った。あらまほしき先達を見付けたような気持ちになって、三人はそれぞれ微笑を浮かべる。

 

「理詰めで考えたら、俺が陽乃さんに代役をお願いしてたら、その時点で色々と詰んでた気がするな……」

 

「そこで終わっては面白くないと、陽乃も思ったんだろうさ。陽乃は理を重視するが、だからといって感情が乏しいわけではないからな。さて、比企谷。バンドは、()()()()()()()()かね?」

 

 さすがに誰にも内緒というわけにはいかないので、最初から顧問の平塚にだけはバンドの詳細を伝えてある。だがおそらく陽乃は三人のサプライズを察知しているし、八幡が原因で雪ノ下が何らかの被害をこうむる事態になれば、絶対に黙ってはいないだろう。雪ノ下と由比ヶ浜は教師の言葉の裏をそう解釈して、問い掛けられた八幡を注視する。

 

「ええ、()()()()()()()()()()()

 

 その八幡の返答を耳にして、雪ノ下は思う。自分が、そして由比ヶ浜も読み取った顧問の意図は八幡にも確実に届いている。そして八幡はそれを加味して、こう返事をした。つまり八幡は自分が置かれている状況を理解して、それでもぶれない姿勢を見せている。そんな男子生徒の姿を雪ノ下は眺める。

 

 八幡の中学の同級生だという奴ばらの対応を、葉山隼人に任せて正解だったと雪ノ下は思う。昨日推測した通り、八幡の関心は既にそこには無い。いや、千葉村で聞いた話を思い返す限り、最初からそこに関心は無かったのだろうが、今の八幡は更に先の段階に至っている。仮に引き合わせたところで、今さら何の問題も起きないだろう。

 

 だから、優先度の判定は間違っていない。闖入者よりもクラスの、そしてそれ以上に文実や全校生徒の反応が怖い。そこの対策を自分と由比ヶ浜が担当して、より重要度の低い部分は葉山に任せて彼にも経験を積ませる。かつて父が、最近は設計を部下に任せていると話してくれた時のことを改めて思い出しながら。雪ノ下は密やかに由比ヶ浜の様子を窺う。

 

 視線を交差させて、二人はこっそりと、他の二人には内緒にしている事柄を確認し合った。

 

 

***

 

 

 部室の前で教師と別れて、三人は出し物の点検に向かった。予想以上に多くのクラスから変更届が出されたために、十時に間に合うように全てをチェックするのは端から諦めている。それよりも雪ノ下は、一般客の様子を窺いながら問題点を確認する形を選択した。

 

 八幡に申請書類を持たせて変更内容を説明させながら、雪ノ下は問題点があれば指摘して生徒に修正を促す。とかく杓子定規になりがちな雪ノ下の横では由比ヶ浜が一緒に話を聞いていて、適度にフォローを入れたり、時には雪ノ下に先んじて注意をすることもあった。

 

「さっきの陽乃さんの話じゃないけどさ。ちゃんと理屈を聞いてくれそうな相手だとね。先にあたしががーって言ってから、ゆきのんに説明してもらう順番でもいいかなって」

 

 由比ヶ浜でも色々と考えているんだな、などと言ったら怒られそうなので口には出さないが、特に揶揄する意図もなく八幡は文字通りにそう思った。一方の雪ノ下は、そんな由比ヶ浜の性格など先刻承知とばかりに、八幡とは違った感想を述べる。

 

「昨日は一人で見回りをしていたのだけれど。由比ヶ浜さんと一緒だと心強いわね」

 

「なあ。誰かもう一人忘れてねーか?」

 

「あら失礼。忠実な下僕のことをすっかり失念していたわね」

 

「おー。昔は備品扱いだったのに、出世したもんだわ。早く人間になりたいって願い続けた甲斐があったな」

 

 そんな風に軽口の応酬をしていると、思い出したことがあったみたいで由比ヶ浜が口を開く。

 

「そういえば、昨日のお昼ぐらいだったかな。廊下でゆきのんを見掛けたんだけどさ」

 

「……そうね。お昼前なら、たしか二年生の教室を見回っていたわね。クラスの出し物のことで連絡を貰って、そのまま国際教養科の同級生とご飯を済ませたのだけれど。何かあったのかしら?」

 

「あ、ううん。その時は別に何も問題は無くて、ただ『ゆきのんだー』って思っただけなんだけどさ」

 

 二人の話を聞きながら、あの時に雪ノ下から感じた違和感は気のせいだったかと八幡は思う。雪ノ下にしては、返事を口にするまでに少し時間が掛かった気もしたが。副委員長という肩書きながら、雪ノ下は実質的には文化祭の全てを差配している立場なのだ。重要度の低い記憶を思い出すのに多少の時間が掛かるぐらい、よくよく考えれば当たり前だと八幡は思った。

 

 その話はそのまま終わって、三人は次の目的地に向かう。その途上。

 

 

「げ、お兄ちゃんだ」

 

「……ねえ、小町ちゃん。妹からのその扱い、お兄ちゃんそろそろ泣いても良いかな?」

 

 雪ノ下に下僕扱いされるのは平気でも、妹に「げ」と言われるのは耐えられない。そう言って落ち込んでいる八幡(シスコン)を尻目に、比企谷小町は顔見知りの二人に元気に話しかける。

 

「雪乃さん、結衣さん、やっはろーです!」

 

「小町ちゃん、やっはろー!」

 

「こんにちは、小町さん。先週はご自宅にお招き頂いて、とても楽しかったわ」

 

「いえいえー、たいしたお構いもできず……カーくんの首を洗って待ってますので、また来て下さいね!」

 

「なあ。首を洗って、って。お前、意味を解って言ってるのか?」

 

「え、だって雪乃さんのもふもふに耐えられるように、首回りは特に綺麗にしておかないとさ。お兄ちゃんこそ何言ってるの?」

 

 確かにそう言われると反論できないというか、もしかして間違っているのは俺なのかと悩み始める八幡。そんな兄妹を温かく見守っていた二人は、とつぜん小町が慌て出したのを見て不思議に思う。

 

「あ、えっと、あっち。じゃ、じゃあ小町そろそろ行くね」

 

 小町の視線の先を辿ろうとした三人だったが、小町は兄の顔を強引に両手で挟んで、意識を別に向けさせまいと小声で話しかける。

 

「お兄ちゃん。昨日も帰ってくるの遅かったし、詳しい話は文化祭が終わってから聞くけどさ。せっかくだし、去年の分まで楽しんで来てね。あ、今の……」

 

「ポイントは前にカンストしたって言ってなかったか?」

 

「ゲームで限界突破っていうのがあるって、前にお兄ちゃん言ってたよね?」

 

 兄妹の攻防は妹に軍配が上がり、そしてその間に雪ノ下と由比ヶ浜は、小町が慌てていた原因であろう少女を視界に捉えていた。

 

「小町さん。私が以前にお願いしたことを、今も続けてくれていたのね」

 

 そんな小町に対して、お礼の言葉は口にしない。雪ノ下は小町に仕事を命じたわけではなく、ただ対等の立場で、あの少女のことをお願いしただけなのだから。主に格下の者をねぎらうために使ってきた「ありがとう」という言葉は、ここでは相応しくない気がして。でも感情を込めてそれを言うのは、八幡が訝しがるだろうから不可能で。ゆえに雪ノ下は表情と仕草で、小町に感謝の気持ちを伝える。

 

「今日は無理なのが残念ですけど、また今度、絶対にお会いしたいのでよろしくです!」

 

 それが小町の言葉ではないことを、雪ノ下と由比ヶ浜は理解する。どんな状況になっているのかは分からないが、今はまだ、問題が完全に決着したわけではないのだろう。だが、また今度を口にできる程度には改善している。その日はきっと、遠からずやって来るはずだ。

 

「じゃあ、小町ちゃんも文化祭を楽しんでね!」

 

「良い想い出になるよう願っているわ、と。では、小町さん。また」

 

 そんな二人の声に見送られて、小町は元気に駆けていく。そして曲がり角の先で、小さな同行者と合流を果たした。

 

 

「小町もあれで、意外に独りの行動が多かったりするんだよな。俺の悪影響かもって悩んだ時期もあったんだが」

 

「それでも小町さんは、孤立しているわけではないと思うのだけれど。多くの人から好かれてもいるようだし、大丈夫ではないかしら?」

 

「なんか『小町は』って言われたら、助詞に変な意図を感じるんだが?」

 

「小町ちゃんなら大丈夫だって、ヒッキーも素直に受け取ったらいいのにさ。年上からも好かれるし、たぶん年下からも懐かれやすいんじゃない?」

 

 そんなやり取りを交わしながら、三人は三年生の教室へと移動する。悲鳴やら何やらでひどく騒々しい教室の前で立ち止まると、雪ノ下は首を傾げながら八幡に尋ねた。

 

「ここ、特に変更届は出ていなかったと思うのだけれど。昨日とずいぶん雰囲気が違うわね」

 

「トロッコに乗ってゆっくりとジオラマを楽しむ、って書いてあるんだが……この絶叫は何なのかね?」

 

「とりあえず聞いてみよっか。すみませーん」

 

 由比ヶ浜がそう言いながら教室のドアを開けると。

 

「げ、査察が来た」

「ちょっと早すぎね?」

「つーか、噂のリア充かよ」

「ついでだし、仲良く爆発させとくか」

「はい、ご新規三名様ご案内ー!」

「逃がすなよ。勢いで誤魔化すためにも、三人とも放り込め!」

 

 あっという間に飛び出して来た先輩たちの手で、有無を言わさずトロッコに投げ込まれ。とっさに二人を庇って下敷きになった八幡は、気が付けば顔と下腹部とに得も言われぬ感触を覚えていた。

 

「(やばい柔らかい困った温かい頼むから動かないでくれよって言ってもずっとこのままで良いって意味じゃないからなでもこれどっちがどっちでどの部分なんだろうな知らないほうが良い気がするけど知りたいというかまったくどっちなんだよ俺はってうおっ変に身動きするなってばマジで早く離れてくれないと本気でやばいんだが)」

 

 混乱していた八幡だが、トロッコが動き始めたことで二人も我に返ったのかようやく立ち上がれたみたいだ。雪ノ下は無言でお尻を払っているし、由比ヶ浜は頬に手を当てて固まっているが、それらの行動の意味は深く追求しないのが吉だろう。

 

 トロッコの先端にはモニターが取り付けられていて、適当に恐怖系の動画を継ぎ接ぎしたのか、迫力のある映像が絶え間なく流れている。それはまだ良いのだが、両側からひたすら叫び声にわめき声がエンドレスで聞こえてくる。いずれにしても、その外に広がるジオラマとのギャップが半端ない。

 

 いくら外部からの客に対応するためとはいえ、こうまで延々と視覚と聴覚ばかりを刺激されると、楽しいとか怖いとか以前に疲れたという気持ちになってしまう。けれどもまあ、変更の意図は理解できるし、労力を掛けているのも分かる。

 

 変更前はおそらく、外部の客からすればテレビや映画を見るのと大差の無い出し物だったのだろう。ひたすら騒々しいし馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しい演出だが、きっと実際に乗った人なら、何かしら感想なり文句なりを他人に言いたいと思うはずだ。それぐらいには印象に残る出し物だなと八幡は思った。

 

「まあそんな感じだから、変更点の申請さえもらえば良いんじゃね?」

 

 トロッコを降りて、この程度では誤魔化されないわとお小言を述べようとした雪ノ下だが、八幡がそう言ってフォローに入った。それを聞いて「良い思いをさせてやった甲斐があったぜ」とでも言いたげな視線を送ってくる先輩がた。それに苦笑しながら、昨日の一件が噂になっている割には(噂のリア充とか言われている時点で八幡の今日の動向もある程度は伝わっているのだろう)ヘイトがあまり集まらないなと不思議がる八幡だった。

 

「はあ。では申請書を速やかに提出して下さい。……由比ヶ浜さん、比企谷くん。次に行くわよ」

 

 雪ノ下の耳が少しだけ赤くなっていることを指摘するような蛮勇の持ち主は、幸いなことにこの場には居なかった。

 

 

「クラスの公演は、午後は一時半からだったかしら?」

 

「うん。隼人くんが有志に出るし、その前にある陽乃さんの管弦楽部のやつもみんな観たいって言ってて。だから最終公演の時間を早めたんだよね」

 

「なるほど。比企谷くんの中学の同級生なのだけれど、一時頃に教室まで来るそうよ」

 

「ほーん。公演の邪魔をするほどの度胸は無いけど、公演の後よりは前のほうがまだ人が居るだろうってな考えかね。つーか教室まで来るって、ログインするって意味だよな。モニター越しにうだうだ言われる心配はしなくて済むけど……。ま、これだけ大人数が気軽にログインしてるんだし、避ける意味はねーわな」

 

 ひととおりの見回りを終えて、三人は奉仕部の部室を目指していた。先程のトロッコの他に未申請は無かったし、申請に修正が必要な出し物もほとんど無かった。いずれの教室でも事前の対策が機能して、この世界ならではの可変性を活かして大人数に上手く対応していたので、外部からの客にもおおむね好評のようだ。バーチャルな世界という物珍しさを評価に転化できているのが大きいと雪ノ下は思う。

 

 合間には実行委員から何度も連絡が届き、雪ノ下はその全てを即断で処理していた。今日は基本的には、委員長が判断に困った案件だけが送られて来る手筈になっている。だが、どうせ二度手間になるならダメ元で直接雪ノ下に、と考える者も少なからず居るようだ。

 

 だから雪ノ下がメッセージを受け取った様子を見ても、また来たかと気軽に流していた八幡と由比ヶ浜だったが、遂に本命が来たらしい。とはいえ。

 

「おそらくその通りだとは思うのだけれど。最初は一時の予定だったのが二時になり三時になって、結局は一時に戻したみたいね。何だか、あちらの状況が透けて見えるのだけれど……。それにしても、バンドの最終確認と昼食を両方済ませるには微妙な時間ね。どちらを優先しようかしら?」

 

「バンド優先で良いんじゃね。昼食は連中の相手が終わってからゆっくり食べたら良いし……って、お前はうちのクラスの劇を観なくて良いのか?」

 

「ええ。申し訳ないのだけれど、海老名さんの脚本にはできる限り近付かないほうが良いのではないかと。勘というか本能的なものを感じるのよ」

 

「あー、うん。それ、間違ってないかも……」

 

「まあ、そうだろうな。んじゃ劇が始まるのに合わせて部室に帰って昼飯にするか。そういや、遊戯部ってこの階だったよな。どんなゲームを出してるのか、後で材木座にでも聞いてみるか」

 

 そんなふうに会話を続けながら、階段を昇って部室に向かう。昨日の連中が来る時間を知っても、まるで緊張感のない三人だった。

 

 

***

 

 

 予定通りに時間を過ごして、八幡たちは一時前に二年F組の教室に移動する。同級生や顔見知りの生徒たち、更には相模が指名した同伴役の実行委員とも軽く挨拶をしてから、三人は教室の後方奥に陣取った。普段からトップカースト三人娘がよく居る辺りだ。

 

 最後の公演に備えて、海老名姫菜は別室にて少しでも劇のクオリティを上げることに集中している。三浦優美子もそちらに付き添っているので、この場に彼女らの姿は無い。

 

 この教室における段取りは全て葉山に任せている。だから奉仕部の三人は、とりあえず目立たない位置にて控えておくことにしたのだった。

 

「あ、あの。すみません……」

 

「もしかして、あんたたちかい。昨日来たのって。……まあ、教室の中に入りなよ」

 

 廊下から、誰かを案内する川崎沙希の声が聞こえてくる。今日も午後から受付に座っている川崎は、自身も一言何かを言いたげだったが、それは教室の中に居る面々に任せようと考え直した。

 

 そして、昨日も見た三人の高校生が教室の前の扉から姿を見せた。おいおいまさか……と八幡が彼らに同情しかけたものの、さすがに杞憂だったらしい。少し離れて別の三人が教室に入って来る。記憶が薄れているので断言はできないが、おそらく中間ぐらいのカーストに居た連中ではないかと八幡は思った。

 

「君たちが、昨日ヒキ……比企谷と揉めていた生徒なのかな?」

 

 葉山がそう問い掛けると、リア充オーラを真っ向から浴びた三人はしどろもどろに何とか頷きだけを返す。後ろの三人は苦笑するのみで、手助けをしようとする気配はまるで無い。

 

「できれば話し合いで双方の合意を得たいから、まずはこちらに来てくれるかな。後ろの三人も」

 

 教室前方には劇のために舞台が整えられていた。その中央すぐ下の辺りに椅子がいくつか後ろ向きに用意されている。昨日の三人はそこに大人しく腰掛けたが、新顔の三人は身振りだけでそれを断って、教室の入り口に佇んだまま。単なる付き添い以上のことをするつもりはないと、その反応が語っていた。

 

 それを確認した葉山は内心の感情を表に出すことなく、相手よりも下座に用意した席に一人で腰を下ろす。彼らと目線を合わせて、数による威圧を行う意図が無いことを無言で伝える。舞台の上はもちろんのこと、教室の葉山よりも前の位置には総武高校の生徒は誰も居ない。ただ戸塚彩加と戸部翔だけが、葉山の左右に立っていた。

 

「戸塚は……昨日俺が言ったアレに備えてあそこに居るんだとして、戸部はなんでだ?」

 

 とりあえずは葉山のお手並みを拝見しようと、八幡は連中からは見付かりにくい位置取りを心掛けながら様子を見守っていた。相手は見るからに余裕を失っているので過剰な心配かもしれないが、八幡を見付けて突然叫び出すことも考えられる。そんな理由でこそこそと身を隠していた八幡だったが、二人が妙な立ち位置なのを見て思わず疑問をつぶやいた。

 

 対処を葉山に一任して、それ以降は進捗の確認すらせず別の事柄に集中していた雪ノ下が、自身の疑問を重ねる。

 

「貴方は戸塚くんに何か入れ知恵をしたのね。私にも詳細が読めないのだけれど……何だか楽しみね」

 

「今日のとべっちって、行動に迷いが無いっていうかさ。隼人くんが尋ねても『あとのお楽しみだべ』とか言って、妙に怪しいんだよねー。今朝さいちゃんが『ログアウト対策なんだけどね』って言い出したら、慌てて教室の隅まで引っ張っていって、内緒でごにょごにょ話してたし」

 

「それはますます楽しみね。そういえば、そろそろだと思うのだけれど……姉さんと意見が合うというのも不思議な話ね。私も会わないで済むのなら、あまり会いたくは無いのだけれど……」

 

 雪ノ下が時計を見ながら奇妙な独り言を口にするので、八幡と由比ヶ浜が詳細を尋ねようとした瞬間。その声が突然教室に響き渡った。

 

 

「可愛い後輩に絡んできた三人組って、どうやら君たちみたいだね。しっかり顔は覚えたし、こっちはログインしてないからね。君たちがログアウトして逃げようとしても遅れは取らないし、校門から外には絶対に逃がさないよ。絶対に」

 

 おそらく現実世界では、モニターに向かって至近距離から話しかけているに違いない。それにこの声の主は、人の話を聞かないで突っ走る性格だ。誰もがそう確信できるほどの行動力を感じさせる声が、そう言い切った。

 

「生徒会長……ではなくて前会長ね。お変わり無さそうで何よりなのだけれど、去年の嫌な記憶が蘇るわね」

 

「はるさんも苦手そうにしてたけど、会長はそんなに悪い人じゃないよー」

 

「ええ。それは時間が経った今なら理解できるのだけれど……って。城廻先輩、いつからここに?」

 

「教室に着いたのはさっきだよー。会長と少し打ち合わせをしてたからね。でね、ちょっと聞いて欲しいんだ。私がこの世界に捕らわれてから、会長ってば時々こっそり家まで来て、お父さんとお母さんを励ましてくれてたみたいでね。昨日なんか、会長に連絡を取って欲しいってお母さんに言ったら、『お父さんと縁側で涼んでいるわよ』って言われてねー」

 

 マイペースで話し続ける城廻めぐりだが、その内容は奉仕部の三人を唖然とさせるものだった。

 

 在校期間は重なっているものの、昨年度はぼっちを満喫していた八幡は世事に疎い。だから先週の水曜日に前会長の話を聞いた時には「凄そうな人だな」という感想を抱いたのだが。実際に接してみるとインパクトが違うなと八幡は思った。

 

「仕方がないな……戸部くん。この状況ならたぶん、実演するだけで大丈夫だと思うよ。たぶんね」

 

 前会長の発言を受けて混乱する教室内で、妙に冷静な声があがった。八幡には見覚えの無い制服を着た男子生徒が、戸部に話しかけている。

 

「あの制服は、まさか……」

 

 そうつぶやく雪ノ下のことも気になるが、八幡は教室前方から目を離せない。指示を受けた戸部と瞬時に頷きを交わし合って、戸塚も行動に出たからだ。彼ら二人が動く理由を把握しているのは、おそらく自分と謎の男子高校生のみ。雪ノ下にすら「詳細が読めない」と言わしめたことを部外者が見抜いたのだとすれば、気を緩めるわけにはいかないと八幡は思う。おそらくは味方だろうとは思うが、長年のぼっち生活ゆえに、つい身構えてしまうのだ。

 

「な、なにをするんですか?」

 

「すぐに済むから、少しだけ大人しくしてるべ」

 

「うん、ちょっとだけだから……ごめんね。この状態でログアウトできるか、試してみて欲しいんだ」

 

 そう言いながら、戸部と戸塚は二人と一人という分担で、彼らの耳の辺りに手を伸ばした。戸部が何やら指示を出して戸塚がそれに従っている。この世界では触ることも触られることも不可能だと説明を受けていた闖入者たちは狼狽するが、戸塚の説明を聞いてこくこくと頷いた。この天使が自分たちに害をなすとは思えないと、一瞬にして心を許してしまったらしい。

 

「え……『少し待ってからログアウトして下さい』って、なんで?」

 

「情報の入力がある間はたぶんログアウトの処理を延期するんじゃないかと思ってたけど、やっぱりだね。驚かせる形になって申し訳ないけど、君たちが急に逃げ出すようなことさえしなければ、総武高校の側には話し合いの用意があるって戸部くんが言ってたよ。だから、そんなに身構えなくても大丈夫じゃないかな。たぶんだけど」

 

「逃げようとしても戸部と戸塚が今みたいに邪魔をするし、あっちでは先輩が待ち構えているみたいだしさ。俺たちとしては、ちゃんと話を付けたいだけだから、逃げないで協力してくれないかな?」

 

 謎の男子生徒の解説に続いて、葉山がそう提案する。戸部との仲や彼の口癖から、葉山は千葉村で聞いた戸部の過去の話を思い出していた。だが、それを確認するのは後だと考えて、話し合いに集中する。

 

 

「君がたぶん、戸部くんが言ってたヒキタニくんだよね。そちらの二人も、前に戸部くんが写真を見せてくれたから知ってます。今は文化祭の実行委員と委員ち……責任者さんかな、たぶん」

 

 教室の後方では、件の男子生徒が八幡たちのそばまで歩いて来て口を開いた。その言葉に続けて自己紹介を行う彼に、奉仕部の三人も順に名乗り返す。八幡が「ヒキタニとか比企谷とか呼ばれてます」と告げると頬を緩めて「ため口で良いよ」と答えた彼からは、善良な性格が伝わって来た。

 

 だが、雪ノ下が文化祭を取り仕切っていることを一目で見抜いて「委員長」と言いかけておきながら。ちらりと相模に視線を送ったのを見て言葉を改める辺り、油断はできないと雪ノ下は思う。そもそも、雪ノ下は彼の名前に見覚えがあった。

 

「……六月の模試で全国一位だったのは貴方かしら?」

 

「あー、うん。たぶんそうかな。いつの模試だったか覚えてないけど、運良く一位になれたみたいでね。でもあれって、チートみたいなものだから……」

 

「チートってのは、まあ文字通りズルって意味で使われることが多いんだが……どういう意味だ?」

 

 言葉の意味が通じていない様子なので、考え込んでいる雪ノ下に説明がてら八幡が疑問をぶつける。雪ノ下の横には由比ヶ浜が居たはずだが、どうやら現実世界の前会長と話をしている城廻のフォローに回っている様子だ。なら俺はこちらの相手に専念するかと八幡は思った。

 

「戸部くんが言ってたけど、文理選択って高三からだよね。だから総武高校ではたぶん、三年かけて高校の範囲を習うと思うんだけど……。僕らは中学で高校までの範囲を全部終わらせちゃって、あとは演習とか応用ばかりしてるからさ」

 

「東大の合格者数を争う高校なら、どこも似たような状況だと聞いているのだけれど。だから、一位を取れたのがチートだと言うのは、少し違うのではないかしら?」

 

「まあ、そうだね。気を悪くさせたなら謝るけど、そんなふうに自省していないと、すぐに調子に乗っちゃうと思うんだよ。たぶんだけど、一度でも勘違いしちゃったら、なかなか修正できないからさ。それに一部の例外を除いたら、条件が対等じゃ無いのも確かだしね」

 

「だからといって、学んでいないことをテストに出すのは不公平だ、などという意見は的外れだと思うのだけれど?」

 

 雪ノ下の厳しい指摘に対して、その男子生徒はお手上げだとばかりに両手を広げて上にあげる。にこやかな表情で「教育論は色んな意見があって、たぶん切りがないからね」と言われてしまえば、雪ノ下とて無理に話を続けるわけにもいかない。だから静かに頷きを返す。

 

 雪ノ下が対話をしている間に上手く機会を捉えて、八幡は由比ヶ浜からこっそりと彼が通う高校の名前を教えてもらった。名前はよく知っていても制服までは知らないよなと思う八幡だが、由比ヶ浜によれば制服もわりと有名らしい。都内の進学校なのに千葉にまで知れ渡っているとは凄いなと、八幡が妙な感心の仕方をしていると。

 

「でも、ヒキタニくん……のほうで良いのかな。君もたぶん、ログアウトの邪魔をするアイデアには気付いてたんでしょ?」

 

「まあ偶然だけどな。こいつらにゲームマスターの論文を解説して貰ったから気付けたんだし。雪ノ下が思い付けなかったのはゲームに縁が無いからだろうしな。バグを利用した裏技とか、そういう発想までこいつがするようになったら、俺の存在価値が無くなるから勘弁して欲しいんだが」

 

「なるほど、発想の経路は理解したわ。耳の周囲の感覚については私も引っかかってはいたのだけれど、味覚と知覚と聴覚に関して何か実験でも行うのだろうと理解して、それ以上は何も考えていなかったのよね」

 

「ふうん。戸部くんが言ってたけど、奉仕部って面白い関係みたいだね。たぶん顔面神経は味覚だけ、三叉神経は耳の周囲の知覚だけを機能させてると思うんだけど、考えてみたら凄い技術だよね。あ、もしまたログアウトを阻止したい時があったらさ。耳の後ろ側の知覚は脊髄経由だから、耳と頬骨のあいだ辺りに手を当てたらたぶん効果的だと思うよ」

 

 先程トロッコに乗った時に由比ヶ浜が頬に手を当てて固まっていた光景を思い出した八幡だが、幸いなことに当人は前会長の相手で手一杯で、こちらの話が聞こえていないみたいだ。雑念を払うような気持ちで、八幡が口を開く。

 

「さっき戸塚が戸部に指示されてたのはそういう意味か。なるほどな。……あのな。夏休みに、たぶんお前さんのことだと思うんだけど、戸部が小学生の時の話をしたんだわ。サッカーのチーム分けで、いきなり指名されたんだっけ?」

 

「一番は運動ができる奴で、二番目が僕だったかな。たぶん戸部くんのことだから『深い意図はなかったべ』とか言ったんだろうけど、早い段階で名前を呼んで貰えたのが嬉しくてさ。嫌味に聞こえたら申し訳ないんだけど、僕にとっては模試の結果よりも、あの時に二番目に呼ばれたことのほうがね。今もよく覚えてるよ」

 

「いや、なんかその気持ちは解るわ。まあ俺だったら、模試の結果も普通に喜んでるとは思うけどな。なんつーか……一歩を踏み出す切っ掛けを貰えた、みたいに考えてるんじゃね?」

 

「うん、そんな感じ。でもさ。模試で結果を出したいなら自分で頑張れば良いけど……巡り合わせとかって、たぶん自分だけではどうにもできないからね。だから僕は、今も戸部くんには感謝してるんだ。それに、模試とかで学力を測るだけではたぶん、見えないものがあるからさ。今日はここに来て、君たちとも実際に話ができて良かったよ」

 

「こちらこそ、良い刺激を得られたわ。戸部くんに感謝をすることになるなんて、昨日までは思いもしなかったのだけれど」

 

「あー、こいつの言葉に悪気はないから、ちょっと勘弁な。俺は逆に『結果を出したいなら自分で頑張れば良い』ってのが気に入ったわ。いくら巡り合わせが良くても、そこを怠るのもダメな気がするんだよな」

 

 八幡が既に良い巡り合わせを得ていることを。それが誰と誰のことを指すのかまでを理解して、それでも口に出すような野暮なことはしない。ただ温かい目を向けられて、徐々に八幡は居心地の悪さを感じ始めていた。その時。

 

 

「話は大体まとまったから、ちょっとだけ比企谷も来てくれないか?」

 

 葉山にそう呼ばれて、八幡はそちらに向けて移動する。いつから居たんだと驚きの表情を浮かべている中学の同級生連中を確認しながら、何を喋ったものかと考える八幡。だが、なるようになると思えたので、八幡は深く考えるのを止めた。

 

「昨日ぶり、か。まあお前らが声を掛けても、大勢が集まることはないと思ってたけどな。ああ、集まらなかった一番の原因は、俺が絡んでいるからだろ。興味を持たれてねーのは知ってるから、そう騒ぐなって」

 

 三人が聞こえよがしに会話をしても頑なに無視していた昨日の八幡とはうって変わって、今日の八幡は別人のようだと感じてしまった中学の同級生たち。それは本日の付き添い役である新顔の三人も同じだったみたいで、彼らは一様に口をぱっくり開けたまま身動きしていない。

 

「で、だ。昨日言ったよな。俺が文実を辞める代わりに、俺以外の生徒には関わるなって。俺の恥ずかしい過去を暴露されるのは仕方がないとして、これ以上は文化祭の邪魔をしないで欲しいんだが」

 

「ああ、比企谷の過去の話は俺がストップをかけたから、特に何も聞いてないよ。誰にだって知られたくない過去はあるし、終わった話をいつまでも言われるのはつらいからね」

 

「ほいよ、了解。んで、どんな風にまとめたんだ?」

 

「明日また来るって宣言した手前、引っ込みがつかなくなっただけだと思ったからさ。比企谷に関わるのを止めて、普通に文化祭を楽しんで帰って欲しいって、そんな感じだね」

 

「こいつらが素直にそうしてくれるなら、こんなに苦労してないんだよなぁ……」

 

 そう言って不満を漏らす八幡だったが、相手の反応は違った。葉山の言葉にぶんぶんと首を縦に振っている。そんな彼らを見て、八幡は狐につままれたような気持ちがした。

 

 だが彼らからすれば、その表現は自分たちにこそ適しているという気持ちだった。昨日の見るからにリア充な女子生徒とも、そしていま目の前でリア充オーラを放っているこの男子生徒とも、八幡は普通に会話を交わしている。いや、むしろ八幡のほうが立場が上だと示すかのように、ぞんざいな発言すら飛び出している。

 

 八幡が昨日あざとい後輩に漏らしたように、彼らは八幡の話を聞いていない。八幡がたとえどんなに正しいことを言おうとも、彼らがそれに納得することはない。だが彼らが理解できる光景を見せつければ。つまり八幡がもはやカースト底辺の存在ではないと、彼らにも解るように印象付けさえすれば。彼らはもう、八幡に関与することができなくなる。

 

 なぜならば、八幡がカースト底辺に安住していたからこそ、彼らは見下すことができたのだから。その前提が無くなってしまえば、今も昔もカースト下位の存在に過ぎない彼らにできることは何もない。

 

「んじゃ、まあ……もう会うことも無いだろうけど、お前らも頑張れよ」

 

 無言で椅子から立ち上がって、八幡の言葉に応えることなく教室を去って行くことが、彼らのせめてもの意地だったのだろう。入り口の前で彼らに頭を下げられた付き添い役の三人は、互いに首をすくめて苦笑し合った後で、いち早くこの世界から去って行った。それを追うように、闖入者たちも廊下に出てすぐにログアウトを選択する。

 

 彼らの口から八幡の話題が出ることは、この時を最後にぴたりと止まった。

 

 

「お兄ちゃん、やっぱりこの世界に巻き込まれてから変わったなー。ちゃんと録画できてると良いんだけど」

 

「こういうのって親馬鹿……じゃなくて妹馬鹿って言っていいのかな。あ、でも録画できてたら私にも見せて下さいね。八幡のさっきの言葉とか、参考にしたいし」

 

「しっ。雪乃さんと結衣さんには見られちゃったけどさ。お兄ちゃんたちとは、完全に解決してから会うって決めたんでしょ。ちゃんと隠れてないと、見付かっちゃうよ?」

 

「小町さんが見付かったらゲームオーバーだと思うから、それ、むしろ私が言いたいセリフなんですけど……」

 

 教室の片隅では小町もこっそり控えていて、今は小さな同行者と同レベルの言い争いを繰り広げていた。だが指摘されて撤収の頃合いだと思ったのか、彼女らはこっそりと教室を後にする。憂いなく文化祭を堪能できるという心境で、二人は別の教室へと移動する。

 

「あ、八幡のクラスの劇は、観なくて良かったんですか?」

 

「あのね、世の中には知らないほうが良いことってあるんだけどさ。あの人の趣味はまさにそれだよ」

 

 この時ばかりは年長者の顔で、この上なく真剣に忠告をする小町だった。

 

 

「今年度に入ってからの話は昨日城廻から聞いたよ。君が先輩と同じ性格だろうと決めつけて部活の邪魔をして、本当に済まなかったね。絶対に許されないことだと思うけど、この借りは何年かかっても返すよ。絶対に」

 

「いえ。こちらも意地になっていた部分がありましたし、終わってしまったことは仕方が無いので、お気になさらず。むしろ、姉さんによって迷惑をこうむった者同士、今後は先輩と協力できると思うのですが、いかがですか?」

 

「おお、それは願ってもない話だよ。絶対に先輩の思い通りにはさせないと頑張ってはきたものの、一人で立ち向かうには厄介な相手だからね。連絡してくれたらすぐに駆け付けるから、絶対に声を掛けてくれよ。絶対に」

 

「ええ、では同盟成立ということで。とても有意義な会話になりました。今後ともよろしくお願いします」

 

 小町が教室を去った頃、部屋の奥のほうでは一つの盟約が結ばれていた。その場に居合わせた由比ヶ浜と城廻の表情が固まっているのもむべなるかな。両人が胃を痛める展開にならないことを願うばかりである。

 

 

 そして、教室の別の場所では。

 

「ねえ。同じ部活のあの二人は仕方が無いし、葉山くんが誰にでも優しいのも知ってるけど、なんであいつの為にこれだけ大勢が集まるのよ?」

「生徒会長はともかく、前の会長まで来るなんて普通思わないよね。うちのクラスに限っても、戸塚とか戸部とか、あと今回は大和も大岡も変にあいつに肩入れしてるしさ」

「あと、受付のお針子さんもだね。でもさ、まさかあの制服を見るなんて思わなかったよ。しかもあいつの味方だっていうんだからさ」

「戸部の友達っていうのが、ホントありえないよねー。で、相模さん、どうするの?」

 

 外部には声が聞こえない設定にして、歯に衣着せず話し始める彼女らに圧倒されていると。どこか呆れたような表情で一人が相模に問い掛けた。

 

「えっ。どうするって、何が?」

「南ちゃん、ちょっとそれは鈍すぎないかな。あいつが文実を辞めたのは文化祭の邪魔をさせないためだって、同伴した実行委員に聞かれちゃったじゃん」

「それ、でも、昨日もうちはそう聞いたんだけど?」

「南はそんなこと聞いてないでしょ。あくまでも、さっき初めて聞いたんだってことにしとかないと」

 

 絶句している相模を尻目に、彼女らの会話は進む。

 

「でもさ、相模もまずったよね。文実であいつを謝らせたんでしょ。なのに実情はこうでしたってなったら、風当たりが厳しくなるんじゃない?」

「だ、だって今朝、みんながそうしたほうが良いって……」

「問題をびしっと指摘するのと、悪くないことで謝らせるのはぜんぜん違うじゃん。相模さんに頑張って欲しいから相談に乗ってたのにさ。こっちに責任を押し付けようとするのは違うくない?」

 

 全員が頷いているのを見て、相模は得体の知れない恐怖を感じた。この子たちはどこに居るのだろうか。自分から遠く離れた安全な場所から、適当なことを言っているだけではないかと思えてしまう。曲がりなりにも同じグループとして、この半年ほどを一緒に過ごして来たはずなのに。

 

「うち……うちは、じゃあ、どうすれば?」

「それぐらい南ちゃんが考えてよ」

「だよね。せっかく助言をしても南は活かしてくれないしさー」

「むしろ相模はさ、責任を押し付けようとしてくるじゃん」

「相模さんがちゃんとしてくれたら、こんなこと言わないで済んだのにね」

 

 そこまで言われても、あるいは言われてしまったからこそ、相模は何も言葉を口にできない。逆境に弱い相模にとって、今の状況は既に手に負えない域にまで至っていた。そんなことは、この四人なら簡単に判るだろうに。

 

「文化祭が終わるまで、別行動にしよっか」

「それがいいかもねー」

「じゃあ委員長、頑張って」

「ちゃんと応援してるからね」

 

 そう言われた相模は、四人に去って行かれる前に、自分から。頑張って足を動かして目立たないように教室を出ると。相模はそのまま、いずこへともなく去って行った。

 

 

***

 

 

「あれ、さがみん……?」

 

 相模が居なくなったことに最初に気付いたのは、やはり由比ヶ浜だった。教室に残っている相模とは同じグループの女子生徒たちに違和感を覚えて、由比ヶ浜は相模が姿を消したことを悟った。

 

「ゆきのん、早く部室でお昼にしよっ。ヒッキーも呼んでくるから……」

 

「ええ。ではすぐに移動しましょうか。城廻先輩、ログインにはまだ時間が掛かりそうですし、また近いうちにとお伝え頂けますか?」

 

 由比ヶ浜の声の調子から、雪ノ下も瞬時に状況を悟ってそれに同意する。続けてすぐ横にいる城廻に話しかけると。モニターの向こうで待機しておく必要がなくなったのでログインに向かった前会長にあてて、雪ノ下は伝言を託す。

 

 戸塚のそばを離れまいとする八幡を何とか連行してきた由比ヶ浜と合流して、三人は部室に移動した。

 

 

「つまり、相模がグループの連中に見捨てられたってことか?」

 

「えっと、見捨てるっていうか……絶交とかじゃなくてさ。距離を置いた的な感じっていうのかな」

 

「私はそうした機微には疎いから、由比ヶ浜さんに確認したいのだけれど。今朝の文実の話し合いで相模さんが比企谷くんを責めていたじゃない。あれは、その子たちに唆された部分があったのかしら?」

 

「うーん。可能性はけっこうあると思うんだけど、さがみんが変な考えに取り憑かれて暴走したのかもだしさ。さがみんって余裕が無くなると、よくあんなふうになっちゃうんだよね……」

 

 実は原因はその両方だったりするのだが、そうした正確な情報は今この場では求められていない。それよりも、どうすべきか。

 

「ぶっちゃけ、閉会の挨拶は藤沢だし、相模が居なくても特に問題は無いんだけどな」

 

「でもさ、奉仕部に依頼されたわけじゃん。さがみんに都合の良い依頼だったけどさ」

 

「そうね。私たちが仕事に取り組む姿を見せて、何かを感じ取ってくれたらと思っていたのだけれど。他人の意識に影響を及ぼすのは、やはり難しいわね」

 

「あのな。この間なにかで読んだんだが。たしか……『賢者は、自分が愚者に成り下がる危険をたえず感じていて、だから愚劣さから逃れようと努力する』とかなんとか書いてたな。相模はその逆で、努力から逃げて愚者になってるだろ。厳しいことを言うようだけど、今の状況って当然の帰結じゃね、って思うんだよな」

 

「本来であれば、『その努力のうちにこそ英知が』宿るのだけれど。ただ、相模さんの目的はそこには無かったのでしょう?」

 

「うん……。目立ちたかった、ちやほやされたかった、って感じだよね。さがみん、どうしてこんなふうになっちゃったんだろ?」

 

「さあな。とりあえず、前に雪ノ下が言ってただろ。『一歩を踏み出せれば違ってくる』とか。まあ葉山が『第一歩を踏み出すのが一番難しい』とも言ってたけどな」

 

「あ、そういえばさ。今日来てくれたとべっちの……」

 

「ええ、彼の場合も同じね。比企谷くんが先程『一歩を踏み出す切っ掛けを貰えた』という意味かと尋ねたら、同意していたわよね」

 

「でもなあ……。相模の第一歩って、何をすれば良いんだ?」

 

「いずれにしても、『相模さんを含めた全員で』と葉山くんと約束をした以上は、見捨てるという選択肢は無いのだけれど。姉さんが来た時の話し合いは、二人とも覚えているでしょう?」

 

「だよなあー。ま、とりあえずは内々で捜索届けを出して、探しながら説得方法を考えるしか無いんじゃね?」

 

 投げやりなようでいて、それが実は時間を無駄にしない提言であることを雪ノ下も由比ヶ浜も理解している。そして、以後は相模に代わって名実ともに文実を取り仕切ることになる雪ノ下はもちろんのこと。形の上では八幡から文実の役職を引き継いでいる由比ヶ浜にも、相模を探しに行く余裕は無い。だから、捜索に最適な人材が誰なのかを、三人は口に出さずとも理解していた。

 

「比企谷くん……よろしくね」

「ヒッキー……お願い」

 

 静かに立ち上がって行動を開始する八幡に、二人は最低限の言葉を届ける。これで充分に伝わると、そう確信しているから。

 

 二人に対して言葉は返さず、ただ片手をひらひらさせて。八幡は奉仕部の部室を出て行った。

 

 

***

 

 

 切っ掛けは、二年に進級したとき。由比ヶ浜と立場を違えてしまったときだった。三浦に見出された由比ヶ浜は、去年にはあったおどおどした様子などすっかり消えて、瞬く間にクラスのトップカーストの座を不動のものにした。そして今や、あの雪ノ下と並ぶようにして全校の頂点に君臨している。

 

 そう。本人の気さくな性格もあって普段はあまり意識されないが、由比ヶ浜がこの半年で築き上げた地位は生半可なものではない。そしてそれを意識するたびに、自分の不甲斐なさを感じてしまう。

 

 二年F組の教室を離れた相模は、できるだけ人が少ない廊下を辿って、今は職員用のトイレの個室に引き籠もっていた。

 

 自分と由比ヶ浜とで何が違うというのだろうか。それは何度となく相模が自問したことだったが、実際のところは自分でも解っていた。明るい性格、人当たりの良さ、他人に親身になれるところ、上半身の一部分。それらのどれ一つとして、相模は由比ヶ浜に遠く及ばない。

 

 その由比ヶ浜と、あの雪ノ下。二人と近しい距離に居る男子生徒に目を付けたのは、我ながら慧眼だったと相模は思う。夏休みの花火の時に話の切っ掛けを作って。二学期に入って彼がクラスの注目を集めた時には「動くのが遅かったか」と焦ったものだが。同じ実行委員になれたのは幸いだった。

 

 そして彼を伝手にして雪ノ下と知己を得て。何度思い返しても、ここまでの流れは悪くなかったのに。どうしてうちは今、こんなことになっているのだろうか。

 

 あの二人と並び立つ自分を想像してしまったのが、良くなかったのかもしれない。大それた望みだったのかもしれない。でも、うちだって。あの二人のようになりたかったから。あの二人と、色んな話をしてみたかったから。

 

 そして相模は気付く。うちは、あの二人と同じ立場になりたい以上に、あの二人と友達になりたかったんだ、と。そして友達になるだけなら、別の道もあったということに。

 

 だが、今さら気付いても遅い。せっかく奉仕部に依頼までして、でもうちは満足に役職を勤め上げることができなかった。あの二人に迷惑ばかりをかけて、挙げ句の果てにはこうして独りで逃げ出している。さすがに愛想を尽かされても仕方が無いだろう。

 

 先程「責任を押し付けないで」と言われた時のことを相模は思い出す。あの子たちにも見捨てられてしまった。自分にはもう何も残っていないと相模は思う。いや、むしろ。相模が居なくなって、あの子たちもせいせいしているだろう。由比ヶ浜はそんなことは思わないだろうけれど、相模が居なければ由比ヶ浜の気苦労が減るのは確実だ。居るだけで今までずいぶんと迷惑を掛けてしまった。

 

 そして。最後に相模は同姓の後輩を思い出す。相模・ゲーム・男だから頭の文字を繋げてサゲオ。これだって、三浦があの男子生徒を呼ぶのを聞いて、それを真似て作ったものでしかない。どこまで行っても紛い物の自分が、あの子にそんな呼び名を付けるから、罰があたったのかもしれない。うちが居なくなれば、あの子もほっとするだろう。直接言葉を交わしたことはほとんど無いけれど、小学生から数えて十年にも亘る付き合いなのだ。

 

 でも。自分が居なくなれば丸く収まると理解してなお。相模は他人に期待してしまう。見捨てられたくないと思ってしまう。

 

 相模は昨日、文化祭を色々と見学した末に教室に戻ってきた時のことを思い出す。入り口の受付に控えていたあの男子生徒のことを。うちらに嫌われていると分かっているのに、それに文句を言うこともなく。うちらに見下される境遇をそのまま受け入れていた彼のことを。うちには、あんなに平然とはできないと相模は思う。あの二人と近しいだけあって、彼もまた他とは、うちとは違った存在なのだ。

 

 さて、こんなところに居ても仕方が無い。誰かに見付けて貰わないと、うちは何にもできないから。独りで消えるなんて絶対に無理だから。だから、独りになれると同時に見付けてもらいやすい場所に行かなければならない。

 

 トイレを出た相模はゆっくりとした足取りで、早朝に集まった中央階段へと足を向けた。

 

 

***

 

 

『我だ。トロッコの中できゃっきゃうふふしていた裏切り者よ、何の用だ?』

 

「いや、だからお前、なんでそんなピンポイントに情報通なんだよ……」

 

 相模を探し始めてから、ずいぶんと時間が過ぎてしまった。このままでは埒が明かないと考えた八幡は、自分が頼れる中で唯一暇そうな男に連絡を取った。材木座義輝はその期待によく応え、ノータイムで通話を繋げるとこんなことを言ってきた。八幡から受けてきた扱いを思えば、この程度の反撃ぐらいは許されても良いだろう。

 

『して八幡よ、何用だ?』

 

 八幡が簡単に事情を説明すると、材木座は相模が居そうな場所を幾つか挙げて、そして意外な話を出してきた。

 

『仮想世界に来てまでゲームをするよりは他を見ようと、どうも敬遠されているようなのだ。我もいくつか梃子入れ案を出したが、やはりボドゲ好きは少ないみたいでな……』

 

「つまりぶっちゃけ、遊戯部の二人は暇なんだな。お前は今どこにいるんだ?」

 

『はぽん、奴らとともにゲーム三昧よ。そろそろ我のチップが無くなりそうなのだが……八幡よ、我に賭けぬか?』

 

 世迷い言は却下して、八幡は彼らに協力を要請した。そして二手に分かれることを提案する。材木座とあと一人には新館に向かわせて、八幡は屋上に向かう。だから遊戯部のどちらか一人にもそちらで合流して欲しいと。

 

 屋上に上がるためには鍵を何とかする必要がある。材木座に指示を出しながら、八幡は大急ぎで二年F組の教室へと向かう。昨日の開会式で相模が宙に舞う原稿を追いかけていた時に、思い出した記憶がある。教室までほんの僅かという辺りで、材木座から出陣準備が整ったとの知らせを受けた。

 

「じゃあ、そっちは頼むわ。正直助かった。材木座、愛してるぜ!」

『ふっ、我もだ!』

 

 叩き付けるように通話を切って材木座へのツッコミに代えると、八幡は受付の前まで一気に駆けた。八幡の勢いに驚いた川崎が目を白黒させているが、構わず一方的に話しかける。

 

「なあ、前に屋上に出てたことがあったよな。職場見学の紙を見られた時に。屋上って普通は鍵が掛かってると思うんだが、どっかに合い鍵とかあるのか?」

 

「ああ、なんだか懐かしいね……って、合い鍵はないんだけどさ、そもそも鍵が壊れてるんだよ」

 

 のんびりと昔話を始めようとした川崎に血走った目を向けたからか、少しだけ涙目にさせてしまった。濁って腐って血走ってだとこんな反応になるのも仕方が無いね、などと無理やり自分を慰めながら、八幡は情報提供を促す。そして即座に踵を返して走り出そうとしたところ、シャツを掴まれてしまった。

 

「ちょ、ちょっと。それが一体どうしたって言うのさ?」

 

「ちょっと人捜しでな。正直助かった。川崎、愛して……る……いや、あの」

 

 勢いのままに言葉を残して走り去ろうとした八幡だったが、自分が何を言おうとしたのか途中で気付いてしまい、しどろもどろになってしまった。顔を赤くしてしばしうつむく二人。だが何とか、川崎が先に再起動を果たした。先ほど八幡の声が聞こえていたのが大きかったのだろう。

 

「あんた、さっき材木座にも言ってたよね。どうせ、同じノリで口に出たんだろ?」

 

「あー、まあな。……すまん、ありがとな」

 

「いいよ。じゃあ無事に見付かるようにここで祈ってるからさ。行って来な」

 

 応援の言葉といい、材木座のことをちゃんと覚えていることといい、怖い見た目の割には良い奴だよなと八幡は思う。あの二人に向けたのと同じように片手をひらひらさせて、八幡は中央階段から屋上を目指す。

 

 

***

 

 

 フェンスにもたれて屋上の入り口をじっと見つめていると、ぎいっと音がした気がした。しかし扉に目立った動きが無いので、気のせいかと思い始めた矢先のこと。勢いよく扉が開かれて、誰かが屋上に姿を見せた。

 

 比企谷ともヒキタニとも呼ばれている、今はできれば会いたくなかった男子生徒がそこに立っていた。

 

「ふう、探したぜ。有志の出し物もあと少しだし、体育館に戻るぞ」

 

「うちは行かない。あんただけ行けばいいじゃん」

 

 来てくれたのがあの二人なら最高だったのに。いや、でも今は合わせる顔が無いから最高には程遠い。もしもあの四人が来てくれたら、それだけでうちはもう充分なのにな。

 

 男子なら、やっぱり葉山が良いと相模は思う。でも有志の出し物があるから、こんなところには来てくれないだろう。うちも観たかったなと思うが、三浦たちと共演しているのだと思えば興味も薄れてくる。

 

「はあ。何を意地になってんだよ。うちの部長様がな、『最後まで仕事ぶりを見て貰ってこそ、依頼を果たしたと言えるのではないかしら?』とか何とか言っててな」

 

「何それ。依頼なんて、別にもういいじゃん。文化祭は無事に終わりそうだしさ。うちが居なくたって……」

 

「何だそれ。もしかしてお前、お仲間に見捨てられたのか?」

 

「うるさい。あんたには関係ないでしょ!」

 

 少しだけ声を荒げた相模に、八幡は付け入る隙を見出した。どうせ時間も無いことだし、相模に嫌われたところで、今と何が違うのかと考えるもほとんど何も違わない。

 

「見捨てられてぼっちになったのなら、俺のほうが先輩だからな。快適なぼっちライフのコツでも教えてやろうか?」

 

「だから違うって言ってるじゃん!」

 

「はあ。じゃあ、なんでそいつらは来ねーんだ?」

 

「う、うっさい。そのうち来るもん」

 

 拗ね始めた相模を見て、その予想以上に打たれ弱い姿を思わずガン見してしまう。

 

「なあ……お前、それでよく上位カーストとか維持できてたよな」

 

「なんなのよ。もう、なんなのよあんた。ぼっちのヒキタニくんには関係ないでしょ!」

 

 嘲るような口調で偽りの苗字を呼ばれたが、八幡には何ほどのことでもない。

 

「ぼっちでもリア充でも、あんま変わんねーなって最近は思うわ。ま、逃げてばっかで一歩を踏み出せないお前には関係ないかもしれないけどな」

 

「なんっ……んなっ?」

 

 その時、大きな音とともに屋上の扉が開いて、一人の男子生徒が顔を見せた。その生徒の苗字は、相模。八幡に反論しようとして扉の音に出鼻を挫かれ、そして現れた男子生徒の顔を見て奇声を上げてしまった相模とは同姓の、しかし血の繋がりは無い後輩がそこに居た。

 

 二人の相模の間に流れる微妙な空気を感じ取って、八幡が口を開く。

 

「……なあ。お前らもしかして、直接話したことってあんまねーのか?」

 

「そ、そんなのあんたには関係ないでしょ!」

 

「てか先輩。探していたのがこの人だってことぐらい、前もって教えて下さいよ」

 

「いや、俺は材木座に『実行委員長を探してる』って伝えたはずだが?」

 

「あ、分かりました。後で有り金を巻き上げておきますね」

 

「おう。情けは無用だからな。どんどんやれ」

 

「ちょ、あんたたち。勝手に盛り上がってないで説明してよ。どういうこと?」

 

「いやだから、雪ノ下からお前を体育館に連れてくるよう指令を受けてるんだわ。由比ヶ浜からはお願いかね。んで、一人で探すのも限界があるから助っ人を呼んだってだけなんだが?」

 

「はあ。何でよりにもよって、あんたとこいつなのよ……」

 

「ま、ちょうど良い機会なんじゃね。あのな。雪ノ下も葉山も、それから今日来てた戸部の友達も言ってたけどな。一歩を踏み出すのが重要らしいぞ。お前らの過去の話は由比ヶ浜から聞いたけど、お互い言いたいことが積もり積もってるんじゃねーの?」

 

「まあ、そう言われたら、そうですね。先輩の言う通りです」

 

「はあ。あんたがうちに、何を言いたいっていうのよ?」

 

「はいはい。ちょっと落ち着け。んじゃ俺は陽乃さんの出し物を見に行くから、後は若い人たちに任せるわ。閉会式は絶対に見に来いよ。じゃないと後悔するぞ。絶対に」

 

 誰かの口癖が移ってしまったなと思いながら、八幡は二人の相模に背中を向けると屋上から出ていく。そして二人が取り残された。

 

 

「ねえ……あんた、言いたいことって何よ?」

 

「……例えば、『サゲオ』とか?」

 

「うぐっ。そ、そんなの仕方ないじゃん。冗談で言っただけなのに、一夜明けたらあんなに広まってたなんて思わないでしょ!」

 

「え、誰が付けやがったんだって思ってたら、あんたかよ……」

 

「あれ、うちだって知らなかった、の……。あーもう、それよりも。あんたがあんたって言うのは先輩に失礼でしょ。ちゃんと相模先輩って呼びなさいよ」

 

「普通に嫌ですが、何か。先輩って呼ばれたいなら、尊敬されるようなことをしてからにして下さいよ」

 

「でもさっき、あいつのことは先輩って呼んでたじゃん」

 

「あの人にはお世話になったし、勝手に恩義を感じてるんですよ。あなたと違ってね」

 

「だから、なんでみんなうちのことを適当に扱うのよ。呼び方も適当だし、もう!」

 

「いや、他の人の所行まで俺のせいにするのは、止めて欲しいんですけど?」

 

「そもそもあんたが年下なんだから、別の学校に行けば良かったのに。どうして高校まで同じところに来るのよ?」

 

「それは……うん、確かにごめんなさい。仮想世界に参加を決めていた高校の中で、ここが一番良かったんですよ。それに、俺のせいで連れに志望校を下げさせるのも良くないって思って。あなたが嫌がるのは分かってたし、それは本当にごめんなさい。でも俺、総武に進学したのは良い選択だったって思ってます」

 

「う。そう素直に謝られたら、うちも悪く言えないじゃん。うちには仮想世界の良さは人並みにしか分からないけど、あんたはゲーム好きなんでしょ。なら良かったじゃない。連れの話も、そんなのを聞いちゃうと文句を言いにくくなるよねー」

 

「まあ、あれだけ仲良くなれる奴は他に居ないんじゃないかってぐらい、気が合うし一緒に居て楽しい相手ですよ」

 

「え、あんたもしかして、そっちの……」

 

「当たり前だけど、そういうのとは違いますよ。てか、すぐにそんな発想が出て来る辺り、なんだか毒されてません?」

 

「あ、ちょっと心当たりがあるかも。うちのクラスの海老名ってのがさ」

 

「その名前は今やかなり有名になってるらしいですよ。その手の愛好家には絶賛されてるって」

 

 基本的に、女性の相模はへたれである。だがそんな性格だからこそ、話が盛り上がってきたら以前のいきさつを忘れて、つい楽しく会話を重ねてしまう傾向があった。確固たる信念が無くとも、たとえ少し前に話したことを忘れてしまうようなうっかりさんでも、場合によってはそれが長所になることもある。

 

「あ。だらだら喋ってたけど、大丈夫ですか?」

 

「えっ。あれ、もうこんな時間……葉山くんのバンドも終わりかけてるじゃん!」

 

「それ、俺のせいじゃ絶対ないですよね?」

 

「あんた以外のせいなわけ無いでしょ。あ、そういえばあんたさ」

 

「はあ。あなたに改まられると、何を言い出されるか怖いんですけど」

 

「それそれ。ちゃんと呼び名を指定するから、うちのことは『南先輩』って呼びなさい」

 

「絶対に嫌ですが、何か?」

 

「だってやっぱりさ。あんたに『相模』って呼ばれるの、なんか落ち着かないのよね。いくら『先輩』って続いてもさ。だから特別に、名前で呼ぶのを許してあげる」

 

「まあ、『相模』って呼びにくい件は同意しますけどね。名前でなんて呼べるわけないでしょ」

 

「へーえ。うちのことを色々言っておきながら、名前を呼ぶのは恥ずかしいんだ?」

 

「いいでしょう。安い挑発に乗ってあげますよ。えーと、南先輩……これで良いですか?」

 

「あ、うん。え、なにこの変な感覚。……もう。あいつに言われたからじゃなくてさ。ちょっと閉会式に興味があるから、今から急いで体育館まで移動するよ!」

 

「ちょ、俺を置いて行く気満々でしょ。なんで急にそんな元気になってるんですか」

 

 小学生の頃から数えて十年。それだけの年月を経て、ようやく一歩を踏み出せたことを。その意味を二人が理解できるまでには、まだ少し時間が掛かりそうだった。

 

 

 

 




できる限りオリキャラは少なめに、それよりも原作キャラを活かすようにと心掛けていますが。。
本話の展開上、外部の協力者が必要だったのでオリキャラ活躍回となりました。
オリキャラは好きじゃないという方々には申し訳ありません。
以下、簡単な紹介を。

・戸部の友達(たぶんの人)
 初出:4巻4話
 学力チート、性格善良、運動ダメダメ。

・前生徒会長(絶対の人)
 初出:6巻7話
 行動力チート、人の話を聞く前に身体が動くタイプ。

次回の更新は、可能なら今週の金曜深夜、それが無理なら来週の月曜深夜の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
変な改行と誤字を一つ修正しました。大筋に変更はありません。(3/22)


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19.いかなる言辞よりも雄弁に彼らはステージの上から語る。

前回までのあらすじ。

 文化祭は二日目を迎えていた。朝の文実の会議にて、昨日の一件で八幡を責める相模。それに対して雪ノ下は、八幡を自分と由比ヶ浜の監督下に置いて、文実に貢献させる役割を与えること(八幡曰く従順に働く手駒になること)を提案する。委員たちから賛同を受け、当の八幡もそれを甘受した。

 とはいえ、雪ノ下の口撃が普段より少し多めであることを差し引いても、八幡はリア充から見ても羨むべき境遇に居る。文化祭と役得とを堪能しながら、八幡は午前中を二人とともに過ごした。

 午後には、再訪した昨日の連中と話を付けて、予想外の面々とも交流を深める八幡たち。教室にはこっそり小町らも居て、八幡が彼らと向き合う姿を見届けていた。

 そんな八幡とは対照的に、相模の状況は悪化の一途を辿っていた。取り巻きにも距離を置かれ、相模は独り屋上に逃げる。誰かに見付けて欲しいと願う相模のもとに、意外な二人が駆け付けて。相模は自分でも意識しないままに、多年の課題に対して改善の一歩を踏み出した。

 そしてバンドが、予定通りに行われる。

*バンド部分だけ読み返したい方は、こちらへどうぞ。



 屋上を後にした比企谷八幡は、急ぎ足で体育館へと向かっていた。相模南を発見したことは、屋上の扉をわずかに開いて彼女の姿を確認した時に、既に関係各位に伝えている。だから八幡は「屋上を離れて今は体育館に向かっている」という現状を奉仕部の二人にだけ連絡した。別件で何通かメッセージを送りながら、八幡は歩みを止めずに足を進める。

 

 目的地が見えてきた頃に部長様から返信が来て、「比企谷くんはPA室に来るように」とのこと。相模がどうなっているのかを伝えなかった八幡の手落ちなのだが(とはいえ一言で説明できることではないので八幡に反省の気持ちは無いし、向こうにも八幡を咎める意図は無い)、連れ立っていた場合でも単独で来いという意味なのだろう。

 

 八幡は二つの可能性を考慮しながら、仰せの通りに体育館二階のPA室へと向かった。

 

「思ったより遅くなった。今どんな状況なんだ?」

 

「ちょうど良いタイミングよ。たったいま終わったところで、次は姉さんがステージに立つのだけれど」

 

「あとは陽乃さんの管弦楽と隼人くんのバンドで、有志の出し物も終わりかあ……。ちょっと寂しくなって来ちゃったかも」

 

「由比ヶ浜さん。そこで最後に盛り上げるのが、私たちの役割でしょう?」

 

 ステージを見下ろせる出窓に近い辺りに、適度な距離を置いて椅子が三つ並んでいた。由比ヶ浜の片隣に一つだけ空いていた椅子を示されたのでそこに腰掛けて、八幡は二人のやり取りに口を挟む。

 

「まあ、そうだな。『ヒキタニ引っ込め』コールで盛り上がらないことを祈るわ」

 

「でもさ。ヒッキーへの反感は、たしかにあるとは思うけどさ。ヒッキーがそこまで注目を集めるのも想像できないっていうか……」

 

「ええ、そうね。比企谷くんがそれほど目立つタイプなのであれば、逆に苦労をしないで済む部分もあると思うのだけれど」

 

 由比ヶ浜結衣の指摘はそれほどでも無いが、やはり今日は雪ノ下雪乃からの風当たりが少し厳しいなと八幡は思う。そして、普段ならやんわりとフォローに入る由比ヶ浜にそんな気配が見られないのは、二人ともに俺に対して物申したいことがあるからだろう。

 

 とはいえ昨日の一件によって文実の職務を投げ出したのは自分だし、その穴埋めに動いてくれたのはこの二人だ。中学の同級生への対応を葉山隼人に一任したと聞いた時には驚いたが、それも自分の意図を(既に俺の中では、あの連中のことはどうでもいいと)把握してくれたがゆえの対応なのだろう。

 

 そんなふうにして、八幡もまた二人の意図を察知する。きっと雪ノ下が理詰めで推測して由比ヶ浜に説明したか、あるいは由比ヶ浜が感覚で察知して雪ノ下に伝えたのだろう。

 

 雪ノ下の口撃にもまるで悪印象を受けないのは勿論のこと。その話し方を根拠にして、雪ノ下本人の心情に止まらず由比ヶ浜の心情までをも推測しそれを素直に受け入れている。そんな自分をふと、不思議に思う八幡だった。

 

 

「んで、俺一人をここに呼んだのは……って、相模の話を先にしたほうが良いか?」

 

「そうね……。バンドに関して付け加える話は無いから、それが理由では無いと先に言っておくわね。それで、相模さんの話なのだけれど」

 

 先ほど八幡が推測した二つのうち一つ目の可能性をまず否定して。雪ノ下はそこで言葉を切ると由比ヶ浜に視線を送った。

 

「さがみんが友達から距離を置かれてるって話は部室で言ったよね。でも、そんな話になったのは確かみたいだけどさ。さがみんの友達の様子と、さがみんの性格を考えると……突き放すギリギリのところで、さがみんが逃げたんじゃないかなって」

 

「えーっと。つまり、どういうことだ?」

 

「もしもだけどさ。さがみんが逃げてなかったら、独りでクラスから非難を浴びて、文実でもあれこれ言われてたと思うんだよね。さがみんって、いっぱいいっぱいになったら何も言い返せなくなっちゃうからさ。さがみんが悪くないことも含めて、全部さがみんのせいになってたと思う」

 

「でも現実には、相模さんが姿を消して、お友達が残った。あの子たちは、比企谷くんが昨日文実を辞めたのは『文化祭の邪魔をさせないためだとは知らなかった』と証言してくれたわ。もちろん聞く人が聞けば、それが自己保身に過ぎないと見抜くのは難しくないとは思うのだけれど」

 

 由比ヶ浜と雪ノ下の説明を聞きながら、八幡は「この部屋に相模を入れない理由」を理解する。二つ目の可能性が正解で、それは相模に目立つ行動をさせたくないという意味なのだろう。あるいは、相模が姿を消したことを逆に利用したか。

 

「……もしかして、相模がそれを知ってショックを受けたことにして、お前が委員長の職務を引き継いだってことか?」

 

「依頼の総括をするために、文化祭が終わった後で相模さんを部室に呼ぶことを考えているのだけれど。相模さんの失敗を公の場で糾弾するのは、本人の性格を考えると意味が無いと思うのよ。だから……」

 

「あ、いや。別に俺としては正直どうでもいいから気にすんな。あと、相模とさっき喋ってた時に、あまりに打たれ弱いのに驚いたっつーか。お仲間に距離を置かれたってのに、探しに来てくれるんじゃないかって期待してたぞ。なんか忠犬みたいなイメージが浮かんで、責める気が失せたんだよな」

 

「ヒッキー、やっぱり……わざと酷いことを言ってさがみんを怒らせて、それでさがみんに動いてもらおうって思ってたんだよね」

 

「でも由比ヶ浜さんが言っていた通り、相模さんはそこまで強くはなかったみたいね。これは、不幸中の幸いと言って良いのかしら?」

 

「うーん、どうだろ。ヒッキーには悪者になって欲しく無いし、でもそれだとさがみんが……あ、結局どうなったの?」

 

 自分と相模の行動がここまで読まれているのを喜べば良いのか落ち込めば良いのか、悩ましい気持ちの八幡だったが、問い掛けられて気持ちを入れ替える。

 

「前にお前が言ってただろ。遊戯部の相模と小中高が同じで、色々からかわれてたって話。苗字が同じってだけで結婚とかどうとか囃し立てるって、子供ってあれだよな……」

 

「あ、うん。えっとじゃあ、相模くんが?」

 

「時間が迫って来てたんでな。材木座をこき使おうと思って連絡したら遊戯部も暇してるって言うから、ついでに協力してもらったんだわ。今は相模同士で、積もる話でもしてるんじゃね」

 

「なるほど。相模さんが踏み出す一歩はそれが良いと、あなたは考えたのね」

 

「まあ偶然というか成り行きだけどな。俺一人だったら正直、相模を怒らせるぐらいしか手は無かったから、助かったっつーか……」

 

 八幡が続けて何かを話したそうにしているので、二人は口を挟まず八幡が言葉を選ぶのを待っている。今日の二人がややご機嫌斜めなのはこれが原因なのではないかと考える八幡は、少ししてから重い口を開いた。

 

 

「……なんかな。自分でも時々『どうして、そんなやり方しかできないんだ』って思うんだけどな。長年の習性って理由もあるんだろうし、他の手段を思い付けないってのもあるとは思うんだが。言い訳に聞こえるかもしれんが、人がそう簡単に変わってたまるかってな気持ちもあるし。それに、結果も出るからな。だから……」

 

「確かに、貴方が『人の字』の話を出した時にも結果は出ていたわね。明確な敵の存在を目にすれば、空気とか世論とか大衆・群衆といったものは、その逆に傾くものだから。けれど……」

 

「ああ。それ以外の方法もあるってことだよな。ただ、あの時もお前に誘導して貰ったようなもんだし、俺一人だと難しいんだわ。だから話を戻すけど、相模の処遇について俺に異論は無い。たぶん俺の中学の同級生連中を『明確な敵』扱いにして、俺と相模は被害者だって言って話をまとめるつもりなんだろ?」

 

「敵と言うには小者だったし、勝手に利用するのは少しだけ気が引けるのだけれど。おそらく実害は無いはずだし、その程度の責任ぐらいは引き受けて貰いましょう。ただ……相模さんが姿を消しているのは、こうして話をまとめていく段階では都合が良かったのだけれど。閉会式が終わっても出て来ないとなると、また別の問題に繋がったと思うのよ。だから……」

 

「だからヒッキーがさがみんを見付けてくれて、相模くんと二人で話をしてもらうって形にしてくれて。それで充分に結果を出してるって、あたしは思うんだけどなー」

 

「私も由比ヶ浜さんと同意見ね。貴方は本当に、何と言うか……誰でも救ってしまうのね」

 

「いや、あれは救ったって言うのかね。それに、俺ができるのは所詮は搦め手だからな。正攻法を貫けるお前のほうが、多くの人を救えると思うんだが?」

 

「そうでも無いわ。私では、相模さんの意識を変えさせることはできなかった。……そうね、少し語弊があるかもしれないのだけれど。相模さんも貴方の中学の同級生も、もともと貴方を下に見ていたからこそ、意識を変えさせることができたのではないかしら。私は……」

 

「あー。勝手に上の存在にされて、敵いっこないとか思われそうだもんな。でもそれってあっちに原因があるだけで、あれだ。ゆきのん凄いって言いながらも、お前とは違ったやり方でお前を助けたいって考えるような奴も、どっかには居るわけだしな。やっぱ相手の性格次第じゃねーの」

 

「ちょ、ヒッキー。それって誰のことだし?」

 

「由比ヶ浜さん。そんなに嬉しそうな顔をしながら無理に文句を言おうとしても、語尾が震えているわよ」

 

「なあ。お前、人の振り見て何とやらって言葉の意味を……いえ、何でも無いです」

 

 我が振りを直すべきなのはそちらだと怒られそうな気がしたので、慌てて八幡は言葉を濁した。部屋の中に微妙な空気が漂うが、雪ノ下が軽く咳払いをしてそれを打ち消すと、口を開いた。

 

「それにしても……相手に意識を変えさせるのは、やはり言葉では無いのよね。私でも由比ヶ浜さんでも比企谷くんでも、言葉だけでは説得はできなかったと思うのだけれど」

 

「言葉って、あれだよな。特に言い合いとかになると、いつも平行線で終わる気がするんだよな。つーか、平行線ならまだマシなほうか。『言葉は誤解のもとだ』って、どっかのキツネが王子様に言ってたしな」

 

「でもさ。だからって、話さないことには始まらないじゃん。他の人に気持ちを伝えるのに、言葉以外の方法もあるってだけでさ。他の伝えかたでバッチリ上手く行くこともあるけど、言葉も……。あたしとゆきのんとヒッキーとで、積み重ねてきたって言うのかな。そういう言葉って、やっぱり大切だと思うんだけど……」

 

「そうね。由比ヶ浜さんの言う通りだと思うわ。ただ、言葉が全てでは無いということね。ちょうど今、言葉よりも印象で他人を操作するのに長けた人が出て来たから。しっかり見て、参考にさせて貰いましょうか」

 

 人数が多いからか少し時間が掛かったみたいだが、ステージ上にはこの世界に巻き込まれた管弦楽部のOB・OGが勢揃いしていた。ステージ上方に備え付けられたスクリーンには現実世界の様子が映し出されていて、あちらにも管弦楽部の卒業生が集まっている。

 

 その両者を視野に入れて。最後にステージ上に登場した雪ノ下陽乃が、タクトを揮う。現実世界の調べとこの世界のそれとを見事に調和させた、華やかで扇情的な演奏が始まった。二つの世界に集まった聴衆はしばし、我を忘れて盛り上がるのだった。

 

 

***

 

 

 陽乃が暖めた場の空気を、葉山は損なうことなく引き継いだ。メンバーの演奏能力という点では見劣りする部分もあったのだが、曲の盛り上がりに応じて観客の意識を上手く自身に引きつけては放し。バンドのもう一方の主役である三浦優美子を輝かせると同時に、他の面々の拙い部分を覆い隠していた。そしてもう一人。

 

「一色さんが上手い具合に、演奏面でフォローを入れているわね」

 

「いろはちゃんって、気ままに振る舞ってるようで、けっこう周りをよく見てたりするんだよね。ただ、普段はフォローをする気が無いだけでさ」

 

「なあ。それが一番問題じゃねーのか。でもま、一色って理由さえあれば調整能力とかも高そうだよな。文実に引き込んでおけば……あいつを理由に男女に分かれていがみ合う展開が見えたから、引き込まなくて良かったな」

 

「あら。一色さんのクラスで昨日、揉めごとがあったのだけれど。比企谷くんはそれを、誰から聞いて知ったのかしら?」

 

「あ、いや。お俺は別に、だ誰からも何も聞いてねーぞ?」

 

 二人からの訝しげな視線が突き刺さるが、八幡は勝手に状況を推測しただけであって、誰かから詳しい話を聞いたわけではない。挙動には怪しい部分があるものの、嘘は言っていないと判断してくれたのか。幸いなことにそれ以上は追及されずに済んだ。もちろん、いつバレないとも限らないのだが。

 

「まあいいわ。では、そろそろ私たちも移動しましょうか」

 

「あ、それなんだけどな。たしかバンドのために、時間を10分ほど確保してたんだよな。もしかしたら無駄に終わるかもしれんが……それを、例えば20分にまで延長できるか?」

 

「現実世界からの来客だけで例年の数倍なので、閉会式後のあちらでの混乱を見越して、予定を少し前倒しにしているのよ。だから実際には20分でもまだ余裕はあるのだけれど……?」

 

「さっき帰ってくる途中にメッセージを送ってな。上手く行けば相模を……だから……」

 

「なるほど。いま言ったように時間的には問題無いわ。それに当日のアドリブという形で処理すれば、事前の申請も無視できるわね」

 

「な、なんだかあたし、『ゆきのんも悪よのう』とか言いたくなって来たかも……」

 

「いえいえ、お代官浜こそ……とか言って欲しいのか?」

 

「ちょ、浜しか残ってないし!」

 

「由比ヶ浜さん、比企谷くん。じゃれ合ってないで移動するわよ」

 

 いよいよ閉会式が始まる。

 

 

***

 

 

 ステージの袖にて平塚静と合流して、適当な理由を付けて他の文実メンバーを付近から遠ざける。そして奉仕部の三人は、司会の城廻めぐりからの呼び出しに備えて支度を整えていた。

 

 まず初めに、八幡が演技スキルを展開する。事前に運営に申請した通りに、八幡と由比ヶ浜の姿が、それに加えてステージ後方の三分の二が、奉仕部の三人以外からは知覚できなくなる。もっとも今のステージ上には中央前方にマイクスタンドが一つ立っているだけなので、誰も変化には気付かないだろう。

 

「ふむ。私からは二人の姿が見えなくなったが、大丈夫かね?」

 

「私には見えていますし、問題ないかと。では平塚先生、お願いします」

 

 次に、雪ノ下の要請を受けた平塚が教師の権限を発揮して、ステージ後方三分の二をスタジオに換装する。八幡たちが練習時に奉仕部の部室を換装していた時と同じ機材が姿を現した。

 

 まず目に付くのはドラムセット。そしてギターとベースが幾つか、スタンドに置かれた状態で並んでいる。この世界では必ずしも必要ではないのだが、各種アンプやPA機材、それにモニタースピーカーなども散見される。最後に、今日の三人には無用のキーボードもステージ最後方の向かって左側に見えていて、その足下の目立たない位置には楽器がもう一つ置かれていた。

 

 おおむね葉山たちがバンド演奏をしていた時の状態に戻ったわけだが、八幡の演技スキルによって観客がそれに気付くことは無い。

 

「私には何も見えないが……問題は無さそうかね?」

 

 楽器が突然出現したことに対して観客からの反応はなく、教師の保証もある。だから大丈夫だと理屈では解っていても。それでも八幡と由比ヶ浜はこそこそとステージに上がって、そして楽器を一つ一つ点検していった。ドラムスティックのような見落としがちなものも、きちんと複数用意されている。

 

「問題ないとのことです。では城廻先輩に合図を送りますので、平塚先生はここで観ていて頂けますか?」

 

「ああ、存分に楽しんで来たまえ。ではまた後でな」

 

 心底から楽しそうな表情の教師につられて笑顔になって。雪ノ下は一人、城廻の呼び出しに応えてステージに上がった。

 

 

***

 

 

「……以上のように。この世界から、更には現実世界から集まって下さった皆様。そして文化祭実行委員を始め総武高校のみなさんのお陰で。今年の文化祭は大盛況の中、無事に終わりの時を迎えようとしています」

 

 副委員長の雪ノ下による文化祭の総括も、そろそろ終わりが見えてきた。最後にもう一人の副委員長である藤沢沙和子が閉会の挨拶をして、今年の文化祭が終わる。

 

 陽乃が盛り上げて葉山がそれを維持したことで、観客たちは興奮さめやらぬ状態にある。せっかくだし閉会式を最後まで見届けようと、そのまま残っている者が大半だった。

 

 現実世界からログインしてきた者たち。この世界の校外からの来客たち。そしてこの高校の教師と生徒たち。更には現実世界からモニター越しに眺めている者たちも含めたその全員が、遠からず訪れる祭りの終わりを惜しんでいた。

 

「ところで、私たちは奉仕部という部活を行っています。助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事、飢えた者に魚を与えるのではなく魚の捕り方を教えるという理念に従って、活動しています」

 

 だから、雪ノ下がいきなりこんな話を始めたことに、誰もが困惑した。

 

「しかし今回は、私たち自身が依頼人となりました。依頼内容は、先に挙げた皆様を。すなわち総武高校の文化祭に、この世界で開催された今年の文化祭に集まって下さった皆様を。最後にもう一度おもてなしすること」

 

 だから、雪ノ下が一つ指を鳴らすと同時に《完全不可知化(パーフェクト・アンノウアブル)》が解けてバンドが姿を現したことに、誰もが驚愕しそして即座に熱狂した。

 

 その反応にも、いささかも動きを乱されることなく。雪ノ下はすぐ近くに出現したギターを手にして、ストラップを肩から掛ける。ステージ上方に備え付けられているスクリーンは、そうした雪ノ下の動きを余さず全て伝えている。この世界の観客へと、そして現実世界の観客のもとへと。

 

 雪ノ下の背後、ステージに向かって左側にもマイクスタンドが立っていた。前後で言えば雪ノ下と、ステージ最奥にあるキーボードの中間辺り。そこにはベースを抱えた由比ヶ浜が。そして向かって右側、前後で言えば由比ヶ浜と同じ辺りに姿を現したドラムセットの向こう側には八幡がいる。

 

 青いテレキャスターの具合を軽く確認して、雪ノ下は再び中央前方のマイクに戻る。スクリーンはステージを正面から映している。雪ノ下を中心に、奉仕部の三人が入り切るぐらいの大きさで。

 

「部員が提案した選曲の基準は、私たちが幼い頃に耳にした懐かしのヒット曲。この曲の発売当時、私たちはまだ生まれていません。でも、全員がこの曲を知っていました」

 

 部室で由比ヶ浜がそう提案した時のことを。そして八幡の家のリビングで八幡がこの曲を推した時のことを、雪ノ下は思い出す。

 

 推薦の切っ掛けが八幡と平塚の会話にあることを、雪ノ下は知らない。だが切っ掛けが何であれ、三人全員が知っている曲を演奏したいと言った由比ヶ浜の希望に沿ってさえいれば。三人全員が子供の頃に聴いたことがあるという条件さえ満たしていれば、何も問題はない。

 

「では、()()この曲を聴いて下さい。……”innocent world”」

 

 

 打ち込みによるカウントと録音してあったシンセサイザーの調べに続いて、八幡がタムを二つ。それに続けて由比ヶ浜がベースを、そして雪ノ下がイントロのリフを奏でる。オクターバーを使うことも二本の指で弾くこともなく。微妙にエフェクターを変えてあらかじめ録音しておいたギターの音に合わせて、雪ノ下が左手の指を弦の上で滑らせる。

 

 そしてイントロが終わり、歌が始まる直前のことだった。バンド初心者の二人が本番でも問題なく演奏できているのを確認して軽い笑みを浮かべた雪ノ下は、素早く両目で瞬きをした。その瞬間、観客から大きなどよめきが漏れる。雪ノ下の手にテレキャスは無く。代わりに、ギタースタンドに立てかけられていたはずの、G社のアコースティックギターを手にしている。

 

 《クイックチェンジ》。これもまた、八幡が展開した演技スキルによるものだった。

 

 もともとの八幡のアイデアでは、このスキルは登場時のサプライズに使うだけだった。校内放送で城廻と雪ノ下がスムーズに入れ替わる映像を見て、「実はこちらからは認識できなかっただけで、雪ノ下が最初から居たのだったら面白いな」と妄想したのが発想の原点だった。

 

 だが八幡の提案を聞いた雪ノ下が運営への申請を修正する。簡単な合図によって、定められた順に従って瞬時に楽器の入れ替えを可能にする仕組みを加えた。同じ「入れ替わる」という言葉からでも、人が違えばまるで異なる連想をするのだなと八幡はその時に思ったのだった。

 

 そもそもの話をすると、雪ノ下は可能な限り生演奏に拘っていた。同時に、音の厚みを確保するために、その話が出た時点で既に手ずから色んな楽器を操って当日に演奏する以外の音を録音していた。そんな雪ノ下だからこそ思い付いたアイデアなのだろう。

 

『別に悪く言いたいわけじゃないんだが……これ、詐欺じゃねーよな?』

 

 アコギのストロークに合わせて声を出しながら、雪ノ下は八幡とのやり取りを思い出す。部室で予行演習をした時に、楽器を変更する雪ノ下を見て八幡が思わずこうつぶやいたのだ。あまりに鮮やかな雪ノ下の手際に、思わずそんな感想を抱いたのだろう。

 

 詐欺という言葉はあまり耳にしたいものではなかったが、八幡が口にした通り悪気は無さそうだった。それに運営から「効果の違いごとに分けて、それぞれ好きな名前を付けて下さい」と言われた八幡が身悶えていた姿が妙に可笑しかったので。あの時は、いつもの軽口を叩く気すら起きなかった。

 

 悩んだ末に決めた名前を運営に伝えて、「今宵、俺の黒歴史は更新される」などとやけっぱちになってつぶやいていた八幡の姿は、録画しておけば良かったと昨日も由比ヶ浜との会話に出てくるくらいには印象的だった。当人は一刻も早く忘れて欲しいと思っているのだろうが。

 

 

『やっぱ左足がネックでな。ハイハットは誤魔化しながら叩くことにするわ』

 

 その八幡がこう言ってきたのは水曜日の放課後のこと。あと数日では改善できそうにないからと、潔く諦めの言葉を告げられた。

 

『小節の終わりに足を上げるのは、できるようになったんだけどな。それ以外だと……二拍目の終わりとか、似たタイミングだし対応しやすそうなのにな。上手く行かないのはなんでかね?』

 

 自分には簡単にできてしまったことを説明するのは難しい。それに雪ノ下は八幡の決断を好ましく思っていたので、それをそのまま受け容れることにした。

 

 既に曲はBメロの後半に入っている。サビを目前に控えたこの部分では、二小節ごとにハイハットがオープンになる。あの時に八幡が口にした通り、最初の三回はそれをきちんと再現していながら。タイミングが変わる四回目にはあっさりとスルーした。

 

 思わず吹き出しそうになるのを何とかこらえて、雪ノ下はサビの歌詞を丁寧に歌い上げることに集中しながら物思いに耽る。久しぶりに、自分の意識が拡張している感覚を覚える。時間の流れがひどく緩やかに感じられる。

 

『ええ、予定通りでお願いします』

 

 続けて雪ノ下は今朝の部室でのやり取りを思い出す。教師からの問い掛けに八幡はこう答え、ぶれない姿勢を見せていた。

 

 あの幼馴染みを始めとして、男の子のこうした姿を雪ノ下は何度も目にして来た。だからだろう。雪ノ下は、それ自体に心を動かされることはない。その手の決意表明が、結果とは何らの因果関係も持たないことを、雪ノ下は幾度となく経験してきたから。

 

 とはいえ、全く参考にならないというわけでもない。「任せて下さい」「絶対に成功させます」といった言葉がまるで当てにならないのはその通りだが、その口調から発言者の状態を確認することはできる。今朝の八幡からは、心身の充実ぶりが伝わって来た。

 

『まあ、やばくなったら連絡するから、安心して体力回復に励んでくれ』

 

 これは日曜日に言われたこと。翌日は由比ヶ浜だけでなく雪ノ下も休んではどうかと提案した八幡は、そんなふうに話を締め括った。あの時に雪ノ下は、「俺に任せろ」と言われるよりもよほど頼りがいがあると思った。曖昧な感情だけを提示されるよりも、具体的な行動指針を告げられるほうが遙かに安心できると。

 

 だから、「ハイハットを完全に再現するのは今の俺には無理だ」と正直に申告した八幡を、雪ノ下は好ましく思う。大抵の男の子ならそこに無理に拘った挙げ句に、普通に叩けていた他の部分まで微妙な演奏にしてしまうのではないか。勿論たまたま上手く行く時もあるだろう。しかし失敗するケースのほうが圧倒的に多い気がすると雪ノ下は思う。

 

 ただ、一つだけ不満を言えば。数日前の時点で見切るのは早過ぎるのではないか、とは思った。前日ぐらいまで決断を持ち越しても良かったと思うし、数日とはいえ集中的に練習をすれば、八幡なら克服できる程度の課題だったと思う。謙虚は美徳ではあるけれど、少し冒険をするぐらいが成長という点では効果的なのに。

 

 雪ノ下はそんなことを考えながら、引き続きサビの歌詞に意識を集中する。

 

 

 サビに入って、イントロでも耳にしたグロッケンの音が聞こえて来る。ここまで無難に演奏できているだけでも上出来なのに、それに気付ける余裕のある自分を、由比ヶ浜は不思議に思っていた。

 

 何だか、自分にできることが増えた気がするというか。普段なら、二つのことを同時にしようとしても頭が付いてこなくて失敗するのに、今ならそれもできそうな気がする。いや、だからといって演奏から集中を切らしたらダメだ。しっかりベースを弾きながら、余裕を保てる範囲で考えごとをしないと、と由比ヶ浜は思う。

 

『なあ。人が真剣にやってるのに、笑うのは酷いんじゃないですかね?』

 

 今日の本番に先だって、生演奏するパート以外は雪ノ下が録音を重ねてくれていた。完成度ということを考えれば、それをそのまま使ったほうが良かったのだろう。けれど雪ノ下は少し考えた末に、二人にも録音に加わらないかと提案してきた。

 

『でもあたし、楽器とか習ったこと無いんだけど……』

 

『それでも、キーボードで簡単なフレーズを弾くぐらいなら大丈夫ではないかしら?』

 

 そう雪ノ下に勧められて、由比ヶ浜はイントロで流れる音が印象的なシンセサイザーを担当することになった。出だしの部分が少し難しかったが、何とか素人ながらも頑張ったと思う。そして八幡は。

 

『つーか、グロッケンとか意識の高い呼び方をしなくても、要は鉄琴だろ?』

 

 よく分からない文句を言っていた。

 

 それでも大人しくマレットを手にして、八幡は曲に合わせておもむろに叩き始めたのだったが。ちょこんちょこんと叩く姿が何だか可愛らしくて。そして自分と雪ノ下の反応を見てふくれっ面になりながらも、律儀に叩き続ける姿が妙に可笑しくて。つい二人とも吹き出してしまったのだった。

 

 男の子に「かわいい」なんて言ったら大抵は気を悪くするので口にしなかったが、あの時のヒッキーは可愛かったと由比ヶ浜は思う。この曲にも「哀れな自分(おとこ)が」という歌詞があるけど、男の子ってわりと自分を卑下するって言うのかな。自分を悪く言う割には、他人から小さく見られるのは嫌がるというか、それが不思議だなと思う。別に可愛くても良いじゃんって思うんだけど、男のプライドというものがあるらしい。

 

 由比ヶ浜には演奏の善し悪しはよく分からない。だから印象でしかないのだけど、雪ノ下が叩いたグロッケンと比べると八幡の音は、正確なリズムという点では遠く及ばないと思う。でも、音がぶれているからなのか、そこに暖かみのようなものを感じる。今こうしてステージに立って、ヒッキーが叩いた音を聞きながら演奏していると、すごく安心できる。雪ノ下の音も暖かいけど、それが頼れる暖かさだとすれば、八幡の音は一緒に居てくれる暖かさという感じがする。

 

 そしてサビの歌を聴きながら、「この曲はゆきのんの曲だ」と由比ヶ浜は思う。今は高校という枠が、限界があるけれど。いずれ雪ノ下は陽の当たる場所に行ってしまう。自分も頑張って追いかけたいとは思っている。でも、実際にそれができるのかと問われれば、返事を濁してしまう。とても断言なんてできない。

 

 たぶん、断言しないのは同じ。でも八幡なら、雪ノ下の後を追うことができると由比ヶ浜は思う。じゃあ、あたしはどうしたらいいんだろう?

 

 でも、こっそり考え続けてきた疑問の答えは、この曲の中にあった。もしも雪ノ下について行けなくて、自分だけが取り残されても。それでもせめて、「また何処かで」と思ってもらえるように。……いや。

 

 できれば、雪ノ下がいつでも帰って来られる場所になれるように。未来の雪ノ下に「そして君は居ないよ」なんて言わせたらダメだ。だから、そんなことにならないように。そのためにも、今の時間を大切に過ごさないとダメだ。

 

 その考えに行き着いた由比ヶ浜は、改めてしっかり前を向いて。残り少ないサビの演奏に集中する。

 

 

 雪ノ下が歌うサビの歌詞を聴きながら、八幡もまた物思いに耽っていた。普段から気怠そうな気配をたたえる八幡だが、内心ではいっぱいいっぱいな事が多い。ぼっちとはそういうものなのだ。

 

 なのに今は、変に心の余裕がある。雪ノ下の歌声に包まれて。由比ヶ浜のベースに支えられて。まるで二人が特別な魔法をステージいっぱいに展開してくれているかのように感じられる。

 

『選曲の基準は、私たちが幼い頃に耳にした懐かしのヒット曲』

『子供の頃に聴いた曲だったらさ。ゆきのんもヒッキーも知ってるんじゃないかな?』

 

 先ほど雪ノ下が観客に説明した言葉を、由比ヶ浜が提案した選曲の基準を八幡は思い出す。曲を決めるのに先駆けて、自分たちが最近聴いた曲を挙げ合った時には、あまりにジャンルがバラバラなので頭を抱えたものだったが。お陰でこうして一緒に演奏できている。

 

 このミュージシャンの曲は他に何曲も知っている。なにせ物心が付く前から、ずっと彼らはトップ・ミュージシャンの座を維持してきたのだ。聞き覚えが無いほうが珍しいだろう。

 

 幼い頃は、特に選り好みもせず聴いていたと思う。けれど自意識が高まってくるにつれて、有名な作品・売れている作品に疑問を覚えるようになった。

 

 直接の切っ掛けはおそらく、あの海賊が主人公の有名な漫画。小学生の頃に、同級生がそれの話題で盛り上がっているのを目にして。八幡は自分が読み取った伏線を、これからの展開予想を、そしてタイトルの意味を嬉々として捲し立て、そして気付いたら周囲には誰も居なかった。

 

 メジャーな作品なんて碌なものでは無いとそちらに責任転嫁をしたのは、あの年齢なら仕方が無いとも思いつつ。「ピースは平和って意味だから」という勘違いを喧伝されなかったのは、不幸中の幸いだったとも思いつつ。

 

 いずれにしても八幡はあの時を境にして、有名な作品ほどひねた目で見るようになって行った。あの漫画が映画になって、主題歌を彼らが担当すると知った時には、観もせず聴きもしないうちから「けっ」と思った記憶がある。そういえば自分のトップカースト観も、おそらくはその延長線上にあるのだろうと八幡は思う。

 

 だが練習のためにこの曲を聴き込んで、そうしたイメージは少し払拭された。今の八幡は、売れている曲にも良い曲はあると素直に口にできる状態にある。もちろん全てが良いとは思わない。彼らの作品に限定しても、嘘くさいことを言ってるなあと思う曲はいくらでもある。でもこの曲は良い曲だと、八幡は率直に認めることができる。

 

 八幡はドラムを叩きながら、雪ノ下がつい先ほど歌った言葉の響きを噛みしめる。幼い頃も、そして今も、「いつの日もこの胸に」この曲が流れていたことを八幡は認識する。雪ノ下や由比ヶ浜と知り合う前から、そして知り合った後でも。この曲のメロディーは、変わることなく流れている。

 

『もしも彼女らと同じ小学校だったら』

 

 それは八幡が千葉村の最終日に自問した仮定だった。

 

 あの時に八幡は「ただ助けられて終わるだけだ」と考えた。今の自分は、ぼっち時代に培ったものをあれこれ活かして、何とか奉仕部の役に立てている状態だ。それを持たない時期にあの二人と出逢っても、興味を示されないままに関係は終わっていただろう。いや、始まることすら無かっただろうと。

 

 大枠のところでは、今もその結論は変わらない。けれども心の片隅には、それを否定する気持ちが宿っている。だって、あの二人と共有できることなんて俺には無いと思っていたのに。こうしてちゃんと、この曲の想い出を共有できている。

 

 同じ場所で同じ時に同じ記憶を共有したわけではないけれど。それでも同じような時期に、そして地球の大きさから考えるとほんのご近所で、三人はこの曲を聴いていたのだから。その想い出を語り合うことで、お互いの状況をありありと思い浮かべることができるのだから。

 

 たかだか十数年しか生きていない身で、こんなことを思うのは変かもしれないが。八幡は、誰かと同じ時代に生きることを。その意味を、少しだけ理解できた気がした。同世代というのはこういうことなんだ、と。

 

 雪ノ下が優しく、同時に力強く、曲のタイトルを歌い上げる。それを耳にした八幡は、再び演奏に意識を集中させる。

 

 

 一番の歌詞を歌い終えた雪ノ下は、《クイックチェンジ》を発動させてテレキャスを手にすると再びリフを奏でる。しかし声の余韻が途切れた辺りで右肩越しに後方を振り向くと、由比ヶ浜と目線で一言。相手の意思を確認してから、そちらに向けて歩き始めた。

 

 今度は何をしてくれるんだと期待する観客の視線をいっさい気に留めること無く、ギターを弾きながら雪ノ下は歩く。同じようにこちらに向かって来た由比ヶ浜とは、すれ違いざまに軽く笑顔をかわすことで激励に代える。

 

 そして雪ノ下は由比ヶ浜が立っていた辺りに、マイクスタンドとは少し距離を置いて立ち止まる。同じ頃、由比ヶ浜は正面前方のマイクの前に立っていた。できるなら照れ隠しと緊張緩和のために、観客に向かって手でも振りたいところだが。ベースを演奏しているのでそれができない由比ヶ浜は、せめて「たはは」と苦笑いを浮かべることで、気持ちを落ち着けようとしていた。

 

 このようにして雪ノ下と由比ヶ浜の位置が入れ替わって、そして間奏が終わりを迎える。そのまま二番を由比ヶ浜が歌うのだろうと思い込んでいた観客だったが、雪ノ下が伸ばすエレキギターの音をバックに、由比ヶ浜が口を開く。

 

「じゃあ続いて、途中からだけど聴いて下さい。……”Hello, Again”」

 

 由比ヶ浜の声に続けて、八幡が。テンポを120前後から100前後まで落として、タムとフロアタムとバスドラを一つずつ。本来であればこの三音の後にイントロのギターが始まるのだが、由比ヶ浜がすぐに二番の歌詞を歌い始めた。雪ノ下がアレンジした通りに。

 

 

『雪ノ下が一番を歌って、由比ヶ浜が二番を歌うとかだとダメなのか?』

 

 夏休みの終わりに初めて二人にバンドの話を告げた時に、そう提案してきたのは八幡だった。自分の体力の無さを理由に、二人のどちらかにヴォーカルをと話を持ち出した雪ノ下だったが、良い案を出してくれたものだと内心で喝采したのを覚えている。

 

 そして今月最初の月曜日。奉仕部の部室で由比ヶ浜が選曲の基準を提案したすぐ後に、八幡が挙げたのがこの曲だった。

 

『じゃあさ、いっそのことメドレーとか……って、アレンジとか難しいのかな?』

 

 あの後も幾つかの曲名が挙がっては消えて、最終的には八幡が推薦した二曲が残った。先ほど八幡の質問に答えたように、時間的には二曲でも問題は無かった。しかし体力面を考えると、一曲まるごとを歌いきるのは不安が残った。ならば一曲は一番だけ、そしてもう一曲は二番以降という形でメドレーにして、二人で歌を分担してはどうかと由比ヶ浜が提案してくれたのだ。

 

 いま実際にステージ上にて、二人が提案してくれたことの効果を実感しながら。雪ノ下は過去に思いを馳せるのを中断して、演奏に意識を集中する。

 

 再び《クイックチェンジ》を発動させて今度はサンバースト・カラーのレスポールを手にした雪ノ下は、歌という重労働から解放された反動か、ノリノリでギターを奏でていた。観客の目があるのはかろうじて意識できているので、目立つ身振りなどは観られない。しかし、そのハネた音は全く隠せていない。聴く人が聴けば、雪ノ下の心情を容易に悟って、微笑ましい視線を送ることになるのだろう。

 

「やっぱり雪乃ちゃん、さっきよりも今の演奏のほうが味が出てるんだけど……自覚してないんだろうなー」

 

 こんなふうに。

 

 陽乃はさすがに大したもので、妹が、使用しているギターはそのままにエフェクターだけを変更した《クイックチェンジ》を行っていることも見抜いていた。三人だけで演奏するという前提に従うのであれば、妹のアレンジは真っ当で、そして綺麗なものだ。だからこそ、今後の展開が至極読みやすい。

 

 だがそれでも、陽乃は踵を返すことなどしない。一緒に葉山のバンドを観ようと先週(一方的に)約束したのに仕事を理由に断られてしまった、それの文句を妹に直接言いたいから、では無論ない。

 

 妹の生演奏を聴けるというだけでもここに居る価値は充分にあるが、今日はもしかするとそれ以上を期待できるかもしれない。芸術作品とは、展開が予測できた時点で意味を失うような、そんな類いのものでは無いからだ。楽譜に書かれた通りに音を出して、なのにそれが大勢の心を揺さぶるような演奏になってしまうことがあるからこそ、芸術というものは侮れないのだ。

 

 大切な妹が、そして妹と同じ部活のあの二人が、一体この先どんな演奏を聴かせてくれるのか。それを楽しみにしながら、陽乃は再び耳に意識を集中する。すぐ隣では旧知の教師と、司会の役割が当分来ないので舞台の袖に下がってきた後輩が、呆れたような目で陽乃(シスコン)を見ていた。

 

 

『なんでこの曲を、って言われても、特に深い意味はねーんだけどな。たまたま思い出したっていうか』

 

 歌詞を丁寧に口に出して歌いながら、由比ヶ浜は八幡に推薦の理由を尋ねた時のことを思い出していた。何となくの感覚でしかないのだが、「たまたま思い出した」という言葉に嘘は無いと思った。けれど、それは「ついさっき」ではないのだろうな、とも思った。

 

 意味を考えながら歌っていると、この二曲の世界観というのかな。それがとても似通ったものに思えてくる。この二曲を推薦したヒッキーは、そこにどんな意味を見出しているんだろう。それをもっと詳しく知りたいと思うから、由比ヶ浜は言葉の一つ一つを、音の一つ一つを疎かにすることなく歌う。

 

「(もしかしたら、ヒッキーもゆきのんに置いて行かれるのが怖いのかも?)」

 

 ふと思い付いた仮説に対して、由比ヶ浜は即座にかぶりを振る。そんな心配をしなくても、ヒッキーなら大丈夫なのにと由比ヶ浜は思う。由比ヶ浜も八幡も、自分だけが置いて行かれることを怖れていて、()()()()()取り残される可能性を認識できていない。そんなことは起こり得ないと、頭からそう思い込んでいるから。

 

「(ゆきのんのギターも、ヒッキーのドラムも、気持ちいいな)」

 

 練習の時にも思ったが、二人の演奏に合わせて歌うのは本当に気持ちがいい。カラオケに行くのは楽しいけど、この気持ちよさを知ってしまったら、ちょっとやばい。たぶんそれは、バンドの生演奏だからという理由に加えて、この二人の演奏だからという理由も大きいのだろう。というより、それが理由のほとんどなのだろうと由比ヶ浜は思う。

 

『現実世界でも、今はスマートフォンさえあれば簡単に曲ができてしまうのよ。正確には、G-Bandというアプリがあれば、ね。個人的にはそれに加えて、aiRigぐらいは欲しいのだけれど』

 

 最初のアプリは何となく聞き覚えがあったけど、付け加えたやつはアプリなのか何なのかすら分からなかった。由比ヶ浜に理解できたのは、雪ノ下は一人でも曲を作れて演奏までできるという事実。やっぱり、ゆきのんに助けなんて要らないんじゃないかと、拗ねたことを言いたくなってくる。

 

 でも、あたしはもう決めたから。待つよりも自分から行くって。どこまで行けるのかは正直分からない。それでも「自分の限界がどこまでか」、それを知ることになったとしても、そこまでは行くんだって決めたから。

 

 そして、もしもそれ以上は行けないってなったら。その時は、せめてあたしは、二人が帰って来られる場所を確保しておくんだ。ここは「昔からある場所」だよって。

 

 とはいえ、今はそこまでは考えまいと由比ヶ浜は思う。今はただ手を前に伸ばすようにして、まっすぐに。ベースを弾きながら歌を観客に届けることに、集中する。もうすぐ二番のサビも終わりだ。

 

 

 軽快にギターを奏でていた雪ノ下は、二番のサビに入ってからも相変わらずノリノリだった。だが最後の四小節に入ると、その音が変わる。ほんの少しの緊張感と、ほんの少しの高揚感と。それらを押さえつけることなく、冷静に自分の中で循環させようとしている。

 

「やっぱり……ね」

 

 もっともそんなことまで分かるのは、「やっぱりわたしの予想通りの展開だったね」と上から目線を維持しようとしつつも頬が緩むのを避けられない、どこかのシスコンぐらいだろうが。

 

 そしてサビの歌が終わる直前のこと。背後のスクリーンを確認するような素振りで半身を後ろに向けた雪ノ下は、何度目になるのか分からない《クイックチェンジ》を発動させる。だが、今度の楽器はギターではなく、キーボードの陰に置かれていたもの。

 

『ざわっ……』

 

 その楽器を口にしてベルをマイクに向ける。雪ノ下のその姿を前にして、観客たちは声にならない言葉を口にして目を見開いている。だが同時に、必死になって目と耳に意識を集中させようとしている。決して見逃すまいと。決して聞き逃すまいと。

 

 同じタイミングで、ずっとカメラが固定だったスクリーンの映像がここで初めて変化した。カメラがゆっくりと移動して、ステージの左方から雪ノ下を中心に映し出す。他の二人が映像から姿を消すことのない構図で。

 

「雪乃ちゃんのソプラノサックス、久しぶりに聴いちゃった」

 

 そうつぶやく陽乃ですら、実際には余裕はさほど残っていない。雪ノ下が紡ぎ出す音の中には、優しさも強さも、バンドメンバーへのねぎらいも観客へのおもてなしの気持ちも、未来を見据える視線も過去に向ける眼差しも、先達を侮らず敬うべきは敬い後生を畏れず導くべきは導く姿勢も。文化祭の準備が始まってから今日までの二週間に経験した様々な想いが、全て漏らさず込められていた。

 

 それらを渾然一体として、雪ノ下はそれを大切に扱いながらも、意識するのはただ一つ。二人の部員が刻み出すリズムに合わせて、ただ音を伝える。観客の耳目を一身に集めて、それでも雪ノ下は自然体で音を届ける。

 

 その音に割って入れるのは、ただ二人。まずは由比ヶ浜が、そこに声を乗せる。その歌は、雪ノ下の音にあるような幾多の意味合いなどは持ち合わせていない。そこにあるのは一つだけ。ただ雪ノ下に寄り添うという意思だけを顕わにして、由比ヶ浜が二小節を歌い上げる。スクリーンの映像は滑らかに右方に移動して、そんな二人を均等に映し出している。もちろん奥には彼の姿も。

 

 二人が存分に音と声とを伸ばして、そしてそれが途切れそうになった瞬間。二人はちらりとスクリーンに目をやって、そしてもう一人の姿を見据える。こんな衆目の場で二人からの視線を独占しても、今の八幡には畏れることは何もない。二人に見られていることを充分に意識して、それでも八幡は気負いなく普段通りに動くことができる。

 

 ドラムスティックを振り上げて、それをフロアタムに向けて一閃。強くリバーブがかかった音が体育館に響き渡り。それを合図に、雪ノ下は再びレスポールを操り、由比ヶ浜はベースを弾きながら力強く歌う。曲はついに大サビに入った。

 

 

 耳に届いてくる歌詞は、まさにあの日に思い浮かべた箇所。

 

『由比ヶ浜は、優しいよな』

 

 そう言って、八幡はかつて由比ヶ浜を、奉仕部の二人を拒絶した。あの発言がいかに軽はずみなものだったか。由比ヶ浜をどれほど傷付ける言葉だったか。後になってようやく八幡は、そのことに思い至った。

 

『ヒッキーは、なんでこの曲をやりたいって思ったの?』

 

 由比ヶ浜からそんな質問を受けた時は、内心では冷や冷やだった。あの職場見学の日にこの曲を連想してしまったから、なんてことは口が裂けても言いたくない。由比ヶ浜が歌うこの曲を聴いてみたかったから、なんてセリフを口にするのは(たとえそれが事実だとしても)リア充にはなれそうもない自分には難易度が高すぎる。

 

 いちおう、あの時にこの曲を思い付いた経緯を説明することはできる。ちょうどあの時期に、自分と同じようなぼっちが部活で美少女に囲まれながら難度の高い依頼をばっさばっさと解決して充実の高校生活を送るアニメを観ていたのだが。そのエンディングテーマと名前が似ている曲が昔あったな、というのがその経緯だ。人の連想なんて、説明してしまえばこんな程度のものだ。

 

 あの職場見学が無ければ、この曲をバンドでやることも無かったのだろう。知らない曲ではないし、誰かがカラオケで歌う場面に遭遇して「おお」と思うことはあったかもしれない。「懐かしいな」と思うこともあったかもしれないが、ここまで自分にとって特別な曲にはならなかっただろう。

 

 俺とこの曲を結びつけたものは、言ってしまえば単なる偶然に過ぎなかったのに。振り返ってみると、それが必然であったかのようにも思えてしまう。この二人と出逢ったのと同様に、この曲との出逢いもまた特別なものかもしれないと八幡は思う。

 

 その証拠に、こうして由比ヶ浜が歌う大サビの歌詞を聴いていると、曲の印象ががらりと変わる。職場見学の日にこの曲の歌詞を思い出した時も、バンドで演奏することになって曲を聴き込んでいた時にも、八幡は哀しい曲だなという感想を抱いた。切ない曲だなと思った。

 

 いま由比ヶ浜が歌っているのは、あの時に八幡が思い浮かべた歌詞の部分だ。なのになぜ、こんなにも前向きな気持ちになれるのだろうか。もっと後ろ向きの曲だと思っていたのに、由比ヶ浜が歌っているのは諦めなど微塵も感じさせない曲だ。

 

 何度も一緒に練習したので、由比ヶ浜の歌は耳にこびりつくほど聴いたはずだ。確かに何度か、曲の印象が違うなと思った時があった。しかし今日この時ほど、この曲を前向きに感じられたことは一度も無かった。本番だからか、同じステージに立っているからか、理由は判然としないけれども。一つ言えることは、由比ヶ浜が歌うこの曲は、途轍もなく前向きな曲だ。

 

『ヒッキー……』

 

 昨日、中学の同級生連中に絡まれて、由比ヶ浜に文実の腕章を託した時のことを八幡は思い出す。あの時の由比ヶ浜は、何も言葉を出せなかったのだったか。それとも名前だけを呼んでくれたのだったか。昨日の今日なのに記憶が曖昧になっているが、いずれにせよ哀しそうな目で見つめられたことはしっかり覚えている。

 

 あれの前にお昼を食べながら、由比ヶ浜が「自分から行く」と宣言してくれたから。それに勇気を貰って、あの連中に思った通りのことを言えたのだと思っていた。

 

 だが、それだけではなく。あの場に由比ヶ浜が来てくれたことがまず大きかった。当たり前すぎて見逃しかけていたが、こうして同じステージに立っているとよく分かる。その存在だけで、ただそばに居てくれるだけで、心の持ちようはこんなにも違ってくるのだから。

 

 それから由比ヶ浜によると、「自分から行く」と決めたのは雪ノ下の影響らしい。なら雪ノ下のお陰という部分もあるのだろう。自分が気付かないうちに、意外なところで意外な人に支えられている。八幡はそうした奇妙な繋がりを痛感した。

 

 八幡は知らないことだが、六月のあの日に雪ノ下が「自分から動きたい」と虚勢なく言い切れたのは、部長会議を裁けたという成功体験があったからこそだった。同時に、あの頃までの雪ノ下は大なり小なり、かつての傷痕を引き摺っていた。小学生の頃にも動けはしたが、雪ノ下の中で問題は残ったまま燻り続けていた。それをようやく改善できたのがつい数ヶ月前だということを、八幡も由比ヶ浜もいまだ認識できていない。

 

『ざわ……ざわ……』

 

 観客が何やらざわついているが、八幡にとってはどうでも良い。それよりも、たったいま由比ヶ浜が歌っている通り、俺はあの職場見学の時に由比ヶ浜を泣かせてしまったのだろう。「見えなかった」なんてのは言い訳に過ぎない。そして昨日も、危うく泣かせてしまうところだった。

 

 こんなにも前向きな気持ちにさせてくれる由比ヶ浜を泣かせるだなんて、酷い奴だと自分でも思う。それどころか、昨日あざとい後輩に言われた通り、俺はこの二人を試すようなことまでしていた。ただ一言「大丈夫だ」で済ますのではなく、きちんと思うところを説明すれば良かったのに。

 

『あたしとゆきのんとヒッキーとで、積み重ねてきたって言うのかな。そういう言葉って、やっぱり大切だと思うんだけど』

 

 由比ヶ浜に教えられるまで、こんなことにすら気付けなかった。

 

 だが、反省するのはここまでだ。せっかく由比ヶ浜が気持ちを前に向けてくれているのに、いつまでもうじうじと悩んでいるのは情けなさすぎる。きっと俺はこれからも失敗をして、二人を哀しませるようなこともやらかすのだろう。むしろ俺がやらかさない未来なんて想像もできない。

 

 けれども、雪ノ下が導いてくれた通り、間違ってもまた新しい問いを見出せば良い。由比ヶ浜が教えてくれた通り、また前を向いて進めば良い。

 

 きっと、人はそうそう変われない。ぼっちの自分も、リア充を敵視していた自分も、俺の中には残っている。他者批判と自己弁護こそが俺の真骨頂だと、そんなふうに考えていた自分もやっぱり自分なのだ。でも、この曲を聴くたびに、俺は今日のことを思い出せる。今この時のことを、俺は絶対に忘れない。忘れさえしなければ、今日の日のことを思い出して、俺はまた立ち上がることができる。

 

 そんなことを考えながらドラムを叩いている八幡は、背後で起きていることを知る由も無かった。

 

 

 ソプラノサックスを吹く雪ノ下をメインで映し、そこに由比ヶ浜が声を重ねると二人が均等に映るように動いたカメラは、そのまま当初の位置へと戻って行った。だがスクリーンの様子は従前とは異なる。

 

 それまでは、ただ正面からステージ上の光景を映しているだけだった。中央前方に立つヴォーカルの姿が一番大きく、その左右に他の二人が少し小さく映っている。特に八幡はドラムセットの向こうに座っているだけに、顔がほとんど見えていなかった。

 

 だが大サビの直前にカメラが元の場所まで移動するのと合わせて、スクリーンはその様相を変えた。横並びに大きく三分割されて、向かって左から雪ノ下・由比ヶ浜・八幡の順にそれぞれが大きく映り込んでいる。上は頭のてっぺんから、下と左右はギターやベースが少し途切れる辺りまで。おおむね頭から腰の下までが、分割されたスクリーンに収まり切る形だ。

 

『私は今からプログラムを組もうと思うのだけれど。大サビで、私たちが横並びになる映像をスクリーンに映し出そうと考えているのよ』

 

『それって、ヒッキーがいい加減な性格じゃないって、けっこう真面目なんだよってみんなに見せるためだよね?』

 

 それが雪ノ下の当初の案だった。雪ノ下は「純理論上の正当さにもとづく」説明では、八幡に不満を抱く生徒たちを説得できないと考えていた。むしろ「群衆の心中に起こさせる印象のみが、彼らを魅了することができる」という方針に従って案を練っていた。

 

 率直に言うと、八幡が真面目に仕事をする光景を見せつけても、全員が考えを変更することは無いだろう。だがそれを見せても無駄な相手には、何を言っても無駄だ。そこに労力を割くぐらいなら、別の話を持ち出した方が良い。

 

 でも、真剣に事に取り組む八幡の姿を見て、思っていたのとは違うと考える生徒も少なくないはずだ。だから試す価値はあると雪ノ下は語った。

 

 それに六月とは違って今回は、校内放送に行く直前に「私達が勝手に解決しても大丈夫なのかしら?」と確認を入れている。だからやってやろうではないかと雪ノ下は妙に乗り気だった。部員の行動に対して、色々と言いたいことがあるらしい。

 

 その案を聞いて、由比ヶ浜は基本的には賛成してくれた。

 

 由比ヶ浜の分析によると、八幡に不満を抱いているのは同学年の男子生徒が大半らしい。女子生徒の反感をあまり買っていないというのは意外だったが、由比ヶ浜が微妙な顔をしながら「あたしとゆきのんがヒッキーと仲良くしてるほうが、都合がいいって考えてるみたいでさ」と教えてくれた。頭の痛い話だが、いちおう納得はできる。

 

 三年生からの評判が悪くないのは、文実の渉外部門に属する先輩たちのお陰らしい。その人たちと比べると発言力に欠けるのだが、一年生の間でも渉外部門の後輩が微力を尽くしてくれていると。由比ヶ浜の言葉の使い方が面白いなと思いながら、雪ノ下はその説明に頷いていた。

 

 要するに、同じ学年で同じ性別だからこそ「なんであいつだけ」という気持ちが強くなるのだろう。ならば、八幡の仕事ぶりを見せつけるこの案で、基本的には問題ない。問題は……。

 

 大サビが始まってから四小節が過ぎて、スクリーンは再び変化の兆しを見せていた。

 

『でもさ、ヒッキーだと……あたしたちと横並びに映しても、みんな観てくれないんじゃないかなって。だからさ、順番にね……』

 

 問題は、他人に注目されにくいという八幡の特徴、すなわちステルスヒッキーにある。そして由比ヶ浜が提案した修正案は、三分割された状態から順番に三人を大映しにするというもの。まずはヴォーカルの由比ヶ浜が、他の二人を圧迫する形でスクリーンの大半を埋め尽くす。

 

 そしてまた四小節が過ぎて、再び変化が訪れる。スクリーンの右端に追いやられていた八幡の映像が、徐々に大きくなり。遂にスクリーンの大部分を占拠した。この結果、大サビの最後の四小節は、八幡の独占映像をバックに披露される形となった。

 

「え、ちょ、お兄ちゃんのどアップって……」

「ドラムって見えにくいなって思ってたけど。八幡、あの時と同じ顔をしてる。ふふ」

「小町さんに言われたとおり、こっそり見にきてよかった。留美ちゃん、こんなすごい人たちに助けてもらったんだね」

「お兄さん、今日もパネェっす」

「たぶんこの三人の影響で、戸部くんも変わるんだろうな。たぶん、良い方向にね」

「先輩とは違った凄さがあるんだな。姉妹だからって同列に扱ってしまった借りは絶対に返すよ。絶対に」

「ちょっと、マジであれ比企谷なんだけど。なにこれウケる!」

「なるほど、音楽とムービーの相乗効果がサウンドと映像にシナジーを……」

「保健委員としての役割しか期待されてないのが少し不満だったけど、これを見せられると完敗だな」

「時間を割いて面談した甲斐があったということかな。どう思う?」

「職場見学に来たときは、正直これ程とは。千葉村では成長したなと思いましたが、ここまで……」

「私は最初から雪ノ下さん推しでしたけどね!」

 

 この世界で出逢った面々も、未だ顔を合わせたことのない面々も、大勢が等しく八幡の姿を眺めている。そんなざわざわとした雰囲気の中で、歌が演奏が続いていた。

 

 八幡の目は相変わらず濁っている。気怠そうな雰囲気は今も健在だ。八幡本人が自覚している通り、人はそうそう変われるものではない。

 

 けれど、その手の動きは。足の動きまでは見えないが、ドラムセットを叩く八幡の動きからは、手抜きの様子など微塵も感じられない。それを裏付けるように、耳に聞こえて来る音は真剣そのものだ。視覚と聴覚とに届けられるこれらの情報からは、八幡の性格が鮮明に浮かび上がってくる。外面はどうあれ内面は真面目な生徒なのだと、どこかの顧問が言った通りの姿がそこにはあった。

 

 

 そして由比ヶ浜が大サビを歌い終える。するとスクリーンの左側から雪ノ下の映像が広がって来て、たちまちその姿を大映しにする。アレンジの関係上、このタイミングで初めて流れる形となったギター・リフを奏でながら、雪ノ下の姿がスクリーンに踊る。

 

『この二曲は、プロデューサーが同じだからかもしれないのだけれど。いずれも大サビの最後にギターのフレーズが流れるでしょう。どちらもホ長調で、イントロのコードはEなのだけれど。この大サビの最後の部分ではコードがEではなく、平行調のC#mになるのよ』

 

 いつの練習の時だったか。雪ノ下が熱心にそんなことを説明してくれたのを八幡は思い出した。正直に言うと、話の内容はあまり理解できなかった。それが凄いことなのか何なのか、自分には判断が付かない。でも、雪ノ下が面白いと思っていることを、その面白いを伝えてくれるのは悪くないなと八幡は思った。

 

 振り返ってみると、俺があの海賊漫画の話をした時は雪ノ下のような話しかたではなかった。作品の凄さを語るのではなく、それを読み取った俺が凄いという話しかただったと思う。

 

 もちろん小学生が話すことだから、そうなっても仕方がないとは思うけれど。でも、話しかたが違っていたら、もしかしたら違った展開になっていたかもしれない。クラスの人気者になれたとは思わないけれど、もしかしたら一人ぐらいは、自分の話を面白く聞いてくれる友達を得られたかもしれない。

 

 別に後悔をしているわけではない。でも、そんな可能性もあったかもしれないと考えることで、八幡は過去の自分を肯定できた気がした。過去を無かったことにするとか捏造をしたいというのではない。過去を断罪したいわけでもない。そうではなくて、今に繋がる確かにあった過去として、それをそのまま受け入れられる気がした。

 

『中二病だった頃に、自分の妄想に付き合ってくれる友人が居たらと考えたことをふと思い出して』

『でも、それは八幡だけに問題があるのだろうか。俺の価値観とか物の考え方を全否定して、自分たちのそれを押し付けてくる連中にも、原因の一端があるのではないか』

 

 そういえば、今学期の初日だったか。海老名姫菜と話している時に八幡が思い出したことがあった。そして昨日、中学の連中から逃げた時に考えていたことがあった。

 

 友人が居たらという願望を持ちながらも、そして自分の問題点については反省しているつもりでも、やっぱり自分にはまだまだ至らぬ部分があったのだ。相手にも原因の一端があったという考えは変わらない。でも自分にも、改善できる部分はたくさん残っていた。

 

 ぼっちの利点の中に、「自省の時間がたっぷりある」ことを挙げていた八幡だったが。やはり一人だと、同じ部分を見落としてしまうのだろう。だがこの部活のお陰で、俺は一人だったら気付けなかったことを幾つも発見できた。できればこれからも、仮にいつかは終わりを迎えるとしてもそれが少しでも先であることを、八幡は願う。ああ、それよりも。今はこの演奏が、いつまでも終わらなければ良いのに。

 

 

 雪ノ下がリフを弾き終えるタイミングで、スクリーンには曲のタイトルを歌う由比ヶ浜の姿が映る。そして四小節が過ぎて、雪ノ下のギターを支えるべくドラムを叩く八幡の姿が大きくなる。

 

 また四小節が過ぎて、ギターを弾きながら由比ヶ浜の歌にコーラスを乗せる雪ノ下の姿が大きくなる。更に四小節、今度は雪ノ下のリフを応援すべくベースを鳴らしている由比ヶ浜の姿が。そして四小節、由比ヶ浜の歌を支援するためにドラムを響かせる八幡が。

 

『サックスを吹く時にアップで映されることになるのだし、私は一回減らしても良いわ』

 

 由比ヶ浜に向かって雪ノ下が照れくさそうに口にした通り、ここでスクリーンは再び三分割の形に戻った。ゆきのんは時々可愛すぎて困ると、由比ヶ浜はその時の光景を思い出す。人前でこんなにも輝ける才能を持っていながら、この性格なのだから。思わず抱きつきたくなってしまう。そんな邪念を振り払って、由比ヶ浜はベースに意識を集中する。

 

 雪ノ下のギターが鳴り響く中、三人が横並びの姿で演奏を続けている。聴く人を明るくさせるような、演奏する楽しさが伝わってくるかのような、そんな音を届けてくれる。

 

 そして四小節が過ぎて、由比ヶ浜が最後に曲のタイトルを歌い上げる。その背後では、徐々に音数が少なくなって。雪ノ下も由比ヶ浜も単音を長く伸ばすようになり、八幡もべードラだけを出すようになり。それらの音が小さくなっていく中で、由比ヶ浜が最後のフレーズを歌い終えた。

 

 

 そして、体育館の中は一瞬だけ静寂に包まれて。間を置かず、大歓声が沸き起こった。

 

 

***

 

 

 ようやく開放された両手を大きく広げて、観客に向かってぶんぶんと振る。満面の笑みで歓声に応えている由比ヶ浜の後ろでは、雪ノ下がクールに立ち、八幡がだらっと座っていた。

 

 後ろを振り向いてそんな二人の様子を確認して。由比ヶ浜は苦笑しながら前に向き直ると、もう一度大きく右手を振った。そしてゆっくりとその手を下ろす。打ち合わせには無かったが、この程度のアドリブは許して貰おう。申請の必要も無いみたいだしさ。由比ヶ浜は珍しく悪戯っぽい笑顔を浮かべて、歓声がもう少し小さくなるのを待った。そして。

 

「みんな、ありがとー。じゃあここで、メンバー紹介をします!」

 

 予定では、歓声が収まったら一言だけ挨拶をしてステージを去ることになっていた。背後から雪ノ下の視線が突き刺さるようだが、気にしないで言葉を続ける。

 

「まずは……ボーカルとベースは、あたし。由比ヶ浜結衣!」

 

 大きな拍手に頭をしっかり下げて応えて。勢いよく頭を上げると再び口を開く。

 

「それから、ボーカルとギター、サックス、打ち込み、その他色々……雪ノ下雪乃!」

 

 負けず劣らずの大きな拍手に、仕方なく雪ノ下も優雅に一礼することで応える。

 

「最後にドラム……比企谷八幡!」

 

 二人と比べると大きくはないが、まばらと言うほど小さくもない。拍手をする人の数は少なくとも、一人一人の拍手の大きさは由比ヶ浜や雪ノ下を上回っている。よっこらせと立ち上がって観客に一礼した八幡は、タムの音を拾うために置かれていたマイクに手を伸ばす。

 

「あー。ちょっとだけ聞いて下さい。あんま大勢の前で話すの得意じゃないんで、すぐ終わりますから」

 

 当初の予定では、雪ノ下が挨拶をした直後に割って入るつもりだった。紹介されるのは少し恥ずかしかったが、ちょうど良かったと八幡は思う。

 

 だが他の二人は、八幡が何を話し出すのかと。片やあからさまに心配そうな表情で、片や有無を言わさず止めるべきかしらと悩んでいるような表情で、自分を見ている。まあ、お叱りは後で受けるとしようと思いながら、八幡は言葉を続ける。

 

「さっき雪ノ下が『今年の文化祭に集まって下さった皆様を』って言ってたんですけど。あー、えっと。それだとまだ、ねぎらわれて当然なのに、おもてなしされてない奴が残ってると思うんですよ。まあ、雪ノ下と由比ヶ浜のことなんですけど」

 

 普段と比べるとしどろもどろな話しかただったが、先程の演奏の効果か(八幡はいまだ知らないが映像の効果が大きかったりする)、観客は聞く耳を持たないわけではなさそうだ。ならば一気に話を進めようと八幡は思った。

 

「だから……お願いします!」

 

 

 八幡のその声に応えて、三人の女性陣がステージの袖から観客に姿を見せた。先頭を歩くのは城廻、次いで陽乃、最後に平塚の順にステージ中央へと歩いて来る。司会をするために持っていたマイクを口に近付けて、まずは城廻が。雪ノ下と由比ヶ浜が何か反応を起こす前に口を開く。

 

「えっと、生徒会長の城廻です。生徒を代表して、奉仕部の()()に、お疲れさまーって言いに来ました」

「雪ノ下陽乃です。雪乃ちゃんのお姉ちゃんですよー。卒業生を代表して()()をねぎらいに来ました」

「平塚です。教師を代表して、私の自慢の生徒()()を褒めに来ました。……そう身構えないで、少し力を抜きたまえ」

 

 順にマイクをリレーして、三人はそう話し終える。平塚に宥められて、しかし力を抜くことなく鋭い視線を三人から八幡へと向ける雪ノ下。それを外面では平然と流しながらも内心では冷や汗をだらだら流しながら椅子に座ろうとする八幡。そして三人が登場した理由をようやく理解して今にもはしゃぎ出しそうな由比ヶ浜。

 

 そんな奉仕部の三人を順に眺めて、再び城廻が。

 

「じゃあ最後に、アンコールを。今からこのメンバーでもう一曲やるよー!」

 

 そう宣言すると、観客のボルテージは瞬時に最高潮となった。「すぐにスタンバイするねー」という城廻の発言を受けて、観客は今か今かと演奏が始まるのを心待ちにしている。

 

 

「比企谷くんのサプライズ、うまくいったねー」

 

「正直、後が怖いんですけどね。まあ、あいつらをねぎらって貰えるなら、それぐらいは甘受しますよ」

 

「だからー。比企谷くんも含めた三人に、お疲れさまって言いに来たんだからね」

 

「いや、俺は、その……。はあ、ありがとうございます」

 

 スクリーン上の映像は横並びに三分割されたまま、先程と何も変わっていない。それに想定外の展開になっているので、マイクなどの入力も演奏時のままだった。そして八幡には不幸なことに、別の場所ではまだ会話が始まっていなかった。

 

 その結果、おおぜいの観客がそれを目撃した。すなわち、捻デレがデレた瞬間である。こうして、八幡の黒歴史がまた一つ加わった。

 

 

「由比ヶ浜。よく頑張ったな」

 

「ううん、そんなこと無いです。ゆきのんがいなかったら何もできてないし、ヒッキーがいなかったら先生を呼ぼうなんて思い付いてないですし……」

 

「それでも、君がいることで物事がうまく進んだ部分も大いにあるさ。自信を持ちたまえ」

 

 八幡の失敗を目の当たりにして、二人はしっかりと会話が外部に漏れない設定にした上で話を始めていた。頭を軽くぽんぽんと叩かれて、少し肩の荷が下りた気がした由比ヶ浜は、差し迫った疑問を口にする。

 

「えっと、でも先生。あたし、あの二曲しかベースの練習をしてなくて……」

 

「ああ。だからベースは私に任せて、君は歌に専念したまえ。今からやるのは()()()だよ」

 

「あ、あの曲なんだ。でもあたし、歌詞がうる覚えなんですけど……」

 

 ふっと苦笑して、平塚は由比ヶ浜の心配を一蹴する。

 

「ここに居るみんなが君を助けてくれるさ。もっとも、他の奴には助けさせないぞと、由比ヶ浜を助ける役割は譲らないぞと、雪ノ下と比企谷が言い出すかもしれないがね」

 

「そ、それって……そうなんですか?」

 

「その答えは、君が自分で確かめたまえ。まずはもう一曲だ」

 

 少しからかいすぎたかと内心で軽く反省しながら、平塚は由比ヶ浜からベースを受け継いだ。そして教え子たちを見渡せる位置に移動する。ドラムセットよりも更に後方のステージ右奥にて、他の面々の準備を待つ。

 

 

「はーい、雪乃ちゃん。一緒に演奏するなんて、いつぶりだろうね?」

 

「今回の件は、姉さんが仕組んだのかしら?」

 

 音声が外部に聞こえない設定にした上で、こちらでも会話が始まっていた。剣呑な表情の妹を身振りでは宥めながら、陽乃がそれに答える。

 

「まさか。そこまで肩入れする理由も労力を割く理由も無いって、雪乃ちゃんなら分かるでしょ?」

 

「では、比企谷くんが?」

 

「それよりさ、早くパート分けを決めちゃおうよ。()()()をやる予定だけど、雪乃ちゃんの希望を優先してあげるよ?」

 

 分かり切ったことは聞くなとばかりに、ストラトキャスターを手にした陽乃が話を先に進める。

 

「はあ。どうせ好き勝手にアドリブで演奏するのでしょう。だから原曲部分を私が再現して、姉さんはフリーで良いのでは?」

 

「お、話が早いねー。でもさ、練習とかしてないのに大丈夫?」

 

「愚問ね。私は姉さんが今までにやって来たことは……」

 

「大抵はできるんでしょ。文化祭も大成功だしさ。でもね……大抵なんて求めてないの。練習してない以上は、技術的なことは仕方が無いけどね。ただ、ベストを。できる?」

 

「できなければ、姉さんの言うことを一つ聞いてあげるわ。どう?」

 

「へえ。ここで平等じゃない賭けを持ち出すだなんて……雪乃ちゃん、成長したのね」

 

「いいえ。私はもともとこういう人間よ。長年一緒に居て、私の何を見ていたのかしら?」

 

「何をって……可愛いものが好きなところとかパンさんがお気に入りなところとか休日には一日中猫の動画を眺めて過ごしたいと思っているところとか六月に買ったエプロンやぬいぐるみを妙に気に入って……むぐっ」

 

 乱暴に口を塞がれてしまった陽乃だった。

 

「ふう。自分から尋ねておいて、酷いなあ。ま、冗談はともかく。わたしは雪乃ちゃんのことを、この上なく高く評価してるんだよねー」

 

「……そう。では、期待には背かないわ」

 

 ぷいっと観客のほうへと向き直る妹を、陽乃は楽しそうに眺めている。だがそれが本心からのものなのかは、陽乃本人ですらも判らなくなっていた。

 

 

「お待たせー。じゃあ、今年の文化祭最後の一曲、いくよー!」

 

 キーボードの前に立った城廻がそう宣言して、曲が始まる。それは、二年前と三年前に陽乃が披露した曲。その当時の盛り上がりを記憶している三年生と卒業生、そして中学生の頃にその時の文化祭を見に来た生徒たちが即座に反応する。

 

 先程の奉仕部三人が披露した曲と比べると、静と動。三人の演奏に引き込まれるように、いつしか聴き入っていた先程とは違って、今回は観客も思い思いに騒いでいる。一緒に歌い出す者、リズムに合わせて手を大きく動かす者、踊り出す者、近くの友人めがけてダイブする者。

 

 文化祭の最後をともに盛り上げるべく、ステージの上と下とが一体となって賑わっている。カメラをオートにした結果、スクリーンはそうしたステージの内外を、ヒートアップした体育館内の様子を、残らず映し出していた。

 

 

 由比ヶ浜の後ろ、雪ノ下と八幡の真ん中辺りに陣取った陽乃が時々ちょっかいを掛けてくるのを軽くあしらいながら。雪ノ下はベストの演奏を披露しつつも、唇を噛みしめていた。

 

『数日前の時点で見切るのは早過ぎるのではないか』

 

 つい先程そんなことを考えていた自分に、雪ノ下は苛立ちをぶつける。八幡がハイハットを見切ったのは、水曜日の放課後のことだった。あの時に姉はたしか、最終下校時刻の直前とその半時間ほど前にも、八幡と何やら話をしていた。おそらくその時にこのアンコールの計画を立てたのだろう。

 

 八幡から話を持ち掛けたのは、姉の言葉からも明らかだ。そしてそれを楽しめると判断して、姉はその提案に乗ると決めた。今のこの状況を見れば、その判断は正しかったと言わざるを得ない。

 

 一方の八幡は、この曲の練習時間を確保するために、ハイハットの練習を見切ったのだろう。時おり付け焼き刃な部分を感じることもあるが、聞こえて来る演奏は概ね問題ない。それにしても、迂闊だったとは思うが、さすがにこれは読めないと雪ノ下は思う。

 

『ではまた後でな』

 

 先ほど平塚先生がそう言ってステージの袖から見送ってくれたが、あれも()()()()()()だったのだ。つい笑顔で応えてしまった過去の自分を呪いたくなるが、読めないものは読めない。日頃から他人の言動を常に疑って過ごすようなことでもしない限り、この展開を見抜くのは難しかっただろう。そもそも。

 

『さて、比企谷。バンドは、()()()()()()()()かね?』

 

 あの時に確認していたのは、これだったのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。企み事を抱えていたのは、自分と由比ヶ浜だけではなかったのだ。

 

 もちろんその確認には、雪ノ下が推測した要素も含まれていたには違いない。だが、メインはこちらだったのだ。変に深読みしすぎていた自分を雪ノ下は悔いる。だが何度も自分に言い聞かせているように、これを読むのは不可能だ。

 

 それに、このアンコールを企んだ理由が、自分と由比ヶ浜をねぎらうためだと言われてしまえば、どう反応すれば良いのだろうか。ここまでの完敗は、身内相手以外では記憶に無い。不思議と敗北感は感じないが、いつか借りは返さねばなるまいと、雪ノ下は獰猛な笑みを浮かべる。八幡は今すぐに逃げた方が良いのかもしれない。

 

 

 まるで日頃の鬱憤を晴らそうとするかのように低音を連打して。だが、そんな力が入りすぎている演奏の割には、なぜだか上手くまとまって聞こえるベースが特徴的な平塚。

 

 八幡と由比ヶ浜に余裕が無いことに加えて、最愛の妹は下手にちょっかいを出さないほうが面白そうな状態に至っているので、仕方なく高レベルのギター・テクを披露して無聊を慰めている陽乃。

 

 個性溢れる集団をステージ最後方から眺めながら、88鍵と61鍵の二台のキーボードを使い分けて巧みに音を埋めている城廻。

 

 

 そんな三人の助っ人にも支えられて、由比ヶ浜が伸びやかに声を出す。歌詞を間違えたって構うものか。それよりも、このノリに自分も乗って。そしてまたみんなに、このノリを届けるのだ。

 

 それに、歌詞が怪しいなって思った時はいつも、自分が思うよりも先に雪ノ下が声を出してくれる。自分の演奏で余裕が無いはずなのに、八幡が視線を送ってくれる。

 

 二人とも、どうやって察知してるんだろうって思うけど。あたしもヒッキーが演奏を誤魔化そうとする時は何となく分かるし、ゆきのんの演奏が凄いものになりそうな時も何となく分かる。バンドをしている人がみんな、こんな感覚を持つものなのかは分からないけど。この三人でバンドができて、この六人でアンコールができて、どう言っていいのか言葉にならない。

 

 そんなことを考えながら、由比ヶ浜が全ての歌詞を歌い終える。あとは他の五人にお任せだ。そう内心でつぶやきながら右肩越しに振り返ると、バンドの最後尾に控える先輩と目が合った。

 

「じゃあ、もう一度メンバー紹介するねー。ボーカル、ゆいゆい!」

 

 そんな呼ばれかたをした由比ヶ浜は観客のほうを向くと、いつもよりも投げやりに手を大きく動かす。雪ノ下と八幡からあだ名のセンスがどうのと散々言われてきたが、たしかに少し反省したほうが良いのかもしれない。何だか両の頬が熱い気がするし、とっても恥ずかしい気持ちがする。

 

 でも今は、このノリを壊したくないから。それに、あたしが二人をあの呼びかたで呼びやすいようにって、城廻先輩が敢えてこう呼んでくれたのは分かるから。だから、この流れに乗る。みんなが演奏を続けている間に、歌い終えたあたしがやるべきことを教えてくれたから。

 

「続いてキーボード。……めぐりん!」

 

 観客の声援に片手を挙げて応えながら、城廻が「うんうん」という感じの視線を送ってくれる。それに背中を押されて、由比ヶ浜が続けて口を開く。

 

「それからギターの一人目。……はるのん!」

 

 気のせいか、妹と似た呼びかたをされたことにビックリしたような、喜んだような、照れたような、そんな気配が伝わって来た。なんだか、こうした部分も実は似ているのかもしれないと由比ヶ浜は思う。けど、下手に追及したら後が怖いから、あまり考えないでおこうとも。姉妹の両方から反撃される展開なんて、さすがに考えたくもない。

 

「そしてベース。……」

 

「……お静ちゃん。いえいっ!」

 

 どう呼ぶべきかと一瞬固まってしまった由比ヶ浜の代わりに、陽乃がマイクに近付いて来てフォローしてくれた。少しだけ、期待と違うという表情を浮かべて。それでも自分だけ仲間外れにされなかったことに、満更でもなさそうな顔付きをしている。陽乃と平塚に苦笑を送って。さて、あとは二人だけ。

 

「ラストあと二人。まずはギターの二人目。……ゆきのん!」

 

 この呼びかたで呼べることを、この感情をなんと表現すればよいのだろう。先ほどあだ名のセンスを反省しようと思ったこともすっかり忘れて、由比ヶ浜は喜びに浸る。そして、あと一人。

 

「最後ドラムス、それからあたしたちに内緒でアンコール企画をこっそり企んでた……ヒッキー!」

 

 これぐらいは言っておきたい。そう思って少し長めに紹介してみたが、観客も他の四人の反応も上々みたいだ。当の本人は外見は面倒臭そうに、でも実は照れ臭そうに、スティックを持ったまま片手を挙げている。

 

 

 本当は、これは夢ではないのかと八幡は思う。俺はどうしてこんな場所に立てているのだろう。雪ノ下と由比ヶ浜という、とびっきりの女の子二人と。更には頼れる助っ人三人と。男女比率については考えないのが吉だと、八幡は頭の片隅で冷静に判断する。

 

 去年の文化祭のことなんて覚えてもいないし、もしも高二に進級直後に「文化祭でバンドをやることになるぞ」なんて言われても全く本気にしなかっただろう。仮に「体育館の一番後ろで、一人でバンドを見ることになるぞ」と言われても、「体育館に行けるなんて凄い進歩じゃないか」などと答えていたに違いない。

 

 なのに今、自分はこの場に居る。だから、今日のこの日のことは絶対に忘れない。さっきも同じことを思ったけれど、それは未来に何かをやらかした時に。その時に立ち上がれるように忘れないでおこうと思っていた。でも、こんなの、忘れられるわけがない。

 

 つらい時や哀しい時に泣きたくなることは今までに何度もあった。でも、嬉しい時にも泣きたくなるだなんて、創作作品では知っていても自分には縁のないことだと思っていた。けど、そうなんだ。嬉しい時には泣きそうになるんだ。八幡は顔を上に向けながら、感情を必死で堪える。

 

 もうすぐ演奏は終わりだ。曲が終わったら適当に観客に応えて。協力してくれた三人にお礼を言いながら、何だかんだで気持ちを誤魔化して。家に帰って、夜に布団の中で、この気持ちを存分に味わえば良い。そう考えて、八幡は目に力を入れながら、演奏に集中する。

 

 

 五人の演奏をバックに、由比ヶ浜は観客を煽っている。先ほど紹介した通りの呼びかたで、自分たちを順番に呼ばせている。由比ヶ浜がパートを口にして、観客が名前を呼ぶ。とはいえ由比ヶ浜が自分の呼ばれかたを恥ずかしがっているのは観客も気付いているみたいで、「ボーカル」「ゆいゆい」というやり取りだけは観客の間で完結している。憐れむべし由比ヶ浜、原因は日頃の行いである。

 

 

 そんなふうに最後まで盛り上がりが途切れることなく、ついに曲は終わりを迎えた。観客は興奮のあまり、狂乱の体を見せている。

 

 その中に、泣き笑いの表情でステージを見つめる女子生徒が一人。付近には、彼女にどう声を掛けたものかと悩ましげな表情の男子生徒も居る。

 

「やっぱり、うちとは全然……三人とも、凄いんだ……」

 

 そうつぶやきを漏らす女子生徒に向かって、一人の同級生が近付いて来ていた。




 まずは本話で取り上げさせて頂いた以下の二曲に、心からの感謝を。

Mr.Children “innocent world” (1994.6.1)
MY LITTLE LOVER “Hello, Again 〜昔からある場所〜” (1995.8.21)

 二巻幕間であの展開を書いて以来、本話を書くのは私にとって必ず果たすべきことだと考えてきました。それを書き切れて今は少しほっとしています。

 活動中のアーティストの名前や作品名を挙げたり作品の内容に触れることは、著作権を考慮して、慎重すぎるほど慎重に扱うべきだと思っています。特定の作品を取り上げることで一部の読者さんを置き去りにする可能性もあり、後半のような「みんなが知っているあの曲」といった書き方が無難だろうとも思います。

 しかし、アーティストや作品を限定すること、作品の内容に言及することによって、作中キャラがそれらをどう受け取るのか詳しく描写できるという利点もあります。本棚を見るとその人の性格が分かるという話があるように、具体的な名前を出すことの意義は、各キャラをより深く掘り下げられる点にあると私は考えます。

 前巻あたりから少しずつ、作り手の名前や作品名をそのまま出す場面を増やしてきました。度を越えた引用をしたり、作者や作品を貶めるような扱いをするつもりはありません。万が一、問題があるとのご指摘を受けた場合はすぐに修正します。

 なので、作品名や作者名を正確に表記すること、地の文に歌詞を潜り込ませたり本話のように「」付きで言及すること(引用は可能な限り短くするつもりです)に関しては、お見逃しを頂けるとたいへん助かります。

 なお参考までに、本作で取り上げる作品の基準など作中ではなかなか説明できない話を改行後に書いておきますので、よろしければご覧下さい。そんなのに興味はないよという方は、ここで引き返して下さいませ。


次回で本章の本編は終了となります。何とか三月中に終わらせるべく頑張る所存ですが、もしも数日遅れてしまったらごめんなさい。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字を一つと、なぜかホリゾンタルバーになっていた箇所を全角長音に、それと細かな表現を修正しました。大枠に変更はありません。(4/2)
それと需要は不明ですが、作者が読み直す用にリンクを付けました。それぞれ、バンド準備1曲目2曲目3曲目にジャンプします。(4/2)
前書き末尾にもリンクを載せました。(4/6)





 俺ガイル1巻の発売が2011年3月なので、基本的に本作では2011年度を想定しています。とはいえそれは絶対ではなく、作品開始早々にLINEらしきものが出て来たり、千葉市が千葉村の運営から離れる話を組み込んでみたりと、時空を歪めている箇所がぼろぼろ出て来る程度の緩い想定です。

 とはいえ想定がある以上は年代の縛りというものもあるわけで。その結果、本作で取り上げるのは少し古めの作品が多くなっています。

 例えば八幡が知っている漫画・ゲームは概ね1990年代半ば以降から00年代、アニメは近年のものが多めですが、一般文芸も00年代で考えています。5巻で平塚先生が町田康さんに言及していますが、その辺りが八幡が遡れるギリギリで、先生もそれを把握して話題に出したという感じです。

 原作1巻で名前が出た作家だと、平塚先生は東野圭吾さんを「秘密」で知って「白夜行」以降はリアルタイムで、伊坂幸太郎さんはデビューからほぼリアルタイムで読んでいる一方、八幡にとっては二人とも「知った時点で既に売れっ子作家」という扱いです。

 音楽については原作でCDTVの話があるので、(CDTVライブラリーのお陰で)八幡は90年代以降のJ-Popに詳しいのではないかと考えています。ただ中二病罹患後は売れ線の曲を忌避するようになり、アニメソングやボカロに傾倒していったという感じで。

 6話で取り上げたボカロ曲は、厳密には2011年9月の時点では存在していない曲がありますが、半年程度の時間のズレを理由に却下するには惜しい曲たちなので採用しました。本話で八幡が2013年の春アニメの話をしているのと比べると……という感じで大目に見て頂ければと。

 雪ノ下の洋楽趣味はほぼ捏造ですが、千葉村で歌っていたのはMuseの”Starlight”、13話で八幡と話題にしていたのは同じくMuseの”Stockholm Syndrome”です。留学時における彼らの最新アルバムが”Black Holes and Revelations”で(“Starlight”収録)、”The Resistance”からリアルタイム。それからArctic Monkeysも好きそうだなと考えていて、こちらは”Humbug”からリアルタイム。あと、いつかバンドで”Seven Nation Army”をやりたいと思っているとか、そんな感じで。

 由比ヶ浜は普通にJ-Popのヒット曲を聴いていて、小学校高学年〜中学校では初期のスキマスイッチとか「蕾」の頃のコブクロが好きだったという感じ。もしも時代設定が現在なら、星野源さんに嵌まっていそうなイメージです。


 最後にもう一度、本話で取り上げた二曲について。

 なぜこれらの曲を、と問われると少し答えに窮するのですが。マイラバは展開に合う曲を探した結果。そしてもう一曲を何にしようと考えた時に、原作でネタにしていて(最新巻でも表紙裏の作者コーナーでネタにしてますね)、上手く話を作れそうだし同じプロデューサーという縁もあるミスチルで、という感じです。

 正直に申し上げますと、二巻末の時点では「展開に合う作品を探して、それを作中キャラがどう受け取るかを考えて書く」という感じでした。しかし三巻終盤でスターウォーズをネタにした時に「雪ノ下が観るのは違和感がある」というご指摘を頂いて。それ以降は「作中キャラがどういった経緯でその作品と出逢って、それをどう受け取っているのか」を考えて書くよう心掛けています。

 つまりこの二曲は、作中キャラとの巡り合いという点では少し弱い、と言われても仕方のない部分があります。けれども作中で書いたように、偶然の出逢いが必然になることもあるわけで。それを上手く描写できるようにと気を配りながら、本話を書きました。

 さて、本作の時代設定を2011年度とした場合、奉仕部の三人は1994年度生まれになります。そして、後書き冒頭にて二曲の発売年月日まで明記したのは理由があります。つまり時系列で並べると。

ミスチル(1994.6.1)→由比ヶ浜(6.18)→八幡(8.8)→雪ノ下(1995.1.3)→マイラバ(8.21)

 こんなふうに、綺麗に二曲に挟まれた形になります。だから何だと言われると、作者はこうした偶然に弱いのですとしか言いようがないのですが。

 そしてもう一つ。この場合、八幡たち三人は阪神淡路大震災(1.17)の直前に生まれて、そして作品が始まった高校二年生は東日本大震災(3.11)の直後に当たります。これを作品のテーマにするのは、二次創作はもちろんラノベですら荷が重いと思うので正面から取り上げる気はありませんが。時に作中キャラの言動に迷った時に、「彼らはこういう時代を生きているんだ」というアプローチから再考することはある、とまあそんな感じで。

 では、ここまで読んで頂いてありがとうございました!


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20.かくして彼らの祭りは終わりを迎える。

前回までのあらすじ。

 文化祭は閉会式に入り、奉仕部のバンドも無事に終わりました。詳しくは、前話のこの辺りから読んで頂けると嬉しいです。



 アンコールの演奏を聴き終えた観客たちの気怠さと喧噪に満ちた体育館で、葉山隼人は同級生の姿を探していた。彼女はきっとこの場に来ているはずだ。葉山はあの三人への信頼ゆえに、それを信じて疑わなかった。

 

 果たして、葉山の視界が彼女を捉えた。葉山が探していた相模南は体育館の入り口近くに、まるで目立つことを拒否しているかのような雰囲気で立っていた。

 

 少しだけ立ち止まって、周囲の注目を集めないようにと肩の力を抜く。できるだけ自然な流れで話しかけられるように。それからどう話を持って行くべきかと考える。そして葉山はゆっくりと相模に近付いて。

 

「相模さん、こんなところに居たんだね」

 

「え、なんで……戸塚くんがうちに話しかけて来るって……?」

 

 おそらく目的は同じなのだろう。もしかすると、彼から頼まれたのかもしれない。相模に向かって真っ直ぐに歩いてきた戸塚彩加の姿を認めて、葉山はその場で足を止めると静観することにした。

 

 戸塚はこちらに気付いているが、相模には知られていない。二人の会話を聞き取れるほど近くに居るので少し居心地が悪いが、戸塚の表情から察するに、話を聞かれても良いと考えているのだろう。あるいは、聞かれることを望んでいるのか。

 

 クラスの劇で共演したことで、戸塚とは長い時間をともに過ごした。だから葉山には戸塚の気持ちが何となく理解できたし、それは戸塚も同じだろう。戸塚の希望を汲んで、葉山は周囲から不審に思われない態度を取りながら、その場に居続けることにした。

 

「ぼくも、文化祭を成功させるために協力したいなって思って。相模さん、どうして自分はステージからこんなに遠いところに居るんだろ……って思ってるんでしょ?」

 

「え、なんで……戸塚くんがうちの気持ちを?」

 

 まるで壊れた機械のように、相模は同じような返事を口にするしかできない。けれどそのお陰で、相模は戸塚に違和感を抱かなかった。普段ならクラスの女子が戸塚を構って離さないので、戸塚が他人のために自ら動く姿は珍しい。せいぜい男子テニス部と、それから四月のテニス勝負を契機に仲良くなったという彼ぐらいのものだ。

 

「同じ気持ちを味わったから、かな。ぼくもね、遠くから見てるだけしかできなかった時が、何度もあったから」

 

「え、でもだって……戸塚くんの周りには勝手にみんな集まって来るし、誰かに言えば……でもうちは今、独りだし、さ」

 

「相模さんだって、クラスに友達がたくさん居るでしょ。でも、こんなことを言うのは良くないかもだけど……ぼくが動きたい時に、動けない理由になったりしてて」

 

「え、戸塚くんでもそうなの?」

 

「うん……。でもね、それってみんなが悪いわけじゃなくて。ぼくがちゃんと言わないからダメなんだなって、最近ちょっとずつ頑張ってるんだ」

 

「うち……うちも同じかも。うちがしたいことを、反対される気がして言わなかったりしてさ。うちの邪魔をされてるって、たまに思ったりして。でも、うちのために言ってくれてるのにって、自分が嫌になって。だから、言ってくれてる通りにしようって。それで、頑張ってグループを盛り上げようって。なのに、みんな結局、うちだけ独りにして……」

 

 戸塚には話術とか交渉の技術といったものは無い。そんなものが無くとも、勝手に女子生徒が集まって来て、勝手に戸塚の希望(と彼女らが考えていること)を実現してくれたから。むしろ周囲に群がる面々にとっては、戸塚が余計なことを言い出さないためにも、トークが未熟なままで居てくれたほうが都合が良かった。

 

 だから戸塚は、思っていることや自身の経験をそのまま話すことだけが自分に使える武器だと。千葉村で葉山と同じ気持ちを共有したとき以来、そう考えていた。

 

「そっか」

 

「うん……。でも、でもさ。うち、さっきちょっと分かったことがあって」

 

 しかし今回の文化祭を経験して、戸塚の意識はまた少し変わった。葉山とともに主役を演じた劇から着想を得て。受け身ではなく自分から動くことを、戸塚は以前にも増して意識するようになった。

 

 たとえ十万匹のキツネが居たところで、飼い慣らされていなければ区別が付かない。しかしその中から一匹を選んで友達になれば、自分にとって世界でただ一匹のキツネになってくれる。

 

 そう考えて、自分から動こうとして気付いたこと。女子生徒に囲まれて好き勝手に扱われることを、内心ではあまり良く思っていなかったはずなのに。ただ相手に話を向けるだけで、みんなが気軽に思っていることを語ってくれる。

 

 相手の行動は同じでも、自分がそれを引き出す形にするだけで、ずいぶんと印象が変わった。それに、こうまで警戒心を持たれず話してくれるというのは、もしかすると自分の武器にできるかもしれない。そして今日、現実世界からの闖入者が自分の言うことに素直に従ってくれたのを見て、戸塚はその発想に自信を持てるようになった。

 

「うん」

 

「うちさ、呼ばれ方にちょっと憧れみたいなのがあって。仲の良い子だけにこう呼ばれたい、みたいな。でもさ、自分で希望を言わないとダメなんだよね。それがさっき、こいつに『こう呼べ』って言って、その通りに呼ばれたら凄く変な感じで。なんでもっと早く、あの子たちにも言わなかったんだろうって。自分のグループで、なにを遠慮してたんだろうって」

 

 戸塚が視線を向けた先には、一年の男子生徒が立っていた。千葉村でゲームの司会をしてくれた彼ににっこりと頷いて、再び相模に顔を向ける。拙い受け答えでも相手が勝手に話してくれるのは良いが、あまり時間が無い。幸いと言って良いのか、ステージ上ではとある姉妹の会話が弾んでいるので助かっているが、それがいつまで続くとも限らない。

 

「じゃあさ。えっと、相模さんはね。あの奉仕部の三人には、何か言いたいこととか無いの?」

 

「うち……まず、雪ノ下さんにはさ、……」

 

「ううん。それをぼくが聞いても、ね。相模さんは実行委員長だから、言いたいことがあるなら、あそこで言えると思うんだ。でも、チャンスは今しか無いけど……どうする?」

 

 そう言って戸塚はステージの上を指差す。さすがに仲裁が入って、姉妹が引き離されている光景が目に入った。いつ舞台を降りても不思議では無い状況だ。

 

 戸塚が静かに頷いて、すぐ横の一年男子もそれに続く。戸塚の顔をまともに見られないほど照れていたのに、彼が相模に向ける表情は一言では言い表せない何かがあった。強いて言えば「積年の」という表現が似合いそうな顔をしている。

 

 そんな二人に背中を押されて。相模は、ステージに向かって走り出した。

 

 

「ごめんね。葉山くんの出番を奪っちゃったかも」

 

「いや、戸塚のほうが適任だったよ。それに正直に言うと、こういう役割にも少し飽きてきてたからさ」

 

「でもさ。あんな感じで、良かったのかな?」

 

「比企谷にも言ったんだけどさ。俺は、戸塚が役立たずだなんて思わない。現に、相模さんを動かしたのは戸塚だろ。自信を持てよ」

 

 すぐ横で同意している後輩男子に軽く頷いて、葉山はそう言葉を締め括った。かつて同じように「身動きできない状況」に陥った経験者として、それを打破して自らの長所を発揮し始めている戸塚を褒める言葉に嘘は無い。

 

 それに、他人のフォローに飽きてきているのも事実だった。もちろん求められる限りは役割を果たすつもりだが、誰かがそれを肩代わりしてくれるのなら、他のことに目を向けられる。戸塚と同様に、自分が持つ長所をじっくりと研くことができる。

 

「ぼく、何となくだけどさ。葉山くんが八幡の呼び方を使い分けてる理由が解ったかも」

 

「それが合ってるかはともかく、俺としては誰にも言わないで欲しいかな。あ、念のために。対立するつもりはないよ。当たり前だけどさ」

 

「うん、分かってる。たぶん仲介とかでしょ、考えてるのは。雪ノ下さんも八幡も、発想が凄すぎてぱっと言われてついて行けない時があるからね」

 

 戸塚にはお見通しか、と思いながら葉山は苦笑する。勿論「今のところは」という限定が付くのだが、そこまで言う必要は無いだろう。

 

 現時点では、俺にはその程度しかできない。確かにあの姉妹に苦言を呈したり、彼に注意を促したりはできる。だがそれは主ではなく従の役割でしかない。それでも追い掛けるためには、まずはその役割から始めて少しずつできることを広げていくしか無いのだ。

 

 葉山は水曜日に「相模さんも含めた全員で」と彼女に告げたことを思い出す。万が一相模が文化祭を台無しにするような失敗を引き起こした時には、相模を見捨てないよう彼女に要請したのは自分だ、という形にするつもりだった。だが、おそらくそうはならないだろうと思っていたし、だとすれば引き受けた責任の何と軽かったことだろう。こんな程度ではとても追いつけないと葉山は思う。

 

『選ばれた人間とは……自分がすぐれていると考える厚顔な人間ではなく……高度の要求を自分に課す人間であると……知っていながら知らないふりをしている』

 

 最近読んだ本の一節を葉山は思い出した。おそらく、最後の部分だ。彼女なら、高度の要求を自分に課すのは当然と考えるのだろう。彼なら、要求が高度なものではないと装うのだろう。けれど俺は、おそらく二人よりもよほど卑俗であるがゆえに。高度の要求に応えている姿を平然と晒すことができる。

 

 彼とも彼女とも、そして戸塚とも違う自分だけの長所を。それを意識しながら、葉山はスクリーンに目を向ける。息せき切ってステージの袖から登場した、相模の姿がそこにはあった。

 

 

***

 

 

『上手く行けば相模を、ステージに立たせる展開にできると思う』

 

『貴方にしては、ずいぶんと相模さんに肩入れするのね。普段なら、連れ戻した後は勝手にしろと、そう言いそうな気がするのだけれど?』

 

『まあ、相模だけならそうなんだが。今回は相模がってより、取り巻き連中が要らん情報をばらまいてくれたのが大きかったからな。相模が汚名を返上したら、見捨てたそいつらの株が下がるだろ。ざまあ見ろってな感じで、俺らしい姑息な案だと思わねーか?』

 

『姑息を陰湿とか卑劣という意味で使っている気がするのだけれど。ちゃんと辞書を引き谷くん?』

 

『……いや、お前がそう言うんなら間違ってるんだろうし後で確認しとくけどな。何なんだよその呼び方は?』

 

 ステージの袖に相模の姿を認めて、比企谷八幡は先程のPA室でのやり取りを思い出していた。それから、屋上で目撃した相模のへたれな姿を。

 

 おそらく走っている間は必死だったのだろう。だがここまで辿り着いて、さて自分は何をどうしたら良いのかと。そんなふうに混乱しているのだろうなと八幡は推測した。

 

「相模先輩、一緒に行きましょう」

 

 そんな相模を介護しながら、副委員長の藤沢沙和子がステージに上がった。相模の背中を手で押すようにして、雪ノ下雪乃に向かって歩いて行く。そして「まずは自己紹介ですね」と言われながら、藤沢にマイクを手渡された相模は。

 

「じ、実行委員長の相模です。あの、えっと……ごめんなさい!」

 

 まずはお礼の言葉を言おうと考えていたはずなのに、なぜか全力で頭を下げて謝っていた。言われた側も予想外だったが、言った本人もビックリである。

 

「そ、その。相模さんが謝ることはないと思うのだけれど?」

 

「だ、だってうち、委員長らしい仕事なんて全然できてないし、ヘマばっかして、うちより雪ノ下さんのほうがよっぽど仕事してるし、でもこんなに大勢が集まるなんて思ってもなかったし……。うちみたいな小心者が委員長なんて、働いてるより愚痴ってるほうが似合ってるのに、ゆいちゃんとか、いつも最後まで話を聞いてくれて、八つ当たりとかも絶対あったのに、すっごい笑顔で受け入れてくれて……。うちのせいで、厳しいことを言わせたりとか、悪者にさせたりとか、でもやり方がむかつくから、けどそれに反発して何とか過ごせてた部分もあって、でもうざいのはうざいし……」

 

 そして続いたのは、相模による奉仕部の三人評だった。もはや自分が何を喋っているのかも理解できていない相模は支離滅裂な、しかし心の中ではずっと思っていたことだけにそれなりに筋の通った言葉を口走っていた。いつしか女の子座りになってお尻をぺたんと床に着けて、まるで小さな子供のようだ。

 

 そんな相模のすぐそばに悠然と歩み寄った由比ヶ浜結衣が、藤沢から介抱役を引き継いだ。まだ藤沢には閉会の言葉を述べるという仕事が残っている。この事態を挨拶の中に組み込むためにも、由比ヶ浜は目だけで城廻めぐりに、更には雪ノ下陽乃に助けを求める。

 

 今のうちに原稿の修正を、という意図を受け取った三人が、目立たないようにステージ後方へと移動した。教師が手持ち無沙汰だが、総武高校は生徒の自主性を重視している。在校生と、そして卒業生の助けも得られるこの状況では教師がお呼びじゃないのも当然だと、当人も納得顔だった。

 

「ゆいちゃん、ごめんね。雪ノ下さんも、ごめんなさい。うちのせいで色々と迷惑をかけたのに、こんなに凄い文化祭にしてくれて、こんなに盛り上げてくれて。委員長なんてほんとに名前だけで、悔しいけどあいつが言った通り、雪ノ下さんがいないと何にもできなくて。うちも、山積みの書類とか、片付けるの頑張ったつもりだけどさ……みんな、三人とも凄いから。あ、だから、ごめんなさいじゃなくて、えっと……こんなに凄い文化祭にしてくれて、ありがとって。うち、今年の文化祭のこと、絶対に忘れないから。だから、ありがとうって、それだけ言いたくて、なのにうち、さっきからなに言ってんだろ?」

 

 しゃがみ込んだ由比ヶ浜に背中を撫でられながら、相模は何度となくつっかえながらも喋り続けていた。ステージ下の観客の存在を意識することも、現実世界に映像が送られているのを思い出すことも無く、ただ思いの丈を口にしていた。

 

 ドラムセット越しにその光景を眺めながら、これって確実に黒歴史になるよなあと八幡は思う。だが、茶化す気にはなれない。何となくドラムスティックをくるくると回しながら、八幡は己の予測が外れたことを受け入れていた。相模はせいぜい「ごめん、ありがとう」ぐらいしか言えないだろうし、雪ノ下がそれに応えて終わりだろうと思っていた。

 

 けれど、実際には。相模の告解を耳にした観客の間から、いつしか拍手が沸き起こっている。

 

 こんなのは茶番だと、感情をあらわにすれば何でも良いのかよと、そう言いたい気持ちもある。でも、相模の感情は八幡にも理解できるものだったから。現実を無視して自分を認めろとがなり立てるような、そんな類いのものではなかったから。

 

「ま、三人とも凄いってのは勘違いだけどな」

 

 そう小さく呟いて、八幡は立ち上がった。泣きべそをかく相模を両脇から抱えるようにして、雪ノ下と由比ヶ浜が退場しようとしている。適度な間隔を置いて由比ヶ浜が観客に手を振って応えているが、それが無くともスクリーンには、相模の背中を優しくぽんぽんと叩く雪ノ下の手の動きが映っている。きっとこのまま、上手い具合に幕引きができるだろう。

 

 できる限り存在感を希薄にして、八幡はステージを後にした。横並びになった女子生徒三人がそれに続く。助っ人の三人はいつの間にか退場していて、後には副委員長の藤沢だけが残された。

 

 もとより人見知りのする性格だけに、藤沢の挨拶は原稿をそのまま読む形だった。だがつい先程の件も含めて淡々と二日間を振り返るその挨拶は、素朴であるがゆえに聞く者の心を打った。二人の先輩による直前の添削も功を奏したのだろう。

 

 こうして暖かい拍手が鳴り響く中、今年の総武高校の文化祭は無事に終わりを迎えた。

 

 

***

 

 

 去年までは文化祭の後は、日曜と振替休日となる月曜が休みで、火曜の午前に各教室の撤去作業が行われていた。しかし今年は、現実世界と比べると片付けの手間が掛からないので、生徒たちはそのまま作業に移ることになっている。

 

 クラスに戻る生徒たちと別れて、文実の委員たちは体育館のステージ前に集合していた。先ほど観客を盛り上げた奉仕部の三人と何か一言でも話がしたいと、多くの委員が隙を窺っていたものの。渉外部門の一員として雪ノ下や八幡と最も長い時間をともに過ごした面々が、間に入ってそれを防いでくれていた。

 

「みんな、お待たせー。じゃあ相模さん、最後に一言よろしくねー」

 

 そして、相模を伴って城廻が姿を現した。背後には何人か教師の姿も見える。作業が終わった順で各自クラスに移動する予定なので、冒頭に挨拶をする形になったのだ。

 

「あ、えっと。……みなさん、お疲れ様でした。今年の文化祭は、最高でした。……ありがとうございました!」

 

 先程のステージ上での醜態を思い返して、半ばやけくそ気味に相模がそう締め括った。引き続いて藤沢が感謝の言葉を、最後に雪ノ下がねぎらいの言葉を口にすると、委員の間からこんな声が挙がった。

 

「振り返ってみると、今年の文実って良かったよな」

「このメンバーで打ち上げとか、したくなってきちゃったかも?」

「おー、それ良いかも。でも、クラスとか有志でも打ち上げがあるだろうし……」

「別に後日でも良いんじゃね?」

「だね。じゃあ委員長、今年の文実最後の仕事、お願いできるかな?」

「お願いします!」

 

 渉外部門の先輩と後輩に囲まれながら「え、それって俺も参加するの?」と面倒臭そうな表情を浮かべている八幡だったが。すぐ近くにいる同級生の笑顔を見て、俺もあいつも引っ張って行かれるのは確定かと、潔く諦めていた。それに加えて。

 

「やっぱり比企谷くんは、不真面目で最低だね?」

 

 後ろから城廻に小声でそう言われてしまうと、八幡に抵抗の余地は無かった。大人しく頭を下げて「謹んで参加させて頂きます」という意図を伝えると、うんうんと頷いてくれる。どうせ逃げられないのなら、せめてほんわかパワーで最大限癒やされようと、そんな現実逃避を行う八幡だった。

 

 盛り上がる生徒たちが落ち着くのを待って、体育教師が代表して言葉を述べる。ぶっきらぼうな口調ではあったが「俺が見てきた中で一番だった」と言われ、生徒たちも顔をほころばせていた。そして打ち上げでの再会を約して、今年の文実はひとまず解散となった。

 

 

***

 

 

 作業を終えた八幡が、由比ヶ浜と一緒に教室に戻ろうとしたところ。それを呼び止める声があった。平塚静は由比ヶ浜に軽く謝りを入れて、八幡を後ろに従えると空き教室へと移動する。かつて八幡が奉仕部と距離を置いていた時期に、寛げる場所が無いのは不便だろうと言ってあてがって貰った教室だ。懐かしい気分に浸りながら、八幡は教師の言葉を待った。

 

「さて、では文化祭の振り返りをしようか」

 

「その、雪ノ下と由比ヶ浜は参加しなくても良いんですかね?」

 

「ふむ。あの二人は、それぞれの問題点を認識できているみたいだからな」

 

「それって、俺が問題を認識できてないって意味ですよね?」

 

 その言葉に軽く頷いて、平塚はそのまま話を続ける。

 

「比企谷。最初に言っておくと、私の言うことが全て正しいとは限らない。だから、あくまでも一つの意見として聞きたまえ。その意見を聞いて、それをどう受け取るかは君次第だよ」

 

「はあ。まあ、それは解りましたけど……。問題点って何ですかね?」

 

「それを聞きたいのは私のほうなのだがね。今回の文化祭で君が取った行動のうち、一番問題だったのはどの行動だと思うかね?」

 

「一番だと……あれですかね。中学の同級生から逃げて職務放棄した時の」

 

「ふむ。では、その次は?」

 

「その次は……人の字の発言とかですか?」

 

「なるほど。おそらく雪ノ下も由比ヶ浜も、私と同じ意見だと思うのだが……ああ、それより先にもう一つ質問があるな。バンドはどうだったかね?」

 

「どうって……大成功って言って良いんじゃないですかね?」

 

「客観的な評価ではなく、君の感想を教えて欲しいものだな」

 

 真面目な表情の教師から質問が矢継ぎ早に飛んでくるが、だからといって重苦しい雰囲気には程遠い。八幡が答えやすいように配慮してくれているのが伝わって来る。だから八幡も一つ一つの質問にゆっくりと答えていたのだが、ここで平塚の表情が変わった。苦笑気味に問い直されて、八幡も言葉を選ぶ。

 

「なんか、言葉にし難いんですよ。それこそ最高とか、気持ち良かったとか、それはその通りだって思うんですけど、それだけでは片付けられないっていうか……」

 

「君のその気持ちは、私にも解るよ。三人でも六人でも、それは同じかね?」

 

「そう、ですね。ちょっと印象は違うんですけど、どっちも記憶に残ってるっていうか」

 

「そうか。なるほどな。まず人の字の話だが、私はあの程度の意見のぶつかり合いは全く問題ないと思っているよ。むしろ最近の生徒は大人しすぎる気がするし、拳で語り合うような関係性があった昔を懐かしく思うよ」

 

「まあ、そういう殴り合って和解みたいな展開は、古武士の間でやって下さいよ」

 

「ふっ。どうした比企谷、いつもの切れがないぞ。私を古物扱いしようとしても、なにせ私は君たちとバンドをした仲だからな。これは同世代と言っても良いはずだ!」

 

「いや、あの……たぶん授業中とかに『お静ちゃん』って連呼されると思うんですけど、気を強く持って下さいね」

 

 八幡の返しに平塚は「え、そうなの?」という表情になっている。だが空元気を振り絞った教師は、何とかそのまま話を続ける。

 

「ごほん。それと人の字の一件は、雪ノ下がフォローをしてくれただろう?」

 

「まあ、そうですね。じゃあ逃げた一件……だと、さっきのバンドの質問って何だったんですか?」

 

「そうだな。先に君が挙げた一件を済ませようか。君は逃げたと言うが、そんな気持ちは無かったのだろう?」

 

「ですね。むしろ言いたいことを言ってやったみたいな感じで。でも、職務放棄は事実ですし」

 

「そこもあまり問題では無いと私は思うよ。現に君は今日、色々と走り回って仕事をこなしていたはずだが?」

 

「まあ、そう言って貰えると、確かにそうなんですけど……じゃあ何が問題なんですかね?」

 

「ふっ。その一件は問題では無いと、私は思っているということだよ。由比ヶ浜が居合わせたらしいが……君が啖呵を切ったことに対しては、喜んでいる気がするよ」

 

「でも、責任を感じさせたのかもって、思うんですけど……」

 

 由比ヶ浜の心配をしている自分を照れ臭く感じて、少し歯切れの悪い言い方になった。だが平塚はそんな程度なら今更だとばかりに、まるで反応を示さず言葉を続ける。

 

「確かに由比ヶ浜はそう考えるだろうな。だが君が発端だったとしても、それは由比ヶ浜の問題だよ。それに、この程度で押し潰されるほど由比ヶ浜は弱くはないと、私は思っているのだが?」

 

「それはまあ、そうですね。でも、あの連中からネチネチ言われてたところに駆け付けてくれて、後の始末も任せる形になって、なのに責任を感じさせてるのが……なんていうか落ち着かないんですよ」

 

「君はそういうところは潔癖だからな。養われはしても施しは受けないと夏休みに言っていたのを思い出すよ。あの時に、誰しも限界はあるという話をしたはずだが?」

 

 あの時の対話を思い出して、更には先週の校内放送直前に「過保護」について考えていたことを思い出して、八幡は首を縦に振った。二人を信頼したいと思えばこそ、時には手出しをしないことが正解となる場面があるのだと。八幡はそう考えて、この問題を飲み込むことにした。

 

 

「でもじゃあ結局、問題って……?」

 

「できれば自分で気付いて欲しいのだが……今の君なら正面から言っても大丈夫そうだな。では、比企谷。君はアンコールの時に『二人をねぎらうため』と言っていたな。どうしてそこに、自分を含めないのかね?」

 

「え、だって俺は二人と比べて……」

 

「君は今回の文化祭に対して、二人にも劣らぬ貢献をしていると私は思うよ。他には?」

 

「いや、えっと、自分もねぎらって欲しいって言うのは、なんか違うんじゃないかって」

 

「うむ。その気持ちは私にも理解はできるよ。ただ、二人がどう思うかを考えてみたまえ。二人はきっと、君にも報われて欲しいと思っているはずだよ。違うかね?」

 

「それは……そうかもしれませんけど」

 

 教師からお叱りを受けている状態なのに。二人がそう思っているのかもと考えただけで、何やら顔が熱くなってきた気がする。ああ、そういえばあの時も。アンコールで登場した三人が全員、俺を数に入れて話してくれたのを聞いた時も。同じ気持ちだった気がするなと八幡は思った。

 

「比企谷。由比ヶ浜がアンコールで、君を何と言って紹介したか。まさか覚えていないとは言うまいな。なにせ『お静ちゃん』を覚えているぐらいだからな」

 

『最後ドラムス、それからあたしたちに内緒でアンコール企画をこっそり企んでた……ヒッキー!』

 

 言われるまでもなく、忘れられるわけがない。あの時に八幡は演奏をしながら、嬉し涙をこらえるのに必死だったのだから。でもまさか、先程の軽口をこんな形で返されるとは思わなかった。楽しそうに勝ち誇りながらも、生徒をよく見てくれているのが伝わって来る。やっぱり、この先生には敵わないなと八幡は思う。

 

「まあ、なんつーかお手上げですね。でも俺の性格的に、自分をねぎらえって言うのはやっぱり……」

 

「比企谷、そこは諦めることだよ。確かに最初から『自分をねぎらえ』と言うのは違うかもしれないな。だが照れ隠しのためとはいえ、君は最後まで二人のためだという姿勢を崩さなかっただろう。ねぎらいの言葉を掛けられた時には、観念して受け入れることだよ。もちろん、仕事をせずにそれを求めるのは問題だがね。君なら、言わんとする意味が解るだろう?」

 

 相模という反面教師のことを連想しながら八幡は頷きを返した。だが客観的に見れば、自分と相模とは両極端なだけで。碌に仕事もしないで評価だけを求めていた相模と、仕事をしていながら評価やねぎらいを拒絶していた自分と。どちらの場合でも、同じ仕事をしている()()からすれば、不満を抱いても仕方が無い。八幡はようやくそれを理解できた気がした。

 

「あとは、類似の問題だがね。君は今朝、自分は悪くないと知っていながら相模に謝っただろう。文実の会議の時の話だよ」

 

「あ、はい。あれも……そっか。雪ノ下が止めようとしてたのは、そういう意味だったってことですね。俺としては『こんな程度は問題ない』ってつもりで、でも雪ノ下は……」

 

「理由も無いのに君が悪く言われるのは、雪ノ下も由比ヶ浜も避けて欲しいと思っているはずだよ。それは私も同じ意見だな」

 

「あ、最初に言ってた『同じ意見』って、そういう意味だったんですね」

 

 納得したような表情を浮かべたものの、すぐに訝しげな顔に変わって八幡はそのまま話を続ける。

 

「えっと、ちょっと思い出したんですけど。由比ヶ浜の問題点って、さっきの責任を感じてるって話ですよね。でも雪ノ下の問題点って、俺には特に見当たらない気がするっていうか……強いて言えば、雪ノ下の今までのやり方とは違うっていうか、掲げていた理想とは少し違うなって思うんですけど。でも、それじゃないですよね?」

 

「ふむ……。雪ノ下が掲げていた理想とは何かね?」

 

「なんつーか、独りでも生きていける強さを求めてたっていうか……奉仕部の理念とかもそんな感じに思えるんですけど。えーと、どう言ったら良いのかな。あの、雪ノ下ができる仕事を他人に振るのは特に問題なかったと思うんですけど。昔はもっと自分にできないことにはムキになってた気がするというか。それが、あんまり頓着せずに仕事を振るようになって来たというか。その結果、俺の負担が酷いことになってたりして……」

 

 途中までは鋭いことを言っているなと思いながら聞いていたのに、最後で思わず吹き出してしまった。とはいえ、良い関係を築けているのは間違いない。そう考えながら平塚は口を開く。

 

「なかなか興味深い話だが、私にはそれが問題だとは思えないな。おそらく君もそうだろう?」

 

 八幡の頷きを受けて、そのまま話を続ける。

 

「雪ノ下の問題点は、家庭に関することだよ。君も何となくは予想できるだろうが、その詳細は私の口からは説明できないな」

 

 そう言われて、八幡は千葉村で雪ノ下の歌を聴いた帰り道のことを思い出した。あの時に気付いたこと。つまり、雪ノ下が母親の話題を一切口に出さないということを。

 

 もしかすると、深読みが過ぎるのかもしれない。単純に姉とのことだと理解しても、充分に問題になる気はする。けれども半年近くをともに過ごして来た経験から、雪ノ下は姉よりも母との間に問題を抱えているのではないかと八幡は思った。

 

「じゃあ、もしも問題が表面化したら本人から聞きますよ」

 

 そう返事をした八幡を、平塚は満足げに眺める。おそらく母親が怪しいという辺りまでは気付いているのだろう。それ以上は今は必要ないし、八幡がいま言った方針で特に問題は無いはずだ。そう考えた平塚は、そのまま少し考え事に耽る。

 

『雪ノ下の家のことは?』

 

 水曜日に陽乃と話し合いをした時に、最後から二番目に陽乃が確認したのがこの問いだった。最後に確認したのは発案者が雪ノ下ではなく八幡だったことだが、それは平塚にはおまけの質問に聞こえた。

 

 もしもあの時「お母さんのことは?」と聞かれていたら、どうなっていたかは分からない。だから雪ノ下は、姉に手加減をされたと考えているはずだ。あれは姉妹の問題を凝集したようなやり取りだったと、記憶を振り返りながら平塚は思う。

 

「では、お小言はこの辺にしておこうか。せっかくの楽しい一日に水を差してしまったかね?」

 

「いえ、その。これから打ち上げもあるみたいですし、これぐらいの反省があったほうが精神安定上いい気がしますね」

 

 生徒をよく見て、そして押し付けがましい形をできるだけ避けて忠告を与えてくれる。そんな教師に素直にお礼を言うのが気恥ずかしくて、八幡はそう答えた。もちろん、そんな取り繕いが役に立たないのは百も承知なのだが。

 

「君のそうした捻くれた部分は、私は嫌いではないよ。ただ、時と場合と相手を選ぶようにな。では、また打ち上げで会おう」

 

「……え、先生も参加するんですか?」

 

 最後の八幡の言葉が一番痛かったと、教師は数刻後に語っている。

 

 

***

 

 

 八幡が二年F組の教室に戻ると、既にホームルームが始まっていた。それでも普段なら同級生の意識に上らないまま席まで辿り着けるのだが。あのバンドの後では、いかに八幡がステルスヒッキーを発動させようとしたところで無駄だった。クラスの注目を集めているのが原因なのだろう。

 

 既に何度も会話をしたことのある面々は勿論のこと。今までは接点が無かった同級生も、何やらこちらの様子を窺っては慌てて視線を逸らしている。由比ヶ浜は普段からこんな環境で過ごしているのかと、頭が下がる思いがした八幡だった。

 

 程なく担任の話が終わって、教室の中は開放感に包まれる。その瞬間、八幡はここを先途と必死でステルスヒッキーを展開して、即座に教室の外へと逃げた。かつての戸塚との会話を思い出しながら、これぞ脱兎のごとし、などと胸を張る八幡。もちろんその間も、足は高速で動かしている。

 

 少しだけ冷静になって。もしかすると先程の文実と同じように、教室に居たままのほうが顔見知りの連中が守ってくれたかもしれないと八幡は思い至った。だが動いてしまったものは仕方がない。それに今日は打ち上げ先の会場で集合と言われているので、よもや俺が部室に居るとは思うまいと八幡は前向きに考える。

 

「あら。こんにちは」

 

 だから部室の扉を開いた時にそう声を掛けられて、八幡はビックリしてしまった。そして声の主に、不覚にも見惚れてしまう。一緒にバンドをした影響なのか、今までよりも遙かに近く、雪ノ下を感じてしまったから。

 

「なな、なんでお前がここに居んの?」

 

 八幡の反応に首を傾けて、きょとんとしている雪ノ下。今の俺に色んな表情を見せるのは止めろと、内心で八つ当たりをしながら。八幡はぎこちない足取りで部室に入った。

 

「部室の前でこの間、平塚先生と話した時に、貴方も一緒にいたでしょう。落ち着いて進路希望を書こうと思って、ここに来たのだけれど。比企谷くんは、どうして部室に?」

 

 そう言って、紙をひらひらさせて来る。そんな雪ノ下の仕草一つ一つが新鮮に思えて。これって吊り橋効果とかそんな感じなのかねと、八幡は余計なことを考えて何とか気を紛らわせようとする。

 

「置いてた荷物を取りに来たのと、あれだ。クラスの連中から話しかけられるのが怖くて逃げてきたんだわ」

 

「なるほど、だから挙動不審なのね。一学期の最初に戻ってしまったのかと思って……考えてみると、色んなことがあったわね」

 

「まあ、そうだな。お前らと……なんて言うんだろうな、この関係って。友達じゃ無いって言ってたことには同意するけど……やっぱ仲間、なのかね?」

 

「そうね。友達という言葉で片付けたくはないわね。だから……今までの部活仲間という関係に加えて、バンド仲間という関係にもなったと、そういう解釈で良いのではないかしら?」

 

「ほーん。なるほどな。確かにそう言われると嬉しいもんだな」

 

 ようやく八幡が冷静さを取り戻しつつあるのとは対照的に、雪ノ下が何やら照れ臭そうな気配を漂わせているのだが。残念ながら八幡には、そうした機微は読み取れない。それを瞬時に見抜けるのは、奉仕部では一人だけ。

 

「やっはろー。やっぱり二人とも、ここに来てたんだ!」

 

 元気よく扉を開けて、由比ヶ浜が部室に入ってきた。せっかく雪ノ下への免疫ができてきたかと思っていたのに、由比ヶ浜の表情や動きの一つ一つが眩しすぎて、八幡は再び挙動不審に陥っている。

 

「って、二人とも何かあったの?」

 

「いえ。今までは部活仲間だったのだけれど。今日はバンド仲間にもなったわね、という話をしていたのよ。その直後に由比ヶ浜さんが来てくれたものだから……」

 

「わあ。ゆきのん照れてる……って言いたいけど。そうストレートに言われたら、あたしもちょっと恥ずかしいっていうかさ。嬉しいんだけどね!」

 

「俺の羞恥心が限界だから、ちょっと自重して欲しいんだが」

 

「でもさ。ヒッキーもバンド、楽しかったよね?」

 

「ま、まあな。それは否定しないが……」

 

「うん。じゃあいいじゃん。あたしも、ゆきのんも、ヒッキーも、バンド仲間みんなが楽しかったってことでさ。でね、打ち上げなんだけどさ」

 

「話しかけられるのが怖いみたいで、比企谷くんが逃げたいと言っていたのだけれど?」

 

「えー。さっきの文実みたいに、知ってる子にガードしてもらうようにお願いするからさ。ヒッキーも行こうよー?」

 

「なんつーか、あれだな。これなら、校内一の嫌われ者とかになったほうがまだマシって気がするんだが……」

 

「え、そんなの嫌だ。ゆきのんもそう思うよね?」

 

「そうね。でも、比企谷くんの意図も、もう少し詳しく尋もn……確認したほうが良いと思うのだけれど?」

 

「なあ。お前いま絶対に『尋問』って言いかけたよな?」

 

「さあ。それよりも貴方は、仮に校内一の嫌われ者になったところで、『ごく少数の身近な人に理解されるならそれで良い』などと思うのでしょう?」

 

「え、ヒッキーの身近な人って、えっ?」

 

「由比ヶ浜さん。私たちは友達と言うには少し奇妙な関係かもしれないのだけれど。部活仲間でもあり、今やバンド仲間でもあるのよ?」

 

「あ、そういう意味……そっか、だね!」

 

「なあ。お前らもしかして共謀で、俺が恥ずか死ねるように企んでるわけじゃねーよな?」

 

「話を戻すと、由比ヶ浜さんの提案通りに、周囲を固めて貰う案で行きましょうか」

 

「ねえ。俺の言うこと聞いてる?」

 

「では、そろそろ移動しましょうか。打ち上げが楽しみなのか、大勢が一斉に移動したみたいで。校内に残っている生徒は少ないはずよ」

 

「うん、じゃあ三人で一緒に行こっ!」

 

 そんな由比ヶ浜の勢いに引っ張られるようにして、八幡は特別棟から昇降口へと移動した。靴を履き替えて外に出ると、たなびく雲の絶え間から夕日が差している。耳に聞こえて来る風の音は、秋の到来を感じさせる。

 

 そんな秋らしいうららかな日和の九月中日。比企谷八幡は、自分と雪ノ下の手を引っ張って元気に打ち上げ会場へと歩を進める由比ヶ浜に苦笑しながら、ゆっくりと高校の校舎を後にした。

 

 

原作六巻、了。

 




その1.本章について

 作品全体を大きく二つに分けようと試みた場合、後半は既に前章から始まっています。しかし同時に、本章まで持ち越していた未解決の要素が幾つかありました。本章ではそれらの諸要素を出し惜しみなく扱ったつもりですが、その観点からすると、本章は前半ラストに該当することになると思います。

 本章終了時点では、奉仕部の三人を始め多くのキャラに変化や成長の兆しが見えてきて、もはや原作と同じキャラだとは主張し辛くなって来た感があります。作者としては、原作と地続きのキャラだと受け取って頂けるように各人を書いて来たつもりですが、そこで満足するのではなく。彼らの年代に特有の悩みを抱えながら各キャラが生きていく様を、より分かり易くより鮮明にお伝えできるよう頑張りたいと思っています。

 そのほか本章の反省点を、謝辞の後に改行を挟んで書いておきます。そうした話を読みたくないという方は、改行前で引き返して下さいませ。


その2.参考書籍

 まずは以下の二冊を挙げさせて下さい(敬称略)。原作でも取り上げられていたこの作品を読み返す機会を得られて、更には作中でその内容に言及できたことに心からの感謝を。

・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ「星の王子さま」 (池澤夏樹訳、集英社)
・“The Little Prince” (Mariner Books, Translated from the French by Richard Howard)

 さて、本章を書く際のテーマの一つが「モブを書くこと」でした。彼らの言動に説得力を持たせるために、二冊の古典作品を参考にしました。本章のモブたちがリアリティを持ち得ていたら、それはこれらの名高い名作のお陰です。

・ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 (桑名一博訳、白水社)
・ギュスターヴ・ル・ボン「群集心理」 (桜井成夫訳、講談社)

 八幡が12話で葉山が本話で言及した「選ばれた人間とは」の下りはオルテガ(p.64)、18話で八幡と雪ノ下が話題にした「賢者は」の下りもオルテガ(p.138)、19話の「理論より印象」という雪ノ下の方針はル・ボン(p.21)から引用しました。つまり雪ノ下は二冊とも、八幡と葉山はオルテガを読んでいます。

・西部邁「思想の英雄たち」 (角川)

 本章を更新中に西部の訃報を聞きました。私は西部個人の思想については正直よく解りません。しかし上記のオルテガやル・ボンを始め古典を読む際の手引きとして、西部の解釈は私にとって欠かせないものでした。本書の名を出すことで、故人へのお礼に代えさせて下さい。

・渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」 (中公)

 最近のSFは物語的な面白さに加えて理論的な説得力が凄いという印象ですが、本書は逆に理論的な説得力に加えて物語的な面白さもあるという印象でした。VRを扱ったラノベを読む際にも、本書の知識があると更に面白く読めそうな気がします。同時に、2巻幕間で参考にした書籍の内容が既に当たり前のものとして扱われていることに、この分野の凄まじい進歩ぶりを思い知らされました。なお、陽乃が15話で説明している内容は、本書p.137を参考にしました。

・金谷治「老子」 (講談社)、隅谷三喜男「日本の歴史22 大日本帝国の試煉」(中公)

 雪ノ下が14話で話題にした老子の解釈は金谷の。そして4話や10話で出た児玉や乃木についての説明、4巻8話における藤村操の話は隅谷の上記書籍を参考にしました。

 なお本項では書籍に限定しましたが、本作で取り上げた音楽作品については前話の後書きをご参照下さい。


その3.今後について

 原作6.5巻は簡単に終わらせる予定ですが、7巻をどの程度の密度で書くべきかを少し悩んでいます(マクロの流れは最終話まで確定しています)。何となくの印象としては、5巻ぐらいの書き方が一番受けが良さそうですが……。もう少し考えさせて下さい。

 この後はBTと幕間を挟んで6.5巻に入ります。更新は一週間後を予定しています。


その4.謝辞

 原作六巻も無事に書き終えることができました。何度も同じことを申し上げて恐縮ですが、読んで下さる皆様のお陰でここまで書き続けられています。お気に入りや評価や感想を下さった方々はもちろんのこと、ただ読んで頂けるだけでも格別の思いがします。

 そして原作最新巻との齟齬に悩んでいた頃にとある作品を薦めて頂いた方、描写と説明と会話のバランスに悩んでいた時に(4巻連載時の話ですが)相談に乗って頂いた方、メッセージで真剣な話からたわいもない話まで付き合って下さった方々に。その都度お礼を述べてきたつもりではありますが、この場でもう一度。心からの感謝を込めて、六巻の結びとさせて頂きます。


追記。
計算ミスと後書きの誤字を修正しました。(4/4)






その5.反省点

 まず一つは文章量の問題。それには二つの要素があり、一つは更新頻度が下がるのでせめてボリュームをと考えた構成上の問題です。時間の余裕が無いから頻度を下げたのに、書く内容を多くしたら無理が生じるのは当たり前なわけで。ただ、まとまった量を書けることの利点もあり、時間さえあれば一話数千字よりも数万字の方が書いていて楽しいのが正直なところです。

 文章量に関するもう一つの問題は、特に後半のことですが、予定の五割増しぐらいの文字数になってしまったこと。実はこれでもプロットを削りまくっているのが頭の痛いところで、二千字のプロットのうち採用したのが三百字だった時は乾いた笑いが出ました。以上の二点とも、現在進行形で悩んでいます。

 そしてもう一つ大きなことが、原作最新巻の存在でした。最新巻の陽乃はヘイトを貯める言動が多く(続巻での活躍を期待しています)、その印象を引き摺ったまま陽乃を悪目立ちさせたくないと考え、本作における陽乃の境遇を早急に確定させることにしました。

 その結果、特に6話の城廻の行動については、ミクロの視点で問題があったと考えています。あの場面だけは、マクロ的な要求(7話の舞台を整えること)を優先しました。3話までに城廻視点を一つ入れていれば良かったのですが、当初は二週目に登場する予定だった上に既に更新済みの話はどうにもならず。

 ただ、同じく修正要因だった「過保護」ネタを解決するために八幡のレベルを当初より上げたのですが。その影響で二週目は外部の手助けが不要になり、奉仕部の三人で話を進められる形になりました。つまり6話で無理を通したことが11話以降で報われたとも言えそうで、何とも不思議なものですね。


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ぼーなすとらっく! 「そして文化祭の夜は更けて行く。」

今回は気楽なお話です。



 駅にほど近いライブハウスでは、文化祭の打ち上げが行われようとしていた。

 

「一階も二階もワンフロア丸ごと貸し切るって、隼人くん凄すぎっしょ!」

 

「俺を持ち上げても何も出ないぞ。ここだと費用もそれほど掛からないし、予約も楽だったからな」

 

 扉を開くなり、そんな会話が耳に飛び込んできた。比企谷八幡は後ろに残した右足を軸に、綺麗に回れ右をして。すぐ前にいる二人と目が合った。

 

 二人の冷ややかな表情から「俺を先に行かせた理由はこれか」と思い至った八幡は。逃亡は不可能だと潔く諦めて、何でもないふうに口を開く。

 

「なんか騒がしい奴がいるから、上に行かねー?」

 

「ヒッキー。今日は貸し切りだから、中の階段じゃないと。外からは二階に入れないと思うよ?」

 

「比企谷くん。後ろがつかえているのだし、さっさと受付に進むべきだと思うのだけれど?」

 

 もしや内心を見抜かれたかと焦りつつ。「今に至ってなお、逃げられそうなら逃げたいとは思っていました」と頭の中で自白しながら、八幡は雪ノ下雪乃の言葉に従って受付に進んだ。学生証を出して少額の参加費を支払って、由比ヶ浜結衣が誰かと軽く会話をしている様子を眺めていると。

 

「クラスと有志と、両方の打ち上げに出たい奴もいるだろうしさ。みんな別々に打ち上げの計画を立ててたはずなのに、俺のプランに賛成してくれて。だから助かったのは俺の方だよ」

 

「クラスの方は別にいいやって人もいると思うんですけど〜。でもでも、葉山先輩の呼びかけがあったから、これだけ大勢が集まったんじゃないですか?」

 

 雑多な声が飛び交っている中でも、知り合いの発言は不思議と耳に残る。あの辺りには決して近付かないようにしよう。そんなふうに身構えながら気配を消そうと試みる八幡だったが、今日はどうにも上手くいかない。

 

「さっきのバンドの影響かしら。何だか、いつもよりも注目を集めている気がするのだけれど」

 

 ただ立っているだけでも、雪ノ下と由比ヶ浜は衆目を集めがちだ。それに文化祭でバンド演奏を披露してから、まだ一時間も経っていない。

 

「あたしたち三人が揃ってるってのも大きいかも。えーと、どこ行こっか。ヒッキーはやっぱり二階の方がいいよね?」

 

「まあ、一階のライブハウスはウェイウェイしたい奴らが集まるだろうしな。でも、クラスの集まりにも行きたくねーし、どうしたもんかね」

 

「それなら、共通のスペースに居れば良いわ。由比ヶ浜さん、文実の渉外部門の面々に、到着の報せをお願いできるかしら?」

 

 雪ノ下の指示を受けて、すぐさま由比ヶ浜がメッセージを書いている。それを若干引き気味に眺めながら、八幡が雪ノ下に。

 

「なあ。由比ヶ浜が俺から役職を引き継いだのって、昨日の夕方だよな?」

 

「そうね。でも、私の記憶違いでなければ……文実とほぼ無関係だった月曜日の時点で、既に溶け込んでいた気がするのだけれど」

 

 二人して由比ヶ浜の適応力にびびっていると、その当人が。

 

「階段を上がったところにみんな居るって……って、どうかした?」

 

「いえ、何でもないわ。では、二階に上がりましょうか」

 

 

 雪ノ下の言葉に従って三人が階段を上がると、まず多くの間仕切りが目に入った。フロアの中央が共有のスペースとして割り当てられていて、外周部を細かく区切ってクラスや部活や有志で集まっている。仕切りは移動式の簡易なもので、気軽に行き来ができる形だ。

 

 そこまで確認して中央部に目を向けると、見知った顔が並んでいた。その中の一人が口を開く。

 

「お疲れ様です、副委員長」

 

「文化祭が終わった今、その肩書きはもう意味をなさないのだけれど?」

 

 雪ノ下がきょとんとしながら問い掛けているが、八幡には何となく彼らの気持ちが解った。要は「雪ノ下さん」と呼ぶのが気恥ずかしいのだ。敬遠する気配は感じないので、そのうち落ち着くところに落ち着くだろうとは思うが。仕方なく、フォローを入れる。

 

「どっかの誰かみたいに、気軽に『ゆきのん、お疲れー』とか言い辛いからな。ま、お前の仕事ぶりに敬意を表してくれてるって感じで受け取っておけば良いんじゃね?」

 

「ヒッキー。今の、誰の真似だし?」

 

「あれ。最近やっとお前のノリが掴めたなと思ってたんだが?」

 

「いくら納得できる内容でも、あの話し方では台無しね。普段は淡々と話しているだけに、急にテンションが変わると耳を塞ぎたくなるのだけれど?」

 

 そんなやり取りに「また始まった」と忍び笑いを漏らす委員たちは、階段から少し離れた辺りに三人を招き入れて。飲物が入った紙コップを片手に、めいめいが話を始める。やがて他の面々もぽつぽつと加わって、さながら文実の打ち上げのような様子を見せるのだった。

 

 

 そして宴もたけなわとなり、八幡の近くには奉仕部の二人の他にも見知った顔がいくつか加わっていた。

 

「とつはやを極めた今、次なる目標はもちろん……」

 

「だから大勢の場では擬態して過ごすし。妄言は部屋に帰ってから聞くし」

 

 鼻血を拭いてあげたり、帰ってからなら話を聞くと言ってくれたり。何だかんだで面倒見が良いよなと八幡は思う。すっかり見慣れた由比ヶ浜の呆れ笑いに、思わずもらい笑いをしそうになる。と、そんな八幡の肩を、誰かがちょんちょんと突いて来た。

 

「深く追及しないほうがいい気がして、ぼく、今まで聞き流してたんだけど。ちゃんと理解したほうがいいのかな?」

 

「いや、早まるな戸塚……ってでも、戸塚がそっちに興味を持ったら……待て待て。戸塚は男、戸塚は男、戸塚は戸塚……あれ、戸塚がどうなったら俺にとってベストなんだ?」

 

「は、八幡?」

 

「あ。すまん。でも、何てかあれだな。由比ヶ浜の交友関係の広さとか、J組の仲の良さとか。知ってたつもりでも、近くで見てるとすげえなって思うよな」

 

 かろうじて正気に返った八幡は喋りながら話題を探して、すぐ近くの光景を取り上げた。由比ヶ浜の周囲には人が絶えないし、雪ノ下はJ組の輪の中に違和感なく入れている。もっとこう、クラスに君臨してるイメージだったけどな、と思いながら。八幡は緩めた顔を元に戻して、そのまま周囲を見渡した。

 

「でもまあ、文実の連中が周りに居てくれるのは助かってるし、うちのクラスの連中が集まるのも分かるんだが」

 

「F組とJ組に他のクラスも加わって、完全に囲まれてるよね」

 

 苦笑交じりにそう付け足してくれた戸塚彩加の言葉通り、今や周囲には四種類からなる人の壁ができていた。

 

 一つは打ち上げの最初期からずっと居てくれる文実の委員たち。一つは雪ノ下のもとに馳せ参じたJ組の生徒たち。そして日頃から戸塚の世話を何くれと焼いているF組女子を中心とした一団が控え。最後にF組はもちろん他クラスの生徒も大勢加わって、由比ヶ浜に群がる集団がいる。

 

 そんな人の渦の中心にいて、八幡はどうにも落ち着かない。それにそもそも。

 

「後夜祭でも打ち上げでも、名目は何でも良いんだけどな。ただ喋ってるだけって気がするんだが、これで良いのかね?」

 

「うーん、どうだろ。でも、無理にゲームとかして盛り上がるのも、八幡は嫌がりそうだけど?」

 

「あー。まあ、知らん連中とどんなノリで盛り上がれば良いのか分からんからな。楽しいビンゴ、とか歌ってれば良いのかね?」

 

 発言を文字通りに受け取って、戸塚は「ビンゴもいいかも」と想像を膨らませている。そこに別の声が加わった。

 

 

「どんな曲かは分からないのだけれど。演奏が必要なら……」

 

「いやいや待て待てその話題をここで出すのは……遅かったか」

 

 三人の演奏が聴けるかも、と期待の目を多数向けられて。これを避けるべく、話題には気を付けてたんだがなと八幡は思う。だが雪ノ下の考えは違ったみたいで。

 

「今日はもうバンドはやらないんですか?」

 

 周りに群がる誰かからの質問を受けて、間を置かず返事を口にした。

 

「残念ながら、レパートリーが少ないのよ。それにさっきの二曲は、今日はもうあれ以上の演奏は無理だと思うから。申し訳ないのだけれど」

 

 言葉の割にはまるで詫びる様子がないが、周囲を納得させるにはこの態度が効果的だろう。そう八幡が考えた通り、辺りからはバンドを期待する空気が消えて。代わりに閉会式での演奏を振り返る声が大きくなった。

 

「なるほどな。たしかに話題を避けるよりも、さっさと答えたほうが早いわな」

 

「そうね。それよりも比企谷くんは……」

 

「あ、悪い。メッセージが……って小町か。夕食の話だと思うから、えーと、何だっけ?」

 

 雪ノ下が別の話題を出そうとしたら、ちょうど八幡にメッセージが届いたので話が途切れる。とはいえ雪ノ下にとっては良いタイミングだったみたいで。

 

「そろそろ、この環境で我慢するのも限界でしょう。小町さんのメッセージを言い訳に、そそくさと退席したら角が立たないと思うのだけれど?」

 

「いや、その提案はありがたいんだが。お前って、さりげなく角が立つ表現を入れてくるよな」

 

「つまり『すごすご』とか『こそこそ』のほうが良かったと、貴方は言いたいのよね?」

 

 悪びれる様子もなく堂々と言われると、逆に清々しく思えてしまう。雪ノ下の本意が、揶揄ではなく言葉遊びにあると知っている八幡は。

 

「俺の一押しは『尻尾を巻いて』だな。尾っぽをくりんとさせた猫が走り去る姿を想像して……あー。俺が悪かったって認めるから、猫世界に飛んで行ったお前の意識に戻って来て欲しいんだが」

 

 雪ノ下の反応を見て、少しの焦りと呆れが混じった平坦な口調で何とか取りなす。

 

「……そうね。その表現が至上であると認めるのは、やぶさかではないのだけれど。話を戻すと、()()()()退席する口実には良いのではないかしら?」

 

「あ、ヒッキー帰るんだ。でも()()()の呼び出しじゃ仕方ないよね。じゃあ、()()()!」

 

 二人の発言から言葉の裏を読み取って。更には先ほど顧問に言われた「打ち上げで会おう」というセリフを思い出して。この後の展開を予想しながら戸塚を見ると、にこにこしながら頷いてくれる。

 

「ほいじゃ、まあ、そういうことで」

 

 そう言って立ち上がった八幡は、周囲の生徒たちの間をすり抜けて。時おり思い出したように「すまん、妹から連絡が」と口にすることで、無事に囲みを抜け出した。

 

 この世界に捕らわれた人々は、兄弟姉妹が揃って巻き込まれている者たちをいたわる気持ちが強い。でも何だかズルをしている気がして、普段の八幡なら妹を理由にするのはできるだけ避けるのだが。

 

 今日は実際に連絡が来ていることもあり、色々あって疲れているので許して貰おう。そんなことを考えながら、八幡はライブハウスの外に出てメッセージを読んだ。そして集合場所の駅前にて、妹と再会を果たすのだった。

 

 

***

 

 

 妹の比企谷小町と一緒に電車に乗って、海浜幕張で降りる。駅を出た八幡は、何度か入ったことのある大きな建物を目指した。

 

 ホテル・ロイヤルオークラの最上階にあるエンジェル・ラダー。そこが、親しい面々が集まる二次会の会場だと妹に教えられたのだ。平塚静の手配によって、お店は貸し切り状態になっているらしい。

 

「たしか、夏休みの最後に勉強会をした時だったかな。戸塚が『一緒にバーに行ったの懐かしいね』って言い出して。また行けば良いんじゃねって話になったんだよな」

 

「あの時のメンバーって、お兄ちゃんの他には雪乃さんと結衣さんと、あと戸塚さんと沙希さんだっけ?」

 

「だな。その五人に小町と平塚先生と、他には誰が来るのかね?」

 

「ふっふっふ。それは後のお楽しみということで」

 

 内心では「まあ見当は付くけどな」と思いながらも、妹が楽しそうなので余計なことは口にしない。とはいえ小町も兄の自制には気付いていて、「お兄ちゃんも成長したなあ」と妹らしからぬことを考えていたりする。

 

 入り口の前でお互いに服装を確認し合って。制服の着崩しを直してから、兄妹は横並びになってホテルのドアを抜け屋内に入った。

 

 

 エレベーターで最上階まで移動する。そして八幡は、かつて雪ノ下に教えられた通りに、妹に向かって腕を向けた。あの時とは違って遠慮も何もなく、ぐりんと腕を回してくる妹に苦笑しながら。八幡はお店に足を踏み入れた。

 

 開け放した扉のすぐ裏側には、いつか見たNPCが控えていた。恭しく頭を下げられ、そのまま奥へと導かれる。そこには先客の姿があって。

 

「おっそーい。こっちだってお偉いさんに、ひととおり挨拶を済ませてから来たのにさ。ほら、もうこんなになってるよ?」

 

「陽乃、大丈夫だ。生徒が揃うまでは三杯で止めておくと言っただろう。あ、すいません。特注のお水をもう一杯」

 

「静ちゃんのそれって、お水じゃなくて水割りでしょ?」

 

 呆れ声で指摘しながら平塚の相手をしている雪ノ下陽乃が、兄妹を出迎えてくれた。二人はカウンターに並んで座っていて、陽乃の前にはオレンジジュースが置かれている。

 

「あれ、お酒は飲まないんですか?」

 

「年齢的には大丈夫なんだけどね。万が一でも酔っ払って醜態を晒したら問題になるから、外では飲まないのよ。ま、わたしじゃなくて家の決まり事なんだけどさ」

 

 気のせいか、普段よりも陽乃の仮面が緩んでいるように思えた。一緒にバンドをしたことも要因の一つだろうが、と八幡が考察を進めていると。すぐ横から小声が聞こえて来た。

 

「ねね、お兄ちゃんお兄ちゃん。小町、雪乃さんのお姉さんに紹介して欲しいんだけど?」

 

「お、もしかしなくても比企谷くんの妹ちゃんだよね。この間はちゃんと挨拶できなかったからさ。雪ノ下陽乃です。好きなように呼んでね」

 

「比企谷小町です。兄がいつもお世話になってます。あれ。でも、この間って?」

 

「ほら、夏休みの合宿の時に。解散場所に雪乃ちゃんを迎えに行って。あの時は慌ただしくてごめんねー」

 

「いえいえー。小町的には陽乃さんに覚えてもらえてただけで、もう充分に幸せです!」

 

 あの時には、小町と戸塚には目もくれなかった気がするのに。こうして記憶をアピールして心を掴みに来る辺り、やっぱり陽乃さんは陽乃さんだなと八幡は思った。とはいえ、うちの妹は天然な気質でしてね、と八幡が内心でつぶやいていると。

 

「お兄ちゃんどうしよう。雪乃さんのお姉さんだから当たり前だけど超美人だし、優しいし。小町、お義姉ちゃんって呼びたくなって来たかも」

 

「お、いいねー。大歓迎だよー」

 

 小町が天然の狩人の目になって、兄のお嫁さん候補に加えるべきかと精査を進めていた。八幡が唖然としている横で、二人の会話が続く。陽乃が座る目の前までててっと近付いた小町は、陽乃の両手をやおら掴んで。

 

「じゃあ陽乃さん。お兄ちゃんのこと、よろしくお願いしますね!」

 

「わたしは()()()でも良いんだけどねー。雪乃ちゃんとくっついても『お義姉ちゃん』になるんじゃない?」

 

「おうふ。た、たしかに……」

 

 たしかにじゃねーよと八幡は思った。

 

 小町が「お義姉ちゃん」という意味で話しているのを、どうやって見抜いたんだろうなと考えつつ。何だか暑い気がするなと、ガラス張りの窓から遠くを眺めていると。視線を感じたので、仕方なく顔を元に戻す。

 

「ほら、比企谷くんも満更でも無さそうだし。小町ちゃん、期待大だよ!」

 

「陽乃さん。いえ、お義姉ちゃん。小町の長年の苦労が、やっと……むぐっ」

 

 三文芝居の末に小町が抱きついて、陽乃の胸に包まれて窒息しそうになっている。そんな光景を眺めながら「早く誰か来てくれないかな」と他力本願な八幡だった。そしてもう一人は。

 

「あ、すいません。特注のお水をもう一杯」

 

 マイペースで杯を重ねていた。

 

 

 それほど待たずして、残りの面々が揃って姿を現した。先頭に立つのは雪ノ下と由比ヶ浜。その後ろには川崎沙希と戸塚がいる。そこまでは予想通りだったが、なぜか材木座義輝と、彼を引き連れた城廻めぐりの姿が。更に最後尾にはもう一人。

 

「なんなの、この組み合わせ?」

 

「でもさ。結衣さんの誕生日に小町の家で集まった時と、あんまり変わってなくない?」

 

「ねえ小町ちゃん。微妙に俺だけ家を追い出されてる気がするんだが。大丈夫よね?」

 

 相手をするのが面倒だなあという表情で、小町がこちらに近付いてくる面々に視線を向けると。

 

「今日は姫菜と優美子は、あっちの二次会に行くって言ってたよ。だからえーと、二人の代わりにさいちゃんと中二が入った感じ?」

 

「それと、姉さんと平塚先生もね。『どうして居るのかしら』と言いたいところではあるのだけれど。その前に……」

 

「すっかり出来上がってるけど、あんたら先生に何杯ぐらい飲ませたんだい?」

 

 由比ヶ浜が小町の発言を拾ってくれて、そこに雪ノ下が補足を加える。それに続けて、このバーでバイトの経験がある川崎が、カウンターで醜態を晒している教師を指差しながら疑問を口にした。八幡が答えて曰く。

 

「いや、飲ませたっつーか……勝手にどんどん飲んでたな」

 

「ぼく、お店の人に言ってお水をもらって来るね?」

 

「否、必要あるまい。見よ、平塚女史は既に水の入ったコップを手にしておるではないか!」

 

「このお水には焼酎が入ってたりするんだけどねー。あはっ。それにしても君、個性的な話し方で面白いね」

 

「ぬぐうぉっ。か、過分なお褒めに与りかたじけなく御座候」

 

 戸塚の提案を自称・売れっ子作家の観察力で材木座が退けると、陽乃がその話し方に反応した。えへんと胸を張る材木座を、八幡が冷めた目で眺めていると。

 

「はるさん、何だか疲れてないですか?」

 

「まあねー。比企谷くんたちが来るまで、静ちゃんの愚痴を延々聞かされてたからさ。なんでも、お気に入りのバーテンダーが今日はお休みみたいでね。『NPCにも休みがあるのに私は……』って、二重の意味でショックを受けてて」

 

 長い付き合いゆえに陽乃の様子を不審に思った城廻が問い掛けると、聞いている全員が脱力するような話を陽乃が語った。珍しく妹も含め、みんなから同情の視線を集めて。陽乃は更に話を続ける。

 

「あとね。『一緒にバンドをしたからには私も同世代だ』って嬉しそうにしてたんだけどさ。その、静ちゃんが好きなミュージシャンって、比企谷くん知ってる?」

 

「たしか、椎名林檎・くるり・SUPERCARをデビュー当初からリアルタイムで聴けて良かったとか何とか。GRAPEVINEとかpillowsは後追いだったと言ってましたね。んで、俺が『アジカンも同じ頃ですか?』って尋ねたら、その……」

 

「わたしもさっき相鎚を打つのが面倒になって、つい『ナンバーガールは聴いたことないなー』って言っちゃって。でも解散が十年近く前なんだよねー。静ちゃん一押しだから、今度ちゃんと聴こうとは思ってるけどさ」

 

 どう言い繕おうとも、年齢の差は動かせない。その現実を突き付けられてショックを受けたのだろうと、カウンターに倒れ伏す教師に黙祷を捧げる一同だった。

 

 場の雰囲気を変えるように、陽乃がそのままこう提案する。

 

「ま、みんな適当に座ったら?」

 

 

 他の参加者を待つ間に、八幡はカウンターに座る二人の近くに机を持って来て、大勢が近くに集まれるように配置を整えていた。十人ちょいで貸し切りって贅沢だなと思いながら。一斉に腰を下ろす一同のうち、いまだ発言のない最後の一人を眺める。

 

「で、なんでおま……一色がこっちに来たんだ。葉山のほうには行かなくて良いのか?」

 

「あ、惜しい。えっとですね〜、話せば長くなるんですけど」

 

 八幡とは「お前」呼び一回ごとに貸し一つという契約を結んでいる一色いろはが、聞かれるのを待ってましたとばかりに話し始める。

 

「いくら外の人の味覚が微妙だからって、ちょっと悔しいじゃないですか〜。だから別のレシピを考えて、朝から色々と実験……食べて貰ってたんですけど」

 

「なあ。今更このメンバーで、取り繕う意味ってあるのか?」

 

「せんぱい。細かいことを言ってると嫌われますよ。でですね〜、見事レシピが大ヒットして、クラスの出し物も大成功。そこまでは良かったんですけどね〜」

 

「一色さんのお陰で上手くいったと盛り上がる男子生徒と、最初からそのレシピを出せば良かったのにと一色さんの作為を疑う女子生徒で揉めていたそうね。さすがに昨日とは違って、女子の大半は中立だったみたいだけれど」

 

「ほーん。じゃあ昨日と同じで、下手に当事者がいたら争いが過熱しかねないから逃げてきたってとこか。一色も大変だな」

 

 雪ノ下の補足によって全容を理解した八幡は、頷きながらそう口にしたのだが。それを聞いた雪ノ下は。

 

「先程のPA室でも思ったのだけれど。どうして貴方が、一色さんのクラスの揉めごとを詳しく把握しているのかしら?」

 

「あ、いや、それはだな……」

 

「え、だって昨日クラスから距離を置いてた時に、せんぱいで暇潰し……相手をして貰ったので。あれ、これって言ったらまずいやつでした?」

 

 可愛らしく舌を出して誤魔化そうとしている一色はともかく、八幡には大勢の視線が集まっていた。一色としては、この顔ぶれなら変に誤解されることも無いだろうと、事実をそのまま口にしただけなのだが。

 

 慌てる八幡に何かを言わせる隙すら与えず。並み居る女性陣が順次、口を開く。

 

「比企谷くん。昨日の放課後は一色さんと一緒に過ごしていたのね」

「ヒッキー。いつの間にいろはちゃんと、こんなに仲良くなったんだし?」

「あたしは受付に座ってただけだし、偉そうなことは言えないけどさ。みんながあんたを心配して、今日の対策とかも考えてたんだけど?」

「その頃お兄ちゃんは、可愛い後輩と逢い引きを……もしかして小町、お兄ちゃんの育て方を間違えちゃったかな?」

「よしよし。小町ちゃんの代わりに、浮気者はお義姉ちゃんが懲らしめてあげるからねー」

「せんぱいの浮気者〜」

 

 どうして俺を責める側にいるのか納得できないやつが約一名いるが。とにかくこの場を収拾して欲しいと、八幡は残る三人に目で助けを求める。しかし。

 

「八幡、昨日『さっきも』って言いかけたでしょ。あれ、一色さんと会ってた時のことだよね。どうしてぼくに言ってくれなかったの?」

「八幡よ、大人しく裁きを受けるが良い。なに、命までは取らぬだろうて」

「比企谷くん、モテモテだー。先週のカラオケでは嬉しいことを言ってくれたし、助けてあげたいんだけどねー」

 

 孤立無援かと思っていたが、城廻が妙なことを口にしたので大勢が頭の上に疑問符を浮かべている。八幡が心の中で「このままめぐりっしゅしちゃって下さい」と三下のようなセリフを思い浮かべていると。

 

「あのね。もっと雪ノ下さんと仲良くなりたいなー、みたいなことを言ったら、比企谷くんが『はるさんよりも身内みたいな扱いだ』って言ってくれてね」

 

「ちょっと比企谷くん。表現が曖昧だからハッキリさせたいんだけどさ。雪乃ちゃんは、めぐりを、わたしよりも身内と見ていると。そういう意味で良いんだよね?」

 

「比企谷くんにしては良いことを言うじゃない。頼れる先輩と、事あるごとに難題を吹っ掛けてくる実の姉と。身内にしたいのはどちらか、明確だと思うのだけれど?」

 

「へえ。雪乃ちゃんが身内じゃないって言うのなら、手加減の必要は無いよねー?」

 

 先程のステージ上に続いて、姉妹の間で話が盛り上がっている。その他の面々がそこに口を挟めるわけもなく。そして姉が次に口にする言葉を予測しているのか、強く唇を噛みしめながら雪ノ下が身構える中で、陽乃が言い放ったのは。

 

「じゃあここで、雪乃ちゃんの休日の過ごし方を大公開しちゃうよー。まあ、リビングでは読書したりピアノを弾いたり、そんなに意外な行動じゃないけどね。これが自室で一人になると……」

 

「ちょっと姉さん。さっきも思ったけど、どうして知ってるのよ。お願い、やめて!」

 

「パンさんのグッズを抱きしめながら、超真剣な顔で猫動画を集めてるんだよねー」

 

 ここに姉妹の勝敗は決した。とはいえ雪ノ下も然る者。すぐさま「だから何だというのかしら?」と開き直っていた。いずれにせよ、俺から話題が逸れて良かったと八幡が胸をなで下ろしていると。

 

「動画って言えばさ。さっきのあたしたちの演奏、みんなで観ない?」

 

 由比ヶ浜の提案に、すぐさま全員から賛成の声が上がった。残念ながら別の二次会に顔を出しに行くという城廻を見送って、一同はガラス窓の前に垂らされたスクリーンを眺める。

 

 程なくライブの模様が映し出されて。「自分の演奏を観るのは恥ずかしいんだが」と、もぞもぞしていた八幡が、自らが大映しになった場面でいたたまれなくなるのだが。

 

 

 その後も演奏を振り返ったり、文化祭の想い出を語り合って、話題が尽きないまま。彼らの打ち上げは、年齢を理由にお店を追い出されるまで続くのだった。

 




次回は来週末に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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幕間:彼ら彼女らの行く末に幸多からんことを。

本章ラストにして息抜き回の第二弾です。
タイトルは原作7.5巻から流用させて頂きました。



 文化祭が終わって早くも一週間が過ぎた。比企谷八幡は授業の疲れを引きずりながら、今日も今日とて部室に向かう。今晩から土日にかけては絶対に家でだらだらしてやると、そんな決意を固めながら教室の扉を開けると。

 

「こんにちは、比企谷くん。昨日までに輪を掛けてお早いお越しだけれど、逃げ足も上達するものなのね」

 

「クラスの連中に捕まらないように必死だからな。むしろ俺からすれば、これだけ急いで来てもお前が先なのが不思議なんだが?」

 

 ふっと笑うだけで、返事はせず。教室の奥でお茶の準備をしていた雪ノ下雪乃は、いったん自分の席に戻ってきた。いつもなら八幡と由比ヶ浜結衣が来るタイミングに合わせて時間差でお茶が出てくるのだが、早く来すぎたのは確かみたいだ。

 

 ともに椅子に腰を掛けて、八幡が口を開く。

 

「ま、J組は仲が良さそうだったけど、だからといって疲れないわけじゃないだろうしな。一人の時間も大切だって、平塚先生とかが諭してくれたら楽なんだが」

 

「他力本願をたしなめたい気もするのだけれど。どうせ貴方のことだから『逃げ足をみがいて自力で対処している』などと言うのでしょう?」

 

 口にするはずの言葉を先んじられて、八幡は苦笑しながら応対する。

 

「ぼっちは自力が基本だからな。たまに他力を願うぐらいは見逃して欲しいんだが。それよりも、今週は月曜が代休だったのに妙に疲れる気がするんだよな」

 

「案外そういうものよ。週四日よりも週六日のほうが疲れを感じないのではないかしら、社畜谷くん?」

 

 呼び掛けそのものは気にも留めず、目を濁らせた八幡が軽く頷きながら。

 

「なんかマジで将来、社畜になってる気がして憂鬱なんだが」

 

「専業主夫よりは現実的だと思うのだけれど。それと、文化祭が終わってから授業に熱が入っている気がするわね。模試の結果も良かったことだし、体育祭が近付いて皆が浮かれる前に少しでも、と考えておられるのではないかしら?」

 

 それも疲れる理由の一つだろうと示唆して席を離れ、紅茶をカップに注ぎに行く。そんな雪ノ下の動きを目で追って、自分が授業に集中していることも疲労の原因なのだろうと八幡は思った。立ち上がりながら部長様の背中に向かって。

 

「取りに行くから運ばなくていいぞ」

 

「では、私のぶんもお願いできるかしら。由比ヶ浜さんが来るまでに用意しておきたいものがあるのよ」

 

 そう言った雪ノ下はポットから最後の一滴までを注ぎ切ると、手早くもう一人分の手配をして教卓に向かった。カップを二つ手に持って、その行く先を眺めると。

 

「ノートパソコンか。って、まだ文化祭の仕事が終わってねーのか?」

 

「平塚先生が、今日の放課後はこれを使うようにと。私も詳細を伝えられていないのだけれど、あまり良い予感はしないわね」

 

「将来の心配よりも、現状の社畜化をどうにかしないとなあ……」

 

「見てみないと分からないとはいえ、文化祭の仕事量と比べれば大したことはないはずよ。貴方の処理能力なら、社畜には程遠いと思うのだけれど?」

 

 特に深い意図もなく、思ったままを口にしているだけなのだろう。しかし評価の辛い部長様にそう言われ、思わず視線を明後日のほうに向けてしまった。手は震えていないものの、カップを置く前に聞かなくて良かったと思いながら椅子に腰を下ろして。

 

「そういや、文化祭の仕事があと一つ残ってたな」

 

「それも今日でお終いなのだし。大した話にはならないはずよ」

 

 そんな話をしていると、廊下から聞き覚えのある足音が聞こえた。すぐに扉が開いて、すっかり見慣れた顔が元気な声とともに飛び込んで来る。二人は気安い返事を口にしながら、もう一人の部員を迎え入れるのだった。

 

 

***

 

 

 由比ヶ浜が持ち込んだ大量のお菓子を頬張りながら、まずはお茶を堪能する。仕事よりも雪ノ下とお喋りしたいだろうなと推測していた八幡だったが。一息ついた後で顧問の指令を伝えると、俄然やる気を見せられ苦笑いする。

 

 そんな由比ヶ浜の勢いに押されてノートパソコンを立ち上げると、デスクトップの中央にはテキストファイルが一つ。そこには、奉仕部の新たな活動内容が記載されていた。

 

 題して、『千葉県横断お悩み相談メール』と。

 

 お互いの顔を見合わせた後で、画面を覗き込むためとはいえ思った以上に近いなと思った八幡は、何でもない風を装いながら自席に戻った。それを静かに見送った二人は、各々の感情と場の空気を打ち消そうとするかのように、順次口を開く。

 

「これって、依頼が直接来るってこと、だよね?」

 

「依頼人の名前だけはチェックするものの、内容はノータッチだと書いてあるわね。確かに、相談したくとも教師には言いにくいという生徒にとっては、理想的な形だとは思うのだけれど」

 

「俺らにはペンネームでも可って書いてあるもんな。要するに、依頼人が身元を明かしたくないなら明かさなくても良いってことか」

 

「一方で平塚先生は、依頼人が誰かを把握するだけで内容には関知しないと。……その、実は一学期の終わり頃に先生と少し話をしたのよ。生徒会経由とか、顧問とは別のルートからも依頼を受けられないかと相談したのだけれど」

 

「これが平塚先生の答えってことか。まあ確かに、良くできた仕組みだとは思うが。俺らに答えられない相談が来たら……ってこれか。『君たちの裁量に任せる』って良く言えば信頼、悪く言えば丸投げだな」

 

「でもさ、『困った時にはいつでも相談に乗る』って言ってくれてるし。実際にやってみてから考えてもいいかなって、あたしは思うんだけど……」

 

「そうね。既にメールも何通か届いているのだし、まずは内容を見てみましょうか」

 

 メールをチェックしていた雪ノ下がそう言って、すぐに動きが止まった。もう一度パソコンを見に行くのが億劫でもあり照れ臭くもある八幡が首を傾げていると。由比ヶ浜が雪ノ下の背後から密着するようにして画面を覗き込んで。

 

「げ。この『剣豪将軍』って多すぎない?」

 

「あー、すまん。後で俺がまとめてゴミ箱に捨てとくわ」

 

 そうは言うものの、結局は全てに目を通して返事をするんだろうなと考える由比ヶ浜は、八幡に温かい視線を送る。そっぽを向きながら「返事は一通しか出さねーぞ」と考えているのだろう八幡に、二人は続けて苦笑いを送って、そのまま画面をスクロールした。すると。

 

「この変な顔文字は……ゆきのん、これは見ないほうがいい気がするんだけど?」

 

「でも、そういうわけにもいかないでしょう。私が読むから、由比ヶ浜さんはお茶を飲んで休んでいてくれるかしら?」

 

 話が読めないまま何となく雪ノ下の口元を眺めていた八幡は、「少し重くなってきたし」という声にならぬ呟きが聞こえた気がした。とはいえ何が重いのかは詮索しないほうが良い気がして、そのまま部長様の様子を見守っていると。

 

「ペンネームの割には依頼内容はまともだったわ。簡単に言うと『小説を書いてみたものの友達に見せるのは恥ずかしいから、読んで感想をもらえないか』ということね。依頼の文章も丁寧だし、添付ファイルの容量を見る限り、おそらく短編だと思うのだけれど」

 

「うーん。あたしは読まないほうがいい気がするけど……」

 

 雪ノ下の説明に頷きながらも、由比ヶ浜の不安は晴れない。このままでは話が進まないと考えて、八幡が。

 

「まあ、誰を警戒してるのかは分かるんだが。あの人って何だかんだで作品には真剣に向き合ってる気がするし、のっけから全力は出さないんじゃね?」

 

「そうね。全く読まないわけにもいかないし、少し読んでみて問題がありそうなら中断するわね」

 

「うん、それなら大丈夫かな。あ、あたし、ゆきのんの朗読を聞きたい!」

 

「俺も作品の書き出しには興味があるから、音読してくれるなら助かるな」

 

 お茶とお菓子を味わいながら希望を口にする由比ヶ浜に続けて。すっかりお尻に根が生えてしまった八幡も、上半身をぐてっと机に預けながら願望を重ねる。二人の要望を受けた雪ノ下は。

 

「二人とも、少しだらけ過ぎではないかしら。でも、そうね。冒頭の一節だけなら読み上げても良いわよ?」

 

 この後の予定も考慮して部員に歩み寄った雪ノ下は、機嫌良さそうに添付ファイルを開いて。

 

「ん、どうした?」

 

「ゆ、ゆきのん。もし姫菜が書いたのだったら、無理しなくても……」

 

「……いえ。読み上げると口にしたからには、それを翻すわけにはいかないわ」

 

 部屋の空気が急激に張り詰めていき、緊張が三人を包む。雪ノ下の決意表明に対して、どう反応すれば良いのかと二人が悩んでいる間に。覚悟を決めた雪ノ下が口を開いた。

 

「じゃあ、読むわね。ごほん……『うふんくすぐったいダメよもうすぐママが帰って来るんだからとトムは言ったのだがボブは強引に……』」

「ゆきのん、ストーップ!」

「音読とか言った俺が悪かったー!」

 

 慌てて制止する二人を見て、肩の力を抜きながら。気心の知れた面々しか居ない場でも、不用意な発言は避けようと心に誓う雪ノ下だった。

 

「その、あれだ。返事は俺が書いておくから、ちょっと休んどけ」

 

 そう言ってノートパソコンを受け取った八幡は、少し考えた末に色々と馬鹿らしくなって来て、思い付いたままを書くことにした。曰く。

 

『マーガレットはどこに消えたのでしょうか。ボブは訝しんだ』

 

 そのまましばらくの間、部室には静かに各人が茶をすする音だけが響いていた。

 

 

***

 

 

 少し時間を置いて、ようやく精神的なショックを払拭した三人は徐々に動きを見せ始めた。雪ノ下はお茶のお代わりを淹れるために立ち上がり、由比ヶ浜は食べ終えたお菓子の包みを片付けて。その間に八幡は再びメールを開いて、形ばかりの励ましのメッセージを送っておいた。

 

 そのまま三人が再びお茶をすすっていると。

 

「ひっ……って、メールが届いただけで、あたしなんでこんなにビビってるんだろ?」

 

「まあ、さっきのがアレだったからな。えーと、二通あるんだが。一つは『一度は着たい花嫁衣装、当方教職収入安定……』っと平塚先生で、もう一つは『運営』っておい。どっちも見たくねーな」

 

「その二択なら、先に運営を片付けましょうか。ゲームマスターからのメールでなければ、何とかなると思うのだけれど」

 

 運営でも顔見知りには常識的な人が多かっただけに、由比ヶ浜も八幡もその意見に頷いていた。今日はもう雪ノ下に音読させる気になれない八幡は、そのままメールを開く。

 

「えーと。要するにこれ、バイトのお誘いだな。再来月の頭には関西一円まで世界が広がる予定なのに、作業に遅れが出ているんだと。『千葉村の次は明治村とか作ってみない?』とか言われてもなあ……」

 

「それ、東北方面をアップデートする予定は無いのよね?」

 

 雪ノ下の反応を怪訝に思いながらも八幡が頷くと。

 

「そう。青森県と岩手県と山形県にある猫屋敷だけは私が作りたいと思っているのだけれど」

 

「えっと。ゆきのんそれって、そういう地名があるってこと?」

 

 由比ヶ浜の疑問に「これぐらいは常識なのだけれど」とでも言いたげな表情で首を縦に動かす雪ノ下。それを見て、つい魔が差した八幡は。

 

「俺の記憶が正しければ、北陸にたしか猫ノ目って地名があったぞ。あと京都には猫鼻ってところが……」

「明日にでも作ってくるわね」

 

 迷いのない返答を耳にして「これで解決で良いや」と考える八幡だった。何だか返事を書くのが億劫なので、次のメールを開けてみると。

 

「あ、いや。平塚先生からの依頼で、明日の予定を空けておくようにとさ。……って俺、一日だらだらする予定だったんだが」

 

「ヒッキー。明日何をするかとか、詳しいことは書いてないの?」

 

 落胆の色を露わにして、首を捻りながら「無い」と答える八幡に、雪ノ下が何かを尋ねようとしたところ。

 

「うおっ、ってノックか。来たんじゃね?」

 

「そうね。……どうぞ」

 

 許可を受けて、相模南が部室に入ってきた。

 

 

***

 

 

 依頼人席に座らせた相模にお茶を出して、お菓子も食べさせて。一息ついた頃合いを見て雪ノ下が口火を切った。

 

「では、相模さんの依頼を総括しようと思うのだけれど」

 

「つっても、閉会式の時にこいつが自分で言ってただろ。本人が理解できてることを繰り返すのって、面倒臭いだけだと思うんだが?」

 

「ヒッキー、そんなだから小町ちゃんに捻デレって言われるんじゃん。ま、いいんだけどさ」

 

 冒頭からやる気の欠片もない八幡がそう言うと、由比ヶ浜が投げやりな口調でそう応えた。だが部屋に入った時点で硬くなっていた相模から少し力が抜けるのを、雪ノ下は見逃さなかった。苦笑を内心に留めながら話を進める。

 

「スキルアップという点を考えると、もっと仕事を割り振るべきだったと思うのだけれど……」

 

 たちまち相模の顔が青くなるが、雪ノ下はそのまま話を続ける。

 

「文化祭は大成功と言っても過言ではないのだし、相模さんに不満が無いのであれば、こちらも取り立てて言うことはないのだけれど?」

 

「え、でも。うち、迷惑ばっか掛けたしさ」

 

「さがみんはそう言うけど、あたしだって体力がもたずに一日休んじゃったしさ。反省するのはいいけど、いつまでも後ろ向きだと疲れちゃうし。そろそろ、ね?」

 

 そう言った由比ヶ浜は相模の現状を理解している。文化祭での一件が尾を引いて、今も相模のグループはぎくしゃくしたままだった。だが、まずは本人が気を取り直さないことには、集団の問題も解決できない。そう考えて、由比ヶ浜は依頼の総括を理由に相模を部室に呼ぶことを提案したのだった。

 

 あとは由比ヶ浜に任せておけば大丈夫だと思った八幡が、ふと廊下のほうへと顔を向けると。ドアに張り付いている人影が目に入った。一つため息をついて口を開く。

 

「あー、お前らの話を遮って悪いんだが。平塚先生、入って来たらどうですか?」

 

 八幡の呼び掛けに応えて勢いよく扉を開けながら。悪びれる様子もなく堂々と、平塚静が姿を見せた。

 

 

「平塚先生、いつから廊下に?」

 

「ふむ。相模の背中を押した時からかな」

 

 さっそく雪ノ下が問い掛けるも、どうやら予想の範疇だったらしく口調は案外柔らかい。むしろ顧問の返事を聞いて「最初からか」と呟いた八幡のほうが呆れる色が強かった。由比ヶ浜は苦笑しているが、平塚がこれほどノリが良いとは知らない相模は唖然としている。

 

「それで、メールの詳細を説明しに来てくれたんですよね?」

 

「あ、明日の予定はあたしも知りたいなって。どこに行くんですか?」

 

「ペンネームから推測すると、結婚に関連したイベントではないかと思うのですが?」

 

 八幡に続けて由比ヶ浜と雪ノ下が顧問に質問を投げかけている一方で、急な展開にも平然と対応している三人を見て相模が呆然としている。そんな四人の生徒を順に眺めて、平塚が口を開く。

 

「そうだな。これも縁だし、明日は相模も来るかね。雪ノ下が推測した通り、ブライダル会社のイベントに誘われてな。文化祭で頑張っていた君たちへのご褒美にどうかと思ったのだよ」

 

「あ、さっきのペンネームだと、もしかして花嫁衣装が着放題とか?」

 

 由比ヶ浜の呟きに教師が大きく頷きを返すと、一瞬だけ迷う仕草を見せた後で言葉を続けた。

 

「行ってみたいけど、あたしだけだと寂しいから……ゆきのんも行こっ!」

 

「由比ヶ浜さん。そう何度も抱きつかないで欲しいのだけれど。でも、私は気にしないのだけれど。ウエディングドレスを着ると婚期が遅れるという話は知っているのかしら?」

 

「げっ、それってやばいかも。でも着てみたいし……。どうしよ、ゆきのん?」

 

 猫型ロボットに泣きついている小学生みたいだよなと思いつつ。このところ猫関連のあれこれを雪ノ下が隠さなくなってきたので、これ以上はネタにしないほうが良いかと思った八幡は。

 

「俺も詳しくは知らんけど、ドレスじゃなくて和装とかなら良いんじゃね。あと、花嫁衣装だけじゃなくて、来賓にお薦めの衣装とかは無いんですか?」

 

「うむ。新郎新婦だけではなく、来賓のドレスも揃っているらしいぞ。今回はご褒美のつもりなので無理強いはしないが。興味があるのなら、昼の一時に例のホテル・ロイヤルオークラまで来たまえ」

 

 そんな教師の提案を前向きに検討している二人を眺めながら、八幡は己の決意を伝えるべく口を開く。

 

「ま、そういう話なら着る着ないは別にして行ってみりゃ良いんじゃね。じゃあ俺は明日は……」

 

「言い忘れたが、他に男性役が居ないので比企谷にはぜひ参加して欲しいのだが。もっとも、雪ノ下と由比ヶ浜が見知らぬどこかの馬の骨と並んで婚礼衣装を身にまとっても良いと言うのなら、無理強いはしないがね」

 

「いや、その言いかたは狡くないですかね。どう答えても俺の黒歴史になる未来しか見えないんですけど?」

 

「君の捻くれた回答が正解だということだよ。では、私以外に同行者四人で申し込んでおくので、楽しみにしていたまえ」

 

 こうして口をいっさい開く間もなく、相模の参加は規定事項となっていた。

 

 

***

 

 

 翌日、写真を大量に撮ってくるようにと妹から指令を受けた八幡がホテルの一階で佇んでいると。

 

「ちょ、うちが最初に来たからって、あからさまに残念な顔にならないでよ!」

 

「おい、ここはホテルだからな。あんま騒がないほうが良いぞ。あと残念な顔って言われても、俺はだいたいいつもこんな顔なんだわ」

 

「そうね。たまにはやる気に満ちた顔を……そんな比企谷くんなんて存在するのかしら?」

 

「ゆ、ゆきのん。ほら、ライブの映像みたいにさ。やる気が無さそうにしながら真面目に動いてるのがヒッキーじゃん」

 

 なんだか三者三様の言われようだなと思いつつ。そのまま由比ヶ浜が会話をリードする形で話が進んで行くのを聞くとはなしに聞いていると、視界の端に大人の女性がちらりと映った。

 

 そちらに目を向けながら三人に「来たぞ」と告げると。教師のあまりの変身ぶりに、相模が口をぽかんと開けて固まっている。遠くから見てると綺麗だし恰好良いんだけどなと、そんな不埒なことを考えていると。

 

 こちらに気付いた教師が手招きをして来た。そして八幡に向かって、グーパンチを喰らわせる素振りを見せる。両手をお腹に当てて苦しそうな演技をすると、少年のような表情を見せてくる。なんでこの人は男に産まれなかったんだろうなと、そんなことを思ってしまった八幡だった。

 

 

 ブライダル会社から説明を受けた後で、女性四人が奥へと姿を消した。男って扱いが軽いよなと思いながら、でもそのほうが俺の性には合っているなと考えながら、紋付き袴に着替える。そして待つことしばし。一人目が姿を見せた。

 

 最初に現れたのは、全てが一つの色で統一された、いわゆる白無垢姿の由比ヶ浜。普段の元気な様子はすっかり影を潜めて、しずしずと自分のもとに近寄ってくる。ろくに声も掛けられず、そして由比ヶ浜もまた何を口にして良いのか分からないみたいで。係の人に言われるがままに、二人で並んで写真を何枚も撮られた。初々しい二人の様子には、スタッフの多くが好感を持ったと言われたが、八幡にはそれに答える余裕は無かった。

 

 ようやく開放されたかと思いきや、すぐに二人目が姿を見せた。引き振袖の雪ノ下が慣れた足取りで近付いてくる。思わず息を呑んだのが相手にも伝わったみたいで、お互いに顔を赤くしながら。やはり係の人に言われるがままに、多くの写真を撮られてしまった。立ち位置を変更する時になぜか八幡のほうが蹴躓きそうになり、雪ノ下に支えられた瞬間まで撮影されてしまったのは八幡にとって痛恨だった。

 

 そして落ち着く間もなく三人目。色打掛を身にまとった相模が「なんでうちがこんな目に」と呟きつつも、意外にも晴れやかな表情で歩いてくる。こんなイベントに強制参加させられて災難だったなと思いながらも、これで相模の気持ちが切り替わるのなら結果オーライだなと考える八幡は、前の二人を相手にした時とは打って変わって平然とした顔で写真に収まっていた。それをすぐ横で眺める相模が内心でどう思っていたかは、八幡には一切伝わっていない。

 

 再び男性用の控え室に連れて行かれた八幡は、そこでタキシードに着替えた。平塚先生のことだから、婚期を逃す云々よりも着られる機会に着ておくことを優先したのだろうと。そんなふうに軽く考えていた八幡だったが。

 

 淑やかにゆっくりと歩み寄ってくるウエディングドレスを着た美女を見て、周囲から音が消えた気がした。そんな静謐の中で、平塚先生だけが動いている。そして八幡の眼前で足を止めて、無邪気な微笑みを見せてくる。誰かの呟きをそのまま反芻して、思わず「綺麗だ」と口に出してしまって。なのに八幡は、自分が言ったことに気付いていない。

 

 ぼそぼそと何やら呟くだけでまともに返事を口にできない教師だったが、周囲のスタッフが上手に事を運んで、そのまま撮影会が行われた。

 

 

 のちに全ての写真を吟味した比企谷小町は、最後の写真が一番良かったと。そう結論を下したのだった。

 

 

 

原作6.5巻に続く。

 




次回から原作6.5巻に入ります。
来週末の更新を予定していますが、連休前ゆえに週明けになるかもです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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原作6.5巻
01.ざして待つよりも彼女は自ら責任を負うべく動く。


今回から原作6.5巻に入ります。
引き続き、よろしくお願いします。



 九月最後の金曜日、生徒会室には重苦しい空気が立ち込めていた。土日を過ぎると月曜日はもう十月。体育祭は目前に迫っているというのに。

 

「今日の放課後まで募集を延期しましたけど……誰も来なかったですね」

 

「推薦だとほとんど強制になっちゃうし、だから立候補を募ったんだけどねー」

 

 誰かのつぶやきに、城廻めぐりがそう応えた。ここに集まっている生徒会の面々にとっては周知の事実だが、敢えてそれを言葉にして、方針に変更はないと暗に伝える。少なくとも、今日が終わるまでは。

 

 だが、そんな生徒会長の意思を尊重して口にこそ出さないものの、役員たちはいずれも何か物言いたげな表情を浮かべていた。

 

 いくら城廻が代替案を模索したところで、「大勢の生徒から推薦を受けるであろう候補者」が実在する以上は難しい。沈黙が支配する部屋の中で、おずおずとした声が上がった。

 

「でもやっぱり、運営委員長は雪ノ下先輩にお願いするしか……」

 

 全員の頭にあった案に言及したのは、一年の藤沢沙和子だった。先程この教室に呼び出された藤沢は、生徒会の役員ではないにもかかわらず、委員長への就任要請を断った後もそのままここに残っていた。

 

「うーん、それしか無いのかなー。生徒会から委員長を出す余裕は無いし。二年だと葉山くんや三浦さんが知名度では群を抜いてるけど……」

 

「葉山を委員長にしたら、運動部の取りまとめをする奴が居なくなりますね。三浦さんは、委員長って役柄に収まるような性格とは思えないですし」

 

 既に何度も検討したことを、城廻がぼそっと口にする。話を引き継いだ役員がすらすらと説明を加えるが、そこに新たな知見は何もない。つい先刻も藤沢に語って聞かせた通りの内容だ。

 

「だからといって、雪ノ下さんや奉仕部にばかり頼むのもねー。文化祭でも頑張ってくれたし、もうすぐ会長選挙もあるし。今回ぐらいは休ませてあげたいなーって」

 

「その、友達も大人しい子ばかりだし顔見知りの先輩も少ないので、委員長を務めるのはちょっと……」

 

 引っ込み思案ではあるものの、藤沢はこれで意外と責任感が強い。だが「もっと社交的な性格だったら引き受けられるのに」と落ち込ませては、その責任感も宝の持ち腐れとなる。まだ一年なのだし、できないことはできないと申告してくれたほうが、下手に抱え込まれるよりも遙かに良いのだが。

 

 先ほど就任要請を断った時も、藤沢は恐縮がっていた。呼び出しに応えてここまで来てくれて、話が終わった後も居残ってくれて。それだけでも、気持ち的には助かってるんだけどな。そう考える城廻は、八方塞がりの状況でも前向きな表情を崩さない。

 

「無理を言ったのはこっちだし、生徒会のみんなと一緒に考えてくれるだけでも、すっごく助かってるよー。だから、ここに居る全員で頑張ろう。おー!」

 

 それに、こうして藤沢を生徒会に引き込めている時点で、城廻からすれば望外の状況だ。もちろん当人の意向は尊重するが、もし彼女が次期執行部に加わってくれれば懸案が一つ解決する。生徒会に興味のある一年生を、現執行部は未だ見付けられていないのだから。

 

 最優先事項は会長人事だが、役員人事もそろそろ固めておくべき時期に入っている。体育祭は選挙前にある最後の大きなイベントで(二年生は修学旅行も控えているが)、ここで新たな人材が登場しない場合は、会長も役員も既存の候補から選ぶ形になるだろう。

 

 そもそも、文化祭の実行委員会で藤沢を発見できたのが既に奇跡のようなものだ。イベントに過度な期待は禁物と考える城廻は、せっかく得られた人材を早々に使い潰すような愚を犯すつもりは無かった。

 

 だが、この現状を鑑みるに、どこかで誰かに無理をしてもらう以外の方法は無い。最終下校時刻はもう間近。そろそろ腹を括るべきだろう。

 

 生徒会役員の士気を高めるために、自らの声に合わせて率先して拳を突き上げながら。週明けに奉仕部の部室を訪れている我が身を想像して、城廻は誰にも悟られないようにそっと決意を固める。彼女と直接交渉して、体育祭の結果はそのまま受け入れる。万が一、会長選挙に影響する事態になっても、その責任は全て自分が引き受けようと。

 

 

***

 

 

 週明けの月曜日は秋晴れの陽気で、衣替えをした生徒たちがほうぼうで文句を言っていた。お昼とはいえこの暑さでは、彼らの気持ちも解るというものだ。そう考えて苦笑しながら、城廻は特別棟へと足を踏み入れる。

 

 訪問先の主である雪ノ下雪乃には、既に金曜日の夜に約束を取り付けている。彼女のことだから、最優先の用件などはバレバレだろう。とはいえ、こちらの意図をどこまで読まれているのか。それによっては話が違ってくるなと城廻は思う。

 

 少なくとも、彼女が会長選までを視野に入れて身の振り方を考えているのは間違いない。多くの生徒が雪ノ下を本命視していること、城廻の意中の人も同じであることは、特に隠す必要は無いだろう。だが強制はできる限り避けたい。その辺りの意図をどこまで明かしてどこまで相談を持ち掛けるべきか。

 

 第一の目的は、未だ空位になっている体育祭運営委員長のポストを埋めること。第二の目的は、生徒会長選挙を見据えて共通理解を深めておくこと。重要度で言えば後者が勝るが、緊急度は前者が上だ。

 

 歩きながら情報を整理した城廻は、目的の教室の前で少し深呼吸をして。急がずしっかりとノックの音を響かせた。

 

 

「こんにちは、城廻先輩」

 

 すぐにいらえがあったのでドアを開けると、教室の中は紅茶の香りで満ちていた。てっきり一対一だと思っていたが、雪ノ下の挨拶に合わせるようにして頭を下げる二人の部員が目に入る。驚きが顔に出たのか、二人は常になく神妙な態度で座っていた。思わず苦笑が漏れそうになる。

 

「雪ノ下さん、こんにちは。由比ヶ浜さんと比企谷くんも、お昼休みにわざわざありがとねー」

 

 ほんわかとした口調でそう言って、城廻はいつもの席へと歩いて行く。

 

 一学期の途中から雪ノ下とは、お昼休みに時々お茶をご馳走になる仲だ。生徒会長が特定の部室に入り浸るのはどうなのかとも思うのだが、雪ノ下と気兼ねなく話をするのも紅茶を堪能するのも、城廻にとっては他に代えがたい時間になっていた。

 

 普通の依頼人であれば長机の中央辺りに椅子が置かれるのだが、城廻はここに来るたびに、それを雪ノ下に近い位置まで移動させていたものだった。そのうち、城廻が来る時には最初から席が近くに用意されるようになり。今日も由比ヶ浜結衣と向かい合わせになる辺りに座る場所が設けられていた。そこに腰を落ち着ける。

 

「これ、ゆきのんの淹れたてです」

 

 そう言いながら、机の向こうから上半身を伸ばして紅茶のカップを置いてくれた。机に押し潰されている柔らかそうな何かを気持ち羨みながら、由比ヶ浜がもう片方の手に持った紙コップを比企谷八幡に手渡して自席に戻るのを目で追っていると。その間に雪ノ下が運んできたカップが湯気をたてて、由比ヶ浜を出迎えていた。

 

「あ、比企谷くんのカップを取っちゃったのかな?」

 

「いえ。もともと来客用の紅茶セットですし、カップの数には限りがあるのでお気になさらず」

 

「ここでは紙資源の節約とかも考えなくて良いですしね。つーか、別に良いんだけどな。なんで質問された俺より先にお前が返事しちゃうのよ?」

 

 相も変わらず独特のやり取りを見せてくれる。そんな仲の良い二人を交互に眺めながらにこにこしていると、同じような表情を浮かべている由比ヶ浜と目が合った。思わず二人して吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。

 

「おい。会長に笑われたのはお前のせいだからな。大人しく依頼を引き受けとけよ」

 

「比企谷くんが余計なことを言わなければ、笑われることも無かったと思うのだけれど?」

 

「もう。二人とも、話が進まないじゃん。笑われたっていっても悪い感じじゃないんだしさ」

 

「……などと、俺たちを笑った片割れは供述しており。反省の色が薄いと判断した奉仕部部長は、このたびの依頼と関連した大量の仕事を押し付けるべく……」

 

「比企谷くん、それぐらいにしておきなさい。城廻先輩、おおよそ予想は付いているのですが、用件をお伺いしても?」

 

 

 そう言われた城廻は、笑いをこらえながら姿勢を正した。おそらく昼食を摂る間に、こちらの意向を推測して話し合いを済ませてあるのだろう。断られることは無さそうだが、ならば次の目標は「会長選挙に悪い影響が出ないように」だ。手早くそこまで思考を進めて、城廻は口を開いた。

 

「こっちでもギリギリまで粘ってみたんだけどねー。十日の体育祭なんだけど、運営委員長がまだ決まってなくて。だから雪ノ下さんに……」

 

「立候補者はゼロとして、私以外の候補者を教えて頂けますか?」

 

「えーっと、葉山くんでしょ。それから……」

 

 発言を遮られても気を悪くした素振りも無く、城廻は指折り数えながら幾人かの生徒を列挙した。特に意外な名前は無かったのか、時おり頷くだけで雪ノ下の表情は変わらない。そして、城廻が口を閉じてから少しだけ間を置いて話し始めた。

 

「一人だけ、候補者に抜けがありますね。彼女が適任だと言いたいわけでは無いのですが……大きなイベントの責任者を務めた経験があり、スキルアップの意欲を持ち、日常に変化を求めている。条件としては悪くないのでは?」

 

「なあ。スキルアップの意欲は今となっては眉唾だし、変化を求めるのも逃避的な意味合いだろ。相模に委員長が務まるとは思えないし、余計に面倒な展開になるんじゃね?」

 

「そっかー、相模さんか……。うーんとね、やっぱり厳しいと思うよ。悪い印象はずいぶん払拭されたけどね。それでも相模さんの下で仕事がしたいかって言われたら、打ち上げで盛り上がってた文実の子でも、二の足を踏むんじゃないかなー?」

 

 ぽかんとしながら雪ノ下の話を聞いていた城廻だが、八幡が相模南の名前を出すと一転して厳しい表情に変わった。親しみを感じさせる口調はそのままに、しかし生徒会長として譲れない部分は譲れないという姿勢を見せる。その理由も妥当なものだ。そう受け取った八幡は、城廻に続けて口を開く。

 

「そういえば、全体の打ち上げで盛り上がってただけで、文実の打ち上げって結局やってないですしね。まあ俺的にはやらないほうが良いんですけど」

 

「それ、さがみんも気にはしてたけどね。クラスのこととか同じグループのことで精一杯みたいでさ。多分このまま流れるんじゃないかな」

 

 話に置いて行かれている様子の城廻に、由比ヶ浜が続けて事情を説明した。

 

 

 文実でのあれやこれやの影響で、相模のグループは今もなお、ぎくしゃくしたままだった。他の生徒たちからすれば、取り巻き連中に見捨てられかけた相模への同情が強い。だからクラスはもちろん校内においても、他人の目がある場所では相模たちはそこそこ仲の良い様子を見せていた。

 

 けれどもグループだけになると、力関係が逆転する。相模一人に対して取り巻きは四人。完全に無視されているわけでは無いらしいが、針のむしろなのも確からしい。

 

 そうしたグループ内部の格差に加えて、彼女らは等しく、一定数の生徒たちから冷ややかな目を向けられている。

 

 原因は文化祭の一日目に、困惑する相模をよそに取り巻きが八幡の悪評を流したこと。それには早とちりという言い訳がなされたが、嘘を見抜いた者や文化祭を締め括るバンド演奏を観たことで八幡に肩入れする気持ちが強くなった者からすれば、相模グループの全員に白い目を向けるのも当然と言えば当然だろう。

 

「まあ、俺が言うのもあれだけどな。外の状況がこんな感じだから内部の問題も余計に長引いてるし、変化を求める気持ちも分からなくはないが……ってあれ。相模が変化を求めてるって、本人が言ってたのか?」

 

「きちんと尋ねたわけでは無いのだけれど。この状況を一手で何とかして欲しい、とは思っているのでしょうね」

 

「まあ、相模らしいっちゃらしいよな。追い込まれるほどに他力を求めるって、戦乱の世に産まれなくて良かったな、あいつ」

 

「さがみん、この間の気晴らしで少しは持ち直したと思ったんだけどさ。やっぱり自分で動くのは難しいみたいでね。でも、あたしには何にもできないしさ……」

 

 そう言って落ち込む由比ヶ浜に、雪ノ下が敢えて強い口調で語りかける。

 

「由比ヶ浜さん。いくら親しい仲でも、一から十まで面倒を見るのは現実的では無いと思うのだけれど。それよりも、私たちに可能な手段を考えるべきね」

 

「話を聞いた限りだと、けっこう厳しい状況に思えるんだけど。雪ノ下さんには、何かいい方法でもあるの?」

 

 

 すっかり本来の目的も忘れて、城廻がほわっとした口調で問い掛けた。それに対して雪ノ下は、ここ数ヶ月で八幡がすっかり見慣れた笑顔を浮かべる。あれは何か良からぬことを企んでいる表情だぞ、と思って身構えるも、もとより回避は不可能だった。

 

「体育祭の運営委員会ですが、現場班は各運動部から人を出して貰って、首脳陣は生徒会を中心とした有志による構成ですよね。では、そこに相模さんのグループ全員を招集することを提案します」

 

「なあ。それって有志って言って良いのかね。志の有無に関係なく強制的に集める形じゃね?」

 

 八幡が真っ当な反論を述べてはみたものの。いくら正論であっても現実との結びつきが希薄な論よりは、人権やら個人の意思などを一部無視した提案でも目に見えた効果が期待できる論のほうが、多くの人にとっては受け入れやすかったりする。

 

「それでも、相模さんたちがきちんと仕事を果たすことで得られるものがあると思うのだけれど。貼られたレッテルを覆すには印象に訴えるのが一番だと、貴方も身に滲みて理解したのではなかったかしら?」

 

「まあ、あれだな。お前が脅して由比ヶ浜が宥めてだと、まさに飴と鞭だよな。相模たちが大人しく参加してる光景が目に浮かぶっつーか、俺の頭の中でドナドナが流れてるんだが。それよりお前、大前提を忘れてないか?」

 

 話について行けていない由比ヶ浜と城廻を順に眺めて、八幡がそう口にした。相模の話をしているのかと思いきや、いつの間にか体育祭の話に戻っているので目を白黒させている由比ヶ浜。そして運営委員長が決まっていないのに委員会の具体的な話を始められて、首を傾げながらも目を輝かせるという奇妙な表情になっている城廻。

 

 そんな二人を雪ノ下もまた順に眺めて、そして今にも弾けそうな笑顔で口を開いた。

 

「そうね。城廻先輩、体育祭の運営委員長に立候補します。私の他には適任が居ない状況ですし、もう日程の余裕も無いので、今回はこの形で進めましょう。ただ、先のことに関しては、まだ未定とさせて下さい」

 

 そう言われて、雪ノ下にも負けないほどの満面の笑みを浮かべた城廻が、勢いよく両手を突き上げた。そのまま対面の由比ヶ浜とハイタッチを行っている。

 

 何もかもを忘れて勢いのままに動いていそうな二人を眺めながら、「また仕事に追われる日々が始まるのか」と辛い現実を見据えようとする八幡だが、抑制が上手くいかず頬の辺りがぴくぴくしているのが自分でも分かる。とはいえ、にやけ顔をこの面々に見られるわけにはいかない。

 

 そうやって八幡が必死に平静を装っていることなど、同じ部活の二人にはまるっとお見通しなのだが、野暮なことは口にしない。目だけで会話をしているのを気付かれて、城廻にも伝わるように八幡の横顔を注視すると、どうやら意図を理解して貰えたようだ。

 

 何故だか顔の辺りに三人の視線が突き刺さるので、遠方を注視したまま動きが取れなくなった八幡が、苦し紛れに口を開いた。

 

「先のことって、もしかして会長選挙か?」

 

「……そうね。私にも色々と思惑があるのよ。あなたたちなら、すぐにわかるわ」

 

 顔を動かさないまま質問を口にした八幡に、思わず吹き出しそうになりながら。雪ノ下はいつか八幡に告げた言葉を繰り返した。それに頷きながら八幡が話を進める。

 

「まあ、それは先のお楽しみとして。十日足らずで体育祭の準備をして、平行して相模たちに結果を残させるのが今回の目的だよな。首脳陣は有志で構成するってさっき言ってたけど、俺らだけだと厳しくね?」

 

 そんな八幡の疑問を受けて、城廻の表情がほんの少しだけ陰る。多少の無理は仕方がないとはいえ、度を超えた無理はさせられない。文化祭では雪ノ下と由比ヶ浜を一日休ませる形になってしまった。そのことに密かに責任を感じている城廻は、難しい顔になって雪ノ下を見つめる。

 

「ええ。だから今回は、使える人員を総動員しようと思うのだけれど?」

 

 雪ノ下には無理を避けさせて、会長選挙への悪影響も避けながら、体育祭を形にする。そんな小難しいことを考えていた城廻は、その発言を聞いて唖然としてしまった。だが八幡も由比ヶ浜も苦笑を浮かべてはいるものの、予想の範囲内という顔付きだ。

 

「要はあれだな、雪ノ下の考えた最強の運営委員会か。まあ、お手柔らかに頼むわ」

 

「優美子と姫菜にはもちろん参加して貰うとして、後は誰を呼ぼっか?」

 

 総動員体制を示唆してはいるものの、文化祭実行委員会での日々を振り返る限り、集まった面々よりも少ない仕事で満足する雪ノ下ではないだろう。そこに少しだけ不安を感じながらも、運営委員会を雪ノ下が率いると決まってわくわくしている自分もいる。

 

 迷った時には前向きに。自分の性格に合った座右の銘を心の中で呟いて、城廻は奉仕部の三人を順に眺めた。私のほうが先輩なのに。苦労を掛ける形になるのに。この三人を見ていると、どんなことでも上手くいくような気がしてくるのが不思議だ。

 

「あ、そうだ!」

 

 思わず手を叩きながら、そう口走ってしまった。ここに来た当初は、委員長を引き受けて貰えればそれで充分だと思っていたのに。いざ実現してみると、別の希望が次から次へと浮かんでくる。そんな自分に苦笑しながら、城廻は首を傾げている三人に向かって、思い付きを説明するために口を開く。

 

「あのね。体育祭ってクラス半々で分かれるでしょ。みんなは何組かなって。ちなみに私は赤組なんだけど……」

 

「俺は赤ですね」

 

「あたしも赤!」

 

「では、ここに居る全員が赤組ね」

 

 三人の答えを聞いて、城廻は再び両手を突き上げた。今度は由比ヶ浜だけでは済まず、雪ノ下とも八幡ともハイタッチを交わしている。そして。

 

「じゃあ、みんなで優勝目指して頑張ろう。おー!」

 

 元気な声とぼそぼそした声と躊躇いがちの声がそれに重なって、まるで発足したての運営委員会の今後の歩みを暗示するかのように、奉仕部の部室から周囲へと瞬く間に広がって行った。

 




6.5巻は5話+幕間で終わる予定です。

本章から読み始めた方々向けに念のため申し上げておきますと、相互確証破壊は前章で既出です。
で、一人で悩んでいても解決しないので、読者の方々に一つ質問があるのですが。

「相互確証破壊」が原作で出て来たのを覚えていなかった、という方はどの程度おられるのでしょうか?

まず明言しておきたいのは、それを責める意図はありません。
仮に原作未読でも本作を楽しんで頂けているのなら、それは書き手にとっては嬉しい事です。

ただ、私が「知っていて当然」という前提で書いている事が、実はそうではなかった場合。
読み手からすれば唐突に話が出て来たように見えるでしょうし、概ね説明不足だろうと思います。

何度か読者さんと話が合わないなと思う時があって、先日ふと「その原因はこれなのかも?」と思い至りました。
特に6.5巻の成り立ちを考えると、アニメのみの読者さんなら知らなくても仕方がないですし。

原作の描写のうち、どの辺りまでを自明と扱えば良いのだろう、というのが最近の悩み事で、一番適切な質問がこの「相互確証破壊」ではないかと思ったので、こうして書いてみました。

できましたら、こっそりで構いませんのでお教え頂けると助かります。


次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
「いらえ→応え」という誤字報告を頂きましたが、「こたえ」と読まれたくないこと・ルビをできる限り使いたくないこと・「いらえ」という言葉を知らずとも文脈で通じると思うことから、これは不採用とさせて下さい。ご報告を頂いて、ありがとうございました!(9/4)


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02.いいようのない不安を抱きつつも彼女は将来を見据える。

いつの間にか連載二周年を迎えていました。
本作に興味を持って頂いて、ここまで読み続けて下さって、本当にありがとうございます。
完結を目指して引き続き頑張りますので、よろしくお願いします。


以下、前回までのあらすじ。

 体育祭運営委員長が決まらないまま十月を迎え、仕方がないと腹を括った城廻は奉仕部を訪れた。生徒会長選挙のことも考慮しつつ話を向けると、奉仕部の三人からは相模の現状を教えられた。

 十日の体育祭を無事に開催するために、更には相模グループの状況を改善させるために。雪ノ下は委員長に立候補すると同時に「使える人員を総動員する」方針を表明した。

 そして城廻と奉仕部三人が全員赤組だと判明して。四人が目指すべき目標に「体育祭の優勝」という要素が加わった。



 午後の授業をいつも以上に真面目に受けて、比企谷八幡は放課後を迎えた。気を抜くと、お昼休みに部室で話したことをあれこれ考えてしまいそうになる。そんな急いた気持ちを抑えるために、八幡は教師の話に意識を集中して過ごしたのだった。

 

 文化祭以来の習慣で、八幡は即座に教室を抜け出すと廊下を早足で歩く。クラスから充分に距離を置いて、ようやく「ふう」と息を吐いて足を緩めた。

 

 八幡には不本意なことなのだが、同級生の間では既に「捻デレ」という言葉が浸透しているので、無理に話しかけてくるような生徒は居なくなって久しい。だから別に逃げる必要は無いのだが、大勢から生暖かい目で見守られるのはどうにも性に合わない。

 

 この行動が過剰反応で、未来の自分にとっては黒歴史になるのだろうと分かってはいても。教室にて大人しく、多くの視線に晒される身に甘んじるつもりは無かった。

 

 そもそも、と八幡は思う。俺なんかがバンドで目立ってしまったのが間違いだったのだ。とはいえ、同じ部活のあの二人と一緒にバンドをしたことは否定したくない。あの時間はごく控え目に言っても最高だったと断言できる。では、俺はどうすれば良かったのだろう。無人の観客の前で演奏すれば良かったのだろうか。

 

 そんなどうしようもない思考に陥りそうになって、八幡は軽く首を振った。それに「俺なんか」と考えるのは止めて欲しいと、性別不詳の友人に言われている。ぼっちには身に余る境遇だと考えながら、のろのろと意識を戻して、会議室に足を向けようとしたところ。

 

 

「はちまーん」

 

 背後から呼びかけられて、ぐるんと音がしそうな勢いで振り向くと。両手を胸の前で握りしめて横に振りながら、こちらに向かって駆けてくる可愛らしい何かの姿が目に入った。周囲に多くの生徒が存在していることも忘れて、八幡は走り来る戸塚彩加を抱き留めるべく、両手を大きく広げようとした。

 

「もう。さっきから呼んでたのに、八幡がどんどん先に行っちゃうから……」

 

 しかし、半端な距離を残して戸塚は立ち止まり、膝に手を当てて肩で息をしている。動きかけた両手を鎮めて、八幡はゆっくりと戸塚に近付いて行った。顔は床に向けているものの、こちらの気配が伝わったのか。戸塚はそのままの姿勢でこう言った。思わず頭を掻きながら答える。

 

「逃げるのに必死だったからか、ぜんぜん聞こえてなかったな……。んで、どうする。今から遊びに行くか?」

 

 この程度のことでいちいち謝る必要は無いと言われているので、八幡はそのまま勢い込んで戸塚を遊びに誘う。なのに何故か、戸塚に苦笑されてしまった。

 

「八幡、会議室に行く途中だったでしょ。すっぽかしたら雪ノ下さんと由比ヶ浜さんが怖いんじゃない?」

 

「げ、そうだった。わざわざ追い掛けてくれたのに悪いな……って、あれ。じゃあ戸塚はなんで?」

 

 少しだけ真顔に戻って、戸塚がその質問に答える。

 

「さっきの授業とか凄く集中してたけど、八幡ちょっと疲れてない?」

 

「あー。いや、大丈夫だ。昼休みに部室に呼ばれただろ。今度の体育祭も手伝うことになってな。今のうちに授業をちゃんと聞いておこう、みたいな感じかね」

 

 たちまち戸塚の表情が崩れて、何やら笑いを堪えている。変なことは言っていないはずだがと考える八幡の耳に、温かい声が聞こえて来た。

 

「奉仕部の活動が楽しみだけど、ちゃんと授業も聞かないとって思って真面目に頑張ったんだよね。そういうの、八幡の良いところだなって」

 

「な、なあ。俺を褒めても何も出ねーぞ?」

 

 慌ててリア充連中が使っていたような言い回しで返したものの、どうやら冗談ではなく本気で言っていると思われたらしい。目は相変わらず笑っているものの少し頬を膨らませている。慣れないことはするもんじゃないなと考えていると。人差し指を立てながら戸塚が口を開いた。

 

「ぼくが八幡をおだてるようなこと、言うわけ無いでしょ。でも……無理しないでね」

 

「彩加……あ、いや。あれだ。ありがとな。んで、なんか用があったんじゃねーの?」

 

 またもや二人だけで居る錯覚に陥って、何か小っ恥ずかしいことを口にしかけた八幡だったが、どうにか正気を取り戻した。気のせいか頬が少し色付いているなと考えながらじっと反応を窺っていると、つやつやした唇が滑らかに動く。

 

「むー。八幡って、いつもいきなりなんだから……。あのね、ぼくも会議室に呼ばれてて。ちょこっと部活に顔を出して来るけど、また後でねって。それだけ、だったんだけど……」

 

 上目遣いでそう言われると、大袈裟に頷きを返すしかできない。何度か首の上下運動を繰り返してから、八幡は動きを止めて気を入れ直して、端的に答えた。

 

「おう。じゃあ、また後でな」

 

 ともに軽くなった気持ちを抱えながら、再会を約した二人はそれぞれの目的地へと向かった。

 

 

***

 

 

 文化祭が終わって、早くも二週間と少し。それに準備期間も二週間程度に過ぎなかったのに。半年に亘って通い慣れたクラスや部室ほどでは無いけれども、会議室に入った八幡は不思議な懐かしさを感じていた。

 

 教室の上座には移動式のホワイトボードが準備されていて、その手前の机では白衣の教師が突っ伏していた。どうやらお疲れらしいので、動き出すまでは触れないでおこうと八幡は思う。

 

 入り口で立ち止まったまま周囲を窺うと、ロの字型に並べられた机のうち向かって右手側には生徒会役員の姿が見えた。ならば自分たちはこっちだなと、八幡は向かって左手側の下座に(教師からできる限り離れた場所に)腰を落ち着けた。

 

 生徒会役員からの視線には、適当に手を挙げて応えておいて。そのままぼーっと過ごしていると、程なく顔見知りの連中が入って来るのが見えた。

 

 

 先頭を歩くのは、運営委員長を務める雪ノ下雪乃。それに並んで由比ヶ浜結衣。更には三浦優美子と海老名姫菜が続いている。

 

 三浦の性格を思うと、雪ノ下と張り合って先頭争いをしそうなものだが、不思議とそうした気配は無い。かといって二番手に甘んじているという様子でもなく、雪ノ下と由比ヶ浜が前を歩いても苦しゅうないとでも言いたげな度量の広さを感じさせた。

 

 そんな四人の姿を眺めながら、八幡は思考を進める。

 

 祭り上げられるのは好きではないと言っていた雪ノ下は、トップカーストと呼ぶには微妙な立ち位置だ。何故ならば、当の本人が多段階のカースト制度には否定的で、派閥を作ろうともしないのだから。

 

 だが実態としては全校のトップに君臨していると言っても過言では無く、そもそも自分が人の上に立つことを求める性格だ。それが可能な能力と責任感も併せ持っている。だというのにトップカーストとしての恩恵を受ける気は無いらしく、どこまで行っても個人での振る舞いを貫いている。

 

 だからより正確には、別格という表現が相応しいのだろう。

 

 それに対して、三浦・海老名・由比ヶ浜は文字通りトップカーストだと言えそうだ。

 

 女王としての三浦は多くの信奉者を抱えていて、頻度は少ないけれども適切な裁定によって集団をまとめている。些事には拘らない性格ゆえに、物事の筋目を通してさえいれば義務もノルマも何も無い。この高校で平穏に日々を過ごしたいのであれば、三浦のシンパになっておけば間違いないと言われる所以だ。

 

 海老名は腐女子からの熱烈な支持に加えて、オタク趣味の男子からも密かに人気が高い。当人には集団を率いるような面倒なことをする気はさらさら無いのだが、欲望の赴くままに創作を続けているだけで勝手に信者が増えて行くのだから楽なものだ。海老名はただ作品を定期的に発表すればそれで良い。支持者の団結は固く布教にも熱心だ。表には見えにくいものの、恐るべき一団と言って良いだろう。

 

 由比ヶ浜は広く男女から支持を集めている。特に、過去に揉めごとに巻き込まれた生徒たちや、どちらかと言えば弱い立場の生徒たちから頼りにされている。苦しい状況に陥っても寄り添ってくれるとなると、恋愛感情を抱く男子も出そうなものなのに、それを表に出させず不満も言わせず場の雰囲気を維持する才覚が由比ヶ浜にはあった。それは今や、三学年上のとある女子生徒と比較されるほどの域に至っている。

 

 こうした状況を考えれば、三人が互いに不干渉となっても不思議ではないのに。それぞれの支持者に囲まれて過ごすようなことはせず、トップカースト三人娘として仲睦まじく過ごしているお陰で、校内の安寧は保たれている。それぞれの支持者同士で対立することもなく、二番手以下のカーストやその眷属と諍いを起こすこともない。

 

 その見返りとして、彼女らはトップカーストとして有形無形の恩恵を受けている。もちろんそれらは大それたものではなく、移動教室の際に真っ先に座る場所を選べる程度のものでしかない。それに、遠慮し合ったり牽制し合ったりで席が決まるまでに時間が掛かるよりは、定められたカースト順に座っていくほうがスムーズに事が進む。

 

 カースト制度があるから平和なのか、それとも平和だからカースト制度が認められているのか。ここまで来るとどちらが原因でどちらが結果か混乱してくるが、要はトップカースト三人娘と番外席次のお陰で。彼女ら四人の関係が良好なので、校内静謐ということだ。

 

 だけど、もし。仮に彼女らが争ったらどうなるのだろうか。

 

 もちろん紛争を期待しているわけではない。でも体育祭の競技の中で、ルールに従った形でなら、見てみたい気がする。できれば集団同士で、同時に個人の闘いをも見られる形なら最高だ。

 

 

 そんなことを考えていた八幡は、最後に生徒会長に伴われて教室に入ってきた奇妙な装いの旧知の男がそれを現実のものにしてくれるとは、夢にも思っていなかった。

 

 

***

 

 

 関係者が一堂に会して、今季初の体育祭運営委員会が始まった。まずはホワイトボードを背に長机の中央に位置を定めた雪ノ下が口を開く。雪ノ下から見て左手には生徒会長の城廻めぐりと、目を覚ました平塚静が。右手には由比ヶ浜と、末席から引っ張って来られた八幡が座っている。

 

「では、初回の会議を始めます。のちのち何人かが加わる手筈になっていますが、まずは少数精鋭で話し合いたいと思いこのメンバーを招集しました。よろしくお願いします」

 

 上座に並ぶ五人に向かって右手には、先程と同じく生徒会の面々が。左手には三浦・海老名と、その二人から大きく離れて材木座義輝が座っていた。一同を順に見渡して、雪ノ下はそのまま言葉を続ける。

 

「まず前年度との違いですが、会場設営や競技に必要な制作物の作成は、この世界では省略できます。ただし労働力が要らないというだけで、むしろデザインの重要性が増しているとも言えそうです。単純労働よりも頭脳労働が求められていると考えて下さい」

 

 すぐ右の席から聞こえた「うげっ」という声の主に「貴女なら大丈夫」という気持ちを込めて優しく微笑んで、更に話を続けた。その他の面々は今のところ頷く程度で、発言を差し挟む気配は無い。

 

「そのため、伝統的に各運動部から人を出して貰って構成する現場班には、事前の仕事を割り振らなくても済みそうです。当日の競技の際に人員整理をお願いする程度ですね。彼らを統率する責任者を、首脳陣から一人選ぼうと考えています」

 

「それって、ここには運動部が誰も居ないと思うんだが、六月に運動部と文化部で対立してただろ。それが蒸し返される可能性は考えなくても良いのか?」

 

 見知った顔ぶればかりなので、気楽な口調で八幡が疑問を述べた。適切なタイミングで合いの手を得られたからか、満足げに頷きながら雪ノ下が答える。

 

「貴方の心配はもっともだし、だから責任者には運動部の生徒を充てようと思うのだけれど。その話は当人が来てからね」

 

 多分あいつだろうなぁと思いながら、八幡はひとまず矛を収めた。そのまま雪ノ下の話が続く。

 

 

「では、先に目玉競技の話をします。例年、男子と女子で一つずつ目玉競技が行われて来ました。城廻先輩、去年はこれですよね?」

 

「うん、コスプレースだよー。男女一緒にしてみたんだけど、直前の衣装お披露目の時にPTAから苦情が来ちゃって。結局大人しいのになっちゃったから、みんなの記憶に残ってないみたいなんだよねー」

 

「保護者への配慮やら何やらで、目玉と謳う割には毎年地味な結果に終わっているのだよ。私としては、そろそろ面白い競技を見てみたいのだが?」

 

 城廻に続けて平塚がそう補足した。

 

 どんな際どいコスプレを予定していたのだろうと探求心が湧いた八幡だったが、なぜか身の危険を感じてそれ以上を考えるのを止めた。視界の隅では材木座が「ぐふっ」と奇妙な笑い声を漏らしているが、触れないでおこうと結論付ける。

 

「では海老名さん。それから材木座くんに、目玉競技を考えて欲しいのですが。……海老名さんの趣味嗜好はさておき、文化祭の劇は質が高かったと報告を受けています。材木座くんの文章力はさておき、作品の設定を考えるスピードは評価できると。それに明確なパクリでさえ無ければ設定だけなら意外と面白いのにと比企谷くんから聞いています。いかがでしょうか?」

 

 唐突に名前を呼ばれて驚きはしたものの、即座に海老名はにやりと笑みを浮かべた。雪ノ下に頼られるのも嬉しいことだが、盛り上がる競技を考えるという役柄は望むところだ。そう考える海老名は、趣味嗜好に釘を刺されたことをすっかり聞き逃している。

 

 そして材木座は、雪ノ下に酷評されるのが常だっただけに少し褒められただけで有頂天になっていた。くいっと眼鏡をずり上げて、「きらーん」と呟きながらやる気を見せていた。

 

 そんな二人の様子を見て「早まったかしら」と思いながらも「いざとなれば却下すれば良いわね」と考え直して、雪ノ下が補足を加えた。

 

「ただ、アイデアを制限するようで申し訳ないのですが、特別な衣装などを用意する場合は作業が必要になります。つまり現場班にも事前に働いて貰う形になります。この世界では予算の問題はあまり考えなくても良いのですが、できるだけ手間が掛からない案を出して貰えると助かります」

 

 二人が頷くのを確認して、雪ノ下は次の議題に移る。

 

 

「当日の仕事には、他に救護や放送があります。私案ですが、救護は私と城廻先輩を。放送は女子が由比ヶ浜さんと三浦さん、男子は比企谷くんと葉山くんを考えています」

 

 そう言われて身の危険を感じた八幡が海老名を見ると、どうやら目玉競技を考えることに脳の大部分のリソースを費やしているのか、赤いものを噴き出しそうな気配は無かった。現在の安心と未来の不安は隣り合わせなのだなと、哲学的な思考に嵌まりそうになるのをぐっと堪えて口を開く。

 

「葉山に現場班の統率を任せると思ってたんだが、違うんだな。まあそれは後に回すとして、俺に人前で喋らせるのはどうなんだ?」

 

 確かにその点は不思議だと、他の面々も納得のいかない表情で雪ノ下を見つめている。

 

「そうね……。責任者という意味で名前を挙げたのだけれど、男子の放送は戸部くんを中心に考えているのよ。葉山くんも貴方も、率先して話すというタイプではないし、とはいえ戸部くんの暴走を抑えるためには葉山くんだけでは心許ないと考えたのだけれど。どうかしら?」

 

「戸部の喋りに突っ込みを入れるだけなら、まあ何とかなる、か。俺としては救護班に入ってテントでゆっくり過ごしたいところなんだが」

 

「ヒッキー。そういうのが無いようにって、ゆきのんが配置を考えたんじゃないかな?」

 

 深く納得した一同だった。

 

 だが、フォローの言葉を口にした由比ヶ浜だけが、何か言い知れない違和感を感じていた。雪ノ下には別の意図があるようにも思えたのだが、どうにも見当が付かない。だからきっと気のせいだろうと由比ヶ浜は思った。

 

 

「ここに居るメンバーで話し合えるのは、この辺りまでだと思うのだけれど。何か気になることがあれば……」

 

 そう口にしながら会議室の中を見回す雪ノ下に、すぐ隣から声がかかった。城廻だ。

 

「えっと、お昼休みに委員長をお願いして、それから体育祭の資料を見たんだよね?」

 

「ええ。時間の余裕が無かったので完全には把握できていませんが、休み時間に何とか最低限は押さえたつもりだったのですが……?」

 

 もしや至らぬ部分があったのかと、雪ノ下が目を見開いている。それに対して城廻は、少し難しそうな表情を浮かべて話し始めた。

 

「資料の理解は、充分過ぎるほどなんだけどねー。んーと、率直に言うよ。雪ノ下さん、無理してない?」

 

「いえ。今のところは大丈夫ですが……?」

 

 そんな二人の会話を聞きながら、八幡は由比ヶ浜と顔を見合わせて、目だけで相談を始めた。城廻がこの話を持ち出してくれて、それでようやく思い至ったことがある。

 

 お昼に委員長を引き受けた時に、雪ノ下は弾けるような笑顔を浮かべていた。二年に進級してからの濃密な付き合いによって、八幡も由比ヶ浜も、雪ノ下の笑顔を数種類ほど見分けることができる。部員をねぎらってくれる控え目な笑顔。諧謔を楽しむ茶目っ気な笑顔。何かを企んでいる怪しげな笑顔。そして、良く言えばやる気に満ちている、悪く言えば暴走のおそれもある過激な笑顔。

 

 委員会が始まったばかりで疲労も溜まっていないのに、どうして心配されているんだろう。おそらく雪ノ下はそんなふうに思っているはずだ。きょとんとした表情からそれを読み取って、八幡と由比ヶ浜は再び視線を合わせて「どうしよっか」と伝え合う。

 

 今のところ倒れる心配などは杞憂だろう。だが、雪ノ下が倒れなければ良いというものではない。八幡と由比ヶ浜は、そしておそらく城廻も、そもそも雪ノ下に無理をして欲しくないのだ。いくら午後の休み時間に軽く資料に目を通すだけで、運営委員長に必要な知識を頭に詰め込めるほどの理解力に恵まれていても。それだけでも、自分たち平の運営委員と比べると、どれほどの仕事量になるだろうか。

 

 そうした二人の懸念に加えて、話を出した城廻はもう一つ、大きな疑問を抱いていた。より正確には、その疑問が心の中で大きくなるのを感じていた。つまり、こういうことだ。

 

 責任者である限り、雪ノ下は誰よりも多くの仕事をしないでは居られないのではないか?

