スコルピト・C・ラスコータ先生の浮遊感 (ランタンポップス)
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始まりは夜中だった。ONE

友人がノーパソ持ち込んで「奴隷との生活」をやらせてくれる程の熱い要望に負け、制作致しました。
一応原作はやってますが、物が物ですのでオリジナル展開多めです。


「…………下痢……のようです……はい……」

「え?」

 

 木製の床と壁に囲まれた部屋には、様々な物が置いてある。

 隅に二つある木製棚は薬品棚のようで、ガラスの向こうには手書きのラベルが貼られた琥珀色の薬品瓶が並べられている。更には三つ並んだベッドと、その間の仕切りに使用するであろう花柄のカーテン。そして極め付けが白衣を着た男と言う事であり、この場所が何処か、診療所である事は分かるだろう。

 

 

 ベッドには苦しそうに表情を歪めた少年が横たわっている。お腹を頻りに押さえている所、腹痛のようだ。

 その子の服の裾をたくし上げ、医者と思われる白衣の男が露出させた腹に聴診器を当てる。腹痛の原因は分かったようではあるが、医者の声は驚く程に小さい。

 

「あの、すいません……もう一度、お聞かせ下さいな」

 

 母親である女性が、困惑した顔で医者に聞き返す。

 しかしどうした事か、医者は嫌そうな顔を一瞬浮かばせた後、すぐにまた話し出した。

 

「……お子さんは…………あの、下痢です……」

「……あ、下痢ですか……」

「……はい」

「はぁ、そうですか…………」

「………………」

 

 

 この医者、笑える程に口数が少ない。そして声量も少ない。更に声色でさえも、自信なさげで何処かフワフワとした話し方であった。結果を聞いた母親は、「この人、本当に大丈夫なのか」と疑っているような眼差しを向けた。

 言えど、室内に飾られている医療免許の賞状はキチンとあるので、ヤブではないのだが。

 

 

 だが風貌はボサボサの黒髪に、困り顔が常な幸薄い表情の、医者にしては医者らしからぬ見た目である。免許はあるけど、信頼性は低く見えてしまう。

 身長は百七十五程度とまあまあの身長だが、縦に伸びただけとも言える程に筋肉量はない。いや、これこそが医者のイメージではあるのだが、不健康なイメージにも繋がっている事実もある。まだ働き盛りな年齢であるハズだろうが、疲れ切り、廃れたような見た目をしている男だ。

 

 

「…………下痢止めを、出しておきます……けど、症状が治まらない場合は…………えぇと、また来て下さい……ね?」

 

 如何にも『口下手』な、詰まり詰まりの声。トーンは高めなのだが小声なので聞き取り辛く、母親は困ったように苦笑いを返した。

 

「あ、有り難う御座います、先生」

「……どうも。あぁ、ボク?……もういいよ、起きて」

 

 診察を受けていた少年を起こし、親子は医者に連れ添われて受付へと行く。

 この診療所に看護師はおらず、この男の医者一人で切り盛りしているようだ。なので診療代の請求も会計も一人でこなす。

 

 

 

 

「…………お釣りです。これが下痢止め…………の、薬です。えぇと、粉薬です……あと、食後に…………水と」

「あっ、はい! 分かりました! 食後にですね?」

「…………はい」

 

 医者から薬とお釣りを受け取ると、親子はペコリとお辞儀をし、「有り難う御座いました」とお礼を添えて扉を開け出て行こうとする。

 

「あっ、あの……!」

「えっ!?」

 

 しかし彼は思い出したかのように突然飛び止め、言葉に付け加えを入れた。

 何故か声が真に迫っている風なので、母親も驚きで気持ちが焦る。

 

 

 

 

「……当分、冷たい物と食べ過ぎは控えて下さい……眠る時はしっかり、お腹を……冷やさないように…………あと、トイレでは出し切る事。悪い細菌は……出した方が良いです……は、はい……」

「……ご丁寧に、どうも」

 

 母親は再度、微笑みながらお辞儀をし、我が子の手を引いて出て行った。

 その背後、手を振って「お大事に」と見送る医者であるが、その声が親子の耳に届いているかと言えば微妙であろう。

 

 

 パタリと、扉の開閉音が響いたと同時に医者は、深い溜め息を吐いた。

 

「……忘れる所だった」

 

 ポツリと反省し、顔を上げる。

 

 

「今日は、終わり」

 

 窓際に近付き、外側に向けていた『Open』の看板を返し、『Close』の文字にした。

 太陽は既に夕陽へ行こうとしていたので、これで今回の業務は無事終了である。

 

 

 開けていたカーテンを全て閉め、外界と診療所内を遮断するかのようにする。この時が一番、彼にとっての解放感が現れる時であり、カーテンを閉じる行為はさしずめ孤立の儀式とも彼は捉えている。

 白衣を脱げば、グレーのシャツが露わになり、彼の華奢な身体が際立って見れた。

 そのまま投げるように上着掛けに白衣を吊るし、また疲れたように溜め息を吐きつつもソファに寝っ転がった。診療所は自宅と一体化しているので、患者の待合室が彼の家のリビングでもあった。本当は自室と分けるべきなのかも知れないが、仕事の切り上げと同時に寛げるとして、敢えてこのような形式にした。

 

 

「………………」

 

 部屋は、チックタックと進む時計の秒針の音だけ。それ以外を除けば、とても静かな状態である。

 沈黙の中。昼下がりの森の中のような、穏やかな沈黙だと彼だけは感じ取っていた。この沈黙と言うのは、彼にとって強く高い価値観が存在している訳だ。

 

「………………」

 

 黙りとして彼は、天井をぼんやり見つめる。

 あそこに少しシミがあるなぁとか、天井の木板に隙間があるぞとか、そんな事を考えていた。喋るより、人と関わるより、静かに黙って熟考する方が彼には気楽である。

 だからこそ彼は医者になれたのかも知れないし、関係ないかも知れない。言えど、ビュッフェパーティで騒ぐより、健康的で良いじゃないかと割り切っているのだが。

 

 

 

 

「……そろそろ行こう」

 

 暫くソファに横になっていた彼はスッと起き上がり、身支度をする。

 シャツの上にベストを着て、またその上にロングコートを羽織った。何処か、出掛けるようである。

 

「…………ジョニィは時間に厳しいから」

 

 ランプを消し、暗闇となった部屋からさっさと外界へ避難する。横になっていた間に外はもう、夕陽が落ちて薄紫色の空となっていた。

 

「……えっと、施錠……」

 

 少しもたついた指で扉に鍵をかけ、それをポケットに入れる所までキチンと確認した。

 

「……オーケイ。鍵は閉めた鍵は閉めた。鍵は、閉めた……」

 

 ブツブツと記憶に刷り込むように施錠確認を呟き、彼は自宅に背を向け、歩き出した。

 庭を歩き、表へ出ると、道を滑るようにやって来た風に身体を煽られるのだった。季節は秋、一ヶ月もしたら厳寒の冬が待っているだろう。

 

「……ない」

 

 立てられているポストを開けて、中身を確認した。こうはしているが、文通しているだとか夕刊を取っているだとかはない。彼のついついする癖でもあり、義務でもあり。

 

 

「……あっ」

 

 その時、いきなりしまったと言いたげな顔で頭を触った。

 触った手で、頭を忌々しげにガシュガシュと掻き毟る。何かを忘れていて、それを思い出したようだ。

 

 

 

 

「……帽子……忘れた」

 

 彼は面倒臭そうに歪めた表情のまま道を引き返し、また家の中へ帽子を取りに戻って行った。

 そして本日三回目……いや、一日で何十回目かの溜め息吐くのである。

 

 

 

 

 軒先のある看板に、手書きでこう書かれている。

 

『ラスコータ内科診療所』

 

 

 彼の名前は『スコルピト・C・ラスコータ』。齢は二十九の、ナーバスそうな男性。

 疲れた顔の、しがない内科医である。




人生初めてです、エロゲで二次創作とは……はい(笑)
ただ私個人、エロと言うのがどうしても苦手ですので、多分書かないでしょう。そこら辺もご了承下さい。
「エロがないやん!? エロが見たかったから読んだの!」と仰る方は、申し訳ありません。


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始まりは夜だった。TWo

 秋の夜は早い。夏頃なら、まだ陽の明るい時間帯のハズなのだが。

 暗がりに落ちて行く道すがら、ラスコータはそう考えていた。

 

 

 頭に乗せている忘れかけていた帽子は形崩れの、ゴタゴタとした中折れ帽子だった。自身の頭より少し大きめのサイズなので、余った部分が後頭部を覆うように、落ちている。

 それだけにツバも広く、十分陽の光から目を守ってくれる事には申し分ない。言えど今は五時半過ぎ、陽の光も次第に弱まるトワイライトの刻なのだが。

 

 

「…………」

 

 ツバの下で見え隠れする、彼の目はさしずめ、鷹を警戒する小鳥のような風と比喩出来るだろう。何に怯えているのせよ、頻りに彼は道行く人々の顔や背中に視線を行ったり来たりと飛ばしていた。

 彼はとてもナイーブで、その実人間苦手な内向的性格の人である。「誰が襲ってくるのでは」と言う、漠然とした恐怖を心の底に置いて、生活しているような人間だった。

 

「……五時、三十二分……」

 

 ポケットから取り出した懐中時計の蓋を開くと、さっさと時刻を確認して懐に戻す。

 時間を確認した彼は少し、焦ったように表情をゆがめ、歩幅を広めて足を速めた。

 

「……三十分かかるよなぁ……隣町だもんなぁ……タクシーでも呼ぼうかな……」

 

 ブツブツと、ぼやきを入れては石畳の街路を歩いて行く。

 この時間ともなると、酒屋が本格的にオープンする。例えば、昼は喫茶店で夜はバーにするなどの営業方法をしている店がここらには多いので、見渡せば酒場の街並みとなっている。

 仕事を終え、家に帰る前の一杯を楽しみにしている労働者も多く、銘々が酒屋の扉に消えて行く。何人も何人も何十人も。

 

 

 そう言えばこの前、二日酔いを重病と間違えて来院した患者がいたなと、ラスコータは思い出し笑いをする。

 

「ははは……あっと、衆目衆目……」

 

 笑いで開いた口を押さえて、通りを見渡した。誰も彼に、怪訝な目を向ける人はいなかった。

 彼は思い出し笑いを抑えられないタイプである。

 

 

 風が冷たく、枯葉がそれに乗って街を流れて行く。ふと、目前に枯葉が飛びかかってくるものだからラスコータはビクリと、肩を震わせて帽子を前方にツバを落とす。

 枯葉は顔面に当たる事はなく、もっと言えば彼に当たる事もなく、悠々と泳ぐ魚のように空中を舞って飛ばされて行くのだった。

 これらを眺める事はしなかったが、彼の強い警戒心にはかなり線に触る出来事だ。

 

 

「……秋が来る」

 

 秋が来れば青葉は散り、冬の殺風景に成り下がる。

 当たり前の事象であり、変わる事のない普遍である事だ。しかし季節は、彼の心にシンクロを起こすように彼の感情を落とすのだろう。憂鬱な寒さが、彼の元へとやって来る事を想像するのならば、世界から逃げ出したくなる。

 

「…………」

 

 ある虚無感が彼の心を満たした。

 虫食いのように穴だらけになったようだ。そしてその穴を、秋の冷たい風が我が物顔で吹き抜けて来る様はとても冷たい。

 一旦彼は、立ち止まった。

 

 

 

 

 立ち止まった所は、三人の主婦の井戸端会議手前。

 盗み聞きではないが、必然的に彼女達の会話が耳に入る。

 

 

「あたしねぇ、二人目を妊娠したのよ」

 

 そんな事を言ったのは、マフラーを首にかけた若い女性であった。

 ラスコータは産婦人科の先生ではないものの、医学的な立場にいる以上『妊娠』のワードに反応してしまい、チラリと主婦達を横目に見やる。

 まだ妊娠数ヶ月なのだろうか、ふっくらとしたような雰囲気は見受けられない。

 

 

 注目するラスコータに気付く事なく、話は続けられた。

 

「でもこのご時世でしょ? 旦那の収入を見ても、とても育てていけるか分からないわ」

「確か、最初の子は七つだったかしら?」

「そうそう、まだ七つ。これから学校もあるだろうし、出費がかさむのよ。先行き不安って感じ」

「まぁ大変! でも分かるわその気持ち。私はまだ子ども一人だけれど、お金がかかるのよね」

 

 妊婦の女性に共感の声をかけたのは、布を肩に巻いた女性である。

 その二人の女性の話を静かに聞いていたもう一人の、年長と思われる女性が口を開いた。

 

「大丈夫よ。子どもは言わば、私たちへの保険のような風よ」

「へぇ、保険!」

「近々子ども一人当りに幾らかのお金を支給する制度を導入する、しないの話じゃない? その為にも、子どもは多い方が良いわ。それに老後助けてくれるのも子ども達なのだから、色々と必要よ」

 

 年長者の女性が話す言葉に、妊婦ともう一人の女性も賛同するような姿勢を見せた。

 

「確かにね。一人前になるまで育てる事は、私たちの為にもなるのよね」

「その通りよ。このご時世、老後への不安の方が強いじゃないかしら? だからこそ、子どもは保険なの」

 

 

 得意げに話す年長者の女性。

 これを聞いたラスコータは、心底嫌な気分になってしまう。何かこの親たちに物申しなやろうかとも、性格に似合わない血気盛んな感情を湧き上がらせたのだが、三人の内の一人と目が合ってしまい、我に返ってその場を早急に後にした。

 

 

 

 

「…………」

 

 道を歩きながら、ラスコータは蟠る胸糞悪さをどうやって取り除こうかと思案している。

 あの母親たちの会話に、愕然としたのだ。どう考え直そうとも、耳に入りて脳に張り付いたあの母親たちの話と言う事実を捏造するなどは、した所で気休めにしかならないと、絶望してしまった。

 

「……何が、『子どもは保険だ』……だ。これから世界に生まれて来る子どもは、親の貯蓄財産って訳なのか……」

 

 彼を苛立たせたのは、あの母親の悟ったような表情。「私、凄い事を話しているわ」と言わんばかりの得意げな表情。

 澄ましていながらも自信を持ったあの態度が、彼の神経に触れる事となったのだ。

 

「未来ある子どもの……全てを奪って行くのは……いつだって大人だろ……政府と親と、その他大多数の大人の…………」

 

 ラスコータは独り言として、あの母親たちにぶつけたかった持論を呟くように吐き出した。

 

 

「子どもは親に背中を押され続け、見るもの遮られて、気が付けば『親の望んだ自分』になってしまうんだ……職に就いて、給料で親を援助して、余った金は政治家のポケットに仕舞い込まれ……大人は子どもに集るだけ集って夢を食い潰し、最後は自分の老いた体を世話させるまで子どもを使い潰すんだ……確かに保険だ。だが束縛だ。学校とか、結局は夢は食い潰される物だと知っていて、何で夢を見させようとするんだ……おかしいんだよ…………!」

 

 帽子の下にある彼の形相は、みるみると怒りに歪み始めている。歩幅も更に広がり、歩き方も幾ばくか乱暴なものへと変化している。

 

「じゃあ、愛のある親に生まれた子どもはどうなるって? 簡単だ、他人が潰しにかかるんだ……えぇ? 人を突き落とすのも他人で、人を壊すのも他人だろ? そうなんだ、結局人は、敵の中に生きて行くんだ……強くない奴が悪いとか言うが、初心の状態から突き落とす奴らが何を言っているんだ……! 他人を自身のエネルギーの捌け口にする奴らが多過ぎるんだよ、この下卑た世界は……!!」

 

 独り言ならとても饒舌な、彼の持論。

 呪文のように出されるその言葉ひとつひとつ、勿論だが誰の耳にも届かないし何も変える事も出来まい。だがそれは、人嫌いの彼だからこそ、人には言えない自分の精神を、他でもない『自分』に説いているのだ。

 自分で見つけ、自分の中で遊ばせるのが彼の独り言である。何も変わらない世の中で、自分だけが変わっていたかったのだ。

 

「子どもは保険と言うような親は、子どもには『愛』と称したマインドコントロールを施すのだろう……いや、もしかしたら案外、『あれやれこれやれ』で早い内から使い潰すのだろうか……あぁ、いつからだこんな、腐った欲望が皆の心に芽生えたのは……誰しもが夢見る純粋な子どもだったハズじゃないか……!」

 

 

 

 

 一頻り呟いた後に顔を上げると、誰かとぶつかった。

 ぶつかった、と言えどもラスコータには何ともない。そして衝撃もそれ程でもない、言うより衝撃は膝の辺りしかなかったのだが。

 

 

 ハッと我に返り、上げた顔を下に落とした。

 長く、少し汚れた髪を石畳に投げ出して倒れる幼い少女の姿があったのだ。

 

「……イタい……」

 

 少女はそう呟き、体を起こした。手にバスケットを持っており、それが彼女の手を離れて地面にひっくり返っていた。中身は数本の花で、彼女は花売り少女であったのだ。

 

「…………!」

 

 あんな持論を馬鹿みたいにぶちまけていた矢先に、この出来事だ。通常受ける罪悪感を、上乗せした状態で彼は重く受け止めてしまった。

 

「あ、あの……す、すいま……せん……!」

 

 少女はオドオドと取り乱し、立ち上がろうと膝に力を込めた。怒られると思ったのだろうか、少し表情に影が覆っているように見える。言う所の、泣きそうだった。

 

 

 そんな彼女にラスコータは腰を曲げて屈み、手を差し出した。当の本人は、呆気に取られたかのようにラスコータの手と顔を交互に見ていた。

 

「え?」

「……ぶつかって、ごめんね?……痛かったかい? 余所見をしていたものだからキミにぶつかったんだ、許して欲しい……ほら、手を取って。立ち上がってご覧?」

 

 握ろうか握らまいかと躊躇した少女だが、ラスコータの優しげな声を信用して手を握った。

 手の平に乗った小さな、冷たい手をラスコータを柔らかく握り締め、少女の腕を引っ張り上げて立たせてあげる。

 

「怪我はないかい? あるなら包帯を持っているけど……」

 

 手を離し、本職である医者らしく彼は、怪我の有無を少女に尋ねた。

 ラスコータはいつも、一巻きの包帯をコートに常備していた。無い事を祈りたいが、何かの事故に遭遇した時に怪我人を手当て出来るのは技術ある者なのだから。

 特に医大のある教師が他人奉仕を強く発言しており、包帯の常備を授業中に何度も呼び掛けていたからだ。ラスコータは内科医なのだが、止血法に人工呼吸など応急処置の方法は心得ている。それが必修と言わんばかりに、教え込まれたからだ。

 

「あ……大丈夫です……」

 

 だがこの子には必要ないみたいだ。穿いているスカートの、尻餅ついた所を手で叩いている所だった。必要以上に痛がっている様子は見えなかった。血も見えないし、「怪我はさせてなかった」と彼はホッと一息吐いて安心を表す。

 重い罪悪は、少しだけ消滅してくれる。

 

 

「……お花、売っているんだ」

 

 しゃがみ込んでバスケットを拾い、落として散らばった花をそこに放り込んで行くラスコータ。彼のその行動を見た彼女は、とても嬉しそうだった。

 

「……うん」

 

 元は人懐っこい性格なのだろう。ラスコータを信用した少女は、自身も路上に落ちた花を拾って行く。

 花は、白い花弁が垂れるように落ちており、その内側には白のキャンパスにペンキを垂らしたような、鮮やかな紫色が斑点のように広がっているのだ。

 ラスコータはこの花を知っている。

 

「……『クレマチス』だね。秋咲きの状態だ」

 

 近所の教会の裏に、園芸用のクレマチスが生えていたのを思い出した。

 蔦を絡ませ、ステンドグラスの上部まで伸びており、無数の花を咲かせていたのだ。まるで天界を指し示しているかのような生え方をしているので、専ら好評であった。園芸に興味のないラスコータでさえも、耽美に咲くそのクレマチスを見て感動を覚えた程だ。

 

 

「うん……」

「何処に生えていたの? とても綺麗だ」

「……お家の裏に生えてて、お母さんが何本か取って、私に『売って来なさい』って」

「…………あぁ、そうかい」

 

 さっきの母親たちの会話が弓矢のように彼を貫き、走馬灯のようにフラッシュバックした。ラスコータは一瞬だけ息を詰まらせ、表情を歪めたが、俯く事によって少女にその顔を見せないようにする。

 

 

 再び見上げてみれば、少女のキョトンとした顔が目に映った。

 丸い真珠の綺麗な瞳をクリクリとさせて、ラスコータの顔を見ている。とても純粋な、綺麗な瞳だ。

 自分が放った論が、一言一句脳裏に浮かぶと、いたたまれない気持ちに苛まれる。その純粋な瞳から、ラスコータは逃げてしまいたかった。

 

 

 

 

 ラスコータは財布を取り出した。

 

「三本、買うよ……お幾らですか? ミス?」

 

 少女の心底嬉しそうな、明るい表情が一人の医者に向けられる。それはまるで、雪解けを待っていた花の芽とも雲間を抜けた太陽とも形容出来るような、暖かな光であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 手の中には、少女から買ったクレマチスが三本、乗っている。

 三本ともの茎の部分をつまみ、クルクルと回してみる。それはオートマタオルゴールの、音楽に合わせて回るバレリーナの人形のようで、とても優雅に見えた。

 

「……ふふっ」

 

 こんな事思うのも柄にも無いなと、自嘲気味に笑ってみるが、花を回してみるのも面白いなと感じていた。

 男な上に三十路の手前、更には廃れた風貌の医者……とことん、自分に対して花は役不足とでも言っているだろう。また、自嘲気味な笑みが零れる。

 

 

 しかし、あの時感じたヘドロのような胸糞悪さは無くなっている。少女の笑みが、少女の花が、彼の気分を持ち上げてくれたのだろう。

 少しだけ、彼は気分の良い状態であった。

 

 

 

 

 

「……あ」

 

 ふと気が付けば、ある店の前。

 店、とあるのだが、新しい店のようで開店していない。近々、オープンする旨を入り口前に置いてあるボードが告知してある。

 看板も何もないので、飲食店になるのか印刷屋になるのか分からないが、ラスコータは何だか胸が踊る気分であった。

 

「……どうぞ」

 

 そのボードの上に、クレマチスを一本お裾分け。

 風で飛ばされぬよう、ボードの骨組みに挟むようにして据え付けた。チロチロと揺れる花弁を見て、何とも言えない気分となるのだが。

 

 

「…………遅れるぞ」

 

 眺めている暇はない、約束の時間に刺し迫ろうとしていたので、ラスコータは目的地の方へ体を向けるとダッと走り出した。

 石畳に靴底が思い切り当たる、甲高い音を鳴り響かせて、夜に染まる街をひた走るのだった。

 

 

 

 

 そのすぐ後、店の扉が開き、誰かが現れた。

 ボードの上にあるクレマチスに気が付き、それを手に取るのだ。

 

 

 ランタン型の街頭がポツポツと照って行く、夜は始まる。




イマイチ、『奴隷との生活』の時代と地名が把握出来ないべ……
私個人としましては、近代ヨーロッパや思うんですがね。分かんないですけど。
イメージとしましては、十九世紀中頃が良いですかね。


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始まりは、晩餐後であった。Three

 それから三十分が過ぎ、六時少し越した辺り。夜の顔出しが早いこの時期は、現在の刻では街灯無しで道も歩けない程暗くなって行く。

 隣街へ彼は到着した。彼の住む街と比べれば幾分か都会で、綺麗な街並みが広がる一等地である。

 ここまで来れば、ガラの悪そうな労働者の姿は見られず、お洒落な服に身を包んだ上層階級の人々が往来するようになる。頻繁に車が通るので道端へ寄り、建物の影を縫うように歩けば、目的地のレストランへ到着出来た。

 

 

「……慣れないよなぁ、こんな街……」

 

 煌びやかなドレスやスーツを纏い、上品な音を響かせて歩く住民たちの側では、まるで自分の服装こそ浮浪者か何かと見られやしないか。確認してみれば、黒のコートは型崩れを起こしている。帽子もまずは、言わずもがな。

 更には伸びた髪の毛がはみ出ている様は不潔に見え、合わせて人相が良いと言う訳ではないだろう。人とすれ違うたびにどきりと、心臓が張り裂けんばかりに動悸を起こしている。

 

 

 さっき通った人は、自分を憐れみの眼差しで見たな。

 そんな被害妄想がずっと、彼の後を追ってはしがみ付いて来るのだ。

 

「…………止め止め」

 

