かちこめ! 花子さん (ラミトン)
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第一部 トイレの花子さん
はじめのいっぽ


 紙をめくる音が鳴るたびに、少女の体は小刻みに震えた。叱られることを怯えているような面持ちだ。

 

「あー。そうね、昔は有名だったね」

 

 頬杖をつく中年の女性が、紙面と少女を見比べる。女性といっても、その顔は赤黒く髪は白髪で、牙まである。彼女が人外の存在であることは間違いない。

 もっとも、少女も同じく人外であるため、そこに驚いたり怖がったりするようなことはない。ただ、女性の少し高圧的な雰囲気が、少女を少し怯ませてしまっていた。

 

「おかっぱに、セーラー服ともんぺ。典型的だねぇ」

「ど、どうも」

「別に褒めちゃいないんだけどねぇ」

 

 鼻を鳴らす女性に、少女はびくりと肩を飛び上がらせた。実を言えば人外のキャリアは少女の方が上なのだが、怖いものは怖いのである。

 なにより、彼女がこの女性――というより、人の住まう地から隠れた場所にあるこの廃屋を訪れた理由が理由であるため、大きな態度を取ることができないのだ。

 椅子に座って面倒くさそうに書類をめくる女性の頭上、天井から吊るされたプレートをちらりと見上げる。『妖怪生活相談所 東京支部』と書かれている札を見るだけで、少女は気が滅入る思いだった。

 

「今はどうなの? ここに来なきゃならないくらい脅かせなくなったのかい?」

 

 突然の質問に慌てて視線を戻し、きっちり揃えられた前髪を揺らして頷いた。

 

「えぇと、子供達に噂されなくなっちゃって、誰も呼んでくれなくなっちゃったんです」

「はぁん。あんだけ全国で引っ張りだこだったのにねぇ」

 

 ペンを取って、女性は慣れた手つきで紙面にペンを走らせ始めた。そちらを直視することができずに、少女は終始俯いたまま、膝の上で小さく拳を握りしめる。

 この女性は一体なんという妖怪なのだろう。そんなことを考えていると、女性がおもむろに呟いた。

 

「でもまぁ、いいタイミングだったかもしれないね」

「え?」

 

 顔を上げてみれば、ちょうど手続きか何かを書き終わったらしい女性がペンを置いて、にんまりと笑っていた。

 

「人間が科学に溺れれば溺れるほど、妖怪はやりにくくなる。お役所仕事の私らはともかく、あんたらみたいに人を驚かして暮らしてる妖怪は特にそうだろう?」

「は、はい」

「実はね、そういう子らを受け入れる郷があるんだよ。そこでは人間よりも妖怪が幅を利かせててね、まさしく一昔前の日本と同じなのさ。お嬢ちゃんが輝けるかもしれないよ」

 

 似合わないウインクなどする女性だが、少女にはその顔すらも輝いて見えた。せいぜいが役所の書記にでも回されるのだろうと思っていただけに、まだ妖怪として人を驚かせるかもしれないという希望は、まさしく神仏から手を差し伸べられるが如き喜びであった。相手も自分も妖怪だが。

 想像に想像を膨らませて、少女は思わず身を乗り出した。

 

「やります、私どこでも行きます!」

「はいはい、じゃあとりあえず、こっちじゃ引退届けだね。私のほうでやっておくから、ほら」

 

 女性が地図を手渡してきた。ここからかなり離れた山奥に、赤い丸がついている。地図上では記号も何もない。ここに一体何があるというのだろうかと、少女は首を傾げた。

 しばらく固まっていると、疑問に思っていることを、女性が説明してくれた。

 

「そこにはね、参拝客がいなくなった寂れた神社があるのさ。そこの鳥居をくぐれば、まぁ結界が云々とか幻想の常識がどうとか色々あって、例の場所に行けるんだよ」

「は、はぁ……」

 

 あまりにも大雑把な説明に、少女は困惑した。そもそも地図自体がかなり適当な出来なので、無事に到着できるかどうかすらも心配になってくる。

 それでも――

 

「……ありがとうございます!」

 

 少女は深く頭を下げた。これが最後の可能性かもしれないならば、やるしかないではないか。

 丸っこい黒目を爛々と輝かせて、少女はボロボロのリュックサックを背負う。地図に目を落として、大体の場所だけを確認した。後は足で探すしかないだろう。

 

「しっかりやるんだよ」

「はい!」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

「ほ、本当にあった」

 

 山に入って一週間。延々歩き続けて、少女はようやくその神社を見つけた。どうしてこんなところにあるのかと不思議になるほど深緑に囲まれており、山道らしいものもなかったのだが。奥に見える本堂にも、人が住んでる気配は感じられない。

 ボロボロの鳥居には『博麗』と書かれている。ここが、件の博麗神社であることは間違いないようだ。鳥居をくぐれば、目的地に辿り着くことができるらしい。

 

「幻想郷、かぁ」

 

 聞いたことのない地名だったが、ずいぶん昔に妖怪の賢者とまで呼ばれる大妖怪が作ったと、相談所の女性が話していた。明治に入った頃に結界で区切られたらしいので、昭和生まれの少女が知るはずもない。

 鳥居に近づくと、なるほどなんとも不思議な力が伝わってくる。神社が神聖なものであるだけに、妖怪の少女としては踏み込むことが躊躇われたが、大きく深呼吸して目を閉じた。

 

「始めの一歩、始めの一歩よ、私」

 

 自分に言い聞かせて、目をきゅっと閉じたまま、もんぺをはいた右足を動かす。

 もしかしたら、用済みになった自分をリストラという名のもとに葬り去る策略ではとも思ったが、相談所の女性が浮かべていた笑顔を信じようと自分を奮い立たせる。

 

「始めの――、一歩っ!」

 

 勇気を持って踏み出した、その右足。鳥居を跨ぐと同時に、懐かしさを感じた。慣れきってしまった現代日本の荒っぽい外気が、生まれたばかりの頃に感じた絹のような柔らかさに変わっている。

 目を開けるのに少しだけ勇気がいったが、少女は恐る恐る、瞼を持ち上げた。

 

「……!」

 

 思わず言葉を失った。結界はそのまま神社に送るのではなく、小高い丘の上に少女を案内してくれた。彼女が求めたその場所は、彼女が思う以上に素晴らしい景色だった。

 見渡す限りの青空、溢れる緑と、遠くに見える人里と思しき小さな集落。少女が生まれた時代よりずっと昔――それこそ明治の始めを思わせる風景だ。飛び交う鳥の中に、たまに妖怪が紛れていることも分かった。

 妖怪の世界だ。少女はそう思った。自分が再び輝ける舞台が、目の前にあるのだ。いてもたってもいられず、少女は両手を広げて、青草茂る丘を駆け下りた。

 

「やーるぞぉぉぉっ!」

 

 今日も変わらず平和な幻想郷に、さらに平和な少女の声がこだました。

 

 

 

 かくして、かつて学校の怪談におけるエースとまで呼ばれた少女、『トイレの花子さん』こと御手洗花子(みたらいはなこ)は、怪異としての地位を再び築く野望を胸に、幻想郷へと足を踏み入れたのであった。



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そのいち 恐怖!子供を襲う厠の怪!

 

 

~~~~

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは、太郎くん。元気に子供を驚かせていますか?

 

 私はなんとか元気です。太郎くんと一緒に遊んだ学校が少しだけ恋しいけれど、がんばっているよ。

 

 東京の妖怪生活相談所に行った時は、もう妖怪としては働けないかなぁって思ってたけど、そこのおばさんがね、いい所を紹介してくれたんだ。

 

 幻想郷っていうの。とっても綺麗な空気で、緑もいっぱいなんだよ。なにより、妖怪が天下を取ってる場所なの! 最近は他の妖怪をほとんど見てなかったけど、こんなところにいたんだね。私驚いちゃった!

 

 ここでなら、私もトイレの花子さんとして、また活躍できるかなって思ったんだけど……

 

 うぅん、太郎くんには本当のことを言うね。昔のように怖がられるのは、ちょっと難しいみたいです。

 

 最初はね、いつもの三番目の扉をーって噂を流したら、子供達が怖い物見たさで呼んでくれたの。驚いてくれて、久しぶりに気持ちよく働けた気分だったんだけど……

 

 ごめんね、思い出すだけでも泣きそうになるから、これ以上書くのはやめておく。許してください。

 

 太郎くんも、巫女と魔法使いには気をつけてね。それでは、またおたよりします

 

 

 花子より

 

~~~~

 

 

 

 出された煎餅を無遠慮に貪りながら、博麗霊夢(はくれいれいむ)はちゃぶ台に肘をついた。綺麗な紅白の巫女装束がしわになることを恐れもしないだらけっぷりだ。

 妖怪退治の依頼を受けて飛んできてみれば、そこの住人がすでに半分妖怪だったのだ。彼女としては複雑な心境だが、依頼主の半妖は人間の味方なので、一応話だけは聞こうというわけである。

 何も半妖だから嫌だというわけではなく、依頼主の女性――ワーハクタクの上白沢慧音(かみしらさわけいね)は、なかなか強い。霊夢に頼らなくともそこらの妖怪くらいなら退治できてしまうのだ。

 

「なぁ、霊夢。頼めるか?」

 

 青いメッシュが入った長い銀髪を揺らして、慧音が詰め寄る。鬱陶しげに払いのけつつ、霊夢は茶を啜った。

 なんでも、慧音がやっている寺子屋で妖怪が出るという噂が立っているとか。厠の手前から三番目の扉を三回叩いてその名を呼ぶと、件の妖怪が襲ってくるらしい。

 

「花子さん、ねぇ。すっごい覚えやすい名前だけど、面白みがないわね」

「外ではメジャーな妖怪だったそうだよ。ともかく、人里に妖怪が入り込んでいるんだ。放っておくわけにもいかないだろう」

「ならあんたがやればいいじゃない」

 

 遠慮なく眉間にしわを寄せて、霊夢は新しい煎餅を手に取った。もちろん、慧音が用意したものだ。

 

「寺子屋のお手洗いで人を驚かすなんて、チルノでもできるわよ。あんたが退治できないほどの妖怪じゃないでしょうに」

「それはそうなんだが、私が例の手順を踏んでも出てこないんだ。子供を狙っているらしくてな。霊夢なら襲ってくれるかもしれないだろう?」

「……まぁ、うん。大人とは言えない年齢だものね」

 

 成長期とはいえ、霊夢の背丈はまだまだ子供と言える。意地になって否定するのも馬鹿らしかったので、煎餅を齧りつつ認めた。

 とはいえ、面倒なものは面倒だ。そもそも人里にはそれなりに妖怪が出入りしているのだし、人命に関わる事態にでもなっていない異常、緊急を要する懸案だとも思えない。

 

「驚かす以上の危害は加えていないし、子供も楽しんでいるんでしょ? じゃあ放っといてもいいじゃない」

「そうは言うがな、霊夢。子供達が噂に夢中で、勉学をおろそかにしているんだ。このままってわけにもいかないんだよ」

「うぅん、そういうことかぁ」

 

 子供に学を教えることを生き甲斐としている慧音からすれば、死活問題なのだろう。妖怪の仕業で困っている人を助けるのが霊夢の仕事でもある。

 とはいえ、今日はもう妖怪退治をし終えてきたところなのだ。湖の館に住む吸血鬼が人間を無理矢理パーティに拉致しているという話を聞いて、一派をまとめて叩きのめした。その帰りの足で、慧音邸を訪れているのである。

 

「今日はもう疲れたしなぁ。神社に帰って寝ようと思ってたのよ」

「困ったな。引き受けてもらえると思って、報酬も用意してしまったんだが」

 

 頬を掻きながら、慧音がぼやいた。霊夢の肩がぴくりと動く。視線だけで慧音の顔を覗きみると、彼女は眉をハの字にして、腕組みをして、確かに困り果てているように見えた。

 

「今年は豊作だったとかで、米が沢山あってな。博麗の巫女に頼むのだから、俵丸々一つを報酬にしようかと思っていたんだが――」

「……俵一表程度で私を釣ろうってわけ? まったく、博麗の巫女も舐められたものね」

 

 ちゃぶ台に手を突いて、霊夢がゆっくりと立ち上がった。嘆息を一つ漏らして、慧音を上から睨みつける。

 

「報酬は先払いよさぁ早くお米の詰まった愛しい俵を私によこしなさい」

「……」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 夜も更け――というより、丑三つ時である。何も夜中でなくとも件の妖怪は出るらしいのだが、人がいないほうが暴れやすいという霊夢の独断で、この時間に仕事をすることにした。

 こじんまりと設けられた寺子屋の前に、人影三つ。一つはもちろん霊夢だが、白と緑の巫女服と黒白の魔法使いの身なりをした少女が二人ほど追加されていた。

 

「なんであんたらまで来てるわけ?」

 

 呆れつつ尋ねると、魔法使いの霧雨魔理沙(きりさめまりさ)は箒を片手に快活に笑った。

 

「楽しそうだからに決まってるじゃないか」

「そうですよ!」

 

 腰に手を当て、もう一人の巫女が目を輝かせた。妖怪の山、その頂にある守矢神社の風祝、東風谷早苗(こちやさなえ)である。

 

「トイレの花子さんが幻想郷にいると聞けば、見にこないわけにはいかないじゃないですか!」

「どこで聞いてたのよ」

「町で買出ししてたら、たまたま子供に聞きました。退治の話は、まぁ早苗ネットワークを駆使して」

「あっそ」

 

 どうせ止めてもついてくるのだろう。下手に妨害しようものなら反撃されてややこしくなるだけなので、霊夢はしぶしぶ諦めることにした。彼女らは妖怪退治にも手馴れているし、邪魔になるようなことはないだろう。

 

「で、早苗。あんたはこの妖怪を知ってるの?」

「え、そりゃまぁ。って、二人はもしかして、花子さんを知らないんですか?」

「知らないぜ」

 

 魔理沙に言われて、早苗はとても驚いたようだ。目をまん丸にして、口に手まで当てて絶句している。最近幻想郷に来たばかりの早苗が知っているということは、慧音が言っていた通り、花子さんとやらは外では名の通った妖怪だったようだ。

 

「どんな奴なのよ、その妖怪って」

「えぇと、トイレの花子さんは、小学校で多かった怪談話の一つですね。メジャーなのは、トイレの手前から三番目をノックして花子さんを呼ぶと、誰もいないはずなのに返事が返ってくるって話です。中に入ったら殺されるだったり、妖怪の世界に拉致されるって話もありますね」

「拉致って、紫じゃないんだから」

 

 どこぞの妖怪の賢者を思い出しつつ、霊夢は鼻を鳴らした。なんとも子供が好きそうな怪談話だが、幻想郷では妖怪と対峙することが日常だ。時と場合によっては、妖怪共と手を組むことだって珍しくはない。

 読んで字の如く、子供だましな話だ。ますます馬鹿らしくなってきた。しかし、早苗はやる気満々である。まるで憧れていたものにでも会うかのような、緊張と歓喜の入り混じった表情をしていた。

 

「花子さんかぁ、小学生の頃は怖かったな。三番目のトイレはいつも避けてましたよ」

「外の世界じゃそんな妖怪も怖がるのか? 貧弱な子供だな」

 

 箒で素振りなどし始めた魔理沙が苦笑を浮かべた。彼女も外で言えば小学校を上がって数年過ぎた程度の年齢だろうが、半ば趣味で妖怪退治をしているのだ。外の子供と比較してはいけないだろう。

 とはいえ、霊夢も似たようなもの――それ以上か――である。物心ついた時からすれ違いざまに妖怪をぶちのめしてきた霊夢は、最近外からやってきた早苗には想像もつかないほど、妖怪に対して耐性ができてしまっている。妖怪は恐れるものではなく、退治する対象か飲み友達程度の認識だ。

 

「まぁいいわ。さっさと終わらせましょ」

「驚かして満足する妖怪なんて、小傘と橙くらいなもんだと思ってたぜ」

「油断しちゃいけませんよ! 花子さんはパターンによってはとりついてきたり、念で殺してきたりもするんですから。後はトイレから手が出てきて引きずり込まれたり夜明けまでひたすら追いかけられたり、花子さんの正体が三つの頭を持つ体長三メートルの大トカゲで、声で油断させて食べてしまうって話も」

「そこまで来ると、トイレでやる意味ないわね」

 

 失笑しつつ、霊夢は寺子屋に足を踏み入れた。

 明かりなどついているわけもなく、窓から差し込む月光だけが頼りだ。深夜特有のひんやりとした空気が頬を撫で、木目張りの廊下は歩くたびに軋む音を立てる。雨が降っているわけでもないのに、どうしてか湿った木の匂いまでしてきた。

 おおよそ普通の少女であれば、恐怖に怯えて逃げ出す雰囲気だ。しかし、彼女らの足取りに恐れや迷いはなく、堂々と足音を鳴らして歩いていく。忍び足も何もあったものではない。

 一同はまるで自宅の廊下でも歩くような気楽さで、厠の前に到着した。なんの躊躇もなく扉を押し開け、霊夢は眉を寄せる。

 厠にある窓が小さすぎて、外の明かりを少しも通していない。文字通り、一寸先は闇だった。うかつに歩くこともできなさそうだ。

 

「暗すぎて、どれが三番目か分からないわね」

「確かに真っ暗ですねぇ」

 

 ひょっこりと覗き込む早苗が、厠の臭いに渋面を浮かべながら呟いた。

 

「魔理沙、魔法で光を出せたりできませんか?」

「あいよ。ちょっと待ってくれ」

 

 なにやらカチカチと音がした後、魔理沙の持つミニ八卦炉に火が灯った。ピンからキリまで出力を調整できるその道具は、魔理沙にとっての宝物である。

 淡い光にぼうと照らされた厠は、やはりどこか不気味だった。なるほど、妖怪が潜む所としては恰好の場所だったのかもしれない。

 視界が確保できたところで、霊夢はさっそく仕事を始めた。厠の中にずんずん進み、いくつか並んだ木製の扉を見据える。

 

「さてと。手順は確か、手前から三番目の扉を三回叩くんだったわね」

 

 指で数えて、三つ目の扉の前に立つ。左手の甲で、噂どおり三度ノックした。後は、妖怪の名を呼ぶだけである。

 

「……はーなこさん」

 

 呟いた直後、霊夢は大幣を、早苗はお札を、魔理沙は八卦炉を構えた。間違いなく妖気が発生したのだ。

 わずかに走った緊張。それに答えるかのように、厠の扉がゆっくりと開いていく。

 目を逸らさず、開く扉を睨みつける。わずかな隙間から白い指が現れ、ついで出てきた少女の顔は、にたりと笑っていた。

 

「は……ぁ……い」

 

 おかっぱ頭にセーラー服ともんぺという服装の少女は、人の子のような外見であるのに、それと分かるほどに妖怪であった。窪んだ眼窩に眼球は見えず、病的な白い顔に真っ赤な唇を不気味な笑みに歪める。霊夢達は、生理的な嫌悪感と危機感を感じた。

 ケタケタと気味の悪い笑い声を上げて、扉から飛び出してくる。狂ったように両手を振り回し、若干後退した霊夢達に走り寄ってきた。

 

「ワタシヲヨンダノ、ダァレ――?」

 

 上ずり濁った声で、『トイレの花子さん』が襲い掛かる。ここにいるのが普通の子供であったなら、今頃は泣き叫びながら脱兎の如く厠から逃げ出していたことだろう。

 しかし、相手が悪かった。恐怖に慄くはずだった三人の少女は、次の瞬間には真顔に戻り、

 

「ルールを無視するなら、手加減はいらないわね」

 

 と、霊夢が大幣を振り上げ、

 

「出力全開、巻き込まれるなよ!」

 

 魔理沙が嬉々として八卦炉を少女に向け、

 

「キャー! 本物の花子さんだ、すごぉい!」

 

 黄色い悲鳴を上げながら、早苗がお札を投げつける。

 寺子屋の厠に閃光が満ち溢れ、それらは徐々に膨張していき、小さい窓から漏れて里までをも照らし出し――

 

「あれ?」

 

 妖怪少女の間抜けな声と共に、寺子屋が爆発した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「あぁぁぁぁぁぁ」

 

 早朝、瓦礫の山と化した寺子屋の前で、慧音ががくりと崩れ落ちていた。横目でそちらを眺めつつ、霊夢はぴしゃりと告げる。

 

「妖怪は退治したんだから、お米は返さないわよ」

「私の……寺子屋が……」

 

 返事すらできない慧音を放置して、霊夢は魔理沙と早苗と共に、膝を抱えて座り込んでいるおかっぱの少女を見下ろした。

 決闘ルールを無視してきたとはいえ、徹底的に痛めつけてしまったおかっぱの少女は、ぶるぶると怯えきっている。何度か話しかけているのだが、まともな返答は得られていない。

 

「霊夢、やりすぎですよ」

 

 早苗に咎められるが、彼女だって嬉々として護符を投げつけていたのだ。言われてやる義理はないとそっぽを向いてから、もう一度少女の前にしゃがみこむ。

 

「ねぇ」

「ひぃっ!」

 

 涙目で後ずさりする少女を容赦なく追いかけ、セーラー服の胸倉を掴んだ。あの怖ろしい形相は変化(へんげ)だったようで、今の少女は年相応か、それ以上の童顔だ。

 妖怪なので、彼女が何年生きているのかまでは分かりかねた。少なくとも、強いと呼べる妖怪ではない。

 胸倉を捻り上げて持ち上げ、少女の足が浮くか浮かないかの爪先立ちになるのを確認しつつ、霊夢は優しく告げた。

 

「怖がらなくていいって、もう何もしないから」

「胸倉掴んで言う台詞じゃないぜ」

「逃げる奴が悪い」

 

 魔理沙の突っ込みにぴしゃりと言い切る。少女を締め上げながら、霊夢は誰よりもかわいいと自画自賛できる笑顔を作り、

 

「私の名前は博麗霊夢。見ての通り、優しい巫女さんよ。あなたのお名前は?」

「あわわ、誰かお助けぇー!」

「あなたのお名前は?」

「ひぃ、ひぃーっ! 太郎くんでもムラサキおばあちゃんでもいいから、助けてぇー!」

「あなたのお名前は?」

「もうやだ、怖いのも痛いのもやだーっ!」

 

 両手を振り回して暴れる花子。彼女は本気で霊夢を怖がっているようだ。

 あぁ、こんなにも慈愛の心で接しているというのに、なぜだろう。悲しみを背負った霊夢は、心を鬼にして胸ぐらをつかむ手に力を込め、正面から思い切り睨みつけた。

 

「名乗らないなら、もう一回退治するわよ。ちなみに私はそっちのが手っ取り早くてありがたいわ」

「みっ……、御手洗花子ですぅ……」

 

 涙声で、少女――花子が絞りだすように答えた。満足げに頷いて、霊夢は少女を解放する。

 

「よろしい。で、あんたはなんで寺子屋にいたの? 人里で人間襲っちゃいけないってルール、知らないわけじゃないでしょう」

「そ、そうなの? 知らなかった……」

「……」

 

 霊夢が眉を寄せると、それだけで少女はびくりと後ずさりして瞳を潤ませた。

 まるでこちらが悪者のように思えてくるが、相手は妖怪なのだ。特に気にもせず、じっと見据える。

 

「だ、だって私、まだここに来て一週間しか経っていないもの」

「来たばかりの妖怪なの? だったらなおさら、他の妖怪にでもルール聞きなさいよ。スペルカードも知らないんじゃ、女の子はやってけないわよ?」

「スペ、え? でもだって、誰にも会わなかったし……。学校のトイレで驚かすお化けだから、とりあえずここに来たのだけれど」

「はぁん、それでね。でも、あんたはたまに人間を殺すこともあるんでしょ?」

 

 早苗から聞いた予備知識だ。妖怪が幻想郷の住人を殺すことは、禁止されている。釘は刺しておかなければならない。

 しかし、花子はぽかんと口を開いた後、首を傾げた。

 

「え?」

「いや、取りついて殺すとか、そこの早苗が言ってたのよ」

「ううん、人を殺したりなんてしないよ。せいぜい襲い掛かって驚いてもらって、後はトイレでほっこりしてたもの。人間を殺すなんて、考えたこともなかったよ」

「まんま小傘みたいな奴だな」

 

 後ろで笑う魔理沙を放って、霊夢は花子を見つめた。おかっぱの頭を掻きながらしばらく唸った後、手をポンと合わせて、花子が頷く。

 

「そっか、そういうことになってたんだ。だから時々、子供が殺されるーとか言ってたんだなぁ」

「いまいち話が見えてこないんだけど、そういうことになってたって、どういうことよ」

「えっと、私こう見えて、ここ最近まで学校の怪談としてはすごく有名だったんだ。日本中で噂されてて、行く学校行く学校全部で子供達が私を知ってたもの。わざわざ呼び出す方法を広める必要がないくらい」

 

 合点がいった。噂が広まるにつれて脚色され、取り憑かれるだの手が出るだの、体長三メートルの化けトカゲが正体だのと言われるようになったのだろう。それだけ有名な妖怪ともなれば、幻想郷に来ずともやっていけそうなものなのだが。外の世界では、さらに幻想が否定されてしまったということか。

 ともかく、幻想郷のルールを知らないというのは霊夢にとっても都合が悪い。スペルカード以外にも教えなければならないことが出てくるだろう。

 

「とりあえずまぁ、元気出しなさいよ。ここは誰でも受け入れる世界、あんたもやり方さえ分かればうまくやれるわ」

「は、はぁ」

 

 間抜けな声を上げる花子に、霊夢は人差し指を立てる。

 

「とにかく、人里で人間を襲うのは禁止。襲うなら里の外ってのが幻想郷のルールよ」

「悪さしたら、私らが退治にいくけどな」

「えぇっ!?」

 

 悲鳴じみた叫びで困ったように顔を曇らせる花子。彼女の「えぇっ!?」には二つの意味があることを、霊夢は感じ取っていた。

 すなわち、厠の怪である彼女にとって、厠のない場所で人を襲うことはとても困難であること。もう一つは、また霊夢達に退治されるかもしれない恐怖だ。

 見た目は幼く可愛らしい少女であるとはいえ、花子は妖怪である。人を襲う妖怪に例外を認めてやるわけにはいかない。人里で飼ってやるわけにもいかないので、霊夢はとりあえずの提案をしてやることにした。

 

「家だったら、里の外にもあるわよ。そっちに住み着いたら?」

「あ、そうなんですか?」

「ちょっと、霊夢」

 

 早苗が何かを訴えてくるが、無視する。しかし、言わんとしていることは分かっていた。

 里の外にある住居といえば、そこの住人は大概が妖怪であり、人間だったとしても妖怪退治のプロだったりと、花子にとってはろくなことがない連中ばかりである。

 もちろん、霊夢はそれを知っている。しかし、重要なことは花子には伝えない。花子も妖怪なのだから簡単に死んだりはしないだろうと考えていた。

 新参妖怪一匹がどうなろうと、知ったことではないのだ。なぜなら霊夢は、人間の味方なのだから。

 

「じゃ、じゃあ……幻想郷を歩いて回って、住む場所を探してみようかな」

「そうそう、それがいいわ」

 

 わずかに笑顔が戻った花子に、うんうんと頷く。後ろで魔理沙が「鬼だぜ」などと呟いているのが聞こえたが、妖怪相手に菩薩のような顔をしてやる理由はない。

 

「そうと決まれば、早速行動しなさい。さぁ立って、荷物を持って」

「は、はい」

 

 言われるがままに古びたリュックサックを背負う花子。いそいそと準備をする彼女の顔には希望の光がキラキラと舞い降りており、霊夢はわずかに心が痛んだ。

 しかし、わずかにである。次の瞬間には割りとどうでもよくなっていたので、躊躇いなく花子の背中を押した。

 

「ここから西に真っ直ぐ進みなさい。湖の近くに真っ赤な洋館が見えると思うわ」

「洋館かぁ」

「立派な館よ。お手洗いもすごく綺麗だったわ」

「わぁ!」

 

 胸の前で手を合わせて、花子はとても嬉しそうだ。少なくとも、母のような面持ちで頷く霊夢の背後にいる魔理沙と早苗の、哀れみの視線には気づいていないだろう。

 トントンとつま先で地面を叩いて靴を直し、花子が行儀よく頭を下げる。

 

「色々ご迷惑おかけしました。ありがとうございました」

「いえいえ。大したことじゃないわ、地獄はこれからだし」

「え?」

「ん?」

 

 目が合って数秒、花子は聞き逃したことが重要なことではなかったと判断したのか、もう一度深々と一礼した。

 

「じゃあ、私行きますね。さようなら」

「さようなら。せいぜいがんばるのよ」

「……? はい!」

 

 やはり何か引っかかるらしいが、とうとう彼女はその正体に気づくことができなかった。

 朝日を浴びて、足取り軽やかに人里から去っていく後姿を見送って、霊夢はすがすがしい気持ちで振り返る。

 

「いやー、いいことした後ってのは気持ちいいわね」

「どの口でそれを言ってるんですか、あなたは」

 

 半眼を向けてくる早苗。どこかずれたところはあるものの、彼女は根がとても真面目で、努力家だ。霊夢とは対照的な性格をしていた。

 

「あんたもまだ妖怪に甘いわね。幻想郷じゃあのくらい普通よ」

「普通ではないだろ。適当な廃屋でも紹介してやったほうがよかったと思うぜ」

 

 同業者とも言える魔理沙に突っ込まれても、霊夢は大して気にならなかった。博麗の巫女としての責務は果たしのだから、とやかく言われる筋合いはない。

 ゆっくりと伸びをしてから、宙に飛び上がる。睡眠時間は昼寝で補うとして、お腹が減ってしまったのだ。

 

「さぁ帰ろ。炊き立ての白米で素敵な朝ご飯よ」

「お、例の報酬か。私もお相伴に預からせてもらおうかな」

 

 箒に跨り飛び上がった魔理沙が、帽子を押さえながら笑った。霊夢はそちらを横目で見つつ、

 

「一人につきおかず一品」

「きのこでいいなら持っていくぜ」

「あ、昨日作った山菜のてんぷらが余ってるんですけど、食べます?」

「いいわね、いただくわ」

 

 厠妖怪の話はどこへやら。早朝の人里上空を飛んでいく霊夢達の興味は、次第に朝食へと移っていった。

 少女達の声が遠のいて、朝日は徐々に力を増し人里に一日の活気を与えはじめる。人々の目覚めの時が近づいてくる、その中で――

 

「……私の寺子屋……」

 

 崩れ落ちた寺子屋の前で、慧音は二度とあの巫女に妖怪退治を頼むまいと、強く心に誓ったのだった。



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そのに  恐怖!紅い館の吸血鬼!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは、太郎くん。お元気ですか? 私は幻想郷にだいぶ慣れてきました。

 

 ここには特別なルールがあってね、人が集まっている里では人間を襲っちゃいけないの。妖怪が人間のお店で買い物していたりするのは、見ていてなんだかおかしかったです。

 

 でも、大変なの。人里で襲っちゃいけないってことは、人里のおトイレで驚かすこともできないってことなんだ。私にとってはとても困ることです。

 

 怖い巫女さんが、里の外にも家があるよって教えてくれたの。呼び出す方法とかは変わってきちゃうけど、誰かを驚かせるならと思って教えてもらったお家に行ったんだけど……

 

 うーん、ごめんなさい。今回も思い出したくないので、今日はここまで。いつか楽しいお話をおたよりできるといいな。

 

 太郎くん、赤い館のおトイレでは驚かさない方がいいです。特に吸血鬼と魔法使いには、気をつけてね。

 

 最近暑くなってきたから、お体を大切にしてくださいね。お化けだけど、なにかあってからじゃ遅いからね。

 

 ずっと元気でいてください。それでは。

 

 

