もし雁夜に妹がいたら (ジョナサン・バースト)
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1話
今にして思えば、もうどうしようもなかったんだと思う。
逃げようと思えば逃げられた。想像するのも億劫になる茨の道を回避することもできたはずだ。
だけど俺は知っていたから。もし俺が逃げたとして、その先に待ち受ける未来がどんなに悲惨なものになるかを。
もし俺と言う人間が自分の事以外を考えない外道であったのならば、俺は見て見ぬふりをして逃げることもできたのだろう。
だけど俺はいい意味でも、悪い意味でも『普通』の人間だった。
普通に悲しむし、普通に怒りもする。
助けられるかもしれない者が目の前にいたら……普通に助けたいと思う……見過ごすことができない普通の人間だった。
だから俺は……戦うことを決めた。
それが結局はただの自己満足だったとしても。
+++
――一年前――
記憶にあるままの閑静な街並みは、もう二度とみることもあるまいと思っていた故郷の景色だった。
なぜなら間桐雁夜にとって、自分の実家である『間桐』の家があるこの街には蘇って心地の良い思い出など一つもなかったのだから。
そんな雁夜がなぜ忌まわしきこの地に再び足を踏み入れたのかというと、それは今日、再会した幼馴染とのやり取りが切っ掛けだった。
――
幼馴染である遠坂葵は硬く、冷ややかな――感情を押し殺した口調でそう言った。
葵が魔術の名門家である遠坂の嫡男と結婚し、もうけた二人の娘――凛と桜。雁夜はそんな幼馴染の娘を、フリーのルポライターとして世界中を飛び回っている傍ら、定期的に時間を見つけては旅先で見つけたお土産をプレゼントしていた。
今現在も淡い想いを寄せる幼馴染との繋がりは、もうそれだけしか残されていなかった。そう考えると、ある意味では凛と桜にお土産を渡す、というのは想いを寄せた幼馴染である葵に出会うための建前でしかないのかもしれない。
しかし建前、とは言っても、華麗な幼馴染に似た母親譲りの美貌を持つ二人の娘が可愛らしいことには変わりはなく、お土産をプレゼントして、二人が天使のような喜びの笑顔を見せてくれると、心の底から嬉しく思うのもまた事実だった。
そんな娘の一人が、間桐の家に行った。……それは即ち、あの悪夢のような実家に自らの愛娘を養子として出したということだ。
――間桐が魔導師の血筋を継ぐ子供を欲しがる理由、あなたなら解って当然でしょう?
胸の奥にぞぶりと突き刺さる葵のその言葉。無感情にまでに硬くなったその瞳の奥に潜む憂い。それがかつて自分が魔術の道から背を叛けたその結果だということを思い知らされた。そして、雁夜はそんな葵に掛けられる言葉を持たなかった。
一度目は八年前のあの日。葵が遠坂の嫡男からプロポーズをされたと雁夜に報告された時。
そして二度目は、今日。
あの時も、そして今日も『それはいけない』と断じるべきだった。
雁夜は断じて許せなかった。二度も過ちを重ねた自分を。
だから雁夜は戻ってきた。そんな自分を罰するために、決別した過去の場所へと。
「今更のこのこと……何のために帰ってきたのかしら、兄さん?」
そうして雁夜を間桐の屋敷に迎え入れた
十年前に見せた微笑みも、艶やかだった黒髪も、その全てを無の白へと変えさせて。
そう告げた。
+++
夜。
間桐邸の応接間のソファーに腰を掛けた雁夜は複雑な思いで、机を挟んで向かい側のソファーに腰掛けた白髪の女性を見つめた。
白髪の女性はそんな雁夜の視線に気づく素振りも見せず、淹れられた紅茶の香りを鼻で楽しんだ後、上品に一口飲む。
「……」
兄である鶴野に加え、雁夜には妹がいた。年の離れた一人の妹が。
兄である鶴野は魔術師としての才能がなかった。そんな鶴野と比べて魔術の才があった雁夜は当初、間桐の家を継ぐこととなっていた。
しかし間桐家の、そして魔術の忌まわしさを知り、雁夜は絶縁の形で生家――そして魔術との縁を切った。それが十年前のことだ。
結果として、間桐の家に残されたのは出来損ないの兄と――申し訳ない程度の魔術回路を備えた妹のみ。
兄が使えない今、間桐の後継者としての役割はそんな妹に向く。
悍ましき間桐の魔術の英才教育を、悍ましき父親の歪んだ想いを、一心に受けることになる。……そんなことは少し考えればわかるはずのことだった。
それなのに雁夜は逃げた。若気の至りなのか、若かりし頃の雁夜は己が自由のことしか――そんな安直な考えしか持っていなかった。
つまり、雁夜は妹と引き換えに自由を手にしたと言っても過言ではないのだ。
「……」
最後に見た時はたしかに艶のある、誰もが羨むような黒髪は、過酷な修行によるストレスなのか、色素が抜け落ち、異常な白髪へと変わり果てている。
光を写さない濁り切った漆黒の双眸。上二人の兄とは似つかない整った顔立ちも相まって、まるで人形のように見える。かつてはあんなにも笑顔が絶えない明るい妹だったというのに――。
そこまで考えてから、何を考えているんだと雁夜は首を横に振る。忘れてはならない。誰のせいで妹が
「……」
妹にはもう一生、兄を名乗ることなどできないだろう。先ほどは『兄さん』と呼んでくれたが、内心はどう思っていることか……。
しかし、いつまでも押し黙っている訳にはいかないのだ。時は一刻を争う。こうしている間にも桜はこの魔窟にて嬲り者にされているかもしれないのだ。
「……ジジイはどうした?」
雁夜はできる限り内心を感じさせぬ、低く殺した声で眼前に座る彼女に問いかける。この家の実質的な中枢は雁夜の父親たる間桐臓硯が握っている。桜を救うには、直接、臓硯に詰め寄るしかないのだ。
臓硯とはすでに縁を切っている。向こうからしてみればもう雁夜は家督を継ぐ責任を放棄した、顔も見たくない厄介者でしかないはずだ。だからこそ妹を此方によこし、出て行ってもらおうと考えたのだろうが……。
しかし雁夜の妹――間桐霊夜はそんな雁夜の想像の斜め上を行くような返答をしてきたのだ。
「死んだわ」
「は?」
+++
死んだ? 臓硯が?
雁夜は霊夜の告げた言葉の意味がわからなかった。故に再び霊夜に問いかける。
「は……今、なんて……?」
聞き間違いだろう。聞き間違いに違いない――そう信じて疑わなかった雁夜であったが、返ってきたのは全くの同じ言葉。
「死んだわ。あの爺さんは」
雁夜は口をぱくぱくさせる。
「死んだ……え……死んだ?」
思考が追い付かない。死んだ? 死んだというのか? 得体の知れない悍ましい禁術で延齢に延齢を重ね、何世紀もこの世に憚り続けてきたあの化物が?
そんな雁夜を余所に霊夜は然したる反応も見せずに再び紅茶に口をつける。
「う……嘘だ」
「ホントよ。あー、でも死体はもうないから、証明はできないか」
そこまで言ってから、霊夜は「そうだ」と一人ポン、と手を叩く。
「この家にもうあの爺さんはいないから。どこを探してももぬけの空。――それじゃあ証明にならないかしら?」
「……」
そこまで言われてしまうと、もうとても霊夜のその言葉が悪質な冗談の類のものではないと嫌でも理解できてしまう。もし仮に嘘だとしても、ここまで引き延ばす必要はないはずだ。それに、霊夜の瞳を見てみても、それは嘘をついているような眼ではない。
しかしそうなると次に浮かび上がるは疑問だ。何時、何処で、どうやって、そしてなぜ死んだのか、次々と疑問が浮かび上がってきて、留まることをしらない。
「爺さんが死んだのは一年前よ。正確には死んだじゃなくて、殺されただけど」
「何っ!?」
思わず雁夜はソファーから立ち上がる。
「殺された!? あのジジイが!?」
ゴキブリも裸足で逃げ出すような生命力を誇るあの臓硯が死んだというだけでも驚きだというのに、あまつさえも殺されたとは。
「いったい誰に!?」
そうして返ってきた言葉は雁夜を更なる驚愕の地へ旅立たせるものだった。
「私に」
「えっ……」
雁夜は時間が止まったかのような錯覚を抱いた。まるで目の前に広がるこの光景が現実ではないものであるかのように感じてしまう。
殺した? 妹が? あの臓硯を?