 一人で勝手に落ちて行く暗い悲しい妄想を、頭を振って薙ぎ払った。

 

 

「……遅れているから」

 

 今日は医大からの友人と晩餐ではないか。どうして暗い気持ちになれると言うのだ。

 そう思い直し、合わせて帽子も被り直したラスコータは、レストランの入口へと足を進めた。

 

 

 

 

 入口では、夫婦か恋人かと思われる二人の男女が、燕尾服のウェイターと口論していたのが目に留まる。

 

「満席なのか? おいおい、予約はしたんだぞ!?」

 

 ピッタリと決めた、スーツの男が困り顔のウェイターに詰め寄っている。背後に立つ、イブニングドレスの女性は不機嫌そうに腕を組んで立っていた。

 

「申し訳ありません、お客様。係の者が重複して予約を受けてしまい……お客様の前に席へ予約を入れた方がいたようでして」

「申し訳ありません、じゃあないよ。僕らはねぇ、一週間前から予約をしていたんだ。それを、そっちのミスで満席ですと言われて入れないとあっちゃ、納得なんて出来る訳がないだろ!?」

「大変、申し訳ありません。今一度、空席がないか係の者が確認しておりますので」

 

 男は舌打ちをかまし、不貞腐れたようにポケットへ手を突っ込んだ。

 すると女が彼に擦り寄り、話し掛けるのだった。

 

「ねぇ、ハリー? 入れないの?」

「……チェス、困った事になった。このレストランの馬鹿みたいな、不手際のせいで僕らの休日が台無しだ」

 

 態々と「馬鹿みたいな」を強調させたハリー、と呼ばれる男性の睨みに、ウェイターは居た堪れない気分にでもなったか畏縮している。

 合わせてチェス、と呼ばれる女性も憎々しい声でウェイターに話し掛けるのだった、

 

 

「はぁ、困ったわね。ちょっとウェイターさん? あたし達の前に予約入れたって人は、誰なの?」

「すいません、名前は言えませんが……総合病院の外科医の方だそうです。お二人の予約でして、お連れ様が遅れているとの事です」

「医者ぁ? あたし、医者って嫌い! 理屈っぽいし、つまらないし! あぁ言う人種って、勉強のし過ぎで性格がねじくれているのよ! 何よりあの、神経質って感じの顔が嫌いなの!」

 

 

 チェスのヒステリシスな言葉を聞き、すぐ側まで来ていたラスコータはギクリと、帽子を深く被り肩を震わした。自分が彼女の言う、嫌いな医者像に殆ど合致しているのが自分だからだ。

 そしてウェイターが言った、予約した『総合病院の外科医』とは間違いなく自分の友人である。二つの事がラスコータへ繋がったので、気の小さい彼は冷や汗を流さずにはいられなかった。

 

「申し訳ありません、もう少々、お待ち頂けないでしょうか……おや、そちらの方。ご予約のお客様でしょうか?」

「あ……」

 

 ウェイターの視線が、ラスコータを捉えた。

 ハリーとチェスがチラリとだが一瞥した為、動悸がまた起こる。口から心臓が出てしまいそうだ。

 

「あ、は、はい……えっと……予約……と、言いますか……連れがいるのですが……」

「お連れ様ですか?」

「は、は、は、はい……ジョニィ・ノージー……で、予約を……?」

 

 オドオドと予約した友人の名前を言うと、自身が話題にしていただけあってウェイターは「あっ」と呟き、笑顔を貼り付けて扉を開けた。

 先程とは真逆の表情へすぐに変えられる所はプロのようだ、自分にはとても無理だ。

 今でさえもラスコータは、ぎこちない作り笑いをウェイターへ向けている。変に思われていないかとか、そんな事だけで頭が追い付いていない状態だ。

 

 

「ジョニィ・ノージー様ですね? はい、お席でお待ちになられていますよ。ご案内致します……あの、すいませんお客様、少々お待ち頂けますか?」

「……全く、とんだレストランだ……」

 

 ウェイターが一時離脱に対して二人に畏まると、ハリーは苦言を零した後に「早く行け」と言うが風に手でしっしっと示す。

 立場上、彼の不遜な態度にもしなけれざならないが、丁寧に一礼。すぐ後に、ラスコータへ入店を促すのだった。

 

 

「ハリー、なんでお粧しして来たあたしたちより、あんなドブ川の側で寝ているような浮浪者風が先に入れるのよ」

「しっ。君は声が大きいよ、聞かれたら何されるか……」

「いいわよ、聞かれたって。ウェイターとの応対見たでしょ? 鬱陶しいくらいに言葉詰まらせて……マナーも悪いし、碌な人間じゃないのよ」

 

 明らかに自分に対しての悪口だと、被害妄想でも何でもなく、そのまま理解出来た。

 彼は神経質な医者が元より、医者にすら見れない訳である。堂々としたチェスの罵倒を背に受け、全身を刺されるような気分に苛まれながらも、先導するウェイターに縋るが如く付いて行く。

 彼は他人の目を人一倍気にする性格。今頃、「もう少し良い服にしたら良かった」とか、「あがり症なのは何でなんだ」など自己嫌悪に落ちていた。

 

「あぁ、今日は眠れない……」

「ん? お客様、今何と?」

「え? はっ、いや……何でもないです、大丈夫……です」

 

 気にかけるウェイターに平気だとアピールし、聞こえないように溜め息を吐いた。

 そう言えば室内なのにまだ自分は帽子を被っている、と気付き、すぐさま彼は中折れ帽子を頭から離す。ずっと被っていると、感覚が麻痺してしまうものだ。

 

 

 頭に浮かばせたのは、花売りの少女の笑顔。そして秋咲きの綺麗なクレマチス……今は懐に二本入っている。

 コートの表面から内ポケットに軽く手を置き、腹式呼吸による深呼吸をした。腹式呼吸は気分を落ち着けさせてくれると、思い出してはすぐにやるようにしている。

 鼻から十秒吸引、口から十秒放出。波の激しかった彼の精神線は、リズムの良い心拍数のように安定して来た。

 

 

「失礼します、ノージー様。お連れ様がお見えになられました」

 

 白い絹のクロスが乗った丸テーブルにてメニューを読みながら席に座る、短い金髪の男がいた。紺色のベストを着た、紳士のような格好の人である。

 この人物がラスコータの医大からの友人である『ジョニィ・ノージー』だ。

 

 

 

 

「あぁ、有り難う……遅かったじゃないか、スコール……あぁウェイター、食前酒を二つ」

「畏まりました」

 

『スコール』とは、彼の名前である『スコルピト』を変形させた、彼なりの愛称である。

 注文を聞き、お辞儀をして「ごゆっくり」と一言残して下がるウェイターの背後から離れ、彼と向かい合いにある椅子に着席した。目の前にはナプキンの乗った皿と、ナイフにフォーク。その奥に自分の帽子を置いといた。

 取り敢えずラスコータは早速、ジョニィに謝罪を入れた。

 

「すまないね、ジョニィ。診察が長引いた」

 

 人間苦手で口下手な彼ではあるが、十年来の友人に対しても同じと言う訳ではない。落ち着いた、優しい話し方が本来の彼の喋り声である。

 言うが、今の彼は少し嘘を言ったのだが。本当はちょっとした、道草を食ったからだろうに。

 だがラスコータは友人に嘘を言う分は普通に言える人間だ。それは彼との、親しみの裏返しでもあるのかもだが。

 

 

 嘘とは気付かないジョニィは(言えど、あまり興味ない話題だったのかもしれないが)そうか、と呟き、メニューをラスコータに手渡した。

 

「何を食べる? 俺は決めたから、後はお前が決めて注文……あぁ、眠い」

「……相変わらず、眠たがりだ」

「グッスリ寝て来たが、この時間帯は本当に来るんだよなぁ……土曜の診察は午前までだし」

 

 彼はこの街の総合病院で働く、外科医の先生。

 やはり大手の病院は、土曜診察は午前までか。明日の休息日に備え、仕事を早めに切り上げるのが昔からのジョニィである。

 彼はロングスリーパーで、一日に十時間は寝たい人間との事だ。

 

「平日は殆ど、休み無しだ。全く、お前が羨ましいな、スコール」

「……そんな事はない。まだ一年だけど、火の車だよ」

 

 

 ラスコータは土曜も全て、朝八時に開き夕方五時に閉める。開業したばかりなのもあるが、患者数は総合病院と比べれば少ない。だから必然的に稼ぎも悪い。その為に土曜日を返上する事にしたのだ。

 しかしそうだとしても、ジョニィが恵まれているとも言い難いかもだが。平日はまず、一日たりとも病院から出られないだろうに。

 

「……どうしようか」

「早く選んでくれ、空腹は身体に毒だ」

「満腹だって毒さ……君は、何を頼むつもりだい? アラカルトだろ?」

「ん? あぁそうだ。フルコースはいつもソルベで食べる気を無くしてしまう、俺の中で甘いものはデザートなんだよなぁ……おっと、頼むつもりの品だったな。仔羊のローストと、魚介のスープ」

「それにする」

 

 ジョニィは口を開けて大笑いした。

 

「はっはっはっ!! 昔から優柔不断な奴だった! 自分で選ぶなんて、そうそうしなかったもんなぁ! 覚えているかい? ベーグルの店、いつも一分間は店主の前で考えていた!」

 

 

 大声でそう言うものだから、ラスコータは恥ずかしくて下を向いた。

 ジョニィは昔から絡みやすそうな軟派な顔立ちと、逞しい身体付きのイメージそのままに声の大きい人であった。無駄話とジョークが大好きで、喋り出すとコメディアンが如く止まらない男だ。なので彼の苗字と名前をひっくり返して、『ノイジー・ジョニィ(喧しいジョニィ)』なんて揶揄されていた程。

 

 

「昔から」と言うが、彼も昔からそのままで変わっていない。

 ラスコータは周りの反応が無い事を確認すると、顔を上げる。

 

「大声で言うんじゃないよ、全く!……あ、食前酒が来たから、一緒に頼んでしまおう」

 

 配膳係がワイングラスに入ったスパークリングワインを二つ、持って来た。

 ジョニィがさっき注文したものだ、配膳係は二人の席で止まる。

 

「食前酒をお持ちしました」

「有り難う、貰うよ……あと、アラカルトメニューで仔羊のローストと魚介のスープを二人前。早い所頼むよ」

「畏まりました」

 

 テーブルに置かれた二つのワイングラスをジョニィが持つと、一方をラスコータに渡した。

 注文を受けた配膳係はお辞儀をし、去って行く。

 

 

「所でスコール、帽子は取ったのにコートは脱がないのかい?」

「え?」

 

 パッと、自分の身体を見てみたら、黒い皺のコートをまだ羽織っていた。

 

「……あ、いけない」

「はっはっは! 慌てん坊が!」

 

 馬鹿みたいな話だが、店前のカップルの話による動揺で目一杯だったのかもしれない。すぐにラスコータは立ち上がり、コートに火が点いたかのような焦りを含ませて袖口から腕を抜く。

 

「入口で誰か怒鳴っているようだが」

「…………店のミスで重複予約されたカップルだよ……その予約した席はあろう事か、僕らのこの席なんだよね」

「はっは! そりゃお可哀想に!」

「一週間前に予約したって」

「残念だが、俺は一ヶ月前に予約した……それで重複させるってのも、とんでも無いんだがな!」

 

 

 用意周到とも言う彼の進行上手な様。色々と、羨ましくなるもんだ。

 

 

 しかしあのカップルを思い出してしまったばかりに、二人の罵倒が鉄に錆が浮くようにジワリと現れる。それを剥ぎ取るように、コートを脱いでしまった。

 白のシャツに黒いベスト姿が露わになる。

 コートを椅子の背凭れにかけて、安心したかのようにドカリと、再度着席した。

 

「ここはドレスコードの基準は無さそうだけれどね。でも、必要最低限マナーを守るのが紳士だろう。ルールがないからマナーもないなんて、暴論だからな」

「マナー……僕にとったら、煩わしい鎖のようだけど」

「お前はお洒落に無頓着だからなぁ……まぁ、流石に今回は粧して来たっぽいが、医大の卒業パーティにシャツ一枚だった人間だしさ!」

「ジョニィ、止めてくれよ僕の失敗を大声で言うのは……折角忘れかけていたのに。大学のパーティだから、気軽で良いかと思ったんだよ」

 

 膝に手を置き、縮こまるような姿勢でジョニィを下り目で睨んだ。

 すると彼は「悪い悪い」と笑って言った後、不意に出たあくびを手で覆い隠した。彼はロングスリーパー。

 

 

 

 

「さてと、昔話は兎も角だ。久し振りに会ったんだし、お互い医者としての愚痴があるだろう? 今夜中に出し切って、休日は休み、またその翌日に備えようではないか」

 

 ワイングラスを掲げ、まるでパーティの司会でもするかのような、慣れた言葉遣い。医師の集いに参加しているのだろうか、総合病院だからそう言うのは多いのだろう。ラスコータもグラスを掲げ、彼に合わせた。

 彼とは医大を卒業し、医者となり、それぞれの道を行き分かれたとは言え、文通しあう仲である。

 

 

 歳二十四で互いに卒業し、研修医として本物の現場に触れ、そして本物の医者になれたのは二十六の頃。

 ラスコータはそこから二年はある病院に勤務していたが、辞職。郊外にある小さな街で診療所を開業したと言うのが、『今』である。

 

 

 対してジョニィは大手の総合病院に勤務。外科医としての才能があったお陰か、研修医卒業後も同じ総合病院の勤務医として働けている。

 

 

 

 

 二人は性格も真逆で、今いる立場も似ている所が少ない。どうして今でも『友人』と呼べる程の仲になれているのか、理解に苦しんでいる。

 

「愚痴ね……いや、僕は……殆どないかな」

 

 食前酒を口へ持って行き、喉にちびちびと流し込んだ。

 弾けるような感覚が、喉を伝って行く。この炭酸が食欲を増幅させるのだ。

 

「ない? ない訳ないだろぉ、独立して開業医になって、まだ一年だろう?……お前が開業なんて聞いた時は驚いたが……やっぱり募る事は絶対にあろうに」

「どうしてそう言えるんだい?」

「こっちには、一生分の愚痴で腹の中がパンク寸前だからな!」

 

 そう言うと彼はまた笑った。

 総合病院の勤務医は、本当に大変だ。昼夜問わず働かされる、ラスコータも経験済みである。そう考えると、独立している自分は気楽なのかもしれない。

 

「院長がダイヤモンドクラスの脳みそでよ、手術の事に意見を言ったら全否定しやがる! でも俺は、それに対して『申し訳ありませんでしたー』と言って引き下がるしかない。だって何だって、自分の評価は他人の評価だからな! どんだけ人一倍勉強したって、試験を休んだら一貫の終わりだからな!……で、いざ、院長の言葉を遵守してやって手術をするだろ? どうだと思う? 俺の言った通りで、院長が病名、外しやがったんだ! 俺は知っていたから動揺せず、臨機応変に対応して成功したがね。なのに読み間違えについての責任を俺らのチームに押し付けて、自分はさっさと患者から感謝を受けてニコニコと送り出しだ! 全く、馬鹿にしている!」

 

 食前酒がオイルの役割にでもなったのか、饒舌になったジョニィは早口で愚痴を捲し立てた。

 表情は真っ赤に染まり、両眉を吊り上げて本気の怒りを見せる。ラスコータは苦笑いをした。

 

「へぇ、それは大変だったね。でも良く、対応出来たもんだ」

「そりゃまぁ、俺だからよ!」

「あはっ! 君らしいよ!」

 

 彼の自信の高さは、本当に見習いたい所だ。

 話はまだ続ける、『ノイジー・ジョニィ』の本領発揮と言う訳だろうかと、ラスコータは小さく溜め息吐いた。

 

 

「最近やって来た研修医がいんだが、無能だ! 言わば、何だ? そうだそうだ、金の力で医大を卒業出来たーって奴だよ! 注射が壊滅的に下手って所でその無能加減が分かるだろう? その癖してエリート風吹かしやがって! 態度だけなら名門大学の名誉教授だ! 一回説教してやろうと思うな、『医者は威光でもファッションでもない』って!」

「かなりご立派な身分なんだろうね、その子」

「俺らなんか、遊ぶ暇無しの勤労学生だったろうに! 良く一緒に金を持ち寄って、街で一番安いベーグル屋を探し歩いたもんだ!」

 

 そんな事もあったねと、ラスコータは思い出に浸っていた。

 本当に学生時代は胃に穴空くかと思う程大変で、それでもって楽しいと思えたような奇妙な感じだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるとあるが、確かにそんな風だと学生時代を捉えている。

 

「そんな僕らが、今は……こんな立派なレストランにいる。素晴らしいじゃないか」

「確かにそうだ! はっはっはっは!!」

 

 何とか彼の不機嫌を逸らせる事が出来たなと、ラスコータはホッと一息吐いた。このまま行っていれば怒鳴っていたかもしれない、彼は極度の情熱屋だ(その情熱が故に、有能な外科医となっているのだが)。

 

 

 

 

「それで、そっちはどうなんだ? 手紙じゃ、どんな様子か書いてくれないだろ」

 

 ジョニィのその問い掛けに、ラスコータは一瞬だけ表情を歪めたのだった。

 

「……ぼちぼちだ。患者を診て、症状を説明して、治して。内科医だから手術はないけど、何ら変わらないさ」

「へぇ、そうか。何か、楽しみ……とかは? 俺は最近、狩猟に行くんだよ、今度どうだ?」

「遠慮するよ、銃なんて持った事ないし。そう言うのはないけど、満たされているよ。あぁ……このまま、この状態が続けば良いなって」

 

 

 そう言うと、ジョニィの目が真剣なものとなる。

 突然の変化に動揺したのはラスコータで、食前酒を無意識で唇につけた。

 

「……お前、本当に満たされているのか?」

 

 彼からの妙な問い。意味が分からない。

 この時は「またか」と鬱陶しげにラスコータは思っただけだった、ジョニィは偶に説教臭くなる。

 

「満たされている?……どう言う事だい、僕は現状に満足しているよ」

「スコール……言っておくが、人生を『医者だけ』として全うしようとするなよ」

「君の問いは哲学的だ、噛み砕いてくれないかい……?」

 

 ジョニィは背凭れに深く凭れ、熱い眼差しをラスコータに注ぎ続けるのだ。

 ラスコータは驚いた、少し見ない間にジョニィの風格は猛々しいものとなっていたからである。目の前にいるこの同い年の友人は、自分より何年も人生を積んだ、大教授のようだった。

 

 

「俺らは青春を、殆ど勉学に費やした。人生で一番活力のある二十代を、『医者の卵』として全うしてしまった。もう俺もお前も三十路の手前だろう……大抵ここまで、遊びを知らずに生きて来たら、後に死ぬまで五十年余りを『労働の奴隷』として全うしてしまう事になってしまう。そこには愛も無いし、疲労した顔を皺に刻み付けた死者のパレードが如く」

「……ジョニィ。僕は別に、何とも……」

 

 反論してやろうと口を開いたが、ラスコータの小さな声はジョニィの大きな声に包まれ、豆のように潰された。

 

 

 

 

「医者を……いや、医者に限らず、人間として労働に人生を費やそうとするのなら、お前は『医者に向いていない』」

 

 

 それを聞き、ラスコータは自分でも驚く程の大きな声で反論に入った。

 

「な、な、何だって!? 心外だなぁ、ジョニィ! 僕は、現状に満足している!」

「その現状を見渡してみろ。彼女はいるか? 趣味は見つけたか? お洒落をしてみたりするか? 仕事以外に楽しみはあるか?」

「…………」

 

 ジョニィの質問に、ラスコータはとうとう口を閉じた。

 

 

 思えば医大以前より、彼の人生には『遊戯』が存在しなかった。

 臆病で、人見知りで、ナイーブな性格が故に一人を好んだ。友人も少なかった……いや、いなかった時だってある。

 何も無い状態で唯一誇れたのは、『勉学』だ。一人になれて、尚且つ出来れば出来る程自分としての価値が表れるようで、彼は中毒に陥ったかのように勉学に明け暮れた。

 

 

 気付けば父親から『医者』を目指すように言われて指標を決められ、学費の為に必死に働き、青春を食い潰した。

 三十路前の今、彼は開業医として人々を診察して来た。

 医者になれた、これはある種の成功のハズだ。

 

 

 

 

 所がどうだ、思い返してみろ。

 元々のナイーブな性格は患者でさえも遠ざけ、仕事が終わればソファの上で考え事をし、空腹を満たしたら眠る。そして翌日、同じ事を繰り返すのだ。

 休日は特にだ、ぼんやり過ごして、平日よりも記憶が無い。

 

 

 何かを得て生きていたと、思っていた。

 何も無かった。

 

 

 ラスコータは、ジョニィに気圧されたかのように椅子へと軽く凭れた。

 

「……ない」

「…………」

「……あぁ、ない! 何も無い! しかし言ったろ? 僕は満たされている!」

 

 半分ムキになり、考えもなしの感情論で吠えた。

 そんなもの、目の前の彼が言い返せない訳がないと言うのに。

 

 

「……ルーチン的に潰して行く生活は、効率的でとても楽だ。だけど、そこに魂はあったもんじゃないだろ? 人間的に生きなくては駄目だ」

「……生憎、これこそが人間的だと思うけどね」

「スコール、君は本気で医者をしていないんだ」

「……何だってんだよ? 診療に関しては手を抜かない」

「そう言う技術的問題じゃない、人間的問題だ」

 

 彼は深い溜め息の後、ラスコータにぶつけるのだった。

 

 

「今分かった。君は医者を隠れ蓑にして、自分と現実から逃げている『逃避者』なんだ。だから君は、『満たされた表情』で医者を全う出来ない……医者を治す人としてではなく、『独りぼっちの口実』に仕立て上げているんだ」

「…………」

「……総合病院の上層連中は、みんなそんな表情さ。医者を『紋章か勲章』のように捉えてやがんだよ。そんな人間に、患者が信頼を寄せると思うかい? 真に仕事を楽しんでいる人間は、愛する人を支えにし、信頼を得て行き、時に遊び……何より自分と仕事の本質を忘れないでいる人間の事だ。医者のいない街で医者をしているのは素晴らしいが、それさえも独りが良いからなんだろ?」

 

 

 思えば、『医者としての今の地位』は、独りでいたい行動の延長線上のような気がして来た。

 医者としてまだ二桁行っていない。だが年齢は三十年を重ねた。

 三十年、独りを求めた三十年。独りは気楽だと思ったが、独りの人間が自分に気付ける事が出来ないのだ。だって人は、他人だけの知る自己が存在し、自身では絶対に辿り着けない自分が存在するからだ。

 

 

 子どもの時から変わっていない。そんな気がした。

 身長も伸びて体重も上がった、髭も生え始め顔立ちも大人になった、知識も豊富だ……だが本質的な深い所の自分は、子どもの時から時間を止めているのだ。

 憶病で人見知りでナイーブな少年時代の自分と並べてみろ、瓜二つだろうが。

 

 

 

 

「……ご馳走様でした」

 

 財布を取り出し、ラスコータは自分の食事の分、お金を取り出してテーブルに置いた。

 ジョニィはギョッとし、彼の曇った眼差しを見つめたのだ。お金は丁度ではなく、お釣りが出て来る額。

 

「スコール、俺は君を傷付けるつもりはなかったんだ……ただ、その……あぁ、この口め! 言いたい事を閉扉出来ない俺の口め! すまないスコール、俺は心配だったんだ……人間は孤独になれる唯一の生物だ、一匹狼なんて大嘘だ」

「分かっているジョニィ、分かっている」

「だが自然の摂理なんだ……神様がそうしたんだ……いつまでも独りぼっちでいるのは、危険なんだ……群れと逸れてしまった、仔羊のように!」

 

 立ち上がってコートを羽織り、帽子を被る。元の自分へ逆再生した。

 料理がやって来る前に、立ち去りたかった。ジョニィにお辞儀をし、ラスコータは踵を返して出口へと歩き出す。

 彼の寂しい後ろ姿を見るだけしか出来ず、後悔したような表情で俯くジョニィはもう、止めようとは思っていなかった。その術を、人一倍にある知識の海から取り出せなかった。

 

 

 出口ではあのカップルはもういない、店内にいたのを見なかったので帰ったのだろうか。馬車が通り過ぎる秋夜の街へ、彼は闇に捨てられたかのように普通に、出て行くだけ。

 

「有り難う御座いました、またのご来店をお待ちしております」

 

