戦国†恋姫~不死の刃鳴~ (我楽娯兵)
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黄泉道に迷う毒虫

どうも皆様、はじめましてこんにちはこんばんは。運珍です。
BaseSonより発売しました「戦国†恋姫X」をプレイし武士と言えば「刃鳴散らす」の連想ゲームで出来た作品です。


 屍肉を喰らって肥え太る蟲がいる。

 

 血染めの原っぱの真ん中を、

 

 赤い小さな芋虫が這い進んで、

 

 戦士の骸に潜り込む。

 

 肉を食み、血を啜り、

 

 骨を齧って突き抜ける。

 

 虫は一回り肥えている。

 

 赤い柔肌も一段と照り、

 

 それは見事な茜色。

 

 ――屍肉を喰らって肥え太る蟲がいる。

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 赤音は光り輝く街を見ていた。

 屑の掃き溜めの荒廃した帝都であるが、そこに宿る光は、美しい輝きに満ちていた。

 生きてきた意味も、慰める情婦も、斃すべき兄弟子も、すでにこの世を去っていた。

 赤音は帝都の光に魅入られ、最後に残った知るべきことを確かめる。

 シャツのボタンを全て外す。

 前を広げ、素肌を曝した。

 懐より白布がこぼれた。床に落ちるより前に拾う。

 それは此処にくる前に病院で貰ったものだ。

 腰に一度収めた刀を半分ばかりだけ抜いた。

 切先から一尺程度の位置に白布を巻き付けていく。

 切る事に優秀な刀。白布を切ってしまわないように、手間どりながら十周ほど巻きつけた。

 刀を抜き放つ。

 持つ手は柔らかく、手弱女のように頼りない。

 それは道理で、ただ一度、ただ一度の、神速に対抗する魔剣が赤音の筋力を奪い去っていた。

 右手は、白布を巻いた刀の中ほどを握る。左手は、逆手に柄を握る。

 刃の剣先を鳩尾に突きつける。

 す、と息を吸い。

 吸いながら、腹筋を腹腔に押し込める。

 はっ、と息を吐く。

 腹筋を押し出し、切先が肉を穿った。

 痺れるような感覚が体に広がった。

 

(......切先、五分。少し浅い、か?)

 

 鳩尾に埋まった刀を見て思う。

 刀を強く握り、切先は更に深く沈む。

 六分、八分。

 

 ――良し。

 

 赤音は一息に(へそ)まで切り下げた。

 血が噴出する。

 

「う、あ......」

 

 思わず声が漏れた。

 鈍く、熱い痛みが全神経をかけ抜けた

 

(まだ、まだだ)

 

 明滅する意識を繋ぎ止め、刀を引き抜く。

 抜いたはしから新たな血が溢れ出る。色を失う街並みに、しがみつく思い出で刀を取り直す。

 尖端を左脇腹に押し当てる。

 息を測る余裕はもうなかった。生存本能的な躊躇を無視し、刃を突き刺す。

 そして、横一文字に斬り開く。

 世界が暗転した。かと思えば白熱する。

 青。

 紫。

 黄。

 狂的な転変の後、視界は薄明に包まれ、色合いを取り戻す。

 己の腹部を赤音は見下ろした。

 深紅で縁取られた漆黒の十字がそこにあった。

 穢れの詰まった臓物は、今だこぼれることなく、しっかりとそこに収まっていた。

 見事な成果に、満足した。

 刃を抜く。

 巨岩よりも重いそれを首筋まで運ぶ。

 すでに赤音は感覚を失い、己がどのように動いてるのかも分かっていない。

 だが、剣路を共に歩んだ相棒が、身より離れずいてくれることを祈り信じた。

 首筋に感じた冷たき感覚。

 死する最中、それを知った。

 刀を下げた。

 帝都を臨む塔の上で、赤音は砂粒の意識を認識した。

 

(これで......終わった)

 

 すべてが崩れて、溶けて、霧散していく。

 流れ出る命が、纏った小袖と同じ色に染め上げる。

 武田赤音の生涯はここで終わる筈であった。

 臥した赤音の傍らに立つ、禁軍の将と不死(ブシ)たち。

 禁軍の将は赤音を見下ろした。そして言った。

 

(わたし)たちと共に、大帝のお側に使える気はないか」

 

 

 

 

 

 

 

 野晒しの雨に打たれる骸がある。

 群がる蝿は天水によって近寄れず、天の恵みを流れ出る液で溜まりを赤く染め上げた。

 水を吸いふやける皮膚、人馬の叫び、刃鳴の音。

 あるとき一つの声が上がる。

 

「......織田上総介久遠馬廻り組組長。毛利新介! 東海の弓取り、今川殿。討ち取ったりーーッ!」

 

 叫びは雨音に消される事なく、戦場の端々まで聞き届いた。

 天に向けて示された首級(みしるし)。それは一将の首である。

 武士の習いであるそれは、一軍の機を削り取った。

 仕えるべき主を失った士は恥じることなく、嫌忌すら表すことなく、背中を曝して逃げ走る。

 一人の女武士は仕えるものたちに言った。

 

「今こそ好機! 織田に集う勇士たち。これより敵の追討だ!」

 

 その女武士は「尾張のうつけ」と呼ばれた。

 南蛮に中てられ、世界を臨む姿勢は、この時代この世界には正しく理解はされなかった。

 理解できないモノは、怪か、それとも物狂いか。二択であった。

 甲冑を身に纏った姿は、女子には不釣合いな背格好である。

 尾張の国を治める久遠は、戦を好む、好まざる関係なくこの場にいなければならなかった。

 それが国主の務めであり、義務だ。

 戦場の熱は霧散し始めていた。

 敵の追討――思考を飛び越え、口より出ていた。

 

「久遠さま! 崩れたとは言え、戦力差は歴然でございます! 今はすぐに後退すべきかと!」

 

 配下の者がそういった。

 

「このまま賊徒になられてもかなわん。今ここで根を絶つのだ!」

 

 両者の言った事は確かである。

 戦力差は確かにあった、時が経てば逃げた武士は賊徒になる。

 現在か、今後か。どちらを選ぶかは馬上の久遠に選択権はあった。

 刃を取り敵にそれを向けた。――根切れ、喉元まで言葉は出ていた。

 だがあるものがそれを止めさせた。

 切先に止まる蝶がいた。

 その蝶は久遠にも、配下のモノにも見えていた。

 色鮮やかな朱色の羽を持った蝶である。

 ゆらり、ゆらりと羽を開き閉じ、身を休めていた。戦場には似つかわしくない美しい色である。

 だがそれ以上にこの場に合わないことがあった。

 ――この蝶は雨に打たれ何故飛べる? そう思った矢先、蝶は久遠の刀より飛び立った。

 時を忘れさせるように、ゆっくりと飛ぶ蝶は打ち棄てられた今川陣へと飛んでいく。

 眼で追う久遠。追った先にそれが眼に入った。

 今川陣中に斃れる首を獲られた、今川義元の骸。その傍らに見えた。

 ――朱い、血のように朱い小袖が。

 久遠は今川陣中に馬を近づけそれを見た。

 女人(にょにん)と見間違いそうになる奇妙な男が居た。

 刀を握り、甲冑は着ていない。背丈も小さく、朱い花輪模様の小袖でより小さく見えた。

 倒れ臥すその小姓から覗く肌は、女のように白く、髪も長い。

 その者の髪に止まった赤の蝶が髪飾りのようだった。

 ずれた小袖から覗く妖艶なうなじは、女である久遠も魅了する色香があった。

 

「稚児か」

 

 別段珍しい事ではない。戦場での性処理は誰しも困るとだ。

 それなりの地位を勝ち得たものは、戦場での昂ぶりを小姓で発散する事はよくあることだ。

 女武士が多いこの時勢、男娼(ツバメ)は懐妊の恐れがあり、女娼が多い。

 男性は女娼ではのめり込み過ぎる。結果は同性は同性が相手をする事が多い。

 今川義元はこの時世では珍しく益荒男である。側近くに稚児を置いていてもおかしくはない。

 だが一番おかしいのは、この稚児の頸が繋がっている事であった。

 先程討たれた今川義元の側に居りながら、毛利新介の凶刃に斃れていない。

 よくよく稚児を見下ろす、そのモノの小袖からはみ出した足から長穿(ズボン)が出ていた。

 それだけではない、足を包む物は草鞋(わらじ)などではない、革履きだ。

 不可解すぎた。南蛮をよく知り、日ノ本もよく知る久遠には、この稚児がありえない存在に思えた。南蛮器具を多く収集し、いじくり、また集める。外の国を理解できる者は日ノ本には極限られたものしかいない。

 そんな限られた珍しい存在が、尾張の片田舎に出向くわけはない。

 こいつ何かある――久遠の直感がそう感じ取った。

 

「おい、猿!」

 

「は、はひっ!」

 

「こやつを持って帰れ。あとで検分する」

 

 久遠の好奇心と猜疑心が、君主としての認識が、この男は何かあると。

 猿は男を担ぎ上げる。髪に止まった赤羽根の蝶が飛び立つ。

 男の手より落ちた一振りの刀。拾い上げ、見た。

 二尺三寸三分鎬造り刀身が雨に打たれ濡れていた、僅かに着いた血の曇りを雪ぎ、その刃が表に現れる。

 

「良い刀だ」

 

 鋭利で兇刃、毒虫の牙が少女の手に握られていた。

 下剋上の時代、騒乱の刻。羽化する毒虫がそこに居た。

 士と人切り、鬼と不死(ブシ)、剣狂者と剣鬼。

 咲き誇る血で綴られた喜劇の幕が開く。

 さあ、刃鳴の季節だ。

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 屍肉を喰らって肥え太る蟲がいた。

 

 肥えた芋虫は木に登り、

 

 背を曝して綿を撒く。

 

 綿を編み、繭を造り、

 

 躯を溶かして蝶と成る。

 

 蝶は腹を空かしていた。

 

 赫の羽根を羽搏かせ、

 

 毒の鱗粉を撒き散らす。

 

 臥した骸に集るのは、

 

 飢餓多き芋虫の群れ。

 

 ――屍肉を喰らって肥え太る蟲がいた。



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改編の刻

 久しく見ない幻夢を見た。

 鹿野道場の軒先で、俺はただなにをするわけでもなく晴天の空を眺めていた。

 水色で、雲の一つも見当たらない。道内で響く木刀の打音、雀が雛に蚯蚓を与える姿も見えた。

 それは尊い平和であった。数週間先に控える「重要な日」。

 道流を継ぎ、刈流兵法宗家一人娘を娶ことを決める日。この日和はそれすら忘却させる。

 昼日の陽光が全身の強張りを溶かしていく。瞼を閉じ、透けた血管の色ですら温かく感じられた。

 

「いい、日和だな赤音」

 

「あ、いがらすさん」

 

 隣に腰を落ち着ける人が居た。

 その人は俺の兄弟子であり、この刈流兵法鹿野道場の師範代である。

 そして道場にとっても重要な、跡取りという仕合相手だ。

 俺は彼を尊敬していた。彼の抜き打ちは誰よりも早い、彼の太刀筋は誰よりも正確だ。

 真面目であり、言動態度も充分だ。根暗なのが玉に瑕だが。それを除けば俺は彼に敵わない。

 俺が目指した目標、憧憬。

 彼と木刀を交える度に、彼と言葉を交わす度に、彼と同じ戴天に居ると想うたびに、憧れは情念に姿を変え始めた。

 ――彼を俺のモノとしたい。

 だが、それは否定されてしまう情欲。胸臆に宿った恥部であった。

 どうしようもない。嗚呼、このまま時が停まればいいのに。

 幾度も思い、現実の非情さと、人間に付与された感情という機能を呪った。

 幻夢は矢の如く流れる。あの情景が蘇る。

 俺は彼と対峙していた。木刀での打ち合いではあったが、木刀も業ある者が持てば鈍角の刀だ。

 命の遣り取り――彼と俺が、体も、感情も、すべてを飛び越えて一つに成れていた時であった。

 息は僅かに荒い、精神を切り詰め、彼と戦い、勝ちたいと思う気が燃料となり己を動かしていた。

 なのに、なのに!!!

 

 

 ――お許しください、赤音さま! どうか――――

 

 

 もし俺が仕合で使った木刀を持って帰らなかったなら。

 もし俺がその夜、心象に浸り折れた木刀の柄を眺めなかったら。

 もし彼女が嘘言ってくれていたなら。 

 きっとそれは起こらなかった。起こることなど決してなかった。

 喉が潰れ血を吐こうと、肺が破れ窒息しようと。吠え続ける。

 

 嗚呼、お前は――俺の、伊烏の仕合を穢したのか。

 

 その日初めて無垢な白刃が血を吸った。

 帯刀を許され、手入れも欠かさず、寝る間も、風呂も、厠でさえも共に居る事に決めた相棒が穢れを吸った。

 彼女を斬った時、感じたのは怒りでも、悲しみでもない、安堵であった。

 これでよかった。

 これでよかったのだ。

 最初からこうすれば。

 彼の想いは、

 悲しみは、

 怒りは、

 精魂のすべては俺に向いたのだ。

 

 

「........屑.......が........」

 

 

 俺は彼を物に変えたその瞬間まで、彼は俺を想った。

 目的は果たせた。

 彼と戦い、勝った。

 そして胸臆に宿った恥部も告げる事無く断ち切れた。

 彼の魂魄は帝都の光に溶け込み。俺の四年間の情念は霧散した。

 刀だった俺。想いという刃を失った刀は刀ではない。薄っぺらな鉄の棒だ。

 最後の間、相棒と見下ろした帝都はしっかりと記憶に留まっていた。

 相棒を一輪より預かりうけたとき、その時は、己が二人となった時。

 

「本当ですか! やったー!」

 

「“かぜ”という子だ。大切に使ってくれ」

 

 若き女鍛冶師が一振りの刀を差し出した。

 赤音という魂の憑代。

 剣路を共にした相棒は望みを叶えてくれる。

 俺と同じ、穢れを多く啜った相棒。

 幼少を想起させる帝都の街を見下ろしながら俺は、己を絶った。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 夢が薄らぎ、お役御免となった世界が見えた。

 気だるい気持ちが湧き上がるが、重い瞼を抉じ開けた。

 見慣れぬ部屋。木張りの天井がそこにある。

 そこには蛍光灯も何もない、石馬が目指した「真の日本」、東京府でも電気を引かぬ家はない。

 珍しげなその天井、それ以前の疑問にぶち当たった。

 赤音は腹を切って、頸を切ったはずだ。

 横になって寝ていたが体を起こす、節々が痛み軋みを上げる。

 長らく体を稼動させてないせいだ。

 衣服が着物なんて差異はどうでもよかった、腹に彫り上げた十字を、喉に刻んだ一文字を。

 腹を広げ見たものは、傷一つないすべらかな腹部があった。

 縫合のあとも何もない。あるのは臍と微かに割れた腹筋だけ。

 思わず眩暈がした、首筋に手を当てるが腫れてもない。

 まるで斬った事すらないような赤子の肌のようであった。

 ここはどこだ、俺はどうなった、伊烏は、三十鈴の遺体は。

 蒲団を抜け出し、部屋の襖を乱暴に開け放った。

 そこに広がっていたのは――雀鳴く庭園があった。

 

「おい、......嘘だろ」

 

 帝都ではない別の都である。

 塀の向こうにはビルは見えず、緑々しい山中が覗いていた。

 素足であったが庭園に赤音は下りていた。

 足で感じる地面の感触、肌で触る空気の清らかさ。一つ一つの感覚が鈍ったのか、帝都に居たときよりも別のモノに感じられた。

 やかましく走っていた車の音すら聞えず、ここは帝都より離れた場所であると実感させた。

 庭園にある池を覗き込んだ。

 苔は石に生えているが透明な水だ。赤音は片手で掬い口に含んだ。

 飲めなくはない、飲まないほうがいいが飲料水にはなる。

 そして何より驚いたのは、この水は水道より引かれていないということだ。

 口に感じる金属味、薬品味、それら一切がない。天然の湧き水を引いている事がわかった。

 

「そこの水は飲む水には適さんぞ」

 

「ッ!!」

 

 背後より発せられる声に身が硬直してしまう。

 剣気、殺意はまるで感じられない。しかし己が置かれた場所を鑑みても敵でないとは言えない。

 反射的に腕が刀に伸びる。が、左腰にあるはずの刀は不在である。

 

「そう、戒めるな。この館にお前を害するものは一人も居ない」

 

 その言葉を聴き、声の主は婦女である事が分かった。

 しかしながら婦女でも刀を握る時代、警戒の一つはすべきでだ。

 其の上、ここは帝都ではない。銃砲火器類所持絶対禁止法の効力は帝都限定的、背後よりズドンなんてこともありえる。

 これが意味するもの、即ち、詰みだ。

 肩の力を抜き、立ち上がる。

 背後の敵か味方か、どちらも分からないもの、振り返りを見据える。

 

「その両足で立てるという事は、壮健であるということだな」

 

 見惚れてしまう少女がいた。

 小柄な背丈、長い艶やかな黒髪、花葉の瞳があった。

 着飾った西洋チックな和服を着て、その上に赤音が着ていた朱の小袖を羽織っている。

 自信に満ちた貌は少女の歳には不必要な力がある。

 中身は兎も角、外面は万人が美を感じよう。

 

「その小袖は俺のだ」

 

「ん、ああそうだな。ほれ」

 

 着ていた小袖を脱ぎ、投げて渡される。

 受け取り、擦り切れが無いかを確認した。

 この小袖は赤音には少々大きすぎる、裾を踏まぬよう歩きに工夫がいる。

 彼女は赤音と同等、もしくは下ぐらいの背丈だ、裾を擦られてはたまったものではない。

 

「裾など踏まぬ、私を誰だと思っている」

 

「誰なんだよ。あんた」

 

「なんだしらんのか?」

 

 知っていて当然のような口ぶりで少女は言った。

 生憎、謳う偶像(アイドル)や芸能事には疎い。

 ある程度名の知れた者でなければ、ぽっと出の新人は判らない。

 少女はふっと笑う。自信ありげに名を乗った。

 

「聞いて驚け! 私は織田三郎久遠信長。織田当主にして夢は日ノ本の統一なり!」

 

「......医者に罹ったほういいじゃねえかあんた」

 

 織田信長と名乗った少女。

 織田三郎信長としっかり調べて名乗るあたり、かなりの入れ込みようがわかる。

 しかし久遠とは何だ?

 

「い、金創医に罹れとは何事か! 私は体のどこも患っておらぬぞ!」

 

「頭をやっちまってるっていってんだ! 本名名乗りやがれ本名を!」

 

「私は織田久遠だ! 織田久遠の何者でもない!」

 

 まるで埒が明かない。もうこの際、名など聞くまい。

 しかしだ。

 

「俺の刀はどこだ」

 

 こればかりは取り返さねばならない。

 半身を失ったまま、生きることなどできぬ。

 

「お前の刀か? えらく刃毀れしておったのでな。砥師に渡しておる」

 

「おい! 何かってに――」

 

「武士の魂を他の手に渡すのを不安に思うのは判らんでもない。安心せい。腕は確かだ」

 

「その間、丸腰で過ごせってのか!」

 

「不満か?」

 

「当たり前だ」

 

「しかたない。上がれ、そこに居られては何も出来ん」

 

 そういい赤音を座敷へと手招く。

 “かぜ”をこのまま捨て置く事もできない。

 今は従う事しか赤音に選択肢はなかった。

 座敷に上がる。

 俺が寝ていた一室、床板に置かれていた一振りを渡してくる。

 

二刻(よじかん)はこれで我慢せよ。何せお前は刀を雑に扱いすぎておる。研ぎにも幾日も掛かっておるわ」

 

 確かに“かぜ”は長い間、酷使し続けた。

 言い訳をするならいい砥師との巡り合わせが悪いせいだ。

 

「ところで、だ」

 

 久遠という少女の目は輝いた。

 その眼は探求者の、というよりは子供の好奇心に似た目である。

 

「お前が居ていた南蛮着はどこで手に入れた。あれほどの良い生地、仕立て、早々お目にかかれない」

 

 珍妙な事を聞いてくる。服などどこでも手に入ろうものを。

 質問という嵐は続く。

 

「その小袖もそうだ。そのように色鮮やかな赤は見たことない、柄も牡丹にさまざまなものがある、機織も苦労しただろう、誰だどこより手に入れた」

 

「いや、ちょっとまて――」

 

 怒涛の質問攻めの意味が一つのわからない。

 第一に、この娘の言うものは街に出ればいくらでも手に入る。シャツとて大量生産品を着ている赤音にとってこれほど馬鹿げた質問はない。元禄小袖形式の小袖は多少値が張るが金を出せば手に入る。

 

「それにこれだ、この板はなにに使うのだ。開いたり閉じたりするが?」

 

 彼女は袖より携帯電話を取り出した。

 掛ける相手はすでに世を去った、なることの無い「折りたたみ式の携帯電話」だ。

 ついに赤音の疑問、というよりは違和感が噴出した。

 

「携帯電話だろ。持ってねえのかあんた現代人なら知ってんだろ」

 

「けーたいでんわ? なんだそれは?」

 

「はぁ!?」

 

 おしかしい。

 おかしすぎる。

 この娘はあまりにも、あまりにも。

 ――無知すぎる。

 知っていて当たり前のことを知らない。

 情報溢れるこの現代でここまで物を知らない人間は居ない。

 思わず頭を抱えてしまう。

 

「おい、どうした?」

 

「あんたが物を知らなさ知らなさ過ぎるんだよ。人か? 人なのか? 擬似科学(サイエンス・フィクション)の怨念的亡霊が俺を異空間に幽閉したとか言い出すなよ」

 

「お前の言っている意味が汲み取れん」

 

 取りあえず、今が何時か、ここがどこかを赤音は知りたかった。

 部屋を見回すが、七曜表(カレンダー)なし、時計すらない。

 

「おい、今はいつだ、何月だ」

 

「今か? 今は五月、桶狭間の戦よりお前はちょうど一週間寝ておる」

 

「は?」

 

 桶狭間の戦――名古屋、永禄3年5月19日、室町時代に起きた戦だ。

 いやいやそれ以前にだ。この娘はこの様な虚妄をよくも平然と言ってのけるものだ。

 

「いい加減にしねえと叩き切るぞ? 本当はいつだ。ここはどこだ」

 

不明(わけわからず)な奴だ。時は五月、週は四つほど跨いだ」

 

「ッ、いい加減に――」

 

「場は尾張清洲。我が治める城下町でここは我の屋敷だ」

 

 その眼には嘘偽りの色は一切と言っていい、映っていない。

 その回答に身震いが起こった。

 もしだ。もしこの娘が嘘偽りを一つも言っていないのだとしたら。

 俺自身今どこにいる(、、、、、、、、、)

 足が震えそうになる。少女への鈍痛のような怒りは、突如にして心の均等を失わせる地獄の声に聞えた。

 赤音はとうとうその部屋を飛び出した。

 襖を突き破るように、激しく開け玄関を探す。

 部屋を跨ぐたびに時計、テレビ、電気を使う家具を探すが見当たらない。

 どこ行こうとありはしない。

 部屋を越すたびに、襖を開けるたびに赤音の不安は募る。

 

「? あなた、ちょっと。きゃあッ!」

 

 すれ違い蝶の髪飾りをしたの娘にぶつかるが相手にしていられない。

 普段では起こりはしない息切れが起こる。過呼吸気味に息を吐き、空気を肺に取り込む。

 玄関が見え、なんてでかい館だ。心で愚痴り走り外に出た。

 皮履きと草鞋が共に並んでいる、が履いているいる時が惜しかった。裸足で飛び出した。

 門扉を荒々しく開け。――ついに理解する。

 草鞋を履き、質素な着物。

 刀を挿す男児は髷を結い、建物は日本家屋のみ。

 車も、路面電車も、電灯も、アスファルトも、現代のモノが何一つ存在しない。

 赤音はこの現象をテレビドラマで見たことがあった。

 シケた芸を見せられ唾を吐き掛けたかったが、内容(ストーリー)は印象的であった。

 そうそれは、現代人が過去に飛ぶと言う、時間旅行(タイムスリップ)的内容であった。

 

「シャレんなってねえよ!!」

 

 赤音は叫び声を上げていた。




誤字脱字報告。感想、意見、要求などはどんどん受け付けます。


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歪な成立ち

「気を確かに持て。命あれば何とでもなる」

 

 織田久遠の慰めが、赤音の心に刺さるようであった。

 赤音は織田久遠の屋敷に連れ戻されていた。

 外の風景を見て、半ば絶望し、膝を突き空を眺めていたのが余程無残に見えたのだろう。

 

「貴様は五体満足で生きておるではないか。何故そこまで落ち込んでおる」

 

 落ち込んで当たり前である。

 赤音は理解した。理解してしまった。

 この時代は、室町時代。俗に言う下剋上の世なのだ。

 まるで、ここの居る時代に居ることを実感できなかった。

 滝川商事の社長室で寛いでいるようにも思える。

 すでに滝川のビルは、赤音が矛止の会に売り、存在しないのだが。

 

「......実感でねぇ」

 

 うわ言のように赤音は呟いた。

 己は今、戦国の世に居り、目の前にいる少女が織田信長なのだ。

 酒の狂言にはなろうが、実際問題は大事である。

 無駄な思考が多すぎる。物事を整理しよう。

 第一に赤音は今、過去にいる。来た方法などは恐らく現段階では見つけられないだろう。

 第二に目の前にいる娘は織田信長だという。性別が逆ではないか。

 これは赤音の居た2005年代で性別の記録が逆転したのだとしたら納得はできよう。

 前田利益の性別は女性であるという説もあるぐらいだ。立場を見据えれば男性であったほうが有効に物事は運ぶ。

 第三にだ。何故、赤音はその織田信長の屋敷にいる?