 

 もちろんそれが功を奏すこともあるだろう。だがどんな時にもどんな場合でも人より多くの仕事を求めるようでは、上に立つ者としては危うい。今回のように期間限定の役職であればそれでも良いが、仕事が長期に亘る場合に(例えば生徒会長のような)、雪ノ下をトップに据えることは、正しい形だと言えるのだろうか。それよりも、トップに別の人を据えて、雪ノ下には特権を与えて自由に動いて貰う形のほうが安定するのではないか。ちょうど今の生徒会と奉仕部の関係のように。

 

 城廻は長期的な視点で物を考えることができる。だから目先の結果よりも一年後の成果を重視する。仮に体育祭が最低限の体裁を整えるだけの内容に終わっても、会長人事が落ち着くところに落ち着くならそれで良いと思っていた。同時に、特定の個人に多大な犠牲を強いるようであれば、自分の責任でそれを避けるべきだとも思っている。

 

 おそらく雪ノ下に委員長をお願いした時点で、体育祭が大成功で終わることは確定したのだろう。だがそれは、雪ノ下に無理を強いていると言えるのではないか。あるいは逆に、この程度で心配するようでは、雪ノ下を信頼していないと受け取られるかもしれない。

 

「それなら良いんだけどねー。頼る時は早めにみんなを頼るように、約束だー。おー!」

 

 いずれにせよ、成功に終わるという結果が定まっても、そこから更に内容を高めることはできる。もしも今回、雪ノ下をトップに据えてもそこに負担を集中させることなく、上手く組織が回るような形を見出せれば、おそらくそれがベストだ。本音を言えば城廻も、雪ノ下が生徒会長として全校生徒を導く姿を見たいのだから。

 

 そう考えて迷いをひとまず棚上げして、少し強引な形になったが教室の雰囲気を盛り上げる。きっと、ここに居るみんなが雪ノ下を助けてくれるだろう。そう考えながら。

 

 

 盛り上がりが一段落したその直後、会議室に二人の男子生徒が姿を見せた。




なぜか二周年が10日だと思い込んでいた、変なところで抜けている作者の最新話がこちらです。
更新直前にようやく気付いて、慌てて前書きを書き直しました。。


次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(8/3)


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03.もれなく使える面々を集めて彼女は成功に向けて邁進する。

前回までのあらすじ。

 体育祭の運営委員会でも仕事をすることになった八幡は、その喜びを奉仕部の二人に知られぬよう、授業を真面目に受けることで感情を昇華していた。しかしそれは件の二人はおろか、戸塚にもバレバレだったりするのだが。

 初めての委員会には、雪ノ下と由比ヶ浜に加え三浦・海老名という校内屈指の面々が顔を揃えていた。それぞれの支持者を思い浮かべながら、八幡は「これらの勢力が互いに争ったら」と男子にありがちな思考に陥っていた。

 目玉競技を海老名と材木座に任せ、救護に放送と当日の役職を割り振っていく。運動部から出向の現場班には、当日だけ仕事を頼む方向で調整する。

 そんな風に順調に話を進めていた雪ノ下に、城廻が不安をぶつける。雪ノ下に負担を集中させたくないという城廻の思いは八幡と由比ヶ浜にも伝わって、そして運営委員会は動き始めた。



 前回の会議から一日おいた水曜日。放課後の会議室には、月曜日の倍以上の人数が集まっていた。喉を潤しがてら事前の打ち合わせのために集まった奉仕部の三人は、比企谷八幡命名によるベストプレイスを後にして、そこに向かう。

 

 雪ノ下雪乃を先頭に教室に入ると、たちまち不穏な気配が肌を刺した。委員長席に向かって左手下座に固まっている相模南の一派と、向かって右手の下座に集まっている文化祭実行委員会では渉外部門に属していた生徒たちの間に、冷ややかな空気が漂っている。

 

「運動部の委員が間に合わなくても定刻に始める予定ですが、それまでは各自、寛いでいて下さい」

 

 そうした雰囲気を歯牙にもかけず、自席に腰を下ろしながら雪ノ下はそう通達した。そのまま隣に並んで座っている城廻めぐりと平塚静の三人で、普通に打ち合わせを始めている。向かって右手上座に集う生徒会役員から苦笑が漏れた。

 

 左手上座の三浦優美子と海老名姫菜は慣れたもので、並んで座る川崎沙希にも時おり話題を振りながら、由比ヶ浜結衣を交えて雑談に花を咲かせていた。間に挟まれた八幡が居心地悪そうにしている。

 

 文実では奉仕部の三人と一番多くの時間を共にした渉外の生徒たちは、それを見て落ち着きを取り戻していく。先程までは苦労の記憶が先に立っていたが、八幡を見ていると準備に勤しむ充実した日々のことや大成功に終わった文化祭当日の想い出が脳裏に蘇る。相模グループと一緒に仕事をすることに難色を示していたものの、この奉仕部の三人が主導するなら大丈夫だと気を取り直した。

 

 そして面白いことに、渉外の面々が柔らかい雰囲気になったことにいち早く気付いたのは、その原因たる八幡だった。月曜日には「派閥を作ろうともしない」と雪ノ下を評したものの、自らが動かなくとも頭抜けた存在には勝手に派閥ができるんだなと納得顔だ。文実で一緒に苦労した連中やJ組の生徒たちこそが雪ノ下派の中核なのだろうと八幡は思った。

 

 そんな具合に前向きな姿勢の生徒たちが多数を占める教室にあって、相模グループの四人はふて腐れた表情で何やらぼつぼつと話をしていた。おそらく、どうでも良いような話題なのだろう。そこに相模は加わっていない。そばにいる四人や教室の反対側にいる渉外部門の一団や、時には雪ノ下や三浦の様子を窺いながら、落ち着きなく、きょろきょろと視線を動かしている。

 

「ごめん、遅くなった。ぎりぎりセーフ、かな?」

 

 教室の入り口から全員に向かって、爽やかに語りかける葉山隼人。その後ろには戸部翔と、大和と大岡もいる。

 

「遅れるかもしれないと事前に聞いていたのだし、定刻の一分前だから大丈夫よ。貴方たちは向こう側の机に回って欲しいのだけれど?」

 

 そう言って雪ノ下は、自身とは向かい合わせとなる下座の机を指差した。とはいえ上座や下座に大した意味はなく、誰も座っていないから、先日もそこに座らせたからというだけの理由だ。

 

「じゃあ、ぼくらもそっちだね」

 

 にこやかに頷いてそちらに移動する葉山以下の四人に続いて、更に三人の男子生徒が姿を現した。戸塚彩加の後ろには柔道部の城山、しんがりは材木座義輝だ。

 

 自分に向かって手を振ってくる戸塚に、ぎこちなく応えながら。八幡は初回の会議を思い出していた。

 

 

***

 

 

『葉山くんには首脳陣に加わって貰って、当日は放送ともう一つ。肩書きだけになると思うのだけれど、ある役職を担って欲しいと考えています。そして戸塚くんには、現場班の統率を任せたいと思っています』

 

 月曜日の会議に遅れて参加した二人に向かって、雪ノ下はそう告げた。生徒会でも話題になっていたとは後で知ったのだが、「運動部の統率を任せられるのが葉山だけ」という状況を、雪ノ下も城廻も不安視していたらしい。

 

 だから戸塚に白羽の矢を立てて、補佐として大和と大岡を配する。戸塚の成長に期待する雪ノ下の提案を受けて、しかし当の戸塚が少し難色を示した。

 

『あのね……期待されるのは嬉しいし、ぼくが統率するのはいいんだけどね。大和くんと大岡くんは、どっちも部長を辞退したみたいでさ。ただのラグビー部員・野球部員として部長を支えるって言って譲らなかったんだって。両方とも、部活はその形で上手くいってるみたいだし、それはいいんだけどね。二人の部長を差し置いて、って言うのかな。大和くんと大岡くんをいきなり抜擢するのは、ちょっと問題かなって……』

 

 口ごもる戸塚を見て、任される仕事に、その責任の大きさに押し潰されているのかと思った八幡だったが、それは見当違いだとすぐに解った。過小評価していたことを内心で反省しつつ、八幡は戸塚の成長を眩しく、同時に頼もしく思った。

 

『じゃあさ。俺と戸塚で部長二人を説得するのはどうかな?』

 

『うん。葉山くんが協力してくれるなら大丈夫だと思う。あとね、補佐をもう一人推薦したいんだけど……』

 

 そう言って城山を推薦した戸塚には、雪ノ下までもが目を細めていた。役職を与えて成長を促すのが当初の目的だったのだろうが、既に戸塚はそれを全うできる域にまで成長していた。これで現場班のことは大丈夫だと、城廻と頷き合っている雪ノ下の表情が印象的だった。

 

 城山のことは「テニス勝負の時に口を挟んできた奴」という程度の認識だった八幡だが、話を聞くと六月の部長会議の際にも事態の収拾に一役買ってくれたらしい。戸塚と一緒に仕事をするとは何と羨ましいと思わなくもないが、城山の事情を知ってしまうとその気持ちも薄らいでしまった。

 

 強い先輩が卒業した後の弱小クラブを任されて、更にはこの世界に巻き込まれて大会にも出場できなくなって。そんなもやもやした気持ちを解消できたのは、テニス勝負における雪ノ下の発言のお陰だった。だから、雪ノ下や奉仕部の役に立てるのなら、城山はきっと仕事を引き受けてくれるだろう。戸塚の説明を聞いて、八幡はなぜだか妙に嬉しかったのを覚えている。

 

 その理由は、雪ノ下の言動や想いが報われたから。更には自分の行動も、テニス勝負のために費やした労力も報われた気がしたから。それらが他人に影響を及ぼして、相手がこちらに応えてくれたから。だからそれを嬉しく思ったのだろう……などと言語化したら気恥ずかしい気持ちになるに決まっているので、曖昧な形に留めておいたのだが。

 

 実際に城山の姿を見て、八幡は思わずそんなふうに自分の感情を分析してしまった。わちゃくちゃと手足を動かしたい衝動に駆られながら。もしも誰かに頼みごとをする必要に迫られた時には、戸塚に仲介して貰って城山にお願いする選択肢もありだなと思った八幡だった。

 

 

***

 

 

 一同が席に着いて、委員長が口を開く。

 

「さて、では会議を始めます。最初に目玉競技の話をしたいのですが……」

 

 雪ノ下の発言に応えて、まずは海老名が案を述べた。彼女の趣味嗜好を知る面々は、男子生徒向けの目玉競技だと聞いて等しく身構えたのだが、意外なことに「棒倒し」を提案された。言ってはなんだが実に普通だ。

 

「赤組と白組で、それぞれ大将を決めます。大将の棒を立たせ続けるために、数多の男子生徒があの手この手を使って身体で貢献する競技です。愚腐腐……ぐふっ」

 

 ただ、想像力が豊かな者にとっては普通では無かったらしい。警戒という行動は「こちらに毒されている証拠」だと考える海老名は、布教が順調に進んでいることに満足していた。強い拒絶を示す者ほど、それを突き抜けた暁には熱心な信者になってくれるだろう、などと考えながら。

 

 怪しげな笑い声を漏らす海老名の背後から、その首筋に向けて手刀が奔った。

 

「血は……まだ出てないけど、念のために上を向いて落ち着くし。ほら、とんとんって叩いてるから大丈夫だし」

 

 甲斐甲斐しく世話を焼くおかんの姿がそこにはあった。会議室がほっこりする中で、呆れ交じりに雪ノ下が口を開く。

 

「上を向くと血が喉に行ってしまうから、うつむかせて鼻を押さえる方が良いと思うのだけれど。それで、両軍の大将は白組が葉山くん、赤組が戸塚くんで良いのよね。事前に必要なのは赤白のはちまきを人数分と、両軍の陣地に屹立させる大きな棒が一つ。可能なら、両大将には学ランを着用させたいと……なるほど」

 

 海老名のプレゼン資料を受け取って、そのまま冷静に読み上げていく。いつぞや雪ノ下に変な小説を音読させた時のことを思い出しながら、八幡がそれに応えた。

 

「はちまきは確か、開会式から全員が着けてたよな。棒も高校の備品でありそうだから、新しく用意する必要は無さそうだし。学ランも、過去に応援合戦とかがあれば、その時に使ったやつが残ってるんじゃね。この世界に持ち込めてなかったら、別の衣装を考えるとして……」

 

「体育祭で応援合戦をした時は、他の高校から借りてきたみたいだよー。でも学ランならレンタルで大丈夫じゃないかな。一日だけだしね」

 

「体育祭は保護者すら入れないクローズドな催しだからな。レンタルでどれを選んでも、『勝手にうちの学ランを使った』とかそうした文句は出ないだろうから助かるよ」

 

 城廻が友好的な過去を、平塚が世知辛い過去を紹介しながら補足してくれた。事前の支度についての話が一区切りして、続けて由比ヶ浜が競技の内容に触れる。

 

「はちまきが取れたらすぐに結び直すこと、って書いてあるし、リタイアとかは無いんだよね。あたしは放送の担当だけど、棒倒しの時は救護に人を集めたほうがいいのかな?」

 

「そうね。海老名さんも書いているように、演技スキルなどを使って怪我を一切負わない設定にもできるのだけれど。そうすると現実感が無くなる上に、争いがエスカレートしたまま収拾が付かなくなる可能性もあるのよね。幸いこの世界では大怪我をしてもすぐに治るのだし、救護班が怪我人を素早く回収するのが無難という結論には、私も賛成ね」

 

 そんなふうに細かな部分にまで気を配りながら、競技のルールを詰めていく。少人数であれば見落としも出ただろうが、生徒会役員や文実の渉外部門の生徒たち、更には運動部からも様々な場面を想定した意見が出たので、驚くほど短時間で話がまとまった。ちなみに騒がしいサッカー部員は最初から最後まで「海老名さんすげーっしょ!」しか言ってなかったのだが、それはさておき。

 

 

「男子の目玉競技は棒倒しに決定します。次に、女子の目玉競技ですが……」

 

 それに応えて材木座が高笑いをしながら立ち上がった。すぐ隣の戸塚は慣れたものだが、更に横に座っている城山が少し引いている。相模グループも渉外の生徒たちも、特に女子はドン引きだ。それでも一昨日に雪ノ下に褒められた自信がまだ持続しているのか、特徴的な口調ではあるものの途中で言い淀むこともなく。時おり大袈裟な身振りを交えながら無事にプレゼンを終えた。

 

「千葉市民対抗騎馬戦、略してチバセンか。確かにこれ、設定は面白いな」

 

 手元に配られたプレゼン資料をぺらっと捲りながら呟くと、八幡の意見に同調する声がそこかしこから上がった。材木座は得意満面の笑みを浮かべている。

 

「でもなあ……大将騎を複数用意するのも、そいつらがコスプレして鎧を着るのも良いんだが。倒された時に鎧が砕け散ってコスプレが露わになるって、それは倫理委員会とか大丈夫なのか。大丈夫なら是非やって欲しいんだが」

 

 最後に本音を口にする八幡だった。男子生徒の多くが内心で応援しているのを知ってか知らずか、材木座が身を乗り出すようにして口を開く。

 

「ほむん。鎧の下のコスプレは昨年のデザインを再利用するゆえ労力は掛からぬ。PTAに反対されたと言うが、それ以外に反対が出なかったのだから倫理的にも問題あるまい。八幡よ、お主はどんなコスプレを想像しておるのだ。よもや、卑猥なものを?」

 

 この場には持ってこなかった己の初案のことなどは棚に上げて、材木座は重々しい口調でそう言った。たちまち八幡に、教室中の女子生徒から非難の視線が突き刺さる。それは相模グループも例外ではない。

 

「きも」

 

 そのたった二文字からなる言葉が、静かに全員の耳に伝わった。たちまち相模たちに視線が集中するが、いち早く口を開いたのは当事者だった。平然とした口調でこんなことを述べている。

 

「それな、このイメージ画像を送ってきた奴に言ってやって欲しいんだが」

 

「ま、まさか八幡、お主……裏切る気か?」

 

 何やら呟いている材木座を指差しながらメッセージアプリを開いて、添付ファイルを全員に見える形で展開する。千葉の兄妹が活躍する作品の中で、妹の親友(ヤンデレ)がコスプレしている画像なのだが、そこまで判別できる生徒はごく僅か。しかしおへそから下腹部に加えて背中からお尻までが丸見えのその画像を見て、女子生徒が一斉に眉を顰めた。

 

「二人とも、きも」

 

 こうして八幡の行動は、犠牲者を二人に増やすだけに終わった。

 

「でもさ。表に出さないだけで、男子ってみんなこういうのが好きなんだから仕方ないよ。ね、隼人くん?」

 

 何とも言えない場の雰囲気を取りなしたのは、腐った趣味嗜好の持ち主・海老名だった。しかし発言の最後に余計な付け足しがあったせいで、会議室の中は再び騒然としてきた。

 

「それ、『ああ』って答えたら俺まで変な目で見られるし、否定したら姫菜の思う壺だろ。『もしかして、そっちの趣味!?』とか言い出すんだろうし……優美子、頼む」

 

「あーしの手間が増えるから、しばらく大人しくしてるし」

 

 すぱーんという小気味の良い音が響いて、不気味な笑顔を浮かべたまま机に突っ伏した腐女子。どこまで本気だったのかは誰にも分からないが、一連のやり取りのお陰で八幡と材木座への風当たりは緩くなった。

 

 

「本題に戻ります。今の話の間に、城廻先輩に去年のコスプレ案を見せてもらったのですが。巫女・婦警・ナース・メイドの衣装などで、極端に露出が高いものはありませんでした。でも、PTAには反対されたんですよね?」

 

「まあ、男女共通だったからねー」

 

 あんまりと言えばあんまりな理由だが、納得できる話でもある。誰だって気持ちの悪いものは見たくないのだ。ごく稀に、似合いすぎるほど似合う奴もいるのだが……と戸塚に向けて視線がちらちら投げ掛けられる中で。城廻の返事に軽く頭を押さえながら頷いて、雪ノ下がそのまま話を続けた。

 

「では、スカートの丈を長くするなどの変更を加えて、基本はこの案のままでいきましょうか。材木座くんが演技スキルを展開して、倒された大将騎がコスプレ姿になるという設定ですが。この世界ならではという要素もありますし、見た目のインパクトという点でも面白いかもしれませんね」

 

 多くの男子から性的な目で見られるのは勘弁して欲しいが、普段は着る機会のない衣装を身にまとえるのは楽しみと言えば楽しみだ。そんな微妙な女性心理をくすぐりつつ、無難に話をまとめる。そこに由比ヶ浜から声が上がった。

 

「あたし、得点がよく分かんないんだけど……?」

 

 目玉競技はいずれも三〇点だが、どちらか一方が丸取りの棒倒しとは違って、チバセンは点数配分がある。時間内に生き残った大将騎の数に応じて、傾斜配分される形だ。

 

「大将騎は三人ずつだから、二人と三人なら一二点と一八点。一人と三人だったら点数の低い方を切り上げだから、八点と二二点だね。一人と二人なら一〇点と二〇点、同数なら一五点ずつ。相手を全滅させれば、生き残りが一人でも三〇点か。コスプレはともかく、確かにこの設定は面白いね」

 

 塾のバイトで教え慣れているからか、こうした場では口を開く機会が少ない川崎がすらすらと説明してくれた。ほへーと口を開けたまま、由比ヶ浜がこくこくと頷いている。そこに渉外部門の一年から質問が届いた。

 

「それで、大将騎って誰がやるんですか?」

 

 有効票三票ずつで、この場で投票を募った結果。赤組は雪ノ下・由比ヶ浜・城廻が、白組は三浦・海老名・川崎が当選を果たした。

 

 大将騎を務める気が満々で、自分が敗れるとはつゆとも考えていない雪ノ下と三浦。そしてコスプレ姿を晒す程度では動転しない海老名とは違って。由比ヶ浜と城廻と川崎は三者三様の反応を示した。静かに照れた様子の城廻。大声を上げたかと思えばすぐに縮こまったりと挙動不審に照れている由比ヶ浜。ひたすら投票の無効を主張しながら照れている川崎。

 

 会議室の一隅を除いて、その六人には大きな拍手が寄せられていた。

 

 

「それで、うちらは何をすればいいの?」

 

 この教室に来てからずっと、周囲と身内の両方に気を配っていた相模だったが、自分が選ばれなかった不機嫌に突き動かされる形で口を開いた。まばらに残っていた拍手の音がたちまち止んだ。

 

 正直に言えば海老名より下という点も引っ掛かるのだが、それでもあの四人なら仕方が無いと受け止められる。城廻も生徒会長としての知名度を思えば納得できる。しかし地味な存在だとしか思っていなかった川崎にまで負けるのは、相模には受け入れがたいことだった。

 

「当日の仕事と事前の準備とがあるのだけれど、後者から説明するわね。女子の目玉競技がチバセンに決まったので、貴女たちにはコスプレの衣装をお願いしたいと思います。鎧のほうは川崎さんにデザインして貰って、渉外のみんなに頼みたいのだけれど……?」

 

 だが、そんな相模の感情を逆撫でするかのような返事が雪ノ下から届いた。自分が選ばれなかった大将騎が着る衣装を、作らされる。相模がその屈辱に身を震わせている横では、グループの四人も密かに拳を握りしめていた。

 

 文化祭の時も、衣装作りとその手直しを担当した川崎のせいで葉山たちと話す機会を奪われたのだ。端から見れば完全な八つ当たりだが、少なくとも彼女らはそう考えていたし、だから川崎が大将騎に選ばれたり頼りにされている光景を目の当たりにすると忌々しい気持ちになる。

 

 それに認めたくはないが、川崎が地味なのは趣味や交友関係の話で、見た目だけなら相模ですら及ばず三浦たちにも引けを取らないほどだ。きっと当日は衣装映えすることだろう。所詮は地味なお針子さんに過ぎないと陰で侮っていただけに、余計に苛立ちが募る。

 

 そんな五人を尻目に、指名を受けた渉外部門の生徒たちは沸き立っていた。

 

「川崎さんってデザインできるんだね。鎧とか甲冑って難しそうだけど……」

 

「下の弟が喜ぶから、前にちょっと作ってみたんだけどさ。複雑なのは無理だけど、何とかなると思う」

 

「おー、さすがサキサキ!」

 

 由比ヶ浜に続けて海老名にまでサキサキ呼ばわりをされて、ただでさえ照れ気味だった川崎が更に照れている。和気藹々とした雰囲気が部屋中に広がった、その一方では。

 

 文実で実行委員長の不甲斐なさをよく知っている渉外の生徒たちが、自分に投票するわけが無いと、少し考えれば分かりそうなものなのに。ようやくそれに思い至って、相模は更に気持ちを暗くした。そこに雪ノ下の声が届く。

 

「次に、相模さんたちの当日の仕事を説明するわね。慣例に従って審判部を設ける必要があるのだけれど、判定が揉めるような事態はここ数年は起きていないのよ。だから名前だけだと思ってくれたら良いわ。いちおう形としては放送の下部組織に当たるので、当日に何かあれば由比ヶ浜さんと葉山くんに指示を仰いで欲しいのだけれど」

 

 そう言いながら、雪ノ下は三浦の顔をじっと見つめた。相模たちが不満を抱いていることは誰が見ても明らかだし、それを抑えるには由比ヶ浜と葉山の名前を出すのが一番だ。二人を審判部に駆り出す代わりに、当日は何か事が起きない限りは、放送の仕事で一緒に過ごせる。言葉には出さないその提案を、三浦が不承不承ながら受け入れたのを見て、雪ノ下は根回しが無事に済んだと胸をなで下ろしていた。

 

 とはいえ根回しとは本来、事前に済ませておくべきものだ。それに根回しで重要なのは相手が何を求めているのかを見抜くことだが、感情が開けっ広げな三浦が相手なら、そこに苦労を掛けずに済む。葉山と一緒に過ごせるように取り計らえばそれで良く、だからこそ雪ノ下は事前に話を通しておくべきだった。衣装の話とは違って、審判部に相模らを配する案は月曜日から雪ノ下の頭にあったのだから。

 

 以前の雪ノ下なら正論で押し切るだけで良かったし、それ以外は出来なかった。今の雪ノ下は、それだけでは駄目だと思っている。根回しにしろ手打ちにしろ、それらが必要となる場面は多い。だから身に付けなければと考えるのは間違っていない。だが、現時点では出来ていないという厳然たる事実もまた、間違ってはいない。

 

 そして、もう一つの配慮が果たして正しいことなのかも、今なお雪ノ下には判断が付かない。八幡と由比ヶ浜に同じ放送の仕事を与えることは、二人を自分から引き離すことは、もしかしたら間違いではないのか。そんな気持ちがどこからともなく湧き上がってくるが、では何故そんなふうに思うのかと自らに尋ねてみても、返事は杳として知れない。二人が仲を深めるのは、雪ノ下にとっても喜ばしいはずなのに。

 

「放送は三浦さんと戸部くんを中心にして、女子は由比ヶ浜さんと海老名さん、男子は比企谷くんと葉山くんにも加わって貰います。特に男女の目玉競技の時には、盛り上がる実況を期待しています。救護は私と城廻先輩が責任者で、生徒会役員と渉外のみんなに働いて貰う予定です。川崎さんには、衣装に何か問題が起きない限りは当日の仕事は課さないつもりです。現場班の統率は戸塚くんが責任者で補佐に城山くんと大和くんと大岡くん。これで当日の割り振りは以上です」

 

 話と一緒に気持ちを強引に締め括って、雪ノ下はそのまま説明を続ける。今度は事前の仕事の話だ。

 

「葉山くんたち運動部は、毎回参加できるわけではないと思うのだけれど。衣装を担当する委員を除いて、その他の全員で各競技の見直しと当日の流れを確認する予定なので、時々はそれに加わってくれると助かるわね。申請書類の処理などはこちらで対応できると思うし……そんなところかしら?」

 

「ああ、それぐらいなら問題ないよ。ところで、さっきの目玉競技の話なんだけどさ。演技スキルを悪用したら、『棒が動かないように』とか出来るんじゃない?」

 

 雪ノ下への返事に続けて、葉山が妙な話を持ち出してきた。警戒されてるのは俺だよなと自覚がある八幡が、大きく溜息を吐きながらそれに答える。

 

「演技スキルだって万能じゃねーぞ。運営に申請する必要があるから、棒を固定するとかまず却下だろ。まあ、あれだ。そこまで言うんなら『棒倒しで演技スキルは申請しない』って一筆書いてやるよ。それで満足だろ?」

 

「……いや、ちょっと引っ掛かるな。『体育祭で演技スキルは使わない』だったら安心なんだけどさ。どうして『棒倒しで演技スキルは申請しない』なんだい?」

 

「細かいことを言ってると嫌われるぞ。つーか、そこまで深読みされるとは思わなかったわ。『申請しない』と『使わない』って、この場合はほとんど同じ意味だしな。棒倒しに限定したのは、別の競技でスキルを使ったほうが見栄えが良くなるとか、そんなのがあるかもなって思って言っただけなんだが……」

 

「なるほど、確かに言われてみればそうだね。じゃあ『棒倒しで演技スキルは申請しない』で一筆書いてくれるかな?」

 

「書くのは書くのかよ。まあ良いけど、なんでそんなに拘ってるんだ?」

 

「運動部員として、体育祭ではやっぱり負けたくないからね。正々堂々と戦いたいって思っただけだよ」

 

「お前な、運動能力に差があるのに正々堂々も無いだろ。えーっと、ちょっと待ってろよ。『棒倒しで演技スキルは申請しません。比企谷八幡』っと、これで良いか?」

 

「ああ、確かに受け取ったよ。体育祭の当日が楽しみだね」

 

「勝手に言ってろ。あと、海老名さん大丈夫か?」

 

 机の上を血の海にして、海老名が不気味な笑い声を上げながら顔を沈めている。慣れた手つきでハンドタオルを出した三浦が介抱しているのを眺めながら。先程まではそんな気は全く無かったのに、「棒倒しで葉山に一泡吹かせてやる」と考えている自分に気付いた八幡だった。

 

 

「最後に、衣装作りのことなのだけれど。手作り以外にも方法があります。つまり、この世界では衣装もデータに過ぎないので、外部に製作を依頼しても費用がほとんど掛かりません。定価でも現実の十分の一以下ですし、まとめて注文すれば更に値引きが可能だと思います」

 

「じゃあ、うちらが作らなくてもいいってこと?」

 

「でもさ、鎧でも六着だし、コスプレ衣装は別々って話だったよね。あ、あたしはコスプレじゃなくて普通の体操服でもいいんだけどさ……」

 

「雪ノ下さんが作れって言ったんだから、仕方ないじゃん。あ、じゃなくて、注文してもいいってことだよね?」

 

 川崎が往生際の悪いことを言っているが、相模としては自分だけが一方的に川崎を意識しているようで気に入らない。あんたじゃなくて別の誰かに答えて欲しかったのに、という気持ちが表に出たのか、いらいらした口調になってしまった。慌てて取り繕う。

 

「うーん、さがみんはそう言うけど……確かに予算には余裕があるんだけどさ。いくら安いって言っても、それが積み重なったらどうなるか分かんないよ。あたしなら……」

 

「由比ヶ浜さん。そこは相模さんたちに案を出して欲しいのだけれど。せっかく仕事をして貰うのに、何もかもこちらの言う通りだと面白くないでしょう?」

 

 由比ヶ浜が教室の雰囲気を落ち着けつつ、なんだかベテラン主婦のような金銭感覚を垣間見せた。職場見学で運営の仕事場を訪れた時に「会計のことを教えて貰った」と嬉しそうに語っていた姿を思い出しながら、雪ノ下が別の意図を潜めて発言を遮る。

 

「つっても、右も左も分からん状態だったら、考えたくても考えられんだろ。俺も詳しくないから教えて欲しいんだが、クラスTシャツを頼むのとは違うのか?」

 

 そこで八幡が、微妙にわざとらしい口調で話を続けた。内心では「なんとか事前に打ち合わせた通りの話に持ち込めたな」と思いながら言い終えると。それに応えたのは、はやはちの片割れ。

 

「文化祭で俺たちのクラスが注文したのは、駅前のあの店だったよね。あそこなら他の衣装でも頼めると思うけど?」

 

「頼めるのは良いとして、値段的にはどうなんだ?」

 

「あ、あたしが思ったのは『ちょっと高いなー』って。ヒッキーとか、一人一人名前を入れてたし、その分もあったとは思うけどさ。……さがみん、どう思う?」

 

「うち、は、えっと……他のお店にも、見積もりを出してもらう、とか?」

 

「なるほど。衣装をお願いできるようなお店の中には、お客さんに色んな衣装を着て貰うイベントを行っているところもありそうね」

 

「え……あ、うち、心当たりがあるかも!」

 

 かなり露骨な誘導だった気がするのだが、相模は「良いことを思い付いた」とばかりに得意げな表情になっている。さっきから気分の変遷が分かり易い奴だなと思いながら、八幡は並んで座っている二人とこっそり目配せを交わした。

 

「そう。では、見積もりの比較をお願いできるかしら。できれば次の会議を待たずに受け取り次第、部室にでも届けてくれると助かるわね。渉外のみんなも鎧を作るのはひとまず置いて、競技の見直しに加わって下さい。……他に意見が無ければ、今日の会議はここまでとします」

 

 こうして本番の一週間前に各々の分担を確定させて。その後も運営委員会はトラブルに見舞われることもなく、順調に仕事を消化していった。委員たちの盛り上がりは、祭りに期待を膨らませる全校生徒にも伝播して。異様な熱気に包まれて、総武高校は体育祭の当日を迎えた。

 

 

***

 

 

 これは運営委員会の翌日放課後のお話。相模たち五人は、駅から少し離れた場所にあるブライダル会社を訪ねていた。

 

 昨日の会議が終わった直後にさっそく連絡をとってみたところ、先日のイベントはホテルの会場を借りて行ったもので、会社は別にあること。それから、披露宴の衣装に限らず幅広く注文を受け付けていることも教えられた。

 

 会社に入ると、応接室はもちろん廊下の壁にも色んな写真が飾られていた。被写体は一般の人がほとんどで、社外では使わないという約束を交わした上でこうして展示しているのだとか。たしかに、見栄えが良く写真慣れしている著名人よりも、普通の人がどう写っているのかを見るほうがよほど参考になる気がする。そう納得した一同だった。

 

 最近はずっとぎくしゃくしていたが、目新しい体験のお陰か五人の表情は明るい。会社の人は、コスプレの衣装が欲しいというこちらの希望を聞いて、カタログか何かを探しに行っている。だから今は五人だけ。話をするなら今だと相模は思った。

 

 だが、ここで話を出せるならこうまで長引いていない。それに文化祭から日が経ちすぎて、何を謝れば良いのか、何を言って欲しいのかもあやふやになっていた。やっぱり、うちは駄目なんだ。そんなふうに相模が自己嫌悪に浸りかけたところ。

 

「南ちゃん。うちらのせいで、ごめんね」

「あいつの悪い噂を流したのって、南は関係ないのにさ」

「相模が、その、何か言ってくれるかもって。ずっと甘えてたんだよね」

「相模さんだけなら、こんなに悪い扱いを受けないで済むのにね」

 

 文化祭の閉会式にて人目を憚らず醜態を晒したことで、相模個人は大部分の生徒から赦免されていた。それには渉外部門の生徒たちも含まれている。昨日の会議室で冷ややかな対応だったのは、相模の過去の行いに対してではなく、一緒に仕事をするのは気が進まないという未来に対するものだった。

 

 未だに相模を許していない一部の生徒たちは、事実をねじ曲げて八幡の悪評を撒き散らしたことを問題にしていた。だがその行為に相模自身は関与していない。取り巻きが勝手にやったとは、相模グループを少し観察していれば簡単に推測できることだ。

 

 つまり、相模に白い目を向けている生徒たちは、連帯責任として相模を責めているに過ぎない。本命は取り巻きの四人で、彼女らは相模が居ないところでは一層厳しい目を向けられていた。文字通り身から出た錆なので、誰を責めることもできない。

 

 だが、グループ五人でいる時には数の論理が働く。文化祭の二日目に、先に見捨てたのは四人のほうなのに。さも相模が悪いかのように言い繕って、鬱屈を晴らしていた。彼女らには相模の他に、それが出来る相手が居なかったから。だから、相模が「うちが悪いんだ」と思い込んでいるのは重々承知で、それを利用した。

 

 ただ、そもそもの切っ掛けが相模にあるのも確かだ。あの男子生徒を罵倒する相模の話を聞き続けているうちに、四人の中に彼への悪感情が生まれてしまった。当事者の相模が抱くそれをはるかに超えて、四人は彼の言動をひたすら悪いように受け取る習慣が付いてしまった。

 

 きっと、四人なのも影響したのだろう。一人一人であれば、ここまで増幅されなかったかもしれない。いずれにせよ、彼女らは噂を広めることに迷いはなかったし、それが正しい行為だと思い込んでいた。彼に惑わされている生徒たちの目を覚まさせてやるんだと、そんなことすら思っていた。

 

 文化祭を経て、周囲の環境が激変して。そうした思い込みは少しずつ薄れていった。もちろん、それに固執しようとした時期もあった。以前にも増して彼への恨みを燃え上がらせた日もあった。だが、相模で鬱憤を晴らすたびに、それと同時に彼女らの中で形成されていた偽りの何かが、少しずつ壊れていくのが感じ取れた。

 

 相模に対する自分たちの行いが褒められたものではないことは、いつか止めるべきだということは、四人にもとっくに解っていた。

 

 だから昨日の夜、四人は相模に内緒で集まった。彼女らを行動に駆り立てたのは、相模のなんの気ない発言。大将騎に選ばれた六人を祝福する会議室内で、彼女らにとっては居たたまれない雰囲気をぶち壊してくれた、あの一言。

 

『それで、うちらは何をすればいいの?』

 

 飴と鞭で追い立てられるようにして、運営委員になって理解したこと。自分たちは所詮、陰口を叩く程度のことしかできない。あれほど敵視していた男子生徒は、校内有数のトップカーストの連中とも普通に話をして、有益な発言を繰り返しているのに。自分たちはせいぜい「きも」と嘲るぐらいしかできない。

 

 だから、あの連中を向こうに回して相模がそう言ってくれて。「うちら」って複数形を使って自分たちを数に入れてくれたのを耳にして。一歩を踏み出す時期が来たと四人は覚悟した。たとえ相模に見捨てられて、更に厳しい立場に陥ったとしても。これ以上、相模を苛ませるのは嫌だと全員が思った。

 

「そ、そんな、だってうち、駄目なのはうちで、でも何を言えば良いのか分かんなくて。だから、先に言ってくれて助かったって思ってて、謝るのはうちのほうで。けど、なんでだろ。うち今すごく嬉しかったりもしてさ。その、色々と言いたいこととかあるのにいつも言えなくて。だから、あの、良かったらで良いんだけどさ。うち、名前で『南』って呼んで欲しいって……」

 

 悲壮な覚悟で順に口を開いた四人だったが、相模の返事を聞いてぽかんと口を開けたまま身動きが出来ない。この半年に亘る付き合いはなんだったのだろう。今更「名前で呼んで欲しい」とか、それをずっと言い出せなかったとか、それってもう何と言うか、ヘタレにも程があるではないか。

 

 だから四人は、互いに顔を見合わせてぷっと吹き出した。このまま笑い転げたいところだが、頼れるんだか頼れないんだかよく分からないグループのリーダーに、言っておくべき言葉がある。

 

「南を見てると、反省する気持ちも失せてくるよ」

「とは言っても、南には関係のない責任まで押し付けようとはしないからさ」

「うん。南抜きでも、ちゃんと謝る相手には謝ろうと思うし」

「だからこのまま、南と同じグループで居ていいかな?」

 

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしている相模と、四人はひしと抱き合って。こうして意識の中ではずっと続いていた、彼女らの文化祭がようやく終わった。そして。

 

「あれっ。これ、南じゃない?」

「あ、ホントだ。南と、相手は……?」

「南って和服も似合うんだね。でもこの相手、どこかで見たような?」

「……ねえ南。もしかして、あの罵倒って照れ隠しだったのかな。だったら四人から言いたいことがあるんだけどさ」

 

 いつぞやの写真を見付けられて、結局この日も四人から責められることになる相模だった。

 

 

***

 

 

 その翌日。お昼休みに奉仕部の部室を訪れた五人は、一人の女子生徒と向き合っていた。とはいえ五人でも到底勝てる気がしないのが怖い。取ってきた見積もりを差し出して、反応をおそるおそる窺っていると。

 

「思った以上に金額の開きがあったわね。貴女たちの仕事はとても役に立ったわ。あとは当日、形だけ審判部に居てくれればそれで充分なのだけれど?」

 

「うちら、昨日の夜に話し合ったんだけどさ。ちゃんと謝りたい相手も居るし、やり出した仕事なんだから最後まで関わりたいって思うんだけど……いい、かな?」

 

 好意で言っているのか、それとも期待されていないのか。雪ノ下の真意がどちらであっても、自分たちの意志を伝えようと決めていた彼女らは、相模に返事を一任していた。全員が同じ気持ちだと訴えるかのように、五人は一途な眼差しを雪ノ下に送る。口元を緩めながら答えて曰く。

 

「では、次の会議では貴女たちにも競技の検討に加わって貰います。それと、これは強制では無いのだけれど……」

 

 そう言って一度言葉を切って、ゆっくりと話を続けた。

 

「いつか、貴女たちが謝りたいと思っている相手が困っていたら。一度だけで良いわ。全校生徒を敵に回してでも彼の力になると、それぐらいの意気を示して欲しいわね」

 

「うん。うちら、雪ノ下さんが敵になっても容赦しないから!」

 

 互いに頷き合って、やはり相模が代表してそう答えた。雪ノ下の笑顔に獰猛さが垣間見えて、「あ、これ死んだな」と思った五人だったが。それでも彼女らは、発言を撤回しようとはしなかった。

 




次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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04.くれないと白に分かれて生徒たちは優勝を目指す。

前回までのあらすじ。

 運営委員を漏れなく集めた二回目の会議で、早くも雪ノ下は目玉競技の詳細から仕事の割り振りまでを確定させた。あとはスケジュールに沿って準備に勤しむのみ。

 相模たちにも上手く話を誘導しながら仕事を与えた雪ノ下だったが、その思惑を上回る形で相模グループは和解を果たした。

 そして、体育祭の当日を迎える。



 アジア初のオリンピックが東京で開催されてからおよそ半世紀。その開会式は抜けるような青空だったという話だが、同じ日付のこの日も秋晴れに恵まれた。十月十日の水曜日。総武高校は体育祭の熱気に包まれていた。

 

「さすがに進行の遅れが目立って来たわね」

 

 既に時刻は正午を大きく回り、残された競技もごく僅か。赤組と白組の点差も気になるところだが、運営委員長としての責任感が上回ったのだろう。雪ノ下雪乃が手元のプログラムと時計とを見比べながら、そう呟いた。

 

「でもさ。まだ数分ぐらいの遅れなんだし、ゆきのんはこう、ばーんと落ち着いて……」

 

「由比ヶ浜さん。細かな積み重ねが、気付いた時には大きく膨れ上がっていることも珍しくないのよ。貴女も予算の話では同じようなことを口にするのに、時間には無頓着なのが私にはよく解らないのだけれど」

 

 由比ヶ浜結衣の基準がよく解らないとこぼす雪ノ下に苦笑しながら、比企谷八幡が二人を取りなす。他の運営委員たちは出払っていて、周囲には誰も居ない。

 

「まあ、由比ヶ浜の言う通り、まだ数分単位だしな。それに戸塚に任せるって約束しただろ。現場班の取りまとめ役を初めてやるんだから多少の遅れは出て当然だし、あんま過保護になるのも良くないってお前なら解るだろ?」

 

「この盛り上がりを見る限り、運動部の生徒たちが不満を抱いているようには思えないし、戸塚くんの手腕も問題ないと思うのだけれど。それなのに遅れが出ているのが少し解せないのよ。でも、確かに由比ヶ浜さんや比企谷くんの言うことにも一理あるのよね……」

 

 納得のいかない表情を浮かべながらも、雪ノ下はそれを強引に自分の中に仕舞い込もうとしている。運営委員会と書かれたテントにいる三人に向かって、隣接する救護班のテントから歩いてきた城廻めぐりが話に加わった。

 

「遅れる理由は無数にあるし、今のところ問題と言えるようなことは起きてないと思うけどね。由比ヶ浜さんも比企谷くんも、雪ノ下さんがワーカホリックにならないように、しっかり引き留めておいてねー」

 

 ほんわかと冗談交じりに口にしたものの、本人は割と本気で喋っていたりする。色んな仕事を自ら手掛けようとする雪ノ下の行動力は褒められて然るべきだが、仕事を抱えていないと落ち着かないのであれば度が過ぎている。ましてや、問題点を積極的に探し始めるようなら尚更だ。

 

 進行の遅れは午前中からたびたび話題に出ていて、そのたびに八幡が「気にするな」と宥め、由比ヶ浜が「でーんと座って」「どーんと構えて」などと雪ノ下の手綱を締めていた。それを思い出して頭を軽く振って、雪ノ下は別の話題を口にする。

 

 

「それにしても、この競技も白組が優勢ですね」

 

「ここで負けるとかなり厳しいよねー。何点差になるんだっけ?」

 

「このままだと四五点差ですね。勝負所で葉山に発破を掛けられたのが……」

 

「隼人くんのあれで、白組の勢いが止まらなくなったよね。で、でもさ。まだ目玉競技が残ってるし……」

 

 そんなやり取りの間に決着がついて、赤組は一〇〇点のまま変わらず。一方の白組は一四五点まで延ばした。残るは、目玉競技の二種目のみ。

 

「優勝のためには六〇点を目指すしかないわね。三浦さんたちには申し訳ないのだけれど……」

 

「お前、かけらも申し訳ないと思ってないだろ。全滅させる気満々じゃねーか」

 

 そう言って八幡が突っ込みを入れる隣では、由比ヶ浜が首を傾げている。

 

「え、でもさ。向こうの大将騎が一人ぐらい残っても、こっちが三人残ってれば……」

 

「無理ね。残った大将騎が一人と三人の場合は八点と二二点だから、差が一四点しか縮まらないのよ。点数の低い方を切り下げというルールだったら一六点差になるから、それでも良かったのだけれど」

 

「えーっと、じゃあ……こっちは一人でも残れば良くて、とにかく相手を全滅させないとって話だよねー?」

 

 顎に手を当てながら確認してくる城廻に雪ノ下が頷き、それを見た由比ヶ浜も勝利条件を理解した。念のため話が周囲に漏れない設定にして、八幡を加えた四人はしばし作戦会議を行う。そして。

 

「あ、でさ。ヒッキーは大丈夫そう?」

 

「さあ、どうだろな。まあ、上手く行くとは思うんだが……」

 

「歯切れが悪いのが、勝敗とは別の意味で気になるのだけれど……それでも、不可能とは言わないのね。なら、それで充分よ」

 

 仲の良い二人に加えて更に何人かを巻き込んで、八幡が何やら策を練っていたことを知っているだけに、懸念が先に立つ雪ノ下と由比ヶ浜だったが。方法には不安があれども、「結果を出す」という点では信頼できる。下手に「勝つ」と断言されるよりも、よほど安心できる。

 

「んじゃ、まあ、実況しながら応援してるわ」

 

 二人の心情を理解した八幡は、照れ隠しのようにそう呟いて救護とは反対側のテントを眺めた。女子の目玉競技・チバセンが行われている間は、そこで放送の仕事をしながら過ごす予定になっている。

 

 文化祭の二日目に、行方不明の実行委員長を探すために部室を後にした時と同じように。片手をひらひらさせて歩き出そうとしたところで、掌に軽い衝撃を覚えた。由比ヶ浜がにんまりと頷きながらハイタッチをして来たのだと悟ると同時に、掌に再び衝撃が走った。更にもう一度。雪ノ下と城廻からも気合いを受け取ったのだと理解する。

 

「優勝目指して頑張るって、約束したもんな。だから……頼む」

 

「うん、任せといて!」

「約束は、守るから。期待には背かないわ」

「三〇点とって帰って来るぞー。おー!」

 

 そう言い残して、赤組の大将騎を務める三人は入場門へと去って行った。

 

 

***

 

 

 事前に順番を決めていたわけでもないのに、紅白いずれの陣営も、三人の大将騎を先頭に立てて入場を果たした。先頭を切って登場するのは雪ノ下らしいと言えばらしいが、最後に満を持して登場するのも雪ノ下には似合いそうだよなと、八幡が益体もないことを考えている傍らでは。

 

『いよいよ赤組と白組の全騎馬がグラウンドに集まって、なんだか壮観って感じだべ。どちらも整然と配置を整えてるように見えるけど、えーと、隼人くーん?』

 

 雪ノ下から「話す内容はともかく、賑やかなのは良いことだ」と抜擢された戸部翔が、放送の仕事を頑張ってこなそうとしていた。口上の前半には実況らしいことを喋ろうとしているのだが、後半では普通の喋り口調になっている。

 

 そうした良く言えば等身大の実況は、生徒たちの認識や疑問をそのまま反映したものになっていて、概ね好意的に受け取られていた。現に今も「両軍の布陣にはどんな意図があるんだろう」という大勢の疑問を代弁する実況を耳にして、生徒たちはうんうんと頷きながら放送席の葉山隼人に視線を送っている。

 

『俺が白組で、ヒキタニくんが赤組だからさ。競技中の生徒には実況の声が伝わらないはずだけど、念のために、主に敵陣営の解説を担当し合うってのはどうかな?』

 

『ああ、確かに作戦をばらされたら興醒めだからな。んじゃ、俺は白組の意図を考えれば良いってことだな?』

 

 プロの仕事であれば「事前に決めておけよ」と文句が出るかもしれないが、こうした何気ない打ち合わせですらも高校生たちの盛り上がりを促進させる。

 

 それぞれが発言を終えるたびに歓声が沸き起こるので、思わずびくっと身体が動いてしまう八幡だったが、頭は意外と冷静だ。生徒たちがグラウンドの各所に散らばって、両軍の動きを注視しているために。つまり放送席を取り囲まれるような状態には程遠く、緊張せず普段通りに話せる環境だからだろう。

 

『じゃあ、俺が言い出したことだし、先に赤組の意図を探ってみようか。当初は結衣が中央で、右に雪ノ下さん、左に城廻先輩の布陣だと思ったんだけど、ちょっと予想外だね』

 

『雪ノ下さんがさっさと配置を終えたと思ったら、単騎で結衣の隣に移動するとか、そんなの予想できるわけないっしょ!』

 

『これ、右翼の指揮は誰かに任せて、一番人数の多い中央の軍勢で押し潰す作戦かな。しまったな、ヒキタニくんの考えを聞きたくなって来たよ』

 

『まあ、俺からはノーコメントだと言いたいところだが……見てすぐ判る事実ぐらいなら良いか。右翼は雪ノ下が布陣しただけあって、J組とか文化祭の渉外組とか子飼いの連中が多めだな。左翼も三年とか生徒会の繋がりとか、城廻先輩の身内が中心と。んで、顔の広い由比ヶ浜がその他の全騎を率いるのかと思いきや、雪ノ下が並んで立ってるのが不思議だなーって感じか』

 

 大将騎には旗持ちが付き従っているので、どこに居るかが一目で判る。軍勢を三つに分けてそれぞれを指揮するものだと思い込んでいた生徒たちは、雪ノ下と由比ヶ浜が並んでいる姿が不思議でならない。

 

『その構成を聞くと、雪ノ下さんが子飼いを率いて右翼から、自らが先頭に立って切り込む配置だとしか思えないな。ほら、イッソスでアレクサンドロス大王がやったみたいにさ』

 

『まあ、白組の配置を考えると、カイロネイアじゃないわな……あ。先にちょっと白組の布陣を解説しとくか。これ、チバセンの勝ち負け以上に総合優勝を狙ってるってことだよな。たぶん海老名さんの采配だと思うんだが、軍勢を縦並びにして全体としては逆三角形の形か。手勢が一番多い三浦が第一陣、それに漏れた連中を率いる川崎が第二陣、んで海老名さんが趣味の繋がりで集めた少数精鋭に守られる配置か。白組は大将騎が一騎でも生き残れば、それで総合優勝が決まるんだったよな?』

 

『そこまで考えて作戦を立てるって、海老名さん流石っしょ!』

 

『軍勢を三つ横並びにしたら、指揮系統の隙を突かれて各個撃破される可能性があるからね。姫菜はこの手の戦術の話が好きみたいでさ。守備に徹するなら徹するで、割り切って考えるだろうね。そういえば、カイロネイアではアテネ軍とテーベ軍を分断して、先にテーベ軍を壊滅させたんだっけ?』

 

『まあ、アテネ軍もフィリッポス二世の罠に嵌まって勝手に壊滅してたけどな。カレスのどこが英雄だよって言いたくなるけど、その後のアテネの指導者連中を見てると遙かにマシだったんだなって思えるのが辛いよな』

 

 なかなか続巻が出ない漫画のことを思い出しながら、八幡が雑談に流れそうになっている。このまま話を続けたい誘惑を、しかし葉山は断ち切って話題を戻す。

 

『赤組の戦術に話を戻すけどさ。相手の布陣を見て各個撃破は無理だと悟ったのなら、なおさら包囲殲滅を目指しそうなものなのに。雪ノ下さんが速攻に出ない理由が判らないな』

 

『あれだろ。三浦から見た左翼を抜いて白組の背後に回り込んでも、海老名さんなら対策を立ててるだろうからな。たぶん自分が円の中心になるように布陣を変更して、時間切れを狙うんじゃね。包囲が完了しても、最後の一人まで殲滅するのは時間が掛かるからな』

 

『やっぱ海老名さんすげーっしょ。あ、でもさ。総合優勝を狙ってるのに、最初からその形で布陣しないのはなんでだべ?』

 

『初手から完全防御態勢って、なんかイメージ悪いしな。そもそも、守備ありきの布陣で三浦を納得させてるだけでも大したもんだし、自軍の士気をこれ以上下げるわけにはいかないだろ?』

 

『ちょ。ヒキタニくん、海老名さんの考えを理解しすぎっしょ!?』

 

 せっかく疑問に答えてあげたというのに、なぜだか警戒されている八幡だった。そんな戸部の過剰反応を軽く流して、葉山が話をまとめにかかる。

 

『普通に考えれば、雪ノ下さんは序盤で消耗戦を狙ってるんだろうね。ある程度の数を減らしたところで一気に速攻に出る可能性があるから、赤組は「雪ノ下さんの動きに注目」って感じかな』

 

『ほいじゃ、白組は「大将騎の使い方に注目」かね。三浦が個の能力に優れているのは知れ渡ってると思うんだが、川崎も空手をずっとやってたわけだし侮れない気がするんだよな。集団戦の話ばっかしてたけど、最後には個人の能力が物を言うからな』

 

『へえ。川崎さんが空手をやってたなんて初めて聞いたよ。ヒキタニくんの情報網も侮れないね』

 

『言っとけ。妹が塾で教えて貰ってるから、色々と話を聞くんだわ。俺としては授業の内容とかを知りたいのに、バイト教師の話ばっか振ってくるんだよなぁ。まあ、授業を聞いてないのを誤魔化してるのはバレバレなんだが』

 

 千葉村で会った記憶を呼び起こしながら「それとは別の意図もありそうだけど」と思う葉山だったが、それを口にするのは自重した。いくら八幡がその手の話に鈍いとはいえ、そのうち気付くだろうと考えながら。

 

『おっ、準備が整ったみたいだべ。いよいよ今年の目玉競技、女子生徒全員が参加する千葉市民対抗騎馬戦、略してチバセンが始まりまーっす!』

 

『開始の合図は平塚先生が担当するみたいだね。奉仕部の部員としてヒキタニくん、何か一言どうだい?』

 

『法螺貝が実によく似合っていますね。あと、どうして今日も白衣を着ているのでしょうか?』

 

 そんな八幡の発言に抗議するかのように、大きな音がぶおおおおと響き渡る。そして、合戦が始まった。

 

 

***

 

 

 序盤は解説陣が予想した通り、赤組が攻め白組が受けるという構図で進んだ。

 

 中央の大軍勢を率いる雪ノ下は、由比ヶ浜と上手く分担しながら指揮を執っていた。基本的には三騎を一組にして、両軍がある程度の距離まで近付いたところで突進・援護・実行の三行動で敵の騎馬を減らしていく。突進役は相手の隊列を乱すことだけに、援護役はその騎馬が討ち取られないように、そして実行役は目に付く順に敵騎を無力化することだけに専念する。

 

 どの場所からどの組を動かして、あるいはどのタイミングで撤退させるのか。その全ては大将騎の指示にかかっている。雪ノ下はロジカルに攻撃的にそれを執行し、由比ヶ浜は場の雰囲気を読んで自軍の綻びが最小限で済むように守備的にそれを遂行していた。二人は阿吽の呼吸で各組の指揮権を委譲し合い、この上なく効率的に敵の数を減らしていった。

 

 序盤における両翼の役割は、端的には突破されないこと。味方全体が包囲されないように、中央軍と歩を合わせて移動しながら、相手に備える。だが今のところは大した攻撃も受けず、左右は平穏を保っていた。

 

 左翼を率いる城廻、そして右翼を率いる渉外部門の三年生(取材を受ける直前に、文化祭のスローガンを決めるために動いて貰った顔の広い先輩だ)、そのいずれもが雪ノ下の戦術を理解しているので、先走った行動に出ることもない。

 

「時間を掛けて慎重に進められるのは、こっちとしても望むところだけどね」

 

 だが、制限時間を最大限に意識した戦術を組み立てている海老名姫菜は、そんな赤組の攻勢を見ても怯むことはない。雪ノ下を相手に戦術を競えるだけでもわくわくする。それに加えて、白組が総合優勝に王手をかけているこの状況ゆえに、雪ノ下はきっと本気で勝ちに来るだろう。そんな相手と矛を交えることができる。

 

 だから海老名は、一瞬たりとも気を抜かない。自軍の被害は拡大しているが、三騎が一組という仕組みにもようやく慣れてきた。程なく小康状態を迎えるだろう。敵両翼が手持ち無沙汰な状況にも不満はない。相手の騎馬を少しでも多く遊ばせておくことは、時間を味方にできる白組にとっては、下手に数騎を討ち取るよりも遙かに価値が高いからだ。

 

 

「そろそろ目くらましが必要かしら?」

 

 海老名と同様に小康状態の気配を感じ取った雪ノ下は、ここで更なる攻勢に出た。三騎一組の動きに加えて、今までの攻撃で二騎や一騎に減っていた組を一団にして、敵陣中央に突進させた。赤組の攻撃に慣れてきた頃合いだっただけに、白組に混乱が広がる。

 

 ここぞとばかりに三騎一組の援軍を惜しみなく投入したので、気付けば前線では敵味方が入り乱れる構図になっていた。そんな中で、モブたちが必死に闘いを繰り広げている。

 

「これで二対一だよ。体育祭で怪我をするなんて嫌だよね?」

「たしか相模さんだよね。大人しく降参したら?」

「えっと、遙とゆっこだっけ。少し前のうちなら降参してたけどさ。今のうちは、ちょっと違うよ?」

 

 それで二騎を屠れば格好良かったのだが、一人目こそ倒したものの二人目は相打ちになってしまった。だが相互リタイアという形になりながらも、最低限の仕事を果たした相模南は満足そうな表情だった。そして。

 

「三浦さんへのルートができたわね。打ち合わせ通り、挑んでみてくれるかしら?」

 

 雪ノ下に背中を押されて、一騎が白組の第一陣最奥へと突撃する。そこで待つのは、白組が誇る大将騎の一角・三浦優美子。対するは、一年生ながらも不敵な面構えで、三浦と向き合ってもまるで怯む気配のない、一色いろは。

 

「三浦先輩。ちょっと足止めさせてもらいますね〜」

 

 純粋に一対一で勝利を競うのであれば、一色に勝ち目は無い。だが乱戦の中での顔合わせで、かつ一色に勝つ気が無いのであれば。つまり負けないことに集中するのであれば、時間を稼げる。

 

 三浦と一色がともに葉山に御執心なのは有名な話だ。だから何となく、周囲の女子生徒たちは二人の闘いを遠巻きに見てしまう。新たな敵の襲来には既に対処ができていて、もはや三浦のもとまで辿り着かせるような隙は無い。一騎で敵陣に侵入している以上、数に物を言わせて包み込めばそれで終わりなのに。つい、三浦と一色の対峙を見守ってしまう。

 

「なるほど。川崎さんが動きかけて、途中で引き返したわね。おそらく私が出撃した時には、三浦さんと川崎さんの二人で確実に仕留めようと考えているのだろうけれど……」

 

「ゆきのん、約束を守るのが一番だからね?」

 

「ええ、解っているわ。だから由比ヶ浜さんも、予定通りにお願いね」

 

 正面から二人に挑みかかりそうな気配を感じて、由比ヶ浜が静かに雪ノ下に釘を刺す。少しだけばつの悪い思いがして、ちらりと時間を確認すると、既に半ばに差し掛かっている。一色のお陰で海老名の意図を幾つか確認できた。今のところ、作戦に変更の必要は無い。そう思いながら、再び闘いに目を向ける。

 

 実質的には捨て石扱いだが、予想以上に持ち堪えている。由比ヶ浜が提案した「ゆきのんの手作りディナーのフルコース(調理時の見学および質問可)」という条件に迷いなく食い付かれた時には逆に困惑したものの、三浦と騎馬戦を繰り広げている今の一色からは、それとは別の何かが伝わってくる。三浦に勝つことではなく、三浦と闘うことそれ自体が楽しいとでもいうような、そんな気配が。

 

「う〜ん、負けちゃいましたか……」

 

 終盤戦に備えて配置の変更を指示しながら眺めていると、遂に決着がついた。最後まで乱入こそされなかったものの、二人を取り囲む輪は少しずつ狭まっていた。そのせいで逃げる場所に窮した一色が捨て鉢で反撃に出たものの、落ち着いて対処された結果だ。

 

「おかげで、あーしの身体も温まったし」

 

 そう口にしながら、三浦は敵の大将騎を睥睨する。誘いを受けた雪ノ下は頬を緩めて「すぐに行くわ」と小声で呟くと、踵を返した。そのまま、自らの股肱が待つ右翼へと騎馬を進める。

 

 後を託された由比ヶ浜がいったん兵を引いて、辺りは一瞬だけ静寂に包まれた。そして。

 

 ()()()()()()()()()()()を引き連れて、敵陣を目指して動き出した雪ノ下に合わせるように、中央と左翼でも大攻勢が始まった。

 

 

「ま、時間的にはそろそろだよね。こちらの大将騎を全滅させるには残り時間が多いほど良いし、雪ノ下さんの体力を考えると残り時間が少なくなるまで待つ方が良い。その両方を満たすのが今ってわけだ。でもさ、ここまでは私も織り込み済みなんだよね」

 

 そう呟いて、海老名は迎撃の準備を整える。

 

 まず雪ノ下に対しては、もちろん三浦を充てる。だが、討ち取る必要は無い。最後まで一対一で遊んでくれたら万々歳だし、その練習は赤組が勝手に手配してくれた。先程の一色の動きは、三浦にとって大いに参考になるだろう。

 

 中軍を率いる由比ヶ浜は、守勢でこそその本領を発揮できる。だが攻撃の指揮を執るには、その優しさがあだとなる。自軍の綻びと同様に、敵軍の綻びも容易に察知できるだろうに、そこを効果的に突くことが由比ヶ浜にはできない。

 

「できれば結衣には、このままで居て欲しいけどね」

 

 そう口にした海老名は一瞬だけ、あの二人とは隔絶している自身を意識して、それを嫌悪する。だが、この感情を抑えるのは慣れている。すぐさま気持ちを切り替えて、対応の続きをする。

 

 中軍への対策は、単なる消耗戦だ。こちらの軍勢は、大将騎を配さない烏合の衆。それを相手にした泥沼の乱戦に付き合って貰いながら、時計の針を進める。

 

 そして敵左翼には、()()()()()()()()()()()。もしもこれを読まれていたら、万事休すだ。このチバセンにおいて、海老名にとっての秘中の秘。それは「最後まで生き残らせる大将騎は自分では無い」ということ。自分よりも個人の戦闘力で上回る川崎沙希を中心に、十重二十重の囲いを作る。それが海老名の奥の手だった。

 

 三浦と一色が闘っている時に川崎を動かしたのを、雪ノ下は見てくれただろうか。あれが単なるブラフに過ぎないと、見破られてはいないだろうか。自らを囮にしてでも川崎の役割を隠しとおすことが、このチバセンでの海老名の最大の目標だったのだ。それは果たして、上手く行っただろうか。

 

 趣味を同じくする頼もしい同胞たちを引き連れて、海老名は城廻を迎え撃つために出陣した。海老名の見立ては大枠では間違っていない。海老名の意図も見破られていない。だが、海老名が見落としていたのは……。

 

 

 猛烈な勢いで砂煙を巻き起こしながら、雪ノ下の騎馬が駆ける。いったいどれほどの軍勢を引き連れているのか、目視できないほどだ。

 

 白組の背後に回り込んで包囲せんと動くその騎馬隊の前に、待ち受けるのは三浦とその精鋭。三浦が時どき練習に付き合っている女子テニス部の面々や、テニスコートに近い場所で練習している運動部の生徒たちで構成されている。中でも女テニの部長は三浦とは中学からの付き合いで、「一対一の闘いは尊重するけど、もしも三浦が劣勢に陥った時には乱入する」という条件を呑ませたほどの間柄だ。

 

 大将騎の生死は、この競技の結末を大きく左右する。だから三浦以外の面々は海老名の指示に従って、雪ノ下をここで止めることに、そして三浦を討ち取られないことに専念すると決意していた。睨み合う形になればベストで、雪ノ下を討ち取ろうとか軍勢を全滅させようなんて考えは論外だ。ゆえに彼女らは、雪ノ下以外の騎馬にはほとんど注意を払っていなかった。

 

 雪ノ下の初手は、自分を葬ることか。それとも自分たちを迂回して包囲を完成させることか。どちらに転んでも対処できるようにと心の支度を調えて、三浦は油断なく身構える。しかし、答えはそのどちらでもなかった。

 

 自軍に向けて一直線に進んできた雪ノ下は、直前で方向を変えた。だが、この場から立ち去ることはせず。動揺する三浦たちの周囲を、勢いを落とすことなく一回りした。それは文字通りに鎧袖一触。たちまち友軍が半減する。

 

 そして、息つく暇もなく二回り目。ようやく三浦が事態を把握した時、周囲にはほんの数騎しか残っていなかった。だがそれは、動きを止めた雪ノ下も同様。砂煙の背後に大軍勢を予想していた三浦たちだったが、あにはからんや。雪ノ下はわずかな供回りしか連れていなかった。

 

「これで、だいたい同じぐらいかしら。貴女のお誘いを受けて、勝負に来たのだけれど。数で押し潰されては興醒めだから、少し間引かせて貰ったわ」

 

「どっちみち、一対一の予定だったから関係ないし」

 

 まるで悪役のようなセリフで挑発してくる雪ノ下と正面から向き合って、それでも三浦は怯まない。唖然としている女テニの部長に「勝負の邪魔をされないように、頼むし」と言い残して(もはや加勢の機を窺えるような状況ではない)、三浦は雪ノ下に向けて騎馬を進めた。

 

 

 二年J組の同級生を数騎残して、雪ノ下は右翼にいた騎馬のうち城廻と繋がりがある生徒は左翼に、それ以外は中軍に移動させた。その動きを白組に見破られないように、移動距離が長い者たちから少しずつ動かすと同時に、中軍の右翼に近い生徒たちを一時的に組み入れるなどしてカモフラージュしていた。

 

 結果的には左右両翼に敵を迎える事態にはならなかったが、その可能性がある以上は、布陣の時点からダミーの軍勢を仕立てるのは無謀だろう。それに白組の陣形によっては合戦の冒頭から、そのまま全軍を率いて突撃する手も有り得た以上、戦闘と平行して人員構成を変更するのは必須だった。

 

 雪ノ下は動き出すギリギリまで、味方に中軍と両翼とを行き来させて、数の変化を見破らせなかった。だから、城廻の軍勢が数を大きく増やしているのを海老名は見落としてしまった。そして、文化祭ではクラスの出し物に集中していたために、つまり城廻と生徒会役員の絆を目の当たりにしていなかったがために。趣味によって繋がった自分たちに匹敵するほどの一体感を誇る、城廻の騎馬隊の実力を見抜けなかった。

 

 城廻にしても海老名にしても、個人の運動能力という点では平均かそれ以下のレベルでしかない。二人はともに、集団を扱ってこそ本領を発揮する。

 

 だが、海老名が戦術や人の心理にも詳しく大勢を指揮する能力に秀でているのは、趣味という防壁を越えて少し突っ込んだ話をしてみれば誰にでも解ることだ。海老名は自らの優秀さを、別に隠してはいないのだから。

 

 それに対して城廻は、集団を率いるための目に見えた才覚などは持ち合わせていない。事務能力に長けているわけでもなく、専門知識が豊富なわけでもない。それでも、一緒に働いてみればすぐに解る。色んな物事がスムーズに動いてストレスなく働ける環境に、どれほどの価値があるのかを。各種の能力テストなどでは決して測れない、けれども人を率いるためには必要な才覚を、城廻は確かに有している。

 

 最初にその能力を見出したのは、雪ノ下陽乃だった。そして今や城廻は、雪ノ下姉妹の両方から一目置かれるという、嬉しいんだか嬉しくないんだか悩ましい扱いすら受けている。個の能力としては平凡な城廻だが、物事をありのままに受け取る性格が、自らの至らぬ点を理解して素直に他人を頼る姿勢が、周囲の人材を輝かせることに繋がっているのだろう。

 

 それは今も、体育祭の舞台でも有効だ。

 

 左翼から白組の背後を目指した城廻の騎馬隊は、海老名が率いる軍勢に待ち伏せされていることを悟った。その刹那、瞬時に隊列が動いて、城廻を守るような配置にシフトする。そのまま足を止めて敵陣を窺うと、騎馬を整然と並べてこちらを迎え撃たんとする海老名と目が合った。

 

 敵ながら天晴れなその布陣を見ても、城廻たちに恐れはない。なぜならば、彼我の数の差は倍以上。開戦時から左翼にいた人数に加え右翼の半数を吸収した彼女らに対して、もともと少数精鋭だった海老名の部隊は、圧倒的に不利な状況に置かれていた。

 

「雪ノ下さん、引き連れてるのは数騎だけって……それは読めないなー」

 

 遠方をちらりと見やって、目の前の軍勢がどこから補充されたのかを悟る。だが唇を噛みしめながら呟いてみても、今となっては手遅れだ。整然と撤退するような余裕は与えてくれないだろうし、ならば最善の行動は、稼げるだけの時間を稼ぐことのみ。囮としての価値は、まだ充分に残っているはずだから。

 

 数の力で押し潰されるのを少しでも先に延ばすための、苦しい闘いが始まった。

 

 

 自軍の左方では三浦と雪ノ下、右方では海老名と城廻が直接対峙している。それらを交互に眺めながら、川崎はどちらかに不利な徴候が見られた時にはすぐに駆け付けられるように、事実支度を調えつつ。同時に、自らの周囲に防御陣を布くタイミングを窺っていた。

 

 この競技における川崎の役目は、「最後まで生き残ること」その一点のみ。それを聞かされた時には随分と渋ったものだが、最終的に海老名の案に同意した以上は、その役割を全うすることに異存は無い。

 

 とはいえ、たとえスタンドプレーであっても「大将騎を助けられる」と思えた時にはそこに急行する。明言こそしなかったものの、川崎がそう考えているとは海老名も了解していたはずだ。その代わりに、川崎は「大将騎を討てると思えた時でも出撃しない」ことを自らに課していた。それも海老名には伝わっていて、むしろ「動こうかと演技するぐらいでお願いね」などと言われている。その依頼は先ほど果たした。

 

 三浦と海老名は目に見えて劣勢ではあるものの、赤組の猛攻をよく凌いでいた。自分が加勢に行く代わりに、軍勢を割いて援軍を向かわせることも考えたものの。彼女らの部隊が高度な連携を披露しているのを見ると、それも憚られる。それに人員を割くということは、自らの守りを薄くすることを意味するからだ。

 

 中央に目を向けると、由比ヶ浜率いる赤組最大の軍勢が自軍を侵蝕していた。その勢いを考えると、他所に援軍などと考えていられる余裕は無さそうだ。大将騎の三浦が去った後の第一陣が、赤組に飲み込まれていくのを確認して。川崎は自軍の騎馬全員に、防御陣を布くことを下知した。

 

 

 三浦は雪ノ下に対して攻勢に出ようとはせず、手数を繰り出しながらも相手に隙を与えない闘いに終始していた。

 

「貴女が亀のように首を縮めているのは珍しいわね」

 

 そうした挑発を何度か受けたが、それでも三浦は方針を変えない。

 

 一学期に行われたテニス勝負にて、コート内における最優秀選手は自分だったと三浦は今なお思っている。だが、勝負には負けた。自分が実力を発揮して、葉山が適切にサポートしてくれれば、それ以上の作戦など必要ないと思っていたのが原因だ。

 

 確かに才能という点では雪ノ下に及ばないだろう。それは認める。だが中学の三年間という時間をテニスに捧げた三浦は、自らが過去に積み重ねたものに自信を持っていたし、それ自体は間違っていなかったとあの試合で確認できた。いかに雪ノ下が天賦に恵まれていても、そこに時間を費やさなければその素質は開花しない。

 

 今、三浦と雪ノ下の立場はあの時とは逆になっている。おそらく護身術とかその類いだと思うのだが、純粋な戦闘力という点ではあちらが上だ。雪ノ下と比べれば三浦はただ、運動能力にまかせてごり押ししているに過ぎない。素養も、そして費やした時間と労力も、あちらが上。それらを認めないようでは、瞬殺されるのがオチだろう。

 

 だから三浦はその評価を受け入れた上で、自分にできる最大限を模索した。その結論は海老名と同じ。雪ノ下を中央の戦闘に参加させないように僻地で引き留めておくこと。そして、その目的はほぼ果たされている。

 

「もう、時間が無いし?」

 

 三浦は相手と少し距離を取って、ちらりと時間を確認した。わざわざ口に出して伝えたので、向こうも状況を把握したことだろう。今からどんなに急いで騎馬を走らせても、雪ノ下が川崎との戦端を開くには距離が離れすぎている。

 

 一つだけ意外だったのは、川崎が加勢する可能性をまるで警戒していないように見えたこと。だがそれも、雪ノ下の性格を思えば即座に解決した。その場合はきっと、「二人まとめて返り討ちにすれば手間が省ける」などと考えていたのだろう。だから、そんな状況を作らせず川崎の温存に成功した海老名の作戦勝ちだと、三浦は思っていた。

 

 

 たしかに雪ノ下は、海老名の戦術を見破れなかった。とはいえそれは、見破る必要が無かったとも言える。

 

 赤組からすれば、最後に残るのが海老名であれ川崎であれ、白組の大将騎を全滅させる以外の選択肢は無い。だからこそ、作戦の基本はシンプルなものだ。率いる軍勢の多寡を問わず、自他の大将騎が直接ぶつかり合う状況に持ち込むこと。ただし、全勝できる形にすること。その目的の為に、消耗戦なり捨て石なり背後に回り込む動きなりを利用した。

 

「では、遊びの時間はおしまいね」

 

 そう告げる雪ノ下に呼応するかのように、三浦が初めて攻勢に出た。ここまでで、三浦は見事に己の責務を果たした。逸る気持ちを必死に抑えて、役柄を全うした。もはや残り時間を考えれば、三浦が討ち取られようが生き残ろうが、大勢は変わらない。だから、挑む。

 

「この瞬間を待ってたし」

 

 勝負は一瞬。だがその内実は、結果ほどには一方的なものではなかった。地道に手数を重ねたこと、最初に麾下の軍勢を減らされたことは、雪ノ下の体力を削る効果があった。

 

『空気投げ?』

『いや、隅落か?』

 

 解説が混乱するのも無理はない。それほどに見事な技を披露しながらも、雪ノ下は複雑な表情を浮かべている。なぜならば、この技は相手の力を利用するのがその真髄なのだから。三浦の動きが、気迫が侮れないものだったからこそ、雪ノ下はこの技を出さざるを得なかったのだから。

 

 地に落ちた三浦の鎧が砕けて、ナース姿が露わになる。果たして一騎打ちに対してなのか、それともコスプレに対してなのかは判らないが、勝負を見守っている男子生徒の間からこの日一番のどよめきが起きた。

 

 

 実況や解説の声は、騎馬を維持している生徒たちには伝わらない。だが、観客の声は届く。

 

 海老名は状況を視認することなく、三浦の敗北を受け入れた。この半年に亘る付き合いで、彼女の性格は知悉している。きっと役割を果たした上で、真っ向から勝負を挑んだのだろう。ならば私も、現状の最適解を貫こうと海老名は思った。

 

 ここまでの戦闘で、城廻が率いる騎馬隊の実力は骨身に染みるほど理解した。あちらは会長に捧げる忠誠心、こちらは腐った趣味に捧げる忠誠心。驚くことにそれらは拮抗している。まさか、自分が率いるこの面々と、同程度の練度を持つ軍勢がいるとは思ってもいなかった。

 

 集団の指揮という点ではこちらが上、だが士気という点では残念ながら向こうが上だ。手勢の動かし方は平凡だが、動きの鋭さでカバーされていると言うべきか。バフが毎ターン重なる敵と戦っているようで、せっかくこちらが会心の攻撃をお見舞いしても、通常攻撃ですぐさまチャラにされる繰り返しだった。

 

 そして何よりも、数の差が大きく物を言っていた。三浦に続いて自分が討ち取られるのも時間の問題だ。それに、逃げられるような隙も最初から無かった。だが局所の結末は同じでも、ここまで粘れば城廻の部隊は中央の戦闘には参加できないだろう。戦場を俯瞰すれば、海老名が時間を稼いだ価値はあったはずだ。

 

「海老名さん、討ち取ったりー」

 

 鎧の下に着ていた巫女服が露わになる。城廻のこうしたノリも初耳だなぁと思いながら、海老名はここまでの自分の動きに、采配に満足していた。陰陽師モノも囓った私が推測するに、他人を思いやってしまう由比ヶ浜では川崎の防御陣を抜くことはできないだろう、などと考えながら。

 

 さすがに全ての生徒を統率するのは難しいもので、激闘を制した城廻に白組の騎馬が幾つか挑みかかっている。大将首を狙っているのだろうが、そんな奇襲に屈するような相手では無かったはずだ。味方ながら無駄な努力をしているなと考えながら、中央の戦闘に目を向けて。海老名は、自軍の劣勢を知る。

 

 

 中軍を預かった由比ヶ浜は生き残った騎馬を密集させて、力強く前進させた。由比ヶ浜が川崎に至る道を作るために。それも五分の条件ではなく、相手を総崩れにさせて、その勢いに乗った状態で対峙できるように。

 

 とはいえ雪ノ下も懸念し海老名も予想していた通り、由比ヶ浜は攻撃を徹底させることができない。自軍の被害を抑えようとしてしまうから。そして、敵軍の被害も抑えようとしてしまうから。時間が迫っているのに、つい安全を重視して手を緩めてしまう。

 

 それでも、あるいはそれ故にか、麾下の騎馬軍団は抜け駆けなどの気配もなく由比ヶ浜の指揮に従っている。勝ちを焦って無謀な行動に出る騎馬や、指揮官を見限るような騎馬は一騎たりとて存在しない。

 

「あ、またゆきのんの方に……」

 

 そんな由比ヶ浜が積極的な采配をするのは、決まって両翼に変化が起きかねない時ばかりだった。雪ノ下が三浦と、城廻が海老名と対決しているその現場に、土足で踏み入る敵には容赦しないと宣言するかのように。この時ばかりは何の遠慮もなく、味方を効率的に動かして敵を屠っていた。

 

 守勢でこそ本領を発揮するという海老名の評はおそらく正しい。そのお陰で、雪ノ下と城廻は勝負に専念できたのだ。とはいえ攻守を明確に分断できるような競技はさほど多くなく、両者が密接に繋がっていることも珍しくない。それは、このチバセンでも同じこと。

 

 両翼の決着を見届けて、残り時間を確認した由比ヶ浜が「被害には目を瞑って総攻撃に出るべきだ」と決断を下そうとした、まさにその瞬間。

 

「ゆきのん……あ、城廻先輩も……」

 

 勝負を制した二人に向かって、ほど近い距離にいる敵勢が動き出そうとしていた。これまでを遙かに上回る数だ。おそらく残り時間を見て、大手柄を立ててやろうと考えて勝手な行動に出たのだろう。もともと三浦に置いて行かれた軍勢だけに、指揮系統が機能しているとは言いがたい状況だったのも影響したのだろう。

 

 きっと、この決断は間違っている。そう考えながらも迷いは無かった。

 

 前線に近い位置まで移動していた由比ヶ浜は、正面への突撃を命じるのに代えて、自軍の両翼を敵遊軍の殲滅に向かわせた。数に物を言わせて突撃するはずが、わざわざその数を減らして。相手を押し包むはずだった陣形も乱して。それでも由比ヶ浜は己の責務を忘れていない。

 

 由比ヶ浜の目的は、川崎を討ち取ること。けれども、せっかく相手の大将騎を沈めた雪ノ下と城廻が今さら討ち取られてしまうのは嫌だ。そして、目の前にはそれらを両立できる一手があった。

 

 このまま敵陣への突入を敢行すれば、白組の注目は自分に集まる。既に両翼に向けて動き出した敵軍は引き返しては来ないだろうが、二人がこれ以上狙われることもないだろう。だって、自分という的がわざわざ近寄って来てくれるのだから。それに、今の援軍で左右の備えも大丈夫なはず。

 

 だから由比ヶ浜は後顧の憂いなく、行動に出る。敵を攻撃するためというよりは、むしろ味方を守るために。そうした気持ちを過たず理解して、仲の良い面々が続々と、最前線に集まって来た。彼女らに向けて破顔して、そして由比ヶ浜は。

 

「じゃあ、突撃ーっ!」

 

 号令と共に自らも、敵陣に向けて放たれた矢の一つになった。

 

 

 自分に向けて一直線に向かってくる由比ヶ浜を、川崎は眩しいものでも見るかのように、目をすがめて眺めていた。なぜかは解らないが、きっと自分はあの軍勢に討ち取られるのだろうと思ってしまった。そんな弱気を何とか気力で抑える。

 

 左右に目をやると、勝ち残った敵の大将騎に味方が数騎挑んでいる。だが大金星は不可能だろう。由比ヶ浜が手配した援軍が、彼女らのすぐ背後まで迫っているからだ。

 

 両翼を援軍に出したことで赤組の陣形は、当初はV字型の鶴翼の陣に近かったのだが、中軍が前に出たこともあってΛ型とでも言えば良いのだろうか。つまり偃月の陣に近い形になっていた。意図してそうなったわけではないけれども、突撃を敢行するには最適な陣形だ。

 

 対する白組は、完全な方円陣というわけではない。背後からの脅威が無いのだからそちらへの備えを薄くした結果、むしろ三角形の底辺に大将を配する魚鱗の陣に近い形だ。これは鶴翼の陣には相性が良いことで知られている。もしも由比ヶ浜が先程の陣形のまま突撃していたら、中軍を抜かれて返り討ちに遭っていた可能性もあった。

 

 赤組に何があったのかは川崎には分からない。だがその一体感といい勢いといい陣形といい、先程とは比べ物にならない。

 

 それでも、先頭に立つ由比ヶ浜を討ち取れば状況は劇的に変わると思われた。雪ノ下も城廻も、中央の闘いに参加するには距離が離れすぎている。だから由比ヶ浜をと、白組の誰もが考えて行動に出たのだが。

 

 由比ヶ浜が窮地に陥るたびに赤組の誰かが身代わりに立って。誰一人由比ヶ浜を討ち取ることも、勢いを緩めることすらできない。

 

「一人で千を相手にする気分だよ……」

 

 そう呟いて、川崎は支度を調える。白組の最後の大将騎として、無様な姿は見せられない。

 

 

 由比ヶ浜は、自分の代わりに討たれていく騎馬を余さず記憶に留めて、それでも突撃を中止しようとはしない。きっとこれが最後のチャンスだ。もはや大将騎の自覚も捨てて、ただ相手に食らいつく牙の一つとして己を意識する。もしも自分が倒れても、別の誰かが倒してくれれば良い。そう考えながら。

 

 そんな由比ヶ浜の姿勢が全軍に伝わったせいか、その騎馬部隊は破竹の勢いで白組を蹂躙していく。

 

 もはや勝負は見えた。海老名は静かに目を瞑り、三浦は不機嫌そうに空を眺める。そして。

 

 川崎に向けてなだれ込んだ軍勢の中で、功を上げたのは先頭の大将騎。

 

 

『チバセンは、赤組の勝利でーっす!』

 

 実況の戸部の声が、周囲に響き渡った。




次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(8/3)


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05.ざつおんを気に留めず彼は彼なりの正々堂々を貫く。

前回までのあらすじ。

 数分の遅延が起きている程度で、体育祭はおおむね順調に進行していた。だが些細な問題であっても良しと済ませず、雪ノ下は仕事を求める。八幡と由比ヶ浜、さらには城廻にも宥められる光景が増えて来た。

 ついに残すは目玉競技の二種目のみ。白組と赤組の差は四五点にまで広がっていた。優勝の可能性を繋げるためには、相手の大将騎を全て討ち取るしかない状況だ。女子の目玉競技・チバセンに挑む三人は八幡に見送られ、そして見事に三〇点をもぎ取った。

 これで点差は一五点。残るは男子の目玉競技・棒倒しである。



 グラウンドでは、赤組の女子生徒たちが敗者を讃えていた。

 

 白組の大将騎を三人全て討ち果せたものの、勝負は僅差だった。偶然が赤組に味方した部分も多々あったとは、実際に競技に参加した彼女らが一番良く解っている。だからだろう。一足先に退場門に向かった白組に向けて、誰からともなく拍手が起きていた。

 

 ナース姿の三浦優美子と婦警の姿になった川崎沙希に先導されて、白組の女子生徒たちが観客にもねぎらわれながら退場していく。見応えのある勝負を披露してくれた彼女らを見送って、「次は俺たちが」とやる気になっている男子生徒たち。そんな彼らに頑張ってにやりと怪しい笑顔を見せつけつつ、巫女服を着た海老名姫菜が最後に退場門を後にした。

 

 またいつか、機会があれば勝負してみたい。敗軍の将としての責任を感じながらも、あくまでも前向きに、そう考えながら。

 

 

 そして勝者の赤組にも惜しみない拍手が送られる。観客からも、退場した白組からも。実況係がその雰囲気を更に煽り、解説役が予定には無かったウィニングランを提案すると、一層大きな歓声が沸き起こった。

 

 無茶ぶりと言っても良い展開なのに、赤組の女子生徒たちはさすがの統制を見せた。最初に布陣した時と同様に全軍を三分して、それぞれを大将騎が率いる形でゆっくりとグラウンドを一周する。

 

 雪ノ下雪乃に率いられた右翼の騎馬たちが先陣を切り、続いて由比ヶ浜結衣の中軍が、最後に城廻めぐりが左翼を引き連れて。そして彼女らは、鳴り止まぬ拍手に送られて退場門に消えて行った。

 

 

***

 

 

「これでまた、遅れが大きくなってしまったのだけれど?」

 

 退場門から運営委員会のテントへと直行して、雪ノ下は開口一番こう告げた。言われた比企谷八幡はそのセリフを予想していたのか、苦笑いにも余裕がある。鋭い視線でじろりと睨み付けられてもどこ吹く風だ。

 

「俺は観客の希望を言葉にしただけで、煽ったわけでも命令したわけでもないんだがな」

 

 そもそも、遅延の原因を明確に口に出して責めて来ない時点で、本気で怒っているわけではなさそうだ。むしろこれは、怒っていると言うよりは。

 

「ゆきのん、すっごく格好よかったよ。だからそんなに照れなくてもいいじゃん」

 

「由比ヶ浜さん。私は別に照れているとかそういうわけではなくて、運営委員長として時間厳守を言い聞かせたかっただけなのだけれど。スケジュール通りなら棒倒しも終わって、そろそろ閉会式が始まる時間よ。それに……格好良かったと言われるのは、最後の攻撃を率いた貴女の方が相応しいのではないかしら?」

 

「じゃあさ、二人とも格好良かったでいいんじゃない。ね、比企谷くん?」

 

「あー、俺が言ったらセクハラ扱いされるか『キモい』って言われるだけなんで、ノーコメントでお願いします」

 

 いつものように「ぼっち危うきに近寄らず」を実践する八幡に苦笑して、大将騎を務めた三人に落ち着きが戻って来た。グラウンドでは落とし物などの点検が終わって、体育教師が荒れた地面を元に戻している。まだもう少し時間が掛かりそうだ。

 

 

「あ、セクハラって言えばさ。コスプレ姿を見られなくて良かったよね。比企谷くんは、ちょっと残念だった?」

 

「いや、その、陽乃さんみたいな言い方は……って、わざとからかってますよね?」

 

 たまには先輩風を吹かせようと考える城廻だが、お手本に問題があるので上手く行かない。とはいえ他の方面には効果があったようで。

 

「ヒ、ヒッキーは見ちゃダメっ。……だ、だってさ。城廻先輩のメイド姿、超似合ってたし。超癒やされる感じだったし」

 

 最初は勢い込んで口を挟んだものの、後半になるに従って小声になっていく。そんな由比ヶ浜を微笑ましく眺めながら話を続ける。

 

「由比ヶ浜さんの衣装は小悪魔だったわね。もうすぐハロウィンだし、とても似合っていたと思うのだけれど?」

 

「浴衣姿の雪ノ下さんも素敵だったよー。ねね、比企谷くん。試着した時の写真があるんだけどさ、見たい?」

 

「みんな似合ってるだろうなってのは分かりますし、遠慮しときますよ。つーか、浴衣ってコスプレになるの……ああ、雪おんぬぁおぅっ!?」

 

 殺気と視線だけでも、使い手次第で他人を再起不能にできるんだなと、背に冷や汗を流す八幡だった。

 

 ちなみに使い手と言えば、四人を遠巻きに眺める男子生徒たちの「ヒキタニ爆発しろ」「比企谷うらやましね」という呪詛の声は全く届いていなかったりする。体育祭の運営に関する打ち合わせか、はたまた目玉競技の作戦会議かと、気を回して距離を置いてくれている彼らにも春が来るといいですね。

 

「準備が整ったみたいね。では、あとは任せたわ」

「ヒッキー、あとよろしく!」

「あとは男子の応援だー。おー!」

 

 先程の教訓から、余計な動きをせず黙って移動しようとした八幡だったが。三人が揃って片手を挙げている姿を見せつけられて万事休す。「自分から女の子の手を触りに行くとか、棒倒しで勝つよりも難易度高そうなんですけど」などと心の中で呟きながら。できるだけ無造作に見えるように細心の注意を払いつつ、ハイタッチを三度。

 

 そして八幡は、大きな疲労感と小さな充実感を背に退場門へと向かった。

 

 

***

 

 

 チバセンと棒倒しは生徒の半数が参加する目玉競技なので、赤組と白組に分かれて入退場門から同時にグラウンドに入る。プログラムに沿って紅白の順に入場門を使うように割り当てたので、今回、赤組の生徒たちは退場門に集まっていた。

 

 見目麗しい女子生徒三人と手合わせをしていたせいで遅くなった八幡が、知り合い連中を探してきょろきょろしていると。飾り付けられた退場門の真下に戸塚彩加と、その横でふんぞり返っている材木座義輝を見付けた。

 

 目立つ場所に移動するのを躊躇する八幡を尻目に、材木座が声を張り上げて口上を述べる。

 

「控えおろう、皆の衆。こちらにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くも赤組総大将・戸塚彩加嬢にあらせられる。頭が高い、引っ立てい!」

 

 いやいや、引っ立てたらダメだろと内心で律儀に突っ込みつつ、八幡は周囲を眺めた。チバセンを見て燃え上がった気持ちは未だ消えず、ゆえに大半の男子生徒は、この雰囲気を思い切り楽しむつもりらしい。材木座の言い回しを深く吟味することなく、素直に地面に片膝をついて恭順の姿勢を示している。

 

「あのね。さっき四五点差になったのを見て、ぼくも正直『厳しいかな』って思ったんだけどね。でも、赤組の女子があれだけ頑張ってくれたんだしさ。ぼくらも男の子なんだから、頑張らないと!」

 

 両手を胸の前で握りしめて、学ラン姿でそう力説する戸塚だったが。赤組男子の心にふつふつと湧き上がって来るのは、「この性別不詳の可愛らしい生き物を守りたい」という使命感だったりする。

 

 ともあれ、当人の意図とは少し違う形ではあるものの。総大将の演説のお陰で赤組男子の心は今、一つになった。狙うは勝利のみ。その決意を胸に、生徒たちは門を通ってグラウンドに集結した。そして。

 

 戦場では両軍の総大将が名乗りを上げて、放送席では鮮血がほとばしった。

 

 

 チバセンの退場の時には「少しいつもと様子が違うな」と思った八幡だったが、切り替えが早くて何よりだ。彼女のあふれ出る血潮に、自分が直接的には関与していないのも喜ばしい。第一候補は戸塚ではなく俺だったと聞いた時には戦慄したが、大将なんぞに祭り上げられなくて良かったと心から安堵する八幡だった。

 

 そもそも総大将になるのはもちろんのこと、全軍を指揮するのも作戦を主導するのも柄に合わない。それに、あの二人の威を借りられる状況ではない以上、誰も俺の案には従わないだろう。そうした陽の当たる役割よりも、搦め手からこっそりと忍び寄るのが俺の性に合っている。

 

 そう考える八幡は、文化祭の渉外部門でお世話になった三年生にお願いして(雪ノ下が休んだ時に、代わりに発表してくれた先輩だ)、序盤は守備を固める方針で意見をまとめて貰った。その間に、少数精鋭で速攻を仕掛ける。

 

「さて、どうなりますかね」

 

 策は、おそらく成就する。だが問題は……。

 

 この距離でも感じ取れるほどの存在感を放つ敵の総大将・葉山隼人を一瞥してから、ゆっくりと自軍に視線を戻して。八幡は軽く頷くことで、関係各位に作戦の実行を伝える。

 

 同時に、放送の声が遠のいて。フィールドの中央で号砲が鳴り響いて、開戦の火蓋が切られた。

 

 

***

 

 

 白組はまとまった人数を集めて、まずは中央突破を狙ってきた。葉山の指揮は的確で、抜擢された面々も個々の動きに加え連携も洗練されている。とはいえ初手から全力というわけでは無さそうで、白組の棒の周囲には大勢の生徒が残っていた。

 

 対する赤組からは、数人の生徒が走り出た。白組の攻撃部隊を右に避けて、そのまま左回りで敵陣に向かう。しかしそこには連動性というものが全く見えず、バラバラに走っているだけ。

 

 それを見た観客や敵はもちろんのこと、味方の大半も彼らの動きを理解しかねていた。するとちょうど両軍の真ん中を過ぎた辺りで、先頭を走る痩せぎすの一年生が速度を緩めぬまま、大声を張り上げた。

 

「遊戯部だから、ゲームが趣味だから、どうせ運動が苦手なんだろって言ってた奴ら。俺を止められるもんなら止めてみやがれ!」

 

 本音を言えば、運動が苦手だと見なされるよりも、陰気だと思われるほうが嫌だった。ひょろっとした体型で眼鏡をかけてゲームが趣味で、それらを根拠に勝手に自分の性格を決めつけられるのが嫌だった。

 

 運動能力は、体育の時間に見せつけることができる。秦野は運動を苦手にしておらず、むしろ長距離走などは学年でもトップクラスだと示すことができた。だが性格は、秦野がどれほど否定しても無駄だった。激しい口調で否定すれば「図星だからだろ」と言われ、ならばと聞き流していたら「否定しないのは正解だからだろ」と言われ。一時期は、本気でゲームを辞めようかと悩んだほどだ。

 

 だが頼りになる相棒を得て、そしてこの高校に入学したことで奇妙な先輩たちとも縁ができた。秦野と、そして相棒の相模は、その先輩方に恩がある。あの目の淀んだ先輩に、彼らをゲームで打ち負かした先輩に、ゲームによって小学生のいじめを止めさせるという奇跡を見せてくれた先輩に頼まれて、断れるわけが無い。

 

 秦野ほどスタミナは無いが、相模も運動は人並みにできる。遊技部の二人が代わる代わる挑発を重ねたこと、いじめに繋がりかねない要素を感じさせる発言だったことも、白組が二人を無視できない要因になっていた。教師はもちろんのこと、全校の女子生徒が見つめるこの場において、これ以上あの二人に好き勝手を言わせるわけにはいかない。

 

 だから白組の一年が動いた。その大半はかつて、秦野が言った通りに彼を見下し、そして体育の時間に煮え湯を飲まされた連中だった。その集団に追いつかれないように、秦野と相模は離合集散を繰り返しながらフィールドの端へと誘導していく。

 

 

 秦野と相模が白組の一部を引き剥がして連れ去った後も、赤組の生徒たちは走り続けていた。お世辞にも足が速いとは言えないその四人は、息が切れない程度のスピードで移動を続けている。

 

『また何かを言われる前に、まずはあの四人を取り囲んで無力化させて欲しい』

 

 白組の攻撃部隊を左に避けて、そのまま右回りに悠々と歩いて近付いてくる二人に唇を噛みしめながら。敵の狙いが明らかになる前に潰すことを、葉山は選択する。

 

 開戦と同時に赤組で動いたのは、たったの八人。最初に六人が走って、続けて二人が歩いて、群れの中から飛び出して来た。それ以外の生徒たちは戸塚の周囲に集まって、棒と総大将とを守っている。勝敗に関係するのは棒だけだが、総大将のみ発言が自軍の全員に伝わるという特殊能力を有しているので、守護を疎かにはできない。

 

 先程のチバセンでは、大将騎の声が届く範囲にしか指令が届かなかった。だから雪ノ下も由比ヶ浜も前線近くまで騎馬を進めて指揮を執っていたのだが、この棒倒しでは最後尾から全軍に指示を出すことができる。とはいえ、もちろんデメリットも存在する。

 

 つまり、口に出した言葉の()()が自軍全体に伝わってしまうのだ。同時にそれは放送を通して、観客にも伝わる仕組みになっている。聞こえないのは、声の届かない距離にいる敵の生徒のみ。もしも迂闊なことを口走ればたちまち全軍に動揺が走るだろうし、仮に外野を不快にさせる発言をして観客からそっぽを向かれてしまえば、自軍の士気は地に落ちるだろう。

 

 この仕様を聞かされた時、「自分に有利な設定だ」と葉山は思った。常日頃から人に注目されて過ごして来ただけに、発言に慎重になることには慣れている。自分に限って不用意な発言の心配は無いと、そう思っていた。

 

 ここまでのところ、葉山の推測は概ね正しい。だが、見落としていたこともある。

 

 この距離では戸塚の肉声が聞こえないので憶測に過ぎないのだが、戸塚が何を言っても、仮に自軍のピンチを口にしてしまっても、「赤組が奮起する」以外の影響は無いのではなかろうか。総大将のためにと気合いを入れる敵軍の様子から葉山はそう考えて、そして思わず身震いした。

 

 何を言っても自軍を奮い立たせる総大将と、失言を(おそらく)しない総大将。有利なのはどちらだろうか。

 

 ゆっくりと近付いてくるあの男子生徒に対処するだけでも骨が折れるのに。彼を退けたところで、戸塚の名の下に狂戦士と化した連中とも戦わなければならない。そんな展開が見えてしまった葉山は、囮に決まっている四人を早急に片付ける方針を固めた。先のことは考えまい。それよりもまず、あの男との対決は俺が望んだことなのだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 

「邪魔立てされようとも、我が通ると言えば通ぉぉぉる!」

「ちっ、どんどん増えて来やがる。津久井、藤野。側面から崩してくれ」

 

 討伐隊を正面から押し返す腹づもりらしい材木座に仕方なく付き合って、同時に城山は柔道部の後輩に指示を出した。

 

 この世界に巻き込まれて、部の存続すらも危ぶまれる状況に陥って。多くの部員が去って行く中でも、津久井と藤野の二人は最後まで残ってくれた。もしも彼らが居なければ、テニス勝負で雪ノ下に背中を押される以前に、城山の心は折れていたかもしれない。

 

 戸塚経由で八幡の策を聞いて、その作戦に呆れ返った城山だったが、あの葉山に一泡吹かせるのは悪くないと思った。運動部の部長同士で仲は良好だったし、特に個人的な恨みなどは無いのだが、先日の運営委員会の集まりで八幡に執拗に念押しする態度が少し引っ掛かった。それに奉仕部には恩がある。八幡の案に乗ってみようと決意するまで、さほど時間はかからなかった。

 

 どうせ協力するのであれば、少しでも成功の可能性を高めたい。だから城山は、信頼できる後輩二人も作戦に加えて欲しいと申し出た。材木座と二人だけでは不測の事態に対応しきれない。だから津久井と藤野を、と頼み込むつもりだったのだが、第一声でOKが出た。もうちょっと情報漏洩の心配とかしなくて良いのかなと、逆に不安になったものだ。

 

 実は事前に戸塚と由比ヶ浜から、城山の周囲の人間関係を聞き出していたがゆえの即答だったとは、未だに知らない。だが真実はどうあれ、城山は自分を信じてくれた八幡に信頼を寄せるようになっていった。教えて貰った作戦も、当初は微妙に思えたのだが、今では小気味よく思えて来た。

 

 

 今日のこの瞬間のために何度も話し合いを重ねたことで、八幡もまた城山の性格を把握できた。口数が少なく生真面目で、嘘がつけず責任を背負い込んでしまいがちな、いかにも運動部員の典型のような男だ。彼ならば信頼できると大勢が太鼓判を押してくれるだろう。

 

 だが他人に掌を返される経験を何度となく重ねてきた八幡だけに、実は今も一抹の不安を抱いている。顔を合わせてたったの数日で、戸塚や材木座と、更にはあの二人と同じぐらいに信じられるかと問われても、土台それは無理な話だ。

 

 八幡の決断を支えているのは、過去の経験によって構築された「裏切られたらその時だ」という諦念と、「協力者が居なければ作戦が成り立たない」という現実的な要請からだった。だからこそ、使えるものは徹底的に使う。葉山には受け入れがたい考え方だろうけれど、今回であれば演技スキルを最大限に利用することが、八幡にとっての「正々堂々」だ。

 

 ぼっちの行動はいつだってギリギリだった。誰も助けてくれない状況で、常に背水の陣を強いられていたようなものだ。だが今は、仮に八幡の作戦が失敗しても、総大将の戸塚が居る。俺の作戦の成否で全てが決まるという展開は勘弁して欲しいが、ダメ元で奇策を仕掛けられる今の状況は八幡からすれば理想的だ。

 

 だからこそ、絶対に成功させたい。その気持ちを再確認して、八幡は城山に向けていた視線をすぐ横に移した。

 

 並んで歩いている二年J組の保健委員とは、文化祭の実行委員会でも多くの時間を過ごした仲だ。白組の捕虜になるのが前提のこの作戦に付き合わせるのは心苦しいが、歯に衣着せぬ性格のこの男が最適なのもその通りだし、そもそも他に頼める当てがいない。口先三寸で失敗の可能性を減らす必要がある以上は、こいつのことも信頼するしか無いのが現状だ。

 

 

「ぐふう……た、たとえ我が死すとも、第二第三の我が貴様らを……地獄で先に待っておるぞ!」

「今更だが、正面突破は無謀だったな。まあ、大人しく助けを待つか」

 

 芝居がかった声が聞こえたので遠方を窺うと、白組の大人数に囲まれて材木座がわざとらしく地面に倒れかかり、柔道部の三人は両手を挙げて無抵抗を主張している。棒倒しにリタイアは無いので時が来ればまた動くつもりだが、しばらくは暴れ回った疲れを癒やそうと考えているのだろう。

 

 地面にどっかと座り込んだ城山以下の三人を確認して、八幡は白組の棒に目を向ける。果たして、こちらを凝視していた葉山と目が合った。棒を取り囲んでいる白組の誰かの肩に乗って、守るべき物体に背中を預ける姿勢で、にっこりと微笑まれてしまった。

 

 材木座が派手にうわごとを述べているこの状況で、俺から注意を逸らさないってどんだけだよと思う八幡だったが、あまり深くは考えないことにする。それよりも、棒倒しに勝つことだ。

 

 材木座たちより更に遠方では、遊戯部の二人が今も一定数を引き受けてくれたままだ。あれを見て葉山は、これ以上は誘い出されないようにと警戒していることだろう。もう他には手勢がいないのに、ご苦労なことだと八幡は思う。

 

 性格の悪そうな笑顔を浮かべながら、八幡は平然と歩みを続ける。完全に退路を断たれてもお構いなしだ。そして敵の棒を狙えるぐらいの距離で。声を張り上げなくとも葉山と会話ができる辺りで立ち止まった。

 

「なんか、途中から動きがバレてたみたいだな」

 

『俺が君からマークを外すわけがないだろ。当然、最初から気付いてたさ。戸部を担当にして、動きを逐一観察させてたからね。ここまで近付かせたのも意図的なものでね、二人ではどうやっても棒を倒せないだろ。競技が終わるまで、大人しくしててくれるかな?』

 

 ラグビー部の大和を始めとした多くの運動部員に支えられて、しっかと地面に立てられた棒を軽く叩いた葉山がそう言った。これで奇襲は潰せたと、そう考えながら。だが。

 

 

「わ、我の突撃が間違いだったと、主は申すのか?」

「そりゃまあ、そうだろ。いくら力が強くても、四人程度で正面突破はな。白組があれだけ人数を動員しても、今もほとんど進めてないぜ?」

 

 囮に決まっている四人のうち、二人がなんと口喧嘩を始めた。怒りゆえにか地声なのか、二人とも大声なので注意を向けなくとも難なく聴き取れる。八幡への警戒を怠らないようにしながら、念のために葉山はその言い争いに耳を傾けた。

 

「わ、我に往年の力さえ戻れば、この程度の人数など笑止千万。瞬きの間に蹴散らしてやれるのだが……」

「意味が解らんけど、人数差を考えろよ。なんだか、お前と喋ってると頭が痛くなって来たぞ」

 

 彼らの声をマイクで拾うべきか否かで、放送席ではちょっとした議論が起きていた。話の概略は推測できるが、自信を持って実況できるほどでは無いからだ。

 

 だが結果的には、観客の多くが事情を把握できている様子なので見送りにされた。まだ競技が始まったばかりで動いている生徒が少ないために、声が良く通る。放送席でも何となく話が読めるぐらいだから、実況による補足は必要ないという結論になった。

 

 ちなみに腐女子の万全の下準備と強硬な主張により、二人の総大将以外では唯一、八幡の周囲の声だけが、放送部門限定ではあるもののバッチリ聞こえる状態だったりする。そのため「怪我人が出るまでは」と由比ヶ浜に引っ張ってこられた本来は救護担当の雪ノ下や城廻、三浦と海老名に連行された衣装担当の川崎、そして勝手について来た他一名を含めた総勢七人のみが、八幡の発言を完璧に把握できる。

 

「ぬう。まさか八幡の人選ミスとは、あやつを信用しすぎたか。我も気付かぬうちに丸くなっていた、か……」

「なあ。その喋り方も何とかならないのか?」

 

 そんな外野の動きをよそに、二人の会話はますます険悪になって行く。

 

「う、うるさい、うるさい、うるさい!」

「話し方がいちだんと気持ち悪くなってるぞ……」

 

 そして遂に、材木座の堪忍袋が。

 

「よかろう、そこに直れ。我が自らお主を成敗してくれようぞ!」

「ちっ。どうせ暇だし、相手してやるよ」

 

 そう言って立ち上がる城山を睨み付けながら、材木座が助走の距離を取る。二人の剣幕を恐れてか、周囲を取り囲んでいた白組の生徒たちは我知らず包囲の輪を広げて、呆れ顔でその顛末を眺めていた。

 

「どっせーい……へぼわああ!」

「どうせなら、あの棒まで飛んで行けっ!」

 

 全速の助走から体重を掛けた一撃をお見舞いしようとした材木座だったが、その運動量を一切損ねず、それどころか城山の足の力も加えた綺麗な巴投げが決まった。

 

 

「……な、なあ。なんであいつ、落ちて来ねーの?」

 

 不思議な現象が起きていた。重力も空気抵抗も、その運動を妨げる一切が存在しないかのように、材木座の身体が一直線に進んでいる。白組の棒をめがけて。

 

 動く速度は大したものではない。材木座がひいこら言いながら走るぐらいのスピードだろう。だが着実に的へと近付いている。投げられた直後は奇声を発したり手足をばたばたさせていたのが、今や指先からつま先までをぴんと伸ばして、ウルトラマン気取りで飛んでいる。その体型とドヤ顔ゆえに、控え目に言ってもすごく不気味だ。

 

『ぐっ。これはやっぱり、ヒキタニくんが……。包囲部隊は城山たちを分断して、接触させるな。大岡、俺に殴りかかって来い!』

 

 慌てて地面に降り立った葉山が指示を出す。手ぶりだけで周囲から人を遠ざけると、意図を察した大岡が全速で向かって来た。その勢いを消さないようにと心掛けながら、巴投げの体勢に入った葉山は大声で叫ぶ。

 

『材木座くんに向かって飛んで行けっ!』

 

 だが無情にも、大岡の身体は放物線を描いて背後に落ちた。無事に受け身を取った姿を確認しつつ急いで起き上がると、鋭い視線を投げ掛ける。

 

『演技スキルは申請しないって、あの時……』

 

「そうだな。だから『棒倒しで演技スキルは申請しない』って一筆書いただろ。それはちゃんと守ってるぞ?」

 

 八幡と飛んでくる材木座と、その両者を油断なく観察しながら葉山は考える。まだ衝突までには時間がある。指示を出すのはもう少し後で良い。そう結論付けて、事態の解明を優先させる。と、閃いたことがあった。

 

『まさか、君じゃなくて材木座くんが申請を?』

 

「お、おー。それは盲点っつーか、思い付かなかったな。やっぱすげーなお前。でもな、残念ながらぼっちは、自分ができることは自分でやるかってなるんだわ」

 

 八幡に皮肉の意図はなく、感心しているのも葉山を凄いと思ったのも本当なのだが、言われた側はそうは受け取らないだろう。ぼっちの習性が染み付いているので、「人に頼る」という発想は「自分一人ではどうにもならない」と判明して初めて出てくるのだが。それも、理解してはくれないだろう。

 

 飛んでくる材木座を一目見ただけで、葉山は即座に対策を立てた。こちらに向かってがなり立てる等の、時間を無駄にする行為は一切無かった。巴投げで、目標物を指定して。失敗には終わったものの、こうした葉山の洞察力はやはり侮れない。確かにそれらは、八幡が設定した条件に含まれているのだから。

 

『じゃあ、ヒキタニくんが演技スキルを使っているのは間違いないとして……問題は申請の手順と、発動条件だね。まさか投げるのは城山限定とか、投げられるのは材木座くん限定とか、そこまでアンフェアな条件じゃないだろ?』

 

「あー、なるほどな。そこまで徹底しておけば良かったのか。勉強になるわ。フェアかどうかは判らんけど、例えば俺とお前で運動能力に差があること自体、アンフェアと言えばアンフェアだしな。まあ、それと同じ程度で、ルールには違反していないと思うんだが……なんなら後から運営に問い合わせてみたらどうだ?」

 

 そもそも演技スキルは発動条件が厳しく、重度の中二病罹患者やそれに類するほどに妄想が逞しい者、日頃から本性を隠して過ごしている者でもない限りは使用できない。それに単なるお遊び要素に過ぎず、材木座・八幡・海老名と三名もの生徒が条件を満たすとは運営にしても予想外だった。大人側としてはハードルを高く設定したつもりが、高校生にとってはさほどでも無かったということなのだろう。

 

 どうせなら自由な発想を追及して欲しいという意図から、運営が申請内容を詳らかにすることはない。誰かが画期的な使い方を発見しても、即座に安易なパクリが横行するようでは話にならない。そんな事態は避けたいと考えた結果だ。

 

 だが第三者に申請内容が漏れる以前に「体育祭に使用するには不適切」と判定される可能性はある。運営と、そして審判部に。だから両者に対する別個の対策が必要だった。申請を無事に通すことと、葉山が納得できる説明を行えることと。八幡が細心の注意を払っていたのはその二点だった。

 

 のちのち通報されても矛盾が出ないように、明らかな嘘こそつけないものの。運営が事を荒立てないであろう範囲内では、誤魔化す気が満々だったりもする。逆に言えば、運営に問い合わせが行っても大丈夫なように、そこの対策は万全にしたつもりだ。

 

 八幡の口調や態度から「どうやらブラフでは無い」と判断して、葉山は言葉に出しながら考えを進める。

 

『いや。申請が通った以上は、そこまでする気は無いさ。じゃあ……』

 

 そして葉山は白組の柔道部員に指示を出した。先程と同様に材木座めがけて巴投げを披露して貰ったのだが、結果は不発。険しい表情の葉山に、八幡が話しかける。

 

「柔道部員に限るってのは正解。誰でも簡単にぽんぽん投げられるようだと収拾が付かないしな。ただ、ずっと練習してきた奴と、最近になって柔道を始めたような奴が同列ってのも変だろ。だから、『この世界に巻き込まれてからも練習をサボっていない柔道部員』って設定にしたんだわ」

 

 つまり、使えるのは城山と津久井・藤野の三名のみ。いずれも赤組だ。春先に、柔道部に限らず多くの運動部で混乱があったことを知る生徒たちが、その解答に行き着いて。争うように八幡を非難する声が上がる。

 

「不公平だ。それに、演技スキルなんてのを使うこと自体ズルいだろ!?」

 

「まあ、ズルいかズルくないかで言ったら、ズルいだろうなと俺も思うけどな。でもこれ、葉山が言い出したことだぞ?」

 

 そう言いながら、八幡はすぐ傍にいるJ組の保健委員に視線を向けた。あの時の葉山の態度に首を傾げたのは、城山だけではない。出番が来たことを理解して、彼は周囲に言い聞かせるように話を始めた。

 

「そもそも運営委員会の話し合いで、演技スキルの話を最初に持ち出したのは葉山だ。比企谷は一筆を書いてまで葉山の疑念を否定したし、それを葉山も了解したはず。演技スキルを使ってるのは確かだし、正直に言うと姑息なやり方だとは思うけどな。少なくとも比企谷は、その時の条件を破ってないぞ。運営に問い合わせをする気が無いってことは、葉山もそれを解ってるってことじゃないのか?」

 

 たとえ自分に不利なことでも、相手が気を悪くするような話題でも、ずけずけと口にするのが彼の持ち味だ。雪ノ下への信頼ゆえに、若干八幡寄りの考え方ではあるものの。彼がこうまで言うのだからと、白組の生徒たちも不承不承ながら矛を収め、総大将に視線を送る。

 

『なるほどね。俺としては正々堂々と戦術を競ってみたかったんだけど、そっち方向に走られるとは思わなかったよ。俺が演技スキルの話を念押ししたから、余計に拘らせてしまった結果がこのざまか。一筆書いて貰った内容に違反してないって話も信じるよ。でも……まだ勝負はついてない!』

 

 そう言って葉山は、自軍の棒を傾けさせた。材木座が一直線に向かってくるのであれば、そこから棒を逸らせば良い。そう考えたのだが。

 

「お、泳ぐのかよ……」

 

 誰かが呆れ声で呟いている。棒が傾いた方向を目指して材木座が両手を平泳ぎのように動かすと、軌道が変わった。

 

『大和、今度は逆側に倒せ!』

 

 呆然とする敵味方の中でも、さすがに葉山は正気を保っていた。即座に次の手を指示したが、しかし結果は同じ。材木座がくいっくいっと身体を動かすと、簡単に方向転換されてしまった。

 

 もう、距離が無い。それでも葉山は、最後の瞬間まで諦めない。

 

『戸部、絶対に比企谷から目を離すな。大和、動かす方向は任せる。相手の動きを見ながら、ギリギリまで引き付けて避けろ!』

 

 葉山に余裕が無いのはその言葉からも判る。にも関わらず最後まで俺への警戒を怠らないとは、勘違いにも程があるよなと八幡は思う。「お前が思うほど、俺は大したことはないぞ」と言ってやりたくなるが、面倒な気持ちが先に立って結局は口を閉ざしたまま。その代わりに、隣に立つ男と苦笑交じりに頷き合って作戦の成功を確信する。

 

「喰らえぃ、わが秘剣……鏡たる千剣の閃光(サウザンブレイド・オブ・ミラージュ)!!」

 

 材木座曰く「相手の技を瞬時にコピーして高速で一千回ほど叩き込む最強の秘剣。相手は死ぬ」を受けて(何度確認しても、八幡には普通の体当たりにしか見えない)、もともと傾きが急だった棒は、あっけなく地に転がった。それに跨がって材木座が勝利の雄叫びを上げる。同時に、全員の耳に放送の声が解禁されて。

 

『えーと、棒倒しは赤組の勝利……で、いいのかな?』

 

 演技スキルはありなのか、放送部でも意見が割れていただけに、ためらいがちの実況が響く。「困ったなぁ」という雰囲気が放送席からグラウンドの内外にまで溢れる中で、急にがさがさとした音がマイクから聞こえて来るや否や。

 

『失格、失格、失格ぅぅぅーっ!』

 

 審判部のテントから飛んで来た、相模南の絶叫が響き渡った。




本章は5話+幕間の予定でしたが、長くなったことと、もう少し直したい箇所があるので、ここで分割させて下さい。
その結果、次話のタイトルが……なのですが、それも含めてごめんなさい。

次回は今週末に何とか更新したいと思っています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
誤字と表現を一つずつ、それと説明が解りにくいと思えた部分を修正しました。大筋に変更はありません(6/6)。


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06.よして! るーるに違反しないように頑張ったのにと彼は命乞いをする。

改めて、タイトルが本当にごめんなさい。

以下、前回までのあらすじ。

 男子の目玉競技は、開始早々に八幡主導の奇襲が成功して、白組の棒は地に倒れた。だが演技スキルを目一杯に利用したその作戦は果たしてありなのか、敵味方に観客や運営の生徒たちも含め、その多くが困惑している。

 そんな雰囲気の中、審判部に属する相模南が「失格」を連呼する声が鳴り響いた。



 視線の先では、柔道の投げ技によって宙を飛んだ男子生徒が、白組の棒を押し倒していた。

 

「こんなの、絶対にずるい。うち、放送席に行ってくる!」

 

 そう言って審判部のテントから放送席に駆け込んで、マイクを奪い取るようにして夢中で絶叫した。その時点でやっと、正気に戻る。

 

 放送席では葉山隼人の発言はもちろんのこと、比企谷八幡とその周囲の発言も拾えていたので、詳しい事情を把握できていた。しかし相模南は審判部のテントで競技を眺めていただけなので、実況と葉山の発言しか聞いていない。

 

『相模さん、落ち着いて。失格の対象や根拠について、詳しい説明をして欲しいのだけれど?』

 

『え、えっと。審判部の相模です。その、葉山くんが運営委員会であれだけ念押ししてたのに、演技スキルを使ったことと。みんなも見たように、演技スキルって何でもありな感じだから、反則だって思って。だから失格だって、この競技は赤組の反則負けじゃないかなって、うちは思ったんだけど……』

 

 八幡に好意的な立場であれば「葉山が執拗に迫って約束させた」となるのだろうが、葉山に好意的な立場からすれば「八幡が葉山との約束を無下にした」と見えるのだろう。いかに八幡を見る目が以前とは違うとはいえ、相模はもともと葉山を憎からず思っていた。それに加えて。

 

『あ、あとさ。みんなも知ってると思うけど……うちら文化祭の時に、ヒキタニくんの悪い噂を流したじゃん。その、今さら言っても遅いけどさ。あれはうちらが間違いで、事実とは違ってて。だから、うちらの勘違いで済まされる問題じゃ無いと思うけど、いつかちゃんと謝りたいって思ってて。あの時はホントにごめんなさい』

 

 文化祭での失敗が、相模の頭にずっと残っていた。実際に噂を流したのは取り巻き連中だが、彼女らと仲直りを果たした今、相模はそれを自分の罪でもあると受け入れていた。相模についてきた四人も含め、全員が八幡の居る方角に向けて頭を下げる。そして、だから。

 

『……だから、ヒキタニくんに申し訳ないって思ってるから尚更、こんなことは見過ごしたくなくて。葉山くんが、正々堂々と戦おうって言ってたのにさ。うち、ちゃんと作戦とかを練って、葉山くんとヒキタニくんが対決するのを見たかったから。だけど、これって反則じゃん……』

 

 そこまで言い終えて、相模は握りしめていたマイクから手を離した。そして俯いたまま、身動きしない。

 

 その肩に、触れる手が一つ。そして逆側の肩にも一つ。先に手を伸ばした由比ヶ浜結衣に頷かれ、自由になる側の手でマイクを引き寄せた雪ノ下雪乃が口を開いた。

 

『運営委員長の雪ノ下です。相模さんの主張を審判部からの物言いとして認め、公開審議を開催したいと思います。当事者の二人、葉山くんと比企谷くんの周囲の発言は、マイクを通して全員に向けて放送されます。それから、審判部の責任者は由比ヶ浜さんと葉山くんの二人です。当事者への質問や二人が下す裁定もマイクを通して全て公開されます。葉山くんは複数の肩書きを担う形になりますが、公平な振る舞いを期待しています』

 

 雪ノ下の取り計らいにより、結論は八幡と葉山と由比ヶ浜の三人に委ねられた。

 

 

 海老名姫菜が設定を少し変更して、葉山と八幡の中間辺りにマイクを設えて、二人のみならず周囲の発言が全員に向けて放送される形になった。品のない野次などは慎むようにと雪ノ下が注意事項を述べている間に、手配を済ませた海老名がOKを出す。すると最初に口を開いたのは、倒れた棒の近くに佇む学ラン姿のこの男。

 

『じゃあ俺から。競技中にヒキタニくんと話してたのを聞いた奴も居ると思うけど、相模さんの話も含めて簡単に整理すると……やっぱり運営委員会でのやり取りが、そもそもの発端かな。さっきのチバセンで、雪ノ下さんと姫菜が戦術を競ったみたいに、俺もヒキタニくんと正々堂々勝負をしてみたくなってね。だから、演技スキルは封印して欲しいって思って話題に出したんだけどさ』

 

 さすがに理路整然と、葉山がそう主張する。どうして葉山がそこまで八幡に拘るのかと、その点だけは疑問が残るものの。他はだいたい理解し易い内容だ。

 

 もとから付近に居た白組の生徒たちに加えて、自陣に棒を置いて集まって来た赤組の生徒たちも、視線をもう一方へと移す。葉山とは適度な距離を置いて向かい合っている男へと。

 

『俺が「一筆書いてやる」とか言い出したのが良くなかったのかね。けどなぁ……あの話を言われるまでは、別に勝敗に拘りは無かったんだけどな。優勝の行方を左右する展開になるとも思ってなかったし。それが、使う気が無かったのに厳重に念押しされて、逆に「じゃあ一筆には違反しない形で使ってやるわ」って思ってな』

 

 自分の話を全校生徒が聞いている状況ゆえに、気を抜けば変なことを口走りそうだし手の汗も凄い。それでも八幡は、優勝するという約束のために。そして自分が立てた計画に従って奮闘してくれた材木座義輝や柔道部の三人、遊技部の二人にJ組の保健委員のために。何とか平静を装って軽い口調で話に応じた。

 

『えっと、つまり隼人くんが挑発したって部分もちょこっとあったし、ヒッキーが意固地になったって部分もちょこっとあったってことだよね。うーんと。あたしもその場に居たんだけどさ、両方の気持ちが分かるなーって感じなんだよね。だから、ヒッキーがホントに違反してないかってところから進めたいんだけど、どうかな?』

 

『そうだね。俺が気になるのは、「棒倒しで演技スキルを申請しない」という約束だったのに、どういうカラクリだったのかなって』

 

 そう問い掛ける葉山に、八幡が手品のタネを告げる。

 

『発想の転換みたいなもんだけどな。「棒倒しで」じゃなくて「何時から」で申請しただけなんだわ』

 

『なるほど、謎は概ね解けたわ。なんだか怪しいとは思っていたのだけれど。チバセンでウィニングランを提案したのは、時間を長引かせるためね?』

 

 話の収拾を三人に任せたはずの雪ノ下が、八幡の策を看破した勢いに乗って早々に口を挟んできた。八幡と由比ヶ浜、それに城廻めぐりが苦笑する一方で、葉山が何やら考え込んでいる。

 

『そうか……本来なら閉会式が始まる時間に棒倒しが始まったんだよね。つまりヒキタニくんは「閉会式で使う」という形で申請したってことかい?』

 

『厳密に閉会式に紐付けられると、発動できないかもしれないだろ。だから摘要には「体育祭の()()()」って書いて、申請は「何時から」で出して、ついでに体育祭のプログラムを添えて提出したんだわ。ちなみに摘要の続きは「弓矢の代わりに人間を投げて那須与一をやる」って感じな』

 

 八幡は得意げに語っているものの、話を聞いた生徒たちはどう反応したものかと困惑している。だがそんな空気を気にも留めず、雪ノ下が話を整理する。

 

『比企谷くんは「遅れて始まる最後の競技で」という意図で、でも運営が申請書類を見れば「最後の閉会式で」と受け取れるように誘導したわけね。小細工の仕方が陰湿というか卑劣というか……さすがの悪知恵だわ』

 

『ゆきのん、それ全然ほめてないから。でさ、ヒッキーの気持ちも分かるんだけどさ。詳しい話を聞くほど、せこいって言うか、ずるいって言うか、そんな気持ちになるんだけど……確かに違反はしてないみたいだけどさ』

 

 そんなふうに部活仲間の二人からも微妙な判定を貰ってしまった。

 

 だがそもそも八幡が考える正々堂々とは、陰湿・姑息・卑怯・卑屈・卑劣な策でも惜しみなく駆使するところにある。そうした手段を使えるのに使わないほうが相手に対して失礼だと内心で嘯く八幡は、彼女らの評価にちょっと喜んでいたりもする。でも、この気持ちが外に漏れたら「褒めてないし」と怒られそうなので、高二病的な笑いが表に出そうになるのを頑張って堪えていた。

 

 いずれにせよ、一筆に違反していないとの認定さえ得られれば、八幡とて全校生徒に受けが悪そうな話を長々と続けたいとは思わない。ゆえに話を逸らす。

 

 

『まあ、色々と綱渡りが多かったけどな。申請が通っても、実際に時間に遅れが出るかは未知数だったし、ウィニングランを提案したのも成り行きだったしな。つーか、葉山の対応が予想通りで助かったわ』

 

 敢えて挑発しているのがバレバレだとしても、葉山はこの話題をスルーできないだろう。そう八幡が推測した通り、葉山が食い付いてきた。

 

『それは、どういうことかな?』

 

『最初に話した時に「二人ではどうやっても棒を倒せない」って言っただろ。あれ聞いた時は「やばいな」って思ったんだがな。要はあれだ。材木座がいかに空を飛ぼうとも、あいつ個人の力と、城山が巴投げに込めた力と、二人分のパワーしか無いんだよな』

 

 説明の途中で八幡の主旨を把握したのか、先程までは軽い笑みを絶やさず余裕のある様子だったのが、一転して厳しい表情を浮かべている。そんな葉山に代わって雪ノ下が、全校生徒向けに解説を付け加える。

 

『へたに棒を振り回さず、大人数でしっかり押さえて衝撃に耐える選択をしていれば、比企谷くんの奇襲は不発に終わっていた可能性もあるということね?』

 

 材木座のサウザンなんたら次第だけどな、などと小声で呟きつつ八幡が首肯する。

 

 放送席との距離を考えれば、そんな微細な動きを認知できるとは思えないのに。雪ノ下も由比ヶ浜も八幡に応えるようにして頷いている。八幡もまた、彼女らの動きを認識できているのが雰囲気から伝わって来る。放送席にいる生徒たちがそれを見て苦笑していると、葉山の声が聞こえて来た。

 

『そこも俺の選択ミスだったか。運営委員会で演技スキルの話を持ち出したことと、最後まで材木座くんを避けるように指示した点は俺の落ち度だね。白組のみんな、すまない……。でもさ、ヒキタニくんが設定した条件についても議論したいんだけど、やっぱりアンフェアじゃないかな?』

 

 自分には逆立ちしても無理なだけに、謝る姿が絵になるのは凄いよなと八幡は心底から思う。羨ましくはないけれども、これで大勢の気持ちを落ち着けられるのはズルいよなと、そんな気持ちを抱きながら答える。

 

『競技中にも言ったけどな。ズルいかズルくないかで言ったら、ズルいだろうなと俺も思うわ。けどな、人を投げても威力が増すわけじゃないし、何人かまとめて投げたり、連続で投げるのも無理だしな。あ、城山の体力次第じゃ可能なのかね。それでもさっき言ってたみたいに、人数をかけて守られたらお手上げだし、使い勝手は悪いぞ?』

 

『問題は、それを競技中には確かめられないって点じゃないかな。材木座くんが投げられたのを見て、俺はすぐに城山たちを分断させたんだけどさ。それが無駄な行為なのか適切な行為なのか判らないまま、可能性を潰していくしかない時点で、こちらの不利は明確だと思うけどな』

 

 当の八幡も、ここの部分は言い逃れが難しいと思っているだけに歯切れが悪くなる。

 

『まあ、お前が望んでた戦術の競い合いって、そんなもんだと思うけどな。相手の意図を読みながら、後から振り返ったら無駄な手とかを山ほど打ちつつ、自軍に有利な形に持っていくもんじゃね?』

 

 一般論で凌ごうとする八幡の心情を把握して、雪ノ下が口を開く。

 

『なるほど、大枠の部分では意見が出揃ったように思うのだけれど。まず発端については、葉山くんの念押しが過剰だった側面と、それで比企谷くんが演技スキルに拘ってしまった側面と、由比ヶ浜さんの判定では同じ程度だったわね。演技スキルの使用は、比企谷くん自身も少なからず『ズルい』と考えている。その一方で、材木座くんの攻撃に耐えるという選択を葉山くんが思い付けなかったことが、結果に直結したとも考えられるわね。ただ……もしもチバセンで騎馬がいきなり飛んでくるような事態に直面したら、どんな付加効果が備わっているとも限らないと考えて、私も避けさせる気がするのよね』

 

 

 裁定の手助けになるようにと話をまとめた雪ノ下が、最後に付け足した言葉を聞いて。八幡の頬が少し引き攣っている。だが幸いなことに、まだ誰にもバレていない。

 

 実は八幡が申請したのは、「練習をサボっていない柔道部員が、目標を口にしながら巴投げを放つと、必中・必倒・無傷の効果が発動する」というものだったりする。「人を投げて那須与一をやる」という摘要の通りだ。

 

 申請当時の八幡は葉山の鼻を明かせればそれで良かったので、演技スキル自体が原因であれ申請内容が原因であれ、それらを理由に自分が失格にされても構わないと思っていた。

 

 だが、棒倒しが優勝の行方を左右するという予想外の展開になってしまい事情が変わった。自動追尾の設定に気付かれないように、「空中で身動きをすれば方向転換ができる」と材木座に嘘を教えたり。自ら葉山の近くまで足を運んで、口八丁で相手の余裕を無くさせようとしたり。色々と取り繕う必要が出てきた。

 

 たとえ協力してくれた七人であっても、申請内容の全ては語らなかった。詳しく説明したのは、葉山にしたためた一筆にどう対処したのかという部分のみ。万が一の時に責任を負うのは自分だけで良い、と言えば恰好良く聞こえるが、実際のところは「情報が漏れないように」という後ろ向きの理由だ。とはいえ八幡本人はそう卑下するものの、責任を一人で引き受けているという事実に変わりは無いのだが。

 

 素早く気持ちを立て直して、八幡が口を開こうとしたその時。たった今八幡が思い浮かべていた連中が、いつの間にかすぐ近くに集まっていて。順に話し始めた。

 

 

『発端についてだがな。ちょっと……男女差別をしたいわけじゃないんだが、男女で考え方が違う気もするし、補足させてくれないか?』

 

 まずは柔道部の城山が。

 

『例えば、勉強の息抜きで漫画を読んでる時に部屋に親が入ってきて「勉強しろ」って言われたらどう思うか、考えてみて欲しいんですよ』

『比企谷先輩の話を聞いた時に、俺らが最初に思い浮かべたのがその光景でした。ちゃんとするつもりだったのに、いきなり頭ごなしに言われたら反発したくなりますよね?』

 

 次いで遊戯部の秦野と相模が。

 

『我は八幡のことを信じておる。奴はそれほど簡単に意固地になるような性格ではない。さっさと諦める点こそが奴の真骨頂よ』

 

 そして材木座が、先程の仲間割れは演技に過ぎぬと言わんばかりの言葉を口にして。続く主張にも説得力があり。

 

『俺たちは城山先輩経由で誘われたんですけど、春先に部活が維持困難になりかけた時のことを思い出したっす。部員に復帰して貰えるように、禁止じゃなくて許可をどんどん出そうって話っす』

『頭ごなしに「週に何日休んだらダメ」って拘束するよりも、「休んでも良いから、その代わりに練習に出たくなるようなアイデアを教えて」みたいな感じで頑張ってたっす』

 

 柔道部の津久井と藤野が過去の話を披露して。

 

『自分語りになるけど、文化祭の前に雪ノ下さんが欠席した時、けっこう色々と言われたのな。「保健委員なのに仕事をしろよ」的なことを。でも、雪ノ下さんを休ませることができなかった悔しさって、俺が一番感じてるわけよ。それを何度も繰り返し言われると、な。比企谷の件とは少し話が違うかもしれないけど、葉山が念押ししてる時に俺が連想したのが、自分のこの話だったんだわ。確かに葉山にも比企谷にも非があると思う。けど俺は、比企谷に味方しようって思ったのな』

 

 二年J組の保健委員の話には、大勢の生徒が神妙な顔付きになって頷いていて。

 

『演技スキルに興味が湧いて、突っ込んだ話を聞いてみたのな。どうやら勝手に会得できるようなスキルじゃなくて、色々と苦労した証みたいな部分もあるらしい。材木座や比企谷は、同級生から雑な扱いとかも受けてたみたいだし。海老名さんも、今でこそ趣味が広く認められてるけど、カミングアウトするまでは苦労したんじゃないかって思うのな。たまたま降って湧いたような能力だったら、愛着を持てないかもしれないけどさ。苦労が報われた結果とかで得た能力なら、どうにかして使ってみたいって、特に男連中はそう思わないか?』

 

 そして再び城山が話し始める。いったん言葉を切って周囲の反応を確認した上で、言葉を続ける。

 

『女子はもっと慎重に考えるみたいだけど、俺ら男って考えなしに突っ走りがちだよな。もし俺が、ずっと柔道をやってたご褒美だって言われて「山嵐」とか使えるようになったら、公式戦のルールに違反しないように必死で考えて、何とかして使おうとすると思う。今日の比企谷みたいにな。それと、俺の得意技って一本背負いなんだけど、たまに「ズルいから使うの禁止」って言われるのな。半分は冗談だと思うし、技を褒めてくれてる部分もあるんだろうけど。でも、ずっと練習を重ねて技をみがいて、それを「ズルい」って言われるのって、違うんじゃねって思うんだよな。……すまん、喋るのが苦手だから長くなったけど、そんな理由で俺は比企谷に協力しようって思ったんだわ』

 

 最後まで木訥とした話しぶりで城山が語りを終える。その内容は多くの男子生徒にとって共感できるものだった。そして少なからぬ女子生徒にとっても。

 

 彼ら七人の話は、互いに矛盾している部分もある。だがそれは当たり前で、八幡と葉山のやり取りを見て或いは聞いて、各々が八幡に賛同するに至った理由を、その時の心情を披露しているからだ。だからこそ、聴く人に訴えるものがあった。そんな生徒たちの反応を見て、由比ヶ浜が口を開く。

 

 

『あたしは「どっちの気持ちも分かる」って言ったけど、男子の基準だとヒッキー寄りになるんじゃないかってことだよね。えっと、白組からは何かあるかな?』

 

『やっぱ隼人くんが凄すぎるから、せっかく対決できるチャンスを逃したくなかったんだべ。隼人くんが真剣勝負できる機会がめったにないのが問題っしょ?』

 

 そんな戸部翔の発言に大和や大岡が同調するものの。彼らのように「自分たちでは葉山と渡り合えない」と自責の念を持っていて、同時に八幡を高く評価する生徒はまだまだ少数派だ。八幡の短所は(主に悪口という形で)それなりに知られているが、ようやく名前が広まりつつある現状では長所はそこまで知られていない。

 

 だから大部分の生徒は、葉山がなぜこれほど八幡に執着するのか未だに理由が解らないし、ひどい者になると「言ってくれれば、自分なら葉山と渡り合えるのに」などと根拠もなく考えていたりする。そうした面々が八幡を適切に評価することも、葉山の行動をフォローすることも、できるわけがない。

 

 とはいえ援護の声が散発に終わっても、葉山に落ち込んだ様子はない。八幡の資質や性格を、多くの生徒に簡単に見破られてしまうようでは、かえって自信が無くなるというものだ。俺だって同じクラスでなければ、彼が奉仕部に関与しなければ、なかなか見破れなかっただろう。

 

 それに今回は、真っ向勝負こそ避けられてしまったものの、彼の負けず嫌いな性格が垣間見えた。彼が大切だと考える対象が、その範囲が人とは少し違っているだけで。大事なものを賭け合った場合には、彼はきっと真剣に相手をしてくれるだろう。今回と同様に、手段を厭わず。それを知れただけでも価値はあったと葉山は考えていた。

 

 だから葉山は、「何とかフォローを」と考え続けてくれている白組の面々に笑顔で頷きかけて、そして運営の一員としての表情をまとって口を開く。

 

 

『じゃあ、そろそろ裁定に移ろうか。話の発端と、棒が倒れた直接的な原因は、俺に至らぬ部分があったからだね。でも、演技スキルをここまで大っぴらに使うのは、やっぱりズルいと言えそうだ。で、判定なんだけどさ。結衣が決めるほうが公平かもしれないけど、ここは俺に任せてくれないかな?』

 

 同じく審判部門の責任者である由比ヶ浜、そして運営委員長の雪ノ下から了解を得て、葉山は話し始める前に一息おいた。ちらりと八幡が居た方角に目をやると、既にその姿はどこにもない。おそらく今後の展開を予想して姿をくらましたのだろう。なぜだか「勘の良いガキは好きじゃないなー」と呟くあの人の声が頭に響いて、少しだけ苦笑が漏れる。

 

『棒倒しは赤組の勝利、だけど三〇点の勝利とは認めがたい。まず、ここまでは良いかな?』

 

 紅白両軍の反応を確認して、話を続ける。

 

『その上で、確かに演技スキルにはズルい部分が多々あるけれど、それの活かし方って言うのかな。もしくは運用方法と言うべきか。できる限りルールに違反しないように、時に姑息な言い訳まで用意して戦術を組み立てたヒキタニくんの頑張りに、俺は一〇点をあげたい』

 

 生徒たちから「おおっ」とどよめきが漏れるが、言及された男子生徒の姿が見えないので大勢がきょろきょろと辺りを見回している。程なくして、もしや逃げたかと、またもや微妙な雰囲気が辺りに溢れる中で。計算が得意な生徒たちは無言のままだ。このままでは白組の優勝だ。果たしてこの裁定で、場が収まるのだろうか。

 

『それと、ヒキタニくんを助けた赤組の七人に。特に、いくらスキルで可能になるからって、空を飛んで敵の棒に体当たりするという勇気ある役割を受け入れて、見事にその役目を果たした材木座くんに。俺は五点をあげたい』

 

 と、いうことは。今度は計算ができる生徒ほど浮き足だった様子になって、葉山の発言が更に続くのか否か、かたずを呑んで見守っている。

 

『本来の三〇点と比べたら半分だけど、俺はその辺りが妥当かなって思う。委員長、この裁定でどうかな?』

 

『そうね……私も、貴方の裁定を尊重するわ。本来は閉会式で発表すべき事なのだけれど。今年の体育祭は、赤組が一四五点。白組が一四五点。すなわち、赤組と白組の同時優勝です』

 

 その瞬間、「うおおおお」という地鳴りのような声が沸き起こった。リードを守れた白組の生徒たちは安堵と興奮がない交ぜになった表情を浮かべ。追いついた赤組の生徒たちは達成感に酔いながらひたすら興奮して。

 

 

 そして間を置かず、両軍の男子生徒による胴上げが始まった。白組は総大将の葉山が。そして赤組は、総大将の戸塚彩加が頑として主張したために、誰よりも先に材木座が宙に舞った。

 

『わ、我……胴上げされて……こ、こんにゃ、こんな日が来りゅ、来るなんて……』

 

 もはや日頃の口調も忘れて、材木座が何やら呟いている。マイクを通しても途切れ途切れにしか聴き取れないはずのそのセリフを、校舎に向かってこっそり移動している八幡は頭の中で完璧に再現できた。

 

 材木座の特徴的な話し方や大仰な身振りは、どもったり挙動不審にならないようにという理由で始めたのだと聞いている。かれこれ小学生時代から続けていたその演技が、このたびの胴上げで維持できなくなっている。

 

 八幡は遠目から、そんな材木座の姿を観察した。そして、思わず独り言が漏れる。

 

「今のお前なら、どもってても、挙動不審でも、どんな体型でも、指ぬきグローブやコートを装着してても、悪いようには言われないかもな。逆に、へたに演技とかしたり、どや顔になったり、わざとらしい口調で話したりするほうが、気持ち悪がられるんじゃねーかな。ま、知らんけど。気持ち悪くない材木座なんて、材木座じゃねーからな」

 

 相変わらずの捻デレぶりを発揮して、八幡はグラウンドに背を向けると歩き始めた。事前に決めたわけではないけれども、おそらくあの二人はあの場所に来るだろう。城廻には申し訳ないけれど、まずは三人だけで話そうとするはずだ。そう考えながら歩みを進める。

 

 まだ閉会式があるので、先に着いて待つことになるだろうなと。そう予測していた八幡だったが、ベストプレイスには先客の姿があった。

 

 

***

 

 

 普段の明るい様子とはうって変わって、妙に落ち着いた所作で天然水を口にしている。近寄って来た八幡に気付いて視線を上げた一色いろはは、たちまちくしゃっとした笑顔になって、座ったまま柔らかい口調で話しかけて来た。

 

「もう。遅いですよ、せんぱい?」

 

「色々と言いたいことはあるんだが……とりあえず、なんでおま、一色がここに居るんだ?」

 

 いつもなら、得意げに解説を始めそうなものなのに。あるいは「お前」と言いかけたことを咎められる可能性も高いのに。今日は何故か、笑顔を返してくるだけだ。一色と向き合って気まずい思いをしたのは、もしかすると初めてかもしれない。そう思いながら、八幡は仕方なく自分から口を開く。

 

「俺は、まあ、集団で盛り上がるのとか勘弁して欲しいなって感じで、抜け出して来たんだけどな。あー……ほら、葉山が胴上げされてたけど、見なくて良かったのか?」

 

「わたしが音頭を取ったわけでもないですし、別にいいですよ。見たかったことは見られたので」

 

 ますます八幡の疑問が大きくなる。とはいえ、気を遣っていても仕方がないと割り切って、八幡は気持ちを入れ替えた。今までの付き合いから、お互いに遠慮が無いのが暗黙の了解だったはずだ。勝手にそれを破られても、こちらからすれば話が違うというものだ。

 

 飲物を買おうかとも思ったけれど、それほど喉は渇いていない。棒倒しの間も結局は歩いて喋って終わりだったから、体力をほとんど使っていない。あんなプランで、よく上手く行ったものだと苦笑しながら。八幡は自販機にもたれ掛かるようにして、一色を見下ろす形で話を続けた。

 

「なんつーか、あれだな。葉山じゃないと、あんな裁定はできないよな。当事者のくせに『お前は何点だ』とか言い放って、それが通るんだから大したもんだわ。あいつ、場の空気を支配する特殊能力でもあるんじゃねーの。『ザ・ゾーン』みたいな名前のやつが」

 

「ホントにそんな能力があれば、千葉村でも楽だったかもですね〜」

 

 心ここにあらずという様子で、でも一応は受け答えをしてくれる一色に首を傾げつつ。文句があればそのうちハッキリ言ってくるだろうと考えて、八幡はそのまま話を進める。

 

「まあ、特殊能力があっても使い方次第だわな。葉山はああ言ってたけど、あと城山とかもフォローしてくれてたけど、俺が演技スキルを使ったってよりは、演技スキルに使われてたって感じかね。相模が言ってた通り『演技スキルって何でもありな感じ』だから、その力に振り回されてたってのが正解かもな」

 

「せんぱいは、演技スキルを利用したことを後悔してるんですか?」

 

「いや……後悔はしてないな。俺なりに最適な使い方を模索して、でもあれだな、使い手の性格って出るよな。たぶん葉山だったら、もっと正々堂々とした使い方をするんだろうけど。俺だと種明かしした時に『うわー』って、可哀想な奴を見るような目を向けられるんだよな。なんか不思議なもんだわ」

 

「う〜んと。葉山先輩を羨ましいとか、そんなふうに思います?」

 

「いや、羨ましいとは思わんな。すげーなとか、俺とは違うなとかは思うけどな」

 

「やっぱり、そうですよね。せんぱいと葉山先輩って、似たもの同士ですよね〜」

 

「なに言ってんの、お前?」

 

 思わず反射的に答えてしまったものの、一色からは何の反応も無い。どうしたものかと八幡がそわそわし始めた頃に、ようやく声が聞こえて来た。

 

 

「ずっと、葉山先輩のことが分かんないな〜って思ってたんですよ。何でもそつなくこなして、感情を乱すようなこともなくて。でもよく見ると、誰とも一定以上の距離を保っていて。もしかしたら、中身のない人なのかなって、そんな事を思ったりもして。……あ、勝手に話し始めちゃいましたけど、せんぱいなら、わたしの言いたいこと解りますよね?」

 

 こんな事を言うのは、せんぱいにだけですよ。そう耳元でささかれた気がして八幡は思わず首をすくめてしまったのだが、気付かれた様子はない。こちらの事など気にも留めていないかのように、でもたしかに八幡に聴かせるために、一色は話を続ける。

 

「葉山先輩が雪ノ下先輩を意識してるのは、けっこう前から知ってました。でも、事情を知った今だから言える事かもですけど、雪ノ下先輩を見てるんじゃなくて、雪ノ下先輩を通して別の何かを見てるような感じを受けたんですよ。だから、その線から探っても無駄かな〜って思ったりして」

 

「まあ、あの二人が幼馴染みって聞いた時にはビックリしたよな。俺にはよく判らんけど、雪ノ下を通して昔の事件を見てたとか、そんな感じか?」

 

「まあ、そんな辺りじゃないですか。わたし的には役に立たない情報なので、どうでもいいですけどね。でも、もう一人、葉山先輩が意識してる他人がいたんですよ。あの人、雪ノ下先輩とお姉さんと、それからせんぱいと。それ以外の人には興味ないんじゃないかな〜って」

 

 そう言われても、腐女子なら泣いて喜ぶかもしれないが俺には無理だと八幡は思う。少し間を置いて、その間に考えをまとめて口を開く。

 

「話が全く読めないんだが、あれか。だから葉山を狙うのは諦めたとか、そんな話かね。それなら三浦に聞かせてやれば安心するんじゃね?」

 

「狙うべきなのか、狙ってもいいのか、正直よく分かんなかったんですよね〜。でも、せんぱいのお陰で色んなことが分かってきたんですよ」

 

「ほーん。ま、お役に立てたなら何よりだわ。んで、詳しい話は教えてくれるのか?」

 

「だから〜。せんぱいと葉山先輩は、似たもの同士だってことですよ。二人揃って面倒な性格ですよね〜」

 

 どうやら一色が常とは違う様子なのは、そういう事らしい。葉山のとばっちりを食って、自分だけが被害を受けているような気がしてきた八幡だったが、それなら可能な限り責任を擦り付けてやろうと、そんなことを考える。

 

 

「俺が面倒な性格なのは認めるが、基本的にぼっちは一人で完結してるからな。文句があるなら葉山に言った方が効果的だと思うぞ?」

 

「せんぱいは、遺伝子ってどう思います?」

 

「……は?」

 

 話が全く噛み合っていないので、どう答えたものやら分からなくて。とりあえず迷った末に、疑問を呈してみると。

 

「あ、遺伝っていうか、持って生まれたものっていうか……可愛く産んでくれて、お母さんありがと(はーと)、みたいな?」

 

「あー、なんつーか、ずいぶん話が飛んだな。要は先天的に得たものをどう思うか、みたいな話かね?」

 

「それですそれです。も〜、ちゃんと通じてるじゃないですか〜?」

 

 今日初めて、いつもの一色を見たような気がした。あざとく可愛らしいふくれっ面を見せてくるが、こういう表情のほうが落ち着いて対処できるというのも変な話だ。

 

「いや、追加情報が無いと通じてないからね。んで、先天的に得たものなあ……俺の目とか、若い頃の父親と瓜二つだって言われるけど、のしを付けて叩き返したいもんだわ」

 

「えっと、先天的に得た長所の話を聞きたいんですけど……せんぱいって、こういうところがせんぱいですよね〜」

 

「ちょっと待て。『せんぱい』しか言われてないのに、そこはかとなく貶されてる気がするんだが?」

 

「あんまり気にしないほうがいいですよ〜。でですね、見た目とかが一番大きいと思うんですけど、先天的なものって、無くなるのは一瞬じゃないですか。例えば交通事故とかに遭って顔に傷が残っちゃったら、どんな美人さんでも台無しですよね?」

 

「まあ、それは分かるんだが、話の先が読めないな。何が言いたいんだ?」

 

「それと比べると、後天的に得たものは、無くなりにくいんじゃないかな〜って」

 

「いや、事故ったらどっちも同じじゃね。陸上の代表選手と、趣味のマラソンランナーを比べてみりゃ分かるだろ?」

 

「……せんぱい。そんな答えをわたしは望んでいませんでした。おーけー?」

 

「うぃー、まどもあぜる。……はあ、んじゃあれか。後天的に得たもののほうが上だと、お前は言いたいのか?」

 

「せんぱい。今『お前』って言いましたよね?」

 

「うげ。もしかして、これで借り二つになるのか?」

 

 以前の借りを律儀に覚えている八幡に苦笑しながら、一色が答える。

 

 

「じゃあ、先にその話をしましょうか。せんぱいが棒倒しで変な作戦を使って、お陰で葉山先輩の色んな面が見えてきたんですよ。今まではどうしても見えなかったような側面が。だから、今のも含めてチャラにしてあげます。寛大ないろはちゃんに感謝して下さいね〜?」

 

「気のせいか、当たり屋の理論を垣間見たぞ。自分からぶつかっておいて、この程度で許してやろう的な……」

 

「せんぱい、ぶつぶつうるさいですよ。それとですね、『お前』って呼ばれるのは好きじゃないので、できれば避けて欲しいんですけど、貸し借りの話も無しにします。良かったですね〜?」

 

「ますます当たり屋じみて来たな……。つか、どういう心境の変化だ。一色って、ふざけてるように見える時ほど、何かを隠してることが多いだろ。俺に何か、とんでもないことを押し付けようとしてないか?」

 

 一瞬だけ、まさか全ての思考を見破られたのかと思えてしまい。でも、そんなわけはないと思い直して、一色は言葉を返す。

 

「せんぱいは、わたしのことを何だと思ってるんですか……。じゃあ隠さず言いますけど、依頼を受けるのっていいな〜って思ったんですよ。チバセンで雪ノ下先輩から依頼を受けて、その代わりに条件を呑んで貰って、そんな関係も面白いな〜って。だから、もしせんぱいが困っていたら、いろはちゃんが依頼を受けてあげます。交換条件も、ちょっとおまけしてあげますね〜?」

 

「はあ。まあ、そん時は頼むわ。んで遺伝の話に戻すけど、一色は後天的な能力を重視してるってことか?」

 

「わたしもですけど、葉山先輩も、それからせんぱいもそうじゃないですか?」

 

「俺は、どうだろな。まあ……ああ、そうか。それが演技スキルの話に繋がるわけか。この世界でしか使えないどころか、運営の判断次第では明日にも使えなくなってても不思議じゃないしな。一色が言う先天的な能力と似た部分があるよな」

 

「せんぱいって、時々すごく鋭いのに……どうして普段はああなんでしょうね。小町ちゃんが嘆くのも解る気がしますね〜」

 

「小町と仲良くしてくれるのは嬉しいんだがな。俺のライフがごりごり削られるから、ちょっと手加減してくれない?」

 

「わたしは小町ちゃんに味方したいですけどね〜。だって、…………じゃないですか」

 

 グラウンドから大歓声が届いて、一色の声が一部分聞こえなかった。だが、何を言われたかは分かる。わざとらしく溜息を吐いて、その話は無しだと伝えると、八幡は話題を戻した。

 

「葉山が後天的な能力を重視してるって判って、それが一色のお眼鏡にかなったって事か?」

 

「まあ、そんな感じですね。成長しようと頑張ってる人って、わたし好きですよ?」

 

「あー、まあ小町が言うには、一色は見えないところでかなり努力をしてるらしいって話だからな。持って生まれたものに頼るだけの連中なんて、相手したいとは思わないだろうな」

 

 どうしてこの兄妹はこうなのだろうと、一色はじろりと視線を送る。天然を発揮されると反応に困るんですけど、などと呟いて心を落ち着けて、口を開く。

 

「それでも、葉山先輩と付き合うべきか、はっきりしないんですよね〜。もう、せんぱいのせいですよ!」

 

「いや、俺のお陰で色んな事が分かったって、さっき言ってなかったか。その上げて突き落とすの、止めてくれない?」

 

「はあ。まあ、いいですよ。今のところはそんな感じです。でも……」

 

 ひょいっと立ち上がりながら、一色はいったん言葉を切る。「う〜ん」と口にしながら身体を伸ばして、そして八幡との距離を無造作に詰めると。すぐ横に並んで、耳元で。

 

「せんぱいに感謝してるのは、ホントですよ。ここで待ってたのは、お礼を言うためです」

 

 小悪魔の笑みって、まさにこんな感じなんだろうなと八幡が考えている間に。一色は少し歩いて振り返ると、たった今思い出したと言わんばかりの表情で。

 

「じゃあ、そろそろ雪ノ下先輩と結衣先輩が来ると思うので、退散しますね〜」

 

 最後まで八幡を手玉にとって、グラウンドへと消えて行った。

 

 

***

 

 

 どっと疲れた気がして、八幡はさっきまで一色が座っていた近くに腰を下ろした。耳を澄ませてみると、どうやら閉会式も終わったらしい。先程の大歓声が閉会式のクライマックスだったのかなと考えながら、部活仲間の到来をぼーっとしながら待つ。

 

「比企谷くん、お待たせしたわね」

「ヒッキー、お疲れー」

 

 雪ノ下が目の前に凛として立ち、由比ヶ浜が自然な感じで隣に座ってくる。ちょうど一色が腰を下ろしていた場所に、入れ替わるようにして。

 

 どうにも落ち着かない気がして、八幡はよっこらしょと立ち上がると、雪ノ下に席を譲る仕草を見せた。もちろん、すげなく却下されてしまったのだが。

 

「ヒッキーも疲れてるだろうし、座ってたらいいじゃん。でさ、ゆきのん?」

 

「ええ。私と由比ヶ浜さんから、一つずつ質問があるのだけれど。まず、投げられた材木座くんに、何かを仕組んでいたわよね?」

 

 誰にもバレていないと思っていたのに、一番厄介な相手にバレていたと知って八幡の身体が強張る。瞬時に土下座して命乞いをしようとしたものの。とはいえ雪ノ下は八幡を糾弾しようとは考えていないようで。

 

「そんなに身構えなくても大丈夫よ。むしろ貴方が普段、私のことをどう思っているのか、そちらのほうを問い質したくなってくるわね」

 

「まあ、そっちに関しては黙秘権を行使させて貰うわ。んで、仕組んだっつーか……まあ、絶対に当たって絶対に倒して絶対に怪我をしないって条件が付いてたな、たしか」

 

「そんなことだと思ったわ。誰にも言う気は無いので大丈夫よ。むしろ個人的には、良い条件付けだと思うわ。フェアではないけれども、全く同じ力量の者同士が勝負するなんて、現実にはあり得ないものね」

 

 呆れ顔ではあるものの、勝負に勝ったことを認めてくれている様子だ。この負けず嫌いさんめと心の中で呟きながら、すぐ横へと視線を移す。

 

「あたしはね。その、男子のほとんどが何もしないまま、目玉競技が終わっちゃったじゃん。それで、演技スキルをあんな風に使ったこともだし、もしかしたらヒッキーに非難が集中しちゃうんじゃないかって、かなり心配したんだよね。ヒッキー、あたしたちがどう思うかってことは考えてくれてたかもだけど、他の生徒からどう思われるかって、全く考えてなかったよね?」

 

「まあ、はい、仰る通りです……」

 

 人間関係の機微に詳しい由比ヶ浜だけに、そう言われたらぐうの音も出ない。とはいえ大人しく頭を下げる八幡に、それ以上は何も言う気は無さそうで。

 

「では、私たちからの話は終わりね。城廻先輩を呼ぼうと思うのだけれど」

 

 八幡が一も二もなく頷くと、ようやく二人から笑顔がこぼれた。

 

 

「それにしても、比企谷くんは敵のほうが楽しめそうね」

 

 城廻を待つ間に、三人の間で雑談の花が咲いている。

 

「俺は雪ノ下と敵対するとか勘弁して欲しいけどな」

 

「えっ。ヒッキー、ゆきのんとは戦いたくないってこと?」

 

 なぜか由比ヶ浜が焦ったように問い掛けると、八幡が平然と答える。

 

「だってお前、雪ノ下をどうやって倒すかを考えるなんてひたすら面倒だぞ。一番敵にしたくないって思うわ」

 

「やっぱり、比企谷くんは最低だねっ」

 

 ちょうど現れた城廻が、そのまま話に加わった。どういう意味なのかと訝しがる八幡だったが、言われ慣れているセリフでもあり、口調も優しいものだったので、深くは考えないことにする。

 

 城廻は三人と順にハイタッチを交わして、四人はしばし優勝の余韻に浸っていた。

 

 

***

 

 

 そして最終下校時刻が迫ってくる頃。校内には生徒はほとんど残っていない。そんな中、生徒会室には一人、城廻の姿があった。

 

「結局、新しい人材は出て来なかったし。雪ノ下さんの仕事をし過ぎる傾向も、改善できなかったなー」

 

 そう呟いた城廻は、以前に先輩と交わした会話を思い出していた。

 

『雪乃ちゃんが会長になったら、確かにめぐりが言う「奉仕部と生徒会の理想的な関係」は終わっちゃうよねー』

 

『でも、本牧くんに任せるのも気の毒だし、他に候補も居ないし、どうしたらいいかなーって悩んじゃいますね』

 

『うーん。一つ、手は無い事は無いけどね』

 

 きょとんとした表情の城廻に、あの人はこう言ったのだ。

 

『雪乃ちゃんと対等に渡り合えて、校内でも同じぐらいの知名度があって、人望があって知り合いも多くて仕事も間違いなく任せられるような、そんな候補が居れば良いんじゃない?』

 

『そんな生徒が居れば、苦労しないんですけどねー』

 

『居るじゃん、一人。奉仕部ってさ、別に雪乃ちゃんと比企谷くんの二人でもやっていけるだろうしさ。……引き抜けば良いんだよ。ガハマちゃんを』

 

 あの時の言葉が、城廻の頭の中で繰り返される。

 

 

 十月十日の水曜日。生徒会室には、重苦しい空気が立ち込めていた。

 

 

 

原作六.五巻、了。

 




本章はこんな感じで(本作にしては)短めに終わらせました。

・柔道部の城山・津久井・藤野:原作7.5巻
・遊戯部の秦野・相模、鏡たる千剣の閃光(サウザンブレイド・オブ・ミラージュ):原作3巻
・雪ノ下・由比ヶ浜・海老名のコスプレ:原作4巻

などなど、色んな所からネタをかき集めてみましたが、マイナーな男連中(&男のオリキャラ)の盛り上がりとか誰得な話だよと思いつつ。

書いた作者は楽しかったのですが、たとえどこか一部分であっても、読者さんの心に残る場面があったら良いなと、そんな感じです。

次回は幕間のお話で、一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(8/3)


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幕間:よして! るーむ掃除は大変なのよと彼女は釘を刺す。

今回は時計の針を進める回です。

引き続き、タイトルが本当にごめんなさい。
ボツにするのも忍びなくて、当初の予定通り使うことにしました。



 体育祭から二日後の金曜日。放課後の生徒会室にて、役員を中心に少人数からなる選挙管理委員会が設けられた。投票予定日は一ヶ月以上も先だが、中間試験と二年生の修学旅行が間に入るので、これでもギリギリの日程だ。

 

「試験一週間前で、月曜日からは部活もお休みだからね。選管の仕事は今日中に済ませるぞー!」

 

 今日の最終下校時刻までに告示を済ませて、月曜の朝には日程を認知してもらえる状態にしておく。ちょうど二週間後の試験最終日から立候補を受け付ける予定だ。と、そこまでは事前の打ち合わせでも問題は無かったのだが。

 

「でも会長。受付期間と投票日は、結局どうするんですか?」

 

 役員からそう問われて、城廻めぐりは「うーん」と口にしながら少しだけ俯いてしまう。とはいえ項垂れていたのは一瞬だけで、素早く気持ちを立て直して顔を上げると、情報を口に出しながら整理し始めた。

 

「要は立候補がどうなるか次第なんだよねー。最初の一週間で名乗りを上げてくれたらいいんだけど。でも、どうせ予備の期間を設けるなら、最初から二週間にしても……けど、間際になっても候補が決まらなかったら、二年生は修学旅行に行っちゃうし、投票日まで日にちの余裕がないから繰り下げるしかないし。うーん……」

 

 城廻が言うように候補者の動向に左右される部分も大きいのだが、それに加えて動かせない日程が多すぎることも影響していた。話がしやすいようにと、その辺りの時系列を整理してきた藤沢沙和子が情報を模造紙に具現化して、それを本牧牧人が壁に貼り付ける。

 

 二人から書記・副会長の内諾を得られて助かったと、そんなことを思い出しながら城廻は予定表を眺めた。以下のような内容だ。

 

 10/12(金) 選挙管理委員会設置、告示

 10/15(月)~26(金) 部活停止期間

 10/22(月)~26(金) 中間試験

 10/26(金)~11/2(金) 立候補受付

 11/2(金)~9(金) 同上(予備期間)

 11/12(月)~15(木) 修学旅行

 11/22(木) 立会演説会、会長選挙

 11/26(月) 同上(予備日)

 11/26(月)~12/7(金) 部活停止期間

 12/3(月)~7(金) 期末試験

 

「うん。予備期間や予備日のことは、表に出さないでいってみよっか。期間内に立候補が無かったら九日まで一週間延長にして。二年生が修学旅行に行くまでに候補が決まれば、投票日も予定通りで大丈夫だし。やっぱり、期末の一週間前に投票は避けたいよねー」

 

 半ば自分に言い聞かせるように話す城廻だが、嫌な予感は消えてくれない。

 

 自他共に認める最有力候補とは相談の結果、「受付の締め切り日まで動向を明らかにしない」ことで合意している。積極的に立候補をする意思が彼女に無いのは、残念ではあるが安堵もする。誰であれ候補者が出てくれれば、問題なく事が進むのだから。彼女に無理強いをする必要も、あの先輩の提案に乗る必要もなくなるのだから。

 

 一方で、予備期間が過ぎても立候補が出ない場合は、彼女ら二人のいずれかに頼み込む形になるのだろう。それでも修学旅行の前に候補者を公表できるし、その展開なら信任投票だ。だからきっと、大丈夫。

 

 理屈ではそれで間違っていないはずなのに、なぜか胸騒ぎがする。もちろん二人ともに断られる展開になったらどうしようもないが、彼女らはそんな性格では無いと充分に理解している。むしろ、だからこそ「他に手立てが無いと判明するまでは気楽に頼めない」という状況に陥っているのだから。

 

 二年生が修学旅行から帰って来て、その時点でも候補者が二転三転するようなら投票日を延期せざるをえないが、そんな仮定は現実離れにも程がある。そして、そんな超展開でもない限り、予備日は必要ない。そう城廻は結論付けて、内心の不安を打ち消そうと努めた。

 

 かの「事実は小説よりも奇なり」というバイロン卿の言葉を身を以て味わうことになろうとは、城廻は夢にも思っていなかった。

 

 

***

 

 

 無事に中間試験が終わった金曜日の放課後。奉仕部の部室には久しぶりに三人が顔を揃えていた。

 

「二人の表情を見れば、何となく予想はつくのだけれど。試験の手応えはどうかしら?」

 

「あー、俺はいつも通りな感じかね」

 

 まずは比企谷八幡が、やる気の無さそうな態度を装って短く答える。次いで由比ヶ浜結衣が。

 

「あたしは、まあスタートが低いから平均にはまだまだだけどさ。でも一学期の期末よりもできたかなって」

 

「そう。何度か勉強会を開いたのに、まだ平均には届かないのね。それなら期末こそは毎日缶詰にして……」

 

 当人としては、試験ごとに着実に成長していると自覚できているので胸を張って答えたものの、質問者にはご満足頂けなかったらしい。何やら不穏なことを口にする雪ノ下雪乃に、呆れ声が届く。

 

「試験が終わったばっかだし、まだ結果も出てないんだし、ちょっと落ち着け。それよりも、会長選挙の受付が始まったな」

 

「会長の他にも、『その他役員』という形でひとまとめにして立候補を受け付けているわね。とはいえ本牧くんと藤沢さん以外になり手がいるのか、蓋を開けてみないと判らないと聞いているのだけれど」

 

 八幡が話を先送りにした上で話題を変えると、雪ノ下もそれに従った。発言からは少し分かりにくかったがその態度から、雪ノ下なりの冗談だったのだろうと推測する。同じ結論に達したらしい由比ヶ浜が話に加わった。

 

「でもさ、それより会長が誰になるかだよね。ゆきのんはギリギリまで考えるって言ってたけどさ。先に誰かが立候補したらどうするの?」

 

「候補者次第ではあるのだけれど。敢えて務めなくても良いのであれば、このまま奉仕部部長の肩書きを大事にしたいところね」

 

 今のは分かりやすいなと八幡が思う間もなく、気付けば由比ヶ浜が抱き付いていた。目をうるうるさせて、頭を相手の胸元でぐりぐりさせている。抱き付かれた雪ノ下も驚きの表情は一瞬だけで、お団子頭に優しく手を当てていた。

 

 文化祭の準備期間に二人して休んだ辺りから、こうした光景を何度か目にして来たが。最近ちょっとゆりゆりし過ぎじゃないですかねと内心でぶつぶつ言いながら、紳士たる八幡は視線を二人とは反対側の廊下に向ける。すると。

 

「三人とも、揃っているな。……由比ヶ浜、そうした行為は部室では慎みたまえ」

 

 お堅いことを言いながらも生徒たちをからかう気が満々の平塚静が、目を細めながら部室に入ってきた。

 

 

「んで、何か依頼が来たんですか?」

 

 顧問の発言を冗談だと理解しながらも、あたふたと慌てている由比ヶ浜や何でもない顔をしている雪ノ下に代わって、八幡が問い掛けた。

 

 せかせかと椅子まで歩いて腰を下ろすと、お茶の支度を思い付いて腰を上げかける雪ノ下を制して、平塚はようやくその質問に答えた。

 

「残念ながら、依頼は何も無いな。『お悩み相談メール』も出だしこそ良かったものの、最近は……もっとも、生徒たちの悩みが無いのは良いことではあるのだがね」

 

「依頼ではないとすると、まさか採点作業に嫌気が差して気晴らしでここに来たわけでは無いでしょうし……」

 

「おお、さすがだな雪ノ下。いや、他にも用事はあるし、採点が大事な仕事だと頭では解っているのだがね。答案用紙と睨めっこを続けていると、気が滅入ってくるのだよ。それに今回は成績優秀者の採点から始めたものだから、後になるほど……まあ、空欄が多くて採点自体は楽なのだがね。私が教えたことがここまで伝わっていないのかと、暗澹たる気分になるよ」

 

 生徒を相手に本気で愚痴っている平塚だった。別の用件のことは完全に後回しにして、少し口調を緩めてそのまま話を続ける。

 

「それにしても。由比ヶ浜も比企谷も、今回の中間は頑張ったみたいだな。雪ノ下も、点数自体に変化は無いが、細かな部分を見ると理解が深まっているのがよく判るよ。もっと難しい問題を出せばより明確になるのだが……解けない生徒が続出して、下のほうで差が出ないからな。すまないが、了承してくれると助かるな」

 

「理系の科目でもよく言われることですし、お気遣いなく。それよりも、由比ヶ浜さんが頑張っていたのは知っているのですが、比企谷くんは、先程もやる気の無さそうな声で『いつも通り』と……」

 

「でもさ、ヒッキーの仕草がちょっと怪しかったよね。何か誤魔化してるみたいな感じでさ。ゆきのんも気が付いてたよね?」

 

 全く誤魔化せていない八幡だった。ふて腐れている男子生徒をそっちのけにして、話が進む。

 

「まだ全員の採点が終わっていないから、暫定だがね。今回の中間試験で、国語は学年トップが雪ノ下、二位が葉山と比企谷だよ。頑張ったと言って良いと私は思うのだが?」

 

 ちっ、と舌打ちが聞こえて来たものの、発した本人もそれが何に対してなのか把握しきれていない。密かに勉強を頑張っていたのが二人にバレたことに対してなのか。それとも、頑張ったつもりだったのに同点止まりで、抜けなかったことに対してなのか。

 

「我が校は試験の点数を公表していませんし、平塚先生が結果を方々で言い触らすとも思えませんし。だから葉山くんには『学年二位』という結果しか伝わらないはずよ。期末こそは、きっちりと単独二位になって欲しいのだけれど?」

 

 八幡の意図を後者と判断して、最初は平塚に向けていた視線を移しながら雪ノ下がそう述べた。

 

 舌打ちをもう一度、そして八幡がそれに答える。

 

「お前な、簡単に言ってくれるけどな。一教科だけなら行けるだろって、まさか葉山を抜くのがこんなに大変だとは思わなかったわ。つーかお前、抜かれる可能性を微塵も考えてないだろ?」

 

「だって満点を取れば、誰にも抜かれることは無いでしょう?」

 

 過去最高には程遠いとは言え、三〇位以内には入りそうな良い笑顔だなと八幡は思う。そんな雪ノ下の笑顔鑑定士ぶりはさておき、この発言に焚き付けられた人物が一人。

 

「良かろう。次こそは雪ノ下の満点を阻止すべく、九〇点満点+超難問が一〇点分の期末試験を用意してやろう」

 

 ほんの先刻に口にした言葉を簡単に翻して、大人げないことを宣言する平塚だった。

 

「えーと、じゃああたしは九〇点分を頑張ればいいんだよね?」

 

「まあ、そうだな。超難問で時間を取られて普通の問題が解けなくなるとか、アホらしいからな。でもなあ……俺はミス無く九〇点をもぎ取って、その上で超難問に挑む必要があるのか。葉山を抜くの、一回休みってわけには……ですよねー」

 

 教師が本気だと受け取って、由比ヶ浜は己のなすべきことを口にする。

 

 一人だけ逃げやがってと言いたいところだが、「あの由比ヶ浜が勉強に前向きになるとはなぁ」と思うと、文句を口にしたくなくて。代わりに八幡はお伺いを立ててみたものの、目線だけで二人から却下された。

 

 

「ああ、そういえば用件を忘れるところだったな。体育祭の衣装を頼んだ業者から連絡が来ていてな。試験期間中だからと返事を保留にして貰ったのだが、『見た目の感想などを教えてくれたら、費用を全額返却しても良い』と言ってきたよ。まとまった量の文章さえ貰えれば、編集なりレイアウトなりは向こうでやるという話なのだが?」

 

「それは、私たちの写真と一緒に外部に公開されるという意味でしょうか?」

 

 試験の話が一段落して、ようやく顧問は用件を思い出した。難しそうな表情になって、雪ノ下が問題点を指摘すると。

 

「いや。あくまでも会社を訪れた顧客にだけ、その場限りで見せる以外には使用しないと念押ししていたよ。見本が出来た時点でこちらに確認して貰うと言っているし、写真も顔が写っているものは極力避けるという話だが?」

 

 そうした会社の姿勢は、衣装の見積もりを持って来た彼女らの話とも一致する。そう考えて雪ノ下は一つ頷くと、八幡に向かって告げる。

 

「当事者の私たちの意見は後で付け加えるとして。まずは外部の目で、感想をひととおりまとめて欲しいのだけれど?」

 

 試験が終わったその日に仕事。しかも独りで文章を書くだけかと項垂れる八幡だったが、放送席から見たチバセンの光景は今も脳裏に焼き付いている。他の誰かがその感想を書くぐらいなら自分がと、そう考えてしまう程度には思い入れがある。

 

「へいへい。ま、適当にまとめて週明けにでも持ってくるわ」

 

「急かしたくは無いのだけれど。早めに書き上がれば、メッセージに添付して送ってくれても良いわよ。由比ヶ浜さんも早く読みたいでしょう?」

 

 二人に宛ててメッセージを送れという意味かと首を傾げる八幡に、今度は由比ヶ浜が。

 

「あのね。明日はゆきのんのマンションで、いろはちゃんとディナーの予定なんだ。体育祭の時にちょっと約束があって、それで……」

 

「ああ、なるほどな。チバセンで三浦に挑ませた時の交換条件が、雪ノ下の手作りディナーってことか。んじゃまあ、明日一緒に読んで貰えるように、何とか今日明日で頑張ってみるわ」

 

 断片的に知っていた幾つかの物事が、明確な形で繋がって。それに気を良くした八幡が、前向きな返事を口にしたものの。

 

「……どうして貴方が、一色さんとの交換条件の話を知っているのかしら?」

 

「い、いや……知ってたっつーか、一色の性格的にそんな感じだろうなって思っただけなんだが?」

 

「ヒッキーって、いろはちゃんの性格に急に詳しくなったよね?」

 

「その、詳しいっつーか、レッテル貼って適当に言ってるだけだぞ。それが当たってたとしても、たまたまだ。たまたま」

 

 またこの展開かよと思いながら、不用意な発言を避けるにはどうしたら良いんだろうと内心で途方に暮れる八幡だった。

 

 そんな三人の丁々発止を、平塚は口元を緩めながら見守っている。お陰で採点をもう少し頑張れそうだと、そんなことを考えながら。

 

 

***

 

 

 翌日の土曜日、既に時刻は夕刻に差し掛かっている。雪ノ下はマンションに由比ヶ浜と一色いろはを迎えて、二人に振る舞うためのディナーを用意していた。

 

「雪ノ下先輩って、ホントに手際がいいですよね〜」

 

「一色さんも勘が良くて飲み込みが早いから、これぐらいならすぐに作れるようになると思うのだけれど?」

 

 キッチンで話に花を咲かせる二人だが、由比ヶ浜はと言うと。

 

「焼いてきてくれたクッキーだけで充分だから。貴女はソファで寛いでいて欲しいのだけれど」

 

 家主にそう言われて、メイドさんから接待を受けていた。自分も話に加わりたいと、何度か腰を上げたものの。

 

「後で部屋の掃除が大変だから、食材には触れないでくれると助かるわね。それにしても、焦げたクッキーも少なくなったし、そろそろ別の料理を覚えても良いとは思うのだけれど……」

 

「あ、そう言えば。牛乳と混ぜるだけで作れるデザートがあるじゃないですか。あれ、生クリームで作るのもおいしいですよ〜?」

 

「お嬢様、こちらが公式ページのレシピになります。いかがでしょう、これをご自宅で何度か作られた後に、我々に振る舞って頂くというのは?」

 

 雪ノ下には釘を刺され、一色からは誰にでも作れそうな一品を提案され、メイドさんにも何故だか警戒されている。「馬鹿にしすぎだからぁ!」と叫びたくなるのを堪えてソファに戻ると、由比ヶ浜は持参したクッキーの包みを手に取ってふて腐れていた。

 

 ディナーを食べ終えた後で、食後の紅茶に添えて出されたそのクッキーを口にして。全員から味を褒められてご満悦に至るのは、もう少しだけ先の話である。

 

 

「そういえば。一年生の間では、会長選挙は話題になっているのかしら?」

 

 ディナーを食べながらの歓談の最中。途切れた話題を穴埋めする程度の軽い気持ちで、雪ノ下が選挙の話を持ち出した。しかし問われた一色は微妙な表情で首を横に傾けている。

 

「テスト期間の前に告示されたのは見たんですけど〜……あれ、どうなってましたっけ?」

 

「今日から一週間に亘って、立候補を受け付けているのだけれど」

 

 そう言われても、やはり一色の反応は鈍い。代わって由比ヶ浜が口を開いた。

 

「一年生にとっては、選挙って言われても身近に感じないかもねー。あたしも去年はそんな感じだったしさ。誰かやりたい人がやるんじゃない、みたいな?」

 

「確かに、そんな程度の受け止め方かもしれないわね。一色さんは、藤沢さんとは……?」

 

「文化祭で雪ノ下先輩と一緒に副委員長をやってたな〜、ってぐらいですね。立候補したんですか?」

 

「書記ならやっても良いと、内諾を得たらしいわ。城廻先輩から伺っただけで、実際に届けを出したのかは未確認なのだけれど。それよりも……」

 

 雪ノ下の説明を聞いた一色は「ふ〜ん」と頷いているものの、さほど興味は無さそうだ。

 

 確かに地味で引っ込み思案に見える藤沢沙和子と、ゆるふわで人目に付く一色では接点が無いのだろう。自分以外の誰かが会長になる場合は、あと一人ぐらいは役員が出ないと大変だろうなと雪ノ下は思う。とはいえ一色がそんなことをするとも思えないので、話題を変えようとしたところ。

 

「ちなみにですけど〜。藤沢さんって、最初から生徒会に興味があるような感じでした?」

 

「いいえ。文実の委員に選ばれたのも、単純にじゃんけんか何かで負けた結果だと言っていたわね。それが副委員長に立候補して、今度は生徒会役員になるのだから、分からないものね」

 

「ゆきのんが仕事してるのを見て、憧れたのがきっかけだったっけ。あ、その前に。ゆきのんが話してるのを聞いて、勇気を貰ったのが大きかったって言ってたよね」

 

 意外な質問を受けて、二人は藤沢から聞いた話を思い出しながら順次口を開いた。それを聞いて少し考え込んでから、一色がぼそっと呟く。

 

「人が変わるのって、やっぱり他人が原因なのが一番多いのかもですね〜。憧れとか、あと対抗心とか、細かく見ていくと色々だなって思いますけど……」

 

「一色さんは……不躾な質問かもしれないのだけれど、変わりたいと思っているのかしら?」

 

「わたしが変わりたいってわけじゃなくて……変わりたいって思って頑張ってる人は、何となく応援したくなるな〜って感じですね」

 

「いろはちゃん、サッカー部のマネージャーもかなり真面目にやってるもんね」

 

 

 そう言われて、表には出さないものの内心で少し照れる。ストレートな物言いや、天然な流れで褒め言葉を出されると、つい過剰反応してしまう。

 

 一色はずっと男子に囲まれて、ちやほやされて過ごして来たので、おべっかにはめっぽう強い。褒め言葉の中にほんの僅かでも別の目的を感じ取ってしまうと、たちまち気持ちが覚めてしまう。「可愛いと褒めたら好感度が上がるかも」といった中高生男子の思惑などは全てお見通しだ。

 

 そんな一色はいつの頃からか、発言の裏を読む癖が付いていた。「どうせ下心があるんだろうな〜」と思いながら耳を傾けて、そうで無かったことなど数えるほどだ。

 

 だがそれ故に、変な意図を感じ取れなかった時には、以前にも増して困惑するようになった。不純物の無い気持ちをそのまま告げられるのは、昔から苦手ではあったものの。最近とみに弱くなったと一色は思う。それを変えたいとまでは思わないが、この変化は自分にとって望ましいものなのか、不安になる時は確かにある。

 

 そもそも、わたしが男子との付き合いを後回しにして、こうして同性の先輩と週末を過ごしているというのは驚天動地の大事件だ。同じクラスでグループを組んでいる女性陣とも休日を過ごしたことは何度かあるが、その前後には男子との予定が入っているのが常だった。むしろ空き時間を埋めるために、仕方なく女子だけで集まったと言ったほうが正確かもしれない。

 

 だが、最初は由比ヶ浜が、そして今では雪ノ下も、一色にとっては男子よりも優先したい存在になっている。他にも、同じ男子生徒を狙う仲である三浦優美子や、あの変なせんぱいの妹にあたる比企谷小町も、もっと深い話をしてみたい相手だ。

 

 わたしはいつからこうなったのだろうと考えるも、結論は一つ。入学式で由比ヶ浜に取りなして貰ったのが、全ての発端だったのだろう。

 

 最初に事態を収拾してくれた男子の先輩からは、下心がありありと伝わって来た。でも、当時はまだおどおどした雰囲気も残っていた由比ヶ浜のお陰で、もしや魔法で中身だけを入れ替えたのかと突拍子も無いことを考えてしまうほど、かの男子生徒からは下心を感じなくなった。それが全ての始まりだったのだ。

 

 自分の変化が果たして正しいことなのか否か、未だ判別が付かない。でも少なくとも、悪くはないと思う。由比ヶ浜に導かれての変化ならば、悪くは無い。改めてその結論を自分に言い聞かせながら、一色は意識を会話に戻した。

 

 

「どうせ葉山先輩狙いだろって、長続きするわけないって思われてたみたいですね〜」

 

「陰では好き勝手なことを言うものね。でも、貴女の行動だけがそれを否定できると、私は考えているのだけれど?」

 

「こういうの、ゆきのんらしいなって思うよね。いろはちゃんもそう思わない?」

 

 由比ヶ浜の言葉を脳内で正確に補完して、一色は頷きながら口を開く。

 

「ですね〜。最初は正直、正論でぐいぐい押す感じなのかな〜って思ってたんですけど。雪ノ下先輩って不器用だな〜って判ってからは、意味が違って聞こえますね」

 

「一色さん。それと由比ヶ浜さん。貴女たちは何が言いたいのかしら?」

 

 ゴゴゴゴゴという効果音が聞こえて来そうな雰囲気を醸し出してみたものの。

 

「お二人の発言には私も同感です、閣下(Your Grace.)

 

 雇っているメイドさんにも裏切られる雪ノ下だった。

 

 

「はあ、まあいいわ。でも、変わりたい人を応援したいのであれば、生徒会役員になるのも面白いとは思うのだけれど?」

 

「う〜ん、どうでしょうね〜。生徒会ってあんまり目立たないし、わたし的にはしょぼいって言うか……あ、そっか。率先して表に出る生徒会なら、アリかもしれませんね〜。この間の体育祭だと、優勝の立役者を生徒会主催で表彰したら面白そうですし」

 

 少し拗ねたような口調で投げやりに提案を出すと、いい加減な口調ではあるものの、少しだけ目を輝かせて返事をされた。役員になるならないは個人の自由だし、一色の意思を尊重するのも当然のことだが。その発言から才能を感じ取って、雪ノ下の表情が柔らかくなる。文実で藤沢の発言を聞いた時にも、同じようなことを考えたなと思い出しながら。

 

「え、でもさ。赤組と白組の同時優勝だったけど、いろはちゃんが表彰するとしたら、やっぱり隼人くん?」

 

 由比ヶ浜が思い付いた疑問を口にすると、悪戯っぽく微笑んだ後輩は。

 

「白組は葉山先輩で決まりですけど〜、赤組はせんぱいを表彰したら面白そうですね」

 

「逃げ足の速い比企谷くんを表彰できるとは、私には思えないわね」

 

「そ、そうそう。それにヒッキーってさ、何て言うんだろ……こう、立役者とか功労者とか、そういうのになるのを全力で避けてるんじゃないかって思ったりもするんだよね」

 

 八幡がそうした扱われ方を喜ぶとは思えない二人が、素直に反論を述べるものの。実はこれらの反応は、一色の思惑通りだったりする。

 

「じゃあ、せんぱいってわざとあんな風にしてるってことですか?」

 

「いいえ、そこに比企谷くんの意志は感じないわね。だから意図的なものではなく、結果的にそうなってしまうだけだと思うのだけれど」

 

「だね。あたしの言い方が悪かったなって思うんだけどさ。わざとやってるんじゃないかって言われたら、ヒッキーは嫌がるだろうし……さっき言ったこと、無しにして欲しいな」

 

 知りたかったことを聴けたのもあって、一色は頬を緩めて頷いた。先日の体育祭の辺りから飾らない表情が徐々に増えているのだが、本人はそれをまだ自覚できていない。

 

 

 その後も気楽な会話を重ねながら、この三人で過ごす時間はあっという間に流れていった。わたしだけ帰りたくないなと思ってしまった一色の希望を、由比ヶ浜が見逃すはずも無く。その結果、一色は合宿などの機会を除けば初めて同姓と(意外と身持ちが堅いので異性とも未経験なのだが)一夜を共に過ごすことになるのだった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、八幡は自宅で文章を書き連ねていた。リビングで寝転んだまま作業をしていたのを妹に見咎められた結果、今は何故か机に並んで座っている。

 

 隣で英単語を覚えようとして飽きて、年号暗記に手を出してまた飽きて、今度は数学の参考書を取り出した小町に呆れながら。八幡は「コーヒーでも作ってやろう」と思い付いて立ち上がった。

 

「ねえ、お兄ちゃん。……小町、合格できるかな?」

 

「……俺には分からんけど、あれだ。小町が行きたいところに受かって欲しいなって思うわ」

 

 互いの顔が見えない配置で、兄妹はそんな会話を交わしている。

 

「でもさ、もし合格できても……」

 

「あのな、小町。平塚先生を知ってるだろ。あの人なら、こう答えると思うんだわ。『その悩みは、合格してから考えたまえ』ってな。あと……一色がこの間、そのことを心配してたぞ。要するに、あれだ。お前には、相談できる相手がそれだけ居るんだからな」

 

「お兄ちゃんは、全部一人で決めたんだよね?」

 

「ぼっちは限界があるからな。頼れる相手が居るなら頼ったら良いし、親が養ってくれる間は極力働きたくねーなって俺なら思うぞ?」

 

 盛大に話を逸らされた気もするが、もやもやしていた気持ちが少し軽くなった。

 

「あ、小町はミルク増し増しでお願い!」

 

「はいよ。まあ、最初からそのつもりで作ってたんだがな」

 

 そんな風にして、二人だけの夜が過ぎていく。入試まで、もう四ヶ月を切っていた。

 

 

 

原作7巻に続く。

 




次回のまとめ回を挟んで原作7巻に入ります。
ただ、全文を読み返すのに時間が掛かるので、次回の更新は「できれば月末までに」という曖昧な形にさせて下さい。

また、本章の一話でお伺いした件ですが、当分は今まで通りの書き方を続けます。
もしも解りにくい箇所などがあれば、お気軽に感想なりで書いて頂けると、こちらとしても助かります。

では、原作7巻もよろしくお願いします。


追記。
一括変換でやらかしたのが原因か、一色の一人称が全て「私」になっていたのを修正しました。(6/19)
細かな表現を修正しました。(8/3)


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ここまでのあらすじ(原作1巻〜5巻)

本作未読かつネタバレを避けたい方はここで引き返して下さい。
ここまでの流れを確認したり、途中の巻から読む方のお役に立てれば幸いです。
後者を想定して、区切りごとにリンクを設けました。



■ここまでのあらすじ

 

 原作とは少しだけ違う世界。

 意識や感覚を保ったまま、現実そっくりの仮想空間にログインできる技術が開発された世界において。

 

 総武高校は、同じ千葉県下にある何校かの高校や大学、そしていくつかの学習塾とともに、生徒に仮想空間を体験させると決断した。

 

 

 高二に進級して早々に、八幡は変な作文を提出したかどで奉仕部に連行された。

 それを偶然みつけた由比ヶ浜も巻き込んで、三人は現実世界にて邂逅を果たす。

 初対面の雪ノ下を相手に持論を展開してしまった八幡。

 自分と対等に渡り合う八幡と身近で接して、評価を上方修正する雪ノ下。

 そんな二人のやり取りを、由比ヶ浜が微笑ましく眺めていた。

 

 仮想空間で待っていたのは、「ログアウト不可」というまさかの展開だった。

 参加校が増えない苛立ちか、国内外のライバル企業に追い越される不安か。

 いくつか推論が出たものの、運営の真意は謎に包まれたまま。

 確かなのは、この世界に捕らわれてしまったという現実だけだった。

 

 事件当日に雪ノ下が今後の指針を提案したことで。

 そして事件翌日には城廻が全校の雰囲気を一変させたことで。

 最後に、現実世界から「日常の延長で日々を過ごすように」と指令を受けたことで。

 二日目にして、VR世界における基本方針が固まった。

 

 そんな状況下でも、喜ばしい変化がいくつかあった。

 

 まずはトップカースト三人娘の結成。

 海老名が趣味を打ち明け、三浦が気になっている男子の話を口にして。

 この事態を恐れる気持ちよりも、ともに過ごせる心強さが上回って。

 由比ヶ浜を含めた三人は、瞬く間に親密になった。

 

 次に、いくつかの運動部が活気を取り戻した。

 この世界で部活をしても意味があるのかと、多くの生徒が疑心暗鬼に陥っていたさなか。

 練習を見学した三浦が葉山に助言をして、サッカー部が変わった。

 その変化は、少しずつ周囲へと波及していった。

 

 そして由比ヶ浜の依頼を通して、奉仕部三人の仲も深まった。

 クッキーと一緒に、飼い犬を助けてくれたお礼を八幡に伝えた由比ヶ浜。

 自分もいずれ打ち明けると、顧問と約束した雪ノ下。

 由比ヶ浜の入部も正式に決まって、これを境に奉仕部は活況を呈することになる。

 

 三人体制になって初めて受けたのは、材木座の依頼だった。

 由比ヶ浜の入部を聞いて、保護者のような心境で見学に訪れていた三浦と海老名も加わって。

 総勢五名は容赦なく作品を酷評する。

 それでも材木座の創作意欲が折れることはなかった。

 

 次の依頼人は「上手くなりたい」「部員に戻ってきて欲しい」と願う戸塚。

 その結果、お昼休みは奉仕部が、放課後は女テニが練習を手伝う形になった。

 だが雪ノ下と、女テニの練習を助ける三浦の間で意見が分かれる。

 はたしてどちらの練習方針が適切なのか。

 平塚の裁定により、二人はテニス勝負で雌雄を決することになった。

 八幡と葉山を加えたダブルスの結果で全てが決まる。

 

 仮想空間に捕らわれたせいで、今も大勢が俯きがちに日々を過ごしていた。

 そんな生徒たちの気持ちを盛り上げるべく、テニス勝負は一大興行として扱われた。

 テニスを楽しむ三浦。

 城山の問い掛けに答える雪ノ下。

 趣味が公になった海老名。

 観客席に潜んで生徒を煽る材木座。

 こうした面々に魅せられて、この世界での過ごし方や部活の意義に悩んでいた生徒の表情が変わる。

 八幡の助言によって、部員の復帰にも、めどが立った。

 

 あとは勝負の行方のみ。

 練習の成果を全て出しきって、由比ヶ浜の声援を受けた八幡と雪ノ下は見事に勝利を収めた。

 しかし互いの健闘を讃えあう現場に一色が登場して、興行はなし崩し的に解散となる。

 

 奉仕部の二人からご褒美をもらって、八幡は一人になった。

 この世界に巻き込まれてからの日々を振り返り、環境の変化に思いを馳せながら。

 八幡は満ち足りた気持ちで時を過ごすのだった。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→22話。

***

 

 

1.5(幕間)

 この世界に捕らわれてから二週間が過ぎた。

 ようやく校外への外出が解禁となり、八幡はいったん自宅に戻った。

 

 一方、同じ塾の生徒と共にこの世界に巻き込まれていた小町は、総武高校を訪れていた。

 そこで兄の行き先を聞いて帰路に就く。

 

 そして兄妹は、住み慣れた我が家で再会を果たした。

 

 また日が過ぎて、大型連休の二日目。

 妹と外食するために家を出た八幡は、偶然にも由比ヶ浜と雪ノ下と遭遇した。

 その結果、思いがけず校舎外で会話を楽しむ三人だった。

 

 

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 この続きを本編で読む場合は、こちら。→26話。

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 中間試験が二週間後に迫った五月下旬のこと。

 朝は去年の事故を話題にしながら小町と登校し、昼には専業主夫志望を知られた代わりに川崎の黒を堪能して。

 それでも八幡は、ぼっちの時間を懐かしんでいた。

 この気持ちは「孤独を恐れる同級生には分かるまい」などと考えながら。

 

 分からないのはお互い様で、大和や大岡にとって職場見学の班から除外されるのは一大事だった。

 テニス勝負を契機に葉山とそれなりに交流がある八幡、そして同じサッカー部の戸部を警戒して、彼らは密かに噂を流す。

 だが自分たちも含めた四人の悪評は、予想以上に広まってしまった。

 噂がクラスに止まらず一色にまで届いたのを知って、葉山は奉仕部への依頼を決断する。

 

 雪ノ下が二年F組の教室まで出向いて、三浦と一緒にクラス全員に脅しを入れて。

 犯人の検挙こそ無かったものの、こうして事態は鎮静された。

 職場見学は葉山グループ四人と三浦・海老名の実質六人で行動すること、奉仕部の三人は運営の職場に赴くことを確認して、依頼は解決した。

 

 事の顛末を顧問に報告しがてら、雑談に花を咲かせる奉仕部一同。

 しかし話の流れから、犯人が判明しないと「罪を謝罪できない」と指摘して、雪ノ下が口ごもる。

 平塚としばし見つめ合っていた雪ノ下は、かつての事故の話を持ち出して二人に頭を下げた。

 こうして、三人の仲に暗い影を落としかねない要素は解消された。

 

 中間試験を目前に控え、部活は停止期間に入った。

 勉強会に巻き込まれた八幡はカフェで妹と遭遇し、大志の依頼を受けることになる。

 家庭の事情から、一年で現実世界に戻りたいと願う川崎。

 脱落する生徒を出したくないと願い、川崎が深夜に出歩くのを止めさせたい雪ノ下。

 二人の性格が原因でお互いに説明不足なこともあって、初回の交渉は決裂する。

 

 大志から「エンジェル」という店が関与していると聞いて、平塚が調査に赴く。

 川崎がバイトをしている可能性が浮上して、奉仕部の三人と戸塚が店に乗り込んだ。

 二度にわたるやり取りを経て、ようやく事情を把握した雪ノ下と八幡は、川崎に解決策を提案する。

 バーを辞めて、大志の塾で英語を教えるバイトに変更すること。

 雪ノ下が大手予備校の夏期講習を受講後に勉強会を行うこと。

 更には教師の補足もあり、大志の決意表明もあって、無事に話がまとまった。

 

 この一件は、思わぬ副次効果をもたらした。

 兄の事故を内心では今も引きずっていて、時に他人を責めたくなる自分を嫌悪していた小町。

 その姿を過去の姉と重ねて、小町が辛い時には自分が寄り添いたいと自覚するに至った大志。

 依頼を解決して帰路に就いた兄妹は、寄り道をした公園で小町の想いを共有した。

 八幡の周囲は少しずつ変化の兆しを見せ始めていた。

 

 試験が終わって、大志の依頼に関与した面々を集めて打ち上げが行われた。

 戸塚を含む女性陣がメイド服をまとって八幡にご奉仕するなどして、楽しく過ごした一同だった。

 

 週が明けて職場見学に赴いた奉仕部三人は、ゲームマスターから手荒い歓迎を受ける。

 由比ヶ浜が顧客対応と経理、八幡が千葉村の製作、雪ノ下がペット解禁に向けた会議への参加など、面談までの時間が有意義だっただけに。

 由比ヶ浜の直感を評価し八幡と雪ノ下に厳しい判定を下すその指摘は、各々の心に突き刺さった。

 雪ノ下は、無駄なことに時間を費やしすぎていると。

 八幡は、確実に雪ノ下を上回れると言える分野があまりに少ないと。

 

 運営の職場を出て、まずは雪ノ下が「一人にして欲しい」と言って去って行った。

 そして内心で自覚していたことを突き付けられた八幡が、由比ヶ浜を拒絶する。

 二ヶ月という時間を共に過ごしてなお、八幡は未だ二人を信じ切れていないのだった。

 

 

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 この続きを本編で読む場合は、こちら。→48話。

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 奉仕部の三人は、各々が職場見学を引きずっていた。

 

 由比ヶ浜は二人の力になれない無力感を噛みしめながら、回復の兆しが見えない八幡を気遣っていた。

 八幡は妹と諍いを起こしたり、あえて雨に打たれたりして、孤独を貫こうとしていた。

 雪ノ下は助言をそのまま受け入れて書籍に没頭するなど、先々の不安こそ見え隠れするものの、いち早く調子を取り戻していた。

 

 火曜の部活は中止になった。

 拗らせ続ける八幡とそれを心配する由比ヶ浜は、お互いの誤解も重なって調子が上向かない。

 それでも由比ヶ浜は「何としても八幡を引き留める」と己のなすべき事を決意して。

 八幡にも、平塚に空き教室をあてがわれ居場所ができたお陰で、心理的な余裕が生まれて。

 少しずつ改善の気配が見えてきた。

 そして雪ノ下も、川崎が部室に訪ねて来てくれて、ようやく二人の現状を把握できた。

 

 水曜の放課後、八幡は足の向くままに外に出て、気付けば東京駅にいた。

 駅長と頭を使った会話を交わして、憑きものが落ちたような心境で帰宅する。

 翌日には川崎姉弟と小町の四人で夕食を共にして、気持ちが上向いた状態で週末を迎えた。

 

 同じ頃、雪ノ下は生徒会長から相談を受けていた。

 予算をめぐって運動部と文化部で合意が得られず、仲裁を依頼されたのだ。

 その結果、生徒会室に呼ばれた水曜に続いて木金も奉仕部の活動は中止となった。

 

 迎えた部長会議は上々の結果に終わった。

 城廻と、創作のために部活を立ち上げた海老名に両隣から支えられて。

 城山や戸塚や葉山の協力、そして職場見学で得た経験も上手く活かして。

 無事に大任を果たした雪ノ下は、また一つ成長を遂げた。

 

 同時刻、由比ヶ浜は三浦と共に一色と向き合っていた。

 雨に打たれる八幡の写真を口実に、対話を求められたのだ。

 一色の要求は「夏休みに葉山と出かける際には自分も誘って欲しい」というもの。

 全国に行けない葉山の心情を思い遣りながら、三浦と一色は互いに思惑を抱えつつも合意に至った。

 

 金曜の昼に関係者を集めて、雪ノ下は奉仕部を「元通り」にするために号令をかけた。

 八幡に部活復帰を促すために、まずは戸塚が行動に出る。

 

 テニススクールの時間まで遊ぼうと誘われて、八幡は駅前に向かった。

 道中もゲーセンに入ってからも、二人の会話は途切れることなく続く。

 奇策で八幡を追い詰めた戸塚だが、「奉仕部を辞めない」と言わせることはできなかった。

 だが「次の依頼を頑張る」という言質を得て、二人の初デートは無事に終わった。

 

 土曜にはペットの飼育が可能になった。

 八幡と小町はカマクラを引き取るため東京わんにゃんショーに向かう。

 その会場で、奉仕部の二人と出逢った。

 

 まずは由比ヶ浜がサシで話をすることになった。

 自爆攻撃で八幡に迫るも、「次の依頼で結果を出す」と言わせるのが精一杯で。

 それでも「現実世界でサブレに会う」という約束を取り付けて。

 関係が無に帰すことを未然に防いで、由比ヶ浜は満足そうだった。

 

 猫を飼うことになった雪ノ下に、八幡を買い物に誘うようにと小町が要請した結果。

 由比ヶ浜の誕生日プレゼントや自前のエプロンも購入して、二人は楽しく時を過ごした。

 誕生日を推測した話から、雪ノ下の数学的なセンスに触れて。

 八幡は別方面の能力を研こうと考え始める。

 陽乃との遭遇というアクシデントも、パンさんのぬいぐるみで印象を上書きして。

 二人のお出掛けも無事に終わった。

 

 一方、雪ノ下の誘い言葉を耳にした由比ヶ浜は、己の妬心を自覚した。

 たとえ雪ノ下が相手でも渡したくないという、自分でも醜いと思う独占欲によって。

 由比ヶ浜は八幡への恋愛感情をようやく認識した。

 小町からの食事の誘いを断って、駅前で二人を見送って。

 何とか顔を上げて、由比ヶ浜は一人家路に就くのだった。

 

 月曜の部活が始まって早々に材木座が現れた。

 勝負をしたいから助っ人をと懇願され、一同は遊戯部の部室に乗り込んだ。

 勝負方法の交渉から戦術までの全権を託された八幡は「この依頼で結果を出す」と意気込む。

 クイズゲームで完勝して、その想いは果たされたかに見えた。

 

 だが些細な発言が原因で、材木座の依頼が仕組まれていた可能性が浮上した。

 勝負こそガチンコだったが、状況をお膳立てされたと考えた八幡は再び無力感に包まれる。

 

 奉仕部に残りたいと願うのは、所詮は利己的な想いに過ぎないのではないか。

 そう口にする八幡に、奉仕部の活動に手応えを感じていた雪ノ下は「三人の願いは相矛盾するものではない」と主張し。

 由比ヶ浜は事故の話を持ち出して、「始めかたが正しくなくても全部が偽物じゃない」「だから問題ない」と反論して。

 八幡がそれらを受け入れたことで、ようやく奉仕部は元通りになった。

 

 その後、由比ヶ浜の誕生日をケーキとカラオケでお祝いして。

 三人は「部活の仲間」という意識を強くして、この日は解散となった。

 

 その週末、由比ヶ浜の誕生祝いと奉仕部が元通りになったお祝いで比企谷家は賑わっていた。

 戸塚と材木座が不参加になったので、八幡以外の八人は全て女子。

 並のリア充には到底不可能な環境を、ぼやいてみせる八幡だった。

 

 

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 この続きを本編で読む場合は、こちら。→74話。

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 八月の到来に合わせて、VR世界は東京と千葉の二都県から関東一円にまで広がった。

 自らが手掛けた千葉村を見に来た八幡は、小学生の団体を目撃する。

 参加者を増やしたい運営が小六まで対象を広げ、教育熱心な塾がそれに応じたがゆえの悲劇だろう。

 そんな推測をしていた八幡は、集団の中に気になる少女を見付けた。

 

 合宿に来た雪ノ下・由比ヶ浜・小町・戸塚と、八幡は予想外の合流を果たす。

 そこに葉山・戸部・三浦・海老名・一色までもが加わった。

 インターハイの期間に気晴らしができるように。

 同時に運動部と文化部の融和の象徴として、共同でボランティアを行う。

 雪ノ下と小町、三浦と一色、そして平塚が各々の思惑を持ち寄った末に合同合宿が始まった。

 

 気配を薄くして形だけ小学生の相手をしていた八幡の前に、炊事場を追われた留美が現れた。

 順番にハブるゲームがバカらしくなったと語る留美に、雪ノ下が「中学でも同じ」だと忠告して。

 三人の顔合わせは苦い形で終わった。

 

 留美の状況を何とかしてあげたいと、中高生が話し合うものの良案は出ない。

 葉山に向ける雪ノ下の言葉は辛辣だったが、旧友の話を披露した戸部のお陰で場は保たれていた。

 二人の間に再び緊張が高まったところで平塚の仲裁が入り。

 八幡と海老名が無難に話をまとめて、一日目は解散となった。

 

 ログハウスに帰ってからも男女別に話し合いが続いていた。

 リア充にも色々あるんだなと、葉山や戸部を少し身近に感じながら。

 八幡は「小学生を支配している空気を変える」という閃きを得た。

 話が一段落して、戸部の恋バナが始まった。

 一同は「海老名への想いが確定したら協力して欲しい」との言葉に生返事で応える。

 続けて葉山が好きな子のイニシャルを口にして、男子は気まずい形でお開きになった。

 

 葉山との間に「去年」何があったのかと尋ねられて。

 実は小学生時の話だと悟られぬよう、かつ嘘にはならない言い回しで雪ノ下は難を逃れた。

 話し合いの中で三浦は小町の発言をたしなめ、葉山の意思を挫こうとするかのような雪ノ下の姿勢に異議を唱える。

 自分なら葉山を暴走させないと宣言して、三浦は一人布団にくるまった。

 

 荷物を取りに出た八幡は歌声に導かれ、木立の中へといざなわれた。

 三浦と距離を置くために外に出ていた雪ノ下は、お気に入りの曲を歌い終えて八幡と顔を合わせる。

 木々に囲まれた空間で、二人は夢見心地に会話を交わす。

 歌詞に出てきた「約束」、漱石の作品に書かれていた「愛」、そして「いつか、雪ノ下を」という言葉を共有して、二人は別れた。

 その間、雪ノ下は一度も母親を話題に出さなかった。

 

 帰り道で由比ヶ浜と出逢った八幡は、一緒に雪ノ下を待ちながら雑談に花を咲かせる。

 待ち人に加え布教から逃げてきた小町も合流して、四人は平塚のログハウスに招待された。

 雪ノ下と小町は、八幡に内緒で合流を企んだことが弄りの域にまで至っていたと自覚し、三浦の忠告が正しかったと理解した。

 八幡は、身近な存在に気を遣って負の感情を押し隠すことが、むしろ周囲に悪影響を与えていたと反省する。

 この日の議題が一つ終わった。

 

 雪ノ下は留美の中に由比ヶ浜を見て、由比ヶ浜は留美に雪ノ下を見ていた。

 同じく過去の雪ノ下を重ねているであろう葉山に、失敗を繰り返させないためにも。

 雪ノ下は留美の力になりたいと改めて表明し、由比ヶ浜がそれに続いた。

 

 ぼっち気質ゆえに周囲から距離を置かれ、しかしお陰で酷い虐めには至らなかったという八幡の過去を共有して。

 更には「強さが秘める危うさ」と「弱さこそが大事な場面がある」という教師の教えも胸に刻んで。

 最後に「自分の行動に責任を持って考え続けていれば、間違った思い込みはいつか気付ける」という秘訣を伝授されて。

 四人にとってこの集まりは、忘れがたいものとなった。

 

 同時刻、一色と海老名はそれぞれに今後の行方を考察していた。

 三浦と戸部は既に寝入っている。

 葉山は戸塚の過去に触れて、「見てるだけしかできない辛さ」を分かち合って。

 小学生のあの日から止まったままだった時計は、いま静かに動き始めた。

 

 

 合宿は二日目の朝を迎えた。

 打ち合わせの席で平塚は、肝だめしの代替イベントを考えるよう八幡に命じる。

 手を抜いてステルスヒッキーを発動した昨日、幽霊と見まちがえた小学生が複数出た。

 その責任を問われた形だ。

 

 午前中の作業の合間に、八幡が披露した雑学によって葉山は新たな気付きを得た。

 昨夜「自らの手で」というこだわりを克服したのに続いて、ようやく「自分のためでも雪ノ下のためでもなく当事者のために」問題を解決するという意識に至った。

 

 だが事態は急展開を迎える。

 朝の点呼には出ていたのに、留美は宿舎で一人残っていた。

 留美に居残りを認めさせたのだと理解して、一同は状況の逼迫を悟る。

 

 平塚はただちに、向こうの引率の教師と相談の場を設けた。

 雪ノ下は留美にメッセージを送り、女性陣は返事待ちの時間に川遊びをして無理に気を紛らわせる。

 そこに駆け付けた八幡にラブコメの神様が微笑んで、中高生に少し落ち着きが戻った。

 

 留美から指名を受けた雪ノ下と八幡は、急いで研修室に移動した。

 部屋に入って早々に「苗字でしか呼ばれない」現状を訴え「名前で呼んで欲しい」と告げる留美。

 二人は即座に要求を容れて、力になりたい旨を伝えた。

 

 加害者に謝る必要など無いこと。

 だが同時に、身の危険を感じたら何をおいても逃げるべきだと雪ノ下は告げる。

 

 八幡は虐めを「孤立化・無力化・透明化」という三段階に分類する考え方を紹介して。

 加害者にも権威失墜のリスクがあるので、実は時間はこちらの味方だと保証した。

 相手が行動に出た時は、こちらのチャンスでもあること。

 虐めが解決して逆の立場になっても、やり返し過ぎないようにと付け加える。

 

 状況の変化こそ無かったものの、留美にとっては得がたい時間となった。

 

 留美を送り出して二人になると、八幡は「助けたい理由」を尋ねられた。

 昨日までの一歩引いた姿勢を捨てて、八幡は今の心情を語る。

 留美を助けたいと願う雪ノ下と由比ヶ浜のために、二人と共に、そして何より留美のために。

 理由を共有した二人はそれぞれ策を練りながら、話し合いの場所へと移動した。

 

 最初に平塚から「向こうの教師は介入に及び腰」だと教えられ。

 次いで三浦が、昨夜の啖呵の責任を感じてか案を出そうとするものの。

 雪ノ下は普段と変わらず、「見込みなし」と斬って捨てる。

 以前と変わらぬ二人の関係が、緊張感を維持しつつもどこかでお互いを認めている二人の関係がそこにはあった。

 

 葉山の案には、時間と労力がかかる割には救済に繋がらないと雪ノ下が難色を示し。

 雪ノ下の案には個人の負担が大きいと由比ヶ浜が、権限や責任の所在という点でもリスクがあると海老名が指摘した。

 

 平塚の視線に根負けして口を開いた八幡は、まず葉山の案を却下した。

 当事者の救済にならない以前に、当面の結果を出すのも難しいという理由だ。

 そう指摘を受けた葉山が内心で苦悩していることには気付かず、八幡は話を進める。

 

 雪ノ下の案はひとまず保留にして、肝だめしの代わりにゲーム大会を行うこと、留美の班には特殊なゲームをさせることを提案した。

 関係者全員をぼっち状態に引きずり下ろすという八幡の意図を耳にした平塚は、「虐めに虐めを重ねない」「体罰でしか解決できない問題などない」と警告を与えた上で、生徒の自主性を尊重した。

 

 八幡の詳しい説明に一同が納得して、ゲーム案が採用される運びとなった。

 

 準備のために高校に戻って、まずは川崎と打ち合わせをする。

 次いで実況役に遊戯部を呼び出して、雪ノ下と八幡は小学生を相手のゲームに挑んだ。

 

 思い切りの良い留美の動きや、小学生四人が無駄な行動を重ねたことで、ゲームは八幡の思惑通りに進む。

 だが残り時間を盾にドッキリを仕掛ける計画は、留美が四人に手を差し伸べたことで破綻した。

 想定以上の結果を出してみせた留美に二人は兜を脱ぎ、それを実況で伝えられた小学生は留美に喝采を浴びせた。

 

 留美たちを長く支配していた空気が、明確に変わった瞬間だった。

 

 キャンプファイヤーを後にした留美たちが、すぐ横を無言で通り過ぎるのを見て。

 八幡は雪ノ下が「報われない」ことを軽い口調で宥めていた。

 雪ノ下がそれを素直に受け入れるはずもなく。

 環境の激変に戸惑う小学生とは違って、二人はそれぞれ先の未来を見据えていた。

 

 中高生が集まった振り返りの場で、川崎と打ち合わせた内容を説明すると。

 平塚は報連相の重要性を強調した上で、それでもすぐに動いてくれた。

 これで二日目も解散となり、男女に分かれてログハウスに帰る。

 戸部と戸塚が眠っている横で、八幡と葉山は濃密なやり取りを交わした。

 

 疲れからすぐにベッドに入った雪ノ下は、小町に留美の今後を託して眠りに就いた。

 由比ヶ浜と海老名は、それぞれ恋愛と趣味に思いを馳せながら、親しい会話を重ねていた。

 お昼の話し合いの時に、良いところがなかった葉山を見てなお情が増しているのを自覚して、三浦はようやく自身の恋愛感情を認めた。

 それを一色に伝え、葉山をより深く知るために協力し合うと約束を交わす。

 二人は共に、今すぐ葉山と付き合えるとは思っていなかった。

 

 その頃、留美はバラバラになった四人に向けて「誰も仲間外れにする気は無い」という意思を示していた。

 

 

 一夜明けて、小学生向けに新設する英語クラスの勧誘のために、川崎が千葉村を訪れた。

 小学生が今ある関係とは別の繋がりを持てるように。

 現実世界に戻った後もそれを継続できるように。

 そうした八幡の目論見に平塚が賛同し、相手方の引率教師も積極的に動いてくれたお陰で。

 更には川崎から事情を聞いた塾が、実利と共存のバランスを見出したことで、説明会が実現した。

 

 質疑応答が行われている中で、小町が留美に接触した。

 互いに好感触を得て別れようとしたところで、別の小学生が小町に話しかける。

 

 かつて留美と親しかった少女は「もう名前で呼ぶ資格はない」と諦め口調で。

 留美を思ってあえて口に出した言葉が、実は間違っていたのだと自嘲気味につぶやく。

 兄に対して同じ経験をしたばかりの小町は、平塚から伝授された秘訣を少女に伝える。

 とはいえ少女は、慰めを期待していたわけではなく。

 最後に小町に向かって「あの子が困っていたらお願いします」と告げて去って行った。

 

 こうして結果を出して、顧問からお褒めの言葉を貰ってもなお、八幡の自己評価は低いまま。

 それでも平塚は、二学期が楽しみだと前向きに考えていた。

 

 小学生を見送り葉山グループとも別れ、駅前まで帰ってきた。

 待ち受けていた陽乃は「八幡を奉仕部に入れるよう提案したのは自分だ」と語る。

 加えて、月初めに現実世界と映像通話が繋がったので「母が待ってる」と妹に告げて。

 姉妹は車中で睨み合いながら、駅前から去って行った。

 

 雪ノ下を心配する由比ヶ浜だったが、八幡は「大丈夫」だと断言した。

 仕組まれた状況をどう考えるかは、既に六月に経験したことだからと。

 

 そんな二人のやり取りを眺めながら。

 小町は兄への弄り行為を再度反省して、同時に兄の現状を寂しくも羨ましいと思う。

 平塚は、自分や陽乃の手を離れて仲を深める三人を微笑ましく思う。

 そして戸塚は、三人の関係が長く続くことを願っていた。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→92話。

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 映像通話が可能になったことで、仮想空間はまた少し現実に近付いた。

 現実とVRという違いはあれども同じホテルで同じ時間に。

 八幡は誕生日に小町を連れて、通話を繋いだ両親と共に食事会を堪能した。

 

 同じ形で家族旅行に行くという由比ヶ浜にサブレを託されて。

 翌日には海老名から文化祭の劇の主演を打診された。

 続けて「二学期に八幡周囲の環境が変化するかも」と警告を受けたが、ぴんと来ない。

 

 更に翌日、午前中はサブレを連れて小町とデートして。

 道中で会った一色とも、お互いに少しだけ理解を深めて。

 並んでラーメンを食べながら、平塚から「限界を許せる時が来る」「その先が用意されている」という教えを受け取って。

 午後には戸塚と材木座と城廻の四人で映画とお茶を満喫した。

 

 また翌日、旅行から帰ってきた由比ヶ浜にも環境の変化を示唆された。

 深く考えずに雑談を続けていると、由比ヶ浜が「両親からプレゼントをもらった」と言い出した。

 浴衣のデータが届いたからと、花火大会に誘われて。

 二人の週末の予定が決まった。

 

 校舎で待ち合わせて駅に向かったが、普段と違って会話がぎこちない。

 注意事項を繰り返す八幡に、由比ヶ浜は「お兄ちゃんみたい」との感想を口にした。

 雪ノ下の話題になって、体力を懸念した由比ヶ浜は「二人で助ける」と約束を迫る。

 頷いた八幡に慣性力が働いて、電車の中で壁ドンを体験する二人だった。

 

 花火大会の会場で、二人は相模と遭遇する。

 好意的な態度を示され訝しむ八幡だが、由比ヶ浜が語る自分の境遇はリア充のそれだ。

 理屈は解ったが落ち着かないなと考える八幡を、陽乃が視界に捉えた。

 

 貴賓席に招かれて、意味深な発言をいくつか受け取る。

 曰く「無理に取り繕う」「また選ばれない」「八幡とどう違うのか」等々。

 決定的な言葉を口にする気はなさそうだが、陽乃の意図が読み切れない。

 

 会場からの帰り道に「できれば関わりたくない」と口にする八幡。

 由比ヶ浜は「この世界に巻き込まれなくても、三人は奉仕部で一緒になって陽乃とも関わると思う」と答えた。

 続けて決定的な言葉が出かかったが、そこに雪ノ下からのメッセージが届く。

 また遊びに行こうと約束して、由比ヶ浜はそのまま去って行った。

 

 八月最後の土曜日。

 雪ノ下は、五月に川崎に提案していた勉強会を開催した。

 

 休憩中に雑談を楽しみながら、八幡は内心密かに自己評価の低さと向き合った。

 他人に誇れる何かを得て、自分と他人を信じられるようになりたい。

 ごく少数との仲を更に深めるには、それが必要だと考える八幡は、心中でこっそり「次の依頼でも結果を出す」と誓った。

 

 勉強会が終わって三人が残り、文化祭の話になった。

 雪ノ下が「奉仕部でバンドを組むのはどうか」と提案し、即座にパート分けが行われる。

 楽器を未経験なのは同じなのに、両手と右足を動かしてドラムを叩く八幡を見て。

 才能の差を感じて気落ちする由比ヶ浜を雪ノ下が宥め、八幡は得意分野の話を持ち出した。

 気を取り直して、人間関係では「最後には、あたしが頑張る」と言い切る由比ヶ浜だった。

 

 

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 この続きを本編で読む場合は、こちら。→97話。

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更新が遅れに遅れた上に、ここで分割という形になって申し訳ありません。
いちおう書いたもの準拠で(=書いていない事は書かないという方針で)まとめたつもりですが、予想以上に時間と、何より精神力を費やしました(昔の文章怖い……)。

6巻は更に複雑な構成なので、次回の更新を明言しにくいのですが。
何とか7月中に7巻に入れるようにと考えていますので、今後とも本作をよろしくお願いします。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
2巻で川崎に提案した解決策の内容を追加しました。(7/11)
細かな表現を修正しました。(7/29)
改行の調整、表現の修正、後書きの簡略化を行いました。(8/11)
前書きを修正し区切りごとにリンクを設けました。(9/3)


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ここまでのあらすじ、原作との相違点および時系列(原作6巻~6.5巻)

引き続き、本作未読かつネタバレを避けたい方はここで引き返して下さい。

長くなったのでリンクを設けました。
・原作6.5巻のあらすじに飛ぶ。→127p1
・原作との相違点に飛ぶ。→127p2
・時系列に飛ぶ。→127p3

ここまでの流れを確認したり、途中の章から読む方のお役に立てれば幸いです。
後者を想定して、区切りごとにもリンクを設けました。



■ここまでのあらすじ

 

 二学期は初日から慌ただしいことになった。

 早朝から海老名と会って劇の主演を断った八幡は、後任が戸塚と知って頼もしさと罪悪感とを抱いた。

 

 階段の踊り場で遭遇した雪ノ下・由比ヶ浜と公衆の面前で歓談したり。

 運動部と文化部の融和を示すために、始業式で千葉村のレポートが公開されたせいで。

 奉仕部三人の仲が思った以上に良好なこと、そして八幡たちの活躍ぶりは、全校生徒の知るところとなった。

 

 教室で戸部が何くれと話しかけて来たこともあり。

 同級生の関心を一身に集めた八幡は逃げ出したい衝動に駆られ、なり手のない文実委員に立候補する。

 最終的に女子は相模が、そして委員とクラスの橋渡し役を由比ヶ浜が務める形になった。

 一日の終わりに情報を共有することを確認して、八幡は一人教室を後にした。

 

 昼食を終えて会議室に入り、八幡は雪ノ下と再会する。

 

 クラスの出し物から実行委員までJ組の全権を握ったと語る雪ノ下は、体力を危ぶまれて。

 思惑あっての行動で、八幡なら「いずれわかる」と告げた。

 おそらく姉がらみだと推測しながら立候補の意思を問う八幡に、雪ノ下は「委員長になる気はない」と答える。

 話の流れで「大勢で結託して誰かを役職に祭り上げる」ことに嫌悪感を示す二人は、近くで一年生が耳を傾けていることには気付かなかった。

 

 陽乃は三年前には文実を率いて、二年前には肩書きを持たない身で文化祭を大成功に導いた。

 それを城廻から教えられ、雪ノ下も陰からバックアップする方針だなと早合点して。

 名を成すには絶好の機会だと考えた相模が委員長に立候補した。

 八幡を仲介にして、更には奉仕部への依頼という形で支援を願う相模。

 雪ノ下は、相模を役職にふさわしい域まで(スパルタで)育て上げようと考える。

 

 

 だが週明けの月曜、相模は高校を休んだ。

 クラスの話題がそれに集中し注目が逸れたので、安堵していた八幡は。

 由比ヶ浜が対策に追われている姿を見て気を引き締める。

 

 欠席の原因は雪ノ下謹製の文化祭対策マニュアルにあり、本番に弱い性格の相模が電話帳並みの厚さに物怖じして、知恵熱を出したと判明した。

 遊戯部の相模との関係も教えられ、八幡は「不幸体質だな」という印象を抱いた。

 

 情報を共有した後で、せっかく部室に集まったのだからとバンドの打ち合わせを始める三人。

 由比ヶ浜が選曲基準を提案し、八幡が職場見学の際に連想した曲を推薦して。

 昼休みは楽しい話で終わった。

 

 放課後の委員会で、雪ノ下は予定の一日延期を提案した。

 胸の内に責任感を漲らせながら、いざとなれば副委員長に就任すると明言して。

 同じJ組の保健委員に体力を危惧されても、倒れないように協力して欲しいと逆に要請して。

 委員の士気を落とさぬ形で乗り切ることができた。

 

 今日は各自がクラスを手伝うことになった。

 八幡は「演技スキル」の隠れた効果を海老名に教える。

 最低限の貢献はできたと考える八幡は、「過保護」との評を得て苦笑した。

 

 

 火曜には相模も登校した。

 

 奉仕部のバンド練習は順調だったが、由比ヶ浜はそれを葉山たちに話しそびれていた。

 葉山のバンドには一色も参加していること。

 緊張緩和のために、たまには練習を見にきて欲しいと頼まれていること。

 そうした事情を抱える由比ヶ浜を、雪ノ下は「言わないままで済ませたいことは確かにある」と言って慰める。

 まるで翌日の展開を予期していたかのように。

 

 放課後の委員会で雪ノ下は、当面は副委員長に就任するつもりはないと表明した。

 過去の偉人の名を挙げて、成長に意欲を示す雪ノ下の姿を見て。

 たとえ姉を意識しての決意でも、良い方向に進んでいる間は引き留めまいと八幡は考える。

 慣例に従って一年生を募った結果、藤沢が副委員長を引き受けてくれた。

 

 その後の話し合いで、雪ノ下は渉外部門を新設するよう提案する。

 運営との折衝や現実世界に関連する事柄を扱うのが目的だ。

 その責任者にと要請された雪ノ下は、下種な勘ぐりを避けようとする八幡をあえて同じ部門に推薦した上で、「基本は別行動だ」と説明することで邪推を封じる。

 そんな雪ノ下の言葉の裏に、八幡は信頼を感じ取っていた。

 

 

 水曜も放課後までは順調だった。

 

 OB・OG代表として来校した陽乃が実行委員会に参加して、「この世界に巻き込まれた者どうし、協力は惜しまない」との意見が大半だと伝えた。

 だが「隼人は有志に参加するのか」と尋ねた陽乃は、会議室内に漂う疑問を察知する。

 なぜ葉山を下の名前で親しげに呼ぶのか。

 

 それに対して陽乃は、妹への質問で答える。

 すなわち「同じ小学校だったのを内緒にしていたのか」と。

 無邪気に無慈悲に、そう口にした。

 

 幼なじみという情報を、姉があえて伏せていると理解して、雪ノ下は嘘にならない言い回しで場を乗り切った。

 妹が過去を相対化できていると確認して、陽乃は矛を収める。

 手加減をしてなお陽乃が優位にあると確認しあって、姉妹の攻防はひとまず終結した。

 

 委員会が終わってすぐに運営との打ち合わせに向かった雪ノ下とは違って、葉山は同級生に事情説明を求められる。

 そつのない応対で大半の生徒は納得したものの。

 三浦たち三人だけは渋い顔のまま、ひそかに関係各位に向けて女子会の開催を通知した。

 

 余計な事は考えまいと、八幡は黙々と仕事をこなした。

 クラスの情報を聞いて解散する直前に、材木座からメッセージが届く。カラオケのお誘いで、戸塚も来るらしい。

 由比ヶ浜に「元気がなさそうだから気晴らししてくれば」と言われ。

 雪ノ下を助ける約束に加えて「何かあったら相談して」と約束を重ねて。

 二人はカラオケと女子会に向かった。

 

 解散直後に平塚と遭遇した八幡は、感情の不可解さに振り回されながらも。

 奉仕部の二人と一番仲が良いのは俺だと思い込んでいたこと。

 雪ノ下と同じ小学校だった葉山を羨む気持ち。

 クラスでは由比ヶ浜との距離が自分よりも近い葉山を妬む気持ち。

 これらを浄化することができた。

 教師の「自分を見失わないように」という言葉を胸に、待ち合わせ場所へと向かう。

 

 材木座と軽口を叩き合って、奉仕部で自分だけが取り残される怖さをひとまず遠ざけ。

 戸塚には、元気がなさそうに見えた由比ヶ浜にどんな話題を振れば良かったのかを相談して。

 八幡はようやく普段の調子を取り戻す。

 最後に現れた城廻には、結果に目を向ける前にまずは周囲の期待を受け止めること。

 そして、いざとなったら身近な面々を頼ることを教えられた。

 

 同じ頃、比企谷家では女子会が行われていた。

 雪ノ下と葉山は幼なじみで、しかし小学生時の事件から疎遠になった。

 その情報を一同に伝えて、雪ノ下はようやく過去を完全に払拭できた。

 

 雑談の流れから二つの集まりは、くしくも同じ話題に至った。

 陽乃は高三の(今から二年前の)文化祭にどう関与したのか。

 城廻や前生徒会長が率いた生徒会との関係と、奉仕部の設立。

 そして雪ノ下が入学後の経緯を知って。

 この日はともに解散となった。

 

 八幡には今日中に事情を説明しておくべきだと言われた雪ノ下は、由比ヶ浜と小町が見守る中で話を始めた。

 八幡は「昔の話」だと気にしない風を装ったり、嘘告白を経験した話で笑いを取ろうとしたり。

 後者は沈黙を呼んだだけだったが、前者は雪ノ下に、過去に囚われるのは莫迦らしいと認識させた。

 

 今回の騒動を繰り返さないためにも対策が必要だと訴える八幡は、一つの案を口にする。

 雪ノ下なら、陽乃を向こうに回して相互確証破壊を運用できる。

 由比ヶ浜と小町からも了承を得て、来週の方針が決まった。

 

 雑談に入り、八幡は平塚との会話でネタにした作品を演奏候補に推薦した。

 カマクラをあやしながら承諾した雪ノ下が、今日の集まりをバンド練習で締めくくることを提案して。

 

 こうして山あり谷ありの一日がようやく終わった。

 

 

 木曜も由比ヶ浜は朝から走り回っていた。

 六月に予算案に反対した残党が、蠢動を始めたのが原因だ。

 

 高校の文化祭ごときのために、由比ヶ浜や雪ノ下が多大な労力を費やしている。

 見知らぬ連中のためにどうしてここまで、と考える八幡は、その感情が自己投影に由来している可能性に思い至り限度を定める。

 

 あの二人が倒れたり、事態が二人の意に沿わぬ方向に進んだ時には。

 それらを解消することだけに専念しようと八幡は決意した。

 

 雪ノ下だけでなく由比ヶ浜の体調も気遣う八幡に。

 そして自分だけ一歩引こうとする八幡をたしなめる雪ノ下に。

 由比ヶ浜は「何かあったら三人で協力して解決する」と約束させた。

 

 二人の負担を懸念する八幡は「頼るほどでもない時は勝手に解決する」と軽口を叩くも、逆に「八幡の知らぬ間に解決しても大丈夫なのか」「私達の行動を信頼できるのか」と返された。

 由比ヶ浜の誕生日にお膳立てをしたことや、千葉村で「報われない」のを宥められたこと。それらを念頭に置いた雪ノ下の発言を受けて。

 脳裏に「お兄ちゃん」「過保護」といった言葉を思い浮かべながら、八幡は「信頼している」とは言えないまでも、二人を「信頼したい」と口にした。

 

 昼食後に、雪ノ下は過去の葉山とのいきさつを戸塚に説明して。

 その足で生徒会室に向かうと、全校放送で残党の撲滅を果たした。

 

 火曜に雪ノ下が口にした偉人の話が、千葉村での漱石の話に繋がっているのを知って。

 雪ノ下の意図を見通すには、まだ情報が不足しているけれど。

 八幡と由比ヶ浜は奉仕部のこの先の未来を思い浮かべていた。

 

 

 金曜と土曜は大きな問題こそ起きなかったものの。

 由比ヶ浜が身体を休める時間は無かった。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→107話。

***

 

 

 日曜の午後、八幡は「由比ヶ浜が倒れた」と連絡を受けて雪ノ下のマンションを訪れた。

 玄関先で見覚えのあるメイドさんに出迎えられた八幡は、職場見学で指摘された時間配分の問題に、メイドカフェから人を雇って対処したのだと教えられた。

 

 ベッドで横になる由比ヶ浜を交えて話し合いが行われ、八幡はまず組織の問題点を指摘する。

 雪ノ下と由比ヶ浜が抜ければたちまち機能しなくなるのは危ういと。

 その上で、明日は由比ヶ浜を休ませてメイドさんに看病してもらうと語る雪ノ下に、「二人とも休むべきだ」と、「明日が身体を休める最後のチャンスだ」と告げた。

 

 倒れる前に高校をズル休みするのは、性格的に難しいとの返事を得て。

 雪ノ下が失敗する姿は見たくないと強く思った八幡は、由比ヶ浜を頼る。

 理に適った八幡の指摘に由比ヶ浜のお願いが加わると、雪ノ下はあっさり提案を受け入れた。

 

 今後の対策を話し合う中で、八幡が一つ推論を述べる。

 由比ヶ浜には知り合いが多いので、頼み事を断りきれずに疲労が蓄積したのではないかと。

 だが自分にとっては有象無象でも、由比ヶ浜にとっては親しい連中なのだなと思い直した八幡は、先日の自己投影を思い出しながら心配を取り下げた。

 代わりにバンドの演出を打ち合わせて話を終える。

 

 見送ってくれるという由比ヶ浜の支度を廊下で待っていた八幡は、メイドさんの手引きで雪ノ下の部屋に招かれた。

 見覚えのあるぬいぐるみ。

 テニス勝負や千葉村の写真。

 雪ノ下と由比ヶ浜に投影していた感情を払拭した八幡は、文化祭のためにやる気を出そうと考えながら一人家路に就くのだった。

 

 

 二人のいない月曜を、八幡は物思いに耽りながら過ごした。

 半日授業を真面目に受けて、部室で一人昼食を摂りながら。

 二人を助ける動機や、自分が文化祭の準備に勤しむ理由を明確にした。

 

 午後の文実では、相模は会議を主導できず、藤沢も気弱な発言が目立ってきた。

 城廻を待望する声が出始めたせいで、表立ったフォローも難しくなり。

 一方で、気ままな雑談の声は少しずつ増えていった。

 そうした雰囲気を察した相模は雪ノ下の先例に倣って、予定の一日延期を提案する。

 同じく雪ノ下の名前を出して藤沢が待ったをかけたものの、状況は手詰まりだった。

 

 二人が休んでいる間も仕事を進めておきたい八幡は、教室内の空気をぶち壊そうと企てる。

 自分や他人を信じられるように、まずは他人に認められたいと考えていた八幡は、そのルートを捨ててでも今の流れを食い止めるべきだと決意した。

 

 たまたま得た発言の機会を活かして、雪ノ下に頼りっぱなしの現状を真正面から指摘すると。

 罵声を受ける寸前に平塚が場を取りなして、仕事を進めた方が良いと言ってくれて。

 城廻は「各々が良いと思う仕事を」「もし見当違いでも雪ノ下に怒られないようにするから」と言って収拾してくれた。

 

 会議の直後に城廻が話しかけてくれて。

 渉外部門からも爪弾きにあうことなく、八幡は仕事に参加できていた。

 だがそこに、運営から思いがけない話が舞い込む。

 現実世界からの取材のために、一時間後に映像通話を繋げるという通知だった。

 

 大急ぎで渉外の委員を集めて、八幡は対策を進める。

 慣れぬ進行役を務めながら、スローガンの決定や想定問答集の作成などをお願いして。

 意外に好意的な反応に首を傾げつつ、自らは雪ノ下と連絡を取った。

 

 できれば今日は休ませたいと考える八幡は、情報を交換した上で自宅待機を提案する。

 通話を繋げた状態で取材を見守りながら、相模の緊張ぶりを改善できないかと相談していると。

 記者の一人が、文化祭の話はそっちのけで、この世界に閉じ込められた事件について熱弁をふるい始めた。

 

 この世界で過ごしてきた日々を軽く扱うような物言いに、嫌悪感を覚えて。

 同じ環境下にある有象無象の生徒が、記者の演説を聞いて葛藤を覚えないように。

 彼らを見捨てるのは、かつて自分を見下した連中と同じ振る舞いに思えたから。

 

 だから八幡は、記者を撃退して陰鬱な雰囲気をも吹き飛ばしてやろうと考えて、雪ノ下と由比ヶ浜の召喚を決意した。

 

 記者を一方的に論破した雪ノ下は、続けて会議の開催を要請した。

 正式に副委員長に就任して、所信表明を行う。

 

 全員を強調する雪ノ下に向けて、先程の発言で委員の反感を買ったと自覚している八幡は「敵は敵として扱ったほうが効率が良い」と考えて、あえて憎まれ口を叩く。

 だがそれは、雪ノ下の想定通りの行動だった。

 雪ノ下には、八幡の問題行動を覆い隠すつもりはなく。失態は失態として、別の形で挽回するようにと命じた。

 

 失敗を恐れず前を向いて、汚名を返上するのも前向きな行動で。

 その方針を貫くことができれば、たとえ他人からは認められなくとも、自分や他人を信じられるのではないか。

 

 八幡にその気付きを与えた雪ノ下は、最後に。

 この世界に捕らわれた程度では、ハンデにすらならないと断言して。

 過去最高の文化祭を目指すと宣言した。

 

 委員会の解散後には平塚を交えて、八幡の放言を振り返って。

 終わってみれば、全てが良い方向に片付いた一日だった。

 

 

 翌日には雪ノ下の演説が全校に伝わって、校内はいたる所でやる気に満ちていた。

 

 文実では、奉仕部三人の役割分担が固まってきた。

 二人を局所に投入するのではなく、全体を見られる配置にした上で。

 雪ノ下は指針を示し、正攻法で問題を解決する。

 由比ヶ浜は問題を早期に発見して、ほころびが出る前にフォローを行う。

 そして八幡は社畜のように働きつつ、奇策や搦め手で問題を解消する。

 

 火曜は充実した一日になった。

 

 

 水曜には陽乃が再び現れた。

 

 奉仕部の三人に平塚を加えて、万全の態勢で待ち構えていたはずが。

 実際に陽乃の姿を目の当たりにして、更には葉山が飛び入り参加をして。

 全体会議に先がけて関係者のみで行われた話し合いは、冒頭から波乱含みだった。

 

 だが何度となく話を混ぜ返されても、三人は目的に向けて邁進する。

 陽乃から文化祭の邪魔をしないと言質を取ること。

 陽乃が隠し持っている情報を開示させること。

 葉山の存在は三人にとってプラスに働き、徐々に主導権も握れるようになった。

 

 それを見た陽乃は、運営の企みについて話せる範囲でヒントを与え。

 加えて、この世界に巻き込まれた生徒の成績が急上昇したこと。

 そのせいで現実世界の中高生や教師・保護者から注目を集めていること。

 彼らが文化祭に大挙して押し寄せる可能性があることを伝えた。

 

 それでも揺るぎを見せない雪ノ下に、葉山は飛び入り参加の目的を語る。

 相模も含めた全員で、文化祭を成功に導いて欲しいと。

 自分にはそれができないと言わんばかりの葉山の姿勢を、陽乃は「変化の第一歩」と評し、葉山は「第一歩が一番難しい」と答えた。

 

 有能であるがゆえに、身動きができなくなる。

 誰かを見捨てることも、誰か一人を選ぶこともできなくなる。

 それはとても残酷なことだと八幡は思った。

 

 情報を引き出し終えて、あとは陽乃に協力を約束させるだけ。

 陽乃の反論を三人で補い合うようにして退け、雪ノ下は一歩も引かない姿勢を見せる。

 相互確証破壊をしたいのだなと看破した陽乃は、妹の誘いに乗るほうが面白そうだと判断して、ついに合意に至った。

 

 下校時刻が迫る頃に陽乃に話しかけられた八幡は、話し合いでの情報提供や、日頃から妹に構う理由を尋ねてみた。

 雪ノ下を成長させるために敵役を演じているのではないか。

 陽乃に問い返されて、そう答えようとしたところ。

 中途で遮られた八幡は「まだ半分」だと告げられた。

 

 最後に一つ提案をして、陽乃からも賛同を得て。

 八幡は考え得る限りの準備を終えて、文化祭を迎えた。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→111話。

***

 

 

 金曜の早朝に集まった三人は陽乃を招いて、正午に導入が予定されている新機能について相談を交わした。

 発表されたばかりのゲームマスターの論文を読み解いた雪ノ下姉妹は、感覚のごく一部だけを再現する、いわば部分的なログインが可能になると予測した。

 想定していたモニター越しの来校者とはまた別の対応が必要だと確認して。

 陽乃を見送った三人は、文化祭の初日に臨む。

 

 緊張した相模が少しヘマをした程度で、オープニングはつつがなく終わった。

 今日はクラスで仕事なので、八幡は由比ヶ浜と連れ立って教室に移動する。

 そこで同級生と声をそろえて劇の成功を誓い、海老名の脚本に苦笑した。

 

 由比ヶ浜とハニトーを食べて、「自分から行く」という決意を受け取って。

 初日の公演を終えた同級生が遊びに行くのを見送った八幡は、一人受付に座っていた。

 

 そこに、部分的なログインをした中学の同級生が現れる。

 かつて八幡がやらかした時には真っ先に口を挟んできた、カースト下位の連中だ。

 無関心を決め込む八幡だが、相手は以前よりも悪質になっていた。

 文実の腕章を見てわざとらしく驚いたり、聞こえよがしにネチネチ話す連中に辟易していると。

 思いがけず、由比ヶ浜が助けに来てくれた。

 

 それでも連中は由比ヶ浜の言葉尻を捉えて、八幡を悪く言うのを止めない。

 あげく雪ノ下を貶したり、由比ヶ浜の優しさを曲解するのを耳にして。

 こんな連中には何を言っても無駄だと、中学の頃から無言を貫いていた八幡は、初めて。

 連中に向かって「お望み通りに文実は辞めてやるから、他の生徒には手を出すな」と啖呵を切って、一人去って行った。

 

 明日も来ると言い残してログアウトした連中を見届けて、由比ヶ浜は一人うなだれる。

 そこに三浦と海老名が駆け付けて、川崎は八幡の代わりに受付を買って出てくれた。

 由比ヶ浜は顔を上げて雪ノ下と連絡を取り、明日のことを相談する。

 

 事情を聞いて集まってくれた葉山グループに、連中への対策を一任すると。

 まずは文実の仕事の割り振りを相談した上で。

 由比ヶ浜もまた「報われて欲しい」と思っていることを確認した雪ノ下は、校内で八幡の悪評が広がらぬよう、一つの策を練り上げた。

 

 同じ頃、八幡は一色とベストプレイスで顔を合わせていた。

 

 クラスの出し物が喫茶店になったので、一色はお菓子のレシピを提供したものの。

 部分的なログインでは味覚が充分に反映されず、外部の人には不評だった。

 その責任は一色にあると言って話を歪める女性陣と、一色をかばう男性陣。

 二派に分かれて混乱する教室から追い出され、一色は人の少ない場所へと避難した。

 そこで逃げてきた八幡と遭遇した形だ。

 

 誰かに見付かるのをおそれる八幡に、一色は場所の変更を提案する。

 待ち時間を潰すという程度の軽い気持ちだったが、今の八幡にはその扱いが心地よかった。

 人目に付かないように、別々に特別棟へと移動して。

 二人は空中廊下で再会を果たし、途切れることなく会話を続けるのだった。

 

 戸塚が気遣って連絡をくれる前に八幡からお誘いして、材木座を加えた三人で夕食を囲む。

 連中に言いたいことをぶつけた時点で、自分の中では過去の話になっていると。

 それよりも、雪ノ下と由比ヶ浜とは対等な関係を続けたいと語る八幡は。

 三人の上に何かを、例えば理念を置けば、奉仕部を抜きにしても関係が続くかもと考える。

 

 再び連中の話に戻って、ログアウトして逃げられたら厄介だと語る戸塚に、八幡は一つ秘策を授ける。

 明日は表舞台に立たない方が良いと考えた八幡だったが、バンドの代役を頼んだ陽乃から、全てを見透かされた返事をもらって。

 二人と並んで演奏ができると、高揚する気持ちを抑えきれない八幡だった。

 

 

 文化祭は二日目を迎えた。

 

 同じグループの生徒に発破をかけられた相模は、前日の一件で八幡を責める。

 形だけ謝らせれば良いと考えていた相模だが、擁護に動くと思っていた雪ノ下が「八幡を監督下に置いて馬車馬のように働かせ、昨日の連中にも引き合わせる」と言い出した。

 

 予想外の展開についていけない相模は、委員長としての体裁を保つために明確な謝罪の言葉を要求し、八幡は素直に頭を下げた。

 悪くないことで謝るのは八幡にも、そして実情が明らかになれば相模にも益がないのに。

 そう心配する雪ノ下と由比ヶ浜をよそに、朝の会議はそのまま終わった。

 

 部室に移動して、平塚を加えた四人は陽乃の活躍ぶりを話題に出した。

 この世界に捕らわれながらも、現実世界の多彩な面々を巻き込んで文化祭を盛り上げている。

 そんな陽乃に「バンドの代役を却下されて助かった」と語る八幡は、平塚から「バンドは予定通りで大丈夫か」と問われ「予定通りでお願いします」と答えた。

 そのやり取りを見守りながら、雪ノ下と由比ヶ浜は昨日練った策を思い浮かべて。

 二人は目線だけでこっそりと、他の二人には内緒の事柄を確認した。

 

 クラスの出し物に違反がないかを点検しながら、盛り上がる校内を並んで歩く三人は、小町と遭遇したりトロッコの中で密着したりと文化祭を楽しんでいた。

 

 昨日の連中がもうすぐ来ると連絡を受けて、二年F組に移動する。

 対応を任された葉山は、戸部と戸塚を従えて友好的に対話をするつもりが。

 モニター越しに「逃げても無駄だ」と連中を恫喝する、前生徒会長の声が響き渡った。

 見慣れない制服の男子生徒に促され、戸部と戸塚もログアウト対策を披露して。

 それでも葉山は優位な立場を笠に着ることなく、穏当な姿勢で話し合いを進めた。

 

 昨夜戸塚に伝えた秘策と同じ発想に至った戸部の旧友を、八幡は警戒する。

 六月の模試で全国一位だったと雪ノ下が。

 あの制服は都内の有名な進学校だと由比ヶ浜が教えてくれた。

 

 模試の結果は自分が頑張れば何とかなるけど、巡り合わせや縁は一人ではどうにもできない。

 そう語る男子生徒から良い刺激を受けて。

 雪ノ下は「戸部に感謝をする日が来るとは」と真顔で冗談をつぶやき。

 それを取りなす八幡は「自分が頑張る」部分も怠れないなと考える。

 

 話し合いを終えた葉山に呼ばれて、八幡は中学の同級生と向かい合った。

 既に連中のことは眼中にないと。

 加えて、もはやカースト底辺ではないと、無意識に態度で伝えた結果。

 八幡は過去をきれいに清算し終えた。

 

 それをこっそり見届けて、他の出し物に向かう小町と留美。

 対陽乃で共同戦線を張ろうと、前生徒会長と同盟を組んだ雪ノ下。

 そして相模は、状況の変化を察したお仲間から距離を置かれようとしていた。

 見捨てられる前に自分から教室を去った相模は一人屋上に向かう。

 

 相模に代わって文実を率いる雪ノ下と、辞任した八幡の仕事を引き継いでくれた由比ヶ浜。

 二人が動けない以上、相模の捜索に向かえるのは一人だけ。

 八幡は二人に見送られて校内を走り回る。

 

 材木座に助けを求め、一緒にいるという遊戯部にも協力を要請して。

 屋上の鍵が壊れていると川崎に教えてもらい、思わず口に出たお礼の言葉に照れる二人。

 改めて応援の言葉をもらって、八幡は屋上に向かった。

 

 そこで相模を見付けた八幡は、あえて挑発的な言葉を投げかける。

 怒った勢いで相模が動くのを期待したものの、予想以上に打たれ弱い姿を見て困惑する八幡。

 そこに遊戯部の相模が現れた。

 長年の確執のわりには、直接の対話がほとんどなかったと知った八幡は、二人だけで積もる話をさせるために屋上から去った。

 

 話し始めると話題が尽きないもので。

 二人の相模は、ようやく改善の一歩を踏み出した。

 

 合流を果たした奉仕部の三人は、相模の一件をそれぞれに受け止めていた。

 八幡は、結果は偶然に過ぎず、自分は相模を怒らせるしか手がなかったと反省し。

 雪ノ下は、何を言っても、相模の意識を変えさせることはできなかったと反省し。

 由比ヶ浜は、それでも話をするべきだと、積み重ねてきた言葉が大切だと主張し。

 そして三人は、ステージの袖に移動した。

 

 副委員長として、壇上でこの二日間を総括していた雪ノ下は、来訪者への最後のおもてなしと称して奉仕部三人のバンド姿を披露する。

 演奏したのはわずか二曲。それもメドレーという形だったが。

 楽曲の進行に合わせて、三人はそこに様々な想いを込め、色々な気付きを得て。

 管楽器に声と打楽器を重ねて、曲はついに大サビに至った。

 

 職場見学で由比ヶ浜と決別した時のことを思い出す八幡の背後では、三人の姿が順番に、スクリーンに大きく映し出されていた。

 濁った目で気怠そうな雰囲気を醸し出そうとも、演奏に一切の手抜きはない。

 この八幡の姿を全校生徒に伝えるのが、雪ノ下と由比ヶ浜の腹案だった。

 

 演奏を最後まで終えて、大歓声に包まれる中で。

 八幡はマイク越しに、最後におもてなしを受けるべき二人の名前を口にする。

 雪ノ下と由比ヶ浜をねぎらうために。

 八幡の呼びかけに応えて、城廻と陽乃と平塚が壇上に上がる。

 六人によるアンコール演奏は観客を巻き込んで、体育館は興奮の坩堝と化した。

 

 同姓の男子を伴ってステージを眺めていた相模に、戸塚が話しかけた。

 劇の主役をして、他校の生徒と渡り合って、自らの強みを認識できるようになって。

 文化祭を成功させるために、そして八幡の依頼に応えるために。

 戸塚は相模の背中を押して、ステージの上で三人に気持ちを伝えるべきだと促した。

 

 走り去る相模を見送った戸塚と、葉山は会話を交わす。

 戸塚がこうした役割を引き受けてくれれば、別のことに目を向けられる。

 八幡とも雪ノ下とも戸塚とも違う、自分だけの長所を研くことができる。

 葉山もまた、内心で変化の手応えを感じていた。

 

 相模はステージ上でまたもやらかし、しかし思いの丈を告解するその姿からは飾らない剥き出しの感情が伝わってきて、聞く者の心を打った。

 観客の温かい拍手に送られて一同はステージを去り、最後に藤沢が閉会の挨拶をして。

 今年の文化祭が無事に終わった。

 

 八幡は平塚と二人だけで反省会を行って。

 ろくに仕事もせず評価だけを求めていた相模と。

 仕事をしているのに評価やねぎらいを拒絶していた自分を比較して。

 教師の指摘を胸に納めた。

 

 集合場所は別だというのに、図らずも部室で合流した三人は。

 秋の風を感じながら、打ち上げ会場に向けて並んで歩くのだった。

 

 

 全体の打ち上げからは早々に抜けて、親しい面々で再集合して。

 お店を追い出される時間まで、盛り上がり続けた一同だった。

 

 

 文化祭から一週間が過ぎた。

 顧問以外のルートからも依頼を受けるべきかと検討していた雪ノ下は、平塚から「お悩み相談メール」という新たな試みを提案された。

 

 平塚からブライダル会社のイベントに誘われた三人は、文化祭の総括のために部室を訪れていた相模を巻き込んで、婚礼衣装に身を包んだ姿を写真に撮られることになるのだった。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→119話。

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6.5

 十月に入り体育祭が迫ってきた。

 

 運営委員長のなり手がない現状を見て、城廻は奉仕部を訪れる。

 会長選挙のことはまだ未定だと念を押した上で、雪ノ下は立候補を表明した。

 

 先のことを尋ねる八幡には、思惑あってのことで「すぐにわかる」と答え。

 相模グループが今なおぎくしゃくしている現状を城廻に伝えて。

 相模と取り巻きの四人を運営委員会に招集することを提案して。

 雪ノ下は、使える人員を総動員する方針を表明した。

 

 三人に組分けを尋ねた城廻は、全員が赤組だと知って。

 四人で優勝を目指して頑張ろうと盛り上がった。

 

 関係者が会議室に集まって、運営委員会が開かれた。

 てきぱきと仕事を割り振る雪ノ下に、城廻が不安を述べる。

 昼に立候補して、放課後には委員長に必要な知識を全て吸収し終えている。

 いくら雪ノ下の理解力が図抜けていても、仕事量として見れば膨大だ。

 無理はさせたくないという城廻の想いを、八幡と由比ヶ浜も共有した。

 

 口には出さなかったものの、城廻には更なる懸念があった。

 責任者である限り、雪ノ下は誰よりも多くの仕事を求めずにはいられない。

 そんなふうに思える瞬間に何度か遭遇して。

 

 短期の運営委員長ならまだしも、長期の会長職は合わないのではないか。

 それよりも、特権を与えて自由に動いてもらうほうが良いのではないか。

 いつしか城廻の心の中に、そんな迷いが生まれていた。

 

 今回の運営委員会で、それを見極める。

 できれば雪ノ下に会長職を引き継いで欲しいと思う城廻は、不安を振り払って前向きな姿勢で一同を鼓舞した。

 

 

 一日空けた水曜日の運営委員会にて。

 海老名と材木座のおかげで、目玉競技は棒倒しとチバセンに決まった。

 

 相模から「うちらは何をすれば」と問われた雪ノ下は、チバセンの衣装のうち、鎧は文実で渉外部門だった面々に、コスプレは相模たちに任せると告げた。

 とはいえ手作りの必要はなく、衣装を着るイベントを行うような会社なら注文も可能ではないか。

 雪ノ下の誘導は露骨だったが、相模は「心当たりがある」と得意げな様子だった。

 

 当日の仕事を割り振る雪ノ下は、相模たちを審判部に配した。

 ここ数年は判定で揉めたことがないので、形だけの役職だ。

 彼女らの不満を抑えるために、葉山と由比ヶ浜を上司に据えて。

 状況を無言で訴えかけて、三浦からも了承を得た。

 

 正論で押しきるだけではなく、根回しや手打ちも身に付けたいと考える雪ノ下だが。

 テニス勝負以来、気安い関係にある三浦に対してすら、事前の根回しができていない。

 不向きなことゆえに何が悪いのかを悟れぬまま、それでも表面的には順調に仕事が進む。

 

 話が一区切りして、葉山が棒倒しを話題にした。

 八幡の演技スキルを警戒して、当日は正々堂々と戦おうと口にする葉山。

 望まれるままに「棒倒しで演技スキルは申請しない」と一筆書いた八幡は、内心では「一泡吹かせてやる」と考えていた。

 

 

 翌日の木曜日。

 相模たちはブライダル会社を訪れ、衣装の見積もりを依頼した。

 

 いつもと違った環境に背中を押されて。

 文化祭から今日までのことを謝ろうと決めていた四人は、相模のヘタレぶりに脱力しつつも、ようやく仲直りを果たした。

 

 

 翌日の金曜日。

 取ってきた見積もりを提出した相模は、形だけではなく最後まで仕事を手伝いたいと申し出た。

 

 謝りたい相手がいると語る相模に、雪ノ下は「彼が困っていたら、全校を敵に回してでも味方になる」ぐらいの意気を見せて欲しいと告げる。

 迷いなく「雪ノ下が敵になっても容赦しない」と宣言する相模に、雪ノ下は獰猛な笑顔で応えるのだった。

 

 

 迎えた体育祭の当日。

 

 目玉競技の二種目を残して、白組は一四五点、赤組は一〇〇点。

 優勝のためには、ただ勝つだけでは届かない。

 棒倒しの勝利に加えて、チバセンで白組の大将騎を全滅させるしかない状況だ。

 

 互いの軍勢を率いて戦術を競う雪ノ下と海老名。

 雪ノ下が手作りディナーを交換条件に一色を三浦と対峙させれば、海老名は川崎をあえて動かして雪ノ下の誤解を誘おうとする。

 

 いつしか戦場は三つに分かれ、紅白の大将騎がぶつかり合っていた。

 雪ノ下が三浦を、城廻が海老名を、そして由比ヶ浜が川崎を討ち取って、チバセンは赤組の完勝で終わった。

 

 棒倒しは開始早々に赤組の奇襲部隊が飛び出した。

 それを囮と見なして八幡から注意を逸らさない葉山だが、仲間割れを装って城山に投げられた材木座が、重力その他を無視して飛んで来た。

 演技スキルが原因と見た葉山は、八幡が設定した条件を解明しようとするが努力およばず。

 材木座の秘剣が炸裂して、白組の棒は倒れた。

 

 赤組の勝利で良いのかと多くが困惑する中で、審判部から駆けつけた相模が「失格」と叫ぶ声がこだまする。

 相模の主張を聞いて物言いを認めた雪ノ下は、審判部の責任者である由比ヶ浜と葉山に当事者の八幡を加え、三人による公開審議を開催した。

 

 由比ヶ浜の進行により、八幡の企みや葉山の意図が明らかになる。

 お互いの主張を雪ノ下が整理したところで、奇襲に加わった七人が、八幡に協力した経緯や意図を話し始めた。

 戸部たちも葉山を擁護する意見を出して。

 関係者の言い分が出揃ったのを見て、葉山は由比ヶ浜に「裁定を任せて欲しい」と告げる。

 

 自らも当事者でありながら、葉山は公平な裁定を下した。

 体育祭は赤組と白組の同時優勝となり、それぞれの功労者が宙を舞う。

 白組はもちろん葉山が、そして赤組は材木座が。

 この展開を予測してさっさと逃げ果せていた八幡は、離れた場所から友人の晴れ舞台を眺める。

 

 ベストプレイスで二人を待とうと考えた八幡だが、先客があった。

 普段とは違った様子の一色と、それでも途切れることなく会話を続けていると。

 語りたいことを語り終えた一色は、八幡の耳元でお礼を告げると去って行った。

 

 続けて奉仕部の三人で、今回の振り返りをして。

 そこに城廻が加わって、四人は月初めの目標を果たせたことを喜び合った。

 

 校舎から大部分の生徒が姿を消した頃、城廻は生徒会室で一人、物思いに耽っていた。

 体育祭は無事に終わったものの、不安は払拭できず新たな人材も現れなかった。

 陽乃が言う通りに、由比ヶ浜を引き抜くべきなのか。

 下校時刻になっても、城廻の悩みは尽きなかった。

 

 

 二日後の金曜日、城廻は選挙管理委員会を立ち上げた。

 

 更に二週間後の金曜日、中間試験を終えた三人が久しぶりに部室に集まった。

 採点作業から逃避してきた平塚が、ブライダル会社の要望を伝える。

 すなわち「コラムにできる量の感想をくれたら費用をタダにする」と。

 

 その翌日、八幡はコラムの下書きに勤しみながら、小町と受験後を見据えた会話を交わしていた。

 

 同じ頃、雪ノ下は由比ヶ浜と一色を迎えて、ディナーを振る舞っていた。

 会長選挙を話題に出すと、当初は「目立たないし、しょぼい」という感想だったが、続けて「やり方次第では面白くできそうだ」と語る一色から才能を感じ取って。

 逆に一色は、八幡を話題に出して二人から情報を引き出して。

 少しずつ仲を深める三人だった。

 

 

***

 この続きを本編で読む場合は、こちら。→128話。

***

 

 

■原作との相違点(各キャラについて登場順に)

 あらすじと重なる情報が多めですが、従前通りの形でまとめておきます。

 完全にオリ展開の部分は省略しました。

 

・比企谷八幡

 奉仕部三人の仲や成果は全校に周知されている。(6巻01話)

 実行委員に立候補した。(6巻01話)

 陽乃対策として相互確証破壊を提案。(6巻08話)

 雪ノ下の私室に侵入済み。(6巻11話)

 川崎への愛の言葉は自覚しています。(6巻18話)

 ブライダル会社のイベントで紋付き袴とタキシード姿に。(6巻幕間=118話)

 体育祭では戸部のツッコミ役として放送に配属。(6.5巻03話)

 二学期の中間試験で、葉山と並んで国語学年二位に。(6.5巻幕間=125話)

 

・比企谷小町

 小学生同伴で文化祭に。(6巻18話)

 

・平塚静

 直近四回の文化祭で三度もベースを弾くことに。(6巻19話)

 

・雪ノ下雪乃

 とある思惑を抱え、クラスの出し物から実行委員までJ組の全権を握った。(6巻02話)

 入学式の直前(事故の直後)に当時の生徒会長と一悶着を起こした。(6巻07話)

 メイドさんを雇って家事を代行させている。(6巻11話)

 ブライダル会社のイベントで引き振袖に。(6巻幕間=118話)

 体育祭の運営委員長に就任。(6.5巻01話)

 

・由比ヶ浜結衣

 クラスと実行委員の橋渡し役に就任。(6巻01話)

 文化祭の一週間前に疲労で倒れる。(6巻11話)

 ブライダル会社のイベントで白無垢姿に。(6巻幕間=118話)

 体育祭では放送と審判部を兼任。(6.5巻03話)

 

・三浦優美子

 チバセンでは己の不利を理解した上で雪ノ下に挑んだ。(6.5巻04話)

 

・海老名姫菜

 チバセンでは白組を戦術面で主導。(6.5巻04話)

 

・葉山隼人

 雪ノ下に劣る自分を受け入れて、違う一歩を踏み出した。(6巻14話)

 八幡や雪ノ下や戸塚とは違った自分だけの長所を研こうと決意。(6巻20話)

 体育祭で放送と審判部を兼任。(6.5巻03話)

 当事者にもかかわらず棒倒しの裁定を下し、誰からも反対されない結末を演出。(6.5巻06話)

 

・城廻めぐり

 二年前に文実副委員長、その秋に生徒会書記に就任。(6巻07話)

 

・材木座義輝

 棒倒しでは囮部隊かと思いきや主役として輝く。(6.5巻05話)

 

・戸塚彩加

 他人に警戒されない性質を長所として活かそうと考え始める。(6巻20話)

 体育祭で現場班を統率。(6.5巻03話)

 

・城山

 体育祭で現場班の統率を補佐。(6.5巻03話)

 棒倒しでは囮部隊として活躍。(6.5巻05話)

 

・一色いろは

 葉山のバンドにキーボードで参加。(6巻04話)

 クラスの喫茶店で出すお菓子を作った。(6巻17話)

 チバセンでは雪ノ下の依頼を受けて三浦と対峙。(6.5巻04話)

 少しだけ過去話あり。(6.5巻幕間=125話)

 

・川崎沙希

 チバセンでは白組最後の大将騎にふさわしい振る舞いを貫いた。(6.5巻04話)

 

・大和と大岡

 一学期に噂を広めた罪悪感を抱え続け、八幡と戸部のためなら動くことを厭わない。(6巻17話)

 体育祭で現場班の統率を補佐。(6.5巻03話)

 棒倒しでは葉山の手足となって最後まで抵抗した。(6.5巻05話)

 

・戸部翔

 色んなところで「海老名さんすげーっしょ」と主張。(6.5巻03話、6.5巻04話)

 棒倒しでは八幡の監視役を務めた。(6.5巻05話)

 

・川崎大志

 バンド演奏は観てたっす。(6巻19話)

 

・J組の保健委員(オリキャラ)

 職場見学の翌日に体調不良の雪ノ下を保健室に押し込める。(3巻03話)

 体調管理を期待されて、雪ノ下と共に文実に参加。(6巻03話)

 棒倒しでは八幡と共に白組本陣に乗り込む。(6.5巻05話)

 

・雪ノ下陽乃

 三年前は文実を率いて、二年前は無役で文化祭を大成功に導いた。(6巻02話、6巻07話)

 高三の秋に奉仕部を設立。(6巻07話)

 家の決まりで外では酒はダメなんでオレンジジュース下さい。(1巻05話,6巻BT)

 由比ヶ浜を引き抜く案を城廻に伝える。(6.5巻06話)

 

・秦野と相模

 相模南とは和解しました。(6巻18話)

 棒倒しでは白組の一年を引き付ける役割を果たす。(6.5巻05話)

 

・鶴見留美

 小町と一緒に文化祭を楽しむ。(6巻18話)

 

・戸部の旧友(オリキャラ)

 小学生の頃、戸部の何気ない誘いかけに自信を貰ったのを皮切りに、最後は生徒会長まで務めた。今は東京の進学校に通っている。(4巻04話)

 戸部から連絡を受けて、文化祭を訪れた。(6巻18話)

 

・留美と同じ班の少女(オリキャラ)

 かつては留美と仲が良かった。留美の為にと口にした言葉が間違っていたと気付き、小町に留美のことを頼んだ。ゲームではトルコ担当。(4巻15話、4巻18話)

 小町に勧められて、こっそり文化祭を見に来た。(6巻19話)

 

・相模南

 委員長就任後の初日に病欠。(6巻02話)

 本番に弱い、不幸体質。(6巻03話)

 遊戯部の相模との過去話あり。取り巻きは四人。(3巻20話、6巻03話、6巻18話)

 ブライダル会社のイベントで色打掛に。(6巻幕間=118話)

 体育祭では審判部に。(6.5巻03話)

 雪ノ下と約束を交わす。(6.5巻03話)

 チバセンで遙・ゆっこと対峙。(6.5巻04話)

 棒倒しの結果に物言いを付ける。(6.5巻05話)

 

・藤沢沙和子

 文実の副委員長に立候補した。(6巻04話)

 雪ノ下への憧れがその理由。(6巻13話)

 

・本牧牧人

 生徒会長の使いとして、雪ノ下に部長会議での仲裁を要請。(3巻06話)

 藤沢と並んで座っていることが多いですね。(6巻04話、6巻13話)

 

・前生徒会長(オリキャラ)

 城廻の前に生徒会長を務め、一年上の陽乃と事あるごとに対立した。雪ノ下の入学後も、奉仕部に依頼が行かないように率先して校内の問題解決に取り組んだ。(6巻07話)

 城廻に召喚されて文化祭の二日目に姿を見せた。(6巻18話)

 

・折本かおり

 あのドラム……レアキャラ発見!(6巻19話)

 

・玉縄

 演奏のクオリティやプレイの質が高くて目をこすって刮目したよ。(6巻19話)

 

・津久井と藤野

 この世界に巻き込まれた直後の混乱期にも、柔道部に残って城山を助けた。(6.5巻05話)

 棒倒しでは囮部隊に加わった。(6.5巻05話)

 

 

*設定その他

 文実の副委員長は一年生が務めるのが慣例。(6巻03話)

 三浦・海老名・由比ヶ浜の支持層やそれへの振る舞いを創作。(6.5巻02話)

 チバセン=材木座の演技スキルが前提の特殊な騎馬戦。大将騎が倒されると鎧が砕けてコスプレ姿が露わになる。生き残った大将騎の数に応じて得点が傾斜配分される。(6.5巻03話)

 体育祭では審判部を設けるのが慣例。(6.5巻03話)

 

 

■時系列

 曜日は、由比ヶ浜の誕生日=月曜日という3巻の設定に合わせています。

 

9/1(土)

 始業式。

 八幡が劇の主役を断る。(6巻01話)

 階段の踊り場で奉仕部三人が歓談。(6巻01話)

 文実委員は相模と八幡、クラスと委員の橋渡し役は由比ヶ浜に決定。(6巻01話)

 相模が文実の実行委員長に就任、奉仕部に協力を依頼。(6巻02話)

 F組の出し物が海老名の劇に決定。(6巻02話)

 

9/2(日)

 相模が雪ノ下謹製の文化祭対策マニュアルを受け取り、翌日病欠。(6巻03話)

 

9/3(月)

 昼休みに三人が部室で打ち合わせ。バンドの選曲も始まる。(6巻03話)

 放課後の委員会で雪ノ下が予定の一日延期を提案し受諾される。(6巻03話)

 八幡が海老名に演技スキルの裏要素を伝授。(6巻03話)

 

9/4(火)

 藤沢が副委員長に就任。(6巻04話)

 雪ノ下と八幡が渉外部門に属することに。(6巻04話)

 

9/5(水)

 陽乃が卒業生代表として実行委員会に出席。同じ小学校発言。(6巻04話)

 葉山の弁明。(6巻05話)

 八幡が材木座・戸塚・城廻とカラオケ。(6巻06話)

 千葉村に行った面々で女子会。(6巻07話)

 雪ノ下と由比ヶ浜が八幡を出迎える。(6巻08話)

 

9/6(木)

 部長会議の反対派が怪気炎を上げる。(6巻09話)

 昼休みに雪ノ下が彼らを瞬殺。(6巻10話)

 

9/9(日)

 由比ヶ浜が倒れ、療養先の雪ノ下マンションを八幡が訪れる。(6巻11話)

 

9/10(月)

 八幡が人という字をテーマに演説。(6巻12話)

 現実世界から取材を受ける。休ませていた雪ノ下と由比ヶ浜を召喚し記者を瞬殺。(6巻13話)

 雪ノ下が副委員長に就任。(6巻13話)

 

9/12(水)

 陽乃が再び来校。(6巻14話)

 

9/14(金)

 文化祭初日。

 早朝に奉仕部三人と陽乃がゲームマスターの論文を精査。(6巻15話)

 八幡が中学の同級生と遭遇。文実を辞任して逃走。(6巻16話)

 八幡が一色と逢い引き。(6巻17話)

 

9/15(土)

 文化祭二日目。

 八幡がトロッコで密着。(6巻18話)

 八幡が中学の同級生との関係を清算。(6巻18話)

 相模が職務放棄で屋上に逃げ、八幡と次いで遊戯部の相模と向き合う。(6巻18話)

 三人と六人がバンド演奏。(6巻19話)

 相模がステージ上で告解。(6巻20話)

 親しい面々を集めエンジェル・ラダーで打ち上げ。(6巻BT)

 

9/21(金)

 お悩み相談メール開始。雪ノ下がうふんくすぐったい朗読。(6巻幕間=118話)

 

9/22(土)

 ブライダル会社のイベントで八幡が両手両足に花。(6巻幕間=118話)

 

9/28(金)

 体育祭運営委員長の立候補締め切り。(6.5巻01話)

 

10/1(月)

 城廻が奉仕部を訪れる。雪ノ下が運営委員長に就任。(6.5巻01話)

 今年度初の運営委員会開催。(6.5巻02話)

 

10/3(水)

 第二回運営委員会。(6.5巻03話)

 

10/4(木)

 相模がブライダル会社に衣装の見積もりを頼む。相模グループの和解。(6.5巻03話)

 

10/5(金)

 相模たちが雪ノ下と約束を交わす。(6.5巻03話)

 

10/10(水)

 体育祭。

 チバセンで赤組が勝利。(6.5巻04話)

 棒倒しで赤組が勝利?(6.5巻05話)

 審判部の裁定により、赤組と白組の同時優勝。(6.5巻06話)

 八幡が一色と密会。(6.5巻06話)

 

10/12(金)

 選挙管理委員会設置、告示。(6.5巻幕間=125話)

 

10/26(金)

 ブライダル会社からコラム提出の要請。(6.5巻幕間=125話)

 次期生徒会役員の立候補受付開始(~11/2)。(6.5巻幕間=125話)

 

10/27(土)

 雪ノ下お手製のディナーを一色と由比ヶ浜が堪能。(6.5巻幕間=125話)

 

 

■この世界特有の設定

 よく使うものを簡単にまとめます。

 前回96話で説明したものは省略しました。

 

・演技スキルの特殊効果(6巻03話、6.5巻05話)

 演技スキル(演技の実力ではなく演技していた時間の総計で判定)が200以上で発動できる。

 事前に運営に申請して許可が下りれば、特定の範囲内にて一定時間、現実離れした動き(例えば演劇の際に、飛んだり消えたり衣装替えしたり)が可能になる。

 設定した条件を満たせば他者にもその動きは可能だが、申請や条件設定は当人に限る。

 運営としては弱者救済を目的としたおまけ要素ぐらいの認識だったが、決して挫けぬ中二病・限りなくリア充に近いぼっち・トップカーストに君臨する腐女子と、同じ高校から三名もの適合者が出たのは予想外だった。




更新が遅れて申し訳ありませんでした。

本話と合わせて、原作1巻~幕間をまとめた25話や、原作2~3巻をまとめた73話、原作4~5巻をまとめた96話も、ご参照を頂ければと思います。


改行後に、過去話の扱いに関してお話があります。
興味のない方はスルーして下さい。

7/31から原作7巻に入る予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
リンクを修正し、細かな表現を修正しました。(7/28,8/3)
改行の調整、表現の修正を行いました。(8/11)
前書き・後書きを修正し区切りごとにリンクを設けました。(9/3)
6巻は長いので二週目(11話〜)と文化祭当日(15話〜)にもリンクを設け、細かな修正を行いました。(9/12)









 章が変わるごとに微妙に書き方を修正しながら、少しでも読みやすく、同時に正確性を欠く描写にはならないようにと模索してきました。
 けれど今に至ってもなお「これだ」と言えるほどには文体が定まっておらず、上記の方針も満足できる域には到達していないので、章をまたいで描写を統一させることには二の足を踏んできたのですが。

 このたび作品を通しで読み返して、さすがにある程度は手直しを入れるべきだと思いました。
 とはいえ物語の主筋に変更を加えるつもりはなく(それを始めるとエタる未来しか見えないですし、最新話まで読んで下さった方々に失礼だと思うので)、細かな表現上の修正が主です。


 具体的には、今回の修正方針はこんな感じです。

・文の流れを少しでも良くする。ただし、元の文章の雰囲気は可能な限り残す。
 視点の変更を少なく、くどい表現をカット、漢字とひらがなの割合を調整、語順を入れ替える等。

・2巻以降の書き方に合わせて、地の文では八幡と小町以外は姓で統一する(おそらく大志・陽乃・留美も例外になると思います)。

・三浦の「姫菜」呼びを原作通りの「海老名」に修正する(9箇所)。
 二人の距離を縮めようと考えて変更しましたが、名前で呼ばせなくても親しさを表現できると(ようやく)思えたので、原作通りに戻します。混乱させる形になって申し訳ありません。
 数が多いので、これは後書きでもいちいち明言しない予定です。

・文末の「?」「!」を減らして今の書き方に近付ける。

・「……」を減らす。
 ネタバレ回避のために使っている場面では地の文で補足を入れる。

・微妙に矛盾している箇所や、誤解を生みかねない描写を修正する。
 これは該当話の後書きにて、変更内容と理由を明記する予定です。

・1巻4話のみ、新たに書き直したものに差し替える予定。
 単なる手直しよりも時間が掛かる上に、最新話まで読んで下さっている読者さんには全く益のない行為で、書き直しても満足のいくものに仕上がるかは未知数(該当話以外に修正を加えるつもりはないので)ですが、自分で読んでいても居たたまれなかったので……ご理解を頂ければと。

・以前のまとめ回で取り上げてはみたものの、さすがに細かいと思える部分は後書き(かつ改行後)に回す予定です。
 ご指摘を軽く扱うという意図はありませんので、できればご了承を頂ければと。

・前書きと後書きの簡略化。
 前書きで時々掲示していた内容に関する注意書きは削除する予定です。
 頂いた忠告を蔑ろにするつもりは無いので、ご容赦下さい。
 前書きで「文字数が多い」と警告する基準を一万数千字から二万字に変更。
 区切りの良い箇所まで飛べるリンクを作成して前書きに用意する。

・リンクのタグで挟むのを数字のみに変更(2バイト文字を挟むとepubで反映されないため)。
 その結果、例えば「2巻20話」という文字列にリンクを設置する形から、通算の話数となる「45」話に「20」話にリンクを用意する形になります(本話で採用済みの形です)。(9/12変更、幕間・番外編のみ例外)


 一方で、保留するのはこの辺り。

・改行および行開けの抜本的な修正。
 前話や本話のように「行開けをせず改行する」書き方をもう少し模索したいので、今の段階では大幅な修正は施さない予定です。

・数字の表記。
 例えば6.5巻では原作に従って「一五〇」などと書きましたが、これは縦書きのための書き方ですよね。それよりも「百五十」と書いた方が良いのか、それとも半角のアラビア数字で「150」と書くべきか。
 これは正直、結論が出ない予感がします。

・アルファベット一文字の表記。
 これも同種の問題で、例えばクラスの表記をどうするかというお話。
 つまり全角で「F組」と書けば、縦書き表記にしても首を横に向けなくて済むし、こちらの手間も少ない。でも縦書きで読んでいる読者さんがどの程度いるのか判らない上に、上記のリンクの件とは違って読みづらいと言える程ではない。
 そうした理由から、これも保留の予定です。

・作中世界の設定を説明した部分、それと原作通りでも敢えて描写した部分の修正・削除。
 書いた時点では「必要だ」と思って書いたものの、物語が進んだ今となっては「結局は不必要だったな」と結論付けられる描写がいくつかあります。中でも無駄な設定の話は、読者さんに負担を強いて読み進めるのを困難にしかねないだけに、修正したいのはやまやまですが……。
 調整が複数話にまたぐ可能性も多々あり、そこに労力をかけ始めるとやはりエタる未来しか見えないので、ご勘弁を頂ければと思います。


 そんな感じで、7巻を書き進めながら無理のないペースで手を入れる予定です。
 全てを修正し終えてから連載を再開するのが理想で、それが無理なら「せめて3巻まで」とも思いましたが、本話に費やした時間ややる気を考えても実現は難しそうで。
 それよりも平行して作業を行うほうが現実的だと思うので、以上のような計画にしました。


 思っていたよりも長くなってしまいましたが、各話の後書きで変更理由をいちいち書くよりも、一箇所にまとめておきたかったので。
 ここまで読んで頂いてありがとうございました。
 他にも何か気になる点などありましたら、お気軽にご指摘を頂けると助かります。

 では、今後とも本作をよろしくお願いします。


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原作7巻
01.えがいていたのとは違う展開に彼は遭遇する。


ようやく7巻まで辿り着きました。
本章もよろしくお願いします。



 どうして、こんなことに。

 

 比企谷八幡は苦虫をかみつぶしたような表情で首を振って、昨日から何度となく頭の中に浮かんだ疑問を打ち消した。

 事ここに至っては、そんなことを言っていられる状況ではない。

 そう自分に言い聞かせて、しぼり出すように声を発する。

 

 クラスどころか、校内でも指折りのトップカーストに向かって。

 

「俺は……優しい女の子は、嫌いだ」

 

 こんなに大きな駅の片隅で。

 同級生の女の子と、二人きりで。

 さっきまで繋いでいた手には、まだぬくもりが残っている。

 

「でもさ。昨日のは……優しい女の子じゃ、ないよ?」

 

 ああ、その通りだ。

 昨日の夜の一件が、あの竹林で起きたことが、全てを変えた。

 あの時の二人の言葉が、八幡の脳裏によみがえる。

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

『人の気持ち、もっと考えてよ……』

 

 そして、あの一言。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思ってしまったから。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思わせてしまったから、失ってしまう。

 きっと、昨夜の一幕は最後の一押しで。この結末は最初から決まっていたのだろう。

 では、いつから?