 ウェイターが送迎をする。入った時とは別人の、若い男性であった。




サブタイトルに一貫性がないのは、心情と状況変化により書き直した、と言う意図があります。
つまりですねぇ、人の感情はコロコロ変わる様をタイトルの時点で表現したかったとです。面倒な拘りですが、お付き合い下さい。

失礼しました


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全ては晩餐後、夜の郊外にて。four

 レストランの熱気から逃れてみれば、落ち葉が満ちた街の街路。

 街灯の明かりに誘われるように、フラフラとした足取りで歩いて行く彼はさしずめ、呑んだくれのようにも見えてしまう。実際は、受け止めた現実を心の底でどう変換し、考え直そうかを必死に思案している訳だが。

 

 

 彼は何もない、空っぽの人間だった。

 寂しいままの人間だった。

 

 

 人は自覚せんままに孤独を生きている分は、何ともないであろう。

 しかしひと度それを自覚してしまえば、不可解な悪夢の想起のように、ずっと想い悩ませる事になってしまうのだ。

 

「……ジョニィめ……」

 

 言えど、想起要因を恨む事は御門違いである。

 これは医者としての能力に、それ以前に人としての技量に強く機能する事だとは分かっている。だからこそ彼は「医者に向いていない」と強気に発言したのだろうに。

 

 

 だがその自覚を受け入れる程、ラスコータは寛容で率直な感情を持ち合わせていないのだった。

 

「…………」

 

 前時代の、観光用馬車が隣を走り去って行く。栗毛の雌馬が、豪奢な黒の箱馬車を引いて道路に消えた。

 舞い上がった風が帽子とコートを靡かせて、ラスコータは飛ばされぬようにと前屈みになって風を受ける。一瞬の風は彼の細胞に濾過してくれるものなら良いが、体の奥に引っ掛かっている黒いモノはどうにも溶けてくれやしない。

 

「……ふぅ……」

 

 コートの内ポケットを弄り、花売り少女から買った二本のクレマチスを取り出した。

 だが、指の隙間に茎を挟んだクレマチスは、一本だけである。

 

「あれ?」

 

 再度ポケットを大きく探った。無いとは分かっているが、外ポケットもズボンのポケットも全て手を突っ込み、大々的に搜索するのだが、財布に糸くず以外は、何も手に入らなかったのだ。

 

「……落っことした?……何処で?」

 

 さては、知らぬ店にお裾分けした時、実は二本やったのでは無いかと疑った。暗かったから、良く見えなかったのではと思った。

 しかし彼は記憶力の良い男だ。その時間まで記憶を遡り、意識世界で確認してみるのだが、やはり一本だけだし、レストランでも二本ある事は確認していた(触感のみだが)。

 

 

 ならタイミングとしては、大急ぎでコートを脱いでいた時だろうか。あの時は周りと、会話していたジョニィへと意識が向けられていたから気付かなかったのだろうか。

 すると、ジョニィの足元にでも落ちているのだろうか……あのような店は落ちた花を見つけ次第、ゴミとして回収するから、今頃裏手の収集箱に放り込まれている頃だ。

 

「…………一本……」

 

 手の中に残った、最後の一本を摘み、最初の時のようにクルクルと回した。

 ポケットに入れていたせいか、ややげんなりしてしまった。回してみても、前のようにオートマタのバレリーナのような華やかは再現出来ない。風に吹き荒んだ岩礁のような、廃れて行く今の自分を表現しているようだ。

 

 

 少女の顔は……花を買ってあげた時の表情を思い出す。とても輝いた、太陽の笑顔であった。

 あんな笑みが自分には出来るのだろうかと、口角を持ち上げてみれど、客観的に自分の顔を想像して虚しくなる。レストランのウェイターのやうな、業務的な笑みさえも作れない。

 

 

 もっと思い返せば、今日最後の診察の時。

 患者である少年はずっと、怯えたような目を向けていた。「人見知りな子だな」と言う訳ではない、怖がられていたのだ。

 確かに自分は、人間的な観点から見たとしても、本当にもしかしたら医者に向かない人間なのかもしれない。

 

 

 

 

 少女からの花を買った時の自分と、ジョニィと話していた時の自分は笑っていた。

 少女は自分に、最初こそそうだが深い怯えを見せなかった。

 そう考えると、あの時の自分は何者なのかと、一種の解離性的な幻想にまで陥ってしまう。もしかしたら自分は二人の人間がいて、人好きな自分が無意識の底辺に抑圧されているのではないか。そんな妄想が、頭の中でペンキを塗りたくるように染まるのだ。

 

 

「あぁ、違う違う違う違う…………考え込むと、変な道へ逸れてしまう……この癖さえなければ、僕は……僕は……」

 

 クレマチスを持ち、熱病持ちのようにふらふらと熟考して歩く自分を思い浮かべ、羞恥心を原動として思考の鎖を断ち切った。

 気付けば街の端へと来ており、石橋があって麦畑の広がる所まで来ていた。

 都会と田舎の境界線、繁忙と閑静のライン上。今の自分には、『二人の自分』の中間に立っているような想像でこれらを見ていた。

 

「…………」

 

 振り返れば、綺麗ながらも忙殺の猟犬に追われる無機質な夜の街。

 向き直れば、澄んでいながらも原初の恐怖を纏った闇の世界。

 朝なら景色も変わるだろうが、自分には到底太陽は昇らない。明けない夜とは、自分の心であるのだと、諦念していた。

 

 

「……教会があって、裏手にクレマチスがあるんだ……石壁を這ってステンドグラス上まで蔓を伸ばした様は、天国を指し示すみたいで優雅なんだ……」

 

 独り言のように、ラスコータはそう呟いた。

 見てみれば、麦畑の奥に灯りを点けた教会が見える。安息日である明日日曜日にある『ミサ』の準備をしている頃か。その教会こそが、彼の言う素晴らしいクレマチスのある教会であった。

 

 

「……神様なんていないし、天国なんてない。神は僕を、独りぼっちにしたいんだ」

 

 

 夜風に当たろうかと、石橋の上を歩いてみる。

 古い橋だ、石と石との間には青緑の苔が詰まっており、夜の闇とも相まって深い黒を強調させた色をしていた。下には湾曲してホール上になっている土手となっており、その中心に線をピンと引くようにチロチロと小川が流れている。

 最近追加された、鉄の手摺に寄り掛かり、黒い川を覗き込んだ。

 低い橋なので、自分の顔が川にぼんやりと写る。

 

 

 鏡を見ると、自分の欠点ばかりが目に付く。自分の顔で、良い所なんか無いとも言えるように欠点ばかりに目がいってしまう。

 だから自分の顔を見たく無い一心で、鏡を覗くのが嫌いだった。今もそんな気分だ、見ろ、あの情け無い顔をと、自虐思考になっている。

 

「…………」

 

 川面に波が立つ中で、グニャリと歪んだ自分の顔。それがまた余計に、自分が醜形だと認める要因となってはいた。

 こんなに窶れた、廃った人間が、何故医者としていられるのか。もっと自分でもより明るくて、人好きな人間がなったって良かったではないか。

 じゃあなんで自分は、医者になった。志していた訳では無かったではないか。

 決めたのは親だ、進んだのは自分だ。なら悪いのは親か……そうではない。反抗期さえ許さない、厳格な父が指図する道を引かれるように歩んだ、自分のせいではないか。反抗して放蕩して全てを消し去る事さえしなかった、染み込んだ生真面目気質が遊戯と欲望を掻き消したのだ。

 自分は聖者も羨む無欲者だ、だが誰にも好かれぬ無欲な嫌われ者だ。

 

 

 

「……嫌な気分だ……」

 

 帽子を深く被り、泣き出しそうな表情を折り曲げるようにして我慢する。

 その内に、体が何故か震え出した。寒い訳ではない、泣きたい感情が行き場無くして暴れているのだ。

 

「今夜は……眠れない……なぁ……」

 

 何であの時、ジョニィの話を適当に流す事が出来なかったのか。それで有耶無耶にしたのなら、今頃気分は楽だったのに。いや寧ろ、それを適当に、と思えるのならジョニィからの忠告はかからなかったろうか。

 それなら今頃楽しく、昔の事を語らいながら仔羊のローストと魚介のスープを食べていたのだろうに。全てぶっ壊したのはジョニィではない、自分だ、彼はラスコータの傷心を見て必死に謝罪してくれていたではないか。

 

「眠れない……眠れない……」

 

 手摺に腕を乗せ、祈るような姿でクレマチスを握り締め、フルフルと震えた。

 彼は眠れない事が怖いのだ、悪夢を恐れているから。この気分のまま、夜を越すなんて、途方もない拷問のように思えたのだ。

 

 

「この、意地っ張りが……! いらないプライドを、妙な所で突沸させて……!!」

 

 泣きそうな気分を、手摺の上で項垂れて抑え込もうとした。

 溢れかけの鍋に蓋を被せはしたが、火を点けてしまって沸騰寸前だ。体内から突き抜けんとする悲壮の気泡が『泣きたくない』と抗う彼への強い負担となって、重なって行く。

 

 

 

 

 静かな川のせせらぎと虫の声、風に靡く麦の擦れる音が秋の夜に調和を取り込もうとしているかのようだった。

 自然は心情と無関係に、そして穏やかに過ぎて行く。そんな夜だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅあ……」

「ひっ!?」

 

 突然、この世に現れたかのような風に男の低い唸り声が聞こえた。

 小心者のラスコータは項垂れた顔をばっと持ち上げ、怯えた目で闇の中に声の主を探し出そうとする。

 その時は無意識に、持っているクレマチスを内ポケットへしまいなおしていた。

 

「…………」

 

 ラスコータは神経を研ぎ澄まし、夜の石橋でジッと佇んでみる。こうする事によってあたかも自分が、夜闇に溶け込み、一体化したような気分でいられた。

 そのまま唸り声を聞き取り、誰が発したものかを特定しようと躍起になる。この不気味な事態に対し、心の平穏と合致を彼は求めていたのだ。「なんだ、ただの空耳か」と安堵させてくれる事を願っていた。

 

 

 暗闇の中、息を殺して次の声を待つ。

 それは一分もしない内に再度、ラスコータの過敏な鼓膜を震わしたのだった。

 

 

「あぁ……ぐぅ……ッ」

 

 消え入りそうな、苦痛に歪んだ声。

 心に悲しみを起こさせるような、空耳ではないとてもリアルな悲痛の声。それは橋の下より聞こえて来たのだ。

 

「……だ、だ、誰かぁ……い、いるのですかぁ……?」

 

 恐怖を押し込んだような絞り出した声で、唸り声の主にラスコータは呼びかけた。

 明確な応答はない、しかし代わりとして、一際大きめの呻き声がやはり土手の方からやって来る。

 

「ぐぅぅ……!……ッはぁ、はぁ……はぁあッ」

 

 喘息のような、断続的な呼吸音。

 それが続いてくれたお陰でラスコータはとうとう、声の主を石橋から探し当てられたのだった。

 

 

 川の土手の隅に、枯れかけの葦の群に覆い隠されたような様子の、黒い塊が見受けられる。

 最初は夜の影が見せた幻のようにも捉えられたのだが、良く良く目を凝らしてみれば、地面にうずくまるようにして倒れる人の形であると確認出来たのだ。闇に目が慣れ、輪郭を人として捉えられる程になった頃ではないと、見落としていた事だろうに。

 

「人が……あぁなんてこった、人が倒れているぞ……!」

 

 暗闇に視界が掬われ、踏み外してしまったのか。堤防から土手までの高さは、何て事はない、小学校高学年の子どもなら難無く上がって来られる程は低い。しかし医者として見れば、その高さであっても「頭をぶつけたのかも」や「石があって、強く当たってしまったのかも」と、絶対安全では無いと色々と分析出来た。うずくまり、苦悶の声をあげていればそう思う。

 

 

 血が出ているかなどは、ここからの距離じゃ全く確認出来ないが、何故かラスコータは下に降りるのを少し躊躇してしまった。

 

 

 それは彼が、本当に自分以外なんかどうでも良いと考えた上の、冷たい個人主義的な考えからでは無い事は、彼の性格から判明するだろう。

 とどのつまりこの躊躇とは、「行っていいのかな」と言う、指示待ちとも言うべき強迫観念に似たようなものだった。

 

 

「……い、いや! ぼ、ぼ、僕は医者なんだ……!」

 

 頭を振り、投げ捨てるように強迫観念を払い退ける。

 これこそが、「自分は医者だ」と深いアイデンティティを確立出来たからこその変心だったのだ。

 すぐさま彼は飛び込むように石橋から飛び降り、土手の上へとよろめきながらも着地した。

 

「だだだ……大丈夫ですか……!?」

 

 急ぎ、倒れている人へ近付き、どのような風貌なのかを確認した。

 ブラウンのコートに、これまたブラウンの中折れ帽子。見た目は何処かの探偵のようでも、商人のように見える、お世辞にもお金持ちといった感じに見えない、地味めな男である。

 腹部を押さえて痛がるように体を捩じらせている事に気が付いたラスコータは、腹部に何らかの衝撃を受けたものだと推測した。

 

「ぐっ……うぅぅぅ……!」

「お、お腹ですか? ぶぶ、ぶつけま……ぶつけてしまいましたか……!?」

 

 まずは傷口の箇所と具合の確認だ。

 口下手ながらも、言葉を厳選しながら語りかけつつ、何処にどんな傷が出来ているかと腹部に手をやった。

 

 

 

 ぬるりとした、生暖かい感触。

 唐突の感覚に驚いたラスコータは思わず手をひっこめた。何に触ったか、良く分からなかった。

 

 

 しかし微かに匂うは、鉄の香り。

 ラスコータは自身の手のひらを見て、「あっ!」と声をあげる。真っ赤に染まっていた、男は尋常ではない程の流血をしていたのだ。

 

「あ、あ、あ、あなた……えと、ち、血が出ている……のですか!?」

 

 これは只事ではないぞと、傷口を良く見てみようと正面に向かせ、腹部に目を通した。

 服は絶えず流れる男自身の血に赤く濡れ、夜の闇の中でテラテラと鈍く光っているようにも見える。それは、月明かりを写す川面なような、自然的な光りであった。

 

 

 だが、落っこちた拍子に怪我をしたのかと思えば、傷口の範囲が狭い事に気が付いた。細く、深い傷口が男の腹部にあり、多量の流血を引き起こしているのだと考えたのだ。

 そうするとどのような傷かと、知識を回してみれば……ラスコータは、これは事故では無い事を悟らせるのには十分な事であった。

 

 

「さ、刺されました!? あ、あなた、誰かに刺されたのですか……!?」

 

 明らかに他者によって与えられた怪我であると断定出来た。

 言うのは男の怪我が、土手から落ちた事など自然的要因で発生するには不自然なものだったからである。明らかに、何か鋭いものが勢い良く彼の腹部に突き刺されたような、人為的なものだ。

 

 

 その他自然的要因を考えていても、葦が人の体を突き破るなんて出来やしないし、麦だってそう。まさか空から落ちて来て、木の枝に突き刺さった訳あるまい。だからこそこの怪我は、自然的要因ではないと判断出来たのだ。

 とすると、誰かに襲われたのだろうか。これは事件ではないのか。

 

 

 

 

「……って、今はそんな事どうでも良いってのに……!! お、応急処置しなきゃ……!」

 

 男の顔は青白い上、ラスコータの呼び掛けにも応答の意思を見せない。それほど酷く、衰弱しているのだ。

 

「え、ええと……ほ、ろ、ほ、ほ、ろ……ほ、包帯っ!」

 

 コートの裏にある、クレマチスの入った内ポケットとは別のポケットより、包帯と厚い布を取り出した。教授の教え通り、いざと言う時の為に所持していた包帯と、圧迫用の布である。

 

「だ、大丈夫です……大丈夫大丈夫……ちょっと包帯は清潔とは言えないかも……ですが……!」

 

 包帯をピンと伸ばし、出血点を押さえるように厚く硬い布をあてがって巻いた。圧迫止血の方法としては、包帯オンリーよりも効果のある止血法だと聞いている。

 二回……三回と巻き、強く、されどキツ過ぎず包帯を巻いた。血流を止める事が止血法ではない。

 

「大丈夫……大丈夫……」

 

 彼は処置の最中、何度も何度も「大丈夫」と繰り返していた。

 これは、患者への呼び掛けのようだが、半分以上の意味では自分への呼び掛けとして、必死に呟いている。

 

 

「……僕は、医者なんだ……大丈夫、きっと大丈夫……!」

 

 

 最後は包帯の端と端を結び、固定完了。これ以上の流血は、何とか防げただろう。

 

「一先ずこれで、血はせき止められたと思う……けど」

 

 

 しかし、この男はかなり失血しており、意識も混濁状態だ。早く近場の病院へ連れて行き、輸血に傷口の縫合をして貰わなければならない。更には感染症の可能性も否定出来ないので、抗生物質の投与も必要だ。

 男を救うには、何としてもちゃんとした設備と、腕の立つ外科医が必須。内科医のラスコータは手術が出来ないし、何より今この場でやれる訳もない。つまり、男を担いで街に入り、病院を見つけなければならないのだ。

 

「え、えぇと……事件性もあるから警察にもいかな…………だから今は、この人を救う為だって!」

 

 自分の事なら深く考えられるのに、他人の事ならその熟考は鬱陶の極み。

 反省した彼は早速、男をそぉっと抱きかかえ、背中に移して背負う。あまり力に自信がないけれど、何とかなる重量であると確認すれば、早速立ち上がろうと足腰に力を込めた。

 

 

「せぇの……ん?」

 

 膝が少し浮いた所で、ラスコータは誰かの気配を察知して中断する。

 

 

 

 

 二人程の、忙しない足音。高級な革靴の底を叩きつけるような、あまり上品とは言えない足音だ。

 しかしラスコータにとったら地獄に仏、夜分は滅多に人がこない郊外の麦畑に、助けを求められる人がやって来たのだから。

 

「やった……! 人が来たぞ……!」

 

 これなら自分一人で運ぶより、もっともっと早急にこの人を救える。希望を見出した彼は早速、石橋で立ち止まった二人の人影に向かって声を掛けようとした。

 

 

 

 

 だがそれは、二人の人間の話声が聞こえた事で、逆に発せられなくなるのだが。

 

 

 

 

「……あの野郎、何処か行きやがった?」

 

 嗄れた男の声。誰かを探している。

 そして相方かと思われるドスの効いた、震え上がりそうな声の男が返答する。

 

「ここは郊外だ。身を隠すってなら打って付けだろ」

「へぇ、そうですが兄貴……しかしあの野郎! まさかあっちも銃を持っていたとは!」

「あぁ、だが安心しろ。あいつ、何の拍子かで銃を落としてやがった……俺の撃った弾が当たったのかは知らんが、もう奴は丸腰だ」

 

 

 暗闇の中で顔を覗かせるようにして響く二人の男の声は、ラスコータは二重の意味で震え上がらせた。

 

 

 

 

『ギャング』だ、ギャングに違いない。

 そしてラスコータが今、背に乗せているこの男は、奴らと関係のある人物。しかもあろう事か、ギャングの敵と来た。

 

(刺創じゃなくて、銃創か……いや、そうじゃなくて、何だって!?)

 

 冷や汗が止まらず、感じた事のない恐怖が彼の軟弱な心臓を無理矢理ペースアップさせたようだ。

 読めて来た、この男は今、石橋にいる二人の男が敵対するギャングの構成員か、さては闇の商人に違いない。前者なら報復、後者なら何らかの交渉決裂により撃ち合いになった。

 

 

 しかしこの男が腹部に弾丸を受け、命からがら逃げ延び、この土手へ身を潜めた所で力尽きたのだろう。

 そしてそんな、得体も知れぬ男をラスコータは不幸にも見つけてしまい、処置を施したのだった。

 

(最悪だ……あぁ、何でこんな石橋で立ち止まったんだ! さっさと歩いて、真っ直ぐ家に帰ればよかったものを!)

 

 己の悲運を嘆き、歯をガチガチと鳴らして恐怖に耐えた。

 

 

 どうする。

 この男を置いて、こっそり土手の影を縫えば、自分の命は助かるハズだ。奴らは目撃者へ粛清を入れるかもしれない、気付かれる事なく逃げなければならない。

 

 

 

 

 だが何故かラスコータは、そんな事を一瞬でも考えてしまった事を恥に思ってしまう。

 今の彼の脳内は、ある一言だけが木霊しているのだ。

 

 

「……ぼ、僕だって、医者なんだ……! 命を賭けるんだ、称号なんかじゃないんだ……!!」

 

 小さくこう呟き、一生で一度も感じた事のないような正義感を強く掴んだ。何故こんな勇気が湧いたのかは、これから先の人生で考え続けても分からないと思われる程、降って来たような勇気であった。

 

 

 

 

 

 彼はこの勇気で以て、男を担いだままゆっくり体を動かし、土手の隅に身を寄せた。ここは石橋の影がかかっているので、視界をくらますには丁度良い。

 何も知らない二人の男は、石橋上から土手を覗き込んでいるが、伸びた葦がカモフラージュになってくれているので、ラスコータと目当ての男の姿を易々とでは目に出来ないであろうに。

 

「クソッ! 橋の下にいるのか!?」

 

 男の一人が手摺を乗り出して捜索を始めた時、ラスコータはまさにギクリと体が震えて、折角得た勇気を手放しかけてしまった。それは何とか、押し留められたのだが。

 

「いたか?」

「……いや。おりやせんぜ、兄貴……クソッ! 忌々しい奴め!」

 

 乗り出した体を、引っ込めた。

 

「ここは撃ち合った場所から、程々遠いだろう。もしかしたら案外、あの場所に近い所で身を落としているかもしれないな」

「フンッ! 運の良い奴だ! 見つけ次第、撃ち殺してやる!」

「おい、そんな事を大声で言うな! 聞かれたら厄介だろ!……人のいない郊外とは言え畑があるのだから、見回りの農民がいるのかも知れないだろう」

「すいません、兄貴」

「だが、俺は血痕を見つけていた。あいつの何処かの部位に、ヒットさせた事は確かだ。逃がすな、金を取り戻すんだ」

 

 

 冷血な会話を済ました二人は、案外あっさりとその場を去って行った。

 都会人は街の中にいたい性分なのだろうかと、変な考察をしつつも、窮地は脱した。人生で一番安堵した溜め息を、長く強く吐く。

 

「や、やった……! は、はぁ! は、早く行動を起こさないと……!」

 

 汗を拭い、再度足腰に力を込め立ち上がる。

 まずは男を土手から持ち上げ、次に自分が上がって土手を出た。さて、大変なのはここからだろうと、ラスコータは帽子を深く被り直し、覚悟を決めた。




「シルヴィさん、まぁだ時間かかりそうですかねぇ〜」と言う方。
そんな人は窓際行って……待て。失礼しました


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夜風の街の、一人の医者として。

 重傷の男を担ぎ、土手から這い上がったラスコータは街へと再度入る。

 しかし背中の彼の追手を恐れ、鉢合わせにならぬように神経を張り巡らせた。あの二人は街へ入って行った、今のラスコータは虎穴に足を踏み入れた状態である。街の中とて安心ではないのだ。

 

 

 いつ、何処の街角から顕現せしめるのか分からないだろう。見つかったら終わりだ。

 今までこんな事があったのだろうか、ただの街がケンタウロスの迷宮と化しているのだ。

 

「あぁ、今日は厄日だ……」

 

 今日一日中を思い返して気分の落ち込むラスコータだが、貧相な体は思考と駆動を両立出来ないようだ。フワッと考え事をした時に足が一気に震え出した。気を抜くと体の力が抜けてしまう。

 男ごと地面にへたり込んでしまう、そう察知した彼は瞬時に思考を掻き消し、目の前の道を一歩一歩進んで行く事だけに頭を回した。

 

「あ、あ、危ない……! 集中しないと……しゅ、集中を……!」

 

 言えど、今まで肉体的な鍛錬を怠って来たラスコータに、体重七十キロと推定されるこの男を背負うのはかなりの重労働であるのだ。

 ラスコータは身長が百七十五で、体重が五十三と言う、三十路の手前にしてはあまりにも痩せた体型。その彼が、自分より重い人間を背負っている訳であり、「これなら薬品箱を運ぶ方が楽だ」だなんて思ってしまう程の重労働である事が分かるだろうか。

 

 

 筋肉が軋むような感覚がして、男の足を抱える自身の腕が引き千切れてしまうような錯覚を起こした。

 あぁ、こんな事なら少しくらい鍛えれば良かったなと、後悔したラスコータ。とても、早急に病院へ向かえないと悟った彼はやり方を変える事にした。

 