 花子より

 

~~~~

 

 

 

 人里で出会った巫女に教えてもらったとおり、トイレの花子さんこと御手洗花子は湖の畔を歩いていた。

 夏も近づく日中であるというのに、とても深い霧に覆われている。この湖は昼だからこそ霧に包まれるのだが、まだそのことを知らない花子にとって一歩先も見えない濃霧は、少しだけ怖かった。

 空気中の湿気はもはや水滴に近いものがあり、花子のセーラー服とおかっぱの髪はビショビショになってしまっている。ときどき手櫛で水滴を落とすも、焼け石に水であった。

 一応着替えも持ってきているのだが、一番のお気に入りは昔からこのセーラー服ともんぺだった。地方によって容姿が違って伝わっているため、赤いワンピースやロングヘアーのカツラがリュックに入っているのだが、今ワンピースに着替えてもまた濡れてしまうだろう。

 もしかしたら、もうリュックの中で湿っているかもしれない。そう思うと、花子はげんなりとした顔になった。厠に住む妖怪である花子にとって高い湿度は慣れっこだったはずだが、立っているだけでずぶ濡れになる湿気は経験したことがない。

 湖のふちに沿ってずっと歩いているのだが、今も件の館は見えない。真っ赤で大きな館だからすぐ分かると霊夢は言っていたのだが、伸ばした手が霧に飲まれて見え辛くなるほど視界は悪い。もう通り過ぎてしまったのではという不安にも襲われた。

 

「もうやだぁ……」

 

 嘆息混じりに呟き、花子はその場で腰を下ろそうとして、すぐに思い直した。地面もぬかるんでいるのだ。座ればお気に入りのもんぺが泥まみれになってしまう。

 休憩することもできずに、再び歩き出した。体はすっかりだるくなっている。歩き疲れたというのももちろんあるのだが、湖に着てから、小さな羽根を生やした少女に何度も襲撃されたのだ。妖気の玉をぶつけてきて、花子は頭を抱えてひたすら逃げ回った。

 太陽の光すらも遮る濃霧を見上げて、首にかけてある手ぬぐいで頬を拭った。全身を覆う水滴が汗なのか湿気なのかは、もうとっくに分からなくなっている。手ぬぐいもすでに濡れタオルとなっていたので、もはや気休め程度のものだ。

 全身ずぶ濡れになり未知の生命体少女に襲われても、花子は健気に歩き続ける。兎にも角にも、どこかのトイレに住み着かなければならない。なんとしても厠の怪異として生きるというプライドが、背中を押していた。

 どこかで一息入れたいなと、花子はあたりを見回した。座れそうな切り株でもないかと思ったが、望むものは見当たらない。目に入るものといえば、足元に濡れて青臭い匂いを放つ雑草くらいなものか。うんざりと溜息をついて、再び歩き出す。

 ふと、花子は思った。もしかしたら、霊夢に騙されたのではないか。本当はこの湖に館などなく、あの紅白は霧に視界を奪われて湖に落ちてしまえとでも思っていたのではないか。

 

「……」

 

 そうだ、そうに違いない。花子は徐々に腹が立ってきた。魔理沙と早苗はともかく、あのヤクザ巫女は人権――妖怪権か――を無視してきたではないか。

 考えれば考えるほど、花子のボルテージは上がっていく。顔を真っ赤にして頬を膨らませ、今からでも文句を言いに行こうと思い立った。あれほどコテンパンに叩きのめされたことは、もう記憶の外だ。

 とりえあず、怒りの丈を湖にぶつけておくことにした。小さな胸を大きく大きく反らして息を吸い、

 

「っの――馬鹿巫女ぉぉぉぉぉぉっ!」

 

 若干裏返った少女の声が湖に響き渡った。ぜいぜいと息を荒げながら、反響してくる声を受け止める。

 少しだけすっきりした気がして、花子は呼吸を整えるために深呼吸をした。額の水滴を拭って視線を上げた、その時。

 

「……?」

 

 湖の向こう岸に見えたシルエット。自分の叫びで霧が晴れたのか、それともただの偶然か。

 花子からすれば天高く聳えると言ってもいいほどの大きな館が、霧の向こうに浮かび上がった。こちらからは背面しか見えないが、それでも花子が言葉を失うに十分な見事なまでの真紅の外壁。

 もはや確認するまでもなく、霊夢が言っていた館だ。

 

「ば……」

 

 濃霧のキャンパスに現れた紅の館を見上げて、花子はぽつりと呟いた。

 

「馬鹿なんて言って、すみませんでした……」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 吸血鬼は、高貴な種族である。

 大樹を楽々投げ飛ばす腕力、風の如く駆け抜ける俊足、あらゆる魔法を使いこなす魔力。全てにおいて高水準なバランスを持つ吸血鬼こそが、至高の悪魔なのだ。

 紅魔館の主、吸血鬼のレミリア・スカーレットはそう自負している。というよりも、揺るがぬ事実であると信じきっていた。

 青みがかった銀髪と真紅の瞳。人形のような顔立ちをしている彼女は、十歳程度の少女であった。

 もっともそれは見かけだけの話であり、実際は五百年もの時を生きている。容姿で油断する奴はことごとく力で叩き伏せてきたので、今更自分の姿に劣等感を抱くこともない。

 その手を掲げるだけで多くの種族が畏怖しひれ伏すほどの圧倒的カリスマ。他のどの種族も到達できない超絶なパワーを持つ吸血鬼は、もはや幻想郷の支配者と言っても過言ではないだろう。

 今日も上機嫌にそんなことを考えながら、レミリアは口の周りについた生クリームをよだれふきで拭った。今日のケーキも実に美味であった。空いた皿をトレーに乗せながら、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜(いざよいさくや)も嬉しそうだ。

 

 今日もいつもと変わらず、優雅な一日を過ごしている。優雅に目覚め、優雅に朝風呂(夜だが)に入り、優雅に朝食(夜だが)を食べ、優雅に妹や親友と遊び、そして優雅におやつを楽しんだ。

 優雅によだれふきを外し、優雅に肘掛に手をつき、届いていない足を優雅に下ろして床に立つ。

 そして、優雅にもよおした。

 一度この感触を覚えてしまうと、もう無視することはできない。もじもじしながら、レミリアは咲夜を見上げた。

 

「咲夜、お花をつみに行ってくるわね」

「あらあら、お供いたしましょうか?」

「馬鹿言わないでよ。おトイレくらい、一人でできるわ」

 

 子供扱いしてくる咲夜にイーッと歯を剥いてから、早足でトイレに向かう。

 紅魔館はただでさえ大きいのに、咲夜の空間を操る力で内部を広げてある。さすがに迷うようなことはなかったが、それでもトイレまでの距離を遠く感じた。わざわざ宣言しているのだから廊下を縮めてくれてもいいだろうに、咲夜はどうしてかそれをしてくれない。彼女は優秀なメイドだが、肝心なところで気が回らないことも多い。

 長い廊下をパタパタと駆けて、レミリアはようやく目的地に到着した。腕を伸ばし、ドアノブに手をかける。小さなその空間は、今のレミリアにとってオアシスであり聖域であった。飛び込むように中に入って、自分ひとりだけに用意された空間の鍵を閉める。

 長いスカートをするりと持ち上げ、ドロワーズをよいしょと下ろして、便器に座った。

 

「……はふぅ」

 

 全ての悪しき者を体から追い出し、レミリアは一人、ほっこりと笑みを浮かべる。

 カランカランと音を立ててペーパーを巻き取り、戦いの後を消し去って立ち上がろうとした、その時だった。

 小さなお尻に凄まじい嫌悪感。同時に背筋を鳥肌が駆け抜け、レミリアは「ひっ」と声を上げた。

 誰かがお尻を触っている。とても冷たい手だ。レミリアは今も便器に座っているというのに、一体どこから――

 

「うっ……」

 

 お尻を触っていた手がぬるりと伸びて、背筋を撫でる。

 どんどん登ってきているそれから反射的に飛び退いて、レミリアは感じた嫌悪感を殺意に変えた。

 

「どんな妖怪かは知らないけど、この私にケンカを売るとはいい度胸じゃないの。お前の運命を不夜城レッドで全世界ナイトメアにしてや――」

 

 振り返って、固まった。

 便器からぬるりと出ている上半身。真っ赤なワンピースに黒いロングヘアーの少女が、下弦の月が如く唇を歪めている。真っ黒で光のない双眸がレミリアの瞳を覗き込む。

 目が合い、レミリアは殺意がつま先から抜けていくのを感じた。同時に、得も言われぬ感情が込み上げてくる。

 

「う……」

「ネェ――」

 

 ずるりと洋式の便座から這い出して、少女の顔が目の前に迫る。底なしの眼窩に呑まれそうになる中、黒い髪の少女がケタケタとやかましく笑い声上げた。

 

「アソビマショ――ワタシト――アソビマショウ――」

「ひ……うぁ……!」

 

 ここで一つ、補足しておかねばなるまい。吸血鬼のレミリアは本当に強く頭も切れる。が、その精神は幼い少女そのままであった。最近まで館の外に出ることは少なかった上に、幻想郷以外で自分以外の妖怪を見たこともあまりない。

 幻想郷の妖怪、特にレミリアの知る妖怪はその誰もが人間の少女のような容姿をしていたため、化け物らしい化け物に出会うのは今回が初めてとなる。

 幼子が初めてお化け屋敷に足を踏み入れた時と同じ衝撃が、レミリアを襲った。抑えきれぬどころか抑えようとすることすらできずに、膨れ上がる感情のまま、

 

「びゃああああああああああああああっ! さくやぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 化け物を見つめた瞳と中途半端に上がったドロワーズをそのままに、絶叫した。先ほどの優雅云々は完全に消えさり、姿そのままの子供のように泣き喚く。

 

「しゃぁぁぁくやぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「やったぁ! 大成功っ!」

 

 先ほどの恐ろしい顔がすっかり変わり、赤いワンピースの少女が満面の笑顔を浮かべて便器の中へと消えていった。しかし、レミリアには自分を襲った恐怖が去ったことを理解するほどの理性は残っていない。

 泣き声もピークに達しようという頃になって、ようやくトイレのドアが開けられた。咲夜の参上である。

 

「どうしました、お嬢様!」

 

 尋常ではない主の悲鳴に、大慌てでやってきたようだ。その手には、銀製のナイフが握られている。

 物騒な姿だが、今のレミリアには頼もしいことこの上ない。咲夜のメイド服にしがみつき、顔を押し付ける。

 

「変なの、変な奴がトイレから! にゅーって出たのぉぉぉぉっ!」

「な、なんですって? 妖怪の類かしら……」

 

 咲夜がトイレの中を覗き込む。しかし、そこにはいつも通り便器が佇んでいるだけだ。

 しばらく便器とレミリアを交互に見てから、咲夜はとりあえず主人を慰めることが先決と判断したらしい。

 

「お嬢様、もう大丈夫ですわ。落ち着いてください」

「手がね、手がお尻をぬるーってやったのぉぉぉぉっ!」

「怖かったのですね。私が追い払いましたから、もう安心ですよ」

 

 わんわん泣き叫ぶレミリアは、誰が見ても吸血鬼であることを信じてもらえないだろう。レミリアがこんな姿を見せられるのは、咲夜と親友くらいなものだ。

 

「あぁぁぁぁぁぁん!」

「あぁ、どうか落ち着いてくださいまし、お嬢様」

 

 我を忘れて号泣するレミリアと、その背中を優しく叩いて慰める咲夜。

 高貴で優雅な吸血鬼が落ち着いたのは、事態に気づいたレミリアの親友、パチュリー・ノーレッジが駆けつけてからだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 早朝。外では昇りはじめた太陽がさんさんと光を注ぎ始めているだろうが、窓の少ない紅魔館、そのお手洗いともなれば、太陽光など届くわけもなかった。しかし、それでも花子の心中は真夏の浜辺が如き明るさに満ち溢れている。

 なんと幸先のいいスタートなのか。花子はトイレの便器に身を潜めてほくそ笑んでいた。

 何も本当に便器に入っているわけではなく、厠の妖怪である彼女は、そこがトイレもしくはそれに準ずる場所であれば自分だけの空間を作り上げることができるのだ。お世辞にも大きいとは言えない空間だが、誰にもばれずに隠れられる花子の住処だ。

 紅魔館のトイレは、とても居心地がよかった。隅から隅まで綺麗に手入れをされているし、床にはマットが、そして便座にもふかふかなカバーがかかっていた。冷たい上に臭いもこもりやすい学校のトイレとは雲泥の差だ。

 

 本当ならば『トイレの花子さん』という怪異には、呼び出すためのルールがあるのだが、手順を踏まなければ登場できないわけではない。あくまで子供達の恐怖心を煽るための手段にすぎなかった。

 とはいえ、アドリブで誰かを驚かすのはとても久しぶりだった。うまくできる自信はなかったが、まさかこれほどの成果を得られるとは。

 

「私もまだまだ、捨てたものじゃないなぁ」

 

 などと自画自賛しつつ、空間の外で便器の水面が揺らぐのを見上げる。お尻を触ってしまったのは花子としては失敗だったのだが、それも驚かせることに一役買ってくれたので、良しとすることにした。

 なにやらフリフリしたドレスを着た幼い少女だった。自分も洋館ということで赤いワンピースとロングヘアーのかつらなど被っているのだが、足元にも及ばないほどの豪勢な洋服を前にして、少し恥ずかしい思いを感じていたりもした。

 とはいえ、驚かすのにそこまでめかしこんでも仕方がない。いつかあんなドレスを着れたらと夢を見つつ、花子はいそいそとかつらを直す。

 人の気配が近づいてきたのだ。トイレのドアの向こう側から、とことこ響く、二人分の足音。

 

「本当よパチェ、本当に赤いワンピースの女の子が出たのよ!」

「信じてるわよ。でもだからって、一人じゃ怖いからトイレについてこいだなんて。レミィ、あなた私より四百年も長く生きてるのよ?」

「仕方ないじゃない、本当に恐ろしかったのよ。あれは大妖怪……このレミリアをも凌駕するモンスターに違いないわ」

「はいはい。ほら、ついたわよ」

 

 カチャリとドアノブが音を立てる。しかし回らず、ドアもまだ開かない。ためらっているようだ。

 

「待っててね。先に帰っちゃ嫌よ」

「分かったから、早く済ませてきなさいよ」

「絶対だからね。出てきていなかったら、絶交だからね」

「……この子、本当に吸血鬼なのかしら」

 

 呆れた声が聞こえると同時に、トイレのドアが開かれた。入ってきたのは、前回と同じ少女。今は朝のはずだが、寝巻きに着替えている。

 ふと、花子は気がついた。この少女――レミリアには、羽が生えている。そういえば、もう一人の声が吸血鬼だとかなんとか言っていた。彼女は人間ではないようだ。だが、花子にとっては人も妖怪も同じこと。寝巻きのズボンを下ろす手すら恐る恐るな少女を驚かすことなど、赤子の手を捻るより遥かに楽なことなのだ。

 驚かすタイミングを今か今かと待っていると、おもむろにレミリアがズボンを上げて、ドアを開けた。

 

「うぅ、ねぇパチュリー……」

「何よ」

「扉、開けておいてもいいかしら」

「はぁ……好きにしなさいよ」

 

 外の少女はどうでもいいと言わんばかりの顔だが、宣言通りレミリアは扉を開けたまま用を足そうとした。

 再びいそいそとズボンを下ろすレミリアと、それを直視しないように目線を逸らしている友人、パチュリー。友達というより姉妹のように見えてしまうが、花子にとってはどちらでもよかった。

 ちょうどいい、一石二鳥だ。パチュリーも一緒に驚かせてやろうと、花子は鼻息荒くやる気満々である。

 

 その、刹那。

 

「レミィ、待ちなさい」

「へ?」

 

 ズボンとパンツを中途半端に下ろした中腰のまま、レミリアは頓狂な声を上げた。

 パチュリーが左手に持つ本は淡く輝いており、彼女の視線は鋭く変わって、レミリアの背後――つまり、花子を睨んでいる。花子はまだ、自分の空間に隠れている。視認はされていないはずだ。

 なぜか、ばれている。今度は花子がうろたえる番だった。声こそ上げなかったが、頭の中が混乱してくる。やる気と共に妖気まで湧き出てしまい感づかれたのだが、花子はそれに気づくことができない。

 レミリアはこちらに気づいていないようだが、彼女の場合は妖気云々の前に恐怖心が勝っているというだけだろう。

 

「水面に術式が施されてる。妖気も感じるし、向こうに空間ができているらしいわ」

「え、そうなの? じゃああいつがいるの?」

「そのようね」

 

 パチュリーが告げると、レミリアはさっと寝巻きのズボンをはいて友人の後ろに隠れた。パチュリーの背後から顔を出して、

 

「このレミリア・スカーレットに挑むとは、いい度胸ね。でも、どんな卑劣な手段を用いても私には指一本触れられないわ」

「前に出て言いなさいよ。それにあなた、お尻触られたんじゃなかったの?」

 

 半眼を後ろのレミリアに向けてから、パチュリーは掲げた右手に炎を召喚した。花子はいよいよ自分に訪れた危機に気づいて、空間内で息を呑む。

 手中の炎を揺らめかせて、パチュリーが目つきを鋭くした。小学校で平和な暮らしをしていた花子にすら、彼女が本気であることが分かる。

 

「出てきなさい。それとも、トイレごと消し炭になる?」

「ちょ、まって!」

 

 いつぞやの寺子屋を思い出し、爆発だけは避けなければと空間を解除、花子は慌てて便器の上に躍り出た。

 急いだせいでかつらが大げさにずれてしまい、どういうわけか後ろ髪が前に回ってしまっている。ついでに空間解除にも少し失敗してしまい、上半身が濡れてしまった。

 下半身はまだ空間の中にある。レミリアとパチュリーからは、黒く長い前髪を垂らしずぶ濡れになった赤いワンピースの少女が便器からぬるりと現れたように見えただろう。一瞬で涙目になったレミリアはおろか、さしものパチュリーもその気色悪さに後ずさりしている。

 その上、中身はパニックに陥った花子だ。うろたえるあまり両手を伸ばして彷徨わせているのだが、それすらも紅魔館の世間知らずな少女二人にとっては、不気味極まりない。

 

「あぁ、あのその、あわわ」

 

 うまく言葉にできず口篭る花子の声は、変化によって上ずった不気味なものに変わっていた。二人はさらに拒絶反応を見せる。

 レミリアはパチュリーの背から一切動こうとせず、そのパチュリーはむしろ瞳を鋭く細めた。

 

「動かないで。焼き払うわよ」

「ままっ、ままってまってくださ――」

 

 狭いトイレの壁に手をかけて立ち上がろうとする花子だが、濡れた手でびちゃりと壁を抑えるその様は、もはや化け物以外の何者でもない。

 謝罪をするどころか深まる誤解を解くこともできず、パチュリーが炎をさらに大きくさせた。花子が動くたびに、レミリアの顔が泣き面に歪んでいく。

 手が滑って、花子はその場に転んだ。かつらがさらに大きくずれて、レミリア達からすれば妖怪が不気味に蠢いたようにしか見えなかっただろう。

 レミリアとパチュリーの感情の緒が、音を立てて切れた。

 

「びえええええええっ!  しゃぁぁぁくやぁぁぁぁぁ!」

「気色悪い……! 燃え尽きなさいッ!」

 

 吸血鬼の泣き声と魔法使いの怒声が響く。掌が滑って何度も起き上がることに失敗している花子は、視界を覆う長い前髪の隙間から赤い光が差し込むのを感じた。

 

「ま、待ってぇぇぇぇ!」

「問答無用!」

 

 狭いトイレで起き上がろうとしつつ、許しを請うためにパチュリーを見上げ―― 

 真っ赤な炎がぶつかる寸前で意識が途切れたのは、幸運だったのかもしれない。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 フリルのついた洋服を着ることは、花子にとって夢であった。

 妖怪として生まれた頃は人間の子供達もせいぜいが小奇麗なシャツやスカートを身に着けていた程度だったが、元号が平成となり十五年を過ぎた辺りになると、庶民の娘でも花子からすれば派手な衣服を身に纏うようになったのだ。

 気に入っているとはいえ、普段の恰好は古びたもんぺとセーラー服。噂に合わせて時折赤いワンピースを着る程度という彼女にとって、平成の子供達は夢の国のお姫様のようにすら思えていた。

 なので、今の花子は捉えようによっては幸せと言えるのかもしれない。その手に握っているのが雑巾で、必死になって床を磨くようなことをしていなければ。

 

「ふぅ、ふぅ」

 

 それこそ一国の姫君が住まうような部屋で、花子は初めて着たメイド服に四苦八苦しながら雑巾がけをしていた。

 レミリアの自室である。使うのは彼女だけだというのに、学校の教室程度の広さはあるだろうか。

 

「ほら、まだこっちが汚れてるわよ。しっかり働きなさいな」

 

 豪勢な椅子に腰掛け偉そうにふんぞり返るレミリア。手にはティーカップを持ち、隣の咲夜に紅茶を注がせている。頬を膨らませながらも反論せず、花子は雑巾がけを続けた。

 パチュリーの業火にやられ、目が覚めた花子を待っていたのは長時間に及ぶ説教であった。ふかふかなベッドに正座させられて、咲夜から延々二時間もお小言を頂戴したのだ。

 ともあれ、説教が終わった花子は早々に紅魔館を立ち去ろうとしたのだが、大きな玄関ホールで運悪くレミリアに遭遇してしまった。

 彼女は強い悪魔である。逃げてもあっという間に捕まり、驚かせた罰として、こうしてレミリアに奉仕させられている。

 

「誰にも気づかれず紅魔館のトイレに隠れて、よりにもよって私を驚かせるとはね。その手腕は褒めてあげるけれど、相手は選ぶべきだったわね」

「……」

 

 短い足を組んで見下してくるレミリアである。あんなに怖がり泣いていた少女の偉そうな態度は、花子にとって面白いものではない。

 そもそも、妖怪が誰かを驚かすのは当たり前のことではないか。犬に噛まれたと思って諦めてほしいものだと、花子は自分を棚に上げつつ雑巾を滑らせる。 

 

「とほほ。なんで私がこんな目に」

「吸血鬼の館を選んだあなたのミスですわ」

「だって知らなかったんだもの」

 

 咲夜に半ば助けを求めるように訴えるが、瀟洒なメイド長は笑顔を絶やさず、

 

「知りませんでした、は言い訳にならないわよ? 世の中そんなに甘くないの」

「だから謝ったじゃないですかぁ。もう許してくださいよ」

「そうそう、咲夜の言うとおりね。被害者は私だもの、私が満足するまで付き合うのは当然」

「そんなぁ」

 

 目尻に涙を溜めながらも、花子は雑巾をバケツでゆすぐ。暖かい季節だというのに、濁った水は妙に冷たかった。

 ここではもう誰かを驚かすことはできないだろう。さっさと他の家に行くなり公衆便所を見つけるなりしたいのだが、レミリアの新しい玩具を見つけたかのような顔。当面は見逃してくれそうにない。

 

「ほら花子、手を止めない。早くしないと日が昇っちゃうわよ!」

「ぐすん」

 

 濡らした雑巾を絞りながら、花子は思う。自分だけは人も妖怪も見下したりしないようにしようと。驚かせ腹を膨れさせてくれた人には、ちゃんと感謝をしようと。

 花子の吸血鬼への強制ご奉公は、その後三日間ほど続くこととなった。



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そのさん 恐怖!幽閉された悪魔の妹!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 太郎くん、こんにちは。お元気ですか? って、こんなに頻繁に手紙出してるんだから、そうそう変わらないよね。

 

 私は今も、吸血鬼さんのお家にいます。ベッドもふかふかだしご飯はすごくおいしいし、メイド服っていうのも慣れてくると着心地がいいんだよ。レミリアさんは、ちょっといじわるだけれど。

 

 もう少しここにいてもいいかなぁって思い始めてたんだけど、今日でこの紅魔館ともお別れです。さすがにずっと驚かせないままでいると、私はトイレの花子さんじゃいられなくなっちゃうからね。

 

 人里の外にはまだまだたくさんお家があるみたいなので、のんびり歩いて回ろうと思います。落ち着けたら、また手紙を書くからね。

 

 そうそう、私が歩いてどこかに行くって言ったら、レミリアさんもパチュリーさんも、みんな『飛んでいけばいいのに』って言うんだよ。最初は冗談だと思ってたけど、幻想郷の妖怪は飛ぶのが当たり前みたい。どころか、人間まで飛ぶことがあるんだって!

 

 私もいつか、空を飛べるようになりたいな。できるようになったら、太郎くんにも教えてあげるね。

 

 今回は、何かに気をつけてって言わなくてすみそう。そろそろ新しい家を探しに出発です。

 

 次におたよりする時には、上手に人を驚かせているといいな。

 

 それじゃあ、またね。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 紅魔館の客間。ベッドと机しかない質素な部屋で一生懸命鉛筆を動かしている花子の背後に回り、レミリアは彼女の手元を覗き見た。

 手紙を書いているようだ。なるほど、太郎という友人にあてたものらしい。男の名前であることは、西洋生まれのレミリアでもすぐに分かった。

 カリカリと鉛筆の芯が紙面をなぞる音だけが響く中で、気取られぬようにそっと花子の耳元に近づき、ぼそりと囁く。

 

「相手はボーイフレンドかしら?」

「ひゃっ!?」

 

 面白いほどに飛び上がり、花子は身を挺して手紙を隠した。首から顔から、耳までも真っ赤になってしまっている。

 

「なななんですか、なんで見てるんですか! なんでここにいるんですか!」

「あら、ここは私の館だもの。この紅魔館が主、レミリア・スカーレットが客間にいたとしても、誰にも文句を言われる筋合いはないわ」

「だ、だからって手紙を覗くなんて! そういうことはしちゃいけないって教わらなかったんですか!?」

「教わったわよ。ていうか、常識としてそのくらい知ってる。馬鹿にしないでよね」

 

 ふふんと鼻を鳴らして、レミリアは腕を組んだ。

 恥ずかしさから怒りへとシフトチェンジしたらしい花子が、腕力では雲泥の差があるレミリアへと掴みかかる。

 

「じゃあなんで覗いたの? ダメだって分かってるのに、なんでそういうことするの!?」

 

 もはや花子の口調は、姉妹ゲンカに負けた妹のようになっていた。未だに残る羞恥心をなんとか憤慨に変えているが、見透かしているレミリアはしてやったりと口の端を持ち上げた。

 

「私は悪魔だもの。悪いことだって言われたら、やらずにはいられないわ」

「レミリアさんの捻くれ者! へそ曲がり! 天邪鬼!」

 

 思いつく限りの悪態を口にする花子。数日間を過ごすうちに分かったことだが、彼女は相手が目上の者であったり実力で突き放されていても、媚を売るようなことをしない。レミリアとしては心地よさすらも感じる少女である。なので、彼女が時折自分に食って掛かるのも、楽しみの一つとすら思えるのだ。

 この三日間、レミリアは花子をずっとそばに置いていた。メイドの真似事をやらせてはいたものの、一緒に遊んだりお茶を楽しんだりと、すっかり友達のような関係になっていた。

 肩を上下させて息をしている花子に、くすりと笑う。

 

「ふぅん、そういう口の聞き方をするの? この三日間世話してやったのは、誰だったかしらね」

「頼んでいないもん。約束通り、今日で出発しますからね」

 

 唇を尖らせながら、花子が手紙をしまう。ちらっと見た内容からして幻想郷の外にいる者への手紙だろうが、どうやって届けるつもりなのか。

 恐らく届かぬだろうと、レミリアはばれない程度に溜息をついた。知らぬが仏と思ったわけではないが、花子にそれを言うのはなんとなく憚られた。

 いつものセーラー服ともんぺに着替えている花子は、借りていたメイド服を丁寧に畳んで、客間のベッドに置いている。いつでも出立できる心持ちのようだ。

 彼女と過ごした三日間は新鮮だったし、花子はとてもからかいやすかった――咲夜といると、レミリアがからかわれることの方が多い――ので、別れは少し名残惜しくもある。

 何より、花子には幻想郷の妖怪にありがちな喧嘩っ早さがまったくなかった。初対面の相手に弾幕をぶちまける妖怪その他の少女とは明らかに違う雰囲気。咲夜などは「やまとなでしこの原石」と言っていた。

 やまとなでしこがどういったものなのかレミリアには分かりかねたが、このまま成長すれば花子がしとやかな女性になるのだろうなという想像はできる。妖怪の彼女が成長するかと聞かれれば、五百年近く体系が変わらないレミリアはどちらにも答えられないのだが。

 からかいがいのある花子をこのまま帰すのは、あまりに惜しい。どうしたものかと考えていると、ふと一つの悪戯を思いついた。

 そろそろ、妹に新たな友人ができてもいいだろう。にやりとしてから、レミリアは大げさに声を上げた。 

 

「あぁいけない、忘れていたわ。私、地下に本を置いてきちゃった。うぅん、困ったわ。あの本は手元にないとすごく困るのよ。あぁ困ったわ」

 

 リュックを開けて忘れ物がないか確認している花子の手が、止まる。白々しさが全開なレミリアの声へとゆっくり振り返り、

 

「……」

 

 じっとりとした視線を向けてくる。三日間のうちにだいぶ学習したようで、レミリアが何かを企んでいることを見抜いているのだろう。

 ならば、わがままに付き合わなければ解放してもらえないことも学んでいるはずだ。レミリアは続けた。

 

「あの本は私の先代の叔父様の奥様の弟の娘のものなのよ。先代の叔父様の奥様の弟の娘から受け継いだ家宝……。もし失くしたりなんかしたら先代の叔父様の奥様の弟の娘から祟られてしまうわ。なにせ先代の叔父様の奥様の弟の」

「わー! 分かりましたからいちいち全部言わないでください! ていうか、もうほとんど他人じゃないですか」

「そんなことないわ。家族ぐるみの付き合いがあったのよ」

「もう、どうでもいいです。まったくぅ」

 

 嘆息を漏らして荷物を置き、花子は顔を上げた。

 

「それで、一番下の階でしたよね。どんな本なんですか?」

「そうこなくてはね」

 

 うな垂れてかぶりを振る花子に、レミリアは不敵な笑みを浮かべるのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 パチュリーの寝室や大きな図書館の前を通り過ぎ、花子は最下層へ続く階段の前に辿り着いた。

 赤い装飾が目立つ館はどこも派手な印象だったが、この階段は雰囲気が違う。綺麗な壁紙は途切れてなくなり、ごつごつとした石の壁が暗闇へと延びていた。壁に点々とかかっている燭台の火は、明かりとしての役割を果たしているとは言い難い。

 下から漂ってくる不気味な雰囲気に、花子は息を飲んだ。わずかなかび臭さと初夏であるのに不自然なほど冷たい空気の肌触り。階段を下りずとも、ただの地下室ではないということは否応無しに分かってしまう。

 こんなところに、本当に目当ての本があるのだろうか。もしかしたらレミリアが自分を閉じ込めようとしているのでは――

 

「……さすがに、そんなことはしないよね」

 

 頭を軽く叩いて、考えを押し出す。レミリアは意地悪だが悪人ではないというのが、花子の印象であった。この三日間はこき使われたものの、楽しい時間の方が多かったくらいだ。

 胸元をきゅっと掴んで、一歩ずつ階段を下りていく。その度に空気の温度が冷たくなる気がするのは、きっと気のせいではないだろう。少し寒いくらいだと感じているというのに、汗は引く気配を見せない。

 燭台の揺れる炎は、まるで花子を地下へと誘っているようだ。どうしてか止まることは許されない気がして、唇を少しだけ噛みながら歩を進めた。

 長い階段をようやく下りきると、思ったよりも明るい廊下が待っていた。とはいえ、壁も床も氷のように冷えた石でできているので、怖いことに変わりはない。

 後ろを振り返れば階段があるだけの一本道で、どうやら部屋は行き止まりにある大きな扉の一室だけらしい。目的の本があるとしたら、あそこだろう。

 

 ここまで来たら、もう引き返すわけにはいかない。自分のもんぺが擦れる音だけが聞こえ、むしろそれだけが励みだった。 

 部屋の前につき、扉を見上げる。赤い大きな扉は、廊下の不気味さをいっそう引き立てている。

 勇気を振り絞って、花子はドアノブに手をかけた。力を込めて押すと、扉は大仰な音を立てて花子を室内に招き入れた。

 かび臭くほの暗かった廊下から一転、ふんわりとした甘い香りと優しい光が花子の全身を包み込む。

 

「わぁ……」

 

 思わず声を上げていた。魔法の明かりで照らされている部屋は、たくさんのぬいぐるみと可愛らしい壁紙に彩られている。

 つい先ほどまで歩いていた岩穴が如き廊下からは想像もできぬほど、メルヘンチックな部屋だった。

 お姫様の部屋みたいだという感想はレミリアの部屋にも抱いたが、こちらはまるでおとぎ話の中に飛び込んだような心地すら覚えた。

 珍しげに部屋を眺めつつ、件の本を探す。とはいえ、花子の好奇心は室内のあらゆる装飾品に奪われてしまっていた。思考回路から「本」という文字が薄れていき、その手は自然とウサギのぬいぐるみに伸びていく。

 

「可愛いなぁ、これ」

 

 思わず微笑んで呟いた、その時だった。

 

「あなた、だぁれ?」

 

 突然聞こえた柔らかな少女の声に、花子は驚いてぬいぐるみを落としかけた。

 振り返ると、やはり少女がいた。レミリアがかぶっていたものによく似ているナイトキャップからは、ブロンドのサイドテールが覗いている。瞳は赤く、顔立ちもどことなくレミリアに似ていた。

 レミリアよりは少しだけ幼いか。花子は彼女が紅魔館の主の妹だろうと推測した。

 赤を基調としたミニスカートのドレスは、部屋の装飾も相まって少女をさらに現実離れさせている。見とれてしまいそうな光景だが、しかし花子は彼女の背に生えている羽を見つめていた。歪んだ木の枝のようなものに、七色の宝石がぶら下がっている。

 じっくりと凝視してしまっている花子に、少女が首を傾げる。

 

「なぁに? 私、どこかおかしい?」

「うぇ、ううん! ごめんね。羽が綺麗だから、つい」

「ふぅん。綺麗なのかな、これ」

 

 羽の宝石をつっつきながら、少女はさして興味なさそうに呟いた。こちらを向いて、

 

「それで、あなたは誰? 人間?」

「あ、ごめんなさい。私は御手洗花子って言います。お化け……妖怪、だよ」

 

 外では幽霊ということで通っている花子だが、正真正銘生粋の妖怪である。人間を驚かすには幽霊と名乗ったほうが都合がよかったのだが、妖怪同士となれば話は別だ。

 正直に自己紹介をすると、少女は大きな瞳をぱちくりさせながら、

 

「花子。分かりやすい名前だね」

「うん。自分でもそう思う」

 

 頬を掻きつつ答えると、少女も愉快そうに口元を抑えた。

 

「おもしろいね、あなた。……私はフランドール。フランドール・スカーレットよ」

 

 やはり、レミリアの妹であるらしい。しかし、花子は彼女の姓にさして興味を抱かず、少女の名を呟く。

 

「フランドール……」

 

 繰り返して、花子はその響きの美しさに感動した。自分の安直な名前とは何もかもが違う、それこそおとぎ話のヒロインにふさわしい名前だ。

 羨ましさを覚えつつ、花子は手に持っていたぬいぐるみを置いて頭を下げた。

 

「勝手に入っちゃってごめんなさい。レミリアさんに本を探すように頼まれてるの」

「本? あぁ、あの漫画ね」

 

 先代の叔父の云々は、やはり嘘だったようだ。予想はできていた、というか確信していたので、今更驚く気にもならないが。

 

「後でお姉さまに返しておくから、花子が持っていかなくてもいいよ」

「え、でも」

「お客さんにやらせるわけにはいかないもん。それよりねぇ、一緒に遊ぼうよ」

 

 にっこりしながら、フランドールが花子の手を取った。

 早く他の家に行って誰かを驚かせたい気持ちはあったが、彼女の笑顔を裏切ることは、花子にはできない。急いで誰かを驚かさなければ死ぬということもなく時間が押しているわけでもないので、頷くことにする。

 

「いいよ。何して遊ぶ?」

「うーん、弾幕ごっこかな」

「ダンマク?」

 

 聞いたことのない遊びに、きょとんとすると、これにはフランドールが驚いたようだった。

 

「知らないの? 幻想郷の妖怪なのに?」

 

 どうやら、常識で知っているべき遊びであるらしい。幻想郷には、まだまだ知らない常識が山ほどありそうだ。申し訳なさそうに俯いて、花子は呟く。

 

「ごめんね。私まだ幻想郷に来て一月も経ってないの」

「あら、そうなんだ。じゃあ弾幕ごっこはできないねぇ」

 

 フランドールが眉をハの字に歪めた。どうしたらいいものかと唸りながら、首を傾げている。

 花子は困った。なにせ初対面なので、フランドールの価値観や趣味が分からない。鬼ごっこなど体を使う遊びは、彼女がレミリアの妹であると気づいてしまった以上提案する気にもなれなかった。

 

「どうしようかなぁ。なにしようかなぁ」

 

 考え込むフランドールを見ているうちに、花子はふと気がついた。彼女の背後にあるベッドの上に、掌に乗る程度の布製の玉がいくつか転がっている。

 まるでフランドールの羽のようにカラフルなそれは、お手玉のようだ。客室に置いてきたリュックにも四つほど入っている、花子にとって馴染み深いおもちゃであった。洋風の部屋には似つかわしくないようにも思えたが、色合いのおかげですっかり馴染んでいる。

 

「ねぇねぇ、フランドールちゃん」

「フランでいいよ。どうしたの?」

「あれ、貸して?」

 

 指差すと、フランドールはこちらとお手玉を交互に見てから、とりあえず言われた通りにお手玉を持ってきてくれた。受け取った数は三つ、花子がもっとも得意とする数だ。

 

「それ、魔理沙がくれたの。でもうまくできなくて、すぐやめちゃった。花子はできるの?」

「それなりに。こう、よっと」

 

 右手に三つを掴み、そのうちの一つを上に投げる。フランドールの目がそれを追った。ついで二つ目を空中に放り投げ、直後に空いた手で一つ目を掴む。その頃には二つ目が落下に入っていて、素早く三つ目を放り同時に左手の一つ目を右手に受け渡す。

 一連の動作をテンポ良く繰り返すと、お手玉を追ってくるくる回っていたフランドールの瞳が輝いた。眩しいほどの笑みを浮かべて、

 

「すごいすごい! なにこれ、どうやってるの? 魔法?」

「魔法じゃないよ。練習すればフランちゃんもできるようになるよ」

 

 空中のお手玉を全て受け止めて、花子はそのうちの二つをフランドールに手渡した。両手にお手玉を握った彼女は、しかし途端に不安そうな顔で俯いてしまう。

 

「私にもできるかなぁ」

「大丈夫だよ、二つなら簡単だもの。教えてあげるから、やってみようよ」

 

 整ったフランドールの顔を覗き込む。西洋人形のような少女はしばらく考え込んでから、まるで一世一代の大決心をするかのように頷くのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 吸血鬼という悪魔がどれほどの能力を持っているかを、花子はよく知らない。そもそもが子供を驚かす妖怪である上に、人間からの認識は亡霊であった。科学に浸っている外の世界では退治されることもなく、戦いなどというものは本や新聞の世界で起きていることだった。

 なので、目の前のフランドールにあらゆるものを破壊をする力があることなど知らないし、また身体能力から魔力までずば抜けていることなど分かるはずもない。

 ただ分かることといえば、フランドールという少女は世間知らずで人懐っこく、姉に似てわがままであり姉よりよく笑うということだろうか。

 

 あれから数時間、お手玉で遊んでいた。カラフルな玉がポンポンと宙を舞う。数は、二人合わせて六つ。

 フランドールの成長は目覚ましいものがあった。最初こそ苦戦していたが、十分も立てば二つのお手玉を自在に操れるようになった。それから練習を続けて、今はぎこちないながらも三つの玉を使っている。

 花子が三つでお手玉をできるようになるまでは、かなりの時間がいったのだが。少しだけ嫉妬を覚えたが、フランドールの笑顔を見ているとどうでもよくなってしまった。

 さすがにひたすらお手玉というわけにもいかず、二人はたまに雑談を挟んだりもしている。花子が外の世界からやってきたばかりという話に、フランドールはとても興味を示していた。

 

「じゃあ、外の世界では弾幕ごっことかやらないの?」

「全然やらないよ。ぽこぺんとかドッヂボールとか、ケイドロとか。女の子は本を読んだりシールを交換したり、好きなアイドルの写真を切り貼りしたり。時々トイレに隠れてケータイをいじってる子もいるよ」

「うぅん、ほとんど分からないや。でも、いっぱい遊びがあるのね。外の世界は楽しそうで、羨ましいな」

 

 何も幻想郷に弾幕ごっこしかないわけではないだろうが、フランドールはどういうわけか弾幕ごっこ以外の遊びをほとんど知らなかった。分かったものは、読書とぬいぐるみ遊びくらいか。

 友達を作って遊べば、もっと色々な楽しみが増えるだろうに。花子は思い切って、訊ねてみた。

 

「ねぇフランちゃん。お外には出ないの? 他の妖怪の子と遊んだりすれば、色々教えてもらえるんじゃないかな」

「そうだねぇ。そうかもしれないけど、私は外に出してもらえないんだ」

 

 小さく溜息をつくフランドール。その顔に悲しみや苦しみという色はなく、ただ不満に唇を尖らせている。

 

「レミリアお姉さまが、フランは外に出ちゃだめって言うの」

「なんで?」

「私の力が危ないってのもあるだろうけど、あいつは私を子ども扱いしてるのよ」

 

 なにやら込み入った話になってきて、花子はお手玉を動かす手を止めた。同じように遊んでいた玉を受け止めてから、フランドールが天井を見上げる。魔法の光に照らされている部屋の天井はやはり無機質で、空には届きそうもなかった。

 

「産まれた時から、私は外に出たことがないの。五十年くらい前までは、この部屋にずっと閉じ込められてたわ」

「そんな、なんで?」

「私が……ちょっと、暴れん坊だったから」

 

 おもむろに立ち上がって、フランドールはベッドに腰を下ろした。そのまま後ろに倒れこんでから、花子に向かっておいでおいでをする。

 素直に従ってフランドールの隣に座ると、彼女は倒した体を起こしてから続けた。

 

「昔は、納得してたんだけどね。今はちゃんと抑えられるようになったし、もうあの頃みたいな子供じゃないのに」

 

 花子は何も言えなかった。いくら暴れるからといって、自分の妹を地下室に閉じ込めてしまうなんて、レミリアは何を考えているのだろう。

 無論、彼女らの事情を理解できていないからこその感じ方だ。悪魔とはいえ、レミリアが家族にそんな酷いことをするとは、いまいち信じられない。

 

「咲夜が来てからはご飯も美味しくなったし、パチュリーに魔法を教えてもらったり本を借りたりできるから、退屈はしないんだけどね。そんなに自分が優位だって示したいのかしら」

 

 やれやれと嘆息を漏らして、フランドールは肩をすくめる。

 

「お姉さまは、私のことを人形か何かだと思っているのよ。三百年くらい言うこと聞いて地下に閉じこもってやったってのに、まだ足りないのかな、あいつは」

 

 膝に頬杖をついて散々愚痴った後、唇をにやりと歪め、彼女は花子に耳打ちした。

 

「花子、いいこと教えてあげる。あいつはね、本を読まないから、私よりずっと頭が悪いんだよ」

「そ、そうなんだ」

 

 苦笑いで答えつつ、擁護してやれないことを心の中でレミリアに詫びる。

 数時間接しただけだが、フランドールの人格に致命的な欠点は見えなかった。むしろ、姉よりもしっかりしているのではと思ってしまう。

 

「じゃあフランちゃんは、ずっとここで独りぼっちだったんだね……」

 

 同情を隠さずに言うと、フランドールは明るい笑い声を上げた。

 

「あはは、花子は優しいねぇ。でも、大丈夫だよ。たまに魔理沙が遊びに来てくれるわ。白黒の魔法使い、見たことない?」

 

 花子は背筋に冷たいものが走るのを感じた。魔理沙という名前の響き、黒白の魔法使い。真夜中の寺子屋で浴びた真っ白な光が脳裏に蘇る。

 額から冷や汗を流す花子を見て、フランドールは何があったかを悟ったようだ。

 

「花子、魔理沙に退治されたんだ?」

「う、うん。人里で襲っちゃいけないって知らなくて、あそこの寺子屋で子供を驚かしてたんだけれど……」

「魔理沙は強いもんね。私でも負けちゃうことがあるもん」

「うぅ、三人がかりならなおさらだよね」

 

 ぽつりとこぼしたその言葉に、フランドールが笑みを消してこちらを向いた。

 

「魔理沙だけじゃなかったの?」

「霊夢さんと早苗さんっていう、二人の巫女さんも一緒にいたよ」

「……それは、ご愁傷様だね」

 

 頭を撫でてくれるフランドールに目を細め、彼女の背後――枕元にある目覚まし時計に目がいった。

 正午までには出ようと思っていたのだが、時刻はすでに三時を回っている。楽しい時間はあっという間にすぎるもので、もう少しフランドールと遊びたい気持ちもあったが、花子は申し訳なさそうに新たな友人へ頭を下げた。

 

「ごめんね、フランちゃん。私、そろそろ行かなくちゃ」

「えぇっ、もう行っちゃうの?」

 

 フランドールは撫でていた手を止めて、花子の手を取った。

 

「もう少しいてもいいじゃない。もっと遊ぼうよ」

「そうしたいけど、人間を驚かさないといけないの。また遊びにくるよ」

 

 半ばお願いするように言うと、分かってくれたらしい友人は上目遣いに呟いた。

 

「絶対来てね。約束だよ?」

「うん、約束」

 

 小指を差し出すと、フランドールも自分の小指を絡めてきた。二、三度振って誓いとし、花子は自分の荷物のもとへと向かった。

 リュックを背負って、名残惜しそうな視線を向ける友人に手を振る。

 

「ばいばい、またね」

「うん、またね」

 

 小さく手を振り返しながらも、フランドールは寂しそうだった。家から出してもらえないらしい彼女にとって、遊びに来てくれる友達はとても貴重なのだろう。

 扉が閉まり、向こう側からお手玉で遊ぶ音が聞こえてきた。住む学校を変えて友達がいなかった頃、トイレに作った空間で一人でお手玉をしていたことを思い出す。とても寂しく、つまらなかった。後ろ髪を引かれる思いで、扉に背を向ける。

 幻想郷で落ち着くことができたら、今度はもっと長く彼女と一緒にいよう。そんなことを考えながら、花子は地上に向かって歩き出す。

 ほの暗くかび臭い廊下を怖いと感じることは、もうなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「お世話になりました」

 

 無理矢理留まらせていたのはこちらだというのに、花子が律儀に頭を下げる。幻想郷で生きていくには少し素直すぎるかとも思うのだが、そのうちここでのやり方も身につくだろう。レミリアは、咲夜が差す日傘の下で微笑んだ。

 

「あなたはよく働いてくれたわ。本当にうちのメイドにしたいくらい」

「そうですわね。妖精達とは比較にならなかったわ」

 

 咲夜にまで褒められて、恥ずかしそうに頭を掻く花子。他の人間や妖怪ならばもう二度とやるものかと吐き捨てそうなものだが、まったく純朴な少女である。紛れてしまえば人里の子供と言われても分からないだろう。

 リュックを背負いなおして、花子が思い切ったように顔を上げた。

 

「レミリアさん、お願いがあるんです」

「なにかしら」

 

 訊くと、彼女は少しだけ躊躇ってから意を決したように、

 

「フランちゃんのこと、なんですけど」

「……言ってごらんなさい」

「あ、あの……フランちゃん、外に出ちゃいけないんですか? もっとたくさん友達できたほうが、フランちゃんも楽しいと思うの」

 

 言われるだろうとは思っていた。フランドールを隔離しているのは、確かにレミリアが過保護であるという理由もあるのだが、それ以上に複雑な事情があった。花子の言葉は、レミリアからすれば不躾な詮索とも言える。

 とはいえ、彼女をフランドールのところへ差し向けたのはレミリアであるし、当初の目的通り友達になってくれたのだから、花子を責める気にはならなかった。

 魔理沙と霊夢が乗り込んできてから、フランドールもだいぶ落ち着いてきている。そろそろ外に出してやってもいいかもしれないが、なにせ五百年近くも閉じ込めてしまったのだ。ゆっくり慣れさせる必要があるだろう。

 真剣な眼差しでじっとこちらを見つめる花子に、レミリアは苦笑を浮かべた。

 

「……考えておく。ただ、色々と事情があるのよ。すぐにとはいかないわ」

「そう、ですか。分かりました」

 

 納得してくれたのかは分からなかったが、いつか彼女にも理解してもらえることだろう。レミリアは努めて笑顔を作り、

 

「この三日間、本当に楽しかった。再会を楽しみにしているわ」

「うん、ありがとうございます。必ずまた来ます」

 

 もう一度お辞儀をして、花子がこちらに背を向けた。名残惜しいが、別れの時だ。

 大きな街道に出るまでの間、門番の美鈴(めいりん)に彼女の道案内兼護衛を頼んである。幻想郷の妖怪達は喧嘩っ早いからという理由だが、我ながら人が良くなったものだと、レミリアは気付かれない程度に微笑んだ。

 美鈴が待つ門へと向いて、花子は上半身だけで振り返りながら告げる。

 

「それじゃあ、さようなら」

「えぇ、さようなら」

 

 門で美鈴と合流し、彼女はとうとう行ってしまった。再び住居や驚かせる人間を探すと言っていたので、当分は遊びに来れないのではないだろうか。

 小さくなっていく花子の背中を見送りながら、レミリアは何気なく呟いた。

 

「あの子……。私のこと、友達だと思ってくれてるのかしら」

「ふふ、散々意地悪しましたからね」

 

 ちゃっかり聞いていたらしい咲夜が笑った。少しだけ唇を尖らせ、

 

「でも、一緒におやつを食べたり遊んだりもしたわ」

「そうですわね。あの子もなんだかんだで楽しんでいたみたいですし、きっとお嬢様を友達だと思ってくれていますよ」

「そうかしら。そう思う?」

「えぇ、もちろんですわ」

 

 笑顔で頷かれて、レミリアはあっという間に上機嫌になった。妖精メイドや来客には高飛車な態度を取る彼女だが、咲夜の前ではそこらの子供と大差がない。

 自慢げな顔で踵を返し、レミリアは館へと向かった。隣を歩く咲夜へと、小さな胸を張る。

 

「花子もラッキーね。このレミリア・スカーレットと友人になれるなんて、これほど光栄なことはないものね」

「ふふ、おっしゃるとおりですわ」

 

 驚かされて酷い醜態を晒したことなど、もはやレミリアの中でどうでもいいことになっていた。花子は彼女にとって、すっかり大切な友人に昇格している。

 次に会うときは悪戯はせずに、フランドールやパチュリーも混ぜて遊ぼうと考えながら、レミリアは紅魔館の扉を開けるのだった。



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そのよん 恐怖!人妖店主の不気味な道具屋!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。私はいつも通り、元気です。幻想郷に来てから外を歩くことが増えたけれど、旅というのも慣れると楽しいものなんだよ。

 

 レミリアさんの家を出て、美鈴さんに大きな道まで案内してもらいました。湖で私を襲った子供たちは、妖精だったんだって! 幻想郷には不思議なことがまだまだありそうです。手紙を書くのが楽しいから、とても嬉しいよ。太郎くんにも楽しんでもらえているといいな。

 

 ところで、太郎くんはパソコンの作り方を知っていますか? 小学校で子供と先生が使っているところを見て、夜中にこっそり二人で遊んだりしたけど、作り方なんて考えたこともなかったね。

 

 幻想郷には時々外の道具が落ちていることがあるそうなのだけれど、こっちの人は使い方どころかそれが何なのかも分からないことが多いのだそうです。パソコンもそうだけど、ケータイやテレビ、昔のゲーム機なんかもあるみたい。

 

 使い方はそれなりに説明できたのだけど、作り方を聞かれて困ってしまいました。改めて考えると、使えるだけで作り方をまるで知らないなんて、確かにちょっとおかしいよね。

 

 もしもパソコンの作り方を知ることがあったら、私にも教えてください。みんなに自慢しちゃうんだ!

 

 それではまた、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 夕暮れを過ぎた霧の湖は、昼ほど霧は満ちていなかった。

 花子が訪れた時は、湖でも稀に見る濃霧であったらしい。普段も視界は悪いが歩くだけでずぶ濡れになることはないと、隣を歩くチャイナ服の少女、紅美鈴(ほんめいりん)が教えてくれた。運が悪かったということだろう。

 湖で出会った自分より小さな空飛ぶ少女達は、妖精だったらしい。確かに見た目は本で読んだ妖精のそれだったが、まさかそのものずばりとは思いもしなかった。

 妖精達は美鈴にもカラフルな妖力弾を撃ってきたが、美鈴は呆れながらも相手をし、彼女らを追い払った。悪態をつきながらも楽しそうな妖精達を見て、これがフランドールの言っていた弾幕ごっこであるのだと気がつく。同時に、練習しなければ自分には当分できそうもないなと、地下で退屈しているだろう友人に胸中で詫びた。

 

 今はもう霧の湖を抜け、街道へ続く並木道を歩いている。日は落ちかけているが、妖怪である花子にとって夜はそれほど恐れるものではない。

 ただ一つ心配なのは、誰かに弾幕ごっこを仕掛けられるかもしれないことだ。美鈴曰く、相手が妖怪ならば容赦なくケンカを売ってくるとか。丁重に断れば許されることもあるらしいので、花子はそこに賭けるしかないのだ。

 自然にできたという割りには綺麗な並木道を歩きながら、花子は隣を歩く美鈴を見上げた。彼女は花子から見たら、とても背が高い。

 

「美鈴さん、案内してもらっといてあれなんですけど、門番はいいんですか?」

 

 花子が紅魔館に侵入した時は、大胆にも外壁を無理矢理登ったので、美鈴とは会っていなかった。咲夜とレミリアから、彼女が紅魔館の門番であると聞いたのだ。

 

「ん? あぁ、大丈夫ですよ。紅霧異変の後から、紅魔館は人を招き入れることが増えてますから。最近はお出迎えするためにいるような立場ですし、お嬢様も『見張りというよりも挨拶係』なんて言うんですよ。夕方からは来客も少ないので、ちょうど暇になるところだったんです」

「ならいいんですけど……。壁をよじ登って忍び込んだ私が言うのも変ですけど、泥棒とかは入ってこないんですか?」

「入ってきますよ、白黒の魔法使いみたいな恰好をした泥棒が」

 

 魔理沙だなと、花子は確信した。館に閉じこもっているフランドールも知っていたし、あんな服装を好む者はそうそういない。間違いないだろう。

 とはいえ、美鈴の顔に嫌悪感はなく、むしろ楽しそうだ。侵入されて困るというわけではないらしい。理由は、美鈴本人が教えてくれた。

 

「でも、誰も怒らないんです。なんだかんだでお嬢様や妹様とも仲がいいですからね、魔理沙は。パチュリー様も、嫌そうな顔しながらお茶を淹れたりするくらいですし」

 

 泥棒に入るのに悪人と思われない魔理沙。なんともおかしな話だと思ったが、幻想郷だから仕方ないと無理矢理に納得した。

 夏も近いからか、日は沈みきることを拒むように花子達の影を長く伸ばしている。空を彩る鮮やかなオレンジは東にいくにつれて深い藍色と混ざっていき、雲は二つの色を同時に受けて、幻想郷の夕暮れは神秘的な色合いを見せていた。

 まるでフランドールの羽みたいだ。なんとなくそう思った時、花子は自然に美鈴へ訊ねていた。

 

「美鈴さんは、フランちゃんがどうして閉じ込められてるか知ってますか?」

「妹様、ですか? えぇ、まぁ一応は」

 

 立ち止まって頷く美鈴。心に浮かんだ疑問は、もう止めることができなかった。

 

「フランちゃん、悪い子じゃないですよ。どうして地下に閉じ込められなきゃならないんですか?」

「……あー……」

 

 鬼気迫る口調に、美鈴は頭を掻きつつ言葉を探している。説明を避けているというわけではなく、何から話せばいいのかという感じだ。

 あまりに真っ直ぐ見つめる花子に、彼女はかぶりを振って溜息をつく。

 

「花子さんは、妹様とお友達に?」

「はい。地下で会って、一緒にお手玉をしました」

「……そうですか。妹様が心を許された人なら、教えてあげてもいいかな」

 

 再び歩き出す美鈴を追いかけて、その隣に並ぶ。足の長さもまるで違うので歩幅が合わないが、彼女は花子に歩調を合わせてくれていた。

 さきほどまでの垢抜けた空気から少しだけ神妙な顔になって、美鈴が続ける。

 

「妹様には、『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』があります」

「破壊……ですか」

「えぇ、破壊です。全てのものには最も緊張している『目』という部分があるそうで、妹様はそれを自分の手中に移動させることができるのです。それを握りつぶしてしまえば、どんなものでも壊れてしまう。石も木も鉄も、隕石までも。例えそれが、人や妖怪であっても」

「……」

 

 美鈴はフランドールと仲がいいのだろうなと、花子は直感した。語られる言葉の節々から、痛ましいと思っている心が伝わってくるようだ。

 

「花子さんが仰るとおり、妹様はとてもいい子です。あまりにも素直で、純粋すぎます。それ故に、あの力を簡単に使ってしまう。

 幻想郷は妖怪の世界ですが、バランスをとても大切にしています。誰か一人が突出し暴れてしまえば、幻想郷は壊れてしまう。あるいは、妹様が何かの拍子に幻想郷を破壊してしまうことだってあるかもしれません」

「そんなこと――」

「可能性の問題です。幻想郷にはいろんな能力者がいますから、フランお嬢様だけが危険というわけではないのですが、妹様の場合、無垢のあまりにあらゆるものを破壊する危険があるんです。そうなってしまえば、妹様は幻想郷で生きていく資格をなくしてしまう。

 一緒にお酒を楽しんだ時、レミリアお嬢様は寂しそうに言っていました。『幻想郷ならフランも外に出られると思っていたのに』と。私は外でお嬢様達がどういう暮らしをしていたかは知りません。でも――好きで閉じ込めているわけじゃないということは、分かります」

 

 知らないうちに、花子は俯いていた。あの眩しい笑顔を浮かべるフランドールに、そんな力があったなんて。少しだけ怖いと思ってしまったことの罪悪感もまた、心を締め付けてくる。

 一緒に遊ぼうと誘ってくれたフランドールがなにもかもを破壊してしまうかもしれないなど、やはり花子には信じられなかった。それに、何よりも。

 

「閉じ込めてるだけじゃ、何も変わらないですよね」

「……」

 

 美鈴は答えなかった。だからというわけでもないのだが、花子の口は堰を切ったように言葉を紡ぎだす。

 

「だって、そうじゃないですか。誰かに怒られるのが怖いとか迷惑をかけたくないとか、そんな理由で閉じ込めてたら、いつまでたってもフランちゃんは変われないと思います。もっと、もっと色々な人と出会えば、もしかしたら――」

「お嬢様だって」

 

 遮るような美鈴の声に、口が止まる。そちらを見れば、彼女は先ほどよりも藍色が強くなった空を見上げていた。背が高くて顔は見えなかったが、悲しそうな雰囲気が伝わってくる。

 花子は自分がとんでもないことを口走ったのではと思ったが、美鈴は怒っているわけではなく、むしろ優しい声音で囁くように言った。

 

「お嬢様だって、妹様を外に連れていきたいのです。魔理沙や霊夢だけじゃなく、もっとたくさんの友達を作ってほしい。もっと色々なことを知ってほしいと思っておいでです。

 妹様を誰よりも愛していらっしゃるのは、咲夜さんでも私でもパチュリー様でもなく、花子さんでもなく……。たった一人の肉親である、レミリアお嬢様なんです」

「……」

「妹様は、ご自身の意思で館に留まっているんですよ。自分の能力が誰かを傷つけ壊してしまい、結果的にレミリアお嬢様が傷つくことを恐れているのです。時々出してくれと暴れるのだって、あの方にとってはちょっとした駄々にすぎません。

 レミリアお嬢様もフランお嬢様も、お互いの気持ちを理解しあっているのです。お二人は、本当に仲がよろしいのです」

 

 何も言えなかった。美鈴の言うことは理解できたが、それでも心が幼い花子は納得することができずにいる。

 憮然とする花子を諭すように、美鈴は続けた。

 

「そう見えないかもしれないですが……お嬢様は、とても優しく温かいお方なんですよ。ただ、少しだけ不器用で、吸血鬼だという自尊心に邪魔されてしまっているだけで」

 

 徐々に呟きに近くなる声。歩き続ける美鈴の声は、ともすれば風の音に掻き消されてしまいそうだ。

 並木道が途切れ、馬車や牛車も通れるだろう大きな街道へ出た。ここから先は、一人で民家を捜すことになる。

 どう声をかけていいのか分からずに戸惑っている花子に、美鈴が振り返る。逆光で見えにくかったが、花子には彼女がどこか苦しげな笑顔を浮かべていることが分かった。

 花子に向かって、美鈴は深々と頭を下げた。

 

「どうか……どうかお嬢様を責めないであげてください。どうか、お嬢様を嫌わないであげてください」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 どっぷりと日も暮れ、人間ならば視界を殺されているだろう街道を歩きながら、花子は何度目になるのか分からない溜息をついた。

 別れの挨拶はなんとか明るくできたものの、美鈴には辛い話をさせてしまった。知らなかったから仕方ないという言葉で片付けるには、あまりにも複雑な事情だ。

 生まれた時から小学校で過ごし、知恵も思考も子供に近い花子であっても、レミリアとフランドールが抱えている問題に首を突っ込むべきでないことくらいは分かった。

 美鈴にレミリアを嫌わないでくれと言われてしまったが、彼女を嫌うつもりは毛頭ない。むしろあの三日間で一番話をしたのはレミリアだし、花子にとって彼女はもう友と呼んで差し支えない存在だ。

 星空を見上げてぼうっと歩いていたが、もはや自分が考え込んでも何かが変わることはない。ぶんぶんと頭を振って、

 

「よし。今度行ったら、二人とたくさん遊ぼう」

 

 それが、花子にできる最良の選択であった。

 気を取り直して歩いていると、遠くに光が見えた。小さくぽつりとあるそれは、民家だろうか。ちょうど夕食時だろうなと思うと、花子のお腹もぐうと鳴った。

 一人赤面しつつ、紅魔館を発つ時に咲夜がサンドイッチをくれたことを思い出す。その場にリュックを下ろして、小さな箱を取り出した。

 紅魔館にはいまいち似合わない、竹で編まれた弁当箱だ。食べ終わったら洗う場所も探さなければなと考えながら、花子は竹箱の蓋を開けた。

 暗がりで見えにくい中、一切れ取り出し口に運ぶ。舌の上に広がったのは、表面だけが焼かれた香ばしいパンと柔らかなスクランブルエッグ、そしてカリカリになるまで火を通された干し肉の風味。

 ベーコンエッグサンドなるものは食べたことがなかったが、パンと材料の素晴らしいコンビネーションに、花子は思わず目を見開いた。咀嚼するたびに溢れる風味と香りは、頭のてっぺんまで痺れさせてくるようだ。

 言葉も出せぬままあっという間に一切れを食べつくし、水分を取るために水筒を取り出す。外の世界で手に入れた、蓋がそのままコップになるタイプだ。

 中に入っているのは、やはり紅魔館で入れてもらった紅茶だ。これまた縁のない飲み物であったが、咲夜が気を利かせてくれたらしく砂糖まで入っており、その甘味もまた絶妙だ。

 明かりのない街道で少女が黙々とサンドイッチを貪る様は不審極まりない光景だが、そもそもが人通りのない里の外。それも夜となってしまえば、通るのは夜目の利く妖怪くらいなものだ。襲う対象となる人間がいないとあれば、その妖怪すらも見かけることはない。

 下手に取っておけば腐ってしまいかねないという自分への言い訳をしつつ、花子はサンドイッチを全て平らげてしまった。紅茶を飲んで口の中をさっぱりとさせ、竹箱と水筒を片付ける。まだ水筒には紅茶が残っているが、こちらはしばらく温存しようという腹積もりだ。

 

「ごちそうさまでした」

 

 食前の挨拶を忘れてしまったことを軽く恥じつつ、作ってくれた咲夜に感謝の気持ちを呟いた。

 リュックを背負い、腹ごなしがてら先ほどの民家を目指すことにする。夜はまだ始まったばかりだし、辿り着いてからでもトイレに忍び込んで一仕事できるかもしれない。

 学校の怪異であった花子にとって、最も望むべきターゲットは子供だ。しかし、人里の外に出てしまった今、そうそうめぐり会うことはないだろう。子供だと思っていたレミリアですら、五百を超える年齢であったのだから。

 大人でも子供でも、この際人間でなくても構わない。誰かが驚き、彼女をトイレの花子さんとして語ってくれればそれでいい。花子はだいぶ吹っ切れた気持ちで、暗闇に輝く小さな光目指してぐんぐん歩いていった。

 徐々に大きくなっていくその光は、思っていたよりも近くにあったらしい。徐々に見えてきたその建物は、瓦屋根の一軒家だった。しかし、民家ではなく店のようだ。玄関口には外の世界にあった標識やらブラウン管のテレビやらが雑多に放り投げられており、機械類は風雨に晒され使い物にならないだろうことは一目で分かる。

 雑貨屋か何かだろうと、花子は判断した。外に並べられている粗大ゴミにしか見えないものにまで値札が貼られており、花子にとってはもはや雑貨どころの騒ぎではないのだが。

 道具の墓場にしか見えない店頭に呆れつつ、視線を上げた。もうはっきりと看板が見える距離だ。大きな木の板に達筆な文字で、『香霖堂』と書かれていた。

 店は閉まっているようだが、明かりはついている。さて、どうやって忍び込んだものか。入り口は明かりが灯っているし、人の気配もする。正面から堂々と行くわけにはいかないだろう。

 そうなると、裏口か。花子はばれないように抜き足差し足で香霖堂の裏に回った。しかし、それらしい戸口はなく木造の壁が続くばかり。今日も驚かせないのかと、思わず肩を落とした。

 最後の希望は、正面からこっそり侵入して家主にばれぬようお手洗いに隠れることだ。学校のトイレにいた頃は無縁であった苦労を強いられ、花子は改めて幻想郷の厳しさを身に感じていた。

 明かりが灯っている正面の扉を見て、またも困ったと眉を寄せた。引き戸ならば多少は侵入が楽になろうというものだが、ドアだ。ドアノブを捻るだけで音が出るし、扉に鈴でもつけられていようものなら、それはもう目も当てられない結果になるだろう。店である以上、来客を知らせるベルがある可能性は極めて高い。

 どうしたものか。小さな腕を組んで、花子は立ち尽くした。今から別の民家を探すことも考えたが、明かりはここ以外に見えなかったので、辿り着く頃には日が昇っているだろう。

 そろそろ少し休みたい気もする。いっそ、客人として訪ねてしまおうか。そんなことを考えていた、その時であった。

 

「おや? お前は確か」

 

 背後からの声に振り返る。そして、「ひっ」と声を上げた。

 立っていたのは、上向きに持たれた小さな八卦炉を松明代わりにして、もう片方の手で箒を担いでいる黒白の魔法使い。花子のトラウマ、霧雨魔理沙であった。

 霊夢と早苗の術もあったが、彼女が持っている八卦炉から放たれた光こそが、花子にとって何よりも恐怖だった。寺子屋が爆発した原因も、主に魔理沙にある。

 さっと身を翻し逃げようとする花子だが、箒をそこらに放り投げた魔理沙によって捕まってしまった。襟首をつかまれ、

 

「なんで逃げるんだ? 挨拶くらいしろよ」

「あわわ、なんでここにあなたがいるの!?」

「なんでって、夕飯食いっぱぐれたから香霖に出してもらおうと思ってるんだよ」

 

 抵抗を止めると、魔理沙はあっけなく手を放してくれた。ありがたい限りだが、下手に逃げれば容赦なくあの光を浴びることになるかもしれないので、花子は結局その場から動けなかった。そこまで酷い人間には思えないのだが、ここが幻想郷である以上、花子の常識は通用しないと思ったほうがいいだろう。

 とはいえ、やはり敵視されているような雰囲気は感じない。妖怪のくせにお人好しが過ぎるとよく言われる花子は、すっかり彼女が悪い人間ではないと信じてしまった。魔理沙の口から語られた名前に、首を傾げる。

 

「こうりん?」

「あぁ、ここの店主。本当は森近霖之助(もりちかりんのすけ)って名前なんだけどな、そんな大層な名前が似合う奴じゃないんだ」

「へぇ」

 

 我ながらなんとも適当な相槌だと思いつつ、一つ頷く。すると、店のドアが取り付けられた鈴をカラリと鳴らして開いた。

 出てきたのは、眼鏡をかけた白い髪の青年だった。青年は花子と魔理沙を一瞥した後、半眼になって溜息をつき、

 

「名前が似合わなくて悪かったね。僕は気に入っているんだけど」

「いいじゃないか、香霖のほうがしっくりきてるぜ」

 

 まったく悪気のなさそうな明るい声でそう言うと、魔理沙はさっさと店の中に入ってしまった。どうも二人は、親しい間柄であるようだ。

 そうなると、当然浮くのは花子である。どうしたものかともじもじしていると、青年――森近霖之助と目が合った。

 

「君は?」

「あ、私はその、御手洗花子といいます。妖怪で、ええと、なんというか」

「僕を襲いに来たのかい?」

「いえ! 襲うというか、あぁでもそうなのかな。でももう失敗してるので、それはいいです」

 

 なんとも情けない答えだが、霖之助は何かを悟ってくれたらしく、笑って済ませてくれた。店の奥から魔理沙が「晩飯はどれだ? これか?」などと言っているのが聞こえるが、彼が動じる様子はない。

 

「魔理沙とは知り合い……に近い何かのようだね」

「そ、そうですね」

「なるほど。もう店は閉めてしまったけど、これも何かの縁だ。夕飯は魔理沙が食べてしまうだろうけど、お茶くらいなら出すよ」

 

 花子が返事をする前に、台所か何かからけたたましい金属音が響き、魔理沙の悲鳴が聞こえてきた。霖之助が呆れ顔でそちらに行ってしまったので、招かれた花子としては立ち去るわけにもいかず、大人しく後をついていく。

 誰かを驚かすのは、明日以降になりそうだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 酒という飲み物を、花子は初めて口にした。例えようのない不思議な味であり、学校給食の残りが主食であった花子にとって、それはあまりにも衝撃的であった。

 最初こそ吐き出してしまいそうになったが、飲んでいくうちに悪くないと思えるようになっていた。顔や体が熱く頭はぼうっとしてくるが、それも嫌いな感覚ではない。

 ただ困ることといえば、自分の顔が真っ赤になることだろうか。少し恥ずかしいが、魔理沙や霖之助も酔いが回ってきているので似たようなものだ。

 魔理沙が食事を終えてからすぐに、酒盛りは始まった。その場に居合わせたというだけで、縮こまっていた花子も強制参加となったのだ。

 

「でさぁ、私は採れたてのキノコを宴会に持っていったんだよ。ちゃんと食べれるやつだぜ。だっていうのに、誰も手をつけないんだ。失礼だと思わないか?」

「魔法の森で採れたキノコだろう? そんな話を聞いてしまったら、もし本当に食べれたとしても箸は伸びないと思うね」

「酷いな。なかなかうまいし、味噌汁の出汁にもなるんだぜ?」

「魔法が出そうな味噌汁だね。僕は遠慮したいところだ」

「キノコ汁はうまいじゃないか。なぁ花子」

 

 二人の会話を肴にちびちびやっていた花子は、突然話を振られて陶器のカップを置いた。

 

「キノコのお味噌汁は、食べたことないなぁ」

「なんだって、そいつは損をしているぜ! 今度うちに遊びにこいよ、たんと食わせてやるからさ」

「遊びには行きたいけど、キノコ汁はいらない。不思議なキノコを食べなきゃならないほど、私は困っていないもの」

「ほう、お前もなかなか言うな」

 

 隣に座る魔理沙に小突かれ、花子は悪戯っぽく破顔した。酒が入っているというのもあるが、なにより魔理沙と馬が合ってしまったのだ。思いやりとは程遠い性格ではあるが、だからこそ変に気を遣う必要がない相手で、とても接しやすい。

 霖之助は彼女の兄のような存在なのだろうなと、花子は思っていた。食事の準備から片づけまで彼がやっていたし、魔理沙の突拍子もない話に律儀に返事を返すのも霖之助であった。聞けば、二人は魔理沙が物心つく前からの幼馴染だとか。自分と太郎に似たものを感じ、それがさらに二人への親近感を強めていた。

 

「そういえば、花子は最近外から来たんだよな?」

 

 魔理沙に聞かれて、花子は頷いた。

 

「うん、まだ一ヶ月も経ってないよ」

「それじゃあさ、この店にあるものについて、結構詳しいんじゃないか?」

 

 三人が今いるのは、店の奥にある霖之助の住居だ。ここに来るまでちらりと店の中を覗いたが、確かに小学校の学習室で見たパソコンや子供が隠し持ってきていた携帯電話が置いてあった。しかし、香霖堂にあったものはどれも古いタイプのものだ。

 詳しいかどうかは知らないが、使い方くらいは分かる。なので、一応首肯することにした。

 

「たぶん、それなりに分かると思う」

「じゃあ、香霖の質問にも答えられるかもな」

「そうだね。聞いてみようか」

 

 身を乗り出してきた霖之助に、花子は思わず姿勢を正した。こちらを見るその瞳には、凄まじいまでの好奇心が輝いている。

 

「あの『パーソナルコンピュータ』というものなんだけど、外の世界の式神だろう?」

「し、式神?」

「あらゆる計算をあっという間に解くし、ちょっとした命令ですぐに情報を集めてくる。水に弱いという欠点も同じだ。だからこれは、箱に式神を閉じ込めている」

「えっと、それはちょっと、違うっていうか……」

 

 まさかそんな頓狂なことを聞かれるとは思ってもいなかったので、花子は苦笑を浮かべるほかなかった。

 しかし、霖之助は式神云々については確信してしまっているらしく、花子の気持ちを置いて本題に入ってしまう。

 

「使い道は分かるんだ。僕の能力で」

「能力、ですか」

「うん。見たものの名前と用途が分かるという力なんだけど、肝心の使い方が分からなくてね。あのパーソナルコンピュータも、蹴っても叩いても反応しなくて困っていたんだ」

「そ、そんなことしちゃだめですよ!」

 

 思わず慌てるが、霖之助も魔理沙もぽかんと口を開けるばかりで、何が悪いのかまるで気づいていないようだ。

 機械類に衝撃は厳禁であることなど、科学と疎遠な妖怪の花子ですら分かる。しかし、幻想郷にはそういった常識すら存在していないらしい。

 そもそも電気が通っていない幻想郷だ。機械の類が役に立つとは思えないのだが。

 

「機械は乱暴に扱ったら、すぐに壊れちゃいます」

「人間の力でも壊れるのか。人に力で負けるなんて、ずいぶんともろい式神だぜ」

 

 小馬鹿にしたように鼻で笑う魔理沙。そもそもの解釈が間違っているので、なんと説明したらいいのやらと花子は一生懸命に言葉を探した。

 しかし、霖之助の次の言葉で、言葉探しを完全に諦めた。

 

「以前魔理沙達がゲーム機というおもちゃを蹴鞠のように蹴って遊んでいたけれど、あれもすぐにバラバラになってしまったね」

「そうですか……」

 

 小さくかぶりを振って、酒を口に含む。先ほどから飲んでいる酒と同じものなのに、どこか切ない味がした。

 こちらの思いなど露知らず、魔理沙がカップに酒を注ぎ足しながら、何かを思い出すように視線を彷徨わせる。

 

「あぁ、『げいむき』は硬いから蹴ると痛いし、そのくせ妙にもろかったぜ。(ちぇん)が蹴飛ばしたら粉微塵になったな。あいつは加減が下手だから、普通の鞠でも爆発させてしまうんだ」

「ゲーム機の中にはパーソナルコンピューターと同じでたくさん管があったけど、もしかしてあの中に小さな式神が入っているのかな」

「あの管にか? あんな細くちゃ八目鰻も入らないぜ」

「ミミズなら入りそうだけど。花子、あれはどうやって作っているんだい?」

 

 どこまでもずれた話の挙句、この質問だ。そもそも使いこなすこともできない機械類であり、内部構造など花子が知るわけもない。どのコードが何の役割を果たしているかも理解できないというのに、その作り方など、どうして花子が知っていようか。

 そもそも、機械がどうやって動いているのかという原理すら分からない。電気が通って、それでうまいこと動く。そんなレベルの知識しかない花子にとって、霖之助の問いは宇宙の果てに何があるのかを教えてくれという難題に等しかった。

 

「うぅん、ごめんなさい。どうやってできるのかは分からないです」

 

 頭を掻くと、霖之助はそれはもう落胆を露わに溜息をついた。遠慮もなにもあったものではない。一方の魔理沙が笑い飛ばしてくれたことが、救いといえば救いか。

 

「外来人だってそんなものじゃないか。携帯電話を自慢げに使いこなしても、原理を知らない奴ばかりだぜ。ほとんどが『ばってりーがなくなったからもう使えない』とか言って、一日くらいで壊れちゃうしな」

「それは、壊れてるのとは違うよ。電池切れで、えぇと、なんて言えばいいかな……。そう、お腹が空いて倒れちゃってるようなものなの。だから、とある方法で電気をあげれば元に戻るんだよ」

「そうなのかい? 壊れたと思って捨ててしまったのはもったいなかったな。しかし、空腹だったのか。やはり中には式神か、あるいは妖精が入っているということだね。なるほど、外の世界は妖怪や妖精を小さくする技術で溢れ返っているというわけか」

 

 例え話だったというのに、真に受けられるとは。もはや説明する気力も起きなかった。

 

「もう、それでいいです……」

「僕の仮説は正しかったわけだ。うん、これは嬉しいね」

 

 上機嫌に酒を煽る霖之助。幻想郷に機械が普及するのは当分先のことだろうから、彼が満足ならそれ以上突っ込むのは野暮かもしれない。

 耳元で諦めろと囁く魔理沙は、彼の仮説が実は不正解であると気づいてくれているようだ。霖之助がこういう人間だと一番知っているのは、彼女なのだろう。

 

「さて。それじゃあ仮説が正解だと証明されたことを祝して、乾杯といこうか」

「なに言ってるんだ、もうできあがってるくせに」

「いいじゃないか、ほら。僕の頭脳と才能に」

 

 霖之助が半分ほどしか入っていない透明なグラスを掲げた。呆れ笑いなど浮かべつつ、魔理沙と花子はそれぞれのカップを持ち上げ、

 

「うんちくの天才、香霖に」

「飛びぬけた洞察力を持つ、霖之助さんに」

 

 乾杯。

 

 カチリコロリと、控えめだけれど楽しげな音が、小さな部屋に転がった。



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そのご  恐怖!疾風操る鴉天狗!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは、太郎くん。花子はなんとかやっています。

 

 今日は、落ち込み気味です。香霖堂でお世話になったあと、霖之助さんと魔理沙の勧めで妖怪の山まで来たのだけど……

 

 幻想郷は妖怪の天下だし、私みたいに子供を怖がらせるだけの妖怪は下っ端だっていうのは分かってた。でも、まさかあんなにも力の強い妖怪がいるなんて。

 

 太郎くん、天狗という妖怪に会ったことがありますか? お話で聞いたよりもずっと強くて、とても速かったです。

 

 友達を悪く言われても、仕返しの一つもできなかったんだもの。見下されちゃうのも仕方がないことなのかもしれないね。

 

 少しだけ、自信をなくしてしまいました。私はこれからもトイレの花子さんでいていいのかな。

 

 私は、幻想郷の妖怪でいてもいいのかな。悔しくて怖くて寂しくて、辛いです。

 

 本当はこの手紙を出すのは止めようかと思ったけれど、手紙のお姉さんが伝えなさいと言うので、誰よりも仲がいい太郎君には正直に話すことにしました。

 

 だから、このことは誰にも話しちゃだめだからね。二人だけの、内緒だよ。

 

 今日だけは、弱い花子を許してください。

 

 それでは。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 曇天ながらも明るい朝、街道を行く影二つ。

 ようやく幻想郷に慣れてきた厠の妖怪、御手洗花子と、彼女の新たな友人にして普通の魔法使い、霧雨魔理沙だ。

 二人は今、妖怪の山に向かっている。魔理沙の箒に乗っていけば早いそうだが、霖之助達の話を聞いているうちに、花子は幻想郷を歩いて回りたいという気持ちが強くなっていた。そんな彼女の言葉に、魔理沙は「いいことじゃないか」と笑顔で頷いてくれた。

 とはいえ、花子としては無理に付き合わせてしまって申し訳ない気持ちもある。何より、魔理沙は山に用がないのについてきてくれているのだ。暇つぶしだそうだが、それでも詫びずにはいられなかった。

 

「ごめんね、ついてきてもらっちゃって」

「気にするな。朝の散歩は健康にもいいんだから、一石二鳥ってやつだ」

 

 箒を肩に担ぎながら楽しそうな魔理沙は、本心で言ってくれている。ざっくばらんとした彼女の性格は、とても気持ちの良いものだ。時々傷つくほど正直な言葉をぶつけてくるが、愛嬌というものだろう。

 街道は何度か枝分かれしていたが、妖怪の山はそれと分かるほど堂々と聳え立っている。幻想郷で山といえば妖怪の山を指す、という霖之助の言葉にも納得がいく。

 初夏の緑爽やかな山は、曇り空の下であっても生き生きと輝いて見える。これからあそこに行くのだなと思うと、それだけで花子の胸は高鳴った。

 

「魔理沙は、山に行ったことがあるんだよね。どんな場所だった?」

「空飛んでたから上からしか見てないけど、なかなか綺麗なもんだぜ。といっても、私が行ったのは秋だったからなぁ。今とはだいぶ違う景色なんじゃないか?」

「そっかぁ。秋の山は綺麗だものね。田舎の学校に住んでいた時は、秋が一番好きだったよ。都会では季節を感じることはあまりないから」

 

 花子の能力である厠の空間には、それが学校のトイレである場合に限り『あらゆる学校のトイレを渡り歩ける』という特徴もある。これを利用し、彼女は色々な学校でトイレの花子さんとして、子供達の恐怖を得てきたのだ。学校らしいものが人里の寺子屋しかない幻想郷では、ほとんど役に立たない能力であろう。ちなみに、同じ厠の怪異である太郎も同等の力を持っている。

 太郎と共に色々な学校を巡ったことを思い出したが、昔話を語る前に魔理沙が話題を戻してしまった。

 

「都会っていうのは、あれか? 石でできた高い家ばかりの町のことだよな? 早苗が自慢げに話してたけど、私は森に住んでるほうが楽しいと思うな」

 

 高層ビルが立ち並ぶ都会の様子は、魔理沙には想像できないのだろう。花子としても、ブロンドの髪と魔法使いの服を着た彼女には、幻想郷こそがふさわしい場所だと思える。

 とはいえ、黒髪のおかっぱにセーラー服ともんぺという花子に都会が似合うかと言われれば、誰しもが首を傾げるところなのだが。

 学校にしかいないのだから都会も田舎も関係がないと、花子は自分を棚に上げることにした。

 

「便利、らしいから。人間にとって、食べることも住むことも困らないのは素晴らしいことなんでしょ?」

「まぁ、そりゃそうだがな。努力や苦労を知らずにいると、ダメ人間になるだけだ。どこかの紅白みたいにな」

「霊夢のこと? あの人、あまりそんな風には見えなかったけれど」

「あの小さい神社を掃除するのに丸三日かけて、挙句手抜きだらけだったりするくらいにはズボラだぜ」

 

 本人がいないのをいいことに――いても堂々と言いそうだが――、魔理沙はケラケラと笑った。

 昨晩の酒盛りで、博麗霊夢なる少女が悪人ではないことを知った。老若男女、さらには人も妖怪も神様にさえ平等に接するという話だ。

 とはいえ、彼女は妖怪退治の専門家だ。妖怪へは厳しいポーズを取っているらしく、弱小強豪問わず、それこそ平等に退治してくるらしい。人里や神社の外で出会ったら、覚悟しなければならない。

 そんな話の中で上がったのが、今向かっている妖怪の山である。たくさんの妖怪や神様が住んでいるらしく、生半可な人間は近寄ることも叶わないそうだ。

 誰かを驚かすという目的もそうだが、紅魔館に行ってからというもの、花子は幻想郷の妖怪に強い興味を抱いていた。

 

「どんな妖怪がいるんだろうなぁ」

「天狗が有名だぜ。あとは河童か」

「天狗に河童。外では見たことがないや」

「だろうな。だから幻想郷にいるんだし」

「あ、それもそうだね」

 

 頬を掻きつつ、苦笑する。有名が故に幻想として認識されてしまった河童と天狗。外の世界で彼らを見かけることがないのは当然のことだ。

 ふと、魔理沙が肩に担いだ箒を下ろした。見れば、もう山の麓。どうやら一時の別れがやってきたようだ。

 

「私はここまでだな。山を下りてきたら、また会おうぜ」

「うん。ここまで付き合ってくれてありがとう、魔理沙」

 

 頭を下げると、魔理沙は花子のおかっぱ頭に手を置いて、

 

「気にするな。それより――」

 

 顔を上げてみれば、魔理沙は明らかに心配そうな表情で、花子を見ていた。なんとも、彼女らしくない。

 花子が首を傾げると、小さい息を一つ吐き出し、魔理沙が言った。

 

「山に行くなら、天狗に気をつけろ」

「天狗に?」

「あぁ。あいつらはよそ者を嫌うし、プライドも高い。特に弱い奴が相手だと、連中はすごく高圧的なんだ」

「そ、そうなんだ。分かった、気をつけるよ」

 

 頷いてから、花子はリュックを背負いなおす。高圧的で自尊心の強い妖怪といえば、レミリアがいた。うまく接すればきっと仲良くできるはずだ。

 箒に跨った魔理沙が宙に飛び上がり、帽子を押さえる。

 

「それじゃあ、元気でな」

「ありがとう。魔理沙もね」

 

 片手を上げて颯爽と飛び去る魔理沙の後姿を見送ってから、花子は再び妖怪の山を見上げた。

 豊かな緑が風に揺れ、それはまるで花子を歓迎しているかのように見える。どんな出会いがあるのだろう。

 踊る心を抑えきれずに、山へ続く道を意気揚々と歩き出した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 妖怪の山は、思っていた以上に未開であった。道らしい道はほとんどなく、草木の生い茂る獣道ばかり。

 ちょうど外の博麗神社に続く山がこんな道程だったなと花子は思った。あの山を歩いたことが、もうずいぶん昔のことに感じる。

 正午を過ぎても未だ太陽は姿を見せない。今日は一日曇りだなと、木々の隙間から曇り空を見上げつつ大木の根に腰掛けた。

 魔理沙と別れてから歩き通しだったので、さすがに空腹だ。花子は握り飯が入っている包みをリュックから取り出し、その一つを口に運んだ。香霖堂で魔理沙にこしらえてもらったものだが、塩加減が程よくなかなか美味だった。

 二つの握り飯を平らげて、水筒に入っていた最後の紅茶を飲み干す。どこかで水を補給しなければならないが、確か山には大きな川が流れていると霖之助が言っていた。

 

 誰か適当な妖怪にあったら聞いてみようと考えつつ、花子は登山を再開する。山頂まではまだまだ遠く、今夜はどこかで宿を借りるか、それができなければ野宿になるだろう。

 そもそもが便所暮らしであった花子にとって、野宿は大して苦にならない。むしろ空気がうまいので居心地がいいと思ってしまうほどだ。

 歩けど歩けど道は現れず、今自分がどこにいるかなど、とうに分からなくなっていた。山頂目指して登っているということだけは、間違いないのだが。

 誰かに道を訊ねようにも、妖怪や人間の類は一向に見かけない。正確に言えば空を飛ぶ妖怪らしき影は何度か見たのだが、地上で出くわす者といえば、リスや鹿といった口の聞けぬ連中ばかりであった。

 ひたすら登り続けて早三時間。花子はとっくに時間の感覚などなくなっていたが、このままでは水も取れないまま日が暮れてしまうことだけは分かる。

 妖怪の彼女は人間より遥かに体力があるし、水も二、三日は飲まなくても生きていけるのだが、外の世界からやってきたばかりの花子にとって、その選択はあまり喜べるものではない。

 せめて川だけでもと、花子は周囲を見回した。目に入るのは木と草の生い茂る山の景色ばかりで、耳を澄ませど水の音は聞こえてこない。どうやら、山に流れる川はここから遠くにあるようだ。

 当てずっぽうに歩いたところで、簡単に辿りつくとは思えない。どうしたものかと、花子はいよいよ頭を悩ませた。

 ともかく上を目指そう。解決に程遠い決断をした、その時。花子を吹き飛ばすほどの疾風が駆け抜けた。

 

「うわぁっ!」

 

 声を上げて、花子は盛大に転がった。あちこちに体をぶつけつつ、咄嗟に伸ばした手で大木にしがみつく。なおもごうごうと吹き荒ぶ風は、彼女の小さな体を大木から引き剥がそうとしているように思えた。

 飢えた猛獣が如く猛る疾風は、しかし次の瞬間、なんとも間の抜けた声によって掻き消えてしまった。

 

「あやや? こんなところに子供がいるとは」

 

 大木から転げ落ち倒れた花子の背後から聞こえたその声は、大人びていながら幼いソプラノを感じさせる少女のもの。痛む体に涙など浮かべつつ立ち上がり、花子は声に振り返った。

 そこにはやはり、少女がいた。外見で言えば、花子より年上だ。背もずっと高く、霊夢や早苗くらいはあるように見える。黒いボブヘアーで、頭には赤い小さな帽子を乗せていた。

 

「大丈夫ですか? 怪我はなさそうですが」

「は、はい。なんとか」

「それは何より。あれだけ転がっておいて無傷とは、人間ではありませんな」

 

 服についた泥を払いつつ、花子は頷いた。

 

「あ、うん。私は妖怪です。えぇと、トイレの花子さん、という」

「ほう、文献で見た記憶があります。しかし、厠の妖怪ですか。あまり綺麗なイメージじゃありませんねぇ」

「あは、確かに」

 

 言われてみれば、便所の妖怪など清潔な印象とは程遠い。とはいえ、何も便所の垢をすすっているわけではないし、生活空間はあくまで厠に作る花子固有の空間だ。

 出入り口と仕事場がトイレであるというだけなのだ。空気や臭いまでは、どうしようもなかったけれど。夏場は苦労したものだ。

 それを説明したところで、言い訳にしかならないだろう。花子は苦笑しつつ頬を掻くに留まった。

 あれほどの風を起こすだけのスピードで飛んでおきながら、黒髪の少女は急いでいたわけではないらしい。軽く会釈をしつつ、

 

「私は、鴉天狗の射命丸文(しゃめいまるあや)と申します。ここ妖怪の山で新聞記者などをやらせてもらってますよ」

「天狗さんだったんですね。私は御手洗花子。さっき言ったとおり、トイレの妖怪です。幻想郷にはまだ来たばっかりで」

「おやおや、新入りさんでしたか。して、なぜこの山に?」

 

 言いつつ、文はカメラらしきものをこちらに向けて、ぱちりとシャッターを押した。許可などあったものではないが、特別気にすることもなく花子は頷く。

 

「えぇと、せっかく来たのだから色々見て回ろうと思って。魔理沙達から山の話を聞いているうちに、行ってみたいなぁって」

「なるほど、魔理沙と知り合いでしたか。しかし、この山で見るところとなると……山頂の守矢神社か川の河童か、中腹にいる我々天狗の住処くらいなものですな」

「とりあえずてっぺんに行こうと思ってます。天狗さんの邪魔にならなければいいのだけれど」

「それなら問題ありません。この山は妖怪ならば行き来は自由ですよ」

 

 ほっと安堵の息をつき、花子はふと魔理沙の言葉を思い出していた。天狗はよそ者嫌いで自尊心の塊だと言っていたが、文はそんな風にはとても見えない。

 やはり仲良くできるではないか。いつか魔理沙に自慢してやろうと考え、文のカメラが鳴らしたシャッター音で我に返った。

 

「外から来たばかりでは、色々大変でしたでしょう。幻想郷の連中は血の気が多いですからね」

「えへへ、そうですね。人里では霊夢や魔理沙に退治されちゃいましたし、紅魔館でも酷い目にあいました」

「……あやや、中々ハードな日々をお送りですな。性悪巫女に手癖の悪い魔法使いはまだしも、あの吸血鬼にまでやられるとは」

 

 どうやら、一方的に攻撃されたと思われてしまったらしい。慌てて両手を振り、

 

「で、でも、紅魔館では私がレミリアさんを驚かせたからやられちゃったんだし、あとでフランちゃんとも友達にもなれたんですよ。悪いことばかりじゃなかったです」

「おや、あのワガママ娘とお友達になれたんですか? 花子さんは人がよろしいのですねぇ。私なら取材以外では話すのもごめん被りたいものですが」

 

 文の中でのレミリアの評価は、とても低いようだ。内心でレミリアに同情しつつ、花子は話題を戻した。

 

「そんなわけで、今は色々なところを歩いて回ってる途中なんです。ついでにお手洗いがあったら、誰かを驚かそうかなぁなんて思ってますけど」

「なるほど。しかし、なぜ歩きなのです? 山頂を目指しているのなら飛んだほうがずっと早いと思いますが。こだわりか何かですか?」

「それもありますけど、飛べないんですよ、私」

 

 またも苦笑いで答えると、文はさぞ驚いたようだ。目を丸くして、視線を花子と空へ交互に向けた。

 

「飛べない……? 妖怪なのに?」

「は、はい。外の妖怪はみんな飛べませんよ。変、ですか?」

 

 ここまで驚かれるとは思ってもいなかった。幻想郷の妖怪は確かに飛ぶのが普通であるらしいが、まさか飛べないことがおかしいとまで言われるなど、さすがに予想していなかった。

 しかし、文は未だに信じられないといった顔で、 

 

「変も何も。妖怪が飛べないなんて、笑えない冗談です。……一応聞きますけど、外の妖怪が人間を襲うことは?」

「ありますけど、せいぜい怖がらせたり驚かせたりするくらいですね」

 

 花子が生まれた時にはすでに、外の世界に住む妖怪は人を驚かし怖がらせることを目的としていた。人を食らうために襲うなどという話は、聞いたことがない。

 しかし、文の驚愕は徐々に失望や怒りへと変わっている。自分は事実を告げただけなのにと、花子はだんだん不安でいっぱいになっていった。

 

「……なんてこと。それでは、あなた方は人間や妖怪と戦ったことがないのですか?」

「そ、そうですね。ケンカはたまにするけれど、本気で戦うなんてことは……」

「信じられない。外ではそこまで妖怪のレベルが落ちているなんて」

 

 出会って早々だというのに、文はすっかり人が変わってしまったかのように、花子へ冷たい視線をぶつける。

 

「恥ずかしくないのですか? 人間共に蹂躙された挙句、驚かし怖がらせるだけなどというエンターテイメントに成り下がっていることが」

「え? え?」

「え? じゃないでしょう。理解できないの? 妖怪が人間の楽しみに利用されて、悔しくないのかって聞いてるのよ。妖怪は人を襲い、人は妖怪を退治する。その図式は妖怪ならば知っていて然るべきよ。どんな下級妖怪だって、戦い方は知っているというのに」

 

 突然目つきを険しくして厳しい口調になった文に、花子はしどろもどろになった。どうして怒っているのか分からないのだ。

 実は彼女が千年を生き超一流の実力を持つ大妖怪であり、天狗としての特性以上に妖怪としてのプライドが高いということを、花子が知る由もない。

 

「幻想郷に来て、妖怪や妖精に勝負を仕掛けられたことは?」

「しょ、勝負ですか? えっと、弾幕ごっこのこと?」

「そうですね、それでいいです。仕掛けられたことはあるようですね」

「まぁ、一応は。でも私、弾幕できないから、逃げちゃいましたけど……」

 

 呟くように答えると、文はいよいよ怒りを面に出し、声を荒げた。

 

「逃げた? 逃げたですって!? あなた、そんなことで幻想郷で生きていけると思っているの? いくらなんでも情けなさすぎるわ、あまりにも平和すぎる。よくもまぁそれで、吸血鬼の友人だなんて言えたもんだわ」

「そ、そんな」

 

 それは関係ないではないか――。そう言おうとしたのだが、花子の言葉は文によって打ち消されてしまう。

 

「幻想郷はその実、力の社会なのよ。戦い、勝てば自分の意志を押し通せる。負ければ大人しく引き下がる。それをレミリアも分かっているでしょうに、勝負事に背を向ける弱小妖怪と友達ごっこだなんて、吸血鬼が聞いて呆れるわ」

「ちょ、そんな言い方ってないです! 私が弱くて逃げたってのは本当だけど、レミリアさんまで酷く言わなくてもいいじゃないですか!」

「分かってないわね、あなた。吸血鬼はとても強く恐ろしい種族なのよ。一時は幻想郷を乗っ取ろうと画策して、それを実行に移そうとしたこともある。それだけの実力を、レミリア一派は持っているの。だというのに、こんな三下のグズとつるむなんて……あいつらにはプライドってものがないのかしら。吸血鬼も落ちたものね」

 

 だんだんと、花子は腹が立ってきた。レミリアは花子にとって、幻想郷でできた初めての友人なのだ。彼女は傲慢ちきでワガママだが、本当はとても優しい女の子だと花子は知っていた。

 フランドールとまた会う約束をしたけれど、同じくらいレミリアにももう一度会いたいと思っている。それほど大切な友人をコケにされて、黙っていられるわけがなかった。

 

「確かに……私みたいな弱くてのろまな妖怪じゃ、レミリアさんやフランちゃんとは釣り合わないかもしれないよ。でも、それでも私なんかと友達になってくれたのは、二人が優しいからじゃない。それを、そんな風に言うなんて酷いよ」

「外の妖怪というのは、どこまでぬるま湯に浸かっているのかしらね。妖怪が友達を作るなとは言わないけど、妖精からも尻尾巻いて逃げるような奴が吸血鬼と対等になれるわけないじゃない。

 あぁ……それとも、あなた程度の妖怪と対等なほどにまで、吸血鬼は地に落ちていたのかしら。だとしたら納得だわ。せいぜい弱者同士、傷の舐めあいでもしてなさいよ」

 

 唇を噛んで、花子は拳をきゅっと握り締めた。なんで初対面の相手にここまで言われなければならないのだ。自分だけならず、レミリアやフランドール、さらには外の妖怪達まで。

 一体何様のつもりなのか。憤りと呆れを浮かべる文の顔を見て、先ほどまで感じていた印象は完全に消えてしまった。

 こちらの心中を察しているだろうに、文は肩などすくめて挑発するかのように、花子が貶めてほしくない新たな名を口にした。

 

「魔理沙も魔理沙よ。人間にしては肝が据わってると思ってたけど、こんな弱いのと馴れ合うようじゃ、所詮はあいつも弱い人間だったってことかしらね。失望したわ」

「……っ!」

 

 我慢の限界だった。弾かれたように土を蹴り、花子は右手を拳にして振り上げ、文へと飛び掛っていた。

 しかし、怒りのこもった一撃は、文にとってあまりにも遅い。花子の容姿もあいまって、まるで子供の駄々のように見えただろう。あっけなくかわされて、地面に突っ伏す。

 地面の冷たさと口の中に入った土の味が、花子の不快感を煽った。起き上がって振り返り、怒りのままに文を睨みつける。今までもケンカをしたことはあったが、これほどまでに目つきを鋭くさせたことはなかった。

 心のどこかで自分の理性が、落ち着け、冷静になれと叫んでいる。しかし、花子はそれを無視して、怒声を上げた。

 

「もう許さない。それ以上私の友達を悪く言うのは、絶対許さないんだから!」

「あ、そう。それで、どうするの? 弾幕ごっこもできないあなたが、私と戦うつもり?」

 

 あからさまな挑発だったが、花子は黙って妖力を高めた。

 せいぜいが変化(へんげ)にしか使わなかった妖力だ。戦うために使うなどうまくできるわけもなく、ほとんど垂れ流しているような状態に近い。妖力弾を形勢することなど、できるわけもない。

 あまりに雑な力の使い方を見て、文が鼻で笑った。

 

「やる気なんだ? いいわ、面白い。幻想郷には決闘のルールがあるんだけど、まぁ今回は特別よ。私に一発でも入れられたら、今までの言葉を撤回してあげる」

「約束だよ。絶対に謝ってよね」

「私は鴉天狗。真実を記事にすることこそが私の誇り。嘘はつかないわ」

 

 余裕をにじませる文は隙だらけに見えるが、彼女から漂う妖気は痛いほど実力の差を物語っていた。文が少しでも攻勢に出れば、花子程度の妖怪は簡単に倒されてしまうだろう。

 しかし、一発だ。一発でも殴ることができれば勝ちなのだ。勝てば、大切な友人への冒涜を撤回させることができるのだ。

 一陣、風が吹き抜ける。折れた木の枝が乾いた音を立てて転がった、その刹那。

 

「うわああああっ!」

 

 花子は駆け出していた。不慣れながらも妖力で肉体を強化し、拳を文へと叩き込む。

 しかし、吹き荒れる疾風。文は武器である天狗の団扇を使うこともなく、風を操った。

 きりもみしながら吹き飛ばされて、再び地面を転がる。なおも風が花子を押し倒そうとするが、負けるものかと起き上がり、もう一度飛び掛った。しかし、

 

「話にならないわ」

 

 たったの一蹴り。文にとってはわずかに足を動かしただけだというのに、凄まじい威力だ。腹を蹴られた花子は、一瞬で頭の中が真っ白になった。

 視界は機能しなくなり、倒れて体が土にまみれている感覚もなく、自分が声を出しているかも分からない中で、文の声だけがなぜか鮮明に聞こえてくる。

 

「私はね、むやみに戦うのは好きじゃないのよ。それでも花子、あなただけは許せなかった。なんでか分かる?

 妖怪は強くなくてはならないの。人を襲って食らい、人を畏怖させ、そして人に退治される。そういうものなのよ。特にこの幻想郷では、そうしたバランスをとても大事にしているの。

 だというのに、あなたは妖怪や妖精との戦いからすら目を背けた。外から来たばかりの新参というだけでは説明できないほど、花子、あなたは考えが甘すぎるのよ。

 戦いを避けて仲良しごっこがしたいというだけでは、妖怪が幻想郷で生きていく資格はないわ」

 

 ようやく取り戻せた視界が映したのは、下駄のように高い靴底を持つ、文の靴だった。起き上がろうとしても、体は痛みに屈してしまってちっとも動かない。

 

「本当に幻想郷で生きていくつもりなら、強くなりなさい。そうね、せめて妖精くらいになれば、人里周りで人間と馴れ合うくらいは許されるんじゃないかしら。……少なくとも今のままじゃ、この山にいることは絶対に許されない。私が許さないわ。山の土が穢れる前に、さっさと下りなさい」

 

 吐き捨てられた言葉が花子に突き刺さると同時に、再び突風が吹き荒れる。またも飛ばされ、花子は体勢を整えることもできず、あちこちに体をぶつけた。

 風が収まる頃には、文の気配はなくなっていた。

 リュックがクッションになってくれたおかげで、大きな怪我はしなくてすんだようだ。しかし、痛いことには変わりない。手も足も言うことを聞かず、呻くことすら苦しい。

 立てない。花子は身も心も打ち砕かれてしまった。外の世界で妖怪として生きてきたことも、幻想郷でこれから生きることも、全てを否定されてしまったような心地であった。

 

「……」

 

 何度も何度も起き上がろうとしたが、体中を駆け抜ける痛みに妨害されてしまう。仰向けになることすらできない。

 やがて日が落ち、辺りは闇に包まれてしまった。木々のざわめきだけが耳に届く中、花子は今も倒れたまま、動けずにいる。

 痛みよりも、ただただ悔しかった。文に負けたことよりも、友達を悪く言われても何もできなかった自分が情けなくて仕方がない。今まで、自分の無力さがこんなに恨めしいと思ったことはなかった。

 ふと、頬を冷たいものが流れていった。同時に聞こえる、天から降りてきた水が木の葉を叩く音。

 雨が降ってきたのだなと思うと、どうしてか悔しさが一気に溢れ出してしまった。

 

「……はぁっ――」

 

 まるで心を満たす悔しさを雨で流してしまおうとしているかのように。弱い自分を土に埋めてしまおうとしているかのように。

 冷雨降り注ぐ暗闇の中、花子は独り、声を上げて泣き続けた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 降り注ぐ雨音に混ざる泣き声は、もう何時間も前から衰えることを知らずにいる。

 濡れた草木と土の香りは、嫌いではない。しかし、酒の肴にはならなそうだ。天高く聳える大樹、その太い枝に腰掛けて、彼女はそんなことを考えた。

 

「雨見酒も、悪かぁないんだけどね。こう暗いうえに雰囲気までも湿っぽくちゃ、いまいちってェもんだよ」

 

 独りごちて、山に響き渡る泣き声の主を見下ろす。体に不釣合いな大きな角を、雨水が伝った。

 雨に濡れながら泣き続ける少女を眺めつつ、こちらも同じく雨に濡れながら、しかし対象的なほど明るい笑顔で瓢箪を呷る。

 

「まぁ、酒はいつでもうまいんだけどさァ。こう、情緒ってもんがね」

 

 彼女の名は、伊吹萃香(いぶきすいか)。遠い昔に幻想郷から姿を消したはずの、鬼である。人攫いを生業とする最強の妖怪だ。鴉天狗に面白いものがあると言われて、暇つぶしがてらに来てみたのだ。

 眼下で泣くあの妖怪少女こそが、文の言っていた面白いものであることは間違いない。しかし、土と雨に汚されることなど構いもせずにわんわん泣く少女は、お世辞にも面白いと言えなかった。

 

「……そういえば、文はなんだか機嫌が悪かったねぇ。あいつが苛立ってるところなんて、初めて見たよ」

 

 彼女は天狗の中でも古参で実力があり、滅多なことでは怒らない。鬼がどれほど恐ろしいかも知っているはずだし、証拠に普段は萃香に媚びるような態度を取っていた。

 そんな文が不機嫌を隠しもせず、かつ鬼がとても嫌う嘘をついてまで萃香をここに向かわせた理由。深く考えずとも、明白だった。

 

「……本当に、あいつは度胸があるよ。まったく」

 

 最強の鬼とまで謳われた伊吹萃香に、弱小妖怪の指導をさせようとは。

 見るだけで弱いと分かる少女に文が何を感じたのかは知らないが、長年鬼の手下であった天狗が鬼を騙すなど、前代未聞だろう。長い年月を生きてきた萃香であっても、こんな経験は初めてだ。

 あるいは初めてだからこそ、この侮蔑とも取れる行為を面白いと感じたのかもしれないが。

 それに、経緯から考えて、おかっぱの少女が泣く理由は文にあるのだろう。だとすれば――

 

「私に嘘をついた落とし前は、しっかりつけてもらわないとねぇ」

 

 にやりと不敵に笑い、萃香は太い枝から飛び降りた。



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そのろく 恐怖!天狗も恐れる最強の鬼!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 太郎くん、こんにちは。毎日のようにお手紙を書いていますが、迷惑じゃないかな。邪魔になっていたりしませんか?

 

 私は、どうやら甘えていたようです。外と幻想郷とでは妖怪のあり方が違うと知っていたのに、私は外の妖怪でいようとし続けていたの。

 

 いつものように太郎くんや他のみんなと子供を驚かす、そんな毎日が幻想郷でも送れると思ってた。きっと、できないことはないと思うの。ちょっと変わった人が多いけれど、みんないい人ばかりだもの。

 

 ただ、幻想郷には幻想郷の常識があったんです。空を飛ぶことも、弾幕ごっこも、みんなその常識の一つ。後から来た私がそれを無視するなんて、できないよね。

 

 だからね、太郎くん。花子は誓います。

 

 外の世界での「トイレの花子さん」とは、今日でお別れです。私は幻想郷に生きる厠の怪、「御手洗花子」として生きていきます。

 

 きっと驚いているだろうね。心配しているかな? でも、すっごく強い妖怪の先輩がいろいろ教えてくれるそうなので、安心してね。手紙のお姉さんがわざわざ取りに来てくれるので、修行中でも手紙を書けそうです。

 

 ドジでトンマな私だけれど、きっと幻想郷に輝く一等星になってみせる。応援してね!

 

 しばらくは特訓に集中しちゃうけど、必ずまたお手紙を書きます。それまで、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 箸が重いと感じることがあろうとは、思いもしなかった。

 今も腫れぼったい目を俯かせ、花子は屋台の赤提灯に照らされた八目鰻の蒲焼を眺めた。つい十分ほど前に一口食べただけで、そこから一向に箸が進まない。

 味は悪くない、どころか驚くほどおいしいのだが、今の彼女には八目鰻の香ばしさに感動する力すらも残されていなかった。

 

「花子ちゃん、冷めちゃうよ」

 

 袖をたすきがけにした蘇芳(すおう)の和服を着た、鳥の翼を生やした少女――屋台の女将である夜雀のミスティア・ローレライが、苦笑気味に告げる。花子はそれに対して、

 

「……はい」

 

 と、消え入りそうな声で返した。このやりとりは、屋台に来てもう三度目になる。酔っ払いの相手には慣れているだろうミスティアも、これには困っているようだ。

 一方、その酔っ払い。花子の隣に腰掛け、一升瓶をがぶがぶ呑んでいる萃香である。泣き止んだものの暗い気持ちを腹に抱えていた花子は、彼女に無理矢理この屋台へと連れてこられた。初対面だというのに萃香は名前だけを名乗り、嫌がる花子の腕をむんずと掴んで文字通り引きずったのだ。

 屋台の常連らしい萃香の顔を見るや、ミスティアはすぐに八目鰻と酒を用意してくれた。ご丁寧に、花子の分までしっかりとだ。しかし、花子は出されたコップに入っている焼酎には口をつけていない。

 ここに来てから三十分も経っていないというのに一升瓶を二本も空にした萃香が、口元を拭った。

 

「なんだい花子、もっとグイっといきなよ。まずは呑む。そうすりゃ言葉は出てくるさ」

「……そんな気分になれないです。それに、話すことなんてありません。私、あなたのこと、ほとんど知らないもの」

「ふぅん、そうかい」

 

 八つ当たりにも聞こえる言葉に、新しい鰻を焼いているミスティアの顔が青くなった。花子は鬼の恐ろしさを知らないから、この無礼も無理はないのだが。

 しかし、萃香は腹を立てるようなことをせず、むしろ楽しげに口元をほころばせた。

 

「じゃあ、このまま泣き寝入りするんだ?」

「……なんのことですか。私は別に」

「天狗に仕返し、しなくていいのかい?」

 

 弾けるように顔を上げて萃香を見る花子の顔は、驚いているというよりは怒っているようだ。

 

「見ていたんですか?」

「いんや。見たのは花子が泣いてるところだけだよ」

 

 できれば触れてほしくないことなのだが、萃香はどこまでも正直な少女であった。言われたくないことまでズバズバ言うが、そこには文のような皮肉っぽさがまるでない。魔理沙に似ている部分があるなと花子は思った。

 しかし、どうして泣いていた理由が天狗にあると知っているのか。探るような瞳でじっと萃香を見据えると、彼女はにやりと笑って、

 

「私は密と疎を操る鬼。ちんけな隠し事ができるなんて、思わないことだね」

 

 文との悶着を知っていることと彼女が鬼であったり密と疎を操る力を持っていることは、実のところまるで関係がない。しかし、萃香から感じる不思議な貫禄のせいか、花子は彼女の言葉におかしなほど納得してしまった。

 今も文にレミリアを悪く言われたことは悔しいし、一泡吹かせてやりたいと思う気持ちはある。もし萃香が本当に強い妖怪だというのならば、協力を仰ぐ者としてこれほど心強い相手はいないのではないか。

 小さく頷いてから、花子は呟くように告げた。

 

「仕返し……したいです。文さんに、レミリアさんのことを悪く言ったの、謝ってほしいです」

 

 全てを知っていると思い込んでの発言だったのだが、レミリアという言葉を聞いて萃香は目を丸くしている。どうしてだろうと、首を傾げた。

 

「全部知ってるんですよね?」

「あぇ? あぁうん、もちろん。吸血鬼を悪く言われたから、謝ってほしいんだろ?」

 

 おうむ返しもここまでくると清清しいほどだが、頭の回転は小学生レベルである花子にはそれを見抜くことができなかった。鰻を二人前差し出してくれたミスティアだけが、小さく控えめに笑っている。

 花子はこくりと強く頷いた。自分のコップを手に取り、一気に酒を飲み干す。

 

「ぷはっ」

 

 音を立ててコップを置き、早速ほてり始めた体をそのままに、萃香へと頭を下げる。

 

「萃香さん、お願い! 文さんへの仕返し、手伝ってください!」

「ふぅん、やっとこさいい顔になってきたじゃないか。幻想郷の妖怪ってなら、こうでなくっちゃ。なぁ夜雀」

「私に振らないでくださいよ。まぁ、その通りだとは思いますけど」

 

 呆れつつも同意するミスティアに気を良くしたのか、萃香はずいと花子の方へ身を乗り出し、その肩に手を回した。ついでに、新しい一升瓶の中身を花子のコップへ注ぐ。童女二人が肩を組んで酒を飲み交わす絵図は滑稽以外の何ものでもないのだが、幻想郷では日常の光景だ。

 なみなみと注がれた酒を再び口に流し込み、熱い感触が喉を伝う。それらが胃袋に落ちる頃には、花子の抱いていた暗い感情はすっかり消え失せ、取って代わったように文への復讐心が燃え上がっていた。

 

「絶対やっつけてやるんだから。あんな天狗なんて、けちょんけちょんにしてやるんだから!」

「よしよし分かった、手ェ貸してあげるから、まずは何があったかを話してごらんよ」

 

 萃香はこれまた墓穴を掘った。酒が回ってきた花子が萃香へと視線を向け、

 

「全部知ってるんですよね? なんでまた聞くんですか?」

「あぁっと、これはほら、アレさ。腹の中のものを全部吐き出してからじゃなきゃ、力が入らないってェやつさ」

 

 苦しい言い訳だったが、花子はううむと唸ってから、この場で吐き出すのも悪くないと口を開いた。

 

「実はですねぇ。私が幻想郷に来たのは、最近のことなんですよ」

 

 萃香とミスティアは思わず目を合わせた。彼女の愚痴が、よもや郷に来るところから始まろうとは思わなかったのだ。しかし、幻想郷に来てから手探りで歩き続けてきた花子は、溜まったストレスを全て排除するつもりでいた。

 幻想郷きっての大妖怪である萃香も、これには降参のようだ。酔っ払いのぼやきが普段は言えない本音であることは、無類の酒好きである彼女もよく知っているからである。

 

「……夜雀」

「はいはい」

 

 ぺらぺらとよく舌の回る花子と、呆れ顔ながらも微笑を浮かべる萃香。彼女らの前に、ミスティアは蓋を開けたばかりの一升瓶を二本置く。

 

「最初はうまくいってたんですよ。人里の寺子屋でがんばって花子さんしてたのに、あのヤクザ巫女ったら――」

 

 長い夜になりそうだ。そう呟いた萃香の声は、残念ながら、花子には届いていなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 あれほどの土砂降りがあったというのに、日付の変わった夜空は満点の星空となっていた。

 川の流れに足をつけながら、萃香は宝物の瓢箪を呷る。火照った体を冷やすという名目で川を訪れたのだが、彼女が素面になることは、まずないと言っていい。今は、散々飲ませてしまった花子の付き添いという形だ。

 その花子はといえば、萃香にならって川辺に靴を置き、夏場でも温まることのない川の水に素足を浸して夜空を眺めている。もう酔いはだいぶ醒めているようだ。かなりの量を飲んでいたはずだが、もしかしたら彼女は酒豪なのかもしれない。

 

「気持ちいいですねぇ」

「だろう? 酒の後はこれが一番だよ」

 

 愚痴を言い終えた花子は、冷水の心地よさも相まってとても上機嫌だ。勧めた萃香まで、嬉しくなってしまう。

 隣で目を細める花子の愚痴を思い出して、萃香は頬を緩めた。

 

「しかしまぁ、花子はずいぶん波乱万丈な日々を送ってきたんだねぇ」

「そ、そうかなぁ」

 

 足で水面を叩いていた花子は、照れたように頬を掻く。

 

「色々あったけど、みんないい人でしたから。文さんは、その、ちょっと嫌な人だと思ったけれど」

「……」

「確かに私は弱いけど、それでもみんなと仲良くしていけます。これまでもそうしてこれたんだもの」

 

 あの天狗は確かに口が悪い。あれに好き放題言われたのだから花子が怒るのも無理はないが、花子は萃香が思っている以上に憤慨している。今でこそ落ち着いてはいるものの、文を許すことはできないようだ。 

 しかし、萃香は文の言葉が間違っていると切って捨てることができなかった。

 

「ねぇ花子。あんたは、弱いままでもいいと思っているのかい?」

 

 わずかに真剣みがある声に、花子が萃香のほうを向く。横目でそちらをちらりと見てから酒を一口呑み込んで、袖で口を拭った。

 

「確かにまぁ、天狗は言い過ぎたと思うよ。虫の居所が悪かったんだろうねェ。でもさ、私ゃあいつがおかしいことばかり言ってるようには思えないんだよ」

「……どういうことですか?」

 

 花子の声には、わずかな不信感が込められていた。萃香を理解者だと思ってくれていたのだろうと思うと少しだけ申し訳なかったが、そもそもの目的が彼女を諭すことにある。

 こんな役割を押し付けてきた天狗には相応の報いを与えてやらなければと考えつつ、萃香は続けた。

 

「どうもこうも、ここは幻想郷だからねぇ。文の言うとおり、自分の筋を通したいなら力で示すしかない」

「だからって、無闇に戦うのはおかしいです。ちゃんと話し合えば、きっと――」

「花子さァ、あんたは妖怪だろう? 弱っちい人間みたいなこと言って、そんなんじゃ幻想郷でやってけやしないよ」

「うぅ……。でもでも、レミリアさんやフランちゃんは、普通の遊びをしますよ。二人ともいい人だったし、戦いが好きなようには見えなかったよ」

 

 本当に心から、吸血鬼の姉妹を友人だと思っているようだ。花子はあのわがまま姉妹とは正反対な少女だが、よほど大切に思っているらしい。

 

「仕方ないねぇ。私ゃ長話は嫌いだけど、一つ昔話をしてあげるよ。花子にとっちゃ酷な話だろうけど、ちゃんと聞くんだよ」

「……?」

 

 怪訝な顔をする花子。それでも律儀に話を聞く体勢に入ってくれる彼女の真っ直ぐさが、萃香は気に入っていた。

 

「幻想郷は、博麗大結界で覆われている。あんたが通ってきた、外の世界と郷を区切る結界のことだね。あれができてから、妖怪は人間を簡単に取って食うことができなくなった。ある妖怪がちゃんと食料を提供してくれるから、妖怪はだんだん戦えない腑抜けになっていった。ちょうど、今の外にいる妖怪達……花子みたいにね。

 そんな時に、外の世界からめっぽう強い妖怪がやってきたんだ。連中は郷の妖怪達をあっという間に手下にしちゃってねェ。幻想郷を乗っ取ろうとしたんだよ。結局は幻想郷で一番強い妖怪がそいつをコテンパンにして、いろいろな禁則事項を決めた契約を結んだのさ。最近のことだよ、まだあれから十年も経ってない」

「そんなことが……」

「うん。その幻想郷を我が物にしようとした悪魔が……レミリア・スカーレット。あんたの大事なお友達さ」

 

 途中から予想はできていたらしく、花子が声を荒げて反論するようなことはなかった。しかしそれでも、彼女の顔は動揺を隠せずにいる。

 

「レミリアさんが……そんな……」

「あのチビは、頭の中がガキだからねェ。どうせ深く考えないで、『幻想郷を私だけのものにしたいわ』なんてわがまま言ったんだろう。巻き込まれた方はたまったもんじゃないよ」

 

 冗談めかして声真似などしてみたが、花子はくすりとも笑わなかった。

 やはり落ち込んだか。予想はしていたのだが、暗い顔をしている花子を見ると萃香は口を開くのが億劫になった。花子は萃香にとって、もう大切な友人だ。できればこんな顔をしてほしくない。

 しかし、彼女のためだと自分に言い聞かせて、話を再開する。

 

「まぁ、あの騒動のおかげで妖怪共は目が覚めたんだから、ありがたいっちゃありがたいのかもしれないね。幻想郷の妖怪はこのままじゃまずいと思い立って、博麗の巫女――あんたの言うところのヤクザ巫女だね。霊夢に相談したのさ」

「霊夢に? なぜ?」

「あの子はね、花子が思っている以上に重要な役割を担っているのさ。幻想郷のバランスは、霊夢が保っているんだからね。この辺は長くなるから、また今度にしよう。

 続けるよ。この頃は霊夢と面識がなかったから聞いた話なんだけどね、当時のあいつは大した異変もない生活にだらけきっていたそうだよ。ただでさえアレな感じなのに、酷いもんだったろうねぇ。ところが、それでも考えるべき時はちゃんと考えるんだよね、霊夢は。幻想郷には人間と妖怪双方が活気付くために戦いが必要だと判断したんだ。

 そこで霊夢が考えたのが、スペルカードルール。自分の得意技に名前をつけた、技の美しさを競うルールさ。スポーツ感覚でできる決闘は、弱い人間にも巫女を倒さなきゃならない妖怪にも大うけだった。私はもっと力技でやりあうのが好きなんだけど、まぁ私の考えが古いんだろうね。

 スペルカードルールを使って流行りだした遊びが、あんたが妹のほうの吸血鬼に誘われた『弾幕ごっこ』だよ。美しさの他に、当たったら点が減ったりするルールをつけたやつさ。戦いを遊びに置き換えた弾幕ごっこは、幻想郷で知らない奴がいないほど有名になったんだ」

 

 よもや弾幕ごっこが決闘の一つだとは思いもしなかったのか、花子は口を半開きにして話を聞いていた。なんとも間抜けな顔で、川に浸かっている足首に夏草が絡みついても気づかない有様である。

 話はまだまだ複雑だったりするのだが、萃香は長話がいい加減苦痛になってきたので、さっさと終わらせることにした。慣れない真面目な顔をふにゃりと和らげて、

 

「そんなわけで、幻想郷じゃ戦いが日常で、決闘は遊びなんだ。弾幕ごっこくらいできないと、笑い者にもなりゃしないってェことさ」

「むぅ。でも私、弾幕どころか空も飛べないし。妖力だって変化(へんげ)にしか使ったことないですよ」

「だから天狗に友達を馬鹿にされちまうんだよ。弱い妖怪をいじめるのが大好きだからね、連中は。……悔しかったんだろう? 仕返しがしたいんだろう?」

 

 水面に映る自分の顔を見つめながら、花子は小さく一度だけ頷く。

 泣き寝入りすることを良しとしない辺りは、まだ救いがあると萃香は思った。幻想郷――こと妖怪の間では、やられたらやり返すことが常識だ。勝者が敗者の再挑戦を積極的に受け入れることはスペルカードルールにも記載されているし、勝った妖怪は大抵調子に乗っているので、また叩きのめしてやると意気込む輩が多い。そういう意味では、花子は幻想郷の妖怪に向いているのかもしれない。

 間違っていたのは自分であった。その事実に気づいてしまった花子が、どこか申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「私は弱いから……文さんにまたやられちゃうと思うの。萃香さん、力を貸してください。文さんをやっつけてください」

「あぁん? 何言ってるんだい。やり返すのはあんただよ?」

「えっ」

 

 驚いて顔を上げる花子は、どうやら萃香の言いたいことをいまいち理解していなかったようだ。何のための長話だったのやらと溜息をつき、

 

「確かに手伝うって言ったけどね、そりゃあんたを鍛えてやるって意味さ。文にやられたのは花子なんだから、やり返すのも花子なのは当然だろう?」

「そ、そんなぁ! さっきも言いましたけど、私は空も飛べないんですよ。そんなすぐに、あの文さんと戦えるわけないですよ」

「だからァ、そのためのスペルカードルールなんだってば。弱い奴でも強い奴にケンカを売れるルール。それを遊びにしたのが弾幕ごっこ。文はよくやってるらしいから、それで勝負すればいいじゃないか。飛び方と弾幕の作り方くらいなら教えてやるし、スペルカードも一緒に考えてやるから」

 

 萃香の見立てでは、彼女をどれほど仕込んだところで、せいぜい中堅妖怪に届くかどうかといったところだろう。決闘を先延ばしにしすぎるのもお互いにとって面白くない。特訓の期間は数ヶ月程度にするとして、その時間内にどれだけ鍛えても、花子の地力では宵闇の妖怪か氷精程度の強さにしかなれないかもしれない。

 しかし、花子が幻想郷で生きていくには、とりあえず十分だ。文には勝てないかもしれないが、萃香は萃香で彼女を懲らしめる予定がある。そこで花子の仇をとってやってもいいだろう。

 萃香はもう花子を育てる気でいるのだが、当の本人は決断しかねているようだ。

 

「でも、うぅん。文さんに仕返ししたいって気持ちはあるけれど、何も戦ってやっつけたいなんて思ってないしなぁ」

「甘い甘い。ちょっとやそっとの悪戯があの天狗に効くわけないよ。文は頭の回転がめっちゃくちゃ早いんだ」

「うぅ、そっかぁ。そうですよねぇ」

 

 納得したような口ぶりではあるが、不満そうに唇を尖らせている辺り本心ではないのだろう。それでも、花子の心中はもう戦い方を学ぶ方向に傾いているようだ。

 後一押し。萃香は川に足を叩きつけて水飛沫を上げながら、

 

「幻想郷じゃどこにいっても弾幕ごっこをやってるし、これからも郷を歩いて回るなら、流行ってる遊びくらいはできないとねぇ。幻想郷の一員になるんじゃなかったのかい?」

「むむ、それを言われると……」

「吸血鬼の妹にも誘われたんだろう? いつまでもお手玉ばっかじゃ飽きられるよ。弾幕ごっこにも付き合ってやらなきゃ」

 

 フランドールの話をする花子がとても楽しそうだったので、きっと彼女にとって一番の友人なのだろうと萃香は踏んでいた。奥の手として取っておいた手段は、かなりの効き目があったようだ。

 今までで一番長い唸り声を上げて、花子は腕組みをして熟考している。そこまでスペルカードルールを学ぶことが嫌なのかと萃香はさすがに驚いたが、実際はただ単に初めてのことを学ぶということに逡巡しているだけである。

 しばらく右に左に首を傾げながらうんうん言っていた花子だが、ようやく決心がついたらしく、よしと小さくつぶやいてから萃香へと振り向いた。同時に足も動き、川面が揺れる。

 

「萃香さん、私やります。空の飛び方とスペルカードのやり方、教えてください!」

「よしきた! その言葉を待ってたんだよ!」

 

 勢いよく立ち上がり、川面をバシャバシャとやりながら、萃香は花子の手を取り肩を抱き寄せた。霊夢の住む神社で漫画なるものを読んでから、一度やってみたかったことがあったのだ。

 ほとんど背丈が同じなので背伸びなどしつつ、されるがままに肩を寄せられる花子の顔の横から腕を突き出し、夜空に散らばる無数の星から適当なものを一つ選んで指差した。

 

「いいかい花子、あれだよ! あれがお前の目指す星だよ!」

「ほ、ほし? 私そんなもの目指すって言ったっけ――」

「余計なことは考えなくていいよ。それよりほら、見てごらん! あの美しく輝く一等星。花子はあんな風に、幻想郷で輝く星になるんだよ!」

 

 実際のところその星は三等星程度の光しか放っていなかったし、花子が見ている星はまったく別の星だったりもするのだが、萃香の意味のない熱血っぷりに巻き込まれ、花子もまた瞳を輝かせた。

 単純な少女が二人集まったところで、やはり単純でしかない。

 

「私、あの星のようになります! 幻想郷で一番輝いて見せます!」

「いや、一番は私……。まぁ、いいか。誰よりも光り輝く一等星になるんだ花子! あの星に誓えるか!?」

「誓えます!」

「声が小さいよ!」

「誓いますッ!」

 

 川のせせらぎをかき消して、花子と萃香の声が妖怪の山にこだまする。一言発するたびにヒートアップしていく二人のやりとりは、日が昇るまで続いたという。

 

 

 

 朝方、声を枯らして問答を繰り返す二人を見た通りすがりの厄神が、引きつり笑いで「これは厄い」などと呟いたらしいが、それはまた別の話である。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 彼女の部屋には、壁という壁に原稿の覚書が貼ってある。鴉天狗の部屋は、どこも似たようなものだ。

 窓から差し込む朝日は、窓際にある机だけに当たっている。そんな薄暗い、しかし自身にとっては慣れ親しんだ自室で、文は握っていたペンを机に転がした。

 

「はぁ……。私は馬鹿だ」

 

 その場に誰もいないのをいいことに、長いこと口にしていなかった自虐を呟いた。昨日の夕方に起きた出来事を酷く後悔しているのだ。

 あの御手洗花子なる妖怪の不甲斐なさには本気で腹が立ったし、幻想郷に住まう先達として喝をくれてやったことも間違ったことだとは思っていない。

 ただ、それにしても自分らしくなかった。狡猾な天狗である彼女は、その天狗仲間からすら「嫌な奴だ」と言われることがあるほど皮肉屋である。花子はあの見た目の妖怪にしてはそこそこ常識のある少女だったので、分かりそうな皮肉でからかうのが普段の文であろう。

 しかし、昨日はタイミングが悪かった。最初こそポーカーフェイスで近づいたのだが、その時点で文はすでに不機嫌だったのだ。ばら撒いた号外をライバルの姫海棠(ひめかいどう)はたてにこき下ろされた挙句、里に紙くずを捨てたという理不尽な理由――無論、文にとってはだが――で、博麗の巫女に退治された後だったのだ。

 

 花子への暴言は、文にとってはくだらないケンカ程度のものだった。幻想郷では日常茶飯事なことだ。問題は、その後にある。

 かなりきついことを言った上に実力の差を見せつけたとはいえ、花子があそこまで泣き崩れるとは思わなかったのだ。頭に上った血が引き冷静さを取り戻した文を襲ったのは、長い人生でほとんど無縁だった罪悪感。とはいえ、今更手のひらを返すかのように謝りに行くことも気が引けた。

 そこで文は、山に遊びに来ていた鬼の伊吹萃香を捕まえ花子の居場所を教えたのである。本当の理由を話せば花子に無理矢理頭を下げさせられるのは火を見るよりも明らかだったので、面白いものがある、としか言わなかった。

 萃香の身なりは童女のそれだが、中身は鬼の中で最も強いと謳われる大妖怪だ。花子を見れば、文の言わんとしていることくらいは伝わるだろう。

 そう、伝わってしまうのだ。鬼に嘘をついてしまったということまで。それが何より文を後悔させていた。

 

「何をやっているんだかなぁ……」

 

 あり得ない失態であった。千年も生きれば一度や二度は魔が差すこともあろう。しかし、よりにもよって鬼を相手に嘘をつくような愚を働いてしまうとは。

 どんなしっぺ返しを食らうことになるのだろう。気になって気になって、夜も眠れなかった。一睡もせずに朝を迎え、記事でも書いていれば気も紛れると思ったが、それも無駄な努力に終わっている。

 

「は――あぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 長い溜息と共に、文は机に上半身を投げ出した。机上にあったペンや雑多な本が雪崩となって落ちていく。それすらも、今の文には気にならなかった。

 鬼。それは最強の種族である。なんとも簡単な説明だが、それだけで全てを物語れてしまう存在が鬼なのだ。排他的で自尊心が高い天狗すらも、彼らの姿を見ただけでへりくだってしまうほどに。

 鬼は一様に、嘘を嫌う。どこまでも馬鹿正直な主張をその力で押し通す。彼らに嘘をつこうものなら、いかなる妖怪といえどもただではすまないだろう。

 

「ただではすまない……だろうなぁ」

 

 改めて声に出してみると、その響きのなんと恐ろしいことか。あの妖精以下の弱小妖怪を育てるとなればそれなりの時間はかかるだろうが、それを終えた萃香は必ず文に仕返しをしにくるはずだ。

 死にはしないだろうが、死ぬほどの覚悟をしなくてはならない。今の文にできることといえば、せいぜいが「痛い仕返しじゃありませんように」と祈ることばかりだ。

 文は朝日と呼ぶには高く上りすぎた太陽を窓から見上げ、

 

「あと何度、この朝日を拝めるのだろう」

 

 我ながら大げさだと思いつつも、ぼんやりと呟くのだった。



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そのなな 恐怖!瞳閉ざした無意識の怪!

 

 