 

 八幡はゆっくりと、記憶を遡っていく。

 意外に楽しかった三日間。色んな場所に行って、色んな人と話をした。毎日が濃密に過ぎていったので、東京駅から出発したのがはるか昔に思える。あの日の朝のやり取り。出発前の部室でのやり取り。教室でのやり取り。そして、あの日。

 

 結局のところ。全ての始まりは、あの日のやり取りにあったのだと。

 八幡は今更ながらに、それを理解した。

 

 

***

 

 

 修学旅行まで十日を切った週末の土曜日。

 八幡は逸る気持ちと及び腰とを抱えながら、集合場所へと向かっていた。

 

「戸塚がいなけりゃ、迷うこともないんだがな」

 

 十月の終わり頃から急に冷え込んだ日が続いたかと思えば、この週末は秋晴れの陽気が戻っていた。小春日和と呼ぶには時期が少し早い気もするが、文化の香りが漂う表現を使うには本日三日が最適だろう。

 

 そうした現実逃避の思考を長い息とともに吐き出して、八幡はコーヒーのチェーン店を外から眺める。

 五分前に来たけど誰もいなかったから帰った。そんなメッセージを送る光景を思い浮かべる八幡だったが、残念ながら全員が既にそろっていた。あげく、向こうに見つかってしまった。

 

 肩の力を抜いて猫背になって、八幡は仕方なく店内に入るとドリンクを片手に彼らと合流した。

 

「やあ。土曜日にヒキタニくんと会うって、なんだか変な感じだね。まあ、呼び出した俺たちがそんなことを言うのは申し訳ないんだけどさ」

「やっぱ今日の話にヒキタニくんは欠かせないっしょ!」

「だな」

「俺もそう思う」

 

 葉山隼人からは微妙に角が立つ言い回しをされて、しかし反論のタイミングを見出せないまま話が進んだ。戸部翔はいつも通りのテンションで、大和と大岡も普段と変わらない。そんな四人の中にまぎれ込んだ小動物が一人。

 

「八幡、こっちこっち」

 

 戸塚彩加に手招きされて、八幡は一も二もなく指定の席に腰を下ろした。

 

 

「んで、修学旅行の大事な話って、どういうことだ?」

 

 性急な問いかけに、一同からは苦笑が漏れる。とはいえ八幡を見下すような気配は微塵もない。

 

 戸塚はともかく葉山グループの四人は、親しいと表現するには微妙な関係だが、それでも知らない仲ではない。特に今学期に入ってからは、文化祭や体育祭で顔をあわせる機会も多かった。ぶっきらぼうな八幡の態度にも慣れている。

 

「今回は戸部が当事者だからさ。俺じゃなくて、ちゃんと自分で話をしろよ」

「いやでも隼人くん、それやべーっしょ。俺から言うのって、もうちょいこう、場が温まってからって感じでオナシャス!」

「戸部って、こういう時はぜったい尻込みするよな」

「もうさ、戸部るって言葉を作りたいぐらいだよな」

 

 盛り上がる四人の会話には入れないものの。戸塚が耳元で「戸部くんたち、仲いいよね」とささやいてくれるおかげで、八幡は鷹揚な気分でいられた。

 

「要するに、場を温めれば良いんだな。じゃあ俺が、書いた文字が次々と消えていく怪談をだな」

「雪ノ下さんに添削されたってオチじゃないよね?」

 

 にこやかに結末を言い当てられてしまい、ぱくぱくと口を動かすしかできない八幡。先週末にさんざん苦労したコラムの愚痴を言いたかったのにと、恨みがましい眼で葉山をにらんでいると。

 

「雪ノ下さんの前で戸部ってたら、一瞬で斬られそうだよな」

「戸部る仕草をみせた瞬間に、氷漬けになったりとかな」

「それ、どっちもやべーっしょ。うー、えーっと、だから、あの、ヒキタニくんにも戸塚にも前に話してる……その、海老名さんのことなんだけどさ」

 

 それを聞いた八幡は目を見張って、戸部の顔をじっくりと眺めた。確かに千葉村で話を聞いた記憶はあるが、もう三ヶ月も前の話だ。とっくに別の女の子に目移りしていると思っていたのに。

 

「戸部、お前……けっこう一途だったんだな」

「俺も正直、すぐに飽きると思ってたんだけどさ。姫菜に関してはしつこくてね」

「ちょっと隼人くんそりゃねーっしょ。いやま、たしかに去年とかは適当に付き合って別れてって感じだったけどさ」

 

 ちゃらい外見で、もじもじされると腹が立つし、何人もの女の子と適当に付き合ってやがったのかと思うと天誅でも喰らえと言いたくなるが。ただ呪詛の言葉を投げかけるには、戸部のことを知りすぎていた。どうしたものかと、八幡が頭をひねっていると。

 

「ぼくもちょっと意外だったけど、でも戸部くんって、海老名さんを褒める言葉をずっとくり返してたもんね」

「あー、そういや体育祭の実況とか運営委員会とか、ひたすら『海老名さんすげーっしょ』ってくり返してたよな。あれ聞くたびに由比ヶ浜が苦笑してたぞ」

 

 戸部がそれを口にするたびに彼女の反応を確認していたのかと。そんな軽口をぶつけたい葉山だったが、話がややこしくなるだけなので自重した。ちらっと戸塚を窺うと目が合って、同じことを考えているのが伝わって来たので頬が緩む。

 

「それが、俺っち言い過ぎたみたいでさ。ちょっとやべー感じになってるんだべ」

「具体的な行動に出ないのかって、三年の先輩が軽い感じで尋ねてきたりさ」

「海老名さんは渡さないって、呪いの手紙みたいなのが下駄箱に入ってたりな」

 

 眉間にしわを寄せて、三人が頭を抱えている。

 話を聞いた八幡は、視線で葉山に確認をとって。軽く頷かれたことで、状況を理解した。要するに、当人そっちのけで話が拡大しているのだろう。

 とはいえ、周囲にどう対処するかを考えるよりも先に、確認しておくべきことがある。

 

「まあ、外部の対策はおいおい話すとして。ぶっちゃけ、戸部はどうしたいんだ?」

「そりゃ、まあ、あれっしょ。できたら海老名さんと付き合いたいし、修学旅行はチャンスっしょ!」

「なあ。あの時にたしか戸塚が言ってたよな。狙い目だからとか、時期的にチャンスだとか、そんな理由で付き合っても上手く行くとは思えないけどな」

「それって、気持ちの部分っしょ。海老名さんへの気持ちは、今までとは全く違うって言い切れるべ。でさ、ふつうに放課後に告白するよりも、旅行先で特別な環境で告白するほうが成功するっしょ?」

 

 そう言われてしまうと、今度は八幡が頭を抱える番だった。

 ずっとノリで言っているのだと思っていたが、二学期になってからの戸部の発言はたしかに一途だった。気持ちが確定したら協力して欲しいと、そう頼まれたのも覚えている。

 

「ん、ちょっと待て。そもそもの話として、俺に何かを期待してるんだったら無駄だぞ。人の恋路に協力しろって言われても何をすれば良いのか分からんし、むしろ馬に蹴られたり犬に噛まれるほうが合ってる気がするんだが」

「それは人の恋路を邪魔した場合だろ。モテる自慢のつもりかな?」

 

 国語学年二位らしいやり取りだったが、嫌味を出さないという点では遠く及ばないなと八幡は思う。全く同じセリフでも、俺のしゃべり方だと角が立つのになあと唇を尖らせながら、次に何を言うべきかを考えていると。

 

「先輩のからかいとかは聞き流したらって思うけどさ。ぼくは見たことないけど、呪いの手紙ってほんとにあるんだね」

「それな。戸部から見せられて、俺らもビックリしたよな」

「雑誌とか新聞の文字を切り抜いて作る古典的なやつでさ」

「それって、運営に通報とかはできないのか?」

「脅しの文句でもあれば逆に良かったんだけどね。姫菜は渡さないってだけで通報できるかと言われると、ちょっと厳しいよね」

 

 葉山の返事に頷きながら、八幡はふたたび思考に耽る。とはいえすぐに面倒になって。

 

「まあ、そういう連中が実力行使に出るとは考えにくいし、無視で良いと思うけどな。もし手紙の文言がエスカレートしたら、さっさと運営に報告すりゃ良いんじゃね?」

「や、ヒキタニくんの案でもいいんだけどさ。その、雪ノ下さんに依頼するのは可能だべ?」

「それって、奉仕部への依頼じゃなくて雪ノ下個人への依頼ってことか?」

「だべだべ。ちょっと話的に、結衣に伝わるのは避けたいっしょ?」

「あー、うーん」

 

 思わず八幡はうなり声をあげてしまった。言われてみれば、その気持ちも分からないではない。

 将を射んと欲すればまず馬を射よ、という言葉もあるが、馬を射ている間に将に逃げられては元も子もない。それに今回の場合は、将も馬も大物ぞろいだ。

 

「それ言われて思ったけど、由比ヶ浜と三浦には何て言うんだ?」

「告白前に伝えたほうがいいって、ぼくは思うけど?」

「ある意味、告白よりも難しい気がするんだよな」

「それなら告白が成功してから話しに行ったほうがいいんじゃないかって」

「でも、姫菜が告白を受け入れてくれるかも未知数だろ。不確定要素が多すぎるって、俺は思うんだけどな」

「隼人くんの分析は頼りになるべ。そこにヒキタニくんが加わってくれたら最強っしょ!」

 

 俺のことを何だと思っているのか、まじめに尋ねたくなってきた八幡だった。

 どこかの部長様のように額に手を当てながら、八幡は口に出して状況の整理を行う。

 

「根本的な話として、戸部は修学旅行で海老名さんに告白したいんだよな。で、戸塚が言った通り、からかう連中は放置で良いと思うんだが。呪いの手紙を送ってきた連中のことで、雪ノ下に依頼を考えていると。それから由比ヶ浜と三浦にどう説明するかって問題があって、時期も告白の前か後かで意見が分かれてて。あと他に、なにかあるか?」

 

 冷静に話す八幡に対して、戸部がいささか慌て気味に答える。

 

「ちょ、ヒキタニくん一番大事なことを忘れてるっしょ。告白しても断られたら悲惨だべ?」

「それは、あー、たしかにな」

「だしょ。だから確実に成功する方法を知りたいべ」

「いやまあ気持ちは分かるけどな。確実に成功する告白なんて有り得るのか?」

「確実を期すなら、もう少し待ったほうが良いと俺は思うけどな。ただ、待つことで確率が上がるかと言われたら断言できないけどね」

 

 どうやら葉山は、延期という結論に話を持って行こうとしている。八幡はそう判断して、話の落ち着けどころを探る。戸部には悪いが、正直どうでもいい話なのでさっさと結論を出したい。そんな気持ちに加えて。

 

 いちおう冷蔵庫におやつを用意してきたが、早く帰れたら淹れたてのお茶と作りたての一品を受験生に提供できる。妹が勉強を苦手にしているのは百も承知の八幡としては、より効果的に疲れを癒やして欲しいと考えるのは当然のことで、千葉の兄がそうした努力を怠るなど言語道断だ。

 ゆえに、話を早く片付けようとシスコンは考える。

 

「ほいじゃ、月曜の放課後に俺が先に部室に行って雪ノ下に説明しとくから、戸部だけ来てくれるか。葉山たちは、由比ヶ浜を教室に引き留めておいて欲しいんだが」

「それは、戸部の告白を応援してくれると考えていいのかな?」

 

 意図は伝わっていると思っていたのに。妙に前向きなことを言い出した八幡に首を傾げながら、葉山が重ねて確認すると。

 

「ん、まあ、そうだな。戸部も、いいかげんな気持ちじゃなさそうだしな。ちゃんと話をしたら、雪ノ下も協力してくれるんじゃね?」

 

 葉山の言葉の裏を読み取った八幡は、同じように裏の意図を込めて返した。

 あの部長様に「確実に成功する告白方法」なんぞを尋ねた暁には、良くて一刀両断。悪ければ一から性根を叩き直されるまである。いずれにせよ、戸部の軽挙妄動を防ぐことに協力してくれるだろう。

 

 あの幼なじみに手を下させることに、少しだけ抵抗感を覚える葉山だが。その程度の正論など彼女からすれば平常運転に過ぎず、さしたる労力もかからない。それに、葉山たちが戸部をたしなめるよりも角が立たない。

 八幡の意図を明確に理解して、葉山が引きつり気味の笑顔を取りつくろっていると。

 

「雪ノ下さんまで説得してくれるって、ヒキタニくんマジすげーっしょ。ここまで応援してもらったら、俺も腹をくくるしかないわー。うし。戸部翔、今度の修学旅行で、決めちゃいまっす!」

「おー、かっけー!」

「これで戸部も彼女持ちかぁー」

 

 戸部の決意表明を大和が冷やかし、大岡はなにやら羨ましそうにつぶやいている。

 やはり奴はチェリーだなと、どうでもいい情報を仕入れた八幡が念のために口を開く。

 

「言っとくけど、俺ができるのは話を通すまでだからな。雪ノ下がどう反応するかは保証できねーぞ?」

「雪ノ下さんマジ怖いっしょー。でもさ、厳しいことは言っても、間違ったことは言わねーべ?」

「まあ、そうだね。雪ノ下さんが言うことなら、信頼して良いんじゃないかな?」

「ぼくがテニスの練習を手伝ってもらった時も、厳しいことをたくさん言われたけど、ぜんぶ理に適ってたんだよね。だから葉山くんが言う通り、雪ノ下さんを信頼していいと思うよ」

 

 戸部の人物評が意外にも妥当だったので、少し虚を突かれたものの。葉山も八幡に続けて、判決後を見すえたフォローの言葉をかけておく。

 

 戸塚には裏の意図は伝わっていなさそうだが、うまい具合にまとめてくれて助かったと八幡は思う。告白の成功率を上げるための話し合いとか、夜になっても終わる気がしない。そんな展開にならなくて良かったと、こっそり胸をなで下ろしていると。

 

「じゃあ、ぼくテニススクールがあるから、そろそろ行くけど。みんなはどうするの?」

「んじゃ、俺も一緒に帰るかね。由比ヶ浜の引き留めは、任せていいよな?」

「ああ、俺たちで打ち合わせしておくよ。大和と大岡がもう少し優美子たちと仲良くしてくれたら助かるんだけどな」

 

 戸塚のこの後の予定は、いの一番に確認していたので八幡に落胆の色はない。発言にうまく便乗して、自らも帰り支度に入る。

 

 葉山の冗談まじりの言葉を聞いて、大和と大岡は少しだけ目を泳がせている。

 職場見学の班分けに端を発した事件以来、二人は女性陣と少しだけ距離ができて、それは今も変わっていない。一般には、噂の被害者とはいえ女子生徒に助けられたのが情けないという理由で。実は、噂を流した張本人だという後ろめたさと、尻拭いをさせてしまった罪悪感で。

 

 雑談ぐらいなら問題はないが、彼女たちと込み入った話をするのは難しい。ならば、自分たちよりも。先に帰ろうとしているこの二人のほうが、女性陣と話をするには適任だろう。

 

 一学期にあんな行動に出たことを思うと、心境の変化に驚いてしまう。だが、戸部のためなら。あの時に迷惑をかけた二人のためなら、大和と大岡にとってこの程度の決断など簡単なことだ。

 

 修学旅行の班は四人一組。三人一組だった職場見学とは違い、何もしなければ二人は葉山と同じグループになれるのに。あえて別の班に行くことを、二人は顔を見合わせて確認し合った。

 

 

***

 

 

 迎えた月曜日の放課後。

 八幡は早々に部室に顔を見せると、「戸部が来る」とだけ告げた。軽く首を傾げた雪ノ下雪乃は「戸部くんは一人で来るのかしら?」とだけ確認して、そのまま読書に戻る。

 

 程なくして、ノックの音に続いて戸部が現れた。

 

「うす、今日はよろしくお願いしまっす!」

 

 普段の軽薄なノリはできるだけ抑えて、まじめな顔で話しかけている。右手の先をこめかみに近づけて雪ノ下に敬礼しているのはご愛敬だろう。

 

「んじゃま、簡単に説明するとだな。戸部が修学旅行で海老名さんに告白する。それを助けて欲しいとお望みだ。それから」

「由比ヶ浜さんがいない状況を、意図的に作り出したのね?」

 

 八幡の説明を遮って、いきなり確認を入れられた。話が早いなと口元が緩むのが自分でも分かる。小さく頷くと、説明の続きをするようにと促された。

 

「お前も体育祭の実況とか運営委員会とかで覚えてると思うけど、戸部が海老名さんを絶賛して回ってただろ?」

「それは、冷やかされているとか、そういう話かしら。あるいは」

「ああ、呪いの手紙が届いたとさ。実物を出してくれるか?」

 

 二人の話の早さには戸部ですらも口を挟めず、言われるがままに証拠品を差し出している。

 それを検分した雪ノ下は、すぐに興味を失った様子で。

 

「ただのいたずらね。怨念をまるで感じないし、仲間内で遊んでいるだけだと思うのだけれど」

「それって、『手紙を送ってやった俺すげー』みたいな感じか?」

「ええ。戸部くんに手紙が渡った時点で、満足しているのではないかしら」

「ちょ、雪ノ下さん、なんでそんなことが判るんだべ?」

 

 ふっと息を漏らして遠くを見るような表情の雪ノ下から、おおよその事情を感じ取って。八幡がそのまま話を続ける。

 

「んじゃま、雪ノ下のお墨付きってことで、呪いの手紙は解決だな。これ以上は何もして来ないだろ。冷やかしの件は無視でいいし、あとは告白をどうするかだが」

 

 八幡はそこで言葉を切って、あとは雪ノ下に任せようと考える。思う存分に言ってやってくれと、すっかり他人事のように考えていると。

 

「もう少し詳しく教えて欲しいのだけれど。告白を助けるとは、どんなことを期待しているのかしら?」

「やっぱ告白を断られると辛いべ。だから、成功の確率が高い方法を知りたいっしょ」

 

 雪ノ下の前では戸部も神妙なもので、語尾こそいつもの通りだが口調はかしこまっている。葉山や八幡の前では「確実に」と言っていたのに、「確率が高い」などとトーンダウンしている。

 

 この微妙な変化が。

 今後の成り行きを大きく左右すると、この時の八幡は気づけなかった。

 

「一つ、確認したいのだけれど。遅かれ早かれ、由比ヶ浜さんは事情を知ることになると思うわ。もしかすると足止めを受けている現時点で既に、察している可能性すらあると私は思うのだけれど。成功の確率を高めたいのであれば、由比ヶ浜さんの協力は不可欠よ?」

「それって、あー、結衣って鋭いから、たしかになー」

 

 一人であれこれと思い悩んでいた戸部は、急に両手で頬をぱんと叩いて気合いを入れると。

 

「うす。俺っち結衣が来る前に退散するつもりだったけど、ちゃんと話して協力をお願いしてみるべ」

「そう。では由比ヶ浜さんの賛成を得られた場合には私たち奉仕部が、貴方の告白が成功する確率を少しでも高められるように協力するわね」

 

 八幡の想定をはるかに超えて、雪ノ下が前向きな返事を与えている。どうしてこんなに乗り気なのか。我が目を疑う八幡を置き去りにして、話が進んでいた。

 




更新が一日遅れてごめんなさい。
この構成で良いのかと、一日ずっと自問していました。
シリアスが多めの章になりますが、楽しんで頂けるように頑張ります。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
改行を調整し、分かりにくい部分に説明を加えました。(8/11,10/9)


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02.びっちとは聞き捨てならぬと彼女は宣言する。

前回までのあらすじ。

 戸塚とともに葉山グループに呼び出された八幡は、「修学旅行で海老名に告白する」という戸部の意思を伝えられた。雪ノ下に相談があると語る戸部に。早く家に帰りたい八幡は「雪ノ下なら一刀両断にしてくれるだろう」と期待して、週明けに部室に来るようにと告げる。

 葉山たちが由比ヶ浜を足止めしている間に、戸部は八幡立ち会いのもとで雪ノ下に事情を話した。相談は一瞬で解決したものの。八幡の予想とは裏腹に、雪ノ下は戸部の告白に前向きに協力する旨を表明した。



 その日の放課後は、いつもと何ら変わりないはずだった。けれども小さな違和感が重なって、そちらに意識を引きずられた由比ヶ浜結衣は会話に集中できずにいた。

 今も、葉山隼人の声が右から左にと抜けて行く。

 

「いよいよ明日は班決めだね。優美子たちは、あと一人は?」

「あーしは三人で問題ないし」

「お、俺もそれで良いと思うけど。なあ、大和?」

「だな。大岡の言う通りだ」

 

 最初に、同じ部活の男子生徒がそそくさと教室から出て行った。

 注目を集める状況を苦手にしているのは、既にクラスメイトに周知されて久しい。今さら教室から逃げ出す必要などないはずなのに。迷いのない彼の行動が気になった。

 

「三人でいいなら、たしかに楽なんだけどねー。私に一人、心当たりがあるんだけど。優美子と結衣はそれでいいかな?」

「他よりはマシだし、あーしは我慢するし。結衣は……ゆーい?」

「あ、ごめん。えっと、うん。あたしもサキサキでいいと思うけど」

 

 次に、葉山が大和と大岡を伴って放課後すぐに合流した。

 来週に迫った修学旅行では、彼女らと葉山グループの四人は多くの時間をともに過ごすことになる。それを見越して、今なお関係に隔たりがある大和と大岡に女性陣と話す機会を与えたい。そうした葉山の意図は、友人関係の機微に通じる者ならたやすく見抜くだろう。

 

 だが、その解釈では違和感が残った。当事者の二人から、あまりやる気が感じられなかったからだ。

 歩み寄ろうとしてくれているのは分かる。しかしながら、それは来週を目指しての行動ではなく、長期的に少しずつ関係を深めようとしている気がした。

 

 大和と大岡が別の班に行くと決意していることまでは、さすがに見通せないものの。由比ヶ浜は葉山たちの意図をほぼ正確に捉えていた。

 

「結衣は早く部活に行きたいのかもしれないけどさ。修学旅行が終わったらすぐに選挙で、そのあとは期末が控えてるからね。俺たちも部活があるから放課後にのんびり話せる機会はなかなかないし、優美子も寂しそうにしてたよ」

「結衣とは夜にも喋れるし。隼人が気を遣ってくれるのは嬉しいけど、大丈夫だし」

「今夜も優美子は結衣を寝かせない、と。あー、なんでこの世界に性転換できるクッキーとかないのかな」

「だからあーしらで妄想するのはやめろって言ってるし」

 

 最後に、戸部翔の姿が見えない。

 何か用事があるらしいと葉山から説明されたものの、それは言い訳だと由比ヶ浜は思う。きっと、横にいる二人の友人もそう思っているだろう。

 

 大和や大岡とは違って、戸部と三人娘との間に遠慮はない。気安い関係を築けていると思っているし、だからこそ同席しないのが不可解だった。自分たち三人との仲を取り持つことよりも優先される用事とは何なのか。由比ヶ浜は首を傾げるしかない。

 

 あるいは、と由比ヶ浜は思う。見え見えの言い訳は、こちらに気づかせるのが目的かもしれない。戸部の別行動を、葉山がよく思っていないという可能性もあるが。それよりも、自分たちを巻き込むのが主眼かもしれない。

 

 もしもそうなら、葉山一人では手には負えない問題を抱えているということだ。

 男子だけで解決できるなら、葉山はその道を選ぶだろう。一方で、女子の助けが必要だと判断すれば。事を荒立てないためなら、こちらを巻き込むのを躊躇しない性格だ。

 

 葉山が五月に噂の一件を奉仕部に持ち込んだことや、文化祭の数日前に話し合いに飛び入り参加した時のことを思い出しながら。

 由比ヶ浜は軽く首をふって、一つの可能性をしりぞける。

 

 もしも()()なら、事は自分たち全員に関わってくる問題だ。だが今の段階では目立った動きがない。もう少し問題が表面化してからでないと、対策を立てようにも立てられない。だから、この可能性は保留で問題ないはず。

 

「あ、あたしそろそろ部活に行こうかな」

 

 急にあの二人の顔を見たくなって、由比ヶ浜がぼそっとつぶやいた。

 先程の葉山の言葉が届いていないのは明らかだったが、同時に男子三人にメッセージが来たので、うまい具合にうやむやになった。

 すぐに顔を上げた葉山が、鋭いまなざしを緩めながら由比ヶ浜に向かって口を開く。

 

「どうやら戸部の用事も終わったみたいだし、俺も部活に行こうかな。大和と大岡はどうする。もう少し話してから行くか?」

「いや、明日は班決めだしさ」

「話すのは、いつでも話せるしな」

 

 やっぱり距離があるなと再確認しながら、由比ヶ浜は話をまとめにかかる。

 

「じゃあ、今日はこれで解散しよっか。優美子と姫菜には部活が終わったら連絡するね」

「私はサキサキと連絡を取ってから、小説を書き進めようかな。優美子は?」

「身体を動かしたいから、途中まで隼人と一緒に行くし」

 

 彼女らの動きに呼応して立ち上がる男性陣を、無言で眺めて。由比ヶ浜は元気を全身にまとわせると、部室に向かって歩を進めた。

 

 

***

 

 

 聞き慣れたぱたぱたという足音に続けて、がらっと扉が開くや否や。

 

「やっはろー。って、とべっちじゃん?」

「うぃーっす。お邪魔してまーっす」

「あ、じゃあ。とべっちの用事って、ここ?」

「やー、やっぱ雪ノ下さん凄すぎっしょ。一瞬で解決だったわー」

 

 由比ヶ浜のいつものセリフを皮切りに、トップカーストの二人で話が進んでいた。

 

 このノリに割って入るのは無理だと早々に諦めた比企谷八幡は頬杖をついて、部室の後ろのほうに積み上がっている机をつまらなさそうに眺めながら。誰にも聞こえないように口の中だけで「やっはろー」とつぶやいてみた。

 と、その瞬間。自分の席に向かっていた由比ヶ浜が足を止めて、こちらを見たかと思えば。目を輝かせて頷いてくれた。

 

 おそらく言葉は伝わっていない。けれども挨拶に返事をしたのは伝わっていて、笑顔で応えてくれたのだろう。少し照れくさくなって自由なほうの手で頭をがしがししていると。

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん。お茶を淹れるから、その間に戸部くんの話を聞いて欲しいのだけれど。直感的な説明が良いのか、それともひねくれた説明が良いのか悩ましいわね」

「俺はお前に説明したから、もういいだろ。戸部の話を聞いて、足りない部分をお前が補足したら良いんじゃね?」

 

 そんなわけで、新たに淹れたお茶が半分になる頃には由比ヶ浜も事情を把握できた。先程から保留にしていた問題だけに、驚きはない。先刻の葉山の意図や行動の意味も理解できた。

 

「うーん、姫菜に告白かあ……。あ、でもさ、呪いの手紙が解決したのはよかったよね」

「だべ。俺っちもいたずらだとは思ってたけどさ。雪ノ下さんに保証してもらうと安心だべ」

 

 先日の土曜日には大和や大岡と一緒に頭を抱えていたくせに。そう言いたい八幡だったが、本題に入る前に由比ヶ浜が少し間を置いただけだと理解しているので、余計な口は挟まなかった。

 はたして由比ヶ浜が言葉を続ける。

 

「ゆきのんは、告白の成功率を上げるって言ったんだよね。それって、ゆきのんらしいなって」

「ええ……そうね」

 

 少し照れた様子の雪ノ下雪乃をじっくりと見てしまい。無意識に飲み込んだ唾の音が耳に響いて、八幡はなんとか正気に戻った。同時に、疑問がわき上がってくる。

 きょとんとしている八幡には気づいていないのか、そのまま由比ヶ浜が話を進めた。

 

「じゃあさ。ちょっと三人で相談するからさ。とべっちは、部活の後でまた来てくれる?」

「マジ助かるべー。さすがは結衣だわー。つーか奉仕部って、全員がハイスペックで凄すぎっしょ!」

 

 いちいち大げさではあるものの、特におべっかの気配もなく思ったままを言っているのが伝わって来る。

 相手をするのは疲れるけれども、悪い奴ではないんだよなと。八幡はそんなことを思いながら、部活に向かう戸部を見送った。

 

 

***

 

 

 うきうきした足音が廊下から聞こえなくなるのを待ち構えていたかのように、由比ヶ浜が口を開いた。

 

「ふう。でさ、ゆきのんが乗り気なのは、さがみんの時と同じだと思うんだけど。ヒッキーはどう考えてるの?」

「ん、いや、俺はまあ土曜に男連中で集まった時にも話を聞いてたし、なるようにしかならんと思ってたんだけどな。俺からすれば雪ノ下が乗り気な理由がよく分からん。相模と同じって、どういうことだ?」

 

 今回は人間関係の問題だからか、いつもよりも生き生きとして見えるし、実際に進行役まで務めている。顔をほころばせて見守っている雪ノ下と軽く視線を交わしてから、頼りになる部活仲間の質問に答えると。

 首をひねっている八幡に軽く何度か頷きかけて、由比ヶ浜が話を続けた。

 

「さがみんの時にさ、ゆきのんがスパルタしようとしてたじゃん。あれと同じで今回も、とべっちを鍛えようとするんじゃないかなって」

「あー、言われてみたら納得だな。つーか、一つ質問なんだが。もしも戸部がスパルタに音を上げて『絶対に成功する告白方法を教えて欲しいべ』とか言い出したら、どうするんだ?」

「そんなの、決まっているでしょう。グラウンドを死ぬまで走らせてから、死ぬまで筋トレ、死ぬまでシュート練習、死ぬまで……」

 

 ああ、雪ノ下だなと八幡は思った。最近は鳴りをひそめていたが、一学期にはよく見た反応だ。

 戸部が謙虚に「成功率を高める」と申し出たことで、予測とは違う展開になったのだと理解する。それでも、結末は同じだと考えて。八幡は、大事な確認を忘れていたのに気づいた。

 

「戸部の性根を叩き直すって結論は分かったから、まあ落ち着け。んで、確認なんだがな。俺には戸部の告白が成功するとは思えねーんだが、お前らは?」

「端的に言って、海老名さんの趣味ではないと思うのだけれど」

「まあ、だよねー。姫菜の理想とかは分かんないけど、とべっちが違うっていうのは、うん、分かるかも」

 

 予想通りの反応に胸をなで下ろしながら、新たな疑問を覚えた八幡が話を続ける。

 

「じゃあ、なんで戸部の依頼を積極的に引き受けたんだ?」

「例えば、家庭教師を思い浮かべて欲しいのだけれど。志望大学に『絶対に合格させてくれ』と頼まれて引き受けるのは稀だと思うのよ。それよりも」

「合格の確率を高くするってことだよね。ゆきのんらしいなって、ヒッキーも思わない?」

 

 助けを求める人に結果ではなく手段を提示する。

 たしかに言われてみれば奉仕部の理念に沿っている。戸部に意欲がある限りは、雪ノ下がそれを応援するのは自然なことに思えた。とはいえ。

 

「疑問が二つあるな。一つは、これは正式な依頼に入るのかってこと。もう一つは、戸部を鍛えて告白の成功率を上げるって、具体的にはどんなことを考えてるんだ?」

「一つ目の疑問を先に片付けましょうか。告白というデリケートな要素が絡んでいる以上は、平塚先生の許可を得るのは難しいでしょうね。ただ、由比ヶ浜さんや比企谷くんなら、適当な理由をでっち上げられるのではないかしら?」

「ゆきのん、ちょっと言い方がね、まあいいんだけどさ。その、解決した呪いの手紙を依頼にするのはどうかな?」

 

 まさに自分が考えていた案を由比ヶ浜に先に言い出されて。八幡は悔しさよりも嬉しさが先に立った。

 賛同者が多ければ多いほど良いとは思わないけれど、自分以外にも同じことを考えている誰かがいると確認できるのは嬉しいことだ。ましてやそれが信頼に値する相手ならなおさらだと八幡は思う。

 破顔しそうになるのを必死にこらえて、口を開く。

 

「じゃあ戸部に、呪いの手紙が来たってお悩みメールでも書いてもらうか。たぶん『甘酸っぱい話じゃないよな』って念押しされると思うんだが、まあごまかせるだろ。バレたらバレたで、戸部を墓地に送ってターンエンドしとくわ」

「なるほど、そういう発想になるのね。個人として依頼を受けても良いのだけれど。もしも依頼が重なった時には対応が難しくなるから、正式な依頼にできると助かるわね」

 

 依頼のない気楽な状態で、この二人と雑談を交わすのも楽しいけれど。依頼を受けて一つの目標に向かって話を進めていくのは格別だと八幡は思う。二人が言いそうなことは何となく予測できるし、きっと二人も同じように思っていると、八幡はその直感を受け入れることができた。

 一緒にバンド演奏をしたおかげだと八幡は思う。

 

 

「じゃあ次は、とべっちの鍛え方だっけ?」

「とはいえ特別なことは考えていないのよ。男女の仲であれ友人関係であれ、相手が好きなものをより詳しく知るほどに、関係が深まるのではないかと思うのだけれど」

「げっ。もしかしてゆきのん、姫菜の趣味をとべっちに?」

「戸部くんが良いと言うのであれば、それもありだとは思うのだけれど。海老名さんの趣味は()()だけではなく、文芸から漫画まで幅広いでしょう。それらのうち、広く知られている作品をひととおり読ませてみてはどうかと思ったのよ」

 

 そう言いながら雪ノ下は、とあるテキストファイルを探し出して具現化した。

 

「材木座くんの依頼を受けた時に、海老名さんや三浦さんと一緒に四人で作品を読んだでしょう。漫画やアニメで使われた表現に、私は疎いから。あの時に教えてもらったことをまとめておいたのよ」

 

 何枚かのレポート用紙をクリップで留めたものが二人に手渡される。

 八幡がぺらりと紙をめくってみると、「そげぶ:禁書」と書いてあるのが目に飛び込んできた。すぐ下の段には「()()想を()ち殺す」で終わる長いセリフの全てと、「とある魔術の禁書目録(インデックス)」という正式な作品名が書いてある。

 

「悪くない案だとは思うけどな。これだと材木座のフィルターが入ってるから、広く知られている作品とは言い切れない気がするんだよな」

「薄々そうではないかと思っていたので、指摘に手心は不要よ。では、最後の一枚を見て欲しいのだけれど」

 

 ぱたんと一度裏返しにして、一枚だけぺらっと表に向けると。そこには「おすすめの古典小説・漫画」と題して色んな作品の名前が挙げられていた。とはいえ話の流れからして、これを選考したのが腐女子なのは明白なので、視線を下に動かすことなく身構えていると。

 

「えっと、風と木……、ポー……、ひでしょ?」

「それ、日出処な。まあ、思ってたよりはマシってか確かに名作ぞろいだけどな。全部が全部BL要素が入ってるじゃねーか!」

「やはりそうなのね。三島や澁澤の名前を見た時点で覚悟はしていたのだけれど。では、戸部くんには勧めないほうが良いかしら?」

 

 そう言われると八幡も迷う。由比ヶ浜が読み上げてくれた漫画はいずれも名作と呼ぶにふさわしく、八幡もかつて引き込まれるようにして読んだ記憶があるし、幸いなことに変な趣味にも目覚めていない。

 

「まあ、読むのは戸部だし良いんじゃね。でもなあ、俺ならポーよりもトーマを推すね。それに……」

 

 などと八幡がマニアな悩みに頭を働かせているが、それは放置して。雪ノ下は由比ヶ浜に問いかける。

 

「海老名さんが好きなものを考えた時に、私にはこれしか思い浮かばなかったのよ。由比ヶ浜さんは他に何か……?」

「姫菜の服の好みとか、そういうのは役に立たないよね。うーん……。やっぱり姫菜はびーえるだって思うんだけどさ。前に千葉村で話した時に、ちょっとまじめな話になってね。その、びーえるが好きだからって『男どうしなら何でもいい』じゃなくて。なんて言ってたかな。えっと『男女の恋愛ものが好きな人にも好みがあるでしょ』みたいな?」

 

 由比ヶ浜の説明で、雪ノ下にはおおよそが理解できた。どこか八幡が示すこだわりに似ている部分があるなと思いながら、そのまま話を続ける。

 

「海老名さんなら、そうした部分もきちんと考えていそうだものね。案外、LGBTを扱った新書などを読ませるのも良いかもしれないわね」

「戸部がそれを理解できるといいけどな」

「えっと、あたしも同じなんだけどさ。とべっちも本を読みながら寝ちゃいそうだなって」

 

 机に上半身を預けて、本を片手に寝落ちしそうになっている由比ヶ浜を思い浮かべてしまい。口元をゆるめながら、会話に復帰した八幡が話を継ぐ。

 

「その手のまじめな本もいいけどな。ふつうに少年漫画の定番を読ませるのもいいと思うぞ。男なら誰でも知ってる作品でも、意外とアニメの一部分だけしか観てなかったり、コミックスの最初のほうしか読んでなかったりするからな。海老名さんって有名作品はだいたい読み込んでる印象だから、下手に話題に出すと底の浅さを露呈して逆効果、みたいな展開になりそうなんだよな」

「なるほど、たしかに一理あるわね」

 

 雪ノ下の賛同を得られて勢いに乗った八幡は。

 

「んじゃ、ついでにお前も一緒に読んでみたらどうだ。ちなみに俺の一押しは、なんと言ってもスラムダンクだな。たしかお前、坂の上の雲を『読破するまで止まらなくなる』って言ってたよな。これも翔陽戦ぐらいから止められなくなること請け合いだ。世界が終るまでに読み終えておけよ」

「ヒッキー、ちょっとどや顔が……」

「海老名さんのように妙な趣味嗜好を布教する意図はなさそうだけれど、いつになく饒舌ね。いいわ、貴方の挑発に乗ってあげましょう。由比ヶ浜さん、一緒に読むわよ」

 

 八幡としては雪ノ下の感想が知りたくて話を振ったのだが、いつの間にか巻き込まれている由比ヶ浜だった。

 とはいえ雪ノ下と一緒に読書会ができる上に読むのは漫画なので、由比ヶ浜にも否やはない。

 

「このリストの中から、小説は私が見繕っておいたわ。漫画は先程の四作と少年漫画一作でいいかしら?」

「ここから更に絞り込むってことか。まあ、一週間で全部読むのは厳しいわな」

「えっと、あたしが読み上げたのって三つだけど?」

「比企谷くんが何やらつぶやいていたでしょう。迷うぐらいなら二作とも選べば良いと思うのだけれど。一週間しかないので、十作ほどしか選べないのが残念ね」

 

 思わず聞き流してしまうところだったが、その数字は少し変ではないかと気づいた八幡が。

 

「なあ。一週間で十作って量的にどうなんだ?」

「もっと増やしたいのが本音なのだけれど。学業を疎かにするわけにもいかないし、仕方がないじゃない」

「いや、ちょっと待て。その基準はおかしいぞ。漫画だけでも文庫版で10巻と7巻と3巻と1巻だから、21冊か。スラムダンクが31冊だし、小説まで読む時間はないと思うんだが」

 

 言葉の意味が解らないと、ぽかんと目を見開いている雪ノ下から早々に目を逸らして。八幡は由比ヶ浜に助けを求める。

 

「あたしもだけど、たぶんとべっちも本とか読み慣れてないからさ。ヒッキーが言うとおり、漫画だけでギリギリだと思うよ?」

「そもそも普通の奴だと、一日に一冊の読書でも厳しいって話だぞ」

「そう。せっかく選んだのだけれど、残念ね。小説の六作品は、余裕があればという形にしておくわね」

 

 分かりやすく落ち込んでいる姿を見ると罪悪感が湧いてくるものの。高スペックならではの悩みごとだよなと、逆に自分が落ち込みたくなってきた八幡だった。

 

 

「あ、そういえばさ。ゆきのんが乗り気なのって、他にも理由があるよね?」

「なっ……そうね。戸部くんが先程、貴女の鋭さを褒めていたのだけれど。私も同感ね」

 

 部室内の微妙な雰囲気を解消しようと、ことさら元気な声で由比ヶ浜が話題を変えた。

 反射的に目を吊り上げて反論しかけたものの、すぐさま内心で白旗を揚げて。照れくささをごまかすように雪ノ下がぽつりとつぶやく。

 

「他の理由って、俺にはよく分からんけど、どういうことだ?」

「あたしにも、どんな理由なのかは分かんないけどさ。さっき言ってたよね、とべっちの告白は成功しそうにないって。可能性を高めるためにとべっちを鍛えるのは、ゆきのんらしいなって思うんだけどさ。でも、結果が駄目っぽいのに協力するのは、ちょっとらしくないなって。ヒッキーもそう思わない?」

「おー、たしかに。こいつって負けず嫌いさんだからな。失敗が見えてる奴に肩入れするって、どんな理由だ?」

 

 由比ヶ浜の説明を受けて、八幡が両腕を組んで考え込んでいる。雪ノ下が素直に答えるとは思えなかったからだ。

 

 いくら奉仕部の理念に沿っているとはいえ、協力にも限度がある。成功の見込みが少ない場合には依頼を見送って当然だ。それに負けず嫌いの雪ノ下が「結果が出ない」という前提で戸部の告白を応援するのも、言われてみれば解せない。

 

 そんなふうに八幡が頭を悩ませていると。

 机に肘をついて、両の拳の上にあごを乗せてにこにこと微笑んでくる由比ヶ浜に根負けして、雪ノ下が口を開いた。

 

「理由は二つあるわ。一つは、戸部くんのお友達が文化祭に来たでしょう。あの時の会話で良い刺激をもらったから、戸部くんのことも無下には扱いにくいのよ」

「あー、あの全国一位の人だよね。ゆきのんより勉強ができるって、あたしには想像がつかないや」

 

 由比ヶ浜が素直に称賛しているが、八幡は内心で仏頂面を浮かべていた。

 自分よりも優れた異性に惹かれる気持ちは理解できる。それでも「雪ノ下がどうしてそんなに簡単に」などと考えてしまい、八幡は面白くない。

 どんな相手であれ雪ノ下が一目惚れをするなどありえず、ゆえに恋愛感情などあるはずもないのだが。それには気づかない八幡だった。

 

「そういえば比企谷くんも、彼から刺激を受けたのでしょう。この間の中間試験で国語が学年二位になったのは、あの時の影響だと思ったのだけれど?」

「あー、まあ、葉山を抜けずに二位タイだったけどな。あいつ、テストができるって以上に地頭が良さそうだったし、性格も良さそうだったよな」

 

 どうしてこいつらの前で、あんな奴を褒め称えなければならないのか。目立った欠点が見えないのが余計に腹立たしい。さっき「戸部は一人で来るのか」と確認したのは、あいつと会えるのを期待したからだろう。だいたい彼って何だよと。

 そんなふうに世の不条理を憤る八幡だが、これらは単なる被害妄想にすぎない。

 

「もう一つの理由は、実は一色さんなのよ。テスト明けに由比ヶ浜さんと三人で話をした時に、『変わりたいと思って頑張ってる人は応援したくなる』と言っていたのだけれど。それに感化されたのかもしれないわね」

「ゆきのん、いろはちゃんのこと褒めてたもんね。生徒会役員にならないかって誘ったりさ」

「ええ。一色さんを本牧くんと並べて副会長に据えたら、組織として面白い形になりそうなのよね」

 

 文化祭でもない限り、現実世界にいる戸部の友人がこの世界にログインできるわけもなく。雪ノ下もあっさりと話題を変えたのに。それでも八幡のわだかまりは解けなかった。

 とはいえ気になる話が耳に届いたので、八幡は感情を押し殺して会話に加わる。

 

「お前、やっぱり会長選挙に立候補するつもりなのか?」

「まだ決めかねているのが正直なところね。届け出がなかったので、今週の金曜日まで期間が延期になったのだけれど。立候補が出るのは望み薄でしょうね」

「だからってさ。ゆきのんが引き受けなきゃいけないってわけじゃないじゃん」

 

 由比ヶ浜の主張に、首を縦に大きく動かして。とはいえ、雪ノ下にすがりつくような真似は冗談でも絶対にしたくなくて。何でもないふうを装って言葉を出す。

 

「生徒会長なんかになったら、奉仕部の活動もできなくなるだろうしな。生徒会という名の権力と一定の距離を置く組織って……あれ、そう考えるとなんか格好いいな。じゃねーや。そういう存在って貴重だと思うんだが?」

 

 つい古傷が疼きそうになったものの何とかこらえて、八幡は奉仕部の存在意義を強調する。

 どこまで八幡の思考を読み取ったのか。それをまるで探らせない、いたずらな笑みを浮かべながら雪ノ下が答える。

 

「詳しい話は、他に候補者が出なかった時のお楽しみね。今の段階でどうこう言っても始まらないと思うのだけれど。とはいえ、由比ヶ浜さんと比企谷くんに引き留められると、悪い気はしないわね」

 

 そう言われて、片や眼をうるうるさせて雪ノ下を凝視して、片や頬が熱いなとぽりぽりしながら窓の外の夕暮れを眺めている。

 先程の感情を思い返して「全国一位のやつに目移りしてたくせに」と理不尽な突っ込みをしようとしても。いらいらした気持ちはいつの間にか、八幡の中から消え失せていた。

 そんな二人を順に見据えて、そのまま雪ノ下が口を開く。

 

 

「では、そろそろ話をまとめましょうか。戸部くんの告白が上手くいくとは考えにくいのだけれど。本人に意欲が見られる間は、成功率を高めるために協力すること。具体的には海老名さんの好きなものに詳しくなってもらうこと。まずは課題図書として、漫画を五作品と余裕があれば小説を六作品、戸部くんに読ませること。他には何かあるかしら?」

 

 そう問われて考え込むことしばし。由比ヶ浜がはっと顔を上げてそのまま話し始めた。

 

「えっと、結局さ。とべっちって修学旅行で告白はするんだよね?」

「どうだろな。葉山は延期させたいような口ぶりだったが、戸部があれだけ前向きになってると難しそうだよな」

「戸部くんが告白することに、何か問題でもあるのかしら?」

 

 怪訝な表情を浮かべる雪ノ下を見て、根本的なところで食い違いがあったのだとようやく悟った。由比ヶ浜と眼で語り合って、先に八幡が口を開く。

 

「たぶんお前のことだから、告白して関係をはっきりさせれば良いとか考えてるんだろうけどな。あれって当事者だけじゃなくて周りの人間関係にも影響が出るぞ。うやむやに収められるなら、そのほうがいいと思うんだが」

「あたしは影響をもろに受けちゃう立場だから、ちょっと言いにくいんだけどさ。色々とぎくしゃくしちゃうと思うんだよね。大和くんや大岡くんとも、まだ微妙な感じが残ってるし。とべっちまで距離ができちゃうと、隼人くんでもフォローしきれないんじゃないかなって」

 

 二人の説明を受けて、雪ノ下が考え込んでいる。机の一点を凝視したまま、つぶやきが漏れた。

 

「そうね。そうならないように、姉さんは上手く立ち回っていたのよね。おそらく、由比ヶ浜さんも」

「うん、まあ、そうだね。告白の言葉を聞いちゃうと、どうしても関係って変わっちゃうからさ」

 

 少しだけ好奇心が疼いたが、会話の流れを優先して八幡が話を整理する。

 

「あれだな、ギリギリまで戸部の告白を回避できるように何か考えるしかねーな。そのためにも、課題を与えるのはいい手だと思うんだわ。それに専念している間は暴走とか防げるだろうしな」

「ただ、一時凌ぎにしかならないわね。本音を言えば、戸部くんの告白が失敗したあとの混乱を最小限に抑えられるように、その対策に全力を注ぐのが一番だと思うのだけれど」

「うん、まあ、そうだね。いざとなったら、あたしのほうで何とかするからさ。ゆきのんとヒッキーは、とべっちの課題をお願いね。あ、スラムダンクはあたしも読むから。実はさ、途中までは読んでたから知ってるんだ」

 

 話し始めは先程と同じ、ためらいがちの口調だったのに。由比ヶ浜が話をまとめてくれて、雪ノ下も八幡も見るからにほっとしている。

 場の空気を明るくしようとしたのか、はたまた興味を抑えられなくなったのか。八幡が軽い口調で話し始める。

 

「そういや、雪ノ下は告白されまくってたって誰かが言ってたけど、由比ヶ浜は告白されたことってないのか?」

「ちょ、ヒッキー。それ聞く?」

「由比ヶ浜さん。今さら比企谷くんにマナーを求めても手遅れよ」

「あ、いや、その……告白を避ける参考になるかと思ってな」

 

 嘘です。本当はすげー気になって聞いちゃいました。

 そんなふうに内心では土下座を敢行しながらも、表面的には必死に取りつくろう八幡だった。

 

「中学の頃とか、周りの友達はひょいひょい付き合っててさ。それ見てて、逆に身構えちゃったっていうか、そんなふうに軽く考えたくないなって思って、できるだけ避けるようにしてたのね。そしたら、避けるのに慣れちゃって。周りの関係を壊すのも嫌だし、まあいいやって。そんな感じ」

「私も、軽く考えたくないのは同感ね。とはいえ告白は避けるものではなく、斬り捨てるものだと思うのだけれど。斬り捨て続けていれば、向こうで勝手に避けてくれるようになるわよ?」

 

 それは違うんじゃないかなと思う八幡だったが、怖いので口には出さない。斬り捨てられないように気を付けようと身を引き締めながら頷いていると。

 

「ヒッキーはさ。前に嘘告白をされたって言ってたけど、他にはなかったの?」

「俺は、まあ、見りゃ分かるだろ。俺に告白するような酔狂なやつなんて、いるわけないと思うぞ」

「はあー。小町ちゃんに呆れられたら可哀想だから言わないでおくけど、ヒッキーももうちょっと、なんて言うかさ」

「自己評価の低さをどうにかして欲しいと、由比ヶ浜さんは言いたいのでしょう?」

「それそれ、自己評価。うん、そこまで低いのって、なんだかイヤだな」

 

 由比ヶ浜の意見には雪ノ下も異存がないようで、そろってじとっとした目を向けられた。

 そう言われてもなあと内心でぶつくさ言いながら、それでも八幡は律儀に返す。

 

「俺はお前らみたいに経験豊富じゃないからな。自信をつける機会に恵まれなかったんだわ」

「ちょ、経験豊富ってどういうことだし?」

「いや、だって、なあ。さすがにビッチとは思わねーけど、お前も戸部みたいに何人かと付き合ったりしたんだろ?」

「なんっ……もう、怒った。絶対に怒ったから。あのね、ヒッキー。よく聴いてね。あたしは処女だしっ。誰とも付き合ったことないし!」

「由比ヶ浜さん。私たちの年齢でヴァージンなのは珍しくないし、大声で主張すべきことでもないと思うのだけれど」

「だ、だってヒッキーがさ……」

「おう、なんかマジですまん。正気に戻ったわ」

「ちょ、一人だけ先に戻んなし!」

 

 

 ぎゃあぎゃあと騒がしい部室内には、お調子者であっても踏み入るのは躊躇するらしい。

 三人の詳しいやり取りは聞こえていないものの。この言い争いが落ち着くまでは廊下で待つべと、壁によりかかってあくびをこらえる戸部だった。




日付が変わって、今日は八幡の誕生日ですね。
色んな作品で賑わいますように。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
改行や文章の順番を調整し、分かりにくい部分に説明を加え、細かな表現を修正しました。(8/11,9/1,10/9,12/17)


おまけ:戸部の課題図書
 竹宮惠子「風と木の詩」
 萩尾望都「ポーの一族」「トーマの心臓」
 山岸涼子「日出処の天子」
 上田秋成「菊花の約(雨月物語)」
 三島由紀夫「仮面の告白」
 森茉莉「恋人たちの森」
 オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」
 トーマス・マン「ヴェニスに死す」
 E.M.フォースター「モーリス」
 井上雄彦「スラムダンク」
漫画はどれもお薦め。小説は「今読むと古くさいかも」「この作者なら他の作品のほうが」といった理由で少し微妙なものもありますが(BL要素が必須かつ雪ノ下が選びそうな面々という基準で選考したので)、読んで損はないと思います。作中で言及した澁澤龍彦も入れたかったのですが、BLに特化した作品を思いつけず断念しました。


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03.なまえを呼んではいけないと彼は彼女を警戒する。

前回までのあらすじ。

 クラスで足止めを受けていた由比ヶ浜が部室に入ると、戸部が待っていた。事情を説明されて、危惧していた問題が動いたのだと理解した由比ヶ浜は、「三人で相談する」と言って戸部を部活に送り出した。

 戸部の応援に乗り気な雪ノ下の意図を確認して、告白が望み薄との認識を共有した上で三人は話を進める。
 相手が好きなものに詳しくなると、関係を深めやすいのではないか。雪ノ下の提案を受けて、海老名の好む古典小説や漫画を戸部に読ませることになった。
 平行して、告白によって周囲に影響が出ないように可能なら回避させること。告白が失敗した時の混乱を抑えるべく対策を立てること。そうした方針に落ち着いた。



 本日最後の授業が終わると、二年F組の生徒たちはいっせいに席から立ち上がった。そのまま仲の良い面々で集まって、この後に予定されている修学旅行の班決めの話で持ちきりになっている。

 

 そんなクラスメイトの動きもどこ吹く風と、一人だけ席に座ったまま頬杖をついて。比企谷八幡は昨日のことを思い出していた。部活が終わる直前の、戸部翔を交えたやり取りを。

 

『これ全部読めって、マジ雪ノ下さんスパルタだわー』

 

 戸部の反応を見るに、小説はもちろん漫画ですらも、すべてを読み終えるのは難しそうだ。そう思った三人だったが、連れ立って移動した先の図書室で、戸部は漫画のみならず小説も含めた全作品を借りていた。

 参考書を買い集めただけで勉強した気になって、結局は半分も読まないまま無駄にするタイプだなと。そう考えながらも八幡は茶化す気が起きなかったし、それはあの二人も同じだろう。

 

 この世界では貸し出し中とか返却待ちといった事態が起きないので、他の生徒に気兼ねなく本を借りることができる。データとして扱えば書籍がかさばることもないので、いくらでも持ち運びができる。

 なのに戸部は、雪ノ下が指定した作品はすべて借りた一方で、腐女子作成のおすすめリストに載っている全作品を借りようとはしなかった。

 

 その行為に深い意味はなかったのだろう。

 だが戸部の選択を見て、三人の気持ちが少しだけ前向きになったのも確かだった。読む量に怖じ気づいていても、すべてを読み切るのは無理だと分かっていても、それでもやるだけはやってみようという姿勢が伝わってきたからだ。

 

『私たちは一作品だけで良かったのだけれど』

 

 戸部の行動に触発されたのか、二人もまた漫画を五作すべて借りていた。小説を借りなかったのは、部長様は既読だから。もう一人は、それ以上は読めないと自己判断した結果だろう。

 教室の奥に集まっているトップカーストの中に、由比ヶ浜結衣の姿をちらりと確認して。八幡の頬がすこし緩んだ。

 

『今日は優美子が離してくれなさそうだし、明日一緒に読もっか』

 

 それに危うく巻き込まれそうになったものの冷静に(と思っているのは当人だけだったが)お断りして、八幡もこっそり小説を借りてみた。重ねてお誘いされなかったのは、まことに遺憾ながらその行為がバレていたからだろう。

 

『てか、図書室に漫画がぜんぶあるとは思わなかったわ。よく見たらラノベや少年漫画も多いし、いくら卒業生が寄贈したって言っても、ちょっと偏り過ぎじゃねーか?』

 

 照れ隠しもあってそう口にしたら、急に苦い顔になって視線を逸らした女子生徒が一人。

 あの人の財力があれば、そして作品の選考に口添えしたのがあの人なら納得だと。二人の顔を思い浮かべた八幡が苦笑をもらすと、それはすぐに由比ヶ浜にも伝わった。誰とも知れない卒業生に、騒々しく感謝の言葉を告げる戸部の姿が引き金になって、ついには部長様にも笑いが移って……。

 

 にやにやと思い出し笑いをしていた八幡の肩を、誰かがちょんちょんとつついた。

 

 

「あのね、大和くんと大岡くんが呼んでるんだけど。あ、この二人はテニス部の繋がりでね。職場見学でも一緒だったんだ」

 

 席で待っていれば戸塚彩加が来てくれるだろうと思っていたからか。あるいは夢うつつな気分が続いているからか。八幡はめずらしく穏やかな気分で、友人の登場を受け入れることができた。

 

「あ、じゃあ、同じ班になるんだよな。あー、えっと、友達がいなかったから、こういう時になんて言えばいいのか分からんけど。よろしく、で良いのか?」

 

 戸塚を含めた三人にぷっと吹き出されたものの、悪い印象は受けなかった。順番に自己紹介をされたので慌てて名乗ると、また苦笑されて。ばつの悪い思いをしながら立ち上がる八幡に、二人が語りかける。

 

「あのさ。テニス勝負の時に戸塚に、『部活に参加してくれってお願いしてみろ』って言ってくれたよね?」

「あの時は俺たちも、なんて言うかきっかけが欲しかったって感じでさ。だから今、戸塚と一緒に男テニで盛り上がれてるのって、あの言葉のおかげだって思っててさ」

「あー、話は分かった。けどな、もう半年以上も前の話だし、俺の助言なんて微々たるもんだぞ。戸塚の言葉を聞いたから、お前らも部活を続けようって思ったんだろ。だから結論は『戸塚は尊い』で良いんじゃね?」

 

 話の趣旨が判明すると同時に、八幡はそう言って二人の言葉を遮った。すぐ横で戸塚が「ね、言ってた通りでしょ?」と得意げに胸を張っているのが気になるものの。深くは考えないようにして話を続けた。

 

「んで、大和と大岡は……あっちか。葉山と戸部もいるけど、女子と少し離れてるのは珍しいな。何の用か知らんけど、さっさと行ってくるわ」

「あ、ぼくたちも一緒にって言ってたから、じゃあ行こっか」

 

 その言葉に頷くと、すぐに戸塚が歩き始めたので後を追った。残りの二人も続いている。

 程なくして、クラスの最後列やや中央寄りに陣取っていた男子のトップカーストの一団と、顔を合わせる形になった。

 

 

「八幡も連れて来たけど、えっと……」

「おー、来てくれて助かった。もうちょい近くに。あ、大和から話があるから、隼人くんと戸部も、もうちょいこっちにさ」

「俺が話すより大岡のほうが……まあいいか。できれば二人には、隼人くんと戸部と一緒の班になって欲しいんだけど」

 

 大岡が軽い口調で一同を手招きして、周囲に声が届かない状況を作り出した上で、大和が端的に要望を口にした。

 

「え、それって、修学旅行は俺っちと一緒に回らないってことだべ?」

「戸部、そういう意味じゃないぞ。二人がこんなことを言い出すのは俺も意外だったけど、気持ちを汲んでやれよ。ヒキタニくんと戸塚に、協力してもらうんだろ?」

「あ、あー、ああ、そういう……って大和も大岡も、なんかすげー考えてくれててやべーっしょ!」

 

 二人の意図を葉山隼人が解説すると、戸部はぽかんと開けていた口を忙しなく動かしてまくし立てた。

 呼ばれた理由を把握して、納得顔で頷きあっている八幡と戸塚の背後に向けて。まじめな顔のまま、大岡と大和が順に話しかける。

 

「あのな。詳しいことは後でちゃんと説明するから、今回の修学旅行は俺と大和と一緒に回って欲しいんだけど」

「戸部の未来がかかってる」

 

 そう言われたテニス部の二人も事情を察知したのか、眼を細めて「それじゃあ仕方ないね」と協力姿勢を見せていた。

 あれだけ派手に戸部が絶賛して回っていた以上、よほど鈍感でもない限りは勘付くだろう。お調子者の放言だと、てんで本気にしていなかった過去の自分を棚に上げて、八幡は頷きを深める。

 

「じゃあ、三泊四日を戸部と戸塚とヒキタニくんの四人で過ごす形だね。よろしく頼むよ」

「あ、やっぱり血が飛んで来そうだし、俺らはそっちの……ってわけにはいかねーよなぁ。はあ、どうしてこうなった?」

「でもさ。千葉村でもこの四人だったし、八幡も楽しかったって言ってたよね?」

「あの時のヒキタニくんマジ、スゴタニくんだったべ。大和と大岡にもテニス部の二人にもマジ感謝っしょ!」

 

 

 そんな風に騒いでいると、声こそ聞こえていないものの雰囲気が伝わったのか。首をひょこんと伸ばしながら、由比ヶ浜が近づいてきた。

 

「さいちゃんとヒッキーまで加わって、どしたの?」

「あー、えっと。俺がちょっと戸塚の前で、っつーか見知らぬこの二人の前で挙動不審に陥ってな。それを見てたこいつらが俺を憐れんで、班を替わってやるって言ってくれたんで、嘆いてたって感じか?」

「ふーん、そっか。って、え、嘆いてたって?」

「いや、だって葉山と一緒とか、誰かが暴走する未来しか見えねーだろ?」

 

 慌てて八幡が音声をオンにして、話しながら適当な理由をでっち上げると納得しかけたものの。最後の言葉が気になったらしく、問い返されてしまった。

 ここで彼女に気づかれるわけにはいかない。そんな緊張感を胸に、ふだんは「さん」づけで呼んでいる腐女子を、名前を呼んではいけない人扱いしたものの。

 

「聞ーいーたーぞー。ぶはっ、修学旅行の班分けではやはちが実現するだけでも大歓喜なのに安定のとつはちに加えて最近の界隈で注目度が急上昇中のとべはちまで実現するなんてこれってもう経緯もまさにヘタレ受けの王道だし絶対に見逃せない取り組みの連続じゃんって言っても夜中に男子部屋に侵入するわけにもいかないしこのままだと一番おいしい場面を見逃しちゃうじゃない私はどうすれば良いのよってこうなったら今すぐ秋葉原に行って怪しげな盗撮グッズをダース単位で仕入れて愚腐っ旅先の開放感でただれにただれた四人の関係はついに抜き差しならぬ抜き挿しな状況に追い込まれ挿されてさされてサされる愚腐ぉぅっなんて絵になる姿なの恐るべしはやはちとつはちとべはち三本同時挿しヘタレ受けの真の姿がついに明らかに愚腐ぅ我が生涯に一片の悔い無し!」

 

 そう言い終えるや否やばたんと仰向けに倒れて、顔面を赤に染めながらぴくぴくと痙攣を起こしつつも満面の笑みを浮かべている腐女子。

 

 教室中がしんと静まり返る中で、八幡は己の失敗をかみしめていた。当人の名前を避けるのに必死で、葉山の名前を口に出す危険性に気づけなかった自分のうかつさを呪う。

 

 一つ大きくため息をついて。葉山はクラス委員の名前を呼ぶと、LHRを始めるよう要請した。

 

 

***

 

 

 班分けはつつがなく終わり、八幡は男女のトップカーストにまじって京都での四日間を過ごすことになった。

 一日目はクラス全体で、二日目は各班で、三日目は完全に自由行動となる。つまり二日間さえ我慢すればお役御免だと、三日目は鴨川べりでぼーっと過ごすのもいいなと、そんな空想にふけっていると。

 

「じゃあ二日目の予定はあたしたちで考えとくけど、希望があったら早めに言ってね」

 

 由比ヶ浜が早めの解散を促すような物言いなのはめずらしいなと、そこまで考えて。八幡は先程の惨劇を思い出してしまった。今日はさっさと葉山と距離を取ったほうが良いだろう。

 

「ま、その辺は任せるわ。んじゃお先に」

 

 そう言って席を立つと、あの戸部ですらも「うぃーっす」と言いながら片手を挙げる程度で、気安く話しかけては来ない。腐女子のネタの中にしっかり入っていたのを気にしているのだろう。

 お互い行動に困るよなと、内心で戸部に話しかけながら苦笑いして。八幡は一同に背中を向けた。

 

 窓際から教室の出口に向かう途中で、男子四人組に一声かける。

 

「あー、えっと、班を替わってくれて助かった……のかね俺。よけいな災難を呼び込んだ気もするんだが、まあ、気を遣わせてすまんかった」

「困った時はお互いさまって感じでさ。隼人くんほどじゃないけど、俺らもヒキタニくんが頼りになるって知ってるから、何かあったら頼むわー」

「なんといっても、はやはちは至高だからな」

「おい、お前ら……」

 

 クラスの他の連中に、何より当事者に勘ぐられないように、八幡は由比ヶ浜との会話ででっち上げた理由を踏襲したのだが。

 こいつら、戸部をからかう時もこんなノリなんだろうなと思いながら。言葉ではなく眼で伝えられたものを、大岡と大和から託された気持ちを、八幡はこっそりと受け取った。

 

 

***

 

 

 急ぐ理由もなかったので、八幡は自販機でエネルギーを補給してからのそのそと部室に向かった。旅先で発作とか起こされたら困るよなと、すっかり戸部の依頼を忘れて腐女子対策にかまけていると。

 

「ヒッキー、そこで待ってて」

「ん?」

 

 聞き慣れた声に従って立ち止まった八幡がゆっくりと振り返ると、廊下の先には由比ヶ浜と並んでもう一人、女子生徒の姿が目についた。

 特に急ぐでもなく、ぽつぽつと話しながら近づいてくる二人を、首をひねりながら眺める。

 

「じゃあ、一緒に行こっか」

 

 上機嫌でそんなことを告げられて、口元を緩めながらも。八幡は気恥ずかしい気持ちが先に立って、由比ヶ浜の向こうにいる川崎沙希の顔をまともに見られなかった。

 考えてみれば、こんなに近くで接するのは文化祭が終わってからは初めてだ。さっきのLHRでは八幡とはちょうど対角線の位置で、何やら不機嫌そうに外を眺めていたのであまり意識せずに済んだけれども。

 

 文化祭の二日目に自分の口から出た言葉を思い出しそうになるたびに、意識の中でそれを黒塗りする作業を何度かこなして。八幡は部室までの道のりを何とか乗りきった。

 

 

「川崎さんとは、なんだかずいぶん久しぶりな気がするわね。塾のほうは……」

 

 そんなふうに雪ノ下雪乃が雑談を持ちかけている姿を、二人の部員はなごやかに眺めていた。付き合いが浅い相手に対しては、今でもつっけんどんではあるものの。仲を深めた相手に対してはこんな感じだ。

 二人がこの部室で初めて相まみえた時とは雲泥の差だなと、そんなことを考えていると。

 

「あのね、旅行に行く前にサキサキともうちょっと仲よくなっておきたいなって思って。せっかくだし部室に来てもらおうって思って連れてきたんだけど。別によかった、よね?」

 

 由比ヶ浜が椅子ごとこちらに移動して、こしょっと話しかけて来た。

 

「いや、あのな。それは別に良いんだが、お前な。座った姿勢のまま椅子を両手で持って移動してくるって、まさかボンドでも塗られてたのか。その手の嫌がらせには俺も一家言あるからな。仕返しするなら良い方法を……」

 

 動きに見惚れてしまったのをごまかそうと、軽口をたたいてみたら。心なしか由比ヶ浜の上半身を遠く感じる。これはいつものやつが来るなと身構えていると。

 

「なるほど、来るのが遅かったのはアリバイを確保するためだったのね。由比ヶ浜さん、そこの男はいったん退室させるから、その間にスカートを脱いで着替えれば良いわ。それにしても、犯行を自白するだなんて、エドガ谷くんにしてはお粗末だったわね」

 

 ほら来た、と思いながら反射的に返事を口にする。

 

「ああ、うん。お前が昨日、何を読んだか分かったから、まあ落ち着け。デュパンのつもりなのか明智小五郎なのかは判別できないけどな。つーか、別に何も事件はないって分かってるだろ?」

「イメージとしてはモルグ街だったのだけれど。まあいいわ。由比ヶ浜さんが川崎さんを連れて来たのは、グループ四人のなかで一人だけ孤立しないようにという意図と、それから事情を説明しておくためよね?」

 

 いつもの応酬ができて満足したのか、雪ノ下が一気に核心に触れた。

 あっさりと見破られたことに笑みをいっそう深くして、由比ヶ浜が答える。

 

「だって、せっかく一緒の班だしさ。優美子と、こう、合わないだろうなってのは分かるんだけど、あたしも姫菜もサキサキともっと色んな話をしたいなって思って。昨日は姫菜と喋ってたんだよね?」

「まあ、二割ぐらいは変な勧誘だったけどさ。あんたたちの気持ちは、その、伝わってるからさ。あんまり気にしないでいいよ。で、事情って?」

 

 そう問われて、由比ヶ浜と雪ノ下がかわるがわる説明している。

 川崎がこちらに顔を向けないので、八幡も無理に口を挟むことなく二人に任せた。

 

 

「ふーん。そんなことになってたんだね。でもさ、海老名はたぶん、無理じゃないかな」

「ええ。だから戸部くんを鍛えつつ、告白よりも前に現実を突きつけられればベストだと思うのだけれど」

「あー、そういえば小町が言ってたんだがな。お前もけっこう告白されてたって聞いたんだが、なんか角が立たないような断り方ってないのかね?」

 

 部長様がまたぞろ過激なことを口にし始めたので、八幡は妹からの情報を振ってみたのだが。

 

「ちょ、ヒッキーそれ聞く?」

「昨日の今日でその発言は、さすがにどうかと思うのだけれど」

「……はあ。いいよ、由比ヶ浜、雪ノ下。あたしは見知らぬ相手に告白されるのが嫌だったからさ。空手の型を披露する直前みたいな心境でね。心を落ち着けて、でもすぐに動けるように身構えるっていうかさ。そんな感じで備えてたら、無遠慮に呼び出されるのは目に見えて減ったよ」

 

 こちらをいっさい見ることなく、雪ノ下と由比ヶ浜に交互に顔を向けながら話す川崎に、ほーんと頷きながら。八幡は思考を進める。

 あらかじめ備えるか斬って捨てるかの違いはあれども、怖さをにじませるという意味では雪ノ下と同型だろう。だが、それをするためには。

 

「海老名さんに話を通して、告白の隙を作らせないってわけにはいかないよな?」

「あたしは、どっちかって言われたら姫菜の味方だけどさ。とべっちの気持ちを勝手に伝えるのは、ちょっとね」

「とはいえ海老名さんなら、ある程度は察しているのではないかしら?」

「今日のあの反応を見てると、海老名もストレスがたまってるのかもね。あたしの印象だから、本当のところは分かんないけどさ」

 

 川崎の発言に首を傾げる雪ノ下に、由比ヶ浜がクラスでの一幕を伝える。

 言われるまでは気づかなかったが、たしかにあれはストレスからの過剰反応と見るべきかもしれないなと八幡も思う。

 

「姫菜のフォローもちゃんと考えておかないとだね。そんな感じで、旅行中も色々あるかもだけどさ。できればサキサキも一緒に」

「いや、それはダメだろ」

 

 由比ヶ浜が協力を要請しようとしたのを耳にして、八幡は反射的にその言葉を遮った。

 女子生徒三人の視線が集まる環境でも物怖じすることなく、落ち着いて理由を述べる。

 

「俺とか雪ノ下が動くのは、まあ奉仕部に依頼されたからって言い訳があるけどな。川崎まで巻き込んだら海老名さん包囲網みたいになるっつーか、なんつーか。できれば中立ぐらいの立場で止めておいたほうが良いと思うんだわ。ぶっちゃけ戸部の告白は成功率が低いし、なのに裏で海老名さんの味方を削っていくような動きをしてたら、お前らの関係にまで」

「うん、ありがとヒッキー。ごめんサキサキ、さっき言いかけたの、無しで。ゆきのんとヒッキーも巻き込んじゃってごめんだけど、そこは勘弁して欲しいな」

 

 今度は由比ヶ浜が八幡にみなまで言わせず、自分で自分の発言の後始末をする。

 そして、自分の責任を他人に負わせることに難色を示す生徒がもう一人。

 

「そもそも戸部くんの依頼を受けたのは私なのだから、そこまで由比ヶ浜さんが責任を引き受けることはないわ。それで、少し話を戻したいのだけれど。海老名さんに事情を伝えるのは無しと考えて良いのよね?」

「だね。その、とべっちに悪いってのもだしさ。あたしが姫菜に黙ってっていうのとおんなじで、ヒッキーもとべっちに黙って、バレたら怒られそうなことをしちゃうわけじゃん。そういうの、ヤだなって」

 

 部員二人がお互いのことを思い遣っている姿に、思わず雪ノ下からほほえみがこぼれる。やはりこの二人はお似合いだなと、頭の片隅で引っかかる想いに気づかぬようにしている傍らでは。

 胸の奥をちくっと刺す痛みを川崎は感じていた。

 

 修学旅行の班が決まって、男子四人を含めた総勢八人で行き先をあれこれと話し合っていた時も。そしてこの部室に来てからも、川崎は八幡と視線を合わせられずにいた。

 気を抜けばすぐにでも、文化祭の時に言われたセリフが頭の中で蘇る。

 

 あれは単なる言葉の綾なのだからと、そう思おうとしても。見覚えのない相手に呼び出されて何度となく告げられた言葉とは、まるで違った響きを感じる。

 思い出す回数に比例するかのように、その響きは特別なおもむきをたたえ始めた。もうあれから一月半、もうすぐ二ヶ月が経つというのに。鈍いにも程があると川崎は自嘲する。

 

 それにしても。ようやく視線を向けられたと思ったら、聞かされたのは由比ヶ浜を案じる発言なのだから、やってられない。

 そこに滑稽さを認めて、川崎は二人を眺める雪ノ下を視界に捉えて、ぷっと吹き出した。それに気づいてこちらを見る雪ノ下に、川崎は表情を変えずに顔を向けた。

 きっと、上手く笑えている。川崎はそう思った。

 

 

「んじゃ、海老名さん以外の第三者が現実を突きつけるしかないかもな。前もって話を通すのは無理でも、海老名さんなら状況を把握して、アドリブで上手く処理してくれるんじゃね?」

「うーん、でもさ。ふつうに歩いてる時にはそんな話にならないし、かといって告白の現場に立ち入るのも違うんじゃないかって思うしさ。男子だけの時にとべっちを説得するのも、たぶん無理だよね?」

「あれだけ戸部が乗り気だとなぁ。葉山も告白を延期させたがってたけど、突っ走るやつって聞く耳を持たないからな」

 

 そんなふうに相談を続けている二人に向けて、川崎が口を開く。

 

「じゃあ、あたしは協力しないけどさ。第三者としてあんたらに言っておきたいのは、優先順位を間違えないようにってことだね。当事者とか状況とか、色んなものに配慮してたら何もできなくなっちゃうしさ。まあ、特に()()()()は、その辺りの見極めが得意そうだから、心配はしてないけどね」

 

 八幡をなるべく見ないように、あごでしゃくるようにして言及を済ませた川崎がそう言い終えると。

 

「見極めた後の行動に迷いがないのが、()()()()の困ったところなのよね」

「で、でもさ。()()()()心配は今は考えなくていいんじゃないかな。あとね、もし告白が避けられなくても、関係修復はあたしが頑張るからさ。ヒッキーも、あんまり思い詰めないようにね」

「あー、まあ、いちおう考慮しとく」

 

 言質を与えないように、八幡はごまかしの返事を口にした。

 今までのやり取りで明らかになったように、同じ奉仕部の一員でも三人はそれぞれ立場が違う。由比ヶ浜が一番大変な立ち位置なのは確実だ。俺も同じクラスである上に戸部とはそれなりの付き合いがあるし、大和と大岡からも気持ちを託されている。雪ノ下はクラスは別だが、依頼を受けた自負もあるだろう。

 

 やはり、見極めるべき時と場合を、見逃すわけにはいかない。

 川崎は良いことを言ってくれたなと考えつつも、それでも注意しておくべきことを思い出した八幡は。

 

「そういや小町が言ってたけどな。お前、大志に頼まれて小町に時々『お姉ちゃん』呼びさせてるんだって?」

「あんた、何言ってんだい。小町が勝手にそう呼んでるだけで、大志とは関係ないからさ。訂正してくんない?」

 

 先程までは目も合わせられなかったのに、妹と弟が理由なら睨み合いも辞さない両者だった。

 ぼそっと、二人には聞こえないぐらいの小さな声が漏れる。

 

「小町ちゃん、サキサキに名前呼び捨てにさせてるんだ……」

 

 そして、この状況をどう収拾したものかと頭を悩ませる雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 川崎には何とか円満にお帰り頂いて、三人はお茶を淹れなおして寛いでいた。

 

「そういえば、さっきお前がネタにしてたけど。漫画、読んだんだな」

「エドガーとアラン、そしてポーの一族ね。少女漫画の四作には、ひととおり目を通したのだけれど。たしかに名作ぞろいだったわ。由比ヶ浜さんは、昨日は読む時間がないと言っていたけれど。古代史の知識があるほうが楽しめると思うので、日出処は私か海老名さんがいる時に一緒に読むのが良いと思うわ」

 

 その言葉に「うん」と嬉しそうに頷いている由比ヶ浜をちらりと見て。今まで読書は一人でするものだと思い込んでいた八幡は考えを改める。

 由比ヶ浜が机に座って本を広げている背後で、雪ノ下と並んであれこれと教えている自分を想像してしまい。これだと由比ヶ浜に嫌がられそうだなと、苦笑しながら口を開いた。

 

「あれ読んでると、続けて梅原さんの本とか引っ張り出したくなるもんな。そういや、あとの三作は?」

「少女漫画らしい、といえば語弊があると思うのだけれど。むしろ、いわゆる『少女漫画』の原型を作ったと、そう解釈すべきなのかもしれないわね。どれも内容が濃密で面白かったのだけれど……」

 

 そのまま雪ノ下が長口上を続けている。未読の由比ヶ浜に配慮してはいるものの、作品を堪能してくれたのがよく分かる物言いだった。

 自分が好きな作品について、こうして語ってもらえるのは嬉しいもんだなと思いながら。八幡は飽きることなく雪ノ下の感想を聞き続けている。

 そして由比ヶ浜も、雪ノ下が面白いと感じたその気持ちに触れられるのが嬉しくて。やはり飽きることなく耳を傾けている。

 

 

「それはそうと、一つ気になっていたのだけれど」

 

 だから雪ノ下がそう口にした時に、二人はそろって首を傾げてしまった。

 雪ノ下の意図を予測することも身構えることもなく、説明を待っていると。

 

「比企谷くんは昨日『ポーよりもトーマを推す』と言っていたじゃない。その理由を考えていたのだけれど。読んでいて、ここのセリフが引っかかったのよ。文庫版の168ページなのだけれど」

 

 雪ノ下はそう言いながら作品を広げると、該当の箇所を読み上げた。

 

『はためには、たいそうよくやってるように見えるだろう。その実、なかがからっぽなんて……見ぬいたの、きみぐらいなもんさね』

 

 そして続けて、こう質問の言葉を口にする。

 

「貴方はこの場面で、誰を思い浮かべるのかしら?」

 

 実のところ、雪ノ下は軽い気持ちで問いかけたに過ぎない。

 けれども問われた八幡は、瞬間的に一人の姿を思い浮かべてしまった。

 

 彼女に告げられた言葉が脳裏に蘇る。

 

『ずっと、葉山先輩のことが分かんないな〜って思ってたんですよ。何でもそつなくこなして、感情を乱すようなこともなくて。でもよく見ると、誰とも一定以上の距離を保っていて。もしかしたら、中身のない人なのかなって、そんな事を思ったりもして』

 

 葉山の中身が空っぽなのか否かは、八幡には判らないし特に興味もない。けれど、もしもそうだったとして。それを見抜けるあの後輩の洞察力が、八幡には恐ろしかった。いや、違う。それを恐ろしいと思わせないことが恐ろしいと、あの時に八幡は思ったのだった。

 

「まあ、あいつじゃね。本当に中が空っぽなのかは判らんけど、お前みたいに付き合いが長いわけじゃないからな」

「私も、お互いに関与しない時間が長かったから。今となっては貴方とさほど変わらないと思うわ。でも、意外ね。貴方なら、見ぬいた側に興味を示すのではないかと思っていたのだけれど」

「いや、そう言われてもあれだぞ。そんな簡単に他人の内面を見ぬけるような奴が、そこらへんにいるわけないだろ?」

 

 そう反論してはみたものの。言いながら反例がわんさと浮かんできて、八幡は空想の手で頭を抱えた。

 

「少なくとも、私と貴方と由比ヶ浜さんと。海老名さんと、それから三浦さんも見ぬくときはあっさり見ぬくと思うわ。それと葉山くんも、見ぬく側にも立てるでしょうね」

「まあ、そうだな。さっき反論しておいてすぐに撤回するのも情けねーけど、俺もそう思うわ」

「えっと、ゆきのんの言いたいことがよくわかんないんだけど。向き不向きって言うのかな、優美子が得意な相手と、あたしが得意な相手は違うと思うんだけど?」

 

 一定の間隔で首を左右にゆっくりと動かしながら、ぽかんとした顔で由比ヶ浜が会話に加わった。

 対照的に首を縦に一つ動かして。鋭いまなざしを軽く緩めて、雪ノ下が話を続ける。

 

「城廻先輩も洞察力には長けていると思うのだけれど。あの人は短所よりも長所を見ようとするから、他人の空虚さには気づきにくい気がするわね。たしかに由比ヶ浜さんが言う通り、見ぬけると言っても相性があるのよね」

「それも何となく分かるけどな。結局お前は何が言いたいんだ?」

 

 そう問われた雪ノ下は、今度ははっきりと微笑んで。そのまま口を開く。

 

「すこし、奉仕部のことを考えていたのよ。もしも他に部員を入れるとすれば、由比ヶ浜さんや比企谷くんのように、この手のことを見ぬける人じゃないと難しい気がするのよね。それで」

「ゆきのん!」

「それって、会長選挙がらみの話か?」

 

 由比ヶ浜が思わず言葉を遮り、八幡がストレートに指摘する。

 ふるふると首を横に振って、雪ノ下は表情を変えずにそれに答える。

 

「その話は、立候補の締め切りが過ぎてからのお楽しみだと言ったでしょう。でも、言い方が悪かったわね。もしも四人目の部員を入れるとすれば、という話よ」

「もう。ゆきのん、ビックリさせないでよ」

 

 止めていた息を吐き出している八幡をちらりと確認して。言葉とは裏腹に再び険しい表情になって、雪ノ下が話を続ける。

 

「実現の可能性は低いのだけれど。もしも部員を補充できるなら、一色さんが良いのではないかと思ったのよ」

「いっ、げほっ。一色が奉仕部とか、なんか逆じゃね。奉仕される側が合ってる気がするんだが?」

「うーん、言われてみたらいろはちゃんって、奉仕部でもやって行けそうだよね。サッカー部のマネージャーがあるから無理だと思うけどさ。さっきの中身を見ぬくって話も、いろはちゃんならできそうだし」

 

 部員二人の反応を確認して、ようやく雪ノ下の顔から険が取れた。咳き込んでいる八幡を楽しそうに眺めて、そのまま言葉を継ぐ。

 

「昨日、生徒会役員に一色さんが加わったら、という話をしたでしょう。あれから少し考えたのだけれど。生徒会に取られるくらいなら奉仕部で強奪……奉仕部に迎え入れるほうが、よほど学校のためになると思ったのよ」

「まあ今さらだけど、ちょっと言い方な。どっちにしろ、サッカー部に葉山がいる以上は他には行かないんじゃね?」

 

 八幡が常識的な反応を返したものの、今度は由比ヶ浜が身を乗り出してきた。

 

「でもさ、こういうもしもって、考えてみると面白いね。もしさ、いろはちゃんがあたしたちと同い年でさ。あ、でも隼人くんがいたらダメか。でも優美子と衝突する理由がなかったら、同じグループになってたかもなって。ゆきのんも国際教養科じゃなかったら絶対に同じグループになりたいけど、今みたいに奉仕部で集まれてるし……あれ、ちょっと頭が痛くなって来たかも?」

 

 仮定に仮定を重ねて考察していた由比ヶ浜の頭から、ぶすぶすと煙が出ているような錯覚に陥った。とはいえ部室内の雰囲気がふだんどおりに戻ったことに安堵していた八幡は、大して気に留めなかった。きっとお優しい部長様が介抱してくれるだろう。

 

「何だか変な話になってしまったわね。由比ヶ浜さん、今の話で作品にマイナスのイメージを持たれると申し訳ないので、もう一つ面白かった部分を引用しようと思うのだけれど。作中の人物がヘルマン・ヘッセをこう論じているわ」

 

 手で優しく由比ヶ浜の髪を梳きながら。雪ノ下はそう言って作品を開き、該当箇所を読み上げる。

 

『詩人になりたい。さもなくば生きていたくないとヘッセはいったが、小説家として名をなして、しつこく八十五歳まで生きた』

 

 そこで言葉を切ってぱたんと漫画を閉じると、いたずらっぽい口調で話を続ける。

 

「何だか、どこかの誰かさんが書きそうな文章だと思わないかしら?」

「あ、それ思った!」

 

 二人そろってじろっとした眼を向けられた八幡は、明後日の方向を向くことで応える。

 

「比企谷くんや材木座くんの病気は、古今東西万国共通ということなのかしら?」

「中二って、海外にもいたんだねー」

「お前らな……。まあ、あれだ。要は俺が世界基準だってことだよな」

 

 その言葉に対して雪ノ下と由比ヶ浜から続けざまにツッコミが入り、部室は和気藹々とした雰囲気に包まれる。

 

 

 そして、それが落ち着いた頃に由比ヶ浜が。

 

「あ、忘れてた。あのさ、修学旅行の三日目って自由行動じゃん。ゆきのんはJ組の人たちと一緒にどっか行くの?」

「いえ。せっかく京都に行くのだし、一人でゆっくり回ろうかと思っていたのだけれど」

「やっぱ京都は一人旅だよな。俺も池田屋跡とか一乗寺下り松とか、色々と捨てがたくて迷ってるんだよなぁ」

「え、ちょ、ヒッキーって一人で回るつもり?」

「いや、だってな。どんな理由でここを見たいとか、説明するの面倒だぞ」

 

 そう言いつつも、怒られるか呆れられるかの二択だろうなと予測していると、意外にも見慣れた反応が返ってきた。眼をきらーんと輝かせて、天然のあざと可愛さを周囲にまき散らす妹のような反応が。

 

「ヒッキーの理由って、だいたいは歴史関連だよね。じゃあさ、ゆきのんなら説明しなくても通じるよね?」

「はあ……仕方ないわね。由比ヶ浜さんへの説明は私が引き受けるわ」

「なあ、それって……」

「さいちゃんとかサキサキがどうなるかだけどさ。どっちにしても、三日目は一緒に回ろうね!」

 

 首尾よく二人ともを巻き込んで、由比ヶ浜は満面の笑みを浮かべている。

 それに不承不承ながら頷くそぶりを見せつつも。雪ノ下も八幡も、由比ヶ浜と同じ表情を浮かべていた。




次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
誤字を一つ修正しました。(8/16)
細かな表現を修正しました。(9/1,12/17)


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04.ひさしぶりの面々に見送られて彼は旅に出る。

前回までのあらすじ。

 修学旅行の班分けが行われて、八幡は葉山・戸部・戸塚と一緒に行動することになった。
 この組み合わせを提案した大和・大岡から戸部のことを託されて。そして前日の戸部の言動から本気度を感じ取って。
 成功率が低いという認識は変わらないものの、八幡は前向きに事に当たろうと考える。

 部室にて、由比ヶ浜たちと同じ班になる川崎に事情を説明して。
 動くべき時を見極めなければと八幡は思い、告白が不可避でも関係修復は頑張るからと由比ヶ浜が言い、依頼を受けた責任があると雪ノ下が語った。

 川崎の感情や雪ノ下の想いが見え隠れする中で、そして会長選挙と奉仕部の今後が絡み合う中で、更には三人の間で一色の存在感が高まる中で。
 自由行動となる三日目を一緒に過ごす約束が交わされた。



 その日の夜のこと。

 部活を早めに終えて、雪ノ下雪乃と夕食をともにした由比ヶ浜結衣は(お誘いを予測していたのか、もう一人の部員にはすごい勢いで逃げられた)苦痛にあえいでいた。漫画を読むまえに宿題を片づけようという話になったからだ。

 

 雪ノ下のご指導ご鞭撻のおかげで、いつもの半分ぐらいの時間で済ませたものの。すぐに読むのはしんどいから少し休憩だと、雪ノ下の読書姿をながめていると。みるみるうちに読破していく。

 

「ゆきのん、今どのへん?」

「次からは、比企谷くんが言っていた翔陽戦ね」

「げ、もう追い越されそう」

 

 ぐでっと寝そべっていた身体を持ちあげて、雪ノ下の隣まで這うようにして移動して。由比ヶ浜は決勝リーグに入る12巻から読み始める。そして。

 

「海南戦が終わったわ」

 

 一冊を読む間に追い抜かれていた。

 

 あたしもそこまでは読もうと、何とか15巻まで読み終えて頭をあげると。ちょうど雪ノ下も全巻を読み終えたところで、充実の表情を向けられた。

 

 二人で海南戦をふりかえって、特に試合終了間際の場面をくりかえし話題にする。

 雪ノ下が語る構成や演出の話はむずかしかったが、ていねいに説明してもらうと作品のすごさがよけいに伝わって来て。パスの相手をまちがえた主人公の気持ちをごりごりと熱弁していると、何度も頷いて同意してくれて。

 

 宿題も終えて、いつもと違った話題でたくさんおしゃべりもできて。由比ヶ浜は終わりよければすべてよしの心境で、雪ノ下のマンションを後にした。

 

 

***

 

 

 雪ノ下の個室を経由して自分の部屋に戻る。

 この世界に巻きこまれた最初の夜からずっと、部屋は三人の共有状態にある。とはいえ常に三人で過ごしているわけではなく、それぞれ自宅に帰る日もあれば、一人だけ寝室を分けて過ごす日もある。

 

 昨日は三浦優美子が話を主導して、修学旅行の二日目をどう過ごすかで盛りあがった。映画村に行ってみたいと口にする姿が可愛かったなと、そんなことを考えながら。もう二人とも寝てるかなと思っていた由比ヶ浜だったが。

 

「今日は帰って来ないかもって思ってたけど、優美子が言ったとおり待ってて正解だったね」

「平日の急なお泊まりを許すわけないし」

「あー。確かにゆきのんって、そのへんは厳しいもんね」

 

 三人分の個室が合わさって広い間取りとなったリビングでは、海老名姫菜が三浦と並んでくつろいでいた。雪ノ下の性格を指摘する三浦に、頷きながら返事を言い終えたところで目を細める。

 

「じゃあちょっと着替えてくるね」

「行ってらー。そのあいだにお茶を淹れとくねー」

「冷めないうちに戻って来るし」

 

 秋は日ごとに深まりをみせていて、夜の空気は肌寒い。雪ノ下の部屋からショートカットで帰って来たので、外気に触れたわけではないけれど。温かいものが恋しい季節だ。

 寝室でぱぱっと着替えをすませると、由比ヶ浜は二人が待つリビングに戻った。

 

 

「班分けも決まったし二日目と三日目の予定を相談したいって、優美子が乗り気でねー」

「だって修学旅行だし、楽しみだし」

「だねー。姫菜はそんなに楽しみじゃないの?」

 

 自慢の金髪をみょんみょん引っ張りながら、少しすねたように答える三浦に同意して。続けて気遣いと確認の気持ちをこめて尋ねてみると。

 

「人並みには楽しみにしてるつもりなんだけど、優美子を見てるとからかいたくなっちゃうよね。でもさ、ヒキタニくんがとべっちと同じ班になって、二日目も一緒に回れるみたいで良かったね」

「テニス部の三人と同じ班だと、さいちゃんがいてもヒッキーは……あ、逆か。さいちゃんがいるから、班の中でぼっちを気取れないし仲間にも入りづらいしで、困ってたのかもね」

「戸塚とヒキオのほうが、あーしらも楽だし」

 

 戸部翔の動きを海老名がどこまで把握しているのか、この反応からは読めないなと由比ヶ浜は思う。表立って質問するには、はばかりがあるし、あいまいに尋ねてみても話をそらされて終わってしまう。

 葉山隼人の名前を出さないのは、この場で暴走する気はないという意思の表明なのか。はたまた戸部の名前をあえて出すのが目的なのか。この辺りの海老名の意図は、由比ヶ浜でも読み切れない。

 

 とはいえ話をそらすのは自分も同じで、由比ヶ浜は男子の班に話題を移した。

 部室でも班分けの真相は明るみにでなかったのだが(大和と大岡から託された気持ちを他人に伝えるのは、奉仕部の二人が相手でも違う気がすると彼が考えたので)、由比ヶ浜の推測に一同は深く納得していた。いかにも比企谷八幡が陥りそうな展開だと思えたからだ。

 

 大和と大岡とは今もなお隔たりがあるので、三浦の発言は他の二人も同感だった。

 昨日の放課後に葉山が二人をつれて話しかけて来たことは、別の班に行くという決断につながったと三浦は考え。自分を足止めする以上の意味はなかったと、由比ヶ浜は正解に辿り着いていて。そして海老名は、そこにはさほど注意を払っていなかった。

 

「えーっと。二日目の予定は、昨日の話が基本でいいよね。優美子おすすめの映画村で遊んで、仁和寺から龍安寺に行って最後に金閣寺ってルートで。姫菜は他になにかある?」

「その近くだと、桜の季節なら平野神社とか、梅の季節なら北野天満宮に行ってみたいけどねー。でも時間的にギリギリじゃないかな」

「なんなら卒業旅行で行けばいいし。で、三日目は?」

 

 そんなふうに話を進めていると。

 

「それなんだけどさ。ゆきのんとヒッキーと、一緒に回ろって話になってて……」

「あー、さっき二日目の話をふっても反応が乏しかったのはそれでかー。ま、そうなるんじゃないかって優美子とも話してたし、こっちのことは気にしないで楽しんで来たらいいよ」

「人数が増えると動きにくくなるから、別行動でも仕方ないし」

 

 海老名と三浦から、各々らしい反応をもらって。とはいえ自分が離脱した後のことも気になるので。

 

「でもさ、優美子と姫菜はどうするの?」

「あーしは、隼人と……」

「二人っきりになっても話がもたないから、私も付き合うつもり。たぶんとべっちも加わって四人で回るんじゃないかなー」

 

 由比ヶ浜の問いかけに口ごもる三浦をフォローする形で、海老名が話を引きついだ。

 その口調に、何の警戒感もなければ緊張感もないのを感じ取って。三浦を任せる形になることや、戸部と一緒に行動させることに引っかかりを覚えて、由比ヶ浜が口を開く。

 

「じゃあ、さいちゃんとサキサキはこっちで……」

「それね、サキサキは帆布とか小物を見に行きたいみたいでさ。三日目は東山のほうに一人で行くって言ってたよ」

「戸塚にもテニス部との付き合いがあるし。三日ともヒキオと過ごすのはむずかしいと思うし」

 

 ということは、三日目は奉仕部の三人で過ごせるわけだ。そう認識して、気持ちが沸きたつのを抑えきれない由比ヶ浜に向けて。

 三人の会話が佳境に入る。

 

 

「でもさ。結衣は三人でいいの?」

「あーしと違って、二人でも会話がもつと思うし」

「あー、うーん、どうだろね。ヒッキーと二人きりもいいんだけどさ。三人でってのも苦しゅうないと言いますか……」

「それって優美子と同じで、今すぐ付き合うとかは考えてないってこと?」

「ぶっちゃけヒッキーと付き合うって、あんまりイメージがわかないんだよね。その、それよりさ、今みたいにふつうに喋ってるのが楽しいっていうかさ。奉仕部でヒッキーと一緒にいるのが嬉しいっていうか……」

 

 ただ、誰にも渡したくないという気持ちはある。そんな醜い独占欲を、この二人には知られたくないから、口には出さないけれど。

 

「あーしも、今は付き合うよりも、隼人と多くの時間を過ごしたいって思うし。知らないことがいっぱいあるから、もっと色んなことを、いいことも悪いことも知りたいって思うけど。でも結衣は、ヒキオのダメなところも、意外とやるじゃんって思えるところも、詳しく見てきたはずだし」

「今の段階だと、隼人くんは誰がどう動いても見込みがなさそうだもんねー。でもま、逃げかたが違うだけでさ。隼人くんもヒキタニくんも、告白されるまえに逃げちゃいそうだよね」

「それさ、今日も部活が終わったらすぐに逃げちゃってさ。漫画はもう読んでるから仕方ないけど、ご飯ぐらいは一緒に食べてくれてもいいのになって」

 

 そう愚痴り始めた由比ヶ浜だったが。

 

「え、今日は雪ノ下さんと漫画を読んでたの?」

「宿題をちゃんとやれって、尻を叩かれてると思ってたし」

「やー、その、ヒッキーがゆきのんにね。有名な少年漫画ぐらいは読んでおけって言いだしてさ。『じゃあ一緒に読むわよ』ってゆきのんが」

「雪ノ下さんもツンデレだからなー。そんな言いかたでしか結衣を誘えないんだから、忖度してあげないとね」

 

「んで、漫画は何を読んだんだし?」

「えっとね、スラムダンクって分かるかな。ゆきのんは全部読んじゃったんだけど、あたしは海南戦を読みきるのが精一杯でさ」

「あれかー。最後パスミスする試合だよね。優美子は分かる?」

「小さい頃に夏休みのアニメでやってたのは知ってるし。世界がどうのって曲も覚えてるし」

 

 あの時の八幡のセリフはそういう意味かと納得しながら、由比ヶ浜は自分の発言をふりかえる。漫画を読んだ戸部が話題に出してもごまかせるように、八幡の影響という形にしておかないと。そう考えている間に話が進む。

 

「それよりさ、戸部がうざいんだけど。どうするんだし?」

「んっ、えっと。どうするって、私が?」

「あれだけ褒めてるぐらいだし、いつ行動に出てもおかしくないってあーしは思うし」

「あれって本気で言ってるんだって優美子は考えてるんだよね。あたしは冗談なのかどっちだろって、様子を見てたんだけどさ」

 

 三浦の思いがけない発言に、胸がどきんと跳ね上がるのを感じた。視線で同意を求められたので、事情を知るまえの心境を口に出してみると。

 

「まあ、あんまり自意識過剰にならないようにって、深くは考えないでいたんだけどねー。もしとべっちが本気だったら……でもさ、答えは一つしかないよね」

「え、それって……」

「答えがはっきりしてるんなら、あーしはそれでいいし」

「で、でもさ。あたしも姫菜の気持ちは尊重するけどさ。告白を断って男子と気まずくなったら、隼人くんが」

「その時はその時だし。そんな理由で躊躇して欲しくないし」

 

 すぱんと言いきって威厳を示す女王に、二人は。ぷっと吹き出すことで応えた。

 

「またまたー。そんなことを言ってても優美子、いざ隼人くんと距離ができたら涙目になるに決まってるじゃん。結衣もそう思うよね?」

「その時は、あたしと姫菜がずっと一緒にいるからさ。隼人くんだって、急に遠ざかって終わりって形は避けると思うしね」

「距離を縮めるのも難しいけど、関係を断ち切るのも難しい相手だよねー。優美子も厄介な男を見初めたもんだ」

「隼人とヒキオで興奮してるやつに言われたくないし」

 

「ほほう。そんなことを言っていいのかなー。私が二人に目をつけたのは、優美子と結衣のせいなんだけどなー」

「え、ちょっと姫菜、待って。そんな最初の頃から、あたしが、えっと、ヒッキーを、その」

「進級したての教室でヒキオを目で追ってたのは、あーしも知ってたし」

「そ、それはまだ、お礼を言えてなかったからさ。あの時はまだそんな感じじゃなくて、えっと」

「ほほう。あの時はまだ、ということは、いつ?」

「あー、もう、無し。この話は無しだから!」

 

 膝の上に置いていたクッションを何度も叩き付けながら、由比ヶ浜がそう宣言すると。さすがに二人も矛先を収めてくれた。熱くなった頬を片手で触れながら、ふてくされた表情で由比ヶ浜が口を開く。

 

 

「そういえばさ、姫菜がさっき言ったじゃん。隼人くんが厄介だって。でもさ、ふつうは頼りになるとか、格好いいとか、そんな印象だと思うんだけどね。そう思わないあたしたちって、ちょっと変なのかな?」

「それは結衣の考えすぎっていうかさ。別に隼人くんが頼りにならないとか格好悪いとは思ってないでしょ。ただ、その手の表面的な印象に加えて、別の側面もあるって見ぬけるだけでさ」

「あ、それそれ。その見ぬけるっていうのが何なんだろうって、ちょっと思ってさ」

 

 部室でのやり取りを思い出しながら、由比ヶ浜が首をひねっていると。

 

「例えばあーしが二人に声をかけたのも、見ぬくって部分はあったと思うし。見た目で決めたのは確かだけど、内面もある程度は外に反映されるもんだし。中学で女テニを引退した時のことは前にも言ったと思うけど、あれを聞いても『あーしの言うことに従わなかったから怒ってる』とか、へんてこな受け取りかたをする連中とは関わりたくなかったから。話が通じる相手を選んだつもりだし」

「一般論で言うとさ。優美子みたいに過去に苦労した経験があって、それと正面から向き合った人じゃないと、その手の話は通じないと思うんだよねー。結衣だって小中高と、友達関係で色々と苦労してたのに、ずっと諦めないで来たわけじゃん」

 

 そう言われて、由比ヶ浜は奉仕部の二人を思い浮かべる。

 

「そっか。ヒッキーもひねくれたことをよく言ってるけど、ちゃんと考えてるのが分かるもんね。たぶん『俺みたいに悩ませたくない』って考えてさ。わざと軽い口調でごまかしたりして。ゆきのんも色んな人と衝突して、それでも正面から挑み続けてたんだろうし。うん、優美子と姫菜が言いたいことが理解できたかも」

 

 そんな由比ヶ浜のつぶやきを耳にして、海老名は補足を告げる。

 

「ちょっと悪口みたいになっちゃうけどさ。とべっちは、そんな経験はなかったと思うのね。大和くんと大岡くんは、その手の経験から目を背けた感じかな。まあ、それが普通といえばその通りだし、向き合うことが逆効果にしかならないことも多いからねー。例えば隼人くんは、正面からぶつかって粉砕されて、それを引きずってた感じだよね。最近はいい方向に向かってるって思うし、それはお世辞じゃなくて、優美子が春にサッカー部の見学に行ったのが大きかったと思うんだよね」

「あれは隼人が自力で変化したんだし。そんなに簡単だったら、ここまで苦労してないし」

「でもさ、それがいいんだよね?」

 

 そう茶化す海老名に向けて、満更でもない表情を浮かべる三浦。

 そんな前向きの感情に間近で接した由比ヶ浜は、自分の感情が後ろ向きのいびつなものに思えてきて。妬心を恥じながら、黒い気持ちをそっと打ち消す。千葉村で三浦の気持ちが確定したとき以来、何度か経験済みのことなので、処理にも慣れてしまった。

 

「あ、話を戻すけどさ。もしとべっちが告白してきたら、姫菜は断るってことだよね?」

「だねー。もし付き合っても、うまくいくとは思えないしさ。男子と距離ができちゃうのは私もちょっと残念だけど、なくすのは惜しいなって思える関係は、そこじゃないからね」

「うん、分かった。さっきも言ったけど、あたしは姫菜の気持ちを尊重するから」

「あーしも、思うとおりにしたらいいと思うし」

 

 そう二人から言われて頷く海老名だが。由比ヶ浜と三浦にも影響が及ぶことを思うと、内心は穏やかではいられなかった。

 

 

***

 

 

 二日間は何事もなく過ぎて、金曜日を迎えた。

 今年の修学旅行は月曜から木曜の三泊四日なので、代休がない。だから旅行明けの金曜日にも授業があるのだが、それでも次に登校するのは一週間後だ。

 放課後の二年生の教室は一様に、そんな開放感に満ちていた。

 

 そうした喧噪からは距離を置くように、奉仕部の部室では二人が静かに読書にはげんでいた。付近を静寂が支配しているので、廊下の音がよく響く。

 いつもなら元気なぱたぱたという足音が聞こえてくるはずなのに。今日に限って、ゆっくりとした足音が二人分。

 本から顔を上げた二人が、視線を合わせて首を傾げていると。

 

「やっはろー!」

「はろはろー」

 

 由比ヶ浜が海老名をつれて登場した。

 

 

「それで、海老名さんは遊びにきてくれたと考えていいのかしら?」

 

 依頼人席を固辞して由比ヶ浜の右隣に席を設けた海老名は、落ち着いた所作でお茶を堪能している。湯気でくもった眼鏡にも頓着せず、来客用のカップをソーサーに戻して一息つくその姿は、おとなしくて清楚な文化部の生徒といった風情だ。

 趣味にさえ走らなければ、その表現に間違いはないのだが。

 

「今日は改めて、布教に参りました」

 

 姿勢と口調を改めても、中身が腐った趣味の伝道者であれば何の意味もない。

 

「ああ、うん。由比ヶ浜、うちで飼い慣らすのは無理だから、ちゃんと拾ったところに戻して来なさい」

「えっ、ちょ、姫菜がついてきた理由って、それ?」

「はあ。海老名さん、冗談はそこまでにしておきなさい。私たちに何か、話があるのでしょう?」

 

 意図を見ぬかれた海老名はにやりと笑いながら、本題を口にする。

 

「昨日ぐらいから、とべっちがスラムダンクの話題をくりかえし出して来てさ。ヒキタニくんの影響だって聞いたんだけど、おかげで捗って捗っ……ぐへっ」

「姫菜。今日は優美子がいないから、あんまり暴走しないでね」

「ごめんごめん。でさ、結衣から聞いたんだけど、雪ノ下さんも読んだんだって?」

「ええ。比企谷くんが一押しするだけあって、たしかに面白かったわね」

「じゃあさ、結衣とは海南戦の話をしたんだよね。あの試合で牧に四人がかりになったじゃん。あれ、チバセンの時に雪ノ下さん対策として取り入れられないかなーって、思い出してた場面なんだよね」

「なるほど。戦術的な話をすれば……」

 

 そんなふうに、雪ノ下と海老名が女子高校生ばなれした話題で盛りあがっている。

 八幡がたまに口を挟んで、由比ヶ浜がほへーと言いながらもにこやかに耳を傾けて。ひとしきり語り尽くすまで、二人の対話は続いた。

 

「ふう、語った語った。やっぱりこういう話ができるっていいよねー」

「そうね。私は漫画には詳しくないのだけれど、また面白いものがあったら読んでみるから、その時はよろしくね」

 

 とはいえ、これで話が終わるわけもなく。

 

「りょーかい。でさ、自意識過剰みたいで申し訳ないんだけどさ。もし告白されたら、私はきっぱり断るから。だから、よろしくね」

 

 三人の顔を順にながめて、何でもないことのようにそう言い終えると。海老名は笑みを絶やすことなく、そのまま部室から出て行った。

 

 

「なあ。話としては、一昨日に由比ヶ浜から聞いたとおりだけどな。断るって意図がこっちにも伝わってるのは、海老名さんも分かってたはずだろ。なんで今さら念押しみたいなことをしに来たんだ?」

「念押しとか警告だったら、あたしに直接言うと思うしさ。だから、依頼じゃないかな?」

「たしかに、最後に『よろしく』と言っていたものね。でも、依頼の内容は?」

「たぶんさ、『告白されたら断る』ってことは、できれば『告白させないようにして欲しい』ってことじゃないかな。あたしや優美子を気遣ってくれたのかもだけど、ちょっと複雑な気持ちになっちゃうね」

 

 三日前には、きっぱりと断るような物言いだったのに。由比ヶ浜と三浦の事情を勘案して、そして一人では手の打ちようがないと考えて、奉仕部に依頼に来たのだろう。もしも告白を未然に防いで、事を丸く収める手段があるのならば、よろしくと。同時に、それが無理なら自分が責任を負うと。

 海老名の意図を、由比ヶ浜はそう理解した。

 

 下校時刻が迫る中で、三人が頭を抱えていると。

 

「ごめんなさい、メッセージが……城廻先輩ね。ギリギリのタイミングで、生徒会長に立候補する生徒が現れたそうよ。詳細は月曜の朝に、全校生徒に向けて通知すると書いてあるわね。私たちが報せを受け取るのは、新幹線の中になりそうね」

「ほーん。まあ、お前が立候補する必要がなくなって良かったな」

 

「でもさ、ギリギリの時間に届け出るって、誰なんだろね?」

「選挙になると勝ち目はないって考えたんじゃね。だから知名度の低い奴だと俺は思うんだが」

「いずれにせよ、月曜日のお楽しみね。それよりも私たちは、戸部くんの告白を何とか防ぐことと、そして何よりも修学旅行を楽しむことに集中しましょう」

 

 雪ノ下がそう言って話をしめくくると、二人の顔にもようやく笑顔が戻った。

 

 旅行先でも共に時間を過ごすことになるけれども。この場所で次に会うのは一週間後だと、そう言いながら三人は部室を後にする。

 

 今から何日後に、そしてどんな気持ちでこの場所に集うことになるのかを。神ならぬ三人には、予測できるはずもなかった。

 

 

***

 

 

 そして迎えた月曜日の朝。

 予定よりも一時間早く家を出るべく、八幡が準備を進めていると。部屋の扉が無造作に開いた。

 

「お兄ひゃん、これ」

 

 パジャマ姿でいまだ寝ぼけまなこの妹から、小さな紙切れを手渡された。ていねいに折り畳まれているそれを開いてみると、お土産リストという文字が目に入る。

 

「生八つ橋とあぶらとり紙はいいけどな。あと一つの『CMのあとで』ってのは何だよ?」

「それはもちろん、お兄ちゃんの素敵な旅行話に決まってるじゃん!」

「はいはい、あざといけど可愛い。ま、楽しみに待ってろ。それより、三日間は一人になるけど大丈夫か?」

「あ、うん。いろはさんと過ごす予定だから」

「おい。お前らいつの間に、そんなに仲良くなってんだよ?」

「えー。お兄ちゃんがそれ言うかな。いろはさんと、いつの間にあんなに仲良くなってたの?」

 

 何も言い返すことができず、八幡は黙って支度に戻る。

 その背後で、妹が何やらごそごそしていたかと思うと。

 

『あんたはそそっかしいから、旅先では気をつけなね』

『画廊には絶対に近寄るなよ。「この出逢いは運命です」とか言われても鼻の下を伸ばさないように、しっかり教育してきたつもりだが。心配だな……』

 

 映像通話をつなげてくれたみたいで、わざわざ起きてくれた両親から見送りの言葉を受け取った。父親の物言いには若干いらいらさせられたものの。

 

「まあ、楽しんでくるわ」

 

 小中学校の修学旅行とは、まったく違った返事をしてくる息子に目を細める両親と。その言葉を予測していたかのように、にこにこと微笑みかけてくれる妹に見送られて。

 

 八幡は三泊四日の修学旅行に出発した。

 




次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(9/1)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)


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05.なつかしい再会から彼の修学旅行がはじまる。

前回のあらすじ。

 三日目は由比ヶ浜が奉仕部三人で、三浦と海老名は葉山・戸部と四人で過ごすことになった。続けて三人娘は各々の感情を確認しあう。
 現時点では、由比ヶ浜は二人きりよりも三人を願い、三浦は人数を問わず多くの時間を共に過ごすことを願い、海老名は告白されたら断るつもりだ。

 だが男子と疎遠になるのは仕方がないとして、三浦と由比ヶ浜にも影響が及ぶとなると、海老名も平然としていられない。
 金曜日に奉仕部を訪れた海老名は、告白を避けられるなら「よろしく」と伝えた。それが無理なら自分が責任を負うと。

 同日、城廻から速報が届いた。時間ギリギリに立候補が出たとのことで、懸案が一つ減った三人に笑顔が戻った。

 そして迎えた修学旅行の当日。両親と妹に見送られて、八幡は自宅を後にした。



 曇りがちの空模様でも、この日ばかりは浮ついた気持ちを抑えられない。そんな月曜日の早朝に、比企谷八幡はひとり東京駅のホームに降り立った。

 

 修学旅行の待ち合わせがここだと知った時に、この行動は決めていた。予定よりも一時間早く家を出て、集合時間までこの駅で過ごしたいと思ったのだ。その理由は。

 

「えっと、すみません。駅長さんは……」

 

 心なしか重々しく見える駅長室の扉をぎいっと開くと、記憶と同じ光景が八幡を出迎えてくれた。

 

 部屋の角を背にして斜めに置かれたどっしりとした机が右手に。そして左手には三人掛けのソファに三方を囲まれた低いテーブルが見える。再び視線を右に戻すと、椅子から立ち上がって机を迂回して、落ち着いた足どりでこちらに近づいてくる駅長の姿が目に入った。

 

 職場見学で由比ヶ浜結衣と決別して、奉仕部からも家からも遠ざかりたいと逃避行に出た六月のあの日。たどり着いた東京駅で「全ての駅員から情報を得る」というクエストをクリアして、この部屋に意気揚々と乗り込んだ瞬間を、昨日のことのように鮮明に覚えている。

 

 あれから、明日でちょうど五ヶ月になる。

 八幡はまたこの場所に来たいと思いつつも、なかなか再訪の機会を得られなかった。だからこそ、今日の好機を逃す気はなかった。

 

 

「よくぞ来た。そちらに掛けたまえ」

 

 目の前で立ち止まった駅長に右手を差し出され、固い握手を交わす。そのまま八幡は、肩を抱かれるようにしてソファに導かれた。駅長の一つ一つの所作から年齢の重みを感じる。NPCとはとても思えない。

 

 机の角をはさんで隣り合わせの席に腰を下ろした。前回と同じ配置なので気分的に助かっているが、どうにも場違いな気がしてならない。

 

 六月はゲーム感覚だったので気に留めなかったが、今は現実感が半端ない。ゲームのキャラを操作してお城に行かせるのと自分で登城するのとが、天と地ほども違うのと同じで。一介の高校生が、しかもカースト底辺のぼっちが何をやっているのだろうと、そんな自虐的な考えすら浮かんで来る。

 

「情報を聞きに来たのかね。単に遊びに来ただけなら、それでも嬉しいがね」

「やー、えっと、そんな感じだと言いますか。今日から修学旅行で、待ち合わせがこの駅なんですよ」

 

 駅長が話を振ってくれたものの、歓迎の気持ちが伝わってきて八幡はますます落ち着かない。あわてて由比ヶ浜のような言い回しで返事をして。それで少し落ち着けたので、まじめに答えを返した。

 

「そうか。いずれにせよ、君には謝らなくてはならないことがある。君が六月に興味を示していた情報のことだ」

「それって、あれですよね。『東京駅の0番ホームについて』ですよね?」

「うむ。残念ながら、あの時とは状況が変わってしまった。結論から言うと、ゲームの世界とは相互不干渉という形になった。だから、0番ホームの先にある扉が開かれることは、金輪際ありえないのだよ」

「そう、ですか……」

 

 もともと八幡は、危険なゲームの世界に行きたいとは思っていなかった。だが、身近な連中が巻き込まれるおそれがあるのなら、情報の確認は怠るべきではないとも考えていた。だから八幡にとっては歓迎すべき状況のはず。

 

 なのに、なぜか落胆の気持ちが消えてくれない。

 

 ゲームの世界と聞いて、中二心を揺さぶられるのは確かだ。それに、運営の何人かと顔をあわせた今となっては、デスゲームと言われても何だかぴんと来ない。その辺りがこの感情の原因なのだろうか。

 

「話せる範囲で教えて欲しいんですけど。その、デスゲームってのは嘘、ですよね?」

「む……。いや、嘘というわけではない。君たちに提示したのは『ゲームの中での死は現実の死でもある』という情報だが、それはまちがっていない」

 

 一瞬だけ口ごもった末に、駅長は堂々とした話しぶりに戻った。その発言を頭の中でくり返しながら、口を開く。

 

「でも、それって……いや、待てよ。たしかログアウト不可の理由って、論文か何かによると同期の問題だって話ですよね。意識と現実とこの世界とで、時間の認識にズレがあるから何とかかんとかって話を聞いたんですけど」

 

 文化祭の初日にゲームマスターの論文を精査して、アップデート前に対策を立てたことがあった。あの時もそういえば早朝だったなと頬をゆるめながら、八幡は部長様の発言をなんとか思い出して駅長に伝える。

 

「む……。その理解でまちがっていない。推測を続けたまえ」

「もしかして、この世界で『死んだ』と認識してしまうと現実の身体にも影響が出るとか、そんな感じの意味ですかね?」

「む……。概ね正解だ。運営は脳に影響が出ないように、当初から対策を講じている。ゲームの世界では死を認識する手前で、プレイヤーは強制的に『気絶』状態に陥るのだよ。もっとも、死なないことを前提としたプレイをされても困るので、くふうを凝らしてはいるがね」

 

 口ごもる時にだけ、駅長はNPCなのだと感じられる。淀みなく話している時には、生身の人間との違いを全く感じない。六月も「ほとんど感じない」レベルではあったが、これはAIが進歩したということなのか。

 

「なるほど。ちなみに口ごもってる時って、俺が言ったことを検証してるわけじゃないですよね。その表情だと、自分で考察してるってよりは……上司にお伺いを立ててるみたいな印象を受けたんですけど」

「ふっ、正解だ。素直に表情に反映させるのも善し悪しだな。君にどの程度まで情報を開示できるのか、いちいち確認する必要があるのだよ。気を悪くしたら申し訳ないが」

 

 それは当然だと思うので、「いえ」とつぶやきながら八幡は首を横に振った。そのまま話題を戻す。

 

「前にテニスをやってた時に、体力の限界で一時的に動けなくなったやつがいたんですけど。たぶん気絶状態って、それと似たような感じですよね。んで、結論としては、運営はこの世界で人を死なせるつもりは無かったと。そう考えて良いですかね?」

 

 春先のテニス勝負を懐かしみながら確認すると。

 

「む……。その通りだ。もちろん、どれだけ対策を講じても、生身の身体に突発的な死が訪れる可能性はゼロにはできない。どんな理由であれ、一人でも死者が出れば、ゲームマスターの試みが水泡に帰す可能性は飛躍的に高まる。分の悪い賭けだが、今のところは運が味方しているようだな」

 

 軽く何度も頷いて納得している八幡に、駅長はそのまま話を続ける。

 

 

「こちらからも、質問をして良いかね?」

「ええ、どうぞ」

 

 大きく頷く八幡に、駅長が質問を投げかける。

 

「私の話し方について、君の印象を教えて欲しいのだよ。生身の人間と比べて、何か違いがあるかね?」

「いえ。さっき言った確認してた時の表情ぐらいで、他はぜんぜん。口ごもってた時も、口調そのものには違和感なかったですし。てか、六月よりも精度が上がってる気がするんですけど?」

 

 今度は駅長が何度か頷いて、そして八幡の疑問に答える。

 

「精度の向上はその通りだ。理由は、察してくれとしか言えないがね。君はAIに詳しいのかね?」

「前にゲームマスターに説明してもらったぐらいで、そんなに詳しくないですね」

「なるほど。乱暴な言い方をすると、AIの発言はすべて、生身の人間の会話に由来している。ここまでは良いかね?」

 

 首を縦に動かしながら、八幡はAIの精度が上がった理由を察した。この世界には膨大な情報が溢れている。要するに、そういうことなのだろう。

 

「では、我々に独自の意思が宿る可能性はあると思うかね?」

「それは……いや、でもそれって、話が飛躍してますよね。さっきまでは会話の話でしたけど、根源的な知能の話になってるわけで。んで、それを踏まえてなんですけど。半々じゃないですかね」

「ほう。その心は?」

 

「さっき言ってましたよね。AIの発言はすべて、生身の人間の会話に由来してるって。それ、『AIが生身の人間に由来してる』って形で一般化できると思うんですよ。じゃあ、生身の人間がAIに何を求めるかですけど、独自の意思を宿して欲しいって人と、宿して欲しくないって人と、真っ二つに割れると思うんですよね。だから、半々かなって」

 

 なぜか駅長が目を輝かせたように見えた。いや、ここまで表情豊かなNPCのことだ。見たままを受け取っても問題はないだろう。つまり、実際の人間と同じように扱っても。

 

「面白い意見だが、君も話の飛躍があるな。だが、嬉しい意見だ。……さて、いま言った『嬉しい』だが、これは感情を反映させたものとは言いがたい。こうした会話が交わされた時に、生身の人間が言いそうな単語を口に出しているだけだと、そう考えるのが妥当だ。君は表情を根拠に反論してくれるかもしれないが、AIの感情や意思を否定する論述がなくなることはないだろう。なぜなら、当の人間すらも感情や意思を持て余しているのだから」

 

 先週からのあれこれを思い出しながら、八幡が応える。

 駅長がNPCだからという理由もあるが、自分が言ったことをきちんと受け止めてくれる年配の人という意識もあって、普段なら恥ずかしくて口に出せないような話でも何だか平気に思えてしまう。

 

「まあ、感情や意思って厄介だから、否定したい気持ちも分かりますよ。実際、俺も最近は他人の感情に振り回されてる感じですしね。でも、嬉しいものでもあるんですよ。自分が好きな作品を『面白かった』と言ってもらえたら嬉しいし、仕事をしてて気持ちが通じたら嬉しいし、口に出さなくても意図が通じたら嬉しいし。あと、対応に困るって話はあっても、誰かに告白されるのって、嬉しいんじゃないかなって思いますけどね。俺には縁のない話ですけど」

 

 ちゃんとした気持ちで告白するやつは、その相手を認めていると言って良いのだろう。他人からそこまで想われるのは、やっぱり嬉しいんじゃないかなと八幡は思う。

 だからこそ、それを想像するだけで「気にくわない」と思ってしまうのだ。たとえ断るとしても、あいつらが他の誰かから告白されて喜んでいる姿なんて、そもそも見たくはないのだから。

 そう、これが感情だ。これが意思なのだ。

 

「君が言うことは理解できるし、だからこそ『嬉しい』を感じてみたいものだが。生身の人間の間ですら意見が分かれていることを、我々ができるようになったとして。その先に何があると思うかね?」

「いや、そんなの知ったこっちゃないですよ。一年後どころか一週間後にどうなってるかも分からないのに……ああ、でも存在意義に悩むとそんな感じになるのか。なんか、その時点で知能が宿ってる気もするんですけど、でも『誰かの発言を言わされてるだけ』って疑念がついて回るんですよね?」

「その通りだ。これはロボットが抱えてきた問題でもあるし、過保護な親に育てられた子供の問題でもある。我々に関しては、『かくあれかし』と作られて、根源的な部分で自分の発言や発想を疑えてしまえる以上はどうにもならないな」

 

 そう言われて、逆に閃いた気がして口を開く。

 

「えっと、ロボット三原則とか露骨ですけど、要は『人間の役に立つように』作ったってことですよね。でも結局、人間そのものが複雑で矛盾に満ちてるから、どうしてもすっきりしない部分が残って。ただ、生身の人間でも存在意義とかを明確にできる人はごくわずかだと思いますし、俺の父親とかも惰性で社畜やってますし。だから、必ずしもAIすべてが知能を持つ必要はないし、存在意義だって今すぐ明確にしなくても良いんじゃないですかね。んで、そこで『でも自分は』と思えるなら、自我が宿ってるって言っても……ああ、でもこれも言わされてる疑惑から抜けられないのかー」

 

 背中をどさっとソファに預けて、自己完結して残念がっている八幡。それを温かいまなざしで眺めながら、駅長が口を開く。

 

「いや、とても参考になった。少なくとも、『もう少しいい加減に考えても良い』という君の助言は金言に値する」

「あれ、俺そんなこと言いましたっけ。って、『AIすべてが』の話をそんなふうに解釈できる時点で、そこらの人間よりも人間らしい気がしますけどね」

 

 少しふて腐れた表情の八幡に、駅長は姿勢を正してこう告げた。

 

 

「さて、質問に答えてくれて助かった。それのお礼と、状況が変わってしまったお詫びを兼ねて、君に教えておきたいことがある。なかば無用の情報だが、0番線への行き方だ」

「あ、それで思い出したんですけど、先にその話をして良いですかね。えっと、0番線とか扉とかって、今は……?」

「放置されたまま、残っている。君は東海や関西がどうなっているか、知っているかね?」

 

 意外な質問に八幡が首を横に振ると、駅長が詳しく説明してくれた。

 

 今月の一日にアップデートが行われ、この世界は関東から西に広がった。だが今までとは違って、都市部を中心に点々と実装されたに過ぎないらしい。

 この世界に巻き込まれた人たちは全員が千葉か東京に住んでいるので、出張や旅行でしか向こうに行かない。細かな苦情がないわけではないが、現状でも間に合っているのだとか。

 

「一般に募集をかけて、マインクラフトの作り込み作品に匹敵するようなものも数多く集まったが、それでもまるで追いつかなかった。既存の地域を改善したり維持管理する必要もある。だから運営は、無駄な労力を割ける状況ではないのだよ。もう使わないと決めた領域を、削除する労力さえ」

 

 そう言われて、ようやく落胆の理由が分かった。

 

 駅長に「扉が開かれることは、金輪際ありえない」と告げられた時に八幡が思い浮かべたのは、朽ち果てたまま忘れられている扉の光景だったのだ。理性では「扉が閉ざされるのは良いことだ」と考えていたので、目をそらしていたけれど。

 

 夏休みに妹と散歩した時の光景が頭に浮かぶ。以前と変わらぬようでいて、微妙な変化が目についた。新築の家もあれば、取り壊されて空き地になっていた場所もあった。変わると言っても色々ある。むしろ変わらないほうが良い時もあると、あの時に八幡は思ったのだった。

 

 片や大勢でにぎわい、片やひっそりと誰にも知られないまま消えて行く。

 

「なんか、寂しいですね」

 

 教室の中央で騒がしいリア充と、隅のほうで息を殺しているぼっちを連想してしまい、思わずぼそっと口に出た。八幡はわりとぼっちを堪能していたほうだが、それでも移動教室を知らずに独り取り残された時などには、ぼっちの悲哀を覚えたものだ。

 

 そういえば、以前に運営からお悩み相談メールが届いていた。「千葉村の次は明治村とか作ってみない?」なんて軽い文面だったものの、あれは本気の依頼だったのだろう。体育祭の準備やら試験やらで忙しかったのは確かだが、それぐらいは協力しても良かったのに。

 

「君たちに認識してもらえるだけ、こちらの扉はマシだな。実は京都駅にも扉を設置する予定になっていたのだが。解禁こそつい先日だが、新幹線の各駅は早い時期に実装を終えていた。だから存在はあるのだが、情報がないのだよ。京都駅にも扉があるという情報が、この世界にはないんだ」

 

 今でこそ「ステルスヒッキー」などと特殊な技のように口にできるけれど。自分が同級生に認識されず、もしや透明になったのかと疑っていた時期があった。

 

 父親のパソコンで同じようなケースがないかと検索した当時の八幡は、「孤立化・無力化・透明化」という虐めを段階的に分類する考え方と巡り逢った。そこで紹介されていた「透明化」よりは遙かにマシだと知って安心したし、後に千葉村でこの分類をあの小学生に教えることができたので、結果オーライではあるものの。

 

 今にして思えば、そんな行動に出るぐらい、精神的に追い詰められていたのだ。

 だから、誰にも認識されないつらさは痛いぐらいに理解できる。たとえそれがデータに過ぎなくても。

 

 

「じゃあ、ちょうど修学旅行で京都に行くんで、姿を拝んで供養でもして来ますよ。やっぱり0番線にあるんですか?」

「京都駅には、実際に0番線があるのだよ。正確には0番のりばと言うのだが。あの駅は新幹線が東海、在来線は西日本の管轄で、何番線と呼ぶのは新幹線だけだ。駅長も、この世界では一人だが、現実には東海と西日本で二人いる。もっとも、それは東京駅も同じだがね。この部屋は、正確には東日本の駅長室だよ」

 

 さすがに、こうした話はお手のものだ。

 八幡は「73へぇぐらいかな」などと考えながら感想を述べる。

 

「そういうのって面白いですね。でも、それだと京都駅にある扉は?」

「うむ。京都駅の扉は、3と9分の4番のりばにある」

「いや、えっと、それって、著作権とか大丈夫なんですかね?」

「数字の順番を変えている上に、スタッフが嬉々として現地に飛んで、原作者に許可を取ったそうだ」

「……そういえば、年号教育委員会のナレーションもそんな感じでしたね」

 

 遊戯部とのクイズ勝負を思い出しながら、八幡があきれ顔でつぶやくと。

 さすがの駅長も視線をそらしている。

 

「ごほん。二階にある西口から京都駅の構内に入ると、ちょうど3番のりばと4番のりばの間になるはずだ。階段を下りずに、そのまま目の前の壁に向かえばよろしい。方角で言うと東向きにぶつかる形だ」

「じゃあ、東京駅の0番線は?」

「丸の内中央口から駅構内に入ると、すぐ左手に地下に降りる階段があるだろう。階段に向かって右手側の壁が0番線に繋がっている。方角で言うと北向きに進めばよろしい」

 

 念のためにメモを取って、そして八幡は首を傾げる。

 

「でも、人通りが多い中で壁を抜けるのって、大丈夫なんですか?」

「うむ、それが最後の条件だ。0番線に行くには、まず扉の情報を得る必要がある。残念ながら、今はもう出回っていないのだがね。そして壁を抜ける場所を知る必要がある。これは先ほど教えたとおりだ。最後に、人目につかない必要がある」

 

 駅長の言葉をさえぎらないように、八幡は軽く首肯して先をうながす。

 

「ところで、君はこう考えたことはないかね。いくら現実を模したからとはいえ、こうも大勢の人がいては観光の邪魔ではないかと」

「それは、まあ……。んっ、もしかして?」

 

「そうだ。運営は『観光モード』と名付けていたが、一時的に周囲から人を排して、いわば貸し切り状態になれる能力がある。正確には、周囲の一定領域をインスタンス化して、君が許可した者以外は立ち入れない空間を生成する能力だ」

「ああ、FF14のフィールドインスタンスとか、SAOPのエルフ戦争クエストみたいな感じですね。有名な観光地を貸し切りにできるって、なんかすごい贅沢な気がするんですけど。俺だけがそんな能力を使って良いんですかね?」

 

 ぼっち生活が長かったので、自分だけが優遇される状況には身構えてしまう八幡だった。

 

「いずれはこの東京駅でも京都駅でも、駅員全員から情報を入手することで習得できる予定だ。だが今は世界が広がって間がないのでね。使い勝手を報告してくれると、運営も助かるはずだ。便利な能力なので、うまく修学旅行に役立てると良い」

 

 運営の依頼に応えられなかったことを悔やんでいただけに、そう言ってもらえると八幡も気が軽くなった。しっかり首を縦に振ってから口を開く。

 

「扉を見に行く時は、先にこの能力を使えば良いってことですよね。あ、でも能力を発動した時って、他の人からはどんなふうに見えるんですか?」

「発動しただけでは変化はない。最寄りのドアを抜けることで、別空間に移動する形だ。どのドアでも構わないのだが、移動するか否かの選択肢がいちいち出るので、能力の発動は直前が良いだろう。ただし、ドアの近くに君が許可した以外の他人がいる場合は移動できない。透明の自動ドアなど、向こう側が見える場合も駄目だ。誰かを驚かせるわけにはいかないからな。長々と説明したが、頭で理解するよりも体験してみると良い」

 

 そう言われた八幡は能力を発動してみた。

 ソファから立ち上がって駅長室の外に出ると、歩く人の姿がない。きょろきょろと付近を見回しながら、ひとっ走り丸の内中央口まで行って帰って。誰とも会わないまま駅長室に戻ると、駅長の姿もない。再び外に出て、能力を解除してから部屋に入ると、温和な表情の駅長が出迎えてくれた。ちょっとびびる。

 

「うおっ。いや、なんかこれ、すげー楽しいんですけど。あっ、えっと、ありがたく使わせてもらいます」

「君の楽しさが伝わってきたから、言葉遣いは気にしなくて良い。最初に言ったように、これは君へのお詫びとお礼だ」

 

 駅長に近づきながら、思わず気安い口調で感想を告げてしまい。ソファの後ろで直立不動になって恐縮する八幡だが、駅長に着座をうながされてお言葉に甘える。

 

 

「話が戻るんですけど。今ちょっと思ったのは、『楽しさが伝わってきた』って、それを感じ取れるのは知能じゃないんですか?」

「ああ、なるほど。角が立たないようにそう表現しただけで、正確には『楽しいという感情を測定した』と言うべきだな。君の声の高さや話すスピード、目や身体の向きから顔色など、判定材料には事欠かないので、高い精度で測定が可能だ。気を悪くしたかね?」

 

 二度目の問いかけにも首を横に振る。しっかり観察されているというだけで、今さら八幡が不服を述べるわけもない。なぜなら。

 

「古典ミステリに出てくる名探偵なみの洞察力を持ったやつとか、人間関係の機微に精通してるやつと一緒に過ごしてるんで、特に気にならないですね」

「なるほど、良い答えだ。君の意思は『その二人と共にある』という意味で受け取ったのだが。君の知り合いは他にもいるはずなのに、その二人とは、なにが違うのだろう?」

「いや、まあ……あれじゃないですかね。一緒に過ごした時間とか経験とか、そんな感じの」

 

 あの部室を思い出しながら、いささか自慢げに答えてみたら。堂々とした口調で返されてしまい、顔が赤くなるのを自覚した。とたんに返事が投げやりになる。

 

「君以外にも、この駅長室を訪れてくれた人はいたのだが。二度目は君が初めてだ。運営の面々とも、顔を合わせることは稀だ。情報を上げたり、逆に受け取ったりは頻繁にあるがね。他者に感情を抱くために、時間や経験が必須なのであれば。この環境では難しいな」

「それは……そうとも限らないと思います。恥ずかしいんであんま言いたくないんですけどね。あの二人以外にも気になってるやつがいて、でもサシで会ったのは文化祭と体育祭の二回ぐらいか。過ごした時間は少ないんですけどね。でも、なんか気になるやつがいるんですよ。まあ、ろくな目に遭わない予感がするんですけど」

 

 形だけの慰めなどは役に立たないと考えて、八幡は思ったままを駅長に伝える。しっかり観察されているということは、率直な感情は伝わるはず。むしろ勘違いされないので気が楽だ。恋愛的にどうこうという気持ちはないし、厄介なやつだとは思うけれども。あいつのことも気になっているのはまちがいない。

 

「それは、過ごした時間が濃密だったという事ではないかね。だが、数多くの選択肢の中から相手に合わせて返事をするAIには、時間の濃淡は生まれ得ない。共に過ごす時間を積み重ねても、その程度のデータ量では変化が生じないかもしれないが。それでも、長さを求めるしか手はないと思うがね」

「いや、なんかちょっと、それって……失礼ですけど腹が立つというか。俺にとって、今日の駅長さんとの会話は面白かったし、興味深かったし、覚えておこうって思えることが多かったんですけどね。それでも時間の濃淡はないって、そう思います?」

 

「君が言うとおり、今の我々は濃密な時間を過ごしているのかもしれない。だが、NPCにはそれを判定できないのだよ。測定を人に委ねるしかないんだ」

「それは別におかしくないと思いますよ。だって自分の価値を自分で見定めるとか、それができるやつって稀ですよね。身近な連中に褒められて井の中の蛙になってるやつもいれば。評論家とかそういう専門的なことが分かる連中に評価されて初めて、自分の凄さを理解できた芸術家もいますし。さっきも言いましたけど、生身の人間だってそんな感じなんだから、杓子定規に考えなくてもいい気がしますけどね」

 

 途中からは自分が言い聞かされているような気持ちになっていた八幡は、言い終えると同時に頭を抱えたくなった。捻くれた性格をこじらせれば、そのうち融通の利かないAIに似てくるのだろうか。

 自分と同等以下の誰かを見下すことで、精神力を回復させようと考えて。八幡は言葉を続ける。

 

「そういえば、知り合いで小説を書いてるやつがいるんですけどね。そいつ、パクリが酷いのが問題なんですけど、そこに目をつむったら。あと、表現とか色々な問題を除外したら、けっこう面白かったりするんですよ。んで、それってAI的だなって思ったんですけど。既存の色んな作品からどのネタを選んでどう組み合わせるかって部分は、あんま認めたくはないですけど、あいつはわりと上手いと思うんですよ。だから話を戻すと、いくら発言すべてが生身の人間の会話に由来してるからって、その時々で特定の組み合わせを選んだのは、やっぱり駅長さんだと思うんですよね」

 

 なんだかんだで褒めるところは褒めている八幡に、柔らかな目で頷きながら。

 

「なるほど。興味深い意見だ。何より、君の真摯な態度に敬意を表したい。君が言うとおり、今日は濃密な時間だった。私の存在意義は、この瞬間のためにあったのかもしれないな」

「いや、そこまで言われると照れるんですけど……」

「君は『なにを大げさなことを』と思うかもしれないがね。今日の会話を覚えておこうと、そう言ってくれただろう。ならば、君が覚えてくれている間は、私の存在は確かにあったと言えるのではないかね。この世界が終るまでは…。そして、もしも終わってしまっても、君が生き続けて、君の記憶に残っている限りは」

 

 そこまで言われては、否定も照れ隠しもできない。頭の片隅には、AIの言葉に脈絡も意味もないと、そう疑う気持ちはある。駅長の危惧に諸手を挙げて賛成したい気持ちもある。けれども、それを表に出すのはちがうと思うし、何よりそんなことを思いたくはない。

 これが、俺の感情で。これが俺の意思なのだ。

 

「ちゃんと、いつまでも覚えていますよ。約束します。そんで、こいつには話してもいいかって思えるやつがいたら、駅長さんの話をします。そしたら俺がどうにかなっても、そいつが生きてる限りは大丈夫ですよね?」

「そうか。君の約束に応える言葉を、私は持たない。ありがとうと伝えたところで、その言葉に意味はないと考えてしまう。そんな記号めいた単語よりも……そうだな。こんな場合には、約束で返すと良いのだろうな。私が存在する限り、君と交わした会話を特別に扱うと約束するよ。いや、誓うと言った方が適切かもしれないな」

 

 情報の扱い方に、NPCらしさが窺えた。

 へたに感情を伝えられるよりも、こうした約束のほうがじんと来るのはなぜだろうか。八幡はしばし黙考して、そして過去の記憶を思い出した。

 

 

『他人との関係というものは、一瞬で変容することもあるのよ。だから私は約束を求める気持ちも理解できるし、あちらの契約への考え方に頷ける気持ちがあるのだけれど』

 

 千葉村で、木々に囲まれた空間で、彼女に言われた言葉だ。欧米なみの緻密な契約よりも、口約束が混じる我が国の契約のほうが対応に困る時があると、そんな感じのことを言っていた。

 

 厳密にこだわりすぎると無粋になるが、とはいえ理解しがたい感情を前提とした口約束は確かに対処が難しい。彼女も、そして八幡も、感情の機微には疎いから。もう一人の部員の足元にも及ばないから、よけいにそう思う。それに。

 

『ヒッキーが言う通り、あたしの得意分野なんだよね。だから最後には、あたしが頑張るから』

『もし告白が避けられなくても、関係修復はあたしが頑張るからさ』

 

 それに加えて由比ヶ浜は、ちゃんと口に出して約束してくれた。あれが口約束だとは、俺もあいつも思っていない。駅長が言い直したとおりだ。あれは誓いと言うべきだろう。

 

 だから、俺は俺で、できる範囲のことは頑張らないと。八幡はそう思った。

 駅長との約束もだが、奉仕部として依頼を二件受けている。相矛盾する依頼ではあるけれども、どこかに落としどころがあるはずだ。正攻法で済むなら部長様に任せる。だから搦め手が必要になったら、その時は躊躇せずに動こうと。八幡は静かに、心の中で二人と約束した。

 

 

「じゃあ、また来ますね。これも約束に追加で」

「ああ、楽しみに待っていよう。だが、まずは君にとって大事なことを優先したまえ。では、またな」

 

 八幡は駅長室を後にして、集合場所に向かった。

 

 

***

 

 

 同じ班の連中と合流して、新幹線に乗って。戸塚彩加と並んで三人席に座った八幡は、品川の手前で早くも睡魔に襲われた。早起きをした上に充実の時間を過ごしたことで、一気に気が緩んだのだろう。

 

 戸塚がなにか話してくれているのだが、それに応えるには頭が重い。

 なにかを尋ねてくる戸塚に、「ちゃんと聞いてるぞ」とくり返しながら。八幡はゆっくりと、夢の世界に落ちていった。




前回の東京駅訪問は3巻10話でした。今の書き方に近づけて修正を加えてありますので、よろしければ。→57話に飛ぶ。

次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(9/1,10/9,12/17)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)


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06.とざされた空間で彼女は彼に願いを重ねる。

前回のあらすじ。

 東京駅に一時間早く着いた八幡は、駅長室を訪問した。

 自らの言動を「自発的なものではない」と疑えてしまえるNPCの駅長を相手に、八幡は感情や意思の何たるかを説く。
 昔からロボットや、過保護な親に育てられた子供が直面してきた問題だけに、結論こそ出なかったものの。そして、いくつかの発言はブーメランとなって八幡にも突き刺さったのだが。
 駅長には満足してもらえたようだ。

 この世界の現状やゲーム世界との断絶を教えられた八幡は、最後に特殊な能力を一つ授与された。
 運営命名の『観光モード』を発動すると、一時的に周囲の人を消すことができる。正確には自分たちが異空間に移動するのだが、要は観光地を貸し切り状態にできる能力だ。

 駅長の存在を覚えておくと約束を交わした八幡は、心の中で改めて二件の依頼と向き合った。自分のやり方で解決できそうな時は躊躇なく動くと、同じ部活の二人に誓いを立てて。
 新幹線に乗り込んだ八幡は、早々に眠りの世界に旅立った。



 三人席を向かい合わせにして、女子四人がL字型に、そして残りの二席に男子が座っている。

 教室で交わすのと大差ないやり取りをくり返しながら、居心地の悪そうな川崎沙希にも配慮しつつ、由比ヶ浜結衣は無難に会話を進めていた。

 

「サキサキは気分悪くなってないかな。隼人くんととべっちは……大丈夫そうだね」

「いやー、新幹線ってテンション上がるっしょ。気分悪くなってる暇ねーべ」

「戸部が相手だと風邪のウイルスでも逃げ出しそうだよな。俺も大丈夫だよ」

「そりゃねーべ隼人くーん」

 

 乗り物には強いからと言って、川崎は男子と並んで逆向きの席に着いてくれた。

 戸部翔は無駄に元気で、葉山隼人は言葉だけを受け取るとトゲがあるようにも思えるが、口調は平穏そのものだ。男子だけでいる時には、いつもこんな感じのノリなのだろう。

 自分たち女性陣を前にしてのこの発言から、葉山も常とは違って気分がうわつき気味なのだろうなと由比ヶ浜は思った。

 

「あーし、早く富士山が見たいし」

「分かるっ。噴火寸前の俺の富士山を見てくれと……」

「姫菜。今にも暴走しそうな感じがしたんだけど、ホテルで寝て過ごしたくないよね?」

「え。今のもそういうあれ?」

 

 窓側に三浦優美子が、由比ヶ浜をはさんで通路側に海老名姫菜が座っているので、海老名の制御は由比ヶ浜が担当だ。不穏な気配を感じて先んじて注意をすると、川崎が引いていた。

 

「あ、ちょっとあたし、ゆきのんと三日目の話があるから抜けるね。姫菜が詰めて、サキサキもこっちに来たら?」

 

 あたしだって詳しい意味は分かんないけど、雰囲気でそう思ったんだって。そう心の中で言い訳をしながら、由比ヶ浜は慌てて立ち上がる。

 富士山が何の隠喩なのか、冷静に考えればすぐに分かりそうな気がして、意思の力で思考を止める。頬を少し上気させた由比ヶ浜は、逃げるようにして通路に出ると、そのまま前へと歩いて行った。

 

 

 車両を出てデッキでメッセージを送ろうと考えていた由比ヶ浜だが、自動ドアの手前で見知った顔を見つけた。三人席の真ん中に比企谷八幡が、奥には戸塚彩加がいて、二人ともよく眠っている。

 

「ちょっと座らせてね」

 

 小声でそう言って手刀を切って、由比ヶ浜は通路側の席に腰掛けた。さっと周囲を見回して、特に誰からも注目されていないと確認する。この手の用心は、すっかり習い性となってしまった。

 

 自分が何号車にいて、隣では八幡と戸塚が寝ていること。できれば中間ぐらいのデッキで落ち合いたいとメッセージを送って。背もたれに身体を預けて両手を前に突き出して、んっとのびをした由比ヶ浜は、横目でちらりと同級生を見やる。

 

 寝姿はとても静かだ。口を開けるでもなく、寝言やいびきもなく、行儀よく眠っている。表情は穏やかで、やる気のない濁った目は今はしっかり閉じられている。普段よりも数歳ほど幼く思えて、なんだか可愛らしい。可愛いとか幼いは男子には禁句らしいので、後で口にしないように気をつけないと。

 

 奥の席を見ると、身体を丸めた戸塚が隣席の友人と寄り添うようにして眠っている。なぜか仲の良い兄妹みたいに思えて、でも実際はもっと距離が近いのだろうなと思い直す。八幡は妹となら緊張することなく、肌を触れ合わせて仲睦まじく眠るのだろうなと。その光景を想像して、思わず笑みがこぼれる。

 

「んっ?」

 

 気配を感じたのか視線が気になったのか、八幡が小さな声を出した。起こしたら申し訳ないなとか残念だなとか思いながら眺めていると、ゆっくりと両目が開かれた。まだ半分は眠っているのか、焦点の合わない潤んだ目は何も見ていない。いつもと違った澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。

 そのまましばし時間が過ぎて。

 

「寝てたか」

「……ヒッキー、寝過ぎ」

 

 犬のように、くあっとあくびをして。続けて猫のように、んにゃっとのびをする八幡に吹き出しかけて。由比ヶ浜は感情を抑えながら短く話しかけた。過剰な反応をよこす八幡に、「そんなに驚かなくても」「でも、いつものヒッキーだ」などと思いながら、話を続ける。

 

 

「あ、富士山が見えるよ」

 

 八幡と雑談を続けていると戸塚も目を覚まして、三人での歓談となった。六人席の状況を話していると、戸塚がそう言って二人を手招きする。

 

 窓側に身体をぴたっと寄せて、頭をヘッドレストに押し付けるようにして。小型の窓をできる限り遮らないようにと身体をそらしている戸塚は、女性の目から見ても庇護欲をそそられる。両の拳をぎゅっと握りこんで胸の前でそろえている姿たるや、八幡が奇行に奔るのも仕方がないと思えるほどだ。

 

 たぶん、暴走しないようにと身構えているのだろう。八幡は少し震えながらもゆっくりと、戸塚が空けたスペースに身体を近づけていく。「ほう、これが富士」などとつぶやいて余裕を見せようとしているが、微笑ましいことこの上ない。

 だから、由比ヶ浜も動くことができた。

 

「ね、あたしにも見せて」

 

 そう言いながら、おっかなびっくり八幡の右肩に手を乗せる。そのまま身を寄せると、右肘から手首までが背中にぴたっとくっついた。八幡の体温が伝わってきて心臓が跳ねそうになるが、びくっと反応した直後から身体が硬直しているのも感じ取れて、おかげで何とか平静を保てている。そっと左手も肩に乗せて、身をよじる。

 

 八幡と戸塚の頭が視野を遮っているものの、少し首を伸ばせば窓の外が見える。そちらに意識を移すと、朝日に映える富士山が目に飛び込んできた。思わず「わあっ」とつぶやいて、八幡がくすぐったそうに身じろぎしたのであわてて口を閉じる。

 

 なにかを言いたい気持ちはあるのだけれど、この体勢でしゃべると八幡の左耳にささやくような形になってしまう。さっきは意識してなかったから大丈夫だったけど、今となっては気恥ずかしい。

 もう少しだけ、あとちょっとだけと。無言で景色を堪能しながら両手の感触を確かめていると、ふと気づいたことがあった。

 

 もしかして、何もしゃべらなくても息づかいが伝わってるかも。

 

 それほど息を荒げてはいないつもりだが、急にほっぺたが熱を帯びてきた。呼吸が激しくなるのも時間の問題だろう。そう考えた由比ヶ浜は、八幡を少し押すようにして急いで距離を取ると、いったん通路側の席に座った。ふう、と一息ついて肩の力を抜く。

 

「やっぱり綺麗だね。じゃ、あたし行くね」

 

 深呼吸をしたぐらいでは、とても冷静には戻れなかった。由比ヶ浜はなんとかそう口にすると、八幡の反応を待たずにデッキに出た。

 

 座席では、八幡の心臓が早鐘をつくように乱れ撃っている。由比ヶ浜が押したことで覆いかぶさるような形になったので、戸塚の呼吸も荒い。

 

 少し時間をかけて、何とか二人が落ち着きを取り戻したのも束の間。少しばつの悪そうな表情で、二人を混乱におとしいれた張本人が戻ってきた。

 

「あ、あのね。ゆきのんが集まって話をしないかって。だからヒッキーと、良かったらさいちゃんも一緒にどう、かな?」

 

 蚊の鳴くような声でそう言われると、また羞恥心がわき起こってくる。頭をむりやり縦に動かして、目だけで戸塚を促して、八幡はぎこちなく立ち上がると由比ヶ浜の後を追った。

 

 

***

 

 

 雪ノ下雪乃とは、すぐ近くのデッキで合流した。

 八幡と戸塚が起きていれば一緒にと、そう由比ヶ浜に指示を送った雪ノ下が間を置かず行動に出たからだ。

 

「由比ヶ浜さんの話だと、いつもと同じような雰囲気だと考えて良さそうね」

「だねー。修学旅行だーって感じは全然なくてさ。優美子はもちろん姫菜や隼人くんも、旅行気分みたいなのは伝わって来るんだけどね」

「まあ、普段どおりにしかならないって戸部に理解させるには、良いかもしれないけどな。でも告白の延期まで行けるかっていうと、どうだろな」

「それってさ。えっと、見込みはない、ってこと?」

 

 戸塚にそう確認されたので、雪ノ下が現状を説明する。

 

 明言こそしないものの、由比ヶ浜と海老名は互いの状況を把握できている。

 戸部が奉仕部に依頼をして、三人が「相手のことをより詳しく知る」という方針を掲げ課題を与えていることも。告白されればきっぱり断って、人間関係の変化にも責任を持つつもりの海老名だが、丸く収めるには告白回避が良いのではと気持ちが揺れていることも。

 

 奉仕部の対応も、ここに来てどっちつかずの状態だ。

 告白の機運を高めないようにしながらも、戸部と海老名が一緒に過ごす時間は増やしてあげたいという、風見鶏のような応対になっている。

 

「とべっちに漫画を読んでもらったのは良かったと思うのね。やっぱさ、ノリで返事をするのと、作品を知ってて何か言うのって違うなって、横で聞いててもそう思うもん。でも、旅行中に読むのは無理だろうし、ネタが尽きちゃった感じでさ」

「読んだ翌日の昼にはもう喋ってたからな。旅行前に話し尽くすって、まあ戸部らしいけど。どうしたもんかね」

「戸部くん頑張ってるし、いい結果になって欲しいってぼくも思うけど、無理強いはしたくないもんね」

「海老名さんの気持ちが揺るがない以上は、どうにもできないのよね」

 

 

 そう言って黙り込む四人のところに、タイミング良くメッセージが届いた。無言のまま送り主を確認すると、生徒会から全校生徒に向けた通知だ。

 中を開いてみると、生徒会長に立候補した生徒の氏名と、今後の大まかな日程が書かれていた。立会演説会や投票の詳細は、二年生が修学旅行から帰る今週末に通知するとのこと。

 

「まさか、一色さんが立候補するとは思わなかったわね。生徒会に取られる形になったのは残念ではあるのだけれど」

「ゆきのんのディナーを食べた時は、そんな感じじゃなかったよね?」

「サッカー部のマネージャーはどうするんだろ。ぼくグラウンドで何度か見たんだけど、気配りもできるし仕事はてきぱきしてるし、ちょっと羨ましいなって思ってたんだけど……辞めちゃうのかな?」

「もしかしたら、あえて葉山と距離を取ったのかもな。マネージャーと部長って関係をいったん清算して、違う立場で関係を作り直すとか……まあ、分からんけど」

 

 戸部の依頼のせいなのか、何でもかんでも色恋沙汰に関連づけるのは良くないなと八幡は思い直した。体育祭で交わしたやり取りは今なお意味不明な部分が多々あるのだが、あの時の姿を見ている八幡は、以前とは違うことを始める彼女に違和感を持たなかった。

 

 戸塚には、八幡の説明が腑に落ちた。文化祭で劇の主役を務めたり、体育祭で現場班の統率をしたりと、立場が変わるたびに周囲との関係も微妙に変化した。そんな経験があるだけに、彼女の新たな挑戦を理解できたからだった。

 

 雪ノ下は、もし獲得できるのなら()()()でどのように使おうかと目をつけていた後輩を、掻っさらわれた悔しさが強い。とはいえ彼女が生徒会長なら深い話もできるし良い関係を築けるだろう。そう考え直して、彼女の選択を祝福する。

 

「それって、優美子にも影響が出るよね。うーん、でもさ。ちょっと、いろはちゃんらしくない気がするんだけど。急にどうしたんだろ?」

 

 三浦の言動は分かりやすいし、この面々には危惧を伝えても大丈夫だと考えて。由比ヶ浜はまず八幡に確認を入れた。だが、続く言葉はとぎれとぎれで迷いが窺える。彼女らしくない気はするが、さりとて立候補したのは事実だしと、そこで由比ヶ浜の思考はどうどうめぐりになる。旅行が終わってから当人に話を聞いてみようと、そう結論づけるしかなかった。

 

 

 程なくして立候補のいきさつを知った生徒会長が、「せめて旅行中は何も知らせずに、京都を満喫してきて欲しい」と考えたために。奉仕部の三人が事の次第を把握するのは千葉に帰ってからになる。詳細は伏せられ、情報は生徒会役員だけに共有された。

 

 

「まあ、考えても分からんもんは分からんし、帰ったら嫌でも分かるだろ。戸部と海老名さんのことも、なるようにしかならんしな。雪ノ下が言ってたように、俺らは旅行を楽しんで、あの二人にも旅行を楽しんでもらって、その上でどうにかなるならどうにかなるんじゃね?」

「言っていることは思考放棄とも受け取れるのに、たしかに正論ではあるのよね……」

 

 雪ノ下が久しぶりに額に手を当てて苦笑していると。

 

「ぼく、聞いてて思ったんだけどさ。二人が前よりも仲良くなって、でも付き合うわけじゃないって関係に落ち着いたら、だいたい丸く収まるんだよね。だったら、やっぱり八幡が言ったとおり、二人に修学旅行を楽しんでもらうのが一番じゃないかな」

「うん、さいちゃんの言うとおりかも。こっちが『何かやらなきゃ』っていちいち手を出すのも、よく考えると違う気がするしさ。でも、旅行を楽しんでもらうためだったら、やりやすいし気も楽だよね」

 

 そんな感じで話がまとまってきたので、八幡と雪ノ下も頷くことで賛同の意を伝える。

 

 ほっとしたからか、八幡はふと関係のない話を思い出した。

 

「そういや、関東と違ってあっちのほうは、都市部を中心に点々と実装してるだけらしいぞ」

「人が足りないと運営のスタッフが悲鳴を上げていたわね。それに、世界が広がってもう十日以上が経つのに表立った不満が上がっていないのは、少し飽きられているのかもしれないわね」

「あれっ。ゆきのん最近スタッフの人と会ったの?」

「ええ。いつだったか、お悩み相談メールが届いていたでしょう。京都の猫鼻付近を作りに行って、その時に聞いたのよ」

 

 運営を手伝えなくて申し訳なかったなと今朝がた反省していた八幡とは違って、雪ノ下は猫の名を冠した地域を他人に委ねる気はないらしい。ちょっと引く。

 

「てか、飽きられてるって発想は無かったな。運営の方針転換も、それを見越してなのかもな」

「それって、さっき八幡が言ってた『点々と実装する』ってことだよね?」

「ええ。純粋に仕事が追いつかないという事情もあるとは思うのだけれど。私たちの文化祭で、部分的なログインに問題が無いと実証できたでしょう。だから運営の方針が、この世界に常住する方向から、この世界に一時的に滞在する方向にシフトする可能性は大いにあるわね」

「まあ、腹が立つけど俺らとしては、運営様の言うとおりに過ごすしかないしな。部分的なログインがメインになるんだったら、早いとこ開放して欲しいもんだわ」

 

 そう言いつつも、八幡の顔は晴れない。

 もしも、現実の世界に帰れたとして。この世界に巻き込まれたことが「無かったこと」として扱われるのなら。その時は、俺は……。

 

「ね、ヒッキー。前に東京わんにゃんショーで約束したよね。現実のサブレに会って欲しいって。あの約束、今も続いてるよね?」

「あー。……いや、忘れた」

「比企谷くん、貴方……」

「まあ、あれだ。この世界から解放されるってなったら、そん時には思い出すんじゃね。だから、今は知らん」

 

 由比ヶ浜に、そして確実に雪ノ下にも。不安を察知されたのが悔しくて、面映ゆくて、厄介で、残念で、ちょっと嬉しくて、少し安心して、でも自分が情けなくて。思いっきり捻くれた言葉を返してみた。

 二人はもちろんのこと、戸塚からも生暖かい目で見られて居心地が悪い。半々かそれ以下の確率だろうなと思いながら、ダメ元でじろりと部長様を睨んで助けを求めると。

 

「では、由比ヶ浜さんと比企谷くんは三日目に。こちらでも行き先を絞っておくけれど、希望があれば早めに教えてくれると助かるわね。戸塚くんも旅行を楽しんで。それと、()()二人のことをお願いね」

 

 めずらしく助け船を出してくれた雪ノ下がそう締めくくって、四人の集まりはお開きになった。

 

 

***

 

 

 京都駅からバスで清水寺に向かった。

 お寺の入場口から延びる長い列に、おとなしく並んでいる八幡に声をかける。

 

「ヒッキー、ちょっとこっち」

 

 近くにいる同級生に話しかけて、列をキープしてもらう代わりに別の場所で借りを返す形で、素早く話をまとめた。八幡の呆れ顔がちょっとつらい。

 

「面白そうなとこがあってね。姫菜ととべっちも先に行ってるしさ、別にいいじゃん」

 

 そう言うと、一瞬だけ不満そうな表情を浮かべるものの、結局はついて来てくれる。

 葉山と三浦にも声をかけたこと、川崎は陶器を見たいと言って一人でぶらっと去って行ったこと、戸塚が運動部の部長たちに捕まっていることなどを話しながら小さなお堂に入ると、四人が待っていた。

 

「随求堂の胎内めぐり、か。んじゃま、行くか」

 

 葉山と三浦、戸部と海老名の順に入って行く。その二組を見送って、少し緊張しながら八幡の様子を窺っていると、思ったよりも前向きな声でそう告げられた。勢いよく頷いて、すぐ後に従う。

 

 中に入って数歩進むと真っ暗闇になって、数珠状の手すりだけが行き先を教えてくれる。目を開けても閉じても、何も見えない。

 

「暗い暗いやばい暗いやばい」

 

 少し離れたところから、三浦のおびえる声が聞こえてきた。ほっぺの辺りの緊張がとけて、気持ちも楽になった気がする。葉山の冷静なつぶやきや、戸部のさわがしい声、海老名の投げやりなあいづちは伝わってくるが、八幡の声も息づかいもまるで聞こえない。

 もしかして、はぐれちゃったのかな。

 

 

「うおっ?」

 

 手すりに沿って手をうんと先に伸ばそうとしたら、意外と近いところで生温かいものにぶつかった。同時に八幡の声がしたので、そちらに意識を奪われていると。今度は身体全体が、大きくて温かい何かとぶつかった。立ち止まって自由なほうの手でぺたぺたと確認しながら、名前を呼ぶ。

 

「えっと、ヒッキーだよね?」

「お、おう。これ、手すりのほうも由比ヶ浜か?」

「うん、ほら。こっちはヒッキーの背中だよね、あ、ここから腕っぽい。あってる?」

 

 八幡の問いかけに、手首のあたりを手すりに残して、指の先でちょんちょんと温かいものを突っついた。逆の手を横に動かしていくと感触が変わったので、予想を口にしてみると。

 

「はあ。まあ、いいわ。ぶつかったの大丈夫か。大丈夫なら先に進むけど」

「え、うん、大丈夫だけど。じゃ、ゆっくり進もっか。ちょっとごめんね」

 

 なぜかため息を返されたので、暗闇の中で首をこてんと傾ける。腕じゃないなら、まだ背中なのだろうか。とはいえ正解にこだわる気もないので、意識を入れ替える。

 またぶつかったり、はぐれるのは嫌だなと思って、ブレザーに軽く沿うようにして手を下のほうに。裾の辺りをちまっと掴んだ。でも、背中にしては少し違和感がある。これ、やっぱり背中じゃなくて……。

 

「ひゃっ……ってこれ、ちゃんと答えなかった俺のせいなのかね。あー、由比ヶ浜。さっきのは腕であってる。だからお前が今持ってるのは、裾じゃなくて袖なんだが」

 

 また手が触れないように、可能な限り逆側に寄せているのが感覚で分かる。ドキドキするのは由比ヶ浜も同じなのだが。相手が慌てていると、なぜかそのぶん冷静になれる。

 

「うーん、でもさ。手を離しちゃうとちょっと怖いから、このままでいい?」

「あー、まあ、お前が良いなら良いか。誰も見てないし」

 

 最後は小声だったが、こんな環境だからかしっかり聴き取れた。

 誰が見てなかったらいいの、とは訊けなかった。尋ねるつもりもなかったけれど。

 

 

 慎重に足を進めていくと、二人の手は何度か偶然かすった程度でそれ以上の進展はなかった。とはいえ八幡の反応がなくなると急に恥ずかしさが込み上げてきたので、由比ヶ浜としてもこれでもう充分という心境だ。

 

 歩いていると、仄かな灯りが見えてきた。名残惜しいが袖から手を離す。

 

「あそこで石を回して、お願い事をするんだって」

「ほーん」

 

 気のない返事だが、頭の中では真剣に考えているのが分かる。ずっと暗いところにいたせいか、表情の一つ一つを細やかに見分けられる気がする。たぶん今は、妹想いのお兄ちゃんの顔。だからお願い事も、おそらくそれだろう。

 

「決まった?」

「ん。お前は?」

「うん、大丈夫。じゃ、一緒に回そっか」

 

 石を二人で回しながら、お願い事を真剣に思い浮かべる。

 

『二月の中頃に、いいことがありますように』

 

 これならたぶん、八幡の願い事と重なるだろう。きっと、妹の受験合格を願っているのだろうから。あたしのぶんのお願いも合わせて、いい結果になって欲しい。それに二月の中頃には、あのイベントもある。

 その頃に、いいことがあるといいなと思いながら。石を回し終えた由比ヶ浜は大きく柏手を二回。もう一度、心の中でお願い事をくり返しながら、短い時間だけど手を合わせて真剣に祈る。

 

「よし、じゃあ行こっ!」

 

 再び暗闇の中に戻るも、すぐに出口が見えてきた。先行の四人と合流して、ほっと一息つく。

 列をキープしてくれている同級生から「もうすぐ入り口」と連絡が来たので、一同は急いでそちらに向かった。

 

 

***

 

 

 先程からの流れで、由比ヶ浜は八幡と並ぶようにして清水の舞台に立った。

 こちらに気を遣って距離を取ることも、いつの間にか消え失せるようなこともなかったので、ほっと胸をなで下ろす。

 

「ねね。ヒッキー、写真!」

 

 そう言うと無言で頷きながら距離を空けられ、「ピーナッツ」という合図とともに写真を撮られた。とっさにポーズを取ったものの、まったくもって解せない。

 

「じゃなくて。あと、さっきのかけ声はちょっと……」

「ばっかお前、千葉県民のたしなみだろ?」

 

 よく分からないことを言っている八幡を手招きして。隣に立って、カメラの自撮りを試みる。

 

「もうちょっと近づいてくれる?」

「あ、おい、お前……」

 

 意図したわけではなかったけれど、軽く腕が絡まった。後で写真をあげることを考えながら、今の気持ちにぴったりの笑顔を浮かべる。

 

「ありがと。後で送るね」

「ん、まあ、そのうちな」

 

 いつもながらのよく分からない返事だったが、今更その程度のことは気にならない。ぱっと腕を離して、リズミカルに数歩進んでターンする。

 

「じゃあさ、優美子と姫菜を呼んでくるから、もうちょっと写真撮ってくれる?」

「ほいよ。ここにいれば良いんだよな?」

「うん、お願い」

 

 八幡が三人の写真を撮っていると、葉山や戸部も近づいてきた。他の班になった大岡や大和も来れば、文化祭の実行委員長様とその取り巻きまで現れて。最終的にはF組の半数ほどが集結した。

 俺は雇われのカメラマンじゃなくて、お前らの同級生なんだが。そんな不満を小声で呟きながら、八幡は戸塚の写真を心の糧にして、なんとか全員分を撮り終える。川崎から緊張の面持ちで撮影をお願いされたのが印象的だった。

 

「なあ、由比ヶ浜。これ、写ってる全員に送るべきなんだろうけどな。正直、顔と名前が一致してないやつも多いし、頼まれて欲しいんだが?」

「うーん。じゃあさ、あたしたちの班とヒッキーの班の八人と、あと大岡くんと大和くんには送れるよね。さがみんはどう?」

「お前に任せる」

 

 まさに即答だった。相変わらず不幸体質は健在らしい。

 

「でもさ。写真を送ったあと、できれば削除はしないで欲しいな。せっかく撮ったんだしさ、残しておいてくれると嬉しいんだけど」

「まあ、そっか。そうだな」

 

 実は言われずとも、八幡はそうするつもりだった。その理由は、目の前の同級生にある。

 

 大半の写真に参加していた由比ヶ浜は、撮られるごとにその表情をくるくると変化させていた。嬉しいや楽しいを表現するのにこれほど多くの顔つきや仕草が存在するのかと、八幡は撮影しながら感嘆の声を上げそうになったほどだ。

 

 本人に黙って写真を保存しておくのは、気がとがめるけれど。こうして許可を得られた今となっては、写真を削除するつもりなどさらさらない。

 

 帰ったら妹にも見せてやろうと考えながら、八幡は由比ヶ浜と連れ立って、経路に沿って進んで行った。

 

 

 本殿のすぐ北側にある地主神社は、縁結びで有名だ。縄文時代から伝わるという二つのご神石の一方から他方に向けて、目をつむって歩く。

 およそ十メートルほどの距離を、誰からも助言を受けずに一度目でたどり着いた強者が、たった今あらわれた。

 

「ねえ、あれってさ……」

「言うな。つか、なんでここでも白衣を着てるんだろうな、あの顧問は」

「でもさ。一度目で成功だから、恋の成就が早いんだよね。お祝いって、なにがいいかな?」

「さあな。助言を受けずに成功って、人の助けを借りなくても余裕って意味らしいけど。変な相手と成就しても困るだけだし、もう少し人の意見を聞いたほうが良い気がするけどな」

 

 同級生の前で挑むと、意中の人がいるという意味に受け取られそうなので。由比ヶ浜も八幡も、二つのご神石を遠巻きに眺めていた。

 すると、見知った顔が挑戦者として名乗りを上げる。

 

「おいおい、戸部がやるのかよ」

「まあ、とべっちだしさ。なにもなくてもやると思うよ」

 

 周囲の声にさんざん惑わされたあげく、最後には葉山に助けてもらって何とか向こう側のご神石にたどり着いた戸部。

 結果はともかく道中を見る限り、思った以上に霊験あらたかなのかもなと八幡は思った。

 

「あそこで、おみくじが引けるみたい。ヒッキーは?」

「俺は遠慮しとくわ。ん、今ちょうど引いたの三浦じゃね。その後ろ海老名さんっぽいし」

「あ、ほんとだ。じゃ、あたしもちょっと行ってくるね」

 

 ぱたぱたと走り去る由比ヶ浜を、八幡はのんびり歩いて追いかける。聞き覚えのある騒がしい声が後ろから聞こえてきたので、おみくじの辺りで再集合となりそうだ。

 

「じゃあさ。いっせいにばっ、って開けよっか」

 

 おみくじを手にした女子三人が、そんなふうに盛り上がっている。川崎は「あたしはいいよ」と一歩引いて見守っていて、その横では戸塚が少し羨ましそうな顔をしている。おみくじを引きたいのかなと八幡は思うも、何となく勧める気が起きなくて、その横顔を眺めるだけだった。

 

「よしっ、大吉だし!」

「あー、私は凶かぁー」

「あたしは末吉、ってなんか微妙?」

 

 いそいそとおみくじを折りたたみ始める三浦。声のトーンとは裏腹に、どんよりした気配を一瞬だけ漂わせた海老名。そして由比ヶ浜は首を傾げて困っていた。

 

「最終的には吉になるってことだし、かえって良いんじゃね?」

「だべだべ。海老名さんもさ、今が凶なら後は上がって行くだけっしょ」

「優美子はずっと大吉が続いてる感じだよな。俺もあやかりたいよ」

 

 軽い口調で八幡がフォローをすると、意外にも戸部が続いて海老名を元気づけていた。その発言は女王のお怒りを呼びかねない側面があったのだが、さすがに如才なく葉山が場を収める。

 

 だが、八幡は何かが引っかかった。

 戸部には「海老名さんのおみくじを結んでやったら」と提案して、念のために少し後ろに下がりながら。小声で葉山に話しかける。

 

 

「さっき戸塚が運動部の部長連中に捕まってたって聞いたんだが。お前は、そっち方面の付き合いは大丈夫なのか?」

「ああ。春に優美子がサッカー部の見学に来た話は知ってるかな。あれで、実質的には運動部のほとんどが救われたんだよ。だから俺が優美子と一緒にいるほうが、あいつらも気が楽みたいでさ」

 

 八幡に合わせるように、他の面々から数歩下がって。葉山は何でもないような口調でそう答えた。

 人気者の葉山が、今日は朝からずっと三浦と一緒に過ごしている。そこに引っかかりを覚えた八幡が無難な問いを投げかけてみたのだが、さすがに話が早い。だが、ここには微妙な問題が潜んでいる。それを白日の下にさらしても良いのだろうか。

 

「噂でしか知らん上に、俺の場合は又聞きだからな。なんか部員のやる気を出させたとか、そんな感じだったか?」

「当たり前のことを当たり前のように指摘できるって、すごいことだと思うよ。特にあれは、この世界に巻き込まれた直後だったから、よけいにね。だから優美子が運動部の連中に人気なのも分かるし、俺も感謝してはいるんだけどさ」

 

 この話はここまでだと、葉山に言われた気がした。軽く頷いて了承の意を伝える。とはいえ八幡にはもう一つだけ尋ねておきたいことがある。

 

「お前は、立候補の話は聞いてたのか?」

「ん……ああ、そういえば千葉村でも一緒だったし、文化祭の打ち上げもそっちに行ってたな。いろはの立候補には俺も驚いてるよ。結衣と雪ノ下さんと、どんどん仲良くなってたから、その影響かなって。それぐらいしか推測が立たないな。もしかして、君の影響かい?」

 

 八幡との繋がりを知らなかったのか、最初は怪訝な顔をされたものの。すぐに自分で納得して、知る限りのことを教えてくれた。最後のからかいは余計だったが。

 

「んなわけねーだろ。お前が言うとおり、うちの部長様がご執心でな。サッカー部から引き抜けるなら引き抜きたいとか、のたまってたんだが。まあ、辞めるわけないだろって結論だったし、しょせんは戯れ言だから勘弁してやってくれ」

「今いろはに辞められると困るから、帰って早々に話を聞こうって戸部とも話してたんだけどさ。奉仕部もいろはの立候補を把握してなかったってことだよね。……ちょっと、引っかかるな」

 

 らしくないと述べた由比ヶ浜に続いて葉山にまでそう言われると、八幡も口を真一文字に結んで厳しい表情にならざるをえない。

 

「つっても修学旅行の間は他の学年との連絡は禁止だし、それが分かってるから帰って話すって言ってるんだろ。規則だけならこっそり破れば良いんだが、システム的に不可能だからな。年子の家族でもいれば、そこ経由で連絡を取れないことも……あ。まあ、真相究明を急いでも意味はないだろうし、帰ってからじっくり話してみりゃ良いんじゃね?」

「そうだね。病欠の時に、許可した人を除いて連絡不可になるのは分かるんだけどさ。落ち着いて眠れないからね。でも、修学旅行で連絡禁止は意味が分からないな。システムの前に規則があるんだし、無意味なものはさっさと撤廃しておくべきだね」

 

 目下の問題を考えつつも、二人は同時に別のことも考えていたりする。噛み合っているのかいないのか、よく分からない二人の会話は続く。

 

「ふたを開けてみれば、単にサッカー部が見限られただけって話かもしれんしな。まあ週末のお楽しみで良いんじゃね?」

「どっちにしても、奉仕部に行く気がなかったのは間違いないんじゃないかな。たしかに面白そうな組み合わせだとは思うけどね」

 

 別のことは考え終わったのか、二人は目下の問題を名目に一太刀ずつ浴びせ合っている。仲が良いのか悪いのか、よく分からない二人の会話は続く。

 

「ちょっと思ったんだが。万が一何か問題があったとして、その場合はうちとお前らの合同チームが問題解決に当たるわけだろ。そう考えたら、あんま心配しなくても良いんじゃね?」

「なるほど。サッカー部と奉仕部が同盟を組んだら、たいていのことは何とかなりそうだね。だから、今の段階では気にしすぎることはない、か」

 

 現実には起こり得ない組み合わせだが、二人はそれを百も承知で話を終わらせるために利用する。

 お互いにあと一つだけ、話題の彼女のことをどう思っているのか目の前の男に訊ねてみたいという想いはあるのだが。知りたい以上に知られたくなくて、二人はともに口をつぐむ。

 

 沈黙の先では、戸部がせいいっぱい背伸びをして、海老名のおみくじを高いところに結び終えていた。一歩前に出て、元の立ち位置に戻ろうとしたところで、葉山の声が小さく聞こえて来た。

 

「そういえばさ。同じ班になってくれて助かったよ。あのままだと、機運ばかりが高まって、ろくな結果にならなかった」

「つっても、まだどうなるか分からんぞ。行動に出る可能性は高いままだしな」

「正直に言うと、結果が出た後のほうが動きやすいんだよね。それは結衣も、雪ノ下さんも同じだと思うけど」

「それな。未然に防ぐのって一番難しいよな」

 

 ぼそぼそと話を続けながら、絵馬を見ていた三浦と由比ヶ浜が帰ってくるのを眺める。

 

 同じタイミングで戻ってくる戸部と海老名を、由比ヶ浜がちらっと見たので。「戸部には触れ合いの機会を与え、海老名さんには凶のおみくじを合法的に処分してもらっただけだ」と目で伝えておいた。伝わったかどうかは分からない。

 

 

 順路に従って拝観を続けていると、やがて音羽の滝が見えてきた。

 滝は三筋に分かれていて、向かって左は学業成就、真ん中は恋愛成就、右は延命長寿のご利益があるのだとか。

 

 由比ヶ浜がガイドブック片手にみんなに説明しているのを、聞くとはなしに聞いていると。右側の滝に、どこかで見たような見たくなかったような男子生徒を見つけた。

 あわてて視線をそらしたものの、やつは見られている感覚には敏感だ。きょろきょろと辺りを見回していたかと思うと、材木座義輝が正確にこちらを射すくめてきた。といっても特に怖くも何ともないのだが。

 

「八幡よ、そして戸塚氏も久しいの。我としたことが、とんだ醜態を晒すところであった」

「いや、お前の場合は年がら年中、醜態を晒し続けてるだろ。つか、なんで延命長寿なんだ?」

「あ、ぼくも知りたいな」

「ほむん。伝承によると封じられし我の真の力は、九百年を経て鼓動を取り戻し、九十年を経て理知を取り戻し、九年を経て……」

「そのまんまパクリじゃねーか。心頭を滅却して反省しとけ」

 

 聞いて損したし、そもそも今朝がた褒めてやって損したと、心の中で悪態をつきながらも。その設定で延命長寿の水を飲むのはちょっと面白いかもしれないなと、中二心を揺さぶられる八幡だった。

 

 水を飲み終えている材木座と別れて、長い列に並んだ。とはいえ近くには戸塚もいるし、由比ヶ浜が話題を切らさずみんなを飽きさせないので、待ち時間はあっという間に過ぎた。

 他の連中を先に行かせて、しんがりを務めようとぼけっとしていると。

 

「優美子とサキサキとさいちゃんが学業で、隼人くんと姫菜は長寿かあ。恋愛はとべっちだけだね。うー、悩むなぁ……」

 

 三択で悩む由比ヶ浜が残っていた。

 マークテストの時にもこんなふうに最後まで迷っているんだろうなと、思わず笑みがこぼれる。むっと睨まれたので、助言でもしてやるかと口を開く。

 

「他のやつがどれ選んだとか、誰に見られてるとか気にしねーで、好きなもん選べ。周りに選ばされるよりも自分で選んだほうが、後で後悔する時でも気が楽だぞ」

「ふんふん、って途中まではいい話だったのに、結局は後悔しちゃうんだ……」

 

 何やらご不満のようだが、どんな選択をしたところで後悔はついて回るものだと八幡は思う。だからこそ、という意味で話してみたのだが。まあ本意は伝わっているようだし、由比ヶ浜が不満を抱いている先はそれではないと分かるので、八幡にも反論はない。

 

「じゃあヒッキー、先に行くね」

 

 そう言って滅菌棚から柄杓を取った由比ヶ浜は、それを迷わず真ん中の滝に突き出した。ちょろちょろと水が貯まるのを待って、柄杓を口元に寄せると髪をかき上げてこくりと一口。白い喉が動く様が艶めかしくて、思わず八幡は視線をそらした。

 

「ん。これほんと、おいしい」

 

 そっぽを向いていた顔を戻すと、目を輝かせている由比ヶ浜。なんだか微笑ましい気分になる。

 じゃあ俺もいただきますかねと思いながら滅菌棚に向けて足を踏み出すと、由比ヶ浜がまた真ん中の滝から水を受けている。まだ飲み足りないのかと、さすがに呆れる気持ちがわいてきたのだが。

 

「はい。ヒッキーのぶん、汲んどいたから」

 

 そう言いながら柄杓を渡された。思わず受け取ってしまったものの、対応に困る。

 

「いや、これはちょっと、あれだ……」

「んっ、と……あっ!」

 

 分かってくれたのは重畳だが、覆水が盆に返らないのと同様に柄杓の水も滝には戻らない。それを捨てるなんてとんでもないと怒られそうだし、八幡にできるのはこの水を飲むことだけ。

 

 せめて、同じ場所は避けようと考えて。八幡は柄杓の柄を向こう側に向けて、柄に頭をぶたれるようにして水を飲み干した。全く味がしないのだが、それよりも早くこの場から立ち去りたい。

 

 顔を赤らめる由比ヶ浜を一睨みして、八幡は南禅寺から哲学の道を抜けて銀閣寺へと向かうのだった。

 




次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
窓側→通路側など、誤記を二つ修正しました。(9/8)
変な改行と細かな表現を修正しました。(9/12,10/9)


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07.べつに普通だと言いながら彼は特別な話を語る。

前回のあらすじ。

 新幹線のデッキで奉仕部三人と戸塚が集合したものの、依頼は袋小路に陥っていた。戸部と海老名の双方に、どっちつかずの対応が続いている。
 旅先で楽しい時間を過ごして二人に仲を深めてもらいつつ、付き合うには至らないという結末を目指す。そんな方針しか出せていない。未然に防ぐことの難しさを八幡たちは実感する。

 生徒会から通知があり、一色が会長に立候補したとのこと。
 体育祭での会話を思い出して一度は納得したものの。由比ヶ浜や葉山が首を傾げているのを見ると、八幡も身構えざるを得ない。いくらなんでも唐突すぎる。

 告白や立候補といった変化をもたらす行動が間近に迫ると、複雑に絡み合った関係が見えやすくなる。事は戸部と海老名や一色にとどまらないと、八幡もうすうす勘づき始めた。
 それらに加えて、運営の今後の方針にも不安が募る。

 それでも八幡は、時に恥ずかしい思いをしつつも修学旅行を楽しんでいた。



 夕食を終えると、男子の部屋では少人数のグループに分かれて麻雀やゲームで盛り上がっていた。中にはDSでドカポンを始めるグループもある。

 友情にひびが入っても知らんし他の連中を巻き込むなよと、比企谷八幡がそんなことを考えていると。

 

「八幡よ。貴様を呼べとUNOが言うので、こうしてまかり越した。覚悟はできていようの?」

「ぼくも参加していいかな。あ、でも八幡ちょっと眠そうだけど?」

「歩き疲れたのは事実だが、まあ大丈夫だ。つか、呼べと言われてお前が来るって、なんか変じゃね?」

 

 麻雀の誘いは断ったものの、UNOぐらいなら何とかなるかと思って八幡はのろのろと身を起こした。戸塚彩加に心配されて、たちまち動作が機敏になる。

 

 材木座義輝が「ぬう、痛いところを」と大仰に反応しているのには目もくれず。盛んにあくびを連発しながら八幡は勝負に挑み、UNOを言い忘れた罰ゲームで買い出しに行くことになってしまった。

 

 

***

 

 

 一階のロビーに自販機があったのを思い出して階段を下りる。

 京都にはマッカンは無いのかとおののきながら、八幡はできるだけ甘そうなコーヒーを選んだ。少しは眠気ざましになるだろう。戸塚と材木座には何を買おうかと悩みつつ、ついでなので大浴場の横にある京みやげの売店でも覗いてみるかと考えていると。

 

 ふと視線を感じた八幡は、緩慢な動作で振り返った。フロントの向こう側をだらんとした目で眺めると、カフェの奥のほうに人影が見える。手を振られたので、念のため背後に誰もいないのを確認して。仕方なく、のそのそとそちらに近づいて行く。

 

 ホテルの西側にはロビーからそのまま繋がるようにしてカフェ・レストランがある。明日からの朝食はここで摂る予定だ。ビュッフェ形式で並べられた食材に去年の生徒が群がっている写真を旅行前に見たのだが、西側と南側の窓は天井まで届く高さで、特に丸太町通に面した側からは明るい光が差し込んで店内を燦然と輝かせていたのが印象的だった。

 

 カフェに足を踏み入れた頃には、顔の判別ができるようになった。一人は見知らぬ男子生徒、もう一人は生徒会の本牧牧人だ。眠気のせいか反射的に近寄ってしまったが、少し面倒だなと八幡は思う。適当なところで、買い出しを理由に退散するかと考えていると。

 

「ちょうど噂をしてたところに現れたからさ。文化祭に体育祭と、けっこう一緒に仕事をしてたのに、ちゃんと話したことは無かったよな。よかったら、ちょっと座っていかないか?」

「ん、まあいいけどな。えっと、そっちは?」

「オレは比企谷のことを知ってるんだけど、そっちは認識してなかったか。まあ仕方ないな」

 

 椅子に腰かける八幡に苦笑いを送りながら、その男子生徒は稲村純(いなむらじゅん)と名乗った。

 

 

 二年F組では担任が読み方を間違えているので(八幡も訂正するのが面倒なので)ヒキタニ呼びが優勢だが、比企谷と呼ぶなら他クラスだろう。ちなみにヒッキーと呼ぶのは後にも先にも由比ヶ浜結衣しかいないが、そんな例外は除外して。

 

 もしかしたら、去年同じクラスだったのかもしれないなと。自分が有名人だとは思ってもいない八幡が頭をひねっていると。

 

「稲村は生徒会の臨時メンバーみたいな立ち位置でな。どうしても人が足りない時とかに助けてもらってたんだけど」

「それも今年の入学式が最後で、この世界に巻き込まれてからは断ってたからな。比企谷がオレを知らないのも無理ないよ」

「他の部活かなんかを始めたってことか?」

 

 どうやら去年も別のクラスっぽいなと頷きながら。八幡は甘いコーヒーをすすりつつ、二人の説明に口を挟んだ。

 

「やっぱり鋭いな。会長も頭の回転をほめてたし、そもそも雪ノ下さんと対等に渡り合うには、それぐらいできて当然なのかもしれないけどさ」

「いや、ちょっと待て。雪ノ下と対等に渡り合うとか俺には無理だぞ。その役目は由比ヶ浜に任せてるから、ほめるんならそっちだろ?」

「由比ヶ浜さんは、うん。すごいなってオレも思うよ」

 

 奥歯に物がはさまったような話し方に、思わず八幡は身構える。この反応からして、稲村が由比ヶ浜に特別な想いを抱いているのは間違いないのだろう。

 思っていた以上に面倒な話になるかもなと思いつつ、乗りかかった船とはこのことかと八幡は一瞬で腹をくくる。押して駄目なら諦めろの精神は今日も健在だ。

 

「会長も由比ヶ浜さんのことはべた褒めでさ。雪ノ下さんか由比ヶ浜さんか、どっちかが会長職を引き継いでくれないかなって、ここ最近ずっと言ってたからな。ちょっと我が身が情けなくなるけど、身の程は自分が一番わきまえてるからさ。正直あの二人の下で仕事ができたらなって思うもんな」

「ちょっと待て。由比ヶ浜まで狙われてるとは思ってなかったんだが。城廻先輩は雪ノ下に後を継いで欲しいんじゃなかったのか?」

「本命が雪ノ下さんなのは間違いないとしてもさ。並の相手だと冷やかしにもならないだろ。対抗馬として考えられるのは、由比ヶ浜さんぐらいだってオレも思うけどな」

 

 稲村にそう言われると、納得できる部分もある。しかし八幡も会長の人となりは何となく把握している。あの人が、こんなふうに特定の部活から人材を強奪して回るようなことを考えるだろうか。

 

「もしかして、城廻先輩が由比ヶ浜の話をし始めたのって、けっこう突然じゃなかったか。例えば、いつかの週明けにいきなり話が出て来たとか」

「どうだったかな。……ああ、たしかに言われてみれば、急に思いついたって感じだったかもな。でもさ、それって別に不思議じゃないだろ。なんで今までこの案に気づかなかったんだって思うような時は、いくらでもあるしさ」

「それに文化祭とか体育祭で奉仕部の活躍が目立ってたからな。だから会長の発想が突然だったとしても、オレも変とは思わないな」

 

 そう言われると、反論の気持ちが薄れてくる。あの二人の活躍を誰よりも間近で見ていたのは、他ならぬ八幡自身なのだから。

 だが、八幡には心当たりがあった。会長に助言できる立場にいて、由比ヶ浜を擁立することがその人の思惑に叶うような、そんな人物の心当たりが。

 

 

「まあ、結局は一色が立候補したから、終わった話だけどな」

「まあ、な……」

 

 今度は本牧の歯切れが悪くなった。稲村は苦笑しているが、先程の由比ヶ浜に対するような屈託はなさそうだ。自分とは無関係だと、そんな感じの気配を感じる。

 

「もしかして、さっきまでその話をしてたのかね。一色の立候補に何か問題でもあったのか?」

「詳しい話は今は言えないけどさ。たぶん、帰ったら奉仕部にも助けてもらうと思うから、先に謝っとくよ。最悪の場合は……」

「どうなるかも分からないのに、不用意なことは言うべきじゃないぞ。オレにできることがあるとは思えないけど、この件だけは例外だからな。本牧が抱え込みすぎるなよ」

 

 二人の発言から、八幡は諸事情を悟った。

 

 あの会長の性格を考えると、今は生徒会から遠のいているとはいえ、かつての臨時メンバーだった稲村を除外することはないだろう。つまり生徒会の連絡網に今もしっかり含まれているはずだ。ここまではほぼ確定だろう。

 

 おそらく立候補に何らかの問題があって、それはこの旅行中には解決が難しいのだろう。だから二年生が千葉に帰ってから、奉仕部の助けも借りて一気に問題を片付けるつもりで、それまでは箝口令を敷いているのだろう。そんな推測を立ててみたが、いちおう矛盾はなさそうだ。

 

 残るは立候補に関する問題だが、八幡には予備知識がある。

 あのあざとい後輩は、文化祭でクラスの女子からいわれのない非難を受けていた。

 

 選挙には興味がなかったので詳しい規則は把握していないが、可能性が高いのは罷免要求あたりだろうか。就任直後にリコールを起こすと生徒会に訴え出れば、色んな物事がストップしてしまう。

 

 あるいは、もしかすると鶏と卵が逆かもしれない。

 

 つまり、クラスの女子に対処するために生徒会長という権力を欲したのであれば。突然の立候補にも納得がいくし、対抗策としてリコール案が出る可能性も高い。こちらのほうが物事の流れがスムーズだ。

 

 そんなふうにして、八幡はひとまず考察を終えた。

 正解に至らなかったのは、一年女子の悪質さを見誤っていたのが原因だが。わずかな情報を頼りにここまで正解に近づけたのは、八幡の能力と経験の賜物と言って良いのだろう。

 

 

「んじゃま、あんま突っ込まれたくなさそうだし話を戻すか。聞いていいのか分からんけど、稲村は生徒会のかわりに何を始めたんだ?」

「そうしてくれると助かるよ。詳しいことは、お前が話すほうがいいよな?」

「ちょっと説明するのは恥ずかしいんだけどな。その、サーファーの真似事をしてる」

 

「サーファーって、あの、なんだ。波に乗ってジョニーみたいなやつだろ?」

「ぶっ。なんだよその言い方は」

「いやま、かなり核心を突いてるけどな。まあ順を追って話すと、ゲームの世界にでも行かない限り、この世界では基本的に命の危険はないだろ。だからサーフィンの練習とか良いかもなって思ったのがきっかけでな」

 

 東京駅での会話を思い出してびくっと反応した八幡だが、余計なことは口にせず身振りで続きを促す。

 

「今は自分でも上手くなったと思うし、現実に帰っても掴んだコツとかは残りそうだし、やって良かったなって思うんだけど。最初の頃は何度も悩んでな」

「上手く波に乗れなかったってことだよな?」

「いや、そうじゃなくて、波に乗る理由を悩んでてさ。……やっぱ、最初から説明しないと通じないよな。つまらない身の上話だけど、ちょっとだけ付き合ってくれるか?」

 

 いつしか本牧は話に加わるのをやめて、傍観に徹している。

 稲村にそう言われて断れるわけもなく。それに少し興味もわいてきたので、八幡は首を縦に動かした。

 

「オレの名前は、まあ両親がつけたんだけどさ。二人ともサザンオールスターズの大ファンなわけよ。オレが生まれる前から家ではサザンばっか流れてたし、今もそれは変わってないのな。けど、言っちゃ悪いけど世代が違うじゃん。だから周りの友達とは話が合わなくてな」

 

「いや、でも俺らも文化祭で昔の曲を演奏したけど、けっこう知ってたぞ?」

「だってミスチルはまだ平成デビューだろ。こっちは昭和だし、年代で言ったら70年代だぞ。同級生からすれば親の世代かその上って扱いでさ。でも、家ではサザンしか流さないし、たまには別のをって言ってもソロ活動の曲が出てくるだけでな。両親はバカみたいに『英才教育』とか言ってたけど、勘弁してくれってずっと思ってて」

 

 思った以上に重い話だったが、何となく気持ちは分かるなと八幡は思った。稲村が親に向けるやるせない気持ちも、勝手なレッテルを貼ってくる同級生に抱いたであろう感情も。

 

「サザンは悪くないってのは、オレも分かってたんだけどさ。一時期はイントロを聴くだけでも嫌になって、下校ギリギリまで小学校に残ってたり、休みの日も朝から遊びに行ったりしてて。そしたら親もちょっと反省したのか、他のミュージシャンも聴かせてやるって言って野外フェスに連れてってくれてな。まあ、大トリはサザンだったんだけどさ」

 

 両親の徹底ぶりに思わず吹き出してしまった八幡だった。

 

「でも、今までほとんど聴いたことがなかった曲を朝からずっと聴いて、それからサザンを聴いたら、やっぱり身体が覚えてるんだろな。凄いなって、その時はじめて思ったのよ。本牧と比企谷はさ、イントロがピアノで、ファ#ミファレーシーソーシレド#ーレミーって言って始まる曲、知ってる?」

「知ってる」

「俺もなんとなく分かる」

 

 本牧と八幡が順にそう答えると。

 

「オレが物心つく前から、この曲がお気に入りだったって親が言ってたけど、なんか呪いみたいな感覚なのな。その、『稲村ジェーン』って映画があるんだけどさ。サザンの桑田が監督で、その中で使われてる曲で。分かると思うけど、オレの名前の元ネタがこれな」

 

「そういうのは、なんか大変そうだな。俺も父親から変な教育を受けたけど、画廊には近づくなとか美人局には気をつけろとか、まあ親父が酷い目にあったから俺に言ってるのは分かるんだが、勘弁してくれって思ったもんな」

「え、それって金とか女が絡むぶんオレより大変じゃね。親父さん、大丈夫だったのか?」

「どっちも、うちのかーちゃんが直談判で話をつけてな。それ以来、絶対に頭が上がらねーって親父が言ってた」

 

 妹も成長したらあんなふうになるのだろうかと思いつつ。一瞬だけ妹の旦那に同情しかけたものの、すぐに「妹は嫁にやらん」と気を取り直して、八幡は目で話の続きを求めた。

 

「なんか、いいご両親だな。話を戻すとさ、その野外フェスでオレが突然叫んだらしいのよ。オレ的にはステージに意識を持って行かれてたから、そんなの全く覚えてないんだけど、『来る!』って言ったらしいのな。直後にさっきのピアノのイントロが始まって、両親は曲で盛り上がる以上にビックリしたみたいでさ」

「それってあれか、この曲限定の予知能力みたいな?」

 

「偶然の可能性も高いけどな。けど、生まれる前からずっと聴いてるから、予感みたいなのがあってさ。サザンにとってもこの曲は特別みたいで、なんかメンバーの緊張感みたいなのが伝わってくるのよ。今からやるのはあの曲だぞ、みたいな。それにオレも共鳴してるんだろうなって」

「ん、てことは、その時の体験で呪いが解けたってことか?」

 

 とたんに難しそうな表情になって、稲村はていねいに言葉を選ぶようにして話を続ける。

 

「逆に、あの瞬間に呪いが確定したのかもな。でも、オレにはそれぐらいしか無いんだわ……」

 

 傍観している本牧はもちろん、八幡も口が挟めない。遠くを見るような表情の稲村が口を開くのを見守っていると。

 

 

「葉山みたいなトップカーストとも、比企谷みたいにマイペースを貫くのとも違ってな。オレとかは『ザ・普通』だからさ。勉強も運動も普通だし、普通に友達がいて普通に高校生活を過ごして、でも特別なものは何もないって感じで。だから去年とかは正直、比企谷を憎たらしいと思う時もあったんだよな」

「え、ちょっと待て。お前、去年の俺を知ってるのか。できるだけ目立たないように過ごしてたはずなんだが」

「比企谷な、もうちょっと自覚したほうがいいぞ。ぼっちを気取ってたって話は本牧から聞いたけど、あれ、めっちゃ目立つから。舐めてたらあきませんでー」

 

 稲村が怪しげな関西弁をくり出してきたものの、八幡には反応する余裕がない。もしや材木座みたいに悪目立ちしていたかと、突然の黒歴史出現に身をすくめていると。

 

「でもな、憧れみたいなのも少しあったんだよな。それが今年度になったら雪ノ下さんの奉仕部に入るわ、由比ヶ浜さんも入部するわ、……一色さんとも三浦さん海老名さんとも合宿してるわ、なんか色々と問題を解決してるわで、控え目に言ってもげろと思ったな」

「おい、ちょっと待て。憎しみがエスカレートしてるじゃねーか」

「それぐらい当然の報いだろ。あと『もげろ』って言っても通じるんだな、やっぱり」

 

「ん、どういう……って、ネットスラングだからってことか?」

「そうそう。さっきも言ったけどオレは普通だし周りのやつらも普通だからさ、そういう言葉って使いにくいんだよな。オレだってアニメも見るしオタクっぽい漫画も読むけど、そういうの言いづらくて。かといってオタク趣味のやつには相手にされないしさ。ちょっと知ってるだけってレベルだから当然なんだけどな。結局、普通って言えば聞こえはいいけど、要するに中途半端なんだよな、どんなジャンルでも」

 

 八幡はぼっちだったので、興味を持てばのめり込むほうだったが。友達の目を気にして趣味に没頭できないという話は、なんだか分かる気がした。

 

 八幡の場合は気にしすぎるのが限界を超えて、そこでようやく開き直れただけで。俺の趣味が変なのかと悩んだり、俺が好きだからって理由でその漫画やゲームまで馬鹿にされて悔しい思いをしたり。この境地に至るまでには色んなことがあったからだ。

 

 とはいえ、少し気になることがあるのだが。

 

「言いたいことは分かるけどな。俺が相手だと、ネットスラングとかアニメやオタクな話も通じるって言ってるように聞こえるんだが。まあ通じるからいいっちゃいいんだが、なんで知ってんだ?」

「去年のいつだったか、比企谷と廊下ですれ違ってさ。メールで家の買い物を頼まれたっぽくて、返信しながら『かしこまっ!』って……」

 

 頼むから誰か去年の俺を殺してくれと八幡は思った。

 我がことゆえにか、その光景をありありと思い浮かべることができる。きっと妹にメールを送ると同時にセリフをつぶやき、送信を押した反動で指を顔のそばまで持っていってあのポーズを……頼むから誰か去年の俺を殺してくれと八幡は思った。

 

 

「なんか固まってるし、稲村もそれぐらいで許してやれよ。話はこれで終わりじゃないだろ?」

「えーと、何だっけ。呪いの話か。さっきの野外ライブの時にな、『すげぇ曲だったんだな』って思ったのと同時に、『この先なにがあっても、なかったことにはできないんだな』って思ったのよ。生まれる前からサザンをずっと聴かされて育って、サザンが俺の中に入り込んじゃっててさ。でな、悔しいことに、それだけが特別なんだわ。他はぜんぶ普通の俺にとって、サザンだけがさ」

 

 神妙な顔つきに戻って一つ頷く八幡を、ちらりと確認して。稲村は話し続ける。

 

「普通だと、好きな曲の話をする時って歌詞のことばっかじゃん。それも前後の文脈とかあんま関係なしに、好きだの何だのって部分だけを取り上げて、一人で悦に入っててさ。まあ俺も他の曲ではそんな感じだから、あんま偉そうなことは言えないけどな。でもサザンの曲だけは、そんなふうには聴けなくてさ。比企谷は、バンドをやってたよな?」

「やったのは文化祭の二曲だけだぞ。アンコールは付け焼き刃だったしな」

 

「実はさ、この曲のアレンジはその二曲と同じ人でさ。だからたぶん通じると思うんだけど、一番が終わると色んな楽器の音がいっせいに引いて、左のスピーカーからアコースティックギターの音が響くのな。サビでもアコギは鳴ってるんだけど、間奏に入ったらめちゃくちゃクリアに伝わってきて、あの瞬間がすげー好きでさ。でも、そういう話ってなんか、できないんだよな。普通に話したらいいのになって思うんだけど、やっぱり普通じゃない気がしてさ」

 

 バンドの練習をしていた時に、こんなに多彩な楽器が使われていたのかと驚いた記憶がある八幡は、稲村の言葉に頷けた。

 

「気持ちは解るけどな。それならお前もバンドをすれば……」

「それがな、普通の哀しいところでさ。オレもアコギを借りたり、台所から料理箸を取ってきてジャンプを叩いたりしたんだけどさ。ぜんぜん上手くなる気がしないのよ。才能ねーなって思い知らされるだけでな。ギター借りた時は指が切れそうになるぐらい練習したんだけど、手が小さいからかFコードがどうしても押さえられなくてさ。ちょっと変拍子が入ったら混乱するからドラムとかぜったい無理だし、なら他の楽器も無理っぽいだろ。さっき比企谷は付け焼き刃って言ったけど、それであれだけ叩けるんだから大したもんだよな」

 

 声に皮肉の色はなく、言葉どおりの気持ちが伝わってくる。ずっと底辺に甘んじていただけに、こうまで褒められると居心地が悪い。かといって軽率にバンドの話を持ち出して失敗した直後なので、何を言えばいいのかも分からない。だから曖昧に頷いていると。

 

「でもさ、稲村があの時に歌詞の話をしてただろ。あれって、この曲だよな?」

「ああ、本牧には歌詞の話をしたんだったな。って、え、そこまで話さないと駄目なのか?」

「それを決めるのは稲村だけどな。聴衆の期待に背くのはよくないと思うぞ?」

 

 二人から視線を向けられて、とりあえず話に乗っておくかと思った八幡は。

 

「ここまで聞いたからには、最後まで知りたいもんだな。あとな、さっきから普通を連呼してるけど、本牧には話せてるのはなんでだ?」

「こいつにはオレの恥ずかしい瞬間を見られたからな。正直あんま融通は利かないし意外と頑固だし口うるさいけど、信頼はできそうな性格だろ。だからさっきのサザンの話から始まって色んな事情を説明してな。この高校だとこいつぐらいだな、ここまで普通に話せるのは」

 

「お前の話を聞いてると、普通の基準が分からなくなってくるな。それと本牧とは違って、俺はそこまで信頼できねーと思うんだが、大丈夫か?」

「だってぼっちを気取ってるやつが、誰かに言い触らすわけないだろ?」

 

 そう言われるとぐうの音も出ないので、少しふくれっ面を浮かべてみた。

 

「比企谷がやっても可愛くないからやめとけ。由比ヶ浜さんとか……だったら効果は抜群だろうけどな」

「稲村も話を始める前から自爆してるぞ」

「ほーん。まあ確かに、色んな意味で破壊力は高そうだよな。それで?」

 

 言い淀む稲村の様子からして、やはりそういう事なのだろうと八幡は思った。本牧の煽りもそれを裏付けていると八幡は受け取った。本音を言うと、可愛くて破壊力が高いのも確かなのだが、怒るとけっこう怖いんだよなと考えつつ。顎でしゃくって話を促すと。

 

 

「さっきの映画な、オレの名前の元ネタのやつ。あれって二〇年に一度の大波に乗ってやるぜ、みたいな話かと思ったら、なんかよく分からん作品でさ。まあとにかく、オレも大波が来たら絶対に乗ってやるって、そう思ってたのな。比喩的な意味で」

「ん、っと。最後のはどういう意味だ?」

「この世界に来るまでサーフィンやったことなかったし、やったら負けだって思ってたからさ。あ、呪いに負けるって意味な。だからサーフィンの話じゃなくて……えーと。比企谷って、『どんなやつでも、人生で三人の特別な異性と出逢う』って話は知ってる?」

「いや、初耳なんだが」

 

 知らない話がどんどん出てくるので、首をひねっていると。

 

「オレはその手の話は信じることにしてるのな。なにも希望がないよりはマシだって程度の、軽い気持ちだったんだけどさ。そしたらまあ、出逢ったわけよ。特別な異性の一人目と」

「それって、特別だって判ったのはなんでだ?」

「一目見たら判った、としか言いようがないな。でもさ、オレは考え違いをしててさ。出逢う=無条件に与えられるって意味だと思ってたんだけど、実際はちゃんと準備をしておかないと駄目だったんだわ。さっきの映画で言うと、二〇年に一度の大波がいつ来てもいいように、普段から波に乗るなりして備えておくべきだったんだよな」

 

 話の筋がなんとなく見えてきたので、一つ頷いて先を促す。

 

「早い話が、俺にとっては特別な異性だったけど、向こうにとっては単なるモブでさ。あの時の気持ちの盛り上がりと、直後の急激な冷め具合は、忘れたくても忘れられないな。ま、そんなわけでオレは、一人目の大波に乗るのに見事に失敗したってわけだ」

「それが今年の入学式か。んで、サーフィンするかって話になったわけだな?」

 

 いつだったか、由比ヶ浜が今年の入学式の話をしてくれた。在校生は休みなのに、生徒会役員でもなんでもないのに、わざわざ手伝いに行った由比ヶ浜は、そこであざとい後輩と知り合ったらしい。

 それ以上の説明はなかったものの、おそらく去年の事故をひきずっていたからこそ、そんな役目を買って出たのだろう。新入生が俺みたいに、しょっぱなからつまずかないようにと、そう考えて。

 

「やっぱり、ここまで話したらバレバレだったか。変に隠さなくてよかったな。とりあえずオレ的には、見込みのない相手につきまとうよりは二人目の大波に備えたいって思ってるんだけどさ。それで済むなら特別な相手じゃないよなって話でな」

「だからさっき本牧に、この件だけは例外だって言ったんだな。話がこじれたら、()()()にも影響が出るから」

 

「向こうにとってはオレはモブだし、関係なんて皆無だけどな。オレに何かができるとは思えないけど、きまじめな副会長候補の後ろで山の賑わいぐらいにはなれるなって。知ってしまった以上は、動かないって選択はないからな」

「なんか、失礼な言い方になったら悪いんだが、あれだな。()()()の事をそこまで想うのって、すげぇなって俺は思うけどな」

 

 自分でも意外なほど妬ましい気持ちがわかないことに、八幡は不思議な感慨を覚えていた。それはおそらく、ここまで特定の異性のことを想える稲村を、うらやましい以上にすごいなと思ってしまったからだろう。何の見返りも求めず、なのに動くのは当然だと言う稲村を。

 

「比企谷にそう言われると、なんだか報われる気がするな。まあ、『比企谷死すべし、慈悲はない』って気持ちもあるんだけどさ」

「おい。んで、本牧が言ってた歌詞の話はどうなった?」

「あ。言った本人が忘れてたのに、よく覚えてるよな」

「本牧ならそんなもんだ。お前の長所はそこじゃないだろ」

 

 意外と良い組み合わせなんだなと目を見張って。すぐに顔をやわらげて八幡が苦笑していると。

 稲村が姿勢を正して、歌詞の一部を諳んじた。ほんの少しだけリズムとメロディを乗せて、ゆっくりと、はっきりと。

 

『愛しい君の名を、誰かが呼ぶ』

 

「……まあ、考えてみたら切ないよな。オレも、ずっとそう思ってたんだけどさ。葉山がいつも下の名前で呼んでるだろ。あれを最初に聞いた時から、あんま哀しいとか羨ましいとか思わなくてな。それだけが、ある意味心残りなんだよな。変な話だけど、どうしようもない絶望感とかに浸れたほうが、きっぱりと次の大波に備えられる気がするからさ」

「歌詞に自分を投影したいって気持ちがあっても、サザンではそれができないのかもな。稲村にとって()()()が特別なのと同じで、サザンも特別だってさっき自分で言ってただろ。だからあんま気にすんな」

 

 八幡としては話を綺麗に締めくくったつもりだったが、なぜか二人からは「この捻デレめ」と言われてしまった。もとの意味を離れて言葉が一人歩きしている気がするのだが、まったくもって解せない。

 

「じゃあ、そろそろオレらは部屋に戻るけど、比企谷は?」

「俺は妹にメッセージを送りたいから、先に行っていいぞ」

「オッケー。稲村の話を聞いてくれてありがとな」

 

 そう言って立ち上がる本牧と稲村に、軽く片手を挙げて。

 二人が階段の先へと消えて行くのを確認して、八幡はメッセージアプリを立ち上げた。

 

 

***

 

 

 何をどう書こうかと少し悩んでみたものの。妹が相手だしまあいいかと気を抜いて、まずは軽く送ってみる。

 

『やばい。誰もどすえとか言ってない』

『つまんないなー。きれいな舞妓さんとかは?』

『歩いた範囲では見なかったな。班の連中の相手であんま余裕もなかったし』

『お兄ちゃんがふつうに班行動してるの、ママンが聞いたらびっくりするよね』

『親父には「嘘だろ」ってしつこく確認されそうだよな』

『でもさ、なんか嬉しそうだったよ。通話をつないでくれたお礼だって、小町のお小遣いもあ』

『おい、ちょっと聞き捨てならないんだが?』

 

『あ、送っちゃった。そうそう、なんと今の比企谷家には、スペシャルゲストが来ています。さて誰でしょう?』

『お前な、朝に自分で言ってただろが』

『では、正解は?』

『はあ、一色だろ』

『ファイナルアンサー?』

『へいへい。FA、FA』

『ぱんぱかぱーん。お兄ちゃん、すごい、大正解だよ!』

『わーい』

『特典として、いろはさんには正解者のベッドで休んでもらいます!』

 

『おい、ちょっと待て。それは、その、一色はいいのか?』

『ちゃんとシーツも取り替えたし、ベッドの下のブツは移動させるから大丈夫だよ!』

『甘いな。ベッドの下には何もないぞ』

『あ、そっか。パソコンの隠しフォルダの一番下だよね。パスワードは……』

『俺が悪かったから勘弁して下さい。てかなんでパスワードまで知ってんだよ?』

『ママンが教えてくれたよ。最近ぜんぜんパスワード変えてないけど大丈夫かなって心配してた』

『その情報は知りたくなかった』

 

『でもさ、お兄ちゃんって好みが極端だよね。胸とかも大きいのと全然な』

『それ以上はいけない』

『あれ、なんで途中で途切れたんだろ。あと最近増えてるのが年下の小悪』

『禁則事項です』

『メッセージがおかしくなってるのかな。いろはさんも戻って来る頃だし、そろそろ?』

 

『それな、一色はどんな感じだ?』

『およ。お兄ちゃんってばストレートに尋ねてくるなんて、もしかして?』

『あのな。一色が生徒会長に立候補したって通知が来たんだわ』

『小町はくわしい話は聞いてないよ。知りたいなら、帰ってきてからお兄ちゃんが直接さ』

『ま、そうだな。お前の対応からして緊急でどうこうって感じじゃなさそうだし、その情報で満足しとくわ』

『お兄ちゃんって、最近へんに鋭い時と鈍い時が極端だから、小町はちょっと心配だよ。あ、今の』

『へいへい、心配かけてすまねーな』

 

『せんぱい、それは言わない約束ですよ〜?』

『あれ。えっと、本人か?』

『お風呂から帰ってきたら、話し声が聞こえるな〜って。小町ちゃん、「あ、今のは音声入力でお兄ちゃんとメッセージしてただけで」ってあわててたの、すっごく可愛かったですよ〜』

『はあ。まあいつもどおりで何よりだわ。その、通知を見たんだがな』

『その件につきましては、黙秘権を行使します』

『ん、了解。んじゃ、帰ってからな』

『あ、せんぱい。わたしもお土産はあぶらとり紙がいいです。あとはせんぱいのオススメで』

『オススメって一番困るやつじゃねーか。ま、考えとく』

『じゃあ、替わりますね』

『ほいよ』

 

『お兄ちゃん、いろはさんすっごく可愛い顔してたけど……あ、上のやり取りを見て納得』

『意味が分からん。ま、そっちはそっちで楽しんでくれ』

『今日は小町もお兄ちゃんのベッドで一緒に寝ちゃおっかなー』

『まあ、任せた。じゃあな』

 

 

 昼間にリア充様と会話をした時に、妹経由で連絡がつくことには思い至っていたのだが。文字だけのやり取りとはいえ、直接話せてよかったと八幡は思った。

 

 妹の最後の言葉は、「一人で寝させるには少し心配だ」という意味だろう。とはいえそこまで深刻な状況でもなさそうだ。さっきの推測が正解なら、これぐらいの状態になっても不思議ではない。

 

「三人の特別な異性、か」

 

 椅子から立ち上がりながら、無意識に言葉がこぼれていた。あわてて周囲を見回して、誰もいないと確認して息を吐く。

 今はまだ、この話を突きつめて考えたくはない。その想いを込めて、飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。

 

 

 できるだけ頭を空っぽにして、階段を上がる。

 部屋に着いて、ようやく八幡は買い出しを忘れていたのに気がついた。

 

「じゃあ、もう一回行ってきてね」

 

 怒ると怖いのは戸塚もかと、そう歎息しながらも。

 身体を動かす用事ができて、逆にほっと一息つく八幡だった。

 

 

***

 

 

 こうして修学旅行の一日目が無事に終わった。

 とはいえ、今はまだ序奏に過ぎない。

 まずは翌日の夜に、八幡は特別な一時を過ごすことになるのだった。




稲村がほぼオリキャラですが、仮に原作で詳細が判明しても修正は難しいと思います。ごめんなさい。

作中で特定の作品を掘り下げる場合には、できるだけ体験しなおした上で書いています(ゲームはプレイ動画で済ませてますが)。しかし映画「稲村ジェーン」はDVDの販売がなかったからか、レンタルでも配信でも観ることができませんでした。
稲村のキャラ設定は、サントラを聴きながら映画のあらすじを読んで組み立てました。この点もご了承下さい。

最後に、本作の稲村に多大な影響を及ぼしたこの曲に、心からの感謝を。
サザンオールスターズ「希望の轍」


次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
前話の更新後に総合評価が1,000を超えました。
この嬉しい数字を励みにして、これからも頑張ります。
細かな表現を修正しました。(10/9)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)


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08.かみ合わない想いを抱えつつ彼と彼女は旅を楽しむ。

前回のあらすじ。

 一日目の夜に八幡は、本牧・稲村と三人で話をした。

 生い立ちの話に続いて「誰しも人生で三人の特別な異性と出逢う」という説を披露した稲村は、その一人目から失敗したらしい。
 自分にとっては特別でも、相手にとっては違っていて。出逢いに備えた行動を、何もしてこなかったから。普通と言えば聞こえはいいが、要は中途半端なだけだ。
 稲村のこれらの発言は、八幡の心に重く響いた。

 出逢いが今年の入学式だと知って。稲村の特別が由比ヶ浜だと推測した八幡は、事故の一件を引きずっていた頃の彼女の心情を思う。わざわざ式の手伝いをした理由も。新入生に関わって、結果として一色と知り合うことになった理由も。
 二人は詳細を明かさなかったものの、立候補の件もおおよその予測はついた。

 解散後、妹にメッセージを送った八幡はそのまま長々とやり取りを続けた。途中で一色の乱入もあり、いつもと変わらぬ物言いにひとまず胸をなで下ろす。

 この日、最後まで八幡の頭に残ったのは「三人の特別な異性」という言葉だった。



 修学旅行の二日目はグループ別での行動となる。とはいえクラス単位で移動した昨日も班行動が基本だったので、それほど変わり映えはしない。

 葉山隼人と三浦優美子に率いられた男女八名は、まずは映画村に姿を見せた。

 

「バスの中で説明したとおり、最初にみんなで扮装するからねー。愚腐……ごほん。結衣、ちょっと説明をお願い」

「あ、うん。いちおう配役はこんな感じで考えてきたんだけどさ。他に希望とかってあるかな?」

 

 さすがの海老名姫菜も朝一から暴走する気はなさそうだ。

 昨日の朝の脅しが利いているのかなと考えながら。説明役を引きついだ由比ヶ浜結衣が、配役を書いた紙を全員が見えるようにして掲げた。

 

「俺たちの関係とか設定が細かく書かれてるけど、これは姫菜が考えたのかな?」

「隼人くんが新撰組の組長で俺っちが隊士ってもうバッチリっしょ!」

「八幡は浪人なんだね。同心って、今の警察みたいな感じだっけ。ぼくに務まるかな」

「戸塚なら大丈夫だろ。それよりも、俺が三人に取り締まられる未来しか見えないんだが」

 

 ぶつぶつと文句を言いながらも。そうなったら逃げ回れば良いだけだし、むしろ合法的にぼっちになれるなと考える比企谷八幡だった。

 

「あたしは普通に町娘とかでいいのに。千姫ってどういうこと?」

「海老名がせっかく決めたことに口出すなし」

「ほらほら、サキサキも優美子も落ち着いて。千姫って着物姿なんだけど、なんとかって刀を持っててさ。すっごくかっこいいからピッタリだと思うよ」

「薙刀を持ったサキサキ、楽しみだなー。TSも似合いそうだなー。じゅるっ」

 

 ここに来て守備範囲が増えている感のある海老名はさておいて。

 他に異論が出ない中で、じっと設定を読み込んでいた葉山が口を開いた。

 

「なるほど。時代劇の衣装を着て、二組に分かれて鬼ごっこをする感じかな。追加ルールが独特だね」

「んーと、どういうことだべ?」

「八幡が言ってたとおりだね。ぼくら三人が追いかけて、由比ヶ浜さんたちが逃亡の手助けをするみたい」

「ほーん。海老名さんが忍者って、隠れて何を観察するんだって思ってたけど。ちゃんと意味があるんだな。合流したら、追っ手から姿をくらますことができるのか」

 

 戸塚の横から首を伸ばして設定を読んでいると、八幡のつぶやきに当の海老名が反応する。

 

「もちろん趣味は反映させるけどさ。遊んで楽しくないゲームを提案するつもりもないからね」

「こういう時の海老名はまともだし。あーしはお内儀役で、新撰組の屯所を守るのと」

「あたしは千姫のお屋敷で、あんたを一定時間だけ匿えるんだけどさ。時間内でも、お内儀だけは踏み込めるみたいだね」

「あたしは町娘だから、ヒッキーを連れて裏道を抜けられるんだよね。さいちゃんたちは大通りしか通れないから、うん、面白そう」

「あとは、優美子がいない屯所をヒキタニくんが陥れたら、まあ残機が増えるって言えば分かりやすいかな。ルールはそんな感じだけど、ちょっと練習してみてから本番いこっか」

 

 そんなわけで江戸の町を舞台に、男三人女一人と男一人女三人による変則的な鬼ごっこが始まった。

 八幡には残念なことに、ぼっちを満喫できる時間は皆無だったのだが。

 海老名の企画のおかげで満足度の高いひとときを過ごした一同だった。

 

 

***

 

 

 鬼ごっこの後は再び制服姿に戻って、しばらく普通に散策して。最後に一行は史上最怖のお化け屋敷に向かった。葉山と三浦が先頭で最後が八幡という、いつもの順番で中に入る。

 

「戸塚は平気そうだな」

「うん。ぼく好きなんだ。こういうの」

 

 そう答えると一瞬だけ、八幡から妙な気配を感じたものの。たぶんいつものような冗談を言おうとして、でもお化け屋敷の雰囲気には合わないと思って口を閉ざしたのだろう。そう戸塚は推測した。

 

 少し離れた辺りから「こわーい」と作ったような声が聞こえて来たので、そちらに目を向ける。発言とは裏腹に、三浦もお化けは怖くないんだなと思うと、自然と口元がほころんだ。それに応えて「俺もあんまり得意じゃなくてさ」と話す葉山には、以前にも増して親近感がわいてくる。

 お化け屋敷も楽しいけど、みんなの違った一面を知れるのが嬉しいなと戸塚は思う。

 

「やばいやびゃあやびょうっ!」

 

 とはいえ戸部のビビリ具合は予想外だったし、三浦の反対側で葉山と密着している姿を見て「ぐへえっ」と奇声を漏らしている海老名は少し怖い。

 

 苦手というほどではないものの、腐女子として振るまう時よりも、自分だけ別の次元にいるかのように存在感を薄れさせている海老名のほうが戸塚は好きだった。もっとも、そんな姿はめったに見られないし、見られないほうが良いとは解っているのだが。

 

 こうしたことを知れたのは劇の主役をしたおかげだなと、戸塚はあらためて夏休み明けの決断を振り返った。自分から踏み出すことで、この面々との距離がここまで縮まったのだ。

 そう考えた戸塚は、これらの変化の発端とも原因とも言える友人を再び視界に捉える。

 

「ひいっ。な、なに今の『ぐへえっ』って。さ、さーちゃん、けーちゃんと……に会うまで負けないからね!」

「あ、あたしもこういうの苦手。今だけ、その、ヒッキーお願い」

 

 そこには、舌っ足らずな口調でぶつぶつとつぶやきながら八幡の上着の裾を脱がす勢いで引っぱっている川崎沙希と。へっぴり腰でおっかなびっくり八幡の右肩に手を置いて、何とか恐怖から逃れようとしている由比ヶ浜の姿があった。むしろ二人の怖がりようが怖い。

 

 そのまましばらく、お化けよりも二人の様子に気を取られながら歩いていると。

 

「ぶるぁぁぁあぁぁぁ!」

 

 見た目はそれほど怖くないものの、飛び出すタイミングや声の大きさはまさしくプロの仕事で、さすがに少し驚いてしまった。

 すると今度は、その場でぴたっと立ち止まったまま無言を貫いていた川崎が、突然大きく息を吸い込んで。猛烈な勢いで一目散に走り出した。これにもビックリさせられたが、そのまま見送るわけにはいかない。

 だから戸塚はすぐに動いた。

 

「ぼく、川崎さんを追いかけるね」

 

 返事も待たずに走り出してから、自分の決断を不思議に思う。由比ヶ浜のことは「八幡に任せれば大丈夫だ」とすら思わなかった。二人を残していくことに、何らの疑問も心配も抱いていなかったことに気が付いて。思わず頬がゆるむと同時につぶやきが漏れる。

 

「八幡、がんばって」

 

 うまく自己主張ができないまま女子に取り囲まれて過ごしていた頃から、こちらの意思を尊重して適度な距離感で仲良くしてくれたり。それに、八幡と仲良くなったきっかけも由比ヶ浜だったけれど。でも、どちらか片方を応援するなら八幡がいい。

 

 ただ、できれば。二人ともが笑顔でいられますように。

 そして、もっと贅沢を言ってもいいのなら。三人ともが笑顔でいられますように。

 

 そんな願いを胸に抱きながら、戸塚は八幡にもう一度エールを送った。

 

 

 その頃、残された二人は。

 

「いたっ……」

 

 お化けと川崎と戸塚が続けざまに動いたために、どこかのタイミングで頭をぶつけてしまい。仲良くしゃがみ込んで負傷箇所を押さえていた。

 

 痛かったけど大丈夫みたいだなと、冷静さが戻って来た由比ヶ浜が頭を上げると。すぐ目の前に、下を向いて痛みに耐えている八幡の顔がある。心配で思わず手が伸びた。

 

「ヒッキー、痛くなかった?」

 

 そのままおずおずと、ぶつけたっぽい場所に手を伸ばすと。気配を感じたのか、そこから八幡の手が離れた。かわりに自分の手のひらをそっと置いて、ゆっくりと撫でながら問いかける。

 

「まあ、痛くないって言えば嘘になるけど。……なあ」

 

 返事を聞いて、どうやら大丈夫そうだとほっと一息。

 しばらくそうしていると、八幡が何かを訴えるように一言つぶやいて。軽く頭を動かされて手が離れた。

 

「あ……」

 

 手が伸びた姿勢のまま動けないでいると、その間に相手は立ち上がっていた。仕方なく、手をさっと引っ込める。八幡のすねの辺りから視線を下げて、靴の先端をぼんやり眺めていると。

 

「ほれ。そろそろ動かないと、置いて行かれちまうぞ」

「えっ?」

 

 おそらく腰をかがめて、こちらに見えるようにして手を差し伸べてくれた。

 思わず頭をぐいっと上げると、反射的な行動だったのだろう。早くも後悔の色が浮かびかけていたので、手を引っ込められる前にしっかりと握る。

 一瞬だけ躊躇してから、ぐんと身体を持ち上げてくれた。

 

「じゃあ、行こっか」

 

 明るい口調でそう言いながら、今の気持ちに合った表情をそのまま維持して、ゆっくりと手を離す。なごり惜しいなんて感情は、決して表に出さないように。

 

 でも、一瞬すっと目を下げたような気がしたから。もういちど手を繋ぐなんて、恥ずかしいことはできないけれど。せめてと思って、上着の肩口の辺りを引っぱる。

 

「ほら、急がないと」

 

 しばらく無言で歩いていると、外の光が見えてきた。上着からそっと手を離してそのまま最後の扉を抜けると、外の爽やかな風が全身を包んでくれた。途中からはお化けの記憶なんてまるでない。心臓はばくばくしたままだし、とにかく疲れた。

 

 目についたベンチに倒れ込むように座って。由比ヶ浜はようやく、胸に詰まったままの息を思いっきり吐き出した。

 

 

***

 

 

 交通機関が乗り放題で定員もないのは本当に助かる。そんなふうにしみじみと実感してしまうほど市内のバスは混み合っていた。これが現実の世界であれば、タクシーでも拾わないと無理だと思ってしまうほどだ。

 

「少しのことにも、か」

 

 首尾良く仁和寺に移動して、八幡は二王門の前で思わずそうつぶやいた。すかさず背後から、軽やかな声が耳に届く。

 

「先達はあらまほしき事なり、だね。せっかくだし、明日は石清水まで行ってみるかい?」

「つっても、市内すら充分に見てないからな。山までは見ず、で良いんじゃね?」

「でもさ、知らないままだと後悔するかもよー。一度ヤってみたら、聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ、ってなるかもしれないじゃん!」

 

 徒然草の五十二段。せっかく石清水まで参拝に行ったのに、山にある本殿を見ないで帰ってきたうっかり者の仁和寺の法師の話をしていたはずが。

 どうして海老名が口にした部分を現代語訳したら「ご立派でした」になるのだろうかと八幡は思った。訳はまちがっていないだけに頭が痛い。

 

 

 どっと疲れた身体を動かして、龍安寺に向かう。

 徒歩で移動できる距離なので最後尾でだらだらと歩を進めていると、交差点の前で由比ヶ浜が待っていた。そのまま並んでぶらぶら歩く。

 

「仁和寺に着いた頃から疲れてるなーって感じだったけど、ヒッキー大丈夫?」

「海老名さんのアレにやられただけだから、まあ、そのうち回復するだろ。しばらくは近づきたくないけどな」

 

 徒然草の話を説明し終えると、たははと笑う由比ヶ浜の顔から不安の色が消えていた。ついでという気持ちでそのまま話を続ける。

 

「てか、この世界って待ち時間がほとんどないのが良いよな。団体の入場とか注文待ちで並ぶのは仕方ないし、それでも現実と比べると段違いだしな」

「でもさ。待ちながらとか、今みたいに歩きながら喋るのも楽しくない?」

「でもそれ、話が続くならって条件があるだろ。俺なんて小町以外が相手だと、数分で話題が尽きる自信があるぞ」

「また始まった。でもさ、最近は話が続きそうな相手が増えたじゃん」

「まあ、な」

 

 由比ヶ浜にやり込められてしまい、八幡は照れくさそうに横を向いて頭をかいた。

 一呼吸おいてからひねくれた事でも言ってやろうと思ったものの。それをすると突き放す形になる気がして。由比ヶ浜との距離をうまく測れない自分を訝しみながら、ため息とともに口を開く。

 

「逆に、だから身構えるのかもな。小町以外は無理って諦めてれば、話題が尽きたとしても落ち込まないだろ。けど、話が続くかもって期待して続かなかったら、ダメージがでかいからな。お前も、ディスティニィーでデートしたカップルは別れるって話は知ってるよな。あれ、待ち時間でストレスがたまって話が続かなくなって、みたいなのが原因だろ?」

「うーん。そういうこともあるかもだけどさ。あたしとか、ゆきのんとか、さいちゃんとか中二とかだと、絶対大丈夫じゃない?」

 

 小首を傾げながら、のほほんとした口調で断言されてしまった。さっきよりも照れくささが増しているのは気のせいだと、そう自分に言い聞かせていると。

 

「ただね。とべっちと姫菜を見てて思ったんだけど、なんて言ったらいいんだろ。話は続いてても、話題が続いてないっていうかさ」

「あー、うん。その表現で適切だと思うぞ」

「さっきの徒然草だってさ。ヒッキーと隼人くんと姫菜なら自然と話題が繋がるんだよね。とべっちも相鎚はすごくうまいから、話しやすいってのはあるんだけどさ」

「まあ、そういう意味だと課題図書って発想は良かったよな。時間が圧倒的に足りなかっただけで」

「だねー。でもさ。やっぱり、うまくいかないもんだね」

 

 周囲に声が聞こえないようにして、二人の会話は続いていた。それがここでぴたりと止まる。

 どう言ったものかと少し悩んで、八幡は言葉を飾らずに話すことを選んだ。

 

「海老名さんにその気がなくて、戸部にも告白を延期する気がないんだから、外野からしたらどうしようもないだろ。たぶんスッキリと収まる事はないだろうし、被害を最小限に抑えることを考えるべきなんだろな」

「そうだね。あたしも、そう思うんだけどさ。……うまくいかないもんだね」

 

 言葉のニュアンスが変わった気がして、少しだけ頭を傾けたものの。由比ヶ浜の意図を読みきれなかった八幡は、自嘲気味につぶやく。

 

「さっきの小町以外は無理って話は極端だとしてもな。数人の例外がいるだけで、大多数は無理ってのは事実だろ。だから、あれだ。自分のことすらうまくやれない奴が、他人にどうこう言うべきじゃないのかもな」

「うーん。けどさ、うまくやれてる人じゃないと他人に口出しちゃダメってなるのは、なんか違うよね。その、本人じゃないから分かることだってあるんだしさ」

「岡目八目か。まあ、そう言われると救われる……じゃねーよ!」

 

「え、どしたのヒッキー?」

「いや、俺がフォローされてどうすんだよって話でな。じゃなくて、俺が言いたかったのはあれだ。そんな感じでうまくやれてない俺が、好き勝手なことを言って偉そうにしてるわけだろ。だから、お前とかはそんなに落ち込まなくても良いと思うぞ。うまくいかないのは状況が悪いからだし、むしろお前で無理なら誰でも無理だわ」

 

 なんとか本来の意図を思い出して、フォローしようとしたらフォローされてしまった一件を闇に葬る。先ほど頭を撫でられた感触がここで急に蘇ってきて、どうにも落ち着かない。

 

「やっぱり、相手にその気がないとダメってことだよね?」

「まあ、な。ちょっとでもその気があったら軽いやり取りとか、それこそ服が擦れただけでもめちゃくちゃ効くんだけどな」

 

 さっきみたいにな、なんて言葉は口が裂けても言えない。由比ヶ浜が平然として見えるだけに、八幡は密かに落ち込みつつもほっと胸をなで下ろしていた。

 

 

***

 

 

 龍安寺の石庭に興味があるという八幡には先に行ってもらい、境内をゆっくりと見て回りながら、久しぶりに女性陣だけで会話に花を咲かせた。

 それぞれに期待や思惑が色々あるとしても、一緒に回る面々には楽しい時間を過ごして欲しいし、自分も旅行を楽しみたい。その基本は変わらないはずだと由比ヶ浜は思う。

 

 事前の予想よりも三浦と川崎の仲が平穏なので、知らず知らずのうちに表情をゆるめていると。

 

「あれって、たしか国際教養科の?」

 

 見知った生徒を目にして、由比ヶ浜に予感が走った。旅行前に教えてもらったJ組の班分けを思い出して、それを予測に変える。たぶん、雪ノ下雪乃が近くにいる。おそらくは。

 

「あたしちょっと、石庭のほう見てくるね」

 

 そう言い残して移動すると。はたして、子供一人分ぐらいの微妙な距離を空けて、よく知った二人が並んで座っているのが見えた。思わずその場で立ち止まる。

 

 このまま二人を眺めていたい気持ちと、眺めるべきだと諭されるような感覚と、盗み見るのは良くないという道徳観と、自分も早く合流したいという想いと、早く合流すべきという切迫感と。由比ヶ浜の胸中では色んな感情が渦を巻いていた。

 

 すると、雪ノ下がとつぜん立ち上がった。

 移動するならその前に一言でもと思い、二人に歩み寄ろうとするものの。足が重くて動かない。

 

 何度か首を動かしていた雪ノ下は一つ頷くと、また同じ場所に腰を下ろした。すると今度は八幡が立ち上がって、こちらは何度も首をひねっている。庭のことはよく分からんと思っているのが、そのまま伝わって来るようだ。

 

 その仕草に思わずぷっと吹き出して、おかげで呪縛が解けたみたいだ。二人に会えて嬉しい以外の感情を意識の外に押しやって、由比ヶ浜は落ち着いた足取りで近づいていく。

 

 すぐ傍まで来たのに二人は気づかない。温かく見守るような表情で、仕方ないなあという態度をにじませながら、ほんの近くで立ち止まって変化を待っていると。

 八幡が庭から周囲へと意識を移したのが伝わってきたので、ようやく声が出せた。

 

「ゆっきのーん。あ、声かけて大丈夫だった?」

 

 そう口にしながら身体を動かすと、ちょうど二人の間に入るような形になってしまった。特に意識しての行動ではなかったはずだが、由比ヶ浜はそれを断言できる自信がなかった。でも、それ以上は深く考えないようにする。

 

「ええ。少し前に納得は得られたので、気を使わなくても大丈夫よ。場所を変えて話しましょうか」

「え、それって俺も……ですよねー」

 

 雪ノ下から「先に行ってくれて構わないわ」と指示を受けている国際教養科の女子生徒が数人、八幡にちらちらと視線を送っていた。

 

 由比ヶ浜の目には「この人が例の」と言っているように見えるのだが、八幡はどう思っているのだろうか。無意識のうちに、自分の身体で八幡を隠すように動きかけて。

 でもたぶん八幡のことだから、「不審者を見る目だ」と受け取って、それ以上は取り合わない気がするなと考え直して。余計な動きはせず、目尻を下げながら、移動する雪ノ下の後を追う。

 すぐ後ろに、八幡の気配を感じられた。

 

 

「二人の様子はどうかしら?」

「ぶっちゃけ、相変わらずな感じだねー。とべっちも姫菜も、教室にいる時とぜんぜん変わんないって言うかさ」

「やはり、そうなのね」

「まあ、最初からある程度は予測できたことだしな。だからお前らも、あんま気にすんな」

「それでも、一応できることはやっておこうと思うのよ」

 

 そう言うと、雪ノ下は小さく折りたたんだメモ書きを取り出した。

 

「これ、明日の自由行動で参考になればと思って。女性に好まれそうな名所をまとめておいたから、戸部くんに渡してもらえるかしら?」

「わあっ、さすがゆきのん。あたしでも知ってるところもあるし、聞いたことのないお寺も入ってる。ねね、あたしたちも明日、ここに書いてあるところに行こうよ!」

「だな。雪ノ下のオススメなら間違いないだろ」

 

 リストに挙がった名所には、おそらく雪ノ下も行きたいと思っているだろうから。そう考えながら八幡が賛成の意を表明すると。

 

「それなら、もう一箇所だけ付け加える必要があるわね」

「えっ、ゆきのんどこ行くの?」

「妹さんを溺愛する、どこかの誰かさんならきっと。北野天満宮に行きたいと思っている気がするのだけれど?」

「あ、そっか。うん、あたしたち三人でお願いしよっ!」

 

 予想外の提案を受けて、八幡がしどろもどろに「まあ、頼むわ」などと小声でつぶやいている。

 それをしっかりと聞き取って、二人は控え目ながらも喜色を浮かべている。

 

「あなたたちは、この後はどこかに行くのかしら?」

「うん、金閣寺に行ってからホテルに戻る予定。ゆきのんは?」

「私たちは仁和寺に行って、それからホテルね。ここに来る前に金閣寺を見てきたのだけれど」

「ちょうど逆ルートだったわけか。午前はどこに行ってたんだ?」

「詩仙堂で紅葉を見て、一乗寺や北白川を散策してからこちらに来たのよ」

 

「なるほどな。そういや金閣寺と言えば三島だって、海老名さんが盛り上がってたぞ。近づきたくなかったから、その続きは知らんけど」

「そう。無理にBL要素にこだわらず、ふつうに名作や代表作を勧めた方が良かったのかもしれないわね。もちろん『仮面の告白』も悪い作品ではないのだけれど。……では、そろそろ」

「うん。ゆきのん、また明日ね!」

「じゃあな」

 

 雪ノ下の姿が、昨日の朝にデッキで合流した時よりも、なぜか儚く見えた。

 軽く首を振って、その印象を振り払って。八幡は由比ヶ浜と連れ立って、金閣寺へと向かった。




少し短めですが、ここでいったん区切ります。
次回は水曜ぐらいの更新を考えています。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
少し伝わりにくそうな部分に説明を加えました。(9/24)
細かな表現を修正しました。(10/9)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)


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09.けんかするほど仲が良いと彼女らは身を以て示す。

前回のあらすじ。

 二日目も生徒たちは京都の名所を堪能していた。

 とはいえ告白したい・もっと仲良くなりたい・一線を引きたい等々、各々に期待や思惑があるだけに、見る者にとっては違ったふうに見える。当事者ではなく傍観者の立場で同級生と接する戸塚は、こっそり八幡にエールを送った。

 前日に続いて恥ずかしい思いをしつつも、八幡もまた修学旅行を楽しんでいた。龍安寺では雪ノ下と遭遇して、三人でしばしの時を過ごす。

 別れ際に見た雪ノ下は、昨日の朝に合流した時よりも儚げに見えた。



 修学旅行も二日目の夜となると、疲れの見える生徒が出てくる。旅先の妙なテンションで、彼らの休息を邪魔する者が出ても不思議ではないのに。男子の部屋では班はもちろん時にはクラスの垣根をこえて、ゲームなりで盛り上がる一同と早めに休む面々とがきれいに分かれていた。

 

「さっきから眠そうだし、明日もあるんだから無理するなよ。エレベーターの裏側の部屋に一人空きがあるからさ。あそこの班長とは、たしか同じ部活だったよな?」

 

 ふらふらとした足取りで寝に向かう生徒を、廊下まで見送って。部屋割りの変更を、生徒・教師の全員が共有するデータに即座に反映させて。他の連中は、少なくとも次の半荘が終わるまでは大丈夫そうだなと確認した葉山隼人が、ふうと一息ついていると。

 

「俺っち下で買い出し行ってくるけど、隼人くんリクエストあるっしょ?」

「ああ、じゃあペットボトルの冷たい緑茶で。なかったら水でいいからな」

 

 そのまま希望を聞いて回る戸部翔に注目が集まる中で、こそこそと部屋から出て行った男子生徒が一人。言わずと知れた比企谷八幡の姿を、葉山だけが捉えていた。

 

「そろそろ独りになりたがる頃だとは思っていたけどね。迷いなく実行できるのは、羨ましい限りだよ」

 

 誰にも聞こえないように小声でそっとつぶやいて、それでも葉山は己の責務を放り出すことなどしない。

 はめを外したり無茶をする生徒が出ないように気を配りつつ、しっかり麻雀でも結果を出す。さすがに全勝というわけにはいかないが、九勝六敗でも八勝七敗でもいいからとにかくトータルで負けないことを目指す。今日も葉山は、地味に難しいその目標をクリアしていた。

 

「んじゃ、買い出し行ってきまーっす!」

 

 ドアのところで振り向いて、片手を挙げながら軽い調子でそう言い残して。戸部が廊下に出ていった。

 

 

***

 

 

 一階のロビーを目指して階段を下りて行くと、自販機の前には先客がいた。コーヒーが何本か並んでいる辺りをじっと見つめて何やら真剣に悩んでいるのだが、どうしたのやら。まあ、考えるよりも聞くほうが早いので、戸部は口を開いた。

 

「おーっすヒキタニくん、なに悩んでんだべ?」

「うおっ、って戸部か。いや、昨日これを飲んだんだけどな。ちょっと俺の理想にはほど遠くて、どうしたもんかと。そっちは買い出しだったよな?」

 

 あわてて後ろを振り返って、騒々しい問いかけにそう返して。八幡は自販機を指差しながら場所を譲ると、戸部の返事を待つことなくそのまま歩き始めた。

 

 行動の意味が分からない戸部が、自販機と八幡とをかわるがわる眺めていると。土産物の売店でNPCからポリ袋をもらって、ゆうゆうと歩いて戻って来る。

 

「ほら、これ。人数分を運ぶの大変だろ」

「な、なんで歩いて行くんだろって思ってたら、ヒキタニくんマジ気配り上手っしょ!」

 

 行動の意図を何も告げていない時点で気配りがなっていないのだが、戸部は素直に感激していた。

 そして八幡もまた、不器用な言動を馬鹿にされるどころか褒めちぎられてしまい、ちょっと感動していた。よかれと思った行動が通じないのは日常茶飯事で、時には曲解され罵倒されることも珍しくなかった八幡だけに、喜びはひとしおだ。

 

「つーかな。本当に気配り上手なら、部屋まで一緒に持っていくと思うんだが。それを避けるために袋を渡しただけだし、そんな大したことじゃないぞ」

「やー、ヒキタニくんの捻デレ、いただきましたっ!」

 

 ぺしんと自分の額を叩きながら、戸部が白い歯を見せてくる。うざったいのは確かだが、どうにも憎めない。

 葉山ほどではないにしろ、こいつも悪意に晒されるような経験はほとんど無かったのだろう。だからこそ、一学期に悪い噂が広がった時にはあれほど動揺したのだろうなと八幡は思った。

 

「昨日もそれ言われたんだけどな。誰が広めたのか知らんけど、どうにかならんのかね?」

「だってヒキタニくんにピッタリだべ。何するんだろって思ってたら、そういう意味かーって行動が多いじゃんね。二年の最初とか、わざわざ自分から孤立して何考えてんだろって思ってたけどさ。照れてるだけじゃんって結衣に解説してもらって」

「おい。由比ヶ浜も余計なことを……」

 

 そう言いつつもニヤニヤが止まらなくなりそうで、八幡は必死に仏頂面を浮かべていた。

 勝手に人の気持ちを捏造するとは迷惑千万、などと頭の中でセリフを作ってみるものの。頬の辺りが少しぷるぷるしているのが自分でも分かる。人知れずフォローしてくれてたんだなと、つい気持ちが絆されてしまう。

 そんな八幡の葛藤には気付かず、戸部がそのまま話を続けた。

 

 

「それとさ、俺っちの依頼のことで色々と考えてくれてんじゃん。オススメの名所リスト、有効に活用させてもらうっしょ!」

「ああ。あれは雪ノ下の選定だからな。お礼ならあいつに言ってくれ」

「そりゃもちろんだけどさ。ヒキタニくんにも結衣にも助けてもらってんじゃん。教えてもらった漫画の話とかしたら手応えありありって感じでさ。海老名さんの反応もいつもと違って、こう、ぐいぐい来る感じ?」

「それ、違う意味で興奮してるだけな気もするんだが。つか、あれだな」

 

 八幡はいったん口を閉じて、少し間をあけてから再び話し始める。

 

「やっぱり、修学旅行中に告白するのか?」

「そりゃもちろんだべ。これだけ協力してもらって、直前でへたれるとかありえないっしょ!」

「ん、と。ちょっと待て。告白って、まわりの目を気にしながらするもんじゃねーだろ?」

「やー、そりゃそうだけどさ。俺っちの気持ち的にも断固告白って感じだべ。でもさ、応援してくれるみんなを無視して、俺っちの気持ちだけを優先させるのも違うっしょ?」

 

 少しだけ、事態打開の光明が見えたかと思いきや。戸部の主張は八幡にとって意外なものだった。顎に手を当てて発言を吟味していると、話の続きが聞こえて来た。

 

「そのさ、世の中に俺っちと海老名さんしかいなかったら、話は早いべ。けどさ、お互いに友達とかいて、色んな付き合いがあんじゃん。そっちも大事だし、俺っちの気持ちも押し殺したくないしさ」

 

 何も考えていないように見えて、戸部なりに周囲に気を遣っていたんだなと八幡は思った。だがそれなら、やんわりと避けられていることにも気付きそうなものなのだが。

 

「昨日と今日と、海老名さんとずっと一緒にいて。まあ、話してることはいつも通りって感じっしょ。けどなんか、今まで知らなかった側面っつーのか、それが見えてきて。海老名さんのことにどんどん詳しくなれてる気がして嬉しくてさ。ちょっとだけ、こんなことも知らないで告白とか言ってたのかって、ちょい前の俺っちを叱りたくなったりもするんだべ」

 

 そこのところは、自分の気持ちを優先させるということなのだろう。あるいは、向こうの希望がうすうす分かっていても、それでも気持ちを抑えることができないのか。

 戸部の表情を一目見て、後者が正解だと八幡は思った。

 

「千葉村でも言われたし、ヒキタニくんの言いたいことは分かってるつもりだべ。けどさ、俺っちの気持ち的にも、応援してくれてるみんなのためにも、告白しないのは……ありえないっしょ!」

「断られるかもしれないのにか。旅行前に最初に集まった時に言ってたよな。一番大事なことだって、断られたら悲惨だって言ってただろ?」

 

 だから八幡はあえて強い口調で、直截的な言葉を投げかける。依頼人の両方にいい顔をしている形の自分に辟易しながら。だからこそ、少なくとも今だけは戸部のために真剣に。

 

「でもさ。ここまで話が大きくなったら、告らないってのはねーべ?」

「いや、お前、海老名さんに断られるのと、まわりの連中の期待に背くのと、どっちがマシか考えてみろよ」

「そりゃあ、あれだべ。どっちも嫌っしょ」

「そんなことを言っても、お前」

「だからさ、告白してOKをもらったら良いべさ?」

 

 せっかく親身になって言ってやってるのに。

 今の状態で告白しても、成功などあり得ないのに。

 どす黒い感情が沸き起こりそうになって、八幡は息をふーっと吐き出してから、あらためて戸部と目を合わせた。

 

 違う。

 こいつは、脳天気に言っているのではなくて。

 それしかないと理解して、こう言っているのだ。

 

「なあ。たしか葉山が言ってたよな。もう少し機が熟すのを待ってからだと駄目なのか?」

「それじゃあ駄目っしょ。たぶん、告白の機会すら作らせてもらえねーべ」

「それは……」

 

 ないとは言い切れないと八幡は思った。むしろ戸部の言うとおりだとすら思えた。

 先ほど戸部が口にした言葉は正しかったのだ。たしかにこいつは、海老名姫菜をちゃんと見ている。彼女のことにどんどん詳しくなっている。

 

「だからさ、これだけみんなが応援してくれてる状況って、俺っちにしてみたら無視できないのと同時にさ、すっげー心強いのよ。大和と大岡が背中を押してくれてさ。隼人くんとかヒキタニくんが厳しいことを言ってブレーキを踏ませてくれて。結衣と戸塚が見守ってくれて。あ、班を替わってくれたテニス部の二人もだべ。優美子も、あと川崎さんも今のところは黙認してくれてる感じだしさ。それに雪ノ下さんまで俺っちを応援、ってよりは躾けられてる気がするんだけどさ。でもこれって、すごいことだべ?」

「まあ、そうだな。あとちなみに、雪ノ下の印象はそれで合ってると思う」

「だしょ?」

 

 いい笑顔を向けてくる戸部に、八幡は思わず。

 

「振られるの、怖くねーのか?」

「そりゃ怖いっしょ。でもさ。行動に出ないと、振られることすらできねーべ?」

「……だな」

 

 この上なくストレートな質問を口に出してしまってから、しまったと思ったものの。平然と答えてくれた戸部に、八幡は曖昧な相鎚を打つしかできない。

 

「正直ここまで話すつもりはなかったんだべ。意外と打算的だって、そう思われるのが嫌でさ。けどヒキタニくんって、投げやりなこと言ったり気が向かない態度のわりには、いつも真剣じゃん。千葉村でもそうだったし、文化祭でもさ。あの時は俺っちもステージの下から演奏を観てたのよ。隼人くんのバンドでドラムをやったからさ。スクリーンに大映しになる前から、ずっと動きを目で追って、必死になって耳で音を拾っててさ。たぶん、そんな印象があったからだべ。話しても大丈夫かなって思う前から、ぽろっと口に出てたっしょ」

 

「打算的とは思わねーけどな。さっき言ってただろ、応援してくれてるみんなのためにもってな。そりゃ利用したいとも思うだろうし、応援に報いたいとも思うだろうし。どっちか片方だけなんて、人間そこまで純粋にはなれないだろ。どっちかっつーと、期待に応えたいって気持ちを知れたことで、好感度が上がるまであるぞ」

 

 戸部と男二人で真剣な話をしているのが急に恥ずかしくなって、最後は茶化したような言い回しで締めくくったものの。実際に言葉どおりの気持ちになっているのだから困ったものだ。

 

「冷めた言い方をすればさ、ノリで言ったことをやり遂げるしかないのが俺っちっしょ。隼人くんみたいな万能キャラなんて絶対に無理だし、冷静に突っ込むなら大和だし、軽い調子で冷やかすなら大岡だしさ。なら突っ込まれ役しか残ってねーべさ。だからたしかに打算的な部分はあるんだべ。けど、俺っちの性に合ってるってのもたしかでさ」

「だろうな。へたに戸部が配慮とかするよりも、ノリで突っ走ってくれたほうが周囲も楽だと思うわ」

「ヒキタニくんって時々すげー毒舌っしょ。それ、海老名さんと似てるなって、たまに思うんだべ」

 

 同じような印象は、とある部長様も抱いていたりするのだが。彼女も戸部も、それに気付くことはない。印象は二人の間で共有されることはなく、しかし断片としてはたしかに存在している。

 

「似てると言われてもよく分からんけど、あれだな。たまに思うって言えば、リア充って大変なんだなって最近な。けっこう頻繁に思ってるかもしれん」

「ヒキタニくんがぼっちになりたいって気持ちも、ちょっと分かるべ。俺っちはそろそろ部屋に戻るけど、もう少しゆっくりしていくっしょ?」

「そうだな。つーか、何を飲むかって問題が未解決なんだよなぁ」

「そのさ。俺っち突っ走るしかできないからさ。もし、あれがああなったら……ちょっと頼まれて欲しいべ。その借りは、別の場面で返すっしょ!」

「……ああ。そん時は任せろ。返済を楽しみにしてるわ」

 

 まるで遺書を託されたかのような暗澹たる気分の八幡とは違って、戸部はすがすがしい顔になっていた。覚悟を決めて死に向かう人はみな、こうした表情を浮かべていたのだろう。きっと乃木希典も、おそらく藤村操も。

 

 

***

 

 

 飲物を入れたポリ袋を片手に階段を上る戸部を見送って、八幡はようやく独りの空間を満喫していた。

 無理にマッカンの幻想を追うよりも、全く違うものを飲もうと考えて。八幡の手には、数種類の素材をブレンドしたお茶が握られている。

 

「昨日も思ったけど、一階まで降りてくる奴ってほとんど見ないよな。ま、だからこそぼっちに浸るには最高の環境なわけだが」

 

 そんな独り言をつぶやきながら開放感に浸っていると。フラグを立ててしまったのか、背後から。

 

「あんた、こんなところで何してんだい?」

 

 声をかけられたので振り向くと、そこにはジャージ姿が妙に板についている川崎沙希の姿があった。

 

 

「集団行動の時間が長くなるほど、ぼっちになりたい気持ちが強くなってな」

「まあ、その気持ちはあたしも分かるけどね」

 

 きっぷのいい話し方とは裏腹に、おずおずとした動きで目の前の席に座られた。

 お互いにぼっち気質なんだから、無視してくれても良かったのにと思いつつ。そういうわけにもいかないんだよなと、諦めの息を漏らす八幡だった。

 

「んで、そっちは?」

「ん、なんだい?」

 

 旅先で夜に女子生徒と二人きりで向かい合う。そんな特別な状況に加えて、文化祭の時に勢いで愛の言葉を告げた記憶もある。もちろんあれはノリで口に出ただけだと、お互いに了解は得られたはずだが。どうにも落ち着かないので、八幡の質問は自然ぶっきらぼうになる。

 

 とはいえ二ヶ月前の愛の言葉を過剰に意識しているのは川崎も同じで、実はこの状況に物怖じしているのも同じ。それらに加えてできれば話したくないことなので、余計に返事がつっけんどんになる。

 

「はあ。まあ良いけどな。由比ヶ浜がいる以上は、三浦と揉めたってわけでもないだろうし」

「あ、いや、それがさ……」

 

 図星を指されて、とたんに張りつめた空気が和らいだ。当初はぐぬぬという声が今にも漏れそうなほど悔しげな表情を浮かべていたものの、徐々に自信なさげな顔つきになっていく。

 八幡が首を傾げながら、言葉の続きを待っていると。

 

「その、まくら投げをしてたんだけどさ。あんたも想像つくと思うけど、いつもの調子で挑発してくるから、いらっとしてさ。すぱーんって気持ちよく投げられたなって思ったら、えっと、顔に、その、まともにさ。まあ、それで、泣かせちゃった、みたいな?」

「なんかデジャブっつーか、三浦って意外とやられキャラなのか?」

 

 千葉村でも我らが部長様と言い争いをした結果、二人を一時的に引き離すために彼女が散歩に出るという事態になった。歌声に誘われたあの日は、そこまでの事情は分からなかったものの。さすがに今となっては、八幡も当日の経緯を把握している。

 

「まあ、面と向かって反抗されたりとか、そんな経験が少ないのかもね。でもさ、自己弁護をするわけじゃないけどね。言いなりになる相手じゃなくて、ちゃんと向き合ってくれる相手を求めてるんだとあたしは思うよ。だから手抜きはしなかったんだけど、当たりどころが悪かったみたいでさ」

「あー、事情は分かったからそれ以上は落ち込むな。とりあえず由比ヶ浜と海老名さんに任せておけばじきに回復するだろ。お前に悪意はないって、当の三浦も分かってるだろうしな」

 

 あんまりな事件のおかげで、二人の間にあった緊張感はいつの間にか消え失せていた。

 

 

「話は変わるんだけどさ。昨日の朝って、最寄り駅からは時間短縮で?」

「ん、そうだな。あと俺は集合の一時間前には東京駅に着いてたからな」

「旅行が楽しみだったってことかな。あんたも意外と可愛いところがあるんだね」

「お前な、男に可愛いとか言うな。ちょっと駅に用事があって、ってお前とも無関係の話じゃないぞ」

 

「それって、どういうことだい?」

「ゲームの世界に繋がる扉が東京駅にあるって、教えてくれたのはお前だろ?」

「え、あんたまさかゲームの世界に」

「いや、もうシステム的に行き来ができなくなったそうだ。だからその手の心配はしなくて大丈夫なんだがな。ちょっと墓標を拝みに、みたいな感じかね」

「そっか。その、あんたが良ければだけどさ。もしまた東京駅の扉を見に行くなら、あたしも一緒に行けないかな?」

 

「いや、まだ見に行ってないんだわ。一緒に行くのはまあ、別にいいけどな。帰りは東京駅で解散だろ。だからその後にでも行ってみるかって思ってたんだが……。もしかしたら、解散後に急いで帰る必要があるかもしれなくてな。だから、突然中止になってもいいなら」

「いいよ。あたしが情報を伝えたのもあるし、墓標って聞いたらあたしも行くべきだって思うからさ」

「即答かよ。んじゃま、解散後に東京駅でな」

 

 家族に関係する話題なら、たとえそれがお墓であっても川崎には親しみやすい。恋愛やアイドルの話をするよりもよほど気楽だし、ちゃんとお墓参りには行くべきだという思いもある。だから、変に意識をしすぎることなく約束ができた。

 

 八幡としても、川崎の態度があまりに自然だったことや、一人よりも二人のほうが扉も報われる気がして簡単に約束をしてしまった。二人といっても妙齢の男女が一人ずつではないかと、その事実に気が付いてひとり煩悶することになるのは、もう少しだけ先の話である。

 

「んで、最寄り駅から時間短縮だと、なにか問題があったのか?」

「そういうわけじゃないけどさ。あんたとあたしって、最寄り駅が隣だったよね。その、朝焼けが綺麗だったから、あんたも見てたかなって」

「あー、道中を短縮すると、そのぶん時間がずれるもんな。まあ、すまん。さっき言ったように一時間早く家を出たからな」

「謝らなくていいよ。でさ、話が飛ぶんだけど、海老名のことは?」

 

 川崎の立ち位置ではなかなか情報が入って来ないだけに、ついでとばかりに尋ねてみると。

 

「まあぶっちゃけ、玉砕するのはほぼ確定って感じかね。海老名さんにその気がないのは、お前も分かるだろ。そしたらまあ、どうしようもないわな」

「男子の間で説得するってわけには?」

「無理だった。だからもう正攻法では難しいな。かといって搦め手もなぁ」

 

「でもさ。あんたなら何か思いつきそうな気がするよ」

「どうかね。非難囂々な策しか思いつかないかもしれないしな」

「その時は、あたしも一緒に由比ヶ浜や雪ノ下に謝ってやるよ。だから、何か手があるなら諦めないでさ」

「ん、まあ、もうちょい考えてみるわ」

 

 戸部の決意に続いて川崎の信頼を受け取って、八幡はもう一度だけ考え直してみようと思った。

 翌日に待ち受けている運命を、知らないままに。

 

 

「今メッセージが届いてさ。由比ヶ浜からで、三浦が外に散歩に行くんだってさ。東側の階段を下りて、すぐ目の前の出口から外に出るって書いてあるんだけど、鉢合わせを避けて戻って来いってことだよね?」

「まあ、そうなんじゃね。でも、なんかあれだな。めったに人が降りてこないのに来るのは顔見知りばっかだよな。もしかして俺、どこかで変なフラグでも立てたのかね」

 

「よく分かんないけど、日頃の行いだと思って観念しな。墓標を拝んだら、少しはマシになるんじゃない?」

「少なくとも、当面の問題は解決できないってことだな。ま、事前に情報が分かっただけで良しとしますかね。俺も鉢合わせたくないから、コンビニにでも行ってぼっちを満喫してくるわ」

 

 新たなフラグが立ったことには気付かないまま、八幡は無造作に立ち上がると西館の出口から外に出た。

 

 

 八幡を見送った川崎は、メッセージの指示を軽く無視して。東館の出口の前で腕組みをして待つと、外に出ようとする三浦優美子と。

 

「夜遅いんだから、早く戻って来な。あと……さっきごめん」

「気にすんなし。んじゃ、行ってくるし」

 

 そんなやり取りを交わしていた。

 

 

***

 

 

 ホテルから大通りに出た三浦は、どちらに向かおうかと首をひねる。バスがホテルに着く前後のことを思い出していると、たしか西向きに少し歩いた辺りでコンビニを見た記憶がある。なので、とりあえずはそちらに向かうことにした。

 

 そのまま丸太町通を歩くことしばし。目当てのコンビニが見えてきたので、歩きながらお客の姿を確認していると。見知った男子生徒が雑誌を広げて、時にはぷっと吹き出し、時には涙を浮かべながら作品を堪能していた。友人には悪いが、ちょっと引く。

 

 軽く周囲を見回して、次の目的地を決めてから。三浦はおもむろにコンビニの中へと入って行った。

 

「ヒキオ、ちょっと付き合うし」

「うおっ、って三浦か。なんでまたこんなとこまで来たんだ?」

「あーしが一人なのに、何も言わないのはなんでだし?」

「いや、まあ、あれだな。思った以上に鋭いんだな。さっきホテルの一階で川崎と偶然会ってな。だからお前が散歩に行くって話は知ってたんだわ」

「散歩の理由も?」

「まあな」

「じゃあ、別にいいし。それよりも、早く雑誌を戻してついてくるし」

「あ、おい」

 

 さっさと外に出て八幡を待っている三浦を知らんぷりもできず。ガンガンの次に読もうと思っていたGXをなごり惜しそうに眺めてから、八幡は店の外に出た。

 

 

 信号を渡って通りの南側に移り、岡崎通を越えてさらに西へと歩いて行くと、たこ焼きのいい匂いが漂ってきた。早くもぐうと鳴り始めたお腹を反射的に押さえると、先を歩く三浦がぷっと笑いを漏らしている。

 

 唇を突き出してやさぐれた気分で歩いていると、お店の前で立ち止まった三浦がたこ焼きを一皿受け取ってから、こちらを向いて口を開いた。

 

「ヒキオはなんか飲物あんの?」

「さっき自販機で買ったお茶を持ってる」

「ん。じゃ、あーしもお茶で。ほら、カウンターの奥に行くし」

「あ、おい。押すなって」

 

 並んで座ったテーブルには、焼きたてほやほやのたこ焼きが鎮座ましましている。ごくっと唾を飲み込んで、八幡はひとまずお茶を取り出すと、一口含んでテーブルに置いた。

 同じように喉を潤してから、三浦が口を開く。

 

「ほら、ここで半分こ。あーしが食べたかっただけだし、気にすんなし」

「なんか調子が狂うな。んじゃま、ありがたくいただきます」

「ん」

 

 はふはふとたこ焼きを頬張っていると、何だか幸せな気分になってくる。それと同時に、トップカーストの金髪美人と夜にホテルを抜け出して何をやっているのかと、状況を冷静に分析する自分も戻って来た。

 とはいえ食べ物の誘惑には弱いもので、一皿を平らげるまで二人は無言でたこ焼きを味わっていた。

 

 

「んで、ここに入ったのは食欲だけが理由じゃないよな。なんか話でもあんのか?」

「特に話があるわけじゃないし。ただ、どうせ話すなら、海老名の話?」

「それな、結末はほぼ見えてるだろ。後始末をどうするかってぐらいで」

「それぐらい分かるし。あーしが言いたいのは、後始末がどこまでできるかってことと、あと」

「なんか、俺らが知らない問題でもあんのか?」

 

 ぼっちになりたくて部屋の外に出たのに、顔見知りとたてつづけに遭遇してずっと喋っていたので、八幡は緊張の糸が切れかけていた。そこにおいしいたこ焼きが胃袋の中に加わったので、女王が相手でも遠慮のない物言いになっている。

 

 今まで三浦と二人きりで話したことなどほとんどなかったのに。八幡はその事実さえ思い出せないまま、テンポのいいやり取りを続けていた。

 

「海老名はさ、ヒキオも何となく想像つくと思うけど、いざとなったら突き放すタイプだし」

「それは、まあ何となく想像できるな。『あ、もういいわ』って諦めるような感じだろ?」

「ある意味では、ヒキオと似たところがあるし」

 

 二人に類似点を見ている生徒が、ここにも一人。

 そして言われた当人も何となく心当たりがあったのか、何度か軽く頷いている。

 

「まあ、言われてみればそうかもしれんな。で?」

「だから、海老名の限界が見えそうになったら、教えて欲しいし」

「まあ、そこは、あれだ。お前らの仲が壊れるのは、俺も嫌だからな。要はそっちでも気を付けてるけど、こっちでもってことだろ?」

「話が早いと助かるし」

 

 

 三浦にも八幡と喋った記憶はほとんどない。しかし友人から何度となく話を聞いているので、会話にも違和感がなかった。だから、口が滑ったのかもしれない。

 

「それとあーし、隼人とどうしたら……」

「ん、葉山がどうした?」

 

 葉山に思いを寄せているのを隠すつもりは微塵もなかったし、知られて困ることもないと思っていた。ほんの些細なことでもいいから葉山の情報を知りたいと、ただそれだけのつもりだったのに。口に出たのは、助けを求めるようなセリフだった。

 

「その、昨日今日とさ。あーしの行動ってどう見えたし?」

「んーと、あれだ。たこ焼きの恩があるから、あんま悪いようには言いたくないんだが」

 

 そして一度口に出てしまうと、もう抑えることはできなかった。

 あまりにも突破口がなさすぎて、内心では藁にも縋るような気持ちだったこともある。友人二人が大変なので、相談しにくいという事情もある。実は二人の友人も同じ気持ちでいるなどとは、三浦は夢にも思っていない。

 

 今まで八幡との接点がほとんど無かっただけに。そのわりに、友人経由で性格や考え方などをよく知っているだけに。後腐れのなさと気安さとが重なって。八幡は自分たちをどう見ているのかと、三浦はそれを知りたくて我慢できなくなった。

 

「いいから、思ったとおりに言うし」

「はあ。後で文句言うなよ。例えばな、お化け屋敷でお前『こわーい』とか言ってただろ。あれ、完璧に逆効果だからな。お化けは大丈夫なんだなって、班の全員が思ったんじゃね」

 

 隣の椅子で固まっているのを見て、先程の川崎とのやり取りを思い出す。「実はやられキャラなのか」と推測を口にしたのは自分だったのに。こんなことを言って本当に大丈夫だったのかと少し後悔しながら、びくびくと三浦の様子を窺っていると。

 

「ん、大丈夫だし。続けて」

「いや、これを続けても意味ないだろ。我慢大会じゃねーんだしな。んで、一般論しか言えないけどな。お前の悪い部分を出さないようにするよりも、長所を出すほうがいいんじゃねって俺は思うけどな」

 

 それはくしくも、四月に葉山に伝えたのと同種の言葉だった。

 

 あの時に三浦は「ちゃんとやれば、隼人なら大丈夫」だと言った。あれこれと考えすぎて本質を見失いかけていた春先の葉山と同じ状態に陥っていることを、三浦は自覚した。

 そして、その原因にも思い至る。

 

「あんさ。立候補したじゃん?」

「えーと、一色の話な」

「それで、会長になったらサッカー部のマネージャーとかもどうなるか分かんないし、確実に関係って変わるじゃん?」

「まあ、そうだろな」

「ふつうに考えたらさ。手強いライバルが消えるのを喜べばいいと思うんだけどさ。あーし、そうは思えないし」

「一色がさらに手強くなるってことか?」

「それも、あるかもだし。ただ、それだけじゃなくて……。一緒に頑張ってた仲間がいなくなる感覚が近いし」

 

 表面的には対立しているように見えても、たしかに思い返せば険悪な雰囲気はほとんどなかった。三浦が意外と面倒見の良い性格だと知っている八幡は、その発言にすなおに頷けた。

 

「なるほどな。んで、俺はいちおう奉仕部の部員ってことになってるわけだが。なんか依頼とかあるか?」

「詳しい理由を知りたいし。立候補のことと。あとできたら、隼人とのことも」

「少なくとも立候補の理由は、俺も由比ヶ浜も雪ノ下も知りたいと思ってるからな。分かったら由比ヶ浜経由で伝えるわ」

「ん。お願いするし」

 

 話が一区切りついたので、そろそろお開きかと思い八幡がそわそわしていると。

 

「ヒキオって、興味のない相手だと露骨なのは良くないし」

「いや、その、すまん。興味ないっつーか、今まであんま喋ったことなかっただろ。ふと冷静になったら、ちょっとな」

「まあ、そんな理由なら許してやるし」

「つか、一つだけ訊いていいか。お前、一言でいうと、葉山のどこが良いんだ?」

「んー。一言だと、あれだし。めんどくさいとこ?」

「……なあ。それって、ほんとに良いって思ってんのか?」

「ヒキオにはまだ分かんないし。でもさ、そういうところが良いんだし」

 

 理由には納得がいかないものの。三浦の表情には納得がいった八幡だった。

 

 

***

 

 

 三浦を先にホテルに帰して。八幡は読みそびれていた雑誌を棚に戻すとコンビニを後にした。

 

 ホテルに着いて、そのまま部屋に戻っていれば、平穏に一日が終わっただろうに。

 ふと気配を感じて、お土産屋さんに目を向けると。そこには、京都限定パンさんグッズを真剣な表情で吟味している、雪ノ下雪乃の姿があった。

 




少し時間が遅れてごめんなさい。
次回は一週間後の予定です。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
東と西が逆だったので訂正し、細かな修正を加えました。(9/28)
細かな表現を修正しました。(10/9)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/20)


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10.ルーツを辿りながら彼と彼女は夜の京都を訪ね歩く。

本話は文字数が多いのでご注意下さい。
全体をおおよそ三分割して、途中の箇所まで飛べるリンクを設けてあります。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・二つ目の訪問先に飛ぶ。→137p1
・意外な訪問先に飛ぶ。→137p2


以下、前回のあらすじ。

 二日目の夜に、ぼっちになりたくて部屋の外に出た八幡は、戸部・川崎・三浦と相次いで遭遇した。

 戸部からは断固告白という意思を受け取った。それは周囲に乗せられての決断ではなく、海老名のことを理解した上で「今を逃せば、以後は告白の機会すら得られない」と考えたためだった。
 言葉をぼかしながら「あれがああなったら頼まれて欲しい」と告げられて。覚悟を決めた戸部から遺書を託されたような印象を八幡は抱いた。

 川崎とは東京駅にある扉の話をした。
 墓標を拝みに行くような気持ちだと説明すると、扉の情報を教えた責任感からか「お墓参りなら自分も一緒に」と言われ。解散後に東京駅で落ち合う約束をした。
 戸部の状況を知らせると、諦めるなと励まされたので。何か策がないか、もう一度考えてみようと八幡は思った。

 三浦とは、限界を迎えた海老名が何もかもを突き放さないように、警戒し合う約束を交わした。
 一色の立候補を「一緒に頑張ってた仲間がいなくなる」と受け取った三浦から。八幡は、事の詳細を知りたいとの依頼を受けた。葉山に対しては長所を出す方が良いと伝えて、珍しい顔合わせはお開きとなる。

 ホテルに戻った八幡の目に、雪ノ下の後ろ姿が飛び込んできた。


 修学旅行ならではの話題で盛り上がる同級生を、言葉尻をとらえて軽くたしなめて。すぐに笑顔を作った雪ノ下雪乃は、その場からゆっくりと立ち上がった。

 

「下で少し、土産物を見てくるわね」

 

 そう言って、J組の生徒だけが集まっている部屋から廊下に出る。

 

 

 国際教養科は学年で一クラスだけなので、三年間を同じ顔ぶれで過ごす。最近では、雪ノ下の不器用な性格をようやく理解して、気安く接してくる同級生も少なくない。

 

 春先の頃はまだ、彼女らが抱く理想的な生徒像を受け入れていた。クラスメイトが憧れる完璧な存在であろうとして、実際にそれを遂行していた。雪ノ下にとっては特に難しいことではなく、無理をしたり演技をしたりといった意識はまるでなかった。

 

 だが、いつの頃からだったか。一人また一人と、雪ノ下を普通の同級生として扱う生徒が増え始めて。完全に対等とまでは言えないまでも、心の距離はずいぶんと近くなった。

 

 以前なら詮索などされるはずもなかったことを尋ねられたりと、多少の煩わしさはあるものの。それらは概ね、喜ばしい変化なのだろう。

 

 決して孤立していたわけではなかったけれど、高一の毎日は灰色の印象が強かった。

 

 クラスや学校の行事では、求められるがままの姿を披露して。部活では、依頼人が誰一人として来ない部室で独り、長い時間を過ごして。下校後は、一人暮らしのマンションで家事と勉学を完璧に両立して。

 

 そんな毎日を送りながら、自分というものが一体どこにあるのかと、雪ノ下は悩んでいたものだった。これなら留学を続けたほうが良かったと、そう思ったのも一度や二度ではない。

 

 今もなお、そうした悩みは完全には消えていない。

 

 だが今の雪ノ下には、自分を見失ってしまうことへの対策もあれば、自分という存在を確たるものにするための思惑もある。残念ながらその思惑は、完全無欠の状態では実現できそうにないけれど、あの二人と距離ができずに済むという利点もある。

 

 これらは、帰国したからこそ得られたことだ。

 だから、落ち込む必要などない。

 

 この世界に巻き込まれて、あの二人が入部してくれたおかげで奉仕部の活動が活発になって。その影響がクラスにまで波及して、雪ノ下の周囲は彩り豊かなものになったのだ。それ以上を望んだところで、何になると言うのだろうか。

 

 

 階段を下りながら軽く首を振って、気持ちを切り替える。

 一階の土産物売り場にパンさんのグッズが並べられていたのは確認済みだ。それらを堪能するべく、雪ノ下は一直線に目的地へと向かった。

 

 しばらく商品を吟味していると、何やら妙な視線を感じる。そういえば、集中していたので意識にのぼらなかったが、外に繋がる自動ドアが開いた音を聞いた気がした。おそらく、ホテルに帰ってきた誰かに見られているのだろう。

 

 何でもないふうを装って、他の土産物をいくつか物色する。

 そして機を見て、一気に後ろを振り向いて。

 

「何か私に用……なのかしら、窃視谷くん?」

 

 強い調子は最初だけ。一瞬の間をおいて続けた言葉は、自分でも驚くほどに艶やかで弾んだ口調だった。

 

 

***

 

 

 なぜか一つため息をついてから、比企谷八幡はこちらに向かって歩いてきた。その理由は分からないものの、よく見る動作なのでそれほど気にならない。声をかけられて迷惑だという気配もなく、すぐにでも逃げ出したいという素振りもない。おそらくは反射的な行動に過ぎないのだろう。

 

 立ち話もなんだしと、軽く周囲を見回して。自販機の横にあったソファを指差した。一瞬だけ身構えるような反応を見せられたのだが、やはり理由が分からない。なんにせよ、自分が先に座ったほうが八幡も動きやすいかと考えて、ソファの中央に腰を下ろした。

 

「座らないのかしら?」

 

 すぐ前で突っ立ったままこちらを見下ろしている八幡に、きょとんとしながら問いかけてみると。今度は目をしきりに左右に動かしているので、事情を把握した雪ノ下は自分の左側を指し示した。

 

「夜にどこか行きたい場所でもあったのかしら?」

「いや、そういうわけじゃないけどな。なんか成り行きっつーか。ぼっちになりたくて、コンビニに行ってたんだわ」

 

 残念ながらぼっちにはなれなかったのだが、そこまで話す必要はないだろうと八幡は思った。それよりも、いちおう微妙に距離を空けてはみたものの。湯上がりだからか髪を上げてラフな格好の雪ノ下と夜に間近で接するのは、とても心臓に悪い。

 

 とはいえ、さっさと退散するのも惜しいし、龍安寺で別れた時に抱いた印象も気にかかる。まあ、少し喋るぐらいなら問題はないだろうとの理由で、八幡は自分をごまかした。

 

「ずっと同級生と一緒にいると、息が詰まる時もあるものね。私でもそうなのだから、比企谷くんがコンビニに逃げるのも仕方がないと思うのだけれど」

「その点、由比ヶ浜とか、あと葉山とかも凄いよな。俺にはとても真似できねーなって思うわ」

「人それぞれということで良いのではないかしら。それで明日を乗り切れるのなら、問題はないと思うのだけれど」

 

 龍安寺で石庭を見た時と同じぐらい。ちょうど子供一人分ぐらいの間隔を空けられたことに、少し照れくささを感じて。ふだんよりも優しい気持ちで話を進めたつもりの雪ノ下だったが。

 

「それなあ。詳しくは明日、由比ヶ浜もいる時に話すけどな。明日を無事に乗り切るのは、難しそうな状況なんだわ」

「そう。私は別のクラスなので、なかなか協力ができなくて申し訳ないのだけれど」

 

 一般論のつもりが具体的な話として受け取られてしまった。気にしているふうには見えないが、素直に謝っておく。依頼を引き受けた責任があるだけに、自分の非を認めることにも抵抗はない。

 

 

「それは最初から分かってたことだし、あんま気にすんな。それよりも、俺の気のせいだったらいいんだが、龍安寺の別れ際な。なんか昨日の朝に会った時と比べて落ち込んでるように見えたんだが、J組でなんかあったのか?」

「いえ、特に何もないのだけれど……何かあっても、叩き潰せば済むことでしょう?」

「いや、あのな。無駄に喧嘩っ早いのはやめとけよ」

「冗談よ。これでも相手は選んでいるつもりだし、J組では仲良く過ごしているのだけれど」

 

 八幡の鋭さに内心では舌を巻きながらも、冗談でそつなく返す。立候補の報せを受けたのが原因だと、二人には悟られたくはない。だから、理由をもう一つだけ付け足すことにした。

 

「ただ、強いて言えば。金閣寺が原因かもしれないわね」

「んんっ、と。どういうことだ?」

 

 自分は喧嘩相手に選ばれているのだと、喜ぶべきか哀しむべきか悩ましい情報を入手して混乱していた八幡だが。新たな話題を持ち出されて、そちらに意識を移す。

 

「三島の『金閣寺』の中で、米兵に促された主人公が、雪の上で娼婦を踏みつける場面があるでしょう。あれは歌舞伎の『祇園祭礼信仰記』にヒントを得たという話なのだけれど」

「歌舞伎は俺には分からんな。まあ、同じような場面があったってことか。んで?」

 

「そうね。少し詳しく説明すると、天下を望む松永大膳が将軍の母と雪舟の孫娘を金閣寺に幽閉したのよ。そこに秀吉を模した此下東吉が駆け付けるという筋書きなのだけれど。金閣寺の前で大膳に足蹴にされたその孫娘は、雪姫という名前なのよ」

「ほーん。まあ、雪舟の孫だし、姫を付けてって感じか。つか、あれだな。海老名さんの名前って確か」

「もちろん偶然に過ぎないのだけれど。何となく、不吉な感じを受けるでしょう?」

 

 雪ノ下と、そして海老名姫菜と。二人の名前を冠した登場人物が不幸な目に遭うと聞けば、たしかに良い印象は持たない。とはいえ雪ノ下がそんな迷信じみた偶然を気にして落ち込むなどとはとても思えない八幡は、話題を逸らされたことをそのまま受け入れた。

 

「まあ、気持ちは分かるけどな。そんな偶然を気にし始めたらきりがないぞ。つーか、秀吉が活躍する作品ってことは。その幽閉された将軍の母って、もしかして?」

「これはそのまま実在の名前になっているわ。慶寿院よ」

「やっぱり、義輝と義昭の母親じゃねーか!」

 

 何だか嫌な繋がりだなぁと思いながら、これで話題が逸れたかなと八幡が考えていると。

 

「私は一般客。私は一般客。私は一般客」

 

 ぶつぶつと呟きながら、二人の目の前を通り過ぎようとする怪しい女性が一人。コートを身体に巻き付けてサングラスをかけて、決してこちらを見ようとしない。その正体は。

 

「平塚先生。こんな時間に、どこに行くんですか?」

 

 平然と問いかける八幡と、頭を押さえている雪ノ下に向けて。

 

「な、なんでバレた?」

 

 そんな情けない返事をする平塚静だった。

 

 

***

 

 

 教師の弁明をひととおり聞き終えて、雪ノ下が口を開く。

 

「つまり、巡礼をしてからラーメンを食べに行くつもりだったということですね。その、後者はともかく前者の意味が私には理解できないのですが」

「巡礼ってのは、まああれだ。好きな作品で出て来た場所を実際に訪れることな。つか、お前がラーメンを不問にするのがちょっと意外なんだが」

「貴方がコンビニに出掛けたのと同じよ。ずっと他の教師と一緒にいて生徒の監督をして。役目が終わったら、少しぐらいは羽を伸ばしたくなる気持ちも分かるでしょう?」

 

 夜の魔力が作用しているわけでもあるまいに、どうにも雪ノ下の反応が優しいものばかりなので焦ってしまう。もっとこう斬り捨て御免な感じのほうが対応が楽というか、優しさには優しさで返さないと自分だけが人情に疎いみたいで落ち着かないし、かといって照れくさいことはあまり言いたくないしで、話す言葉に詰まってしまう。

 

「うむ。では雪ノ下のお墨付きも得たところで……そうだな。君たちも来るかね?」

「それですと、先生の気分転換にはならないのでは?」

「そんなことはないさ。君たちには恥ずかしい姿をさんざん見られているから、肩肘を張らなくても良いしな」

「そこは少し、教師の威厳を見せて欲しいところなのですが?」

「それはまた別の機会だな。なにも今日この場で威厳を見せろとまでは言わないだろう?」

「そうですね。羽を伸ばしたい気持ちも分かると、そう言ったのは私でしたね」

「それに比企谷なら、今日の巡礼コースは全て理解できるはずだ。同好の士と語らいながらの巡礼は楽しいものだよ」

 

 そんなふうに二人の間で話が進んでしまい、気付けば三人で出掛ける形になっている。やはり今夜の雪ノ下は対応が柔らかいなと思いながら、いちおう最後の抵抗を試みる。

 

「いや、その。どこに巡礼に行くのか知りませんけど、雪ノ下が退屈するんじゃないですかね」

「ならば君が解説してあげてくれたまえ。私は聖地を堪能するので忙しいからな」

「教師の威厳を見せるどころか、かなぐり捨ててますよね。まあ、良いですけどね」

 

 雪ノ下担当を仰せつかった形だが、これ以上ごねていると更に面倒な役割を与えられかねないので、八幡もここで妥協した。決して解説役が嬉しくて引き受けたのではないと、くり返し自分に言い聞かせる。

 

「では、タクシーを拾って出掛けるとするか。雪ノ下、その格好では寒いだろう。このコートを着たまえ」

 

 手早く脱いでスーツ姿を披露して、雪ノ下にコートをばさっとかけてあげる平塚からは、どこか大人の威厳が感じられた。

 

 

***

 

 

 ホテルの前で拾ったタクシーをUターンさせて、丸太町通を一路西に向かう。たこ焼き屋の前を過ぎて、鴨川を越えて。河原町通で左折して、一行は三条で車を降りた。

 

 後部座席の右奥に押し込められた雪ノ下と、手前の席に座る平塚に挟まれて。居心地の悪い思いをしながら、車道沿いの景色を眺めつつ適当に話を振って過ごしていたので、どっと疲れてしまった。熊野別当とか正直どうでも良かったのだが、照れくさい話題になるのが嫌だったので、会話を途切れさせないように頑張ったのだ。

 

 誰か褒めてくれないかなと思いながら、八幡はうんっと身体を伸ばす。

 

「信号を渡って、少し歩いたところだよ」

 

 そう平塚に促されて、並んで歩く二人の後ろをだらだらとついていくと。唐突に「10GIA三条本店」という看板が目に入った。

 

「え、もしかしてここ、『けいおん!』で楽器を買ってた?」

「ふっ、さすがに察しが良いな。君の想像通りの場所だよ」

「そうか、ここにギー太が……」

 

 何やら感動している二人を尻目に。ちょっとついて行けないなと思う雪ノ下だった。

 

「地下一階に楽器売り場があるはずだ。雪ノ下も楽しめると思うから、その呆れ顔は保留にしてくれると助かるのだが?」

 

 そう教師に言われたので仕方なく表情を戻して、エスカレーターで階下に降りる。すると一面のエレキギターが出迎えてくれた。これは確かにテンションが上がる。少しだけ恨みがましい目を教師に向けて、ざっと確認していると。

 

「先生。あのカウンターって、もしかして?」

「ああ、メンテナンスや査定に来たところだな。比企谷、行くぞ!」

 

 二人が脇目も振らずに奥に向かうので、仕方なく後を追う。解説という話はどこに消えたのだろうか。

 

 歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していると。ガラスケースの奥にいくつかアコースティックギターが飾られているのが目に入った。いずれも名の知れた高級モデルだ。

 

 その中の一つに目を奪われていると、いつの間に近付いたのかNPCの店員がすぐ横から話し掛けてきた。

 

「試し弾きをなさいますか?」

「え、ええ。是非」

 

 ギターを持った店員の後について、二人が写真を撮るなどして騒いでいるカウンターの横を通り過ぎる。椅子に座って、店員に手渡されたアコギを構えて、まずはいくつかのスケールに沿って単音をざっと確認して。何となくコードが弾きたくて、Gから始めて適当に繋げていると。

 

「良いギターだな。弾いているのは”A Day in the Life”かね?」

 

 試奏ブースに入ってきた教師に、一発で曲を当てられた。何だかちょっと悔しい。

 適当なところで切り上げて、二人の様子を窺うと。

 

「ふむ、G社のJ-160Eか。文化祭でも同じギターを持っていたはずだが?」

「いえ、あれは年代が違います。これは1962年製ですので」

「なるほど。比企谷、良いことを教えてあげよう。文化祭の一曲目だがね。あの曲は同じG社のアコギでも、J-180というモデルを使っていたはずだ。原曲ではね」

「先生、まさか」

「それなのに雪ノ下は、わざわざJ-160Eを選択した。その意味が分かるかね?」

 

 さすがに予測がつかないのか、八幡はちんぷんかんぷんな表情になっている。だからそちらは良いとして、この教師の放言を早く止めなければと雪ノ下は思う。どこか姉を思い出させる話の組み立てに、いらっとした気持ちがわき上がってくる。

 しかし、遅かった。

 

「これはビートルズ初期にジョン・レノンとジョージ・ハリスンが一緒に購入したモデルなのだよ。君と由比ヶ浜との初めての演奏で、あえて雪ノ下がこのギターを採用した辺りに、深い思い入れを感じないかね?」

「た、たまたま手元にJ-180がなかっただけで、それほど深い意味を込めたつもりはなかったのだけれど。比企谷くん、先生の戯れ言を真に受けては駄目よ」

「ほーん。こんな時にはなんて言えばいいのかね。あー、えーっと、あれか。……お可愛いこと?」

「っ!?」

 

 よもや八幡が漫画のセリフを口にしただけとは夢にも思わず。そして美人とか美少女とか綺麗と言われることには慣れていても、あまり可愛いと言われたことはなかったので。一気に沸点に達してしまった雪ノ下は、反論どころか何も言葉が出て来ない。

 

「比企谷……冬アニメの予習もバッチリとは、さすがだな」

「いや、それが通じる先生も大概だと思うんですけど。つーか、冗談が通じてなさそうなんですけど、俺どうしたらいいですかね?」

「もちろん君の自己責任だろう。私も少しベースを物色してくるので、その間に何とかしたまえ」

 

 そんなわけで、あたふたする八幡と顔を真っ赤に染めている雪ノ下を二人きりにして、颯爽とブースを出て行く平塚だった。

 

「逃げられたか。まあ、せっかくだし、あれだ。なんか一曲、聴かせてくれると嬉しいんだが?」

「はあ……いいわ。短い曲だから、すぐに済むわよ」

 

 八幡が精一杯頑張って取りなしてくれているのは雪ノ下も分かるので、その提案に乗ることにした。歌がなくてもアルペジオだけで楽しめる曲を演奏していると。

 

「なんか、ぎゅいんってスライドさせるのは恰好良いけど、全体的には可愛い曲だな」

 

 雪ノ下は心の中で、絶対に許さないリストの筆頭に八幡の名を二度書き加えた。

 

 

「比企谷、あったぞ。このベースがエリザベスだ!」

「えっ。品薄って話を聞いたんですけど、実物があるんですね」

 

 弾き終えるのを見計らったかのように、平塚がベースを片手に戻って来た。おそらくはアニメの登場人物の愛器なのだろう。また知らない話が続きそうだが、今の心理状態を考えるとそのほうが助かるなと雪ノ下は思う。ところが。

 

「雪ノ下、知らない話題で盛り上がってすまないな。先程のビートルズの話だがね」

「……それが何か?」

 

 話を蒸し返さなくても良いのにと思いながら、雪ノ下は最低限の受け答えで応じる。心の中では、すぐに復讐するリストに平塚の名前を書き加えていた。

 

「いや、それだと今度は比企谷が蚊帳の外になるか。君はビートルズには詳しくないだろう?」

「ですね。まあ、音楽の教科書に出て来た曲ぐらいは知ってますけど」

「そうか。私も音楽の教科書にあったぞ!」

「いや、そりゃあるでしょ。リアルタイムで聴いてた世代ってもう還暦ぐらいでしょ?」

「うぐっ。ま、まあそうだな」

「ただ、曲には悪い印象はないんですけどね。還暦間際の連中が『レリビー』とか言って自分に酔ってる印象が強くて、あんま好きじゃないんですよ」

 

 曲やミュージシャンは悪くないと分かっていても、それ以外の理由で敬遠したくなる時はあるものだ。八幡は昨夜の話を思い出しながら、自分が抱いているイメージを伝えた。

 

「なるほど。君が言わんとすることは分かるよ」

「そうね。私がビートルズを聴き始めたのは、好きなミュージシャンが子供の頃に聴いていたバンドが、彼らの曲をカバーしていたからなのだけれど」

 

 好きなミュージシャンがよく聴いていたのがビートルズではないのかと。なんだか自分と比べて段階が一つ多い気がするなと思った平塚だった。

 そして雪ノ下は、早々に復讐を完遂したことで溜飲を下げていた。

 

「ぐふっ。だが、そうだな。新しくて良いものがどんどん出てくるのも確かだがね。古くて良いものも、世の中にはたくさんあるのだよ。彼らの曲の良さは、なんと表現すれば良いのだろうな。……そうだな。人が一生の中で巡り逢う喜怒哀楽を、作品から感じとることができると私は思うよ。もちろんそれはビートルズに限らないのだがね」

「先生が仰ることには私も同感なのですが。でも、解る時期が来ないと解らないという話も……」

 

 自身の経験を振り返って、雪ノ下がどう言ったものかと考えながら話していると。大きく頷いて話を引き継いでくれた。いつもこうなら、留保せず尊敬できるのだが。

 

「そうだな。だから比企谷にも”Let It Be”の良さが、いつか解るかもしれないという事だよ。私だって本心を言えば”Something”や”Across the Universe”のほうが好きだし、君が嫌悪する連中ともお近づきにはなりたくないからな」

「作り手が違うので、その二曲を比較対象に挙げるのは不適当な気がするのですが?」

「そこらへん、作った奴が違うんだな。たしか四人いたんだっけか。まあ漫画とか小説とかでも、以前は解らなかった面白さがこの年になって、みたいなことは多いですからね。先生が言いたいことも何となく分かりますし、そんな日が来るのを楽しみにしていますよ」

 

 八幡の締めくくりが契機になって。そのまま一行は店を出ると、次の目的地に向かった。

 

 

*****

 

 

 河原町通まで歩いて戻って、そこで再びタクシーを拾う。そのまま東向きに三条大橋を渡ったところで右折して、鴨川に沿って南下した。四条の手前で運転手にUターンを命じた平塚は、少し戻ったところで車を停めさせた。

 

「さて、川べりに出ようか。ところで比企谷。エリザベスと言えば先程のベースの他に、何を思い浮かべるかね?」

「そりゃ、あれでしょ。二階堂の愛犬……ってまさか?」

「ふっ、確かめてみると良い。おそらく、あの木だよ」

 

 二人がまた、よく分からない話で盛り上がっている。とはいえ月明かりに照らされる鴨川の河畔は雪ノ下を飽きさせることがない。しばらくじっと、上流のほうを眺めていると。

 

「あー、すまん雪ノ下。先生に解説役とか言われてたのに忘れてたわ。あのな、『3月のライオン』って作品で、この場所に主人公が胃薬を持って駆け付けてくれてな」

 

 どうして胃薬なのか、全く意味が分からない。のだけれど、八幡がその場面を読んでどれほど興奮したかは伝わって来る。

 

 ふと、思い出した。旅行前に部室で、読んだ少女漫画の話をしていた時のこと。知らない作品の話なのに、もう一人の部員は心底から楽しそうに耳を傾けてくれた。その気持ちが少し解るなと、雪ノ下は思った。

 

「比企谷、これを見たまえ。向こうを出る前にコミックスを読み直して、写真を撮ってきたのだがね」

「うおっ、ひなちゃんが『何でここにいるの』って言ってる横の木って、まさにこれですよね!」

 

 だから解説を待つよりも、こちらから歩み寄ろうと考えて。二人が木と見比べている写真を、後ろから覗き込んでみると。

 

「えっ。この絵をここで描いたとしか思えないのだけれど」

「凄いよな、これ。多分ここだけじゃなくて、色んな場所を写真に撮ったりスケッチして回って、漫画にする前に厳選したんだろうな。俺らが数秒ぐらいしか目を留めない箇所でも、それを描くためにどんだけ時間を掛けたんだろうなって考えると、なんか頭が下がるよな」

「そうね。特に芸術作品は、掛けた時間や努力の量は関係なくて結果が全てだから。でも、それを勘違いして手抜きを始めると、如実に結果に反映されるのだから皮肉なものね」

 

 作品の詳細は分からないものの、こうした一般論なら話ができる。他の分野で見聞きしたことを応用すれば済むからだ。

 と、そう思っていたのに。二人がきょとんとした目で自分を見ている。

 

「な、何か見当ちがいのことを言ったかしら?」

「いや、そうではないよ雪ノ下。比企谷、作品の説明を」

「はあ。短くまとめるの苦手なんですけどね。まあいいか。その、中学生で将棋のプロになった奴の話なんだけどな。お前が今まさに言ったとおり、結果が全ての勝負の世界なわけよ。んで、盲目的に努力を続けられる奴とか、いつまでこれを続けるのかって思っちまう奴とか、まあ棋士にも色々いてな。軽く読み流しても楽しめるし、深く読み込んでも楽しめる作品なんだわ」

 

 どうして将棋の棋士が鴨川に胃薬を届けるのかがよく分からないものの。確かに面白そうな作品だなと思った。

 

 先程の楽器店で教師が口にしたとおり、この世の中には自分が知らない良いものがまだまだたくさんある。おそらく一生をかけても体験し尽くせないほどに。

 だからこそ、ひょんな理由であっても巡り逢う機会を得られた作品とは、できる限り向き合いたいものだ。

 旅行から帰ったら、この漫画も読んでみようと雪ノ下は思った。

 

 

***

 

 

 待たせていたタクシーに乗って、再びUターンをさせて。三人は更に南へと向かった。三度目ともなるとさすがに慣れたもので、八幡も無理に話題を振ることなく、後部座席の中央にちょこんと腰を下ろしている。

 

 南座を左手に、五条大橋を右手に通り過ぎて、七条で右に曲がって橋を渡った。そして東本願寺を右手奥に眺めながら左折すると、京都駅がその雄姿を現した。つきあたりの信号を右に折れてすぐのところで車を降りる。

 

 駅ビルの大階段を横目に、エスカレーターで上へ上へと昇った。昨日、駅に着いた直後に集合写真を撮ったのは四階だったが、いま目指しているのは十階だ。そこには京都拉麺小路という名のテーマパークがあり、全国各地から九つのラーメン店が集まっている。

 

「巡礼は一休みして、少し腹ごなしをしよう。君たちも好きな店を選びたまえ」

 

 そう言い残して、平塚はすたすたと歩いて行く。どうやら既に目星を付けていたようだ。

 

「あ、別行動で良いんなら俺は……どうすっかな」

「意中の店があるのなら、名前を気にせずそこを選べば良いと思うのだけれど。私はそれほどお腹が空いていないから……」

「んじゃま、お言葉に甘えてここにしますかね。小さいサイズもあるみたいだし、せっかくだから食べてみたらどうだ?」

 

 噂に聞く富山の黒いラーメンに心を惹かれていた八幡だが、少し躊躇する理由があった。なので他の店にもちらちらと視線を送っていたものの、雪ノ下にはまるっとお見通しだったらしい。

 

 やっぱり今夜の雪ノ下は妙に優しいなと、平塚が聞いたらぎょっとしそうなことを考えながら。消極的な物言いを耳にしたのでメニューを指差しながらそう提案した八幡は、それがお誘いに当たるとは気付いていない。

 

「そ、そうね。平塚先生は……あそこは、大阪のラーメンだったかしら」

「せっかくだし、ご当地のものを食べたいんじゃね。同じ関西だしな」

「なるほど。では、私たちも入りましょうか」

「えっ。ああ、まあ、うん。入るか」

 

 自分から誘いかけてきたくせに、いざとなったら照れくさそうにしている八幡がなんだか可笑しくて。更には、店員さんに注意されて慌てて外に食券を買いに行く姿が微笑ましくて。雪ノ下はコップの水を口に含みながら、忍び笑いを漏らしていた。

 

 

 店内に戻って来た八幡と、机ごしに向き合った。お金を払おうとしたら「明日の自由行動の時に飲物でも奢ってくれ」と言われたので、いちおう頷いてはみたものの。

 

 小さなサイズとはいえラーメンと飲物では釣り合わないだろうし、どうしたものかと考えて。ふと良いことを思いついたので密かにほくそ笑む。合格祈願の絵馬を奉納すれば、この唐変木もきっと喜んでくれるだろう。

 

「そういえば、小町さんがいるからかしら。比企谷くんは意外と年下の扱いが上手いわね」

「どうかね。自分ではそうは思わんけどな。年下の知り合いって一色ぐらいだし、あれは俺のほうが扱われてる感じだぞ」

「そうした部分も含めて、扱いが上手いと思うのだけれど?」

 

 納得のいかない顔をしてしきりに首を傾げている八幡に、雪ノ下は続けて話しかける。

 

「やはり比企谷くんも、立候補のことが気になるのね」

「まあ、知らない奴じゃないからな。つっても、この店を選んだのは、それが理由じゃねーぞ?」

「気にせずに選べば良いと言ったのは私なのだけれど。かえって気にしているように受け取られるわよ?」

 

 あの後輩の名前を冠したラーメン屋に、八幡と二人で食べに入っているこの現状が妙に可笑しくて。拗ねた様子の八幡とは対照的に、澄んだ笑いをこぼす雪ノ下だった。

 

 

 やがて二人分のラーメンが届いた。半ラーメンとは言っても、チャーシューもあれば海苔もネギも添えてある。そして。

 

「それ、煮卵な。せっかくだし一緒に食っとけ」

 

 夜遅くにコレステロールを、というセリフが喉元まで出かかったものの。せっかくだし、という言葉には頷けたので、味わってみることにした。まずは黒いスープを一口。そして、麺を少し箸にとって、ちゅるっと口の中へ。

 

「見た目ほどは味が濃くないわね。ただ、麺が少し固いと思うのだけれど」

「んじゃ、先にメンマとか食べとけ。あと、これ一つどうだ?」

 

 そう言って餃子の皿を押しつけてくる。臭いやカロリーが、とは思うものの。ここまで来れば大差はないかと諦め、一つだけ頂くことにした。

 

「何だか、屋台みたいで楽しいわね」

「んー、ほういや博多のほうだと、夜に屋台が建ち並んでるらしいな。ラーメンとか鉄板焼きとか、色々と食べ歩きしてみたいもんだわ」

 

 口中に頬張っていた麺をごくんと飲み込んで、八幡が無邪気な希望を述べている。男の子のように量を食べられないのが少し残念ではあるのだけれど、確かに楽しそうだなと雪ノ下も思う。

 

「煮卵も、味が染みていておいしかったわ」

「そりゃ良かった。んじゃそろそろ、麺を食べてみ?」

「……なるほど。これぐらいの固さが良いわね」

「ラーメンは食べながら色々とくふうできるからな。お前、辛いものは大丈夫か?」

 

 質問の意図が分からないので少し警戒していると。ラー油の瓶を机の中央付近に置いて、それを指差しながら。

 

「あんま多くは入れるなよ。スープの味が変わるから、ちょっと試してみたらどうだ?」

 

 そう言って手ずから実演してくれた。なるほど、なかなか奥が深い。

 

「味が引き締まった気がするわね。それと……正直、一口目はそこまでおいしいとは思えなかったのだけれど。終わりが見えてくる頃になると、このスープの味が、何と言えば良いのかしら?」

「なんか、くせになる感じだよな」

 

 八幡の言葉に頷き合って、そろってスープを味わっていると。

 

「あら。すぐそこで平塚先生が手持ち無沙汰にしているわね」

「もう食べ終わったのかよ。そういうとこ、子供みたいだよな。んじゃ、俺らも出ますかね」

 

 こんなふうにして、雪ノ下のラーメン体験はひとまず終わった。

 

 

***

 

 

 教師に先導されて、三人は拉麺小路から空中径路へと歩を進めた。

 

 お腹に食べ物が入った直後だからか、無言で身体を動かすのがなんだか心地よい。そんなことを考えていた雪ノ下の眼前に、展望スペースが見えてきた。

 

「比企谷。私が何を見せたかったか、君なら分かるだろう?」

「ライトアップされた京都タワー、ですね。でもなんか、ちょっと遠くないですかね?」

 