 

 

 

「よい……っしょぉ……」

 

 背負っていた男を道端に置いた。

 意識がなかったので、脈拍と呼吸を確かめたが、弱々しながらも生命活動は続いていると確認し一安心する。

 

「い、いない……よな……よな?」

 

 次に周りを見渡す。ここは街の暗い裏路地なので人通りはないが、つまりは誰も騒ぎ立てないと言う事だ。騒がれると追手に気付かれてしまいかねないだろう。

 ラスコータは一人立ち上がり、大きく息を吐いた。

 

 

「…………」

 

 目の前には表路地、煌びやかな光の中を人が往来している。お高い車も頻繁に通っている。

 これからやる事を、ラスコータは非常に避けたい事だった。自分の性格を知っている彼は果たして、自分の思い通りに事が進んでくれるのかと心配になり、躊躇の念を湧き上がらせてしまった。

 

 

 とても恐ろしい。自分が注目される恐怖が、得体も知れぬ生物に纏わり付かれるが如くの薄気味悪い恐ろしさのように感じた。しかし、医者としての自意識と言うのは、『やるかやらないか』を凌駕する。

 ここで逃げ腰になってはいけない、彼はもう後戻りさえ許可されない禁足域に達してしまっているのだ。

 

「……すぅー…………はぁ……!」

 

 深呼吸の後、ラスコータは意を決して表路地に飛び込んだ。

 

 

 

 

「……と、とと、止まって下さい!!」

 

 両手を大きく広げ、車道の中心に立った。

 そこは馬車の前、驚いた運転手はハンドルを切り、制止させる。目前まで来て目の前でスリップした車に驚いたのはラスコータも同じで、飛び上がるような歩道へ逃げた。

 

「テメェ!? 馬鹿じゃねぇのか!? 何してやがんだボケェ!!」

 

 壮年の運転手が鬼の形相でラスコータに怒鳴り散らした。

 その声に畏縮し、体を全体的に引き攣らせる気弱な彼であるのだが、逃げ出す事はしない。

 

「……と、あ、いぇ……えと……」

「あぁ!?」

「……ひ、人が、手負いの人が……えと、ぼぼ、僕は医者です!」

 

 御者は怪訝な表情でラスコータを見た。

 彼は「しまった」と、挙動不審になって突拍子もない事を言ってしまったと頭を抱える。

 

 

 いきなり『医者』と言った所で、事情を知らない相手側にとったら「それがなんだ」と足蹴にして終わりではないか。向こうからの返答が来る前にラスコータは、頭の中で言葉の羅列を組み直し、発する。

 

「そ、そうじゃあなくてぇ……!……あの! け、怪我人がいます!」

「なに? 怪我人?」

「えぇ! 一刻の猶予もない状態なんです! で、ですので、病院まで車で運搬を願いたいのですが!」

 

 ラスコータ自身も驚く程、流暢に状態を話せた。必死故に舌が回ったのか何とやらだが、とりあえず運転手に対して説明は出来たハズだ。

 

「怪我人は何処だ?」

「そ、そこの路地裏で寝かせていますが……あ、あの! 嘘は吐いていませんから、お願いを聞いて貰えませんか!?」

 

 彼は路地裏を指差しながら、嘘では無い事を強調させた。言うのは、御者の目の中に疑りの念が見えていたからである。

 ここでラスコータは後悔したのは、裏路地の見にくい暗闇の中に男を置いてしまった事。ラスコータでさえ見えるか見えないかの状態なのに、運転席の彼が視認出来る訳がなかろうに。

 

 

「……如何しましょうか、旦那様?」

 

 嘘か真かは別として、運転手は後部座席で座っている自身の主人に意見を伺っている。

 ラスコータは男を連れて来たいが、ここにいなければいけないかな、とどうしようか迷っている最中だ。

 

 

 すると後部座席の窓に引かれたカーテンが開き、ギョロリと、男の鋭い目が現れた。冷酷な、とても冷たい視線だったので、ラスコータは思わず身震いし、一歩だけ後退りしてしまう。

 人間に痛みや辛みを与えてのし上がって来たような、恐ろしい形相だった。綺麗に切り整えられた髭と、堂々と据えた目と姿勢が上層階級特有の風貌をした人物であり、何処か他の人間を見下しているような所もある意味で上層階級の人間らしい。

 

 

 

 

 だがそれらを取っ払ったとしても、男の冷たい目の正体が図り知れなかった。この、人を人として思わないような超越者じみた目が、ラスコータには敏感に察知出来てしまい、この場から逃げてしまいたい程の恐怖に駆られたのだ。

 勿論その欲求を抑えたのも、医者としての自意識なのだが。

 

 

「……君が、私の帰路を止めた者かね?」

 

 男は窓を開けると、静かに聞いて来た。

 ラスコータは必要以上に慄いている感情を「自分の妄想ではないか」と打ち消し、目線は合わせられなかったが言葉は吐き出せた。

 

「あ、い、いえ……えと……は、はい」

「それで、目的は何だったか?」

「け、け、けけ、怪我人が……それも、早急に対応しなければ非常に危険な状態でして……あ、あ、あの、連れて来ます……!」

 

 そう言うとラスコータは一旦、逃げるように裏路地へ入り込み、寝かせている男を再度抱えて立った。

 背中に背負い、先程の車へと戻る時に溜め息を吐いてしまった。彼の苦手な人種である、あの上層階級の男と同席する事になるかもだからだ。気分が幾ばくか辛くなっている。

 

 

 車の前へと戻って来ると、運転手は予想以上の怪我人だった事もあってか、目を開いて驚いている様子だった。

 しかし後部座席の主人は、見慣れているとも言っているように、眉毛一つも動かさなかったのが不気味だ。

 

 

「こ、この人……です……えと、誰かに撃たれたようでして……!」

「こりゃ大変だ! 顔が真っ青じゃねぇか!」

「血が足りていない証拠です……えと、お願い出来ませんか!?」

 

 運転手は人道的な人のようで、心配の声をあげている。そしてチラリと、己が主人に目を向けた。

 

「……ふぅんむ……」

 

 暫く考えるような仕草をした彼だったが、怪我人の男の顔を見て何かに気が付いたように、目を細めた。もしかしたら知り合いなのかと思ったが、それ以上は表情で語ってくれない。

 次に、至って冷静な主人の声が、静寂からせり上がるように聞こえて来る。

 

「それが、例の?」

「は、はい……」

「……乗せなさい。病院まで乗せてやる」

 

 その一言で、ラスコータは随分と気が楽になった。人は見掛けによらないのだなと、実感出来た時である。

 すると中の主人が後部座席へのドアを開けてやり、ラスコータを誘った。それを確認し、すぐさま縋るように扉の中へ入り込み、薄暗い車の中で怪我人を席に下ろした。

 

「出せ」

「病院ですね? はい」

 

 主人が運転手に命令し、すぐに車はエンジン音を蒸して走り出した。

 突然揺れたので、ラスコータは転びかけたが、引っ付くように席へ座り込む。そして安堵から、息を大きく吐いたのだった。

 

「あ、有り難う御座います!……あぁ、大丈夫ですか!?」

 

 自身の隣で横になる怪我人の男の肩を掴み、呼び掛けたが、男がそれを制する。

 

「動かさない方が良い。怪我に障るのではないのか?」

「え、あ……そ、そうですね」

「体力も衰弱している、だいぶ血を流したのだろう。この馬の揺れでさえも危うい、そっとしてやれ」

 

 尊厳があり、かつ静かな男の口調に、研修医時代の時に勤務していた病院の院長とイメージを結び付けてしまい、怯えから畏縮を強めてしまう。

 

 

 

 

 男の風貌は、まさしく上層階級の人。

 黒い高級スーツに身を包み、分けられた清潔な髪とどっしりと構えた座り方がそれを物語っている。窓越しで、顔だけしか視認出来なかった時は初老だろうかと思っていたが、全体像を確認してみれば筋肉もあり身長もあり、非常に若々しく見えた。寧ろ、運転手の方が男より老けているように見える程、年齢の読めない男である。

 

「……すす、すいません、こう言う緊急時は初めてで……気が動転していました」

 

 自分の不始末について謝罪してしまうラスコータ。

 彼のその謝罪の言葉に気になる所があったのか、男の冷たい視線が絡みつく。

 

「緊急時は初めて……緊急時ではない時は日常茶飯事とも見えるな」

「に、日常茶飯事……と言う訳ではないですけど……研修医時代は、こう言うのあったので」

「医者か」

「は、は、はい……い、今はしがない、開業医ですが……」

 

 そこで男は、ピタリと声を止めた。興味を無くしたような、そんな表情なので少し悲しくなってしまう。

 しかし医者として、男の語り口が医療系に詳しそうだなと薄々彼は思っていた。

 

 

「……その男、何者だ?」

 

 すると突然、彼がまたラスコータに質問を起こした。

 こうも突発的に話し掛けられては、気の弱い彼にとっては寿命を縮まったと危惧する程に驚いてしまうのだが、それを悟られては失礼だと何とか表面化だけは防いだ。

 

「え、えっと……わ、分からないです」

「撃たれていた、という事は人物が知れているな……それにこの、人目を避けるかのような服装。裏の人間に違いないだろ」

 

 男の素性を、彼はまんまと看破した。

 ラスコータの中で不安感が暴れ出す。

 

「そ、そうだと……お、お、思いますが……やはり、一人の人間ですし、医者としては助けたいのです……」

「…………ふん」

 

 何故か彼は、鼻で笑った。人の情と言うものが欠如しかのような、あしらう様な鼻笑いだ。

 恐る恐ると言った具合で男の表情を伺うラスコータに、聞きたくなかった言葉をオブラートにも包まずに言い放った。

 

 

「……医者にしては吃音もあり、その男と何ら変わらぬ服装をして……ふんっ、誰も医者とは信じないぞ」

「いっ……ッ!?」

 

 

 心臓が潰されるような感覚がして、絞り出すような声をあげた。

 ラスコータはこの男が嫌いだ、このとことんまでに人を下に見た冷酷な目が、彼には耐え切れなかった。それに男は、医者としてのラスコータを初対面に関わらず否定したのだ。

 これらの要因が緊張で張り詰めたラスコータの神経をデリカシーも無しに握り締め、見せる苦悶の表情を楽しむかのようにいたぶっている。

 

 

 気分が一気にひっくり返ったばかりに、帽子を深く被って顔を伏せ、手を細かく震わせている。反論しようとも思えなかった。

 そんな彼の様子にこの男が気付いていない訳がないが、何食わぬ顔でまた話しかけて来るのだ。

 

「病院に行って、どうする?」

「……ど、どぉ、ど……どうするか、です……って?」

 

 唇を震わしながらも、何とか返答に至れた。

 男は続ける。

 

 

「今日は土曜日……午前にとっくに閉院しとるだろうに」

「……あっ!」

 

 ラスコータは「しまった」と、帽子からはみ出た髪を掴み、血の気引いた顔で窓の外をつい見てしまった。

 

「そうだった! あぁ、午前に終わっていたじゃないかぁ!」

「言えど宿直がいるハズだろう……腕利きの外科医かは別だが、事情を話せば開くだろう……手術の出来る人間かは分からんが」

「…………」

 

 まるでこの、人が死ぬかもしれない状況を楽観視しているような、性悪な男。

 一緒の空間にいて、一緒の空気を吸い、一緒に行動していると考えるだけでも鳥肌立ち、気分も悪くなって行く。この男からウィルスが現れているかのようだ、非常に不快だ。

 

 

 だが、彼の言った『腕利きの外科医』と言うワードにラスコータは、声をあげて記憶の鍵穴へと当てはめられたのだった。

 

「そ、そそ、そうだ!……えぇと、ここは……あぁ、なんてこった! ツイているぞ!」

 

 いきなり歓喜に似た言葉を吐く彼の様子に、気でも違ったかと怪訝な目を向ける男。構わずラスコータは座席に縋り付き、運転手に命令した。

 

 

「う、運転手さん!」

「んん!? な、なんだ!?」

「そ、そこの角を曲がった所にレストランがありますので、その、前で止まって欲しいです!」

 

 彼の命令に、彼は驚きを持って聞き返した。

 

「レストラン!? なんでぇ、病院じゃないのか!?」

「最終的には病院ですけど、まずは止まって下さい!……僕の友人の、『腕利きの外科医』がいるんです!」

 

 

 思い出したのは、ジョニィであった。

 もしかしたらまだ、食事の最中かもしれない。決別の後なので顔は会わせ辛いのだが、ラスコータの知人で『腕利きの外科医』と言うのは彼しか挙げられる人物がいなかったのだ。

 それに彼は総合病院の勤務医、閉まった病院の扉を叩くよりもスムーズに手術台へと進められるだろうに。

 

 

 

 

 

「お願いします!」

「……わ、分かった……」

 

 詳細な説明はしていないのだが、困惑した様子でありながらも運転手は了承してくれた。

 ホッと一息吐き、再び後部座席へ顔を引っ込める。

 

 

「……成る程。ツイているな」

 

 同時に、嫌いなこの男から声がかかる。

 また体を恐怖で飛び上がらせながらも、嫌悪感を何とかひた隠し、自分で最も愛想の良いと思える表情を張り付けて平常心を装った。以前として、男の目は全てを貫き通しているかのように冷たいのだが。

 

「か、勝手な事をして申し訳、ありません……!」

「ふんっ、私が寛容な人間で良かったな」

「……はい」

 

 さっさと会話を切ってしまいたかった。

 この男と、気味悪さを感じながら喋るくらいなら、何ともない沈黙の方が遥かにマシであったのだ。

 

 

 なのにこの男は、そんな彼の内心を察した上でなのだろう、話しかけて来た。

 

 

「人の怪我を治すと言うのは、どうな風か?」

「……へ?」

 

 今度は驚きが元より、奇妙な質問による怪訝が真っ先に現われ出た。

 

「どう言う、意味ですか?」

「そのままだ。人を治すと言うのは、どう言う意思を持って行っている?」

「は、はぁ……ん?」

 

 質問が非常に平々たる、初歩的なものだったからだ。「怪我を治すとはどう言う事か」と言う説明のしようもない程の、そのままの事象のハズなのだが。

 これはもしや、医者としての技能を、お節介にもこの男は試しているのか。そう考えたラスコータは、言葉を尽くして説明してやろうと頭を絞った。

 

「それは……医者としての精神からです……医者は、『医を持って世に尽くす者』です。病気、怪我……更には心を病める人を治す人です。どんな人であろうと蔑ろにするのは、その精神から反すると思っております……だって、苦学の末に手に入れた知識を、自分の為だけに使用するなんて、烏滸がましいですよ」

「…………」

「医療は哲学と違って、対人的な学問ですから……人がいるからこそ、成立するのが医療なんです」

 

 ラスコータはさも、「言ってやったぞ」と嬉しげになっていた。流石にこの男にも、苦言が出せる節が無かったろうにと、してやったり顔になりかける表情を押し込めながら、彼は男の言葉を敢えて待ってやった。

 

 

 

 

「下らん」

 

 しかし、男の反応は、全く真逆で以て問い掛けて来る。

 

「医療と言うのは、金を貰ってから成立しているじゃないか。君も開業医なら、そうなんだよ」

「え……?」

「学問とは、『自身がより裕福に、かつ幸福になる為の称号』に過ぎん。貧者の知識より、賢者の知識の方が優先される。凡人学校卒より、名門学校卒の方が羨まれる。学問とは、人より優位に立つ為の、『力』に過ぎん。学問は力だ」

 

 そして男は、あの人外じみた燃える目でラスコータを睨み付け、悪魔かと思われる程の邪悪な笑みを浮かべて付け加えたのだった。

 

 

「医療も商売だ。君が無償で人を助ける人間と言うのなら別だが、とてもそんな人間には見えん。今回は別そうだが、どうせ院内だったら請求書作りにせっせと勤しんでいたろうに」

「そ、そんな事……」

「良いか? 教えてやる。医療はサービスだ、サービスは『商品』。高級レストランの恭しい店員たちも、一級列車のワインも、ホテルの接客も……全てタダでやっているようだがそうじゃない。『金の為にしている』に過ぎんのだ。君だってそうだ。なのに『医を持って世に尽くす』と鼻高々に語るとは、君こそ烏滸がましいとは思わんか?」

 

 息が苦しくなり、襟元を緩めた。だがまるで、口内が腫れ上がり気管を塞いでしまったかのような息苦しさが、ラスコータに襲い掛かっていた。

 強烈な色彩を持って炸裂する、光の乱舞のような精神状態となり、その不安定で凄惨な精神状態がチカチカと世界を明滅させる幻覚を起こしたようだ。彼は隣の怪我人の事を頭から離し、体を支えるようにして背凭れに身を預けた。

 

「なぁに、生活する為だ、仕方ない。医者は、貧者が死に物狂いで搔き集めた金を受けて医療を施し、その金で美味い物を食べに行けるのだ。これは、識者の特権だろうが? 知識が他者との優位性を強調させ、確立させ、豊かにさせている。君が利他的で無償で医療を提供する人間なら別だがね」

 

 恐怖が這い上がって来た、今すぐにでも大声で泣き喚きたい気分だった。その気力でさえも、紡がれてしまったのだが。

 対してこの男、そんな様子のラスコータを見て全くの罪悪の念を感じさせずに、あろう事かいたぶられ、狼狽する彼の姿を面白がるようなサディスティックな笑みを浮かべ、眺めているのだ。

 

 

「医者程、利己的な人間はいないと思うが? おっと、君の自尊心を傷付けてしまったかな? 汗が溢れているぞ、体も寒がりなアパシーのようだ、何か飲むかね? え?」

「ぃ……うう……!」

「どうした? まるで硫酸でもぶっ掛けられたかのような、恐怖面になってからに。君はそんな貧者や奴隷のような下層の人間ではなかろうが? もっと我が為、上へ登る為に邁進するべきだ。私を面食らわせたいばかりの、浅い医療論を唱えとる場合ではない」

 

 やはり看破されていた、この男には一切の感情を読み解かれてしまう。

 気味が悪い、この男は悪魔の顕現だ。今すぐにでも馬車から飛び降り、頭から街路に突っ込んで死ねる方が何とも幸せかと思われて来た。

 この男から離れ、以後決して出会いたくない。何でこんな車に助けを求めてしまったのだろうか、ツイていない。ラスコータを頭を抱え、震えた。

 

 

 

 

 彼の拒絶の思いは届いたようだ。

 車が止まった。

 

「医者の兄さん! 言われたレストランに着いたぞ!」

 

 その言葉にハッと我に返り、窓の外を齧り付くように見やった。

 ウェイターと見覚えのある店名、間違いなくこのレストランで合っている。

 

「あ、の、いい、有り難う、御座います! え、え、え、ええ、えっと、少し失礼を!」

「……ふんっ」

 

 ラスコータはすぐさまドアを開けて、逃げ出すようにレストランへと走り出した。

 背後から男の視線を感じた為、無我夢中だ。ウェイターの制止も聞こえず、店内へ飛び込む。

 

 

 

 

「ジョニィ!」

 

 自分らが座っていた席には、ジョニィが一人だけで食事をしている。

 ラスコータが頼んだ分も拒んでいないようで、向かい合わせの位置にナイフとフォークと共に置かれていた。まるでジョニィは透明人間とでも食事しているかのような、滑稽な光景だ。

 彼はラスコータの呼び声に気付き視線を向け、驚いたような顔をしている。当たり前だが。

 

「す、スコール!? 戻って来たのかい!? いやぁ! 念の為に料理を置いて貰ってて良かった!」

 

 彼はあの後でも、ラスコータが帰って来る可能性を信じてくれていた。我慢しかけていた涙を、グッと堪える。

 

「有り難い、ジョニィ……! でも、一刻の猶予がないんだ! 君の、外科医としてのスキルが必要なんだ!」

 

 叫びにも似た声だったので、周りの客の視線を一斉に集めた。それがまた恥ずかしく、嫌になったのだが、あの男との事と比べたら全然マシだろうに。

 ジョニィもそんな、ラスコータの真に迫った声を聞いて只事ではないと分かったのか、真剣な表情になった。

 

「どうした、スコール」

「人が撃たれて、酷い失血を起こしている。状態からして、かなり危険だが……幸いしたのは動脈を逸れていた」

「何だって!? 処置は!」

「パットと包帯で、圧迫止血を施しておいたけど」

「あぁ、君は最高だ!」

 

 最低限の応急処置をしていたラスコータを褒め称え、席から立ち上がりコートを羽織った。

「最高だ」と言う声に嬉しくなった彼は、男から受けた冷たい苦言によるショックを忘れられそうだ。

 ウェイターを呼び止め、ジョニィは財布を取り出し手渡した。

 

「お釣りはいらない……あ、スコール! 返しとくぞ!」

 

 そして懐から、ラスコータが置いといたハズのお金を出して、彼のコートのポケットに突っ込んだ。今度驚いたのは、ラスコータの方。

 

「じょ、ジョニィ!? これは……」

「君に酷い事を言った、その分の償いだよ……全く、俺は何て的外れな事を言っちまったんだ!」

 

 ジョニィはラスコータの肩に手を置き、優しい笑みを携えながら言う。

 

 

「君は良い医者だ!『医者』は称号じゃないんだ!」

 

 そして彼の前へと走り出したが、出入口の前で立ち止まり大きく手を振った。

 

「君が先導しなければ、何処か分からないじゃあないかぁ!!」

 

 声に目覚めたラスコータは、あたふたとしながらも謝罪混じりに彼の元へと走り出す。今の心の中は、緑の湿原にいるような清々しい気分であった。

 

 

 

 

 ジョニィを車の助手席へと案内し、主人の男の許可を求めずに一緒に飛び込んだ。

 またあの、冷たい目が向けられるのだが、男からはそれだけだ。狭苦しく緊迫した状況の中、静かな空気で車は走り出すのだった。




次回、シルヴィちゃん登場予定です。
お前、執筆状態おかしいよ……


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彼女が来る。ONE

 あの、真紅色のような出来事から、丸三ヶ月が経過した。外の風景は秋の風景から、寂しげな冬の風景へと移り変わっていた。

 この間にラスコータは誕生日を迎え、晴れて三十路の入口へと一歩進んだ。三十年、彼は生き延び、憂いと鬱屈の人生を一つ一つ思い返しては後悔へと変わる毎日を過ごしている。

 

 

 この三ヶ月、様々な事があったろうが、思い返して懐かしむ程の出来事はない。何かあっただろと思い返せど思い返せど、結局は三ヶ月前のあの、街をかけた人命救出へと振り出し戻りになろうに。

 あの時に実感した『医者としての自意識』は無くなってしまい、もう感じる事はない。そうなった原因をとっても、やはりあの日に車を貸した、不気味な男のせいでもあろうか。

『医者としての誇り』があり、それを相殺させる『医者としての恥』。

 

 

 恥を与えたあの男は、病院に着くなりさっさと退散した。まるで霧の怪物のようで、ぼんやりと現れては霧消するかのような存在だったと形容出来る。本当にあの男は悪魔だったのではないかと、思い返せば返す程に恐怖となって行くので、早い所忘れてしまいたい。

 だが人間の記憶と言うのは、忘れたいと考えると忘れられない性質となっている。深く染み付いたあの男の言葉が、何度も何度も反響し、這い上がり、果てのない苦痛をラスコータに食らわせ続けるのだ。

 

 

 

 

 所で三ヶ月前の救出劇の結末はどうなったかと言えば、無事に終了したと言えよう。

 病院に着くなりジョニィは大声で宿直者を呼び、担架を持ってこさせ、流れるようなスピードで手術室へと怪我人を送った。やはり敏腕医師である、動きがきびきびとしており、無駄がなかった。

 

 

 数時間の手術。

 ラスコータは内科医なので、手術をしない。助手程度ならしたら良かったのだが、病院に入った時に客席用のソファの上へぶっ倒れた。極度の緊張による疲労により、ストレス耐性の低い彼は眠る眠れない関係無しに、殆ど気絶とも良いような状態となっていたようだ。

 

 

 目が覚めた時、手術は終了していた。男は何とか一命を取り留め、空いた病室に輸送して麻酔による安静に入っているとの事。ラスコータはやり遂げたと言う達成感から、寝たままの姿勢より立ち上がれられなかった。

 

「君は良く頑張った! 医者の鑑だよ、友人として誇りだ!」

 

 ジョニィはそう、ラスコータを褒め称えた。

 だがそんな時にでも、寄生虫のようにあの男の嫌味が心に巣食っており、歓喜の念を殺したのだが。

 

 

 

 

 その後は改めて帰宅し、結果報告は後日届いたジョニィの手紙から把握に至る経過を辿る。

 彼の手紙の内容はこうだった。

 

『拝啓、親愛なる我が友人スコールへ。

 この間は本当に素晴らしかったよ。失礼だが、君にこんな事を成し遂げられる覚悟があるとは知らなかったんだ。

 レストランでの詭弁を、忘れて欲しい。

 さて、あの後だが、男は意識を取り戻したよ。困惑気味だった彼に、助かった経緯を説明してやった。

 彼は胡散臭いが、何とも人情厚い人間だった、俺の手を握ると「有り難う、この恩は忘れない」と言ってくれた。そして俺は、彼にこう言ったんだ。

 

 

「私はあなたの怪我を治療しましたが、流血を止め、あなたを担ぎ、金持ちの車を止めてまで病院に運んだ人物がいる。それは決して大きくない郊外の街の、小さな診療所の内科医であるスコルピト・ラスコータ先生です。彼の大いなる勇気によって、あなたの命は救われ、今こうやって生の幸福を噛み締めているのです。だがとても人が苦手な人間でして、あなたの無事を確認するなり帰宅してしまった。後日、彼へ感謝を告げたいのでしたら、所在地を教えます。ただ前述の通り、とても人見知りで、助けたとは言えあなたの顔を見ると、それはそれは神経質な科学者が如く、表情をひしゃげるでしょうね。だが、私にとってもあなたにとっても、彼へ感謝を申す事は必要となりましょう。行くのであれば、私からあなたの事を紹介しておきます」

 

 

 君の功績もきちんと伝えたぞ。寧ろ、君の事を話したくて俺がうずうずしていた程さ!