 整理をつける度に、不明な点はいくつか明白にはなった。何時までも取り乱すものではない。

 だが、

 

「わけがわからん」

 

「なにがだ?」

 

 顔を覗き込む娘に猜疑的な視線を向けるしかできなかった。

 

「何だその目は」

 

「お前が織田信長だと信じられねぇ」

 

「っ、(いみな)を呼ぶとは無礼であろう! 我のことは織田久遠と呼ぶが良い」

 

「はぁ?」

 

 別名と、久遠を抜いて呼ばれるのは無礼だそうだ。

 真名――この見知らぬ世は霊的人格と名を結びつけて考えているそうだ。

 武の礼法以外知らぬ赤音にとって、然して問題ではない。しかしながら、礼法は人を金型に納める方法としては最も有効な手段であり、それを逸脱するものは総じて爪弾きに遭う。ある程度は赤音の知る著名人の呼び名は控えたほうがいいと判断する。

 

「お前の名を聞いておらんな。なんと言う」

 

「武――」

 

 舌先まで己の名前が出ていたが言葉に詰まった。本当に言っていいものか。

 武田赤音。

 赤音の名は兎も角、家名に問題を抱えていた。

 武田――この時代ではビックネームだ。武田家の者と勘違いされてもかなわない。

 この時代、百姓は姓を持たないという事は多々あったそうだ。

 

「赤音」

 

「赤音か。女子のような名前だな」

 

「言うな」

 

 当分の間は武田の名は伏せておいた方が得策だと思われた。

 

「赤音よ。今後はどのように暮す。腕に自信はあるように見えるが、どこぞに仕官するのか」

 

「充当に行けばそうなるな」

 

「デアルカ! ならば赤音よ。提案する我の家臣とならぬか」

 

 夢のようにトントンと物事が進む。

 だが、赤音も莫迦ではない。百万円当選しました口座番号を教えてください、と言われても誰も教えないと同じだ。いい話には大方相手側に徳がある。

 

「住む場も、飯も、金も、我が工面しよう。そのように美しい小袖は用意できぬが着る物も用意しよう」

 

 魅力的な提案だ。

 ここままでは滝川に居たときとはなんら変わりがないが。今度は警護兼愛人ではない、家臣だ。

 家臣となるという事は刀を使う。刈流兵法中伝ではあるが赤音には即応能力と場数がある。本物の「戦」にも役立つだろう。伊烏を討ち果たした世界で生きるにはちょうど良い口実だ。

 笑っていた。頬を吊り上げ、三日月型に口を歪め、剣鬼の憫笑を「久遠」と名乗る少女に向けた。

 毒を食らわば皿まで――腹を切ろうと、己を知る者すべて滅殺しようと、赤音の脳裏にはそれはある。両手を血で濡らし、心部の恥を雪いでいた。穢れは呑み過ぎた、腹を下すこともなかろう。

 

「まるで鬼の面構えだな」

 

「お前は鬼を従えるのか?」

 

「馬鹿を言え、我の配下には人しかいない。貴様も人だ、人であるから我は軍門の誘うのだ」

 

「いいね。お前みたいなのは今まで逢ってこなかった。――仕官してやるよ」

 

「そうか! ならば披露だ! 日取りは何時にする明日か明後日か。我は早期に終わらせたいのだが」

 

「任せる」

 

「そうか、ならば明日だ!」

 

 まことに忙しい娘だ。

 何事かを言っているが、赤音の耳には入っていなかった。

 刀を握り人を斬る――赤音にそれ以外の意味はなく、それ以上にもそれ以下にもなる気はなかった。

 愛刀ではないが腰に挿した柄頭を握る。新たな世界、新たな意味。

 己の意思で駆動するのではない。他人の意思で駆動するのだ。――真の意味で刀になるのだ。

 しかしながら心の奥底には突っかかりがあった。

 人としての意思が物に成り下がるを否定している。それと同時に得も言われぬ渇望があった。

 情欲にも似ている。

 伊烏、伊烏、嗚呼、伊烏。お前はどこまでも心を焦がしてくれる。

 死していようと、屍人は同じ空の下で息をしているように感じられる。

 

「――だ。我はまだ公務が残っておる。夜には戻る、そのときはその小袖やほかの事を教えてもらうぞ! 絶対だぞ、約束だからな!」

 

「はいはい」

 

 外見だけ成長した子供のようだ。だが今この時本日を持って赤音の仕手だ。

 縁側に出て蒼穹を眺めた。どす黒い剣鬼は戦国の地でも健在であった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 夜の帳はとうの昔に下りていた。清洲城の一角で久遠は公務を終わらせてた。

 赤音――田楽狭間に現れた、織田でも、今川でもない野武士。

 異装の出で立ちの中性的な青年。年齢は恐らく久遠より上。

 久遠は公務の最中も、赤音のことを考えていた。それは男性的魅力からくるものではない。ただ純粋な子供心からの好奇心と、君主としての人の本質を見抜く特性からだった。

 長穿き(ズボン)や革履きは南蛮由来の製法で作られているが。あのように完成度の高いものはない。

 南蛮狂いとまで云われる久遠だから分かる。あのようなもの誰も作れない。

 小袖も然り、柄も造りも、生地でさえもこの世の物とは思えない。物としての完成度がこの世界の基準ではない。

 天上人――その単語が浮かぶが、君主の特性はそれを否定した。

 赤音の本性。

 あれはすでに空っぽだ。精魂のすべてをどこかに棄てて来てしまっている。

 織田に仕官したのも恐らくはその埋め合わせに過ぎない。

 純粋な剣鬼――刀である事が存在理由。

 刀は武士そのものであり魂。悪く言ってしまえば人斬り庖丁だ。

 そんな刀にあれは、赤音はなっている。そんなもの人のあり方ではない。

 万民を照らす異端児(きりんじ)にとってありえてはならない。

 赤音を、人に戻さねばならい。それが君主の役目であり務め。

 

「久遠様」

 

「壬月か。入れ」

 

 暮夜近い時に久遠を尋ねてきたのは、家臣の一人。

 柴田壬月勝家。

 信頼の出来る家老であり、真面目一本の硬派の武人。

「鬼柴田」の異名を持ち、戦闘面でも役に立つ。

 壬月は左手に提げた、一振りの刀を置いた。

 

「おお、待っておったぞ。二刻かと思ったがなえらく掛かったな」

 

「刃毀れ、多く見受けられたとか」

 

 壬月はそういい座った。

 

「ん? どうした?」

 

「あの者をお手元に留めておくおつもりで」

 

「ああ、なかなか面白きやつよ。剣の才もある」

 

 壬月は沈黙した。そして言った。

 

「あの者は即時放逐させるべきではありませんか」

 

「なぜだ。あのような者沿うそういようものか。――一応は訊く。話せ」

 

「......久遠様はその刀を見ましたか」

 

「透かし見程度だがな。なかなかの物だ。二尺三寸三分鎬造り。赤音に合わせた良い刀だ」

 

「これを砥師に渡す際、刀身を見ました。背筋が凍えましたぞ」

 

「なぜだ?」

 

「これは人斬りの刀です。物打に寝刃が付き、化粧研ぎは皆無といっていい、ふくらに付いた欠けは骨を両断した証。男娼(ツバメ)が持つには物騒なもの。......申し上げます、田楽狭間に居る前、彼奴は人を斬っておりまする。あのような者をお手元に置くのは危うきかと」

 

「鬼柴田ともあろうものが“男娼(ツバメ)”ごときを恐れるとは、珍しい事もあったものよ」

 

 久遠は笑って見せた。

 壬月は眉を動かさず、ただただ主のお側を憂い警戒を強め沈黙した。

 あの男は居てはならない――久遠の側近くに置けば、妖魅の毒娼は久遠を、織田家を滅ぼす。

 長年の武士としての勘が、生存を叫ぶ動物的直感が、異物として赤音を捉えていた。

 なんとしても家を、国を、同志(なかま)を護らなければならなかった。

 しかし、君主はその毒を良薬に作り変えようとしていた。

 それ自体はいいことだ。だが今回は作り変える毒が悪すぎる。

 煮ようが焼こうが、叩こうが引こうが、どうにもならない。誰も変革を起こせない、すべてを否定し、嘲り、斬り捨てる。完璧に孤立した一つの存在。

 人間世界のはみ出し者。

 壬月には赤音がそう見えて仕方がなかった。

 長い沈黙を破り壬月は云った。

 

「久遠様。あの孺子(こぞう)めと、真剣を用いた御前試合の許可を戴きたい」

 

「ほう......物々しいではないか。我の心眼を信用できぬか」

 

「そうは申しませぬ。奴が私の警戒心に触れるものか、それともただの男娼(ツバメ)か、区別いたしく」

 

「......ふっ、ふはははははは。嗚呼、お前がここまで頭を下げるのは久しく見ないな。そうまで頼まれれば断るわけにもいかぬ。良かろう。その御前試合、我の屋敷の庭を使え」

 

「はっ。日取りは何時に」

 

「そうだな...明日だ。家老たちに披露すると同時に、赤音を我の『一応』の夫に立てる」

 

「なっ!」

 

 あまりにも乱暴な決め事であった。

 夫。髪上げ(せいじんのぎ)を終わらした久遠で家を護ると同時に、家督を継がせる者を孕まねばならなかった。その相手が決まる事自体は指して問題ではなかった、本来なら手放しで喜び、祝宴を開いていただろう。

 だが今回は違う。どこの馬の骨とも知らぬ男を夫に、そしてそれは「一応」の夫なのだ。

 外より見れば問題だ――織田の棟梁は男娼(ツバメ)に誑しこまれた。面子に拘る問題だ。

 

「お待ち下さい! そればかりは、そればかりは踏み留まりを!」

 

「何だ壬月? 我が嫁ぐのは悲しいか」

 

「悲しい悲しくないの話ではございませぬ! 出自も分からぬ者を家に取り込むなど持っての外! それに久遠様は一応の夫と申された。側室を設けられるのは男のみ、女人が男を囲うなど聞いたこともございませぬ!」

 

「だから我がその始めてを開拓するのだ。なに、本当にやつの子種を貰い受けるわけではない。力で我を物としようものなら主らが成敗しよう」

 

 久遠の云うとおり主に何かあれば即座、家老共が赤音を切り殺そう。だがそれ以上の憤りは主の奔放さだった。三馬鹿ならいざ知らず主に手を上げるほど、壬月も愚かではない。しかし誰ぞを正す方法など拳骨以外知らぬ。

 ただ臥して、考えを変えていただくよう頼むのみであった。

 けれども今回はあの男娼(ツバメ)の手綱を握れる機会が与えられた。

 明日の御前仕合。手加減は不要、死せばよし、死さずとも奴の思いの刀はへし折れる。

 武者の闘志が煮え湯のように滾る。久遠はそれを見抜いている、主のために身命を捧げる家臣を邪険にも出来ないことは壬月は解っていた。

 すべての配下の者の為、あの男には忠義心の人身御供となってもらう。

 壬月の思考が纏まりだした時、凶報が訪れた。

 慌しい足音とともに家老の一人が襖を開けて入ってきた。

 丹羽麦穂長秀。

 織田家家老の一人で、壬月と並び立つ双竜の一匹である。

 余程焦り走ったのか頬に白露のような汗が流れていた。取り乱す事とは無縁の麦穂にとってそれは珍しい事この上ない。

 

「何事だ。麦穂」

 

 久遠もそれは感じ取っていた。何かが起こったと。

 

「申し上げます、鬼の襲来です」

 

「......ほう、壬月」

 

「はっ」

 

 立ち上がった壬月。その思考にはすでに赤音という存在はなかった。

 主に害を生す害獣を処断するのみ――一個の荒武者(キリングマシーン)がそこに居た。

 もとより重い空気があったその場に、更なる重みが圧し掛かる。

 

「金剛罰斧をここに」

 

 声と共に侍従たちが得物を持ってきた。

 それは到底、人が扱いきれぬ超重量の戦斧であった。

 握り柄と刃が同等の長さを持ち、刃の厚みは常識を外れていた。

 常人ならば持ち上げる事すら出来ぬ斧を、壬月は掴み――持ち上げた。

 

「行って参ります」

 

「行って参れ、吉報を待っておる」

 

 戦斧を担ぎ上げ戦地に赴く、古来より受け継がれる鬼退治だ。

 鉛のように重い空気を佩びる壬月の背は――酒天童子を屠った坂田金時と同じ英雄の覇気があった。




次回、戦闘描写を書きます。奈良原さんのような忠実でリアリティー溢れる剣術描写は出来ないと思いますがご容赦を。

誤字脱字報告。感想、意見、要求などはどんどん受け付けます。


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魔剣再眼

運珍改め、我楽娯兵という名前に改名いたしました。以後よろしくお願いいたします。


 口元に紅を塗りたくり、口いっぱいにご馳走を頬張る。

 腕も紅と同じ色になるが濯ぐ気にはならない。一刻も早くこれを食べなければならない。

 仲間に取られるよりも先に、ご馳走を平らげよう。獣のように貪り食う。

 腕の爪を器用に使い、刺し切り、食べやすい大きさにする。人の口には入らない大きさではあったが難なく口に入る。

 なんて旨い生肉だ、猪や鹿でもない。

 それは肉の味は知らな過ぎた。この様な旨い者は食べた事はない。腕が更に伸び、腹が裂けてしまうのではないかと思うほど押し込む。しかし、飢えは衰えるどころか増していく。

 腹が減った、誰か、肉を、肉を肉、肉、肉肉肉肉肉肉肉。

 何故だ、人間はこの飢えを知らぬ。恨めしい、嫉ましい、憎い、辱い。

 同じに、同じになればこの飢えを知り、共に飢えを共有できる。

 する気が無いのなら、餌となれ。

 夜町に一際大きな咀嚼が鳴り響いた。骨を齧り、睾丸を噛み砕き、足を引き裂く。腸の中に詰まった汚物でさえ旨い。留まらない食欲に突き動かされ下半身を食べきってしまった。

 どうしよう。また飢えてしまう。この上半身を食べてしまえば耐え難き飢えに苛まれる。

 

「Gaaa....」

 

 それは唐突に匂った。

 なんと芳しい匂いか――ほどよく脂が付いた肉の匂いだ。

 口より溢れ出る唾液。匂いに釣られ、それを辿った。歩いていたが、次第に歩幅は広がり最後には走っていた。

 荷車を刎ね倒し、生垣を飛び越え、屋根を駆けその匂いの元を見つけた。

 心が奪われる。

 なんと。

 なんと美しい餌か。

 朱い小袖が映える娘のような青年。衿より覗くうなじは淫靡な輝きを有し、淫猥な色香を漂わしている。

 微かに残っていた理性が、真の意味で「消失」した。

 最後に残ったのは、理性を失った何かであった。

 

 

 

 

 眠りと着いた町に剣鬼が走る。

 清洲の町を、急ぐ剣鬼は半時ほど前、織田の屋敷を抜け出していた。

 笑みを浮かべながら、赤衣を身に纏う剣鬼の疾走は加速する。

 軒先を過ぎる度に、風の流れを感じる度に、赤音の居た時代と違うことを実感させられる。

 町の就寝。一個の意思生命として機能する町は細胞ひとと同じように休息を必要としている。

 心臓のように絶えず動き続ける東京府と違う。人の意識を模る清洲の町。

 新鮮な感覚だ。すべてのモノが眠りへとつき、あるのは寝息と、夜行の獣の吐息のみ。

 足を進める歩調は音楽を刻むように、テンポよく進んだ。半身が戻るのだ、誰しもが嬉しくはなろう。己の手足、己の臓腑、己の性器、己の魂――あらゆる物に形容できる。武田赤音という憑代。

 一輪光秋“かぜ”――半身の名前であり、己の名前。

 刀の自分が融合を求める。

 応じよう――お前は俺だ、俺はお前だ。愛する者の一切を無残に斬り捨てる悪鬼だ。

 疾駆は更に速さを増し、夜中の黒暗に赤は溶ける。

 風の口笛を耳に感じ、赤音はかなりの速さで走っていることが分かった。

 このまま地を蹴れば、俺は飛翔できる――そう確信できた。まるで、奴の業のように。

 だが、そのような事はありえない。あの業は赤音の剣ではない――伊烏義阿の魔剣だ。

 疾風となった剣鬼は、疾走の最中も熟考していた。恋焦がれた復讐鬼、同じ剣鬼。

 伊烏に赤音は焦がされ続ける。宿命であるかのように。

 宿命であるのならそれは喜ばしい事だ。運命の赤い糸ならぬ、運命の復讐剣だ。

 しかしながらその復讐剣はすでにこの世を去った。――いや、生まれもいない。

 親も、その親も、更にその親も、生まれた痕跡すらない。

 過去――戦国大乱の世。赤音が降り立った歪みの世界。

 日本という明確な国が確立していない島。剣鬼の宿りは誰か知る。

 

「......?」

 

 ふいの視線が赤音を突いた。

 気を佩びた視線は、赤音の一点に注がれている。

 眼は口ほどに物を言うが、視線は熱のように空気を伝う。この視線は慣れ親しんだもの。

 驚きと害意が含まれたもの。疾走は止まり、あたりを見回した、何もいない、何もいやしない。

 夜目となった眼は、眠りへと落ちた体内まちを見回した。茶屋、住居、鍛冶屋、金物屋、一発屋。人の色が染み付いた建物から、ただ一点のみ悪意が溢れていた。

 

「ッ!」

 

 にわかにそれは飛来した。

 血の飛沫散らし、赤い驟雨が土を湿らせた。

 反射的にその場から飛び退く。それは慌しい着地音と共に現れた。

 夜陰の衣で偉躯は覆い隠され、感じ取れるのは僅かな感覚器官だけ。唸り声、糞尿と死にたての死体の香り。吐息の一つが鼻を潰し、硬い骨同士がぶつかる音が耳を狂わす。

 暮夜の薄暗がりにうっすらと見える輪郭は人の影とはかけ離れている。

 獣とも人とも思えない、それは月明に曝され、醜悪な形姿を赤音の前に現した。

 鬼がいた。

 血色の悪い灰色の肌で、爪とも手鉤とも分からぬ腕が伸びていた。

 裂けた口から生える野性生物を思わせる牙、その隙間より溢れ出る悪臭漂う唾液の滝。

 視線は睨みで人を殺すように、明確な害意を孕む。そのあり方が、その存在が人を喰らう妖。

 現に鬼は食い残しを食みながら、赤音を見ていた。

 食い残し、残飯、人の破片――下半身のない腸を垂らした遺体。

 驚愕の顔が赤音を見ており、鬼はその顔を噛み潰す。

 ぎょろりと目玉が運動する。黒目のない混濁した目玉は捉えている位置すら確認できない。

 しかしながらその瞳には決定的に人を餌と見る色がある。誰しもが一目で分かろう。

 これは人の意思より生れ落ちる鬼ではない。真正の「魔」より産まれる鬼が目の前にいる。

 

「Gaaaaaaaaaaaaa!!」

 

 鬼の叫びは暗黒に染まる町に確と響く。

 肌が、眼が、腕が、脳が、意識が、細胞が――赤音を形作るすべてが震えた。

 敵だ、赤音の体は瞬時に脳から反射神経に体運動を明け渡していた。

 咥えていた食い残しを吐き棄てた鬼は、新たな餌、赤音に向かい驀進する。

 猪突猛進――走り突っ込んでくる。

 ただその初速は人の脚力とは全くの別物。

 眼を見開き、赤音の即応能力が無ければ、一介の武士ならば熨され、鬼の突撃のまま民家の塀にへばり付く染みとなっていただろう。

 赤音は見事に避けて見せた。背筋に伝う、一筋の冷たさに身を震わせながら。

 鬼は腕を振り上げる。赤音がすでに腕の斜線上にいないことも知らずに、振り上げた鋭利な爪を振り下ろす。

 避けるまで背にしていた塀が、厚紙のように裂かれてる。

 塀の素材は木製であったが、それとて馬鹿には出来ぬ材料である。木は脆い、繊維に沿えば。

 縦に伸びる繊維に沿えば難なく切れよう、だが横に、斜めにとなれば抵抗は数段階飛躍する。

 鋭利な日本刀であろうとも、何回も木材を切れば諸刃になる。

 切断器具の素材で金属と肉体形成物を比べるのは馬鹿な話ではあるが、鬼はその膂力のみで、板を枷ねた塀を両断して見せた。

 力任せの棒振りで木材両断。もしあの木材が赤音であったのなら。ぞっとしない。

 鞘を握り、鯉口を切る。月明かりに照らされた白刃は青白く輝き、鬼の目を刺激する。

 刀を担ぎ上げる。

 指の構え――薩摩示現流の「蜻蛉の構え」と同じ線上の理論で構築された構え。

 上段より振り下ろす行為に特化した構えで、ただ振り下ろすという行為を、敵の防御を無効化するだけの速度と威力を持たす至極の一閃に昇華させる。薄く、長く息を吐き赤音は鬼の姿を見据える。

 

「Gaaaa......」

 

 小さな唸り声。

 果たして思考薄き妖に、人間を斬るための剣術が通用するのか。

 

 

 ――然り。

 

 

 それが人型であるのなら、頭があるのなら、命を有しているのなら。斬れぬモノは無い、一刀にてすべてを奪い去ろう。曖昧で視線の先も定まらぬ鬼。先行したのは鬼。

 この鬼に正常な判断はあるのか、赤音は賭けに出た。

 身を屈め、腹を隠すように赤音の懐に飛び込む。右腕がうねり大鎌のうような削ぎ落しが胴を狙う。

 右足を強く踏み込み、指の構えより一閃が放たれる。赤音はまず、鬼の右腕より振るわれる削ぎを切り落とす。

 本来ならば「袈裟(左肩より右脇までの線上)」を狙う所だが、体格の差、屈み姿勢である鬼に狙うのは危険に思えた。何より鬼の武器は刀ではない、両腕に付く手鉤だ。

 手鉤の二振りを怪力で振り回されれば、赤音でも凌ぎきる自信は無かった。安全策を取る。

 右手鉤と刀が接触、刃鳴の音は聞えず、鳴ったのは樹木を叩く音であった。それもそのはず爪は繊維状のタンパク質であり木材と似ている点はある。

 しかしタンパク質で構成されている爪は本来、狩りなどに使われていたもの、鋭利に研ぎ澄まされ、斬るというよりは抉り取ると表現したほうが良いだろう。人とは逆行している存在である鬼には必需品。振り下ろした刀は微かに鬼の爪を刀は削ぎ取った。刀の切り落としにより急激に右手鉤の軌道は変わり、地面に深々と刺さる。

 風の咆哮――左手鉤が横薙ぎに振るわれる音であった。

 

(――来た)

 

 赤音の予想は的中した。

 先程の一刀――この一撃は鬼に正常な思考能力が無い事を前程に振り下ろしていた。

 剣術を知らぬ者でも、指の構えを見れば誰しもが分かろう。それは振り下ろしに特化した構えであると。無謀にも突っ込む輩が居れども、突っ込み方というものはある。

 大抵の者は、頭上に刀を掲げ叫びを上げ死地に踏み入ろう。刀一本とは限らぬが、知らぬ輩ならば切り上げ、横薙ぎの発想には無いだろう。

 しかし、この鬼は横薙ぎをした。

 一見して剣術に知識を有しているように思えるが、これはただ単に餌を目掛けて飛んできた犬の思考に近しい。犬の武器は牙しかない。噛み付くことしか出来ない。

 これと同じで、胴を切れ取れば人は死ぬ程度に見ていたのだろう。

 このように単純な思考と行動ならば、二の太刀の予想は容易だ。

 最も運動効率のいい方法で、相手を殺傷する――同じように横に凪ぐ切りが来る。

 馬鹿な生物。

 赤音は心象で嘲る。

 先を狙い、切り返す。右足を軸に左足を踏みこむ。

 刃は逆転し、地から天に向けらえる。白色の一線が鬼の左肘ほどに刃は斬りこまれる。

 腕が宙を掻きながら飛んでいく。

 切り上げた状態から体を反転させ、鬼の背後に回りこむ。

 赤音は思わず顔を顰めた。切り口より噴火のように溢れ出る血が、まるで出ない。

 出るのはどろりとした凝固した赤黒い血塊。鼻を刺す表現の出来ぬ悪臭。

 刃を通して感触も、肉を切り骨を断つというよりは、僅かに水を吸わせ硬い絞った脱脂綿を斬っているようである。この感触は覚えがある――死す直前、もしくは死した者を切った、死体の感触だ。

 

(こいつ――死んでいるのか?)

 

 やにわに赤音の視界に映る鬼が、死んで間もない新鮮な死体に写り変わった。

 それは幻視であった。剣士として、切った者が、切った感触が脳で再構築され、これは死体であると伝えていた。なにを馬鹿なことを云う臓器だ。これは、この妖は動いているではないか。

 この際、すでに赤音の思考は脳の認識とは真逆に考えていた。動く死体などありえない、動く者、害生す者、即ち生を持ちえている。尚且つ、己の行先を邪魔するのであるなら。

 それは兇賊の何者でもない。

 

「Gaaaaaaa!!」

 

 痛みによる絶叫か、それとも憤怒による咆吼か、区別も付かない叫びが絞り出される。

 細胞がすでに限界を超え、喉より血を吐きながら鬼は赤音と対峙した。

 獣としての意地か、それとも愚鈍となった愚かな判断かは分からない。

 

「Gaaaaaaaaaaa!!」

 

 隻腕となった鬼は踏み込んだ。

 最後の抵抗だ。言語は通じず、互いを斃すという共通の感覚のみが両者を繋いだ。

 身を低く駆ける鬼は先程と変わらない。同じ横薙ぎがくる。

 ならば応じよう。

 赤音も同じように指の構えより振り下ろす。

 しかし先程とは狙いが違う。

 狙うは爪ではなく、小手――二の太刀にて切り上げる。

 

 ――小波

 

 心の内で剣術の名前を呟いた。

 右手鉤の根元、手首に当たる部位に刃は切り込まれた。

 手首を切り抜ける刀を、反転させる。

 

(獲った)

 

 そう、獲っている。

 

(お前は、俺にとって道端の石ころだ)

 

 そのはずであった。

 

 

 ――赤音が鬼の武器の数さえ間違えなければ。

 

 

 

「ッ!!」

 

 獣に武道を問うのがまずはじめの間違いである。

 知性というものを持ち得ない獣には、恥というものも無い。

 鬼は、その口に並ぶ鋭利な「牙」で赤音の命を刈り取りに掛かった。

 瘴気を放つ鬼の口からは、死者特有の肉の腐る匂いが漂っている。

 両腕を失った鬼は前のめりで噛み付きに掛かった。

 距離はすでに詰められ、左足を踏み込んだとても、刀に殺傷に必要な速度が付かない。

 ――噛み付かれる。

 直感的に理解できる。――避けようが無い、噛み付かれる。

 

 花

 散

 ら 

 す

 風

 の

 宿

 り

 は

 誰

 か

 し

 る

 

 清洲の町に突風が吹き荒れる。

 風は空へと吹く――赤音は思い出す。その技を、その魔剣を。

 

 

 ――我流魔剣 鍔眼返し。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「今の、鬼の叫びか!!」

 

「市の方です! 誰かが襲われて居ます!」

 

 金剛罰斧を担いだ壬月と、その後を追う麦穂達の表情は焦りが窺える。

 鬼の成敗を掲げ、目撃場所に到着した二人が見たのは、食い散らかされた遺骸。

 鬼は何処ぞに霧散していた。探す手立ては、散った血痕と、微かに匂う鬼の瘴気。

 二人は町中を走り、その内にある一角が尋常ならざる剣気を放っている事を察知した。

 戦場特有の、というよりは命のやり取りの場。その空気が町を凍らせていた。

 大道りより、剣戟の音が聞える。

 鬼の叫び、肉を立つ音、血を吐く音、にじりの音。

 鬼相手に優勢を保っているようだが。――甘い。

 微塵に砕かなければ。奴らは臥さない。

 

「壬月さま。この通りの向こうです!」

 

「承知した!」

 

 町角を曲がる瞬間、突風が生じる。

 その風は季節を外れた強風であった。塵が舞い、眼が自然と閉じてしまう。

 閉じた間に、生命を断つ音があった。

 強風は途切れ、静寂が訪れる。

 瞳を見開き、警戒を強めた壬月は金剛罰斧を構えた。

 しかし襲ってくる者はおらず。

 眼に映るのは誰よりも警戒した男娼(ツバメ)であった。

 血溜まりに臥すは切り伏せられた鬼。喉元をばっさりと切られ、うなじの皮が一枚だけ繋がっていた。

 鬼を見下ろすようにして男娼(ツバメ)は立っていた。

 刀がちらりと見え、この者が切り倒したことが分かった。

 顔が僅かに傾き、後ろを見た。

 憂いを佩びた表情に、小袖の衿は開け、月明かりに照らされた白い肌が輝いていた。

 その姿は強烈な妖美があった。




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織田館御前試合:序幕

 早朝の和庭で赤音は刀を抜いた。

 二尺三寸三分鎬造り、玉獅子目貫に刃文二重取り。

 僅かながら減量をして戻ってきた半身は、重みは違えど確かに――一輪光秋“かぜ”であった。

 織田館は騒音と言える騒音は皆無に等しい環境、鳥の(さえず)りと、水の潺々(せんせん)、日光のみが時刻を教える。近代的、いや、未来的なモノは何一つない。

 小さく息を吐く。時や時代をなど問ても、返ってくる返答は、物狂いと問い返すか、沈黙。

 過去への在居。

 己は未来人と云おうと、この時代、この世界にとって未来は一刻先かよくて一生。

 自身の死したその先は無い。果て無き時を夢想する、人生の暇はないのだ。

 それと同じで、赤音自身も余裕はない。居る筈のない、逆行などする筈の無い「時」を遡ってしまっている。余裕など疾うの昔に消え失せている。

 己の身一つ、刀一本で生き残る時代。銭は必要だが、21世紀の時代に比べれば重さはない。

 米と力、農法と武術――飯と殺しが、この時代の生きる価値。家族や親類、人間関係など後に付随するものである。

 本質を突き詰めれば、誰しもがそうに違いない。

 もし違うのであれば、それは過度に滅菌された環境で育ち、清く、正しく、拘束的な教えを受けているに違いない。それは最早人間とは程遠い。

 汚れ、歪み、拘束されずに居るからこそ、人は人らしくある。

 薄く細く息を吐き、踏み込む。

 笛のような風切りが鳴り、虚空を斬る。

 

 ――小波。

 

 脳内で術名を反復し云った。

 すでにこの教練は不要である。達すべき事は成功し、成すべき事は既に成された。

 魔剣の完成。

 武田赤音の、武田赤音しか使えぬ魔剣。一子相伝も出来ぬ、一代限りの絶技。

 一足踏みにして二太刀を放つ。荒唐無稽な技ではあり、誰しもが準える事が出来る形。

 何故それが魔剣と成ったのか。魔剣に成りえたのか、それは赤音自身の特質にある。

 即応能力――緊急時に際し、驚くなどと無駄なプロセスを赤音の体、脳は省く。

 瞬きや、瞳孔収縮、などは脳の別領域にやらせておけばいい。肉体を支配する反射神経の指揮下に肉体を隷従させ最適の行動を最速にて為す。タキサイキア現象に非常に近い先天的能力。

 これにより凡作の剣術は、魔剣として昇華される。

 その威力、その速度、その脅威はあまりにも絶大。最強に近い魔剣「昼の月」を失墜させるほどに。

 無人の庭に幻影が一つ。

 赤音の願望の結晶――己の焦がれた相手。切り殺した情愛。

 

(来い......赤音!)