 どうやら次の巡礼地はここだったようだ。またしばらくは置き去りにされるのだろうなと思いながら、京都の町並みを眺めていると。

 

「ふむ、これを見たまえ。出発前にジャケットの写真を撮ってきたのだがね」

「あー、やっぱここからですかね。その、屋上から撮ったのかもって思ったんですけど」

 

 またもや教師が写真を出してきたので、一緒に覗き込んでみた。どうやらベストアルバムのジャケットみたいだが、それよりも。

 

「先程の漫画もですが、わざわざ写真に撮ったのは理由があるのでしょうか?」

「良い質問だ、雪ノ下。電子書籍で持ち歩けば写真を撮る必要はないという、君の指摘はもっともなのだがね。その、学年主任が、たまに、持ち物チェックをするのだよ……」

 

 あんまりな理由を耳にして、訊かなければ良かったと思った雪ノ下だった。

 

「先生の歳で持ち物チェックって、教師って大変ですね」

「言うな比企谷。私だってそんな目には遭いたくないのに、なぜか昨年度から急に厳しくなってな。特に私が目の敵にされている気がするのだが」

「それは……もしかして、姉が原因ではないでしょうか?」

 

 予想外の言葉に目を見張っている二人に、雪ノ下は軽くため息をついてから説明を始めた。

 

「姉が卒業する時に、図書室に書籍や漫画を寄贈したと思うのですが。その、漫画の大半は平塚先生の私物でしたよね?」

「な、なんでバレたの?」

「えーと。要するに、ラノベとか漫画が充実してたのって、平塚先生のおかげってことか?」

 

 旅行前に図書室で抱いた印象を思い出しながら、八幡が疑問を述べると。

 

「ええ。平塚先生はおそらく、姉が寄贈した書籍にまぎれ込ませたつもりだったと思うのですが。寄贈リストを見ると、はっきりと平塚先生のお名前が」

「ううっ、陽乃を信じた私が浅はかだったか。布教にもなるし保管場所にも困らなくて済むし、良いアイデアだと思ったのに……」

「まあ、あの人に一杯食わされるのは仕方ないでしょ。俺はてっきり、先生がリストの選定に口添えをしたんだろうなと思ってたんですけど……って聞いてねーな」

「ずいぶんショックだったみたいね。自業自得ではあるのだけれど、しばらくそっとしておきましょう」

 

 そんなわけで、並んで京都の夜景を眺める二人だった。

 

 

「案内板と見比べると分かりやすいわね」

「だな。なるほど、あれが愛宕で、こっちが高雄か」

 

 ちょっと提督を気取ってみた八幡だが、もちろん雪ノ下には通じない。それよりも気になることがあるみたいで。

 

「先程の写真にあったアルバムは、その、アニメか何かの曲なのかしら?」

「あー、いや。普通にJ-POPのアルバムでな。ポピュラーなやつって、お前は洋楽しか聴かないんだっけか?」

「海外にいる間に、すっかり分からなくなったのよ。もともと疎かったのは確かだけれど。それでも、街中で流れているヒット曲ぐらいは知っていたのに。最近のJ-POPは完全にお手上げね」

「なんか、昔はもっとそこら辺でがんがん流れてた気がするよな。んで、あれは完全に先生の趣味だ。くるりって人たちのベストアルバムでな。でも、あの写真はいいなって俺も思うわ」

 

 八幡の説明に頷きながら、ようやく巡礼の何たるかが理解できた気がした雪ノ下だった。

 

「三条の楽器店で、ビートルズの話をしたでしょう。彼らの”Abbey Road”という作品のジャケットが、四人が横断歩道を渡っている写真なのだけれど」

「あー、言われてみれば何となく分かるような分からんような気になるな。なんかこう、髭もじゃな感じだっけか?」

 

 着眼点の面白さに頬をゆるめながら、軽く頷いて。そのまま雪ノ下は話を続ける。

 

「その横断歩道で同じ写真を撮ろうとするファンが、今も絶えないという話なのよ。巡礼というのは、そうした行為を指すのよね?」

「ああ、それで合ってる。っつーか、もしかして。お前もその、何たらロードに行ったことがあるのか?」

「交通量も多いし、スピードを出す車が多かったので、とても写真を撮るどころではなかったわね」

 

 苦笑まじりに話してくれる雪ノ下を横目で眺めながら。今年度の初めに会った頃には、自分とは別世界の住人だと思っていたけれど。こんなふうに、同じようなことをして喜んでいる側面もあるんだよなと八幡は思った。

 それでも、やっぱり住んでる世界が違うなと、思う時もあるのだけれど。

 

 

「さて。雪ノ下にも聖地巡礼の魅力が伝わったところで、次に行こうか」

「先生、もう大丈夫なんですか?」

 

 急に平塚が話しかけてきたので、雪ノ下は驚いた拍子にぱっと八幡と距離を取った。

 そんなめったに見られない雪ノ下の反応に、内心では照れくささを感じながらも。八幡は平然と教師に話しかける。

 

「うむ。できれば、くるりの良さをじっくりと語りたいのだがね。それは君から伝えてくれたまえ」

「そう言われても俺、先生に勧められて聞いた程度であんま詳しくないんですけどね。あー、でも。曲の話からは外れますけど、今も続いてるって大きいですよね。ずっと昔に解散したミュージシャンよりも、つい最近も新作を出したって言われるほうが興味が湧きますし」

 

 また昨夜の話を思い出して。同級生とは話が合わなくとも、「知らない」とは言われなかっただろうなと思ったので。その理由が継続的な活動にあると考えた八幡は、そのままの気持ちを口にした。

 

「そうだな。好きなミュージシャンが解散するのは、今までに何度も経験したがね。もう新作が出ないという現実を受け入れるには時間が掛かるよ。好きであればあるほどな」

「それって、どうしようもない絶望感とかに浸れるほうが、かえって早く済むんですかね。その、ほんの少しでも復活の可能性が残っているほうが逆にたちが悪いというか」

 

 サザンの歌詞に続けて彼が語っていた言葉を、そのままくり返しながら。好きなミュージシャンの新曲はもう聴けないのだと諦めることと、特別な異性を諦めることと。それらは、驚くほど似通っているなと八幡は思った。

 

 誰かに聞かれたら「そんなの当たり前だろ」と一笑に付されそうな気付きではあるけれども。言葉ではなく実感として、八幡はそう思った。

 どうして実感できたのだろうという疑問は、この時点では思い浮かばなかった。

 

「そうだな。新作が出るのか出ないのかはっきりしないまま悶々と過ごす時間が長くなると、『解散でもいいからさっさと白黒つけろ』となるかもしれないな。かつて好きだった対象を、そんなふうに思えてしまう日が来るというのは、哀しいことだがね」

「でも、バンドは解散してもソロ活動をしたり別のバンドを組んだりで、より良い作品を届けてくれる例もありますし。継続に価値を認める比企谷くんの意見には私も同感です。とはいえ、変化すべき時には変化すべきだとも思うのですが?」

 

 遠い過去を思い出すようにして語る平塚に、雪ノ下が正論をぶつける。らしい発言を耳にして、思わず顔がほころんでしまう。慎重に何でもない表情を作りながら、八幡が口を開いた。

 

「まあ、それもそうだよな。先生ってたしか、椎名林檎も好きでしたよね?」

「ああ。それがどうかしたかね?」

「たしか最初はソロでデビューして、何年かしてからバンドを組んで、また何年か経ってソロに戻ってって感じで活動を続けてますよね。それって、雪ノ下が言った変化を組み込みながら、継続してるってことだよなと」

「なるほど。続けたまえ」

「いや、さっきのでほぼ全部です。強いて言えば……うちの小町がけっこう好きなんですよ、椎名林檎。それって、活動を継続してくれてるから作品を知れて、だから好きになれたんだろうなって」

 

 結論がシスコンなのは相変わらずだが、内容には頷けるものがある。だから平塚と雪ノ下はお互いを見やって、そしてそろって表情をゆるめた。

 

「それにしても、結局くるりの良さを教えてもらえなかった気がするのだけれど?」

「いや、だから俺はあんま詳しくないからね。それこそベスト盤の曲ぐらいしか分からんし」

「それでも、いくつかの曲は身にしみただろう。例えば『ワンダーフォーゲル』とか」

「まあ、そうですね。あれは良い曲だと思いますよ」

 

 それ以上を語る気がなさそうな二人を、少し不満げに眺めながら。雪ノ下は、曲のタイトルをしっかり覚えておこうと思った。

 

 

*****

 

 

 車を降りた場所から信号を北に渡って、そこからまたタクシーに乗り込んで烏丸通をひた走る。東本願寺を左手に、マンガミュージアムをやはり左手に見送って、御所の手前で右折する。丸太町通に戻って来たという気持ち以上に、駅伝中継で見たという意識が先に立って、八幡は少し興奮気味だ。

 

 そのまま鴨川を渡って、駅伝ランナーと同じように東大路通を左に曲がる。すこし北上して、東一条通の交差点で平塚は下車を命じた。横断歩道を渡って、そのまま東へと歩いて行く。

 

「さて、着いたな。ここが正門なのだが。なにか感想はあるかね?」

 

 我が国で二番目に創設され、帝国大学の時代から数えて百年以上の歴史を誇る国立大学。その京大の正門が、八幡と雪ノ下の眼前にあった。

 

 

「えっと、ここが次の巡礼場所なんですかね?」

 

 なんでもないはずの光景なのに、大学の名前という目に見えないものに威圧された気がした。少し深呼吸をくり返してから、八幡がそう問いかけると。

 

「予定にはなかったのだがね。だから巡礼と言うよりは、進路指導のようなものだよ」

「でも、俺は私立文系志望ですし、雪ノ下は……え、まさか?」

「私も、京大を志望校に挙げた記憶はないのですが?」

 

 ふるふると首を左右に振って、雪ノ下も不思議そうに教師を眺めている。

 

「この世界に巻き込まれた頃には、高認という話も出ていたがね。君たちが大学を受験するのは一年以上先になるだろうし、今更それに異存はないはずだ。ここまでは良いかね?」

 

 二人が頷くのを待って、平塚は再び口を開いた。

 

「一年という期間はあんがい短いものだし、早くから志望校を絞り込むのは悪いことではない。むしろ高二の秋なら遅いと言う人も多いだろうな。だが、君たちには安易に進学先を決めて欲しくないのだよ。より踏み込んだ言い方をすれば、可能性を捨てないで欲しいと私は思うよ」

 

 そこまで言い終えると、平塚は二人の背中を順に押して、時計台に向けて歩ませた。

 正門の前で立ち話を続けるのも気が引けるので、八幡も雪ノ下も素直にそれに応じている。

 

「君たちも、東京への一極集中という話は知っているだろう。経済や人口の話として捉えているかもしれないが、教育の分野も例外ではなくてね。大学が独立行政法人となって以来、東大と京大の差は少しずつ開いているらしい。関西の進学校の先生から話を伺ったのだがね。今は東大と京大の差よりも、京大と阪大の差のほうが小さいそうだ。だから、阪大を目指す生徒には『もう少し頑張れば京大に行けるぞ』と勧めていると、そう言っていたよ。阪大が頑張っているという側面もあるだろうにな」

 

 千葉にいるとどうしても首都圏の情報ばかりが多くなるので、関西やその他の地域にある大学のことは名前ぐらいしか知らないと言っても過言ではない。だから、初めて聞く話に興味を惹かれはするのだが。重めの内容でもあり、自分たちとは関係が薄いと思えるだけに、二人は曖昧に頷くだけだった。

 

「それでも京大の歴史を振り返ると、国内はもちろんアジアにおいても随一と言って良いだろうな。ノーベル賞やフィールズ賞などの受賞者数を見ても、それは間違いない。もちろん、今後のことは分からないがね」

「先生の口ぶりからすると、過去の栄光だって言いたいわけじゃなさそうですね」

「むしろ私たちに勧めているようにも思えるのですが」

 

 歩きながら話を聞くだけだった八幡が、教師の意図を探ろうとして口を開くと。雪ノ下もそれに続いた。

 

「ふむ、そう聞こえたかね。私も、迷う気持ちはあるのだがね。選択肢の一つとして考えて欲しいといった辺りが正解かもしれないな。雪ノ下、少し陽乃の話をしても良いかね?」

 

 時計台に入ってすぐのサロンに腰を落ち着けて。雪ノ下の許可を得て、平塚はそのまま話を続けた。

 

 

「陽乃の志望校は東大だった。現役で合格できる実力があると私は思っていたし、当人もその気だったな。もっとも大学への思い入れはさほどなくて、国内で最高峰だからと、そんな程度の理由だったよ。母親の母校に自分も通いたいなどといった殊勝な心がけは皆無でね。陽乃らしい話だよ」

「え、っと。それって要するに、雪ノ下の母親は東大卒ってことですよね?」

 

 雪ノ下と平塚を見比べながら、おっかなびっくり疑問を口にしてみると。表情を消した雪ノ下が口を開いた。

 

「私の両親は同じ高校で、将来を約束する仲だったのだけれど。大学に進学するにあたって、()()()は東大に、父は京大に進んだのよ。父には、祖父が興した会社の規模を全国に広げるという野望があったし、幅広い人脈を築きたいと思っていたから。残念ながら地域ごとのしがらみもあり、人脈も一代では限界があったので、堅実な方向にシフトしたのだけれど。何度もあった不景気を易々と乗り越えてきたことを考えると、父の方針で正しかったと思うわ」

 

「大学院は東大を選んだと、以前に伺ったことがあるよ。ご夫婦そろって東大の修士卒というのが最終学歴だ。比企谷、これをどう思うかね?」

「いや、どう思うも何も。すげえなとしか言いようがないんですけど?」

 

 重い雰囲気を嫌って、八幡が軽い口調で答えたものの。

 

「女性の地位向上が唱えられて久しいが、雪ノ下のご両親の時代にはまだ、高学歴の女性は陰では敬遠されていてね。いや、これは正確ではないな。女性の高学歴化に理解のある人もいたとは思うが、雪ノ下のご両親の周囲には少なかったということだろうな」

 

「父を除いて皆無だったと、幼い頃によく聞かされました。女に学歴で劣るというその鬱屈を、様々な場でぶつけられて。()()()が長年にわたって苦労してきたのは確かなのだけれど」

「陽乃の東大進学に、最後まで同意してもらえなかったのだよ。私もぎりぎりのところまでは踏み込んだつもりだったがね。それ以上は家庭の問題だと、そう言われて己の無力を噛みしめたよ」

 

 だから、あの人は地元の国立大学に進学したのだなと八幡は思った。もちろん悪い大学ではないし、友人に囲まれている姿を一度だけ見たことがあるが(ららぽーとで最初に会った時のことだ)、母親のような苦労とは無縁に思えた。

 

「俺が知ってる範囲だけですけど、陽乃さんは退屈を持て余しているかわりに、母親のような煩わしい目にも遭っていないと、そんな感じですかね」

「結果だけを見れば、母親の方針が正しかったと言えるのかもしれないな。だがね、陽乃にはもっと大きな可能性があったと私は思うのだよ。いくら大学院は海外に行くとはいえ」

 

 またもや意外な情報が飛び出したので、八幡は思わず疑問を口にする。

 

「えっ、と。それって、大丈夫なんですかね。今の時代に合ってるのかって話は置いておくとしても、要は学歴が高くなり過ぎるのが駄目だって言われて、東大進学に反対されたんですよね。なのに海外留学とか」

 

「比企谷。ここが難しいところなのだがね。我が国において学歴とは、大学の学部のことを指すのだよ。そう割り切ってしまえば、陽乃の進路は実に合理的でね。大学の名前は少し落ちるので、余計な嫉妬を集めることもないし。最終学歴は海外の名の通ったところになるだろうから、その価値を知る人には重宝されるだろうな」

 

「だからって、そのために四年間を……」

「その後の長い人生と比べれば短いものだと。それに、四年間を好きに過ごすことと無為に過ごすことは全く違うと、そう言っていたよ。陽乃なら時間を無駄にはしないとね」

 

 世にはいわゆる毒親と呼ばれる人たちが確かに存在していて、それらと対峙するのは厄介なことだろうと推測できるのだが。反論の余地がまるで窺えないほど完璧な、でも歪にしか見えない教育方針を掲げる親のほうがはるかに厄介ではないかと、八幡は思い知らされた気がした。

 

 

「じゃあ、雪ノ下も同じようなことを言われてるのか?」

「いいえ、違うのよ。姉さんとは違って、私は放任状態なの。中学で留学をした時に()()()には見限られたし、私も()()()の言いなりにはならないって、そう決めたから」

 

 さっきからずっと雪ノ下の物言いが気になるのだが、新たに得られた情報を整理するので精一杯でそこまで手が回らない。だから視線で教師に助けを求めると、軽く首を左右に振られた。

 

 意外な反応にかっとなって、すぐに意図を悟って何とか心を静める。助けを拒否されたのではなく、おそらくは雪ノ下の思い込みだという意味で首を振ったのだろう。

 だから、あえて明るい口調で話を繋げる。

 

「じゃあ、どこでも選び放題ってことだよな。いっそ平塚先生のお勧めに従って、ここに来るのも良いかもしれんぞ?」

「そうね。いちおう第一志望は東大にしたのだけれど。いくつか迷っているのは確かね」

 

 その先を尋ねて良いものかと、八幡が躊躇していると。

 今度は教師が助け船を出してくれた。

 

「その迷っている候補先を、比企谷に明かしても大丈夫かね?」

「ここまで話してしまったのだし、仕方がないですね。比企谷くんなら、他言することもないでしょうし」

「ほう。なかなかの高評価じゃないか」

「ええ。だって比企谷くんには話す相手がいませんので」

「なあ。二人して俺をオチに使わないでくれない?」

 

 そう言ったのは口だけで。こんな程度で場の雰囲気が和らぐのなら、いくらでも使ってくれて構わないと八幡は思う。いちおう唇を尖らせて、そのまま二人の様子を窺っていると。

 

「国内で迷っているのは、東大とICUとAIUあたりね」

「ほーん。よく分からんけど、たとえば東大志望だと、学部とかはどうなるんだ?」

「そうね。医学部に進む気はないし、文一でも理一でも一年あれば大丈夫だと思うわ」

 

 平然とそう答える雪ノ下に苦笑していると、教師がフォローしてくれた。

 

「雪ノ下は文系科目も理系科目も穴がないのに加えて、何より英語ができるのが大きいな。高校受験とは違って、大学受験の英語は国語力が求められるという話を、比企谷も聞いたことがあるだろう?」

「単語や文法をただ暗記するだけでは難関校には通じないとか、そんな話ですよね?」

「うむ。そこで一つの疑問が思い浮かばないかね。国語力を確認するために、どうして英語と国語の二科目が必要なのかと」

 

「え、だって入学後に英語が読めないと話にならないから、試験科目に入ってるんですよね?」

「ふむ、もう少し考えを進めてみたまえ」

「英語で国語力が問われて、国語でも……ああ、国語だともっと難しい内容を扱うじゃないですか。それに古文や漢文もありますし」

「なるほど。では、どうして英語では国語ほど難しい内容を扱わないのかね?」

「それは……難しくしすぎると誰も解けないからですかね?」

 

 どうやら、ここまでの返答に満足してくれたらしい。一つ優しく頷いて、そして教師が語り始めた。

 

 

「我が国の教育は、大学受験の時点までは世界でも最高レベルだと言われているそうだ。特に数学など自然科学の分野を、母国語でこれだけ深く学べる国は稀だと、そんな言われ方もされているようだな。だがね比企谷、ほとんどの国々はそれを英語で学んでいるのだよ。確かに日本の高校生が学ぶ内容と比べると、少し劣るのかもしれない。けれども、その差はさほど大きくないし、むしろ我が国が大学受験で課している英文のレベルと比べると、その差のほうが大きいという話だ。これがどういう意味なのか、君なら解るだろう。それが、雪ノ下が進学先を迷う理由でもあるのだよ」

 

 ここまで説明されると、八幡にも教師の意図が理解できたし同意もできた。

 

「なんかさっきの東大と京大と阪大の話を思い出しますね。入試科目の話も、要はあれですよね。例えば日本語で現代文を読ませて、設問を全て英語で答えるって形にできたら話が早いのに、それをしたら阿鼻叫喚の未来しか見えないってことですよね。けど雪ノ下ならそれでも解けるし、海外のトップクラスの連中も、入試の現代文と同じレベルの英文を普通に読めてしまうって話で」

 

「もう一つ。君たちは将来そんな相手と英語で渡り合いながら、仕事をすることになるのだよ。もちろん国内に引き籠もっていられる職種ならその必要はないがね。だが、君たちの資質を思えば、そうした現実を見据えておくべきだろうな」

 

 高評価は嬉しいし、それがこの教師からのものなのだから格別だが、それにしてもちょっとハードルが高すぎる気がする。これでも春先までは専業主夫志望とか言ってた奴なんですけどねと、そんなことを考えていると。

 

「私の世代よりももう少し上の、例えば君たちのご両親の世代だとね。日本に生まれただけでも運が良かったと、そう言えるような国際状況だったわけだ。だが今や、多くのアジアの国々が経済成長を果たして、ライバルは増える一方だ。日本人というだけで優遇される時代は終わってしまったのだよ。これを、どう考えるかね?」

 

「そりゃあ、俺も楽をしたかったなと」

「比企谷らしい答えで何よりだ。だがね、無責任な傍観者の立場からすると、わくわくするのだよ。能力さえあれば、対等な勝負で結果を出せるのだからね。日本人だから贔屓されて、それを自分の実力だと過信できた時代が終わって。まがいものが舞台を去る一方で、実力次第で君たちはどこまでも行けるのだよ。それは、素晴らしいことだと思わないかね?」

 

 わくわくするのは確かだけれども、自分が当事者になるのは正直ちょっと面倒くさい。それでも、偉ぶるだけしか能のないまがいものが姿を消すのは嬉しいし、雪ノ下の行く先は何としてでも見てみたいと思う。同じ傍観者の立場なら、百パーセント同意できるんだけどなと八幡が考えていると。

 

「何だか大げさな話になっているわね。でも本音を言えば、私が目指したいと思っている英語のレベルと、大学入試で問われるレベルが乖離しているのは確かよ。将来の職種は決めかねているのだけれど、海外の人材と競い合うのであれば、私の目標でもまだ低いとすら思えるのよね」

 

 いつもの調子に近くなってきたなと胸をなで下ろす八幡の耳に、教師の声が聞こえてきた。

 

 

「うむ。そこで話が戻るのだがね。君たちは京大の英語の問題を知っているかね?」

「なんか、やたら長いのを読まされるって話ぐらいしか知らないですね」

「比喩や倒置など技巧を凝らした文章が多く、内容も抽象的だと聞きました」

 

「なるほど。雪ノ下が言ったとおり、扱う英文のレベルは国内随一という話だ。ネイティブでも少し腰を据えて読まないと難しいと聞いたことがあるよ。それと、基本的には和訳と英作しか問われない。最近は自由英作文や内容説明も出るようだが、日本語の能力と英語の能力を高いレベルで要求されることは間違いないな」

 

 この説明を頭の中で噛み砕いた八幡は、教師の結論を予測してそれを口に出した。

 

「つまり英語と日本語の両方をみがくことを考えるのなら、京大という選択はありだという意味ですね。突っ込んだ言い方をすれば、英語だけを考えると京大でも物足りないと」

「そうだな。ただね比企谷、そこは京大の責任ではないよ。英文を読んで英語で理解できる生徒はほんの僅かだし、それを適切な日本語に置き換えられる受験生がどれほどいると思うかね。大部分は英文を日本語で理解して、日本語の思考プロセスに従って問題を解くのだよ。だからそれは、仕方のないことだ。雪ノ下がリベラルアーツ系の大学や、海外留学を考えているのはそれが理由だよ」

 

 急に冷や水を浴びせられた気がした。

 

 その可能性は雪ノ下のセリフの端々からも推測していたはずなのに。海外の大学も有り得ると実際に言われてしまうと、やはりインパクトが大きすぎた。

 そんな八幡の内心を知ってか知らずか、教師はそのまま話を続ける。

 

「留学をする場合は、雪ノ下ならSATやTOEFLは問題ないのだろう?」

「そうですね。いくつか過去問を解いてみましたが、概ね大丈夫かと。それ以外のことについては、話が具体的になった時に相談に乗って頂ければと思うのですが」

 

 雪ノ下が話をさっさと終わらせたのが少し気になったが、八幡としてはそれどころではない。混乱が続く中で、今度はこちらに教師の目が向いた。

 

「では比企谷の話をしようか。君が京大を受験するとして、問題になるのは数学だろうな。二次試験でも全ての学部で数学が課されているとのことだ」

「あ、俺やっぱり私立文系で」

「そう言うと思ったよ。この辺りも京大の面白いところでね。二次試験では文系でも数学が、理系でも国語が全学部で課されるのだが、とても良いことだと私は思うよ」

「俺は……数学を、捨てたんですよ」

「急に深刻な顔をしても、しまらないわよ。先ほど平塚先生が『可能性を捨てないで欲しい』と言っていたでしょう?」

 

 これは逃げられない流れだなとあっさり諦めて。根本的な疑問を尋ねることにした。

 

「受験科目の話は後にして、そもそも俺に京大を勧めるのは何でなんですかね?」

「そうだな。君たちは二人とも、どちらかと言えば海外の水が合っていると私は思うよ。ただね、海外の大学では課外活動が盛んで、特に比企谷はその点で不安なのだよ」

「それは確かに、英語がもっとできたとしても俺には無理そうですね」

「それと比べると最近の我が国では、ぼっちへの理解が進んでいるからな。おひとりさま対策が充実している大学もあるし、特に京大は変人が多いからその辺りは特に寛容だ。例えば、外を見てみたまえ」

 

 そう言われて背後を振り返ると、何の変哲もない炬燵がいつの間にかそこにあった。

 

「え、あれってもしかして、韋駄天の?」

「うむ。おそらくあれが、名高い韋駄天コタツだろう。学祭が来週にあると聞いていたのだが、見られてラッキーだったな」

 

 久しぶりに聖地巡礼のノリが戻って来たので、雪ノ下が二人を白い目で眺めているものの。肩の力が抜けた気がして、内心では少し喜んでいたりもする。

 

「今日のところは、候補の一つとして認識して欲しいという程度だがね。ただ、比企谷の場合は数学が問題になるので、志望校にするか否かはさておいて、少しずつ復習を進めてくれると助かるよ。雪ノ下、少し頼まれてはくれないかね?」

「そう、ですね。実は以前から疑問だったのですが、比企谷くんはどうして数学が苦手なのでしょうか?」

「いや、あのな。できる奴はそう言うんだけどな」

 

 雪ノ下の物言いに八幡が呆れていると。

 そうではないとかぶりを振って、話が続いた。

 

「貴方は数学の能力をセンスだと考えているかもしれないのだけれど、数学は論理よ。感情が入り込む余地がないという点からすれば、貴方に合っているとすら思えるのだけれど」

「いや、俺はどちらかといえば暗記が全てみたいな教科のほうが楽なんだわ。数学って覚える公式は少ないけど後は応用みたいな印象でな。解き方を全て覚えてたら労力が掛かるし、だから捨てることにしたんだわ」

「……なるほど。平塚先生、確かに頼まれました」

 

 なぜか八幡の弁明は逆効果になって、そう宣言されてしまうのだった。

 

「さて、では最後の目的地に向かうとするか。そろそろお腹もこなれてきただろう?」

 

 またこの場所に来ることがあるのだろうかと。そんなことを考えながら、八幡は京大の時計台を後にした。

 

 

***

 

 

 東大路通に戻ってタクシーに乗り込んで、三人は再び北に向かう。百万遍の交差点を右折して、白川通で左折して、一行は北大路通の少し手前で車を降りた。そこにあるのは。

 

「天下一品の総本店が俺の目の前に……!」

「うむ、ついに来たな比企谷!」

 

 これは聖地とか関係なしにラーメンで盛り上がっているのだろうなと考えながら。手で軽くお腹を押さえて、雪ノ下が口を開いた。

 

「まだ先程のラーメンが消化し切れていないので、私は遠慮して……」

「まあそう言うな雪ノ下。せっかくだから、取り皿をもらって少し食べたまえ」

「ですね。ここまで来て食べないとか、将来絶対後悔するぞお前?」

 

 酔っ払いに絡まれるとこんな気分になるのだろうかと考えながら。一つため息を吐いて、雪ノ下は二人の後を追って店内に入った。

 

 

「こってりって、これは本当にスープなの?」

「箸が立ちそうだし、びびる気持ちも分かるけどな。でもお前、ここでその反応だとなりたけとか食えねーぞ?」

「そのお店はもっと酷いのね……。私は遠慮しておくわ」

 

 なりたけ同行を断ったことを雪ノ下が将来後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

「スープが麺にまとわりついている感じね。旨味という一点だけに限れば、凄いと言わざるを得ないのだけれど」

「ああ、ほんな感じだな。でもま、ラーメンなんてそれで充分じゃね?」

 

 幸せそうに麺を頬張っている八幡の言葉を何度か反芻して。そういうものかと妙に腑に落ちた雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 先程の京都駅にも支店を出しているラーメン屋さんの本店を、来る途中で見たらしくて。次はそこだと張り切る平塚には、さすがの八幡もついて行けない。地味にたこ焼きが効いているので、さすがに限界だ。だから「そろそろ時間が」という言い訳で勘弁してもらった。

 

 タクシーに意気揚々と乗り込む教師を見送って、二人は交差点を渡ってちょうど来た市バスに乗ると、そのまま白川通を南下した。丸太町通のバス停で降りると、ホテルはすぐそこだ。

 

「そういや平塚先生、戸部の依頼のことは何も言わなかったな」

「そうね。おそらく、全てバレているのだと思うわ。良い先生よね」

「まあ、だな。数学の勉強をさせられるのは怠いけどな」

「諦めが早いのは、貴方の美徳だと思うのだけれど」

 

 そんな会話を交わしながら、二人は並んでホテルの中へと入っていく。

 

「んじゃ、また明日な」

「ええ、また明日」

 

 

 部屋までたどり着いて、ようやく雪ノ下はコートを着たままだったことに気が付いた。そしてそれを凝視している同級生たちの視線も。

 

「雪ノ下さんなら大丈夫だって、思ってはいたけどさ。ぜんぜん帰って来ないし一階には誰もいないし、みんなこれでも心配してたんだよ?」

「そう。少し顧問に捕まって、外に連れ出されていたのよ。心配させてごめんなさいね」

「うん、まあそれなら仕方ないか。雪ノ下さんが無事ならそれでいいやって、そんな話になってたもんね」

「私も次からは気を付けるわね」

 

「うーん、それは別にっていうか……。あのね、一緒にいたのって平塚先生だけ?」

「えっ。いえ、その。他の部員もいたのだけれど……」

「さっき窓から外を見てたらさ。一緒に並んで帰ってきたよね」

「なっ。まさか、見てたの?」

「ふっふっふー。なんだか大人な二人って感じでさー。いいなー雪ノ下さん」

「ち、違うのよ。別にやましいことなど何もなくて」

「うんうん、分かってるって。雪ノ下さんが校則違反なんてするわけないって、みんな分かってるから」

 

 これは絶対に分かってないやつだと思いながらも。何を言っても藪蛇になる気がして、それ以上は何も言えない雪ノ下だった。

 

 

 こうして、二日目の夜が静かに更けて行った。




途中で分割することも考えたのですが、一話としてお届けすることにしました。
文章量が多くなってごめんなさい。

また、本話で京大の話を書いたちょうど同じタイミングで、本庶先生がノーベル賞を受賞されました。
私なんぞが言及するのはおこがましいですが、この偶然をとても光栄に思います。

次回は一週間後を考えていますが、週明けになるかもしれません。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
三月のライオン→3月、韋駄天こたつ→コタツ、以上二点を謹んで訂正させて頂きます。
その他、細かな表現を修正しました。(10/9,10/19,12/17)
長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/19)


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11.かみさまに願を懸けて三人は洛中洛外を練り歩く。

前話よりは短いですが、本話にも途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・伏見稲荷大社に飛ぶ。→138p1
・北野天満宮に飛ぶ。→138p2


以下、前回のあらすじ。

 ホテルの一階で鉢合わせになった八幡と雪ノ下は、平塚に誘われて夜の京都を巡り歩く。

 楽器店や鴨川の河畔を経て、京都駅では拉麺小路と空中径路を見て回った。音楽や漫画などお互いの好きなものや好きな理由を、図らずも語り合いながら。お腹を満たして三人の夜歩きはなおも続く。

 次の訪問先は、意外にも京大の正門だった。時計台の下で腰を落ち着けて、教師は進路指導を始める。
 陽乃が地元の国立大学に進学した理由、母親の教育方針や苦労した過去の話を知って。続けて八幡は、雪ノ下の進学先候補と悩む理由とを聞かされた。
 平塚は二人に「京大も選択肢の一つとして考えてみては」と提案し、八幡に数学の復習を求める。その手助けを要請された雪ノ下は頼まれごとを快諾した。

 最後にもう一度ラーメンを堪能して、雪ノ下は八幡と二人並んでホテルに戻ってきた。それを見ていたJ組の同級生に冷やかされながら、二日目の夜は更けて行った。



 修学旅行は三日目を迎えた。

 

 前夜は食べ過ぎたせいか胃が重く、それに考えることも多くてなかなか寝付けなかったので。同じ部屋の生徒たちが朝食に出掛けた後も、比企谷八幡は惰眠を貪り続けていた。

 今日は別行動だからあいつらに合わせる必要はないと、まどろみながらも思考がそこまで進んだところで。

 

「げっ。待ち合わせとか何も聞いてなかった」

 

 本日の同伴相手たる二人を思い出して八幡は飛び起きた。

 そういえば何か鳴っていた気がするなと、おそるおそるメッセージを確認してみると、未読がぼろぼろと出てくる。一番古いものは雪ノ下雪乃からのもので。

 

『おはようございます。一階のロビーが混み合っているので、私は先にお店に向かいます。由比ヶ浜さんは昨夜打ち合わせた通りに。比企谷くんは由比ヶ浜さんの指示に従って下さい』

 

『ゆきのん、ヒッキー、やっはろーヽ(´∀`)人(・ω・)人( ゚Д゚)人』

『ロビーに降りてみたけど、やばいぐらいに激混みだった(゚∀゚;)』

『部屋でヒッキーの連絡待ちヾ(´□`*)』

『ヒッキー、まだ寝てるのかな(´-ω-)´_ _)´-ω-)´_ _)zZZ』

 

『その可能性が高そうね。由比ヶ浜さん、申し訳ないのだけれど部屋の前まで行って、チャイムを鳴らしてみてくれるかしら?』

『りょうかーいヽ(@´∀`*)ノ』

 

『あ、ゆきのんをお店で待たせちゃってるよね(。・人・`。)』

『由比ヶ浜さんは悪くないわ。それに、まだ着いていないから大丈夫よ』

『えっ。でも、そんなに時間かかんない……あ、そっか。気をつかわせちゃってごめんね』

 

『い、いえ。本当にまだ着いていないのよ。その……そう、少し寄り道をしたから。だからゆっくりと来てくれたら良いわ』

『ちゃちゃっとヒッキーを起こして、急いで行くね(*ФωФ)ノ』

 

 たった今届いた由比ヶ浜結衣のメッセージを読み終えると同時に、ピンポンという音が部屋に響いた。

 

 今から慌てて着替えをしたところで、とうてい間に合わない。それにズボンを履いているタイミングでもしも由比ヶ浜がドアを開けたらと思うと、そんな危険な行動はとてもできない。

 俺のそんなシーンとか誰得だよと考えながら。八幡は急いでドアの前まで移動すると、おそるおそる廊下に首を出した。

 

「あ、おはよ。ここで待ってるから、着替えてくれば?」

「お、おう。んじゃま、お言葉に甘えて。……その、あれだ。覗くなよ?」

「もう。男子じゃないんだからさ。ゆきのんが待ってるから、なるべく急いでね」

 

 寝起きの顔で由比ヶ浜と話をすることになって、照れくささをごまかすために軽口をつけ加えてみたものの。素で返されて、更にいたたまれなくなった八幡だった。

 

 

 急いで顔を洗って髪を整えて、制服を身にまとった八幡が再びドアを開けると。

 

「あのね、朝ご飯はキャンセルしといたから。外で一緒に食べよ?」

「どういう……ああ、お店ってそういうことな」

「うん、そういうこと。ゆきのんは『私のほうが遅くなるかもしれないのだけれど』って言ってくれてるけどさ。確実に待たせちゃってるし、急がないとだね」

「いや、あのな由比ヶ浜」

 

 すたすたと階段に向かう由比ヶ浜に、雪ノ下の持病をどう説明したものかと考えて。妙案が思い浮かばなかった八幡は、方向音痴さんの実情を隠蔽することにした。

 

「その、なんだ。雪ノ下がそう言ったのは、あれだろ。朝から急いでタクシーとか飛ばしたら、色々と台無しになるだろ。まあ寄り道とかはできねーけど、市バスに乗って道中を楽しむぐらいは大丈夫だろ。つか俺が寝坊したのが悪いんだし、なんかすまんな」

「ううん。それはいいんだけどさ。ヒッキー、どこ行くか知ってるの?」

「昨日、一緒に雪ノ下のメモを見ただろ?」

「あ、そっか。うん、じゃあ予定通りにバスで行こっか」

 

 しきりに首を左右に動かしたり縦に動かしたりする由比ヶ浜を、朝からこいつは元気だなと眺めながら。後を追うようにして一階のロビーまで降りて行くと、もう残っている生徒はほとんどいなかった。

 

「だいぶ待たせたみたいで、なんか悪いな」

「もういいってば。ゆきのんとメッセージしたり、待ってる間も楽しみだなって考えてたらあっという間だったから。ヒッキーは、その、楽しみ?」

「おう。なんか小中の修学旅行と違いすぎて、俺って今夜にでも死ぬのかねって疑いたくなるレベルだな」

 

「また、そんな言い方して……。楽しいなら楽しいってちゃんと言って欲しいなって、あたしは思うけどな。ほら、言いたくても言えないこととか、言わないほうが良さそうなこととかもあるわけだしさ」

 

 例えば、告白とか。

 八幡は心の中でそう続けて、昨日の夜に戸部翔から託された想いに意識を向けた。言わないほうが良さそうなことを言ってしまうまで、あと何時間ぐらいの猶予があるのだろうか。

 

「まあ、その話は雪ノ下と合流してからだな。せっかくの旅行だし、お前が言うとおり楽しむべきだよな」

「うん。だね」

 

 膨らませていた頬をたちまち緩めて大きく頷いた由比ヶ浜と並ぶようにして、八幡はホテルの外へと足を踏み出した。

 

 

***

 

 

 昨夜と同じように丸太町通を南に渡って。岡崎神社の前から西向きの市バスに乗ると、夜とは違った景色が八幡を出迎えてくれた。

 たこ焼き屋は朝の光に照らされて、なんだか寝不足みたいな顔をしているし。夜には厳かに見えた熊野神社は思ったよりも小さくて、しかしなぜか昼間のほうが霊験あらたかに見えた。

 

 隣の席で「わぁー」と言いながら町並みを楽しんでいる由比ヶ浜にちらりと目を向けて。たこ焼き屋を見ても何も言われなかったので、自分からは話を振らないでおこうと考えていると。

 

「ねね。さっきの聖護院ってさ、八ッ橋を作ってるとこだよね?」

「だな。あと聖護院って言えばかぶも有名だぞ。千枚漬けに使われてる、すっげーでかいやつな。ちなみに国内産のかぶの三割は千葉県産だ」

「出た、ヒッキーの千葉ネタ!」

 

 そんなふうに気張らないやり取りをしていると、バスは鴨川を渡って河原町通を視界に捉えた。そこでいったん降りて乗ってきた車両を見送ると、二人は南向きの市バスに乗り換える。

 

 車内で落ち着く間もなく、二つ目の京都市役所前で下車した。その名のとおり、道路の西向かいには年月の重みを感じさせる市役所の庁舎がそびえている。目の前にはぴかぴかと輝くホテルオクーラの雄姿がある。

 変わらぬものと変わってしまったものとが共存する京都らしい光景に、伝統と革新が息づくさまを見せつけられた気がした。

 

 

「ここからは歩きだね。あれっ。本能寺って、あの本能寺?」

「あの本能寺だけどな。ホテルとか文化会館に囲まれて、正直ちょっと期待はずれな感じがするよな」

「あ、商店街だ。寺町って書いてあるけど、たしか有名なとこだよね?」

 

「おう。秀吉は分かるだろ。天下を統一した後に、京都を攻められないように色々と改造してな。この道の東側にお寺を集めたから寺町通って言うらしいぞ。ほら、寺とか攻めたら罰があたりそうだろ?」

「あー、あたりそう。秀吉ってやっぱり賢かったんだね」

「ちょっとずる賢い感じもするよな。……寺町のアーケードって、偽叡山電車が走り抜けたとこだっけか。平塚先生なら『有頂天家族』も知ってると思うし、後で確認してみるか」

 

 後半は口の中でのつぶやきにとどめたものの、昨夜の巡礼モードが抜け切っていないようだ。初めて来た場所なのに見覚えがあるのは楽しいなと考えながら。八幡は由比ヶ浜と並んで、御池通の南側を西へと向かう。

 

「堺町通ってところで左に曲がるみたい」

「んじゃ次だな。つか、ここって柳八幡町って名前なのな」

「あ。堺町通の向こう側は、丸木材木町だって。ヒッキー、良かったね」

「いや、良くねーだろ。こんなとこまで付きまとわれてもなあ……」

 

 不満げにそう述べるも、心底から嫌がっているようには見えない。

 

 一方通行の小さな通りを南へと歩いて行くと、三条を越えた辺りで看板が見えた。歩きながら軽く頷き合って。二人はイーノダコーヒー本店へと入っていった。

 

 

***

 

 

 テラス席では雪ノ下が待っていた。まるで今しがた着いたばかりのように息を切らしている。

 道に迷ったあげくに急いでタクシーとか飛ばして来たんだろうなと考えながらも、八幡は口をつぐんだ。言わないほうが良さそうなことは、まだまだいっぱいあるのだ。

 

「限定のウインナーセットも捨てがたいのだけれど。やはり京の朝食を注文すべきでしょうね」

「ふわふわのスクランブルエッグと、ハムとサラダとクロワッサンと、それにオレンジジュースまでついてる!」

「由比ヶ浜、よだれが出てるぞ」

 

 それらに加えてコーヒーも楽しみで、メニューを見ながら思わずつばを飲み込んだ八幡が、自分を棚に上げてそう指摘すると。あわてて両手で口を覆っている。

 

 ジュースから始まって、出されたものをひととおり堪能し終えるまで。三人の口からは飲食物の話題しか出なかった。

 

 

「さて。お腹も膨れたところで、今日の予定を話し合いたいのだけれど」

「うーんと。今日あたしたちが回るコースは決まってるし、あっちの話だよね?」

「それ、ここで喋っても大丈夫なのか?」

「ええ。昨日予約をした時に、周囲に同じ高校の生徒を近づけさせないようにと頼んでおいたのよ。ここに入る時に見たのだけれど、海老名さんたちも旧館に通されていたわよ」

「あ、やっぱりとべっち、ゆきのんのメモのところを回るんだね」

 

 そんなふうに話を始めて早々に、八幡の頭に疑問がよぎる。

 

「なあ。よく考えたら、四人でいる時に告白されたら万事休すだよな?」

「それはさすがにさ。優美子も隼人くんもいるわけだし、姫菜も避けようとするだろうし、ないんじゃないかな」

「そうね。あれで戸部くんは自分に酔う傾向がありそうだから、告白をするなら最低でも二人きりの状況を作り出すと思うのだけれど」

「それ、ロマンチストとかその手の言葉を使ってやれよ。まあ良いけどな」

「あれっ。結局いいんだ……」

 

 取りなしているのか突き放しているのかよく分からない八幡の発言に右往左往しつつも。由比ヶ浜はすぐに気持ちを入れ替えて、まじめな顔になって話を続けた。

 

「でさ。ぶっちゃけ告白を避けるいい方法って、もう、無いんだよね?」

「いいえ、そうでもないわ」

「えっ?」

 

 雪ノ下の思わぬ発言に、八幡と由比ヶ浜から疑問の声がまろび出た。言葉が重なったことよりも、知りたい気持ちが先に立って。二人の視線は雪ノ下の口元を見据えている。

 

「依頼当日の課題図書から始まって、今日のルートまで。告白の成功率を高めるために私たちが提案したことは、これで全部でしょう。だから今日の夕方の時点で効果を判定して、可能性に変化はないと諭すことで何とかしたいと私は考えているのだけれど」

 

「うーん。それってさ、ゆきのんの考えは分かるんだけどさ。とべっちは納得しないと思うよ?」

「試験の点数と違って、可能性とかは数字にできないからな。たしか依頼の日だっけか、お前が家庭教師を例に出しただろ。要はセンター試験の点数を眼前に突き付けて『無謀だから志望校を変更しろ』って迫るようなイメージだと思うんだがな。客観的な数値に置き換えられない以上は、俺らが『可能性は皆無』って言っても戸部が『かなり高くなったっしょ』って言えば水掛け論だぞ?」

 

 やはり雪ノ下はどこまでも雪ノ下らしい。だが、その正攻法では見解の相違を埋められないと八幡は思う。昨夜の様子を見る限り、生半可な説得には応じないだろう。脅して告白させないという手もなくはないが、それだと奉仕部の理念から大きく逸脱する形になってしまう。

 

「あとな、昨日の夜に戸部とちょっと話したんだがな。明言こそしなかったけど、振られるって分かった上で告白するみたいでな。今回を逃したら『告白の機会すら作らせてもらえねーべ』って言ってたわ。正直なにも反論できなくて、そうだろうなって俺も瞬間的に納得させられたっつーか」

 

「姫菜ならたしかに、今回みたいな隙はもう作らせないかもしれないけどさ。振られるのを覚悟で告白する気持ちも分かるし、できたら応援してあげたいけどさ。でも……やっぱりね。行動を急ぐよりも、次の機会があるって考えて、関係を積み重ねてくれたらなって」

 

「結局のところは本人の意志を尊重するしかないものね。無駄骨に終わる可能性が高いとは、実は私も同感なのだけれど。依頼を引き受けた者の責任として、説得はしてみるつもりよ。だから、もしもそれが不首尾に終わったら……比企谷くんと由比ヶ浜さんに、後を任せても良いかしら?」

 

 その物言いから、文化祭や体育祭での役割分担に手応えを感じていたのは雪ノ下も同じだと理解して。二人の目が鋭さを増した。

 

「うん、大丈夫。結果が出た後のことは、あたしが頑張るからさ。ゆきのんも、できることをお願い」

「だな。他になんか手がないか、俺ももうちょい考えてみるわ。あと、振られた後のフォローは由比ヶ浜に任せるとしてもな。身近な連中は仕方がないとして、他の生徒にはなるべく知られないように告白の舞台を調えるべきだろうな。今日のコースを周りながら、これも話を煮詰めていくか」

 

 頭の中で形になりつつある策を見据えて、八幡はそう締めくくった。

 一日目の朝に駅長から伝授された能力を思い出しながら、おもむろに立ち上がると。しっかりと頷いた二人がそれに続いた。

 

 

*****

 

 

 珈琲店を出た三人はそのまま堺町通を南に歩いた。四条通で市バスに乗って東に向かい、橋を渡った先の停留所で降りる。

 

 鴨川のすぐ東側には京阪電車が走っている。祇園四条駅から乗り込むと、しばらくは地下線なので味気なかったが、七条を過ぎて地上に出る瞬間は格別だった。ごうっという音とともに外の光が差し込んできて、左右には民家が軒を連ねている。景観と言うには程遠いけれども、普段着の生活感というか、関東も関西も変わらないなという安心感が旅の緊張をやわらげてくれる。

 地元では気にも留めないような、なんら特別な感じがしない景色から目を離せないでいるうちに。列車は伏見稲荷駅に到着した。

 

 

「んで、大丈夫かお前?」

「あたし飲物買ってくる。ゆきのん、ちょっと待っててね」

 

 千本鳥居に感動していたのは最初だけで、途中からはひたすら登山をしている気分だった。

 なんとか四ツ辻まではたどり着いたものの。学力の高さは勿論のこと、体力の無さでも他の追随を許さない雪ノ下がベンチでぐてっとなるのも当然だよなと八幡は思う。

 

 返事が期待できそうにないので、八幡は黙って傍らに立ったまま後ろを振り返った。

 

 一日目の朝に家を出た時こそ曇り空だったが、すぐに日が差して以来ずっと晴天に恵まれている。ここからは京都市内が一望できて、絶景とはまさにこのことかと感に堪えない。詩情を解する者ならば、この眺望をなんと表現するのだろうか。

 両手をズボンのポケットに突っ込んで、猫背を少ししゃきっとさせて遠くを眺めながら、八幡がそんなことを考えていると。

 

「はい、雪ノ下さん。これ飲んでゆっくり休んでて。今あっちで由比ヶ浜さんから部活の様子とかを聞き出してるから、ゆーっくりしてて良いからね。じゃあ、ごゆっくり」

 

 おそらくJ組の女子生徒なのだろう。雪ノ下に飲物を手渡して、やたらと「ゆっくり」を強調すると、ちらりとこちらに視線を送った直後に逃げるようにして離れていった。

 ああ、いつもの反応だなと、八幡は妙にほっとした顔で勘違いをしている。

 その横でうつむく雪ノ下がどんな表情を浮かべていたのか、残念ながらそれを見た者はいなかった。

 

 

「ちょっと落ち着いたか。動けるようなら、座る向きを逆にしてみ?」

「ええ……。ふう、たしかにこれは絶景ね」

「俺には芸術関連の語彙が乏しいんだが、これってなんて言って表現したら良いのかね?」

 

「そんなに気張らなくても良いと思うのだけれど。視界の手前には赤や緑に黄色の木々が色とりどりに群れをなして、少し靄がかかった向こうには高速道路や大きな建物が、更に奥には山々が連なって空に繋がっているでしょう。特に難しい言葉は必要なくて、こうした風景をそのまま描写するだけでも充分に詩的になるわよ」

「ほーん、なるほどな。そういうもんか」

「むしろ上級者でもない限り、『もみじの錦』といった表現を文章の中に溶け込ませるのは難しいと思うのだけれど」

 

 午後に参拝予定の学問の神様を意識したのか、雪ノ下がそんな軽口を叩いている。

 受験からの連想で昨夜の会話を思い出して、八幡は気楽な調子で口を開いた。

 

「昨日な、京大の話をしてただろ。俺はずっと私立文系志望だったから詳しくないんだけどな。じゃあ東大はどんな感じなんだろなって、帰ってから妙に気になってな」

「そうね……まず言えることは、文系でも数学があるわね」

「お前な。まあ、体力が回復基調で何よりだわ」

 

「私も他の大学のことには詳しくないのだけれど、国公立の文系なら数学を課す大学も少なくないと思うわ。むしろ平塚先生も仰っていたけれど、理系の二次試験で国語を課すほうが珍しいでしょうね。父が受験した頃には、京大でも工学部は国語が必要なかったと、聞いていたのだけれど。でもこの話は今は関係ないわね」

 

 少しずつ雪ノ下の頭が回り始めたのを感じ取って、八幡は具体的な話に移る。

 

「知りたいのは英語の話だな。あと、平塚先生が東大じゃなくて京大を勧めた理由もか」

「昨日仰っていたように、貴方の性格に合っているというのが理由かしら。英語の話をすると、東大はオーソドックスな良問が揃っているわね。それに昨日はああ言ったけれど、出される文章のレベルも決して低くはないわ。でも大学の先生がたも本音を言えば、もっと難度を上げたいと考えているでしょうね。私や平塚先生が思いつくようなことは、当事者なら百も承知だと思うのだけれど」

 

「つっても一気に難しくしたら、英語が得意なやつも苦手なやつも等しく点が取れなくて差がつかないって話だよな」

「ええ。それでも結局は、少しずつでも難しくしていくしかないでしょうね」

 

 ここで一息ついて飲物を口に含むと、雪ノ下は再び話し始めた。

 

「それに東大は他のどの大学よりも、奇問や珍問を出すわけにはいかない立場でしょう。だからこそ、対策が立てやすいのよ。大学としてはオールマイティな能力を求めていて、付け焼き刃ではなく総合的な実力を測るために試験問題を練り上げているのだけれど。現実には、中高一貫校や大手の予備校・学習塾などが積み上げたノウハウに従って東大に合格するための勉強に没頭する生徒のほうが、はるかに合格率が高くなるのよね」

 

「総合的に能力が高いやつよりも、東大対策に特化したやつのほうがって話な。でもそれって当然じゃね?」

 

「ええ。それが悪いとは思わないし、どんな勉強法でも使い方次第なのだけれど。合格者に多様性が見られなくなって久しいと、父と同期で大学に残られた先生が仰っていたわ。たしかに優秀ではあるのだけれど、同じような勉強をして入って来た生徒ばかりだと。乱暴な例を挙げれば、必要性に乏しいという理由で東大対策から除外された領域や知識があったとして。入学後にそれが必要になった時に、ほとんどの生徒がそれを知らないという事態が有り得るのよね。でも入試では、仮に問われてもほぼ全員が解けないから、やっぱり学習する必要は無いのよ」

 

 まだ本調子とはいかないのか、話が拡散気味ではあるけれども。本筋から少しずれるぐらいの話題のほうが興味深く思えてしまう。

 とはいえ時間が無限にあるわけでもなし。これ以上詳しい話は教育論が専門の偉い先生たちに頑張ってもらおうと、心の中で丸投げして。八幡は話を元に戻すために口を開いた。

 

「文化祭で戸部の友達と話しただろ。あの時に聞いた感じだと、そのあたりの問題も認識してるっぽかったし、人によるんじゃね。それよりも、もうちょい京大との比較を知りたいんだが?」

 

「東大がオーソドックスなのに対して、京大はかなり尖っている印象ね。例えば試験時間も、東大は時間効率を考えて解答を進める必要があるのだけれど、京大は時間はたくさんあげるから解答の質を高めて欲しいという、どこか芸術家気質な考え方ね。東大は官僚的だと言えば、悪く聞こえるかもしれないのだけれど。創立以来ずっと官僚を養成する役割を担い続けてきたわけだから、むしろ褒め言葉だと思うわ」

「なるほどな。官僚と芸術家、片や真面目で片や自由って感じか」

 

 漠然と聞き及んでいた校風の違いに納得して、八幡が小さく頷いていると。

 

「でも、京大も最近は他大学との違いが少なくなって来たみたいね。それが昨日聞いた東西の格差に繋がっているのか、それとも逆に差を詰めるために自ら変化した結果なのか、私には断言できないのだけれど。英語について言えば、和訳と英作がほとんどという出題形式には確かに惹かれるものがあるわね。そういえば、平塚先生の進路指導はなかなかユニークだったと思わないかしら?」

 

「偏差値を見て大学を探すわけでもなかったし、入学後に何を学べるか的な意識の高い話でもなかったよな」

「ええ。入試問題の傾向を見て、入学時点でどんな能力が身に付いているのかという視点での指導は面白かったわね。夏休みの勉強会のことを覚えているかしら?」

「あれってそういや東大英語か。んで、お前が感銘を受けてたのって『綺麗な日本語に訳せてこそ価値がある』って部分だったよな。それだと確かに京大の問題のほうが面白いかもな」

 

 では、自分はどうだろうと八幡は自問する。

 

 専業主夫という夢をあきらめて少しでも良い就職先を求めるのであれば、英語の能力は高いほど良い。国内の業務が主な会社でも重宝されるだろうし、海外展開を重視する企業ならなおさらだ。同輩とは日本語でやり取りするのだろうし、ならば和訳と英作に特化した試験は願ったりかもしれない。

 そんなことを考えていると、雪ノ下の声が耳に届いた。

 

「東大なら要約やリスニングの問題もあるので、幅広く能力を上げられるという利点はあるのよ。ただ、それらは国語や小論文やTOEFLでも補えるし、特に話す聞くの部分は私には物足りないのだけれど。比企谷くんだと話が違ってくるわね」

「まあ、そうだな。つっても俺の場合は、日本語でも話す聞くの能力は微妙だがな」

 

「それは相手によると思うのだけれど。仕事だったり止むに止まれぬ事情があれば、比企谷くんの話に耳を傾けてくれる人もきっと現れるはずよ」

「おー。もしかしたらとか、ごく稀にって言われると思ってたから安心したわ」

「でも実際、貴方は別に話が下手なわけではないでしょう。頭ごなしに見下してくる相手とコミュニケーションを取るのは、誰であっても難しいと思うのだけれど」

「まあ、それは、そうかもな」

 

 軽く罵倒されるぐらいがいちばん対応が楽で、普通に褒められたり自分と同じ目線からフォローされるほうが反応に困るのは、我ながら困った傾向だよなと思いつつ。

 すっかり見透かされている状況に内心で白旗を揚げていると。

 

「そういえば、ここの風景描写の話をしたでしょう。そうしたことに関心があるのなら、和訳と英作といった読み書き限定の勉強も面白いと思うわよ?」

「まあ、たしかにな。暗記前提のほうが楽なんだが、私立文系ってかなりマニアックな文法問題とかあるもんな。それを覚えるよりも、和訳と英作に特化して地力を高めるほうが、将来なんだかんだで役に立ちそうな気もするな」

 

 でもそれだと、社畜まっしぐらな気がするんだよなあと内心で続けながら。

 八幡は昨日よりも更に少し、京大への関心を強くした。

 

 

「なんだか、受験を控える高校生らしい話だったわね。そろそろ下に……っ!」

「あぶねっ!」

 

 立ち上がりかけたところで体勢を崩した雪ノ下に、あわてて手を伸ばして。右の二の腕のあたりを掴んでなんとか事なきを得た。ふうっと大きく息を吐くと同時に、手で触れている先の柔らかい感触が認識できて。心臓がたちまち跳ね出したのを自覚する。

 表面上はどこまでも落ち着いて、しかし内心ではあっぷあっぷの状態で、八幡は優しく手を離した。

 

「もうちょい座っとけ。由比ヶ浜は……なんかすげー包囲網ができてるんだが」

「ええ。ごめんなさい。……あの子たちにも困ったものね」

「それだけお前のことを知りたいと思ってるんじゃね。カースト底辺の立場から言わせてもらえば、人望があるのは良いことだと思うぞ」

「比企谷くんはぼっちを気取っているだけで、実質的にはそう悪い立場でもないでしょう。それに、貴方のせいで……」

 

 そこまで言いかけて、雪ノ下はあわてて口を閉じた。昨日の夜に同級生から言われたあれこれを愚痴りたい気持ちもあるけれど。それを伝えた先にあるのは二人そろって赤面する未来だろう。

 

 はぁと小さくため息を吐いて、雪ノ下は肩越しに振り返っていた姿勢をいったん元に戻してから、京都市内を背にする形に向き直った。

 もぞもぞと動きながら横目でちらりと確認すると、「俺が同じ部にいるせいか?」と首を傾げている。勘違いしたままでいてもらおうと雪ノ下は思った。

 

「そういえば、今日会ったら尋ねようと思っていたのだけれど。昨夜の炬燵は、一体なんだったのかしら?」

「あー、時計台の外側にいきなり現れたやつな。あれは韋駄天コタツって呼ばれてる神出鬼没なコタツだ。学園祭で賑わう校内の各地に現れて、豆乳鍋を振る舞ってくれるらしいぞ。京大出身の人が書いた『夜は短し歩けよ乙女』って小説に出てくるんだわ」

「つまり運営の誰かが、いつもながらの行動力を発揮したということね」

 

 先程とは違った気持ちでため息を吐いて、雪ノ下は同級生に囲まれた己が部員に視線を向けた。少しずつ突破口が広がってきたが、追いすがるJ組の生徒たちも諦めていない。そのうちの一人が軽くウインクを送ってきたので、思わず額に手を当てると。

 

「さっきの高校生らしい話に戻るけどな。もうちょい東大のことも調べてみて、京大と比較しながら検討するのが分かりやすそうだな」

「そうね。自分で調べるだけではなくて、例えば……貴方が話題に出していたけれど、戸部くんの友人に話を聞いてみるのはどうかしら?」

「あー、その手もあるか。まあ、どうなるか分からんけど、色々と考えてみますかね」

 

 一緒に話を聞きたいという感じではなさそうなので、ほっと胸をなで下ろしながら。八幡は頭の中で情報の整理を行う。

 

 全国一位のやつに勉強で勝てるとは、とても思えないけれど。負けたくないとも思ってしまう。成績を伸ばすのは一朝一夕では不可能だからこそ、他の何かで。雪ノ下の助けになれるような何かでだけは上回りたい。

 

 だが、その気持ちと志望校の話とは別の問題だ。自分の役に立つことを感情的な理由で排除するのはもったいないし、その手の自尊心は意識高い系の連中に任せておけば良い。

 

 心置きなく戸部の友達と会うためにも。そして雪ノ下の正攻法でも駄目だった時には、俺が解決できるように。今までのどの依頼よりも真剣に、八幡は策を模索した。

 気負いすぎている自分には、気づけなかった。

 

 

***

 

 

 雪ノ下に無理をさせないように、こまめに休憩を挟みながら。おおぜいの観光客に囲まれるようにしてなんとか下山を果たした三人は、今度はJRの稲荷駅に向かった。京阪でも良かったのだが気分を変えてみようという話になったのだ。

 

 ひとつ先の東福寺駅は京阪とJRのホームが横並びになっている。かつて国鉄時代には駅の業務を全て京阪に委託して、駅員がいないのはもちろんのこと、乗車券の販売なども任せきりだったらしい。

 そんなユキペディアに「へえー」「ほーん」と感嘆の声を上げつつ、三人は東福寺の境内に歩を進めた。

 

 

「んで、あの人数はなんなの?」

「ぎゅうぎゅう詰めになってるよね。あたし、ちょっとパスかも」

「私も見ているだけでお腹がいっぱいになって来たわね」

 

 名高い通天橋は観光客でごった返していた。伏見稲荷の混雑ぶりも予想以上だったが、ここは更にひどい。写真を撮ることはおろか、自由に身動きするのも難しそうだ。

 今こそあの能力を使うべきだと八幡は思い、同伴の二人を目についた便所に誘う。

 

「えーと、ヒッキー?」

「トイレも一人で行けないのかしら、幼児谷(よーじや)くんは?」

「おー、そういえばあぶらとり紙を買うの忘れてたわ。んじゃま、説明するな」

 

 運営命名の観光モード、八幡がこっそり貸し切りモードと呼んでいる能力を紹介すると、二人はばつの悪そうな表情を浮かべた。とはいえ有無を言わさずトイレの前まで連れて来たのは自分なので、八幡は軽く首を振って「気にすんな」と伝える。

 昨日の夜に戸部にポリ袋を渡した時といい、説明が後回しになる傾向があるので気を付けないとなと八幡は思った。

 

「んじゃ今から能力を使ってお前ら二人を招待するから、女子トイレでドアを出入りしてくれるか。ポップアップで移動の確認が出るはずだ」

「その、インスタンスってところに移動するって選べばいいんだよね?」

「そのようね。では、すぐ後で」

 

 東京駅で体験はしているものの、誰かと一緒に別空間に移動するのは初めてだ。男子トイレから出て、観光客が消え失せた境内をドキドキしながら見渡していると、すぐに二人が出てきてくれた。大きく安堵の息を吐く。

 

「やっぱ初めてやると緊張するな。じゃあ通天橋に行ってみるか」

「うん、だね。この景色を貸し切りできるなんて、ヒッキーすごい!」

「私も楽しみだわ。比企谷くん、ありがとう」

 

 素直に称賛されると、やっぱり尻の辺りがむず痒い。しょせんは借り物の能力だからと自分にごにょごにょ言い聞かせながら、八幡は二人と並んで足を進める。

 通天橋を独占した三人は、しばしその景観に酔いしれた。

 

 

「んじゃま、さっきのトイレで元の空間に戻るか」

「空間の大きさやドアの場所に制限がないのなら、入ってすぐに駐車場があったでしょう。そこのトイレで戻るほうが良いのではないかしら?」

「ゆきのんが言ってるのって、人混みをギリギリまで避けるってことだよね。そのほうがあたしも助かるかも」

「大きさは観光地をすっぽり覆う感じだな。ここだと境内がまるまる入ってるから、雪ノ下の案で大丈夫だ。この空間のまま別の場所に移動とかはできないけどな」

 

 そう説明しながら、内心では雪ノ下の応用力に舌を巻いていた。

 この能力を詳しく知られないうちに、提案しておくべきかもしれない。

 

「それでな、朝に言ってただろ。戸部の告白を、他の生徒にはなるべく知られないようにって。告白に向いた場所があるのか俺には分からんけど、それが観光地だったら戸部と海老名さんをこの空間に招待できるんだわ」

「告白に向いた場所かあ……。でもさ、有名な観光地を貸し切りにして告白できるってすごいよね。誰にも見られないなら姫菜も助かると思うし、とべっちも乗り気になるんじゃないかな」

「そうね。でも……貴方も同席する形になるのよね?」

 

 当然のように急所を突いてくる雪ノ下に、思わず声を上げそうになって。八幡は唇を噛みしめると、静かに深呼吸をして平静を取り戻す。それこそが八幡の目的だと、まだ悟られたわけではない。

 

「告白の場に居合わせるのも悪いし、そうなったら俺はどっか草葉の陰にでも隠れてるわ」

「あ、それってあたしが間違って使ってたやつだよね。文化祭の時だっけ、『草葉の陰とは、墓の下とかあの世って意味なのだけれど』ってゆきのんが教えてくれてさ。ゆきのんの話し方で覚えてるから、もう間違えないよ!」

「なんだか懐かしいわね。由比ヶ浜さんは丸暗記は苦手でも、他と関連付けた記憶なら覚えていられるのだから、それを勉強にも役立てると良いわ。また一緒に考えましょうか」

 

 由比ヶ浜が覚えているか否かは半々だと思っていたが。いずれにしても雪ノ下の意識を逸らせるだろうと考えて口にした言葉が、思った以上の効果を発揮して。八幡はこっそりと息を吐いた。

 

 なし崩し的に勉強の話題に誘導しながら。八幡は二人と一緒に元の空間に戻って、そのまま東福寺を後にした。

 

 

*****

 

 

 付近で昼食を摂って少し休憩して。東福寺の北側から市バスに乗って九条通を西に向かう。やがてバスは西大路通で右折して進路を北へと変えた。五条からは駅伝中継で見た景色を眺め、四条で別のバスに乗り換えて北上を続ける。今出川通を右折したバスは、次の停留所で三人を下ろしてそのまま東へと走り去った。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜に促された八幡が先頭に立って、三人は北野天満宮の一の鳥居をくぐり抜ける。境内のあちこちにある牛をなでながら進んで行くと。

 

「なんか付き合わせて悪いな。とりあえず本殿に行けば良いのかね?」

「だから気にしないでって言ってるのにさ。小町ちゃんの合格を願ってるのは、ヒッキーだけじゃないんだから」

「そうよ。まずは本殿にお参りするとして……すぐに追いつくから、先に行っててくれるかしら?」

 

 楼門を抜けたところで、雪ノ下は本殿を指差して二人に指示を送ると、ひとり絵馬所に向かった。途中で振り返って、首を傾げていた二人が大人しく三光門に向かっているのを見て頬をゆるめる。

 

 絵馬を裏返して、ひとつ深呼吸して一気に筆を揮った。達筆で記された文字を眺めると、そこにはこう書かれていた。

 

『比企谷八幡、合格祈願。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 わたわたと一瞬だけあわてたものの。悪戯心が勝ったので、真ん中あたりに「京大絶対合格」と付け加えてみた。少し顔を離して子細に検分してみたが、思った以上によく書けている。

 

 それを丁寧に奉納してから再び筆を執った。今度は間違えないように、細心の注意を払って筆を進める。

 

『比企谷小町、総武高校合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 なんだか楽しくなってきたので、更に二つ絵馬を用意して。

 

『由比ヶ浜結衣、大学現役合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

『京大合格。十一月十四日、雪ノ下雪乃』

 

 こんなに簡単に国内の志望校を決めても良いのかと、思う気持ちもあったのだけれど。旅先での戯れだと自分を宥めて、雪ノ下は最終的に四つの絵馬を奉納した。

 

 

 絵馬を一つ一つ写真に収めてから急いで本殿に向かうと、二人が待っていた。まだお参りを済ませていないようだ。

 

「せっかくだし、一緒にお参りしてくれると嬉しいんだが?」

「てかさ、ゆきのん何してたの。すっごく楽しそうな笑顔なんだけど?」

「少し用事があったのよ。今は話せないのだけれど、そのうちね」

 

 由比ヶ浜に言われるまでもなく、笑顔がこぼれているのが自分でも分かる。それをごまかす意図もあって、二人の背中をそっと押した。こちらから誰かに触れようとするのが新鮮で、笑みが更に深まって。このまま表情が戻らない気さえもする。

 

「では、小町さんの合格を一緒にお願いしましょうか」

 

 八幡を中央に立たせて、右に雪ノ下、左に由比ヶ浜という配置になって。三人は心を一つにして、天然あざとい少女が自分たちの後輩になることを願った。

 

 

 このまま引き返すのは何だか味気ない気がして。きょろきょろと周囲を見回していた三人は、誰からともなく足を西に向けた。東門のすぐ外に道路が見えたので、逆方向を選んだだけだったのだが。

 やがて三人の前に「もみじ苑、入口」という案内板が姿を現した。

 

「こないだ姫菜がさ、梅の季節にここに来たいって言ってたんだけどね。ここって、もみじもあるんだね」

「いえ、私が見たガイドブックには載っていなかったのだけれど……」

「あそこに書いてあるけど、なんか最近みたいだな。平成十九年から公開しはじめたんだとさ」

 

 それなら仕方がないと雪ノ下も納得顔だ。実際あまり知られていないのか、人影もそう多くはない。まさか十年も経たないうちに観光客が群がることになるなどとは、今の三人には知る由もなく。偶然の発見に気を良くしながら、軽やかに足を踏み入れた。

 

「あれは欅かしら。樹齢六百年と書いてあるわね」

「けやきって、木だよね。なんで東風って名前なんだろ?」

「それな、道真さんが大宰府に流された時に詠んだ和歌があるんだわ。ちなみに読み方は『こち』な」

 

「春を告げる東からの風が吹いたら、梅の花の匂いを届けて欲しい。私がいないからといって、春を忘れるようなことはしてくれるなよ。……道真公は家の梅にそう語りかけて、都を去ったのよ。比企谷くん、和歌の朗読を」

「朗々と歌い上げるとかできねーぞ。東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」

「最後の『な〜そ』は試験にもよく出てくるから、覚えておくと良いわ。禁止の意味になるのだけれど、『春を忘るな』よりも柔らかい感じが出るのよ」

 

 即席の勉強会を挟みながら、三人は大欅を右に曲がった。北向きに少し歩くと、さっき参拝した本殿がもみじの合間から一望できる。

 道沿いにくるっと左に回って紙屋川に近付くと、そこには朱塗りの橋が架かっていた。橋の途中で立ち止まって、上流と下流とを順番に観賞してから先に進む。

 

 そのまま南向きに歩いていると。ふと、対岸を見た八幡が。

 

「なあ。これ、もしかして御土居か?」

「そうね。間違いないと思うわ」

「えーっと、おどいって何?」

 

 興奮気味の二人についていけない由比ヶ浜が、当然の疑問を口にすると。

 

「俺も詳しい話はブラモリタを観て知ったんだけどな。ほら、来る時に寺町の話をしただろ。京都を攻められないように、秀吉が寺を集めたって」

「あ、うん。それは覚えてるけどさ。これってお寺じゃない、よね?」

「御土居は、言ってしまえば土塁ね。こうして土を盛り上げて敵の侵入を防ぐ目的があるのよ。紙屋川は堀の役割を果たしていると考えれば良いわ」

 

「土塁の内側が洛中で、外側が洛外な。まあ天下泰平の江戸時代になると、こんな境なんてあってないようなもんになるんだけどな。基本的には西はこの辺りまで、東は寺町ぐらいまでが洛中だって秀吉さんが決めたんだわ」

「じゃあ朝は東の洛外から来て、今はちょこっとだけ西の洛外にいるんだよね。ふーん、なんだかすごいなあ」

 

 二人にかわるがわる解説してもらった由比ヶ浜は、そう言ってしっかりと頷いた。すると、視界の端に光るものが。

 

「あっ、上」

 

 由比ヶ浜がそう言うので、立ち止まったまま首を上に向けると、陽の光に照らされて紅い葉っぱが輝いて見える。もみじが敷きつめられた天頂から視線を足元に移すと、かさかさと音をたてながら落ち葉が川へと流されて行った。

 

 足を進めると、左手に橋が見えてきた。どうやらあそこから引き返すみたいだ。右手には竹林が現れて、鮮やかな緑と紅のコントラストが目に飛び込んでくる。それをじっくりと堪能してから、橋を渡って北向きに進路を変える。

 

 道に沿って歩いて行くと、やがて御土居の上に出た。最初に見た大欅に向かってゆっくりと歩みを進めながら。話題はこの境内で催されたという秀吉の茶会に移っている。それが一段落すると、最後に再び和歌の話が持ち出された。

 

「道真が詠んだ例のもみじの和歌って、たしか百人一首に入ってたよな?」

「ええ。下の句はこうよ。もみじの錦、神のまにまに」

「まにまに?」

「御心のままに、ってな意味な」

「ふーん。まにまに」

 

 その後も、八幡が思いついた話を雪ノ下に質問して、雪ノ下の解説を時に八幡が補足して、由比ヶ浜がにこにこと相鎚を打って。

 そんなふうにして、三人は北野天満宮を後にした。

 

 

***

 

 

 今出川通を西に歩いて西大路まで戻った。そこは北野白梅町という名の交差点で、西側には同名の京福電鉄の駅がある。乗り込んだ路面電車は、家が密集する地帯を縫うようにして走り抜け。帷子ノ辻で北野線から嵐山本線に乗り換えて、三人は嵐山駅に降り立った。

 

 目の前の通りをまずは南に移動して、周囲の景色を眺めながら渡月橋をゆっくりと往復した。何も言葉を出さなくとも、山々の色づく様を眺めているだけで時間がどんどん過ぎていく。どれだけ観賞しても、まったく飽きる気がしないのが不思議だ。

 

 きりがないので、適当なところで我慢して。渡月橋の北詰から長辻通を北に向かうと、左右にはコロッケや唐揚げを売る店が並んでいた。それらをついつい買ってしまう由比ヶ浜に餌づけをされるようにして、二人もお腹を膨らませていく。

 

「やっぱ働かないで食う飯はうまいな」

「そう言いながらも、養われはしても施しは受けないなどと妙な事を口走って、結局はちゃんと働いていそうな気がするのよね」

「ヒッキーって変なとこ真面目だよね」

 

 何を喋っても二人にやり込められる展開が見えたので、いつもの通りに八幡は逃げることを視野に入れる。

 

「さっきせっかく思い出したし、あそこであぶらとり紙を買って来るわ」

「あ、ちょっと待って。せっかくだし一緒に行こうよ。でさ、その前にここに寄りたいんだけど?」

「では、その順番で回りましょうか」

 

 

 あっさりと逃亡を封じられて。由比ヶ浜に手を引かれるようにして入ったお店は、色んな雑貨を扱っていた。しばらく思い思いに商品を眺めていると。

 

「あ、このマグカップ可愛くない?」

 

 やる気のなさそうな犬がプリントされている。だれた様子が気に入ったのか、由比ヶ浜は買う気満々だ。

 少しはその元気を犬にわけてやったら良いのにと、八幡がそんなことを考えていると。

 

「ねね、ゆきのん。これ、部室で使ったらダメかな?」

「そうね。別に構わないのだけれど。やる気のなさそうな部員も既にいるわけだし、ちょうど良いかもしれないわね」

 

 それって誰のことですかねと思いながら、八幡がそっぽを向いた先には。愛嬌を感じさせる狸がプリントされたマグカップがあった。

 

「人を化かす狸か。あいつも男を化かすのが上手そうだし、オススメって言ってたからこれで良いか。なんか言われても、『阿呆の血のしからしむるところだ』って言ってごまかせば何とかなるだろ」

 

 寺町通で思い出した作品から印象深い一節を引用しながら。小声でそんな屁理屈を捏ねて、商品を手に取ると。

 

「あ、ヒッキーもマグカップ買うんだ。じゃあ部室で一緒に使おうよ」

「いや、これはそういうのじゃなくてだな。つか俺は紙コップで充分なんだが」

「ぶー。ゆきのんもさ、ヒッキー専用のマグカップがあったほうが嬉しいよね?」

「そうね……。でも」

 

 そこで言葉を切った雪ノ下は、何やらこそこそと由比ヶ浜の耳元にささやきかけている。ふんふんと聞いていた由比ヶ浜がぱあっと明るい表情になったのだが、八幡には何のことやら見当もつかない。

 

 この時の二人の企みを八幡が知るのは、一ヶ月以上も先のことだった。

 

 

 あぶらとり紙を首尾良く仕入れて、併設されていたカフェで少し休憩して。三人が通りに戻るといい時間になっていた。

 

「このまま帰るか、それとも近場なら一箇所ぐらいは行けると思うのだけれど」

「あ、じゃあさ。この道をちょっと歩いて行かない?」

「竹林の小径か。さっき見たやつも綺麗だったし、まあ良いんじゃね」

 

 お店のすぐ近くにあった小径を進んで行くと、すぐに左右を竹で囲まれた空間に入った。風が通るたびにざあっという音がして、見上げれば鬱蒼と葉が茂っている。足元を見れば灯籠が等間隔で置かれていて、おそらく日が暮れたらライトアップされるのだろう。

 

「ここ、ここがいいって!」

「なんかお前、にわとりになってるぞ。つか人が多いな」

「人が少なければ風情を感じられると思うのだけれど、この人混みでは難しいわね」

 

 さすがに通天橋ほどではないものの、ひっきりなしに人が歩いている。八幡と雪ノ下の顔に少しずつ疲労の色が見え始めていたが、由比ヶ浜は気付かない。

 

「だからさ、ヒッキーの貸し切り能力なら人の心配はしなくて済むじゃん。あたしはここしかないって思うな」

「だからなんの話だ?」

「由比ヶ浜さん、まさか?」

「うん。告られるなら絶対ここだって!」

 

 どうして受動態で話すんだ、と疑問が浮かんで。いつだったかは思い出せないものの、同じ疑問を抱いた時の記憶が断片的に蘇り、八幡が物思いに耽ろうとしたところで。

 

「なるほど。たしかに人がいない状況で夜にライトアップされると、幻想的な光景になりそうね。由比ヶ浜さんが告白を願う気持ちも分からないではないわね」

「ちち違うってば。あたしじゃなくて、その、とべっちの話だし!」

 

 気が付けばとんでもない話になっているので、八幡は即座に考察を中断した。由比ヶ浜が告白を願うとか、雪ノ下がその気持ちも分かるとか、八幡からすれば悪夢でしかない。だから話題を差し替えて。

 

「じゃあ順番としては、雪ノ下が戸部を説得してみて、それが駄目ならここで告白させる流れかね?」

「そうね。説得には二人も同席して欲しいのだけれど、あまり時間に余裕があるとは言えないわね。そろそろ戻りましょうか」

「うん、ホテルに戻ろっか。でもさ、あたし何だか緊張してきたかも」

 

 先々の不安を予測してか、急に神妙な顔になる由比ヶ浜に適当な話題を振りながら。三人はもと来た道を引き返していった。

 

 小径の両側から竹の姿が消えて、大通りにたどり着くと。すぐそばのバス停には、見知った四人の姿があった。




更新が遅れて申し訳ありませんでした。

進路指導が原因なのですが、まさか私が東大と京大の英語の問題を眺め解答を斜め読みして解説を前に居眠りする日が来るとは思いませんでした。
この時点では八幡に数学の勉強を始めてもらえばそれで良かったはずなのに、調べる→二人が興味を持ちそう→もっと調べる→二人がもっと興味を持ちそうのループに陥ったあげくに、こんな内容になりました。特に絵馬が予想外。

本筋のほうも、ついに三日目の夕方を迎えて、すいすいと書き切れるか断言しにくい部分がありますが。
次話はいちおう一週間後を考えています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
本話で三人が訪れた中で、マグカップを購入した雑貨屋さんだけは存在しない(はず)です。
だれた犬のマグカップは初出が7巻で(作中の時系列では6.5巻)、唐突に登場した印象だったので、せっかくだし軽いエピソードを創作してみました。私の見落としでしたらこっそり教えて下さい。

タイトルを、かみに願を懸けながら→かみさまに願を懸けて、に変更しました。
その他、細かな表現を修正しました。(10/19,12/17)
また、長いセリフの前後などに空行を挿入しました。(10/19)


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12.わすれることなどできない言葉を彼は耳にする。

前回のあらすじ。

 三日目は朝から奉仕部の三人で過ごした。

 由比ヶ浜に起こされた八幡は珈琲店でモーニングを食べ、伏見稲荷大社では昨夜に続いて受験の話をさらに深めた。通天橋からの景色を貸し切り状態で堪能して、それらの合間に戸部の告白に対して策を積み上げていく。

 北野天満宮では雪ノ下が四人分の絵馬をこっそり奉納し、三人で小町の合格を願った。その後は境内で紅葉を観賞しながら、勉強の話から趣味の話まで途切れることなく会話が続いた。

 嵐山に移動した三人は渡月橋からの眺めを満喫した。雑貨店でマグカップを二つ購入して、休憩をはさんで竹林の小径に足を踏み入れる。

 課題図書から本日のルート提案まで、これらの効果を総括した上で戸部の説得を試みると話す雪ノ下は、それが無理だった場合には二人に後を任せると口にした。告られるならこの小径が良いと由比ヶ浜が言うので、説得して駄目ならここで告白させるという流れを確認して。

 三人が大通りに戻ると、そこには見知った四人がいた。



 バス停の前で四人と出くわす形になって、比企谷八幡は一瞬だけ間の悪さを覚えたものの。すぐに、これはチャンスだと思い直した。戸部翔を説得するには、またとない機会だと考えたのだ。

 

 そこに海老名姫菜を同席させるわけにはいかないので、四人を分断する必要がある。何か良い手はないかと頭を捻っていると。

 

「やあ、偶然だね。俺たちは今からホテルに帰るところだったんだけどさ。せっかくだし、みんなで通天橋まで夕暮れを拝みに行ってみるかい?」

「それも悪くはないのだけれど、少し戸部くんに話があるのよ。だから行くとしてもその後ね」

「えーと、俺っちに?」

 

 うまい具合に葉山隼人が話しかけてくれて。そして雪ノ下雪乃は何を隠すこともなくこちらの要望を伝えた。ストレート過ぎて思わず苦笑が漏れる。

 

「ふうん……なるほどね。じゃあさ、俺も少しヒキタニくんと話があるから、ここでお互いに一旦解散というのはどうかな?」

 

 続く葉山の言葉が意外だったので、すぐに八幡は真顔に戻った。雪ノ下からは同席して欲しいと言われているが、由比ヶ浜結衣がいれば充分だろうと考えて口を開く。

 

「何の話かは、後のお楽しみっぽいな。んじゃま、そっちは二人でも大丈夫だろうし、俺は葉山とちょっと話してくるわ」

「そうね。では私と由比ヶ浜さんから話しておくわね」

「うん。じゃあヒッキーとはここで()()()()お別れだね」

「……あーしらは先に帰るし」

 

 三浦優美子は一瞬だけ由比ヶ浜に視線を向けると他には目もくれず、海老名の手を引いてバスの乗車口へと歩き出した。こちらを振り返りもせず堂々と去って行くその後ろ姿は、女王の貫禄を感じさせる。

 

 ちょうど来た市バスに乗り込む二人を残り全員で見送って。

 八幡は、海老名が一言も喋らなかったことにようやく気が付いた。

 

 

***

 

 

 バス停を背にして三人と二人に分かれ、雪ノ下・由比ヶ浜・戸部の順に竹林の小径に消えて行くのを見送った。説得と告白場所の提案とをこの奥で行うのだろう。

 

「せっかくだしさ、男二人で夕暮れでも眺めながら話そうか」

「あれだな。海老名さんに見られなくて良かったな」

 

 言ってしまってから、口の中に苦い味を覚えた。あの様子だと、仮にこの場にいたとしても普段のような反応はされなかっただろうなと思ったからだ。

 

 口に出た言葉は戻らないので、葉山の目を見ながら少しだけ眉を動かして「すまん」という意図を伝える。軽く首を振った葉山に「いいさ」と言われた気がした。

 

 

 渡月橋の前で右に折れて、川沿いに道を歩いた。観光客が多くて、落ち着いて話ができる環境にはほど遠い。しばらく無言で葉山の背中を追っていると、船乗り場が見えてくる頃には人影もまばらになっていた。男二人で川べりに出て、並んで立ち止まる。

 

「海老名さん、今日はどんな感じだったんだ?」

「いつもよりは落ち着いて見えたかな。でも、夕方になるにつれて口数が少なくなって来てね」

「戸部になんか、二人きりになろうって誘われたとか?」

「戸部の長所は勢いだからな。うまく誘えるような性格じゃないし、姫菜もそれは分かってるから、途中で四人から二人になるのを警戒してたんじゃなくてさ」

 

 肩の力を抜いて突っ立ったまま、両手をぶらぶらさせながら。葉山の発言を頭の中でくり返して、突然の別行動を危惧していたわけではないと理解する。それよりも。

 

「四人でいる間は安心できたけど、解散が近付いたからって意味か。なるほどな」

「呼び出す側は好きな時間を指定できるけど、言われるほうはいつ来るか分からないからね。解散直後か、今夜か。それとも明日の朝かもしれないし。身構え続けるのも楽じゃないさ」

 

 八幡も中学時代に告白をしたことがあり、嘘告白ならされたこともある。いずれも思い出したくない過去ではあるけれど、それでも経験したという事実は大きい。葉山が言う「告白される側の気持ち」が何となく理解できた。

 

「だからさっき、一旦解散を提案したんだな。海老名さんが一息つけるように」

「ヒキタニくんと話をしたかったのも事実だけどね。それに、俺もそのほうが助かるからさ」

 

 

 そう言われて、昨夜のたこ焼き屋での会話を思い出した。

 この旅行中に葉山との距離を縮められないものかと、三浦もまた悩みながら過ごしてきたのだ。その想いを軽く扱うような言われ方をされて。けれども八幡は怒りに駆られることなく冷静に応対する。

 

「露悪的な言い方をしても、騙されてやらねーぞ。お前は俺以上に三浦の性格を知ってるだろ?」

「まあ、そうだな。さっきの別れ際も、俺には目もくれなかったしね。優美子は女王だなんだと言われてるけど、自分の気持ちよりも姫菜の状況を思いやれる、名前のとおりの優しい側面があるからさ。俺には正直もったいないよ」

 

 思わず葉山の顔をまじまじと眺めてしまった。だが、にこやかな表情の奥に潜めた感情は、何も読み取れない。口調からも、今の言葉が韜晦なのか、それとも本心なのかが判別できなかった。

 

 どう言ったものかと考えながら、何の気なしに右手をズボンのポケットに入れて。何もないのを確認して、ひとまず話を逸らすことにした。

 

「最初に夕暮れの提案をしたのは、あれだろ。三浦に『先に帰る』って言い出させるための誘い水みたいな意図があったんだろ?」

「それもなくはないけどさ。単純にみんなで夕暮れを拝みたいって気持ちもあったんだよ。奉仕部の三人なら、姫菜も味方が増えたと思って少しは安心するだろうしさ」

 

 文字通りに受け取れば良いのか、それとも皮肉なのか。

 たしかに告白の阻止をもくろんではいるけれども、戸部に協力しているのも事実だ。どっちつかずの自分たちを味方と見てもらえるとは、八幡には思えなかった。

 

 

「なんにせよ、離脱できて良かったと言うべきかね。バレバレだとは思うけど、今頃は雪ノ下が最後の説得を試みているはずだ。それで無理ならさっさと告白させて、事態の収拾に動く予定なんだが。どう思う?」

 

「依頼とはいえ奉仕部も大変だよね。俺たちができる範囲のフォローは勿論するけどさ。どこまで変わらないでいられるかは、何とも言えないな。俺ももう少し楽観的に考えてたんだけど、今日の姫菜の様子を見てるとね」

 

 葉山はそう言うが、楽観的だったのは八幡も同じだ。

 旅行前に部室で雪ノ下に「うやむやに収められるなら、そのほうがいい」とは言ったけれど。実際にその時が迫ってみると「うやむやに収められるなら、どんなにいいか」と思ってしまう。

 

 だからこそ密かに策を練っているわけだが、それをここで明かすわけにはいかない。ネタがばれてしまえばどうにもならないからだ。

 

「いっそ空気を読まずに、海老名さんに『誰とも付き合う気はない』って宣言してもらうか?」

「それができれば苦労はしないけどね。自分からそう宣言するのは、男女を問わず風当たりが厳しくなるだけだからさ。お高く止まってるとか、モテる自信があるんだとかね。変に話が拗れるだけだし、あんまりお勧めできないな」

 

 つまり、海老名がそう宣言しても不自然ではない状況を作れば、問題はないはずだ。もちろん誰かが泥を被るはめになるが、閉ざされた空間でなら大勢に知られることもないだろう。当事者の口さえ塞げば、他の連中には適当に言い繕っておけば良い。

 

 事が無事に収まれば、後は何とかなるだろうと一人頷いた。両手の指を絡めて反転させ、胸の前に突き出すようにして「んっ」とストレッチを行うと、頬の辺りに視線を感じる。腕の力を抜いて、隣の男をじろっと眺めると。

 

 

「君は、どうしてそこまで親身になれるんだ?」

「そんなもんお前、部活なんだから仕方ないだろ」

「部活の範囲を超えていると俺は思うけどね。雪ノ下さんなら……いや、俺が憶測でものを言うのは良くないか」

 

「雪ノ下がどう思おうが、部活は部活だ。なら、できるだけ労力を少なくしたいだろ。未然に防げたら一番楽ができそうだから、この期に及んでなんか良い手がないかって考えてるだけなんだがな」

 

 なんとなく反抗的な気分が芽生えたので、ぶっきらぼうな口調でそう返した。

 なのに葉山は平然とした表情で話を続ける。

 

「それで、何かいい手は思いついたのかい?」

「そんなにひょいひょい思いつくなら、こんなところでお前に相談なんかするわけねーだろ?」

「まあ、そうだな。一本取られたよ」

 

 ふと右手の空を仰ぎ見ると、山の合間に日が落ちている。もうすぐ日没なのだろう。茜色の雲が山に沿うように長く伸びて、水面(みなも)にも淡い色を映し出している。

 

 八つ当たりじみた発言にも動じない葉山に、ふんと鼻を鳴らして。意地を張るのをやめて話を戻す。

 

 

「もしも告白を阻止できたら、お前らの関係はどうなるんだ?」

「そうだな……もう告白のおそれはないって姫菜が思えたら、後はみんな元通りになるかもな。大和や大岡も、戸部が乗り気だからはやし立ててる感じでさ。戸部が自重するなら、度を超したことは言わないはずだ。俺や優美子も波風を立てる気はないし、結衣のことは君のほうがよく知ってるだろ?」

 

 自意識過剰なだけかもしれないが、葉山の発言にはところどころ角が立つ部分があるよなと八幡は思う。とはいえ、そのたびに拗ねていたら話が進まないので気にしないことにして。

 

「逆に、戸部が告白して振られたとしたら。お前は三浦をどうするつもりだ?」

「どうする、とは?」

「海老名さんと戸部が気まずくなって、お前らと距離ができたら、寂しがるんじゃねーの?」

 

「その時はその時だし、俺のほうから何かをする気はないな。できるだけ現状維持でいたいとは思うけどね。たしか文化祭の前に取材を受けた日だったかな。問題を先送りにできるという雪ノ下さんの提案を俺が受け入れたのは、君も知ってるだろ?」

 

 あの時も、抜本的な解決をする気はないと葉山は言外に主張していた。人間関係は現状維持で、男女関係なら薄れても構わないと、今もそんな感じなのだろう。

 なんで俺はこんなお節介みたいなことを言ってるのかねと思いつつ、話を続ける。

 

「その辺はまあ、お前の意思を尊重するとしてもな。女子三人の寂しそうな姿は、あんま見たくねーな」

「まあ、それは俺も同感だな」

「お前らもな。戸部が教室で騒いでたら鬱陶しいけど、でも活気がないのもな」

「さっきの質問をくり返そうか。君は、どうしてそこまで親身になれるんだ?」

 

 今度はあからさまに冗談っぽくそう言われて。ようやく八幡は葉山の話し方が気にならなくなった。こちらの気にしすぎでもあり、そしておそらくは、葉山も色々と身構えていたのだろう。気付いてしまえば納得できる話だ。

 

「そんなもんお前、部活なんだから仕方ないだろって、くり返すしかないだろ?」

「だな。できれば、君にだけは頼りたくなかったのにな……」

 

 

 一日目の地主神社での会話を、葉山も思い出しているはずだ。「サッカー部と奉仕部が同盟を組んだら」などと言いながらも、二人ともそれが絵空事だと解っていた。

 なぜなら彼ら二人に、共同で事に当たるつもりがないのだから。

 

 八幡と、戸部やあざといマネージャーとの組み合わせなら有り得るかもしれない。葉山と、由比ヶ浜や雪ノ下との組み合わせも、少し胸がざわつくもののなくはないだろう。

 だが、八幡と葉山が協力し合うことはない。

 

 八幡とは別の道を歩むと、葉山は合宿の二日目の夜にあの千葉村で決意したし。八幡もまたそれを気配で察していた。

 そして葉山が独自の成長を見せ始めると、八幡にも同じ想いが芽生えて。体育祭で葉山の仲裁ぶりを見た時には、それは決意に変わっていた。

 以来、彼ら二人は以前にも増してお互いを意識し合ってきた。

 

 些細なことなら別に良い。だが、各々にとって大事な事であればあるほど、こいつにだけは頼るまいと。そう考えていたはずなのに。

 葉山に先に折れられて、なぜだか逆に負けたような気になった八幡が口を開く。

 

「頼りになるかは、終わってみないと分からんぞ。それに、お前を頼る場面もあるはずだしな」

「貸し借りをゼロで行くんじゃなくて、イーブン近くで手を打とうか。できれば俺の貸しのほうが多くなるようにね」

「言っとけ。そっくりそのまま返してやるよ」

 

 今回の件で影響を受けるものの中には、お互いにとって大事なものが多すぎるから。失う可能性が見えて初めて、どれほど大切に思っていたのかようやく気付いたから。自分とは違ったやり方ができる男を、遊ばせておくほどの余裕はないから。

 

 戸部や葉山や女子三人に、今の関係を失わせたくないと思ってしまったから。

 その変化が、今の自分を取り巻く環境にも影響を及ぼすのが怖くて。あの特別な関係は決して失いたくないと、そう思ってしまったから。

 

 だから八幡は自分にできることはやろうと決意して。

 葉山もまた、自分にできることはやろうと決意した。

 

「失ったものはもとに戻らないからな。俺は小学生の時に、それを嫌というほど味わったよ」

「奇遇だな。俺も小学生の時にそう思ったわ。まあ、ぼっちの環境は意外に快適だったし、済んだ話だけどな。今にして思えば、失ったものはお前ほど大したもんじゃなかったしな」

 

「でも、今回は違うだろ。やり方に口は出さないけど、気を付けろよ」

「つか、失わないためにやるんだろ?」

 

 そう言って葉山と頷き合った八幡は、忠告の意味を理解できていなかった。

 

 

***

 

 

 ぶらぶらと来た道を引き返して先程のバス停に向かっていると、由比ヶ浜からメッセージが入った。同時に葉山にも戸部から連絡が来たみたいで。

 

「同じぐらいにバス停に着く感じかな。そっちにも書いてあると思うけど、告白決行だね」

「まあ、戸部の気持ちも分かるけどな。気持ちを伝えられないまま今後は告白のチャンスすらなく過ごすって、かなりつらいわな」

 

 やるべき事は分かっているので、二人に動揺はない。

 

「ところで、帰りはどうする。五人で一緒にバスに乗っても俺は良いけどさ」

「俺らが一本遅らせるわ。打ち合わせがあるから、戸部を連れて帰ってくれると助かる」

 

 少しずつ暗くなっていく中を、適当に雑談を交わしながら歩いて行く。今日どこに行ったとか、通天橋の人混みがすごかったとか、そんな感じの話だ。

 

「じゃあ、俺と戸部は先に帰るな。夕食の時間には遅れないようにね」

「結衣と雪ノ下さんにはお礼を言ったんだけどさ。ヒキタニくんも、いい場所を見つけてくれて助かったっしょ。千葉に帰ったらお礼すんべ」

 

 そう言って、葉山と戸部は市バスの中へと消えて行った。

 

 

***

 

 

 予定どおりに三人が再集合して、バスに乗る前に情報の共有を始めた。既にすっかり日は落ちているが、この付近は照明のおかげで明るいほうだ。

 

「夜にこのバス停で待ち合わせて、竹林の小径の奥で告白する手筈になっているのだけれど」

「ヒッキーの貸し切り能力も、ゆきのんが説明してくれたから伝わってると思う。でさ、姫菜にはなんて説明したらいいかな?」

「たぶん海老名さんなら、別空間とかインスタンスで通じると思うがな。んで、俺は戸部と海老名さんを招待すれば良いんだな。集合時間よりも前に来ておく必要があるか」

 

 今のところは想定内だなと八幡が考えていると。

 

「それなんだけどさ。あたしとゆきのんも、ヒッキーと一緒に貸し切り空間で見守りたいなって」

「え、っと。あのな、別になんもすることねーぞ?」

 

「あたしもそう思ってたんだけどさ。そのね、この世界だと危ないことはされないって分かっててもね。誰もいない空間で男子と二人っきりって、やっぱりちょっと怖いんだよね。それに姫菜はとべっちを振るつもりなわけだしさ」

「そうした女性心理を説明して、戸部くんからも了解を得たのだけれど」

 

 じろりとした目つきで雪ノ下にそう言われると、八幡も反論しようがない。

 

 誰よりもこの二人には見られたくないと思ったからこそ、自分だけが同席できる形に誘導していたはずなのに。

 でも、女性心理を持ち出されてしまえばどうにもならない。たしかに「怖い」という気持ちは理解できるからだ。

 

 自分にとって一番避けたかったことが避けられなくなって。それでも八幡は、瞬時の迷いで済ませて事態を受け入れた。俺の目的を、理由を説明すれば、この二人なら許してくれるだろうと。そんな甘い予測を抱きながら。

 

 

「葉山との話はバスの中で済むと思うし、とりあえずホテルに戻るか」

 

 去年までは途中で宿の移動があったらしいのだが、今年度は三日とも同じホテルに泊まることになっている。だから今日も帰る先は同じだ。

 

 丸太町通をひたすら東に向かって走るバスに、雪ノ下・由比ヶ浜・八幡の順に乗り込んだ。最後尾の席がまるまる空いていたので、向かって右の奥から順に並んで腰を下ろす。

 

「なんか丸太町通って文字を見ると、帰ってきたって気持ちになるな」

「この三日間で何度も通っているものね。愛着が湧いても不思議ではないと思うのだけれど」

「でもさ、けっこうホテルまでは遠いよね」

 

「丸太町通の西の端がここ長辻通で、ホテルから東の端の鹿ヶ谷通までは二百メートルほどの距離しかないのよね」

「西から東までめいっぱい移動させられるって、なんかの陰謀じゃね?」

 

「貴方は鹿ヶ谷の陰謀の話をしたいだけでしょう。でも、先に葉山くんの話を済ませてからね。由比ヶ浜さん、あとでちゃんと比企谷くんに説明させるから、そんなに哀しそうな顔をしないで欲しいのだけれど」

 

 早く教えて欲しいと身を乗り出している由比ヶ浜は微笑ましいし、今日一日で歴史への興味が大きくなったのは喜ばしいことだが。

 自分で調べることも教えないといけないわねと、そんなことを思う雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 ホテルのロビーでいったん別れて、同じ班の生徒と夕食を摂って。お風呂を済ませてからだとライトアップの時間が終わってしまうので、あとで内風呂を使わせてもらうことにした。

 

「大和と大岡はここに残って、他の連中が騒ぎすぎないように見ていて欲しい。それと、俺らが部屋にいないのを教師に不審に思われないように。頼めるか?」

「おう」

「こっちのことは心配しないでさ、そっちは戸部の告白に専念してくれ」

「ちょ、そんな言われ方したらよけいに緊張するっしょ!」

 

 部屋の中には同じ班の四人の他には大和と大岡しかおらず、大部分の生徒は今夜のことを何も知らない。

 そろそろ先に出るかと、八幡が考えていると。

 

「ぼくも葉山くんと一緒に、バス停近くのカフェで待ってるから。いい結果になって欲しいけど……八幡、無理しないでね」

「おう、任せろ戸塚」

 

 誰にもらうよりも嬉しい励ましの言葉を受け取って。戸塚彩加を抱きしめたいと言って今にも動き出しそうな両手を、必死で抑えるはめになった。

 

 戸部の告白は望み薄だと戸塚は知っている。一日目に新幹線のデッキで話をしたからだ。

 それでも戸塚は、みんなにとって少しでもいい結果になって欲しいと願っている。そんな天使の思い遣りに深く感動しながら、足に力を込めて立ち上がったところで。

 

 

「ん、メッセージか。俺だけかね?」

「ぼくのところには来てないよ」

 

 送り主は雪ノ下だった。内容をざっと確認して、八幡は部屋にいる全員に向けて話しかける。

 

「ちょっと聞いてくれ。いま雪ノ下からメッセージが来たんだけどな。俺らの班の四人と、三浦の班の四人と、あと雪ノ下と。平塚先生に申請して、その九人の外出許可を取ったそうだ。移動時間の短縮も解禁してもらったって、あいつすげーな。まあ、だから教師のことは心配しなくて良さそうだな。大和と大岡には、他の同級生とかにバレないように頼むわ」

 

 静かに頷く大和と、「手続き早っ」とびびりながらも親指を立ててきた大岡の反応を確認して。そのまま戸部に視線を移すと。

 

「やっぱ雪ノ下さんすげーっしょ。じゃあ、そろそろメッセージを……なんて送ったらいいんだべ?」

「凝った表現はしなくて良いから、必要最低限のことを書いたらどうだ。俺とヒキタニくんが添削するから、とりあえず下書きしてみろよ」

 

 ここまで他人任せなのも逆にすごいよなと思いつつ。戸部を挟むようにして、葉山とは逆の側から手元を覗き込むと、一文字たりとも書けていない。

 

「んじゃ、俺が言ったとおりに書いてみてくれ。葉山には添削を頼むわ。えーと、『ライトアップした竹林の小径を見に行きませんか。野々宮のバス停前で待ってます』ぐらいでいいんじゃね?」

 

「あとは集合時間を伝えるぐらいで充分だと俺も思うな。ヒキタニくんは先に出るんだろ?」

「だな。バスに乗ったら一瞬なのは助かるわ。そろそろ景色も見飽きてきたしな」

 

 そう言って八幡はドアのほうへと歩いて行く。

 廊下に出ると同時に、「送ったべ!」という戸部の声が聞こえて来た。

 

 

***

 

 

 雪ノ下からのメッセージを受け取った由比ヶ浜は、同じ班の三人と打ち合わせをしていた。

 

「じゃあ、サキサキはここに残ってもらって。ゆきのんが許可を取ってくれたから、先生にバレないようにって考えなくても済むのは助かるけどさ。あたしも優美子も姫菜もいないから、なにか問題が起きた時にはお願い」

 

 文化祭ではクラスの衣装を一手に引き受けて。体育祭では大将騎の一人として、白組の生徒を統率してチバセンを盛り上げて。

 

 一匹狼の傾向がある川崎沙希だが、二学期に入ってからの活躍によって知名度がどんどん高まっていた。それを知らぬは本人ばかりで、一日目にしろ三日目の今日にしろ、単独行動中の川崎を遠巻きにして話しかける隙を窺っていた女子生徒は少なくなかった。

 

 事情を知っているのに現地に赴くことなくホテルで待機してもらうのは、損な役回りだと思う。つい先程には川崎から率先して、事が終わった直後に海老名の傍にいてやりたいと、そうまで言ってくれたのに。

 

 だからとても心苦しいのだけれど、自分たち三人がいない状況で後を託せるのは川崎だけだと由比ヶ浜は思う。

 気持ちを込めて頭を下げると、川崎も最後には了解してくれた。

 

「そのかわり、あったことは全部話してもらうよ。少しでもいい結果になるように、ここで祈ってるからさ」

 

 昨夜かわした雑談を川崎は思い出していた。「何か手があるなら諦めないでさ」と。いざとなったら「一緒に由比ヶ浜や雪ノ下に謝ってやるよ」と言って八幡を励ましたことを。

 これらの自分の発言に責任を持つためにも、川崎は後で詳しい話を教えて欲しいと要請した。

 

「うん、隠したりしないから大丈夫。それにヒッキーが何か考えてるっぽいし、報告を楽しみに待ってて」

 

 由比ヶ浜も川崎も、八幡を信頼していた。何かをしてくれるのではないかと期待していた。

 川崎との約束を悔やむことになるとは、この時の由比ヶ浜は思ってもいなかった。

 

 

「……メッセージ、来たよ」

「なんて書いてるし?」

「竹林の小径へのお誘い。さっきのバス停で待ち合わせだって」

「こうやって行動に出られたら仕方ないし。あーしも近くで待ってるから、やることをさっさと済ませて戻って来るし」

 

 海老名と三浦のやり取りを耳に入れながら、由比ヶ浜はぎゅっと手を握りしめて。そしてようやく口を開くことができた。

 

「……だね。あたしも同じ空間にいるからさ。それに、ヒッキーもゆきのんもいるし」

「ごめんね、結衣。こうなるんだったら、無理に奉仕部を巻き込まないで私が断るだけで良かったのにさ」

 

 海老名の発言に、あわててかぶりを振る。

 

「ううん、そんなことない。あたしがもうちょっと、ゆきのんとかヒッキーみたいにぱぱっといい案を思い付けたらよかったんだけどね。でもさ、ちょっと希望を持たせちゃうかもだけどさ。ヒッキーは最後まであきらめないと思うから、なにか変なことを言い出したら、それを逃さないで姫菜も」

 

「うん。せっかくみんなが色々と考えてくれてるわけだしさ。少しでも良い展開になりそうな兆しがあったら、私も見逃さないようにするから。じゃあサキサキはここで、優美子はバス停の近くで、結衣は同じ空間で、お願いね」

 

 迷いを振り払った様子の海老名に、無理に微笑みかけながら。

 一足先に現地に向かうべく、由比ヶ浜は部屋を出ると階段をゆっくり下りて行った。

 

 

***

 

 

 ロビーで三たび集合を果たして、奉仕部の三人は丸太町通から西向きのバスに乗り込んだ。道中の時間を短縮すると、あっという間に嵐山だ。

 

 午後にお茶をしたカフェに入って、そこのトイレから別空間に移動する。他の人に見られていると移動できないと、一昨日に駅長さんから言われたものの。トイレの個室から出てくる形だとほぼ確実に移動できる。

 

「戸部と海老名さんにも、トイレから移動してくれってメッセージを送っとくわ」

「そうね。では、奥に向かいましょうか」

「だね。……こんな時じゃなかったらさ。すごく綺麗だなって、見惚れたいだけ見惚れていられたのにね」

 

 そんな重くなりがちな雰囲気を嫌って、八幡が気楽な調子で口を開く。

 

「てか、ここまで俺らの言った通りに行動されるのも、なんだかなって感じはするよな」

「今日のルートも、私の提案通りだったと。先程ここでそう言っていたわね」

「うーん、まあとべっちだしさ。そういうとこで素直なのが長所っていうか」

 

 由比ヶ浜が言いたいことも理解できるし。こうして話題に出すことで苦笑まじりの雰囲気を生み出せるのも、戸部の良いところではあるのだろう。当人は嬉しくないかもしれないが。

 

 

「雑誌に載ってたデートコースそのまんまとか、普通だと嫌われるもんだけどな」

「あら。まるでデートをしたことがあるかのような物言いなのだけれど。私の聞き間違いかしら?」

「ばっかお前、デートなんか腐るほど経験あるっつーの。でもなあ、マジで雑誌の通りだと激怒されるんだよなあ……」

 

「そういうとこ、小町ちゃんヒッキーに厳しそうだもんね」

「楽しみにしていただけに、小町さんも失望が強くなるのでしょうね」

「なあ。お前ら一体いつから、これが小町の話だって確信してたんだ?」

 

 二人から呆れるような視線を受け取って、「まあ最初からですよねー」と呟きながら。少しは雰囲気がマシになったかなと考えていると。

 

「でもさ。雑誌のコースなら別にいいやって思うんだけどさ。別の女の子と出かけたコースと全く同じとかだと、さすがにね」

「それは、男性側も楽しめるものなのかしら。一度行ったコースを何度もくり返すなんて、飽きが来そうな気がするのだけれど」

「俺にもその心理は分からんけど、世の中にはマニュアル大好き人間とかもいるからな。嫌な言い方をすれば、予想外のことを極端に嫌うっつーか」

 

 二人が頷いてくれたのを見て、ふと悪戯心が浮かんだ。こいつらからデートの希望を聞き出せる機会などそうそうないはずだ。そう考えながら口を開く。

 

「んじゃお前らは、別のやつと同じコースとか、一度行ったコースをくり返すのは駄目ってことだよな?」

「えっ。あー、うん。あたしは、ちょっとイヤだなって……」

「私は、できるなら色んな場所に行きたいわね」

 

 ふんふんと首を縦に振りながら、雪ノ下の隙を見つけた八幡は一気に斬り込んだ。

 

「まあ、由比ヶ浜の気持ちは何となく分かるとして。雪ノ下はあれだな。デートで毎回のように猫カフェに通うのは論外ってことだよな?」

「っ……そうね。猫カフェも一箇所だけではないのだから、色んなお店に行きたいと思うのが普通ではないかしら?」

 

 残念ながら討ち漏らしたものの、一瞬とはいえ雪ノ下のあわてた姿を見られてご満悦の八幡だった。

 そして別の女の子と同じコースはイヤだと言ってしまった由比ヶ浜が、将来その発言を後悔することになるか否かは、現時点では誰にも分からない。

 

 

 そんなこんなで少しだけ雰囲気を上向きにしながら歩いて行くと、道が少し曲がりくねっている。歩いてきた側からは見えにくいので、待機するには最適な場所だ。

 

「んで、場所はここで間違いないんだよな?」

「戸部くんの性格的にも、ここに辿り着くまでは告白の話を出さないと思うのだけれど」

「だね。うー、ちょっと緊張してきたかも」

 

 由比ヶ浜はそう言ったものの。八幡は、自分たちの緊張を和らげるためにあえて口に出してくれたような気がした。ふうと一息いれて、頭と身体が弛緩したところで。

 

「それで、貴方は何を企んでいるのかしら?」

 

 その隙に雪ノ下に斬り込まれてしまった。とっさに言葉が出て来ない。

 

「あ、やっぱりゆきのんも気付いてたよね。ヒッキーが何か考えてるなって」

「慣れてしまえば分かり易いのよね。でも、私たちに何も話そうとしない辺りで、少し嫌な感じを受けるのだけれど」

「……はあ。まあ、お手上げだな」

 

 戸部たちがここに来るまでには、まだ時間がたっぷりある。隠し通すのは難しいと結論付けて、仕方なく八幡は腹をくくった。

 

「どう説明したもんかな。まあ、告白の現場に乱入して雰囲気を壊すってのが第一の目的なんだけどな。千葉村とかでやったのと、同じような感じっつーか」

「なるほど。具体的な行動は考えているのかしら?」

「ゆきのん、ちょっと話し方がきつくなってるからさ。まだ時間はあるし、ね」

 

 直立不動でこちらを見据えているものの、雪ノ下がまとう雰囲気はそれほど険悪なものではない。それに由比ヶ浜も空気を和らげようと口を挟んでくれた。

 だから、しばらくは素直に答えるかと考えながら話を続ける。

 

「内輪で話してる時に異物が突然現れると、意識がそっちに持ってかれるだろ。その隙に、何か二人の興味をひくような言葉を投げかけたら良いんじゃねって、そんな感じだな」

「そういえば、一日目の音羽の滝でさ。滝のところに中二がいるって思ったら、それまでの話が吹っ飛んじゃったもんね」

 

 由比ヶ浜の具体例が適切なので、少し驚きながら。八幡はまた別の例を思い出していた。昨日の夜に、一般客を装って自分たちの前を通り過ぎようとした顧問の姿を。率直に言って、あれでバレないと思えるのが理解できない。

 

「二人の興味をひく言葉とは、例えばどんなものがあるのかしら?」

「なんだろな。まあ、そこをずっと決めかねてたんだけどな」

「たぶん姫菜もとべっちも、告白のことで頭がいっぱいだからさ。よっぽどじゃないと注意をそらすのは無理っぽいよね」

 

 自分が引っかかっていたのと同じ部分に言及してくる二人を、頼もしく思いながら。これなら全部話しても大丈夫かなと八幡は思う。とはいえ微妙な話になるだけに、慎重に説明しなくてはと気合いを入れ直して。

 

 

「それでな、俺のぼっち経験から何か応用できないかなって考えてたらな。一つ思い出した事があったんだわ」

 

 急に反応がなくなったことに、違和感を感じながらも。ここまで話してしまえば最後まで続けるしかないと考えて。

 

「前にお前らにも言ったと思うけど、俺は嘘告白をされた事があってな。じゃあそれを」

「待って。ちょっと待ってヒッキー。それ、本気で言ってるの?」

 

 文化祭の前に、雪ノ下と葉山が同じ小学校だと判明した日のことだったか。あの時に八幡の家のリビングで、やはり嘘告白の話を持ち出したことがあった。あの時は、冗談のつもりだったのに沈黙が返ってきただけだったが。今度はそれでは終わらなかった。

 

「わざわざ呼び出しておいて告白は嘘でしたと言い出すのは、人として最低の行為だと思うのだけれど。いくら当の貴方が気にしないと言っても、それで済むほど軽い問題だとは思わないわ」

「いや、ちょっと待て。もう過去の話だし、今は議論してる場合じゃねーだろ?」

 

 そう言うと、雪ノ下はいったん口をつぐんだものの。身にまとう雰囲気に剣呑なものが交じり始めた。助けを求めようと由比ヶ浜に目をやると、こちらは泣き出しそうな表情になっている。唇を噛みしめて、どうしてこんな状況になったのかと考えていると。

 

「じゃあさ。ヒッキーは姫菜に嘘告白をするってこと?」

「それで話がまとまるとは、私には思えないのだけれど」

 

 八幡には感情というものが理解できない。もちろん浅い部分は理解できるが、感情の深みを突き詰めて行けば行くほど、理解不能なおどろおどろしいものに思えてしまう。

 だからこそ、感情ではなく理屈にすがる。

 

 理路整然と話をすれば、雪ノ下なら理解してくれるのではないかと、そう考えて。八幡は口を開く。

 

「あのな。俺が海老名さんに『付き合って下さい』って言うとするだろ。その時点で戸部の言葉は封じられて、海老名さんの返事待ちの状態になるよな。そこで海老名さんが『誰とも付き合う気はない』って宣言すれば、戸部もそれ以上は無理押しできないだろ?」

 

 落ち着かない沈黙が場を支配している。早く何か言ってくれと、そう願いながら静かに時が過ぎていくのを感じていると。

 

「なるほど」

 

 ぼそっと、雪ノ下がそう呟いた。なんとか理解してくれたかと、八幡が胸をなで下ろそうとしたのも束の間。まるで刃物で斬り付けられたかのように、鋭い視線で射すくめられた。

 

 怒っているだけでも、嘆いているだけでも、哀しんでいるだけでも寂しがっているだけでもなく。それらの感情を持て余しながら、何よりも強く伝わって来るのは否定の気持ち。

 

 思わず、背筋が震えた。こんな雪ノ下は見たことがない。由比ヶ浜以上に感情に支配されている雪ノ下なんて、今まで一度たりとも見たことがなかった。

 

「由比ヶ浜さんの誕生日と。それから、部長会議の反対派の残党が、文化祭前に蠢動した時だったかしら。貴方はたしかに言ったわね。『遠慮なく言ってくれ』と。とはいえ、貴方のせいにするつもりはないわ。私は、今から貴方に告げる言葉に、己の全てを懸けても良い。それぐらいの気持ちで貴方に伝えたいのだけれど」

 

 既に雪ノ下の目は、八幡以外を捉えていない。すぐ傍にいる由比ヶ浜の存在すら忘れて。結果を理で判定するのではなくやり方を情で問う域に至った雪ノ下は、言葉を続ける。千葉村で比企谷小町と話をした時には至っていなかった領域から、静かにこう宣告する。

 

「あなたのやり方、嫌いだわ」

 

 

 それは確かに、かつて二度にわたって二人と話題にした言葉だった。「俺のやりかたが嫌いだと思ったら、その時は遠慮なく言ってくれ」と言い出したのは八幡なのに。実際にそれを突き付けられてみると、いかに覚悟の足りない発言だったかが分かる。

 それほどまでに痛く、そしてつらい言葉だった。

 

「ヒッキーはさ」

 

 そして、氷像と化したかのように身動きすらしない雪ノ下に代わって、由比ヶ浜が話し始めた。これ以上はもう聞きたくないと思ってしまう。でも、聞かないわけにはいかない。自分がこの話を始めてしまった以上は、八幡には全てを聞き果せる責任がある。

 

「たぶん効率がいいとか、俺は大丈夫だって言ってさ。ヒッキーは、けっこう平然と行動できちゃうのかもしれないけどさ。体育祭の後に、あたしが言ったことを覚えてるかな。『あたしたちがどう思うかってことは考えてくれてたかもだけど』ってさ。でもさ、違ったよね。ぜんぜん考えてくれてないよね。あたしたちがどう思うかなんて、ヒッキーはぜんぜん、考えてくれてないじゃん」

 

 途中までは冷静な口調で、でもそれのほうがつらいなと、思っていたのに。ぜんぜんという言葉とともに嗚咽が漏れ出したのを聞いて、この上なくいたたまれない想いに包まれた。

 

 できることなら、この場で消えてしまいたい。だが、そんなわけにもいかない。呆然と立ちすくんだまま、八幡は続く言葉に耳を傾けるしかできない。

 手の甲で涙をぬぐって、由比ヶ浜が話を続ける。

 

「ゆきのんがさ、朝ご飯の時に言ったじゃん。ヒッキーとあたしに『後を任せても良いかしら』ってさ。覚えてる?」

 

 ああ、覚えている。そうだ、たしかに雪ノ下にそう言われたのだ。だから俺は、雪ノ下の代わりに結果を出そうと策を練ったのだ。なのになぜ、否定されなければならないのだろうか。

 混濁した頭で、八幡がそんなことを考えていると。

 

「でもさ、後を任せるって、こういうことじゃないじゃん。ヒッキーに嘘告白をさせてまで依頼を解決して欲しいって、そんなわけないじゃん。ゆきのんはさ、自分にやれることは全部やって、それで後を託してくれたんじゃん。ゆきのんなら、傍で見てて哀しい想いをするようなことは絶対にしないって、あたしも自分を懸けてもいいよ。けど、ヒッキーは違うじゃん」

 

「信頼して後を任せるとは、こういうことではないと私も思うわ。貴方が身を削るような想いをすることは、私も由比ヶ浜さんも平塚先生も、戸塚くんも材木座くんも、川崎さんも三浦さんも海老名さんも、葉山くんや戸部くんだって望んではいないのよ。貴方はそれが分からないの?」

 

 由比ヶ浜の言葉を補足すべく、雪ノ下が口を開いて。そこまで言い終えると再び動かぬ彫像に戻った。由比ヶ浜にも全てを言い切って欲しいと、そう思って。

 

「事故の時にさ、簡単に命を投げ出すようなヒッキーを見ちゃったからさ。あたしずっと不安だったんだ。ヒッキーがまた、自分を犠牲にするようなことをし始めるんじゃないかって。そんなことをしなくても、ヒッキーなら色んな事を考えて、変なアイデアとかを思い付いて、あたしじゃできないような方法で依頼を解決するのを見せてくれるんじゃないかって、最近やっとそう思えてきたのにさ。ヒッキー、変わってないじゃん。あたしたちの気持ちも、ぜんぜん考えてくれてないじゃん」

 

 何も言い返せないまま、由比ヶ浜の言葉を聴き続けるしかない。自分にとって何よりも大切なことを言ってくれていると解るから。先ほど抱いた反発の気持ちは、ろくでもない戯れ言だと気付いたから。

 

「なんで、色んな事を知ってるのにさ。色んなことを思いつくのにさ。いろんなことがわかるのに、それがわかんないのかな。あたしたちがさ。ああいうの、やだって思ってるって、なんでわかってくれないのかな」

 

 ぼそぼそとした声で、時々しゃくり上げながら、それでも由比ヶ浜の言葉は八幡の耳によく届いた。聞き漏らしたり聞き違えたりする気はさらさらないけれど、まるで脳に直接響いているかのように、声がはっきり伝わってくる。

 

「たしかにさ。さっき言ってたとおりにしたら、姫菜の依頼は解決するかもしれないけどさ。けど、けどさ……こういうの、もう、なしね。あたしもゆきのんも、こんなヒッキーはもう見たくないからさ。だから、一つだけ約束して欲しいの」

 

 そう言って言葉を切って、由比ヶ浜が潤んだ瞳でしっかりとこちらを見据えてきた。とても他には目を逸らせない。その状態で、すすり泣くような声が耳に響いた。

 

「人の気持ち、もっと考えてよ……」

 

 

 由比ヶ浜と目を合わせたまま、どれほどの時間が経ったのだろうか。意思を込めて小さく頷くと、ようやく視線が動かせるようになった。

 

 すぐ近くには、大切な二人の部活仲間がいる。そして、耳に届くのは。

 

「やばい。いま向こうの方から足音が聞こえた。あいつらがもうすぐ来る」

 

 小声でそう告げると、二人もいつもの雰囲気に戻った。

 手持ちの策は出尽くした。だが、戸部たちの前にとつぜん姿を現すことで、少しは告白の機運を削ぐことができるはずだ。告白を中止にはできないまでも、馬鹿げた雰囲気にさせることは。

 

「どこに行こうというのかしら?」

 

 だが、八幡の前に雪ノ下が立ちはだかる。

 たしかに、あんな案を実行しようとしていた俺が信頼できないのは解るけれども。その話はもう終わったし、あんな無茶をするつもりもない。だからそこを通して欲しいと、そう言いたいのに。

 

「貴方が、もうあんなことはしないと、そう言ったとしても。今日だけはここを通すわけにはいかないわ」

「けどな。俺はお前らとの関係も失いたくないし、あいつらの関係も失わせたくなかったんだわ。戸部や葉山もだし、由比ヶ浜と三浦と海老名さんの三人にもな。だから」

 

「この程度で失われてしまうようなら、そこまでの関係だったということよ。でも、少なくとも。由比ヶ浜さんたち三人の関係が失われるようなことはないと、私は確信しているわ」

 

「でも、恋愛が絡むとわかんねーだろが。俺は、戸部が馬鹿やったり、葉山がすまし顔でなんかほざいてたり、その近くで由比ヶ浜たちが笑ってる教室が、思ってた以上に気に入ってんだよ。だから、それらのどれ一つとして、失わせたくないなって、そう考えてんだよ。だから、頼むからそこをどいてくれ」

 

 もはや自分の感情を隠そうともせず、八幡が雪ノ下に懇願している。

 それでも、立ち塞がる雪ノ下に迷いはない。決して八幡を通さないと、その気迫がはっきりと伝わって来る。

 

 

「そっか。ヒッキーは、そんなふうに考えてたんだ」

 

 奉仕部での関係を、失いたくはない。

 三浦と海老名との関係はもちろん、葉山たち男子との関係も、できれば失いたくはない。

 でも、それ以上に。

 八幡が失うのが嫌だと言った諸々を、失わせたくなかった。

 それらのどれ一つとして、失わせたくないと、思ってしまった。

 

 そのためには、どうすればいいんだろう。

 ゆきのんとかヒッキーみたいにぱぱっといい案を思い付けたら。

 あ、でも。

 ひとつだけ、あたしにもできる方法があった。

 

 これならきっと、大丈夫だ。

 たしかに全部ではないけれど。

 ヒッキーが失いたくないと思ってたほとんどは残る。

 たとえ、自分との関係だけが、失われたとしても。

 

「なあ。由比ヶ浜も言ってやってくれよ。俺はもう無茶なことはしないから、そこを通してやって欲しいって、雪ノ下に」

 

 その言葉を片方の耳で聞きながら、雪ノ下と並ぶようにして八幡の前に立つ。顔を青ざめさせているが、もうちょっとだけ待って欲しい。

 もう片方の耳は、来た道のほうへ。ちょうど、立ち止まったみたいだ。

 

「あ、あのさ……」

 

 戸部の声が、こちらにも聞こえて来る。

 目の前では八幡が、万事休すかと瞑目している。

 

 目を閉じていると、普段よりも数歳ほど幼く思えて、なんだか可愛らしいなと。新幹線の中でも思った事を、心の中でくり返して。

 

 その八幡に向けて、由比ヶ浜は声を張り上げて話しかける。海老名と戸部にも聞こえるように。

 

「あのねっ。あたし、ヒッキーのことが好き。ずっと前から、ヒッキーのことが、好きだったの」

 

 

 幻想的な雰囲気の竹林に、由比ヶ浜の声が響き渡った。

 




次回は一週間後の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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13.さまざまな想いが交錯する中で彼は決断を迫られる。

本話にも途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→140p1


以下、前回のあらすじ。

 戸部の説得は失敗に終わり、告白は不可避となった。
 差し向かいで話をした八幡と葉山は、お互いのわだかまりを捨てて協力し合うと約束した。「失ったものはもとに戻らない」という想いを共有して、二人は「自分にできることはやろう」と決意する。

 別空間で戸部に告白させようと企んでいた八幡だが、雪ノ下と由比ヶ浜も同席するとのこと。「誰もいない空間で男子と二人きりは怖い」という女性心理を盾に取られると反論の余地はなかった。
 計画を実行する姿を、この二人にだけは見られたくなかったものの。それでも理由を話せば許してくれるだろうと、八幡は甘い予測を立てていた。

 小径の奥で戸部たちを待つ間に、二人に追及された八幡は策を打ち明ける。
 だが二人の反応は八幡が思っていた以上に苛烈で、そして悲愴なものだった。雪ノ下と由比ヶ浜に告げられた言葉を受け入れて。そして八幡は足音を耳にする。

 嘘告白の案は放棄しても、せめて告白の現場に乱入して雰囲気をぶち壊そうと考える八幡の前に、雪ノ下が立ちはだかる。失いたくないものや失わせたくないものを言葉にして説得を図る八幡だが、雪ノ下は頑として動かない。
 そうした八幡の気持ちを心の奥で受けとめた由比ヶ浜は、雪ノ下と並ぶようにして立ち塞がると。
 決して忘れられない言葉を、八幡に伝えた。



 バスを下りると、すぐそこで待っていた戸部翔が近づいてくるのが見えた。先に下りた三浦優美子は、少し離れた場所に葉山隼人と戸塚彩加の姿を認めて。戸部と二人とに視線を行ったり来たりさせながら、すぐ目の前で立ち止まっている。

 

「優美子は、あの二人と一緒に待ってて」

 

 そう言いながら軽く三浦の背中を押して。海老名姫菜は、今日一日で何度浮かべたか分からない笑顔を顔の表面に貼り付けながら、戸部の横へと移動する。

 

「あの小径だよね。じゃあ、さっそく行く?」

 

 挨拶の言葉も雑談も特に必要とは思わなかったので、すぐに自分から積極的に誘いかけた。

 戸部のメッセージは必要最低限の内容だったので、勘違いをしたふりをして五人での移動を提案しても良かったのだが。

 

「その前に、せっかくヒキタニくんが招待してくれたからさ。別空間に移動してみるべ?」

 

 先延ばしをするのも疲れるし、貸し切り空間に招待されているのは自分たち二人だけだと判っているので、無駄な行動をしても仕方がない。

 

「あー、そういう話だったね。近くのカフェのトイレって、あ、あれか。じゃあ優美子たちも、あそこまでは一緒に行ってさ。その後はお店で待っててくれる?」

 

 忘れていたふうを装いながら、呼び出された立場の海老名がなぜか一同の行動を差配していた。

 

 カフェに入る直前に、ほんの微かな力で手を引かれた。

 すっかり普段どおりに見える海老名を気遣ってくれたのだろう。三浦がじっと見つめてくるので、「やだ、優美子。こんなところではしたない」とつぶやきながら両手を頬に当てて、照れるふりをして笑いを誘った。

 

 ふっと吹き出した三浦に無言で肩を叩かれたものの。反応も動きも、いつもと比べると精彩を欠いて見えた。

 

 

 人のいない別空間は、こんな状況でさえ胸が躍りそうになるぐらいに魅力的だった。有名な観光地を貸し切り状態で堪能できるなんて、現実世界ではまず不可能だろう。

 

 せっかくなので戸部に少し待ってもらって、写真を何枚か撮ることにした。創作の参考にできるといいなと思いながら、大胆な構図で目に付いた景色をざっと撮影して。

 

「うん、お待たせー」

 

 再びいつもの笑顔を貼りつけて、戸部の隣に並んだ。

 

「海老名さんって写真にも拘りあるんだべ?」

「うーん、どうだろ。写真自体に興味があるってよりは、資料って意識のほうが強いからさ。拘りって感じじゃないかもねー」

 

 そんなふうに会話を適当に積み重ねながら、竹林の小径に足を踏み入れる。

 

 詳しい話は聞いていないものの、この後の戸部の行動は予測が付くので、夕方前と比べるとはるかに気が楽だ。おそらくは道が曲がりくねっている付近で告白されるのだろうし、そのすぐ先にはあの三人が控えているのだろう。

 海老名はそう考えて、せっかくなのでライトアップされた竹林を堪能しながらゆっくりと歩いて行くことにした。

 

 

 目的地が近づいてくるほどに、戸部の口数ははっきりと減って来た。二人の足音だけがやけに大きく響いていて、付近は静寂に包まれている。小径に足を踏み入れた時には風がざざっと竹林を揺らしていたのに、それもいつの間にか途絶えて久しい。

 

 たぶん、そんな環境だから気付けたのだろう。ふと奥のほうから話し声が耳に届いた。内容までは聞き取れないが、何となく切羽詰まった感じが伝わってくる。戸部は自分のことに精一杯で気付いていないみたいだ。

 

 少し様子を見たいと思って、歩く速度を更に緩めてみたものの。

 戸部の余裕のなさが、今度は悪いほうに働いた。

 海老名との間に距離ができても意に介さず、そのまま目的の場所まで歩みを進めると、地面をざっと踏みしめるようにして立ち止まる。

 

 おもむろにこちらを振り向いて、どんな言葉を口にすればいいのかと考え込むような表情になって。

 

「あ、あのさ……」

 

 さすがの海老名も両の拳を握りしめて、耳の神経を続く言葉に集中させた。

 残念ながら奉仕部の助けは来なかったが、この状況に至った今となってはそのほうが良い。そう頭の片隅で考えていると。

 

「あのねっ。あたし、ヒッキーのことが好き。ずっと前から、ヒッキーのことが、好きだったの」

 

 突然、懐かしい声が。聞き慣れてすっかり耳になじんだ由比ヶ浜結衣の声が、竹林に大きく響いた。

 

 

***

 

 

 目の前では戸部がぽかんと口を開けて、唐突に始まった予想外の展開に目を白黒させている。

 

 そして海老名は、ぎりっと奥歯を噛みしめて由比ヶ浜の意図を悟った。おそらくは比企谷八幡の案がベースになっているのだろうが、由比ヶ浜らしくもないし八幡らしくもない。

 そんな違和感を抱きつつも、無為に時間を費やす気はなかった。

 さっきホテルで「見逃さないようにする」と約束したから。

 

「おーい、結衣ーっ。ごめんねー。今の、私ととべっちも聞いちゃってさー」

 

 口の横に手を当てて、声がちゃんと届くようにとお腹に力を入れて。誰よりも早く由比ヶ浜の言葉に反応した海老名は、とことこと戸部の横を通り過ぎて三人のほうへと近づいていく。

 

 場の空気を読み切って、その上で空気を読まない行動に出る。それでも最終的には周囲に合わせられる器用さがあるから可能な、海老名の得意技だ。

 

 歩きながら背後の気配を窺うと、戸部も着いてきてくれた。少しだけ申し訳ない気持ちになるが、事を丸く収めるためだ。我慢してもらおう。

 

「ちょうどそこまで来たところで、結衣の告白が始まっちゃったからさー。話が終わってから出ていくのも気まずいし、さっさと自己申告してみたんだけど、やっぱりお邪魔だよねー」

 

 微妙に語尾を伸ばす独特の話し方は、他の面々に口を差し挟む隙を与えない。

 

 まだ話は終わっていないという含みを残しながら、いったん言葉を切って。由比ヶ浜が作った雰囲気をできるだけ壊さないように細心の注意を払いつつ、お邪魔虫だけがさっさと退散できるように話を進めようと考えて。再び海老名は口を開く。

 

「でもさ。こうやって告白できちゃうって、結衣はすごいね。私には絶対に真似できないなーって思うもんね。まあ……」

 

 ここで再び言葉を切って。最後まで気を抜かず、しっかりと。由比ヶ浜から受け取ったボールを丁寧なパスで返そうと、そう考えて。

 その瞬間、海老名にぞくっと悪寒が走る。

 だが、開きかけた口は止まらない。

 

「今は誰かと付き合うとか考えられないから、自分から告るなんてありえないし。誰に告白されても絶対に付き合う気はないんだけどね」

 

 最後まで言い終えはしたものの。言い切った形になったので、海老名以外の面々も発言しやすい雰囲気になった。

 でも、それは今は後回しで良い。それよりも。最近どこかで、これと似た場面を見た気がする。そんな既視感が海老名を不安にさせていた。

 

 パスを出す相手を間違えて、そこで試合が終わる。旅行前に話題にした漫画のあの瞬間を思い出すと同時に。

 すぐ隣から声が聞こえて来た。

 

 

「じゃあさ。俺っち、付き合うとか関係なしに海老名さんのことをもっと知りたいって思ってるんだけどさ。それなら別にいいべ?」

 

 先ほど言葉に迷っていたのが嘘のように、戸部がすらすらと話し始めた。断る理由もないので海老名が唇を噛みしめながら頷くと、たちまち満面の笑みを浮かべてガッツポーズだ。

 不思議と、うざいとは思わなかったなと。後に八幡は語っている。

 

「おっしゃ。じゃあ、お邪魔虫はさっさと退散するっしょ。海老名さんはさ、ここで残って結衣の結果を見届けるべ?」

「えっ。……うん、そうだね」

「ほいじゃ、俺っちは先に帰りまーっす。結衣の話は誰にも言わないから、後で優美子とか隼人くんにも説明して欲しいべ」

 

 そう言い残して、戸部は弾む足取りですたこらと去って行った。「あぶねー」とか「助かったー」という声が聞こえてくるので、思わず脱力していると。

 

「周囲があれこれと案ずるよりも、産ませてみるべきなのかもしれないわね」

 

 海老名が最初に見た時からずっと、身動き一つしなかった雪ノ下雪乃がそうつぶやいて。おかげで少し余裕ができた。大きく息を吸い込んで。

 

「はあー。何だかなあって私が言うべきじゃないけどさ。本当に、なんだかなーだよね」

 

 盛大にため息を吐き出してから、誰に言うともなく冴えない言葉をつぶやいてみると。

 

「戸部くんも、もちろん付き合いたいという気持ちはあったと思うのだけれど。あの様子だと、海老名さんともっと仲良くなりたいという気持ちのほうが強かったのではないかしら。事前にそれが読めていれば、もう少し違った対応ができたのに。告白の舞台を調えた事を筆頭に、海老名さんの心労を増やす形になってしまったわね」

 

 生真面目な反応を頂いてしまった。とはいえ、戸部は「付き合いたい」という気持ちで突っ走っているのだろうと誰もが考えていただけに、雪ノ下に落ち度はないはずだ。

 そう考えて軽く首を振って、そして海老名は。

 

「じゃあ、そろそろ本題に行こっか」

 

 口を挟めない二人のために、話を戻した。戻さざるを得なかった。

 

 

***

 

 

 すぐ目の前には雪ノ下と由比ヶ浜が立ち塞がっていて、少し向こうには海老名もいる。三人の間を突破して来た道を帰るのは、まず無理だろう。それに手荒なことはしたくない。

 

 由比ヶ浜が何を思ってあんなことを言いだしたのか、八幡には解らない。発言の効果はすぐに理解できたし、それは海老名が目に見える形で示してくれた。だが由比ヶ浜の気持ちが、感情が、八幡には理解できなかった。「もしかして、本当に?」とは思っても、それを素直に受け入れられない。

 

 それに、俺がどう答えるにせよ関係は変わる。失ってしまったものは元には戻らない。

 そう考えた八幡は、海老名の発言に二人が気を取られた瞬間を狙って後ろを振り向いて。

 

「なんっ……うげっ!」

 

 小径の奥へと逃げて姿をくらまそうと一目散に走り出した瞬間に、自分の身体が宙を舞っているのに気がついた。少し遅れて背中に鈍い衝撃が走り、地面に叩き付けられたのだと理解する。

 

「逃がさないと言ったでしょう?」

「げほっ。お前な、さっき聞いたのは『通すわけにはいかない』だったぞ」

「あら、そうだったかしら。でも似たようなものよ」

 

 地面に大の字になって横たわりながら、せめてと思って憎まれ口を叩いてみたものの。雪ノ下に平然と返された。顔は見えないが、涼しい表情を浮かべているのが容易に想像できる。

 

 投げられた瞬間は驚きで何も考えられなかったが、寝転んだまま意識を身体の色んな場所に向けてみると、地面と激突した時に受けた衝撃のわりには痛みを感じない。軽く転ばされて背中を少し打っただけ、という表現が現状にぴったりくる気がした。余分な力は吸収して、うまく投げてくれたのだろう。

 

「ヒッキー、痛くなかった?」

 

 頭の上から声がしたなと目を動かすと同時に、視界を影が覆った。八幡の頭のすぐ近くで由比ヶ浜がしゃがみ込んでいる。

 

 身体の正面を八幡の足の方角に向けて、逆向きに顔を覗き込まれているのだと理解して。見つめ合うのは恥ずかしいが、かといってこのまま目を上に移動させ続けるとスカートの中を覗いてしまう可能性がある。紳士たる八幡は憮然とした表情で、目を横に向けるしかなかった。

 

「そろそろ動かないと、置いて行かれちゃうよ?」

 

 そんな不自然な物言いをされて、ようやく由比ヶ浜の意図に気が付いた。先程の発言も今のも、二日目にお化け屋敷で交わした会話が元になっている。あの時のことを思い出しながら話しかけてくれたのだろう。

 その推測を裏付けるように、「はい」と言いながら手を差し伸べてくれた。

 

「まあ、痛くないって言えば嘘になるけどな」

 

 昨日のことなのに、ずいぶんと昔に思えてしまう。自分の発言を思い出しながらそう答えると、身をよじって片方の肘で身体を持ち上げて。由比ヶ浜の手をおずおずと掴んだ。

 

 

 立ち上がってすぐに手を離して、頷くだけのお礼を伝える。どう言えば良いのか分からなかったからだ。そのまま身体の前面をぽんぽんと手で払っていると、由比ヶ浜の右手には雪ノ下が、左手には海老名が寄り添って、こちらを見ている。

 

「体育祭では見逃してあげたけれど。今日のこの場から逃げ出すのは、私が許さないわ」

 

 こんな時でも雪ノ下は雪ノ下だなと、そう思うと心の重荷が少し楽になった気がした。諦観が胸に広がりそうになるのを堪えて、由比ヶ浜の顔をしっかりと見据える。

 

「ちょっと馬鹿っぽいなって俺も思うんだけどな。お前にあそこまで言われても、同情とか憐憫とかで言ってるんじゃないかって、疑いそうになる自分がいたんだわ」

 

 身を乗り出して否定されるかと思ったが、由比ヶ浜はいつも通りの表情のままだ。口を挟む素振りすらみせず、続く言葉を待っている。いや、違う。これはいつも以上に深みと温かみを感じさせる顔つきだなと、八幡は思い直した。

 

「けど、今な。ここから逃げだそうとして、無様に雪ノ下に投げられて、情けない姿を晒してた時にな。お前に手を差し伸べられて、その。本気で言ってくれてるんだって、やっと理解できた気がしてな」

 

 雪ノ下がいつも通りで、由比ヶ浜がいつも以上なのと比べると、海老名は見るからに弱々しい。口を真一文字に結んで、全てを見届けるのが自分の役目だと言わんばかりの視線を送ってくるものの。その身がまとう存在感は、横に並ぶ二人と比べるとあまりにも脆く感じられた。

 

「ちょっと捻くれ過ぎかもしれないけどな。昼に通天橋を見に行っただろ。あの時に『すごい』って褒められて、でも正直あんま嬉しくなかったのな。所詮は借り物の能力だし、あと、なんつーか」

 

 少し言葉を切って、どう説明したものかと言葉や例えを模索して。それを待ってくれている三人に内心で頭を下げながら口を開く。

 

「もしな、スポーツとか勉強とかで結果を出したり、依頼で成果を出したりした時に褒められたら、嬉しいとは思うだろうけどな。でも、それを理由に告白されたら、俺は信じないと思うんだわ。信じないっつーか、悪い方に考えるっつーか。次で結果が出なかったら、すぐに掌を返されるんじゃねって思っちまうのな」

 

 リア充に群がる女子生徒を思い浮かべながら、八幡はここで少し息を吐いた。

 流行りのものに熱中して、それがイマイチになったらすぐに次の何かに興味を移す。八幡が欲しかったのは、そうした連中からの称賛ではなくて。そんなインスタントな感情ではなくて。もっと別の、特別な何かだった。

 

「けど、今の俺は、あれだ。戸部と海老名さんの依頼を解決するために考えてたのは、雪ノ下が嫌うような、由比ヶ浜の気持ちを考えないような最低の策だったし。それをお前らに教えられて、何も手持ちの策がなくなって。だけど由比ヶ浜が、俺の代わりに動いてくれて。俺の案とは違ってちゃんと気持ちを込めた告白をしてくれて。んで、挙げ句の果てには道の真ん中で醜態を晒してな。そんなどん底の状態の俺を、その、す、好きって、言ってくれて」

 

 なぜか、三人の姿がぼやけてしまう。下を向いてきつく目を瞑って、再び顔を上げると三人の顔がよく見えた。

 

 一見すると冷ややかで攻撃的な表情に見えるけれども。これが雪ノ下の平常運転でもあるし、それに強さの裏にさりげない優しさを隠し持っていると八幡は知っている。

 

 一見すると何でも受け入れてくれそうな温和な表情に見えるけれども。由比ヶ浜が優しさの裏に、ダメなものはダメと言える強さを隠し持っていると八幡は知っている。

 

 一見すると好き勝手に振る舞っているように見えるけれども。海老名が友人を思い遣る気持ちは三浦たちにも勝るとも劣らず、それに繊細な側面を隠し持っていると八幡は気付いている。

 

 これほど素敵な女の子に告白されて、これほど素敵な女の子二人に見守られながら。

 八幡はゆっくりと返事を告げる。

 

 

「お前の気持ちは、理解できた、と思う。それを、すげー嬉しいって思う気持ちも、嘘じゃないと思う。でも、な。俺はお前の気持ちにどう応えたら良いのか、どう応えたいのか、自分のことが解らねーんだわ。あ、別にお前に何か悪い部分があるとかじゃなくてな。原因は全部、俺の中にあるんだわ。まあ要は、自分が自分を一番信じられないっつーか。この世に自分ほど信じられんものがほかにあるかって話でな」

 

 雪ノ下は身じろぎもしない。由比ヶ浜も表情を変えない。海老名だけが納得顔で頷いている。

 

「だから、せめて一晩でも時間をくれねーかな。今の俺がどれだけ考えても、この場では何も答えが出せないと思う。ぶっちゃけ、一晩では答えが出せないかもしれないけどな。でも、すまん。考える時間を俺に下さい」

 

 そう言って八幡は静かに頭を下げた。地面しか見えなくても、由比ヶ浜がゆっくりと首を縦に動かしているのが容易に想像できてしまう。それを裏付ける声が少し遅れて届いた。

 

「うん、いいよ。あたしもさ、まさか今日こんなところで告るなんて考えてもなかったからさ。ちょっと時間が欲しいのはヒッキーと同じなんだ。あ、でも。好きって気持ちは嘘じゃないからね」

 

 由比ヶ浜の言葉が終わるのを待ってから苦笑しながら顔を上げて、軽く頷くだけで返した。

 今夜はいったいどれほど悩む事になるのか。想像するだけでも疲れてくるが、それは数時間後の自分に任せようと八幡は思う。

 

「んじゃ、明日の旅行が終わるまでに連絡するな。待ち合わせの場所と時間を送れば良いのかね?」

 

 戸部に偉そうなことを言っていた以上は、これぐらいは自分から提案すべきだろう。告白された当人に確認している辺りは、いささか情けない構図だが。それが一番話が早いし、あまり気にしないようにしようと八幡は思った。

 

「うん、待ってるね。……ほら、姫菜も『自分のせいで予定外の告白をさせちゃった』って顔をしてないでさ。こんなことがなかったら、ずっと言えなかったかもだし、ね?」

 

「結衣に悪いなって気持ちもあるしさ。とべっちの事も、見くびってたっていうか。ちゃんと色々と考えて行動してるんじゃんって、まあ自己嫌悪みたいな気持ちが湧き上がってくるんだよねー。それに比べると私なんて、全てを一発で解決できるような文殊の知恵とかないかなーって、気楽な事ばっか考えてたわけでさ」

 

 ちらっと八幡を見やりながら、海老名が言い終えると。無理をしているのは見え見えだったが、由比ヶ浜はそれ以上の言葉は逆効果だと考えたのか、柔らかく笑いながら頷いて。今度は雪ノ下に顔を向けた。

 

「ゆきのん……」

「由比ヶ浜さん、よく頑張ったわね。ただ、あと一つだけ、貴女が言うべきことが残っていると思うのだけれど。私が代わりに言っても良いのかしら?」

 

 なぜ由比ヶ浜が苦渋の色を浮かべているのか、八幡には理由が分からなかった。

 やがて静かに「ありがと」とつぶやいて、そのまま由比ヶ浜が口を開く。

 

「あのね。さっきヒッキーがさ、どん底状態だって言ってたけどさ。あたしもゆきのんも、情けないなんて思ってないよ。だってヒッキーは、依頼を解決するために色々と考えて、黙って一人でそれを実行しようとしてさ。ヒッキーの案をまねしてみて、ヒッキーの気持ちもなんとなく分かるなって。さっき逃げようとしたのだって、本気で悩んで悩んで、それでもどうにもならないから逃げたんだって、あたしたちには分かるからさ。頑張って頑張って、それでも結果が出なかったとしてもね。あたしは、そんなヒッキーが格好いいって思ってるよ」

 

 まっすぐな想いに真っ向から射抜かれた気がして。八幡は瞬間的に唇を噛みしめて下を向いた。

 この上なく嬉しい言葉なのに。二人がそう思ってくれていると知って、踊り出しそうな心境なのに。由比ヶ浜に格好いいって言ってもらえるなんて、夢ですらあり得ないと思っていたのに。由比ヶ浜に伝えた言葉に嘘はないのに。

 

 なのに八幡は、つい先程の由比ヶ浜と似た苦渋の表情を地面に向けている。

 なぜなら、一番の大嘘つきは俺だと、それを自覚しているから。

 

「……これ以上、褒め殺すのは勘弁してくれ」

 

 顔を赤くして俯いて、やっとの思いでそう返した。

 

 

 この場にいる他の三人の表情を、一つたりとも見逃さなかったのはただ一人。

 いつもと変わらぬ表情の雪ノ下だけだった。

 

 

*****

 

 

 女子三人の後ろを八幡が歩くという並びで、竹林の小径を戻った。由比ヶ浜が左右の二人に雑談を振りながら、時どき振り向いて八幡にも話しかけてくれて。見かけ上はいつも通りだ。

 

 大通りに出て人のいないカフェに入り、元の世界に戻った。トイレを出ると、すぐ目の前の席で三浦が待っていた。その左右には葉山と戸塚が座っているのが目に入る。付近に戸部の姿は見えない。

 

「戸部は『告れなかったけど、海老名さんのことをもっと知りたいって伝えられた』と言ってたけどさ。どういう話になったんだい?」

 

 きっと今頃は、大和と大岡から「このヘタレめ」とぶつぶつ言われているのだろうなと思いながら。葉山が四人に問い掛けると。

 

「そうね。……由比ヶ浜さん、この三人には事情を伝えておくべきだと思うのだけれど」

「うん、いいよ。ヒッキーは大丈夫?」

「まあ、由比ヶ浜が良いんなら、俺も反対する理由はないけどな」

 

 三人がそう返したものの、一人は無言のままだ。

 

「海老名が調子悪そうだから、先に連れて帰るし。詳しい話は後で聞くし」

 

 それを見た三浦が異を唱えて、そのまま席から立ち上がった。続けて由比ヶ浜が口を開く。

 

「じゃあ、さ。あたしも姫菜と離れたくないから、先に三人で帰っても良いかな。その、あたしや姫菜がいないほうが、話しやすいかもだしさ」

「そんなことはないと、由比ヶ浜さんには言っておくわね。でも先に帰るのは良い案ね。貴女も海老名さんも疲れているでしょうし、今夜は早めに休むべきだと思うのだけれど」

 

 こうして三浦たち三人が先に帰ることになり、後には男女四人が残った。

 

 

「男子三人と女子一人という組み合わせは、昨日の映画村を思い出すね。あれは姫菜の発案だったけど、今にして思えば色々と考えさせられるな」

「まあ、海老名さんが戸部と別の組になったりな」

「三浦さんだけ葉山くんと同じ組にしたりね」

「戸塚も俺と同じ組だっただろ?」

 

 容赦のない戸塚の言葉にもそつなく反応して、そのまま葉山が苦笑している。

 そして雪ノ下は、これだけの情報があれば二組の構成を簡単に把握できたみたいで。

 

「できれば自分は傍観者でいたいという気持ちと。それから、比企谷くんと由比ヶ浜さんを同じ組にしたいという気持ちもあったのでしょうね」

 

 葉山と戸塚が敢えて触れなかった二組のうちの一つを、明確に口にした。

 当の八幡と雪ノ下の表情を見て、残る二人は大まかな事情を察する。

 

「予想外の展開があったみたいだけど、具体的に教えてもらって良いかな?」

 

 葉山の提案に頷いて。八幡に軽く確認を入れてから、雪ノ下は竹林であった出来事を端的に伝えた。

 

 

「なるほど。ここで結衣が動くとは、本人も含めて誰も予想してなかっただろうな」

「でも、その場面で動くのは由比ヶ浜さんらしいなって、ぼくは思うけど」

「そうね。おかげで海老名さんと戸部くんの仲は、今までとさほど変わらない形に落ち着くと思うのだけれど」

 

 三人の視線が無言の一人に集中する。とはいえ、深夜に悩む予定の八幡には返す言葉がない。黙って首を左右に振ると。

 

「そもそもの話としてね。比企谷は俺に何をさせたかったんだ?」

「ああ、それは……ってお前、なんか呼び方が変じゃね?」

「この四人で話すのなら、あえてヒキタニと呼ばなくてもいいだろ?」

「葉山くんは意図的に使い分けてるんだよね」

 

 文化祭の最終日に伝えた「理由は誰にも言わないで欲しい」という要望こそ守られているものの。戸塚が見せる少し邪険な扱いが何だか新鮮で、葉山は再び苦笑を漏らした。

 

「なんか戸塚と妙に仲が良いのが腹立つな。あれだ、俺が戸部より先に嘘告白をして、色々と台無しにする予定だったからな。戸部が他の奴らに説明する内容を、一から十まで捏造してもらおうと考えてたんだが。あった事をそのまま言うわけにはいかねーだろ?」

 

「なるほど。戸部のメッセージを添削したのと同じ形だね。君が文章を作って、俺が補足を入れたみたいにさ」

「まあ、そうだな。ただ、こうなってみると頼む事があんまねーな。現状維持で頼むわってぐらいか?」

 

「君の返事がどうなるか次第だけどね。結衣も含めて、現状維持で頑張ってみるよ。君の返事次第だけどね」

「大事な事だからって二回も言わなくていいぞ。返事はまあ、一晩じっくり悩んでみるわ」

 

 疲れているような落ち込んでいるような、八幡からそんな気配を感じた戸塚が口を開く。

 

「八幡が一晩考えて、それでも答えが出なかったらね。由比ヶ浜さんが許してくれるかは分かんないけど、また延期をお願いするって手もあるから。それよりも、連絡しないで逃げるのだけは無しね」

「戸塚くんも最近は言うようになってきたわね。でも、さすがの比企谷くんも今度ばかりは大丈夫だと思うわ」

「まあ、な。逃げはしないって約束しとくわ」

 

 ますます疲労感が出て来た八幡を見て、潮時だなと戸塚は思った。元気付けることさえできない自分の不甲斐なさを悔やみながら。葉山に目配せを送ると、少し済まなそうな表情が返ってきた。

 顔を八幡のほうに向けて、そして葉山が話し始める。

 

 

「最後にさ、比企谷に聞きたいんだけどな。嘘告白をして、君の心が痛まないとは俺には思えない。なのになぜ、君はそこまでして動こうとしたんだ?」

「夕方の質問と似てるな。あの時は『どうしてそこまで親身に』だっけか。まあ、何だろな。褒められたいとか、その類いの対価を求めてるわけじゃないのは確かだな」

 

 夕方と似ているけれども、あの時は「失わないために」という結論でお互いに納得したはずだ。だから、また別の事を尋ねたいのだろうと考えて。八幡はそのまま言葉を続ける。

 

「とりあえずの前提として、他にマシなやり方を知らないってのがあるからな。んで、お前が言う『そこまでして』って部分にはちょっと違和感があるんだわ。あんま言いたくはねーけど、もっと酷い事だって、やろうと思えばできるからな。だから俺からすれば逆に、そこまではしてないって感じかね」

 

「俺からすれば、対価を求めずそこまでやれるのはすごいなと思うけどね。君の中での比較では大した事じゃなくても、他人の行動と比べるとさ。例えば俺は、対価って言うとちょっと違う気がするけど、実益って言うか……戸部と姫菜が付き合って、次は俺と優美子だって雰囲気になるのを避けたかったわけだしね」

 

 なぜか三人がいっせいに息を吐いて、代表して八幡が話し始めた。

 

「お前な、露悪的な物言いは合ってねーからやめとけ。かえって本音が透けて見えるぞ。潔癖な小中学生ならともかく、高校生になってまで利己的な理由を全て排除してたら、よっぽどの聖人君子でもない限りは身動きができなくなるんじゃね?」

 

「けどね、やっぱり利己的なだけの理由は褒められるべきじゃないと思うんだよ。例えば陽乃さんとか、雪ノ下さんも時々そうだけどさ。個人の不利益をうまく集団の不利益に繋げてるよね。雪ノ下さんが体調を崩したら文実が動かなくなるから、生徒全員が雪ノ下さんの健康を願うようになる、みたいな感じでさ」

 

「はあ。それがお前にはできないってか。んなわけねーだろ。お前がうまい具合に女子の人気を集めて対立を起こさせないから、校内が助かってる側面もあるだろが。あとな、俺がよく思い付くようなやり方だと、集団の不利益を自分で引き受ける形だけどな。それでも俺は自分が犠牲になってるとか思わねーし、もしそう思われたら憤慨するわ」

 

「でもね。八幡はそうでも、周りで見てる人は心配するんじゃないかな。葉山くんも、わざと悪者ぶるような言い方をしてるけどね。海老名さんと同じで葉山くんも、無理に付き合う必要はないんだしさ。自分の行為を違ったふうに受け取られたくないって辺りで、なんだか二人って似てるよね」

 

 八幡と葉山に類似点を見いだす生徒が、ここにも一人。

 戸塚に痛いところを突かれてぐうの音も出ない男二人を尻目に、雪ノ下は別の二人に類似点を見いだしていた。

 

 

「集団の不利益を引き受けてうまく発散させているという点では、海老名さんも似ていると言えそうね。話を無理やり趣味の話に結びつけて、これ以上は聞きたくないという別の不利益を作り出す事で全てをうやむやにしてしまうのだから。比企谷くんのやり方と似た部分があると、私は思うのだけれど」

 

「あの人もなんか闇が深そうだからな。いつだっけか、劇の主演を断った時だから二学期の初日かね。話してた時に、陽乃さんとも俺とも方向性は違うけど、変なものを抱えてるなって思ってな。だから、端から見てると似てる部分はあるかもな」

 

「なるほど。それで、貴方が抱えている黒歴史は一晩で何とかなるのかしら?」

「さあな。布団に入った後の俺に聞いてくれ」

「八幡って、明日も最後まで寝てそうだよね」

「最終日は班ごとの行動だから、時間が来たらちゃんと起きてくれよ」

 

 たしか午前中は扇子やら数珠やら着付けやらの体験をして、それから京都駅に向かう予定だったなと。そんなことを八幡が思い出していると。

 

「明日は自由時間が少ないから、ちゃんと考えたほうが良いわよ。では、この辺りでお開きにしましょうか」

 

 真顔で忠告をした雪ノ下が、そのまま散会を宣言する。

 

「じゃあ、バスでホテルに戻ろうか。俺と比企谷と戸塚と雪ノ下さんって、めったにない組み合わせだからさ。一瞬で着くのが少しもったいないね」

「ぼくは時間を掛けてバスに乗ってもいいんだけど、八幡は景色を見飽きてきたって言ってたもんね」

「いや、それは」

 

 八幡が言い訳を口にしようとしたところで、声をかぶせるように雪ノ下が口を開いた。

 

「申し訳ないのだけれど、私は少し寄りたいところがあるので、ここで。葉山くんと戸塚くんには、色々とフォローをお願いね。比企谷くんは、しっかり頑張りなさい。先にバスに乗ってくれていいわよ」

 

 そう言われて苦笑しながら男三人が立ち上がる。

 八幡がバスの窓から最後に見送った瞬間まで。雪ノ下はどこまでも、いつも通りの雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 バスを降りてホテルまでの道をてくてくと歩いて。三人が館内に入ると、ロビーでは意外な生徒が待っていた。

 

「ちょっとあんたに話があるんだけどさ。疲れてるとは思うけど、付き合ってくれないかな?」

 

 そう言って川崎沙希が八幡の前に立ち塞がった。

 

 できればさっさと布団に入ってしまいたい。そう思えるほど身体は疲れているのに、心はそれを先延ばしにしたがっている。精神的にも疲れているのは確かだが、布団に入って本格的に考え事を始めるのを、少しでも後回しにしたいと思っている。

 

 疲労と、現実逃避と。それらの感情が相まって、疲れ切った表情を浮かべているとは気付かぬまま。心配そうに横顔を見つめている戸塚にさえも気が付けない八幡は、吐く息といっしょに「ん」と一言だけ返して。傍らの二人に話しかける。

 

「んじゃま、ちょっと行ってくるわ。先に風呂に入って寝ててくれていいからな」

 

 そういえば、ついぞ戸塚と一緒に風呂に入る機会がなかったなと落ち込みながら。それでも意識の切り替えという点では良い方向に作用したのか、八幡の顔に少し生気が戻って来た。

 

 やっぱり八幡には気分転換が必要だなと。川崎と話す事で少しでも疲れが取れたらいいなと。そんなふうに戸塚が考えていたとはつゆ知らず。

 

 八幡は川崎と連れ立って、再びホテルの外へと出て行った。

 

 

***

 

 

 いつものように大通りを南に渡って西向きの市バスに乗り込んだ。川崎は八幡と同様にぼっち気質なので道中はほとんど会話がなかったが、それを嫌とは思わなかった。むしろ無言の空間が心地よかったほどだ。

 

 東大路通で左に曲がり、バスは南へと進路を変えた。見慣れない光景をちらちらと眺めながら、口を開く気配のない川崎を盗み見てみると。

 

「三条で下りるから、詳しい話はその後でさ」

「ん、了解」

 

 いつ来るか分からないから身構え続けるのも楽じゃないと、そう言っていたのは葉山だったか。今後の行動が分かると分からないとでは、たしかに大違いだなと八幡は思った。

 

 東山三条でバスを降りて、そのまま同じ方角へと歩く。信号で通りの西側に渡って、なおも南を目指してぶらぶら歩き続けていると、不意に川崎が立ち止まった。

 

 すぐ右手にある建物はお店のようで、看板には「布包」と一文字で書いてある。革ではなく布で作った鞄という意味なのだろうか。

 

「このお店を、あんたに見てもらいたくてね」

 

 話が読めないなと思いながら、八幡は川崎の後を追ってお店の中へと入った。先程の予想は正解だったみたいで、多くのかばんが展示されている。財布やペンケース、小さなトレイなど収納用の小物もあった。

 

「まだ小さかった頃にさ。ここの手提げかばんを母親が使ってたんだけど、見た瞬間にあたしもどうしても欲しくなっちゃってさ。珍しくさんざん駄々をこねて、もう少し大きくなったら新しいのを買ってもらうって約束して。ぴかぴかの新品を実際に見た時には、涙が出るほど嬉しかったんだ。だから、ここに来るのをずっと楽しみにしてた」

 

 ざっと店内を一回りして、そのまま川崎に促されて外に出た。

 

 こんなに短時間で済ませて良かったのかと言おうとして、きっと昼間にじっくり堪能したのだろうなと思い至ったので口は開かなかった。

 

 

 二人とも無言のまま、再び大通りを南に向けて歩いて行くと、知恩院前の交差点に出た。そこで信号を待っていると、川崎が再び口を開いた。

 

「ちょっと、あんまり楽しい話じゃないんだけどさ。さっきの帆布屋さん、親父さんが亡くなってから相続で少し揉めてたみたいでね。兄弟で色々あって、それでも営業を続けてくれてるのが、あたしはすごく嬉しくてさ」

 

 そこでちょうど信号が変わったので道路を東に渡って。そのまま華頂道を少し歩いて、橋の手前で立ち止まった。話が微妙なところで切れたので、八幡も続きが気になっていた。

 

「ホテルに帰ってきた海老名と由比ヶ浜から、だいたいの話は聞いたよ。でさ、あたしがこんなことを言うのは変かもしれないけどね。由比ヶ浜の告白にあんたがどう返事するかは、好きにしたらいいさ。でも、さっきの帆布屋さんと同じでね。あんたたちの関係には口を挟まないけど、奉仕部の活動だけは続けて欲しいなって」

 

「あいつらは……どんな感じだった?」

 

 川の上流を眺めながら八幡がそう尋ねると、川崎はふっと笑みを浮かべて。

 

「そういうところがさ、あんたは奉仕部が似合ってるなって思うよ。二人のことは心配しなくても大丈夫。三浦も含めたあの三人なら、大抵のことは何とかなるよ。あたしが邪魔しちゃいけないからって言ったら、怒られそうだけどさ。三人だけにしてあげたくて、部屋を出て来たんだ。あんたと話がしたかったのも確かだけどね」

 

 そう言って東の空を眺めている川崎は、どきっとするほど美しく、そして儚く見えた。

 

 俺なんかより川崎のほうがずっと奉仕部に相応しいのではないかと。ここまで他人を思い遣れるなんて俺には無理だなと思いながら。心の裡にある邪な何かから目を逸らして、八幡は口を開く。

 

「なんか、色々ありがとな。一人でもぼっちとして生きていけるって、そんなことを考えてた去年の自分がな。最近ちょっと情けなくなってくるわ」

 

「あたしも集団の中で過ごすのは苦手だから、気持ちは分かるけどさ。あんたは『一人でも』って言ったけど、小町がずっと傍にいてくれたよね。あたしにも家族がいてくれてさ。でも、そこにあるのが当たり前の事って、普段は気付けないんだよね。両親と下の二人とは、この世界に来てからは会えなくなって。失って初めて気が付いたんだ。あたしは恵まれてたんだなって」

 

 そう言うと川崎は、川上のほうを指差して歩き始めた。

 

 橋を渡らずに左に折れて、川崎と並んで川沿いを進む。車が一台通るのがやっとという程度の小さな道だ。右手前方に橋が架かっているのを見て、これが白川の一本橋かと納得していると。

 

「奉仕部は、なくならないよね?」

 

 歩きながらぼそっと川崎に尋ねられた。

 

「今のところ、なくなる理由はないな」

 

 そんな返事しかできない自分がもどかしかったが、でも無責任に断言するよりはマシだ。

 八幡のそんな想いとは裏腹に、すぐさま川崎はぱあっと嬉しそうな表情を浮かべた。珍しい反応に、見ていられないと視線を逸らして。でも八幡には何も言えない。

 

 

 しばらく無言で歩いていると、大きな通りに出た。三条通だ。堺町通でも河原町通でも出くわしたこの通りを渡って、すぐ左手の小さな道を北上する。つきあたりで右に曲がると、すぐに川と再会した。左に曲がって再び川沿いの道を進む。

 

「あんたは何があっても、奉仕部を辞めちゃ駄目だよ。六月は何とかなったけどさ、今度は由比ヶ浜も、それから雪ノ下も、どこまで動けるか分かんないからね。自分から辞めるようなことだけは、避けて欲しいなって」

 

「なあ。なんでお前は、そこまで親身になれるんだ?」

 

 葉山に問われた言葉を思い出しながら、そう問い掛けた。こんな厚情を受けるほど自分は大した人間ではないのにと。そんな想いが八幡の口を開かせただけだったのだが。

 

「なんでって……あ、この道も終わりだね」

 

 ここまでずっと連れ添ってきた川が、視線の先で疎水に合流するのが見えた。道路の向こうの建物は国立近代美術館だろう。そのすぐ右手には大きな鳥居がそびえている。

 

「この先が平安神宮だね。前にテレビで、ここで結婚式を挙げてるのを見たんだけどさ。白無垢姿で幸せそうで、いいなって思ってさ」

 

「……お前なら、同じぐらい幸せになれるだろ。こんだけ人の事を思い遣れて、あんだけ大志とかに、家族愛って言うのかね。あれだけ家族を大切に思えるお前が幸せになれないなら、誰が幸せになれるんだっつーの」

 

 寂しそうに微かに笑って、川崎は信号を北に渡ると大鳥居の下まで歩いた。そこで静かに立ち止まる。

 

「あのさ。あたしは今まで、わがままなんてほとんど言った事がなくてさ。さっき話したかばんぐらいかな、駄々をこねたのって。……だから、ちょっとぐらいは、人を困らせるような事を言っても良いかな?」

 

「んんっ、と。まあ、別にそれぐらいは良いんじゃね?」

「人を困らせるだけじゃなくて、人に迷惑を掛けちゃうかもしれないよ?」

「まあ、聞いてみないと分からんけどな。お前がそこまで言うならよっぽどの事だろうし、なら言ってみても良いんじゃねって俺は思うけどな」

 

 八幡の言葉に「そっか。ありがと」と小声で返して。

 川崎は、まるで家族を見るような温かい目を八幡に向けると、静かに口を開いた。

 

「あたしね、あんたのことが好きみたい」

 

 

***

 

 

 思いがけない言葉を耳にして、それでも八幡の心は躍らなかった。意外感だけが頭の中を占めている。

 そんな八幡の反応を、予想通りだと歯牙にもかけず。川崎はゆっくりと言葉を続けた。

 

「文化祭の時にさ、あんたが『愛してる』って言ってくれたよね。言葉の綾だって分かってるのに、気持ちが落ち着いてくれなくてさ。あんたに言うつもりはなくて、こっそり気持ちを押し殺そうって思ってたのにさ。由比ヶ浜には申し訳ないんだけど、今このタイミングで言わないでいつ言うんだって思っちゃったから。何だかごめんね」

 

「いや、お前が謝ることはねーだろ。その、なんだ。好きだって気持ちを伝えられるのは、嬉しいもんだぞ。返事をしないといけないから、色々と考えちまうんだけどな。でも、気持ちそのものはな、本当に嬉しいもんだぞ」

 

 一日目の朝に駅長さんに告げた言葉を思い出しながら。そう答えた八幡の目は潤んでいた。どうして自分がと、そんなことを考えていると。

 

「それでもさ。言っちゃったからには返事を聞かないわけにはいかないからさ。だから、ごめん。返事は分かってるんだけど、ちゃんと言葉で伝えてくれるかな?」

 

「……すまん。お前をそういう目で見た事はなかったし。たぶん、そういう事にはならないと思う」

 

 外聞を考えなくても済むのなら、思いっきり号泣したいのに。でも、断った立場の八幡に、そんな事ができるわけもない。

 

 どうして、こんな素敵な女の子を。俺なんかを好きだって言ってくれた女の子を、哀しませるような言葉を伝えないといけないのか。

 

 悶々と落ち着かない八幡とは違って、川崎の目は温かさを増していた。頬には笑みすら浮かべて、そしてゆっくりと口を開く。

 

「ほら、あんたが泣いてどうするんだい。おかげであたしは、涙なんて一粒も出て来ないよ。あたしの為に泣いてくれて、ちゃんと返事をしてくれて。そんなあんたのことが、あたしは好きだったよ」

 

 そこまで言い終えると、川崎はゆっくりと歩き出した。

 

 反射的に後を追うと、特別な相手にしか向けないような笑顔を見せてくれる。鳥居を指差して、自分たち二人に交互に指を向けて。「二人並んで、この鳥居の下を歩くのが夢だったんだ」と言われて、また涙がこぼれてしまう。

 

 府立図書館を左手に、市立美術館を右手に通り過ぎて、二条通に至った。通りの向こうには石碑があって「平安神宮」と書かれている。ずっと向こうには應天門が見えた。

 

「悪いけど、ここで解散で良いかな。東に向いて、次の信号が岡崎通でさ。そこを北に行くと、じきに丸太町通に出るから。そこからホテルまではすぐだしさ。できたら先に帰らせて欲しいんだけど」

 

「ああ、大丈夫だ。……なあ、川崎。ほんとに、俺なんかを、ありがとな」

 

 最後のほうは涙で声がかすれて、自分でも何を言っているのか良く分からなかった。でも、川崎に伝わったのならそれで良い。

 

 ぼやけた視界の向こうで、川崎はしっかり微笑んでくれて。そしてこう言ってくれた。

 

「あたしが好きになった男なんだからさ。堂々と、あんたの思うとおりにしたら良いよ」

 

 

 川崎の姿が見えなくなって、どれほどの時間が経ったのだろうか。

 二条通の石碑の前に突っ立っていた八幡のもとに、一通のメッセージが届いた。




次回はできれば今週末に、無理なら来週に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/17)


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14.きっかけが些細なものでも彼らは気持ちを持ち直せる。

前回のあらすじ。

 告白の邪魔をされた戸部は、「誰とも絶対に付き合う気はない」と宣言する海老名に、天然のノリで一矢報いて去って行った。
 竹林に残った四人の前で、宙に浮いたままだった由比ヶ浜の言葉が俎上に載せられる。

 機を見て逃亡を企てた八幡だが、自慢の逃げ足もこの日ばかりは通用せず、雪ノ下に投げ捨てられた。
 策を二人に否定され、自分の代わりに由比ヶ浜が役割を果たし、最後には道路に転がされて醜態を晒して。だがそんな状況だからこそ、八幡は告げられた言葉を信じられた。
 それを由比ヶ浜に伝え、続けて「自分が自分を一番信じられない」と口にした八幡は、返事を明日まで待って欲しいと願い出て了承を得た。

 二年F組の三人娘が先に帰るのを見送って、葉山と戸塚にも事情を伝えて。寄りたいところがあるという雪ノ下を残して、八幡たちは嵐山を去る。
 別れ際に至っても、雪ノ下はどこまでもいつも通りに見えた。

 ホテルのロビーで待っていた川崎に「話がある」と言われ、二人は東山三条まで出向いた。
 歩きながら「奉仕部の活動は続けて欲しい」と伝えた川崎は、何気ないやり取りに心を動かされて。ついに、八幡を困らせるに違いない言葉を告げる。
 八幡の返事に微笑んで、「思うとおりにしたら良い」と励ましてくれて。川崎は先にホテルに帰っていった。



 着信音を耳にして、メッセージが届いたのだと認識しても、比企谷八幡はすぐには行動に移れなかった。脳の大部分は、先程の川崎沙希とのやり取りを振り返るので忙しい。現実逃避に勤しんでいた残りの部分は、きっとこれも良くない報せだと考えて動こうとしない。

 

「まあ、でも。見ないわけにはいかねーよな」

 

 何秒か、それとも何分か。時間と精神力を費やしてようやく決心がついた八幡はそうつぶやくと、のろのろとメッセージの確認に入った。

 

「本命が戸塚で対抗が葉山で、穴が平塚先生で大穴が雪ノ下ってとこかね?」

 

 自分の狭い交友関係から予測を立てて、平安神宮の石碑の前で立ち詰めになったままメッセージを開いてみると。

 

『我だ。二条河原の東岸にて待つ。速やかに来られたし』

 

 すっかり存在を忘れていたが、思い出してみれば大本命だ。

 それすなわち、材木座義輝からの呼び出しだった。

 

 

***

 

 

 がくっと音が出そうな勢いで首をうなだれて。ちっと舌打ちすると同時に、八幡の中でふつふつと怒りの感情がわき上がってくる。

 

 体力的にも精神的にもこれほど疲れた状態で、どうして材木座なんぞの相手ができようか。

 そう言い放って呼び出しを無視したい八幡だが、残念ながら材木座とは長い付き合いだ。長文でくどくどと書いて来たなら取り合う必要はないが、事務的と言えるほどのこの短さは、桜が狂い咲きしても不思議ではないぐらいに異常だ。

 

『今から行く』

 

 こちらも端的に返事を出して、八幡は付近の地図を開いた。

 

 二条通を西に向かうバスに乗って、川端二条で下車して川べりに向かうのが一番早いか。自分の居場所を材木座に把握されていると考えるのはさすがに被害妄想が過ぎるとして、目的地まで一直線なのは助かるなと八幡は思う。

 

 目先の行動が決まって、最優先で考える事ができて。現実逃避と言えばそれまでだが、少し肩の力が抜けた気がする。

 とはいえ材木座に感謝をするのは気が進まないし、どんな目に遭わされるか分かったものではない。行ってみれば「鞍馬の天狗殿と修行だ」などと言われかねない。その時は思いっきり殴り倒してやろうと、八幡は拳を握りしめた。

 

 地図に意識を戻して最終確認をする。京都は碁盤の目のように道路が走っているので、距離の把握が楽だ。丸太町通で考えると、たこ焼き屋から鴨川までの距離と同じぐらいだなと。二条通と見比べながら頷いていると、視界の端に見覚えのある名前があった。

 

「えっ。夷川発電所って実在するのかよ。狸があそこで酒を卸してるなんてことは……ここの運営でもない、よな?」

 

 京都駅の3と9分の4番のりばやら京大の韋駄天コタツやらをこの世界に登場させた運営だけに、全く信頼が置けない。八幡は未成年なのでお酒を飲めないが、森見登美彦氏の作品に頻繁に登場する偽電気ブランがこの世界に実在するならどこかの顧問が喜びそうだよなと考えて。

 

『こちら比企谷隊員。隊長、夷川発電所の存在を確認しました。偽電気ブランの注文が可能か否か、大至急確かめられたし』

 

 材木座のノリに毒されたのか、こんなメッセージを書いてしまった。下書きのまま消そうかとも思ったものの、まあいいかと思い直して送信すると。すぐに返事が来た。

 

『平塚です。比企谷隊員、素晴らしい情報をありがとうございます。おかげで今夜は祝杯を挙げられそうです。まあ注文した偽電気ブランで乾杯するだけですけどね(笑)。それも一人で(爆死)。そういえば昨夜はとても楽しかったですね。君たちに付き添ってもらったおかげで学年主任にも怒られずに済みましたし(汗)、巡礼先はどれ一つとして外れがなく最高でした。おかげで一夜明けても「あそこにも行けば良かった」「あの作品を忘れていた」といった思考から逃れられず、夜の続きのような心地で一日を過ごしました(コラ)。君たちと別れた後にラーメン屋を三軒はしごしたのですが、まず最初のお店はスープの色が……』

 

 続きは眠れない夜のためにとっておこうと考えて、八幡はそっとメッセージを閉じた。画面右にあるスクロールバーが上の方で止まったまま、ほとんど動いていなかったのだが、それも見なかった事にしようと考えて。

 

「んじゃ、バス乗り場まで移動するか」

 

 そもそもメッセージの送受信をなかった事にしてしまえば良いのだと思い直して。八幡は「俺は何も見なかった。何も送らなかった」と自分に言い聞かせながら、二条通を南に渡った。

 

 

***

 

 

 二条大橋の東南から鴨川を見下ろしてみたものの、材木座らしき人影はない。八幡は横断歩道で北に移動して、そこから川べりに下りた。橋の北側にも姿がないのを確認して、ひとまず立ち止まって橋の下に目を凝らしていると。

 

「ほう。思ったより早かったではないか。まだ腑抜けてはおらぬようだな」

 

 竹刀の剣先を地面につけて、柄頭を覆うように右手を置きその上に左手を添えた状態で仁王立ちしている。そんな材木座の姿が夜の闇に浮かんで見えた。ちょうど橋の真下あたりだ。よくよく見ると竹刀を二本持っている。

 

「お前な、二刀流でもやらかすつもりか?」

 

 そう言いながら八幡は無防備に近づいていった。出会い頭から挑発的な物言いをされて、穏やかな気分には程遠い。

 

「ふん。一本は貴様の得物だ。受け取れい」

 

 そう言って竹刀を軽く投げて寄越した材木座を、訝しげに眺める。なんとなく剣の間合いに入らないぐらいの距離で立ち止まって、受け取った竹刀をしげしげと見つめて首を傾げながら。

 

「どうでも良いけどお前、武士の魂を放り投げても大丈夫なのか?」

「ぐむっ。こ、これは竹刀ゆえ、この程度の扱いでも構わぬ」

 

 言葉の奇襲に耐えた材木座を見て、ふっと笑いを漏らして。とはいえ意図が全く見えないのが困ったところだ。こいつの小芝居に付き合うしかないのかと、そんなことを考えていると。

 

「貴様は知らぬだろうがな。京童が噂をしておったのだ」

「……はあ?」

「身を慎んで聴くが良い。……此のごろ都にはやる物。夜歩き、強情、偽告白!」

「っ!?」

 

 

 どうして材木座がそれを、と思う間もなく頭の中が一瞬で真っ白になって。気を取り直した時には、材木座への怒りでいっぱいになっていた。今日の出来事は、こいつに土足で踏みにじられるような、そんな扱いを受けて良い話ではない。二条河原で落書にされる筋合いはない。

 

「お前な。よく事情を知りもしないで迂闊な事を言ってると、あれだ。この竹刀でぶちのめすぞ?」

「ふっ。八幡よ、やれるものならやってみるが良い。だが忘れるな、我が名は剣豪将軍よしてっ……」

 

 これ以上は減らず口を叩かせまいと、上段から袈裟懸けに斬りかかったものの。ばしっと横薙ぎに受け止められた。ちっと舌打ちして、力を込めながら口を開く。

 

「んで、剣豪将軍をよして、次は何を名乗るんだ?」

「八幡よ。いかなお主でも、我が真名をこれ以上愚弄すれば命の保証はできぬぞ?」

「えっ。お前、剣豪将軍のほうが真名なの?」

「け、剣豪将軍義輝とは一にして全、切り離す事などできぬ名よ。それを思い知らせてやろう」

 

 強引に振り払われて、再び距離ができる。

 俺は何をしてるのかねと心の片隅では冷静な自分が健在だが、今日は色々とありすぎて精神力が限界に近い。いっそのこと派手に暴れてやるかと、そう考えて身構えると。

 

「まずはこれが、昨夜貴様が雪ノ下嬢と夜歩きを楽しんだ分!」

「おまっ……ぬあっ?」

 

 先程とちょうど立場を入れ替える形で、袈裟懸けを横薙ぎに受け止めたと思ったのに。竹刀が鞭のように動いて、気付けば喉元に突き付けられていた。自分の武器は虚しく天を仰いでいる。

 

 うむ、と重々しくつぶやいて、材木座は竹刀を引いて距離を取った。そして再び構える。

 

「な、なんでお前がそんな事を知ってんだよ?」

「知れた事よ。痴れ者の貴様が姿を消し、戸塚氏が早々に眠りに就いてしまったので、我の相手を務められる者が居なくなってな。夜の都を眺めるのも一興と、我は窓際に」

「なるほどな。窓際っつーか隅のほうに追っ払われたお前に、帰って来るところを見られてたわけか」

 

 並んでホテルに戻って来たのはまずかったかと反省して。とはいえ帰って来た瞬間を見逃さないのはこの暇人以外には不可能だろうと考えて、八幡は気持ちを切り替える。

 

 同級生を心配したJ組の女子生徒が頻繁に外を確認していたために、彼女らにもばっちり見られていたりするのだが。それは完全に八幡の想像力の埒外なのでさておいて。

 

 

「理解できたか。ならば良し。次なる我の攻撃は……ふんふんふんふん!」

「……なあ。真上からの唐竹で始まって、袈裟、逆袈裟、左右の薙ぎと、左右の切り上げと、真下からのは逆風だっけか。順番に八方向に素振りをしてもな。いや、お前がやりたい技は判るんだけどな。それ、見てるだけでも疲れるんだが?」

 

 心底呆れ果てたという八幡の口調も意に介さず、材木座は素振りを二回りくり返すと。

 

「ふんふんふんふん……きえーっ!」

「んで、最後は刺突な。悪いけど逃げ……ちっ、またかよ」

 

 身を翻して逃げたはずが、気が付けば先程と同様に首元すぐの辺りに竹刀があった。

 

「これは貴様が、依頼を一人で解決すると強情をはってた分!」

「だから、なんでお前がそんな事を知ってんだよ!」

「ぬん。これは今日知った事ではないわ。貴様の危うい傾向に、我が気付かぬとでも思うたか!」

 

 再び距離を取られ、そして好き勝手な事を言われてしまった。

 竹刀でも口でも主導権をすっかり握られて、思わず八幡は唇を噛んだ。どちらも腹立たしいが、より深刻なのはこちらだと考えて。

 

「なあ。強情って、どういう意味だ。俺がやるべきだと思ったから、あいつら二人にはできないと思ったからやろうとしただけだ。それを……」

「八幡よ、『二人にはできない』ではなく、『やらせたくない』の間違いであろう。よもや我が、貴様の発言を添削することになろうとはな」

 

 完全に下に見ていたはずの男にそう言われて。見下すと同時に、評価すべき部分は密かに評価していたことも忘れて。

 八幡は左手で竹刀を水平に持ち上げると、右足を前に出して深く腰を落とし、左片手一本突きの体勢になった。そして右手を剣先の付近まで伸ばして、軽く竹刀に触れる。左利きの人がビリヤードをやるような体勢だ。

 

「どうせお前の最後の技はこれだろ。先に使うけど、悪く思うなよ」

「ほう。では我も、同じ技で行くとしようぞ」

 

 同じ構えを取る材木座に心底からいらついて、八幡は下半身の撥条(ばね)を極限まで効かせて突進した。構えたまま動かない材木座の、顔のすぐ右の辺りを狙って突きを放つと。

 

「牙突など、我には通じぬ!」

「んなっ?」

 

 ぴたっと剣先を合わせて受け止められた。力を込めてもびくともしないので、慌てて後ずさる。

 

「そういえば、話が途中であったか。貴様の強情はの、遊戯部が相手の時はまだ良かったのだ。貴様の進退が掛かっておったからな。だが!」

「……ちっ」

 

 今回の依頼に限った話ではないのなら、八幡にも身に覚えがあった。きっかけや理由はどうあれ、確かに八幡は「なんとしてでも結果を出す」と決意したことが何度かあった。いや、二学期に入ってからは毎回そうだったと言っても過言ではない。

 

「いくら一人で結果が出せたとて、貴様が度を超えて犠牲になることなど、報われぬことなど、我も含めて誰も望んでおらぬわ!」

 

 そう言い放った材木座は地面を蹴って、八幡に向けて突進した。竹刀を細かく動かして威嚇しながら回避しようとした八幡だが、首筋に剣先が触れたのを感じて動きを止めた。

 強く奥歯を噛みしめて、だが材木座の顔をまともに見られない。

 

「ましてや嘘告白で事を収めるなど、誰一人として望んでおらぬ!」

「ちっ。それな、雪ノ下にも由比ヶ浜にも言われたから、今日はさすがに勘弁してくれ」

「うむ。……今の嘘告白の分で、我の攻撃は最後だ」

「あ、お前ちょっと興奮しすぎて決め台詞を忘れてただろ。俺は誤魔化されないからな」

 

 殊勝なセリフを耳にした材木座が気を緩めたところで、言葉のカウンターが綺麗に決まった。ぬううと言いながらぷるぷる震えて。材木座は手元に戻した竹刀で川べりを指すと、そこに向かって歩き始めた。

 ゆっくりと後を追いながら、その背中に向けて語りかける。

 

 

「なあ、材木座。俺は自分が報われるよりもな、あいつらに報われて欲しかったんだわ。あいつらに、苦しい思いをして欲しくなかったんだわ。それがなんで、こんな展開になったんだろな」

 

 千葉村でキャンプファイヤーを見ながら、部長様に伝えた言葉があった。

 あの小学生の女の子が黙って横を通り過ぎて行くのを一緒に見送って。宥めるつもりで言った「報われねーな」という言葉は、軽い口調ではあったけれども。そこには、八幡の本心がこもっていた。

 

 雪ノ下雪乃が、報われて欲しいと。

 

「あいつらが今回の依頼のために費やした労力を、一歩間違えば台無しにしてた可能性もあったし。そうじゃなくても由比ヶ浜には……そういやお前、どこまで話を知ってんだ?」

 

 黙って川面を眺めている材木差の横で立ち止まって話を続けていると、大事な事を思い出した。それを尋ねてみると。

 

「おおよそは聞いておる。だが、心配は無用よ。我にはお主と違って、話す相手が真におらぬからの。だから八幡よ、思う事があれば全てを吐き出しても良いのだぞ。今の我らは常世の闇に覆われておる。夜に紛れ貴様の声も届かないよ、というわけだ」

 

 ちょっと哀しい事を言われて、続けて少し格好いい事を言われて、最後には脱力するような事を言われてしまった。声が外に漏れない状態にあると伝えれば済むのに、どうしてそんな引用過多の言い回しになるのやら。

 あれは文化祭の準備期間だったなと思いながら、八幡が口を開く。

 

「そういやカラオケに行って『千本桜』を歌った事もあったな。雪ノ下と葉山が同じ小学校だったって判明した時か。あの時のお前の振り付けは、見るに堪えなかったぞ」

 

「はぽん。貴様は視覚に頼りすぎよ。点は線に、線は円になって全てを繋げていくと、なぜ解らぬ。あの時から貴様の問題は変わっておらぬ。由比ヶ浜嬢が何を口にしたとて、今に始まったことではないわ。全ての始まりはもっと昔よ」

 

「まあ、そうかもな。お前の言い方を真似ると、あれだな。変わらない日々を疑ってなかったのは、俺だけだったって事か」

「ふん。まったく貴様は、ラノベ主人公みたいな奴よの」

「おいちょっと待て。俺はバカでも変態でも鈍感でも難聴でもねーし、ハーレムなんて程遠い状況だろが。まあ、ハーレムなんていらんけどな」

 

 材木座の言葉に反射的に応えながら、こうしたやり取りを懐かしく感じてしまった。

 奉仕部で過ごす時間に不満はないけれど、この手の話だけはできないなと、そう考えて。昨夜の巡礼を思い出した。こんな話題ですらも、あの二人とならできるかもしれないなと思い直す。

 

「ハーレムには、選ばなくて済むという利点がある。お主には向いておるかもしれぬぞ?」

「ばっかお前、選ばない奴が選ばれるわけねーだろ。一瞬なら成立しても、結局は自分だけ取り残されてぼっちエンド確定じゃね?」

 

「そういえば、あの時にお主は『トリノコシティ』の世界に浸りたいと言っておったの。我に言わせれば、一瞬でも二人でいられたのなら良いではないかと思うがな」

「知らないうちはそう思うけどな。知った後で取り残されたら、よけいにつらくなるって話も解るだろ。まあ、だからって知りたくなかったとは思わないけどな」

 

 八幡の言葉に頷きながら、材木座はふんと鼻を鳴らした。そのままおもむろに話を続ける。

 

「ならば、取り残される前に結論を出せば解決ではないか。それとも、それができない理由がお主にはあるのか?」

「ちっ。お前も勘付いてるだろが」

「知らぬなー。我には見当もつかぬなー。八幡に教えて欲しいなー」

 

 再び竹刀で殴りつけたくなって、でもそれは後だと思い直す。

 そして八幡は、一日目の夜に聞いた話をふと連想した。誰しも一生のうちで三人の特別な異性と巡り逢うという、稲村純の話を。

 

 

「こないだな、自分にとって特別な異性と出逢ったって奴の話を聞いてな。俺が『特別だって判ったのはなんでだ』って尋ねたら、一目見りゃ判るんだと。そいつの思い込みって可能性もあるし、まあ真偽は別に良いんだけどな。自分にとっては特別でも、相手にとってはそうじゃなかったって事で、結論としては何も起きなかったらしいんだが」

 

「うむ、喜ばしい話である。続けるが良い」

「お前のそういう最低なところ、俺は嫌いじゃねーぞ。んで、この話を聞いた時からうすうす覚悟はしてたんだけどな。特に今言った、相手にとってはモブでも自分にとっては特別って部分がな。けっこう突き刺さってたんだわ」

 

 からかうような事を言われるかと思ったが、材木座は何も言わなかった。ただ軽く頷いて、先を促している。

 

 考えてみれば、一年の時から付き合いがあるのはこいつぐらいだ。俺のぞんざいな扱いに文句を言いながらも、決して離れていく事はなかった。馬鹿げた依頼を持ち込まれもしたけれど、奉仕部に入る前から俺の話をちゃんと聞いてくれたのは、こいつとあの顧問ぐらいのものだ。

 

 それは、今になっても変わらない。

 

 先程こいつに言われたように、今の俺には少ないとはいえ話ができる相手がいる。信頼できる連中がいる。こいつの性格なら裏切り者とか何とか悪態を吐いて、離れていっても不思議ではないのに。俺が窮地に陥った時に唾を吐きかけられても、文句は言えないのに。

 だって、心の中ではずっとこいつを見下していたから。

 

 こいつだって、そうした気配には敏感なはずなのに。それでも俺が苦しい時には、いつも助けてくれる。

 

 材木座に今日の話を伝えたのは、まず確実に戸塚彩加だろう。それに気付いても、二人を責める気持ちは湧かなかった。

 なぜなら八幡は、二人の性格を知っているから。

 

 自分では力になれないと考えて、材木座に話を伝えてくれた戸塚の気持ちも。

 話を聞いて、すぐに行動に出てくれた材木座の気持ちも。

 今の八幡には理解できてしまうから。

 

 だから八幡は、嘘偽りのない自分の気持ちを伝える。

 

「二人にとってはモブでも、俺にとっては違うのかもなって、そう思ってて。そしたら、由比ヶ浜があんなことを言ってくれてな」

 

 そこで言葉を切った八幡は、川崎のことを思い出した。

 ちゃんと気持ちを込めて自分に告白してくれた、二人目の女の子。

 

 もしも先に川崎の告白を受けていたら、返事は変わっていたかもしれない。

 そう考えて、八幡は即座にその仮定を却下する。それでは川崎にあまりに申し訳ないし、点が線になって円になって繋がっていくのだと、さっき材木座に教えられたばかりだ。

 

 最初に由比ヶ浜結衣の告白があった。身に余るような言葉をもらって、ちゃんと自分の事を見てくれていたのがすごく嬉しくて。それを言葉で伝えてもらったのも嬉しくて。

 

 だから、俺や奉仕部の事を思い遣ってくれた川崎に、お礼の言葉を伝えたくて。川崎の良いところをちゃんと口に出して教えてやりたいと、そんな気持ちだったのに。

 

 言葉は、もっと大きな言葉になって返って来た。

 けれど、自分にとって川崎は素敵な女の子ではあるけれども、特別ではないと判ってしまった。

 

 稲村の話を全て信じられるかというと微妙だし、そもそも特別な相手と付き合えたとして、それが幸せに直結するとは限らない。特別であるがゆえに、お互いにとって害になるという可能性もあるのではないかと。疑い深い八幡は、どうしてもそう考えてしまう。

 

 だが特別を知ってしまえば、それ以外の相手を考えられなくなるのも確かだ。

 

 もともとあの二人は、八幡にとって大切な存在だった。その事実を心から受け止めたのは文化祭の直前のこと。クラスの劇の原作でもあるあの作品の中で、キツネが王子さまに伝えた言葉。それを自分たちに適応して、やっと気が付いた。

 

 二人のために費やした時間のぶんだけ、二人は俺にとって大切なのだ。

 

 とはいえ同じ部活の大切な仲間と、特別な異性とは違う。もしも二人が俺の事を大切な仲間だと思ってくれているとしたら、そんな二人に異性としての目を向けるのは、ひどい裏切りになるのではないかと。そんなふうに考えもした。

 

 それでも、気持ちというものは消えてくれない。

 

「結局な、俺は自分への言い訳を探し続けていただけで、何も考えてなかったし何も行動してなかったんだよな。自分からは確かめようともしないで、由比ヶ浜が動いてくれてやっと判って。それでもあいつらには正直に言えなくて、嘘じゃないからって別の事を言って誤魔化してな。その時点で充分に大嘘つきだっつーの。でもま、そろそろ認めないと前に進めないみたいだわ」

 

 そう言って八幡は、鴨川のはるか下流を眺めて。

 噛みしめるように言葉を発した。

 

「俺にとって、二人は大切なだけじゃなくて。特別な異性でもあるんだわ。二人にとっての俺が、特別だろうがモブだろうが関係なしにな。けどなあ……なんで俺の場合、二人まとめて現れるのかね?」

 

 由比ヶ浜に返事ができない本当の理由を、八幡は材木座にだけ伝えた。

 

 

***

 

 

 八幡の気持ちが落ち着くまで待ってくれていたのか。大きく息を吐いてから材木座を見ると、無言のまま竹刀を土手に向けて、ゆっくりと歩き始めた。

 それを追って半分ぐらい歩いたところで。

 

「あ、待った。お前を一回ぶちのめすのを忘れてたわ」

 

 そう言って八幡は左足を前に出すと、腰を低く落として右にひねった。竹刀を右で逆手に持って、材木座を見据える。

 

「ほむん。目には目を、ストラッシュにはストラッシュを。八幡よ、いつでも良いぞ」

 

 同じ体勢になった材木座に向けて、八幡は地を蹴って突進する。そして剣の間合いの少し外から、大声で。

 

「ストラーッシュ、アロー!」

 

 そう叫ぶとともに、勢いよく竹刀を投げつけた。

 

「ぬぅおうっ!?」

 

 奇声を発しつつも、材木座は身体の正面で竹刀を逆手に掲げ、飛んで来た武器を受け止めた。ほっと一息ついて、地面にぼとっと落ちたそれを眺めていると。

 

「ここまで近づいても気付かないとは、油断したな」

 

 材木座の左側に回り込んでいた八幡が、走りながら腕を後ろに大きくそらしていた。驚きの声を上げる間もなく、腹に向かって拳が突き出される。せめて竹刀を正眼に構えて、衝撃に備えて目を瞑ると。

 

「お前が一発も当ててないのに、俺が当てるわけにはいかねーだろ」

 

 そう言われて目を開けると、腹の手前で寸止めされていた。思わず声が出る。

 

「は、八幡よ。今のは我もちょっと本気でびびったぞ。まさかこんな短時間で攻略されるとはな」

「まあ半分は賭けだけどな。演技スキルのことをすっかり忘れてたわ」

 

 そう言いながら八幡が息を吐いているので、同じように深呼吸して話を続ける。

 

「もしや、条件を見破ったのか?」

「だいたいな。攻撃の時は相手の竹刀をすり抜けて必中で、守備の時には竹刀を必ず受け止めるとか、だいたいそんな感じだろ。攻守の切り替えを突いても良かったんだが、まずは生身の拳で殴ってみるかって思ってな。条件付けを竹刀に限定したのが失敗だったな」

 

 何だかんだと文句を言いつつも、自分のノリに付き合ってくれて。一緒にバカをやる時もあれば、今みたいに思いがけない対応を見せてくれる時もある。

 

 自分を内心で見下しているのは知っているが、大事な部分を蔑ろにはしない。材木座が大切に思う事は尊重してくれるし、土足で踏み込むべきでない領域があると理解してくれている。

 

 だから材木座は、八幡が限りなくリア充に近くなろうとも付き合いを続けられる。

 

 そこに打算がないわけではないが、仮に八幡が校内一の嫌われ者になったとしても材木座は気に留めない。八幡がどんな状況に陥ろうとも今の関係を続けるつもりだ。

 

 とばっちりで実害を被る可能性が出てくれば遠慮なく逃げるが、それは立場が逆でも同じだろう。なぜなら、カースト底辺が何人集まって抵抗しても被害者が増える結果にしかならないと、身にしみて理解しているからだ。ならば逃げられる者は逃げたほうが良い。

 

 でも、助けられる状況ならば。力になれる場面ならば、労は厭わない。

 

 割に合うか否かで考えると、少なくとも相対的には割に合わない。八幡がおいしいところを持っていくのはほぼ確実だからだ。

 だが、それがいったい何だというのだろうか。

 戸塚に頼られて、八幡を元気付ける事ができた。この結果以上の何を、求める必要があるのだろうか。

 

 

「貴様のセンスには、我ですらも時に驚かされるわ。そういえば、音羽の滝でお主に言われて考えたのだが、『心頭を滅却(クインシー)する』とルビを振るのは最高にオサレだと思わぬか?」

 

「お前なあ。まんまパクリだし、二次創作で使っても受けるかどうか怪しいもんだぞ。ユーはバッカ?」

「……八幡よ。さすがの我も今のはちょっと寒いと思うのだが」

 

 互いに目配せをして、今の会話はなかった事にしようと約束を交わして。そろってため息を吐くと、どちらからともなく川に背を向けて歩き始めた。

 

 秘めていた気持ちを口に出して、材木座にも一泡吹かせて。そのおかげで八幡が、すっかり普段通りに戻っているのを確認して。

 明日はまた大変なのだろうが、少なくとも今夜眠れないということはないだろうと材木座は思った。

 

 引き続きくだらない話題で盛り上がりながら、川端通に戻って二条通を少し東に歩いて。二人はホテルに向かうバスに乗り込んだ。

 

 

***

 

 

 ホテルのロビーでは、先ほど八幡が記憶を闇に葬った人物が待ち構えていた。すなわち平塚静である。

 

 ソファの前のテーブルにはボトルとグラスが置かれていて、左手には具現化した文庫本を持っている。その横には何か荷物が置かれているが、どこかで土産物でも買ってきたのだろう。一人なのにずいぶんと楽しそうだ。

 

「君が教えてくれた偽電気ブランだがね。芳醇で何杯でも飲めてしまえる気がするよ。まさに美酒だな」

 

 ソファに座るようにと促されたので、仕方なく腰を下ろした。逆らっても無駄だと理解しているからか、材木座も大人しく隣に座っている。

 

 メッセージを途中までしか読んでいないとはおくびにも出さず、適当に相手を続けていると。いつの間にか材木座の姿が見えない。隙を見て先に逃げ出したようだ。カースト底辺の鑑だなと八幡は思った。

 

「あの、そろそろ俺も帰って良いですかね?」

 

 京都と千葉のラーメンを比較して長々と論じ続けていた平塚が、なみなみと注がれたグラスの中身をぐいっと飲み終えた瞬間を狙ってそう告げると。

 

「む……いかんな、杯を傾けすぎたか。君にも長居をさせてしまったな。部屋に帰ってゆっくり休みたまえ」

 

 いつもこうだと助かるのになと思いながら、八幡はロビーを後にした。

 平塚が誰を待っているのか、それを尋ねるという発想は思い浮かばなかった。

 

 

***

 

 

 部屋に戻ると、同じ班の三人が寝ずに待っていた。他の生徒の姿はない。

 

「今日はさすがにみんな疲れてるみたいでさ。早々に解散したよ」

「大和と大岡にもざっと説明しといたっしょ。でも結衣の事は話してないから大丈夫だべ」

「勝手に材木座くんに事情を話しちゃって、ごめんね」

 

 葉山隼人と戸部翔には頷くだけで済ませて、口を開く。

 

「いや、かなり気晴らしになったし助かった。結論が出せるかは分からんけど、とりあえず体力不足で明日を迎えることはなさそうだわ」

「眠れそうなら良かった。明日の朝は、ぼくがギリギリの時間に起こしてあげるから、ゆっくり休んでてね」

 

 戸塚との新婚生活はこんな感じになるのだろうかと八幡が幸せを噛みしめていると。

 意外にも、戸部が話しかけてきた。

 

「でさ。千葉に帰ったら奉仕部にお礼に行くつもりだけどさ。海老名さんが好きな漫画とか小説を読むようにって、あれ、すげー役に立ったっしょ!」

「あー。いや、でも結局はあれじゃね。告白する前に海老名さんの気持ちが判明した形だから、あんま意味なかった気がするんだが?」

 

 風呂の支度をしながら、不思議そうに八幡がそう返すと。

 

「海老名さんの好きなものとかを全然知らなかった俺っちだとさ、付き合えるかどうかが一番大事だったんだべ。けどさ、今はちょっと違う感じでさ。なんて言ったらいいんだべ、えーと……」

 

 戸部が感情の言語化に苦しんでいるが、ここは手を貸すべきではないなと八幡は思った。葉山の様子をこっそり窺うと、苦笑する事も呆れる事もなく真顔でじっと見守っている。おそらくは同意見なのだろう。

 

「その、海老名さんが好きなものそれ自体がさ、面白いって言うかさ。海老名さんを詳しく知るために始めた事なのに、そっちも楽しくなっちゃったんだべ。こんな面白い作品をたくさん知ってる海老名さんって、やっぱ凄くねって思ったりさ。そりゃあ、付き合えるなら今すぐにでも付き合いたいっしょ。でも、今の関係のままでも海老名さんをもっと知る事はできるから、告白できなくても俺っち的には問題ないって感じだべ」

 

 なぜか、材木座の依頼を思い出した。

 問題だらけの原稿でも、本人にとってはそれが何よりも楽しくて。ごく少数でも他人に読んでもらえると幸せで。たとえ酷評でも反応があると嬉しくて。そんな材木座の姿が、誰もが告白は失敗に終わると考えていた戸部の姿と重なった。

 

 海老名にとって、戸部は特別な異性ではないのかもしれない。だが戸部にとっては特別な異性なのだ。海老名との関係に、付き合う以外の価値を見いだしているのがその証拠だ。

 

 八幡は戸塚を見て、次に葉山を見た。二人とも、自分と同じ気持ちだなと理解して。

 

「じゃああれだな。戸部には海老名さんともっと仲良くなってもらって。BLネタの餌食になって、一人で犠牲になってくれる事を願ってるわ。んじゃ、俺は内風呂に入ってくるな」

「ちょ、ヒキタニくんそりゃねーっしょ!」

 

 男子部屋に響いた戸部の声は、朗らかで楽しそうで、そして満更でもないように感じられた。

 

 

***

 

 

 バス停で男子三人を見送って、雪ノ下は少し時間を置いてからタクシーに乗り込んだ。

 待ち時間を利用してルートを検討していたので、運転手に指示を送る雪ノ下に迷いはない。

 

 雪ノ下が重度の方向音痴を周囲に隠せているのは、人前では指示に徹しているからだった。自分が先陣を切ると変な方向に歩き出してしまうが、集団の最後のほうで重々しく行動すれば誰にもバレない。

 

 一人の時にはあえてバスなどを使う事もあるが、その結果はかんばしくない。成長が見られないのは自分でもどうかと思うのだが、これは宿痾と呼ぶべきなのだろう。

 そんなわけで、時間のない時にはタクシーを多用している雪ノ下だった。

 

 

 丸太町通を東に向かい、円町で左に曲がって西大路通を北上した。そして今出川通で右折して北野天満宮の前でタクシーを待たせておく。

 

 夜でも境内には人がちらほら歩いている。雪ノ下は足早に絵馬所に向かうと、昼間に奉納した絵馬を探した。四人分が近くにあるのを確認して、軽く手を合わせるとすぐに踵を返す。

 

 タクシーにUターンさせて北野白梅町の交差点まで戻ると、西大路通をひたすら南下した。九条通を左に折れて、河原町通と鴨川を越えて、東福寺の北駐車場に車を入れる。そこにあるトイレに目をやりながら、雪ノ下はしばし車内で無言の時間を過ごした。

 

 外に出ぬまま駐車場を出ると、更に南へと向かわせた。JRの駅前で一瞬だけタクシーを停めて。伏見稲荷大社の大鳥居を眺めてから車を出させる。

 

 師団街道を北上して、そのまま川端通に入った。四条で左に曲がって、堺町通は南向きの一方通行だと言われたのですぐ東隣の柳馬場通を北上して。三条通で左に折れて、すぐにまた左折した。堺町通を南下しながらイーノダコーヒー本店を眺めて、再び四条に戻る。

 

 四条通を東に向かって、川を渡ってすぐに左折した。川端通を少し北上して、車を停めさせる。車内から見覚えのある木に微笑みかけて、「3月のライオン」という作品名を記憶の中にもう一度焼き付けてから運転手に出発を命じた。

 

 三条通で左折して橋を渡ると、河原町通のすぐ手前で停車させた。西へと続いていくアーケードに頷きかけてから、車を南下させる。

 

 四条通で左折して、川端通で右折して、七条通でまた右折した。四条で曲がらずそのまま河原町通を南下すれば良いのにと自分でも苦笑しながら、それでも昨夜と同じルートを選んだことに後悔はなかった。烏丸通で左に曲がって、突き当たりで右に折れてすぐに車を停める。

 

 左手に京都駅の威容を拝み、右手に京都タワーを見上げた。あの時に耳にした「ワンダーフォーゲル」という曲の名を記憶に刻んで、車は再び烏丸通に戻った。そこから丸太町通を目指してひたすら北上する。

 

 御所の南を通り抜けながら、見慣れた大通りの姿に安堵の息を漏らして。東大路通りで東から北へと進路を変える。東一条通を右折して、大学の正門前でタクシーにUターンを命じて、その場で待たせることにした。

 

 

 時計台下のサロンに入って、一人で腰を下ろした。

 昨夜と比べると人数的には寂しいものだが、雪ノ下の表情は変わらない。ホテルで夕食を済ませて嵐山を再訪して以来、雪ノ下の顔つきは恐ろしいほど変わっていなかった。

 

 昨夜と今日と、人数は同じ三人でも構成は違ったのだが、雪ノ下にとって近しい人たちである事に変わりはない。三人で回った場所をもう一度だけ追体験して、ようやく気が済んだ。

 これできっと、二人をきちんと祝福できるだろうと雪ノ下は思う。

 

 そもそも、あの二人はお似合いだと文化祭の頃から考えていたではないか。今抱えているままならない想いは、三人で過ごす時間があまりに甘美で居心地の良いものだったから、それを惜しんでいるに過ぎないのだ。そう自分に言い聞かせる。

 

 あの竹林で起きた出来事の最初から最後まで、雪ノ下は当事者各位の表情を一つたりとも見逃さなかった。だから八幡が返事を躊躇していることも、由比ヶ浜が悪い結果を予測している事も、雪ノ下は見抜いていた。

 

 それでも、二人は最終的にはわだかまりを克服できるだろうと雪ノ下は思う。他の誰よりも近い場所から二人を見てきたからこそ、そう太鼓判が押せる。

 なのに、なぜ。このやるせない想いは消えないのだろうか。

 

 八幡に恋愛感情を抱いているのかと問われれば、断じて否だと即答できる。そうではない。うまく説明できないのだけれど、そうではないのだ。

 

 だが、続く言葉が出てこない。なぜなら、恋愛とはどういうものなのか、雪ノ下には未だに解らないのだから。数多の告白を断っても、解らないものは解らない。

 

 解らないと言えば、今後の身の振り方も雪ノ下には解らない。付き合っている二人の中に交じって、自分はいったいどんなふうに身を処せば良いのだろうか。

 

 解らない事が多すぎて、一人では処理できそうにないと思えてしまって、誰かに助けて欲しいと雪ノ下は思う。だが、誰かとはいったい誰なのだろう。そんな人物が都合良く目の前に現れるなんてあり得ないと、そう考えてしまう。だって……と思考を進めかけて、雪ノ下はそこで強引に考察を断ち切る。

 

 

 他のことを考えようと話題を探していた雪ノ下は、ふと千葉村で顧問に言われた言葉を思い出した。あれは一日目の夜に、比企谷小町を加えた四人で平塚のログハウスを訪れた時だった。

 

『弱さこそが大事な場面もある』

『強さだけを重視していると最悪の事態に繋がる可能性がある』

 

 結局のところ、自分が抱えている問題は、その原因はまさにこれだろう。

 

 今ここに至ってなお、他人からは平然として見える事を雪ノ下は疑っていない。内心ではこれほど混乱して困惑して、誰かに縋りたいとすら考えているのに。外見からそれを見抜くのは、不可能に近いだろうと自分でも思う。

 

 こんな時ですら、私は我慢ができてしまう。自分にとって特別だと、大切だと、かけがえのないものだと言い切れる部員たちとの関係が劇的に変化してしまう可能性に直面してなお、私は我慢ができてしまう。いつもと変わらぬ表情を浮かべて、いつもと同じように行動できる。

 

 その強さが、自分でも恨めしかった。

 

 

 今回の一連の出来事で、一番割を食ったのは自分と海老名姫菜だろうと雪ノ下は思う。ホテルのロビーで八幡に歌舞伎の話をした事を思い出す。あれはやはり、ある種の予感だったのだ。

 

 由比ヶ浜を通して定期的に付き合いがあるとはいえ、海老名の性格を雪ノ下は把握し切れていない。

 だが先ほど男子三人に伝えたように、八幡と海老名の間に類似点があるのならば。八幡の思考の傾向を応用する事で、雪ノ下は海老名の気持ちを推測できる。きっと今頃は、私に勝るとも劣らない忸怩たる想いを抱えている事だろう。

 

 予期せぬ告白をしてしまい、更には振られる事を覚悟している由比ヶ浜も。そして葉山との仲を深められないまま難易度だけを目の当たりにする形になった三浦優美子も。それから由比ヶ浜が告白したという事実を知っていながら気持ちを伝えてしまった川崎も。

 海老名を含めた四人が沈痛な想いを抱えて夜を過ごしている事を、雪ノ下は知らない。

 

 強く両目を瞑って。そして再びしっかり見開いて。雪ノ下は一つ頷くと席を立った。ここにいつまでもいても仕方がないし、どうしようもないなりに覚悟が付いた気がする。

 そう考えて、雪ノ下は時計台を後にした。

 

 

 東一条通に出ると、正門のすぐ目の前にはコタツがあった。昨夜も見たとはいえあり得ない光景に遭遇した雪ノ下が、珍しく呆然と突っ立っていると。コタツに入っている浴衣を着た男と目が合った。おそらくはNPCだろう。

 

「学祭は来週なので具はないけどね。豆乳鍋のだしだけで良ければ、食べていくかね?」

 

 どうして頷いたのか、後になっても雪ノ下は自分の行動を説明できなかった。端的に言えば魔が差したのだろう。

 

 ふらふらと歩み寄った雪ノ下は、男の対面で正座して両膝をコタツの中に入れた。すぐにお椀と割り箸が目の前に置かれる。男が手ずから用意してくれたものだ。

 

「これからの季節だと、鍋は身体が温まるので良いですね」

 

 怪しげな男に差し出された謎の液体を忌避する気持ちが湧かないのが、自分でも不思議だった。雪ノ下はお椀の中身を飲み干すと、そう言って男にお礼を告げた。

 

「貴君はなかなか見所があるよ。だが、骨を折るところをまちがえているのが惜しいな」

 

 その言葉すらも素直に受け取って。雪ノ下は一つ頭を下げるとコタツを出た。通りの向こうには、待たせていたタクシーの姿が見える。

 

 車内からもう一度頭を下げて、雪ノ下は東大路通を右に曲がった。今出川通を東へ、白川通を北に向かい、北大路通の手前でUターンさせる。昨夜食べたラーメンの味を思い出しながら。

 

 白川通を南下して、丸太町通で右折して。せっかくなので岡崎神社の向こうでUターンさせて、ホテルのすぐ前に車を着けさせた。運転手にお礼を言ってタクシーを降りる。

 

 

 ホテルに入ると、ロビーには見知った顔があった。平塚の前にはボトルとグラスが置かれていて、しかし当人はペットボトルのお水を飲んでいる。

 珍しいこともあるものだと、雪ノ下が狐につままれたような気持ちで立っていると。

 

「無事に帰ってきて何よりだよ。入浴がまだだろう?」

 

 そう言って平塚は、傍らの荷物を持ち上げた。どうやら風呂敷包みのようだ。

 

「その中には、何が入っているのですか?」

 

 あまり良い予感はしないのだけれど、と思いながらも尋ねてみると。

 

「浴衣とタオルと、それから替えの下着だな。大浴場に入れるから、ついて来たまえ」

「先生はお酒をお召しになっていると思うのですが。その状態での入浴は、健康に良くないのではないでしょうか?」

「ふむ、途中からは控えていたので大丈夫だとは思うがね。万が一に備えて君が付き添ってくれると、私としては助かるな」

 

 物は言い様だなと思いながらも、拒否する気持ちは起きなかった。手のかかる親戚のお姉さんという表現がぴったり来るなと思い付いて、含み笑いを漏らしてしまう。

 

「愉快なことでもあったのかね。私も比企谷のおかげでな、小説に出てくるこのお酒を味わうことができたよ。この世界にはまだまだ多くの可能性が隠れているな」

「そうですね。私も小説の世界に迷い込んだような体験をしたのですが。そんな些細な出来事でも、心の持ちようは変わるものですね」

 

 同じ原作者の話をしているとは、二人には気付けるはずもなく。

 平塚は、飲み残したボトルを部屋に届けておいて欲しいと命じると、雪ノ下と並んで大浴場へと歩いて行った。

 

 

 波瀾万丈という表現がふさわしい一日ではあったけれども。

 各々に少しずつ明るい兆しを見せながら、修学旅行の三日目はこうして終わった。

 




次回は週末に何とか更新したいと思っています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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15.さし向かいで多くの感情を共有して彼と彼女は別れる。

本話は文字数が多いので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→142p1


以下、前回のあらすじ。

 二条河原まで呼び出された八幡は材木座を相手に、竹刀を交えながら内心を語る。由比ヶ浜に返事ができない本当の理由を、八幡はついに認めた。材木座に一泡吹かせたりくだらない会話を重ねるうちに、八幡は普段に近い状態まで戻れた。

 ホテルに帰って、戸部が海老名との関係に付き合う以外の価値を見いだしているのを知って。八幡はその姿に、かつて依頼を解決した時の材木座の姿を重ねていた。

 同じ頃、雪ノ下は昨夜と今日で回った各所をもう一度だけ目に焼き付けていた。大学のサロンで一息ついて。こんな時でも我慢ができてしまう自分を、普段どおりの表情で平然と行動できる自分を、雪ノ下はやるせなく感じていた。

 大学の正門でNPCから「骨を折るところをまちがえている」と助言されたり、ホテルの一階で待っていてくれた平塚に大浴場に誘われたり。そんな些細な事を契機に気を持ち直しながら、雪ノ下は修学旅行の三日目を終えた。



 修学旅行は最終日を迎えた。一日目や二日目は元気が有り余っていた高校生たちも四日目ともなると疲労の色が濃く見えて、スケジュールを機械的にこなす者が大半だった。

 

 着物の着付けを体験した生徒は帯をくるくると引っぱられてもなすがままだったし、扇子を作れば模様が上下逆になっていたし、せっかく完成した数珠を何をどう間違ったのか線香と勘違いしてロウソクの火であぶろうとした者もいた。

 

 それでも楽しいという感情は最後まで潰えることなく、夢遊病者のように首を時々かくんと倒しながらも生徒たちは残り少なくなった旅行を満喫していた。

 

 

 そして今、総武高校の二年生一同は京都での全ての日程を終えてバスで京都駅に向かっていた。上記のような愉快な出来事が多々あった午前中だが、怪我の功名とでも言うべきか。大部分の生徒がさくさくと体験・見学をこなしたので、予定よりも時間がかなり余っている状態だ。

 

 くあっと口を大きく開けて息を深く吸い込みながら、比企谷八幡がバスの背もたれに身体を預けて夢の世界に戻ろうとむにゃむにゃしていると。

 

「んっ、メッセージか。っておい、続けて二通ってどういう事だ?」

 

 昨日の夕方までなら、部長様とどこぞの部員がやり取りをしているのだろうと思えたのに。八幡がきちんと返事をするまでは、そんなことはもう起きないのだろう。もしかすると二度とないかもしれないと思うと、せつなさがじわりと湧いて来る。

 

 このままだと夢見が悪くなりそうなので、八幡は気分転換がてら届いたメッセージに目を通そうとアプリを立ち上げた。

 

 

『せっかく約束してたけどさ。ごめん、昨日の今日であんたと会うのはね。もうちょっとだけ時間が経てば、前と同じように話せると思うから、今日の東京駅での待ち合わせは中止にしてくれないかな。ただ、あたしも墓標を拝みたいから、いつか一緒に行ってくれると嬉しいな。じゃあ、次に話す時は前みたいな感じでお願い』

 

 たぶん川崎沙希は、ここに書いてあるより何倍もつらい想いでいるのだろう。今となってはどの程度の好きだったのか分からないのが正直なところだが、それでも中学の時に告白して断られた夜はつらかった。もっとも、あの時は翌日に更につらい展開が待ち構えていたわけだが。

 

『中止と、また今度と、両方とも了解。変に「前みたい」にこだわって疲れるよりは、そのままのお前で良いと思うぞ』

 

 本当はこんなことを書くべきではないのかもしれない。だが八幡には判断がつきかねたし、ならば伝えないで後悔するよりは伝えて後悔したほうが良い。そう考えて返事を送った。

 川崎から再度の返信は来なかった。

 

 

『できれば奉仕部の一人一人に謝りたいなと思ってさ。ヒキタニくんが結衣に返事をする前に、どこかでちょっとでも話ができないかな?』

 

 もう一通は海老名姫菜からだった。

 謝られるのは違うのではないかと思ったが、海老名の気が済むのならそれで良い気もする。だが、必要以上に自分が悪いと思っているのであれば、ちゃんと言っておくべきだろう。自分もだし他の二人も、己の責任を他人に負わせることには難色を示すだろうから。

 

『んじゃ、京都駅に着いたら落ち合うかね。待ち合わせの場所とか希望はあるか?』

『じゃあ駅ビルの屋上はどうかな。初日に集合写真を撮ったところから行けるはずだけど、どう?』

『ほい、了解。んじゃまた後でな』

 

 返事を送ると、八幡は座席に深々と腰掛けて力を抜いた。

 バスを降りる時に確認すると、海老名からは「また後で」とだけ返事があった。

 

 

***

 

 

 同じ班の連中に「ぼっちで充電してくるわ」と言って、八幡は一人で駅ビルの上を目指した。

 

 この後の予定に勘付いている者、やたら騒々しく見送ってくれた者もいたが、出社する旦那様を寂しさをこらえて気丈にも見送ってくれる新妻のような対応をされたのが八幡の記憶に残った。というかそれ以外は残らなかった。

 

 新幹線の時間までは各自が自由に過ごすことになっているが、クラスの順にいったん解散となったので、既に他の生徒たちが京都駅の周辺に溢れている。それは屋上も例外ではなく。エスカレーターをずんずんと歩いて来たのに、同じ制服を着た生徒の姿がちらほらと確認できた。

 

「この環境で、落ち着いて話すのは難しそうだな」

 

 そう呟いた八幡は、さっさと裏技を使うことにした。誰にも邪魔されない貸し切りモードに入ろうと考えて、そういえば京都駅の扉を拝んでいなかったなと思い出していると。ずっと下の階に海老名の姿を認めた。

 

 こちらにはまだ気付いていないようで、大階段をゆっくりと上ってくる。

 

『他のクラスの連中がいるから、貸し切り空間に移動しようと思うんだが。十階から百貨店に入って催物場のほうに行くと左手にトイレがあるから、そこを出たところで待ってるわ。他の希望があったら遠慮なく言ってくれ』

 

 どんな文面で送れば良いのか、それを考え始めるといつまで経っても結論が出ないままになりそうなので、ぶっきらぼうな口調で文章を作ってそのまま送信した。待ち合わせを十階にしたのは二日目の夜にフロアマップを見てトイレの位置を知っていたからで、特に深い意味はない。

 

 屋上から階段を下りて十階に向かう途中で、こちらを見上げながら階段を上ってくる海老名と目が合った。軽く頷かれたので同じように返して、八幡は先に屋内に入った。

 

「んじゃま、貸し切りモードを発動して、海老名さんを招待して。よし、じゃあ先に移動するか」

 

 人のいない別空間に移動して、トイレの前でぼーっと過ごしていると。

 しばらくして女子トイレから、眼鏡をかけた見た目清楚な黒髪の女子生徒が現れた。

 

 

「はろはろー。また別空間に来るとは思ってなかったけど、やっぱりちょっとわくわくするね」

「あー、その、なんだ。たしか昨日、男と別空間で二人きりだと怖いとか言われたんだがな。今更だけど大丈夫か?」

 

 そんな八幡の質問に、海老名はぷっと吹き出すと。

 

「たしかにそれって今更だよねー。うん、ヒキタニくんなら大丈夫だよ。でも、どうしよっか。ここで喋る?」

「トイレの前ってのも風情がないよな。んで、もし良かったら付き合って欲しい場所があるんだが」

 

 八幡のその申し出は予測していなかったのか。海老名は少しだけ目を丸くして、すぐに表情を変えると口を開いた。なんだか冗談でも言いそうな顔つきだ。

 

「ヒキタニくんに付き合って欲しいって言われてもねー。私はどっちかと言えば、ヒキタニくんたちに突き合って欲しいんだけど?」

「おい」

 

 謝りたいとか言っていたのに、海老名からは殊勝な態度はかけらも感じ取れない。だがそのほうが助かるなと八幡は思った。長々と反論しても逆効果になるだけだと分かっているので一言で済ませると、そのまま話を続ける。

 

「このインスタンス空間に、ゲームの世界に繋がる扉があるんだけどな。この能力を教えてくれた人と、そこを見てくるって約束をしたんだわ。まあ話が終わってから俺が一人で行っても良いし、その辺は好きにしてくれ」

 

「そんな面白そうなことを見逃す手はないかな。創作に必要なのって、何よりも経験だったりするからねー。じゃ、どこに行けば良いのかな?」

 

 とことんマイペースだよなと思いながら。それが意図的なものだと八幡は気付いている。面倒な性格をしてるよなと、自分を棚に上げてそんな事を思いながら。屋外に出て海老名を先導する形で、二人は大階段を下りて行った。

 

 

 集合写真を撮った四階からはエスカレーターに乗って二階まで下りた。少し逆方向に戻って、百貨店の入り口を横目に京都駅の西口を目指す。閑散としているので歩きやすいが、何だか自分たちが物語の世界に取り込まれたような気持ちになる。

 

「誰もいない世界ってのも、なんだか凄いよねー。創作の題材としては珍しくなくても、実際に自分が体験できるって、そうそうないんじゃないかな」

 

 海老名も自分と同じような事を考えているのだなと、思わず苦笑が漏れた。先程は「一人で行っても良い」と言ったものの、ついて来てもらって助かったと八幡は思った。

 

「あの西口から駅に入って、すぐ目の前の壁を通り抜ければ良いって教えてもらったんだがな」

 

 そう言いながら改札口を抜けて駅構内に入ると、いったん壁の前で立ち止まる。おっかなびっくり右手を突き出してみると、壁の感触を得られないまま指から手首までが見えなくなった。

 

「おー。疑ってたわけじゃないけどさ、本当に壁を抜けられるんだね。でもさ、私もここを通れるのかな?」

 

 気のせいか、腐ったネタで盛り上がっている時とは少し違った感じを受けた。めったに体験できないことを目前にして海老名が少し興奮しているのも、ほんのちょっと怖じ気づいているのも、八幡は感じ取ることができた。

 

「んじゃま、試しに手を出してみ?」

 

 八幡としては手を壁に当ててみろという意味だったのだが。何を勘違いしたのか、海老名は「はい」と言いながら、握手を求めるようにこちらに向かって腕を持ち上げた。

 

「あ、いや、あのな。壁に向かって手を出してみろって意味だったんだが?」

「うーん。それは分かってるんだけどさ。向こうに何があるか分かんないし、自分だけ引き込まれちゃったら、ちょっと怖いじゃん。だから、はい」

 

 手持ち無沙汰からか腕をひょいひょいと動かしながら、海老名は八幡に握手を求めてくる。というか、握手じゃなくて手を繋ぐのを求められてるんだよなと。現実逃避をやめて状況を把握した八幡は、一つため息を吐いた。

 

「たしかに言い出したのは俺だけどな。普通こういうのって女子のほうが嫌がるもんじゃねーのか?」

「その辺りは相手次第じゃないかなー。予定よりも自由時間が延びたけど、ぐずぐずできるほどの余裕はないよ?」

「さっさと諦めろってことな。ほんじゃま、えーと、なんて言えばいいんだ。あ、何も言わなくて良いのか」

 

 混乱を口に出しながら、おずおずと右手どうしで握手をかわして。そこでようやく、この体勢だと歩きにくいのに気が付いて左手に持ち直した。隣でくすくすと笑われているのが癪に障るが、腹立たしいというよりは気恥ずかしい。

 

「えーっと。俺はさっきと同じように右手を壁に当てるから、そっちは自由な左手で」

「あ、うん。私も通れそう。でもさ、いちおう横並びになって、一緒に壁を抜けてくれると嬉しいな」

 

 温かい手の感触が伝わってきて、八幡はもう余裕がほとんど残っていないのだが。めずらしく素直に嬉しそうな表情を浮かべている海老名を見てしまうと、何も言えなくなってしまう。

 

「じゃ、じゃあ、ゆっくり歩くぞ?」

 

 かすかに残っている脳の冷静な部分から「二人三脚かよ」と突っ込まれながら。八幡は海老名と並んで、手を繋いだまま目の前の壁を抜けた。

 

 

***

 

 

 雪ノ下雪乃は同級生に囲まれて駅ビルの屋上を目指していた。大階段だと体力がもたないのは明らかなので、集団でエスカレーターに乗っている。

 

 京都駅に着いたのはJ組が最後だったので、既に付近には同じ制服の生徒たちが散らばっている。特に一箇所に固まっているわけではないけれど、どこに行っても誰かしらの姿がある。

 

 雪ノ下が軽薄なお喋りを好まないことや沈黙を問題にしないことは既に同級生に周知されて久しい。だから軽い話題の時は周囲だけで完結しつつ、何か大事なことがあれば気安く雪ノ下に話しかけるというふうにして、彼女らの関係は成り立っていた。

 

 とはいえ何事も例外はあるもので。

 

「雪ノ下さんには昨日みたいに同じ部活の人とゆっくり喋って欲しいのにさー。偶然会うって難しいよね」

「そうそう話題があるわけでもなし、用事もないので気を遣わなくても良いのだけれど?」

 

 少しだけ声に脅しの色を添えて返したものの、効果があるようには見えない。なぜかこの話題だけは踏み込んでくるのだ。こんな話をすることにも、昨日と全く同じように平然と返事ができている自分にも内心で辟易しつつ、雪ノ下はふと遠くを見上げた。

 

 

「あれは……海老名さん?」

 

 二日目の夜にラーメンを食べに入った時も、たしかあのドアだった。

 階段を上り終えた海老名が見覚えのある出入り口に向かっているのを見て。その偶然に突き動かされた雪ノ下は「少し用事を思い出したので、先に屋上に向かってくれるかしら」と告げると、同級生をかき分けてその後を追った。

 

 百貨店の館内に入って、とりあえずは先日の拉麺小路に行ってみようと考えたものの。雪ノ下が一人で無事に辿り着けるわけもなく、一直線に違う方向へと向かってしまった。だがそのおかげで、トイレに姿を消す直前の海老名を確認できた。

 

 追いかけるようにして女子トイレに入ると、使用中の個室がいくつかあった。いったん外に出て、少し時間を置いてからもう一度入ってみると、空きの個室が一つ増えている。その間、誰も外には出て来ていない。

 

 つまり、そういうことなのだろう。

 

「別空間で、比企谷くんと何を話すのかしら?」

 

 もしかすると、由比ヶ浜結衣も一緒なのかもしれない。そう思うと雪ノ下の胸は痛んだが、昨夜ほどではなかった。

 

 

 雪ノ下ほどの能力があれば、挫折の経験など皆無だろうと思う生徒は大勢いるが。実際のところは逆だった。

 

 三歳、そして二十数歳という年齢の差もあって自分を凌駕する能力を誇る()()()たちや、一対一では劣っても集団で陰湿な手段に出る同級生など。後者はおおむね反撃済みだし前者もいずれ近いうちにと思っているけれど、一敗地にまみれた経験は意外と多い。

 

 だから雪ノ下は、諦めることには慣れていた。もちろん「当面は」という限定付きだが、諦めは諦めだ。

 

 それに今回の場合は、将来の挽回を求める気持ちが湧いてこない。自分がこの先どう振る舞えば良いのかも分からないし、由比ヶ浜を相手に張り合いたいとも思えなかった。でもだからこそ、諦めるという行為の重さは以前とは比較にならない。

 

 なぜなら、捲土重来を期しての諦めではなくて。今回の場合は、永久に諦めなければならないからだ。たらればを言えば二人が別れる可能性もあるが、そんなことは考えたくないと思うほどには雪ノ下は潔癖で、優しく、そして自尊心が高かった。

 

 諦めるか否か。諦めるなら永久に。これ以上ないほど明確な二択だが、それが問題だ(that is the question.)*1

 

 いっそこれが明らかな恋愛感情であれば、話はまだ簡単だったかもしれない。だが雪ノ下は自分の気持ちを持て余していた。恋愛の何たるかも知らないまま、永久に諦めるという選択肢だけを突き付けられて。それでも分からないものは分からない。

 

 八幡をどうしたいのか、どんな関係になりたいのか。雪ノ下には分からない。

 

「ただ、一つ言えることは。今の私は主役ではないのよね」

 

 状況を動かしたのが由比ヶ浜である以上は、当面の主役は由比ヶ浜だ。雪ノ下がどんな行動に出るにせよ、そもそもの発端が自分の発言にあるにせよ、二人の結果待ちという状況は変わらない。

 

 海老名たちのように、終わってみれば大山鳴動して鼠一匹となる可能性もある。今までとあまり変わりのない関係が続くことになれば、雪ノ下にとってはそれが一番望ましい結末だ。

 

 だが、未来は当事者二人の手に託されていて、雪ノ下にできるのは待つことだけ。それに行動の順番が回ってきたところで、自分が何をしたいのかが分からないのでは意味がない。

 

 

「ふう。堂々めぐりね」

 

 一つ大きく息を吐いて、雪ノ下は悩みごとをまとめて棚上げした。出せるものなら答えを早急に出したいが、悩み続けたところでそれは実現できそうにない。ならば気持ちを切り替えるしかない。

 

「昨夜のNPCは何だか変な人だったわね。『骨を折るところをまちがえている』のは確かなのだけれど」

 

 昨日の夜に気持ちを持ち直せた二つの原因のうちの一つ。浴衣姿のNPCに言われた言葉を雪ノ下は口に出してくり返した。

 

 バーテンダーのNPCに満更でもない様子だった顧問を、これでは笑えないなと雪ノ下は思う。実はNPCの駅長さんと仲良くしている部員も身近にいるのだが、それはさておいて。

 

 箴言とは、誰に言われたかではなく何を言われたかが大事なはずだ。だから発言者がどうあれ、有益な助言は心にしっかり留めておこうと雪ノ下は思った。

 

 だから続けて、大浴場で顧問に言われた言葉を頭の中でくり返す。

 

 

『ちゃんと見ているから、いくらでもまちがえたまえ』

 

 京都市内の各所を回って、これは自分一人で向き合うしかない問題だと覚悟して。諦め半分でホテルに辿り着いてみれば、一階のロビーで平塚静が待っていてくれた。

 

 あの時に、手のかかる親戚のお姉さんみたいだと思わず苦笑を漏らしたことを雪ノ下は思い出す。そんな側面があるからこそ、あの顧問は憎めない。だから頼り切りになる心配もない。姉がかつて言った「もっとひどい何か」に変貌するのではないかと身構える必要がないのだ。

 

 二人並んで大きな浴槽に身を沈めて。生まれたままの姿を見せ合いながらそう言われたら、これが映画や小説なら間違いなくクライマックスの一つとして扱われるべきシーンだろう。だがその相手が平塚だと酔っ払いの戯れ言という雰囲気が出てしまい、すっきりと見栄えの良いシーンにはならない。そこが面白いなと雪ノ下は思う。

 

 

 昨日の二人からの言葉を思い出せば、私はまだまだ頑張れる。

 骨を折るところをまちがえていても、それを続けていればいつかは正しく骨を折れるだろう。

 見てくれている人が一人でもいれば、たとえ今はまちがえても次を見据えてまた動き出せる。

 

 そう結論付けて、そろそろ同級生と合流しようかと辺りを見渡して。考え事をしながらどこをどう歩いて来たのか全く思い出せない雪ノ下は、付近を闇雲に走り回ることになるのだった。

 

 

*****

 

 

 壁を抜けると、そこは駅のホームだった。真ん中に一つ長いプラットホームが伸びていて、その両側に線路がある。ここが終点なのか、線路は二人の数メートル向こうで終わっていた。向かって左側の線路には「3と9分の4番のりば」と表示があるが、もう片方には何もない。

 

 二つの線路とプラットホームはドーム状の壁で覆われている。巨大な円柱を縦に半分に切って、その切り口を下にして置いたような案配だ。壁の外がどうなっているのかは窺い知れない。円柱がどこまで続いているのかも分からない。線路の先は靄に包まれて、魔列車が走っていると言われても違和感のない風景だ。

 

 首を後ろに向けると、殺風景な壁があった。白が強めの灰色は円柱と同じで、それが半円形をなしている。モノトーンで飾り気もまるでなく、ただ壁としての機能を果たしているだけだと言わんばかりの姿だった。

 

 振り返った姿勢のまま視線を下に向けて、後ろ手で壁を触ってみた。感触を得られないまま右手がすり抜けていくのを見て、ひとまず胸をなで下ろす。プラットホームからまっすぐ歩いて来れば、この壁を通って元の駅構内に戻れそうだ。

 

「あっ、すまん。ずっと繋いだままだったわ」

 

 周囲の状況をひととおり確認して、ようやく自分の現状に意識を向けられるようになった。左手から温かな感触が伝わってくるのに気がついて、あわてて手を離す。不満そうに唇を突き出している海老名がなんだか可愛らしく見えて、急いでそっぽを向いた。

 

「男子と手を繋ぐのって、最近はあんまりなかったけどさ。久しぶりにやってみると、なかなか良いもんだねー」

 

 それなら誰かと付き合って思う存分やってくれと、そう言いそうになって。微妙な話題なので自重して、プラットホームの奥を眺めた。ゲームの世界に繋がる扉があるのなら、この先だろう。それとも電車に乗って移動する必要があるのだろうか。

 

「ちょっと歩いてみても良いか?」

「うん、大丈夫だよ。なんだか探検気分だね」

 

 先ほど怖じ気づいていたのはどこへやら、今は好奇心を表に出して目を輝かせている。戻れなくなる心配とかは無いのかと、内心で首を傾げながら。八幡は海老名と横並びのままホームに向かって歩を進めた。

 

 

 線路を両側に見ながら歩いていると、靄が次第に濃くなってきた。後ろや横はくっきりと見えるのに、前方だけは極端に視界が悪くなっている。歩くぶんには問題ないが、何が出てきても不思議ではない雰囲気だよなと考えていると。

 

「もしかして、お客さん?」

「はじめてだね」

 

 そんな声がしたので辺りをきょろきょろと見回していると、すぐ目の前に小さな妖精が二人姿を見せた。親指ぐらいの大きさで、男の子が一人と女の子が一人。羽根が小刻みに小さく動いているのが何だか微笑ましい。

 

「こんにちは、妖精さん?」

 

 物怖じせずに話しかけている海老名を、驚きと頼もしさが入り交じった目で眺めていると。二人の妖精が自己紹介を始めた。

 

「ぼくはチャーン」

「ニーナ」

 

 名乗り終えると同時に、二人の頭の上にはアルファベット表記で名前が浮かぶ。

 

“I am Chahn.”

“Nhia.”

 

 耳で聞いただけだとニーナかニーアか微妙な感じだったのだが、アルファベット表記だと分かりやすいなと思いながら。でも文字の並びが珍しいなと考えて。ふと気がついた事があった。

 

「これ、もしかしてあれか?」

「んーと、いきなりどうしたの?」

 

 首を傾げている海老名に素直に答えなかったのは、さっき頼もしさを感じてしまったからだろう。別に対抗意識を燃やす必要はないのに。こんな子供っぽいことを考えてしまうのは、俺も興奮している証拠だなと思いつつ。

 

 八幡は海老名ではなく二人の妖精に向かってこう宣言した。

 

「おじぎをするのだ!*2

 

 へへーっと空中で器用に畏まっている妖精たちを尻目に、海老名は納得顔になっていた。「あー、アナグラムか*3」と言いながら、八幡の啖呵を思い出してお腹を押さえて笑っている。

 

 別空間に入った辺りからずっと、年相応の反応を見せられるので調子が狂うよなと思いながら。でも、普段もこんなふうにしていたら良いのにと、そう伝えるのはおこがましい気がして。笑いが収まるまで、八幡は黙ってその表情を眺めていた。

 

「あー可笑しい。えっと、チャーンとニーナだね。ごめんだけど、先にこっちの話を済ませたいからさ。ちょっと待っててくれるかな?」

 

 二人の妖精にそう告げて、海老名は身体をこちらに向けた。

 つられて八幡も身体の向きを変えて、そして見たことのない表情を浮かべる海老名と目が合った。笑顔のかけらもない、無表情と呼ぶにふさわしい顔つきの海老名と。

 

 一気に現実に引き戻された気がした。

 

 

***

 

 

「じゃあ、ちょっと真面目な話をしよっか」

 

 そう言って海老名は少し口元を緩めた。だが眼鏡の奥の目は笑っていない。それどころか、どす黒く濁っているようにも見えた。

 

「それって、昨日の話だよな?」

「うん、そうだね」

「つっても、謝られるようなことは特にねーぞ?」

 

 バスで受け取ったメッセージを思い出して、そう伝えると。くすっと笑われた気がした。だが海老名の目から他に視線を動かせないので、本当に笑われたのかよく分からない。少なくとも目は全く笑っていない。

 

「でも、こんな展開になっちゃって困ってるでしょ。それともヒキタニくんは、結衣のことなんかどうでもいいの?」

 

 思わずかっとなって、感情的な言葉が出そうになったが何とかこらえた。

 

 海老名の表情に既視感を覚えなければ声が出ていただろう。たぶん、あの時の俺もこんな顔をしていたはずだ。職場見学の後で、由比ヶ浜と向き合った時の俺も。

 

 あの時からまた、一緒に過ごした時間を積み重ねてきた。

 ずっと、うまく行っていると思い込んでいた。

 それなのに。

 

 

 どうして、こんなことに。

 

 八幡は苦虫をかみつぶしたような表情で首を振って、昨日から何度となく頭の中に浮かんだ疑問を打ち消した。

 

 事ここに至っては、そんなことを言っていられる状況ではない。そう自分に言い聞かせて、しぼり出すように声を発する。

 

 クラスどころか、校内でも指折りのトップカーストに向かって。

 

「俺は……優しい女の子は、嫌いだ」

 

 こんなに大きな駅の片隅で。

 同級生の女の子と、二人きりで。

 さっきまで繋いでいた手には、まだぬくもりが残っている。

 

「でもさ。昨日のは……優しい女の子じゃ、ないよ?」

 

 ああ、その通りだ。海老名に言われるまでもなく、八幡はそれを知っている。

 

「由比ヶ浜は、強いよな。優しいだけじゃなくて。今までに何度、それを思い知らされたか」

「うん。それは私も同じかな」

 

 少し長めに目をつむって、その間に海老名は何を考えていたのだろう。言葉をはさむ隙を見出せないまま黙っていると。

 

「今回の件でさ。とべっちと私の関係はたぶん、今までとあんまり変わんないと思う。無難な形で収まったと思うんだけどね。でも、だからってさ。奉仕部の関係を変えてまで、こんな結末を望んでたわけじゃなかったのにね」

 

 海老名と自分とは、同じ気持ちを共有している。そう八幡は思った。

 こんな展開を、こんな結末を望んでいたわけではなかったのにと。

 

 だが、起きてしまったことはもう覆らない。覆水は盆に返らない。

 

 

 昨日の夜の一件が、あの竹林で起きたことが、全てを変えた。

 あの時の二人の言葉が、八幡の脳裏によみがえる。

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

『人の気持ち、もっと考えてよ……』

 

 そして、あの一言。

 

 あれは由比ヶ浜の本心だと、八幡はそれを信じられた。だが、あんな状況であんな形で聞きたくはなかった。自分の気持ちが固まっていない状態で知りたくはなかった。

 

「俺もな。あいつらが不安に思うようなやり方はやめろって、ずっと言われてたのにな。俺のやり方を由比ヶ浜にやられるまで、あいつらの気持ちがぜんぜん分かってなかったんだわ。だから、まあ、あれだ。由比ヶ浜のことがどうでもいいとか、そんな言い方は勘弁してくれ」

 

 そう言われて首を縦に動かして、それでも海老名は空気を読まない。他の話題を持ち出すなど考えもせず、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

 

「ちょっと、知りたいんだけどさ。結衣から告白されて、嬉しかった?」

「だな。つか、嬉しくないわけねーだろ。でも、それで済む問題でもないんだわ」

 

 即答を受けて、海老名は納得顔で頷いている。その目は暗く濁ったままだが、少しだけ雰囲気が変わったようにも感じられた。こいつは意外と友人思いなんだよなと八幡は思う。

 

「そっか。煽るようなことを言ってごめんね。でもさ、やっぱり私ととべっちとは違うんだなって。私がそう思ってるのも、知っててくれると助かるかな」

 

 八幡はその言葉を頭の中でくり返して、何も言えない自分に気が付いた。

 

 夏休みに一緒に千葉村で過ごして以来、戸部翔のことはいい奴だと思っていたし、その印象はこの旅行中に更に深まった。

 

 それでも自分が想いを告げられた由比ヶ浜と比べると、残酷な話だが格が違うと思ってしまう。戸部の気持ちはさておいて、海老名と釣り合うかと問われると答えに窮するのが正直なところだ。

 

 それほどに、目の前の女子生徒は才能と容姿に恵まれていて、実は情にも厚くて、複雑な性格をしていて、そして深い闇を抱えている。

 

 

 お互いに見つめ合ったまま何も言えないでいると、頭の中でどんどんと暗い想いが広がっていく。自分たちのような面倒な性格の持ち主が、由比ヶ浜や雪ノ下と、由比ヶ浜や三浦優美子と一緒に過ごしていたのが、そもそものまちがいだったのではないかとさえ思えてしまう。

 

 だが、そこで。

 

「お二人の精神状態が不穏です。心を落ち着けることを提案します」

「おちついて、ゆっくり、しんこきゅうしてー」

 

 すっかり存在を忘れていた二人の妖精から声を掛けられた。

 

 

***

 

 

 反射的に正気に戻ると同時に、妖精がここにいた意味を理解した。いわゆるメンタルヘルスケアとか、そんな感じの役割を担っているのだろう。早い話がユイちゃんだ*4

 言われるがままに深呼吸をくり返していると、海老名の声が聞こえた。

 

「あらま。思考がちょっと変な回路に入っちゃってたみたいだね。チャーン、ニーナ、ありがと」

「だな。俺も助かった」

 

 妖精二人にお礼を言って、八幡と海老名はそろって苦笑した。一人で過ごしている時に、さっきのようなどよんとした心理状態に陥ることは時々あるが。まさか目の前に他人がいる状態でああなるとは思わなかったからだ。

 

 お互いに親近感を深めながらも、せっかくだし別の用事を先に片付けようと考えて。

 

「たぶんチャーンとニーナって、扉の場所を知ってるんだよな。もし可能なら、案内して欲しいんだが?」

「知ってる。案内できる」

「でも、そのさきにはいけないよ?」

 

 先程はどこか定型文を読み上げていた感があったチャーンは片言になって、一方のニーナは舌っ足らずな話し方のままだ。性格が読み切れないなと思っていると。

 

「ゲームの世界に行く気はないんだよねー。扉を見られたら満足だから、案内してくれるかな?」

「ま、そういうことだな。ちょっと頼むわ」

 

 雪ノ下とはまた違った話の早さがあるなと思いながら、海老名の発言に便乗する。

 少し間を置いて、おそらくは精神状態を確認していたのだろう。二人の妖精が口を開いた。

 

「うん、今は大丈夫そう。ダメって言っても粘られそうだし、押してダメなら諦めてさっさと案内するべきだよね」

「えー。もうちょっと、りそうのカップリングとかききたかったのにー」

 

 こいつらの性格は誰がモデルなんだろうなと思いながら、そろって頭を抱える二人だった。

 

 

***

 

 

 その扉は、プラットホームの最果てにあった。ホームから垂直に伸びる大きな門が行く手を遮っていて、扉はその下のほうに存在している。人が通るドアの下にペット用の小さな扉があるのと同じような感じだ。

 

 円形で取っ手が付いているその扉は、金庫か何かを連想させた。だが大きさが並外れている。門の左右ぎりぎりまで広がっているので、その直径はホームの幅に近い。誰がどうやって開けるのか、どれほど多くの人を呑み込めてしまえるのか、ちょっと見当が付かない。

 

 でもたぶん、この扉はもう誰にも見られることはないのだろう。そう思った八幡は大きく柏手を打って、心の中で「お役目ご苦労さん」と呼び掛けながら数瞬だけ手を合わせた。

 

 目を開くと、隣に並んでいる海老名はもちろんのこと、二人の妖精も同じように手を合わせていた。少しだけ顔の筋肉を緩めて、もう一度だけ扉の威容を眺める。

 

「なんか、ほっこりしちまったな。さっきの話って、どこまで行ってたっけ?」

「えーっと。私ととべっちは合わないって話だったかな。ヒキタニガヤくんと結衣とは違ってね」

 

 その呼ばれ方は新しいなと思いながら、即座に指摘する。

 

「なんか俺の名前が変な感じになってるぞ?」

「あ、ごめん。ヒキヒキタニくんだっけ?」

「失礼。噛みました?*5

「違う、わざとだ!*6

「おい、ちょっと待て」

 

 げらげらと笑っている海老名を憮然とした表情で眺めていると、何もかもが馬鹿らしくなってきて。思わず八幡も吹き出してしまった。

 

「やり取りを一つ飛ばされたから、順番が入れ替わっちゃったじゃん。笑い出さないようにセリフを言うのって、しんどいよねー」

「いや、正直に言うと反応が来るとは予測してなくてな。そのまんま続けられてあんなに面白くなるとは思わなかったわ」

 

 こうした辺りが、あの二人との違いなのだろう。

 昨夜の二条河原で、この手の話もあの二人とならできるのではないかと思ったものの。海老名が相手だと話のテンポが桁違いだ。

 

「あのさ。とべっちがスラムダンクとか読んでたじゃん。漫画の話題を振られるのは、楽しいのは楽しいんだけどさ。雪ノ下さんみたいに深く読み込める人と話す時とか、今みたいに分かってる相手と話す時と比べると、ちょっとね」

 

 ちょうど同じようなことを考えていただけに、八幡はぐうの字も出ない。旅行の前に二人が部室で、バスケの戦術の話で盛り上がっていたことを思い出しながら。一言だけ「まあな」と返すのが精一杯だった。

 

 海老名は特に返事を期待していなかったのか、そのまま話を続ける。

 

 

「そういえば竹林でさ。『この世に自分ほど信じられんものがほかにあるか*7』って。あれ、わざとだよね?」

「あー、やっぱり『文殊*8の知恵』とか言ってたのは意図的だったんだな」

 

 他の二人は気付きもしなかっただろう。事前の打ち合わせも何もなく、こうした二人だけのやり取りができてしまうことに、八幡は苦い気持ちになった。

 だが海老名は違ったみたいで。

 

「でさ。今回のお詫びって何がいいかなーって考えててね。迷った末に、この絵を描いてきたんだけどさ。できたら、受け取ってくれないかな?」

 

 どうせまた即座に突き返したくなるようなBL関連の絵なのだろうなと思った八幡は、即座に目を閉じられる状態で視線を送って。思わず目を見開いてしまった。

 

「これ、ルシオラ*9だよな。何巻か忘れたけど、扉絵になってたやつか?*10

「うん。ちゃんと和歌も添えてあるよ。これ、由来って知ってる?」

 

 受け取った絵の左上には「外に居て 恋ひつつあらずは 君が家の 池に棲むといふ 蛍にあらましを」という和歌が書かれていた。ルシオラは蛍の化身だったなと思い出しながら、八幡が首を横に振ると。

 

「元は万葉集に入ってる和歌でね、蛍じゃなくて鴨なんだけどさ*11。でも、ちょっと意味が取りにくいよね。恋い慕いながらそばに在らないのは、みたいな感じ?」

 

「いや、その『あり』は補助動詞だろ。現代語でも『枝豆を茹でてある』と『枝豆を茹でた。机の上にある』だと『ある』の意味が違うだろ?」

「あー、なるほど。でもさ、どっちにしても何だか変な意味にならない?」

 

 普段だと、解説の先生というよりはアシスタントのお姉さんといった役割なので、先生役のこうしたやり取りが新鮮に思えてしまう。

 

「たぶん『ずは』で引っかかってるんだと思うけどな。『ず』の否定の意味に引きずられるっつーか。でも万葉の頃だと『〜よりは』みたいな軽い感じになるんだわ。まあ品詞分解するよりも、『つつあらずは』を『〜しているよりは』って意味だと覚えたほうが早いけどな」

 

 八幡の丁寧な解説に頷いて、海老名が口を開く。

 

「じゃあ意訳すると、こんな感じかな。離れた場所で恋い慕っているよりは、鴨や蛍になってもいいから近くにいたい、みたいな?」

「まあ、実現したら実現したで、早く人間になりたい*12って叫んでそうな気もするけどな」

 

 おそらく元ネタも伝わっているのだろう。可笑しそうに身をよじって、そして海老名は。

 

「でもさ。人間のまま遠くで恋い慕ってたり、近くのどうでもいい人と付き合うよりはさ。たとえその身が人外になっても、想い人の近くにいたいと思うけどね」

 

 

***

 

 

 また、一気に現実に引き戻された気がした。

 いつも通りの声で喋ろうとしたが、それができていたとは思えない。

 

「誰か、好きな奴とかいるのか?」

 

 喉の渇きを覚えながらそう尋ねて、口にすべきではなかったと思い直した。だが後の祭りだ。

 

「うーん。いるように見える?」

 

 軽く首を横に振った。そうした動作の一つ一つを、あの目で見られている。無機質な表情の奥に潜んでいる、暗く濁った二つの目に。

 

「ま、仮にいたとしてもさ。上手く行きっこないんだよね。だって私……腐ってるから」

 

 ほんの少し頬を緩めたその表情は、笑っているように見えなくもない。だがその笑顔は凍り付いたまま、それ以上の変化を許さない。きっと、ずっと昔から浮かべ続けてきた笑顔なのだろう。そういえば清水で撮った写真の中の海老名も、今と全く同じ表情だった。

 

「同じクラスの連中とか、なんなら全校にまでBL趣味のことは知れ渡ってるだろ。それでも普通に過ごせてるじゃねーか」

 

 自分でも違うと解っているのに、八幡はこう言うしかなかった。海老名が抱えている闇は、こんな程度で収まるものではない。俺にとってのぼっちと同じだと、そう解っているのに。

 

「ヒキタニくんも、今はぼっちには程遠いよね。でもさ、一人で過ごしたくなる気持ちも解るなーとか、俺もぼっちになりたいなーとか言われたら、どう思う?」

「……すまん」

 

 そうした言葉を口にする連中には、業の深さというものが理解できないのだ。負の側面を認識できないのだ。それを八幡は、他の誰よりも知っていたはずなのに。

 

 二日目の夜に自販機の前で、戸部から「ぼっちになりたいって気持ちも、ちょっと分かるべ」と言われたことを思い出した。

 

 あの時に気にならなかったのは、戸部との関係はしょせんは浅いものに過ぎないからだ。表面的なものだとは言わないし、徐々にお互いの理解も深まっているとは思うが、肝胆相照らす関係には程遠い。

 

 もしも、もっと深い付き合いを求められたとしたら。戸部の前で本音を晒せるかと問われれば、八幡は即座に否と答えるだろう。海老名と全く同じ理由で断るはずだ。

 

 戸部が悪いわけではない。ただ、自分たちが他とは違うだけだ。それも、選民思想のような上から目線の話ではなくて、負の意味で。自分たちは他とは違うのだ。

 

 

 戸部にも、そして三浦にも言われたが、確かに自分と海老名は似ていると八幡は思った。もしかすると、俺が一番こいつの気持ちを理解できるのではないかとさえ思えてしまう。

 

 きっと、同じようなことを考えていたのだろう。

 

「だからさ。私、ヒキタニくんとなら付き合えるかもね」

「……あのな。海老名さんにそう言われたら、その冗談を真に受けてうっかり惚れてしまうまであるけどな。行き着く先は地獄だって解ってるだろ?」

 

 海老名がいつも通りの呼び方をするのは、そういうことなのだろう。だから八幡も、いつも通りの呼び方で応じる。

 

 もしも付き合ったとしたら、今日ここまでで何度か思い知らされたように、意外と楽しい時間を過ごせると思う。あの二人とはまた違った付き合い方ができると思う。

 

 だが、先ほど妖精二人に止められた時のように。深刻な場面に直面したら二人して負のスパイラルに陥ったまま、浮かび上がれない可能性が高い。

 

 だから、自分にとって海老名は特別な異性とはなり得ないし。

 海老名にとって自分は特別な異性にはなり得ない。

 

 

 それでも、友人として関係を築くことはできる。そもそも、自分にとっての特別な存在が大切に思っている相手だ。築かないという選択はない。

 

 それに、海老名の気持ちを自分ほど深く理解できる者はおそらくいない。冗談のやり取りを重ねて、お互いに特別ではないと判明してもなお、先程のその直感を八幡は信じられた。

 だから、問う。

 

「なあ。BL趣味って、表に出してるやつだけじゃないよな。ついでだし、ここで一回ぶちまけてみるか?」

「うーん、そうだね。ヒキタニくんが聞いてくれる機会なんてもうないだろうし、じゃあお言葉に甘えちゃおうかな」

 

 そう言った海老名は、かすかに笑った気がした。いつもの笑い顔がほんのわずか崩れた気がした。

 

「早い話がね。私にとってのBLは精神的なものじゃなくてさ。もっとしっかりと肉体を伴ったものなのよ。私の絵や小説を楽しみにしてくれている子たちが全員、裸足で逃げ出しかねないようなレベルのやつね」

 

 その答えは予測していたので、八幡に混乱はなかった。だが少しだけ気になることがある。

 

「千葉村でな、小町に見せてログハウスを追い出した絵があっただろ。こっちに合流させるためにわざとやったのは解ってるし、感謝してはいるんだけどな。あれがその手の、どぎついやつだったのか?」

 

 少しだけ楽しそうに、同時に哀しそうに海老名は首を横に振った。

 

「あれは特定の部分をデフォルメして、インパクトを煽っただけの絵だからさ。そういうのとはまた違うんだよね。もっとがっちりと匂い立つような感じでさ」

 

 どうせ伝わりっこないと、そう海老名は思っているのだろうが。できれば思い出したくはないものの、八幡には心当たりがあった。

 

「たしか修学旅行の班決めの時だったよな。教室で鼻血を出した時に、『挿されてさされてサされる』とか言ってた記憶があるんだが。要するに、その手のやつだろ?」

 

 一瞬だけ不思議そうに目をしばたたいて、すぐに思い出したのか「あー」と言いながらも海老名は平然として見えた。いや、違う。これは少し照れているなと八幡は思った。これだけ話し込んでいると、微妙な表情の変化にも慣れて来たようだ。

 

「あの時は、とべっちをきっぱり振る展開になるんだろうなーって、微妙に憂鬱な時期だったからね。ちょっと素が出ちゃってたかー。まあ、あんな感じのリアルな絡みを求めてるって話でさ」

 

 そのまま誤魔化されても良かったのだが、つい魔が差して。思い付いた疑問を口に出してしまった。

 

「なあ。三人に挿されるのってリアルじゃなくね?」

「えっ、なんで?」

「いや。なんでって、その、あれだ。入れるところが足りてないだろ?」

「だってお口でしょ、お尻でしょ、それからやおい穴……」

「ねーよ。やおい穴なんて、そんなもん無いっつーの!」

 

 目の前できょとんとしている海老名を可愛いと思ってしまったのが少し悔しい。それに細かな説明を求められても困る。だから八幡は、無いものは無いという一点張りで乗り切った。どっと疲れた気がする。

 

 

「でもさ。たぶん結衣のために心配してくれてるんだろうけどさ。私の趣味は私だけのものだから。誰にも理解できないだろうし、理解されたくもないんだよね。もしも他人に求めるものがあるとしたら、それとは別の話でさ」

 

「あれだろ。解ったようなことを言われたくないってやつだろ。……俺がそうだからな」

 

 例えば「ぼっちで可哀想」とか「ぼっちでつらかったよね」とか、その手の言葉を告げられると虫酸が走る。誰かの価値基準を押し付けられるようなことは、御免こうむりたいのが本音だ。

 

「だねー。そんな趣味は止めなさいって言われるのも何だかなーってなるけどさ。きっと誰かが解ってくれるから表に出してみたらって、それでみんなに引かれたら責任とか取れないくせにさ。解り合える尊さとか、そんな空想論で勧められると、ほんと何だかなーだよね」

 

「そういう奴って結局最後には、こっちに責任を振るんだよな。ぼっちが楽しいなんて、あの子の考えが理解できませんとか何とか言って。あれだけ努力したのにとか自分は悪くない系の言葉を並べ立てて、こっちを否定しに来るんだよな。お前は助けに来たんじゃなくて刺しに来たんだろって、白い目で見たくなるわ」

 

 その手の連中への憤りがあるのも確かだが。こうして一緒に不満を言い合うのは、きっと悪いことではないだろうと八幡は思う。というか、言い始めの頃は計画的に誘導していたつもりだったのに、今や自分も感情的になっている気がする。

 

「あとさ。カチンと来るのはあれだよね。今までは我慢できたんだからって、こっちに忍耐を求めてくる人が時々いるよね」

「お前のその減らず口を聞いてやってる時点で忍耐力は相当なもんだぞって、言ってやりたくなるよな」

「そうそう。あとはあれかな。我慢できてたってことは、その程度の想いなんだろってやつ。あれねー、ほんとどうにかしてって思うんだよねー」

 

 うんうんと首を強く縦に振って、すっかり冷静さを失っていた自分に気付いた。海老名を乗せるつもりが、実は乗せられていたのかもしれないと疑念を抱くと同時に。自分もこれだけのものを知らず知らずのうちに溜め込んでいたんだなと八幡は思った。

 

 だから、どうせならこのまま愚痴を言い合って盛り上がろうと考えて。

 

「せめてあれだよな。人によって我慢の限界が違うぐらいは理解して欲しいよな」

「だってさ。想いの強さを、外に出て来たものだけで測るんならさ。おもちゃが欲しいって泣き喚いてる子供なんて最強じゃん」

 

「そういう我慢を知らないお子様に限って、すぐに飽きたりするんだよな」

「そうそう。だから私はさ、恋愛ものであるじゃん。気持ちを抑えきれなくて行動に出ちゃうみたいなやつ。ああいうのは苦手なんだよねー」

 

「あー、なるほどな。俺もそういうパターンだと、行動に出た連中の後ろで気持ちを隠して我慢してる奴の方がなんか気になるな。つか、その方が偉いよな。でも変な解釈をする奴がいてな、自己犠牲だなんだって美談にしたがるんだよな。それもどうかと思うわ」

「美談っていうか、良い話だなーって感じにまとめようとするのは勘弁して欲しいよねー」

 

 そんなふうに身も蓋もない事を言い合っている二人を、空中から見守っている二人の妖精がいた。もう自分たちが口をはさむ必要はないと、そんな表情を浮かべている。

 

 

「ふう。なんかすごい喋った気がするな。あんま人には聞かせられない話だった気もするが」

「たまにはこういうのも悪くないねー。本当はさ、謝ることは謝って、それからヒキタニくんを元気付けられるなら少しでもって考えてたのにさ。自分が元気付けられちゃったら駄目だよねー」

 

「いや、でも駄目ってことは無いんじゃね。俺もなんか愚痴ってたら気持ちが軽くなったしな」

「うん、その気持ちも分かるんだけどさ。でも、さっきの話を蒸し返すとね。好きなものを我慢して表に出さずに、みんなが好きそうなものだけを出してる自分ってさ。私はやっぱり、嫌い。それと同じ」

 

 海老名が何でもない口調で、しかし思いの丈を込めて「嫌い」と呟いても、八幡はもう現実に引き戻されたとは思わなかった。くだらない話も、漫画や小説のネタ話も、この手の真面目な話も。前向きの建設的な話も、後ろ向きの愚痴も。それら全てに価値があって、同時に無価値だという気がした。

 

 ただ一つ、嫌いと言わせて終わるのだけは締め括りに相応しくない気がして。八幡は口を開く。

 

「自分が嫌いって言うんなら、俺も同じだな。むしろ嫌いすぎて好きになるまである」

「だねー。私もさ、どうしようもないことを言えちゃう自分は嫌いじゃないかな。こんな話に付き合ってくれたヒキタニくんのこともさ」

「奇遇だな。俺も海老名さんのことは嫌いじゃないな」

 

 ふっと、確かに笑われた気がした。作った感じがまるでしない、そんな笑い方に見えた。だからそのまま反応を窺っていると。

 

「ヒキタニくんってさ、興味のない相手には露骨だよね。それ、優美子にも言われなかった?」

「うげっ。もしかして、なんか聞いたのか?」

 

 予想外のことを言われて、三浦とたこ焼きを食べた夜のことを思い出していると。

 

「あ、やっぱり優美子の雰囲気が変わったのはヒキタニくんと話したからかー。確証はなかったんだけど、これで裏が取れたかな。結衣も不思議そうにしてたけど、当分はないしょにしておくね」

「……頼むから勘弁して下さい」

 

 そう言いつつも、人を食ったような態度に戻った海老名は素敵な女の子だなと八幡は思った。自分にとっては特別な異性ではないけれど、戸部が惚れるのも納得できる。

 

 

「そろそろ戻ろっか。おかげでヒキタニくんと楽しい話ができたし、チャーンとニーナもありがとね」

「あのな。ちょっと弱みを握ったぐらいで安心するなよ。ほら、昔から言うだろ。男子三日会わざればって*13

「三日会わざれば引き籠もりを疑えってやつだよね。今のヒキタニくんが引き籠もりになっちゃったら、心配する子は多いだろうなー」

 

「おい。その続け方はどう考えても変だろ?」

「うーん、まだ本調子じゃないのかなー?」

「いやま、面白いのは面白いっつーか、そう来たかって感じだけどな」

「じゃあいいじゃん別に。それよりほら、妖精さんとお別れしないと」

 

 プラットホームを戻りながら、そんなふうに雑談を続けていると。先導してくれていた妖精二人が、ちょうど中間点ぐらいで止まっている。空中に浮かんだまま、こちらを振り返って来たので。

 

「もう会う事はないのかって思うと、ちょっと寂しいな。今日は助かった。ありがとな」

「うん、私もありがと。さっき『しんこきゅうしてー』って言われたことは、ずっと覚えてるからね」

 

 東京駅で駅長さんと約束したことを思い出した。海老名はたぶん、深い意味を込めて口にしたわけではないのだろう。だがその言葉が、NPCにとってはこの上ない贈り物になるのだ。

 

 二人並んでふっと笑みを漏らして。八幡と海老名は妖精たちに背を向けると、そのまま一度も振り返らなかった。

 

 

 プラットホームを歩き切って、目の前の壁に向けて歩を進める。少しだけ速度を緩めて、右手を前に出しながら近づいて行くと、制服の裾の辺りに軽い感触を覚えた。気が付かないふりをして、そのまま壁を抜けようとして。強く引っぱられたので足を止める。

 

「なあ。今の俺って、壁に半分めり込んでる状態なんだが。なんかあったのか?」

「うーんと……さっきの話だけどさ。えっと、我慢できるって話」

 

 首を傾げたくなる気持ちを抑えて、とりあえず頷いてみると。めずらしく俯きがちになって、海老名が話を続けた。

 

「たぶんヒキタニくんも同じだと思うんだけどね。仲の良い同性の子が好きな相手ってさ。どんなに気になっても、私は我慢できると思う」

「……そうか。まあ確かに、俺もそうだろうな」

「うん。そうだと思った。じゃあ、私は先に行くね」

「あ、おい」

 

 駆け出した海老名を思わず追いかけて、気付けば壁を抜けていた。京都駅の西口が目の前にあって、海老名は向かって左のトイレの方に走っている。

 

 追い掛けるべきか否かと、その場で迷っていると。海老名が足を止めて振り返った。

 

「結衣とのこと、頑張ってね。ありがと、比企谷くん。……バイバイ」

 

 そう言い残して海老名はトイレに消えた。そのまま元の世界に戻るのだろう。

 

 八幡は何となく同じトイレを避けて、新幹線の構内へと歩を進めた。そこのトイレで別空間とお別れをして、帰りの新幹線が待つホームに上がる。

 

 

 八幡はメッセージアプリを立ち上げて、本文に『昨日の返事をしたいから、東京駅で解散後に、丸の内中央口で』と書いて。迷った末に、それを二人に宛てて送った。

*1
ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」にある”To be or not to be, that is the question.”を念頭に置いている。

*2
J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ(1997年〜2007年)に登場するヴォルデモート卿のお言葉。

*3
上記シリーズに登場する、とある人物の名前を並び替えると、”I am Lord Voldemort.”になる。

*4
川原礫「ソードアート・オンライン」(2009年~)に登場する少女で、プレイヤーのメンタルヘルスカウンセリングを担う予定だった。

*5
西尾維新「物語」シリーズ(2006年~)で、主人公の名前を間違えた八九寺真宵が口にするセリフ。

*6
上記の場面で主人公が口にするセリフ。

*7
椎名高志「GS美神 極楽大作戦!!」(1991年~1999年)で横島忠夫がGS試験中に言い放った言葉。

*8
上記の横島が修得した反則級の特殊能力。

*9
上記作品に登場して多くの読者を涙させた、夕陽が好きな健気な魔族。

*10
上記作品の32巻最終話「甘い生活!!【その1】」扉絵。

*11
大伴坂上郎女「(よそ)()て 恋ひつつあらずは 君が(いへ)の 池に住むといふ 鴨にあらましを」万葉集・巻四・七二六

*12
「妖怪人間ベム」(1968年〜1969年)に出てくるセリフ。

*13
男子三日会わざれば刮目して見よ。




次回の更新は、性懲りもなく今週末を予定しています。でも来週に延びたらごめんなさい。
20日の夜までに本章を終えるという当初の目標は絶望的ですが、できるだけ早く更新して心置きなく13巻を読みたいなと思っています。13巻を先に読んで変更すべき部分は取り入れるべきだと考え直したので(誘惑に負けたとも言いますが)、次回更新は早くて月末、おそらく来月初めになります。ごめんなさい。

それと以前に予告していた初期の手直しの件ですが、とりあえず区切りの良い1巻11話までは修正ができたので新しいものに差し替えました。
特に、ラストを除いて新しく書き直した1巻04話について、良い悪いだけでも構いませんのでご感想を頂けますと助かります。

新しく導入された脚注機能が手探り状態なのと、改行の割合が不安定なままですが。以前より少しでも読みやすくなっていることを願っています。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
後書きを修正しました。(11/25)
細かな表現を修正しました。(12/17,28)


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16.きもちを確かめ合って彼と彼女は次へと進む。

祝、13巻発売。

本話は文字数が多いので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→143p1

以下、前回のあらすじ。

 修学旅行は最終日を迎え、八幡は京都駅で海老名と話をすることになった。他の生徒の目を避けるために、二人は貸し切り空間に移動する。

 別空間に移動する直前の海老名を目撃して、雪ノ下は昨夜来の悩みごとを振り返る。恋愛の何たるかも、自分がどうしたいのかも分からないまま、結果を受け入れるしかない現状を確認して。それでもNPCや恩師の言葉をよすがに、雪ノ下は気持ちを切り替えて前を向いた。

 京都駅の扉をねぎらったり、メンタルケア担当の妖精と喋りながら、八幡は海老名との会話を進めていった。由比ヶ浜のこと、こんな展開を望んでいなかったという想い、海老名が抱えている深い闇。それらを共有しながら、二人はお互いをより深く理解していく。

 ぼっちとBLという宿痾を抱えた者どうし、解り合えることはたくさんあった。周囲への愚痴を言い合って、二人は自分の中に溜め込んでいたものを吐き出して気持ちを軽くする。ただ、お互いにとって特別な異性とはなり得ないなと八幡は思った。

 別れ際に海老名は、想いの強さよりも我慢が勝る自分の性格を伝えた。八幡も同じだと確認して、一足先に元の世界へと戻る。

 それを見送った八幡は別空間を後にして、二人に宛ててメッセージを送った。



 新幹線が動き始めてしばらくしてから(たぶん滋賀と岐阜の間ぐらいだ)、まずは直接の当事者からメッセージが届いた。

 

 わずか数文字の「うん、わかった」という返事に、どれほどの想いが込められているのだろうか。比企谷八幡はその心情を思って少し瞑目して、そして傍らに目を向けた。

 

「バスでもよく寝てたけど、寝る子は育つってやつかね」

 

 可愛らしい寝顔をカメラに保存したり、瑞々しいほっぺを指先で触れたいと思いながらも、八幡はぐっとこらえた。

 

 戸塚彩加にはこの旅行中にもずいぶんと助けてもらった。直接の手助けができる場合はもちろんのこと、自分の手に余ると思えば躊躇なく材木座義輝に連絡してくれて。

 

 昨夜は考え事をしていたので寝るのが遅くなったのだが。時間は短いとはいえ熟睡できたのは、戸塚と材木座のおかげと言っても過言ではない。だからゆっくり寝かせてあげようと八幡は思った。

 

「それよりも、っと。どんな返事が返ってくるのやら」

 

 漠然とした予感を抱きながらも、それを深く考えないようにして。八幡はリクライニングに背中を預けて、解散後のやり取りに備えて身体と頭を休めようと試みる。

 

 それでも気が付けば、時間を頻繁に確認している自分がいた。

 

 被害妄想じみた思考が頭をもたげるのを、何とか抑えつけながら。八幡は可能な限り頭を空っぽにして、疲れを癒やそうと考える。そして無意識に時計を確認して、また正気に戻る。その繰り返しだった。

 

 

 メッセージが届いたのは、名古屋を出てしばらくしてから。そろそろ富士山が見えるかなと、思い始めた矢先のことだった。

 

『会長選挙のことが気になるので、解散後に高校に顔を出そうと考えています。それに加えて別件で用事が入っているので、そちらには行けません。私が同席する必要はないと思うのですが、由比ヶ浜さんへ。良かったら後日、詳しい話を教えて下さい』

 

 肩の力が抜けると同時に、自分が想い悩んでいたことが馬鹿らしくなってきた。

 

 考えてみれば、あの部長様はご多忙な身なのだ。以前にはあった他人を寄せ付けない雰囲気は影を潜め、頼りがいのある姿を何度も衆人の前に晒している。こちらの相手ばかりをしていられる身分ではないのだ。

 

 不参加の理由が明確なのを見て、落胆と安堵の息を漏らした八幡は。どうして返信にこれほど時間が掛かったのか。どうしてわざわざ詳細に理由を伝えてきたのかと。そんな当たり前の疑問に思い至らなかった。

 

 

***

 

 

 品川の手前でふと目覚めた。すぐ隣には相変わらず可愛らしい寝顔がある。あれからすぐに寝落ちしたんだなと考えながら。体力の回復を実感して、これなら大丈夫かなと八幡は思った。

 

「んじゃま、お疲れ」

 

 東京駅に着いて教師のお言葉を聞き流して。解散となった後は、戸塚を始めとした同じ班の連中と一言二言のやり取りを交わして。このまま千葉に戻るという一同を見送った八幡は、駅ナカへと足を向ける。

 

 適当にぶらっと歩きながら、八幡は別れ際の光景を思い出していた。

 

 

 見送った中には女子のトップカーストの面々も含まれていたのだが、男子と一緒に帰るのは三浦優美子だけだった。その三浦は、名残を惜しんで群がる女子生徒たちに端的な、しかし親密さを感じさせる別れの言葉を伝えてから、さっさと在来線のホームに移動した。

 

 葉山隼人の周囲には、珍しいことに他の生徒の姿がほとんどなかった。遠目から軽く手を挙げて別れを告げられる光景は多く見たが、近くまで来たのは大和と大岡ぐらいだ。その二人も、どちらかといえば葉山よりも戸部翔と話している時間のほうが長かったように思う。

 

 地主神社で聞いた「俺が優美子と一緒にいるほうが、あいつらも気が楽みたいでさ」というセリフを思い出して。名状しがたい想いが湧き上がりそうになるのを堪えて一つ息を吐くと、八幡は頭を切り換えた。

 

 三浦以外の女子三人も、それぞれ別の女子生徒たちに取り囲まれていた。楽しかった修学旅行を、せめて一言でもトップカーストと会話を交わすことで締めくくりたいと考えて群がっているのだろう。

 

 そんな生徒たちに、一人は楽しそうに、一人は自由気ままに、一人は戸惑いながらも、三人はいずれも丁寧に応対していた。誰が相手でも何人いようとも決して疎かにはしない。あのぶんでは、解放されるまでもうしばらく時間が掛かりそうだ。

 

「早めに切り上げるとか、そんな気の使われ方は嫌だからな」

 

 目の動きだけで駅ナカを示して、首を軽く横に振って「急がなくて良い」という気持ちを伝えて。よく見ないと判らないぐらいの動きだったが、話が落ち着いたタイミングでこちらにちらっと視線を向けて軽く頷かれたので、意図は伝わっているはずだ。

 

 変に謝られるような表情じゃなくて良かったと八幡は思った。解散と同時に自由に行動できるのはぼっちだけの特権で、普通はあんなふうに時間が掛かるのだと、それに気づけなかったのは自分のせいなのだから。

 

 続けて、もしもの話に思考が向きそうになったので、それを無理やり遮って。心を落ち着けて頭を無にして、八幡はしばし駅構内を徘徊した。

 

 

『もうすぐ動けると思うけど、みんなけっこう残ってるよね。どうしよっか?』

 

 このまま帰りたくないという気持ちが強いのか、駅構内には同じ制服の連中をちらほら見かける。それに待ち合わせに指定したのは丸の内中央口だが、よくよく考えればすぐ横の階段からは地下にある総武線のホームに移動できる。つまり人目に付きやすい場所だ。

 

 昨日から今日にかけて使い過ぎという気もするのだが。仕方がないので八幡はまたも裏技に頼ることにして。

 

『別空間に行っても良いなら、同じ場所で。ただ、俺と二人きりでも大丈夫か?』

『え、ぜんぜん大丈夫だよ。じゃあ、あっちの丸の内中央口だね』

 

 男子と二人きりだと怖いという話を思い出して気を使ってみたものの、またもや平然と返されたので。八幡は苦笑を浮かべながら能力を発動して、別空間への招待状を送付した。

 

 そのまま丸の内中央口に足を運んで、近くにあったトイレから貸し切り空間に移動する。

 

 誰もいない改札口の前で立ち止まって。ようやく八幡は、一連のメッセージにいっさい絵文字がなかったことに気が付いた。

 

 

***

 

 

 女子生徒たちの集団に手を振って、地下へと下りる階段の前で見送り終えると。海老名姫菜はすぐ横の二人を順に見やって、一つ頷いてから歩き始めた。三人とも喋りどおしだったので、無言で意図が伝わるとほっとする。

 

 途中のトイレで一人を見送って、そのまま二人並んで丸の内北口まで歩いて行くと。そこには、雪ノ下雪乃の姿があった。

 

「はろはろー。お待たせしちゃったかな?」

「いいえ、私もつい今しがた着いたところよ。海老名さんも川崎さんも大勢に囲まれていたように見えたのだけれど、大丈夫だったかしら?」

 

 二年J組の女子生徒に囲まれながら、わざと改札口の場所を話題に出してルートを何度も確認したので、今回はさほど迷わずに辿り着けた。つい先ほど着いたばかりなのは同級生と話が弾んだのが原因であって、他に特別な理由は何もない。そう、何もないのだ。

 

「サキサキは慣れてないからか疲れちゃったみたいだけど、私は大丈夫だよー。でもさ、ここで話すのもなんだし、どうしよっか?」

 

 

 この集まりの発端は、新幹線の中で海老名が送ったメッセージにあった。

 

『できれば奉仕部の一人一人に謝りたくてさ。結衣とヒキタニくんとは話を済ませたんだけど、解散後に少しでいいから時間を取ってもらえないかな?』

 

 それと相前後して、川崎沙希もこんなメッセージを送っていた。

 

『あんたに話しておきたいことがあるんだけどさ。東京駅から帰る前に、ちょっとの時間でいいから話ができないかな?』

 

 三通のメッセージを受け取った雪ノ下は、軽く額に手を当てて。感情ではなく理性によって結論を下した。自分に参加資格があるとは思えないお誘いに対して、まずは最初に断りを入れて。次に二人に宛てて返事を送る。

 

『貴女たち二人に断りなく、返信をまとめる形になってごめんなさい。二人とも私と話をしたいとの事で、その内容は判らないのだけれど原因は同じだと思ったので。三人で話しても大丈夫なら、解散後に丸の内北口にて。別々が良ければ、同じ場所で待ち合わせて順番に話す形で。他に希望があれば教えて下さい』

 

 海老名にも川崎にも否やはなかったので、こうして珍しい三人の会合が実現したのだった。

 

 

「私に一つ案があるのだけれど。海老名さんと川崎さんは、話をNPCに聞かれても大丈夫かしら?」

「うーんと。他の生徒に聞かれるのは避けたいけど、NPCなら私は平気かな。サキサキは?」

「さっきから黙って聞いてたけどさ、あんたサキサキ言い過ぎ。でさ、あたしも大丈夫だよ。どこか当てでもあるのかい?」

 

 二人の仲が深まっているのが伝わってきたので、少しだけ目を細めて。

 

「現実の世界で駅長室に入ったことがあるのだけれど。そこを差し押さえ……ごほん場所を提供させれば、ゆっくりと話ができると思うのよ」

「あんた、言い直しても意味があんまり変わってないの解ってるよね?」

 

 川崎が呆れ顔で指摘するが、言った方にも言われた方にも険悪な雰囲気は微塵もない。二人のやり取りを傍らで観察していた海老名は。

 

「いいじゃんサキサキ。言葉を曖昧にしない雪ノ下さんは、私はアリだと思うなー。じゅるっ。ついでにTSして燕尾服でも着たら格好良さが際立つだろうし。一緒にTSした後輩のあの娘とかをエスコートしてダンスを踊ってくれたらもう最高じゃん!」

 

 言葉の意味を追及すべきではないと判断した二人はそっと目配せを交わして。海老名が少しずつ普段の調子を取り戻しているのは喜ばしいが、反応に困る場面が増えそうだなと。そんな感情を共有した。

 

 そして雪ノ下の指示を聞いた川崎が先導する形で、三人は駅長室へと向かうのだった。

 

 

***

 

 

 三人を出迎えてくれたNPCの駅長に向けて、雪ノ下は己の立場を伝えた。

 

 父の会社が東京駅の改修工事に参加した関係で、かつてこの部屋に招待してもらったこと。その際に当時の駅長から「友達を連れていつでも遊びに来て良い」と言質を取ったこと。他の生徒には聞かれたくない話をしたくて、ふとこの場所を思い出したこと。

 

 現実世界での約束はここでも通用するのかと尋ねる雪ノ下に、駅長は鷹揚に頷くことで返事に代えた。

 

 

 雪ノ下の言葉に嘘はないのだろうが、よくこんな無茶を通すよなと呆れる川崎の目には、駅長さんが少しびびっているように見えた。初老の紳士を前にして怪しい笑顔で何やら考え込んでいる海老名の存在も、おそらくは影響しているのだろう。

 

 自分だけが普通の感覚を持っていると思いたいが、周囲が異常だらけだと自分が間違っているのではないかと思ってしまう。首を軽く振って、そうした気持ちを払いのけて。三人が横並びで座っているソファから身を乗り出すようにして、川崎は雪ノ下に話しかけた。

 

 

「あんまり長い時間お邪魔するのも悪いからさ。あたしの話を先にするね」

 

 そう言うと右隣の海老名がソファに深く腰掛けてくれたので、その先に座る雪ノ下とも話がしやすくなった。楽な姿勢に座り直して、川崎は昨夜の出来事を語る。八幡に想いを伝えて、断られたという話を。

 

「由比ヶ浜には昨日のうちに謝ったんだけどね。あんたにも直接話しておきたいって思ってさ」

「そう。でも……私は何と答えれば良いのかしら?」

 

 冗談めかした喋り方をしたものの、それは紛れもなく本心だった。こんな時にどう反応すれば良いのか、雪ノ下には解らないのだ。

 

「えーっと。普通は順番が逆だと思うんだけど、雪ノ下さんには先にこう訊いたほうが早いかな。要するに、恋愛感情はないって考えてるんだよね?」

「……ええ、そうね」

 

 二人の会話を聞いた川崎は一瞬だけ意外そうな表情を浮かべて、すぐに納得顔になった。

 雪ノ下は、どうして返事が一拍遅れたのかと自分の反応を訝しがっている。

 そして海老名は、そんな二人に向かって頷きながら。

 

「じゃあさ。私が比企谷くんを取っちゃっても、問題ないってことだよね?」

「それは……いえ。由比ヶ浜さんの気持ちを知っていながら、貴女にそんなことができるとは思えないのだけれど」

「そうだね。あたしも雪ノ下に賛成かな」

 

 海老名が呼び方を変えたことが逆に引っかかって、雪ノ下はすぐに平静を取り戻した。

 奇襲が失敗した海老名は、特に気落ちした様子もなく平然としている。

 そして川崎は、いったん言葉を切ったものの。すぐに再び口を開いた。

 

「でもさ。海老名があいつに惹かれるのは、何となく分かる気がするよ」

「そうね。私も川崎さんに賛成ね」

「予想外に二人の連携がバッチリなんだけどさ。これって墓穴を掘っちゃった形?」

 

 こちらから見て右手側、お互いが垂直の位置になるように並べられたソファに腰掛けたまま、居心地悪そうにしている駅長さんにちらりと視線を送って。瞬時に気持ちを落ち着けて、海老名はそう返した。

 

「海老名さんなら、墓穴と見せかけて別の落とし穴を用意していても不思議ではないと思うのだけれど?」

「ああ、確かにそれは有り得るね。でもさ、この三人で化かし合いをしても仕方がないし。話が早く済むなら、あたしはそのほうが助かるんだけど?」

「はい、こうさーん。私の気持ちがどこまでなのかは秘密だけどさ。興味があるのは確かかな」

 

 両手を開いて軽く持ち上げながら、この件に関しては反論する気はないと伝えると。頷いている二人をちらちらと確認して、海老名はそのまま言葉を続けた。

 

「それよりさ、サキサキも雪ノ下さんも容赦ないよねー」

「あら。私は褒めたつもりだったのだけれど」

「あたしは経験則かな。その、イヤって意味じゃないんだけどさ……」

 

 同じクラスで付き合いを重ねている川崎が、少し怯んだのを見て。いい育ち方をしてるなぁと思いながらも容赦はしない。わざと足先をぶらぶらさせて、のんびりとした口調で。

 

 

「サキサキはさ。気持ちを思わず伝えたくなるぐらい、本気だったんだよね?」

「うっ……まあ、そうだね。でもさ、あの瞬間まではそこまでとは思ってなくてさ。ましてや告白なんて、考えたこともなかったのにね」

 

 川崎の言葉を聞いて、雪ノ下は難しそうな表情で考え込んでいる。

 一方の海老名は、京都駅での最後のやり取りを思い出していた。

 

「気持ちが抑えられなくて、衝動的に言っちゃったってこと?」

「うん……いや、ちょっと違うかな。その、気持ちが抑えられなかったのは確かだけどさ。好きだって言ったのは、衝動なんかじゃなくてね。今この瞬間の気持ちをきちんと伝えようって、ちゃんと伝えたいなって思ったから、口に出したっていうかさ。うまく説明しにくいんだけど、その辺りの違いって分かるかな?」

 

 反射的に頷きはしたものの、海老名は敢えて何も言わなかった。

 話を聞きながら時おり頷いていた雪ノ下は、首の動きを止めて少し考えた後に口を開く。

 

「川崎さんの中にしっかりとした感情があって、それを自覚したので意識して口に出したと。そんな感じかしら?」

「ああ、そんな感じだね。あたしもあの時はさ、言わないほうが良いんじゃないかって短い時間でものすごく悩んだんだよね。今まで生きてきて、一番頭を使ったかもしれないぐらいにさ。だから海老名に悪気がないのは分かるんだけど、衝動で言っちゃったって言われると、ちょっと違うかなって」

 

 言い終えて海老名を見ると、眼鏡がきらんと光った気がした。いや、光っているのは眼鏡の奥の両目だろうか。

 

 普段は感情の動きが分かりにくいのに、今だけは気持ちがそのまま伝わって来る。

 自分の言葉を聞いて喜んでくれている。

 昨夜の行動を認めてくれている。

 そんなふうに感じられた。

 

「私の個人的な好みの問題かもしれないけどね。ぽっと出の感情とか衝動なんかに突き動かされて行動するよりさ。その衝動を表に出すか出さないか、そこに明確な意思が込められているほうが絶対にいいって思うんだよねー」

 

 うんうんと頷きながら自分の価値基準を披露した海老名は、その言葉以上に表情で、川崎の行動をはっきりと肯定する。

 だがその横で雪ノ下は、再び難しい顔になっていた。

 

 

「なるほど。生命衝動に由来する盲目的な意思を否定*1する点では、ペシミズム*2にも通じるものがあるわね。ただ……私には貴女の趣味が理解できないのだけれど、そうした衝動を大事にして欲しいとも思うのよ。少なくとも、解脱とかニヒリズム*3とか、そうした方向には行って欲しくないわね」

 

 もしも部員の二人がここにいれば、雪ノ下が誰を想定して話しているのか瞬時に理解できただろう。もしも顧問がいれば、文化祭直前の話し合いで()()が口にした「虚無主義」について、真面目に調べたのだなと苦笑を浮かべていただろう。

 

 いきなり小難しい話になってしまったので、目を白黒させながら。海老名が何とか口を開いた。

 

「うーんと、私はペシミズムって嫌いじゃないんだけどさ。感覚的に使ってるだけで、哲学的な意味とかって正直あんまり解ってないんだよね。だからざっくりとした理解になるんだけど、要するに意思だけでも衝動だけでも不十分だって言ってくれてるんだよね。ちなみに解脱ってあの解脱だよね。枯れた境地に至るって感じの」

 

 頭を抱えながら話を追うのがやっとという様子の川崎とは違って、雪ノ下は余裕の表情だ。どこかの誰かと理解の仕方が似ているなと思いながら。海老名の疑問に少しだけ吐息を漏らして微笑んで、そのあとに言葉を続けた。

 

「悟りの境地と言うべきなのだけれど。それを『枯れた』と言ってしまえるうちは大丈夫そうね。貴女が趣味への意欲なり衝動なりを素直に表に出しているのを見ていると、少し羨ましくなる時があるわ」

 

 それは()()()()には無いものだから。より正確には、もっとひどい病的な何かしか持ち合わせていなかったから。

 

 だからこそ、海老名には失って欲しくないなと雪ノ下は思った。

 

 昨夜のあの発言が感情の発露に当たることに、雪ノ下はまだ気づいていない。

 

 

「そっかー。雪ノ下さんにそう言われたら、私ももうちょっと考えてみるかーってなるよね。だから、反論ってわけじゃないんだけどさ。感情が意思よりも先に出たら、何か良い事ってあるのかな?」

 

「……あのさ。たぶん雪ノ下が言ってるのって後先の問題じゃなくてさ。えっと……あたしを例にするとね。もしも気持ちを伝えなかったとしても、伝えないって結論を下した意思だけが大事なんじゃなくてさ。もともとの感情も大切にして欲しいとか、そんな意味じゃないかな?」

 

 少し恥ずかしそうに下を向きながら、ぽつぽつと。でも一言一言をしっかり考えて口に出しているのが伝わって来る。

 

 それを聞く二人は頬を緩めながらしきりに頷いて。最後に視線を合わせて、一つ大きく首を縦に動かした。

 

「私は、感情を押し殺して我慢ができちゃう性格だからさ。たぶん雪ノ下さんもそうかなって思うんだけど。サキサキが言ってくれたのは、外に出さないからって、心の中でまで感情を抑え付けなくても良いって事だよね。うん、それは確かにそうかも」

 

 迷いが一つ消えたような顔つきの海老名に続いて、同じ表情を浮かべた雪ノ下が口を開く。

 

「私もよく陥りがちな事だから、折に触れて自分に言い聞かせているのだけれど。川崎さんに上手くまとめてもらって、海老名さんに補足してもらって、何だか新しい教えを受けたような気分ね。つまり、私の心は自由なのだと。感情については、まだ解らない事も多いのだけれど。一つ一つの感情を、もっと大切に扱ってあげるべきかもしれないわね」

 

「あたしもよく解らないことが多いから、偉そうなことは言えないけどさ。小さい子がいつの間にか立って歩けるようになったり、気が付いたら自転車に乗れるようになってるみたいな感じでね。恋愛感情とか、気持ちを伝えたいって想いとか、『これがそうなんだ』ってふっと気づくような感じでさ。だから、うん。もし二人がそんな感じになったら、それを誤魔化したり気が付かないふりとかしないでさ。大事にして欲しいなってあたしは思うよ」

 

 川崎の言葉をしっかりと受け止めて、三人は視線を交錯させた。

 

 そのすぐ横では、ずっと蚊帳の外だった駅長さんがゆったりとした微笑みを浮かべて。三人の行く末を静かに祝福してくれていた。

 

 

「この三人で話せて良かったーって感じだねー。あ、そうだ。私の用事を忘れてたよ」

 

 そう言って海老名は何やらごそごそとファイルを漁っていたかと思うと。大きな色紙を具現化して、それを裏向きに膝の上に載せた。

 

「えっとさ。とべっちと私のことが原因で、奉仕部の関係が変わるような事態になっちゃって。サキサキの告白もだし、色んなところに影響が出ちゃったんだよね。でさ。たぶん、迷惑を掛けたとかごめんとか言うのは、違うだろうなって思ってさ。だから、雪ノ下さんにあげようと思って絵を描いてきたんだけど。趣味は反映させてないから、これ、受け取ってくれないかな?」

 

 色紙の両端をしっかりと握りしめながら言い終えると、審判を待つような気持ちがした。でも、本当はそうじゃない。雪ノ下はここで否と言うような性格ではないと、十二分に理解しているから。だからこれは単なる禊の儀式に過ぎない。それでも、けじめは必要だ。

 

「ええ、喜んで受け取らせて頂くわね。表の絵を見ても良いかしら?」

 

 そう言われて、思っていた以上に肩の力が抜けた自分に気が付いて。たとえ結論が明らかでも、話の重要度に応じて緊張するのは当たり前じゃないかと海老名は思った。

 同時に、雪ノ下との関係を大切に思う自分にも気が付いて。あの二人と出逢えたおかげで、自分を取り巻く世界がどんどん広がっているのを改めて実感する。

 

「えーと、こっち向きで良いかな」

 

 ちらっと上下を確認して、絵の下側が雪ノ下を向くように持ち直した。裏向きのまま表彰状を手渡すように「はい」と差し出すと、雪ノ下が両手で受け取ってくれたので。手を離すことなく「よいしょ」と言いながら左回りに動かして、それを表に向けた。

 

「これは……スラムダンクのあの場面ね」

「たしかバスケの漫画だよね。あたしも何となく分かるよ」

 

 もともとは見開きの二ページで描かれていたのを、一枚の色紙に収めてみた。京都駅で渡したルシオラも、そしてこの絵も、実力以上に上手く描けたという実感がある。たぶん、贈る相手のことをずっと意識しながら一気に描き上げたからだろう。

 

「あの作品で、海老名さんが一番好きな場面がこれだと。そう考えて良いのかしら?」

 

 珍しく興奮を抑えきれない様子で、口調だけは冷静にそう尋ねられた。「うん」と短く答えると顔が綻んだので、こちらまで頬が緩んでしまう。

 

「部室で喋った時って、結衣が海南戦までしか読んでなかったからねー。あの試合の話ばっかで、それでも面白いのは面白かったんだけどさ。早いとこ結衣に全部読ませて、また雑談しに行くね。あ、そうだ。サキサキも一緒に読んでみない?」

「漫画はあんまりよく分かんないんだけどさ。海老名がそこまで言うなら、考えてみるよ」

 

 そんな二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、雪ノ下は大事な情報を心の中に書き留めていた。

 

 雪ノ下は、八幡と海老名が似たものどうしだと考えている。だから昨夜は八幡の思考を参考にして海老名の気持ちを推測した。ならば逆に、海老名の好みも参考にできるのではないか。

 

 自分や海老名と同様に、八幡もまたこの場面に心を惹かれたのではないかと。そうだったら良いなと思いながら、雪ノ下は絵の中の二人に微笑みかけた。

 

 

「では、そろそろお暇しましょうか」

 

 予想以上に長居してしまった。このまま話を続けていたいという気持ちもあるのだけれど、雪ノ下にはまだ用事がある。

 

 修学旅行の間は他学年と連絡が取れなかったので詳しい話は分からないものの、生徒会に属する男子生徒から「旅行が終わったら会長と連絡を取って欲しい」とお願いされている。メッセージを送っても良いのだが、直接出向くほうが話は早いだろう。

 

「私は高校に顔を出す予定なのだけれど。貴女たちは?」

「じゃあせっかくだし、サキサキと一緒に池袋にでも行って来ようかなー」

「ごめん、あたしも塾のバイトがあるからさ。その、えっと、また今度で良ければ……」

 

 そんなふうに言われると、腐女子の聖地に引き摺り込むのが申し訳なく思えてしまう。それに、川崎や雪ノ下とは普通に話しているだけでも楽しめると、今日でしっかり理解させられてしまった。

 

 旅行前に川崎と喋った時にはまだ少し無理矢理な感じが残っていたが、今はもう普通に話せてしまう。もちろん二人の普通が違っているのは重々承知だが、それはさておいて。お誘いをただ断るだけではなく、また今度と言ってくれるほどの仲になっている。

 

「じゃあさ。また今度、近場でいいから遊びに行こっか。この三人でもまた集まりたいよねー」

 

 だから海老名は、希望をそのまま口に出した。二人の返事は「ああ」「そうね」と短いものだったが、それで充分に気持ちが伝わってくる。

 

 

 並んで立ち上がって、駅長にぺこりと頭を下げた。雪ノ下が「また来ます」と言った時の反応がちょっと面白かったのだが、あまり言うと可哀想なので見て見ないふりをした。

 

 駅長室を後にして、在来線のホームに向かいながら。三人はいずれも二人のことを思い浮かべていた。

 

 

*****

 

 

 誰もいない空間で、どれほどの時間が過ぎたのか。

 

 最寄りのトイレに背を向けて「だるまさんがころんだ」と言い終えると同時にばっと後ろを振り向いたり。同じセリフを口にしながら八重洲中央口に向けて全力で走ってみたり。一人で時間を潰すのは慣れているはずなのに、今日に限って上手くいかない。

 

 それでも、じっと立っているよりは身体を動かしているほうが気持ちが楽になる気がしたので。地下に降りる階段を利用して、八幡が踏み台昇降運動に励んでいると。

 

「ごめん、お待たせ」

 

 単調な運動が楽しくなってきた頃合いで、いきなり話しかけられた。思わずたたらを踏みそうになったものの、足に力を入れて事なきを得て。姿勢が安定したので思わず安堵の息を吐いた。

 

「お、おう。お疲れ」

 

 変な場面を見られてしまったなと、気恥ずかしさが先に立って。でもまあいつもの事かと思い直して八幡はそのまま言葉を続ける。

 

「つか、急がせたんじゃね。解散したらすぐに動けると思ってたから、なんか悪かったな」

「ううん。あたしも、あんなに大勢に囲まれるとは思ってなくてさ。文化祭とか体育祭とか、イベントが終わるたびに増えてる気がするんだよね……」

 

 ここでようやく、由比ヶ浜結衣と向き合えた。

 階段を離れて少しだけ近づいて。すぐに視線を逸らしたくなるのをぐぐっと堪えて、軽い口調を意識しながら口を開く。

 

「それだけお前が頑張ってたってことだろ。どのイベントでも活躍してたしな。由比ヶ浜がいなかったらどうなってたかって、考えただけでも恐ろしいわ」

「そこはさ、ゆきのんとヒッキーも同じじゃん。でもさ、三人で色んな事をしてきたよね」

 

 何とか目を合わせたまま話ができているものの、いつもと比べて五割増しぐらいに魅力的だと思えてしまう。こいつに告白されたんだなと意識すると、十割増しでも利かなくなる。

 

 それに可愛らしさと親しみやすさは従前通りだが、妙な落ち着きと奥深さが加わった今の由比ヶ浜は、自分と違って大人だなと。そう考えてしまう。

 

「そういえばな。川崎の問題を解決した時に、ゲームの世界に繋がる扉の話が出たのを覚えてるか?」

「あー、そんな話もあったよね。えっと、遊戯部の依頼の時だっけ。ヒッキーがクイズの問題にもしてたよね」

 

「正確には材木座の依頼だけどな。そういや、あん時には言いそびれたけどな。俺が出した問題を真剣に考えてくれて、ありがとな」

「ううん、結局は不正解だったしさ。でもヒッキー、いつの間にあんな情報を知ってたの?」

 

「まあ、変なことを色々やった結果だな。さっきみたいな、他の奴が見たら『何してんだこいつ』みたいな行動をな。あと、不正解ってのは違うんじゃね。俺が『一名のみ正解』って限定したのが原因だし、実際『惜しい』って言われただろ?」

「でも、不正解は不正解だからさ。あ、それで扉の話だったよね?」

 

「おう。実はそこの壁から行けるんだけど、扉はもう開かないみたいでな。供養って言うと大袈裟になるけど、姿を拝んでくるかって思ってるんだが。良かったら、一緒に来てくれないか?」

「うん、いいよ。じゃあ行こっか」

 

 会話が滑らかに進むわりには雰囲気が重い。

 とりあえず場所を変えて仕切り直すかと考えて、八幡は由比ヶ浜を手招きした。

 

「ほら、手が壁の中に入って行くだろ。ここを通り抜けるんだが、その、大丈夫か?」

「うん。だってヒッキーと一緒だしさ」

 

 壁の向こうに何があるかも分からないのに。自分だけ引き摺り込まれる可能性もあるのに。

 海老名が身構えたそうした事態を、由比ヶ浜が全く思い付かないとは考えられない。なのに「八幡と一緒」というただそれだけの理由で、片付けてしまう。

 

 自分も由比ヶ浜と同じぐらい大人だと、それを示したくなって。左腕を伸ばしたまま由比ヶ浜に向けて軽く持ち上げると。

 

「何もないとは思うけどな。いちおう、ここ掴んどけ」

 

 一日目を思い出しながら、ブレザーの袖の部分を差し出した。恥ずかしい気持ちはもちろんあるが、そのほうが安心できるしなと自分に言い訳をしていると。

 

「胎内めぐりをしたのが、ずっと昔に思えちゃうよね。でもさ……」

 

 不意に左手が、温かいものに包まれた。

 

「せっかくだし、こっちがいいな」

「そ、そうか。じゃ、じゃあ、ゆっくり歩くぞ?」

 

 かすかに残っている脳の冷静な部分から「また二人三脚かよ」と突っ込まれながら。八幡は由比ヶ浜と並んで、手を繋いだまま目の前の壁を抜けた。

 

 

***

 

 

 壁の先には駅のホームがあった。長いプラットホームが一つと、二人の数メートル向こうから始まっている線路が二つ。左側の線路にだけ「0番線」と表示がある。

 

 ドーム状の壁、線路の先の靄。背後の殺風景な壁も京都駅と同じだが、色だけが違った。あちらは白が強めの灰色だったが、こちらは乳白色だ。それが、何故だか少し気に入らない。

 

 念のために後ろ手で壁を触って、すり抜けられるのを確認した。

 もう片方の手から温かい感触が伝わって来るのを意識しながら、おずおずと口を開く。

 

「手、繋いだままで良いのか?」

「うん、せっかくだしね。ヒッキーは、イヤじゃない?」

「なんか自分の手じゃない気がするけどな。お前と手を繋げて、嫌だと思う奴なんていないだろ」

「ヒッキーは?」

「……嫌じゃない。つか、嬉しい、んだと思う」

「そっか」

 

 にぎにぎと手に力を込めて緩めて、由比ヶ浜が笑いかけてくれる。どうしてこうも大人に見えるのかと内心で首を傾げながら、八幡はゆっくりとプラットホームに向けて足を進めた。

 

「ホームの端まで行くから、ちょっと距離あるぞ」

「大丈夫。もっと長くてもいいぐらい」

 

「その、手の汗とか出てないよな?」

「うーん……ほら、今動かしてみたけど、すべすべじゃない?」

「旅行の前の晩に、小町が秘蔵の石鹸を使わせてくれてな。それのおかげかね」

「ヒッキーもシスコンだけど、小町ちゃんもかなり兄思いだよね」

 

「まあ自慢の妹だからな。これで自慢の兄だと良かったんだけどな」

「でもさ、ヒッキーは自慢の部員……っていうと変か。えっと、あたしにとっては自慢の仲間かな」

「それはこっちのセリフだな」

 

 会話こそ途切れなく続いているものの、雰囲気はどこか重いまま。高校生の男女が手を繋いで歩いているにしては、何かが違う。何かがまちがっているのだが、その何かが八幡には分からない。

 

 どうしたものかと考えながら歩いていると。唐突に()()()が姿を見せた。

 

 

「また会ったね。ぼくはチャーン」

「……」

 

 目の前に突然、親指ほどの大きさの妖精が現れたので驚いたのか。ぎゅっと手を握られて、すぐに元の力加減に戻った。八幡が平然としているので安心したのか。あるいは、本能的に害はないと判断したのだろう。

 

 妖精に目を向けると、男女一人ずつなのは京都駅と同じ。でもあの時とは女の子の様子が違っていた。あちらは話し方こそ舌っ足らずだが、わりと言いたい放題だった記憶がある。外見上の違いは判らないけれど、今いるのは臆病で引っ込み思案な女の子という印象だ。

 

 そういえば、由比ヶ浜も昔は言いたいことをなかなか言えない性格だったと聞いたことがある。もしかするとこんな感じだったのかもなと考えながら、手で繋がった先にあるその横顔を窺うと、ぱっと目が合った。無理に逸らすのも悪い気がして、軽く首を傾げてみると。

 

「また、後でね」

 

 そう言って、ぽんぽんと二度優しく叩かれてから手を離された。

 

 由比ヶ浜はそのまま女の子の妖精の前まで歩いて行くと、親しみを込めた笑顔で頷きかけて。何かを小声で呟いて、今度は耳を向けて我慢強く女の子の返事を待っていた。

 

 何かを言われるたびに、ふんふんとしっかり反応して。最後に「うん、わかった」と言って少し距離を空けると。両手を口に当てて大きな声で、女の子の名前を呼ぶ。

 

「ヤッハウ、やっはろー!」

 

 はてなマークが頭の上に浮かぶとはこのことかと、八幡が訝しんでいると。女の子の頭の上に”I am Yaghau.”という文字が浮かび上がる。

 

 こんな名前を付けやがったのはどこのどいつだと八幡は思った。

 

「あのね、ヤッハウって名前がちょっと言いづらいみたいでさ。発音しにくいのもだし、恥ずかしい名前なんじゃないかって悩んでるみたいでね。だからヒッキーも、ちゃんと名前で呼んであげて欲しいな」

 

 とはいえそんな事情を知ってしまえば邪険には扱えない。さっさと観念した八幡は「ヤッハウ、よろしくな」と女の子に伝えた。

 

 こんな名前を付けやがった奴のことは忘れてないからなと八幡は思った。

 

 

「はい、お待たせ」

 

 すぐ左隣に戻って来た由比ヶ浜は、そう言いながら手のひらをぎゅっと握り込んでから。ゆっくりと、指と指を絡めるようにして握り直した。

 

 指が絡まり合っている付け根の辺りはもちろんのこと、手の甲の辺りにも華奢な指先が触れる感触があって、くすぐったくて仕方がない。それに不謹慎かもしれないが、何だかちょっとエッチなことをしているような気分になる。

 

 耳が赤くなっているのをはっきりと自覚しながら、八幡は慌てて口を開く。

 

「あー、えーっと、扉を見に行きたいんだわ。チャーンとヤッハウに案内を頼んでも良いか?」

 

 何とかそこまで言い終えて、妖精たちが頷いたのを確認して。「もう会う事はない」とか言った数時間後に再会する形になったのは、我ながら滑稽だなと思いながら。視線をすぐ横に戻すと、気のせいか頬が少し赤らんでいる。

 

 実は由比ヶ浜も恥ずかしいのかなと思いながら、繋いだ先の手の甲を指先でちょんちょんと突っついてみると。唇を軽く突き出しながら「むーっ」とかなんとか言っている。

 

 少しだけ気持ちに余裕ができた気がして。八幡は妖精二人の後をゆっくりと追いながら、ここまでのやり取りを振り返った。そして本題を何一つ口にしていない自分に愕然とする。

 

 扉の前に着いたらちゃんと話をしようと考えて、唇を引き結んだ。

 その表情をしっかり見られていたことに、八幡は気づいていない。

 

 

***

 

 

 ホームの果てには巨大な門がそびえていて、下のほうには円形の扉があった。こちらは色も形も京都駅と全く同じだ。

 

 扉から少しだけ距離を置いて立ち止まると、気配で察したのか由比ヶ浜が手を離して姿勢を正した。それを横目で確認して、自分も少し顎を引いて背中を伸ばして。八幡は丁寧に柏手を打つと、ねぎらいの言葉を思い浮かべながら手を合わせた。

 

 静かに目を開けて、両手を下ろして肩の力を抜いた。ふと気づけば無意識のうちに、誰もいない右側に視線を移している自分がいる。動きが不自然にならないように、ゆっくりと左側に目をやって。由比ヶ浜がまだお祈りしているのを見て苦笑が漏れた。

 

 二人の妖精が、合わせていた手を下ろしてこちらの様子を窺っているので。「ありがとな」という気持ちを込めて頷いてあげると、ヤッハウからは照れたような、チャーンからは「けっ、リア充爆発しろ」とでも言いたげな反応が返ってきた。またもや苦笑が漏れる。

 

 

「ふう。何だかさ、北野天満宮を思い出すよね。ゆきのんとヒッキーと三人で並んで、小町ちゃんの合格をお願いしてさ」

「あれって昨日だよな。時間の感覚が狂ってるっつーか、はっきりと覚えてるのに遠い昔な気がするっつーか。なんか変な感じだな」

 

 たっぷりと、八幡が二回お参りできるぐらいの時間を掛けて。ようやく由比ヶ浜が手を下ろすと、そのまま話しかけてきた。

 扉のほうを向いたまま、過去に意識を向けながらそう答えると。

 

「うん、あたしもそんな感じかも。でもさ……それって、あたしのせいだよね」

 

 そう言われて反射的に首を動かすと、すぐ目の前に由比ヶ浜の顔があった。口を真一文字に結んで、目には決意の色を灯している由比ヶ浜が。

 

 どこかで見た顔だと疑問を浮かべる前に、答えが先に出ていた。さっきの海老名と同じ顔だ。つまりは、職場見学の後で由比ヶ浜と向き合った時の俺と、同じ顔だ。

 

 あの時には言えなかったことを、伝えなければならない。

 きっと、上手く行かなくなった原因は、そこにあるから。

 それなのに。

 頭はまた別のことを考えている。

 

 

 どうして、こんなことに。

 

 八幡は苦虫をかみつぶしたような表情で首を振って、昨日から何度となく頭の中に浮かんだ疑問を打ち消した。

 

 事ここに至っては、そんなことを言っていられる状況ではない。そう自分に言い聞かせて、しぼり出すように声を発する。

 

 クラスどころか、校内でも指折りのトップカーストに向かって。

 

「俺は……優しい女の子は、嫌いだ」

 

 こんなに大きな駅の片隅で。

 同級生の女の子と、二人きりで。

 さっきまで繋いでいた手には、まだぬくもりが残っている。

 

「でもさ。昨日のは……優しい女の子じゃ、ないよ?」

 

 ああ、その通りだ。それを知っているからこそ、八幡は「嫌いだ」と伝えることができる。あの時には言えなかった言葉を、口にできる。由比ヶ浜は優しいだけではなく、強い女の子だと知っているから。

 

 昨日の夜の一件が、あの竹林で起きたことが、全てを変えた。

 あの時の二人の言葉が、八幡の脳裏によみがえる。

 

『あなたのやり方、嫌いだわ』

『人の気持ち、もっと考えてよ……』

 

 誰かに向かって「嫌いだ」と口にするのは、人の気持ちを考えない行為だと思っていた。けれど昨日、雪ノ下と由比ヶ浜に教えられた。

 

 自分にとって特別な誰かの「嫌い」を知ることは、決して悪いことばかりではなかった。

 むしろそれを知ることで、二人のことをより深く理解できた気さえした。

 

 だから俺も、あの時に「嫌い」を伝えるべきだったのだ。

 なぜならば、「優しい女の子」は俺の中のわだかまりとして、中学の頃からずっと存在し続けていたのだから。

 

 京都駅で海老名に挑発的な言葉を告げられて、その表情が職場見学の時の自分と重なって。それでようやく八幡は「嫌い」を口に出すことができた。きっとあれがなければ、今も由比ヶ浜に伝えられないままだっただろう。でも、やっと言えた。

 

 職場見学の時のように、「優しいよな」と勝手なイメージを押し付けて逃げるのはもう嫌だから。

 

 だから八幡は「優しい女の子」を否定しなければならない。

 そこから話を始めなければならない。

 由比ヶ浜は優しいだけの女の子ではないと、それを俺は十二分に理解していると、まずはそれを分かってもらう必要があるのだ。

 

 

 そうした気持ちを込めて、しっかりと由比ヶ浜の目を見つめていると。

 なぜかゆっくりと目を伏せて、続けて首が左右に小さく揺れた。

 下を向いたままの由比ヶ浜から、ぽつりぽつりと声が聞こえてくる。

 

「あたしは、優しい女の子なんかじゃなくてさ。あたし、ずるいんだ」

 

 八幡が嫌いな「優しい女の子」ですらないと、そう言われて。その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 

 だが、こんなことを言いっ放しにさせてはダメだ。由比ヶ浜がずるいだなんて、そんなことを言わせたままにはしておけない。

 

「あのな。お前ほど他の連中のことを思い遣ってるやつが、そうそういるわけないだろ。そんなお前がずるいって言うなら、世の中のほぼ全員がずるいって話になるぞ」

 

 再び顔を上げた由比ヶ浜と目が合った。そして瞬時に、この言い方ではダメだと気づいた。

 

 やっぱり、職場見学後の俺と同じだなと八幡は思う。こういう場合には、相手と同じ土俵に上がってはダメなのだ。ずるい・ずるくないと水掛け論が続くだけで、それでは気持ちを変えさせることはできない。それよりも。

 

「あー、じゃああれだ。ここに三人で通天橋で撮った写真があります。周りの景色も俺ら三人も綺麗に写っています。でも由比ヶ浜にはやらん」

「えっ、ちょ、ヒッキーずる……あ」

 

 由比ヶ浜が素直な女の子で助かったと八幡は思った。

 重い空気が霧散したこの好機を逃さず、そのまま話を続ける。

 

 

「そのな、お前が自分をずるいって言う理由は分からんけどな。それは置いておいて、でもそれだけじゃないだろ。俺はお前を優しいやつだと思ってるけど、優しいだけのやつだとは思ってない。優しいだけの女の子は嫌いだけど、お前のことは嫌いじゃない。それを……たぶん俺は、ずっと前に伝えておくべきだったんだわ」

 

 だから、自分たちはまちがえてしまった。

 各々が「嫌い」だと思うことを伝えないまま、関係を深めてしまったから。

 自分たちがそんな歪な状態なのに、恋愛という人間関係の全てが問われるような依頼を受けてしまったから。

 

 そして依頼と向き合う中で。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思ってしまったから。

 失いたくないと、失わせたくないと、そう思わせてしまったから、失ってしまう。

 もう誰も、無邪気なままではいられなくなってしまった。

 自分たちの間にも恋愛という問題が潜んでいると、白日の下に晒されてしまった。

 

 でも、それは自分たち三人のせいだ。戸部のせいでも海老名のせいでもない。

 たぶん、あの依頼がなかったとしても、遠からずこうなっていたはずだ。

 きっと、昨夜の一幕は最後の一押しで。この結末は最初から決まっていたのだろう。

 では、いつから?