 彼は見ず知らずの君へ深い感謝をするように頭を下げると、こう伝言した。

 

 

「お礼がしたい。この恩を、そのラスコータ先生に返したい。勿論、あなたにも。だがそれには少しばかりの準備が必要となります、ふた月程の猶予を与えて下さい。今、この場では治療費を払う程度しか持ち合わせていないのです。しかし後日、お礼を携えてあなたと、そのラスコータ先生の元を訪ねましょう。すぐに恩を返せない私をお許し下さい、しかし必ず私は来ます。待っていて下さい」

 

 

 恩返しがしたいと言った彼はとても真剣な表情だったよ。なので断る方が愚かだと思い、俺は「待っていますが、その傷が癒えた頃で良いですよ。まずは、療養です」とだけ言い、勝手な事をした言い訳を院長にする為に退室した。

 院長は勝手に手術を行うなと叱っていたが、目の前で死にそうな人間がいるのに、一々上の許可を待っていられるかっての。まぁ、激しい言葉は排除して、ちゃんと反論してやったがね。

 

 

「患者は危篤の状態でした。昨夜は土曜日で、上層の人々は帰られ日曜日に備えていました。そのような状態で院長先生の許可を得るとは、患者の見殺しに他なりません。彼を運んだのは私の友人ですが、私はその友人の勇気と心意気に感服し、自己判断で手術を行ったのです。結果報告としましては、手術は成功し、患者も手術代をキチンと支払うと申しております。さて、ここまででこの病院にデメリットはありましたか? 治療費も入るし、病院の評判も上がる、メリット尽くしではありません。なので私は、ここで院長先生にお叱りを受けている理由がとんと、つかないのであります。私は患者の為、病院の為に働いたハズですが、それは間違いでありましたか?」

 

 

 あの院長、ここまで言ってやったら口籠りになり、俺を怒鳴りつけてさっさと追い出しやがった。全く、医者としての信念を忘れているな、君の方がとても高潔だろうに。

 そして一週間後に、患者は退院したよ。二本足で立ち、元気な状態だった、意外とタフな人間だったのかもな。

 最後に「この恩は忘れない」とだけ告げて、お釣りもある程の大金を支払うと、さっさと街の雑踏に消えて行ってしまった。

 

 

 ここまではその直前に書いている。あの院長、当て付けとばかりに仕事を俺に流しやがって、手紙書く暇も与えてくれなかった。なので、だ……

 

 

 あの院長に、辞表を叩きつけてやったよ。丁寧に書いて、わざわざ封蝋して病院の紋章を加えてやった上でな。

 そして笑顔のまんま入って、仕事を与えようかとした院長の顔目掛けて投げ付けた。封の方を前にしてやったから、余計に痛かろうに。

 呆然としている間に、白衣を脱ぎ捨てて退散だ。いやはや、三十年生きて来てここまで痛快だった時はなかったよ!

 

 

 まぁ、これで俺は総合病院を辞めた訳だが、医学会の時に知り合った先生がいて、この先生が病院を経営していたんだ。駄目元で手紙を送り、働きたい意思を伝えたら、二つ返事で了承を受けた。外科医が足りなかったので、地獄に仏だったそうだ。

 

 

 

 

 それで、ここからは初勤務の前日にこれを書いている訳だ。

 

 

 長々と失礼したね。全く、手紙の上でもnoisyだな、俺は!

 兎に角、私の動向と患者の意思を伝言したよ。いつ来るかは分からないが、必ず来るとは思う。気長に待つさ。

 それじゃあ、ここで締めるよ。また近い内に二人で食べに行こう。二カ月後は空いているかい?

 

 

 敬具。

 あなたの親友、ジョニィ・フリードリッヒ・ノージーより。』

 

 

 

 

 ジョニィの手紙は、救出劇後の一ヶ月後に送られて来た。内容が内容であるので、ラスコータは捨てずに保管し、読み返している。そして手紙を受け、すぐに返信を出したが我ながらかなりあっさりした内容で、読んだジョニィが不機嫌になっていないか心配だ。

 二ヶ月後の予定は空け、『食事をしよう』と書いたから大丈夫だとは思うが。

 

 

 兎も角として手紙によれば、あの男は近い内にここへ来るそうだ。いつ来るかと待っていれば、いつの間にやら三ヶ月を越した。

 だがジョニィの手紙にある通り、『ふた月の猶予』を願い出ているではないか。ならばそろそろ来る頃かと、ラスコータは待っていたのだ。彼を疑う事は、ジョニィを疑う事になる。

 

 

 

 

 彼は親友に己が力を知らしめた。

 だが、この一件が自信に繋がるかと言われればそうも言えなかった。車の主人の男の言葉は、思った以上に全てを悪路へと変えてしまっていたのだ。

 患者が来院し、治療をし、お金を貰う……この『お金を貰う』と言う事に、異常な罪悪感を得るようになった。「自分は果たして、人の苦しみの上で生きているんじゃないか」と、疑問に思う時だってある。

 

 

「その苦しみを消すんだ、素晴らしいじゃないか」と思えども、何回通院する人々を見ていると、「治さないようにして、儲けているのだろう」と考えてしまう。

 

 

 では「だからと言って治療をしなければ、悪化の道を辿る」と考え直してみるのだが、「そんな事を取り決めるとは烏滸がましくないか、風邪なら無料か」と更に悪く考えてしまうのだ。

 後はこれの繰り返しで、どんどん深みへと沈んで行く感覚に動揺し、疲弊し、考えないようにして生活していた。

 

 

 

 

 最近、笑ったのはいつだったっけと、閉院し、一人きりになったリビングでぼんやり思い出していた。とうとう今日も、笑えなかったなと、思い返しては嫌になる。

 果たして自分は、『医者』と『自分』を分けられているのだろうか。『医者としてだけの存在』となっていないか。

 結局自分は、何を支えに生きているのだろうか。何が楽しくて生きているのか。考えても分からない事を延々と考えるのが癖になった、それを吹き消すようにソファから立ち上がり、晩御飯を食べようかと動き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、三回のノックが鳴った。扉の方へと視線を向ける。

 既に看板は『close』にひっくり返しているハズ、もしかして急患なのか、薬品会社の業者か。

 ラスコータは友人が非常に少なく、近所の付き合いも並以下と言う程に殆ど隠者のような生活に徹していた。なので友人の訪問だとすればジョニィだが、ジョニィは今大変な時期なのでありはしないだろう。

 ならばやはり、急患か業者か、それとも新聞屋か。あまり人に会いたくない為、嫌々ながらもラスコータは玄関の方へと歩いて行った。

 

「……今、開けます」

 

 開錠し、扉を開いた。立っていたのは、ブラウンのコートを身に纏った、ソフト帽の男である。

 

 

「……どちら様……でしょう……か?」

 

 見るからに少し、胡散臭い感じ。もしや、妙な宗教団体の勧誘かとも思え、緊張感を引き上げながら男の顔形を伺った。

 細い目と、顔に皺の寄った、中年の男だ。背丈はラスコータより少し高いが、肩幅は少し心許ない、良く言えばスッキリと、悪く言えば冴えない男である。だが何処か、見た目からして上層の人間とは思えなかったのだが、動作の一つ一つが様になっているかのような気品が漂っているようにも見えたのが奇妙だ。

 

 

 しかし、良く見てみれば、顔立ちに既視感があった。何処かで見たような顔をしていた。

 

「……えぇと……」

 

 思い出そうと努力するラスコータに対し、帽子を取ってお辞儀をした男から話をし出した。

 

「どうも、先生。突然のご訪問、失礼しました」

 

 語り口と共に物腰も柔らかく、怪しげながらも危なくはなさそうなので、ラスコータは安心して男と目線を合わせられた。そして引き出し続けていた記憶と男の顔が合致したのか、「あっ!」と声をあげ、更にまじまじと顔を眺め出す。

 

「どうやら、私の事を覚えておいでのようですね。という事は、スコルピト・ラスコータ先生本人でお間違えありませんか?」

「え? あ、はい……ほ、本人です……え、えっと、失礼ですけど、もしや……」

 

 男はもう一度ぺこりと恭しく頭を下げると、左右非対称な笑みを浮かべた。

 ラスコータはついつい、チラリと彼の腹部を見てしまう。

 

 

「はい。お久しぶりです……と言えど、あの時は意識が朦朧としていたもので、私がお顔を拝見するのは初めてですが……そうです、三ヶ月前にあなたに助けて頂いた者であります」

 

 来る事は信じていたが、いざ来たとなれば少し動揺してしまう。

 言えどあの時は殆ど動かなかった人物が今、復活した姿で立っているのを見るのは少し新鮮な気分になるものだった。ぽかんとしていたラスコータだが、我に帰るなりすぐに男を中へ招き入れようとした。

 

 

 しかし、男は「すぐに済みますので結構」と断りを入れた。

 ラスコータが気になったのは、現在立っている位置から微塵も動いてない事。まるで背後にいる何かを隠しているようにも見えた。

 

 

 それは兎も角として、男は話を続ける。

 

「しかし銃による怪我で、尚且つ街外れで死に掛けていた私を助けて下さったとは……碌でもないトラブルが原因だとは、分かるだろうに」

「い、いえ……その……僕も、何と言いますか……」

「お医者様の性分と言うものでありますね。私の出血を止め、担ぎ、お金持ちの車を引き止め、病院へ搬送して下さったと聞きました……いや、普通の人には到底出来ない事ですよ、誇って下さい」

 

 この男、感謝を述べているのだがやはり口が上手い。商人らしいと言うか、せこそうとも言うか、気品ある様子だが胡散臭さが抜けない所はこの男が、『裏社会の人間』だという事を分かっているからだろうか。

 

 

 言えど、褒められ慣れていないラスコータにとっては、この上なく嬉しい言葉なのだが。

 

 

 男は続ける。

 

「さて、御礼の準備と致しまして、それなりの時間を食ってしまった事に謝罪致します」

「いやいや! わ、ぼ……僕としても、ご快復なさられて安心致しました! お、お礼だなんて、僕なんかに……」

「いえ、お受け取り下さい。見ず知らずの、それこそ私のような人間を助ける為に全力を尽くして下さった恩人に何も返してやれないと言うのは、私としても辛い事です」

 

 ラスコータはジョニィの手紙の内容を思い出した。

『断る方が愚か』と言わしめた、真剣な表情……すぐにラスコータは謙虚な考えを打ち消して、この男の恩返しを受けようと決めたのだ。

 

「あ、そう、そうですか……そうですね……いえ、あの……失礼を……はい、有り難う御座います……」

「……ノージー先生からは極度の人間嫌いとお聞きしましたので、実の所不安でしたが、いやはやお堅い方ではないようで助かりました」

「ははは……そ、そうですか!」

 

 緊張からか、笑い方も空回ったような風だ。興味無さげだなと、ネガティヴなイメージを払拭したいが故にもっと喋りかけようかと話題を探している内に、男は懐から何かを取り出し、ラスコータに差し出した。

 

「これは私を助けて下さったお礼と、治療費の分です」

 

 

 

 

 それは、とても分厚い紙束……札束であった。

 今まで見た事もないような額のお金であったので、ギョッと目を見開き凝視してしまうラスコータ。治療費とかその他諸々を取り省いて行っても、全然手元に残るような莫大なお金だ。

 

「ちょ、おぅ、お、え!? お、お、多過ぎじゃないですかぁ!?」

「私の気持ちであります。ご遠慮なさらずに」

「え、遠慮なくって言われても、遠慮しちゃいますよ!? こ、こんな額、目の前でポンと出されたら……!」

 

 驚きからか、吃らずに饒舌に話すラスコータだが、それ程までの衝撃と言う物だ。

 怖くなった彼はつい謙虚な癖から、男の手にある札束ごと辞退しようとしたが、強引に相手が押し出し、ラスコータに持たせてしまった。

 

「遠慮なく……あぁ、お金の出所についてはご安心を、比較的クリーンなお金ですので」

「そ、そ、そんなんじゃあなくてぇ……!」

「いえ、お受け取り下さい。三ヶ月かけて、得た物ですので」

「…………そ、そですか」

 

 

 そんな事を言われれば、ラスコータのお人好しな部分が出て来てしまうだろうに。腕の中に収められたこの、巨大なお金を見つつ、男の顔を行ったり来たりさせているばかり、混乱中である。

 

「あ、有り難う御座います……えと、お怪我の方はもう……?」

「はい、お陰様で……ノージー先生の術式は素晴らしい物ですね、今では傷口も薄くなっている頃であります。以前の調子も、取り戻しつつ、あります」

「そうですな……いや、良かった……です。お元気そうで、なにより」

「有り難う御座います。一重に、ラスコータ先生とノージー先生のお陰です」

 

 何だか照れ臭くなり、前述の通り褒められ慣れていないラスコータは頬を赤らめて、俯いてしまう。

 思わずにやけた笑みが出てしまい、見られるのが恥ずかしいのだ。

 

 

 

 

「あとラスコータ先生……もう一つ、『お礼の品』をお持ちしましてね……?」

 

 男の声のトーンが、静かに、一段階落ちた。その変化に驚き、ラスコータはパッと彼の顔を見たのだが、何だか裏商談にでもするかのような辛気臭い顔で話をしているではないか。

 何事かと思い、不安げな表情で男の言葉を待つ。

 

「これからするお話は、くれぐれも内密願いたいのです」

「……え? どう言う事で……?」

「物が物ですのでね……えぇ、お約束出来ますか?」

 

 ラスコータはどうにも、こう言う類の商談じみた事が嫌いである。さっさと買えば良いのに、細かい約束だかサインだかをさせるような買い物が、一番嫌いであった。

 その元からある嫌悪感と、男の醸し出す怪しい雰囲気とが相まって、「只事じゃないぞ」と勘づき、首を縦に振って了承する。

 

「流石先生、話が分かる……」

 

 そして男は自身の背後に目配りさせると、そこにいたものを自身の前へと促した。

 

「おい、こっちへ」

 

 男が横へずれると、冬の寒風が流れ込む深い夜の闇の中から現れるように、何者かがラスコータの前へ出たのだった。

 背丈は低く、頭の位置がラスコータの腰辺りだろうか。なので目線が合わさず、一瞬何が来たのかと分からなかったので、チラリと目線を下げてその者の全体像を確認する。

 

 

 

 

「いッ!?」

 

 思わずラスコータは、声を出した。出さずにいられなかった。

 

 

「…………」

「え、あ……なっ……!?」

 

 前にいたのは、少女であった。

 色素の薄い黒髪は銀色に見え、寒い中だと言うのに薄汚れた布一枚だけを着込んでいる。

 

 

 だが一番目に当たったのは、白い肌の上には焼け爛れ、痕となった火傷が端正な顔に、華奢な腕にと存在しており、澱んだ光の無い少女の目がまたラスコータを震わせた。

 火傷痕は、火とか烙印用の鉄板とかでは出来ようのない、どうしたらそんな火傷が出来るのかと考えてしまう程に、酷く広範囲かつ不定形なケロイドと化していた。

 

「さぁ、挨拶しなさい」

 

 絶句するラスコータを前に、少女は年齢に対し分不相応な冷めた声で淡々と挨拶を行ったのだった。

 

 

 

 

「……初めまして、『シルヴィ』と申します」

 

 ラスコータはかける言葉が、見つからなかった。




やっとシルヴィさん登場ですが、最後の場面だけだなんて、ちょっとどうなっているんですか!?
まぁ、次回からたっぷり、絡ませますんでご安心を。
だから、終わり!閉廷!みんな解散!


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奴隷が来た。TWo

 ラスコータはあまりの衝撃からか、一瞬だけ立ち眩みを催した。

 クラリと歪む視界の中、貫くように捉えていたのは目の前の『シルヴィ』と呼ばれる少女だけ。

 

 

「……実は先月ですか。とある有名な資産家が事故で亡くなられましてね?」

 

 呆然と立ち竦む彼に補足をするように、男は雑談する風に経緯を説明し始めた。

 

「これが孤独な方でして、近しい家族がいないもんですから……有り余らんばかりの遺産を求めて役所やら友人に遠縁を名乗る方々が寄って集って、遺産をさらってしまいました」

「え? え、え?」

 

 男は言葉を一旦切り、疲れたような眼差しでシルヴィを一瞥すると、「何とも言えない」と言いたげに肩を持ち上げ、呆れた表情となった。

 

「……私もその資産家さんと……まぁ、表立ったものではありませんが、細々とした関係でありましてね……最後のお零れとして遺産を貰い受けたのですが……その最後に厄介なものを押し付けられましてね?」

「…………」

「……『これ』が、その一つです」

 

 ラスコータは無意識に身震いながらも、神経質な彼は男のバックグラウンドを恐る恐ると解釈した。

 これは三ヶ月前から気付いていた事だ。この男はやはり、『裏商人』である。

 

「あの……この子は……その、し、し、資産家さんの……何でしょうか?」

「……まず娘さんとは、思いませんよね」

「……全く、思いません……だって、こんな……! こんな……」

 

 ラスコータは詰まり詰まりに講義を起こそうと口を開くのだが、同情を向けたシルヴィの目を見て、心臓を掴まされた気分に陥り、口籠る。

 暗く、どんよりとした曇天の瞳である。部屋の明かりを角膜が反射しているが、奥にある精神的な輝きが微塵も見受けられない。その正体は、凍て付くような無表情のせいであるとラスコータは気が付いた。

 

 

 希望の色もない、ラスコータを視界に捉えているものの興味を示していない……まるで、死人のような目だ。今にも降り出しかねない曇天の下のような、鬱々とした不快な目。

 こんな目、どんな環境下より育てばこうなるのか。ラスコータは思わず、少女に対して恐怖を抱いてしまった。

 

 

「……あまり詳しい事は私も知りませんのでね……私はただ、『私の立場上から』の説明のみとさせて頂きます」

「た、立場……」

「まず、賢明なラスコータ先生ならお気付きかとは思いますが……まぁ、オブラートに包んで、私は『何でも売る商人』であります」

「………………」

「そしてこれも、私の商品の一つですがねぇ……全く。肉体労働が可能なものなら兎も角、こんなガキを買うなんて物好きはいないもんでしてねぇ……」

 

 再び男は肩を持ち上げ、呆れた表情となる。

 シルヴィはもはや人形のように、男の側に何の感情を抱かずに立っている。

 

「だからと言えど、ずっと手に置いておくのも、私に徳がないんです」

「…………」

「……このまま買い手付かずでは、『処分』も考えております」

「は、はぁぁ!?」

 

 男の口から出た飛んでもない発言に、大人しいラスコータでさえも声を荒げた。

 古い木の床を大きく軋ませ、怒りに燃える神経質な表情で男を激しく罵倒するのだ。

 

 

「あ、あ、あ、あんたは何て人間だッ!! 恥ずかしくないのか!? この子を見て、同情もしてやれないのか!?」

「…………」

「そ、それに、これは人身売買だろ!?……人間が人間を売るなんて、残酷と考えないのかッ!? あ、あんたは人でなしだ! この守銭奴の外道め!!」

 

 人差し指を突き付け、大きく見開いた目で罵る彼を前に、物静かな印象から一変した攻撃的側面に多少なり驚いた表情をしているものの、それでも平然とした様子で男はラスコータに宥めの言葉を投げかけた。

 

「まぁまぁ、落ち着いて下さい……私とて、そんな事はしたくないですよ。私も人間です、良心と哀れみを全て消し去った訳ではありませんよ……行く行くは、と言う(てい)での話ですよ。そんな、私が畜生でしたら今頃これを処分していますよ」

「その、『これ』を止めるんだッ!! この子は物じゃなくて人間だろ!」

 

 細かい所を指摘したなと、少し恥ずかしくなる。ただあまり大声を出さない彼は、ここまで叫ぶように抗議したばかりに言葉尻が嗄れていた。

 だが彼の熱意を前にしても、シルヴィは相変わらず変化を見せない。対して男の方は関心したように微笑んでいた。

 

 

「……いやはや、ラスコータ先生は本当に人道主義者でありますな。私を命懸けで助けて頂いただけはあります」

 

 男が畏敬の念を込めた口調で話している事を察知し、ラスコータはやっと濁流のような感情を鎮められ、男の話に歯を立てる事を取り止められた。

 久し振りの憤怒でエネルギーを多量消費したのか、ラスコータは肩で息をしている程にややぐったりと窶れた様子にはなっているのだが。

 

「実はこれ……失礼。『この子』の引き取り手を探す最中、もしかしたら先生にならと考えた訳でして……」

「…………は?」

「……ラスコータ先生は、独り身であられるようではありませんか」

 

 男がシルヴィに対しての『物扱い』を撤回した事に満足を抱いた時に、胡散臭い交渉を彼が持ち掛けた事にラスコータが嫌な予感を覚えさせた。

 じっとりと、舐め回すように男は部屋中を見渡し、最後にあの、左右非対称な笑みを浮かべてラスコータに提案する。

 

 

 

 

「……急な話ですが、この子を引き取ってみてはいかがでしょうか?」

 

 

 彼の提案を前にしたラスコータの表情は、唖然としていた。

 口をぽかんと開け、男の言葉を今一つ理解していないような感じだ。いや、理解はしているようだが何故か、恐怖に似た感情を震える瞼で表現している。

 

「……な、なんと? 今、あなたはなんと、申し上げました、か?」

「引き取ってみては、と申し上げました。慈悲深い先生なら、この子と上手くやれるでしょうに」

「ま、ま、ま、待ってくれ! そ、その……その子を……!?」

 

 ラスコータはやや、現実を把握し損ねている様子だった。

 

「えぇ。どうでしょうか?」

「は、話が唐突過ぎるんだ! ぼ、ぼ、僕がかかかか……か、彼女を引き取るのかぁ!?」

「そう、先程から提案させて頂いていますがね……あっ。もしや、都合の悪い事情でもおありで?」

「…………あぁ、なんて事だ……」

 

 そして初めてここで彼は、「してやられた」と頭を抱える事になる。男に突き付けた自分の言葉を思い出してなぞれば、自分はシルヴィに同情している(勿論、実際に同情の念はある)言動ばかりだ。

 客観的に見れば、そこまで猛抗議して怒った人間が「じゃあ引き取れよ」と言われて「拒否」の二文字を示せるハズがないのだ。特にラスコータのような、神経質だが悪い人間ではない性格ならば気負いを生じされられる事に期待出来よう。

 

 

 ラスコータは男に、引き取らざるを得ない雰囲気に持ち込まされた訳だ。

 

「…………」

 

 彼には彼なりのプライドは勿論、存在している。

 それは医師としてのアイデンティティだ。医師として、『人を治す者』として、男に偽善者と思われる事はとてもプライドが傷付く。ここで拒否をしてしまえば(彼の性格上、とても出来ないだろうが)、自分は今日より懺悔と偽善の烙印を己に課して生きて行く事になる。それは、平穏でしっぽりと生きていたい彼にとって、とてつもなく避けたい事態だ。

 

「う…………」

 