途方に暮れることしかできない雁夜を霊夜は愉快そうに眺める。
「いったいどうしたっていうのよ。嬉しくないの? あの爺さんが死んで」
「……」
雁夜は頷けなかった。
嬉しくないはずがなかった。まさに諸悪の根源とでもいうべき臓硯。悍ましき魔術の担い手。戸籍上でこそ雁夜たち兄弟の父親ではあったが、しかしそれでも実の本当の父親であるかどうかは定かではない、得体のしれない怪物が死んだのだから、喜びに胸が打ち震えてもおかしくはないというのに。
それ以上に雁夜は恐怖していたのかもしれない。そんな
いったい、如何なしてあの怪物を殺したのか。そしていったいなぜ殺したのか。疑問は後から後へと湧き上がってくるが、口元がカラカラに渇き、言葉を発することができない。
しばし、沈黙が続いたが、金縛りにあったかのように動けない雁夜を尻目に霊夜はつまらなそうに溜息を一つ、吐く。
「はぁ……」
まるでこれまでの流れを断ち切るかのように吐かれたその溜息に、雁夜を縛り付けていた拘束がふっ、と和らぐ。相変わらずの無表情であったが、先ほどの旧交を温めるような物言いとは打って変わって、再会した当初の冷たい眼差しで雁夜を見据える。
「――で、もう一度問うけど、今さら何をのこのこと帰ってきたの? ここに
「……!」
あなた。
その呼び方に妹との間に確かな隔絶を感じてしまう。もう過去には戻れないのだということを確信してしまう。
しかし狼狽えている場合ではない。臓硯が死んだのは別として、桜がこの間桐の家に養子に出されているのは事実なのだ。
雁夜が今宵、この屋敷に戻ってきたのも、妹である霊夜と再会するためではなく、桜の安否を確認し、もし間桐の蟲共に嬲り者にされているのだとしたら、この身を犠牲にしてでも救い出すためなのだから。話の本筋を見失ってはいけない。
「……わかってるさ」
霊夜の言葉に雁夜はそう返すと、その向けられた眼差しを見返す。
「……噂を聞いたんだ。遠坂の次女を養子に迎え入れたという噂をな」
「……」
「あのジジイの差し金か? それとも――」
そこで一度言葉を切る。
臓硯は間桐の魔術師に執着していた。六〇年の周期で巡り来る聖杯戦争において、己が手の元に聖杯を手繰り寄せるために、優秀な魔術師――もとい駒が必要だったのだ。
現段階で目の前の霊夜がどのくらいの実力を持っているのか(少なくとも何らかの手段によって臓硯を抹消できるくらいの実力は持っているのは確かなのだが)定かではないので、念には念を入れて優秀な人材を手元に引き寄せようとした。
ただでさえ間桐の家は衰退の一手をたどっており、あの用心深い臓硯なら、そこまで考えていたとしても別に驚くことではない。
しかし、その臓硯はすでに死んでいる。そうだとしたら、桜を養子に迎え入れた今回の件が臓硯の差し金であるということは考えにくい。
となると考えられるのはもう一つしかない。目の前の霊夜が自らの意志で桜を迎え入れたということだ。
だが雁夜は信じたくはなかった。雁夜が知っている霊夜は心優しい少女であったのだ。目を背けた雁夜と違い、霊夜は己が魔術の宿命と向き合ったが、それでも間桐の魔術が悍ましき蔑まれるべきものであるということを理解していたはずだ。
そんな妹を犠牲に自由を手にした男が何をほざいているのかと言いたくなるが、それだけ雁夜は良くも悪くも妹のことを信頼していた。
だから言いたくなかった。桜を養子に迎え入れたのが臓硯ではなく彼女であるという
だが、現実は雁夜にとって非情であった。
「ええ、そうよ。遠坂の次女を引き取ったのは私」
その言葉の先を読み取ったのか、霊夜は然したる躊躇いもみせずに頷く。飲み終えたティーカップがカチャ、と音を立てて卓上に置かれる。
雁夜は思わず霊夜に詰め寄ってしまう。解ってはいたが……
「なんで……どうしてなんだ!」
思わず叫んでしまう雁夜を、内面を感じさせない眼差しで霊夜は見据える。
「お前はわかっていたはずだ! 間桐の魔術の悍ましさを! 何の罪もない少女を蟲共の慰め者にする気か!」
見捨てたくせにこの口は今更何をいうか。それでも怒りと悲しみに声を震わせる雁夜に霊夜は――
「え? 何言ってるの? 意味わかんない」
相も変らぬ濁った漆黒の瞳で――けれどもきょとんとした眼差しで首を傾げた。
「……ゑ?」
思いもよらぬ妹の反応に雁夜は拍子抜けした声を上げるのだった。
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2話
そうして霊夜に案内されたのは、間桐邸のとある一室だった。
浮世絵離れした大部屋には古風ながらも絢爛な装飾が施されており、人が一人暮らすには些か豪華すぎるような気もする。
そんな部屋の片隅に備え付けられた天蓋付きのベッドには、安らかな寝息を立てながら眠りにつく一人の幼い少女の姿があった。
「さ、桜ちゃん……!」
思わず大声をあげて慌ててベッドの縁に駆け寄ろうとした雁夜の足を、横からニュッ、と出てきた黒タイツに包まれた足が勢いよく踏み付ける。
「ッ! っつう!?」
悶える雁夜は釣られるように踏みつけた足の持ち主を見つめると、そこには口元に人差し指を当てて、「しー」というジェスチャーを見せる霊夜の姿があった。それを見て、ようやく雁夜は
バツが悪そうに頭を掻く雁夜を非難するかのようにしばしジトッと睨み付けていた霊夜であったが、やがて音を立てぬよう静かに桜の眠るベッドに近づいていく。その後に雁夜も続く。内心は尚も今すぐ駆け寄って安否を確認したい想いで一杯だったが、今度は寝ている桜を起こさぬよう静かにだ。
「……桜ちゃん……」
柔らかな羽毛布団に包まれ眠るのは、最後にお土産をプレゼントした時と何ら変わらぬ桜の姿だった。健康的な血の気を帯びた柔らかな白い肌、栄養のしっかりと生き通った黒髪、そして大人になった暁にはきっとあの
少し髪が伸びたのであろうか――それでもそれ以外は雁夜の最後の記憶と変わらぬ無垢な少女の姿だった。
「……これで信じてくれた? 別に私はこの娘を蟲たちの慰めモノにするために引き取ったんじゃないってこと」
「……!」
その言葉にハッ、と顔を上げ、此方を見据える霊夜を一度見て――もう一度ベッドで眠る桜の姿を見る。一目見た時から本能が悟っていたが、霊夜の言う通り、穏やかに寝息を立てるその姿はまさに天使そのものだ。蟲に嬲られた形跡も、霊夜を始めとする間桐家の人間から虐待を受けている形跡も見当たらない。
「……ああ」
霊夜の言葉に嘘偽りはなかった。桜の無事には安堵の溜息が漏れるばかりだ。それでも雁夜の中には桜の無事を確認すると同時に新たな疑問が浮かび上がっていた。
では、いったいなぜ、妹は遠坂の娘を養子に迎えたのかという疑問が。
「魔術の道を捨てたあなたには解らないかもしれないけど、その娘、虚数なのよ」
「?」
そんな雁夜の内心を見透かしたかのように静かに口を開いた霊夜を視線を向ける。虚数とはいったい……?