 

 八幡はゆっくりと、記憶を遡っていく。

 意外に楽しかった三日間。色んな場所に行って、色んな人と話をした。毎日が濃密に過ぎていったので、東京駅から出発したのがはるか昔に思える。あの日の朝のやり取り。出発前の部室でのやり取り。教室でのやり取り。そして、あの日。

 

「少なくとも、お前に気持ちを伝えられる前に。できれば、あの職場見学の時にな」

 

 結局のところ。全ての始まりは、あの日のやり取りにあったのだと。

 八幡は今更ながらに、それを理解した。

 

 

 たとえあの日には無理だったとしても、話し合える機会はいくらでもあったはずだ。

 なのに今日まで、ちゃんとその話をして来なかったから。

 だから、こんなことになってしまった。

 

 けれど、どう考えれば良いかは分かっている。ずっと前に、目の前にいる素敵な女の子が教えてくれたから。

 

『始め方が正しくなくても、だからって全部が嘘とか偽物じゃないって、あたしは思うんだ』

 

 きっと足りない部分はたくさんある。正しくないこともたくさんある。それでも由比ヶ浜が伝えてくれた想いを始めとして、嘘偽りのない確かなものも自分たちの間にはたくさんある。

 

 そして、どうすれば良いのかも分かっている。ずっと前に、ここにはいない素敵な女の子が教えてくれたから。

 

『間違った始まり方をしたのなら、また新しく関係を作っていけば良いと思うわ』

 

 だから、八幡は言葉を続ける。

 

「なんか、ちょっと冷静になるとあれだな。いきなり『優しい女の子は嫌い』って言われても、意味不明だよな。その、職場見学のことがずっと引っかかっててな。あの時に、本当はそう言いたかったんだわ。誰にでも優しい女の子は、俺にとってはつらいだけだってな。けど、お前はそうじゃなくて。だからあの時に『優しいよな』って言ったのを、俺はずっと撤回したいと思ってて。なのに今まで言い出せなくて。だから、その……すまん。あの時に俺が思っていたよりもはるかに、お前は凄いやつだったよな。俺の自慢の仲間だし、それに……」

 

 そこで言葉を切って。照れる気持ちを呑み込んで、八幡はこう締めくくった。

 

「俺も、お前のことが好きだと思う」

 

 

***

 

 

 いきなり「優しい女の子は、嫌いだ」と言い出された時はびっくりした。

 すぐには意味が分からなくて、たぶん昨日のことかなって。

 でも、あたしは優しくなんてないから。ずるいから。

 だから覚悟を決めて、そう言ったのに。

 いつもみたいに、ヒッキーの変な言葉でごまかされちゃった。

 

 ヒッキーは、あたしの告白を特別なものだと考えてくれてるけど、それは違う。

 ゆきのんが「己の全てを懸けても良い」って言ったから。だからあたしも言えただけ。

 ゆきのんは「自分のせいで」って考えていそうだけど。

 あの言葉の重みには、ゆきのんもヒッキーも、ぜんぜん気付いていない。

 

 ゆきのんのことが大好きなのに。ヒッキーだけは渡したくないって、そう考えてしまう。

 ヒッキーのことが大好きなのに。誰にも渡さないために気持ちを口にしたんだって、そう考えてしまう。

 それがずるくないって言うのなら、じゃあずるいって何なんだろう。

 

 でも、一つだけ確かなのは。

 このまま付き合っても、ぜったいに、上手くいかない。

 それにそもそも、断られると思ってたから。

 だからせめて想い出にって思って、手を繋いだり色々と頑張ったのに。

 あたしがどれだけ恥ずかしかったかなんて、ヒッキーには分からないよね。

 

 職場見学のことを、ずっと覚えてくれてたのは嬉しかった。

 ヒッキーの言葉に嘘はないのも分かってる。

 でも、あたしには決して教えてくれない気持ちがあるのも知っている。

 ヒッキーは、どうするつもりなんだろう?

 

 

***

 

 

 気持ちを伝えても、由比ヶ浜の表情はさほど変わらなかった。だから、続く言葉を見透かされているのだと理解した。でも、仕方がない。伝えた気持ちは本心だし、ただそれ以外の気持ちもあって。それらの感情を自分でも持て余しているという、最低な状況なのは確かだから。

 

「ただ、あれなんだわ。じゃあ付き合うかってなるかというと、ちょっと難しくてな。その……竹林でも言ったと思うけど、情けない状況で言われて初めて、お前の告白を本当なんだなって受け止められてな。けど、そんな状態で気持ちを受け入れたら、自分がダメになる気がするんだわ。ちゃんと、相手に相応しいって言えるような姿を見せないとなって、そう思うのな」

 

「……えーと、要するにあれだよね。ヒッキーが言う情けない状況じゃないと、告白されても疑っちゃうし。でもそんな状況でオッケーしたら自分がダメになるから、断るって言いたいんだよね。えーと、ヒッキー?」

 

 伝えた言葉は本音も本音なのに、なぜか由比ヶ浜は呆れ顔で、途中からはお怒りの色が濃くなってきた。ちょっと怖くて口を挟めないでいると。

 

「じゃあ、どうしろって言うんだし!」

 

 由比ヶ浜が叫びたくなるのももっともだと、二人の妖精はそう思った。

 

「まあ、結論としては『先延ばしをお願いしたい』って事だから、怒られるのも仕方ないんだけどな。でも、ちゃんと今回とは違ったやり方で結果を出すから、それまで待って欲しいってのが一つ。あともう一つは、その、申し訳ないんだけどな。お前の気持ちを受け入れられない可能性もあるんだわ。これ以上詳しいことは言えないけど、今の時点でちゃんと伝えておいた方が良いと思ってな。まあ、怒られるのも仕方がないわな」

 

 お叱りを覚悟の上で、それでも伝えられる限りのことを八幡は伝えた。

 

 

「はあ……ヒッキーがちゃんとそこまで言ってくれてちょっと嬉しいなって、そう思っちゃうあたしにも問題があるのかな?」

「さあな。俺には、いっちょんわからん*4

 

「うーっ。なんであたし、こんな人を好きになったんだろ?」

「ひとりのためにずっと歌ってもよかった*5、って思ったからじゃね?」

 

「ヒッキー、さっきからちょっと煩い。意味解んないし」

「ふぅ。なんかすまんな。俺もまあ、けっこう緊張しててな。思いっきりどうでもいいことを言いたくなる時って、たまにないか?」

「それは、うん、分からなくはないけどさ。まあいいや、ヒッキーだし」

「その納得の仕方はどうなんですかね……」

 

 この手の話が通じなくて少し残念なのは事実だけど。でも、別に通じなくても良い。他にもたくさん通じる話があるのだから。この手の話ができる相手も他にいるのだから。

 実際に口に出してみて、八幡はそう実感した。

 

 

「えっと、今度はあたしの返事待ちなんだよね。その前に、ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」

「おう、何でも来い。職場見学の時の話に比べたら、どんな質問でも楽なもんだわ」

 

 言うべきことを言い終えた充実感から、八幡がそう答えると。

 

「どうしてサキサキのことは、その場で断ったの?」

「……すまん、ちょっと心を落ち着かせる時間を下さい」

 

 目の前で「え、別にいいけどさ?」と呟いてきょとんとしている由比ヶ浜には申し訳ないが、大言壮語なんてするもんじゃないなと八幡は思った。

 

「あーっと、どう言えば良いんだろうな。その、もしも川崎と付き合ったら……って、こんな話をしても良いのかね。どこまでなら良いとかよく分からんから、お前が嫌な気持ちになったらすぐに言えよ」

「うん、ありがと。続けて?」

 

「川崎と付き合ったら、けっこう幸せに過ごせるんじゃねって思うのな。小町とも仲良くしてくれてるし、あいつの弟ともそれなりに面識があるし。でも、思い浮かぶのがなんつーか、家族みたいな光景ばっかでな。家で一緒に料理したりとか、小町の受験の相談をしたりとか。それと、さっきの話と重なるけど、あいつと付き合ったら色んな事を許してくれそうで、なんか自分がどんどんダメになる気もしたのな。だから正直、川崎の力になりたいって言って自立を試みてる大志って、けっこう凄いんじゃねって思ったりな。中学生だと家族に甘えたい時もあるだろうになって。まあそれはどうでもいい話だったな。要するに、自分が自立してないと、川崎と付き合うのはダメだろうなって思ったんだわ。その……ものすごく失礼な話かもしれないけどな。もっと歳を取って、色んな事を知ってもう少し大人になれた頃だったら、心が動いたかもしれん。でも、今の俺が求めてるのは、それじゃないみたいでな」

 

「……そっか。答えてくれてありがとね」

「これで良かったのかね。あの時に思った事を、そのまま言ってるだけだぞ?」

 

「うん、だいたい分かったからいいよ。あのね、昨日の夜って、サキサキにはホテルで待っててもらったんだけどさ。起きたことをぜんぶ教えるって、そう約束してたのね。でさ、サキサキがヒッキーと話しに行って帰って来て、すっごく謝られたの。あたしの告白を聞いた直後なのに、ヒッキーに気持ちを伝えちゃったって。それを聞いて、あんな約束なんてしなかったらよかったって思ったの。だってさ、特別な想いを伝えるのって、そんな謝られるようなことじゃないって思うからさ。だから、ヒッキーがサキサキの気持ちをしっかり受け取って、ちゃんと考えて返事をしたんだなって分かって、ちょっと……なんて言うのかな。救われた、みたいな?」

 

「なるほどな。つか俺のほうも、お前にそう言ってもらえて救われた気がするわ。川崎みたいな、なんての、良い奴っつーのかね。どうでもいいやつって意味じゃなくて、本当に良い奴だろ。それを哀しませることしか言えないのが、なんか情けなくてな。あの時は俺のほうが泣きそうになってたからな」

 

「ヒッキー泣いてたって、サキサキが言ってたよ?」

「はい、ごめんなさい。隠蔽しようとしました」

 

 素直に白旗を揚げて、少し視線を逸らすと。二人の妖精が「げんきだして」「ざまあみろ」とても言いたげな表情を浮かべている。何度目になるか分からない苦笑を漏らしていると。

 

 

「じゃあさ。姫菜とはどんな話をしたの?」

「あれ、聞いてないのか?」

「ほら、行きと同じように六人で座ってたからさ。会って来たよって、それぐらい」

 

「そっか。なんか趣味の話とか色々したんだが。あとお前の話とか、なんでこんな展開になったんだろなとか。でもあれだな、具体的な話の内容はたぶん重要じゃなくてな。海老名さんってこんな性格なんだなって、それが少しは理解できたような気がしたな。お前らのことを大事に思ってるのが伝わってきて、なんか嬉しかったわ」

 

「ふーん、そっか。ねね、姫菜に告白とかされなかった?」

「ぶっ。お、お前な。そんなこちょ、あるわけねーだろ」

「ヒッキー、ちょっと動揺してる?」

「いや、だってお前が突拍子もないことを……」

 

 そこまで言って、ふと別れ際の言葉が頭をよぎった。あまり深くは考えないようにしていたのだが、あれはもしかするとそういう意味だったのだろうか。

 

「でもさ。姫菜の本心っていうのかな、それってあたしとか優美子でも掴みきれない時があるからさ。もし姫菜が()()だとしても、あたしに気兼ねして気持ちを伝えない気がするんだよね。それって、ちょっと寂しいなって」

「ほーん、なるほどな。でもだからって、俺を当て馬にしないで欲しいんだが」

 

 もしも海老名が本気だとしたら、あんなふうな言い方をするのだろう。

 もしも海老名が自分の性格を伝えたかっただけだとしても、あんなふうな言い方になるのだろう。

 

 つまり、あの発言から海老名の真意を探るのは不可能だと結論付けて。八幡はそれ以上を考えるのを止めた。

 海老名の発言にはもう一つ、忠告という可能性もあることに八幡は気づかなかった。

 

 

「じゃあ、これで最後ね。ヒッキーはさっき、違ったやり方で結果を出すって言ってたよね。先延ばしとも言ってたけど、じゃあさ。次の依頼が来るまで、あたしはヒッキーとどんなふうにして過ごせばいいの?」

 

「……そのな。職場見学のこともそうだったし、さっき待ち合わせた直後に遊戯部とクイズで勝負した話をしただろ。あれも、一言お礼を伝えないとなって思いながら、ずっと言えてなかったんだよな。だから、もっとお前らと話がしたいっつーか。もっと話すべきだと思うんだわ。その、さっき言った『自分がダメになる』ってのは間違いなく俺の本心だけど、もう一つ理由があってな。まだ知らないこととか分かってないことが多すぎると思うんだわ。たぶん、お互いにな。俺のことももっと伝えるべきだと思うし、お前……のことももっと知るべきだと思う。要するに、答えを出すにはまだ情報が足りてないと思うんだわ」

 

 そう告げた八幡は、先程の川崎の話を思い出していた。

 そして、やはり川崎は自分にとって特別な異性ではなかったのだと実感した。

 

 気持ちというものは、本当に残酷なものだ。川崎に対しては、もっと詳しく知るまでもなく断りを入れているくせに。()()()()に対しては、答えを出すためにもっと詳しく知りたいと、そう言えてしまうのだから。

 

「それって、今までとは違うってことだよね?」

 

 知りたかったこととは違った答えが返って来て。でも、自分のことを伝えたいと、こちらのことも知りたいと、そう言ってもらえたのは嬉しいなと由比ヶ浜は思った。

 

 二回目の失言には直前で気が付いたみたいだから、最初のも聞かなかったことにしよう。どうせ、ずっと前から知ってたことだし。そう考えて、簡潔に問い掛けると。

 

「そう、だな。今までどおりってわけには行かねーよな。でも、あんまり意識しないで普通でいてくれると助かる。つか、今日も班行動とかでよく一緒になったけどな。お前、ぜんぜん普通に見えたぞ。俺なんか、お前が楽しそうに喋ってるのを見るたびに『こいつが俺に告白してくれたんだよな』って思って嬉しさを噛みしめたあげくに挙動不審をくり返してたってのに。なんか不公平だよな」

 

「え、ちょっとヒッキーきもい。今日ずっと変な感じだったの、あたしを見て変な妄想をしてたからってことだよね?」

「いや、なんでだよ。告白された男子高校生なんてそんなもんだぞ。つか嬉しいって思ってるだけなのになんで妄想なんて話になるんだ?」

 

「だってさ、さっき待ち合わせた時も踏み台昇降運動してたじゃん」

「うぐっ。あ、あれはだな。緊張を落ち着かせるために身体を動かそうってだけで」

 

「ほら、やっぱそうなんじゃん。前にさ、雑誌で読んだんだけどさ。大学生の女の人がね、彼氏の部屋に初めて行って、緊張するなあって思いながら洗面所を借りて化粧直しとかしてさ。部屋に戻ったら、彼氏が腕立て伏せをしてたんだって。男の人って、そういう妄想を我慢する時にああいう運動をするんだよね?」

 

「おい、ちょっと待て。具体例に問題がある上に解釈にも問題があるぞ。つかその頭の悪そうな雑誌をどうにかしたほうが良いと思うんだが」

「じゃあ、さっきのヒッキーは、変な妄想は全くしてなかったってこと?」

 

「あ、いや、全くと言われるとなんかあれだけど、ほら、あれだ。妄想と運動は関係ないってことだけは覚えておいて欲しいんだが」

「うーん、なんか納得いかないんだけど、まあいいや。でさ、何でもないように普通に過ごしながら、前にはしなかったような話をするって感じだよね。その、話って例えばどんな話?」

 

 

「そうだな……。例えばな、竹林でお前らに言われただろ。俺のやり方があれだとか、人の気持ちをとか。昨日の夜に言われた言葉を振り返ってたらな。昔のことを思い出したんだわ」

「昔って、中学の時のこと?」

 

「いや、お前の依頼の時だから四月の話か。お前らがクッキーをラッピングしてた時に、ちょっと考えてたことがあってな。その、俺はけっこう色んな奴から見下されてたから、その手の気配に敏感なんだわ。けどお前らからは、見下すような気配を感じなくてな。雪ノ下に「腐れ目谷くん」って言われても、なんでか気にならなかったし。お前にじっと見つめられても、何か裏があるんじゃねって警戒する気が起きなくてな。んで、俺の勝手な推測だけど、あの時にこう思ったのな」

 

 そう言って八幡は記憶の中から言葉を呼び起こす。

 

『雪ノ下が人を見下す事を口にするのは、相手がそれに値する事をしでかした時だろう』

『由比ヶ浜が人を見下す事を口にするのは、相手に改善すべき何かを教えてあげる時だろう』

 

「でな、実際にその通りだったなって。ちょっと布団の中で泣きそうな気持ちになったんだわ。そんなことを言わせた自分が不甲斐ないって気持ちもあったけど、それ以上にな。雪ノ下がちゃんと『嫌い』って伝えてくれて。由比ヶ浜がちゃんと改善点を教えてくれて。それが、嬉しいなんて言葉じゃ足りないぐらいに、嬉しくてな。まあ、恥ずかしいっちゃ恥ずかしい話だけど、知ってて欲しいっつーか聞いて欲しいっつーか、そんな話が他にも色々あると思うんだわ」

 

 八幡の語りを聞き終えた由比ヶ浜は、いつにも増して親密な気持ちが伝わってくる笑顔を浮かべている。こんなのを「慈愛に満ちた」と表現するのだろうなと考えていると。

 

「うん。教えてくれて、あたしも嬉しい。もっと知りたいなって思う。でさ、大事なことだから訊くね。ヒッキーは、こういう話を()()()したいって考えてるんだよね?」

「……だな」

「そっか。じゃあ、他の話はまた今度だね」

 

 そう言って由比ヶ浜はうんと伸びをして、扉のほうを振り返った。それから妖精二人に視線を移して笑いかけている。

 やっぱり、優しくて強い女の子だなと八幡は思った。

 

 それにしても、話に没頭していたから気が付かなかったが、ずっと立ち話だったから足の関節が少し固くなっている気がする。由比ヶ浜に倣って軽くストレッチをしながら、伸びをしたくなる気持ちは分かるけど胸を強調されると心臓に悪いんだよなあと考えていると。

 

「そろそろ帰ろっか。明日からは、またいつもどおりってことだよね?」

「違う部分もあるけどな。まあ、劇的に変化するとかじゃなくて、徐々に少しずつって感じかね」

 

「そうだね。そういえばさ、前に言ったと思うんだけどね」

「ん、どうした?」

「ちゃんと覚えておいてね。あたしはさ。待つよりも……自分から行くの」

 

 そう言いながら、右手の親指と人差し指で銃を撃つような仕草を見せてくる。本当に、今日の由比ヶ浜は大人に見えるなと考えながら。

 

「何も言わなけりゃ格好いいのに、『ばーん』とか言いながらだとなんかあれだよな」

「えっ、だって撃つ時の音って『ばーん』じゃないの?」

「いや、音はそうだとしてもな……まあいいや。由比ヶ浜はそのままでいてくれ」

 

「むっ。そういう言い方をされると、ばりむかー*6ってなるんだけど!」

「お前、一学期に勉強会の話をしてた時もそう言ってたよな。まさかお前が中の人になるとはなあ……」

「だから意味解んないってば!」

 

 そんなやり取りをしていた二人だが、妖精たちがけらけら笑っているのを見て一気に恥ずかしくなった。由比ヶ浜が再び「帰ろっか」と口にして、そろって扉に背を向ける。

 

 

 ここに来るまでは手を繋いでいたけれど、帰りは別々に歩いている。二人の間の距離も、少し遠くなっている。でも、来る時よりも心の距離は近くなった気がした。

 

 最強のライバルなのは、最初から判っていたことだ。それに、自分が大好きな相手をライバルと言うのは、何だかちょっとイヤだ。それよりも、あたしは頑張るしかないから。自分から行くしかないから。だから、相手のことよりも自分のことを頑張ろうと由比ヶ浜は思った。

 

「じゃあ、チャーンとヤッハウも元気でね。特にヤッハウは、やっはろーって言うたびに思い出して応援してるから。あたしも頑張るから、頑張ってね」

 

 昔の自分を見ているようで、最初から他人とは思えなかった。だから、今の自分の状況を妖精たちに重ねて、そう伝えた。

 

「二度あることは何度でもって言うし*7、またチャーンと会うかもな。そん時はまた頼むわ」

 

 そう言って妖精二人に別れを告げて。八幡は由比ヶ浜と並んで壁を抜けて東京駅に戻った。

 

 

「貸し切り空間を出てからどうしよっか?」

「そうだな……いちおう別々に在来線に向かって、他の連中がいなけりゃ合流して一緒に帰るかね?」

「同じ部活だってみんな知ってるし、そこまで警戒しなくてもいいと思うけど……あ、もしかしてヒッキー照れてる?」

 

「はい。ここに北野天満宮のもみじ苑で撮った写真があります。紅葉も三人も綺麗に写っています。でも由比ヶ浜にはやらん」

「ちょ、やっぱヒッキーずるい!」

 

 そんなふうに会話を続けながらトイレへと近づいていく途中で。

 

「あー、そういえばちょっとだけ寄り道してもいいか?」

「うん。どこに行くの?」

「この能力を教えてもらった駅長さんにな。一言だけお礼を言ってくるわ」

「そっか。一緒に行ってもいいけど、どうしよっか」

「今日は長居する気はないから、一緒に行くならまた後日かね」

「わかった。じゃあ、先にホームに行って待ってるね」

 

 そんなふうに話がまとまったので、二人はいったん別行動になった。

 

 

 なぜか妙に疲れて見えた駅長さんにお礼を述べて、よく休むようにと伝えて早々に駅長室をお暇した。そのまま在来線のホームに向けて移動する。

 

 その途上で、メッセージが届いた。

 

『申し訳ないのだけれど、話が終わり次第、高校まで来て下さい。一色さんの立候補は同級生の嫌がらせで、当人に知られないようにして届けを出したとのこと。疲れているとは思いますが、部室で待っています』

 

 一日目の夜に予想していたよりも、斜め下の状況を知って。思わず走り出しながら、八幡はこう思った。

 

 どうして、こんなことに。

 

 

原作七巻、了。

 

原作八巻に続く。

*1
ショーペンハウアーの主著「意思と表象としての世界」(1818年)を念頭に置いている。

*2
この世は考え得る限り最悪の世界だと説く厭世的な世界観。上記のショーペンハウアーがその代表。

*3
ニーチェは、キリスト教の道徳的諸価値を始めとした最高の諸価値が無価値(虚無)になったとする、その無価値性の感情をニヒリズム(虚無主義)と呼んだ。彼は、それによって到来した危機的な状況(=神の死)を超克しようと試みた。

*4
鴨志田一「青春ブタ野郎」シリーズ(2014年〜)に登場する古賀朋絵のセリフ。中の人は由比ヶ浜。

*5
若木民喜「神のみぞ知るセカイ」(2008年〜2014年)に登場する中川かのんのセリフ。中の人は由比ヶ浜。

*6
上記の古賀朋絵のセリフ。

*7
言いません。




その1.本章について。
 原作の出来事に即して話を進めつつ、その内実が少しずつ変わっていくという形式を本章でも踏襲しています。とはいえ7巻まで来ると原作との違いが各所に出てきて、それらが一気に動いた結果こんな展開になりました。

 本章と次章における大一番の場面をどんな形で乗り切るかは4巻を書き終えた時点でも定まっておらず、一番の悩みの種でした。しかし、ある時ふと由比ヶ浜が勝手に動いてくれて、それでようやく最終話まで線が繋がりました。迷いが消えた状態で5巻以降を書けたのは、竹林での由比ヶ浜の一言と、それに先立つ雪ノ下と由比ヶ浜のあの発言のおかげです。

 基本的に本作は、原作よりも各キャラの距離が近くなっています。それをご都合主義・予定調和と言われた事もありました(そのお気持ちも解るので、非難したいわけではなくて。ただ、先の展開については話せる事と話せない事があって、この件は後者に属するのが申し訳なかったなと、そんな感じです)。

 でも実は、仲が深まるのは良い事ばかりではありません。例えば、疎遠だった頃には悩みもしなかった事を真面目に考える必要が出てきます。関係の深化に合わせて、本作では原作に先んじて(例えば6巻の時点で10巻や11巻の、7巻の時点で12巻以降の)それらの問題と各キャラとが向き合う場面を何度か出してきました。

 そして何よりも、奉仕部の仲が親密になるほどに、三人が男一女二の構成である以上は避けては通れない問題が浮かび上がって来ます。

 先日、あらすじに少し手を加えました。由比ヶ浜が動いてくれたおかげで、ようやく表明できると考えたからです。つまり本作は、八幡の周囲の関係に決着を付けて終わります。この特殊な世界も、各キャラの微妙な設定の変化も、全てはその結末のために用意したものです。

 あとは最後まで書き切るだけ、というのが一番難しいことだとは解っていますが。何とか完結まで辿り着きたいと考えていますので、今後とも宜しくお願い致します。


その2.原作13巻について。
 ネタバレは避けますが、私は面白く読みました。ただエンタメとして面白いかと問われると難しいのと、少し腰を据えて読解しないと面白さが半減する気がしました。

 その辺りの詳しい話を活動報告に書きましたので、雪ノ下や由比ヶ浜の発言をどう解釈したかを知りたい方は「その3」を、13巻を読みながら私が考えた事に興味を持って下さった方は「その1」からお読み下さい。矛盾点や別解釈をお知らせ下さると泣いて喜びます。

 また、可能性は低いと思うのですが、本作が想定する最終話と原作の展開が重なってしまうかもしれず。その場合は、区切りの良いところまで書いた上で「未完」となるかもしれません。

 上記の通り、できる事なら最後まで書き切りたいので、そうなった場合は苦渋の選択だと受け止めて下さると助かります。投げ出す言い訳に使ったと、そう言われるとさすがにしんどいので……お願いします。


その3.今後について。
 例年と同様に年末〜年度末には更新頻度が落ちます。三月までは月一回、四月以降は週一回〜十日に一回ぐらいのペースで、平均一万字以上の更新を考えています。

 話を早く進めたい気持ちはあるのですが、一時的に無理をしてもすぐにしっぺ返しがくるので。以上の予定で宜しくお願いします。


その4.謝辞。
 総文字数が三十万字を超えた頃に、「新規で読んで下さる方は、この先どんどん減るだろうな」と思った記憶があるのですが。今でも時々「○日かけて一気に読みました」と感想を頂いたり、「実は1巻の終わり頃からずっと読んでます」と仰って頂いたり。

 文字数の多さは本作の大きな問題点だと考えていますが、それを読破した上でリアクションまで頂いて。そうした方々に支えられて、本作の今があります。

 この作品に興味を持って下さった方々。一部分でも読んで下さった方々。最新話まで読破して下さった方々。読むだけでなく、お気に入りや感想や評価などの反応を下さった方々。それら全ての方々に向けて、モニタ越しではありますが心から頭を下げて。本章の結びとさせて頂きます。


追記。
脱字を一つ訂正して、細かな表現を修正しました。(12/17,28)
タイトルから読点を省きました。(12/28)


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原作8巻
01.いがいな展開を彼女らはしたたかに利用する。


ようやく原作8巻まで到達しました。
序盤は更新が遅めですが、本章もよろしくお願いします。



 週明けの月曜日は憂鬱なものだと相場が決まっているけれど。

 

 修学旅行で二年生がいないという普段とは違った状況に、心の何処かが興奮しているのだろうか。それとも天然あざとい中学生と三夜を過ごすのを、思いのほか楽しみにしていたということなのか。

 

 いつもよりも早い時間に目が覚めた一色いろはは、勢いよくベッドから起き出すとカーテンを力強くえいっと開けて。曇天に迎えられて、浮かれ気分はたちまち霧消した。

 

 

 あの瞬間に嫌な予感はあったのだ。すぐに日が差し始め、程なく晴天に恵まれたのですっかり忘れていたけれど。青天の霹靂とは、まさに今のような状況を言うのだろう。

 

「生徒会長。立候補者、一色いろは……?」

 

 朝のSHRの最中に全校生徒に向けて通知が届いた。送り主は生徒会、より正確には選挙管理委員会からだ。

 それを見てさすがに呆然としてしまった一色の耳に、担任の声が聞こえて来た。

 

「やっと情報が解禁されたな。この中には知ってた奴も多いと思うけど、うちのクラスの一色が次の生徒会長だ。みんなで応援してやって欲しい」

「えっ?」

 

 意外な顔をしているのはクラスのごく一部。反射的に声まで出たのは、普段から付き合いのある女子数名だけだ。

 

 そこまでを確認して、ようやく頭が働き出した。自分に対抗意識を燃やすあの子たちがこれを画策したのだろう。ご苦労なことだと、まずは呆れる気持ちが沸き起こる。

 

「え〜と、わたしは立候補した覚えはないんですけど〜?」

 

 目をきょとんとさせて首を軽く傾けながらそう言うと。教壇には届かないぐらいの小さな、しかし一色には確実に届く大きさの笑い声が聞こえてきた。なるほど、そういうことかと納得する。

 

「だから立候補じゃなくて推薦だな。お前に会長になって欲しいって奴が三十人も集まったと聞いて、先生ちょっと涙が出そうになったぞ。お前らが事あるごとに険悪な雰囲気になってたのは、今思えばお互いを理解し合うために必要なことだったんだな」

「はあ……」

 

 耳障りの良い言葉で担任をまんまと抱き込んだのだろう。そしてクラスの大半をまとめ上げた。女子にはわたしへの対抗心を、男子には忠誠心を煽って。

 そう推測した一色の口から思わずため息が漏れた。

 

 わたしを生徒会長に祭り上げて喜ぶ女子も大概だが、そんな役職に就かせようとする男子の思考が理解できない。お気に入りの子を総選挙で一位にするために血道を上げる人たちと同じなのだろうとは思うが、その気持ちを理解したくはない。

 

 そこまで考えて、入学直後のやさぐれた感覚が蘇っているのに気が付いて。一色はもう一度ため息を吐いた。

 

「はあ。わたしが知らない間に、先生はこんなことを企んでたんですね〜。ちょっとショックなんですけど〜?」

 

 軽く唇を尖らせて、拗ねた口調で担任に話しかけた。無駄な抵抗だと言いたげな笑いが耳に届いたが、特に気にならない。むしろ、こんな程度で余裕ぶっている彼女らの頭の出来が心配になるほどだ。

 

「みんなが一色に内緒で話を進めたのは良くなかったな。けどな、お前のためを思ってクラスの大半が動いてくれたんだぞ。陰でこそこそと悪いことを企むのはダメだけど、良いことを企むのは許してやってくれないか?」

 

 先生にはそもそも責任がないという前提で、首謀者を許せと言ってくるのだから大したものだ。高校生にまんまと丸め込まれて、裏の意図を疑いもしないで。これで大人ぶっているのだから、救いようがないなと一色は思う。

 

 もともと担任は自分に酔う傾向が強かったし、この程度の返事は予想の範囲内だ。それよりも喫緊の問題は、今の自分の精神状態だろう。早く冷静にならないと、足元をすくわれる可能性がある。

 

 

 中学までのやり方が高校でも通用するのかと危ぶむ気持ちは一色にもあった。だから入学式の日は柄にもなく緊張していたし、男子の反応が今までと同じかそれ以上なのを見て密かに胸をなで下ろしたのを覚えている。

 

 あの日に予想外だったのは、今回の首謀者でもある女子生徒に絡まれたことだった。いきなり「初対面の男子に色目を使うなんて」と居丈高に責められて、先ほど話しかけた男子生徒が彼女の想い人なのだと気が付いた。

 

 喧嘩腰の相手と正面からやり合うのは面倒だったので、別の男子に助けを求めると。怒り顔の女子が二人に増えた。

 

 わたしに食って掛かる暇があるのなら早く想いを伝えれば良いのにと考えて、男子の様子を思い返してその発想を却下した。見込みがないと理解しているからこそ、ぽっと出で色よい反応を引き出したわたしが気にくわなかったのだろう。

 

 入学式を前にして体育館はざわついていたので、多少の騒ぎは見逃されていた。でも目に余ると思われたのか。式の手伝いに来ていた男子の先輩が間に入ってくれた。

 

 先に向こうに注意をして。念のために離れた席に移動して欲しいと言われた一色は素直に指示に従った。

 だが、移動の最中に不用意にお礼を伝えたのが良くなかった。

 

 それまでは若干照れ気味に、決して視線を合わせようとはしなかったのに。「いや、お礼なんて」と口にしながら慌てて振り返った先輩と目が合って。その瞬間にやばいと思っても、もう後の祭り。

 

 本人は上手く取りつくろっているつもりでも、下心は見え見えだった。この機会を逃してなるものかという感情がありありと伝わってきて。内心で深くため息を吐いたところで通りかかったのが、由比ヶ浜結衣だった。

 

 あの偶然のおかげで、一色の今がある。

 

 ほんの二言三言で男子の先輩は急に大人しくなったし、こっそり耳打ちしてくれた「付近で一番の進学校だからか初心な男子が多いみたい」という忠告は実に的確だった。要するに、高校生が相手だからと身構えすぎていた一色にも原因があったということだ。

 

 考えてみれば、中学の時にも教師を手玉に取っていた一色だ。大人が相手でも大丈夫だったのに、どうして高校生ごときに怯えていたのだろうと思うと、色んなことが一気に馬鹿らしくなってきて。大人も高校生も男も女も、その大多数が幼く見えてきて、少しやさぐれた気分になった。

 

 負け惜しみという気持ちはなかったものの、密かに「この先輩も外見の割にはすれてないな」と思った一色だったが。二週間後に、あのテニス勝負の場で再会した由比ヶ浜からは見違えるほどの存在感が伝わってきた。

 

 おどおどとした気配はどこへやら。人懐こくて素直な性格はそのままに、自信に裏打ちされた由比ヶ浜からは、人間関係を打算で割り切ってきた一色でさえも「もっと親しくなりたい」と思ってしまうほどの魅力が感じられた。

 

 それを金髪の女王の影響だと考えていた一色だったが、今は認識を改めている。奉仕部の二人が原因に違いないと確信に近い思いを抱いている。いつの日か詳細を知りたいものだと思いながら、少しだけ口元を緩めて。

 

 一色は静かに、意識を現実に戻した。

 

 

「えっと、確認なんですけど〜。これって立候補じゃなくて推薦ですよね〜?」

 

 意図的にふくれっ面を浮かべて、口調はそのままに話を切り出す。語尾を必要以上に伸ばして平然と振る舞い続けることで、黒幕たちを苛つかせようと考えてのことだ。すぐに墓穴を掘ってくれるだろうと、一色はそう考えていたのだが。

 

「そうだな。一色の意思を確認しないで届けを出したのは、推薦側の落ち度だと先生も思う。予想もしていなかった役職に就く形になって、一色が不安に思う気持ちも理解できる。でもな、このクラスのみんなはお前の味方だし、他のクラスにも数は少ないけど推薦人がいるんだぞ。一色なら立派に生徒会長を務められると先生は思ってるし、何かあったらみんなが助けてくれるから大丈夫だ」

 

 どうやら、一番興奮して感情的に突っ走っているのはこの担任みたいだ。自分のクラスから生徒会長が出るというだけでこれほど盛り上がれるのだから、お気楽なことだと呆れたくなるが。今はそれよりも、既得権を確保すべきだろう。

 

「えっとぉ〜。じゃあ困った時には()()()()、推薦人の方々にお願いしたら良いってことですよね〜。わたしがお願いしても助けてくれなかったらどうしようとか、そんな心配はしなくて良いんですよね〜?」

 

 女子の一団から声が出かかったものの、どう反論すれば良いのか分からないみたいであたふたとしている。そして教室のもう一方からは。

 

「一色さんにお願いされたら助けるに決まってるじゃん!」

「そうそう。遠慮なく何でも言ってよ」

「でも『助けて欲しいのに〜』って拗ねてる一色さんもなかなか」

「はい、脱落者一名様のお帰りでーす」

「ライバルが減るだけなんだよなあ」

「俺たちが絶対に助けるからね!」

 

 男子が我先にと一色に向かってアピールしていた。

 

 内心では若干うげっと引きつつも、それをおくびにも出さず。無邪気な口調で「ありがと〜」と伝えてから、首謀者を横目でちらりと見ると。何やら怒りに震えていらっしゃる。これで終わりじゃないのになと考えながら、教師に目を向けると。

 

「ほら、一色にもみんなの気持ちが伝わったんじゃないか。その、先生な。千葉村だっけか、お前も参加した夏の合宿のレポートを見た時にな。うちのクラスの揉め事がいじめに発展したらどうしようって心配で心配で。だから杞憂だって分かった時にはそりゃもう嬉しくてな。教師冥利に尽きるって、こういうことなんだなって思ったわけよ」

 

 この担任を巻き込んだのは悪手だったなと、一色は黒幕たちを憐れむような気持ちになった。とはいえ手加減はしない。無制限に使える労働力を確保して、その次に一色が企むのは。

 

「でもでも〜。わたしサッカー部のマネージャーですし、生徒会長と両立って大丈夫なのかな〜って。いきなり辞めたら部員の人たちに迷惑ですし……。う〜ん、推薦して頂いたのに申し訳ないな〜って思うんですけど、やっぱり難しそうだな〜って」

 

 立候補ではなく推薦という状況を利用することだった。

 

 たとえ担任でも、マネージャーよりも生徒会長を優先しろなどと言えるわけもなく。他の生徒にも迷惑がかかると聞けば、これ以上の無理強いはできない。それでも未練があったのか。

 

「一色の事情を把握しきれていなかったか。ただ、他に候補がいない現状で立候補を取り下げると、生徒会が困るだろうからな。だから二年生が戻ってくるまでは保留という形でどうだ?」

 

「そうですね〜。葉山先輩の許可が出れば、立候補する可能性もありますけど……。わたしがマネージャーを頑張ってるって知ってるのに、許してくれるかなぁ〜。それに、奉仕部って生徒会と仲が良いですよね〜。わたしが知らない間に届けを出されてたって、雪ノ下先輩が知ったらどう思うかなって。ちょっと怖い気がしますよね〜」

 

 教師が示した妥協案は一色には受け入れがたいものだった。勝手に推薦しておいて、生徒会が困るからと言われてもこちらも困るとしか言いようがない。

 

 とはいえ、にべもなく突っぱねるのも難しい。せっかく大勢は決したというのに、いらぬ隙を与えてしまう可能性がある。クラスの大半が推薦人に名を連ねている現状で、数に物を言わせるような展開に持ち込まれると厄介だ。

 

 だから校内でも指折りの有名人の名前を持ち出して、しっかりと釘を刺すことにした。形の上では保留だが、実質的にはほぼ却下に近い。ここまで言っておけば大丈夫だろうと一色は思った。

 

 

 クラスの中に限れば、一色の判断は正しい。だが全校規模で見ると事情が違ってくる。

 

 選挙管理委員会には正確な情報が伝えられ、それは直ちに修学旅行中の二年生も含めた生徒会役員全員に共有された。選管を率いる城廻めぐり以下の一同はこの状況に頭を抱えたものの、妙案がすぐに出るわけもなく。結局は二年生が帰るのを待つという結論に落ち着いた。

 

 旅行を楽しんできて欲しいという理由から、他の二年生には詳細を伏せることにして。とはいえ校内に残る一年生と三年生にじわじわと事情が伝わるのは避けられず。放課後を迎える頃には、多くの生徒が状況を把握していた。

 

「一色さんが会長やるの、見てみたいよなー」

「本人にやる気がないんなら、さっさと立候補を取り下げたらいいのにさ」

「じゃあ誰がやるんだよ?」

「さあね。男を手玉に取って自由に動かすような候補者じゃなきゃ誰でもいいよ」

「あのなあ。一色さんがそんなに腹黒いわけがないだろ」

「これだから男子ってほんと救いようがないよねー」

 

 その結果、クラス外でも男女別に分かれて擁護派と反発派がいがみ合うことになったり。

 

「結局、雪ノ下さんは立候補しなかったんだろ?」

「由比ヶ浜さんも、あと可能性はないと思ってたけど葉山くんもだね」

「その三人が出ないなら、ぶっちゃけ誰がやっても同じだよな」

「三浦さんや海老名さんが立候補するとも思えないしね」

「人気で言えば川崎さんや戸塚くんもいるけど、無理だよね」

「じゃあもう、一色さんがやってくれたら楽なのになあ」

 

 事を荒立てないでさっさと収拾して欲しいという無言の圧力が、一色に向けられることになる。

 

 

 そうした校内の変な空気に屈することなく、一色はいつも通りの振る舞いで部活を終えて。

 

「このぐらいのことで、負けてられないですよね〜」

 

 夕闇に浮かぶ校舎を見上げながらぼそっと呟いた一色は、前を向いて歩き始めた。

 

 

***

 

 

 そして迎えた木曜日の放課後。

 修学旅行を終えて、東京駅でしばしの歓談を楽しんだ雪ノ下雪乃が総武高校に帰ってきた。

 

「去年はずっと一人で仕事を引き受けていたのだけれど……いなくなると寂しいものね」

 

 奉仕部への依頼は一年時にはなかった。それは前生徒会長との不幸なすれ違いが原因なのだが、今となっては終わったことだ。文化祭で再会した際に和解を果たし、姉に対抗するための同盟を結ぶ仲にまでなっている。

 

 昨年度の仕事は、一年生の代表として引き受けたものばかりだった。一年男子代表の肩書きを背負った幼なじみと顔を合わせることもしばしばで、外見上はともかく内心は落ち着かない時が多かった。でも、一人の仕事を寂しいと思ったことはなかった。

 

「二人がどんな結論を出すにせよ。あと一度ぐらいは、一緒に依頼を受けてみたかったのだけれど。一色さんが立候補したことといい、ままならないわね」

 

 正門を抜けて、誰にも聞こえないぐらいの小さな声で呟きながら歩を進める。

 独り言を言い終えて、ふと立ち止まると。雪ノ下は夕陽に照らされた校舎を見上げた。

 

「いずれにしても、私の行動に変わりはないわ。二人が部に残ってくれても、たとえ奉仕部と距離を置くことになっても」

 

 そう口にして、雪ノ下は前を向いて歩き始めた。

 次なる依頼に三人が別々に挑むことになるなどとは、予想だにしていなかった。

 

 

***

 

 

 生徒会室に直行すべく廊下を歩いていると、見知った男子生徒とすれ違った。旅先で本牧牧人から「旅行が終わったら会長と連絡を取って欲しい」と言われた時に、すぐ近くに立っていたのを思い出す。

 

「稲村くんは、今はもう生徒会には関わっていないはずだけれど。でも、この先には生徒会室ぐらいしか……?」

 

 首を傾げる雪ノ下だが、それ以上を追及しようとは思わなかった。

 

 昨年度は生徒会の臨時メンバーという立ち位置だった稲村純とは、仕事で何度か顔を合わせたことがある。とはいえ人が足りない時にヘルプで入るのが基本で、用事が済めばすぐに去って行くので、会話をした記憶はほとんどなかった。

 

 今年の入学式を最後に稲村が生徒会を離れてからは、めったに姿を見ることもなく。サーフィンに熱中していると城廻が言っていたが、特に何の感慨も持たなかった。その程度の仲だ。

 

 

 気持ちを切り替えて、生徒会室のドアをノックして。聞き覚えのある声で「どうぞー」と言われたので、部屋の中に入る。

 

「失礼します。本牧くんから……説明の必要はなさそうですね」

 

 旧知の本牧や藤沢沙和子の姿を認めて、雪ノ下はふっと息を吐くと話を打ち切った。そのまま会長の席まで移動しようとしたところ。

 

「雪ノ下さん、おかえりー」

 

 生徒会長の威厳などどこへやら。ばたばたと席を立ってこちらに近づきながら、城廻がそう言って出迎えてくれた。両手を握ってぶんぶん振られるので、離しどころが難しい。

 

「その、定番の八ッ橋で申し訳ないのですが。これ、生徒会の皆さんで食べて下さい」

 

 ようやく満足してくれたみたいで手が自由になったので、お土産を取り出しながらそう言うと。「おおっ」という声とともに、城廻の背後から黒子の集団がまろび出た。雪ノ下のお土産を受け取って、大机の周りに集まってわいわい騒いでいる。

 

 彼らだけはいつ見ても不可解だが、気にしないでおこうと決めている。少なくとも、城廻に忠誠を誓いたくなる気持ちは理解できるものだから。自分や姉とは違ったやり方で他人を率いる能力があると、そう認める先輩だから。こんな程度のふしぎは些細なことだ。

 

 

「それで、何か問題でも起きたのでしょうか。差し迫った行事としては会長選挙がありますが……?」

「うん、それがねー。一色さんが立候補してくれて良かったって思ってたら、同じクラスの子が内緒で届けを出したんだって。担任の先生と一色さん本人から話を聞いたんだけど、嫌がらせと捉えるべきかなって、私は思ったの」

 

 城廻と向かい合って腰を落ち着けて。右隣に腰を下ろした藤沢と、すぐ近くで立ったままの本牧が見守る中で。対面の先輩から意外な話が飛び出した。

 

「城廻先輩が断言されるのなら、間違いないとは思うのですが。でも、話の落としどころが難しいですね。一色さんが会長職を引き受ける可能性は?」

「ゼロって考えてたんだけどね。でも立候補者として名前が知れ渡ってて、他に候補もいない状況だから……。一色さんが『やらない』って言った時に校内でどれほどの反発が出るのか、それがちょっと怖いなって」

 

 なるほどと首肯して、顎に片手を当てながら暫時の間を置いて。雪ノ下は再び口を開いた。

 

「一色さんは今は部活ですよね。その間に担任の先生と、他の関係者からも話を訊いてみたいのですが。推薦人の名前を確認しても?」

「うん、雪ノ下さんなら大丈夫だよー。じゃあ藤沢さん、お願い」

 

 前もって雪ノ下の要求を予想していたのだろう。がさがさとクリアファイルから取り出した書類を机の上に置いて、藤沢は丸印のついた名前を指差しながら説明を始めた。

 

「大半は一色さんと同じC組の生徒ですね。雪ノ下先輩と面識があるのは、文実に参加していたこの子たちぐらいかなと」

「ええ、覚えているわ。私が呼び出すよりも、文実の件で話があると言って貴女に連絡して貰ったほうが良いかもしれないわね。頼めるかしら、副委員長?」

「え、ええ。任せて下さい!」

 

 今はあの二人がいないから、こうした配慮も全て自分でやらなければならない。人間関係をはじめとした背後の問題を全て任せられたり、奇策や搦め手が有効な時にはそれを一任できるような人材は、ここにはいないのだから。

 

 自ら率先して正攻法に専念できた頃には思いもしなかったが、なんと贅沢な環境だったのだろうと雪ノ下は思った。

 

「二人とも、今からここに来てくれるみたいです。D組が何人かいるのは、文実の繋がりで声を掛けたんでしょうね」

「だとすれば、C組の文実の子は首謀者かそれに近い立ち位置だと思うのだけれど。D組の子を牽制しつつC組の子から情報を引き出す方針で問題なさそうね」

 

 そう言ってちらりと城廻の様子を窺うと、ぱっと目が合った。

 

 ニコニコとこちらを見守る姿勢が伝わってきたので、今回の件を一任されたのだと考えかけたものの。気負うべきではないと思い直した。自分だけではなく、本牧や藤沢に経験を積ませたいと考えて一歩引いているのが正解だろう。

 

「呼び出した藤沢さんが中央になるようにして、本牧くんも向こうに座ってくれるかしら。この配置で二人を迎えて、推薦の件を問い質したいと思うのだけれど。私が横で目を光らせているから、藤沢さんが話を主導して本牧くんがフォローする形でお願いね」

 

 緊張の色は伝わって来るが、二人から否とは言われなかった。一つ頷いて対面に顔を向けると。

 

「じゃあ私は、黒子のみんなと向こうで八ッ橋をいただいて来るね。お茶は出してあげるし、何かあったらフォローするから大丈夫だよー」

 

 そう言って城廻が席を立ったので、三人そろって上座のほうに移動して。

 程なくして、ノックの音が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 元文実の生徒二人を見送って、雪ノ下は軽く額に手を当てながら口を開いた。

 

「まさか私たちの会話が原因だったとは、思ってもいなかったのだけれど」

「いや。あれを雪ノ下さんと比企谷の責任にするのは……藤沢さんもそう思うよね?」

「そうですよ。雪ノ下先輩は悪くないです」

 

 文実は呼び出す名目に過ぎなかったはずなのに、「嘘から出たまこと」と言うべきか。おかげですんなりと自白を引き出せたものの。まさか初回の実行委員会で彼と交わした雑談が今回の件に繋がっていたとは、さすがの雪ノ下でも予測できなかった。

 

「でも、『気に入らない奴を祭り上げる』『大人数で結託されると手の打ちようがない』と言ったのは比企谷くんだし、『あの子が相応しいと思いますと教師にも言えてしまう』と補足したのは私よ。責任が全くないとは思えないのだけれど」

 

 本牧と藤沢が完全な無罪を主張してくれるので、何だか少し申し訳ない気持ちになるのだが。ちょっとした思惑もあって、雪ノ下は反省の念を口にする。

 

「でも雪ノ下先輩がさっき言ってましたよね。比企谷先輩は『遊びでそんなことをやるような歳でもない』って言って話を締めくくったって。だから先輩たちが悪いんじゃなくて、こんな幼稚なことを実行するあの子たちが悪いんですよ」

 

 もともとは引っ込み思案な性格だったはずなのに。よく知った面々しかいないからか、それとも尊敬する雪ノ下のことだからか。藤沢はぷりぷり怒って饒舌になっている。

 

 まあまあと宥めている本牧と軽く目を合わせて苦笑して、雪ノ下は本題に入る。

 

「担任の先生にも話を伺うべきだとは思うのだけれど。事情が判明した以上は、一色さんに会長職を押し付けるのは酷ね。つまり、早急に他の候補を探すべきだと思うのだけれど。私は今から職員室に行って先生から話を訊いてくるので、その間に二人には候補者の検討をお願いできないかしら?」

 

 そう言うと、二人は困ったように顔を合わせて。奥にいる城廻へと視線を向けた。

 

「会長ともさんざん話したんですけど、今さら他の人に頼むのは難しくて。正直に言うと、一色さんに引き受けてもらうのが一番角が立たない形かなと」

「その……やっぱり、雪ノ下先輩はダメ、ですか?」

 

 同学年はもちろん上級生でも珍しくはないので今更だが、なぜか丁寧語で話してくる本牧に頷いていると。藤沢が意を決して問い掛けてきた。

 待ち望んでいた展開だが、慌てて飛び付いたりはしない。

 

「そうね。先ほど言ったように、今回の件では私にも責任が少なからずあるのだから。他に適任がいなければ、引き受ける用意はあります。でも順番としては、一色さんの話を片付けて、それから考えるという形にしてもらえると助かるわね」

 

 視線を藤沢から城廻、そして本牧へと順番に移動させて。雪ノ下は慎重に返事を伝えた。

 喜びと歓喜と安堵の表情を浮かべる三者を微笑ましく眺めながら、少しだけ物思いに耽る。

 

 

 今学期の初めに思い描いたことがある。

 

 自分という存在を確たるものにするために。姉とは違う自分だけの何かを得られたなら、きっと救えると思ったから。だから、密かな思惑を胸に毎日を過ごしてきた。

 

 文化祭に体育祭と、紆余曲折もあったし細かな部分では方針変更もあったけれど。終わってみれば順調に事が進んでいた。そこに少し油断があったのかもしれない。

 

 先週の金曜日の時点では立候補者が一色とは知らなかったが、自分以外の者が生徒会長になると知っても雪ノ下に動揺はなかった。思惑を完全無欠の状態では実現できそうにないと知って。それでも、あの二人と距離ができずに済むという利点があったからだ。

 

 彼と夜の京都を堪能した時点では、そう考えていた。でも、状況は変わってしまった。その原因は自分にある。

 

 当事者の二人もまた「自分に責任がある」と考えているとはつゆ知らず。由比ヶ浜に想いを告げさせるような展開にしてしまったのは自分だと、雪ノ下は考えていた。

 

 東京駅であの二人がどんな結論を出すにせよ、今まで通りというわけにはいかないだろう。何があっても取り乱さないようにと、高校に帰って来てからの雪ノ下は最悪を想定して動いていた。

 

 だが、これは好機だ。一度は諦めた会長職が目の前にある。それに自分が生徒会に軸足を移すことで、三人で過ごす時間が減るのも間違いない。部室でも二人で時間を過ごせるとなれば、あえて奉仕部から遠ざかろうとはしないはず。

 

 即答するにせよ保留して先延ばしするにせよ、最終的には二人は付き合い始めるだろうと考えている雪ノ下は、距離の取り方に悩んでいた。同時に、二人から距離を取られることを恐れていた。だがこれなら、うまい具合に収まるのではないか。

 

 それに今回の件を依頼という形にすれば、また三人で仕事ができる。会長になればもうそんな機会は得られないかもしれないと思うと寂しい気持ちが再燃しそうになるが、これが最後になったとしても一緒に依頼に挑めるという高揚感が勝っている。

 

 一色の現状を解決するという話を、どこかのタイミングで会長就任という話にすり替えて。二人に協力してもらって当選を果たす。おそらくは信任投票になるだろうし今までの依頼と比べると難度は低いかもしれないが、三人の関係性を肌で感じられるのが重要なのだ。歯ごたえなどは求めていない。

 

 もしかすると、あの二人には最初からお見通しとなるかもしれない。だって、一学期からずっと濃密な時間を過ごしてきたのだから。この程度の事はわかるものだと、そう思っておいたほうが良いかもしれない。

 

 いずれにせよ、二人を巻き込む大義名分が必要だと考えて。雪ノ下は考察を終えた。

 

 

「では、まずは一色さんの問題を片付けるということで。それを奉仕部への依頼とさせてもらっても良いでしょうか。部員に連絡を取りたいと思うのですが」

「うん、それで大丈夫だよー。本牧くんも藤沢さんも、それでいいよね?」

 

 二人が首を縦に振ったのを確認して、逸る気持ちを抑えながらアプリを立ち上げる。そして雪ノ下は、二人に向けてメッセージを送った。

 




本年も読者の皆様には大変お世話になりました。
元号が変わるという、人生でそう何度も体験することのない節目の年が、皆様にとって良い一年になりますように。
来年もよろしくお願い致します。

それと前回の後書きでは書き忘れていましたが、原作7.5巻は、
柔道部の話は1巻20話と6.5巻5話〜6話
嫁度対決のうち料理は3巻BT(対決にはなりませんでしたが)
衣装対決と結婚コラムはそれぞれ6巻幕間と6.5巻幕間
などで済ませており、独立した章として取り上げる予定はありません。


次回は1月の10日以降、2月と3月は20日以降に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
本話から読み出しても大まかな事情を把握できるように少し説明を加えて、細かな表現を修正しました。(12/28)


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02.ついえた思惑を胸に彼女らは決意を宣言する。

少し遅くなりましたが、今年も宜しくお願いします。

以下、前回のあらすじ。

 入学式早々に同級生から反感を持たれた一色は、このたび彼女らの策謀により生徒会長に立候補させられた。だが状況を把握してからの反応は早く、妙に乗り気な担任を逆に利用して推薦人一同という無償の労働力を確保した上で、一色は部活を理由に辞退の意向を示した。

 とはいえ担任が食い下がったことやクラスの大半が推薦人に名を連ねている現状ゆえに、立候補の撤回までは果たせなかった。二年生が帰ってくるまで一切は凍結され、校内には不穏な気配が漂っていた。

 修学旅行から戻って来た雪ノ下は生徒会室に直行して、そこで事情を知らされた。推薦人から事情を聴取して、別の候補者を探すべきだと口にした雪ノ下は、思惑どおりに就任要請を引き出した上でそれを保留にして。事の収拾を奉仕部で請け負う形にして、部員二人に招集をかけた。



『申し訳ないのだけれど、話が終わり次第、高校まで来て下さい。一色さんの立候補は同級生の嫌がらせで、当人に知られないようにして届けを出したとのこと。疲れているとは思いますが、部室で待っています』

 

 部長様からのメッセージを受け取った比企谷八幡は、東京駅の構内をひた走っていた。

 

 階段を一段飛ばしで駆け下りて、エスカレーターでも立ち止まらず地下四階の総武線ホームまで一気に移動して。そこでようやく息を吐いた。

 

 全力で走ってきたのでさすがに息が苦しいし、少し汗もかいている。両膝に手を置いて、もう一度ふうっと大きく深呼吸して。ゆっくりと頭を上げると、こちらに近づいてくる由比ヶ浜結衣と目が合った。

 

「このエスカレーターだって、よく分かったな」

「ヒッキーのことだから、最短ルートで来るんだろうなって」

 

「あー、なるほどな。最短距離で、できるだけスピードを落とさずにって考えたらここか。実際にそう考えて走ってきたわけだしな」

「うん。でさ、ゆきのんのメッセージを見たんだよね。すぐに移動する?」

「いや……」

 

 由比ヶ浜の背後には、少し距離を置いてこちらの様子を窺っている何人かの姿があった。見覚えはないけれど、同じ制服だしおそらく同学年だろう。同じクラスだったらすまんと思いながら一瞬で考えをまとめた八幡は、彼女らを指差しながら生返事に続いて話を始める。

 

「一色の話は、あいつらも知ってるのか?」

「あ、うん。どうせすぐに分かるしって思って喋っちゃったんだけど……」

 

「いや、責めてるわけじゃないし、お前の判断で間違ってないと思う。でな、あいつらもお前から話を聞くまでは知らなかったんだよな?」

「旅行中は他の学年に連絡できなかったからね。あたしの話を聞いて、知り合いの先輩とか後輩に確認してもらって。やっぱり事実なんだって」

 

 その返事に少しだけ違和感を覚えて、疑問をそのまま口にする。

 

「お前は誰かに確かめたりはしなかったのか?」

「あたしが連絡しちゃうと、話が大袈裟になっちゃうかもだしさ。だから確認をお願いしたいって気持ちもあって話したんだけど……」

 

 ふむふむと頷きながら、判断が実に的確なので内心で少し驚いていると。由比ヶ浜がすっと近づいてきて、耳元でこっそりと話し始めた。

 

「あのね、嫌がらせってことだけは話してないんだ。でね、もしかしたらって疑ってる人もいるみたいだけど、まさかそこまではって考えてる人も多いみたい。クラスの子が盛り上がって、勝手に推薦しちゃっただけだろ、みたいな?」

 

 メッセージに「嫌がらせ」と書いてあったのを素直に受け取った八幡には思い付けなかったことだ。生徒の性格や交友関係に応じて情報格差があるのだと、少し考えれば分かることなのに。由比ヶ浜がいてくれて助かったと思いながら、こちらも小声で口を開く。

 

「ただ、雪ノ下が断言するからには事実なんだろな。やっぱり……合流する前に、もうちょい情報収集しといたほうが良いか」

「え、でも……ゆきのんが色々と調べてくれてると思うんだけど?」

 

 信頼を寄せる気持ちは理解できるけれども、人には向き不向きがある。全校生徒がどんなふうに事態を受け止めているのか、それを調べるのは部長様には難しいだろう。そう考えた八幡は。

 

「雪ノ下が苦手なことは補っておいたほうが良いと思うんだわ。生徒の反応とか気にせずに、正論で押し通そうとする時があるだろ?」

「あー、まあ、ゆきのんだしね。えっと、じゃあどうしたらいい?」

 

 その問い掛けに「俺が話してみるからフォローを頼む」と答えて、八幡は同学年と思しき生徒たちに話しかけた。

 

 

「えーっと。由比ヶ浜から話は聞いたと思うんだが、会長選挙のことで俺ら奉仕部に依頼が来そうなんだわ。んで、どんな話になってるのか情報が知りたくてな。まあ正確な情報は雪ノ下が調べてくれてるんだが、デマとか誤解がどの程度広がってるかも確認しておきたいって仰せでな。だから、ちょっとだけ由比ヶ浜に協力してくれると助かるんだが」

 

 二人が内緒話をしているのを訝しげに眺めていた生徒たちは、八幡の発言が真面目な内容だったので、一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべて。後ろめたい気持ちを隠そうとするかのように慌てて口を開いた。

 

「う、うん。それぐらいならぜんぜん良いけどさ」

「でも、具体的にはどうしたらいいの?」

 

 すぐ隣で「それ、あたしも知りたい」って顔をしている由比ヶ浜に苦笑しながら、八幡は説明を始める。

 

「知り合いの先輩とか後輩とかに、『会長選挙がどうなってるのかよく分からないから一から詳しく説明して欲しい』って頼んで欲しいんだわ。んで、返って来たメッセージをそのまま由比ヶ浜に転送してくれると助かる。あ、個人情報とか過激な発言とかはカットしてくれて良いし、教えても良いって部分だけ転送してくれたら良いからな。情報の整理は雪ノ下がばばばってやってくれるから、些細な情報だからとか遠慮しないでばんばん送って欲しいんだわ」

 

 もっとも部長様の性格からして、情報整理の仕事の半分は八幡が受け持つことになるのだろう。社畜にはなりたくないんだがなと思いながら、八幡が遠い目をしていると。

 

「それさ、送り先はあたしじゃなくてさ。お悩み相談メール、だっけ。あっちに送ってもらうのはどうかな?」

「あー、なるほどな。んじゃ平塚先生に連絡して、メールを素通しさせてもらうようにお願いしとくか。そのまんま情報収集のためって言えば許してくれるだろうしな」

 

 由比ヶ浜の修正案に深く頷いて、さっそくアプリを立ち上げた八幡は文面を練る。

 その横で由比ヶ浜は、お悩み相談メールの送り方を説明して。続けて他の知り合いにも呼びかけるべく、同じようにメッセージの文面を練り始めた。

 

「この間ちょっと戸部のメッセージを添削する機会があったんだがな。お前ってやたら顔文字を使う割には、内容はちゃんとまとまってるんだよな」

「それ、褒められてるのか馬鹿にされてるのか微妙なんだけど?」

 

 由比ヶ浜の手元にひょいっと視線を送ってそう呟くと、少し照れくさそうに返された。そう言うのは口だけで、実際は馬鹿にされているとはかけらも思っていないのだと、八幡はそれを理解できた。添削したのは昨夜の竹林へのお誘いメッセージだということも、ちゃんと伝わっているみたいだ。

 

 大勢を相手に大量のやり取りを積み重ねてきた由比ヶ浜のコミュ能力は大したものだなと、少しだけ真顔に戻って実感して。そのせいで物理的・心理的な距離の近さに気付いてしまい、何だか身体がむず痒くなってきた八幡は。

 

「でもあれだな。情報収集って言っても由比ヶ浜に任せきりだし、俺だけぼーっとしてるのも申し訳ない気がするな」

「でもさ、ヒッキーは平塚先生に連絡してくれたし……あ、そうだ。じゃあさ、こういうのはどう?」

 

 顧問にメッセージを送ってから、照れ隠しで自分を少し卑下してみせると。由比ヶ浜が何やら思い付いたみたいだ。予想がつかないので八幡が首を傾げていると。

 

「あのね、ヒッキーって文実で渉外部門の人たちとは仲良かったじゃん。だからさ、あの人たちへの連絡だけは任せてもいいかな?」

「あー。まあ、連絡を取れと言われれば、まあ……」

 

 見るからに気乗りしない様子の八幡にぷっと吹き出して、由比ヶ浜は元気な声で発破を掛ける。

 

「ほら、ヒッキーが自分から言い出したんじゃん。全員に連絡するのが大変なら、あの四人だけでもいいからさ」

「その面々なら何とかなるか……。はあ、ぼっちには厳しい仕事だわ」

 

 労力に差があろうとも、情報整理のほうが楽だよなと考えてしまう自分に苦笑しながら。

 文化祭の数日前に二人を休ませた時に渉外部門の仕事状況を発表して貰った男の先輩と、スローガン決めに動いてくれた顔の広い女の先輩と、委員長との連絡役を買って出てくれた男女の後輩に宛てて。八幡はメッセージを送った。

 

 

***

 

 

 部員に宛ててメッセージを送った雪ノ下雪乃は、少し会話を重ねてから生徒会室を後にした。今は職員室に向かって廊下を歩いている。

 

「一色さんの状況が判明する前から『二年生が帰ってくる今週末に投票の詳細を通知する』という方針だったのは不幸中の幸いね。そのおかげで、選管が追加の通知を送らなくても済んだわけだし。当初の予定どおり明日の朝に発表できれば良いのだけれど、最悪の場合は放課後に通知する形になるわね」

 

 足を動かしながら、先ほど確認した情報を小声で振り返る。

 

 一色いろはに立候補を取り下げさせて、代わりに自分が立候補するだけなら明日の朝に間に合うだろう。だが雪ノ下には思惑がある。生徒会からも、そしてできれば部員たちからも望まれる形で立候補したいのが一つ。そしてもう一つは。

 

「どうせなら、一色さんをこのまま取り込んでしまいたいのだけれど」

 

 角が立たない表現を選んではいるものの、企んでいるのは強奪なのであまり褒められたことではない。もちろん「両立して貰っても構わない」と雪ノ下は考えているのだが、サッカー部からすれば略奪行為に他ならないだろう。

 

 とはいえ現実問題として、雪ノ下が生徒会を率いるには人材が足りない。奉仕部を残しておきたい気持ちがあるだけに、二人を生徒会に加えるわけにもいかないし、距離を測りかねているという事情もある。

 会長以外は「その他役員」と一括して立候補を求めたのだが、本牧牧人と藤沢沙和子の他には名乗りを上げた生徒はいなかった。二人はそれぞれ副会長・書記に内定している。

 

 こうした状況だからこそ、一色を見逃す手はなかった。

 立候補者を丁重に扱うという姿勢を示すのなら副会長か監査役が望ましいだろう。来年の会長候補という含みを持たせるのならば本牧と並べて副会長に据えるのが無難だが、そうでなければ会計でも良い。

 いずれにせよ、一色が参画してくれるだけで雪ノ下の選択肢は大いに広がるのだ。

 

「稲村くんが乗り気なら、それでも良かったのだけれど」

 

 廊下に出る間際に世間話の体で確認したところ、稲村純は生徒会に復帰するつもりはないらしい。本牧も少し残念がっていたが本人の意志が固いのなら仕方がない。

 先程すれ違ったのは、今年度になってからも生徒会の一員としてずっと扱い続けてくれた城廻めぐりにお礼を言いに来たのだそうだ。選挙や代替わりで慌ただしくなる前に、挨拶がてら顔を見せに来たらしい。

 

「でも、旅行中に比企谷くんと仲良くなったというのは面白かったわね」

 

 まだこの世界に巻き込まれる前のこと。彼と部室で初めて顔を合わせた時には、お互いにこれほど知己が増えるとは思ってもいなかった。ほんの半年かそこらで、自分たちを取り巻く環境は随分と変わってしまった。確実に良い方向へと。

 

 だからこそ、現下の変化もきっと、より良い未来に繋がるはずだと雪ノ下は思った。

 廊下を踏みしめる足の裏に力を込めて視線を上向きにした雪ノ下は、職員室のドアを見据えてそれにゆっくりと近づいて行く。

 

 

***

 

 

 職員室にて平塚静の姿を認めた雪ノ下は、まずはそこに向かった。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたよ。生徒会から依頼を受けたのだろう?」

「平塚先生は、立候補の話はもう……?」

 

「さすがに教師の端くれだからな。旅行中から報告は受けていたさ」

「なるほど。話が早くて助かります。でも、どうして私が今日来ると?」

 

 修学旅行は東京駅で解散となったので、今日はそもそも登校する必要はなかった。自分が生徒会を訪ねることを知っているのはごく一部の生徒だけだ。そう考えた雪ノ下が疑問を伝えたところ。

 

「比企谷から連絡があってな。お悩み相談メールを使って由比ヶ浜に情報収集をして貰いたいから、一時的に検閲を中止にして欲しいと言われたよ。今回の件を生徒たちがどう受け止めているのかを探りたいのだろうな」

 

 そう言われて事情は理解できたものの、新たな疑問が浮かんでくる。

 

「それは……先生は大丈夫なのですか。今回の件も厳密には事後報告ですが、もしも私たちが軽はずみに問題のある依頼を引き受けてしまったら」

「私の責任問題に発展するのを危惧する気持ちは嬉しいがね。今の君たちなら心配ないと私は思っているよ。それよりも当面の問題を解決するのが先決だからな」

 

 信頼の気持ちがこれ以上ないほど明確に伝わってきたので、そっとわずかに頭を下げた。部員たちの意図を知って、心が弾んでいるのが自分でも分かる。この感覚を味わいたかったのだと頷きながら、雪ノ下は端的に要望を伝える。

 

「では私は、一色さんの担任の先生からお話を伺いたいのですが」

「ふむ、なるほど。ついて来たまえ」

 

 即答して立ち上がった平塚は、机越しに教師の名前を呼んで。職員室の奥にある応接スペースを指差して「ちょっと良いですか」と告げると歩き始めた。雪ノ下がそのすぐ後に従い、少し距離を置いて若い男の先生がそれに続いた。

 

 

 パーティションに区切られた空間で各々が腰を下ろした。

 

 生徒会から依頼を受けた奉仕部が、事態の収拾に向けて動くことになったとだけ説明して。一年C組の担任を雪ノ下と引き合わせた平塚は、その後は無言を貫いた。

 雪ノ下にとってはそれで充分だったので、対面の教師の顔をじっと見据えて物怖じせずに口を開く。

 

「わざわざ時間を取って頂いて申し訳ありません。さっそく本題に入ろうと思うのですが。先生はどうして一色さんの意思を確認せずに推薦を認めたのですか?」

「……一色の希望を確認したら、却下されるのは目に見えていたからな」

 

 雪ノ下の視線を受け止めきれずすぐに目を逸らした辺りに、小心者の性格が垣間見えた。だが言い逃れは難しいと考えたのか、苛立ちが窺える口調ながらも率直な答えが返って来る。

 

「立候補者として発表されれば、一色さんも諦めるだろうと?」

「それもある。けど、無理に押し付けたいと思ったわけじゃなくてな。クラス内の対立を収めるには良い機会だと思ったんだよ。一色が生徒会長になって、推薦した生徒たちが最初は嫌々でもそれを支えていくうちに、宥和を得られるんじゃないかってな」

 

 すぐ横に座る平塚と一瞬ちらりと視線を合わせて、遠慮は無用だと言われた気がした。だから雪ノ下は言葉を飾らずに指摘する。

 

「それは予測ではなく単なる願望ですよね。それに無理に押し付けている形だとしか思えないのですが」

「おいおい。雪ノ下が優秀なのはさんざん聞いてるから知ってるけど、あんまり虐めないでくれよ。担任したクラスが入学早々に二つに割れて、それからずっと陰に陽にいがみ合いが続いてたんだぞ。俺だって穏便に事が収まる方法があるならそっちを選んださ。でも他に手がなくてな」

 

 いささか自己弁護が先走っているきらいはあるものの、情状酌量の余地はあるのだろうなと雪ノ下は思った。まだ若いのに、担任したクラスでいきなりこんな事態に出くわして、この教師も混乱しているのだろうと。

 

 そんな雪ノ下の感想を平塚が聞けば「ぴちぴちの十六歳が何を言っているのやら」と思っただろうし、それを八幡が聞けば「ぴちぴちなんて、きょうび聞かねぇな」と呟くのだろうが、それはさておいて。

 

 

「つまり先生としては、クラス内が平穏になれば一色さんの会長就任には固執しないと。そう考えて宜しいでしょうか?」

「まあ、そうだな。ぶっちゃけ俺が心配してたのは、対立がいじめに発展することだったからな。あ、そういえば雪ノ下と平塚先生は千葉村の合宿に参加してましたよね。あれ、確実にいじめがあったと思うんですけど、よく収拾できましたね」

 

 問い掛けられた平塚が慎重に口を開く。

 

「どうして、そう判断されたのですか?」

「え、だって写真を見たら判るじゃないですか。雪ノ下とゲームをしていた小学生の中で、一人だけ明らかに異質に見えましたよ。いじめだって指摘したら言葉が一人歩きを始めるから、誰にも言わずに済ませましたが」

 

 八幡の印象が残っていないことに、部長として少し文句を言いたい気持ちもあるのだが。あの時の彼の奮闘ぶりを教えたところで猫に小判だろう。いや、この教師を猫に喩えるのは分不相応に過ぎる。私としたことが何と軽率なことを考えてしまったのかと雪ノ下が身悶えているその横では。

 

「失礼ですが、先生はいじめの現場に遭遇されたことが?」

「ああ、気を使って頂かなくても大丈夫ですよ。俺が被害に遭ったわけじゃないので。でも、いじめと知りながら何もできなくてそれをずっと後悔してる奴にとっては、あの写真は判りやすいにも程があるという感じでしてね。それに最後の退村式の写真と見比べたら一目瞭然だから、あの女の子の変化に気付いてる奴はもっと多いと思いますよ」

 

 千葉村のレポートではいじめの問題には触れていないのに。添付した写真だけを根拠にいじめの存在を見抜けるのだと知って、わかる人にはわかってしまう事の厄介さを雪ノ下は思う。今までずっと見通されて来ただけに、それを忌避する感情は心の奥深くに突き刺さった。

 

 だからこそ、と気持ちを新たにして。一年C組の担任にお礼を告げて、雪ノ下は事態の収拾を約束した。

 

 

***

 

 

 同じ頃、一年C組の教室では。

 

「どうしてぺらぺら喋っちゃったのよ」

「全部話しちゃうなんて、ほんと最悪」

「一色を生徒会長に祭り上げるのも難しそうだしさ」

「それどころか、ただ働きをさせられそうだってのに」

 

 呼び出しから戻って来た女子生徒を口々に罵る声が響いていた。とはいえ言われたほうも、言われっぱなしで済ます気はないみたいで。

 

「そう言うんならさ、雪ノ下先輩に面と向かって言い訳して来なよ。生徒会室に入って雪ノ下先輩がいるって判った時点で、もう絶対に嘘も黙秘も無理だって思ったんだから。今頃になって『文実のことで』って呼び出されるのは変だって、誰も気が付かなかったくせに。雪ノ下先輩の迫力満点の姿は文実でも何度か見て知ってたけどさ。それでも無理って思ったし、あれを見た事ないあんたらには絶対に無理だって」

 

 淡々とした口調で氷の女王の怖さを伝えられて。クラスに沈黙の帳が降りた。

 やがてぽつりぽつりと質問の声が上がる。

 

「……その、喋らないってのは、無理だった?」

「だからそう言ってるじゃん」

 

「……えっと、ほんとに、そこまで怖いってのは事実なの?」

「敵だと思われたら容赦ないから、最悪の事態を覚悟したほうがいいと思うよ」

 

「一色と割と仲が良いってのも本当なのかな?」

「少なくとも由比ヶ浜先輩と仲が良いのは確かみたいだし、じゃあそうなんじゃない」

 

「チバセンで一色を三浦先輩にけしかけてたよね?」

「あ、そっか。あの一色にただ働きをさせるなんて、仲が良いのは確定だよね」

 

 実際には一色は、由比ヶ浜が提案した「ゆきのんの手作りディナーのフルコース(調理時の見学および質問可)」をしっかり堪能しているのだが。それを彼女らが知るはずもなく。

 

「ねえ。どうして私たちって、こんなことをしちゃったのかな?」

 

 その呟きに応える声はなく、彼女らは俯いたまま来る未来を受け入れるしかなかった。

 

 

***

 

 

 東京駅から最寄りの駅までの移動時間を省略して、そこからは徒歩で高校に向かった。

 

 お帰りメールやら質問やらをばっさばっさと捌きながら歩いている由比ヶ浜の安全に気を配りながら、八幡は通い慣れた道を進む。

 やがて見慣れた校舎が視界に大きくそびえる頃にはメッセージの洪水も治まったみたいで。「気を使ってくれてありがと」という言葉と一緒に二人は正門を通り抜けた。

 

 

 校内に入った八幡は特別棟を目指して歩を進めた。すぐ横には由比ヶ浜がいてくれて、それに何度も通い慣れたルートなのに。今日は何故だか少し足が重い。

 

 最後に部室を後にした時には、次に来るのは一週間後の金曜日だと思っていた。それが一日早まって、更には三人の関係性も出発前とは違っている。

 由比ヶ浜が告白してくれて。

 返事こそ保留にしている形だが、二人のことにもっと詳しくなって自分のことももっとたくさん知って貰って、そうして結論を出そうと八幡は考えている。

 

 事ほど左様に、この数日で状況は大きく変わってしまった。

 あの部室から遠く離れてしまった気がして。あの場所での再会を楽しみにしていたはずが、今は部屋に入るのが少し怖いと感じてしまう。雪ノ下にどんな表情で迎えられるのだろうと思うと、明日出直せたら良いのになどと考えてしまう。

 

 八幡が部室まで数歩の距離で立ち止まると、由比ヶ浜はそれを予想していたのかすぐ横に並んで足を止めた。

 

 息を大きく吸い込んで。「よし、行くか」と口にしてから歩き出そうとしたら、優しく左肩を叩かれたので。慌てて左腕を伸ばして、先に行こうとした由比ヶ浜を遮った。

 

「お前な、あんま過保護なのは良くないと思うぞ。俺がどんどんダメな奴になるだろが」

「あー。そういえば言ってたね、なんかそういう面倒くさそうなこと」

 

 そう言われると、とたんに気恥ずかしい気持ちが大きくなって。それを誤魔化す意図もあって、八幡は別の話を始めた。

 

「さっきもな、渉外部門の四人に連絡させただろ。あれ、よく考えたら宛先を増やすだけだから、お前が送ったほうが早かったはずだよな。なのにわざわざ俺に連絡させて。すぐに気が付けなかった俺が今さら文句を言うのは違うって分かってるんだがな。でも、あんま甘やかすなよ。専業主夫の夢を叶えちまっても知らねーぞ?」

 

「けどさ、あたしが家事をするよりもヒッキーにやってもらってさ。あたしは働きに出たほうがいい気もするんだよね」

 

 見事なカウンターを喰らってぐうの音も出ない八幡は、再び肩を叩かれて赤らめた顔を横に向けた。

 

「ほら。じゃあヒッキーのすぐ後に付いて行くからさ。だから、あたしを部室に連れてって?」

「へいへい。とりあえず中に入りますかね」

 

 廊下でこれ以上恥ずかしい思いをするぐらいなら、ひと思いに部室に入った方がましだ。そう考えた八幡は入り口までの距離を一気に縮めて、ドアに向かっておもむろに手を伸ばした。

 

 

***

 

 

 部室では雪ノ下がノートパソコンを立ち上げて、次々と届くメールに目を走らせていた。作業に深く集中しているのか、ドアが開いたことにも気付かず同じ姿勢を保っている。

 

 背筋をぴんと伸ばして無心にモニタを凝視している雪ノ下の姿は、どこか絵画じみていて。二人はしばらくその場から動けなかった。

 

 顔を見合わせて、ようやく意を決して部屋に足を踏み入れると、空気の流れか何かを察知したのだろう。雪ノ下が顔を上げて、二人に向かって微笑みかけた。先週までと同じように。

 

「ゆきのん、やっはろー!」

「うす」

 

 もう二度と味わえないのではないかと思っていたこの部屋の雰囲気を十全に感じ取れて。思わず二人の口からいつもの言葉が飛び出した。微笑みを絶やさぬまま雪ノ下もそれに答える。

 

「由比ヶ浜さん、比企谷くん、こんにちは」

「遅くなってごめんね。ゆきのんと合流する前にもうちょい情報を集めておこうって話になってさ」

「まあ、お前が読んでたそれなんだがな」

 

 順に口を開きながら、二人がいつもの席に腰を下ろすと。

 

「ごめんなさい。すぐに紅茶を淹れるわね」

「あ、そういえば何時に着くって連絡してなかったよね。だからゆきのん、気にしないで」

「だな。メールを一気に読んで疲れてるだろうし、飲物ぐらい気にすんな」

 

 そう言われた雪ノ下は少し照れくさそうに、右手で順番に左右の目の上の辺りを軽く押さえて。一瞬だけ瞑目してから再び二人の姿を見据えた。

 

 

「ではさっそく仕事の話に入るわね。今回の依頼の目的は、会長選挙を無事に終えることなのだけれど。同時に、一年C組における一色さんの状況を改善することも大事ね。ここまでは問題ないかしら?」

 

 二人が頷いたのを確認して、雪ノ下はそのまま話を続ける。

 

「事の発端が嫌がらせだと気付いている人はそれほど多くはないわ。今回の黒幕はあまり目立った存在ではなくて、一色さんと比べると知名度がうんと下がるみたい。だから逆に一色さんが悪目立ちしているという話にもなるのだけれど」

 

「それってお悩み相談メールに届いた情報だよね。そっちはだいたい予想できるから、ゆきのんが調べた情報を先に教えて欲しいなって」

「なるほど、たしかにそうね」

 

 由比ヶ浜の要望を聞いて頷きを返した雪ノ下は、容疑者を尋問して得た情報を二人に伝えた。文実で初回に集まった時に八幡と交わした雑談が、彼女らの行動に繋がっているという話を。

 

「あの時の雑談な。まあ確かに言われてみればって感じなんだが。冗談が通じない奴がいるような場で、下手なことは口にするもんじゃねーな」

「それには私も同感なのだけれど。でも、起きてしまったことは仕方がないわ」

 

 三人の会話のテンポが少しずつ上がっていく。

 

「だな。んじゃ、その辺の事情を公表して一色が立候補を取り下げたら解決かね?」

「でもそれだとさ、クラスの中がぎくしゃくしちゃわないかな。それに、悪いことをしたのは確かだけどさ。それを公表されてみんなに責められて、そんな状況に耐えられるとは思えないんだよね」

 

「そうね。私も、彼女らは相応の罰を受けるべきだとは思うのだけれど。今の状況で真相を公表すると……」

「ヘイトが集まりすぎて、罰が重くなり過ぎる可能性が高い、か。理屈は解るんだが、人に迷惑を掛けるようなことをしでかしておいて、そんな奴らの事情を考慮する必要があるってのも、なんか変な話だよな」

 

「ヒッキーが言いたいことはあたしも分かるんだけどさ。そういうのを無視しちゃったら、結局は他の人たちにも影響が出ちゃうんだよね」

「例えば、過剰な罰への同情が、一色さんへの反感という形で現れる可能性も低くはないのよね」

 

 八幡が口を開く順番だが、ここで少し間を取った。頭の中で話す内容を整理して、そして再び口を開く。

 

 

「じゃあ推薦人が先走ったって話に留めておいて、そいつらを裏で軽く脅しつけて。一色には立候補を取り下げさせて、後は会長選挙か。まさかとは思うが、お前が出るとか言わねーよな?」

「うん。あたしも、ゆきのんが背負い込むのはちがうと思う。その……」

 

 由比ヶ浜は続けて何かを言いかけたものの、結局は言葉を濁した。自分が口にすべきではないと考えたことに加えて、雪ノ下が表情を改めたのに気が付いたからだ。

 

「客観的に考えれば、私が適任だと思うわ。それに、私はやっても構わないもの」

「それだとこの部活が……ちっ。こんなことになるなら俺らの帰りを待たないで、生徒会が事を収拾してくれたら良かったのにな」

 

 雪ノ下が会長になるかもしれないという話は、今までにも何度も出てきた。だが今ほど切羽詰まった状況ではなかった。雪ノ下の表情も口調も、以前とはまるで違って見える。

 

 これは相談ではなく、決意を伝えられているだけだ。そう考えた八幡が思わず悪態を吐くと。

 

「城廻先輩をはじめ三年の先輩方はもうすぐ卒業でしょう。だからこの高校の行く末は私たちが考えるべきだし、むしろ二年生が帰るまで我慢強く待ってくれたことを感謝すべきだと思うのだけれど。陰では少なからぬ批判も出ていたと思うわ」

 

 静かな口調で反論を行う雪ノ下は、やはり決意を終えてしまったように感じられた。だが、それは待って欲しい。せっかく三人でもっと多くの時間を過ごしたいと、その希望を由比ヶ浜には伝えられたのに。それを告げられないまま雪ノ下に遠くに行かれるのは勘弁して欲しい。

 

 雪ノ下に無理をさせたくないという気持ちや、できれば部活の時間ぐらいは二人を独占したいという邪な感情も加わって。焦燥感に駆られた八幡もまた、決意を口にする。

 

「あのな。お前が会長をやりたいって言うのなら、俺()もそれを応援するけどな。消去法でお前が会長になるって言うのなら、断固反対だ」

 

 そういえば、二人の結論を聞いていなかったなと雪ノ下は思った。だが今の発言だけで充分だ。二人は既に特別な仲なのだろうと考えて、雪ノ下は僅かに残っていた迷いを断ち切った。

 

 会長になりたいという気持ちはある。だがそれは思惑あってのこと。会長就任が目的なのではなく、正確にはそれは手段に過ぎない。だから八幡の言葉には応えられないし、部員に望まれる形で就任するという思惑も、もはや潰えた。後は強行突破しかない。

 

「会長に就任しても、この部活はなくならないわ。私は部長を辞める気はないし、あなたたち二人がいてくれれば問題はないと思うのだけれど」

 

 それでも、雪ノ下の軸足が生徒会に移ってしまうのは間違いないだろう。必然的に三人で過ごす時間は減ってしまう。それは八幡にも、そして由比ヶ浜にも受け入れられることではなかった。

 

 二人が望んでいるのは、二人だけで過ごせる時間ではない。つまり、雪ノ下が生徒会室で推測したことは現実と正反対だった。

 

「部長って名前だけがあっても、ゆきのんがこの部屋にいないんじゃ仕方ないじゃん!」

「でも、他に手はないと思うのだけれど?」

 

 感情で語る由比ヶ浜に、雪ノ下は冷静に応える。

 客観的に見て生徒会長は自分が適任だという、傲慢とも言えるその姿勢を前にして。八幡に伝えた決意が由比ヶ浜の中にふつふつと湧き上がる。

 

 同じようなことは昨日もやった。それに、自分から行くと決めたから。

 だから、由比ヶ浜は決意を語る。

 

「生徒会長が適任なのは、ゆきのんじゃないと思う。あたし、立候補するから」

 

 本当は、同じことだと解っている。三人で過ごす時間が欲しいのに、どちらが会長になっても二人で過ごす時間しか得られない。でも、あたしはヒッキーのことも好きだけど、ゆきのんも大好きだから。あたしが好きな二人にも仲を深めてもらわない事には、その先には進めないから。

 

 そう考える由比ヶ浜にとって、この宣言は必然だった。三人の中で誰よりも先の未来を見据えている由比ヶ浜は、唖然としている二人に向かって言葉を続ける。

 

「だってさ……あたし、この部活、好きなの。ゆきのんも、ヒッキーも、好き。だから……もしも争うことになっても、ゆきのんに勝つよ」

 

 由比ヶ浜の声が周囲に拡散して消えて、部室に静寂が訪れた。

 メッセージの到着を知らせる場違いな音が鳴り始めるまで、それは果てしなく続いた。




先日久しぶりに短編を更新しました。
作品の後書きに記した理由に加えて、13巻の読後感を少し持て余していたので、あれを書けて良かったです。

動機は本作の2巻20話と同じ、目的は最後から二つ目の文章(の目的語)を言語化させることでした。

本作と同様に「作中で取り上げた作品を知らないと分かりにくいかも」という課題が解消しきれていませんが、宜しければ目を通して頂けると嬉しいです。

次回は来月の二十日過ぎを予定しています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
冒頭にメッセージの内容を再掲して、細かな表現を修正しました。(1/17,2/27)


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03.しんしな想いを胸に彼女もまた決意を固める。

前回のあらすじ。

 雪ノ下からの招集を受けて、八幡はまず情報収集に動いた。一色の立候補を嫌がらせだと知っているのはごく一部で、大半は「クラス内で盛り上がって勝手に推薦しただけ」と捉えているらしい。由比ヶ浜と協力してそうした状況を確認してから八幡は高校に移動した。

 同じ頃、雪ノ下は一色の担任に事情を訊いていた。一学期早々にクラスが二つに割れて、それ以来ずっといがみ合いが続いていたので、推薦が和解に繋がると考え飛び付いてしまったとのこと。一色の会長就任よりもクラスの平穏を優先するという言質を引き出して、雪ノ下は部室に向かった。

 三人はいずれも関係の変化を危惧していたものの、いざ顔を合わせるとそれは杞憂に終わった。依頼の解決に向けて話し合う様子は以前と何ら変わりなく、基本方針はすんなりと決まった。
 だが、全てが同じというわけではなく。

 雪ノ下の立候補に二人が異を唱え、そして由比ヶ浜の決意表明が教室内に響き渡った。



 生徒会長に立候補させられた月曜日から、口ではずっと辞退の意向を漏らしつつも公式には撤回できないまま。一色いろはは悶々とした日々を過ごしていた。

 

 できるだけ今までどおりにと平然とした風を装ってはいるものの。つい先程もグラウンドの片隅から、こちらを指差して何やら言い争っている声が聞こえてきた。

 自分が口をはさんでも事態が悪化するだけなので。気が付かなかったふりをして、サッカー部のマネージャー業に再び意識を集中する。

 

 しばらくの間は無心に仕事をこなした。だがそれも長続きはしない。日に日に注意が散漫になっていく自分に、一色は辟易する。わたしはこんなに弱い性格ではなかったはずだと己を奮い立たせようとしても、それを四日も続けていると効果がすっかり薄れてしまった。

 

「あれっ?」

 

 練習が一区切りついたので、グラウンドで車座になって寛いでいる部員から少し離れて。遠くの夕焼けをぼけっと眺めていると、急に辺りがざわつき始めた。どうしたのだろうと思いながら振り返ると。

 

「あっ。葉山先輩、帰って来たんですね。お疲れさまです~」

 

 正門からまっすぐ自分のほうへと歩いてくる先輩二人が視界に入った。頬を緩めて目をきらきらさせながら、一色は葉山隼人にだけ声を掛ける。

 葉山はほんの少し首を傾げて、歩きながら軽く頷いた。そのまま一色の目の前まで来て足を止める。

 

「やあ。ちょうど練習の合間だったみたいだね。ちょっと話があるんだけど、いいかな?」

「あ~、はい。じゃあ、あっちのほうに行きましょうか」

 

 用件を悟って、少しだけ雑な声が出てしまった。

 葉山の顔を見て少し元気が出たのも確かだが、この先輩では目下の問題を解決できない。それを理解しているからこそ、つい面倒な気持ちが表に出てしまったのだろう。

 

 一色の問題を解決するには、他に誰か立候補者が必要だ。だが葉山にその気がないのはサッカー部の誰もが知っている。

 

 きっと親身になって動いてはくれるのだろう。先週の一色ならそれだけで満足できたのだろうが、今はそれよりも目に見える結果が欲しい。これ以上この問題に煩わされたくないし、早く安心させて欲しいというのが一色の偽らざる心情だ。

 

 まだ木曜日だというのに。天然あざとい中学生に毎夜、癒やされていたというのに。自分が思っていた以上に弱っているのを自覚して、一色は歩きながらこっそり唇を噛みしめた。

 

 

 水飲み場の近くで立ち止まって、近くに誰もいないのを確認してから振り返ると。一色はここで初めて戸部翔にちらりと目線を送った。

 

「あれっ。戸部先輩、わりと普通ですね?」

「お、おー。いろはすは俺っちのどんな姿を想像してたのよ?」

「あ~、いえいえ。お元気ならそれで良いんですけどね~」

 

 戸部が同級生に向ける好意はあからさまだったし、修学旅行の直前には異常なほどの気合いが感じられた。だから、もはや玉砕は待ったなしとの結論で、サッカー部の一年生の見解は一致していた。

 

 なのに今の戸部からは妙な余裕が伝わって来る。悲痛な気配は微塵もないが、さりとて浮かれ気分というわけでもない。旅行先でいったい何があったのやらと一色は思い、すぐに興味を失った。それよりも他に考えるべきことがあるからだ。

 

「いろはもこれで、戸部を気遣っていたんだろ。あんまり後輩に心配かけるなよ」

「いやー、マジいろはす最高の後輩っしょ!」

 

 ああ、やっぱりいつも通りでしたね。わたしの気のせいでした。

 心の中でそう呟いて、いらっとした感情を吐き捨てると。戸部を意識から除外した一色は、葉山の顔をじっと見つめた。

 

「ん……ああ。生徒会長に立候補した件で、少し話をしたくてね。俺は明日でも良いかと思ってたんだけど、今日来て正解だったみたいだね」

「それって、どういう意味ですか?」

 

 視線を感じ取った葉山にそう説明されて。一色はふにゃんと首を傾けた。二年生には詳しい情報を伝えていないと城廻めぐりが言っていたはずだが。この先輩はどこまで事情を把握しているのだろうか。

 

「立候補がいろはの意思だと思っていたからね。サッカー部としては痛手だけど、いろはの考えをちゃんと聞いて最善の道を選ばせてあげたいと、そう思ってたんだけど。この様子だと、いろはの意向を無視して勝手に推薦したとか、そんな感じだろ?」

「……そこまでわかっちゃうんですね」

 

 同じ学年に上位の存在がいるからといって。たとえ成績が万年二位でも、彼女を除けば同学年の誰よりも優秀なのは間違いないのに。あの先輩の才能に目が眩んで、無意識のうちにこの先輩を過小評価していたのだろう。

 

 そうした評価も今の一色の葛藤も、その全てを見通してなお葉山は優しく笑う。その表情の奥にどんな感情が潜んでいるのか、一色は未だ解明しきれていない。

 

「いつものいろはだったら、俺たちが近付くまで大人しく待っていないだろ。だいぶ疲れが溜まってそうだけど。この四日間、よく頑張ったな」

「あ~、葉山先輩が首を傾げてた時ですね。あんなので見抜かれちゃうなんて、わたしもまだまだですね~」

 

 そんな葉山からねぎらいの言葉をもらって、一色は反射的に身構えてしまった。

 この場における最適解は「葉山先輩、疲れました~」とか何とか言って慰めてもらうパターンだろう。普段なら、その程度のあざとい擬態ぐらい昼寝をしながらでもできそうなのに。今は何故か、それをしたくないと思ってしまった。

 

 おそらく、葉山の奥底を見通せていないことに加えて。この場で甘えさせても、わたしなら勘違いをしないと考えているからこそのあの言葉なのだと。そこまでは見抜けていることも影響しているのだろう。一色はそう考えながら言葉を続けた。

 

「でもでも、もともとは明日でいいと思ってたんですよね~?」

「ああ、それは……」

「様子を見て来いって、優美子が言って聞かなかったんだべさ」

 

 まったく、この先輩たちはこれだから困る。敵に塩を送ってどうするんだと、わたしまでお節介を言いたくなって来るではないかと。一色は心の中でそう呟いた。

 ツンデレにも程があると、やる気のない声で指摘されそうな気がしたので。ぷるぷると首を振ってその幻想を退ける。

 

「じゃあ、俺たちはそろそろ帰るな」

「あれっ。隼人くん、詳しい話をしなくても良いんだべ?」

 

 意外な発言に目をぱちくりさせていると、戸部が代わりに問い掛けてくれた。うんうんと頷きながら葉山の様子を窺うと。

 

「だいたいの事情は判ったし、これ以上いろはに負担をかけても仕方がないだろ。俺は会長に立候補する気はないし、まずは雪ノ下さんがどう動くかだからな。場合によっては明日から忙しいことになりそうだし、今日は旅行の疲れをしっかり癒やしておいた方が良いぞ」

 

 なるほど、そういうことかと納得する。今の段階で葉山が動いても問題を解決できないと、自分も先ほど同じように考えていたはずなのに。すっかり頭から消え失せていた。

 やはり本調子には程遠いなと一色が自己分析していると。

 

「やー、そういう話なら了解っしょ。じゃあ今夜は家で過ごすんだべ?」

「ああ、そのつもりだ。俺がいなくても最低限の勉強はしておけよ。もうすぐ期末だぞ」

「旅行帰りの今日くらいは勘弁して欲しいっしょー」

 

 戸部たちと一緒に個室で過ごすのではなく、今夜は自宅に帰るのだという情報を仕入れても。今の一色にはそれを活かすことができない。無理に家まで押しかけたところで、迷惑以外の何物でもないだろう。これでも節度は弁えているつもりだ。

 

 自らに言い聞かせた言葉を後悔するはめになるとはつゆ知らず。

 一色はほんの少しだけ小さく笑って、自分に会いに来てくれた先輩二人を見送った。

 

 

***

 

 

 連絡が来たので少し早めに部活を抜けさせてもらって、まずは生徒会室に。そこで城廻と合流した一色は、そのまま奉仕部の部室に向かった。

 

 歩きながら「三人全員が揃っている」と聞いて、さすがの一色も申し訳なく思ってしまう。

 自分に落ち度はないと解ってはいるのだが、修学旅行の疲れもそのままに先輩方に動いてもらうのは気が引ける。わたしがクラスでもっと上手く立ち回っていたらと、そんな馬鹿げたことすら考えそうになってしまう。

 

「メッセージに反応はなかったけど、中にいるみたいだし入ろっか」

 

 教室の入り口付近で少しだけ立ち止まって間を置くと。城廻がそう言いながら背中を押してくれた。

 

 立候補者という立場のまま放っておかれている形なので、内心では生徒会をずいぶんと恨んだものだが。この先輩の対応に裏がないのは明らかだし、八方塞がりの状況だったのも分かるといえば分かる。誰かが貧乏くじを引く必要があって、それがたまたま自分だったという事だ。

 

 疲れているのが原因なのか、諦観や自責の感情が増えている自分に気が付いたので。一色は両手を握りしめて身体の正面に持ち上げると「よしっ」と言いながら脇を締めて、気持ちを入れ替えた。

 

 

「失礼しま~す」

 

 ドアを開けると声を飾ってそう呼びかけて、ちょこまかとした動作で部屋に入った。予想していたタイミングで反応が来なかったので顔を上げると、なんだか室内がどよんとしている。

 

「あっ。いろはちゃん、やっはろー」

「結衣先輩、お疲れ様です~。旅行どうでした?」

 

 ワンテンポ遅れて由比ヶ浜結衣から返事が来たものの、声にいつもの元気がない。だから無難な話題で会話を続けてとにかく暗い雰囲気を和らげようと考えた一色だが。

 ずーんという音が聞こえそうなぐらいにはっきりと、室内の空気は重みを増した。

 

「うん。色んなことがあったけど、あたしは楽しかったよ」

「どうせなら海外にって思ってても、実際に行ってみると国内旅行もけっこう楽しかったりしますよね~」

 

 突っ込みどころしかない返事を意図的に聞き流して、一色は内心で冷や汗を流しながら明るい口調で返した。

 

 すぐ横を見ると城廻がにこにこしながら「楽しかったなら良かったー」とでも言いたげな表情を浮かべている。物事の良い面ばかりを見るのはこの先輩の美点ではあるのだけれど、裏を全く見ないで大丈夫なのかと要らぬ心配をしそうになる。

 

「私も旅行は楽しかったわね。ここにいる二人や同級生のおかげだと思っているのだけれど」

 

 きょろきょろと落ち着かない一色だったが、雪ノ下雪乃の言葉を耳にしてようやく人心地ついた気がした。ほっと肩の力を抜いて軽く頷いていると。

 

「ヒッキーも『小中の修学旅行と違いすぎて』とかって言ってたもんね。あそこではっきり『楽しい』って言わないのが、ヒッキーだよね」

「あー、三日目の朝にそんなことを言ったっけな。つか『ヒッキー』が貶し言葉になってねーか?」

 

 比企谷八幡の軽口も飛び出して、ようやく重い空気が取り払われた気がした。

 だが同時に以前との違いも感じ取れてしまう。三人の距離が近いような遠いような、そんな不思議な印象を抱いてしまった。

 

 単純に近いか遠いかの二択ではなくて。ある部分では以前よりも遙かに近く、違った側面では逆に遠くなっている気がして。そうした複雑な関係性を三人から感じ取った一色は、傾けていた首を更に深く倒して三人の出方を窺うことしかできない。

 

 

「では、そろそろ始めましょうか。一色さんと城廻先輩もどうぞ席に」

 

 そう促されたので、二つ並んだ依頼人席に腰を下ろす。右手に座る雪ノ下、斜め右の由比ヶ浜、左手の八幡を順に眺めて。最後にすぐ左の城廻に軽く頷いてから、一色は首を再び右に動かした。

 

「今回の目標は、会長選挙を無事に終えることですね。でも実は、奉仕部の中で意見が分かれていまして……」

「そうなんだ。なんだか珍しいねー」

 

 雪ノ下の話し方はどこか事務的で、由比ヶ浜も八幡も表情が硬いまま。それらを確認した一色が無意識に右手を握りしめていると。

 ほんわかとした声が室内に響いた。

 

「そうですね。でも異なる意見を言い合えるほうが、むしろ健全だと思うのですが」

「うん、それもそうかも。じゃあ、詳しい話を教えて欲しいな」

 

 雪ノ下の喋り方も表情も少し柔らかくなっていた。

 一色がその変化に驚いているのを尻目に、城廻が話を促すと。

 

「一番の違いは一色さんに代わる立候補者ですね。私は自分が適任だと考えていたのですが、二人に反対されました。それで、由比ヶ浜さんにも立候補の意思があるそうです」

「ゆきのんにばっかり負担が行くのは、やっぱり違うんじゃないかって思ったんです。それだったら、あたしがって」

「つってもまだ決まったわけじゃねーだろ。雪ノ下の負担を減らしても由比ヶ浜に負担が行くんだったら意味ねーからな」

 

 三人が意見を言い終えて、そのまま各自で考え込んでいる。

 それぞれの目論見があるとしても、ここまで自分の存在が考慮されないのは少し悔しい。一言でも「やっぱり会長になる気はない?」と尋ねてくれれば、一色も遠慮なく「ごめんなさい」と言えるのに。

 

 会長になる気はさらさらないけれど、この先輩方に負担を押し付ける形になるのは一色としても気が引ける。それは、あまり認めたくはないけれど、雪ノ下とも由比ヶ浜とももっと仲良くなりたいと思っているからに他ならない。

 

 他人に絆されるなんて馬鹿らしいと、そう思っていたはずなのに。誰かに動かされるのではなく動かす立場になるのだと心に決めて、以来ずっと自分磨きをしてきたはずなのに。

 この先輩たちになら、なんて。そんな奇特なことすら考えてしまいそうになる。

 

 たぶん、打算や擬態が通じない相手だってことが一つ目の要因で。二つ目の要因は、単純に一緒にいて楽しかったからだろう。こんな時間をまた過ごしたいと思ってしまったからだろう。

 

 けれど、その時間を得るために自分が差し出せるものが見当たらない。

 多くの男子が喜んでくれるような擬態はこの人たちには通じないし。お菓子作りでも、人の話を聞いてあげることでも、わたしはこの二人に遠く及ばない。これでも同年代の大半の女子には負けない自信があったのに。上には上がいると思い知らされた。

 

 自分の信念を曲げようとは思わない。他人を上手く動かして自由気ままに快適な毎日を送りたいという気持ちは変わっていない。けれどその他人の中に例外が生まれた。「この人たちになら」と考えてしまうのは、わたしの心の弱さの表れなのだろうか。それとも……?

 

 

「一つ、教えて欲しいことがあるのだけれど。仮に私が会長になっても、先程も言ったように奉仕部の部長は続けるつもりよ。では、由比ヶ浜さんは?」

「あたしも部員のままでいるつもり。やめる気はないよ、どっちもね」

 

 沈黙を破ったのは雪ノ下の問い掛けだった。

 それに由比ヶ浜が即答すると。

 

「そう。でも生徒会の意向と奉仕部の意向が対立する可能性もあるでしょう。その場合はどうするのかしら?」

「ストップ。それってお前が会長の場合でも同じだろ。両方のトップがお前でも、下の連中が勝手に対立しないとは限らないからな」

 

 雪ノ下の追及を受けて口ごもった由比ヶ浜に代わって。八幡が間に入るとそのまま話を続けた。

 

「んで、俺の意見を言わせてもらうとだ。生徒会と奉仕部が独立して存在してたから上手いこと役割分担ができて、今まで揉め事を収めてきたって経緯があるだろ。けど、お前らのどっちが会長になっても生徒会と奉仕部の境界は曖昧になるからな。だから俺は反対だ」

 

「でもさ。ヒッキーは他に会長候補って……」

「心当たりは皆無だな。でもそれは、反対しない理由にはならんだろ?」

「詭弁ね。でも、説得力がないとは言わないわ」

 

 くすっと久しぶりに笑みを漏らした雪ノ下につられてか、由比ヶ浜も八幡も苦笑いを浮かべている。

 そんな三人をにこにこと眺めている城廻と、口を挟めないでいる一色をよそに。話し合いは加速する。

 

「でも比企谷くんが何を言っても、私も由比ヶ浜さんも今さら引く気はないわよ。第三の案を提示するか、それとも私たちのいずれかに肩入れするか。選択肢は他にはないわ」

「だね。ヒッキーが協力してくれるなら嬉しいけど、ゆきのんを選んでくれてもいいからね。それでもあたしは勝つつもりだし、気が進まないことをヒッキーに無理強いしたくはないからさ」

 

 もはや二人の立候補は避けられそうにない。それをようやく受け入れて、八幡も腹を括った。

 

「いや。お前らが会長になるのは反対だってのが俺の立場だからな。どっちの応援をするつもりもないし、傍観者になる気もない。となると選択肢は一つか」

「そうね。とはいえ時間がないわ。タイムリミットは明日の朝、どんなに引き延ばせても放課後までよ。それまでに対案を出せるのかしら?」

「あ、そっか。選挙の詳しいことは明日通知するって書いてたもんね。ヒッキー、大丈夫?」

 

 決意を下した二人から心配されて、八幡はそれを一笑すると。

 

「お前らの会長就任を邪魔するためだ。一晩考えて、明日の昼にここで打ち合わせって形にして貰って良いか?」

「ええ、構わないわ。由比ヶ浜さんもそれで良いかしら?」

「うん、大丈夫。じゃあ、あたし今から公約とか色々考えたいから先に帰るね。ゆきのんやヒッキーが何をしても、ぜんぶ無駄になっちゃうから」

 

 元気にそう宣言して由比ヶ浜が立ち上がると。

 口元を綻ばせた二人は「それは俺のセリフだな」「いえ、私のよ」と言って見送った。

 

 話はまとまらなかったものの、一色の立候補に関してはこれで解決だと、三人全員がそう考えていたので。

 すっかり蚊帳の外に置かれた形の一色が何を考えていたのか、誰もそれに気付けなかった。

 

 

***

 

 

 顧問に報告に行くという雪ノ下を見送って、生徒会室に戻るという城廻には同行せず。一色は部室の前で八幡と二人きりになった。

 

「んじゃ俺は個室経由で帰るから……うげっ」

「せんぱい、ちょっと疲れました〜」

 

 不穏な気配を察して逃げようとした八幡の上着をぐいっと掴んでぼそっと呟くと、呆れたような目を向けられた。

 

「ならお前も早く帰れば良いんじゃね。じゃあ俺は……」

「あ、わたし忘れ物をしたかもです」

「かもって何だよ。さっさと取りに行けば良いんじゃね?」

「ですね〜。じゃあ、せんぱいの家に行きますよ?」

「はあ。俺の家に忘れ物ってことな。男の家に押しかけるとか、もうちょい節度を弁えたほうが良いんじゃね?」

 

 つい先ほど自らに言い聞かせた言葉を思い出して、少しだけ後悔したものの。まあいいやと思い直して一色は口を開く。

 

「せんぱいの家じゃなくて、小町ちゃんの家ですよ〜だ」

「あー、うん。今日一番のあざとさだな」

「それで、連れてってくれるんですか?」

「これって、断ったら俺が小町に怒られちゃうんだよなぁ」

「じゃあそういうことで。ほらほら、せんぱい早く〜」

 

 ため息を吐きながらも大人しく付き合ってくれる辺り、ポイント高いですよ。

 決して口には出さないものの、一色は心の中でそう呟いた。

 

 

 八幡の個室経由で自宅にお邪魔してみると、天然あざとい女子中生はまだ帰っていなかった。男子の家で二人きりの状況なのに、普通に寛げてしまう自分に一色は首を傾げる。昨日までお泊まりしていたので、この家に慣れてしまったのが原因だろうか。

 

 何の遠慮もなくリビングのソファに腰掛けて大きく伸びをしていると、電子レンジと電気ケトルの音がして。程なくして、呆れ顔と一緒にステンレス製のミルクピッチャーとコーヒーの入ったマグカップがやって来た。適量を注いでちびちびと味わっていると。

 

「んで、忘れ物の心当たりはあるのか?」

「あ〜、えっと。せんぱいのベッドの下とか?」

「頼むから段ボールの中身は見ないで……ってあれは現実の話か。すまん何でもない」

「あと、パソコンの隠しフォルダの一番下でしたっけ?」

「なんでそれを……ああ、小町とのメッセージを見てたもんな。つか、あの時に黙秘したのは何でだ?」

 

 修学旅行の一日目の夜に、兄妹のやり取りに少しだけ混ぜてもらった。あの時に立候補の話をしたくなかったのは何故だったかなと、少しだけ考えて。理由を言いたくなかったのでかぶりを振った。

 

「まあ、あんま言いたいことでもないわな。そういや、あの時に頼まれてたやつな」

「えっ?」

 

 思わず目がきょとんとなってしまった。

 そんな一色の変化には気付かないまま、八幡は何やらごそごそと荷物を漁っていたかと思うと。

 

「こっちがあぶらとり紙で、こっちがオススメな。気に入らなくても文句言うなよ」

 

 そう言い終えると、恥ずかしそうにそっぽを向いている。

 その仕草が可笑しくて頬を少し緩めながら、包装紙をがさがさと開けていくと。

 

「あ、マグカップですね。この狸さん、なんだか愛嬌がありますね〜」

「俺もそう思ってな。見た瞬間に即決だったんだが、どうやら小町に怒られずに済みそうだな」

 

 女の子にプレゼントを贈る場面で妹に怒られる心配をしているのはどうかと思うのだが。お土産をねだったことすら忘れていたのに、ちゃんと買ってきてくれて。お気に入りのマグカップになりそうな予感がして、おかげで一色は月曜からの疲れがすっかり吹き飛んでしまった。

 

 なお、八幡の購入理由は「男を化かすのが上手そうだから狸にするか」だったのだが、幸い一色がそれを知ることはなかった。

 

 

「それで、せんぱいは対案ってあるんですか?」

「それなあ……。本牧に会長をやってもらう案だと、副会長がいなくなるしなあ」

 

 お土産のマグカップを元通りに包装し直して。しっかりと鞄の奥に仕舞い込んでから口を開くと、そんな返事が返って来た。

 

「そういえば城廻先輩が、わたしが会長になっても役員が足りないって言ってましたね〜」

「だよなあ。さっきは奉仕部と生徒会を別々にって言ったけど、いっそ合併するぐらいじゃないと人材が足りないんだよなあ」

 

 しっかりと距離を開けてソファの端に座っている八幡に苦笑しながら。少し興味を引かれたので、コーヒーを一口飲んでから話を続ける。

 

「それって、もし合併したら役員ってどんな感じになるんですか?」

「そうだな……。まあ雪ノ下と由比ヶ浜のどっちかが会長でどっちかを会計監査にするだろ。副会長と書記は決まってるし、俺は庶務とかかね。会計は会長が兼務すりゃ良いし、でもこれでもギリギリだよなあ」

 

 悟られない程度に唇を尖らせながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。

 

「えっと、結衣先輩が会長だと会計を兼任って……?」

「ああ見えて由比ヶ浜は数字に強いんだわ。まあ数学の成績は壊滅的なんだが、文化祭の時とかクラスの決算を一手に引き受けてたからな。それに加えて文実の予算見直しにも協力してたし、大したもんだろ?」

 

 我が事のように自慢げに語る姿はどうかと思うのだが、あの先輩が褒められると自分も嬉しい気持ちになるので不問にした。それよりも。

 

「でもやっぱり、あと一人ぐらいは居たほうが良いですよね〜?」

「まあな。でも居ない以上は仕方がないだろ。そういや、お前は無事に無罪放免だな。月曜から今日までだとお前でも気疲れしただろうし、今日はゆっくり休めよ」

 

 少しあからさまに唇を尖らせながら、ちょっと困らせてやろうと思い付いて。ちらちらと上目遣いになりながら口を開く。

 

「でも一人で寝るのって寂しいですし、今日もここに泊ったら、ダメ……ですか?」

「小町が良いって言うんなら良いんじゃね」

 

 旅行帰りで疲れが溜まっているのは分かるのだが、欠伸交じりにそう返事されると少しむかっとしてしまう。

 

「はあ。せんぱいって、わたしのことを何だと思ってるんですかね」

「手のかかるあざとい後輩かね。けどまあ……一緒にいても気が楽ってのはあるかもな。今日はお前もストレスが溜まってたのか、反応に困る行動も多かったけどな」

 

 そういえば、お互いに遠慮がないのが暗黙の了解だったはずだ。だからこうして家に押しかけることもできたし、今も一人にならずに済んでいる。でも。

 

 勝手に立候補させられただけの、名前だけの会長候補だとしても。空想の生徒会メンバーの中にわたしがいないのは何だか悔しい。あの二人の先輩や目の前のせんぱいが名前を連ねている中に、自分がいないのは何だか寂しい。

 

 会長をやりたいのかと問われると、やりたくないと即答できる。でも「この人たちとだったら」と考えると、思った以上に前向きに検討を始める自分がいる。

 

 会長にしろ役員にしろ、面倒事が多い割には旨味がまるでない。へたな行動はできないし、不自由なことこの上ない。わたしが望む自由で快適な日々には程遠いだろう。

 

 でも、少しだけ自由を失うことで、この人たちに差し出せるものができる。この人たちの負担を肩代わりできる。それはわたしにとって、実行すべき価値がある事だろうか。

 

 

 考え事に耽っていた一色をじっと観察していた八幡は、意識が表を向いた瞬間を捉えて静かに語りかけた。

 

「あのな。俺の勘違いだったら笑ってくれたら良いけどな。お前、もしかして、会長をやりたいのか?」

「いえ……会長になりたいとは思いません。でも、そうですね。今日も部室で三人で話し合いをしてたじゃないですか。あんなふうに、わたしも一緒に仕事をしてみたいなって。そんな感じですかね〜」

 

 思考に没頭していたからか、つい真面目に答えてしまった。最後だけ軽い口調にしてみたものの、騙されてくれるとはとても思えない。

 

「そのな。お前の処遇をどうするかって話ができてなかったよな。立候補を完全に取り下げるんだと思ってたんだが、例えばこのまま会長選に参加する手もあるよな」

「でも雪ノ下先輩や結衣先輩が相手だと、惨敗して終わりですよね〜?」

 

 だから、あくまでも冗談ぽく仮定を述べる。

 

「んじゃ、健闘したけど惜敗ぐらいならどうだ?」

「それだと立候補を取り下げるよりも様になりそうですよね〜。でも、せんぱいの希望は叶いませんけど?」

「俺の希望は雪ノ下と由比ヶ浜以外の会長だからな」

「それだと、わたしが会長になっちゃうじゃないですか〜?」

 

 嘘っぱちを口にしているつもりはない。仮に選挙に出たところで、ほとんど勝ち目がないのは確かだからだ。

 とはいえ、このせんぱいに他の会長候補を用意できるとも思えない。けれど、もしもわたしが立候補を継続すれば、確率は低くとも可能性は残る。そして勝負は蓋を開けてみなければ判らない。

 

「お前が会長になったら、奉仕部が全面的に協力するだろうな。そしたら一緒に仕事ができるぞ?」

「そうですね〜。マグカップをもらった恩もありますし、どうしよっかな〜」

「あとな。一緒に仕事をするよりも本気で勝負をするほうが、相手と深く解り合える可能性は高いぞ。つか俺がそれをやりたいだけかもしれんがな」

「なるほど〜。じゃあ、いいですよ。せんぱいに乗せられてあげます」

「え、ホントに?」

 

 すっかり共犯だと思っていたのに、その間の抜けた返事は何なのだろう。

 

 とはいえ一つ分かったことがある。

 これ以上この問題に煩わされたくないし、早く安心させて欲しいと思っていたけれど。わたしは立候補そのものが嫌だったのではなく、宙ぶらりんの状態にストレスを感じていたのだ。その証拠に、いざ選挙に出ると決意を固めてしまうと、安堵の気持ちが胸の中に広がっている。

 

 勝てるかどうかは判らない。というよりも、普通に考えれば惨敗の可能性が高いだろう。今までのわたしなら、そんなみっともない目には遭いたくないと考えていたに違いない。

 

 でもこれは、わたし自身が望んでいることだ。

 情けない結果になるかもしれないし、あの二人との差を更に強く思い知らされるだけかもしれない。

 それでも、挑みたいと思ってしまったから。

 この人たちの近くにいたいと思ってしまったから。

 

「じゃあ、はっきり言いますね。いろはちゃんは悪いせんぱいに唆されて、生徒会長選に挑みます。だから、せんぱい」

 

 そこでいったん口を閉じて、両手で抱えていたマグカップを机の上に置いた。にっこりと微笑みながら立ち上がると、ゆっくりとした動きで二人の距離を縮める。相手の意表さえ突けば、動作が緩やかでも向こうは身動きができないものだ。

 

「だから、せんぱい。たすけてくださいね」

 

 耳元でそう言い終えると、また元の席に戻った。

 

 顔を赤らめて固まっているのを満足げに眺めて。ふと視線を遠くに向けると、リビングのドアに張り付いてこちらを凝視している年下の友人と目が合った。




更新が数日遅れてごめんなさい。
次回は来月の十日過ぎに更新できそうです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

追記。
細かな表現を修正しました。(2/27)


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04.きあいを込めて彼女らは成長の決意を語る。

前回のあらすじ。

 立候補させられた月曜から木曜にかけて、一色は精神的に疲弊していった。
 それでも外面は普段通りに部活で過ごしていると、二年生が修学旅行から帰ってきた。
 状況を把握した葉山は一色をねぎらい、旅行の疲れを癒やすために自宅に戻った。

 城廻とともに奉仕部の部室を訪れた一色は、三人の間に微妙な変化を見出す。
 奉仕部内で意見が分かれた結果、雪ノ下と由比ヶ浜はそれぞれ立候補を、八幡は対案を考えるという形に落ち着いた。

 八幡の家まで同行して旅行土産を受け取った一色は「三人と一緒に仕事をしてみたい」と口にすると、八幡の誘いに乗る形で立候補を決意した。



 三人で共有しているリビングで、告白の結果はどうなったのかと気を揉みながら友人の帰宅を待っていると。

 

「あたし、立候補することにしたから」

 

 開口一番そう告げられて、海老名姫菜は途方に暮れた。

 

 助けを求めて三浦優美子に視線を送ると「あーしに解るわけないし」という表情が返ってきたので。興奮状態の由比ヶ浜結衣を宥めすかして、少しずつ状況を把握していく。

 

「要するに告白の返事は延期って事と、雪ノ下さんの会長就任に反対して結衣が立候補したって事かな?」

「あ、うん。って、ヒッキーの話はしてなかったっけ?」

 

 濃密な一日だったので遠い昔のようにも思えるが、東京駅で解散したのはつい数時間ほど前のこと。竹林での告白からでも丸一日も経っていない。それを由比ヶ浜に伝えると。

 

「そっかー。何だか話すことが多すぎて、どれから片付けたらいいのか分かんなくなっちゃうね」

「ま、夜は長いしまだ始まったばっかだしさ。優美子とご飯の支度をしとくから、先にお風呂に入ってきたら?」

 

 海老名はそう言ってひとまず話を落ち着けた。

 

 

 ぽかぽかと湯気をまとって由比ヶ浜がリビングに戻ってきたので、そのまま三人で食卓を囲む。

 

 告白の話は急ぎではないし、立候補の話は真面目に打ち合わせをするべきだと考えた結果、一色いろはの立候補にまつわるあれこれが夕食の話題になった。

 黒幕をひとしきり貶し終えて。これでようやく由比ヶ浜の立候補に話が繋がったので、海老名と三浦から苦笑が漏れる。

 

「結衣も雪ノ下さんも立候補するって言われて、告白が原因で修羅場になったのかと思っちゃったじゃん」

「あーしも真っ先にそれを考えたし」

 

 そんな二人に向けて、由比ヶ浜は頬をぽりぽりと掻きながら歯切れの悪い口調で応える。

 

「あー、うん、そういうわけじゃないんだけどさ。でも、ゆきのんに負けたくないって気持ちの中には、そういうのもちょっとは含まれてるのも間違いなくて……」

 

「それはまあ、仕方ないんじゃないかな。優美子だって一色さんに負けたくないって気持ちは強いだろうし、一色さんもたぶん同じだろうしさ」

 

 例に出された三浦が軽く頬を膨らませて不満をアピールしているものの、二人は気にも留めない。

 当の本人もその反応は読めていたのか、すぐに表情を引っ込めると話のついでとばかりに口を開いた。

 

「でも立候補の経緯が判って、ちょっと安心したし」

「女テニの練習を手伝いに行くたびに優美子、言ってたもんね。マネージャーのいろはちゃんはすごく真面目だって」

 

「文化祭で一緒にバンドをした時も、隼人くんの前で張り合ってくるのはうざったいけど一色さんは演奏では頼りになるって……」

「あーしが恥ずいから過去の話は出して来んなし」

 

 海老名の発言を遮って早口でそう言い終えると、三浦はつんと横を向いてむくれている。

 そして照れ隠しのためかメッセージのアプリを立ち上げて何かを書き始めたので、二人は軽く笑い合うと話を続けた。

 

 

「じゃあ、結衣と雪ノ下さんの立候補を発表するタイミングで一色さんの辞退表明って感じ?」

「あっ。そういえば、いろはちゃんの話をしてないや」

 

 他のことに気を取られていたので、すっかり忘れていた。

 

 三人だけで善後策を練っていたあの時に、立候補の意思を取り下げるつもりはないと態度で伝えられて。この期に及んで自分一人で背負い込もうとする彼女に業を煮やして、由比ヶ浜は立候補を宣言したのだった。

 

 一色を交えて話し合いが再開してからも、依然として奉仕部内の意見対立に意識を奪われていた自分たち。それをようやく自覚して、由比ヶ浜があせあせしていると。

 

「まあ、なるようになるんじゃない。結衣か雪ノ下さんが会長になるか、ヒキタニくんが変な手を打つか。どのケースでも問題ないと思うけど?」

 

「それはそうだけどさ……いろはちゃん月曜からしんどかったと思うし、早く解放してあげたいじゃん」

 

 そう語る由比ヶ浜に頷いて同意を示しはしたが、頭の中には冷静な自分がいる。一色には申し訳ないけれど、海老名にとっての優先順位は由比ヶ浜のほうがはるかに上だ。

 だからこそ海老名は懸念を口にする。

 

「明日にはそうなるって、一色さんも思ってるんじゃないかな。でさ、ヒキタニくんが何を考えてるかが気になるんだよねー」

「ヒッキーは……うーん、本牧くんに頼むとか?」

 

 それが可能性としては一番だろうと海老名も思う。

 だが性格的に会長職が不向きな上に、彼が選挙でこの二人に勝つ絵が思い浮かばない。だからこの手は無いだろうと説明して、そのまま言葉を続ける。

 

「もっと思いがけない手を打ってくると思うんだよね。例えば……実現の可能性を度外視したら、春まで限定で城廻先輩の続投なんてどう?」

「あー、確かにそれってヒッキーぽいかも」

 

 そんなふうに名前を連呼していると、三浦がふっと笑いを漏らして由比ヶ浜に視線を向けた。そしてアプリを閉じて口を開く。

 

「それも明日になったら分かるし。それよりお茶でも淹れてソファに移動して、真面目な話をする時間だし」

 

 その言葉を切っ掛けにして立ち上がった三人は仕事を分担して、食器の片付けとテーブル拭きとお茶を淹れに動いた。

 

 

***

 

 

 由比ヶ浜を中央に、右に三浦・左に海老名という並びでソファに腰を下ろした。

 三人そろってマグカップに軽く口を付けてからテーブルに戻すと、まずは海老名が口を開く。

 

「でさ、選挙の件だけど。解ってると思うけど、雪ノ下さんは強敵だよ?」

「うん。でもさ、挑まなくちゃって思ったの」

「……結衣は、勝つのが目的なんだし?」

 

 由比ヶ浜の言葉に引っかかりを覚えた三浦がそう訊ねると。

 三浦の疑問をより正確に表現し直すべく、海老名が補足を述べる。

 

「会長になりたいのか、それとも雪ノ下さんに勝ちたいのか。結衣の希望をちゃんと理解しないことには話が進まないからね。だから、その辺の気持ちを教えてくれるかな?」

 

 問われた由比ヶ浜は懸命に頭を働かせて、そしてぽつぽつと話し始めた。

 

「あのね、ゆきのんに勝ちたいのもホント。今までは考えた事もなかったんだけど、ゆきのんに挑んでみたいなって、ふっと思ったの。それと……会長になりたいのもホント。でもこれも、ゆきのんを意識してってのが大きいかも。そういう役職に就いて、少しでもゆきのんと対等になれるようにって。それから、ゆきのんの仕事をあたしが引き受けられるようにって。……そんな感じ、かな?」

 

 黙って最後まで聴き終えた海老名は、うーんと頭を捻っている。

 それを横目で確認して三浦が口を開く。

 

「会長になって高校をどうするとか、そういうのは無いんだし?」

「うん……だね。みんなが楽しく過ごせるようにってのは思うけど、それぐらい?」

 

 少しばつが悪そうに答えた由比ヶ浜だが、三浦には咎めるような雰囲気はもちろん落胆の色もない。むしろほんの少し頬が緩んだ気さえした。

 

「それで充分だし。今の会長も『みんなが明るく楽しく過ごせる学校にしたい』って言って当選してるし、継続をアピールできるのは利点だとあーしは思うし」

 

「へーえ。優美子もいいこと言うじゃん。雪ノ下さんを意識しすぎじゃないかって、私はマイナス面を考えてたんだけどさ。こんな世界に巻き込まれてる状況だし、楽しく過ごせるようにって訴えは悪くないよね」

 

 三浦に続いて、海老名が軽い口調で感想を述べる。

 

 茶化したような物言いは相変わらずだが、そこに驚きと賞賛の感情が潜んでいるのが二人には理解できた。ふっと同時に息を漏らして顔を見合わせると、海老名がそっぽを向いているのが視界の端で確認できた。

 

「うん。優美子に言われてあたしも気が楽になったし、だから姫菜が思うマイナス面も教えて欲しいなって」

 

 

 そう由比ヶ浜に語りかけられて、海老名は視線を戻すと少し考え込んでから口を開く。

 

「雪ノ下さんに勝ちたいってのは、たぶん対等にって気持ち以上にヒキタニくんの存在が大きいよね。で、会長になりたいのは雪ノ下さんと対等にって希望が根底にあると。それってさ、結衣は今の奉仕部のままじゃダメだと考えてるってことだよね?」

 

「そう……かも。できれば三人で、もっと話を深めたいんだけどさ。ゆきのんが会長に立候補するって言って聞かないし、それだとヒッキーと距離ができちゃうじゃん。ヒッキーの事はまた後で詳しく話すけどさ。ゆきのんとヒッキーにも仲を深めてもらわないと、今のままだと絶対ダメだなって思ったの。だからヒッキーには『ゆきのんに協力してくれてもいいから』って言ったんだけどさ」

 

 うんうんと頷きながら話を聞き終えると、海老名の顔は更に渋いものになっている。

 

「あーしも、隼人は分かんない事が多すぎるからさ。隼人の事をもっと詳しく知るために協定を結んだりしたんだし。だから結衣の気持ちも理解できる気がするし」

 

 逆に三浦は腑に落ちたような表情を浮かべていた。ライバルの一色を牽制するよりも、まずは二人で協力してより多くの情報を得るべきだと考えた過去の自分に思いを馳せながら、感想を述べる。

 

「そっかー。うーん……まずは確認できるとこから話を済ませよっか。三人で話を深められるなら、結衣は今までの奉仕部でも良いって思ってる?」

 

「ううん。それだと、あたしが何にも変われないじゃん。ゆきのんに少しでも近付けるように、生徒会長になるってやり方を知っちゃったからにはさ。やってみたいなって思う」

 

 三浦の言葉に軽く頷いてから問い掛ける海老名に、少し考えただけで由比ヶ浜は即答した。

 

「でも雪ノ下さんやヒキタニくんと距離ができるし、いつでも自由に会えるってわけにはいかなくなるよ?」

「うん、それでもさ。ゆきのんが会長になってヒッキーと距離ができるよりは、そっちの方がいいってあたしは思うの」

 

 重ねた問い掛けに、迷いのない強い口調で返事をされて。とある解釈を胸にしまい込んでおこうと海老名は決意した。

 

 彼が選挙で二人のどちらか一方に協力した場合、無事に当選を果たした暁には他方と奉仕部で二人きりになる。

 つまり、由比ヶ浜が善意で口にした言葉を悪いように曲解すると、「彼と二人きりで部活をしたいと秋波を送っている」と受け取られかねない。

 

 あの二人の性格を考えると、さすがに杞憂だろうと海老名は思う。それに由比ヶ浜はそんな性格ではないと、あの二人も知っているはずだ。

 

 けれど人が誰しも持っている悪い側面を多く見てきた海老名は、同様の経験をしてきたであろう二人を全面的には信頼しきれない。いや、信頼の問題ではないのだろう。むしろ、思考能力に優れ勘も鋭いあの二人ならそんな解釈にも思い至るだろうと、信頼しているからこそ心配なのだ。

 

 一笑に付してくれればそれで良い。だが、いくら可能性が皆無に近くとも、自分にとって特別な人の「もしも」は気になるものだ。そんな事にかかずらって落ち込ませたくないと思うほどには、海老名は二人を親しく思っている。

 

 二人に関しては「変なふうに受け取らないで欲しい」と祈るしかないし、この解釈を由比ヶ浜に伝えてもいらぬ心配をさせるだけ。

 

 だから海老名は自分の中に仕舞い込んでおこうと決めたのだった。

 

 そして頭を切り替えて口を開く。

 

 

「会長選に勝つのが最優先ならさ、一番いいのはヒキタニくんを引き込むことなんだけどねー」

「ヒキオの性格的に無理だと思うし」

「ヒッキー、あたしとゆきのんの会長就任を邪魔するって言ってたよ」

 

 二人の返事に頷いて海老名はそのまま話を続ける。

 

「じゃあ現実的な話をすると、まずはクラスからの支持を固める事かな。特に隼人くんには明日の朝一番に話をしたほうが良いと思う」

「うん。じゃあ早めに行って待ってよっか」

「念のため、できるだけヒキオに見られないように動いた方がいいと思うし」

 

 三浦の補足を耳にして、企みが半分バレているのを悟った海老名が苦笑する。首を傾げている由比ヶ浜には詳細を伝えずに、そのまま話を続けた。

 

「さっきの城廻先輩ほどの大物はなかなかいないと思うけどさ、もしヒキタニくんが他の候補を見つけてきたら三つ巴になるじゃん。結衣には耳が痛いかもしれないけど、たぶん雪ノ下さんが一番人気で結衣は二番手になると思う。ここまではいい?」

 

 しっかりと首を縦に振る由比ヶ浜を見て、意外と会長職が似合うかもしれないなと思いながら海老名は語り続ける。

 

「だから雪ノ下さんよりも結衣を選んで欲しいって、全校生徒に訴える何かをさ。結衣には考えておいて欲しいんだよね。そういうのって、自分の言葉じゃないと意味ないからさ」

「ゆきのんよりもあたしを……うん、考えてみる」

 

 相手のスペックを考えると、無茶なことを言っている自覚はある。だが対立候補を上回る何かをアピールできないようでは、順当な結果で終わるだけだろう。

 即答してくれた由比ヶ浜の想いに応えるべく、自分もなすべき事をなそうと海老名が考えていると。

 

「あーしは具体的な行動が合ってるから、票を少しでも奪えるように動こうと思うし」

「それさ、一番手の雪ノ下さんと三番手の誰かとで対処を分けたいんだよね。状況に応じてってのもあるから……」

 

 自分を信奉する生徒たちを動かして、大規模な説得工作を行うつもりだと受け取って。海老名がその動きに制限をかけようとしたところで、それを遮るように三浦が話を続ける。

 

「あーしは指示に従って動くだけだし。だから、どう動くかの判断は任せるし」

「あー、そういう事ね。最初から私に司令塔を任せるつもりだったのにあの言い方って、ちょっと優美子も性格が悪くなってきたんじゃない?」

 

「たぶん、誰かに似たんだと思うし」

「あー、確かに優美子って最近、姫菜っぽいなって感じる時があるんだよねー」

 

 そんなふうに時折じゃれあいながら、三人娘の話し合いは続く。

 途中からは恋愛話も始まって、日が変わる頃まで話題が尽きることはなかった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、一色を高校まで送り届けた比企谷八幡は自宅のリビングに戻ってきて、ソファに深く腰を落としていた。なんだか疲れが一気に出た気がする。

 

 今日の一色は反応に困る言動が多かった。何とか平静を装って対処していたものの、実際には危ういところだった。特に上目遣いで「ここに泊まったら、ダメ……ですか?」と言われた時には、過去の黒歴史をかなぐり捨てて「はい、喜んで」と答えそうになったほどだ。

 

 頑張って耐えた俺って偉いなーと、八幡がそんな事を考えていると。

 

「いろはさん、せっかく来たんだから、もう一晩ぐらい泊まっていけば良いのにさー」

 

 ぐったりした八幡のすぐ隣でぶつくさ言っているのは妹の比企谷小町だ。兄とは対照的に目をきらきらと輝かせて、実に生き生きしている。その理由は明白だった。

 

「お前に何を言われるか分かったもんじゃないからな。からかわれないように逃げたんだろ。つか本当に大した事は言われてねーからな」

「ちぇー、つまんないの」

 

 距離を置いて座っていた状態から一色がおもむろに立ち上がって、顔を八幡の耳元まで近付けて何かをして、そして元の場所に戻った。それが小町が見た全てなのだが、中学生にとっては妄想を逞しくするのも当然のシチュエーションではある。

 

「それより、ほら。旅行先で撮った写真が山のようにあるから、これでも見てろ。お兄ちゃんちょっと体力的にも精神的にも疲れたから、質問があるまでぐったりしてるわ」

 

 大量の写真を共有状態にして、そのまま軽く目を閉じる八幡。

 そんな兄の顔を見ながら、小町は軽い微笑みを漏らしていた。

 

「疲れてるのに部屋に引っ込まずにここに居てくれるとことか、質問可能なところとか、今日のお兄ちゃんは一味違いますなー。旅行先で何かあったの?」

 

 妹にそう問われて薄く目を開けた八幡は、少し迷った末に口を開く。

 

「まあ、色々あったんだわ。話し出すと長くなるし、ちょっと中途半端な状態だからな。もうちょい整理が付いたらちゃんと話すから、そん時は頼むわ」

「およ。半分は冗談のつもりだったのに、お兄ちゃんもやりますなー」

 

「俺は何もしてねーっての。ただまあ一色の立候補の事もあるし、最近周りの人間関係が複雑過ぎてなあ……。お兄ちゃんがやばくなったら、頼むから相談に乗ってくれよ?」

「けっこう本気で見直したつもりだったのに、ダメなお兄ちゃんも健在だ……」

 

 そう呆れ声で答えた小町だが、その前にしっかりと首肯していたりする。

 それを知ってか知らずか、八幡は再び目を閉じてぼーっと頭を休ませていた。

 

 

 ふとメッセージが届いた音がしたので、八幡は目を開けてアプリを確認した。

 

『立候補の経緯を結衣から聞いたし。とりあえずお礼を言っとくし』

 

 思いがけない人物からのメッセージに、八幡は思わず吹き出しそうになった。

 

 旅行先で夜にホテルを抜け出して一緒にたこ焼きを食べた時に、一色の詳しい事情を知りたいと頼まれたのを思い出す。結局は何の役にも立たなかったなと思いながらも、頼まれごとが解決したのを知って喜んでいる自分もいる。

 

『俺は何もしてねーから、お礼を言うなら由比ヶ浜に言ってやれ。それか、たこ焼きとお茶でも奢るとか』

 

 そこまで書いて、どう続けたら良いのか分からなくなったので、これでいいやと送信した。

 しばらく待っても返事は来なかったが、特に期待してなかったので不満はない。

 

 そのまま少し時間が過ぎて、ふと八幡の口から小声が漏れる。考えてみれば、旅行中は毎晩のように部屋を抜け出していたんだなと思いながら。

 

「この先、妹にも言えないような事とかも出てくるのかね?」

「……なんだか今日のお兄ちゃんって、変なのはいつもだけどちょっと違うよね。あ、この写真の雪乃さんと結衣さん可愛い!」

「どれ……ってああ、それな」

 

 三人で撮った通天橋の写真を見せられて思わず遠い目をした八幡は、小町が小声でつぶやいた事には気付かなかった。

 

「へーんだ。自分だけ大人になっちゃったみたいな顔してさ」

 

 

***

 

 

 同じ頃、久しぶりに自宅に帰ってベッドで寛いでいた葉山隼人は、こちらも意外な人物からのメッセージを受け取っていた。

 

「まあ、良いんだけどさ。初めてのメッセージがこれとはね。……いや、文化祭の前にも一度あったな。でも事務的な内容なのは相変わらず、か」

 

 そう呟きながらメッセージにもう一度目を通す。

 

『相談があるのだけれど。姉さんと昔よく行った喫茶店で、三十分後に』

 

 こちらが断るとはかけらも考えていない物言いには苦笑するしかない。そして事実、葉山に拒否するという選択はない。あの姉妹には逆らえない理由が葉山にはあるからだ。

 

「今すぐに出たら半分の時間で行けるけど……雪乃ちゃんのことだから『姉さんと違って私は寛大なのよ』とか思ってそうだよな」

 

 幼なじみの喋り方を真似てみて、少し心が落ち着いたので。葉山は力強く起き上がると、手早く支度を整えて外に出た。

 

 

 待ち合わせの五分前に店に入ると、既にそこには待ち人がいた。向かいの席に腰を下ろしてブルーマウンテンを注文してから、葉山は雪ノ下雪乃の顔を見据える。

 

「なんだか、こうして話すのは久しぶりな気がするわね」

 

 グァテマラを一口飲んでから話し掛けてくる雪ノ下を見て、葉山は彼女の姉の姿を思い出さずにはいられなかった。

 一緒にこの店に来ていたのはもっと幼い頃だったのに。

 幻視した彼女の姿はすっかり大人びていて、鮮やかなルージュのコートを身にまとっている。

 

 運ばれてきたブルーマウンテンを一口飲んで、その苦みで彼女のイメージを追い払った。

 

「昨日の夜にも、戸塚と比企谷の四人で話をしたはずだけど?」

「意味を分かっているくせに、そんなふうに言うのね。それとヒキタニくん呼びはしなくて良いの?」

 

 普段とは違ったくだけた物言いに、今度は幼い頃の雪ノ下を思い出してしまった。その幻影を心の中に留めたまま、葉山は口を開く。

 

「ここでは言葉を飾らなくても良いみたいだしね。それで、用件は会長選挙のことだろ?」

「御名答ね。私に協力して欲しいのよ」

 

 ここで飲物を口に含んで少し間をおいた。その間、雪ノ下は身じろぎ一つしていない。

 

「俺の協力が必要だとは思えないな。いろはの状況は把握してるつもりだけど、他に何かあったの?」

「由比ヶ浜さんも立候補するって言い出したのよ。それと比企谷くんも、私たち二人が会長になるのは反対だって言って対案を考えてる」

 

 今度は飲物には手を出さず、一つ頷いてから腕を組んで今の情報を検討した。どちらを脅威と捉えているのか訊ねてみたいと思ったものの、答えは明らかだしあまり耳にしたくはない。だから別の質問を投げかける。

 

「比企谷の対案って、何だろう?」

「さあ。会長選挙自体を台無しにするとか、予想も付かない候補を引っ張り出してくるとか、そんな大雑把なことしか分からないわね」

 

 その声に喜色が混じっているのが感じ取れて、葉山は内心で複雑な表情を浮かべた。だがそれを素直に表に出せるほど、今の自分は幼くはない。

 

「選挙を台無しにするのは、その後が続かないから悪手じゃないかな。生徒会の存在自体を葬り去れば問題はなくなるけど、それは比企谷でも無理じゃない?」

「私もそう思うんだけど、比企谷くんは読めないのよね。他の候補は?」

 

 気怠げな口調でそう質問されても、葉山には試されているという感覚はなかった。単に話を早く進めるために問い掛けているだけで、こちらの頭の出来映えなどは先刻承知だろう。

 手を抜いた答えを告げても時間の無駄にしかならないので、葉山は懸命に頭を捻った。

 

「とりあえず、比企谷の交友関係を全て押さえておけば良いんじゃないかな。可能性で言えば戸塚とか川崎とかだけど」

「足元が見えていないのは相変わらずね。比企谷くんの知り合いの中で、立候補したら一番当選の確率が高い人物は誰だと思う?」

 

 

 そう言われて葉山は大きくため息を吐いた。協力を要請してきた理由は最初から明白だったのだ。自分が気付いていなかっただけで。

 

「俺は最初から立候補の意思は無いんだけどな」

「貴方はそう言うけれど、気持ちは変わるものよ。だから念には念を入れたいのよ」

 

 その申し出には頷くことで返事に代えた。とても何かを口にできる気力がない。

 

「とはいえ、貴方の答えも悪くはないわよ。しらみつぶしに比企谷くんの交友関係を潰していけば、打つ手は無くなるはずだもの」

「一つ思い付いたんだけどさ。城廻先輩の続投って手は無いかな?」

 

 形だけの慰めを言われて、逆に葉山の心に火が灯った。八幡が連絡を取れる人物のリストを頭の中で思い浮かべて、その中から最も意外な人物の名前を口にすると。

 

「そうね。それは確かに意外性という点では一番ね。でも私に勝てると思う?」

「どんなに頑張っても春までの一時凌ぎだからね。そこを正論で突けば、雪乃ちゃんの勝ちは動かないな」

 

 親しげな口調で問い掛けられた葉山が、小学生の頃に戻ったような気持ちに浸っていると。

 雪ノ下が意外な名前を挙げる。

 

「一番怖いのは、比企谷くんが一色さんを説得する事よ。男子からの人気は侮れないし、あれだけの支持母体があれば比企谷くんが打てる奇策も幅が広がるわね」

 

 先ほど思い浮かべたリストの中に一色の名前を入れ忘れていたのに気がついて。それでも葉山は何とか声を絞り出した。

 

「……なるほどね。協力して欲しいって話は、身柄を拘束するだけじゃないって事か」

「会長になろうというのに、人材を無為に遊ばせておくのは勿体ないでしょう?」

 

 くすっと笑いながらそう言われると、葉山も苦笑を返すしかない。

 とはいえ不可解な点もある。これほど会長職に固執するのは何故なのか。雪ノ下は何に駆り立てられているのだろうか。

 

 

「でもさ、協力は惜しまないけどね。できれば会長職に拘る理由を教えて欲しいな」

「理由を言わなかったのは、これでも貴方を気遣ったつもりだったのよ?」

 

 そう言って雪ノ下は無邪気に微笑んだ。

 幼い頃に三人で遊んだ時のように。

 

「姉さんに、姉さんとは違うやり方で集団を動かせると示すためよ。あの人が信じているものを打ち砕くために。そして、あの人が信じていないものを信じさせるために。そう言われたら、貴方に選択の余地はないでしょう?」

 

 続けて「だから黙っていたのよ」と囁かれた気がした。だがそれは幻聴だ。現実の彼女()はそんなに優しくないし、そこまで言わないと解らないと思われる方が葉山は嫌だった。

 

「確実を期すなら比企谷を取り込むべきだと思うけどね。それを検討した気配がないのは、何故?」

 

 よりにもよって雪ノ下の前で、彼よりも自分が劣ると認めるような発言をするのは苦痛だった。だが葉山にも意地があるし、協力すると誓ったからには(葉山にとって先程の発言は誓いに他ならなかった)最善を尽くす。だからそう問い掛けた。

 

「考えてみて。姉さんとは違った私のやり方で上手く行くならそれで良し。でも貴方や私ですらも思い付かないようなやり方で、比企谷くんが誰かを会長に据えられれば。それは姉さんにとっても未知のやり方でしょう。だから私はどちらに転んでも良いのよ。もちろん負けるつもりは無いのだけれど」

 

 まるで歌うような声音で説明を受けて。八幡の尽力によって会長に就任した一色を葉山は思い浮かべた。

 それは夕方にグラウンドで見た姿とは似て非なるもの。

 

 あの時に一色が考えていた事を葉山は全て読み取ることができた。

 身近な他者に劣るという理由で勝手に過小評価していた誰かに、自分は遠く及ばないのだと理解させられる。それはこの姉妹を相手に過去の自分が経験したことと同じだから。

 

 だから葉山は一色に優しく笑いかけることができたし、心の奥底を読み取られていないと安心することができた。

 

 だが、もしも一色が変わってしまったら。目の前の幼なじみや対立候補の同級生と同じように、彼の手によって変わってしまったら。それを思うと、なおさら葉山に選択の余地はなかった。

 

 雪ノ下を会長にするために全力を尽くすのは勿論のこと。それと平行して、彼に負けないように一層の成長を遂げなければ話にならない。

 

 奇しくも、変わりたいという意思を由比ヶ浜が友人に伝えているのと同じ頃に場所を隔てて、葉山もまた変化の必要性を認識した。

 

「どちらに転んでも良い、か……俺はできれば勝ちたいけどね」

 

 負けても良いなんて、葉山にはそんな贅沢は許されない。もがいてもがいて成果を出すことでしか道は拓けない。

 彼我の隔たりを改めて自覚して、葉山は唇を噛みしめながらもそっと決意を語った。雪ノ下に悟られないように、けれどこの上なく真剣に。

 そして、こう続ける。

 

「でもさ、陽乃さんはどう思うだろうね」

「ええ、楽しみだわ」

 

 意図が通じていないと理解しても葉山に落胆はなかった。なぜなら確証が持てなかったからだ。だが自分の中の違和感は消えてはくれない。

 

 果たして、あの人が見たいと思うものはそれなのだろうか?

 

 葉山はその疑問を喉の奥に呑み込むと、すっかり冷めたブルーマウンテンで押し流した。




今週初めに更新の予定でしたが、少し遅れてごめんなさい。
次回は少し余裕を見て二週間後を考えています。
その後は少しずつペースを上げられると思うのですが、いきなり丸一日潰れてしまうケースが増えていて、なかなか断言しにくいのが申し訳ないです。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(3/16)
6巻13話にて、葉山は既に雪ノ下からのメッセージを受け取っていたので修正しました。申し訳ありません。(3/30)


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05.いり乱れる思惑と行動に彼は翻弄される。

前回のあらすじ。

 奉仕部で今まで通りに過ごすよりも、会長選挙で雪ノ下に勝って対等の立場で手助けがしたい。雪ノ下と八幡にも仲を深めてもらわないとその先に進めない。
 そうした由比ヶ浜の意思を受け止めた海老名と三浦は、まずはクラスの支持を固めるために明日の朝一番から動き出そうと結論付けた。

 同じ頃、一色に立候補の継続を決意させた八幡は妹の横でくつろいでいた。
 兄に大きな変化の兆しを見た小町が微妙な思いを抱いていることに、八幡は気付いていない。

 雪ノ下はいち早く行動に出ていた。葉山を呼び出して立候補を封じると同時に、八幡が一色を擁立した場合に備えて協力を要請する。
 会長職に拘る理由は姉のためだと伝えて、雪ノ下は葉山を自陣営に取り込んだ。



 一夜明けた金曜日、総武高校では全校生徒が久しぶりに顔を合わせた。二年生の中には疲れが抜け切っていない生徒もいるが、その表情は明るい。旅行気分が続いているのが良い方向に働いているのだろう。

 

 とはいえ例外はもちろん存在する。朝から厳しい表情を浮かべている二年F組の三人娘や、ギリギリの時間に登校して休み時間も一人難しい顔で何やら考え込んでいた同じく二年F組の男子生徒などがそれに該当する。

 

 午前の授業が終わってお昼休みを迎えると、その例外たちは席を立って奉仕部の部室へと足を向けた。

 

 

***

 

 

 教室には珍しく大勢の面々が集まっていた。

 

 まずは前日と同じ顔ぶれの五人、つまり奉仕部の三人と生徒会長の城廻めぐりと立候補者の一色いろは。だが昨日と同じように依頼人席に座っている城廻とは違って、一色は比企谷八幡のすぐ右手に椅子を移動させている。

 

 由比ヶ浜結衣の近くには三浦優美子と海老名姫菜が椅子を並べて控えていて、雪ノ下雪乃の背後には窓に背中を預けて立っている葉山隼人の姿がある。

 

 最後に、黒板の近くに立ち位置を定めて、城廻の更に向こうから一同を見守っている平塚静。

 合わせて総勢九名がこの部屋で顔を揃えていた。

 

 

「では、会長選挙の詳細について話を詰めたいと思います。本来であれば、立候補者の一人である私が進行役を務めるのは適切ではないと思うのだけれど」

 

「奉仕部への依頼もあるし、ゆきのんなら公平に進めてくれるって思ってるからさ」

「ま、気兼ねなく話ができるんならそれで良いんじゃね?」

 

 城廻から進行役を託された雪ノ下が口を開くと、部員二名がそれに答えた。その他の一同に口を挟む気配はない。

 

「じゃあ、まずは確認ね。私と由比ヶ浜さんと一色さんの三人が立候補して選挙を行うこと。選挙に関する具体的な内容を今から話し合うこと。ここで決まったことは放課後に選管から公表されること。その発表の直後に一色さんが協力を強制することでクラス内のいざこざを一気に解決すること。この辺りは既決事項として扱っても良いと思うのだけれど」

 

「異論は無いんだが、言い方な。協力を強制じゃなくてお願いだろ。まあ、こいつのお願いって、強制とは違った意味でなんか怖いけどな」

「せんぱい。言い方に問題がありますよ?」

 

 軽く首を傾げた一色の頬は柔らかく膨らんでいて、目もちゃんと笑っているのに。なぜか背筋がぞくっとした八幡だった。

 

 そんな二人のやり取りを、他の七人は訝しげに眺めている。そこには明確な温度差があって、雪ノ下・由比ヶ浜・葉山は「やはりか」という顔つきで、他の四人は「あれっ」という表情を浮かべていた。

 

「一年C組のことはわたしが何とかできそうなので、選挙の具体的な話に入ってもらっていいですか?」

 

 さっきの発言に気を取られた八幡は、どうやら周囲の反応を見落としたみたいだ。ふっと心の中でだけ笑みを漏らして、一色は七人を視野に入れてなお落ち着いた口調で話を促した。

 

 立候補を継続すると決意するまでは、こんな心境には程遠かった。だが昨夜を境にして、一色の心に変化が生まれた。それは余裕の表れでもあり、同時に焦燥感に促されたものでもある。いずれにせよ、この件に関しては目の前の二人と同じ目線で物を言おうと一色は決めていた。

 

 

「……なるほど。じゃあ最初に、応援演説を片付けたいと思うのだけれど。一色さんが望むのなら、無しにしても良いわよ?」

 

 進行役としての公平さを棚上げして、つい上の立場から物を言ってしまった雪ノ下だった。

 だが一色の態度に触発されたのが原因とはいえ、申し出そのものは相手の事情を考慮してのものだ。続けて由比ヶ浜が補足を口にしたのがその証拠だろう。

 

「ゆきのんは隼人くんがいるし、あたしも優美子や姫菜がいるけどさ。いろはちゃん、応援演説は厳しいよね?」

 

 男子からの人気が高い一色だが、応援演説を頼むとなると話は別だ。アイドルの素晴らしさをいかにオタクが訴えたところで一般の理解を得るのが難しいのと同じで、内輪では盛り上がれても全体としてはマイナスの影響が大きいだろう。

 

 かといって女子の人気は壊滅的だし、同じ班になる事が多い少数の同級生の中には進んで人前に出るようなタイプはいなかった。そもそも男子との付き合いを優先して彼女らでさえもぞんざいに扱いがちだった一色だ。どの面を下げて頼むのだと思うぐらいの分別は持ち合わせている。

 

 そして、一色を唆して立候補を継続させた張本人はというと。

 

「いざとなったら俺がヘイトを引き受けるから……」

「せんぱい。寝言は夜に言って下さいね?」

 

 そんな役柄が似合わないとは自覚できているのだろう。だから応援演説ではなく自虐的な演説を披露することで一色の後押しをする、などと世迷い言を口にし始めたので言葉をかぶせてぴしゃっと封じる。

 

 右の視界の端で教師が何やら面白がっているが、見なかったふりをした。月曜からの三夜を一緒に過ごした年下の友人の手前もあるので、変な扱いはできないと考えただけなのだが。誤解をされると面倒だなと思いながら、一色はライバル二人の顔を見据えた。

 

 動揺がまるで見えないのは、余裕なのか。それとも信頼の証なのだろうか。

 

 そういえば立候補を継続すると伝えた時も、由比ヶ浜は一瞬だけ驚いたもののすぐに納得顔で頷いていたし。雪ノ下に至っては予想通りだと言わんばかりの表情だった。葉山も同じ顔つきだったので、二人の間では予測済みだったという事か。

 

「葉山先輩にお願いできたら良かったんですけどね~。じゃあ応援演説は無しでいいですか?」

「ええ。由比ヶ浜さんも?」

「うん、いいよ。でもさ、質疑応答は無しにはできないよね?」

 

 軽く反撃してみたものの、やはり暖簾に腕押しだった。

 平然と由比ヶ浜にも確認を取る雪ノ下をじっと見つめていると、意外な話が飛び出したので。くいっと首を動かして八幡の横顔に視線を送る。

 

「候補者の立会演説だけだと色々と無理があるわな。最初に喋った奴なんて反論の機会が無いわけだし。でも他の生徒から変な質問が飛んでくるとうざいのと、あと由比ヶ浜が言いたいのはあれだろ。質疑応答を始めたら、雪ノ下が無双するイメージしか湧かないよな」

 

 なるほど確かにと、当人を含めた全員の心の声が一致した瞬間だった。

 

「演説の順番が最後でも、他の候補への反論を加えていくと時間が足りなくなる可能性が高いわね。だから演説は演説で、質疑応答とはしっかり分けた方が良いと思うのよ。貴方たちの懸念も理解できるのだけれど、原稿を読んで終わりというのも味気ないし、候補者の間でだけ簡単な確認程度の質問を行うというのはどうかしら。その内容が妥当か否かは、当日の進行役となる城廻先輩に一任する形で」

 

「うん、それでいいよー。みんなよりも先に質問が聞けるって、ちょっと楽しみだなー」

 

 他の生徒からの質問を受け付けると話がぐだぐだになる可能性が高まるし、議論になれば雪ノ下が圧勝する未来しか見えない。だから候補者どうしで質問・返答するだけの最低限の形で、質疑応答が行われることになった。

 

 裁定役の反応が軽すぎて普通なら心配になるところだが、誰一人として反対意見を出さない辺りに城廻への信頼が垣間見える。今の三年生には際立った存在が少ないとはいえ、これだけ個性派ぞろいの二年生を前にしても自分のペースを保っているのは、さすがは生徒会長と言うべきなのだろう。

 

 

 そんなふうに教室内の空気が和らいだところで、由比ヶ浜がおもむろに口を開いた。

 

「いろはちゃんが応援演説で、あたしは質疑応答で気を使ってもらったからさ。今度はゆきのんの希望を教えて欲しいな。何かあるんだよね?」

 

 それが何かはまるで予測が付かない。けれど二年に進級してからの長い時間をともに過ごして来た由比ヶ浜には確信があった。雪ノ下がただ譲歩をするだけでは終わらないと信じて疑わなかった。

 雪ノ下が負けず嫌いなのを誰よりも、おそらくは八幡よりも知っているから。

 

「そうね。私の希望としては、どぶ板選挙は避けたいのだけれど……どうかしら?」

 

 言葉の意味を理解できたのは、八幡と葉山と海老名と平塚の四人だった。

 後者の二人は最初から口を挟むつもりはなく、葉山も苦笑を浮かべながら手振りで解説役を固辞したので。面白くもなさそうにため息を一つ吐いて、八幡がそれに応じた。

 

「早い話が、戸別訪問で支持を訴えるような選挙のことな。有権者一人一人と話をしたり握手をしたり写真を撮ったりして、地道に支援者を増やしていくようなやり方なんだが。まあ手間がかかるのが難点だわな」

 

「付け加えるなら、登校する生徒に向かって拡声器を片手に演説するとか、その手の選挙活動も遠慮したいのが本音ね。ああいうのは現実の政治家だけで充分だと思うのだけれど」

 

 八幡とは違った理由でため息を漏らしながら雪ノ下が要望を述べると、そこここから同情の気配が漂ってきた。

 だが雪ノ下の境遇を思い遣ることと選挙で譲歩することは等価ではない。そう自分に言い聞かせながら八幡が応える。

 

「由比ヶ浜と一色にとっては、握手会とかで生徒を集めるのは効果が見込めると思うんだよな。お前は政策重視の選挙をしたいんだろうけど、向き不向きで言えばこいつらは人物本位の選挙の方が合ってるだろ。ポスターで方針を表明して立会演説会でそれを説明するだけの選挙戦なら、もともと有利な奴が更に有利になるだけじゃね?」

 

 八幡が反論を述べると、雪ノ下の頬に赤みが差した。

 鋭い視線も少しゆるんで穏やかな雰囲気になったのは、こんな程度の提案で勝利するのはつまらないと頭のどこかで考えているからだろう。確かに負けず嫌いではあるけれど、雪ノ下は結果だけではなく経過も重視する。だから反論を喜んでいるのだろう。

 八幡はそう受け取った。

 

「貴方の言いたいことも分かるのだけれど、実際のところ有権者はシビアよ。握手をしようが一緒に写真を撮ろうが、平気で別の候補の名前を書くのだから。それでも由比ヶ浜さんや一色さんにアイドルまがいの行為をさせるつもりなの?」

 

 雪ノ下が自分に少しでも有利な形に持ち込もうとしているのは明らかだが、これが由比ヶ浜と一色を思い遣っての提案なのも確かだろう。だからこそ断りにくい。この辺りの話の出し方はさすがだなと思う八幡だが、こちらにもまだ手は残っている。

 

「なら記名式の投票にすりゃ良いんじゃね。ついでに握手会の記録とかも残しておけば、色々と面白いデータが作れると思うんだが」

「比企谷、それは……」

 

 話の途中で平塚が口を挟んできたが、これも予想の範囲内だ。軽く片手を挙げながら教師に視線を送ると、少しだけ肩をすくめて顎で続きを促された。

 

「後半は冗談として、記名投票を推すのは理由があってな。無記名だと、一色を推薦した連中はどうすると思う?」

「たぶんあたしか、ゆきのんにも投票するかも……」

 

 一色に反発する女子生徒は三浦に心を寄せることが多い。葉山を巡って対立しているのは周知の事実だからだ。

 実際には二人は単純なライバル関係に留まらず、お互いを認め合っていたりもするのだが。二人と親密な仲でもない限り、それに気付くのは難しいだろう。

 

 そうした状況の全てを由比ヶ浜はもちろん把握している。人間関係が絡むことにかけては雪ノ下も八幡も遠く及ばず、それどころか在校生の誰よりも秀でていると言っても過言ではない。今の由比ヶ浜に対抗できるのは、三学年上の()()ぐらいなものだ。

 

 無記名の投票だと三浦が応援する候補に大半の票が集まる。そこまでの計算ができるのに、それでも由比ヶ浜は目先の利に囚われない。だから続けてこう口にする。

 

「うん。あたしも記名投票がいいと思う」

 

 かつてゲームマスターが看破したとおり、由比ヶ浜は数字に踊らされず、かつ信頼できる数字を見抜けるだけの直感を備えている。その直感が当てずっぽうとは程遠いのは、それが由比ヶ浜の長所と深い関係にあるからなのだが、幸か不幸か本人はまるで気付いていない。

 

 いずれにせよ、由比ヶ浜と親しい海老名や八幡にとって今の発言は信頼できるものだった。選挙の結果などという狭い範囲の話ではなく、もっと大きな視点で考えた時に、この決断は良い効果をもたらすのだろうと思えたからだ。

 そしてそれは、雪ノ下にとっても同じこと。

 

「そういう話なら、私も記名投票に異論は無いわ。それと、私が有利になるから言っているのではなくて……」

 

「大丈夫ですよ~。わたしも結衣先輩も、自分を安く売るつもりはないですし。わたしの手を握っておいて一票だけなんて、そんなの割に合わないですよね~、せんぱい?」

 

 一色としては握手会などという話を持ち出した八幡に遺憾の意を表明しただけで、それ以上に深い意味は無かったのだが。

 端で聞いている者にとっては別の意味に聞こえてしまう。

 

「えっ。ヒッキーもしかして、いろはちゃんと?」

「比企谷くんは意外と手が早いのね。文字通りの意味なのが何だか可笑しいのだけれど」

「おい、お前のせいだからな。何とかしてくれよ?」

 

 机の上に身を乗り出して八幡を詰問するような表情の由比ヶ浜と、可笑しいと言っている割にはかけらも笑っていない雪ノ下にそう言われて。

 八幡がすぐ横へと視線を向けて助けを求めると。

 

「わたし、葉山先輩とも繋いだことなかったのに……」

「ちょ、当たり前だし。なに言ってんだし!」

「なのにヒキタニくんは、一色さんとも隼人くんとも……?」

「ふうん。俺は覚えてないんだけどさ、もしかして寝てる時とか?」

「そうなんだー。比企谷くん、私とも繋いでみる?」

「それなら私も繋いでやろう。骨が折れても文句を言うなよ?」

 

 妙にノリのいい面々のおかげで集中砲火に遭う八幡だった。

 

 

「えっと、葉山先輩とも誰とも繋いだことないです。てへっ」

 

 ようやく騒動が収束して、一色がぺろっと舌を出しながら謝ったので元の話に戻る。その他の一同も八幡に一言ずつ詫びを入れて、教室内には弛緩した空気が漂っていた。

 

「なんか面倒な話をする気が失せてきたな。なんだっけ。ああ、記名投票のついでにもう一つ提案があるんだがな。誰か一人を選ぶんじゃなくて、ちゃんと順位を出さねーか?」

「それは一位・二位・三位という形で投票させるという事かしら。メリットが分からないのだけれど?」

 

 八幡の提案は少し言葉足らずだったが、雪ノ下はその意図を正確に捉えていた。だが何故それをしたいのかが分からない。一人の名前を書いて、それで集まった票の数で順番をつけるのでは駄目なのだろうか。

 

「たぶんヒッキーの事だからさ。せっかく勝負をするんだから、色んな情報を知りたいんじゃないかな。ほら、五教科だけじゃなくて英数国とか英国社とか英数理とかで順位を出すみたいな感じでさ」

 

 その例えが適切なのかは微妙なところだが、納得のいく話ではある。いっせいに頷きながら視線が八幡のもとへと集まった。

 

「それもあるな。あと、候補者三人の順位を書かせる形にすると選挙戦の駆け引きに幅が出るだろ。例えば一色の立場からすれば、二位票をある程度集めるだけでも意味があるからな。それなりの数字を残せば変な事を企むやつも出なくなるだろうし、それで最低限の目的は果たせるんだわ。お前らにとっては二位票なんてどれだけ集まっても無意味だろうけどな」

 

 その説明を聞いた雪ノ下と由比ヶ浜は、いずれも「場合によっては意味があるかもしれない」と考えていた。だがそれを口に出したりはしない。今の二人にとって、目指すべきものは当選以外にないからだ。つまり一位票の最多獲得だけが唯一にして最大の目標となる。

 

 とはいえ一色の状況を改善するという依頼に結びつく話でもあり、特に反対する理由も見つからないので、二人は首を縦に振った。

 

 

「では投票は比企谷くんの提案通りの形で、その場ですぐに集計できるように簡単なプログラムを組んでおくわね。それで、どぶ板選挙やゲリラ演説の話はどうなるのかしら?」

「うーん。あたし的には、そういうの無しでもいいかなって思うんだけど?」

 

 一色が抱えている問題を前面に出すことで二人に何度も譲歩させてきた。そんな自覚がある八幡としては、由比ヶ浜が賛成に回ると表立っては反対しにくい。

 それに雪ノ下は実行しないとしても、由比ヶ浜が票と引き替えに愛嬌を振りまく姿など見たくはないし、一色にもそんな目には遭わせたくない。ならば賛成しておくべきか。

 

「俺も賛成したい気持ちは強いんだがな。それだと選挙戦ってマジでポスターと立会演説会だけにならねーか?」

 

「では選挙期間中は各々のクラスを選挙事務所に見立てて、決まった時間に希望者を集めて話をするのはどうかしら。もちろん参加の強制は禁止だし、選管に届け出て可能な限り時間が重ならないように調整してもらおうと思うのだけれど」

 

「それって二年F組で四時半からとか、二年J組が五時からで一年C組では五時半からとか、そんな感じ?」

 

「ええ、そうね。それと参加者の制限も自由にして、対立候補でも参加できるようにすると面白いかもしれないわね。内輪だけで集まる時には選管に届けなければ良いのだし」

 

 雪ノ下の提案を何度も頭の中で吟味する。

 

 選管に届け出て公的な集まりにする以上は、こちらの不在を狙って乗り込んでくるような事態は起きないだろう。

 だが逆に、相手陣営の集まりに参加して支援者に迷いを抱かせようにも、ここにいるような面々が目を光らせている限りは難しい。雪ノ下と葉山はもちろんのこと、由比ヶ浜と三浦と海老名も三人で短所を補い合うので敵に回すと厄介なことこの上ない。

 

 とはいえ劣勢なのは最初から判っていたことだ。結局のところ、八幡たちに狙えるのは一発逆転のみなのだから。

 

「あんま頻繁に会合を開くと、立会演説会で話すネタがなくなりそうだよな。あと、さっきの質疑応答と同じでな。有権者の無責任な要望にいちいち応えてたら、公約がどんどん変な方向に行くんじゃね?」

 

 八幡と雪ノ下の共通点の一つに、顔の見えない大多数を警戒するという傾向がある。

 群れの中にいる時や安全な場所にいる時しか自己を主張できないくせに、口を開けば偉そうな物言いで自分勝手な要望を伝えてくる有象無象。

 そんな輩を嫌悪する気持ちは二人の中に根強くあったし、その警戒感が文実では役に立ったという経緯もある。

 

 だから牽制のつもりで話には出したものの、八幡とて握手会などを実行する気はさらさらなかったし、そんな事をさせたくないという気持ちも先ほど確認したとおりだ。

 だが政策本位の選挙になると、雪ノ下を相手に勝ち目は薄い。それに八幡が嫌う大衆的なものが一色の人気の基盤である限りは、それを頭ごなしに否定できない。

 つまりは、あちらを立てればこちらが立たずという状態だった。

 

 

 そうした八幡の苦悩をどこまで見抜いているのか。

 じっと様子を窺っていた雪ノ下が、静かに口を開いた。

 

「その事で一つ提案があるのよ。投票日の何日前という区切りで、いくつかのテーマを公表するのはどうかしら?」

 

 話が読めないので、雪ノ下と葉山以外の一同が首を捻っていると。

 

「会合の話を提案しておきながら、こんな事を言うのは変かもしれないのだけれど。基本的には立会演説会での一発勝負という形が望ましいとは思うのよ。だから各候補が演説で発表するテーマを前もって選んでおいて順次公開していくと、選挙戦に興味が集まるのではないかと考えたのね。今のところ考えているのは、こんな感じなのだけれど」

 

・会長としての基本方針:月曜の朝に公表。

・奉仕部と生徒会の関係:火曜の朝に公表。

・生徒会の人事案:水曜の朝に公表。

 

 指を一本ずつ折りながらこの三点を紹介し終えると、由比ヶ浜と八幡の顔に苦笑いが浮かんだ。雪ノ下が何を争点にしたいかが明白になったからだ。特に二点目は、二人にとっても望むところだ。

 だから盛り上がる気持ちに押されるようにして二人は順次口を開く。

 

「これって詳細を発表するのは義務じゃないよな。つまり『奉仕部と生徒会の関係が語られるらしい』みたいな情報解禁を定期的にやるってだけか?」

「でもさ、べつに演説の前に集まりで話しちゃってもいいんだよね?」

 

 そんな二人に雪ノ下も笑顔を浮かべながら答える。

 

「親しい人にだけ話しても良いし、大々的に公表しても良いわよ。ただその場合は他の候補から反論されたり、良いと思う部分だけを真似される可能性も高まるわね。その辺りも含めて駆け引きが重要になると思うのだけれど。それと変な要望を却下する時に、これらのテーマは有用だと思うわ」

 

 逆に言えば、先に公表する事で同じ内容を防ぐというやり方もあるなと八幡は思った。特に人事案などは候補者が少ないだけに、似たり寄ったりになるだろう。ならば早めに公表しておく方が良いと言いたいところだが、もしも変更を余儀なくされるとドタバタした印象を与えてしまう。

 

 確かに色んな駆け引きができそうだなと八幡は思った。

 

 

***

 

 

 対立軸がはっきりしたからか、その後の話し合いは急ピッチで進んだ。

 

 投票日の延期は確定だと考えていた城廻だが、候補者三人が声をそろえて早期の決着を望んだので、思わず「えっ!?」と驚きの声を上げてしまった。

 反射的に思い浮かべた言葉に軽く首を振りながら、城廻はここまでの流れを思い出す。

 

 二年生が旅立つ前に候補者が決まったので胸をなで下ろしたのも束の間、一色は勝手に推薦されただけだった。

 旅行から帰ってきた雪ノ下を出迎えて、ようやく本命の候補が決まったと安堵したのに、由比ヶ浜も立候補したと知らされて。後継として期待していた二人が争う展開に、城廻は胸を痛めつつも同時に嬉しさがこみ上げてくるのを自覚した。

 だが波乱はそこで終わらず、一色も立候補を継続するという。

 

 事態がここまで二転三転すれば、投票日の延期もやむなしと考えるのは当然だろう。だからきちんと手筈を整えてきたのに。候補者三名はいずれも、選挙戦は短期間で、日程も予定通りで良いと主張した。

 めまぐるしい状況の変化に、城廻が「事実は小説よりも奇なり」と言いたくなるのも仕方がないだろう。

 

 ともあれ来週の木曜日、二十二日が決戦の日となる。

 翌日からの三連休が明けると、期末試験に備えて部活は停止期間に入る。だから日程的にもこれがベストだ。

 

 放課後に選管から全校生徒に向けて通知を行うこと。

 その直後に各クラスにて決起集会を開くこと。

 以後の集会ないし会合は可能な限り同時刻を避けること。

 

 既に決まった諸々に加えてこれらのことを確認して、昼休みの集まりは解散となった。

 

 

***

 

 

「ちょっと、ヒキタニくんと一色さんに話があるんだけどさ」

 

 部室を出ようとしたところで、海老名から声を掛けられた。用件が予想できるなと考えながら、八幡が首を縦に動かすと。

 

「結局は無駄に終わると思うのだけれど、ご苦労な事ね。私たちは先に出るわね」

「雪ノ下さんはそう言うけどさ、打てる手は打っておかないとね。ただでさえ出遅れてるわけだし、それに無駄に終わっても効果はあると思うんだよねー」

 

 そんなやり取りを最後に、雪ノ下と葉山は教室を去った。既に平塚と城廻の姿もなく、残っているのは五人だけだ。

 

「それで、話ってなんですか?」

「ああ、たぶん二位・三位連合の話だろ?」

 

 一色の疑問に答えた八幡は、海老名の背後に控える二人の反応を窺った。

 話の内容を把握しているからか、それとも海老名に全幅の信頼を置いているからか。おそらく両方なのだろうが、二人からは何らの情報も得られない。

 

「どう見ても一番人気が雪ノ下さんなのは確かだからさ。二番手と三番手が争うよりも、協力して雪ノ下さんを引きずり下ろさないと勝機は無いと思うんだよねー」

「それって、同盟とかそんな感じの話ですよね?」

 

 きょとんとした目を向けてくる一色を見ると、知っていることは何でも教えてあげたいという欲求が沸き起こってくる。オタクの血が濃い者ほど、この表情は突き刺さるだろうなと考えながら。どこまで説明したものかと八幡が頭を悩ませていると。

 

「べつに難しい話じゃなくてさ。お互いの支持層にはできるだけ手を出さないで、それよりも雪ノ下さんの支援者を切り崩そうとかさ。厳密に動きをすり合わせても仕方がないし、大雑把な方針として対立しないようにしようとか、そんな感じ?」

 

「う〜ん、なるほど。お互いの動きを制限するような形だと反対ですけど、方向性としては間違ってない気がしますね。せんぱいはどう思います?」

 

 水を向けられた八幡は、一色の対応に驚きを隠せなかった。

 地頭が良いとは思っていたが、海老名を相手にここまで堂々と交渉ができれば上出来だ。これなら立会演説会でも大丈夫だろうと思うと、ふっと笑いがこぼれた。

 

「まあ、基本方針がそれしかないのは確かだな。雪ノ下の独走をどうにかしないと話にならんし、いがみ合ってる余裕がないのは確かだ。海老名さんが何を企んでるのかは読めないけどな」

 

「何を企んでるって、そんなの決まってるじゃん。結衣に勝たせることしか考えてないよ。でもさ、途中までは利害が一致するんじゃない?」

 

「一番人気を引きずり下ろすところまでは、な。つっても、こんな感じで確認しなくてもお互いそう動くしかないってのは解ってたはずだろ。何を企んでるんだ?」

 

「それを素直に言うわけないって解ってるよね。じゃあ確認しなくても良いんじゃない?」

 

 言葉尻を捉えてそう返されると、八幡も苦笑いを浮かべるしかない。

 これ以上の情報を得られないのなら、時間を無駄にしても仕方がない。そう考えて一色に視線を送ると。

 

「じゃあ、ゆるく協力し合うって感じで。結衣先輩、よろしくです〜」

「うん。いろはちゃん、よろしくね」

 

 そう言い合って握手をかわす二人を眺めていると。

 

「ま、結局はこっちよりもそっちが得する形になるよ。最終的にはね」

「だからヒキオも心配すんなし。あと、怒んなし」

 

 八幡にだけ聞こえるように海老名と三浦から声を掛けられた。

 怒っているわけじゃないんだけどなと心の中でつぶやいた八幡は、放課後になってようやくその言葉の意味を理解した。

 

 

***

 

 

 雪ノ下を相手に少しでも有利な形で選挙戦を行えるようにと、朝から八幡は昼休みの打ち合わせに意識を集中させていた。それが何とか無事に終わって肩の荷が下りたような心境で午後の時間を過ごしていると、放課後まではあっという間だった。

 

 同じクラスから立候補している生徒がいるのに。しかもそれが自分にとって特別な存在だと断言できる由比ヶ浜だというのに。それを応援できない後ろめたさから、八幡はそそくさと教室を後にする。

 

 廊下を歩きながら選管の通知を受け取って、八幡は一年C組へと移動した。見知らぬ後輩ばかりの中に足を踏み入れることになるが、八幡にはステルスヒッキーがある。ぼけっとしていれば終わるだろうと、軽く考えていたところ。

 

「ほら、せんぱいもこっちに来て下さいよ〜」

「どうしてこうなった?」

 

 なぜか教室の中央で、一色と並んで立っている自分がいる。対雪ノ下・対由比ヶ浜の秘密兵器だと紹介されて、できれば秘密のままでいたかったと心から思う八幡だった。

 

 

 アイドルもかくやと思わせる男子生徒からの声援と、冷え冷えとした女子生徒からの視線をその身で受け止めて。強敵二人を相手の会長選に臨むことを一色は高らかに宣言した。

 すぐ隣に立ってその瞬間を経験した八幡の口から、思わず小声が漏れる。

 

「すげぇな、こいつ」

 

 周囲の喧噪からして聞こえるはずはないだろうに。にやっとした顔を向けられたので、八幡はふんと鼻息で返した。ふふんと更に笑みを深めた一色がそのまま行動に出る。

 

 まずは女子の中心的な生徒数名を捕まえて協力を確約させると、今日は仕事がないからと言ってすぐに釈放した。キャッチアンドリリースが板に付いているなと八幡は呆れるしかない。

 

 それから教室の外にまで溢れている男子生徒たちをぐるっと見渡して、大きな声で協力を要請すると。週明けの再会を約束して解散を促した。

 

 あれよあれよという間に、一年C組には少数の女子生徒と担任の教師、そして八幡と一色だけが残った。生徒以上に興奮した様子で何度も激励の言葉を伝えてくる担任には最後まで手こずったものの、何とか職員室にお帰り頂いて。ようやく落ち着いて話ができる環境が整った。

 

 

「えっと、みんなも今日は帰ってくれていいよ?」

 

 高校生活を送る上で、何人かと班になる必要があるから集まっているだけで。友人なのは間違いないけれど、友達とは思われていないだろうなと一色は考えていた。

 

 男子生徒との仲を重視する自分と同様に、と言えば語弊があるかもしれないけれど。目の前の女子生徒たちは、クラスできゃいきゃい騒ぐよりも他に重視している事がある。性格はいずれもおとなしめだが、芯の部分で強さがある。

 

 だから一緒の班で過ごしていても割と居心地が良かった。それに、お互いの事には踏み込まないのが暗黙の了解だったので気が楽だった。

 

 文化祭でクラスが真っ二つに割れた時には気を使ってもらったし、知らない間に立候補させられたと判明した時には一緒に怒ってくれたけど。その辺りが限界だと一色は考えていた。だから今回の選挙において、彼女らに手助けをしてもらおうとは考えていなかった。

 

「選挙が終わったら三連休で、その後は期末が控えてるよね」

「勉強って意外とエネルギー使うからさ、甘い物とか食べたくなるよね」

「そういえば、お菓子作りが趣味って、誰かが言ってたよね」

「手作りのお菓子をくれたら、何か協力してあげないとって思っちゃうよね」

 

 お互いの性格を知らない新入生の頃ならいざ知らず、春夏秋と少なからぬ時間を過ごしてきた彼女らは一色の妙に義理堅い側面を把握していた。

 

 男子に奉仕させるのは当然と言わんばかりの態度を示していても、そこには一色なりの美学とも基準ともいえるものが存在する。その奉仕を受けるに相応しい対応をしてあげているというのがそれだ。

 

 自身の言動をご褒美と考えている辺りは常人には理解不能だが、本人の中ではギブとテイクが釣り合っているのだと気付いてみると、一色の大部分の行動が理解できた。同時に、自分たちにさえも壁を作っている理由も。

 

 一色は最初からテイクを求めることはしない。厳密には、求めるテイク以上のギブが可能だと思えない限り、自分からは何も求めないし求めることができない。葉山を前にして、あるいはこの先輩を前にして、他の男子に対するような言動ができていないのがその証拠だ。

 

 ならば、一色の壁を取り払うにはどうすれば良いか?

 

「それってさ、わたしにテスト前にお菓子を作れってこと?」

「お菓子はテスト明けでいいかなって思うよね」

「ご褒美があればテストも頑張れるよね」

「お菓子を作ってくれるなら、何かお返しをしないといけないよね」

「それってべつに、先払いでもいいよね」

 

 その答えは、こちらから先に一色のギブを要求すること。

 お昼休みにこっそり話し合ってそんな結論に至った彼女らは、さっそくその仮説を実行した。

 その結果は、この通り。

 

「ちょっと語尾が気持ち悪くなって来たんだけど……まいっか。素の口調で話すのと、わたしの選挙に協力してもらうのと。そのかわり、テストが終わった週末に手作りケーキ食べ放題でどう?」

「乗った!」

「あっさり飛び付きすぎだよね」

「語尾もすっかり忘れてるよね」

「でも上手くいったし、べつにいっかって思うよね」

 

 そんな後輩たちのやり取りに入れないまま天井の模様をひととおり確認していた八幡に向けて、一色がとつぜん語り始める。

 

「せんぱい。……わたし、こう見えて友達いないじゃないですか」

「んっ……と、あー、分かった。俺も友達がいないとか言ってたから、こうなった時の気持ちは解るわ。ちょっと外に出てるから終わったら連絡くれ」

 

 そう言って八幡は教室を後にした。

 ドアを閉じると四人の女子生徒の歓声と、何やら言い訳をしている感じの聞き慣れた声が伝わってきた。

 

 

***

 

 

 例によってベストプレイスへとやってきた八幡は、頭を選挙モードに切り替えた。

 どうやらあの四人は親身になって動いてくれそうだが、選挙戦を勝ち抜くには人材が足りない。そう考えた八幡は、自分も友達と呼べる面々にメッセージを送ることにした。

 

 しばらくぼけっと待っていると、続々と返信が届く。

 

『ぼく、今回は八幡の力になれないと思う。あとで直接話しに行くね』

『あたしを頼ってくれたのは嬉しいんだけどさ。今回はあんたの力になれないよ。あとで説明に行くから、詳しい話はその時に』

『我だ。思うところあって貴様とは一時的に袂を分かつことになった。離合集散は世の常ゆえ、次なる戦で相見えようぞ』

 

 判を押したようにとまでは言えないけれど、おおむね同じ答えが返って来た。

 ようやく事情を悟って、八幡の口からため息が漏れる。

 

「これ、海老名さんの仕業だよな。三浦が怒るなって言ってたのは、この事か」

 

 一色から立候補継続の決意を取り付けて、昨日は一仕事を終えた気分だったし。今日は選挙戦の打ち合わせに備えていたので他のことは何も考えていなかった。その間に他の陣営は着々と先に進んでいたという事だ。自分の迂闊さを呪いはするが、怒りを向けるのはお門違いだろう。

 

「つか、待てよ。海老名さんは雪ノ下に向かって『ただでさえ出遅れてる』って言ってたよな。てことは、雪ノ下はどんな状況なんだ?」

 

 葉山の協力を得ていたのにも面食らったが、もしかすると雪ノ下は更に先に進んでいるのかもしれない。それに思い至って八幡の背中に冷や汗が流れる。

 

「圧倒的に優位な立場の候補が、誰よりも先に動いたら……これ、覆せるのか?」

 

 八幡が奥歯を噛みしめていると、一色からの呼び出しメールが届いたので。何とか気持ちを切り替えて、八幡は再び一年C組の教室を目指した。

 

 

***

 

 

 どう説明したら良いかと考えながら、険しい表情を浮かべたまま教室のドアを開けると、十人の女子生徒が八幡を出迎えてくれた。

 

「……はい?」

 

 だから、こんな間の抜けた声を出しても八幡に非はないだろう。

 

「せんぱい。帰って来るのが遅いですよ?」

「いや、これでもメールを見てから直行したんだがな。つか、なんでこいつがここにいるんだ?」

 

 先ほど教室を後にした時よりも更に仲が深まったなと感じられた。そんな四人の友達を引き連れて、一色が教室の入り口まで来てくれたので。

 同じように四人の友人を従えた女子生徒を指差しながら、そう訊ねると。

 

「そんなの決まってるじゃん。うちらがせっかく助けに来てあげたのに、お礼の言葉ぐらいくれてもいいって思うけど?」

 

 勝ち気な物言いで背中もふんぞり返ってはいるものの、その目は落ち着きなくきょろきょろしている。あまり調子に乗ったことを口にするとすぐにしっぺ返しが来るのではないかと恐れている不幸体質なこの女子生徒は誰あろう、相模南だった。

 

「まあ、なんだ……サンキュ?」

「うわっ。せんぱい、似合ってないですよ?」

「うちもそう思う。でもヒキタニくんらしいって言えばらしいんだよね」

「あ〜、それは確かに言えてますね〜」

 

 自分を話のネタにしながら和気藹々としている一色と相模を眺めながら、再び「どうしてこうなった?」と呟く八幡だった。

 

 

***

 

 

 同じ頃、総武高校の正門前では。

 

「いやー、ほんとに来ちゃったねー」

「わたしが来る必要あったのかなー。あと会長がさ……」

「就任したてで忙しそうだしさ。代わりに仕事を引き受けてあげるって、それあるっ!」

「えー。会長は一緒に来たかったんじゃ……」

「ほら。千佳もぐずぐずしてないで、中に入るよ」

 

 見慣れない制服を着た二人の女子生徒が、騒々しいやり取りをかわしていた。




前後の文脈があるので、セリフを単体で取り上げても意味がないのは重々承知で。でも一色の「友達いない」発言はどこかで否定してあげたいと思っていたのでこんな形でねじ込んでみました。

次回は来月の十日頃に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(4/12)


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06.ろうを厭わぬ面々に向けて彼は方針を語る。

前回のあらすじ。

 金曜日のお昼休みに顔を合わせた一同は、選挙の具体的な話を深めて以下のような合意を得た。

・応援演説は無し。
・質疑応答も最低限かつ、質問内容が妥当か否かを直前に城廻が判定する。
・投票は記名式で、候補者に一位・二位・三位と順番をつける。
・生徒一人一人と握手をしたり無差別に演説をするような選挙戦は避けて、決まった日時に各自で集会を開く形にする。時間が重ならないように選管に調整してもらい、対立候補の参加も可能とする。

 最後に、連休前に決着をつけることを確認して、話し合いは解散となった。
 別れ際に海老名から提案を受けて、一色と八幡は二位・三位連合を受諾する。

 放課後に選管からの通知を受けて、各クラスでは決起集会が開かれた。
 教室の真ん中に引っ張り出された八幡は、一色の堂々とした対処に舌を巻く。

 無事に集会を終えた一色が同じ班の同級生と仲を深める一方で、八幡の友人には既に他陣営の手が伸びていた。
 だが意外な人物が助けに来てくれて、そして予想外の人物もすぐそばまで来ていた。



 一年C組の教室では、男子生徒一名と女子生徒十名が椅子に座っていた。

 決起集会のために机などは教室の後ろのほうに下げてあったので、そこから椅子だけを持ち出してきた形だ。

 

 がらんとした室内の中央では、比企谷八幡と一色いろはが向かい合って座っている。その両者の背後には扇形に椅子が並べられていて、一色の後ろには友達の同級生四人が、八幡の後ろには相模南とその友人の計五人が控えている。

 

「なあ。なんかこの配置って落ち着かねーんだが。俺だけ教室の隅ってわけには……」

「はいはい。さっさと話を始めますよ、せんぱい?」

 

 既にして八幡の扱いが熟練の域に達している一色だった。

 もしも八幡検定試験があれば、対策なしのぶっつけ本番でも二級ぐらいは余裕だろうなと。現実逃避の傍らにそんな馬鹿げたことを考えていると、背後から声が上がった。

 

「あのさ。うちらは一色さん……って呼び方でいいのかな。その、このクラスの決起集会を見てないからさ。それを教えて欲しいのと、代わりに結衣ちゃんと雪ノ下さんがどんな感じだったかを伝えようかなって」

 

「呼びやすいやつでいいですよ~。わたしは相模先輩って呼ぶつもりですけど……あ、それとも南先輩って呼んだ方がいいですか?」

「えっ。それ、いい……」

 

 すぱーんと良い音がしたので、相模が両脇の友人に頭を叩かれているのだと見るまでもなく理解できた。

 八幡の正面では、一色とその背後の友達四人が目をぱちくりとさせている。軽い社交辞令にこんな反応を示されては、彼女らが「この先輩、チョロ過ぎ?」と思うのも当然だろう。

 

 

 文実の委員長でありながらも、事前の準備の段階で色々とやらかしたことや当日の開会式から閉会式まで愉快な姿を晒し続けたことで、相模の評価は文字どおり乱高下した。

 

 かつて相模は尊敬の目を向けられることを望んでいたが、それはもはや実現不可能だった。文実での仕事ぶりを根拠に、相模を冷たく見下す生徒は今も一定数存在する。

 

 とはいえ親しみの感情を向けてくる生徒もまた一定数存在する。

 他人を凄いと思うことが時に心理的な距離を隔てる結果になる一方で、他人の失敗する姿を見て自分と変わらないと思うことは時に心理的な距離を縮めてくれる。

 相模の失敗には、どうにも他人事とは思えないような要素が潜んでいて、それに加えてユーモラスな趣きがあった。

 

 そして相模の友人四人が八幡の悪評を広めたことは、それが根拠のないデマだと判明した為に彼女らへの逆風という形で返って来た。

 反省した彼女らがきちんと詫びを入れたと、体育祭の運営委員長が公表し保証してくれたので孤立は少し和らいだものの。一ヶ月以上が過ぎた今も、四人に白い目を向ける生徒は少なくない。

 

 彼女らが周囲から孤立していた頃も、少しずつ受け入れられるようになって来てからも、相模の態度は変わらなかった。

 それは四人にとって大きな救いとなったし、周囲の目を緩やかに改善させることにも繋がった。

 以前の希望とは違った形ではあるけれども、相模は徐々に周囲から一目置かれるようになっていく。

 

 そんな相模には、友人四人の他には一人だけにしか伝えていない決意があった。あれもまた体育祭の準備期間にあったことだ。

 

『いつか、貴女たちが謝りたいと思っている相手が困っていたら。一度だけで良いわ。全校生徒を敵に回してでも彼の力になると、それぐらいの意気を示して欲しいわね』

 

 わざわざそう言われなくとも、相模は最初からそのつもりだった。だからこそ、八幡の手助けをするなら今しかないと考えて、圧倒的に劣勢な状況などには目もくれずにこうして五人で駆け付けたのだ。

 

 一色のことも選挙の結果も、相模は正直興味がない。頭の中にあるのは、八幡に借りを返さなくては落ち着かないという曰く言いがたい感情であり。以前と比べると少しは役に立つようになった自分を見せつけたいという、結果だけを欲していた頃には考えもしなかった前向きな情動だけだった。

 

 もっとも、負の体験の記憶も相模の中にはしっかりと残っている。だから少し褒められただけでも喜びを露わにしたり、密かに憧れていた呼ばれ方を耳にしてすぐさま舞い上がってしまうのも仕方がないのだろう。

 周囲からすれば「不安で仕方がない」が本音なのだろうけれど。

 

 

「とりあえず話を戻すぞ。相模が言ってたとおり、まずは情報の共有だな。こっちは一色の決起集会の話をして、相模たちは由比ヶ浜と……雪ノ下の決起集会にも行ったのか?」

 

 何とも言えない雰囲気に陥っていたのを収拾して、八幡がうしろを振り返りながら問い掛けると。

 

「うん。うちら二手に分かれて参加してきたからさ。意外と役に立つんだなって、うちらを見直す気になった?」

 

 相模が得意げな声でそれに答えた。

 えへんと胸を張っていたのも束の間、調子に乗りすぎたと考えたのだろう。あっと声を発して素早く頭を押さえ、叩かれないように身を震わせている辺りは実に相模らしい。

 

 たたいてかぶってジャンケンポンとかしたら強そうだなと考えながら、八幡が面倒くさそうに口を開く。

 

「いや、別にそいつらみたいに叩いたりしないからね?」

「せんぱいのDVはまた今度、雪ノ下先輩と結衣先輩に叱ってもらうとしてですね。ちょっと話しにくいので、相模先輩。この辺りまで出て来てもらっていいですか?」

 

 八幡が真っ青になるような言葉をさらっと口にして、一色は自分の右手側に向けて指を示す。

 結局は名前呼びじゃないんだと静かに落ち込みながらも、相模が大人しくそれに従うと。友人の四人もまた、その背後へと移動した。

 背中が軽くなった気がするなと八幡が胸をなで下ろしていると。

 

「……そんな感じでですね、雪ノ下先輩と結衣先輩に対抗するための秘密兵器だって紹介したら、わりと反応が良かったんですよ~」

 

「秘密兵器かあー。ヒキタニくんが実は頼りになるってのは、うちらも知ってるけどさ。こう、なんて言うのかな。せこい手とか使わせたら頼もしいんだけど、正攻法だと雪ノ下さんにも結衣ちゃんにもやられそうなイメージがあるんだよね……」

 

 まずは一色が説明を始めたものの、すぐに話が横道に逸れて。いつの間にか自分が貶されている。

 とはいえ、休んでいた二人を呼び出して文実で会議を招集した時に、副委員長様には見事にやり込められた記憶がある。相模もきっとその光景を思い出しているのだろうと思うと、八幡に反論する気持ちは湧かなかった。

 

 それに、あの時に心に決めたことがある。

 失敗したことをどう取り繕おうかと後ろ向きに考えるのではなく、前向きな行動によって汚名を返上しようと。

 それを頭の中でくり返してから、八幡はゆっくりと口を開く。

 

「ぶっちゃけな、あの二人に正攻法で勝つのは誰にとっても難しいだろ。たとえそれが葉山でもな。けどそれなら正面から勝負しなけりゃ良いって話だろ。ま、そこの辺りの戦略を考えるのが俺の仕事だからな。他のことは頼むわ」

 

 疑い半分の反応が返ってくるのだろうなとこっそり身構えていた八幡は、一色がにやりと、相模がぼうっとした目を向けてくるので意表を突かれた。きまりが悪いので、ごほんと咳をして誤魔化していると、一色の説明が再び始まって。

 

「……男子が廊下に溢れるぐらい集まってくれたので、スタートはまずまずかなって思うんですけどね~」

 

 可愛らしく首を傾げながらも得意げな口調を隠そうともせず、一色はそう言って説明を終えた。

 

 自分に対するのと同じように、相模にも猫かぶりは少なめにするのだなと受け取って。

 続けて八幡が「猫かぶりが少なめの一色をあいつが見たら、距離が縮まったと歓迎するのか、それとも猫要素が減ったと悲しむのか、どっちだ?」などと馬鹿げたことを考えていると。

 

 

「あのね……まずは雪ノ下さんの決起集会だけどさ。一年から三年のJ組の教室を合体させて、それでも廊下には人が溢れてたみたいでさ。結衣ちゃんなんてF組と体育館を繋げても、クラスの中はぎゅうぎゅうだったよ。応援の言葉を直接伝えたいって、すごい列ができてたから。だから、厳しい状況だなってうちは思う」

 

 一色と八幡に冷や水を浴びせるような情報を相模が口にした。

 

 思っていた以上に差があるのだと瞬時に状況を把握して、一色は口元を強く引き締めている。

 そして八幡は、一色に伝えていない話があったなと考えながらもそれは後回しにして、相模の顔を見据えた。

 

「両方の支持層っつーのかね。雪ノ下なら国際教養科とか文実関連の連中が集まったんだろうし、由比ヶ浜のほうには三浦と海老名さんの繋がりも含めて支援者連中が大集合したんだと思うんだがな。それ以外に目に付いた集団があれば教えて欲しいんだが」

 

 濁った目に真剣な光を宿して八幡がそう訊ねると、気圧された相模は身体をほんの僅かだけびくっとさせて。そこで踏み止まって、重い口調でゆっくりと丁寧に、自分たちが見聞きした情報を伝える。

 

「雪ノ下さんに葉山くんが協力してるのは知ってるよね。その繋がりだと思うんだけどさ。うちは見てないけど、ほとんどの運動部の部長が集まってたんだって。あと文化部の部長も大勢いて、そっちは雪ノ下さんが声を掛けたんじゃないかって」

 

 背後の友人三人に時おり確認の視線を送りながら、そこまで言い終えて一息つくと。厳しい表情を浮かべたままの八幡と一色とその背後の四人に向けて、相模は話を続ける。

 

「たぶん結衣ちゃんは、雪ノ下さんと比べると出遅れたんだと思うんだ。それでも女テニとか、文化系なら文芸部とか漫研とかさ。うちらが見た感じ、ちょっとずつ切り崩してるなって。珍しい顔だと川崎さんとか、あとヒキタニくんの友達の眼鏡かけた……」

 

「材木座な。さっきメールしたら、袂を分かつとか何とか言って断られたんだが。やっぱ海老名さんが原因だったか。……ん、待てよ。じゃあ戸塚は?」

「戸塚くんは……」

 

 背後にいる友人の一人と顔を見合わせた相模が、観念したかのように口を開きかけたところで。

 

「ぼくが説明するから、ちょっとだけ八幡と話をさせてもらっていい?」

 

 教室のドアをからりと開けて、戸塚彩加が一同に向けて話しかけて来た。

 

 

***

 

 

 同じ頃、総武高校の正門付近では。

 

「だからー。気にしないでさっさと校内に入っちゃえばいいじゃん」

「でも、行動を記録されるのって嫌だしさー」

「千佳ってそういうの気にするよねー」

「会長も出先からすぐに返事くれたしさ。許可が出るまでもうちょっと待とうよ」

「あーあ、ここまで来て足止めかあー」

 

 生徒の安全のため、許可のない者が校内に入ると全ての行動が記録されるのだったと今さらながらに気が付いて*1

 見慣れない制服を着た二人の女子生徒は、ため息まじりのやり取りをかわしていた。

 

 

***

 

 

 思いがけない戸塚の登場に、少しだけ驚きはしたものの。すぐに冷静に戻った八幡は大きく首を縦に動かして承諾の意志を伝えた。そして相模たち五人と一色たち五人に順に視線を送る。

 

「んじゃま、教室の後ろのほうで話して来るわ。声が聞こえない設定にしたいんだが、大丈夫かね?」

 

 よもや裏切りを懸念されるとは思いたくないが、現に支持者の奪い合いは始まっている。そう考えた八幡がお伺いを立てたところ。

 

「相手が海老名さんなら、何を話してるのかな~って考えちゃいますけど。戸塚さんなら大丈夫ですよ~」

「うん、うちもそう思う。戸塚くんが変な事を企むわけないじゃん」

 

 背後の八人もうんうんと頷いている。

 女子からの圧倒的な信頼を得ていても、八幡が戸塚に嫉妬をするはずもなく。そりゃそうだよなと呟きながら、八幡は浮かれ気分を隠そうともせず椅子から立ち上がった。

 

 るんるんと軽い足取りの八幡を見て、ちょっとだけ裏切りの可能性を懸念してしまった女性陣だった。

 

 

 積み上げられた机のすぐ近くで、二人は立ったまま話を始めた。

 

「とりあえず、あれだな。別に怒ったりとかしてねーから、そんなに身構えなくても良いぞ?」

「うん。八幡ならそう言うだろうなって思ってた。でもぼくも、いつまでも気を使われてばっかなのは嫌だしね」

 

 どこか表情がぎこちなく見える。けれど戸塚の芯の強さを知っている八幡は、心配の言葉を重ねて告げようとは思わなかった。

 

 一色たちを横目で窺うと、どうやら雑談をしながらこちらの話が終わるのを待ってくれているみたいだ。ならばすぐに本題に入るかと考えて、八幡が口火を切った。

 

「戸塚は、雪ノ下を応援してるのか?」

 

「……うん。昨日の夜に葉山くんから話を聞いてね。由比ヶ浜さんからも今日の朝一で連絡が来たんだけど、先に声をかけられたからって理由じゃなくて……由比ヶ浜さんの立候補も、八幡が一色さんを擁立するかもって可能性も、葉山くんが教えてくれてさ。それで、ぼくが一人で考えて、雪ノ下さんを応援しようって決めたんだ」

 

 最初から分かっていたけれど、説得は不可能だなと八幡は思った。

 

 戸塚が真剣に悩んで答えを出したからには、それを友人として尊重したい。

 続けて湧き上がってきた心情は思っていた以上に穏やかなものだった。無条件で自分に従ってくれるよりも、こんなふうに違う意見をぶつけてくれるほうが嬉しい時もあるんだなと実感する。

 

 きっとそれは、あの二人とも体験したいと考えていることだからだろう。

 東京駅で昨日かわしたやり取りを思い出しながら。各々が「嫌い」だと思っていることも含めて、三人で話を深められる日が早く来ますようにと八幡は願った。

 

 

「もう少し詳しく、応援の理由を聞いてもいいか?」

 

「うん。雪ノ下さんに無理をさせたくないって気持ちも分かるんだけどね。でも三人の候補の中で生徒会長に一番ふさわしいのは、やっぱり雪ノ下さんだなって思ったの。能力とか、そういう意味でね。だから雪ノ下さんに会長になってもらって、ぼくらが負担を減らすように動くって形が一番いいかなって。もし八幡が、雪ノ下さんが心配だから会長にしたくないって考えてるならさ。それは違うんじゃないかなってぼくは思ったの」

 

 少しだけ寂しい気持ちがしたのは、きっと子供の成長を目の当たりにした親もこんな感情を抱くのだろうなと思えたからだろう。

 気を使われるのは嫌だと先ほど戸塚は口にしたけれど、対等の友人を前にして確かにそれは失礼だよなと八幡は思った。

 

「心配だからってのは、ちょっと違うかもな。そんなことを言ったらたぶん罵詈雑言が飛んでくるぞ。俺の気持ちとしては……あれだな。生徒会長の雪ノ下よりも、奉仕部の雪ノ下を見ていたいって感じかね。その、反権力とか今時そんなに流行らないけどな。でも権力の側に取り込まれた雪ノ下や由比ヶ浜を見るよりは、生徒会とは一線を画した奉仕部って組織で独自色を発揮するあいつらを見ていたいんだわ」

 

 部活の時間だけでも二人を独占したい、などという欲望はさすがに口には出せなかったものの。戸塚に伝えたこうした想いは、たしかに八幡が抱いているものだ。

 そしてそれが個人的な感情に根ざしているが故に、戸塚とは相容れないだろうなと八幡は思う。

 

「ぼくはやっぱり、生徒の代表って立場で活躍する雪ノ下さんを見てみたいなって。でもさ、八幡が雪ノ下さんや由比ヶ浜さんの会長就任に反対なのが、心配してるからじゃないって分かってちょっと安心したかも。ぼくが気にし過ぎなのかもしれないけどね、過保護ってやっぱり良くないと思うからさ」

 

 その一瞬、心の奥底を見透かされた気がした。

 同時に、俺は何かを見落としているのではないかという気もした。

 

 けれども、口には出せない邪な感情はさておいて、俺は別にあの二人を甘やかしたいわけではない。そもそも俺なんかの庇護下に置かれなくともあの二人ならどんな場所でもやっていけるだろう。むしろ俺のほうがあいつらに保護されかねない。

 

 ただでさえ心配を掛けることが多かったのだし、俺を気にしてあいつらが本領を発揮できないなんてのは死んでも御免だ。だからこそ選挙という形であいつらと競い合えている現状は、俺にしてみれば願ったり叶ったりの展開のはず。

 

 だから何の問題もない。俺はとにかく結果が出るように動くだけだ。

 そう結論付けた八幡は、戸塚に向かって不敵に微笑む。

 

「あいつらが敵ってのもなかなか乙なもんだけどな。戸塚が敵に回るってのも、たまには良いかもな。手加減とかしたら逆に怒るぞ?」

「うん。雪ノ下さんを助けて、葉山くんをフォローして、選挙戦で八幡と一色さんに勝てるように頑張るね。だから八幡も……」

 

 何となく照れくさくなってきたので、おそらく「頑張って」と続くのであろう発言を遮って声を重ねる。

 

「それはそうと、一色の状況ってどこまで知ってる?」

「えっと、無理に立候補させられたって葉山くんがさ。あんまり言い触らさないでって念を押されたんだけど……」

 

 戸塚の返事に頷きながら、素早く考えをまとめた八幡が続きを口にする。

 

「その件でな、できれば一色が惨敗するって結果だけは避けたいんだわ。だから雪ノ下の応援の妨げにならない範囲で良いから、二位には一色の名前を書いてくれって仲の良い連中に頼んでくれねーかな?」

 

「うーん……そうだね。それくらいなら大した手間じゃないし、運動部の部長とかうちの部員とかにも話してみるよ。でも一位は雪ノ下さんになっちゃうけど、それでもいいの?」

「ま、保険みたいなもんだからな。それに勝つのは一色だから結局は問題ないはずだ」

 

 そんな八幡の返答に思わず吹き出しながら、戸塚は握りしめた右手を胸の前まで持ち上げた。

 目と首の動きだけで、同じようにして欲しいという要望が伝わってきたので。八幡が右の拳を構えると、軽くこつんと合わせて来た。

 

「じゃあ、どっちが勝っても恨みっこなしね。八幡も頑張って!」

 

 そう言って会話を打ち切った戸塚は、女性陣にも気安く声をかけて、一人一人と丁寧に目を合わせてから教室を出て行った。

 

 

***

 

 

 同じ頃、総武高校の正門付近では。

 

「もう記録なんて気にしないで校内に入ろうよー」

「ほら、会長が総武の教師に宛てて許可を申請したって言ってるからさ」

「千佳ってよくこんなに我慢できるよねー」

「かおりが何も考えずに動き過ぎなだけでしょー?」

「あーあ、早いとこ用事を片付けて話しに行きたいのにさー」

 

 許可が下りるのを気長に待ちながら。

 見慣れない制服を着た二人の女子生徒は、発展性のないやり取りをかわしていた。

 

 

***

 

 

 戸塚を見送ってからも同じ場所に立ったままドアをぼんやりと眺めていると、そろそろと再び動き出したので。

 

「戸塚、なんか忘れ物か?」

 

 首を捻りながらもそう問い掛けた八幡だったが、現れたのは戸塚ではなく。

 

「戸塚じゃなくて悪かったね。そこですれ違ったけどさ、忘れ物とかは無さそうに見えたけど?」

 

 そう言いながらドアを後ろ手で閉めて、川崎沙希が八幡のすぐ目の前まで近寄って来た。

 

「あのさ。ちょっとだけ、こいつと話をしたいんだけど。長くはならないから時間を貰えないかな?」

「はあ。まあ、いいですけどね~」

 

 一色の許可が得られたので一つ頷いて、川崎は八幡と向き合った。

 

「会話は他の連中には聞かれないほうが良いのかね。あと椅子とか要るか?」

「ううん。さっきも言ったけど長々と話す気はないからさ、立ったままで良いよ。声が聞こえないようにして貰えるのは助かるね」

 

 そう言われたので手早く設定を変更して、顎をしゃくって話を促した。

 

 

「さっきメールで書いたけどさ。あたしは由比ヶ浜を応援しようって思ってる」

「ああ、相模から聞いたからそれは知ってる。んで、詳しい理由を聞いても良いか?」

 

 道を違えることになったとはいえ、戸塚とはきちんと分かり合えた気がした。だから川崎とも同じようにできればと考えて八幡が問い掛けると。

 

「その、さ。多分あんたは気にしてないとは思うんだけどさ。一昨日の夜のことが原因じゃないってのは、あの、分かっておいて欲しいなって」

 

 この数日で色んな事があったので、時間の感覚が狂っている気がする。

 けれども実際には、平安神宮で川崎と話をしてからまだ二日しか経っていない。

 

 俺なんかに告白をしてくれた二人目の女の子。そんな相手に、俺は無遠慮に選挙への協力を呼びかけたのだ。それどころか、こんなふうに気を使わせてしまっている。

 

「いや、それは俺のほうが配慮が足りてなかったな。普通に今までどおりにって、言葉では簡単だけどなかなか上手くいかないもんだわ。なにせ告白されるなんて嬉しい事は、俺の長い人生でも滅多になかったからな」

 

「滅多にっていうか、一昨日だけって気がするんだけどさ。あんたが長い人生とか言ってたら、平塚先生にどやされちゃうよ?」

「おい、そこで平塚先生を出して来るのは反則だろ。お前もその辺はけっこう容赦ないよな」

 

 拙い冗談に乗ってくれたおかげで少し気が楽になった。とはいえ、ここから話をどう続けたものかと悩んでいると。

 

「それよりさ、さっきの……嬉しい事ってのは、ホント?」

「ん、ああ。答えがあれだったから、こんな事を言うのは良くないのかもしれないけどな。嬉しいのは嬉しいに決まってるだろ。あんま恥ずかしいこと言わせんな」

 

 そう言い終えてそっぽを向くと、教室の中央にいた女子生徒たちから「リア充ふざけんな」という目で見られた気がした。

 我が身を省みると何も言い返せないなと自覚して、そっと視線を戻す。

 

 

「そっか。じゃあいいや。でさ、話を戻すと……なんだっけ?」

「お前が由比ヶ浜を応援する理由な」

 

 川崎に限らず、女の子って恥ずかしいことを話すだけ話したらすぐに意識が切り替わるよなと思いながら。こっちは照れくささが残っているので、長々と喋ってたら噛みそうだなと考えて短く返すと。

 

「あの子のことはあんまり知らないからさ。あんたが推すぐらいだから、会長職をちゃんと務めてくれるとは思うんだけどね。あたしが知ってる限りだと、三人の中で一番会長にふさわしいのは雪ノ下だと思うんだ」

「んんっ、と。お前が応援してるのは由比ヶ浜だろ?」

 

 一色に軽く視線を送ってから話し始めた川崎だが、結論と行動が一致していない。

 怪訝に思った八幡が疑問をそのまま伝えると、ようやく力みが取れたのか川崎の頬がふんわり緩んだ。

 

「雪ノ下があれだけ抱え込む性格じゃなかったら、文句はないんだけどね」

「ああ、そういう事な。周りが無理すんなって言っても聞く耳を持たないからな」

 

「そうそう。だから雪ノ下に言うことを聞かせる為には、会長にするのは良くないと思ってね。対等か上の立場になれば、由比ヶ浜なら雪ノ下を上手く動かしてくれるってあたしは考えてる。あんたじゃなくてさ」

「……俺じゃなくて?」

 

 部長様よりもあいつを推す理由がやっと理解できたと思ったら、妙な一言を付け足された。

 おうむ返しに呟いてみても意味が分からなかったので、八幡が首を捻っていると。

 

「あんたの言うことも、ある程度は聞いてくれると思うんだけどさ。あたしとか他の連中と比べると段違いにね。でもいざって時に、あんたは雪ノ下に何も言えないし、雪ノ下もあんたの言うことを聞かないと思う。誤解して欲しくないんだけど、どっちが悪いって話じゃなくてさ。お互いに別行動を選ぶんじゃないかなってあたしは思うんだ」

 

「……そうかもな。続けてくれ」

 

「けど、由比ヶ浜は違うと思う。何も言われなくても、話を聞いてくれなくても、由比ヶ浜なら諦めずに説得を続けたり、自分も譲歩したりしてさ。それでも別行動になったとしても、やっぱり諦めずに話す機会を作ろうって思うんじゃないかな。それって凄いことだとあたしは思うよ」

 

「なるほどな。だから由比ヶ浜か」

 

「京都でも話したけどさ、あたしは奉仕部がなくなって欲しくないって思ってる。けど今のままだと限界が近いんじゃないかな。雪ノ下が部長にふさわしいのは確かだけど、由比ヶ浜が肩書きのないヒラの部員のままだと、あんたらをまとめようにも無理が出るよ。会長選挙もそれと同じだなって、あたしは思ったんだ」

 

「そこのところは別意見だな。なんでかっていうと、奉仕部の中でなら役割分担が確定してるんだわ。確かに雪ノ下は部長として危うい部分もあるけどな。そうした場面だと実質的には由比ヶ浜が手綱を握ってるから、変な事にはなりようがないのな。今さら変な肩書きを設けて形だけ対等にしなくても、あの二人の関係性なら大丈夫だって俺は思ってる」

 

 だからこそ、奉仕部からは誰一人として欠けさせるわけにはいかないのだ。

 

 もちろん厳密に言えば、俺が一番要らない子だ。でも俺は俺なりに、あの二人だけでは打開が難しい場面で、あいつらの役に立てると思っている。少なくとも今まではそうだったし、これからも役に立ちたいと思っている。けど、思うだけで叶うほど現実は甘くない。

 

 もしも俺が二人の力になれなくなったら、その時は潔く身を引こう。けれども黙って去るのではなくて、いかに俺が足手まといかを二人にちゃんと説明して謝罪して、二人の行く末を見守りながら別れを選ぼうと思う。こう考えるようになったのは、六月の反省からだ。

 

 とはいえ先のことは先のことだ。当面は誰に何を言われようとも奉仕部から離れるつもりはないし、あの二人を手放すつもりもない。それを胸を張って言えるようにする為にも、俺は今回の選挙戦で結果を残す必要がある。

 

 

「あんたの言いたいことも何となく解るよ。あんたが意気込んでる理由もね。でもあたしは、由比ヶ浜をちゃんと中心においた方が良いと思う。最初から分かってはいたけど、交渉決裂だね」

 

 よく通る静かな声で、川崎は苦笑まじりにそう告げた。

 考え事から意識を戻した八幡は、発言の意図を探りながら口を開く。

 

「もしかして、俺を由比ヶ浜の陣営に引き込もうと考えてたのか?」

「それができれば良かったんだけどさ。でも、ちょっとほっとしてる」

 

 理由がさっぱり分からないので、目の動きで続きを促すと。

 

「あのさ、大志の依頼を覚えてるかな?」

「ああ、一学期の中間直前だったか。バーに乗り込んだのが懐かしいな」

 

 そう言うと川崎も遠い目をして、ふっと息を漏らしていた。

 わずかな間を置いて、再び川崎が話し始める。

 

「あれってさ、あたしの立場からすると、雪ノ下とあんたに勝手に助けられた形なんだよね。まあ由比ヶ浜の言葉も突き刺さったっていうか、恥ずかしくて思い出したくないんだけどさ」

 

 あの時点で既にあいつはすごい奴だったよなと。にんまりと誇らしげに八幡が頷いている。

 他のどの仕草よりもどのセリフよりも、今の表情が心にいちばん突き刺さった。それをおくびにも出さずに川崎が話を続ける。

 

「だからさ。二人には借りを返さないといけないなって思ってたんだ」

「……由比ヶ浜には良いのか?」

 

 二人の間の空気が一変したのを感じ取って、八幡が牽制のつもりでそう告げると。

 

「それはチバセンで済ませたからね。勝って借りを返すつもりが、あっさり負けちゃったんだけどさ。でもあの勝負があったから、由比ヶ浜のことを詳しく知ることができたと思う。あんたに語れるぐらいにさ」

 

「あのな。勝負そのものを目標にしてるようだと、今回も俺か雪ノ下に負けちまうぞ?」

「そこで『俺に』って言えないようだと、あんたも由比ヶ浜に負けるんじゃない?」

 

 睨み合ってはいるものの、口元が緩んでいるのが自分でも分かる。きっと今の川崎と同じような表情なのだろうなと八幡は思った。

 

「じゃあ、あたしは行くね。はい」

「……えーと、どういう意味だ?」

 

 右手の指を広げて首の高さまで持ち上げると、掌をこちらに向けてひらひらさせているので。

 八幡がじとっとした目で疑問を呈すると。

 

「いつも小町に要求されてたんだけど、あんたはしないのかい。その、ハイタッチなんだけどさ。お互いの健闘を、みたいなつもりだったんだけど……」

 

 少しずつ声が小さくなって最後のほうは聞き取るのが難しいほどだった。赤く染まった頬を隠すようにして、川崎が顔を俯かせている。

 

「小町がまた変な事を……なんかすまんな。ほれ、俺も恥ずかしいから一回だけだぞ」

 

 そう言って右手を同じように持ち上げて、二人のちょうど真ん中ぐらいで軽くぱしっとぶつけ合った。

 

「うん、ありがと。あんたも頑張って」

 

 普段の鋭い目つきや、今しがたの恥ずかしそうな顔つきとはうって変わって。プレゼントが届くのを心待ちにしている子供のような表情を残して、川崎が教室から出て行った。

 

 

***

 

 

 同じ頃、職員室では。

 

「なるほど。情報の行き違いがあったみたいだな」

「候補者は一人だけだって、うちの会長が言ってたんですよー」

「仕方ないし、出直そっかー」

「でもさー千佳。選挙が終わるのを待ってたら期末の直前じゃん」

「かおりは勉強しないから関係ないけど、総武の人たちは違うもんねー」

 

 教師の前でもまるで物怖じしない二人がいた。

 いくら他校の生徒とはいえ、口調の注意ぐらいはしておくべきかと考えていると、期末試験の話が出てきたので。そちらのほうが大事だと思い直して教師が口を開く。

 

「そうだな……もし君たちが良ければだが、三人の候補を呼び集めるから話をしてみるかね。なんなら選挙参謀の三人を呼び寄せても良いが?」

「せっ、選挙参謀って、マジウケる!」

「先生の前で失礼だよー。じゃあ三人と三人の六人で、お願いしまーす」

「あ、ああ。分かった」

 

 これは世代の違いによるものではなく、文化がちがうとしか言いようがない。

 そんなことを考えながら、教師は六人に宛ててメールをしたためた。

 

 

***

 

 

 川崎を見送った八幡がもとの席に戻って、さて何を話そうかと考えていると。

 がらっと音がして、教室のドアが三たび開いた。

 

「……お前は、どっちの陣営から来たんだ?」

「詳しく話すから、入っていいか?」

 

 誰一人として予想だにしなかった来訪者は、ラグビー部の大和だった。

 

 その静かな佇まいを見て、かつて葉山隼人が「冷静かつマイペースで人を安心させる、寡黙で慎重な性格の良い奴」と評していたのを思い出した。

 もっとも、歯に衣着せぬ物言いが健在だった頃の部長様に言わせれば「反応が鈍い上に優柔不断」になってしまうし、あの時の噂が正しければ「三股をかけている屑野郎」なのだが。

 

 一色と顔を見合わせて、とりあえず中に入ってもらう事にした。

 自分だけ椅子から立ち上がって、一色をはじめとした十人の女子生徒の前に立って大和を出迎えると。

 

「ヒキタニくんと一色さんを助けに来た」

「そう言われても、おいそれと信じられる話じゃないって分かるだろ?」

 

 文化祭や体育祭の関連で顔を合わせる事も多かったし、修学旅行でも色々あった。けれども直接のやり取りは少なかったので、わざわざ助けに来る理由にはならないだろう。

 だから八幡が疑いの目を向けるのも仕方がないと、どうやら大和も理解しているようで。

 

「スパイを疑うのも分かるけど、話を聞いてくれないかな?」

「まあ、睨み合ってても発展性がないからな。んで?」

 

「うん。実は戸部の頼みでさ。あいつ、奉仕部の三人に借りがあるだろ。だから『雪ノ下さんも結衣もヒキタニくんも助けたいけどどうすんべ』って悩んでてさ。それに隼人くんにも恩があるし、一色さんとも仲が良いだろ。でも海老名さんの手助けをしないわけにもいかないしさ。『俺っちを三等分できたら』なんて言い始めたから、俺と大岡が……」

 

「分かった。お前らが戸部のせいで苦労してるのはよーく分かった」

 

 淡々と説明を続ける大和を途中で遮って、八幡は同情のこもった眼差しとともにそう伝えた。

 ため息をはぁと吐いて、一色と相模に順に視線を送ると。

 

「うん、まあ、戸部先輩ですしね〜。信用できるってわたしは思いますよ?」

「うちも同感かな。戸部くんなら仕方ないよね」

 

 謎の信頼感によって、こうして大和が一色の陣営に加わった。

 

 

「てことは、戸部が由比ヶ浜のところにいて、大岡が雪ノ下のとこか?」

「ああ。俺と大岡は逆でも良かったんだけどさ。雪ノ下さんと隼人くんがいるなら、頭を使うよりも行動力があるほうが良いだろ?」

 

 なるほどなと繰り返し頷いている八幡は、葉山の評価が妥当かもしれないなと思い始めていた。

 頭が特別切れるという程ではないけれど、発言の内容はよく整理されている。きっと良き相談相手になってくれるだろう。

 と、そこまで考えた八幡は、戦略を練るのが自分の役目だったと思い出して立ったまま口を開く。

 

「あ、それで今後の方針なんだがな。惨敗だけは避けたいってのを言い訳に二位狙いを公言して知名度を上げておいて、立会演説会での一発逆転に懸けるしかないって俺は考えてるんだが……どう思う?」

 

 いきなり大事な話を始めた八幡に、ほとんどの生徒は頭がついていかない。

 そんな中にあって、さすがに一色は大したもので。

 

「要するに、まずは二位の座を確保するって事ですよね〜。でも、結衣先輩と……」

「あのな、当選を判定するのは一位票だろ。んで一位票の数は、今のままだと由比ヶ浜が二位で一色が三位だわな。だから二位と三位が連合して一位が濃厚な雪ノ下を引きずり下ろそうってのが、さっきの海老名さんとの話し合いな」

 

 先ほど結んだ緩い同盟のことを他の面々にも説明して、そのまま八幡は言葉を続ける。

 

「基本方針に話を戻すと、こっちは二位に名前を書いてくれって話だからな。雪ノ下を応援してる連中には『一位が雪ノ下で二位に一色の名前を』、由比ヶ浜を応援してる連中には『一位が由比ヶ浜で二位に一色の名前を』ってお願いすれば、協約にも違反しないだろ?」

 

「うちにも言いたいことは理解できたけどさ。ヒキタニくんが思い付く事って、どうしてこう……」

「せこいよな。隼人くんも戸部も大岡も言ってた」

 

 相模と大和が呆れ顔で呟いているのを見て八幡が口を挟む。

 

「はいそこ、文句があるなら遠慮なく言ってくれ。他に対案があるならいつでも撤回するからな。んで、さっき戸塚にも頼んでみたんだが、川崎には言わなかったのな。いま言った屁理屈があるとはいえ、海老名さんに知られるのは時期尚早だと考えたんだが」

 

「自分でも屁理屈って認めてるじゃん。でも、うちも賛成かな」

「戸塚さんなら相手を見ながら慎重に進めてくれそうですけど、大々的にやっちゃうと色々と問題が起きそうですよね〜」

「なら月曜の放課後か、それとも火曜まで我慢して一気に動くか……でも海老名さんや隼人くんならその前に気付きそうだな」

 

 順に意見を述べる三者を見ながら、わりと良い具合に話し合いが進んでいるなと八幡は思った。

 その他の面々も、口こそ挟んでこないものの内容には真剣に耳を傾けてくれている。

 人数は少なくとも、一枚岩になれているのが自分たちの強みだなと考えていると。

 

 

「あれっ、平塚先生から?」

「俺のところにも来たぞ。宛先は……六人だけか。なんか今、立候補者三人と俺と葉山と海老名さん宛てにメッセージが来てな。奉仕部の部室に来て欲しいって書いてあるから行ってくるわ。その間に一色の推薦人連中と、あと一色ファンのやつらにも押し付けられる仕事があれば、考えておいてくれると助かるな」

 

 しっかりと頷き返してくれた相模と大和と他八名を頼もしく眺めながら。八幡は一色と連れだって奉仕部の部室を目指した。

*1
詳細は6巻8話の冒頭などを参照して下さい。




次回は二十日頃に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(4/13,4/26)


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07.はらの底から笑い転げて彼女はようやく気付く。

文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→150p1

前回のあらすじ。

 文化祭の借りを返すために駆け付けた相模たちが他陣営の様子を教えてくれたので、一色と八幡は彼我の差を正確に認識できた。雪ノ下と由比ヶ浜を応援する面々を確認していると、そこに戸塚が、ついで川崎が現れる。
 二人の意思を確認した八幡は、お互いの健闘を誓い合った。

 三候補も選挙参謀の三人も、戸部からすれば全員が手助けをしたいと思える面々だ。そんな苦悩する友人のために、代わって大和が協力を申し出た。
 戸部は海老名の、大岡は葉山のために動いていると聞いて、八幡と一色と相模は「戸部だし、さもありなん」と申し出を受け入れる。大和もそれに応えて、さっそく一同に溶け込んでいた。

 いまだ人数は少なくとも、まとまりのある話し合いに八幡が手応えを感じていると。
 三陣営の会長候補と参謀に宛てて、平塚からのメッセージが届いた。



 その日は金曜日だったので、何もなければ普通に遊びに行って無為に時間を過ごしていたのだろう。いつもの週末と違ったのは、放課後に廊下で呼び止められたのが発端だった。

 

「総武と合同イベントって……やばい何それマジ楽しそうなんだけど!」

 

 生徒会長に就任したばかりの男子生徒が仰々しく語り始めても、しばらくのあいだ折本かおり(おりもとかおり)の意識は校外に向いていた。

 どこに行って何をしようかと考えながら上の空で聞き流していると、突然そんな予定などどうでもいいと思える話が飛び出したので。思わずぐいっと詰め寄りながら大きな声を出してしまった。

 

「で、どんな感じになるの?」

 

 早く続きを知りたいのに、目と鼻の先にいる相手はなぜだか顔を赤くして慌てている。

 あまり話をしない仲とはいえ、ノリが良いのが特徴だとは認識されているはずだ。ということは、自分が思っていた以上に過剰な反応だったのか?

 そこまで考えて、折本は内心で首を傾げる。

 

 もしそうなら、恥ずかしいのはこちらのほうだ。

 だから会長がきまりの悪い様子なのは、みんなに内緒で話を進めたかったのに大きな声でとっておきの情報をばらされたからだと考えついて。

 悪いことをしたと少しは思わなくもないけれど、こんな楽しい計画を黙っておくなんてどだい無理な話だ。だから大人しく諦めてもらおうと折本は結論付けた。

 

「ほらー、会長っ。早く教えてって言ってるのにさー」

 

 そんなふうに自分なりに納得した折本は至近距離から平然と話を促す。

 

 他の生徒のことは気にしなくてもいいと。きっと大喜びしてくれるから大丈夫だという意図を込めて、うんうんと意味なく頷きながら重ねて催促すると。一瞬だけ首をがくっと落とされたのはなぜだろうか。

 でもすぐに詳細を教えてくれたので、特に深い意味はなかったのだろうと折本は思った。

 

「へえー。じゃあテスト明けに動き出す感じかぁー。でもさ、本格的な打ち合わせは来月に入ってからでもいいけど、一緒にやろって話ぐらいは伝えておこうよー。……えっ、その話?」

 

 イベントの話を周囲にばらしてしまった責任があるので役に立ちそうな事を提案してみると、呼び止めた理由はそれだと言われてしまった。

 用事があるから話しかけたに決まっているのに、そんなのはすっかり忘却の彼方。イベントの話に夢中になり過ぎだったし、我ながらうっかりだったなと折本は思う。

 

 それにしても言われるまで完全に忘れていたのだが、総武高校の文化祭に行った時に向こうで会長と偶然会ったので、最後のライブを一緒に観た。ステージの上にレアな顔を見付けてからは、隣の人のことなんてまるっきり頭から吹き飛んでしまったので記憶に残っていなかったのだ。

 

 でもだからこそ、合同イベントをやるなら総武と一緒にと考えたのはあのライブ体験があったからだと説明されると、素直に頷けた。常に楽しいことを求めてすぐに気持ちが移ろいがちの折本には珍しく、あの演奏の記憶は二ヶ月経った今もなお強く心に残っているからだ。

 

「なんで私にって思ったら、そういうことかー。うん、じゃあ会長も忙しいだろうし総武には私が行ってくる。……えっ、いいっていいってそんなの別に気にしなくてもさー。久しぶりに話したいなって思ってたやつもいるし。うん……。だからさ……。あー、それに会長にはさ、卒業生とか先生とかにも話をつけてもらわないといけないじゃん。だからこっちは任せてくれていいよ!」

 

 話の途中で何度となく口を挟んでこようとする会長に、これくらいはお安い御用だと繰り返し伝えて。でもさすがに途中からは面倒くさくなってきたので他の仕事を話題に出して、少し強引に話を打ち切った。

 

 生徒会長なんだから遠慮しないで仕事をどんどん任せればいいのにと内心でぶつくさ言いながら。折本は顔をぐりんと動かして、すぐ横でのんびり話を聞いていた仲町千佳(なかまちちか)の両目をじっくりと覗き込むようにして口を開く。

 

「千佳も一緒に行くよねー?」

「えー。わたしはいいよー」

 

 気のない返事だが、折本からすれば予想通りの反応だ。にやりと口の端を持ち上げながら言葉を続ける。

 

「例のサッカー部の葉山くんだっけ。総武に行けば会えるかもよー?」

「えー。わたしはいいよー」

 

 セリフは同じでも声に照れくささが出ている。

 そんな分かりやすい友人の反応に、にんまりと笑みを漏らしながら。仲町の手を掴んだ折本は会長の呼び止めも、廊下は走るなという教師の注意も右から左へと聞き流して、一路校外へと足を向けた。

 

 

***

 

 

 一色いろはを伴って部室に入ると、そこには先客四人の姿があった。

 

 扉を開けると同時に会話がぴたっと止まって、八つの目がこちらをじいっと窺って来たので、比企谷八幡はひとつ軽く頷いてからいつもの席へと足を向けた。

 その身振りにも行動にも深い意味はない。強いて言えば、応対は任せたと背中越しに伝える程度の意味合いしかない。

 

 そうした意図をしっかりと把握した一色はドアの近くで立ち止まったまま、やれやれと言いたげな表情と手つきを一同に向けて披露すると、軽い調子で口を開いた。

 

「遅くなってごめんなさいです~」

「まだ平塚先生が来ていないから大丈夫よ。それにしても、こんなに早く一堂に会する事になるとは思ってもいなかったのだけれど」

 

 苦笑まじりにそう語る雪ノ下雪乃は柔らかい表情を浮かべていて、声にも優しいものが混じっている。

 それは、椅子をすぐ近くまで移動させて雪ノ下と仲良く話し込んでいた由比ヶ浜結衣も同じだった。

 

「でもさ、選挙だからって気楽に話せないのはちょっと寂しいなって思ってたんだよね。だからこの部屋で、ゆきのんといろはちゃんと喋れるのって何だか嬉しいなって」

「ですね~。よいしょっと」

 

 にこやかに頷きながら同意の言葉を返した一色は、八幡のすぐ横に準備されていた椅子をセリフに合わせて持ち上げると、そのままとことこと雪ノ下の隣まで近寄って行く。

 そこでゆっくりと椅子を下ろしてちょこんと腰掛けて、候補者三人は害のない雑談に花を咲かせていた。

 

 

 一方、椅子の背もたれに触れたと同時に一色の話が始まったので座るタイミングを逃してしまい、そのままの姿勢で固まっていた八幡は、窓際に立つ葉山隼人が手招きをしてくれたので窮地を脱した。

 椅子から手を離してその場で軽く身体を伸ばすと、のそのそと教室の奥に足を向ける。

 

 葉山のすぐ隣には海老名姫菜が立っていて、おそらくは二人で話をしていたのだろう。由比ヶ浜が雪ノ下と喋りたがった結果、この組み合わせになったのだろうと八幡は推測した。

 

 クラスでも同じグループに属する者どうし、話題には事欠かないとは思うけれど。雪ノ下と由比ヶ浜とは違って、この二人は雑談に終始していたのか定かではない。

 奉仕部の二人なら(少なくとも今の段階では)その手の小細工はしないと断言できるけれど。この二人の間で秘密の協定が結ばれていても何ら不思議ではないなと八幡は考える。

 

 もっと早く来るべきだったなと思いながら、考えることが多すぎる現状に八幡が内心で辟易していると。

 

「やあ。いろはの惨敗は避けられそうかな?」

「さすがに余裕だな。まあ順当に行けば惨敗なんじゃね?」

「はやはちの盛り上がり的にも、一騎打ちだと厳しいって意味でも、ヒキタニくんにはもうちょい頑張って欲しいんだけどなー」

 

 選挙よりもカップリングの話を真っ先に出してくる辺りは海老名らしいと言えるものの、暴走の気配がまるで感じられないのは、それだけ由比ヶ浜陣営が本気だという証拠だろう。

 でもこの反応を見る限り、葉山が発言の裏に隠した意図には気が付いていないみたいだ。なら俺の選択で正解だったなと八幡は考える。

 

「しょせん俺らは黒子だからさ。ヒキタニくんの暗躍が目立つような選挙よりも、候補者が正々堂々と競い合う方がいいって俺は思うけど?」

「お前が黒子とか自称しても説得力がないんだが。まあ、何をしても目立つってのは同情したくなる時もあるけどな」

「でもさ、昨夜の動きは静かなものだったよねー?」

 

 これは思っていた以上に海老名が根に持っているという意味なのか。それとも何らかの秘密を隠すために敢えて不仲を強調しているのか。

 よくよく気を付けないと、可能性の袋小路に陥ったまま戻って来られなくなるなと八幡は思う。

 

「それだけ必死なんだよ。何であれ得るのは大変だけど、失うのはあっという間だからね」

「それなあ。俺の先輩としての威厳も、失うのは一瞬だったんだよなあ」

「でも、いろはに『椅子を運べ』って言われないだけマシだろ?」

 

「さっき自分で運んでたもんな。てか俺より下に戸部がいるってのは、喜んで良いことなのかね?」

「どっちにしてもさ、威厳なんて最初から無かったって思えば気が楽になるよ。そんなのより、私レベルにBLが好きな友人って得るのは本当に大変なんだよねー」

 

 三者三様に、選挙とは関係の薄い悩みごとを口にして揃ってため息を吐いていると。

 廊下のほうから、かしましい話し声が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 いつものようにドアを勢いよくがらっと開けて、平塚静がのっそりと部室に入ってきた。

 その直前に「先に事情を説明するから、君たちはここで少し待っているように」という声が聞こえていたので、六人は平塚の顔をじっと見つめたまま動こうとしない。

 

 そんな中にあって、八幡はなぜだか気分が落ち着かない。心臓が早鐘のように鼓動を刻みはじめ、十一月だというのに背中に汗をかいている。この上なく嫌な予感がするのだが、それが何なのかまるで予測が付かない。

 

「簡単に言うと海浜からの合同イベントのお誘いだな。両校の新しい生徒会の初仕事として何としてでも実現させたいので、今日は向こうの会長代理がまずは挨拶に来たという話だ。私個人の意見としては、イブにリア充が盛り上がるのを横目にイベントの監督をするのは断じて避けたいところなのだがね」

 

 どうせ予定なんてないくせに、という言葉を一同は喉の奥に呑み込んだ。

 そして八幡は、嫌なのは嫌だけどこの程度の話で良かったと、こっそり胸をなで下ろしていた。

 

 あれは油断だったと、後になって後悔してみても現実は変わらない。

 

「では、入って来たまえ」

 

 用事はすぐに終わりそうだし、このまま立っているかと考えて。海老名にだけは席を勧めて、そのせいで入り口から目を逸らしてしまったのも痛恨と言えば痛恨だった。

 

 だが、結局はどんな形であっても失言は避けられなかったのだろう。

 廊下から漏れ伝わって来る声だけで、本能では理解していたのだから。

 

「じゃあ、失礼しまーす。って、あれっ。ギターとベースの子……だよね?」

「かおり、かおり。あっち見て。ほら、葉山くん」

「え、葉山くんもいるの……って比企谷じゃん!」

「……折本、か」

 

 名前なんてとっくに忘れたと思っていたのに、すっと口から出て来てしまった。

 中学の頃とは違う、見慣れない制服に身を包んで。

 手に持っている鞄はなぜか都内の有名私立校のもので。

 パーマの当てかたにも少し垢抜けた感じを覚えるけれども。

 釣り目がちの顔が驚きの色に染まっている様は()()()と同じ。

 

「うわ、え、もしかして比企谷が立候補したの?」

「……いや、俺じゃない」

「あ、だよねー。じゃあ、あれだよね。せ、選挙参謀ってやつ……ぷ、ごめん。でも参謀……比企谷が……くくっ」

 

 八幡が強く唇を噛み、折本が爆笑へと転じかけたその瞬間。

 

「折本かおりさんと、お連れのお方のお名前は私には分からないのだけれど。まずはそちらのお席にお座り頂けないかしら?」

 

 体感温度が急激に下がっていくのを自覚した。

 慇懃無礼とはまさにこれだなと、ひとつ息を吐いてそう考えられるほどには八幡に余裕が生まれ。他方、折本は笑い声どころか一言たりとも口に出せそうにない。何か言葉を発したら、その瞬間に一刀両断されるイメージしか湧いてこない。

 

「ふむ。選挙参謀という言葉を最初に使ったのは私なのだがね。箸が転んでもおかしい年頃の君たちに聞かせるには不適切だったみたいだな。まあ、まずは席に座りたまえ。それと雪ノ下とは知り合いかね?」

 

 反応できない二人を見かねて、平塚が助け船を出した。

 たどたどしい足取りで席に向かう二人の背中に続けて問い掛けると、慌ててぷるぷると首を横に振られたので。もう一度「座って楽にしなさい」と声をかけてから視線を奥に移す。

 

「比企谷くんの呟きと、お連れさんの呼び掛けから推測しただけです。まずはお互いに自己紹介をする必要がありますね」

「そっか。ゆきのんにも聞こえてたんだね」

「せんぱいが名前を覚えてるなんて、珍しいですよね~」

 

 一色・雪ノ下・由比ヶ浜・海老名が反時計回りに椅子に座って。窓際には葉山と八幡が、ドアの近くでは平塚が立ったまま。依頼人席には折本と仲町が腰を下ろして。

 そんな配置で、重い雰囲気のまま両校の話し合いが始まった。

 

 

***

 

 

 ひととおりの自己紹介を終えて、それでも折本たちは本調子にはほど遠かったので。事前に話を聞いているのであろう教師にもっと詳しく説明してもらおうと考えて目線を送ると。

 

「会長の代理という用事に加えて、中学の同級生に会いに来たとは聞いていたがね。まさかそれが比企谷の事だったとは読めなかった。この平塚の目をもってしても!」

 

 火に油を注ぐようなことを言い始めたので、八幡は密かに頭を抱えた。

 古い漫画のネタに食い付いて欲しそうな顔をしているが、こうなったらスルー上等だろう。しょぼーんとしてても相手をしてあげないんだからね、などと考えていると。

 

「えっと……合同イベントの話よりも、先にこっちを片付けよっか。あのね、折本さんはヒッキーと会って、どうしたかったの?」

「あの……ヒッキーって比企谷のこと、だよね?」

「やばくないしウケないからねー」

 

 さすがに空気を読めと仲町から釘を刺されて、喉まで出かかった言葉を呑み込むのに四苦八苦している折本の姿が目に入った。

 変わってないなと八幡は思い、同時にそう思えた自分に少し胸をなで下ろす。

 

「ごほん。えーっと、うーんと……。比企谷と会ってどうするかって、正直あんまり考えてなかったんだよねー。会ったらその場のノリで適当にって感じでさー」

「でもでも、せんぱいに会いに来たからには、何か理由があったんじゃないんですか~?」

 

 腕を組んだり頭をしきりに捻ったりしながら、折本は軽い調子で由比ヶ浜の質問に答えた。

 あっけらかんとした回答に多くが呆気にとられている中で、一色が目をきょとんとさせながらも質問を重ねると。

 

「理由っていうか……これってきっかけ、かな。九月にね、ここの文化祭に来たんだけどさー」

「私たちのバンドを観たのがきっかけなのね?」

 

 折本の話がまどろこしいと考えたのか、ぴんと背筋を伸ばしたまま雪ノ下が口を挟んできた。

 びくっと身体を跳ねさせる折本を見て、良い反応だなと八幡は思った。

 

「あのさ、さっき私のフルネームを呼んだ時にも思ったんだけど。もしかして、エスパー?」

「それはないよー」

「はあ。自分の発言ぐらいは覚えておいて欲しいのだけれど。私と由比ヶ浜さんを見て、ギターとベースの子だと言ったでしょう?」

「あー、そっかー。自分で言っちゃってたかー」

 

 仲町と雪ノ下からダメ出しをされても平気で笑っていられる折本を見て、由比ヶ浜とは別方向のアホの子だよなと八幡は思った。

 そして、そんなお気楽な感想を抱いた自分を訝しむ。

 

 どうしてあんな奴に、という感情は八幡の中に根強く存在していたはずなのに。実際に再会してみると、あの時に自分が行動に出た理由を改めて理解できた気がしたし、折本を恨む気持ちも薄らいでいた。

 

 考えてみれば不思議なものだ。たった二年か三年ほど歳が違うだけなのに、過去の自分がまるで違う人間のように思えてしまう時がある。その一方で今のように、自分はやはり自分なのだと思える瞬間も珍しくない。

 

 きっと、自分では成長しているつもりでも人はそれほど変わらないし。同時に、変わらないと思っているのは自分だけで、周囲から見れば明らかに変わってしまった部分もあるのだろう。

 

 そんなことを考えていたからか、こんな話になっても平然と聞き流せた。

 

 

「面倒だからずばっと訊くね。バンドを観た中学の同級生が訪ねて来たってだけだと、動機としては弱いと思うんだよねー。だから折本さんに教えて欲しいんだけどさ。過去に二人の間で何があったの?」

 

 話がややこしくなるのでヒキタニくん呼びは封印して、海老名が敢えて直球を投げ込んだ。

 

 由比ヶ浜も一色も雪ノ下ですらも躊躇していた質問を口にできたのは、八幡の心境の変化に気付けたからだ。

 寄り添うように座っている三人とは違って、横目で八幡の様子を窺える位置だったこと。

 京都駅で昨日、深いやり取りを交わしたおかげで、八幡の雰囲気の違いを見抜けたこと。

 

 そうした偶然と必然とが重なり合って放たれた質問に、折本はこう答える。

 

「比企谷に告られて、断って、それぐらいかなー。でもさ、中学の時の比企谷ってつまんないやつだなーって思ってたんだけど、バンドやってる比企谷ってぜんぜん違って見えてさ。うん、だから、この二年の間に何があったのか興味が湧いたって感じかなー?」

 

 告白されたことも、それを断ったことも。なんでもない事だと言わんばかりの軽い口調で簡単に片付けると、折本はそのまま話を続けた。

 納得のいく回答にようやく辿り着けたので、うんうんと繰り返し首を上下に動かしながら目を輝かせている。

 

 

 そんな様子を見せつけられても、八幡の心は凪いでいた。心拍数も体温もいつも通りだし、背中の汗はいつの間にか乾いてしまって新たに出てくる気配もない。

 

 昔と同じ自分と変わってしまった自分。

 昔と同じ折本と変わってしまった折本。

 

 そんなふうに自他を客観視できるのはきっと、奉仕部で過ごした時間のおかげだろう。つまり、二人と接する時間を重ねたおかげで折本のことを清算できたのだなと八幡は思った。

 

 中学の時には、そんな芸当は不可能だっただろう。

 そもそも告白からして、自他の区別がついていない状態で突っ走っていただけなのだから。

 

 折本のことがまるで見えていなかったのかと言われると、それは違う。つい先程も確認したとおり、折本の長所にはかつての自分も気付いていた。

 人懐こくて世話好きで、阿呆のような底抜けの明るさで周りを元気にしてくれる。

 

 それを否定することは、別方向とはいえアホの子という点では共通する由比ヶ浜の良さをも否定するということだ。意外と世話好きな雪ノ下の長所も、あざとい擬態の下に人懐こい性格を隠し持っている一色のことも。

 そう考える八幡は、折本の長所ではなくかつての自分の未熟さをこそ否定する。

 

 こいつだけは俺のことを理解してくれる。

 こいつの考えを理解できるのは俺だけだ。

 

 そんなふうに考えた瞬間に相手の長所はたちまち雲散霧消して、後にはできの悪い人形が残るだけなのに。自分に都合の良いようにしか動いてくれない木偶(でく)の坊に成り果ててしまうのに。

 中学の時の俺は、それこそが得がたい特別なものなのだと思い込んでいた。

 そのことに、つい最近まで気付けなかった。

 

 自分とは生い立ちも考え方も性別も違う誰かと通じ合えるのは嬉しいことだ。

 でも同時に、違う他人だからこそ「やり方が嫌い」だと指摘して貰えるし、「人の気持ちを考えて」と言われると前を向いて立ち上がる勇気が湧いてくる。

 今の失敗を覆す未来があるのだと、そう考えることができるからだ。

 

 だから八幡は、折本の発言にこう応える。

 

 

「ぼっちで過ごしてたら、人の為に働かされて。んで、気が付いたらこうなってただけだ。だからまあ、偶然とか成り行きとか、そんな感じじゃね?」

「あー。比企谷って独りでいるの好きだったよねー」

 

 中学の頃を思い出してぷっと笑いを漏らしている折本と、そんな反応を見ても今となっては何らの痛痒も感じないなと苦笑している八幡の周囲に、瞬時にして冷たい空気が満ちた。

 

「クッキーの依頼の時に、比企谷くんはこう言っていたわね。『学級委員でちょっと親しげにされただけで、惚れて告白して振られて言い触らされてぼっちになる』と。それともあれは、ナル谷くんの話だったかしら?」

「ぶっ。ナル谷って、それあったー!」

 

 中学時代の話ゆえに仲町も今回ばかりは口を挟めず、寒々とした室内に独り折本の声が響き渡った。

 ひとしきり笑い転げた後で、ようやく場の雰囲気に気付いた折本が首を捻っていると。

 

「あたしも思い出した事があるんだけどさ。ヒッキーに初めてメッセージを送ってもらった時にね。夜の七時にメールを送っても翌朝まで返事がなかったり、『ウケる!』って一言だけだったりって言ってたけど、あれ折本さんだよね?」

「いやー、だって全然話したことなかったからさー。超ビビって……あれ?」

 

 折本の言い分も分からなくはない。

 けれども八幡とともに濃密な時間を過ごしてきた一同からすれば、そんな扱いは承伏しかねるのが正直なところだ。

 

 たしかに八幡には、女子に警戒感を抱かせるような不器用な側面がある。

 だけど同時に、他人を思い遣れる優しさも持ち合わせている。

 

 いくら八幡がへらず口を叩いて否定しようとしても。

 カースト底辺のぼっちという環境にあってなお性根までは腐らず、他者を攻撃する以上に自省と諦観を強くして、ひとたび仕事を任されると手段を選ばずやり遂げようとするほどの責任感を備えていると、この場にいる全員が理解している。

 

 そのことを誰がどのように説明すべきかとお互いに様子を窺っていると、口を開いたのは意外な人物だった。

 

「そういうの、あまり好きじゃないな……」

 

 そこでいったん言葉を切って折本に向かって優しく微笑んだ葉山は、まるで分別のある大人が何も知らない子供を慰め諭すような口調で話を続ける。

 敵意を剥き出しにするよりも、この話し方のほうが効果があるはずだと考えながら。

 

「比企谷の表面だけを見て、勝手に警戒したり笑い物にしていただけじゃないかな。君が告白を断ったのは仕方がないと思うけどね。それを言い触らしたり、それが原因で比企谷が孤立しても笑っていられるのは、俺には理解できないな。メールにしても、もう少し違うやり方があったんじゃない?」

 

 平塚が「ほう」と言いながら顎に手を当てて、女子生徒たちは言いたかったことを先に言われて四者四様に残念がっていて、仲町は不安げに身を震わせながら折本と葉山の顔をかわるがわる眺めていて。

 

 そんな状況なので仕方なく葉山に身体を向けて口を開こうとした八幡の耳に、折本の要領を得ない言葉が聞こえてきた。

 

「えっ、だって言い触らしたのは比企谷だって……そ、それに比企谷は孤独が好きなポーズをしてるだけだって……たしか、メールの返事なんてしたら付け上がるだけだって……なんで、聞いてた話と違うじゃん。なんで?」

「か、かおり?」

 

 綺麗に整えられたショートボブを右手で搔き毟っているので、仲町が抱き付くようにして止めさせると。はっと何かを思いついた折本が、やおら立ち上がった。

 

「ごめんっ。ちょっと調べたいことができたから帰るね。今日の夜にでも比企谷に……連絡するのって、良くないよね。じゃあ誰か……」

「いや、俺で良い。だいたいの予想は付くけどな、あんま気にすんな。つか合同イベントの打ち合わせはどうするんだ?」

 

 仲町を巻きつけたまま話を進める折本に、八幡がそう問い掛けると。

 立ったまま「あっ」と言って固まっているので、ぶらんぶらんと揺れているものが代わりに口を開いた。

 

「今日は挨拶だけの予定だったし、また試験明けにって事でどうかなー?」

「あ、うん。千佳の言うとおりにしてもらっていいかな?」

 

 膝をゆっくりと曲げて仲町の足を床に着けながら、折本が一同に向けて問い掛けると。

 会長候補の三人が揃って首を縦に動かしたので、ようやく折本の顔に微かな笑いが戻った。

 

「じゃあ、えっと。嫌な事を言わせちゃったり、気分悪くさせちゃってごめんね。比企谷のこと、よろしくお願いしまーす!」

 

 最後に、息子の友人に向かって母親が言うような類いの軽口を残して、折本と仲町は教室を出て行った。

 

 

*****

 

 

 ばたんと扉が閉まると同時に、複数の口から軽いため息が漏れた。続いて視線が八幡に集中したので、目を泳がせながら口を開く。

 

「なんか、あれだな。選挙の話を忘れそうになるよな」

 

 その発言に応えてくれる者はなく、しかし八幡の頭の中では「貴方の・ヒッキーの・せんぱいの・ヒキタニくんの・比企谷の過去の行いが原因だ」という声が六重奏で響いていた。

 葉山の声がいちばんむかつくな、などと考えていると。

 

「はあ。いいわ、選挙の話に戻りましょうか。葉山くんと比企谷くんも座ってくれていいわよ。平塚先生は……?」

「私は職員室に戻るとしよう。立会が必要な話になるとは思えないのだが、どうかね?」

「ええ、大丈夫です。わざわざありがとうございました」

 

 雪ノ下がいつものように進行役を引き受けてくれて、平塚が部室から出て行った。

 

 椅子に座って良いとは言われたものの、立ったままのほうが罰を受けている感じがして落ち着くので、八幡は軽く首を振って雪ノ下の勧めを固辞した。

 猫背気味にぬぼーっと突っ立っていると、やはり座るのを遠慮した葉山が嬉しそうな顔を向けてくる。

 

「……なんだよ?」

「いや、別に?」

 

 唇の動きだけでそんなやり取りを交わして、二人はぷいっと視線を逸らして前を向いた。おかげで腐女子には悟られずに済んでいる。

 

 

「早くクラスに戻りたいと考えているかもしれないのだけれど。ひとつ大事なことを言い忘れていたのでちょうど良かったわ」

「え~と、それって、選挙に関係することですよね?」

「ゆきのんはたぶん、活動の時間を制限したいんだよね?」

 

 雪ノ下が口火を切ると、話の先が読めないので一色は小首を傾げている。

 一方の由比ヶ浜は事前にその可能性を伝えられていたのか、すらすらと推測を口にした。

 そういうことかと頷いている八幡の反応を知ってか知らずか、雪ノ下が言葉を続ける。

 

「ええ。大雑把に言えば、選挙活動は校内にいる時だけに限定したいのよ。土日はゆっくり過ごしたいし、もうすぐ期末試験でしょう?」

「それってさ。朝は部活の朝練の時間から、夜は最終下校時刻までって感じだよねー。じゃあ昨夜の動きは例外ってこと?」

 

 正論で話を進めようとする雪ノ下に、海老名が待ったをかける。

 

 見事にしてやられたという悔しさもあるにはあるが、初動の遅れを少しでも挽回できるように隙を窺っているというのが実情に近い。本音では由比ヶ浜も海老名も、選挙運動で土日が潰れてしまうのは避けたいところだ。

 とはいえ、いちばん劣勢な陣営は反対だろうなと考えていると。

 

「まあ、俺が言うのも間抜けっぽいけどな。昨夜のことは気付かない方が悪いとしか言いようがないし、もう終わった話だろ。土日に物量作戦を始められたら人手不足の俺らには太刀打ちできないから、基本的には賛成だな。一色もそれでいいか?」

「形だけの確認とか、別にいいですよ~」

 

 面倒くさそうに右手をぺいぺいと動かしながら。その実あっさりと全権を委任してくれる一色に苦笑いを返して、八幡は話を続ける。

 

「あんま厳密に制限しても実現性に疑問が残るし、とりあえず主要な連中だけは大々的に動くのは禁止って感じでどうだ?」

「それってさ。土日にどっかの運動部の部長が部員を勧誘するとかは、防げないってことだよねー?」

「貴女たちの支援者が勝手に勧誘するぶんには、問題は無いという話にもなるわね」

 

 お互いの利点を口に出しつつ、海老名と雪ノ下は頭の中でデメリットを検討する。

 

 支持者の動きをへたに制限すると、盛り上がりに水を差す形になってしまう。それに各陣営の支持層がおおまかに色分け済みの現状では、自分たちが大々的に動いたところで効果は薄い。投票日まで近いようでいて微妙に遠いのも、動きにくさに拍車をかける。

 

 だとすると、残る問題はひとつだけだと考えて海老名が口を開いた。

 

 

「じゃあさ。活動時間はさっき私が言った通りで、制限の強さはヒキタニくんの提案に従うとしてさ。禁を破った場合はどうするの?」

 

 海老名としては当然の疑問だと、そう頷いたのはにこやかに笑みを深めた葉山だけで。その他の面々はなんだか困ったような表情を浮かべている。

 

「そのな。俺の考えが甘いだけかもしれないけどな。この場ではっきり禁止だって約束したことを違えるようなやつは、ここには居ないんじゃねーかな」

 

 少し照れくさそうに頭をがしがしと掻きながら八幡が言葉を発すると、それを是とする表明が続いた。

 

「うん。あたしもしないし、姫菜も優美子もしないと思う」

「私も葉山くんも、そんな勝ち方は望んでいないわ」

「わたしは別に、せんぱいが勝手に破るぶんにはいいと思うんですけどね~」

 

「なあ。それって俺を使い捨てにしようとしてねーか?」

「いろはが言いたいのは逆だろ。前に俺も『あと一点とか考えなくていいですよ~』って試合中に脅されたことがあってさ」

「葉山先輩。なにが言いたいんですか?」

 

 そんなふうに内輪の空気を出されては、海老名もお手上げだ。

 自分も同じ輪の中に入れて貰えている現状に、慣れないなと思いながら。同じような事を考えそうな男子生徒に視線を向けると、ふっと目が合った。

 

「わざわざ禁止だって確認しなくてもな。実際の選挙だと、例えばネガキャンとか凄いけど、そんなのを企てるやつは居ないだろ。勝つために他の陣営が思いつかない手を繰り出すのと一線を越えるのとは、全く別の話だからな。だからまあ、そっちが出し抜いても別に謝らなくて良いし、口約束でも大事な約束なら全員が守るはずだ。ま、その辺は由比ヶ浜に任せるのがいちばん楽だと思うぞ?」

 

 自分と考え方が似ている相手に諭されると、反骨心が湧いて来るのはなぜだろうか。

 でもおかげで、先程の悩みは大きくなる前に解消できた。

 

 この集団の中に自分が居ると考えると、なんだか荷が重く思えるけれど。由比ヶ浜と一緒の集団に居ると考えると心が軽くなる。きっと八幡はそれを教えてくれたのだろう。

 そこまで言われたら笑うしかないなと考えて、海老名が珍しく頬をほころばせていると。

 

「最終下校時刻まではまだ間があるので、そろそろ解散にしましょうか。由比ヶ浜さんと一色さんの健闘を楽しみにしているわね」

「うん。ゆきのんが凄いのはとっくに知ってるからさ。立候補したからには最後まで諦めないからね!」

「お二人と競えてるだけでも楽しいんですけどね~。でも負けたら悔しいので、わたしも頑張りますよ〜!」

 

 三候補が健闘を誓い合って、一同は揃って部室を出るとおのおのの支援者が待つ教室に戻った。

 

 

***

 

 

 一年C組のドアを開けると、中にいた全員が厳しい顔つきでいっせいに振り向いて、即座に肩の力を抜いて笑顔で迎えてくれた。

 話し合いが白熱していたみたいだなと考えながら、八幡は逸る足取りで元の席に戻る。

 

 八幡の席のすぐ左手には大和がいて、その奥には相模南と取り巻きの四人が順に座っている。クラスを後にした時には相模の後ろに四人が控える形だったのに、今や同一円上に椅子が並んでいる。一色の椅子を挟んで同級生の四人が弧を描いて、八幡のすぐ横まで続いていた。

 

「……まあ、会長になってからの話ですし今は関係ないですね~」

 

 呼び出しの理由を一色が説明し終えて、続けて八幡が先程の約束を伝えると、なにやら相模がそわそわしている。

 

「トイレに行きたいなら我慢しなくて良いぞ?」

「なん、ってこと言うのよ、もう。そうじゃなくて、うちが考えてたのは時間が無いなってこと!」

 

 選挙活動は最終下校時刻までだと聞いて焦っているのだろう。そう考えた八幡は、相模の行動を推測して口を開く。

 

「んじゃ、話し合いの内容は他のやつに聞くから、相模はすぐに動いてくれ。たぶんあの二人は雪ノ下の陣営にいると思う。ついでにその線で……」

「ヒキタニくんの数少ない友達だもんね。文化祭の時にうちのことを一緒に探してくれたみたいだし、任せといて!」

 

 そう言って走り出そうとする相模に、八幡は思わず待ったをかけた。

 

「あ、ちょい待て。なんかお前、性格変わってねーか?」

「へっ?」

「いや、あのな。あんま言いたくねーけど昔のお前って、最小限の労力で最大限の結果をって考え方だったと思うんだが」

 

「あー、まあそれは否定しないけどさ。でも体育祭の運営委員会に参加したじゃん。あの時に、ちゃんと仕事を見てくれるのって嬉しいなってうちら思ったんだよね。だから今はその、結果だけじゃなくて内容重視ってやつ?」

 

 意外な返事を聞いて、ようやく腑に落ちた。つまりは雪ノ下の姿勢がついに実を結んだという事だろう。

 まさかこいつを、こんなにも頼もしいと思える日が来るなんて。

 そう考えた八幡は、ふっと鼻から息を漏らして口を開く。

 

「なるほどな。じゃあ、三人まとめて連れてくるのを楽しみにしてるな」

「あっ、えっと、うちもそのつもりだけどさ。無理だったら、その、ごめんね……」

 

 こういうところは変わっていないなと思いながら、俯きがちの相模に向けて苦笑まじりに返事を伝える。

 

「あのな。さっき自分で内容重視とか言ってただろ。結果が出る出ないは雪ノ下や由比ヶ浜の統制次第って部分もあるし、今日はもう遅いしな。だから出来る範囲で頼むわ」

「……うん。行ってくる!」

 

 頭を上げた相模が勢いよく教室を去って、後には男子二人と女子九人が残った。

 扉が閉まると同時に、今度は大和が口を開く。

 

 

「一色さんの推薦人とファン連中の扱いだけどさ。情報収集に特化させたらどうかって話になってる」

「えっ。でもその情報って、信じていいのかな~って?」

 

 一色の反応も目の付け所も悪くはないなと考えながら、八幡は大和の真意を探る。そしてぽつっと口にしたのは。

 

「……情報の紐付けか?」

「ああ。誰がどの情報を仕入れて来たのかを明確にするのはどうかなって」

 

 そう答えながら、大和は一学期のことを思い出していた。

 

 職場見学で葉山と同じ班になるために、大和は大岡と共謀してライバル二人を出し抜こうと考えた。同じサッカー部の戸部翔と、二年F組で孤立しないように葉山が何かと気にかけていた八幡と。その二人が辞退してくれる事を願いながら、クラス内に悪い噂を流した。

 

 自分たちの悪評も流したのは、もちろんカモフラージュのつもりだった。けれど噂は二人の予想を超えた広がりを見せる。そうなって初めて、自らの愚かさをようやく自覚した。

 

 自分たちの手に負えない規模まで広がった噂を見事に消火してくれた面々には、今も昔も感謝しかない。雪ノ下のことは正直怖いと思うけれど、感謝の気持ちに偽りはない。

 

 事件が一気に解決したので、二人が名乗り出る意味は無くなった。そんなことをしても無用な混乱しか生み出さない。そう悟った二人は、誰にも言えない罪を抱え続けることがどれほどつらいものなのか身を以て理解した。

 

 だから、少しでも罪の意識を軽くしたいという気持ちはもちろんあった。けれど馬鹿げた事件に巻き込んでしまった戸部と八幡に必ず償おうと考えたのは、単純にそうしたいと思えたことが大きい。

 

 その感情は戸部や八幡と接する時間が増えるほどに勢いを増し、一方で後ろ向きの負の感情は時が経つほどに小さくなっていった。そうした心境の変化を自覚しつつ、大和は大岡と二人で定期的に贖罪を誓い合った。その想いは今も衰えることなく続いている。

 

 

 全ては自分たちが招いたことなのだから、自業自得という結論で何もかもを片付けるべきなのだろう。けれども大和はひとつだけ納得できないことがあった。噂が広がった時に、同級生に「有り得る」という目で見られたことだ。

 

 大和が「三股をかけている屑野郎」だなんて、そんな大それたことは俺には絶対に無理だ。自分の優柔不断な性格は自分がいちばん知っている。なのに同級生は、表立っては何も言わないくせに、裏では悪いふうに受け取るのだ。あるいは、おもしろおかしく受け止める。

 

 あの時に大和が連想したのは中学の頃の記憶だった。クラスをまとめる役割を人に押し付けて、表立っては何らの責任も負わないくせに。裏では裁定が悪いだの何を考えているのか分かりにくいだのと悪口を並べ立てるクラスメイトに、大和は何度もうんざりさせられた。

 

 高校に進学してからはそんな役割を引き受ける必要も無くなって、部活でもクラスでも気楽に過ごせていると思っていたのに。古傷というものはいつまで経っても消えてくれないのだと、まざまざと理解させられた。

 

 とはいえ、怪我の功名と言うべきだろうか。そんな過去を持つ大和だからこそ情報の扱いには敏感になったし、情報そのものへの興味も湧いた。

 

 それが真実か否かよりも、多くの人が信じやすいか否かで情報の伝播速度が違って来る。同時に、その情報が匿名か否かでも拡散のスピードは違って来る。無責任な噂は広がるのもあっという間だが、きちんとした裏付けのある情報は存在自体が稀だ。

 

 つまり、情報に紐が付くほどに、その動きは鈍くなり価値は跳ね上がる。

 

 過去の過ちは決して無かったことにはできない。けれどもその苦い経験を活かして、人の役に立つことはできる。ましてやそれが必ず償うと誓った相手ならば、大和にとっては望むところだ。

 

 

 決して打ち明けまいと決めた想いを強く心に抱きながら、大和が八幡の反応を窺っていると。

 

「なるほどな。情報の操作とかは考えてるのか?」

「偽情報とかを入れてもさ、手間の割には効果が薄いと思うのな。だから段階的な開示にして、基本の情報は誰でも確認できるけど、仕入れたやつの情報は俺らだけが……みたいな形でさ」

 

 今の八幡の問いには答えることができたものの、実はこの辺りが大和の限界だった。基本方針は提案できても、それをどうやって実行すれば良いのか分からないのだ。

 

 そんな大和の心の中を読んだわけでもあるまいに。八幡がにやりと笑いながらこう続ける。

 

「あのな、今さっき相模に動いてもらっただろ。あいつが連れてくる連中がちょうどその手の事に詳しいんでな。面白いことになると思うぞ。特にファン連中には情報の量とか正確さに応じて表彰とかしてやれば、すごい勢いで動いてくれるんじゃねーかな。推薦人連中も嫌でも動くしかないし、こんなのよく思いついたよな」

 

 さっき相模が言っていたのはこの事かと、大和もようやく理解できた。

 ちゃんと仕事を見てくれる誰かがいるだけで、こんなにも充実した気分に至れるのだから。

 

 中学の頃から心の奥ではずっと求め続けてきたものがようやく眼前に現れた気がして、そこで大和はひとつ疑問を思い出した。

 

「あのさ、実はヒキタニくんに訊きたいことがあるんだけどな。ぼっちで居た時に、陰でこそこそと悪いことを言う奴らがいただろ。そういうのって気にならないのか?」

 

 突然の問い掛けに首を傾げてみたものの、特に難しい話でもないので八幡はすぐに口を開く。

 

「そういうのを気にしてたらキリが無いだろ。それよりも俺は、ぼっちの時にも妹がいたし今も数は少ないけど見放されたら嫌だなって思う連中がいて、そいつらに悪く言われるほうが遙かに嫌だな」

 

 きっとあの噂が流れた時もどうでも良いと思っていたのだろう。八幡が見放されたくないと思うあの二人が、「弱みを握られている」なんて噂を真に受けるわけがないのだから。

 

「まあ、そうだな。でもさ、一色さんの推薦人連中って、陰ではこそこそ言ってるんだろ?」

「ああ、そういう話な。でも一色なんて俺以上に達観してるからなー」

 

 大岡を葉山のところに行かせたのは、行動力があるほうが雪ノ下・葉山との相性が良いと考えたのも確かだし本人の希望もあったからだが、大和が八幡と一色の手助けをしたかったという理由もあった。

 

 誰であれ、たとえそれが雪ノ下でも由比ヶ浜でも葉山でも海老名でも三浦優美子でも、誰かに陰口を叩かれることは避けられない。

 けれども冷静に比較すると、八幡や一色のほうが圧倒的に数が多い。八幡は意味なく見下される事が多く、一色はそもそも敵が多かった。

 それでも、二人は平然と過ごしている。

 

 なにか秘訣があるのなら、それを知りたいものだと大和は考えていた。

 そして今、得られた答えはとても単純なものだ。

 

 一学期の行いがもしも戸部や葉山にばれたら、二人に見放されてしまうかもしれない。

 でも、罪人(つみびと)がこんなふうに考えるのはまちがっているかもしれないけれど。見放されるのは嫌だと、そんな強い気持ちを抱けるようになったのは、実はあの失敗のおかげでもある。それをどう考えたら良いのだろうか。

 

 きっとこれは、自分たちが長い時間をかけて考え続けるべき問題なのだろう。

 そう思えただけでも、この陣営に参加した甲斐があったなと大和は思った。

 

 

「せんぱい。わたしだって悪く言われたら、傷つくこともあるんですよ~?」

「はいはい。つーか俺だって傷つくのは傷つくぞ。ただ気にしても仕方がないって話だし、一色も同じだろ?」

 

「同じじゃないですよ~。まったく、鈍感なせんぱいとわたしを同列で語られたら困ります!」

「へいへい。じゃあ敏感な一色には、有権者の反応を読んで欲しいんだがな」

 

 あざとく絡んでくる一色を軽くあしらって、八幡は真面目な話に戻した。ここからが本題だと考えていると。

 

「いろはちゃんって、その、感じやすいってこと?」

「へえー。なんでそんなことを知られてるんだろねー?」

「でもさ、南の扱いも上手いもんだと思わなかった?」

「あっ、じゃあやっぱり相模先輩も?」

「南もまんざらでもない感じだしさー」

「とは言っても、南ってチョロいからなー」

「誘われたらほいほい行きそうで、南って見てて怖い時があるよね」

「その点いろはちゃんは安心してたのに、感じやすいのかぁー」

 

 ここぞとばかりに相模と一色の友人計八人にネタにされてしまい、気勢をそがれてしまった。普段ならさっさと抗議の声を上げそうな一色も、珍しく顔を赤くして固まっている。

 

 じとっとした目で一同を見渡すと八通りの可愛らしい反応が返ってきたので。徹底的に無視するのが得策だと判断した八幡は、わざとらしく大きなため息を吐いてから話を戻した。

 

 

「あのな。葉山と海老名さんの反応を見る限り、例の二位狙い作戦は雪ノ下にはバレバレで由比ヶ浜には気付かれてないと思う。ここまでは良いか?」

 

 投票で三位まで順位をつけるという話を出した時点で、おそらく雪ノ下には見破られていたのだろう。だから戸塚彩加にはお願いして川崎沙希には話さなかったのは正解だったなと八幡が再び考えていると、珍しく一色が真面目な声で尋ねてくる。

 

「雪ノ下先輩にバレた理由と、結衣先輩には気付かれていない理由って何ですか?」

「雪ノ下はまあ、俺の思考を読んだんだろな。んで由比ヶ浜ってか海老名さんは、二位狙いのデメリットが大きいと見て却下したんだと思う」

 

 一同の頭の上に大きなはてなマークが浮かんでいるのが見えた気がして、八幡は目をぱちぱちとさせながら言葉を続ける。

 

「あのな、頭の良い奴が陥りやすいんだがな。どう考えても割に合わないからそんな行動には出ないだろう、みたいな感じで勝手に却下してくれるのな。さっきの俺の屁理屈を覚えてるか?」

 

 全員の反応を確認してから解説を続ける。

 二位狙い作戦の欠点は、一位を一位として認めてしまう点にある。つまり自ら序列を確定させてしまうという危険性が常に付きまとっている。

 

「相手が雪ノ下ならまだ良いのな。けど由比ヶ浜とは直接二位の座を争っている状況だろ。由比ヶ浜のほうが上だと自分から認めるのは、かなりリスキーなんだわ。海老名さんの立場からすれば、あの言い訳を俺らに言わせた時点で優位に立てるわけだ。だから、まさかそんな作戦には出ないだろうってな」

 

 しきりに頷きながらもどこか納得のいかない顔をしている面々に向けて、八幡の解説が続く。

 

「でもな、大っぴらに認めさえしなければ、別に由比ヶ浜が上でも良いんだよな。なんでかって言うと、選挙の前日まではそんな順位なんて全く無意味だし、俺らが三番手なのは周知の事実だろ。だから俺らが本当に目指すのは……」

「知名度を上げること、ですよね〜」

 

 結論の言葉をすいっと奪って、一色がにんまりと不敵な笑顔を浮かべている。

 さすがに憮然とした表情で、どうやり返してやろうかと八幡が考えていると。

 

「なるほどな。戸塚に頼んだのは、一色さんの名前を広めるのが目的ってことか」

「まあ本音を言えば、当日までに二位の座を確保したいのは確かだけどな。一色の名前が雪ノ下や由比ヶ浜と同じぐらいの頻度で語られる辺りが最低ラインかね。それ以下だと、演説だけで逆転するのはたぶん無理だろな」

 

 大和の落ち着いた物言いで冷静になれたので、一色との場外バトルは回避して真面目な話を続けた。女子八人からつまらなそうな反応が出ているのはたぶん気のせいだろう。

 そう思いたかった八幡だが、真面目な声を耳にしたので淡い期待は消えた。

 

「じゃあ、さっきせんぱいが『有権者の反応を読む』って言ってたのはどういう意味ですか?」

 

 女子八人からネタにされない為には一色と真剣なやり取りを続けるのが無難だが、あまりにも共謀が重なると逆に材料を与えてしまう。相手をし過ぎても、しなさ過ぎてもダメというのは難易度が高いよなと考えながら、わずかに間を置いて問いに答える。

 

「はい、ここで問題です。雪ノ下には国際教養科とか文実の生徒が肩入れしてて、由比ヶ浜には三浦や海老名さんの信奉者も含めて支援者が大勢いるよな。じゃあ、有権者の最大派閥ってどの集団だと思う?」

 

「えっと……J組が一年から三年まで集まったっていっても、割合的には最大でも一割なんですよね?」

「由比ヶ浜さんたち三人の支援者も、けっこう重なってるの多いよね」

「あ、じゃあせんぱいが狙ってるのって……」

 

 一年と二年の女子に続けて、答えが分かった一色が先程の謝罪とばかりに八幡に発言権を回してくれたので。

 

「まあ、あれだ。いわゆる無党派層だな。その反応を読めるのは、一色しかいないと俺は思ってる」

 

 友人ひとりひとりを大切にする由比ヶ浜とは違って、ファンを時にぞんざいに扱える一色だからこそできる事もある。

 そんな八幡の解説を聞いて、そのぞんざいな扱いはどうなんですかね〜と考えつつも一色の表情は明るい。

 

「なんだか、変な感じですよね〜。圧倒的に劣勢なのは変わってないのに、せんぱいが変な事を言い出すと希望があるように思えて来ちゃいますし。ちょっと詐欺師とか目指してみます?」

「いや、何言ってんのお前。画廊に騙された親父の血を引いている俺に詐欺師とか、どう考えても無理だろが」

 

 二人の独特のやり取りも飛び出したので、女子八人にも笑いがこぼれて。

 そんなふうにして一色陣営は、良い雰囲気の中で選挙戦の一日目を終えた。

 

 

***

 

 

 その日の夜、八幡のもとに二人の女子生徒からメッセージが届いて。

 

 迎えた土曜日の正午。

 八幡はなぜか葉山と並んで、駅前で女の子を待っていた。




更新が遅くなってごめんなさい。
十連休はとても楽しみなのですが、それに先立つこの十日ばかりは二度と体験したくない気がします。。

次回は連休明けの十日頃とさせて下さい。
元号が令和になっても、本作を宜しくお願いします。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(5/18)


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08.すんだ話は気に留めず彼は特別と自由を求める。

前回のあらすじ。

 総武との合同イベント計画を聞いた折本は、会長の制止も聞かずに高校を飛び出した。仲町を巻き込んで会長代理を名乗り、まずは平塚に事情を説明してから、会長候補と選挙参謀の計六人と顔を合わせた。

 一瞥しただけで、折本の名前がするっと口から出てきた。
 強く唇を噛んで発言を悔いている八幡の耳に、雪ノ下の声が届く。他の面々も会話を重ねてくれて、おかげで今の折本を確認できた八幡は、過去を清算できている自分に気がついた。竹林での出来事が決定打だったなと認識する。

 中学時代の八幡について葉山から指摘を受けた折本は、何かを思いついて席を立つと、夜に連絡すると言い残して去って行った。
 後に残された一同は、土日や早朝・夜間の選挙活動を控えるとの合意を得て解散となった。

 一年のクラスに戻った八幡は、昔馴染みとその相棒ほか一名の説得に動く相模を見送り、一色の推薦人とファンを情報収集に特化させるという大和の案に賛意を示す。
 職場見学の班分け時の一件を今なお忘れず、それどころか昔の古傷と結びつけて内心ひそかに苦悩していた大和は、八幡にとっては何でもない回答によって光明を見出していた。

 一色の知名度を雪ノ下・由比ヶ浜に匹敵する域まで高めることと、無党派層を狙うという基本方針を確認して、八幡たちは良い雰囲気で選挙戦の初日を終えた。



 土曜日の正午に駅前くんだりまで出てくるなんて面倒なことは避けたかったのに。

 人混みこそ予想ほど酷くはないものの、それよりも同行者が鬱陶しいなと。

 そんなふうに内心でぼやきを続けながら、比企谷八幡は葉山隼人と並んで立っていた。

 

「まさか比企谷が一番乗りとはね。やる気のなさそうな歩き方でギリギリの時間に来ると思ってたよ」

「お前が俺をどんな目で見てるのかが良く分かるな」

 

 軽い皮肉で返してみても少し首をすくめただけ。まるで反撃になっていない上に、そんな些細な仕草ですら様になるのだから嫌味にもほどがある。

 けっと思いながら三階の改札口から降りてくるエスカレーターに顔を向けてみたものの、待ち人が現れる気配はない。

 

 できれば付近をぶらつくなどして独りで時間を潰したいところだが、言い訳を思いつかないことに加えて嬉々として付いて来そうな予感がする。

 昨日の放課後に部室で見た笑顔がふと頭に浮かんだので、うげっと思った八幡が視線を上に向けて「千葉駅」と書かれた文字をぼけっと眺めていると。

 

「でも、そうだな。最後の一人は目立つから、ギリギリの時間は無いか。あと、一番乗りは『張り切ってると思われそうだから』とか考えて避けるんじゃないかと思ってたんだけどね」

 

「呼び出しの理由が理由だからな。俺が張り切ってるとは誰も考えないだろうし、じゃあ気を使う必要もないだろ?」

「比企谷が先に来れば、相手を不安な気持ちのまま待たせる……なんて展開も防げるからね」

 

 推測がいちいち的確なのが厄介だ。

 早くに来た理由の最たるものは、成り行き以外の何物でもないのだが。葉山が口にしたような理由が頭の片隅にあったのも確かなので返事に困る。

 

 ふんと鼻を鳴らしてから首を右に動かして、地下へと降りる階段を見るとはなしに見ていると、嫌な性格をしてやがるなという苛立ちの感情がふつふつと湧き上がってきたので。それなら真っ当なことを言ってやるかと考えて、八幡は顔を左に向けた。

 

「そういえば、昨日はフォローみたいな事をさせちまって悪かったな」

「へえ……比企谷に素直にお礼を言われると、捻くれた返事をしたくなる気持ちが分かるね」

 

「言っとけ。とりあえず一言は伝えたし、これで貸し借りなしだからな」

「俺は貸しだなんて思ってないよ。前に引き受けた仕事の続きみたいなものだろ?」

 

 にこやかに笑みを絶やさず確認を求めてくる葉山に、少しだけ首を捻って。すぐに意図が理解できたので、唇を尖らせた八幡は不承不承ながらも返事を口にする。

 

「文化祭に中学の連中が来た時のあれか。お前と違って俺には触れられたくない過去が多いからな。ちょいと手加減して欲しいんだが」

「当事者じゃないと解らない部分があるかもしれないけどさ。俺なら、あの程度だったら大した事はないって思うけどな。何より、終わりがスッキリしてただろ?」

 

 反射的に裏の意図を探ってしまう。

 なぜなら、リア充はリア充で面倒な事が多いと八幡は既に知っているからだ。むしろ過去の醜態が暴露された時のダメージを思えば、ぼっちとは比べ物にならないくらい大変かもしれない。

 

 現に文化祭の準備期間には、あの厄介な姉貴分の爆弾発言があった。

 同じ小学校なのを内緒にしていたのは何故なのか?