 しかし、引き取ってしまっても平穏はない。一人が好きな人間嫌いのナーバスな彼にとって、他者による自生活の介入は何よりも嫌な事だった。確かにシルヴィに対しては同情している、しかし彼女を引き取って育てあげる自信が彼にはないのだ。

 

 

 引き取りたい、自信がない。引き取りたくない、偽善者だ。二つの選択肢はどちらもマイナスの面を持っている。ラスコータは完全に思考停止し、歯をがちがち鳴らしながら考えに耽っていた。

 

「…………」

「……先生、今宵は冷えます、早い所ご決断なさってください」

「……え!? あ、その……えっと、えっと、えっと……!」

 

 急かす商人に気が動転し、ラスコータはほぼ無意識状態で言葉をこぼした。

 

 

 

 

「ひ、引き取ります!」

 

 言った後に口を押さえた。自分で言った事に、動揺したのだ。

 ラスコータは恐慌状態で撤回しようと言葉を脳内で組み立てるが、商人はニヤリと笑う。

 

「そうですか! 引き取ってくださりますか!」

「え、い、いや! その、今のは……はい」

 

 言質は取られた。それに、自分が拒否してしまえば、この少女に明日が無い事を思い出し、喚き散らすエスを抑えて承諾する。口元がヒクつき、それを隠すように俯く。

 怪訝に思った商人が「如何しました?」と聞いてくるので、表情筋を意識して我慢しつつ頭を上げた。

 

「なん、でもない……」

「……ともあれ、引き取ってくださるのでしたら、こちらも助かります。この子は身寄りも無い奴隷です、手伝いをさせるなり何なり、ご自由にどうぞ」

「…………」

 

 奴隷と聞き、また感情が突沸し、男を罵倒しかけたがそれを寸での所で引き止める。

 思えばこの男は、酷い目に遭い最終的には一人ぼっちになったこの少女に、引き取り手を探してやっていたのだ。勿論、奴隷として売っている所で人道主義とは絶対に思わないが、選択肢にラスコータを入れた事は褒められる点だろう。

 

 

「それでは、私はこれにて」

「……え、帰られるので?」

「長居する予定ではありませんでしたし、私には他に仕事も御座います……あと、ジョニィ先生の所にも向かわなければと」

「……そう、ですか」

 

 ラスコータが言葉選びに齷齪していると、男は帽子を持ち上げて一礼し改めてお礼をしてから宵闇に身を溶かしていった。

 扉の前にいたシルヴィは家の中に入り、扉を閉めてからラスコータを見た。冷えた目だ、ラスコータは舌の先を噛み、身震いを抑える。

 

 

 

 

「……引き取ってくださり、有り難う御座いました」

「え? あ、えぇ……」

「力仕事は出来ませんが、申し付けてくださりましたなら簡単な雑用は出来ると思います」

「…………」

「何卒、宜しくお願いします」

「…………」

 

 ラスコータは、溜まった涎を飲み込んだ。心臓が痛んだ。まるで身体全体が、細胞の一つ一つが停止してしまったかのような圧迫感と動揺。説明文を読むかのような無機質なシルヴィの言葉たちと、光の無い目が彼を恐怖させた。

 淡々サラリと言葉を連ね、沈黙するラスコータに対してもう一言付け加えた。

 

「前のご主人様は、悲鳴を聞いて楽しむのが一番の使い方だと、言っておりました」

「……なんだって?」

「お手柔らかにお願いします」

「…………」

 

 改めて、彼女の全身を眺めた。痛々しい痣の数々と、爛れたケロイド……前の主人は異常だ、共感性が欠如しているとラスコータは精神分析的に判断している。

 くらりとする頭を抱えて、一通り言葉を言い終えたシルヴィが黙って立っている。

 

 

「……そんな事は、しないです」

 

 ラスコータはぽつりと呟くと、シルヴィに背を向けた。ヒクついて歪む自分の顔を見て欲しくなかった事もあり、立ちっぱなしの……しかも良く見たら裸足の彼女を座らせてやろうと椅子を出したのだ。

 

「…………」

「……椅子、運びましょうか?」

「え? あ、違う……えと、疲れただろうね、座っていいよって……」

 

 シルヴィは申し訳無さそうな表情になり、首を小さく左右に振って拒否をした。

 

「いえ、椅子なんて私には贅沢です……その、私なら床の上でも構いませんので」

 

 謙虚を通り越して、これは卑下だ。長い間、凄惨な奴隷生活を経て、自分を最下の人間だと刷り込まされているようだ。椅子に座る事さえも申し訳無さが出る程、彼女はそうなってしまっていた。

 

 

「……今日は冷えるよ。床は……冷たいと、思います……し」

「私は……」

 

 ラスコータは気恥ずかしいのか、シルヴィと目を合わせずそっぽを向きながら言う。

 

「……安心してよ……」

「え?」

「……僕は……こんな、人間だし……」

 

 椅子を引き、シルヴィに着席を促す。

 当惑している様子の彼女だったが、これも命令だと考え直したようで、「失礼します」と声を付けてから椅子の方へ歩を進める。

 

「……寒い……かな? ストーブを点けなきゃ……薪を持ってこなきゃだけど」

 

 薪ストーブの火を点けていなかった。この家が古い為、近世時代の物が生き残っていた、言えど、燃えかすやら臭いやらと彼の神経に障る要因が多いので、ラスコータは診療所中以外は点けようとしない。

 するとシルヴィが立ち止まり、提案する。

 

「場所を教示して貰えましたら、持って来ますよ」

「……大丈夫」

 

 ラスコータは怯えたような目で、シルヴィを見つめた。

 

「……風邪を引くよ」

 

 それだけ言って、呆然と眺めるシルヴィを置いてからラスコータはコートを羽織り、表へ出た。薪は、家の横に積んである。兎に角、ここから出たかったのだ。

 

 

 

 

「…………」

 

 入口を閉め、冷たい夜の中で息を吐いた。長い髪を振り乱して掻き毟り、先程までの事を頭の中でおさらいする。

 自分は少女を引き取った、少女は酷い外傷の痕がある。引き取ったと言う事は、自分が彼女を育てる事となる、育てられるのか。そもそも何故、断れなかったのか、自分は断って、ジョニィに回したら良かったのに。そうだ、何でこんな事を思い付かなかったんだ。

 

 

 心の底から後悔の念が今頃、断続的に湧いて来た。心臓から血管を伝って前頭葉へと、嫌な気分が脳へ染み込んで来る気分だ。

 ラスコータには自信がない。彼は何よりも一人が好きで、一人で静かな夜を過ごせる日々が好きだった。そんな彼にとってシルヴィの存在は異端者であり、障害にも思えるのだ。

 

 

「…………あ」

 

 ここまでの暗い暗い思考から一旦這い出て、そして振り返る。結局自分は、何をしたかったのだろうかと、頭を痛めた。

 助けたのは自分だし、引き取ったのも自分だ。あの男を糾弾した時だって、心には清い信念があったハズ。それが何だろうかこの有り様は、結局は暗い感情と後悔じゃないか。

 ラスコータはもう、自分で自分の心を信用出来なくなっている。少しばかり、心神喪失状態で空を見上げた。

 

 

 空は変わらず、満点の星空。光を散らした黒のキャンバスが世界の屋根のようだった。

 そしてその中で主役を演じる三日月が蠱惑的に照る。肌寒い夜風に身をよじりながら、息を吐いた。ちっとも心は清まらない。

 

「…………はぁ」

 

 彼の頭の中はシルヴィの事で沢山だ。これからどうやって接して行けば良いのか。

 シルヴィの光無き目に、無感情な言霊。彼女の心は可哀想に、永遠の深淵に溶け込み、封じられているのだ。無理も無い、ラスコータが考える以上の壮絶で凄惨な人生だったろうに。

 それだけに不安だ。彼女は果たして、ラスコータと一緒にいたら幸せになれるのか。心を閉ざした自分に、心を開いてくれるのだろうか。考えても考えても、張り切っても張り切っても、また最初から。堂々巡りとした不安と恐怖に、疲れと後悔がレイズする。

 

 

 彼の脳内に一人の人間の顔が現れた。父の顔だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……失礼します」

 

 背後から声があがり、ラスコータは飛び上がった。勢い良く振り返ってみれば、シルヴィが扉を少し開けて、こちらを覗いている。

 

「あっ、いえ、えっ? えっ?」

「申し訳ありません。驚かしてしまいました……」

「い、いら、いや? な、どうし、どうしたの?」

 

 どもりながら、彼女が扉を開けた理由を尋ねたが、応えは簡単だった。

 

「外に出られてから二十分程経たれていましたので……」

「……え、え!?」

 

 ラスコータはポケットから懐中時計を出そうとしたが、それはもう寝室に置いてある事を思い出した。一旦突っ込んだのに出すのは恥ずかしかったので、ポケットに右手を入れたまま話し掛ける。

 

「あ、え、ご、ごめん……考え事、していたんです……」

「御命令に従わなくて申し訳ありませんが……お手伝い致しましょうか……?」

「い、いや……大丈夫……ほ、ほら……ね」

 

 ラスコータは大股で薪置き場に行くと、それらをガバリと抱えて扉の前に戻って来た。突然の挙動に驚いたのか、シルヴィも目を丸くして見ていたのだが、それを無視して少し開いた扉に身体を捻じ込み、入った。少し暖かくなった家の中で、ほっとまた息を吐く。

 

 

「す、ストーブ……今から、火を点けるから……ま、マッチマッチ……」

「マッチでしたら机の上にありましたので……これで……」

「……有り難う、御座います」

 

 シルヴィが取ってくれたマッチ箱を受け取り、中から一本取り出した。

 ストーブの口を開けて薪を放り込み、近くに置いていた古新聞を入れてから、ストーブでマッチを擦って火を点けてこれもまた、放り込む。口を閉めると、早くも微かな熱気が伝わって来た。

 燃える火の赤が見えた所で、頭をカクリと落とす。やっと安心出来たのだ。

 

 

 

 

「…………き、君……」

「……何でしょうか?」

「……お腹とか、空いて、ない、かな?」

 

 そう言えば食事はしたのだろうかと、ラスコータは尋ねてみる。

 ストーブから振り返り、改めてシルヴィの身体を見た。酷く痩せており、細い腕と色素の薄い肌が明らかに栄養不足を象徴しているものだが。

 

「……お食事を、出して頂けるのですか?」

「……パン、しかない……けど」

 

 ここでラスコータは、栄養不足なのは自分もかなと思い始める。ここ最近は朝食も夜食もパンばかりだからだ、自炊はしない。

 そうだ、客人を呼ぶ機会がないから食事の事など考えた事なかったと、反省する。自責する彼に、シルヴィの返事は投げ掛けられた。

 

 

 

 

「……悲鳴をあげていないのに……本当に宜しいのですか?」

 

 シルヴィの不幸を想像してラスコータは喉を潰させた感覚に陥るものの、何とか気道を確保したと言ったか細い声で応答する。

 

「ぃ……はい……用意、しようね。席で、待っていて、欲しい」

「……分かりました」

 

 彼女は一礼をして、席への歩き出した。

 ラスコータは高速で打つ心臓を抑えながらも立ち上がり、台所の方へと歩き出す。

 

 

 

 

 戻って来た時はバスケットいっぱいに入ったパン、もう片手にはミルクセーキの入ったガラス瓶を手にしている。これが彼の食料だ、非常に質素だと肝に免じており、シルヴィに対して申し訳ない。

 しかし、バスケットと瓶を机の上に置いた時、目の前で座る彼女の目が驚きで丸くなった事を確認した。

 

「あ、ご、ごめん……こ、これしか無いんですよ……まるで朝食ですよ、ね?……さ、サラダとか、欲しいよね、うん」

 

 あまりに質素過ぎたかと、途切れ途切れに言葉を繋いで謝るラスコータだが、シルヴィは次に申し訳なさそうな目となり上目遣いでラスコータを見た。

 

 

「あの、これ……本当に、食べて宜しいのですか?」

「……え?」

 

 予想外の言葉に、今度目を丸くしたのはラスコータだった。彼女の言葉のニュアンスからは、感嘆と言う意味合いでの「信じられない」と言った感情が読み取れる。

 

「こんな沢山のパンと……それに、ミルクセーキまで……」

「……? そうですけど」

「前のご主人様は、水と一つのパンだけだったのですけど……食べて良いのですか?」

「………………」

 

 下唇を噛み、心臓が痛む苦痛を押し殺した。これは前のご主人様とやらへの怒りと、彼女の境遇に対する同情と悲しみからだ。

 手が自然に震える。あぁ、自分は何でこんな少女を邪魔に思えたのだろうか、何で後悔していたのか。医者失格だ。そう自責し自責し、少し落ち着いた所で彼女に話し掛ける。

 

 

「……いいんだよ。君は何も、考えずに……食べたらいいよ…………」

 

 ご主人様が言うのならと、困惑しながらおずおずとパンを手に取り、「いただきます」と口に運んだ。

 パンを咀嚼する様まで見ていた所でラスコータは「あっ」と声を出す。

 

「こ、コップ、がないと飲めないよね……ご、ごめん、持って来る……」

「んっ……!」

「駄目」

 

 パンを食べているので返事が出来ず、急いで飲み込もうとした所をラスコータは止めた。

 彼の表情は、医者としての顔となっている。

 

「……食べ物は良く噛んで。そして、ゆっくりゆっくり……栄養不足の時にいきなり胃に負担をかけるといけない……ですよ」

 

 

 

 

 それだけ言ってラスコータは立ち上がり、再び台所まで歩き出した。背後では何とも言えない表情をしたシルヴィがまじまじと見ているが、気付かないフリをする。

 

 

 自分の身なりを見て苦笑い、まだコート羽織りっぱなしじゃあないか。




何ヶ月振り何でしょうかねぇ……書け書け言ってた友人から音沙汰無しなんで、何とも言えんがね。
失礼しました……僕は一足先に、失礼しますよ?


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僕の元へ来たのは。

 パンを食み、グラスに注いだミルクセーキを飲む。痛ましい傷からして、凄惨な虐待によるかなりのストレスを抱え込んでいるハズ。もしや、摂食障害が起きていやしないかと疑っていたが、杞憂に終わったようだ。

 シルヴィはパンを一つ一つ、まるで味を確認するかのようにゆっくりと噛み(ラスコータの指摘を命令と受け取ってしまったようだ)、唾液を吸ったパンの奪う口内水分をミルクセーキで補給する。困窮状態の彼女の身体に、久方ぶりの栄養が入り込んだ瞬間だが、時折ラスコータの表情をおずおずと伺う辺り、数多の感情の中で不安が優っているのだろう。

 

 

 ラスコータもパンを食べながら、こっちを見るシルヴィの表情に怯える始末。人と目を合わすのが苦痛である彼にとって、初対面の者と向き合って食事をする事は限り無く拷問に近かったのだ。動揺と羞恥を飲み込むように、パンを口に入れて行く。胃を満たしているのか心を満たそうとしているのか、彼の頭はしっちゃかめっちゃかな思考で半混乱状態である。

 

「…………」

「…………」

 

 パン、ミルクセーキ、そして相手の顔をチラリ。そんな流れを互いに行い、そして勝手に双方が意識して気まずくなる。結果、ストーブで温まった部屋の中なのに極寒の緊張が巻き起こっていた。

 ラスコータは社交的ではないと自覚しているし、対してシルヴィは非社交的と言う枠組みの問題ではない。心を閉ざし、どんよりとした瞳で、不安そうに表情を歪めて飲食する彼女の前で、ラスコータは自分の身体が微振動している事に気が付いた。

 

 

 

 

 大学の授業でやった研究発表会以来だ、こんな緊張は。ラスコータは鼻で深呼吸し、交感神経を鎮めるよう努めながら、意を決してシルヴィに話しかけた。

 

「……えぇと……そ、そう言えば……僕の、名前…………言ってないよね」

 

 突然話しかけたラスコータに驚いたようで、シルヴィはビクリと身体を動かし、一つのパンを両手で握りながら彼へ注視する。

 

「あ……はい。ラスコータ……先生と、しか、伺っていません……」

「そ、そうだね……えぇと」

 

 彼は緊張を紛らわす為に一回咳払いし、息を吐いた後にフルネームで名乗る。

 

「ぼ、僕はラスコータ、『スコルピト・ラスコータ』。先生、と言うように……医者だよ。この診療所の所長ね……」

「スコルピト……ラスコータ、様」

「す、スコルピトって、変だよね……蠍座、なんだよ僕……だ、だから、『スコーピオン』を語源にして、父親がスコルピトって……」

 

 シルヴィは何とも言えない顔をして、「そんな事は無いです」と小言で呟く。

 ラスコータはラスコータで、自己紹介でネガティヴキャンペーンをしてどうすると、頭を抱える。シルヴィの返答に困る事を言って、余計に空気を沈下させてしまったではないか。ラスコータはジョニィと会話をしている自分を思い出し、同じ要領で話そうと始めた。

 

「え、え、えーっと……その…………あ、あれだよ。ぼ、僕は医者だから……身体の不調があったら言ってね。風邪とかなら、薬もあるし……重い病気なら、凄腕の医者の友人がいるし……」

「……? 病気を治して貰えるのですか?」

「えぇと……えと、た、大抵のもの……なら……あ、あの、癌とか肺炎とかペストは……ペストなんか時代遅れだけど……出来ないけど、ね?」

「……お心遣い、感謝します、ご主人…………ご主人は、慈悲深い方ですね」

 

 相変わらず感情を見せない彼女に、彼は口を曲げて目を伏せてしまった。彼女は自分なんかに興味を持っていないのだろうかと、不安になったのだ。不安なのはシルヴィも同じであろうとは分かっているが、ラスコータには自分に他人のリードは無理だと諦念が生まれている。

 

 

 そうこうしている内に、シルヴィはミルクセーキをコクコクと飲み干した後、手を止めた。胃が満たされ、食事を終えたのだろう。不安を押し殺すように暴食気味のラスコータの前で、彼女はお辞儀をする。

 

「……ご馳走様、でした」

「……もう、いいのかい?」

「はい」

 

 シルヴィはパンを三つ食べた。少ないなと思ったが、元々食の細いタイプなのかもしれない。ラスコータも合わせるように手を止めた。

 

 

「……あの、有り難う御座います」

「え?」

 

 そして突然の、シルヴィからの感謝。驚いたラスコータは、少し間抜けな表情で彼女を見つめる。

 

「こんなに、お腹いっぱい食べられたのは初めて、でして……」

「そ、そうですか……それは良かった。こ、こ、今度はパン以外も買うからね……」

「いえ……パンだけでも、とても……三つも食べられましたし、ミルクセーキまでだなんて、贅沢です」

「………………」

 

 ラスコータの目線からすれば、質素以外の何者でもない程の晩餐。手作りした者はミルクセーキぐらいだろうに。

 しかし彼女は、それに満足していた。つまり彼女はこの食事よりも遥かに奈落の底の劣悪なる生活を送って来ていたと言う事だ。そんな事は肌のケロイドと曇った瞳で、分かりきっていた事だろうし、今更だが。ラスコータは何度も何度も彼女の生い立ちを想像する程、シルヴィに情を移していたのだ。

 

 

「えぇと……シルヴィ……さん、で、いいかな?」

 

 ラスコータは初めて、彼女の名前で呼んでみた。何か言いたいと思い立った。

 対してシルヴィは、ご主人様であるラスコータから敬称で呼ばれている事に困惑を覚えているようだ。眉を顰めて顎を引き、疑心を含む不安げな上目遣いでオドオドとラスコータと目を合わせる。

 

 

「なんでしょうか?」

「………………」

「……?」

 

 

 しかしラスコータは口を開かない。何を言おうか、考えていなかった。

 彼はシルヴィに「何か言いたい」とは思ったものの、それは衝動的なものであった訳だ。ラスコータは自身も、何故に彼女へ声を掛けたのかが理解出来ない。彼は頭で言葉を立ててから話しかける性格だからだ(だからこそ友人以外との世間話や雑談が苦手)。

 

「……あ、いや……大丈夫…………やっぱり」

 

 自分への驚きからだろうか、彼は話を切った。

 シルヴィは不思議そうにラスコータを見つめてくる、ラスコータは目をふっと背けた。彼女の冷たい、冬の底の瞳に耐え切れなかったのだ。

 

 

「…………い、今、何時、だった、か、かか、かな?」

 

 気を紛らわせる為に、シルヴィに時間を聞く。ポケットの懐中時計は片付けた事を思い出しただけだ。

 しかし時計なら、自分の後ろの壁に飾ってあるだろうがと、自分のした質問に後悔する。シルヴィはそんな彼の気持ちを知らず、健気に顔を上げて時計の秒針の先を読んでくれた。

 

「……十時、十六分です」

「……もう十時か……えぇと、その……」

 

 神経質に髪をかきながら、シルヴィと負けず劣らずな不安の目で、彼は尋ねる。

 

「ぼ、僕は……そろそろ寝るけど……君は、どうする? 起きておくかい?」

 

 すると彼女は困惑気味に「私も眠ります」と呟いた。ラスコータは先程の醜態を晒さぬように、言葉を組み立ててから話しかける。

 

「なら、寝る場所とか……家を案内しなきゃね」

 

 そう言って、手の中にあるパンの残りを口の中に入れて、「ご馳走様」と言って立ち上がった。

 

 

 

 

 食器を片付け、余ったパンとミルクセーキは朝食用に保管した後に、ラスコータはシルヴィに家を案内する。

 

「お手洗いは……そこです。下水道が敷かれていてね……で、奥の部屋は僕の書斎だからさ……何かあったらそこに来てね」

「分かりました……」

「あと、その廊下の部屋は薬品倉庫だから入っちゃ駄目だよ……いや、入ってもいいけど、面白い物はないし、危ないからさ」

「言い付けは守ります……入りません」

「安心ですね……あとは、君の寝室ですけど……」

 

 ラスコータはある部屋の前で立ち止まり、扉を開けた。

 部屋の中は小さなタンスにベッドとテーブル、その上にランプがあるだけの質素な部屋だ。しかしキチンと清掃はされており、寂しいと言うよりもサッパリした、と言い換えられる程度の部屋ではある。

 

「この部屋を使ってよ。本当は来客用だけど……宿泊する人なんて今後一切来ないだろうし。それにここは診療所だから、入院って事はしないし……」

「……本当に、この部屋を使ってもいいのでしょうか?」

 

 シルヴィは再確認するように聞く。どうやら、自分には分不相応と思い込んで心配になったのだろうか。彼女なら、床でも大丈夫と言いそうである、その前にラスコータは重ねて発言する。

 

「大丈夫ですよ、自由にして貰えたら……じ、自由に出来る程に物は無いけどね、何か必要な物とかあったら……そ、揃えるし……」

「そ、そこまでして貰えなくても平気です……ベッドを貰えるだけでも、感無量です……」

 

 そう言ってシルヴィは、ベッドの上の毛布とクッションを撫でていた。表情には驚きが混じっている、ここに来る前は冷たい鉄の床で寝ていたのだろうかと想像し、心臓を掴まれる気分になる。

 

「さ、さ、寒いなら、毛布を増やしてあげるよ。暑い時は……もう今の時期は無いけど、窓を開ければいいし……」

「……いえ、十分です、ご主人様……有り難く使わせていただきます」

 

 ラスコータに丁寧なお辞儀をし、感謝を述べる。

 

「…………うん」

 

 その様子を前に彼は、気まずそうな返事をする。

 シルヴィの感謝は真摯なものだ、だが曇った眼差しと寂しげな雰囲気がポジティブな感謝をネガティヴな感じにしている。全く真逆な態度と言葉に、ラスコータは何を言おうか戸惑っていたのだった。

 

 

「そ、それじゃあ……えと……僕はもう眠るからね。な、何かあったら、書斎に来てくださいね。あの、この部屋の向かいですし……」

 

 気の弱い彼はこの、重くて暗く、冷たい雰囲気に耐え切れず、シルヴィの部屋を早々に出ようとした。彼女はベッドの横に立ち、踵を返したラスコータの背中を見ていた。

 人に視線を向けられる事が何よりの苦痛だと、彼は背中で受け止める視線を避けるかのように、身をよじる。そして扉のノブに手を掛け、開く。

 

 

 

 

「あの……ご主人様」

 

 すると不意に、シルヴィに呼び止められたのだ。

 ラスコータは暫し、振り向けなかった。もしや、自分の恐怖が悟られたのかと、不安に陥っていたのだ。生唾を飲み、意を決して再び彼女の方へと視線を向ける。恐怖の混じった視線同士がそこで、交差したのだ。