「虚数っていうのは魔術における五大元素とは別に分類される架空元素のうちの一つ。『ありえるけれど、物質化しないもの』――それが虚数属性であり、アベレージ・ワンや同じく架空元素である無属性と並ぶ、極めて稀有な属性である虚数属性は――それこそ数十年に一人、排出されれば多いとさえ称されるほどの希少な属性なのよ」
雁夜は唖然とした想いで桜を見る。このあどけない寝顔を見せる幼い少女が、そんなにも稀有な属性を宿していたという事実に戸惑いを抑えられない。「しかも姉である遠坂凛はそのアベレージ・ワン……遠坂はよほど優秀な母体に恵まれたようね」とぼやく霊夜の言葉など聞こえてもいなかった。
「……それでどうしてお前は桜ちゃんを引き取ったんだ……?」
言葉を切った霊夜に雁夜は問いかける。桜が稀有な属性を宿しているということは解ったが、まだ雁夜の知りたい疑問までは彼女は答えていなかった。
そんな雁夜を霊夜は最初、まるで鈍いモノでも見るかのように見つめたが、やがて目の前の男は魔術の道をすっぽかした離反者だということを思い出したのか、やれやれと言ったように溜息を吐く。
「いい、魔術師っていうのは世界の始まりの起因である『根源』への到達がどんなことよりも至上命題な生物なの。その根源へと至るための手段である魔術の研鑽を積み重ねるのが魔術師という生物……けれど『根源』への到達はとても一世代の間に成し遂げられるものではないわ」
まるで出来の悪い生徒に解りやすく教える先生のように霊夜は言葉を重ねる。
「だから魔導の家の親は自らが一生をかけて造り出した成果を子へと魔術刻印として伝達していく……成果に成果を積み上げていけば、やがては目標に到達できるって考え方ね。けれどそんな親の恩恵を受けれる子供はただ一人だけ。……おわかり?」
「……だがそれと桜ちゃんが養子に出されるのと何の関係があるっていうんだ?」
親の魔術の恩恵を得られるのは一人だけ。その霊夜の物言いが事実であるならば、おそらく姉である凜が父親の後継者として選ばれたのだろう。
だがいくら後継者が一人だけと言っても、桜が愛すべき家族であることには変わりはないはずだ。なぜ父親――遠坂時臣は桜を養子に出す必要がある? 魔導の名門家にして冬木のセカンドオーナーである遠坂家は別段家計に困っている訳ではあるまい。愛すべき娘を手元に置き、後継人として育てることはできなくても、家族として一緒に暮らしていけばいいだけの話ではないのか?
「魔術師っていうのは、そんな単純な生物じゃないのよ」
そんな雁夜の内心を見透かしたかのように、霊夜の無感情な声音が静かに雁夜の聴覚に覆いかぶさってくる。
「根源への到達が魔術師の至上命題って言ったでしょう。魔術師にとって根源への到達というのは親子の愛よりも重く、尊いものなのよ」
「……なにがいいたい」
「つまり桜の父親である遠坂時臣は少しでも根源への確率を上げたかったのよ。稀有な才能を持つ二人の娘……根源へと至る長期的な過程における大きな二つのピース……けれど、自分が育成できるピースは一つだけ……それならもう片方の娘を別の魔導の一族の差し出すことで、結果として自分の娘二人共を根源へと至る大きなピースと成すことができる……」
気が付けば雁夜の拳は固く握りしめられ、細かく震えていた。自分の娘をピース? 根源へ至る為の過程の一つに過ぎない? 本当にこの父親は何を考えているというのだ?
「勘違いしないでもらいたいのは、それが魔術の家に生まれた遠坂時臣という男の父親として愛情だということよ。オブラートに包んで言うならば愛すべき娘の類まれなる魔術の才を自分の家に置いておくことで無駄にはしたくない。他の家に行って、魔術刻印を受け継ぎ、その稀有な才を存分に伸ばしてもらいたい……と言ったところかしら」
「そんな親の勝手な都合で……」
「人の価値観というのは千差万別、十人十色、様々だわ。たしかに時臣氏の考え方は世間一般で言うのならば少数派の、歪んだ愛情なのかもしれない。否、もはや愛情とも呼べぬものなのかもしれない。けれど彼が生きる世界にとってはそれが普通なのよ。……魔術の道から目を背けたあなたには理解できないことかもしれないけれど」
「……ッ!」
霊夜の最後の言葉が雁夜の胸の奥にグサリと突き刺さる。その言葉に他意が含まれているようには聞こえなかったが、それでもその言葉は雁夜の良心を容赦なく責め立てる。
そんな雁夜の心の内の葛藤に気づいた様子もなく、霊夜は言葉を続ける。
「……私がこの娘を引き取ったのは、少しでもマシな結果に終わらせるためよ。虚数属性というのは魔導の家門の庇護が無ければホルマリン漬けの標本にされてしまってもおかしくはないほどの――言ってしまえばこれとない実験材料でもあるのよ。しかも首尾よく魔導の家の庇護下に入っても、この娘を引き取ったその家が
「!!」
雁夜の身体に稲妻の直撃を受けたかのような衝撃が走る。まさかこの目の前の女性は桜の安全を考えて敢えて……?
「無論、この娘を引き取ったのはそれだけじゃない。他にも訳があるわ」
とその時、可愛らしい小さな唸り声がベッドから聞こえてきた。見るとそこにはコロン、と寝返りを打った桜の姿がある。
「……少し長話が過ぎたわね。続きはもう一度、応接間でしましょう」
寝返りを打った際、僅かにずれた布団をかけなおしてやりながら、霊夜は小声でそう告げた。
+++
場所は変わって再び応接間。向かい合ってソファーに座った二人に挟まれた長机には霊夜がもう一度淹れた紅茶の湯気が立ち昇っている。
「それで、他の訳ってなんだ?」
一度、気持ちを落ち着かさるために紅茶を一口含んでから、雁夜は切り出す。紅茶は急な話の流れに混乱した雁夜の心を落ち着かせるようなハーブティーであった。
「別に他の訳っていうのは大したことじゃないのよ」
雁夜とは異なり、甘い香りの立ち昇るロイヤルミルクティーを口にしていた霊夜はそう答える。
「あの娘は間桐の次の後継者にする。――ああ、そんな慌てたように立ち上がらないで。別にあなたが考えているようなことをするつもりじゃないから」
間桐の後継者という単語を聞いた途端、あの悍ましい魔術の後継人に桜を仕立て上げようというのか、思わず立ち上がってしまった雁夜を、霊夜は若干、呆れ返りながらもたしなめる。
「あの娘にはあの娘に合った魔術の鍛錬を行わせるつもりよ。後々には
「そうか。……すまない」
雁夜は安堵の溜息を吐くと同時に霊夜に非礼を詫びる。霊夜が何かを口にする度にこうも憤られては、彼女もやってられないだろう。
しかし、霊夜はそんな雁夜の謝罪も意に介さず、再度紅茶に口をつけた。
そんな彼女は雁夜はじっと見つめる。
「……」
強くなった。雁夜はそう思った。
たしかに見た目は痛々しいほど変わり果ててしまったのかもしれない。怪物たるあの臓硯を何らかの手段で殺したことからも――そして今までのやりとりの中でも、もう霊夜が
だが、その根本的な部分は変わってなどいない。他人を思いやる心優しい部分は今もなお、彼女の中で生き続けている。
その事実が、どうしようもなく嬉しい。
「……」
しかしそれはそうとあの桜を後継者にとは如何なものか。桜を救うために引き取ったのは分かったが、まさかこの家の後継者にまでするとは。霊夜は今が華の二十代だ。濁り切ったその漆黒の双眸はともかくとして、一見すれば誰もが見惚れる美人の類に分類されるであろう。結婚して、自らの子をもうけようという考えはないのだろうか。
「私は子供を産むつもりなんて毛頭ないわよ。子供を産まずとも間桐の名を後世に残すために
「えっあ……」
「頭の中の思考は漏れないように訓練しておいたほうがいいわ」
しれっとそう告げられ、雁夜の頭は軽い混乱状態に陥る。
「す……すまない。変なことを聞いた」
しかし、子を産むつもりはないとは一体どういうことなのか。これ以上考えるのはなんとなくいけないことだと分かっても、必然的にそのような疑問が浮かび上がってくる。