~~~~

 

 

 太郎君へ

 

 

 太郎くん、こんにちは。一週間ぶりだね。なんだか手紙を書くのがとても久しぶりに感じます。

 

 修行が始まったのはいいのだけれど、私は妖怪としての基礎もできていない状態だったそうです。普通の妖怪なら無意識のうちにできて当たり前のことができないから、まずはそれの練習から始めました。

 

 一週間続けてもうまくいかなかったから、先はまだまだ長いかなぁと思ってたんだけど……。無意識の力ってすごいんだね。幻想郷では教わることがとても多いです。

 

 ともかく、修行は順調……かな? 今のところは、結構楽しくやっています。心配しないでね。

 

 そうそう、太郎くんは心を読まれることをどう思う? 恥ずかしいけど、その人を嫌いになったりどこかに閉じ込めたくなったりするかな?

 

 きっと難しい問題なのだろうし、いざ心を読まれてみないと分からないのかもしれないけど、心の中を知ってもらえるということはいいことなんじゃないかなと花子は思うんです。単純かな?

 

 明日からは、空を飛ぶ練習です。楽しみだな。ちゃんと飛べるようになったら、一番に手紙を書くからね!

 

 それではまた。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

「むーむむむむ」

 

 座禅を組み、眉間にしわなど寄せながら、花子が唸り声を上げている。彼女はとても真剣なのだろうが、萃香にはどうしてもそれがおかしく見えてしまう。

 花子の修行が始まってから、一週間の時が過ぎていた。妖怪の山にある巨大洞窟近辺の川原である。魚も取れるし、少し歩けば木の実が豊富な場所もある。何より洞窟が鬼の住む地底界に通じているため、文と遭遇する可能性が極めて低い。

 もし彼女がやってきたとしても萃香を見れば逃げてしまうだろうが、秘密裏に特訓したいという花子の頼みを萃香が呑んだ結果だ。

 実は遠まわしに特訓を推した人物こそが射命丸文なのだが、花子がそれを知ることはないだろう。萃香は嘘が嫌いだが、花子に直接聞かれない限り教えてやるつもりもなかった。

 

 それにしてもと、瓢箪の酒を呷りながら一心不乱に修行を続ける花子を見やる。この妖怪を育てるのは、思っていた以上に骨が折れそうだ。

 変化(へんげ)にしか使わなかったためか、花子は妖力の使い方が驚くほど下手だった。ただ恐ろしい顔に化けるだけであれば適当な量を垂れ流せばそれですむのだろうが、弾幕を放つとなればそうはいかない。妖力を思い描いた通りの量と質で使えなければ、空を飛ぶことすらできないのだ。

 まさか飛行程度の妖力も練り上げられないとは思っていなかったので、飛び方さえ教えれば簡単に飛べるだろうと考えていた萃香は、とても驚いた。妖怪ならば息をすることと同じほど簡単な力の使い方だと思っていたからだ。

 そんな理由があって、花子は今、人間の僧のような精神統一修行をしている。始めたころに比べてだいぶ妖力の扱いにも慣れてきたようだ。

 とはいえ、それでも空を飛ぶには程遠い。もっと効率的な特訓方法を探そうと考えたところで、萃香はふと口の端を緩めた。

 

「私もこの一週間で、ずいぶん師匠役が板についてきたねェ」

 

 自分が誰かにものを教えるなど、今まででは想像もできなかった。たまに戦いや弾幕ごっこの手ほどきをしてやることはあれど、大体が力技で叩きのめし体に教え込むという荒業だ。これほど本格的に妖怪を指導した経験はなかったが、なかなか楽しいものだと感じている。

 きっと花子が素直だからだろうと、萃香は思った。時々ひねくれたことを言う少女だが、鬼の萃香が気に入るほどに根が真っ直ぐなのだ。一週間も続いている基礎訓練を文句も言わずに続けているあたり、その性格が見て取れる。

 

「しかし、ふぅん。意外というかなんというか」

 

 唸る花子を見ながら、ぼんやりと呟いた。萃香ほどの妖怪となれば、相手の妖気を見るだけでその人物が持つ妖術の縁が分かる。天狗ならば風との縁が凄まじく強いし、妖獣は地の力を借りて大地を自在に駆け回る。いわゆる得意分野のことだ。必死に妖力をまとめ上げようとしている花子から漏れている妖気は、水との縁が深い。

 厠の妖怪と聞いていたので、妖気の縁を見るのが少し嫌だったのだが、花子が持つ縁は汚水などではなく、純粋な水と繋がっていた。厠と綺麗な水との繋がりが萃香にはいまいち分からなかったが、花子のいた学校はほとんどが水洗トイレだったということがその理由だ。さらに言えば花子は綺麗好きなので、夜中に出てきてはトイレ掃除をしていたせいで、汚いものとの縁は薄い。

 萃香は花子が汚物を操る妖怪になるのではとハラハラしていたが、とりあえずその心配はないようだ。水を用いたショットと、彼女特有のスペルカード。花子がどんな技を編み出すのか、今から楽しみだった。

 

「ま……弾幕は当分先になりそうだけどね」

 

 今の花子は、下手をすれば人間や妖精以下だ。数ヶ月でどこまで育てられるかまったく予想ができないが、元来前向きな萃香が不安に感じることはなかった。

 日がずいぶん高くなってきた。そろそろ昼食時だろう。集中しきっている花子に近寄り、その肩を叩く。

 

「花子、そろそろ飯にしようか」

「むむむ……むむ? もうお昼ですか、あっという間だなぁ」

 

 唸り声をやめて顔を上げる花子。同時に、彼女が練り上げていた妖力が崩れて霧散する。もう少し綺麗な後片付けがあるだろうにと思ったが、生まれたばかりの妖怪と大差ないのだから、こんなものなのかもしれない。

 立ち上がろうとして、花子がバランスを崩す。足が痺れているようだが、これもいつものことだ。慣れた手つきで支えてやると、彼女はやはりいつも通り律儀に頭を下げた。

 

「うぅ、すみません」

「気にしないでいいよ、私も座禅は嫌いだし」

 

 歩きにくそうな花子の手を引き、萃香が作った簡単な焚き火小屋へ向かう。寝泊りもそこでしているが、嵐でも来ない限り雨風は凌げる大きさになっている。

 本日の昼食は、萃香が能力で集めて一網打尽にした川魚。花子が座禅を組んでいる間にワタを抜いてあるので、あとは焼くだけだ。かなりの量があるので、干物を作ることもできるだろう。

 焚き火を囲むように、串に刺した魚を立て並べていく。程なくしてうまそうな香りが溢れ、萃香と花子の食欲をそそった。白米がほしいところだが、ないものねだりをしても仕方がない。二人で両手を合わせて、いただきますと声を揃える。

 師弟揃って好きな魚を手に取り、口に運ぶ。軽く塩を振った程度の味付けだが、焼き魚にはこれが一番だと萃香は思っていた。満面の笑みで魚の白い肉を頬張る花子も、きっと同じだろう。ここのところ毎日一食は魚を食べているが、まだ飽きられてはいないらしい。

 酒を飲みつつちびちび食べる萃香と違い、花子はよほど腹が減っていたのか、あっという間に一匹目を平らげてしまった。指を舐めつつ、火に炙られている焼き魚を見つめている。

 

「次、食べていいですか?」

「いいよ、遠慮しないで食べちゃいな」

 

 いちいち許可を取ることもないだろうにと、萃香は笑いつつ頷いた。花子が喜んで一番大きい魚を取り、

 

「……あれ?」

 

 頓狂な声を上げる。どうしたのかと見てみれば、彼女は焼かれている魚を凝視していた。手にはもう、焼き魚を持っている。

 

「どうしたんだい? 食べるなら一匹ずつにしな、欲張りはよくないよ」

「ち、違います! ねぇ萃香さん、最初に焼いてた時より、一匹少なくないですか?」

 

 指差された焼き魚は、言われてみれば確かに少ない。全部で五匹焼いたはずだが、もう一匹しかなかった。

 

「んー? 花子、あんたそれ本当に二匹目? もう三匹目なんじゃないの?」

「まだ二匹目ですよ! 萃香さんこそ、もう食べちゃっておかわりしたんじゃないですか?」

 

 ややムキになって、花子が反論する。弱い妖怪でこうまで萃香に突っかかってくる者は、彼女意外にそうはいないだろう。そのことが嬉しくもあったが、犯人扱いされたのでは面白くない。

 胡坐に組んだ右ひざに頬杖をついて、萃香は溜息をついた。

 

「私ゃ酒の肴につまんでる程度だよ。恥ずかしがらなくてもいいさ、食い盛りってことで許してあげるよ」

「違いますってば! ……あ、ほらまた!」

 

 花子の視線に釣られて焚き火に目を落としてみれば、魚がさらに一匹姿を消しているではないか。さすがの萃香もこれには目を丸くした。

 

「ありゃ? なんだいこれは」

「また、ごまかして! 萃香さんは鬼なんでしょ。強ーい妖怪なら、魚をあっという間に食べちゃうくらいできるんじゃないんですか?」

「あぁん? むちゃくちゃな言いがかりだねェ。早食いと強さにどんな関係があるってんだい」

「そ、そりゃまぁ、なんとなく……」

 

 もう分かっていたことだが、花子はいまいち思慮の足りない少女である。

 

「花子。あんたはもう少し考えてからものを言ったり行動したほうがいいよ。ほら、串だって私はこれしかないじゃないか」

 

 今も少しずつしか減っていない一匹目を花子の前に掲げて見せるも、花子はいまいち納得できないらしい。

 

「うぅん、でも私だって食べていないもの。やっぱり萃香さんが無意識のうちに食べちゃったんですよ」

「無意識って、私は今まであんたと話してたじゃないか……。目にも留まらない速さで魚を平らげる妖怪なんて、聞いたことないよ。亡霊に心当たりはあるけど」

 

 呆れて笑いが引きつったが、ふと酒を飲む手を止めた。

 

「ん? ……無意識?」

 

 この場にいるのは、萃香と花子。確かに二人しかいない。しかしそれは、萃香の意識が認識している人物は、だ。

 脳裏に鴉羽色の唾広帽子を大切にしている妖怪少女の姿がよぎる。ここは地底の入り口付近なのだから、彼女と遭遇したとしてもなんら不思議ではない。

 すぐ近くに、彼女がいる。萃香は確信した。

 

「あのイタズラ娘め……」

「?」

 

 きょとんとしている花子を置いて、萃香は自身の能力である『密と疎を操る程度の能力』を使った。

 生命活動に支障が出るのでほんの一瞬だけだが、萃香と花子の無意識を(あつ)める。二人から無意識が消えたのは一秒にも満たない時間であったが、それでもそこに潜んでいた者を見つけ出すには十分だ。

 花子の隣に、何の前触れもなく本当に突然、少女が出現した。薄く緑がかった灰色のセミロングの上には、萃香の予想通り鴉羽色の帽子が乗っかっている。

 まるで初めからそこにいて昼食に参加していたかのように、焚き火の前に座って焼き魚を頬張っていた。

 

「んー。あふぃーへほひぃひおはへん、ほーひぃ」

「うわ、わぁぁぁぁぁっ!?」

 

 もぐもぐとやりながら理解不能な声を上げる少女に、花子がとても分かりやすいリアクションを取った。

 気配も何もなかったのに突然隣に現れたのだから、彼女の反応も無理からぬことだろう。手に取っていた魚を落としてしまっても気にならないほど驚いているが、鴉羽色の帽子を被った少女――古明地(こめいじ)こいしは、まるで気にした様子を見せていない。

 これも無意識の行動なのだろうかと、萃香は訝しげに眉を寄せた。こいしは無意識を操る妖怪であり、自身も無意識に予想外の行動を取ることが多いそうなのだが、萃香には無意識の行動とやらが故意に思えて仕方がない時があった。どうにもわざとらしいのだ。

 

「こいし、食べたきゃちゃんと顔見せてからにしな」

「あわわわ、誰? 誰なのこの子!?」

 

 腰を抜かしている花子の言葉を聞いているのかいないのか、こいしは口に含んでいた魚を飲み下し、幸せそうな笑顔を浮かべた。

 

「お魚、おいしいねぇー」

 

 なんとも間の抜けた声に、萃香は笑うしかなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 唐突なこいしの昼食参戦には驚かされたが、追加で魚が数匹犠牲になった程度で、花子は満腹になることができた。

 三人揃って食後の挨拶を終え、今は食休み中だ。神出鬼没が過ぎるこいしに最初はどぎまぎしていたが、話してみれば普通の少女あった。少しだけ話し方がのんびりしているが、彼女の性格だろう。

 こいしは地底の妖怪だと、萃香が教えてくれた。地底界の妖怪は忌み嫌われ封印された者達であり、こいしは心を読む(さとり)という妖怪であるそうだ。第三の目を閉ざしたせいで心は読めず、代わりに無意識を操れるようになったとか。

 花子には心を読まれることにどんな不都合があるのかいまいち分からなかった。確かに心中を見られるのは少し恥ずかしいが、だからといって地底深くに封印することはないと思うのだ。彼女が子供と同程度の精神年齢だからこその感想だが。

 とはいえ、複雑な事情に首を突っ込めるような立場でないことはフランドールの一件で学んでいる。こいし自身もそんなに気にしているわけではなさそうなので、しつこく聞くことはしなかった。

 最近では彼女を初めとして地底と幻想郷を出入りする妖怪も増えているそうだ。萃香曰く、地底の連中は割りと陽気に暮らしているらしく、地底に封じられたことを恨んでいる者は少ないという。いつか行ってみたいと花子は思った。

 

「なるほどぉ。それで花子は、妖力を練るところから始めてるんだねぇ」

 

 幻想郷に来てからのことをかいつまんで話すと、こいしは笑顔のままで納得してくれた。郷の妖怪は実力至上主義なところがあるので今回も馬鹿にされるのかと心配していたが、杞憂だったようだ。

 萃香がもらってきたというお茶を飲みつつ、花子は頷いた。

 

「幻想郷の妖怪になるんだから、最低限のことはできないとって言われちゃって。一から始めなきゃならないのが恥ずかしいけど、がんばらなきゃね」

「えらいねぇー。私、勉強とか練習とか嫌いだから、すごいと思うよー」

 

 語尾を伸ばしがちで暢気なイメージが強いこいしだ。失礼かもしれないが、確かに勤勉そうには見えない。この時花子はまだ知らなかったが、こいしは自分の好きなことにだけは妥協しないタイプだ。弾幕ごっこがとても得意だったりするのも、そういう理由だった。

 お茶を一口啜ってから、こいしはわずかに眉を寄せて、

 

「お姉ちゃんはいっつも、地霊殿の妖怪としての自覚を持てーなんて言うんだ。私はほとんど出歩いてて家にいないんだから、ほっといてくれればいいのにねぇー」

「あのねぇこいし。さとりはあんたを心配してるんだよ? ただ一人の家族なんだから、たまにゃ姉貴に孝行してやんな。大体こいしはいつも――」

「あーあー聞こえなーい、こんなところでお説教なんてされたくなーい」

 

 耳をふさいで目を閉じるこいしである。花子が今まで出会った妖怪とは違ったベクトルの変わり者だが、一緒にいて気楽な相手だった。彼女を監督しなければならない立場の者は、その限りではないようだが。

 

「……さとりも苦労するわけだよ、こりゃ」

 

 溜息と共に言いたいことも吐き出した萃香が、立ち上がった。

 

「よし、花子。続き始めるよ」

「はい」

「えぇー、もうやるの? もっと休憩してもいいじゃない」

 

 特訓するのは花子だというのに、こいしが唇を尖らせてブーイングを飛ばしてくる。そもそも彼女が現れたことでいつもより昼食の休憩時間が延びているのだが、なんともマイペースな少女だ。

 ややこしくなると見たのか、萃香はあえて返事をせずに、花子をいつもの岩に座るよう促した。最初は硬くて嫌だったがすっかり慣れてしまった岩の上に座禅を組み、花子はさっそく瞼を閉じて集中を始める。

 

 幻想郷でよく使われる単語として、妖力、魔力、霊力がある。これらは全て一様に同じものだが、属する種族によって呼び名や気質が変わるのだ。妖怪や妖精ならば妖力、悪魔ならば魔力、神に属する者であれば霊力となる。

 人間の場合はその限りではなく、目指した方向で手に入れられる力が変わってくるのも特徴だ。魔法使いの魔理沙は魔力に精通しているし、神に仕える身である霊夢と早苗ならば霊力を身に秘めているのだ。

 これらの力は固体のキャパシティで保持できる量が変わってくる。これと単純な身体能力などが相まって、妖怪を下級、中級、上級とランク付けすることとなるのだ。あくまで人間から見た物差しだが、この場にいる者で例えるならば、萃香は上級、こいしは中級にそれぞれ分類される。

 

 花子の目標は、下級でもいいので妖怪として認識されるだけの力をつけることだ。彼女の妖力は決して多いとは言えないが、妖怪としての最低ラインは超している。力の使い方が絶望的に下手なだけで、使いこなせるようになれば下級妖怪の仲間入りも夢ではない。

 その妖力を使いこなすということが、今も花子を苦しめている。勉学を教えてくれという子供が、ペンの握り方から教えてもらっているようなものだ。

 

「ほら花子、また余計な妖力が漏れてるじゃないか。あんたはもとが少ないんだから無駄をなくせって言ってるだろう」

「は、はいっ」

 

 萃香の叱咤は厳しい口調ではないが、言葉に強者特有の力が篭っている。花子は素直に集中しなおした。

 一週間も特訓を続けているものの、花子のものであるはずの妖力はなかなか言うことを聞いてくれなかった。必要な量を体中に満たしては戻し、再び満たすの繰り返し。この訓練は妖怪ならば一度はしたことがある身体強化の基礎である。準備運動程度のものなのだが、彼女はこのコントロールすらも難しい状態なのだ。萃香がこれ以下の訓練方法を知らないので、ともかくやるしかない。

 文との決闘ももちろんあるが、何より早く一人前の妖怪になりたい。焦ればうまくいかぬと分かっているのに、花子はうまくできない自分に焦れてまた余分な力を込めてしまった。すかさず萃香の叱咤が飛んでくる。

 

「花子、まただよ」

「はい、すいませんっ」

「焦ってどうにかなるもんじゃァないんだから。落ち着きな」

 

 完全に見透かされていることに申し訳なくなりつつ、一度深呼吸して冷静さを取り戻した。

 第三者であるこいしに見られている緊張や、こいしとも対等に接せるだけの妖怪になりたいという気持ちがあっての焦りだったのだが、さすがに萃香もそこまでは気づいていないようだ。

 一方そのこいしはといえば、断りもなしに萃香のかばんからお茶の葉を取り出し、またも勝手にやかんを使って湯を沸かし、茶を淹れていた。自分のものを勝手に使われた萃香は、気づいていながらも止めようとしない。諦めているようだ。

 さも当然とばかりに木製のカップ――これは彼女の自前だ――に注ぎ、こいしは特訓に励む花子を見ながら難しい顔で茶を啜った。

 

「んー。ふむふむ」

「……」

「なぁる。なるほどねぇー」

 

 目を閉じている花子にはこいしの顔が見えなかったが、なにやら神妙な声は聞こえてくる。それがどうにも、気になって仕方がない。

 

「そっかそっか。そういうことかぁー」

「……むぅ、こいしちゃん、静かにしてよ」

「えぇー?」

 

 まるで理解できないと言わんばかりにきょとんとしているこいしだが、首を傾げたいのは花子のほうだ。

 萃香も気になっていたらしく、瓢箪の酒で唇を潤してから、こいしへと振り返った。

 

「さっきからぶつぶつと、どうしたんだい?」

「んっとねぇ、花子は妖力のコントロールをしようとしてるんだよねぇ?」

 

 集中は解いているが律儀に座禅を組んだまま、花子が頷く。すると、こいしは何かに満足したような笑みを浮かべて、

 

「やっぱり。でもそれじゃ、きっといつまでたってもできないと思うよぉ。萃香さんも、気づいてるんじゃないの?」

「……まぁ、ねェ」

 

 微妙な面持ちで、萃香が頬を掻いた。

 理解できずにぽかんと口を半開きにしていると、こいしが自慢げに胸を張る。

 

「花子のやろうとしてる力の操作はね、普通の妖怪なら息をすることと同じくらい簡単なことなんだよぉ」

「うん、それは聞いたよ。それができなきゃ話にならないって」

「そうそう。でもね、これは練習すればできるようになるってもんでもないの。ねぇ萃香さん」

「あ、えっと……まぁ……」

 

 しどろもどろな萃香は、答えをはぐらかしているようだ。

 まさか、この一週間の努力が水泡に帰すというのか。花子はとうとう座禅を解いて立ち上がり、こいしへと詰め寄った。

 

「どういうこと? こいしちゃん、教えて!」

「うふふ、いいよぉー。教えてあげる」

 

 人差し指など立てて、こいしがウィンクする。深緑の瞳が片方隠れ、そのしぐさが可愛らしいのは結構なのだが、花子はそれどころではない。

 しがみつくのではというほどの勢いで近寄る花子をものともせず、こいしは立てた人差し指を引っ込めた。

 

「花子は、どうやって呼吸してるの?」

「え?」

「どうやって眠りに落ちてる? おなかが減ったって、どうやって理解してる?」

「そりゃ、息なんて自然にできるし……。目を閉じてて気づいたら眠ってるし、おなかが減るのだって――」

 

 彼女が言いたいことはなんとなく分かっていたが、こいしが意味もなくこんな話をしているとも思えず、花子は続きを待つことにする。

 どうしてか妙に嬉しそうな顔で、こいしが頷いた。

 

「うん、そうそう。息も眠るのも、おなかが減るのも、心臓が動くのも、みぃんな無意識。花子の知らないところ――あなたのずぅっと奥深くで知らないうちにやってることなの。練習なんてしなくてもできるし、どんなに練習したって自分の意識で操ることはできない」

「……つまり、妖力のコントロールは無意識にできているはずのことだから、どれだけ練習しても無駄……ってこと?」

「私には花子がどうしてそれができないのか分からないけど、特訓でどうにかなるものじゃないと思うなぁー」

 

 ずいぶんと気楽に言ってくれるが、花子はすっかり落ち込んでしまった。夏に近づいている太陽が照り付ける中必死になって座禅を組んだ一週間が、こんなに明るい笑顔で否定されてしまったのだから無理もない。

 やりきれない気持ちをぶつけるために、萃香に振り返る。八つ当たりだと分かっていても、つい頬を膨らませてしまう。

 

「知ってたんですか? 萃香さん」

「いやァ、一応効果がないわけじゃないよ。複雑な妖力のコントロールをする時は、誰でもこの基礎訓練はするしね。大は小を兼ねるって言うから、どうかなぁと思ったんだけどねぇ」

「そんなぁ」

 

 目じりに涙など浮かべてしょぼくれる花子。申し訳ないとは思っているのか、近寄ってきた萃香が頭を撫でてきた。

 

「まぁその……なんだ。よくなってきたのは事実なんだし、元気だしなよ」

「うぅ。でも無駄だったんですよねぇ」

「あはは、無駄だったねぇー」

 

 笑顔で止めを刺してくるこいしは、まったく悪気はないのだろう。彼女を責める気には、とてもなれなかった。

 付きっ切りで特訓に付き合ってくれた萃香と二人揃って溜息をつく。実らない努力を続けていたという事実で、花子の心はすっかり折れてしまっていた。

 

「もうだめかなぁ。幻想郷の妖怪になれないのかなぁ」

 

 文に散々言われてしまった時の気持ちが蘇り、失意のどん底に落ちていきかけた花子だったが、ちらりと見えたこいしの自信満々な顔でなんとか舞い戻る。

 

「……どうしたの? こいしちゃん」

「うふふ。無意識でしか操れないものなら、その無意識を操っちゃえばいい。そう思わない?」

「……あ」

 

 無意識を操るこいしの力を持ってすれば、花子の無意識下に妖力の操作をすり込むことができるのではないか。こいしが笑顔でいる理由が分かり、花子は一抹の希望を抱くことができた。

 しかし、これには萃香が首を捻る。

 

「簡単に言うけどねぇ。あんたの能力でそんなことまでできるのかい? もしそうだとしたら、意識しなきゃ呼吸ができなくなる、なんてことにさせちまうこともできちゃうじゃないか」

「あ、うん。無意識を操るんだから、もちろんそれもできるよぉー」

 

 恐ろしいことをさらっと口走るが、萃香の反応は「あ、できるんだ」といった程度であった。

 幻想郷には危険な能力を持つ者があまりにも多いため、どうにも感覚が狂ってしまっているようだ。こいしもこいしで、どうでもいいとばかりにさっさと話題を戻した。

 

「花子はいい子だから、私が特別に無意識を操ってあげるねぇ」

「でもいいのかな、そんなインチキみたいなことで……」

「むー。インチキなんかじゃないよぉ。私の力で花子を助けてあげたいだけだよ」

 

 半眼で唇を尖らせるので怒らせてしまったかと思ったが、こいしはすぐにふんわりとした笑顔に戻った。喜怒哀楽が掴みにくい少女だ。

 

「大丈夫、私に任せて」

「そ、そこまで言うなら……お願いしようかな」

「うん、そうこなくっちゃ!」

 

 嬉しそうに手を叩いて、花子より頭一つ分ほど背が高いこいしが、ひざに手を当てて中腰の体勢を作った。

 

「それじゃ花子。私の目を見て?」

「う、うん」

 

 息がかかってしまうほどの距離なのでどうにもやり辛かったが、花子は言われたとおりこいしの瞳をじっと見つめた。

 花子の黒目をじぃっと覗き込み、こいしはささやく様な声音で告げる。

 

「無意識にはねぇ、いろいろなものがあるの。生きるために必要な、大切なことが詰まってる。どうでもいいものもたくさん落ちてる。単純だけど複雑で、サラサラしてるけどドロドロ。明るいけど真っ暗な、そんな場所。私はそこを操れるの。自分のものも、人のものもね」

「……」

 

 一言一言が心に染み込んでいくようで、花子は思わず息を呑んだ。深緑の双眸に吸い込まれるような心地で、まばたきもできずに立ちすくむ。

 

「深い、深ぁーい場所にある。そこに花子の声は届かないけど、私が閉ざしたこの瞳は、そこを見ることができるの。今も見えてるよ、花子の無意識。そこにないものを私があげることくらい、とっても簡単。

 信じられない? そうかもねぇ。でも、本当に簡単なんだよ。とぉっても簡単なの――」

 

 柔らかな感触。小さな手が頬を撫でている。そのことに気づくと同時に、花子の額にこいしの額がぶつかった。

 

「ほら、ね」

 

 すぅ、とこいしが離れ、花子は途端に目が覚めたような心地を覚えた。頭の中がすっきりとしていて、とても気持ちがいい。

 何をされたのかはまるで分からなかったが、体の芯が定まったような、不思議な感覚があった。今まで雑に流れていた自身の妖力が、体中を丁寧に巡っている。全身がなんとなく軽いのも、気のせいではないだろう。

 ものの数秒で、花子は最初の目標をクリアしてしまっていた。

 

「あ……わ……す、萃香さん」

「ありゃ。驚いたねぇ、まさか本当にできちゃうとは」

 

 そう呟く萃香だが、彼女の顔は驚愕というよりも呆れに近い。こいしはといえば、腰に両手を当ててそれ見ろとふんぞり返っている。

 

「だから言ったでしょー? 簡単だって」

「あ、ありがとう。こいしちゃん」

「うん、どういたしましてぇ」

 

 やわらかく微笑むこいしに、花子はどんな顔をしたらいいのか分からなくなっていた。萃香も似たようなものらしく、とりあえず呑もう、というよく分からない結論に達している。

 体内を巡る妖力は紛れもなく自分のものだし、萃香が目指せといっていた無意識下でのコントロールができていることも分かる。

 妖怪としての基礎を身につけられたのだから、これが嬉しくないわけがない。しかし、それ以上に唖然としてしまっていた。

 あまりにもあっけなすぎるではないか。自分の両手を見つめて、ぽつりと零す。

 

「……この一週間って、なんだったんだろうなぁ」

「にひひ。何事も経験、経験ってねぇー」

 

 間延びしたこいしの声は、なんとも暢気なものだった。夏の日差しまでもが脱力しそうだ。花子も思わず両手をだらりと下ろして、溜息をつく。

 

「まぁ、うん。結果オーライってことだよね」

「そうそう。難しく考えないのが一番だよぉー」

 

 にこにこしながら言うこいし。こんなにもやる気がなくなってしまったのは、きっと今も彼女が無意識を操っているからだろう。そういうことにしよう。

 花子は萃香と目を合わせ、とりあえず、笑っておくことにした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 鬼の萃香がここにいれば、火を焚かずとも妖怪共に襲われる心配などない。しかし、小さくなった火種を消すことをなぜかもったいなく感じて、萃香は燃えすぎない程度に焚き火へ薪を足していた。

 硬い地面では寝にくいだろうから、花子が寝るスペースにはやわらかい土を集めている。その上に適当な布切れ――山で倒れた人間の衣類だろうが、花子には内緒にしてある――をしいて、花子とこいしが寄り添うように眠っていた。

 

 まさか無意識を操ることで妖力のコントロールまでできるようになってしまうとは思わなかったが、こいしがそれ以上手を貸すことはなかった。飛行と弾幕ごっこは、予定通り萃香が教えてやることになるだろう。

 こいしは、こういうところの空気は読めるのだ。だからこそ余計に、普段ぼうっとしているのがわざとらしく見えてしまう。どちらにしても悪い妖怪ではないので、萃香も問い詰めるようなことまではしないのだが。

 酒を一口飲み込んでから、空を見上げる。そろそろ来る頃だろう。そう思った直後、背後から声がかかった。

 

「あらあら、古明地の妹までいるなんて。地底との不文律はどうなったのかしら」

「地底から船まで出てきてるんだ、もうあってないようなもんだと思うよ」

「困ったものだわ」

「地底と地上とを切り離そうってのが古い考えなんだろうよ。私もあんたも、年を取りすぎたのさ」

 

 振り向かずとも、背後では冗談めかして口元に手を当てて、「まぁ失礼ね」などと言っているのが手に取るように分かった。

 しかし、友人にいつまでも背を向けたままでいるのも失礼だろう。振り返って、花子から預かっていた手紙を渡す。

 

「ほら、『手紙のお姉さん』。今日は書いたみたいだよ」

「確かに預かりましたわ」

 

 細い指が手紙を受け取り、萃香はその珍妙としか言えない光景に思わず失笑してしまう。

 

「しかしまぁ、あんたが直々に手紙を運ぶなんてねェ。花子に特別なもんでもあるのかい?」

「あの子にはなにも。彼女が外で関わったとある御仁に頼まれているだけよ」

 

 懐に手紙をしまい、彼女は肩をすくめた。幻想郷と外の世界を行き来する者など、彼女くらいなものだ。妖怪は基本的に、結界の外に出ようとはしない。

 郷の外で何をやっているのかは知らないし興味もないが、彼女ほどの妖怪に手紙運びを頼める者がいることに、萃香は目を丸くした。

 

「あんたを使いっ走りにする奴がいるのかい? 大した奴だ、さぞ強いんだろうねェ」

「力だけが優劣を決めるなんて、古い考えですわ。萃香、年を取ったんじゃなくて?」

 

 思わぬ言葉に、つい吹き出してしまった。まさか、気にしていたのだろうか。

 火に軽く照らされた女の顔は怒っているわけでもなく、いつもと同じ何を考えているか分からない微笑を口元にたたえているばかりだ。無駄に頭が回る彼女とまともに話をするのは疲れるので、萃香はいつも適当に流すような会話を心がけていた。

 

「ま、いいや。昔の知り合いか何かってことにしておくさ」

「似たようなものよ。……さて、それじゃあ今日はこの辺で、失礼しますわ」

 

 返事を待たずに、女――妖怪の賢者である八雲紫(やくもゆかり)は、空中に現れた空間の裂け目に消えた。こいしに負けず劣らず神出鬼没な妖怪だ。

 花子が幻想郷に来てすぐ、紫は彼女と接触したらしい。それからというもの、花子の手紙を毎回外に届けているそうだ。どういう理由かなど想像もつかなかったが、紫の場合は本当に酔狂でやっている可能性がある。考えるだけ無駄だろう。

 しかし、『手紙のお姉さん』とは。花子に聞いた話では、そう呼べと紫が言ったそうだ。しかも、何度もしつこく。

 

「お姉さん……お、お姉さんねぇ……ふふ」

 

 ぷるぷると震える体を何とか抑えて、萃香はしかし、笑いを完全にこらえることができなかった。

 遥か太古から生きている大妖怪が、まさか、そんな小さなことにこだわるなんて。

 

「あいつ、やっぱり自分の年を気にしてるんじゃないか」

 

 賢者と呼ばれる友人の意外な一面。これを肴にもう少し飲めそうだ。

 くつくつと笑いながら、萃香はもう少しだけ一人酒を楽しむことにした。



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そのはち 恐怖?秋を司る山の神!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 こんにちは。またお手紙書いちゃいました。

 

 太郎くん、突然だけど、神様って信じる? 私は正直、最近まで信じていませんでした。だって、見たことがなかったんだもの。

 

 でも、その考えは今日すっかり変わってしまいました。神様はいるんです。外の世界は分からないけれど、この幻想郷にはいました。

 

 神様に会っちゃった。すっごく優しくて、いい人たちだったよ。季節はずれだったからか、ちょっと神様らしくなかったけどね。

 

 幻想郷には、もっとたくさんの神様がいるそうです。いつか会ってみたいな。

 

 あ、それからもう一つ。以前私は幻想郷の厠の怪になるんだーって意気込んだけど、あれ、前言撤回させてください。ごめんね。

 

 トイレの花子さんでもあり、郷に生きる厠の怪ではあるけど、私は私。御手洗花子だものね。もっとありのまま、自由に生きてみることにします。

 

 本当に勉強することが多くて、少し大変です。でもまだまだ、がんばるからね!