 全校生徒が頭に浮かべたこの疑問に対して、もしも葉山が対処を間違えていたら、イメージに傷が付いた可能性もある。

 

 葉山がそんなヘマをするとは思えないし、それを前提に話に出したと()()()も言っていたけれど。たとえ終わりが良くても途中でミスがあれば厄介な事になると、こいつが認識していないわけがない。

 そう考える八幡は、用心深く問いを返した。

 

「いくら一件落着でもな。中学の時に俺が見下されてた事実とか、文化祭の途中で俺が逃げたって事実は変わらんだろ?」

 

「あの程度の連中に見下されたところで、君なら痛くも痒くもないだろ。文化祭の一件も、猪突猛進よりは遙かに良いって俺は思うけどな。百歩譲ってあれが逃げだとしても、比企谷の真意は伝わってただろ?」

 

 

 たとえ相手がどうしようもない小者でも、見下されたり雑な扱いを受けると気が滅入るものだ。

 だからこそ、こんな程度の事は何でもないと繰り返し自分に言い聞かせて来たのだが。それに同意して貰えた気がして、思わずほっとしてしまった。

 一瞬遅れて、葉山の言葉で気を軽くした自分に怒りと失望を覚える。

 

 それに、真意が伝わった対象には言及しないのがこいつの嫌らしいところだ。

 あの二人は言うまでもないとして、葉山自身も含めたクラスのトップカースト連中にも伝わっているという前提で確認を求めてくるのだから。

 

 大っぴらに認めたくはないけれど、二年F組が誇るトップカースト連中となぜか気心が知れた仲になっている件については、八幡も認知せざるを得ない。

 葉山に対してだけは、あちらの態度にも要因があり八幡の内面にも原因があるので相容れない部分を残しているけれど。その他の面々に対しては、個人として向き合う限りは、悪くない関係を築けていると言えそうだ。

 

 けれどもそれが集団になると話は変わる。リア充の一団の中に自分が居ると思うだけで、八幡は反射的に身を引きたくなってしまう。

 ぼっちの宿痾なのかもしれないし、単に性格的なものかもしれないけれど。自分はこいつらとは違うのだと、上からではなく下からの目線でそう考えてしまう。

 

 引け目を感じているのかと問われると、答えは難しい。リア充という言葉や概念を前にして怯んでしまう傾向が、自分の中には今も確かにあるからだ。

 だがそれ以上に、根本的な部分できっと話が通じないという確たる予感がして、ならばそれを目の当たりにする前に集団を去りたいと八幡は思ってしまうのだ。

 

 話が通じないという想いに誰よりも共感してくれるのは、おそらくあの腐女子だろう。

 けれどもあの人は、BL好きのトップカーストという地位を確立できるほどのバランス感覚や器用さを持ち合わせているので、少なくとも外見上は上手くやり過ごせるはずだ。

 

 そして居心地の悪さが態度に出るという点では、おそらく部長様がいちばん近い。

 自分の中で納得できない事があれば、そして我慢するにふさわしい理由が見付からなければ、あいつはそれを隠そうとはしないだろう。だが逆に言えば、責任感と自制心に優れる今の彼女なら、理由もなく場を乱すこともしないはず。

 そこが、わけもなく逃げ出したくなる俺との違いだなと八幡は思う。

 

 一口にリア充と言っても実は色んな奴がいる。F組の連中は話をしていても不快に思うことがほとんど無いし、気安く接してくれるので俺も気が楽だ。

 だが結局のところ自分は異物に過ぎないし、むしろ異物だからこそ重宝されているのではないかという疑いを八幡は捨て切れなかった。

 

 なぜなら、逆に考えてみると良い。

 名実ともにリア充の仲間入りを果たした自分、つまりぼっちではなくなった自分に、果たして価値はあるのだろうか。個性や独自性が残っているだろうか。カースト底辺に甘んじる事でやっと得られた自由でぼっちな境遇を、すっかり捨て去ってしまった自分に。

 

 きっと去年までの俺だったら、唾棄すべき裏切り者だと見なしただろう。深みも面白みもない浅薄な奴だと切り捨てた事だろう。なのに今の俺は、逃げ出したいと思う一方で失いたくないとも思ってしまう。とんだ優柔不断があったものだ。

 

 より正確に自分の感情を分析すると、群れから抜けるのはさほど問題ではない。けれども、修学旅行前に受けた依頼を通して思い知らされた事がある。

 集団から距離を置くと、個人的な付き合いまで失せてしまう可能性がある。それを思い浮かべた瞬間に、今の俺は強く二の足を踏んでしまう。ましてやそれが、あいつらとの関係にまで影響が及ぶようなら、もはや一歩たりとも足を動かせなくなってしまう。

 

 だが、そんな後ろ向きの考え方をしている俺を、あの二人がいつまでも気に掛けてくれるだろうか。

 それよりも、内輪に取り込まれるのを是とせず自由を求め続ける俺のほうが、まだしも希望が持てるのではないか。

 異物は異物だからこそ価値があるのだ。

 

 ならば俺は、リア充に対してどう振る舞うべきなのだろう。

 その答えは簡単には出せそうにないけれど、一つ気付いた事がある。それは、三人でも集団は集団だという事だ。

 

 俺がぼっちのままでも無理なく過ごせる最大の集団、つまり奉仕部の三人の関係だけは決して手放すわけにはいかない。

 そこにあのあざとい後輩などを加えて四人・五人と広げていけるのか。それとも、いずれは三人ですらも維持が難しくなるのかは予測が付かないけれど。

 

 当座の結論として、いちばん優先すべきなのはやはり今の奉仕部を維持する事だと八幡は思った。

 だからこそ選挙には勝たねばならないと、続けて決意を新たにする。

 

 

 モノレールの駅に向かうエレベーターを見つめたまま葉山の発言を無視していた形の八幡は、ようやくそれを思い出してぽつっと口を開いた。

 

「真意が伝わっても、それで万事解決ってわけにはいかねーだろ。もっと良い結末にできたはずだし、途中経過ももっとマシにできたしな。だからお前の慰めは受けねーよ」

「まあ……確かにね。こちらの意図を知られたところで、結果がダメなら逆効果だしさ。それでも、比企谷()よくやったほうだと俺は思うけどな」

 

 軽口の奥に、この話はこれで終わりだという意図を潜ませただけなのに。なぜか葉山は少しだけ言い淀んで、それでもすぐにいつも通りの口調に戻った。

 ちらりと横目で様子を窺ったものの、上りのエスカレーターに運ばれていく人の群れをじっと眺めている葉山に、特に変わった様子はない。

 

 ゆっくりと首を左右に大きく動かして、浮かびかけていた疑問を肩の凝りと一緒に消し去った八幡は、前向きな姿勢と自由な意思を取り戻せた自分に満足していた。

 

 実はこれは自由から逃げていただけなのだと、八幡はそれを恩師から教わる事になる。

 

 

***

 

 

 見覚えのある顔が東口から出て来たので、ほっと息を吐いてから背筋を伸ばした。ついでに時計を確認すると、待ち合わせの時間はまだ来ていない。肩が凝るようなことを考えていたせいで時間の感覚がおかしくなっているのだろう。

 

「んじゃま、お務めを果たしますかね」

「そんなに肩肘を張らなくてもいいさ。それにしても、一度は告白した相手とダブルデートなのに……」

 

 思わずげほっと咳が出て、葉山の言葉を遮ってしまった。

 涙目になるのを堪えながら、咎めるよりも呆れる気持ちを前に出してじろりと睨んでみたものの、予想通り葉山はどこ吹く風だ。

 

「お前な、そういうんじゃないって解ってるだろ。それに今日のこれがデートなら、お前も色々と大変じゃね?」

「ああ。だからお互いに、粛々とお務めを果たさないとね」

 

 このオチまで読んでやがったなと考えた八幡が舌打ちをしたと同時に、折本かおりの声が耳に届いた。

 

「うわっ。たしかに時間ギリギリだけどさー。比企谷って根に持つタイプだったっけ?」

「あー、いや。今のはお前に対してじゃなくてだな。こいつが『今日の段取りは任せろ』なんて言い出すから、できる奴は違うよなって」

 

 卑屈な物言いの中にさらっと捏造を加えて、葉山を窮地に追い込もうとする八幡だった。

 とはいえ敵もさる者、この程度では眉一つ動かしてくれない。

 

「比企谷が一生懸命に考えてきてくれたプランに問題があったからね。さすがに高校生にもなって、アニメゆかりの場所に行きたいって言われちゃうとさ」

「ちょっと待て。千葉のモノレールと言えば『俺の妹』なのは今や世界の常識だぞ?」

 

 それどころか捏造で反撃されてしまったので、ここは譲れないとばかりに八幡が強く主張していると。

 

「やばいっ。比企谷がマジすぎてウケる!」

「冗談のつもりだったのに、こんな身近にあるものなんだね」

「知ってると思うけど、かおりっていつもこうだから……ごめんねー」

 

 折本の爆笑よりも葉山のすまし顔よりも、少し困った顔でちゃんと謝ってくれた仲町千佳の言葉がいちばん胸に突き刺さるなと八幡は思った。

 

 

 とりあえず移動しようという話になったので、内房線と外房線の高架に沿って歩いて行く。ペリエからシーワンへと時折お店を冷やかしながら四人は会話を続けていた。

 

「じゃあさ。今日はお詫びに奢るから、お昼にどこか行きたいとこある?」

「えーっと、わたしはねー……」

「千佳は自分で払ってねー。比企谷と葉山くんのぶんは私が出すからさ」

「いや、俺は別にいいからさ。そのぶん比企谷に美味しいものでも食わせてあげてくれないか?」

「おい。お前はどこのかーちゃんだ?」

 

 葉山の誘導が良いのか、それともツボにはまってしまったのか、折本はさっきからずっと笑いどおしだ。仲町も時折くすくすと笑い声を漏らしていて、会って間もないのに雰囲気は上々と言って良い。

 

 そんな一団の中に自分が居る。

 事前の予想では、三人の後ろを独りで歩く形になるのだろうなと思っていたのに。八幡が一歩引こうとするたびに折本か葉山が歩調を合わせて来て、仲町も歩くペースを落として追いつくのを待ってくれている。

 

 ダブルデートという言葉を聞いた瞬間こそ過剰に反応してしまったものの、既に八幡は特別な女の子二人と幾つかの場所を訪れた経験がある。ららぽーとにも行ったし千葉みなとで花火も見た。京都では夜と朝を二人きりで、昼間の時間は三人で気兼ねなく過ごしたのだ。

 

 だから折本と仲町には少し悪いと思いつつも、男女が二対二で会うと言ってもこの程度かと、どこか拍子抜けしている自分がいる。

 それと同時に、この四人のグループの中に違和感なく溶け込めている自分がいる。

 なぜなら今日のこの集まりは、八幡が思わず逃げ出したくなるほどの重みのある集まりではないのだから。

 

「あ、この先にサイゼがあるな」

「サイゼっ……奢るって言ってるのに、サイゼって……!」

 

 ナンパ通りの入り口が見えたので、妹と遊びに来た時と同じような感覚で提案してみると、折本が身体を折るようにして笑い転げている。

 

 馬鹿にするような口調ではないので特に不満は無いけれど、こうも簡単に笑いが取れてしまうといささか物足りないと考えてしまうのが不思議だ。

 中学の頃はこいつに笑って貰えるようにと、あんなにも必死になって頑張っていたというのに。

 

「あのね。比企谷くんって、けっこう気を使う人なの?」

「俺が知る限りだと、その認識で間違ってないと思うけどね。本人に言うと照れくさがるから、面と向かっては言わない方が良いかな」

 

 折本の背中をさすっていた仲町がふと顔を上げて問い掛けてきたので。どう返事をしたら良いかと迷っていたら、横から葉山に答えられてしまった。

 八幡はぶすっと仏頂面を浮かべるしかない。

 

「そっか。でもサイゼはちょっと、ないよねー。かおりがお詫びに奢るって言ってるんだし、遠慮したら逆にさ……」

「いや、それも分かるっちゃ分かるんだけどな。この辺で食べるところって考え始めたら、ナンパ通りを抜けたパルコ*1の向こうにもサイゼがあったなー……とかな」

 

 普段から個性が強い面々としか接点が無いのが原因だろうか。マイペースではあるけれども普通という言葉がよく似合う仲町と喋ると、こちらのほうがリズムを乱されてしまう。

 特に緊張はしないものの、むしろ余裕があり過ぎて、こちらが気を使ったほうが良いのかと考え始めてしまうのだ。

 

 一学期の初めと比べると、わりと他人と話せるようになったと思っていたけれど。どんな相手でも上手く対応してそつなく話を続けられる葉山のことを、素直に凄いなと思ってしまった八幡だった。

 

「じゃあさ。向こうのサイゼの近くにカフェがあったよね。あそこの二階席なら落ち着いて話せるんじゃない?」

「あったねー。たしかヨンマルク*2だよねっ。じゃあ、そこ行こっか!」

 

 とはいっても、これ見よがしにフォローをされると賞賛よりも苛立ちの気持ちが先に立つのだけれど。

 

 

***

 

 

 二階の窓際にあるテーブル席に腰を落ち着けてお手軽なランチを食べながら、四人は引き続き話に花を咲かせていた。

 

 残念ながらサイゼは却下されたものの、ここなら奢りでもあんまり気にしなくて済むなと胸をなで下ろしつつ。とはいえ用事をそろそろ済ませるべきではないかと八幡が考えていると。

 

「あっ、ごめん。ちょっとメッセージが……って、また会長だーっ!」

「またって言ってるけど、かおりもさぁ……」

 

「あー、もう。千佳も言わないでよっ。会長代理とか名乗っておきながら合同イベントを潰しかけた昨日のことは、私もこれでも反省してるんだよー?」

「うーん、そうじゃないんだけどなー」

 

 いまいち話が読めないものの、折本が椅子にふんぞり返ったまますごい勢いでメッセージのやり取りを始めたので横槍を入れるのは憚られた。

 なので仲町を手招きしながら首を傾げてみせると、同じように手招きを返されたので。三人はテーブル越しにお互いが身を乗り出すような体勢になった。

 

「うちの生徒会長がね。合同イベントの件で、昨日と今日は校外の人と会ってるのね。総武との打ち合わせはわたしと二人でするって言ってかおりが聞かなかったから。けど昨日あんな話になっちゃって、会長も気が気じゃないんだよねー。かおりも全部あけすけに話しちゃうしさー」

 

 奥歯に物が挟まったような話し方が少し気になるものの、これでおおよその事情は把握できた。相変わらず自由気ままに行動しているなと八幡は苦笑するしかない。

 

 納得顔で頷きながら身体を引いて、八幡と葉山が椅子に再び腰を下ろすと。話し終えた直後にさあっと顔を赤らめた仲町がたどたどしい動きでそれに続く。

 そこに折本の声が届いた。

 

「今どこにいるのかって、しつこく訊いてくるんだよねー。昨日と違って今日はいい雰囲気だから大丈夫だって言ってもぜんぜん聞いてくれないし、もうっ!」

「いい雰囲気なら仕方ないよー」

 

 ぷんぷん怒っていた折本も含めて三人の視線を一身に集めても、浮かれ顔と呆れ顔を二対一でブレンドしたような表情の仲町はまるで動じなかった。と言うよりも自分の世界に浸っているように見えるのだが、この短時間で何が起きたのか八幡には予測が付かない。

 

 なるほど折本の友達を務めているだけのことはあるなと、失礼な納得の仕方をしていると。

 

「ごめんっ。断っても断ってもきりがないし、ここの場所だけ教えていいかな。その代わり会長には絶対に来るなって念を押しておくからさ」

「まあ……俺は良いと思うんだが?」

「俺も大丈夫だから、あんまり気にしないで良いよ」

 

 仲町がこうなった理由をおおよそ把握できた折本が、失笑とともに相手とのやり取りを再開したのも束の間。すぐにしびれを切らして申し訳なさそうに確認を求めてくるので、八幡と葉山が順に答えると。

 

「オッケー。じゃあ、えーと……『来たら怒るし、絶対に相手しないから。独りでチョコクロ食べたいなら来れば?』って書いておけば大丈夫かな。会長ってああ見えて女々しいところがあるよねっ?」

「かおりが男らしくてさばさばし過ぎなだけでしょー?」

 

 正気に戻った仲町の言葉に深く頷く八幡と、無難に笑顔で返す葉山だった。

 

 

 仲町の指摘を受けた折本が押し黙ったので、四人の間に少しぴりっとした空気が満ちた。

 そのタイミングを逃すことなく折本がおもむろに口を開く。

 

「じゃあ、えっと、改めて。比企谷ごめんっ!」

「いや、別に気にしなくて良い。つか俺的には会って話すほどの事でもないと……」

「葉山くんも昨日は嫌なことを言わせちゃってごめんねっ!」

「てか最後まで聞けよ」

 

 ぱんと大きな音を立てて両手を合わせた折本が、拝むようにして謝ってきた。と思ったら、返事の途中で葉山のほうへと向き直るのだからやってられない。

 

 自分と折本の関係はこんな程度だったのだと。

 何かと理屈をつけて、この事実を受け入れるのを避けていた昔の俺ならショックを受けただろうけれど。今は笑って流せるし、なんならツッコミまでできてしまうのだから不思議なものだと八幡は思った。

 

「ほら、かおりっ。説明が苦手なのは知ってるけど、この話はちゃんと伝えないとダメだよー?」

「うん、分かってる。えっと、昨日あれから家に帰って……」

 

 現実世界にいる両親にお願いして、中学の同級生と片っ端から連絡を取った折本は、そこで初めて九月の一件を知ったらしい。総武高校に八幡がいると知ったカースト下位の連中が引き起こした事件のことだ。

 

 中学時代の情けない姿を教えてやろうと賛同者を募って、意気揚々と総武の文化祭に乗り込もうと企んだものの、人数がさっぱり集まらず。現地ではリア充オーラを放つイケメン生徒に諭されて、八幡本人からも反撃されて、すごすごと帰って来たというのが事のあらましだった。

 

「いちおう私のところにもさ、『総武の文化祭に行こう』みたいな話は来てたんだよねっ。でも、あの顔ぶれと一緒に行くのって楽しくなさそうじゃん。連絡をくれた子も『あいつらとは別に行く』って言ってたし、じゃあ私もそうしよっかなーって思って千佳を誘ったんだよね」

「葉山くんのバンドも観たけど、凄くよかったよ!」

 

 ちゃんと話をしろと言ってくれた先程の仲町はどこに消えたのかと。思わず大声でげらげらと笑い出しそうになったのをぐっと堪えて、折本は話を続ける。

 

「だから私が比企谷のバンドを観られたのは、あの連中のおかげってのもちょこっとだけあるんだよねー。なんだか悔しいけどさっ!」

「悔しいってのは、なんでだ?」

 

 あの時の演奏を楽しげに語ってくれるのは嬉しいけれど、それはあの二人がいたからこそだ。自分の存在など微々たるものだと考える八幡は、折本が悔しがる理由が理解できなくて、きょとんとしながら思わず疑問を漏らしてしまった。

 

「なんでって……あること無いこと全部を比企谷のせいにして、しかもそれを理由に比企谷を見下してたような連中だよっ!?」

「まあ、やってない事まで俺のせいにされるのは確かに勘弁して欲しかったがな。それでも終わった話だろ?」

 

「ちょ、比企谷ってなんでそんなに、えっと、達観って言うのかな。何でもないですって顔ができるのさ?」

「だから、もう終わった話だろって。それに見下してるって言えば俺もあいつらを見下してたからな。そんな連中に何を言われても、『ああ、やっぱり見下して正解だな』ってなるだけじゃね?」

 

 少しだけ強がっている部分があるのは自覚している。けれども連中の話を真に受けてしまった折本をはじめとする何人かには、罪悪感を抱いて欲しくない。

 そう思ったからこそ、八幡は敢えて平然と振る舞っていた。

 

 それは別に、良い子ぶろうとするとかそんな理由ではない。そもそも俺が人知れず良い子ぶったところで、外には出ないそんな行動に何の意味があるのだろうか。

 

 それよりも八幡には、罪悪感によって極端から極端へと揺れるのは避けて欲しいという想いがあった。

 実はこれも折本のためというよりは自分のためで、端的に言えば「失いたくない」という感情が別の形で湧き出ただけだと八幡は考えている。

 

 ぼっち時代に難儀したのは、他人がとつぜん豹変することだった。

 他の同級生と楽しそうにしていた奴が、俺を目にしたとたんに表情が変わり態度が変わり、そして聞くに堪えない暴言を投げつけてくる。

 

 そんな経験をしてきた八幡にとって、さしたる心当たりもなく迫害されることと大した理由もなく優遇されることは、表裏一体としか思えなかった。

 そして中学時代に受けた理不尽な対応が、今は分不相応な対応に変わったように。過分な扱われかたがこの先も続くとは八幡には思えなかった。

 

 いつかまた悲惨な目に遭うのではないか。

 今はリア充連中ともそれなりの関係を築けているけれど、見捨てられる日が来るのではないか。

 では、あの二人は?

 

 二人を信じたいという気持ちがある一方で、万が一に備えて悪い予想を立てておいたほうが良いとも思う。

 それと同時に、あいつらの足手まといにはなりたくないから、見捨てるならきっぱりと見捨てて欲しいとも思う。でも、言い出せないのではないかとも思う。

 

 そうした思考のどうどうめぐりを続けていると、何を俺たちは遠慮し合っているのだろうという気持ちになる。そうではなくて、もっと言いたいことを言い合うべきではないかと。例えば妹とのやり取りみたいに。あるいは、あの後輩との会話のように。

 

 どうでもいい相手なら、態度が急変してもさほどのダメージは受けない。

 自分に非があったり理由が明白であれば、それなりのダメージで済む。

 思った事をそのまま伝えてくれる相手なら、気を揉まなくて済むので気持ちが楽だ。

 

 でも、決して失いたくない相手が八幡を気遣って我慢を続けて、そして遂に許容範囲を超えてしまったら?

 

 八幡とて、こうした悩みが自己評価の低さに由来するとは認識できている。

 あの二人からも恩師からも何度か指摘を受けたのだから、いい加減に克服したいと思っているし、現に春先はもちろん夏休み明けと比べてすら八幡の自己評価は高まっている。

 

 けれども二人を特別に想えば想うほど。つまり失いたくないという想いが強まるほどに、それと比例して自己評価を上げていかなければ話にならない。

 他者に向ける感情と、自身に向ける信頼と。その二者の釣り合いが取れていなければ、相対的に見た自己評価は落ちてしまうのが道理だ。

 

 だから折本に罪悪感を抱かせたくないと考えるのは、八幡の自己評価が相対的に落ち込んでいることの裏返しだった。

 

 素敵な女の子に告白されたら、普通なら舞い上がって、自己評価も理屈抜きでストップ高になるだろうに。もし仮にもう一人の存在が無かったとしても、きっと八幡は自他の評価の格差におののいていた事だろう。宿痾と言えばこれこそが俺にとっての宿痾だと八幡は思う。

 

 故にこそ、それを何とかしたいがために八幡は敢えて強がって、些細なことなどどうでも良いという態度を取っているのだ。実際、そう考えて些事を切り捨てていかないと、大事なことにまで手が回らなくなってしまう。

 

 

 そんな八幡の内心をどこまで見抜いているのか。

 時に自らの弱さは露呈しても、そうした部分では微塵も隙を見せない葉山が静かに口を開いた。

 

「比企谷もこう言ってるし、必要以上に気にしなくて良いよ。俺のこともさ、今日は気を使って呼んでくれたみたいだけど、昨日のは俺がそうしたいと思って言っただけだしね。だから謝る理由もないし、ゆっくり話せたからこれでチャラってことで良いんじゃないかな?」

 

 八幡の発言にフォローを入れつつ、さりげなく解散の方向に話を持って行こうとしている葉山を横目でちらりと見て。

 気のせいか、知りたい事はだいたい分かったからもういいやと言っているように聞こえるなと考えながら、八幡がそれに続いた。

 

「そういや来る途中で宣伝してたけど、京政ローザ*3で面白そうなのやってたぞ。二人で映画でも観てきたらどうだ?」

「えっ、葉山くんと二人で?」

 

 仲町のキャラがますます読めないなと思いながらも、幾つかの言動には納得がいったので八幡が軽く頷いていると。

 

「いや、俺たちは選挙のことで少し打ち合わせがあるからさ。もう少しここにいるつもりなんだけどね」

「えーっ。せっかくだし、それこそ四人で映画とか買い物とかしたかったのにーっ!」

 

 用件も済んだし食事も終わったし、これは解散まっしぐらだなと考えてほっとしている八幡の横では、葉山の奮闘が続いていた。

 

「ほら、試験も近いしさ。参考書とか持って来てないから早めに帰らないといけないしね」

「そっかー。じゃあ仕方ないし、また連絡するねっ!」

 

 試験だけを理由にしたら「勉強教えてっ!」という展開になりかねないので、葉山はそれを嫌ったのだろう。理想としては、次回の約束をせずに別れたかったのだろうけれど、そこは折本が相手だし仕方がない。

 くくっと笑いが出そうになるのを堪えて、八幡は平然と会話に加わる。

 

「おう。じゃあな」

「ちょ、比企谷もあっさりしすぎっ!」

「ねー。もうちょっとだけでも……あ、かおり。またメッセージが来たんじゃない?」

 

 横槍が入ったものの、このままお帰り頂けそうだなと考えて。

 でも葉山と二人でしばらく残る必要があるんだよなぁと、内心で不満を漏らしていると。

 

「もうっ、会長もいいかげんにして……あ、今回のは報告だけだった。別にこんなの要らないのに、律儀だよねーっ。会ってたOGの人に頼まれて、機材を確認するために高校に直接帰るんだってさ。この近くにいたのにって、そんなの聞いてないって!」

 

 何となく会長とやらに親近感を感じてしまい、強く生きろとこっそりエールを送った八幡だった。

 

「じゃあ、またねー」

「合同イベントもあるし、楽しみだねっ、比企谷?」

「おー」

「イベントの仕事でこき使って下さいって比企谷がさ」

「そんな複雑な意味を込めてるわけねーだろ」

 

 最後に大爆笑を残して、折本と仲町は階段を下りて行った。

 

 

***

 

 

 二人の姿が見えなくなって少し経ってから、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。両手を膝の上に置いてよっこいしょと椅子から立ち上がると、トレイを持って葉山の向かいの席に移動する。

 腰を下ろそうとした時に窓越しに外の様子が目に入ったものの、折本たちの姿は確認できなかった。

 

「んで、選挙の打ち合わせなんてほんとにあるのか?」

「土日の選挙活動は無しだって約束したばかりだろ?」

 

 葉山の返事に納得してしまった八幡は、へっと一言で片付けようとしたのに頬がぴくぴく動いている。うまいこと言いやがってと心の中で嘲ろうとしても、対面の男を睨む目は力がまるで足りていない。

 

「なんでかね。折本たちよりもお前との話のほうが有意義だったって気がするんだが」

「俺は最初からそうなると思ってたよ。まあ、比企谷が告白した相手と話してみたいって気持ちも少しはあったけどさ」

 

 そう言われても今更なので、八幡に動揺はない。

 椅子にどすんと背中を投げ出して気楽な調子で返事を口にする。

 

「しょせんは昔の話だからな。色々と確認できたのは良かったと言えば良かったけど、それぐらいかね」

「あんまり懲りてなさそうだったけど、比企谷はそれで良かったのか?」

 

「俺が良い悪いを言っても仕方がないからな。良くないのは、現在進行形のやつぐらいだろ」

「現在進行形か……もう少し用心したほうが良かったかな?」

 

 見知らぬ誰かに黙祷を捧げていると、葉山が独り言のように呟いたのが耳に入った。

 用心したら防げるものなのか、俺にはよく分からないなと思いながら。ひがむ気持ちがさっぱり浮かんで来ない自分にひそかに首を傾げていると。

 

「でも、いざとなったら比企谷が助けてくれるだろうしさ」

「おい、ちょっと待て。それぐらい自分で何とかしろよ。それに貸し借りなしって言ってただろ?」

 

 無言の時間が続いたので、全く違う話題が出てくるのかと思いきや。ふざけた事を口にした葉山を反射的に睨み付けながら、思った以上に低い声で反論してしまった。

 おそらく、見透かされたような気がしたからだろう。

 

「俺は貸しだとは思ってないけどね。君が借りだと思っていれば、それが行動に反映されるんじゃないかな?」

「あのなあ。俺がそんなに……」

 

 言いかけた言葉は途中で宙に浮いてしまった。

 なぜなら、階段のそばから口を挟んで勝手に八幡のセリフを引き継いだ女の人が、トレイを両手に持ったまま近付いて来たからだ。

 

「比企谷くんがそんなに、義理堅いわけがあるかって言うとあるんだよねぇ」

 

 冒頭のほんの二つか三つの文字を口にしただけで、そんな単語未満の言葉でさえも衆人の注目を集めるには充分だった。彼女と面識のある二人に至っては、予想外のエンカウントに身体をすっかり強張らせてしまい適切な反応ができそうにない。

 

 そんなふうにして華麗な先制攻撃を果たした雪ノ下陽乃は、机の上にトレイをふわりと優雅に置いて、八幡の隣・葉山の左斜め前の席に腰を下ろした。

 

 

***

 

 

 まだ湯気が立っているコーヒーを軽く口に含んで。少しだけ顔をしかめた陽乃はそれを机に戻すと後は見向きもせず、そのまま背もたれに身体を預けた。

 

「あーあ。朝からつまんない用事ばっかでさー。お姉ちゃん疲れちゃったから、比企谷くんでも隼人でもいいから面白い話をしてくれない?」

 

 そんな傲岸不遜な発言も、陽乃が言うと様になるのだから困ったものだ。

 この人に「やっておしまい!」と言われたら即座に「アラホラサッサー」と答えてしまいそうだなと考えて。おかげで心に余裕が生まれた八幡は、じとっとした目で隣席を窺う。

 目が、合ってしまった。

 

「なあにー、比企谷くん。わたしの顔に見惚れちゃった?」

「いや、あの……」

「って、それは無いか。むかし好きだった子とデートしてたんでしょ?」

 

 どこまで、と考えるのは愚問だろう。全てを知られていると覚悟すべきだが、とはいえ情報をどこから仕入れているのかまるで読めない。

 

 なんとか目を逸らすと同時に首に力を込めてぐぎぎっと動かして、やっとのことで顔を正面に戻した八幡は、ふと思い付いて目の前の男に視線を向けた。

 表情が固いままだと自覚している葉山は、あえて軽い口調で答える。

 

「残念ながら俺じゃないよ」

「ぶー。隼人って最近ちょっと秘密主義になってない?」

 

 言われてみれば、今日の話を暴露されると葉山にとっても面倒なことになる。説明を求める約二名が俺のところにも押しかけて来そうだなと考えて、思わず八幡が身震いしていると。

 

「それで、ロマンチックな話とかなかったの?」

「そんな感じじゃなかったよ。比企谷にとっては昔の話だしね」

 

 無難に話を収束させようとする葉山に、軽く視線を送って。へたに口を挟まないほうが良さそうなので頼むと、そんな意図を伝えていると。

 すぐ横から冷たい声が聞こえて来た。

 

「昔の話だからって、好きだった子をそんなふうに扱うんだねぇ」

 

 これはおそらく葉山に向けての言葉でもあるのだろう。いや、むしろ攻撃対象はあっちかと思い直して、今度は八幡が口を開く。どうにかして話を逸らそうと考えながら。

 

「あれは好きだったうちには入らないですよ」

「へぇ。どういう意味?」

「俺の願望というか妄想を勝手に押し付けてただけで、利己的な勘違いというか……少なくとも、あんなのは本物じゃないですよ」

 

 

 折本に告白をしたあの日からつい先程に至るまでずっと考え続けてきたことなので、言葉が淀みなく出て来た。

 だから、その単語が持つ重みにすぐには気付けなかった。

 

 この世界に巻き込まれた直後に生徒会長の演説を聞いた時に。そしてテニス勝負を終えてひとりになった時にも、八幡は本能的にこの言葉に惹かれていた。魅せられていたと言っても良い。おそらくは、この仮想世界に捕らわれるずっと前からそうだったのだ。

 

 たしかに今過ごしているのは現実とは異なる世界だ。けれどもここは決して仮初めでも虚構でもなく、現に存在している世界の一つだ。一緒に過ごしている人たちも、たとえそれが生身の人間であれAIであれ、その存在に疑いはない。

 

 現実と仮想をそれぞれ真と偽に、あるいは善と悪や美と醜になぞらえる人もいるのだろうけれど。そう簡単には切り分けられないものだと、八幡はつくづく思い知らされた。

 

 なぜなら、()()()()()()()八幡は変わることができたからだ。

 この世界で変わりはじめて、今なお変わり続けている。

 

 ここにあるのは偽物ばかりではないと、そう実感できたからこそ。

 八幡は()()を求める気持ちが、いや増した。

 

 だからこそ、捻くれていると言われようとも八幡は一途に()()を求めるのだ。

 恥ずかしくてとても口には出せないけれども、八幡が欲しているのは究極的には()()だけだった。

 

 

「比企谷くんは、まるで理性の化け物だね。もしくは、自意識の化け物かな?」

 

 ふっと吐息を漏らしてから、面白いものを見たと言わんばかりの蕩けるような面もちをこちらに向けて、陽乃が囁きかけてきた。

 

 たぶん、顔の造作があいつに似ていなかったら搦め取られていただろう。

 でもこれは、俺が求めるものではない。

 

「そんな恰好良いものじゃないですよ」

 

 そう考えた八幡は軽口で返した。陽乃につけられた的確な二つ名の、その呪いには囚われまいと考えながら。

 

「そっか。まあ、面白い話だったかな。で、隼人と雪乃ちゃんは相変わらずと」

「俺は……」

「隼人のことだからさ。将来じゃなくて今だって、()()そう考えてるんだよね?」

 

 八幡をちらっと窺った後は視線を落として机の一点を見据えるだけで、葉山は奥歯を噛みしめたまま身動きできずにいた。

 そんな幼なじみには目もくれず、陽乃はそのまま言葉を続ける。

 

「雪乃ちゃんもねぇ。自分で動いているようで、大事なところは他力なんだよね。ほんと、お母さんそっくり」

「その……どこまで知ってるんですか?」

 

 八幡ですら知らない各陣営の内幕まで余さず把握されている気がして、思わず疑問を口にすると。

 

「んーと、知ってるっていうか予測なんだけどね。でも、雪乃ちゃんと隼人に関しては外れてないと思うよ?」

 

 遠目から見れば笑顔を浮かべているようでも、目は全く笑っていないし口元には嘲笑の色が浮かんでいる。何よりも全身から滲み出るような圧力が八幡を怯えさせた。

 

 中学の頃に自分を見下してきたカースト下位の連中はもちろん、権力を笠に着た教師ですらもとうてい及ばない。斬られる覚悟とはこの事かと、反射的にそう考えてしまうほど陽乃の存在感は凄まじかった。

 それが、ふっと柔らかく転じる。

 

「比企谷くんって、悪意に敏感だから面白いね。わたしはそういうの、好きだなぁ」

「いや、その、俺にはもう小町がいますから」

 

 しどろもどろに答えてみると、今度は抜けるように無邪気な笑顔を向けられた。

 

「じゃあさ。わたしがあの時に言った言葉を覚えてるかな、八幡お兄ちゃん?」

 

 よく、覚えている。

 文化祭の直前に言われて以来、折に触れて考え続けてきたことだから。

 

 あの時に陽乃はこう言ったのだ。

 妹にちょっかいをかける理由は、俺の答えで「まだ半分」だと。

 

「うん、よろしい。じゃあそろそろわたしは行くね」

 

 そう言って颯爽と立ち上がった陽乃は二人にもトレイにも目もくれず、弾む足取りで階段を下りて行った。

 

 

***

 

 

 陽乃が姿を消して少し経ってから、葉山が大きく息を吐いて肩の力を抜いた。

 さっきの俺と同じような感じだなと思いながら、声を掛ける。

 

「なんか嵐に遭ったみたいな気分だよな。そろそろ出るか?」

「ああ、そうだね。陽乃さんのトレイは俺が片付けておくよ」

 

 立ち上がった葉山は既にいつもと変わりなく、むしろ狐につままれた感じかねと八幡は思った。

 

 葉山の背中を追って階段を下りると、そのまま店の外に出た。

 ここで解散だと助かるのだが、そういうわけにもいかないだろうと思う程度には八幡にも常識がある。いや、常識というよりは積み重ねてきた腐れ縁のせいかと思い直す。

 

「俺は東口の駐輪場に行きたいんだが、お前はどうする?」

「じゃあ、千葉駅まで一緒に行こうか。さっきの逆ルートで良いかな?」

 

 提案に軽く頷いて、二人並んで無言で足を動かした。

 特に言葉が必要だとは思わなかったし、今日の短時間で葉山の内面に少し詳しくなれた気がした。

 

 葉山が口を開いたのは、シーワンに入ってしばらくしてから。解散の場所から逆算したのだろうなと思いながら、耳を傾ける。

 

「比企谷にひとつ、訊きたいことがあるんだけどさ。いいかな?」

「まあ、答えられる事だったらな」

 

 八幡の用心深い返答に、ふっと笑みを漏らして。そのまま葉山は問いを発する。

 

「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと願っているから……じゃないよね?」

「はあ。当たり前だろ?」

「そうか……たぶん、それで良いんだろうな」

 

 一瞬だけ苦しげな表情を垣間見せて、すぐに葉山はいつもの笑顔に戻った。

 

「今日は色々と有意義だったよ。じゃあまた月曜日に」

「おう。じゃあ月曜に」

 

 端的に答えて踵を返して、数歩歩いたところで八幡はふと思った。

 これじゃあ何だか、葉山と友達みたいじゃないかと。

 

 そんな気持ちの悪い思い付きを頭を振って追い出して、八幡は自転車置き場を目指して歩いて行った。

 

 

***

 

 

 その夜のこと。

 

「もう。お兄ちゃんってば、どうしてこんな趣味の悪い服ばっかり持って来たの?」

「いや、その、ちょっと恰好良いかな……って」

「せっかくの雪乃さんからの呼び出しなんだし、ちゃんとした服装をさせないといけないのに……なにこの難易度?」

 

 八幡は妹の着せ替え人形になりながら、昨日届いたもう一通のメッセージを思い出していた。

 

『……の件で話をしたいので、日曜の午後にでも少しだけ時間を貰えないかしら?』

 

 用件を見なかったことにできないかなと考えつつ、雪ノ下雪乃の呼び出しそれ自体には弾む心を抑えられない八幡だった。

*1
原作ではそのまま、アニメも”PALCO”表記なので名前をいじりませんでした。現実の千葉パルコ(PARCO)は2016年11月末で閉店。

*2
名前はアニメ準拠。現実のサンマルクカフェ千葉中央銀座通り店は2019年1月末で閉店。

*3
名前はアニメ準拠。




当初は土日を一話で終わらせる予定でしたが、更新をこれ以上遅らせたくなかったので区切りました。
話数を増やせるのはこのタイミングのみ→悩んだ末に裏技発動と相成りました。
いろはすに感謝です。

次回はできれば一週間以内に更新したいと考えているものの、いつ時間の余裕ができるのか全く読めず……こんな曖昧な事しか言えなくて申し訳ないです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(5/18,6/15)


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09.おたがいに思惑はあれど彼と彼女は必勝を期す。

前回のあらすじ。

 待ち合わせ場所で軽いやり取りを交わしながら、八幡と葉山はそれぞれが抱えている問題と内面で向き合っていた。

 折本と仲町が合流して、四人は和気藹々と会話を続けながらカフェまで移動した。
 会長がメッセージを頻繁に送ってくるので苛立つ折本。そうした事情を説明する際に葉山と至近距離で顔を合わせてしまい照れる仲町。
 そして折本が昨日の一件と中学時代の勘違いを謝り、文化祭の体験談と同中の闖入者たちの話を伝えて、集まりはあっさり解散となった。

 カフェに残った男二人が雑談していると、そこに陽乃が現れる。
 情報源は不明だが、現状を余さず把握されている気がして八幡は落ち着かない。葉山がフォローに動いたものの、過去の話を仄めかされると何も言えなくなってしまう。

 重い雰囲気を何とかしようと会話を引き受けた八幡は、ずっと前から求め続けていたものに思いがけず言及して。口に出して初めてその言葉の重みを認識した。
 陽乃はその発言を面白がり、返す刀で妹と葉山を斬り捨てると、八幡に一つ確認をして去って行った。

 葉山と連れだって駅まで戻り、別れ際にやはり一つ確認をされて。
 こうして、大魔王とのエンカウント付きダブルデートは無事に終わった。



 一夜明けた日曜日の午後のこと。いつぞやも待ち合わせをした海浜幕張の駅前にて、比企谷八幡はぽつねんと突っ立っていた。まだ約束の時間まで十五分ほど余裕がある。

 

 前回は九月の上旬だったので暑さがずいぶん残っていた。少し歩いただけですぐに汗が吹き出してきた記憶がある。

 とはいえ由比ヶ浜結衣が疲労で倒れたという話と比べると汗などものの数ではなかったので、あの時の八幡は息せき切ってこの駅までやって来たのだった。

 

 それと比べると今回は道中もゆっくりだったし用事も切羽詰まったものではない。

 呼び出しの理由を妹に言いたくなくて、それで妙な勘違いをさせてしまい家に居辛くなったので早めに出て来ただけ。なのだけれど、逸る気持ちが外出を後押ししたことも否定はできない。

 

「考えてみれば、竹林から出たところで解散して以来まともに話してないんだよな……」

 

 あの前日に顧問を含めた三人で夜の京都を訪ね歩いた時も、あの日の昼間に由比ヶ浜を含めた三人で洛中洛外を練り歩いた時も、目には映らない特別な繋がりを八幡は感じ取れた。

 

 けれども翌日に提案した東京駅での待ち合わせは却下され、八幡は由比ヶ浜と差し向かいで話すことになる。その結果、煮え切らない結論を受け入れてくれた由比ヶ浜への想いが増すのと同時に、あいつとも話をしたいという想いが募った。

 

 なのに旅行から帰ってきたその日に生徒会長選挙の問題が明るみに出て。降って湧いたような話を前にした八幡たちに個人的な会話を交わす余裕などなく、おまけに三人の間で意見が分かれて別陣営になってしまったので、顔を合わせることさえままならなくなった。

 

 だからこそ、この呼び出しはまたとない機会だ。そう考えた八幡は強く拳を握りしめて、しかしその決意は瞬時に薄らいでしまう。

 だらんと力の抜けた手を軽く振りながら、八幡は問題点に思いを馳せる。

 

 

 これが好機なのは間違いないとしても、どんなふうに話を持ち出せば良いのかまるで見当が付かない。もっと深くもっとたくさん話をしたいという気持ちを伝えるのは、へたをすれば愛の告白よりも難易度が高いのではないかとすら思えてしまう。

 

 なぜならイエスかノーの二択を強いる告白とは違って、自分の話の持ち出しかたや相手の返事いかんによって無数の可能性が考えられるからだ。

 自分が最終的に何を求めているのかが明瞭ではなく、相手の希望もどの程度のものなのか全く読めない。それは、付き合うか否かに結論が集約される告白との大きな違いだろう。

 

「まあ……あいつと付き合えるかって言うと、色んな意味で無理だろうけどな」

 

 第一に思い付くのは自虐的な意味合いで、同じ部活仲間としての付き合いならともかく男女の付き合いを承知して貰えるとは八幡には思えなかった。

 

 第二に、もし仮にまんがいち付き合えたとしても、では由比ヶ浜はと考えるとそこで思考が止まってしまう。どちらかを諦めなければならないとは自明の理であるはずなのに、それが現実的な可能性として眼前に示されると八幡には選べない。少なくとも、今はまだ。

 

 第三に、あいつのことも異性として見ているのは間違いないとして、じゃあ付き合いたいと思っているのかと問われると即答できない部分があった。

 この二つは地続きのようでいて、意外と断絶があるのだなと八幡は思う。そしてこれが、先程の選べない理由にもなっているのだと自覚する。

 

 そして最後に、少し気が早いかもしれないけれど、あいつと付き合うなら向こうの家族との縁も深まるのだろう。でも()()()が義理の姉になると考えただけで、申し訳ないけれど尻尾を巻いて逃げ出したくなってしまう。

 それに……と考察を進めかけて、八幡はそこで踏み止まった。二日続けて嫌な思いをしたくはない。

 

 

「にしても……昨日なんて言ってたっけな。たしか、『自分で動いているようで、大事なところは他力』だっけか?」

 

 そう言われても、身内の評価が辛すぎるだけではないかと八幡は思う。あいつですら他力本願になるのなら、世の中の大多数は他力と言って良いのではないかと。

 

 大人でも無責任きわまりない輩はたんと見かけるのに。例えば、文化祭の前に取材に来た虫の好かない男のように。なのに高校生にその評価は……とまで考えて、ふと思い出したことがあった。

 

「もし、あれが……」

 

 八幡の脳裏に浮かんだのは、前回ここで待ち合わせた日のこと。すなわち、タワーマンションの客室における一場面だった。

 

 疲労が蓄積して細かなミスが出始めていたので、部長様の体調を慮った八幡は「明日はお前も休んだほうが良い」と言って、ずる休みを勧めてみたものの。

 このままだと倒れる可能性が高いと知りつつも、登校できるぐらいには元気なのに学校を休むのは難しいと正論で返されて。

 そこで万策尽きた八幡は、病床に伏す由比ヶ浜を頼ったのだった。

 

 あの時は結果に気をよくして、さすがは由比ヶ浜だと思った程度で済ませてしまったけれど。

 記者を撃退した時の体調万全の姿を見て、休ませて正解だったと己の提案に胸を張っていたけれど。

 

 もし、あれが。

 由比ヶ浜の言葉に納得した上での結論ではなく、決断を放棄した上での結論だったとすれば。

 

「……いや、違う」

 

 こちらに近づいてくる待ち人の姿を視界の端に確認できたので、八幡は力強く結論付けることができた。

 

 こいつが、自身の未来を誰かに委ねるなんて、そんなことあるわけない。

 それに俺は、彼女が何者かに決断を委ねることを良しとすることができない。

 たとえそれが、俺たちが心から信頼し誇りに思う、由比ヶ浜だとしても。

 

 こんなのは単なる願望に過ぎないと頭の片隅では理解していながらも、八幡はその小さな声をあえて無視して。久しぶりに二人きりで雪ノ下雪乃と向かい合った。

 

 

***

 

 

 歩く姿をじろじろと眺めるのは気が引けたので彼方を仰ぎ見ていた八幡は、雪ノ下が至近距離で立ち止まったのでようやくそちらに視線を向けた。

 

 最初に、ショート丈のシャギーニットカーディガンが目に付いた。黒色のそれの下にはタートルネックのニットが淡い色合いで存在感を放っている。

 思わず見惚れてしまい、しかし胸元に視線を向けたままなのは良くないなと思い至ったので目線を下に動かした。マキシ丈のフレアスカートで色はベージュだ。

 

 このコーデだと、着る人が違えばあざといという印象にもなりそうなのに。雪ノ下ならシックで大人っぽい装いに思えるのだから不思議なものだ。

 そんなことを考えながら、片手に持っているA4サイズの封筒から目を逸らしていると。

 

「少し待たせたみたいね。約束の時間はまだだと思っていたのだけれど?」

「いや、小町に追い出されただけだし気にすんな。つか、なんて言ったら良いのか分からんけど、あれだな。服、似合ってるな」

 

 目の前の女の子が思わずぷっと吹き出した。その表情も口元に持っていった手の動きも、昨日会ったかつての同級生とはまるで違って見えるのだから、人の印象というものはよほど気まぐれなものなのだろう。

 

 とはいえ表現が拙いのは重々承知だし、なにも吹き出さなくても良いのではないかと八幡がむすっとしていると。

 

「たぶん小町さんに、ちゃんと言葉に出して褒めろと言われてきたのでしょう?」

「そこまでお見通しなら、ちゃんと言葉に出して確認しなくても良いんじゃね?」

 

 その返事を耳にした雪ノ下は喉を機嫌良くころころと動かしながら上品に笑うと、そのまま口を開いた。

 

「貴方も小町さんのお勧めを上手く着こなせていると思うのだけれど?」

「着せ替え人形に甘んじた甲斐があったのかね。まあ、昨日の夜は疲れたわ」

 

 そう返しながら首を引いて下を向いて、自分が着ている服を視界に入れる。

 

 コーチジャケットとその下のハイネックニットは黒で、そこに黒スキニーを合わせてモノトーンを強調しつつインナーと足元は白にしてバランスを取った、らしいのだが。

 正直なところ、バランス役たるTシャツとスニーカーこそ安心感があるものの、その他は何だか着せられてる感が半端ない。

 

 なので、見えないところにせめてアイラブ千葉Tシャツをと訴えかけてみたものの。あんなに冷たい目をした妹を見たくはなかったと、思い出し身震いをする八幡だった。

 

「でも何だか、貴方の昔の病気が再発しそうな姿だという気もするわね」

「それな。気を抜いたらすぐにでも、漆黒に包まれしこの身に地獄の業火よ来たり給え……とかって適当な詠唱をしたくなるんだよなぁ」

 

「失礼。訂正するわね。貴方の今の病気が悪化しそうな姿だという気がするのだけれど」

「おい。これでもまだ身振りを入れてないだけマシだっつーの」

 

 テンポの良さを懐かしみながら会話を重ねていると、あの部室の空気まで思い出せそうな気がした。ほとんど使われていない割には埃っぽさがまるでなく、扉を開けると同時に紅茶の香りが出迎えてくれるあの部屋の、親しみ深い雰囲気すらも。

 

「では、立ち話もなんだし移動しましょうか。少し裏手に落ち着ける喫茶店があるのだけれど」

「まあ、お前の地元だし任せるわ。つっても、あんま高級なのを出されても味なんて分かんねーぞ?」

 

 二人の軽妙なやり取りは、お店に着くまで絶え間なく続いた。

 

 

 からんからんという音を耳にしながら重い扉を手前に引くと、先にお店に入った雪ノ下は迷いなく奥のテーブルへと足を進めた。

 こちらを向いて椅子に腰掛けたのを見届けてから、その正面の席に腰を下ろす。

 

「何となく、紅茶専門店とかに連れて行かれそうな気がしてたんだが。思った以上にコーヒーも豊富なのな」

「そうね。昔よく通っていたお店なのよ」

 

 ほーんと納得した八幡は、無難にお店の名前を冠したブレンドを注文した。机の上には砂糖がたっぷり詰まった瓶が確認できるけれど、この昔ながらの喫茶店でマックスコーヒーもどきを作れるほどの蛮勇はさすがに持ち合わせていない。

 

 運ばれてきたカップをブラックのまま一口だけ含んでソーサーに戻した。雪ノ下がグァテマラの香りを堪能し終えるのを待ってから話を始める。

 

「んじゃま、嫌な話をさっさと片付けるか」

「貴方のために準備してあげたのに、そんな言い方をするのね?」

「はい、ごめんなさい。助かります」

 

 雪ノ下の口調に、今までにはなかった近しさと艶めかしさを感じ取ってしまい。咎められたことよりもそちらのほうが気になった八幡が反射的に詫びを入れると。

 

「とはいえ平塚先生に押し付けられただけ、という見方もできるのだし。気が進まなければ無理強いする気はないのだけれど?」

「数学の勉強は今でも気が進まないけどな。でもま、やらないで文句を言うよりは、やってみて文句を言うかって心境かね」

 

 京大の正門前に連れて行かれた時に(冷静に考えると、まだ五日前の話だ)、顧問が雪ノ下に持ちかけた話があった。実際に京大を受験するか否かはさておいて、数学の復習を少しずつ進めて欲しいので頼まれてくれないか、と。

 

「あの時に話した内容を覚えているかしら?」

「感情が入る余地がないからむしろ俺に向いてるとか、そんな話だよな。そういやあの時、暗記のほうが向いてるからって俺が言ったら頷いてただろ。あれ、どういう意味だ?」

 

「そうね……例えば貴方が小町さんに、英作文の勉強の仕方を教えて欲しいと言われたら。どう答えるのかしら?」

「英作か……まあ、応用性の高い基礎の例文を覚えまくって、それを問題に合わせて切り貼りするのが一番じゃね?」

 

 にっこりと頷かれたので、八幡が嫌な予感におののいていると。

 

「それなら貴方も同じやり方で数学の勉強ができるわよね?」

「いや、ちょっと待て。数学だと覚えることが膨大に……」

「ならないわよ。まずはこれを見て欲しいのだけれど」

 

 どうやらこれは反論をしても無意味なパターンだなと理解して、封筒から紙の束を引っ張り出している雪ノ下の指先を眺めていると。

 

「今度の期末は、指数対数と行列の一部が試験範囲になっていたわね。問題の数を厳選したので模範解答を何度か読んで、解法の流れが掴めたら別紙の公式も含めて全てを丸暗記して欲しいのだけれど。貴方の応用力があればそれだけで七割から八割は確実だし、覚えた解き方が他の問題でどんなふうに使われているのかを確認しながら数をこなせば、定期試験やセンター程度なら満点以外を取るのが難しくなるわよ?」

 

 なんだか恐ろしい事を言われている気がするのだが、それよりも厳選したという割には紙の枚数が予想よりも多かったので密かにショックを受けている自分がいる。

 もっと楽に成績が上がるのではないかと、これでも期待をしていたのだろうか。

 

「今回は最初なのでこれだけの数を用意したのだけれど、次からはもっと少ない問題数で理解できるようになるわ。数学は論理だと納得できさえすれば、復習も一気に進むはずよ」

 

 八幡がほんの少しだけ気落ちしたのを敏感に感じ取ったのか、希望を持てるようなことを言ってくれた。

 よくよく考えれば俺のために問題を厳選してこうして準備をしてくれたんだよなと思い至って。その行動に応えないのは不誠実な気がしたので、紙の束を引っ張ってきてぺらりとめくる。

 

「なあ。これ、お前の直筆だよな。もしかして全部の模範解答を作ってくれたのか?」

「確認ついでに解いただけなので、労力はさほどでもないわよ。読みやすいように大きく書いたのと、思い付いたことをメモできるように余白を多めに取ってあるので、数が嵩んでしまったのだけれど」

 

 雪ノ下の説明を聞きながらプリントをぱらぱらと確認してみると、たしかに余白が多いことに加えて裏面は全て白紙だった。これなら予想したほどの苦労はしなくて済みそうだ。むしろ逆に、たったこれだけで良いのかと不安に思ってしまうほどだった。

 

「前世紀までの数学は、乱暴に言えば物理を理解するためのツールという側面が大きかったのよ。アインシュタインが一般相対性理論を完成させるために数学を学んだという話が好例ね。けれど今はデータサイエンスの基礎という側面が強くなったので、物理に興味がなくても数学を学んでおいたほうが良いと思うわ。せっかく京大に連れて行ってもらったのだし、今回の範囲だけでも勉強してみたらどうかしら?」

 

 八幡が無言なのを躊躇していると受け取ったのか、雪ノ下が常になく気を使って誘いかけてくれた気がした。

 

「……なあ。もし俺が中間とか、一学期の復習もやりたいって言ったら、その都度お前がこれを作ってくれるのか?」

 

 春先と比べるとずいぶんと当たりが柔らかくなったなと思いつつ。でも普段は自制心に優れているのに今も時々毒舌が絶好調になるんだよなぁと内心で冷や汗を流しながら、八幡は気になる点をストレートに尋ねてみた。

 

「ええ、別に良いわよ。これが平塚先生からの依頼だと思えば、貴方も納得できるのではないかしら?」

「いや、依頼だとしてもな、ここまでお前に頼りっぱなしなのは情けないだろ。だから、その……独学のコツみたいなもんも教えてくれると助かる」

 

 ふっと柔らかい表情を浮かべて微笑みかけてくれた雪ノ下は、持ってくるようにと伝えていた数学の問題集を八幡に取り出させると、ぺらぺらとページをめくりながら凄い勢いで印を付け始めた。

 その光景を眺めながら八幡が唖然としていると、さっさと作業を終えた雪ノ下が口を開く。

 

「二年になってからの範囲はこれで大丈夫だと思うのだけれど。☆印は丸暗記する問題、○印は覚えた解き方を確認する問題、それ以外は後回しで良いわよ」

「なあ。もしかしてお前って、全部の問題を把握してるのか?」

「そんなわけないでしょう。でもこういうのって、たいていは見れば判るものよ」

 

 首を小さく左右に振りながら苦笑いを漏らすことで、八幡は「それはお前らだけだ」というセリフをすんでのところで呑み込んだ。模範解答が書かれた紙の上に問題集を置いてそれを両手で掲げるようにして、目の前の女の子に最大限の感謝の気持ちを捧げる。

 

 

「ここまでして貰ったお前の労力に見合うかって言うと疑問だがな。とりあえず、今日のコーヒー代は俺に出させて欲しいんだが?」

 

 恭しく掲げたものを丁寧にリュックに仕舞い込んで。これで借りを返せるとはとても思えないけれど、せめて自分ができることをと考えた八幡がそう提案すると。

 雪ノ下はくすっといたずらっぽく笑った後で口を開いた。

 

「貴方はすっかり忘れている気がするのだけれど、火曜日の夜に京都駅でラーメンを奢って貰ったでしょう。その代わりに翌日に飲物をという話だったのに、返しそびれていたのよね。だから今日は最初から私が出すつもりだったのよ」

 

 そういえばそんな事もあったなと思い出した八幡だが、だからといって大人しく奢られるわけにはいかない。専業主夫が夢とはいえ施しを受けようとは思わないし、一方的に養われるだけの身分に甘んじるつもりもないからだ。

 

 養われることと引き替えに返せるものが自分にあるという自負こそが、意識高い系の専業主夫を目指す八幡の拘りであり流儀だった。誰かに伝えたら頭を抱えられるのは目に見えているので口に出したことはないのだけれど。

 

「それって今回の模範解答だけでお釣りがくるだろ。あれを貰ってコーヒーも奢りだと自分が情けなさ過ぎるからな。ここの支払いぐらいはこっち持ちにさせてくれ」

 

 わずかに目尻を下げた雪ノ下は、静かに首を縦に動かした。

 

 八幡にも由比ヶ浜にも伝えそびれているのだけれど、北野天満宮で合格祈願の絵馬を四人分奉納したので、実はラーメン代はすっかり完済している。

 とはいえ当人がそれを知らない以上は借りを返せていない状態だとも言えるわけで、生真面目な雪ノ下にとっては心残りになっていた。

 

 あの元気いっぱいの中学生が無事に合格を果たして、四人揃って絵馬を見に行ける日が来ると良いなと考えながら。八幡の奢りという形に相成ったグァテマラを、雪ノ下はゆっくりと堪能する。

 

 

「なあ。話ついでに勉強のことなんだがな。お前って英語の勉強はどんなふうにしてるんだ?」

「きちんとした文章を読んで書いてネイティブに細かな表現を指摘して貰って、発音のしっかりした相手と会話のやり取りを数多く重ねて、文法などの点で疑問を覚えたらその場で確認して、後はひたすら繰り返しね」

 

 俺の質問が悪かった、と八幡は思った。

 とはいえ雪ノ下はそうは考えなかったみたいで。

 

「よく参考書や単語集は何が良いのかという質問を受けるのだけれど。何をするかよりも、どれだけしたかが重要なのよね。だから比企谷くんが言った暗記という手段は、実は効率的だしとても大切だと思うのよ。私の家族を例に出せば、私や父さんは実用的な傾向が強くて学習の経緯も異端だったわ。姉さんたちは我が国の英語教育に沿って無駄のない学習の進め方をしてきたので、貴方が詳しく知りたいのなら尋ねておくけれど?」

 

 思いがけずそんな提案をされてしまったので、八幡は慌てて口を開く。

 

「いや、気持ちは嬉しいんだがあんま陽乃さんとは関わりたくねーからな。人の姉に向かってこんなことを言うのはなんかあれだけど」

「その気持ちはよく理解できるから、申し訳なく思わなくても大丈夫よ。現に昨日だって姉さんは……」

 

 そこまで話したところで、雪ノ下ははっと気付いて口を閉ざした。

 今日は選挙に関する話は持ち出すまいと決めていたのに、姉の話が出てつい気が緩んでしまったのだ。

 

「あのな。そこで話をやめられたら逆に気になるんだが」

「……そうね。葉山くんが昨日姉さんと偶然会ったみたいで、その時に嫌な事を言われたのよ。今回の選挙で、葉山くんは『将来じゃなくて今』に拘る点が。私は『大事なところは他力』という点が気に入らないと」

 

 まさかと思って問い掛けると昨日の話が出て来たので。ダブルデートの件が露呈したのだと覚悟を決めて身を固くして傾聴していた八幡だったが、どうやら話しぶりからして俺がその場に居合わせたことは伝わっていないらしい。

 

 これも借りだと考えると面倒だなと思いながら、八幡は目の動きだけで続きを促した。

 

「選挙の話になったついでに確認しておきたいのだけれど。貴方と海老名さんは二・三位連合を企んでいるのよね?」

「まあ……そうだな」

 

 予想外の方向に話が進んだので八幡が身構えていると、それを見た雪ノ下からも笑みが消えた。

 つい先ほど姉の話が出た時でさえ険のある表情ではなかったのに。選挙戦のライバル陣営同士の関係に一気に変化したなと思った八幡は、続く言葉に耳を傾ける。

 

「貴方なら、それが無意味に終わると知っているのでしょう?」

「つっても、歴史がくり返すとは限らないだろ?」

 

 ひとつため息を吐いてから、雪ノ下は半世紀以上前の歴史を振り返る。

 

 日ソ共同宣言と日本の国連加盟を花道に鳩山一郎が総理辞任を表明したので、一九五六年十二月に自民党初の総裁選挙が行われた。下馬評で圧倒的に優勢だったのは岸信介。しかし単独で過半数に届かなければ二位の候補との決選投票となる。

 

 そこに目を付けたのが、石橋湛山を推す三木武夫と第三の陣営に属する池田勇人だった。二人は投票前夜に、決選投票では三位の陣営が二位の候補に投票するという二・三位連合の約束を取りまとめた。

 

 一回目の投票は七〇票以上の大差をつけて岸の圧勝。しかし過半数には手が届かず、そして決選投票では七票差で涙を呑んだ。

 だが石橋は一ヶ月後に病に倒れ、わずか二ヶ月で総辞職。岸が後継指名を受けた。

 

「奇策で物事をねじ曲げても、最終的には落ち着くところに落ち着くのよ。由比ヶ浜さんが当選しても一色さんが当選しても、海老名さんや貴方が支え続けないと生徒会は運営できない。生徒会役員の数が絶対的に足りていないという現実を、貴方はどう考えているのかしら?」

 

 八幡が二位三位連合という言葉を敢えて使ったのは、当初は三番手と目されていた石橋が総理総裁の座を射止めた歴史にあやかりたいという気持ちがあったからだ。同時に、予期せぬ結末は断固避けるという決意もそこに潜ませていた。

 だから、思惑を心の裡に秘めたままでも反論の言葉がすらすらと出てくる。

 

「つっても、お前の超人的な能力で成り立っているだけの生徒会なら、あんま大差は無いだろが」

 

 ふっと笑ったその顔は、今日見たどの笑顔とも異なっていた。

 この短時間で数え切れないほどの笑い顔を見せてくれた雪ノ下は今、いずれも親しげな感情が伝わってきたそれらの表情とはうって変わって、隔たりを感じさせる面もちで八幡を見ている。

 

 昨日の笑顔と似ているなと八幡は思った。

 遠目から見れば笑顔を浮かべているようでも目は全く笑っていないし、全身からは滲み出るような圧力が伝わって来る。だが口元に嘲笑の色は無く、八幡を怯えさせるような雰囲気などは微塵も感じ取れない。

 

 おそらく、既に決意を固めていたが故に、いつも以上の優しさを感じられたのだなと八幡は思った。

 

「葉山くんから姉さんの言葉を聞いて、自分の甘さを痛感したわ。もちろん、今までも勝つつもりで選挙戦に挑んでいたのだけれど……温情が残っていたのね。貴方と、由比ヶ浜さんに対する温情が。こんな程度で姉さんが納得なんてするはずないって、少し考えれば解ることなのに」

 

 温情が何を指しているのか八幡には予測が付かないし、最後に小声で付け足した言葉は意味が掴めない。どうして雪ノ下が姉を納得させる必要があるのか全く解らないけれど、確実に言える事がある。

 雪ノ下の圧力が、更に増した。

 

「だから私は、勝って証明することにしたの。由比ヶ浜さんと、貴方と、私と。こんなふうに対等の立場で戦えるなんて、そんな機会はもう無いかもしれないのだから。だからこそ、由比ヶ浜さんと貴方を全力で叩き潰すつもり。さっきの貴方の指摘には、その過程で応えられるはずよ」

 

 八幡に挑発されても決して手の内を見せず、けれどもその挑戦的な態度はこの上なく分かりやすい。

 どれほど少なく見積もっても二段階は難易度が上がったというのに、これでこそ雪ノ下だと考える八幡は思わず破顔してしまった。

 

「いや、違うな。お前らと対等の立場で戦えるチャンスは、俺にとってこそ希少価値があるんだわ。なんでかって言うと、お前が王道を歩む限りは、誰の挑戦も受けないわけにはいかないだろ。でも俺が挑戦者に名乗りを上げるのは、こんな機会をおいて他にないからな。だから……勝つのは俺だ」

 

 そう言い終えると同時に、八幡は机の隅に置かれていた伝票を手にとって勢いよく立ち上がった。雪ノ下を見下ろす形になったものの、対面からの圧力はかけらも変化していない。

 

「では、勝っても負けても恨みっこなしで良いわね?」

「当たり前だろ」

 

 そう言い残して踵を返すと、八幡はお店の出口近くで支払いを済ませて振り返ることなく外に出た。

 

 

 駅までの道を歩いていると、やり残したことを思い出した。とはいえ今からとって返して雪ノ下と顔を合わせるのもしまりが悪いし、あんな話になったからには今さら話題に出せることでもない。

 

 それに雪ノ下とじっくり話をすることよりも、真剣に競い合うことのほうが楽しいのではないかという気もする。なぜなら八幡にとって、部室での歯に衣着せぬ応酬ほど胸躍る記憶はそうそうないのだから。

 

 由比ヶ浜と出した結論を伝えて、雪ノ下ともじっくり話を深めたい。

 その希望をいったん棚上げした八幡は、雪ノ下に勝つことだけに意識を集中して、週明けの行動を検討しながら家路に就いた。

 




今月中にもう一回と思っていましたが難しそうなので、次回は来月の上旬とさせて下さい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(6/15)


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10.りふじんな頼みと判ってなお彼はそれを口にする。

文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→153p1


以下、前回のあらすじ。

 雪ノ下の最寄り駅にて、八幡は文化祭前の出来事を振り返っていた。
 高校を休むという提案をあっさりと受け入れた雪ノ下の決断に、今更ながらに疑念を抱いたものの。八幡は首を横に振ってその発想を退ける。

 付近の喫茶店にて、八幡は数学の勉強法を伝授され雪ノ下謹製のプリントを受け取った。
 勉強に関する雑談から、思いがけず昨日の陽乃の話が飛び出して。姉の寸評を伝え聞いた雪ノ下は、甘い考えを改めて選挙戦で勝ちに徹すると宣言した。
 その挑発を受け止めた八幡もまた「勝つのは自分だ」と宣言すると、雪ノ下に背中を向ける。そして今後の計画を練り直しながら帰宅の途に就いた。



 月曜日の朝はSHRの前に少人数で集まる予定になっていた。

 

 とはいえ一年C組の教室では込み入った話ができないので、かつて顧問にあてがわれた空き教室を利用しようと比企谷八幡が提案して。その結果、部屋の使用権限を持つ者として、誰よりも早い時間に登校する羽目になってしまった。

 

「全員そろって来てくれたら良いんだが……これ、最初に来た奴と二人きりになるよな?」

 

 教室で椅子に腰掛けて過ごしながら八幡がそんな危惧を抱いていると、たったかと廊下のほうから軽い足取りが聞こえて来る。

 

「この足音で大和ってことはないよな。もしそうだったら詐欺で訴えられるレベルだろ。だとしたら相模か、その取り巻きか……てか一色の友達もだけど、名前が一致してない奴ばっか一気に来られても厳しいよな。しかも女性率が異常に高いし、この状況って実は詰んでねーか?」

 

 こうなったら一刻も早く関係者全員が集合してくれるのを願うしかないと、八幡が腹を括っていると。

 

「えいっ……あれっ。こんな早い時間なのに、普通に開いてますね~?」

 

 てへっ、ぺろっ、続けてこつんと自分の頭に拳を当てて。

 付近に人影が見えなくとも、一連の流れをいっさい省略することなく律儀にこなした上で、一色いろはは素早く後ろ手に扉を閉めると八幡に向かって真顔を見せた。

 

「せんぱい、ちょっと早すぎじゃないですか~?」

「なんで開口一番文句を言われてるのか、俺にはさっぱり解らないんだが?」

 

 そう言って、わざとらしくふうっと溜息を吐くと。

 軽く首を傾げてから教室の奥にてくてくと歩いて行った一色は、よっこいしょと椅子を引っ張って来ると軽やかな動きでそれに腰掛けて、何故だかほんのり頬を緩めた。

 

「あっ、もしかして~。少しでも早くいろはちゃんと会いたいからって張り切っちゃいました?」

「まさか俺が、大和に早く会いたいとか思うようになるとはなぁ……」

 

 天井の隅に目をやりながら芝居がかった声で応える八幡に対し、それを聞いた一色は瞬時に真顔に戻った。

 

「えっ、じゃあ今すぐ海老名先輩を呼んで……」

「呼ばなくて良いから勘弁して下さい」

 

 八幡がそう言い終えると同時に、「勝利っ!」と口にしながらピースサインを見せつけられた。

 

 こいつに手玉に取られるのも何だか慣れて来たし、どこか妹を連想させるこの仕草を見ていると、誰かと二人きりになるのを恐れていたのが嘘のようだ。だからまあ、こんな程度で調子に乗ってくれるのなら別に良いかと八幡は思った。

 

 あざとい後輩の来訪を受けて緊張感が失せているのを自覚した八幡は、先ほど口に出して警戒していた面々の中に一色を含めなかったことには無自覚だった。

 

 

 たわいもない話をしながら誰かが来るのを待っていると一色の友達四人がなぜか揃って登場したので、事前に考えていたお願いごとをさっそく伝えてみた。

 

 仕事の理由や狙いは昨夜のうちに簡潔にまとめておいたのでそれを説明して、一色にお見送りを頼んだところまではスムーズに済んだのに。

 

「これでまた二人っきりだよねー。いろは、頑張ってね!」

 

 去り際に、こんなふうに茶化されてしまった。

 

 素早く閉じられた扉に向かって一色がぷるぷる震えているので、その後ろ姿を見てぶるぶるとおののきながら。

 頭の片隅では「呼び捨てされる仲になったんだな」と喜びつつも、「勘違いしないのは勿論のこと、勘違いされるような言動も断じて避けるべし」と八幡が決意を新たにしていると。

 

 

「あれっ、こんな時間にメッセージって?」

 

 メッセージの着信音が響いたので、首を傾げながら思わず声に出してしまった。精神的にどっと疲れたせいか手を動かすのが億劫だったので、椅子にどさっと腰掛けた一色はそのまま考察を進める。

 

 友達四人とは別れたばかりだし、ここに来る予定の先輩たちに不測の事態が起きたとも思えない。それなら誰かがさっさと顔を見せに来るだろう。少しずつ仲を深めてきた先輩方とは今は選挙戦で敵同士だ。こんな早朝にメッセージを送ってくるような相手は他に思い浮かばない。

 

 ファンの男の子たちはあちらで勝手に厳しい戒律を設けて、相互監視という名の自粛をしてくれているし。突っ掛かってくる女の子たちは、はっきりと証拠が残るメッセージなんてものを使うはずがない。それは小心者の担任も同じだし、ならば誰が?

 

「俺のところにも来たから、送り主は選管かね」

 

 そんな疑問に事も無げに答えてくれたので、さっきの出来事を無かったことにしようと考えてきらきらした目を向けてあげたのに。このせんぱいときたら、まるで見てくれないのだから腹立たしいにも程がある。

 

 そんな内心を反映してか、つんと拗ねたような仕草を残して、一色はメッセージに目を通した。

 

『いよいよ生徒会長選挙まであと三日!

 今日は各候補から、会長としての基本方針が発表されるかも?

 それとは逆に、立会演説会まで秘密を貫く候補も出てくるかも?

 三者三様の選挙戦を楽しみながら、しっかり考えて投票しよう!

 以上、選挙管理委員会からのお願いでした』

 

 相変わらず独特のノリだなぁというのが第一印象だった。それと同時に、いざ自分が立候補してみると学ぶべき点が多いな、とも思った。

 そうした感想をひとまず胸の奥に仕舞い込んで、一色は当座の問題に触れる。

 

「あ~。そういえばこれ、どうしたら良いですかね~?」

「どうしたらっつーか、城廻先輩が中立の立場でフォローしてくれてるだろ。だから選挙当日まで黙秘でも良いんじゃね?」

 

 じとっとした目を向けて、言葉には出さないけれども「それ、本気で言ってます?」と訴えかけると、たちまち視線を逸らされた。心なしか頬が少し赤くなっているようにも見えるのだが、まさか今さら照れるはずもないだろうし、ということは冗談のつもりだったのだろうか。

 

 わたしを和ませようとしてああ言ってくれたのだとしたら、ちょっと冷たい反応だったかなと軽く反省して。どうせ擬態はバレバレだろうけど真顔よりは良いかと思ってにんまりと微笑みかけてあげると、途端に身震いし始めるのだからよく解らない。

 

 とある部長様の笑顔が原因だとは、さすがに思い付けない一色だった。

 

「でもせんぱい。雪ノ下先輩や結衣先輩が方針を表明して、わたしだけ何も言わないのって、印象悪くなりませんか?」

 

 ならばと真顔に戻って真面目な話を振ってみると、目の前の男子生徒はみるみる落ち着きを取り戻していった。その変化を余すことなく観察した一色が「やっぱり変な人だなぁ~」とごもっともな感想を思い浮かべていると。

 

「まあ、そのデメリットはあるな。けどな、あんま詳しいことを喋りすぎると、立会演説会を待たずして丸裸にされちまうぞ。向こうに対策を立てさせた上で更にその裏をかく、なんて余裕は今の俺らには無いからな。もっと言えば、もし今こちらの弱みを突かれたら、その対応だけで手一杯になるぞ」

 

 現状についての耳の痛い指摘を受けて、一色も思わず渋い顔になってしまった。ぶすっとした表情でも愛嬌が残るようにと訓練はしているものの、あまり長々と人目に晒したいものではない。なので手っ取り早く甘えてみるかと考えて、顔の力をふにゃんと抜くと。

 

「じゃあせんぱ~い。弱みを見せちゃわないように、何か考えて下さいよ~?」

 

「いや……あのな。俺が何か適当な言葉をでっち上げても、それで全校生徒を騙せるかっていうと無理なのはお前も解るだろ。だから、これはお前が自分の言葉で有権者に伝えるべきものなんだわ。突き放した言い方をしたいわけじゃなくて、なんつーか……」

 

 ここまで何の反応も返って来ないとなるとプライドが少々傷つくけれど、とても大事な話をしてくれているのは理解できる。だから「はあ、仕方ないですね~」と内心でこっそりため息を吐いて済ませて。頭を本気モードに切り替えると、八幡の言葉を遮って口を開く。

 

「まあ、そこの部分で手を抜こうとするのは確かにダメですね~。雪ノ下先輩は当然として、結衣先輩も自分の言葉で訴えて来るって、せんぱいは考えてるんですよね?」

「その辺は由比ヶ浜も本能で理解してるだろうし、三浦や海老名さんも横から指摘するだろうからな。お前だけが原稿棒読みとか、その場しのぎの発言を繰り返してたら、とたんに窮地に追い込まれるぞ?」

 

 一色は首を大きく動かして、八幡の言葉になるほどと頷いた。

 言葉にすれば当たり前の事だけど、あの二人と自分は同じ候補者という立場なのだと実感できた気がしたのだ。

 

 

 男子から特別な扱いを受けるために、一色は長年にわたって自分を磨いてきた。同性から何を言われようとも男受けを重視して、ほんの些細な言葉遣いや細かな仕草に至るまで気を配って改善を続けてきた。

 

 だがその努力は他人には見えないものだ。それに過程が目的ではなく結果が目的である以上は、自分がいかに努力したかを切々と訴えたところで意味がない。

 

 それでも、一色が獲得した人気を「なんの努力もなしに」とか「生来の見た目の良さで」とか言われるとやはり腹が立つ。

 だって、努力していないのはわたしではなく、それを口にしている当人なのだから。

 

 一色に言わせれば、それは努力をしない言い訳を述べているに過ぎないし、一言で片付けるなら「人のせいにするな」となる。あるいは「いい迷惑だ」とも言えそうだ。

 今までの一色は、そう思っていた。

 

 けれども視野を広げてみると、並外れた努力をしているのは自分だけではなかった。

 

 対立候補の先輩二人は、おそらく一色と同等かそれ以上の努力を重ねて今の地位を築いている。いや、あの二人ならきっと努力なんて思ってなくて、当然のことだと考えているのだろう。雑音などは気にも留めず。それに現状の地位なんてのも通過点に過ぎなくて、もっと先を見据えているのだろう。

 

 なら、自分は?

 

 一色は、目の前のせんぱいに唆されて立候補を決意した時のことを思い出した。

 

 わたしが少しだけ自由を失うことで、この人たちの負担を肩代わりできる。

 どうしても会長になりたいというわけではないけれど、当選したらこの人たちと一緒に仕事ができる。

 

 あの二人に挑んでいる今も思った以上に充実しているけれど、だからこそと言うべきか。この人たちの近くにいたいという想いが以前とは比べ物にならないほど大きくなっている。

 

 だって、この人たちはそんな反応をしないから。

 やるべき事を積み重ねてきただけなのに、それをズルいなんて言うはずがないから。

 それどころか、わたしももっと頑張ろうって思わせてくれる人たちだから。

 

 だから、わたしが会長になってこの人たちの負担を軽くして。

 その代わりに、この人たちがわたしに更なるやる気を与えてくれる。

 

 これは或いは、利己的な理由になるのかもしれない。

 生徒会長という職を私物化することになるかもしれない。

 それでも、わたしと、この人たちと、新しくできた友人たちと、そこから更に直接の繋がりがある生徒だけを含めたとしても、きっと少なくない数の面々に良い影響を与えられる。

 

「……問題は、この気持ちをどこまでオブラートに包んで伝えるかですよね~」

「……ん、ああ。お前の本性を解き放つのは程々にしておけよ?」

 

 割と良い感じのことを考えていた気がした一色だったが、この発言を耳にして何もかもが一気に頭の中からすっ飛んでしまった。

 

「もう~。今ちょっと良い感じで話がまとまりそうだったのに、せんぱいが変なこと言うから~」

「えっ……また俺なにかやっちゃいました?」

 

 八幡の変な口調が逆に功を奏したのか、一色はぷっと吹き出すと同時に突き出していた唇を引っ込めて、眦を下げながらこう告げる。

 

「ふふっ。何でもないですよ~だ」

 

 この土日で、年上の美人や同い年の美女の笑顔を何度も見てきたというのに。

 窓の外へと視線を向けながら考え事に耽っている年下の可愛い女の子から、しばらく目が離せなかった八幡だった。

 

 

***

 

 

 教室が沈黙に包まれてしばらくしてから、んんっと軽く咳払いをした後で八幡が口を開いた。

 

「にしても、あいつら遅いな」

「う~ん、ちょっと見て来ましょうか?」

 

 そう答えた一色は椅子からひょいっと立ち上がると、軽い足取りでドアのほうへと歩いて行く。

 廊下から、がたっと音がした。

 

「……なんで入って来ないんですか?」

 

 はぁっと一つ溜息をついてから勢いよくドアを開けると、そこには総勢九名が控えていた。見るからに異様な集団なので他の生徒たちも敬遠したのか、付近には他に人の気配はない。

 

「いや、こんな張り紙を貼られてたらな」

 

 常になく感情を抑えている様子の一色を見て、びびっていた一同の中で、平然とした声を上げたのは大和だった。

 ドアの裏へと指を向けているので、廊下にぴょこんと首を出した一色がそちらに視線を送ると。

 

『二人きり♡』

 

 びりびりとテープを剥がして紙をぐちゃぐちゃに丸めると、一色はそれを眼鏡の男三人に向けてぽいっと放り投げて。廊下に佇む一同ににこっと笑いかけてから教室に戻ると、九人に向かってひょいひょいと手招きをした。そのまま自身は元の席に戻る。

 

「な、なあ。何が書いてあったんだ?」

「せんぱいは知らなくて良いですよ~。あの娘たちとは、ちょおっと腰を据えて話し合う必要がありそうですね~」

 

 このせんぱいに求めているのは異性としての何かではなく、お互いに気を使わなくて済むという気楽な関係性なのに。その話はあの娘たちにも、この週末にちゃんと説明しておいたはずなのに。

 

 この短時間で何度もからかわれたせいか、八幡の顔をまともに見られなくて。

 だから一色は静かにゆらりと立ち上がると、椅子を八幡から思いっきり遠ざけた。

 とは言っても、せいぜい数メートルの距離なのだけど。

 

 

 距離を隔てて座ったまま身じろぎしない一色と八幡や、教室の外で固まったままの他八名を尻目に、あまり動じた様子のない大和は教室の後ろに積み上げられた中から椅子を人数分だけ下ろすと、廊下の一同を手招きした。

 

「ほら。一色さんが配置を決めてくれたから、この間みたいに円形にな」

 

 この声を受けて進み出たのは眼鏡の男三人衆。すなわち遊戯部の秦野と相模と、誰あろう材木座義輝だった。

 しばらくは大和の指示に従っていそいそと椅子を運んでいたのだが、ふと我に返ったのか。

 

「は、八幡よ。このリア充が我に指図をするなどと、少し見ぬ間にどんな事態になっておるのだ?」

「あー、あれだな。お前がいつもの調子だから珍しく助かったわ。大和はお前と違って最初から協力してくれてたぞ。海老名さんの甘い誘いに乗って馬鹿を見たお前と違ってな」

 

 どうせこんな感じだろうと考えながら八幡が挑発的な言葉を投げかけると。

 

「うぐっ、貴様……後輩といちゃこらしていても八幡の名は伊達ではないということか。だがそれだけに惜しいっ。このままでは大菩薩の名が廃るぞっ!」

「はい。ちょっと中二さんは黙っててくれませんかね~?」

 

 秦野と相模は黒子に徹して静かにゆっくりと椅子を運び続け、廊下にいる女子五人は足を踏み入れるのを躊躇していて。

 そんな状況ゆえにか一色の声はよく通った。そのまま八幡に視線だけをじろっと向ける。

 

「まあ、あれだ。お前が書いた小説を添削してやるとか海老名さんのと一緒に並べてやっても良いとか言われてひょいひょい乗ったあげくに、赤ペンまみれの原稿が返って来たので逆ギレしてたとかそんな感じだろ。お前はむしろ海老名さんの有言実行ぶりに感謝したほうが良いと思うぞ?」

 

 解説役を仰せ付かったのだと受け止めて、八幡が一般人にもよく解るように噛み砕いて説明しながら忠告を口にすると。

 

「八幡よ、それだけではない。我の作品を有名サークルの絵師に見せても良いと……」

「はい、それ以上は興味ないんでもう良いですよ~。じゃあ、次の人?」

 

 あの女狐に裏切られたと訴える切なる声は無情にも遮られ、材木座は目の前の椅子にどさっと腰を下ろすと燃え尽きたかのように身動きを止めた。

 そんな隣席の男を哀れと眺めながら、どうせ見せるだけってオチだったんだろうなぁと八幡が考えていると。

 

「な、ナイトプール年パス持ちで、うちの学年きっての芸能通、もはや芸能人と言っても過言ではないパリピの女王こと一色さんと話せるなんて光栄です。秦野です!」

「ブランド品も似合えばインスタ映えも半端ない、IT企業の社長にも顔が利くという一色さんの選挙に協力できるのが嬉しいです。相模です!」

 

 おそらく彼らなりに一生懸命考えて一色を持ち上げようとしたのだろうけれど、二人が聞き知っていた噂に問題があったのではどうにもならない。

 

「あの子たちが適当に流した噂を、ここまで真っ正直に信じる人たちもいるんですね~」

 

 とはいえ一色が呆れ顔を浮かべてくれたおかげで、二人は九死に一生を得た。

 

 新顔の自己紹介が終わってようやく呪縛が解けたのか、廊下にいた五人の女子生徒が意を決して教室に入ってきた。俗に言う相模南とその取り巻きの五人衆だが、その中にあって一番名前を知られている女子生徒は四人の後ろを大人しく付いてくるばかりで、よく見たら涙目になっている。

 

「うち、まさか二人が……」

「それは誤解だっつーか、頼む、相模、ストップ!」

「えっとぉ~。まさか二人が……何ですか、相模先輩?」

「ひいっ!」

 

 よろよろと近くの椅子まで歩み寄った相模は、材木座の左隣でこちらも灰になった。

 

 

「時間も押し気味だし、さっさと打ち合わせを始めようぜ」

 

 遊戯部の秦野と相模がおずおずと歩み出て八幡の隣に順に腰を下ろすと、その奥の席に座った大和が掠れぎみの声でそう提案した。続けて残りの四人を手招きして、自分と一色の間に二人、その奥に二人という配置で席に着かせる。

 その指先が微かに震えているのが見て取れた。

 

 他に適任が居ないから役割を買って出てくれただけで、この状況を動かそうとするのは大和にとっても厳しいんだなと考えながら。奥の席を指示された女子二人が灰になった相模を持ち上げて両脇から支える位置に座り直したのを見て、今度は八幡が口を開く。

 

「じゃあさっそく、相模グループのお前らに……って言っても相模は無理か。そのな、各自で担当を決めてからF組とJ組に行って、雪ノ下・由比ヶ浜・葉山・海老名さんの四人の様子を探って来て欲しいんだわ。たぶん変な事はなにも起きないっつーか、前もって予定を立ててると思うんだがな。万が一でも予想外の行動に出られると対処できないから、異常なしって確かめるだけでも価値があるんだよな。これ、基本は木曜の放課後まで続けて欲しいんだが?」

 

 四人のうち三人は頷いてくれたものの、残りの一人は首を捻っている。

 

「ちなみに、南が動けたらどうするつもりだったの?」

「できたら城廻先輩のところに行かせたかったんだけどな。それは優先順位が低いし別に気にしなくて良いから、その四人の情報だけは絶対に頼む」

 

「城廻先輩かぁ……言い方からして打ち合わせっぽいし、じゃあ南じゃないと無理だね。あとさ、三浦さんとか戸塚くんとか川崎さんとか、その辺は気を付けなくても良いの?」

 

「その辺りはなんつーか、表立って動くことで効果を最大限に発揮するような面々だろ。だから予測がしやすいし、動いたらすぐに情報が伝わってくると思うんだわ。裏で動かれてもそこまで脅威にはならんと思うし、優先度が低いとこにまで人を割く余裕は無いからな。これが海老名さんや葉山だと何でもないような行動に変な意味があったりするから、直接観察した情報が大事っつーか、そんな感じかね」

 

 おそらく、余裕があるようなら相模の分までと考えて質問してくれたのだろう。そう考えた八幡が説明を終えると、今度は全員が頷いてくれた。

 

「じゃあ南は寝かせておくから、気が向いたら手を出しても良いよ?」

 

 その言葉を耳にして、思わずちょっとだけエッチな想像をしてしまったので八幡が目を泳がせていると、いつの間にか復活した材木座と(おそらく「手を出しても良い」というセリフに反応したのだろう)、並んで座っている遊戯部の二人も同じような状況なのが見て取れた。

 

 このタイミングで、八幡と一色にメッセージが届く。

 

『一色さんの陣営は、今日は集会なしの予定かな?』

 

 思わず一色と顔を見合わせて、お互いがいつも通りの表情だったので普段の調子が戻って来た。

 

「いま選管から確認が来たんですけど~、集会は今日は開かないってことで大丈夫ですよね?」

「だな。今日のところは敵情視察っつーか、お手並み拝見って感じだな。まあ俺は行かないつもりだが」

 

 他の面々に説明がてら先程の話を蒸し返した一色にとっては、返事は予想通りだったものの最後に付け足した情報が意外だった。なのでこてんと首を横に倒して目の動きだけで意図を問うと。

 

「たぶん、雪ノ下と由比ヶ浜は三十分間隔ぐらいで集会を開くと思うのな。放課後になって半時間後に雪ノ下、その半時間後に由比ヶ浜って感じかね。その一時間の間に、ちょっと済ませておきたいことがあるんだわ」

 

 一色の首の傾きがますます深くなったけれど、八幡がこれ以上の説明をする気はないと理解したからか、重ねて問いかけることはなかった。

 

「じゃあ先輩方には本職の情報収集をお願いします。ダミー部隊はこっちで手配しておきますので、勝手に泳がせておいて下さいね~」

 

 そう言ってぺこりと頭を下げる一色に、なぜか二年生の女子四人も律儀にお辞儀を返して。よしっと声を合わせて顔を上げると、彼女らは意気揚々と教室を出て行った。

 

 

 四人の足音が遠ざかって行くのを耳にしながら、八幡が再び口を開く。

 

「んーじゃあ、お客さんが来る前にこいつらの仕事を確認しとくか」

「たしか、俺の提案をこいつらが形にしてくれるって話だったよな?」

 

 大和が補足を入れてくれたので、うむと重々しく頷きながら両脇の三人の顔を順に眺めていると。

 

「相模のねーちゃんから雑な話は聞いてますけど……」

「おい、血縁じゃないって言ってるだろ。久しぶりに顔を出したらいつの間にか姉弟になってたなんて、そんな世にも奇妙な現象が起きるわけない。起きるわけがないんだ……」

 

 灰になったままの女子生徒に対して、いずれも何か言いたい事がありそうな遊戯部の二人だったが、時間が無いので片方の言い分はさくっと無視して八幡は話を続けた。

 

「相模の説明だと不十分だったってことか。まあ相模義弟のほうは落ち着け」

「いや、だから義理でもなくて……」

「材木座が前に言ってたけど、無料のwikiをベースにして一部のページに閲覧制限を設けたりとか編集の権限を絞ったりもできるんだよな?」

 

 往生際の悪いことを呟き続けている後輩を温かい目で見守りつつ、具体的な話に入った。

 

 信頼できる面々が集めて来てくれた情報には限られた顔ぶれしかアクセスできず、一般向けのページには一色の推薦人やファンからの情報をそのまま載せる。誰がどの情報を集めて来たのかは、鍵付きの別ページでしか確認できない仕様にする。

 

「じゃあメインの情報は、誰がどの陣営を応援しているのかを全校規模で網羅すること……で良いんですかね?」

「基本は偽情報なしでな。ぶっちゃけ推薦人の造反とかファンの暴走を防ぐのと、一色の知名度アップが目的だから、面白いことをやってるなって話題に出るような仕様を優先してくれると助かる」

 

 あごに手を当てて八幡の説明に頷きながら、秦野が言葉を続ける。

 

「セキュリティはどこまで凝れば良いですかね。まあ運営に申請すれば不法侵入はほぼ防げると思いますけど……」

 

「もし入れたとしても履歴の改竄までは無理だろうし、それで取引材料が手に入るって考えたら程々で良いかもな。セキュリティの突破に労力を掛けてくれるなら逆に助かるし、まあその場合は盛大にお出迎えしてやってくれ」

 

 そんな事態になったら楽しそうだなと思いつつも私情を挟むことはせず、更なる改良ができないものかと頭を働かせている秦野の横では。

 

「そこで伸びてるやつだけは、比企谷先輩推しって設定にしようかな」

「……後でちゃんと話を聞いてやるからそれは勘弁してくれ」

 

 ぼそっと恐ろしいことを呟かれたので、冷や汗が背中を伝うのを感じながら素直に相模に謝っていると。

 

「ふむぅ、我を推す声もあってしかるべきだと思うのだが?」

「中二さんも寝てていいですよ~?」

「我には三時間もあれば充分ゆえ、ご心配召されるな。して八幡よ、こんなのはどうだ?」

 

 投げやりな調子で一色が口を挟んでもどこ吹く風で、材木座はこそこそと八幡にだけ話しかける。

 

「なるほどな。まあサプライズとしては良いんじゃね。んで、発案者からは他に希望とかないのか?」

「いや、俺の理解を超えた話になってるからな。俺は大人しく一色さんのボディガードでも務めてるよ。ファンがそういう方向に暴走しないとも限らないだろ?」

 

 その発想は無かったなと思った八幡が反射的に思い浮かべたのは、ここには居ない二人。

 

「葉山先輩はもちろんですけど、戸部先輩も腕っぷしだけは頼りになりますからね~」

「まあ、そうだな。お前もいざとなったら大和を生け贄に捧げて逃げろよ」

 

 呆れているようなふくれているような呆れているような微妙な顔つきで一色がぼそっと呟いたので、八幡は慌ててフォローを入れると両手を胸の前で合わせて「南~無~」と口にした。眼鏡三人衆が続けて唱和してくれて、大和も軽く吹き出したので場の雰囲気が軽くなる。

 

 何とか誤魔化せたかなと考えていると、倒れていた女子生徒が「うーん」とか何とか言いながら起き上がった。

 椅子にちゃんと座らせて、ここまでの経緯を説明し終えたところで。

 

 こんこんとノックを告げる音が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 教室に入ってきたのは一年C組の生徒五名とD組の生徒一名。いずれも一色の推薦人に名を連ねている女子生徒たちだった。C組とD組の生徒一人ずつは文化祭の実行委員を務めていて、C組の全員は一色と露骨に対立していた面々だ。

 

「こっちの席に座っていいよ~。え~と、せんぱいの席に相模先輩が移動してもらっていいですか?」

「なあ。それって、俺とお前は立ったままって意味か?」

 

 上機嫌で宿敵を迎え入れた一色はそう言って勢いよく立ち上がると、八幡の問いににやりと返した。

 同じような笑みを浮かべてはっと息を漏らして、八幡はあっさりと相模に席を譲ると一色の背後で腕を組んでだらっとした姿勢で控えている。

 円を描くように置かれた椅子の群れのちょうど中心あたりに立ち位置を定めて、一色は再びふふんと頬を膨らませてから、椅子に座る六人の女子生徒たちに視線を送った。

 

「こっちを見下ろして悦に浸ろうってわけ?」

「まさか~。()()()()選挙に協力してくれる人たちには座ってもらって、わたしは立っていようかなって」

 

「よく言うよ。無理矢理に協力させておいてさ」

「うん、無理矢理は良くないよね~。でも()()()()無断で話を進めてないんだけどな~……あいたっ」

 

 ぽかっと頭を叩かれたので、反射的に両手で頭を押さえてむっとした表情を浮かべつつも愛嬌を残した顔つきで後ろを振り向くと。

 

「いくら他にギャラリーが居ないからって口喧嘩してる場合じゃないだろ。えーと、そこの二人は文実で見た事があるな。あれを経験したお前らなら雪ノ下に投票したいのが本音かもしれないけど、まあ今回は記名投票だしお前らは推薦人だからな。諦めて一色に協力してくれ」

 

 頭をぶったのは貸し一つとして意外と説得力のある話し方をしますね~、などと一色が考えていると。

 

「……その、木曜日に雪ノ下先輩に話した事は伝わってるんですよね?」

「んーと……ああ、俺と雪ノ下の雑談を参考にしたって話な。まあ著作権とか主張するつもりもないし、一色の擁立までは手際も良かったんじゃね?」

 

 そんなのを褒めるとかせんぱいは一体どっちの味方なんですかと、一色がぷんぷんしているのを尻目に話は続く。

 

「文実での活躍を直接見てたから、雪ノ下先輩の事は本当に尊敬してます。けど、先輩がすごくたくさんの仕事をしてたのも知ってるし、そこにいる相模先輩が今はあの時とは違うのも何となく分かります。だから文実組にも『あの二人が一色を応援してるなら』って声は、ちらほらあるんですよ」

 

 てっきり、文実の生徒たちはあいつの信者と化しているのだろうと思っていたのに。意外なことを言われてしまい、八幡が目をぱちくりとさせていると。

 

「たしかに、この人は変わったなって思いますよ。現に俺ら二人も材木座先輩も、この人に説得されてこっちの陣営に来たわけですし」

「うむ、至言である」

「そう言う割には、うちへの尊敬が感じられないんだけど。少なくとも、南先輩って呼びなさいよ」

「え。普通に嫌ですが、なにか?」

 

 材木座の発言を軽く流して、哀れな秦野を間に挟んで相模漫才が始まったので、呆れ顔になった八幡が後ろを振り向きながら口を開く。

 

「あー、もう。お前ら姉弟喧嘩はそれぐらいにしとけ」

「ちょっとヒキタニくん。うちらを姉弟扱いするのは……」

「そう言いながらも相模先輩って、『南お姉ちゃん』とか呼ばれてみたいんじゃないですか~?」

「な、なにそれ。いい響き……あいたっ」

 

 正面から相模の頭に手刀を入れて、おもむろに一年生のほうへと振り向くと口を開く。

 

「なあ。さっき褒めてたのに申し訳ないんだが、こいつのこういう側面も健在だぞ?」

「ヒキタニくん、それどういう意味よ。うちが成長してないってこと?」

 

 自分以外の(一年生も含めた)全員から大きく頷かれて、相模がまたもや涙目になっていると。

 

「そういう面も含めて相模先輩の魅力なんだなって、最近やっと分かって来たんですよ。だから一色のことは今でも気にくわない部分があるんですけど、先輩と相模先輩が応援する限りは、この二人は協力しようと思ってます」

「まあ、推薦人じゃなかったら雪ノ下先輩を応援してたと思いますけどね」

 

 そう言って苦笑する元文実の二人に「そりゃ当然だ」という意味を込めて何度か頷きかけてから、八幡は他の四人に視線を移した。

 

「ていうか、協力するのは強制でしょ。じゃあ仕方ないじゃん」

 

 小悪党の典型のようなやけっぱちのセリフが飛び出したので、これ以上脅すのは逆効果かもしれないと考えた八幡が口を開けないでいると。

 

「推薦人の君らには、情報収集をお願いしたいと思ってる。実は各陣営の支持者の情報をwikiでまとめる話になってるんだけどさ……」

 

 大和が淡々とした口調で仕事の内容を伝えてくれた。

 八幡の予想どおり四人は渋い顔になっている。

 

「情報をどんだけ集めてきたかを競わせるって、マジ発想が最悪なんですけど?」

 

 そんなストレートな嘲りにも目立った反応を見せず、大和がそのまま応対を続ける。

 

「ちなみに発案したのは俺だからな。でな、今みたいに悪く受け取られても仕方がないとは思うけどさ。年パス持ちとか何とか一色さんの()()()()()()()()、今回みたいに内緒で立候補させたところで、君らは何にも変わらないだろ?」

 

 妙に実感のこもった発言が続くので、誰も口を挟めないでいる。

 少しだけ言葉を止めて目の前の床をじっと見つめていた大和が再び話し始めた。

 

「それどころか、こうやって悪事が発覚したら色んな人が敵に回るよな。雪ノ下さんとか隼人くんは勿論だし、ここにいるヒキタニくんとか、うちのクラスの女子三人とかさ。目先の、その……()()()()()()()()()()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()()()って俺は思うのな」

 

「それは……うちもそう思う。今はここに居ないけどさ、うちの友達四人がヒキタニくんの悪い噂を流したの、知ってるよね。嘘ででっち上げた話だって判明してからは風当たりが本当にきつくてさ。自業自得だって言えばそうなんだけど、横で見てても凄くつらそうで、でもうちは一緒に居ることしかできなかったんだよね」

 

「あいつらは、相模さんが一緒にいてくれたから助かってた部分も大きいと思うけどな。俺とか大岡も、戸部が居てくれて……あ、その、戸部と比べるのは相模さんは嫌かもしれないけど、居るだけで元気になれる、みたいな意味でさ」

 

 話の途中で一瞬だけ慌てた素振りを見せた大和だったが、誰も不審に思ってはいないようだ。ほっと胸をなで下ろしながら、自分は卑怯者だなとしみじみ思い知らされた気がして密かに落ち込んでいると。

 

「あれだよな。こいつが文化祭の最初と最後で愉快な姿を披露してくれたから、なんか盛り上がったってのもあるもんな。だから大和が言ったとおり気にすんな」

「ヒキタニくん、それうちへのフォローのつもり?」

 

 秘密をぽろっと漏らしてしまいそうになった自分の発言をフォローしてくれたのが八幡だというこの巡り合わせに、大和は苦悩や後悔を通り越して苦笑するしかなかった。

 だから息を大きく吸い込んで、慣れない語りを継続する。

 

「同じクラスなんだから、その喧嘩はF組に帰ってからな。でさ、wikiの仕様に文句があるかもしれないけどさ。選挙って基本はお祭りだって俺は思うのよ。君らが集めてきた情報がwikiでどんなふうに反映されるのか、俺には想像もつかないけどさ。今届いた情報で、現在の勢力図はこんな感じになりました、とかって変化が見えたら楽しそうじゃん。無茶を言ってるのは自覚してるけど、どうせ協力するなら君らも楽しんで欲しいなって俺は思うな」

 

 何とか言いたいことを喋り終えた大和は、後は任せたと八幡に目線を送った。返って来た視線から「良いところを持って行きやがって」というセリフが伝わって来た気がしたので、ふっと息を漏らして椅子に座り直す。

 

 この時の発言が原因なのか、後に一年生女子四人との間に事実無根の四股疑惑が持ち上がった大和だったが、それはまた別のお話*1

 

 

*****

 

 

 推薦人の中でも一色への反感が飛び抜けていた六人から、少しは前向きな協力を得られる形になって、朝の集まりは無事に終わった。

 

 彼女らに「空き教室まで来て欲しい」と伝えた後は、一色の友達四人は一年C組にて他の推薦人やファン一同の相手をして過ごしていた。

 今日の放課後からは四人の指示のもとに、大々的な情報収集作戦が(とはいえこちらは一般公開前提なので、重要度の低い、言わばダミーの情報収集部隊なのだが)実施される予定になっている。

 

 お昼休みには再び選管からメールが届いて、二陣営の集会開催を伝えられた。

 予想どおりのスケジュールだなと一つ頷いてから、八幡は数学のプリントに目を通す作業に戻る。

 

 そして何事もなく放課後を迎えた。

 

 

***

 

 

 いったん一年C組に集合した一色陣営の一同は、すぐに各々の仕事を遂行するべく散って行った。

 

 いま教室に残っているのは、忙しそうに立ち回っている一色の友達四人を除けば、一色・八幡・相模・大和の四人だけ。遊戯部の二人は部室にて材木座監修のもとでwikiを大急ぎで仕上げている。

 

 周囲が慌ただしいので朝とは違って立ったまま、四人は顔を合わせていた。周囲には声が聞こえない設定にした上で、まずは八幡が口火を切る。

 

「雪ノ下と由比ヶ浜の集会にはこの三人で行ってもらおうと思ってるんだが、何か質問が飛んできても黙秘してたら良いからな。それよりも敵陣をじっくり観察して、どんな些細なことでも良いから情報を多く持ち帰ってきて欲しい。とにかく何をするにも情報が第一だからな」

 

「それは分かるんだけどさ。うちがやったみたいに、もっと大勢を勧誘するんだと思ってたんだけど?」

 

 相模の素朴な疑問を耳にして、話がスムーズに進むことに手応えを感じながら八幡が答える。

 

「実を言うと、今からちょっと勧誘してみるつもりだけどな。口説ける確率が高い連中って、あんま多くは居ないだろ。だからこれも仕事をしてるフリぐらいの扱いで、他に労力を掛けたほうが良いって思うんだわ」

 

「仕事をしてるフリって、それは雪ノ下先輩とか結衣先輩に対してですか?」

 

 相変わらず勘が良いなと思いながら、この面々で話がどんどん早くなっている現状に思わず笑みを浮かべつつ口を開く。

 

「この辺はお互い様だけどな。海老名さんだって、雪ノ下が速攻で運動部と文化部を押さえたから対抗として支持者の奪い合いをしてたけど、あんなのは小競り合いみたいなもんでな。大きな戦に備えて形だけやりあってる程度の意味合いしか無いんだわ。ついでに言うと、それを少なくするために二位・三位連合の話を出したって側面もあるんだけどな」

 

「それって……同盟があるから手を出せないな~って言い訳しながら別のことに労力を掛ける、みたいな感じですか?」

 

「とりあえずは現状維持で休戦しようって話だからな。とか言いつつ支持者自身の意思で応援先を変更するのはもちろん自由だから、説得の成功率が高そうならお互い手を出すけどな。例えば材木座なんて由比ヶ浜の陣営に居たわけだし」

 

 なんだか大人って汚いなぁと相模が顔を曇らせながら呟いているので、八幡は苦笑いを浮かべながらも首を縦に動かして同意の気持ちを伝えておく。そしてふと、同盟を組んだ時に言われたセリフを思い出した。

 

 あの時に、たしか「結局はこっちよりもそっちが得する形になるよ」と言われたのだった。

 

 八幡の数少ない友人にまで両陣営の手が伸びていたのを知った時には愕然としたものだったが、結果的にはたしかにこちらが得している。限られた人材を動かしながら少しずつ数が増えて行くという流れは、きっと対立陣営にはない自分たちだけの強みだろう。

 

 

「で、だ。相模にちょっと頼み事があるんだがな」

「あれだよね。朝言ってた城廻先輩のところにってやつ」

「あの四人から聞いたのか?」

「うん。うちらだけ集会を開かないわけだから、非難とかが来てないかって探って欲しいんだと思ったんだけどさ……」

 

 なるほどなと大和が頷いているが、相模が言い淀んだのはその先まで読んでいるという事だ。

 では一色はと八幡が目だけを動かすと、ぱっと視線が合った。勝ち気そうな目でにぱっと笑うと、そのまま一色の口が動く。

 

「せんぱいは朝から相模先輩に動いて欲しそうでしたけど、あの時点では非難とか来てるわけないですよね。じゃあ、何を狙ってたのかなぁ~?」

「お前な、想像が付くなら言っちまっても良いぞ?」

「えっ、いいんですか?」

 

 そんな二人のやり取りに、残りの二人が盛大に首を傾げていると。

 

「たぶんですけど、せんぱいは城廻先輩に説得して欲しかったんですよね~?」

「ん、正解。まあぶっちゃけ人材が足りてないからな。つっても、相模の意思は尊重するつもりだから問題ないはずだ」

「ですね。だから相模先輩、嫌だったら遠慮なく断って下さいね~」

 

 そこまで言われても見当が付かないので、二人の頭が地面と平行の角度を超えて大きく傾いている。

 

「俺らの思惑は別にして、用事が終わってからも城廻先輩と話を続けて、色んな情報を仕入れてきて欲しいのな。んで、たぶんその流れで提案されると思うんだがな。大和はラグビー部だし一色の友達連中も無理っぽいけど、相模は生徒会に入る気はないか?」

 

「あー、うちが生徒会かぁ……うん。文実の委員長を務めて思ったんだけどさ、うちってそういうのは合ってないなって。だから、ごめん。選挙の協力は惜しまないけど、うちらは生徒会って柄じゃないよ」

 

 少し考えただけで即答した辺りに、相模の成長が感じられるなと八幡は思った。ここまで頼りがいを感じられるようになった人材を手放してしまうのは惜しいけれど、本人の意向を曲げてまで無理強いする気は八幡にも一色にも無かった。

 

「まあ、そうかもな。ほいじゃ、気合いを入れ直して頑張りますかね」

 

 これでますます失敗できなくなったなと考えながら、八幡はまずは当面の仕事に向けて頭を切り替えた。メッセージアプリを立ち上げて、先日の木曜日にも連絡を取った四人に宛てて「一年C組の教室まで来て欲しい」と書いて送信する。

 

 生徒会室に向かう相模を見送って、一色と大和と三人で敵陣営での振る舞いについて打ち合わせをしていると。

 

 連絡を受けた四人が呼び出しを予測していたのか、それとも四人を束ねる元副委員長様に八幡の動きを読まれているからか。

 さほど間を置かずして、文実では八幡とともに渉外部門に属していた四人が揃って姿を見せた。

 

 

「わざわざ来て貰ってすみません。ちょっとバタバタしてるので立ち話で済ませますけど……」

「用件も判るし、気にしなくて良いからな」

「でもさ、思ったより大勢が集まってるんだね。お、珍しい顔じゃん。やっほー?」

 

 四人に向けて歩み寄った八幡が軽く頭を下げると、部門のまとめ役みたいな仕事を多くこなしていた男の先輩が軽い口調で返してくれた。続けて顔の広い女の先輩が口を開いたかと思いきや、知人を見付けたみたいで軽く話し込んでいる。

 

「先輩には協力してもいいかなって思いますけど、一色のためって考えると……」

「俺もこいつに睨まれたくないから、一色の協力はちょっとって感じっす」

 

 続けて口を開いたのは、唐突に持ち上がった取材の話にどう対応したものかと協議していた委員長以下の首脳陣と渉外部門の間で連絡役を務めてくれた、一年生の男女カップルだった。

 

「まあ、お前らは推薦人じゃないし仕方ないよな。先輩たちは……?」

「正直に言うと、去る立場の俺ら三年生があんま表に出るのは良くないと思うんだよな」

「だから、一・二年生の間で一番人気の雪ノ下さんに協力してるんだけどね。と言っても、個人的な希望でも雪ノ下さんが第一候補なんだけどさ」

 

 なるほどと頷きながら八幡は頭を働かせる。

 

 もしも一色が一番人気に躍り出れば、今の話し方からするとこの二人は味方になってくれそうだ。だが思い描いていた予定では、立会演説会の最後の最後でトップに立つ形を目指している。というよりも、それより前のタイミングで対立候補二人を抜き去るのは不可能だと考えているのが正直なところだ。

 

 立会演説会で劣勢の雰囲気を変えることができたら、きっとこの二人を始めとした多くの先輩方が投票してくれて、一色は地滑り的な勝利を手にできるだろう。だが同時に、事前の協力はまず得られないと考えるべきだろう。

 

「じゃあ、あれですね。雪ノ下の応援第一で構わないですし、でももし余裕があったら、二位には一色の名前をって周りに勧めてくれると助かります」

「二位って……それでも良いのか?」

「惨敗は避けたいってこと……ああ、なるほどね。推薦人が勝手に盛り上がったんじゃなくて、って話なんだろうねー」

 

 本気でこちらを気遣ってくれる男の先輩と察しの良い女の先輩に続けて、後輩二人も口を開く。

 

「一色も気に食わないけど、このやり方もどうかと思うので、いいですよ。それぐらいは協力します」

「じゃあ俺も異論は無いっす」

 

 同じ学年だからか以前から事情を把握していたのだろう。きっぱりとそう口にした女子生徒に続けて、カップルの片割れも協力を約束してくれた。

 

「すまん、助かる。わざわざ来て貰って……」

「それは最初に聞いたし、あれだな。お互いの健闘をって感じかな」

「どこまで雪ノ下さんに迫れるか、楽しみにしてるねー」

「一色はどうでもいいけど、先輩のことは応援してますね」

「渉外部門の絆は意外と強いんで、また何かあったら声を掛けて欲しいっす」

 

 八幡の言葉を遮って、四人が順に嬉しい事を言ってくれたので。

 一人一人の言葉に大きく頷き返してから、八幡は渉外部門の仲間四人を見送った。

 

 

***

 

 

 廊下の先から四人の姿が見えなくなったので、八幡は踵を返して教室の奥へと戻る。一色と大和が待つ場所まで辿り着くと、すぐさま声を掛けられた。

 

「せんぱい。そろそろ二年J組に移動しようと思うんですけど~?」

「うげっ、もうこんな時間か。そっちは完全に任せるわ。大和も一色を頼むな」

「おう」

 

 これ以上の会話はもう必要なかった。だから八幡は軽く手を挙げて二人を見送ると、自分の仕事に意識を集中する。

 メッセージアプリを立ち上げて用件を送信すると、すぐに返事が来た。

 

『ちょい話したい事があるんだけど、今どこに居る?』

『勝浦の隣の御宿ってとこ。駅からのルート込みで地図情報を添付したから、悪いけどここまで来てくれ』

 

 予想はしていたけれど、高校からは遠く離れた場所に居る。

 もし尾行されても簡単に巻けることといい、電車での移動時間を省略できるってやっぱ反則だよなぁと考えながら。八幡は急いで教室を出ると校門を抜けて、そのまま最寄り駅へと向かった。

 

 

 御宿の駅を降りて道沿いに進むとすぐに国道にぶつかった。片側一車線の車道を越えて、そのまま数十メートルほど歩いたところで右に曲がる。

 

 民宿や民家が建ち並ぶ小道の先には大きなマンションがいくつか見えた。おそらくは別荘か、あるいは保養施設なのだろう。外見からはバブル期の気配が漂ってくる気がしたけれど、実際のところはよく分からない。

 

 それらの建物を通り抜けると、川沿いの大きな道に出た。進行方向の道路も道幅が増えて車道と歩道に分かれている。

 横断歩道を渡って橋を越えてしばらく進むと、”Amigo Onjuku”という文字を掲げた大きなサボテンの像が現れたので、そこで左に折れて海岸を目指す。

 

 広い砂浜の向こうには網代湾が一望できた。傾きかけた太陽の光をきらきらと乱反射している海面のその先では、水平線が横一文字に伸びている。

 そうした景色を堪能しながらゆっくりと波打ち際まで近づいて行くと、もう十一月も下旬になろうというのに沖合では数人のサーファーが漂っていた。

 

 その中の一人がこちらに向けて片手を挙げて、そして背後を窺うと、ちょうどやってきた大波に乗って一気にざざっと浅瀬の辺りまでやって来た。そこでボードを蹴って再び海の中にざぶんと浸かると、右手で顔を拭い左手では紐か何かを掴んで相棒を曳航しながら近寄ってくる。

 

「耳栓を取るから、ちょっと待っててくれるか?」

 

 その言葉に大きく頷いて、その場でぼーっと突っ立っていると、陸に上がった男がいそいそと動き回り始めた。

 グローブを外してヘッドキャップを取って、くるくると一纏めにしてからビニールの袋に入れて仕舞い込んで。それと引き替えに取り出したシャワーの末端を砂浜に置いてあったポリタンクに突っ込むと、自らはブーツを脱いでバケツの中に両足を入れて頭から水を浴び始めた。

 

「なるほどな。ポリタンクの中にお湯を入れてるのか」

「冷えた身体が温まるのが気持ちいいんだわ」

 

 聞こえなくても良いと思いながら呟いた言葉だったが、どうやら意図は通じたみたいで。にかっと何の屈託もない笑顔でそう言われると、八幡も頷きを返すしかない。

 そのまま苦笑を漏らしていると、なぜか父親に連れられてスーパー銭湯に行った時の記憶が蘇ってきたので、それをひっそりと懐かしんでいると。

 

「ここでシャンプーまで済ませる人もいるんだけどな。あ、ちょい水を飛ばすから離れてくれるか?」

 

 八幡が距離を取ったのを見てから髪をがしがしと乱暴に洗って、電動シャワーを止めると頭を盛大にぶるぶると動かして。ここで耳栓を取ると落とさないようにさっさと仕舞い込んでから、タオルを使って髪の毛の水分を素早く丁寧に吸い取らせていく。

 

「なあ。お前が着てる……スーツって言うのかね。それも濡れたままだと寒そうだし、俺はここで待ってるから先に着替えてきたらどうだ?」

「んー、そうだな。じゃあ悪いけどさくっと着替えてくるわ」

 

 八幡の提案をすんなりと受け入れて、サーファーは荷物を抱えて道路のほうへと去って行った。おそらく海水浴客のための脱衣所か何かが近くにあるのだろう。シャワーが自前なのは、この時期に温水設備は稼働していないという事か。

 

 そんなふうに推測を重ねながら、八幡は秋から冬を迎えようとしている海と向かい合う。穏やかにうねる波をじっと眺めていると、時間が経つのはあっという間だった。

 

 

「すまん、待たせた」

「いや、こっちが時間を取って貰ったわけだし気にすんな」

 

 そう答えながら後ろを振り向くと、そこにはニット帽子を被ってポンチョを着た変な男が立っていた。

 

「温かそうなのは分かるけどな。それ、見た目としてはどうなんだ?」

「見た目なんかを気にするよりは機能性重視だろ?」

 

 そう言って稲村純はにかっと笑った。

 そのまま左のほうを指差して歩き始めたので、ゆっくりと後を追いながら背中に向かって話しかける。

 

「お前のことだから、湘南とかあっちのほうに行ってると思ってたんだがな」

「そっちも考えたけどさ。現実世界に戻った後を考えたら、やっぱ千葉の周辺でって思うじゃん。この辺りは遠浅で波もそんなに大きくないから初心者向けだしな」

 

 正直なところ、八幡は向こうに戻った後の自分をうまく想像できずにいる。この世界に慣れたという理由もあるし、あっちで過ごしていた頃とはうって変わって自分を取り巻く環境が良い方向へと進んでいくので、二つの世界が意識の中でうまく融合できないのだ。

 

 だが大部分の連中にとっては、あっちは帰るべき世界だし、いつか帰ると自分に言い聞かせ続けないとやってられない気分になるのだろう。

 

「んっ、なんか変な像があるな。……ああ、あれが『月の沙漠』の記念像か」

「そうそう。あの童謡のモチーフになったのが、この砂浜らしいな。焼津のほうじゃないかって説もあるみたいだけど」

 

 意外な雑学を披露してくれた稲村が途中で立ち止まったので、八幡もその隣に並んだ。

 

 左手にはラクダに乗った王子と姫の銅像が見えて、右手には白い砂浜の向こうに青い海と水平線が浮かんでいる。そんな環境で、二人は本題に入る。

 

 

「比企谷が俺に会いに来た理由は分かるよ。……一色さんに協力してるんだろ?」

「まあな。京都でお前と話した時には思いもしなかった展開だけどな」

 

 修学旅行の一日目の夜に、偶然こいつと話していなかったら。きっとその時点で、勝利は潰えていただろう。

 だが、今ここでこいつを説得できれば、一色当選の可能性が残る。

 相変わらず首の皮一枚で繋がっているような状況だとしても、こいつが生徒会に加わってくれれば最低限の形が整うのだ。

 

 そしてもう、他に候補はいない。

 

「あの時に、俺の過去の話をしたよな。それを知ってて、それでも俺を勧誘に来たんだよな」

「まあ……な」

 

 稲村が言う過去の話とは、両親が大ファンだというあのバンドの話ではなくて、今年の入学式での出来事だろう。

 

 長い人生の中で、誰しもが三人の特別な異性と出逢う。

 その話を信じている稲村は、実際に入学式で()()()と出逢った。そして即座に、自分にとっては特別でも相手にとってはモブだと思い知らされた。

 

「なあ。俺にこんな事を言う資格があるのか分からんけどな。お前が由比ヶ浜のことを……」

「えっ。俺はべつに由比ヶ浜さんは……?」

「えっ。いや、だってお前あの時に……?」

 

 思わぬ意見の食い違いに、慌ててがばっとお互いの顔を見合わせて。そして同時に勘違いに気付いた二人はぶはっと盛大に吹き出した。

 

「比企谷な、ちょっとこの勘違いはありえねーだろ。由比ヶ浜さんには簡単に返せないほどの恩があるけどさ、特別な異性じゃないっての」

「マジか……。由比ヶ浜の話題になるたびにお前が口ごもってたから、俺はてっきりそうだと思い込んでたわ」

 

 そうだったかなと首を振って、稲村はおずおずと自信なさげに口を開く。

 

「多分だけどな。由比ヶ浜さんのおかげで俺は助かったし、簡単な言葉では表現できないくらい凄い人だって思ってるから、それを勘違いしたのかね。あとは、その、()()()の名前を口に出す時って緊張するからさ。由比ヶ浜さんに続けて名前を言おうとしたけど間が開いて……みたいな感じかもな」

 

「ん、待てよ。じゃあお前にとっての特別な異性って、もしかして……」

「ああ。……一色さんだ」

 

 それを聞いた八幡は心の中で盛大に頭を抱えた。

 

 勘違いが明らかになる前ですら、必死に土下座をして稲村に追い縋って、それでようやく説得できるかどうかだと思っていたのに。

 

 それなのに、今やあいつらと同じぐらい仲が良い(と周囲からは見られているであろう)一色が稲村にとっての特別な異性なら、どの面下げてこいつに頼み込めば良いのか全く分からない。

 

 ただ、もしも事前にそれを知っていたら、ここには来られなかっただろう。だって説得の可能性がまるで見えないからだ。

 

 見込みのない相手と一緒に、生徒会で一年を過ごして欲しい。

 そんな残酷な提案を、誰がどうして口にできるというのだろうか。

 

 けれど事実として、いま俺はここにいる。

 そして俺は、一色を当選させなければならない。

 何故なら、あいつらに負けられない理由があるからだ。

 ならば、どうする?

 

 

「……すまん。それでも俺は、お前に生徒会メンバーとして参加して欲しい」

「理由を、聞いても良いか?」

 

 二人は、絞り出すような声で会話を続ける。事ここに至っては偽りは無用、どころか害悪だ。だから本音を突き付け合うしかない。

 

「あいつらに……雪ノ下と由比ヶ浜に会長職を押し付けたくない。あいつらにはもっと自由な立場で、奉仕部ってな変な名前の部活を通して、この高校に良い影響を与えて欲しいんだわ。あとな、一色が生徒会長になってくれたら、あいつらとの連携も今の城廻先輩と同じかそれ以上に上手く行く。それは俺が全力で保証する」

 

「……一色さん、この数日で凄い勢いで変わってるなって思いながら見てたのな。その横に比企谷がいて、俺はそれが悔しくてさ。でも俺には何もできなくて。……こんな離れた場所までサーフィンに来るぐらいしか、やることが無いんだよな」

 

「なあ……残酷なことを言ってるのは自覚してる。けどな、あの時お前『どうしようもない絶望感に浸れたほうが、きっぱりと次の大波に備えられる気がする』って言ってただろ。今みたいに遠くから眺めてるだけだと、それは無理だと俺は思うぞ」

 

「だからって、お前がそれを言うのかよ。よりによって、お前が、俺に……っ!」

 

 燃えるような眼差しできっと睨み付けられながら、胸ぐらを掴まれそうな勢いでそう言われても、八幡は神妙な顔つきで弁明するしかできない。

 

「お前の過去の話を知ってるのは、本牧と俺だけだからな。それなのに、こんな話を持ち出して……」

「違うっ。話を持ち出されたことじゃない。なんでお前が、いつの間にか、い……一色さんの隣にいるんだよっ。その……俺にとっては違うけど、あの二人だって飛び抜けてすげーじゃねーか。誰にとっての特別な異性でも不思議じゃないだろが。なんで、あの二人で満足してくれないんだよっ?」

 

「……すまん。多分お前が言うとおり、あいつらは俺にとって特別な異性なんだろな。けどな、だからこそ、あいつらを当選させるわけにはいかねーんだわ」

「その為に……一色さんを犠牲に捧げるのか?」

 

「いや、そこはさっき言ったとおりだ。一色がそれを望んでるからこそ、俺も全力で協力できてるって思ってる」

「それが……一色さんの、希望なのか?」

 

 あらんばかりの力をあごの付近に余さず集めて、ゆっくりと一つだけ頷いた。

 それと同時に思い出したセリフがある。

 

「そういえば、お前たしか言ってたよな。『この件だけは例外だ』って。一色が勝手に立候補させられたってのが明るみに出た時に、『知ってしまった以上は、動かないって選択はない』ってな。なのにお前、こんなところで何やってんだ?」

 

 ぎりっと奥歯を噛みしめる音がたしかに聞こえた気がした。それでも八幡は相手を想い遣る感情を捨てて、腐ったと評される目つきの奥にまばゆい光を灯して隣の男を睨み付ける。

 

「俺が知ってる比企谷は、もっと搦め手とか使いそうなイメージだったんだけどな。正面から力押し一辺倒って、なんか心境の変化でもあったのか?」

「さあな。とりあえず俺にとっては、ここは退けねーって話でな」

 

 その迫力に気圧されてか、怒りと嫉妬に支配されていた稲村に少し冷静さが戻った。

 だが、あと一手が足りない。

 

「そういやお前って、入学式の手伝いに行ってて一色と遭遇したんだよな。それで由比ヶ浜に助けられて……待てよ?」

 

「……一色さんが他の一年と揉め事を起こしてたから引き離してな。そしたらお礼を言われたから、そんなのいいって言おうとしたら目が合ってさ。一目で『この娘が特別な異性だ』って思って周りが見えなくなって。何か言うかするかしようとした瞬間に、由比ヶ浜さんが通りかかってくれてさ。あの人が真剣な口調で話しかけてくれたから正気に戻れて、それと同時に向こうにとっては俺はモブだって実感してさ。その後は、まあ、比企谷が言ったとおりだよな。サーフィンに逃げて、今も逃げてる。お前が言ったことは正しいよ」

 

 稲村の語りを聞きながら、頭の中で話をまとめて。八幡がおもむろに口を開く。

 

「入学式の時に一色と揉めてた連中な。そいつら、今回の勝手に立候補の首謀者連中だぞ?」

「えっ……いや、でも……ああ、たしかに、それって有り得るのか」

「ここまで材料が揃ってて、今回の一件に一番最初から関与してて、お前はそれでも傍観を貫くのか?」

「……俺に、選択の余地は無いってことか」

 

 稲村が首をがくっと落としてうなだれている。

 抵抗を諦めたのは見るまでもなく判るけれど、生ける屍を生徒会役員に迎え入れても意味がない。

 だから鋭い視線を緩めることなく隣の男を注視していると。

 

「比企谷が言いたいことは理解できたと思う。他の連中には明かさないようなお前の感情もな。けど俺も、この春から数えて半年以上は拗らせ続けたわけだからさ。選挙当日までには気持ちを入れ替えるから、あと何日かだけ待ってくれないか?」

 

 きっとこれは稲村の意地なのだろう。会った時と同じようににかっと笑って、憑きものが落ちたと言わんばかりのすがすがしい顔を見せつけられた。死地に向かうと知っていてなお覚悟を決めた男の表情がそこにはあった。

 

 同じような顔をどこかで見た気がするなと考えていると、京都であのお調子者のサッカー部員と話をした時の記憶が蘇った。結果的には回避できたけれども、玉砕すると分かっていてなお想いを伝えると決意したあの時の戸部翔の表情が、八幡の脳裏に鮮やかに蘇る。

 

 覚悟を決めて死に向かう人はみな、こうした表情を浮かべていたのだろう。きっと乃木希典も、おそらく藤村操も。戸部も、そして稲村も。

 その列に、次は誰が加わるのだろう。自分が加わる未来は果たしてあるのだろうかと考えながら、八幡は返事を伝えるべく口を開く。

 

「その答えで充分だ。俺らが一色を当選させるから、あいつが会長になった後は、お前らに頼む。……じゃあ、またな」

 

 小さくしっかりと稲村が頷く様子を目に焼き付けて、八幡は独り歩き出した。砂浜を踏みしめるようにして足を運び、駅を目指してゆっくりと進む。

 

 時計を確認すると、予定の一時間がもうすぐ終わろうとしていた。

 

*1
あとがきの最後に補足を付けました。




更新が遅れた事もですし、目安の日時を全くお知らせできなかった事も申し訳ありません。
来月になれば落ち着くはず……と毎月のように願っているのですがままならず、とはいえ作品を放り出すつもりはありませんので、少し気長にお待ち頂けますと助かります。

次回は何とか今月中に更新できるよう頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(6/15,7/4)


■補足:大和の四股疑惑について

 軽く読み流して下さると一番いいのですが、気になる方も少なからずおられるようなので補足しておきます。

 まず作者としては、三股や四股といった噂が立つのは不名誉なことだと考えています。

 古来より「男の甲斐性」という言葉がありますが、これの頭に「浮気は」と付くことがあります。でもそれは「本妻はもちろん浮気相手も経済的に養える」という前提ですし、たとえ複数の女性に手を出したところで男がヒモなら昔も今も蔑まれてきました。

 一方で、「大和が複数の女性と噂になるなんて」と不快に思う読者さんがおられること、つまり三股や四股を「凄いこと」だと受け止める考え方があるのも理解しました。大勢の女性にもてている男を「羨ましい」と思うのは、たしかに納得できる部分があります。

 それらを前提に本話の大和について考えてみますと、
・事実無根であること
・当人がそれを嬉しいとは思っていないこと
・なのに周囲には「有り得る」と受け止められるだろうこと

 以上の理由から、大和にとっては「ご褒美」ではなく「罰」に当たると私は思います。
 一学期の自身の行動が今もちくちくと大和を苛んでいるという、でも他の人から見たらちょっと羨ましいという、そんな微妙な余韻を残した終わり方を狙って「四股」描写を入れました。


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11.もう決意は変わらないと彼女らは堂々と宣言する。

文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→154p1


以下、前回のあらすじ。

 打ち合わせのために早朝に登校した八幡は、他の面々を待ちながら一色と二人きりの時間を過ごしていた。会長としての基本方針を自分の言葉で語るようにと促された一色は、それを頭の中で少しずつ固めていく。

 二人の仲をからかう声には手を焼いたものの、仕事の分担は順調だった。一色の友人たちや相模グループの一同には情報収集を、遊戯部の二人と材木座にはwikiの製作を頼んで。大和と相模のおかげで推薦の首謀者たちとも険悪な関係を脱して、少しは前向きに協力して貰えるようになった。

 放課後になって、相模を城廻のもとに派遣した八幡は、文実の渉外部門で特に関係が深かった四人と連絡を取った。引き抜きこそ出来なかったものの、耳寄りの情報を入手してこちらの要望も受け入れてくれて。満足のいく結果を得られた八幡は、雪ノ下の集会に向かう一色たちを見送ると、稲村を説得するために高校を後にした。

 稲村が特別な想いを抱く異性は由比ヶ浜ではなく一色だと知って、説得方法の練り直しもままならない状況で八幡は対話を続ける。できれば秘しておきたかった本音を晒して、稲村の逆鱗に触れかねない指摘を敢えて口に出して、八幡は正面からの力押しで事態の打破を試みる。
 最後に、今年の入学式から続く因縁を示して、八幡はようやく稲村の協力を勝ち取った。



 翌日の火曜日も、比企谷八幡は朝早くから空き教室に詰めていた。

 とはいえ仕事の割り振りも打ち合わせも大部分は昨日のうちに済んでいるので、室内にいる四人からはあまり緊迫感が感じられない。

 

「普通に考えたら、雪ノ下が中央集権的な専制政治を目指して、由比ヶ浜が地方分権的な共和政治を目指しそうなものなのにな」

「雪ノ下先輩はともかく、結衣先輩の説明が分かんないんですけど~。生徒会長選挙で地方分権って何ですか?」

 

 昨日の集会の話は直後に簡単な報告を受けたし、夜には製作途中のwikiを通して(幹部限定という名の裏ページが何だか物々しくて、吹き出してしまったのを覚えている)詳しい状況まで把握できているのだけれど。

 

 それでも面と向かって一色いろはの話を聞いていると、新しい情報は何も無いのに新たな気付きがいくつか出てくるのだから不思議なものだ。

 

「簡単に言えば、特権的な地位をみんなにも分け与えるから一緒に国……っつーかこの場合は高校か。まあ一丸となって盛り上げよう、てな感じかね。でもお前の話を聞いてると、生徒それぞれが個性を発揮するのを生徒会が後押しするって言ってるのが雪ノ下で。それとは逆に、生徒会のために個人個人が可能な範囲で協力して欲しいって主張してるのが由比ヶ浜だろ?」

 

「でもさ、それって結衣ちゃんの立場なら仕方ないじゃん。結衣ちゃんって、雪ノ下さんに負担が集中して無理をさせちゃうのが嫌だから立候補したんでしょ。その気持ちはうちも同じだし、雪ノ下さんの仕事を少しずつでいいから引き受けて欲しいって主張も、解るなあって思ったんだけど?」

 

 正面の椅子に座る一色に向かって話していると、左側から相模南が口を挟んできた。その意見は真っ当で特に異論の無いものだったので、八幡はうむと一つ頷いてから右に視線を送る。

 

「生徒会のためにって部分を見れば集権的だけど、特定の個人に頼らず大勢でって点では共和的だな。逆に雪ノ下さんは、各々がやりたい事を尊重するって点では分権的だけど、生徒会という組織に立ち入らせる気が無さそうなのは専制的だよな」

 

 大和のまとめが八幡の予想を大きく超える的確なものだったので、思わず目を見開いて反応してしまった。

 すると大和は少しだけ視線を床に落として、申し訳なさそうに付け加える。

 

「ここまで固い言い方じゃなかったけど、昨日ここに来た推薦人の……うん。あの子らがそんな感想を言ってたからさ」

「なるほど~。その手の距離の捉え方は、男の人よりも女の子のほうが敏感かもですね~」

 

 そう言い終えると同時に、なぜか急にはっと身を固くした一色がかろうじて平静を装っている。

 

 敏感という言葉でからかわれた先日の一件が頭を過ぎったんだなと思い付いて、どくんと鼓動が跳ねる。内心の焦りが表情に出ないようにと、ごくんと唾を飲み込んだ八幡が密かに身構えていると。

 

「でもさ。そういう雪ノ下さんの、超然としたって言うのかな。人を寄せ付けないみたいな部分は葉山くんが上手く補ってるよね。規制緩和の話とか、うちも良いなって思ったしさ」

 

「ああ、あれな。修学旅行中に在校生と連絡が取れないとか意味が分からんって、京都に居る時から言ってたもんな。雪ノ下なら正論で訴えると思うんだが、同じような事を思った奴らに共感って形で訴えるのは葉山の上手いところだわな」

 

 そういうところがいけ好かないんだよなあと思いつつも、この三人の前で口にするのは憚られたので八幡は口をつぐんだ。

 それを目ざとく確認して、ほんの少し頬を緩めた一色は、何でもない顔をしながら口を開く。

 

「全校生徒のためにって姿勢をアピールしながらも雪ノ下先輩は専制的で、みんなで少しずつ負担をって言いつつも結衣先輩は共和的で。じゃあわたしは、う~ん、どうしよっかなぁ?」

「お前の場合は、アイドル的って感じで良いんじゃね?」

 

 思わず反射的に「は。何言ってるのこの人?」という顔を向けそうになって。直前で何とかブレーキを踏んだ一色は、今にもぴくぴくと動き出しそうな目の横のあたりの筋肉を意思の力で押しとどめながら、軽い口調でそれに答える。

 

「つまり、みんなに協力を呼びかけるけど特権も渡さない、みたいな感じですね?」

「それ、一番たちが悪いやつなんだよなあ……」

「もう、せんぱいが言い出したんじゃないですか~!」

「まあ、そうなんだがな」

 

 あっさり認めるとは思っていなかったので、二の句が継げない一色が口をぱくぱくさせていると。

 

「その……みんなに協力を呼びかけるってことは、雪ノ下さんは勿論だけど一色さんの負担も減らせるんだよね。うちら最初はヒキタニくんの為にって理由だったけど、今は本当に当選して欲しいなって。でも、それで負担を押し付けちゃうのは嫌だなって思っててさ……」

 

 何だかんだで根は善良なやつなんだよなと八幡は思う。とはいえ相模がここまで親身になるのは意外だなと考えていると、大和の声が聞こえて来た。

 

「実は俺、相模さんの気合いが先週と比べて段違いだなって昨日も思っててさ」

「えっ、うん。だって当然じゃん。うち、『お姉ちゃん』って呼ばれたからにはさ……」

 

 大和も同じような印象を受けたんだなと考えながら耳を傾けていると、予想外の話が飛び出した。

 そういえば昨日そんなことを言っていたなと思い出して一色の顔をじろりと見ると、相模には見えない角度でぺろっと舌を出しながら、心なしか困惑しているようにも見える。

 

 今なお口を動かし続けて頼れるお姉ちゃんをアピールしているその横顔を、ちらりと眺めて。会うたびにちょろくなっている気がするのだが本当に大丈夫なのだろうかと内心で首を傾げつつ、八幡は相模の語りが終わるまで頭を働かせるのを止めた。

 

 

「じゃあ、そんな相模先輩に報いるためには……結衣先輩と歩調を合わせて、雪ノ下先輩に負担が集中するのは絶対反対だって主張しながら~、でもみんなの負担は重くないよって訴えるぐらいが良いかもですね~」

 

「えっ。でもそれってさ、結衣ちゃんが求める負担よりも軽く済むって意味だよね。でもさ、うちらも選挙が終わったらどこまで協力できるか判んないし……?」

 

 相模が喋り疲れた一瞬の隙を突いて一色が口を挟むと、呼ばれ方が望んでいたものとは違ったからか瞬時に涙目になっていた。

 それでも相模は健気に、そして意外と適切に問題点を指摘する。

 

「その秘訣は、俺がさっき言ったアイドル的って部分にあるんだわ。まあ内心はともかく、少なくとも外面的には喜んで協力してくれる連中に丸投げすれば、みんなが幸せになれるだろ?」

「つまり、みんなに負担を求めるんじゃなくて~、特定の人たちに外部委託しちゃえばいいって話ですよね~」

 

 敢えて含みを持たせる言い方をしてみたものの一色にはどうやら真意が伝わっているようで、補足と一緒ににこっと笑顔を贈られてしまった。八幡は苦笑するしかない。

 相模と大和は言葉どおりに受け取ったのか少しだけ身を引かれている気がするのだけれど、それも仕方が無いだろう。

 

 そして八幡が推測したとおり、一色のファンを憐れんでいた大和が口を開く。

 

「そういや例のwikiは、一色さんのファンが情報収集のついでに宣伝して回るって話だったよな?」

「だな。てか発案者として、初回の勢力分布を見てどう思った?」

「まあ……分かってはいたけど厳しいな。一色さんの支持者はほぼ網羅して、それでもあの数字だろ?」

 

 誰がどの候補を支持しているのか。それをまとめるのがwikiの本旨なので、全校生徒ひとりひとりにページが割り振られている。そこに至るには検索をかけるか、あるいはトップページからリンクを辿っていく必要がある。

 

 トップページの案として、いくつか提示された中から八幡たちが満場一致で選んだのは、最新の勢力図を大々的に表示するデザインだった。

 

 その下にクラス別、更に下には五十音別のリンクが貼ってあり、どれを選んでもトップページと同様に、その集団における支持者の割合が大きく表示される。例えば二年F組では、例えば「あ」で始まる生徒の中ではどんな分布になっているのかが一目で確認できる形だ。

 

「わたし的には、もっと少ないかもな~って覚悟してたから、意外と高いなって思ったんですけどね~」

「えっ、そうなの?」

「あれっ。相模先輩はどう思ったんですか?」

 

「うち、あれを見た時に、一色さんがショックを受けてないかなってちょっと心配したんだけどさ。やっぱうちらと違って、一色さんって打たれ強いっていうかメンタルが凄いよね。これでも一年先輩なのになあ……」

 

 同性からの反感をどこ吹く風と受け流してこの半年を過ごしてきた事からも判るとおり、一色のメンタルが強いという話は同感なのだが。それと同時に相模のメンタルが弱すぎるという側面もあるのではないかと八幡は思う。もちろん口には出さないけれども。

 

「俺も相模さんと同じで悲観的に考えるほうだけど、一色さんの受け止め方は違うんだな」

「それな。まあざっくり言うと、雪ノ下が4割強、由比ヶ浜が4割弱で、一色が2割弱だろ。この数字を『半分もない』って考えるか、『半分近くもある』って考えるかは性格の違いが出るよな」

 

 ぼそっと呟いた大和のほうに顔を向けて反射的に答えると、左目の端のほうで一色が苦笑しているのが見えた。

 

「せんぱいも悲観的に考えるほうですよね~。わたしは雪ノ下先輩が5割弱で自分は1割強だなって思ったんですけど、せんぱいの言い方だと印象が違いますね」

 

 特に強がりも焦りもなく冷静に現状を受け止めている姿を見ていると、こちらまで気持ちが楽になるのだから。一色のこうした部分は地味に凄いなと思いながら八幡が口を開く。

 

「まあ、あれだな。お前の反応を見てると、こっちが配慮してるのが馬鹿らしくなって来るよな。あ、いや、茶化したいわけじゃなくてだな。この選挙戦が始まってから何度か思ったんだが、お前って意外と会長が合ってるなって思うんだわ」

 

「あ、それ、うちも同感。年下なのに頼りがいがあるっていうかさ。むしろ、その……いろはお姉ちゃんって……」

「喜べ一色、年上の妹ができるぞ。ついでに言うと小町は俺の妹だから、お前にはやらんからな!」

 

 またもや相模の迷走が始まりそうだったので、言葉の途中で強引に介入すると八幡は全力で話を逸らした。

 しかし、空気を読まない唐変木が口を挟んでくる。

 

「でもさ。ヒキタニくんの妹さんが義理の妹になる可能性はあるだろ?」

「えっ。やっぱり二人って……じゃあ、うち……」

 

 二人同時にきっと視線を向けて、笑えない冗談を口にした大和を目の力だけで焼き尽くしてやろうかと考えていると。

 四人は同時にメッセージの着信音を耳にした。

 

 

『いよいよ投票日まであと二日!

 今年の候補者って奉仕部と縁が深いよね。

 奉仕部と次期生徒会って、どんな関係になるのかな?

 もしかして、立会演説会まで秘密なのかな?

 今日も各陣営の動きから目が離せない!

 みんなも一緒にこの選挙戦を楽しんで、よく考えて投票しよう!

 以上、選挙管理委員会からのお知らせでした』

 

 この天佑を活かさない手は無いと考えて、八幡は敢えてのんびりとした口調で話を始めた。

 

「ちょっと雑談が過ぎたな。今日の集会をどうするかって話と、あとwikiの裏ページで見たんだが反感が思ったよりも多いらしいな。その話をもうちょい詳しく知りたいんだが?」

「あ、うん。えっと、うちが聞いたのは、城廻先輩のところに届いてるぶんだけで……」

 

 予想どおりではあるのだけれど、一色が集会を開かないのは怪しからんと訴えて来たのは、ほぼ百パーセントが女子生徒だった。ほぼと付くのは連名があったからで、実質的には百パーセントと言って差し支えない。

 

「まあ、あれだな。相手にされないよりは反感を持たれてるほうがまだ良いのかね。つか今思ったんだけどな、ファンの男連中が集会を開いて欲しいって言い出さないのは何でだ?」

「だって集会なんて開けば大勢が集まって来ちゃうじゃないですか~。集会が無くてもわたしが居なくても、あの子たちは今も律儀に一年C組まで来てると思いますよ?」

 

 そういう事かと納得するしかない八幡だった。

 両隣を見ると相模も大和も苦笑している。

 

「わたしが当選したら壇上に上がった姿とかを頻繁に見られるから全力で応援する、って言ってたみたいですね~。さっきせんぱいがアイドル的って言ってましたけど、ざっとこんなもんですよ!」

 

 頑張って胸を張ってふんぞり返ろうとしているものの、さすがの一色もここまでの扱いを受けると落ち着かないのかセリフが少し棒読みだし、肩先や太腿の辺りにもほんの僅かではあるけれど無理が見える。

 

 だから、それを確認した八幡はこう告げた。

 

「ほいじゃ、そいつらが調子に乗らないように、今日は集会を開くとしますかね」

「えっ、でも……奉仕部との関係とか、仕事をどんどん押し付けられたらいいな~ぐらいしか考えてないんですけど?」

「おい」

「てへっ」

 

 いくら可愛らしい仕草で誤魔化そうとしても、今さら騙される八幡ではない。たしかに可愛いけれども、一色の本性は先刻お見通しなのだ。たしかに可愛いけれども。

 

「ううっ、やっぱり一色さん可愛い。うち、お姉ちゃんでも妹でもいいから……あいたっ」

 

 血迷いそうになった自分への戒めもあって、少し強く叩きすぎてしまった八幡だった。

 相模が両手で頭を押さえながら恨めしそうに上目遣いで見つめてくるので、よけいに罪悪感が募る。

 なので強引に視線を逸らして、右側の男に助けを求めると。

 

「相模さん、一学期はこんな感じじゃなかったはずだけど……ヒキタニくんの前だからか?」

「おい。大和もさっきから恐ろしい事をさらっと言うよな。てか時間の問題もあるから話を戻すぞ」

 

 ここで少しだけ間を置いて、唇を舐めて湿らせてから話を続ける。

 

「どっちみち一度は集会を開かないと、さすがに非難囂々だろうからな。問題は今日にするか明日にするかって話なんだが、投票前日に黙秘多めの集会を開くよりは今日の方が良いと思うんだわ。基本方針はさっき一色が言ってたとおり、大枠では由比ヶ浜と同調して雪ノ下に対抗しつつ細かい部分で差異をアピールする感じで、あとは一色が思うとおりのことをお前の言葉で伝えてくれ。奉仕部との関係は、アウトソーシング先ぐらいの説明で良いんじゃね。仕事をどんどん押し付けるとか言ったら部長様がお怒りあそばされるから、ほどほどにしておけよ。あと、……」

 

 一気にまくし立てる八幡の言葉を、しっかり記憶に刻みつけながら。ありがたいのは確かだけれども過保護だなぁとも思いながら、一色は喋り続ける八幡をじっと見つめている。

 

 自分がどんな表情を浮かべているのか自覚していない一色は、その顔を両隣から見られていることにも気付いていなかった。

 

「じゃあ、結衣先輩の三十分後にお願いしますって選管に伝えておきますね~」

「ん、それでたぶん大丈夫だろ。あ、そういや相模は役員の話を……」

 

「うん。ヒキタニくんが言ってたとおり、生徒会に入るのはどうかなって言われてさ。でも、うちらには無理だって断って……けど後になって思ったんだけど、役員の数が足りてないんだよね?」

 

 顔の向きを一色に八幡にと左右に頻繁に動かしながら、目はそれ以上に落ち着きなくきょろきょろさせている。それでも膝の上に置いた手は強く握りしめたままで、一度下した決断を翻すつもりは無さそうだった。

 

「そのへんは仕方ないから気にすんな。とりあえず生徒会は少数精鋭って形にして、外部委託を増やす方向で何とかなるだろ。奉仕部との関係って点でもそっちのほうが説明が楽だしな」

「でもでも~、あと一人ぐらいは欲しいんですけどね~?」

 

 そう言って一色がじろじろと見つめてくるので、察しが良いなと内心では感心しつつも表には出さない。気持ちの整理が付いたという連絡が来るまでは、あいつの話は伏せておくべきだろうと八幡は思った。

 

「そう簡単に言うけどな。お前って入学式早々に問題を起こしたんだろ?」

「あれは突っ掛かって来られたからで、わたしは被害者なんですけど~?」

 

 たしかに一色の言い分には一理あるので、まあなと一言だけ返して八幡はあっさり引き下がった。

 

 いずれにせよ一色が一色である限りは、つまり言動に大きな変化でもない限りは、遅かれ早かれ女子生徒から敵視される状況に陥っただろう。だから結局は今と同じような悪評が立って、役員のなり手がないという現状に繋がるのだろうなと考えて。

 八幡は思わずははっと息を漏らしてしまった。

 

「せんぱいが何を思い出して笑ってるのか分かんないですけど~。ちょっと見た目があれなので、気を付けた方がいいですよ~?」

「うん。今のはうちもちょっと……キモいかもな、って」

 

 女子生徒二人からダメ出しを受けて、八幡は続けてくくっと笑いを漏らしそうになったのを必死で堪えた。そして心の中で思う。

 あの二人に会いたい、と。

 

「そういや、お前が入学式で揉めた相手が推薦人連中なんだよな?」

 

 その想いを心の奥深くに沈めて、八幡はふと浮かんだ疑問を尋ねてみようと思い立った。

 

「ですね~。このままだと腐れ縁って感じになりそうで……」

「その時に助けてくれたのが、あれだよな。その……」

「ああ、はい。結衣先輩ですね~」

 

 やはりあいつが言ったとおり、一色にとっては単なるモブだったのだろう。

 

 確認しておくべきだと思ったからこそ話題に出したのだが、興味本位という側面があったことも否定はできない。そして予想どおりの返事を受け取ったのに、なぜか悔しいと思っている自分がいる。申し訳ないと思う自分もいるし、同時にほっとしている自分もいる。

 

 自分にとっては特別なのに、相手の目にはこちらの姿が映っていない。

 それを自覚した瞬間のあいつの心情を思うと、いたたまれない気持ちになる。

 

 京都で話をした時は、一色とは無関係だという素振りをしていた。

 それを昨夜家に帰ってから思い出したのだが、あの態度が自然に見えたのは深い諦観があったからだろう。一方で、暴走を未然に防いでくれたとあいつが恩に感じていたからこそ、俺は想い人を勘違いしてしまったのだ。

 

 頭の中で思い浮かべている対象がサーファーから部活仲間に変わっても、八幡の物思いは止まらなかった。

 だから一色の返事に呆れの色が混じっていた事にも、悩ましい表情をばっちり見られている事にも、八幡は気付いていない。

 

 

 しばしの間を置いて、朝はこれにて解散となった。

 空き教室から出て行く際に、大和と相模は顔を見合わせて「やれやれ」という気持ちを共有した。

 

 

***

 

 

 お昼に三陣営の集会予定が伝えられたぐらいで、あとは平穏に時間が過ぎて放課後を迎えた。

 朝から口コミで広めていたwikiは知名度も評判もなかなかのもので、遊戯部の部室は意気軒昂だという話だ。

 

 そして今、八幡は高校から個室を経由して自宅に戻ると、独りの時間を満喫していた。

 

「まあ、昨日は姿を消しておいて今日は平然と集会に参加してたら怪しいにも程があるからな……」

 

 誰に聞かれているわけでもないのに、言い訳がましい独り言をつぶやく八幡だった。

 そのまま小声で口に出しながら考えをまとめていく。

 

「このwikiの裏ページがリアルタイムで更新されるのは助かるな。少し古めの情報もうまいこと整理して載せてるし、後で差し入れでもしてやるか。情報収集に人を割きすぎたかなって思ってたけど、一色のファン連中がこれだけ乗り気なら問題なさそうだし。あとは前日の時点で最低でもあいつらの半分ぐらいの支持を集めて、当日で逆転……って、無謀に無謀を重ねるだけの、作戦とも呼べない代物だよなあ……」

 

 それでも、この綱渡りを続ける以外に打つ手はない。

 

 幸いなことに、二陣営の集会は可もなく不可もなくという内容で終わりそうなので助かっているけれど。あいつらがいつ攻勢に出てもおかしくないだけに、タイミングの見極めを間違えてしまえば命取りだ。

 

「じゃああの人にメッセージを送って、材木座にも一言入れてと。あとで忘れないように、編集を部分的に開放する件も書いておくか。……よし。そろそろ俺も一色の集会に向かうとしますかね」

 

 時間の余裕をたっぷり取って、八幡はおもむろに立ち上がると一年C組へと移動した。

 

 

*****

 

 

 教室に入ると、既に集会の準備が整っていた。クラスを前後に三分割したうちの中央部分は椅子で埋め尽くされていて、後ろ三分の一には何もない。おそらくは立ち見用のスペースなのだろう。

 

 部屋の前方左側には斜めに机が置かれていて、その奥に椅子が二つ並んでいる。問題は机のこちら側に大きな紙が二つ垂れ下がっている事で、右から順に一色と八幡のフルネームが大書されていた。

 即座にくるりと回れ右をして姿をくらましたくなった八幡だった。

 

「はあ……逆側は二列か」

 

 現実逃避のかわりに部屋の右前に視線を向けると、こちらには机が二つ並んでいた。手前の机が短くて奥が長い。平行に置かれたそれらは斜めを向いていて、左右の机を延長して行くとちょうど直角になるような位置関係だった。

 

 右側の二つの机にも大きな紙が貼られていて、手前の短いほうには左から順に雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の名前が、奥の長いほうには葉山隼人・戸塚彩加・海老名姫菜・三浦優美子の名前がある。

 

「最初の雪ノ下先輩の集会がこんな感じの配置だったんですよ。向かって左側に葉山先輩と並んで座っていて、右側の奥には相模先輩と大和先輩の席があって」

「もともと奥には比企谷先輩の名前があったみたいで、参加者を伝えた時に変更したんだろうなって一色が言ってました」

 

 背後から説明の声が届いたので振り返ると、元文実にして一色の推薦人でもある二人の女子生徒が、少しはにかみながら並んで立っていた。余計な口を利いたかなと、あるいは馴れ馴れしい口調だったかなとびくびくしているのが伝わって来たので、軽い口調で応える。

 

「なるほどな。でも、俺の名前だけが場違いなんだよなあ……。つかパネリストが並んでるみたいな感じなんだが、相模は大丈夫だったのか?」

 

「かちんこちんって、あんな状態を言うんだなーって」

「雪ノ下先輩も由比ヶ浜先輩も気を使ってくれて、話を振らないようにしてくれたので大丈夫でしたよ」

 

 それは良かったと思いつつ、報告に上がっていないのを問題にすべきか否かと八幡が考えていると。

 

「あっ、あの先生がC組の担任です。教室の後ろと体育館を繋げに来たのかな」

「今は由比ヶ浜先輩のクラスと繋がってるんですけど、そのままこっちに繋げると移動しなくて済むから楽なんですよ」

 

 ふむふむと頷きつつ教師の動きを見守っていると、教室の後ろの壁がたちまち忽然と消えて、その向こうには板張りの床が続いている。

 体育館には大勢の生徒が集まっていて、最前列には見知った顔が並んでいた。

 

「さすがに一色さんの集会には顔を出すのね。昨日・今日と何をしていたのか、さっそく問い詰めたい気もするのだけれど?」

「ヒッキーだし、とんでもないことを企んでるかもしれないけどさ。いくらゆきのんでも、無理に聞き出すのは良くないよ?」

 

 雪ノ下から伝わって来る圧力は、何度経験しても慣れないし。

 それを軽くたしなめている由比ヶ浜の存在感も、一緒に部活をしていた頃とは違って途轍もなく大きく見える。

 

「そんなに買い被られても何も出ねーぞ。せいぜい、叩いたら埃が出るぐらいかね」

 

 何とか口を開いて言い返してみたものの、二人はふっと笑いを漏らしただけで動じた様子はかけらもない。

 

 このまま睨み合いが続いたら神経がすり減りそうだなと考えていると、思いがけずすぐ横手から小声で話し掛けられた。

 

「埃って言えば、せんぱいって、いつの間にその子たちと仲良くなったんですか?」

 

 いつの間に近づいていたのだろうか。

 味方のはずの一色から抑揚のない声で一番返事に困る質問を投げつけられたので、八幡は背中をしゃんと伸ばして目を白黒させるのが精一杯で、目立った反応ができそうにない。

 

「ま、その話はあとでじっくり聞きますね~。じゃあ、雪ノ下先輩と結衣先輩はあちらへどうぞ~。後ろに座るのは、葉山先輩と戸塚先輩で大丈夫でしたよね。海老名先輩と三浦先輩もあっちですよ~」

 

 八幡と横にいる女子生徒二人だけに聞こえる声でそう告げると、一色は大きく後ろを振り返って対立候補とその腹心たちを招き入れる。

 だがそこで待ったの声が上がった。

 

「あのさ、あーしと隼人の席を端にしたのってわざとだし?」

「まさか~。そんな小細工をするわけないじゃないですか~」

 

 しょっぱなから前途多難だなと思いつつ。ひとまず虎口を脱したのでほっと胸をなで下ろして、一色の指示を待たずに大人しく席に向かう八幡だった。

 

 

 居心地が悪いなあと思いながらも我慢して席に腰掛けて、八幡は教室を一望した。

 

 椅子に座っているのは各陣営の幹部連中ばかりで、その中には柔道部の城山や野球部の大岡の姿もある。その隣には対立陣営なのに仲良さそうに話している戸部翔が座っていて、大和と相模が並んでいるのも確認できた。他に見覚えのある顔としては女テニの部長もいる。

 彼女が審判を務めてくれた春先のテニス勝負を懐かしんでいると、ふと川崎沙希が居ないなと気が付いたので。最前列に三つ空席があるのでそこに来る予定なのか、それとも二年F組で留守を預かっているのか。おそらく後者だろうなと八幡は思った。

 

 それに対して一般の生徒たちは立ち見が基本なのだろう。教室内は一色のファンで埋め尽くされていて、無駄に統制が取れているのが微笑ましいというか何というか。

 

 体育館に回った一色ファンも率先して動いていて、生徒の群れを整然と並べるべく全力を尽くしていた。おかげで混乱は起きそうにないけれど、もしかして自分たちの陣営だけ雰囲気が違うのではないだろうかと素朴な疑問が湧いて来る。とはいえ今更なので修正する気もないのだけれど。

 

「意外と大人しく座ってるんですね~」

 

 隣の席にひょいっと腰掛けて、一色が小声で話しかけてきた。先程とはうって変わって機嫌が良さそうなので、ほっと肩の力を抜いて隣の後輩に視線を送ると、眩いばかりの笑顔に出迎えられた。思わずどきっと胸が跳ねる音を響かせてしまった八幡だったが。

 

「三浦先輩の主張は無事に却下して来ましたし、これって幸先いいですよね~!」

 

 ああ、うん。一色ってこういう奴だったよなと一瞬で冷静に戻った八幡だった。

 

 

「お待たせー。じゃあ定刻になったので、私たち選管の立ち会いの下で一色さんの集会を開催します!」

 

 教室に入って来るなり城廻めぐりはそう宣言すると、後ろに従う男女二人を引き連れて空席に向かった。

 次期副会長が内定している本牧牧人と、書記を務めることになる藤沢沙和子が城廻と並んで腰を下ろすのを待って、まずは一色が席を立って口を開く。

 

「えっと、これだけ多くの人がわたしの集会に集まってくれて、ありがとうございます。生徒会長候補の一色いろはです。まずは会長としての基本方針をお伝えしますね」

 

 語尾を伸ばすのはやめて、口調も少し丁寧になってはいるものの、いつもの話しかたとそう変わらない。緊張の気配はまるで無いし、ファンの心を捉えて離さない一色の魅力はかけらも失われていない。

 大したもんだと思いながら、八幡はすぐ隣から聞こえて来る声に耳を傾ける。

 

「わたしが立候補したのは、一つは結衣先輩と……いつもの呼びかたをさせて下さいね。その結衣先輩と同じで、雪ノ下先輩に負担が集中するのは嫌だなって思ったからです。そして二つ目は、お二人が所属している奉仕部と、一緒に仕事をしたいなって思ったからです。だから奉仕部は今の三人のままで、それとは別にわたしが生徒会を主催して、城廻先輩の時と同じように親密に協力し合って、この高校を盛り上げて行けたらいいなって思っています」

 

 そこまで一気に語り終えるとぺこりと頭を下げて、ファンの拍手と野太い声に促されて顔を上げた一色はあっさりすとんと腰を下ろした。

 

「思ってた以上にすんなりと奉仕部との関係まで説明できちゃったので、あとはせんぱいにお任せしますね~」

 

 小声で恐ろしいことを告げられて、とはいえここまで来たら逃げも隠れもできないわけで、仕方なく八幡は腰を上げた。

 

 

「一色を応援している比企谷です。大勢の人たちに集まって貰えて恐縮です。わた……言葉の座りが悪いので、俺と自称させて下さい」

 

 一色の話しかたを参考にして何とかそれっぽく喋ってはいるものの、付け焼き刃な感じは否めない。いざとなったら横から簡単に口を挟むつもりではいたけれど、こんなふうに演説をする羽目になるとは思ってもいなかったのだ。

 

 こうなると判っていたら少しは練習もしたのにと、今さら後悔したところでどうにもならない。だから八幡は今までの経験を総動員して、国語学年三位だと粋がっていたその実力を全てさらけ出す覚悟で言葉を続ける。

 

「俺はさっき一色が話に出した奉仕部に所属していますが、情けないことに雪ノ下と由比ヶ浜のどちらが抜けても今までのような活動は無理だと思います。それは二人に原因があるのではなくて、どちらが会長になってどちらが奉仕部に残っても、それを支える俺の力が及ばないのが原因です。たぶん二人のうち奉仕部に残ったほうは、1.5人分ぐらいの働きをしてくれます。でも残りの0.5人分は、俺だと埋められないんですよ。……だから俺は、会長選挙に意欲を示す一色に助けを求めました。奉仕部が今のままで、一色が生徒会長になってくれたら、城廻先輩の時と同じかそれ以上の相乗効果が期待できると俺は思っています。それが、俺が一色を応援している理由の全てです」

 

 そう言い切ると同時に、力を使い果たしたかのように頭を下げていた。拍手がまばらに起きているのを耳にしながら残る力を振り絞って顔を上げると、もう一度軽く会釈をしてからどすんと椅子に体重を預けた。

 

「せんぱいを知ってる人はそうでもないみたいですけど、知らない人はみんなびっくりしてますよ~。拍手が少ないのは呆気にとられているだけで、せんぱいの演説は思った以上に良かったです。このいろはちゃんが保証しますし、あとは任せて下さいね~」

 

 そんな一色のねぎらいを右から左へと聞き流していると(過剰な反応を示しかねないのでそうしただけで、実際には左耳から出た言葉をそのまま記憶に焼き付けているのだけれど)、有言実行とばかりに声を張り上げる頼もしい後輩の姿が視界に飛び込んできた。

 

 

「雪ノ下先輩も結衣先輩も、さっきの集会では奉仕部との関係を明言しませんでしたよね。わたしたちはこんなふうに考えてるんですけど、お二人の方針も教えて貰えたら嬉しいな、って思うのですが?」

 

 勢い余って語尾を伸ばしそうになりつつも何とか取り繕って、一色は二人に向かって斬り込んだ。

 

「奉仕部との関係について、ここで語りたい気持ちもあるのだけれど。それは立会演説会で存分に説明するつもりよ」

「あたしも、立会演説会でちゃんと説明するからってぐらいしか、今は言えないんだよね」

 

 しかし、二人の候補から返って来たのはにべもない拒絶だった。

 一色自身も昨日は何を尋ねられても黙秘を貫いただけに、そう言われると打つ手が無い。

 

 ならば別方面から斬り込めないかと一色が検討を始めたその隙を狙って、雪ノ下が口を開く。

 

「それよりも、一色さんが立候補した理由を先ほど拝聴したのだけれど。私に負担を掛けたくないと考えてくれたのが一つ。それから奉仕部の三人と仕事がしたいという、その二点だったわね?」

 

 この流れはやばいと八幡と由比ヶ浜が唇を噛みしめて、一色もまた本能で嫌な予感を感じ取ったものの頷くことしか出来ず。由比ヶ浜の背後に控える海老名と三浦も口を挟めないままに、雪ノ下の発言が続く。

 

「じゃあここで、一色さんに一つ提案をしたいのだけれど。私が主催する生徒会において、希望のポストがあるなら会長以外は何でも呑むわ。だから一色さんには立候補を返上して貰って、私たちの陣営に是非とも参画して欲しいのだけれど。いかがかしら?」

 

 雪ノ下の意図を瞬時に悟って、それが一色の希望に合うものだと理解できてしまった八幡は、何も反論の言葉を出せなかった。

 

 八幡の家で立候補の継続を決意させた時にも、実は頭の片隅では引っ掛かっていた。だが自分の都合を優先して、それをまともに考察しなかったのだ。そのしっぺ返しが来たのだろう。

 

 一色の希望を叶える為には、必ずしも会長になる必要は無い。

 

 例えば生徒会に雪ノ下と一色がいて、奉仕部には八幡と由比ヶ浜がいて、両者が仕事で協力すれば一色の望みは叶うのだ。

 今の()()()()()()()()()とは仕事ができないけれども、()()()()()()とは仕事ができる。その違いに拘っているのは八幡だけで、一色はそれに付き合う義理は無い。

 

 だからある意味では、八幡と一色は同床異夢だったと言えるのだろう。

 それがこのタイミングで露呈してしまった。

 

 

「うーん。でもさ、ゆきのんが言うような『どんなポストでも』って誘い方だと、なんて言ったらいいのかな……。えっと、その人にこんな能力を発揮して欲しい、とかじゃなくて、頭数があればいいって感じじゃん。あたしはそれよりも、この人だからって理由で誘われるほうが嬉しいと思うんだよね」

 

 八幡が言葉を失って、一色はどう答えたものかと困惑していて。

 そんな状況において口を開いたのは由比ヶ浜だった。

 要領を得ない話しかたに、集会に参加した多くの生徒が首を傾げていたのだが、本人だけは本気だった。あるいは、すぐ隣で誰よりも真剣に耳を傾けていた雪ノ下も含めた二人だけは。

 

「あのね。あたしといろはちゃんって、ちょっと似てるなって思うんだ。いろはちゃんのほうが徹底してる感じがするんだけど、他人に対する接し方って言うのかな。そこの部分が、うん、似てるなって思うの。だから……なんて言ったらいいのかな。あたしといろはちゃんが同じ仕事を一緒にしても、一人一人でやる時とあんまり違わないと思うのね。えっと、だからさ。あたしと違う仕事をして欲しいから、いろはちゃんにはあたしとは違った角度から、生徒会の仕事を監査して欲しいんだ。ゆきのんみたいに仕事はなんでもいいって感じじゃなくて、あたしはいろはちゃんに、監査役をお願いしたいなって思ってるの」

 

 由比ヶ浜の説明をそのまま受け入れると矛盾が出るようにも思えるのだけれど、二人が仕事をどのように分担すれば効率的かと考えてみると、確かにこのやり方だとしっくり来る気がする。

 

 なぜなら会長と監査役の基本的な考え方が一致していないと、監査という仕事は成り立たないからだ。基本方針で折り合えない相手に何をどう監査されたところで、話の始まりからして食い違っていてはどうにもならない。

 

 けれども由比ヶ浜と一色は、他人に対する接し方という点で折り合える。それはおそらく八幡や雪ノ下には不可能なことで、だからこそ由比ヶ浜は監査役としての一色を欲するのだ。

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も、一色を本気で強奪に来ている。そして、決してお互いには渡すまいと次の一手を模索している。

 一方で自分たちは、敵陣営の草刈り場に成り下がろうとしている。

 この事態を打破する手は……ひとえに一色の決断に縋るしか、無い。

 

 

「なあ。お前、どうするんだ?」

「う~ん。せんぱいはどうして欲しいですか?」

 

 だから隣席にだけ聞こえるように問い掛けると、疑問で返された。

 他の生徒の注意を惹かないように決して横を向いたりはしないけれど、意識のほぼ全てを一色へと向けて、八幡は口を開く。

 

「お前を会長にしたいのは、奉仕部のため……だった。けどな、朝も言っただろ。お前って意外と会長に向いてるよなって。そう思う気持ちが、日を追うごとに増して来てるのな。俺の、俺らのわがままを押し付ける形になるのかもしれないけどな。今の俺は、奉仕部のことも大事だけど……お前が会長になって得意がってる顔を見てみたいって気持ちも、同じぐらい大きくなってるんだわ。我ながら、いつの間にって感じだけどな」

 

 先程の演説といい、どう考えても今夜は悶え苦しみそうな話を敢えて伝えてやったというのに。語り終えてからも何ら反応が無いので、いいかげん八幡がじりじりしていると。

 

 ちょこんと、制服の裾の部分をつままれた。

 誰にも見えない角度から八幡の上着をほんの少しだけ引っ張って、一色はそっと静かにつぶやく。

 

「じゃあ、わたしも退路を断ちますね」

 

 その言葉に続いてばんと両手で机を叩くとそのまま勢いよく立ち上がった一色は、さすがに呆気にとられてこちらの行動を待つしかない二人の対立候補に向けて、高らかに宣言する。

 

「雪ノ下先輩と結衣先輩の両方から勧誘を頂いて、どっちのお誘いも魅力的だったんですけどね~。ちょっと決めきれなかったので、勝った方に行くってお返事でいいですか。でも~、わたしが勝ったら、お二人のお誘いはどっちも無意味になりますけどね~」

 

 すっかり普段どおりの口調で舐めたことを抜かしているものの、これでこそ一色だなと八幡は思う。それは同じ陣営の一同も同感なのか、やけっぱちの気配が漂う拍手が教室内に鳴り響いた。

 

 それが落ち着くのを待って、対立候補二人が口を開く。

 

「こちらとしても異論は無いわね。要は勝てば良いのだから、全力を尽くした上で明後日の結果を楽しみにしているわね」

「あたしも、どっちみち勝つしかないんだしさ。ゆきのんにもいろはちゃんにも負けないように頑張るよ」

 

 

 どうやら無事に終われそうだなと、二人の発言を聞き終えた八幡が肩の力を抜いていると、一人の生徒が静かに手を挙げてから話し始めた。

 その女子生徒が、腐女子が語る。

 

「最後にちょっとだけ話させてね。えっと、人事案の発表は明日って言ってたけど、こんな話になっちゃったし披露しても良いですよね?」

 

 最前列の椅子に座る城廻に一つ確認を入れて。「もちろん、いいよー」という返事を受け取った海老名は、そのまま話を続けた。一同の頭が追いつかないうちに、端的に結論だけを口にする。

 

「結衣が会長になったら、私が庶務で優美子が会計として生徒会に入るつもりです。以上、よろしくねー」

 

 ざわめきが部屋中を駆け巡ったが、八幡の衝撃はそれ以上だった。

 なぜなら他のほとんどの生徒よりも、三人娘のことを詳しく知っているからだ。

 

 たしかに三浦には女王の名にそぐわないほどの世話好きな側面がある。

 たしかに海老名には腐った方向に暴走する一面とは裏腹の義理堅い側面がある。

 

 だから由比ヶ浜が会長になりたいと言えば、それの実現に向けて二人が全力を尽くすのは簡単に予測できた。だが、二人が選挙後も生徒会に関わり続けるとは想像だにしていなかったし、それは雪ノ下も同じだろう。日曜日の会話がその証拠だ。

 

 そもそも、三人の仲はほぼ対等ではあるけれども、ほんの僅かに差異がある。つまり、もしも三人の間で班長を決める必要があれば、それは三浦になるというのが暗黙の了解だったはずだ。

 

 それにも関わらず、海老名と三浦は由比ヶ浜よりも下の立場で政権を支える意思を表明した。

 これは八幡が提唱する校内カースト制度においては、革命を起こされたのと同義だった。

 由比ヶ浜と三浦の地位が完全に逆転することを意味するからだ。

 

 役員のなり手が少なくて困っているのは、三陣営に共通する問題だと思っていた。だからこそ人材を一人確保できれば優位に立てると考えて、何とか昨日それを果たせたばかりだというのに。これで少なくとも人事面においては、由比ヶ浜の陣営は他を圧倒する形になった。

 

「雪ノ下さんも一色さんも、選挙で協力してくれる人たちが役員にはなってくれないのが辛いとこだよねー」

「隼人も戸塚も部活があるから仕方が無いし。ヒキオも奉仕部だし」

 

 なんだか悪役じみた話しかたではあるものの、二人の主張は事実なので何も反論できない。

 

 もともと友達が少ない雪ノ下・八幡・一色とは違って、顔の広い由比ヶ浜ならお飾りの役員ぐらいは楽に確保できただろう。だがそれでは意味が無いからこそ安閑としていられたのだが。海老名と三浦が名を連ねるとなると、よほどの人材を連れて来ない限りはとても太刀打ちできない。

 

「でもさ。雪ノ下さんなら常設の役員を置かなくても、その都度ぼくらの中で時間に余裕がある人に協力して貰って、仕事をこなせると思うけどなあ」

「俺や戸塚の手が空いていたら、何も問題は無いわけだしな」

 

 何も反応できない八幡を尻目に、戸塚と葉山は雪ノ下の優位を語る。こちらの主張も事実なだけに、二陣営はお互いに睨み合う形になった。

 

 幹部同士はこれでも気心が知れた間柄なので問題ないものの、末端同士の言い争いが体育館で盛んになっている。

 

 

「すっかり蚊帳の外だな。ま、それでも勝負は蓋を開けてみないと判らないけどな」

「劣勢なのは最初から判ってたことですしね~。そういえばせんぱい、例の件は?」

「そういや反応が無いな。来る前に材木座に連絡して手配させたはずなんだが……」

 

 注目されていないのをこれ幸いと小声でぼそぼそ喋っていると、ちょうどいいタイミングで体育館のほうから騒がしい声が聞こえて来た。

 いかにも体育会系という感じの男子生徒が数名集まって、直情径行に何やら主張している。

 

「ほいじゃ、材木座の招集ボタンを、ぽちっとなっと」

 

 八幡がそう言い終えると同時に教室のドアががらりと開いて、材木座義輝が登場した。どうやらずいぶん前から廊下に控えていたみたいだ。

 

「だからこのwikiを見てくれよ」

「えっ、一色さんの支持率が百パーセントって……?」

「な。どこの独裁政権だって感じだろ?」

「控えぃ。控えよ下郎ども。お主らは既に我の手の内にあるのだ」

 

 体育祭での成功体験を経て無駄に自信に満ちあふれている材木座の声は、狼藉者でも無視できなかったみたいで。動きを止めた男子生徒らの前まで歩いて行くと、そのまま種明かしを始めた。

 

「お主らとてドッキリという手法は知っていよう。つまりこれは、我らが推戴する一色嬢の集会に合わせて()()()()企画した、単なるサプライズであるっ。雪ノ下嬢や由比ヶ浜嬢を応援するアカウント……ではなくて応援する生徒のページを一時的に改竄して、一色嬢への支持一色という状況を現出させたのよ。この集会の解散と同時に元に戻るゆえ、心配ご無用にて御座候!」

 

 大見得を切りながらノリノリで言い放った材木座に対して、哀れな男子生徒たちはすっかり勢いに押されてしまい、納得してすごすごと引き上げるしか無かった。

 

「なお、今後このようなサプライズは断じて起こさぬと、我が諸君らに約束しよう。それと制限付きではあるものの、誰にでも情報の修正ができるように、今夜にもwikiの編集機能を一部開放する予定であるっ!」

 

 続けて材木座は制限について簡単に説明した。

 編集したページの最下段には、普段は折りたたまれているものの、修正を加えた人の名前と日時が全て残る仕組みである事。そこから飛べる別ページでは変更内容も確認できる事。いいかげんな修正が多い者には警告が与えられ編集ができなくなる事などを一同に伝える。

 

 遊戯部の二人から幾度もダメ出しを受けた末に完成した原稿を何度も読んで練習したのだろう。その内容は解りやすく、簡単に納得できるものだった。

 

 そしてこれが絶好の宣伝となって、wikiの存在は全校生徒の間で知らぬ者が無いという程にまで広がるのだが、それはそれとして。

 

「編集機能の解放まで説明してくれたのは良いんだが。材木座のせいで、ますますぐだぐだになってるよな。これ、解散宣言ってどうしたら良いんだ?」

「まあ、わたしが何かを言えばいいと思うんですけど~。雪ノ下先輩と結衣先輩の支持者同士が争い合うのは望むところなので、もう少し放置しておこうかな〜って」

 

 結局、「議論はいいけど喧嘩はダメだよー」と城廻が仲裁に入って、ようやく集会はお開きとなった。

 

 

***

 

 

 解散直後のがやがやと騒がしい教室の中で、八幡は待ち時間を無駄にすることなく隣席の後輩と会話を重ねていた。二人の顔は常になく真剣そのものだ。

 

「海老名さんが早々に人事案を披露したのは、たぶんだけどな。三浦と二人で由比ヶ浜の下に就くって話を、支援者連中に納得して貰う時間が必要だからだと俺は思う。もしも立会演説会までそれが秘密のままだったら、なんで自分らのボスが下なんだって怒り出すような連中が出ないとも限らないからな」

 

 こうした辺りが人間関係の面倒なところだよなと八幡は思う。

 トップカースト同士があれだけ親密でも、各々のグループに所属する者同士はとんでもなく些細な理由で張り合っている時があるのだから。

 だから気楽なぼっちこそが大正義だと八幡は心の中で結論付ける。もちろん口には出さないけれども。

 

「う~ん。まあ確かに、すぐには受け入れがたいでしょうね~。これで結衣先輩の陣営が説明と言い訳に追われたら、一番都合がいい展開になるんですけど……」

 

「まあ、逆だろな。説得の見込みが充分に立ってるどころか、この話を利用して支持者を一気に増やす気満々だろ。この状況を見た雪ノ下が攻勢に出ないわけがないし、もう総力戦の段階に入ったと見て間違いないな」

 

 八幡の言葉にこくっと頷いて、一色は挑発的な笑みを浮かべた。

 

「雪ノ下先輩が嫌った、どぶ板選挙……でしたっけ。わたしのファンの子たちの行動力を、あの面倒くささと厭らしさを思い知るがいいですよ!」

 

「お前……なんかキャラが崩壊しかけてるぞ。つーか俺が教える前に『人海戦術に出る』って結論に至ってるのは話が早くて助かるんだが、あれだよな。お前ですら、あいつらの行動力は持て余してたって意味だよな?」

 

 ぶるっと身体を震わせてくわばらくわばらと呟いている八幡の横では、一色が恥じらいの色を装いながらてへぺろしている。

 

 そんな二人の前に、城廻が姿を現した。

 

 

「お待たせー。えっと、話があるんだよね?」

「あ、はい。……すまんが一色は外してくれるか。ちょっと城廻先輩に尋ねておきたい事があるんだが、お前に聞かせて気を煩わせるような事はしたくないんでな」

 

 城廻には前もってメッセージで集会後の会談をお願いしていた。

 とはいえ集会が終わった後も仕事の話なり雑談なりで時間がかかると思っていたので、こんなに早く待ち人が来るとは予想していなかったのだ。

 

 苦しい言い訳なのは重々承知だが、一色に聞かせたい話ではない。

 そんな八幡の意図をどこまで読み切っているのか、一色は邪気のない笑顔をにこっと浮かべて席を立つと、城廻にぺこりと頭を下げてから友達四人のもとへと歩いて行った。

 

「それで、比企谷くんは何をお望みなのかな?」

 

 一色と入れ替わるようにして椅子に座った城廻は、先輩風を吹かせるような口調で口火を切った。とはいえ全く似合っていないというか、背伸びをしている感が強く出ているのだけれど。

 

「城廻先輩って、もしも三月までだったら、監査役とかお願いできますか?」

「うーん、難しいねー。その理由はたぶん、比企谷くんも分かってるよね?」

 

 そんなぽわぽわした雰囲気の先輩ではあるけれど、決して侮れる相手ではない。そう考えた八幡はいきなり本題に入ったものの、あっさりと切り返されてしまった。

 

「やっぱり、三年生がこの選挙に消極的なのって、そういう理由なんですね」

「まあ、ね。比企谷くんたち二年生や一色さんたち一年生とは違って、私たちは春にはこの世界を出て行く立場だからさー」

 

 明るい声で話してくれているけれど、その奥には幾重にも及ぶ配慮が隠されているのだろう。それでもこんなふうにずばっと話してくれるのは、俺の事も少しは信頼してくれているから……なのだろうか。

 

「でも、風当たりが強くなるのを心配してって理由なら、俺も一色も……」

「あのね、比企谷くん。そうじゃなくてさー」

 

 八幡の言葉を遮って話し始めた城廻は、少しだけ言葉を探すように言い淀んで、ほどなく再び口を開いた。

 

 

「はるさんの事は、比企谷くんもよく知ってるよね。私の前の会長の事はあんまり知らない感じだったかな。二人とも引退したら……って言っても、はるさんは文実を裏で支配してるって言われてただけで何か役職に就いてたわけじゃないんだけどね。でも三年の秋になってからは、二人とも残りの高校生活を後輩のために使ってたんだ。面と向かって尋ねたらぜったいに否定されると思うけどさ、私はそう思ってるのね」

 

 そういえば文化祭の準備期間にカラオケ店で昔の話を聞いたなと思い出しながら、八幡は無言で相槌を打って話の先を促す。

 

「けどさ、私は後輩のために時間を使えるだけの余裕がないんだ。だって、このままいけば私たちの学年は、後輩をおいて自分たちだけがこの世界から逃げて来たって、ずっと言われ続ける立場になっちゃうんだよね」

 

 やはり、一色に聞かせなくて良かった。

 そう考えながら、頭を静かに縦に動かす。無責任な連中がそうした反応を示すことに対しては賛意を、でも俺はそうは思わないという否定の気持ちもそこに含めて、微妙な動きでそれを表現する。

 

「だから卒業して元の世界に戻ったら、やらなくちゃいけない事がたくさんあるのね。これでも、頼りなく見えるかもしれないけど、それでも生徒会長だからさ。二つ上のはるさんたちに見守られる中で入学して、一つ上から役職を引き継いで、一つ下の比企谷くんとか二つ下の一色さんに受け継いでもらう立場だから。だから上と下の学年に対してだけじゃなくて、というか上と下の学年に恥じないためにも、私は何よりも同学年に対して責任を果たさないといけないの。だから、ごめんねー。私はこの世界にいる間に、来年度のための準備を終わらせておかなくちゃいけないんだ」

 

 ここまで言われたら、何も口に出せなかった。

 可能性は低くとも、それでもやれる事は全部やろうと考えて会談を申し込んだ八幡だったが、城廻とは決意の重さがまるで違っていた。

 

 三年生が選挙に消極的な理由をうすうす理解していながらも、八幡が考えていたのは自分本位の即物的なことだった。

 一年と二年から票集めをすればそれで良いとか、一色が優勢になれば三年生も空気を読んでこぞって投票してくれるだろうとか。

 

 でも、城廻の決意は尊重するし心から尊敬するけれど。それでも、申し訳ないけれど自分にとっては、一色を当選させることが当面の最大の目標なのだ。そのためには、利用できるものは何でも利用するぐらいの心積もりでいないと、とうてい実現できないだろう。

 

 崇高な目標を掲げる人や大勢のために動ける人はもちろん素晴らしい。けれども、ちっぽけな個人のちっぽけな目標は、果たしてそれに劣るものだろうか。すごい人はすごいなりに、矮小な人は矮小なりに、掲げた目標に向けて全力を尽くすことには変わりないのではなかろうか。

 

 そこまで考えて、ようやく八幡は言葉をひねり出せた。

 

 

「正直に言うと、くだらねーなって思いますよ。あ、もちろん城廻先輩がじゃないです。先輩は本当にすごいと思う。でも、そんなことをやらなくちゃいけないって状況が、心底からくだらねーなって思います。そんなのと比べたら、あの手この手を使って何とか一色を当選させようと奮闘してる俺のほうが遙かにマシですよ。城廻先輩のすごさには遙かに及ばないけど、それでも今の俺にとっては、それが全てだから」

 

 またもや後で身悶えしそうな発言をしてしまった気がするのだが、それでもいま目の前にいる先輩の表情を間近で見られたことと比べたら些細な話だ。

 

 たぶん初めて年相応の、自分より一歳だけ年上の、女の子の顔になった城廻を見た気がした。今までずっと背負い続けてきた生徒会長という肩書きを外した素の表情を、ようやく見せてくれた気がした。

 

「比企谷くんとお話ししてると、変な気負いとかがすーって抜けていく気がするね。じゃあさ、お姉さんもちょっとだけ恥ずかしい話をしてあげよう」

 

 さっきの俺の発言はやっぱり恥ずかしいやつだったかと。穴があるなら入りたいなと思いながら一つ頷くと、照れの中に誇らしさが交じった声が聞こえてきた。

 

「今回の会長選挙をね、いちばん楽しめてるのって、実は私なんだ。だって、雪ノ下さんでも由比ヶ浜さんでも一色さんでも、誰が当選しても安心して後を任せられるから。それどころか、引退してからも生徒会室にひょいって顔を出したら、いつでも喜んで受け入れてくれると思うからさ。だって、さっき比企谷くんがくだらねーって片付けてた世間一般の評価なんて、誰も気にしてないもんね。この世界に巻き込まれた事件なんて大した事ないって、そんな気持ちにもなれるしさ。だから……だから私も、()生徒会長になっても頑張ろうって思えるんだ」

 

 おそらく、自分たちはこの世界に慣れすぎてしまったのだろう。あるいは、あまりに順調に適応できてしまったと言うべきか。

 

 基本能力が高い雪ノ下や、交友関係に恵まれている由比ヶ浜、それにメンタルの強い一色といった面々が、異なる環境に難なく順応するのは特に不思議ではない。

 問題はその中に自分が含まれている点で、その理由はこの世界に巻き込まれてからの巡り合わせの良さにある。それは奇跡的だとすら言えるだろう。

 

 自分の能力を極端に卑下しようとはもはや思わないけれど。それでも身に過ぎた状況に至れていることを八幡は疑っていなかった。だから、一般の生徒たちとの間に齟齬を生じたり、それが大きな問題に繋がるのではないかと恐れてもいた。

 

 けれども自分たちが平然と過ごしていられて、そんな姿を見て頑張ろうと思ってくれる先輩がいて。そんなふうに報われるのなら、この世界に適応できて良かったと、こちらの肩の荷も下ろせる気がした。

 

「城廻先輩にそこまで頑張られたら、俺らも頑張らないとなって思っちゃいますね。その、黒子の先輩たちの気持ちがよく解りましたよ」

 

 そう伝えると城廻は顔をほころばせて、そして再び生徒会長の肩書きをまとった。とはいえ、ぽわぽわした雰囲気に変わりはないのだけれど。

 

「じゃあ最後に、比企谷くんに一つ質問だー。あのね、三月まで私が監査役を務めたとして、じゃあ四月からはどうするつもりだったのかなー?」

「それ、答えが分かってるやつですよね。でも言わないとダメみたいな」

 

 にこにこしたまま大きく頷かれたので、八幡は内心であっさりと白旗を揚げた。

 雪ノ下に口撃されたり一色にからかわれても特に嫌だとは思わない八幡だが、城廻が相手だとこんなのも悪くないなと思えてしまうのが不思議だ。

 

「四月になったら、俺よりも遙かに要領が良くて、大事な場面になるほど安心できるやつが入学してくるんですよ。普段は小生意気で可愛いだけのやつなんですけどね」

「わあー、べた褒めだー!」

 

 総武高校に進学したいと心から望んでいるあいつなら、必ずやってのけるだろう。これは兄馬鹿ではなくて不変の事実だと考えながら、八幡は妹の姿を脳裏に思い浮かべる。

 

「でも、その裏技を使うことは無さそうですね。俺らの問題はやっぱり俺らの間で解決しますから、城廻先輩はやるべきことに集中して下さい。何かあったら雪ノ下か由比ヶ浜を遠慮なく頼って下さいね」

 

「うん、ありがとー。はるさんみたいに容赦なく比企谷くんを呼び出すから、楽しみにしててねー!」

 

 そう言って立ち上がった城廻は、軽くばいばいと手を振るとドアのほうへと歩いて行く。

 

 それを見送って教室の中を見渡すと、残っている生徒は数えるほどしかいなかった。

 その中にあってひときわ存在感を放っているあざとい後輩と合流するために、八幡はよっこいしょと腰を上げて一歩を踏み出した。

 




次回は来月の半ばになりそうです。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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12.とまらぬ想いを胸に彼女は敢えて行動に出る。

文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→155p1

以下、前回のあらすじ。

 火曜日の朝も、空き教室には一色陣営の面々が集まっていた。
 正式に稼働を始めたwikiを見て、相模と大和は支持率が厳しいと受け止め、八幡は贔屓目に見た概算を口にする。だが当の一色は平然としたものだった。その姿を見て、意外と会長職が合っているかもなと三人は考える。
 前日のあれこれを振り返りながら、今日は集会を開くことにして集まりは解散となった。

 放課後に開いた集会では、一色と八幡の意図がほんの僅かにずれている部分を雪ノ下に突かれてしまった。由比ヶ浜からも引き抜きを提案された一色は、八幡の意思を確認すると、彼女らしい舐めた物言いで対立候補の二人を煽る。

 だが集会はこれで終わらず、海老名と三浦が次期生徒会への参画を表明した。今までの序列を覆して名実ともに由比ヶ浜の下に就くという二人の決断は、八幡や雪ノ下にとっても予想外だった。これで選挙戦は総力戦の段階に入ったと八幡は受け止める。
 材木座がサプライズのついでにwikiを宣伝して、集会はようやく解散となった。

 城廻に対談を申し込んだ八幡は、三年生の置かれた立場を改めて認識して。それを下らないと評するとともに、城廻の決意には心からの敬意を伝えて、裏技的な提案を撤回する。お互いに「頑張ろう」という気持ちを高め合って、二人はそれぞれの目標に向けて足を踏み出した。



 水曜日は朝からてんやわんやだった。

 

 時にはファンを自ら煽り、時には大和や友人四人を通して推薦人をはじめとした協力者たちを自在に動かしながら、一年C組で陣頭指揮を執る一色いろは。

 

 その一色の判断を支えるべく、新鮮で正確な情報を提供し続けている相模南とその取り巻きの計五人は、他陣営もまたなりふり構わぬラストスパートに入っているのを肌でひしひしと感じ取っていた。

 

 雪ノ下雪乃は運動部や文化部の部長クラスの手綱を握って、上から下へと支持を拡散しようと目論んでいて。

 由比ヶ浜結衣は友人二人の支持者も含めた横の繋がりを更に広げ、そしてクラスや部活といった既存の枠組みを下から上へと呑み込もうとしていた。

 

 だがそこに、一色の指示を受けたファンが、推薦人が待ったを掛ける。

 有権者の迷いや転向の可能性を、雪ノ下は勿論のこと由比ヶ浜よりも更に早く察知して、ピンポイントで効率的に吊り上げる。

 

 それを可能ならしめているのは、wikiによって整理された膨大な情報と、一色の特徴的な対人スキルだった。

 

 大半の男子生徒には特効、そして多くの女子生徒にもマイナスの方向に特効を示すそのスキルは、いずれにしても同好の士を素早く確実に増やしていく。

 

 一色シンパの男子生徒とアンチ一色の女子生徒が校内の至るところでそれぞれ顔を突き合わせて、前者は忠誠心をますます高め。そして後者は不満や悪口を共有した後のクールタイムに、客観的な情報を提示されて勧誘を受けていた。

 

 

「そりゃあ一色が気に入らないって点では、誰よりも私らが一番気に入らないよ。あいつの悪口を聞いてくれるのなら、一日中だって三日連続だって喋れるよ。けどさ、それだけを理由に会長を決めるのは、ちょっと違うかなって」

「同じ一年なのに、あの雪ノ下先輩や由比ヶ浜先輩と正面から渡り合ってるのを見たら、一色のふてぶてしさって大したものだなって思わなかった?」

 

 推薦人たちが一色を悪く言う口調には実感がこもっていて、だからこそ別の側面に言及する時にも説得力が感じられた。

 そんな彼女らが一色を会長に推すのは、当人の資質の他にも理由があって。

 

「一色本人には腹が立つ時も多いんだけどさ。一色を応援してる先輩たちとか同じクラスの子たちを見てると、なんだか情が湧いちゃって」

「それにさ、一色はサッカー部のマネージャーも続けるみたいだし、そしたら男に色目を使う余裕もぐっと減るじゃん」

 

 この段階に至っては、一色を会長職に祭り上げるという動機ですらも、説得のための一材料に過ぎなくなっていた。

 

 こうした動きに加えて、一色を第一候補とは考えていない層にも積極的に働きかけていく。

 

「第一候補が雪ノ下先輩ならそれでもいいから、二位には一色さんをお願いします!」

「由比ヶ浜先輩を推す気持ちは解るけど、じゃあせめて一色を二位にできない?」

 

 理想を言えば雪ノ下に次ぐ二番手の立場で立会演説会を迎えたかったものの、由比ヶ浜の勢いが事前の予想を大きく上回っていたので方針をあっさり変更した。

 

 当初は「由比ヶ浜より下」だと認めるリスクを嫌って、主に雪ノ下の支持層に訴えていく予定だったのだが。由比ヶ浜をかわして二番人気に躍り出る必要が無いのなら、両者の支持層を無差別に勧誘できるという利点が生じる。

 

 こうした「二位でも良いから」という妥協的な提案とは裏腹の必死さには、当惑する有権者も少なからず居たのだが。そうした反応を示しそうな生徒は後回しにされたり、いよいよ接触するとなった時には説得者を選抜したり事前の打ち合わせをするなどの対策が取られていた。

 

 ここまで細かな対応が可能なのは、一色の観察眼によるところが大きい。各生徒の性格を深い部分まで瞬時に見抜いて、適切な働きかけを指示しているからだ。

 どうしても相手の気持ちを尊重しようとしてしまう由比ヶ浜と、効率的な対応が徹底している一色の差が如実に結果に反映されていた。

 

 選挙戦の一日目に「無党派層の反応を読めるのは一色しかいない」と評したせんぱいの言葉を見事に証明してみせた一色は、ファンや推薦人を手足のように動かして大勢の生徒を籠絡していく。

 

 

 そうした活動的な面々を支えるべく、地味な裏方作業に従事している四人は遊戯部の部室にて膨大な情報をさばいていた。

 

「選管からメッセージ、来ました!」

「自動的にwikiへのアップ……一般公開も下書き情報も込みで成功してます!」

 

 全員のもとにメッセージが届いた瞬間に、秦野と相模が順に声を張り上げると。

 

「了解。秦野と相模はもとの仕事に戻ってくれ。材木座はメッセージと一文字でも違う部分が無いかを確認。続けて下書き情報の文面もチェックして、その後は目に付いた反応を報告するのと、一分後と五分後のアクセス数を読み上げてくれ。タイマーかけとけよ」

「うむ、任せておくが良い」

 

 比企谷八幡の指示を受けた材木座義輝が端的に答える。

 

 いそいそと仕事に励んでいるその横顔をちらりと見やって、「これからの小説家には編集者のスキルも必須だ」という強引な理由付けで朝一番から発破を掛けたのが功を奏しているようなので苦笑いを浮かべつつ、八幡もまたもとの仕事に戻る。

 

『ついに明日は投票日!

 今日は次期生徒会の人事案が発表されるかも?

 でも明日まで秘密の陣営もありそうだぞ?

 各候補の主張をよく聴いて、よく考えて投票しよう!

 以上、選挙管理委員会がお伝えしました』

 

 選管からのメッセージはここで終わっている。しかしwikiにはこの通知に続けて、決定済みの副会長・書記の名前が記されていて、さらには昨日判明した情報も明記されていた。

 すなわち、雪ノ下には役職不明で一色を採用する意思があり、由比ヶ浜は友人二人を会計と庶務にして監査役に一色を据える予定であると書かれている。

 

 選管が人事案の話に言及するのは事前に判っていたので、前もって下書き状態で保存しておいた文面をメッセージの自動転送と同時にアップしたのだ。

 

 

「ほむん、さすがは此奴らが作ったプログラムよ。文面に相違は無く、下書き情報もそのまま残っておるわ。だが、いまださしたる反応は無いようだの。一分間のアクセスは……のべ三割である!」

「各自でメッセージを確認できるのに、一分で全校生徒の三割が来るのか……」

「記念カキコのついでに他の生徒の反応を見に来たって感じですかね?」

 

 全校生徒がどの候補を支持しているのか、その情報をまとめる形で始まったwikiだったが、早い段階で遊戯部の二人が「まとめサイト」的な側面を充実させようと提案して来た。コメントも自由にできる形式にして一気に集客数を上げたいとの訴えを、八幡は二つ返事で了承する。

 

 一色陣営のみが閲覧できる裏ページを整備し終えた二人はすぐさまそれに着手して、昨日の最終下校時間の直前にようやく公開まで漕ぎ着けた。昨日材木座が宣言した編集機能の一部開放は、特にこの「まとめサイト」において顕著だった。

 

 とはいえ編集はあくまでも編集であり、各陣営の集会の詳細や選管の発表一覧などを最初にひととおりまとめておかないと、訂正やコメントどころか誰も見てくれないだろう。

 

「昨日アップした情報が評判になってるみたいだし、それの影響も大きいんじゃね。まあ、そのせいで俺は連日深夜まで自室で缶詰になってたわけだが」

 

 材木座の報告を受けた秦野が驚きまじりの口調で呟き、続けて相模が斜に構えた口調で推測を口にしたのでこう答えたものの。

 たちまち連夜の疲労が蘇ってきて机に突っ伏したくなった八幡は、働きたくないでござると小声で繰り返しながらも首に力を込めて、下を向いてしまわないように身構える。

 

「さすがは国語力に定評のある我が相棒よ。記述が正確で読みやすいのは長い付き合いゆえに予測しておったのだが。自らの発言すらも客観的に編集できておるのを見た時には、我の専属編集者はやはりお主しか務まらぬと……」

「お前の世迷い言は今度聞いてやるからちょい黙れ。つか小説のダメ出しでは俺以上にこいつらの世話になってるだろ?」

 

 自分が喋っている動画を見ながら発言の趣旨をまとめた時には、恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだった。それでも、この動画を一般に晒されるよりはと頑張ったのに。無情にも「動画も置いたほうがいいですよね~?」という一色の一言で八幡の目論見は露と消えた。

 

 一色の主張も理解できるので昨夜は感情を押し殺したものの、嫌なものは嫌という気持ちは消えていない。ゆえに材木座の物言いに苛立ちを覚えて、言葉を遮った八幡だったが。

 

「いえいえ、比企谷先輩を差し置いて俺たちなんて!」

「ええ、専属編集者は比企谷先輩しか務まりませんよ!」

 

 後輩二人との間で材木座の押し付け合いが始まっていた。

 とはいえ、こうなると苦笑するしか無いので逆に肩の力が抜けた気がする。そう考えながら八幡は話を元に戻す。

 

 

「ま、それはこいつのデビューが決まってから考えりゃ充分だろ。だからその日が来るまで永遠に挑み続けてくれ。……んで、そろそろ五分じゃね?」

「うむ、残り五秒・四……。ほほう。五分間で何と、のべ八割とな!」

 

 のべ人数を生徒数で割った数字とはいえ、ここまで高い数値が出ると驚きとともに喜びもひとしおだ。

 

「これって完全にポータルサイトとして認識されてますね。話題になってるし便利だからか……それとも昨日の剣豪さんのパフォが功を奏したのか?」

 

 選挙戦を争っている一陣営が主催しているにもかかわらず、実質的には公的なメディアとして受け入れられている。そんな手応えを感じた秦野が、理由を検証している声が聞こえて来た。

 

 その瞬間、なぜか「デファクトスタンダード」という言葉を口にしながらろくろを回している見知らぬ男の姿を幻視してしまった。

 とはいえその手の意識高い系と顔を合わせる機会は当分なさそうなので記憶から抹殺して、八幡もまた原因の推測に頭を働かせる。

 

 話題になっているのも大きいし、大勢が知っているという側面も大きいのだろう。これらが相乗効果をもたらして、選挙の話題を出す時にはあのサイトを見ている前提で、というぐらいにまでwikiの存在が広がっているという実感がある。

 

 全校生徒のそうした認識を支え担保しているのは、便利さもあるとは思うのだけれど、やはり情報の正確さではないかと八幡は思う。そして材木座が派手な捏造をぶち上げたことが、以後はやらないという宣言とともに良い方向へと働いている。

 

 なぜなら、公正に書いているのは読めば判るといくら主張したところで、疑いの目を向けてくる生徒たちを説得するのは難しい。どうせ一色陣営に有利な書き方をしてるんだろ、という思い込みを打破するには、あのパフォーマンスは意外と理に適っていたりするのだった。

 

 そして「まとめサイト」という側面を加え、気軽にコメントも書けるようにして参加型の要素も組み入れたことで、この流れは確定した。今から対立候補がこの手の情報サイトを立ち上げても追いつくのは不可能だろうし、そんな暇もないはずだ。

 

 おそらく有権者たちはこのwikiを見るたびに、一色への認識を改めるだろう。それは勿論ほんの僅かな改善に過ぎないけれど、他とは違う面白いこと・役に立つことをやっているなと捉える生徒が少しでも増えてくれれば万々歳だ。

 

 そんなふうに考察を続けていると、相模の声が聞こえて来た。

 

「剣豪さん、コメントはどんな感じですか?」

「ふむ……情報が早いという感想が目立つ程度よな。特に『サラマンダーより、ずっとはやい!!』というセンスあふれるコメントが……」

「思いっきりお前の書き込みじゃねーか。名前がばっちり出るんだから、あんま馬鹿なことをしでかすなよ」

 

 こいつの評価をもう少し上げてやるかと見直した途端にこれなのだから、わざとやっているのかと勘繰りたくもなるのだけれど。横からじろっと眺めてみても、ただ単に大受け間違いなしと考えてやったとしか思えない。

 

 はあと一つ溜息を吐いて、八幡は再び口を開く。

 

 

「問題は今日の集会だよな。俺らは開催しないから良いとして、雪ノ下と由比ヶ浜のをどうするかね。昨日みたいに何を言われるか分からないって考えると、できれば現場に居たいところなんだが……」

 

 情報を簡潔に分かりやすくまとめる能力に長けている者は、一色陣営にそれほど多くは居ない。八幡が連日深夜まで拘束されてしまったのはそれが原因だ。

 

 それに八幡は国語学年三位(中間は同点で二位)とはいえ四位以下とは大きく差が開いているので、実質的には三強の一角と言って良い。そこまで図抜けた能力を考えると、裏方でwikiの編集に専従させたい気もするのだが、と八幡が妙に客観的に自分を認識していると。

 

「裏ページで昨日やったリアルタイム速報って、比企谷先輩はどうでした?」

「ああ。あれは確かに便利だったし、なるほどな」

 

 少しだけ控え目な口調で提案する秦野の声が聞こえて来たので意識を戻して、瞬時に意図を悟った八幡がそう答えると。

 

「少しぐらい読みにくくても、リアルタイムってだけで価値がありますし。集会に参加しながらでも、話の流れを振り返れたら便利だと思うんですよね」

「安心するが良い。我は編集能力も一流であると見せつけてくれようぞ」

 

 相模の話には深く頷いた八幡だったが、材木座のことは全く安心できない。

 とはいえそれは後輩二人も同じ気持ちだったみたいで。

 

「剣豪さん、速報なんだから編集とか入れてる暇ないですよ」

「現地特派員の先輩たちからの報告を、そのまま垂れ流す感じですかね。要約とか編集は、集会から帰って来てから比企谷先輩が一晩でやってくれますよ」

 

 秦野とは気持ちが同じだったが、相模は少し刺々しい。

 それでも八幡が相模に向ける目には、同情と慰めの気持ちが込められていた。

 

「お前って同学年からすっかり弟認定されてたもんな。まあ、あれだ。諦めて一回ぐらいはねーちゃんって呼んでやれ。たぶん激しく喜ぶと思うぞ?」

 

 お前の気持ちはばっちり解るぜ災難だったなと目で伝えながらも、人生の先輩として良い忠告をしたつもりの八幡だったが。

 

 混同を避けるためとはいえ、八幡が「相模弟」と連呼していたのが最大の原因であるとは一色陣営の誰もが認めることなので、当然ながら相模の恨みは収まらない。

 

「……比企谷先輩は一色を応援している身でありながらも同じ陣営の相模南や対立候補の二人にまで……」

「だから管理者権限を使ってwikiを改竄するのはやめてくれ。からかい過ぎたのは認めるから、つか秦野も爆笑してないでこいつを止めろよな。あと材木座、自分のページに隠しリンクを作って小説をアップするのはやめろっつーの」

 

 そんなふうにぎゃあぎゃあと言い争いをしながらも、為すべきことはそれぞれきっちりこなしている。

 

 昼休みに届くであろう選管からのメッセージに備えて、今までの集会の概要をまとめたページに飛べるリンクを下書きしている八幡。

 システム全体を見渡して不具合や不正なアクセスがないかを随時監視している秦野と相模。

 書き込まれたコメントを逐一確認して、問題ありと見なせばただちに一同に報告する材木座。

 

 始業時間が始まるギリギリまで、四人が手を止めることはなかった。

 

 

***

 

 

 昼休みの通知に対しては驚きの声が校舎のそこかしこから漏れたものの、それ以外にはさしたる出来事もなく。とはいえ短い休み時間すら惜しんで各陣営が勧誘を繰り返したので、校内はすっかり浮かれまじりの熱気に包まれていた。

 

 そして放課後がやって来る。

 

 この日に開催されるのは、雪ノ下の集会ひとつだけ。なので前日・前々日と比べて半時間ほど遅い時刻が記されていた。

 

 一色陣営が集会に及び腰なのは周知のことではあるのだけれど。

 集会を見送った由比ヶ浜の意図がどこにあるのか分からないままに、関係者一同は二年J組に集結した。

 

 

***

 

 

 教室内の様子は先日の集会と同じようなものだった。

 向かって左手には雪ノ下と葉山隼人が座っている。右手側には由比ヶ浜・一色の両候補と、その後ろには三浦優美子・海老名姫菜・大和・八幡が並んでいる。

 

「相模がかちんこちんだったって文実の一年が言ってたけど、なんか悪かったな。今日は俺に任せてくれるか?」

「えっ、と。その、うちは座ってただけだし、謝る必要なんて……で、でもどうしたの今日のヒキタニくん、いつもよりも格好い……いたっ」

 

 すぱこーんと良い音が響いたので相模の背後に視線を送ると、なぜか一色がハリセン片手に迫力のある笑顔を浮かべていた。いつもは同じように容赦なく頭を叩いて相模を正気に戻している取り巻き四人衆すらも若干引いている。

 

 そのままくいっと顎で席を指されたので、やましい現場を目撃されたような居心地の悪さから一刻も早く抜け出したくて、八幡はすごすごと椅子に歩み寄ってちょこんと腰掛けたまま不動を貫いていた。

 

「なあ。空席が五つって、どういう……?」

「ん……ああ、いや、俺にも分からん」

 

 隣席の大和が訝しげな様子を隠そうともせず小声で尋ねて来たので、奥に座る二人にちらりと視線を送った八幡はそのまま素直に答える。そして雪ノ下たちの様子を盗み見て、言葉を付け足した。

 

「ただ、由比ヶ浜の陣営だけは心当たりがあるみたいだな。今の俺らが校内の情報収拾で後れを取るとは、正直考えにくいんだが……?」

 

 そんな八幡の疑問は、城廻めぐりの登場によって解消された。

 

 いつものように本牧牧人と藤沢沙和子が後を追って入って来て。続けて教室に顔を見せたのは、違う制服をまとった女子生徒二人。

 

 つまり、折本かおりと仲町千佳だった。

 

 

*****

 

 

「予定の時刻になったので、選管を代表して現生徒会長の私が、雪ノ下さんの集会開催を宣言します!」

 

 そう言い終えた城廻は、教室の入り口に並んで立っていた他の四人を促して空席へと向かった。

 

 すぐ横を通り過ぎる時に、昂揚した表情の仲町からは小さく手を振られ、今にも笑い出しそうな折本からは大きなピースサインを示されて。頭の中で色んな可能性を考察するので精一杯の八幡は、曖昧な苦笑を返すぐらいしかできなかった。

 

「はじめに、この二人の特別ゲストを紹介するねー。来月のクリスマスイブに合同イベントをしたいって提案してくれた、海浜の折本さんと仲町さん!」

 

 椅子の前でくるりと周りを見渡して、教室の後方に向けて姿勢を定めた城廻がそう言うと、二人がぺこりと頭を下げた。そして大きな拍手に包まれる中で顔を上げる。

 

「えっと、選挙前日の大事な集会だって聞いて、一緒にイベントをする人たちをもっと詳しく知りたいなーって思ったので来ちゃいました!」

「わたしは、そんなかおりの付き添いとー。あと、葉山くんの応援に来ました!」

「えっ、千佳?」

 

 隣に並ぶ折本すらも意表を突かれて立ち尽くしている。

 それとは対照的に仲町はきびきびとした動きで再び前を向くと、葉山に向かって軽く頷きかけてからゆっくりと席に着いた。

 

 どうしたものかと本牧と藤沢がおろおろしていると、折本がぷっと吹き出して、「千佳が本気すぎてウケる!」と小声で呟きながら勢いよく腰を下ろした。そして八幡に向かってこれ見よがしに再びピースサインを送る。

 

「波乱含みの始まりだし、今日の集会も気を抜けないなー。じゃあ、私たちも座っちゃうから、あとは雪ノ下さんにお願いするねー」

 

 とはいえこんな程度の波乱では、総武高校が誇る現生徒会長を驚かせるには至らない。

 いつもと何ら変わりのないぽわぽわとした口調で雪ノ下に進行役を委ねると、城廻は後輩二人に一声掛けてから椅子に腰を落ち着けた。

 

 

「では集会を始めます。まずは、私としては不本意なのだけれど、先程の仲町さんの発言を取り上げたいと思います。おそらく、この部屋に居るほぼ全員がそれを希望していると思うのですが、いかがでしょうか?」

 

 陣営の枠を超えて、ほぼ全ての生徒が雪ノ下の提案に拍手を送っていた。その中には、壇上に座る二人の眼力にはさすがに及ばないものの、怒りの篭もった目で仲町を凝視する女子生徒も少なくない。

 

 そんな環境でも平然と座っている仲町と、面白がって人一倍大きな拍手を続けている折本を除けば、例外はたったの二人。

 

 葉山は、少なくとも表面的には何らの変化も見せず。しかし身動きどころか瞬き一つせず、同じ表情と姿勢を保っている。

 八幡も目立った変化がない点では同じだが、その背中には冷たい汗が流れていた。気になることを思い出したからだ。

 

 土曜日に折本たちを見送った後で、八幡は葉山の正面に席を移した。その時に、店を出て帰路に就いたはずの二人の姿を窓越しに確認できなかった。そして幾ばくかの間を置いて、()()()が姿を見せた。

 

 目だけを動かしてじろりと葉山を睨み付けると、ふと視線が合った。

 静かに目を閉じて再びゆっくりと見開いたのは、おそらく同意の意思表示だろう。

 つまり、この一件の黒幕は……。

 

 

「葉山くんが応援してるあなたが苦戦してるって聞いて、葉山くんの助けになれたらいいなって思ったから来たんだけどねー。もしかして、お呼びじゃなかった?」

 

 きょとんと首を傾げながら返事をした仲町は、金曜とも土曜とも違って見えた。あの時には感じられなかった静かな決意が、心の奥底に灯っているような印象を受ける。

 

 覚悟を決めた者特有の雰囲気は、先週と今週の二度にわたって立て続けに見た。さすがに彼ら二人には劣るものの、同種の気配が仲町からも伝わって来る。

 

「最初から、楽に勝てるとは思っていなかったわ。由比ヶ浜さんも一色さんも、手強い相手なのは以前から分かっていたことだから。ところで、選挙戦が終わったら葉山くんは生徒会には関わらなくなるのだけれど。それでも私を応援してくれるのかしら?」

 

 んんっと首を傾けて、ようやく意味が理解できたのか仲町がそれに答える。

 

「合同イベントは、わたしはあんまり関わる気はないんだよねー。かおりとか会長が頑張ってくれるんじゃないかな。わたしはそういうイベント絡みじゃなくて、個人的に葉山くんと逢えたらいいなって思ってるだけでさー」

 

 話にならないと受け取ったのか、雪ノ下は軽く息を吐いてから視線をゆっくりと左に逸らした。いつ爆発しても不思議ではない二人の様子を確認して、再び仲町を正面から見据える。

 

「葉山くんの応援に来たとか助けになれたらとか、そんなことを言っていたと記憶しているのだけれど。貴女の言動を振り返ると、葉山くんの邪魔をしに来たとしか思えないわよ?」

 

「だって、応援は応援でしょー。わたしが葉山くんを応援してるのは間違いないじゃん。それがどうして邪魔しに来たってなるの?」

 

 これは能力の差がありすぎて話が成立しないパターンだなと八幡は思った。

 

 同じ日本語で対話をしていても、言葉の捉え方がかけ離れていたり、あるいは抽象的な思考に優れている者と不得手な者では会話にならないことがある。

 具体的な例を挙げると、「大した胆力だこと」と大人の美人から皮肉を言われても、その言葉に身構える者がいる一方で、心底から褒められたと受け取る者もいる。そういう話だ。

 

 どうしてこんな具体例を思い浮かべてしまったのか、なぜこんなにも背中がぞくぞくするのか理解できないままに、八幡は再び二人に意識を戻す。

 

「……貴女にとっては、葉山くんを助けたいという善意に基づく行動なのね。でも、他校の生徒から応援を受けるのはリスクを伴うのよ?」

 

 根気強く説明を続ける雪ノ下だが、まず通じないだろうなと八幡は思う。

 

 内部の問題に外部の者が口を挟むことは、確かに抜群の効果をもたらす時もあるけれど、強い忌避感を呼び覚ますことも多い。そしてその負の感情は、部外者に向く時もあれば、その者を呼び込んだ人や手助けを受けた人に向けられる場合もある。

 

 雪ノ下はリスクという言葉を使って、これでも婉曲に話をまとめようとしているけれど、要するに早い話が「ありがた迷惑」なのだ。そこまではっきり告げないと、仲町にはおそらく通じないだろう。

 

「えっ。他の高校にも応援してくれる人が居るってなったら、心強いと思うんだけどなー。リスクって、なんで?」

 

 やはりかと八幡は歎息するしかない。

 

 葉山を助けたいというその決断はご立派だし、同性から恨みを買うリスクに対しても覚悟ができているのだろう。すぐ目の前と奥の席から伝わって来る怒りのオーラは尋常ではなく、この件に関しては部外者の八幡でさえも可能なら逃げ出したいと思うほどなのに。

 

 仲町は今なお平然と佇んでいて、隣席の折本が冷や汗を浮かべながら何度も首を捻っているのとは対照的だ。

 

「我が校のことは我が校の生徒だけで解決すべきだということよ。外部の手を借りて選挙に勝ったところで、正統性という点で問題があると思うのだけれど?」

 

 そして雪ノ下にも問題、と言うと少し表現が過剰ではあるものの、世間ずれした側面が顔を覗かせている点が話をますます面倒にしている。

 

 なにせ高校の生徒会長に対して使うには、正統性という言葉はどう考えても重すぎる。なのに当人は得意げな顔つきで、今にもアタナシウス派とか南北朝正閏論といった歴史用語を口に出しそうな勢いなのだから。

 

 雪ノ下にとっての常識って高校生離れした水準にあるんだよなと、八幡は苦笑いを漏らすしかない。

 

「うーんと……合同イベントに関わる気はないってさっき言ったよね。例えばさ、会長があなた以外だと協力しないとか、そういう脅しかたをしたら問題なのは分かるんだけどねー。どうしてわたしが葉山くんを応援したら問題になるの?」

 

 教室の後ろと繋がっている体育館からざわつく声が聞こえて来た。壇上の一同や椅子に座っている面々に目立った動揺は見られないものの、驚きの気配は伝わって来る。

 

 意外と考えるところは考えているんだなと少しだけ仲町を見直しながら、八幡は雪ノ下に視線を向ける。

 

「なるほど。つまり貴女は、葉山くんに応援の言葉を届けることだけを考えているのね。私の当落には興味を持たず、むしろ警戒されていると考えたほうが良いのかしら。でも明確にしておきたいのだけれど、私と葉山くんがそうした関係に発展することは、金輪際あり得ないわ。つまり貴女は警戒する相手を間違えているのよ」

 

 そう言って雪ノ下が視線を壇上に戻すと、まるで檻から飛び出した猛獣のような勢いで三浦が口を開いた。

 

 

「いくら健気に応援したからって、そんなので隼人の気持ちが動くわけないし!」

 

 八幡はこの辺りの機微に疎いので、雪ノ下の発言に飛躍があるのではないかと受け取ったのだが。どうやら女子生徒の間では、先程の洞察に異論は無いみたいだ。

 その証拠に、すぐ目の前からも声が上がる。

 

「ですね~。葉山先輩って、そんな楽な相手じゃないですよ~?」

 

 のんびりとした口調の奥に底知れぬ迫力を湛えて一色が告げると、仲町はぽかんとした顔つきになって、そして静かに疑問を口にする。

 

「えっと……そんなに葉山くんのことが好きなら、どうして違う候補を応援してるの?」

 

 一色が立候補者だと認識できていないのが丸分かりの発言だが、その主旨は明確だ。

 思いがけない問いかけを受けて、八幡の目の前では一色が首を左右に捻っている。

 

「あれっ。そういえば、なんででしょうね~。葉山先輩に手伝って貰えたらばっちりだったのに、でも雪ノ下先輩がさっさと、けど思い付きもしなかったのは、だってせんぱいが……あれっ、なんでだろ?」

 

 誰にも聞こえないような小さな声で戸惑いを口に出していた。

 

「何でもかんでも隼人に賛成ばっかりなのは良くないし!」

「わたしは、そうは思わないなー」

 

 そんな一色を尻目に、三浦が吠える。好きという指摘はスルーしたものの、ほんのりと頬が赤くなっているのが微笑ましい。

 

「隼人は隼人で、応援したい候補を応援したら良いし。あーしはあーしで、結衣を応援したいから応援するんだし!」

「じゃあさー。葉山くんと、その結衣さんと。どっちかを選ばないとってなったら、結衣さんを選ぶんだ?」

 

 ぶちっと、三浦の何かが切れた音が聞こえた気がした。

 それは八幡の気のせいではなかったみたいで、ここまで沈黙を守っていた海老名と由比ヶ浜が立て続けに口を開く。

 

「ほら、優美子。集会の真っ最中なんだから、今はこらえて」

「あたしは気にしないけど、こんな質問には答えなくていいからね。えっと、仲町さんも極端な質問は遠慮して欲しいなって」

 

 そんな由比ヶ浜の配慮にも聞く耳を持たず、仲町は何かに取り憑かれたような勢いで話を続ける。

 

「わたしは、かおりと葉山くんのどっちかを選べって言われたら、葉山くんを選ぶよ!」

「ちょ、千佳っ……でも、悔しいけどマジウケる!」

 

 こんな状況すらも楽しめてしまえる折本って凄ぇなと、呆れを通り越して賞賛の気持ちを抱いてしまった八幡だった。

 だが、ここまで言われて三浦が黙っているはずもなく。

 

「あーしは、あーしだって隼人を……でも結衣も特別なんだしっ!」

「だからさー、それって、その程度の気持ちだったってことでしょ?」

「隼人のことも結衣のこともよく知らないから、そんなことが言えるんだし!」

「そうかなー。少なくとも、葉山くんが特別だってことは知ってるよー。わたしみたいな普通の子とは違うなって」

 

 最初に雪ノ下のことを「あなた」呼ばわりした時から、仲町にはどこか挑発的な雰囲気が感じられた。それがぴたりと止まったので、対話相手の三浦をはじめとした一同が虚を突かれて口を挟めないでいると。

 

「この間ここに来た時も思ったけど、みんな凄いよねー。葉山くんと同じぐらい特別な子が大勢いてさ。普通のわたしとは、住んでる世界が違うなーって。……けど、普通の子にだってチャンスは来るんだよね。合同イベントがあって、総武の会長選挙があって、葉山くんが応援してる候補がいて、けっこう苦戦してるみたいでさ。わたしがここに来る理由があって、葉山くんを応援できるんだから、そんなの来るしかないし応援するしかないじゃん。どっちかを選べって言われたら、かおりじゃなくて葉山くんを選ぶよ。だって、普通の私には、こんな機会はもう二度と来ないかもしれないんだもん」

 

 自分は普通に過ぎないと苦悩していた男子生徒を思い出した。

 特別な異性に胸を焦がして、でもその相手にとっては自分などモブに過ぎないと理解させられて。夕暮れの海辺で、ラクダに乗った王子と姫の銅像を遠くから眺めていた男の横顔を、八幡は連想する。

 

「だからさ、もう一度だけ訊くね。あなたたちが応援してる候補と葉山くんと、たった今どっちかしか選べないってなったら、どっちを選ぶの?」

「……たった今なら、結衣を応援するし」

 

 苦渋の表情を浮かべて、それでも三浦はきっぱりと答えた。

 それを聞いて少しほっとしたような顔つきで仲町が口を開く。

 

「ふうん。やっぱり、その程度なんだねー。まあ、そう答えてくれないと、普通のわたしが勝てるわけないんだけどさ。じゃあ、そっちのあなたは?」

 

 問い掛けられた一色は、うーんとわざとらしく首を右に傾けながら人差し指で頬に触れて。そして良いことを思い付いたと言わんばかりのきらきらした目つきで答えを述べる。

 

「そうですね~。ま、自分と葉山先輩だったら、選ぶのは自分ですよね~。けど~、会長になって葉山先輩も選ぶって選択肢がどうして駄目なのか、わたしには理解できないですけどね。勿論わたしは両方選びますよ~!」

 

 仲町の勘違いが功を奏したと言うべきか、一色はまたもや舐めた返事を堂々と宣言する。

 

 清々しいぐらいに自己中だよなと背後で思われている気がして少しだけむっとしたものの、今は気分が良いので勝ち気な笑顔がそれに優った。何故なら、頭の片隅で引っ掛かっていた疑問に、当座の答えを与えられた気がしたからだ。

 

「えっ。あー、候補者だったのかー。やっぱり、どっちも手強いね。他にもライバルはいるみたいだけど、あなたたち二人さえ何とかすればって感じっぽいかな」

 

 そう呟いた仲町は、二人の迫力にも怯むことなく視線を合わせて、順に火花を散らせていく。

 それを見た誰かが息を呑んだのと同時に、ふうっと息を吐いた雪ノ下が改めて口を開いた。

 

「これ以上この話を続けても仕方がなさそうね。だから葉山くんに、収拾をお願いしたいのだけれど?」

「まあ、仕方ないな。身から出た錆だと思えば諦めもつくよ」

 

 隣席にだけ聞こえるように小声で返して、葉山がおもむろに立ち上がった。そして仲町の前まで歩いて行くと、そこでしゃがみ込んで、目線の高さを同じにしてから話し始める。

 

「君の気持ちは嬉しかったし、応援もありがたいなって思ったけどね。でも、ごめん。今はそういうこと、あまり考えられないから」

「うん……わかった。ごめん、わたし帰るね」

「えっ、ちょっと千佳っ……」

 

 たっと椅子から立ち上がって廊下へと走り去る仲町に慌てて声を掛けたものの、がらっと扉を開けた時にこちらを振り返って少し頭を下げただけで、そのまま背中を向けられた。

 

「あー、えーと、私も帰ります。選挙の邪魔してごめんなさい!」

 

 おそらく自分ではなく総武の生徒たちにごめんなさいって意味のお辞儀だろうなと考えながら、折本も急いで立ち上がると慣れない謝罪の言葉を口にして、そのまま仲町の後を追う。

 

「あー、もうっ。暴走するのは千佳じゃなくて私の役目でしょー!」

 

 程なくして廊下から大きな声が聞こえて来た。続けてすすり泣くような声が伝わってくる。

 静かに立ち上がった城廻は、「聞いちゃ駄目だよー」と口にしながら扉をしっかり閉めて。そして元の席に戻ると、雪ノ下を見つめながら頭を小さく縦に動かした。

 

 

「なんだか嵐に遭ったみたいな気分ですね。ところで、城廻先輩から連絡を頂いたので空席を五つ用意したのですが。一色さんはともかく、由比ヶ浜さんは誰が来るかを知っていたのではないかしら?」

 

 まずは城廻の頷きに応えて、雪ノ下はそのまま由比ヶ浜に視線を向けて疑問を伝える。

 

「うん、まあね。あたしの友達の友達が海浜の生徒会に居てさ。けど、こんな話になるなんて予想できなかったよね……」

 

 由比ヶ浜が正直に答えたものの、雪ノ下は険しい表情を浮かべたまま口を開かない。

 それを見た壇上の面々が首を傾げていると、元の席に戻った葉山が少し疲れた声で話し始めた。

 

「念のための確認だから、気を悪くしないで欲しいんだけどさ。これ、結衣たちが仕組んだわけじゃないよね?」

 

 その言い草を耳にするなり、思わず八幡は立ち上がって反論しそうになった。だがすんでの所で自制心を働かせて、身体を前のめりにしただけで踏み止まる。

 一色の参謀役という立場のせいで自由に声を発することができない己の状況に辟易しながらも、責任感でその感情を押し殺した。そしてますます自分自身に辟易する。

 

 仲町の暴走が発端となって、雪ノ下陣営の対応に違和感を覚える生徒が出始めたのは明らかだ。事態を収拾するためとはいえ、公然の場で葉山に断りを入れさせた雪ノ下の振る舞いは、男子からも女子からも良くは思われないだろう。

 

 もちろんその行動は理に叶っている。だから表立って非難する声は出ないだろうけれど、感情は別物だ。雪ノ下が葉山との関係をきっぱり否定したことすらも、今後の状況次第では悪いように受け取られかねない。

 

「うん。あたしたちは、そんなことはしないよ。さっきも言ったけど、海浜の二人が来るのは知ってたんだ。それは、うん、間違ってない。けど、何かを企んだり仕組んだりってのは、考えもしなかったな。証拠とかがあるわけじゃないから、信じて欲しいって言うしか無いんだけどね」

 

 我先に口を開こうとする背後の二人を大きな身振りで制して。珍しく固い表情を維持したままで、由比ヶ浜は静かな口調できっぱりと疑惑を否定する。

 

 葉山の問いかけはその言葉どおり確認に過ぎず、むしろこのタイミングで話を明確にしておくことがお互いにとって一番良いと理解しているからこそ、由比ヶ浜は自らの非にも言及して話を終えた。

 

「そう。それなら良いの。不躾な質問をして、言いにくい事を言わせてしまってごめんなさい」

 

 そう言って雪ノ下が頭を下げると、大勢の口からどよめきが漏れた。

 そして反応は半々に割れる。

 

 雪ノ下陣営からのあまりと言えばあまりな質問に、忌避感をますます強くする生徒も居れば。

 三陣営の中で唯一情報を掴んでいたのは間違いないのに。そして疑惑が広がる前に敵陣営に火消しをして貰ったとも言える状況なのに。その上さらに雪ノ下に頭を下げさせた由比ヶ浜に対して、負の感情を抱く生徒も出始めた。

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も、自分への評価はともかく、相手に対してはそんなふうに思って欲しくないと考えているにもかかわらず。

 

「ううん、いいの。でも、何だか変な雰囲気になっちゃったね」

 

 そんな生徒たちの反応を余さず把握できてしまえる由比ヶ浜は、小さく首を振りながらそう返して。そして少しでも場の空気を変えようとして言葉を付け足すと、微かに笑顔を浮かべた。

 

 

 葉山が発言した直後にここまでの展開を予測していた八幡は、強く唇を噛みしめながら不動を貫いていた。そして頭を目一杯に働かせて、今後の対応を検討していく。

 

 まず今の状況は、一色陣営にとっては理想的と言って良い。ライバル二陣営が株を落として、自分たちには何らの影響も出ていないからだ。

 

 そもそもこうした場面を見据えて、八幡は二位狙い戦略を組み立てていた。一位の候補に対して疑念が湧いた時に、じゃあ二位で投票するはずだった候補を繰り上げで一位にするかと有権者に考えて貰えるようにあれを仕組んだのだ。

 

 けれども、こんな理不尽な形で雪ノ下と由比ヶ浜が評価を落とすのを、八幡は望んでいなかった。できれば一色の主張が二人を上回るという形で、全校生徒からの支持を逆転させる展開を望んでいたのに。

 

 何もしがらみが無ければ、今すぐにでも二人を擁護するための行動に出たい。なのに今の自分は肩書きに邪魔をされて、本当にしたいことができない状況にある。

 

 もしかしたら、二人と敵対したから罰が当たったのかもしれない。そんな疑いがちらりと頭を過ぎるほどに、八幡は現状に対してやるせない想いを抱いていた。

 

 けれども冷静になってみると、選挙戦はまだ終わっていない。それに差は確実に縮まったとはいえ、一色の勝利が厳しいことに変わりはないのだ。敵陣営に温情を掛ける余裕など、自分たちは持ち合わせていない。

 

 だから、心を鬼にしなければならない。

 

 自ら仕組んで二人を陥れるような邪法は死んでも御免だが、ひょんなアクシデントで二人が足をすくわれて、なのにそれに乗じないのは逆に二人に対して失礼だ。選挙戦の序盤から今に至るまで、一色を格下とは欠片も思わず全力で勝負を挑んできた雪ノ下と由比ヶ浜に応えるには、このチャンスを見過ごすなんて論外だ。

 

 そう結論付けて、明日の立会演説会までの戦略を組み立て直している八幡の耳に、雪ノ下の声が聞こえて来た。

 

 

「では、時間も時間なので今日の集会はここまでにしたいと思います。もともと私は人事案を発表する気は無く、明日の演説で奉仕部への対応と合わせて説明する予定でした。その点をご理解下さい。明日の今頃の時間には結果が出ていると思いますが、最後まで悔いのない戦いをしたいと考えていますので宜しくお願いします」

 

 由比ヶ浜が集会を開かなかったのは、おそらく既に人事案を発表し終えていたからだろう。

 そして雪ノ下が集会を開いたのは、真面目で責任感の強い性格のせいだろう。

 だが二人の決断が異なった結果、このような展開になってしまった。

 

 雪ノ下が開く必要のない集会を開かなければ、あるいは由比ヶ浜が人事案を公表しておらず今日なんとしても集会を開く必要があったなら、こんな事態にはならなかった。

 

 仮に集会が二つあったとしても、海浜からの移動時間を考えると折本たちは由比ヶ浜の集会に出席することになっただろう。その場合に仲町と対話を重ねるのは主催者たる由比ヶ浜だ。となると、今とは違った結末になっていた可能性が高い。

 

 そう考えると、いずれにせよ集会を開くという責任を引き受けた者が一番損をして、そして弱小候補の利点を最大限に活かして端から集会を開く気がなかった自分たちが一番得している。

 

 それに、情報の収集という点で自分たちは敵陣営に後れを取ったのに。なのに海浜のあの二人が参加するという情報を得てしまったがゆえに、由比ヶ浜は窮地に陥った。

 

 いずれも、理不尽な話だ。

 

 責任を引き受けられる者が、そして情報を得られた者が馬鹿を見る。ならば個人の能力に一体なんの意味があるのだろう。人より秀でているのに報われないなんて、他人を思い遣ったり笑顔にできるあの二人が酷い目に遭うなんて、どう考えても不条理じゃないか。

 

 だからこそ、二人をそんな立場に立たせるのではなく、能力を存分に発揮できる奉仕部という組織に居続けて欲しいと八幡は思う。同時に、一色ならその手の理不尽にも上手く対応できるだろうと期待を寄せる。だから、この配置こそが適材適所のはずだ。

 

 とはいえ、今は何よりも優先して片付けておくべき事がある。

 だから八幡は、集会直後のざわついた雰囲気の中でいち早く席を立つと、一色の背中に声を掛けた。

 

「悪いけど、後は一色に任せるわ。あ、遊戯部の二人と材木座の誰でもいいから、俺が行くのが少し遅れるって連絡しておいてくれると助かる。じゃあな」

 

 そう言い終えると、八幡は一色の反応を待たずに教室を出る。

 少しだけ距離を置いて後を追ってくる男の存在を背中に感じながら、八幡は空き教室へと移動した。

 

 

***

 

 

 空き教室にて、八幡は葉山と二人で向かい合っていた。

 とはいえ目の前の男と対話をするのが目的ではない。

 

「この時間に連絡しても繋がるのかね?」

「ああ。今日に限っては出てくれると思うよ。じゃあ、俺が映像通話でかければ良いかな?」

 

 その提案に頷きを返すと、葉山はアプリを立ち上げて相手を呼び出す。

 ほぼノータイムで通話が繋がって、二人の前に見知った女子大生の姿が浮かび上がった。

 

「隼人がこんな時間に連絡してくるなんて珍しいね。お、比企谷くんも居るじゃん。ひゃっはろー?」

 

 いつもと何ら変わらぬ口調の雪ノ下陽乃とは対照的に、葉山と八幡は険しい表情を崩そうともしない。

 そんな二人の様子を見て取って、陽乃はたちまち冷酷な笑みを浮かべる。

 

「その調子だと、何か面白いことでもあったのかな?」

「……土曜日にあの二人と会った時に焚き付けたんですよね?」

「雪乃ちゃんの姉だと名乗って、二人の味方を装いながら誘導したんじゃないかな?」

 

 八幡に続いて葉山が推測を述べると、陽乃の目が怪しく光った気がした。

 

「もう、二人とも大袈裟だなあ。焚き付けるとか味方を装うとか誘導とか、お姉ちゃんこれでも一介の女子大生に過ぎないんだけどなー」

「もしかすると、折本から声を掛けたのかもですね。雪ノ下と似てるって思ったら、そのまま口に出しそうですし」

「その流れで雪乃ちゃんの苦戦を伝えて、だから応援に行ったら俺が感謝するはずだとか、そんな感じかな。ああ見えて義理堅いし、なんて言われてそうだけど?」

 

 陽乃の戯れ言には聞く耳を持たず、二人は推測を続ける。

 

「ふーん。それで?」

「投票前日に先が全く読めなくなったって意味では、大成功なんじゃないですか?」

「陽乃さんが結衣にここまで目を掛けてるって判ったのは大きな収穫かな」

 

 そこまでは考えていなかったので、思わずぐいっと首を捻って葉山の顔を凝視してしまった。相変わらず涼しい表情をしてやがるなと考えていると。

 

「へーえ。比企谷くんでも分かんないことってあるんだね。ガハマちゃんって交友関係が広いからさ、海浜の生徒会とも繋がりがあるみたいだね」

「だからなんで俺の知らないことまで知ってんだよこの人は……」

「あの二人から情報を引き出したと考えれば辻褄は合うけど、別ルートも確実にあるだろうな」

 

 やっぱりこの人の相手は面倒くさいと精神をごりごり削られながらも、八幡は意を決して口を開く。

 

「それで本題なんですけどね。選挙戦にちょっかいを掛けるのは、これで終わりにして欲しいんですけど?」

「嫌そうな顔で要望したら、ますます喜び勇んで介入してくるぞ。陽乃さんも、引き際は心得ていると思うけどな」

 

 さすがに付き合いが長いだけあって、葉山は八幡にフォローを入れつつ挑発的な目で陽乃を見据えた。こちらが弱さを見せるとたちまち距離を詰めてくるのを嫌というほど知っているからだ。

 

「うーん。ちょっかいとか介入とかお姉ちゃん分かんないなー。けどま、分かんないけど興味もないって感じかな。どっちみち明日には結果が出るんでしょ?」

「ですね。じゃあ俺らは選挙戦に戻りますけど、一つだけ訊いても良いですか?」

 

 明言こそしていないものの、こうまで口にした陽乃が言を翻したり屁理屈を捏ねるとは考えにくい。なのでこちらも引き時だと判断した八幡がそう告げると、にこやかに頷かれたので。くいっと顎を動かして葉山を促した。

 

「陽乃さんは、雪乃ちゃんがどんな結果になるのを望んでいるのかな?」

「うーん、どんな結果って言われてもさ。まあ結果自体はどうでもよくて、それを雪乃ちゃんがどう受け止めるかが楽しみだって感じかなー」

 

 目をくりんと動かす仕草は無邪気なもので、まさかこの人が仮面の下に多面性を備えているとは誰も思わないだろう。自分たちにしたところで、今の発言だけは本音ではないかと考えてしまいそうになる。けれども、そんな保証などありゃしないのがこの人の厄介なところだ。

 

「どんな結果になっても、陽乃さんは意外に思わないってことかな?」

 

 八幡がそんなことを考えていると、葉山が少し渋い顔で疑問を重ねた。

 それに答える陽乃に皮肉な調子はかけらもなく、やはり本音を口にしているように思えてしまう。何らの理由も裏付けも無いというのに。

 

「まあねー。もしかしたら雪乃ちゃんのことだから、わたしの知らないやり方を見せてやろうとか考えてるかもしれないけどさ。隼人なら、めぐりの前の生徒会長を覚えてるでしょ。あの子にしろめぐりにしろ、わたしとは違うやり方で結果を出せる人材なんて、意外とそこらに居るんだよね」

 

 葉山の表情がますます険しくなっているが、陽乃はどこ吹く風だ。それどころか、こんな一言まで付け足してくる。

 

「ねー、比企谷くん?」

「まあ、ぼっちになるって結果は陽乃さんには出せないでしょうね」

 

 

 その返答にうんうんと大きく頷いて、陽乃は楽しそうに話を続ける。

 

「比企谷くんってそういうところが面白いよねー。じゃあ……あ、そうだ。隼人に苦労させたお詫びに、ちょっとしたプレゼントがあるんだけど?」

 

 地雷でも渡されそうな気がしたので、葉山だけではなく八幡までうげっとした顔をしていると。

 

「そんな顔をしなくても、ちゃんと役に立つものだってば。たしかさ、隼人って雪乃ちゃんに試験で一度も勝ててないよね。それと静ちゃんから聞いたんだけど、比企谷くんって国語だけなら隼人と同じぐらいの成績なんだって。隼人が気を抜けば抜かれる可能性もあるんだってさ」

 

 瞬時に真剣な表情に戻って、葉山が何かを検討している。

 この提案に乗るのは危険だと言いたいのは山々だが、八幡も当事者だけに余計なことは口にできない。

 そんな二人を交互に眺めてますます笑みを深めながら、陽乃が詳細を述べる。

 

「今度あるのは高二の二学期の期末試験だよね。国語の過去問と静ちゃんの性格分析も含めた対策ノート、今回のお詫びにあげるって言ったらどうする?」

「それ、もしかしてわざわざ持ち込んだんですか?」

 

 この世界にログインした段階でどこまでを見通していたのかとおののきながら、八幡が敢えて道化た口調で疑問を伝えると。今度こそ擬態なしのきょとんとした目つきを向けられた気がした。

 

「ぷっ。比企谷くんって時々すごく冗談が上手いよねー。持ち込んだんじゃなくて、今から作るだけだってば」

「え、っと。三年前の試験問題を覚えてるんですか?」

「あれっ。それぐらい普通は覚えてるでしょ。小学校の小テストを思い出せって言われたらちょっと時間が掛かるけどさ」

 

 それでも時間を掛ければ思い出せるのかと、八幡が呆れ顔を浮かべていると。

 その横では、葉山が決意を固めていた。

 

「陽乃さんの目論見は分かるけど、俺も一度ぐらいは一位を狙ってみたいからね。ここは乗っからせて貰おうかな」

「そうか……。まあ、俺がどうこう言える筋合いじゃねーし、好きにすれば良いんじゃね?」

 

 そうは言ったものの、今度こそ葉山を抜いて雪ノ下の牙城に迫りたいと考えていたので内心は複雑だ。この人の介入によって、色んな先行きが不透明になるなと思いながら、じろりと視線を送ると。

 にっこりと、澄んだ目で返されてしまった。嘘くさいことこの上ない。

 

「学生の本分は勉強だからさ。隼人も比企谷くんも、大いに励みたまえ。じゃねー」

 

 その言葉とともに通話を切ったのだろう。陽乃の姿が瞬時に消えて、空き教室にはそりの合わぬ男二人が残った。

 

「選挙前日に言われても、まあ無理だわな……」

「だね。陽乃さんのせいで変な雲行きになったけど、お互いに明日の放課後まではベストを尽くそうか」

 

 そりが合わなくとも共通の敵がいれば協力し合えるし、いざ対立となると話は早い。

 空き教室を出た八幡と葉山は、各々が応援する候補のために身を粉にして働くべく、それぞれの仕事場に向かった。

 

 

***

 

 

 放課後の残りの時間はあっという間に過ぎて、たちまち夜を迎えた。

 八幡は自室にてぐったりしている。

 

「仲町の話にはできる限り触れないようにしてまとめたけど、客観的に要約するのが面倒な集会だったな……」

 

 リアルタイム速報のページも残してあるので、詳しく知りたいと思えばすぐに情報が出てくる状況だ。

 それでも公平な記述という要素が集客に役立っていると考える八幡は、選挙戦に関係のない話題や仲町の個人的な話などは極力省いて集会のまとめとした。

 

 八幡のこの姿勢は、今日の雪ノ下の応対に疑問を持った層からの支持を地味に増やす効果をもたらすことになるのだが、今の段階ではそれが判るわけもなく。後々への影響など考える余裕もないままに、八幡はベッドに寝転がってじっと身体を休めていた。

 

 身体は疲れているのに、頭が妙に醒めているのですぐには眠れそうにない。

 八幡がそんなことを考えていると着信音が響いたので、よっこいしょと起き上がってベッドの端に腰掛けてからメッセージを開封した。

 

『一色さんの生徒会に会計として参加したい。他の候補が当選したら生徒会に関わる気はないから、演説でそれを利用できそうなら利用してくれ。じゃあまたな』

 

 稲村純の決断をはっきりと目の当たりにして、気が付けば小さく頭を下げていた。

 そして八幡はゆっくりと立ち上がると、部屋を出て階段を下りてリビングに向かった。

 




次回はできれば来週中に更新したいので、何とか頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(7/26)


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13.かけがえのないひと時を彼はそれと知らず過ごす。

本話にも念のため、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→156p1

以下、前回のあらすじ。

 水曜日は朝から各陣営がラストスパートに入っていた。
 各々の持ち味を活かして支持を広げる雪ノ下と由比ヶ浜に後れを取ることなく、らしさを存分に発揮して一色も支援者を増やしていく。相模らは情報収集を、八幡らは情報サイトへと発展したwikiの管理を通して、推薦人や一色ファンの勧誘活動を後押ししていた。

 一色だけでなく由比ヶ浜も見送りを決めたので、この日の集会は雪ノ下主催の一つだけ。そこに折本と仲町が姿を見せる。

 最初の自己紹介で「葉山の応援に来た」と宣言した仲町は、大勢から非難の目を向けられても動じない。それどころか、口を挟んできた三浦と一色に「なぜ葉山とは別の候補を応援しているのか?」「その候補と葉山のどちらかを選ぶとしたら?」と問い掛ける始末だった。

 その理由が当人の口から語られる。
 自らを普通に過ぎないと自覚する仲町にとって、特別に凄い面々と張り合えるチャンスは今しかないと考えたが故の暴走だった。

 膠着状態に陥ったと見た雪ノ下は、葉山に事態の収拾を命じる。
 今はその手のことを考えられないと伝えられて、仲町は折本とともに去って行った。

 感情を排して事務的な対応に終始した雪ノ下。三候補の中で唯一、海浜の二人が参加すると知っていた由比ヶ浜。そんな二人に対して、生徒たちは違和感を覚え始める。
 その反応を理不尽だと憤りながらも、八幡は選挙戦の勝利を優先して戦略を組み立て直していく。

 集会が終わった直後に、八幡は葉山と協力して陽乃の干渉を退ける。期末試験の話はひとまず横に置いて、二人は健闘を誓い合った。

 その日の夜、仕事を終えた八幡は稲村からのメッセージを受け取った。
 為すべき事を全て済ませて、けれども頭が冴えて眠れそうにない八幡は、自室を出てリビングに向かった。



 部屋の扉を開けた比企谷八幡は電気も点けずに流し台の近くまで歩み寄ると、手探りで電気ケトルの電源を入れた。たちまちしゅうしゅうと音を立て始めたので、少し前に妹が下りてきたのだなと推測する。

 

「てことは、今頃は勉強を再開してる可能性が高いな。邪魔はできない、か」

 

 受験生が温かいものをすぐに飲めるようにと夕食後にお湯をたっぷり沸かしておいたのだが、もう十一月も下旬なのですぐに冷めてしまう。なのに余熱がこれだけ残っているのは、妹が沸かし直したからだろう。

 

 まだ宵のうちなので、眠っているとは考えなかった。だから上手くタイミングが合えばと期待しながら下りてきたのだけれど、少し遅かったみたいだ。

 妹と軽く雑談をして、睡魔が訪れればそれで良し、疲労感が軽くなっても良しと、そんな目論見を抱いていたのに残念ながら当てが外れてしまった。

 

「ここで待ってても、次に下りてくるまで時間が掛かりそうだよな……」

 

 かちっと音がして、思った以上に早くお湯が沸いた。つまり、ついさっきまで妹はここに居たのだろう。

 

 特に何かを飲みたかったわけではなかったので、一仕事を終えた電気ケトルに背を向けてソファへと移動した。

 数日前に、当たり前のように中央にでんと座って寛いでいたあざとい後輩を思い出しながら。八幡は頬の筋肉を緩めると、端っこの席に腰を下ろした。

 

 

 あの時に「たすけてくださいね」と告げられて。その約束は今日に至るまで、何とか果たせてきたなと八幡は思う。

 

 ここまで綱渡りの連続ではあったけれども、今なお当選の可能性は残っている。序盤の劣勢を思えば、それは奇跡的と言っても過言ではないだろう。もう一度同じ事をやれと言われても、次は必ず失敗するという自信がある。

 

 だがここまで来れば、八幡は実質的にはお役御免だ。

 

 もちろん明日も裏方の仕事はたっぷりある。けれど大まかな流れは今日と変わらない。集会の概要をまとめ終えて、明日の立会演説会に関していくつかの注意事項を伝えた時点で、八幡は全ての責務を果たしたと言って良いだろう。

 

「まあ厳密には、連絡事項が一つだけ残ってるんだがな」

 

 先ほど届いたメッセージを思い出して、思わずつぶやきが漏れた。

 一瞬で終わる仕事だというのに、なぜか躊躇してしまう。あの男の覚悟の重さと、これで完全に役割を終えてしまうという物寂しさが、おそらくは原因なのだろう。

 

 背中をソファにどさっと投げ出して、八幡は我が身を俯瞰で捉えてみた。

 確かに疲れてはいるものの、すぐに眠る必要があるという程ではない。

 確かに頭は冴えているけれど、勉強は勿論のこと読書やゲームをしたいとも思わない。

 

「なにか、コンビニで買う物とか……無ぇな」

 

 気晴らしに外に出るのも良いかと思い付いて、でも用事が無いことにはどうにもならない。自らのツッコミに苦笑いを浮かべると、八幡は首を後ろに傾けて顕わになった喉を「うーん」と動かしながら目をきょろきょろさせていた。

 

「ん……ああ、夜の散歩って手もあるか」

 

 個室に繋がる扉が目に入ったのは、単なる偶然だった。けれども夜の校舎を探検するという思い付きを散歩と称したのは意図的なものだ。

 

 最終下校時刻を過ぎると、許可がない限りは立ち入らないようにと言われているけれど。それはいわゆる努力目標に過ぎず、物理的に禁止されているわけではない。とはいえ夜に校内を歩いても面白いものではないので、普通ならやろうとは思わないのだが。

 

「明日の喧噪を控えて静まり返っている校舎の中を歩くってのも、まあ一興かね」

 

 投票前日の高揚感が、こんな突飛な思い付きを後押ししているのだろう。そんなふうに自己分析をしてみたところで、一度乗り気になった感情は収まってくれそうにない。

 

「んじゃ、軽くぶらついて来るか」

 

 そう口にして勢いよく立ち上がると、八幡はジャージ姿のまま個室を経由して、夜の校内に足を踏み入れた。

 

 

***

 

 

 最初に向かったのは、通い慣れた二年F組の教室だった。

 

 廊下には等間隔で小さな明かりが灯っているので歩くのに支障は無かったものの。目的地に近づくほどに、誰ともすれ違わないこの環境が奇妙なものに思えて来て、最後は少し早足になってしまった。

 

 教室に入るなり後ろを振り返って誰にも見られていないのを確認して、思わず安堵の息が漏れる。

 

「人が居たほうが良いのか居ないほうが良いのか、どっちだよって感じだな」

 

 そんな独り言を口に出して心を落ち着けると、八幡は教壇へと顔を向けた。

 

 ここで開かれた集会には結局一度も参加しなかったので、想像するしかないけれど。あの頼れる同級生にして部活仲間の女の子が、あの手強い部長様を相手に一歩も引かずにやり合っている光景を、八幡は難なく思い浮かべることができる。

 

「やっぱ、二人とも大したもんだわ」

 

 昨日の集会の後で現生徒会長が話していたとおり、おそらく誰が会長になっても立派にやってのけるのだろう。だが結果はそれで良いとしても経過が問題だ。能力に秀でた一部の面々だけが負担を負うのは間違っていると考えたからこそ、八幡はあの二人を敵に回したのだ。

 

 そして敵味方に分かれたおかげで理解できたこともある。

 

 この春から半年以上の時間を掛けて通じ合わせてきたものは何ら変わらないし、敵として彼女らの凄みを肌で味わう羽目にもなった。これらの体験は、また一緒に仕事をする時に役に立つはずだ。

 

「んじゃま、次に行きますかね」

 

 あまり長居をして、()()同級生の椅子に座りたくなったり机に頬ずりをしたくなっても困るので、八幡はあっさりとクラスを後にした。

 

 そんな変態的な行動などしないと断言したいところではあるのだけれど、夜の教室という異様な雰囲気に血が騒いでしまう性格なのは自分が一番よく解っている。もしもリコーダーがあれば口の部分を取り替えるべきかと真面目に悩みかねないなと自身に白い目を向けながら、八幡は廊下の先に足を向けた。

 

 

 二年J組の教室では、今日の集会を振り返った。

 

 意外な参加者が現れて予想外に暴走した結果、理不尽な展開になってしまったけれど。被害者とも言えるあの二人は当然として、八幡は当事者たる他校の女子生徒にも悪印象を持てなかった。

 

 それはきっと、彼女を突き動かす原点となった感情に、不純なものがまるで見られなかったからだろう。ただ純粋に、この機会を逃せば次は無いと考えて一身を賭して行動に出たのだなと、そう納得できてしまったからだ。

 

「それは良いとして、あれだよな。黒幕の陽乃さんを悪く思えないのは何でかね?」

 

 目下のところ、八幡の頭を占めていたのはこの疑問だった。

 

 あの人の本心がどこにあるのか全く読めず、それどころか今回の一件が単なる戯れなのか割と本気だったのかすら判然としない。

 とはいえ山勘で良いのなら、おそらく気まぐれで動いたのではないと思う。何かがあの人の琴線に触れて、だからこそ間接的な形で介入してきたのではないだろうか。

 

「いや、待てよ。むしろ間接的な介入に留めたって点に意味があるのかもな。それに、葉山にプレゼントを用意していたのも変と言えば変だよな。次の一手に繋げたのはさすがだなって思ったけど、あの人なら何も渡さなくても葉山を焚き付けられそうだし……もしかして言葉どおりのお詫びだったりするのかね。ま、これ以上は考えるだけ無駄か。それよりも……」

 

 それよりも八幡には、悪くも思うしいけ好かないとも思うし腹立たしいとも思う男がいた。その理由は明確だ。

 

「いくら幼なじみだからって、聞こえよがしに雪ノ下をちゃん付けで呼びやがるとはな。由比ヶ浜を下の名前で呼び捨てにするのも今更だけど気に食わねーし、つか一色もか。一色のファン連中を母体にして、反葉山で大連合でも組んでやりたくなるな」

 

 とはいえ、あの男も一筋縄ではいかない性格だと八幡は既に知っている。自分への当てつけという側面は確実にあると、それは断言できるのだけれど。あの発言にそれとは別の意味を持たせているのも間違いなくて、そこがとにかく厄介だしはっきり言って面倒だ。

 

「陽乃さんは読めないから困るけど、葉山の場合は読めてるから困るんだよなあ……。どうせなら敵視だけで一貫してくれたほうが楽なんだが」

 

 そうぼやきながら、八幡は教室を後にした。そのまま一年C組へと足を運ぶ。

 

 

「金曜から月火水で実質四日ぐらいなのに、すっかり馴染んだ気がするな」

 

 空き教室や遊戯部の部室にいることも多いので、それほど長い時間を過ごしたわけではないはずなのに。おそらく、ここで開かれた最初の決起集会で陣営の一員として大々的に受け入れられたことが、そして参謀や幹部といった大袈裟な肩書きを認められたことが大きかったのだろうなと八幡は思った。

 

 考えてみれば、あの二人のように矢面に立ったわけではないけれど、それに次ぐ立ち位置なのも確かだ。

 いつの間に俺は、こんな陽の当たる場所に立てるようになったのだろうか。

 あの後輩は俺に「唆されて」立候補したと言っていたけれど、「唆された」のは自分のほうではないかとすら思えてしまう。

 

「でもま、友達はできるし、推薦人連中とも関係性が違ってきたし、相模の取り巻き連中からも意外と可愛がられてるし、ファンの扱いは相変わらずだし。一色って俺だけじゃなくて、けっこう周りに良い影響を与えてるんだよな」

 

 同性には嫌われやすいという特徴ですらも、あざとく活かす術を会得してしまった。

 そもそもは同じクラスの女子生徒に謀られて、知らぬ間に立候補させられたのが発端だったのに。そんな理不尽な状況すらも、あの後輩なら好機に変えられる。

 

「だからって、全く傷つかないわけじゃないだろうけどな」

 

 あの二人からは、できる限り理不尽を取り除いてやりたいと考えているのに。あざとい後輩にその手の配慮をまるで示さないのは少し酷かと思い直して、自分にできることを考えてみた。

 

 メンタル面でフォローが必要だとはあまり思えないけれど、機を見て軽口まじりに確認するくらいなら大した負担もなく継続できるだろう。そんな気安い関係が、きっと自分とあいつの性格には合っているはずだと八幡は思った。

 

 

 夜に訪れてみたいと考えていた三箇所を回り終えたので、このまま帰っても良かったのだけれど。何となく物足りない気持ちがしたので、八幡は空き教室に行ってみることにした。

 

 夜目が利くようになったからか、それとも夜の校内が醸し出す雰囲気にすっかり慣れてしまったからか。すっかり昼間と同じような感覚で廊下を歩いていると、目的地まではあっという間だった。

 

「そもそもは、六月に奉仕部から離れてた時に平塚先生が手配してくれたんだったな」

 

 ぼっちには慣れているつもりだったのに、クラスにも部活にも居場所がないのは地味に精神を摩耗させるみたいで。だから、ここを自由に使っても良いのだと実感できた時のあの開放感は忘れがたいものがあった。

 

 それに、この部屋を使用する権限を顧問が敢えて有耶無耶のまま放置してくれたお陰で、八幡がどれだけ助かったか分からない。

 

 今回の選挙戦でも、自分たちだけが選挙本部の他に別館を持っていたようなものだった。あるいは控え室と呼ぶほうが適切かもしれないが、周囲に気兼ねせず言いたい放題の打ち合わせができるというその恩恵を一番受けたのは八幡だろう。

 

 お陰で、自分なりに全力を注ぐことができた。

 

「つか、あれだな。まだ明日が残ってるのに、変なフラグを建てるわけにはいかねーよな。だから気持ちを切り替えて……うおっ?」

 

 か細い灯りが廊下から漏れてくるだけの暗い教室内に、突然けたたましい音が鳴り響いた。

 一瞬遅れて、それが通話の呼び出し音だと気が付いたので。八幡は大きく深呼吸をして激しい鼓動を落ち着けると、アプリを立ち上げて相手の名前を確認する。

 

 さすがに夜なので映像通話は避けたのだろう。そこは年頃の女の子なのだし妥当な判断だとしても、こんなにも気安く連絡をして来られると、俺とはやっぱり感覚が違うのだなと思えてしまう。あるいは文化が違うと言うべきか。

 

「へいへい。今から出ますよ、っと」

 

 つぶやきと一緒にそうした感情を身体の中から追い出して、八幡は折本かおりからの通話を受けた。

 

 

***

 

 

『どーしたの、比企谷。出るまでに時間かかったけど?』

「いや、ちょっと待て。普通こういう場合って『いま大丈夫?』とか訊くもんじゃねーのか?」

『えっ。だって出たんだから大丈夫じゃないの?』

「ああ、まあ、お前の言いたいことは分かった」

『やばいっ、比企谷が何を言いたいのか分かんなくてウケる!』

 

 出だしから話が噛み合ってないんだよなあと考えながら。それに折本が、まるで通話をするのが当たり前のように、昨日も一昨日もこうして喋っていたかのような自然な調子で話しかけてくるので、八幡は色んな事をさっさと諦めようと決めた。

 

「いや、ウケてる邪魔をするのもあれなんだが、今日の集会の話だよな?」

『うぐんっ、それそれ。ってか笑ってる途中で話しかけられると、むせちゃうんだけどさっ。比企谷って、こんなに鋭いツッコミするほうだったっけ?』

「周りに容赦のない連中が多いからな。高校に入ってから鍛えられたんだわ」

『あー、わかるっ!』

 

 余計なことは何も考えず端的に反射的に応対しながら、折本と話すのってこんなにも楽なんだなと八幡は思った。

 

 おそらく、こうした点では折本は昔から変わってなくて。八幡が複雑に考え過ぎていたから話が拗れただけで、こんなふうに一歩引いたやり取りを心掛けていたら、きっと中学時代にもたくさん話ができていたのだろう。

 

 とはいえ、浅い表面的な話をいくら積み重ねたところで、折本との仲は深まらなかっただろうけれど。

 

「んで……様子はどうだ?」

『えっと、千佳のことだよねっ。うん、そりゃあ振られた当日だし元気とは言えないけどさっ。私がさっき抱き枕にしてたら怒り出したから大丈夫……えっ、だってあれってどう見ても振られてたじゃん。千佳もいい加減それは認めようよー』

 

 どうやら仲町千佳もすぐ隣にいるらしい。折本が横にいて好き勝手なことを言っていたらおちおち落ち込んでも居られないだろうなと考えると、思わず苦笑が漏れた。

 

 あちらの言い争いが落ち着いたタイミングを狙って、八幡は再び口を開く。

 

「仲町に伝えて欲しいんだがな、って折本が言ってたんだっけか。選挙の邪魔をされたとか考えてる奴はいなかったし、仲町を悪く言う奴もいなかったぞ。むしろ見事なまでの玉砕ぶりを褒め称える声が……」

『かおりだけじゃなくて比企谷くんもひどいっ!』

 

 八幡の言葉を遮って、あの折本の機先すら制して、仲町の悲痛な叫びが届いた。

 それに対して八幡は率直な感想を伝える。

 

「まあ、それだけ大きな声を出せてりゃ大丈夫そうだな。気分が落ち込みそうになったら、折本を罵ってリカバリーしてくれ」

『あ、うん、それいいねー』

『千佳の目が据わっててウケるっ!』

 

 とりあえず、こんなところかなと考えて。夜の校内であまり長話をするのも気が進まないので、八幡は話をまとめに掛かる。

 

「ちょい心配してたけど、わざわざ連絡くれて助かったわ。ほいじゃ、そんな感じで……」

『ちょ、ちょっと比企谷、勝手に話を終わらせないでよー。千佳が意外と元気だって話も伝えようとは思ってたけどさっ。さっきの夕食も三人前ぐらい……ぐむっ』

『半人前ぐらいしか食べられなくてさー。比企谷くんなら信じてくれるよねっ?』

「お、おう……」

 

 仲町が何人前を食べたところでどうでも良いのだけれど、すぐに雑談に流れてしまうので話がなかなか進まないのが困ったところだ。

 とはいえそれも、折本とは所詮は縁が無かったのだと誰かに慰められているようで、悪い気はしなかったのだけれど。

 

 通話先のドタバタが一段落したタイミングで、八幡は話を戻しにかかる。

 

 

「んで結局、折本はなんの用事だったんだ?」

『かおりって、用事がなくてもがんがん掛けてくるよー』

『やばいっ、千佳に何も言い返せないっ……ごほん。その、さ』

 

 少しだけ口ごもった後で、折本は静かに語り始めた。

 

『さっき千佳と一緒に、今日の集会で言われたことを振り返っててさ。他校の生徒に応援されたらって話ね。あれ、帰って来てから冷静に考え直してみたら、たしかにいい気はしないなーって。海浜の会長選挙なのに総武から応援を受けてる候補がいたら……って考えて初めて、私も千佳も納得できたんだよねっ』

 

『うん。その時にねー、わたしが思い出したのは、道徳とかでよくあるじゃん。「自分がして欲しいことを他人にしてあげなさい」みたいなやつ。わたしは、他の高校にも応援してくれる生徒がいたら嬉しいなって思ったから、葉山くんの応援をしようって思ったんだけどさ。でも……』

 

『千佳もだし、私がこんなことで悩むのって自分でも変な感じだけどさっ。もしかして、自分がして欲しいことと、他人がして欲しいことって、けっこう違うんじゃないかなって思い付いたんだよねっ』

 

『総武の人たちとは、ちょっと頭の出来が違うのかもねー。かおりもわたしも、集会の時にはぜんぜん分かってなかったんだけど、帰って来てご飯を食べてたら、あっ……って』

『千佳が二人前を平らげたころ……むぐぐ』

『ご飯をやっと一割ぐらい喉の奥に押し込んだ頃だったかなー。それで、今日の集会だけじゃなくて、かおりの中学の時の話も振り返ってみたんだよねー』

 

『私はまあ、こんな性格だしさ。面白ければ何でもいいって感じで、みんなも楽しいほうがいいじゃんって思って、ずっとそうやって来たんだけどさっ。比企谷がこう、言いたいことを我慢してるのを見ても、なんで言っちゃわないんだろって。そう思ってたらいきなり告白されて、えって感じで。でも、その時にも気付けなかったんだよねーっ』

 

『でもね、かおりにも原因はあるんだけど、同級生から比企谷くんの変な話を吹き込まれてたってのもあるからさ。やっと今頃になって気付いたのかって、比企谷くんに怒られても仕方がないとは思うんだけど、でもかおりにはさ……』

 

 じっと黙って耳を傾けていた八幡は、ここで仲町の言葉を遮ると口を開いた。

 

「まあ、折本に悪気がないのは昔から解ってたから、それは良いっつーか。そもそも昔の話だし、そこまで気にされるとこっちも謝ることが諸々出てくるからな。その、おすすめアニソン集をプレゼントしたとか……」

『それあったー!』

『え、それってちょっと……』

 

 黒歴史の中ではまだ軽いものを選んだつもりだったのだけれど、仲町が素で引いている。けどまあ折本が爆笑しているし良いかと現実から若干逃避をしながら、それを全校放送で流されたことやオタガヤというあだ名を頂戴した件にはいっさい触れずに八幡は言葉を続ける。

 

「そんな感じでな、自分が貰ったら嬉しいけど他の奴には嬉しくないものなんて幾らでもあるからな。だからまあ、一度や二度の失敗ぐらいであんま深刻に考えずに、その経験を次に活かせば良いんじゃね?」

 