霊夜もそう悟っていたのか、彼女の方から話し出してくれる。
「私、男が嫌いなのよ」
「え゛?」
突然の発言に雁夜は我が耳を疑う。
「といっても別に普通に友人として接する分には全然構わないのよ。けれど性的な意味では一切男を見れない。男と夜伽を共にするなんて……考えただけで鳥肌が立ってくるわ。やっぱ可愛いのは女……女の子……そうでしょう?」
「……」
自らを抱く素振りを見せながら次々と爆弾発言をかましてくる妹に雁夜はかけられる言葉を持たなかった。
ここで雁夜、心の一句。
妹は 女の子が 好きでした by間桐雁夜
「――えええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!?」
屋敷中に轟くその絶叫に桜が目を覚まさなかったことだけが僥倖だった。
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3話
その後ろ姿を見ただけで、とてつもなく綺麗な人なんだろうということは容易に想像することができた。
黒タイツに黒のスカート、そして黒のセーターと、足先から首元まで全身黒づくめの服装に包まれるその華奢な身体は、華奢でありながらもバランスの取れた引き締まった肢体。腰下まで伸びるのは、雪のような白髪。
今日、この遠坂邸に招かれた客人は、桜の父親である時臣とは古くから一族がらみで親交のある人物らしい。その一族の者から自分を養子として迎え入れたい、という申し出があったということを桜は父親である時臣からすでに聞いていた。
魔導の名門家に生を受けた子供としての宿命は幼いながらも理解していた。姉である凛が時臣の後を継ぎ、自分は別の家へと差し出される。……それは認めたくないが、認めるしかない現実なのだ。
今、こうして桜が父親の書斎をその扉の隙間からこっそりと覗っていたのは、そんな自分を引き取ると申し出てきた新しい家族の者がいったいどんな人物なのか、どうしても気になったからだ。
もし怖い人だったらどうしよう、できれば優しい人がいいな――そんなことを考えてしまうのは、まだ六歳になったばかりの幼い桜では致し方のないことだった。
「――して、それで――」
「ええ――」
かろうじて聞こえてくる二人のやり取り。片方が聞きなれた
「……」
透明な声だと思った。綺麗とか、可愛らしいとか、高いとか、低いとかでもなく、透明。
特徴がないという訳でもないのだが、感情が込められていないかのような、例えるならばそう、まるで人形が喋っているような感覚。
いったいどんな人なんだろう――好奇心に駆られた桜は思わず一歩足を踏み出してしまい――ギィ、と一際大きく扉の音が鳴ってしまったのはその時だった。
まず反応したのは父親である時臣の方だった。扉の音に気付き、その向こうに潜んでいた自分の娘の姿を見て、一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた後、すぐにいつものように優雅で穏やかな笑顔を浮かべた。
「おや、どうした桜。部屋で待っていろと言っておいたはずだが」
「……えっと……その……」
姉である凛に比べ、内向的な性格であった桜は、そんな父親の問いかけに対してしどろもどろに身を竦ませることしかできなかった。もうすぐ、この父親とは家族ではなくなるのだということを聞かされていたのも、そんな桜の性格に拍車をかけていたのかもしれない。
何も答えられない桜を尻目に時臣は招き入れた黒衣の客人に朗らかな笑みで語りかける。
「申し訳ない。娘には話が終わるまでは部屋で待っているよう言いつけておいたのですが」
「いえ、別にお気になさらずに」
客人――間桐霊夜は時臣の謝罪に対し、そう答えると、ゆっくりと桜の方に身体を向けてきた。ずっと気になっていたその顔を視界に入れた桜は思わず一歩、後ずさってしまう。
「ひっ……」
たしかに綺麗な顔なのだ。母親である葵の淑女然とした慎ましさのある美しさとも、姉である凛の少し勝気なエネルギッシュな美しさともまた違う、整った顔。その異質な白い髪も相俟って、一種の神秘的な美しささえ感じられるかもしれない。
しかし、それは霊夜のその漆黒の双眸が、この世のすべての闇を凝縮したかのように濁っていなければの話。まるで生気の込められていない濁り切ったその瞳で無感動に見つめられれば、幼い桜が怖がってしまうのも無理はない。
そんな桜の様子に気づいていないのか――それとも気づいていながらもあえて気づかないふりをしているのか、霊夜は特に反応を見せることなく、再び時臣に視線を向ける。
「今日からこの娘を引き取ってもよろしいのですよね」
「ええ。この娘のこと、よろしくお願いしますよ」
「……ッ!」
そう答えた
「……」
首を横に振ってしまいたかった。怖いと。嫌だと。
あの漆黒の闇を凝縮したかのような
それでも身体は桜の思うとおりには動いてくれなくて。
――この日、結局桜の姓は遠坂から間桐となった。
+++
いつまでも続くと思っていた平穏な日常は、それはもう呆気なく瓦解した。
自分を愛してくれた母親とも、大好きだった姉とも、最後に二言三言言葉を交わす機会さえ、設けられることなく、桜は霊夜と共に遠坂邸を後にした。
「……」
自分の手を取りながら、ただの一言も喋らず、黙々と歩き続ける霊夜の姿を桜は伏し目がちに観察する。
黒のロングコートを着た彼女は女性の割には長身の部類に入り、時折街路を吹き抜ける風が緩やかにロングコートの裾をはためかせる。
大規模な再開発が行われようとしている冬木の新都。無骨な鉄骨が至る所に建造され、それらはやがてショッピングモールやオフィスビルへと変化を遂げてゆくのだろう。
そんな夕暮れの光景の中で、
「……」
これから自分はどうなるんだろう――。先ほどから桜はずっとそんなことを考えていた。今、この手を振りほどいて逃げ出したらどうなるのだろうか。
視線を下に向けた桜の聴覚を、あの透明な声音が叩いてきたのはその時だった。
「ねぇ」
「……」
「ねぇ、少しいいかしら?」
「は、はいっ」
慌てて顔を上げるとそこにはいつのまにか足を止め、こちらを覗き込むように覗っている霊夜の姿があった。相変わらずの濁り切った漆黒の双眸。何か怒らせてしまったのかと思った桜は、何に対して謝っているのか自分でも分からないのに、半ば反射的に頭を下げてしまう。
「ごめっ、ごめんなさい」
「別に怒ってないわよ。ただ、帰りにちょっと寄るところがあるから、寄って行ってもいいか聞こうとしただけ」
「あ……」
霊夜のその言葉を聞いた桜は――やはり、頭を下げてしまう。
「ごめんなさい……」
相手はただ自分に質問しようとしただけなのに、怒っていると決めつけ、謝ってしまったことに桜は再び謝った。今の桜はどこまでも卑屈で、繊細だった。
「あの……別にいいです。わ……私のことは別に気にしなくていい……で……す」
「……そう」
しどろもどろになりながらも告げられた桜の言葉にどこか腑に落ちないように頷いた霊夜は、再び桜の手を取り、ゆっくりと歩き出す。そんな霊夜を余所に再び頭を俯けた桜の頭の中はある疑問で一杯だった。
いったい、この
+++
「いらっしゃいませ~!」
「ただいまよりタイムセール、肉、魚類全品半額になりま~す!」
茫然と立ち尽くす桜の聴覚に、そんな威勢のいい店員の声が響き渡ってくる。視界の片隅には手慣れたように買い物カートを取りに向かう霊夜の姿が。
「え……? え……?」
「この時間帯のこのスーパーはタイムセールで肉と魚がなんと半額になるのよ。――さぁ、ついてきなさい。夕ご飯の食材を調達するわよ」
「え……あ……」
違う。何かが違う。
無意識に買い物カートを押す霊夜の後ろに続きながら、桜の脳裏にはそのような単語がぎゅうぎゅうに犇めき合っていた。