 

 太郎くんも、がんばって子供を怖がらせてくださいね。それでは、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 花子は空を嫌いになりかけていた。自力で飛んでいるわけではないが、彼女は今、母なる大地を自らの足で歩くことの大切さを身に沁みて感じている。

 

「ひえぇぇぇっ! 高いぃぃぃぃっ」

 

 叫びの通り空中高く――少なくとも、森の木々より遥かに上空だ。萃香に手を、こいしに足をつかまれ、まだ飛行を会得できていない花子は無理矢理空へと運ばれていた。

 萃香は飛行のイメージを掴むためとかなんとか言っていたが、このままではむしろトラウマになるであろうことは間違いない。涙目になっている花子に気づかず、萃香とこいしはとても楽しそうだ。

 

「ほぉーら花子、楽しいだろう?」

「今日はお天気だから、気持ちいいねぇー」

 

 などと暢気に笑いつつ、二人はその場で手を繋いでいるかのように回り始めた。当然、その間にいる花子も回転に巻き込まれる。

 

「ひょえぇぇぇぇっ!」

 

 抵抗すれば落ちるし、かといって怖いものは怖い。目を閉じれば和らぐかとも思ったが、いつ落ちるかも分からない恐怖に耐えられるほど、花子の精神は頑丈ではなかった。

 山に生い茂る森が、眼下でぐるんぐるんと回る。しかも、花子を回しているのは妖怪二人だ。こいしは無意識だろうが、萃香は確実に悪ノリで回転を加速させる。いよいよもって、花子は生命の危機を感じ始めた。

 

「やめてぇぇぇぇぇ」

「あははー、楽しいねぇー」

 

 残酷なほど純粋なこいしの笑い声が、花子を解放してくれないだろうことを教えてくれる。しかし、このままでは本当に危険だと思った花子は、最後の力を振り絞ってこいしに語りかけた。萃香は後回しだ。

 

「こ、こいしちゃん!」

「んー?」

 

 なおも花子を回しながらだが、こいしが応えてくれた。今が好機とばかりに、花子はパッと目を輝かせ、

 

「あ、あのね。本当に苦しいの、だからお願い、もうやめて!」

「んー」

「もう、もうだいぶ飛ぶ感覚も掴んだから! また川原で集中すれば飛べる気がするから! ね!」

「うーん」

 

 花子の足をつかんでいるこいしの顔は見えなかったが、その声が高速回転中に出されるべきものではないことは分かった。とぼけた声を出すくらいならば止まってくれと心の中で叫びながら、手を握っている萃香を一瞥する。

 もしかしたら萃香のほうが早いかと思ったのだが、目が合った萃香はにやりとほくそ笑んだ。意図するところは分かる。鬼は嘘をつかない種族だが、彼女は捻くれ者だ。言葉を交わさなければ嘘にはならないと言い切り、話して都合が悪くなるときは決まって口を閉ざしてしまう。今がまさにその状態だ。

 やはり、こいししかいない。もう一度、背後のこいしに聞こえるよう声を張り上げる。

 

「こいしちゃん、ねぇ、何でも言うこと聞くから、お願いだから――」

「あ、弾幕ごっこやってる!」

 

 唐突に、今まで何もなかったかのような素振りで、こいしが手を放した。そのまま凄まじい速度で、遠くのほうで妖怪同士が興じている弾幕ごっこを見物に行ってしまう。

 固定されていた花子の足が自由を取り戻し、慣性のままに振り回される。ここまでと見たのか、萃香がすぐに回転の勢いを殺し、花子を抱えてくれた。

 

「やぁー、楽しかった。どうだった?」

「どうもこうもないですよ、萃香さんもこいしちゃんも、酷いんだから!」

 

 顔はすぐ目の前にあるというのに、花子は遠慮なく怒鳴り散らした。しかし、萃香が動じた様子はない。

 

「まぁまぁ、あんな目に合ったんだ。いざ空を飛んだ時に嵐が来ても、もうビビらないで済むじゃないか」

「屁理屈ですよ」

「でも嘘じゃない。だったらいいのさ」

 

 これだ、と花子は頭を抱えたくなった。萃香の肩に手を置いておかなければ落ちそうで怖かったので、叶わなかったが。

 あれだけの目に合っておきながらも、花子は心から二人を責める気にはなれなかった。妖怪としての基礎が身についてから、すでに五日目。妖怪が空を飛ぶために行う訓練をひたすら行っていたが、未だに太陽の下を飛び回ることはできずにいる。

 人間が自転車に乗れるようになるのと同じで、飛べるようになる時間には個人差があるそうだが、花子は焦っていた。二人の妖怪に面倒を見てもらいながらその期待に応えられていないことが、申し訳なくて仕方がない。

 萃香とこいしにも、その焦りは伝わっているのだろう。やり方はともかく、二人は二人なりに少しでも早く花子が飛べるよう考えてくれているのだ。そう思うと、なおさら焦ってしまう。悪循環であった。

 とはいえ、こんな悪ふざけをされては面白くない。じっくりトレーニングすればいいと言ったのは萃香なのにと、不満げに唇を尖らせる。

 

「もう。私は真剣なんですよ」

「分かってるって。あんまり真面目に練習するもんだから、息抜きも必要かなってさ」

「どんな息抜きですか……。それよりも、萃香さん」

 

 先ほどから気になっていた違和感の正体に、花子はようやく気がついた。いつも萃香の肩にかけられている、あるものがなくなっているのだ。

 きょとんとしている萃香の脇腹――いつもそれがぶらぶらと揺れている場所を指差し、

 

「瓢箪、置いてきたんですか?」

「え?」

 

 悪ノリを終えて満足そうだった萃香は、左手一本で花子を支えて空いた右手をふと脇腹にやり、

 

「……え?」

 

 顔色を青くした。いつもの彼女らしくない、恐怖とも絶望とも取れる顔だ。花子としては気になったことを尋ねただけだったので、彼女がこんな顔をするとは予想できるはずもない。

 そのせいなのかどうかは知らないが、次の瞬間に起こった出来事を、花子は一瞬理解できなかった。

 

「私の――」

 

 それはあまりにも自然に、いつものように、何の気なしに。

 

「私の――!」

「はぇ?」

 

 萃香の左手が当然のように花子から離れ、支えをなくした花子がすっ呆けた声を上げ、

 

「私の伊吹瓢(いぶきびょう)がなぁぁぁぁぁいッ!」

「のぉぉぉぉぉっ!?」

 

 重力に思い切り引っ張られる花子の視界で、わめきながら飛び去っていく萃香。彼女はこちらを振り向こうともしなかった。

 助けてくれないのだな。瓢箪のほうが大事なんだろうな。そう思うととても寂しかったが、萃香にとってはそれだけ大切なものだったのだろう。

 涙が飛んでいく。いや、自分が落ちるほうが速いのだ。舞い散る涙の粒とは、かくも儚く美しいものなのか。そんな詩的で、それでいてかなりどうでもいいことを考え、口元には微笑など浮かべつつ――

 

「……黙っときゃよかった」

 

 誰ともなしに呟きながら、花子は森の木々に突っ込んでいった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 葉の生い茂る夏の木々であっても、落下する花子を完全に受け止めることはできなかった。それでもいくらかは衝撃を防いでくれたようで、かつ土が柔らかかったこともあってか、地面に激突しても奇跡的に軽傷で済んだらしい。

 実を言えば、日頃の飛行訓練が効果をなし、無意識のうちに妖力で落下速度を抑えていたからというのが一番大きな原因であるが、花子がそれを知る由はなかった。今はただ、全身に感じる激痛に呻き声をあげることしかできない。

 

「うぅ……いったぁ――」

 

 妖怪でよかったと、花子は痛みに支配されかけている意識の片隅で思った。人間ならば間違いなく死んでいただろう。

 程なくして、自分がへし折ったのだろう木の枝や葉が大量に舞い落ちてきた。申し訳ないことをしたなと胸中で森の木々に詫びつつ、なんとか這いつくばって適当な木に背を預ける。

 擦り傷がヒリヒリと痛いが、この程度ならばすぐに治るだろう。つばをつけておけばいいかとも思ったが、口も手も土だらけなのでやめておいた。手ぐしでおかっぱ頭を整えもんぺについた砂を軽く払って、立ち上がる。

 問題は、ここがどこなのか分からないことだ。妖怪の山は大きい。山を覆う森も当然広い。飛べない花子にとって、萃香達を探すことは大変難しく思えた。

 とはいえ、じっとしていも始まらない。誰かに会えれば、道を尋ねることができる。文のような意地悪な人じゃないことを祈ろうと、花子は歩き出した。

 風が木々を揺らし、葉が夏の音色を奏でている。来た頃はまだ夏の初めだったが、もうすっかり太陽の季節だ。見上げた木々から溢れる木漏れ日があまりにも元気いっぱいで、花子は独りで森を彷徨うことになんの怖さも感じなかった。

 

 まずは川を探さなければと歩いていたが、一瞬視界の端に映ったものが気になって足を止める。

 ここは森で、季節は前述の通り、夏だ。土と木の茶と石の灰色、木々の緑が主な色彩となっている。そんな夏の森に、一際鮮烈な赤が見えたのだ。

 何気なくそちらを見やって、ぽかんと口を開けた。上空からは葉に隠されて見えなかったが、信じられないほどの大木が聳え立っていたのだ。その根元には空洞が作られ、中にはこじんまりとした赤い丸屋根の家が一件、すっぽりと入っていた。さきほど花子の目に入った赤色の正体は、この屋根だろう。

 大木の中に家を建てるという前衛的な発想にも言葉を失ったが、花子が何よりも驚いたのは、大木から見たらほぼ根元である位置から無数に伸びる木の枝だ。梨やブドウ、栗に柿といったあらゆる秋の果物が成り、その葉は夏だというのに真っ赤に染まっている。

 花子の立つ場所は夏も盛りだが、さして離れていない大木の周囲だけは、紛れもなく秋であった。

 

「……?」

 

 何がどうなっているのか分からなかったが、ここは幻想郷なのだ。あまり物事を深く考えすぎるとろくなことがないということは、いい加減学習していた。

 ともかく、家だ。誰かいるかもしれないし、山の住人ならばきっと花子がいた川の場所も分かるだろう。わずかに逡巡したものの、花子は秋に包まれた家を訪ねることにした。

 大木に近づけば、なるほどやはり秋である。生い茂る草もわずかに色を変えているし、落ちてくる葉はことごとく紅葉している。同じ木から落ちてくるはずなのに、イチョウやモミジとその種類は多彩だ。しかし、気温や湿度だけは夏と変わらない。暑い秋というものがどうにもおかしくて、落ち着かなかった。

 間近で見ると、窓やドアもどことなく丸みのある可愛らしい家であった。さっそく、木製の扉を二度ノックしてみる。

 

「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」

 

 声をかけてしばらく待ってみるも、返事はなかった。

 留守なのだろうか。日はまだ高いし、出かけていたとしてもおかしくはない。諦めて立ち去ろうとした、その時。

 

「はぁぁぁぁぁ――い」

 

 溜息をそのまま返事にしたかのような、なんともかったるそうな声が返ってきた。ノックをしてからたっぷり数十秒は経っているというのに。

 ともかく、花子は声を返した。

 

「あ、あの。お尋ねしたいことがあるんですけど」

「えぇ? こんな暑い日に……」

 

 暑いのと尋ねごとの間にどんな因果関係があるのかは分からなかったが、とりあえずは出てきてくれるようだ。

 じっと待つこと数分、木製のドアがようやく開かれた。

 現れたのは、花子よりいくらか年上の外見を持つ、金眼の少女だった。よれた臙脂色のランニングシャツと少しずり下がった短パンといういでたちは寝巻きもかくやといった酷い服装であるが、どういうわけかブロンドの髪には楓が三枚並んだおしゃれな髪飾りをつけている。

 あまりにも気だるげな顔だったので、花子は次の言葉を飲み込んでしまった。猫背の少女が下から上へ睨みつけるように、花子の全身を眺める。

 

「あなた、そんな服装で暑くないの?」

「……え? あ、いやまぁ、暑いっちゃ暑いですけど。夏ですからねぇ」

「あ、そ。それで、何の用?」

 

 うっかり本題を忘れかけていたが、少女が切り出したおかげで思い出すことができた。

 

「そうだった。あの、実は私、道に迷っちゃって」

「やだ」

「えぇっ!? まだ何も言っていないのに!」

 

 きっぱりと言い切られうろたえる花子を置いて、少女はさっさと家の中に入ってしまった。

 無常に扉が閉まり、再び玄関に立ち尽くすこととなった花子。遠くで鳴いているセミの声が、とても切なく感じた。

 分かってはいたのだ。幻想郷には変人が多い――あるいは変人しかいない――のだから、この程度は日常茶飯事と言ってもいいはずだ。

 そんな歪んだ幻想郷観を持ち出し無理矢理に納得しようとした花子に、声がかかった。

 

「あの、どちら様? 人間……じゃないね。妖怪か」

 

 高く柔らかな声だ。振り返ると、家の中に消えた少女と瓜二つの、やはり少女がいた。クリーム色のノースリーブシャツと、赤いミニスカート。先ほどの少女と同じ金髪だが、瞳は赤かった。秋の果物がたっぷりと乗ったざるを抱えて、額の汗を拭っている。

 返事に困っていると、少女はわずかに眉を寄せて、

 

「姉さん、いなかったっけ?」

「あ、さっきの人かな。えぇっと、中に戻っちゃいました」

「……あの馬鹿姉」

 

 溜息をついてから、少女が花子へと軽く頭を下げた。

 

「ごめんね。姉さんはこの季節になると、毎年あんな感じなの」

「いえいえ、お邪魔したのは私ですし。それにしても、この辺だけ秋っぽいですよねぇ。秋が好きなんですか?」

「あは、まぁ外れてはいないわね。私達は秋の神だもん、秋が嫌いなわけないわ」

「へぇー」

 

 呆けた声を出しつつ、にこりと笑う少女を見上げる。そしてふと、少女の言葉を反芻し、目を丸くした。

 

「て、え? えぇっ、神様!?」

「うん、私は秋穣子(あきみのりこ)。豊穣を司る秋の神。よろしくね」

「あわわわわ」

 

 大慌てで、花子は頭を下げた。そのまま土下座まで行くのではないかという勢いに、穣子と名乗った少女がわずかに身じろぎする。

 

「神様だなんて知らず、その、ご無礼を、えぇっと、お許しください! 私は御手洗花子と申します!」

「あはは、あなた面白いねぇ。嫌いじゃないわ、そういう子。でもまぁ豊作祈願された時以外働かないし、私はそんなにすごい神様じゃないよ。だからほら、頭を上げて?」

「は、はい」

 

 大層な神様ではないと言われたところで、花子にとって神様がすでに大層な存在だ。がちがちに畏まってしまい、これがむしろ穣子を困らせることとなってしまった。

 何せ、神なのだ。爆発するのではというほど心臓が脈打ち、花子の背中は気温以外の原因で汗びっしょりになっていた。

 なんとか頭は上げたものの穣子を直視できずにいると、やれやれと言わんばかりに苦笑して、穣子が自宅であろう家のドアを指差す。

 

「さっき出てきた、私の姉さんいるでしょ。たぶんまた寝巻きのまま接客したんだろうけどさ」

「あ、はい……」

 

 やはり寝巻きだったのかとどうでもいいことに納得していると、穣子が肩をすくめた。

 

「あの人も、私と同じ秋の神よ。紅葉を司る、ある意味私より秋らしい神様かな」

「……え? 嘘、あの人も?」

 

 無礼極まる発言であったが、花子は途端に肩から力が抜けていくのを感じた。

 神様といえど千差万別、八百万(やおよろず)とはよく言ったものである。思えば萃香やレミリア、フランドールも強力な妖怪だが、身なりも性格も子供のそれだ。なるほど、秋の神だからといって尊厳に溢れた遥か高みの者というわけではないらしい。

 納得しきってしまうのも失礼だとは思ったが、幻想郷の神は――少なくとも紅葉の神であるらしい寝巻きの少女と眼前の穣子は、もっと気楽に接しても良さそうだ。

 

「少しは緊張解けたかな?」

 

 穣子に言われ、花子は頷いた。もうすっかり心は落ち着いている。

 

「すみません、取り乱しちゃって」

「いいのいいの。素直な子は好きだよ。とにかく、中へどうぞ。暑い中で立ち話もなんでしょ?」

 

 川への道を聞こうと思っていたのだが、穣子はドアを開けて花子を待っている。

 急いで帰る必要もないだろうし、何より少し萃香を懲らしめてやりたい気持ちもあり、花子は神の住まう家に少しだけお邪魔することにした。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。お邪魔します」

「はい、ようこそ。今お茶と果物出すから、適当に座っ――」

 

 ざるをテーブルに置いた姿勢で、穣子が固まる。

 何事かと彼女の視線を追えば、穣子の姉であるらしい紅葉の神が、二つ並んだベッドの一つで仰向けに寝転がっていた。ランニングシャツと短パンを脱ぎパンツ一丁でだらしなく口を開けて寝ている様は、もはや神どころか少女であることも危ぶまれる光景だった。

 

静葉(しずは)姉さんっ!」

「うぅん? 穣子、おかえりぃー。暑いからなんか冷たいの作ってぇ」

「……」

 

 上半身裸でありながら色気の欠片も感じられない姉に近寄り、穣子はそこらのタオルケットを引っつかみ、少女――静葉にかぶせた。頭から足まで、すっぽりと。この頃には、すでに神様は偉いという常識が花子の頭から消えていた。

 もぞもぞと動いてタオルケットの位置を調整しつつ、静葉がうっすらと目を開ける。ぼんやりとしているだろう顔が、花子の方を向いた。

 数秒、目が合う。穣子がお茶の準備を始めるのと同時に、静葉が悲鳴を上げた。

 

「ちょちょ、ちょっと穣子! お客さんがいるなら言ってよ!」

 

 タオルケットで胸元を隠し、ベッドの脇に散乱している服の群れからオレンジのシャツを取り出している。

 今更恥らわれてもと花子は困ったが、とりあえず挨拶をすることにした。口元の苦笑いは、どうあっても消せそうになかったが。

 

「お邪魔してます。御手洗花子っていいます」

 

 小さくお辞儀をすると、とりあえずシャツだけを着込んだ静葉が髪飾りを直しつつ、取り繕うような笑顔を浮かべた。

 

「よ、ようこそいらっしゃい。ごめんね、こんなところ見せて」

 

 いえ、と一言返すと、律儀に姉の分までお茶を淹れたらしい穣子が戻ってきた。お茶請けだろう、剥かれた柿が皿に盛られている。

 赤いレースの膝丈スカートを穿いて、静葉がそそくさと席につく。その隣に穣子も腰掛け、花子も習って対面の椅子に座った。お茶はどうやら紅茶のようだが、以前咲夜が淹れてくれたものとは違う香りがする。

 持ってきたのは穣子だが、遠慮せずにどうぞと勧めてくれたのは静葉だった。建前があるのだろう。何も言わずにお茶を啜る穣子は、姉の立たせ方も知っているようだ。よくできた妹だ。

 

 本当は静葉も物腰柔らかで静かな少女なのだが、それは秋に限った話。冬は暗く春は苛立ち、そして夏はこの通り。季節を通じて性格が変わるのは穣子も同じなのだが、静葉はそれが酷く顕著であった。夏に遭遇してしまった花子は、とてもタイミングが悪かったと言えるだろう。

 しかし、少しばかり雑談をするうちに、静葉もだいぶ本来の性格に立ち戻ってきたようだ。時間が経つにつれて、先ほどの出来事を後悔し始めている。

 

「あぅー、穣子。お客さん呼ぶなら先に教えてよね。よりによってあんなところ見られちゃ、私の立場ってもんがないじゃない」

「何言ってんの。最初に花子ちゃんを迎えたのは姉さんだよ」

「え? そうだった?」

 

 きょとんとした顔でこちらを見るものだから、花子は曖昧な返事をすることしかできなかった。寝巻きで客人を追い払ったと知れば、静葉がさらに傷つくことは目に見えて分かる。

 しかし、それは出会ったばかりの花子だからこその遠慮であった。実の妹である穣子は、遠慮なく言い切った。

 

「姉さん、寝てたまんまの格好で玄関出て、花子ちゃんを追っ払ったでしょ」

「う、嘘……。私そんなことしたの? 花子ちゃん、ごめんね」

「えぇと、お休み中にお邪魔した私が悪かったんですから、気にしないでください」

 

 遠慮がちに答えると、静葉は何かに驚いたらしく目を丸くした。じっと花子を見た後、隣の穣子の袖を引っ張る。

 

「ちょっと穣子、聞いた? 妖怪なのにこんだけ謙虚な子っている?」

「いないってことはないんじゃないの? 確かに妖怪は基本的に自分勝手だけど、河童や山彦なんかは話の分かる奴もいるよ」

「まぁそうだけど。いやでも、いいわぁ。花子ちゃん、気に入ったわ」

 

 妙にべた褒めされてくすぐったくなり、花子は照れ笑いを浮かべつつ頭を掻いた。何せ相手は神様なのだ。嬉しくないわけがない。

 花子に興味を持ったらしい静葉が、テーブルに身を乗り出した。傾いて紅茶が零れかけたティーカップを、穣子がすかさず押さえている。

 

「ねぇ花子ちゃん、あなたはなんて妖怪なの?」

「姉さん、お茶が服にかかるよ」

「後で洗うからいいの。それより、ね。花子ちゃんにはどんな力があるのかしら?」

 

 大樹周りの作物の世話があるため毎日作業に勤しんでいる穣子と違い、彼女は秋以外は暇で暇で仕方ないらしい。客人とのお喋りが久しぶりであることも相まって、声音は穣子よりもおっとりしているというのに、静葉は妙に積極的だった。

 わずかに気おされつつ、花子は視線を宙に彷徨わせる。

 

「えぇっと、お手洗いで子供を驚かせる妖怪、でした。外では」

 

 今は違うのかと聞かれれば困ってしまうが、少なくとも子供を驚かすことはほぼ諦めている。曖昧な答えになってしまったが、二人の興味は別に逸れたようだった。

 ティーカップを受け皿に置いて、穣子が軽く首を傾げる。

 

「ん? 花子ちゃんは外から来たの?」

「あ、はい。何ヶ月か前に」

「あらま、じゃあまだ来たばっかなんだ。どうして幻想郷に?」

「そうですねぇ……」

 

 話すべきか少しだけ迷ったが、花子は今までの経緯を語ることにした。

 外からやってきた日から今日までのことをかいつまんで話すと、秋姉妹は興味津々に耳を傾けてくれた。弾幕ごっこができなかったり空を飛べないことを知るとやはり少し驚いたようだが、怒ったり笑ったりはしなかった。

 途中で静葉と穣子が質問を挟んできたりもしたので、話は二時間ほどかけて、ようやく終わりに近づく。

 今は萃香と空を飛ぶ修行をしていると話すと、少しだけ考え込む仕草を見せてから静葉が告げた。

 

「うぅん。飛ぶ練習ねぇ……。すぐにでも飛べると思うよ、花子ちゃんは」

「でもまだ、コツっていうか、そういうのが……」

「んー、違う違う。なんていうのかなぁ……ねぇ穣子」

 

 突然話を振られた穣子は、食べていた柿を飲み込み、指で唇を拭きつつ、

 

「んだね。姉さんの言いたいことは分かるよ」

「え? えっと、どういうことです?」

 

 うろたえ気味に訊ねると、それには静葉が答えてくれた。

 

「花子ちゃん、まだ自分が外の妖怪だと思ってるでしょう」

「……?」

「外にいたからできなかった、外と違うからうまくいかない、そう思ってるところがあるんじゃない?」

 

 言われて振り返ると、確かにそうであった。外の世界と幻想郷の常識を比べてしまい、外との違いを言い訳にしていることには心当たりがある。

 

「そうかもしれないです。だから私、幻想郷の妖怪にならなくちゃって」

「それそれ。その発想がもう間違ってるんだよねぇ」

 

 柿を一切れかじりつつ、穣子。いよいよもって理解できず、花子は困惑した。

 すぐにでも答えがほしかったのだが、静葉が飲み終わったカップを突き出しおかわりをくれと妹にせがみ、穣子が自分でやれとポットを姉に押し付ける問答がしばらく続き、とりあえず手元の柿をいただくことにした。

 結局自分で紅茶を淹れる羽目になった静葉が少しだけ退席し、なにやら文句を言う彼女を横目で見送りつつ、穣子が頬杖をついた。

 

「おいしい?」

「あ、はい。すごく甘くて、瑞々しくて」

「あは、ありがと。この家の周りはいつも秋だからね、気温以外」

 

 柿を頬張りつつさすがは秋の神様だと尊敬の眼差しを向けると、穣子は彼女に良く似合う微笑を浮かべ、

 

「ねぇ花子ちゃん。外の柿はどんな味?」

「外の柿、ですか? うぅん、こっちとそんなに変わらないと思いますけど……」

「だよね。うん、そうだろうね。柿はどこにいっても、柿であることに変わりはない。そりゃまぁ品種とかは違ってくるだろうけど、それが柿であるという事実は決して変わらないよね。例え常識の境界を越えても、さ」

 

 静葉が戻ってきた。話は聞いていたらしく、黙って妹の隣に腰を下ろし、ポットの紅茶をカップへと注ぐ。

 ちらりと静葉を横目で見つつ、穣子は続けた。

 

「外の世界にいた花子ちゃんと今幻想郷にいる花子ちゃんは、違う人なのかな? 修行の話をしてる間中ずぅっと幻想郷の妖怪にならなくちゃならないって力んでたけど、それ、本当に必要?」

「他の妖怪みたいにならなくちゃっていう花子ちゃんの気持ちは、私達にも分かるの。こんなだけど神様だからね、いろんな神様と比較されるともっとがんばらなくちゃって思ったりもするよ」

「夏はこんなだけどねぇ、姉さん」

 

 頬を膨らませる静葉を笑いつつ、穣子がカップの縁を人差し指でなぞる。

 花子は何も言えず、ただじっと続きを待った。二人の話から、何か大切なものをつかめるような気がしたのだ。

 紅茶を一口含み唇を潤してから、静葉が肩をすくめた。

 

「もっと自然に、力を抜いてやってみたらどうかな? 幻想郷にいたって花子ちゃんは花子ちゃんだし、幻想郷の妖怪にーなんて余計なこと考えるから、変に強張っちゃうんだと思うよ」

「うぅん、そうかなぁ」

「吸血鬼とか鬼とか、あのみょうちくりんな人間の魔法使いとも友達になったんでしょ? その上天狗にまでケンカ売ろうっていうんだから、花子ちゃんはもう立派な幻想郷の妖怪だよ」

「私もそう思う。がんばろうとか、こうならなくちゃなんて、いらないよ。ただ、『大丈夫、私はできる』って、自分を信じてあげて」

 

 静葉と穣子の言葉を受けて、花子は視線を落とした。自分を信じるという言葉が、胸の奥に突き刺さる。自分が弱くどうしようもない妖怪だと、だからこそ他の妖怪よりずっと努力をしなければならないと、ずっと思い込んできたのだ。

 もしも、自分に自信が持てるようになったら、自由に飛ぶことができるのだろうか。弾幕を飛ばしたり、こいしやフランドール、レミリア、萃香と一緒に肩を並べて歩くことができるかもしれない。今は、それがとても遠いことのように感じる。

 考え込んでいると、おもむろにミニスカートのポケットを探り、穣子が小さなブドウのブローチを取り出した。花子に手渡し、

 

「あげる。私が帽子につけてるのとおそろいの、友達になった印」

「え、でも、神様と友達なんて、私なんかじゃ……」

「私と友達になるの、嫌かな?」

「そ、そんなことないです! あの、じゃあ、ありがとうございます」

 

 遠慮がちに受け取って、花子はブローチをセーラー服の胸元につけた。少しだけ感じる重みが、安心感を与えてくれる。

 今度は静葉が立ち上がり、彼女のものと思われる机の引き出しから何かを取り出し、戻ってきた。

 

「じゃあ、私はこれをあげるね」

 

 差し出してくれたのは、彼女が頭につけているものと似た、それよりも少し大きい真っ赤な楓の髪飾りだった。

 もらってばかりで申し訳がないと思いつつ、素直に受け取って頭につける。輝く髪飾りを見て、静葉が微笑む。

 

「これで、私も花子ちゃんと友達。嬉しいな」

「ありがとうございます、大切にします」

 

 突然のプレゼントに戸惑いながらも、花子は二人の気遣いがとても嬉しかった。幼い花子にとって、新しい友達ができたという事実は、とても大きな心の支えになるのだ。

 一生の宝物にしようと心に決めていると、静葉が言った。

 

「花子ちゃん、もっと自分を大切にしてね。力が弱いとか、空が飛べないとか、そんなことで自分を蔑まないで。私も穣子も、花子ちゃんを友達だって呼んだ人はみんな、あなたそのものが好きなんだからね」

「友達のためになんて、思わないで。もっと自由に、もっと広大に、もっと、花子ちゃん自身のために、空を飛びたいって思うの。そうしたら、あなたの中にある力は、きっと想いに答えてくれるから」

 

 ほんの数時間しか話していないというのに、花子のことをこんなにも理解してくれている姉妹に、花子は感動のあまり泣きそうになった。なんとか我慢して、強く頷く。

 花子の首肯に秋姉妹が微笑むと同時に、玄関のドアがノックされる。ノックの後に聞こえてきた声は、聞き覚えのあるどこか間延びした声だった。

 

「こんにちはぁ、花子来てますかぁー?」

 

 人様の家をノックしつつ脈絡もなく本題を切り出す人物など、花子はこいし以外に知らない。どうして花子のいる場所が分かったのか見当もつかないが、なぜかこいしなら簡単に見つけられても仕方がないと納得できてしまう。

 もう、迎えが来てしまった。短い付き合いであったが、静葉や穣子と別れることに寂しさを覚える。彼女らが神であることを忘れてしまうほど、二人と話をするのが楽しかったのだ。

 何か、二人にお返しできるものはないだろうか。かばんをいつもの川原に置いてきてしまったことを悔やみつつポケットを探り、小さな感触を覚える。

 ポケットから出された花子の手には、赤とオレンジの模様が入ったビー玉が二つ、握られていた。宝物とまではいえないが、花子にとってはお守りのようなものだ。

 

「こ、これ。こんなものしかないですけど」

 

 一つずつ、穣子と静葉に渡す。それは本当に小さくて、二人からもらった綺麗な飾りに比べればいかにも安っぽいものであったが、秋姉妹は大事そうに受け取ってくれた。

 静葉は赤の、穣子はオレンジのビー玉をそれぞれ両手で包み、

 

「ありがとう、すごく綺麗だね」

「宝物にするよ。ずっと持ってるから」

 

 嬉しかった。二人と宝物を共有できたという喜びは、花子にとってとても大きなものだった。

 遠慮のないノックが次第に大きくなっていく。人の家を訪ねたことがないのだろうかと心配になるほど、こいしが力を込めているのだ。

 

「花子ぉー! いないのー!?」

 

 いなかったらどうするのだと思ったが、これ以上返事をしなければドアが壊れかねない。

 

「い、いるよ! いるから外で待ってて!」

「はぁーやくぅー。もうすぐおゆはんだよー」

「まだ夕方だよ、もう」

 

 ぼやきながらも、わざわざ探しに来てくれたこいしを待たせるのは忍びない。

 花子は静葉と穣子に向かって、丁寧にお辞儀をした。

 

「それじゃ、私行きます。お世話になりました。柿とお茶、おいしかったです」

 

 頭を上げると、姉妹が少しだけ寂しそうに笑っていた。秋まで静かに暮らしているのだろう二人にとっても、花子と過ごした時はとても新鮮だったのだ。

 穣子と静葉は揃って胸元で小さく手を振り、

 

「がんばるんだよ。またいつでも遊びに来てね」

「次に会う時まで、元気でね、花子ちゃん」

 

 最後にもう一度小さく礼をして、花子はドアへと向かう。

 振り返ることはしなかったが、秋の姉妹が最後まで見送ってくれているだろうことは、見もせずに分かる。

 ドアを開けると、こいしが腰に両手を当てて、むっつりと膨れていた。

 

「遅いよぉー」

「も、元はといえばこいしちゃんが手を放したからなのに……」

「まぁいいや、早く帰ろ。萃香さんも、お酒呑みながら待ちくたびれてるよ」

 

 どうやら、瓢箪は見つかったらしい。萃香ならば能力で萃めればいいだけの話なのだが、結局地道に探したようだ。

 ひょいと花子を横抱きに抱え上げ、こいしが飛び上がる。彼女は大木の周りだけ秋になっていることに大して興味を示していない。

 遠のいていく大樹。生い茂る葉の間を抜けて上空に出る頃には、切り取られた秋の景色は完全に隠れていた。

 神様とすら友達になれるのだ。そんな自分を、もっと好きになろう。そう自分に約束しながら、こいしの腕の中で、花子はそっと胸元のブローチに触れ、目を閉じて髪飾りの重みに身を任せた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 夕食を終え、今日できなかった訓練の補完をするために、花子は川辺の岩で神経を集中させていた。座禅は組まずに、立ち上がったままだ。

 空を飛ぶ自分をイメージすることがどうしてもできなかった理由を、秋姉妹が教えてくれた。幻想郷の妖怪たる自分を想像してしまったがために、今の花子と噛み合わなかったのだ。

 もっと楽しく、ありのままの自分で空を駆け回る。萃香やこいしと、レミリアやフランドールと、穣子や静葉と一緒に。

 飛びたい。空を飛んで、幻想郷を見てみたい。皆と同じ視線から、御手洗花子として。

 

「飛びたい――」

 

 呟き、妖力を操る。少しずつバランスを取るように、慎重に。地面から体が反発するようにイメージする。

 

 そして、とうとうその時はやってきた。

 

「わ……!」

 

 わずかに。本当に少しだけ。それでも、経験したことのない感覚を花子に与えるには十分だった。

 浮遊感というものならば、何度か味わったことがある。体が宙に浮く心地というやつだが、本物とはだいぶ違うのだなと、歓喜と混乱の中でぼんやりと考える。少なくとも、こいしや萃香に振り回された時とは大違いだ。

 背の低い花子の視線は、せいぜいが大人の腰あたりだった。それが今は、だいぶ高く感じられる。

 高さにして数十センチ程度だが、しかし紛れもなく、花子は飛んでいた。

 水面に浮かぶような心地で、川の上へと漂っていく。月の光を反射して輝く川を上から眺めるのも、花子にとって初めての経験だ。

 

「わわ、萃香さん! 飛んでる、私飛んじゃってる!」

「うんまぁ、見れば分かるよ」

 

 大した感動もなさそうな花子の師、萃香。だが、彼女が口元に浮かべる嬉しそうな笑みは嘘ではなさそうだ。隣に座るこいしが「おぉー」と小さな拍手をしてくれている。

 喜びのあまり、花子はふわりと空中に漂ったまま身を翻した。

 

「すごい、飛んでるんだ……! 私今、飛んでぶへぇ」

 

 飛行のイメージが崩れ、川へと真っ逆さまに落下する。浅くて助かったが、こいしには腹を抱えて笑われてしまった。

 もんぺもセーラー服もびしょ濡れになってしまったが、花子はとても上機嫌だ。

 それはそれは小さな前進だが、それでも花子にとっては大きな一歩。

 失笑しつつも手を伸ばし、萃香がよくやったと褒めてくれた。それに笑顔で頷いて、ふと川面に目を落とす。

 水面に映る自分の姿は暗く見にくかったが、月光に照らされたブローチと髪飾りだけが綺麗に輝き、まるで穣子と静葉が祝福してくれているように思えて――

 

「ありがとう、ございます」

 

 花子の呟きは、川に運ばれ森の中へと溶けていった。



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そのきゅう 恐怖!人里に住まうワーハクタク!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 お元気ですか? 花子は元気です。

 

 だんだん飛ぶことにも慣れてきました。もう少しで自由に飛びまわれそう。空を飛ぶって、とても楽しいよ!

 

 今日は桑の実を晩御飯にしました。まだ青いのも残ってるけど、甘酸っぱくておいしいよ。山の学校に行けばあるかもしれないから、太郎くんも探してみてね。

 

 ごめんね、手紙のお姉さんを待たせてしまっているので、今日は短いけどこれまでにします。なんだか日記みたいになっちゃったけど、許してね。

 

 またおたよりします。

 

 

 花子より

 

 

 

~~~~

 

 

 

 花子の特訓を始めて二週間、彼女の成長は予想していたより早いものの、まだまだ時間はかかりそうだ。こいしに手を引かれてフラフラと飛行練習をしている花子を眺めつつ、萃香は瓢箪の酒を呷る。

 細かい妖力のコントロールは、だいぶ上達してきた。こいしも手伝ってくれているおかげだろう。自由奔放なこいしがこんなにも長く付き合ってくれるとは思っていなかったが、よほど花子のことが気に入っているようだ。

 

「あわわ、こいしちゃん、手を放さないでね!」

「分かってるってぇー」

 

 重力に引っ張られがちな花子は、まだ一人で飛ぶことは難しそうだ。もう少し落ち着けと何度も言っているのだが、土から離れることへの恐怖が心のどこかに残っているのだろうか。

 今は練習を楽しんでもらうのが一番なのかもしれない。そうなると、付き添いは萃香よりもこいしの方が適任だろう。あの能天気さが花子の気を楽にしてくれるはずだ。

 ゆっくりと川の上を飛んでいる二人をしばらくの間眺めていたが、じっと見ているだけというわけにもいかない。飛行練習をこいしに任せて、萃香は立ち上がった。

 

「おゥい、花子にこいし。ちょっと出かけてくるよ」

「あれ? どこに行くのぉー?」

 

 こちらに振り返ると同時に、こいしが花子の手を放した。慌てて空中で停止してから、花子も萃香の方を向く。

 

「お出かけですか? 珍しいですね」

「うん、ちょっくら人里に用事があってねェ」

 

 鬼は人間にとってそこらの人食い妖怪以上に天敵なのだが、萃香はサバサバした性格やその容姿も相まってか、あまり嫌われてはいない。無論好かれているわけでもなく、自分から近寄ろうとする人間は皆無だが。

 新入りの花子や地底暮らしが長いこいしが深く気にした様子はなく、二人揃って二つ返事で空を飛ぶ練習へと戻っていく。人攫いでもするのかと言われそうだと思っていただけに、萃香はむしろ拍子抜けしてしまった。

 

「あの子ら、私が鬼だって忘れちゃいないだろうねェ……」

 

 呆れた溜息をついて、飛び上がる。自身を霧状にしてしまえばあっという間に里へつくのだが、花子の飛行練習を見ているうちに飛びたい気分になってしまった。

 ぷかぷかと入道雲が浮かぶ夏の空を飛びながら、萃香はポケットに手を突っ込んだ。確か、里の外で軽く人間を襲った時に奪った金銭がいくらか残っていたはずだ。

 まるで強盗だが、幻想郷の人間は食うことも攫うこともできないので、代わりに多少小遣いを頂戴することにしていた。この手法で人間の通貨を手に入れている妖怪は、割りと多い。

 取り出した硬貨の枚数を見て、一人頷く。欲しているものは買えそうだ。

 

 一時間ほど飛び、人里に到着した。今日は晴れているだけあって、ずいぶんと人が多い。里の大通りに出ている屋台には、妖怪が店主のものもちらほらあるようだ。

 人間と妖怪の関係は、ここ数十年――少なくとも萃香が地底から出てくる前と後では、大きく変わってしまった。人間の里で妖怪が買い物を楽しむ日が来るなど、百年前ならば夢にも思わなかったことだ。

 里の外では人間を襲っているであろう妖獣や妖怪が、どこぞで拾ってきた綺麗な石を首飾りにして売っていたりする。金銭を稼ぐ手段は色々らしい。あの方法は自分には向いていないだろうなと、萃香は肩をすくめた。

 目的の店までのんびり歩いていると、自分の目の前だけがやたらと開けていることに気付く。鬼である萃香を見つけた人間が、逃げるように道を譲っているのだ。人間とまではいかなくとも他の妖怪と同じように扱ってほしいと常々思っている萃香としては、寂しい限りだった。

 しかし、慣れていることも間違いない。片手を挙げて感謝を伝えつつ、街道のど真ん中をありがたく通らせてもらった。

 

 程なくして、目当ての店を発見する。店名には興味がなかったが、大きく掲げられたのぼり旗には『本』と書かれている。庶民向けの写本や読み書き算盤の指南書などを扱っている店だ。

 今まで縁がなく、そしてこれからもないだろうと信じていた店へと足を踏み入れる。店内に満ちている香りは、紙の匂いだろうか。萃香にとってはあまりにも馴染みがなく、なんとも落ち着かない。酒でも呑もうかと思ったが、飲食厳禁の張り紙を見てそれすらも断念させられた。

 さっさと用事を済ませるために、萃香を見るなり怯えきっている店主を捕まえる。

 

「やぁ親父、ちょいと聞きたいんだけどさ」

「ハヒッ、ななななんでございましょう」

 

 初老の男なのだが、なんとも情けない顔だ。そんなに怖がらなくても良いだろうにと、萃香は頬を掻いた。あまりの恐れっぷりにほんの少し傷つく。

 

「スペルカードルールについて詳しく書かれた本、置いてるかい?」

「あ、えぇえぇ! ございますとも、確かこちらの棚に」

 

 他の客を押しのけて大慌てで棚に駆け寄り、店主は一冊の写本を持って戻ってきた。あまり上物とはいえない紙が紐で閉じられているだけの簡単な作りだが、大衆向けの写本ならこんなものか。

 奉納でもするかのように写本を差し出し、真っ青な顔でこちらを見上げる店主。さすがに気の毒になってしまい、さっさと会計を済ませることにした。

 

「ありがとう。そいつァいくらだい?」

「そそそそんなお金なんて受け取れません命があれば私はそれで!」

「別にあんたを攫うつもりなんかないよ。私ゃ買い物に来たんだ、ちゃんと払わせてくれよ」

「さ、左様でございますか。そうしますと、こちらのお値段に……」

 

 震える手で算盤を叩き、こちらに差し出してくる。なんとも安すぎる値段だが、親切心からの値下げだろうと思い込むことで、無理矢理納得した。

 写本を受け取り支払いを済ませ、しかし萃香はその場から動かない。店主が「早く出ていってくれ」と涙目になっている視線で訴えてくるが、そういうわけにもいかなかった。

 

「親父」

「ヒッ!?」

 

 たった一言で縮こまる店主に、萃香は極力気にしない振りをしつつ続けた。

 

「弾幕ごっこの遊び方が書いてある本なんて、あったりするのかね」

「えっ……あぁいや、実はそれが、そのう」

 

 妙にしどろもどろだ。あるのかないのか、それだけが聞きたかったのだが。

 しばらくじっと見つめていると、店主は青から白に変わりつつある顔で、

 

「も、申し訳ございません。あれはどうしてか、なかなか本にしようという方がいませんで」

 

 スペルカードルールと混同されがちだが、弾幕ごっこはスペルカードとはわずかに趣が異なった遊びだ。基になったものはスペルカードルールだが、弾幕ごっこは決闘よりもスポーツという感覚に近い。

 美しさを競うという性質上第三者の審判を必要とするスペルカードルールと違い、スペルカードを使った弾幕ごっこは一対一でもできる遊びだ。いかに美しく、避けにくく、しかし必ず攻略できる弾幕であることが重要らしい。萃香が力技の弾幕を放った時に、人間の魔法使いが言っていた台詞だ。

 弾幕の作り方や飛ばし方は萃香が直々に教えてやるとして、花子が一人でいる時や修行の合間に勉強できるようにと、こうして本屋へと足を運んだのだ。

 しかし、弾幕ごっこの指南書が売っていないとは。これは困ったと、萃香は眉を寄せる。すると、その顔を見た店主が土下座せん勢いで頭を下げた。

 

「大変、大ッ変申し訳ありません! 次回までには必ずご用意致しますので、どうか、どうかお許しを!」

「別にあんたを責めちゃいないよ」

「ヘヘェーッ!」

 

 自分が悪代官にでもなったようで、なんとも居心地が悪い。さっさと戻るかと踵を返したところで、萃香は柔らかいものにぶつかった。

 布だ。一歩下がって全体を見てみると、それが群青色のスカートであることに気付いた。

 

「鬼がこんなところで、何をしているんだ」

 

 女だ。青いメッシュが入っている銀髪は、腰まで伸びている。何度か会ったことがある相手だった。

 萃香は買った本を脇に抱えて、鼻を鳴らした。

 

「本を買いに来ただけさ。それ以上のことはしてないよ」

「本当か?」

「私は鬼だよ、嘘は言わない。そんなことを知らないお前じゃないだろう、ワーハクタク?」

 

 挑発気味に口元を歪めると、ワーハクタクの上白沢慧音はじっと萃香を見つめ、

 

「……人は鬼を怖がる。イタズラに歩き回らないでいただきたい」

「ずいぶんと酷いこと言うねェ。あんただって半分は妖怪じゃないか」

「鬼は強すぎる。人間にとっては天敵なんだ。それはあなたが一番知っているはずだろう」

「……世知辛いもんだよ、まったく」

 

 いつだったか、地底の仲間に戻ってこいと言われたことを思い出す。地底がとても恋しくなったが、萃香はその気持ちを振り払った。

 

「言われなくても出ていくさ。可愛い弟子が待ってるからね」

「そうしてくれると助かる。……すまないな」

 

 一応は彼女も悪いと思ってくれているらしい。慧音の半身は妖獣であるため、人間だけの味方をすることに負い目を感じているのだろう。

 このまま放っておけば後味が悪くなる。萃香は唇に人差し指を当てて、頭を下げたまま動かない慧音に声をかけた。

 

「なぁ、ちょっと頼まれてくれないかい? それが終われば気兼ねなく帰れるんだよ」

「構わないが、食ってほしい歴史でもあるのか?」

「あぁ、違う違う。ワーハクタクに用はないんだ」

 

 萃香は、ニカッと笑った。

 

「用があるのは、寺子屋の先生様である上白沢慧音の方さ」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 弾幕ごっこの教本がないのなら、作ってもらえばいい。なんとも安直な考えだったが、慧音は萃香の頼みを喜んで引き受けてくれた。

 美しい正座で机上の紙に筆を走らせる慧音の姿は、とても様になっていた。蝋燭に灯された火がちらちらと輝き、彼女の背中から伝わる緊張感に拍車を掛けている。

 教職者という連中はどうにも堅苦しくて苦手だったが、彼女の教えならば受けてみたいと思わせる、そんな後姿だ。もっとも、本当に慧音の授業を受けるかと聞かれたら、萃香は無言で首を横に振るだろうが。

 慧音も弾幕ごっこを楽しむことがあるそうで、霊夢やレミリアとも戦ったらしい。結果は敗北だったが、あの霊夢に「美しさだけなら負けていたかも」と言わしめたほどの腕前だ。

 人里から出て行く条件として提示したはずの教本作成だったが、結局里からは出て行かず、今は慧音の自宅兼寺小屋にいる。外見も内装もずいぶんと新しく、最近建て直したであろうことが伺えた。

 壁に貼ってあるたくさんの半紙には、子供が書いたと思われる『元気』という字が入っていた。力強く主張しているものから控え目に小さく書かれているものまであり、まるで半紙の上で子供達が駆け回っているようだ。

 

「それにしても」

 

 筆を動かす手を止めることなく、慧音が口を開いた。

 

「まさかあなたが妖怪を育てるなんてな。それも、弾幕ごっこを教えたいとは」

「なんだよ、おかしいかい?」

 

 萃香は瓢箪を呷りながら、口元を笑みに歪めた。今になっても、らしくないことをしていると萃香自身が感じているのだ。はたから見ておかしくないわけがない。

 しかし、慧音はわずかに肩を震わせてから、首を横に振った。筆は止まっていない。

 

「いや、意外だと思っただけだ。その名を聞けば、人も妖怪も恐れる。そんな鬼が、あの厠の妖怪を育てるなんて、さすがに予想できないさ」

「だろうね。私だって予想しなかった。でもまぁ、花子はいい奴だからね」

「そうか。正直、彼女が霊夢達に退治された時は、ここでやっていけるような妖怪だとは思わなかった。しかし鬼に育てられれば、あの子も一人前になれそうだな」

「花子はやればできる子だよ。不器用なだけでね」

 

 溺愛するつもりはなかったが、花子はすっかり愛弟子だった。文に勝つのは難しいと思うが、できる限りのことはしてやりたい。

 慧音にもそれは伝わったらしく、彼女はようやく手を止めて振り返り、

 

「教え子が成長する喜びは、師の立場にいる者のみが味わえる。これだけは、誰にも譲る気にならないな」

「そうだね。あんたが教師でいる理由がなんとなく分かった気がするよ」

 

 光栄だと笑いながら、慧音が完成したらしい冊子を渡してきた。あまり大きくなく、頁数も少ない。遊びのルールが書かれているだけなのだし、これなら片手間でも読めそうだ。

 わずかに開いた障子の外を見れば、もう日が落ちる時間のようだ。

 

「さて、そろそろお暇しようかな。本、ありがとうよ」

「……萃香さん、今日は泊まっていったらどうかな」

 

 藪から棒の誘いに、萃香は目を丸くした。何か裏があるのかと思ったが、慧音は小さく肩をすくめる。

 

「突然の申し出だ、戸惑うのも無理はないと思う。ただ、同じ教育者として、あなたがどんな風に妖怪を教示しているのか聞きたくてね」

「そんな大したことはしてないけどね。それに、花子達が待ってるしなぁ」

「彼女は何十年も生きているそうじゃないか。一日くらいなら自炊できるだろう」

 

 花子はしっかりしているし、こいしもついている。慧音の言うとおり心配はいらないと思うが、彼女とは特別親しいわけでもない。

 なんとなく答えあぐねていると、おもむろに立ち上がった慧音が箪笥の中から何かを持ってきた。その手に持っている物を見て、萃香の思考が停止する。

 一升瓶だ。美しい飾りも施されており、酒にはうるさい萃香が一目でそうだと分かるほどの上物だ。

 

「これは生徒の親御さんから頂いたものなんだが、なにせ私一人では飲みきれなくてな。あなたも飲んでくれれば、ありがたいんだが」

「……そうかい? まぁ、そこまで言うなら、付き合ってやらないこともないけどね」

 

 言いながらも、萃香の視線はちらちらと一升瓶を気にしている。この時すでに、彼女の頭からは花子達のもとへ帰るという選択肢が消えていた。

 茶碗を二つ用意した慧音が、その一つに酒を注ぐ。ふわりと舞う香りは、普段萃香が飲んでいる瓢箪の酒よりも遥かに濃厚だ。自然と唾液が溢れ、萃香はごくりと唾を飲んだ。

 

「さぁ、どうぞ」

 

 差し出された椀を受け取って、さらに瞳を輝かせる。高鳴る鼓動を感じつつ口に含めば、その味のなんと甘露なことか。思わず目を見開くと、慧音がくすりと笑った。

 

「喜んでもらえたようだな」

「いやァ、こいつはいい物だよ! こんな美味い酒は久々だ」

「それはよかった。今つまみを用意しよう。干し肉程度しかないが、それでいいかな?」

「何から何まで、すまないねェ。いやしかし、こいつは美味いなぁ」

 

 酒の減る量など普段気にすることはないのだが、今回ばかりは一気に呑むのがもったいなく感じて、萃香はちびちびと酒を楽しむことにした。

 久方ぶりの上物に舌鼓を打っていると、干し肉が盛られた皿を持った慧音が戻ってきた。萃香の対面に座り、自分の椀に酒を注ぐ。

 

「同じものではないが、もらい物の酒はまだまだあるんだ。今日はゆっくり楽しんでいってくれ」

「いいのかい? 鬼にそんなこと言っちまって」

「例え鬼であっても、誰かを育てることは決して楽ではないだろう。たまには骨休めも必要さ」

「はは、あんたはいい奴だね。そんじゃァ、お言葉に甘えようかな」

 

 茶碗を持ち上げる萃香。乾杯は、酒飲みにとって握手と同義である。答えて、慧音が自分の椀を萃香のそれにこつんとぶつけた。

 修行の内容やそこに至るまでの経緯を聞かれ、萃香は身振り手振りで答えていった。逆に寺小屋での教育方法を聞けば、慧音は意気揚々と授業風景を教えてくれる。

 慧音は萃香のことを教育者と呼んだ。そんな呼ばれ方は少しくすぐったくて、照れ笑いなど浮かべてしまう。普段はあまり見せない表情だが、今の二人は鬼と人妖ではなく、同じ教育者だ。たまにはこんな顔も悪くはないだろう。

 

 二人のささやかな酒宴は深夜まで続き――

 

 その日、慧音亭に保存されていた酒は、綺麗さっぱりなくなってしまったという。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 太陽が輝いていた青空は、次第に月の支配する星空へと移り変わっていく。どちらが好きかと聞かれても、花子は答えられる自信がなかった。

 夏も真っ盛りなこの時期だ。日が完全に沈んだとなれば、それなりの時間だろう。修行を切り上げて、花子とこいしは夕食をとることにした。

 本日の夕食は、こいしが木の蔓で編んだ籠にたっぷり入ったやまぐわの実。二人が飛ぶ練習がてら採集したものだ。少し物足りないが、最近は魚続きだったので気分転換にはいいかもしれない。

 花子の小指程度の大きさしかない実を噛んでみれば、甘酸っぱい味が口の中にふわりと広がった。しばらく川の水にさらしていたので、とても冷えている。

 

「おいしいねぇー」

 

 目を細めて、こいしも上機嫌だ。二人ともよく運動した後なので、完熟した甘さが身に沁みる。

 真っ赤になってしまった指を舐めつつ、花子は焚き火に目を落とした。

 

「萃香さん、遅いねぇ。たくさん木の実取ったのにな」

「どこかでご飯食べてるのかなぁー。ねぇ、全部食べちゃう?」

「う、うーん。確かにお腹空いてるしなぁ。でも、もし萃香さんが帰ってきたら――」

「むぅ。花子は心配性だなぁー」

 

 自分が食べたいだけだろうにと思ったが、あえて口にはしなかった。例え言ったとしても、悪びれもせずに「うん」と答えるに決まっているからだ。

 とりあえず、花子は紅魔館で借りたまま返せていない竹編みの弁当箱に、萃香の分を分けることにした。こいしが抗議の視線を送ってくるが、無視する。

 

「川で冷やしておけば、一日くらいは持つよね」

「新鮮じゃなくなっちゃうよぉー。また明日取りに行けばいいじゃない」

 

 とうとう言葉で訴えてきたが、花子は弁当箱を川に浸して石で固定しつつ、呆れの混じった声を上げた。

 

「そんなに食べたいの? こいしちゃん、結構食べてたのに」

「だって、おいしいんだもん」

 

 と、こいしは頬など膨らませてみせる。彼女は時々、マイペースを通り越してただのわがままになる時があった。変に意地を張るその姿は、花子にスカーレット姉妹を思い出させる。

 頭一つ分程度とはいえ、こいしは花子よりも背が高かった。もしかしたら。食べる量も彼女の方が多いのかもしれない。

 だとしたら、もっと食べたいと思うのも無理はないだろう。今もまだ膨れているこいしに、残っている桑の実を差し出す。

 

「食べていいよ。私、お腹いっぱいだから」

「……でもぉ、花子はそんなに食べてなかったよ」

「ううん、大丈夫。食べて食べて」

 

 少し強引に籠を受け取らせると、こいしは籠に残った木の実をしばらく見つめてから、いつも使っている皿にその半分を移した。

 先輩妖怪としての自尊心があったのだろう、どことなく気まずそうな顔をしながら、桑の実が転がる皿を花子に手渡してくる。

 

「半分こ、しよ」

「……うん。ありがとう」

 

 笑顔で答えると、こいしもまた嬉しそうな笑みを見せてくれた。

 いつもそうだが、彼女が笑うと周りの空気までもが笑ったような気がするのだ。不思議な少女だった。

 ささやかな食事をしつつ飛び方のコツなどを話し合っていると、ふと背後から声がかかった。

 

「こんばんは。仲がよろしいことね」

 

 両端がリボンで結ばれているスキマに腰掛けている、八雲紫だ。彼女はよくスキマを椅子代わりにしているのだが、どういう原理なのかはいまいち分からなかった。

 もうそんな時間かと、花子は慌てた。手紙を書くのをすっかり忘れていたのだ。

 

「ごめんなさい、手紙のお姉さん。今日はまだお手紙書いてないんです」

「お喋りに夢中だったものね。いいわ、書き終わるまで待ってあげましょう」

「ありがとう、すぐに書いちゃいますね」

 

 今日は長く書けないなと思いつつ、リュックからピンクの便箋と封筒、さらに下敷きとえんぴつを取り出す。慣れた手つきで下敷きを石の上に置き、さっそく手紙を書き始めた。

 せっかく来てくれた紫をあまり待たせるのも気が引けるので、花子は急いでえんぴつを動かした。それでも字が汚くなりすぎないように注意はしているが。

 突然、手元が暗くなった。こいしが背後から覗き込んでいるようだ。手紙を見られるのは、あまり気持ちのいいものではない。手を止めて、振り返った。

 

「どうしたの? こいしちゃん」

「誰に書いてるのぉ?」

「太郎くん。えっと、外の世界にいる友達だよ」

「へぇー」

 

 そこまで興味はなかったのか、こいしはすぐに焚き火へと戻っていった。

 こいしが紫にお茶を淹れている音を背後に聞きながら、五分ほどで手紙を書き終えた。便箋を封筒に入れて、シールで止める。もう紙も封筒も少なくなってきたので、調達する方法も考えなければいけないだろう。

 手紙を紫に手渡して、花子は頭を下げた。

 

「これ、お願いします」

「早かったわね。はい、確かに預かりましたわ」

 

 美しい微笑を口元に湛えて、紫が手紙を懐に納めた。どうやって太郎の下へ手紙を届けているのかを、花子は知らない。紫もまた、こいし以上に謎の多い女性である。

 

「そうそう、萃香なのだけれど。今日は帰らないみたいよ」

「あれ、そうなんですか?」

「だから言ったのにぃー」

 

 先ほど和解したというのに、まだ桑の実のことを根に持っているようだ。しかし花子は、こいしのブーイングを聞かなかったことにした。

 視線で萃香が帰らない理由を訊ねると、紫が一つ頷いた。

 

「今日は、人里のご友人宅に泊まっていくらしいわ。おかしなこともあるものね」

「そっかぁ。わざわざありがとうございます」

「どういたしまして。それでは、そろそろお暇しようかしら」

 

 半分ほど茶が残っているようだったが、紫は茶碗を置いて立ち上がった。花子とこいしに背を向けて、自身の身長より少し大きなスキマを作り出す。

 

「それではお二人とも、ごきげんよう」

「お休みなさい、手紙のお姉さん」

「さようならぁー、スキマのおばちゃーん」

 

 元気いっぱいに手を振るこいしだが、花子はこの瞬間、空気が凍りつくのを全身で感じた。

 スキマに手をかけた姿勢のまま、紫が停止している。汗が一筋、花子の頬を伝っていく。時間が止まってしまったようで、それを拭うことすらできなかった。

 ギリギリと、まるで壊れたからくり人形のように、紫の首がこいしの方へと向けられる。引きつった笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

 

「古明地の……こいしといったわね」

「うん、古明地こいしだよぉ」

「そう。ではこいし、あなたには一つ、講義をしてさしあげなければいけませんわね。あぁ、そのままの姿勢で構いませんわ、楽になさいな。でも話はしっかり聞くこと。いいわね?」

 

 こちらの返事を待たずに、紫は大きく息を吸い込んだ。

 

「私のように一人一種族の妖怪はその分類どおり他の種族と寿命も能力もまるで違うの。つまり年齢をその他の種族と比べることにはなんの意味もない、ということですわ。覚妖怪のあなたにとっては老人のような年齢であったとしても、それが境界の妖怪である私にも通用するとは限らない、むしろ通用しない可能性の方が極めて高い。例えば数百年生きているあなたや吸血鬼も、そこの花子にとっては老婆が如き年齢であるはず。にもかかわらず友人として対等に接しているということは、あなた達の関係に年齢という概念は無意味であることの証明に他ならない。花子はレミリアには敬語を使っているようだけれど、その妹にはこいしと同じように接しているわ。それがどういう意味か、分かるかしら? つまるところ、妖怪という特殊な存在にとって大切なのは年齢ではなく外見のイメージや雰囲気なのよ。そう、あなたにとって千を超える年齢の女性がおばさんであったとしても、それが他種族であるのなら外見年齢で相手を呼ぶべきなの。お互いの関係を円滑にするためにはそうするのがベター、いえ、ベストだわ。こいし、あなたはベストな選択肢が目の前にあるというのに、あえて別の選択をするというのかしら? それは勇敢ではなく無謀、愚行とすら言えることよ。さぁ、私は可能性を示した。後はあなたが選択なさい、古明地こいし」

 

 ほぼ一息で言い切り、彼女にしては珍しく肩で息をしながら、紫はじっとこいしを見つめた。こいしはおろか、花子すらも呆気にとられて口を半開きにしているが。

 しばらく――数分程だろうか。あるいは数十秒だったのかもしれないが、長くも短い時間を経てから、こいしがゆっくりと首を傾げた。

 

「で、何が言いたいの?」

「お姉さんと呼びなさい」

「はぁーい」

 

 間の抜けた返事と共に、空気が一気に弛緩していく。花子もようやく肩の力を抜いた。

 初めて紫に会った時、花子は何度もお姉さんと呼ぶことを強要された。花子としては名前で呼びたかったのだが、紫お姉さんでは馴れ馴れしい気もしたので、手紙を届けてくれていることへの感謝も込めて『手紙のお姉さん』と呼ぶに至っている。

 どうしてここまでこだわるのだろうかと、花子は胸中で疑問を感じた。再び講義が始まってはたまらないので、決して言葉には出さなかったが。

 妖怪は、肉体の成長が著しく遅い。種族や固体によっては、吸血鬼姉妹のように一定を過ぎてから成長がほとんど止まる場合もある。花子やこいしが紫のこだわりを理解できる日は、とても遠そうだ。

 

 満足したらしい紫は、満面の笑みでもう一度「では、御機嫌よう」と告げると、スキマの中に消えてしまった。

 普段は大人の魅力に溢れており難しい言葉を使う紫だが、時々見せるこういった一面も、花子は好きだった。

 残った桑の実を頬張りながら、頬に手を当てたこいしが何事もなかったかのように破顔する。

 

「んー、おいしいー」

 

 彼女に習って果実を頬張り、おいしいねと笑いあう。

 焚き火の炎が小さく爆ぜる。夜空へ舞い上がった火の粉はきらきらと、まるで二人と一緒に笑っているかのようだった。



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番外編   弾幕ごっこの遊び方 著:上白沢慧音

 弾幕ごっこの遊び方

 

 ルールを守って楽しく弾幕!

 強い者は弱い者に合わせて、公平に仲良くケンカしよう!   

 