 要するに立場を入れ替えてみれば、感覚や文化が違うのは折本や仲町から見ても同じなのだ。

 今回はこちら側が多数を占めていたので「自分たちが間違っている」と受け止めたのだろうけれど、この二人と似た考え方をする連中が大勢いる場ではきっと違っていたのだろう。

 現に、中学時代は折本のやり方で上手く行っていたのだから。

 

『実を言うとさ。これだけ考え方が違うんだなーってのを体験しちゃうと、もっと色々と知りたくなっちゃったんだよねっ。その、比企谷に謝ろうって気持ちは嘘じゃないんだけどさっ。申し訳なかったなって思う気持ちもあるし、好奇心もあるって感じかなっ。だから、その……テスト明けの合同イベント、楽しみにしてるねっ!』

『あ、かおりが珍しく日和った』

 

 総武には自分や仲町とは頭の出来が違うなと思える生徒が大勢いたけれど、いま通話が繋がっている元同級生ほど変な思考回路の持ち主は他にはいなかった。

 

 中学の頃には、八幡だけが飛び抜けて異質だったので、逆に全く気付かなかった。けれども自分には理解できない領域の人たちと一緒にいるのを見ていると、その異質さが際立って見える。

 

 世の中には、折本が知っている以外にももっともっと色んな考え方があって。それらに触れることができたら、きっともの凄く楽しいって、面白いって思える気がする。

 

 だから折本にとっての八幡は、かつては単なる変な奴に過ぎなかったのに、今や未知のものを見せてくれる貴重な奴に変化していた。もっと話してみたいと思うし、一緒に何かをしてみたいとも思う。でも、異性として見ているのかと言われると、ちょっと違う気がする。

 

 はっきりとした恋愛感情があれば、むしろ話は簡単だっただろう。けどそうじゃないから逆に、こんなもじもじした話し方になってしまう。とはいえ。

 

『うーん……これはこれで、私らしくなくてウケるっ!』

『あ、いつものかおりだ』

 

 少しだけ変な雰囲気を漂わせていたものの、折本が普段どおりに戻ったお陰で仲町まで調子を取り戻している。そう考えた八幡は、今度こそ話を締め括ろうと口を開いた。

 

「まあイベントなんてのは参加者以上に、企画した連中が楽しめてこそって部分があるからな。だからまあ、俺らも試験明けを楽しみにしてるわ。じゃあ、そろそろ……」

『うん、またね比企谷!』

『わたしはちょっと行きにくいんだけどさー。でも関わる気はないって言ったけど、かおりと比企谷くんが話してるのを聞いてたら、ちょっと面白そうだなーって。総武の人たちが許してくれるか分かんないけど、参加できそうな時はよろしくねー』

 

 そんなふうに合同イベントでの再会を約束して、この日の通話は終わった。

 なお、「試験前日なのにビーフシチューをルーから作り始めちゃった」といった反応に困るメッセージがこれ以降は続々と届くことになるのだが、今の八幡はそれを知る由も無かった。

 

 

「さて、と。今の通話はまあアレとして、身体も動かせたし予想外に気持ちの整理もできたし、来て良かったな。遊戯部の部室に入るのは気が引けるし……」

 

 ふと気付けば、心地よい疲労感が全身を覆っていた。それを自覚した八幡は、そろそろ撤退の頃合いだなと廊下に向けて歩みかけて。

 

「あ、いや。ここまで来たらついでだし、行くだけ行ってみるか」

 

 そのまま個室に戻ろうとしたものの、急に回れ右をして。

 そして八幡は、特別棟へと歩を進めた。

 

 

*****

 

 

 それに気が付いたのは、どの時点だったのか。

 最後の曲がり角を曲がった時か、四階に上がった時か。それとも、特別棟に足を踏み入れた時だろうか。

 あるいは、あの教室に行ってみようと思い立った時にはもう、それを予期していたのかもしれない。

 

 通い慣れた部室の前で、八幡は大きく深呼吸をした。そして扉に向かっておもむろに手を伸ばす。

 ドアの隙間からはほんのりと灯りが漏れていて、話し声が微かに聞こえてきた。

 

 ごくっと唾を飲み込んでから一気に扉を開けると、その声がぴたりと止んだ。

 暗闇に慣れた目には部屋の中の灯りは眩しすぎて、八幡は無言のまま目をぱちぱちさせながら、その場でしばし佇んでいた。

 

 明るさに目が馴染んできたので、ゆっくりと敷居をまたいで室内に足を運ぶ。

 四つの目にじっと見つめられながら、八幡はいつもの席まで辿り着くとおもむろに腰を下ろした。

 

「……来たのね」

「ああ。……お前らもな」

「うん。まあね」

 

 最初に口を開いたのは、こんな時間でもきっちりと制服姿の雪ノ下雪乃。

 そして八幡の言葉に応えたのは、ちょっとアホっぽいクマ柄のパジャマの上に、はんてんと言うのかどてらと言うのか、とにかく温かそうなものを羽織っている由比ヶ浜結衣だった。

 

「なあ。もしかして、わざわざ席を用意してくれてたのか?」

「席だけじゃなくて、お湯も沸かしてあるよ。ねっ、ゆきのん?」

「ええ。では少しだけ温め直してお茶を淹れましょうか」

 

 そう言って雪ノ下が席を立つと、由比ヶ浜はいそいそとポーチからお菓子を引っ張り出している。たちまち一口サイズのチョコレートと小さな焼き菓子が机の上に並べられた。

 

「由比ヶ浜は、俺が来るって分かってたのか?」

「うーん。分かってたって感じじゃなくて、来てくれたらいいなって感じかな。ヒッキーが来るって分かってたら、もうちょっとマシな恰好をしてきたのにね」

 

 ちょっと恥ずかしそうに身をよじっている由比ヶ浜を思わずまじまじと眺めてしまった。先程はアホっぽいと思ったパジャマが今は可愛らしく見えるのだから、我ながらどうかと思う。

 

「由比ヶ浜さんがその恰好で入ってきた時には、私もびっくりしたわね」

「あたしだって、こんな時間なのに制服姿のゆきのんを見てびっくりだったよ」

 

 つまり、いつものように雪ノ下が一番乗りだったということか。それと、特に約束をしていたわけではないみたいだ。

 教室の後方に移動して窓際でお茶の用意をしている姿をちらりと見やって、その佇まいを目にして思わず息を漏らしていると。

 

「まだ宵のうちなのだし、制服でも変ではないと思うのだけれど。比企谷くん、紙コップだと風情がないから、今日はティーカップでも良いかしら?」

「ああ、頼む。てか風情を言うならあれだよな。秋の夜はまだ宵だから明けないぞ、って感じか?」

「一気に風情が無くなったわね。夏は夜で秋は夕暮れだと、曾孫の清少納言も言っているでしょう?」

 

 国語学年一位と二位らしい会話に、由比ヶ浜が目を白黒させている。

 茶葉を蒸らしながら、雪ノ下は「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ」という古今集に収められた一首を紹介して、八幡のせいで消え失せた風情を復興させようと頑張っていた。

 

 

「申し訳ないのだけれど、取りに来て貰えるかしら?」

 

 ひととおりの解説を終えた雪ノ下にそう言われて、八幡と由比ヶ浜は席を立った。湯気を上げているティーカップが二つとマグカップが一つ、窓際の机に置かれている。

 

「なんか見覚えがあると思ったら、嵐山で買ったやつか」

「うん。使うの初めてなんだけど、今日でよかった」

「……そうね」

 

 やる気のなさそうな犬がプリントされたマグカップをじっと見つめながら。由比ヶ浜は小声で、しかしはっきりと、喜びの言葉を口に出す。

 ほんの少しだけ頬を緩めて。実感のこもった口調でそれに同調する雪ノ下の声が続いた。

 

 由比ヶ浜がマグカップに手を伸ばしたのをきっかけにして、三人は各々カップを持って椅子に腰を落ち着ける。移動中に口を開く者はなく、けれど言葉など不要だと誰もが理解していた。

 

 一度は唇の手前までカップを持ち上げたものの、まだ熱くて飲めそうにないのでソーサーに戻して。忘れないうちにと考えた八幡が話し始める。

 

「思い出したうちに、修学旅行の写真を渡しておくか。共有状態にしておくから、好きなのを選んで……」

「せっかくヒッキーが撮ってくれたんだから、ぜんぶ欲しいなって。だから一括で貰っちゃうね。ね、ゆきのんも?」

 

 なるほど。そういう言い方をすれば欲しい写真を合法的に獲得できて、かつ特定の女の子が写っている写真だけを選んでいると非難されることもないのかと、また一つ賢くなった気がした八幡だった。

 

 そんなふうに八幡が学習している傍らでは、由比ヶ浜に促された雪ノ下が、自分の写っていない写真を大量に押し付けられていた。

 

「でもさ。先週のことなのに、なんだか懐かしいなって思っちゃうよね」

「帰って来るなり色々あったしな。けどま、あの旅行は、あれだよな。……楽しかったよな」

「そうね。私もあの三泊四日は、とても楽しかったわ」

 

 てらいの無い言葉を聞かせてくれた八幡と雪ノ下に、微笑みかけては頷いて。ゆっくりと顔の向きを戻した由比ヶ浜は、そのまま二人と視線を合わせることなく言葉を続ける。

 

「ヒッキーとゆきのんにそう言って貰えると、それだけで何だか嬉しくなっちゃうな。旅行が楽しかったのはあたしもなんだけど、でも、色々あったからさ」

「色々あったことと楽しかったことは両立できるだろ。だからあんま気にすんな」

「そうよ。何かに気兼ねをして、楽しかったという感情を表に出さないようにしたりとか。ましてや押し殺そうとするのは良くないと思うのだけれど」

 

 おそらく、今が言うべきタイミングなのだろう。そう考えた由比ヶ浜が言葉を続ける。

 

 

「あのね。ゆきのんにも、ちゃんと話しておきたいなって思うんだけどさ」

「ええ。……でも、申し訳ないのだけれど、今日は勘弁して欲しいのよ。明日が終わって物事が一段落して……ただ、期末試験が目前に控えているのよね。できればそれが終わってから、落ち着いて聴きたいと思うのだけれど。急ぎの話ではないのでしょう?」

 

 そう言われてしまうと、由比ヶ浜もこれ以上の無理強いはできない。

 それに、この部屋で三人で顔を合わせるのは早くて明日、場合によってはもっと先になるのだろうなと思っていたので、突然のこの邂逅に浮かれてしまってすっかり忘れていたけれど。()()()を持ち出してしまえば頭の中がそれでいっぱいになって、明日のことなどすっ飛んでしまうだろう。

 こんなあたしを応援してくれてるみんなの為にも、それだけはしちゃダメだ。

 

 由比ヶ浜の顔つきが変わっていく様をつぶさに見守って、雪ノ下もまた下がりかけていた目尻を戻して目に鋭い光をたたえていく。

 期末試験の話は、実を言うと先延ばしにするための方便でしかない。日頃から予習と復習をきっちりと果たしてきた雪ノ下にとっては、試験前でも特に普段と変わらない。授業が減るのでかえって時間の余裕ができるほどだ。でも、明日に影響を及ぼすようなことだけは、避けなければならない。

 急ぎの話ではないという時点で、告げられる内容は分かりきっているというのに。

 それでも、諦めの気持ちを他に伝播させないためにも、それを言葉という形で明確にされることだけは避けなければならない。せめて、明日が終わるまでは。

 

 二人を取り巻く空気が変化したのを敏感に感じ取って、八幡もまた顔を引き締めていた。

 さっき独りでいた時にも思ったけれど、こうして顔を突き合わせてみるといっそう実感できた。この二人と築き上げてきたものが失われることは決してない。確かに今は選挙戦で敵対関係にあるし、決着をつけるのは八幡としても望むところなのだが。それが終わればまた三人で、奉仕部としてやっていけるだろう。

 

 二人にはまだ明日の演説という大仕事が残っている。けれども八幡は既に、為すべきことはやり(おお)せた。そんな余裕がつい口に出たのだろうか。

 

「そういや明日っていうか、今日の集会のことだがな。お前らを擁護できなくて、なんか悪かったな」

「ううん、あれは仕方ないよ。ヒッキーが、その、情報戦っていうのかな。それで優位に立ってるから、ちょっと牽制できればって考えたあたしたちのせいだしさ。けど、知らんぷりをしても問題になっただろうし、結局あんまり変わんないねって姫菜と喋ってて」

「私も、結局こうした展開になるのは避けられなかったでしょうね。もしもやり直せるとしても同じ行動を取ったと思うわ。だから、貴方が気に病む必要はないのよ。むしろ責任を感じて手心を加えるようなことがあれば、そのほうが腹立たしいわね」

 

 そう言ってくれたら良いなと考えていた内容をそのまま言われてしまった八幡は、己の軽率な発言を悔いていた。こんなふうに自分に都合の良いセリフを二人に言わせてしまって初めて、本当はそんな言葉など望んではいなかったのだと気が付いた。いっそ糾弾してくれたほうが、よほど気持ちが楽だっただろう。

 

 こんな話をしたかったんじゃないだろと心の中で強く自分に訴えかけて、八幡は敢えておどけた話しかたで二人に応える。

 

 

「情報戦なんて紙一重だし、手心を加えたらたちまち落選まっしぐらだからな。つーか、やり直せても同じ行動を取ったって言うけどな、会長選挙で正統性とか言い出すのは止めたほうが良いと思うぞ?」

「あー。あの時のゆきのんって、ちょっとノリノリだったもんね」

「し、仕方がないじゃない。その、エフェソスの公会議とか、インノケンティウス三世のことを考えていたら、ちょっと気分が高揚して……」

 

 やはりかと苦笑していたせいで反応が遅れた八幡に代わって、意外にも由比ヶ浜が話を続ける。

 

「あ、そのインなんとかさんって知ってる。姫菜が言ってたんだけど、皇帝の語源になった軍の司令官のことだよね?」

「……由比ヶ浜さん。それはおそらくインペラトールだと思うのだけれど。とはいえ、どんな話の流れでこの言葉が出て来たのか少し興味があるわね」

「えっ。そ、そうなんだ。……えっとね、ローマの初めの皇帝がインなんとかさんって呼ばれてたんだけど*1、実は戦争は得意じゃなかったんだって。だから無二の親友(♂)に全てを委ねたみたいでさ」

 

 由比ヶ浜の説明は何も間違っていないのに、腐女子の影がちらつくだけで全く違った意味に思えてしまうのだから困ったものだ。それにインなんとかさんと言われたらとある大食いの少女を連想してしまうのだが、もうちょっと言い方を考えてくれないかなと八幡が頭をぽりぽりしていると。

 

「なるほど、海老名さんらしいわね。きっと彼女もその話をしていた時には、夕方の私と同じような調子だったと思うのだけれど?」

 

 上手く言い逃れができたと思ったのか、雪ノ下はまたもや得意げな顔つきになっている。

 それを胡乱げに眺めていると、なぜだか急に雪ノ下が可愛らしい童女のように思えて来て、思わず言葉を発してしまった。

 

「なあ。ちょっとお前、セリフの最後に『僕はキメ顔でそう言った』*2って付け加えてくれない?」

「嫌よ。どう考えても黒歴史になると思うのだけれど、それを承知で無理強いするなんて、比企谷くんが鬼いちゃん*3と呼ばれる日も近そうね」

 

 ノリノリでそう言い切った直後にはっと口を押さえて正気に戻った雪ノ下だった。中の人はなかなかサービス精神が旺盛らしい。

 

「ヒッキーって、たまにこんなふうに意味の分かんないことを言い始めるんだよね。姫菜が言うにはアニメか漫画の話みたいだけどさ」

「なんつーかな、心底からどうでもいい話をしたくなる時ってお前らにはないのかね。シリアスな話も風情のある話も良いんだけど、いわゆるザ・雑談みたいなトークって、俺はけっこう好きなんだがな」

 

 八幡が欲しているのは、そして二人にも望んでいるのは、気楽なやり取りだった。

 敵に塩を送るほどの余裕は無いけれど、選挙戦で積み重なった疲労を軽くしたいししてやりたいとも思っている。これならお互い様なので、明日への影響はさほど無いだろう。

 

「でもさ、それなら共通の話題で盛り上がったらいいじゃん。ね、ゆきのん?」

「そうね。ちょうど今、大量の写真を貰ったところなのだし、その話なんて良いかもしれないわね」

 

 そんな雪ノ下の提案に、由比ヶ浜が一も二もなく賛同して。

 なぜか教壇の上からスクリーンを下ろして大きく写真を投影しながら、あんなこともあったしこんなこともあったと話の尽きない三人だった。

 

 

***

 

 

 気が付いたら結構な時間が過ぎていたので、三人は部室の前で別れた。

 部屋の中では和気藹々と過ごしていたけれど、廊下に出るとお互いの立場を思い出してしまったのだ。

 三人揃ってとか、二人と一人に分かれて移動するのは何となく避けた方が良い気がして、ならばと別ルートで帰ることにしたのだった。

 

 八幡は一番遠回りのルートを選んだ。

 のんびりだらだらと校内を歩いていると、ふわふわと夢見心地な気分がして、先程までのやり取りが空想の産物なのではないかと思えてしまう。でもジャージのポケットには、別れ際に由比ヶ浜が持たせてくれた一口サイズのチョコレートが入っている。

 

 個室まで辿り着くと、そこから自宅のリビングへと移動した。

 

 部屋には電気が点いていなかった。

 あれから何度か妹が下りてきたのかもしれないし、部屋に篭もりっきりかもしれない。チョコをちょこっと差し入れてやりたい気もするのだが、勉強や睡眠の邪魔をするのは避けたいしオヤジ扱いもされたくない。

 

 とりあえず電気ケトルの様子でも見るかと八幡が足を動かしかけたところで。

 

「こんな時間に、どこに行ってたんですか?」

 

 いつもとは違った口調ながら、耳に慣れたこの声を八幡が聞き間違えるはずもない。

 慌ててソファの真ん中に視線を移すと、そこには明日の演説に備えて原稿用紙とにらめっこしている一色いろはの姿があった。

 

 

「いよいよ明日が選挙かって思ったら、なんか落ち着かなくてな。だから夜の校舎を探検してたんだが……」

 

 どこまで話すべきかと考えながら、ひとまずそう答えた八幡はキッチンに足を向けた。

 電気ケトルに手を当てると、かなりの熱を帯びている。ついさっき沸かしたと見て間違いないだろう。

 

「小町ちゃんにお茶を淹れてもらったので、わたしの分はいいですよ〜」

「小町と待ち合わせて来たってことか。なんか演説で困ったことでも……」

「う〜ん、そうじゃなくてですね〜。ちょっと思い立って、普通に来てみようかな〜って。この世界って、タクシー飛ばしてもタダじゃないですか。夜でも安全だし、だから普通に外からピンポーンって」

 

 個室経由の移動が便利なのですっかり頭から抜けていたのだが、外から普通に訪問するという手はたしかにある。フリル付きのワンピースなんぞを着ているのはそのせいかと思いつつ、でもそれだと妹はさぞかしびっくりしただろうなと考えていると。

 

「いつかの打ち上げの時に、大勢で来たことはありますけどね。夜に一度ぐらい普通に来るのもいいかなって思ったんですよ。普通にって言うか、あっちの世界みたいにっていうか、そんな感じですね〜」

 

 一色が敢えてそんな行動に出た理由が八幡には解らなかった。

 とはいえ、顔を突き合わせて打ち合わせができるのなら話は早い。

 そんなふうに実務的な思考に走って、八幡は湧き上がりかけた疑問から目を逸らした。

 

「そういや会計の当てがついたぞ。だから生徒会は一色を入れて四人構成だな。雪ノ下や由比ヶ浜の生徒会には参加する気は無いって言ってたし、それを利用できるなら利用してくれとさ」

「なんとなくそんな感じかな〜って思ってたので大丈夫ですよ。今も頭の中で予行演習をしてただけで、話すことはだいたいまとまってますし」

 

 ということは、やはり前夜とあって一色でも気持ちが落ち着かないのだろうかと考えていると。

 

「せんぱい。ちょっとこっちに来て貰っていいですか?」

 

 一瞬だけ電気ケトルに視線を送ったものの、部室でたっぷりお茶を頂いてきたので喉は渇いていない。だから八幡は手ぶらでソファに向かった。

 そして前回や先程と同様に、端っこの席に腰を落ち着ける。

 

「ここって、せんぱいの家なんですけど……まあいいか」

 

 そんな八幡を呆れ顔で眺めたものの、すぐにいつものことだと納得して、一色はぴんと姿勢を正した。

 

 それから身体を横に向けようとして、でもいまいちしっくり来なかったみたいで。「う〜ん」と言いながら首を傾げると、わざとらしくぽんと手を叩いてから両足をソファに上げた。そして八幡のほうを向いて両のふくらはぎにお尻をちょこんと置くようにして、一色は正座の形になった。

 

「明日の夕方になったら、当選の盛り上がりで落ち着いてお話しできないと思うので、今のうちに言っておきますね。……せんぱいが協力してくれたお陰で、色んなことがどんどん上手く進んで、雪ノ下先輩や結衣先輩とも互角に近い勝負に持ち込めました。それと、今日の集会の前に相模先輩の頭を叩いた時みたいに、いらっとした感情を向けちゃった時もありました。なのにせんぱいは、自分の功績を誇ろうともせず、理不尽な言いがかりにもけろっとしていて……せんぱいって、落ち込むこととかあるんですかね?」

 

 途中までは良い話だったのに、なんだか台無しになっている気がする。

 それは当人もすぐに気が付いたのか、こほんと一つ咳をしてから話を続けた。

 

「だから、今日のうちにお礼を言っておきたいなって思ったので、お邪魔しました。たぶんこれからも迷惑を掛けちゃうと思うので、ごめんなさいは言いません。でも、せんぱい。たすけてくれて、ありがとうございます」

 

 そう言い終えると、一色は綺麗に三つ指をついて丁寧に頭を下げた。

 そして静かに頭を上げると、何かが納得いかなかったのかもう一度首を捻って。今度は手のひら全体をソファに置いて、深々とお辞儀をした。

 

「いや、お礼を言うのはたぶん俺のほうなんだわ。だから頭を上げてくれ。一色がいたから勝負ができたし、一色が頑張ってくれたからここまで競った選挙戦ができたんだ。俺の力なんて微々たるもんだし、ほとんどは一色の功績だろ」

「う〜ん、まあ〜、やっぱりそう思います〜?」

 

 八幡が言葉を掛けている途中から肩がぷるぷる震えているので、すわ感極まって泣き出したのかと力いっぱい励ましてやったというのに。

 顔を上げた一色は、得意満面の笑みを浮かべている。

 

「なあ。お前もう帰っていいぞ?」

「ちょ、ひどいですよせんぱ〜い。こんな夜中にうら若き乙女を一人で帰らせるなんて鬼ですよ、鬼」

「んじゃ個室経由で送っていくから」

「あ、小町ちゃんにご両親の部屋を使っていいって言われてますので」

「え、泊まる気なのかよ……」

「心配しなくても、朝にちゃんと着替えに帰りますよ〜。同伴とかしたらファンのみんなが悲しんじゃいますからね〜」

「誰よりも先に俺が悲しむと気付いて欲しかった」

「ほら、うるさいですよせんぱい。それよりも演説のことなんですけど〜」

「お前さっき演説はまとまってるって言ってなかったか?」

「あれは言葉の綾ってやつですよ〜」

 

 心底から嫌そうな顔をしながらも、眠気が限界になるまでは何だかんだで一色の相手をし続ける八幡だった。

 

 

***

 

 

 朝起きると、一色の姿はなかった。

 昨夜の部室での時間も含めて、全ては夢だったのかと思いそうになるけれど。自室の机の上に置かれている一口サイズのチョコレートと、綺麗に洗って水切りの上に伏せてあった来客用のマグカップがそれを否定していた。

 

 登校してからのことはあまり記憶にない。とにかく慌ただしくて忙しなくて必死だったことだけを覚えている。

 

 そして、放課後がやって来た。

 

*1
Imperator Caesar Divi Filius Augustus.(最高司令官・カエサル・神の子・尊厳なる者)

*2
西尾維新「物語」シリーズ(2006年~)に登場する童女キャラ・斧乃木余接が初期に好んで口にしていたセリフ。

*3
上記の斧乃木余接は主人公をこう呼ぶ。




前回のシリアスの流れからそのまま演説回に繋げるほうが盛り上がり的には良いのかもしれませんし、決戦前夜に当事者たちが顔を合わせる展開には賛否があるかもですが。雪ノ下の「……来たのね」は何としても改変したかったのと、甘っちょろい話を書いておきたかったので、本話を挟む形にしました(構成を決める時に最初に枠を取ったのが本話です)。

次回はお盆明け頃に、次々回はできれば月末に更新して八月中に本章を完結させたいと思っていますが、実現はおそらく五分五分ぐらいです。
とにかく一日も早く更新できるよう頑張りますので、宜しくお願いします。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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14.おのれの主張に全てをかけて彼女らは堂々と渡り合う。

後書きの下にアンケートという名の投票所を設けました。
ご協力を頂けますと助かります。

以下、前回のあらすじ。

 自宅のリビングで物思いに耽っていた八幡は、ふと夜の校内を歩いてみるかと考えついて、二年F組とJ組と一年C組を歴訪した。候補者三人を思い出しながら各教室でしばしの時間を過ごして、八幡は空き教室へと足を向ける。

 そこで着信を受けて、八幡は折本と話をした。振られた割には元気そうな仲町も途中から会話に加わって、「自分がして欲しいことと他人がして欲しいことは違う」という気付きを告げられたので。八幡はかつての黒歴史を引き合いに出して、気にし過ぎないようにと伝えた。

 そのまま帰宅しようとした八幡が、何かに導かれるようにして部室を訪れると。そこには二人の先客がいて温かく出迎えてくれた。いつもと同じ配置でお茶とお菓子を堪能しながら、投票を明日に控えた三人は心休まる一時を過ごした。

 リビングに戻ると、今度は一色に出迎えられた。何故かこの世界特有のショートカットを使わずタクシーを飛ばしてきたという一色は、落ち着いて話せる前夜のうちにと前置きして、八幡に感謝の言葉を告げた。

 そして一夜明けた放課後、いよいよ投票の時が迫って来た。



 体育館にはパイプ椅子が敷き詰められていた。横長の館内に規則正しく並んでいるそれらは、幾つかのまとまりに分かれている。

 

 縦長の固まりがちょうど十個横並びになっていて、これは二年A組からJ組の座席に該当する。

 その後ろにもまた十個、更に後ろにも十個あるのは、それぞれ一年と三年の椅子だ。最上級生は去り行く立場なので最後尾で良いという考えから、こうした配置になったのだった。

 

 総武高校では伝統的に生徒の自主性が重んじられているので、本日の立会演説会も選挙管理委員会がその全てを取り仕切っている。

 連日の集会との違いは、生徒だけではなく教職員も含めた全員が参列することだ。だから左右の壁に沿って机と椅子が用意されていて、こちらは三年の担任が上座になっていた。

 

 人のいない空間で、しんと静まり返ったまま。几帳面に立ち並んだ状態でその時を待っていたパイプ椅子の群れは、ついに放課後を告げる鐘の音を耳にした。

 

 

『選挙管理委員会からのお知らせです。全校生徒は担任の先生の指示に従って、二年A組から順番に体育館に移動して下さい。繰り返します。全校生徒は……』

 

 全てのクラスで授業が終わり、担任が各教室に入ったのを確認してから話し始めた。

 復唱を終えて放送を切った生徒会長は、疲れも緊張もまるで感じさせない普段どおりのニコニコした表情を周囲に向けて。

 

「じゃあ、最後の大仕事だねー。みんな、行くよー」

 

 一年という長きにわたって支え続けてくれた黒子の一団を率いて、会長は体育館へと足を向けた。

 

 

「そろそろ私らの順番だねー。このクラスには何故か、敵陣営の最高幹部が二人も居るんだけどさ。そっちはそっちでしっぽり愚腐っと……あいたっ」

「誰を応援するのも自由だし。でも、隼人やヒキオでも、大和や大岡や戸塚や相模でも、結衣なら立派な会長になるってことに異論はないはずだし」

「あたしも同感だね。だから最後の最後まで、由比ヶ浜に投票してくれって言い続けるからさ。みんながそれに応えてくれると嬉しいね」

 

 二年F組では、腐女子が口火を切り女王がそれに続いて最後にブラコンが話をまとめた。

 頼りになる姉御肌の側面は既に全校に知れ渡っているのだが、ふにゃふにゃの笑顔で弟からのメッセージを何度も読み返している姿もちらほらと散見されているので、この肩書きが定着するのも時間の問題だろう。本人は不本意だろうけれど。

 

「姫菜と優美子と、沙希……って呼んでいいよね。この三人だけじゃなくて、あたしを応援してくれてるみんなの心に、それからヒッキーや隼人くんやさいちゃんやさがみんや大和くんや大岡くんみたいに、ゆきのんやいろはちゃんを応援してる人たちの心にも響く演説をしたいなって思ってるからさ。だから、行ってくるね……って言うと変か。えっと、うん、行こうっ!」

「だべ!」

 

 名前を挙げた面々にとどまらず、同じクラスの生徒と漏れなく目を合わせながら。二年F組の立候補者は先頭に立って、陣営の区別なく同級生の全員を体育館へと導いて行く。

 

 

「正直に言って、こんなに疲れ果てるまで、私のために貴女たちが動いてくれるとは思っていなかったわ。そして貴方たちも、男子は数が少ないから肩身の狭い思いをしているはずなのに。口さがない人たちのことは気にも留めずに、私の指示をそのまま受け入れて頑張ってくれたわね」

 

 二年J組では、担任の招きに応えて教壇に上がった候補者が、男女の群れに向けて話し掛けていた。その口調は静かでも声はよく通っていて、クラスメイトの全員がねぎらいの言葉をしっかりと受け取れている。みるみるうちに疲れが癒えていくようだ。

 

「その続きは、ここに帰って来てから聞こうぜ。なあ、みんな」

「ええ!」

「おう!」

 

 かつて彼女が睡眠不足で登校した際には容赦なく保健室に押し込め、文実にも並んで参加したJ組の保健委員が、そう言って同級生を煽った。

 入学以来ずっと同じクラスで過ごしてきたので、団結力では決して負けないという自負がある。だから、声を出さない生徒など誰一人としていなかった。

 

「では、勝ってここに戻って来るわね。先生、先導をお願いします」

 

 教師には道案内をさせる形に巧みに誘導しておきながら、生徒には一言も指示を出さない。何も言わずとも、後をついて来てくれると信じているからだ。

 

 教師と立候補者に率いられて、二年J組の一同は意気揚々と体育館に乗り込んだ。

 

 

「このクラスから生徒会長を出したいって想いに囚われてた時には、先生は結果しか見えてなかったんだよな。けどな、お前らに教えられたよ。あの雪ノ下と由比ヶ浜が相手なら、誰が立候補しても厳しいだろうにな。それでも一色は、それにお前らも決して諦めなかったし、だから劣勢をはねのけて後一歩のところまで来ることができた。だからな、経過がこれだけ完璧だったのに、結果を逃すなんて悔しいよな。嫌だよな。だから何としてでも、一色を会長にしてやろうぜ!」

 

 いつもなら思わず引いてしまう類いの発言なのに。今この時に限っては、担任の言葉に乗るのも悪くはないなと思えてしまう。だから、この熱気を逃さず更に煽る。

 

「じゃあ~、演説で力を出し切れるように、みんなのパワーを貰っていこっかな~」

 

 その場でくるんと一回りしながら男女の別なく呼びかけると。可愛らしくしなを作って少し間を取った候補者は、机の間をちょこまかと動きながら全員とタッチを交わしていく。

 

 手汗が酷い男子が相手でも、戸惑った表情の女子が相手でも、手が触れると同時に目を見てきゃるんと微笑みかけて。

 首謀者たる推薦人の六人とは、ひときわ大きな音を立ててお互いの手をばしんとぶつけ合い。

 友人四人とはタッチだけでは収まらずハグまで交わして。

 それなのに嫌悪感や面倒な気持ちも、敵意や呆れも、義務感すらも湧いて来ない自分に内心で首を傾げながら。

 

「これで決まりかな~。みんなのパワーのおかげで、会長になるのは~?」

「I・RO・HA・ちゃーん!」

 

 さすがにこのノリには参加できないなと思った女子一同だった。

 

 

***

 

 

 ステージの中央には講演台が用意されていた。

 その後方には大きなスクリーンが垂れ下がっていて、壇上の様子を映し出している。

 

 向かって左手の舞台上には長机が斜めに置かれていて、それに沿って椅子が四つ並んでいた。

 一番左側の椅子には、司会を務める城廻めぐりが腰を下ろしている。その隣に雪ノ下雪乃・由比ヶ浜結衣・一色いろはという順に席に着いていた。

 

 一方、右手側にも長机が斜めに置かれていて、こちらは椅子が三つ。

 右から順に葉山隼人・海老名姫菜・比企谷八幡の姿があった。

 

「だから立会人ってなんだよそれって話なんだが。まあ各陣営から一人ずつって言われたらこの顔ぶれになるのも分かるんだけどな。思いっきり俺だけ場違いだっつーの」

「こんな特等席で三人の演説を聴けるんだから、役得と言うべきだと俺は思うけどな」

「発言権も無いし声も漏れないから、雑談し放題だしねー。あ、でも、声が漏れないように我慢しながら二人がこっそり愚腐腐ってヤるのも……ふへっ」

 

 鼻血は隠せないのだから頼むから自重してくれよと、神に祈るような心境に至った八幡だった。

 

 

 城廻がマイクを片手に立ち上がると、ざわついた館内の雰囲気が一変した。

 呼吸すら忘れているかのように、生徒たちは微動だにせず会長をじっと見つめている。

 

『では今から、生徒会長立候補者による立会演説会と、続けて投票を行いたいと思います。まずは順番を決めちゃうねー』

 

 その言葉に応えるように舞台の袖から黒子の一人が現れて、立方体の箱を城廻の前に置いた。上面には手を突っ込むための丸い穴が開いていて、おみくじのように小さく折り畳まれた紙が一枚、そこから取り出される。

 

『えーっと、一番手は……雪ノ下さんだー!』

 

 紙を大きく広げて生徒たちに示すと同時に、そこに書かれていた名前を読み上げる。

 たちまち、ステージに向かって右側を中心に大きな歓声が上がった。

 

『じゃあ、雪ノ下さんは講演台へお願いします。みんなも知っての通り、二年J組の雪ノ下雪乃さんです!』

 

 その場で立ち上がって一礼した後は、特に急ぐでもなく焦らすでもなく講演台に歩み寄って。そこでまた一礼して、雪ノ下は全校生徒を視野に入れながら落ち着いた口調で話し始めた。

 

 

『生徒会長候補の雪ノ下です。最初に申し上げたいのは、私が当選を果たして生徒会長になった暁には、()()の生徒会を目指したいと思います。そのためにも、まずは私自身が、誰よりも身を粉にして生徒会に、ひいてはこの高校に、貢献したいと考えています』

 

 誤解を与えるといけないので明言は避けたものの、雪ノ下は文化祭の時と同様に「過去最高」を念頭に置いているのだろう。

 とはいえ、体力の問題を集会の時点から何度も指摘されてきたというのに、自らハードルを上げて話し始めるのはどんな意図があるのだろうかと八幡が考えていると。

 

『ご存知の方も多いと思いますが、私は奉仕部という部活で部長を務めています。その奉仕部の活動において、あるいは文化祭の実行委員としても、私は過去に体調を崩して他の人たちに迷惑を掛けたことがありました』

 

 自らの弱点を積極的にさらけ出す雪ノ下に、生徒たちから思わずどよめきが漏れる。けれどもそれは一瞬で終わり、静けさを増した館内に声が再び響き渡った。

 

『だからこそ、そうした事態を避けるためにも、私は生徒会に人材を集めたいと考えました。同時に、常設のメンバー以外にも、時と場合に応じて協力を求められるような組織作りを模索しました。では、まずは前者から説明したいと思います』

 

 そう言い終えると同時に手元を操作して、雪ノ下は用意していた書類を背後のスクリーンに表示させた。一番上に達筆で「人事案」と大きく横書きされているその書類は、役職と名前を書き並べただけのシンプルなものだ。

 

会長 :雪ノ下雪乃

副会長:本牧牧人・一色いろは

書記 :藤沢沙和子

会計 :由比ヶ浜結衣

庶務 :比企谷八幡

 

 自らの名前が書かれているのに気が付いた由比ヶ浜と八幡が目を見開いて驚きの表情を浮かべているのを確認して、雪ノ下は話を続ける。

 

『まず私が考えたのは、奉仕部と生徒会の融合でした。とはいえ、奉仕部を発展的に解消して生徒会に改組するという意味ではありません。奉仕部は奉仕部として、継続したいと考えています』

 

 先週の時点では、奉仕部には手を出さないつもりだった。今のままで残しておいて、時折あの部室を訪れるような、それ以外の時間は二人で過ごして貰えるような、そんな形を考えていた。

 

 けれども姉から指摘を受けて、そんな生易しい事を考えていては対立候補に勝てないと思い至った。

 

 肝心な部分を他人任せにしない為にも、雪ノ下は奉仕部を手元に引き寄せて、その行く末に全責任を負おうと考えたのだ。

 

『先日の集会で一色さんが言及してくれたように、今は城廻先輩の生徒会と私たち奉仕部が上手く協力し合って、この高校に貢献できていると自負しています。それなのに奉仕部を解散させるのは勿体ないなと、私も思いました』

 

「そうか……奉仕部をいつでも分離独立できる状態に置くっつーか、一国二制度みたいなもんか?」

「治外法権とある程度の自主権を与えるだけで、分離独立までは考えてないと俺は思うな。だって、雪ノ下さんの肩書きを思い出してみろよ」

「生徒会長と、奉仕部の部長かあ。たしかに分離独立したら意味が分かんないことになるよねー」

 

 葉山の指摘を受けて、やはり言い直したほうで正解かと八幡は思った。だからしたり顔にもそれほど腹が立たなかったし、海老名のつぶやきにも素直に頷けた。

 

『奉仕部と生徒会で明確に役割が分かれる時には、はっきりと人員を分けたいと私は考えています。もしも両者が意見を異にして対立するような事態になっても、よりよい結末に至ることこそが、みなさんの、そしてこの高校の為になると私は思います。だから両者には、徹底的に戦わせる所存です』

 

 殊勝な言い方をしているけれども、両者が徹底的に意見を戦わせた末に、よりよい結末に至ったとして。それが誰の為になるのかと言えば、真っ先にその恩恵を受けるのは生徒会長たる雪ノ下だ。

 

「大きな生徒会って組織の中で、ミニマムバージョンの生徒会と二人構成の奉仕部が功を争って。どっちが勝っても女王様としては苦しゅうないって感じかね」

「まあ、雪ノ下さんの性格が反映された組織構成だよね」

「はやはちが突き合う光景を満足げに眺めるTS雪ノ下さん……ありでしょ!」

 

 争うのは生徒会と奉仕部なんだが、と反射的に反論しそうになったものの。俺は何も聞こえなかったと八幡は己に言い聞かせた。

 

『そして、他のポストを希望するなら話は別ですが、できれば一色さんには副会長を引き受けて貰って、来年度に備えて欲しいと私は考えています。また、監査役は先生方にお願いする予定です。常設のメンバーについては以上です』

 

 つまり、最小構成の生徒会を一色に率いさせようと考えているのだろう。

 それに教師にも役割を与えて組織を補強する辺りにも雪ノ下らしさが感じられて、何だか笑い出したくなってきた。

 

 雪ノ下が立候補を決めてからは、なんとなく距離を取られている気がして落ち着かなかったし。もし会長になったら、自分たちは蚊帳の外に置かれるのではないかと不安だったけれど。

 こんな形なら今までどおりに協力できるなと、つい考えてしまった。

 

 慌てて首を振って、今の目標を再確認する。

 一色の当選こそが一番望ましい形なのだと自分に言い聞かせる。

 

『そして臨時のメンバーについてですが、やる気のある人ならいつでも歓迎しますし、事情があれば自由に抜けて頂いても構いません。また、問題解決に適した人材は積極的に活用したいと考えています。こちらも強制ではなく当人の意思は尊重しますし、もしもその辺りが不安なら葉山くんや戸塚くんが相談に乗ってくれるので安心して下さい』

 

 自分たちは生徒会の臨時メンバーを正式にスカウトする手を取ったのだけれど、雪ノ下はその臨時の枠を拡大して、采配の幅を大きく広げる一手に出たのだろう。

 

 敵ながら天晴れとしか言い様がないが、それが可能なのは雪ノ下ぐらいだ。

 

 由比ヶ浜や一色なら各生徒の特徴を把握するのは容易だろうが、それを仕事に応じて振り分ける段階になると雪ノ下には遠く及ばない。というか、実務能力で雪ノ下と張り合える生徒など居るわけがないのだから、それは仕方がないと諦めるしかない。

 

『最後に、私の体力的な問題に話を戻します。肝心な場面で倒れてしまわないように、私は、常設・臨時の生徒会メンバーに気持ち良く役割を果たして貰える環境作りに、全力を尽くしたいと考えています。冒頭で私は身を粉にして働きたいと述べましたが、それはこの仕事の重要性を鑑みての言葉だと、そう受け取って頂けると私も報われます。()()の生徒会を実現させるためにも、私に一票を投じて下さるようお願い致します』

 

 そう締めくくって頭を下げる雪ノ下を眺めながら、思わず八幡の口から言葉がこぼれる。

 大きな拍手が沸き起こる中でも、声が漏れない環境に置かれている葉山と海老名にだけははっきりと聞き取れた。

 

「エフェソス公会議と、インノケンティウス三世か……」

「……さすがだな。雪ノ下さんも、そう言っていたよ」

「えっと、ネストリウス派が異端になった公会議と、教皇権が全盛期を迎えた時だっけ?」

 

 葉山が何やら勘違いをしているけれど、いい気味なので当人から聞いたという話は伏せることにして。八幡は海老名に向けて説明を始めた。

 

「雪ノ下が目指してる組織って、要するに雪ノ下の下に生徒会と奉仕部があるんだよな。その三つは三位一体じゃなくて、雪ノ下とその下僕で明確に分離してるっつーか。それが、神格と人格が分離してるって主張するネストリウス派と重なって見えたんだわ。ま、無理矢理こじつけただけだし、あんま深く追及されると困るけどな」

「おー、なるほど。じゃあインノケンティウス三世は?」

 

 ちらりと葉山の様子を窺って。代わりに説明してくれたら楽なのにと期待したものの、君の解説が聞きたいなと言われた気がしたので、仕方なく話を続ける。

 

「王様よりも教皇が偉いって状況を確定させて、西欧各国に十字軍を呼びかけたりレコンキスタを促した人だろ。いかにも雪ノ下が好きそうな立ち位置じゃね?」

「雪ノ下さんが目指す理想の形だろうね。全校の人材を縦横に用いて、難題に挑みたいんだろうな」

「生徒会がそこまでの難題を抱える状況なんてあるのかなー。でもまあ、雪ノ下さんらしいのは確かかな」

 

 そう言って苦笑している海老名から、気のせいか雪ノ下への親近感が伝わってきた。

 何となく面白くないなと思いながら、椅子に腰を下ろそうとしている雪ノ下に視線を送る。

 

「しかしまあ、政策を戦わせたいとは言ってたけど、ガチの内容だったな。一番手がこれだと由比ヶ浜も一色もある程度は合わせるしかないし、トップを取られたのは痛かったか」

「最初に演説できれば理想的だな、とは考えていたけどね。でも、これほどとは俺も思ってなかったよ」

「隼人くんの予想を上回るなんて、やっぱり敵に回すと厄介だよねー」

 

 そんなふうに三人が雑談を続けていると、再び城廻が立ち上がった。

 

 

***

 

 

 目の前に置かれたままだった立方体の箱に手を差し入れて、城廻が次に引いたのは。

 

『次は……おお、由比ヶ浜さんだー!』

 

 たちまち館内のあちこちから大きな歓声が上がった。前列の真ん中辺りからの声援がひときわ目立っているものの、幅広く支持を集めているのがよく判る。

 

『では、講演台で準備をお願いします。みんな知ってると思うけど、二年F組の由比ヶ浜結衣さんです!』

 

 立ち上がった瞬間こそわたわたとしていたものの。城廻からの紹介を受けて一礼を終えた由比ヶ浜は、決意を秘めて引き締まった表情を浮かべていた。大きく手足を動かして、所定の場所に向けてずんずんと進んで行くと、講演台の前で深々と頭を下げる。

 

 そして大きく目を見開いて、集まっている全校生徒に向けてふんわりと満面の笑顔を贈ってから、由比ヶ浜が語り始めた。

 

『えっと、生徒会長候補の由比ヶ浜です。堅苦しい言い方だと、思ってることを上手く伝えられない時があるので、いつもの話し方でみんなに聞いてもらいたいなって思います。それと呼び方も、選挙で敵対してるからって、よそよそしい呼び方はしたくないなって思うので。ゆきのん、いろはちゃんって呼ばせて下さい』

 

 そんな前置きに続いて、由比ヶ浜はハキハキと丁寧な喋り方で言葉を続ける。

 

『まず人事案ですが、一昨日の集会で発表した通りです。具体的にはこんな感じかな』

 

 その発言に続けて、由比ヶ浜は先程の雪ノ下と同じように、テキストをスクリーンに映し出した。

 

会長 :由比ヶ浜結衣

副会長:本牧牧人

書記 :藤沢沙和子

会計 :三浦優美子

庶務 :海老名姫菜

監査役:一色いろは

 

『こんなふうに生徒会のメンバーをきっちり固めて、毎日こつこつと仕事をしていきたいなと思っています。それと奉仕部のことは、ゆきのんとヒッキーがいれば、あっちは大抵のことなら何とかなるって思ってます。だからこそ、生徒会と奉仕部の関係が大事だなって思っていて。城廻先輩のやり方を継続して、次の一年間も生徒会と奉仕部がいい関係を続けられるように。あたしも生徒会が忙しくない時には、部員として奉仕部に参加したいと考えています』

 

 意地の悪い指摘はできなくもない。仲の良い三人娘が生徒会を私物化するのではないかと懸念を示すのは、言葉を選ぶ必要はあるけれど決して悪手ではないだろう。

 

 けれども三浦と一色の対立関係は、その原因も含めて校内の誰もが知っている。

 

 だからこそ由比ヶ浜は、監査役に一色を据えたいとあれほど熱望したのだなと八幡は思った。そこを確定させた上で友人二人の役員入りを発表するというあの流れは、タイミングも含めて敵ながら見事としか言い様がない。

 

『じゃあ、生徒会が忙しくなった時にはどうするのかなって、思う人もいるかもしれません。だって、ゆきのんと比べると、あたしでも誰でも仕事の面では及ばないからです。このメンバーで乗り切れるのかなって、そんな疑問が出てくるんじゃないかなって、あたしたちは考えました』

 

 自らの弱みを認めて、その上で対策を述べるという流れは雪ノ下と同じ。けれども話の繋げ方や表現に、それぞれの特徴が出ているなと八幡は思った。

 

 そして、こんなふうに懐の広さを感じさせる時の由比ヶ浜は、敵に回すと誰よりも怖い。

 その証拠に、八幡でさえ話の先行きがまるで読めない。

 

『ここで、立候補の理由を述べさせて下さい。集会に来てくれた人たちには繰り返しになりますが、あたしは、ゆきのんに負担が集中するような形にはぜったいにしたくないって思っていて。だから、ゆきのんがすごい能力を発揮して()()の生徒会を目指すって方針には賛成できなくて。それよりもあたしは、ゆきのんの能力を無理なく、でも思う存分に活かせるような、そんな()()の生徒会にしたいなって思いました。これはもちろん、ゆきのんだけじゃなくて生徒会役員にも、それからみんなにも当てはまります』

 

 昨日までの集会では、雪ノ下は「最高」という言葉を使っていなかった。けれども由比ヶ浜は、演説ではきっとこの言葉が出ると確信していたのだろう。そうでなければこの短時間で「最良」という言葉に辿り着けるはずがない。ましてや、この二つの言葉をスクリーンに大々的に映し出すなんて。

 

 由比ヶ浜を馬鹿にしたいわけではない。けれども、語彙の豊富さや表現力という点で劣っているのは確かだ。それが、今回に限っては弱点にならないのであれば。そこに持ち前の長所を組み合わせると、一体どれほどの効果を生み出せるのだろうか。

 

 そんな八幡の疑問に答えるかのように、由比ヶ浜の話は続く。

 

『あたしはゆきのんみたいに、仕事の内容とか進み具合とかに応じて、適切な人材を割り振るようなことはできません。できなくはないけど、ゆきのんみたいに合理的に、効率的に、機能的にってのはムリだと思います。でも、仕事をしてる人が疲れてるなって思ったり、集中できてないなって思ったり、一緒に仕事をしてる人と合ってないなって思ったり。そういうのに気付けるって点では、あたしはゆきのんよりも、上だと思います』

 

 こんなふうに言い切れるような奴だっただろうか。

 演説に耳を傾けながらも周囲の反応をきょろきょろと窺っていた八幡は思わず首を持ち上げて、由比ヶ浜の横顔をまじまじと見つめてしまった。

 

 壇上から全校生徒へと温かい眼差しを送っている由比ヶ浜は、その全員に向けて手を伸ばしているようにも感じられた。

 

 自分の限界がどこまでかを誰よりも知っているからこそ、劣っている部分には固執せず別の道を選択できる。優れた部分を発揮して大勢を後押しすることで、実務能力では大きな差のある相手とでも互角以上に渡り合える。いや、その相手すらも取り込もうとしているのだ。

 

『ゆきのんはさっき、倒れてしまわないようにって言ってくれました。そんなふうに体調に気を使うようになってくれたことを、あたしは友人として、同じ候補者として、とても嬉しく思っています。でも、あたしはゆきのんの性格を知ってるから、限界が近いって分かってても無茶をする時が来るんだろうなって、そんなふうにも思っています。はっきり言っちゃうと、他人を使う以上に自分を使うのが下手だなって思っています。でもあたしは、自分がムリだって思ったら迷いません。生徒会役員を頼って、それでもムリって思っても迷いません。ゆきのんやヒッキーや、今ここであたしの話を聴いてくれてるみんなに助けてもらうことを迷いません。そのかわり、みんながムリだってなる前に、必ず気が付きます。そんな、()()の生徒会を、あたしは目指しています』

 

 苦手な分野を丸投げするという選択は実に合理的だ。けれども、それを実行できる人はそれほど多くはない。何故なら、ちんけなプライドが邪魔をするからだ。他人から「そんなこともできないのか」と言われても涼しい顔で受け流せる奴なんて、そうそう居るわけがない。

 

『普段の仕事は、役員のみんなに助けてもらったら充分に回せると思います。ぶっちゃけ、ゆきのんみたいにすごい能力がなくても何とかなります。けど、難しい問題が出て来た時には。それどころか緊急の場面になって、どうしても必要だって思ったら。あたしはゆきのんに会長としての全権を委任して、ゆきのんの指示に従ってもいいって思っています。その時に、手放さないのはひとつだけ。ゆきのんが限界だって思った時には止めるっていう権限さえ残っていれば、あたしは名前だけの会長になってもいいって思っています』

 

 ましてや、ここまであっけらかんと権力を手放せる奴なんて。

 いくら苦手だからって、いくら適材適所だからって、こんな提案を持ち出せるのは相手への深い信頼なくしてはありえない。

 

 雪ノ下に負担を押し付けたくないという一念を突き詰めて、そこに由比ヶ浜の長所を混ぜ込めば、こんな結論に至れるのだ。

 

「つーか、あれか。オクタヴィアヌスと、アグリッパか」

「へーえ。結衣に教えた元ネタを一発で当てられるとは思ってなかったなー」

「なるほどね。アウグストゥスは軍事が苦手だったから、アグリッパに任せきりだったらしいね」

 

 ローマの初代皇帝とその右腕の関係は、全軍の指揮権を任せられるほど親密なものだったという。

 最高司令官とは名ばかりで、しかし戦場には並んで立って、腹心の采配に全てを委ねる。

 当人に将に将たる器があり、かつ相手への絶対的な信頼がなければできない芸当だ。

 

『でも、そんな大変なことにならない限りは、このメンバーで充分にやっていけるとあたしは思っています。それと臨時のメンバーも、いつでも歓迎します。このへんはゆきのんと同じかな。結論としては、あたしはこういう組織の形のほうが、ゆきのんが提案した形よりも優れていると思っています。もしみんなが同じように思ってくれたら、あたしに投票して下さい。よろしくお願いします!』

 

 そう言って頭を下げたと同時に湧き上がった拍手の音は、雪ノ下に優るとも劣らないものだった。

 

 それを自分の耳で確かめて。

 雪ノ下は、由比ヶ浜が自分と同じ高みにまで登って来てくれたのだと実感した。

 

 

***

 

 

 由比ヶ浜が席に着くと、入れ替わるように城廻が立ち上がった。

 

 箱の中に誰の名前が残っているかなんて分かり切っているけれど、それをちゃんと実行することには意味がある。

 そう思っていた城廻だが、この後の展開はさすがに予想外だった。

 

『いよいよ最後だぞー。残っていたのは……一色さんだー!』

 

 アリーナのどこかから「せーの」という声が聞こえた気がした。

 そして、それに続けて。

 

「I・RO・HA・ちゃーん!」

 

 ファン連中を選挙に協力させたのは間違っていたのだろうかと八幡は思った。

 

 

 唖然としている者と、呼び掛けを終えて力尽きた者が大半の館内にあって、誰よりも平然としていたのは一色だろう。

 

 その場でぴょこんとお辞儀をして、ファンをねぎらうように片手をふりふり講演台へと近付いて行く。そこで今度は深々と頭を下げて、一色は外向きの笑顔はそのままに頭の中だけを切り替えた。

 

『生徒会長候補の一色です。雪ノ下先輩と結衣先輩にならって、わたしも人事案の発表から話を始めたいと思います。あ、結衣先輩って呼ぶの、許して下さいね〜』

 

 舌をぺろっと出しながら、一色は「えいっ」という声とともに、役職と名前が書かれたファイルをスクリーンに投影した。

 

会長 :一色いろは

副会長:本牧牧人

書記 :藤沢沙和子

会計 :稲村純

監査 :奉仕部

 

 一番下の文字列を目にして、雪ノ下は額に手を当てて、由比ヶ浜はたははと笑って、舐めたことを書いてきた後輩に反応している。

 

 それを横目で確認したせいか背筋がぞくぞくするのを感じながらも、八幡は心の中で、あざとい後輩に応援の言葉を贈った。

 

『まずわたしは、奉仕部には今の三人のままでいて欲しいと思っています。なぜかと言うと、そのほうが頼りがいがあると思うからです。だから、生徒会は必要最小限にして、役員の数も四人に絞りました。稲村先輩はこの春まで生徒会の臨時メンバーだった人で、わたしが会長になるなら役員をやってもいいと言ってくれました』

 

 取り繕ってはいるけれども、本当は「押し付けがいがある」だろうなと八幡は思った。

 演説のおおまかな流れは把握しているものの、細かな表現まで修正するとせっかくの一色の良さを台無しにしてしまう気がしたので、口うるさくは言わなかったのだ。

 

 気のせいか部長様のこめかみの辺りがぴくぴくしているように見えるぞとおののきながら、八幡は続く言葉に耳を傾ける。

 

『雪ノ下先輩も結衣先輩も、当選しても奉仕部を続けると表明しています。でも、それだと中途半端になる気がするんですよね。今は奉仕部と生徒会がわりと対等な感じですけど、会長になったらそんなわけにもいかないと思うんですよ。でも、わたしなら違います。生徒会と奉仕部を完全に別組織にして、城廻先輩の時と同じように、対等な形で関係を続けていけます』

 

 対立候補の両方を攻撃しながら、城廻政権の継続をほのめかしていた由比ヶ浜に追加の打撃を与えている。戦略としては悪くないと思うのだが、こちらにはほとんど目もくれずに雪ノ下打倒に邁進していた先程の演説と比べてみると、どちらが良いとも言い切れない。

 これが三つ巴の難しいところだなと八幡が考えていると。

 

『くじ引きの結果、わたしは三番目に話す形になりました。お二人の演説を聴いていて、どっちもすごいな〜って思ったんですけど、みなさんも同じですか?』

 

 男子生徒の野太い声しか聞こえて来ないのだけれど。「同じー」という反応が館内のあちこちから返ってくるのは、一色だけにしかできない芸当だろう。

 

『ですよね〜。ほんとに先輩二人ともすごすぎて、わたしなんで立候補なんてしたんだろって思った時もあったんですよ。せっかくこんなにすごい先輩たちがいるんだから、ぜんぶ任せちゃえばいいかなって思った時も、正直ありました。けどみなさん。今度は来年のことを思い浮かべてみて下さい。すごい先輩たちが引退して、その次って、めちゃくちゃハードル高くないですか?』

 

 今度は「高いー」という声が、先程よりも多く感じられる。

 意外だったのは、一年だけではなく二年や三年の生徒からも少なからず反応がある。流れとしては悪くはない。

 

『だよね〜。というわけで、わたしが目指しているのは()()の生徒会です。特別な才能に頼らなくてもやっていけるような、身の丈に合った生徒会です。でも、誤解して欲しくないんですけど、すごい人たちを排除するって意味じゃあないです。普通の人たちが普通に過ごせて、すごい人たちも普通に過ごせるような、そんな高校になったらいいなって思うんですよ』

 

 ファン連中の蛮行に眉を顰めて、そのせいで一色の演説も右から左へと聞き流していた女子生徒は少なくなかったと思うのに。気が付けば、館内の大半が話に耳を傾けている。

 

『わたしはサッカー部のマネージャーをしています。だからサッカーにたとえて説明しますね。例えば、すっごく足の速い選手がいてシュートも上手くて、そんな人をキーパーにしたら、もったいないなって思いますよね。じゃあトップで起用してがんがん点を決めてもらおうと思っても、サッカーって一人じゃできないんですよ。その選手にパスを出す人が必要です。でも、せっかく足が速くてシュートも上手いのに、平凡なパスしか出せないならやっぱりもったいないですよね。スピードで敵を一瞬だけ振り切ったタイミングでパスが出せる選手がいたら完璧ですよね。でも、そんなふうにして各ポジションを考えていくと、すごい人しかレギュラーになれないような、普通の人は試合に出たらダメだって言われてるような、そんな気持ちになりませんか?』

 

 もはや一色のファンですらも席でうんうんと頷くばかりで、奇声を発するということに考えが至っていないみたいだ。

 いつの間にこのあざとい後輩は、こんな域にまで至っていたのだろう。

 

『すごい選手に引っ張られて、みんなも一緒になって頑張ってすごいチームを目指すのは、たしかに夢がありますよね。でも、しんどいなって思う時も必ずあります。普通の選手だけじゃなくて、すごい選手のほうでも、そう思う時は必ず来ます。けど、それって寂しいですよね。才能や努力が足りなくて落ち込むのも、才能や努力が足りてるから逆に落ち込んでしまうのも。できればわたしは、どっちも見たくないなって思います。だって、才能や努力が悪者にされるの、嫌じゃないですか』

 

 誰の話をしているのだろうかと八幡は思った。

 それと同時に、今までは知りもしなかったマネージャーとしての一色の心構えを伝えられている気がして、なぜだか急にその身体が自分よりも大きく見えた。

 

『えっと、話を戻しますね。雪ノ下先輩の最高も、結衣先輩の最良も、才能のある人に合わせて考えてるって点では同じだなと、わたしは思いました。でも、お二人と渡り合えるような人たちはほんの少しだけ、もしかしたらお二人の他には一人ぐらいしか見付からないかもしれません。わたしも含めた残り大勢は、頑張って付いていこうとしても最初から諦めていても、どっちにしてもずんずん離れていく先輩たちを黙って見送るしかないんですよ。それは、お互いにとって良くないとわたしは思います』

 

 話の途中でちらりと視線を送られた気がしたが、八幡はそれどころではなかった。

 自分が抱いていた不安な気持ちは、一色と共有できるのだと気付かされたからだ。

 

『先輩たちがすごいのは、後輩のわたしにとっても誇りです。まあこんなことは、こんな機会でもなければあんまり言いたくはないんですけどね〜。でも、だからこそ、すごさが原因で断絶に繋がるようなことには、なって欲しくないんですよ。なにも先輩たちのレベルを下げろと言うわけじゃないです。そうじゃなくて、能力を発揮する時は思う存分やっちゃって欲しいけど、そうじゃない時には普通にも過ごせるようにと、そんな感じですかね〜。もちろんわたしたちの側も、普通で満足せずに上を目指すような時があっていいと思いますけど、それは追々って感じですね』

 

 この辺りの考え方は、由比ヶ浜の提案にも通じるものがあるなと八幡は思った。

 平時には由比ヶ浜たちが生徒会を運営して、非常時には雪ノ下に独裁権すら与えるという先程の提案と。

 基本は普通に過ごすことで向こうに歩み寄らせる形を取りつつ、時には能力を思う存分に発揮させたり、逆にこちらから歩み寄るケースも模索したり。

 

 とはいえ、こんな話は聴いてなかったぞと後輩をじろりと睨んでやると、ふと目が合った。猛烈に嫌な予感がして、すぐに目を逸らした八幡だったが。

 

『さて、今では生徒会長をやる気満々なんですけど、わたしも最初からそうだったわけではありません。なぜなら、わたしの知らないうちに勝手に立候補させられていたからです』

 

 慌てて首を逆に振って、一色の視線の先を辿る。

 六人の推薦人が、今回の一件の黒幕たちが、ひとかたまりになっているのが目に入った。

 

『わたしが女子から恨みを買いやすいのは知っていました。でも、まさか生徒会長に祭り上げようとするとは思いませんでした』

 

 強く奥歯を噛みしめながらも、八幡には一色の意図が理解できない。昨夜の打ち合わせは何だったのだと言いたい気持ちでいっぱいだ。

 

 実を言うと、この手は考えなかったわけではない。

 

 このクラスから会長をと推薦人たちが盛り上がった結果、一色の意思を確かめずに届けを出してしまったというのが大多数の認識なのだけれど。真相を明かして推薦人連中に犠牲になってもらって、そのかわりに一色の印象度をアップさせるという方法は、もしも自分が推薦人ならやらせていたかもしれない。

 

 けれど自分だけが犠牲になる手は実行できても、他人を犠牲にする手を採用しようとは思わなかった。というか、採用できなかったと言うほうが正確だろうか。

 

 それに、あの二人に釘を刺された今となっては、自分が犠牲になる案も選べないのが現状だ。

 

『ここで質問です。この件で、わたしにも原因があると思いますか?』

 

 ファン連中がきょろきょろと落ち着きなく見えるが、誰も声を上げようとはしない。とはいえ返事が欲しかったわけではなく、考える時間を与えたかっただけみたいで。

 

『当事者のわたしが言うと説得力がないかもですが、被害者にも原因があったと考えるのは間違いだとわたしは思います。この件に関しては、こんなことをしでかした子たちが全面的に悪いんですよ。それは当人たちも認めています。気に入らないかもしれないけど受け入れて下さい。でも、ですね』

 

 意見を異にする生徒は、この段階に至っては容赦なく切り捨てる。これは昨夜の打ち合わせにもあったことだ。中途半端なことを言って万人に受けようとするよりは、明確に敵味方に分かれるような物言いをした方が良いと、そう提案した通りなのだけど。

 

 とはいえ先程とは少し風向きが変わってきたので、八幡は目をぱちぱちさせながら耳に意識を傾ける。

 

『そんな最低な形で始まった選挙戦でしたけど、わたしは今もこの場に立っています。それどころか、雪ノ下先輩と結衣先輩というすごい人たちと競い合えています。お二人が奉仕部の一員として、わたしの普通の生徒会と対等な関係を築ける未来は、まだ可能性として残っています。それは、勝手に立候補させちゃおうって企んだ子たちのおかげと言うと言い過ぎですけど、あの子たちが変なことをしなかったら実現不可能でした。せんぱいから教えてもらったんですけど、こういうのって「塞翁が馬」って言うみたいですね。何が幸運に繋がって何が不運になるかなんて、ほんとうに分かんないものですよね〜』

 

 ようやく話が繋がって見えたので、八幡はふうと息を吐いて肩の力を抜いた。

 ここまで来れば終わりまではあと少しだ。

 

『今ではその子たちとも、仲良しとはとても言えないですけど前よりもお互いに詳しくなれました。話してみたらへえって思うことって多いですよね。だから、わたしを嫌っている人たちにも、同じことを提案したいと思います。わたしが気に入らないなら気に入らないと言いに来て下さい。わたしは、すごい人たちと断絶ができるのも嫌ですけど、変な誤解が理由で拒絶されるのも嫌だなって改めて思いました。同時に、それは改善できると思いました。その証拠がわたしの一年C組で、今ではみんながわたしの当選を願ってくれています。わたしは他のクラスの人とも、他の学年の先輩たちとも、そんな関係を築きたいと思っています』

 

 クラスの様子を紹介して一色のイメージを払拭する。

 その目的こそ果たせたものの、ここまで赤裸々に推薦人の話をしてしまって良かったのだろうかと思う気持ちはある。けれども口に出してしまったことはどうにもならないわけで、それに一色なら何とかするんだろうと、八幡は投げやりな気持ちではなく心からそう思った。

 

『繰り返しになりますが、私が目指しているのは()()の生徒会です。それはつまり、全校生徒が普通に過ごせる環境を、みなさんに提供したいという意味です。だから、清き一票をわたしにお願いします!』

 

 一色が深々と頭を下げても、もうファン連中の奇声は飛ばなかった。そのかわりに大きな拍手が教職員の席からも湧き上がった。

 

『えっと、紹介するのを忘れてたけど、一年C組の一色いろはさんでした!』

 

 城廻の紹介を受けたので、歩きながら手を振って応える。

 一色が席に着くまで、拍手が鳴り止むことはなかった。

 

 

***

 

 

 改めて城廻が立ち上がって、投票の諸注意を伝えている。

 投票には全校生徒に配布されたアプリを使う。各候補に一位から三位までの順番をつけて送信すれば、それで投票は完了だ。

 

『じゃあ、最後の確認をするねー。投票の仕方が分からない人は手を挙げてー?』

 

 反応がなかったのでうんうんと満足げに頷いて、城廻はすぐ横の三人へと視線を移した。

 

『候補者の三人にも、もう一度確認するね。質疑応答は無しでいいって、本当にそれで良かったの?』

 

『訊ねたいことや確認したいことはあると言えばあるのですが、ここまで主張が異なってしまえば些細なことです。私は、自分が主張する最高の生徒会が一番望ましいと思っています』

『あたしも、最良の生徒会が一番だって思ってるよ。あと言いたいことって……いろはちゃんもすごいじゃん、ってぐらい?』

『結衣先輩にそう言われても、まだまだだな〜としか思えないんですけどね。わたしは最後だったし言いたいことは言っちゃったんで別にいいですよ〜』

 

 三者三様の答えを耳にして、うんと大きく頷いて。

 そして城廻は、高らかに宣言する。

 

『じゃあ、投票をお願いします!』

 

 

 投票結果はスクリーンの上に三位から順に表示されること。

 各候補が獲得した票数ではなく百分率が出てくること。

 それらの説明が終わるとともに、全員の投票が終わったみたいで。

 

『なんだか、すぐに結果が出るってちょっと怖いよねー』

 

 城廻が司会らしからぬ感想を述べているけれど、それは全校生徒の気持ちを代弁していた。

 ごくっと唾を飲み込む声が、館内のあちこちから聞こえて来る。

 

「でも、こうしてても仕方がないし、そろそろ行くよー!』

 

 その城廻の言葉と同時に、三位の投票結果が出た。

 

一色いろは :62%

由比ヶ浜結衣:31%

雪ノ下雪乃 :07%

 

 雪ノ下の得票率の低さにどよめきが漏れる中で、続けて二位の結果が表示される。

 

雪ノ下雪乃 :61%

由比ヶ浜結衣:36%

一色いろは :03%

 

 そして、一位の結果が……。

 




次回はできれば今月中に更新できるように、最後まで諦めず頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
投票結果を得票率の順に並べ替えて、細かな表現を修正しました。(8/24)


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15.りゆうを見付けた彼女と彼は前を向いて歩き始める。

前回のあらすじ。

 立会演説会と投票が行われ、三位票から順に開票が進む。
 あとは一位票の結果を待つばかりとなった。

*まだ投票がお済みでない方は、五つの選択肢から一つを選ぶだけですので、前話の後書きの下まで御足労を頂けますと嬉しいです。



 館内は拍手の音で埋め尽くされていた。

 壇上では、司会を務めた現生徒会長をはじめとして、対立候補の二人も立会人の三人も妙にすがすがしい顔をしている。

 

 きっと、この中でいちばん現実味を感じられないのは自分だろう。

 そんなふうに考えながら、彼女はステージの上に備え付けられたスクリーンをもう一度、見るとはなしに眺めた。

 

 そこには、各候補の得票率が明示されている。

 

一色いろは :35%

由比ヶ浜結衣:33%

雪ノ下雪乃 :32%

 

 この結果が表示された直後には、歓声や悲鳴や安堵の息や溜息や、とにかく人の口から飛び出るあらゆるものがわんさと出て来て混沌の極みにあった体育館も、今はようやく落ち着いてきた。

 その証拠に、誰からともなく叩き始められた音は瞬く間に周囲を席巻して、選挙戦の勝者である彼女、一色いろはを讃えている。

 

「いろはちゃん、おめでと」

「勝ったのは一色さん、貴女よ。だから拍手に応えてあげて」

 

 今のこの気持ちは、ともに戦ったこの二人にしか解らないのではないだろうか。

 そう考えた一色が、由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃に向けて静かに頷きを返すと。視線の先には、うんうんと首を縦に動かしながら慈しむようにニコニコと微笑みかけてくれる城廻めぐりがいた。

 

 ああ、そうかと一色は思う。

 歴代の生徒会長は、こんな想いを胸に代々就任してきたのだ。

 

 それを確かに受け取って、我知らずふんわりとした自然な笑みを浮かべながら。

 城廻から手渡されたマイクを手に、一色は立ち上がった。

 

『これから一年間、生徒会長を務めることになりました、一色いろはです。わたしに投票してくれた人たちのためにも。それから、二人の素敵な先輩に、投票してくれた人たちのためにも。わたしは、生徒会と奉仕部が協力し合って、みんなが普通に過ごせるような、城廻先輩の時と同じように楽しく毎日を送れるような、そんな高校にしたいと思っています。だから、みなさんも、協力をお願いしますね』

 

 最後は少し地が出そうになったし、言い終えると同時にウインクまでしそうになって、慌てて頭を下げたのだけど。

 

 とりたてて言葉や態度を飾らなくても、これほどの熱気が返ってくるなんて。

 立候補をする前には、こんなことは思いもしなかったなと考えながら。

 

 一色は、立候補を唆してくれた悪いせんぱいに、横目でこっそりとお礼を伝えた。

 

 

***

 

 

 正式な代替わりは試験明けだという理由に加えて、おそらくは投票の結果が出た直後なので気を使ってくれたのだろう。

 早々に一色に仕事を任せても良かっただろうに。城廻は選挙戦の終結と選挙管理委員会の解散を宣言すると、続けて生徒たちに教室に戻るようにと促した。

 

 そんなわけで、各クラスでは帰りのホームルームが行われていた。

 

 

「勝ってここに帰ってくると約束したのに、それを果たせなくてごめんなさい。それと、選挙期間中に、私のために走り回ってくれて、ありがとう」

 

 自らの非を認めても、素直にお礼を伝えても、このクラスの面々なら言葉をそのまま受け取ってくれる。

 

 去年の今頃には自ら壁を作って同級生と距離を置いていたというのに。

 たったの一年で、変われば変わるものだとも言えるし。心の持ちようがほんの僅かに違うだけで、そんな些細な変化が、時には大きな効果を生み出すのだとも言えそうだ。

 

 なぜなら、当の自分自身もまた、それほど大きく変わったわけではないのだから。

 特に人の内面は、そう簡単に変われるものではない。

 

 そんな事を頭の片隅で考えながら、雪ノ下は教卓の上から話を続ける。

 

「あなたたちが頑張ってくれたから充実した毎日を過ごすことができて、この上なく良い流れで投票当日を迎えられたと思っていたのだけれど。敗因は、私が予想していた以上に二人の演説が良かったせいで、それはつまり私の見通しの甘さが原因ね」

 

 自虐的に聞こえないように特にイントネーションには気を使いつつ、二人の演説から学んだことを実行する。

 

「でも、だからこそ。今度また大きな仕事をする時には、自分の力を過信せず、あなたたちを頼るわ。だから、その時は……お願いできるかしら?」

 

 お願いしている側だというのに卑屈な様子は微塵も無い。

 

 そんな()()()()()()()()()()()()姿を頼もしく見上げながら。

 二年J組の生徒一同は、一度選挙に負けたぐらいで落ち込むほど柔な性格はしていないと証明するためにも、声を合わせて雪ノ下の問い掛けに応えた。

 

 

「せっかくあたしのために頑張ってくれたのに、結果を出せなくて……でも、いろはちゃんを応援してたヒッキーやさがみんや大和くんは、おめでとう、かな。それから、ゆきのんを応援してた隼人くんやさいちゃんや大岡くんは、また何かあった時には、ゆきのんを助けてくれると嬉しいなって」

 

 照れくさい顔を見られたくないと、ぷいっとそっぽを向かれたり。妙にあせあせとした反応や、軽く頷いただけで表面的には素っ気なかったり。

 予想と寸分も違わない堂に入った頷きや、悔しい気持ちをうるうると訴えてくるその眼差しや、軽い調子で親指を立てて了解の意思を伝えてくれたり。

 

 本当に、色んな性格の人がいるなぁと思ってしまう。

 

 そうした多種多様な人材を噛み合わせて、誰にも過度の負担が掛からないように気を付けながら、会長として一年間を過ごしてみたかったなと改めて思う。

 けど、いつまでも未練を引きずっていても仕方がない。

 

「最後に、あたしに投票してくれたクラスのみんなに。特に、ほとんど休みも取らないで動き続けてくれたとべっちと、あたしが集会とかでいない時にもずっとこの教室に残ってくれて困ったことが起きてもすぐにてきぱきと片付けてくれた沙希と、あたしが苦手な頭を使う問題をぜんぶ引き受けてくれた姫菜と、あたしが気が付きにくいことをさっとフォローしてくれたりみんなを盛り上げてくれて……今はあたし以上に悔しがってくれてる優美子と」

 

 ここでいったん言葉を切ると、海老名姫菜に肩を叩かれて今度はふくれっ面を浮かべているのが目に入った。ころころと表情が変わっていくのが可愛いなと由比ヶ浜は思う。

 

 たぶん、この三人の関係も、今の形のほうが良いのだろう。

 

 三浦優美子を頂点に置いても、そんな立場には頓着しないと思っていたし、実際にさしたる問題も起きていない。

 けれども自分が先頭に出ることで、三浦はより気ままにより奔放に振る舞うことができる。同時に、そうした派手好きな側面とは裏腹の世話好きなおかんという性向も、一歩引いた立場なら発揮しやすいみたいだ。

 

 それに三浦は意外と泣き虫だったりするのだが、そんな側面を表に出してしまっても、今なら威厳が失われることはないだろう。それどころか、より親しみを持たれそうな気配がある。

 自分や海老名を庇うように一歩前に出ていた頃にはひた隠しにしていたけれど(でも雪ノ下や川崎沙希には隠せてなかったけど)、それはある意味では無用な我慢をさせていたということだ。

 

 そうした三浦の気遣いに、ようやく報いることができる。

 これも、この選挙戦を経験したおかげで学べたことだった。

 

「……うん。でもやっぱり、いろはちゃんやゆきのんに投票した人たちも含めて、お礼を言いたいかなって。だって、この選挙期間中は楽しかったからさ。だから、えっと……みんな、お疲れさまでしたっ!」

 

 そう言って勢いよく頭を下げた由比ヶ浜をねぎらう拍手は、さすがに恥ずかしくなってきたのでそろそろ止めようよと当人が言い出してもますます勢いを増して、もう座っちゃうからねと宣言して椅子にすとんと腰を下ろすまで絶え間なく続いた。

 

 

「あの一色があんなに感動的な演説をするなんて、先生は何度思い出しても胸の奥から熱い想いがこみ上げてきて身体全体が奮い立つのを感じるぞ。そんな一色を必死で応援してきたお前らみんなも、俺の誇りだよ」

 

 微妙に失礼なことを言われている気もするのだが、今日ばかりは見逃してあげようと思う。だから早いとこ語り終えて下さいねと担任を冷ややかに眺めながら、一色は頬杖をついてぼけっと過ごしていた。

 

 この後は友人四人と軽い打ち上げをする予定になっている。

 普通ならクラス全員に加えて選挙戦に協力してくれた先輩方も誘って盛大にお祝いするべきなのかもしれないけれど、ファンの扱いがネックになっていた。

 

 それに選挙の熱気が冷めてしまえば、クラス一丸という状態からは微妙に後退してしまった。

 もちろん以前のように、あからさまにいがみ合う関係に戻ることはないと思うけど、かといって仲良しこよしになれるかというとそれも難しい。少なくとも、今すぐには無理だ。

 

 それにあの子たちから提案を受けて、勝手に立候補をさせられた一件は演説で話に出すことで手打ちになった。つまり今はお互いにイーブンな状態なので、どうにも関わり方が難しいという状況だった。

 

「まあ、これは言い訳ですけどね~」

 

 誰にも聞こえないような小さな声で呟いて、一色はそのまま物思いを続ける。

 

 それなら陣営の幹部連中だけで打ち上げを、という声ももちろんあった。

 それをきっぱりと却下して、それでも食い下がる友人たちには「せんぱいとの仲を散々からかわれたから」とまで告げて、一色は総勢五名の打ち上げを希望した。

 

 気の置けない顔ぶれで、こぢんまりと喜びを分かち合いたいというのが、一色の偽らざる本音だ。

 とはいえ、それ以外の理由もあるにはある。

 

 今回の選挙戦最大の功労者は、どう考えてもあのせんぱいだろう。

 そして彼は、打ち上げのような華やかな催しをあまり好んでいない。

 それに彼には、他にやりたいことがあるはずだ。

 

「まったく。旅行前とはぜんぜん違うって、わたしが気付いてないとでも思ってるんですかね~」

 

 ふぅと息を吐き出して、大功を立てた彼が望むに違いない褒美を、こっそり取らせた自分に不満を抱く。

 こんなふうに陰ながら配慮してあげるだなんて、どう考えても性に合わない。でも、今回だけは我慢してあげよう。

 

「せんぱいのお陰で色んなものを貰っちゃいましたし、仕方が無いですね」

 

 四人の友人と六人の先輩と使い走りの三人と。居心地の良いクラスと過ごしやすくなった校内では、嫉妬で血走った目を向けられる機会も激減するだろう。生徒会長の肩書きと、地味だけどやりがいのある仕事も新たに得られた。

 

 それに、以前から付き合いがあった奉仕部の三人とも、選挙戦で競い合ったり助け合ったことで仲がいっそう深まった気がするし。戦いの中で三浦や海老名や、あの先輩のことにも詳しくなれたと思う。

 

「ま、せんぱいなら簡単に言うことを聞いてくれますし?」

 

 この思考の流れで、勝利の立役者を脅すことを考える辺りが一色の一色たる所以(ゆえん)だろう。

 

 気の抜けた顔つきが、みるみるうちに不敵な面構えになっていくのを自覚しないまま。ましてや、大半の時間を特定の一人を思い浮かべて過ごしていたとはまるで気が付かないままに、一色は試験明けの代替わりの日に思いを寄せてふふんと笑った。

 

 

***

 

 

 担任の話はあっさりと終わった。

 急いで教室を出て行こうとした比企谷八幡は、ふと背後から視線を感じて、席を離れる前に後ろを振り返る。

 

『今日、どうする?』

『先に行っててくれ。そんなに遅くならんと思う』

 

 首をひょこんと傾げた由比ヶ浜に、軽く頷いて応えた。

 

 自意識過剰かもしれないが、クラスの雰囲気が何だか気恥ずかしくて逃げるのか、それとも用事があって急いでいるのかぐらいは簡単に見抜きそうなので、きっと意図は伝わっているはずだ。

 そう考えた八幡は迷いなく首を戻して、足早に教室を後にした。

 

 

 通い慣れた空き教室に身を潜めて、八幡は椅子に逆向きに腰を下ろして頬杖をついたままぼけっとしていた。

 

 同じような体勢の誰かがまさか自分を脅そうと考えているなどとは夢にも思わず。誰にも見咎められない空間で平和な時間を満喫していると、部屋の扉ががらっと開いて一人の生徒が姿を現した。

 

「悪い、待たせたか?」

「いや、大丈夫だ。椅子はセルフサービスで頼むわ」

 

 八幡の言葉にふっと苦笑を漏らして、稲村純は教室の後ろから運んできた椅子を横並びに置いた。逆向きに座って頬杖をついて窓に向かって溜息を吐く。

 

「まさか、あの二人に勝つとはな」

「お前の協力もあったしな。つか、あれだけ僅差だと何が原因とか考えるだけ無駄だよな。何か一つが狂っただけでも結果が違ってたんじゃね?」

 

 会うのはこれが三度目だというのに、夕暮れの海辺で腹の内を明かし合ったせいか言葉が遠慮なく出てくる。なんなら口を開かなくても簡単な自白ぐらいなら促せそうだ。

 そう思った八幡が、じとっとした視線を送ると。

 

「会計を引き受ける気持ちに嘘は無かったけどな。でも、誰に投票するかは実は最後まで悩んでてさ。俺が生徒会の臨時メンバーで、雪ノ下さんが助っ人で、あの凄まじい仕事ぶりは去年何度も目の当たりにして来たしさ。由比ヶ浜さんには恩があるし、すごいスケールの会長になったんじゃないかって今でも思ってるし。けど……一色さんと一年を過ごして、ちゃんとけじめをつけたいしな」

 

「……とか思いながら演説を聞いて、迷わず一色に入れたってとこか?」

 

 稲村がいったん口を閉じたので、勝手に話を引き継いで相手の気持ちを推測してやると。

 

「ぐうの音も出ないって、こんな時に使うんだろうな。俺のちっぽけな悩みとか、全部まとめて波にさらわれちまった気分だわ」

「まあ俺も正直に言うと、一色にやられた感じはしたけどな。ましてや、あれだけ普通を連呼してたお前なら……」

 

 自分なんて普通に過ぎないと、特別にはなれないと考えていた稲村には、あの演説は効いただろうなと八幡は思う。そしてだからこそ、「誰しもが人生において特別な三人の異性と出逢う」というこいつの主張に、説得力を感じてしまう自分がいる。

 

「思ったんだけどな。サザンもそうだけど、自分にとっての特別って、別の視点から見てみたら呪いみたいな要素があるんだよな。どう足掻いても逃れられないって言うかさ。親にあれだけ聴かされて一時期はイントロを耳にしただけでも気分が悪くなってたのに、それでも自分の中に蓄積されたものが残ってて、他の曲を聴く時にもそれを参考にしてたりしてさ。んで、その、い一色っさんのこともな」

 

「イイッシキッさんって知らない名前だな。外人か?」

「ちっ。比企谷の耳が変になっただけじゃね。とにかく、向こうにとって俺はモブだって自覚しただけじゃ、終わらせてくれないみたいだな。お前が言ったとおり、どうしようもない絶望感に浸れるところまで行かないと、ダメみたいだわ」

 

 ふんと鼻息を荒くして、八幡は端的に応える。

 

「それはお前が望んでたことでもあるだろ?」

「相変わらず手厳しいな。人のせいにするなって言いたいんだろ。俺的には、お礼みたいな意味合いで言及してやっただけだっつーの。それと……まあ、これはその時が来てからだな。しばらくは生徒会で忙しいし、俺が色々と教えないといけないんだろうし……はあ」

 

 深々と溜息を吐いているので、首を軽く傾けながら。

 

「一色に教えるって意味なら、本牧もいるだろ?」

「いや、まあ、色々あってな。得意分野の違いっつーか趣味の違いっつーか、それは仕方が無いって諦めてるよ」

 

 要領を得ない返事ではあったものの、それほど大きな問題ではなさそうなので気にしないことにして本題に入る。

 

「じゃあ、あれだな。約束通り、俺らは一色を当選させたわけだが」

「ああ、分かってるよ。後は俺らが引き受けたから、比企谷は外部から手助けしてくれ」

 

 そう言って立ち上がった稲村は椅子を元の場所まで戻してから、「じゃあ、またな」と言って去って行った。

 

 扉が閉まると同時に盛大に息を吐き出した八幡は、無事に引き継ぎを終えたことに安堵する余裕もないままに、頭を切り替えながら勢いよく席を立った。

 

 

***

 

 

 夕暮れの廊下をゆっくり歩いて、八幡は特別棟へと足を踏み入れた。

 慣れた道のりなので足が進むに任せて、頭の中ではどんな反応が来ても良いようにと検討を重ねていた。

 

 勝ったのは一色だというのが八幡の認識なので、自分に向かってしおらしい様子を見せられると困ってしまうだろう。単純にお怒りあそばされると楽なのだが、あの部長様に限って理不尽な物言いはなさらないだろうし、お怒りは適切な理由を伴っているはずだ。

 

 背中がぞくぞくするのを感じながら、その時はおとなしく土下座をしようと心に決めて。

 八幡は部室のドアを開けた。

 

 

 ふわっと鼻腔をくすぐったのは紅茶の香り。

 部屋の中では、雪ノ下が背中を向けてお湯を注ぎ終えようとしていて。

 由比ヶ浜は、予想がばっちり当たったと言わんばかりの顔つきで。

 

「ほら、やっぱりヒッキーじゃん。用事は無事に終わったんだよね?」

「おう、問題なく終わったな。つか、誰の足音かって賭けでもしてたのか?」

「私も由比ヶ浜さんも同じ結論だったので、賭けにはなりようがなかったわね」

 

 つまり、由比ヶ浜は場を盛り上げようとして、あんなふうな言い回しをしたのだろう。

 とはいえ無理に明るくしようという感じではなく、雪ノ下の雰囲気も()()()()()に見える。

 あれこれ考えていたのは杞憂だったかと八幡が胸をなで下ろしていると。

 

「椅子に座ってしまう前に、お茶を取りに来てくれるかしら。由比ヶ浜さんも……」

「うん、わかった!」

「ん、了解」

 

 雪ノ下の言葉を遮って元気よく立ち上がった由比ヶ浜は、今にも鼻歌を口ずさみそうなほど弾んだ足取りで窓際の机に向かった。

 それを追った八幡は、こちらを振り向いた由比ヶ浜から紙コップを手渡されたので踵を返す。

 その後ろに、お茶を手にした由比ヶ浜と雪ノ下が続いた。

 

 

「まず、気を使わなくても大丈夫だと言っておくわね。その上で二人に伝えたいのは、私の完敗だったわ」

「いや、完敗っつーか僅差だっただろ?」

「でもさ。いろはちゃんが会長になるんだから、あたしたちの完敗だよ」

 

 そう返した由比ヶ浜は、二人に口を挟ませないまま言葉を続ける。

 

「いろはちゃんが勝って、あたしとゆきのんが負け。それ以外の数字とかには意味なんて無いし、ヒッキーが気を使ってくれるのは嬉しいけどさ、あたしもゆきのんも頑張った結果がこれなんだから、その、なんて言うのかな……」

 

「一色さんと貴方にだけは、謙遜されたくないという事よ。それと、私()数字には意味があると思うわ。たとえ僅差だとしてもね」

 

 口ごもったタイミングで口を挟んだ雪ノ下は、そのまま自分の意見を表明した。

 話を終えて、何かを確認するかのような眼差しを隣席の対立候補に向けると、由比ヶ浜は唇を噛んで頭を小さく縦に動かした。

 その動きをしっかりと確認してから話を続ける。

 

「だから、私の完敗だと思うのだけれど」

「謙遜されたくないって……うん、でもこれって繰り返しにしかならないね」

「ええ、そういう事よ」

 

 横目で様子を窺ってみると、八幡は居心地が悪いという顔をしている。

 たぶん勝つことに慣れてなくて、だからどんな風な態度を取れば良いのか分からなくて困っているのだろう。

 自分たちが何に拘っているのかには気が付いていないみたいでほっとする。

 

 反対側の様子を窺ってみると、いつも通りの雪ノ下だった。

 つまり、雰囲気を明るくしようと頑張ったことも、言い聞かせたいと思って口にした言葉も、届かなかったということだ。

 

 

 選挙のやり方を話し合っていた時に、具体的には八幡が二位票の話を持ち出した時に、ふと思い付いたことがある。

 

 立候補するからには、当選だけを目指して頑張ろうと思っていたけれど。現実問題として二人は難敵だ。確実に勝てると言い切れないどころか、負ける可能性も低くはない。

 

 もしもそうなった場合に、勝ったのがこの部活仲間ならそれで良い。勝ち負けが明確だからだ。

 しかし後輩が勝利を収めた場合には、二人の間では勝敗が付かない。得票率に応じて順位が出るとはいえ、ともに負けたことに変わりはないからだ。

 でも、せっかく直接対決をするからには、決着をつけておきたい。

 

 だから()()は、場合によっては二位票にも意味があると考えた。

 仮に落選した場合でも、一位票と二位票のいずれもが部活仲間を上回れば、それはこの好敵手にして得がたい友人に勝ったと言っても良いのではないかと思ったのだ。

 

 だが、結果は望んだものとは違っていた。

 

 一位票は、わずか1%の差で由比ヶ浜が上。

 しかし二位票は25%の大差で雪ノ下が上回った。

 

 たとえ僅差でも、一位票で劣った時点で雪ノ下は負けを認めた。そして、自分と同様に由比ヶ浜もまた数字に拘っていたことを確認した。

 

 あの喫茶店に幼なじみを呼び出した時のことを思い出す。

 どちらが脅威なのかと訊ねたそうにしていたけれど、その答えは明確だ。

 

 私たち二人は、お互いにだけは負けたくないと考えて勝負に挑んだ。

 その勝負を、勝手に無かったことにされたら困ると念を押したのだ。

 

 とはいえ由比ヶ浜にしてみれば、二位票にも拘っていたはずだよねと言いたくなる。

 だから二人の勝負は決着つかず、意味があるのは一色が勝ったという結論だけだという形で話をまとめてしまいたかった。

 

 

 三者三様の理由で口を閉ざしたまま、部室には重い空気が立ち込める。

 

 敗者にかける言葉を思い付けない八幡と、説得の言葉を思い付けない由比ヶ浜が焦れてきても、結論を出してしまった雪ノ下は平然と佇んでいる。

 頬には微かに笑みすら浮かべて、形の良い唇がそっと動いた。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 すっかり意表を突かれてしまい何も反応できない二人を、笑みを深めて順に眺めて。

 雪ノ下は紅茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。

 

「来週からは部活停止期間なので、しばらくは試験に集中するわね。今日は喋り疲れたから、先に帰らせて貰おうと思うのだけれど」

 

 そう告げられても、カップを洗い終えて再び視線を向けられても、二人は何も言葉を出せなかった。

 

 雪ノ下が、いつも通りの雪ノ下だったから。

 口の挟みようが無いほどに、いつも通りだったから。

 

「では、また試験明けに」

 

 その言動だけが普段とはまるで違っていて。けれども口調も佇まいも、()()()()()()()()()()()()雪ノ下だった。

 

 

***

 

 

 ドアがぴしゃっと閉まる音を耳にして、ようやく二人は身動きができるようになった。

 

「ゆきのん……」

「……なあ。もしかして、俺はまた、間違えたのか?」

 

 絞り出すような声を耳にして、慌ててかぶりを振った。

 

「そうじゃないと思う。間違えたのはたぶん、あたしもだ……」

 

 慰めを言われたと受け取ったのだろう。沈黙が返って来たので、考えがまとまる前に慌てて口を開く。

 

「あのね。三人が立候補して、ここで選挙戦の内容を話し合ったじゃん。あの時にはね、もう気が付いてたんだ。ゆきのんが、本音では会長をやりたがってるって。他に適任がいないからって理由で立候補したんじゃないって、判ってたの」

 

「それは……俺も気が付いてたな。雪ノ下が本気だって事に」

「うん。でもさ、あたしは、ゆきのんと戦えるチャンスだって思って、そっちを優先しちゃったんだ。それに……あたしも会長になりたかったから」

 

 そう言い終えて視線を膝下に落とした瞬間に、八幡の言葉が耳に届いた。

 

「それなら仕方ないだろ。雪ノ下の希望を叶えるためにお前の願いを犠牲にするのは違うと思うし、お前が感情を押し殺したところで一色がその気になってたからな。それに、お前クラスで言ってただろ。選挙期間中は楽しかったって。じゃあ、どんな結果が出ても仕方がないんじゃね?」

 

「……でもさ。ゆきのんの演説を聞いてて思ったんだけどさ。あたしとゆきのんの案の、いいとこ取りって言うのかな。無理に戦わなくても、もっといい形にできたのかもなって」

 

「それは、でもあれだろ。会長を決めないことには話にならん……いや、待てよ。たしか海老名さんはお前に古代ローマの話を教えたんだよな?」

 

 ぜんぜん違う話になったので目をきょとんとさせていると、ようやく苦笑を浮かべながら簡単に説明してくれた。

 

 インなんとかアウグスなんとかさんが皇帝になる前の共和制ローマでは、執政官という最高職が二人制だったんだって。独裁を防ぐためって理由だったみたいだけど、それと同じように、あたしとゆきのんが二人で会長を務めるって手もあったかもなって。なんなら、いろはちゃんと三人制にしても良かったかもって。

 

「それだと、役員がすごいことになっちゃうね。ちょっと書き出してみよっか」

 

会長 :雪ノ下、由比ヶ浜、一色

副会長:本牧

書記 :藤沢

会計 :三浦、稲村

庶務 :八幡、海老名

 

「なんかあれだな。メンバーが強烈すぎて、逆に難題がやって来そうな感じだよな。コナンが住んでる町と同じぐらいの確率で事件が起きそうで、ちょっと怖いんだが」

「なんとなく、言いたいことは分かるけどさ。でも、うん、やっぱりこれは違うんじゃないかなって。やっぱり勝負してよかったかもって思っちゃった」

 

 そう言うとまた苦笑いを浮かべて、「そうかもな」と同意してくれた。

 せっかく選挙で勝ったのに、あんな表情でいて欲しくなかったからほっとする。

 

「ヒッキー、頑張ったよね。すっごく頑張ってた。いろはちゃんの支持率がぐんぐん上がって来て、まさかって思ったらこの結果だしさ。ゆきのんに勝つんだって、それだけに集中してたから、どうしようもなかったなぁ」

 

「まあ、そのお陰で助かったっつーか、お前が雪ノ下の支持率を減らしてくれたからワンチャンあったって感じだな。だからまあ、二位・三位連合の恩恵を受けたのが最大の勝因かね。あ、そういやお前、『最良』ってのは前から考えてたんだよな。雪ノ下の手綱を握るってのは川崎の提案だろ?」

 

「うん。沙希がアイデアを出してくれて、それをあんな形にしてみたんだけどさ。ゆきのんが『最高』って言い出すのは分かってたんだけど、でもあの言葉を使ったのは失敗だったなって。他にね、『堅実』とかも候補に挙がってたんだ。けど、ゆきのんに対抗してって気持ちが強すぎて、結局それで負けちゃったんだなって」

 

 とはいえ、それで得られたこともあるし、それで気付いたこともある。

 そう考えると、やっぱり戦ってみてよかったなと思えてきた。

 

「つーか話を戻すと、雪ノ下は大丈夫かね?」

「うーん。今はまだ混乱してるみたいだけどさ、ゆきのんなら大丈夫だってあたしは思うな。それに、試験があるからさ。やることがある時って、それに集中できるから、気持ちの立て直しも早くなると思うんだよね」

 

 いつか必ず復活することは信じて疑っていない。

 けれども、どれほどの時間が掛かるかは、悩んでいる人を多く見てきた自分でも予測がつかなかった。なぜなら、雪ノ下の悩みの根幹の部分が、由比ヶ浜には見通し切れないからだ。

 

 これ以上、落ち込んだ顔を見たくないので、明るい話ばかりを伝えたけれど。

 自分に協力できることは何でもするから早く元気になりますようにと、由比ヶ浜は心の中で祈りを捧げた。

 

 

「じゃあ、そろそろ帰ろっか。どうしよ、外から一緒に帰る?」

「あ、いや、それはあれがどれでこれだからな。あー、えーと、そうそう、一色に一言ぐらいは伝えたいから、ちょいサッカー部に寄ってから帰るわ」

 

 八幡の狼狽ぶりを楽しそうに眺めながら、由比ヶ浜はこう結論づけた。

 

「それなら、昇降口まで一緒に行けるね」

 

 策士を見るような目で呆然と由比ヶ浜を眺める八幡だった。

 

 

***

 

 

 部室を出て、脇目も振らずに最短距離を歩いた。

 個室からマンションのリビングに移動して、ようやく大きく息を吐く。

 

「このルートで下校するのは初めてね。登校したのも、職場見学の翌日に寝過ごした時だけだったと思うのだけれど」

 

 そう呟いた雪ノ下は、制服のまま着替えもしないでソファにどさっと身体を投げ出した。

 そして、もう一度あの言葉を口に出す。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 あの二人なら、最終的には会長選挙に協力してくれるのではないかと思っていた。

 たとえ別の思惑があるとうすうす勘付いても、会長になるという私の意思を、三人で仕事をしたいという気持ちを、わかってくれるだろうと。

 そんな楽観的なことを考えていたのは、ほんの一週間ほど前のこと。修学旅行から帰ってきて、生徒会室で事情を知った時のことだ。

 

 それに彼と彼女なら、私の思惑すらも、わかるものだと思っていた。

 たしか本人たちにもそう言ったことがある。

 彼に告げたのは、文実で最初に集まった時だった。

 二人に告げたのは、体育祭の運営委員長に立候補した時だった。

 

 なのに現実はままならない。

 あの二人ですらも、わからないことはわからない。

 なのに姉や()()()には、わかって欲しくないことまで見通されてしまう。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 奉仕部を特別に思う気持ちは私も同じだ。

 けれども、あの二人があれほどまでに()()奉仕部に執着するとは思っていなかった。

 奉仕部が生徒会へと発展しても、三人がいる場所こそが奉仕部だと私は思っていた。

 その想いは、きっとあの二人なら、わかるものだと思っていた。

 でも冷静になってみれば、今日の演説まで奉仕部をどうするのかを教えていなかったのに、あの二人がわかるわけもないのだけれど。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 負ける可能性もあるとは覚悟していた。

 仮に負けたとしても、それを糧にしてやろうとすら思っていた。

 姉や()()()に何度も煮え湯を飲まされてきたのだから、負けた時の気持ちぐらい、わかるものだと思っていた。

 

 こんな無力感を抱いたり、悔しいという気持ちが湧き上がってすら来ないとは、思いもしなかった。

 

「わかっていたのは、こんなことぐらいね……」

 

 それでも自分は、いつも通りに振る舞える。

 他人の前では平然と、普段と同じように装って、過ごせてしまえる。

 たとえその他人の中に、あの二人が、含まれていても。

 

「わかるものだとばかり、思っていたのね……」

 

 最悪の可能性も考えてはいた。

 二人ともに負ける可能性だ。

 彼女と後輩に。あるいは、彼女と彼に。

 

 そうなった時には、却って清々しい気持ちになるのではないかと考えていた。

 そんなふうに、わかるものだと思っていた。

 

 でも考えてみれば、私は既に知っていた。

 文化祭の前に高校を休んだ時に。

 

 彼と彼女が揃って勧めてくれたことに、間違いは、無い。

 つまり、二人に反対された時点で、私が立候補しても無駄だったのだ。

 そんなことすら、私はわかっていなかった。

 そして、今も。

 

「……わからない。私はこれから、どうすればいいの?」

 

 その言葉に応える者はなく、雪ノ下はひとり途方に暮れるしかなかった。

 

 

***

 

 

 昇降口を出たところで八幡と別れた。

 校門まで辿り着いたところで立ち止まって、由比ヶ浜はゆっくりと後ろを振り返る。

 

「いろはちゃん、すごかったな……」

 

 あの二人を追い掛けるのに必死だったから、気が付かなかった。

 他のみんなとの距離が、少しずつ開いていたことに。

 

「あの二人と他のみんなを、あたしが繋げてあげるんだって思ってたのになぁ……」

 

 とはいえ、他のことには目もくれないで懸命に追い掛けないと、あの二人はどんどん先に進んでしまう。

 

「わかるものだと思ってたって言われてもさ。ゆきのんの考えとか性格って、かなりわかりにくいってわかってないよね。これでも必死でわかろうと頑張ってるんだよ?」

 

 だから、三人だけだったら、遠からず限界が訪れていたのだろう。

 でも、四人なら?

 

 前へ前へと走り続ける二人に向けて必死に手を伸ばしても、もう片方を後ろに伸ばせば、きっとあの後輩ならその手を掴んでくれる。他のみんなと手が繋がった状態で。

 

「いろはちゃんが二人を追い掛けたいって思った時には、あたしが後ろに下がればいいんだしさ」

 

 いつかの集会で自分が口にした言葉が脳裏に蘇る。

 あの二人とは無理だけど、自分と似た部分のある一色となら仕事で折り合える。状況に応じて役割を入れ替えたり、分担したりもできるのだ。

 

「負けちゃったけど、せっかく気が付けたんだから……うん、頑張ろう!」

 

 夕闇に浮かぶ校舎を見上げながらぼそっと呟いた由比ヶ浜は、前を向いて歩き始めた。

 

 

***

 

 

 グラウンドの中央で練習をしていたサッカー部の連中に近付いて行く途中で、一色の姿が見当たらないことに気が付いた。

 しかしくるっと回れ右をするには遅すぎたみたいで、穏やかな笑みを浮かべた葉山隼人が小走りで向かってくる。

 

「ま、時間つぶしに付き合って貰うかね」

 

 由比ヶ浜と並んで下校するのは気恥ずかしいので、自転車で追いついてしまわないように時間を調整する必要がある。

 校門の辺りで立ち止まっているのが目についたので内心で頭を抱えながら、しばらく雑談でもしてやるかと腹を括った。

 

「やあ。いろはは同級生と打ち上げに行くって言ってたけど、聞いてないのか?」

「俺の役目は選挙が終わるまでだからな。連絡とか来るわけねーだろ?」

「いろはは君を誘いたがっていたよ。少なくとも俺にはそう見えたけどな」

「お前の勝手な思い込みだろ?」

 

 そうは言ったものの、昨夜はわざわざ前倒しでお礼を言いに来てくれた一色だ。

 だから連絡が無かったのは、別の理由なのだろうなと八幡は思った。

 

「変に聞こえるかもしれないけどさ。いろはに友達ができたと聞いて、なんだか微笑ましい気持ちになったよ」

「娘を見る父親みたいな感じになってねーか?」

「どうだろな。娘ができたら父親は溺愛するみたいだけど、そこまでじゃないな」

「そういや小町の溺愛ぶりには、あれが実の父親とは思いたくないレベルだったな」

 

 八幡が遠い目をしていると、葉山が苦笑まじりに話を続けた。

 

「雪ノ下のおじさんも、あの二人を目に入れても痛くないほど可愛がっててさ。でも、親離れの時期だと思ったら決断は早かったな」

「ほーん。それって、雪ノ下が留学した時か?」

「ああ。おばさんの反対を押し切って、おじさんが全てを手配したと言っていたよ。ついでに言うと、多い時には週に一度は会いに行ってたみたいだね」

「海外にか……まるで子離れできてねーな。てか、うちの父親と同レベルが、まさか実在したとはな」

 

 そう呟いておののいている八幡をよそに、葉山は表情を引き締めて再び口を開いた。

 

「雪ノ下さんを心配して来たんじゃないのか?」

「ああ、いや。雪ノ下なら大丈夫だと思ってたんだが、心配事でもあるのか?」

 

 由比ヶ浜が大丈夫だと保証してくれたので、すっかり安心していたのだけれど。

 自分たちの知らない情報があるかもなと考えて、逆質問をしてみたところ。

 

「いや。生徒会長になれなかったのは残念だけど、雪ノ下さんなら影響は無いんじゃないかな。ただ……君は、志望校の話とかは?」

「雪ノ下が平塚先生と話してる場に居合わせた時があってな。陽乃さんの志望校とか、それなりの話は聞いてるな」

「そうか……じゃあ、留学の可能性とかも?」

「ああ。国内だと英語が物足りないとか、そんな話だったよな?」

 

 家の繋がりがあるとはいえ、葉山がそんなことまで知っているのは少し腹立たしいなと思いつつ。同時に、どうしてこんな話を持ち出して来たのかと考えていると。

 

「雪ノ下さんなら、英語は問題ないだろうし学力も大丈夫だろうね。問題は、課外活動だけどさ」

「ちょっと待て。それってあれか、推薦入試みたいな感じか?」

「ああ、なるほど。ここまでは知らなかったのか。君が連想した通り、推薦入試を大規模にしたようなイメージで捉えると良いかもな。でも、生徒会長になれなくてもさ……」

「雪ノ下なら大丈夫だろ」

「……ああ。俺もそう思うよ」

 

 部室での由比ヶ浜の言葉を頭の中で繰り返しながら、八幡は何ら根拠のない言葉を力強く言い切った。

 虚を突かれた葉山が、それでも同調してくれたのでほっと胸をなで下ろす。

 

 動揺を外に出さないように気を付けながら、周囲を平然と見回してから口を開いた。

 

「そういや、戸部の姿が見えないな」

「選挙に協力してくれたお礼だって姫菜に誘われて、たしか池袋に遊びに行くって言ってたかな」

「……なあ。ここだけの話だけどな。池袋って、腐女子のメッカと呼ばれてるらしいぞ。戸部が帰ってきたら精神的にフォローしてやれよ」

「……それは知りたくなかったな」

 

 知りたくもない情報を入手した二人は、げんなりとした顔を見せつけ合って揃って溜息を吐いた。

 

「お互いに苦労するな」

「俺のほうは自業自得だからな。まあ、部長様の足を引っ張らないように気を付けるわ」

 

 何とかそこまで言い終えて、八幡はくるっと背中を向けた。

 

「じゃあ……」

「選挙に勝ったのは君といろはだ。だから、胸を張って過ごしたら良いさ。じゃあな」

 

 別れの言葉を遮って、こんなふうに元気付けてくれやがるとは、お節介なことこの上ない。

 ちっと舌打ちをして、右手を挙げて何度かひらひらと動かしてから八幡は歩き始めた。

 

 

***

 

 

 自転車置き場に到着してみると、残っていた数台がドミノ倒しになっていた。うんざりすることに、一番下になっているのが八幡の愛車だ。

 条件反射的に指が動いて、声が外に聞こえない設定にした。

 

「くそっ!」

「なんでだよっ!」

「なんで、俺がやる事ってこんなに裏目に出るんだよっ!」

「自分がして欲しいことと他人がして欲しいことは違うって、折本や仲町も言ってたじゃねーか!」

「気付けよっ。せめて昨日の夜にでも、気付いてくれよ!」

 

 声を張り上げるとともに自転車を一台一台引っ張り上げては壁にもたれさせて、ようやく発掘作業が終わった。ぱんぱんと手で叩いて服についた土埃を払ってから、背筋を伸ばす。

 

「雪ノ下が、教えてくれてたら……絶対に反対なんてしなかったのに。それとも、あれか。俺ならわかると、期待してくれてたのか?」

 

 雪ノ下の呟きを思い出すと、苛立ちがよけいに酷くなった。

 無性に身体を動かしたくて、でも今の心理状態で自転車に跨がるのは避けたほうが良い気がしたので、両手でハンドルを持ってゆっくりと歩くことにした。

 こんなことを思い付ける自分が心底から腹立たしい。

 

 高校で生徒会長を務めていたという話は、きっと課外活動としては上等な部類だろう。

 なのに雪ノ下は、それを書けなくなってしまった。

 海外の大学にアピールできる実績を一つ、失ってしまった。

 俺が立候補を継続させた一色が、勝ってしまったから。

 

 せっかくの期待を裏切ったのかもしれないと思うと、八幡の心は傷ついた。

 でも考えてみれば、この一件で傷ついているのは誰よりも雪ノ下だろう。

 

 傷つけ合う前に打ち明けられていたら、こんなふうにはならなかったのに。

 雪ノ下が打ち明けてくれていたら。

 もしくは、自分には何もわかっていないと、打ち明けることができていれば。

 

「救いとしては、たぶん影響は無いってことかね。葉山はきっと、ありきたりの生徒会長よりも奉仕部の部長のほうがアピールできると考えてたっぽいしな」

 

 そんな慰めを口にしたところで、やってしまったという思いは消えてはくれない。

 

 少しはあの場所に慣れたと思っていた。

 あの部室で半年以上を一緒に過ごして、あいつらのことならだいたい分かると思っていた。

 

 それに、気が付けば余計なものまで手に入れていた。

 同級生や同学年や先輩に後輩と、親しく思える相手が日を追うごとに増えて来た。

 

 なのに肝心要のところで、イメージの違いに気付けなかった。

 雪ノ下と由比ヶ浜が思い描いていた生徒会の姿を、俺は全く想像していなかった。

 あいつらとは全く違う生徒会を、思い描いていた。

 

 もしも、そのせいで。

 俺が描いたその影で、雪ノ下の未来が霞んでしまったのだとしたら?

 

「ちっ。なんで、こんな時に限って、古い歌ばっか連想するんだよ。こんなのは俺の趣味ってよりは、平塚先生の……っ!」

 

 あれは文化祭の打ち上げの時だった。

 あの人に「静ちゃんが好きなミュージシャンって、比企谷くん知ってる?」と問い掛けられて。その時に名前を挙げた中に、SUPERCARもGRAPEVINEもアジカンもいた。それと、そう、pillowsも。

 

 彼らの曲の話をしたのは、まだ夏休みの頃だった。ラーメン屋の行列に並びながら、せっかく「孤独と自由はいつも抱き合わせ」だと伝えてくれたのに。あの先生は続けて、こんなことまで教えてくれたのに。

 

『誰しも限界はあるし、それを許せる時が来るものだよ。今の君なら無力感に苛まれるのだろうが……比企谷、その先だよ。行列の秩序が保たれなくても、望みが叶わなくても、人にはそれぞれの性格に応じてその先が用意されているものだ。嘘くさい一般論だと、今の君は考えるかもしれないがね』

 

 やらかして、取り返しがつかなくなった今になって、ようやく恩師の言葉を思い出した。

 まるで今の状況を見越していたかのように、ぴったりと腑に落ちてしまう。

 

 それにこうまで言われてしまえば、少しぐらいは男らしさとか広い心を発揮したいものだと考えてしまうのが不思議だ。

 限界だと判定を受けた直後だというのに、うじうじとしていたくないとか、ねちねちと誰かのせいにしたくないと思ってしまう。

 

「この先があるのなら……いつまでも嘆いてるだけじゃダメだよな」

 

 独り言を言い終えて、ふと立ち止まると。八幡は夕陽に照らされた校舎を見上げた。

 

「いずれにしても、俺の行動に変わりはないな。二人が部に残ってくれて、三人で奉仕部ができるんだからな」

 

 そう口にして、八幡は前を向いて歩き始めた。

 

 

 

原作八巻、了。

 

原作九巻に続く。




その1.更新について。
 本章は予告したスケジュールで更新するのが難しく、何度も延び延びになってしまって申し訳ありませんでした。

 特に本話は、章の最後ぐらいはと考えていたのに結局果たせず。
 個人の時間が確保できなくなってきた事に加えて、実は1巻を書いていた頃から「早く書きたい」「書けたらいいなぁ」と考えていた章だったからか、急に書き終えるのが寂しくなって遅くなりました。

 こんな事を言っていたら、最終章とかどうなるんだって話ですよね。なので気持ちを切り替えて、今後もこつこつと話を進めていこうと思っています。

 時系列を考えると幕間を挟みたいところなのですが、あまり明るい話になりそうにないので省略して、次回はまとめ回になります。
 そのまま続けて9巻に入る予定ですので、今後とも本作を宜しくお願い致します。


その2.参考作品。
 本話で八幡が連想した楽曲は以下の通りです。著作権を考慮して歌詞を微妙に変更してはいるのですが、元ネタに敬意を表するためにも作品名を明記しておきます。

・SUPERCAR「Lucky」(1997年)
・GRAPEVINE「光について」(1999年)
・ASIAN KUNG-FU GENERATION「ループ&ループ」(2004年)
・the pillows「ストレンジカメレオン」(1996年)

 年代が近い三曲は、平塚先生が中学生ぐらいの時期に聴いていてもおかしくない作品を。アジカンは平塚と八幡の二人ともが知ってそうという理由で選びました(ちなみに原作では「リライト」がネタにされています)。

 また、選挙戦を書くに当たって、古代・中世のヨーロッパと戦後の我が国の歴史を参考にしました。こちらは参考書籍を全て挙げても意味が無いので、ざっと紹介するに留めます。

・クリス・スカー「ローマ皇帝歴代誌」(創元社)
・本村凌二「地中海世界とローマ帝国」(講談社学術文庫)
・堀米庸三「正統と異端」(中公文庫)
・北岡伸一「自民党 政権党の38年」(中公文庫)
・原彬久「岸信介 権勢の政治家」(岩波新書)
・増田弘「石橋湛山 リベラリストの真髄」(中公新書)

 これらの他に、正確さには欠けるものの読み物としては面白いモンタネッリ「ローマの歴史」(中公文庫)や塩野七生「ローマ人の物語」(新潮文庫)、角栄の優遇はあるものの昭和の戦後史を漫画で読める戸川猪佐武原作・さいとうたかを作画「歴史劇画 大宰相」(講談社+α文庫)などが、最初に読むのに適していると思います。興味を惹かれた方は是非。


その3.謝辞。
 ずっと読み続けて下さっている方々も、最近になって読み始めて下さった方々も、こんなにも長い作品に目を通して下さって本当にありがとうございます。

 こうして章の区切りのたびにお礼をお伝えすることと、作品を書き続けて完結させることぐらいしか、私にできる事は無いと思うので。最終話に向けて、これからも頑張ります。


その4.本章について。(*長くなったので最後に回しました。)
 三人を普通に戦わせてみたかったという、一言でまとめるとそんな章でした。

 一番悩んだのは結末で、5巻の時点で本命は決めていたものの、誰が当選しても物語の終わりまで書き続けられるようにと配慮しながら話を進めました。以下でもう少しだけ、この件について書かせて下さい。

 1巻を書いていた頃の本命は由比ヶ浜でした。ろくろ回しv.s.おかん腐女子ブラコンという展開には心を惹かれたものの、それでも2巻以降を実際に書くとなった時には、私の中の本命は雪ノ下になっていました。

 その理由を端的に言うならば、原作が「八幡と雪ノ下の物語」だからです。
 これは恋愛レースの勝者が雪ノ下という意味ではなく、けれどもどんな結末に至るとしても(誰と結ばれても、あるいは恋愛要素をぶった切る結論でも)、八幡と雪ノ下の間に何らかの決着を必要としていることを意味しています。

 そして雪ノ下が抱える問題が学校外(家族)にある以上は、外との繋がりが持てる生徒会という組織に奉仕部ごと鞍替えするという展開が一番スマートだと考えました。
 原作の10巻以降に対して、「陽乃か一色が問題を持ってくる」という形式化されたパターンへの不満が時おり聞かれるのは、ここに原因があると思えたからです。

 けれども、この展開には一つ大きな問題があります。
 これも端的に言うと、「八幡の存在意義が消滅する」ことです。

 詳しい説明を始めると長くなるので結論の羅列になりますが、原作の7-9巻では雪ノ下の脱主人公化が進行しました。その象徴が8巻のラストで、つまり一色の会長就任が決定的な要因になっています。
 それと同様に、雪ノ下が会長に就任して奉仕部が生徒会に取り込まれることは、八幡が主人公としての役割を(ひとまず)終えることを意味します。

 実を言うと、これは原作12-13巻において進行中のことでもあります。そのため、語り手であるにもかかわらず八幡の内面が非常に解りにくい書き方になっていて、これも不評の原因になっている気がします(読み解いていくと面白いんですけどね)。

 つまり、10巻以降が巻を追うごとに苦しい書き方になっていくのは(そして10.5巻の存在が輝くのは)、突き詰めると8巻のこの結末に原因があります。

 じゃあやっぱり一色ではなく雪ノ下を本命にと考えると、それだと上記の通り12巻以降の問題と即座に向き合う羽目になるんですよね。

 以上のような経緯から由比ヶ浜案も再浮上を果たして。でも、どのパターンを選んでも困った事になるので、4巻を書き終える頃までは散々悩んでいたものの。

 結局のところ、この作品の主人公を一人選べと言われると八幡なので、一色を本命にして話を進めることにしました。

 とはいえ、作者の本命が誰であっても、作中の描写に説得力がないことには話にならないわけで。そして作者自身の印象がどうであれ、それを読者さんがどのように受け取ったのかは判らないわけで。

 なので、それを確認するためのアンケートに前話で答えて下さった方々に、最後に厚く御礼を申し上げて、本章の結びとさせて頂きます。

 ありがとうございました!


追記。
誤記を訂正して(サドル→ハンドル)細かな表現を修正しました。(9/21)


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原作との相違点および時系列(原作7巻〜8巻)

今回、あらすじをまとめるのは断念しました。
一話ごとのあらすじは毎回の前書きに載せていますので、そちらを参照して下さい。



■原作との相違点(各キャラについて登場順に)

 完全にオリ展開の部分は省略しました。

 

・比企谷八幡

 文化祭の「愛してる」発言を覚えているので川崎と少しぎこちない。(7巻03話)

 旅行中に撮った写真を、自分が写っていないものも含め大量に保持している。(7巻06話)

 平塚に連れられて京大を見学。(7巻10話)

 嵐山にて一色へのお土産に狸のマグカップを購入。(7巻11話)

 自由でぼっちだった頃の自分に固執する傾向が強い。(8巻08話)

 文実組からの評価は意外と高い。渉外部門の絆は更に強い。(8巻10話)

 

・比企谷小町

 八幡がパソコンの隠しフォルダに設定したパスを母から聞いて知っている。黒髪スレンダー・巨乳・年下小悪魔が登場する動画に兄が最近ご執心なのも把握済み。(7巻07話)

 旅行帰りの八幡が妙に達観して見えたので少しだけ反発気味。(8巻04話)

 

・平塚静

 手持ちの漫画やラノベを陽乃名義で図書室に寄贈したつもりが。(7巻10話)

 

・雪ノ下雪乃

 戸部に課題図書を薦める傍ら、自身も八幡と海老名お薦めの漫画を読むことに。(7巻02話)

 この世界で猫の名を冠した地域は全て私が手掛けているのだけれど。(7巻06話)

 一色の立候補を知って以来、旅行先で少し元気がない。(7巻08話)

 夜の京都市内で「けいおん!」「3月のライオン」「ワンダーフォーゲル」などの聖地巡礼を体験。(7巻10話)

 平塚に連れられて京大を見学。(7巻10話)

 八幡と並んでホテルに帰って来たのを同級生に目撃される。(7巻10話)

 北野天満宮で四人分の絵馬を奉納。(7巻11話)

 八幡と由比ヶ浜が付き合い始めていると思い込んでいる。(8巻02話,13話)

 平塚の依頼を受けて数学の復習プリントを作成し八幡に手渡す。(7巻10話,8巻09話)

 

・由比ヶ浜結衣

 雪ノ下と一緒に漫画を読む。(7巻04話)

 随求堂にて「二月の中頃に、いいことがありますように」と願う。(7巻06話)

 今年の入学式を手伝いに行って、一色が生徒会の臨時メンバーや同級生女子と揉めていたのを丸く収めた。(7巻07話,8巻01話)

 やる気のなさそうな犬のマグカップを嵐山で購入。(7巻11話)

 八幡に告白済み。(7巻12話)

 

・三浦優美子

 春先にサッカー部の士気を高めたことで運動部員から一目置かれていて、葉山との仲を応援されている。(7巻06話)

 由比ヶ浜から色んな話を聞いているので、原作よりも八幡のことを詳しく知っている。(7巻09話)

 一色とはライバル関係であると同時に戦友のようにも思っている。(7巻09話,8巻05話)

 自分の気持ちよりも友人の状況を思い遣れる優しい側面がある。(7巻12話)

 

・海老名姫菜

 誰とも付き合う気はない宣言は不発。(7巻13話)

 川崎や雪ノ下とも仲を深めている。(7巻16話)

 

・葉山隼人

 三浦と一緒にいる時には他の生徒があまり近づいて来ない。(7巻06話,16話)

 人間関係は現状維持で、男女関係なら薄れても良いと考えている。(7巻12話)

 お互いに貸し借りを積み重ねているので原作よりも八幡に詳しく、意図を察することもできている。(8巻08話)

 

・城廻めぐり

 選管を主催して選挙戦の運営を滞りなく務めた。(8巻11話)

 前会長や陽乃に倣って、会長引退後は残りの高校生活を同級生のために費やす予定。その合間を縫って生徒会室に遊びに行くのは、誰が会長になっても確定している未来となった。(8巻11話)

 

・材木座義輝

 戸塚から話を聞いて、八幡を励ます為に二条河原に呼び出す。(7巻14話)

 選挙戦では海老名の誘いに応じて由比ヶ浜陣営に名を連ねたものの、相模の説得を容れて一色陣営に鞍替えした。(8巻06話,10話)

 

・戸塚彩加

 竹林の近くのカフェで三浦・葉山と待機。由比ヶ浜の告白を知る数少ないうちの一人。(7巻13話)

 選挙戦では雪ノ下陣営に参加。(8巻06話)

 

・城山

 選挙戦では雪ノ下陣営に参加。(8巻11話)

 

・一色いろは

 修学旅行中は比企谷家で小町と過ごしている。(7巻04話)

 クラスで対立している女子生徒たちとは入学式で騒ぎを起こして以来の腐れ縁。(8巻01話)

 雪ノ下とも由比ヶ浜とももっと仲良くなりたいと思っている。たとえ惨敗に終わっても二人に挑みたいと思ってしまった。(8巻03話)

 狸のマグカップを入手。(8巻03話)

 友達ができました。(8巻05話)

 生徒会長になったせいで少しだけ自由を失うとしても、自分にやる気を与えてくれる奉仕部三人の負担が減るのなら良いかと考える。(8巻10話)

 

・川崎沙希

 いつの間にか小町を呼び捨てにする仲に。(7巻03話)

 京都の帆布屋さんがお気に入り。(7巻13話)

 八幡に告白済み。(7巻13話)

 選挙戦では由比ヶ浜陣営に参加。(8巻06話)

 ブラコンが全校生徒にバレかけてます。(8巻14話)

 

・大和と大岡

 三人娘との仲はぎこちないまま。(7巻01話)

 八幡と戸塚を戸部と一緒にする為に男テニの二人と同じ班に。(7巻03話)

 戸部の顛末は知っているが由比ヶ浜の告白は知らない。(7巻13話)

 選挙戦では大和が一色陣営に、大岡が雪ノ下陣営に参加。(8巻06話)

 軽い気持ちで四人の悪評を流して後悔した経験から、大和は情報の扱いに興味を持っている。(8巻07話)

 八幡と一色のおかげで大和は中学時代のトラウマを払拭。(8巻07話)

 

・戸部翔

 海老名に振られると予感しながらも、覚悟を決めて行動に出ようとする。(7巻09話)

 海老名のことをもっと知りたいと伝達済み。(7巻13話)

 選挙戦では由比ヶ浜陣営に参加。(8巻06話)

 

・雪ノ下陽乃

 高校卒業時に大量の書籍を寄贈。平塚がこっそり同梱した私物は綺麗にリスト分けして当人の名義で申告しました。(7巻10話)

 折本と仲町を煽って選挙前日の集会に差し向けた。(8巻12話)

 期末の国語の対策ノート(過去問と平塚の性格分析つき)を葉山に進呈。(8巻12話)

 

・秦野と相模

 選挙戦では他の文化部とともに雪ノ下の招きに応じたものの、相模姉の説得を受けて一色陣営に鞍替えした。(8巻10話)

 相模と相模は赤の他人だったはずが、いつの間にか姉弟認定されていた。主に八幡が相模弟と連呼したせい。(8巻12話)

 

・相模南

 八幡の力になる為に取り巻きを連れて一色陣営に参加。(8巻05話)

 取り巻きへの対応や体育祭での活躍などで周囲からの評価が徐々に上がっているにもかかわらず、日を追うごとにチョロくなっています。(8巻06話,10話)

 当初は他陣営にいた材木座・秦野・相模を説得。(8巻07話)

 生徒会入りを要請されたものの固辞。(8巻10話)

 

・藤沢沙和子

 次期生徒会では書記に内定しているので、選挙戦では中立を貫いている。(8巻11話)

 

・本牧牧人

 次期生徒会では副会長に内定している。選管の一員として城廻を助けつつ中立を貫く。(8巻11話)

 

・稲村純

 過去話あり。(7巻07話)

 一色への想いは封印して生徒会入りを決意。(8巻10話)

 本牧↑の趣味↑↑は把握しています。(8巻15話)

 

・折本かおり

 中学時代の八幡に対する雑な扱いは、根拠のない忠告を真に受けたのが原因。(8巻07話)

 八幡との考え方の違いを理解して、それをもっと知りたいと思い始めた。(8巻13話)

 

・仲町千佳

 マイペースではあるけれど普通という言葉がよく似合う。八幡を見下すような発言はしない。(8巻08話)

 明確な告白をする前に葉山に断られる。(8巻12話)

 

・玉縄

 苦労しています。(8巻07話,08話)

 折本たちがダブルデートをしていた付近でOGと打ち合わせ。その彼女に体よく追い払われる。(8巻08話)

 

 

*設定その他

 修学旅行三日目のホテル移動は無し。(7巻12話)

 

 

■時系列

 曜日は、由比ヶ浜の誕生日=月曜日という3巻の設定に合わせています。

 

11/2(金)

 次期生徒会役員の立候補受付終了(10/26〜)・延期(~11/9)。(7巻02話)

 

11/3(土)

 八幡と戸塚が葉山グループに呼び出され戸部の決意を知る。(7巻01話)

 

11/5(月)

 戸部が奉仕部を訪れる。(7巻01話)

 なぜかラノベや漫画が豊富にある図書室で各自が課題図書を借りる。(7巻03話)

 

11/6(火)

 修学旅行の班決め。(7巻03話)

 部室にて川崎に事情を説明。(7巻03話)

 雪ノ下と由比ヶ浜が「スラムダンク」を堪能。(7巻04話)

 

11/9(金)

 海老名が部室を訪問。(7巻04話)

 立候補受付終了間際に一色が会長に推薦される。(7巻04話)

 

11/12(月)

 修学旅行(〜11/15)。

 父母と妹に見送られ八幡が家を出る。(7巻04話)

 八幡が東京駅でNPCの駅長と再会。(7巻05話)

 新幹線の中で奉仕部三人と戸塚が打ち合わせ。(7巻06話)

 選管から立候補者の詳細が届く。(7巻06話)

 清水寺の境内で八幡と葉山が密談。(7巻06話)

 ホテルのカフェで八幡が本牧・稲村と歓談。(7巻07話)

 八幡が小町・一色とのやり取りを堪能。(7巻07話)

 

11/13(火)

 八幡が戸部とホテルの自販機の前で歓談。(7巻09話)

 八幡が川崎とホテルのカフェでデートの打ち合わせ。(7巻09話)

 八幡が三浦と夜のたこ焼きデート。(7巻09話)

 八幡が平塚同伴のもとで雪ノ下と夜のデート。(7巻10話)

 

11/14(水)

 八幡が朝は由比ヶ浜と、朝食後は雪ノ下を加えた三人でデート。(7巻11話)

 雪ノ下と由比ヶ浜が戸部に最後の説得を試みる。八幡は葉山と密談。(7巻12話)

 八幡の偽告白が未然に終わる。(7巻12話)

 由比ヶ浜の告白。(7巻12話)

 八幡と雪ノ下が葉山と戸塚に、由比ヶ浜と海老名が三浦と川崎に、一連の出来事を報告。(7巻13話)

 八幡が川崎と夜のデート。川崎の告白。(7巻13話)

 八幡と材木座が二条河原で決闘。(7巻14話)

 雪ノ下が昨夜と本日のデートコースを再度歴訪。(7巻14話)

 

11/15(木)

 八幡が海老名と京都駅デート。(7巻15話)

 雪ノ下が京都駅で迷子になる。(7巻15話)

 八幡が由比ヶ浜と東京駅でデート。(7巻16話)

 雪ノ下が東京駅の駅長室で海老名と川崎と歓談。(7巻16話)

 雪ノ下が一色立候補の真相を知り、推薦人から事情を聴取する。(8巻01話)

 八幡と由比ヶ浜がお悩み相談メールを使って情報収集。(8巻02話)

 雪ノ下が一色の担任から事情聴取。(8巻02話)

 部室にて雪ノ下と由比ヶ浜がそれぞれ立候補を表明。(8巻02話)

 葉山と戸部が一色から事情を聞く。(8巻03話)

 八幡が一色と家デート。立候補の継続を決意させる。(8巻03話)

 八幡が妹とじゃれ合いながら、三人娘で選挙対策中の三浦とこっそりメッセージを送り合う。(8巻04話)

 雪ノ下が葉山に選挙協力を要請。(8巻04話)

 

11/16(金)

 一同が昼休みに部室にて選挙の詳細を話し合う。(8巻05話)

 八幡が海老名から提案された二位・三位連合を受諾。(8巻05話)

 各陣営が放課後に決起集会を開く。相模が一色陣営に合流。(8巻05話)

 八幡が戸塚・川崎と健闘を誓い合う。大和が一色陣営に加入。(8巻06話)

 合同イベントの初顔合わせで八幡が折本と再会。(8巻07話)

 八幡が知名度アップと無党派層をターゲットにする方針を掲げる。(8巻07話)

 

11/17(土)

 八幡と葉山が折本・仲町とダブルデート。(8巻08話)

 

11/18(日)

 八幡が雪ノ下と喫茶店デート。(8巻09話)

 

11/19(月)

 八幡が一色と空き教室で早朝デート。(8巻10話)

 材木座・秦野・相模が一色陣営に参入。(8巻10話)

 一色推薦の首謀者たちからも協力を取り付ける。(8巻10話)

 八幡が稲村から役員入りの了承を得る。(8巻10話)

 

11/20(火)

 一色陣営が集会を開く。(8巻11話)

 八幡が城廻と密談デート。(8巻11話)

 

11/21(水)

 雪ノ下陣営の集会に折本・仲町が参加。(8巻12話)

 八幡と葉山が陽乃と密談。(8巻12話)

 八幡が折本・仲町と夜の長電話。(8巻13話)

 八幡が雪ノ下・由比ヶ浜と三人で夜の部室デート。(8巻13話)

 八幡が一色と夜のお家デート→お泊まり。(8巻13話)

 

11/22(木)

 立会演説会・投票。(8巻14話)

 開票。(8巻15話)

 八幡が稲村に後を託す。(8巻15話)

 

11/26(月)

 部活停止期間(〜12/7)。(8巻05話)

 

 

 

■この世界特有の設定

 よく使うものを簡単にまとめます。

 既に96話・127話で説明したものは省略しました。

 

・貸し切りモード(7巻05話)

 観光地などの一定領域をインスタンス化して、許可した者以外は立ち入れない空間を生成する能力。

 東京駅か京都駅で、駅員全員から情報を入手することで習得できる。

 

・扉の案内人(7巻15話)

 ゲームの世界に通じる扉の手前で、プレイヤーの心理状態などを確認する役割を負った妖精のこと。

 案内人の名前や性格は、その場に現れたプレイヤーのそれらに由来する。

 




本話と合わせて、原作1巻~幕間をまとめた25話、原作2~3巻をまとめた73話、原作4~5巻をまとめた96話、原作6〜6.5巻をまとめた127話も、ご参照下さい。


追記。
タイトルの数字を半角に、鉤括弧が二重「))」になっていたのを訂正して、細かな表現を修正しました。(11/3)


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原作9巻
01.ひきつった表情で彼は自身の言動を振り返る。


祝・原作完結!
それと原作9巻は私が一番好きな巻なので、ここまで書き続けられたことに感慨深い思いがします。
本章もよろしくお願いします。



 早く終わって欲しいと思っていた頃は、時計の針がなかなか進まなかったのに。

 いつまでも終わって欲しくないと思う今は、時が経つのもあっという間だった。

 

 物心がついて以来、テストもクリスマスもさっさと終われと思い続けて来たというのに。

 十七歳の冬に迎えた二学期の期末試験は、できることなら終わらないでいて欲しかった。

 

 なぜなら、彼に勝てると、彼女と争えると思えるだけの勉強時間が欲しかったから。

 なぜなら、試験が終わればまた部活が始まるから。

 

 仮初めの目標が行き場を失って、あの二人とどんな顔で向き合えば良いのかは分からないままに、比企谷八幡は最後の試験を受け終えた。

 

 

***

 

 

 回収した答案用紙を確認して、試験監督を務めた担任が解散を告げると同時に、教室内はたちまち喧噪に満ちた。開放感に突き動かされた生徒たちが二年F組のそこかしこで雑談の花を咲かせている。

 

「んじゃま、行きますかね」

 

 そんな中にあって独り小声でつぶやいた八幡は静かに席を立った。目立たぬようにゆっくり歩いて、後ろを振り返ることなく廊下に出る。

 

「どっかで昼飯を済ませて……まあ、適当に間を置いてから部活に行くか。今までどおりなら、あいつらは部室で一緒に食べるだろうし」

 

 いつもなら購買に殺到する生徒が少なからずいるはずなのに、今日は人影が(まば)らだ。校外に向かって飛び出して行く生徒もごく僅か。つまり大半の生徒はまだ教室に残ってテスト明けの余韻に浸っているのだろう。

 

 少し急ぎ足になってクラスから充分に距離を置いた八幡は、廊下の窓際で立ち止まると背後を窺った。自分の他には同級生が誰も出て来ていないと確認してから、再び歩を進める。

 

「師走に入って、さすがに外で食べる奴は少ないだろうし、俺的には助かるな」

 

 自意識過剰かもしれないけれど、ベストプレイスや空き教室は誰が来ないとも限らないので気が進まない。部室とかクラスで昼食を摂るのは論外だし、そうなると行き場所は限られる。

 

「屋上も捨て難いが……あっちにするか」

 

 購買で調達した食べ物を手に、八幡は階段を上がって大きく遠回りをして特別棟を目指した。そしてその途中にある空中廊下で立ち止まる。

 

 

 吹き抜けの通路にはひっきりなしに風がびゅうびゅうと通り過ぎているので、長居には向かない環境だ。でもだからこそ、人目を避けるには適している。

 

「雪ノ下とは選挙が終わってから喋ってないし、『試験に専念する』って伝えてからは由比ヶ浜ともやり取りが減ったからなあ……。俺が勝手に身構えてるだけで、会えば今までどおり……だと良いんだが。それだと今度は俺が納得できないって、我ながら面倒な性格だわな」

 

 こちらの見落としや思い違いが原因で部長様の足を引っ張ったり。

 あれほど明確な形で想いを伝えてくれたのに。それにメッセージの頻度が落ちたのは俺の意思を尊重してくれた結果だと解っているのに。なのにたったの二週間であいつの気持ちを疑ってしまったり。

 

 そんな自分が嫌だからこそ、汚名返上のチャンスを待ち望んでいる。

 それはきっと、あのあざとい後輩が、依頼という形で持ち込んでくれることだろう。

 

「つーか、折本からのメッセージが洒落になってなかったよな。凝った料理を作ったとか、部屋の大掃除や模様替えを始めたとか。あいつ試験期間に何やってんだって、まあ仲町がその都度ツッコミを入れてくれてたけど、それで聞く耳を持つようなら折本じゃねーしなあ……」

 

 とはいえ、そちらはそちらで面倒な要素が幾つもあるので気が抜けない。

 そもそも会長選挙で落選した二人を生徒会主催の合同イベントに協力させても良いのかすらも判然としない。

 

 それでも事態が既に動いてしまった以上は協力する以外の選択肢は八幡に無いし、手に余るようなら二人の部活仲間に助力を乞うしか手立てがない。

 

 それに。

 あの二人と一緒に依頼に挑みたいという気持ちに、偽りはないのだから。

 

「結局はいつもと同じで、出たとこ任せだわな」

 

 その言葉とともに、食べ終えたパンの袋をくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。

 続けてガラス扉を開いて特別棟に足を踏み入れると、八幡は階段をゆっくりと下りて行った。

 

 

***

 

 

 部室の扉をそろそろと開くと、暖かい空気が鼻先をくすぐった。慌てて教室の中に飛び込んだ八幡は、暖気がこれ以上は外に漏れないように素早く後ろ手でドアを閉める。

 

「こんにちは、比企谷くん」

「ヒッキー、やっはろー!」

 

 机の上に食事の跡は残っていない。二人の前には紙パックの飲物だけが置かれている。

 それを手にとって、からからと振る由比ヶ浜結衣の様子から推測すると、二人はずいぶん前に昼食を済ませてしまったのだろう。

 

「悪いな。ちょっとのんびり食べ過ぎたか」

「時間を指定していなかったのだし、気にしなくても大丈夫よ。今お茶を淹れるわね」

 

 椅子に腰を下ろしながら八幡がそう告げると、入れ替わりに雪ノ下雪乃が立ち上がった。

 教室の奥へと歩いて行くのを見送りながら、間を置かず由比ヶ浜が会話を引き継ぐ。

 

「やった。ちょうど欲しいなって思ってたとこだったんだ。ヒッキーはどこで食べてたの?」

「あー、まあ、その辺で適当にな。つーか、頭を使いすぎた反動でぼーっとしてたからか、食うのに時間が掛かったみたいだな」

 

 そう言い終えると同時に、ややわざとらしく大口を開けてくあっと欠伸をしていると。

 

「あ、じゃあさ。ヒッキーは、わりと手応えとかある感じ?」

「どうだろな。中間よりは勉強時間を増やしたつもりなんだが……さすがに高二の冬だし、他の連中も似たようなことを考えるだろうし、結果は変わらんかもな」

 

 ぎこちないという程ではないけれど、我ながら言葉の出かたがスムーズじゃないなと思えてしまう。この調子だと変に混ぜ返すよりも真面目に返したほうが良いかと考えて、八幡はぼそぼそと返事を口にした。

 すると教室の奥から声が上がる。

 

「勉強時間が同じなら、教材の差が結果に繋がる気がするのだけれど?」

「ゆきのんのプリントってヒッキーも貰ったんだよね。数学の公式とか、すっごい覚えやすかったよ!」

 

 勉強に集中すると言って俺が距離を置いて……いや、逃げていた時にも、由比ヶ浜は以前と変わらぬ関係を続けてくれていたのだろう。

 そして雪ノ下も、数学のプリントの話を三人の間で堂々と出せるように、上手い具合に取り計らってくれたのだろう。

 

 こうした事に思い至った八幡は、今の自分にできるのはこの話題に乗っかることだと考えて口を開く。

 

「それな。あの量で大丈夫なのかって思ってたら、必要十分すぎてびびったわ。つーか数学の教師の代わりにお前が授業すりゃ良いんじゃね?」

「あ、いいね。ゆきのんが教えてくれたらあたしも眠くならないしさ。みんなもメロンパンナちゃんの公式だって言われたらぜったいに忘れないと思うんだよね」

「……はい?」

 

 聞いたことのない公式の名前が耳に届いたので、言葉にならない呟きに続けて雪ノ下の横顔へと視線を送ると。

 真剣な顔つきでタイマーとにらめっこしながら私は何も聞かなかったアピールをして来るので苦笑が漏れた。

 

 きっと、由比ヶ浜が理解し易いように、ずっと覚えておけるようにと懸命に頭を捻って、俺にくれたプリントの余白に色んな書き込みを付け加えてから手渡したのだろう。

 それをしている時の雪ノ下の姿を思い浮かべながら。そして受け取ったプリントと向き合っている由比ヶ浜の姿を想像しながら、話を続ける。

 

「じゃあ由比ヶ浜は、わりと手応えがある感じなのか?」

「へっへーん。中間までのあたしとは違うって言うかさ。あれなら平均点近くは取れてると思うんだよねー」

「……平均、点?」

 

 引き続きタイマーを見つめている部長様から、理解に苦しむという想いが存分に込められた呟きが聞こえてきた。気のせいか身体が小刻みに震えているようにも見えるのだが、由比ヶ浜の発言におののいているせいだろうか。

 

 ここは自分がフォローを入れるしか無いなと考えて、軽い口調で話し掛けることにした。

 

「まあ、俺もあんま偉そうな事を言える立場じゃ無いけどな。雪ノ下がせっかくプリントを作ってくれたんだから、平均とかで満足してねーで由比ヶ浜ももっと上を目指して……」

 

 そこで言葉は途切れてしまった。

 雪ノ下が孤高に陥らないように、ともに肩を並べられるようにと必死で上を目指して追い掛けて。最高よりも最良をと主張して、それなのに普通を掲げた対立候補に敗れた由比ヶ浜。

 それを、思い出してしまったからだ。

 

「……お茶が入ったわよ。二人とも、取りに来て欲しいのだけれど?」

「あ、うん。温かいのが飲みたい季節になっちゃったよね」

「……だな」

 

 やはり、今までとは違うと考えているのは自分だけではなくて。

 雪ノ下と由比ヶ浜もそう感じているのだと、思い知らされた気がした。

 

 無言でお茶を受け取って席に戻る。

 机に置いた紙コップの中身をじっと見つめていると、廊下からノックの音が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 雪ノ下が入室の許可を伝えると、ドアが勢いよく開いて音を立てずに止まった。

 そんな絶妙の力加減を見せたのは、八幡もよく知っている同級生。

 

「ちょっとお邪魔するし」

「わたしもお邪魔しま〜す」

 

 ドアに触れた手で無造作に髪をかき上げてから室内へと入って来た三浦優美子と。

 そして、ちょこまかとした足取りで後に続く一色いろはだった。

 

「やっぱり、いろはちゃんも一緒なんだね」

「由比ヶ浜さんが言ったとおりに、椅子を二つ出しておいて正解だったわね」

 

 二人の声を耳にした八幡が首を戻すと、雪ノ下の背後に椅子が二つあるのが目に付いた。

 とはいえ中途半端な置き方に見えたので八幡が疑問に思っていると。

 

「あーしは結衣の隣がいいし」

「じゃあわたしは、雪ノ下先輩と結衣先輩の間に入っちゃおっかな〜」

 

 三人にはそのまま座っているようにと身振りだけで伝えると、三浦と一色は各自で椅子を持ち上げて、打ち合わせどおりの配置で腰を落ち着けた。

 

 

「なんつーか、よく分からん組み合わせだな」

 

 二人の目的が読めない八幡は、左から三浦・由比ヶ浜・一色・雪ノ下と並ぶ女子四人と一人で対峙しているような気がして落ち着かないので、気を紛らわせようと軽口を叩いた。

 

 すると、ふっと笑みを漏らした雪ノ下が口を開く。

 はっきり言って嫌な予感しかしない。

 

「この二人の組み合わせなら、理由は一つしか無いでしょう?」

「まあ、あれか……。葉山のことで何かあったのか?」

 

 それにしては様子が少し変なんだよなあと思いながらも問い掛けると、八幡の疑問に答えたのは意外にも由比ヶ浜だった。

 

「隼人くんに直接尋ねる前に、ヒッキーに訊いてみようって話になったのね。だから教えて欲しいんだけどさ。選挙期間中に、海浜の折本さんと仲町さんと何があったの?」

 

 はい俺死にましたと八幡は思った。

 




推敲でばっさばっさと切りまくっていたら過去に類を見ない短さになりました。
導入だしキリも良いので、たまにはこの程度で済ませてみます。

次回は一週間後に更新する予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


さて。14巻読了後に活動報告で感想を書いて、短編も更新したのですが、それでもなかなか頭が切り替わりませんでした。
誰かと半日ぐらい語り合えたら良いのになと思いつつ(自分の解釈を語るよりも未知の考察を聞く時間の方が長ければ尚良し)、でもなかなか難しいですね。

ネット上をさまよっても当たり障りのない感想ばかりで、読解を試みる人をほとんど見かけなかった……のは探し方が悪いのかなあ。。
もしも読み応えのある面白い感想をご存知でしたら、こそっと教えて下さるととても喜びます。

話を戻して、短編は当初の予定(14巻直前八幡視点)とは全くの別物に仕上げました。
活報で少し弱気な事を書いたのを自己反省して、二次作者らしく作品で訴えようと思い直したからです。

なので原作終了後も残っている不穏な(私が掘り下げて欲しいと思う)要素をほぼ全盛りして、それを直截的には見えないようにした上で、最後まで読み終えた時にほっこりして頂けるような読後感を目指しました。
さらっと読み流して頂いても深読みをして貰っても構いませんので、目を通して下さると嬉しいです。


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02.ライバルと席を並べて一同は貴重な話を耳にする。

前回のあらすじ。

 試験期間が終わり、部室では三人が和やかなやり取りを交わしていた。
 しかし軽い失言をきっかけに、八幡は「今までとは違う」という印象を強くする。二人もまた同じように感じているのだと八幡は受け止めた。

 三浦と一色が連れ立って現れたので八幡が首を傾げていると、由比ヶ浜が口を開く。
 選挙期間中に折本・仲町と何があったのかと訊ねられた八幡は、社会的な死を覚悟した。



 選挙期間中の土曜日に、比企谷八幡は折本かおりと昼食をともにした。

 

 もちろんそれはデートなんて洒落たものとは程遠く、中学時代の過ちを知った折本が何をおいても直接謝りたいと断固主張したので仕方なく受け入れただけで、その話を済ませた後はすぐに解散した。

 

「でも、ヒッキーが折本さんと逢ってたのは間違いないんだよね。えっと、二人っきりだったの?」

「比企谷くん。偽証は貴方が不利になるだけよ?」

 

 もちろん二人きりではなく、その場には葉山隼人と仲町千佳も同席している。

 海浜の二人が合同イベントの話を持って来た時に(この部室での出来事だ)、葉山が折本を強くたしなめた。そのおかげで自らの過失に気付けたのだから是非ともお礼を伝えたいという先方の意向をどうしても拒みきれず、やむなく葉山も立ち会う事になったのだった。

 

「お礼を言われる側が気を使ってるのって、なんだか変だな~って思うんですけど……せんぱい?」

「いつもの隼人なら簡単に断ってるはずだし?」

 

 その件につきましては私どもと致しましても非常に困惑している次第でございましてですね、葉山氏があれほどまでに乗り気になったのはもしかすると選挙期間中という特殊な状況のせいではないかと愚考しているわけでして。

 

「選挙活動は土日はお休みにするという話になったでしょう。そもそも私は葉山くんに何も指示を出していなかったのだけれど?」

「ヒッキーと隼人くんが休みの日に逢ってるなんて、姫菜の妄想では何度も聞かされてたけどさ」

「……今夜の反応を考えると、今から頭が痛くなって来たし」

「まあ、せんぱい目当てで出掛けたって理由のほうが、わたし的には……え、なんですか皆さんその表情は?」

 

 奴の恐ろしさをまだ理解できていなかったのかその発想は危険だぞと、四人の心からの同情の眼差しが一人に集中した。

 

 ちなみに後日、この日の深夜から取り掛かってわずか数日のうちに一気に描き上げた「はやはち☆爛れた千葉デート編」を腐女子から進呈され生徒会室で絶叫する段階に至って、ようやくこの時の発言を心から悔いることになるのだが、そんな未来の話はさておいて。

 

「……どうやら葉山くんと比企谷くんが、ダブルデートと言うのかしら。それをしたのは事実みたいね」

「優美子が一番心配してたやつだよね……大丈夫?」

「……すぐに解散したってヒキオの言葉を信じるし」

「葉山先輩、集会の時にばっさり断ってましたしね。それよりも、結衣先輩は大丈夫ですか?」

 

 どどどどうして修学旅行中のあれこれを全て知っているかのような態度で喋っているのだろうかこの後輩はと八幡が内心で慌てていると。

 

「うん。まあ、ヒッキーだしさ。でもいろはちゃん、誰かから聞いたってわけじゃないよね?」

「事情を知ってそうな先輩方って、わたしにも誰にも喋らないと思いますよ。それに結衣先輩って、普段は素直な感じなのに、いざって時にはぜんぜん表に出さないですよね~。けど、もっと判りやすいせんぱいが居るから、あんまり意味が無いというか……」

 

 女子高生四人の視線がふたたび八幡に集中する。

 びくっと身体を震わせて、「返事を保留にしてキープするとは良いご身分だな」と四人から詰られているような気がして落ち着かない八幡は、部長様だけが状況を勘違いしたままでいる事にも気付いていない。

 

「とはいえ一色さんとは選挙期間中に一緒に居ることが多かったからバレても仕方がないとは思うのだけれど。比企谷くんの姿を自らの視界に入れてあげるような優しい生徒は他にはごく少数しか居ないのだから、噂が広まる可能性も少ないと思うし大丈夫よ、由比ヶ浜さん」

「んーと……ゆきのん?」

「ん~……まいっか」

「ヒキオは中途半端な事すんなし。あと隼人を巻き込むのはやめて欲しいし」

 

 なぜか早口で長広舌を振るった部長様のことも気になるけれど、端的に釘を刺されてしまうと静かに首を縦に動かすしかなかった。

 頷きながら場の雰囲気を少し変えようと考えた八幡は、折本たちと解散した後に起きた出来事を四人に伝える。

 

「なるほど。葉山くんが姉さんと会った時には、比企谷くんもその場にいたのね」

「ゆきのんの集会に折本さんと仲町さんが来たのって、そういう事だったんだ……」

「裏でこそこそ手を回すのが気に入らないし」

「何だかその、はるさん先輩でしたっけ。葉山先輩を落と……仲良くなるには最大の難関かもな~って」

 

 ダブルデートの話を伏せてくれていた葉山には借りがあるので代わりにあの面倒な女子大生を生け贄に捧げて話を逸らそうと企んだ八幡だったが、思いのほか事が上手く進んだので内心でほっとしていると。

 

「んで、集会の後には連絡とか来てないし?」

「あ、そっか。試験に集中するってヒッキー言ってたから考えてなかったけど……」

「私の印象では、試験期間中でもメッセージぐらいなら気にせず送りそうな性格だったわね」

「で、どうなんですか、せんぱい?」

 

 ご指摘の件につきましては、皆様方のご慧眼には驚きを禁じ得ないというのが正直な感想でございましてですね、とはいえ当方からメッセージを送ったことは一度も無く、いずれの場合も向こうから届いたメッセージに返信をしただけでありまして、けれどもあちらの方々からは間断なく新着が届くのでつい長々とですね。

 

「つまり貴方は折本さんだけではなく、仲町さんとも何度もやり取りをしているのね?」

 

 いえ、その、無理矢理グループに招待されてしまったのは誠に我が身の不徳の致すところでございまして。

 

「そのグループってさ、もしかしてヒッキー入れて三人だけとか?」

「は、隼人も入ってるし?」

「さすがにそれは無いですよね、せんぱい?」

 

 はい、ご安心下さい。あ、いえ、三人だけのグループに入らされてしまった時点でご報告をすべきではないかとも考えたのでございますが、なにぶん試験期間中でございましたので要らぬ話でそちら様の頭を悩ませることになっては一大事とひとまず我が胸に納めておくことにした次第でございまして。

 

「では貴方は、試験期間中にもメッセージのやり取りだけは継続していたと、そんな結論で良いのかしら?」

「えーと……ゆきのんはメッセージだけじゃなくて逢ってたかもって疑ってるんだよね。でも試験中だしヒッキーやる気出してたし……」

「でもでも~。逢うのとメッセージ以外にも、できることってありますよね~?」

「ヒキオが誰かと通話で盛り上がってるのって、なんだか想像しにくいし」

 

 決して盛り上がったというわけではなく妹以外の相手と通話で盛り上がれるのかは自分としてもはなはだ疑問ではあるのですが、集会の日の夜に連絡がありまして、その後どうなったのかという話から始まってお互いの情報を交換いたしましたけれども、とはいえ通話はその一度だけだと誓って申し上げたい次第でございます。

 

「その通話には隼人も加わってたし?」

 

 いえ、それも三人での通話でございました。

 

「集会の日の夜ってことは……()()()ヒッキーってどこに居たの?」

 

 投票前日で気が昂ぶっていたのでそれを落ち着けようと夜の校舎を歩いて回ったのでございますが、空き教室に入った時に急に着信音が鳴り響いたので身が竦む想いがいたしました。

 

「そんな状況なら肝を冷やすのも仕方がないわね。()()()()じゅうぶん温まったのかしら?」

 

 はい、その後はお陰様で()()()()()()()()過ごさせて頂きました。

 

「え~と、じゃあ()()()()ぐっすり眠れたって事ですね?」

 

 それはもう、登校間際まで()()()()()()ぐっすりと。

 

「……なるほど。私としては、情状酌量の余地はあると思うのだけれど?」

「あたしも、正直むーって思う気持ちもちょっとはあるけどさ。ヒッキーだし仕方ないかなって」

「あーし的には隼人が無関係なら何でもいいし」

「わたし的にはぎるてぃ~って言うか、ちょおっと確認したいことがあるんですけど……仕方ないですね、今回だけ見逃してあげます」

 

 何とかお咎め無しの判決が下ったので、ほっと大きく息を吐き出した八幡は、ラブコメ主人公の大変さが少しだけ理解できた気がした。誰が何を知っているのかをしっかりと把握しながら他の面々にはバレない言い回しで対話に応じる必要があるのだから、気を使う事この上ない。

 

 ともあれ、三人があの夜の時系列を確認してくれたお陰で助かったとも言えるし、新たな火種を抱え込んでしまったとも言える現状だが、後者については未来の俺に任せようと先送りを決意して。

 

 雑談に移行した四人の姿を見るとはなしに眺めていると、前置きもなく部室の扉ががらりと開いた。

 

 

***

 

 

 どすんと戸当たりを打ち付ける乱雑な音を耳にしたので、生徒たちが扉へと視線を送ると、そこには平塚静が立っていた。

 

「少し邪魔するぞ。……おや、珍しい顔ぶれだな」

 

 三浦優美子と一色いろはの姿を認めた平塚はそう呟くと、同意を求めるかのように首を後ろに動かした。そこには、よく見知った生徒が一人。

 

「たしかに珍しい組み合わせだね」

「は、隼人?」

「あ、葉山先輩。こんにちはです~」

 

 つい先程まで話題にしていた男が思いがけず登場したので、あたふたしている三浦と。

 驚きの感情などおくびにも出さずに平然と取り繕う一色だった。

 

「ふむ……立て込んでいるようなら出直すが、どうするかね?」

「いえ、話は終わっているので大丈夫です。二人には席を外して貰ったほうが良いですか?」

 

 顧問からの問い掛けに、雪ノ下雪乃が別の質問を返したところ。

 

「あーしの用事は終わったから、女テニに行って身体を動かして来るし」

「わたしも生徒会室で確認事項があるので……あ、葉山先輩。サッカー部に行くの少し遅れますけど、全体練習の頃には合流できると思うので、たぶん同じぐらいになりそうですね~。この教室までお迎えに来ましょうか?」

 

 言い終えると同時に立ち上がっていた三浦だが、一色の発言を耳にした瞬間がばっと身体を振り向かせて何とも言えない表情を浮かべている。きっと裏切られたと感じているのだろう。

 一方の一色は泰然としたもので、事情聴取に同席させて貰った恩などは微塵も感じていない様子だ。

 

「いろはも俺も居ないとなると、あいつらが遊び出しそうだからね。先に用事が済んだほうから部活に合流するのが無難かな」

「了解です~。あ、それとせんぱい。合同イベントの最初の顔合わせが月曜日にあるんですけど、それは生徒会の四人で行こうと思ってます。でもその次からは、向こうも有志を連れてくるって言ってまして……」

 

 一色の言葉を素早く手振りで遮って、間を置かず小さく頷くことで了解の意志を伝えた。先程までのやり取りが尾を引いているせいで、上手く口が動かない気がしたからだ。

 

 それに二人を巻き込むような話になるのは避けたかったしなと考えながら、机の向こうにちらりと視線を送ると、ぱっと由比ヶ浜結衣と目が合った。

 仕方がないなあとでも言いたげな苦笑いに続けて、薄くリップを塗った唇が静かに開く。

 

「じゃあ優美子といろはちゃん、お疲れー」

「思いがけないところで線が繋がって、思っていた以上に有意義な時間だったわね」

「なら今度またラリーに付き合うし」

「お二人のラリーはちょっと観てみたいですね~。連絡を頂けたらタオルとかドリンク持って行きますよ?」

 

 つい先程のことなのに、裏切りなんてなかったかのように一色はしれっと参加アピールをしている。

 そんな後輩に苦笑しつつも、三浦は鷹揚に頷くとゆっくり歩き始めた。

 すぐに一色がその後を追う。

 

「また来るし」

「またすぐ来ますね~」

 

 そんなセリフを後に残して、ライバル関係にあるはずの二人は散発的にぽつぽつと言葉を交わしながら特別棟の廊下を歩いて行った。

 

 

***

 

 

 二人が使っていた椅子を机の中央付近まで動かすと、平塚と葉山は向かい合わせに腰を下ろした。八幡から見て左手が葉山で、右手の黒板に近いほうが平塚という位置関係だ。

 

 プリントが何枚か収められているクリアファイルを平塚が机の上に置くと同時に、雪ノ下が口を開いた。

 

「それで、今回も気晴らしですか?」

「ん……ああ、そういえば中間の時には採点作業に嫌気が差してここに逃げてきたのだったな。安心したまえ、今回はまだ四人分しか採点が済んでいないから、気が滅入るのはまだまだ先だよ」

 

 えへんと胸を張る教師を白けた目で眺めながら、それでも採点作業から逃げてきたことに変わりは無い気がするのだがと八幡が考えていると。

 

「四人分って……もしかして、ゆきのんとヒッキーと隼人くんと、あとは姫菜とか?」

「ふっ。最後の一人は君だよ、由比ヶ浜」

「えっ。でもたしか平塚先生、中間は成績が優秀な人から採点してたって……?」

「今回の試験は特別だからな。あの時に言っただろう、雪ノ下の満点を阻止してやるとね。それを知っているのは君たちだけだよ」

 

 成績優秀者から順に採点するという話はすっかり忘れていたので、意外なところで記憶力を発揮する由比ヶ浜に驚いていると、平塚が大人げないことを口走っていた。

 とはいえこちらの話はよく覚えているし、なんなら一字一句思い出せる。

 

『次こそは雪ノ下の満点を阻止すべく、九〇点満点+超難問が一〇点分の期末試験を用意してやろう』

 

 でも、結果を知らされるのは来週の月曜日だと思っていたのに。

 そう心の中でつぶやきながら思わず反射的に拳を握りしめていると、視線の先では平塚がクリアファイルから四枚の用紙を取り出していた。

 

 

「では順番に、雪ノ下と、由比ヶ浜と、葉山と、これが比企谷だな。四人ともよく頑張ったと私は思うよ」

 

 手渡された答案用紙を握りしめて、真っ先に得点欄を確認する。

 そこには九三という数字が書かれていた。

 

「ここにいる四人以外の答案は見ていないので、ぬか喜びをさせてしまうかもしれないがね。おそらく由比ヶ浜は平均か、平均を少し上回っているはずだよ」

「それは……由比ヶ浜さん、よく頑張ったわね」

 

 雪ノ下の言葉を耳にして、八幡は順位を早く知りたいとしか考えていなかった自分を恥じた。

 そして次の瞬間に、雪ノ下から喜色も憂慮も窺えないことを疑問に思う。

 

 なにせ自他ともに認める負けず嫌いさんのことだ。満点ならきっと喜色を浮かべるだろうし、それ以外の得点なら一位を逃す可能性を憂慮しても不思議ではないのに。

 

 それに、お茶を淹れながら数学のプリントの話をしていた時には「あれだけやっても平均点なのね」という優等生にありがちな反応を示していた気がするのだけれど。由比ヶ浜をねぎらう言葉からは、喜色や憂慮だけではなく感情というものがほとんど伝わって来ない。

 

 どうして雪ノ下は、こんなにも淡々としていられるのだろうか。

 

「文章の書き手が主張していることと、それを自分がどう思うかは全くの別物だと。おそらく雪ノ下がいちばん口を酸っぱくして指摘し続けたのは、この点だろうな。今回の期末で大きく改善したのもこの部分だよ。作者の意図を訊ねられても、自分の意見を述べろと言われても、しっかり対応ができていた。由比ヶ浜、よく頑張ったな」

 

 とはいえ平塚の解説を聞いていると、由比ヶ浜の成長が我が事のように嬉しくなってきた。

 さっきは言い淀んでしまったけれど、上を目指して努力した者が報われるのは正しいことだと思えるし、喜びの感情が胸一杯に広がっているのが自覚できる。

 

 だから八幡は疑問をひとまず横に置いて、感情を控え目にしている由比ヶ浜に向かって口を開いた。

 素直に褒めるのは気恥ずかしいので、ぼっちらしい物言いで祝ってやろうと考えながら。

 

「そういや、テストができても自分の意見が無い奴って居るんだよな。本に書いてあることが百パー正しいって思い込んで疑いもしないっつーか。そういう奴に限って妙な行動力があるから、SNSとかで変な学説を強弁して問題を引き起こすっつーか。まあ、専門家がどれだけ丁寧に書いても、素人の俺の意見の方が正しいのだって真顔で言い切る連中もいるから、文章が読めても読めなくても迷惑な奴は迷惑なんだが……あれだ。何が言いたいかっつーと、文章がちゃんと読めて自分の意見も持ててるってのは、わりと凄いことだと俺は思うし、もっと喜んで良いと思うぞ?」

 

 やはり今日は口の滑りが思わしくないというか、おそらく頭が疲れているのだろう。

 それでも八幡は喋りながらでも何とか頭を振り絞って、一番伝えたかった結論を口にできた。

 そこに小さな満足を感じていると。

 

「比企谷くんの過去の所行はさておいて、結論の部分は私も同感ね。大勢の意見を聞き入れて、それでも自分というものを失わないのは貴女の美徳なのだから。それを少し応用すれば国語の成績ももっと上がって行くはずよ」

 

「俺も同感かな。結衣は自他のバランス感覚に優れているし、それで集団がまとまる様を何度も目の当たりにして来たからね。それを思うと、国語の試験で平均点だと低すぎるぐらいだな」

 

 雪ノ下からも葉山からもべた褒めされた由比ヶ浜が、くすぐったそうに身をよじっている。

 それでも、言うべき事は言っておこうと思ったのか。由比ヶ浜は同学年の三人を順に眺めてから平塚に向かってこう告げた。

 

「あたし、去年とかはそんなに自分を出せなくて……。だから平塚先生がこの部室に連れて来てくれて、ゆきのんやヒッキーと一緒に過ごしたおかげだなって思ってます。それに、優美子と姫菜も居てくれたから」

 

 まっすぐな目をして訴えてくる由比ヶ浜にうんうんと頷きかけてから、平塚は残りの部員二人に向けて順に視線を送る。片や誇らしげに、片や照れくさそうにしているのが微笑ましい。

 ここでは部外者ゆえに、微かな笑みを浮かべるだけで控え目な態度に終始している葉山とも視線を合わせて、そして教師は本題に入る。

 

 

「では、残りの三人について話そうか。今回の期末は、雪ノ下が九四点で葉山と比企谷が九三点だ。おそらく八〇点以上は居ても一人か二人だろうな。葉山にも試験前に伝えたとおり、従来通りの出題形式が九〇点で、残りは応用問題という構成にしたのだがね。中間までと同じなら、君たち三人は全員満点だった。大したものだと私は思うよ」

 

 及ばなかった悔しさよりも、抜けなかった無念さよりも、安堵の気持ちが先に出た。

 それはおそらく、葉山の背後にあの厄介な女子大生の姿を重ねていたからだろう。

 過去問と平塚の性格分析つきの対策ノートを、脅威に思っていたからだろう。

 

 今学期の中間までは、国語の勉強なんてほとんどしたことがなかった。

 正直まるで必要を感じなかったし、それでも学年三位という結果が出ていたからだ。

 

 けれども三位では満足できなくなって来て。

 こっそり復習に時間をかけた前回の中間では、葉山と並んで二位になれた。

 でも、抜くことはできなかった。

 

 もともとの得意分野に更に時間を掛けて労力を重ねて、それで結果が出ないのはつらい。そんなのは良くあることだと斜に構えたようなことを考えてみても、悔しいものはやっぱり悔しい。他人であれ自分であれ、正しい努力は正しく報われて欲しいと思ってしまう。

 

 そうした挫折を避けるために、少なくない数の生徒たちは努力を放棄する。

 けれども八幡に同じ事ができるかというと、それもまた難しい。勉強しなかったからという言い訳があったところで、悔しい気持ちに変わりは無いからだ。そこの部分で自分を偽れるようなら、もっと器用に生きて来られただろう。

 

 勉強して負けても悔しいし、勉強せず負けても悔しい。

 ならば負けない可能性を高める為に勉強するしかない。

 

 たとえ相手がどれほどの才能に恵まれていても。

 たとえ相手がどれほどの助力を得ていても。

 得意教科では喰らい付いてみせると、そう決めたからには迷いはない。

 

 二位タイという今回の結果は、中間とまるで変わらない。

 それでも、歯を食いしばって試験勉強をした甲斐があったと八幡は思った。

 

「陽乃さんのノートで対応できる部分は完璧だったんだけどさ。残りの一〇点分が勝負の分かれ目だったみたいだね」

「今回の試験形式を、貴方は直前まで知らなかったのでしょう。平塚先生から聞いた時点で、改めて姉さんに相談に行けば良かったのに」

 

 二人の会話が耳に届いたので、八幡は頭を上げて周囲の様子を窺った。

 平塚は二人が語るに任せていて。

 由比ヶ浜は一歩引いたような雰囲気で、自分たち三人をにこにこと眺めている。

 

「泣き付くような真似はしたくなかったし、それに応用力の勝負だからさ。陽乃さんの予想問題が当たって一位になれたとしても、それに意味があるとは思えないな」

「相変わらず甘いのね。平塚先生の目論見では、三人を同点にするつもりだったみたいだけれど」

 

 まあそうだろうなと内心で同意しながら教師に目線を移すと、解説の時間が幕を開けた。

 

 

「応用問題のうち一点は複合問題で、残りの三点ずつはそれぞれの得意分野から出題した。ここまでは君たちも見抜いているだろうな」

 

 平塚が確認の目を向けると、打てば響くような反応で雪ノ下がそれに答えた。

 

「私の得意分野は、主に西洋の古典文学ですね。複数の日本語訳に加えて原著にも目を配りながら日頃から相当に読み込んでいないと解けない問題ばかりでした。それと、応用問題はいずれも読ませる量が桁違いでしたね」

 

 ふむふむと頷いてから今度はこちらに顔を向けてくるので、八幡がゆっくりと口を開く。

 

「俺はまあ、サブカルとかラノベとかですかね。こっちも微妙に古い作品が多めだし、どの作品が何の影響を受けてとか考えながら読んでる奴は少ないと思うので、これが解ける奴は全国でも一握りだと思いますよ。少なくとも初見じゃ無理ゲーですね」

 

 なぜか含み笑いを漏らしながら、続けて平塚は顔を正面に戻した。

 

「俺が解けたのは、最近のエンタメを複雑に組み合わせた問題ですね。有名人のエッセイやテレビドラマから映画に音楽と、題材を豊富に並べてあるから解くのに時間が掛かりました。……正直に言うと得意分野ってわけじゃないけどさ、みんなと普通に話していたら話題に出ることばかりだからね。たぶん、一点の差はここだろ?」

 

 葉山の問いかけを耳にした瞬間に、八幡にも点差の理由が判った。

 

「ええ。由比ヶ浜さんのお陰ね」

 

 果たして、予想どおりの答えを雪ノ下が口にする。

 過去に由比ヶ浜と交わした雑談からヒントを得て、一点分をもぎ取ったという事だ。

 それが、一位と二位の差を分けた。

 

 二人からゆりゆりしい気配が漂って来ないのを少し残念に思っていると、平塚が再び口を開いた。

 

「今回は事前の知識や積み重ねと、問題文を短時間で大量かつ正確に読み切る能力と、それらを組み合わせる応用力が無いと決して解けない奇問ばかりを並べたのだがね。君たち四人には、覚えておいて欲しいのだよ。文学や評論も、随筆や短歌や俳句も、古文や漢文や外国語で書かれた古典文学も、それどころかエンタメもサブカルもエログロナンセンスでさえも、更には数学からプログラミングまでをも含めて良いと思うのだがね。それらは同列に扱うことができるし、それらを堪能できるのは素晴らしいことなのだよ。それらは人生に彩りを与えてくれるものだと、そう覚えておいてくれると今回の試験をした甲斐があるというものだ」

 

 つまり、今回の特別枠である一〇点分の問題は、解かせることが目的ではなく気付かせることが目的だったということか。

 

 そう考えると、一点を争って必死に勉強していた自分が少し馬鹿らしくなるけれど、この教師の掌の上だったのは今に始まったことではない。

 

 おそらく乱暴な言い方をすれば、さっき八幡が例に出したような「テストが出来るだけの馬鹿」を育てるつもりはないと平塚は言いたいのだろう。それよりも大切なことが、他に身に付けるべきことがあるのだと、そう伝えたいのだろう。

 

 答案用紙の返却と解説が行われる月曜日に先がけて、自分たち四人だけの前で貴重な教えを説いてくれた国語教師をじっと見つめていると、再び話が始まった。

 

 

「それはそうと……君たちは陽乃のせいもあって、色々と苦労しているみたいだがね。何かあれば遠慮なく相談したまえ。雪ノ下、君が定めた奉仕部の理念は何だったかな?」

「……助けを求める人に結果ではなく手段を提示する事です」

 

 あの理念を定めたのが雪ノ下だと知って、予想外ではなかったけれども初耳ではあったので少しぽかんとしていると、由比ヶ浜も同じ気持ちだったのか。

 

「えっと、でも、奉仕部を作ったのって陽乃さんだよね。じゃあ理念はゆきのんが作ったってこと?」

 

 疑問を素直に伝えると、少しだけ口先を尖らせながら雪ノ下がそれに答える。

 

「ええ、そうよ。姉さんの時代の奉仕部は、どんな依頼を受けるのかも、どんなふうに解決するのかも何もかもが曖昧で、全ては姉さんの気分次第という状況だったのよ。そんな部活を、『来年度以降も必ず存続させる』って生徒会と文書まで交わして私に押し付けて……入学前から頭を抱えたというのが正直なところね」

 

 ああ、あの人ならそうするだろうなと、心から納得してしまった八幡だった。

 それは誰もが同感みたいで、平塚が苦笑しながら話を引き継いでくれた。

 

「陽乃には私も手を焼いたし、それは今も同じかもしれないな。話を戻すと、雪ノ下が掲げた理念は君たちに合ったものだと私は思っているよ。だからこそ、私もそれを踏襲しようと思っているのだよ。つまり、遠慮なく相談に来いと先程は言ったがね。私にできるのは君たちの話を聞いて、せいぜい手段を提示するぐらいなものだ。それで何かが解決したとしても、それは君たちが勝手に助かっただけなのだよ。でもだからこそ、私や誰かに相談する時にはタイミングを見失わないようにしたまえ。自分でできる事とできない事をしっかり見極めて、上手く大人を利用しなさい。君たちならそれができると私は思っているよ」

 

 今日言われた全ての話が、今の発言に繋がっているような気がした。

 年齢のことを言ったら怒られそうなので口には出さないけれど、十年後の自分は高校生に向かって、こんな恰好良いことを口にできるだろうかと怯む気持ちさえ浮かんでくる。

 

 もしかしたら、同じ気持ちだったのかもしれない。

 部外者という意識があるからか少しだけ控え目な口調で、葉山が質問の声を上げた。

 

「平塚先生は、大人とは何だとお考えですか?」

「大人とは……そうだな。君たちのような才能のある子供たちの前でも恰好良く振る舞えるのが大人だと、私は思うよ。巷には、幼い頃からまるで成長していないと自ら証明して回っているような、自分勝手な振る舞いをして何ら恥じない大人も大勢いるがね。たとえ内面はそれと大差がなかったとしても、実は自分だけは違いますと相手に信じ込ませてしまえるのが、きっと大人の狡さなのだろうな」

 

 恰好良いような情けないような詭弁のような真理のような、よく分からない答えだというのが正直な印象なのだけど、いずれにしても心に響いたのは間違いない。

 

 

 職員室に戻る平塚と部活に向かう葉山を見送って。

 何だか毒気を抜かれたような気分の三人は、試験疲れという理由もあって早々に部活を終わりにした。本格的な活動や話し合いは来週からだと確認し合って、この日は解散となる。

 

 

***

 

 

 そして迎えた翌土曜日の夜、自室にて八幡は苦悩していた。

 正確には昨日の夜からずっと断続的に悩んでいる。

 

 夕食は早めに済ませたものの、まだ七時にもなっていない。今から連絡をしても、きっと失礼には当たらないだろう。

 

 だが、長年にわたってぼっちで過ごして来た身としては、遠慮なく相談しろと言われてもなかなか踏み切れない。本心を取り繕えた()()()とは違って、今回は自分をさらけ出す事になるだろう。でも、そんな事をするぐらいなら尻尾を丸めて問題を先送りしてしまいたいとさえ思ってしまう。

 

 それでも昨日の二人の様子や自分の心理状態を考えると。それに、まるで示し合わせたかのように、深い話をひたすら避けながら過ごしてしまった顧問退場後の時間を思い出すと、週が明ける前に何とかしなければという想いが強くなる。

 

 けれども自分一人では現状を解決できそうにないし、妹に話すのはもう少し問題を解きほぐしてからの方が良い。なぜなら二人ときちんと話せておらず、憶測で物を考えている部分が大きいからだ。

 それなら話せばいいじゃんと言えてしまえる妹と、どうやって話をすれば良いのかと悩んでしまう自分では、おそらく決定的に話が合わないだろう。

 

 同じ事は、あの性別不詳の友人にも当て嵌まる。

 そして腐れ縁のあの男にはこんな話はできそうにない。

 

 他にも何人か男女の知り合いが居るけれど、自分の気持ちを言葉にしきれない部分まで含めて正確に伝えられる相手は、おそらく皆無だろう。自分の捻くれ具合は尋常ではないと八幡は理解できている。

 

 つまり、八幡が誰かに相談に乗って貰うとしたら、今それが可能なのは一人だけ。

 

「これで、呼び出せば……」

 

 震える指先で通話ボタンをタップする。

 数度の呼び出し音の後に、回線が繋がった。

 

『君から連絡が来るとは珍しいな。どうしたのかね?』

 

 八幡の耳に、大人の女性の声が伝わってくる。

 何も言葉を口にできずにいるのに、それでもじっと八幡が喋り始めるのを待ってくれている。

 

 自分のような捻くれた子供が相手でも恰好良く振る舞える大人に、少しでも近づきたくて。

 そんな大人の前で、ちょっとは恰好良いところを見せたくて、掠れそうな声を奮い立たせて言葉を発する。

 

「実は……人生相談があるんですが」

『分かった。まだ高校にいるから、昇降口まで来てくれるかね?』

 

 賽は投げられた。

 八幡は手早く制服を身にまとうと、リビングからショートカットで移動して昇降口へと足を向けた。

 




十四巻の影響だと思うのですが、各キャラのセリフがどうにもしっくり来ず時間が掛かってしまいました。
書いているうちに解消できると思いますので、次回はクリスマス前としておきます。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
八幡の「得意教科では」という拘りと、由比ヶ浜のお陰について説明を補足して細かな表現を修正しました。(12/27)


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03.つかの間の一時が彼に今後の指針を与える。

前回のあらすじ。

 ダブルデートからメッセージや通話に至るまで、折本たちとの関わりを全て白状させられた八幡だが、何とか穏便に話を済ませることができた。一人だけ納得のいかない顔をしている一色が気になるものの、当面の危機は去ったと八幡は胸をなで下ろす。

 部室に平塚と葉山が現れて、国語の試験結果を伝えられた。解説を聞いた八幡は、今回の試験を通して平塚が伝えたかった想いを受け止める。だが同時に、妙に淡々とした反応を示す雪ノ下や控え目な様子の由比ヶ浜が気になった。
 部室に三人だけになってもあまり話は捗らず、この日は早々に解散となった。

 一同に向けて「遠慮なく相談したまえ」と言ってくれた平塚の言葉を反芻しながら、八幡は帰宅後も翌日も悩み続けていた。そして遂に意を決する。
 平塚に「人生相談がある」と告げた八幡は、恩師が待つ高校へと足を向けた。



 土曜日の夜なのに、校舎には明かりが煌々と灯っていた。

 廊下を歩きながら首を傾げていた比企谷八幡は、つい先程「まだ高校にいる」と告げられたのを思い出してその理由を悟った。

 

 月曜日には答案返却と解説が控えている。

 試験の重圧から解放された生徒たちとは違って、教師にとっては今が正念場ということなのだろう。

 

「おや、早かったな」

 

 昇降口に着く前に、廊下の向こうから声を掛けられた。

 職員室とは反対の方向から、キーホルダーらしきものを指先でくるくると回しながら平塚静が近づいてくる。

 珍しいことに白衣は着ておらず代わりにコートを羽織っていて、その下は普通のスーツ姿だ。

 

「まあ、こっちは相談に乗ってもらう側ですし」

「君らしくない気の使いようだな。……いや、逆に君らしいと言えるのかもしれないな。せっかく満を持して出迎えてやろうと思ったのだが、仕方がない。ついて来たまえ」

 

 そう言って外を指差したので、八幡も靴を履き替えて教師の背中を追った。

 

「夕食は済ませたのかね?」

「家で食べてきました。先生は?」

 

「今日のぶんの採点が終わるまではお預けだな。食べると眠くなるし、一気にやる気が失せてしまうんだよ。答案用紙を家に持ち帰っても良いのなら、一眠りして深夜に続きができるのだが……昨今はその辺りが厳しくなってね。まあ、こんなのは生徒に聞かせる話じゃないな」

 

 苦笑を漏らしながら、平塚は校舎の裏手に向けて歩いて行く。

 

「この先って、駐車場ですか?」

「ああ。私の愛車に君を乗せてあげようと思ってね。行き先のリクエストがあれば受け付けるが?」

「いえ、特には……」

「そうだな。今日はゆっくり相談を聞くことにして、ドライブと洒落込むのは次の機会にしておくか」

 

 そう呟いて不敵な笑みを浮かべた平塚は、少し歩いた先で足を止めた。そして目の前にある車のピラーの辺りを愛おしそうにこんこんとノックしてから後ろを振り向く。

 おそらくこれが平塚の愛車なのだろう。

 

「それってスポーツカーですよね。もしかして左ハンドルですか?」

「ああ。悪いが向こうに回ってくれるかね?」

 

 平塚が車の左側から動こうとしないので、もしやと思って問い掛けると正解だった。

 ドアが左右に一つずつ=スポーツカーという程度の知識しかない八幡だが、この車がかっこいいのは理解できる。まあ中二心をくすぐられているだけとも言えるのだが。

 

「では、適当に走らせながら話を聞こうか。安全運転を心掛けるから、その点は安心したまえ。……教室が使えたら良かったのだが、こんな時間なのでね。見咎められると厄介だから勘弁してくれるかな?」

 

 もちろん八幡に否やは無い。

 助手席でシートベルトを着けながら大きく頷くと、車は静かに動き始めた。

 

 

***

 

 

 高校を出てしばらくの間は無言が続いた。

 けれども居心地が悪いと感じることはなくて、むしろ落ち着いて話ができるという予感がする。

 

 車に乗せられると判った時には採点の気晴らしをしたいのだろうと思ってしまった八幡だったが、車の中は意外と相談事に適した環境なのだなと考えを改めていた。

 

 直進を続けていた車が、京葉線を越えたところで右に折れる。

 千葉みなとに向かって線路と併走しながら、ようやく平塚が口を開いた。

 

「そういえば、数学の先生に君のことを尋ねられたよ。担任の先生にも話し掛けていたみたいだが、詳しい話を知りたいかね?」

「中間と比べて点数が違いすぎるとか、そんな内容ですよね?」

 

 なんだか照れくさくて、少し控え目に申告してみたものの。

 

「そうだな。中間は学年で最低点、期末は満点で学年トップと来れば、数学の先生が慌てるのも無理はないな」

「まあ……ですね」

 

 おそらくミスは無いと、思ってはいたけれど。

 結果を知らされると喜びがじわじわと湧いてきた。

 

 まさか数学で満点を取れるなんて。

 得意教科の国語よりも先に学年トップになれるなんて思いもしなかった。

 それだけに格別の想いがする。

 

「どうした。君が捻くれたことを言わないのは珍しいな」

「いえ、ちょっと正直あれですね。思ってた以上に嬉しかったというか……。あの先生って授業でやったことしか試験に出さないから、満点なんて他にも何人も居るんだろうなって分かってるのに、それでも……嬉しいっすね」

「……そうか」

 

 八幡の喜びを受け止めて、その気持ちを共有してくれているのだと感じられた。

 

 ハンドル捌きは滑らかで、アクセルもブレーキも淀みがない。

 そんなふうにして落ち着ける空間を維持してくれている平塚は何度もうむうむと頷きながら、八幡の試験結果を我が事のように喜んでいる。

 

 けれども、この結果は自分一人で得たものでは無い。

 それをしっかりと己に言い聞かせながら、八幡は口を開く。

 

「雪ノ下がプリントを用意してくれたから、それを丸暗記した後も三周ぐらい繰り返して。それから問題集にも一通り目を通して。でも、あれだけ頑張れたのはプリントを作ってくれた雪ノ下と……平塚先生が京大に連れて行ってくれたお陰だと思ってます」

 

「ふっ、今日はやけに殊勝だな。そろそろいつもの憎まれ口が飛び出す頃合いではないのかね?」

 

 すっかりお見通しだなと内心で白旗を掲げながら、微かに苦笑を漏らした八幡が話を続ける。

 

「プリントの丸暗記が終わった辺りで、ちょっと気になったので調べてみたんですよ。んで、センター試験の行列は、このまま続ければ対応できるなって思ったんですけどね。京大の二次の行列って、あれ何なんですかね……」

 

「かつての君なら、二次もセンターも定期試験も一纏めにして、数学を解ける奴は変人だと言っていた気がするがね。難易度の違いが理解できるようになったのは、君が成長したという事だよ」

 

 もともと褒められるのには慣れていない八幡だが、この先生に言われると嬉しさと気恥ずかしさが半々にやってくるのは何故だろうか。

 少しだけ頬を染めながら、そんな気持ちを誤魔化すように口を開く。

 

「だからそれは、雪ノ下と平塚先生のお陰ですよ」

「ふっ。君がそう言うならそれでも良いさ。話を戻すと、数学の先生に雪ノ下のプリントを見せたら途端に納得していたよ」

 

「あれっ、と。雪ノ下って先生にもプリントを渡してたんですね。その、数学の先生が俺の成績に疑問を持つって分かってたから」

「その辺りの根回しは流石だな。あの子は、誰かの面子を立てるといった感情面の配慮は極端に不得手なのだが、こうした事務的な手配をさせると大人顔負けの仕事ぶりだからね。大したものだよ」

 

 その発言に心からの同意を込めて頷いていると、見覚えのある駅の姿が視界に届いた。

 同時に平塚が指示器を出す。

 車は千葉みなとの手前で左に曲がると、そのまま千葉街道に入った。

 

 

 話に区切りが付いたのでそろそろ本題に入ろうかと考えながら。

 けれども言い出す切っ掛けを掴めずにいた八幡の耳に、またしても平塚の声が聞こえて来る。

 

「数学が学年首位で、国語が学年二位か。そろそろ君も優等生と呼ばれてみるかね?」

「いえ……だって雪ノ下と葉山は今までずっと全教科で一位と二位だったわけですよね。今回もたぶんそれが続くんでしょうし、なら俺はお呼びじゃないですね」

 

 そう返事をした八幡が気負いも引け目も感じていないのを横目でちらりと確認してから、平塚は話を続ける。

 

「実は昨日の話だがね。君は違和感を持たなかったかな?」

「えっ……いえ、特には何も。何かありましたっけ?」

 

 何度かふむふむと首を動かしてから、平塚がそれに答える。

 

「例えば三〇点の科目があったとして、それを六〇点に上げるのと、その六〇点を今度は九〇点に上げるのとでは同じ点差でも労力が違う。もちろん後者のほうが大変なのは明らかだがね、それよりも更に九〇点を九五点に上げるほうが難しいとは往々にして良くあることだ。ここまでは良いかね?」

「もしかして、由比ヶ浜のことですか?」

 

 国語の得点が平均か平均を少し上回っていると告げられて、けれども喜びを控え目にしていた同級生の姿を思い出した。その反応が何だかもどかしくて、八幡は捻くれた言い回しで祝いの気持ちを伝えたのだった。

 

「正確には、由比ヶ浜に対する雪ノ下と葉山の評価についてだな。微笑ましい光景だったので口を挟まなかったのだがね。君たち三人が一点を争う労力と比べると、由比ヶ浜が更に点を伸ばすほうが、可能性としては高いだろうな。だが、それは優等生の発想なのだよ」

 

「そういえば、昨日部室で先生が来る前ですけどね。数学のプリントの話が出た時に由比ヶ浜が『平均点近くは取れてると思う』って言ったら、あれだけやっても平均なのかって感じで雪ノ下がおののいてまして。でも、その手の意識の違いって仕方がないと思いますし、違和感って程でもないと思うんですけど?」

 

 なるほどと首肯して、そこで信号が青に変わったのを見た平塚は静かにアクセルを踏み込みながら返事を口にする。

 

「私の説明がミスリードを誘ったみたいだな。問題にしたかったのは労力に対する意識の違いではなくて、もっと根本的な部分なのだよ。つまり優等生は、得点が上がれば上がるほど良いと考えがちだがね。由比ヶ浜が学年上位の成績を目指せるのか、目指す意味があるのかと問われたら、君はどう答えるかね?」

「それは……でも、本人に向上心があれば……」

 

 口ごもってしまったのは、平塚の言いたいことが本能的に理解できたからだろう。

 そして本能的な理解に留まったのは、はっきりと言語化したくないと思ってしまったからだろう。

 つまり。

 

「たとえ向上心が人一倍でも、君や雪ノ下や葉山が目指すような難関校には、おそらく由比ヶ浜は進学できないだろうな」

 

 冷酷な現実を告げられても、八幡は噛みしめた唇をゆっくりと開いてそれに反駁する。

 

「それでも、成績を上げていけば選択肢が広がるじゃないですか。それに全く同じ大学は無理でも、近くの大学に行くとか……」

「君も解っているとおり、問題はそこではないのだよ。もちろん君たちが望めば近くの大学に進学するのは可能だろう。けれども少しずつ時間が合わなくなって行くだろうな。それは同じ大学に進学しても同じでね。学部が違えば、学科が違えば、ゼミが違えば等々、すれ違いの原因など幾らでも出て来るし、むしろ少しずつ別の道を歩んでいくほうが健全な関係を維持できると私は思うよ」

 

 教師の意図は充分に理解できる。

 けれども感情は、それを理解したくないと悲鳴を上げている。

 あの二人と離ればなれになる日が来るなんて、そんなのは認めたくないと思ってしまう。

 

「少し混乱しているみたいだから話を戻そうか。国語力という言葉は教師としてはあまり使いたくないのだがね。由比ヶ浜のそれを、君はどの程度だと見積もるかね?」

「それは……昨日言ったとおりですね。文章もわりと普通に読めてるし、それで自分の意見が惑わされることもないし、成績以上の実力だと俺も思いますけどね」

 

 一つ先の信号が黄色になったので車をゆっくりと減速させながら、平塚が頬を微かにほころばせている。

 

「相手が君たちのような優等生でも、発言をきちんと受け止めて理解できているな。それに本能で生きているような生徒を相手にしても、感覚でコミュニケーションを成り立たせている。そんな由比ヶ浜に、これ以上の国語力が必要かね?」

「でも、受験のためには……」

 

 ウインカーを左に出して、車は千葉駅前大通りに入った。そのまま直進して、ロータリーのところで車を停める。

 

「大事な話だから、少し落ち着いて話そうか。たしかに受験のためには、国語の成績は上がれば上がるほど良いだろうな。君が言ったとおり、選択肢が広がるのも間違いない。けれども由比ヶ浜の今後の人生を考えたときに、これ以上の読解力や記述力は果たして有用かね?」

 

「けど、昨日言ってたじゃないですか。人生に彩りを与えてくれるって。だから記述はともかく読解力を上げていけば、もっと小説とかも……」

「由比ヶ浜ならドラマや映画など他の様々な媒体に触れることで、人生に彩りを加えられると私は思うよ。それは君や雪ノ下なら、彼女との雑談を通して身をもって理解できているはずだ」

 

 黙り込んでしまった教え子の横顔を眺めながら、酷な話をしているなと平塚は思う。

 てっきり相談とはこの事だと思っていたので突っ込んだ話をしてしまったが、それでも八幡にとっては遠からず向き合う必要があった問題なので、勘弁して貰うしかない。

 話し始めた以上は最後までと考えながら、平塚は続く言葉を口にする。

 

「仮にも進学校の教師がこんなことを言うのは問題かもしれないがね。既に充分な実力が備わっているのに、受験のためという理由だけで続けて行くような、そんな勉強をする必要はないと私は思うよ」

「でもそれだったら、俺の数学とかもこれ以上は……」

 

「君の場合は、それは目的ではなく手段ではないかね。三人で一緒に見学した()()大学に合格するのは大変だろうな。でも君なら、それに見合った見返りを得られると私は考えているよ。詳しい話は現地で伝えたから繰り返すことはしないがね」

「でもじゃあ、由比ヶ浜の進学先って……」

 

「ああ。由比ヶ浜が志望校をきちんと決めて、どんな勉強をするのかという話はそれからだよ。そして、君たちが関与すべきなのもそこだ。後悔の無いように()()()()しっかりと話し合って、それぞれの志望校を決めるようにしたまえ」

 

 そう言い終えると同時にふっと息を漏らした平塚は、軽く八幡の肩を叩いてからハンドルを握った。そして少しずつ車を動かしていく。

 

 車内は無言のままだったが、雰囲気は悪くはない。

 そう考えながら平塚は、再び車を千葉街道へと進めて行った。

 

 

***

 

 

 助手席に座る生徒の相談内容を考えながら車を走らせていると、ふと先程の通話を思い出した。

 苦笑とともに言葉が口から漏れる。

 

「それにしても、千葉の兄から『人生相談』を受けることになるとはな」

 

 その口調は楽しそうで、確かな親しみを感じさせるものだった。

 つられて思わず笑いを漏らすと、八幡も同じ調子で言葉を返す。

 

「エロゲーが好きすぎて辛いとか、男が言っても気持ち悪いだけですけどね」

「ふっ。それを千葉の妹が言うと『こんなに可愛いわけがない』になるのだから、不思議なものだな」

 

 しっかりと前を見据えて安全運転を続けている平塚のその横顔を眺めていると、気楽なラノベやアニメの話をもっと続けたいと思ってしまう。

 さっきまで重い話をしていたのだから尚更だ。

 

 そういえば、会話が捗らなかった昨日の部室で、八幡はふと思ったのだった。

 いっそ、気楽に過ごせるあの後輩のところに逃げてしまおうかと。

 それは甘美な誘いに思えたけれど、部外者にはなりたくないという想いが、これ以上は逃げたくないという想いが八幡を押しとどめた。

 

 気楽に過ごすのはいつでもできる。

 昨日もそう考えたからこそ、帰宅後も今日になっても悩み続けて、そして今に繋がったのだ。

 せっかく平塚が採点作業を中断してわざわざ自分のために時間を割いてくれているのだから、今さら逃げるわけにはいかない。

 

 意を決した八幡は、どんなふうに話を切り出そうかと少し頭を傾けたものの。この人の前では下手の考えなど意味が無いと思えたので、ひとつ深呼吸をした後で口を開いた。

 

「そういえば、先生はドライブ中には音楽をかけないんですか?」

「ん……いや、その辺りは気分次第だな。エンジンの音をじっくり聴きたい時もあるし、楽曲に耳を傾けたい時もあるさ」

 

 予想とは違う話だったからか、平塚は一瞬きょとんとして、すぐに率直な返事を口にした。

 その言葉に頷きながら八幡が話を続ける。

 

「えっと、この曲を流して欲しいとかって、ありですかね?」

「ふむ。ナビに取り込んだ曲ならこのパネルで簡単に検索できる。目当ての曲が無い場合でも、各種ストリーミング配信サービスを繋げたら車のスピーカーから聴けるはずだが……そちらはあまり使っていないのでね。君のほうが詳しいかもしれないな」

 

 広い交差点を左に曲がって、車は院内通りに入った。佐倉街道や本町通りを思わず目で追って、それから八幡は視線を手元に落とす。

 

 内装の邪魔にならないように控え目に備え付けられたタッチパネルを操作すると、すぐに意中の曲が見付かったので。「じゃあ」と意味のない言葉を呟いてから画面に触れて曲を再生した。

 すぐにギターのイントロが流れ始める。

 

「アジカンか。懐かしい曲だが……?」

 

 丁寧な運転を続けながら平塚が首を捻っている。

 それを視野の端で認識して、八幡は一瞬だけ息を止めると続けて口を開いた。

 

「これ、大サビの直前に『君の未来は霞んでしまった』って歌詞があるじゃないですか。その……会長選挙の後で、そこの部分が、こう、胸に響いたんですよね」

「なるほど……雪ノ下の事かね?」

 

 はっきりと名前を出されて、心臓が跳ねたような心地がした。

 さっきまでは普通に口にしていたのにこの反応とは、それだけ自分は今から話す内容に身構えているのだろう。

 

 そんなふうに我が身の現状を把握して、頭の中で二人の姿を思い浮かべて。

 それから八幡は慎重に言葉を選びながら話を続ける。

 

「はい。……たぶん雪ノ下は会長になりたいと思っていて、でもそれは由比ヶ浜と話してて気持ちの整理がついたんですよ。由比ヶ浜も一色も会長になりたいと思って選挙に出たんだから、仕方がないって。ただ雪ノ下には、会長になりたいって気持ちとは別の、動機というか理由もあったんじゃないかって。それが、俺のせいで……」

 

 運転席から伸びた手に頭をくしゃっと撫でられた。

 赤信号をじっと見つめながら、ちらちらと横目でこちらの様子を窺っている。

 

「……何から話したものか、難しいところだな。でも、迷った時ほどスタート地点が大切だ。だから訊きたいのだがね。君が今日、突然相談する気になった経緯を、教えてくれないか?」

 

 手を戻して車を慎重に動かしながら、平塚がそう告げた。

 触れられた部分をがしがしと軽く掻いてから口を開く。

 

「もしかしたら、もう手遅れかもしれないって思ったんですよ。試験期間だからって俺が逃げていた間に、全てが終わっちまったんじゃないかって。……例えばですけど、ぼっちとかカースト底辺とかって、何かしらの出来事を境に決まるわけじゃないですよね。何か原因があって、それから少し時間が経って、それで確定するって流れだと思うんですね。今になって気付いたんですけど、実は執行猶予の期間みたいなのがあって、その間に何とかしていれば状況は違ってたんだろうなって」

「ふむ……続けたまえ」

 

 教師の声に一つ頷いて、しかし八幡は話を続ける前にタッチパネルに手を伸ばした。アジカンの次はGRAPEVINEを、その次にはSUPERCARが流れるように設定してから言葉を出す。

 

「今までなら、手遅れだと思ったらそこで諦めてたんですけどね。状況が確定してしまったら、それを覆すのは不可能に近いって、これまでに何度も経験してきた事ですし。でも、もしまだ手遅れじゃないなら、あいつらと話がしたくて。さっきの志望校の話とかもだし、もっと色んな話をしたいって思うんですけど……どう言ったら良いのか分かんないんですよ。その、俺は、ぼっちだったから……」

 

 八幡が言い淀むと同時に新たな曲が流れ始めた。

 それを耳にした平塚が、落ち着いた口調で尋ねかける。

 

「この曲を連想して、『もう二度と届かない』のではないかと、思ったのかね?」

「いえ……それよりも、『イメージの違い』に気付けなかったなって。さっき言った雪ノ下の理由とか、あと、雪ノ下と由比ヶ浜が思い描いていた生徒会の形とか。そういうのに全く、気付けなくて」

 

 平塚の口から暖かい息が漏れる。

 口元に寂しさを感じながら、それを紛らわすように声を出した。

 

「君はある面では潔癖で、ある面では理想主義者で、あとは何だろうなぁ。全体的に青臭くはあるけれど、私はそういう君が好きだよ。だからこそ……貫き通して欲しいと、思ってしまうんだろうな」

 

 車は静かに千葉公園や競輪場の横を通り過ぎる。

 無言の車内にサビの歌詞が響いている。

 

「君はきっと、『理解りあったつもり』だけで済ませたくはないのだろう?」

「昔は、そう思ってました。……けど、完全に壊れてしまうよりはって、そんな弱気な事を思う時もたまにあって。周りとかを見ていると、余計にそんな感じになったりして。でもやっぱり違うと言うか、それは嫌だと思ったりして……」

 

 楽曲に耳を傾けながら、時おり思い出したように話を続ける。その繰り返しが心地よかった。

 車の微妙な振動と、教師の落ち着いた柔らかい声と、心に染みる楽曲と。

 今なら何を言っても許されると、そう思えたのはいつぶりだろうか。

 

「あいつらと話がしたいって、究極のところはそれだけなのに、なんで俺はそれが上手くできないんでしょうね。小町とかが簡単にやれてる事が、俺だとどうしてもできないんですよ。一色が相手なら簡単にできる事が、あの二人には何故だかできなくて。場の設け方も分からないし、話し始めの言葉も分からないし、どんな言葉が返ってくるかもどう返したら良いかも、何もかもが分からなくなって来て……」

 

 平塚の小さな相鎚を耳にしながら、まとまりのない言葉を口に出しては押し黙る。

 何だか世界に二人だけしか居ないみたいだなと考えていると、いつの間にか三曲目が始まっていた。

 

「選挙の結果が出る前に、『傷つけ合う前に』打ち明けられていたら、違ってたのかなって思ったりもして……なんか、『男らしさ』とかには程遠いですよね」

「君はそう言うがね、男の大半はそんなもんだよ。そもそも大人の大半からして、一皮剥けば情けない者が殆どだ。私も含めてね。皆それを必死に取り繕って何とか過ごしているだけで……だから、その手の悩みは君だけのものじゃないさ」

 

 そんなものかと心の中で繰り返しながらタッチパネルを眺める。

 もう曲の終わりが見えているのに、次のリクエストは決まっているのに、予約がまだ済んでいない。

 でも、ほんの僅かな距離だけど、自分が変な身動きをしたせいでこの雰囲気を壊してしまうのは嫌だと思ってしまった。

 

「夏休みにラーメン食べたじゃないですか。あの時に『孤独と自由はいつも』『抱き合わせ』だって話をしたの、けっこう頻繁に思い出してるんですよ」

 

 だから、ちょうど信号が赤になりそうなので、あわよくば代わりに操作してくれないかなと思いつつ話題を振ると。

 

「あの『ストレンジカメレオン』という曲は不思議な作品だな。最近はようやく知名度を高めているものの、当時はチャート圏内には程遠くてね。おそらく数千枚も売れていないだろう。でもpillowにとっては自分たちのことを等身大に歌った思い入れのある作品で、それがミスチルの共感を得るのだからな。片や数千枚、片や数百万枚という売上の差がある二つのバンドが、この曲の主人公に等しく想いを寄せるのだから……なんだか、君がよく言っていたトップカーストと底辺の関係を連想したくはならないかね?」

 

 たしか不倶戴天の敵だと話していた気がするんだけどなと思いつつ、言いたいことは解るので曖昧に頷いておいた。平塚が長々と語りたくなるような話を不用意に振ってしまった自分が悪いと考えながら、八幡がよっこいしょと身を起こそうとしたところ。

 

「ただ、個人的な好みを言えば……そうだな。有名どころだと、私は『スケアクロウ』のほうが好きだよ」

 

 そう言いながら平塚がささっとタッチパネルを操作すると、話題に出たばかりの曲が流れ始めた。

 信号が青に変わったので左折して国道に別れを告げると、そのまま文教通りを進んで行く。

 

「なあ、比企谷。さっき君は『周りとかを見ていると』と言っていたがね。他人なんてものを気にしたところで、『誰かが語った現実』なんぞに価値があると思うかね。それよりも、たとえ『かすかな灯り』でも、『儚くても幻でも』、君がその眼で見えるものを大切にして欲しいと私は思うよ」

 

 以前から知っている曲なのに、こんなにも胸に染みる作品だとは思っていなかった。

 平塚の言葉に深く頷きながら、しばし無言で楽曲の世界に浸る。

 

「曲を選びながら真面目な話をするというのは良いものだな。君のお陰で面白い可能性が見えたよ。次の曲は、ちょっとした警告のつもりで選んだのだがね。その次にフォローがあるから楽しみにしていたまえ」

 

 さっきの交差点で三曲も選曲していたとは予想外だったが、さすがは車の持ち主ということなのだろう。というか俺よりも楽しそうだよなと思いながら八幡がリラックスした心境で曲が始まるのを待っていると、ピアノを奏でる静かな音が車内に響いた。

 

「これって、たしかスキマスイッチでしたっけ?」

「ああ、『奏』という曲だよ。これの二番の歌詞にあるのだがね。誰かの『手を引くその役目』が君の『使命』だと、考えてはいなかったかね?」

「いや、それは……」

 

 軽い気持ちで否定しようとしたのに、言葉が続かなかった。

 それどころか、あの二人に対して何かしらの使命感を抱いていた自分に気付いてしまった。

 

 そして、だからこそ。

 そんな重苦しいものを背負わず気楽に過ごせるあの後輩のところに逃げてしまおうかという思い付きが、この上なく甘美な誘いに感じられたのだろう。

 

 言葉の続きを待っていた平塚がふぅと息を吐いてから、温和な表情で話し掛けてくる。

 

「君たちには伝えていない理由や動機が雪ノ下にあったとしても、その責任を君が背負い込むことは無いさ。それに、そんなことは雪ノ下本人も望んではいないだろう」

 

 でも、それだと自分の気持ちが収まらない。

 何故ならば、この曲の歌い手と同じように、俺は二人が……。

 

「おそらく、彼女らが君の前に『現れた日から』、何もかもが違って見えたんだろうな。それほどに、君たち三人の関係はぴたりとはまった。特別だったと言って良いのだろう。でもね、比企谷。幾つかの点で君はまちがっていると私は思うのだが……一つ訊こうか。君は雪ノ下が今のままでも良いと思っているかね?」

「いえ。良くないです」

 

 昨日の部室での様子を思い出して、そして選挙結果が出た日の姿を思い出して即答した。

 以前と何ら変わりが無いように見えるけれども、以前とは全く変わってしまったその姿を思い浮かべながら。

 

「そこは私も同感だ。だがね、いつか雪ノ下が自分で状況を打破できるかもしれない。いつか他の誰かが雪ノ下に踏み込んでくれるかもしれない。少なくとも、雪ノ下に踏み込むのは……たぶん、君じゃなくても良いんだよ」

 

 いずれの指摘もその通りだと思ってしまった。

 きっとあの頼れる部活仲間も同じようなことを考えているはずだ。

 

 部長様が自ら打破するか、それともあの同級生が機会を捉えて踏み込むのか。その二つの可能性を見据えているのだろうし、そのどちらかは、いつか必ず、叶う。

 あの二人と比べれば、自分の力など微々たるものだ。

 

 ……でも、それでも。

 きっと自分なんて不要だと、長年のぼっち思考で納得しようとしても。

 それでも、比企谷八幡は……。

 

「ただ、それでも踏み込みたいと君が望むのなら……その気持ちを貫いて欲しいと私は思うよ。きっと由比ヶ浜は、君と雪ノ下に踏み込むはずだ。雪ノ下がどうなろうと、大学がどこになろうと関係なしにね。だから後は、君と雪ノ下の決断次第なんだよ。この状況をまずは受け入れることだ」

 

 海の手前で道は左右に分かれていた。

 右折レーンに入って信号待ちをしている平塚にしっかりと頷きを示すと、にっと笑われた気がした。

 信号が変わって海浜大通りに入ると同時に曲が終わって、すぐに勢いの良いピアノの音が耳に届く。

 

「えっと……これって歌ってるのは、さっきと同じ?」

「私が言いたいことは、この曲のタイトルに尽きるよ。君が二人との関係を更に深めたいと思うのなら、全力で少年でいるべきなんだ。誰に何を言われようとも、今さら気にする君じゃなかったと私は思うのだが……違うかね?」

 

 そう言われれば、苦笑しながら過去形で答えるしかない。

 

「そういえば、そうでしたね」

 

 平然とぼっちをやっていた頃の強さは、きっともう自分には残っていない。

 けれども少しの弱さと引き替えに、八幡はあの二人という理由を得た。

 それを使命だと考えるのはまちがっているけれど、あの二人と向き合うという指針さえぶれなければ、あとは全力で少年たること以外に大事なことなんて何もない。

 

 そんなふうにして八幡が染み付いた孤独論理を拭い去ろうとしていると、車が橋の途中で静かに停まった。

 

 

***

 

 

 美浜大橋で車を停めて、歩道を指差してから無言で外に出た。

 訝しげな表情を浮かべながらも素直に外に出て来た教え子を欄干のほうへと追いやって、平塚はコートの右ポケットから缶コーヒーを二つ取り出すと。

 

「少し冷めているが、飲みたまえ」

「うおっ、と。いきなり投げられると……っつーか、これを買ってたから職員室とは逆側から歩いて来たんですね」

「理由のある行動に対しては、君は察しが良いな」

 

 苦笑を漏らしながら、敢えて含んだような言い回しで返す。

 果たして、真顔に戻った八幡が唇を尖らせるようにして話し始めた。

 

「ぼっちが長かったから他人の感情が解らないのか、それとも他人の感情が理解できなかったからぼっちになったのか。今となってはどっちが先か覚えてないですけどね」

 

「うむ。よく自己分析できている。感情が理解できないと思えてしまうからこそ、それを過剰に怖れたり、そんなものなど関係ないと破れかぶれになったりするのだろうな。それもまた、君がまちがっていた要因だと私は思うよ。でもね、比企谷。君はさっきSUPERCARの歌詞に重ねて『傷つけ合う前に』と言っていたけどね」

 

 そこで口を止めた平塚は缶コーヒーを一口含んで、八幡の眼を確認してから続きを述べる。

 

「誰かを大切に想うのなら、その誰かを傷つける覚悟をするべきなんだよ。それと、その相手から傷つけられる覚悟もね。……もちろん、それによって関係が破綻する時もある。お互いの事を想っているのに、想っているからこそ、手に入らない関係もある。それはとても悲しいことだし、自分の心のどこかに突き刺さったトゲのような形でいつまでも残っていく事になるのだけどね。……それでもそれは、きっと誇るべき事なんだよ」

 

 かつて、目の前の少年と同じぐらいの年齢だった時に、自分の周りにいた友人達のことを平塚は思い浮かべた。

 そのままそっと首を上に向けて、彼や彼女の姿を中空に映し出そうと試みる。

 夜空を背負った彼と彼女はあの時と何も変わっていなくて、昔と同じように平塚に向かって微笑みかけていた。微笑みかけてくれていた。

 

「なあ、比企谷。人の感情なんてあやふやなものでね。きっと今頃は笑っているだろうなと思っていた相手が悲嘆に暮れていたり、ともに悲しんでくれるだろうと思っていた相手に嗤われてしまったり、そんなのも珍しくはないけどね。考え過ぎて、色んな情報に振り回されて、自暴自棄になって失敗して。そういう事を繰り返しているとね、解ってくるんだよ。実は物事はシンプルだと」

 

 かつての友人達が、空想の中で頷いている気がしたから。

 自分の背中を押してくれている気がしたから、続きが言えた。

 大事な教え子の前で、恰好良い大人の姿を演じることができた。

 

「……結局のところ、大事なのはまず自分の心なんだ。その次に、相手の心だ。その二つを大切に扱えさえすれば、あとは行動あるのみだよ。そして……それでどんな結果が出たとしても、たとえ別々の道を歩むことになったとしても、それはきっと、それで良いんだよ」

 

 

 二人の間にしばし、無言の空気がそっと流れた。

 そのまま各々が物思いに耽る。

 

 もう一つ教え子に伝えておきたいことが残っているのだけれど。

 それはひとまず置いておいて、ここまで何とか話を持って行けたことに平塚がほっと胸をなで下ろしていると。

 

「なんか、今ちょっと……その、京都でビートルズの話をしたじゃないですか。『けいおん!』に出て来た楽器屋で、雪ノ下がギター持ってて」

 

 予想外の話が始まったので、さすがの平塚も眼をぱちぱちとさせる他には目立った反応が出来ないでいた。

 

 それを、続きを促されていると受け取ったのか。

 どう言ったものかと苦悩しながらも、それでも八幡は再び口を開いた。

 

「思ったんですけどね。その、俺が(When I find myself)こんな感じの時には(in times of trouble)、いつも平塚先生が来てくれて(comes to me.)。……修学旅行の時には、この曲に浸ってるおっさん連中が嫌いだって、そんな感じのことを言ってた気がするんですけどね。なんか今突然、”Let It Be”の良さが俺にも理解できた気がして……」

 

 それ以上は言葉を続けられなかった八幡が代わりに深々と頭を下げたので、かえって自分のほうが慌ててしまった。

 

「まずは頭を上げたまえ。それに、私が来たのではないだろう。()()()()相談をしに来てくれたんだ。君が行動に出たからこそ、私もそれに応えられる。そして……君がすべきことは、続けて私に応えることではないはずだ。では、何に応えるべきだと思うかね?」

 

 しどろもどろに陥りそうになりながらも何とか堪えてそう問い掛けると。

 

「……二人の、今までの行動に。今まで受け取った言葉に、応えようと思います。相変わらず、どうやってって部分は分かんないままですけどね。でも、俺の心はたぶん……二人に応えるって部分だけは、たぶんまちがってないと思うから」

 

「そうか……。なら、少しだけサービスだ。君の『たぶん』を消してあげよう」

 

 ようやく自分のペースを取り戻せたので、こんな形で最後の助言を伝える事にした。

 私を信頼しきった目つきで見つめられると少し照れくさいのだが、この子は時々こちらが恥ずかしくなるぐらい素直な時があるからなと思いながら平塚は続きを口にする。

 

「去年と比べると、君は随分と変わったな。もちろん良い方向にね。そして一学期と比べてみても、君は変わったと私は思うよ。二年になってからずっと、君は良い方向に変わり続けている。さて、ここで確認なのだがね。それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「えっ……でも、俺は……」

 

 絶句していた八幡が何かを言おうとする前に畳みかける。

 

「君が変われたのは、特別な出逢いがあったからだ。君がさっき自分で言っていたことだよ。この世界に巻き込まれる前に彼女らとの出逢いがあって、そして巻き込まれてからも幾つかの出逢いがあった。だから、それらは決して()()()()()()()()()()()()んだよ。出逢った相手のおかげだし、その出逢いを活かした君自身のおかげだと私は思うよ」

 

 本当に、そうなのだろうか。この環境のおかげじゃないのだろうか。

 眼の動きや口元の様子からそうした八幡の内心を推測して、平塚は言葉を続ける。

 

「だから、二人に応えるという行動は、今までずっと君がしてきた事だ。それをどうして、いきなり反故にする必要があるのかね?」

 

 最後は少し悪戯っぽい口調で締めくくった。

 視線の先では自慢の教え子が、少年らしい顔つきで笑っている。

 

「どうやって、なんて事は土壇場になればどうにでもなるさ。それに入念に準備をしても、この手の事にはあまり役には立たないからね。だから考えすぎないほうが良いと私は思うよ。それよりも、君の心だ。二人に応えたいと君が想うのなら、他に必要なのは、止め処ない血と汗……となみだを流せ!」

 

 平塚が思い付きの言葉を口走ったせいで、二人の頭の中でとあるゲーム*1の戦闘曲が流れ始める。

 予想外の昂揚感に身を浸しながら、二人はお互いをじっと見据えて、そして平塚が問いを発する。

 

「比企谷……とても大事な確認なのだがね。君の頭の中では今、()()()が流れているのかね?」

「……四魔貴族バトル1ですね。先生は?」

「……バトル2が至高だと私は思っているのでね。よろしい、ならば戦争だ」

 

 そんなわけで、橋の上ではこの上なくしょうもない論争が繰り広げられていた。

 何やら「貴様それでもドラマーか?」とか「バトル1のドラムも最高でしょ!」とか「むう、確かに」といった対話が続いているのでしばらくお待ち下さい。

 

「ごほん。すまない、思わず熱くなってしまったな」

「いえ、俺もなんかムキになってしまって……」

 

 クールダウンした二人はお互いを照れくさそうにちらちらと眺めながら缶コーヒーを飲み干して、それから黙って車に戻った。

 

 

***

 

 

「公園大通りで右に曲がって、それから君の家まで送り届けてあげようか」

 

 そう言って了承を得た平塚は、タッチパネルで選曲をしてから車を出した。

 先程の最後のやり取りは無かったことにしようと、二人の間では何も言わずとも同意が得られている。

 

 程なくして、ほんの子供の頃によく聴いた曲が流れ始めた。

 

「小さな頃には歌詞の意味がよく解らなかったのだがね。歳を取るほどに、この曲の歌詞が身に滲みるよ。なあ、比企谷。『旅に出る理由』があるのも、『手をふってはしばし別れる』という体験ができるのも、素敵なことだと思わないかね?」

 

 なぜ「別れ」という可能性を繰り返し提示するのか、これ以上の説明をする気は平塚には無い。既に伝えたことでもあるし、考えればすぐに解ることだからだ。

 

 しばらくの間、二人は曲を聴きながら無言で過ごした。

 車は順調に八幡の家へと近付いて行く。

 

「時々ふと疑問に思うんですけどね。この小沢健二の曲も、それからさっきまで流していた曲も、名曲ばっかだと思うんですけど……その、ありきたりな曲との違いって、どこにあるんでしょうね?」

 

 もう半年以上も前になるけれど、春先に抱いた疑問を八幡は考え続けていた。

 いったい何が、それらを分けているのだろうか。

 凡作や模造品や劣化作品といった偽物と……。

 

「本物に懸ける想いの違い……かもしれないな。今の自分にできることを最大限に引き出すために、考えて、もがいて、苦しんで、あがいて、悩んで……そこまでしても本物に至れる保証は無いがね。でも、そこまでしないと、それなりで終わってしまうのだと私は思うよ」

 

 その返事を心の中で吟味しながら窓の外を眺めていると、赤信号で車が停まった。

 タッチパネルに手を伸ばしかけた平塚が結局は何もしなかったので、曲が終わった車内には沈黙が重くのしかかっている。

 

「そういえば、さっき流した『スケアクロウ』は気に入ってくれたかね?」

「ええ、良い曲ですよね……あ。あの曲の主人公とか、そんな感じですよね。本物を求めてあがき続けているというか」

 

 なぜか、哀しそうな目つきをしていると思ってしまった。

 ただ、それは八幡に向けられたものではなくて。この人はずっと遠い彼方を眺めているのだと、そんな気がした。

 

 しばらく経ってから、ぼそぼそとした声が耳に届いた。

 

「選挙の結末に関しては、いちど君たちと一緒に話し合ったほうが良いのかもしれないな。君たちの話が落ち着いて、ゆっくり時間ができた時で良いから、声を掛けてくれないかね。自由について、君たちに教えておく必要がありそうだ」

 

 途中からは声こそ大きくなったものの、特に何でもないような口調で言われたので思わず聞き流すところだった。

 少しだけ首を傾げて、思い付いた疑問を口にする。

 

「自由って、孤独と抱き合わせだってさっき話題に出したやつですよね?」

「ああ……いや、それとは少し違う自由だよ。でも、その話はまた今度で良い。君は当面の課題に全力を尽くしたまえ」

 

 いつの間にか自宅の近くまで来ていた。

 車が停まったのでお礼を伝えようとしたら、平塚はもうドアを開けて車外に半身を乗り出している。

 

「先生が降りる必要って無いと思うんですけど……?」

 

 話し掛けているのか独り言なのか、自分でもよく判らないセリフを口にしながらシートベルトを外して外に出る。

 

 車を回り込んだ先では、平塚がコートのポケットに手を突っ込んで立っていた。コーヒーを二つ入れても平気なぐらいの、とても大きなポケットだ。

 

「かなり人を選ぶ作品なので、君に薦めて良いものか今でも悩んでいるのだがね。だが……君ならきっと、この小説を参考にできるだろう。合わないと思ったら途中で投げ出しても良いから、少しだけでも読んでみないかね?」

 

 そう言って平塚の左手が取り出したのは、二冊の文庫本。

 

「先生のお薦めなら、今夜にでもさっそく読みますよ」

 

 そう言って受け取ったのは上下巻からなる長編だった。

 作者の名は山本周五郎。そして作品の名前は「虚空遍歴」と書いてあった。

 

 

***

 

 

 走り去って行くスポーツカーを見送ってから自宅に入った。

 リビングの電気が完全に消えていたので、きっと妹はもう下りてくる気が無いのだろう。

 

「もう夜中ぐらいかと思ってたけど、そんなに時間が経ってないんだな。まあ通ったルートを振り返ると確かにこんなもんか」

 

 振り返ってみれば、つかの間と言えるぐらいの短い時間だったけれど、八幡は確かに指針を得た。あとは行動だけだ。

 

「まずは、この本を読んで……それから月曜のことを考えるか」

 

 ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを淹れて、それを持って自分の部屋に引き籠もる。

 蓋をしたマグカップをひとまず机の上に置いて、手早く部屋着に着替えると、八幡はベッドに寝そべりながら文庫本をぺらりと捲った。

 

 

 最初のうちこそ本名と芸名が順不同で出てくるので少し読みにくかったのだが、それほど登場人物が多くなかったのですぐに慣れた。それよりも、問題は。

 

「先行きが暗いな……。つか裏表紙のあらすじを見る限り、もっと酷くなりそうなんだが」

 

 主人公が才能に恵まれているのは明らかだったし、失敗に繋がる行動はいずれも納得できるものだった。それをしたら駄目だと思いつつも、そうしたくなる気持ちも解るなと、読みながら思わず溜息が漏れてくる。

 

「引き込まれるけど、これ、爽快なエンタメ要素とかは皆無だよな。平塚先生が躊躇するのも納得っつーか。昭和の時代ならともかく、今となっては大多数にはお薦めできない作品だろ」

 

 けれども、ごく一部には。

 焦がれるほどに何かを心底から追い求めるような連中には。

 太陽に少しでも近付きたくて、結果ロウで固めた翼を溶かしてしまうような奴らには。

 

「なあ。これ、最後には報われるんだよな。下巻のあらすじが更にやばい感じだし、もう夜中なんだけど……くそっ。ここで終われるわけねーよなあ……」

 

 だからマグカップのコーヒーをがぶ飲みして続きを読んだ。

 

 下巻での失敗は、もう目も当てられないものだった。もはや気持ちが解るなんてお世辞でも言えないレベルだったけれど、ただ主人公が焦る気持ちだけは理解できた。そして、そんなにしてまで追い求め続けたものの事も。

 

 それでも。

 

『失敗することは本物に近づくもっともよい階段なんだよ*2

 

 これほどまでに失敗が目に見えた状況で、こんなことを言って欲しくはなかった。

 八幡がずっと考え続けてきて、心の奥底ではずっと求め続けてきたものを、この主人公にはこんなふうに軽く扱って欲しくなかった。

 

「もしも、俺だったら……」

 

 そう何度も呟きながら、八幡は主人公のなれの果てを見届けるために作品を読み進めていく。

 

 待ち合わせ場所にへべれけ状態で向かって、そこでも酒を要求して大失敗した場面では、さすがに目を背けたくなった。もうどう考えても再起の道は無い。それでも、八幡は最後まで読み続けた。

 

 

 読み終えて顔を上げると、窓の外が少し明るくなっていた。

 

 空のマグカップを持ってリビングに下りた八幡は、淹れなおした温かいコーヒーを半分ぐらい一気に飲んで、それから簡単なサンドイッチを作ってそれを半分食べた。

 残った半分にはラップをかけて、お皿の横には妹へのメッセージを残しておく。

 

『小町へ。本を読んでて徹夜したから昼まで寝る』

 

 続けて今の時刻と自分の名前を書いてから、少し迷った末に追伸を加えた。

 

『たぶん近日中に、修学旅行からのあれこれを話せるようになると思う。小町が聞いてくれると助かる』

 

 勉強の邪魔にはならないようにするからとか、色々と書き加えたい事はあったのだけど、妹とは長い付き合いだ。これで通じるし、これ以上は必要ないとそう思えた。

 

 

 部屋に戻って、布団の中でぞもぞと身体を動かしていると独り言が漏れた。

 

「結果を重視する読み手には厳しい作品だったよな。けど……気持ちが据わった気がするな」

 

 指針も得たし、心の落ち着きも得られた。

 ひとまず寝て起きて、それから行動だなと考えていた八幡を、睡魔が静かに包み込んだ。

 

 

***

 

 

 日曜日の昼下がりに、二人の女子生徒のもとにメッセージが届いた。

 

 そしてその日の夕方、ようやく採点作業を終えた平塚の耳に、着信を知らせる音が響いた。

 

 

*1
「血と汗となみだを流せ!」とは、スクウェア・エニックスから1995年に発売されたRPG「ロマンシング サ・ガ3」に登場する四魔貴族が一人・魔戦士公アラケスのセリフ。

*2
平成20年改版・新潮文庫「虚空遍歴(下)」p.283より。




今年の更新はこれで最後です。
時間の余裕が無いのは来年も変わらないと思いますが、とにかく完結を目指して頑張ります。

来年が皆様にとって良い年になりますように。
今後ともよろしくお願い致します。

次回は月の半ば頃になると思います。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
地の文で雪ノ下と書いてしまった箇所を訂正して脚注を一つ加え、細かな表現を修正しました。(12/28)


以下、作中で扱う他作品について少し書かせて頂きます。
興味のない方はここで引き返して下さい。

なぜ他作品を出すのか、という問いには「必要だから」と答えるしか無いのですが。
なぜその作品なのか、という問いに答えるのはなかなか難しいものです。

例えば「幽☆遊☆白書」(1990年-1994年)は古い作品ですが、原作で何度も(14巻でも)ネタにされているので、この作品に登場させる時にも気が楽でした。

それに対して、原作には登場しない作品を扱う時は今でも少し緊張します。

なので一つの基準として、各キャラの性格と年代(1巻が発売された2011年頃)を考慮した時に、そのキャラが知っていても不思議ではない作品という縛りを入れています。

とはいえ、そこを厳密にするよりも作中の展開に合った作品(上記の「必要だから」という条件)を優先すべきだと思うので、緩い縛りに留まっています。

で、本題なのですが。

仮想世界を構築する際に参考にした三作品は別として、他の作品はおおむね以上のような基準に従って選んでいます。

つまり、作者の好みは実はさほど重要ではなくて、本作を書く事がなければ知らなかったような作品もわりと頻繁にネタにしています。

でも何事にも例外はあるもので、三つの作品だけは作者のごり押しで登場させました。

一つ目は、原作6巻最終話の後書きでも紹介した、ホセ・オルテガ・イ・ガセット「大衆の反逆」 です。私が6巻を読みながら、それから9巻の後に出た6.5巻を読みながら、強く連想したのがこの作品だったからです。

二つ目は、本話で登場する山本周五郎「虚空遍歴」です。9巻で平塚が求めたその究極がこの作品だと思ったからです。作中にある通り万人に薦められる作品ではないですが、刺さる人にはとことん刺さる作品だと思います。

三つ目は、8巻を読み終えた時に私が連想した作品です。近々登場するので詳しくはその時にって感じですが、わかる人には既にバレバレな気がします。

そしてごり押しの理由ですが、原作を読みながらこれらの作品を(特に本話に登場する「虚空遍歴」を)連想しなければ、私が「俺ガイル」を特別に想うことも、二次作品に興味を持つことも、自分で作品を書くことも無かったと思うからです。

だから私が一番好きなのは9巻だし、一番好きなセリフは「たぶん、君でなくても本当はいいんだ」だし、本話を書くのが楽しみなのと同時に書くのが怖いとも思っていたので、書き終えた勢いのままにこうした気持ちを書かせて頂きました。

以上、私の長話に付き合って下さってありがとうございました。


追記。
本作で取り上げた作品は以下の通りです。

・ASIAN KUNG-FU GENERATION「ループ&ループ」(2004年)
・GRAPEVINE「光について」(1999年)
・SUPERCAR「Lucky」(1997年)
・the pillows「ストレンジカメレオン」(1996年)、「スケアクロウ」(2007年)
・スキマスイッチ「奏」(2004年)、「全力少年」(2005年)
・The Beatles「Let It Be」(1970年)
・伊藤賢治「四魔貴族バトル1」「四魔貴族バトル2」(1995年)
・小沢健二「僕らが旅に出る理由」(1994年)
・山本周五郎「虚空遍歴」(1963年)


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04.かりそめの一時が彼女に躁急な覚悟をもたらす。

ご挨拶が遅くなりましたが、今年もよろしくお願い致します。

文字数が嵩んだので、途中の箇所まで飛べるリンクを設けました。
場面転換で使用している「*」は通常は三つですが、それを五つに増やして目印としました。
・後半に飛ぶ。→163p1

以下、前回のあらすじ。

 土曜日の夕食時なので教室は避けて、平塚が運転する車の中で話をすることになった。
 八幡は期末の数学の結果を知らされて、続けて進学に関する助言を貰った。

 本題をどう切り出そうかと思い悩んだ八幡は車内で曲を流す許可を得ると、それらの楽曲に事寄せて少しずつ胸の内を明かしていく。
 教え子の悩みを受け止めた平塚は、先達として幾つかの助言を口にする。過去の友人達を思い浮かべながら伝えるべき事を伝え終えた平塚は、最後まで恰好良い大人の姿を保ち続けた。

 恩師との話から指針を得て、薦められた小説を読み切ることで覚悟が定まった八幡は、翌日の昼下がりに部活仲間の二人に向けてメッセージを送る。
 その夕方、平塚のもとに着信が届いた。



 テスト明けの金曜日にマンションに帰ってきてから日曜日の正午に至るまで、雪ノ下雪乃は一歩も外に出ず週末を過ごしていた。

 とはいえそれは、期末試験を目前に控えた一週間前と同じだと言えばその通りではある。

 

「年末までは特別講習が主だから、予習をする必要は無いのだけれど。そのぶん演習に時間を割きたいので、家のことはお願いするわね」

 

 早めの昼食を終えた雪ノ下は、夏に雇い入れた元メイドカフェの店員さんにそう言い渡して自室に引き籠もると、机に問題集とノートを広げて休みなく手を動かしていた。

 それが急にぴたりと止まる。

 

「……駄目ね。簡単な問題だと機械的に手を動かすだけで解けてしまうし。難度の高い問題だと、頭が働いていないのが丸分かりね」

 

 自嘲気味にそう呟く前に、首を動かして背後を確認してしまった自分が恨めしい。

 それに加えて、わざわざ口に出さないと感情を処理できない今の自分が情けない。

 

「ふう……。仕方が無いわね。少し現状を整理して、それから……」

 

 そう口にしながらノート類と筆記具を机の隅へと追いやった雪ノ下は、ぴんと背筋を伸ばして椅子に深く腰掛けてから静かに物思いに沈んでいく。

 

 

 幼い頃から、雪ノ下は大人に囲まれて過ごして来た。

 父の会社の社員から現場の作業員の人たちまで。そして建築設計の依頼主から税理士や弁護士といった専門職とその家族まで、多種多様な顔ぶれが自宅に頻繁に招かれていたからだ。

 

 その傾向は、父が県議会議員に当選すると一気に加速した。

 

 密かに政治への野心を抱いていた父は、地元の人々から懇願される形で立候補して予想外の大差で当選を果たした後も、支援者を一人たりとも邪険に扱わなかった。それと平行して、新たな交友関係も積極的に広げていった。

 

 とはいえ家族のような雰囲気さえあった建築業界の付き合いと比べると、政治絡みの付き合いは多分に打算的な印象を受けた。

 まだ幼かった自分が気付くぐらいだから、父も随分と苦労をしたのだろう。

 

 政治絡みの会合はなるべく外で済ませようとしていたみたいだが、売り出し中の若手実力派議員が「自宅に招くほどの仲」という肩書きを欲する人は後を絶たなかった。内実のない上辺だけの肩書きだが、そんな曖昧な関係性が意外なほどに頼りになるのが政治という世界の常識らしい。

 

 子供にすら値踏みをするような目を向けるのは政治家に限った話では無いのだけれど、当時はそれが分からなかった。実は建築業界の客人たちは父が相当に厳選していたのだと、最近になってようやく親の配慮に思い至った。

 

 おそらく職業による選別は行われていないと思う。それよりも子供に悪影響を及ぼす性格の者は(それと、女だてらに等々と()()()や自分たち姉妹を見下すような輩は)徹底的に避けるようにと気を使ってくれた感じがする。

 

 けれども父のそうした気遣いも、政治の世界に棲む人たちが相手では意味が無かった。

 

 自らの利になる事ならどんなに些細なことでも見逃さないし、議員職に留まり続けるためなら文字通り何でもやるのが政治家という人種だった。と言うと少しだけ語弊があるのだけれど、そこまで割り切れる性格でなければ生き馬の目を抜くような業界ではやって行けないのだと、後に父が落選の危機に陥った際に自分たちにも理解できた。

 

 そんなわけで、油断のならない大人が周囲にひしめいている状況が日常になった。

 

 姉はそんな環境にもすぐに適応したし、自分もじきに慣れた。彼らが期待する「子供らしくて大人しい」(言葉にしてみると何と馬鹿げた要求なのかと思ってしまうのだけれど)姿を演じながら内心で彼らを見下していると、かすかな愉悦を覚える時さえあった。

 

 だから、いつも通りに振る舞うなんて、私には造作もない事だと思うのだけれど。

 あの二人の期待に応えるべく、以前と何ら変わらぬ姿を心掛けているのだけれど。

 

 どうして私はそれを拒みたいと、時おり思ってしまうのだろう。

 ()()()()()()()()()()()()なるには、どうすればいいのだろう。

 

 わからないという想いは、あの会長選挙の日からずっと胸の中で燻っている。

 でも……。

 

 

「ひゃっ!?」

 

 メッセージの着信音がやけに大きく聞こえたので、思わず変な声を出してしまった。

 反射的に背後を振り返って、ドア越しにメイドさんの気配を探る。

 

 しばらく経っても何も感じなかったので、どうやら聞かれずに済んだようだと胸をなで下ろしながら、届いたばかりのメッセージに目を通した。

 

「比企谷くんが話をしたいとこのタイミングで言い出すとはね。二人の関係は、既に判り切ってはいるのだけれど。いつかは報告を受けなければならないのだし……」

 

 仕方がない、と続けようとしたのだけれど。

 その言葉はどうしても口から出て来てくれなかった。

 また一つ、わからない事が増えてしまった。

 

「わからないものは、わからない。そんなふうに先送りを続けたところで、わかる日なんて来るのかしら?」

 

 いっそ誰かに相談できたらと、試験期間中にも何度も思った。

 でも、あの二人は当事者だし、姉も幼なじみも御免被りたい。

 

 そもそも私は、警戒しないといけない事を抱えているから。

 だから独りで解決するしかないと、思っていたのだけれど。

 

『何かあれば遠慮なく相談したまえ』

 

 月曜日には間違いなく、三人の関係性が一変する。

 そんな追い込まれた状況ゆえにか、金曜日に部室で告げられた言葉がふと脳裏に蘇った。

 

 そういえば、あの先生は修学旅行の三日目の夜にもロビーで私を迎えてくれた。

 そして「酒が入っているから付き添ってくれると助かる」なんて口実まで用意して、私を大浴場へと誘ってくれたのだ。

 

 あの時に、手のかかる親戚のお姉さんみたいだと思わず苦笑を漏らしたことを雪ノ下は思い出す。

 そんな側面があるからこそ、あの顧問は憎めない。だから頼り切りになる心配もない。姉がかつて言った「もっとひどい何か」に変貌するのではないかと身構える必要がないのだ。

 

「不安がないと言えば嘘になるのだけれど。まずは気持ちを立て直して、それから……平塚先生と連絡を取ってみようかしら」

 

 ためらいがちのその口ぶりとは裏腹に、既に腹は決まっている。

 だから雪ノ下は淀みなく動き始めた。

 気持ちを立て直すために手早くブラウザを立ち上げて、お気に入りの動画集を読み込ませる。

 

「にゃー、にゃ、にゃー♪」

 

 机に向かって姿勢を正して超真剣な顔つきで画面をしっかと睨み付けるスレンダー美人の口元から、時々奇声が漏れてくる。

 

 それを廊下から小一時間ほど堪能したメイドさんは静かに私室の扉を開けると、抜き足差し足で部屋の主へと近付いて行き。

 

「ひゃっ!?」

「はぅっ!?」

 

 重度の猫化状態にあった女子高生の両肩を、謎めいた呟きとともにがしっと掴むと、可愛らしい雇い主は新たな奇声を聞かせてくれた。

 

 この後めちゃくちゃ怒られました。

 

 

***

 

 

 反射的に時刻を確認してから、発信者の表示に目をやった。

 期待した通りの名前が目に飛び込んで来たので思わず頬を緩めてしまった平塚静は、一呼吸置いてから着信を受ける。

 

「君から連絡が来るとは珍しいな。どうしたのかね?」

 

 少し悪戯心が湧いたので、昨日と全く同じセリフを口にしてみたところ。

 

「いえ……部活の報告や依頼の話など、平塚先生への連絡は珍しくないと思うのですが?」

「い、いや……今日はそうした事務的な話ではないのだろう?」

 

 こちらに不審の目を向ける教え子の姿をありありと思い浮かべてしまい、慌ててごまかす平塚だった。

 

「なるほど。先生にはお見通しですね。実は、少し相談に乗って頂ければと思いまして」

「う、うむ。君が私に相談とは、望むところだよ」

 

 苦しい言い訳を真っ正直に受け止められると後ろめたさが半端ない。

 相談を持ちかけているのは向こうなのに、何故か居丈高な気配すら漂って来る。

 そんな二つの理由から、期待には全身全霊で応えるからなと心の中で呟きながらそう伝えると。

 

「その、できれば直接お目にかかって話をしたいと思うのですが」

「ああ、問題ないよ。私は今は高校でね。採点が終わったのでそろそろ帰ろうかと思っていたところなのだが……。君のマンションまで迎えに行くから、お姫様はこっそり部屋を抜け出してエントランスまで下りて来てくれるかね?」

 

 この冗談は功を奏したみたいで、ふっと息を漏らす音に続けて弾む口調が耳に届いた。相談事を抱えているとはとても思えないような声色だ。

 

「では、エスコートをお願いしますね。ドレスアップの時間を少々頂けると嬉しいのですが?」

「君は私に散財させる気かね。風が強いので暖かくして動きやすい服装で出て来たまえ」

「それなら正装でお待ちしていますね。では後ほど」

 

 おいちょっと待ちたまえと口にする前に通話が切れた。

 

 気持ちの立て直しをやり過ぎた上に、さんざっぱらメイドさんにからかわれたので妙な精神状態に陥っていた、なんて事は思い付けるわけもなく。いつもと様子が違いすぎたので、もしや姉妹を間違えたかと思わず確認してしまった平塚だったが。

 

「そういえば、君もいたずら好きな側面を持ち合わせていたな」

 

 芝居っ気たっぷりの声で、赤の女王のセリフを披露したり。

 バーテンダーの話を急に持ち出して私を陥れようとしたり。

 

 思い返せば、私をぞんざいに扱う点では姉と遜色なかったような……。

 

「それを許せてしまうのは、私にとってあの子たちが特別だからだろうな」

 

 苦笑しながら自分の正直な気持ちを言葉に変えて、平塚は静かに立ち上がった。

 そして手早く帰り仕度を済ませると駐車場へと足を向ける。

 

 愛車のトランクをちらりと見やって、今日も頼むぞとピラーの辺りをこんこんとノックしてから、平塚は運転席に滑り込んだ。

 

 

***

 

 

 昨日と同じように海浜大通りから公園大通りへと車を走らせた平塚はすぐに右折と左折を繰り返して、そこからぐるっと迂回するルートで雪ノ下のマンションに辿り着いた。

 そのまま敷地内に入って来客用の駐車場に車を停める。

 

「到着の連絡をして……と。では、お姫様をお迎えに参りますかね」

 

 気のせいか、今のは彼みたいな口ぶりだったなと。昨日相談に乗った教え子を思い浮かべながら、苦笑まじりにエントランスへと足を向ける。

 

 ほんの数段だけの階段を上って自動ドアを抜けると、そこにはオートロックとインターホンが控えていた。

 駐車場から連絡せずに、これを鳴らしてロビーで待てば良かったかと。平塚がそんなことを考えていると、目の前の自動ドアが静かに開いた。

 

「お待たせしましたか?」

「いや、今来たところだよ。ふむ……君には正装がよく似合うな。素材が良い証拠だよ」

 

 制服の上にコートを着てマフラーを首に巻いた雪ノ下の姿を見てしまうと、からかわれたと判っても怒る気持ちが湧いて来ない。

 

 高校生で正装と言えば学生服に決まっているのに、何の疑いもなく上質のドレスを想像してしまったのは早とちりだったなと内心では苦笑しながら。平塚はそれをおくびにも出さずに真顔で教え子の容姿を褒めた。

 そして静かに手を差し伸べる。

 

「ありがとうございます。今の先生は、まるでJoe Bradleyのようですね」

 

 お礼の言葉とともに一瞬だけ手を触れさせて。品良く頷くとすぐに手を引っ込めた雪ノ下の戯れ言に乗っかる形で、平塚も会話を続ける。

 

「ふっ。ではジェラートをお召し上がりになりますか、プリンセス・アン?」

「ローマまで行くとなれば、本当に散財させてしまいますね。休日もあと僅かですし、またの機会とさせて下さい」

「では、私の車までご案内いたしましょう」

「どこに連れて行って下さるのか、とても楽しみですわ」

「お姫様に喜んで頂けるような夜景を用意しております」

 

 どうしてこの教え子は今日はこんなにノリが良いのだろうかとこっそり首を傾げながら。

 それでも、こうしたやり取りが嫌いではない平塚は存分にホスト役を演じながら駐車場へと辿り着くと、助手席のドアを開いて雪ノ下を愛車に招き入れた。

 

 

 マンションを後にした平塚は少しだけ京葉線と併走してから公園大通りを右に曲がると、湾岸千葉インターチェンジを目指した。そこから東関東自動車道に車を乗り入れる。

 

「高速……アクアラインですか?」

 

「御名答だな。料金が大幅に引き下げられてから*1、海ほたるに行きたいとずっと思っていたのに、なかなか果たせなくてね。私としてはこの機会を逃したくないのだが、それで良いかね。相談は車内でも着いてからでもどちらでも大丈夫だから、安心したまえ」

 

 車に乗った時を境にぴたりと口を閉ざしてしまった雪ノ下の様子から、相談事をどう切り出したものか思い悩んでいるのだろうと見当を付けていたので。

 勘の良い問い掛けをこれ幸いと、平塚は自らの意図を口にした。

 

「ええ……助かります」

 

 口ごもった末にそんな答えが返って来た。

 先程のノリの良さは、意識的に気持ちを盛り上げていた部分もあったのだろうなと考えながら。もう少し力みを取ったほうが良さそうので、平塚は昨日の成功体験を思い出しつつ口を開く。

 

「なにか音楽でもかけるかね?」

「いえ……あ、そうですね。何がありますか?」

「ふむ。君は洋楽を好んでいたと思うのだが、古いものだとビートルズやカーペンターズあたりだな。新しめのものでも90年代のブリットポップぐらいが限度だから、少し厳しいか?」

 

 提案しておいてこの返事なのは何だか情けない気もするけれど、雑談の糸口が掴めたと前向きに捉える事にして返事を待っていると。

 

「なるほど。……その、BeatlesやCarpentersには思い入れがあるので聴き入ってしまいそうですし、今日は遠慮させて下さい。90年代なら、OASISとかRadioheadはありますか?」

「どちらも三枚目のアルバムまでは入っていたはずだが……少し意外だな。世代が違うのではないかと思っていたのだがね」

 

 京葉道路の走行車線を無理のない速度で走らせながら、少し背伸びをするような気持ちで洋楽に手を出し始めていた当時の自分を懐かしく思った。あれからもう十年以上が経っていると言われても、にわかには信じがたい気持ちになる。

 

「両方とも初めて聴いたのがベストアルバムなので、世代が違うと言えばその通りですね。オリジナルアルバムも後追いでは聴きましたし、OASISの二枚目やRadioheadの二枚目・三枚目は私も好きなのですが、今聴きたいのは違う曲なので……」

 

「私が言い出しておいて何だか、無理にかけなくても良いさ。それよりも、君が好きな曲の話をもう少し聞きたいものだな」

 

 そう伝えてみたのだが、逆に気を使われたみたいで。平塚も知っている初期の楽曲を例に挙げて、どんなところが好きなのかを話してくれた。

 最近の曲も聴いておけば良かったと少しだけ悔やむ気持ちが浮かんだものの、かつて聴き込んだ曲の話を語り合っているとついつい夢中になってしまった。

 

 

「なるほどなあ。でも、初めて聴いたのがベストなら……留学前には洋楽を聴く習慣は無かったという事かね?」

 

 気を取り直して、そして雑談を挟んだ今なら大丈夫だろうと思えたので、平塚は少しだけ踏み込むことにした。

 

 ほんの一瞬だけ、はっと息を呑む気配を感じたものの。

 すぐに今まで通りの口調で返事があった。

 

「家の方針でテレビは国営放送だけでしたし、ラジオを聴く習慣も無かったので……。教本に載っていた作品とか、親が聴いていた古い洋楽ぐらいですね。国内のヒット曲なら、街中で流れているのを耳にする機会も多かったのですが」

 

「ふむ。……留学先では環境が一変したという事かね?」

 

 慎重に言葉を選んだつもりが、助手席からは苦笑が返ってきた。

 

「どんな曲を聴くのか以上に、色んな環境が変わってしまったので……。でも、そうですね。たしかに留学前後で音楽の聴き方も変わりました」

「中学生で大したものだと私は思うよ。それにその口調だと、概ね良い変化だったと考えて良さそうだな」

 

 不用意な発言を詫びるよりも、素直に称賛の言葉を伝えることにした。

 それに続けて、今度は失言を覚悟でそう口にすると。

 

「当初は大変でしたが、最後には何とか……少なくとも、前向きな気持ちで帰国できるぐらいにはなりました。ホストのご夫婦は父の古い友人なのですが、父よりも一回り上の世代で、とても良くして頂きました。父自身も頻繁に訪ねて来てくれて……おそらく罪滅ぼしという気持ちもあったのだと思いますが、おかげで何とか乗り切れました」

 

 不穏な言葉が耳に届いたので、掘り下げて良いものかと悩んでいると。

 こちらの気配を察したのか、雪ノ下が言葉を続けた。

 

「父が議員になってからは、色んな事があったので……。家族への気遣いという点で、父は最大限の配慮をしてくれたのですが、それにも限界がありました。それを誰よりも解っているのに、それを誰よりも許せなくて。大人になっても、男の人でも、あんなに悔しそうに泣くんだなと。それが、強く印象に残っています」

 

 ゆっくりと何度か首を縦に動かしてから、静かに平塚は口を開く。

 

「古風な考え方かもしれないがね。男が真剣に涙を流す時には、ただ寄り添えば良いのか、それとも力強く励ませば良いのか、あるいは問題の根本を解決するために積極的に協力すれば良いのか……女としてどれが正解なのかと考え込んでしまうよ。ジェンダーフリーなんて言葉が飛び交うこのご時世でも、どんなふうに男を支えれば良いのかと悩んでしまうのだから、我ながら困ったものだな」

 

「おそらく父は、そんなふうに悩ませたくないとずっと我慢していたからこそ……異国で娘を前にして、ぽろっと涙が出てしまったのでしょうね。一度流してしまったら、それを止めるのは大変そうでしたよ」

 

 くくっと、失礼ながら喉から笑いが漏れてしまった。

 助手席のお姫様が同じ気持ちなのを肌で感じ取りながら、思ったままの感想を伝える。

 

「君はその時に、父親を『可愛い』と思ったのではないかね。もしも血の繋がりがなければ、おそらく『愛おしい』と感じたはずだ。私はね、そんな時には自分がどうしようもなく女なのだと思えてしまう。だからこそ、他の何にも増して、男の涙はずるいと私は思うよ」

 

「それは私も同感ですが……先生の場合は、泣きわめく類いの情けない涙でも情に絆されそうなので少し心配ですね。そういえば、駄目な男に引っ掛かるのではないかと姉も気に掛けていましたよ。そうなったら相手の男を遠慮なくぶちのめせると、そんな物騒な物言いでしたが」

 

 どう考えても、私の心配よりも己の気分発散という目的が先に立っている気がするのだが。

 あの教え子にはよくある事なので深くは考えまいと思っていると。

 

「でも……言っている事は無茶苦茶ですが、姉のそうした簡潔明瞭な姿勢は羨ましいと思う時もありますね。それと父の、涙を流して後悔してなお議員を辞めるとは決して考えない辺りも、身内びいきかもしれませんが凄いものだと思います」

 

 続けて語られた雪ノ下の言葉に、切り込むなら今だと促されたような気がしたので。

 館山自動車道でも安全運転を続けながら、平塚は口を開く。

 

「自分は姉や父とは違うと……君はそんなふうに悩んでいるのではないかね?」

 

 

 しんと車内が静まり返る音が、たしかに聞こえた。

 助手席で瞬時に身を固くして、それでも何とか口を開こうと試みているのが感じ取れたので、平塚は黙ってそれを待った。

 

 やがて、小さな声ではあるけれども不思議に耳に馴染む話し方で、雪ノ下が少しずつ言葉を口にする。

 

「それは、今の時点では、直接の悩みではないのですが……どちらかと言えば、根本的な悩みかもしれませんね」

 

 いったん口を閉ざした雪ノ下は、長い間を置いてから言葉を続けた。

 

「どうして私は、父や姉のように……。()()()()()()()()()()()()なるにはどうすれば良いのだろうと。簡単に解決できる問題ではないと解っては居るのですが、それが私の相談したかった事ですね」

 

 ふむふむと頷きを何度か繰り返しながら、現れては消えて行く道路脇の標識を見るとはなしに眺める。

 先に()()()の話を広げるべきかと、少しだけ迷ったけれども。現時点でのメインディッシュは明らかなので、そちらは後回しだと腹を決めた。

 

「答えたくないなら正直にそう言って欲しいのだがね。君は、母親のようになりたいとは思わないのかね?」

「はい。……()()()にも事情があるのは百も承知なのですが。それでも、それを呑み込めてしまえるほど、私は大人にはなれないのです。あるいは……達観したくない、と言うほうが、より近いかもしれませんね」

 

 即答を受けても、平塚は意外だとは思わなかった。

 だから、かすかに蘇る苦い記憶を意思の力で押しとどめて、つとめて落ち着いた口調を心掛けながら今の気持ちを伝えることにする。

 

「なるほど。君の口ぶりからは後ろ向きの姿勢を感じないし、それならそれで良いのではないかね。人と人との関係はお互い様だからな。こちらばかりが歩み寄る必要は無いさ」

「そう言って頂けると……」

「先ほど君が口にした『前向きな気持ちで帰国できるぐらいに』とは、言い得て妙だと私は思うよ」

 

 言葉をかぶせるようにしてそう言い切ると、素知らぬ顔をして道路の先を見据えた。

 手酷い反撃が来るのではないかと内心では冷や冷やだったけれど、幸いにしてお姫様の口調は柔らかい。

 

「先生がそんな事ばかりを仰る方なら、こうして相談できなかったでしょうね。もっとも、密かに冷や汗を流すだけが取り柄の頼りない教師であれば、それはそれで相談できなかったと思うのですが」

 

 警戒心の強さと面倒見の良さが共存する雪ノ下ならではの捻くれた物言いを耳にして、思わず頬が緩む。昨日の教え子とはまた違った捻くれ具合が、とても微笑ましいと思ってしまった。

 だから平塚は、自然な口調で伝えることができた。

 

「私はね、雪ノ下。君と比企谷を引き合わせて、そこに由比ヶ浜も参加してくれて、本当に良かったと心から思うよ」

 

 

 その言葉が耳に届くと同時に、急に半年ほど前の記憶を思い出した。

 

『始め方が正しくなくても、だからって全部が嘘とか偽物じゃないって、あたしは思うんだ』

 

 自分たち三人の関係は、実は事故を契機に始まっていた。

 そして何事も無ければ、きっと始め方も終わり方も全てがまちがったままで、関係が途切れていたはずだ。

 

 この人が、あの部室に二人を連れて来てくれたから。

 だからまた、始めることができた。

 

『間違った始まり方をしたのなら、また新しく関係を作っていけば良いと思うわ』

 

 二人にそう告げた時には、この言葉の重みが理解できていなかった。

 けれど今の私にとって、あの発言は指針とすら言えるのではないか。

 

 報告から逃げ続けるような、そんな有り様は絶対にまちがっている。

 それよりも私は、私達三人は、また新たな関係を考えるべきなのだ。

 

 ならば、涼しい顔を取り繕っている運転席の恩師にはこう答えよう。

 

「それなら、これからもそう思って頂けるように、頑張らないといけませんね」

 

 

 脳の大部分が活動を止めているのではないかとすら思えたこの土日だったが、頭の中の色んな回路が急に活発になったのが自分でも分かる。

 

 さて、まずは問題を切り分けよう。

 

 私にとって目下一番の問題とは?

 すなわち、修学旅行の最終日と、選挙期間の最終日と、どちらが?

 即答できる。考えるまでもなく後者だ。

 

 それは何故?

 三人の関係が変化することよりも、永久に何かを諦めなければならないことよりも、私には耐えられないことがある。

 それは自分が、よりによってこの私が、二人の足手まといになることだ。

 

 それは何故?

 だって、私は負けず嫌いだから。

 だから、二人に劣った自分という結果を、何の言い訳もできない状況で突き付けられて、それを直視できなかった。

 だから、悔しいとすら思えなかった。

 

 家族が相手の時には年齢とか、他にも身内だからこそ気付ける言い訳がたくさんあるよね?

 ええ、その通り。

 だから悔しいと思えるし、言い訳を言い訳として成り立たせるためにも「いつかきっと」と思えるのよ。

 

 でもね、永久に何かを諦めるのって、負けず嫌いには厳しくない?

 そう言われても、私にはその()()がよく分からないのよ。

 それに、永久に諦める必要なんてないわ。

 まちがっていると判った時点で、また新しい方針を立てればそれで済む話よ。

 

 それで済むなら良いけどね?

 いずれにしても、部外者が何と言おうと結果はもう出ているはずよ。

 さすがの彼でも、この期に及んで逃げたり先延ばしにする事は無いと思うのだけれど。

 だから、そんなことに拘っても生産的とは思えないわね。

 

 じゃあ、生産的な行動って何さ?

 そんなの決まってるじゃない。

 せっかく三人の関係に変化が生まれるのだから。

 その変化に合わせて、私にとって望ましい未来を突き付けるのよ。

 

 突き付ける?

 だって、ただ黙って報告を受けるだけなんて、性に合わないわ。

 要は、空気投げの極意と同じ。

 後の先を取れば、それで済む話でしょう。

 

 取れたら良いけどね。じゃあ最後に、望ましい未来って?

 さあ。そんなの分かるわけないじゃない。

 

 分かるわけもないことを、突き付けるの?

 その時が来れば、すっと言葉になって出てくるものよ。

 それに土壇場でようやく捻り出せるぐらいの言葉じゃないと、二人には響かないと思うのよ。

 私がいったい何を欲しいと言い出すのか、それが自分でも楽しみだわ。

 

 

 ひとまずの結論が出たので長考を解くと、意識が浮上するタイミングを狙っていたかのように運転席から声が届いた。

 

「いつか、君を……」

 

 ためらいがちの口調が珍しいと思いながら続きの言葉を待っていると。

 

「過去の呪縛から解き放ってあげられたらと、思っていたのがね。残念ながらと言うべきか、やはりと言うべきか。その役目を負うのは私では無いみたいだな」

 

 話の飛躍が過ぎる上に、残念がっているとはとても思えない口調だ。

 むしろ何かを楽しんでいるような気配すら感じるので、小さく首を捻っていると。

 

「でもね、雪ノ下。あの二人との付き合いを頑張る必要は無いよ。うまくやる必要も無い。ただ時間を掛けて向き合うだけで良いと、そんな忠告を与えておこうか」

 

 そう言われても、大事なことほど頑張りたいし、うまくやりたいと思うはずだと雪ノ下は内心で反駁する。だから、()()()()()()()()()()()()と考えるのも当然だと。

 

「まあ、今は解らなくてもそれで良いさ。それよりも、勝手に相談を打ち切られた気がしたのだがね。君の中で納得のいく結論が得られたのかね?」

 

 やはり、鋭い。

 そう思いながら大きく一度だけ首を縦に動かした。

 

「そうか……。それなら、それで良い」

 

 少しだけ迷いの気配を感じたのは、忠告を重ねる形になるのを避けたからだと思った。

 だからせめて、肩の力を抜いた姿を見せて教師を少しでも安心させてあげようと考えていると。

 

「む、木更津のジャンクションが見えてきたな。いよいよアクアライン連絡道に入るが、心の準備は良いかね?」

「その、料金の引き下げ前にも何度も連れて行って貰ったので、特に心の準備などは……」

 

 雪ノ下の素の返事を耳にして、はしゃいでいるのは自分だけかと少しだけ放心しそうになった平塚だった。

 

 

*****

 

 

 海ほたるパーキングエリアに入って車を停めると、二人はエスカレーターで五階まで移動した。

 

 残りの道中は沈黙が大半を占めていたものの、料金所を過ぎて海の上を走る頃には平塚も気分を持ち直していたし。

 雪ノ下もこの時間帯に訪れたことは無かったので、夕闇が夜を連れて来ようとする中を車で通り抜けるという貴重な体験ができてご満悦だった。

 

「さて、まずは腹ごしらえだな。ここに来たら絶対に食べようと思っていたお店が……」

「たぶん先生のことですし、フードコート内のあのお店ですよね?」

 

 いきなり言い当てられて絶句している教師をよそに、雪ノ下はすたすたと歩いて行く。

 その先には「ちーば丼」という名のお店が控えていた。

 

 ふて腐れた雰囲気を醸し出しながら後をついてくる平塚にちらりと視線を送ると、雪ノ下は小声で呟く。

 

「きっと比企谷くんがここに居ても、このお店を選んだと思うのだけれど……気が合い過ぎるのも困ったものね」

 

 ぼっち系男子高校生と趣味嗜好がばっちり合うアラサー女教師って、色んな意味で大丈夫なのだろうかと内心では心配しつつも、前に向き直った雪ノ下の眼差しに冷ややかな気配はまるでない。

 

「券売機がありますね。なんだか、京都駅の拉麺小路を思い出してしまうのですが」

「まだ一ヶ月も経っていないというのに、懐かしい気持ちになるのは何故だろうな」

 

 教え子にそっくりの優しい眼をして言葉を返すと、平塚は券売機に向かってずんずんと進んで行く。その途中で思い出したかのように口を開いた。

 

「注文は任せたまえ。君は海の見える席を確保しておいてくれるかね?」

「分かりました。では、席でお待ちしています」

 

 

 さほど混んでいなかったので、席はすぐに見付かった。

 間を置かず平塚が合流して、程なくして店員さんがわざわざ二人分を運んで来てくれた。

 

「うむ、おいしそうだな。温かいうちに頂くとしよう」

 

 お代のことは話題に出さなくて良いと無言で言われた気がしたので、お礼の気持ちを込めて「いただきます」と口にしてから箸を取った。

 

 まずはお味噌汁を口に含んで、それから丼に箸を付ける。金目鯛の炙り・煮穴子・あさりの煮物・サンガフライといった海産物の他に、だし巻き玉子やキュウリや白葱や紅生姜が御飯を覆い隠していた。

 

 それらを少しずつ食べて行く間は「うまい」「おいしい」程度のやり取りしか無かったけれど、きっとそれすらも不要だっただろう。顔つきを見ればお互いの気持ちが丸分かりだったからだ。

 特に、なめろうを揚げて作ったサンガフライのさくさくとした食感が印象的だったと雪ノ下は思った。

 

「ふう、一気に食べたな。お腹がいっぱいになったかね?」

「おかげさまで。ごちそうさまでした」

 

 親戚の子供にたくさん食べさせようとする田舎の人のような物言いだなとこっそり苦笑しながら。雪ノ下は行儀良く手を合わせて、感謝の気持ちを伝えつつ食事を終えた。

 

 

「ひとまず展望デッキに出てみるか。それとも君は見飽きてしまったかね?」

「この時間帯は私も初めてですし、先生はここに来るのを楽しみにしておられたのでしょう?」

 

 わざとらしい拗ねたような物言いをされたので、それを軽く笑い飛ばした雪ノ下は教師を先導するようにして展望デッキに出る。

 

「こちらが川、あれ、えっと、木更津方面になるのですが、道路がライトアップされているので何だか映画の中にある光景のような不思議な感じを受けますね。川崎方面のデッキはこちらとは違って海が近く見えるのですが」

「ああ、なるほど。川崎方面は海底トンネルだから、道路が見えないんだな」

 

 単なる言い間違いだと思ってくれたのか、それとも捲し立てるような説明に恐れをなしたのかは判らないが、ともあれ追及を避けることができたのでほっと胸をなで下ろす。

 とはいえ今までの経験からして気を抜いた頃合いで話題を蒸し返されかねないので、油断はするまいと雪ノ下は思った。

 そんなふうに身構えている時に限って何も起きなかったりするのだが。

 

「遠くで光っているあれは……方角的にはマリンスタジアムや幕張メッセがある辺りだな。視野を拡大して、と。うむ、正解だ。どうだ雪ノ下、私のマリーンズ愛も大したものだろう?」

 

 えへんと胸を張ってはしゃいでいる平塚に負けじとばかりに、雪ノ下は右手の人差し指で一点を指し示すと。

 

「この先にあるのが夢の国です。どうぞ拡大して確認して下さい。ちなみに先生は年間パスポートをお持ちですか?」

「私は昔から、やたらとワンデーパスポートが当たる(たち)でね。結婚式の二次会でペアチケットを入手しては、一人で二回・四回と行ったものだよ。ふっ」

 

 誰かっ、頼むから誰か貰ってあげてっ!

 そんな幻聴が聞こえてしまうほど心が現実逃避に傾いていた雪ノ下だったが、何とか気持ちを立て直して。平然と話を続けることにした。

 

「千葉村に行く途中で、由比ヶ浜さんも年パス持ちだと言っていましたね。さすがに先生も、この世界に来てからは結婚式には……はあ、夏に一度。比企谷くんが通りかかってくれたので何とか途中で逃げ出せたと。それでワンデーパスポートは……なるほど四枚が当たって一枚は使用済みと。心中お察し致します」

 

 無理に話を続けずに強引にでも別の話題にすれば良かったと、心から後悔した雪ノ下だった。

 

 

 電波塔や都庁を確認しながら、ゆっくりと川崎方面の展望デッキに向けて移動する。

 

 話題に困った時でも目に付いた建造物を指差せば話ができるのだから、夜景とは案外便利なものだなと。

 そんなふうに雪ノ下が情緒のかけらもない実利的な理解をしていると、平塚の声が耳に届いた。

 

「あの巨大なカッターで海底トンネルを掘削したわけか。実物をそのままモニュメントとして残してあるのが何だか良いなと私は思うよ」

 

 工事を請け負ったのは大手ばかりで、父の会社が入り込む余地は皆無だったと聞いている。

 だからあのカッターも、きっと広く名前の知られた建設会社が使ったものなのだろう。

 

 父はそれ以上は何も言わなかったけれど。

 いつか自分たちも、という想いを確認する為に、私を連れてここにたびたび来ていたのだと今なら解る。

 

 もちろん、家でも学校でも孤立しがちになっていた私の為に、というのが最大の理由だったのは確かだろう。

 留学という選択肢を教えてもらい、それを決断したのもこの場所だった。

 

 けれども父の個人的な理由をそこに含めてはいけないなんて道理は無いし、複数の目的を同時に果たせるなら願ったり叶ったりだ。

 

 だから父に対して不満は無い。

 あるのは、ほんの子供に過ぎなかった自分に対する不満だ。

 でも、今なら。

 

 自分のことで精一杯だったあの頃とは違って、父の想いに僅かばかりでも気付けるようになった今の私なら、この場所に「連れて行って」ではなく「一緒に行こう」と言えるのではないかと雪ノ下は思った。

 

「上下線なので二本のトンネルを掘削する必要があったのですが、たしか川崎の浮島から二基の掘削機を出して、この海ほたるからも二基を出して。それと、トンネル内の換気目的で両者のちょうど中間点に作られた風の塔……この先に見えている、ええ、あれです。あそこからも各々に向けて二基ずつを出して。海の底の更に下で四組の掘削機が接合して、ようやくトンネルが完成したのだと聞きました」

 

 説明をしながら、ふと妙なことを考えてしまった。

 

 大仕事をやり遂げた二基の掘削機に、もしも意思が宿っていたならば。

 合流の瞬間の()()()は、まるでハイタッチをしたような気分だっただろう。

 例えばそれは、東京駅で貰った「スラムダンク」の絵の中の二人と同じように。

 

「総額で一兆五千億円の大事業なんて、私には想像もできないな」

「教え子の生涯年収を合計すれば、意外とそうでもないですよ。仮に一人二億として、一学年の約千人を三年間受け持つと考えて計算しても、四半世紀も続ければ充分に上回れると思うのですが?」

 

 説明書きに目を通した平塚が、ふるふると首を左右に動かしながらぼそっと呟くと。

 その声で我に返った雪ノ下は、深く考える余裕もなく思い付きの返事を口にしてしまった。

 言い出した以上は最後までと考えながら、冗談めかした口調で説明を締めくくる。

 

 人を稼ぐだけの機械と捉えるのかと、この手の発想を嫌悪する人がたまに居るので(数は少なくとも口うるさくて厄介なので)、普段なら決して外には出さないのだけれど。

 つい気の緩みが出てしまった。

 

「今のご時世だと一人二億は難しいかもしれないがね。そのぶん君たちが余分に稼いでくれると、私としては鼻高々だな」

 

 経営側の視点で物を考えてしまいがちな傾向をこっそり反省していると。

 平塚はそうした点には頓着が無いのか、嬉しい反応を返してくれた。

 なので雪ノ下もそれに応じる。

 

「なるほど。親の会社を一兆円規模にまで育て上げれば、私の学年と姉さんの学年だけで達成できそうですね。そうなったら、先生はどうされますか?」

「君が言うと簡単に実現できそうに聞こえるな。だが、どうするとは?」

 

「そのまま二兆・三兆と積み上げていくのか。それとも……?」

「ふむ。私は教師という職業を気に入っているのでね。それ以外の選択肢はあまり考えたことが無いのだが……そうだな。大学に戻って勉強し直したり、ほんの数年でも他の職業を経験しておくと、今後の教師生活に活かせるのになと思う時はあるな」

 

 大人になっても、就職をしても、それで終わりじゃないとは知っていたけれど。

 どうしてそう思ったのか、どんなふうに活かしたいのかを詳しく語ってくれる教師に何度も頷き返しながら、具体的にこうした話を聞けて良かったと雪ノ下は思った。

 

「少し冷えてきたな。そろそろ一つ下の階に移動しようか」

「四階に、ですか。どこか目当てのお店でも?」

 

 平塚の提案に首を傾げていると、にやりとした表情を向けられた。

 

「君とは京都でも一緒に入っただろう。もっとも、ここでは足だけだがね」

「それで身体中が温まるのだから不思議なものですね。では行きましょうか」

 

 今日の昼下がりに平塚に連絡を取ってみようと決めた時に、一緒に大浴場に入った記憶を懐かしく思い出した。実際あのひと時には少なからぬ思い入れがある。

 

 この人も私と同じ気持ちなのだと判って、それだけで心がほくほくするのを感じながら。

 雪ノ下は教師と連れ立って四階の足湯へと移動した。

 

 

***

 

 

 靴を脱いで裸足になって、横並びの椅子に座って足をお湯に浸した。

 目の前にはガラス越しに一面の海が広がっている。

 

「そういえば、車の中で洋楽の話をした時に、後で尋ねてみようと思っていたのに、ころっと忘れていたのだがね」

 

 足湯に入っているせいか妙に間延びした口調で話が始まったので、軽く首を傾げて応じると。

 

「君が留学した先で一番最初に聴いた曲、あるいは心に残った曲というと、何になるのかね?」

「それは、Arctic Monkeysの”I Bet You Look Good On The Dancefloor”ですね」

 

 即答だったせいか少しだけ驚かれたものの、すぐにキラキラとした眼で理由を促されたので仕方なく説明を述べる。

 

「最初は、意味が解らないと思いました。メロディーに対して歌詞を詰め込み過ぎですし、その内容も猥雑で深みが無いし、曲もアレンジも古臭さを感じてしまって、どうしてこんな曲にみんなが熱中しているんだろうって。国籍の違いなんて関係なしに、この年代の男の子は馬鹿ばっかりなのかなって、そんな疑いすら頭を過ぎりました」

 

 隣席の教師が「ファンの方々ごめんなさい」と呟いているのが耳に入ったのだけれど。そして自分でも、ほんの少しだけ辛辣だったとは思うのだけれど。これで終わりではないので早まらないで欲しいと考えながら話を続ける。

 

「でも、とにかく実際に聴いてみたらとホストのご夫婦に勧められてGIGに行ってみたら……生演奏で聴いたこの曲に、まるで違った印象を受けました。さっき私が口にしたマイナス面が全てひっくり返るというか、『そこが良い』とか『だから良い』と言っていた男の子たちの気持ちがようやく理解できて。帰宅後に曲を聴き直してみたら、以前には気付けなかった歌詞の仕掛けやアレンジの目的にも思い至って、あんなに怒っていた自分が恥ずかしくなりました。意味が分からなかったのは、私の視野が狭かっただけなのだと」

 

 ああ、あるあると言いたげな顔つきで何度か頷いた平塚が口を開く。

 

「過剰な反応を示した時点で、きっと君は薄々ながら曲の魅力に気が付いていたんだろうな。自分とは違う価値観を目の当たりにした時には、得てしてそんなふうになるものだよ。君が比企谷と遭遇したようなものだ」

「悔しいですが、その喩えには説得力を感じますね」

 

 そう言って顔を見合わせると、互いの口から苦笑が漏れた。

 

 

「それが切っ掛けになって、色々と聴いてみようと思ったのかね?」

「はい。色々と言っても現地でヒットしている作品ばかりですし、おかげで帰国後に少し揉め事を引き起こしてしまったのですが」

「揉め事?」

 

「洋楽好きを自称する男の子を、つい論破してしまいまして……。野外ライブでの扱いの差を見れば国によって人気や知名度が違うと分かりそうなものなのに、頑なに日本での人気を楽曲の評価と結びつけようとしていたので、つい」

 

 ああ、あるあると苦笑しながら平塚がフォローを入れてくれた。

 

「フジロックやサマソニとグラストンベリーを比べてみると、あちらではヘッドライナー級のミュージシャンがこちらでは軽い扱いだったり。逆に向こうでは過去の人という扱いなのに、来日したらヘッドライナーかそれに次ぐ扱いなのは時々あるな。そうした違いを楽しめると良いのだが、曲の良し悪しの基準にまでされてしまうと、雪ノ下が反駁するのも無理はないか」

 

 続けて「他に心に残った曲は?」と尋ねられたので、車内での会話を思い出しながら口を開く。

 

「例えばOASISなら”Acquiesce”ですね。Radioheadだと、知名度は低いと思いますが”House of Cards”が印象に残っています」

「たしかに曲名を言われてもぴんと来ないな。”Acquiesce”は、二枚目のアルバムと同じ頃だったかな?」

 

 その情報は知らなかったので首を横に傾けると、教師がそのまま喋り続けた。

 

 シングル盤のカップリング曲だったのでアルバムには入らなくて、だからB面曲を集めたアルバムが出るまではこの曲の存在を知らなかったらしい。なので製作も発売も二枚目のアルバムと同じ頃なのに、この曲だけ自分の中では三年ほど認識のズレがあるのだと、そう教えてくれた。

 

 私はベストアルバムで一気に知ったので、年代の違いを意識しながら聴くことは無かった。

 こうしたリアルタイムの情報はなんだか新鮮で面白いなと考えていると。

 

「そういえば、文化祭では陽乃と一緒に演奏していたな」

「ええ。……比企谷くんが姉さんとこっそり連絡を取ってあんなことを企んでいたなんて、思いもしませんでした」

 

 急に話題が変わったので、相鎚を打った後にどう話を続けようかと迷ったけれど。

 三ヶ月前の出来事が良い想い出になっているのを実感しながら、軽い調子でそう告げると。

 

「ふと思い出したのだがね。この”Acquiesce”はオアシスの曲には珍しく、ノエルとリアムが兄弟で一緒に歌っていたな。サビの歌詞で『お互いが必要だ(we need each other)』と訴えるのが、また良いんだよなあ」

 

 ああ、見抜かれたかと思ったけれど、意外だとは思わなかった。

 弟のリアムの声が小さくなって、それと入れ替わるように演奏が盛り上がりを見せて、そして兄のノエルがサビを高らかに歌い上げる。その一連の流れが、私はとても好きなのだ。

 

「それと、京都の楽器屋で君がギターで演奏していたのは”A Day in the Life”だったな。あれもジョンとポールがともにヴォーカルを取っている曲だったね」

 

 頭の中で曲を流してその余韻に浸っていたら、今度は予期せぬ指摘を受けてしまった。

 掘削機の話をしていた時に連想した絵まで再び思い浮かべてしまい、これらの作品の意外な共通点に驚きを隠せずにいたところ。

 

「ふむ、そちらは無意識だったか。だがね、雪ノ下。君がまた陽乃と共演する機会があれば、それを逃して欲しくないと私は思うよ。あの子は気まぐれだから普通に誘っても応じないだろうし、君が誘いにくいと考えていることもその理由も知ってはいるがね。だから、これは完全に我欲だな。私が、君たち二人の共演を観たい聴きたいと。そう思っているのだと覚えておいてくれるかね」

 

 まっすぐに目を見てそう言われると、頷きを返すしかなかった。

 

 頭の中では期待から不安まで色んな感情が渦を巻いていたけれど、それらの何にも増して照れくさかったので話題を変えようと口を開く。

 少しのぼせているのかもと思い至ったので、足先だけをお湯の中でぶらぶらさせながら。

 

 

「それで”House of Cards”ですが、これは七枚目の”In Rainbows”に入っている作品です。曲そのものはとても美しいのに、歌詞はどうしようもない内容で、そのギャップが気に入りました」

「どうしようもない内容か。私はそこが気になるな」

 

 目元を細めて話に乗ってくれたのでほっと一息ついてから、教師のリクエストに応える。

 

「かなり抽象的な歌詞なので、私の勝手な解釈になりますが……一番と二番で全く同じ歌詞なのに、正反対のことを言っていると受け止めました」

 

 主人公の男は曲の冒頭で、友達ではなく恋人になりたいと述べる。

 たとえどんな終わり方でも、たとえどんな始め方でも、と。

 後者のフレーズは特に今の私にとって、とても魅力的に聞こえてしまう。

 

 しかし、主人公のろくでなしぶりが二番で明らかになる。

 相手は既婚者だったのだ。

 とはいえ真っ先に終わり方に言及していた時点で、それは暗示されていたのだけれど。

 

 一番でも二番でも、主人公は「トランプで組み立てた家なんて、そんな脆いものは忘れてしまえ(Forget about your house of cards)」と歌う。

 けれども一番における比喩の対象は相手の家庭だが、二番では自分との関係を指している。

 その転換が、”denial”という言葉の繰り返しを境に行われていると私は解釈した。

 

 その”denial”は最後にまた現れて、「自分たちの関係が噂になっている(から終わりにしよう)」と必死になって訴える男を拒否しながら曲が終わる。

 

「なるほど。たしかにそれは、どうしようもない内容だな。”denial”の繰り返しと聞くと、私はNirvanaの”Smells Like Teen Spirit”を思い出すのだがね。あれも先程のArctic Monkeysと同じで、理屈よりも感覚で味わったほうが良さが解る作品だったよ」

 

 この三曲がそんな理由で繋がるなんて予想外だったので、思わず深く頷いてしまった。

 同時にこうも思う。

 共通の趣味を深く味わえる相手と話し合うのは、やっぱり楽しいと。

 例えばそれは、部室で課題図書の話をしている時と同じように。

 

「ただ、いかにギャップが気に入ったとはいえ……倫理にもとる内容なのに、その作品を君が特別に想うのは何だか不思議な気がするな」

「内容が好きで印象に残っているのではなくて、どちらかと言えば教訓として、ですね。それなら納得して頂けるのでは?」

 

 片足をお湯から出してタオルで拭きながら「なるほど」という顔をしているので、そのまま話を続けることにした。

 その前に少しだけ、この先生なら見逃してくれそうなので、行儀悪くちゃぽちゃぽと音を立てながら意味のない図形を右足で描いておく。

 

「同じ言葉でも、こんなふうに違う意味で使えるんだなと。もっともらしいことを言っていても、最初から最後まで不誠実なんだなと。それが、当時の私には新鮮でした。先生はこのフレーズをご存知ですか?」

 

 いったん言葉を切って、静かに息を吸い込んでから詠うように声を出す。

 英語で書かれた古い文学作品の一節を口にすると、タオルを動かす手を止めて少し考えただけで答えが返って来た。

 

「シェークスピアの、たしか『ヴェニスの商人』だったと思うのだがね。記憶があやふやなので、その続きも含めて君なりに訳してくれると、私としては助かるのだが?」

 

 教師のようにがしがしと豪快に拭くのではなくて。品を失わないように心掛けながら、足に付いた水滴をタオルに少しずつ染み込ませていく。

 誰に見られるわけでもないのに、とは思うものの、これが私の性格なのだから仕方がない。

 

 すぐに言葉がまとまったので、作業を止めずに意訳を伝えることにした。

 

The devil can cite Scripture for his purpose!

 目的のためなら悪魔は聖書だって引用する

An evil soul producing holy witness

 聖句を持ち出す邪悪な魂は

Is like a villain with a smiling cheek,

 親しげに微笑みかけてくる悪漢や

A goodly apple rotten at the heart.

 見た目は良いのに芯が腐った林檎と同じ

O, what a goodly outside falsehood hath!

 なんて魅力的な外面をしているんだ、偽物というものは!*2

 

「教訓とは、たしかに君の言う通りだな。”House of Cards”の主人公は聖書を引用する悪魔と同類だと、そう考えたのだね?」

「はい。それで……私はこうした教訓を、主に本から得て来ました。たとえ聖書にある言葉でも常に正しいとは限らないとか、それを悪用しようとする存在がいるとか。偽物とか」

 

 最後に付け加えた言葉には、自分でも意外なほどの嫌悪感が出てしまった。

 それを訝しく思いながらも、考えるのは後だと先送りして話を続ける。

 

「でも……。その、先生は金曜日に、比企谷くんが由比ヶ浜さんに喜びの感情を出して欲しくて言った言葉を覚えていますか?」

 

 ぽかんとした表情を浮かべているのは、話題がぽんぽん飛んで話の全容が見えて来ないからだろう。

 それでも素直に記憶を遡ってくれる教師に、私はこっそり両目を瞑って感謝の気持ちを伝えておいた。

 

「たしか、専門家よりも自分のほうが詳しいと言い出したり、逆に専門家が書いたことを全て正しいと思い込んだり。そんな連中と比べて由比ヶ浜は、という話だったかな。そういえば君はあの時に、それらは過去に比企谷がしでかしたことだと断言していたな」

 

 思わずくすっと笑いを漏らしてしまった。

 話が早いのが嬉しかったからか、それともあの時の彼の表情を思い出したからか。

 それは自分でも判らなかった。

 

 椅子に腰掛けたまま座る向きだけを変えて、手早く服装を整えてから口を開く。

 

「専門家という肩書きに騙されて、いいかげんな話を信じてしまった経験もあるみたいですね。たしかに専門家と一口で言っても、尊敬できる人から胡散臭い人まで千差万別ですし。比企谷くんはきっとネット上でそうした三種の失敗をして、それで学んだのだろうなと思いました」

 

「ああ、そういう話か。たしかに比企谷は転んでもただでは起きないというか……彼の本領は、もしかすると失敗した後に発揮されるのかもしれないな」

 

「私も同じ意見です。比企谷くんは黒歴史という表現を使っていましたが、それが積み重なって土壇場に追い込まれて、そんな時の比企谷くんほど敵として怖い存在はそうそう居ないのではないかと思いました。つまり、彼が誇らしげに言うぼっちとか楽しげに披露してくれる黒歴史が比企谷くんの本質ではなくて……でもこれは本題では無いので話を戻しますね」

 

 少し話し過ぎたと思ったので、強引に話題を戻すことにした。

 何か言われるかもしれないと身構えていたものの、あっさりと頷きを示されて。続けてすぐ近くに置いてある二台のマッサージチェアを指差されたので、こちらも頷きで応じる。

 

 

 再び教師と並んで座って、機械を作動させてから口を開いた。

 

「由比ヶ浜さんはきっと友達の失敗談を多く聞けると思うので、それで学べるのが大きいですね。比企谷くんは軽率な言動で黒歴史を量産して、でも見方を変えれば凄い勢いで経験を積んでいるとも言えそうです。その二人と比べて、私は……」

 

 同情を買うような物言いはしたくなかったのに、それならどう話せば良いのか分からなくて、結局は口ごもってしまった。

 

 ちらりと横に視線を向けると、目を閉じて極楽気分を味わっている教師がうぃんうぃんと揺られている姿が目に入ったので、ゆっくりと眼の方向を元に戻す。少しよだれが垂れていたのは見なかったことにしてあげよう。

 

「そういえば、君は山本周五郎は読むのかね?」

「はあ。まあ、ひととおりは読みましたが……」

 

 私の声が聞こえていなかったのならそのほうが良いと、そう考えながら質問に答えると。

 

「じゃあ、『虚空遍歴』を読んで、どう思った?」

「ああ……そうですね。率直に言うと、女の性の描き方が少し苦手に感じました。もしも二人が男女の仲になっていたらと、そんな期待を読者に抱かせようとしている気がして。主人公と、女と酒と。この二つとの関係性が違っていたら、もしかしたらと考えてしまいました。正直、読後感は良くなかったですね」

 

 意外な作品が挙がったので、記憶を思い出しながら考え考え言葉に出した。

 そんなたどたどしい喋り方でも、何かが教師の琴線に触れたのだろう。

 たちまち嬉々とした口調が耳に届いた。

 

「君は、あの主人公の旅路そのものには肯定的なんだな。ちなみにだがね、陽乃は否定的だったよ」

「姉さんが……いえ、そうかもしれませんね。主人公の天与の才は、旅路の果てに追い求めたものとは違うと。そんな感想だったのでは?」

 

 問い掛けるような口調だったが、そうに違いないと思っている。

 それが気配で伝わったのか、平塚は問いには答えず話を続けた。

 

「君の感想も一理あるし、陽乃の感想にも一理あると私は思うよ。与えられた才能を存分に発揮していれば、あの主人公は旅に出なくとも充実した一生を送れていただろうし、全てが丸く収まっていただろうな。ただ一点、主人公の心の奥で燻っている感情を除けばだがね」

 

 だから結局は、旅に出る他は無かったのだろうと雪ノ下は思う。

 

 主人公がそれさえ呑み込めば、多くの人が平穏に過ごせるのに。

 どうしても呑み込めない想いに身を焦がして、ついには人生まで懸けてしまう。

 

 姉や、あの部員や、新旧の生徒会長なら、おそらく旅には否定的だろう。

 けれども私や、この教師や、きっと彼も、主人公の旅路の果てを見たいと思うはずだ。

 

 ……いや。

 自分を主人公と重ねて読む場合と、完全な傍観者として読む場合を分けて考えれば。

 もしかしたら姉も、自分ではなく誰か他の人の旅路であれば、その果てを見たいと思うのでは?