今日、桜を引き取ったこの白髪の麗人の名は間桐霊夜。父親である時臣と同じく魔術師で、この世の神秘と真理を探究・追及し続ける現実とは異なる世界の住人だったはずだ。
無論、まだ幼い桜には魔術とは如何なるものなのか、神秘とは如何なるものなのか、その辺りの知識や見解は薄い。ただ、魔術師である父親の姿を見て、それらが一体どういうものなのか、幼いながらも目にしてきた。父親は常に優雅にかつ日々の生活を魔術のこと――根源への到達に没頭していて、それに通ずるものを目の前の彼女からも感じていた。
だから桜は納得できない。なぜ彼女がこのような場所を訪れるのか。いや、頭の中では理解しているのだ。自らが生きていくために必要な糧を仕入れるために訪れているのだろう。だが、
「あ、そういえば卵が切れていたかしら? ――桜ちゃん、少し卵コーナーに行って、卵のLサイズを一パック、持って来てくれないかしら? そこのコーナーを曲がった先の灰色の鉄棚に置いてあるはずだから」
「え……」
「あー、もし売り切れだったらいいわ。……今日は水曜日だから卵の日だし、この時間帯だともう売り切れている可能性も高いから」
「は、はい」
口早に捲くし立てる霊夜に押され、桜は思わず一歩足を踏み出してしまう。咄嗟に振り替えるとそこには「任せたわよ」と言って中々のスピードで買い物カートを魚肉コーナーの方へ走らせていく霊夜の後ろ姿があった。
「……」
ガラガラガラ。
自分の中で霊夜に対する何かが崩れ落ちていく音を聞きながらも桜は、これから形式上は家族になる女性からの初めての
+++
卵コーナーにはまさに後、一パックだけまるで誰かに提示されているかのように残されていた。他の誰かに取られてしまわないよう、足早に灰色の鉄棚に近づいた桜は、卵が割れてしまわないよう、そっと卵のパックを掴むと落とさないよう、その小さな体に抱くようにして抱え込む。
「……よしっ」
お願いされた卵を確保できたことにホッと安堵の溜息を吐いた桜は、霊夜の姿を探す。とりあえず、先ほど別れた最初の場所に向かってみるが、そこにはすでに霊夜の姿はなかった。最後に別れた際、霊夜はすでに買い物カートを押してどこかに向かおうとしていたのだから、当然といえば当然なのだが。
どこにいるんだろう――。桜は一人、きょろきょろと辺りを見回しながら、そういえば魚肉コーナーに向かっていたようなということを思い出す。
同じように夕飯の買い出しに来た主婦たちにぶつからぬよう、そして卵を割ってしまわないよう気をつけながら、魚肉コーナーに向かうと、そこには既にもぬけの空となった食品棚に僅かに売れ残った食材を、二、三人の主婦が険しい顔をしながら漁っているだけだった。そこにはあの目立つ白髪の姿はない。
「……」
どこにいったんだろう――。桜は急に不安な気持ちに襲われた。もし、捨てられたのだとしたら。霊夜からしてみたら自分はやはり厄介者で、今にして思えば、そんな自分を置き去りにするためにわざとこのスーパーに寄ったのではないのか? そんな理由がない限り、魔術師たる霊夜がこのような場所に寄る意味など考えられない――。
「う……ぐ……」
目尻がじんわりと熱くなる。そんな彼女の様子を買い物客の主婦たちが、不審な目を向けながらもすれ違っていく。やっぱり、自分はいらない子だったんだ――。
ついにその目尻から涙が一筋、零れ落ちそうになったまさにその時。
「――あ、見つけた。桜ちゃんってどんなお菓子が好きなのかしら? 桜ちゃんを待ってる間にお菓子を買おうと思ったんだけど、桜ちゃんの好きなお菓子、私、知らなくて」
「……!!」
かけられたその声音に背中をビクッ、と痙攣させて振り向くと、そこにはすでに様々な食材を買い物カートに入れ終えた霊夜の姿があった。
「あ、卵持ってきてくれたのね――って、どうしたのよ、泣きそうになって」
「……!」
その言葉に不覚にも溜まっていた涙がこぼれ出してしまう。誰のせいで自分がこのような状態になっているのか、この目の前の人物はわからないのだろうか。
しかし実際のところ、先ほどの桜の想像は、ありえもしない妄想に過ぎなかった。霊夜からしてみれば間桐の名を残すためには桜の存在が必要で、桜を立派な魔術師にするという盟約の元、時臣から桜を譲り受けたのだから、桜をこのような場所に置き去りにするはずもないのだ。
しかし、桜はまだ幼い子供で、そのような大人のやり取りを知っているはずもない。しかも今日、実の家族との縁を切り、養子に出されたばかりなのだ。そんな精神的に繊細な状態で、仮にも家族となった者が見当たらなければ――そのような不穏な考えに結びついてしまうのは致し方のないことであろう。
「……」
霊夜はそんな桜をしばらく見つめていたが――やがて静かにその傍に近寄ると、人目も憚らずにその場にしゃがみ込むとそっと桜をその胸の中に抱き寄せた。途端、ふわっと花のようないい香りが桜の鼻腔をくすぐってくる。
「ごめんなさい、不安な思いをさせてしまって」
「!」
耳元にダイレクトに注入されたその言葉に桜は一瞬、体を竦ませてから、こわごわと霊夜の顔を見る。そこには不器用ながらも不気味な無表情な顔を精一杯、綻ばせようとする霊夜の顔があった。それは不器用ながらも一生懸命、桜を少しでも安心させるために浮かべられた笑顔であり、それは今まで見てきたどんな笑顔よりも儚く、そして何よりも美しかった。
「……私はこんな表情しかできないから、あなたには恐いように見えるかもしれないけれど、あなたが思ってるようなことは、絶対にするつもりはないわ。……まだ家族になって一日も経っていないけれど、私は、あなたのことを――間桐桜のことを大切な家族だって……そう思ってる」
そう言って霊夜は桜の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「だから大切なあなたをこんなところに捨てるはずがない。――いい? わかった?」
「はい……はい……」
ぽろぽろと熱い涙を流しながら、霊夜の胸の中で桜は何度も頷いた。
嬉しかった。家族だって言ってもらえて。捨てられたんじゃないかって、不安で不安で仕方がなかった。
あんなに霊夜のことを恐がっていたくせに、今、こうして胸の中で抱きしめられていることが何よりも幸せだと感じてしまう自分は、きっと誰よりも現金な奴なんだろう――。
だけど、
「卵、ありがとうね」
「ど……どういたしまして」
二人はそんなやり取りを交わした後、どちらともなく笑い合う。
これが間桐霊夜と間桐桜の、"家族"としての初めてのやり取りだった。
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4話
小鳥の囀りが耳を優しく擽ってくる。
「ふぁ……」
幼馴染である葵から告げられた娘を間桐の家に養子に出したという話。最悪の事態を覚悟し、十年ぶりに実家に帰った雁夜であったが……端的に言ってしまうなら、雁夜の心配は杞憂に終わった。妹が異性として女性が好きだったという衝撃の告白はあったものの、蟲の慰み者とされていると思っていた
桜が無事だったのだから、もう雁夜がこの間桐邸に留まる理由は無かったのだが、「今からホテルを探すというのも面倒でしょう」ということで泊まっていけば? という申し出が霊夜の方からあったのは、まさに雁夜が間桐邸を後にしようとしていた時のことだった。
無論、最初は断ろうと思った。雁夜がこの
しかし「客人をこんな夜遅くに放り出すのは屋敷の主としていただけないのよ」と告げた霊夜に半ば強引に押し切られ――その結果として今に至る。
「……いや、結局はそれはただ自分の都合のいいように解釈しているにしか過ぎないんだ……」
雁夜は
十年ぶりの妹との再会を、たとえ蔑みの目で見られていもいいから、もう少しの間だけ、味わいたいと思っていたのは兄として否定できない感情だった。