~~~~

 

其の一 弾幕ごっこの決まり事

 

 少し多いので、以下に箇条書きでまとめる。

 

 

・持ち点からの減点制である。点数はカード枚数×三点。計算が分からない者は、相手に聞くこと。

 

・スペルカードの枚数は、双方同じ枚数にする。決闘前に相手と相談して決めること。

 

・もし複数人で決闘を挑む場合、持ち点はチームで共有する。

 

・弾幕は「ショット」と「スペルカード」の二種類がある。

 

・ショットが被弾したら一点、スペルカードの弾幕が被弾したら三点減点。ただし、カード技を避けきった場合は二点加点となる。

 

・チームで挑んでいる場合、同時あるいは連続で被弾したとしても、減点されるのは最初の一回分だけである。

 

・カード宣言するタイミングは自由。宣言中あるいは直後にショットが被弾した場合、ショットは無効となる。ただし、被弾して気絶した場合はその限りではない。

 

・宣言された相手はショットを中止しなければならない。ただし、カード宣言で技を撃ち合うことは可能。

 

・カード技を双方が同時に使用した場合もルールは変わらず、被弾したら三点減点、避けきれば二点加点。互いに避けきった場合は、双方の持ち点に二点加点。同時に被弾した場合は、お互いに三点減点。

 

・カード技が相手に被弾したら、技を中止し、相手が立て直してから仕切り直しとする。同時にカード技を撃っている場合も同様である。追い討ちは絶対ダメ。

 

・敗北条件は、主に「持ち点を失う」、「スペルカードを使い切る」の二つ。

 

・ショットやカードの多様で力尽きたり、弾幕に撃たれて気を失う、または降参した場合も敗北とする。このケースは稀だが、覚えておくこと。

 

・なお、最後のスペルカードで相手の得点を奪いきった場合に限り、カード使用者の勝ちとする。

 

・複数人で挑んでいる場合、チームのうち一人でも気絶か降参したら失格とする。チームは常に連帯責任。

 

・お互いの最後のスペルカードを双方共に攻略した場合は、どちらかの持ち点が多かったとしても引き分けとする。

 

・二人共がカード技で被弾し、お互いの得点が同時になくなった場合も引き分けである。

 

・ヒットは自己申告制。公平に楽しむため、ズルはやめよう。

 

 

 以上。

 

 

其の二 スペルとショットについて

 

 妖怪ならば誰でも妖弾を飛ばすことくらいはできることと思う。これを綺麗に配置し広げることが、弾幕だ。

 弾幕ごっこにおける弾幕は、決まり事の項で述べたとおり、「ショット」と「スペル」の二種類がある。本項目では、この二種について解説していく。

 

 まずは「ショット」について。これといって禁止されているわけではないが、ショットは避けやすい直線的なものが主流である。もちろん時折変化をつけても楽しいが、あまりに凝ったショットはスペルカードに近くなってしまうため、ほどほどにしよう。当たっても決定打にはなりにくいので、避けやすくありながらも相手がスペルカードを使いたくなるようなショットが望ましい。

 上級者になるとショットで激しく点を削りあうが、初心者はスペルを楽しむために、ショットはばら撒く程度でも良い。まずは楽しく遊んでみよう。

 

 次に「スペル」について。これこそが弾幕ごっこの醍醐味であり、花形といえる。広範囲に展開される密度の高い弾幕だ。基本的に回避が困難なものを用意するのだが、絶対に攻略できないものは遊びにならないので、注意してほしい。このあたりの力加減が上手いと、弾幕ごっこが強いと讃えられる。がんばって、難しいけれど避けられる弾幕を目指そう。

 なお、スペルカードで使用する技は、大本のスペルカードルールで定められている規則が適用される。すなわち、「弾幕は美しく、かつ意味があるものでなければならない」ということだ。

 妖怪ならば、誰しもが自分だけの特技を持っているはずだ。人を驚かせてみたり、闇や夜目を操ったり、毒や虫を操る者もいたと思う。これらは全て意味になるので、是非とも焦らずじっくり考えて、あなただけのスペルカードを作って頂きたい。中には、自分の肉体そのものを弾幕とする者もいるようだ。身体能力に自身があるのならば、試してみるのも悪くないだろう。

 妖弾の配置と弾幕の飛ぶ軌跡で美しさを競うのがスペルカードルールだが、当てることと避けることに重きを置く弾幕ごっこにおいては、美しさは慣れるまで必要以上にこだわらなくてもいいかもしれない。しかし、この遊びを楽しむ者は大抵が女の子なので、相手よりも綺麗な弾幕を用意したいと思うのは当然だろう。努力は必ず実を結ぶ。親しい妖怪に相談しながらでもいいので、諦めずに美しさを追求してみてほしい。あなたの美的感覚が、相手の心を鷲掴みにする武器になるかもしれないのだから。

 

 

 

~~~~

 

 おわりに

           上白沢慧音

 

 非常に短い内容であるが、いかがだっただろうか。弾幕ごっこのルールを簡潔にまとめたので、妖弾を撃てる妖怪ないし人間であるならば、本書を熟読すれば遊びの輪に加わることができるはずだ。

 弾幕ごっことは、博麗の巫女が定めた決闘方式「スペルカードルール」を用いた遊びである。妖怪達の間でこの遊びが大変流行しているのは、すでに周知されていることと思う。

 美しい弾幕を評価しあうだけでなく、それを相手に当て、また弾幕を避ける遊戯とし、少女達の間ではもっぱらスペルカードルール代わりの決闘として使われることが多い。第三者の手間をかけない上に遊びであるため、争いの決着方法としては平和的だと言えるだろう。

 私もこの遊戯を嗜むことがあるが、ただの遊びと侮れない一面もある。力ある者は、避けにくいながらも必ず攻略方法がある弾幕を用意し、それらは当事者以外が見た場合は一様に息を飲むほど美しい。また力の弱い者も強者と同等に戦え、本質が遊びであるため楽しみながら向上心を持つことができる。

 自分を持ち上げるようで大変恐縮であるが、幻想郷の歴史を創る身から言わせてもらえば、この遊びは郷の行く末を大きく動かしたといえる。大本の決闘方であるスペルカードルール以上に、妖怪は異変を起こしやすくなり、また人間が妖怪を退治できるようになった。異変解決を巫女以外もできるようになったせいか、人間どころか妖怪ですら巫女の真似事をするようになったことには、大変驚かされる。

 この遊びのおかげで、人間と妖怪の距離は大きく縮まったのだ。根底が敵対関係であることは変わらないが、半人半妖の私としては、非常に喜ばしいことである。

 弾幕ごっこが郷全体にもっと浸透し、人にも妖怪にも弾幕を楽しんでもらえればと、筆を動かした次第だ。弾幕を撃ってみたいがルールが分からないという新入り妖怪の力になれれば、著者冥利につきる。

 最後になってしまったが、本書を記すきっかけをくれた我が友人と、さらにそのきっかけとなった某妖怪少女に感謝を捧げつつ、筆を動かす腕を止めたい。

 この本を読んでくれたあなたに、より良い幻想郷ライフがあらんことを。



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そのじゅう 恐怖?山の神社の現人神!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。手紙を書きすぎて、最初に書く言葉に一番悩むようになっちゃいました。とりあえず、花子は元気です。

 

 私ね、とうとう弾幕を作れるようになったの! 自分で作るとどんな風になってるのか分かり辛いんだけど、とっても楽しいよ。

 

 こいしちゃんのお手本も見せてもらったの。やっぱり上手で、花火みたいに綺麗だったんだ。私もいつか、あんな弾幕を使ってみたいな。

 

 太郎くんや学校のみんなには、きっとスペルカードとか弾幕ごっこって言っても伝わりにくいだろうけれど、見てもらえばきっと気に入ってくれると思うの。

 

 今日ね、山の頂上にある神社に行ったの。そこの巫女さんといろいろなお話をしたんだけど、萃香さんに聞いたら、あの人も神様なんだって!

 

 現人神って言うらしいんだけど、太郎くんは知ってる? 人間なのに神様だなんて、なんだかすごいんだね。とっても優しくていい人だったよ。

 

 明日も朝から弾幕の練習をするの。本当に楽しくて、すっかり夢中になっちゃった!

 

 もっとしっかり練習して、文さんとの勝負に負けないくらい強くなるからね。応援してくれると嬉しいな。

 

 それではまた、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 いつもの川辺で、体に流れる妖力を掌に集中、緊張させる。夕焼けを照り返す川の流れを意識し、掌握していく。数日前に始めた、新たな修行だ。

 飛行練習を繰り返し、花子はついに空を自在に飛べるようになった。それだけでも喜びはひとしおだったのだが、妖力のコントロール練習も真面目に繰り返していたおかげか、基本的な妖弾の形成もできるようになっていた。

 妖弾はまるで手の延長であるかのように、花子の思うとおり自由自在に操れた。これは彼女が特別なのではなく、妖力に通じる者ならばできて当然のことらしい。本人も知らないうちに、弾幕ごっこにぐっと近づいていたのだ。

 今はさらなる力の向上のため、花子の妖力と『縁』なるものが近い水を操る特訓をしている。萃香とこいしが見守ってくれているが、花子とはずいぶん離れた場所にいた。

 その理由を誰よりも自身が一番知っているだけに、花子は何も言えなかった。むしろ正しい選択だとすら思える。なぜなら――

 

「……とぉぉりゃぁぁぁぁっ!」

 

 勢いよく両手を振り上げる。同時に川の音が重々しく変化し、花子の視界が突然現れたものに覆われる。

 水だ。それも、かなり大量の。

 

「ぁぁぁぁぁああああっ!?」

 

 手を振り上げた姿はそのままに、花子は悲鳴を上げた。

 立ち上がったとしか表現できない量の川の水が、ただ叫ぶことしかできない花子に迫っている。逃げようにも間に合わない。操るにしても、混乱した頭では妖力を制御することは叶わなかった。

 

「あああぁぁぁぁぁぶ――」

 

 重力のままに落ちてきた大量の水を頭から被り、流水音が耳から離れてから、ようやくその場に座り込んだ。今日は川に流されなかっただけ、幸運と言えるだろう。

 髪から服からずぶ濡れになってしまったところで、萃香とこいしが近づいてきた。

 何度となく繰り返した失敗だ。一番面白くないのは本人である。へたり込んだまま唇を尖らせていると、こちらの気持ちを知ってか知らずか――きっと知った上でなのだろうが――無遠慮に笑いながら、こいしがタオルで花子のおかっぱ頭を拭いてくれた。

 

「あはははは、今日も派手にやったねぇ。びしょびしょだねぇー」

「むぅ、あんまり笑わないでよ」

「だっておかしいんだもん」

 

 下手に同情されるよりは笑い飛ばしてくれた方が気は楽だが、花子としてはどうにも恥ずかしい。

 髪を拭くこいしに身を委ねつつ俯いていると、全て予想していたらしい萃香が着替えのワンピースと体を拭く手ぬぐいを手渡してきた。受け取りつつ、頭を下げる。

 

「ごめんなさい、またダメでした」

「まぁまぁ、水のそばであんだけできりゃ、水がないところでも呼ぶことはできるってことじゃないか」

 

 花子はもう、水を操れている。萃香の言うとおり離れた場所でも手に水を呼ぶこともできた。

 しかし、操作の精度がいただけなかった。かなり上達してきたとはいえ、妖力に関して不器用であることは変わっていないのだ。

 近くの水にしろ呼んだ水にしろ、もっと細かく操れなければ、とても弾幕として使える代物にはならない。もう少しで弾幕ごっこの練習にたどり着けるというのに、なんとももどかしい気持ちだった。

 川の流水を自分の体のように操れるようになれば、水との縁を完全に掌握できたということだと萃香は説明してくれた。

 妖弾が撃てるのだから、もう弾幕ごっこはできる。しかし、風を自由に操る文を見てしまった花子は、少しでも文に近づくために、何が何でも水の力を手に入れたかった。

 毎日ずぶ濡れになるこの特訓を諦めずに続けている理由は、そういうわけである。

 こいしが髪を拭き終わったところで、セーラー服ともんぺを脱いで体を拭く。赤いワンピースに着替えてから、三人で焚き火の周りに集まった。季節が夏から秋に変わり始めた今、濡れてしまった花子は火に当たらなければ寒くて敵わない。

 赤々と燃える焚き火に手をかざしながら、花子は溜息をついた。

 

「うぅん、どうしてうまくいかないんだろう」

「力みすぎてるだけさ。もうちょっと肩の力を抜いてごらんよ」

「花子は焦ってるだけだから、きっとうまくできるよぉ」

 

 二人の先輩に慰められて、しぶしぶ小さく頷く。それでも花子の心には、次こそは必ずという熱い決意が生まれているのだった。

 こいしがいつものようにお茶を淹れてくれたところで、萃香がノートを取り出した。花子の私物だが、幻想郷に来てからほとんど使っていなかったものだ。つい最近まで白紙だったというのに、今は結構なページを消耗している。ここ数日、三人で花子のスペルカードとなる技を考えているのだ。

 ノートをぱらぱらとめくりながら、萃香は唸り声を上げた。

 

「水の技が多いけど、河童と被りはしないかねぇ。花子、気持ちは分かるんだけどさァ、あんたは何も水にこだわることはないんだよ? 厠の妖怪なんだから、水にばっか頼ってると技の意味が薄れちまうんじゃないかね」

「そんなことないです。私は外の水洗トイレの妖怪だったんだもの。水との縁が深いって教えてくれたのも萃香さんじゃないですか」

「まぁ、そうなんだけどさ」

 

 頭を掻いてから瓢箪を呷る萃香。反論したとはいえ、確かに彼女の言うとおり、水にまつわるスペルカードばかりでは芸がない。

 スペルカードルールは一種のパフォーマンスであり、弾幕ごっこは遊びなのだ。技は楽しく、美しくなければならない。トイレの花子さんとはいえ、全部が全部トイレにまつわるスペルカードにしてしまうのも、なんとなく味気ない気がした。

 もっと捻りの効いた技を考えたいとは常々思っていたのだ。萃香が置いたノートを開いて、皆で考えた技のアイディアを流し読みしていく。だが、新しい技が閃くことはなかった。

 

「うーん、いいアイディアないかなぁ」

「結構考えたけどねぇ。七つだっけ、作ったスペル」

 

 花子の背後からノートを覗き込んだこいしが訊ねた。視線はアイディア帳に落としたまま、頷く。

 

「うん。まだ水を操れないから、実際に使えるものは二つくらいだけれど。こいしちゃんは、どうやって新しい技を考えているの?」

「私? んー、そうだなぁ。お散歩したりお姉ちゃんと話したりしてるときに、ビビビってくるよ」

「……さすがというか、独特だよね」

「えへへ、そうでしょー」

 

 褒めたわけではないが喜んでくれているようなので、花子は突っ込みをそっと胸の奥にしまっておくことにした。

 もっと色々考えたかったが、疲れた体と頭ではいい答えを導き出せそうにない。こういう時は一度のんびり休んでリセットをかけるほうがいいと、花子は幻想郷に来て学んだ。ノートを閉じて、リュックに戻す。

 ふと、ボロボロのリュックに輝く二つの飾りが目に入る。以前秋姉妹にもらった、ブローチと髪飾りだ。汚れたり落としたりしないよう、リュックの飾りとして使わせてもらっている。

 妖怪とは違った着眼点を持つ彼女達なら、あるいは新鮮な意見をもらえるのではないか。そう思い立つと、花子はさっそく萃香へと振り返った。

 

「萃香さん、明日、ちょっと出かけてきていいですか?」

「あん? 珍しいね、どこに行くんだい」

「静葉さんと穣子さん――秋の神様のところです」

 

 意気揚々と答えると、萃香はわずかに難しい顔をして、

 

「あー……秋姉妹か。たぶん今は会えないだろうねェ」

「なんでですか?」

「なんでって、もうすぐ秋だよ。秋の神なんだから、忙しい時期じゃないか」

 

 言われてようやく気がついた。まだまだ日中は暑いとはいえ、徐々に散る葉も多くなり、山の頂上は紅葉が始まっている。仕事盛りの季節にお邪魔をするのは、野暮というものだろう。

 せっかく浮かんだ名案が潰れてしまい、花子はあっというまに消沈した。今日一日の疲れがどっと出た気がして、その場に座り込んでしまう。

 

「だめかぁ……。神様なら、きっといいアイディアをくれると思ったんだけどなぁ」

「な、なにもそんなに落ち込まなくてもいいだろう。神頼みがしたいってんなら、秋の二人じゃなくてもいいじゃないか」

「そりゃそうですけど。でも、博麗神社は嫌ですよ。文さんがよくいるって聞いたもの」

「あの神社にゃそもそも神様らしいのが見当たらないよ。私が言ってるのは、この山の頂上にある社のことさ」

 

 初めて文に会った時に聞いた、守矢神社だろう。人里で花子を退治した人間の一人である、東風谷早苗の住居でもあるそうだ。

 突然幻想郷にやってきて山頂を我が物にしてしまった神社、という話をこいしから聞いていたので、花子はなんとも胡散臭いと思っていた。それが顔に出てしまっていたらしく、萃香が苦笑を浮かべる。

 

「大丈夫さ。連中はおかしな奴らだけど、れっきとした神様だよ。静葉と穣子より力もあるし、あそこの神は山の妖怪から信仰を集めてるんだ。頼ってみる価値はあるんじゃないかい?」

「そうなんですか? ううん、じゃあ明日、行ってみようかなぁ」

 

 呟くように言うと、カップのお茶を冷まそうと必死だったこいしが顔を上げた。

 

「じゃあ私も行くー。天狗さんに会わないように、私が無意識で花子を隠してあげるよぉ」

「そいつァいいね。私も一緒したいけど、あいにく地底に用事があるんだ。二人だけで行っとくれ」

「地底に用事? 友達にでも会いに行くのぉ?」

 

 こいしに訊かれた萃香は、なにやら不穏な笑みを口元に浮かべ、

 

「まぁね」

 

 とだけ答えた。何かを企んでいることは間違いないだろうが、花子には自分に被害が及ばないことを祈ることしかできない。

 翌日の予定が決まったところで、三人は夕食の準備を始めた。

 飯ごうで米を研ぎながら、山の神は自分を受け入れてくれるだろうかと、花子は小さな不安と格闘するのだった。 

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 結論から言えば、花子が抱いた不安は完全に無駄なものであった。

 とても立派な鳥居をくぐったところで、境内を掃除していた白と緑の巫女装束を纏った少女と目が合った。

 

「あぁっ! あなたはトイレの花子さんじゃないですか!」

 

 そう叫ぶや否や、かなり立派で高そうな箒を無造作に投げ出し駆け寄ってきた少女は、守矢神社の現人神にして風祝(かぜはふり)、東風谷早苗だ。

 あっという間に距離が縮まり、あっけに取られる花子の手を取って、早苗はとても嬉しそうだ。

 

「こないだはあんまり話せませんでしたから、また会いたいなぁって思ってたんですよ。うわぁ、本物だぁ! といっても、私花子さんに会ったことはないんですけど。あぁでも、学校ではやっぱり噂になりましたよ。手前から三番目のトイレは、女子の間ではタブーになってましたから。それにしても、トイレの花子さんまで幻想郷に来ちゃうなんて。まぁそのおかげで会えたんだから、私としては喜ばしいことなんですけどね」

「は、はぁ……」

 

 一気に喋り終えてなおも笑顔を絶やさない早苗に、花子はどう返事をしたものかと迷った。とりあえず、疑問に思ったことを口に出しておく。

 

「あなたは、私を知っているんですか?」

「そりゃもう! あ、申し送れました。私、ここの風祝で東風谷早苗といいます。最近外から来た身ですので、花子さんのこともよく存じ上げていますよ」

「そうだったんですか。あは、なんだか親近感沸くなぁ」

「私は疎外感ー」

 

 隣でこいしが唇を尖らせた。そちらへと目線を移し、早苗は軽く頭を下げる。

 

「あら、ごめんなさい。つい花子さんに気を取られちゃって。久しぶりね、古明地こいしさん」

「お久しぶりぃ。いつも通り、元気そうだねぇ」

 

 どうやら二人は知り合いらしい。どういう関係なのか少し気になったが、深く聞くほどのものでもなさそうなので、花子は友人なのだろうということで納得することにした。

 早苗がこちらを向いた。彼女はこいしよりも少し背が高いので、花子が早苗の顔を見るにはわずかに顔を上げなければならない。

 

「それで、今日はどんなご用で? 参拝ですか?」

「んっと、実はここの神様に、相談したいことが……」

「相談ですか。んー、それは難しいですねぇ」

 

 困った様子の早苗を見て、花子は自分がまたもとんでもないことを口走ったことに気がついた。

 いくら幻想郷とはいえ、ここは神社なのだ。祭られている神は、花子の友人でもある秋姉妹とは格が違うかもしれない。そんな神様を相手に「弾幕のアイディアをくれ」などと軽々しく言うなど、罰当たりにも程があるではないか。

 どう謝ろうかと慌てて思考を廻らせていると、早苗が深い溜息をついた。

 

「神奈子様は、天人が酒宴を開くとかで、早朝からノリノリで天界に行かれました。諏訪子様は、人里の縁日で人の子のふりしてリンゴ飴を大人買いすると、嬉しそうにお賽銭を持ってお出かけになってるんです。私は一人、お留守番ってわけですね」

「え? あ、そうなんですか……」

 

 思わぬ理由に、花子の肩から安堵する以上の力が抜けた。神様にしてはスケールの小さいことに張り切るものだと思ったが、花子の持つ神へのイメージこそが間違っているのかもしれない。

 こんなにも人間味が溢れた神だからこそ、人も妖怪も気軽に信仰できるのだろう。気楽な信仰心にどれほどの力があるのか、花子には分かりかねたが。

 ともかく、目的の神がいないとなっては仕方がない。どうしたものかと考えていると、早苗が首をかしげた。

 

「相談ごととは、なんでしょう。私で力になれればいいんですけれど」

「うぅん、実は――」

 

 隠すようなことでもないので、花子はここに訪れた理由を正直に話した。

 しばらく無言で聞いていた早苗だが、話を終えると途端に目を輝かせ、

 

「そういうことでしたら、私に任せてください! こう見えても、弾幕ごっこはかなりの数をこなしてるんですから!」

「でも、お掃除の邪魔しちゃったなら……」

「あんなの後でもいいんですよ。さぁ、こいしさんも中にどうぞ」

 

 半ば強引に引っ張られる形で、花子とこいしは境内の一角にあるどこか近代的な社務所に案内された。

 書類の類はほとんどなかったが、白いタイル張りの床にデスクとオフィスチェアがいくつか並んでいるそのさまは、花子に外の世界を感じさせる。こちらの気持ちに気付いたのか、早苗が言った。

 

「ここは、外から来たときのまんまなんですよ。動かすのも面倒だし、何かに使えるかなと思って。結局使わずじまいですけどね」

「なるほど」

 

 社務所の一番奥にある来客用のソファまでやってきて、花子とこいしは早苗に促されるままに腰を下ろした。

 すぐそばの大きな窓からは、境内を見渡すこともできるようだ。眺めがいいだけでなく、来客を見落とさないようにする意図もあるのだろう。

 お茶と饅頭を持ってきてくれた早苗が、お盆を置いてから対面に座った。

 

「さてと。スペルカードのアイディアでしたよね。今は、どんなものを考えているんですか?」

「えっとねぇー」

 

 まるで自分の物であるかのように花子のリュックからノートを取り出し、こいしがテーブルに広げる。視線で見てもいいかと早苗が訊ねてきたので、花子は頷いた。

 ノートを手に取って、早苗がページをめくっていく。とても真剣に読んでくれていて、とても真面目な印象を受けた。掃除は投げ出していたが。

 しばらくしてから、早苗はノートをテーブルに戻した。お茶を一口飲んで、湯飲みをそっと置く。

 

「一通り見ましたけど……。花子さんは、水にこだわりすぎじゃないですか? まぁトイレの花子さんなんだから、そうしたいという気持ちは分かりますけど」

「うぅん、やっぱりそう思いますか? 萃香さんにも言われちゃったもんなぁ。でも、他にアイディアが出なくって」

「いっぱい考えたけどねぇー」

 

 こいしと顔を合わせ、二人して困ったように嘆息を漏らす。しかし、早苗はなぜかそれに困惑している様子だった。

 

「アイディア、出ないんですか? トイレの花子さんなのに?」

「う、は、はい……。早苗さん、何かありますか?」

 

 思わず訊くと、彼女は何のためらいもなく即答してみせた。

 

「学校の怪談があるじゃないですか。トイレの花子さんだけじゃなくって、例えば――そうですね、音楽室にあるベートーベンの肖像画が夜中に目を光らせるとか、理科室の人体模型が動き出すとか、紫鏡に十三階段。学校は怪談の宝庫ですよ」

「あ……」

 

 まったく思い当たらなかったが、『トイレの花子さん』という妖怪ないしお化けへの認識は、トイレの怪異というよりも学校の怪異という色合いが強い。あまりにもトイレに固執しすぎていたが、花子は学校の怪談におけるエースだったのだ。もし他の怪談を弾幕にできれば、バリエーションはぐっと増すだろう。

 そう考えると、花子の頭にあっという間にアイディアが沸いて出てきた。まだほとんど撃ったことのない弾幕だが、そのイメージもはっきりと思い浮かべられる。

 忘れないうちに書き留めなければ。花子はとっさにこいしへと手を伸ばしていた。

 

「こいしちゃん、ペン取って!」

「あいあいさー!」

 

 リュックから取り出し、こいしがなぜか嬉しそうにペンを渡してくれた。ありがとうと一言告げると、さっそくノートにペンを走らせる。

 絵心があるわけではなかったが、それらしく絵を描いて説明をつけるという作業をひたすらに行う。あくまでイメージであり、実現できなければ調整していけばいいのだ。

 ある程度書き留めたところで、こいしと早苗が意見を挟んでくれた。おかげで、考え付いた弾幕は急速に出来上がっていく。

 美しく、意味があり、避けにくく、しかし必ず攻略できるもの。これらの条件を満たさなければならないので、弾幕は簡単に作れるものではない。こんなにも順調に完成間近まで作れるのは、こいしと早苗という先輩の助力ももちろんだが、それ以上に花子のモチベーションが最高潮だからだろう。

 学校で共に子供を怖がらせた仲間達の力を借りているようで、思いつく弾幕はとても懐かしく、花子は楽しくて仕方なかった。

 時折早苗に学校の妖怪達について訊かれ、それに答えるたびに新たなインスピレーションが沸いてくる。昼食を取ることも忘れて、三人は昼下がりまでスペルカードの案を出し続けた。

 わずかに日が傾き、あと一時間もすれば夕刻になろうという時になって、花子はようやくペンを止めた。

 

「ふぅ……。いっぱい書いたなぁ」

 

 額の汗を拭って、満足げな笑みを浮かべる。

 ノートはアイディアですっかり埋まっていて、後はどれを実践できるか試していくだけだ。対面でお茶を啜る早苗に、花子は頭を下げた。

 

「早苗さん、ありがとうございました。助かりました」

「いえいえ。私も小さい頃に戻れたような気がして、楽しかったですよ」

「また遊びに……じゃおかしいか。参拝に来ますね」

「遊びにでもいいですよ。花子さんとこいしさんなら、歓迎しますから」

 

 立ち上がった早苗に習って席を立ち、二人は社務所の外に出た。夏の終わりに吹く風は、どこか涼しく感じられる。

 考えた弾幕を早く試してみたくて、花子は踊る心を抑えきれず、空中に飛び上がった。

 

「それじゃあ、また」

「えぇ、また。あまり張り切りすぎないでくださいね」

「花子、そわそわしてるもんねぇ」

 

 落ち着きのなさは、どうやら早苗とこいしにも伝わってしまったらしい。恥ずかしげに頭を掻いてから早苗に手を振り、花子とこいしは帰路についた。

 思えば、こうして空を飛んでどこかへ行くことも初めてのことだ。練習の段階で散々飛んでいたからか行きはあまり意識しなかったが、改めて空から妖怪の山を見下ろすと、生い茂る緑のなんと美しいことか。

 見とれて速度が落ちてしまったが、先行するこいしが振り返り、

 

「花子ぉ、早くー。もうお腹ぺこぺこだよぉ」

「あ、ごめんね、すぐ行く!」

 

 ご飯を食べたらすぐに練習を始めよう。そんなことを考えながら、花子はこいしの背中を追った。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「いくよー! ……よいしょぉぉぉっ!」

「おぉー、綺麗綺麗」

「ほんと? うまくできてる?」

「ばっちりだよぉ、ノートと一緒の形だよー」

 

 夕暮れも深まり夜闇が落ちようかという時間になっても、花子とこいしの弾幕練習は続いていた。眼下にいつもの川が流れている、その上空だ。ここならば弾幕を飛ばしても、周囲に被害が出る前に妖弾は消える。

 あれほど水にこだわっていたというのに、今では妖弾での弾幕に夢中だ。あいかわらず短絡的な少女だと、萃香は酒を呑みながら頬を緩めた。

 

「しかしまぁ、結果よければ、か」

 

 一人呟き、花子が飛ばす弾幕を眺める。まだまだ改良すべき点はあるが、なかなか立派なものだ。学校の怪談をモチーフにしたと言っていたが、そもそも学校なるものがどういうものなのか萃香には分かりかねた。

 しかし、技の意味は誰よりも花子が知っていればいいのだ。綺麗であることが大前提だし、とりあえず弾幕を作って意味は後付け、という方法でスペルカードを作る者もいるくらいなのだから。

 それに、何より――

 

「強くなれるかもね、花子は」

 

 地力は小さい。センスがあるとも言えない。お世辞にも強い妖怪ではない御手洗花子だが、萃香はそれでも彼女が強くなることを願い、そして信じざるを得なかった。

 幻想郷の妖怪における強さとは、ただ力の強弱だけではない。萃香はここ数年でそれを教えられたのだ。人間の魔法使いや氷の妖精といった、本来ならば歯牙にもかけぬような者であっても、この郷においては強者となり得る。

 強いと言われる彼女らは、弾幕ごっこは楽しいからやっていると、一様にして語るのだ。もしもそれこそが強さの秘訣ならば、あれほど楽しそうな顔をしている花子もまた、強くなれるのではないか。

 

「強く、なってほしいね」

 

 そしていつか、自分とも遊んでほしいものだ。妖弾を配置する花子を眺めながら、萃香はいつもの瓢箪を呷る。

 

「こいしちゃん、次のやついくよ!」

「いいよぉ、じゃあ試しに、私が避けてあげるー」

「うふふ、避けられるかなー?」

「かかってこぉーい!」

 

 散らばる妖弾の輝きと少女達の笑い声は、太陽が沈みきっても消えることはなかった。



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そのじゅういち 恐怖!夜雀女将の赤提灯!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。幻想郷はすっかり秋になってしまったけれど、そちらはどうですか? 今いる学校は、もう寒いかな? それともまだ暑いかな?

 

 空も飛べるようになったし、スペルカードもいっぱい作りました。なんだか今では、外の世界にいた頃の私が嘘みたいです。

 

 ずっと自分が飛ばすかお手本を見るかしかしてなかった弾幕だけれど、正面で見ると、すごいね。とっても迫力があって、どきどきしたよ! 

 

 男の子がよくやっていた、ドッジボールってあるでしょ? あれのボールをすっごくいっぱいにしたのが、弾幕です。想像できればいいんだけど、どうですか?

 

 避けるので精一杯だったけど、上手な人は避けながら弾幕を撃つみたい。私もできるようにならないと!

 

 こいしちゃんは、もう練習いらないよーなんて言っていたけれど、そんなことないよね。もっともっと特訓して、文さんに勝たなくちゃ!

 

 寒くなると学校のトイレは辛いから、太郎くんもこれからがんばり時だよね。一緒にがんばろうね!

 

 またお手紙書きます。これからも、どうか元気でいてね。

 

 

 花子より

 

~~~~

 

 

 

「弾幕を撃ちたいかぁー!」

 

 雲一つない見事な秋晴れの空に、風に飛ばされないよう帽子を押さえたこいしの声が響く。

 

「おぉー!」

「うぉー!」

「撃たせろー!」

 

 呼応する声は一つや二つではなく、重なりに重なって花子の耳へと届いた。

 元気一杯に腕など振り上げてみせる、花子よりも背が低い何人もの少女達。彼女らが持つ蝶のような羽は、一様に似ているようでそれぞれが独自の個性を持っていた。自然の具現、妖精だ。

 萃香の提案で、花子は実戦に近い弾幕回避練習を行うことになった。妖精のほとんどは、スペルカードにできるような技を使えるほどの力を持たない。せいぜい、弾幕ごっこをさらに単純化した弾のぶつけ合いができる程度だ。

 弾幕もどきとはいえ、飛ばしている物は紛れもない妖弾だ。妖精の性格によって大きさや形も変わるため、彼女達の相手をすることは花子にとって間違いなく経験値となるだろう。

 この案自体は、花子も賛成した。妖精はイタズラ好きだが無邪気だし、遊ぶ感覚で練習できるのならば文句もない。

 しかし、なぜか張り切って飛び立ったこいしが数十分後に連れてきた妖精の数が、どうしても理解できなかった。

 

「花子と遊びたいかぁー!」

「誰か知らないけど、誰とでも遊びたいぞー!」

「遊ぶぞー! 遊ばせろー!」

「弾幕撃たせろー!」

 

 三十人はいるだろうか、整列するでもなく自分勝手に飛び回る妖精達だが、どういうわけかこいしの言うことにはしっかりと従っている。

 せいぜい五、六人を相手にすると思っていた花子は、頬が引きつるのを感じた。後方の萃香も似たような顔をしているだろう。あるいは、にやりと楽しげに口元を歪めているか。

 

「よぉーし、それじゃ花子、そろそろいくよぉー」

「うぇ、ちょっと待っ――」

 

 まだ心の準備が。そう叫ぼうとした花子だが、彼女の声が口から出ることはなかった。

 びしりと、こいしが花子を指差す。同時に、今まで好き勝手に動いていた妖精が軍隊よろしく花子へと向き直った。

 

「そーいん、発射よーい!」

「おおおお!」

 

 妖精達が揃って両手を振り上げた。同時に出現する、大小さまざまな無数の妖弾。花子は息を飲んだ。

 やるしかない。覚悟を決めろ。こいしもきっと、花子のためにこんなにたくさんの妖精を集めてくれたのだから。

 大きく息を吸い込んで、花子は決意を声に乗せ、叫んだ。

 

「私はいつでもいいよ! さぁ、かかってき」

「撃てぇー!」

「とりゃああああああ!」

「えぇぇぇぇっ!?」

 

 覚悟の決め台詞を途中で遮り、妖精達がいっせいに弾幕を投げ飛ばした。個性豊かな妖弾が、花子の視界を埋め尽くす。

 

「最後まで聞いてよぉぉぉぉっ!」

「えー? なにぃー?」

 

 耳に手など当てて、こいしが答えた。こういう時の彼女は、まず反省をしない。それでも文句を言ってやりたかったが、妖弾はもう目の前に迫っている。

 

「もぉぉぉぉっ! こいしちゃんの馬鹿ぁ!」

「はぇー? なにぃー?」

 

 速度すらもばらばらな妖弾をかわしつつ、花子は悲鳴にも近い声を上げた。

 反撃は萃香に禁止されている。花子の力はもう下級妖怪の中でもそこそこのものになっているので、下手に弾幕を展開すれば、力の差を見た妖精が逃げてしまうかもしれないからだ。

 

「花子がんばれぇー」

 

 なんとも暢気なこいしに答える余裕など、花子にはなかった。ただでさえ弾幕を避けるなどしたことがないのに、これだけの量だ。歯を食いしばり、愚直なほどに真っ直ぐ進んでくる妖弾を避けていく。

 妖精が放つ弾幕だけあって、特別な動きはまったくなかった。ひたすらに花子を狙ってくる直球ばかりで、眼前よりもその奥からくる妖弾に意識を向けていけば、回避は難しくない。

 油断さえしなければ、被弾しないで済みそうだ。そんな思いが脳裏をよぎった瞬間だった。

 

「っ……!」

 

 正面に集中していた花子の頭上から、妖精達のものではない弾が現れたのだ。赤と青のハート型をしている、何度もお手本として見せてもらった妖弾だ。

 気付くと同時に、花子は集中を前方以外にも向けなければならなくなった。縦横無尽に駆け抜けるハートは、妖精の弾幕と衝突し霧散していく。

 こいしだ。妖精だけでは相手にならないと判断したのか、それとも自分も混ぜてほしいという無邪気な思いからの参戦か。どちらにせよ、彼女の気まぐれはすぐには終わらない。

 視界が開けた。妖精達のスタミナが切れて、妖弾の数が一気に減ったのだろう。直線に狙ってくる妖精の弾はやがて数えるほどになり、花子の目はようやくこいしの姿を捉えた。

 そして、愕然とした。こいしが自慢げな顔で、一枚の紙をこちらに見せ付けている。

 

「……へ?」

 

 見紛うはずもない、スペルカードだ。彼女は今、カード宣言をしている。

 

「本番、いくよぉー」

「えぇぇ! カードを使うなんて、私聞いてない――」

「そぉれー!」

 

 花子の声を聞こうともせず、こいしが無数のハートを発射した。

 本能「イドの解放」。ばら撒いているようにしか見えないハートの妖弾は、しかしすぐに、こいしを中心として規則的な動きをしていることが分かった。

 

「ずるい! 練習なんだからスペルはなしだよ!」

 

 叫んではみたものの、弾幕を展開するこいしの顔はいつも以上にぼうっとしていて、とても話を聞いてくれるとは思えなかった。なぜあんな顔でこれほどの弾幕が撃てるのかと突っ込みたかったが、彼女のことだ。いつものようにはぐらかされるに違いない。

 練習とはいえ、妖弾は当たればそこそこ痛い。今は弾幕を避けることに集中しようと、花子は視線を戻した。

 高速で迫ってきた妖弾だが、身構える花子をよそに突然減速を始めた。遅くなったとはいえ、妖精達の妖弾程度の速度はあるのだが。

 上下左右から狙ってくる弾幕は、ストレートな妖精のものに比べれば難しかったが、避けられないほどのものではなかった。手加減してくれているのかと思ったが、わずかな余裕を見つけて背後を振り向いた花子は、自分の考えがいかにも甘かったことを思い知らされる。

 

「うぇっ!?」

 

 回避した弾幕がさらに減速し、後続の妖弾と合流して溜まっているのだ。もうすでに花子のすぐ背後にまで押し寄せている。これ以上同じ場所に留まり避けていては、いずれ溜まった妖弾に当たってしまう。

 視線を戻して迫るハートの弾幕を回避しつつ、花子の体は無意識のうちに、こいしへと吸い寄せられるように前進していった。

 上方から落下するかのように花子を狙う妖弾を上体をそらして避け、直後に身を翻して宙返り。飛ぶことにはすっかり慣れたとはいえ、こんなにもアクロバティックな動きを連続でしたことはなかった。早々に息が切れてくる。

 しかし、こいしの弾幕は優しくなるどころか、むしろ一気に難しくなったように感じた。それは当然のことで、この時花子はまだ気付いていなかったが、すでに彼女は妖弾の減速域よりも奥、高速で妖弾が飛び交うこいしの目前まで来ていたのだ。

 大雑把に避けるだけでなんとかなった妖精のそれとは異なり、こいしの技は細かく正確に動いてかわさなければならない。体力も精神力も削られる。彼女が特別というわけではなく、スペルカードの技は、そういうものなのだろう。

 

 赤と青のハートが、体を掠めていく。こんな状況では、弾幕の美しさを堪能することなどできるはずもなかった。秋も深まり涼しくなったというのに、汗が頬を伝っていく。

 これ以上は集中力が持たないと、花子がわずかに諦めかけた時だった。ぴたりと、こいしの弾幕が止んだ。

 何事かと見てみれば、こいしがあっけに取られたような顔をしてこちらを見ていた。弾幕を撃っている時も似たような顔だったが、彼女とはそこそこ長い付き合いになってきている。表情の変化を間違えることはないだろう。

 

「ど、どうしたの……?」

 

 息も絶え絶えに訊ねてみると、こいしは突然両手を合わせて、ぱっと笑顔を浮かべた。

 

「すごぉーい! 花子、よく避けたねぇー!」

「え? ……え?」

「全部避けられちゃったから、これが弾幕ごっこだったら花子に得点だよぉ」

 

 一瞬、こいしの言っている意味が分からなかった。避けきったというのか。初めての弾幕、それもかなりの実力者であるこいしのスペルを。

 喜びが胸に湧き上がったが、それを表に出す前に、こいしがポケットから新たなカードを取り出した。

 

「でも、今の『イドの解放』はこのスペルとセットなの。ねぇ、もう一枚付き合ってぇー」

「……うん、いいよ」

 

 頷いて答えると、こいしは嬉しそうにカードを持ち上げた。

 こいしのスペルを攻略したことで、花子は今までにないほど自信に満ちていた。それに、弾幕を避ける感覚を忘れたくないという思いもある。

 

「ありがと! それじゃあいくよぉー」

「よし、こーい!」

 

 カードをしまい、彼女にしてはとても珍しく思える真剣な顔つきで、こいしが両手を広げた。その真っ直ぐな瞳に、思わず体が強張る。

 いつ妖弾が来るか分からないので、油断せずに身構えた。しかし、一秒二秒と時間が過ぎても、こいしは弾幕を展開しない。

 どこか調子が悪いのだろうか。声をかけようかと思った、その時。花子の背後から現れたハートの妖弾が、横を通り抜けていった。

 

「な、なに?」

 

 口から漏れた疑問には、弾幕そのものが答えてくれた。

 さきほど避けたはずの妖弾が、こいしへと向かっていくのだ。ハートは全て、彼女が広げた掌に吸い込まれていく。

 こいしを見ていてはいけないと、花子はようやく気付いた。慌てて、背後の溜まった弾幕へと振り返る。

 しかし、遅すぎたようだ。密集したハートが蠢いたかと思うと、爆発したかのように花子の視界一杯に展開された。

 抑制「スーパーエゴ」。ハートの形が連想させる可憐さは感じられない。むしろ、徐々に恐怖心すら芽生えてくる。妖弾は一気にこいしへと吸い込まれ、その途中にいる花子すらも飲み込んでいく。

 

「うっ……」

 

 もう少し早く気付ければ、対処法を思いつけたかもしれない。しかし、花子はその場から少しも動くことができなかった。弾幕の不気味さと勢いに呑まれてしまったのだ。

 目前に青いハートが迫り、思わず頭を抱えた。これがいけなかった。

 身を縮こまらせてしまったがために、ハートが花子の脳天に直撃したのだ。

 

「あうっ」

 

 我ながらおかしな声が出たなと思った時には、花子はもう落下を始めていた。当たり所が悪かったのか、妖力の集中が一気に解けてしまったらしい。

 世界がひっくり返ると同時に、意識も薄れていく。幻想郷に来てからというもの、気を失ってばかりだ。胸中で溜息すらつく余裕ができたところで、こいしの悲鳴が聞こえてきた。

 

「はわわ、萃香さん! 花子がぁー!」

「分かってる! 花子、しっかりしな!」

 

 大慌てで飛んできた萃香に抱き止められた直後に、花子は痛みの眠りへと落ちていった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 包帯が巻かれた頭に触ると、まだ脳天がズキリと痛む。重傷と呼ぶほどのものではないので、この手当ては大げさだと思ったが、こいしがどうしてもと言うので任せた結果だ。当たった場所は頭のてっぺんだったので、額のあたりに巻かれた包帯には何の意味もなかったりする。

 

「うぅ、痛いなぁ」

「思いっきり頭に当たったんでしょ? 想像しただけでこっちも痛くなるよ」

 

 言葉とは裏腹に楽しそうな笑顔を見せたのは、袖をたすきがけにした和服の妖怪少女、ミスティアだ。花子達は今、すっかり馴染みの店になってしまった八目鰻の屋台に来ている。

 こいしが花子にお詫びをしたいと言い出したので、彼女の誘いを受けてやってきたのだ。今日の支払いは全てこいしが持つそうだが、お金のほうは大丈夫なのだろうか。

 本人に聞いてみようにも、こいしは隣で突っ伏して眠りこけている。萃香のペースに合わせて飲んだせいで、すっかり酔いつぶれてしまったのだ。さらにその隣では、萃香も夢の世界に飛び立っている。

 

「……私、お金持っていないのに」

「いいよ、ツケておくから。いつものことだしね」

 

 にこりと微笑むミスティアは、外見だけならばこいしと大差ないというのにとても大人びて見えた。彼女の爪の垢を煎じてこいしに無理矢理飲ませたいとすら思ってしまう。

 普段の彼女はイタズラ好きな妖怪らしいのだが、屋台を切り盛りする姿からは、そんなミスティアを想像することができなかった。

 

「でも、花子ちゃんはラッキーだったと思うよ」

「ラッキー、ですか?」

「うん」

 

 頷きながら、ミスティアが焼きたての鰻を出してくれた。頼んでいないのだが、彼女は時々こういったサービスをしてくれる。

 

「初めてだったんでしょ? 弾幕ごっこ」

「私は避けるだけだったけれど、うん。初めてでした」

「こいしちゃんは弾幕ごっこ強いから、スペルを避けれたっていうのはとても大きな経験だと思うな」

「それは……確かに、私も嬉しかったです」

 

 こいしのスペルカードを攻略できたことは、素直に嬉しい。しかし、その後があまりにもお粗末すぎる。

 溜息を漏らした花子のコップに酒を注ぎながら、ミスティアが少し意地悪な笑顔を浮かべた。

 

「それに、弾幕の痛さも知れたんだし。次からは覚悟できるでしょ?」

「う、まぁ……」

「ふふ、妖弾は痛いもんね。でも、霊夢の霊力弾はもっと痛いよ」

「そうなんですか?」

 

 なみなみと注がれた酒を少しだけ口に含んで、花子は霊夢のことを思い出した。幻想郷を冒険するきっかけとなった巫女だが、もうおぼろげにしか顔を覚えていない。服装が特徴的なので、見れば分かる自信はあるが。

 一升瓶を作業台に置いてから、ミスティアが肩をすくめた。

 

「もとは妖怪を封印する技だったらしいからね、巫女のスペルは。人間も当たると痛いみたいだけど、妖怪には大ダメージだよ。アレには当たりたくないなぁ」

「ミスティアさんは、霊夢と弾幕ごっこをしたことがあるんですか?」

「あるよ、何回か。勝てなかったけど。嘘みたいに強いんだから」

 

 いつか戦うことになるかもね、と付け足して、ミスティアはウィンクなどしてみせる。妖怪である以上、退治屋の霊夢や魔理沙と対峙することは覚悟しておけと萃香に言われたが、花子は今から身震いする思いだった。

 萃香もこいしも起きる様子がないので、花子とミスティアはしばしの談笑を楽しんだ。

 普段よく遊んでいるらしい宵闇の妖怪と里の外にいた商人を脅かしてみたり、八目鰻は夜目に効くと宣伝しておきながら自分の歌で夜目を効かなくさせていたりと、やはりミスティアも外見にふさわしい子供っぽさを持っているようだ。

 屋台の常連となっている花子だが、いつか店の女将としての彼女ではなく、一人の少女としてのミスティアとも話してみたいと思った。

 もう水のように飲めてしまう酒を楽しんでいると、焼いている鰻にたれを塗りながら、ミスティアが訊ねてきた。

 

「そういえば、文さんとの決闘はいつするの?」

 

 コップをテーブルに置いて、花子は視線を宙に彷徨わせた。勢いのままに特訓を続けてきたが、明確な予定などは一切立っていない。酷いときには、弾幕ごっこの練習が楽しすぎて、文のことを忘れていることすらある。

 おかっぱ頭をポリポリと掻いてから、花子は苦笑を浮かべた。

 

「まだ決めてないんですよ。もっと練習しなきゃいけないから」

「うーん、そうかなぁ。こいしちゃんの弾幕を避けたんなら、もういい勝負できると思うけど」

 

 実のところ、花子としてもどこまで練習を重ねればいいのかは分からなかった。最近はもっぱら弾幕を撃つ練習をしていたが、避ける練習は今日始まったばかりだ。

 ミスティアの言うとおり、花子は避けることだけで言えば、なかなかのセンスを持っていた。無論、本人に自覚はない。

 

「でも、まだ弾幕ごっこ自体はやったことがないもの」

「ふぅん。じゃあやってみればいいんじゃない? そこらの妖怪なら、結構乗ってくるよ」

 

 あまりにもあっけらかんとした顔で提案してくるミスティア。彼女は挨拶代わりに弾幕を飛ばすほど、遊びに手馴れている。まさか花子が弾幕ごっこを重い試練と受け止めていようとは、思いもしなかったのだ。

 もちろん花子も弾幕ごっこは遊びであると知っているため、心中を正直に語らず、誤魔化す言葉を探した。

 

「うぅん、でもまだまだ……」

「やっていくうちにコツも分かってくるよ。練習試合だと思えば、ね?」

 

 花子は唸り声を上げた。ルールはもう覚えているし、スペルも必要な数を揃えてある。いつ実戦をしても問題ないのだが、こいしのスペルを見て、さらに直撃を受けたことで、わずかに恐怖心が芽生えてしまっていた。

 加えて、彼女にとっての仮想敵があの射命丸文なのだ。こいしから聞いた話では、文は取材と称してこいしに挑み、その弾幕を避けきっただけでなく写真を撮る余裕すら見せたという。

 文との実力の差を埋めるには、どれほどの訓練を積めばいいのだろうか。そんな思いが胸にあるため、いざ本番となると、どうにも気が引けてしまうのだ。

 しばらく腕組みをしつつ考え込んでから、花子は小さく自嘲気味に笑って、

 

「まだへたっぴだし、やっぱりもう少し練習してから――」

「弾幕するのぉー?」

 

 突然隣から声が上がり、花子は驚いてそちらを向いた。いつの間にか、こいしが目覚めていたらしい。

 酔いもすっかり醒めているらしく、こいしは目をきらきらと輝かせて花子の顔を覗いた。

 

「誰とやるの? 私?」

「いやだから、練習してからにしよっかなって」

「えぇー。もう練習することないよぅ。後はいっぱい遊んで強くなればいいの!」

「そ、そうかなぁ」

 

 断言されてしまい、花子は頬を掻いた。弾幕ごっこに関しては大先輩であり、何より大好きな趣味だと豪語するこいしが言うと、とても説得力がある。

 助けを求めるようにミスティアを見るが、彼女もまた笑顔で頷くばかりだ。

 

「やってみようよ。きっと楽しいよ」

「うんうん。花子なら上手にできるよぉ、私が保証するもん」

 

 二人から背中を押されて、思わず俯く。無論、花子としても実戦を体験してみたいという思いもあるし、弾幕ごっこは遊びなのだから、そこまで緊張し思いつめる必要はないということも分かっている。

 こいしの向こう側にいる師をちらりと見るも、萃香は幸せそうな顔でいびきなど掻いている。どうやら、決断は自分自身でしなければならないらしい。

 

「……もう、できるかな?」

「できるできる! 吸血鬼さんのためにがんばってきた花子なら、絶対大丈夫だよぉ。自分を信じてぇー」

 

 特訓を始めた頃から付き合ってくれていたこいしにここまで言われては、引くわけにもいくまい。

 それに、なにより。

 

「レミリアさん、フランちゃん……」

 

 地下で花子を待ってくれているフランドールと弾幕ごっこで遊べるようになるために、そして、初めての友人であるレミリアへの侮辱を取り下げさせるために。

 コップの中身を一気に飲み干し、喉を下る熱い酒をやる気に変えて、花子は一大決心をした。

 

「よし――。弾幕ごっこ、やってみる!」

「やったぁ! じゃあ明日、山の中を飛んでみようよ。遊びたくてうずうずしてる子、きっといるよぉ」

「じゃあ私も、明日は屋台お休みにしてお弁当作っていくね」

「おぉー、みすちーのお弁当、楽しみぃ」

 

 花子にしてみれば目指していたものに手を伸ばす一大決心なのだが、こいしとミスティアはなんとも気楽なものだった。彼女達にとっては、遊び仲間が一人増えた程度の認識なのだろう。

 その後、ルールの再確認やスペルカードの話などにすっかり夢中になってしまった三人は、いつもの閉店時間を過ぎても談笑を続けた。途中で目を覚ました萃香までもが加わって、さらに話は盛り上がり――

 

 翌日、花子達は全員揃って、昼過ぎまで寝過ごした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 太陽の日差しに照らされながらも涼しい空を飛びながら、妖怪の山を見下ろす。妖怪も妖精も浮かれてしまうような、とても良い天気だ。

 

「こういう日は、面白い記事が書けそうな気がしますねぇ」

 

 いつも持ち歩いている文花帖と写真機を手に、文は目を細めた。

 通り抜けていく風すらも、楽しげな歌を口ずさんでいる。風を操る力を持つ文にとって、耳元で奏でられるその音色は心をくすぐるものがあった。

 今日は何か、いいことが起こりそうだ。そう心で呟いた時だった。

 

「あら、文じゃない」

 

 聞き覚えがある、というより馴染み深いとすら言えるその声に、文はわずかに渋面を浮かべて振り返った。

 その先にいた人物は、やはり頻繁に会う人物だった。しかし、できれば妖怪の山では出くわしたくない相手でもある。

 こちらの顔を見て、その少女は不満げに眉を寄せた。

 

「なによ、その顔」

「ここで出くわして、他にどんな顔しろっていうのかしら?」

 

 思わず、呆れの溜息が出た。相変わらずおめでたい配色の巫女装束に身を包み、人間の癖に堂々たる態度で腰に手を当てている。妖怪の天敵、博麗霊夢だ。

 また強制妖怪退治に乗り込んできたのかと思ったが、彼女が手首に下げている木の札が、そうではないと教えてくれている。

 

「通行手形? なんであなたがそれを持ってるの?」

「今日は早苗に呼ばれてるの。ついでにおゆはんもご馳走になる予定よ」

「……二つ目はあなたの中でだけですね」

「だから予定。提案はこれから」

「ふんぞり返って言うことじゃないわね。妖怪退治でもらったお金をその日の宴会で使い果たすから、いつも金欠なのよ」

 

 その宴会で好き勝手飲み食いする自分を棚に上げ、文はやれやれと肩をすくめた。

 ともかく、今日の霊夢は守矢神社から正式な招待を受けている。追い返すために戦う必要もない。

 

「それにしても、守矢とは商売敵じゃなかった? お呼ばれするような仲じゃなかったと思うんだけど」

「まぁあそこの分社がうちにあるくらいだし、敵ってほどでもないわ。それに、タダでご飯が食べられるなら、そっちを優先するのは当然でしょ?」

「プライドよりも食欲が優先だなんて。幻想郷はこんなのがバランサーでいいのかしら」

 

 もはや突っ込む気にもなれず、とりあえず無駄に威張り散らす霊夢をファインダーに収めておいた。一面記事にはなり得ないが、遭遇したネタはとりあえず撮っておくのが信条なのだ。

 霊夢のペースに合わせて山頂へと飛びながら、他愛もない話を続けた。何か面白いことでもあればそちらに行くのだが、眼下の森は平和である。

 と、霊夢が突然停止した。あさっての方向を見つめる彼女の視線を追うと、色鮮やかな妖弾が舞っているのが見えた。幻想郷では珍しくない、弾幕ごっこの輝きだ。

 弾幕自体は、強者である二人を驚かせるほどのものではない。しかし、文はすぐに霊夢が見つめているものに気がついた。

 

「おや……あれは」

「一時は馴染めないかとも思ったけど、案外うまくやってるみたいね」

 

 黒髪のおかっぱに、セーラー服ともんぺ。一心不乱に弾幕を飛ばすその少女は、特徴がなさすぎるのが特徴と言える新入り妖怪、御手洗花子だ。

 相手の名前は分からない。だが、弾幕の腕はそこそこのものと言える妖怪少女と、花子は今、文の目から見ても互角以上に戦えていた。

 初めて会った時以来見ていなかったが、当然のように空を飛び、スペルカードとして使えるレベルの弾幕を飛ばせるまでになっていたらしい。

 

「なるほど、確かに――うまくやっているようですね」

「あんたを倒すために、ね。どう? 散々馬鹿にしたダメ妖怪が、それなりのレベルになって立ちふさがる気持ちは」

 

 答えられなかったが、こちらの顔を見たらしい霊夢が「なるほどね」と呟く声が聞こえてきた。文自身も、頬が緩んでいるのを自覚している。

 我ながら嫌な性格をしているとは思う文は、いつも憎まれ口を叩いてしまう。そんな嫌味な言葉に秘められた想いに気付いてくれる者は、少ない。

 花子はそれに気付いてくれた。あるいは萃香辺りが気付かせたのかもしれないが、そんなことは些細なことだ。

 悔しがり、強くなり、同じ土俵に立てる所まで登ってきてくれた。そのことが、文にとって嬉しくないわけがなかった。

 

「近いうちに、山で宴会がありそうね」

 

 霊夢が言った。ゆっくりと頷いてから、

 

「えぇ、そうね。とびっきり楽しい宴会が」

「ちゃんと私も呼びなさいよ? いつも招待してあげてるんだから」

「仕方ないわね。ただし、鳥鍋は出ませんよ?」

「ま、兎鍋で我慢してあげるわ」

 

 冗談などを交わしつつ、文は先に飛び立った霊夢の背を追った。

 霊夢と共に山頂へ向かい、再びネタ探しを始める。しかし、どうしてか花子の弾幕が瞳に焼き付いて離れない。

 文は、花子と対峙し彼女の弾幕を正面から見る時が、楽しみで仕方なくなっていた。

 

 

 

 

 その一週間後、射命丸文の自宅に一通の手紙が届けられた。

 

 配達人は、八雲紫。

 

 差出人は、御手洗花子。

 

 丁寧に糊付けされた茶封筒に、あて先は書かれておらず――

 

 代わりに、大きな字ではっきりと、『果たし状』と書かれていたのだった。



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そのじゅうに  決戦!勝利は我が友のために!(1)

 

 

~~~~

 

 

 果たし状

 

 射命丸文殿

 

 あなたに、弾幕ごっこで決闘を申し込みます。

 

 今日から七日後、場所は守矢神社。スペルカードは五枚でどうでしょうか。

 

 もう弱い私じゃありません。逃げも隠れもしません。

 

 必ず、約束を果たしてもらいます。

 

 御手洗花子

 

 

~~~~

 

 

 

 さしもの天狗といえど、三日間徹夜をして机に向かい続けるのはきつい。文は乾いた瞳を瞬かせながら、届けられたその書状をぼんやりと読んだ。

 果たし状など、ずいぶん古いやり方をするものだ。あくびをしつつ、手紙を折り畳んで机に放る。

 

「ふわぁぁっ……。やはり無理はするものじゃないですねぇ。ろくに回らない頭じゃ、いい記事は書けません」

「睡眠はとても大切よ、一日十二時間は取らなければね。ところで、手紙の返事を頂いていないのだけれど」

 

 話しかけたわけではないのに答える声に、横目で視線を送る。部屋にぽっかりと浮かんだ妙なスキマ――両端を可愛いリボンで結んであるが、気味が悪いことに変わりはない――から、上半身だけを出した八雲紫が笑っていた。絶対に玄関から入ってこないのは、いつものことだ。

 

「返事の前に、聞かせてくれませんかね?」

「何かしら」

「あなたほどの人が、なぜ手紙運びなど? しかも、あの花子さんの」

 

 こってしまった肩を自分で揉みつつ訊ねると、紫は唇に人差し指を当てて、

 

「ひ・み・つ」

「……それ、可愛いと思ってるんですか?」

「あら、酷いのね」

 

 やれやれと、文は溜息を漏らした。何度か彼女と話した経験から、これ以上詮索しても無駄だろうことは分かっている。神出鬼没で何を考えているか分からない、そのくせあり得ないほど頭が切れる。鬼ほど恐れる理由はないが、それでも鬼と同じくらい嫌な相手だ。

 使い古した椅子の背もたれにぎぃと背を預け、文は体を伸ばした。少しはこりが抜けたように感じ、一息つきつつ果たし状の返事を告げる。

 

「だいぶ前のことですけど、吹っかけたのは私ですしね。ま、受けて立ちましょう」

「逃げたりなんかしたら、萃香がカンカンになるものね」

「その話は、できればやめてもらいたいものです」

 