 

「ただ、それはそれとしてね。才能があるのなら、それを使わない手は無いとも私は思うよ。あの主人公にそれができていれば、旅はもう少し楽になっただろうな。まあそれは余談として、君が本から教訓を得られるのなら、それは才能と言って良いものだし存分に使えば良いさ。普通なら経験できないことでも学べてしまうのが本の良さだからな。だから、無理に二人の真似をする必要はないよ」

 

 やっぱり聞こえていたのかと、歯噛みをしたくなるのを何とか堪えていると、急にマッサージ機の動きが活発になった。

 肩の力を抜けと言われている気がしたので仕方なく身体の力を抜いて、機械の動きに身を任せる。

 

 

「こうした話をするのは楽しいものだがね。深い話ができる人は貴重だし、こちらを警戒して程々の話でお茶を濁そうとする人も居るので、話し相手を見付けるのは大変だよ。浅い意見を論破しても何も面白くない上に、逆恨みや逆ギレをされる恐れがあるからね。だから警戒する気持ちは充分に理解できるのだが、何だか勿体ないなと私は思うよ」

 

「私も何度か体験しました。一つの主張を否定するのと、相手の全人格を否定するのとでは話の次元が違うのに。両者を混同する人が世の中には意外と多いですね」

 

 自分の負けず嫌いな性格を棚に上げてそう返すと。

 

「きっと、どんなに些細なことでも否定をされたくないんだろうな。『正しくて深い意見を述べている自分』を実感したいのだと私は思うよ。惜しむらくは、そこに努力が伴っていない例が多いことかね」

 

「私は先生とは違って、後々にまで尾を引かないためにも完璧に論破することを心掛けていたのですが。どんなに言葉を尽くして理路整然と説明したところで、自分の方が正しいと思い込む人には届かないものですね。そうした人たちには努力が伴っていない場合もありますが、むしろそれ以前のところに問題を抱えているのではないかと時々思います」

 

 頬の辺りに視線を感じたので頭を動かすと、穏やかな目つきが待っていた。

 教師は静かに口を開く。

 

「君の容赦のない論破の仕方とか、そうした冷静な分析とか。それらのほんの少し奥にあるものに気が付かないのだから困ったものだな。目の前に蜘蛛の糸を垂らされたところで、その価値を知らない者には単なる障害物にしか見えないのだろうね」

「そう仰って頂けるのは嬉しいのですが、私の主張もまだまだ未熟な部分が多いので……」

 

 本気で褒めてくれているのが気恥ずかしくて。

 このままだと耐えきれない気がしたので、謙遜まじりに話題をすり替えようと企んだのに。

 

「いや、そこではないよ」

 

 言葉を遮られてしまった。

 

「君の意見そのものにも価値があるのは勿論だし、君が更なる洗練を目指すのは素晴らしいと思うのだが、それ以上にね。相手に向けた君の姿勢にこそ価値があると私は思うよ。相手を見下すために、あるいは怒らせるために攻撃的な言説を向けるのと、相手のためを思って一刀両断するのとでは大違いなのにな」

 

 教師が本気で怒っているのが伝わって来たので、予想とは違って冷静になれた。

 同時に、先程の小説の話が頭を過ぎる。

 それと、彼のことも。

 

「でも、私は最近思うのですが、そうした『相手のため』という理由も万能ではないですよね。例えば、相手のためを思って自己犠牲に走る誰かが居たとして、それを思われた側からすれば……」

「ああ、それは比企谷が悪いな」

 

 固有名詞を迷わず出されて、つい噴き出してしまった。

 視線を向けると、そっぽを向いて口笛を吹くような仕草をしているのが憎らしい。

 だから今度はふっと笑いを漏らして、それから口を開いた。

 

「さっきの小説の話ですが、主人公が心の奥で燻っている感情を封印していたら、多くのことが丸く収まったと思うのです。でもその発想は、周囲の人のために自己犠牲をしろと迫っているようで……」

 

「まあ、そうだろうな。それで当人が納得できるのなら、周囲から言える事は何も無いさ。でも、あの主人公が、あるいは比企谷が、周囲のために大人しく我慢できるような(たち)だと思うかね?」

 

 全く以て思えない。

 かけらも思えない。

 だからこそ私は、そして彼女は……。

 

「大勢の人が求めるものを同時に満たせればどんなに良いかと思うのですが、全てを欲しいと願っても実現は難しいですよね。じゃあ、もしも一人だけの犠牲でそれが達成できるとしたら……実はそれは小さな犠牲ではなくて、残された全員の心に決して消えない傷痕を残すことになるのだと知らなければ、進んで犠牲を受け入れる人も居るのでしょうね。けれど、比企谷くんは違うと思います」

 

「ほう。どう違うのかね?」

 

「小町さんをはじめ特別なごく少数のためなら、誰よりも迷いなく犠牲になりかねない男ですが……彼がその他大勢のために犠牲になった暁には、その黒歴史を死ぬまで吹聴すると思いますよ。そんなものを生涯にわたって聞かされ続けるのは御免被りたいですね」

 

「なるほど。君が言うとおり、特別な思い入れのない大多数のために犠牲になる役割は比企谷にとっては不本意だろうな。彼の困ったところはね。いざその場面を迎えた時に、内心では嫌々でも粛々と役務を果たそうとする点だな。そんなふうに自分を殺せるという意味では、君にも通じるものがあると私は思うよ」

 

 思いがけず流れ矢が飛んで来たので、はっと身構えてしまった。

 先ほど問題を切り分けた際に心の落ち着きは取り戻せたけれど、自分が抱えている問題が何も解決していないのも確かだ。

 つまりこれは、この人なりの忠告なのだろう。

 

「時と場合と相手によっては、自分を殺さず逆に素直な想いを突き付けるべきではないかと、考えるようになりました」

「ああ、是非そうしたまえ。それで何か問題があれば、またドライブに誘ってくれたら良いさ」

 

 巨大なカッターのモニュメントを眺めながら、父のことを考えていた時にも思ったことだ。

 もしも問題があれば、その時は「連れて行って」ではなく「一緒に行こう」と言いたいものだと雪ノ下は思った。

 

 

***

 

 

 足湯から駐車場に移動して、海ほたるに別れを告げた。

 

 もと来た道を引き返す形だが、等間隔の灯りに見守られながら海上に架けられた橋を通り過ぎて行くのは、何だかゲームの世界が現実になったような心地がする。

 直後に少しだけ、この世界のことを思い出して気が滅入ったものの、助手席のお姫様の表情を見てしまうとそんなものはすぐに霧消した。

 

 だから密かなお礼の気持ちも込めて、平塚はこんなことを尋ねてみた。

 

「今日は洋楽の話をたくさん聞いたな。部室ではこうした話題も珍しくないのかね?」

「いえ、その……留学していた頃の話に繋がりそうで、つい避けてしまいがちですね」

 

 おそらくは留学時の話の更に先。

 つまり過去のあの一件に話が繋がるのを警戒しているのだろう。

 

 やはり根深いなと思いながら。

 とはいえこの理由を伝えてくれた事に良い傾向も感じつつ、できるだけ軽い口調で話を続けた。

 

「楽しかった想い出ならどんどん話したほうが良いさ。そうしないと自分でも忘れてしまいかねないからな。音楽以外の話になりそうならそこで止めれば良いし、気楽に話題にしてみてはどうかね?」

 

 そう提案してみたものの、相手は渋い表情だ。

 

「実は文化祭の課題曲を話し合った時に、三人の音楽の趣味がバラバラで……だから洋楽の話を持ち出そうと思えば一から説明することになるんですよ。有名な、例えばMUSEとかWhite Stripesクラスでも、二人は知らないみたいでした」

 

 それは確かに厳しいなと、つられて渋い顔を浮かべそうになって。

 ふと思い付いたことがあったので、平塚は頬を緩めながら口を開く。

 

「たとえばWhite Stripesだと、”Seven Nation Army”は好きかね?」

「ええ、とても。でも、どうしてですか?」

 

 強い口調で即座に断言されたので怯みそうになったけれど、犠牲者に心の中で謝りを入れながら続きを述べることにした。

 

「あの曲は、最近ではサッカーの試合でよく使われていてね。ワールドカップでもゴールが決まった時などに流れていたよ。だから一色となら、”Seven Nation Army”の話ができるかもしれないな」

「……なるほど。試してみます」

 

 雪ノ下が何を試そうとしているのかは判らないけれど、お手柔らかに頼むぞと口にすることすら憚られるほど何だか乗り気な表情なので、平塚は心の中で再び犠牲者に謝りを入れておいた。

 

「まあ、そんな感じでね。洋楽そのものには興味が無くても意外な接点があるものなので、どんどん話してみたら良いと私は思うがね。きっと、部員の二人も喜ぶさ」

 

 返事は無かったものの、隣席のお姫様が前向きな顔つきで何かを考え込んでいるのでそっとしておいた。

 

 

 橋を渡った先にある料金所の表示が出て来た頃に、助手席から声が聞こえた。

 

「相談を持ちかけておいて申し訳ないのですが……。できれば明日に備えて、家で時間を過ごしたいと思いまして。本線料金所から最寄りのインターチェンジまで、ショートカットして頂くことはできますか?」

 

 おそらくは部員の二人と、明日に何かがあるのだろう。

 そして雪ノ下の様子からして、他人に邪魔をされない状態で考え事をしたいと思っているのだろう。

 

 そう推測した平塚はゆっくりと頷くと、それに続けて笑顔を見せた。

 

「君がこうした我がままを言ってくれるのは珍しいからな。有意義な時間を提供できたみたいで何よりだよ」

 

 教え子の希望をそのまま受け入れて高速道路を後にすると、平塚はマンションまで最短距離で車を走らせた。

 

 

***

 

 

 駐車場に車を停めて自分だけ先に下りると、フロント側をぐるっと回り込んで助手席のドアを開いた。

 

「今日はありがとうございました。もうここで大丈夫ですし、帰り道は安全運転でお願いしますね」

 

 帰り道を急がせたことを詫びる言葉が無いのが雪ノ下らしい。

 それも気付いていないのではなく、不要だから言わないと解ってくれているのが平塚には嬉しかった。

 

「おそらく、君は今から考え事に耽るつもりだと思うのだがね。その前に読んで貰いたいものがあるのだよ」

 

 昨日の教え子とは違って、雪ノ下が抱えている問題は一朝一夕で解決できるほど簡単なものではない。

 今は気の持ちようが違って見えるし、前向きに正しい方向を向いているのも確かだが、実は状況は何も変わっていない。

 

 平たく言えば、内向きの鬱々とした状態から外向きの躁状態に変わっただけで。

 雪ノ下は依然として危ういままなのだ。

 

 その現実を確認するたびに、教師としての自分の無力さを嫌というほど感じてしまう。

 けれども過去と引き比べて悔恨の念を強くする前に、打てる手はまだ残っている。

 あの時の()()()は独りだったが、今の()()()は独りでは無いのだから。

 

 だから意識を外側に向けてもらって、悩みを抱えた者どうしを向き合わせる。

 それは迂遠な方法に見えるけれども、過去と向き合えるだけの強さと手放したくないものを抱える弱さを身に付けることが、この二人にとっては一番良いはずだ。

 

 昨日と今日で、与えられるだけの助言は与えておいた。

 そして言葉にできない部分は、彼にはあの小説を薦めることで補ったつもりだ。

 では、雪ノ下には?

 

「トランクを開けるから、少し待っていてくれるかね」

 

 訝しげにこちらを見る彼女は、まるで警戒心の強い猫のようだ。

 つい先程は私に気を許してくれていたのに、今はそうでもない。

 

 考え事を邪魔されたくないから早く帰ってきたのに、余計なものを押し付けられても困ると。

 そう考えているのが手に取るように分かった。

 

 そんなふうに内に向きがちな雪ノ下の視野を、少しでも広げることができますようにと願いながら。

 平塚はトランクの中から、大きな紙袋を取り出した。

 

「軽い気持ちで読んでも楽しめる作品なのだがね。君なら深く読み込むことができるだろう。君が抱えている問題を解決できるほどではないが……君は一人じゃないと、これを読んでそう思ってくれると私としては嬉しいな。合わないと思ったら途中で投げ出しても良いから、少しだけでも読んでみないかね?」

 

 そう言って平塚は紙袋から二冊の漫画を取り出した。

 

「はあ、仕方がないですね。せっかくの先生のお薦めですし、今夜さっそく読みますよ」

 

 教師が見せてくれたのはどちらもシリーズものの第一巻だった。

 どうやら同じ作者が描いているらしい。

 片方は全十巻で、片方はまだ連載中だと説明しながらその二冊を手渡された。

 

 受け取った漫画を両手に持って、作者とタイトルを確認する。

 作者の名は羽海野チカ。そして作品の名前は「ハチミツとクローバー」と「3月のライオン」と書いてあった。

 

 

***

 

 

 教師の車を見送ってから紙袋を持ち上げた。

 漫画が十数冊も入っているのでとても重い。

 

あの子(メイド)は帰してしまったし……仕方がないから管理人にお願いして、台車か何かを出して貰おうかしら」

 

 データ形式に戻せば楽に持ち運べるし、おそらく平塚もそう考えて紙袋を置き去りにしたのだろうけれど。

 

 あの教師がああまで言って私に薦めてくれたものだ。

 それの姿形を変えてしまうのは何だか忍びなくて、おかげで要らぬ苦労をしてしまった。

 

 

「ふう。少し肩が凝ったわね」

 

 リビングに紙袋を置いてから台車を返しに行って、これでようやく落ち着ける。

 とはいえ一度座り込んでしまったら立つのが億劫になりそうなので、手早くキッチンでお茶の用意を済ませた。時間待ちの間に自室に行って私服に着替えて戻って来る。

 

 湯気を立てているマグカップ(もちろん猫柄だ)をテーブルに置いて、リビングのソファに腰掛けてから紙袋をがさがさと広げた。

 

「刊行順に、完結している作品から読めば良いのかしら」

 

 所要時間を頭の中で計算しながら、まずは「ハチミツとクローバー」から読み始めた。

 

 

 最初は、漫画によくあるような突飛なキャラクターが売りの作品だと思った。

 けれども主要キャラが固まってそれぞれの背景が描かれるようになってくると、作品の密度がぐっと高まって、ぴりぴりとした緊張感が伝わってきた。

 

 作中のキャラたちは和気藹々とした雰囲気なのだけど、何と言えば良いのだろうか。

 誰も彼もが真剣に生きている感じが伝わってきて、特に悩みごとと向き合っている時の各キャラから目が離せなくなった。

 

 読んでいて少し羨ましいなと思ったのは、この作品のキャラたちが自然に手を繋いで自然にハグしているところ。

 それが男女の間でも、そこに性的な雰囲気を感じなかった。

 もちろん全く無いというわけではないのだけれど、それよりもそれ以上にお互いへの想いが溢れていて、なんだか良いなと思ってしまった。

 

 物語の終盤には驚かされた。

 まさかここまで描こうとするとは予想していなかった。

 この作者は、各キャラの人生を描こうとしている。

 あるいは、この作者は人生を懸けて、各キャラの行く先を描こうとしている。

 その姿勢に、思わず涙が流れてしまった。

 

『あのね お願いがあるの』

『人生を 私にください』

『一緒にいて 最後の最後まで』*3

 

 これらのセリフを目にした時に、あの先生の言葉は正しかったと思った。

 

 たぶん、普通の女の子なら、こんなセリフを言われてみたいと考えるのだろう。

 でも私は、私もこんなセリフを誰かに言ってみたいと思ってしまった。

 

 人生をくださいと請われるよりも、私は決意を秘めて自分から口にしたい。

 あなたの人生を、私にください……と。

 

 

 最後まで読み終えて、少しだけ余韻に浸っていたい気もしたのだけれど。

 この作者の作品をもっと読みたいという気持ちのほうが上回ったので、続けて「3月のライオン」を読み始めた。

 

 作品が続いているのだと、最初に思った。

 前作の終盤で描いていたのと同じように、この作品ではのっけから各キャラの人生を描いている。

 

 前作との違いにも気が付いた。

 それは、勝負という側面を持ち込んだこと。

 

 だから、この作品の主要キャラは、前作にも増して真剣に生きている。

 より正確には、真剣じゃないと生き続けられないほどの境遇に置かれている。

 それも、私と同じだと、思ってしまった。

 

『停滞を 受け入れてしまえば』

『思考を停止 してしまえれば』

『もう一度 嵐の海に飛び込んで 次の島に向かう 理由を僕は』

『何ひとつ 持っていなかった』*4

 

 今日の昼までの私は、まさにこんな心理状態だった。

 けれど今は違う。

 嵐の海に飛び込んででも欲しいと思える何かのことも、辿り着きたいと思う次の島のことも、漠然とではあるけれどイメージはある。

 

 だから、作中のキャラを見守るような気持ちで、私はその先を読み進めた。

 

 読む手が止まったのは6巻だった。

 きっと他の人にとっては何気ない一コマなのだろう。

 でも私は、「思慮深い愛犬エリザベス」という文字列が目に入った瞬間に、息が止まるような思いがした。

 

『ところで比企谷。エリザベスと言えば先程のベースの他に、何を思い浮かべるかね?』

『そりゃ、あれでしょ。二階堂の愛犬……ってまさか?』

 

 あの時に訪れた場所が、もうすぐ出てくる!?

 そんな興奮状態で、私は夢中でページをめくる。

 

 そして、残りページも少なくなったのでこの巻ではもう出て来ないのかと気を抜きかけていた時に、それはやって来た。

 

『あのな、「3月のライオン」って作品で、この場所に主人公が胃薬を持って駆け付けてくれてな』

 

 胃薬を貰った主人公が走り出したその瞬間には、もう涙が止まらなかった。

 

 私はこの先の展開を知っている。

 平塚先生が写真に撮って見せてくれたこの漫画の一コマを、私は既に知っている。

 それなのに、それだからこそ、この巻の終わりまでの流れがとても綺麗で読むのを途中で止められなくて、私は涙を拭うこともできないまま最後のページをずっと眺め続けていた。

 

 駆け付けて貰えるヒロインよりも、駆け付ける主人公になりたいと、そう思いながら。

 

 

 二作品を読み終えて、あの先生の言葉は正しかったと改めて思った。

 

 創作物のキャラクターにこんなことを思うのは変かもしれないのだけれど。

 私は一人じゃないんだと、そう思うとすっと心が軽くなるのが自分でもはっきりと感じ取れて。もう明日に備えて何かを考える必要は無いのだと、そう思えた。

 

 だから私はメッセージアプリを立ち上げて、二人に宛ててメッセージを送る。

 集合時間と、話をしたいという彼の希望に了承を伝える。

 

 明日の話は、きっと率直なやり取りになるのだろう。

 だから私はお風呂でしっかりと身体を温めて、翌日に疲れを残さぬように早めの時間にベッドに入った。

 

 

***

 

 

 メッセージが届いたので発信者を確認すると、珍しい名前が目に入った。

 

『ヒッキーとゆきのんの相談に乗ってもらって、ありがとうございました!ヾ(〃^∇^)ノ♪』

 

 苦笑に続けて平塚は思わずつぶやきを漏らす。

 

「由比ヶ浜にはお見通しか。おそらく二人が行動に出たのだろうな。あの二人の性格からして、宣戦布告といったところかね。どちらが先に踏み込むのか、今から楽しみだ……ふむ」

 

 そう言って少しだけ考え込んでいた平塚は、すぐに返事を書き始めた。

 

『教師の仕事をしたまでだよ。ところで、明日は話し合いをすると聞いているのだがね。話の大まかな流れと結論とを、君の口から知りたいものだな』

 

 返信を送ると「了解」というスタンプが届いたので「頼むぞ」と返すと、再び「ありがとう」のスタンプが届いた。

 

「私はね、由比ヶ浜。雪ノ下と比企谷を引き合わせて、そこに君も参加してくれて、本当に良かったと心から思うよ」

 

 そう言い終えると「おやすみ」のスタンプを送って、平塚は晩酌の仕度に入った。

 

*1
普通車料金は、1997年12月の開通時が4000円、2000年7月に3000円、2002年7月からETC2320円、2009年8月からETC800円。

*2
from “The Merchant of Venice” Act 1, Scene 3. Folger Shakespeare Library digital editionより引用。

*3
「ハチミツとクローバー」10巻収録のchapter.61より

*4
「3月のライオン」2巻収録のChapter.11より




基本的に私は書き始めたら迷わないのですが、車中での平塚先生の発言から雪ノ下に視点が移って以降がどうにもしっくり来なかったので、ボツにして全て書き直しました。
せめて一月中にと考えていたのですが、間に合わなくてごめんなさい。

なお、それに伴って(開き直った結果)本話で取り上げた他作品の数と総文字数が五割増しになりました。。

親が政治家で、学校と家族に対してトラウマを抱えていて、中学で留学した、とびっきり優秀な女の子がどんなことを考えるのか。どんな作品に触れて、それをどんなふうに受け止めるのかは、正直私には分かりません。ぶっちゃけ設定盛りすぎです(だから原作でもこれらは掘り下げられないまま放置されたと思うのですが)。

でも分からないなりに少しずつ色々と考えて、多くの作品をあてがってみて、作中でキャラが活きるようにそれらを取捨選択して、何とかそれっぽく仕上げたのが本話になります。

ここまで読んで下さった方が、本作の雪ノ下を原作と地続きの存在だと感じていただけたなら、それだけで私は報われます。

次回は二月下旬とさせて下さい。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
脚注の文章に改行を入れるとepubでエラーが出るようなので修正しました。ブラウザやpdfでは問題がなかったので、対応が遅くなり申し訳ないです。
ちなみにRadioheadの意訳に英文のルビを振っている箇所も(おそらく文字数の大幅なミスマッチが原因で)プレビューで上手く反映して貰えず、日本語の後半部分にルビを振る形に落ち着きました。最初は理由が判らなくて、三時を過ぎても更新できず深夜に泣きそうでした。
その他、解りにくそうな箇所に細かな修正を加えました。(2/14)
細かな表現を修正しました。(12/31)


追記。
本作で取り上げた作品は以下の通りです。

・「ローマの休日」(1953年)
・Arctic Monkeys「I Bet You Look Good On The Dancefloor」(2005年)
・OASIS「Acquiesce」(1995年)
・Radiohead「House of Cards」(2007年)
・The Beatles「A Day in the Life」(1967年)
・Nirvana「Smells Like Teen Spirit」(1991年)
・William Shakespeare「The Merchant of Venice」(1605年初演)
・山本周五郎「虚空遍歴」(1963年)
・The White Stripes「Seven Nation Army」(2003年)
・羽海野チカ「ハチミツとクローバー」(2000年-2006年)、「3月のライオン」(2007年-)


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05.しずかに重々しくその言葉は語られる。

前回のあらすじ

 もやもやした感情を持て余しながら、雪ノ下は週末を家で過ごしていた。そこにメッセージが届く。送り主は八幡で、月曜日に三人で話をしたいと書いてある。
 部員二人が付き合い始めている可能性が高いと考える雪ノ下は、三人の関係が劇的に変化するのを予感して。そんな追い込まれた状況に背中を押されて、平塚に相談を持ちかけることにした。

 合流した二人は車で海ほたるを目指すことになり、道中では留学時のことや姉・父・母のことが話題に上がった。
 そして平塚がしみじみと「奉仕部に三人が(つど)って良かった」と口にしたのを契機に、雪ノ下の頭脳が再起動を果たす。
 目下の問題を整理して、望ましい未来をこちらから突き付けようと決意するに至った雪ノ下を、平塚は温かく見守っていた。

 海ほたるでは、お腹を満たした直後に雪ノ下の持病が出たものの大事には至らず。
 ワンデーパスポートや海底を掘削した巨大なカッターの話、生涯年収や教師以外の職業について、再び留学時の話から姉との共演について、部員二人のことや小説や音楽の話などなど、その後も話題が尽きることはなかった。

 マンションに戻って、平塚に勧められた漫画を読み終えた雪ノ下は、「私は一人じゃない」と実感しながら部員二人にメッセージを送った。そして翌日に備えて眠りに就く。

 一方、二人のメッセージから状況を把握した由比ヶ浜は、彼女らしい書き方で顧問にお礼を伝えた。

 いずれも心身ともに万全の状態で、三人は部室での話し合いに臨むのだった。



 月曜日の朝は底冷えがして、空気は痛いほど澄んでいた。

 素肌が外気に触れないようにマフラーを念入りに首に巻き付けて、彼と彼女と彼女は各々の部屋で身支度を整える。

 

 今日という日が自分たちにとって大きな転換点になると自覚する三人は、外の風景が昨日までと何ら変わらず平穏なのを、訝しく、不思議に、頼もしく思いながら、それぞれの家を後にした。

 

 

***

 

 

 期末試験の答案返却と解説が行われている間も、比企谷八幡は放課後のことばかり考えていた。

 とはいえそれは不真面目さの反映ではない。

 

 もともと国語に関しては解説を聞かずともだいたい解るぐらいには優秀だった八幡だが、今回は他の教科にも力を入れたおかげで、間違った箇所を一瞥するだけで復習には事足りた。

 それに、科目によっては。

 

「今回の数学のテストは満点が五人に増えたぞ。授業でやったことを丁寧に復習したら誰でも満点が取れるんだから、お前らもっと頑張れよ!」

 

 得意教科の国語ですらも満点を取ったことは無かったのに。

 一箇所たりとも修正の必要がない答案を高校に入って初めて受け取って、それが八幡が苦手にしていた数学の試験だというのだから不思議なものだ。

 

 いけ好かないあの男に答案を返す時には「今回も満点だ」と大々的に褒めていたのに、八幡の時には微かに頬を動かしただけで無言で手渡された。

 

 けれども、目は口ほどにものを言うとは言い得て妙だと八幡は思った。

 おそらくあの顧問が上手い具合に話してくれたのだろう。

 

 クラスで目立つようなことがあると挙動不審に陥りかねないと、そんな助言を受けたので表立っては言わなかっただけで。

 数学の教師が本音では「よく頑張ったな」「やれば出来るじゃないか」と伝えたくてうずうずしているのが感じ取れて、あやうく挙動不審になりかけた八幡だった。

 

 

「まあ俺の力ってよりは、プリントを作ってくれた雪ノ下のおかげだしな」

 

 この数日間で何度となく繰り返した言葉を口の中で小さく呟いて、そして八幡は再び放課後に意識を向ける。

 

 どんなふうにして話を切り出そうか。

 最後まで聴いてもらう為には、どう伝えれば良いのだろうか。

 結論らしきものはあれども、話題の出し方も持って行き方も分からないままに「話したい」という感情だけが相変わらず先走っている。

 

 結局のところ、八幡が感情を理解できないのは、自分の中にあるこうした傾向が大きな要因になっているのだろう。

 実際に今までにも、例えば中学の時にもこうして感情が暴走したせいで、あの女の子を巻き込んで黒歴史を作ってしまった。

 

 選挙期間中に、彼女は過去を悔いて謝ってくれたけれど。

 そもそもの発端は自分のそうした性向にあると八幡は考えていたし、だからこそ今回は何としてでも暴走を抑えたいと思っていた。

 

 幸いなことに、あの顧問のおかげで心理的には余裕がある。

 無策なのは週末から変わりがないのに、根拠のない、しかし軽くもない自信が自分の中には確かにある。

 

 あの二人と、きちんと最後まで話がしたい。

 その為には……。

 

「てか、あれだよな。敢えて一線を引くことから始めるか」

 

 土曜日の顧問の応対は大いに参考になった。

 

 相手との距離を置くことは、一見すると冷たいようにも見えるけれど、冷静に話を深めるには都合が良い。そして話が進むうちに、当初は感じたある種の疎外感がすっかり薄れてしまうのは、あの橋の上で身をもって体験したことだ。

 

「あとは、最後まで聴いてくれって先にお願いしておけば……って待てよ。たしか雪ノ下が」

 

 海浜幕張近くの喫茶店で数学のプリントを渡された時に、たしか彼女はこう言っていた。

 

『これが平塚先生からの依頼だと思えば、貴方も納得できるのではないかしら?』

 

 途中で席を立たれるのを防ぐ為にも、そして重苦しい雰囲気を避ける為にも、この手は有効かもしれない。

 

 自分が依頼人になるという初めての体験に心が躍るのを感じながら。

 そして、ずっと欲しかったもののことを心の奥底で噛みしめながら。

 

 話の始め方という問題を片付けた八幡は、引き続き物思いに耽るのだった。

 

 

***

 

 

 解説の時間がようやく終わって、これで期末試験が完全に済んだと開放感に浸る声がそこかしこから聞こえて来る。

 

 そんな生徒たちをたしなめて、担任が手早くホームルームを片付けると、由比ヶ浜結衣は即座に立ち上がった。

 

「じゃあ、あたしは部室に直行(ちょっこー)するから。あとよろしくね」

 

 二人の友人は軽く頷くだけで、余計な言葉は口にしない。

 状況はあらまし伝えているし、会話が必要になるのは今夜であって今ではない。

 

 三人の間で想いが共有されているのを実感して、そして由比ヶ浜はばたばたと教室を後にした。

 

 

 一歩一歩を踏みしめるようにして廊下を歩きながら、去り際にちらりと見た彼の様子を思い起こす。

 とりあえず外に出るかとお尻を上げかけていた八幡は、こちらの行動を察して力を抜いて座り直していた。

 

 由比ヶ浜の頬が少しだけほころぶ。

 

「ヒッキーがゆきのんに、どんなふうに伝えるのか……。楽しみだけど、その先が大事だもんね。うん、頑張ろう!」

 

 不吉な予感は頭の中から追い出して、その代わりに今日の授業中のことを思い出す。

 

「数学のテストを渡された時のヒッキーって、変になる寸前って感じだったなぁ。なんだか先生もうるうるしてたし、もし満点だったら凄いよね。あたしだって同じプリントを使って……ううん、それはいいんだ。ヒッキーはヒッキーだし、あたしはあたしだから」

 

 あの二人に対して疎外感を抱くのは、この春から何度も経験したことだ。

 それでも自分には自分なりの長所があるし、それで二人の力になれると自信を持てるくらいには、由比ヶ浜は結果を残してきた。

 

 胸を張って前を向いて特別棟へと足を踏み入れた由比ヶ浜は、扉の前で立ち止まると静かに笑みをこぼして。

 そして勢いよくドアを開けた。

 

 

「ゆきのん、やっはろー!」

「こんにちは、由比ヶ浜さん。今日は早いのね」

 

 こちらに向かって親しげに微笑みかけてくれる彼女の顔を見てしまうと、後ろ手に扉を閉める時間すら惜しいと感じてしまう。

 ばたんと閉じたドアから勢いよく離れると、逸る足取りでいつもの場所まで辿り着いた由比ヶ浜は大きく椅子を引いて、そのままお尻を滑り込ませた。

 

「だって三人でちゃんと話ができるんだもん。あのヒッキーが言い出して、ゆきのんも応えてくれて。そりゃあ急いで部室に来なきゃって思っちゃうよ」

 

 始まってもいない話し合いが首尾良く終わるに決まっているとでも言いたげに、由比ヶ浜は上気した頬を彼女に向ける。

 

「そうね。私も楽しみだわ」

「でしょ?」

 

 選挙が終わってもう半月が経つというのに、その間とんと見られなかった余裕が、今の彼女からは感じられる。

 

「でさ、試験のことなんだけどさ。やっぱり数学は……」

 

 そのまま雑談に移行しながら。

 由比ヶ浜は心の中で改めて、顧問に向かってお礼を伝えた。

 

 

***

 

 

 そろそろと扉が動くのに気が付いたのは、おそらく自分が先だったと思う。

 反射的に目線を横に動かすと、右隣に座っていた彼女もそれに続いた。

 

「やっはろー、ヒッキー!」

「こんにちは、比企谷くん」

「う、お、おう。悪い、遅くなった」

 

 いつもの「うす」という挨拶を口にするタイミングを逃してしまい、取り繕うように謝ってみせた彼は、居心地の悪そうな表情を浮かべている。

 

 だから雪ノ下雪乃は、気にしないでいいと首を左右に軽く振って、椅子に座るようにと八幡に向かって頷いた。

 

「いや、それがな……」

 

 けれども、立ったまま椅子に手を置いた八幡は困ったような顔つきで何かを言い淀んでいる。

 

 やがて、意を決したのか。

 何の説明もなくいきなり椅子を持ち上げた八幡は、それを自分たち二人の近くに置いて腰を下ろした。

 

 いつもなら依頼人が座る位置よりも更に近く、互いを隔てるのは机の短辺に相当する距離でしかない。

 こうして彼と間近に向き合ってみると、心の距離はこれほどまでに近づいていたのだと自覚させられるとともに。あの後輩の女の子は距離の詰め方が上手だったなと、比べるのは申し訳ないのだけれど、そんな事を考えてしまった。

 

「え、どしたのヒッキー?」

「何か思う所があるのでしょうけれど、何も言わないと解らないわよ?」

 

 自分でやっておきながら、距離が近いのが落ち着かないのか目を合わせようとしない八幡に、由比ヶ浜が言葉をかける。

 続けて雪ノ下がフォローの言葉を伝えると、八幡はようやく目を正面に向けて、そしておもむろに口を開いた。

 

「お前らに一つ依頼がある。……つっても、まあ、難しい話じゃなくてだな。その、俺の話を最後まで聴いて欲しいっつーか、それをどう思うかを聞かせて欲しいっつーか、そんな程度の事なんだけどな」

「うん、いいよ」

 

 由比ヶ浜の即答が耳に届いて、思わず目を細めてしまった雪ノ下は、自分はどう答えようかと少し悩んで。結局は思ったままを口にすることにした。

 

「貴方がちゃんと話してくれるのなら、私にも異論は無いわ」

 

 彼の話を受け止める用意はできている。

 なぜなら今の雪ノ下にとって、そこはゴールではないからだ。

 彼の話を聞いて、その上で望ましい未来を突き付ける事こそが、今の自分の目指す先だ。

 

「じゃあ……ただ、どう話したもんか自分でも整理が付いてなくてな。いちおう議題としては、修学旅行の時の話と、それから会長選挙の話とがあるんだが」

「それってふつうに起きた順でいいんじゃないかな。えっと、修学旅行の最終日から、あんまりゆきのんと話せてないよね?」

 

 何でもないような軽い口調で、その実こちらを気遣ってくれている。

 そんな由比ヶ浜に小さく頷きを返してから口を開いた。

 

 

「では最初に、貴方が由比ヶ浜さんにどんなふうに返事をしたのか教えてくれるかしら。部長として、そのくらいの権利はあると思うのだけれど?」

 

 隣に座る由比ヶ浜を見習って、冗談交じりの軽い口調で話を促したつもりだったのだけど。

 お手本にした当の彼女が「あー、やっぱり」と小声で呟いているのは何故だろうか。

 

「あー、えっと、結論から言うとだな。由比ヶ浜には返事を先延ばしにして貰った」

「なるほ……はい?」

 

 あらかじめ用意しておいた返し文句を言い終える直前に、彼が語った言葉の意味が理解できて。思わず大きな声を出してしまった。

 そのまま二の句を継げないでいると。

 

「まあ、ヒッキーはヒッキーだからさ。仕方がないかなって」

「……貴女は、それでも良いの?」

 

 彼が返事を先延ばしにするのは、あの竹林でのやり取りに続けてこれで二度目だ。

 それだけでも理解に苦しむというのに、そもそも由比ヶ浜のような(女の自分から見ても)素敵な女の子から告白されたにもかかわらず返事を保留にするとは、この男はいったい何様のつもりなのかと苛立つような気持ちが湧き上がってくる。

 

 なぜ怒りではなく苛立ちなのかは、考えないようにした。

 

「うーん。いい、とは言えないけどさ。でも、あの時に教えてくれたヒッキーの気持ちとか考え方とかは、嘘じゃないって思ったし。ヒッキーらしくない事を言われるよりはさ、そっちのほうがいいやって、そんな感じ?」

 

 不意に、隣の彼女が途轍もなく大きく見えた。

 

 自分は先の未来を見据えた上でここに座っているのだと、そう考えていたけれど。

 もしかすると由比ヶ浜は更に先まで見通しているのかもしれない。

 あの立会演説会の時には、自分と同格の域にあると思ったけれども、あるいはもう……。

 

「それでも、だって、私には()()()()気持ちは解らないのだけれど、でも()()なら、普通は付き合いたいと思うものなのでしょう?」

「うん。ヒッキーが好きだし、できれば付き合いたいなって思うよ。でも、付き合い始めたら終わりってわけじゃないからさ」

 

 確定だ。

 うじうじと時を浪費するだけだった自分とは違って、由比ヶ浜はこの二週間ちょっとで更なる高みへと進んでいる。

 その引き金になったのは、おそらく、彼女なりの「覚悟」だろう。

 

 厳しい現実を受け入れて、それが逆に心の余裕へと繋がった雪ノ下は、視線を左に動かしながらこう問い掛けた。

 

 

「では貴方は、返事を延期して何を考えているのかしら。私が聞いても良い範囲で、教えてくれると嬉しいのだけれど?」

 

 しばしの間、難しい顔をして黙り込んだまま言葉を探していた八幡が、ようやく口を開く。

 

「……結論を出すための材料が、不足している気がしてな。俺には知らないことが多すぎるし、知って貰ってることが少なすぎるって思ったんだわ。だから、結論を出す前にもっと話をしたいって伝えて、返事を先延ばしにして貰った」

 

 お互いをより深く知るために、という理由は至極真っ当に感じられた。

 けれどもその誠実さには、やはり苛立ちを覚えてしまう。

 

 認めたくはないのだけれど、きっと自分は疎外感を抱いているのだろう。

 あるいは、劣等感か。

 それとも……?

 

「……そう」

 

 考え事に意識の大部分を傾けていた雪ノ下が気のない相鎚を返すと、がしがしと頭を掻く音が聞こえてきた。

 顔を上げて、再び視線を彼に向ける。

 

「そのな。俺はぼっちだったから、男女の付き合い以前に他人との付き合い方に問題を抱えててな。んで、なんつーか、その、唯一の成功体験が、この、なんだ、部活だったと思うんだわ」

 

 自虐的な発言は以前からよく耳にしていたけれど、こんなふうに前向きな文脈で口にすることはほとんど無かった気がする。

 

 過去の至らぬ自分をきちんと見据えることができている八幡からも成長の気配が伝わって来て、今度は明確な劣等感を肌で感じた。

 

 だが、それでもまだ雪ノ下には余裕があった。

 昨日顧問と過ごしたおかげだと思いながら口を開く。

 

「そうね。……私も、この部活のおかげでクラスのみんなと、別に問題を抱えていたわけではないのだけれど、以前よりも楽に身近に接することができるようになったと思うわ」

 

 しみじみとした口調でそう伝えると、すぐに右隣から声がした。

 

「それってたぶん、国際教養科のみんなも同じだと思うよ。だって、ゆきのんが伏見稲荷で息切れしてた時とかさ。前だったら心配でしかたないって感じで遠くからはらはら見てたと思うんだけど、飲物を届けただけで後はほったらかして、あたしにがんがん質問して来たじゃん。あの時に、ゆきのんとの距離が縮まってるなーって思ったもん」

 

 おそらくそれは、妙な勘違いから勝手に気を回していただけだと思うのだけど。

 それでも、というかそれもまた、距離が縮まっている証拠ではあるのだろう。

 

「あー、その、話を戻して良いか?」

「あ、ごめん。脱線しちゃったね。ヒッキー続けて?」

 

 付き合っているわけではないにせよ、二人のやり取りがとても自然で仲の良さが伝わって来て、なんだか微笑ましいなと思ってしまった。

 先程までの苛立ちがすっかり消えてしまったのを心の隅で訝しんでいると。

 

「上手く伝わるのか、あんま自信は無いんだけどな。変な表現だと思ったら笑って欲しいんだが……この部活が、その、俺にとっては人間関係の原点みたいな感じなのな」

「うん、ぜんぜん変じゃないし、ヒッキーがそう言ってくれるのって嬉しいなって思うし、たぶんゆきのんも同じだよね?」

「ええ、そうね。……あら?」

 

 同意の言葉を返すと同時にメッセージの着信音が聞こえたので、思わず声が出てしまった。

 どうやら二人にも届いたみたいで、確認は話し合いが終わった後にと考えた雪ノ下とは違って目線を横に移している。

 

「ああ、これ後回しで良いやつだぞ」

「え、でもさ。いろはちゃん、『やばいですやばいです~』って書いてるけど、続き読まなくても大丈夫?」

「あいつって、本当に緊急の話だったらこんな書き方はしないからな。ただの戯れ言だと思うから、既読にしなくて良いんじゃね?」

「むー、ゆきのんはどう思う?」

 

 不機嫌そうな彼女の口調で、自分もまた面白くないと考えていることに気が付いた。

 だから雪ノ下は指を動かしながら口を開く。

 

「だったら私が確かめてみるわね。えっと、『向こうの生徒会長の話し方がやばい』って。……良かったわね、比企谷くん。変な表現だと笑われているわよ?」

「笑われてるのは俺じゃないし、あいつに頼んだわけでもないっつーの。つか、やっぱり確かめなくて正解だったろ?」

「むー、そうなんだけどさ」

 

 口を尖らせた由比ヶ浜だが、先程と比べると感情は抑え気味だ。

 

 確かに彼が言ったとおりのくだらない内容だったけれど、良い気分転換になったなと考えながら、雪ノ下は話を続けることにした。

 

 

「それで、貴方がこの部活のことを人間関係の原点だと考えているのは理解したのだけれど。それが、結論を先延ばしにしたことと、どう繋がるのかしら?」

 

 結局のところ、疑問はこれに尽きる。

 

 お互いをより深く知りたいのであれば、二人でいくらでも話をすれば良いではないか。

 そんな真っ当な、けれど自分でもどこかやけっぱちに思える提案を口にできないでいると。

 

 左隣の男の子の目が、以前とは少し違って見えた。

 

「俺は……なんか改まって言うのは照れくさいんだがな。お前ら二人と、もっと話がしたいと思う。俺が知らないような、けど雪ノ下が知ってる由比ヶ浜を、俺も知りたいと思うし。由比ヶ浜が知ってる雪ノ下のことも知りたいと思う。由比ヶ浜だけが知ってる俺とか雪ノ下だけが知ってる俺とかも、もしそれが悪口ばっかになったとしても、知っておいて欲しいと思うし。その、あれだ。嵐山の竹林で言われたようなこととかも、ばんばん指摘して欲しいって思ってる」

 

 こんなに素直に希望を口にするなんて、これこそ自分が知らなかった彼の一面ではないかと雪ノ下は思った。

 そして、気付く。

 

 八幡は希望を口にすると同時に、既にそれを実践しているのだと。

 

「いちおうゆきのんに言っとくけど、こんな具体的な話はあたしも初耳だからね。でさ。うん、正直に言うと、あたしもそれ、いいなって思った。だって……だってさ。最近のあたしたちって、三人でちゃんと話せてなかったじゃん。旅行とか選挙とか依頼とかあって、難しかったのは分かってるけどさ。それでも、あたし、ずっと」

 

 唇を噛むようにして、由比ヶ浜は続く言葉を呑み込んだ。というよりも、嗚咽(おえつ)が漏れそうになるのを呑み込んだのだろう。

 その証拠に、少し間を置いただけで、いつもどおりの声が聞こえて来た。

 

「だからさ。投票の前の晩に、ここで集まったじゃん。約束とか何もしてないのに、三人とも揃っちゃって。あれ、あたし、すっごく楽しかったし、嬉しかったんだ」

 

 その気持ちは自分も解ると雪ノ下は思った。

 だが同時に、雪ノ下にはわからないこともある。

 

「そういや、あのクマ柄のパジャマは何だったんだ?」

 

 えっと、そういうことではなくて。

 

「ちょ、ヒッキー。今それ言うの違うくない?」

「そうよ、比企谷くん。あのクマ柄のパジャマは由比ヶ浜さんのお気に入りなのだから」

 

 えっと、そういうことではなくて、と言いたげな視線が左隣から届いている。

 

「いやま、にあ……似合っ、てた、のは、確かだけどな。だからって、この部室に来るなら別のものを着てくるのが普通じゃね?」

「可愛いパジャマが由比ヶ浜さんに似合うのなんて当たり前じゃない。それよりも貴方は、由比ヶ浜さんの普通は普通じゃない時があるって、まだ解ってなかったの?」

 

 えっと、そういうことではなくて、というか泣いちゃうぞと言いたげな視線が右隣から。

 

 仕方がないので溜息を大袈裟に一つ吐いて。

 そして雪ノ下は、なぜかほんのりと顔を赤らめている二人に向かって語りかける。

 

「だって由比ヶ浜さんは入学式の朝にも、あのパジャマで外を歩いていたもの」

 

 ここで言葉を切った雪ノ下は、二人がはっと息を呑むのを確認してから話を続けた。

 

「考えてみれば、いつの間にか、あの事故の話を避けるようになっていたのよね。比企谷くんが知りたいと思うことの中には、由比ヶ浜さんが話したいと思うことの中にも、こうした話題が含まれているのでしょう?」

 

 話の途中で合点がいったという顔つきになっていた八幡が、言葉を引き継ぐ。

 

「そうだな。なんつーか、そういうタブーがどんどん増えていって会話が窮屈になるのが嫌っつーか。使える文字が一つずつ消えて行くって作品が昔あったけど、あんなのは創作物の中だけで充分なのに、なんか気が付いたらこの三人の間でさえ変な縛り付きで話をしてるってのが……嫌だったな」

 

 筒井康隆の「残像に口紅を」は確かに怪作だったと何度もこくこくと頷く雪ノ下は、八幡が違う作品(幽☆遊☆白書)を想定しているとは気付かなかった。とはいえ、この程度のすれ違いが問題になることはないだろう。

 

「変なすれ違いとか誤解とかが出ないように、この辺の話題は避けようねってのは、まあ割とあるんだけどさ。でも、ここでの会話って……ゆきのんとヒッキーが頭いいからなのかもしれないけどさ、ものすっごく徹底的に避けてるっていうか。それが逆に、避けてるのが丸分かりっていうか……うん、あたしも正直に言うと嫌だったな」

 

 他のケースと比較ができるのが彼女の強みだなと改めて思いながら、けれど頭の出来よりも性格のほうが大きいのではないかと雪ノ下が考えていると。

 

「それな、頭の出来よりも……あー、つい思い付いたから今から俺ちょっとキモいこと言うけどな、たぶんあれなんだわ。要するに、大切だから傷つけたくないとか、まあ、そんな感じの……キモいよな。忘れてくれ」

 

 おそらく今の言葉は、純粋に彼の中から出て来たものではないのだろう。

 右隣を見ると、目が合うなり由比ヶ浜が大きく頷いたので、揃って苦笑を漏らしてしまった。

 

 まるで魂を抜かれてしまったかのように硬直していた彼がますます縮こまってしまったので、今度はこっそりくすっと。そのまま雪ノ下は口を開く。

 

「貴方の普段の気持ち悪さと比べたら、今のなんて問題にならないわよ。それに、たとえ借り物の言葉だとしても……貴方の熱い想いは、私たちの心に響いたわ」

 

 二人とも仕方がないなぁと言いたげな気配が話の途中で届いたからか、言い終えると同時に雪ノ下まで硬直していると。

 

「大切だから傷つけたくなくて、だからあたしたちって、選挙を戦うことになったんだよね。でもさ、あれはあれで……楽しかったよね?」

「楽しくて、充実した日々だったわ」

「ああ。俺もそうだった」

 

 明るく元気に問い掛けるそのすぐ裏側には、儚い想いが潜んでいる。

 だが、それを今さら察知できない二人ではない。

 高二に進級した頃と比べるとずいぶん交友関係が広がったとはいえ、二人にとって他者との関係の始まりは、原点は、由比ヶ浜なのだから。

 

「ちょ、二人とも即答ってどういうことだし!?」

「言葉のとおり、楽しかったということよ。もちろん結末には不満なのだけれど……あら?」

 

 話を進めようとした矢先に再びメッセージが届いたので、今度は三人ともが目線を動かして。

 

「これも未読で済ませて良いのかしら?」

「書き出しが同じだし、スルーで良いんじゃね?」

「もう……。いろはちゃんって、構って欲しいんだなーって分かりやすい時あるよね」

 

 三人の意見が一致した瞬間だった。

 

 

「頭の切り替えができて、ちょうど良かったかもしれないわね。では、選挙のことなのだけど」

 

 そんなふうに雪ノ下が口火を切ると、八幡がそれに続いた。

 

「選挙結果が出た後で、この部屋でお前が言ったセリフがあっただろ。んで、もし期待してくれてたんなら、情けないんだけどな。俺は今でも、お前が『わかるものだと』思ってたことが、わかってなくて……」

「ヒッキー、大丈夫だよ」

 

 途中からは俯きがちになり、声も消え入りそうになっていた八幡の耳に、頼もしい声が届く。

 それもまた何だか情けなく思えて来たので、敢えて挑発的に。

 

「……何が大丈夫なんだよ?」

「だって、あたしもわかってないからさ」

 

 あっけらかんと言われてしまうと、拗ねている自分がよけいに情けなく思えてくる。

 けれども、奇妙な可笑しさが自分の中で少しずつ大きくなってきて。遂にふへっと変な声が出てしまった。

 

「まあ、そうだな。由比ヶ浜で無理なら、なおさら俺が、あれだ。()()()()()がわかるわけなかったわ」

「でしょ。あたしもね、そんな感じで開き直っちゃうヒッキーの()()()()()()じゃないよ?」

 

 ふふんと胸を張って言い返してくるので、素直に両手を挙げて降参の意を伝えた。

 視界の右隅では部長様が額に手を当てて、なのに微笑ましいものを見るような目をしている。

 

 ぱちぱちと何度か瞬いて、そして雪ノ下の唇が動いた。

 

「ずっと前から、考えていたの。私のこれから先の人生を見据えた時に、どんなふうに高校生活を送るのが一番良いのかって。だから正直に言うと、どうしても生徒会長になりたいとは思ってなくて。でも、それが一番良いんじゃないかって思ったの」

 

 こんなふうに自分の気持ちを素直に打ち明けてくれるなんて、思いもしなかった。

 それはつまり、こちらが勝手に障壁を作っていただけで。

 雪ノ下は自分とは違う世界の住人だと、そんな考えを捨て切れていない己に原因があるのだと八幡は思った。

 

「うん。続けて?」

「私が思い描いていた生徒会は、この奉仕部を発展的に解消した先にあると同時に奉仕部を内包するものでもあると。立会演説会ではそんなふうに説明したと思うのだけど……」

「うん。難しい言葉はわかんないけど、覚えてるよ。そういうのもいいなって、ちょっと思ったもん。でも、あたしにも譲れないことがあったからさ」

「ええ、それは解っているわ。だから問題は、意図を伝えていなかった私にあるのよ」

 

 二人が話しているのを静かに聴いていようと考えていた八幡だが、今の言葉は二重の意味で引っ掛かった。

 

「いや、あのな。確かに伝えられてはなかったけど、お前が目指す生徒会の形に思い至らなかったのは俺の問題だろ。その責任を勝手に取り上げるなよ。それに由比ヶ浜も一色も、お前の構想を知った後でも主張を曲げなかったじゃねーか。だから意図を伝えなかったことに問題があるとは思えないんだが?」

 

「貴方こそ、私の責任を勝手に取り上げないで欲しいのだけど。伝えなくてもわかると、自分の気持ちなんてわかると思い込んで、(はかりごと)帷幄(いあく)(うち)(めぐ)らしたつもりで、私は何もわかってなかったのよ」

「あー、もう。二人とも、ちょっと落ち着いてってば」

 

 

 たしか漢の高祖が張良を評した言葉だったなと。

 宥めて宥められてを繰り返している眼前の二人よりも原典に意識が向いた八幡はふと、文化祭の記憶を呼び起こした。

 

 あの時、性別不詳の友人が俺を評してこう言ってくれた。

 

『やっぱり韓信みたいだなって。それでね、色々とフォローをしてくれる由比ヶ浜さんが蕭何で、頭が良くて交渉とかもできちゃう雪ノ下さんが張良だって考えたら面白いなぁって』

 

 それに対して、俺はたしか。

 

『今んとこ三人で上手く役割分担ができてる気はするんだが、劉邦を皇帝にするとか、はっきりした目標みたいなのがないと、いつまで続くかって気もするんだよな』

 

 目の前のやり取りを眺めていても、由比ヶ浜のフォローはあの頃よりも更に効果的・包括的になっているし。

 雪ノ下だって、さっきはああ言っていたけれど、選挙戦略で見せた頭の切れは確実に文化祭の頃を上回っていた。

 では、俺は?

 

 自分でも多少の手応えはあるし、土曜日にはあの顧問にも「良い方向に変わり続けている」と褒めてもらった。

 でも、この二人の成長スピードと比べると、相対的にはどうなのだろう。

 

 かつてのように自分を過小に評価しようとは思わないけれど、それ以上にこの二人を過小評価できるわけがない。

 特に由比ヶ浜は、正面から雪ノ下に異を唱えられるほどにまで成長している。

 

 よしんば俺と二人の差が文化祭の頃と変わっていないとしても。ここまで成長した二人を収めておくには、三人での役割分担が前提の奉仕部という器では、きっともう小さすぎるのだ。

 ならば、どうする?

 

『あたしとゆきのんの案の、いいとこ取りって言うのかな。無理に戦わなくても、もっといい形にできたのかもなって』

 

 選挙結果が出た後に、そして雪ノ下がこの部室から先に消えてしまった後で、由比ヶ浜はこんなことを言っていた。

 けれども三者の役員案をまとめてみても、各々の案には及ばなかった。

 

 二人が成長を続けるその先に、もしかすると決別という未来はあるのかもしれない。

 でもあの顧問は、別れの未来をそれほど悲観的には捉えていなかった。

 個人的には避けたいと願う未来だけれど、顧問の意図も理解はできる。

 

 それよりも絶対に避けるべきなのは、二人が雌雄を決せざるを得ない展開だろう。

 なぜなら、二人のどちらにも、俺は負けて欲しくないから。

 二人の決戦よりも、二人が協力し合う姿こそを見たいと思うからだ。

 

 ならば、漢の三傑の話題に続けてあの時に語った話が使えるかもしれない。

 

『聖騎士みたいな奴がいて、暗黒戦士みたいな奴もいて、そいつらはいずれ覇権を掛けて争うしかないだろうって、みんな思ってたんだわ。けど大賢者さんがな、『二人の上に立つ人が居れば良いじゃない』とか言い出してな』

『何か上位の存在を置いたら良いんじゃね、的な』

『理念とか』

 

 二人が納得できる理念があれば、それの下で二人は協力関係を維持できる。

 奉仕部という器がなくなった後でも、俺は二人と繋がりを持てる。

 

 でも、果たして良いのだろうか?

 俺が提案できる理念なんて、ずっと欲しいと願っていた、他には何も要らないと思える()()しか無いのだけれど。

 

 三人で色んな話をした末に、微かにでも感じられたら良いなと思っていた()()を、堂々と目標に掲げても良いのだろうか?

 二人に受け入れて貰えるのだろうか?

 

 そしてそれ以上にやばいと思うのは、俺はどんな顔をしてどんな切り出し方で、()()の話に持ち込めば良いのだろう。

 

『やばいですったら本当にやばいですって~』

 

 眼球以外は微動だにせずスルーを決め込んだ八幡だが、気を削がれるよりも却って覚悟が定まった気がした。

 だから、自分と同じく変わった様子が微塵も見受けられない二人に向かって口を開く。

 敢えて再び、挑発的に。

 

 

「たしかに、雪ノ下はなんにもわかってねーな。……最初に会った時に言っただろ。人助けなんてしたところで、誰もその内実なんて見てないってな。同じ事をしても、お前の外見を見たら感謝するし、()()俺だったら罵倒されて終わりだった。要するに、人を表面的にしか見ない奴が大半だって話だ」

 

「それは覚えているのだけれど……なぜ、今その話を?」

 

 無頼を装ったところで、今さら騙されてはくれないなと。

 それを嬉しいと思う気持ちを何とか噛み殺していると。

 

「じゃあヒッキーは、わかって欲しいってゆきのんが考えてたのは無理だって、そう言いたいの?」

「ああ……普通は無理だと思う。()()()()、な」

 

 雪ノ下がはっと息を呑む音が、耳に届いた。

 由比ヶ浜が何かを言い淀んだ気配も伝わって来る。

 

 上を目指そうとした二人と、普通を訴えたあの後輩と。

 選挙の結果は後者に微笑んだ。

 けれども。

 

「けど、な。俺はこの話を、普通で済ませたくねーんだわ」

「比企谷くん……」

「ヒッキー……」

 

 この二人を特別に想うからこそ、傷つけてしまうのかもしれない。

 できることなら、俺が傷つけられるのは構わないから、傷ついて欲しくなかった。

 

 そう思っていたけれど、実はこれは仮定も結論も欺瞞だ。

 

 特別なこの二人に傷つけられるなんて俺にはとても耐えられないし。

 特別なこの二人に望むことは、傷ついて欲しくないなんて域に止まらない。

 

 ゆえにこそ、余計な希望を削ぎ落として削ぎ落として、最後に残った感情を二人に伝えるべきなのだ。

 それがどんなに無様で情けなくて大それた押し付けがましい結論でも。

 

 なぜなら。

 

「どうせ言っても伝わらないって、ずっと思ってた。だから本来、雪ノ下を糾弾する資格なんて俺には無いんだわ。確かに雪ノ下は『伝えなかった』けど、俺はそれ以前の段階で……ずっと立ち止まってたわけだからな」

 

 自分の過ちを認めるのは、どうしてこうも耐えがたいのだろう。

 

 他人の間違いを指摘するのは、たとえそれが名の知れた専門家に対してでも簡単なのに。

 こいつらにも金曜日にちらっと言ったけど、SNSとかで暴言を吐いておきながらも、自分は正しいことを言っていると思い込んでいた時期が俺にはあったというのに。

 

 それと同じ事が、自分に対してだけはできない。

 

 だからこそ、自ら責任を引き受けようとする姿に惹かれたのだろう。

 だからこそ、前向きに改善点を教えてくれる姿に惹かれたのだろう。

 

「でも……貴方の主張をひとまず肯定したとして、それでも私がわかっていなかったことに変わりはないと思うのだけど。だから私にも責任が……」

「ゆきのん。たぶんそれ、違うよ。選挙のことはヒッキーの責任だからゆきのんに責任は無いなんて、そんな話じゃないと思う」

 

 二人の言葉を聴いて、情けなくて嬉しくて涙が出そうだ。

 それを何とか堪えて、平然とした風を装いながら声を出す。

 

「そうだな。今の俺は自分のことだけで精一杯だから、雪ノ下の責任を負えるほどの余裕はねーんだわ。俺が言いたいのは、普通なら伝わらないとか誰も内実なんて見ないとか、そんな小賢しい忠告なんて吹き飛ばしてしまえるような特別なものが、実は身近なところにもあるんじゃねーかなって。だから俺は……お前らに伝えたいのは……」

 

 

 両手を強く握りしめて、上半身は小刻みに動いている。

 そんな八幡の姿を、由比ヶ浜は一瞬たりとも見逃すまいと見つめていた。

 

 もうずいぶん昔に、「待つよりも、自分から行く」とは伝えたけれど、それは自分の希望を押し付けるという意味ではない。

 彼と彼女に無理をさせてまで、それぞれのらしさを失わせてまで何かを強制するのではなくて。らしさを発揮している二人のところに自分から行くと決めたのだから。

 

 だから、二人が希望を伝えてくれるのなら、あたしはそれを受け入れるだけだ。

 あたしの行動は、その後にある。

 

 何とか言葉を捻り出そうとしている八幡を、由比ヶ浜は静かに見つめ続ける。

 

 

 慈愛に満ちたとは、こんな表情を指すのだろうなと雪ノ下は思った。

 八幡もまた東京駅で同じことを考えていたとはつゆ知らず、由比ヶ浜の視線に後押しされるようにして自身も左隣の男の子を眺める。

 

 先程からずっと、雪ノ下にはわからないことがあった。

 どうして彼は、私まで巻き込んで三人に拘るのだろうか。

 どうして彼女は、投票前夜に二人きりではなく三人で揃ったことを喜んでいるのだろうか。

 

 そして今、必死になって想いを言葉にしようと試みている八幡の姿を視界に捉えて、理解できたことがあった。

 おそらく、いや間違いなく、彼と私が求めているものは同じだ。

 そして彼女は、自分たち二人がそれを口に出せるようになるのを待ってくれていた。

 

 昨日からずっと、心の中では存在していた想いが、雪ノ下の頭の中で言葉になる。

 

 私は、偽物なんて欲しくはない。

 

 どんな事情があるにせよ、いくら小学生だったからって、肝心な時に助けてくれない彼も。

 どんなに頼れる存在でも、いくら身内だからって、頼り切りになってしまうような()()も。

 

 あの()()を偽物と呼ぶのは、楽しかった想い出まで捨て去ることになるから、当時の自分をも偽物だったと認めることになるから、私にはできないのだけれど。

 

 それでも、まがいものなんて私は欲しくなかった。

 

 

「俺は……」

 

 苦しそうにそこまで口にして、それでも彼の口から続く言葉は出て来ない。

 それならば、私が先に言った方が良いのだろうか?

 

 判断に迷って右隣をちらりと見ると、その表情は先程と何ら変わりはない。

 ということは、彼が想いを言葉にするのを待つべきなのだろう。

 

「私は……」

 

 だから私は、彼を急かすような言葉を口にする。

 彼女が一瞬だけこちらを見て、それでも何も言わなかったから、決して間違いではないのだろう。

 その証拠に、左側から再び声が。

 

「俺、は……」

 

 あとはタイミングを合わせるだけだ。

 彼が言い終えた後に口に出しても良いのだけれど、どうせなら同時に口にしたい。

 

 この土壇場に至って、まだ私にこれほどの余裕が残っているのを自覚して、次に顧問に会った時にはなんて言おうかなんて考えていると。

 

 

「えいっ。……あれ?」

 

 そんな場違いな声とともに扉が開く音がした。

 思わずそちらに視線を送ると、そこに居たのは現生徒会長にして、先日の選挙で私が敗れた張本人。

 

「な〜んだ、やっぱり居るじゃ……」

 

 この部屋の雰囲気を察したのだろう。明るい声が途中で止んだ。

 

 そして私は、部員の二人と会うための心の準備はできていたのだけれど。

 こんなにも真剣に過去の自分と向き合っている時に、一敗地に塗れた相手と向き合えるまでの余裕は残っていなくて。

 

 だから、つい、視線を彼女の横に……。

 

「……なぜ、こんなところに?」

 

 そこに居たのは、私に過去のあの一件を思い出させる小さな友人。

 

「……俺はっ!」

 

 目が合った二人から続けざまに視線を逸らしてしまった私の耳に、泣きじゃくるような声が届いた。

 

 急いでそちらに目をやると、頬を濡らして身体を震わせて、それでも顔をしっかり上げた彼の姿が。

 

 

 そして八幡は、しずかに重々しく、その言葉を口にする。

 

「俺は、本物が欲しい」

 




次回は月末の予定です。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)


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06.ずっと探していた何かに彼女はようやく手を伸ばす。

前回のあらすじ。

 部室での話し合いの果てに、ついに八幡はずっと欲しいと思っていたものを言語化して二人に伝えた。
 一方、その発言の直前に、突如現れた年下の二人から思わず目を逸らしてしまった雪ノ下は……。



 たぶんここには居ないだろうなと思いつつ。

 すぐ横に控える小学生にも聞こえるように、ことさら明るく「えいっ」と声を出しながらドアの引手に力を込めると、それは思いのほか軽く動いて。

 

 部室に三人が揃っているのが目に入った。

 

「な~んだ、やっぱり居るじゃ……」

 

 ふと、いつもと配置が違うと思い至り。

 そして名状しがたい重々しい何かによって、わたしの言葉は遮られてしまった。

 

 後から思えば、これは運命(さだめ)としか言い様のないものだったのだろう。

 

「……俺はっ!」

 

 いつもは飄々(ひょうひょう)としていて、口を開けばろくでもない事しか言わないような人なのに。

 言葉の意味をよくよく考えて、それでようやく真意が垣間見えるような、そんな面倒くささが持ち味のせんぱいなのに。

 

 聞こえてきたのは、とても切羽詰まった、男の人らしからぬ涙声で。

 こちらの事なんて、まったく気付いていない様子で。

 

 実際には四人の耳目を集めているのに、せんぱいは目の前の二人だけに向けて。

 さっきの声はなんだったのかって言いたくなるような冷静で落ち着いた話しかたで。

 

「俺は、本物が欲しい」

 

 だから、一色いろはは彼の背中越しに、この発言を耳にした。

 

 

***

 

 

 しんと静まり返った部室の中を、一陣の風が吹き抜ける。

 

 ふわりと舞い上がった髪を押さえながら。

 窓から入って廊下へと去った空気の流れによって、まるで自分たち二人と彼が、彼と新たに登場した二人が分断されてしまったかのような印象を受けた。

 

 そんな幻想を打ち消すために軽く首を左右に振って、そして雪ノ下雪乃は左隣の男を眺める。

 言うべき言葉は口にし終えて、これ以上はもう何も出て来ないと、そんな様子が窺えた。

 

「貴方が言う本物って……なに?」

 

 何かを言わなければと、そう思った時にはもう口が動いていた。

 そんな自分の言動にも困惑させられたが、それ以上に。

 彼の発言が私には理解できなかった。

 

 彼と私が求めているものは同じだと、そう思っていたのに。

 私は「偽物なんて欲しくはない」と望み、そして彼は「本物が欲しい」と望んだ。

 

 この二つは近いようでいて、その実は途轍もなく遠い。

 その距離こそが、今の私と彼の差を物語っている。

 

 彼に劣り、そして彼女にも劣る、私。

 年下の二人の女の子からも視線を逸らしてしまった私。

 そんな私は今、さっきの発言にすがりつくような気配が現れていなかったかを気にしている。

 

 そんなふうに体裁を取り繕ったところで、今更どうしようもないというのに。

 

「正直に言うと、俺にも分からん……が」

 

 いったん言葉を切ったものの、話を続ける意図が見て取れたので口は挟まなかった。

 もっとも、何を言えば良いのかわからなかったのも確かだけれど。

 

「……そうだな。例えば、何も言わなくても解り合えるような関係って、本物っぽく思えるよな。でも、そういうのを望んでるわけじゃねーんだわ。なんでかっつーと、俺は今でもやっぱり、言われたことを疑ってしまうから。だから、言われてもそんな感じなのに言われなくても解るなんて、少なくとも俺には無理だと思うのな」

 

 この時点で既に、私とは考えかたが違っていたのだ。

 油断のならない大人に囲まれて過ごしてきた私は、他人の言葉を疑うのなんて当たり前で、だからこそ疑わずに済むような関係に憧れた。

 

 なのにどうして貴方は、他人の嘘や嘲笑によって人一倍傷付いて来たはずの貴方は、その疑いをやめない先に本物があるって思えるの?

 

 

 知りたくて尋ねたくてたまらないのに、どうしてもその問いを口に出せない私の右隣から、落ち着いた声が耳に届いた。

 

「……うん。続けて?」

 

 たちまち、ほっとしたような空気が部屋中に広がった。

 肩から二の腕のあたりが少し(こわ)ばっているのを自覚して力を抜く。

 

 入り口でずっと棒立ちだった二人も、話の邪魔をするのは良くないと思ったのかその場から動きはしなかったけれど、ドアの引手から指を離して、あるいは口元の辺りまで持ち上げていた両手をゆっくり下ろして、話を聴く姿勢に移ったのが見て取れた。

 

「ああ……そうだな。もしかしたら、俺が言葉足らずなことしか言わなくても、解ってくれる相手ってのは居るのかもなって」

 

 そこで言葉を切った彼はほんの少しだけ躊躇していたけれど、結局は覚悟を決めて続きを口にした。

 

「まあ、お前らとか小町とか……後はあれかね、どっかの後輩とかも変なところで鋭いからな。でも、そういうのに甘え出したら、俺は絶対にダメになる自信があるから……。だから、俺はそれよりも先に、せめて同時に、解りたいと思うんだわ」

 

 駄目になりたくないから、という理由はすとんと腑に落ちた。

 それに行動の目的も筋が通っている。

 ……私とは違って。

 

 私も、()()状態になるのを避けなければならなくて。

 けれども私は理想に憧れるだけで、つまり結果しか見えてなくて。

 疑わなくても済むような関係をどうやって築けば良いのか、今もって何もわかっていない。

 

 私が他人を疑わなければ、他人も私を疑わないでいてくれる。

 そんなわけはないと解っているのに、他のやり方がわからないから、私は誰よりも正しくあろうとした。

 

 でも本当は、そうした姿勢を褒められるたびに、私は声を大にして言いたかったのだ。

 こんなの、我欲から出たまやかしに過ぎないのにって。

 

 とはいえ私は、まやかしがまやかしで無くなる日が来るとも思っていた。

 自分という存在を確たるものにできさえすれば、それで我欲が無くなれば、まやかしは真実に変わるはずだと。

 

 これも結局は、同じまちがいを繰り返していたに過ぎないのに。

 

 姉とは違う自分だけの何かを得ることと、()()()を救うこととの間には、何らの因果関係も無いと……ずっと昔から解っていたのに、私は自己の確立に邁進する以外のやり方を思い付けなかった。

 そして今なお、私ならではの独自性を樹立できていない。

 

 それどころか……。

 

 

「あのね。ちょっとだけ気になったから……また脱線しちゃったらごめんね。えっと、ヒッキーがさ、あたしとゆきのんなら小町ちゃんみたいに解ってくれるって。もしかしたら、いろはちゃんも解ってくれるかもって。そう言ってくれたのは嬉しいんだけどね」

 

 頭の中で続けようとした言葉を、肺の中の空気と一緒に少しずつ身体の外へと吐き出した。

 決して誰にも気付かれないように、普段と寸分変わらぬペースで呼吸を続ける。

 

 それにしても、危ないところを助けられたのはこれで何度目だろう。

 私の心理状態に気付いているのかいないのか、それをまるで悟らせないゆったりとした笑顔をこちらに向けて、続けて入り口にもちらりと視線を送ってから少し間を取った。

 

 そして程なくして、由比ヶ浜は再び話を続ける。

 

「その、解ってくれる中にはさ、さいちゃんとか中二とかって……?」

 

 左隣から「ああ」とも「おう」とも受け取れるような声が聞こえてきて、それが妙に可笑しかった。

 本人には答え難そうだなと思ったし、彼女へのお礼という気持ちもあったので口を開く。

 

「由比ヶ浜さんでも()()()()()が解らないことがあるのね。何と言えば伝わりやすいかしら……そうね。貴女にとっての()()()()と、三浦さんや海老名さんとの違いと同じではないかと、私は思うのだけど?」

 

 たちまち右隣から先程と似た声が耳に届いたので、私は手で口元を覆い隠した。可笑しくて漏れてしまった息と、不安から出た安堵の息を悟られないように。

 そのまま左側に視線を送ると、こちらも気恥ずかしそうな顔つきだ。

 

「お前……絶対さっきの俺らの軽口を根に持ってただろ。まあ、そういう()()()()()()じゃないけどな」

「はい、ストップ。……ごめんね。その手のやり取りは後回しにして話を進めるね」

 

 自分たち二人だけではなく、入り口に立ったままの二人にも気を配って、謝りの一言を入れているのがさすがだなと思った。

 

 左隣の朴念仁は、新たな二人の登場にはまるで気が付いていないみたいだけれど。

 それでも彼女が話を続けるのは、あの二人も私たちにとっては身内のようなものだと考えているからなのだろう。

 

 

「えっと……ヒッキーはさ、何も言わなくても解り合えるような関係は、無理だって思ってて。でも、解ってくれるかもしれないあたしたちのことを、解ってもらうよりも先に、解りたいんだよね。だから話がしたいって、そんな感じで合ってる?」

 

 少し複雑な話になっているからか、途中からは短く区切って一つ一つ確認しながら問い掛けていた。

 それらに適宜(うなず)きを返していた彼が口を開く。

 

「そうだな。俺はやっぱり、言われたことをどうしても疑ってしまうから、だからいっぱい話して欲しくて。それでも俺は性懲りもなく疑い続けると思うんだけどな。けど疑って疑って、話してもらったそばから疑うのを繰り返したその先に、ほんのちょっとだけ解ったかもしれないぞって思えるような手応えっつーのかね。それを、得られるかもなって」

「んで、それすらもすぐに疑い始める気がするんだけど、それでもな。また同じ事を何度でも繰り返して、そうやって俺は解りたいと思う。あれだよな、解って欲しいわけじゃないとか、どこの中二病だって感じだけどな。でも、俺は解ってもらうよりは……それより先に、解りたいと思う」

 

 そう話す彼の声は、途中からは身近な誰かと重なって聞こえた。

 ……いいえ、誰かなんて誤魔化しても仕方の無いことだ。

 

 彼……比企谷八幡は、私にはないものを持っている。

 それは確かに、間違いなく、あの姉と同じで。

 

 そして私には、()()と同じ事はできない。

 

 

「その……ね。あたしもさ、同じようなことで昔けっこう悩んでたからさ。ヒッキーが言ってること、分かる気がするの」

「……みんなで居る時には、みんな仲良しって感じで楽しそうにしてるのにさ。人数が少なくなったら、居なくなった子たちを悪く言ったりして、実は好きじゃない、みたいなね。そういうの、あたしも居ないところでは言われてるんだろうなって思い始めたら、普段の何でもないようなやり取りにも、裏があるように思えて来てさ」

「あ、だからヒッキーが疑ったのとはちょっと違って、あたしは信じられないって感じだったんだけどさ。でも、どう考えても信じられないっていうような例外は、まああったんだけど、それ以外はね、頑張って信じてみようって。それで騙されてたって分かったら、その時にまた考えようって」

「そう思って過ごしてたら、不思議だよね。なんとなく、信じてもいい相手とそうじゃない相手が分かってきてさ。でもそれって、あたしが差別をしてるだけかもって思ったりもして。だから(おんな)じようにって思いながらみんなと過ごすんだけど、それだと、もっと仲良くなりたい人よりも、そうじゃない人と居る時間のほうが長くなるんだよね。でも今度は、そんなことを思ってるのがバレたらどうしようって、変におどおどしちゃったりさ」

「だからね、さっきヒッキーが言ってたじゃん。この部活が人間関係の原点だって。それ、実はあたしも同じなんだ。去年までとは違うあたしになれたのは、この部活のおかげ。それと、きっかけをくれた優美子のおかげかな。高二になって真っ先に、姫菜と一緒にあたしを誘ってくれたから。だから、変わりたいなって思って。だから、この部室で初めて……じゃないけど話すのって初めてだったもんね。あの時に、初めて二人をちゃんと見た気がするんだけどさ。『仲良くなりたい』って、『この二人なら信じられる』って、そう思った気持ちを大事にしたいなって」

「でもさ、あたしなんて実はそれだけなのにね。なんで、人間関係ならあたしに聞けって感じになっちゃったんだろ?」

 

 それは……と口を挟むのは、なぜだか気が引けた。

 ……いえ、それも欺瞞ね。

 だって、理由なんてもう判り切っているのだから。

 

 そんな私とは違って、目の辺りに泣き跡が残る彼は、彼女をまっすぐ見つめながら。

 

「それは、由比ヶ浜がずっと、他人を信じようとして頑張り続けて来たからだろが。積み重ねて来たものが他とは段違いだって、ちょっとは自覚して自信を持っても良いと思うぞ。つーか俺がやりたいと思ってることも、突き詰めればお前が過去にやって来たことと同じだからな。あんまぐだぐだ言ってると、お前のこと『せんぱ~い』とか呼ぶかもしれんぞ俺は」

 

「微妙に似てるのが……ってまあそれは後でいいや。それより……って、ゆきのん?」

 

 

 小首を傾げながら私を呼んでくれる彼女の声も、姉のそれと重なって聞こえた。

 だって、姉もずっと、他人を()()()()()()()頑張り続けて来たのだから。

 

 彼女……由比ヶ浜結衣も、私にはないものを持っている。

 それは確かに、間違いなく、あの姉と同じで。

 

 やはり私には、()()と同じ事はできない。

 

 私には……部員の二人と同じ事ができないし。

 私には……年下の二人と向き合えるだけのものも、実は、ない。

 

 なぜなら……。

 

「わかるものだと、ばかり……」

 

 思わず呟きが漏れてしまったので、慌てて口を閉じる。

 小さな小さな声だったので誰にも聞こえてはいないだろうし、私の雰囲気に戸惑ってはいても強いて行動に出ようとする人も居ないみたいだ。

 

 だから、もう少しだけ考え事を続けよう。

 

 私はやっぱり、わかるものだとばかり、思っていただけで。

 実際にわかったのは、とうに手遅れだったということだけ。

 

 ああ、それと。

 始まりの日が判明したことぐらいだろうか。

 

 つまり、こういうことだ。

 

『私は、比企谷くんと由比ヶ浜さんに、依存している』

 

 昔のことがあったから、それに警戒を怠ったつもりもなかったから、きっと大丈夫だと思っていた。

 ()()ならないための用心も対策も、既に()()を経験した私なら、わかるものだと思っていた。

 

 その対策を確認したのは、いつだっただろう。

 たしか文化祭の準備期間中に、くだらない連中が蠢動していたのを一掃しに行く直前だったと思う。

 

 一つは可能な限り余裕を持ち続けること。

 もう一つは頼るべき対象であっても「何もかも敵わない」とは思わないこと。

 

 けれど私はそのあと何度となく余裕を失ってしまったし。

 それに私は、個人に対しては気を付けていたのだけれど、「二人」に対しては無防備だった。

 

 彼の勧めで、そして彼女の助言もあって、文化祭の前に高校を休むという選択をしたあの日。

 あの日が、二人への依存の始まりだったのだ。

 

 そして選挙の結果が出た日にも、私はこう思っていた。

 

『彼と彼女が揃って勧めてくれたことに、間違いは、無い』

『つまり、二人に反対された時点で、私が立候補しても無駄だったのだ』

 

 これほどまでに二人を盲信して、それが自分ではわからないのだから。

 そして今も、どうしたら良いのか、まるでわからないのだから……重症だ。

 

 ただ、一つだけ。

 この二人に、そしてできれば年下の二人にも、こんな私を見られたくないという気持ちだけはわかるから。

 今の私の心からの声だとわかるから。

 

「私には……わからないわ」

 

 雪ノ下はそう言い残すと、そのまま逃げるようにして席を立った。

 

 

***

 

 

「えっ、ちょ、ゆきのん!?」

 

 その呼び掛けには小さな声で「ごめんなさい」と口にして、雪ノ下は廊下へと走り去ろうとした。

 けれども行く手を遮る者が一人。

 

「どこ行くんですか?」

 

 甘ったるく間延びさせる話しかたではなく底冷えすら感じさせるような声で、一色は部室の入り口から問い掛ける。

 

 至近距離で立ち止まって、背後から「え、一色?」という間の抜けた声が聞こえてくるのを(きっと戦々恐々として、目で確認できるまでに相当の時間が掛かるに違いない)微笑ましく思いながら、それでも雪ノ下の気持ちは変わらない。

 

「そこをどいて」

「イヤだって言ったら、どうします?」

 

 いつもなら、正々堂々と己が主張を述べるだろうに。

 口を半開きにしたものの続く言葉が出て来なくて。

 後輩を見つめる目にも力が入らなくて。

 

 口を閉じて先程とは逆の方向に目を逸らしてしまった雪ノ下の耳に、「はぁ」という聞こえよがしな溜息が届いた。

 それでも私は、誰も居ない廊下の先を、見るとはなしに見ることしかできない。

 

「いろはちゃん、お願い。ゆきのんを止めて!」

 

 背後からそんな声が聞こえたので、万事休すかと唇を噛もうとしたところ。

 目の前の後輩がすっと少しだけ横に動いて、再び視界に入ってきた。

 身体の正面には、通り抜けられるだけの空間が生まれる。

 

「逃げたいのなら、逃げてもいいですよ?」

 

 小馬鹿にしたような口調にも、何も言い返せないままに下を向く。

 

 そして逆側の視界の端に向けて、再び小さく「ごめんなさい」と呟いて。

 視線を床に落としたまま、雪ノ下は廊下へと飛び出していった。

 

 

***

 

 

 はぁと大きく息を吐きながら、のそのそと背中を部室のほうへと向けて元の立ち位置に戻った。

 視線の先からぴくっと反応があったので、溜息を吐いた()()があったと思いつつ。

 階段に足を向けた雪ノ下を見送って、そして一色はくるりと回れ右をした。

 

「いろはちゃん……どうして?」

「それよりも、追い掛けなくていいんですか?」

 

 自分で逃がしておきながら、こんなことを口にするのはどうかと思う。

 でも、入学式から始まって今まで何度となくお世話になってきた、わたしにとっては恩人とも言えるこの先輩が相手でも……いや、この先輩だからこそ、わたしが怒ってるってことぐらいは解って欲しい。

 

「うん……だね。じゃあヒッキー、……ヒッキー?」

 

 そう考えたそばから伝わっているのは、やっぱりさすがだなと思う。

 でも、こちらからは表情が見えないんだけど、せんぱいがどうかしたのだろうか?

 

 きょとんとしてしまった一色の耳に、重苦しい声が途切れ途切れに聞こえて来た。

 

「……すまん。せっかく雪ノ下から、『本物って、なに?』って尋ねてくれたのに……結局俺は、まともな答えを返せなかったな」

「とにかく話がしたいって言っても、興味を引かれない話題だったら退屈なだけだし、時間を無駄にするだけだってのは、解ってたんだが」

「けど、さっき雪ノ下が『私は……』って言いかけた時に、もしかしたら通じるかもって、俺と同じ気持ちなのかもって、思っちまってな」

「でも、それは俺の思い込みに過ぎなくて、雪ノ下には通じてなくて……。こうまではっきりと愛想を尽かされた以上は、もう諦めるしか」

 

「なんでよっ!?」

 

 その剣幕に、こちらまでびくっと身をすくめてしまった。

 

 目の前の机をばんと叩きながら身を乗り出して。

 もともと華奢(きゃしゃ)な体つきなのに、あんなにも大きな声を出して。

 せんぱいを見つめる両目からは、糸のように細い線がきらりと垂れていて。

 

「なんで、ヒッキーが、そんなこと言うの?」

「今のゆきのんの気持ち、ヒッキーなら、ヒッキーだけは、絶対に解るはずじゃん」

「だからさ、思い出してよ。嵐山の竹林とか、文化祭の一日目とか……職場見学の時とかさ。あの時のヒッキーの気持ちを、ちゃんと思い出してよ」

「……思い出した?」

「うん、そういうこと。だってさ、ヒッキーだってよく逃げてたじゃん。だから逃げるのにも色々あるって、ヒッキーなら知ってるでしょ。考えて考えて、考えて考え続けて、でも他にどうしようもなくて、逃げるしかないって時があるの、ヒッキーが一番よく知ってるはずだし!」

 

 途中までは冷静な話しかただったのに、最後はまた感情的に訴えている。

 

 どうしてこの人たちは、他人のことでこれほどまでに熱くなれるのだろうか。

 もしかしてわたしにも、それができないにしてもせめてこの輪の中に、入ることはできるだろうか。

 

 でも、そのためには……わたしが正しいと思うことを、曲げるわけにはいかない。

 本当にこれが、わたしがずっと探していたものの答えなら……なおさら曲げられない。

 

 

「由比ヶ浜……ありがとな。じゃあ、雪ノ下を追い掛けるぞ?」

「うん!」

 

 だから、そう言って立ち上がった二人に向けて、わたしは。

 

「なんで、る……一色?」

 

 こちらを向いたせんぱいが気を取られそうになった小学生を廊下に残して。

 部室へと、二人へと一歩を踏み出したわたしは、後ろ手にドアを勢いよく閉めて。

 反動でまた開いちゃったので、結局ほとんど状況は変わってないんだけど。

 それでも、わたしの意図は二人に届いたみたいで。

 

「いろはちゃん……」

「結衣先輩の気持ちは解るんですけどね。せんぱいは、どうして雪ノ下先輩を追い掛けるんですか?」

「どうして、って……なんでお前が?」

 

 せんぱいだけが解っていないようなので、また溜息をわざとらしく盛大に吐いて。

 それからわたしは語り始める。

 

「わたしがそんなことを気にするなんて、変かもしれないですね。でも、わかんないんですよ。雪ノ下先輩をわざわざ追い掛ける理由が、わたしにはわかんないです」

「だって、自分から逃げたんだから、放っておけばいいじゃないですか。雪ノ下先輩なら馬鹿なことはしないと思いますし、どうせそのうち戻って来ますよ。それからまた、さっきの話を続けたらいいじゃないですか」

「結衣先輩が追い掛ける理由は解りますし、その邪魔をしようとは思ってないんですけどね。でもせんぱいは……さっき『愛想を尽かされた』って言ってましたけど、結衣先輩が言ってたとおり、あれって逃げただけですよ。せんぱいが、あの捻くれ者のせんぱいが、あんなにも真剣に欲しいもののことを伝えたのに……逃げられたんですよ?」

 

 わたしの言葉を聞いたせんぱいは、目を丸くしながら。

 

「ちょ、おま……聞いて?」

「それはもうバッチリと」

「マジか……忘れてくれ」

「忘れませんよ。……忘れられません」

 

 誰にも聞こえないような小声で付け足して、そしてわたしは改めてせんぱいに視線を向ける。

 

「だから、結衣先輩に付き添うだけって理由なら、わたしが言い訳を用意してあげてもいいですよ。わたしに捕まったから追い掛けることができなかったって。それと、雪ノ下先輩が戻ってくるまで一緒にここで待っててあげますけど……それならどうですか?」

 

 わたしの提案に絶句しているせんぱいのすぐ横から、落ち着いた声が聞こえて来る。

 

「いろはちゃんは、ヒッキーのために言ってくれてるんだよね。けどあたしはさ、二人とも大事だからさ」

「まあ、あれですけどね。わたしも雪ノ下先輩のこと、けっこう好きですよ。そうじゃなかったら通してないですし。でも……たしか選挙の時にも言いましたよね。わたしは、才能や努力が悪者にされるのって、嫌なんですよ」

 

 さっき「そこをどいて」と言われた時よりもはるかに強く、嫌悪の気持ちが出てしまった。

 でも、それがわたしの本心だから。

 わたしが正しいと思うことだから、これだけは絶対に曲げられない。

 

「だから、頑張ってる人は応援したいなって思いますし、才能を持て余してる人は勿体ないなって思います。でも、どっちかに肩入れするなら、そりゃあ頑張って努力してるほうですよね~?」

「だからいろはちゃんは、頑張って頑張ってあんなふうに言葉にしてくれたヒッキーを、ねぎらってあげたいんだよね。うん、その気持ちはすっごく解るんだけどさ。でもあたしは、今のゆきのんを、独りにしておきたくはないからさ」

「そこは平行線ですね。っていうか結衣先輩も結論は同じですよね?」

「だね。だからヒッキー、あたしたちはこんな感じだからさ。ゆきのんのところに一緒に行くか行かないか、ヒッキーが決めて?」

 

 その言葉には脅しや強制や媚の色はもちろん、哀願の気配もまるで感じられなくて。

 ごく自然に、本当にどっちでもいいような些細な選択を求めているような口ぶりで。

 

 わたしとは違ったやりかたで男の人の背中を押せる人なんだなって、改めて思った。

 

「……決まってるだろ。俺はさっき、雪ノ下を追い掛けるって言ったはずだぞ」

「どうしてですか?」

 

 間髪入れずに問い掛けると、少しだけ躊躇していたけれどすぐに答えが返ってきた。

 

「……雪ノ下には借りがあるからな」

「借り、ですか?」

「ああ。連れ戻されたり(由比ヶ浜の誕生日とか)監視下に置かれたり(文化祭の二日目とか)、挙げ句の果てには投げ飛ばされたから(修学旅行の三日目とか)な。やり返すには絶好の機会だろ?」

 

 そう言ってにやっと笑ったせんぱいは、物語の主人公にするには似合ってないにも程があって。

 でも物語の悪役にするには、まぁまぁいい線を行っている気もして。

 

「じゃあせんぱい。いろはちゃんに何か言うことがありますよね?」

「ああ。雪ノ下を追い掛けるから、そこを通して……」

「却下です」

「えっ、ちょ、おま……もしかして、あれか。えっと、お前ってさっきも言ってたけど、雪ノ下のこと……」

「ちょっと喋りすぎですよ、せんぱい。あんまり変なことを言うようだと、生徒会長の権限で鍵かけちゃいますよ?」

「すまん、今のは俺が悪かった。だから……一色も一緒に来てくれるか?」

「そうまで言われたら仕方ないですね~。でも……次からは、仲間外れは無しですよ?」

 

 こうまで言っても、わたしが内心では怒ってるって、この人には伝わらないだろうなと思った。

 そんなわたしの気持ちを察して「たはは」と笑う恩人と、やるせない感情を共有していると。

 

 

「あのっ……あのね。雪乃さんを追いかけるの、私もいっしょに、連れてってほしいの」

 

 ここまでは目の前の展開に圧倒されるばかりで、一言も口を挟めなかった小学生……鶴見留美が、初めて口を開いた。

 

「てか、なんでる……鶴見が」

「留美」

「すまん。なんで留美が、ここにいるんだ?」

「そんなの……雪乃さんと八幡に相談があったからに決まってるじゃん」

「相談?」

「あ、えっと、依頼だったっけ?」

「いや、どっちでも良いんだけどな。あと外野うるさい」

 

 他の二人が「小学生とはいえ、せんぱいが女の子を呼び捨て?」「え、ヒッキーも呼び捨てにされてたっけ?」「最初にせんぱいが言い直したのも怪しいですけど、言われてすぐに再度訂正したのってもう完全に、ぎるてぃ~ですよね」「ゆきのんには『さん』付けなのになあ」などとごそごそ言い合っているので、軽く注意を促したつもりが。

 

「だってさ、留美ちゃんが下の名前で呼んで欲しいって言ってたのはあたしも知ってるけどさ。けど、ヒッキーまで名前を呼び捨てにされる必要なくない?」

「それに、雪ノ下先輩もたしか『留美さん』呼びでしたよね~。なんでせんぱいに限って呼び捨てさせるのか、わたしにも教えてほしいな~って」

 

 完全に藪蛇だった上に自分ではどうすることもできそうにないので、縋るような目つきで小学生を見つめていると。

 

「私が呼び捨てしてほしいから、私が八幡って呼びたいからって理由じゃ、だめですか?」

「あ~、小学生でも強い娘は強いんだよね~」

「いろはちゃんは強かったかもだけど、あたしは違うからね」

「ちょ、結衣先輩。ここで裏切らないで下さいよ~」

「だってさっきからいろはちゃんに足止めされてたわけだしさ」

 

 今度は内紛が始まったので、目の濁りを強くしながら口を開く。

 

「ちょっとお前ら落ち着け。つか由比ヶ浜が今言ったとおり、早く雪ノ下を追い掛けないといけないからな。だから……あー、でも急かす気は無いからな。留美の相談内容を、簡単で良いから教えてくれるか?」

「うん。……えっとね」

 

 そう言われて端的に話をまとめられる辺りに、留美の地頭の良さが現れてるなと八幡は思った。

 

 かつて留美と仲良くしていた、そして留美が孤立していた時には人一倍厳しく接してきた女の子が、今も孤高を保ったまま留美を近寄らせてくれないらしい。

 

 厳しい言葉は、留美がハブられる期間が少しでも短くなるようにと考えてのことで。

 けれど自分でも気付かぬうちに、留美に厳しくすること自体がいつしか目的になっていて。

 そうした過ちを今でも許せないままに、その女の子は夏休みからずっと自罰的な日々を送っているとのこと。

 

「自責の念が強すぎるのも問題だよなあ……」

 

 思わずそんなことを口にすると、留美は一瞬だけ奥歯を噛みしめるような顔つきになった。

 

 きっと留美は、自分も自責の念が強い性格だと、そんなことを考えたのだろう。

 そうした聡さが留美本人を苦しめることになるのだから、さっきの一色ではないけれど才能というものは難しいなと八幡は思う。

 

「でね、あの時に『逃げることをためらわないで欲しい』って教えてもらったの、今でも助かってるんだけどね。けど、じゃあ、逃げられたほうはどうしたらいいのかなって、わかんなくて。ずっと考えてるんだけど、ぜんぜんわからなくて……もうすぐ年が変わって中学生になっちゃうし、でも私、このままお別れしたくないって、思ってて」

「だから、いろはさんの顔は覚えてたから、無理を言って連れてきてもらったの」

 

 どこで一色に会ったのか等々、細かな疑問はいくつか残っているけれど、それらは後回しで良いと判断して。

 

「じゃあ、あれだな。今から俺らが、雪ノ下に逃げられた俺らが追い掛けるから……けど正直、参考になるのかは分からんけどな。でも、留美も一緒に来てくれるか?」

「うん、行く。いっしょに行って、私にできることがあれば何でもするから、何でも言って?」

 

 安易に「何でも」なんて言うと後で困るぞと、忠告を与えたいところだけど。

 下手なことを言えば残る二人に何を言われるか分かったものではないので、八幡は鷹揚に頷くだけに止めた。

 

 そして改めて、三人と順に視線を合わせて。

 

「じゃあ、雪ノ下を……」

「あ、せんぱい。雪ノ下先輩なら上です、上」

 

 決めの言葉を遮られて、八幡が憮然とした表情を浮かべている。

 そんな八幡を置き去りにして、由比ヶ浜と留美は苦笑まじりに階段に向けて駆けていった。

 

 気を取り直して、二人を追い掛けようと足に力を込めた八幡の耳に。

 

「せんぱい。……覚えてます?」

「ずっと昔に同じようなセリフ(上です、上)を聞いた気がするな」

「文化祭の時だから、まだ三ヶ月ですよ。せんぱいに初めてを奪われたって知ってから、まだ三ヶ月です」

「だからお前、その微妙な言い方はやめてねって散々言っただろうが。男に手作りのケーキを食べられたのが初めてだって話だろ?」

「もう三ヶ月になるんですね〜」

「だから、おなかに手を当てながら不穏なことを言うのやめてくれない?」

 

 あの時は行き場が無くて、だから一色に匿われたような形だった。

 そして、この上にある空中廊下で一色とゆっくり話ができたおかげで。

 体育祭の目玉競技の後で、そして修学旅行先からも、やり取りを重ねることができて。

 会長選挙では候補と参謀という間柄で、濃密な時間をともに過ごした。

 

「ヒッキー、いろはちゃんも、早く来てってば」

 

 階段の手前から由比ヶ浜が、こちらに向かって手招きをしてくれる。

 よく見ると片手は留美と繋がっていて、面倒見の良さには感心してしまう。

 留美はわりと人見知りをする性格だった気がするのだけど、手を繋ぐのを嫌がるどころか安心しきっているように見えるのだから、本当に大したものだ。

 

 すぐ隣にいる一色と頷き合ってから早足に部室を後にしたところで。

 階段の上から、どすんという大きな音が聞こえてきた。

 

 

***

 

 

 空中廊下で一人(たたず)んで、寒風に身を晒しながら雪ノ下は遠くを眺めていた。

 その視線を、今度は近くへと移す。

 

 もう日が暮れる時刻なのに、校舎のそこここで煌々と明かりが灯っていて、窓の向こうでは生徒や教師が思い思いに時を過ごしているのだろう。

 

 頭を空っぽにして時間を過ごしていたおかげで、そうした身近なあれこれに意識を向けられるくらいには、心の余裕を回復できたみたいだ。

 そう考えた雪ノ下は、ようやく身体が冷え切っているのを自覚して、特別棟に向けてゆっくりと歩を進める。

 

 開きっぱなしのガラス戸を抜けて、階段の踊り場から手を伸ばして扉を閉めた。

 思った以上に大きな音がどすんと響いたので、下のほうでも聞こえているかもしれないと、その場で立ち止まって聞き耳を立てていると。

 

「あ、ゆきのん!」

 

 階下から、とても懐かしい声が聞こえて来た。

 

 

「由比ヶ浜さん。心配を掛けたみたいで、申し訳なかったわね。少し落ち着いたから、部室に戻ろうと思うのだけど……」

 

 ずいぶんと時間が経ってしまった気がするのだけれど、それは自分の感覚が少し変になっているからで、実際はさほどでも無いのだろう。

 そう考えながら雪ノ下が言葉を返して、段差に足を踏み出そうとしたところで。

 

「追い掛けて来てくれるのが当然って感じで、いい身分ですよね〜」

「おい、一色」

 

 最初に姿が見えた二人に続いて、残りの二人も顔を見せてくれたのを嬉しいと思った。

 だから今なら、部室の入り口での対話も含めて、この後輩の真意が充分に理解できる。

 

「貴女はそう言うけれど、わざわざ追い掛けてきて『君の味方にはなれない』って言われるよりは……追い掛けて来る人が居ないほうが、良い身分かもしれないわよ?」

 

 たしかに私は、彼女なら追い掛けて来てくれるだろうと、それを当然のこととして受け入れていた。

 それは見ようによっては傲慢と受け取られることも重々承知している。

 

 けれども、それが私の育って来た環境だったのだから、仕方がないとしか言い様がない。

 そこで恐縮すると、自己・自分というものをどんどん出せなくなって行って、その先に待っているのはお察しの通りというわけだ。

 

 残念ながら世の中には、わざわざ労力を掛けて「嫌い」を伝えてくれる人が一定数存在する。

 勿論その中のごく一握りには、純粋にこちらの為を思った前向きな指摘も含まれているのだけれど、それ以外の大多数は単に感情的な鬱憤を押し付けてくるだけの無用の代物だ。

 

 親が政治に携わっている環境だからこそ、私はそうした雑音と数多く接することになったのだろう。

 一般の人の感覚では、有用と無用の割合はもっと前者に傾くのかもしれない。

 

 でも、私はもうそれを嘆いていられるような年齢では無いし。

 普通の人と比べると有用な指摘を受けることが少ないからこそ、その希少な価値を一般の人よりもはるかに高く見積もれていると自負している。

 

 我ながら、皮肉なことだとは思うのだけど。

 普通の人間関係は解らないことが多いのに、こうした政治的な人間関係については一端(いっぱし)のことを語れるのだから、なんとも不思議なことだ。

 

 だから、私の言葉を聞いた四人が何を考えて口ごもっているのか、私には正確なところはよく理解できないのだけれど。

 追い掛けて来てくれたことに感謝しているのは、そして敢えて挑発的な言葉で私に発破を掛けようとしてくれた後輩を頼もしく思っているのも、間違いなく私の本心だ。

 

「とはいえ……由比ヶ浜さん。留美さん。比企谷くん。そして一色さん。私を追い掛けて来てくれて……感謝しています、だといかにも政治家の答弁って感じだし、嬉しいと言うのも少し違う気がするのだけれど、どう言えば良いのかしら?」

 

 こんな肝心なところで対人関係の拙さが出るのだから、我ながら困ったものだと。

 そんなことをのんびりと考えていると、やはり彼女の声が聞こえて来て。

 

「だからさあ。ゆきのん、そういう時は『ありがと』でいいんだってば」

「そうね。じゃあ改めて……ありがとう」

「う〜ん。やっぱり雪ノ下先輩が言うと、かしこまった感じになっちゃいますね〜」

「お前さっきから文句ばっか言ってねーか?」

「え、っと。私でも分かるのに、八幡もしかして本気で言ってるの?」

「いや、留美は騙されても仕方がないとは思うけどな。こいつって割と素で喋ってるぞ?」

「はい。留美ちゃんもヒッキーも半分正解。それよりさ」

「ちょ、やっぱり結衣先輩、さっきからわたしに厳しいですよね〜?」

 

 階下でがやがやと盛り上がる四人を、ぱちぱちと何度も瞬きしながら見つめていた。

 

 私の問題は、さっきから何も変わっていないのに。

 昨日あの顧問と話した時と同じように、それでもきっと何とかなるって、根拠なく思えてしまえるのだから不思議なものだ。

 

 

「二つ、教えて欲しいのだけど」

 

 会話の隙間を狙ってそう告げると、四人がいっせいに私を見上げた。

 

「一つ目は、由比ヶ浜さんと比企谷くんが部室を出る時に、一色さんはどう行動したのかしら?」

「最初は邪魔されたけど、最後には快く通してくれたぞ?」

「せんぱい。通してあげたんじゃなくて、一緒に来てあげたんですよ?」

「いろはちゃんって、そういうとこ割と面倒くさいよね。留美ちゃんは素直に育って欲しいなあ」

「お前、いま密かに雪ノ下も除外しただろ?」

「というかわたしが思うにですね、小町ちゃんも除外してた気がするんですけどね〜?」

「いや、なに言ってんのお前。小町のあの面倒くささが最高なんだろが」

「あの、雪乃さんの質問に誰も答えていない気がするんですけど……あ、あれでよかった、の?」

 

 仲良く盛り上がっているのを微笑ましく眺めていたら、本心を見抜かれてしまった。

 あの年齢で大したものだと思うと同時に、もう一つの疑問が湧き上がってくる。

 

 でも、それを問い掛けるよりも先に、私は昨日言われた言葉を思い返していた。

 

『男が真剣に涙を流す時には、ただ寄り添えば良いのか、それとも力強く励ませば良いのか、あるいは問題の根本を解決するために積極的に協力すれば良いのか……女としてどれが正解なのかと考え込んでしまうよ』

 

 きっとあの後輩は、彼に寄り添うことを望んだのだろう。

 彼が来ると言えば一緒に来るし、彼が私を部室で待つと言えば一緒に待っていたのだろうなと思う。

 

 あの部員は、彼に行動に移るようにと力強く励まし続けたに違いない。

 同時に私のことも考慮に入れて、三人にとって一番良い方法を考えてくれたはずだ。

 

 おそらく姉なら、男が涙を流したその隙に完全な支配を確立しようと動くのだろう。

 その上で、支配下に置いた男がそこから何ができるのかを見極めようとするはずだ。

 

 では、私は?

 

 さっきも確認したとおり、私には姉や彼女らと同じことはできない。

 彼と同じこともできない。

 けれども、彼が抱える問題の根本を解決するべく協力することは……もしかすると姉よりもこの二人よりも、あるいは誰よりも私が適任なのでは?

 

 ずっと探していた答えの一端が、突然目の前に現れた気がした。

 あとは、家に帰って一人になってから、これを精査すればいい。

 

 

「もう一つ、留美さんがここに来た理由を知りたかったのだけれど……おそらく、ゲームでトルコを担当していた娘が原因ね?」

「うん。やっぱり雪乃さんにはお見通しかあ。たのもしいんだけど、ちょっとくやしいな」

「文化祭の時に、たまたま彼女を見かけたのよ。だから推測できただけで……たぶん小町さんが頑張ってくれていたと思うのだけど、受験生だし私たちが動いたほうが良さそうね」

「小町さんもすごくたよりになるんだけど、もう十二月だもんね。雪乃さんと結衣さんと八幡なら、私も安心だし」

 

 その答えにふっと笑みを返して、それにしてもいつの間に彼女と下の名前で呼ぶ仲になったのだろうかと疑問に思いつつ。

 

 そして私は残りの三人を順に眺める。

 なにか後ろめたいことでもあるのか、一人だけ後ずさった男がいるのだけれど?

 

「いや、あれだぞ。階段を登っていたと思ったら、いつのまにか降りていただけだからな。ちょっとやってみたかっただけで深い意味は無いから、そんな死亡宣告みたいな目で見ないで欲しいんだが……」

 

 どうやら例の発作が出ただけみたいなので聞き流すことにして。

 そして私は再び口を開く。

 

「部室での話し合いが長くなって、私も体力的に疲れてしまったから、具体的な話は明日にしたいと思うのだけれど……。三人で打ち合わせをしておくので、明日また同じぐらいの時間に来てくれるかしら?」

「うん。雪乃さんにそう言ってもらえたら安心だし、お願いします」

「え、でもじゃあ明日はせんぱいに来て貰うのは難しいですかね?」

「まあ、まだクリスマスまで日があるし、一日ぐらい大丈夫じゃね?」

「いえ、それがですね、ちょっと向こうの生徒会長が……と言っても最後には納得してくれましたけどね」

「おお、さすがいろはちゃん。じゃあさ、明日はいろはちゃんが好きなお菓子を用意しておくからさ」

「結衣先輩ってほんとそういうの上手いですよね〜。まあお菓子はありがたく頂きますけど」

「そういえば、うちの小町も由比ヶ浜に餌付けされてるんだよなあ……」

 

 遠い目をして黄昏れている彼をじっと見つめていると、ようやく視線に気付いたみたいで何やらびくびくしているので。

 

「そういえば、比企谷くんに言っていなかったことがあるのだけれど」

 

 そう告げると、残りの女の子三人までが緊張した面持ちになったので内心で首を傾げながら。

 

「留美さんの依頼に加えて……さっきの貴方の依頼、受けるわ。ね、由比ヶ浜さん?」

 

 私が呼びかけると同時に、だっと階段を上がってきて。

 勢いよく抱きつかれてしまった。

 

 私はしっかりと彼女を受け止めて。

 そして他の人に、とりわけ彼に見られないように、彼女の涙顔をそっと両手で包み込む。

 

 それからぽんぽんと背中を軽く叩いてあげたり、そっと撫でてあげたりしながら、察しの良い後輩に苦笑を向けると。

 

「あ〜、じゃあわたしは先に帰りますね〜」

「それなら私も帰ります。明日またくるから、八幡ばいばい」

 

 さっさと行動に移った女の子二人を間の抜けた顔で見送る彼だけが残った。

 こんなにも不器用な性格なのに、いざという時には誰よりも頼りになるのだから、人は見かけによらないものだ。

 

「比企谷くんも、今日はもう帰ってくれて良いわよ。そろそろ、『なんで俺はあんな恥ずかしいことを……』って身悶えしたくなる頃だと思うのだけど?」

「おいやめろ。こんなところで意識させるなっつーの。けど……あれだな。俺のほうこそ、話を聞いてくれて、依頼を受けるって言ってくれて、ありがとな」

 

 そう言い残して、さすがにもう限界だったのだろう。

 瞬時に身を翻した彼は、そのまま無言で全速力で廊下の向こうへと去って行く。

 

「もう誰も残っていないわよ?」

 

 腕の中の彼女に優しく話しかけると、静かな嗚咽が耳に届いた。

 




何とか意地で更新しましたが、遅くなって申し訳ありません。
最近は予告が意味をなしていませんが、いちおう二週間ぐらいで次話を更新したいと考えています。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。

あ、あと前回宣伝するのを忘れていましたが、アンソロ1を読んで短編を一つ更新したので、良かったら読んでやって下さい。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)


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07.かつての記憶を胸に抱いて彼女はしっかりと前を見据える。

前回のあらすじ。

 八幡の本物発言とその後の対話を受けて、各人は動きを見せる。

 それぞれに譲れない想いを抱えながら、雪ノ下は逃げ出し、一色は立ちはだかり、由比ヶ浜は追い掛けて、留美も追い掛けたいと願う。
 八幡もまた三人と一緒に追い掛ける意思を明らかにして、再び五人は一堂に会した。
 その場にて雪ノ下は、留美と八幡の依頼を受けると表明する。

 今日のところはこのまま解散と相成って、そして夜が明けた。



 翌日の放課後、奉仕部の部室にはいつもの三人が集まっていた。

 しかし教室内の雰囲気は、いつものそれとは程遠い。

 

 長机の長辺と同じだけの距離を隔てているにもかかわらず、今日の比企谷八幡はどうしても二人と目を合わせることができない。

 

 いや、問題は八幡だけにあるのではなくて、時折ちらりと二人に横目を向けることもあるのだけれど、視線が交差しそうになるたびに雪ノ下雪乃がぱっと顔を背けるので、あわてて八幡も首を横にぐいっと動かしてしまって、またふりだしに戻る繰り返しになっていた。

 

 もう何度目になるのか判らないのだけれど、仕切り直しとばかりに八幡がずずっと音を立てて紙コップのお茶を(すす)っていると。

 

「ほら、いつまでも照れててもキリがないからさ。二人とも、ちゃんとあたしの目を見て?」

 

 ぱんと手を叩いて注目を集めると、由比ヶ浜結衣が二人に向かってそう提案した。

 

 おっかなびっくり指示に従う二人に、順に優しく頷いて。

 そして由比ヶ浜は再び口を開く。

 

「じゃあ、これからのことを話そっか。昨日ゆきのんがさ、留美ちゃんとヒッキーの依頼を受けるって言ってたけど、その続きでいいんだよね?」

 

 顔を見るのも見られるのも照れくさいのは先程までと変わらない。

 それでも話し合いの内容を提示してくれたおかげで、八幡はどうにかこうにか雪ノ下とも視線を合わせることができた。

 

「そうね。ただ、留美さんの依頼には明確な目標があるのだけれど、比企谷くんの依頼は……本物を求める旅路がずっと続きそうな気もするのだけれど?」

「ぐっ……お前あれだろ。昨日から俺が悶え苦しんでたのを知っててわざと言ってるだろ?」

 

 ようやく目を合わせたと思ったら、普段にも増して攻撃的な態度を向けられたので怯んでしまったのだけれど、かろうじて言い返すことはできた。

 それでも雪ノ下に手心を加える気は無いみたいで。

 

「両手で顔を覆いながらベッドの上でごろごろ転がっていたとか、何の前触れもなく突然ソファに身を投げ出したとか、そうした奇行にも言及したほうが良かったかしら?」

「ソファから床にばたっと落ちて、そのまま動かなくなったりとか?」

「そうそう。そんな報告もあったわね、由比ヶ浜さん」

「小町ぃぃぃ。何を二人に報告してんだよ……」

 

 裏切り者の正体を悟った八幡が、妹に聞こえるわけは無いと知りつつも嘆いていると。

 

「えっ、違うよヒッキー」

「あれっ、そうなのか?」

 

 やはり最愛の妹が俺を裏切るなんてまちがっていると、ほっと息をついた八幡に。

 

「小町さんは私たち二人だけじゃなくて、一色さんと留美さんを加えた四人に宛てて報告してくれたのだけど?」

「ちっ……小町ならそれぐらいやるって、見抜けなかった自分が情けねーな」

「え、ヒッキーが落ち込む理由、それ?」

「当たり前だろ。千葉の兄は妹のどんな期待にでも応える義務があるんだっつーの」

「ゆきのん……ヒッキーが自信まんまんでシスコンを自慢してくるんだけどさ」

「そういえば、比企谷くんにとって黒歴史とは、胸を張って披露するものだということを忘れていたわね」

「いや、ちょっと待て。いくら俺でもそこまで誇らしげに……ああ、うん。この話は止めよう」

 

 雪ノ下が好戦的な理由はよく分からない。

 それでも稀によくあることなので特に気にならないし、むしろ罵られることで長年棲み慣れたカースト底辺に居る自分を自覚できるから、却って気持ちが落ち着くぐらいだ。

 

 我ながら変な性癖だよなと苦笑を漏らしつつ、再び八幡は口を開く。

 

 

「でだ。俺の依頼は……っつーか正直に言うと依頼ってつもりは無かったんだけどな。確かにお前らと話がしたいとは言ったけど、本物が欲しいってほうは、それ自体が目的になるのはなんか違う気がしてて。だから留美の依頼があって、それの解決に向けて一緒に動ける状況のほうが俺的には望ましいっつーか。……すまん、話す内容がちゃんとまとまってないよな」

 

 口を動かしながらも、自分が混乱しているのがよく分かった。

 

 その原因は、昨日の話し始めの時に八幡が言った「話を最後まで聴いて、どう思うかを聞かせて欲しい」という内容に加えて、「本物が欲しい」と口走ったことまで含めて二人が「依頼」だと見なしてくれているからで。

 そして、それを自分が疑いもなく確信できているからだろう。

 

「だいたい予想どおりだし大丈夫よ。ただ……貴方には、海浜総合高校との合同企画を手伝う仕事もあるのよね?」

「あ、いろはちゃんのお手伝いだよね。……うん、じゃあその話からしよっか。えっと、ヒッキーはさ。あたしたちを合同企画に巻き込んでもいいのかなって、悩んでる感じだったよね?」

 

 たちまち先週末の記憶が八幡の脳裏によみがえる。

 重苦しい雰囲気にならないようにと三人がそれぞれに気を遣って、けれども些細な言葉尻を各々が深刻に捉えてしまって、何度となく会話が立ち消えになった。

 

 もう、あんなのは御免だと思いながら口を開く。

 

「今から思えばな。俺がその手の微妙な配慮を、上手く裁けるわけがないのに……。それでも、苦手だろうが経験が無かろうがやるしかないって。それが俺の責任だろって、考えててな。でも、そんなところで意地を張るなんて俺らしくないっつーか。さっさと開き直って、土下座してでもお前に……由比ヶ浜に、助けを求めたら良かったんだよな」

 

 そう言いながら由比ヶ浜へと視線を向けて。

 そこで初めて八幡は、ごく自然に目を合わせている自分に気がついた。

 

 気負い過ぎるにも程があるよなと内心で苦笑を漏らしていると、目線の先から頼りがいのある声が耳に届く。

 

「あのね。あたしだって、いつもうまく解決できるかっていうと難しいんだけどさ。でも、そんな時にはさ、ゆきのんやヒッキーに相談しちゃえって。それか、優美子と姫菜も巻き込んじゃえってさ。それでもダメなら沙希とかさいちゃんとかさがみんとかね。ヒッキーにお願いして中二を呼んでもいいし、ゆきのんのためならJ組の全員が助けてくれそうじゃん。だからさ、あたし一人だと難しくても、たぶん大丈夫だからさ。ヒッキーは変なことで悩んでないで、ちゃんとあたし()()を頼って?」

 

 その提案にしっかりと頷いて、けれども今の気持ちをどう言葉にしたら良いかと八幡が悩んでいると。

 

 

「この件で、私から一つ提案があるのだけれど……聴いてくれるかしら?」

 

 声のほうへと視線を移すと、いつになく遠慮気味の気配が伝わってくる。

 先程と比べると落差が著しいので、内心で首を傾げながら。

 けれどもそのおかげで八幡は、雪ノ下とも自然に目を合わせている自分を意識せずに済んだ。

 

「うん。もちろん聴くから、ゆきのん話して?」

「ええ……ありがとう。その、私も、おそらく由比ヶ浜さんも、合同企画を手伝うことに対して特に忌避感などは無いのだけれど。それを前提として比企谷くんに提案したいのは、今回の依頼は貴方が全てを差配してみてはどうかしら?」

 

 雪ノ下の発言に首を捻っていた八幡が、おそるおそる口を開く。

 

「すまん。ちょっと話の繋がりがよく解らないんだけどな。合同企画の話をしていたはずが、なんで途中から依頼の話になってるんだ?」

 

 二人がきょとんとしているので、仕方なくぼそぼそと。

 

「お前が言ってる依頼って、留美の件だよな。それが合同企画とどう繋がるのか……?」

 

 そこまで告げると合点がいったようで、いくぶん申し訳なさそうな顔を向けられた。

 しおらしい雪ノ下が物珍しくて、むしろ落ち着かないなと八幡が考えていると。

 

「昨夜のうちに一色さんには報告書を出させたのだけれど、要するに合同企画には留美さんたち小学生も加わっているのよ。貴方もそれを知っているとばかり……」

「昨日ゆきのんが居ない時に、留美ちゃんの依頼のことは聞いてたけどさ。合同企画のことは夜になってから知ったんだよね。それをあたしがゆきのんに、ちゃんと伝えてれば……」

「あー、なるほどな。留美と一色がどこで会ったのか疑問だったんだが、そういうことか。んで?」

 

 完全に元通りになるにはもう少し時間が掛かりそうだなと、言葉をかぶせるようにしてフォローしながら小さく頷きつつ。

 というか昨夜のうちに報告書を出させる雪ノ下さんパネェっす、などと八幡が戦慄していると。

 

「両校の初顔合わせに先だって、海浜側から川崎さんの塾に声を掛けたみたいね。この世界で頑張っている小学生にも参加してもらって、当日だけじゃなくて準備段階から楽しんで欲しいという趣旨だったので、留美さんも他の小学生も大盛り上がりだったと言っていたわ。それに、千葉村の合宿に参加していた一色さんが生徒会長になったことまで伝わっていたみたいで……」

 

 会長選挙の結果はともかくとして、夏休みの合宿のことまで海浜側が把握していたことに底知れぬ違和感を感じて。

 雪ノ下が控え目な理由の一端に、なんとなく気付いてしまった八幡だった。

 

 とはいえ()()が理由なら苛立ちまじりになるのが常だっただけに、やはり妙だなと納得できないままで居ると、続きの言葉が聞こえてきた。

 

「裏の話は後回しにするとして、ここまでの事情を知った私は、留美さんの依頼と合同企画をひとまとめにして処理するべきだと考えたのだけれど……残念ながら良い手が思い浮かばないのよね。だから姑息な手法には定評のある比企谷くんに」

「おいちょっと待て。俺の評価が変な具合に定まってる気がするんだが?」

「冗談よ、と言えれば良かったのだけれど半ば本気なのよね。とはいえ貴方の気分を害したのなら謝るわ。いずれにせよ、何か手を考えて欲しいというのは本当よ。当事者二人を強引に向き合わせたところで解決なんてするわけないって、貴方も理解できるでしょう?」

 

 千葉村での出来事を思い出して、かつての()()()ならそんな方法を提案してきただろうなと何だか懐かしく思ってしまった。

 今の彼ならどうだろうと思わなくもないけれど、あまり奴に関心を持ちすぎると身の危険を(八幡の与り知らない薄い創作物の中で)感じるので深入りしないことにして。

 

 頭の中で色々と考察を重ねながら、八幡はそれを少しずつ言葉に出していく。

 

「留美ともう一人を、強引じゃない形で向き合わせれば良いんだよな。んで、そいつは俺らの文化祭に来てたって昨日お前が言ってたけど……それは、たぶん小町が上手いことフォローしてたんだろな。ただ、そのやり方だともう時間が足りない、か。まあ、俺の評価とか関係なしに、むしろ俺の方からやらせてくれって願うべき案件なんだが、あれだ。一つ疑問があるな」

「何かしら?」

 

 間髪入れずに問われたので、息をつく暇がないなと苦笑しながら口を開く。

 

「それなら俺に、依頼から合同企画までの全てを差配させる必要はないだろ?」

「ええ。そうね」

「じゃあ、なんで……?」

 

 

 困惑の目で見つめられるのを、こそばゆく思いながら。

 雪ノ下は静かに思考を巡らせていた。

 

 その疑問に端的に答えるならば、彼が総指揮を執る姿を「私が見たいから」になるのだろう。

 とはいえそれは、今の自分の心情を説明するには不足しているにも程がある。

 

 まず大前提として、私が部員の二人に依存しているという現実があって。

 だからこそ今回だけは、いつものように部員の助けを借りながら部長として依頼を解決するという形を回避したい。

 

 それよりも彼と役割を入れ替えて、局所でも私は結果を出せると改めて二人に示しながら。

 そうした助力を彼がどう受け止めるのかを見て、これ以上の依存を防ぐための参考にしたいのだ。

 

 いや……正直に言うとほんの少しだけ、彼が私に依存してくれるのではないかと期待する気持ちも微かにある。

 

 なんだか姉さんみたいな考え方だなと我ながら呆れる気持ちもあるのだけれど、頼りになる姿を見せて上の立場の者を少しずつ骨抜きにするとか、何から何まで私に頼らざるを得ない状態にまで誰かを依存させる展開を考えてみると確かにぞくぞくするし、その標的が彼ならば相手にとって不足はない。

 

 ただ……残念ながらそれは、彼が求める本物ではないだろう。

 そして間違いなく、彼女が望む関係でもないはずだ。

 それに私としても、一時(いっとき)は楽しめてもすぐに退屈を覚えると思う。……姉さんと同じように。

 

「姉さんに備えたいから、という理由だと、貴方は納得してくれる?」

 

 今の状況を打破するために、姉と同じように振る舞うという手は確かに有用だ。

 だけどそれでは単なる()()()()で終わってしまう可能性が高い。

 それだと何らの意味も無いのだ。

 

「いや。それなら……あれだな。お前の信頼には、応えたい、とは思う、けど……」

 

 彼の苦悩の根本には責任感があるのだろう。

 言葉に詰まるのは人を率いることに対する怯えもあるのだろうけれど、誠実さのせいでもあるはずだ。

 

 だからこそ、私の()()が信頼などとは程遠い、もっとおぞましい何かであると知られるのが、とても怖い。

 どうしてこんなタイミングで依存を自覚してしまったのかと、運命というものがもしも存在するのならば恨む気持ちすら湧きあがって来るほどだ。

 

「ゆきのんは、さ。……えっと、言い方が悪かったら言ってね。でも、たぶん、合同企画よりも、留美ちゃんの依頼よりも、もっと大事なことがあるんだよね。その、陽乃さんのこととか……」

 

 姉のことも大事だけど、それ以上に私は自分のことが大事なのだ。

 その証拠に、私はかつて留学という選択をして自分を優先し……姉から逃げた。

 

 そんな私が、あの齢にして逃げられた相手のことを思い遣れる彼女に向かって、何を言えるというのだろうか。

 

「正直に言うとな。なんかよく分かんねーけど、なにか違和感があるんだわ。たぶんそれは由比ヶ浜も同じだと思うし、だから言い淀んでたんだと思うんだけどな。けど、まあ、それが何だろうと関係ねーなって気が、ちょっとしてきたな。要は雪ノ下が陽乃さんに備えて、その代わりを出来る範囲で俺がやって、もし綻びが出ても由比ヶ浜が……」

「そこは違うの。由比ヶ浜さんには、私を助けて欲しいのよ」

 

 依存を自覚して唯一良かったと思うのは、まずは何をおいても()()から抜け出すべしという結論を下せるので、優先目標が明確になることだ。

 

 下手に心の余裕がある時には、周囲のことやら何やらと考慮すべきことが次々と出て来るので、重要なことでもつい後回しにしてしまう。

 

 けれど今の私には余裕なんてかけらも無いからこそ、こんなことすら口にできる。

 依存を疑われかねないような口ぶりは避けようだなんて、そんな些事には頭を悩まされずに済むのだ。

 

「さっき私は、留美さんの依頼と合同企画をひとまとめにして処理するべきだと言ったのだけど……できれば、姉のことも含めて何とかしたいと思っているの。その為には、貴方には申し訳ないのだけれど由比ヶ浜さんの協力が必要なのよ」

 

 これは本心であると同時に詭弁でもある。

 依存の対象たる二人をまずは別々にしないことには話が進まないからだ。

 

 ここで重要なのは、私が(現時点ではまだ)二人のそれぞれに対して依存しているわけでは無いということ。

 つまり、依存の対象が「二人」だからこそ容易くこの状況に陥ったとも言えるし、だからこそ彼に、あるいは彼女に依存するという状況にまでは至らなかったとも言える。

 

 もちろん今のこれは危うい状況だ。

 

 私は、もしも彼女に裏切られたら仕方がないと思えるほど、彼女の人間性を信頼しているし。

 私は、もしも彼に任せて無理だったら仕方がないと思えるほど、彼を仕事面で信頼している。

 

 これらの信頼は、これまでに三人で積み重ねて来た時間に由来するのだけれど。

 いつなんどき、それらが理由なき盲信へと変貌しても不思議ではないからこそ……私は敢えて彼女を近付けて、敢えて彼を遠ざけて、そして何としてでもこの状況から抜け出てみせる。

 

「とはいえ、比企谷くん一人に仕事を任せるのは、色んな意味で不安なのだけれど……」

 

 言葉の余韻を残したまま、我知らずくすっと笑みを漏らして。

 そして雪ノ下は続く言葉を口にする。

 

「貴方の身近には、頼りがいのある相手がもう一人ぐらいは居るはずよ?」

 

 彼が求める本物に、今の私が相応しいとは思えない。

 けれどもこの部員やあの後輩なら、本物という言葉が持つ重みにも耐えることができるだろう。

 

 それに、私だって本物と呼べる関係性を諦めてしまったわけではなくて。

 むしろ「偽物なんて欲しくはない」と心底から思える私だからこそ、本物があるのならば目にしてみたいし、自分もそれに関わりたいと思うのだ。

 

 昨日の放課後にも確認したとおり、彼が抱える問題の根本を解決するために積極的に協力するという役割は、誰よりも自分が適任だと自負している。

 

 なぜなら、それはこの奉仕部で私がずっとやって来たことだから。

 

 だからこそ、この役割だけは誰にも譲るつもりはないし。

 だからこそ、今のこの依存状態を一刻も早く解決したい。

 

 今までとは違って、私の前にはちゃんとした筋道が一本通っている。

 依存から抜け出すことと、私ならではの役割を果たすことと、今回の依頼と平行して姉との問題に正面から取り組むことは、相互に複雑に絡み合ってはいるけれど、確かに一本の線で繋がっている。

 

「だから……由比ヶ浜さん。比企谷くん。今回は二人に、今までの私の役割をお願いしたいのよ。比企谷くんには依頼と合同企画の総指揮を、由比ヶ浜さんには姉への対処全般と舞台の創出を。そうすれば、向かい合うに相応しい舞台さえ得られればきっと、私と姉さんの問題は解決できると思うの」

 

 依存状態にまで堕ちたからこそ、全てを一度に片付ける機会が巡ってきた。

 そう考えると本当に不思議なもので、かつて後輩が立会演説会で口にした(目の前に居る彼に教えて貰ったという)「塞翁が馬」という言葉に、深く感じ入ってしまう自分が居る。

 

 そんなことを考えていると、その彼がおもむろに口を開いた。

 

「なんか、あれだな。昔読んだ漫画でな、勇者と大魔王が戦うんだけどな。勇者の仲間たちは、勇者をできるだけ無傷で大魔王のところに辿り着かせるぞって、みんなで身体を張って強敵を引き付けて、それを実行するわけよ。まあ漫画のキャラを引き合いに出すのも変な話だし、総指揮を執れとか言われてもぶっちゃけ不安は尽きないけど、それでもあの作品を連想したからにはな。半端なことをしたらまた材木座に怒られ(ストラッシュを出され)そうだし、俺は俺なりに全力を尽くすわ」

 

 以前なら、漫画を理由にするなんてふざけているのかと憤慨しかねない話だけれど。

 つい一昨日に漫画のキャラたちに深い共感を抱いたばかりの私は、比企谷くんの言葉が相当の重みを伴っているのだと気付くことができた。

 

「えっと、要するにあたしは、ばんぜんの状態でゆきのんを陽乃さんと向き合わせればいいんだよね。それってさ、ヒッキーが留美ちゃんたちを向き合わせるのと、なんだか似てるよね。あたしとヒッキーが今までのゆきのんの代わりをしながら、向き合ってもらえるように手配するって感じ、かな。……うん、それってあたしが選挙の時に言ってたことと繋がるし、だったら任せて」

 

 演説を聴き終えたあの時に、私は由比ヶ浜さんが自分と同じ高みにまで登って来てくれたのだと実感した。

 だからこそ、任せてという言葉を何の留保もなく信頼できる。

 同時に、これは盲信ではないと確信できる。

 

「じゃあ、これで決まりね。……少し疲れた気がするのだけれど、留美さんが来るまでは頭を休めたほうが良いかもしれないわね」

「つっても、対策を立てといたほうが良いんじゃねーのか?」

「それが、合同企画は動き出したばかりでまだ何も決まっていない状況だし、相手の娘の話をもう少し詳しく訊かないことには難しいと思うのよ」

 

 まあそれなら無理に仕事を進めることもないかと、そんなことを考えているのが手に取るように解って、思わずぷっと笑いを漏らしそうになってしまった。

 すると右隣から、今にも挙手しそうな勢いで明るい声が耳に届く。

 

「はいはいはい。じゃあさ、ちょっと気晴らしに別の話をしようよ。例えば……あ、そうだ。ヒッキーって数学どうだった?」

「ふっ。よくぞ訊いてくれたな由比ヶ浜」

「あ、やっぱりヒッキー満点だったんだ!」

「いや、あの……なんでバレてるの?」

「だって昨日、数学の先生に答案もらった時さ。先生もヒッキーもうるうるしてたじゃん」

「え、いや、俺べつに涙ぐんだりとかしてないし。普通だし。むしろあれぐらい楽勝っつーか」

「貴方がそこまで言うなら次も期待できるわね。いっそ本格的に理系を目指して、物理の勉強も始めてみてはどうかしら?」

 

 かなり本気で口にしたつもりなのだけれど、真っ青になりながら顔を小刻みにぷるぷると動かして拒否する意志を伝えて来るのが何だか微笑ましい。

 

 特に意図したわけでは無いのだけれど、由比ヶ浜さんが褒めて私が引き締めるという形で楽しくお喋りをしていると、メッセージの着信音が耳に届いた。

 

 

***

 

 

 夏以来すっかり顔なじみになった教師に入校の手続きをして貰って、職員室を後にした鶴見留美は総武高校の廊下を堂々と歩いていた。

 

「八幡と雪乃さんと結衣さんにはメッセージを送ったし。部室ってこっちで合ってるよね?」

 

 そんな小声が漏れてしまうのは、実はドキドキしているせいだと留美は思う。

 

 そうした内心が表に出ないようにと気を付けているつもりだけど、昨日と違って今日は一人だし、何度リラックスしようと心がけてもいつの間にか両手をぎゅっと握りしめている。

 その繰り返しだった。

 

「昨日の八幡のあれって……心の叫びとか、そんな感じだったよね」

 

 だったら別のことを考えようと、留美は昨日から耳にこびりついて離れない声を呼び起こした。

 

 いくら同じ目線で話をしてくれる相手でも、向こうは高校生なのだから留美からすれば大人も同然だと思っていた。

 それに普段の印象からして、あまり何かに熱くなるような性格じゃないんだろうなと思っていた。

 

 ちょっと考えてみたら、そんなの違うってすぐに分かったはずなのに。

 だって私はあの二人と、それから同い年のみんなといっしょにゲームをして、軽い雑談なんかじゃ比べものにならないぐらいに重たくて濃いやり取りをしたのだから。

 

 あの二人が、自分から見て大人な側面を多く持っているのも確かだけど。

 同時にあの二人は、私たちですら及ばないほどの子供っぽい感情を、つまり負けず嫌いな側面を持っていた。

 

 それはまたたく間に私にも伝染して、今も自分の中にある。

 夏前の、何かを諦めかけていた私には想像もできなかったほどの熱が、感情が、私の中でうずまいている。

 

 それをあの二人に、あるいは昨日すっかり仲良くなったあの人も含めた三人に、あるいは彼だけに向けても良いのだけれど。

 特に()()()()()は、私にはまだ早い気がするから。

 

 だから、まずはこれを()()()にぶつけて。

 もしそれがうまくいったら、その時には私はもう、まだ早いなんて思わないようになるのだろう。

 

 

「失礼します」

 

 こんこんとノックをしたら「どうぞ」という声が聞こえてきたので、ドアを開けてぺこっと頭を下げてから中に入った。

 

「留美ちゃん、やっはろー!」

「やっ……??」

 

 何を言われたのかよく分からなかったので、目立つような反応はせずにとまどいの言葉も飲みこんで、誰も座っていないイスに向かってすたすたと歩いた。

 やっぱり廊下とは違って、この部屋の中は落ちつくなあと思いながら。

 

「……なあ、雪ノ下。実は今の今まで気付いてなかったんだがな。もしかして俺らって、由比ヶ浜の変な挨拶を変だと思えなくなってねーか?」

「奇遇ね。私もたった今、まったく同じことを思ったところよ」

「ちょ、二人とも今さら何を言い出すんだし。やっはろーって、どう考えてもいい挨拶じゃん!」

「……ああ、なるほど。やっほーとはろーを組み合わせたんですね。その、私はいい挨拶だと思わなくもないというか」

「う、留美ちゃんに真顔で気を使われちゃった……ぴえん」

 

 最後の言葉も意味がよく分からなかったけど、たぶん悲しいとかそんな感じだろう。

 そんなふうに納得して、イスに深く座りなおした。

 

 

「そういや、一色は?」

 

 部員を宥めている部長様の姿を横目に眺めながら、八幡がそう問い掛けたものの。

 留美は何やらご不満な様子で。

 

「知らない。けど、しんぼくかいって言ってたかな。ごめんっていろはさん言ってたけど、昨日も来たから一人で行けると思ったし、べつにいいんだけど」

「ほーん、なるほどな。親睦会ってのは、親しく仲睦まじくなりましょうってな会だから、あれだな。今日行かなくて正解だったわ」

「あ、じゃあ私も、ここにくる用事があってよかったのかも。今日の話し合いでもなんにも決まらなかったし、はっきり言うと時間のムダ」

「……比企谷くんと話していたら、留美さんが順調にぼっちへの道を歩みそうな気がするのだけれど」

「うーん、でもさ。親睦会って実際、合わない人には合わないもんね。留美ちゃんの性格を考えたらさ、おおぜいと仲良くなるよりも、数は少なくても深く付き合える相手を選ぶほうがいいと思うし」

「それもそうね。じゃあ早速なのだけど、相手の女の子のことを教えてくれるかしら?」

 

 雑談から依頼の話へと瞬時に意識を切り替えた雪ノ下の言葉に応えて。

 留美は件の女の子との馴れ初めや想い出の数々を語ってくれた。

 

 結果としては残念ながら、問題の解決に即座に繋がるような情報は得られなかったものの。

 順番にハブられるという馬鹿げたことさえ起きなければ、きっと二人は今でも仲良く過ごせていたのだろうと。そう確信できるほどに、留美の気持ちは伝わってきた。

 

「比企谷くんの、今後の方針は……?」

「あー……そういやそうだったな。いつもの役割に慣れ切ってたから油断してたわ」

 

 その反応はずるいのではないかと雪ノ下が考えていたとはつゆ知らず。

 少し悩んだ末に八幡は口を開く。

 

「できれば相手の女の子からも話を聞きたいとこだよなあ。小町に頼めば何とかなると思うんだが、勉強の邪魔をしたくない上に、あれだよな。呼び出しに応えて出て来てくれたとしても、警戒心を上げるだけの結果になりかねないのがネックだよな」

 

 そこまで言い終えたところで、普段はあまり感情を表に出さない留美から焦るような気配が漂って来たので。

 

「警戒されて逃げられるってのが一番のバッドエンドだから、その辺は慎重に行くとしてな。留美の気持ちをちゃんと伝えられるような状況を、何とかして俺らが作るから……けどな。それでももしかしたら、お互いに納得できたとしても結局は離ればなれになるって結末は有り得るわけだが。留美は最悪、それでもいいか?」

 

 そう問い掛けて目を見た瞬間に、こいつなら大丈夫だと八幡には思えた。

 

「二人とも納得して別れるなら、べつにいい。だってそれなら、またいつか会った時にもふつうに話せると思うから。けど、今のまま別れちゃったら、次会った時にも何を言ったらいいか分かんないと思うから……」

 

「なるほどな。じゃあ留美は、そいつに言っておきたいこととか聞いておきたいことを考えて、いざ本番ってなった時に上手く喋れるように準備しておいて欲しい。そのな、奉仕部の理念ってのがあってな。実は雪ノ下が作ったやつなんだが、要するにな。俺らが手助けできるのは、留美が話せる場を設けるところまでなんだわ。その後は、留美が自分でやるべきだと俺らは思うし……留美ならできると思ってる。それで、いいか?」

 

「うん。それぐらいなら、一人でできる」

 

 迷いなくそう言い切った留美は、二人の間に何の障害も無かった頃の想い出を、そんなかつての記憶を胸に抱いてしっかりと前を見据えているように見えた。

 

 自分もかくありたいと強く心に思いながら、雪ノ下はつとめて明るい口調で留美に向かって話し掛ける。

 小さな友人への心ばかりのお礼として、今の自分にできることを考えながら。

 

 

「一人でやろうと覚悟を決めると、大抵のことはできてしまえたりするのよね。例えば……そうね。合同企画の内容は、まだ何も決まっていないみたいだけれど。当日はクリスマス・イブなのだし、こんなのはどうかしら?」

 

 三人に向かってそう問い掛けながら、雪ノ下は部長の権限を使って部室の一部分を換装した。

 

 窓際にエレクトーンが突如として現れたので、驚きの声を上げる一同を尻目に。

 雪ノ下は軽やかな足取りでそちらへと移動すると、静かに音を奏で始める。

 

「あっ。この前奏って、あの曲だよね?」

「おう。これが早押しクイズなら留美の勝ちだな。てか由比ヶ浜も知ってるよな?」

「ゆきのんが言ってたとおり、クリスマス・イブだよね?」

 

 そんな三人の言葉に頬をほころばせながら、雪ノ下は両手と両足を使ってイントロのフレーズにベースやドラムスの音を足して行くと。

 一人で再現した前奏に続けて、歌詞を()()()歌い始めた。

 

「えっ。英語の歌詞なんてあるの?」

「いや、俺はそこまで詳しくなくてな」

「あたしも日本語しか知らないんだけど、ゆきのんが訳してるんじゃないよね?」

 

 こうした反応に苦笑しながらきっちり八小節を歌い終えると、演奏はそのまま続けたものの少しだけ音を控え目にして、雪ノ下は三人に向けて話し掛ける。

 

「これは”Christmas Eve English Version”というタイトルで、本人自らが歌っているのだけれど。私も留学前までは存在を知らなかったのよ。でも、向こうで初めてクリスマスを迎えた時に、クラスメイトの一人が『日本にもすごく素敵なクリスマスソングがあるの、知ってるよ』って教えてくれて。考えてみれば、あちらでの毎日が辛くなくなったのは、あの前後からだったわね」

 

 日曜日にあの顧問に勧められた時には、果たして留学時の話なんてできるのだろうかと危ぶむ気持ちが先に立ったのを覚えている。

 でも、口に出してみればたわいもないものだ。

 

 この二人ならきっと大丈夫だと、自分に信じ込ませるようにしてその(じつ)身構えていた一昨日の私に、今の気持ちを教えてあげられると良いのだけれど。

 部員の二人だけではなく小さな友人にも昔話を伝えることができて、こんな些細な成功を心の底から誇らしく思えるのだから困ったものだ。

 

 あの教師には改めてお礼を言いに行くべきだなと、そんなことを考えながら演奏を続ける雪ノ下は、この後の展開を知らない。

 

 ドア一枚を隔てた廊下では、自慢の教え子が助言をしっかり活かした瞬間を偶然耳にして静かにむせび泣く、平塚静の姿があった。

 




次回は二週間後に、その後のアニメ期間は定期更新を頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)


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08.ゆらめく想いを外には出さず彼は特別な相手を支える。

前回のあらすじ。

 今後の方針を話し合った結果、留美の依頼と合同企画への対応は八幡が、海浜の後ろに見え隠れする陽乃への対応は由比ヶ浜が、それぞれ総指揮を執ることになった。
 雪ノ下と留美に課せられた役割は、姉や友人といざ向き合った時に悔いのない話ができるように備えることだ。

 奉仕部の手助けは、向かい合う舞台を整える時点まで。
 そう語る八幡に対し、その後のことは「一人でできる」と留美は答える。
 自分もかくありたいと思う雪ノ下は、年下の友人に感謝の気持ちを込めて、留学時に聴いた懐かしい曲を演奏するのだった。



 その日の夜のこと。

 

「なんだか、腑に落ちない気がするのだけれど……」

 

 少し身体を動かすだけで両肩が触れ合いかねない現状に萎縮しながら。

 すぐ隣で渋い顔をしてつぶやく雪ノ下雪乃の声を右から左へと聞き流して。

 

 比企谷八幡は、五人の女子高生に囲まれるという腑に落ちない状況に陥っている我が身を救うべく、この場で唯一の同性へと視線を向けて。

 

「無理」

 

 あえなく却下されていた。

 

 

***

 

 

 雪ノ下が演奏を終えると、三人からの惜しみない拍手が送られた。

 

「時どき思うんだけどな。なんかもう雪ノ下一人で充分じゃねって言いたくなる時あるよな」

「合同企画にこだわってムダな話し合いを続けるぐらいなら、雪乃さんのワンマンショーでいいよね?」

「あ、留美ちゃんに質問なんだけどさ。女の子でもワンマンショーでいいのかな?」

「えっ……と。じゃあ、その、”one person show”とか?」

「おう、そんな感じで合ってるぞ。つーか小学生に英語を訊くなよ……」

「だ、だって留美ちゃんって沙希に教えてもらってるわけじゃん。だから、あたしよりも詳しいかなーって……」

 

 そんなふうに雑談をわいわいと続けていると。

 

「由比ヶ浜さん?」

「ひっ。ゆ、ゆきのん違うって」

 

 いつの間にか席に戻っていた雪ノ下から声を掛けられたので、慌てて言い訳を試みる由比ヶ浜結衣。

 とはいえ雪ノ下は怒っているわけではないみたいで。

 

「疑問を素直に口にするのは良いことなのだから、恥ずかしがる必要はないのよ。比企谷くんも聞き流してあげたら良いと思うのだけど?」

「まあ、そうだな」

 

 やんわりと(いさ)める程度の口調だったので、八幡も軽い答えで済ませた。

 すると雪ノ下の発言に便乗するようにして。

 

「あ、じゃあ……えっと。さっき歌った歌詞って、どんな意味なの、ですか?」

「無理に敬語を使わなくても大丈夫よ。それに留美さんが興味を持ってくれたのなら、演奏した()()があったわね。ただ、大まかな流れとしては日本語の歌詞と大差はないのだけれど……ごめんなさい。留美さんが文法をどれくらい理解しているのか、単語の意味をどこまで把握しているのかが私には判らないから、説明が難しいのよ。あとで川崎さんに連絡を取ってみるから、ちゃんと先生に教えてもらうほうが良いと思うわ」

 

 こくりと頷いて、教えてもらう日が待ちきれないとばかりにふふっと笑みを漏らす鶴見留美。

 それを微笑ましく眺める二人の耳に、八幡の声が聞こえて来た。

 

「なんか、あれだな。川崎も良い先生やってるみたいだな。かなり評判が良いって小町も言ってたけど、中学生にも小学生にも受けが良いって、なかなかできることじゃないよな」

「だって沙希だもん。それぐらいできるってあたしは思うけどなあ」

「そうね。初対面ではつっけんどんでも、長く付き合うほどに味が出るというか……」

 

「噛めば噛むほどってか。あれだな、雪ノ下がするめ扱いしてたって塾で報告しておくようにな」

「いかにも上手い表現をしたと言わんばかりの態度を取られても、対応に困ってしまうのだけれど?」

「イカだけにな、ってやかましいわ!」

 

 こうした流れは久しぶりだなと三者三様に苦笑を浮かべていると、しょうがないなあこの人たちはと言いたげに口元を押さえてくすくすと身を震わせているので、小学生らしい無邪気でレアなその反応に三人も思わず暖かい息を漏らしてしまった。

 

 しばしの無言の時を経て、由比ヶ浜が弾む口調で話を続ける。

 

 

「あ、でもさ。留美ちゃんは歌詞が気になったみたいだけど、あたしは演奏のほうが気になってたんだよね。ベースとかドラムもゆきのんが一人でやってたけど、あたしとヒッキーが参加しても面白そうだなーとかさ。でさ、ゆきのんは何でもできるけど、三人で演奏するなら文化祭みたいなパート分けがいいんだよね?」

 

「そうね。ギターとベースとドラムスのスリーピースで由比ヶ浜さんがヴォーカルという形が一番望ましいと思うわ。私にもう少し体力があれば良かったのだけれど……」

「無い物ねだりをしても仕方がねーし、演奏で色々と助けてもらってるから気にすんな」

 

「だね。でさ、三人ならそれでいいんだけど、アンコールだと平塚先生がベースを弾いてくれて城廻先輩がキーボードで陽乃さんがギターだったじゃん。あの時にね、あたしがアコギとか弾けたらもっと良かったのかなーって。その、ベースがイヤになったんじゃなくて、弾けるようになって来たのがすごく楽しいんだけど……なんて言えばいいんだろ?」

 

「由比ヶ浜さんが言いたいことは解るから、大丈夫よ。貴女がギターのコードだけでも弾けるようになってくれると、メンバー次第でもっと色んなことができるのは確かね」

「つっても、あの陽乃さんが見返りなしに参加してくれるとは考えにくいし、城廻先輩も卒業だろ。まあ約一名ベースをやりたがる人はいるかもだけどな。あとは……ああ、一色がキーボードできるよな」

 

 さらっと流されたことを知ったら年甲斐もなく泣きわめきそうだなと思いつつも顧問の存在をさらりと片付けた八幡が、別の人材に思いを馳せていると。

 

「ふぅん。いろはさんってキーボードできるんだ。……私もピアノとか習おっかな?」

「え、留美ちゃんそれって……」

 

 折り合いが悪いというわけではないと思う。

 あの後輩が挑発的な発言の背後に潜めていた想いを、この子は昨日ちゃんと把握できていたからだ。

 

 だからこれは、単なる嫉妬。

 それも仲間外れにされなくないという程度の軽い嫉妬だ。

 

 もちろんこれが()()()の嫉妬にいつ発展しないとも限らないのだけれど。

 少なくとも現時点では、昨日あの後輩が口走っていたのと同じ気持ちを留美も抱いていると見るのがおそらく妥当だろう。

 

 だからこそ、三人だけの話し合いに飛び入り参加した二人を昨日、除け者にしなくて正解だったと由比ヶ浜は思った。

 

「ピアノに興味があるのなら、習っておいて損はないと私は思うわ」

「あ、でも、今から始めるのは遅いって……」

 

 不安を漏らす留美と視線を合わせて、頬の筋肉が少しでも大きく動くように心掛けながら、雪ノ下が返事を続ける。

 

「それはプロのピアニストを目指す人たちの話ね。趣味でピアノを弾くのなら、何歳から始めても遅いということは無いのよ。まずは試しに楽しく弾いてみて、後のことはそれから考えても充分に間に合うはずよ」

「そっか。じゃあ、ちょっと考えてみる」

 

 嬉しそうに答える留美に、三人が顔をほころばせていると。

 

 

「話は聞かせてもらった。私の助けが必要みたいだな!」

 

 いきなりドアががらりと開いて、登場したのは平塚静。

 

「あれ、先生ってピアノも弾けるんですか?」

「いいえ。鍵盤は素人だったと思うのだけれど……」

「比企谷、私が教えるという意味ではないよ。それと雪ノ下、君にはそんな話は……ああ、君()()なら見ていれば判るか」

 

 そう言いながら、ドアを閉める手間すら煩わしいとばかりに後ろ手でずぼらに力を込めて。

 そのまま平塚はせかせかと机に近付くと、留美の隣の椅子に(あざとい後輩のために用意しておいたものだ)勢いよく腰を下ろした。

 

「ピアノ教師の()()があるのも確かだがね。それよりも私が助けになれるのは演奏面だろう?」

「いえ、その……どこから聞いてたんですか?」

「君が私をベーシストとして推薦してくれた辺りだな」

 

 厳密にはもっと前の話も、何なら雪ノ下の演奏から聞いているのだけれど、トイレで身嗜みを整えてから戻って来たのがその辺りなので嘘は吐いていない。

 

「なんだか目が少し赤くなってますけど……あ。もしかして、ヒッキーに言われて嬉しかったとか?」

「うっ……」

 

 ひょこんと首を傾けながら、裏の意図などかけらもない素直な疑問を由比ヶ浜がぶつけて来る。

 理由こそ違うものの嬉し泣きをしたのは事実なので返事に窮していると。

 

「え、そこまで過剰に反応されるのって……」

「比企谷くん。普通の人なら過剰反応になるのだけれど。平塚先生は基本的に構ってちゃんだと、貴方が言っていたのではなかったかしら?」

「いやま、そうなんだけどな。でも限度があるっつーか、まさかここまで拗らせてたとはな……」

 

 なんだか不名誉な誤解が真実としてまかり通っている気がするのだが。

 とはいえ本当のことを口にするのは気恥ずかしいので仕方なく耐えることにして。

 

「ごほん。それで、どんな曲を演奏するのかね?」

「いえ。それ以前に、バンドを演って良いのかすらも判らないのが現状なのですが……」

「あと雪ノ下の説明に付け足すなら、やるとしても基本スリーピースで何とかなると思うんですよね」

 

 生徒二名の反応が世知辛い件について、誰かに愚痴りたくなって来た平塚だった。

 

「はぁ……どうせ私は除け者なんだ。一人だけ、ほんの少しだけ年上だし。いいんだいいんだ……」

 

 大人の威厳などは彼方へとかなぐり捨てて顧問が子供のようにいじけている件について、しばし互いに目配せを重ねた結果。

 

「じゃあバンド演奏の時には私がいっしょに観るようにしますね」

「平塚先生の介護を留美さんにお願いするのは申し訳ない気もするのだけれど、他の手立てを思い付かないのよね……」

「まあ演奏が始まったら勝手に盛り上がってくれるだろうし、あんま気にしないで留美も楽しんだら良いからな」

「なんなら陽乃さんを呼んじゃってもいいしね。あたし的には、留美ちゃんにも友達といっしょに観て欲しいなーって思うしさ」

「なるほど。あんな姉でも使い方次第では有効活用できそうね」

 

 ()()()()を気遣う生徒たちの視線が痛痒いのは確かだけれど。

 同時に平塚は、三人が一年生だった頃を思い出していた。

 

 孤高がいつ孤立に転じても不思議ではない状況にあった雪ノ下。

 ぼっちを堪能していても常に危うさが垣間見えていた八幡。

 広くとも希薄な友人関係を深化させる(すべ)を持っていなかった由比ヶ浜。

 

 三人はいずれも、孤高・ぼっち・広く薄い友人関係といった前半の要素を良い意味で維持しつつも、後半の課題を立派に克服してみせた。

 

 たった今のやり取りを一年前の三人に聞かせたら目を丸くしてぶったまげるだろうなと思うと、瞼がまた少し潤みそうになって来たので慌てて平塚は口を開く。

 

「陽乃とも、いつかじっくり話をしたいものだな。今回も何やら企んでいるようだがね。最終的には私がしっかり引き受けるから、君たちは君たちで同学年や年下の力になれるよう頑張りたまえ。世の中は、そういう順番になっているのだからな」

 

 そう告げると、三人の顔つきがはっきり変わった。

 すぐ隣の小学生からも並々ならぬ気配が伝わって来るのは、大切な誰かのために動けるだけの素養が、既にこの歳にして備わっている証拠だろう。

 

「じゃあ、たまにはこの顔ぶれで夕食でも食べに行こうか。ちゃんと送り届けてあげるから、君も来たまえ」

 

 そんな四人に何かご褒美をあげたくなったので提案を口にしてみると。

 

「えっ……私もいっしょでいいんですか?」

「そりゃそうだろ。むしろ留美が主役まであると俺は思うんだが?」

「部員じゃなくてもさ。留美ちゃんはもう仲間って言うか、なんて言ったらいいかなゆきのん。あ、身内?」

「そうね。出来が良くて手が掛からない妹みたいな感じかもしれないわね」

「妹……雪乃さんと結衣さんの……ふふっ」

 

 なぜか俺だけ除け者にされているのが少しだけ気に食わないのだけれど俺には既に世界一の妹がいるのだから留美が怯むのも仕方がないか……などと考えているのが丸分かりなので、笑いをこらえるのが大変だった。

 

「では、どこか行きたい店はあるかね?」

「うーん……その、せっかく行くのにヒッキーとか留美ちゃんが緊張しちゃうようなお店だともったいないなって。だから普通に駅前の、例えばサイゼとかじゃダメですか?」

「いや。由比ヶ浜がそう言うのなら、きっとそれが一番良いだろうな。比企谷が賛成なのは顔を見れば判るとして、雪ノ下もそう思うだろう?」

「ええ、そうですね。では今日はここまでにしましょうか」

 

 一同に向けて部活の終了を告げた雪ノ下と、座ったままで話を続ける。

 

「私はここを閉めて、駅前に車を停めてから行くから、先に店に入っていたまえ」

「では、お言葉に甘えて。留美さん、由比ヶ浜さん、比企谷くん。忘れ物は無いわね?」

「おう。先に廊下に出てるからな」

「あ、ヒッキー待って。留美ちゃんも一緒に行こ?」

 

 真っ先に背中を向けて歩き始める八幡と、それを制して留美にも誘いを掛けている由比ヶ浜を微笑ましく眺めていると、教え子の小さな声が耳朶に届いた。

 顔の向きを元に戻して、短い問い掛けに耳を傾ける。

 

「先生は……いつから廊下に?」

「ん……突然どうしたのかね?」

「いえ、なぜだか急に嫌な予感が……すみません。気のせいですね」

 

 話を打ち切って机に手を置いて勢いよく立ち上がった雪ノ下にだけ聞こえるように、答えを返す。

 

「ずいぶん前から居たのだがね。君が普通に昔の話をできていたのが嬉しくて、少し余韻に浸っていたのだよ」

「っ……。演奏の音に負けないようにと大きな声で話したのが……」

 

 顔を隠すように深くうなだれて、机からまっすぐに伸びた両手の二の腕あたりがぷるぷると震えている。

 

 それを見た平塚はゆっくりと立ち上がると、雪ノ下の左の手首のあたりをひょいと掴んで真横へと、自分の身体の方へと引き寄せて。

 

「えっ……なに、を?」

 

 バランスを崩しそうになった教え子をしっかりと受け止めてから、その背中を軽くぽんぽんと叩いた。

 

「雪ノ下()、よく頑張ったな」

「……おかげさまで」

 

 ほんの微かに頭を下げながらそう言い残した雪ノ下は、最後までこちらに顔を向けることなく、部員たちの後を追ってそそくさと廊下に出て行った。

 

 

***

 

 

 駅前のサイゼでは、なぜだか昔話に花が咲いた。

 正確には四ヶ月前の話なので、昔と言うには最近すぎる気もするのだけれど。

 ずっと濃密な日々を過ごして来たからなのか、この夏の出来事が遠い過去のように思えてしまうのだ。

 

「留美さんの視点で振り返るのも面白かったし、その後の小町さんの暗躍も予想以上だったわね」

「あいつは生徒会もやってたし、ぼっちにもなれるし、なんかハイブリッド感があるんだよなあ……」

「それって、表でも裏でも動けるって感じで超いいじゃん。あたしもちょっと憧れちゃうかも」

 

 そして今、留美と平塚が先に帰ったので、この場には三人だけが残されている。

 二人が席を立ったタイミングで解散しようとしたのだけれど、あのお節介焼きの顧問が。

 

「せっかくだし、君たちはもう少し残っていてはどうかね。いつもと違う環境なら、いつもとは違った話題で盛り上がれるかもしれないからな」

 

 そんな提案に続けて、ご丁寧にウインクまで送られてしまった。

 

 部室を出る間際の私は、きっと恥ずかしさと照れくささのあまり耳まで真っ赤になっていたと思う。

 それを歩きながらの深呼吸で何とか静めて。

 駅までの道のりを三人と話しながら歩いていると、ようやく気持ちが落ち着いてくれた。

 

 たぶん由比ヶ浜さんにはお見通しだったのだろう。

 道中は主に二人と二人に分かれて話したのだけれど、彼女は歩きながらも上手に立ち回って、ペアが固定しないように、会話が途切れないように気を使ってくれた。

 

「ゆきのん、出てくるの遅いよー。早く行こっ。あ、ヒッキーはちゃんと留美ちゃんと手を繋いであげてね」

「留美ちゃんちょっと来てー。えっとね、ゆきのんと手を繋いで……わー、なんだか本当にお姉ちゃんと妹って感じする。ヒッキーもそう思わない?」

「そういえば、人にすすめてばっかで、今日まだ留美ちゃんと手を繋いでなかった……。あう、ごめんねゆきのん、留美ちゃん取っちゃって」

 

 たった一つの「手を繋ぐ」という行為だけでそれを可能にするのだから、呆れを通り越して戦慄すら覚えるのだけれど。

 

 そんな彼女だからこそ、私も気付いた時にはちゃんと指摘をしておくべきだろう。

 そう結論付けて、意識を過去から今へと戻した。

 

 

「由比ヶ浜さんには暗躍なんて似合わないわよ。貴女の長所は表で動いてこそ最大限に発揮できると思うのだけれど……他者を思い遣っての行動を、その当事者どころか自分自身にまで隠そうとしたり軽く受け取らせようとするのは、あまり良くない傾向ではないかしら?」

 

 気を使ってもらったのに批判で返す形になるので、刺々しい口調にはならないようにと気を付けながら、ゆっくりと丁寧にそう伝えたところ。

 

「ちょい待て。お前が言いたいことは俺もまあ同感な部分があるんだけどな。由比ヶ浜に嫌われたくないからって理由なのか知らんけど、説明に飛躍があるし、かなり抽象的になってるぞ?」

 

「……そうね。端的に伝えることにするわ。要するに私は、由比ヶ浜さんに似合わない事はして欲しくないし、由比ヶ浜さんが自分自身を過小評価しようとするのも嫌なのよ。貴方も覚えていると思うのだけれど、テスト明けの金曜日も昨日も、由比ヶ浜さんは自らの長所を私たちやこの部活のおかげだと、この短期間で二度も繰り返していたでしょう?」

 

 気のせいか、このコミュ障ぼっちちゃんめと彼に呆れられたように思えたので、密かにむっとしながら内心の想いを吐露する。

 

「んっ、と……そうだったか?」

「貴方が覚えていないのは珍しいわね。もっとも、私もその場では指摘できなかったので、偉そうな事は言えないのだけれど。……いくら部の雰囲気が悪かったとはいえ、由比ヶ浜さんの努力を差し置いてこの部活のおかげだなんて言わせてしまうのは、私たちの為にも、何より由比ヶ浜さんの為にも良くないと思うのよ」

 

「そう言われると、まあ俺も同感かな。あとすまん。短期間で二回も、ってのが記憶に残ってないのは、あれだ。その、雰囲気の悪さから、俺が無意識に目を逸らしてたせいだと思う」

 

 あるいは、実は俺がその言葉を繰り返し聞きたいと望んでいたからか?

 文化祭の一日目にあの後輩に言われた言葉が、八幡の脳裏に蘇る。

 

『せんぱいって、あれですよね~。付き合ってるのに何度も何度も「好き」って言わせて、相手の気持ちを確かめないと気が済まない人みたいですよね~』

 

 この部活のおかげだと由比ヶ浜に言われて嬉しかったからこそ。

 自分も認められたような、()()()()()()()()()()気持ちになったからこそ。

 俺は雪ノ下とは違って、その発言の問題点に気付けなかったのかもしれない。

 

 そんな結論に至った八幡が密かに己を恥じていると。

 

「いいえ。私の反応も貴方と大差はないのだから、謝る必要なんて無いわ。それに終わった事を悔やむよりも、将来的に由比ヶ浜さんの役に立つような話をしたいと私は思うの」

 

「ゆ、ゆきのんっ……。ううっ、ゆきのんに抱きつきたいのにテーブル邪魔すんなし!」

 

 テーブルに悪態を吐きながら、感極まった由比ヶ浜がわやわやと混乱状態に陥っている。

 

 

 ちなみに三人はソファー席に居るのだが、それは向かい合わせではなくU字状になっていた。

 食事の時には部室と同じ並びで、つまりU字の底辺に八幡が、右手には平塚と留美が、左手には雪ノ下と由比ヶ浜が座っていた。

 

「こうでもしないと、君はいつ逃げないとも限らないからな」

 

 そして一足先に留美を送って帰る時には。

 

「雪ノ下はこちら側に移動したまえ。比企谷に逃げ道を与えないようにな」

 

 顧問のまさに去らんとするや、其の(げん)や善し。

 そう受け止めた雪ノ下が素直に助言に従った結果、八幡は現在、両手に花の状態だ。

 

 もっとも本人としては袋小路に追い詰められたとしか思えず、花を愛でる余裕などかけらも無いのだけれど。

 

 

「ゆ、由比ヶ浜さん?」

 

 その剣幕に恐れをなして、テーブルを回り込むという方法をどうか思い付かないで欲しいと心の底から願いながら。

 雪ノ下はじりじりと、通路とは反対側へとお尻を移動させる。

 

 それを見た由比ヶ浜もまた、対面の彼女に少しでも近付きたいと考えたのか、じりじりとお尻を通路とは逆の方向に。

 

「ちゃちょっと落ち着け」

 

 噛んだ。

 

「比企谷くん、もっと奥に詰めなさい」

「むー、すぐそこにゆきのんいるのに……ヒッキーじゃま!」

 

 しかも聞いちゃいねー。

 

「ゆ、由比ヶ浜さん落ち着いて……そうだわ。両方の耳に指を入れて、三〇秒ほど強く押さえてみてくれるかしら?」

「えっ、こう?」

「ええ。そのままステイ、ステイよ」

 

 それはしゃっくりの治療法だろうが、なんてツッコミは口にするだけ野暮なのだろうと考えながら。

 八幡が視線を遠くへと飛ばして現実逃避に走ろうとしたところ。

 

「あれっ、比企谷じゃん?」

「えっ、せんぱい?」

「あ、ほんとに比企谷くんだー」

「……相変わらずだな」

 

 両耳を指で塞いでいる女子高生とそれを熱心に励ましている女子高生に挟まれて一人だけ虚ろな視線で何かを諦めている男子高生に向けて、女三人男一人の集団から声が掛けられた。

 

 

***

 

 

 とうに夕食は食べ終えて、親睦会という名の集まりは現状完全に破綻していた。

 昨日に続けて独特のノリで盛り上がる海浜の面々について行けず、こちらとあちらで会話が分断されて久しいからだ。

 

 今日も生徒会の四人だけで臨んだ総武側とは違って、海浜は何人かの助っ人を連れて来ていた。

 その中の一人が絶妙なタイミングで合いの手を入れるたびに、あちらではボルテージが更に高まり、こちらでは(選挙期間中に総武高校に現れたことがあるので、四人中三人が彼女を知っていたのも影響して)既に冷め切っていたはずのやる気がますます冷却の度合いを増す結果になっていた。

 

 こうなったらいっそのこと開き直ってしまおうと考えて、一色いろは以下の総武高生が合同企画とは全く関係のない新学期の予定について話し合っていると。

 

「ねー、えっと、一色ちゃんだよね。何度か会ってたけど、ちゃんと喋りたいなーって思っててさ」

「かおりって勢いだけで突き進んじゃうから、ちゃんとお話なんてできるのかなー?」

「やばい、それあるー!」

 

 面倒な相手は避けたいのが本音だが、こうまで近付かれてしまえば粗略には扱えない。

 とはいえ、こんな親睦会なんて無ければあの小学生と一緒に三人に会いに行けたのにと思うと、イライラした感情がふつふつと。

 

「え~と、じゃあ~……場所を移して話しませんか?」

 

 気分を落ち着けようと二人からいったん視線を逸らして、あちらの生徒会長が周囲との話に夢中なのを確認した上で、これを解散の理由にしようと考えながら一色がそう提案すると。

 

「えっ……なんで?」

「あー。かおり、ごめん。わたしのせいだと思う」

「あ、えっと、そういう意味じゃ無いですよ~」

 

 選挙中に雪ノ下が主催した集会にて、この女子生徒がやらかしたのは確かだけれど。

 正直に言うと昔も今もあまり眼中には無いので、そこに拘っていたわけではなくて。

 

 だから一色は、こそっと二人を手招きすると、小さな声で囁きかける。

 

「ぶっちゃけ、あのノリって疲れません?」

「私は疲れる前に何か言っちゃうから大丈夫だけど、千佳はたまに文句言ってるよねー?」

「あー、そっちかー。じゃあさ、かおり。会長に『一色さんたちと先に帰る』って言ってきてくれる?」

「はーい」

 

 足早に近寄って会話の流れをぶった切って向こうの会長に一方的に「私と千佳は総武の人たちと先に帰るね」と宣言してから戻って来る途上、折本かおりは満面の笑みを浮かべながら親指を立ててきた。

 

「ごくろー」

 

 こちらも親指を立てながら仲町千佳がそう返すのを耳にして、深く考えたら負けだと腹を括った一色は部下三人に向けて小声で。

 

「ほら、このタイミングで離脱しますよっ!」

 

 急いで荷物を整えて、唖然とした表情でこちらを眺める他の海浜の生徒たちには口を挟ませないほどの早業で、一色たちは親睦会を離脱した。

 

 

 お店から少しだけ離れた場所で一同は立ち止まる。

 してやったりの表情を浮かべている折本や仲町とは違って、総武の四人は微妙な顔つきだ。

 

「こんな調子で、合同企画なんてできるのかな?」

「けどなあ本牧。あのノリは予想外すぎただろ?」

「そうですね。文実とは全然違うので、ちょっと……」

「う~ん。でも、明日はこっちも助っ人が来るので、それはまた明日考えましょう。で、皆さんはどうします?」

 

 言外に「帰ってくれていいですよ~」と含みを持たせて伝えたところ。

 

「本牧と藤沢は気疲れしてたし、今日はもう帰ったほうが良いだろな。単なる雑談なら俺も帰るけど……?」

「そうですね~。……合同企画の話とかもします?」

「うちの会長があんな調子だから、少しは打ち合わせしておいたほうがいいかもねー」

「それあるっ!」

 

 現実的な仲町と、どこまでもノリが良い折本の発言を受けて、稲村純は覚悟を決めると同時にふうっと大きく苦笑を漏らした。

 

「りょーかい。じゃあ二人はとっとと帰れ。本牧はちゃんと藤沢を送り届けてやれよ?」

 

 そう言って二人を追いやると、稲村はじっと一色を見つめる。

 

 いくらあのせんぱいの推薦とはいえ、今まであまり接点が無かった上に、あざと可愛い後輩を装っても反応が思わしくなかったので当初は対応に困ったものの。

 会長の自分を立ててくれているのだと気付いてからは気が楽になった。

 

「じゃあ、そうですね。あそこにでも入ります?」

 

 生徒会の仕事も、友人の想い人たる後輩女子への対応も全く問題は無いのに、今なお彼女に対してだけは過度の緊張を覚えてしまう。

 

 見つめ合うと素直にお喋り出来ない不甲斐ない我が身に呆れながら、というか昨日ぐらいからようやくあざと可愛い姿を装わなくなったので今まで耐えた俺グッジョブと安心しかけていたのだけれど、自分にとって特別な異性たるこの人に「あそこ」「入る」なんて言われたらそれだけでドキドキするから頼むから止めてくれと心の中で叫びながら、稲村が残りの二人へと視線を向けると。

 

「さ、サイゼっ!?」

「あー、なんか思い出しちゃうねー。じゃあ行こっか」

 

 思いのほか乗り気な反応に首を傾げつつ、一色と稲村も二人を追ってお店に向かった。

 現実とは違いコートや荷物を入り口で預かってくれたので、軽装になった四人は店内へと足を踏み入れて。

 

 そして一同は、見覚えのある三人と合流を果たした。

 

 

「……なあ。どういう組み合わせだ?」

「えっとぉ~、親睦会からの脱出組です!」

「ちょ、それよりさ。何やってるのか分かんなくてウケるんだけど?」

「たぶん精神統一的な何かかなー?」

「……二九、三〇。ゆきのん、三〇秒経ったよ!」

「え、ええ。由比ヶ浜さん、お疲れ様」

「えへへっ。……あれ、えっと、折本さんと仲町さんと、いろはちゃんと、稲村くん?」

 

 由比ヶ浜がきょとんとした目を四人に向けると、名前を覚えられていたのが嬉しかったのか。

 

「この席でいいじゃん。合流しちゃおうよ!」

 

 折本はそう言い終えると同時にソファの端に腰を下ろして、えっさほいさとお尻を由比ヶ浜のほうへと動かしていく。

 続けて、そんな即決ぶりには慣れているとばかりに平然とした顔つきで仲町がその後を追った。

 

「まあ、わたしも別にいいですけどね~……よいしょっと」

 

 一色は一色でソファの上に両手と両膝をついて、靴を履いたままの足先をぶらぶらさせながら、よじよじと雪ノ下の方へと近寄って行く。

 男子二人が妙な性癖に目覚めかけたものの、何とか妄想を振り払っていると。

 

「藤沢さんと本牧くんは、一緒では無いのかしら?」

「ちょっと疲れてるように見えたので、先に帰ってもらったんですよ~」

「えっ。それって本牧くんとさわっちが二人っきりってことだよね?」

「やばいっ。気にしてなかったけど、そういう関係なのっ!?」

「さ~、違うんじゃないですか?」

「たしかに、そんな感じには見えなかったよねー?」

「……俺も座るか。あ、とりあえず人数分ドリンクバーで?」

「わたしはそれでいいですよ〜」

「わたしはシナモンプチフォッカとドリンクバーのセットで。かおりは?」

「晩ご飯の後だし千佳みたいには食べられ……ひっ。えっと、一緒に食べるからドリンクだけでっ!」

「なにこのカオス」

 

 各々が好き勝手に喋っている中でも、特に一色の「さ〜」という興味を欠片も抱いていないのが丸分かりの発言が一番怖かったのは墓場まで持って行く秘密にしようと八幡は思った。

 

 少なくとも、「しまった」という顔つきの由比ヶ浜をフォローするために敢えてあんな口調にしたわけでは絶対にないと、そう言い切れてしまう自分もちょっと怖いのだけど。

 

 

「じゃあ、俺はドリンクを取りに行ってくるけど……?」

「わたしはオレンジスカッシュでお願いしますね〜」

「わたしも端の席だし一緒に行くよー。かおりは、いつもの?」

「うん。よろしくーっ!」

 

 稲村と仲町が席を立ったので、後輩の心理に詳しすぎる自分に悩むのはいったん中止にしようと考えながら、その当人に目線を送ると。

 

「あの、せんぱい。稲村先輩って仕事もできるし頼りになるんですけど、わたしを立てすぎというか……ちゃんとした会長に育てよう、みたいな感じだと思うんですけどね〜。副会長とか書記ちゃんには柔らかい感じなのに、わたしが相手だと『部下』って感じで……まあ、使い勝手がいいから別に問題はないんですけど〜」

 

 殊勝なことを言い始めたかと思いきや、やっぱり一色は一色だなと考えていると、ついつい口が滑ってしまい。

 

「一年後には一色いろは被害者の会の名誉会長になってるかもな」

 

 不本意ながら俺が会長になるとして、副会長は副会長だろうなと妄想を続けていると、暗くて重い声が聞こえて来た。

 

「……せんぱい。それってど〜いう意味ですか?」

「い、一色さん……その、近すぎないかしら?」

「雪ノ下先輩がもうちょっと詰めて下さい。で、せんぱい?」

 

 これは俺には無理なやつだと早々に白旗を揚げて、耳が遠いラノベ主人公を装いながらおもむろに飲物に手を伸ばして微妙に震えるグラスからごくんと一口水分補給をしていると。

 

「でもさ。いろはちゃんが立派な生徒会長になったら、ヒッキーたちは被害者どころか英雄……じゃなくて貢献……じゃなくて、えーっと?」

「功労者、という言葉が適切かもしれないわね。比企谷くん特有の照れ隠しなのだから、これぐらいは一色さんも聞き流したら良いと思うのだけれど?」

「イカにもっ!」

「貴方は黙ってなさい。あとすぐに人の真似をしようとするのは止めなさい」

「やばいっ、なんか色々ウケるっ!」

「はあ。まぁせんぱいだし仕方がないですね〜」

 

 ちょうどドリンクが戻って来たので、この話はここでお開きになった。

 

 

 一色にドリンクを手渡しながら、稲村が奥の三人に向けて口を開く。

 

「なんか変な感じで盛り上がってたな。ただ、俺もちょっと疲れてるから、雑談は後回しにしてもらっていいか?」

「ですね〜。じゃあさっさと片付けましょうか」

「ここで打ち合わせしておかないと、明日も話がまとまりそうにないもんねー」

「……少し教えて欲しいのだけれど。親睦会でも何も話は出なかったのね?」

「あー、えっと、会長とかは合同企画の話ですっごく盛り上がってたんだけどさ。その、いつもと同じというか……」

「何も決まらなさそうな感じだったよねー」

 

 雪ノ下の疑問に珍しく折本が申し訳なさそうな話し方で答えると、そんな配慮ごと仲町が一刀両断で片付けた。

 さすがにそろそろ動くだろうと思っていただけに、予想が外れた雪ノ下は渋い表情で小さく呟く。

 

「なんだか、腑に落ちない気がするのだけれど……」

 

 ところで、三人で居た頃にも詰め寄られていた八幡は、一色への余計な一言のせいで更に肩身の狭い状況に陥っていた。

 なのでこの場で唯一の同性へとヘルプを求めてみたのだけれど。

 

 詳しい経緯こそ分からないものの、八幡から助けを求められているのは理解できる稲村だったが。

 

「無理」

 

 俺のような普通の凡人が、学年きっての実力者たる二人に向かって何が言えるというのだろうか。

 そう考える稲村が、声を出さずに唇の動きだけで八幡のSOSを却下していると。

 

 

「なんか、変だよね。陽乃さんらしくないって言うかさ」

「そうなのよ。可能性が一番高いのは、選挙の時と同じでこれ以上は関わる気はないというパターンなのだけど……姉さんの性格的に、その」

「そう思って油断した時が一番怖いって話だよな。あと、悪いけどちょっと狭いから、もうちょい向こうに詰めてくれない?」

「それ、どう考えてもせんぱいのせいだと思うんですけどね〜」

 

 そう言いながらも一色が素直に雪ノ下と距離を置いて、そのせいで自分との距離が近くなったので稲村が密かに冷や汗を流していると。

 

「じゃあわたしも端まで行くねー。ほら、かおりも比企谷くんに会えたからってそんなに近付かなくてもいいでしょ?」

「やばいっ、なんか分かんないけど視線が痛いっ!」

「えー。だって()()()()()()じゃないの?」

「やっぱりそっかー。それなら仕方がないなぁ」

 

 海浜の二人が勝手に理解を深めているのだけれど、変に訂正しようとしたらかえって藪蛇になるのは目に見えているので、総武側は敢えて口を挟まなかった。

 そのかわりに議題を元に戻す。

 

「まあ、明日の打ち合わせには俺が行って、様子を見て来るわ」

「それって、ヒッキーが一人で行くつもり?」

「まだ人手が必要な時期じゃないからな。話し合いに大勢を連れて行っても結局無駄だろ?」

「それもそうね。でもその口調だと、後々誰を連れて行くのかも概ね決めているみたいね?」

「あ、それでな。雪ノ下と由比ヶ浜にちょっと人物評をお願いしたいんだがな」

 

 三人のテンポの良いやり取りには口を挟めそうにないので、明日は少し苦労が減るかなと期待しながら稲村が顔を正面に戻すと、仲町と目が合った。

 何故だか少しだけ不安そうに見えたので。

 

「あいつらが動いてくれるから、たぶん大丈夫だ」

「信頼してるんだねー」

「信頼っていうか……単純に能力の差だな。俺みたいな普通の奴とは違って、あいつらは……なんだろな。特別っていうか……()()だからな」

 

 今までこんなふうには使ったことのない言葉だったけど、不思議なぐらいにするりと出て来て口に馴染んだ。

 あの三人には、あるいは自分にとっての特別な異性たる彼女を加えた四人には、この言葉がとてもよく似合っていると稲村は思った。

 

「そっか。でもさ、その分け方だとわたしも稲村くんと同じなんだよねー。特別に憧れてるだけの普通の存在って感じ?」

「いや。仲町さんも折本さんも、普通って枠には収まらないと俺は思うな。その、思い出したくないかもだけど、葉山と、その」

「あ、うん……」

「俺は話を聞いただけだけどさ。あんなふうに行動に出られる時点で、仲町さんも特別だと俺は思うけどな」

「そっか。でもじゃあ、そう言ってくれる稲村くんも、普通とは言えないと思うなー」

 

 そんなふうに親睦を深めていると、ふと妙なことに気が付いた。

 話を続けている奥の三人はともかくとして、残りの二人が会話に入って来ないのは何故だろうか?

 

 言われた言葉が嬉しかったのと少し照れくさかったので、手刀を切って仲町にお礼を伝えた稲村は、そのまま何気なく顔を左へと動かして。

 

 そこには、稲村が今までに見たことのない表情を浮かべた女の子が静かに座っていた。

 

「稲村先輩って、ちょっと分かんない部分があるな〜って正直思ってたんですけどね。意外と話せそうっていうか、せんぱいが太鼓判を押して推薦してくれた理由が……理由は、まだちょっと分かんないですけど〜。稲村先輩を推薦したくなる気持ちは、何だか分かった気がします。だから、前にも一応は言いましたけど……改めて、一年間よろしくお願いしますね〜!」

 

 不器用に親指を上げて、その言葉に応えることしかできなかった。

 きっと、横から見ているであろう仲町には何もかもがバレバレだろう。

 

 それでも、初めてちゃんと自分のことを見てくれた気がして、それだけで心の隅々までがぽかぽかと温かくなっていくのを稲村は実感した。

 

 

「もともとは戸塚に頼もうと思ってたんだけどな」

「意外と、さいちゃんよりもいいかもね」

「私も同感ね。さて、こちらの話は終わったのだけれど……?」

「あ、お疲れさまです〜。じゃあ雑談組はそのまま残って、帰る人は……」

「あのね、その前にちょっとだけいいかな?」

 

 一色の声を遮って仲町が話し始めたので、折本を含め続きを予想できない一同がぽかんと口を開けて、それでも視線をそちらに向けると。

 

「ほんとは、もっと多くの人の前で言うべきだと思うんだけどね。えっと、一色さんと。由比ヶ浜さん、だったよね。それと、雪ノ下さん。総武の会長選挙の時に、変なことをして迷惑をかけて、ごめんなさい」

 

 言い終えると同時に深々と頭を下げた仲町は、いつまで経っても頭を上げようとしない。

 その耳に、不思議に優しい声が届いた。

 

「えっとね。チカチカは変なことって言うけどさ」

 

 ……チカチカ?

 一人を除いた全員の頭の中に大きな大きな疑問符が浮かび上がっているのだが、話し手だけはそれに気付かない。

 

「誰かを好きになって、その人のために行動するのって、変なことなんかじゃ絶対にないって、あたしは思うけどな」

「……ありがと」

 

 そう言って頭を上げた仲町は、謝る対象たる三人を順に眺めた。

 

 自分なんかじゃ、とても敵わない。

 でも、そんな相手に対してでも、自分にできる行動というものが確かにある。

 今日は謝るだけだったけど。

 願わくば今回の合同企画で、それが無理でもいつかきっと、この人たちの助けになれたらいいなと仲町は思った。

 

「じゃあ、これにて一件落着ですね〜」

「そうね。集会の時には合同企画に参加しないようなことを言っていたので不思議に思っていたのだけれど、貴女の動機は尊重するわ。ただ、今後は気後れとかしないで気軽に接してくれたらこちらも助かるわね」

「あ、今さらだけど、チカチカって呼んでも大丈夫だよね?」

「……」

「いつもは暴走するのは私だから、千佳がフォローしてくれるんだけどさー。千佳がやらかす時って私がフォローできないから、酷いことになっちゃうんだよねー。だからさ、また迷惑をかけちゃうかもだけど……借りはきっと別の機会に、ちゃんと返すねっ!」

 

 陽気な口調で断言する折本に、一同が苦笑しつつも頷いていると。

 

「あ、かおり。土曜日のことだけどさ。ここのみんなも誘ってみる?」

「えっ、それいいじゃん。それ絶対あるって!」

 

 何のことだか分からないので、一同が首を捻っていると。

 

「えっとね。かおりと二人でディスティニィーに行く予定でねー」

「なるほど。クリスマス前のこの時期だとアトラクションは」

「あ、ゆきのんストップ」

「な、なんですか今の雪ノ下先輩は?」

「一色……知らない方が良いことって世の中にたくさんあるよな?」

「やばいっ。最初に部室に行った時も集会の時も怖かったけど今日は大丈夫だと思ってたのに、やっぱり怖くてウケるっ!」

「結局ウケるのか……。比企谷と同中って言ってたけど、お前の周りって」

「言うな稲村。てかお前も俺も巻き込まれそうなのを知ってて言ってるのか?」

「俺はまあ長いものには巻かれる主義だけど、お前はどうなんだ?」

「まあぶっちゃけ、ディスティニィーとか何が楽しいのか分からんからな。あれだろ、変なかぶりものとか頭に着けてウェーイとかやってるけど、よく人前で出来るなぁって思うよな」

「カップルで行くようになると意見が百八十度変わるらしいぞ。自分も知らなかった自分が次から次に出て来てびびったとか言ってた」

「ああ、そういう奴らって○ねばいいのにな」

「はい、ストップです。で、せんぱいはどうするんですか?」

 

 ついつい稲村と話が盛り上がってしまった八幡だったが、一色に口を挟まれたタイミングでこそっと周囲を探ってみたらみんな普通に引いていた。

 ですよねーと内心で呟くしかできない。

 

 とはいえ八幡にも意地があるわけで。

 

「悪いけど、さすがに金を使ってまで行きたいとは思わんなぁ」

「そう。それなら、折本さんと仲町さんには申し訳ないのだけれど、私たちは不参加になりそうね。いちおうギリギリまで説得はしてみるつもりだけれど、無理だったらごめんなさい」

「あ、うん。ちょっと直前すぎるよねー」

「そっかー。ま、今回は千佳と楽しめばいいし、また今度みんなでいっしょにってのもいいじゃん!」

 

 そんなふうに話がまとまっている陰では、こそこそと目線だけのやり取りが。

 

「なんでゆきのん、断っちゃったのかな?」

「なにか考えがありそうですし、あとのお楽しみですね〜」

 

 こちらも話がまとまって、そして一同は閉店の時間が迫っているのに気が付いた。

 楽しいと時が過ぎるのもあっという間だけれど、それならまた集まれば良いだけの話だ。

 

「私たちは途中参加になるのかしら。いい親睦会だったわね」

「途中までは悲惨だったんですよ〜」

「よしよし。いろはちゃんお疲れー」

「うちの会長ってああだから……ごめんねー」

「明日からは比企谷も来るし、たぶん大丈夫だ」

「ぼっちに過剰な期待を掛けるとか、稲村って知っててやってないか?」

「比企谷って周りの評価が中学の時とぜんぜん違うよねー。あーあ、私にもっと見る目があったら良かったのになあ」

 

 そんなふうに会話をがやがやと続けながら、七人の高校生はサイゼを後にする。

 

 

 なお、先程の稲村と仲町の会話に折本が加わらなかったのはシナモンプチフォッカを持つ店員さんの姿が目に入ったからで、一緒に食べると言ったからには最低一切れは食べないとダメかなと苦悶していたからとのこと。

 結局は全てぺろりと仲町が食べた。

 




予想外のトラブル半分・他の理由半分で、更新が大幅に遅れてしまい申し訳ありませんでした。

ここ最近、「次は早くに更新できそう」と思った時に限って変なことに巻き込まれている気がするので、今回はちょっと逆張りをさせて下さい。

というわけで、次回もどうせ何かが起きて書く時間が全く取れないままに日が経ちそうなので書け次第更新するという形にさせて貰ってもよろしいでしょうかごめんなさい。

では、ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
脱字を一つと他二点、細かな描写を修正しました。(8/7)
比企ヶ谷と書いていた箇所を修正しました。(12/31)


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09.きっと自分なら憧れの相手とも渡り合えると彼は思う。

前回のあらすじ。

 部室での時間に加えて夕食も共にして、奉仕部の三人は留美と一緒に穏やかな一時(ひととき)を過ごしていた。
 互いに気を遣いすぎていた最近の対話が嘘のように、小学生と顧問が先に帰った後も三人は遠慮のない、けれども親しいやり取りを重ね続ける。

 同じ頃、親睦会に参加していた生徒会の四人は、海浜側のノリについて行けず取り残されていた。
 折本と仲町が話し掛けてくれたのをチャンスと見た一色は、二人を味方に付けて親睦会からの脱出を成功させる。
 疲労の色が濃い本牧と藤沢を先に帰らせて、海浜の二人と稲村を連れて店に入った一色は、そこで偶然にも奉仕部の三人と合流を果たした。

 翌日の対策を話し合ったり、お互いの理解を深めたり。
 そうした話が落ち着いたところで、仲町は会長選を戦った三人に当時の迷惑行為を謝罪する。
 続けて総武一同をディスティニィーへとお誘いしたものの、あまり色よい返事は得られず。

 それでも確かに親睦を深めた両校の生徒たちは、和やかな雰囲気のまま店を出たのだった。



 翌日は朝から断続的に雨が降るという面倒な空模様で、それは放課後になっても変わらなかった。

 

 せっかく荷物持ちが居るのだから話し合いに備えてお菓子でも買いに行きましょうと言い出した一色いろはに付き合って。生徒会の他の面々とはコミュニティセンターの手前でいったん別れると、比企谷八幡はコンビニの入り口で傘をたたんで一色を追って店内に入った。

 

「え~っと。まあ無難なやつを揃えるほうがいいですよね?」

「それな、男連中は良いとしても女同士だと何かあるんじゃねーの?」

「あ~……今時そんなの食べてるんだ、的なやつですか。たしかにそういうの言い出す人いますけど、今回はそっちは別にどうでもいいんで」

 

 妹に聞いた怖い話を思い出したので忠告をしてみたものの、後輩の反応は薄い。

 どういうことだと目で問い掛けると同時に、思い当たったことがあった。

 

「海浜じゃなくて、小学生にか?」

「ですです。これで三日続けて話し合いですし、お菓子ぐらい与えておかないとな~って感じですね」

 

 面白くもなさそうな口調で淡々と返されたのが、かえって事態の深刻さを窺わせた。

 とはいえ自分から尋ねるのは少し過保護というか奉仕部の方針に合わないような気がしたので、こんなふうに話を振ってみる。

 

「んで、わざわざ別行動にしたのはどういう理由だ?」

 

 荷物を持つぐらいは別にいくらでもしてやろうと思っているので気にならないが、それが表向きの理由に過ぎないことは他の三人にもバレバレだろう。

 

 それでも一色は、てへっと小さく舌を出して愛嬌を振りまいて来るのだから大したものだ。

 それどころか。

 

「主導権を、確保しておこうかな~って思いまして」

 

 八幡の袖口をちょこんと摘みながら上目遣いでこんな事まで言い出すとは、過保護だ何だと心配する必要は全くなかったなと思いながら口を開く。

 

「ああ、いいぞ。んじゃ、後は全部任せたからな」

「え、ちょっと投げっぱなしはやめて下さいよ~。そりゃあ締めるところは締めますけど、せんぱいが何をやらかすつもりなのか、大まかな事くらいは教えておいて欲しいな~って」

 

 くいくいっと微かな力で今度は八幡のマフラーを揺らしながら、わざとらしく頬を膨らませてぷんぷんしている一色は、なんと表現したら良いのだろうか。

 これがぷんぷんしているだけなら、ぷんぷんいろはす略してぷんはす状態なのだけど、この後輩からは刺々しい雰囲気が微塵も感じられない。

 

「ま、あざといって事でいいか」

「は?」

「あ、すまん。こっちの話な。あざと可愛いって、お前のためにあるような言葉だよなぁ……」

「えっ、いきなり何を……はっ。もしや、せんぱいも遅まきながらわたしの魅力についに」

「いや、そういうのは小町で間に合ってるから。つーか早口すぎて聞き取りにくいんだけど?」

「ホントせんぱいって、小町ちゃんのことを可愛がり過ぎなのもあれですけど、そもそもわたしのことを何だと思ってるんですかね~?」

 

 今度こそぷんはす状態になってしまった一色に苦笑しながら、はてさて俺にとって一色って何なのだろうと考えることしばし。

 

 選挙戦を戦い抜いた戦友という表現が真っ先に頭に浮かんだものの、それだけでは足りない気がして。それにこの答えは今の流れで口にしたらおそらくダメなやつだと理性が働いたので、誤魔化しまじりに口を開く。

 

「頼れる生徒会長様だろ?」

「うわ、ちょっとキモいですよせんぱい。もう何というか……キモい?」

「いや、大事なことだからって繰り返さなくていいからね?」

 

 これでも可愛がっているつもりの後輩に真顔で言われると、さすがの八幡も心にグサッと……あまり来ないのはたぶん、普段から某部長様のご指導ご鞭撻を受け続けているからなのだろう。

 

 八幡が心の中で、目の高さに黒い線が入った容疑者の姿を思い浮かべていると。

 

「せ・ん・ぱ・い?」

 

 ぐいぐいとマフラーを引っ張ってくる後輩は満面の笑みを浮かべているのに、目だけが冷え冷えとしている。

 これって下手したら般若の面よりも怖いというか、完全に激おこぷんぷん丸いろはす略して激はすだよなぁと考える八幡の耳に、続く言葉が聞こえてきた。

 

「今のせんぱいは生徒会の助っ人なので~。……ちゃんと、わたしのことだけ考えて下さいね?」

 

 活字にしたら語尾にハートマークを付けるべきかを真剣に悩みそうなほど甘い口調で告げられて、()()に呑み込まれないように思わずがばっと上半身を反らしながら。

 

「ちょ、おま、そういうのはいいから」

「お、珍しく効いてますね~。照れてるせんぱいって、可愛い……よりはキモかわ……キモい?」

「うん、そういうのもいいからね」

 

 おかげで一気に現実感が戻って来たので、マフラーを掴んで優しく振るって手を離させると、段階的に首を傾け続けていた後輩に背を向けて買い物かご片手にさっさとレジに向かう。

 

 キモいと言われたことは何度もあったけれど、大抵は突き放したり見下すような奴らばかりで、こんなに心底から楽しそうな顔をして言われた経験は無かったなあと思っていると。

 すぐに追いついて来たものの幸いニコニコしているだけで特に話し掛けては来ないので、バレない程度にちらちらと視線を送りつつ清算が終わるのを待った。

 

 そして後輩を制して支払いを済ませて、口を挟む隙を与えず有料のポリ袋をさっさと抱えてそそくさと店の出口へと。

 

「はい。どうぞ~?」

 

 すぐ後ろから手際よく傘を広げて手渡してくれた一色に視線を送れず、「おう」と返して傘を受け取った八幡は、後輩と横並びになってコミュニティセンターに向かった。

 

「……ん?」

 

 建物が見えて来た頃に、違和感に気付いた八幡が半ば独り言のように疑問を口にする。

 

「入り口の横って、もとは掲示板とかだったよな?」

「あ~、たぶん昔はお知らせの紙とか貼ってたんでしょうね。今は何でもデジタル化っていうか、液晶ディスプレイ増えましたよね~」

 

 そんな軽いやり取りを交わしながら、二人は建物の中に入っていった。

 

 なお、何をやらかすのか結局教えてくれなかったと一色がぷんぷん怒り出すのは、会議が始まってからのことだった。ぷんはす~。

 

 

***

 

 

 部屋に入ると、テーブルがロの字型に置かれていた。

 さっき二手に分かれた副会長以下の三人は入り口近くで座っていて、静かに話をしていたようだ。

 

 向かい側のテーブルには、どこか見覚えのある制服を着た男女が集まっている。きっと海浜の生徒たちなのだろうが、ざっと十人近くも居るので少し身構えてしまう。

 集団の中に折本かおりと仲町千佳の姿を認めると同時に、二人も何かを察したのかこちらを振り返って。

 

「あっ、比企谷じゃん」

「今日は来たんだねー」

 

 右手を軽く挙げて二人に応えると、共にうんと頷きを返してくれた二人は、すぐにまた話の輪の中に戻った。普段と比べると大人しい反応なのは昨夜の集まりのおかげかなと八幡は思う。

 

 輪の中から男子生徒が一人、こちらに向かって時計回りに歩いてくるのを確認して、八幡は目線だけをちらりと左に向けた。

 

 机の向こう、壁のすぐ手前には長椅子が置かれていて、そこに数人の小学生が並んで座っていた。脚をぶらぶらさせたり、少し唇を突き出していたり。先程の一色との会話があったからか、小学生たちはどこか退屈そうで、つまらないことに関わっちゃったなと後悔しているようにも見えた。

 

 長椅子の奥では三人の小学生が立ったまま何やら話をしていて、その中に鶴見留美の背中を見つけたので目を留めていると、足音が近付いて来たので視線を戻した。

 

「やあ。僕は玉縄(たまなわ)。海浜総合で生徒会長をしているんだ。総武のカルチャーフェスティバルで君たちのエキサイティングな演奏にみんな興奮しちゃってさ。だから一緒に企画をトゥギャザーできるのを首をロングにしてウエイトしてたってわけ。今日からよろしく」

「お、おう……比企谷だ」

 

 昨日少しだけ話は聞いていたものの、実際にこうした発言を耳にすると、きびきびした動作で回れ右をしてそのまま家に帰りたくなって来た。

 と、八幡が持っていたポリ袋に手を伸ばしながら玉縄が。

 

「わざわざお菓子までありがとう。こっちで配っておくよ」

 

 そんな事を言い出したので、反射的に袋を遠ざけて。

 きょとんとしている玉縄に向かって、今のは話し方ではなくて話の中身が問題だったなと思いながら口を開く。

 

「いや、これは小学生に食って貰うのがメインだからな。先に選ばせてやりたいんだが?」

「……ああ。そういう事なら問題ナッシングだ。ノー・プロブレムってやつだね」

「……そりゃ良かった。じゃあ渡して来るわ」

 

 これは前途多難だなと思いつつも何とか言葉を返して、八幡はそのまま小学生の集団へと足を向けた。

 

「これな、あそこで立ってるお姉さんがお前らにって。好きなのを食べていいけど、あとでお礼を言っておくようにな」

 

 そう言って机の上にどさっとポリ袋を置くと、わらわらと小学生たちが集まって来た。

 現金なもので、さっきまでは楽しくなさそうな顔をしていたのに、今はほぼ全員が目を輝かせている。

 

 けれども例外は居るもので。

 

「ありがと。こっちで分けておくから」

 

 どうしてなのかは分からないが一人だけ、どこか不満そうな留美にそう言われてしまえば、八幡に出来ることは何も無い。だから追い払われたような気持ちで、一色たちが待つ辺りへと足早に戻った。

 

 よほどお菓子が嬉しかったのか、背後からは小学生たちの歓声が聞こえて来る。

 

「う~んと……せんぱいは、稲村先輩とわたしの間に座ってもらえますか?」

「あー、あれだ。俺は別に末席でも……」

「つまり小学生の近くに座りたいと?」

「はい。謹んで座らせていただきます」

 

 こちらも何やら機嫌が悪いので、八幡は困惑気味に椅子を引いて、のろのろとした動作でそこに腰を下ろした。

 ふっと苦笑する稲村純を軽く睨んで。やはり苦笑いを浮かべている本牧牧人と、その奥でぺこっと頭を下げてくる藤沢沙和子に小さく頷き返してから、八幡は視線を右へと移す。

 

 右手側のテーブルを一人で占拠した玉縄が、おもむろに口を開いた。

 

 

「じゃあ、今日の会議を始めようか」

 

 その声に応えて一同が席に着く中で、小学生は立ち話をしていた三人だけが机の前の椅子に腰を下ろして、他は長椅子に座ったままだった。

 始まって早々に疲れたような表情を浮かべている子供たちを眺めていると、玉縄の声が耳に届く。

 

「まずは前回、ブレインストーミング略してブレストで意見を出し合ったんだけど、それだけじゃ足りない気がしてさ」

 

 昨日サイゼで報告を受けた時には乾いた笑いで済んだけど、実際に聞くと精神的に来るものがあるなと八幡は思った。

 

 昨日は何度も何度もフルネームとセットで「略してブレスト」「いわゆるブレスト」と聞かされ続けた一色以下の生徒会役員四名と仲町は、反射的にうげっと頬を引き攣らせている(折本はあまり人の話を聞いていないからか、さほどダメージを受けているようには見えなかった)。

 

 昨日さんざんブレストを強要しておいてそれでもまだ足りないって、こいつは何がしたいのだろうかと八幡が考えていると。

 

「だから今日は、PDCAサイクルに沿って話を進めようと思ってね」

「業務の改善が期待できそうだね」

「それある!」

「継続性も期待できるんじゃないかな」

「それいける!」

「クオリティーのコントロールが可能になるね」

「それいいじゃん!」

 

 玉縄の提案に賛同する海浜の生徒たちと、それに合いの手を入れる折本の声が部屋に響き渡る。逆に言えばそれくらい、他の反応は冷めていた。

 

「それで~、そのPDCAサイクルを、ど~使うんですかぁ?」

 

 言葉を句切るたびに首を左右にこてんこてんと傾けながら。あざとい擬態こそまとっているものの、どうでもいいと思っていることを隠しもせずに一色が問い掛けると、海浜の何人かの男子生徒と、更には小学生男子もちらほらと頬を赤らめている。

 

「ああ。昨日はP、つまりプランをみんなで相談していたわけだよね。だから今日は(ドゥー)を意識して、話し合いを進めたいと思ってるんだ。君たちの協力があれば、(チェック)(アクション)も一日でフィニッシュできるんじゃないかって、僕はホープしているよ。なんだか期待が持てそうな気がしないかい?」

 

 にやけた頬をきりりと引き締めたつもりの玉縄がそう言い終えると同時に、だめだこりゃと八幡は思った。

 

 おそらく玉縄の理解ではPも話し合いだしDも話し合いだし、下手をすればCもAすらも会議の意味に捉えかねない。

 そもそもPDCAサイクルには陥りがちな欠点があると、この辺りの話に少し詳しい奴なら今どき高校生でも知っているような知識すら抜け落ちていそうな玉縄がどう旗を振ったところで、失敗は目に見えているとしか言い様がないだろう。

 

 

「あのな。ちょっといいか?」

 

 だから八幡は、小学生たちの存在を感じ取りながら口を開いた。

 

「おや。ニューカマーの発言なら、耳を傾けてアテンションしないわけにはいかないな」

「ああ、そういや玉縄に名乗っただけだったな。あー、えっと、総武の生徒会の、助っ人……になるのかね。比企谷八幡だ。でな、ずっと会議ばっかやってたら、小学生にはつらいだろ。だからもっと楽しい仕事をやらせたらどうだ?」

「……えっ?」

 

 まさか自分たちが話題になるとは思ってもいなかったのだろう。

 長椅子に座っていた小学生たちの意表を突かれたような声が重なって、そして高校生も含めた大半がきょとんとした眼差しを八幡に向けている。

 

 これだけ言えば、()()()()なら余裕で伝わるのになと八幡が考えていると。

 

「たしかに、会議にみんなで参加する必要って、無いですよね~」

「特に小学生だと、じっとしてるのも大変だからな」

「だから他の仕事をって事か」

「比企谷先輩が『楽しい仕事』って言ったの、具体的なことは分かんないですけど、いいなって思います」

 

 いち早く八幡の意図を汲み取ってくれた一色から、更には本牧や稲村や藤沢からも、嬉しい言葉が返ってきた。

 対面のテーブルをちらっと見やって、旧知の二人には喋らないようにと目で伝えると、八幡は顔を小学生のほうへと向けて、玉縄が反応を示す前に再び口を開く。

 

「こういうイベントって、会場の飾り付けとかの仕事が大事だと思うんだけどな。この世界だと部屋の内装とかをぱっと変更できるから、飾りとかをいちいち作らなくてもいいし、だからそのぶんデザインが重要になって来るのな。ここまで分かるか?」

「うん。みんな大丈夫だよね?」

 

 実際には理解があやふやな子供も居るのだろうけれど、留美にそう言われてしまえば頷く他はないみたいで、首を横に振る小学生は見当たらない。

 

「まあ、とりあえず最後まで説明するから、分からんって思ったら後で今の女の子……」

「鶴見留美。留美でいい」

「あー、その、今喋った、あれだ。留美さ……ちゃ……ん?」

「私も八幡って呼ぶから、呼び捨てでいい」

「えええええーっ!?」

 

 小学生たちのぶったまげた声が、教室中に響き渡った。

 さすがに高校生は大きな声こそ出していないものの、驚いているのは同じだ。

 

「留美ちゃんとあの人って、夏にゲームで勝負してたよね?」

「ゲームで高校生に勝ったから、呼び捨てにするって事?」

「そりゃそうじゃん。留美ちゃんから見たら格下なんだしさ」

「でもそれなら、鶴見様とか留美殿とか呼ばせるべきじゃね?」

「じゃなくてさ、高校生と対等ってだけでもすごいじゃん」

「あ、わかるかも。なんだか大人な関係って感じだよねー」

 

 小学生たちが好き勝手に話してくれたおかげで、大まかな状況は把握できた。

 

 要するに、夏休みの千葉村での一件を小学生全員が知っていて。だからお菓子を持って行った時の歓声は、留美が高校生を軽くあしらっているのを目の当たりにしたのでやっぱスゲーとか、そんな感じのノリだったのだろう。

 

 そして留美が不機嫌だったのは、不用意な言葉を口走ってしまえば誤解が深まっていくだけだと、状況を正しく理解していたからか。

 留美が八幡に対して申し訳なく思えば思うほど、外から見たらツンツンした態度になってしまうのだから、あいつのコミュ能力もお可愛いことだなと自分を棚に上げて結論付けて。

 

 そんなふうに頭の中で現状を整理しながら、とはいえどうしたものかと思いつつ留美を見ると、頬を真っ赤に染めて俯いている。

 

 おそらくは、慣れた呼び方・呼ばれ方ができるようにと話を誘導したつもりが、予想外の反応が返ってきたので苛立ち半分、残りの半分は困っているとかそんな感じなのだろうなと。

 

 そんなふうに八幡が鈍感系主人公の片鱗を見せていると。

 

「はぁ~……まったく。小学生のみんなも、あんまりこの人を格下とか思って見下さないほうがいいですよ~。今みたいに何を言い出すか全く分かんないですからね、せんぱいって」

「なあ。それってフォローになってない気がするんだけど?」

「せんぱいは黙ってて下さい」

「俺の格が下がり続けてるだけなんだよなあ……」

 

 とはいえ、別に何とも思っていない小学生からどう思われようとも、それを気にする八幡ではないわけで。

 ただ、少しだけ気になる事があるので、小学生の一団に向けて口を開く。

 

「ま、俺が留美と対等だろうが格下だろうがどうでもいいけどな。俺と留美が夏にゲームしてたのを見てた奴なら、他にもう一人いたのを覚えてないか?」

 

 そう問い掛けると、すぐさま口々に。

 

「あ、あのすっごく綺麗な女の人だよね?」

「うん。綺麗って言うか美人って言うか……」

「人間を通り越して、なんだろ。雪女みたいな迫力があったよね?」

「うん、あの人はやばい。留美ちゃんよく勝てたよねー」

「えっとね、勝ちを譲ってもらったみたいな感じだったよ?」

「あ、それって何て言うんだっけ。えっと、お眼鏡にかなう?」

「眼鏡かけてたのは別の女の人だろ?」

「あの眼鏡の人はホントにすごいのよ。私には解るの!」

 

 いや、眼鏡の人の凄さは解らなくて良いです。というか小学生で解るなよと八幡が脳内でツッコミを入れていると。

 

「そんな怖~いお姉さんが、あの時わざわざゲームの相棒に選んだのが~……じゃじゃん。この人ですよ~?」

「じゃじゃんって擬音は、たぶんもうすぐ死語なんだよなあ……」

「うるさいせんぱいちょっとうるさい」

 

 この一色の反応は予想外だったので、苦笑しながら額の辺りを片手で軽く押さえて(どこかの誰かさんの真似だ)、それから後頭部の辺りの髪の毛をくしくしと触ってから(これも誰かさんの真似だ)、おもむろに口を開いた。

 

「ちゃんと怖さが伝わってるんなら、まあいいか。んで、話を戻すけどな。お前らには会場になる部屋のデザインな、それを考えてもらおうと思うんだが……。どうせなら、コンテストみたいなのをやってみないか?」

「えっ……それ、おもしろそう!」

 

 なかなか良い反応が返って来たので、どや顔になってしまわないように気持ちを静めながら、右隣の後輩に顔を向けると。

 

「じゃあ改めて、総武側からの提案なんですけど~。小学生にはデザイン・コンテストをやってもらう形にして、会議には、えっと、今座ってる三人……?」

「いえ、私だけで大丈夫です。この二人もデザインをしたがってるし、それに、その、私はあんまりデザインとか得意じゃないから……」

 

 一色の言葉を途中で遮って力強く保証して。けれども次第に声が小さくなっていった留美だったが。

 

「えっ。留美ちゃんにも苦手なことってあるの?」

「そりゃあるとは思うけど、今のってあれだよね。えっと、謙遜?」

「うん、そう思う。せっかく留美ちゃんが気をつかってくれたんだからさ」

「じゃあ、俺らはデザインをバッチリ考えればいいんだよな」

「あの先輩が言ってくれたとおり、楽しんでやらなきゃだね」

「格下のくせに、いいこと言うじゃん」

 

 良い具合に話が進んでいたので、しばらくは小学生たちの語るに任せた八幡は、ざわめきが収まり始めた頃にようやく口を開いた。

 

「じゃあ別の部屋でやらせるとして、誰か監督に……」

 

 そう言いながら向かいの面々を眺めてみたものの、子供の相手をするよりも会議に参加したいという気配がひしひしと伝わって来たので、ため息を軽く吐いてから再び右隣に視線を送る。

 

「そうですね~。じゃあ、書記ちゃんにお願いします!」

「うん……わかった。会場のデザインは任せて。そのかわり会議は一色さんにお願いします」

「と言っても、あの人数で藤沢一人だと大変だろうから、本牧も……」

「いや、俺はこれでも副会長だからさ。今回は稲村に頼みたいと思う」

「……そうか。そうだな。じゃあ、俺と藤沢の二人で監督だな」

 

 まだ部分部分ではおどおどとした話し方だし一色との距離も感じるものの、藤沢も徐々に生徒会に馴染んで来ている。もともと旧知の仲だった本牧と稲村の関係を軸に、役員の四人が良い関係を築き始めているのを感じ取った八幡が、密かに頬を緩めていると。

 

 

「……それは、どうなのかな?」

 

 不意に、右側のテーブルから声が聞こえた。

 そのまま玉縄が話を続ける。

 

「その、今までは敢えて言わなかったけどさ。僕ら海浜と比べると、総武側からはイマイチやる気が伝わって来ないんだよね。会議の参加者も僕らの半分だし、なのにそこから二人も減らすって言われたら、僕としては、ちょっと……ね」

「あー、……なら、そっちから監督役を出してくれて良いぞ?」

「ですね~」

 

 玉縄が言い終えるとすぐさま八幡が提案を出して、すかさず一色もそれに続いた。

 それでも玉縄に焦りの色はなく、落ち着いた声で二人に応じる。

 

「あ、いや、そうじゃないんだよ。君たちの決定に反対したいわけじゃなくてね。僕らはみんな合同企画に懸ける想いが強いから、会議に参加できないなんて、って悔しがると思うんだけど、君たちは何だか淡々としてるように見えたからさ。そっちのやる気さえ確認できたら、僕から口を挟むような事はしたくないんだけどね」

 

 何とも回りくどい事を言っているけれど、目下の者に言い聞かせるような口調からして、おそらくは八幡と一色が駄々をこねていると受け取ったのだろう。それと、小学生の相手はしたくないという本音も漏れ伝わって来る。

 

 話が噛み合わないなと思いつつ、生徒会の四人を指し示しながら八幡が口を開いた。

 

「それは、俺も含めた()()()()のやる気を、確認したいって事だよな?」

「ああ。君を入れても五人しか来ていないって部分も、少し不安ではあるけどさ。そこは大目に見ようと思っているよ」

 

 というか普通にこんな感じで喋れるのに、さっきのこいつは何だったんだと思いつつ。

 あっさりと罠に嵌まった男に対して、まるで見下しているかのような態度を露骨に表に出しながら口を開く。

 

「俺も、お前が俺らに向ける態度については大目に見ようと思ってるけどな。でもま、さすがにな。いくら小学生だからって、まるで眼中に無いみたいな態度はどうなのかね。そのくせあれだろ、会議には全員参加を強制してたんだろ?」

 

「あっ、いや、それは……」

「わたし的には、小学生のみんなと一緒に企画をするのも楽しそうだな~って思ったので、『一緒にやることに()()()から』って言われた時にも、特に心配とかは、してなかったんですけどね~……」

 

 直接やり合うだけなら水掛け論になりかねないので、第三者というか第三勢力というか、そんな立ち位置の小学生たちを巻き添えにして、八幡は一気に主導権を握った。

 

 ようやく玉縄が事態に気付いて、慌てて言い訳を並べ立てようとしたものの、あの会長選挙を勝ち抜いた一色がこの隙を見逃すはずも無く。言葉を短く句切りながら、玉縄に言い聞かせるように喋り終えると、本牧がそれに続いた。

 

「海浜側が会議に意欲を示すのは、まあ良いんだけどさ。小学生のみんなにも楽しんでもらいながら、一緒に企画を成功させようぜって。うちの会長や比企谷はそういう理由で、さっきみたいな提案をしたんだけど?」

「そっちの責任は押し付けといて、俺らのやる気がどうのこうのって言われてもな」

 

 正論の後には稲村が、どこか茶化すような口調でそう付け足して。

 

「えっと……留美ちゃん、で良かったよね。留美ちゃん一人が会議に残るってなっても何も言わなかったのに、こっちの三人に文句を言うのはおかしいと思います。総武の生徒会長と副会長と、そんな二人が誰よりも信頼している比企谷先輩の三人が会議に出るって言われたら、うちの生徒で反対する人なんて……っ、()()()()居ないと思いますよ?」

 

 最後に、ゆっくりとした喋り方ではあるけれども芯の強さを垣間見せながら、藤沢がそう締めくくった。

 それでも、僅かに口ごもった瞬間を聞き逃さなかった玉縄が、縋るような口調で話し始める。

 

()()()()、ってことは反対する生徒も居るってことだよね。僕としては、そういう人たちにも会議に参加して欲しいなって思うんだけど?」

「え、っと。いえ、それは……」

 

 明らかに歯切れが悪くなった藤沢が、困ったような顔を八幡に向けてくる。

 

 一年生ながらも文実の副委員長を立派に勤め上げた藤沢は、あの時の光景を思い出してしまったのだろう。

 文実の集まりで下らないことを言った八幡を「却っ下」の一言で一刀両断にした、もう一人の副委員長にして藤沢が誰よりも尊敬している某部長様の、いきいきとしたその横顔を。

 

「まあ、()()()とか、ついでに()()()も呼んじゃうのは、わたしとしては望むところですけどね~。……でも、いいんですか?」

 

 いったん言葉を切った一色は、ひょこんと首を傾げて。ためを充分に置いた後で再び口を開く。

 

()()()()()()と同じステージに立って、太刀打ちできると思います?」

「えっ、いや、それは、でもさ……」

 

 一気に血の気が引いたのか、真っ青になりながらも玉縄がしどろもどろに何やら口走っている。

 

 まあ()()()()の存在感を思えば、玉縄が怯えるのも無理は無いのだけれど、自分も含めて三人と言われるのが何だか照れ臭いし虎の威を借りているようで落ち着かないなと八幡が苦笑していると。

 

「これ以上この話を続けてても時間の無駄っぽいし、小学生には退屈だよな。だから、さっさと別の部屋に移動しようぜ。でな、デザインに取り掛かる前にな、俺らの文化祭でいちばん盛り上がってた場面を、お前らに映像で観せてやるよ」

「お、おい稲村。それってまさか……」

 

 この上なく嫌な予感がしたので、八幡がおそるおそる尋ねてみると。

 

「閉会式の途中でいきなりバンドを始めやがった三人と、その直後に六人でやったアンコールの映像なんだけどな。さっき比企谷を格下とか何とか言ってたけど、あれ観たら印象が変わると思うぞ?」

「それ、私にも後で観せて頂けますか?」

 

 間髪入れずに留美がそんなことを言い始めて、八幡が唖然としているうちに話がどんどん進んでいく。

 

「後で観せてもいいですけど、留美ちゃんって比企谷先輩と仲が良さそうだし、特別に動画をあげてもいいですよ。それならいつでも好きな時に観ることができるし、これでも文実の副委員長をやってたので、動画を他の人には渡さないって約束してくれたら……」

「約束します!」

 

 藤沢の提案に食い気味に答える留美の姿を眺めながら、もうどうにでもなれと現実逃避をする八幡だったが、話はこれで終わらない。

 

「あ、じゃあさ。わたしもライブの映像をもう一度観たいから、終わったらそのまま監督役をしてくるねー。海浜からも一人ぐらいは居たほうがいいと思うし」

「え、ちょっと千佳?」

「かおりが暴走しないように、みんなよろしくねー。いざとなったら比企谷くんに頼めば大丈夫だと思うけど」

「やばいっ、千佳が会議に興味が無いのは分かってたけど、このタイミングで逃げるなんて予想外すぎてウケるっ!」

 

 あれはもしかしたら折本なりのフォロー……なわけは無いよなあと思いながら、どんな状況でもウケるの一言で楽しめてしまう元同級生を心密かに羨んでいると。

 

「じゃあ、小学生の皆さんは、稲村先輩と書記ちゃんと仲町せ……」

「先輩は要らないよー」

「仲町さんと一緒に、別の部屋でデザインの仕事をお願いしますね~。えっと、コンテストは明日で良いんですか?」

「明日やってみて、決め手に欠けたら再度募集って形にすりゃ良いんじゃね?」

「ですね~。ではでは、今せんぱいが言ってたような感じでお願いしま~す」

 

 ばち~んとウインクで締めくくると、たちまち小学生の約半数が真っ赤になっていた。

 残りは面白くなさそうな顔つきだが、いずれにしてもやる気に繋がりそうなので、呆れたような目つきを右隣に向けると。

 

「今の『ではでは』って、ちょっと真似してみたんですけど~?」

「ああ、うん。小町と同じぐらいあざとい」

 

 小声でこそっと効果を尋ねて来るので適当な返事を伝えたつもりが、なぜか嬉しそうに、そしてどこか得意そうに胸を張って勝ち誇っている後輩の表情が何だか可笑しくて、ついつい眦を下げてしまった八幡だった。

 

 

***

 

 

 留美以外の小学生が去って、会議がまた始まった。

 とはいえ先程と比べると、折本を除いた海浜の全員が別人のようで、発言にも消極的になっている。

 

 玉縄も進行役とは名ばかりの状態で、昨日までの話し合いの概要を話してくれている今も、内容は要領を得ず外見からも覇気が失われているのがはっきりと見て取れた。

 

「つーかPDCAサイクルは何処に消えたのかね?」

「せんぱい。面倒な話を蒸し返さないで下さいね?」

「俺が蒸し返さなくても思い出すかもしれないだろ?」

「鳥頭みたいだし、それは大丈夫だと思いますけど?」

「え、なにお前、鳥頭なんて表現をとつぜん出してきて俺を笑わせる気かよマジかー。あいつらが一瞬にして鳥人間コンテストの優勝候補に見えてきただろが」

「相変わらず意味分かんない発想しますよね〜?」

「このネタ、こないだ小町が使ってたんだよ。意味分かんないとか言ってると怒るぞ、小町が」

「うん、この兄妹ほんと意味分かんない」

 

 一色と小声で話しながらも、この後の話をどう持って行ったものかと考えていた八幡だったが、意外な人物が思いがけないことを話し始める。

 

「あのさ。話の邪魔をするようで悪いけど、比企谷はこう見えて、意味の無い脅しとかは絶対にしない性格だからな。そんなに怯えたり落ち込んだりしないで、普通に戻ってくれると助かるんだけど?」

「そうですね。私もそう思います」

 

 本牧の発言に留美が賛同を示すと、ぴんと立てた人差し指を唇の端の辺りにぴょこぴょこと押し付けながら、よそ行きの笑顔をぱあっとまとった一色が言葉を引き継いだ。

 

「同じようなことを一日目の最後にも言いましたよね〜。なんだかよく分かんないカタカナ言葉を喋るんじゃなくて、普通に内容のある話し合いをしましょうよって結論だったと思うんですけど〜……。ま、せんぱいたちが凄いのは確かだし、憧れてた相手に怒られてしゅんってなるのも分かりますけどね〜」

「え、マジ?」

 

 まさが自分がこいつらの憧れになっていたとは……。

 完全に想定外だったので、バンド姿に騙されただけだよな、なんてツッコミすら思い浮かべる余裕も無く八幡が絶句していると、海浜で一人だけ様子の変わらない生徒が。

 

「今回のは、昔みたいなドッキリじゃないからさ。でも……、んーと、その、比企谷ってさー、驚いてるけど本当は哀しい時でも、本気で驚いてる時でも、おんなじような顔してるよねー。それ、近くで見てると、つらいかもよ?」

 

 いつもとは違って有益なことを伝えてくれるので、どうにも調子が狂うなと思いつつ、どう答えたものかと悩んでいると。

 

「ちなみに、せんぱいがバンドやってた時の映像って、観たことあります?」

「あー、当日は観たんだけど、あの時だけかなー?」

「じゃあ、誰かに観せてもらうといいですよ〜。せんぱいの面白い顔がたっぷり映ってて、あれ観てたら心配するのが馬鹿らしくなること請け合いです!」

「んーと、え、どういう意味?」

「それと〜……、修学旅行の写真なんかもお薦めですよ〜?」

「えっ、それ私も見たい……」

「あ、そっか。とっくに解決してたってことかあ。なるほどねー?」

 

 目をキラキラと輝かせながら、留美が「見たい見たい」と思念波を送って来るので思わず視線を逸らしたものの。

 語尾を伸ばしながらにやけ顔を見せてくる折本に、何だか茶化されそうな気がしたので。

 

「はい、そこの三人。雑談はやめて下さいねー。ではマイクをスタジオに戻します。進行役の玉縄さーん?」

「あ、ああ……」

 

 話を逸らすためなら、滑ったことを口にするくらい軽い軽いと考えていると。

 

「比企谷が照れててウケるー!」

「うん、ちょっと可愛いかも」

「こういうウブなせんぱいって、初々し……キモうい……キモい?」

「今日それ何度目だよ……。もう初手キモいでいいわ!」

 

 やけくそになって叫んでいると、一足先に平静に戻ったらしい後輩の声が耳に届いた。

 

「じゃあ〜、明日はこの続きから普通に会議をするって形で、今日は少し早いけど解散にしましょうか。明日までには戻ってますよね?」

「それあるー!」

「いや、何があるのか分からんのだが……。ま、折本が保証してくれるなら良いか」

 

 そう呟いた八幡が、引き留められたり不測の事態が起きないうちにさっさと消えてしまおうと考えながら立ち上がろうとしたところで。

 

「せんぱいは、あの二人に報告をよろしくです。わたしと副会長は、小学生の様子を見に行って情報を共有してから帰りますね〜」

「はいよ、了解。んじゃ一色も本牧も留美も、あと折本と玉縄とかも、まあお疲れ」

「私も小学生のみんなと合流するから、八幡ばいばい」

「おお、じゃあな」

「あ、比企谷さー。明日は雑談の時間にラップバトルとかしない?」

「は、なに言ってんのお前。そんなのするわけねーだろ?」

「だよねっ、ウケる!」

 

 

 折本のおかげで少しだけ笑い顔になりながら、八幡は部屋を出て階段を下りると一階のロビーを抜けて。

 

「……で、何やってんだお前?」

「ひゃっ。え、ちょ、比企谷?」

 

 まさか外に出た瞬間に見知った相手と出くわすとは、思ってもいなかった八幡だった。

 




次回は、まだ玉縄のセリフに不安が残りますが、できれば二週間後に。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
文意が通らない箇所をひとつ修正しました。(10/17)
一箇所だけ漢字のままだったので、先輩→せんぱいに修正しました。(10/21)



さて、俺ガイル完も終わってしまいましたねー。

アニメ期間の後半は予想外のトラブルが舞い込むことも無く、毎週欠かさず観ることができて、その点では良かったのですが、13~14巻の世界から頭がなかなか戻らなくて、更新がすっかり滞ってしまいました。

原作を補完するような場面があると良いなと思っていましたが残念ながらほとんど無く、私が好きな原作の面倒な部分は極力省いて、本筋を分かりやすく伝える事に特化したような構成でしたが、アニメとして良い作品に仕上がったなぁというのが正直な感想です。

俺ガイル新がどんな展開になるのか、その後を描いた作品が発表されるのか等々は全く予想が付きませんが、ひとまず原作に区切りが付いた以上は、私もこの作品を完結させるべく頑張りますね。

最後に、アニメ完結後に「本物」について時系列に沿って考察したものを活動報告に書いたので、よかったら読んでやって下さい↓。
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=246961&uid=143422


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10.のっぴきならない事を幼女は平然と口にする。

前回のあらすじ。

 海浜との打ち合わせに参加した八幡は、小学生に楽しい仕事を提示したり子供らの待遇を気遣う発言によって話の主導権を握った。
 とはいえ薬が効きすぎたみたいで、玉縄たちが萎縮しきった様子なので会議は翌日に持ち越しとなる。

 小学生に仕事を与えた以外に目立った成果は無かったものの、それでも個々の参加者を見ると八幡にとっては予想外の事がたくさんあった。

 例えば、小学生が八幡に舐めた口を利くのは千葉村での一件を知っていたからで、留美や一色が不機嫌だったのもそれが原因で、玉縄を始めとした海浜の面々が神妙な態度に見えたのは文化祭で奉仕部三人のライブを観たのが原因だった、等々だ。

 留美と一色に加え本牧や稲村や藤沢からも八幡を擁護する発言が飛び出して、海浜からは憧れの対象になっている事実まで判明して、こうなったら素早く消えるに限ると考えた八幡は、解散の声を聞くや早々に部屋を抜け出して建物の外に向かった。

 だが、そこには……。



 塾で英語を教えている小学生たちが、総武と海浜の合同企画に参加することになってから、川崎沙希は話し合いの直後に顔を出すように心掛けていた。

 

 授業中もその前後も、常に子供たちと真正面から向き合って来た川崎は、小学生と高校生を分ける数歳の差が思っていた以上に大きいと実感していた。

 だからこそ、教え子たちの心理的な疲れを少しでも和らげてあげたいと考えて、こうした行動に出ていたのだった。

 

「初回の話し合いのせいで、月曜は急に休みになっちゃったしね」

 

 思いがけず予定が空いてしまったので仕方なく、などと言い訳がましい事を口にしている川崎だが、小学生を受け持つのは毎週月木土の三日間なので、昨日や今日はその理屈には当て嵌まらない。

 

 それどころか、月曜日が休みになった代わりに今週は木金土と三日連続で授業をすることになったので、冷静に考えればこんなところに来るよりも準備に時間を使うべきなのだろうけれど、初日と昨日の教え子たちの表情を見てしまうと知らんぷりはできなかった。

 

「まあ、それに役得もあるしさ」

 

 役得なんて言葉を耳にしたら怒られそうだなと苦笑しながら、川崎は傘を傾けて首を伸ばして会議が行われているであろう階層を見上げた。

 今日もおそらく、あと半時間ぐらいは掛かるのだろう。

 

「あんまり疲れてないといいんだけど……明日からは授業もあるし、何か考えたほうがいいかもね。でも……」

 

 視線を水平に戻して首を軽く左右に振って、いま考えても仕方のない悩みごとを頭の中から追い出した。

 こんな曇り顔は、見せたくないと思ったからだ。

 

「……そろそろかな?」

 

 もう一度周囲を見回して、誰も知り合いが居ないことを確認してから階段を数段昇り、雨が遮られているのを確かめてから傘を畳んだ。

 

 そして川崎は、正面入口の横に備え付けられた液晶ディスプレイへと近付いて行く。

 もともとは掲示板があったらしいのだが、最近新たに取り付けられたのだと聞いている。

 

「タブレットとかスマホを買う余裕は、うちには無いからね……」

 

 去年までの川崎にその手のものは必要なかったし、古い携帯電話を何年も使い続けている両親に向かって自分だけが贅沢を言うつもりもなかった。

 

 けれどもこの世界に巻き込まれて、外の世界との通信には最新のスマホかタブレットが必須になった。

 より正確には、メールだけなら不要なのだけど音声通話や映像通話のためにはそれらが必要で、どうやら保護者の大半は新しい機種に買い替えたのだとか。

 

 とはいえ、よそはよそ、うちはうちだ。

 現実世界との対話が可能になるという通知があった時点で、川崎は弟とも相談を重ねた末に、親にそれらを「買わなくていい」と伝える決断を下した。

 

 それを学校経由の連絡ルートで伝達してもらった時に、面倒見の良い国語教師が教えてくれたのが街中(まちなか)のディスプレイを利用する方法だった。

 

「これって実は、運営が設置したわけじゃないって話は……どこまで信じたらいいんだろうね」

 

 友達が少ない川崎でも、噂話ぐらいは色々と耳に入ってくる。

 その中には、二人の娘が捕らわれてしまった某政治家が私財を投じて、この世界との通信機能を備えたディスプレイを(普段は広告や案内を表示しているらしい)各所に設置しているのが真相だ、という話もあった。

 

 現実世界とこの世界で、同じ場所に居ないと通話は成り立たないのだけれど。

 それでも、面と向かって話せる手段があるのと無いのとでは大違いだ。

 だから、噂がもしも真実ならお礼を伝えたくて、これまでにも何度か話題を振ってみたものの。

 

「聞いても絶対に答えないし、そのくせ英語の歌詞を翻訳する手助けをお願いとか、変な頼み事をしてくるしさ……」

 

 一筋縄ではいかない同学年の女の子と、教え子の小学生の少女を思い浮かべながら、二人から昨夜届いたメッセージを思い返していると。

 

 

『……沙希?』

 

 懐かしい声が、ディスプレイから聞こえてきた。

 少し遅れて母の姿が大きく浮かんで、そして画面から抜け出すようにして川崎のすぐ目の前で像を結んだ。

 

「……うん」

『元気そうね』

「そりゃ、昨日の今日だしさ。そっちは?」

『みんな元気よ。お父さんも沙希と話がしたいって、ずいぶんごねていたけどね』

「こっちも、あたしも大志も元気だよ」

『良かった。こちらの事は気にしないで、とにかく毎日健康にね』

「分かってるって。でも、そっちも、無理しないでね」

『分かってるわよ。じゃあ、今日もお願いしていい?』

「うん。ゆっくり買い物に行って来なよ。大志には役得だって言ってるけどさ」

『もう。本当に助かってるんだから、そんな言葉は使わないの。じゃあ、京華?』

『おかいもの、いってきていいよ。さーちゃんとあそんでるから』

「うん。けーちゃんと喋ってるから、安心して行って来て」

『じゃあ、お願いね』

 

 入り口近くの事務室に向かって軽く頭を下げてから遠ざかって行く母を、ディスプレイから飛び出てきた妹と二人並んで見送った。

 叱って欲しいなと思って口にした言葉が期待どおりの成果を上げてくれたので、ふっと笑みを浮かべていると、妹の声が耳に届く。

 

『あのね、きょうはおひるねのじかんに、……』

 

 コミュニティセンターのすぐ近くにある保育園で、妹の川崎京華(かわさきけいか)がお世話になっている。市立なので費用は安いのだけど家からは少し距離があるので、お迎えには車を使っていた。だからついでに買い物ができると助かるのだけれど、そこには悩ましい二択が控えていた。

 

 京華のお迎えを少しだけ待ってもらって、その間に急いで買い物を済ませるべきなのか。

 それとも京華を連れて買い物に行って、家族四人分の荷物を抱えて車に戻るほうが良いのか。

 

 今年の四月以来、母はこの地味な、けれども切実な問題とずっと独りで向き合って来た。

 そして父も、大量の仕事を抱えながらも、末っ子の世話を一手に引き受けてくれている。

 

 この世界に巻き込まれてしまい、まだ小さい下の子二人を両親に任せっぱなしで何も力になれていない現状を、川崎は悔やんでいた。

 

 けれど父も母も、最新のスマホやタブレットを買わない事はしぶしぶながらも受け入れてくれたものの、そのかわりに現実世界の心配はいっさい無用だと、その点だけは決して譲歩してくれなかった。

 それは親としての、大人としての意地だと言われてしまえば、川崎姉弟に反論の余地は無かった。

 

 とはいえ、親を納得させられる理由(いいわけ)があれば話は別だ。

 

 この世界で自立した毎日を過ごし、勉学にも励み、そして塾の教え子たちが参加しているイベントの打ち合わせが保育園のすぐそばで行われていて、そこには現実世界と通信可能なディスプレイが存在している。

 

 こうした情報をメールで伝えた川崎は、たとえ親との対話ができなくとも、子供たちをねぎらうためにコミュニティセンターに足を運ぼうと決めていた。

 

 それが主たる理由ではなく副次的な理由だと判断されていれば、母は決して対話には応じてくれなかっただろう。

 川崎の気持ちに偽りが無かったからこそ、ここ数日のやり取りが実現したのだ。

 

 だからこそ、買い物の間だけ妹の相手をするという、自分の年齢を考えれば取るに足りないようなお手伝いであっても、それが出来ることが川崎には嬉しかった。

 

 今日あった出来事を熱心に語ってくれる妹と、ただ一緒に過ごせるだけでも幸せなのに。それが母の助けにもなるのだから、これを役得と言わずして何と言おうと川崎が考えるのも無理はないのだろう。

 

「よーく寝たら早く大きくなれるからね。けーちゃん、すごい美人さんになっちゃうよ?」

『びじん……きれい?』

「ああ、綺麗になるよ。けーちゃんのお嫁さん姿なんて……」

 

 膝を曲げてお尻を踵につけるようにして、妹と視線を合わせてお喋りを続けていた川崎だったが、妹の花嫁姿は見たいような見たくないような少し複雑な心境だったので言葉を濁していると。

 

『けーか、きれーなおよめさん、なる!』

「うん。きっと世界一綺麗な、妹の花嫁姿だね」

 

 堂々と言い切る妹に後押しされるようにしてその光景を想像した川崎が、頬をすっかり緩めてしまったところで。

 

「……で、何やってんだお前?」

「ひゃっ。え、ちょ、比企谷?」

 

 もしかしたら逢えるのではないかと心のどこかで期待していた、けれども同時に一番会いたくないとも思っていた同級生が、すぐ近くで呆れ顔を浮かべていた。

 

 

***

 

 

 膝を伸ばして立ち上がった川崎は、妹を背後に庇うようにして比企谷八幡と向き合った。

 

「……あんた、どこから聞いてたの?」

「いや、ちょっと待て。なんで喧嘩腰なんだよ?」

「いいから答えて」

「あー、えっと、世界一綺麗な妹だっけか。小町に喧嘩売ってんのかって話からだな」

 

 本気で不服を述べているのが伝わって来たので、かえって気が抜けてしまった。

 だから川崎はくすっと息を漏らしてから。

 

「その反応はあんたらしいね。小町は綺麗ってよりは可愛いって気がするけどさ」

「あ、それな。小町が可愛すぎてやべーって……」

「はいはい。それより、ほら。けーちゃん、お名前は?」

 

 少しだけ身を()けて、手と声で背中を押してあげると、現実世界で画面を覗き込んでいるのであろう妹にも意図が通じたみたいで。

 

『かわさきけーかっ!』

 

 右手をしゅたっと上に伸ばした京華が元気に名乗りを上げた。

 それを聞いた八幡は、幼女の前でよっこいしょと膝を曲げて視線を合わせてから。

 

「俺は八幡だ」

『はち、まん……はーちゃん?』

「おう。よろしくな、けーちゃん」

『はーちゃん、よろしくたのもーなの!』

「ちょ、けーちゃん……変なの混じってるってば」

「いや、いいんじゃねーの、道場破りみたいで。世界一綺麗な妹になりたいなら、白黒つける必要があるからな」

「さっきから、あんたのほうがよっぽど喧嘩腰じゃない?」

「いや、喧嘩する必要もなく小町が世界一の妹なんだが?」

「出たよシスコン……」

『しすこん?』

「ああ、けーちゃんのお姉ちゃんみたいなやつの事な」

「あんた、何言ってんだい?」

『さーちゃん、しすこん?』

「ああ、そうだ」

「違うって言ってんの。けーちゃん、シスコンはこっち」

『はーちゃん、しすこん?』

「小町が妹なら誰だってシスコンになるっつーの。あとな、けーちゃん。さーちゃんはブラコンも拗らせてるからな」

『ぶら、こん?』

「あんたまでさーちゃんって呼ばないで。あたしはブラコンでもシスコンでもないしさ」

「お前でも違うっつーなら、誰もブラコンやシスコンを名乗れねーぞ?」

「あんたが居るじゃん」

「俺はシスコンであってもブラコンじゃないし義弟(おとうと)は未来永劫存在しない」

「はあ。小町の苦労が目に浮かぶよ」

「おい、知ったような口で小町を語るな、けど塾で小町が世話になってるのはありがとう」

「あ、うん……ってお礼を言いたいのか文句言いたいのかどっちなんだい?」

「両方一気に済ませておくと楽だろ?」

「あんた、そういうとこだよ?」

『さーちゃんも、はーちゃんも、けんかしちゃ、めーなの!』

 

 余計な事を考えたくなかったので反射的な会話を続けていたら、妹にダメ出しをされてしまった。さすがに少し気恥ずかしいので、立ったまま二人から視線を逸らすようにして、ぼそっと。

 

「……ごめん」

「あー、いや。俺が調子に乗ったのも悪かった。その、さっきまで気を使いながらの会話が多かったからな。ぽんぽん話が進むのが気持ち良くて、まあぼっちが語り出したらこうなるって典型だな」

「あんたって会話が苦手なわけじゃないもんね」

「だな。俺は単に他人が苦手なだけだ」

「それ、胸を張って言う事じゃないと思うんだけど……ま、あんたには今更か」

 

 二人して反対の方角を眺めながら苦笑を浮かべて、さてそろそろ妹にきちんと謝ろうかと顔の向きを戻してみると、きらきらした目つきで自分と同級生の男を交互に眺めていた保育園児が口を開いた。

 

『さーちゃんと、はーちゃん、おにあい?』

「ちょ、けーちゃん……そういうのじゃないよ」

『じゃあ、えっと……おみあい?』

「なあ。この子わざと言ってるんじゃないよな?」

「まだ意味の区別ができてないからね。ほら、けーちゃんも困らせるようなことを言わないの」

『……だれを?』

「誰って、その……は、はーちゃん?」

「おい。俺には呼ぶなって言っておいてそれかよ」

「いいから。話を合わせてよ」

「話を合わせろって……俺はいったい何に巻き込まれてるんだ?」

 

 呆れたような声と顔なのに、立ち去る気配が微塵も感じられないのがこの男らしいなと川崎は思った。

 妹が早く何かを言いたそうにしているので、苦笑いを浮かべながら同級生の隣に移動して、そこで腰を落としてしゃがみ込む。

 

『はーちゃん、困ってる?』

「あー、いや……。別に困ってないからな?」

「ほら。こう言ってるから気にしないでいいよ」

『やった。じゃあ、はーちゃんに、ぷれぜんとあげるね!』

「お、おおー、嬉しいなー」

「あんたって……演技の才能はもうちょっとあると思ってたのにさ」

「だからお前は俺に何をさせたいんだ?」

「えっと……けーちゃんの遊び相手?」

「ああ、そうですか……。ま、こうなったらついでだし任せろ」

「え、ほんとに?」

「こう見えて子供の相手は得意だからな。俺は女子小時代の小町のご機嫌をめったに損ねなかった男だぞ?」

「いや、それ何の自慢にも保証にもならないやつだから」

「んで、プレゼントって何なのか、けーちゃんに尋ねてもいいのかね?」

『うん。はーちゃんにはー、じゃじゃん!』

「おー、死語になってなかったか」

「……死語?」

「ああ、こっちの話な。で、じゃじゃん?」

『さーちゃんの、およめさんのざを、あげるね!』

 

 げほっと咳き込む声が期せずして重なった二人は、それを認識するや否やお互いをますます意識してしまい、そろって反対側に視線を向けて何とか落ち着こうと試みている。

 頬をかすかに染めながら、二人が悪戦苦闘しているのを知ってか知らずか。

 

『おむこさんは、はーちゃんには、むずかしそうだし』

「げふっ……。なあ、どこまで意味を理解してるんだ?」

「けほけほ……。どこまでも何も、全く解ってないよ。けど、前にあたしの母親がさ。お婿さんに来てもらえば……みたいなことを言い出した時に、父親が『いかん!』みたいな?」

「あー……。娘を持つ父親なんて、どこも同じようなもんだな」

「かもね。でさ、大志のお嫁さんは楽しみだ、みたいな感じで話が続いてさ。だからけーちゃんは、お婿さんは大変で、お嫁さんならみんなが喜ぶって受け取ったみたいでね。悪気はないから、聞き流してくれないかな?」

「まあ、俺はいいんだが……って気を回すのも逆に失礼か。お前が良いなら俺は別にって感じかね」

「うん。そのほうがあたしも助かる」

 

 京華に振り回されっぱなしの二人が打ち合わせを終えて前を向くと、にこにこうんうんと全てを見通しているかのようなキラキラのまなざしと出くわした。

 

 まあ、仲よき事は美しき哉、ぐらいの理解だとは思うのだけど、幼女のなすことだからか自然と受け入れられるし、おかげで気負わずに話ができているのだから文句のつけようが無いなと二人が考えていると。

 

『じゃあ、あとは、わかいふたりで?』

 

 にこぱーっと首を傾けながらそう言い残して、京華は事務室のほうへと走っていく。

 その先に見知った事務員さんの姿を認めて、川崎はやれやれと苦笑いを浮かべた。

 

 

「正直、あんたと会ったらどんなふうに話したら、って考えてたんだけどさ。けーちゃんのおかげで気が楽になったよ。あんたも普通でいいからね」

「俺の普通ってことは、誰とも話さないぼっち状態に……」

「それは治したらって思うんだけど、まあいいや。あのさ」

 

 八幡の軽口を遮って、真面目な顔つきに戻った川崎はそのまま話を続ける。

 

「うちの子たちから話を聞く限り、高校生の評判は良くないよ。特に海浜は厳しいね。昨日は親睦会があったって聞いたんだけど、小学生には声すら掛けなかったんだって?」

「それは初耳なんだが、まあ予想はつくな。つーか、こっちの生徒会も海浜には引いてたからな。昨日の親睦会も、抜け出せて一安心みたいなノリだったぞ?」

 

 ため息と苦笑と困惑と軽い頭痛が混じり合ったような複雑な視線を交わし合ってから、川崎が再び口を開く。

 

「やる気が空回りしてる感じだね。あんたが来るから今日はマシになるって、ほら、千葉村のあの娘……」

「留美な。ちょっと最近、各方面からの信頼が怖いんだが?」

「あんたなら応えられるから、自信を持ちなよ。でさ、今日はどうだったの?」

 

 川崎の問い掛けに、ふうっと溜め息をひとつ挟んでから。

 

「なんかな、文化祭の俺らのライブを観て、海浜の連中が勘違いっつーか、その。俺()に憧れてるとか、そんな状態みたいでな。で、ちょっと厳しいことを言ったら一色曰く、しゅんとなっちゃって、みたいな?」

「なるほどね。あんたらしくないなって思ったのは、それが原因みたいだね。あのさ……」

「あっ、ちょ……ちょっとストップ!」

 

 川崎がフォローの言葉をかけてくれそうに思えたので。

 慌てて向こうの顔の前まで手を伸ばして話を遮った八幡は、そのまま少しだけ考え事に耽ってから、それを言葉に出す。

 

「……そうだな。その、お前に弱音を吐きたかったわけじゃないから、悪いけど撤回させてくれ。さっきの、あれだ、『俺なら応えられる』ってだけで充分だし、あと『俺らしくない』ってのもな」

「うん。何だか、いつものあんたらしくなって来た気がするよ」

「それな。いつもの俺なら、憧れの感情を利用するとか、何かでそれをぶち壊すとか、そういうのを考えるはずなのにな。ちょっとアイデンティティを見失ってたから助かったわ」

「気のせいか、そのまま見失ってたほうが周りにとっては良かった気がして来たんだけど?」

「それな」

 

 そう短く応えて屈託なく笑う八幡に、自分も自然な笑顔を返せていると川崎は思った。

 

「それで、どうすんの?」

「まあ、予定通りの一手なんだけどな。明日は助っ人を投入して、それで今の話は片付くはずだ。あとは黒幕がどう動くかだな」

「あれだよね、雪ノ下の……」

「無駄にスペックが高い暇人って厄介だよなぁ……」

 

 大学生活もそつなくこなして、親の代役もしっかり果たして、妹や母校にもちょっかいを出して。そんなあの人のことを暇人呼ばわりするのは、少し違う気もするのだけれど。

 高スペックのごり押しによって浮かせた時間で迷惑行為を仕掛けられている側としては、暇人以外のなにものでも無いよなあと八幡が考えていると。

 

『沙希……あら?』

「え。あれっ、もう終わったの?」

『沙希に三日続けて助けてもらってるからね。でもだからって、これからも毎日来るとか言い出さないでよ。健康に過ごして、勉強もちゃんとして、家の手伝いはそれからよ?』

「あー、うん。分かってるってば」

『それよりも、沙希の後ろでこっそり逃げようとしている男の子は……?』

 

 がばっと振り返ると、抜き足差し足でこそこそと撤退中の八幡がびくっと大きく身体を震わせて、そのまま動かなくなった。

 そっとこちらを振り返った彼と目が合ったので、白けたような視線を送りつつ右手で手招きしてみると、大人しく戻って来る。

 

「あんたね、雨が降ってるのに傘も差さないで何やってんの。あー、もう。タオル出すからあっち向いてじっとしてなよ?」

「いや、なんでお前バスタオルなんか持ってんの?」

「小学生の男子ってやんちゃだからさ。最初は注意してたけど、もう諦めてこれ用意して……って動かないでって言ってんの」

「いや、動くなとは言われてな……なんでもないです」

「もう。大志は小学生の頃からもっと落ち着いてたのにさ」

「出たなブラコン」

「うっさいシスコン。小町に言いつけるよ?」

「ちょ、おま、それは反則だろ?」

 

 とりあえず髪の毛についた水滴を力任せにごしごしと拭き取って、タオルを肩に掛けてやりながら背中を一つ叩いて解放してあげると、不服そうにこちらを振り向いた同級生が急に表情をがらりと変えて。

 

『あらあら、まあまあ。沙希もすっかり……ふふっ』

「ち、違うからね?」

「ほら。だから逃げとけば良かっただろ?」

「話がややこしくなるから、あんたは黙っててくれる?」

「何を話せば良いのか分からんし、そのほうが助かるな」

「えっと、同じクラスの比企谷。その、予備校のこととかで助けてもらったって、前に……」

『ああ、あの三人組の?』

「なあ。なんだかズッコケた感じになってねーか?」

「だから黙っててってば。その、普段は変なことばっか言ってるけど、いざって時にはさ」

「いざって時には?」

「だからあんたは黙っててよお願いだから」

『もう。沙希も無茶を言わないの。娘がお世話になっているみたいで、ありがとうって、母親としてお礼を言わせてちょうだいね。こんなかんじのせいかくだけどだから大変だと思うけど、これからもどうか仲良くお願いします。じゃあ、京華?』

『うん。さーちゃん、またこんどね。はーちゃんも』

「おう、またな。……」

 

 そのまま見送っても良かったのだけれど。

 親に余計な心配をさせたくないと、すぐ隣の同級生がそう考えているのが身に滲みて理解できたので。

 

「あの……。川崎には自分たちもたくさん助けてもらってます」

 

 とはいえこれが精一杯で、続きの言葉がまるで浮かばなかったので、代わりに頭を深々と下げていると。

 

『沙希は素直じゃないから心配でしたが、比企谷くんのおかげで安心しました。今後とも末永いお付き合いをして下さいね』

「もう。そういうのはいいから。じゃあまたメールで」

『くれぐれも、無理はしないようにね。娘をよろしくお願いします』

 

 どうしてこんなに丁重な言葉を返してくれるのかと八幡が内心で頭を捻っている間に、母親と幼児の姿は徐々に小さくなっていき、やがてこの世界から消え失せた。

 

 

***

 

 

 話し合いが終わると教え子の誰かしらから連絡が来るので、一昨日や昨日はそれを合図に親や妹と別れていた。

 けれども今日は何故か(まったくもって何故なのか分からないし分かりたくもないのだけれど)早々に帰られてしまったので、時間を持て余した川崎は仕方なく目の前の男に話し掛ける。

 

「……かくかくしかじかだから。別に遊んでたわけじゃないからね」

 

 自分でも早口だなと自覚できるほどの剣幕でおおまかな事情を語り終えると、じろりと目の前の男を見据える。

 それでも、川崎の鋭い眼光に物怖じする素振りも無く、八幡はゆっくりと口を開いた。

 

「その、お前の親ってちゃんとしてるよな。まあ、うちの親も小町には甘々だけど、注意する時には容赦ないし、そういう部分がちょっと似てるかもなって思ったわ。だからあれじゃね、もしお前が遊んでるだけだったら、俺より先にお前の母親がなんか言ってたはずだろ?」

 

 意外な内容だったので、ぽかんと最後まで聞き終えてからようやく頭が動き始めた。

 慌てて発言内容を振り返って、自分でもはっきりと認識できるほどの訝しげな顔つきで川崎は答える。

 

「……まあ、そうなんだけどさ。軽く話しただけなのに、あんたなんでそこまで言い切れるんだい?」

「親ってそんなもんじゃね、って感じのいいかげんな推測だけどな。てかそれよりな、ちょっと喋り方が気になった時があったんだが?」

 

 軽く首を傾けた川崎は、すぐに合点がいったようで。

 

「あんたって、あんまり親とは喋ってないの?」

「そういうのは小町に任せっきりだからな」

「あんたがお年頃だから……ってよりは、小町への配慮だね。動機が動機だし、今だけは素直に褒めてあげてもいいけど?」

「いや、いらん。つーかお年頃とか言われたら絶賛高二病なのを思い出して身悶えしたくなるからやめてくれない?」

「そういうのをお年頃って言うんだよ。さっさと認めたら?」

「マジで容赦ねーな。親に感謝とかそういうセリフが聞きたいならJ-POPにいくらでもあるだろ?」

「ぷっ、あんたらしい照れ隠しだね。でさ、さっきの質問なんだけど」

 

 不服そうな顔つきの男にそう告げると、目の色がはっきり変わるのが見て取れた。

 

 きっと自分では気付いていないと思うけど、いざって時にはいつもこんな眼をしている。

 川崎が他の誰よりも、親や弟妹を含めてなお特別に想う存在は、おそらくこの話が……。

 

「あたしでも噂に聞くぐらいだし、実際に何度か遭遇したから、たぶんもう周知の事実ってやつだと思うんだけどね。運営にとって好ましくない話題は、あんな感じでAIか何かが自動的に修正してるみたいだね」

「ほーん。……それって、最初からか?」

「現実との通話が可能になったのは、修正技術の目処が立ったからだって話になってるよ。けど……」

「けど?」

「うん。夏休みぐらいならともかく、文化祭の頃には部分的なログインとかもあったし、今となっては、さ……」

「必要性を失ったまま動いてるだけのシステムって事か。確かに、俺とお前の会話は修正できてないし、文化祭に来た連中も条件は同じだろうし、そもそも世界をまたいだ通話だからって監視するのも限度があるわな。ただ……なんだろな。なんか違和感がある気がするんだが」

 

 ほんの僅かな距離を隔てて、難しそうに考え込んでいるその表情に思わず見とれてしまいそうになったけど。

 何となく、川崎には手に負えない方面に思考が進んでいる気がしたので、言葉尻を捉えて修正を図ってみる。

 

「違和感って言えばさ。さっきの通話って、そこにあるディスプレイのおかげなんだけどね。運営じゃなくて、どっかの政治家が寄贈して回ってるって話でさ」

「どうせあれだろ。人気取りとか税金対策とか、そんな感じの理由じゃね?」

「うん……。それもあるとは思うけどさ。あたしが引っ掛かってるのは、その政治家が、ほら、あんたのとこの部長の……」

 

 無意識のうちに、名前を口にするのを避けてしまった。

 そして一瞬遅れて、すぐ目の前からの視線で、それを自覚させられてしまう。

 

 さっきこの話を始めた時点で、予測していたはずなのに。

 自分の想い人たるこの男が、僅かな情報から色んな可能性を考えながら誰の身を案じていたのかなんて、川崎には最初から分かっていたのに。

 

 お世辞にも良いとは言えない目つきの奥に潜む、()()()()()に向けるこのまなざしを、自分だけが独占できたら良かったのに。

 

「雪ノ下の会社って、たしか文化祭の時にも一枚噛んでたよな。それが……いや。それよりも、運営じゃなくてって話が出るのが……けど、情報が足りてないな。ただ、少なくとも……」

 

 頭をがしがしと掻きながら時折ぶつぶつと言葉を漏らしつつ、八幡は考え事に没頭しているようで、周囲を気にする素振りはかけらも無い。

 今ならいたずら書きをしてもバレないのではないかと、そんな教え子たちのような発想が頭に浮かんだのでくすっと笑いを漏らすと、ほんの僅かな空気の流れが逆に気になったみたいで。

 

「あ……すまん。ちょっと意識が飛んでたな」

「別にいいよ。それで、なにを考えてたの?」

「いや、それが……もう少しで色々と繋がりそうなんだけどな」

「じゃあさ、分かってる事だけでも話してみなよ」

「分かってる事……あれかね。その、東京駅の扉の話はお前から聞いたんだったよな?」

「なんだか懐かしいね。それがどうしたの?」

「打ち捨てられたシステムって言うと、あの扉も同じだろ。けど、あれは放置しても問題は起きないけど、会話の改竄は……」

「でも、運営の検閲ってさ。テキストデータで現実世界とやり取りしてた頃から露骨だったじゃん」

「あー。それなら、別に不思議じゃない、のかね?」

「どうだろね。運営の考えなんて、あたしには最初から理解不能だったしさ」

 

 少しだけ強い口調で言い捨てて、それで得られたほんの僅かな時間を使って気持ちを落ち着けてから、言葉を続ける。

 

「それよりも、雪ノ下の……」

「それな。たぶん陽乃さんの狙いとリンクしてると思うんだが、あの人なに考えてんのかね?」

「うーん……。けどさ、難しいところから解こうとしないで、もっと解きやすい方面から考えたほうがいいんじゃない?」

「おー、なんか先生やってる感じだな。って、茶化すつもりは無いからな。少なくとも今のは本気で感心してたっつーか、まあ小町がべた褒めなのが理解できたっつーか」

「出たよシスコン」

「うるさいブラコン。大志に言いつけるわよ?」

「勝手にしたら?」

「くっ……お前って大志からの好感度がカンストしてそうだよな。けど小町は……あいつのポイント制度ってどうなってんの?」

「あたしに訊かれても知らないよ。で、どう?」

「まあ、海浜の連中から陽乃さんの狙いを推測すると……わざと話を長引かせてるとしか思えないっつーか」

「じゃあ、何かを待ってるのか、それとも……?」

「時間稼ぎそのものが目的か、だな」

「それって、同じ意味じゃないの?」

「いや、例えばあれだ。妹への嫌がらせ目的とかな」

「あー……。話を聞いてる限り、ありえそうなのが困るよね」

「ただま、あの人の行動ってだいたい複数の意味があるからな。ひとつ結論が出てもそれで話が終わらないのが厄介だよなあ」

 

 逢えたらどうしようなんて事前に身構えていたこともすっかり忘れて、楽しいお喋りで頭と心が満たされていたのだけれど、語尾から伝わる倦怠感が川崎を正気に戻した。

 

「……そっか。あんたも疲れてるよね。とりあえず今の話を二人に報告して、今日はもう帰ったら?」

「……かもな。ぼっちが人前に出て喋ってたら、疲れるのも当たり前なのにな。そこらへん、自分じゃ気付きにくいから助かるわ。報告……も、帰ってからにするかね」

「うん。それがいいかもね。もう少し待たされそうだし、あんたの代わりに二人にはあたしが伝えておくよ。いったん帰らせたから、報告は夜になるって」

「助かる。じゃあ、これ、ありがとな。洗って返すわ」

「いいよ、そのままで。あとで小学生に使うかもしれないしさ」

 

 八幡の返事を待たずにバスタオルを回収して、ふと思い出したことがあったので話を続ける。

 

「それよりさ。さっきも話に出てたけど、東京駅の扉を見に行く約束、覚えてる?」

「一応な」

「じゃあいいや。いつになってもいいから、楽しみにしてるね」

「ん……了解。じゃあな」

「うん。お疲れ……比企谷」

 

 色んな想いを呑み込んでくれたのが解ったので、川崎も素直に別れの言葉に応じた。

 最後の呼び掛けは小さく小さくつぶやいたので、きっと聞こえてはいないだろう。

 

 傘を差して去って行く八幡を、川崎はじっとずっと見送っていた。

 

 

***

 

 

 家に帰って風呂場で疲れを洗い流してから、八幡はグループ通話で二人に報告を行った。

 業務連絡はすぐに済んだし、続けて始まった雑談タイムも楽しかったのだけれど。

 

「できれば明日、ねえ……。ぼっちに人を誘わせるとか、控え目に言って鬼だよな」

 

 太陽の下を歩けると思うなよ、という意味不明な八幡の戯れ言を冷笑ひとつで片付けた部長様には他にも色々と言いたい事があったのだけど、少し前と違って活き活きとして見えるので強い言葉が出て来なかった。

 

「ま、明日の成り行き次第だな。あとは助っ人に連絡……って、こんな時間に掛けてもいいのかね?」

 

 とはいえ、当日になってから伝えるよりは前日のほうが良いという話もあるわけで。

 八幡は覚悟を決めて、慣れぬ相手との通話を試みる。

 

「……かくかくしかじかで、できたら明日から頼みたいんだが?」

 

 最初のうちこそ警戒感が露骨に伝わって来たように八幡には思えたのだが、事情を話すと最後は二つ返事で引き受けてくれた。

 とはいえ。

 

「てか、なんでもするって、安易に口にしないほうがいいぞ……いや、俺は別に……だから、変な事とかは考えてないって……え、誤解だって分かったのになんで怒って……俺にはもう何が何だか分からん」

 

 人選をまちがえたかなと思い悩んでいたのは短い時間に過ぎなくて。

 自覚していた以上に疲れていたらしい八幡は、早い時間からぐっすりと眠りに就いた。

 




次回の予定は、最近では意味をなしていないので明言しませんが、とにかくなる早で頑張ります。
ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


追記。
細かな表現を修正しました。(12/31)


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11.したたかに準備された奥の手を彼は繰り出す。

前回のあらすじ。

 現実世界の家族とディスプレイ越しに話をしながら、川崎は塾の教え子たちを待っていた。
 会議を終えていち早く外に出て来た八幡は、そこで京華を紹介され、そして川崎の母とも挨拶を交わす。

 合同企画について意見を交換したり、運営による検閲の話や雪ノ下父の動きなどを教えられながら、八幡は川崎との会話を堪能していた。
 けれども無自覚に漏れ出ていた疲労感を指摘されたので、川崎の助言を素直に受け入れた八幡は早々に帰宅すると翌日の手配を済ませて眠りに落ちた。

 八幡との別れ際に、東京駅の扉を見に行く約束を再確認した川崎は、家路に就く想い人の後ろ姿をずっと見送っていた。



 翌日の放課後。コミュニティセンターの一室では気合に満ちた顔つきの生徒たちが、ロの字型に置かれたテーブルを囲んでいた。

 進行役を務める男子生徒の口調も、今日は堂々たるものだ。

 

「飾り付けの話はさっさと片付いたし、いよいよメイン・サブジェクトだね」

 

 この日は集まってすぐに会場のデザイン・コンテストを実施した。

 

 昨日の今日だし小学生が考えることだからと、どこか甘く見ていた部分があったのだけど、ひと目で却下したくなるような奇抜な案や幼児の落書きのようなデザイン画は一つも無くて。

 どうやら発想力が欠けている子と絵心が足りていない子を上手く組み合わせるなどして、時間が足りない中でも一定以上の水準に仕上げさせたのだとか。

 

 監督役を務めた高校生たちのこうした方針や、昨日までとはうって変わって楽しそうで誇らしげでもある小学生たちの様子を見ていると。

 まだ時間の余裕があるのだから、この中から一つの案を採択するよりも各々の長所を持ち寄って共同のデザイン案を構築すべきではないかとの提案が総武側から出て、圧倒的多数の賛成により受理された。

 

 昨日の光景をなぞるかのように数人の高校生に率いられて、今日は意気揚々と別室に移動した小学生たちを見送り終えると。

 デザインには関心がないことが丸わかりの発言に続けて、玉縄が会議の幕開けを示唆した。

 

「え~と、主題ってことですよね。一晩で調子が戻ったみたいで何よりです」

 

 よそ行きの笑顔をまとった一色いろはが言葉を返すと、たちまち玉縄を始めとした海浜の男子生徒たちからふにゃふにゃした雰囲気が伝わってきた。

 こんな程度の擬態でこの効果なら、一色が本気を出せばこいつらは一体どうなるのだろうかと比企谷八幡が内心で怖れを抱いていると。

 

「ああ、いろはちゃんにも心配をかけて悪かったね。フォロワーをシェアしてインフルエンサーをマネタイズしてきた僕としたことが、レバレッジのベネフィットにモチベのアントレプレナーがノマド化してソウルのメランコリーが加速してたって言うかさ」

 

 すぐ右隣に座っている一色はもちろん、左隣の本牧牧人も左側のテーブルに一人鎮座している鶴見留美も唖然としていることに誰一人として気付いていないようで、海浜陣営は今日もとても。

 

「それあるー!」

 

 お元気なようで何よりだなぁと現実逃避をしたくなってきた八幡だった。

 

 

「じゃあ、さくさく行きましょうか」

 

 語尾をのばす気が起きないのか、それともサービスする必要はないと判断したのか。

 一色の真意は分からないものの、どうやら絶好調らしい玉縄にも怯むことなく話を進めようとしているので、隣席の後輩に頼もしさを感じていると。

 

「そうだね。昨日僕たちはPDCAサイクルを持ち出そうとしたんだけど、そんな形式的な部分にこだわっても仕方がないって話になってさ」

 

 玉縄も普通の口調に戻ってくれたので、今日は実のある話し合いができそうだと密かに安堵した八幡は。

 

「だから今日は、OODAループを参考にしようと思ってるんだ」

 

 バキッと音を立てて右手の筆記具を真っ二つにできたら少しは気が晴れるかなと詮無きことを考えていた。

 

「えっと、さっきから知らない言葉がたくさん出てますけど……」

「そうだね。小学生には少し難しかったかな?」

「いえ、興味がないのでべつにいいです。それよりも、さっき話し合いの主題って言ってましたけど、なにを話し合うんですか?」

 

 呆れる気持ちは外には出さず、質問をばっさりと斬り捨てた留美は、玉縄の目をしっかり見据えて疑問を口にする。

 

「何って……それはもちろん、合同企画についてだろ?」

 

 呆れ気味に答える玉縄から視線を外して、ちらりと総武側を眺めると。

 

「もう少し具体的に、議題を整理したほうが良いんじゃないかな。合同企画でやりたいことをブレストで色々と挙げただけで、まだ何も決まってないからさ」

「それでも方向性は見えてきたと思うんだよ。だから現状を悲観的に捉えるよりもポジティブにさ?」

 

 留美の目線を受けた本牧が現状を伝えてみたものの、下の者に言い聞かせるような物言いで暖簾に腕押し状態だ。

 

 とはいえ八幡への反応と比べると、上から目線は同じでも趣が少し違う気がした。

 昨日はある種の対抗意識のようなものが伝わって来たのだけれど、一色や留美や本牧との対話からはそれが感じ取れないのだ。

 

 おそらくは一色が指摘していた「憧れ」がその原因で。

 逆に言えば、文化祭のステージで見た面々を除けば、玉縄は自分のほうが上だと根拠なく思い込んでいるのだろう。

 

 もうしばらく様子見を続けようと八幡が考えていると。

 

「じゃあ方向性をまとめて、企画の内容を決めちゃいましょうか」

 

 一色が本腰を入れて説得を始めたので、このまま話が進むのではないかと期待を抱いてみたのだけれど。

 

「いや、そうじゃないんだよ。あのね、いろはちゃん。何かを決めるってことは、それ以外の選択肢を否定することになるからさ。さっきのデザインを思い出して欲しいんだけど、色んな長所を持ち寄って、って話になったよね?」

 

「会場のデザインとは違って、企画は準備にも時間が掛かりますし、気長に話し合う余裕なんて残ってないと思いますよ~?」

「ノンノン。いろはちゃんは知らないだろうけど、ブレストでは否定するのはご法度なんだよ。だから、いろはちゃんには申し訳ないんだけどさ……その提案は、ダメだよ?」

 

 ちっちっと人差し指を動かしながら得意げに語る玉縄をちらっと見やって。

 意識高い系の話を聞いていると、こっちが意識他界系になるんだよなあと思いつつ、ため息を一つ。

 そして八幡は、早々に手を打つことを決意する。

 

 もちろん今いる面々でも、いずれは話をまとめられるに違いないと八幡は思う。

 この後輩にはそれが可能なだけの力量があると、八幡は誰よりも詳しく知っているし、本牧のフォロー能力も先代に鍛えられただけあって中々のものだ。

 

 けれど相手に話をまとめる意思が無ければ早期決着は難しい。

 

 昨日この建物の入口付近で、家族想いの同級生と喋った内容を思い出しながら。

 このままだと黒幕の思惑どおりに、話が平行線のまま時間だけが過ぎていくのは目に見えているので、こうなったら仕方がないと八幡は腹をくくった。

 

『じゃあ、この部屋まで来てくれるか?』

 

 あらかじめ用意しておいた文面を送ると、すぐに既読がついて。

 そして程なくして、こんこんという音が耳に届いた。

 

 

***

 

 

「むっ。ドアをノックするのは誰だい?」

 

 どこか芝居がかった身振りとともに玉縄が問い掛けると、そろそろと引き戸が動いて。

 現れたのは、制服の上にダッフル・コートを着た女子生徒と、その背後にも更に四人の姿が。

 

「あ、あの……」

 

 ドアの動かし方や、そもそも彼女の性格からして予想はしていたのだけれど。

 見るからに緊張した様子で言葉を続けられずに突っ立っているので、八幡が軽く頷いてみせると。

 

「うちら五人っ、総武の助っ人で来た、んだけど……えっと」

 

 今度は勢い込んで喋り始めて、なのに集まる視線に耐えきれずに尻すぼみになってしまった弱メンタルの持ち主は、毎度おなじみ相模南だった。

 

 目だけをきょろきょろと動かしながら、なすすべなく立ちつくしていると、場違いなほど軽い口調が耳に届いて。

 

「ほらほら、早く入って下さいよ~、相模先輩?」

「ふぇっ……あ、うん。だよねっ。先輩って、相模先輩って……うちってやっぱり一色ちゃんに頼りにされうひゃあっ!?」

 

 脇腹あたりをつつかれてしまい変な声を出して身悶えている相模を尻目に、下手人も含めた友人四人はしれっと室内に足を踏み入れると、そのまま下座のほうへと移動して。

 

「ほら、南はここね」

「ちゃんと言ってあげないと、一色さんの上座に座りそうだもんね」

「甘い、甘いよっ。南の行動力を侮らないで!」

「あー、たしかに。海浜のあの人の横とかに天然で座りかねないのが南だよねぇ」

 

 視線を向けられた玉縄は状況を把握しきれていないのか、ぽかんと口を開けたまま相模と四人の間で視線を行き来させている。

 

 それならさっさと話を進めておこうと、八幡が口を開いた。

 

「ほら、相模は本牧の横な。コートは鞄と一緒に隅のほうにでも……ああ、そんな感じで良いんじゃね。てか、他の四人は下に荷物を置いて来たんだよな。なんでお前だけコートも着たままだったんだ?」

 

 そんな八幡の疑問には、四人が苦笑まじりに答えてくれた。

 

「五人そろって一階で連絡を待ってたんだけどね」

「南はいつでも逃げられるようにって」

「って言うか実際に何度も逃げようとしててさー」

「うちらが脱がそうとしてもコートを必死で掴んでて、往生際が悪いよねー」

 

 小心者の実態を知る人が増えるほどに相模の雑魚キャラ化が進んでいる気がするのだけれど、本当にこいつは大丈夫なのかなと本気で心配になってきた八幡だった。

 

「なるほどな。まあ……今は話を進めるか。んじゃ、残りの四人は……」

「そこの長椅子に座ってもらって、相模先輩がやばくなったら手助けするって感じでお願いしますね~」

 

 会長選挙では一緒に戦った仲なので、一色も気兼ねなく指示を出しているし、四人も気安くそれに応えて壁側にある長椅子に移動した。

 位置的には留美の背中を眺める形になっている。

 

 

「じゃあ改めて、今日から助っ人に来てくれた相模先輩です!」

「あ、えっと、相模です。それと、うちの友達の……」

「あっ、もしかして?」

 

 一色の紹介を受けて席から立ち上がった相模だったが、喋っている途中で玉縄が口を挟んだ。

 さすがにむっとした表情の相模に向けて言葉を続ける。

 

「総武の文化祭で、実行委員長だったよね?」

「えっ。そ、そうだけど……?」

「そっか。あの時の実行委員長が、助っ人、ねぇ……」

 

 玉縄の口調ががらりと変わったので、部屋にはぴりっと張りつめた空気が漂った。

 こめかみのあたりを思わずぴくっと動かして、それでも八幡は動じることなく様子見に徹する。

 

「な、なんか文句でもあるの?」

「……これってジャストアイデアなんだけどさ、エビデンスを出さないと君はアグリーできないみたいだね。けど、僕だけじゃなくてさ、総武の文化祭に行った奴はみんな言ってたよ。『あの委員長って何だったの?』ってさ」

 

 たちまち真っ青になって小さくぷるぷると身体を震わせながらも、相模は両足に力を込めて、座り込んでしまわないように耐えていた。

 この可能性は昨夜のうちに伝えられていたからだ。

 

『海浜の連中も閉会式まで居たみたいでな。だからステージ上でお前がやらかしたのも知ってるだろうし、厳しいことを言われる可能性もあるぞ?』

『うち、やっぱやめる……って、前だったら言ってたけどさ』

 

 体育祭に会長選挙と、自分なりに役に立てたという自負がある。

 あの三人の活躍と比べたらあっさり霞んでしまうような働きぶりだとは思うけど、それでも労を厭って結果だけを求めていた頃のうちとは違うのだと大声で主張できるくらいには、相模は今の自分に手応えを感じていた。

 

 だからこそ、直々に連絡をくれて「頼む」と言ってくれた八幡に二つ返事で応えたのだ。

 

『うちにできることなら、なんでもするから、任せといて!』

 

 きっと感動に打ち震えて喜んでくれると思っていたのに、「なんでもするって、安易に口にしないほうがいい」とか真面目な口調で言い始めるし。

 もしかして、うちで破廉恥なことを想像してるのかなってドキドキしながら尋ねてみたら、「変な事とかは考えてない」って素っ気ないし。

 

 唐変木(トーヘンボク)朴念仁(ボクネンジン)はこれだから困ると、とある体育祭運営委員長の口調を真似ながら聞き覚えの言葉を使って頭の中で罵っていた昨夜の記憶を思い出して。

 

 くすっと笑いを漏らすと同時に顔を上げた相模は、玉縄をまっすぐに見つめて口を開く。

 

「うち一人だと、また失敗するかもしれないけど……今は助けてくれる友達もいるし、うちよりもよっぽど頼りになる後輩もいるし、同級生がなんだか凄いんだよね。ま、それでもうちがやらかす可能性はあるけどさ。もしそうなっても、()()()()が助けてくれるから大丈夫だと思うけど?」

 

 ふふんと得意げに喋ってはいるものの、よくよく聴けば他人任せなのが相模らしいなと八幡は思う。

 でも不思議と不快では無かった。

 

 自分にできることを精一杯までした上で、それでもやらかした場合に初めて他人を頼るのだろうと思うから。

 言い方を換えれば、やらかした場合に備えてリスクヘッジをしているだけで、相模が本気なのは分かるから。

 

「せんぱいって、ほんと頼りにされてますよね~?」

「年上から『お姉ちゃん』呼ばわりされてた会長様には負け……いや何でもないです」

 

 すぐ隣から小声が耳に届いたので軽い口調で返そうとしたのだけれど、ふと悪寒が走ったので途中で口を噤んだ八幡だった。

 

 

「じゃあそういうことで、企画の内容について具体的な話し合いをしましょうか。相模先輩も座っていいですよ~」

 

 軽い雑談で気分を戻した一色が口火を切ると、おそらく重々しい雰囲気になるのを嫌って口出しを控えていたのだろう。

 

「それあるー!」

 

 何があるのかは相変わらずよく分からないものの、一色と自分とに向かって親指をぐっと立てながら頷いてくれた折本かおりの勢いに押されて、相模がすとんと腰を下ろして肩の力を抜いていると。

 

「いろはちゃん。その話はさっきダメだって言ったよね?」

「え~、でも~、企画の内容の話はダメだって、そんな感じで否定するのはダメじゃないんですかぁ~?」

 

 苛立ちを隠せないままダメ出しを行う玉縄を軽く受け流して。

 ほにゃんと困惑顔になりながら首を傾けて、一色が無邪気な口調を装って尋ねかけると。

 

「それよりも、ゼロベースで話し合うほうがプライオリティが高いと僕は思うな。メリデメを意識しないとリソースのバッファがタイトになってリスケする羽目になるからさ」

 

 早口で喋るうちに調子を取り戻した玉縄は、一呼吸を置いただけでそのまま言葉を続ける。

 玉縄の発言を律儀に解読していた八幡は、お前が言うなと思ってしまったせいで反応が遅れてしまった。

 

「だから僕は、SDGs(持続可能な開発目標)を掲げるべきだと思うんだ」

「……はぁ。結局またお仕事ごっこか。国連の事務員にでもなったつもりか?」

 

 玉縄が妙なことを口走る前に、発言を遮れていれば良かったのだけれど。

 しまったと思う気持ちと、発言内容に呆れる気持ちとが重なって、思わず某部長様ばりのガチな切り返しをしてしまった。

 

 もしも八幡が一介の参加者に過ぎなければ、この発言は存在ごと抹消されて何事も無かったかのように話し合いが続いていただろう。

 あるいは八幡の発言を面白がって過剰な反応を示してくれるようなシスコンもとい黒幕が臨席していれば、展開も違っていただろう。

 

 けれども今の八幡は、助っ人とは言え総武の生徒会の名を背負っている立場であり、軽々な発言は慎むべきだったのに。

 

 これは後で一色から「なんで二人ともああいうこと言っちゃいますかね~」と詰られる展開だなと、勝手に部長様を巻き込みながら二人並んで怒られている場面を想像していると。

 

「……あのさ。難しい言葉を覚えて、仕事ができる自分を演出したい気持ちは、うちも正直よく分かるんだけどさ。実際に仕事と向き合って、実際に仕事をしていかないと、結果なんて出るわけないし誰も尊敬してくれないよ?」

 

 冷え冷えとした室内に、思いがけない擁護の声が響き渡った。

 それも発言者が相模なのだから、驚かないほうが難しいなと八幡が失礼な感想を抱いていると。

 

「ま、()()()の指摘が腹立つってのも、うちには充分に理解できるから、そっちばっか責めようとは思わないけどさ。でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よく考えたほうがいいんじゃない?」

 

 たしかに狙い通りの展開にはなっている。

 結果ばかりを追い求めて途中の経過をなおざりにしていた点では同類とも言える相模を、敢えて玉縄にぶつけることで、停滞した話し合いを強引に動かそうと考えていたのは八幡だ。

 

 けれども相模がこれほど主体的に動くとは思っていなかったし、ましてや失言のフォローまでしてくれるとは良い意味で予想外だ。

 

「くはっ……そりゃそうだな」

 

 苦笑の途中でなぜだか心が晴れ晴れとしてきたので、変な笑いかたに続けて同意の気持ちを伝え終えると。

 小さな声が耳に届いた。

 

「今のは、生徒会入りを断った時の相模先輩ですね」

「ん……ああ、なるほどな」

 

 いつの間にか相模を完全に下に見て、メンタルの心配ばかりをしていた気がするのだけれど、相模だって二学期に入って以降のあれこれによって随分な変貌を遂げているのだ。

 

 もちろんその中には、弱メンタル雑魚チョロイン化という悪化要素も含まれているけれども、それを補って余りあるほどの良い変化が今の相模を形作っている。

 

 何かに怯えて尻込みしたわけではなく、自分たちには合わないと主体的に判断を下して断りの言葉を口にした時の相模の姿を思い出しながら、その成長ぶりを頼もしく感じていると。

 

 自分もまた成長ぶりを披露してみせるとでも言いたげに、年に似合わぬ冷静な声が聞こえて来た。

 

「なにかをごまかしたり、相手にだけムリをさせたり、みんなにガマンさせたりしながら関係を続けてても、そんなの偽物だし、いいことなんて一つもないって私も思います。玉縄さんが、雪乃さんや結衣さんや八幡に、えっと、あこがれてるなら、一人でできることくらいは一人でしておかないと、どんどん置いて行かれるだけ、だと思います」

 

 相模が口にした仕事の話を、留美は我が身に置き換えて対人関係の話として受け止めたのだろう。

 

 疎遠になった元友人との関係を再構築するだけではなく、()()()をも見据えた決意表明とも取れる留美の発言を受け止めて、その真意を悟ることなく八幡が頬をほころばせていると。

 

「え、今のちょっと聞き間違い、だよね。うち、その、あの、名前を呼び捨てしてたように聞こえたんだけど……?」

「あ、えっと、八幡ですか?」

「え、えっ、ええっ……!?」

 

 顔を左に右にと動かすごとに奇声を発している相模から、八幡は反射的に視線を逸らす。

 そして留美のほうを向いたタイミングで相模の友人達にちらりと目線を向けると同じように驚いている様子なので、八幡は内心で頭を抱えた。

 昨日の焼き直しのような展開は勘弁してくれと現実逃避をしかけたものの。

 

「お姉さんも、呼びたいならそう呼べばいいと思いますよ?」

「おねっ……、え、うちも呼び捨て……は、はちゅ?」

「あの……さっきから思ってたんですけど、お姉さんって頼りになるのか、ならな」

「うんっ、お姉さんは頼りになるよー。うちがお姉さん……お姉さんっていい響き……うん、お姉さん、頼りにされたら何でもす……」

 

 すぱこーんと良い音がして、友人の務めを果たした女子生徒が元の席に戻るのをじっと見つめる一同だった。

 そのまま視線が自分に集中するのを自覚して、やむなく八幡は口を開く。

 

「あのな。昨日も言ったけど、あんま安易に何でもするとか」

「言ってない」

「いや、ツッコミが無ければ確実に言ってただろ?」

「言ってない」

「じゃあ、お前は頼りになるやつだって」

「言ってな……えっ。それ、違う……くなくて、うちのことお姉さんって、やっぱそういう意味……なの?」

「どうなんだ?」

「あっ、えっと、頼りになると思わなくもないというか」

「ほら、言ってただろ?」

「うん、うんっ、言ってた!」

 

 そんなやり取りによって、部屋中に弛緩した空気が漂う中で。

 独り玉縄は、忸怩たる想いを抱えながら考え事に耽っていた。

 

 

 海浜総合高校は三つの高校を統廃合して創立された、比較的歴史の浅い学校だ。

 三校が合わさったので規模も大きいし設備も豪華だし校舎も綺麗なのだけど、大きな集団よりも小さな集まりや個人が優先されがちで、まとまりに欠けるきらいがあった。

 

 それは卒業生も例外ではなく、巣立つと同時に母校との縁が切れてしまう者が大半で、とは言っても嫌っているというわけでもなく、良くも悪くもドライな感覚なのだろう。

 

 ()()()卒業生はそんな感じだが、旧三校の卒業生となるとまた事情が変わって来る。

 自分たちの母校は消えてしまった母校ただ一つ、海浜とは何の関係も無いと考えている者ばかりだからだ。

 

 おそらく、歴史が無いのが問題なのだろうと玉縄は考えていた。

 例えば、誰もが名前を知っているような有名人が海浜の卒業生から出て来れば、知らんぷりを決め込んでいる旧三校の卒業生もころっと掌を返して、自分もあの有名人と同じ高校で云々と言い始めるのではないかと思っていた。

 

 そうした大人の狡さに辟易する気持ちが無いとは言えない玉縄だが、現実は非情だ。

 

 親身になって母校のことを気に掛けてくれる卒業生が皆無の現状は、思っていた以上に厄介だった。

 他の高校なら問題にもならないようなことが、真面目に対処すべき難問へと姿を変えて歴代の、そして新しく発足した生徒会をも苛んでいる。

 小中学校の入学式や卒業式でずらりと並んでいた来賓各氏は、無意味な張りぼてなどでは無かったのだと、こんな形で知ったところでそれこそ意味が無い。

 

 だからこそ、動機など何でもいいから頼れる卒業生が現れて欲しいという想いを、このところの玉縄はずっと胸に抱いてきた。

 

 玉縄のその想いは、どこに出しても恥ずかしくない本心からのものだ。

 なぜなら特別待遇を願っているわけではなく、世間一般の高校並かそれ以下の環境を求めているだけなのだから。

 

 けれども外には出せない本心もあって。

 

 つまり玉縄では、誰もが知るような有名人には決してなれないだろうという残酷な自覚と。

 そして、仮に卒業生の誰かが有名になったところで、将来性を期待できない自分なんぞの説得に応じて母校の手助けをしてくれる可能性は皆無に近いという推測がそれだった。

 

 自分に際立った能力が無いことなど、誰よりも玉縄本人が一番よく知っている。

 だからといって、無気力にただ任期を全うするだけの生徒会長にはなりたくないと思うからこそ、玉縄はせめて虚勢を身にまとっているのだ。

 

 だと言うのに、昨日今日の自分への対応は何だ!?

 

 小学生から後輩に同級生まで、幅広い年齢の女子生徒と戯れている男をちらりと見やって、玉縄は再び自分の殻へと閉じ籠もる。

 

 生徒会役員や今回の合同企画を手伝ってくれている面々はいずれも気の良い奴らで、特にノリの良いセリフでみんなを盛り上げてくれるあの女子生徒には玉縄もひとかたならず心が乱れもとい今はその話は関係ないとして、つまり不満に思うなど失礼千万な話だとは思うのだけど、頭の片隅には冷酷に評価を下す自分が居る。

 

 結局のところ、虚勢を張るのが精一杯の、玉縄とさして変わらぬ能力しか持たない一同なのだと。

 

 こうした状況だからこそ、()()()と親しくなれたのは幸運を通り越して僥倖に近いとすら玉縄は思っていた。

 

 海浜とも旧三校とも何の関係も無い人なのに、同じ地域の高校を卒業したというただそれだけの縁で、玉縄の悩み事を親身になって受け止めてくれて、OGみたいな扱いで良いからねとまで言ってくれて(頼りになるようなOB・OGなんて一人も居ないとは言えなかった)。

 

 毎回のように心苦しい報告しかできない自分を慰めて、一般企業で実際に行われている手法を丁寧かつ心底から楽しそうに(なにせ四六時中笑い通しなのだ)教えてくれて。

 

 なのにこのままでは、今日もまた不甲斐ない報告しかできそうにない。

 

 思えば初めて会った時から、あの人には情けない姿ばかりを晒している。

 

 総武との交渉役を勝手に名乗った末に面倒ごとを引き起こすという憎めない事態を引き起こしてくれたあの女の子を安心させてあげるべく、ダブルデートまがいの現場に乗り込もうとしたところで声を掛けられたのが発端だったのだけど、玉縄の度量の広さを認めてくれて、そして我がことのように苦しげな表情を浮かべながら(なにせ少し話すごとに堪えきれずに下を向いては感情を抑える繰り返しだったのだ)自分が最優先で取り組むべき行動を教えてくれた。

 

 その助言が適切だったのは、あの女の子の対応がころりと変わったことからも明らかで、当日のメールは素っ気ないのを通り越して刃が見えるような書き方だったのに、翌日以降は文章がずいぶんと柔らかくなった。

 

 そんなふうにお世話になりっぱなしだからこそ、そしてあの人の読みが正確無比であるからこそ(話し合いの現状も、事前に可能性の一つとして教えてもらったものだ。聞いた時にはまさかと思ったし、それが現実となった時には苛立ちが収まらなかったのだけれど)、今から打つ手が正しいのだと玉縄には信じられた。

 

 

 騒々しいやり取りがちょうど一段落したみたいなので、玉縄は重々しい口調で語り始める。

 

「それで、企画の内容を詰めていくという方針に、変わりは無いのかな?」

 

 この場で誰よりも意識している男子生徒に向けて伝えたつもりだったのだけど、彼は目線だけを横に動かして、それに呼応するかのように可愛らしい総武の生徒会長が間を置かず口を開いた。

 

「ええ、できれば内容を詰めたいと思っていますけど〜。いきなりどうしたんですか?」

 

 この程度の返事ぐらい自分の口から伝えれば良いものを、後輩の可愛い娘を隠れ蓑にして何を気取っているのだろうか。

 

 そもそも玉縄は当初からこの男が嫌いだった。

 

 努力と偶然とが重なって、入学以来ずっと密かに意識してきたあの女の子と並んでライブを観るという幸運を得られたというのに、当の彼女はステージ奥のドラム男にご執心で(後で聞いたのだが中学の同級生らしい)、彼が大映しになって以降は大爆笑の繰り返しだった。

 

 それでなくてもタイプの異なる美女二人とバンドを組んでいる時点で第一印象は最悪だったし、アンコールでは更に三人の美女が加わって(()()()を初めて見たのはその時だ)、そんな五人に囲まれながら唯一の男性として堂々と演奏している姿には、男なら誰もが嫉妬したのではないかと玉縄は思う。

 

 けれども度量の広さという点では玉縄にもそれなりに自信がある。

 自分の能力の無さを認めるなんてなかなかできることじゃないと、あの人からもお褒めの言葉を頂いたぐらいなのだから、実際に大したものなのだろう。

 

 演奏の序盤には、それなりにネチネチとこき下ろしていた気もするし、個人の拙さを指摘するのはそれほど難しいことでは無かったのだけれど、三人をひとかたまりとして見た場合には(バンドとはそういうものだ)その拙さすらも一つのアクセントとなって他の楽器の(特にギターの)演奏に彩りを加える結果になっていた。

 

 自分にさしたる能力が無いと自覚している玉縄だからこそ、本当に能力があると認めた相手には敬意を払う。

 いけ好かない男も含めたこの三人はいずれも凄いやつらなのだと、そう認めるに至った玉縄は、演奏が終わる頃には憧れの対象として素直に見るようになっていた。

 

 だと言うのに、昨日と今日の印象は最悪だ。

 

 才能があるのは疑いの余地が無いし、憧れの気持ちにも偽りは無い。

 なのに何故、この男は才能の無い者たちに親身になって、その能力を活かそうとはしないのだろうか?

 

 あの小学生のように生意気を言っているわけでもなく、先ほど加わった女子生徒のように無様な姿をさらけ出したわけでもない。合同企画の結果が惨憺たるものになれば自分もそれと同類になるのだろうけれど、その場合は総武の会長も、そしてこの男も同罪だ。いずれにせよ偉そうに言われる筋合いは無い。

 

 とにかく自分としては、覚えたばかりのカタカナ語を口に出す程度の、お仕事ごっこと揶揄されるような働きぶりだとしても、できることはしているつもりなのに。

 

 どうしてこの男は()()()のように、人より優れた能力を劣った人たちのために使おうとはしないのだろうか。

 自分に賛同する女子生徒ばかりを優遇して、自分たちの努力をあざ笑うかのような、そんな器の小さな男に過ぎないのであれば、こちらにも考えがある。

 

 あのライブは本当に凄いものだったと、この男の本性がどうあれそれだけは愚直に認めているからこそ、それは玉縄にとって意地を貫く理由となった。

 

 

「じゃあ、二手に分かれよう。僕らはブレストを重ねて見えてきた方向性に手応えを感じてるんだけど、そっちは余計なものは切り捨てて具体的に話を詰めたいって考えてるんだよね。それなら別々に企画をまとめて、どっちが優れているのかを目に見える形で比較したほうが良いと僕は思う」

 

「え〜と、それって……合同企画の意味あるんですか?」

「ああ、あるよ。僕らの方針に賛同してくれる人は誰でも、こちらに参加してくれて構わない。逆に君たちのやり方のほうが良いって思うやつは、海浜の生徒だからって排除しないで面倒を見てくれないかな?」

 

 そう言ったものの、玉縄の心臓はばくばく動いていた。

 もしもあの女の子が、総武側に行ってしまえば……。

 

「あるある、それあるー。要するにあれだよね、さっきのデザイン・コンテストみたいなのを海浜と総武でやろうって話だよね。それ絶対あるって!」

「じゃあ、折本さんも僕らに協力してくれるかな?」

「うんっ、それいける!」

 

 居てくれるだけで百人力だと思いながら、ほっと胸をなで下ろしていると、相手側からも反応があって。

 

「そういう話なら、けど明日だと期限がきついな。なら……」

「ではでは〜、月曜日にお互いの企画を披露し合うって予定で、その代わりに月曜日に完全に決めちゃう形でどうですか?」

 

 口を開くたびにキュートで魅力的だと思ってしまうし、可愛らしくてチャーミングだという点ではとにかく格別なのだけど、玉縄の隣の席はもう埋まってしまったのだ。

 だから残念だけど、僕が心を揺さぶられることはもう無いよと考えながら、急に跳ね上がった心臓の鼓動をあえて無視して玉縄は口を開く。

 

「ああ、何でもいいよ。ついでだし、総武側の希望があれば今のうちに言っておくと良い。たいていの事は受け入れてあげるよ?」

 

 そんなふうに余裕のある姿を見せつけようとしたところ。

 

「そうですね〜。じゃあ、当日のスケジュールなんですけど〜、合同企画の後でみんなで歌でも歌いませんか?」

「……は?」

 

 玉縄や海浜一同はもちろんのこと、留美や相模一派や本牧に八幡までもが呆気にとられていると。

 

「わたしはこれでもサッカー部のマネージャーも兼務してるので、男の子がすぐに対決したがる気持ちは理解してるつもりですけどね〜。でもそれって、勝ったほうはスッキリするかもですけど、負けたほうは割と引きずったりして、ぶっちゃけ扱いにくいんですよ〜。だから、えっとラグビーか何かで言いますよね、ノーサイドって。そんな感じで、企画が終わった後はみんなでクリスマスソングでも歌って、はい終わりって形にしたいと思います。なにか反論とかありますか〜?」

 

 机に肘をついて顎に手を当てながら一色の発言内容を吟味していた八幡が、納得顔で口を開く。

 

「じゃあ会場で合同企画をやって、それから歌も歌って、それで幕が下りる流れだな。ま、いいんじゃね?」

「ああ。僕にも異論は無いな」

 

 八幡に対抗意識を燃やしながら、端的に答えることで鷹揚さが伝わるはずだと玉縄が考えていると。

 

「じゃあ、歌のことはわたしが企画しておきますので、みなさん楽しみにしてて下さいね〜」

 

 あれ、もしかしてこれやばいやつじゃね?

 

 そのことに誰よりも早くに気付いた八幡だったが、既に太腿のあたりが一色の指でロックオンされていた。

 親指と人差し指を伸ばした銃の形で八幡を明確に脅しつつ、机に隠れて他からは見えないのがまた小憎らしいと言うかあざといと言うかまあ可愛いと、心の中でぐらいは認めてやっても良いのだろう。

 

 余計な事は喋らないと、八幡が白旗を揚げたのを感じ取った一色は、ぷにっと人差し指を軽く押し付けてから手を戻して。

 そして主導権を握ったまま一同に向けて語りかける。

 

「見た感じ、海浜と総武で完全に分かれるみたいですね〜。留美ちゃんはこっちで良いかな?」

「はい。お願いします」

「ではでは、お互いのやり方で企画を練って月曜日に披露し合うって形で、今日もお疲れさまでした〜!」

 

 こうして一色によって会議の終結が宣言されて。

 

 そして八幡は、あざとかわいい後輩をどう言って夕食に誘ったものかと、会議中とは比べ物にならないほど頭を働かせながら、そっと溜め息をこぼしていた。

 




予定ではこの日の出来事を一話で書き切るつもりだったのですが、後半が間に合わなかったので前半だけ切り離して月内に更新する形にしました。
なかなか更新できなかったのは玉縄の口調と次話の内容が原因で、とはいえ後者も解決はしているので、なる早で頑張ります。

ご意見、ご感想、ご指摘などをお待ちしています。


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