帰る素振りを見せておいて、心の奥底ではどこか、妹がこのように申し出てくることを願っていたのかもしれない。
どこまで厚かましい男なのだろう。最初に見捨てたのは自分の癖に、都合のいい時だけ傍にいたいなどと思ってしまっている。その証拠に霊夜からの申し出があった時、雁夜の内心に浮かんできたのは戸惑いではなく嬉しさだったのだ。あの勘の鋭い妹のことだ、雁夜のそんな情けない内情を読み取って、気を使ってくれたのかもしれない。容姿は変わろうが、妹が昔と変わらぬ心優しい人物であるということは、昨夜のやり取りで充分把握している。
そして自分は結局、そんな妹の優しさに甘えてしまっているのだろう。
「ははっ……」
弱い男だ。今も、そして昔もずっと弱い。
自らが背負うべき宿命から背を向け、想いを寄せた女性は、もはや手の届かぬ場所へと行ってしまった。そして挙句の果てには自分が見捨てたはずの妹の優しさに甘え、こうして惰眠を貪っているのだ。これが笑わずにはいられるか。
「……」
心地のよい目覚めであったはずの雁夜の起床は、いつしか重く、暗いものへと変わり果ててしまっていた。
そしてそういった負の感情を己は受け止めなければならないのだということも……雁夜は
+++
間桐桜の朝は早い。
カーテンの隙間から朝の陽射しが射し込んでくるのを目覚ましに、ガバッとベッドから跳ね起きるのだ。
そうして若干、寝癖のついた柔髪を揺らしながら部屋を慌ただしく出ると、そのまま屋敷の廊下を突っ切って、洗面台に駆け込む。
顔を洗って、歯を磨いて、寝癖を整えて。そうして朝の身だしなみを整えると再び、廊下を突っ切り、階段を下りて、間桐邸の
「はぁ、はぁ」
やがて、微かに耳に聞こえてくるトントントン、というリズミカルな音。味噌汁に使われるいい出汁の匂いが鼻腔を擽ってくる。
そうして桜が辿り着いたのは間桐邸の食卓に隣接した処にあるキッチンで。毎朝、桜はそのキッチンで一つの神秘を目の当たりにするのだ。
「……」
料理の邪魔にならないよう、後ろでポニーテールに纏められた、雪のような白髪。透き通った白の柔肌は、彼女のトレードマークと言える黒い衣服に包まれていて、さらにその上に黒いエプロンを着用している。
トントントン。慣れた動作で包丁を扱うその姿は、何というべきか完成された美しさがあって……何度目にしても、桜は流れるように朝食を作っていく彼女の姿に見惚れてしまうのだ。
それで桜がキッチンの入り口でその姿に見惚れていると――黒衣の彼女はふと思い出したかのように桜の姿に気づくのだ。
「おはよう、桜ちゃん」
そうして、微かな笑みを浮かべて挨拶をしてくれる。一目見ただけでは、到底、笑っているようには見えないその微笑み。けれど桜はその儚き微笑みにどれだけの温もりが込められているかを知っている。その微笑みに――声音に桜の胸はこれ以上なく高鳴る。
「お、おはようございます、霊夜さん」
思わずどもってしまうのは、毎朝の事だ。これは決して、引き取られた最初の時のように、この目の前の人物を畏怖してしまっているが故のものではない。どうしようもなく綺麗な人を目の前にしたら、たとえそれが異性だろうが同性だろうが関係なく、緊張してしまうものなのだ。
それが、桜にとって憧れの人物であるのなら尚更だ――。
「あの、何か手伝えることありますか?」
「じゃあ、今日は卵焼きを作ってもらおうかしら。――あ、料理の前には手を洗ってね」
「はい」
霊夜の言葉に頷くと、桜は調理台に備わった水道の蛇口を捻り、言われた通り、手を洗い始める。霊夜はその間に冷蔵庫から卵等を取り出し、料理の準備に取り掛かっている。
霊夜と一緒に朝ご飯を作る――。それは、桜がこの間桐邸にやって来てから、毎朝行っている――言うなれば朝の日課だ。
この日課が行われるようになったきっかけは、桜がこの屋敷にやって来て数日が経ったある朝の事だった――。
+++
この間桐霊夜という女性は桜の父親である時臣と同じく魔術師としての一面とは別に、料理から洗濯、掃除に至るまで――何から何までそつなくこなす、ベテランの主婦顔負けの家事のエキスパートとしての一面も持っていた。
毎日三食出される料理は、そのあまりの美味しさに思わず頬が落ちそうになったのも一回や二回の事ではないし、屋敷中どこを見回しても埃一つ、落ちていない。前に誤ってミートソースをワンピースの裾に付けてしまった時は、如何なる手段を用いたのか、翌朝にはその頑固なシミ汚れも綺麗に落とされていて……そのエキスパートぶりは完璧すぎて、逆に肩身が狭くなるくらいだった。
「……」
――そう、肩身が狭かったのだ。
桜が何か霊夜の手伝いがしたいと思っていても、霊夜は一人でてきぱきと家事を回してしまう。桜が「何か手伝いたい」と霊夜に一言、言えば、それで終わったのかもしれないが、内向的な性格の桜は、自分がそんなことを言ってしまったら逆に霊夜に迷惑をかけてしまうのではないか? と考えてしまったのだ。いくら桜が霊夜に家族としての親しみを覚えたところで、まだ家族となって数日しか経っていなければ、どうしても他人行儀になってしまうのは致し方のないことだった。
そうしてこっそりと一人家事を行う霊夜の後姿を覗う日々が数日続いたのだが、ある朝のこと、いつものように壁越しからこっそりと様子を覗っていたところ、キッチンに立つ霊夜とばっちり目が合ってしまったのだ。
「どうしたの? 朝ご飯はもう少しかかるわよ?」
「え……あ……」
こちらをこっそりと覗う桜に、当然のことながら霊夜は声をかけてくる。まさか見つかるとは思っていなかった桜は混乱した頭でしどろもどろにエプロン姿の霊夜と、調理台に用意された食材を交互に見つめることしかできなかった。
「……桜ちゃん?」
そんな桜の様子が気になったのか、霊夜は野菜を洗うために桶に貯めていた水を一旦、止め、桜の元に近づいた。
「えっと……その……」
尚ももじもじと部屋着の裾を掴んでいた桜であったが……やがてか細い声で恐る恐る霊夜に告げた。
「……わたしも……何か、お手伝いしたいです……」
「……!」
その言葉に、霊夜に驚きの気配が漏れる。それは動揺と言ってもいいのかもしれない。が、それは刹那の事で、すぐに霊夜はその顔を優しげに綻ばせた。
「お手伝い……してくれるの?」
「は……はい、霊夜さんに迷惑がかからないなら……」
すると今度こそ霊夜は微笑むと桜の頭をよしよしと撫でる。
「迷惑なんてとんでもない。嬉しいわ、手伝ってくれるなんて」
「ほ……本当?」
「ええ、本当よ」
事実、霊夜のその言葉に偽りは無い。こんなにも可愛らしい幼い子供が自分から手伝いたいと申し出てくれたのだ、家族として……嬉しくないはずがない。
ただ、意外といえば意外だった。間桐霊夜の認識としては、子供というのは手伝いとか勉強とか、そういうものは嫌がるものと思っていたからだ。無論、自分が頼めば優しく、それでいて内向的な性格の桜が断ることはしないだろうとは思っていたが、そんな桜の性格に乗じて何かをやらせるというのは霊夜としても嫌だったのだ。
言ってしまうのなら、引き取ったのはいいが、結婚もしていない霊夜は当然のことながら、子供を育てるのは初めての体験であり――愛くるしい桜を目一杯、甘やかしてやりたいという気持ちばかりが先行し、その行為が逆に桜に肩身が狭くなる想いをさせているということに気付けなかったのだ。
過酷な修行の果てに魔導の道においては一流となったこの間桐霊夜も……親としてはまだまだ未熟という他ない。
その事実に苦笑しながらも霊夜は、桜に提案する。
「……じゃあ、さっそく一緒に作りましょうか。料理の前は手を洗って、ね?」
「は、はい!」
霊夜の言葉に桜はパッと顔を綻ばせ、元気よく頷く。
この日を境に桜は霊夜の手伝いをしていくことになったのだった。
+++