 苦笑を浮かべながら、机についている大き目の引き出しを開ける。プルタブのついた缶がいくつか入っており、うち二つを手に取って、一つは紫へと放った。

 外の世界にある『缶ジュース』なる飲み物を、河童が真似て作ったものらしい。密閉されているため、中に入っている飲み物はかなり日持ちする。ちなみに、中身はただのお茶だ。

 

「どうもありがとう。ご馳走になるわね」

 

 缶を受け取った紫の礼に肩をすくめて答えてから、文は机に放り投げてしまった果たし状に目を移す。

 約束を果たしてもらうと書いてあったが、恐らくレミリアに対する謝罪のことを言っているのだろう。なぜそこまであの吸血鬼にこだわるのか、文にはいまいち分かりかねた。レミリアが花子と気が合いそうな妖怪だとは思わないし、他にもっと仲良くなれる者もいるのではないか。

 文の心中を悟ったらしい紫が、缶の口から唇を離した。

 

「レミリアは初めてのお友達、らしいわよ。だからこそ、彼女を貶めたあなたを許せない――。幼くて可愛らしい意地だと思わない?」

「確かに。ですが、それにしたって意固地になりすぎでしょう。もう三ヶ月以上経っているんですよ?」

「花子をあの子に任せたのは、あなたじゃない」

 

 一転、文はばつの悪そうな顔をした。萃香が花子を育てるよう仕組んだのは紛れもなく文自身であり、こうなることも想像に容易い。

 からかわれていると知りつつも、文はかぶりを振る。

 

「そうじゃなくて、花子さんの心中を言ってるんです。果たし状の文面――鉛筆で書いたようですが、筆圧が強すぎる。かなり力を入れて書いたみたいですよ」

「さすがは新聞記者様ね」

「どうも。まぁつまり、彼女の私に対する敵意が強すぎると言いたいんです。何か、知ってるんでしょう?」

 

 花子が定期的に外へ手紙を書いているという話は、最近魔理沙から聞いていた。結界を越えて外に物を運べる妖怪など、紫以外にあり得ないはずだ。

 相変わらずはぐらかすような微笑を口元にたたえ、紫は缶のお茶を上品に飲んでから、

 

「幻想郷は全てを受け入れる。それはとても――」

「残酷、ですか? いい加減聞き飽きましたが」

「何度でも言いますわ。その度に意味合いが変わってくるから。それこそが、この言葉の真意」

 

 分かりそうで分からない言葉を連ねるのも、いつも通りだ。さっさと本題を切り出させたくて、文は一つ、小さく咳払いをする。

 

「それで、どうなんです?」

「せっかちね。言ったでしょう? 幻想郷は、御手洗花子の全てを受け入れた。その幼さも、弱さも、何もかも。ほら、残酷でしょう?」

「……最初からそう言えばいいのに」

 

 言葉があまりに足らない気がするが、キーワードは出揃っている。相変わらず遠まわしなことをすると、文は呆れつつ茶を口に含んだ。紫は話をやめて、また微笑んでいる。

 外の世界で忘れ去られる危機に瀕した花子は、やっとの思いで幻想郷に辿り着いた。彼女にとっては最後の希望と言って良かっただろう。

 しかし、そこで待ち受けていたものは、光満ち溢れる未来ではなかった。厠で子供を驚かすことを生業としていた花子だが、巫女に退治された挙句に学び舎を追われ、喧嘩っ早い妖怪や妖精が蔓延る里の外へと放り出されたのだ。

 湖の濃霧に包まれ、イタズラ好きな妖精に妖弾をぶつけられ、何がなんだか分からない恐怖に怯えたことだろう。そんな中で、彼女は紅魔館に辿りついたのだ。

 館で何が起きたのか、文は知らない。どういう経緯でレミリアやフランドールと友人になったのかも分からないが、それでも花子の胸中は容易に想像がつく。

 たった独り、手探りで歩き続けてきた彼女にとって、友となってくれた吸血鬼の姉妹はどんなに暖かな存在だったことだろう。彼女達がどれほどワガママであったとしても、隣で一緒に笑ってくれるだけで、幼い花子はとても癒されたはずだ。

 

 幼さ故の強い気持ち。初めての友達という言葉だけでは表現できないほど大切な、しかし親友と呼ぶにはまだ付き合いの浅い友。花子にとっては、この幻想郷でかけがえのない存在だったに違いない。

 そんなレミリアを、文はあれほどまでに貶してしまったのだ。彼女が今日まで怒りを引き摺るのも、無理からぬことだろう。

 

「さしずめ、心の友といったところですかねぇ」

「育てたのは萃香と古明地の妹だけれど、花子を一番強くしたのは、レミリアなのでしょうね」

「あの傲慢お子ちゃま吸血鬼も、誰かの役に立つことがあるわけだ」

 

 頬杖をついて呟くと、紫が「まぁまぁ」と口元を押さえた。彼女の見た目は絶世の美女だというのに、時折こういった年寄り臭い仕草を見せる。本人に言うと何をされるか分からないが。

 疲弊しきった体に、これ以上の長話は堪える。文は椅子から立ち上がり、スカートの埃を払った。

 

「さて、私は少し休みます。花子さんには、決闘承知の旨をお伝えください」

「承りましたわ。それでは、お休みなさい」

「ごきげんよう」

 

 ぬぅとスキマに引っ込んで、紫は姿を消した。

 寝る前に汗を流そうと、風呂場に向かう。河童の発明は便利なもので、天狗の家には捻ればお湯の出る蛇口が完備されていた。

 栓をした湯船に湯を張りつつ、服をあらかた脱ぎ捨てる。下着だけになったところで、文はふと部屋に戻った。どうせ急いだところで、湯が溜まるまで時間がかかる。

 机に放られた果たし状を手に取って、はらりと広げる。可愛らしい丸文字で書かれたその書状を眺め、

 

「七日後、か。楽しみだわ、とても」

 

 笑みとともに零れた言葉に、嘘はなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 守矢神社の鳥居の前で、花子は空を見上げた。雲一つない晴天だ。

 いつもの川原を発つ時、決闘日和だと萃香は言っていた。決闘などしたことがないのでよく分からなかったが、彼女が言うのだから、きっとそうなのだろう。

 もう、あの川原に戻ることはない。またいつでも行けるけれど、この日のために修行をした日々は、もう過去となってしまった。そのことが少しだけ寂しかったが、花子はもう前を向いている。

 とても長かった。しかし、いよいよなのだ。一人前の妖怪となって最初に成すべきことが、目の前にある。

 

 高鳴る胸と共に、境内へ踏み込む。同時に、目を丸くした。

 まだ昼前だというのに、守矢神社はまるで祭りでもやっているかのような賑やかさだった。実際、祭りと呼んでも間違いではないかもしれない。

 喧騒の正体は、あちこちで始まっている酒盛りだった。山に住む天狗や河童を始めとした妖怪、山の外に住む一人一種族の妖怪。さらには物好きな天人から仙人、神様までいる始末だ。

 

「うぇ、あれ?」

「おゥい、花子! やっと来たね。どうだい、中々のもんだろう」

 

 手を振りながら駆け寄ってきたのは、萃香だった。その口ぶりから、正月の神社もかくやといったこの賑わいが彼女の仕業だと分かる。

 三度の飯より酒が好き、その次に楽しいことが好きといった萃香のことだから、こうなることはなんとなく予想していた。しかし、限度というものがあるのではないか。花子は諦めも含めた溜息をゆっくりと吐き出した。

 

「……中々なんてもんじゃないですよ、もう」

「なんだい、つれないねぇ。賑やかなほうがいいじゃないか」

 

 萃香がケラケラと笑った。そちらにじっとりとした視線を向けるも、やはり笑い飛ばされてしまった。

 神社の住人であるはずの早苗はどこかと探してみれば、すでに出来上がっているらしい神様と思しき女性と童女の面倒を見ていた。花子は、ここの神だけは崇拝すまいと心に決めた。

 

「まったくもう。決闘なんだから、もっとこう――」

「厳かに、かい? 古い古い。今の時代、決闘も楽しくいかなきゃ嘘さ」

「そ、そうなんですか? うぅん、萃香さんがそう言うならいいけれど。それにしても、よくこんなに集めましたね」

「私の能力にかかれば、こんくらい朝飯前だよ」

 

 十や二十では収まらない数の妖怪がどんちゃん騒ぎをしている様は、もはやただの宴会だ。実際、花子と文の決闘も余興の一つでしかないのかもしれない。

 決着をつけるべきは花子と文であり、それを酒の肴にされても構わないとは思うのだが。やはり複雑な心地だった。

 渋面を浮かべる花子の肩を、萃香が小さな手でなだめるように叩いた。

 

「まぁまぁ。あんたが喜ぶ奴も連れてきたからさ。えぇと、『すぺしゃるげすと』ってェんだろ?」

 

 萃香の視線を追って、花子は目を見開いた。

 守矢神社にはどう考えても似合わない真っ赤なパラソルの下で、やはりこの境内では酷く浮いている豪華な椅子に腰掛け、ワイングラスを傾ける少女。青みがかった銀髪を秋風に揺らす彼女は、花子と目が合ったと分かると、にっこり微笑み手を振ってくれた。

 

「レミリアさん……」

「あいつだけは、力を使わないで呼んできたんだ。決闘の理由を話したら、すぐに行くって言ってくれてね、一家総出でお出ましってわけさ」

「一家総出って、え、じゃあ――」

 

 思わず、レミリアの周囲を見渡した。片時も主から離れまいと隣に佇む咲夜に、パラソルの位置が気になるらしくいじくっている美鈴。レミリアが腰掛けている椅子の後ろに見える帽子は、パチュリーだろうか。 

 そして、見つけた。パラソルを固定しようとしている美鈴の腕にぶら下がって遊ぶ、姉とおそろいの帽子を被ったブロンドの少女。サイドテールが元気に揺れる、フランドールだ。

 

「フランちゃん、外に出してもらえたんだ……」

「ちょっとばっかし渋ったけどね。花子が会いたがってたって言ったら、妹の方が聞かなくなってさ。レミリアの奴、妹にはあんな顔を見せるんだねぇ」

 

 フランドールに駄々をこねられて困るレミリアの様子が、花子には簡単に想像できた。よかったと心から思い、目を細める。

 紅魔館の面々がいる場所に駆け出そうとしたが、萃香が回り込んできて、花子の両肩を掴んだ。

 

「待ちな」

「な、なんでですか? まだ決闘まで時間があるし」

「そうだ。あんたは今日、決闘に来てるんだよ。いつもは遊びでやってることでも、今日の花子にとっちゃ真剣勝負だ。あいつらは楽しみに来てるけど、あんたは違う。だろ?」

「うぅ、でも――」

「お楽しみは、勝ってからぁー」

 

 間の抜けた声と共に、後ろから抱きつかれる。首に腕を回して頬ずりなどしてきたのは、こいしだった。

 

「こ、こいしちゃん? どこ行ってたの?」

「霊夢んとこ」

 

 答えて、こいしが一点を指差す。そちらを見れば、霊夢と魔理沙が、妖怪と談笑しつつ酒を飲み交わしていた。妖怪の山に出入りする数少ない人間だと聞いているが、あんなにも堂々とされては人間かどうかも怪しまれそうなものだ。

 あっけに取られていると、相変わらず花子を放さないこいしが言った。

 

「ね。吸血鬼さんと遊ぶのは、花子の勝負が終わってからだよぉ。天狗さんにちゃーんと勝ってから、自慢しに行こう」

「うん……そうだね。そうするよ」

 

 こくりと小さく頷くと、こいしが頭を撫でてくれた。

 瓢箪をいつものように豪快に呷って、萃香がこちらに向き直る。あまり見ない真剣な眼差しに、花子は自然と背筋を伸ばした。

 

「花子。今だからはっきり言うが、あんたはとても弱かった。教えられることは全て教えるつもりではあったけど、私は正直、あんたが弾幕を撃てるようになるとは思っていなかったよ」

「……」

「でも、あんたはやってくれた。花子は私が思ってた以上に、できる子だった」

 

 にこりと、萃香が口元に微笑を浮かべた。

 

「師としてじゃなく、友として――あんたに出会えたことを、心から誇りに思う」

「私も、同じ気持ち」

 

 こいしの短い同意も受けて、花子は心がすぅと軽くなるのを感じた。今なら、どこまででも飛んでいけそうだ。

 しっかりと目を合わせてから、萃香は自分の握りこぶしを花子の胸に押し当て、

 

「あんたは強くなった。ここから先は、花子の道だ。……しっかりやるんだよ」

「はい。絶対、文さんに勝ってみせます!」

「おやおや、大した自信ですねぇ」

 

 聞き覚えのある声に、花子の背筋が強張った。いつかの記憶が蘇りかけたが、すぐにそれを振り払う。

 対面の萃香が上方を見上げ、「おいでなすった」と笑みを浮かべた。高く昇った太陽のせいで逆光だったが、降り立たずとも、その少女が誰か花子には分かる。

 

「しかしまぁ、本当に宴会になるなんて。これはあなたの仕業ですか? 萃香さん」

「仕業ってェ言い方はないだろう。可愛い愛弟子の真剣勝負、盛り上げてやりたいと思う親心さ」

「そうそう、親心!」

 

 こいしまでもが胸を張り、それを見た少女――射命丸文は、皮肉げに肩をすくめる。

 

「さようで。あんな馬鹿みたいに大げさな果たし状を送られたものですから、私はもっと厳かな決闘かと思っていましたが」

「それは私も同じですけど。でも、あなたを叩きのめすのに、雰囲気なんて関係ないです」

 

 眉をきつく吊り上げ、気丈に言い放つ花子。先ほどまでまだ時間ではないと言っていたというのに、文を目の前にした途端、彼女はすっかり臨戦態勢になっていた。

 しかし文は、まるで花子を無視するかのようについと視線を逸らし、大げさに境内を眺め回した。

 

「あやや。こりゃすごい。神様天人、妖怪に人間。なんでもござれですな。さすがは『密と疎を操る程度の能力』、人心掌握も思いのままですか」

「守矢の連中が宣伝したってのもでかいけどね」

「いやいや、それだけじゃこんなには集まりますまい。決闘場所のみならず、観客までも集めるとは、師の愛とは素晴らしいですねぇ」

 

 ふいに花子へ目を向けて、文はにやりと口の端を吊り上げ、

 

「おんぶに抱っこ」

「……!」

「何でもかんでも師匠に任せ、自分じゃ何もできやしない。果たしてあの頃から、何が変わったというのかしら」

 

 ぐっと唇を噛む花子。萃香は何も答えず、ただ弟子を見つめている。

 反論しようと、花子は口を開きかけた。しかし、それより早くこいしが叫ぶ。

 

「花子はがんばったよ! すっごいいっぱい悩んで、痛い思いをして、がんばったの。何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!」

 

 怒気を露わにするこいしは、とても珍しかった。しかし文は少しも動じず、冷ややかな視線をそちらに向ける。

 

「おや、古明地のこいしちゃんじゃありませんか。友情はいつでも美しいですねぇ。無意識の中に逃げていた出来損ないの覚に友達を思う心があったとは、驚きました」

 

 こいしが自身の胸元を掴む。花子も見たことがないような、苦しそうな、悲しそうな表情を浮かべていた。文はいつでも的確に、相手が嫌がることを見抜いて口にする。空飛ぶ皮肉屋の二つ名は伊達ではない。

 花子の方を向き、文が眼光を鋭くさせた。その視線が語っている。大切な友人がまた貶められているぞ、黙って見ているつもりか、と。

 すぅと空気を吸い込んだ花子は、そのままゆっくり息を吐き出した。同時に下を向き、何も言い返さないと思ったらしい文が、見て分かるほどに落胆の表情を浮かべる。

 しかし、花子はすぐに顔を上げた。彼女の顔に浮かべられていたのは、文にも負けぬほど嫌味な笑顔だった。

 

「文さんって、口ばっかですよね」

「……なんですって?」

「ちょっと強いからって威張り散らして、それで新聞のネタを集めてるんでしょ? 見ましたよ、あなたの新聞。どうしようもないことを自慢げに書いちゃって、見てるこっちが恥ずかしいったら。あれなら、私が前にいた小学校の学級新聞の方がいい出来だったんじゃないかなぁ」

 

 文の眉がぴくりと動いた。その表情には、驚きとわずかな怒りが浮かんでいる。

 それでも、花子にとってはまだ序の口だ。文を真似て、相手を馬鹿にするように肩をすくめて、

 

「いばりんぼのくせして、鬼にはいっつもヘコヘコしてるんだもの。これなら萃香さんと普通に話せる私の方が、よっぽど度胸があるよ」

「……言わせておけば、このチビ――」

「私、知ってるんですよ。文さんがいろんな人の弾幕を写真に撮ってた時、萃香さんには頭を下げてお願いした挙句に、お酒までご馳走したんでしょ? 私ならそんなことしないもん。普通にお願いできちゃうもん。

 ある人が言ってましたよ。天狗の文はカァカァわめくばかりの、能無し鴉だって」

 

 散々見下してきた花子にここまで言われては、文がこめかみに青筋を浮かべるのも無理はない。彼女は震える拳を握り締め、何とか笑みを象っている唇から言葉を紡いだ。

 

「ど、どこのどいつがそんなこと。絶対許せないわ、そいつは誰なの? 教えなさい」

「この人です」

 

 いつの間にか隣に移動していた萃香を、花子が親指で示す。ふん、と萃香が鼻を鳴らすと、文は一瞬頬を引きつらせ、慌てて口をつぐんだ。

 わずかな沈黙の後、文がゆっくりと顔を上げた。

 

「言うようになったじゃない、便所妖怪風情が」

「誰かさんのが移ったんですよ、バ鴉天狗さん」

 

 お互いに目つきを鋭くさせ、睨み合う。周囲から煽りが飛んできたのは、その直後だった。

 早く始めろだの、酒がまずくなる勝負はするなだの、ずいぶんと好き勝手言ってくれている。しかしどんな言葉でも、二人の心に火をつけるには十分だった。

 

「萃香さん、こいしちゃん」

「始めるんだね」

「……はい」

 

 少しだけ空中に飛び上がり、二人の師へと振り返る。萃香は信頼を乗せた視線を、こいしはわずかに心配そうな瞳を、こちらに向けていた。

 行ってきます。声には出さず唇だけを動かし告げると、萃香とこいしが揃って頷いてくれた。

 花子の中で、何かが吹っ切れた。後はやるだけだ。勝つだけだ。

 文の方へ向き直る。すると文は腕組みをしながら、高圧的な口ぶりで言った。

 

「カードは五枚だったわね。そんなに使えるのかしら?」

「あら、文さんには多かったですか? なんなら三枚にしてあげてもいいですよ」

 

 負けじと言い返す。文が楽しげに口元を歪めた。花子も眉を吊り上げたまま、笑みを浮かべる。

 

 双方、カードを取り出す。お互いに五枚。ルールに変更は、ない。

 喧騒と野次が、一気に大きくなった。空を目指した文を追いかけ、花子は妖力を練り上げる。

 

 空中高くに舞い上がった花子へと、文が叫んだ。

 

「さぁ、新入りの弱小妖怪! 手加減してあげるから、本気でかかってきなさい!」

 

 絶対に勝つ。自分を育ててくれた皆のためにも。

 燃え盛る情熱と決意を胸に、花子も大きな声を張り上げる。

 

「手加減なんてさせません! 私はもう、あなたの知る花子じゃない!」

 

 両手を広げる。文が右手をこちらに向けた。

 臆するな、突き進め。花子は力を解き放つ。

 

「私はもう――弱くないッ!」

 

 双方の周囲に色とりどりの妖弾が浮かび、放たれた。

 

 決闘が、始まった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 花子がこなしてきたいくつかの実戦では、ショットそのものに脅威を感じることなどなかった。ショットはあくまでスペルカードに向けた布石、相手にスペルを使わせたくなるようなものにすぎないというのが常識だ。

 しかし、文のそれは違った。瞳を焼くほど鮮烈な赤と青の妖弾が、輪をなし弧を描き空を舞う。一瞬スペルなのではと思わせるほどの美しさと密度だが、花子のもとへ届く頃にはかなり拡散しており、避けることは容易だ。

 スペルカードは精神の勝負とは、弾幕ごっこのプロフェッショナルを自称するこいしの言葉だ。今までどういう意味か分からなかったが、ようやく言葉の真意を汲み取った。

 まだ戦い始めたばかりの、それも初撃だというのに、花子は文のショットに呑まれかけていた。

 

「う――」

 

 このままでは、戦わずして負けてしまう。何とかして自分を奮い立たせようとする花子の目に、文の冷ややかな笑みが映る。

 すぐに妖弾の輪で見えなくなってしまったが、彼女の言いたいことは嫌というほど伝わってくる。心中を見透かされているのだ。

 

「馬鹿にして……っ!」

 

 ゆっくりと広がり消えていく赤と青の波に、自ら進み出る。一度撃っただけで消えてしまった桃色の妖弾を再度作り出し、文めがけて撃ちだす。

 花子の頭上と左下、右下の三点から二つずつ、計六つの妖弾が放たれた。それぞれが対となる妖弾と何度も交錯し、やがて三本の二重螺旋となる。

 三箇所から射出される大きめの二重螺旋は、直線的な弾幕とはいえ、狙いさえ絞っていればかなりの範囲をカバーできる。腕組みなどして余裕の表情だった文も、わずかに驚いて回避行動をとった。

 赤い妖弾のリングが目前に迫る。その下を潜るようにして避けながら、花子は文の姿を探した。

 ほんの一瞬目を離しただけだというのに、花子の妖弾が狙っている位置とは正反対の場所に移動している。驚愕に目を見開く花子に、文は肩をすくめて見せた。

 

「どうしました? ショットがあさってのほうを向いてますよ」

 

 歯噛みしながらも、再度文へとショットを向ける。しかし、あろうことか彼女は花子の頭上から放たれている二重螺旋に飛び込んできた。螺旋の中心は安心と見たのだろうが、花子もそれは知っていたし、文がこのことに気付くだろうことも読んでいた。

 足元の二ヶ所から発射している妖弾で、文を狙う。交錯した場所は三つの渦が重なり、その流れは混沌を極めている。巻き込まれれば被弾は免れないだろう。

 しかし、肝心の文がいない。確かに捉えたはずなのにと思った直後、すぐ頭上から声が聞こえた。

 

「どこを見ているので?」

「っ!?」

 

 見上げれば、文はすでに花子の目前まで迫っているではないか。当然文もショットを展開しており、彼女の近辺は密度が恐ろしく濃い。密集した文の妖弾が放たれる前に、花子はショットを中断し、撤退に全力を注がなければならなくなった。

 

「このっ、すばしっこいんだから!」

「伊達や酔狂で、幻想郷最速を名乗っているわけじゃないのよ」

「そんな二つ名、聞いたことないもの。でたらめ新聞記者なら、よく耳にするけれど」

「私は真実以外、決して記事にしない。よく覚えておくことね!」

 

 言葉が途切れ、花子はショットを再開した。今度は決して逃がすまいと、文に視線を釘付ける。体を細かく動かして、雪のように降り注ぐ青と赤の妖弾を避けることも忘れない。

 ふと、気付く。文が遅い。先ほど見せた目にも留まらぬ速度とは大違いだ。

 パフォーマンスだったのだ。本気になればあれほど速く動ける、だが花子にはこれで十分。そういうことだろう。

 花子は憤慨した。なんとしても文の本気を引き出してやりたい。対等に戦える妖怪だと思い知らせてやりたかった。

 ポケットに手を突っ込む。そこにある厚紙には、花子にしか分からない妖力の凹凸があった。触れるだけで、どのスペルか判別がつく。

 取り出したカードを、文に向かって高々とかざす。それを見た文がショットを止め、にやりと笑みを浮かべる。

 体中に滾るものは、妖力だけではないだろう。気合のままに、花子は叫んだ。

 

「いきますッ!」

 

 妖力の乗った声は、他のどれよりも高い山の頂にあっても、山彦が叫び返したが如く響き渡った。

 花子の頭上に光球が二つ、浮かびあがる。大きな――召喚した花子の背丈と同じほどの、純白に輝く光の玉だ。まばゆいほどの白さを持つ光球だが、その中央には黒い妖力の塊が不気味に蠢いている。文にも、そして下方の観客達にも、それはまるで大きな目玉のように見えた。

 刹那、目玉から弾けるように無数の妖弾が飛び出した。色も何もない、ギラリと光る日差しのような白い光弾だ。

 怪談「目力ベートーベン」。妖弾は規則性がほとんどなく、また密度もそれほど高いものではない。文にとって、避けることは容易いだろう。

 大雑把に文へと狙いを定めて降り注ぐそれには、熟練者が放つ弾幕のような美しさはなかった。しかし、秋晴れの青空に夏の太陽を取り戻させたかのような真っ白な光弾は、見るものを釘付けにし、その心に戦いの情熱を呼び起こさせた。

 

 格下とはいえ初見の相手なので、文は警戒しつつ花子の背後に回ろうとした。その直後、彼女の顔色が変わる。花子がこちらを目線で追うと同時に、彼女の頭上にある巨大な目玉もまた、ぎょろりと文をにらみつけたのだ。

 弾幕そのものは文に苦戦を強いているとは言えないが、彼女はそれでもわずかな焦燥感を抱いたように見えた。宙に浮かぶ眼球は、花子の目と動きを同じくしているのだ。逃げれば逃げるほど光弾は散らばり、動きが狭められていく。彼女自慢の高速も使いにくい状況だ。

 

 花子が有利になるかと思われたが、文はすぐに冷静さを取り戻し、迫り来る妖弾を細かく避けることに集中し始める。

 散らばらせなければ、この弾幕はさして脅威にはなり得ない。弾幕を展開している花子自身も、当然の判断だと思った。

 しかし、花子はこの時を待っていた。正確に言えば萃香の案なのだが、ともかく、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、

 

「もらいました!」

 

 突如、それまで大人しかった黒目の部分が、その動きを活発にした。黒いレーザーを放ち始めたのだ。

 ばら撒かれる白い妖弾よりもはるかに速く、鋭い狙いを文へ定めて、細長い妖弾は一直線に進んだ。一瞬、花子はこれで先制点を挙げたと思い込んだが、文の反応は凄まじく早い。光弾の密度がもっとも薄い場所を的確に選び、すぐさまそちらに移動して黒い直線妖弾の回避に専念し始めたのだ。

 花子が文を目で追えば、光弾はばらまかれるしレーザーも文を狙う。そうすると、文はまたも弾の密度が薄くなった場所へ移って黒く輝く矢をあしらう。

 一進一退の攻防に見えなくもないが、文の回避は正確で、被弾するかもしれないという危うさは微塵も感じられない。

 

「当たってよっ……! このままじゃ――」

 

 避けきられたと判断する時間制限が、刻一刻と近づいている。文はそれを知らないだろうが、かといって嘘をついてまで攻撃を続けることは反則だ。ズルをしてまで勝利を得たいとは、花子にはとても思えない。

 それでも、最初こそ意表をつくスペルに驚いた文が余裕を取り戻していく様を見ていると、心に芽生えたざわつきを抑えられなかった。

 まだ一枚目なので、花子としても簡単だと思えるスペルを選んだつもりだった。しかし、こうも簡単に破られそうになるとは思っていなかったので、文に狙いを定めつつ、苛立ちを露わに唇を噛む。

 黒いレーザーをまたぐように避け、散弾のような光球の中をすいすい飛んでいく文に、境内の外野から感嘆の声が上がる。同じ天狗共からだろうが、それも花子の胸をかき乱すに十分な役割を果たしていた。

 

 やがて、ばら撒かれていた妖弾もレーザーも、そして目玉を模した光球も消える。

 時間切れだ。スペルを攻略した文に二点が加点され、彼女の持ち点は十七点となる。

 一枚目の軍配は、文に上がった。

 肩で息をする花子とは対照的に、文は額にほんのり浮かんだ汗を拭う程度で、こちらを見下すように言った。

 

「アイディアはいいと思ったんだけどね、使い手が悪すぎるわ」

「……」

 

 皮肉の一つでも言ってやりたい気持ちだったが、花子の頭はそれを思いつくほど回らなかったし、何より息が切れて声が出ない。せめてと憎憎しげに睨み付けるが、文はそれを鼻で笑い飛ばした。

 

「これで私は十七点。あなたの残りカードは四枚。得点でも枚数でも不利になっちゃってるわね」

「……しら、ない――。そんなこと――」

 

 ようやく搾り出した声は、なんとも重く苦しそうで、その上ドスも効いている。しかし文はちっとも動じず、飄々とした態度で言った。

 

「ショットの被弾なしで先制スペルを撃てば、今のような結果になるかもしれないと、あの萃香さんが教えていないなんてことはないでしょう」

 

 文が、腰のポーチからカードを取り出した。緑色の、葉とも風ともつかぬ模様が入った綺麗なカードだった。

 目前にカードを提示されたころには、花子の息はすっかり元に戻っていた。だが、スペルを破られた悔しさだけはどうしようもなく心に燻っている。それを知っていながら、文は挑発するかのように花子を見下ろした。

 

「一矢報いるために不利を覚悟でスペルを撃つ。そんな度胸があなたにあるなんて思わなかったわ、花子。私も敬意を示すべきだと思うから、チャンスを上げる。ここで私はスペルを使う。もし避けきることができれば、勝負は振り出しに戻るわ。もちろん当たれば、点数で私に勝つことは絶望的になるけどね」

 

 ひらひらとカードを振るう文。花子はもうスペルカードには目もくれず、見下してくる文の瞳を、真っ直ぐ見つめた。

 

「どうする? あなたが怖いというなら、またショットから始めるけれど。観衆も待たせているしね」

 

 眼下の宴会を眺めながら、文は答えを待った。実に余裕のある仕草だったが、次に花子が発した言葉で、彼女は跳ねるように顔を上げることになる。

 

「スペルを使いたいなら、好きにしたら? どんな技がきても、私は避けきってみせるだけだもの」

 

 じっとこちらを見据える花子の表情は、文の中にあった弱気な少女の印象を完全に吹き飛ばすほどの、とても強気なものだった。

 その瞳に何を見たのか、文は一瞬顔色を変える。しかしすぐに元の挑発的な顔に戻ってしまったので、実は彼女が武者震いを覚えていたことを、花子が知ることはなかった。

 

 すぅと瞳を冷たく細め、文が口を開く。

 

「……よくぞ言ったわ。覚悟はいい?」

「いつでもどうぞ。とっくに準備はできてるんだから!」

「その強がり、すぐにかき消してやるわッ!」

 

 花子がいる場所よりもさらに高く、文が飛び上がった。ほぼ同時に突風が吹き荒れ、とっさに目を覆う。

 ようやく風に慣れたころ、文がいるであろう上空を見上げた花子は、言葉を失った。文の周りで風が渦巻き、秋の落ち葉だけでなく、まだ青い葉までもが風の中で舞い躍っている。まるで文を崇め守っているかのように見え、廻り踊る風と葉が織り成す文様は大変素晴らしく、花子の語彙では美しい以外の言葉で表すことができなかった。

 

 風の演舞に見とれていた花子は、しかし次の瞬間、我に返って青ざめる。踊っていた葉が、突然鎖のように連なって四方八方に伸び始めたのだ。

 風神「天狗颪」。紅葉も入り混じった葉の鎖は、花子へ近づくに連れて離れて砕け、やがては無数の葉となった。木の葉一枚一枚全てに妖力が付与されており、それが文の妖弾となっているとすぐに気付く。

 鎖の一部から解き放たれた木の葉は、不規則な動きで花子の動きを封じてくる。風に乗って自由がままに落ちているようにも思えたが、葉と葉の間には絶妙なバランスで避けられる空間が存在しており、例外なく文が操っているのだと知れた。

 動きの読めない妖弾の回避は、すでに何度も練習してきた。集中すれば避けれないことはないと言い聞かせ、小さく俊敏に動いて舞い落ちる葉をかわす。

 見上げれば、文の周りでまたも木の葉が風に巻かれて渦を作っている。文の周囲を彩る紅葉と緑葉は、観衆こそ楽しませたが、花子にはもうちっとも美しく思えなかった。

 

「くぅっ……」

 

 汗が頬を駆け下りていく。背中も額もびっしょりだが、拭う暇などあるはずがない。

 気まぐれに軌道を変えて落ちる木の葉の回避は、花子の集中力を一気に奪っていく。第二波がくると思うと、花子はついポケットのカードに手を伸ばしかけた。

 あわやカードを掴むかと思われた右手は、ポケットの入り口で握り拳に変わり、腕が下ろされてから解かれる。ここでスペルを使おうものなら、花子の負けはぐっと近くなってしまう。辛抱するのだと、自分に言い聞かせる。

 ようやく落ち着いたかと思った瞬間、第二波の木の葉に襲われた。伸びた葉の鎖が散らばり、青空は再び木の葉色に染まる。

 息を整える間もなく、体を動かす。安全な避けやすい場所を探したが、そんな場所はどこにも見当たらない。

 木の葉の騎士に守られる風の女王となった文は、とてつもなく遠い存在に見えた。あの場所に辿り着けるのだろうか。花子のような下級妖怪風情が彼女と対等に戦おうなどとは、おこがましいことだったのだろうか。

 否。花子は胸中で激しく否定した。あの夜、あの川原で、花子は萃香と誓ったのだ。

 

「一番綺麗に、輝かなきゃ――」

 

 夜空に輝く、一等星のように。思い出した途端、疲れ始めていた全身に力が戻ってきた。

 そこからの花子の動きは、まるで別人のようだった。今までの固さを感じさせる回避とは違い、流れるように木の葉を避けていく。

 しかし、やはり消耗は激しかった。信念は間違いなく花子の力となったが、伝う汗の量や動くたびに漏れる呼気は、葉の一枚を避けるたびに酷くなっていく。

 

 目がかすみ、頭が重くなる。いよいよここまでかと思った、その時だった。あたり一面に、凄まじい突風が吹き荒れた。

 もはや文を見ている余裕などなく、葉の一枚一枚に全神経を集中させていた花子は、殴りつけてくるような風に目を閉じて身を縮こまらせた。しかし、これほど風が吹いているというのに、妖弾となった葉が体に当たった感覚はない。

 やがて風が消え、花子はそっと目を開け、そのままぽかんと開いた口を閉じることができなくなった。

 見渡せば、妖力を纏った落ち葉はどこにも見当たらない。ただ文が、上空から小馬鹿にしたような顔でこちらを眺めている。

 

「やぁ、よくがんばったわね。手加減していたとはいえ、一本取られましたよ」

 

 文の周囲に、再び赤と青の妖弾が召喚された。文と共に、花子の息が整うのをじっと待っている。

 

「よ、避けきったの?」

 

 いまいち理解が追いつかずに訊ねると、文は大げさに呆れてみせた。

 

「おや、まさか気付かなかったの? 見ての通り、今回はあなたに加点よ、花子。これで勝負は仕切り直しね、癪だけど」

「……!」

 

 途端、花子は瞳を輝かせた。切れ切れだった息もあっという間に整えてしまう。

 

 文のスペルを凌いだ花子に、二点加点。持ち点は十七点、カード枚数はお互いに四枚となる。

 

 桃色の妖弾を、今度は正面に三つ展開し、いつでもショットを撃てる体勢を取ってから、花子は言った。

 

「さぁ、続きをしましょう。けちょんけちょんにしてやるんだから、覚悟してくださいね」

「やれやれ、さっきまで死に掛けの子犬みたいだった子の言うことかしらね。最初の一手であの様じゃ、この勝負はとてもつまらないものになりそうだわ」

「文さんの舌は、どれだけ動いても疲れないの? それとも、私が強いもんだから言葉で脅かそうとしてるんですか?」

 

 花子も文も、それは楽しそうに――眉はお互い吊り上っているし、眉間にはしわも寄っていたが――笑みを作った。

 双方の妖気が高まり、観衆にもそれが見えたのか、煽りの声はいっそう大きくなっていく。

 一陣の秋風が吹きぬけた直後、二人は動きだした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 守矢の連中が用意した酒は、悔しいことにとても美味だった。霊夢の舌はとても喜んでいるというのに、その顔には渋面を浮かべつつ、肴として用意された猪鍋に箸を伸ばす。

 

「しかしまぁ、花子が文のスペルを破るとはねぇ」

 

 小皿に猪肉を取りながらなんともなしに呟くと、隣で空中の戦いを見上げていた魔理沙が、そうだなと相槌を打った。

 

「でも、ちょっと飛ばしすぎじゃないか? 気合が入るのは分かるが、あれじゃすぐにへばっちゃうぜ」

「そう? あんなもんじゃない?」

 

 肉をもぐもぐとやりつつ行儀悪く答えると、魔理沙が酒を呑もうと動かした腕を止め、半眼で霊夢を睨んできた。

 

「……弱い奴が必死になる気持ちなんて、お前にゃ分からんだろうな」

「そうねー。分からないし、分かろうとも思わないわ。弱い奴が悪いのよ」

 

 勘と才能で生きている霊夢は、さも当然とばかりに鼻を鳴らした。これには努力家の魔理沙も怒るより呆れ、やれやれと溜息をつく。

 

「霊夢は努力の大切さを知るべきだぜ」

「必要ないものを大切に感じるわけないじゃない。それよりも、そっちの肉食べないならちょうだいよ」

「これは私のだ」

 

 伸ばした霊夢の箸を自分の箸でがっちりと掴み、魔理沙が再び上空の戦いに目を移した。

 激しいショットの撃ちあいは、一枚目の前よりも長く続いていた。相変わらず三つの二重螺旋で文を狙う花子に対し、文は観衆に見せびらかすように、大雑把に妖弾をばら撒いている。遊んでいるのだろう。

 魔理沙がすっかり弾幕ごっこに夢中になっている様子を、霊夢は少なからず冷めた気持ちで見つめていた。あの花子が弾幕ごっこで遊べるほどにまで成長したことには、霊夢も確かに驚いた。だが、目を見張るほど強いわけではない。あの場にいるのが花子ではなかったとしても、酒宴は変わりなく盛り上がることだろう。

 

「ま、どうでもいいけど」

 

 心底本気で呟いて、酒を一口含みつつ弾幕ごっこの様子を眺める。ちょうど花子が文のショット――赤い妖弾で作られた輪に当たったところだった。

 花子は一点減点となり、持ち点は十六点。まだ余裕はあるが、彼女にとっては大きな一点だったはずだ。

 精神的な痛手もあるのだろう、揺らいだ小さな体がふらりと宙を漂う。その様子を見て、魔理沙が叫んだ。

 

「ほら、言わんこっちゃない!」

「あらま」

 

 霊夢もまた、わずかに声を上げる。まさか本当に体力を消耗しているとは思わなかったのだ。しかし、それ以上の興味はないのか、彼女は再び猪鍋へと視線を落とした。

 一方の魔理沙は、もはやいてもたってもいられないようで、今すぐにでも加勢に行きたいと顔に書いてあった。箸を持つ手はいつしか握り拳になっており、歯噛みしながら見守っている。霊夢の箸が彼女の肉を略奪していくのにも気付かない有様だ。

 聞けば、花子は妖精や妖怪と弾幕ごっこを何度かこなし、勝利を得たことも数回あるという。とはいえ、今日の相手はあの文だ。今回ばかりは分が悪すぎると霊夢は思っていた。

 まだ増長まではしていないだろうが、こんな大衆の前で文に負けてしまえば、花子に芽生えた自信の若葉は摘み取られてしまうだろう。今でこそ霊夢と肩を並べるほどの実力者になっているが、かつて弱者であった魔理沙は、そのことを一番不安に思っているのかもしれない。本当のところは、霊夢には分からなかったが。

 文と花子が、再びショットを撃ちあいはじめる。霊夢と魔理沙は、花子のショットからわずかに力が抜けているのを読み取った。

 

「……このままじゃ、負けるわね」

「分からないぜ、まだ始まったばかりだ」

「あんたが妖怪の肩持つなんて、珍しいわね、魔理沙」

「どっちも妖怪じゃないか。それに、花子はいい奴なんだ」

 

 霊夢はそれ以上深く詮索しなかった。上空の戦いと同様に、大して興味がないのだ。

 肉だけでなく魔理沙が持参した一升瓶にすら霊夢の手が伸びていたが、魔理沙の瞳は一心に上空を見つめ、

 

「がんばれ花子、がんばれよ」

 

 もう何年も茶飲み友達をしているが、こんなにも真剣に誰かを応援する魔理沙を、霊夢は初めて見た。

 こんな顔もできるのかと思うと、ほんの少しだけ花子へ羨みと嫉妬を覚えたが、

 

「……ん、この酒おいしい」

 

 酒を舌に転がして頬を緩める霊夢は、やはりいつも通りだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 当たる。そう理解した瞬間、花子の体は衝撃と痛みに襲われた。

 二度目の被弾。得点がさらに一点減り、花子はこれで十五点。対する文は、最初のスペルを攻略してから変動しておらず、十七点のままだ。

 

 お気に入りのセーラー服は袖が破れ、もんぺもアップリケがはがれかけている。一方の文は涼しい顔で、衣服にもほとんど乱れがなかった。

 二人ともカードは四枚なので、全て使い切っても点数を減らしきれない。お互いにショットで点を削らなければならない展開となっている。頭では分かっているのだが、花子の心は酷く乱れていた。

 ここで下手にカードを使えば、確実に不利になる。避けられようものなら、もはや文の勝利が確定すると言ってもいいだろう。しかし、二点の減点と激減した花子の体力が、カードで少しでも文の点を奪えと訴えてきている。スペル中は反撃されない限り派手に動かないので、体力の回復も図れるはずだ。

 

 先に点を奪われた悔しさと、まったく落ち着く気配のない動悸と息切れが、花子の冷静さを奪い去っていく。ただ気丈な信念だけが、彼女を突き動かしていた。

 

「はぁっ――うぅ――」

「満身創痍じゃない。まだスペルを一枚しか使ってないというのにね」

 

 先ほどまでの威勢が消えかけている花子に、文が何度目かの呆れ笑いを見せる。もう、それに怒る気にもならなかった。

 実力の差は明白だったのだ。それを知っている上で挑んだし、萃香達もまた、文には届くまいと知りながら花子を育てていたのかもしれない。そう思うととても胸が痛んだが、事実、文は強かった。花子が数ヶ月間どんなにあがこうと手の届かない場所に、射命丸文は立っているのだ。

 

「まだ続ける? リタイアするなら、私は構わないわよ」

「……」

 

 これ以上戦ってどうする。花子は自問する。弾幕ごっこは、たかが遊びなのだ。大げさな果たし状など叩きつけたが、文も本気で受け取っていないのではないか。

 息は切れている。もう動きたくないと、体中が悲鳴を上げていた。これ以上続けても痛い思いをするだけならば、いっそこのままその声に従い、文に降参してしまおうか。

 後ろ向きな気持ちが脳裏をよぎると、花子の戦意は一気に失せていった。

 

「私は――」

「まぁ、もっとも」

 

 漏れかけた降参宣言を、文の声が遮る。まだ何かあるのかと虚ろな瞳で文を見上げると、彼女は眼下の観衆を見つめていた。

 

「下の連中がどう思うかは、知らないけど」

 

 花子は習って視線を下げた。大勢の妖怪達がこちらを見上げ、やんややんやと騒いでいる。

 ふと、花子の目は妙に目立つ一点を見つけた。視力に自信がある花子は、そこに誰がいるかをすぐに知ることができた。

 

 これでもかと目立つ真紅のパラソルの下、日光が届かないギリギリの場所から、レミリアが固唾を呑んで花子を見守っていた。その横では、今にも飛び出してきそうなほど腕を振り回して声を上げているフランドールも見える。

 ドクンと、花子の心臓が大きく脈打った。痛いほどに胸を掴んで、そのすぐ近くに視線を移す。

 見慣れた――見慣れすぎた小さな人影が、三つ。胡坐をかいて腕組みをし、真顔でじっとこちらを見上げる萃香と、対照的に不安を露わに両の手を祈りの形に組んでいるこいし。そして、普段着で駆けつけてくれたミスティアの姿だった。

 中央にある大きな焚き火を挟んだ反対側には、なにやら大騒ぎをしている女性と童女の世話を焼きつつ観戦している早苗と、口に手を当て声を上げて応援してくれている秋姉妹も見えた。

 明らかにそれと分かる紅白の霊夢と黒白の魔理沙も、しっかり見ていてくれている。ちょうどそこに、店を閉めてまでやってきてくれたらしい霖之助と弾幕ごっこの教本を作ってくれたという慧音がやってきた。二人は魔理沙に指差されこちらを見上げると、手を振ってくれた。

 

「あなたが降参したら、あの人達、どう思うのかしらね」

 

 文の言葉が、胸に突き刺さる。

 花子は今、ちっぽけな自分を応援してくれている人々を裏切ろうとしたのだ。その事実に気付くと、背筋が凍るような思いになった。

 

「確かにまぁ、正直に言うけどね。花子は弱いわよ。でも、弱くなれたじゃない。あんなにどうしょうもない、強弱を語るのも憚られるレベルだったというのに」

「……」

 

 取り返しがつくのだろうか。まだ、皆の気持ちに応えられるだろうか。

 

「そこまで育ててくれた人達なんだから、当然花子のことをよく思っているでしょうね。だからあなたが降参しても、きっと誰も、あなたを責めないわ。責めないけど――落胆は、するでしょうね」

 

 応えねば。応えるのだ。例えこれがただの遊びだとしても、その結果が惨めに這いつくばう敗北だとしても――

 

「誰もがあなたと友人であり続けるだろうし、嫌うこともないんじゃないかしら? ま、皆の中であなたの評価が変わるだろうことも、また間違いないでしょうけどね」

 

 逃げるわけには、いかないのだ。

 

「それでも降参するというのなら、もう止めないわ。私もさっさと終わらせて酒を呑みたいし、今日は美味しそうな鍋もあったし――」

「まだ喋るつもり? 本当に、よく回る舌なんだから」

 

 文の視線がこちらを向いた。花子の右手を見て、嘲るような口元の笑みが、別のものに変わる。

 花子の小さな人差し指と中指には、しっかりとスペルカードが挟まれていた。まだ二枚目、しかし、花子にとってはもう二枚目。

 

 痛みは消えない。息もまだ荒い。しかしその瞳には、決闘が始まった直後の強い輝きが再び宿っていた。

 勝負の行方を大きく左右するだろう一手を、花子は臆することなく天に向かって掲げ、堂々と宣言する。

 

「果たし状に書いたはずだよ。私はもう、逃げも隠れもしないって!」

「……そうだったわね」

 

 呟きと共に、文が間合いを取る。たったそれだけの動作も、今の二人にとっては、再開の合図として十分なものだった。

 スペルカードを空へ投げ、妖力に操られたそれがひらりと花子のポケットに飛び込むと同時に、掲げられた人差し指の上に桃色の妖弾が浮かび上がる。

 

「そぉぉぉ――」

 

 花子は大きく振りかぶった。身長よりも大きな妖弾を、

 

「――れぇッ!」

 

 文に向かって投げ飛ばす。二人の間にはかなりの距離があったが、妖弾は目にも留まらぬ速度で文の目前に迫った。身を翻して避けた文が、次弾を警戒しながら花子の側面へと回りこむ。

 しかし、花子は次弾を射出しない。何かに気付いたらしい文が振り返ると、避けたはずの妖弾が、彼女のすぐ背後に迫っていた。

 怪談「スプリントニノミヤ」。大きな妖弾は花子の思うがままに操られ、逃げる文の背中を猛スピードで追いかける。

 本体である妖弾から生み出された小さな妖弾が彗星の尾のように伸びていき、逃げれば逃げるほどに退路は狭められていく。しかし、文はすぐに解決策を思いついたようだった。

 なんら難しいことはない、ただ真っ直ぐ逃げればいい。文でなくとも、その答えにはたどり着くだろう。

 

「さぁ、これからが本番ですよ!」

 

 花子は掲げていた指を、パチンと小気味よく鳴らした。同時に、妖弾が弾け、四つに分裂する。

 四つの彗星は、それぞれが独自の意思を持っているかのように、文の進行方向を遮り回り込み、考える暇を与えずに追いかけまわした。さらに余裕を奪うため、花子本人も妖弾を展開する。

 文は頭が切れる。普段の弾幕ごっこであれば、この程度の弾幕なら簡単に攻略してみせるだろう。だが今の彼女は、花子が疲弊しきっていると油断していた。花子はその侮りを逆手に取ったのだ。

 全身に感じる疲労感が、花子に歯を食いしばらせた。このスペルは、ただでさえ消耗が激しい。かなり体力を使ってしまっている今の状態では、そう長くは続かないだろう。

 

「もう少しだけ、がんばって、私っ……!」

 

 あとわずかでも文が慌ててくれさえすれば、花子が描いた理想通りの展開になる。

 そして、ついに時はきた。

 四つの妖弾に追いかけられて、その上流れる細かな尾と花子の弾幕に進路を妨害され、とうとう文がしびれを切らしたのだ。

 

「私の背を襲おうなんて、千年早いッ!」

 

 鋭い叫びと共に、文がスペルカードを取り出した。カード宣言、撃ちあわれる。

 一瞬妖弾を警戒した花子だが、文の周囲に渦巻く風を見て、その必要はないと直感した。同時に、決して文から目を離してはならないとも悟る。

 怒涛の如き風を従え、文の体が動いた。突風「猿田彦の先導」。花子に向かって、真っ直ぐ突進してくる。

 文が纏う風の鎧は、桃色に煌く彗星の尾や花子が撃つ弾幕を、ことごとく吹き飛ばした。

 相手の弾幕にスペルで干渉することは、ルールでは禁止されていない。ただ、どうしても力技が多くなるためか、好んで使うものが少ないのだ。しかし、こういった対弾幕用のスペルを奥の手として持つこともまた、常識となっている。

 尋常ではない風の唸りと文の気迫に呑まれかけながらも、花子の瞳は満足げに輝いた。文に奥の手を使わせることこそが、彼女の狙いだったのだ。

 あとは被弾を避けて、彼女のスペルを破ることができれば完璧だ。花子のスペルを文に当てることができれば、さらに理想的と言える。

 轟々たる爆音を引っさげて、文が迫ってきた。駆け抜ける突風に吹き飛ばされないよう体に妖気を滾らせながら、花子は巨大な弾丸となった文をかわす。

 その凄まじい勢いと風に紛れる文の巨大な妖力に、思わず息を呑む。あんなものの直撃を受けたら、きっと気を失ってしまうだろう。

 

「でも、すごい」

 

 文はすごい。そして、彼女と戦えている自分もまた、すごい。口元が緩むのを、止められなかった。

 一度は消し飛ばされかけたが、花子の大きな妖弾はまだ生きている。文のスピードと風に押し負けながらも、花子は四つの妖弾を操り、その背中を狙う。

 再度突進を仕掛けようと切り替えした文は、完全に吹き飛ばしたと思っていた妖弾が眼前に現れたのを目視すると、一瞬停止して上空へと退避した。

 さらに追いかけようと妖弾を操りかけた花子だが、見上げた文と目が合い、獲物を狙う猛禽類のようなその眼光に凄まじい恐怖を覚え、震え上がった。

 

「く、くるっ!」

 

 咄嗟に、妖弾を自分の正面に引き戻す。それよりも早く、そして何よりも速く、文が襲い掛かってくる。

 疾風の羽を背負って急降下してくる文は、今までの彼女よりも数倍威圧感があった。恐ろしさのあまり泣き出しそうになる自分を内心で激しく罵りながら、花子は妖弾が間に合わないと判断し、文に視線を向けたまま後方に下がる。

 急いで退避したにも関わらず、文はすぐ目の前を通り抜けていった。後を追うように上方から吹き付ける風に押し潰されそうになりながら、下方を見渡し文の姿を探す。

 すぐに見つかった。真下から、こちらを見上げている。

 

「うっ――」

 

 花子の目で追える速度なのだから、まだ手加減の範疇なのだろう。だがその目は、もはや花子を生かして帰すまいとしているのではとすら思えた。

 

「い、いやッ!」

 

 生まれて初めて、花子は生命の危機を感じた。文を追い払おうと、必死に妖弾の彗星を操る。

 恐怖と混乱の渦中にあったせいで、妖弾をどう動かしたのか、さらには何が起きているのかすらも、花子にはよく分からなかった。

 本能的に目をつむってしまった花子の耳に、鞭を打つような音が聞こえた。しかし、体に痛みや衝撃はない。

 身を縮こまらせながら、恐る恐る目を開ける。状況を理解するまでにかなりの時間が必要だった。

 

 嵐のような風はすっかり止み、花子の足元まで上がってきていた文が、左腕を押さえて舌打ちをしている。押さえた部分の衣服がわずかに破れているのも確認できた。

 観衆からは、激しい動揺のざわめきも聞こえてくる。

 まさか。花子は慌てて妖弾の数を確認した。力なくぷかぷか浮いている桃色の弾は、全部で三つ。

 

「えっ、本当に……?」

「……」

 

 文は答えなかった。それでも、苛立ちを隠しもしないその態度で、ようやく状況を信じることができた。

 がむしゃらに操った花子のスペルが、文に被弾したのだ。

 

 射命丸文、三点の減点。持ち点は十四点まで減少した。

 

「やっ――たぁッ!」

 

 花子は力強くガッツポーズをし、喜びの声を上げた。すぐに気を取り直し、ふわりと飛び上がってきた文の視線を真っ向から受け止める。

 つまらなそうな顔をしてはいるが、文は被弾を潔く認めた。

 

「やってくれるじゃないの、まぐれみたなもんでしょうけど。これで、カードは互いに三枚。得点は――花子が十五点、私が十四点ね」

「逆転しちゃいましたよ。どうします? 降参しますか?」

 

 腰に両手を当てて挑発すると、いつもの調子を取り戻した文は、フンと鼻を鳴らした。

 

「このくらいで勝った気になってるの? おめでたい頭ね、まるでお花畑だわ」

「花子、ですから。そのくらいがちょうどいいんですよ」

 

 にっこりと言うと、文はあっけに取られて何度かまばたきしてから、なるほど確かにと、おかしそうに笑い出した。

 数秒二人で笑いあったが、花子と文は再び距離を取った。先ほどの笑顔は消え失せ、睨みあったまま、それぞれの妖弾を自身の手に呼び出す。

 合図となる言葉もきっかけもなかったが、二人はまったく同じタイミングで、妖弾を撃ちだした。

 

 真っ青な秋空の下で繰り広げられる妖怪少女の決闘は、まだ、終わらない。



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そのじゅうさん 決戦!勝利は我が友のために!(2)

 二枚目のスペルカードを使い、花子が逆転した。そのことに酒を楽しむ誰もが驚いたが、すぐに喧騒は酒宴のそれに戻っていってしまう。静葉を含むただ一部の者のみが、再開した戦いに目を向けている。

 

「どう思います?」

 

 そう訊ねてきたのは、守矢の二神の小さいほうを寝かしつけた早苗だった。どうと言われても、と静葉は腕を組む。

 花子は見違えるほどに強くなったと思うし、文を前にしても決して引かず果敢に攻めている姿勢は、高く評価できる。しかし、早苗が聞きたい答えとは違うだろう。

 正直にそれを口にするのは嫌だったが、黙っていても仕方がないので、静葉は少しだけ唸ってから口を開いた。

 

「厳しい戦い、だよね。私も穣子も、きっとあの天狗には勝てないし」

「私も姉さんと同感。もちろん、花子ちゃんが私らより弱いって決め付けてるわけじゃないけど」

 

 用意された兎鍋を無視して焼き芋を頬張っていた穣子が、湯気立つ芋から口を離して言った。

 静葉と穣子の家に訪ねてきた時はまだ空も飛べなかった花子は、勇ましさすら感じさせる勢いで文へとショットを放っている。静葉の目から見てもまだまだ粗いが、対する天狗に余裕があまり感じられないのは、きっと文にしか伝わらない覇気があるということだろう。

 

「気持ちの強さは、妖怪にとって力になると聞きますけど……。花子さんは今、文さんを凌ぐほどの気力があるんでしょうか」

「うん、きっと――今はね。あなたも現人神なら、分かってるんじゃないの?」

 

 少し意地悪いかと思いつつ、静葉は横目で早苗の顔を覗き見た。彼女は小さく「そうですね」と答えたきり、表情もほとんど変えないで上空に広がる弾幕を見上げている。

 神という存在にとって、信仰心――すなわち心の力は、大きな意味を持つ。妖怪の妖力や悪魔の魔力と違い、固体のポテンシャルに左右されない、全ての存在が平等に、そして無限大に持つ力だ。静葉達を始めとする神々は、その力を感じ取ることができる。

 時に、心の力は弱者を大きく飛躍させる。窮鼠猫を噛むとはまさしくその通りで、決死の覚悟を決めた者は誰にも負けない強者となり得るのだ。今の花子が、まさにそれだった。

 しかしながら、想いは磨耗する。どれほど強い意思があっても、時間の経過や体力の低下で、気持ちは削れていく。まして、もとの力が小さい者であれば、消耗は早い。

 意志の強さで一時的に力を得られても、その力がある間に勝利を掴めねば、いずれは弱者に戻ってしまう。文と激闘を繰り広げている花子は今、凄まじい勢いで精神を磨り減らしているはずだ。

 

「……長くは持たないかもね」

 

 そう呟いた穣子の言葉を、静葉も早苗も否定できなかった。

 できることなら、花子に勝ってほしい。しかし、もともとの力でも精神的な余裕でも、文が有利なことは揺るがない事実だ。

 ただでさえ、花子は一度くじけかけている。静葉達の姿を見て気を取り直したようだが、それもいつまで持つのか。

 胸元で両の手を握り合わせて戦いを見守っていると、突然右半身に重みを感じた。同時に凄まじい酒臭さを覚え、静葉は反射的に逃げ出そうとし、そして失敗した。頭を抱えられ、引き寄せられたのだ。

 柔らかい感触に驚いたのも束の間、酒の臭いに全力で眉間にしわを寄せながら、顔を上げる。

 注連縄(しめなわ)を王冠のようにして頭に乗せた、青髪の女性だった。守矢の二神が一人、八坂神奈子だ。

 どれだけ酒を呑めばこれほど臭うのか、静葉には理解できなかった。神奈子は静葉を抱えたまま、酔った赤い顔を隠そうともせず、

 

「神が祈りの姿勢を取るなんて、感心しないね」

「……それは」

「しかも、弱小妖怪一匹相手に。信仰する側とされる側の区別くらいは、つけておくべきじゃないかな?」

 

 言い返そうとして、静葉は口をつぐんだ。神格としては大先輩である神奈子には逆らえないし、彼女の言っていることは正しい。

 なんとか神奈子を引き剥がし、こちらの様子を心配そうに眺める穣子に目配せしてから、静葉は神奈子に告げた。

 

「確かに、私が妖怪に祈りを捧げることは間違いです。けど、でも……」

 

 分かっていても、そうなってしまうのだ。静葉の両手は、自然と胸元で握り合う。

 

「友達の勝利を願う気持ちまで、許されないのでしょうか?」

「そうだねぇ、そのくらいならまぁ、大目に見ましょうか。しかしだね、秋神の姉よ」

 

 一升瓶から最後の一滴まで搾り出すように(さかずき)に注ぎ、神奈子が一気に呷る。ただ酒を呑んでいるだけだというのに、静葉と穣子はその振る舞いに凄まじい神々しさを感じた。

 杯から口を離して、しゃっくりを一つ、神奈子が笑う。

 

「友人を応援するなら、心からするべきだ。負けるかもしれないなんて、間違っても思っちゃいけないね」

「……」

「神の心力は、相手に大きく影響する。秋神を長いことやっているあんたらが、知らないわけはないと思うんだけど、どうだい?」

 

 頭では分かっていた。穣子もまた、同じだった。

 力の弱い八百万の神であっても、二人の想う力は相手に影響を与える。神々が持つ、相手の願いを聞き入れ叶える力は、まさに神の心なのだ。

 それを知っていたからこそ、静葉と穣子は花子と友人になり、彼女が空を飛ぶための力になった。だというのに、今こうして花子が負けるだろうことを信じてしまっては、彼女の足を引っ張ることになってしまうかもしれない。

 

 観衆がどよめいた。見上げれば、花子がわずかに落下し、何とか体勢を整えている。霧散していく青い弾は、文のものだ。

 花子が、ショットに被弾した。一点減点し、持ち点は十四点。得点でもカードの枚数でも、文と再び並んでしまった。この状況での被弾は、花子にとって大きなプレッシャーになるはずだ。

 自分が弱気になってはいけない。分かっている。分かっているのに、心は勝手に弱くなる。静葉はこの時ほど、自身の弱さを憎んだことはなかった。

 

「……早苗!」

 

 突然、神奈子が声を上げた。あまりの大音声に、周囲の妖怪がびくりと肩を震わせる。彼らと一緒に驚いた早苗だが、神奈子の意図を察して、新しい一升瓶を持ってきた。

 

「加奈子様、ほどほどにしてくださいね」

「断る」

「ですよね。知ってました」

 

 もはや呆れもないのか、早苗は淡々と答えて、四つのコップに酒を注ぐ。一つは神奈子に、もう一つは自分に配ってから、残りの二つを静葉と穣子に渡した。

 戸惑いつつも受け取ると、神奈子がそれでいい、と頷いた。

 

「神が弱気になるななんて、そんなことを言うつもりはないよ。でもまぁ、今はその時と違う。どうせ応援するなら、派手にいこうじゃないか、なぁ早苗?」

「……そうですね」

「どう思う? 秋の妹」

「うぅん、確かにグチグチ言ってるよりは、大きな声出したほうが元気は出るかな」

 

 先ほどまで一番重苦しい顔をしていたというのに、穣子の最初から分かっていたとでも言いたげな顔ときたら。まったくやり手だと、静葉は苦笑した。

 神奈子がこちらをじっと見ている。一瞬だけ目を合わせてから、コップの中身を口の中に注ぎ込んだ。アルコールが喉を熱くする。

 

「――ぷはっ」

 

 度数の高い酒を一気に飲み干し、全身に行き渡った熱をそのままに、静葉は叫んだ。

 

「がんばれぇぇぇ! 花子ちゃぁぁぁぁんッ!」

 

 控えめで地味と呼ばれていた秋静葉の叫びを聞いて、妖怪達が一斉にざわめいた。少しだけ羞恥を覚えたが、

 

「負けるなぁぁぁぁぁっ!」

「まだまだいけます、諦めないで!」

 

 穣子と早苗も共に叫んでくれた。それだけで、静葉もまた、大きく息を吸い込める。

 すっかり応援に夢中になった静葉達には、一升瓶を抱えながらしゃっくりをする神奈子の、満足そうな笑みは見えなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「これはまた、賑やかな応援だこと」

 

 変則的な赤と青の妖弾を展開しつつ、文が神社の境内を見下ろした。花子にそんな余裕はなかったが、その声は花子の耳にもしっかりと聞こえた。

 ありのままの自分でいればいいと教えてくれた秋姉妹と、スペルを一緒に考えてくれた早苗だ。こんな空高くまで聞こえるほど、一生懸命に応援してくれている。同点となったことで動揺していた花子の気持ちは、彼女達の声ですっかり元に戻っていた。

 

「……こんなに応援されたんじゃ、簡単には負けられないや」

「そう。まぁ私には関係ないけどね。守矢の巫女はまだしも、秋姉妹とはあんまり仲がいいわけでもなし」

「それこそ関係ないですよ。穣子さんと静葉さんは、私の友達です。あなたがどう思おうと、あの人達が応援してくれるなら――」

 

 弱りかけていた花子のショットに、勢いが戻る。桃色の妖弾が、花子を中心に五つの頂点を取る。

 

「私は、負けない!」

 

 足元に二ヶ所、両肩に二ヶ所、そして頭上に一ヶ所の計五ヶ所から、桃色の二重螺旋が放たれた。

 範囲が狭かった三ヶ所の時とは違い、確実に文の退路を断つ弾幕だ。文のショットには並べずとも、先ほどよりも洗練されている。

 空を埋め尽くす、赤と青、そして桃色の妖弾。二人のショットはお互いの行動を大きく制限し、少しも気を抜けない状況が続いた。

 そこらの弱小妖怪ならば、もうとっくにスタミナ切れで被弾しているか、焦れてカードを使っているはずだ。しかし、花子は不思議と疲れを感じず、また心にも余裕があった。慣れもあるのかもしれないが、文のショットなら、まだまだ避けられるという自信があったのだ。

 文にショットを当てることができれば、勝負を動かすことができる。スタミナも妖力も小さな花子にとって、長期戦は避けたいところだった。ただでさえ、もう精神力だけで戦っているようなものなのだ。