 

 

 シルヴィはラスコータの視線が向けられたと判断すると、躊躇を含んだ声色で言葉をかける。

 

「私は……これから、どうなるのですか?」

「……どう言う、意味、ですか?」

「……いえ、その……」

「………………」

 

 彼の善意の裏を警戒しているようだ。いや、その警戒ら当たり前なのかもしれない。彼女は希望を放棄しており、他者を信用出来ないでいるのだ。それ以上に、ラスコータの挙動不審な様子を怪訝に思っているのかもしれない。

 彼女の意図を察知したラスコータは右頰の内側を噛み、溢れそうになった感情を抑圧しつつ、ひくつく瞼を見せながら返事をした。

 

 

 

 

「……不安は、いらないよ」

「……え?」

「僕はね、とても『弱い』んだよ」」

 

 息を吸いながら、またシルヴィに背を向ける。

 

 

「……おやすみなさい」

 

 それだけ言い残し、呆然と眺めるシルヴィの視線を受けて部屋を出て、扉を閉めて視線も塞いだ。溜め息が漏れる。

 

 

「…………あぁ、父さん……僕なんかには、荷が重いんだよ……」

 

 扉の前でラスコータは、神へ祈るかのように跪き、両手を繋げた。瞳孔がブレて、今にも気が触れそうな泣き面で、誰にも聞こえない小言を呪文のように呟くのだ。

 

「僕はね、僕はね……あの時にね、父さんをね……そしたら家族は、泣かずに済んだのにね……」

 

 繋がれた手を握る強さを増して震え出した。目をギュッと閉じて、暗闇の中で錯乱寸前の光を見る。幾分か子供返りしたかのような口調で、誰もいない前の相手に語っている。

 

「父さん、父さん……僕を許してよ……僕はね、偽善者なんだよ、認めるよ……僕なんかにね、こんな事を……こんな、こんな……!!」

 

 

 瞼を閉じた暗闇の奥で、誰かの人影が出て来た。

 肩幅が広く、短くも揃えられた髪型の人物、ラスコータはその人物の背中を知っている。人影は振り向いた、表情は見えない。しかし口の部分が大きく開かれている事は分かった、声は聞こえないが何かを叫んでいる。

 激励、感謝、狂喜……そんな風には見えない。懺悔、悲哀、慟哭……そうにも見えない。

 

 

 叱責、怒号、憤怒……そうだ、その人影は怒っている。ラスコータに激しい罵倒を飛ばしているのだ。

 

 

 ラスコータの身体は震え出す。薄紅色の唇を噛み、懺悔の姿勢を膠着させて行く。表情は苦悶に歪み、握る手の強さは自分の拳を砕かんとする程までに、キリキリと痛み出す。圧迫された血管と神経が叫ぶ様を、何故か主観的に分析しては、自分の身体なのに自分の身体では無いような、不思議な感覚の中に彷徨う。彼は今、『浮遊』しているのだ。

 

 

 浮遊感、時折彼はこの超感覚に陥る時がある。自分の今までの行いが叛逆してフラッシュバックし、恥と罪悪の感情に浸かるのだ。その感情の海から逃れようとするのか、彼の精神は分裂するかのように身体を離れる。この状態、自分は誰よりも自分に対して客観的に見られる。神がエンピレオより人間世界を覗くかのような客観性で、自分を理解しようとしているのだ。痛みも感情も表情も癖も、全てが全て客観視出来た、「自分は今、こうなっている」と何処までも冷静で何処までも無関心な分析。

 

 

 浮遊感の中で、一つの疑問が唐突に浮かぶ。

 心の存在は照明出来るのだろうか。心は『比喩』であり、臓器ではないのだ。なら、『心』は何なのか。それは脳内の思考体であるのか、身体の一つ一つにある細胞であるのか、それともまた別の世界なのか。心とは、超次元的な領域に佇むもう一つの自分であると、頭が勝手に思い込んでいるだけなのだろうか。

 ラスコータは心を探すかのように、自分を理解しようとする。自分の意味が心にでもあるとでも言うように、存在しない心を探すのだ。深化して行く精神世界で、彼は浮かび上がって自分の心を手中に収めようと画策するのだった。

 

 

 

 

 闇の世界にいた人影が、消えた。浮遊感が無くなった。

 ラスコータはハッと目を開ける。何でもない、いつも通りの自分の家の廊下だ。繋がれた両手を離すと、ビリビリと痺れている、相当強く、そして長い間握っていたのだろう。また、目も強く瞑っていたので、目元が熱い。

 すると今度は胸が苦しい、急いで口を開き、息を補給する。いつの間にやら呼吸が止まっていた……成る程、それで苦しくなって自分は戻って来れたのかと理解した。

 

「………………」

 

 自分の背にする扉は、シルヴィの部屋の前だ。ラスコータはフラリと立ち上がると、扉をまた開けた。

 シルヴィはいない、代わりにベッドの上の毛布が膨らんでおり、それは微かに上下している。耳を澄ませば、小さく穏やかな寝息が聞こえて来る、彼女は今は夢の世界だろうか。

 部屋の窓から外を見てみれば、枯れ木が風で揺れている様に遭遇した。昔は枯れ木の存在が嫌だった、葉の無い枝が痩せ細った腕のようで、自分を手招きするかのように揺れるからである。子供の頃は枯れ木の揺れる様を見て、母に寄り添ったものだ。

 

 

「……母さん……」

 

 自分の抱き締めるように、肩を手で掴む。それで気付いた、自分はまだ震えていたのだ。

 先程の浮遊感の中を思い出す、暗闇の人影……あれは間違いない、父だ。父が不甲斐ない自分を責めに来たに違いない。ラスコータはそれに恐怖し、震えているようである。

 

 

「…………あはは」

 

 自嘲気味の小さな笑い声が浮かんで消えた。再びラスコータはシルヴィの部屋の扉を閉めて、向かい側の自室に入り込む。

 ラスコータの書斎は、机が一つに本棚が四つ。三つの本棚には医学の専門書がビッシリ詰まっており、残り一つの本棚には趣味で集めた小説や医学書以外の専門書などが並べられる。知的な感じの、少し狭い程度は普通の書斎である。

 

 

 机の前に置かれている安楽椅子にふらふら座った。だが足は投げ出さず、椅子の上で膝を抱えて腰を曲げ、丸まった。椅子の上で彼は暗い中で、また寒がるように震えている。先程の浮遊感の続きをしようとでもしているのだろうか。

 

「父さんは……何もしてくれなかった……母さんは、遠くに行った…………誰か僕を…………」

 

 ブツブツと呟き、腕の中に顔を埋めて、彼は泣くような声で絞り出した。シルヴィとの初対面にて浮き彫りになった自身の無力さと弱さ、そして寂しく虚しい自身の『忌まわしい過去』のフラッシュバックが、今の彼の浮遊感を作り出している事は言わずもがなであろう。

 

 

 

 

 暫くは嘆きと共に震えていた彼であったが、夜の深まりと比例して眠気に落ちて行き、彼自身も自覚がない内に眠りに落ちていた。書斎には儚い寝息が聞こえている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日が差し込み、ラスコータの顔へと漂着した。敏感な彼は光の享受に反応して、瞼をゆっくり開く。

 外は朝霧に包まれていた、窓の淵が朝露で湿っている。ラスコータは曲げていた腰を伸ばし、抱えていた膝を椅子から落とす。清々しいとは全く思えない、まさに霧に包まれたような不明瞭な感情の朝だ。

 

 

 今は何時であろうかと、ラスコータはポケットに手を向かわせるが、懐中時計はリビングに置きっ放しではないかと思い出す。とは言え書斎には医大卒業時に贈呈された置き時計があるので、それを見たら良い。

 時刻は六時四十分、診療所を開ける時間はまだまだ先だが、起床には妥当な時間だろう。ラスコータは椅子から立ち上がった。

 

「おとっ……」

 

 立ち眩みを催し、固まった身体が言う事を聞かないので倒れかけたものの、机に手を置き身体を支えた。無理もない、体勢を変えずに眠ったのだ、感覚は鈍るだろう。それに彼は低血圧であるのか、朝が苦手だ。

 

「………………」

 

 窓から外をポーッと眺め、昨日の事を思い出す。

 そうだ、自分はシルヴィを引き取ったのだ。そしてつい六時間前は、弱い自分をとことん糾弾した。思い出しただけで胸にドロドロとした感覚が宿る、思い出さないようにした。

 

「……うん」

 

 ポツッと一人で返事をすると、まだ起きぬ脳で必要最低限の指令を身体に飛ばし、足腰動かして書斎から出た。

 

 

 書斎から出ると、手前の部屋の扉が目に入る。シルヴィの部屋だ、まだ寝ているのだろうかと、ラスコータは確認しようとした。扉を開けて中を覗く、ベッドの上の毛布には膨らみが無かった。

 

 

 

 

「おはようございます、ご主人様」

「いぃぃい!?!?」

 

 突然の背後からの声。

 声は大きくなく、か細いまでの声量であったものの、無音の朝の中での不意打ちと言う訳で、神経質なラスコータはこれでもかと言う程大袈裟に驚き、飛び上がった。

 急いで振り返ると、そんな彼の様子に驚いているシルヴィの姿を確認。

 

「す、すいません! や、藪から棒に話しかけてしまいまして……」

「…………い、いや、へ、平気ですよ……お、起きていたんだね……」

「は、はい……その、寝付け無かったもので……」

 

 寝付け無いと言う所でラスコータは妙な違和感を覚える。劣悪な状況下から劇的に良くなったベッドの上で、寝付け無いのかと思った。だがそれは、ここでの生活に慣れていないであろう不安からだと、ラスコータは解釈した。ラスコータも大学寮に入り立ての頃は不眠症に陥りかけたものだ(ジョニィとの出会いにより改善)。

 シルヴィの心情と昔の話を思い出したラスコータの脳は、さっきの驚きも相まって目覚めている。

 

 

「……おはよう、ございます。その……」

 

 朝の挨拶をしつつ、会話のネタを探そうとしていた彼は、自分が空腹であると気付いた事で話しかける事が出来るのだ。

 

 

 

 

「ちょ、朝食に致しましょうか?」

 

 シルヴィは「はい」と返事をし、コクンと首を縦に曲げるのだった。



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安寧は感じるのかな。ONE

 朝食はまた、パンとミルクセーキと言う、昨晩と何も変わらないラインナップだ。まさに独身で食の執着が無い男性の、典型的な現象だろう。

 ラスコータはそんな朝食に対して申し訳無く感じ、昨日同様に彼女の表情を伺いながらの、気まずい食事となった。

 シルヴィは例え昨日と同じ物としても、それまでの劣悪な生活と比べれば御馳走と言っても誇張表現ではあらず、不満なんか毛頭も持っていないだろう。だがラスコータの捻くれた心は、勝手に彼女の心中を深読みし、勝手に居た堪れない気分になってしまう。

 

 

(……今日の昼に、買い出しに行こう。行かなきゃ)

 

 

 パンを頬張りつつ、そんな事を考えてながら、またちらりとシルヴィを見やる。

 

 

 

 

「くしゅっ!」

 

 

 と、同時に、彼女から小さなクシャミが聞こえて来た。

 

 

「あ……」

 

「あ、も、申し訳ありません!!」

 

「え? あ、いえ! 大丈夫……ですよ!」

 

 

 互いが互いを見上げているかのような、奇妙な関係だ。クシャミ一つでここまで澱んだ気分になれる物なのかと、ラスコータは彼女と自分の心に根付く、お互いへの恐怖心に呆気さえ覚えて来た。審問官を前にしたような緊迫感と窮屈さは、思ってはいけないのに「シルヴィを引き取らなければ良かった」とふと考えてしまう。

 

 

 突沸した邪険を、ラスコータは押し隠すようにミルクセーキを飲み干した。心なんて誰にも見えないし晒せないハズなのに、それをまた隠そうとするのだ。

 

 

 ともあれ彼のその罪悪感は、彼女とのコミュニケーションに繋がったようだが。

 ラスコータはシルヴィに話しかけた。

 

 

「風邪でも、引きました?」

 

「え?」

 

「いえ、大丈夫なら、良いんですけど……ね? クシャミ、していたから……さ、あっ!」

 

 

 ストーブは点けているからと思っていたが、ハッと彼女の服装に気付き、風邪の心配から服装の心配へとシフトする。なんて言えど、彼女の服装は昨日より、汚れたボロ布のようなワンピースでは無いか。

 傷口に何かしらの劣等感があるハズなのに、敢えてそれを曝け出しているような薄い服装。冬場であるのに、ストーブは点けているからと言ってもこの薄着では寒いだろうに。

 

 

「ふ、服とか買わなきゃ! そ、そんな軽装じゃ、寒かったよね! ご、ごめんね、気付けなくて……き、気付けないのがおかしいんだけど」

 

 

 パンを持ったまま狼狽えるラスコータを前に、食事の手を止めてシルヴィも謙る。

 

 

「ご主人様、あの……私はこれで十分です……ので、その、お気になさらないでください」

 

「そ、そうですか……いや! そうですかじゃあなくてね!! も、もっとちゃんとした服着ないと、その! 衛生面もあるし、すぐ駄目になっちゃうし、特に下着なんてずっと同じ物とか考えられないでしょ……う、ね?」

 

 

 途中で自分は何でこんな、力説しているのかと恥ずかしくなって来た。朝から懺悔に罪悪感に羞恥心と、負の感情の行進だ、こんな心が吹き荒むような朝は久し振りな気がするほどに、清々しさなんて言葉の無い朝だ。

 

 だが衛生面とかの問題は、その通りだと自覚している。汚れた服やらは病気の元になるし、細菌の温床になる。強いては、垢の付着と汗など、気持ち悪い要素しか無いだろう。

 特にシルヴィはまだまだ年端も行かぬ女の子だ、身嗜みを大切にするべきだと……これもまた恥ずかしくて言葉にする訳にはいかない事を考えてしまった。

 

 

 

 

「あの……その……」

 

 

 恥と使命に駆られるラスコータの前で、言い辛そうにシルヴィは肩を揺らしながら話す。

 

 

「どう、どうしました?」

 

「その、言い難い事なんですが」

 

「うん」

 

 

 ちらりと、いつもの申し訳なさそうな上目遣いで、ラスコータと視線を合わせる。

 

 

 

 

「下着……」

 

「下着?」

 

「……ない、ですが」

 

「んん!?!?」

 

 

 驚きの余り、椅子から転げ落ちそうになってしまった。手の上で転がしていたパンを落としかけ、慌てて掴み直し、まずは深呼吸。

 

 

 

 

 こんな薄いワンピースの下は裸とは、良く昨日はあんな寒い夜の中を素足で歩けていたものだと、関心に似た気分が湧く。いや、そんな関心よりも、下着を穿いていない事に対するインパクトが大きく、そちらの方に気分が向いてしまった。

 

 

「し、下着が、無いのかい!?」

 

「お食事中に、品の無い事を話しましたが……前のご主人様に支給されたのが、これだけでして。申し訳ありません」

 

「い、いや、その程度は……し……そそそ、それよりも……あぁ、参ったな……」

 

 

 下着が無い事に関し、ラスコータは医学的な側面から心配してしまう。

 特に下半身は冷気に対しデリケートであり、下着の有る無しで病気の罹患率が上下する事を知っている。そんな状態では、シルヴィはもう明日にでも風邪を引いてしまうぞと、危惧していた。

 

 

 しかしあの商人め。シルヴィを商品としか見ていなかったとは言え、きちんとした服装ぐらいは整えておけと、内心で悪態吐く。そもそも今になって考えれば、自分は彼の恩人なのに、面倒事を押し付けられただけではと考え始める。いや、『では』では無く『そうなんだ』であろう。ああ言う商人はずる賢い。

 

 

 

 

 そう言えばあの商人から貰ったお金があった。午前の診察の後に、そのお金で買い出しついでにシルヴィの服を買い与えるのも良いだろう。

 

 

「……えと、その……」

 

「……? ご主人様?」

 

「君が良ければだけど……正午からさ、街に行きませんか?」

 

 

 シルヴィは小首を傾げた。

 

 

「街……で、しょうか……」

 

 

 自分の腕にある傷跡を横目で見た事を、ラスコータは見逃さなかった。それもそうだ、こんな醜い傷の残った肌を晒して歩くものなら、行き交う人々の好奇心と畏怖を誘うだろう。彼女は軽蔑と奇怪の目な晒される事は自明の理であった……特にあの街の高飛車な連中は、容赦無しにそのような厳しい目を向けてくるハズだ。ラスコータにさえ嘲笑を見せる、嫌な奴もいるほどだ。

 

 

 しかしラスコータ自身、だからと言ってシルヴィを家に置いておく事もどうかと考えてもいた。

 折角の自由の身だ(本人はそうとは思っていないだろうが)、傷跡が云々でこっちが気を利かせて、家にて留守番させていても、それは結局行動を縛っている事に他ならないだろう。

 

 言えど、シルヴィにとったらそっちの方が大助かりと思い、こんな考えは自身のエゴでは無いかと、また意地悪な自分が囁く。

 

 

 

 

 それでも彼女には是非、世界を見てもらいたい。らしくも無いとは思いつつ、そんな考えをラスコータは抱いていた。

 

 

 

 

「……あ、あ、あの……」

 

 

 その思いを、ラスコータは突然に話したくなった衝動に駆られたようだ。

 

 

「は、はい」

 

「君は、僕より十以上も年下だ……まだまだ、少女なんだ。それで……えとね、その……」

 

 

 これまでの凄惨な奴隷生活に、触れるべきか触れないべきかで一瞬だけ葛藤し、気の弱い彼は遠回しに言うと決める。

 

 

「…………そう、まだ若いんだしね。えぇと……年相応の女の子は皆、街へ買い物に行くもんだよ」

 

 

 遠回しにする事を選んだ事で、「自分は何を言っているんだ」と恥ずかしくなって来た。年相応の女の子は買い物好きとは、固定概念も良い所だろうに。言えど女性経験なんて三十年間皆無だ、今だって女性と言うものを分かっていない。肉体的な意味では医者として理解しきっているのだが。

 

 

「……そう言う、ものなんですか?」

 

「え、えぇ……じょ、女性の友達はいないけど……多分、そうだよ」

 

「でも、私は……あの、他の方々から先生へのお目汚しにならないかが……」

 

「………………」

 

 

 傷跡が彼女の心に足枷をかけたようだ、傷跡が彼女に呪いをかけたようだ、傷跡が彼女に羞恥の烙印を付けたようだ……彼女は一体、何をしたと言うのだ。

 望まれたからこそ生を得たハズなのに、何の権限があって彼女の心を蝕めると言うのか。シルヴィの傷跡は現代医学では決して治らない、治せない……一生背負い続けるだろう。

 

 

「僕なんか、気にしなくても良い……よ。何も……」

 

 

 口籠るように喋ったから、シルヴィに聞こえたかは微妙だ。

 だがラスコータ自身、少しずつ彼女の方へと歩み進めていた事は事実であった。三ヶ月前にあの男を助けた時のような、医者としてのアイデンティティがまた、暗い地中を裂いて芽吹いたようだ。

 

 

「……流石に、下着は買わないと、ね。あ、あと、そうだ、昼食は外食にしよう。あと、紹介したい友人もいるけど……こ、これはまた今度になるかなぁ」

 

「……付いて行っても、よろしいのですか?」

 

「構わないよ!……お昼までは待機、だけどね」

 

 

 ラスコータは懐中時計を見る。時刻は八時前に差し掛かる。

 

 

「……開院まであと一時間だね」

 

 椅子からゆっくりと、立ち上がった。

 

 

「シャワーを浴びて来るよ……あ。使ってみる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蛇口を捻ると、シャワーヘッドから水が雨のように降って来る。突然の冷水に余裕を持っていなかったのか、小さな悲鳴をあげた。ガスに火が付いたとは言え、お湯になるまで少しかかる。

 自分の髪が水を吸って、てらてらと輝き出す。水を浴びたのは幾日ぶりだろうかと、ぼんやり滴る水の粒を眺めていた。

 

 

 

 

 遠慮したものの、ラスコータは彼女から先に入って貰った。新聞屋が来るからとか、薬品の整理をしてからとかと言って勧めたのだ。あの特徴的な吃りと、気を伺うような遠慮がちな声が記憶に残っている。

 

 

「………………」

 

 

 シャワーを浴びるシルヴィは、自身の右肩から腕、そして左の脇腹に左手首……の、赤く醜く溶けて肉が盛り上がった傷跡を眺めた。裸になった自分の身体、傷跡を眺めていると、あの時の痛みが蘇って来そうで、すぐに目線を逸らしてしまう。

 

 

 

 

 代わりに頭に浮かべたのは、やはり新しいご主人様であるラスコータの事だ。

 今まで出会った人間たちとはまた、変わった人間である。こんな自分なんかに、彼は怯えを見せていた。奴隷の自分に、だ。

 

 

 

 

 だけれども、急いで食事をしようとする自分を窘めた時、街へ出かける旨を話した時に、その怯えは何処かへ消えて、代わりに輝かしい光が目に宿ったように見えた。分かりやすく言えば、生き生きとしていると言うだろうか。

 

 不思議な人だ、こんな自分を丁重に持て成すとは。医者らしからぬ傷んだ黒髪と、黒ずんだ目、痩けた頬の線の細い男。自分同様に、希望の色を覆い隠したような目が思い出される。

 

 

 時に、そのベールを剥いで、落ち着いた余裕のあるもう一人の彼がやって来るのだ。奇妙な二つの顔が、同居している。

 

 

 

「………………」

 

 

 ぼうっと、シャワーの穴々から零れ落ちて来る水を顔に当てたまま、その状態でシャワーヘッドを見上げる。

 細やかな粒が皮膚の表面に当たる、こしょばゆい感覚を感じながら思考を巡らせた。

 

 

 

 

 時に、感覚の途切れを実感する。

 左半分は感じる水の流れを、右の頬はとても鈍く感じられる。痛い痛いを与え続けられた神経が、疲れ切ってしまったのだろうか。全て、傷跡の部分はまるで膜でも貼られているかのように、感覚が鈍い、そしてチクチクする。

 

 

 

 

 もうこの傷は治らない、どうしても治らない、死ぬまで治らない……いや、死んでも治らない。

 生々しいこの傷は罰だ。不甲斐無い自分への罰なんだと考え直し、醜い自分を卑下して傷跡を正当化して、心の安寧を保とうとする。前のご主人の言い付けが脳内にこびり付いているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

『皮膚は所詮、仮面でしか無いのだ』

 

 

 視界が暗く染まり、見覚えのある闇の中へ落ちた。

 首に首輪が付けられ、自分の他に、隣にずらりと一人二人三人……の、少女たち。向こうの四人ばかしはぐったりし、微動だにしない。

 

 

『人間の本質は、顔なんかでは無く……そして肉体なんて物質的なものでは無いんだよ』

 

 

 暗闇の中で、大きな大きな人影が、自分で腰を下ろした。

 勿論、逃げられない。首輪には鎖がかかり、それは天井に繋がっている。鎖は張られており、首を下げる事は出来ない、嫌でも人影を見なければならない。

 

 

『本当の自分を見た事あるかい?』

 

 

 人影は、燃えるような目で睨んだ。

 

 

『本当の自分は何だと思うかい?』

 

 

 人影の口角が、歪に持ち上がった。

 

 

『本当の自分に会ってみたいかい?』

 

 

 人影が何か透明な管を見せ付けた。

 

 

 

 透明な管はスポイトだ。中に注入されている液体を、自分は知っている。

 とても怖いもの、とても恐ろしいもの、とても痛いもの、とてもとてもとてもとても…………とても言葉に尽くせないもの。

 

 

 

 

『人間は追い詰められた時、限界に陥った時、初めて獣を見せるのだ。理性生物だと思っている人間の、誠の部分だよ』

 

 

 

 

 スポイトの先が、右目の上の額に当てられた。

 

 

『どんな絶世の美女でも、叫びと言うものは醜いものだ』

 

 

 そしてゆっくりゆっくりと、空気の溜められたゴム状の袋を、摘まれた指で圧迫して行く。

 スポイトの中腹にあった液体が、出口の方へズズズと、進んだ。

 

 

 

 

『叫びこそが、人間の本質なのだよ。君の獣を聞かせておくれ?』

 

 

 

 

 液体が先端から、額に当たる。

 肉が溶ける、鈍い音が鳴る、神経が焼き切られるような痛みが支配する。口を裂ける寸前まで開き切り、腹からの苦痛を吐き出した。

 