「桜ちゃんは卵焼きの味付けはどんな味付けが好き? 甘い派? それとも甘くない派?」
「あ……甘いのが好きです」
「そう、それはよかった。私も卵焼きは甘い方が好きなのよ」
背の小さい桜のために、丁度いい大きさの踏み台を用意し、二人はそれぞれ調理台に用意された食材のうちの卵を手に取る。
「まずはボールに卵を割るの」
コツン、と卵を軽くボールの縁に当ててヒビを入れると、霊夜は片手で流れるように卵を割り入れる。その動作はただ卵をボールに割り入れただけだというのに、その神秘的な容姿も相俟って、どこか神々しささえ感じてしまうほどだ。
「さぁ、桜ちゃんもやってみて?」
「は……はい!」
意気込んだ桜は霊夜と同じように卵を手に取った卵を、ボールの縁にコンッ、と当て――。
「あ……あれ……?」
コンコンっ。コンコンっ。卵に中々ヒビが入らず、桜は戸惑いの声を上げてしまう。霊夜はあんなにもスムーズに割っていたのに――。
そんな桜をおかしそうに見つめていた霊夜は、さっそくヒントを一つ出してあげることにする。
「もうちょっと、力強く叩かないとダメよ。卵の殻って意外と硬いものだから」
「え……あ……はいっ!」
霊夜のアドバイスに桜はすぐに返事をするが――その力加減がうまくいかない。もし力を入れすぎて、卵がうまく割れなかったらどうしようとか、そうなったら卵が無駄になっちゃうとか、色々な雑念が桜の身体を強張らせてしまう。
霊夜のアドバイスで少しだけ強く、卵をボールに叩くようになったが……それでもちょうどいいヒビを入れるには程遠かった。
「……! ……!」
コンコンっ。コンコンっ。
桜の表情は真剣そのものであったが、それでも幼い子供が一心不乱に卵にヒビを入れようと叩き続けるその光景はどこかシュールなものがあり――そのあまりにおかしくも愛くるしい姿に笑い出してしまわないよう、霊夜は桜の見えないところで一人、肩を震わせた。
「ふふっ、そうじゃないわ」
しかし、いつまでもその光景を楽しんでいるわけにもいかないので、さっと桜の後ろに回り込むと、卵を持つその右手に自らの手を添える。
「ふぇっ?」
ふわり、と身体を密着され、桜は突拍子もない声を上げる。そんな桜を余所に霊夜は耳元でそっと囁きかける。
「……卵は、こうやって割るのよ」
コツン。
桜の手に自らの手を添え、操ってやりながら、あんなにもヒビの入らなかった卵に簡単にヒビを入れる霊夜。片手は難しいからまずは両手でと、桜の両手を掴むとヒビの間にその小さな指を割り込ませて。
「あっ」
卵黄がボールにスルンと入ったのはその時だった。卵黄の形も崩れず、殻の破片も混ざっていない完璧な割れ方。
「や……やった……!」
「今の感覚を忘れないでね」
「あ……」
「ん……どうかした?」
最後にそう告げると霊夜は桜から身体を離す。僅かな花の香りを残して、霊夜の身体の温もりが離れてしまったことに思わず声を上げそうになってから、慌ててそれを抑える。こういう時に限って敏感に気づいてくる霊夜に、桜はブンブンと首を横に振る。
「な……なんでもないです! ……なんでも……」
「そう? 何か言いたいことがあったら遠慮なく言ってね?」
――家族なんだから。
そう言ってくれる霊夜の気遣いが嬉しくて、桜はコクンと頷く。
「じゃあ、次は下味をつけるわよ。味を甘くするなら砂糖を入れるんだけど、その砂糖の量にもコツがあってね――」
砂糖の容器を手に取りながら、桜に説明する霊夜の姿は、いつも通りの無表情でありながらも、どこか楽しげで。
この時間が永遠に続けばいいのに――。頭の片隅でいつしか、そんなことを考えてしまう桜であった。
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5話
ガチャリ。扉が開いたのはその時だった。雁夜が思わず顔を上げると、開け放たれた扉の向こうには黒エプロン姿の霊夜の姿が。
「お目覚めかしら? ご飯出来てるけど」
「ご馳走になってもいいのか?」
「一応、泊まるよう言ったのは私なんだし、しっかりとおもてなしはさせて頂くわよ」
そう言うと霊夜は部屋に入り、閉め切られたカーテンを一気に開く。
「っ」
穏やかな朝の陽射しながらも薄暗い空間に慣れてしまった雁夜の目にはそれでも眩しく、一瞬目を細めてから、ゆっくりと立ち上がる。その時になって、霊夜が若干、顔色が悪くなっている雁夜の表情に気が付き、口を開く。
「どうしたの? 顔色が優れないようだけど、悪い夢でも見た?」
「……」
雁夜は霊夜の顔を見やる。相変わらずの能面のような無表情に濁り切った漆黒の瞳。かつては感情豊かだった彼女の表情をこのように変えてしまったのは自分の責任だ。自分の背負うべき宿命から目を背け、自分の身可愛さに妹を生贄にしてしまった、その結果。
それなのにこの妹はこうして尚も敏感に雁夜の心の機微に気づき、気にかけてくれている。間桐の魔術に壊されてしまったかもしれない妹の大切な
だから雁夜は首を横に振る。
「いや、大丈夫だ。――それより、すまないな。わざわざ朝食まで用意してくれて」
雁夜の内面は恐らく――いや、きっと見透かされてしまっているのだろう。それでも、これは雁夜にとって最後の意地だった。自分が弱い男であるということはもはや周知の事実。それでも妹の前では、そんな弱い自分を曝け出したくなかった。……何を今更なのかもしれないが。
「……いえ。桜ちゃんを待たせてしまってるから早く行きましょう」
そんな雁夜を内面を読み取らせない瞳でしばし見つめていた霊夜であったが、やがて視線を伏せるとそのまま背を向け、歩き出す。
「ああ」
雁夜は頷き、その黒き背中に続くのだった。
+++
間桐邸の食卓にはすでに朝食の準備は整っている。もちろん食卓に並ぶ朝食は全て霊夜と一緒に力を合わせて作った品々だ。
用意された四つの席。普段ならそこに霊夜と桜の二人分の料理しか用意されないのだが、今朝は一人分多い、三人分の朝食が用意されていた。
この家にやって来てから、すっかり桜の指定席になったその椅子に腰掛けながら、桜は先ほどの霊夜とのやり取りを思い出す。
それは鮭の切り身に塩を振り、塩焼きの仕込みを終えた時のことだった。
『あっ、そうだ。桜ちゃん、今日はこの家にお客様が来ているの。だから朝食も普段より一人前多い三人前用意するわ』
『えっ……』
『ごめんなさいね。来たのは桜ちゃんが寝た後、いきなりのことだったから、桜ちゃんが知らないのも無理はないわ。……驚かせちゃったかしら?』
『いえ……』
『そんなに緊張した顔しなくても大丈夫よ。お客様って言っても、その人、きっと桜ちゃんもよく知ってる人だと思うから』
『えっ!?』
『そうだ。せっかくだからそのお客様に桜ちゃんの手料理を食べさせてあげるといいわ。きっと喜ぶと思う……うん、あの人のことだから間違いなく喜ぶわね』
『えっ……でもわたし、まだお料理、うまくできなくて……』
『料理上達は他人に食べてもらうのが一番の近道よ。それに桜ちゃんの料理が美味しいのは私が保障する。――それともなに? 桜ちゃんは私が大丈夫って言ってるのに、安心してくれないの?』
『そっ、そんなこと! ……な、ないです……』
『じゃあ、それで決まりね』
それで一通りの朝食の準備が終わり、食卓に配膳も完了した後、霊夜はそのお客人を起こしに行った。お客人の正体が気になった桜は何度か零夜に聞いてみたのだが、全ては「後でのお楽しみ」の一言。
いったい、どんな人なんだろう――。改めてそんなことを考え始めたその時、食卓に霊夜の姿ともう一人、霊夜より一回り背の高い男の姿が入ってくる。
そして、男の見覚えのあるその顔を見て、桜は驚きのあまり、思わず席を立ち上がってしまう。
「か……雁夜おじさん!?」
そのあまりの可愛らしい反応に雁夜は苦笑じみた笑みを浮かべると共に、桜に向かい、告げた。
「おはよう。……久しぶりだね、桜ちゃん」
+++