 

 幻影が叫んだ。それは報復の剣鬼。

 居合腰で疾走する。赤音に向かい殺意を漲らせ、月は昇る。

 蒼天に昇る月は怪奇の証。いつ昇るとも知れぬ月は暗黒を纏い、夢想の先より這い出した。

 赤音は想う。

 幾度も斬ろう、幾度も殺めよう、それが願いだそれがお前だ。

 お前が俺を想い、俺がお前に勝利する。後を追え、追っている間は俺を想い続けるだろう。

 斯くも歪んだ愛ではあるが、俺たちにそれ以外の表現はありえなかった。

 お前が征き、赤音が待つ。

 いつも変わらず、そうあり続ける。伊烏、お前はどんな(きもち)を抱いていた。

 踏み込み“かぜ”が鳴る。花を散らす、風の音。

 焦がれた幻影は空を翔ぶ。天空に上った暗黒は、怪奇をものにした満月。

 鯉口より抜かれる刀の音がしっかりと赤音の耳に届いた。本当に鳴っているわけではない、幻聴だ。だが、赤音には聞える。

 あの月光に照らされた東京タワーでの死合い。伊烏との戦いの記憶が。

 空転し、放たれる兇刃。

 “かぜ”が吹き上がる――

 

「赤音」

 

「っ......」

 

 やにわに呼び声を聞き己の世界が閉じた。

 伊烏の幻影は陽光に溶け、刃は上がらず地を指し示していた。

 呼び声の主を見た。屋敷の縁側で赤音の主が居た。

 朝早く起き、眠気も取り切れてないのだろう。目許にはうっすらと隈があった。

 脇にはなかなかの貌をした侍女が控えている。主の久遠との仲はよろしく見える。

 寝床での相手も勤めているのか。邪な考えがふと浮かぶ。

 貌と体だけでなら、あれは赤音にも上物である。我ながら下世話な考えしか浮かばぬ。

 

「鬼を切った翌日も元気だな。よほどの剣鬼よ」

 

「鬼は従えねえじゃなかったのか?」

 

「真性の鬼と後天の剣鬼とでは性質が違おう。主は人だ、人だから家臣として篭絡したのだ」

 

「篭絡、ねえ...」

 

 あれを篭絡と呼んでいいものか。選択肢を絞られて、自身に有益な提示をされれば誰もが靡こう。

 刃を収めた。本差が戻った赤音は真の意味で無敵に近い。

 すべてを笑って斬り棄てる。それで構わない、今は目の前に居る織田久遠こそ赤音と云う刀の主なのだから。

 

「鋭き剣気を放ちよる。五人ほど相手をしても生き残りそうだ」

 

「武士道は死狂ひなり、一人の殺害を数十人して仕かぬるもの」

 

「数十人は行き過ぎであろう」

 

「試すか?」

 

 赤音は訊く。久遠は僅かにたぢろぐ。

 己では気づかなかった。久遠の瞳に映りこんだ己の顔。

 なんて顔だ――これでは鬼と同じではないか。炯炯と光らせた眼に吊り上がった口元。

 反射によりようやく気づいた表情に、誤魔化す様に口元を摩り隠す。

 悪い癖だ。あまり見せてよいものではない、内面が表に出てしまう。

 久遠が咳払いを一つ。

 

「赤音、行水をして来い。程よく汗もかいたでだろう」

 

「そう、だな」

 

 己を見下ろした。

 上半身を開けさせ、うっすらと汗が胸板を伝う。

 身に纏う直垂(ひたたれ)は鬼籍に入った久遠の父のものだ。

 久遠の言う通り、このままでは些か汗臭い。放置すれば異臭となるだろう。

 

「結菜。案内してやれ」

 

「分かったわ」

 

 久遠は後ろに控える侍女に命じた。

 侍女は静かに返答した。赤音を見た、僅かばかり懐疑的、と言うよりは嫌悪感の見える表情を覗かせた。

 

「赤音さま。こちらに」

 

「ああ」

 

 侍女の後に付いて行く。

 織田の館は非常識なほど広い。建築に措いて上に積む発想が皆無に等しいこの時代、権威を示すにはその概観と広がものを云う。時代の変化を大きく感じさせる一点の一つだ。

 機能を追及するあまり、冷たく、人工物的な印象を抱くビル群とは違うこと感じさせる。

 しかしながら武家屋敷はビルと同じく威圧を放つ一方で、内より見ればちゃんと人の住む家であることが分かる。木材と石材の違いなのだろうか、それともただ単に赤音の感受性が捻くれているからなのだろうか。

 そうこう考える内に井戸近くまで着ていた。

 直垂(ひたたれ)を脱ぎ捨て、縁側を降りる。

 全裸ではあるが恥じる事はなかった。幾人も女を抱けば恥も消える、見られて羞恥に染まる粗末なモノは持ち合わせていない。

 井戸水を掬い上げ、桶をひっくり返し頭より被る。

 凍えるような冷たさが肌を覆い、汗の臭気を洗い流す。

 再度、水を被る。長い髪より水が滴り落ちる。頭を僅かに振る、犬が雨水を払うように水が散る。

 屋敷に戻るが、着る服と体を拭く布が無い。

 どうしたものかと考えていた。ふと背を撫でる感覚があった。

 

「動かないでください。水を拭きに苦うございます」

 

 それは久遠の脇に控えていた侍女であった。

 亭主関白を是てしているかのようであった。ふと思えばこの娘は昨日取り乱し突き飛ばした娘ではないか。

 気立ての良い娘だ。しかしだ役割に准じてはいるが、その顔は赤みを佩びている。

 

「未通女か」

 

 赤音は躊躇い無く聞いた。

 

「......はい」

 

 背は拭きり終わった。後は前だけ。

 生娘に陰部を拭かせるほど、悦に浸るほどの余裕は今は無い。

 侍女の手拭いを奪い取る。

 

「...あっ」

 

「未通女にモノを拭かれる程幼稚じゃねえよ。俺の服はどこだ」

 

「...ここに」

 

 綺麗に畳まれた衣服。小袖もしっかり衣桁に掛けられている。

 和服を着るのいいが、やはりどこか頼りない。イシマ主義の影響を過分に受けた世代ではあるが、和服だけはどうにも容認できなかった。

 侍女を部屋より退かせ、一人となる。

 前を拭く。長穿き(ズボン)とシャツを着る、小袖を羽織り、長い髪を一つに纏る。

 “かぜ”本差とし脇差に昨夜鬼を切り倒した刀を差す。

 完成するのは一匹の生き物。人であり、武士であり、剣鬼であり、毒虫であり、妖。

 本調子――まではいかなくともそれに近い状態である。

 荒々しく戸を開ける。戸の前に控える侍女は驚いた表情を浮かべていた。

 

「俺はこれから何をすればいいんだ」

 

 乱暴な問いかけに戸惑い、言った。

 

「表に久遠が待っております。これより清洲の城にて評定がございます。その際、家中の方々にお披露目と」

 

 あくまで静粛に、整然と答える。赤音は娘にただ一言いった。

 

「悪かったな」

 

 その一言が不自然にすら思えた。相手もそのように思えたのだろう。

 先程とは別の驚いた表情があった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 織田の館を離れ、着くは清洲の城。

 応永12年に築城。斯波、織田、豊臣、福島、尾張徳川家と名のある者の手に渡った城。

 だが今は築城間もない新城だ。

 赤音はその新城の一室に居た。久遠とは離れ、ただ一人待たされる。

 ――将棋でもあれば。

 と思うが果たしてこの城に将棋版は存在するのだろうか。

 赤音の知る将棋が確立されたのは16世紀後半頃。今がちょうど将棋のルールの改変時期なのだ。

 平安将棋と赤音の知る将棋が同時期に二つ存在している。大変面白い状況である。

 “かぜ”を肩に掛け、外を眺めながら柱に凭れた。

 静かなる間。日光が差し込み、ジリジリと足を焼いていた。

 不快ではないが、少々熱い。身を捩った、指先に当たる刀の鞘。

 “鬼斬紅”――もともとこの刀は戦向きではない。観賞用に近い。しかし赤音はこの刀で鬼を切った。

 久遠曰く、銘の無い刀では格好がつかぬ、そうだ。

 怪異を屠った褒美として渡されるが、持っていても仕方がない、邪魔もいいところだ。

 ある時に来客が、というよりは呼び出しが来る。

 

「久遠さまがお呼びです。御支度を」

 

 赤音は立ち上がった。比類なき、殺意にも似た剣気を放ちながら。

 

「......」

 

 呼びに来た女は何も云わなかった。けれども赤音の放つ剣気は敏感に感じ取っている。

 腰に下げる刀は虚仮威しはないだろう、身の硬直がそれを示唆させる。

 言葉を交わすことなく部屋を出る。

 ここ最近、いつも娘子の背をよく見る。平常であれ、警戒の一色であれ。

 暫時、城の中を歩き評定の間に辿り着く。

 

「遅かったではないか。座れ。麦穂、赤音」

 

 上座に鎮座する久遠、左下座には一人しか座っていなかった。

 それには見覚えがあった。昨夜、鬼のを切り殺した際、偶然であった女だ。

 

「家老の二人だ紹介しよう。柴田壬月勝家と丹羽麦穂長秀だ」

 

 ここに連れて来た丹羽麦穂長秀は、伏し目がちに会釈をする。決して歓迎しているという訳ではないようだ。一方の柴田壬月勝家は殺意漲らせ、敵意しかない視線を赤音に向ける。

 

「挨拶もなしか?」

 

 ドスの利かした声で、柴田は云った。

 鬼柴田の名に恥じぬ気迫である。昨夜の姿はしっかりと覚えている。忘れる筈もない。

 常識外れ、非常識なほど巨大な戦斧を担いだ姿。――「鬼」の鉞と評していいだろう。

 

「赤音」

 

「赤音? 女子のような名前だな」

 

「悪かったな金太郎。女みたいで、この女気を分けてやりたいよ」

 

 売り言葉に買い言葉。赤音の煽情的な口調は、柴田壬月勝家の気性を的確に逆撫でした。

 

「壬月、しばし待て」

 

「......」

 

 怒りを抑え、鬼は気を納める。

 小さな溜め息を吐いた久遠、頭が痛そうに赤音を見て言った。

 

「赤音よ。お主が今朝方いった言葉、忘れては居らぬな」

 

 今朝方いった言葉――印象に残るものは一つしかない。

 

「武士道は死狂ひなり、一人の殺害を数十人して仕かぬるもの」

 

「そうだ。――その言葉に嘘偽りはないか」

 

 赤音は笑った。満面の笑みで、云った。

 

「刀の使い方は仕手次第だ。俺の仕手は久遠お前だ。好きに使え」

 

 その宣言に、久遠は言葉を詰まらした。

 

「そうか。ならば命ずる、これより我が館にて真剣を用いた御前仕合を供する。枷を科す、殺すでないぞ。その上で武士道は死狂ひなり、体現して見せよ」

 

 一本の刀が抜かれる。鋭利な諸刃ではあるが、人を斬るには充分すぎる切れ味を持つ剣の鬼。

 吊り上がった口からは、怪物の笑い声が聞えてきそうであった。

 その場に居る武人二人は警戒を強め、久遠は無表情を貫いた。

 剣鬼は己の価値はそこにしか輝かないことをよく知っていた。

 血を啜り、骨を断ち、無念を喰らい、骸を見下ろす。

 斬鬼の価値が視界を曇らせているとも知らずに、鬼はその価値に陶然と笑った。




次回より織田館御前試合を五話続けて投稿します。
長いです。五話が全部戦闘の描写です。


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第壱試合 蝦蟇銃槍殺し

 織田館の庭に張られた陣幕。

 漂う空気は固く強張り、命のやり取りが始まることを肌で感じさせた。

 白幕には織田の家紋が刺繍され、土壇場の様相が浮き上がる。

 寛永御前試合のように西軍東軍に別れ死合うことはない。ただ一人を五人で嬲るのだ。

 理不尽不条理ではあるが、赤音には文句の一つもありはしなかった。

 死すればそれまで、死なねば己はまだ斬れる。それだけの意味しかない。

 ――正気でなにができよう。

 大業を成すには気を違えるほど、死を覚悟する心が前でなければ何事も成せぬ。

 狂気に関しては事欠かない赤音にとって、命の重みはどんなものより変動しやすく、価値の薄いもの。しかし唯一譲れぬものもある。それが仕合において斃れる事。

 理由は己でも分からない、ただ誰かの兇刃に斃れる事が堪えられないのだ。

 貪欲に勝ちに飢えた剣鬼に、五人の生贄(スケープゴート)が投げ込まれた。剣に狂う鬼ならば、それを嘲笑い斬り捨てるのが道理。

 赤音は薄ら笑いを浮けべ足を進める。陣幕を越え五人の生贄を捉える。

 五人の娘たち。個々の手には刀や槍が握られてる。

 

「赤音よ。こやつらが主と仕合たいと申しておる」

 

 久遠は各々の名を順に言っていく。

 

「紹介しよう。右より黒母衣衆筆頭、佐々和奏成政。中ほどに居るのが赤母衣衆筆頭、前田犬子利家。左手に眠そうにしているのが滝川雛一益だ。壬月と麦穂はすでに見知っておるな、省かせてもらうぞ」

 

 新顔である三人は、一人を除き闘気を滾らせ、鋭い視線を赤音に向けてくる。

 最初の一人目が威勢よく名乗りをあげる。

 

「佐々内蔵助和奏成政! 尋常にお手合わせ願いまする!」

 

 若々しい覇気を放つ娘が一歩前に出る。

 

「どこの馬の骨とも知れぬ男娼(ツバメ)を殿のお側近く置くのは罷り成らん!!」

 

 キーキーと高い声で叫ばれ、耳が馬鹿になりそうだ。

 片耳を押さえがてら耳穴を小指で掃除したのが、佐々には癪に障ったらしい。

 眼力を強めた佐々は仕合の申し出が、個人的な因縁に変わり始める。

 

「何だその態度!! その刀は飾りか、言い返した見たらどうだ!!」

 

「女の声は高いから耳痛てぇだよ。死合んだろ早く始めろよ、後が閊えてんだよ」

 

「――ッ......余裕だな。後で泣きべそをかくても知らないぞ!!」

 

「はいはいはい。そうだな、そうですね。......わかっんねえ奴だな」

 

「何かいったか!」

 

「あーいやいやなんでもないよ。きれーな空だなーって思ってただけだよ。こういう日和には頸をボールに球蹴りでもと、狂人な訳じゃなくてねそんな気分になるなって、えーといいからさっさと始めろよ」

 

 残り四人も居るのにいちいち相手にしていられなかった。

 赤音の語彙豊富な悪癖と態度が佐々の気性を逆撫でする。

 肩は上下に振るえ、氷山の下に眠る灼熱の激情が遂に炸裂した。

 

「もう許さないぞ! 男娼(ツバメ)と思って直槍で加減してやろうかと思ったけど、手加減なしでぶっ飛ばしてやる! おい猿!」

 

「はっはいぃぃ!」

 

 得物を持つものを佐々は呼びつける。

 僅かな時間、久遠は耳打ちする。

 

「なぜ主は適当な返しが出来ん、火に油を注いでおる」

 

「あ? なに禁句だった。普通に返しただけだぞ」

 

「無自覚か、云っても無駄だな。殺されぬよう励めよ」

 

 激励か判断の付かぬ事を久遠は残し、その場を離れる。

 この仕合において御前様は久遠。仕合の巻き添えなど笑うに笑えない。

 監督役である柴田は声を上げる。

 

「両者、位置につけい!」

 

 溜め息にも似た息を吐き、赤音は佐々と対峙する。

 佐々が持っていたのは――槍であった。

 驚くことはなかった。鞘に収まり中天を指し示す穂先、ただ奇怪なのは穂の大きさであった。

 直槍の穂は平均して一尺、三十センチ程度。佐々の握る槍の穂は大身槍に近かった。

 それだけならば別段驚かない。それを扱いきる筋力と膂力に警戒し、間合いを計りながら責めるだけだ。

 だが赤音が警戒したのは佐々ではない。警戒したのは、その槍の不可解なほど厚い鎬地(、、、、)

 西洋薙刀(グレイブ)のように厚い刃、鞘の茎付近は奇妙なほど盛り上がっている。二重に付けられた鍔は必要以上に手元を護っている事が窺えた。

 

「謝るなら今のうちぞ!」

 

「謝ったてやめねぇだろ。早く始めろ」

 

 鯉口を切り“かぜ”を抜く。

 謝る気も、やめる気も端からない。黙って斬り捨てるだけ。

 柴田の声で始まった。

 

「では尋常に始め!」

 

 佐々は鞘に包まれた槍を振るい、鞘を飛ばす。

 その槍の奇妙な正体が赤音の前に現れた。

 

(舐めてんのか)

 

 それは槍であり、銃であった。

 刺又のように裂かれた刃に挟まれる様に、銃身が覗く。

 赤音は理解する、鞘の奇妙な盛り上がり、必要以上に護られた手元。

 銃を内蔵するのに必要な空間(スペース)だったのだ。

 

「国友一貫斎の作、天下無双の絡操り鉄砲槍だ! 打刀でこの槍に勝てると思うなよ!」

 

 何も云わなかった、何も云う気はなかった。

 この娘は、この女は――仕合を愚弄している。

 湧き上がったのは仕合に向かう謙虚の心ではない、表現しがたい怒りであった。

 

(試合を穢したその愚かさ、その体をもって知れ)

 

 赤音にとって銃火器と立ち会うのはこれで二回目。

 一度目は近距離での立会いであった為、幸運が味方し切り倒せた。

 しかし今回は間合い、距離が開きすぎている。

 目測にして二間(二メートル程度)、間違いなく“かぜ”は届くことはない。

 だが、相手の得物は銃、そして槍。

 銃撃を掻い潜ったとしても、槍の刺突が赤音の体を穿つであろう。

 何よりも銃を掻い潜ることが困難を極める。いかにして眼に見えぬ高速の弾丸を避ける。

 右に避ければ、右に槍を振られ撃たれる。左に同じ。上下もだ。

 “かぜ”担ぎ指の構えとったときあることに気づく。佐々の槍の構えに。

 佐々は槍の刃元、銃の中心部近くに手を持っていっていた。

 ふいに思う。

 ――あれは短筒か。

 佐々は絡操り鉄砲槍を火銃のように柄尻を地面に突き刺した構えをしている。それ即ち上下は対応できても、左右の対応は遅延を発生させる事を意味していた。左右に動かすならば、円運動により体は振られ狙いが定まりにくい。ついで眼を引いたのは銃身の数にある。

 15世紀頃の銃火器に擱いて発射機構の形式はマッチロック式かサーペンタインロック式。雷管の始まりであるパーカッションキャップの採用したエンフィールド銃(パーカッションライフル)は3世紀ほど時を置かなければ現れない。この時代に連射を可能にする仕組みは銃身を増やす事だ。

 マッチロック式、サーペンタインロック式は連発が出来ない。エンフィールド銃(パーカッションライフル)も同じ、銃身を増やす事でしか連射は不可能。単銃身は再装填には時間を要する。

 この二つを踏まえ、銃槍には欠点があった。

 ならば次は発射時の対処だ。

 引き金を引き、弾が出る。その威力は絶大であり射程も広範囲。その中で発射までの遅延は数が限られる。

 一つは射手の判断、躊躇いなどにより引き金を引く行為に遅延が発生する。

 二つ目は構造的なもの、複雑に絡み合う歯車を規則正しく稼動させる事こそが銃に求められる絶対条件、弾詰まりほど怖いものはなかろう。

 以上挙げたものが現代銃に求められる発射遅延の短縮方だ。そう、現代銃の発射遅延の短縮なのだ。過去のマッチロック式やサーペンタインロック式にもう一つ存在する。

 ――点火薬と発射薬の存在だ。

 現代の弾薬は雷管、発射薬、弾頭が一体化した物が主流である。

 変わって火縄銃は火皿に点火薬を置き、それが発火し発射薬が燃えるのだ。

 火薬の違いもある。黒色火薬と無煙火薬の威力は倍以上、火薬の威力は速度に直結する。

 遅いとは云えぬが、現代銃に比べ確実に遅い。

 勝機は那由他の確率――しかし無ではない。

 赤音は動いた。

 

 

 

 

「っ!」

 

 佐々の狼狽。驚いて当然だ。赤音の構え――半身の構え。

 体の陰に“かぜ”を隠し、刀の長さを晦ませた。

 半身の構えに佐々は気付く。

 

 ――弾が当たらぬ。

 

 絡操り鉄砲槍の命中精度はお世辞といえどいいとは言えない。

 銃身の長い銃ならばその命中精度は上がるが、この絡操り鉄砲槍のその長さは収納しきれない。

 佐々自身それはよく分かっている。分かっているが銃に、勝てるとは思えぬ構えなのだ。

 左右に動かれれば円運動により体の動きが過大となることは、佐々も知っている。それ故、左右に逃げた場合、銃撃の構えより即時、突きを放つ機構となっている。引き金を掛ける左手、右手側には管槍として機能させる管がある。左右に避けた場合、それを追って射撃する気は佐々はない。左手を押し込むだけで槍の刺突が撃てる。長中短距離ともに対処可能なのだ。

 しかし、赤音の構えは次行動を予想させなかった。

 半身にした体、しかしながら顔は佐々の瞳を見ている。前進は半身の態勢では充分な速度が得られず、銃火の餌食になろう。なるが――

 

「――――」

 

 佐々は気付く。背筋が凍る、赤音が半身した意味を知り。

 

(一発で獲らなければ、獲られる――)

 

 半身にすらした赤音の体は、心臓と頭の二箇所あった弱点を一箇所に限定していた。

 最も着弾面積の多い心臓、胴体部は薄い板と化している。当たったとしても刀を扱いきるだけの筋肉や骨が弾道を逸らしてしまう。ならば当てる部位は頭部。

 しかし頭部を狙いには難儀した。佐々の背丈により絡操り鉄砲槍が上がりきらないのだ。頭部を狙おうとするならば、絡操り鉄砲槍を担ぐ必要がある、だが担ぐ暇はあるなら相手は切り込んでくるだろう。担げば死、困難な姿勢で頭部を狙うしかない。

 槍を突き出せる姿勢で可能な限り持ち上げる。背に冷たい汗が伝い落ちる。

 心臓が大きな音を立てている。感じ取れる、引き金を引けば奴は動き出すと。

 奥歯を噛み締める。叫んだ。

 

「くらえーー!」

 

 

 

 

 赤音はしっかりと聞いていた。その音をその金具の――軋みを。

 半身にした体は、いつでも動き出せる。後残るは佐々の動きのみ。

 瞳はただ一点、引き金に掛かる指を、手元を見据え瞬きの一つもしなかった。

 

「くらえーー!」

 

 その叫びは銃撃の合図であった。だが今動くのは早すぎる。

 引き金が引かれ、火が点火薬に落ちる。

 チリチリと鳴る点火薬の燃える音――合図は鳴った。

 動く。顔の向く方向ではなく、臍の捉える横方向へ倒れ込むようにした右足を踏み込む。

 小袖は靡き、右に持つ“かぜ”は重く感じられた。

 佐々もそれに合わせ、右へと体を動かす――がそれは赤音が狙った動きである。

 赤音は右へと移動せず、右足に力を込めただけ。

 銃声が鳴り響く。

 瞬間、赤音は佐々の居る場所へ――跳んだ。

 それは欠点しか見当たらぬ技である。元より人を殺傷する事を目的とした技ではない。

 踏み込み、前へ跳び、飛翔の最中に刀を振るう。

 跳ぶだけならば、他にも技はある。しかしその技は跳び方に大きな問題を抱えていた――ほぼ腹より着地するのだ。限界以上に身を倒し、限界以上に間合いを伸ばす。

 

 ――――刈流演武 蝦蟇

 

 その名の通り、蝦蟇の飛翔を見せる。

 右足を踏み込み、前方向へ跳び込む。その飛翔の際、使用者は体を限界以上に倒すのだ。

 腕の長さに加え、上半身を合わせた間合いが加算される。一見、良い技にも見えるが。大きな間違いだ。

 この技は飛翔の最中に刀を振る。だが飛ぶ最中、両手で刀を扱う事は人体の構造上不可能。

 必然的に片手で扱う事になり、刈流の基本理念たる腕の脱力を反してしまう事が多々ある。

 一部例外を除き、剣とは地面に足が接地しているからこその威力が出る。

 この技は一部例外には当てはまらない。

 剣の軌道と入射角を一定に保つ事、体の態勢を保持し続ける事、片腕の限られた稼動範囲で行われる技は、無謀が過ぎていた。そしてこの技の最大の欠点が、技の終了後に大幅な隙が生まれるのだ。

 それもそうだ。技の終了後は大抵、使用者は地面に突っ伏しているのだから。

 これが命のやり取りで意味するものは何か――死だ。

 誰も実戦では使わない。ありえない。

 だが今回ばかりは、この技にも勝機が味方した。

 佐々の持つ絡操り鉄砲槍、これの持ち方に天啓を得た。

 柄尻を地面に突き刺した態勢を取っていた、まずこの様な持ち方は論外だ。何を理由に柄尻を地面に着ける必要性がある。通常の槍ならば不必要だ。

 通常の槍ならば――佐々の槍は通常ではない。

 柄尻を地面に着ける理由、それは恐らく発射時の反動を殺す事にある。

 佐々はあの槍を扱いきれて居ない、反動を身一つで受けきれず、大地に衝撃を逃がしているのだ。

 故に、柄尻を地面に着けていると赤音は考えた。

 その予想は見事に的中した。

 佐々は発砲し、絡操り鉄砲槍は大きく跳ね上がり天を指した。

 狙う勝機は「先の後」――攻撃を繰り出している最中、防御のしようはない。

 勝機は獲った。佐々は槍を持ち直しているが、間に合わない。

 佐々には身長的差が祟り、“かぜ”切先が入る位置は――袈裟。

 暫く、その瞬間が長く感じられた。女を斬るのは何時ほどか、柔肌を切り裂く――筈であった。

 にわかに“かぜ”の物打が跳ね上がった。

 

「ッ!!」

 

 赤音は何もしていない。

 ほんの僅かな間、物打が跳ね上げる外圧が加わったのだ。

 不可解な怪奇が赤音を襲い、勝機が死地の道標に豹変した。

 虚空を空斬りし、重力の為されるがまま地面へと叩きつけられる。

 体を起こし顔を上げるがもう遅い――佐々は槍を持ち直し、穂先は赤音の顔を狙っていた。

 ――獲られる。

 死を覚悟するが、それは訪れなかった。

 

「勝負あり! 勝者赤音!」

 

 柴田の声により、すべての動きが停止した。

 脈拍が唐突に跳ね上がる。死地より生還したのだ。

 荒い息づかいで佐々は、赤音を睨みつけていた。

 しかし赤音にはそんなことは歯牙にも掛けない。

 頭の中にあったのは“かぜ”を跳ね上がった外圧であった。

 理解不能なその事象は――すでに準備が整っていた。

 気だるそうに、赤衣を羽織った赤音を見据え。小さな微笑を浮かべた。




誤字脱字報告。感想、意見、要求などはどんどん受け付けます。


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第弐試合 蒼燕瞬歩

テキスト二・三行の犬子の戦闘描写どうすりゃいいんだよ!! 
判断要素少なすぎだろ!! BaseSon!!