 浴びた液体が熱くなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 シャワールームから響き渡る悲鳴に、薬箱を運んでいたラスコータは身体をビクつかせて反応した。

 箱の処理に少しもたつきながら、結局は廊下に置いてシャワールームに直走る。

 

 

「どどどどど、どうしました!? な、な、ななな何ですか!?」

 

 

 真に迫った叫びだった、何かあった事は明白だ。中には少女がいるだのと言った考えなどを浮かべる間も無く、ラスコータは扉をこじ開けた。

 

 

 

 

 シルヴィがシャワーのお湯から逃げるように、裸のまま部屋の端でガタガタと膝を曲げて蹲っている。その震えは寒さから来たものでは無いと、ラスコータには分かった。

 

 見開かれた目、ラスコータの耳にまで聞こえてくるほどの歯軋りに、傷跡に手を叩き付けているその様に絶句してしまう。

 

 

「だ、だだ、大丈夫かい!?」

 

 

 濡れるのを気にせず、シルヴィの傍まで駆け寄り肩を掴む。彼女と目を合わせたのだ。

 

 

「な、何か、何か、何があったの!? ええ、ええとええと、ごめんね! か、か、か、勝手に入ったけど!! いや、そんな事より、こんな震えて……!!」

 

 

 シルヴィに顔を近付けた時に、彼女の口から漏れるように、声が聞こえた。

 

 

 

 

「熱い、痛い、痛い……やめて、痛い、痛い痛い痛い痛い、怖い怖い熱い熱い熱い…………」

 

 

 悲痛で痛ましく、絶望に満ちた声である。

 

 

「……ッ!!」

 

 

 ラスコータはすぐに蛇口を閉めてシャワーを止め、脱衣所からタオルを持って来て彼女の身体を包んだ。裸体のままだった為、一枚では寒いかと二枚三枚と重ねている。

 

 

「た、立てるかい!? 支えてあげるよ、ほら! き、君の部屋まで!!」

 

 

 膝が壊れたように震える彼女を何とか立たせて、支えながらシャワールームを出て行く。

 

 

 

 

 その間のラスコータはひたすらに自責の念に打ちひしがれるばかり。軽薄だった、まさかお湯からトラウマを引き起こしてしまうとは、完全に予想外だった。

 目を合わせた時の、彼女の目が想起される。絶望にドス黒く濁り、瞳孔が死者のように開き切った、錯乱の目。人間の感情が持てる負の部分を全て表現したかのような、深淵の目。凡そ人間とは思えない、修羅の目……ラスコータは彼女の目を、一生忘れる事は無いだろうに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暫く経って、シルヴィの部屋。

 ホットミルクの入ったカップを両手で持ち、口に運ぶ。服はブカブカであるが、ラスコータのシャツを着ていた、元の服は汚いからと思ったまでである。

 ベッドの上に座り、ミルクを飲んで一息。隣には、椅子に座って心配そうに見ているラスコータの姿があった。

 

 

「……落ち、着いたようだね……」

 

「………………はい」

 

「……良かった……」

 

 

 時刻は十時を過ぎていた……開院時間をとっくに超過してしまったが、今日はいつもより少し遅く開ける予定だ。一先ず、彼女が落ち着くまでは開ける訳にはいかないだろう。

 

 

「ご、ご主人様、あ、あの……私……!!」

 

 

 カップを握る手が微かに震え出す。湯気を立てたミルクに波紋が起こった。

 彼女の目には絶望と申し訳無さがこれでもかと、押し出されている。その視線を受けたラスコータは逃げるように目を逸らした後に、諦めたかのようにシルヴィと向かい合った。

 

 

「……シャワーの水を……その……薬品と連想してしまったんだね……」

 

「も、申し訳、ありませんでした……!」

 

「……いや、僕の方だよ、謝るのは……シャワーを勧めた僕が……」

 

 

 口から酸素を吸い込み、鼻から吐き出した。冷静を装っているが、本当はラスコータの方も錯乱寸前である。

 頭の中は何も考えられていない、ただ炸裂した光が広がるだけだ。何が彼女の為だ、結局は彼女を苦しめたでは無いかと、悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。

 

 神経質に頭を掻き、わざとらしく作ったぎこちない笑みを何とか繕い、平気だと言う事をアピールする。最もタイミング良く彼女はホットミルクにまた口を付けており、情け無いその笑みを見る事は無かったのだが。

 その隙に彼の笑みは枯れ、神妙な面持ちへと変わる。

 

 

「街は……今日は、やめておきましょう。君も疲れただろうね……昼から少し留守番して貰うけど、今日は休んだ方が良いよ」

 

 

 仕方ない。

 シルヴィの精神状態は、さっきの一件でかなり悪化している。肉体的な疲労と精神的な疲労は次元が違っており、特に後者はとてつもない疲労感を与える。不思議な事だ、一時間働き詰める時と、一瞬の間に起こる精神的苦痛は同等の疲労となる訳だ。人間と言うのは高度な脳を持つだけに、割りに合わない作りとなっているようだ。

 

 特に感情やら心に関しては、誰も抵抗出来ないだろう。申し訳無さに押し潰されてしまいそうなラスコータは、ついついそんな事を考えていた。

 

 

 彼の提案に、彼女は「はい」と承諾する。少し窶れてしまったようだと、見ていて辛かった。

 

 

 

 

 あぁ、僕は彼女から笑顔を引き出せられるのだろうか。いや、こんな不甲斐ない僕になんか、とても無理だ、無理だ無理だ……否定的な自分が顔を出し、芽吹いた希望を踏み折った。所詮自分はそんな存在何だろう、こんな程度だ。

 彼女の為が今後、裏目に出そうで、深い後悔が彼の心を土足で踏み分ける。

 

 

 街へはとても行けない、また彼女の琴線に触れる事があってはならない。今は家の中だったから良いが、街中で起きてしまったら、今度は今以上の心の傷を、彼女は負ってしまう。

 そんな事はもうあってはならない。当分は、療養に努めるべきだろう。ラスコータはそう結論付け、椅子から立とうとした。

 

 

 

 

「………………」

 

 

 この話は終わった。終わったんだ、さぁ立ち上がろう。診察を開始しよう。

 彼の頭はそう命令を下した。下したのに、何故か身体は脳に逆らっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当に良いのか。鬱屈な表情の、痛んで病んだシルヴィを見て、心の淵に何か湧き上がる物があった。

 ラスコータは考え直してしまう。

 

 

 そしてこの『考え直し』が、彼を突発的な行動を起こさせてしまったのだ。

 

 

 

 

「……い、いや! こう言う時こそ、気分転換ですよ!!」

 

 

 さっきまで思いもせず、そして自分でも何を言っているのか分からない事を、口走っていた。

 シルヴィの愕然とした表現が目一杯に広がっている。

 

 

「え、え? ご、ご主人様……?」

 

「ま、街に出たら、気分も晴れるもんですよ!」

 

「でも、さっき……」

 

「服を買いましょう、お昼ご飯を食べに行きましょう……市場を、一緒に見て回りましょう。今晩の献立を考えましょう」

 

 

 ラスコータの脳は、黙らせるように警笛を鳴らした。なのに口は止まらない。

 

 

 

 

「……大丈夫。医者の僕が言うんだ……」

 

 

 

 

 そこまで言った時に、やっと足に力が入る。

 勢い良く立ち上がった為に、シルヴィを怯えさせはしたが、ラスコータは自分の事で頭がいっぱいだ。

 

 

「そ、それじゃあ、仕事に行って来るよ……診療所は空けられないから、ね」

 

「……ご主人様……」

 

 

 飲み干したカップをベッド横に置いた小テーブルの上に置き、恭しく頭を下げる。

 

 

 

 

「……お心遣いに、感謝致します」

 

 

 シルヴィからの、やはり機械的な感謝文。まだ、心は開かれない。

 

 

 ラスコータはその感謝を、手を振って応答し、足早に部屋から出て行った。背中から、彼女の視線をずっと受けながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋を出て、廊下を歩く。

 頰を右手で掻き毟りながら、彼はぶつぶつと呟いていた。

 

 

「僕は一体、どうしちまったんだよ……! あんなの、僕じゃないよ……!!」

 

 

 いきなり出て来たもう一人の自分に困惑しながらも、足にガツンと何かが当たる。

 置きっ放しの薬箱が目に入ったのだった。




「最近見かけるこの奴隷ちゃんが可愛くて仕方ない……なんて検索すれば良い?私も購入しよう」
「奴隷との生活teacing feel院g」

この花京院クソコラもう許せるぞオイ!


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安心は得て欲しいな。TWo

お久しぶりです!
久々に『奴隷との生活』を最初からしてみたら、シルヴィが瞬きするわ、リップシンクするわ、進化しまくりで泣きました。


 時計の針は正午を越した。 四時までの休止が始まるのだが、ラスコータは気が気で無かった。

 これから、シルヴィと街へ赴くのだ。

 

 

「……ど、どうしたものか」

 

 

 診察を終え、椅子にぐったりと凭れる。午前は六人しか来なかったなと、火車状態の院内経理も頭を悩ませる。ここに来て悩みの種が増えてしまったと、仕事終わりという事もあってか酷く疲れ果てていた。

 

 

 

 それよりも目下の悩みは、シルヴィだ。

 風呂内で心因症状を引き起こしていた彼女を、連れ出して良いものか。だが彼は、自分勝手に行くと決めてしまったし、それをシルヴィに言ってしまった。今からシルヴィの元に行き、「やっぱり休んでください」と言うのも可能だが、気の弱いラスコータには重労働に他ならないだろう。

 

 

 何故、自分は彼女を誘ったのだ。頭を抱えて、長い溜め息を吐く。唐突に彼を突き上げた、シルヴィへの情があのような暴挙に繋がったのかと、自己分析に耽る。

 しかし考えれば考える程に時間は過ぎ行き、うかうかすれば昼休みは終わりそうだ。迷うべきは今では無いのではないか。

 

 

「い、行くしかないかな……でで、でも、女性用のコートなんてないし……」

 

 

 今日も外は寒空であり、吹き荒む風の強さが宙を舞う枯葉で察する事が出来た。

 寒い上に風が吹いている、余計に寒い事は誰で分かる。

 下着は自分の物を履かせたとは言え、ウエストが合っていない。ブカブカの薄着で外に出すなんて拷問だろう。傷を隠させる為にも、自分のコートを貸してあげるべきか。

 

 

「…………そう言えば靴も無かったんじゃ……」

 

 

 シルヴィは裸足でやって来た事を思い出した。自分の靴は流石に、彼女には大き過ぎるだろう。

 サイズが小さな靴ならば、夏用のサンダルがあったと気付くが、寒い中では厳しい。長靴を見つけたので、それを履かせる事にした。

 

 

 ここまで彼女の身の回りを整えようとして、ラスコータはつくづくあの商人へ苛立ちを覚えて来る。

 ラスコータ自身は決してこんな表現はしたくないが……彼女を商品として売るにせよ、それなりのメンテナンスをするべきではないか(メンテナンスの言葉自体は心理学の世界で使われる)。

 

 

 

「……あっ! あ、アレを使おう!」

 

 

 マフラーを手に取った時、客の忘れ物があった事を思い出してタンスを開く。

 灰色のレインコートではあったが、子供用でシルヴィに合うだろうし、無いよりマシだ。もう放置されて一年経つし、私物にしても良いハズだろう。

 

 

「レインコートに、長靴に、マフラー……よ、良し。揃えた」

 

 

 それら三つを抱えながら、彼はシルヴィの部屋へ戻った。

 両手が塞がっている為、扉をどう開けようか迷ったものの、部屋の前で動いていた音をシルヴィが聞き取り、向こうから開けてくれた。

 

 

「ご主人様、それは……?」

 

「レインコートと、長靴とマフラー……え、えと、長靴とマフラーは僕の物だけど……さ、さ、さあ、羽織って!」

 

「え……?」

 

 

 長靴を床に落とし、困惑するシルヴィにレインコートを着せる。サイズはジャストだ。

 続けて細く白く、生々しい傷痕のある首にマフラーを巻いてやり、足元で長靴を立てる。子供が患者の時が多く、こう言うのは慣れてしまった。

 

 

「よ、良し。じ、じゃあ、行こっか」

 

「……本当に、街へ?」

 

「い、行きつけのカフェとか、市場とか、た、沢山あるからさ! さ、さ、寒いけど、レインコートじゃ、厳しいかもだけど……」

 

「………………」

 

「だ、だから、その、服屋とかで、下着とか揃えようよ。お、お昼も食べたりさ……」

 

 

 シルヴィは呆然とラスコータを眺めている。

 挙動不審な所を見ているのか、自分に優しくする彼を不思議がっているのか、どちらもかは分かりかねる。

 ただ何にせよ、変に思われている事だけは確かだろうか。

 

 

「……良いんですか?」

 

「う、うん。さあ、早く長靴に履き替えなよ……またお昼越したら仕事だから、時間が無いし!」

 

 

 ラスコータはどんどん彼女を促し、長靴を履かせた所で背中を押して部屋から出した。

 それまでの行動全てが、油の足りない歯車のようで、何処と無く危なっかしい。挙動の一つ一つが、瞬時の思考で動いているかのように。

 

 

 シルヴィが玄関に出るまでに、ラスコータも身支度を済ます。上着掛けにあるコートと帽子を取るだけなので、すぐに出掛ける用意は出来たが。

 

 

「財布も持った……あれ、と、時計がない……」

 

「あ、あの……ご主人様……?」

 

 

 上着のポケットを弄り、時計を探すラスコータ。

 そんな彼へシルヴィは遠慮がちに、教えてくれた。

 

 

 

 

「上着の下の、セーターのポケットかと……」

 

「え? あ、えっと……あっ、あった!」

 

 

 懐中時計を探し当て、それを上着のポケットに入れた後にラスコータは扉を開けてやる。

 寒風が入り込み、顔を思わず顰めた。振り返ると、寒そうに両手をギュッと握るシルヴィがいる。

 

 

「街に……さあ、行こうよ」

 

 

 手を外へ差し出し、彼女へ先を譲る。

 ジョニィから学生時代に教わった、『レディー・ファースト』の基本だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シルヴィは首に巻いたマフラーで口元まで大きく隠している。

 やはり傷痕が強いコンプレックスなのだろうか。まだ誰もいない田舎道だと言うのに、既に辺りを憚るような仕草で歩いていた。

 

 

 対するラスコータもまた、彼女と同じ気分だ。

 シャワールームの時のように、何かの拍子でシルヴィが混乱しないかと不安で仕方ない。街中で起きれば、どう対処すれば良いのやらと、最悪の事態の予想を延々繰り返していた。

 

 

 しかし思えば、シルヴィはあの商人に連れられ、色々と転々歩かされたハズだ。そんな易々と混乱しないとは思うのだが。

 

 

「………………」

 

「………………」

 

 

 風と土を踏む音しかない。人間同士の会話は無く、その点のみを音としてあげるのならば、これは沈黙だろう。

 何か話さなければと、彼は辺りを見渡して見た。何かの取っ掛かりがないと、会話が難しい性のようだ。

 

 

 左手の方、畑の向こうの方に、教会が見える。

 ラスコータはあそこを指差し、シルヴィに話しかけた。

 

 

「あ、あの教会が見える?」

 

「教会……ですか?」

 

「うん……あそこの教会、庭が凄いんだ。何が凄いかって言うと、花だね」

 

 

 話し下手な人間と言うのは、自分の知識を語る事は得意だ。それは『会話をする』と『説明をする』とは、別の思考だからだと思われる。台本が無いのと、台本があるとの違いだろうか。

 

 吃らず、声のトーンを落とさず、彼はゆったりと話しを続ける。彼が話したかった内容だ。

 

 

 

 

「教会の西側は蔦が這っているんだけど、それは『クレマチス』なんだ。クレマチスと言うのは、この時期に咲く紫色の花の事だね……蔦が上へ上へ登って所々に花を咲かせる。頂点は丁度、ステンドグラスの下に留まっているから、まるで昇天を表しているって、好評だよ」

 

「……それは、あの、すみません、想像が出来なくて……」

 

「でも一目見たら、一生忘れられないと思う。絡み合って、壁を掴みながら、それでも咲いて……天国を目指す。苦難と、昇華と、到達……」

 

 

 ラスコータは振り向き、シルヴィに横顔を見せて微笑んだ。

 

 

「……まるで人生だよ。輝くような……」

 

 

 僕とは違って。

 それだけは彼女の前で、決して言わなかった。

 中途半端な形で話を切った為、シルヴィからは怪訝な目を向けられる。しかしここからは、話を考えていなかった。

 何を話そうか迷った挙句、話を振る事にするしかなかった。

 

 

「え、えっと……き、君……教会に行った……じゃなくて」

 

 

 まず行った事はないだろうと考え直し、質問を切り替える。

 

 

 

 

「……神様とかって、信じている方かな?」

 

 

 言った後に、心底自分を恥じた。

 こんな哲学的な話しか自分は出来ないのかと、頭を抱えてしまいたかった。

 

 昔から世間に疎く、興味は専ら、自分の内面だった。あれこれを夢想したり、想像したりするのが好きな人間だった。だから彼の好きな話題はずっと、答えのない学問……哲学、神学、心理学、天体学、占星学……これらを趣味として、関連書籍を集めていたりするほど、好きだった。

 

 そんな彼が医者になったのは、当然だったのかもしれない。人体は未だ神秘的な面が多く、最近になってやっとドイツの医者が人間の脳波を確認したほどだ。つまり人体ほど、身近で未知に溢れたものは無かった、答え無き領域。そこに踏み入る事は確かに楽しかっただろうし、だからこそ医者にもなれたと認めざるを得ない。

 

 

 

 話を戻す。

 ラスコータのその、「神を信じるか」と言った答え無き質問を藪から棒に突きつけられ、シルヴィは困惑していた。

 流石に話の展開としては頭が悪過ぎたかと、後悔しながら変更しようとする。その時に「クレマチスの話の方が良かった!」と閃いたが、これこそ『下衆の後知恵』だろう。

 

 

 話を変えようと考える最中、シルヴィは答えてくれた。

 

 

「神様は……信じるかは、違うと思うんです」

 

 

 その答えにラスコータは驚き、足を止めて振り返る。

 

 

「……神様は……誰にもなれる者です。自分の作った世界に、人を従わせられる人がそうだと思うんです」

 

「……!」

 

「……私にとって、前のご主人様は『神様』ですか。信じなきゃ、いけなかったのかもしれません」

 

 

 二人の目が合う、風が吹き始める。

 

 

 

「……目の前の『絶対』は、信じない訳にいきませんから。神様って、そんな人です」

 

 

 

 

 ラスコータはマフラーと髪との間に見える、闇に満ちたシルヴィの目に釘付けとなった。

 

 

 ああ、これなら、教会に行った事あるのかと聞けば良かった。

 この子にとっての神様は、天の上の不可視かつ不可侵な人物を指すのではない。恐怖を敷き、決して逃げる事の出来ない脅威こそが、彼女の世界であり、その創造神たるは怪物。それでも、信じなければならないほど、彼女の世界は修羅だった。

 

 

 神は信じる信じないのではない、信じるしかない……怪物であっても。

 ラスコータは彼女の意図を知り、絶句してしまう。

 

 

 

「……ご主人様は、信じる神様がいるのですか?」

 

 

 

 その問いで真っ先に浮かぶ、父の顔。

 急いで幻影を振り払い、動揺し、シルヴィから背を向ける。

 

 

「……さ、寒いからね。は、は、は、早く街に」

 

 

 導いているのに、まるで彼女から逃げるようだ。

 それからのラスコータは決して口を開く事は無かったし、シルヴィも黙って彼の後ろを付いてきた。

 

 

 

 車のエンジン音、雑踏、話し声、歌。

 街が見えて来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………うぅ」

 

 

 街に入ると、あからさまにシルヴィの挙動が変化した。

 表面上は落ち着いているものの、目線は頻りに辺りを見渡しているし、傷痕を隠そうと一層マフラーを鼻先まで引き上げていた。

 

 客観的に見れば、晴れの日にレインコートと長靴の姿は異様だっただろうか。行き交う人々は通り過ぎ様にシルヴィを一瞥し、次に従えているラスコータを見遣る。

 

 

「………………」

 

 

 ただでさえ人の視線が嫌いなラスコータ。

 シルヴィと同じように、帽子を目深に被って顔を隠そうと努めた。

 

 

「………………」

 

「……お、お腹空いたね。ま、まず昼食にしよう……」

 

 

 行きつけのカフェ……と、言ったが、少し語弊がある。

 正しくは、行きつけ『だった』カフェだ。学生時代に勉強の為、足繁く立ち寄ったカフェだが、もう六年は行っていない。

 

 

 マスターは変わっていないだろうが、従業員とか変わっているハズ。

 そして六年前と変わっていないのなら、マスターは従業員を放って何処かぶらりと出かける。放浪癖があった。つまり知らない従業員と会う事になるのだろうか。

 

 

 緊張は強いが、シルヴィに「行きつけのカフェに行こう」と言ってしまった。有言実行はせねばなるまいと、高を括る。

 

 

「パンケーキと、サンドウィッチが美味しいんだ。コーヒーも良いよ……マスターのは格別だけど、従業員の中には不味い淹れ方の人もいるから、不在の時は紅茶にするのが無難。夜はバーになるけど……行った事ははないかな」

 

 

 久し振りのカフェだが、店構えは殆ど変わっていない。削れた窓枠も、掠れた黒板の立て看板も、変わっていない。ただドアノブだけ新調したなと、うっすら分かる。

 

 

 

 学生時代の空気を懐かしみながら、至ってリラックスした状態で扉を潜った。鼻に馴染む、古木の匂いが二人を包んだ。

 マスターは大抵、入り口のすぐ前のカウンターに立っているが……今日はいない。また何処か、出歩いているのだろう。

 

 

「いらっしゃいませぇ?」

 

「いっ……!?」

 

 

 応対した女性の従業員を見て、ラスコータは肝を冷やす。

 毳毳しい青の、印象的な服に身を包んだウェイトレス。ただ目元にクマがあり、頭が首の据わらない乳児のようにユラユラしており、一目で危ない人だと気付けた。

 

 

「お二人様ですかぁ?」

 

 

 言動も少し危うい。

 だがこの不気味な店員のせいか、不幸中の幸いながらもカフェは空いている。殆ど貸し切りと言っても良いほどだった。

 

 

 

「……ふ、二人です」

 

「と言いましても〜誰もいませんのでぇ、好きな席で構いませんよぉ?」

 

「……ありがとうございます」

 

 

 挙動と言動は危ういが、接客事態はまともそうだ。客席に促す彼女を抜けて、店内の奥に向かって行った。

 昔から変な人が働いていたカフェ。マスターも変わり者だったので、類は友を呼ぶと言う訳かと、妙に納得している。

 

 

 二人は出来るだけ、店の隅の日陰指す席に座った。例え客が来たとしても、目立つ事はない。

 

 

「ご注文が決まりましたらお呼びくださぁい?」

 

 

 フラフラしながらカウンターの向かいに引っ込み、作業の途中だったのか、コーヒーの焙煎機をメンテナンスしていた。

 その時のがちゃがちゃとした無機質な音しか無いので、彼女まで響かぬようにラスコータはシルヴィへ耳打ちする。

 

 

「……マスターもいませんし、早い目に出ましょう」

 

「え? は、はい……」

 

 

 テーブル中央に置いてあるメニュー表を手に取り、シルヴィに見せた。

 

 

「どれを食べますか?」

 

「………………」

 

「……どうしました?」

 

 

 メニュー表を凝視して固まるシルヴィ。もしや何か、彼女のトラウマに引っかかる文字列があったかと不安になるが……その理由は、悲しく、簡単だった。

 

 

「……すみません……文字が、読めない……です」

 

「……え?」

 

「……教育は、受けていません……ので……」

 

 

 俯き、謝罪する。

 その小さな姿を見た時、ラスコータの心に深い罪悪感と怒りが現れた。

 

 文字すら習わせないのか。

 メニュー表を自分の視界に戻し、彼から読み上げてやる。

 

 

「き、気にしなくても良いよ、しし、仕方ない……じゃあえっと……飲み物は紅茶にしようか。僕はコーヒーでも……」

 

 

 カウンターにいる店員を見遣る。とても美味しいコーヒーを淹れられるとは思えなかった。

 

 

 

 

「……僕も紅茶にしよう」

 

 

 次に食事だが、これも選んでやった方が良いなとラスコータは考える。

 ならば注文は決まっていた。

 

 

 

 

 

「……パンケーキだね」

 

 

 甘い物が、好きな男だった。



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