 上半身を右に反らして青の妖弾を回避し、花子は背後を見る。文が回りこんでいた。 

 

「意気込みは結構。だけど、言葉だけではこの射命丸文は倒せないわよ」

 

 ショットを展開しながら腰に手を当て、口元を嫌味に歪める。その頬はわずかに上気しているが、疲労は少なそうだ。

 一方の花子は、秋空の気温は寒いほどだというのに、セーラー服が体に張り付くほど全身汗まみれになっていて、肩で息をする始末だ。しかし、瞳の光は真っ直ぐに文を捉えて、負けぬとばかりに挑発的な笑みを浮かべる。

 

「言葉だけに思えるなら、文さんの目は節穴ですね。新聞記者、向いてないんじゃないですか?」

「ふん、余裕を見せてるつもり? そんなふらふらな状態じゃ、もうスペルを使えないんじゃないかしら。カードはあと三枚も残ってるのにね」

 

 桃色の弾幕を軽々と避け、文が弾幕をばらまく。妖弾は無数のリングを形成して、花びらのように空を彩る。

 何度も避けた文のショットだが、妖弾は放たれるたびに不規則な迷路を作り上げてくる。例え慣れを感じていても、油断はできない。

 速くもなく遅くもないが、確実に相手の精神を追い詰めてくる文の弾幕に、花子は歯を食いしばる。

 小さな体を動かすたびに、汗がほとばしった。五つの二重螺旋を維持しつつ、短く息を吐き出す。

 

「ふぅっ――」

 

 交差するように迫る妖弾を飛び越えて避け、文を狙う。範囲が広まったとはいえ、花子のショットは直線的だ。遊びがある文のそれとは違い、余裕がない。撃ち合いが長引くほど、花子は不利になる。

 それでも、ここでショットを当てなければと花子は思いつめていた。カードを使い切らせるほど文を追い詰めることは難しい。お互いの持ち点が十四点で、カード枚数は三枚なので、カードだけで得点を減らしきることもできない。

 最低でもあと五回、ショットを被弾させなければ。その回数に、花子は酷い焦りを覚えた。胸によぎったその感情はまるで他人事のようにも感じたが、一瞬の焦燥感は花子の冷静さを確実に奪う。

 文のショットを潜って回避した先に、赤と青の妖弾が待っていた。重なるようにして花子へ向かってくる。隙間はまったく無く、その間を抜けることはできない。

 すぐに避けなければと思っても、花子の体は下降した慣性が残っている。その上疲労までもが押し寄せてきており、体が動いてくれない。

 

「や、だっ!」

 

 それはもはや、彼女の意志ではなかった。勝利への執念か、被弾への恐怖か。花子は自分がとった行動に愕然とし、すぐに悔しさのあまり唇を噛みしめる。

 文のショットが消える。上空から見下す宿敵へ、嫌味を言うこともできない。

 自然と突き出していた右手が、震える。握られているのは、桃色のカード。

 

 花子、三枚目のカード宣言。文のショットを回避しきれず、逃げの選択としてのスペルだ。

 

「宣言の撤回はできないわよ」

 

 花子の前へと下降してきた文が告げる。花子はそれに、分かっていると言い返すこともできなかった。

 ショットに追い詰められてしまった。その事実は、この後の撃ち合いで花子の重荷となり、文にとっては余裕となるだろう。

 心が乱れる。自分を嫌いになるほど、花子は胸中で自身を罵っていた。避け切られたら、いよいよ勝ち目はなくなる。まだ、ショットに被弾していたほうが傷は浅かったかもしれない。

 しかし、もう取り返しがつかない。カードをポケットにしまい、花子は震える唇でなんとか言葉を絞り出した。

 

「当てれば、いいだけ。大丈夫」

「そんな蚊の鳴くような声で言われてもねぇ。……本当に大丈夫? 顔、真っ青じゃない」

 

 眉を寄せて花子の顔を覗きこむ文は、まるで本気で心配しているようだった。しかし、今の彼女は敵なのだ。甘えるわけにはいかない。

 花子はもんぺの左ポケットに手を突っ込んだ。秋姉妹からもらった髪飾りとブローチ、その尖った部分が、花子の掌に当たる。ちくりとした小さな痛みが、動揺と焦りを少しだけ和らげてくれた。

 肩をゆっくりと動かし、深呼吸。花子の顔色に血の気が戻り、それを見た文が花子から離れる。

 

「いらない心配だったようね」

「そうですね、全然いらない心配です。このスペルを当てればいいだけの話だもの」

「……よくもまぁ」

 

 最後まで言い切らずに、文が間合いを大きく取る。

 花子が無意識に選び取ったカードは、消耗こそ大きいが、自信のあるスペルだった。自分のタイミングで選べなかったことは悔しいが、今はこのスペルに集中しなければならない。

 全身に妖力が滾る。もはや搾り出しているに近い状態だ。遠めに見える文が、人差し指でかかってこいと挑発してくる。

 いこう。例え避けられて不利になっても――。よぎった思いを、花子はすぐに否定した。

 避けられない、避けさせない。妖力を解き放ちながら、花子は呟いた。

 

「必ず、当ててみせる」

 

 緑の妖弾が、文を囲むようにして、ぶわりと不気味に浮かび上がる。その数は十や二十では足りず、もしかしたら百に届いているかもしれない。

 大した密度ではないが、設置型のスペルはどう動くか分からない。文が警戒の色を強め、いつでも動ける体勢を取った。

 文にばれないように、花子は少しだけ眼下の観衆に目をやった。皆が見ている前で、慌てふためく姿は見せたくない。

 

 このスペルで、戦況を変える。花子は体中の妖力を両手に溜めた。掌が、淡い桃色に輝く。

 

「さぁ、文さん。準備はいいですか」

 

 離れた文には聞こえない、小さな声だった。しかし、文は答えるかのように妖気を高めている。

 設置された緑色の球体全てに、花子の妖力が伝播する。輝きを強める花子の妖弾に、文が身構えた。

 

「それじゃあ、いきますよ」

 

 眉を吊り上げ目を鋭く細めた花子が、腕をいっぱいに広げ、

 

「さん――」

 

 おかっぱ頭のてっぺんで、両手を景気よく打ち鳴らした。

 

「はいっ!」

 

 変化は、その直後に起きた。緑の妖弾全てが、いっせいに動き出したのだ。まるで無数の蛙のように、文の周囲を跳ね回る。

 怪談「ホルマリン蛙の運動会」。妖弾は鬱陶しくバウンドしながら、文の全周囲を囲うように動いていった。

 

 完全に囲まれたら最後、被弾を待つだけになってしまうだろう。文はそれにいち早く気付き、回避と移動を始める。だが、上下に跳ねながらあちこちに動き回る緑の妖弾は、文の動きを徹底的に束縛した。

 彼女自慢の高速を封じ、慎重な回避を余儀なくする。遠くから妖弾を操作しつつ、花子は体力の回復も忘れて文に被弾させることだけを考えていた。

 もし、蛙に見立てた緑の妖弾を高速で動かすことができれば、文に被弾させることは容易だろう。しかし、それでは遊びとしての側面が死んでしまう。あくまで避けられるようにしなくてはならないのが、とてももどかしい。

 それでも、「避けられたはずなのに避けられなかった」という焦燥感を文に与えられれば、以降のショットを当てやすくなるはずだ。ここが勝負どころだと、花子は神経を集中させる。

 文は、花子が思った以上に苦戦を強いられているようだった。跳ね回る妖弾にじわじわと追い詰められ、次第に全周囲を囲まれていく。その様子にはスペル名のような可愛らしさはなく、無数の蛙が文を捕食しているかのようにすら思える。

 これならば、当たる。花子は確信と共に安堵した。完全に囲まれてしまった以上、もはや回避の手立てはない。

 

 その考えは、酷く甘いものだった。

 

 頬を撫でた風が優しかったのは、一瞬だけ。花子はいきなり全身を襲った衝撃に、両腕で顔を覆う。

 

「な、なにがっ!?」

 

 叫びになってしまったのは、そうでもしなければ自分の声すら聞き取れなかったからだ。吹き荒れる風は、花子の声を一瞬で掻っ攫っていく。

 見れば、妖弾に囲まれていたはずの文が、渦巻く風の中心に佇んでいるではないか。花子の妖弾は暴風に巻かれて飛び散り、今もなおバウンドしながらも、その動きは完全に風に支配されている。

 あまりの風に目を開くこともできず、花子は細目で文の姿を捉えた。鋭い目つきでこちらを睨み、見せ付けるように掲げた手には、スペルカード。

 

 竜巻「天孫降臨の道しるべ」。暴風はかなり離れているはずの花子までもを巻き込み、妖弾となった葉を舞い上がらせる。

 攻勢一方だった戦況は一転、スペルの撃ち合いとなる。ようやく生まれた余裕までもを吹き飛ばされ、花子は風に翻弄されながらも木の葉を避け、散らばった妖弾を再び操り始めた。

 花子の妖弾は相変わらず跳ね回り、竜巻に翻弄されながらも、じわじわと文との距離をつめていく。竜巻というスペルの性質上身動きの取れない文は、自身の風で妖弾を吹き飛ばすしかない。

 スペルによって文の武器となった葉の妖弾も、動きが荒い。防御に集中力を割いている証拠だ。かといって、花子も気を抜くわけにはいかない。風に押し戻される妖弾を無理矢理文に近づけることは、思った以上に妖力を削られる。その上、飛んでくる木の葉を避けなければならないのだ。

 

 双方共にほとんど動かずスペルに集中する様子は、一見すれば地味な戦いに見えるだろう。しかし花子は、離れた場所にいる文と自分との間で激しい火花が散っているのを確かに感じた。

 緑の妖弾が、風を押しのけバウンドしながら、文を再び囲んでいく。近づけば近づくほど文が風を強めるので、少しでも油断すればまた飛ばされてしまうだろう。

 

「それでも――あと少しで、届くっ」

 

 苦しげに漏れた言葉は、竜巻に巻かれて消えていく。花子の目には、避けるべき木の葉と敵である文の姿しか見えていない。その文も、目を逸らすことなくじっと花子を見据えている。

 睨みあいながらの攻防。そんな中、ふと文がほくそ笑むのが見えた。同時に、ザァと一際大きな葉のこすれる音が耳に届く。花子は咄嗟に周囲を見回し、

 

「う、うそ……」

 

 竜巻が、大量の木の葉を巻き上げている。足元から、紅葉が入り混じる葉の波が迫っているのだ。

 全てが妖弾となっているわけではないことは、遠目に見ても分かった。しかし、あの波に飲まれてしまえば、中に混ざった妖弾には確実に当たってしまう。風の中を飛んで逃げても、追いつかれるに決まっている。

 木の葉は凄まじい速さで近づいてきている。あとどれくらいで花子に届いてしまうのか、考えている余裕すら惜しい。

 花子は焦った。このままでは被弾は免れない。

 

「どうしよ、どうしたら」

 

 慌てふためいたところで、現実は変わらない。葉の波が奏でる耳障りな波音は、一瞬ごとに大きくなっていく。

 時間がない。花子は咄嗟に文を見た。

 

 文の、挑戦的な笑みを見た。

 

「――ッ!」

 

 さぁ、どうする。文はそう言っているようだった。花子に戦いへの熱意が戻る。

 いくら冷静になれたとはいえ、木の葉の大波は着実に近づいている。花子の取れる選択肢は、ただ一つしかなかった。

 葉の妖弾に当たるより先に、文を被弾させるのだ。浮いている緑の妖弾全てに渾身の力を伝播させ、

 

「っいけぇぇぇぇぇ!」

 

 叫び、両腕を前に突き出す。同時に、風の抵抗を受けていた花子の妖弾が、グンと動き出した。今までの地道な攻防が嘘のように、文へ狙いを定めて進み出す。

 巻き取られている大量の葉が花子を食らうまで、あと数秒とないだろう。十分だと、花子は胸中で断言した。

 

 その場からまったく動かない文は、まるで花子の妖弾を受け止めようとしているかのようだった。

 葉のこすれ合う音が近づく。それでも目は動かさない。

 思考は止まっている。花子はただ、妖弾を操る。

 文が防御の姿勢を取る。妖弾は当たる寸前。

 あとわずか、ほんの一瞬。

 

 そして、その刹那。

 

「あうっ!」

 

 小さな叫びと共に、花子は大量の葉に巻き込まれた。ざらざらとした感触が肌を撫で、妖弾と思われる重い衝撃が花子の体を叩く。

 体を丸めて痛みに耐え、ようやく風と葉が過ぎ去った。ふらつきながらも、何とか意識を覚醒させる。セーラー服は左の袖がほとんど無くなり、あちこちが破けてしまっている。打ち身と擦り傷が体中にあるようで、少し動かすだけでも酷く痛んだ。

 

「あ、当たっちゃった……」

 

 言葉に出してみると、望まない現実感が花子を包んだ。被弾した事実は、どうあっても揺らいでくれそうにない。

 しかし、事実はもう一つあるらしい。視界に入った文が、痛みを掻き消そうと頭を振っている。花子は知らず、声を漏らしていた。

 

「も、もしかして」

 

 花子と文、同時に被弾。双方共に三点減点、二人の持ち点は揃って十一点となった。

 

 望んでいた結果とは違うが、それでも文にまたスペルを当てられた。荒れた呼吸を落ち着かせながら、花子は喜びが表情に出るのを止められなかった。

 ざわめく観衆を無視して、文がショットの妖弾を形成する。もう息を整えたらしい。もう少し休みたかったが、花子は本音を飲み込み、桃色の妖弾を召喚した。

 残るカードは二枚。十一点という持ち点を考えると、花子も文も、スペルは当分使えなくなった。

 ショットは、もうスペルへの布石ではない。文も本気で点を削りにくるだろう。撃ち合いはいっそう激しくなるはずだ。

 

「ここからよ、花子」

 

 自分に言い聞かせ、疲労に悲鳴を上げる体に鞭を打ち、花子は飛んだ。勝負はいよいよ、後半戦に突入する。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 こいしが思っていた以上に、花子は善戦している。

 勝負は拮抗しているが、スペルだけで考えれば、花子はもう二回も文に当てている。その様子を、こいしはまるで自分が戦っているかのような心地で見守っていた。

 最初は遊びに付き合う程度の気持ちで、彼女の練習に付き合っていた。それがいつしか、自分まで本気で文に勝つことを目指していたのだ。

 

「こいし、大丈夫かい」

 

 声に振り向けば、瓢箪を片手に胡坐をかく萃香だった。彼女はきっと、文がこいしに放った暴言のことを言っているのだろう。

 正直に言えば、とても傷ついている。胸が裂けそうな思いだったが、きっと花子がやり返してくれると信じ、頷く。

 

「うん、大丈夫。なんてことないよ」

 

 うまく笑えた自信はないが、萃香は納得したようだった。再び勝負の行方を目で追っている。習って見上げ、こいしは一心に花子を見つめた。

 二人とも疲れが表に出てきているらしく、ショットの撃ち合いが再開してから、お互いに何度も被弾している。

 今の持ち点は、花子が八点、文は九点。体力面では花子が劣り、もう限界を通り越していそうだが、戦いの行方はまだ分からなかった。

 

「すごいよね、花子ちゃん」

 

 淹れたてのお茶をこちらに差し出しながら、ミスティアが言った。

 

「私ならきっと、もうスペルを使っちゃってると思うな。文さん、弾幕ごっこになると目つき怖いから」

「うぅん、そうだねー。私とやった時も、最初はニコニコしてたのに、だんだん怖い顔になっていったよ」

「あの目で見られちゃうとさ、とにかくスペルで追っ払わなきゃって気持ちになるんだ。だから、あの文さんと真っ向から勝負できる花子ちゃんは、やっぱりすごいよね」

「うん、すごい」

 

 花子は強いのだ。こいしが思う強さとは違う、もっと別の力を持っている。

 その強さがあれば、こいしは覚の力から逃げなかったかもしれない。もう戻れない昔のことを悔やむつもりはなかったが、それでも花子の無邪気な強さが眩しかった。

 彼女と友達でいられれば、その強さをこいしも得られる気がしたのだ。その答えは、きっと間違っていない。

 

「花子――」

 

 ギリギリで妖弾を避けている花子は、いつ被弾するかもしれない危うさを感じさせた。

 怪我はしているのだろうか、無理が祟って具合が悪くなってないだろうか。心配は尽きない。

 それでも、駆けつけることは許されないのだ。これは、花子の戦いなのだから。

 こいしにできることは、たった一つ。祈ることだけだ。

 

「きっと、勝ってね」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 ショットでの削り合いは熾烈を極めた。花子の持ち点はさらに減り、六点となっている。対する文は、八点だ。

 しかし、負けっぱなしというわけではない。

 

「ちぃッ!」

 

 叫んだのは、文だ。直後に、バチリと妖弾が破裂する音が響く。桃色の妖気が霧散して、空中に消えていった。

 文がショットに被弾したのだ。これで彼女の持ち点は、七点にまで減少した。

 体力的に言えば、文はまだまだ余裕だろう。しかし、とっくに限界を超えているはずの花子が今も立ち塞がっていることに、調子を崩されているのだ。

 視界は徐々に白ばみ、意識はすでに朦朧としている。それでもまだ戦えるとどうして思えるのか、花子自身にも分からなかった。

 文が体勢を整え、二人ともに妖弾を召喚した。ショットが再開される。

 点差は一点だが、この一点はとても大きかった。花子は六点、つまり、文に残っている二枚のスペルカードで削りきれてしまう点数なのだ。花子は最低でもあと一回はショットを当てなければならない。

 

「勝たなきゃ」

 

 なんとしても、文に勝ってみせる。その想いだけで、花子の二重螺旋はさらに勢いを増した。

 文に対する憤怒の思いは、だいぶ薄れていた。レミリアとこいしへの中傷は許せないし、謝ってほしいとも思うが、それでも嫌いにはなれないだろう。

 見ず知らずの土地で独りぼっちだった自分と友達になってくれた皆に、強くなった花子を見てほしい。皆と並んで立てる妖怪になったのだと知ってほしい。

 それだけのために、ただ、勝ちたかった。

 

 五つの二重螺旋を密集させ、花子は無謀にも文へと突進していった。赤と青の妖弾が密集している文の付近は、今の花子が避けられる場所ではない。

 被弾もやむなし、それでもあと一点。花子の鬼気迫る突撃に、文がわずかに後退する。直後に、彼女は顔の前で両腕を交差させ、防御の姿勢を取った。一際激しい破裂音が周囲に木霊し、花子の全身を衝撃が襲う。

 

 双方、ショットによる被弾。持ち点は、花子が五点、文が六点。

 

 あまりの激痛に、花子は完全に意識を失った。落下するかに思われたが、セーラー服の襟を文につかまれ、目を覚ます。

 頭を振ってからなんとか自力で飛ぶと、呼吸が乱れている文が、わずかな安堵を顔に浮かべた。

 

「ここまできて、気絶負けなんてやめてよね」

「……ごめんなさい」

「謝らないでいいわよ、目は覚めたんでしょ?」

 

 わずかの沈黙。一分にも満たなかったが、その間で花子と文はある程度息を整えた。

 合図があったわけではないが、それぞれ同時に、カードを取り出す。

 

「あなたはよくやったわ、花子。でもね、私にも天狗としてのメンツがある。簡単に負けてやるわけにはいかない」

「分かってます。ここから先は、手加減なしですよね」

「手加減はするわ。負けない程度にね」

 

 文が笑い、後方に飛び退った。カードをしまい、その右手には、八手の葉のような天狗の団扇が握られている。

 

「さぁ、ちょっと強めにいくわよッ!」

 

 団扇を二振り、文の正面に二本の細い竜巻が出現する。

 旋風「鳥居つむじ風」。二つの竜巻は蠢きながら高速で花子へ近づき、赤い妖弾を無数に吐き出し始めた。妖弾は竜巻が起こす突風に飛ばされ操られ、空は瞬く間に弾幕地獄と化す。

 負けてはいられないと、花子はカードをポケットに入れて、両手を天に掲げた。

 この時のために、練習してきたのだ。ずぶ濡れになって、酷い時には川に流され、それでも諦めずに特訓を続けて手に入れた力を、解き放つ。

 

「いけぇぇぇっ!」

 

 叫びとともに、あたりが突然暗くなった。観衆と文が天を仰ぎ見て、絶句する。

 天空を覆う屋根のように、水が一面に広がっているのだ。立ち込める暗雲がそのまま水になったかのような、実に摩訶不思議な光景だった。

 誰もが呆然と見上げていた水の天井が、突如、崩れた。

 怪談「お化けプールの水面下」。花子の胴回り程度の直径を持つ大粒の雫が、文めがけて落下する。水弾は文の頭上で破裂し、細かい妖弾へ変化する。

 水の天井は広い。文がその下をどれだけ逃げ回っても、水弾は先回りして落下し、弾け、妖弾となって降り注ぐ。

 それでも、文に与えた驚愕は一瞬だけだった。すぐに冷静さを取り戻し、水の妖弾を的確に避けていく。花子も文の竜巻と妖弾を避けなければならず、水弾をうまく操れている自信はなかった。

 

 文の風に対抗するために身につけた水の力だが、いくら縁が近いとはいえ、それは花子の本質ではない。河童達ほどうまく操れず、長続きもしないだろう。 

 それでも花子は、文との決闘で何が何でもこのスペルを使いたかった。今も外に住む妖怪は、技術に溺れた人間の影響で、自然との繋がりが薄れてしまっている。花子もその一人だったが、それは妖怪としての力を非常に弱めると萃香が言っていた。 

 きっと、文もそれを見抜いていただろう。だからこそ、水を操り大自然の縁を取り戻したことを証明し、文に認めさせたかったのだ。

 二本の竜巻が空気を巻き取り轟音を鳴らし、花子へ近づく。引きずり込まれれば二度と出られないような威圧感を花子に与え、さらに真っ赤な妖弾までも撒き散らす。

 風に翻弄されているようにも見える文の赤い妖弾は、しかし確実に花子を狙っている。どこへ逃げても必ず追いかけ、また回り込んでくるのだ。かといって、後退しようものなら竜巻が待っている。

 巻き上げられたマグマのような文の妖弾は、第三者からはどう見えているのだろうか。目に入るところ全てが紅蓮地獄となっている花子からは、想像もできなかった。

 体を細かく動かして、四方八方からの弾幕を避ける。そんな状況であっても、花子は常に前進し方向転換をして、竜巻から距離を取る。

 攻撃に集中できないことが、とてももどかしかった。文に見せ付けるために手に入れた力なのに、彼女は花子の水弾を余裕を持って避けている。

 

「……ダメ」

 

 焦るなと、花子は自分に言い聞かせた。だが、一瞬浮かんだ切迫感は文の竜巻と妖弾に煽られ、胸中をかき乱す。

 左方から赤い弾が迫る。わずかな間だけその場に留まり、花子は体を大きく仰け反らせた。そのままくるりと回転し、水弾を操作しながら次に避けるべき妖弾を探す。

 背後で渦巻く風の音が聞こえる。ぞっとするその音を耳から搾り出し、花子は飛んだ。

 

 上空を見上げる。水の天井が小さくなっていく。時間切れが近づいているのだ。文は避けきれてしまうのだろうか。どうにかして被弾させなければと思考を巡らせるが、今の花子では水をこれ以上うまく操れない。

 花子にもっと妖力があれば、状況は変わっただろう。自然の力である水も、もっと長く操れたに違いない。だが、元のキャパシティだけはどうやっても超えられない壁だった。

 降り注ぐ水弾が増し、分裂もさらに細かくなる。最後のあがき、スペルの終盤だ。かなり避けにくい工夫をしたというのに、文は見た瞬間に全てを理解したかのように、細かく散った水弾を容易にかわしてくる。

 残り時間はもう二十秒程度しかない。このままでは回避が成立してしまい、文に加点されてしまう。よしんば花子が文のスペルを避けきったとしても、持久戦になってしまえばもう花子に勝ち目はないだろう。

 

「どうしたら――」

 

 呟きかけて、花子はふと自分の体勢に気がついた。

 被弾する気がまるでしない文に慌てすぎた結果か。それとも、集中力が底をついたのか。現状を理解した花子を襲ったのは、大きな後悔だった。

 時間で言えば、ほんの数秒程度のものだろう。しかし、弾幕ごっこにおいては致命的な時間といえる。

 花子は、その場に停止していた。迫る妖弾と竜巻を見もせずに、文を注視してしまっていたのだ。

 

「ッ――」

 

 焦りが膨れ上がる。もはや自分に冷静な判断など期待できず、花子は直感だけで自分を囲んでいた赤い妖弾を避けた。

 当然のことだが、動き続けていた時と違い、弾の密集率があまりに高い。よくも止まっている間に当たらなかったものだと、心のどこかで呟いた。

 もんぺが妖弾とかすり、破ける。その感触と音が、花子の意識をわずかに逸らした。

 

 そして、結果が訪れる。

 

 凄まじい衝撃。花子は背中を鈍器で殴打されたかのような感覚に襲われた。

 疲労困憊な状況で意識を保てたのは、奇跡に近い。痛みに縮こまっていると、竜巻と妖弾が消えた。水の天井も蒸発したかのように霧散して、青空が戻る。

 徐々に痛みが柔らいでも、花子は体を丸くしたまま動けなかった。全身が震える。

 

「あ、あ……」

 

 花子、スペルに被弾。減点三、残りの持ち点は二点。花子のスペル終了前に被弾したため、文は六点から持ち点の変動はない。

 

 互いのカードは残り一枚ずつ。一枚では、文の点数は削りきれない。対し、花子は二度のショットで敗北が決まってしまう。文はもう、スペルを使わなくても勝てるだろう。

 負けが決まったようなものだ。花子は悔しさでいっぱいになり、掌が真っ白になるほど、拳を握り締めていた。

 

「いやぁ、まさか水を操るとはね。さすがに驚いた――って」

 

 やれやれと汗を拭いながらやってきた文が、花子の顔を見て眉を寄せる。

 

「ちょっと、なんて顔してるの。あなたの勝ちたいって気持ちはよく伝わってくるけど、泣くほどのもんでもないでしょうに」

「私には、大切な戦いなんです……。文さんにとっては、この決闘、やっぱり遊びなんですか?」

 

 半分涙声になって、花子が上目遣いに文を見上げる。その視線にたじろいで、彼女は頬を掻いた。

 

「まぁ、最初はそう思ってたわ。一枚目のスペルあたりまでかしら。でも花子があんまり真剣なもんだから、ちょっと本気になっちゃった部分はあるかな」

「そうですか……」

「そんなことより、私が言いたいのは、あなたのその態度よ。なに、もう降参するの? まだ点数もカードも残ってるじゃない」

 

 花子の心は挫けていた。もう体力もない。気力も尽きた。こんな有様で、どうやって戦えというのか、教えてほしい気持ちだった。

 もし文も同時に被弾していたり、花子がスペルを避けられていれば、まだやる気も出ただろう。圧倒的不利な状況が、花子に敗北感を植え付けてくる。

 

「……」

 

 声が出なかった。まだ自分のどこかで、負けを認めたくない気持ちがあるのだ。目を伏せ、どうしたものかとぼんやり考える。

 文は、じっと花子の言葉を待っているようだった。このまま黙っていても仕方ないことは分かっているのだが、答えが見つけ出せない。

 

 数分が過ぎたころ、深々と溜息を吐き出した文は、短く告げた。

 

「花子。あなたに最後のチャンスを上げるわ」

 

 凛とした声と共に、文がスペルカードを取り出す。

 最後の一枚だ。彼女の意図を理解すると共に、花子の心臓が大きく脈打つ。

 文の口元に浮かんだ微笑は、とても力強く、大妖怪の貫禄を漂わせるものだった。花子に緊張が走る。

 目に見えて分かるほど、文が妖力を高める。天と地ほどの実力差を見せ付けられ、それでも花子の体には、不思議と力がみなぎってきた。

 

 敵に情けをかけられたが、これを逃せば勝機はない。

 他の選択肢など、あるはずがなかった。

 

「決着をつけましょう」

 

 鋭く重い文の言葉に、弱気な心を投げ捨てた花子は、はっきりと頷いた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 まだ秋とはいえ、山頂は冷える。普段外出をしないパチュリーは、寒さを少しでも凌ぐため肩から毛布を被っていた。

 新たな友人の戦いを観戦しているレミリアとフランドールは、いつになく真剣だ。時折悲鳴じみた声を上げながら、一生懸命に応援している。

 外出という人生初の大イベントに浮かれていたフランドールだが、憧れていた館の外への好奇心もすっかり失せてしまったようだ。彼女があんなに友人思いであるとは、紅魔館の住人は誰も知らなかったのではないだろうか。

 普段他人の前では冷徹な吸血鬼を装っているレミリアも、今ばかりは感情を惜しみなく表している。彼女と長年親友をやってきたパチュリーは、素直なレミリアを見れるのは自分と咲夜だけの特権だと思っていただけに、少し寂しくもあった。

 

「……ま、レミィも妹様も、これで少しは垢抜けるでしょう」

「パチュリー様もね。ご自身から進んで外出されるくらいですもん」

 

 イタズラっぽく舌など出して言ったのは、パチュリーの使い魔であり大図書館の司書でもある、名もない小悪魔だ。

 紅茶の入ったカップを差し出してくれた小悪魔に、パチュリーは「そうかもね」と、小さく微笑を浮かべた。

 パラソルの下に敷かれた真紅のシートには、弁当箱がいくつも開けられていた。もうだいぶ減っているが、咲夜と美鈴が残りを少しずつ箸で突いている。パチュリーも少し食べたのだが、元々小食のため、ほとんど手をつけていない。

 吸血鬼姉妹も最初は喜んで箸を伸ばしていたのだが、決闘が盛り上がるにつれてそちらに夢中になってしまい、早々にごちそうさまと宣言していた。とはいえ、レミリアの好物である納豆巻きとフランドールがリクエストしたミートボールは、ことごとく無くなっているのだが。

 上空の戦いは、どうやら滞っているようだ。弾幕ごっこで睨みあいとは珍しいが、恐らく文が花子の体力回復を待ってやっているのだろう。 

 

「お姉さま、花子はあと何点持っているの?」

 

 妖弾は一つも飛んでいないというのに、フランドールの声は緊張で強張っていた。すると、レミリアも似たような声音で、

 

「二点よ。フラン、自分で数えてよね」

「数えてたよ。ただ、信じたくなかっただけ」

「私だってそうなんだから、言わせないでちょうだいよ」

 

 パラソルの影が途切れる寸前の場所から、四つんばいになって覗き込むように空を見上げている姉妹を後ろから眺め、パチュリーは目を細めた。

 フランドールを外に出すと言った時、どんな問題が待ち受けているのかと皆が冷や汗をかいたものだが、レミリアと仲良くしている姿を見ると、自分達が抱えていた不安が全て杞憂だったように思える。

 無論、フランドールはまだまだ加減が下手なので、少しずつ慣らしていく必要はあるだろう。それでも、彼女は外に出られたのだ。五百年という時の壁を乗り越えたレミリアの決断が、何よりも大きな意味を持っていた。

 そのきっかけとなったのが、あの小さな御手洗花子なのだから、世の中は分からない。紅茶を一口飲み込んで、パチュリーは思案に耽る。

 

「あの子の能力――トイレで子供を驚かす以外に、何かがあるのかしら。例えば、そう。花子は子供がたくさん集まる場所に住んでいたのだから、精神的に未成熟な者の心を操ることができるとか。そう仮定すると、レミィや妹様があんなに必死になるのにも、鬼や覚の妹と行動していることもつじつまが合うのよね」

「うーん、それは能力じゃないと思いますけどねぇ」

 

 体が温まるようにと紅茶のポットにジンジャーを入れながら、小悪魔が苦笑した。

 

「きっと花子さんは、純粋なんですよ。子供を驚かすってことは、子供の気持ちを理解しなきゃいけないってことです。だからあの子はきっと、誰よりも子供で、真っ白なんじゃないですか?」

「なるほどね。つまりレミィ達は、花子の純粋さに当てられたってことかしら」

「素直って、伝染するんですよ。次はパチュリー様かもしれませんね」

「それは大変。予防しておかなければね」

 

 冗談めかして返事をしつつ、パチュリーはカップをソーサーに置いた。

 空にいる文の妖力が、パラソルに遮られて見えないパチュリーにも分かるほど大きくなる。レミリアとフランドールも当然気付いているようだ。

 

「スペルかしら」

 

 レミリアが呟く。フランドールはそれに、可憐な顔にはいまいち似合わない神妙な顔で頷いた。

 

「おっきいのがくるよ。ショットでも勝てるのに、大人げないなぁ、天狗は」

「でも、これを花子が避けきれたら、花子の勝ちよ」

「あ、そっか!」

「まだチャンスはあるわ、まだ」

 

 希望は捨てていないらしいが、花子の妖力はもうかなり小さくなっている。レミリアへの侮辱を取り消させるために、文字通り死力を尽くしていると言えた。

 もしも花子の立場が自分だったら、彼女と同じように死ぬ気で決闘を挑むことができるだろうか。パチュリーはその自問に、ほんのわずかにかぶりを振る。

 きっと、悪口の内容をレミリアに告げ、彼女自身に叩きのめしに行かせるだろう。お互いの力を信じていると言えば聞こえはいいが、どこか冷たく感じなくもない。それでも、レミリアとの友情はそうあるべきだと思うのだ。

 

「私達は、これでいいのよ」

「? なんですか?」

 

 首を傾げる小悪魔に小さく肩をすくめ、

 

「なんでもないわ。さて、私もそろそろ――」

 

 レミリア達と決闘を見守ろう。そう言いかけて立ち上がり、全身を冷たい風に打たれて、再びおずおずとその場に座り込む。

 毛布を肩からすっぽり被って、小悪魔に告げた。

 

「……紅茶のおかわりをくれるかしら」

「はい、すぐご用意しますね」

 

 笑いを堪えながら紅茶を淹れる小悪魔に、何も言えない自分が少し恥ずかしかった。しかし、生まれつき病弱なのだから仕方がないと、開き直る。

 酒宴に参加している妖怪達が、喚声を上げた。レミリアとフランドールも、日差しに当たってしまうのではと思うほど騒ぎ出している。決闘が再開したらしい。

 戦いが見えなくとも、状況の把握はできる。誰にも伝わらなくとも、心の中ではそれなりに花子を応援してもいるのだ。

 小悪魔から紅茶を受け取り、まだ温まらない体を毛布の中で震わせながら、

 

「私は、これでいいのよ」

 

 呟きは、吸血鬼姉妹のやかましい応援に包まれ、消えてなくなった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 あまりにも強大な妖力。見ているだけで食われてしまいそうな気迫。花子は怖気づきそうな自分を必死に奮い立たせる。

 文がカードをしまう。溢れ出る妖力をそのままに、彼女は鋭く花子を睨みつけた。

 

「天狗の本気――その断片を、あなたに見せてあげるわ」

「っ……光栄です、と言ってあげればいいんですか?」

 

 なんとか余裕を見せようと吐いた言葉だが、文には花子が怯えていることくらい分かっているだろう。

 それでも、逃げるつもりはないとだけ表明できればいいのだ。震える手を無理矢理拳に変えて、花子は文を見据える。

 覚悟が伝わったのだろう。文が頷き、その身を風が包み込む。

 

「勝っても負けても、恨みっこなし。さぁ、いくわよ!」

 

 声が耳に届いた瞬間、文が消えた。直後に莫大な妖気を感じ、花子は振り返る。

 妖力の塊が、風を従え巨大な弾丸となって迫っている。それを目にするや、驚く暇もなく、左半身を全力で反らす。何とか避けれたものの、空気を引き裂き通り抜けていく妖力が、花子の全身をちりちりと刺激する。

 

「妖弾……、じゃない」

 

 速さのあまり分からなかったが、あれは妖弾などではない。妖力を纏い風の化身となった、文自身だ。

 風を支配する天狗の力、「幻想風靡」。圧倒的な妖力の前では、手の込んだ小細工など全て無に帰すだろう。

 瞬く間に遠くまで移動してしまった文が、急激に方向転換をし、再びこちらを向く。花子が身構える暇もなく、距離は一瞬でなくなった。

 無理な姿勢での回避が、脇腹に痛みを生む。しかし、無視するしかない。文はもう、体勢を崩した花子を捉えんと迫っているのだ。

 通り過ぎ、振り返り、再び迫る。その間はほんのわずかしかなく、花子は考える余裕もなく勘でかわすしかなかった。

 大きく体を仰け反らせ、その背中すれすれを文が通過する。刹那に吹き荒れる風が、花子を吹き飛ばした。

 

「まっ――ずい!」

 

 思わず叫んでしまいながら無理矢理体勢を固定し、すぐに宙返り。さきほどまで足があった部分を、射命丸文という暴風が通り抜ける。文の姿はわずか一瞬しか目視できず、表情など分かるはずもない。

 回復したと思った体力は、あっという間に奪われていく。息をつく暇もなく襲ってくる文から視線を外せず、集中力も今までで一番求められた。

 時間が長く感じられる。もうとっくに数分が過ぎているようにすら感じられたが、実際は五秒と過ぎていなかった。

 

 真下から文が接近する。後退してやり過ごし、突風にも負けずに瞼を開け、文から目を離さない。

 上空に飛んだ文を見上げ、花子は小さい舌打ちをした。昼の太陽は天高く、文が逆光となってよく見えないのだ。文の妖力と風の音、そして花子の勘で避けるしかない。思考を止め、その場から急いで移動する。

 一瞬だけ文に背を向ける形となり、すぐに振り返る。反応の遅れは刹那とはいえ、文のスピードの前では致命的といえた。

 落下の慣性を殺し、急激な方向転換をした文が、一瞬で間合いを詰めてくる。花子は咄嗟に、下方へ移動した。文はひたすら真っ直ぐ進み、やがてまたこちらへ振り返る。

 

「やっぱり、そうなんだ」

 

 花子は見抜いていた。このスペルでは、文は真っ直ぐしか飛べない。花子の背中を追いかけることができないのだ。

 文が使った二枚目のスペルの強化タイプか。そんな考えが脳裏をよぎったが、それとはまったくレベルが違うことを、花子はすぐに思い知る。

 ただでさえ速い文の速度が、さらに上がった。もはや目で追える代物ではない。彼女は花子への狙いを一旦逸らし、自ら山の木々に飛び込んでいった。木がなぎ倒されるような轟音が聞こえ、文はすぐに空へと現れる。

 大量の、木の葉を引っさげて。森の木々から奪い取った葉が妖弾となり、文が飛ぶ軌跡に沿って巻き上げられる。

 視界が不明瞭になるばかりか、葉そのものに当たってもいけないのだ。回避する対象が増え、花子はどこを見たらいいのか、いよいよ分からなくなった。

 

 葉の妖弾に注意を払いつつ、風の音に耳を澄ます。真横、右側面だ。舞い落ちる葉のことも考えると、前進以外に避ける道がない。

 前に進み、同時に花子がいた場所を凄まじい風が通り抜ける。落下する葉が再び舞い上げられ、それらを回避しながら、すぐに文を目で追った。

 最初とは明らかに速度が違う。こちらに戻ってくるまで、一瞬しかない。文が通るたびに葉が上空へ運ばれるため、葉の妖弾は一向に減らなかった。花子の精神力は一気に削れていく。

 

 呼気が漏れる。文は目前。さらに、頭上と四方を囲むように葉の妖弾が舞っている。

 文の下を潜るように避け、その先にあった葉に当たらないよう注意しながら、さらに体を右に捻る。もう接近していた文の妖力が体をかすり、セーラー服の脇腹が破れた。

 危なかったが、まだ被弾ではない。安心している暇もない。

 上からの轟音。抉るような角度での体当たりだ。風に葉が吹き飛ばされ、文のために道を開けているかのようだった。

 

 花子の周りに浮いている葉の数は、相変わらず多い。下手に回避行動を取れば当たってしまう。

 文が落下に入った。考えている時間はない。花子は迷わず、文へ向かって飛び上がった。

 ほぼ博打であったが、なんとか間に合う。葉の囲いから脱出し、激突寸前でわずかに身をそらし、文だけを回避した。

 

 スペルの残り時間、あと五秒。

 頬を汗が伝う。葉を避けることには慣れたが、迫る文の気配が恐ろしい威圧感を持っていた。

 

 四秒。

 高速で接近する文が纏う妖力は、さらに大きくなる。かなりの距離を取って回避したというのに、花子の背筋を悪寒が走る。

 

 三秒。

 落ちてくる葉に遮られ、文の姿が見えない。音と気配を頼りに、体を右に傾ける。怒涛の風が、空を切る。

 

 二秒。

 攻撃が止んだ。スペルが終わったのかと錯覚したが、葉の妖弾は健在だ。不気味な静寂が花子を包む。

 

 一秒。

 膨れ上がる妖力。真後ろ、それもすぐそばだ。花子はこの時になってようやく、最後の最後で油断したことを知った。

 振り返る暇もなく、背中にとてつもなく強い衝撃が襲う。文の妖力が爆散し、木の葉が連鎖的に砕け散っていく。

 

「かはっ――」

 

 花子、スペルに被弾。三点減点し、持ち点は、〇点。

 

 修行の果てに挑んだ決闘は、花子の敗北に終わった。

 しかし、花子はそれを理解することすらできなかった。息ができないほどの鈍痛は、花子に残っていた最後の力を完全に奪い去ってしまったのだ。

 落下しかけていた花子は、文に横抱きにして受け止められた。痛みがわずかに和らぎ、途端に気が遠くなる。

 体力も、妖力も、気力までもを使い果たした花子の視界は、徐々に黒く染まっていく。

 

「訂正するわ、花子。あなたは――とても強かった」

 

 文が零した称賛は、闇に塗られる花子の意識に溶けていった。



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そのじゅうよん 決着!その友情は永遠に!

 文が酒宴の会場に降り立つと、最初に駆け寄ってきたのはこいしだった。

 

「花子ぉ! あぁ、怪我してる! 萃香さん、みすちー!」

「落ち着いてください、死んでるわけじゃないんですから。弾幕をすれば、このくらいの怪我はいつものことでしょう」

 

 一応告げてはみたものの、こいしは全く聞いていないようだった。嘆息を漏らし、花子をこいしに預ける。

 

「疲れて気を失っているだけです。無理に起こしたりしないで、ゆっくり寝かせてあげてください。あぁでも、水を少しだけ、無理矢理にでも飲ませたほうがいいかもしれませんね。喉がカラカラでしょうから」

「……っ」

 

 眉を寄せて睨み上げてくるこいし。文は彼女を出しにして花子を奮起させたことを思い出す。今思えば、あの内容はあまりにも酷いものだった。両手を挙げて降参を示す。

 

「分かりました、負けです。花子のやる気を出させるためとはいえ、あなたを傷つけたことは謝りましょう」

「……ふん」

 

 怒りは収まらないらしく、こいしは自分達がいた茣蓙(ござ)へと花子を運んだ。上空で知らない妖怪同士が弾幕ごっこを始めたのを尻目に、なんともなしにその後ろを追いかける。

 体中傷だらけの花子を、ミスティアが手当てしていく。時々苦痛に顔を歪めるものの、花子が目を覚ますことはなかった。

 少しやりすぎただろうかと、文は花子を見下ろした。弱小妖怪とは思えない粘りを見せられ、加減を間違えたかもしれない。

 

「でもまぁ、たぶん大丈夫でしょう」

「だろうね。花子は結構頑丈だから、この程度じゃびくともしないよ」

 

 声に首を動かせば、あれもこれもと手当ての道具を取り出すこいしの横で、萃香がいつものように酒を呷っていた。彼女は言葉通り、そこまで心配していないようだ。

 

「……負けちまったか。がんばってたんだけどね」

「私にも立場がありますから」

「勝負なんだ、構わないよ。むしろわざと勝たせてたりなんかしたら、ただじゃおかなかっただろうね」

 

 口元をにぃと歪める萃香に、文は「おぉ、怖い怖い」と肩をすくめた。

 決闘が過ぎてもなお、酒宴はいつものように続いている。そのど真ん中を、二つの日傘が走ってきた。レミリアとフランドールだ。

 レミリアは靴のまま茣蓙に入り込み、フランドールは文を蹴り飛ばし、花子へと駆けつける。加減を知らないフランドールの蹴りをもろに食らい、文は盛大に転がった。

 

「花子! こんなになるまで、私のために……!」

 

 花子の手を取り、レミリアは俯いてしまった。

 割りと遠くまで転がっていった文だが、適当なところで無理矢理立ち上がる。服についた砂や埃を払いながら戻ってくると、フランドールが頬を膨らませて待っていた。

 

「ちょっと天狗! よくも花子をこんな傷だらけにしてくれたわね! 花子に何かあったら、どうするつもりなの?」

「……私は今、あなたに軽く殺されかけましたけどね。というか皆さん、花子に特別な恩でもあるので? 彼女、なんだか気持ち悪いほどちやほやされてますが」

 

 その問いに、フランドールは目をぱちくりとさせた。質問の意味が分からないとでも言いたげだ。

 文の疑問には、ミスティアが答えてくれた。花子の手当てをとりあえず終えて、

 

「文さん、分かりませんか? 花子ちゃん、すっごく一生懸命で、素直で、優しいじゃないですか」

「若干押し付けがましい優しさだと思いますが、まぁ確かに」

「でしょ? 幻想郷にはあんまりいないタイプだから、なんだか自然と惹きこまれちゃうんですよね」

「ふむ、なんかあんまり釈然としませんが、まぁいいです。そういうことにしておきましょう」

 

 ここにいる妖怪は、萃香以外、文よりもかなり年下だ。もしかしたら、文が忘れてしまった純真さを、彼女達は持っているのかもしれない。

 こいしが花子の口に少しずつ水を入れ、ゆっくり飲ませてやっている。邪魔になると見たのか、その横にいたレミリアが、花子から離れた。

 後姿ではあったが、レミリアの腕は目をこすっているような仕草を見せている。まさかとは思ったが、文は聞かずにはいられなかった。

 

「レミリアさん、もしかして、泣いているので?」

 

 声にぴくりと反応して、レミリアが立ち上がる。彼女はあくまで後ろ向きのまま、何度も目をこすり、しゃくりあげながら、

 

「……ば、バガなごと言わないでぢょうだい! 誇り高ぎっ、吸血鬼の、私が、泣ぐわげっ――」

「あぁ、ごめんなさい。もういいです、ホントすいません」

 

 軽く涙を見せている程度だと予想していたのだが、かなり本気で泣いていたため、文はなだめるようにレミリアを座らせた。これには、妹のフランドールも若干呆れているようだ。

 駆けつけた咲夜がレミリアを慰めているのを眺めつつ、ミスティアに分けてもらった酒を口に含む。疲れた体に、美酒は沁みる。

 ようやく体の力が抜け、溜息をゆっくりと吐き出してから、文は萃香に話しかけた。

 

「花子が私に決闘を挑んだ理由、ご存知ですよね」

「あんたが吸血鬼をボロクソに言ったからだろ? 花子から何度聞いたか分からないよ」

「そうですか、すみません。ところが困ったことに、決闘には私が勝ってしまった。私としては、レミリアさんへの侮辱は割りとどうでもいいことなので、取り消すつもりはないんですよ」

「なるほど。天狗らしいねェ」

「どうも。それで、花子に伝えてほしいことがあるのですが――」

 

 コップを置いて、立ち上がる。全身のコリをほぐすために、大きく伸びをした。

 

「再戦はいつでも受け付ける、かい?」

 

 萃香に訊ねられ、文は肩をすくめて答えとした。

 日傘を咲夜に持たせ、花子の手を両手で包むようにしているレミリアは、自慢の大きな羽が気の毒になるほど垂れてしまっている。傲慢で残虐非道な吸血鬼はどこへやら、といった有様だ。隣に座るフランドールも、最初こそ姉と同じくらい花子の心配をしていたものの、今は「大丈夫だからそっとしておこうよ」と、レミリアの肩を叩いてやっている。

 

「レミリアさん」

 

 声をかけると、レミリアはゆっくりとこちらを向いた。もう泣いてはいないものの、頬に涙のあとが残ってしまっている。こうして見ると、本当にただの幼子だ。

 彼女がこんなに素直な性格だったことに驚きつつ、文は告げる。

 

「……いい友人を持ちましたね」

「そう、ね。本当に、そう思うわ。私にとっても、妹にとっても」

「うん」

 

 フランドールも同意の首肯をした。嫌われ者の吸血鬼にとって、花子はオアシスのような存在だったのかもしれない。

 ここにいる者は皆が皆、花子を大切にしている。分かってはいたが、文は途端に疎外感を覚えた。敵として戦ったのだから、無理もないが。

 邪魔だと分かりながらも留まり続けるほど、射命丸文は空気を読めない女ではない。皆が座る茣蓙に背を向け、

 

「それじゃあ、私はこれで」

「どこに行くんだい、もっと呑んでいきなよ」

 

 分かっているだろうにと、意地悪い萃香の誘いに、文は苦笑した。

 

「お誘いはありがたいんですが、私は天狗仲間と楽しむことにします。ここに私がいるのは、場違いですしね」

 

 それ以上、引き止める声はなかった。わずかの間をおいて、文は歩き出す。

 天狗が集まる鳥居付近は、とても居心地がよさそうに見えた。しかし、あそこに溶け込んだとしても、文は花子ほど大切にはされないだろう。

 当然なのだ。文は誇り高い天狗一族で、過度な馴れ合いは好まない。もう千年もそうやって過ごしてきたのだ。

 だというのに、文に残っていた少女としての心は、花子をとても羨んでいた。

 

「……あー」

 

 頭を掻く。自分で抱いた気持ちだというのに、無性に恥ずかしかった。

 

「私も花子の純粋さとやらに、当てられたかな」

 

 嘆息を漏らしながら、天狗仲間に合流する。皆口々に決闘の感想を述べながら、酒を勧めてくれた。

 花子との決闘が終わったとはいえ、まだまだ日は高い。今日の宴会は、とても長いものになりそうだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 サラサラと、川の水は流れていく。水面に揺れる半月を、花子はぼうっと見つめていた。

 何ヶ月も過ごしてきた、いつもの川原。当分戻ることはないと思っていたのに、まさかその日のうちに戻ることになるとは。何度目か分からない大きな溜息を吐き出した。

 決闘の最後で気を失ってしまい、花子が目を覚ましたのは夕方だった。寝る場所を探すのもなんだか馬鹿らしいので、半分我が家となっていた焚き火小屋に戻ってきたのだ。

 

 決闘に、敗れた。それは揺るがぬ事実であるし、花子もそれをしっかりと受け止めている。悔しかったが、負けは負けだ。

 分かっているはずなのに、花子の心はぽっかりと穴が開いたようだった。何もする気が起きず、川原に戻ってからもう何時間も、ずっと膝を抱えて川を眺めている。

 目が覚めた時には、まだ宴会が続いていた。しかし、紅魔館の皆は帰ってしまったあとだった。妖精メイドだけに任せているので、その後始末を総出でやらなければならないらしいと、ミスティアが教えてくれた。

 

「……あぁ、そっか」

 

 心が空虚な理由に、花子はようやく気がついた。

 足をぎゅっと抱き寄せ、膝と膝の間に顔を埋める。

 

「私、何もできなかったんだ」

 

 友人への暴言を、撤回させることができなかった。白熱した弾幕ごっこの中であっても、花子は一瞬たりともその目的を忘れていなかったのだ。

 負けてしまった。もう、文の言葉を取り消すことはできない。そのことが、酷く悲しかった。

 

「私は――」

「花子ぉ」

 

 背後から聞こえた間延びした声は、そちらを見ずとも誰かがすぐに分かった。

 

「こいしちゃん」

「はい、これぇ」

 

 こいしが差し出したのは、半分に折られて紙袋に入った、焼き芋だった。もう半分は、こいしが持っている。

 受け取り、紙袋越しに伝わる温もりに、花子は目を細める。

 

「暖かい。こいしちゃん、これ、どうしたの?」

「花子が寝てる間にね、秋の神様がくれたんだぁ」

「……そっか。お礼、言わなきゃね」

「いっぱい言っといたよぉ」

 

 元気いっぱいに答えてくれるこいしだが、彼女もまた、花子を奮い立たせるために利用されていた。酷いことを言われて、とても傷ついたに違いない。

 謝罪の言葉が喉まで出てきたが、花子はそれを飲み込んだ。こいしは今、花子を慰めてくれているのだ。謝られても、きっと彼女は困ってしまう。

 焼き芋を一口、そっと口に含む。とても熱かったが、甘くて、舌の上で溶けていくようだ。

 

「おいしいね」

「うん。おいしいねぇー」

 

 川音の心地よい響きと焼き芋の温かさが、胸に沁みる。ただ隣にいてくれるこいしの優しさも、また。

 ぎゅっと心臓を締め付けられるような心地になり、花子はたまらず、もう一口焼き芋を齧る。

 

「……おいしい」

「うん」

「ホントに……おいしいねっ――」

 

 そこからは、もう声にはならなかった。溢れそうになる感情を、花子は必死に押さえ込む。

 敗北の辛さが、今になって押し寄せてくる。レミリアとこいし、育ててくれた萃香にも、初めての外出で駆けつけてくれたフランドールにも、応援してくれた全ての人に、ただただ申し訳なかった。

 何も、何一つ成し遂げられなかった。偉そうなことを言っておきながら、結局無様に負けてしまった。

 視界が滲む。瞳に溜まる涙が零れないように、花子は半月を見上げ、今にも声が出てしまいそうに震える唇を、ぎゅっと閉じる。

 悔しさはどんどん悲しみに入れ替わっていく。泣いてはいけない、こいしを困らせたくないと、無駄だと分かっていながらも目に力を入れてしまう。

 

 耐えていた辛さが瓦解し、花子は今日までの何もかもを後悔し始めた。

 レミリアはどう思っただろう。きっと幻滅にしたに違いない。

 魔理沙達も、秋姉妹やミスティアも。もしかしたら、萃香とこいしも。

 決闘なんて申し込まなければよかったのだ。そうすれば、こいしが傷つかなくて済んだはずなのに。

 そもそも、強くなりたいなんて思わなければよかったのだろうか。もし特訓をしようなどと思い立たなければ、萃香や慧音にも、ミスティアや早苗にも迷惑をかけなかったに違いない。

 あるいは、妖怪の山に登ろうとしたことが全ての間違いだったのかもしれない。文と出会うことがなければ、もしかしたら、何も起こらなかったのではないか。

 いや、それよりも――

 

 花子が、幻想郷に来さえしなければ――

 

「違うよ、花子。私もみんなも、そんなことちっとも思わないよ」

 

 聞こえてきたこいしの声は、いつもよりさらに優しく、少し大人びて聞こえた。

 すんと鼻を鳴らして、花子は少しだけ顔を上げる。

 

「あれ、声に、出てたかな」

 

 焼き芋を抱えたまま、こいしの顔を横目で覗く。空を見上げて、穏やかな笑みを浮かべていた。

 花子は気付いた。こいしはこちらを向いていない。緑の瞳は、間違いなく夜空の月に向けられている。

 ただ、その胸元、閉じているはずの第三の目が、花子を見ていた。

 閉ざしたはずの覚の瞳が、わずかに瞼を開けて、花子の心を見ているのだ。

 

「こ、こいしちゃん……!」

「えへ、久しぶりだと、ちょっとしんどいや」

 

 苦笑いを浮かべるこいし。いつものこいしらしくない大人びた笑い方は、まるで彼女が別人に代わってしまったような印象を花子に与えてくる。

 こいしが第三の目を閉ざした理由は、萃香から聞いていた。覚の力は嫌われる。嫌われたくないから、瞳を閉ざす。妖怪としてのアイデンティティを捨ててまで、こいしは他人に忌避されることから逃げたのだ。

 心を読むことをやめたこいしは、覚であることを止めたようなものだ。並大抵の覚悟でできることではない。

 だというのに、こいしは今、花子の心を読んでいる。

 

「私は、嬉しいよ。花子が幻想郷に来てくれて。吸血鬼さんと出会ったことも、山で天狗さんとケンカしたことも、それで萃香さんと修行を始めたことも、全部嬉しいよ。おかげで、私は花子と友達になれたんだもんね。

 みんなも、きっとそう思ってるよ。心は読んでないけど、萃香さんもみすちーも、吸血鬼さんも、霊夢とか魔理沙もね。もしかしたら、あの天狗さんも。

 みーんな、花子と友達になれたことを喜んでるよ。泣き虫だけど優しい花子のことが、きっと好き――うぅっ」

 

 苦しそうに、こいしが胸を押さえる。花子は慌てた。

 

「こいしちゃん、なんで……」

 

 手を差出し、それをどうすることもできず、右往左往するしかない。そんな花子の動揺を見て、こいしが小さく笑う。

 

「花子なら、信じられるかなぁって。覚の力を使っても、私のこと、嫌いにならないと思ったの」

「嫌いになんてならないよ。でも、あの、辛いなら、無理しないで?」

「うん」

 

 短い返答のあと、こいしは再び瞳を閉ざした。ゆっくり重い息を吐き出し、

 

「えへへ。私はもう、覚に戻れないみたいだね」

「そんなこと……」

「いいのいいの。このままの方が気楽だし」

 

 再び焼き芋を頬張るこいしに、花子は安堵した。いつもの調子に戻ったからだ。

 温まった白い息を吐きながら、こいしは川に揺らめく半月を見つめる。

 

「元気がない花子はやだよ。花子は泣き虫だから、たまには泣いてもいいけど、やっぱり笑ってるほうがいいよ」

「……うん」

「私ね、最近までずぅっとつまらなかったんだぁ。でも、花子と友達になってから、毎日がすっごい楽しいの」

「うん」

「でもね、私だけが楽しいのは、ダメなの。花子も一緒に楽しくなくちゃ、ダメなんだぁ」

 

 いつも何を考えているのか分かりにくいこいしだが、彼女ほど友達思いな少女を、花子は知らない。

 嫌われる怖さを知っているからこそ、誰よりも繋がりの輪を大切にする。そんなこいしにこんなにも大切に思われていることが、嬉しかった。

 

「……ありがと、こいしちゃん。辛い思いしてまで、慰めてくれて」

「元気出たぁ?」

「うん、元気元気」

 

 にっこり笑うと、こいしも満足そうに頷いてくれた。

 それからしばらく、二人の間に会話はなかった。冷たい風と川の水だけが時間と共に流れていき、その沈黙は不思議と心地よい。

 

 揃って川を眺めていると、花子とこいしの目前、空中に、突然切れ目が走った。両端がリボンで結ばれた不思議なスキマは、もう見慣れたものだ。

 裂け目から上半身を出し、まるで窓の縁でもあるかのようにスキマに肘をかけ、

 

「ごきげんよう」

 

 いつもの優雅さで、八雲紫が現れた。

 

「こんばんは、手紙のお姉さん」

「聞いたわよ。見事に負けたそうね」

「……うぅ、やっと立ち直ったところだというのに」

「おばさん、花子をいじめちゃだめぇ!」

 

 当然のように放たれたこいしの言葉に、紫が片眉を吊り上げる。

 

「このっ――。まぁいいわ、素直に謝りましょう。ごめんなさいね、花子」

「い、いいえ」

「さぁ謝ったわ。だから古明地こいし、わかっているわね」

「はぁい、スキマのお姉さん」

 

 どうやら、わざとらしい。こいしは、八雲紫の弱みを握る数少ない存在となったようだ。

 咳払いを一つ、紫はスキマから薄桃色の封筒を取り出した。花柄の模様があしらわれており、いかにも女の子向けといった作りだ。

 

「花子。今日は、あなた宛ての手紙を届けにきたわ。残念ながら、太郎という少年からではないけれどね」

「私に、ですか?」

 

 手紙を受け取ると、宛名の欄にはずいぶんと可愛らしい文字で、『親愛なる御手洗花子へ』と書かれていた。確かに、花子宛てだ。

 封筒をひっくり返す。差出人の項目には、『あなたのレミリア・スカーレットより』とあった。

 レミリアからの手紙だ。花子の心臓が大きく脈打った。緊張しつつも、酷い破り方にならないよう、慎重に封を開ける。

 便箋には、宛名と同じとても可愛い丸文字が綴られていた。漢字が苦手らしく、ところどころがひらがなになっている。

 

 

 

~~~~

 

 

 花子へ

 

 ごきげんよう。そしてまず、ごめんなさい。

 

 目がさめるまで花子のそばにいたかったのだけど、館に帰らなければいけなかったので、先に失礼しました。

 

 今日の決とう、本当にすばらしかった。あなたがテングとたたかうと聞いたとき、どうなることかと思ったけれど、花子のだんまく、すごく美しかったわ。

 

 負けてしまったけれど、どうか落ちこまないで。私もフランドールも、あなたのことを心からほこりに思っています。

 

 私のためにたたかってくれて、ありがとう。だれかに大切に思われるのって、とてもうれしいのね。

 

 もしも花子がひどい目にあったら、ちゃんと私に言いなさいよ。こんどは私がかたきをうってあげるわ。

 

 それから、テングが言った悪口なんて、私は気にしてない。いざとなったら、私がじきじきにやっつけます。だから、安心してね。

 

 なんども言うけれど、花子が私のためにスペルを作ってたたかってくれたのが、なによりもうれしかった。本当よ。

 

 花子だから正直に言うけど、実は私、文を書くのって苦手なのよね。字も丸字だし、漢字もあまり書けないし。このこと、パチェしか知らないの。みんなにはないしょね。

 

 そういうわけだから、お手紙はこのへんで。

 

 お返事はいらないわ。ただ、また館へあそびにきてね。きっとよ。みんなといっしょに、まってます。

 

 

 レミリア・スカーレットより

 

 

 PS.私のことは、レミィってよんでちょうだい。もっと気楽にせっしてもいいのよ。私とあなたの仲なんだもの。

 

 

~~~~

 

 

 

 手紙を読んでいくうちに、花子は知らず、ポロポロと涙を流していた。その量はだんだん増えていき、ついには手紙が見えなくなるほど溢れ出す。

 こいしが「またいじめた」と頬を膨らませ、紫が「これはいい涙よ」などと言っている問答も、花子の耳には届かない。

 

「レ……ミィ――」

 

 手紙を胸に抱き、花子は何もかも抑えられなくなり、大きな声を上げて泣きだした。

 悲しいのではない。今までの苦労が報われたような、全てを許されたような、達成感やら嬉しさやらが入り乱れ、今はただただ、泣きたかった。

 こいしと紫に見守られ、泣き声が夜の森に木霊するのも構わず、花子はひたすらに、泣いた。

 

 それは、ようやく産まれた幻想郷の妖怪『御手洗花子』の、産声だったのかもしれない。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 非常にいい気分で、文は体を湯船に沈めていた。

 花子との決闘では大した疲労を感じていなかったが、いかんせん熱くなりすぎた感は否めない。格下相手に大人気ないかとも思ったが、たまにはああいった真剣な決闘も悪くないかもしれない。

 足の筋肉を伸ばし、文は顔を綻ばせた。

 

「いやぁ、気持ちいい」

「おくつろぎのところ悪いんだけれど」

「どわぁぁっ!?」

 

 悲鳴を上げて、文は浴槽の中で器用に飛び跳ねた。張っていたお湯が大量に零れ、湯気で浴室は真っ白になる。

 原因を作ったスキマ妖怪は、スキマから上半身だけを出して、迷惑そうに湯気を手で払った。

 

「あらあら、お下品なこと」

「人様んちの風呂にいきなり入ってきて、下品もなにもないでしょうが!」

「そりゃすまないねェ」

「うひゃぁぁっ!?」

 

 二度目の叫びは、さらに驚きを強めていた。誰もいなかったはず――いなくて当たり前のはず――である浴槽に、当然のように小さな人影が浸かっているのだ。

 小さな外見に不釣合いな二本の角を生やし、その間にはご丁寧に折り畳んだ手ぬぐいを乗せて、服もきっちり脱いでいる、伊吹萃香である。

 間違いなく幻想郷で五指に入る妖怪二人に挟まれて、文は湯の中にいながら冷や汗を掻いた。

 

「ななななんで、萃香さんが、こここここに」

「なんでって、そりゃあんた。落とし前ェつけてもらうためだよ」

「お、落とし前? 私が一体なにを――」

 

 ぎろりと萃香に睨まれて、文はまさに蛇に見込まれた蛙。ぴたりと固まり動けなくなった。

 そうだった。決闘の熱に浮かれていたのか、忘れていた。文は、萃香に嘘をついていたのだ。

 