 柄杓の水を呷る。

 佐々との仕合を終え、束の間の休息。

 今にして銃と対峙する恐怖が赤音を襲う。

 耳にこびり付く銃声、眼に焼きつく銃口の閃光、臓腑に漂う飛翔の浮遊感。

 打ち身擦り傷はなく身体的には正常だ。だが精神的な均衡は戻りきれていない。

 幾度も深呼吸を繰り返すが、胸の動悸は収まらず、心臓は目紛しく血液を循環させている。

 

「水です」

 

 久遠の侍女より柄杓を受け取り、一気に飲み干す。

 冷水が喉を伝い、食道を凍らし胃袋を満たした。柄杓を侍女に渡す。

 娘は無表を貫き続け、黙って、そして確実に物事を行う。

 心臓の鼓動もある程度に落ち着きを取り戻す。ふとあることを思う。

 

「名前、聞いてなかったな」

 

「名前?」

 

「お前のだよ。無名(ななし)なんてことはねぇだろ」

 

「――帰蝶」

 

「――――」

 

 まさかである。想像もしていなかった。

 ――帰蝶。

 織田信長の妻。斉藤道三の三女。

 

 濃姫。

 

 これほどの者を女中が如く使っていた赤音は、心底馬鹿馬鹿しく笑いが出た。

 

「なにか。可笑しなことでも?」

 

「いや、なんでもない。お前によく似た奴を知ってただけだ」

 

 僅かな言葉である。ほんの僅かな、うつけの嫁、帰蝶との会話は。

 大太鼓が轟き、二試合目を知らせる。

 “かぜ”を握り、立ち上がる。陣幕を掻き分け合戦へ舞い戻る。

 刀剣の匂い香る、血潮臭わぬ歪な合戦へ。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 立ち合う相手を見据えた。

 華奢な矮躯の娘。眠たげな眼は真剣を用いた仕合をするには相応しいとは言えない。

 

「滝川彦右衛門雛一益でーす......あーあ、和奏ちんが負けたのに雛が勝てるわけないですよ~...」

 

「ぐだぐだ言わんと、さっさと仕合え馬鹿者」

 

「無茶言わないでくださいよ~...」

 

 柴田の叱咤激励ですら面倒くさそうな返答をする。

 だが赤音にはこの娘がどこか妙に感じる。飄々とした態度の奥底に、勝ちへの確信のようなものを匂わせた。それだけの業前か。赤音の眼にはそのようには見えない。

 筋肉の着きかた、目線の先、足の運び。武人の動きとは到底思えない。

 衣で隠しているがあのように細い腕筋で太刀など振れようか。

 浮き草のようにふわふわとたどたどしい。危うさを醸し出す理由は武を倣う者ならば想定は出来る。

 ――こいつ、蛇の類。

 変に突いて出るのは、足持たぬ獣。

 相手の得物は、幸いすでに見えている。腰に挿す二振りの小太刀。佐々のように銃という事はない。鍔を押し、鯉口を切る。

 抜き身の“かぜ”を担ぐ、“かぜ”の刀身は中天の光を集める。

 何時何時でも人を切り捨てれる。

 

「うー...、ねぇ。雛は降参するから、次に回していい?」

 

 とぼけた声で、ふざけた事を言う滝川。

 そんなこと許される訳はない。赤音は動いた。

 早足、急速に滝川との間合いを詰める。滝川は眼を白黒させ、咄嗟の判断は付いていないようである。

 

(――冷や汗かきな)

 

 滝川との距離はおおよそ一間、その距離を跳躍のような踏み込みで縮める。

 間合い騙しの技法。左を軸足に前方へ向けて伸ばし、次いで爪先で地を蹴り出して踏み込むことで通常より間合いを大きく奪う。先の先を取る技。

 ――――飢虎。

 眼を回す滝川。急変した間合いにどう対処する。

 

「よっ」

 

 まさかである。飢虎の斬撃をバク転にて回避する。

 逃がす訳はない。「飢虎」より「小波」へと技を繋げ攻めを強める。

 下方より股下を割る斬撃が走る。

 

「ッ!?」

 

 やにわに滝川の姿は消失した。

 物理的に消えたのではない、ただ赤音の視界から外れたのだ。

 後方へと逃げたのなら消える事はない。左右の場合では赤音の範囲内、斬り捨てれる。

 下、以ての外だ。下よりくる刃に向かう阿呆はいない。ならばどこか――。

 

 ――頭上しか残されない。

 

 滝川は飛んでいた。振り上げる“かぜ”のずっと上を。空を飛んでいた。

 重力を思い出した矮躯は弧を描き、赤音より遥か先に着地した。

 

(化け物か)

 

 まさしく化け物の跳躍でる。

 このような跳躍なにをすれば手に入るのか。

 脚を切り落とし金属のバネにでも挿げ替えたか、それともUFO(ユーフォー)にキャトられながら飛んだのか。荒唐無稽な狂言ですら、この跳躍に嘘の色を塗れない。真実としてしまうだろう。

 いかなる運命か、いかなる天稟か、何の理由があってこの様な飛翔を手に入れる必要があった。

 伊烏の飛翔以上――「昼の月」を越える跳躍。

 

「ふー、あぶなかったー」

 

 猫のような俊敏さで、距離を空けた滝川は間一髪といった様相。だが飄々とした態度は変わらず、余裕たっぷりの含み笑いを浮かべている。

 

「赤音くーん、もうやめようよー。雛はもともとこの仕合反対だったし、戦う理由はないと思うなー」

 

 気の抜ける声で刀を納めるよう云う。

 ――戯言を。

 貴様は死合いの地に足を踏み入れた。なれば後は死合うだけであろう。切って、斬られて、血潮を吹き、剣鬼の供物となれ。土壇場にたった者は誰であろうと赤音にとって区別はない。

 男、女、赤子老人生人死人豪族貴族貧者貧乏人犬猫鬼御仏……――

 区別なしすべて斬る、切って殺す、捌いて殺す。己は人斬り庖丁なれば、斬る事しか能はなし。

 だらりと下げた“かぜ”を再度担ぎ上げ、滝川の提案を一掃する。

 強固な殺意にうんざりした表情を浮かべる。

 

「やりたくないんだけどなー......わかったよ」

 

 面倒だといった態度で背を掻く滝川。

 ようやくやる気を出したのか、僅かながら気を張った。

 距離も空いている、間合いは優勢。二振りの小太刀、掠る間もなく“かぜ”餌食になろう。

 ――小太刀ならば。

 滝川は得物に手を掛ける。小太刀ではなく、背に隠した飛び道具に。

 右足を強く踏み込む。赤音の眼にはその動きが、一つの目的を持った機構(システム)と錯覚させる。いや、錯覚ではない。その通りなのだ、剣術の型と同じ。手より離れる、飛翔の剣術。

 滝川が掴み得た獲物それは、近代の火薬を燃料に射出する銃火ではない。手にすっぽりと納められた暗器。

 軍師が軍配を振るうように、武士が刀を振るリ下ろすように、腕を振り、体はうねり、手の内に収まる投擲具を打ち放つ。

 放たれたそれをほんの僅か、捉える。長さにして約十七・八センチ、鋭利に突起した先端、弾丸と同じように飛ぶが熱さは無い、あるのは風を斬る音――槍穂型手裏剣。

 手裏剣術――起源は乱戦の最中に短刀を投げた事に始まりとされているが確かではない。剣とは異なる剣、手よりはなれ敵を討つ、とされてはいるが腕に収まる刀剣とは違い、確実な殺傷を可能とはしない。使われる状態、それは非常時に際したときである。

 非常時、果たしてそのようなモノはあるのか。敵が目の前に居て刀を握っている、手に取れる武器は二つに一つ、刀と手裏剣、誰もが刀を取ろう。

 判断的要素もそうであるが、手裏剣術の難点として道具自体が高価であった手裏剣は、使い捨ての連続使用は向いていたとは云えない。

 このことから手裏剣術を発展させた流派は数少なく、剣術のサブとして発展した。

 数少ない術理、それが眼前で飛翔し赤音の命を穿とうとしている。

 狙いは胸部、意思とは乖離した体が自動的に動き出す。“かぜ”を振り下ろす。

 腕に伝わる振動。刃では受けず柄頭にて、槍穂型手裏剣を弾き落としていた。

 次動作を行う準備をシフトさせていた。意思とは切り離された行動――最適かつ確実な動き。

 赤音の恵まれた先天的即応能力。銃撃であろうと対処した能力、そのその能力の限界は――

 ――あった。

 

「ッた!!」

 

 赤音の右腕に突如として激痛が走る。

 痛みの原因を見て驚愕。

 赤い液が流す線が右下腕に描かれていた。まるで刀傷、浅く付けられた傷は遊び半分と見て取れる。

 

「うっぷぷー」

 

 間の抜ける声、それは先程まで前方で聞えていた。

 振り返る。余裕たっぷりの含み笑いを浮かべる滝川が四間ほど離れた場所に居る。滝川の両手にはいつほど抜いたのか小太刀が握られ、その左に握る小太刀の切先は赤が鉄を湿らせている。

 いつ小太刀を抜いた。いや、それ以前にいつ俺の後ろに移動した。摩訶不思議な事象に赤音の思考は混乱する。それを逆撫でする様に、滝川は頬を吊り上げ、それを起こす。

 

「なんでかなー?」

 

 四間ほど離れていた筈の滝川の姿は霧散し、にわかに目の前に現れる。

 テレポーテーション、瞬間移動、縮地。SFの可能性が今目の先で起こった。

 目先にある餌に食らいつける。だが体は動かなかった。

 肉体が拒否反応を起こす、今は斬るべきではない。

 肉体の思考と脳の思考が、客観的に大きすぎる隙を赤音は作り出してしまっていた。

 

「隙ありー」

 

 小太刀は隙を逃さず切り込まれる。後方へ逃げる。

 何が起こった、理解が出来ない。

 あれは滝川が起こしたのか、それともただ己が錯乱し、幻覚(まぼろし)を見たのか。

 違う、間違いなく現実である。腕に残る傷と流れ出る赤が証明している。

 耳で捉える音、高速で地を打つ小音。それは滝川の足音だ。

 どういう原理か、滝川は超高速で移動できるらしい。いや、説明も出来ぬ可笑しなことだ。

 だがどういうわけか、滝川は出来てしまっていた。目にも留まらぬ高速移動を。

 態勢を立て直しす直後に来た。背を撫でる突風、突き刺す圧力(プレッシャー)

 右足を軸に体を反転、中段に構えた“かぜ”。防御へ体を移行させた。

 小さな矮躯が視界に映る。二刀小太刀の切り上げが“かぜ”の物打を叩き上げた。

 その衝撃、その光景が、ある一点の疑問にピッタリと合致した。

 あの不可解な佐々内蔵助との仕合。最後の一刀を弾き上げた怪奇――

 

(こいつが――出来る筈が無い)

 

 できる。佐々との仕合の怪奇。その正体、その実体。

 目にも止まらぬ速度で動くこいつなら、佐々を切り込む直後に剣の軌道を変えることも可能だろう。

 ふと赤音の魂魄に陰りが落ちた。真っ黒な影はその大きさを広げすべてを飲み込んだ。

 滝川は、赤音を最も怒らせることをしてしまった。

 

 ――嗚呼、お前は――俺の、仕合を穢したのか。

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 にわかに赤衣の鬼が気を変えた。

 人の変化に敏く気づくものにとってそれは豹変といって変わりなかった。

 雛はあまりの豹変の度合いに肝を潰す。下手に手は出せぬ、武人の直感がそう体に言い聞かせた。

 軽捷俊敏な動きを可能にした、お家流「蒼燕瞬歩」を余すとこなく使い、距離を稼ぐ。

 何があれの中で起こったのか、何があれをあそこまで変えたのか。まるで分からない。

 距離を取り、雛は赤音を見た――その目には赤音はすでに人の姿をしていない。

 幻視である事は分かっている。が、その瞳に映る姿と赤音の精神的形の差異は寸分たりとも変わりはしない。酷く歪んだ、刀に酔わされた「鬼」。剣に狂い、死に狂い、漉され残った搾り滓は、剣としての己と斬り捨ててきた者の怨念のみ。

 足が震える、何がどうしてあれになった。どう歪めばあのようになる。

 理解不能な妖が目の前にいる。直感が吼え立てた。

 ――怪奇討つべし。

 御前試合ではあるが、雛は手加減を止めはじめていた。

 試合に措いて、禁じ手とされた手裏剣術、戦以外でのお家流の使用。

 そして最後の、最大の禁じ手を解禁していた。

 打ち手の右手の平に仕込まれた槍穂型手裏剣、先程とは違う。その柄の部分には麻の糸が括られている。

 射距離は充分、ならば行動に移すのみ。

 右足を踏み込み、左腕を振り上げ、下ろす。腕より打ち出される槍穂型手裏剣、これはすでに技の一つである。

 先程投げた槍穂型手裏剣とは違う、殺傷を目的としていない。

 赤音はしっかりと槍穂型手裏剣を捉えていた。刀の柄頭を使い、見事に軌道を変えて見てた。

 赤音が弾くと同時に、雛は動いた。

 機敏に足を動かし、左手より伸びた麻の糸を緩く握り、走る。

 目にも止まらぬ速さ、敵の目を撹乱し、その四方を円状に走る。

 手に握る麻の糸は蜘蛛の糸と変わりなし、敵を絡め獲り、捕縛。

 動けぬ敵ほど討ち易きものなし。

 

「……っ」

 

 気づいたようであるが、すでに術中。これが技、鞍馬山より渡来した絶技。

 念阿弥慈恩を源流とする甲賀判官流秘剣。

 

 ――甲賀判官流 円縛疾風剣

 

 絡め獲った赤音に小太刀を突き立てた。

 

 

 

 

「えっ、が、あ......」

 

 

 

 

 まるで理解できなかった。

 胸に熱く、そして冷たい筋が奔る。

 お気に入りである、猫の形をした胸当てが、ばっさりと切り開かれていた。

 

「え、え、なんで......」

 

 胸当ての開いた隙間に赤い液が溜まっていく。溜まりつづけ遂にあふれ出す。

 なにが、なにが、なにが起こった?

 赤音をふと見た。そこには赤い赤い鬼が刀を振り上げていた。

 おかしい、捕縛できていたではないか。何故、糸が解かれている、糸はどこに消えた。

 混乱し捉えられずにいた糸は、赤音の足許に四散していた。

 

「おか...しい...よ」

 

 血の気が失せる。眠気が増す。

 眠りに落ちるその間際、ようやく理解した。

 

 敗北である。

 

 

 

 

 

 

 

「雛!」

 

 佐々は走り、仲間の下へと駆け寄った。赤音はそれを黙して見下ろした。

 足に絡まる麻糸を払いのけながら自陣へと戻る。

 どのようにして、あれを切り抜けたのか。体を縛り上げた糸をどのように解いたのか。

 その答えは、刀の数にある。

 赤音の本差は“かぜ”である。

 一輪光秋“かぜ”それで間違いはない。しかし、今の赤音にはもう一本、刀がある。

 脇差にしては長すぎる。“鬼斬紅”の存在が。

 軽捷俊敏な動きで赤音を拘束している最中、“鬼斬紅”の鯉口を左腕で切っていたのだ。

 逆手に持ち、完全な拘束が終わる際、“鬼斬紅”を引き上げ、麻糸諸とも切り裂き、活路を見出した。

 “かぜ”と“鬼斬紅”の二刀流。刈流で二刀を扱う技は少ない、が無い訳ではない。

 早々に活路を得た赤音は、滝川の胸当てと皮一枚ほどを切り捨てた。

 拘束を抜け、敵を切り捨てる刈流の二刀技。

 

 ――刈流 岐路



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第参試合 猛狗十文字槍

大変長らく御待たせ致しました。


「あれは討つつもりでやったのか。赤音よ」

 

 自陣の椅子に腰掛ける赤音は、燻る邪気を水で流し呑んだ。

 

「貴様!! 聞いているのか!!」

 

 吼える柴田を横目に柄杓の水を啜った。

 

「煩せぇよ。尾張の武士は休憩も与えちゃくれねぇのか?」

 

 悪態を付き柄杓を帰蝶に投げて渡す。椅座した赤音は二度目の死線で滴る汗を拭い取った。

 裡を打つ血の高鳴りは正常に戻っている事を確認する。

 

「赤音」

 

 久遠の呼び声に赤音はようやく反応を示した。

 顔を上げた赤音の表情は自身では把握していなかった。だが久遠の表情の凍りつき様、柴田の強張った筋肉を見ればその表情がどの様なモノかは一瞬で汲み取れた。

 笑っているのだろう。

 自他共に認めて然るべき醜悪な笑顔。

 人を斬るべきくして生また、生まれでて当然の笑顔。

 矛止の会を滅却した時も、瀧川商事を売った時も、「悪竜」八坂竜騎を屠った時も、――伊烏義阿を斃した時も。

 これは人が知性を獲得するずっと以前に、動物としての生命を歩んでいた名残に違いない。

 獲物目の前に威嚇、もしくは捕食を行う貌。自然的で野蛮な笑顔は同族嫌悪に近い心の揺さぶりを起こさせる。

 人である久遠は、半鬼に身を堕した赤音に伺う。

 

「......先程の試合。危うき殺意が見えたが、いかようか」

 

「試合? これが試合? 御前試合って冠した敵討だろ。銃は使うわ、手裏剣、挙句には助太刀もあり――ちゃんちゃらおかしいな」

 

 赤音の言葉には棘があり、その棘は邪道を串刺しいた。

 

「俺はお前の刀だ。どんな使われ方をしようと文句は言わねぇ、嬲りたいならいくらでもしろ。裸にひん剥いて弓矢の的にでも、試し切りの相手にでもなるよ。でも俺が立つ試合を穢す事だけは断じて赦さねえ」

 

男娼(ツバメ)風情が......ッ。御館様に意見するか!! 御前試合を穢すか」

 

「真剣を使ってる時点で御前試合じゃね。殺陣が見たいなら左遷なりすりゃぁいいだろ」

 

「双方もうやめよ!!」

 

 柴田、赤音の諍いに痺れを切らした久遠は一喝する。

 

「この御前試合、赤音の言うとおり真剣を用いた事は異例である。火槍を用いた佐々、横槍を入れた滝川、この二つ形式を逸脱した事は詫びよう」

 

「御館様!!」

 

「壬月は黙っておれ」

 

 壬月を黙らせ、久遠は鬼を見据える。

 鬼は黙って久遠を見ていた。醜悪な笑顔は消えず三日月があったが、その心裡は笑えぬほどに煮え騰がっていた。

 

「赤音、一つ聞かせろ」

 

「何だ?」

 

「先の戦い――主に首を獲るという意志はあったか」

 

「.........」

 

「どうなのだ」

 

「――僚友幽明境を異にする事罷り成らぬ」

 

「そうか......、なれば何故(なにゆえ)滝川雛一益を斬った」

 

「斬ってはいない。胸の皮一枚、獲った」

 

「その根拠は。あの(しる)の溢れ様、死して然る可きではないか」

 

「失血で死ぬならそれまで。死線を潜り、見下す死気を抜く者こそ僚友だ」

 

 ――兇刃に斃れる者は戦友ではない。

 赤音の力を示す試合ではある、しかしすでに赤音自身が織田家家臣を篩に掛けている。

 そう取られてもおかしくはない発言を平然と云った。

 柴田の表情は無表していたが、象の如き筋肉は如実に忿懣を顕にさせている。

 久遠は再度伺う。

 

「貴様に殺意はあるか」

 

「道具に情心不要。仕手のお前に振られるだけだ。活人剣殺人剣、お前の判断で相応な物になってやるよ」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「織田赤母衣衆筆頭、前田又左衛門利家、通称犬子! 赤音殿! 尋常に勝負!!」

 

「浪人、赤音」

 

 短い挨拶。子犬と対峙し、赤音は戦闘の態勢に移行した。

 相手の得物。それは、

 史実「槍の又左衛門」の通りに、槍。

 佐々や滝川のように奇々怪々な道具を使わず、平凡な十文字槍である。

 子犬に合わせ、極僅かに柄は通常のものより短く感じられる。

 槍。それは人類が毛皮を着て狩猟生活をしていたときより脈々と続く武器。

 剣との唯一の差異、それはただ一点、柄の長さ。

 その一点に違いによって槍は、白兵戦用武器最強を冠するまで昇華されている。剣よりも間合いは長く、懐近く潜り込まなければ、刺し殺されるか、殴り殺される。

 僅かな生存の工夫は、武道の素人とて一刺必殺の武人とする。

 

「両者、構え」

 

 柴田の声により織田館の庭は三度土壇場となる。

 鍔を親指で押し、鯉口を切る。

 赤音は初めて、“かぜ”を指の構えではなく、地の構えを取った。

 三・四間(6メートル)。前田は十文字槍を長く持ち、右に構え穂先をしっかと向けていた。

 間合いは圧倒的に不利、しかし引き際は果てなく遠い。

 ならば勝利を貪欲に貪るのみ。

 

「始めッ!!」

 

 開始の号。先んじて動くは――赤音。

 無策の特攻、という事はない。ある程度は前田の次行動は予測していた。

 槍であるなら突き? まさか。そのような安直なものではない。

 勝ちを取るならば、点である突きの攻撃より、面積の多い、斬撃を放つ。

 狙う部位は何処か、腹? 首? 否。

 武人として主の庭を素性分からずの者の血で穢すことは極力避けるはずだ。

 なれば――

 

「やッああああ!!」

 

 必然と足を刈り取りに掛かる。

 動きを止め、倒れた所で一刺し、すべては終わる。

 脛を狙い振られた十文字槍。長く握った槍の穂先は遠心力により必要以上の殺傷速度を得ている。

 脛刈を潔く受ける剣鬼ではない。事前の対策は既に取られている。

 “かぜ”指の構えではなく、下段、地の構えを取ったのはこれにある。

 脛に迫る穂先を、“かぜ”の峰は掬い、払い除ける。

 掬い上げ、赤音の頭上に掲げられた“かぜ”は次行動を可能とさせている。

 大上段に構えられた“かぜ”、赤音と前田の距離、二間を優にきっていた。

 袈裟懸けより、狙う。左足で地を叩いたとき。前田も動いた。

 矮躯は微かに屈み、後ろへと跳んだ。

 距離が開く。

 その距離は槍を滑り込ませるには充分すぎる隙間でたった。

 跳んだ前田は着地と同時に、槍を赤音の水月へ一突き。

 それは赤音が地の構えを取った時点で、と云うよりは足刈を払われる前程の術だ。

 掬い上げられ、もしくは防がれた時点で行われる。

 ふと耳に声ともつかぬ風の音を感知する。

 

 ――鎌鼬

 

 技の名をもそりと呟いていた。

 赤音の丹田に冷たき気、死の気配が丹田の奥底を握っていた。

 

(......糞ッ!!!!)

 

 悪態を心裡で付く。

 こんな易々と、こんなあっ気なく、俺の命はくれてやれるものか? 否!!