桜と挨拶を交わし、その無事を改めて確認し、安心した雁夜であったが、食卓に着いた途端、眼前に広がる献立から目が離せなくなってしまった。
雁夜のお腹はここ数年類を見ないくらい健全な音を鳴らして空腹を訴える。先ほどの鬱屈とした気分が嘘のように。
汁物に豆腐とわかめの味噌汁。主菜には鮭の塩焼きが置かれ、副菜にほうれんそうの胡麻和え、そして黄金の輝きを放つ卵焼きが置かれている。きゅうりを薄く切った浅漬けもご飯のお供として食卓に置かれている。飲み物には温かくも飲みやすい適温に保たれた緑茶が。それら全てが雅な食器に綺麗に装われ、食欲を刺激する魅惑的な香りと共に、すぐに食べつくしてしまうのではもったいない絶妙の高級感を醸し出している。
「……」
ぎゅるるるる。もはや胃の暴走を抑えられない。ゴクリと思わず唾を飲み込んだ雁夜に、桜が声をかける。
「お……おじさん? 大丈夫?」
「えっ、あ、大丈夫だよ? なんで?」
「おじさん、なんか血に飢えた獣みたいな顔してたから」
「……」
もはや返す言葉のない雁夜である。というか、そこまで自分は切羽詰まった顔をしてしまっていたのであろうか。
「ごめんなさい、待たせたわね」
そこにエプロンと髪を纏めていたゴムを外し、通常モードに戻った霊夜の姿が現れる。
霊夜と桜が向かい合わせに、桜の隣に雁夜が座ったところでようやく合掌する。
「じゃあ、冷めないうちに食べましょう。――いただきます」
「いただきます」
「い……いただきます」
上から霊夜、桜、少し遅れて遠慮がちに雁夜。雁夜は朝食の皮切りに味噌汁をチョイスする。
それだけで軽くご飯一杯を完食できそうな出汁の香りを堪能し、一口、啜る。
「――!!」
途端、雁夜は自分の中でタガが外れたのを感じた。ご飯、味噌汁、ご飯、味噌汁。その無限ループが止まらない。
しかしどうにか、意識を持ち直し、次に口に入れたのは最初から目をつけていた黄金の輝きを放つ卵焼き。少し形の崩れたソレだが、まったく気になることなく――むしろその崩れ具合がさらに食欲を刺激する――口に入れ、途端、口内に広がる甘みと卵特有のまろやかさが醸し出す絶妙なハーモニー。まさに食卓の甘味処やー! 鮭の塩焼きもその橙の身がふっくらと柔らかく、適度な塩加減がまたご飯をかきこませる。
「……! ……! ……!」
無我夢中で一人自分の世界でご飯を食べ続ける雁夜の箸が止まったのは、次の瞬間だった。
「いっ――!?」
いきなり足にかなりの衝撃が走り、雁夜は半ば本能的に、斜め向かいに座る霊夜を見る。するとそこには絶対零度の冷たさをもってこちらを睨み付ける妹の姿が。
(えっ、なに……? えっ)
内面、戸惑うことができない雁夜余所に霊夜は顎で軽く雁夜の横の席を指し示す。
「え……」
導かれるままに隣を見やるとそこには不安げな表情でこちらをジッと見据える桜の姿があった。その食事には未だ一切の手が付けられておらず、合掌してからこれまで、ひたすらに雁夜のことを観察し続けてきたようだ。
「えっと……え……」
「……」
何が何だかわからず、なおも戸惑うことしかできない雁夜を、桜は不安と――なぜかほんの少しの期待が入り混じった瞳でジッと見据えてくる。チラリ、と霊夜を見るとその目はただ「うまくやらないと殺ス」という明確な意志が感じられる瞳でジッと睨み続けている。
「えっと……おじさん、何かしちゃったかな?」
もしかしたらバクバクバクバク平らげて、行儀が悪かったのかもしれない。
おそるおそる桜に向かい告げた言葉に桜は悲しげに視線を下に伏せ、その耳には「はぁ」という妹の冷たい溜め息が聞こえてくる。
「……かよわい乙女の純情を踏みにじる男は死ねばいいって、私、思うのよね」
「え”?」
「とりあえずもうご飯は食べなくていいから。お帰りはあちらになるから、とっととこの家から出て行ってくれる?」
「ちょ、ちょっと待って!」
雁夜は頭を懸命に働かせる。いったい今までに自分は何をした? 何か不快に思わせるようなことをしてしまったか?
いただきますと合掌して、ご飯を食べ始めた。そのあまりの美味しさに無我夢中になって、妹に足を思い切り踏みつけられるまでは気づかなかった。
ずっとこちらを見つめ続けていた、桜の視線に――。
「あ……」
そこまで考えて、雁夜はある一つの考えにたどり着く。悲しげに箸を手に取り、味噌汁を啜ろうとしていた桜に顔を向け、そしてその考えをそのまま口にする。
「もしかして、この料理を作ったのって……桜ちゃん?」
「……っ!!」
その途端、打って弾かれたように、雁夜を見つめた桜の様子を見れば、もはや答えは明確だろう。
「凄い! 凄いよ、桜ちゃん! こんなに美味しい料理を作れるなんて、本当に凄いじゃない、桜ちゃん!!」
「ほ……本当?」
「うん、本当だよ! この卵焼きなんて、ほんのりとした甘さととろりとした身が絶品で……こんな上手い卵焼き、生まれて初めて食べたよ!」
「そ、そうかな? 霊夜さんと一緒に作って、形だけ失敗しちゃったんだけど……」
「えっ、そう? 形だって全然綺麗だったよ。おじさんだったらこんなに綺麗に作れないよ、絶対」
「え……えへへ……」
少し自重気味な桜の言葉であったが、それでもぱあっ、と顔を明るくさせたその顔を見れば、褒められて嬉しかったのは明らかなことで。
その天使のような微笑みに思わず、こちらまで微笑ましい気持ちになりながらも雁夜はようやく自分のしでかしてきたことの大きさを痛感した。相手のために一生懸命作ったのに、感想も言ってもらえず無言でバクバク食べられたら不安にもなるだろう。
しかしそれにしてもまさか桜が作ったものだったとは。霊夜の手伝いがあったとはいえ、これほどまでの完成度の料理を用意するなんて、尋常なものではない。霊夜の料理上手は家を出る前にこれでもかというくらい知っていたので、この朝食もてっきり霊夜が用意しているものとばかり思っていたが、まさか桜だったとは……。
「ごめん、桜ちゃん。せっかくおじさんの為に作ってくれたのに、気づくのが遅れちゃって」
「謝らなくていいよ、おじさん。おじさんに食べてもらえてわたし、とても嬉しかったから」
「桜ちゃん!」
「ひゃあ!?」
そのあまりの愛おしさに感極まった雁夜はその華奢な身体を思わず、抱き締めてしまう。抱き寄せられた桜は思わず、驚きの声をあげるが、それでも不快には思わなかったのか、すぐに柔らかな笑みを浮かべて雁夜をその小さな身体で精一杯抱きしめかえす。
「ふん……」
そんな雁夜を呆れたように見た霊夜はようやく味噌汁を啜り、朝食を摂り始める。
今朝の間桐邸の食卓は、ちょっとした波乱がありながらも穏やかに、緩やかに流れていく。
「……ご飯のおかわり、いるかしら?」
「えっ……ああ、お願いできるかな」
「あっ、わたしがよそうよ!」
「そう? じゃあ、お願いできる、桜ちゃん?」
「うんっ! わかった!」
逃げ出した過去は、己の犯した罪は、この
それでも雁夜は今、目の前に広がるこの光景に、心からの感謝をした。こんな何の変哲もない日常の光景が、どれだけの奇跡が積み重なって、紡ぎだされているのか、雁夜には痛いほどできているのだから。
この輝ける宝石のような時間がいつまでも続くことを――妹のこれから
「……」
雁夜は心の底から祈るのだった。
+++
ちりり。
右手が疼いたのはその時のことだった。焼けるようなその痛みに思わず顔を歪める。
「……」
変えられた運命。それでも変わらぬ運命。
現実はあくまでも現実でしかない。
「……っ」
この日が来ることを、彼女は何よりも恐れていた――。
とりあえず第一部はあと一話で終了する予定です(あくまでも予定)
これから先も不定期更新になりますが、なんとか完結まで持っていきたいのでよろしくお願いします。
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