 死してはならない。この場で死ねば、この場で臥してしまえば、伊烏、お前との戦いが無意味となる。

 お前を倒して終幕か、穢れを晒して終わりか。そこまでで俺の生涯が終わっていたのならそうであっただろう。

 だが俺はこうして、地を越え、時を越え、生きてしまっている。

 ならば死合に措いて斃れるのは、伊烏、お前との戦いを侮辱する事に他ならぬ。

 体が動く。思考を超越し、自然的に。

 大上段に構えた“かぜ”で十文字槍を切り落とす。

 穂先は水月を穿つことなく地を抉る。

 右膝で柄を押さえ付け、右足を踏み込み前田との間を躙り縮める。

 押さえ付けた大槍は赤音の体重を受け、柄は軋みを上げる。勝機を得たり。

 右方より前田の逆小手を狙う。しかし“かぜ”が接地する面は物打ではなく峰。

 手の甲の骨を砕く、片腕で大物(やり)を扱うのは困難を極めよう。

 僅かな動きが右膝に伝わる。衣服が擦れ、長穿き(ズボン)の裾が回転している。

 

「ッ!!」

 

 それは前田が槍を引き戻していたのだ。力任せに、穂を自分の下へと引き戻している。

 赤音の態勢を崩す為か、そんなことは出来ない。赤音の姿勢は現状安定を極め、ちょっとやそっとでは倒れる事はないだろう。

 では何故戻す。――前田は今だ赤音の脛を刈り取る事を諦めていはいなかった。

 ぎらりと光る閃光が脳裏に浮かぶ。

 後方より迫る大蛇(やり)の頭。その鰓には鋭利な鎌が生えている。

 柄を押さえる右足より飛び上がる。左足が地面より離れる間、革履きの底を十文字槍の鎌が削る。

 前田の間合いが急激に縮まる。

 槍は遠間より命を一突き、もしくは柄により殴り殺す、この二種の長中距離のみのが槍の間合いではない。

 柄は確かに邪魔になるが、穂の近くを持てば充分な脇差となる。

 槍の穂は刀と変わり打ち込まれる。

 

「ぐるるるるる」

 

 可愛らしい声で唸る前田であるが。その膂力、あまりにも強大。

 首筋に鍔迫り。このままでは押した負け、倒される。

 赤音は膝を折ってしまう、上方(マウント)を取られるの近い。

 この娘、見た目より、術理あり、力強い。

 子犬とは最早呼べない。猛犬のそれだ。

 前田の力は更に増し、穂が首に到達するのは目前であった。落とされてはならない。

 赤音は体をえびぞりに跳ね上げた。肘鉄を前田の鳩尾に掛かるようにして押し退ける。

 身を起こし、“かぜ”を握り直す。

 敵方、前田又左衛門は鳩尾の肘鉄が効いたらしく、昼にでも食べた物を吐き戻していた。

 

「グるるるるルルルルッ!!」

 

 唸り声ですら、人の理性を窺わせぬ、「狂犬」の声と変わり始めている。

 陰の構えを取る。

 このまま長引かせるのは心臓、元より命も風前の灯だ。

 槍の自在な間合い、猛犬自身の力、妙な小細工がない分――手強い。

 薄く長く息を吐く。

 次局、槍の遠間を突破(クリア)せねば次はない。

 嘔吐も止まり、こけた頬の前田は槍を向ける。動く。

 颶風の一突きが赤音の爪先を狙う。執拗に足を、脛を狙う。

 長物の特性に漬かり過ぎている。槍の柄を切り落とし、地へ穂の進路を変更させた。

 股下に落ちた、穂先を押さえ動こうとした途端。槍の穂は跳ね上がる。

 

「ッ!!」

 

 平凡な下突き。その奥に隠された、握りの術。

 前田の柄の持ちからにある。右手は柄尻を握り、左手はその近場に。

 常人であるなら、持ちにくく中間を持つであろう。柄を長く持つことは間合いは稼げ、最大の威力を発揮できるが、慣性等の法則により動作は緩慢になりやすい。

 突撃戦、ジョストならば長持ちは間合いを稼ぎ、馬上の機動力で蹂躙せしめるだろう。

 しかしこれは一対一、相手の武器は刀、間合いを計算し、柄の中ほを持っても充分すぎるほど。

 先程に揉み合いの白兵へと突入した時点で、柄を長く持つ意味は少ない。

 そう――少ないのだ。決して意味を失ってはいないのだ。

 この技は本来、初手にて使うべきものだ。しかしこの局面にて使った事が、赤音の、武士の意表を突いた。

 右腕は力点と成り、凶悪な稼動機械に変貌を遂げる。左手は支点となり穂を跳ね上げる。

 十文字槍の鎌は赤音の肛門入り、睾丸を割り、腸を裂くだろう。

 師を持たず、野犬は主人を得て奉公の理を判ったとき初めて発生した業。

 

「我流――猛狗ッ!!」

 

 猛犬の牙は武士の股を裂くのは論を俟たない。

 が、今回ばかりは相手が悪い。脳よりも疾く、肉体が反応する――鬼が相手なのだから。

 赤音の僅かに引いていた左足が擦れ動く。“かぜ”右手で握り、体は紙一重で半身に転身した。

 穂先が捉えたのは股ではなく遥か上、逃げ損なった耳朶であった。

 “かぜ”の刃縁を柄に沿わせる。前田との距離を急速に縮める赤音。

 反撃を試みようと前田、しかし間に合いはしない。猛犬の牙である穂は、“かぜ”が柄を縦に天へ押し上げていた。

 ――まだ間に合う。

 穂を後方へ寝かせ、石突きを使い打撲を狙う。

 担ぎ上げた十文字槍、石突きを赤音の顔面目掛け打ち出したが――捉えられず。

 屈みこんだ赤音、飛び上がるようにして鉤型に曲げた腕が前田の喉元を打った。

 

「がっ...あッぁぁ......はぁ...が」

 

 喉を捉え、押し圧すした赤音は、腕を輪状に前田の首を締め上げる。

 

「あっ...あぁ、が...っ」

 

 徐々に弛緩していく。これ以上締め上げれば首を折りかねない。

 ゆっくりと力を緩め、前田が失神した事を確認し急いで離れる。

 凡常このようなものは使う事はない。しかし組討の試練にて失神するものは幾人かはいる。

 ――痛くなければ学ばない。

 動物的心理であり、原理だ。赤音もその原理には逆らえない。

 赤音はその幾人に入り、絞め落とされた。

 その後を聞くが、一生涯拭いきれぬ恥を掻いたのは笑い話とてしたくはない。

 自身が嫌な事は他者にはするなと親に教わった通り、これだけは他人にはしたことがなかった。

 今回ばかりは御仏も赦そう。

 

「勝負ありッ!!」

 

 柴田の声で「槍の又左衛門」との試合は終わる。

 庭に汚臭が漂い、小袖が汚れていないか確認する。土汚れさえあれ、赤音の予想しうる最悪は付着していなかった。安堵し、“かぜ”を鞘に収める。

 心裡で失神してしまった前田に詫びよう。組討をかけたことに、女人であれ男人であれ恥をかかせたことに。

 

 ――刈流組討 蛍籠。

 

 二度と使う事はないだろう。



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第肆試合 一寸先の魔刃

麦穂「私には未来が見えるわ!!」
赤音「なんだとならば喰らえっ!! Magical Blade『NOON MOON』!!」
麦穂「That is NOON MOON!!」
一同「NOON MOON!!」



赤音はNOON MOONは使えません


 陣幕を押し退け、四度目の土壇場に足を踏み入れる。

 疲労は若かき体に徐々に蓄積し始めていた。

 毒の如き疲労を気力で潰し、症状を押さえ込む。赤き剣鬼は更なる強敵、更なる贄を求め足を進める。

 疲れに犯される身ではあるが、その息使い、眼光は、醜悪な色を放っていた。

 傍よりに見えれば、赤音の歩行(スッテプ)は遊戯にでも遊びに行く町娘と見紛う。

 裡より染み出る瘴気は、外皮によって美艶な女人と見て取れよう。

 陽光に照らされる赤音は絵にはなるが、夜刻と間違え這い出た鬼である事には変わりはない。

 陣幕の奥、土壇場に立つ贄を捉えた。

 すらりとした細身の女。豊満な胸を下げ険しげな表情を浮けべてはいるが、奥底の母性的な性質は落ちきっていない。これが「鬼」柴田と対なる双竜、「鬼」五郎左とは笑わせる。

 立会い丹羽は名乗りを上げた。

 

「丹羽米五郎左長秀、真名を麦穂と申します。尋常にお手合わせを、赤音殿」

 

「......」

 

 赤音は答えなかった。

 幾度も名乗りを上げ、果ては娘らを倒すのだ。

 疲れにより億劫となり始めてもいた。だがそれを理由に逃げ出すことも負けることも許されない。

 自分自身が、いや伊烏義阿が許しはしないだろう。

 剣によって繋がった、復讐の赤い糸。

 たかが一個の命のために、たかが一人の女のために、怒りで我を忘れ古今東西を奔走し、憤怒により眠れぬ夜を明かし、俺を切るためだけに魔剣「昼の月」を完成させた馬鹿な男。

 馬鹿で、愚かで、愛おしい。復讐に取り憑かれた剣鬼。

 里心(ホームシック)ではないが、赤音の唯一あの時代において追想を感じさせる相手。

 剣によって繋がる、まさにそれは恋愛も、性交も、子をなし生涯添い遂げる長き時間を一瞬に濃縮した時である。その時間は倫理も性別も関係はない――何者にも囚われない時間。

「愛しいから殺す」なんて冷静に考えて精神病的なことはいう気はない。ただ単に伊烏を、伊烏と(、、、)死合った記憶は何物にも代えがたい記憶である。もし願い叶うのならもう一度彼と死合いたい。

 しかしそれは叶う事はない。――代替の相手を斬る事でしか慰めは訪れない。

 

「両者構え」

 

 “かぜ”抜き、指の構えをとる。

 相手方、丹羽長秀は腰に吊る剣を抜いた。

 その剣は奇妙な形状をしていた。

 日本刀特有の刃の反りは殆どなく、切先が僅かに反りを描いていたる。

 柄頭の形状は円筒状で先が丸まっており、手貫緒を通す穴が開けられている。鍔には飾り気がない、柄には柄巻きではなくなめした牛皮の様なものを貼り付けている。

 さも驚こう、あまりにも古い刀、いやそれは刀と呼ぶには古すぎる。

 儀式用刀剣――丹羽の握る太刀は飛鳥の時代より掘り出された方頭大刀ではないか。

 奇怪な構え。右腕を内側へねじり畳み込み、脇を絞めた。

 方頭大刀を横に寝かし、紫宮の高さに持つ。左手を柄頭へと添える。

 薄く長く吐く息遣い。赤音とまったく同じ、息を吸っている間は反応が鈍くなる。

 切先から左肘まで真っ直ぐに伸びた一線。

 その構えはまるで見たことがない。いや一度だけ。

 鹿野道場のテレビにて一度だけ似たような構えを見た。

 それは五輪(オリンピア)の祭典の一つの競技。

 

(......西洋剣術(フェンシング)

 

 この様な場でこのようにして立ち合うとは誰が思おうか。

 西洋剣術――数々の伝説を生み、現代への石橋を作り上げる欧州(ヨーロッパ)の地にて産まれた剣術。

 多くの歴史、伝説、技術を生んだ地で産まれた剣技、その実フェンシングのような競争(スポーツ)の一種となっていたもの以外、実践的な剣術は「失伝」している。

 神秘に包まれた神話(レジェンド)の剣術。ロングソードや、大型武具であるツーハンデッドソード、小型の物ではダガーのようなものも一括して西洋剣術と。

 日本のように造りこそ違いあれど、一本の規定された刀剣に独自派生した武術があるかすらわからない。すべての物を一括して西洋剣術であろう。受けや流し、攻めの術理に共通性が見られるだろうが、刀剣の使用用途が違えばその動きすら根底から変わってこよう。

 海を越えた先に芽吹いた剣術。そこで生まれし刀剣は日本で生まれる剣とはまるで違う。

 切断を重視する日本では、その切れ味を鋭利にする為、頑丈さはもちろん、日本刀特有の反りの形状により脅威的な切断能力を有した。

 対して、西洋剣はその逆にあった。

 風土として欧州(ヨーロッパ)は陸続きの土地である。陸が続くのであれば人の行き来がある、人の行き来があるなら、そこには戦がある。広大な土地には日本とは比べ物にならない膨大な人口を有している、相対的に戦の規模も日本とは比べるまでもない。

 何千人、何万人、両手両足の指を優に越える数の人間が鎧甲冑を身につけ身をぶつけ斬り合うのだ。必要とされ刀剣は、分厚い全身甲冑(プレートアーマー)を斬り砕く頑丈性、盾をも破砕する重量。

 分厚く、刃など欠けても重量で叩き切る。そういった理念において切れ味はなくとも、「重み」と「速度」で圧し切るのだ。

 大雑把な剣術に思えるが、西洋剣術はそれだけではない。

 大型の物から小型の物まである――斬る事を捨てた剣術は、「線」ではなく「点」を選び取った。

 刺突剣(レイピア)――日本では生まれ得ない西洋独自の刀剣。

 刺突(つき)という一点の殺傷に特化した剣である。刺突の技能は一部流派を除き重要視はされていない。

 刀の本分は「斬る」ことにあり、「突く」事は槍の本分である。一概に刀で刺突を行わないわけではないが、刀の形状がそれの邪魔をする。斬る為に持ちえた反りが。

 対し刺突剣(レイピア)は反りはなく、刀身も細身。対手の振りで曲がるわうねるわ、これほど頼りなく斬る事のできぬ剣はない――しかしだ、それにも意味はある。

 刺突剣(レイピア)は斬る事を専門とはしていない。刺突剣(レイピア)は刀と違い相手の体に最初に接地するのは切先のだ。仕手の腕しだいで、弾丸の貫通性をも超えよう。

 点攻撃へと集約された(エネルギー)、刀の線攻撃のように接地面が少ない分、抵抗もなく体を抜く。全身甲冑(プレートアーマー)の隙間を抜き、命を穿つ。

 突きの究極――西洋剣術(フェンシング)

 過去の遺物たる方頭大刀を使う理由も頷けよう。方頭大刀が造られた飛鳥の時代は、平造りや切刃造り直刀を主体としている。反りがなく赤音の持つ刀のような切れ味は望めないが、神速の突きならば刺突剣(レイピア)のように打ち出せよう。

 寸毫でさえ判断は誤れない。もしそれをやってしまえば――心臓を抜かれよう。

 両者硬直し、微動だにしない。気迫にようる体力気力の削り合い。

 

「......」

 

「......」

 

 赤音は待った、時は待つことを知らず、一定して同じ流れを続ける。

 相手は突く、体格差に措いて負けている赤音。

 ――狙われるは喉元。

 一点に(エネルギー)が集中した切先を抜けば、勝機は取れる。

 突きを物打ちにて横に払い除ける。間合いを詰め、横へと構えられた“かぜ”の峰で首筋に打ち込む。

 これにて試合は決する。

 赤音、丹羽は動く事はなく相手を見据え続ける。

 

「.........」

 

「.........」

 

 機はあと僅か、丹羽の確証として齢の差が仇となった。

 

「.........っ...」

 

 丹羽は歳を数え二十五となる。赤音は二十二。

 その差が、たったの三年の差が試合の勝機が赤音に傾いた。

 

「――――ッッ!!」

 

 気を噴出した赤音。

 応じるようにして丹羽も動いた。その動きは想定していた通りの――突き。

 丹羽へと体を撃ちだした赤音。それを迎え撃たんと喉仏に突き立てられた剣先。

 “かぜ”は吹き荒れる。

 方頭大刀を切り払い、間合いを縮めた。

 鎬がぶつかり微かな火花を散らす。

 払い除けた、あとは峰打ちで決する。

 

「っ!!」

 

 丹羽は悟っていたのか。払い除けると同時に後方へと、跳び逃げた。

 ありえない。――ありえてはならない。

 後方へと跳んだ丹羽の判断速度は常人のそれとは一線を画している。

 刺突とは必殺でなければならない。仕損じれば、伸びきった右腕は二の太刀を放つ事ができず、切り倒される。

 死地より生還する方法は二つ。組討覚悟の当身を使う事だ。

 正しくはある。が、体格差で有利であれ前試合で組討を会得している事を知っていて仕掛けるのは――無謀過ぎる。

 なればもう一つ。突くと同時に後方へ跳ぶのだ。

 しかしこれは、刺突が当たらぬのだ。逃げを前程と考え、突く。前方へ突く体重は逃げる為に浅く踏み込む必要がある。ならばその突きは完全には伸びきらぬ、生ちょろい突きで対者に当たらず、当たる寸前で後ろへと剣は下がる。

 しかし丹羽の剣は違った。

 全力で刺し、全力で逃げたのだ。

 完全に体重の乗った殺傷には充分な威力を持った突きを放っておきながら、“かぜ”の届かぬ安全圏へと逃げれているのだ。

 もしそのような事を可能にするならば、赤音のように即応能力を持ちえる者しかいない。

 ありえぬ――

 赤音の即応能力は唯一(オンリーワン)の物だ。類似するものあれど、全く同じはありえない。

 遺伝子に瓜二つがないように、赤音の能力に瓜二つはない。

 赤音は序盤へと戻った土壇場で再度息を吸い直した。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 張り詰める空気を肌で感じながら、久遠は麦穂赤音の試合を離れた陣にて見ていた。

 殺伐とした戦場の空気。並みの者では肝を潰すであろう。

 

(......赤音よ、麦穂のお家流は難儀するぞ)

 

 言い知れぬ剣気が辺り一帯を包み込む。

 

「く...久..久遠ッ」

 

「お!? なんだ。結菜?!」

 

 御前試合に熱中――もとより赤音が凶気に走らぬよう監視していて嫁である結菜の声が聞えなかった。

 少しばかり強めの語彙でようやく意識が試合より剥がれた。

 

「なっなんだ。何事か?」

 

「ごめんなさい、邪魔しちゃって。来客が――」

 

「来客?」

 

 云われる同時程に陣幕の裏がごたついている音を聞く。

 荒々しい足音。肌の同士の擦れる音。ばさばさと節操なく擦れる広袖の音。

 

「殿おるかッ!!」

 

「何だ? 森、ここは戦場ではないぞ」

 

 菊のように色鮮やかな髪、豊満な肉体を裸同然に放り出し野性の眼光を輝かせる女人。

 織田家家臣。家臣と云うより猟犬と呼ぶに相応しい。

 森家当主、森三左衛門尉桐琴可成その人であった。

 

「わし等の酒を何の手違いかこっちに送ったそうだ。あるか殿」

 

「ああ、あの酒か。今朝ほど大樽に入った酒が届いたのは主らのか...まったくとんだ蟒蛇よ。結菜、大樽を荷車に積んでやれ」

 

 結菜へ酒の積み込みを頼み。来客を見た。

 珍しい事が起こっていた。

 桐琴の表情が失われている。狂犬が見ていたのはただ一つ――御前試合であった。

 赤音と麦穂、動くことなく膠着が続いている。

 

「殿......あれはなんだ?」

 

「ん? あれか。新参を試したいと壬月が申しておった、今はその試しだ」

 

「そんなことを聞いてんじゃない。あれは(、、、)何だ」

 

 桐琴は腕を上げ、その指でそれを指した。

 まるで人ではないような言い方で――赤音を睨みつけていた。

 

「赤音。我の『一応の夫』とする者だ」

 

「『一応の夫』――怪異の嫁とは酔狂を申すな......」

 

 桐琴は赤き鬼を凝視しながら一言だけ云った。

 

「丹羽はこのままだと斬られるぞ」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 丹羽米五郎左長秀は冷静を貫いた。

 対手、赤音。その剣は洗練されている。剣術の質が麦穂の知る戦場の剣ではない。一対一を想定した剣である。

 この世でそのようなもの仕官者なれば、ただの傾奇者(かぶきもの)と思っていた。

 がそれは厚い人皮を被る姿であり、裡は武士である。

 初手、方頭大刀の突きを見抜く思考力、その動きを捉えた反応速度。どれも抜きんでていた。

 だが、米五郎左には勝てない。

 今までの試合を見ていて理解できる。――赤音の剣。それは理によって詰められた心理の剣。

 同じ盤上で、柴田や三若のような根性論で戦うことは麦穂には出来ない。

 理解の追いつかぬものは、会得しようと徒に時を浪費するだけである。

 ならば己の得意とするもので、己が得意とする方法で敵を打ち倒すのみ。

 理によって詰められた剣術。日本刀の専売特許、線攻撃を捨て、方頭大刀の点攻撃を選んだのもそのが理由である。柴田のような常識外れの膂力は麦穂にはない。三若たちのように若さ溢れる気力も枯れ始めた。残されたのは理論によって凝り固まった頭と、それと同様の「お家流」のみ。

 先程の突き――払われ次に峰打ちが来ることは、刃が触れる僅か前に悟った。

 動きを感じ取った(、、、、、、、、)

 血に刻まれた呪い(まじない)――一子相伝の流儀。

 未来を読み、未来を歪める。

 お家流――闇夜灯明。

 滝川の蒼燕瞬歩や柴田のお家流のような派手さはこれにはない。

 与えられたものは、ただ未来(、、)を読み取る事であった。

 麦穂にとって未来とは見えぬ明日に不安や希望を抱くものではない。見て、感じて、頭で朗読するようなもの。

 確定して存在する絶対的なもの。それが未来なのだ。

 これを応用すれば、未来が見えるのであれば――剣筋が見える。

 剣筋が見えるのであれば――先の先は決して取られる事はない。

 麦穂の父は云った――勝機に四種あり、と。

 先の先、先、先の後、後の先と云う。

 先の先、それは油断もしくは裏をかかれ隙を見せている機。

 先、それは攻撃に意識が移り、体も攻撃準備で固まり、防御がおろそかになる機。

 先の後、それは攻撃を繰り出している最中、防御のしようがない機。

 後の先、それは攻撃を防いだ直後、体勢を立て直すまでの無防備な機。

 この四機の奪い合いが戦いでり剣術であると、師でもある父はそう申した。

 麦穂にとってそれは何よりも判りやすい解説であり、振って斬れば人は死ぬと漠然と云われるより端的に理解できた。

 対した赤音は押しの剣を好む――麦穂の見立てがそういった。

 ならば取るべき気は先、もしくは先の後。

 赤音は動いた。

 担ぎ上げた刀。頭の奥底に姿が映る。

 麦穂の袈裟を斬り撫でるものがあった。僅かに体が硬直した。

 斬られてはいない――それは赤音が飛ばした剣気であった。

 担いでいる刀、両腕で握っていたはずの柄には右手が鍔元を握っているだけ。

 左腕を柄より抜き、斬る動作と錯覚させたのだ。

 

(――晦まし...応じない)

 

 未来の見える麦穂は、その動きを読み取っている。

 ただ武士として反射的に身が固まってしまった。

 距離は充分にある。息を吸い、薄く長く吐き出す。

 

(笑って、...いる)

 

 そう、笑っている。

 赤い剣鬼が笑っていた。

 何かに気づいたように、さぞ愉快そうに笑っていた。

 ――途端、動いた。

 地を蹴り、走る。

 一足一刀の距離まで縮ませるまでまだ間はある。

 麦穂は一刀ではない一刺だ――一刀より越える間合いを有している。

 突くと頭で理解した瞬間、一寸先の未来が読み取られる。

 先程の晦まし同様、袈裟より駆け斬る気だ。

 ならばその太刀を受け流し、背に抜け心臓を一突きにすれば済む。

 

(この試合獲らして貰う)

 

 退避する間も失われてしまう。しかし未来は見えている、後は体を併せるだけ。

 袈裟を狙い、刀が切り下ろされる。威力速度ともに脅威である。

 方頭大刀で受け、傾け流す。――後は背へ抜け刺すのみ。

 

「―――――――――ッッッッ!!!!」

 

 思考が失われる。脳を打った明確な幻影(みらい)

 麦穂が対応できる間は、その太刀を受けた時から残されてはいなかった。

 気を吹いた赤音。

 股下より、閃光が走る。その光は間違うことはない――その光は、赤音の刀。

 

(何故振れる?)

 

 振れるはずがない。赤音は右足より踏み込み、袈裟より切り込んだ。

 この時点で殺傷に必要な(エネルギー)は貪り尽くされている。

 二の太刀を振るには二歩目を踏み込む必要が確実にある。

 しかし赤音は踏み込んでいない。振ったその場で二の太刀を振っている。

 

(ありえない)

 

 そう。ありえない。

 一踏みにして一の太刀二の太刀を振るなど。

 それは剣術を超越している。

 そうはもう――――

 

 

 

――魔剣――

 

 

 

 方頭大刀が切り上げられ、打ち払われる。

 腕より離れた方頭大刀は遥かの池へ墜ちていった。

 対者赤音。その姿は――

 

――空を切り裂くように刀が天を指し示していた。



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第伍試合 鉞鬼と剣鬼

 剣術。

 日本古来より、室町時代よりも以前にその源流は存在したとされる。

 獣の棒振り術を精神美により礼法とした型、それ即ち剣術と呼ぶ。

 名も知れぬ者から大業を打ち立てた者たちまで、数多人間が人斬り術を芸能事へ消化していく。

 幾代もの者たちが更なる技を、更なる強さを求め、銃と云う新兵器の時代が到来しようと鍛え続けたものだ。

 日本剣術には三本の流れあり。

 一つは、陰流。二つは中条流。三つは神道流と云う。

 この三つを、三源流と云う。

 三源流を基礎とし、幾百、幾千もの剣術は生まれた。

 だが、その流れの多くはか細く、歴史的淘汰の中で埋没するものも多く存在する。

 現代に残る剣術は、その汎用性、伝達性において秀でてよかったのだろう。

 数多くの人間により重ねられた術。――剣術。

 しかしその流れより零れ落ちるものは存在する。

 それは稀代の天才が一代にして作り上げる絶技。弟子がいくら鍛錬を重ねようと受け継ぐことはできない。

 一代限りの才能。一代限りの必殺剣術。

 数多の人々が鍛錬により作り上げる剣術とは非なる剣。

 所謂、魔剣。

 突発的に生れ落ちた天才たちが、その天稟を持って一代にして創り、一代にして消え逝く。

 誰もがその技を会得すべく精進を重ねただろう。しかしその技術を得たものは現在に措いて確認はされていない。

 歴史の奔流に押し潰され実体を失った技術――残るものは一際は煌くその脅威だけが後世へ語られる。

 一刀流、伊東一刀斎――「拂捨刀」「無想剣」

 一代でありながらその生涯で二つもの魔剣を生み出した鬼才。愛人に欺かれ刺客に寝込みを襲われ際、反撃により産まれた秘太刀「拂捨刀」。鶴岡八幡宮に参籠し無意識のうちに敵を斬り悟りを得た「無想剣」。他にも中条流の達人鐘捲自斎通宗より自流の極意、妙剣、真剣、絶妙剣、金翅鳥王剣、独妙剣を会得したとされる。

 その魔剣の数は誰よりも多く、弟子にも小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明らが居たとされるがその剣の一つとして後世に伝わっていない。

 真新陰流、小笠原長治 ――「八寸の延金」

 小笠原長治が海の向こう明に渡り、習得したとされる魔剣。その魔剣は、間合いを伸ばす技法とされているが詳細は失伝により定かではない。間合いが伸びるという事は殺傷可能領域を延ばすことに他ならない。常勝無敗、数多くの敵を屠ったとされる技は他の魔剣同様、失伝してしまった。しかし後世で白井亨が「八寸の延金」を復元した、しかし、白井亨の「八寸の延金」はあくまで復元技であって直伝技ではなかった。果たしてそれが真に「八寸の延金」なのか。今では読み方すらわからない幻の技である。

 巌流、佐々木小次郎――「燕返し」

 天空を翔る燕を切り落としたとされる魔剣。空を高速で飛ぶ燕を切り落とすことは不可能に近い、佐々木小次郎は水面近くを飛ぶ燕を飛び上がるところで斬ったと推測されるが、詳細は不明である。舟島の決闘で二天一流の開祖、宮本武蔵と立ち会ったとされ、三尺余りの野太刀、備前長船長光、通称物干し竿を引っ提げ決闘を望んだとされる。

 魔剣の伝説は数多くある。

 しかしその一つとして後世に明確に伝わったものはない。

 だが。

 魔剣を生み出す「者」が居れば魔剣は自ずと現れる。

 要は天才が生まれればいいだけなのだ。

 魔剣を生む天才は、二一世紀に生まれた。武田赤音という名を持ち産まれた。

 武田赤音。

 流儀は、兵法綾瀬刈流(へいほうあやせかるのりゅう)

 魔剣の名は――

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 織田家老の陣幕で双竜が居た。

 片方は天へとも翔る龍力を剣鬼に捥がれた龍。

 優艶さは失われ、うら若き筈の柔肌は歳不相応にやつれていた。

 

「壬月さま。本当に大丈夫なので?」

 

 叡智の龍は語りかけた。

 陣幕を覆い潰す、闘気を滾らせる武芸の龍に。

 

「なに、ちとばかしたっぱの足りぬ餓鬼だ」

 

「ですが壬月さま!! ......あれは、あの業は、到底人知の及ばぬ極地。剣聖卜伝と同じ――」

 

「剣を覚えたばかりで善悪の区別もままならん阿呆だ。わっぱのままで、ああなっては手の施しようは一つ」

 

 柴田は言葉はじめを強めていった。

 それは自身を鼓舞する為でもあった。自分自身分かっていた。

 あの小僧、赤音の業は突出しすぎている。若くして人斬りの剣筋を得て、活人を選ばず殺人を選ぶ意味。佐々の銃にも臆さず、滝川の絶対的術理より抜け出す判断力。

 大業を成す筈の剣である。何故(なにゆえ)に人斬りとなった、何故(なにゆえ)に鬼への道を選んだ。

 柴田にはそれが許せない。

 煌く才能を、醜悪な欲望へと貶める赤音が許せない。

 主を思い護る為に興じる御前試合。赤音の剣を見れば見るほど、何故そちら側に(、、、、、、、)いるのかが分からない。

 

(判らなくてもいい。ただ――)

 

 許せないのだ。

 ――戈を止めると書く、それ即ち武である。武を理解せぬもの、武を貶める獣なりや。

 武道を生活の糧とする者にとって、その中でも更に堅実な柴田権六壬月勝家にとって、赤音は武を貶めるに畜生に他ならない。武道は人の道であり精神性を高める芸能だ。過去より連綿と受け継がれてきた業と精神を後代へと伝え、自身らよりも先の世代に繋げるものだ。

 それを赤音は穢している。殺人剣として外道へと墜ちたのだ。

 ならば、言葉は要らず。手ずからその性根を去勢する他に道はない。

 

「壬月さま。くどいようですが、彼の剣は人知を超えております。お家流と会得せず、自身の力のみで、あの剣を」

 

「魔剣を作ったか...凡俗でもなぞれる型であっても、その振りは寸先の闇、か」

 

 赤音の魔剣。

 一踏みにして二の太刀をも可能とする。天空を切り裂く剣鬼の太刀。

 脅威ではある、脅威ではあるが壬月のお家流には敵う者は数少なく、それこそ神霊を呼び戻すお家流だけであろう。

 武道の竜、破砕の鬼――鬼柴田。

 荷車に載せられた得物を手にする。それはひと目で戦斧と見分けがつく。だがあまりにも分厚く、大きく、巨大すぎた。銘を金剛罰斧と云う。

 仁王を罰する斧。護法善神さえも失墜させる、その斧で、仕手の力量を持って。

 

「......餓鬼には手痛いが荒い仕置きが必要だ」

 

 

 

 

 

 最後の贄を前に赤音は立っていた。贄の名前は柴田壬月勝家。

 その両手に握られた斧は、あまりにも常軌を逸していた。

 

「金太郎よ。本当にそれ扱いきれるのか?」

 

「舐めてもらっては困るな。私からしてみれば、孺子(こぞう)――貴様の体力と精神が持っている事が不思議でならない」

 

「生憎、殺陣には慣れたんでね」

 

「そうか。幾人も斬ったか。......その剣に大義はあったのか」

 

「剣に大義は必要ねえだろ。剣はただ振られ、人を斬る。それだけの物だろ」

 

 その一言に柴田の眉は微かに動いた。

 

「そうか。――ならば!!」

 

 それ以上の言葉は必要なかった。

 

(そうか、この狂った御前試合はお前が仕組んだのか)

 

 元より久遠の死狂いの試しは、柴田の仕組んだ暗殺計画の内。

 赤音は今の織田には不穏分子である。この御前試合も俺を追い出す、違う、殺す為に興じられている。

 史実で語られる織田信長のように一人に対し圧倒的に不利な条件を出す、そのように無茶苦茶な所業と思い今まで付き合ったが。

 

(お前の思惑だったのか)

 

 赤音は思ったのは理不尽に対する怒りでも、殺意でもない。

 昂ぶり。

 剣鬼は求めている。至極の練磨を、己を凌ぐ者を。

 ただ求め討つだけ、ただそれだけを求め前へ進んでいる。

 後ろは要らない、前さえあればいい。

 

「武を穢すもの!! 身をもって武をしるがいい!!」

 

 ――武。

 柴田の云う武がどれほどもものか、もしそれが正々堂々と云うのであればすでに柴田は反していよう。だが、しかしだ。もし正面切って果たして来たのなら。正しき武なのか?

 いいや。武とは卑しきもの。

 どんな時でも勝ちを得るために剣を取る。礼の満ちる場においても、刃を手にすれば勝ちは取れる。そのようなことしか、考えぬのだ。

 武の本質、純粋な勝利欲。

 赤音も同じである。勝利ことしか頭にはない。

 柴田は戦斧は構える。

 股を大きく割り、常識外れの戦斧を腰だめに構える。

 左足が前に出ている。剣を使うものではありえぬが、柴田の得物は剣ではない。

 

(左からの薙ぎか、振り下ろしか...)

 

 二種の攻め手、対策は通常であればあるが。

 厄介な物理的問題がある。

 柴田の戦斧の大きさ自体が問題となってくる。

 戦斧の大きさ、巨大すぎる。柴田が扱いきれているのが不思議なくらいに。

 得物の大きさは間合いを稼ぐには充分過ぎる。槍と同様に膨大な距離を獲っている。

 それに加え、あの大きさあの重量は“かぜ”で受け止めようものなら即座に折れよう。

 

(どうするか...)

 

 勝機は自然発生するものではない。自ら作り出さなければ生まれることはなく、勝機を獲られよう。

 あの巨大な戦斧を想定した戦斧の組太刀はやることはない。だが、それに近しいものは刈流の形稽古で存在する。

 赤音は未だに“かぜ”を鞘より抜いていない。

 この勝負、間合いを読まれたくはないのだ。相手の圧倒的な範囲に対抗するものは、幻惑の間合い。

 居合術。

 対手より己の間合いを隠し剣筋を隠す。得意とは言い難いが、出来ない事はない。

 早足で駆け出す。

 鯉口に手を掛け、柴田との間合いを縮める。

 急激な局面の変化に、柴田の筋肉は硬く強張っている。赤音はその肉体の変化を見逃しはしない。急速な状況変化は人間に焦りを生じさせる、それが命のやり取りで極限に高められた集中力の中でなら。

 今の柴田には、赤音が縮地術と同じ速度で動いているように感じてしまうだろう。

 柴田の視野が狭まっていたが、この動きと同時に大きく広がる。

 人間は視界に頼りすぎている。それ故に視界の縮尺によって、行動が左右される。

 柴田は左足を踏み込む、右肘が赤音の眉間と同じ高さに上がる。

 左腕が赤音からは全く見えない。

 

(...振り下ろし!!)

 

 このまま行けば間違いなく、赤音は頂点より砕断されよう。

 戦斧の間合いに入る。風を叩き割るうねりが聞える。

 途端、赤音は後ろに跳んだ。

 滑るようにして後方に退避し、柴田の戦斧を避ける。後は攻撃終わりの柴田を抜き打ちにて斬り捨てる。

 

 ―――刈流 奔馬

 

 獲った。と赤音は確証を得ていた。

 しかしそれは淡すぎる期待であった。赤音は常識を当て嵌め過ぎていた。

 相手の戦斧の威力を軽んじ、戦斧の威力が通常の物と同じに見てしまっていた。

 

「ッ―――――!!」

 

 あまりの出来事に赤音の脳は反応しきれなかった。

 全身を打ちつけた「爆風」、体を転がし衝撃を殺していく。

 頭がはっきりしない。何が起こった。

 

「舐めてもらっては困る。貴様のためにわざわざ金剛罰斧を降ろしたのだぞ」

 

「それほんとにただの斧か?」

 

「ああ、ただの鉄の斧だ」

 

 そうただの鉄の斧である。

 だが、金剛罰斧の振りは斧を越えている。

 振り下ろされた地面は大きく抉れ、深々と突き刺さっている。

 抉れた地面を見て、ダイナマイトが炸裂したといわれても疑いはしない。

 何たる火力、何たる威力。柴田の膂力、もはや人のそれとは全くの別物。

 言うなれば――羆。

 

「鬼柴田じゃなくて、羆の柴田に名前変えたほうがいいじゃねえか?」

 

「ふむ、羆か。的確な名であるが羆は殺せる。鬼の名は不滅成り」

 

 右足が動く。左足を軸に体を右回転させる。

 腕、背筋の筋肉がうねるのを服の上より感じ取れる。

 抉れた地面が悲鳴を上げ、擦られる金剛罰斧に土が剥ぎ取られる。

 赤音は後方へ跳び避ける。何の技でもない、ただ避けた。

 先程まで居た場には、命を破砕する嵐が通り過ぎていた。

 赤い小袖が靡きを感じ今だ存命であることを理解する。

 今だ鞘に収まる“かぜ”の鍔に親指を掛けた。これほど得物を出し渋るのは赤音にとって珍しい事である。

 赤音は再度駆ける。

 柴田は瞬く間に右手と左手の握りを反転させている。斧のような得物だからこそ出来る芸当だ

 だが柴田とて武士、基本姿勢は崩す事はありえない。

 最初の構え。股を大きく割り、右手を柄頭、左手を柄腹に持っていた。

 この姿勢こそ、柴田の戦闘の基本姿勢の筈だ。

 しかし今の構えはその反転。

 体に染み付いたものが崩れれば、剣筋のブレにも繋がってしまう。

 慣れぬ姿勢で剣筋にブレを生じさない一撃。――胴薙ぎ。

 腰ための大振り。この一撃は薄皮に掠りでもすれば肉諸とも持っていかれるだろう。

 柴田の一撃は斧で行う裁断ではない。台風となんら変わらない、そこに起きてしまった災害だ。

 嵐はすぐ側まで来ている。

 赤音は嵐の下を、滑りぬける。

 

「っ!?」

 

 視界より赤音が消えた事に柴田は驚嘆の表情を浮かべていた。

 とうの赤音は頭上を通過する金剛罰斧の下。

 右足を伸ばし、後ろに体を倒す。打者が一塁に向け滑り込むのと同じ、スライディングだ。

 体勢の金剛罰斧に当たらぬように低く、両足の裏が地面に接地させ滑る。

 右足先が柴田の爪先を叩いた。間合いに入った、後は討ち取るのみ。

 頭上の金剛罰斧はすでに左方へと抜けた。頭上の安全は確保されている。

 体を跳ね起こし、右膝を立て、体重を前方へ飛ばす。

 同時に抜刀。

 滑り込みから繋げる座の居合。

 

 ―――刈流 青嵐

 

 着座からの抜刀技術は世界広しといえども類例がない。

 しかし日本剣術はその着座からの抜刀技術が存在する。それは如何に武が卑しいかを形にしている。

 武とは卑しきものなり。

 着座している局面など、どんな場においても――相手が刀を握っていないではないか。

 剣に大義は有らず、あるのは勝利への醜い欲求のみ。

 “かぜ”を完全に抜くと同時に、刃を反転させ峰を相手に向けた。

 水月の高さに刃を合わせ打ち込む。

 が―――鉞鬼はそれを是としなかった。

 赤音が刀を握る右手の下より、足が伸びてきた。

 

(なにッ!!)

 

 柴田は自らの体軸を己から崩したのだ。

 軸無き剣は、力が入らず本来の切れ味も活かしきれない。

 それに加え、今の柴田は金剛罰斧に体を振られている状態にある筈――

 

「ふっん!!」

 

 蹴り上げが小手を打ち、赤音の手の中より“かぜ”が離れてしまう。

 左足を踏み込んだ柴田は、右拳を赤音の顔面へ打ち込んだ。

 赤音は着座状態で、前後左右に体のがうまく利かない。

 腕で防ぐ――正しい判断ではあるが、柴田の豪腕に赤音の細腕は障子紙程度だろう。

 赤音はふと疑問に思い、周囲を見渡した。

 その疑問は金剛罰斧の所在であった。

 もし柴田が金剛罰斧を握っていたなら、このように殴る事はできず、その前に赤音の青嵐に腹を打たれていただろう。だが最も動きの枷であった金剛罰斧が柴田の腕にないのだ。

 僅かな間、一秒にも満たない僅かな時で周囲を見渡し、見つけた。

 

(そうだよな。胴薙ぎの終わりに――投げ捨てたんじゃあなぁ)

 

 頭に強い衝撃が襲い、赤音は昏倒した。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「それまで!!」

 

 久遠は声を張り上げ、鉞鬼を止めた。

 止めなければ、鉞鬼が剣鬼を殴り殺してしまうからだ。

 忠実な鬼は血に染まった手の平を止めた。

 

「壬月、何故そこまでやる。勝負は顔に一撃入れた時点で付いていたであろう」

 

 主の問いに鉞鬼は臥していた。

 真意はすでに見抜いている。だが、その口より言わせなければならない。

 

「答えぬか!! 権六!!」

 

 その怒声に鉞鬼は口を開いた。

 

「......この者は半妖と相違ありません。昨夜の鬼斬りを見て、確証を得ました。直ちに斬り捨てるべきです」

 

「この試合はそのためか?」

 

「――はい」

 

 沈黙が包み込んだ。決して長い時ではない、だがその場にいるものすべて永久の時に感じられた。

 久遠は沈黙を破った。

 

「猿、赤音を金創医の元につれてゆけ」

 

「は、はいぃぃ!!」

 

 まるで鳴きそうな声で袖にいた少女は、一刻も早くこの場を離れたいと云わんばかりに、赤音を連れて織田の館を抜け出した。

 久遠は踵を返し、結菜に幕を閉じるように指示を出した。

 そして後ろに控える柴田に一言だけ云った。

 

「一ヶ月の減俸じゃ。(うぬ)が策謀に向かぬ事を重々理解せよ」

 

 そう云い残した。

 鬼は土壇場が庭に変わるまで、その言葉を深く聴いた。

 そして心中で嘆いた。妖怪を懐に入れてしまったことに。

 

「――......御意」




ようやく御前試合終わりました。長かったです。
ある意味の燃え尽き症候群的なものになってしまいそうです。
さて!! 次回から美濃攻略だぞ!! その前に詩乃の恋愛的攻略? 墨俣一夜城の戦略的攻略? それ以前に剣丞隊に取って代わる部隊? 
うるへぇ!! こちとら主人公の武田赤音は天下の鬼畜外道だ!! 正攻法だけじゃねえ、レイープ、虐殺。選択肢は選り取り見取りだ!!

誤字脱字報告。感想、意見、要求などはどんどん受け付けます。


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新たなる巣窟

 暗所をただ歩み続ける。

 そこは風一つ吹かず、暑くもなく、寒くもない。

 そして漠然と、直感が夢である事を言い当てていた。

 赤音は“かぜ”の柄頭を握り締め当て所なくただ前へ進んだ。

 或とき一つの死体を見つける。首がことりと転がった女の骸。

 骸の顔を覗き込む。その顔はよく知っていた。

 奴に、伊烏にくれてやった女だ。

 眼を患い、ひび割れた遮光器が光が刺す事のない空を見上げていた。

 よくよく周りを見れば骸の山ではないか。

 誰も彼もよく知っている連中ばかりだ。

 鹿野道場の門弟、滝川商事に仕える衛士達、袋にした矛止め会、それに混じる犯した娘。

 彼の者達は謳う。

 赤音への呪詛、怨念。こちらに来いと。

 

 ――赤音。

 

 呼び声を辿りそれを見つける。

 

 ――ねえ、赤音。どうして来てくれなかったの?

 

 血の気を失った骸が赤音の裾を掴み縋り寄る。

 

(哀れだな。弓)

 

 それは生きていた頃とはまるで違う、愛人の姿であった。

 ゴミのように踏みにじった兇徒(テロリスト)にゴミのように踏みにじられる。

 存外、悪くない姿だ。綺麗に袈裟懸けで両断され、赤い中身を見せびらかしていた。

 因果応報だ。

 報いは来たのだ、帝都を牛耳る為に積み上げた烈士ども(テロリスト)骸が無念を吐いたのだ。

 

 ――どうしてッ.....

 

 俺は微笑みかけた。

 その微笑みは自分でも理解できるほど健やかであった。

 云った。躊躇なく、ただ自然体で。

 俺を取り巻く滝川が邪魔になったからだ、と。

 “かぜ”抜き放ち、縋りつく女の背に突き立てる。

 

 ――どうして...赤音っ。

 

 俺にとっては寄り道に他ならない。

 奴を待つために、「昼の月」を完成させた伊烏を待つ為の暇つぶしだ。

 俺は剣鬼。求めるものは己を越える業を持つ敵のみ。

 その敵が目の前に居たのなら、周りにあるものは不必要だ。

 敵が前に居り、刀と五体さえあれば他の何もいらない。

 誰も彼もが、俺にとって不必要になっただけだ。

 だから捨てた。だから一人になった。

 

 ――許さない。

 

 許されようなどと思わない。

 

 ――報いを受けさせる。

 

 死人が見えることなど、所詮ろくでもない夢だ。

 無は無へと帰れ。麗しき情婦。

 男である事を運命づけられた哀れな乙女。

 弓、お前は俺の道すがらの小石でしかなかったんだ。

 にわかに腹部にじわりと重くなる。何事かと見下ろせば、腹より紅色の紐が垂れ下がっていた。

 襟元を濡らす感覚が胸元へ広がる。

 白シャツは下へと赤く染まった。首元に手を当てると溢れ出る赤があった。

 

 

   ――...赤音――

 

 

 振り向けばそれらはいた。

 主を護れず斃れた隻腕の戦鬼。剣を理解できぬ糸目の愚物、矛止め会士たちと滝川衛士。

 赤音が死へと追いやった者たちが立ち並び、怨念を赤音へ送っている。

 先頭に立つのは云わずともわかった。

 伊烏義阿。

 右肩から左の脇腹にかけてばっくりと刀疵が刻まれ、致命傷を与えている。

 皇塔で斃れた伊烏の姿であった。ただその違和感はその隣にいた。

 伊烏の傍らには見知らぬ者が立っていた。

 いや知ってはいる。だが何故この夢に現れる。

 日本の魂を体現した将。それは赤音に手を差し伸べ云う。

 

 ――大帝は君を所望している。

 

 死人が世迷言を垂れ、剰え死した大帝へ隷従を云ってくる。

 ふざけるな。

 赤音は心裡で吐き捨てる。

 死人はあの世で閻魔の裁きを受けるか、さっさと転生でもなんなりすりゃあいい。

 他人の夢にまで出てくる執念さ、此岸に残した理想であの世逝きを拒み続ける亡者。

 未練たらたらで何がしたい。

 そう思った最中、ふと赤音自身にもそれが云える事に気づく。

 俺の願いは果たされている。

 伊烏との死合いは果たされた。伊烏との死合いは果たされた筈だ。

 なのに何故、彼岸への道程へ逝かないのか。

 久遠に仕えるからか、所詮口約束だ。逃げてもいい。

 だが残っている。何故だ。

 困惑しているとき、伊烏の死体は口を開いた。

 

 ――必ず、必ずお前に、復讐を。

 

 現世にて顔を合わせることは絶対にない。

 しかしその言葉は、確実に復讐を果たすという色が見えた。

 死者の言葉に耳を澄ませる。

 復讐の睦言。愛への罵声。

 

 ――ああ、伊烏。お前はいつの時代でも最高だ。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「......やってらんねぇ」

 

 眼を覚まし、見上げた天井はこの時代で始めて見たものと全く同じものであった。

 ただ身体的な差異として、赤音の顔面には包帯が巻かれていた。

 目許を除き、鼻周りを集中的に。

 基本、鼻呼吸であるから息がし辛い。

 痛む鼻先。

 骨折はしてはいないが酷い事には間違いないだろう。

 滝川に切られた右腕にも包帯が巻かれ、衝撃が伝わる度に激痛が奔った。

 これだけ傷ついたのは何時以来か、鹿野道場での稽古か。

 違う。三十鈴を斬り捨てた後、伊烏と死闘をした後が最後だ。

 

「あ、そうか」

 

 それ以来、刀疵は受けた覚えがない。

 骨折や捻挫はあるが、刃はこの身には受けた事がなかったのだ。

 となれば疵を与えた滝川は赤音のセカンドバージンを奪った者になる。

 何の因果か、その名は「滝川」

 支障はないが同一名は気が向いてしまう。

 己の手で、判断で、赤音を愛した女――瀧川弓と同じ姓をもっているのだ。

 瀧川商事の呪いと言われれば納得しよう。実際に赤音は東京を半ば支配していた大企業の瀧川商事を兇徒(テロリスト)「矛止の会」に売り渡し、壊滅させているのだ。

 その際に弓は死んだであろう。よくはしてくれた。

 衣食住、金銭にも困らず、平均以上の生活を提供した女を、唯一つの死合いのために見殺しにしたのだ。

 呪われて当然だ。怨嗟が産まれなければそれこそどうかしている。

 赤音は実感で感じ取っている。肋骨の僅かな痛みで。

 ただ一人、咬牙切歯を晴らさんと赤音の前に立った戦鬼は居た。

 半棒という武具を使い東京において「剣匠二十四傑」と呼ばれる無類の武人の一人。

 威名を「悪竜」名を八坂竜騎といった。

 赤音が唯一覚える、道端の小石の名前だ。

 死に体と等しい肉体で、進取果敢に立ち向かってきた。

 主を護りきれなかった無念が、主を売り渡した男娼(ツバメ)への憤慨が、老体を戦鬼へ転身させ即応能力と云う赤音の剣聖紛いの能力をすり抜け一矢報いたのだ。

 今だ癒えぬ肋骨の痛みは老獪の重圧だ。

 真新しい滝川の刀疵や柴田の殴打などより、より思いが、重みが籠もった一撃であった。

 剣士の矜持を捨てても赤音に報復を果そうとする気概。敬服に値しただろう。

 迎合の概念を捨てた赤音であっても強烈な印象が今だ付きまとっている。

 顔も腕も肋骨も、全身が軋み、ぷちぷちと筋が音を立てていた。

 運動といえるものはこの体で長らくやっていない。

 久遠の云うとおりであれば、赤音は一週間ずっと蒲団に横になっていたのだ。

 御前試合や鬼との死闘も、寝惚けた体には激務(ハードワーク)である。

 だがどうにも違和感は拭えない。

 ――体が重い。

 ずっしりと何か覆い被さっているような。霊的なものではないことは確かである。

 重圧乗る体を動かし、起き上がり襖を開ける。

 渇きと飢えを覚える。

 思えばまともの食事を取ったのは鬼と出会う夜以降に取った覚えがない。

 朝とて早朝の訓練で汗を掻き、その後すぐ御前試合の達しが来たのだ。

 腹の中に物を入れ動き回れば、食物によって中身が掻き回されてしまう。

 その結果、動きを鈍らせ負けたとなれば言い訳にもならない。食わなければそのような事にはならないのだ。

 と言っても赤音は四無行を勤める苦行僧ではない。殺しもすれば食らいもする。

 空腹に耐えかね、人の居る方へ飯のある方へ目指し行く。

 

「あ、赤音さまっ!!」

 

 後ろより幼げな呼び声が背を突く。

 振り向けば、奇異な少女が居た。

 両手に水が入った桶を持ち、赤音が立って居る事に慌てふためいていた。

 瓢箪の髪留めとサイドテールが印象的な少女だ。

 健康的な肌色と活発さを感じさせる雰囲気があったが、その右腕には包帯で覆われていた。

 脇下から手の平まですっぽりと巻きつけられている。

 火傷や刀疵の治療と言うわけではないようだ。微かな汚れはあれ、滲出液や血の痕は一つとしてなかった。

 

「駄目ですよ。怪我人がいきなり動いちゃっ! 包帯を換えますから戻ってください」

 

「包帯の交換より、...まず飯を頼む」

 

「へ...? あっ! は、はい。ただいま!!」

 

 水桶を置き、慌しく台所へ少女は消えていく。

 俺は桶を拾い、部屋へ戻り水で空腹を紛らわせた。それからすぐに飯は届いた。

 

「ど、どうぞっ」

 

 土鍋が一つ。蓋を開け中身が見えた。

 碗に入った汁に白い団子のようなもの、出来立てで湯気が立ち、具と言うものは見当たらない。しかしそれは何よりも旨そうに見えた。

 白の団子が碗に盛るれ渡される。箸を取り、白い団子を掻っ込む。

 物凄く、水っぽい。ネチャネチャとした触感、所々にあるしっかりとしたうどんのようなこし。

 風味、味、すべてをトータルで感じ一つの食物へ棄却する。

 それは蕎麦であった。

 そう、蕎麦であった。長く麺状の蕎麦と云うわけではない。言うなれば「蕎麦練り」であった。

 これは当然であった。現代人のよく知る蕎麦、即ち「蕎麦切り」は江戸時代になってから出来た物だ。

 慣れ親しんだ啜る蕎麦は今だ開拓されていない食であり、現状、そば粉を使用した食品加工はこれに限られる。

 ネバっぽく決して旨いとはいえない。だが、空腹の調味と慣れた味、現代の味「蕎麦」を感じられ一味も二味も旨く、美味に感じられた。

 蕎麦練りに貪り付き、碗に入った物を平らげてしまう。

 

「そんなに急いで食べたら喉に詰まらせちゃいますよ?」

 

 少女の言葉に俺は耳を貸さなかった。

 動物と同じように、礼儀作法関係なくただ食べる事に集中していた。

 土鍋の中の団子は数を減らし、残るものは赤音が持つ碗に残るものだけ。

 にわかに障子に陰が映り、襖が開く。

 

「お目覚めのようで」

 

 最後の蕎麦練りを喰らいながら、横目で新たな来客者を見た。

 

「帰蝶か...何だ?」

 

 仕切りの手前に座り、平伏しいていた。

 赤音は聞く。

 

「放逐か?」

 

「いいえ。この度の試合、赤音様のお力は存分に久遠は見ておられました。先の柴田殿との試合、得物を捨て、拳による乱闘はあまりにも無作法と」

 

「く、くく、あははははははッ!」

 

 赤音は笑い出してしまう。

 なんて、なんて馬鹿な女だ。

 

「あいつは俺を家臣にしたいってのか? 一人を斬ったから欠員の補充か? 怪しいだけのこの俺を、本気で言ってるのか久遠の奴は」

 

「久遠は、赤音様あなたを夫にと」

 

「ははははは、は、は...は?」

 

 帰蝶の一言で愉快な笑いも止まってしまう。

 この女、今なにを言った。重大すぎる事を朝飯感覚でいいやがった。

 夫だと。

 会って日を一日跨いだだけの男を、夫にするだと。

 

「あいつほんとに頭大丈夫か」

 

「形式上の夫と、云っておりました」

 

「形式上?」

 

「久遠は髪上げの儀を終え長らく経ちます。しかしながら今だ夫を取られない。そのため周辺国より」

 

「次男坊共が送られてくるか......俺は虫除けか」

 

「端的に言ってしまえば」

 

 納得はいった。

 悪い虫を寄せ付けない為に、更に性質が悪い虫ではあるが虫除けには最適である。

 他家の血を入れるとなれば相応の覚悟はいるであろう。と云うよりも久遠が他人に抱かれるような玉ではないだろう。あれが淑やかな姿など想像できようか。

 一応の夫、実際は家臣。必要な時に横に座っていればそれなりの体裁にはなる。

 首輪は一時期、後は放任と言ったところか。

 

「俺はこれからどうなる」

 

「長屋をただいま用意しております。それが出来るまではこちらに寝泊りを」

 

「仕事はどうなる。戦なんて等分ないだろう」

 

「久遠より赤音様を中心とした衆をお与えになると」

 

 赤音が従える衆、赤母衣衆や黄母衣衆のようなものだろうか。

 

「暫くの間、そちらに居る雑司、名を木下藤吉郎秀吉、通称ひよ子が身の回りの世話をいたします。お好きに使いまわしてください」

 

「へ? え、ええぇ! よ、よろしくお願いします。お頭!」

 

 木下藤吉郎。

 もう驚くのも疲れた。この娘、ひよ子は後の豊臣秀吉か。

 

「お、お頭」

 

 ひよ子は赤音の顔を覗き込み、表情を窺っていた。

 自分自身でわかる。ああ、俺は今笑っている。

 心底おかしくて、笑ってしまっていた。

 ――この世界はどれだけ狂るへば気が済むのだ。

 

 

 

 *  *  *

 

 

「ええ、ええ。そちらは手はず道理に。――簡単ですよ。あのお姫様は男遊びにしか興味がない」

 

 とある男は稲葉山城で一人虚空に話しかけていた。

 傍から見れば狂人の振る舞いそのものであるが、その手にはこの時代の人間には理解できないものが握られている。

 

「ええ、飛騨守にはいい傀儡です。判りました。不死帝都は必ずや」

 

 遠間でも話せるそれを切り、男は薄ら笑いを浮かべていた。



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咎人衆

「はああああっ!」

 

 気の抜けるような叫びを上げながら、木刀を振り上げたモノが無謀に突っ込んでくる。

 左右にも同様に木刀を持った者達が赤音を囲んでいた。

 二尺二寸の木刀、赤音の手と対敵する者たちは大凡同じ長さのモノを持っていた。

 一歩、大きく踏み込む。

 木刀を円陣形に一閃する。攻撃を主とした動きではなく、敵との正確な距離そして位置を測るためのものだ。牽制的な意味も持つ。

 敵対者達は明らかに剣術を知らない、子供の棒振りに近いずぶの素人だ。

 と言って舐めてかかればそれは驕りと云うもの。

 話として若い剣道家と古流の達人が真剣で立ち合った結果、剣道家が達人をなます斬りにしたと云うものがある位に過小評価は命取りとなる。

 瞬時対応可能な赤音に一太刀も当たらないにしろ、鍛錬を軽んじるほど赤音も捻くれてはいない。

 充分に距離を取り、勝機を作り始める。

 正面に立つ一人、赤音は刀を振り上げる。指の構えではなく大上段を取る。

 あまりにも攻撃的過ぎる構えに、赤音の正面に立つ者は肝を握られ防御に意識を集中させてしまう。

 だがそれが狙いであり、勝機の一つ。

 敵は三人、背後の二人どちらかが動く。

 右に足先を擦る音。無防備に見える赤音の背はまさしく撒き餌の餌だ。

 大上段に構えた体を反転させる。

 釣られた敵対者はその動きに驚きを隠せない様子。体が震え、反応が一瞬だけ鈍った。

 その反応を狙っていたのだ。

 右肩より木刀を打ち込む。肉を打つ感触、その先にある骨の硬さ。

 手加減はしている。打身、悪くて骨折程度だろう。

 人を打つ感覚を楽しむ間も無く、忙しく動く。

 もう一人、後ろに控えるものに立ち合う。

 右袈裟懸けを狙い振り上げられている木刀。

 混戦の中、刃のどの辺りに接触するのか分かっていない。

 刃にすら当たらない。良くて拳に当たる。

 赤音は振り下ろさせる前に迅く胴を切り上げる。

 その動きに連ねるように、切り上げの勢いのまま大上段に構える。

 正面にいる者はあまりの速さに反応が追いついていない。

 瞬く間である。赤音は木刀を振り下ろし、正面に控えた対敵者の鎖骨、打ち割った。

 轟き響く、苦痛の絶叫。

 当たり前だ、鎖骨は肩の元を支える重要な部位だ。片腕を失うのと同等、尚且つ治るまでに途轍もなく時間が掛かる。

 割られた者は地面をのたうち回る。あまりにも醜く、哀れである。

 同僚に引きずられ、金創医の元へと連れ行かれて行く様は、サーカス小屋のピエロよりも見事な道化を演じている。木刀を放り投げ、水桶の水を飲む。

 振り返れると容赦のない赤音に玉を縮み上がらせる侍共がいた。

 溜め息がでた。何も殺そうとしているわけではない。

 得物のが駄目なのか?

 この時代、訓練も道具と言えばもっぱら木刀だ。

 現代は竹刀だが、その元となる上泉信綱が考案した袋竹刀が全国で使用されだしたのは江戸に入ってからだ。

 いっそ赤音が作ったと云ってしまえば早いが、歴史の干渉、上泉信綱の業績を掠め取るようで気が引けてならなかった。それに加え人とは痛みがなければ学ばぬ生き物。

 安易に竹刀を渡して棒立ちする案山子になられては何の意味もない。

 

「さて...どうするか...」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「赤音様、いくらなんでもやりすぎですよ」

 

 昼時、店の一角を陣取った赤音とひよ子。

 赤音は蕎麦がきを貪り、ひよ子は向かいで茶を入れていた。

 ひよ子の視線は赤音を非難する色を有しており。先の行い、教練の際に兵の鎖骨を打ち割った所業を諫めていた。

 赤音は一瞥もせず、ただ蕎麦がきを貪り続ける。

 あれの切っ掛けは些細な事だ。

 赤音の体型と容姿、人を食った傍若無人な態度が戦場帰りの荒武者達の気性を逆撫でしたのだ。

 態度や容姿での揉め事はよくある。滝川衛士にもそういったような理由で絡まれたことはある。

 無論そういった者たちは剣鬼に返り討ちとなる。

 もう過ぎたことだ。過ぎたことを思い返そうとも無意味だ。

 しゃしゃり出た蚊を何匹潰したかなどだろも覚えていないように、幾本の骨を割ったところで覚えていない。

 久遠の命によりそれなりの部隊を持つこととなった赤音。

 桶狭間より消耗し、近隣諸国との衝突が頻発する尾張。

 兵の損耗も激しい限り。減れば隊の組み替えは多く行われ、そして赤音に与えられたのはいわば余り者達。

 素行不良、やる気の欠く者共が集まるお飾り部隊。

 所詮、「一応」の夫である赤音に部隊指揮が勤まる訳がないと踏んだのだろう。

 舐めてくれたものだ。

 一概に捻くれ者が人の上に立てないと思わないでほしい。こう見えて滝川衛士どもを率い矛止め会を壊滅させたのだ。細かい指揮は丸投げであったが。

 それ以前に赤音の部隊、と云うより尾張の兵共の錬度の低さに驚かさせる。

 滝川衛士の錬度が高すぎると言う点で見劣りしているが、それを無しにしても低い。

 一番に殺しに対する心持が違いすぎた。

 兵どもに殺す「気迫」はあっても、殺しにたする「気概」がない。

 この微々たる差が、道場稽古と戦場稽古の大きな差を作り出していた。

 こうなってしまえば抜け出すのは至難の業だ。

 一度心から死を間近に感じる他に抜けるか、赤音のように近しい者を殺すかして「死に対する心持」を付けなければ戦場では走る木偶の坊だろう。

 無意味な人員消耗は国力にも影響を及ぼすだろう。未来の日本のように人口はそれまで多くない。

 徴兵される兵士達は普段は農民、田を耕し米を献上する者たちだ。

 その働き手が減るのは痛い。一人の多さが大きく拘る時代だ、なんとしても「死に対する心持」を付けさせなければならない。

 

「なんだい旦那。辛気臭い顔して、うちの蕎麦がきがそんなに不味いかい」

 

 ひよ子の注文した品を持ってきた娘がいた。

 いわば看板娘、よく足を運ぶ「一発屋」の娘、お清だ。

 看板娘であまりいい思いでは赤音にはない。どこかの蕎麦屋のねーちゃんのように出会い頭に噛み付かれないだけまだましである。

 

「いいや、うまいよ。来る度に美味くなってる」

 

「そりゃあどこかの誰かが来る度に蕎麦がきしか頼まないからねぇ。作る機会が多くて美味くもなるさ」

 

 他の物も頼めと催促めいた口調であった。

 しかし赤音は断固として蕎麦がき以外頼む気はなかった。

 何故だかわからぬ。無性に蕎麦が食いたいのだ。

 ソバを使った料理、もっと言うなら蕎麦切りが食べたい。

 蕎麦屋のねーちゃんにいくら悪態を付かれド突かれ様とも、あの店のたぬき蕎麦が恋しかった。

 

「赤音様、蕎麦がき好きですね...」

 

「蕎麦がき以外食べてるとろ見たことがないよ...」

 

 ひよ子とお清は小声で話しているが赤音には丸聞こえである。

 反論する気にはなれなかった。

 話している内容は大低当て嵌まっているし、こっちに来てから蕎麦もの以外を口にするする気になれないのだ。

 米を食べようとも何故か口に合わない。魚も、豕も、まるで満足できなかった。

 唯一だ、唯一蕎麦だけが口にあった。過去にいる弊害か、それとも別の何かか。

 どちらにしろ今の赤音にはさして問題はなかった。

 

「赤音様。先日話した件ですが」

 

「あ? えぇと。そうだ。部隊の名前だったな」

 

「何かいいものは浮かびました?」

 

 昨日より久遠より部隊の名を決めろと急ぎ催促が来たのだ。

 元よりお飾り部隊、与太郎衆にでもしておけと云った一も二もなくひよ子(、、、)が付き返してきた。

 もう少しまともな名前を考えなければ部隊としての格好も付かない。

 分かってはいるがネーミングセンスに関しては、俺は生来より才はないことをよく知っている。

 

「殺戮幼稚園なんてどうだ?」

 

「却下です」

 

「万策尽きたな」

 

「発想が物騒すぎますもっといい名前付けましょうよ。赤音様なら赤色に因んだ名前なんて」

 

「赤に因んだ名前なんて幾らでもある。織田の赤母衣衆に武田の赤備え。赤に因んだモノなんて腐るほど転がってる」

 

「じゃあ...?」

 

「もっと...こう...聞いたら絶対忘れねえようなもんがいいだろ」

 

「悪名は嫌ですよ?」

 

「思いつき次第だな」

 

 赤音は椀に残る最後の蕎麦がきを食らう。

 腹も満たされ、席を立ち店を出る。

 銭はすべてひよ子に管理を任せており、物は持ち合わせていない。支払いは勝手にひよ子が済ませるだろう。

 暖簾(のれん)を抜け、ふらふらと長屋へ戻り始める。

 

「まってくださいよー!」

 

 ひよ子の情けない声に溜め息がでた。

 農民の娘だろ、体力はあるものと思っていたが、女子は所詮女子であった。

 歩幅を少しだけ緩める。首だけを回し、ひよ子が付いて来ているか後目で見た。

 赤音と同じ先は細く、恐らく太刀は扱いきれぬだろう。

 これが本当に農民上がりの侍とは摩訶不思議な世の中もあったものだ。

 何より不思議なのは、右腕に巻かれた包帯が解けた姿を見てことがなかった。

 四六時中着けると言うわけにもいかないだろう。包帯をするという事は負傷している筈だし、何より不恰好だ。

 この時代に来て約二週間。ひよ子の右腕の包帯が汚れているところも見たことがない。

 刀疵なら血が滲み、火傷ならば黄色い染みが着く、膿もでるだろう。

 だが一度たりともそういった汚れは見たことがない。こまめに変えるにしても、汚れを気づかせないとなると相当な頻度で取り替えている事になる。

 

「ひよ子。その腕いつになったら治る」

 

「え? えぇ...と」

 

「いつまでもそれだと不自由だろ。夏だし蒸れるだろ」

 

「い、いえ! 大丈夫です。...そんなに酷い...ものでもないですし、...傷って訳でも」

 

 口篭もりつつ話すひよ子の姿はどこか後ろめたい様子であった。

 赤音もそれ以上訊く気はなかった。興味の薄いものを根掘り葉掘り聞き出すのは趣味ではない。

 赤音は後目で歩いていた為、走る子供に気づかずぶつかってしまう。

 子供は転びはしなかった。謝りもしなかった、大通りの人混みにのなかに消えていく。

 

「ひよ子、今日は縁日か?」

 

「いえ、違うと思いますけど」

 

 大通りへ足を向ける。

 人を掻き分け、ふとそれが見えた。

 先頭を馬に跨った佐々の姿、その両脇を部下が固め、その後ろには縛られた下手人が続いていた。

 幾人も連なるように歩き、甲冑姿の者やぼろ布を着る者も居た。

 ただ判ったのはその下手人たちは、今川の敗残兵たちであること。

 清洲の民に混じっていると、農民達があいつ等へ向けられる思考の流れが汲み取れた。

 

(落武者...野方図に暴れたか)

 

 風に訊く噂では四日前に桶狭間の敗残兵がお縄を食らったと。恐らくこいつらだ。

 踵を返し家路へ急ぐ、が。

 

「ん? あッ! おーい! 赤音ー!」

 

「......チッ」

 

 軽い舌打ちが出てしまう。

 目聡く赤音を見つけた佐々の呼び声があった。

 仕方なく、佐々に適当に手を振ってやった。――しかし。

 

「照れるなよー! 出てこーい!」

 

 遠慮知らずの馬鹿は俺を表に出そうと躍起になっていた。

 これ以上無視して後で絡まれるのも億劫だ。大人しく出ることが最良である。

 人混みを掻き分け大通りへ出た。

 視線が僅かに集まる。新参の赤音は清洲の民にあまり知られておらず、向けられるものは一つ。

 赤の小袖の女顔――傾奇者(かぶきもの)。否定は強いてする気もない。

 

「赤音、鼻の調子はどうだ!」

 

「頗る順調だ。体も問題ない」

 

「部下に稽古を付けているんだって? 調子はよろしくないと訊くぞ?」

 

「知ってんなら訊くなよ」

 

 それとなく挑発的な言い方であった。

 赤音が表を歩くようになり、時折顔を見せに来る佐々。

 こと在る事にこの調子でつっかってくる。赤音が察するに先輩風でも吹かせたいのだろうが、ただ苛苛させるだけである。

 悪意はなくとも面倒を見られるという事が居心地が悪く仕方がない。

 教練はこうのほうがいい。財政面はこうだ。備品の備蓄はどうだ。いわれなくともひよ子に任せている。

 同期はいるが後輩を持たなかった影響だろう。ここは一歩赤音が大人になるしかない。

 

「この下手人どもどうすんだ?」

 

「土壇場に着き次第、刎ねる。頸は晒して仕事は終わりだ」

 

「ふーん...えらい数いるな」

 

「そうだろッ! 捕縛するのに苦労したんだぞ」

 

 佐々の話を聞き流し、下手人の顔ぶれを見ていく。

 誰も彼も疲れ切った目をしていて。殺されることを安堵していた。

 諦めに近い表情で罰せられることを喜んでいるようであった。

 ――普通。普通の人間たち。

 罪を受け入れ、罪として終わらせようとしている。世俗を生きる人間の表情だ。

 後ろへ向かい。そいつを見つけた。

 そいつは獣であった。

 髪は短く剃り上げら、がっちりとした筋肉がさらせれいた。

 丸太のように太い足はがっちりと地を掴み、指は万力のようにも見える。

 背は他の者よりも二回りも大きく、まるで毛を剃られた熊である。

 そして何よりも獣に近づけていた眼光。

 雰囲気では己は反省しています。だから如何様にもしてほしいと言った感じだ。

 だが眼は違う、眼では生きようと、どうやっても生きようとしている。

 獣の瞳、人の目ではない。これは他よりもぶっちぎっていた。

 

「そいつが気になるか?」

 

「ああ、一番な」

 

 佐々は武勇を話すような調子であったが、赤音は本人と話をしたかった。

 俺はそれの前に立ち、見上げるようにそれを見た。

 巌のような獣。熊の如き覇気。

 ふと先程まで考えていた悩みが溶解した。

 ――そうだ。簡単じゃないか。下手人どもを手下にすれば実戦はすぐにできるじゃないか。

 これは人を殺している。一度殺した者はまた一線を越えることは容易い。殺しにたする「気概」はすでに備わっているではないか。

 

「佐々。こいつ俺にくれ」

 

「はぁ? 何いってんだ。無理に決まってんだろ」

 

「無理か?」

 

「当たり前だ。下手人を雇用したなんて民に対して示しが付かないだろう」

 

 まったく、頭の固い馬鹿はこれだから困る。

 俺は熊を見上げ訊く。

 

「おい、お前俺の下に付く気ある?」

 

「罰を受ける身なれば、その要望は叶えられませぬ」

 

 詭弁を吐く動物だ。言葉を思えてしまい悪知恵が付いてしまっていた。

 舌打ちが出てしまう。佐々に聞く。

 

「おい、こいつ何した、どうやって相手を殺した」

 

「え? ええっと...確か無抵抗の民に袈裟懸けから斬って左腕を落とされたんだ。それが原因で相手が死んだって」

 

「そうか」

 

 赤音は一言そういい。“かぜ”を抜いた。

 白刃が煌く。一閃が空を撫で、熊の左腕に線を入れた。

 紀元前に存在した王国の法にこういった一節がある。

 

 ――目には目で、歯には歯で――

 

 現代では「やられたらやりかえせ」の意味になりやすいが、その一節は法にすれば究極の公平性を生み出す。

 清洲の町に血が舞った。ごとりと落ちる熊の腕、苦悶の咆哮が町に響く。

 民は静まり返った。赤音の所業はあまりにも身勝手であったが、斬った相手が下手人である事に戸惑っていた。

 

「赤音様ッ!!」

 

 ひよ子が人混みより抜け出てきた。

 赤音はもう一つの悩みの答えが浮かんだ。

 

「ひよ子、今日は運がいい。任された部隊の準備は全部整うぞ」

 

「え? ええ」

 

「名前はそうだなぁ」

 

 赤音は楽しそうに考え。そして決めた。

 

「咎人衆。下手人を中心にした部隊だ」



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墨俣一夜城 上

どうも皆様こんにちはこんばんは。我楽です。
戻ってまいりました。復讐剣、リターンウィッチと浮気をしましたが戻ってまいりました。
では四ヶ月ぶりぐらいの不死の刃鳴を、どうぞお楽しみ下さい。


「す、墨俣にお城をっ!」

 

 この世の終わりか、それともこの世の終わりを回避する方法を知ったように驚きの声を上げたひよ子。そんなひよこを目尻に赤音は蕎麦がきをかっ込む。

 

「本当に出来るんですかい? それりゃあ」

 

 隻腕の熊が丸太のような手を伸ばす。赤音は茶碗を渡し湯呑の茶を啜る。

 咎人衆副棟梁、陣乃介であった。

 土壇場送りの下手人が赤音の仕打ちに、生存し得たのだ。

 金創医の腕が良かったのか、包帯が巻かれた切り株のような片腕は血が滲んではいたが、綺麗に縫合されている。綺麗といっても縫合糸は蛸糸同然、時折臭う血腥い紫蘇の香りは縫合の膿瘍を恐れての殺菌塗布だろう。

 飲み干した湯呑を置き吐き出すように云う。

 

「出来る出来ないは求めてないそうだ。死地に送りたがってんだ家老の御二方が」

 

「家老の二方って...」

 

「想像に任せる」

 

 想像は容易だろう。

 織田の双竜、丹羽長秀と柴田勝家だ。もう一人強いて云うのなら佐々の馬鹿野郎だ。

 現状、織田家が措かれたで最も障害となってくる諸外国の一つが、

 美濃国主の斎藤義輔凉彌龍興。帰蝶の従姉妹に当たる。

 斉藤家の家長ではあるがその実権はあってないような物、神輿と成り下がった傀儡国主だ。

 実質的な国主は、これも無能ではあるが斎藤飛騨守と云う娘子。

 烏合の衆と化しつつある美濃の情勢、美濃三人衆の一人の安藤守就が近々内密の会見に来るとも噂がある。瓦解寸前の国ではあるが、人よりもそれを取り巻く環境が厄介であった。

 先々代の美濃の蝮こと斎藤秀龍舛彌道三が残した城、稲葉山城。現代で云う岐阜城の攻略に織田の家老一同長年の間苦汁を舐め続けていた。

 急峻の金華山の山頂に立てられた稲葉山城は堅牢な山城だ。甲冑着込んだ兵子どもがえっちらほっちら山登りなど、高所を取っている美濃軍のいい標的だ。山下は迷路のような城下が広がり兵どもは迷う。難攻不落とはまさにこの事、大阪小田原と肩を並べてもいいのではないか。

 だが幸い稲葉山城は山城、長期篭城戦には向かない。兵糧攻めでゆっくり飢え死にを願おう。

 とも云えぬのがこの赤音が置かれた状況。

 赤音は新参者の上、御前試合で家老衆の五人中四人を破って反感を大いに買っている。

 稲葉山城攻略の難題のお鉢が回ってきたのもそのせいだ。

 徒に稲葉山城攻略を長期化させ憤懣を溜めさせるのは、得策ではない。何より国勢がそれを許さんだろう。今は松平が盾となり今川を防いで入るがそう長く持たないだろう。腹黒狸の考えは読めぬ。

 今川の家長となった氏真も織田への仇討をせねば諸外国へ示しがつかない。

 出来るだけ早急に稲葉山城を落す必要がある。

 なら最初になにをすべきか。ことの全ては俺の知る歴史が教えてくれる。

 墨俣に城を築く事だ。

 城といっても石垣からなどではなく、木材の即席の橋頭堡で充分だ。

 戦略上墨俣は城を築くのに最適な場所だ。長良川の対岸には稲葉山城がよく見え動きも逐一把握できる。だがそれは相手も同じ、いや更に酷い。

 まず前程が違いすぎる。相手は本丸を持ち、敵を送ってくる。

 対するこちらは敵地へと赴き、城を建てなければならないのだ。同時に敵も襲い掛かってくる。

 どちらが苦労するのかは比べるまでもないだろう。

 

「墨俣に城を建てるのは柴田様も挫折なさった難行ですよ。無理ですよ」

 

「つったて今から断れる訳じゃねえだろ。投げ出して俺に掻っ捌けてのか? ひよ子よお」

 

「そうですけどおぉ...陣乃介さぁん...」

 

 情けない声で陣乃介に泣き付いたひよ子であるが、陣乃介はそれを押さえながら訊いてくる。

 

「城建てるのは理解しましたけど、どうやって築城するんですかい?」

 

「知らん、場所を見んことにはどうしようもない」

 

「てぇと?」

 

「見に行くか。美濃の墨俣」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「美濃に行くッ?!」

 

 織田の館に戻り、久遠に路銀の催促をした。

 当然反応は――

 

「ならんッ! 敵地のど真ん中、それも墨俣だと」

 

「下見だよ。攻めるわけじゃねえって」

 

「いや、だがあそこは死地ぞ。何人が死んだか数え切れん」

 

「長良川に川釣りを装えばいいだろう」

 

「だが何故主が――そ、そうだ! 咎人衆! 咎人衆の管理はどうするのる。罪人ばかりでは律する事も儘ならんだろう」

 

「罪人ばかりつったて未だ全体の五分の一程度だ。陣乃介を残すから大丈夫だ。あれは他よりも自制心はあるからな、強いし副棟梁にも据えてんだ。どうにかなるだろ」

 

 久遠は何かに理由をつけ墨俣の下見に反対していた。

 反対する理由はない筈だが、意味が分からぬ。

 既に旅支度を始め、単着物の袖に腕を通していた通していた。

 デカイ鏡がないため小さな鏡台に姿を映し、違和感がないか確認した。

 上より赤い小袖を羽織、立ち姿は女のような婆娑羅者に留まっている。

 

「うん、いいんじゃね」

 

「よくないわ。いいか路銀はやらんからな!」

 

 久遠は飛び出すように部屋を出て行く。

 後を追う気にもならない。まるで駄々っ子をみているような、そういった気分になる。

 同室にいた帰蝶は大きな溜め息を吐いた。

 

「赤音は鈍いのね」

 

「鈍いも何も、城建てる下準備だろ。理解してるだろ」

 

「理解はしてるけど納得は出来てないのよ。墨俣は幾人の兵が死んでいるから」

 

「川釣りするだけだろ」

 

「その真っ赤な小袖着て?」

 

 帰蝶は衣紋掛けに赤音の着ている小袖を丁寧に掛けていく。

 初めて会ったときよりよそよそしく他人行儀な言い方ではなく。

 かなり砕けた、と云うより素に近い口調に帰蝶は変わっていた。

 長いとはいえぬがかなりの時間この屋敷で寝泊りをしている。円滑な関係を築けていると考えるべきだろう。だが真名を許さない辺りいまだ警戒しているようだが、ある程度は踏み入る事を許している。

 

「単身でいくの? 国境の関所は刀持っては厳しいわよ」

 

「ひよ子を付ける。“かぜ”はひとまず置いて行く、護身道具無しってのも心もとないからな小太刀でも持ってく」

 

「無茶な行軍ねえ。久遠が嫌がる理由も分かる」

 

「あいつなんであんなに嫌がっている。訳がわからん」

 

「話し相手がいなくなるのが寂しいのよ」

 

「はぁあ?」

 

 ますます意味が分からん。たかが話し相手だ。

 それが寂しいから行かさないなど、どうにかしているだろう。

 

「久遠は南蛮好きだし、そっちの話が出来る人が欲しいのよ。私も聞いてはみるけどうまく理解できないから」

 

「いや、聞くだけろ。ろくに話していないぞ」

 

「本当に? 久遠は赤音に南蛮の話をするのが最近の楽しみにしているのよ」

 

 確かに聞きはするが受け応えは適当だ。

 ヒスパニアがどうたら、遠眼鏡が良いなど、既に知っていることを延々と話されるだけだ。

 実際に渡航したことはないが、諸外国の話をたまにするだけで特別な事をした覚えはない。

 だがそれがよくなかったようだ。

 旅先で能楽でも行い路銀を稼ぐしかないようだ。

 

「どの位向こうに居る気でいるの?」

 

「行き返りを抜きに考えても長くはねえな。精精二日がいいとこだ」

 

「......はぁ、分かった。久遠は私が説得しておくから。いい赤音、すぐに帰って来るのよ久遠が駄々を捏ねだしたら手に負えないんだから」

 

 その言葉に絶句してしまう。

 初対面のときは取り付く島がないどころか絶海無島の態度だった女が。

 

「お前もしかしていい女か?」

 

「もしかしなくてもいい女よ」

 

 自信ありげ帰蝶は答えた。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 早朝に北へと向かい、戌の刻程には赤音とひよ子は美濃に入り、川釣りを興じていた。

 傾き出した日に長良川は光り輝き、魚影を包み隠す。

 内陸の岐阜で釣り竿もって関所を越えるのは少々変に思われたが、何せ女みないな男と農民丸出しの娘なのだからなにを疑うのか。刀なし、凶器になりえるものは小太刀一つ。

 難なく関所を越え、長良川の辺へと腰を落ち着かせ稲葉山城がよく見える場所に陣取った。

 

「来ましたぁっ! 来ましたよ赤音さま!」

 

 本来の目的を完全に忘れつりに没頭してしまっていたひよ子が隣で騒ぎ立てる。

 餌は田畑よりミミズを使っているが、食いつきが非常に良かった。

 小袖の袖下より久遠の私物でよりくすねた遠眼鏡を取り出す。

 この時代にしてはいい出来をしている遠眼鏡だ。非常によく見える。

 釣竿片手に稲葉山城を見る。

 

(警戒は...薄いな、城の堅牢さ故だな)

 

 物見櫓に立つ兵たちの表情は退屈を極めているようだ。

 きっとここに城が一夜にして建てば仰天で腰を抜かすだろう。さぞ楽しいドッキリができる。

 狙いはやはり夜しかないだろう。

 資材の運搬にどれだけ消音化できるか。適確な設計と機動性も必要だ。

 だが運搬に大きな障害がある。柵一つでも一軍を防ぐとなればそれなりの規模の物が必要だろう。

 大型すればいいだけの話だが、物も大きければそれだけ運搬の手間と騒音を伴う。

 現代のように大型ダンプを転がせるわけでもなし、人力ではたかが知れるだろう。

 消音化が出来ないのならそれだけ早く建築するか。

 

(無理だなぁ)

 

 どれだけ捻ろうとも出るのはうなり声だけだ。

 遠眼鏡を袖の下にしまい水、面に垂れる糸を眺め気お落ち着かせる。

 ふと鼻を突くアンモニア臭。

 左隣で娘子が川の辺に座り川水を掬い髪を洗っていた。

 長い黒髪だ、前髪も長い。あれでは前方が見えないだろう。

 着物は上物で作りもいい。そこそこの家のものだろう。

 

「肥溜めでも落ちたか」

 

「...えぇ、そんなところです」

 

 頭を休めるついでに話を振ったところ返答が返ってきた。

 夕日に光る濡烏色の黒髪が綺麗であった。だが娘子の雰囲気は不機嫌そうであった。

 

「女は髪を洗うのも一苦労だな」

 

「そういうあなたは女のようですよ、髪の長い。男娼(ツバメ)の方ですか」

 

「放浪人だよ。あっちこっち飛び回ってんだ」

 

「そうですか」

 

 髪を洗い終わったようで濡れた髪を絞っていた。

 拭く布を持っていないようであった。懐より手拭いを取り出し投げて渡す。

 

「...あ、...ありがとうございます」

 

「......」

 

 何も答えず眼だけを向けちらりと見た。前髪の隙間より僅かに顔が窺える。

 愛らしい顔をしている。隠しているのが惜しいくらいだ。

 整えれば嫁の貰い手もすぐにでも出てきそうだ。

 コツコツと釣り針を突く獲物があり、神経をそちらに集中させる。

 

「なにを釣っているのですか?」

 

「さぁな。ここで釣りするのは初めてだ。こっちは当たりがねえてのに隣はどんどん釣っていきやがる」

 

 大はしゃぎで釣りをしていたひよ子はいつの間にやら遠く離れている。

 焦らすように突いていた獲物が竿に食いついた。一気に引き上げそれを吊り上げる。

 吊り上げたそれは――

 

「オオサンショウウオ...ですか」

 

「......ああ」

 

 とんだゲテモノを吊り上げてしまった。

 食えぬ事はないだろう。食用とされていた時代もあった。

 だが現代ではワシントン条約で食い物とされなくなっている。

 上品な味など、名の通り山椒のような味がするなど聞くが。目だか疣だかよくわからないもので覆われたこれを食う気はしなかった。

 

「手拭い、ありがとうございました」

 

 丁寧に畳まれた手拭いを渡してくる娘子。小さく礼をし、その場を離れていった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

「掛からなくなってきましたねえ」

 

「お前本来の趣旨忘れてなかったか」

 

 日も暮れあたりはすでに暗くなり始めていた。

 魚を投げ込んでる桶はそこそこの数が犇き、中央にはオオサンショウウオが踏ん反り返っていた。

 

「お城建てそうですか?」

 

「お手上げだな。運搬の最中でばれるだろうな」

 

「資材を運ぶ最中にですか?」

 

「音がでか過ぎる。甲冑着込んでるのもそうだし機動性ゼロだ」

 

 桶を持ち宿に向かう。

 群青色の空に一番星が輝いていた。夜空の端で流れ星が流れると共に光明も川面より流れてきた。

 

「ひよ子ーーーおーーいッ!」

 

 大きな声でひよ子名が呼ばれる。振り返ると、それらがいた。

 年はひよ子と同じぐらい、蜂の髪飾りがよく似合う活発そうな少女がいた。

 喫水が浅い、というより丸太製の(いかだ)で大量の竹を積み運んでいた。

 (いかだ)を川岸に止め走りひよ子に駆け寄った。

 

「ひよ子っ! 元気にしてた!」

 

「うん! 転ちゃんは」

 

 旧友との再会なのだろうが、赤音はそれいじょうに(いかだ)に惹かれた。

 そうだ。その手があった。

 あれを使えば出来るではないか――一夜城が完成する。

 

「赤音さま、紹介します。私の友達の――」

 

「蜂須賀小六転子正勝と申します。友人のひよ子がお世話になっております」

 

 紹介などどうでもよかった。俺はそれを無視して訊く。

 

「お前生業は何をしてる。あの筏は誰のだ?」

 

「あ、え? わ私は、と云うより川並衆は野武士をしてます。今はどこも戦働きができないので、木材運んでお金に――」

 

「あれはお前らのか?」

 

「いえ、あの竹は――」

 

「竹じゃねえよ。筏だよ」

 

「は...はい。私達が作りましたけど...」

 

 そうか、そうだったか。完璧ではないか。

 赤音は大声で笑い出してしまった。桶の魚達騒ぎ数匹飛び跳ねた。

 

「そうか! 分かった判ったぞ。野武士か、上等だ。川並衆全員雇おう」

 

「え――ええええええッ!」

 

 ひよ子と蜂須賀は驚きの声を上げた。

 赤音の頭には完璧な未来像(ビジョン)が出来上がっていた。

 何も資材をいちいち手で運ぼうとするのが間違いなのだ。

 資材に乗って、川を下れば簡単ではないか。

 墨俣の城はすぐに建つ。




誤字脱字報告。感想、意見、要求などはどんどん受け付けます。


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墨俣一夜城 下

 暗黒を下り、赤き剣鬼が墨俣へと降り立つ。

 前方に先導する川並衆の筏が二隻あり、後方の二隻をひよ子が先導した。

 筏に積載された資材は、城を築く物ではなく、幾本物槍や刀、それを佩びる者たちの武具。

 長良川を半ば沈没気味に下り、ようやく墨俣へと辿り着いたのだ。

 暗く見通しが利きにくい墨俣に一匹の隻腕の熊が躍り出る。陣乃介である。

 陣乃介の身には武具と云うものは見に纏っておらず、毛を毟られた羊の如く哀れであった。

 眼を暗闇に凝らせば他にも獣達は川辺に群がっていた。

 どれも精強な肉体を誇る、世間で弾きだされたろくでもない咎人ども。

 それらは赤音の命で先行し身を潜めていた。行儀良く集合を終え整列していた獣には賞賛の言葉を与えよう。咎人は動き出し筏に積載された武具を急ぎ下ろし佩びる。

 裸に剥かれた哀れな(けもの)は、牙を得て初めて野蛮な(けだもの)に姿を変えた。

 墨俣の地に野放図に設置された木材たちは事前に流し置いていたものだ。

 怪しまれはしたが、下流の漁業組合の名を借り無理に通し続けた。

 決して城を建てるもと思われない「補強用木材」の木材。

 それだけでは城などできない木材、小屋を立てるには充分な竹材など。

 城に必要な金物と柵を作る丸太が無いのだ。だが金物と柵を作る丸太は今届いた。

 

「急げ急げ...」

 

 陣乃介は小声で咎人衆を急かせ筏の金具を外し始める。

 五隻連なり川上より流れてきた筏群。是こそが柵、筏そのもを柵へと転じるのだ。

 必要以上に突き立てられた釘や金具を筏より引っこ抜き、丸太を陸へと持っていく。

 いちいちすべての物を一斉にやろうとするから手間取るのだ。事前準備は何事も大切だ。

 

「一夜で城が建つのは恐ろしだろうなあ」

 

 赤音は月夜に照らされた朱の小袖を躍らせ、足取り軽く戦地へと降り立った。

 勝機はあるのだろうか。あるだろう。

 すでに終わりの軍勢が国境に兵士を進め始めている。早朝には援護に来るだろう。

 今夜と明け方近くが勝負となる。

 

「戦争だ戦争だぁ」

 

 カチンカチンと“かぜ”を打ち鳴らし、高鳴る心臓に顔を歪めた。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「すまぬな半兵衛...私は今天下に興味はない」

 

 上座に腰下ろす主、斎藤義輔凉彌龍興。

 脇に男娼(ツバメ)を侍らせ、静かに抜き身の刀を眺めていた。

 容貌は従姉妹の帰蝶様と瓜二つ。髪を伸ばし一つに纏めれば区別がなくなってしまうだろう。

 平伏する竹中はまるで野望と云う気概を見せぬ主にほとほと嫌気を差し始めた。

 まるで肥えて太った豕だ。

 欲望に身を任せ肉欲酒欲を存分に食らう。自生を知らぬ獣が所業。

 訊くと所に寄れば男娼(ツバメ)にすら政に口出しされる始末。もはや救いようは無かった。

 これ国主など。

 

(どうりで飛騨守(ひだのかみ)のような無能が蔓延るわけですね)

 

 私を、竹中半兵衛詩乃重治を気に食わないのだろう。

 義龍の頃より斎藤家には忠節を尽くしたが、龍の子は龍には成れぬようだ。

 酒に酔わされた全盲の愚者。今の詩乃に龍興の姿はその様にしか捉えれなかった。

 飛騨守にいい様に使われ、忠誠篤い美濃三人衆をも政務より外す迷走。

 どうにも成ればよい。

 竜骨腐る船にいつまでも乗り続ける者はいないだろう。

 禄を返上し陸中にでも逐電する算段を考えている最中、龍興は思い出したように訊く。

 

「半兵衛、飛騨守が侍らせるあの糸目の男。あれは誰だ」

 

「糸目の...あぁ、あれでしたら昨月より飛騨守殿の補佐を奉じております」

 

「名をなんと申した。なかなか気の訊く男だ、褒美を馳走してやろうと思う」

 

 あの小策士――竹中は内心で毒気づく。

 あの男は竹中の記憶によれば現れたの三月前。

 飛騨守の小言に嫌気をきたしながらの登城の際に、あれはいた。

 仕官した者に大物が掛かったと城内は騒ぎになったのを記憶している。幾ら肉体労働者が増えようとお頭の回らない木偶の坊では意味をなさい、書類や報告をきっちりこなしてくれるかと杞憂していたのを覚えている。

 だがその名前は登城のたびによく聴いた。

 腕が立ち、そこそこに頭も切れる。剣の冴えには縁のない竹中とって腕が立つよりも頭が切れるという事に関心を覚え、ふと顔を見に赴いたのだ。

 居たのは飄々とした糸目の男。

 一見して無害そうな男であった。顔も悪くない、腕も立つとなれば嫁も寄ってくるだろう。

 話をと思い名乗り、困ったときがあれば手を貸すと言った。

 そしてあれは答えた。

 

 ――いえいえ、あなたに遭えてようやく分かりましたよ――

 

 その意味はよく分からなかった。

 ただ分かったのは、こいつはよからぬ者であるという直感。

 数日後、それが飛騨守派に属した事はすぐに知れ渡った。みな口々に言う、何故あの無能にと。

 その日を境に飛騨守派の動きは活性化していった。

 手始めに龍興に台所の取り付きどこぞより手に入れた鮮魚などで胃袋を握りだしたのだ。美濃は地理的に内陸が故に鮮魚は行き届きにくい。血の滴るような赤身の魚を持ってきたときは竹中も驚かされた。

 普段の献立には決して出ないものが出れば嫌でもこれを作った者が気になるものだ。台所に降り誰が供したものかと問いただせば出てきた名は、斎藤飛騨守。当然そのような知恵あの愚昧が出てくるわけはない。糸目の小策士の仕業である事は誰の目にもわかる事であった。

 それを起因に飛騨守は龍興のお側近くに擦り寄り始め、今では男娼(ツバメ)を送り、政に口を挟ませているのだ。よく出来た野望の筋書きだが、唯一分からないのが糸目の小策士が表に出ず飛騨守を立てるのかという事だ。あれなら充分に指揮を取れるはずなのだ。何故に。

 ふと囁かれている噂があった。

 ――糸目の小策士は竹中半兵衛詩乃重治に恨みがあると。

 竹中はあれと会ったのは登城した際に話しかけた一度きり。それ以外にない。

 糸目の小策士は一家諸共、竹中に根斬りにされたなどと云う真実無根の噂も一掃しよう。

 たった一度きりなのだ。しかしなんらの因縁はある。

 飛騨守派にあれが属しだして一段と竹中に対する飛騨守の嫌がらせが増たのも事実。

 それは徐々に苛烈に成ってきている。屈辱を思い出し、憤りを今でも覚える。

 時がそれ程立っていない分、その怒りは生々しく心裡に潜んでいる。

 竹中は平伏したままその名を言った。

 

「渡、渡四郎兵と云う男です。」

 

 龍興の反応は薄く、渡の名を聞いているのかどうかの判断が付かなかった。

 刀の鑑賞を終えたとき斎藤家には凶報が舞い込んだ。

 ガチャガチャと具足を鳴らし兵が走りこんでくる。

 息せき切らしたそれの邪魔にならぬように脇へと避けた竹中は、静かに退室する。

 僅かに報告の内容が耳に入る。

 

「申し上げまする! 墨俣に、墨俣に城が!!」

 

「落ち着いて話さぬか。なにを言っているのかわから――」

 

 足を鳴らさず静かに擦って歩く。その足取りは僅かに興奮を覚えた。

 墨俣に城――こんなに浮世離れな報告を訊いたのは初めてだ。報告に来た兵士の頭を疑う方が先に立つだろう。だが兵士に偽りを言う権利はない、いう理由もないのだ。

 となれば本当に墨俣に城が建ったのだ。あの兵士の慌てよう、間違いない。

 走っていい場まで降りたとたんに竹中は駆け出した。

 一度たりとも墨俣の地には城を建たせた覚えはない。建っては成らないのだ。

 それを一夜にしてその将の顔を見てみたい。その旗元に集う兵士達を見てみたい。

 いったいどんな軍勢か、織田の手勢か、それとも武田? 越後の竜? どれでもいい。

 この国はすでに腐った蜜柑だ。

 誰かが摘み取り棄てなければどんどん腐っていく、食えるものでも腐らせる悪性だ。

 私まで腐らされては溜まったものではない。

 墨俣を望める物見櫓に上がりそれを見た。見事な城がそこにあった。

 どこから持ってきたかわからぬ。がっしりとした丸太が綺麗な境界線と成り仕切っていた。

 幾つも点在していた資材が消えている。もしやこのために事前に?

 集団を率いず爪弾きにされた一個体は旗を揚げていた。

 君主の旗、言わずとも分かる五つ木瓜の紋は織田軍勢を示していた。そして共に立てられた紋は今までに見たことがない。

 白布に赤で×印。今までに見たことのない初めての印。

 

「あれは――」

 

 旗の下で腰を吸えた男がいた。

 その顔は中性的で見方によっては女だ。長く伸びた髪を一つに纏め当世具足は殆どつけていない。

 着けている物と言えば籠手手甲、脛当と鉢金位なもの。そしてこれでもかと主張する真っ赤な朱色の花柄小袖を羽織、刀を携え座り込んでいた。

 見紛うはずがない、あれには見覚えがあった。

 飛騨守に辱めを浴びたその日に墨俣にいた男。オオサンショウウオを吊り上げ困り果てていたあの男だ。なんとも奇妙な出会いか、なんと因果な出会いか。

 敵と言葉を交わした事があるなど、そしてこの美濃の歴史にて起こりえなかった墨俣に城を築く男と出会っていたなどとは。竹中の心裡であの男が気になった。逢いたい、そう思えるほどに。

 見下ろした先には無能の飛騨守が出陣の支度にまごついていた。兵の一人が出陣の催促をしようやく動き出した。あれは補佐の渡がいなければ本当に何も出来ぬ。

 竹中は武運を祈った。飛騨守ではない、名を聞かなかった敵の将に。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

「さーて。奴さんようやく一軍率いてきたなあ」

 

 黒々とした一団がようやく墨俣に入った。

 赤音たち咎人衆はすでに陣形配置も済ませ、いついつでも迎撃の準備が整っている。

 早馬も走らせ、援軍が到着するまで程よく叩くだけだ。

 

「お、お、お頭、」

 

 震えた声で下知を求める転子の顔面は蒼白であった。

 転子には川並衆の指揮だけしていろと言い渡してある。そのほうが適切と思われた。

 突貫でこの計画を押し通した為に、咎人衆と川並衆の顔合わせが済んでいないのだ。

 赤音も川並衆にどういた人間がいるのかは知らない。となればよく知る人間に指揮を任せたほうが確実だ、こっちはこっちでよく知る人間を動かしたほうが勝手もいい。

 ひよ子は織田より与えられた正規の足軽を、転子は川並衆、陣乃介には咎人共を。

 それらすべてを総括するのが俺だ。

 とまあそうこう考えているうちに目の前は真っ黒に染まった。

 柵の周りには竹を束ねた簡易的な盾を敷き、ある程度の対弾性を上げている。

 初めになにを起こす。矢かそれとも槍か、赤音の考えを美濃勢はことごとく裏切ってきた。

 一人の屈強な武人が前に躍り出た。

 

「此度の築城見事なりッ!! これどの速さで城が建つ事罷り成ったためしなし!!」

 

「......」

 

 赤音が腰を上げる。

 “かぜ”の鯉口を切り、真っ直ぐ城門へと向かう。

 思ってみないというより庭先で餓鬼が遊んでいるようなものを見ていた陣乃介が、その異常行動にようやく気づき制止に入った。

 

「ちょ、ちょ旦那。どこ向かうんで」

 

「ん? ちょっとあの馬鹿斬ってくる」

 

「な、なにいってんすか。大将自ら表でるとか訊いた事ないですよ」

 

「お前はあれだろ頭が出たら矢でヤマアラシみたくされるって言いたいんだろ?」

 

「――――」

 

「言いたい事は分かるけどよお、このままじゃあこっちの士気も変な事になっちまう。集団と集団がぶつかる勝敗はぶっ飛んでいる度合いで決まるんで、それこそ忠義心全開の言われた十の事を二十で返す機械みたいな連中じゃない限り『壊れる』ってのは大事になってくる。それがあれ見ろよ」

 

 赤音は名乗りを挙げる阿呆に指を差す。

 陣乃介はそれを見て思う。いい的になっていると。

 

「あれじゃあ的だ。見るからに狂れてる――狂れてるから自分たちが見劣りしちまう。負ける事必至じゃね? ならさっさと敵の首挙げて晒して腸ぶちまけてこっちはもっと狂れてるって見せつけねえと」

 

 陣乃介は黙り込んだ。納得したと取っていいだろう。

 僅かに赤音は作戦を伝え、ちょっとそこまで散歩するような足取りで赤音は美濃勢の前に出る。

 

「主、名前はなんと言うのだ!!」

 

 騒ぎ立てた美濃武者が問い。赤音が答えた。

 

「織田家家臣咎人衆棟梁、赤音だ」

 

「大将の御出ましとは――、我の名は陰山一景。その首戴き申す!!」

 

 陰山一景と名乗ったその武人は馬を駆り、一直線に赤音の首をとりに来た。

 高度優勢は陰山にある。武装は長槍、腰に佩びる二本差し。

 足場は砂利道、赤音は圧倒的に不利。

 赤音は“かぜ”を陽の構えに、体勢を低く敵へと駆け寄り敵の馬の左へと抜けていく。

 槍がうねり、穂先が赤音の脊柱を突き貫かんと刺し込まれる。

 左へと避ける、驀進する馬の足を抜け最中に身を捻じり、天に向け“かぜ”を振り上げた。

 馬が苦悶の嘶きを上げ横転する。腹の下を抜けた赤音は転がり体勢を立て直し陰山の頸へと奔った。陰山は愛馬の腹を割られ人とは比べ物にならない図太い腸に足を取られながら、身を起こし槍を構える。

 構えるが遅い。

 顔を上げる時には既に眼前に赤音の拳があり、その顔を拳骨が打ち抜いた。

 鼻骨が折れ、鼻筋より白い小骨が皮膚を突き破り出ていた。

 視界が揺れ動き、足許が覚束なかった。瞬間、喉元に槍の柄が押し当てられた。

 背中合わせになった陰山と赤音は、陰山を背負うようにして奪い取った槍を器用に使い、締め上げていた。老婆が孫をおんぶするかの様な姿で赤音はゆっくりと締め上げていく。

 息が続かない陰山。対格差では断然の有利があり振りほどくのは容易であったが。

 それは矢庭に降り注いだ。

 視界の端で煌いた敵の刀。

 何事かと思考を廻らせた瞬間に、白昼の空に黒い無数の点が入り込んだ。

 なんだ? そう思い、眼を凝らす前にその正体が分かった。

 ――狂っている。きっと俺の下で赤音と名乗った男女は笑っている。

 空に映り込んだそれ、それは敵陣より放たれた無数の弓矢であった。

 真っ直ぐ美濃勢と陰山、赤音諸共呑み込んだ。

 死の雨が降り注ぐ。腹に矢を受け膝をも射抜かれる、何本も体に矢を受け初めて自分が赤音の盾(、、、、)に使われて言うことに気づいた。

 元よりそういう腹だったのだろう。一騎打ちに見せ掛けた、矢の一斉掃射。

 見事に騙された。大将が前線に居たら誰がその前線に矢を撃てようか。思うまい誰が想像しようか、こんな狂った作戦。

 何本目かの弓矢が陰山の左目を射抜いた。後頭部に抜ける衝撃、それと同時に熱さが抜けた。

 体を暴れさせ左目に生えた弓矢を引き抜いた――途端、先程と同じ衝撃が後頭部を襲い視界が閉ざされる。理解するそれは両目を射抜かれた証拠であった。

 

(狂人め...っ!)

 

 存分に力を発揮できず、陰山一景は文字通り蜂の巣にされた。

 

 

 

 

 赤音は事切れた骸を降ろし棄てる。

 眼前に広がっていた美濃の軍勢は慌てふためいていた。

 陣形はバラバラに崩れ、足軽は後ろに下がり始めている。いったいどれだけこの死体に人望があったのか、そして現在指揮を取っている人間がどれだけ信用されていないのか如実に表されていた。瓦解した烏合の衆、これだけ崩れれば後は簡単だ。

 “かぜ”を天に掲げた、それが合図。後ろより陣乃介の野太い声が上がる。

 

「打ち捨てじゃあぁああッッ!!」

 

 雄叫びを上げた獣たちが檻より放たれ、野を駆ける。

 首輪が元より外れた狂犬たちは、打ち捨てじゃ打ち捨てじゃ、と歓喜の声をあげ一直線に敵陣のど真ん中を駆け抜ける。敵陣に入り込んだ殆どが赤音が見つけた咎人、野伏(のぶせり)などを生業とした無頼漢たちだった。落ち武者狩りを得意とした獣の一派だ。

 その者たちは武器は鋤や釿など、正規の戦場ではそうそう見ぬものばかり。

 武辺も何もあったものではなかった、やたらめったら殴りつけ踏みつけ殺める。そう教えたのだ、赤音が教育したのだ。武を知る獣は後ろに控えている。

 墨俣の一角で盾を構えた兵士たちが一団となり後ろへと下がっていた。赤音はそれを指差した。

 野放図に暴れている咎人の一部がそれに気づき、荒波のように襲い掛かる。

 盾に飛び蹴りをかます者も居れば、槍を器用に使い盾を飛び越える者も居る。総崩れとなった美濃の一団にやけに小奇麗な格好の娘が居た。

 

(あれか)

 

 脇に控える陣乃介も赤音の視線の動きを逐一判断し理解し始めた。

 赤音の歩幅は徐々に大きくなり、奥で団子となっている娘の首を狙う。

 団子も崩れ、娘への道が開かれた娘と目線が合い驚きと混乱で情けない顔になっている。

 その顔ももう浮かべられない、何為す暇を与えず喉笛に“かぜ”を突刺。

 

 ――――刈流 旋

 

 兇刃が命を刈り取る瞬間、刃が交わる。

 人影より伸びた刀が“かぜ”を払い除け、それが躍り出る。

 黒装束に面頬、当世具足にしては奇妙なほど軽装。どこか既視感(デジャヴ)を覚える。

 対峙した敵は下段へと構え、大きく股を割った立ち姿。動く。

 小手を狙った切り上げ、軽く踏み込み切り上げを受ける態勢に。

 左手を僅かに体に寄せ“かぜ”を振り下ろす。

 敵対者の力が勝り、“かぜ”は打ち返され峰が右肩を軽く叩く。体を掛かる前進する運動エネルギーを止めることなく、敵の左へと抜け右腕を前に押し込んだ。

 “かぜ”の切先が敵の首元に伸びる。顎の下に滑り込んだ刃。

 

 ――――刈流 吹流し

 

 喉笛を捕らえ確かな手応えがあった。

 大将頸は目の前にあった。吹流しより小波に技を繋げる直後、体が動く。

 意志とは無関係に、視界で捉えた意志が捕らえないような微細な情報を紡ぎ合わされ、緊急事態と肉体は判断する。膝を折り体が倒れる。

 途端、先程まで首があった位置に兇刃が薙ぐ。

 ――誰か、俺の首を狙うモノは。

 後ろ眼にそれを捉え、眼を剥く。

 

(馬鹿な――)

 

 背後の敵、首を斬った筈の黒装束の武者だ。

 確かに“かぜ”は喉を切り裂いた筈だ、なぜ立っていられる。

 混乱する時間も戦場は与えなかった。

 鏑矢の音が立ち昇る。上がった場所は美濃勢の背後、旗が僅かに見える。

 織田木瓜の旗印、その中に混じる加賀梅鉢、角立て七つ割り四つ目結。

 和奏と犬子の増援が今ほどに来た。

 倒れた態勢から体を転がし、身を起こす。“かぜ”を構え、黒装束の武者と立ち合いを再開しようとする。が、既に黒装束の武者は姿を晦ませていた。

 ついで大将もいない。

 舌打ち、いいように逃げられた。

 優勢は今だこちらにある。和奏たちと合流すればもう安心だろう。

 “かぜ”を鞘に戻し、小袖を掃う。

 赤音は踵を返し陣内に戻った。




今年の投稿はもう終わりです。
さあ、寝正月だ。来年もよろしくどうぞ御贔屓の程をお願いを申し上げます。

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