「鬼に嘘をついたんだもの。相応の対価は払わなければならないわよねぇ」

 

 不気味なほど美しい紫の笑顔が、今はただ恐ろしい。

 ともかく、この状況から脱さねば。文は思いついた言い訳を口から滑らせた。

 

「そ、そうだ。今日の決闘、素晴らしかったでしょう? あれでチャラ、なんてことには」

「なるわけないだろう。あれは花子の戦いだし、私ゃあの子の決闘は酒の肴にしないってェ決めてたんだ」

「さようで……、はは。あー死んだなー私これ絶対死んだわー」

 

 湯船の縁にもたれかかり、文はかなり本気で死を覚悟した。しかし、対面の萃香はケラケラと笑い、

 

「なに言ってんのさ。あんたの力は私らも認めるところだよ、文。簡単に命まで奪ったりはしないって」

「そうですわ。幻想郷では、無益な殺生はあまり得になりませんもの」

 

 紫までもが、おかしそうに口元を押さえて笑っている。どうやら、生命の危機は脱したらしい。

 命が助かるのであれば、どんな罰でも乗り越えられよう。千年の時を生きた射命丸文は、多少の困難ならば乗り越えてみせる自信があった。

 

「そ、そうですか。では、私は何をすればいいので? 萃香さんの気が済むのであれば、できることはなんでもしますよ」

「おォ、そうかい! そいつァよかった。実はね、あんたに取材を頼みたいんだよ。どうしても地元を有名にしたいってェ奴がいるんだけど、中々人が寄り付かない場所でさァ」

「なんだ、そんなことならお安い御用ですよ!」

 

 天下一の情報源――自称である――、文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)を作り上げた文は、任せろと胸を叩いた。

 

「で、どこに行けばいいので?」

「地底」

 

 笑顔のまま、萃香は言い切った。

 端的に分かりやすく発せられた言葉だったのだろうが、文には何一つ理解できない。首をぎりぎりと傾げて、

 

「は?」

「だから、地底。正確に言うと、旧都だね」

「……まさか、取材相手は」

「うん、勇儀」

 

 地底に住む、鬼の四天王が一人、星熊勇儀(ほしぐまゆうぎ)。怪力乱神を持つ、萃香と並ぶ強力な鬼だ。無論、文にとって天敵以上に天敵なのは、言うまでもない。

 サッと顔色が青ざめ、文の脳裏に再び死の一文字がよぎる。勇儀は萃香より苦手な相手だった。彼女が地底に身を隠した時、自宅でこっそり祝杯を上げたほどだ。

 

「し、しかし不文律が! 地上の妖怪は地底に行けません、いや無念! そうですよねぇ紫さ――」

 

 助け舟を求めて、文は紫の方を見上げた。しかし、

 

「地底から船まで出てくる始末なんだから、不文律なんてもう今更よ」

 

 いつも通りの微笑を口元に浮かべたまま切って捨て、紫はスキマから木の板を取り出す。

 

「はい、特別通行手形。私の許可があるのだから、地底へは行き放題よ」

「おやおや、いいモンもらったじゃないか。なぁ文! それじゃ、取材頼んだよ。明日には向かうって勇儀には言ってあるから、よろしく」

 

 無理矢理手形を手渡され、文は魂が抜けたかのように湯船に沈んでいった。

 お湯の水面から、萃香と紫の笑い声が聞こえてくる。次第にそれは遠のいていき、やがて二人の気配も消えた。

 

 数分沈んでから、文は呪われし湯船から脱出した。早々に浴室も出て、体を拭いて寝巻きに着替え、机に向かう。

 適当な紙を取り出して、羽ペンにインクをつけ、さらさらと書をしたためる。その目には、光どころか生気すら宿っていない。

 無言で書き終え、無言で立ち上がり、無言で明かりを消し、無言で布団にもぐりこみ、文は死んだように眠りについた。

 

 夜の帳に包まれた部屋、その机に折り畳まれて置かれた書の表には、えらく達筆な文字で、『遺書』と書かれていた。



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第二部 妖怪の花子さん
またねのいっぽ


 妖怪の山を降りてしばらく歩いたところに、一件の茶屋があった。切り盛りしている老女曰く、かなりの老舗だとか。

 そもそも茶屋なるものに入ったことがない花子にとって、どの辺りが老舗なのかは分からない。しかし、お茶と団子がとても美味しいことだけは間違いなかった。一緒になって縁台に腰掛け饅頭を頬張るこいしも、わざわざ訊ねる必要がないほど甘味の喜びを顔に浮かべている。

 一方で、甘いものばかりで酒の肴になるものがなく、萃香は少し不満そうだ。甘辛いみたらし団子を頼んではいるが、彼女の酒とは合わないらしい。

 

「文句を言うつもりはないけどねェ」

「萃香さん、それがすでに文句ですよ」

「むぅ」

 

 そうは言っても、と萃香が唇を尖らせる。花子とこいしは顔を合わせてから、二人して愉快そうに笑った。

 ふと、花子は妖怪の山を見上げる。深まった秋に彩られた山は、空の青さも相まって、とても美しい。頂にある神社は、さすがにここからでは見えないようだ。

 四十余年を生きてきた花子だが、この山に入ってから人生が大きく変わった。生まれ変わったとすら言えるかもしれない。

 訪れてからまだ短い時間しか経っていないが、花子にとって幻想郷はもう、新たな故郷となりつつあった。

 

「さてと、ここいらが別れ道だねェ」

 

 おもむろに、萃香が切り出した。口にするのが嫌であえて言わずにいたことだったのだが、彼女はいつもと変わらない調子で続ける。

 

「こいしと花子は、これからどうするんだい?」

「んー、と……」

 

 答えられなかったのは、別れが寂しいからだ。自分をここまで育ててくれた、幻想郷に来て一番長く連れ添った友人と、花子は離れたくなかった。

 しかし、百や千という年月を過ごす萃香とこいしにとって、一時の別れは手馴れたものらしい。こいしが饅頭を口に含んだまま、

 

「わらひはれぇ、いっらんはえろうろ」

「飲み込んでからにしなって、何度も言わせるんじゃないよ」

 

 萃香に怒られて、こいしは素直にお茶で饅頭を流し込んだ。ふぅと一息ついて、ハンカチで口元を拭う。

 

「ん、っとねぇ。私は地霊殿に帰ることにするよぉ。だいぶ長く遊んじゃったしねぇ」

「長いなんてもんじゃないけどね。さとりも心配してるだろうし、それがいいよ」

「うん! お姉ちゃんが寂しくて泣いちゃう前に帰らなきゃねぇー。花子はぁ?」

 

 どちらかについていきたいというのが、花子の本音だった。しかし、幼子のような発言をして二人に失望されたくないと思えるほどにまで、花子は成長していた。

 冷めかけたお茶を一息に飲み干し、少しだけ白くなる息をゆっくり吐き出してから、花子は努めて笑顔で答える。

 

「レミリアさんのお家、行こうと思ってるんだ」

「紅魔館か。あそこは赤すぎて眩しいんだよねェ」

 

 萃香が苦笑いを浮かべる。中も外も真紅に彩られた紅魔館は、確かに目に優しいとは言い難い。

 

「あは、分かります。でも、絨毯はふかふかだしベッドももふもふしてましたよ」

「地霊殿もふかふかのもふもふだよぉー」

 

 こいしの遊びに来いというアピールに、花子は「いつか必ず行くよ」と首肯する。

 そういえば、とこいしが萃香に訊ねた。

 

「萃香さんは、これからどうするのぉ?」

「霊夢の神社に行かないとねェ。あの子は掃除をしてるっぽい動きをしてるだけで、掃除はしてないからね。私が定期的に埃を萃めてやらなきゃ、どんどん酷くなるんだよ」

「……ズボラなんですね、霊夢って」

 

 正直な花子の感想に、萃香は肩をすくめるだけで、否定はしなかった。 

 朝早くに山を下り始めたのだが、日はもう高いところまで登っている。少し肌寒かった朝の空気も、だいぶ温かくなっていた。

 いい日和だ、と萃香が立ち上がる。こいしもそれに続き、花子は空になった茶碗をしばらく手の中で遊ばせてから、縁台にそっと置いた。

 リュックを背負っている間に、萃香が茶屋の老女――彼女は妖怪をまるで恐れない――に支払いを済ませていた。

 

「おんや、鬼さんにはお団子、口に合わんかったかねぇ」

 

 萃香が残してしまったみたらし団子を見て、老女は少しばかり残念そうな顔をする。しかし、茶で満たされたまま手のつけられていない椀と萃香の瓢箪を見比べ、事情を察したようだ。

 

「今度来る時までに、おしんこでも作っておこうねぇ」

「そうしてもらえるなら、また来るよ。団子は美味かったさ、本当に」

「おやおや、お世辞でも嬉しいこっちゃよぉ」

「鬼は嘘をつかないよ、お婆ちゃん。それじゃ、ごちそうさま」

 

 軽く手を上げて、萃香が老女に背を向ける。花子とこいしは丁寧に頭を下げて、ごちそうさま、と揃って告げた。

 ずいぶんと客が少ない茶屋は、値段も驚くほど安かった。老女の道楽でやっているようなものなのだろう。老女は歩き出した三人が見えなくなるまで、茶屋の入り口から見送ってくれた。 

 茶屋が完全に見えなくなったところで、一向は二股に分かれた道へと出た。

 片方は博麗神社への近道、もう一方は人里や霧の湖へと続いている道だ。どうやら、ここが別れの場所となるらしい。

 

「さて、そんじゃァここらでだね。たまにゃ歩いて神社に向かうのもいいかな」

「うん。私は山の洞窟だから、飛んでいくよぉ」

「私はこっち。それじゃ……萃香さん、こいしちゃん」

 

 花子はおもむろに、萃香とこいしが面食らうほど、深く頭を下げた。

 辛くも楽しい修行の日々や、一緒に遊び、ご飯を食べた記憶が蘇る。どれも輝かしく、思い出すだけで二人と離れるのが辛くなってしまう。

 それでも、涙だけは流すまいと、花子はぐっと堪えた。また、泣き虫だと言われてしまう。それは少し、悔しい。

 

「今まで――お世話になりました」

 

 顔を上げ、にこりと笑う。萃香もこいしも似たような笑顔だったので、花子も釣られてしまったのだ。

 着飾った言葉は、それ以上必要なかった。萃香が花子の肩を軽い調子でポンと叩き、こいしは指を絡めるように花子の手を取りおでことおでこを優しくぶつけてから、それぞれ歩き出し、また飛び上がる。

 スカートを押さえたこいしが手を振り、萃香は二人に背を向けたまま、片手を挙げる。

 

「また遊ぼうねぇー」

「元気でやるんだよ」

 

 去っていく二人の後ろ姿に、花子は大きく両手を振った。

 

「うん、またね!」

 

 元気いっぱいな声が、秋空に響く。

 小さくなっていく萃香とこいしをしばらく見つめていたが、やがて花子も、自分の進むべき道へと振り返る。

 山での出来事は、一生忘れられないだろう。あまりにも刺激的で、新鮮だった。

 そしてきっと、これから起こることも。青く澄み渡る空を見上げて、期待で胸がいっぱいだ。

 

「さぁて、行きますかっ」

 

 心地よい風と一緒に、花子は歩き出す。

 二つの丸っこい瞳は、山で培った自信とたくさんの希望で、キラキラと輝いていた。



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そのじゅうご  恐怖!驚かしお化け決定戦!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。

 

 いよいよ冬が近づいてきたね。幻想郷に来た時はまだ夏でもなかったのに、時間が経つのは早いです。

 

 文さんとの決闘には負けてしまったけれど、私はたくさん大事なことを学びました。もう、外からの新入り妖怪だなんて呼ばせないんだから!

 

 今日、私と同じ人を驚かす妖怪と出会いました。猫又と唐傘お化けの女の子だよ。みんなで、誰が一番うまく驚かせるか競争したの。

 

 誰が勝ったと思う? 太郎くんは優しいから、私が勝ったと言ってくれるかな?

 

 答えは……秘密にします。怒っているかな? もしもそうなら、ごめんね。

 

 いつか、きっと教えてあげるね。それで許してほしいな。

 

 今日はここまでにします。それでは。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 天の頂にあった太陽が、その身を少し西に傾けた頃、花子は昼食として準備していた焼き魚を食べ終えた。

 山で取った、慣れ親しんだ魚の味は、もう当分楽しめないだろう。名残惜しさを感じつつも、残さず綺麗に胃袋へ収め、骨は土に返るよう地面に埋める。

 水筒に入った川の水で手についた土を落としてから、紅魔館で借りた竹編みの弁当箱をリュックにしまって、立ち上がった。

 食休みを入れてから出発しようと、花子は大きく伸びをする。快晴の空は見上げるたびに気持ちがよくなり、心が躍った。

 

「うーん、いい天気」

 

 街道に人影はほとんどないものの、不思議と寂しさは感じない。今日のような日は、どこまでも歩いていけそうだ。

 もう少し休もうかと思っていたのだが、早く歩きたいという思いに負けて、花子は早々にリュックへと振り返る。

 そして、つい数秒前まであったリュックサックが消えていることに、気がついた。

 

「……あれ?」

 

 花子の背中をすっぽり隠すほどのリュックだ、簡単になくなるものではない。だというのに、近くには全く見当たらないのだ。

 全く唐突に消えてしまい、花子はしばしの間呆然としていた。もっとも正気に戻ったところで、解決策が思いつくわけではないのだが。

 どこを探せばいいのだろうと途方にくれかけた時、花子の背後――街道方面から、声が聞こえた。

 

「なんだぁ、空っぽじゃない!」

 

 そちらを見てみれば、花子と背丈の変わらない少女が、リュックにしまったはずの弁当箱を、蓋を開けてひっくり返していた。

 緑のナイトキャップから、猫の耳が覗いている。二本の尻尾は黒く、先端だけが白かった。その外見からして、人間でないことはすぐに分かる。しかし、花子としてはそれどころではない。

 

「ちょ、ちょっと! そのお弁当箱は借りているものなの、返してよ!」

「え、そうなの? じゃあ返さないと、(らん)さまに怒られる」

 

 藍なる人物が誰なのか花子は知らないが、そもそも人の物を盗んだことを怒られるべきだ。弁当箱を丁寧にしまいリュックを返してくれる猫又の少女に詰め寄り、

 

「私のリュックを盗ったことが、一番いけないことだよ!」

「へ? 何言ってるのさ、あたしは妖獣だよ? 妖怪が悪いことしちゃいけないなんて、そんなおかしな話ないよ」

 

 以前、レミリアにも同じことを言われたなと、花子は思い出した。

 小学校で暮らしてきた花子は、妖怪でありながら人間の常識が身に染み込んでしまっているのだ。

 

「う、そ、それとこれとは違うよ! ダメなものはダメ!」

「ちぇ。ま、別にお腹が減ってたわけじゃないから、いいんだけどさ」

 

 頭の後ろで両手を組みながら、少女が鼻を鳴らす。

 ならばなぜ盗ったのかと聞きたかったが、花子が行動を起こす前に、少女はいかにもイタズラが好きそうな瞳をこちらに向けた。

 

「あたしは(ちぇん)。化け猫だよ。あんたも妖怪なんでしょ?」

「あ、うん。えぇと、御手洗花子です、よろしくね。お手洗いで子供を驚かす妖怪なの」

「ふぅん。……ん? 花子って、(ゆかり)さまがお話してらした妖怪じゃない。へぇー、あんたが花子なんだ」

「手紙のお姉さんと、知り合いなの?」

 

 訊ねると、橙は実に自慢げに小さな胸を張り、

 

「そう! 何を隠そう、あたしは八雲紫さまの式!」

「おぉ!」

「……である、八雲藍(やくもらん)さまの式だよ!」

「お、おぉ……」

 

 式についての知識が欠けている花子は、紫の式の式がどの程度の地位なのか、いまいち理解しかねた。

 実際、八雲藍は妖獣の頂点に立つ九尾である。彼女の式ともなれば、妖獣どころか妖怪としてもかなりの権力を持っていると言っていいだろう。

 しかし、藍は橙が可愛いから式にしたという側面が強く、橙の式としての力は決して高いものではない。また、権力の使い道もよく分からず、主人である藍も「まだ早い」と教えてくれないようだ。

 まさに、猫に小判。こうして威張り散らすくらいの使い道しか、橙は知らない。

 

「す、すごいんだよね?」

「なんで聞くのさ。すごいに決まってんじゃん!」

「そっか、すごいんだ。へぇー」

 

 いまいちリアクションが取りづらく、花子は曖昧な返事しかできなかった。それがどうにも気に食わないらしく、橙が不機嫌そうに頬を膨らませる。

 

「あんたね、本当に分かってるの?」

「たぶん、きっと、おそらく……?」

「もう! いい? 式神ってのはねぇ――」

 

 説明しかけた橙が、止まる。長話を覚悟した花子だが、彼女があっけに取られたような顔で、空中の一点を凝視していることに気がついた。

 視線を追いかけ、花子もまた、口をぽかんと開ける。

 始めは点であった。空中からすごい勢いでこちらに近づき、それは徐々に大きくなっていく。

 よく見れば、大きなベロを生やした傘を持つ少女だった。水色のミニスカートをはためかせ、空色のショートボブが高速移動でむちゃくちゃになってしまっている。

 

「うーらめーしやぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 絶叫しつつ迫る少女は、花子と橙から完全に認識されている。叫びの内容から驚かそうとしているのかもしれないが、花子はとてもその気にはなれなかった。

 突っ込んでくる空色の少女を、花子と橙はひょいとかわす。

 

「あぁぁぁぁぁっ!?」

 

 盛大に地面へ衝突し転がっていく少女。巻き上がる砂煙を迷惑そうに手で払い、花子と橙は目を合わせ、

 

「そっとしておこっか」

「そうしよう」

「待ってよぉぉぉ!」

 

 起き上がった少女は、スカートを払い髪を整えつつ傘を大事そうに抱え上げるという忙しそうな仕草を終えると、水色と赤のオッドアイを怒りに吊り上げながら近づいてきた。

 近くで見てみると、この少女は花子と橙よりも背が高い。だというのに、年上の貫禄が微塵も感じられないのは、なぜだろうか。まだこいしの方が大人っぽいかもしれない。

 

「驚いてよ! ていうか、受け止めてよ、私を!」

「そんな無茶な」

 

 理不尽な叫びに花子が苦笑いで答えると、少女は橙へと狙いを変えた。

 

「化け猫、あなたなら受け止められたんじゃないの? 力持ちなんでしょ、妖獣って」

「なんで見ず知らずの唐傘お化けを助けなきゃなんないの。てかさ、あんな勢いで突っ込んでくりゃこうなるって、普通分かるでしょ」

「分かった時には転んでたの!」

 

 会話が成立しているようで、まるで成立していない。きっと怒っているからなのだろうなと、花子は前向きに解釈した。

 わずかに怒りが冷めたのか、それでも顔は赤いまま、少女は腰に両手を当てる。

 

「私は多々良小傘(たたらこがさ)。見ての通り、唐傘お化けよ。これでもう見ず知らずじゃないんだから、次は助けてよね」

「そこに保険をかけるのは、間違っているんじゃないかなぁ」

「だって、急には止まれないじゃない。受け止めてもらうのが一番よ」

 

 どうにもずれている小傘。花子は外の世界で「天然ボケ」なる言葉があることを知っていたが、小傘にこそふさわしい呼称に違いない。

 先ほどのような驚かし方など、生まれてこの方考えついたこともない。橙も全く同意見らしく、腕組みなどしながら、

 

「そもそもさぁ、あんなので誰かが驚くと、本当に思ってるの? 人間の子供でも怖がらないよ、あれじゃ」

「むむ、なにさ。そんじゃあんたは、私よりうまく人間を驚かせられるっていうの?」

「はん! 当たり前じゃない。あたしの妖術にかかれば、人間なんてイチコロよ!」

 

 自慢げに鼻を鳴らす橙を眺めながら、花子は最近誰も驚かしていないことを思い出した。時々どうにもむずむずして落ち着かなかったのは、そのせいかもしれない。

 会話を聞くに、どうやら小傘と橙も人を怖がらせたり驚かせたりする妖怪らしい。なんとなく親近感を覚えていた花子だが、次に放たれた橙と小傘の言葉で、抱いた感情は競争心へとすり替わる。

 

「花子っていったっけ。あんたも子供しか驚かせないんでしょ? あたしが大人の驚かし方を教えてあげよっか?」

「えー、ホントに!? 子供しか驚かせないの? はっずかしーい! 子供を驚かすのが許されるのは、妖精までだよねー!」

「……」

 

 途端、花子は心に冷たい闇が舞い降りたような心地になった。

 外では忘れられてしまったが、それでも彼女は一世を風靡した伝説のお化けだ。プライドを傷つけられて、黙っているわけにはいかない。

 できるだけ見下すような視線を心がけながら、挑発するかのように口の端を持ち上げ、

 

「ふふん。唐傘お化けと化け猫風情が、『トイレの花子さん』たる私にそんな口を聞くの?」

 

 ちなみに、この口調は射命丸文の真似である。非常にぎこちないが、橙と小傘にはそれなりに通用したらしい。

 

「な、なによ。トイレの花子さんなんて、私聞いたこともないもん」

「そうだそうだ! おトイレの妖怪が、猫又のあたしより強いわけあるもんか!」

 

 口々に反発する二人に、花子は冷たく鼻を鳴らす。

 

「はっ。世間知らずだねぇ。トイレの花子さんといえば、外の世界で知らない子供はいないほどの大妖怪だというのに」

 

 正確に言えば、「知らない子供がいなかった」という過去形になる上に大妖怪などではない。慣れない口調と笑い方で口が痙攣しそうになっていたりもするので、完全に虚勢だ。

 口元がしんどいと思っている花子の心中など露知らず、小傘は怯えたように紫の傘を抱え、

 

「だ、大妖怪……!? どのくらい強いの?」

「ど、どのくらい? えぇと、うぅんと、そう! 私は吸血鬼や鬼と友達なんだから!」

「えぇぇぇっ! きゅきゅきゅ吸血鬼!? それと、お、鬼まで!」

 

 すっかり縮こまる小傘。なんとも不思議な優越感は癖になりそうで、花子はなんとなく文の気持ちが分かった気がした。

 怯える小傘を押しのけて、橙が花子を睨みつける。

 

「はん! そんなの嘘に決まってるね! あたしには分かるもん、あんたからそんな妖気は感じないもん!」

「う、嘘じゃないよ! 私は本当に、萃香さんやレミィと友達だもの」

「弱くたって友達にはなれるでしょ。あたしの友達の友達だって、鬼なんだからね!」

 

 橙の言う友人がミスティアであり、その友人である鬼が萃香であることを、花子が知るはずもなかった。

 

「だっ、でっ、でも! えぇと、私、外では本当に有名だったんだよ!」

「ここは幻想郷ですー! 外の世界じゃありませんー!」

「むぅー!」

「悔しかったら、大妖怪の力を見せてみなよ。ほら、今すぐ証拠を見せてよ!」

 

 簡単に信じてくれた小傘が可愛く感じるほど、橙は小憎たらしい笑みを浮かべていた。

 完全に子供のケンカだが、舌戦の流れは橙に傾いている。虚勢がばれた時ほど、不利な状況はない。

 なんとかして取り繕わなければと、花子は咄嗟に口を開く。

 

「じゃ、じゃあ勝負する? 私と小傘と橙で、誰が一番上手に人間を驚かせられるか、勝負しようよ」

「上等じゃん! あとで泣いても知らないかんねっ!」

「わわわ、私だって、負けないもん!」

 

 なんだかんだで小傘も参戦表明をし、三人は熱く火花を散らす。

 人間を巻き込む迷惑極まりない戦いの火蓋が、切って落とされた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 一番手は、人を驚かせることで腹を膨らませているのだと自信満々に語る小傘となった。街道脇の木に登り、じっと通行人を待つ。

 彼女の能力がそのものずばり「人を驚かす程度の能力」であるため、この戦いは小傘にとって沽券に関わるものとなる。失敗は決して許されないのだ。

 もっとも、花子も橙も人間を驚かせることを生業としている妖怪なので、彼女の専売特許というわけではない。それでも小傘は妖怪の代名詞ともいえる唐傘お化けであり、プライドだけならばチビの妖獣や子供で満足している幼い妖怪に負けるつもりはなかった。

 妖怪どころか人間からすら、「驚かなさすぎて逆に驚く」などと馬鹿にされてしまう小傘である。最近は墓場という地の利を生かさなければ仕事もできず、肩身の狭い思いをしているのだ。こんなところで敗北を喫するわけにはいかない。

 

「今に見てなさいよ……!」

 

 唐傘お化けなど驚くに値しないと人間の巫女や魔法使いに言われてしまったこともあるが、今こそ付喪神(つくもがみ)の恐ろしさを教えてやらねばなるまい。小傘は赤と青のオッドアイを、爛々と輝かせる。

 日の傾いた街道に、人間がやってきた。若い男だ。木箱がいくつか積まれた、大きな荷車を引いている。商人だろうか。

 焦らず、タイミングを待つ。小傘の間合いに入ったその瞬間、男の命運は尽きるのだ。

 

「ベテランの貫禄ってもんを、見せてやるんだから」

 

 妖怪としての生を受けて二百余年、驚かしてきた人間は――遥か昔も数えるならば――数知れず。小傘は手に抱く傘のそれとは対照的なほど小さい舌で、唇を舐めた。

 若い人間の驚く心は、なかなか美味だ。その分子供や老人よりも驚かしにくいのだが、今日はうまくいく気がする。根拠もなにもありはしない直感を信じて、荷車を引く男をじっと見据えた。

 徐々にその時が近づいてくる。人間の一歩が近づくたびに、小傘の鼓動も高まっていく。

 男はこちらにまるで気づく様子もなく、鼻歌など口ずさんでいた。あの顔が驚愕に歪む瞬間を想像して、小傘は成功もしていないのにほくそ笑む。

 商用の荷車が、登っている木のほぼ真下に差し掛かる。今しかない。大きく息を吸い込んで、

 

「うらめし――」

 

 傘を抱え、小傘は木の中から飛び出した。しかし、傘から生えている舌が枝に引っかかり、勢いをそのままに、大きくバランスを崩す。

 

「わひゃぁぁぁぁっ!?」

 

 木の葉を舞い散らせ、もみくちゃになりながら落下する。ただでさえボロボロの傘をこれ以上傷つけまいと必死に抱えながら、街道へと盛大に転がった。

 擦り傷がいくつかできてしまったが、痛みを感じる余裕もなく、小傘は青い顔で体を起こした。命にも等しい大事な傘は壊れていないだろうか。手早く、しかし丹念に調べ終え、故障がないことを確認、胸を撫で下ろす。

 そして、はっとする。背中にひしひしと視線を感じ、慌てて振り返れば、荷車を引いた体勢のまま固まっている青年が、口をだらしなく半開きにして小傘を凝視していた。

 その様子は、驚いているといえばそうなのだが、小傘が望むそれとはベクトルが違う。

 目がばっちりと合って、青年は会釈を一つ、あからさまに引きつった笑みを浮かべた。

 

「だ、大丈夫っすか?」

「え? あ、はい。私こう見えて、結構頑丈ですから。えへへ」

「そうっすか。それはよかった」

「こちらこそ、わざわざどうも」

 

 律儀に礼を返してから、小傘は遠慮がちに顔を上げた。青年はもう行ってもいいものかと逡巡しているようだった。突然木から少女が落ちてきては、反応に困るのも無理はない。

 青年の顔に「もう関わりたくない」という思念が浮かんでいたが、もう少しだけ付き合ってくださいと、小傘は心の中で頭を下げた。

 媚びるような上目遣いで男を見上げ、小さな舌をぺろりと出して、

 

「う、うらめしや」

「……はい?」

「だから、その、うら……めしや……」

「えぇっと、おいらは反物屋っすけど」

 

 早く仕事に戻りたいのだろう、驚きが苛立ちに変わり始めている青年が、引きつったままの頬をピクピクと痙攣させている。

 赤い舌を引っ込めて、小傘は気の毒になるほどしょんぼりと俯いた。

 

「人違いでした……」

「そうすか、そんじゃ、おいらはこれで」

「お気をつけて」

 

 もう一度会釈をする青年にお辞儀を返して、小傘は荷車を見送る。

 遠ざかっていく青年の後姿を見つめながら、いつか出会った風祝の言葉を思い出す。うらめしや、に対して、「はいはい、表は蕎麦屋」と彼女は言っていた。

 なるほど。驚いてもらえない原因はきっと――

 

「台詞が悪いのかなぁ?」

 

 まるで見当違いなことをなるたけ笑顔で呟いて見た小傘だったが、ボロボロになったプライドと共に流れ落ちた一筋の涙にだけは、嘘をつけなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 意気消沈して帰ってきた小傘は、二人に背中を向けたまま、膝を抱えて座り込んでしまった。ぶつぶつと一人で何かをぼやいているが、どうやら内容は言い訳らしい。

 同情を誘う後姿に、花子は声をかけてやろうかとも思ったが、面倒が増えそうなのでやめた。

 ライバルが一人消えたことで、橙のテンションはうなぎのぼりのようだ。固めた拳を掌に打ち合わせて、やる気に満ちた瞳を爛々と輝かせる。

 

「ほうら、唐傘お化けなんてこんなもんさ。あたしがお手本ってやつを見せてあげるよ!」

 

 ひたすら独り言を呟いている小傘からは、やはり返事は返ってこなかった。

 花子の知識では、化け猫は人を食らうはずだ。しかし、獲物はいないかと街道を眺めている橙は、どうもその気がないように見える。

 

「橙は、人を食べたりしないの?」

「ん? あー、昔の化け猫はしてたみたいだけど、幻想郷の人間は取って食べちゃいけないから、驚かすだけで満足しなさいって紫さまに言われたんだ。それに、藍さまが作ってくれるご飯のほうがおいしいから」

 

 外から供給される人肉も、橙は口にしたことがない。妖怪としての面目は、人間を襲って小遣い程度の金銭を巻き上げることで成り立っている。それすらも、やりすぎれば主に叱られてしまうのだが。

 もしかしたら、この場にいる妖怪少女は皆同レベルなのではないか。花子の脳裏にどんぐりの背比べということわざがよぎったが、小さくかぶりを振る。言いだしっぺは花子なのだから、今更やめようなどとは言えない。

 

「お、人間かな」

 

 草むらに隠れて街道を眺めていた橙が、人影を見つけたようだ。

 街道を歩いてくる人間の姿を見て、花子は戦慄した。なぜ、あのような人種が幻想郷にいるのだと、一瞬頭の中が真っ白になった。

 

 不自然に日焼けした肌、あまりにも汚い金髪。肌はドス黒いのに目元の周りは妙に真っ白で、耳にはいくつも大きな飾りをつけている。上着は花子と似たセーラー服だが、纏うスカートは酷く短い。これでもかとばかりにストラップがついた携帯電話を弄り回しながら、クチャクチャと音を立ててガムを噛んでいる。

 そんな、一昔前の典型的不良女子高生が、二人。外から迷い込んだ外来人だろうが、これではどちらが妖怪か分からない。橙も酷く困惑しているようだ。

 

「人間……かな……?」

「一応、人間だよ。外の世界には、ああいった人もいるの」

「ふ、ふぅん。何かの儀式をするのかな、変な化粧しちゃってさ」

 

 若干怯え気味ながらも、橙は彼女達を標的にすると決めたようだ。

 

「そんじゃ、行ってくる。あたしの活躍を、しっかり見ててよ!」

「う、うん。強敵だと思うけど、がんばってね」

「任せといて!」

 

 颯爽と草むらから飛び出す橙。花子は思った。今回もきっとダメだと。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 草を掻き分け街道に躍り出て、橙は両手を腰に当てて人間を睨みつけた。二人揃って手元の小さな箱――としか、橙には表現できない――に夢中で、こちらに気付いていない。

 

「ねぇ、あいつなんつってたっけ? ハクレージンジャーだっけ、ちょっとカッコイくない? ぜってークラブの名前だよね」

「はぁー!? お前マジ馬鹿じゃね? 神社だから、マジクラブとかねぇから!」

「馬鹿とか酷いんですけどー、マジうざいんですけどー」

「つーか歩くのマジダリィ、タクシーとかねぇの? バスもなくね?」

「むしろ電線がねぇから! 田舎すぎじゃねここ、むしろウケるんだけど」

「ケータイも圏外だしさー、ホントありえなくねー?」

 

 この頃には、橙は彼女ら二人を狙ったことを後悔していた。今からなら逃げられるかとも思ったが、そうする前に見つかってしまう。

 橙よりも遥かに人外じみた顔をした少女(?)の瞳が、こちらを向く。なんとも説明のつかない恐怖に、橙の尻尾が両足の間に潜ってしまった。

 

「ににに人間! あたしは化け猫だぞ、覚悟、覚悟しろ!」

 

 なんとか搾り出した脅しではあったが、対する二人の外来人は、たくさんの飾りがついた箱を開き、

 

「チョーカワイー! いやこれ写メだべ、タカオに送ろ」

「コスプレ? 猫のコスプレ? やべーこれ待ち受けにするわ」

 

 二人揃って、カシャカシャとやかましい音を立て始める。カメラならまだしも、携帯で撮影された経験など橙にあるはずもなく、尻尾の毛はすっかり逆立ち、必死に牙を剥いて威嚇してみるものの、目じりには涙が溜まっていた。

 

「うぅー! 馬鹿にして、許さないぞ!」

「馬鹿にしてねぇし! 超ウケんだけどこの子!」

「キャッヒャヒャヒャヒャ!」

 

 下品な笑い声を上げる二人に、橙は実力行使以外の手段がないという結論を出した。

 全身に妖気を滾らせ、外来人の二人を睨みつける。八雲藍の使い魔としての意地が、橙を奮い立たせた。

 

「あたしの力、見せてやる!」

 

 妖力を足に集中させ、駆け出す。一足でトップスピードにまで達し、人間の目では追えない速度で二人の背後に回りこんだ。

 少女のような姿をした人間だろうモノは、完全に橙を見失っているようだ。したり顔を浮かべながら、橙はできる限り大きな声で叫ぶ。

 

「こっちだよ、ノロマ!」

「うお、マジで!? 何今の、手品?」

「まじすげぇ! ちょっともっかいやってみ? 動画取るから、もっかいやってみ?」

 

 多少は驚いたようだが、どちらかというと感心したというほうが近いか。例の箱と橙を交互に見ている外来人である。

 このままでは面白くない。橙は顔を真っ赤にしながら、声を荒げた。

 

「な、なら、こいつでどうだ!」

 

 再び走り出し、二人の周りをぐるぐると回る。このスピードならば、人間の目には無数の自分が駆け回っているように見えているだろうと思ってのことだ。

 無論そんなことになるわけもなく、外来人もさして驚いたりせずに、再びカシャカシャとやり出している。

 

「撮れねぇー! マジどうなってんのこれ、チョッパヤすぎなんですけどー」

「あーこれ尻尾だわ、尻尾しか撮れてないんだけど。もっかい撮ろ」

 

 携帯で撮影される間、止め時が分からなくなった橙はひたすら走り続けた。どうにかして少女っぽい二人を驚かせられないかと考えていたのだが、

 

「うっぷ――」

 

 尋常ならざる吐き気を覚え、立ち止まる。円をかくように高速で走り回っていたのだから、三半規管がいかれたとしても不思議はない。

 真っ青な顔で目も虚ろな橙だが、外来人に慈悲の心はないらしく、

 

「ちょ、まだ撮れてねーから、もっぺん走ってよ」

「バッテリーやべーから、早くしてくんね?」

「う、うぅぅ」

 

 仕掛けたのは橙であり、外来人の彼女達にはなんら責任はないのだが、それでも橙は少女もどきを恨めしそうに睨む。

 

「うぅぅぅ!」

「はぁー? なんなのこいつ、マジウゼェー!」

「ガンくれてんじゃねーよクソガキ!」

「うにゃぁぁあぁぁっ!」

 

 半ば泣き喚くような声を上げながら、橙は草むらへと逃げ込んでいくのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「なんなの、あいつら! 全然驚かないし、なんか変な箱いじって攻撃してくるし! ホントに人間なの!?」

 

 戻ってきた橙は、自身の両肩を抱きながらぶるぶると震えつつ、そんな悲鳴を上げた。

 

「えぇと、あれはなんというか……。ギャルという人種で、一応人間だよ。日本人だし」

「化け物だよ。あんなの、絶対化け物だよ……」

 

 小学校を主な活動拠点としていた花子は、彼女らのようなタイプの人間との接点は薄い。しかしそれでも、時折ギャルに感化された子供がいたりもしたため、その恐ろしさは身に沁みて分かっているつもりだ。

 前もって教えてやったほうがよかったか。橙には可哀想なことをしたかもしれないなと思いつつ、花子は身支度を始める。

 赤いワンピースに着替え、ロングヘアーのかつらを被った。トイレ以外で人を怖がらせた経験は少ないが、ないわけではない。そういう時には、いつも決まってこのワンピースに着替えていた。

 特段意味があるわけではない。いわゆる、気分転換というやつだ。

 

「おトイレの妖怪が、外で驚かせられるの?」

 

 少し立ち直ったらしい小傘が、それでも赤くなった鼻をスンスンやりながら、訊ねてきた。花子はそれに、自信満々に頷く。

 

「もちろん! 私の変化(へんげ)は怖いって、知り合いの中では評判だったもの!」

 

 花子が顔を変化させているときは、ホラー映画さながらの怖さだと有名だったのは本当のことだ。

 手段はもう決めてある。街道脇でうずくまり、苦しそうな声を出しておく。そうすれば、心配した人間が声をかけてくるに違いない。油断した心の隙を突き、渾身の一撃を加えてやるのだ。

 街道に、人影はない。準備をするなら、今のうちだろう。ここで驚かすことができれば、花子の一人勝ちだ。

 

「ようし、私、がんばっちゃう!」

 

 頬を上気させて息巻きながら、花子は草むらから街道へ出て行った。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 時刻は若干夕刻に差し掛かったものの、まだまだ日は高い。人間の視力であっても、街道の隅っこでうずくまる赤いワンピースは、嫌でも目に付くだろう。

 ワンピースは薄着なため、この季節は少し寒い。できれば早く来てほしいなと思いつつ、花子はじっと身を縮こまらせて人間を待っていた。

 

「うーん、うぅーん」

 

 苦しげな呻き声を出しつつ待つこと、三十分。そろそろ足が痺れそうだと思っていた時だ。街道を歩く足音が、花子の耳に届いた。

 軽やかで迷いのない足取りを思わせる、体重を感じさせない音。間違いない、子供だ。花子は勝利を確信する。

 足音は次第に近づいてきて、やがて花子の背後で止まった。呻きはやめずに、話しかけられるのを今か今かと待ち望む。

 

「うぅん、うぅーん」

「どこか、苦しいの?」

 

 甲高い声に聞き覚えはなかったが、どうしてか違和感を覚えた。無理に声色を変えているような印象を受けたのだ。

 しかし、人の声などそれこそ十人十色。少し変わった声ではあるが、子供のものには間違いない。花子は用意していた台詞に、ありったけの感情を込める。

 

「お腹が、とても苦しいの」

「あら、大丈夫? お医者さん、呼んでこようか?」

「苦しい、苦しいよぉ。死にたくないよぉ」

 

 それこそ死んでしまいそうな声だ。我ながら素晴らしい演技だと自画自賛しつつ、変化(へんげ)の妖術を自分に施し始める。

 まずは頭。髪の毛がこぶのように膨れ上がり、血管が引きちぎれるような嫌な音が辺りに響く。

 

「どうしたの? 大丈夫……?」

 

 少女の声に、不安の色が宿る。この声を待っていたと、花子は笑みを隠せなかった。

 ゴキゴキと骨が鳴り、肩が異様な動きを見せる。なお、音はあくまで演出なので、花子の体に異常があるわけではない。外見の変化はあくまで幻覚なので、ロングヘアーのかつらが取れるようなこともなかった。

 

「死にたく、ないから――お前の――」

 

 声までが、次第に低くおどろおどろしい声色に変わっていく。

 化け物へと変貌しようとするその様に、草むらの橙と小傘が目を丸くしている。

 これこそが、人を驚かせるということなのだ。きっと声をかけてきた少女も、恐怖のあまりに立ち尽くしているに違いない。

 真っ白な顔に、眼球が見えないほど窪んだ眼窩。開かれた赤黒い唇の向こうには、深い闇が広がっている。

 幾千万の子供を怖がらせてきた「トイレの花子さん」の姿が、そこにあった。ここはトイレではないが、怖いものは怖いはずだ。

 少女からの反応はない。声も出ないほど怖がっているのか。この時点で、花子はだいぶ悦に浸っていた。

 さぁ、驚け。恐ろしい顔のまま、

 

「お前の――命を、よこせ――!」

 

 長い黒髪を振り乱しながら、背後の少女へと振り返る。

 その瞬間、花子の時間は完全に停止した。

 

「……」

「……」

 

 目が合った少女――赤と白の巫女装束、髪には大きな赤いリボンをつけた博麗霊夢が、花子の正面にかがみこんでいた。

 なぜ、どうして。そんな疑問符ばかりが浮かんだが、そもそも何が分からないのかが、花子には分からない。例の恐ろしい顔はそのままに、病的に白い頬を、一筋の汗が伝う。

 誰もが竦みあがりそうな奈落の眼窩をじっとりと見据え、霊夢は無感動な表情のまま、

 

「きゃーこわーい」

 

 この甲高い声は、彼女の作り声だったらしい。

 頬だけでなく背中まで冷や汗が伝い、次の瞬間には、空気が抜けたかのように変化(へんげ)が解けてしまった。

 逃げることは、きっとできないだろう。どうにかして穏便に済ませようと、花子はとりあえず愛想笑いを浮かべてみることにした。

 

「あ、はは……いい天気だね、霊夢」

「それがどうしたの?」

 

 放たれた無常な言葉には、もう作り声の甲高さはない。どころか、殺気に近い何かまで感じる始末だ。

 立ち上がろうとして、花子は自分が腰を抜かしていることに気がつく。膝も笑っていて、どうあっても動くことはできそうにない。

 霊夢が左手に握る大幣を一振りすると、神聖な光の粒子が舞い散った。

 

「私さぁ、今日は魔理沙に茶屋で饅頭奢ってもらう約束してたんだわ」

「う、うん……」

「でもさぁ、なんか街道でアホっぽい妖怪が降ってきたって話を商人さんから聞いてさぁ」

 

 小傘のことだろう。機嫌を損ねないように、花子は小さく頷いた。

 

「うん……」

「仕事しないわけにもいかないじゃない、妖怪退治でご飯食べてるんだし。お茶もまたの機会になっちゃったのよ」

 

 語るたびに、霊夢のこめかみには青筋が浮かんでいく。霊力までもが高まり、オーラとなって見え始めていた。

 

「今日を逃したら、魔理沙が……次の機会を用意するはずッ……ないのにねぇッ……!」

 

 握り締める大幣が、みしみしと音を立て始めた。花子は涙目になって、必死に後ずさりを始める。

 

「ひ、ひぇぇっ」

「逃がさないわよ」

 

 右手で襟首を掴まれ、細い腕のどこにそんな力があるのか、花子はひょいと持ち上げられた。

 もはや抵抗はできまい。こうなったら神頼みしかないと両手を合わせて、とりあえず頭に浮かんだ神、秋姉妹に祈りを捧げる。ご利益のほどは、期待できない。

 霊夢はおもむろに、大幣を草むらの一点――的確に、橙と小傘が隠れている場所へ向けた。

 

「そこの猫又と付喪神! 出てきなさい」

 

 しばしの間があったが、橙と小傘はおとなしく草むらから這い出てきた。二人とも顔面蒼白で、痛い目に合うことは覚悟しているようだ。

 花子を放り投げ、霊夢は妖怪少女三人を、自身の前に正座させた。

 

「さて。まぁあんたら三匹ってことは、せいぜい人間を誰が一番驚かせるかで遊んでたってとこでしょうけど」

「な、なんで分かるの?」

 

 訊ねる小傘に、霊夢は鼻を鳴らして、

 

「勘」

「あぁ……そう……」

 

 小傘は、何かを諦めたようだった。

 

「でまぁ、ちょうどいっぺんに集められたんだし、いっぺんに退治しましょうか」

「待ってよ! あたしはその、花子にケンカを売られたんだ! だからあたしは悪くないでしょ?」

「えぇっ!? 橙、ひどい! 自分だけ助かろうなんて!」

 

 尻尾を立てて霊夢に甘える橙に、花子が叫んだ。しかし橙は、花子と小傘から注がれる非難の視線もそっちのけで、霊夢にすりついて媚を売る。

 が、妖怪退治のエキスパートは、そんなことで動じはしない。霊夢は幼子同然の橙を、容赦なく蹴り飛ばした。

 

「ふにゃっ! 痛ぁい、何するのさ!」

「はん。あたしは悪くない? 馬鹿言うんじゃないわよ。あんたらがやったことは間違いなく悪いことでしょうが。っていうか妖怪が妖怪であることがすでに悪だわ。こうして私の手を煩わせてるんだからね」

「そんなぁ!」

「ごちゃごちゃうるさい。あんたらに与えられた選択肢は三つよ」

 

 完全にこちらの意志を無視して、霊夢は指を三本立てた。花子達が、あまりの緊張感に息を呑む。

 

「一つ、うちの家宝の陰陽玉。当たると痛いわ。二つ、博麗アミュレット。当たると痛いわ。三つ、大幣。当たると痛いわ。さぁ、どれがいい?」

「そんなの、全部――」

 

 嫌だ。そう言おうとした花子だが、正座している膝もとに大幣を叩きつけられ、ビクリと肩を震わせる。

 恐る恐る見上げれば、霊夢は逆光になり怖すぎる笑顔で、大幣をゆっくり肩に担いでいた。

 

「全部拒否するってなら、かなり本気の夢想封印が火を噴くことになるわ」

「……」

 

 花子は、橙と小傘と目を合わせ、しばし無言で相談しあった。

 妖怪に対しては容赦のない霊夢のことだ。どれもこれも死ぬほど痛いのだろうが、その中でより軽度なものを選び取らなければならない。

 一分がすぎた頃になって、三人は意思の疎通を完了し、揃って神妙に頷く。霊夢へと顔を上げ、花子、橙、小傘の順番で、その場に土下座した。

 

「大幣で」

「ソフトに」

「お願いします」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 秋の日は釣瓶落とし。あっという間に暗くなった街道に、大幣でしこたまお尻を叩かれた妖怪少女達が転がっていた。

 街道を通るわずかな人間は、彼女達の姿に悲鳴を上げて、もと来た道を戻っていく。今の花子達ほど無害な妖怪もいないのだが、死体のように倒れる三人を見れば、怖くなるのも無理はないだろう。

 人間を驚かせるという目的を図らずとも達成した三人。しかし、誰もがその事実に気付かず、痛むお尻を手で押さえ、

 

「うぅ……」

「巫女が怖いよぉ……」

「い……痛いぃ……」

 

 呪われそうな少女の呻き声は、一晩中街道に響いていたという。



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そのじゅうろく 恐怖!悲鳴飛び交う妖怪寺!

 

 

 

~~~

 

 

 太郎君へ

 

 

 お元気ですか? 花子は今日も元気です。

 

 私ね、久しぶりに、おトイレで驚かすことに成功しました!

 

 うん、成功……だったと思う。ちゃんと花子さんをやれたし、相手の子もすっごく驚いてくれたもの。

 

 その後すぐに、私もその子も気絶しちゃったのだけれど……。あ、怪我とかはありません。本当に元気だよ、心配しないでね。

 

 太郎くんも、声の大きい子供には注意してね。壁とかドアとか、壊れちゃうかもしれないから。相手が人間なら、大丈夫だと思うけどね。

 

 そういえば、さっき変な視線を感じたの。どこからか見られてるような気がしたんだ。手紙のお姉さんが来たら、消えちゃったのだけど。

 

 心配だから、今日は手紙のお姉さんと一晩中お話することにしました。今も一緒にいるんだよ。

 

 太郎くんに直接手紙を届けてみたいって言っているから、いつか太郎くんもお姉さんに会う日が来るかもね。

 

 それじゃ、またおたよりします。元気でね。

 

 

 花子より

 

 

~~~

 

 

 

 ぴたり、ぽたりと水滴が落ちる。肌を撫でる空気が冷たいのは、冬に近づきつつある季節のせいだけではないだろう。

 厠とは、そういうものなのだ。いつも寒く、暗く、どこか不気味。いつかは必ず訪れなければならない強制力もまた、その薄気味悪さに拍車を掛けている。

 自身の能力である固有空間に身を潜めつつ、花子はじっと獲物を待つ。トイレの中にだけ作れる自分だけの結界を作るのも久々だが、それ以上に厠で誰かを驚かすことに、懐かしさすら覚えていた。

 思えば、紅魔館でレミリアを驚かしてからというもの、トイレで誰かを襲った記憶がない。自分の特徴を忘れてしまう前に獲物にありつけたことは、幸運と言えるだろう。

 変化(へんげ)のために妖力を練りつつ、花子は結界から今いるトイレを見回した。とても丁寧に掃除されていて、夏の間もかび一つ生えていなかっただろうことは、想像に容易い。忍び込む際に掃除用具も拝見したが、こちらも使い込まれている割りに綺麗なものだった。

 学校のトイレとは手入れの質が違う。寺の厠とはかくも美しいものなのかと、花子は腕組みをしつつ唸った。

 

 ここは人里の近くにある、命蓮寺(みょうれんじ)なるお寺だ。霊夢のお仕置きから立ち直った後、主人である藍に手を引かれて帰る橙を見送り、花子は小傘についていく形でこの寺を訪れた。

 裏の墓地に向かう小傘から、最近この寺に臆病な山彦が入門したという話を聞いたのだ。花子はその山彦に狙いを絞っている。特徴は、垂れた犬の耳。妖怪のくせに、夜一人でトイレに行くのが怖いらしい。おかしな話ではあるが、花子にとっては最高の獲物だ。 

 空気を取り込む小窓があるだけの厠は、ただでさえ暗い。それが真夜中ともなれば、夜目が利く妖怪でなければ視界は闇に閉ざされてしまうだろう。

 

「……む」

 

 きしむ音を立てて、木製の扉が開いた。蝋燭の先端に灯る小さな火が、ぼうと厠を照らす。

 体を小さく縮こまらせて、怯えきった顔で厠の中を見回すのは、見た目は花子と同じか少し上の年齢に見える少女。緑青色の髪から覗く垂れた大きな犬耳は、彼女の感情に同調するかのように震えている。

 小傘が言っていた山彦だろう。花子にとってこれほど美味そうな標的は中々いない。レミリアよりも、ずっとやりやすそうだ。

 しばし躊躇した後、山彦の少女は厠の扉を閉めた。蝋燭を片時も放したくないらしく、片手でいそいそと寝巻きのズボンを下ろす。

 相手が服を脱いでいる時が、花子の準備時だ。相手は女の子なので、恥ずかしい場面を直視するのはさすがに申し訳ないという思いもある。

 

「うぅ……怖いなぁ」

 

 呟きながら、少女がしゃがみこむ。彼女が用を足している間に、花子は空間ごと扉の上方に移動した。

 静まり返る厠で、山彦の少女はきょろきょろと何度も周囲を確認している。お化けか何かを警戒しているのだろう。

 暗闇で変化(へんげ)を終えた頃、事を片付けたらしい少女が立ち上がった。そそくさとパンツとズボンをはいて、蝋燭を手に厠の扉へと振り返る。

 恐怖からの解放を夢見る少女が、扉に手をかける。その瞬間、花子は動いた。

 空間から逆さ吊りになって、少女の目の前にぶら下がる。お互いの顔は息がかかるほど近い距離。変化(へんげ)の妖術で虚空となった眼窩を、山彦の少女に向ける。

 ずるりと天井から這い出た化け物に、少女が放心する。口を半開きにして、思考が停止しているようだ。

 蝋燭に照らされた今の自分の顔は、きっと花子自身も怖いと感じることだろう。内心でくすくすと笑いながら、花子はかすれて消え入りそうな声で、

 

「た――すけ――て――」

 

 一瞬呆けていた少女の目じりに、涙が浮かぶ。顔を恐怖に引きつらせ、理性が飛ぶまでもう数秒とないだろう。

 とどめの一撃。花子は変化(へんげ)で骨と皮だけになった細長い指で、少女の頬を撫でた。とても柔らかく、ずっと突いていたくなるような頬だ。

 赤黒い唇を大きく丸く開けて、冷たい息を吐き出す。死人が吐き出したような呼気を顔に受け、少女の感情は限界に達した。

 

「ひっ……いっ――」

 

 その後のことは、理解できなかった。

 少女が悲鳴を上げたことは間違いない。しかし、聞こえた声と花子の歓喜は一瞬、少女から――正確には少女の口から――放たれた衝撃波が、花子ごと厠の壁や扉を吹き飛ばし、外に躍り出た悲鳴は寺の雨戸をもぶち抜いて、真夜中の幻想郷に響き渡り――

 花子はその日、音の破壊力を知ったのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「馬鹿か君は!」

 

 怒りのあまりひっくり返った怒鳴り声に、花子はびくりと体を震わせた。

 今の言葉は自分に向けられたものではないのだが、矛先がいつこちらに向くか分からない以上、黙って畳を見つめているしかない。

 

「こんな真夜中に、あんなわけの分からない悲鳴を上げるなんて! 人里から苦情がきているんだぞ、響子!」

「ご、ごめんなさい」

「ごめんなさいで済むもんか。(ひじり)とご主人を謝罪に出させて、恥ずかしいと思わないのかい!?」

 

 響子というらしい山彦の少女を頭ごなしに叱る声の主は、大きなネズミの耳と同じくネズミの尻尾を持つ妖怪少女だった。

 厠から一番近い部屋にいたらしい彼女は、響子の悲鳴とそれによって発生した破壊音の被害者といえるだろう。廊下と厠に転がる花子と響子を見つけたのも、彼女だ。

 

「うちに入門してきてから、どうにもみんな甘やかしすぎると思っていたんだ。全く、妖怪のくせに夜の便所が怖いなんて。笑えない冗談だよ」

「だって、私はナズーリンと違って、お昼に起きる妖怪だもん」

「そういう問題じゃない! いいかい、君が臆病者なのは知っていたけどね、だからといって聖やご主人や私に迷惑をかけていいわけじゃないんだよ。住み込みでがんばるって言うから、少しは根性があるのかと思っていたのに。でかいのは声だけじゃないか。

 一輪と村紗だって、今頃お詫びの菓子折りを準備しているんだ。ぬえとマミゾウは見事に寝てるらしいけど、あいつらは例外として――」

 

 自分の失態に涙を浮かべて反省する響子に、ネズミ妖怪のナズーリンは容赦なく言い放った。

 

「後でみんなにちゃんと頭を下げて謝罪すること。厠と周りの修繕も君がやるんだよ。大工道具くらいは準備してあげるから、ありがたく思うんだね」

「で、でも私、大工仕事なんてやったこと……」

「ないからなんだっていうんだい。君が壊したんだから君が直す。当たり前じゃないか。あぁ、厠はみんなも使うんだ。できるだけ早く――朝までには直すんだ。いいね」

「そんな無茶な! 私一人じゃ無理だよ」

「二人いるじゃないか。そこの冴えないおかっぱ頭も使いなよ。元はといえば、彼女が原因なんだからね」

 

 ついにきた。花子は口をつぐんで、じっと身を固めた。それでも失礼にならないよう、一応顔を上げる努力はしてみせる。

 小刻みに震えている響子の犬耳とは対照的に、ナズーリンの丸い耳からは感情が読みにくい。しかし、赤い瞳を半眼にして、癖のあるチャコールグレイのセミロングを指でいじる彼女は、酷く不機嫌そうに見えた。

 

「君、名前は」

 

 見た目だけならば響子や花子と大差ない背丈のナズーリンだが、高圧的な口調がやけに似合う。すっかり威圧されて、花子は小さな声で答えた。

 

「御手洗花子……です」

「花子。はん、単純な名前だね。まぁいいや、分かっていると思うけどね、花子とやら。君にも便所の修理を手伝ってもらうよ。夜明けまでにだ。できるね? いや、できるかどうかはどうでもいい、やるんだ。やってもらわなくちゃ困る。ご主人達にこれ以上迷惑をかけられちゃ、たまらないからね」

「……ごめんなさい」

「謝るのは後でいいよ。私だけじゃなく、うちの住人みんなに謝罪してもらわなきゃならないしね。あぁ、そうじゃなきゃ私の気が済まないよ、まったく!」

 

 皆が寝静まる夜中こそが、夜行性のナズーリンにとって心休まる一人の時間なのだ。それを邪魔されたのだから、恐らく誰よりも腹を立てているのだろう。

 とはいえ、花子は機嫌良く微笑を浮かべているナズーリンを想像することが、とても難しく思えた。彼女はどんなに上機嫌であっても、決して顔には出さないような気がするのだ。

 大工道具を取ってくると、ナズーリンは畳を踏み鳴らしながら部屋を出て行った。静まり返る室内で、花子は今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られる。

 妖怪としての仕事とはいえ、こんな大事になるとは。申し訳なさで一杯になり、まず響子へと頭を下げた。

 

「あの、ごめんね。私、ちょっと脅かすつもりだったのに、なんだか大変なことになっちゃって……」

「ううん。あなたも妖怪だもんね、ちゃんとやることはやらないといけないんでしょ?」

「ま、まぁ……。怒ってないの? あなたをびっくりさせたし、こんなことにもなっちゃっているのに」

 

 上目遣いに恐る恐る見上げると、響子はわずかに苦笑を浮かべながら首を横に振り、

 

「気にしないで。すっごい怖かったけど、あんなみっともない大声出しちゃった私も悪いし。それに、妖怪が妖怪らしいことをするのは、悪いことじゃないよ」

「あう、優しくされると辛いなぁ……」

 

 いっそ叱ってくれたほうが、気が楽だ。それはそれで、辛いことに変わりはないのだが。

 少し立ち直ったらしい響子は、肩の力を抜いて溜息をついた。

 

「私もね、人の大声に叫び返す山彦の仕事をしてたんだけど、だんだん『山彦は音が反響しているだけ』なんて言われるようになっちゃって、なんだか空しくなって……。それで仏門に入ることにしたんだ。だから、妖怪の仕事をちゃんとしたいっていう、あなたの気持ちは分かるよ」

「そっか。うん、そう言ってもらえると助かるかな」

 

 ようやく緊張がほぐれて、花子は強張っていた表情を緩めた。

 改めて響子の顔を見ると、緑色の瞳はくりくりと、普段は活発な少女なのだろうと花子に思わせる。

 正座は崩さず、それでもいくらか楽な姿勢で、響子がにっこりと笑みを浮かべた。

 

「花子、だっけ? 私、幽谷響子(かそだにきょうこ)。よろしくね」

「こちらこそ。でも、本当にごめんね。おトイレの修理、本当は私一人でやるべきなのに」

「壊したのは私だもん、花子が手伝ってくれるだけでもありがたいよ。それに、ナズーリンに目をつけられたのが運の尽きってね」

 

 肩をすくめ、響子がおどけて見せる。

 

「普段は興味ない振りしてるけど、いっつも私に説教するタイミングを見計らってるんだよ。横目でチラチラこっち見ながら、(しょう)様や(ひじり)様の目を盗んでは、私にグチグチグチグチ言ってくるの」

「あは、そうなんだ。たまにいるよねぇ、そういう人。言っていることは正しいんだけれど、なんていうか、今言わなくてもいいのにーって思うよ」

「そうそう。自分のことは棚に上げて、あれがなってない、これができてないってさ。がんばって直そうとしてるのに、根性が足りないなんて。大きいのは声だけだなんて、私は山彦なんだから、声が大きいのは当たり前なのにね」

 

 日頃から鬱憤が溜まっていたのだろうか。響子はやれやれと眉を寄せて、次から次へと愚痴をこぼし始めた。

 

「今回だって、私と花子が悪いのは分かるけど、二人で朝までに全部直せなんて、無理に決まってるよ」

「う、うん、まぁそうだけど……」

「でしょ? 自分がやれって言われてたら、適当な言い訳して逃げるに決まってるのに。自分が悪くてもそうするんだよ、ナズーリンは。星様か聖様に言われたらやるけど、それが一輪さん達だったら、大体私に押し付けるんだから。酷いと思わない?」

「そうだね、でも、あのね響子」

「それだけじゃないんだ、聞いてよ花子。今は住み込みだけど、通いでここに来てた時なんて、ナズーリンは『君は掃除の仕方がまるでなってない、きっと家もゴミ屋敷なんだろうな』って笑ったんだよ! 私綺麗好きなのに、あれは本当に頭にきたんだ。だから、小傘と一緒にこっそりナズーリンのチーズをくすねてやったの。真っ赤な顔して探してる姿は、おかしいったら」

「ねぇ響子、その、そろそろ――」

 

 冷や汗をかいている花子の制止を、響子は聞き入れなかった。人差し指を立てて、さも楽しそうに、

 

「いっつも『響子の声は大きすぎる』だなんて言ってるけど、ナズーリンの耳が大きいだけなんだよね。他の人には怒られないもん。無駄に地獄耳なんだから、あのネズミ」

「きょ、響子……あの……」

「私にだけしか八つ当たりできないんだよ、あの人。いっつも私にばっかり偉そうにしてるんだから」

「ふぅん、そうかい。それは大変な日々を送っているんだね」

 

 人差し指を立てた姿勢のまま、響子が固まる。最後の声は、彼女の背後――つまり、花子にとって視線の延長線上から聞こえてきたのだ。

 そちらを直視することはできなかったが、花子はだいぶ前から、そこに悪口の中心人物であるナズーリンが立っていることに気がついていた。ちょうど、面倒ごとを響子に押し付けるといった話の辺りからだろうか。

 畳の上に音を立てて大工道具を置き、ナズーリンは響子の肩にかなり強めに手を置いた。叩いたと表現したほうがいいかもしれない。

 

「ひっ」

 

 響子の体が文字通り飛び上がる。しかし、ナズーリンの顔はぴくりとも動かない。見事なまでの真顔が、花子には阿修羅も裸足で逃げ出すような恐ろしい顔に思えた。

 肩を掴む小さな手には、青筋が浮かんでいる。痛みと恐怖で響子の顔が真っ青になっていくが、花子には彼女に助け舟を出す勇気などなかった。

 

「響子」

 

 淡々とした、温度をまるで感じさせない声。そのくせ怒りだけはしっかり篭っている。花子はもう、そちらを見ていられなかった。

 

「ご……ごめんなさい、ごめんねナズーリン」

「君が私をどう思っているのか、よぉーく分かった。私はいい先輩になろうなんて思っちゃいないが、それでも君のためを思って、したくもない説教を垂れてきたんだ」

「う、うん、分かってるの。ただね、ちょっとだけ愚痴りたかったというか」

「あぁ、分かる。よく分かるさ。私だってご主人や聖と過ごしていて鬱憤が溜まることもあった。誰かに話したい気持ちも理解できるよ。だけどね」

 

 肩から服の襟に手を伸ばし、ぐいと掴んで、ナズーリンは妖怪の腕力で響子を無理矢理立ち上がらせた。

 チーズだ。花子はどうしてか、悟ってしまった。彼女はチーズを盗られたことを、とても怒っているのだ。

 

「そういう愚痴は、私の耳に届かないところで言うんだよ!」

 

 開かれた廊下への襖に向かって、ナズーリンが響子のお尻を蹴り飛ばす。これ幸いとばかりに厠の方へと逃げる響子。

 今も正座したまま固まっている花子へと、ナズーリンの赤い瞳が向けられた。工具箱を押し付けられて、

 

「君も、さっさと行く! 夜明けまで、時間があると思うな!」

「は、はいぃっ!」

 

 転びそうになりながらも、花子は大慌てで廊下へと駆け出した。

 厠の前に辿りつくと、響子が壁の向こうのナズーリンに向かってあかんべいをしていた。反省はしているのだろうが、彼女も中々懲りない性分らしい。

 崩壊した壁や厠は、何から手をつければいいのか分からない有様だった。とりあえず使用頻度の高い厠の壁から直そうと、二人で修理の手順を決める。

 工具箱から金槌を取り出し、壊れた板を拾い上げたところで――

 

「あぁ不愉快だ、何もかも! まったくもぉぉぉ!」

 

 甲高いネズミ少女の叫びを、花子と響子は聞かなかったことにした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 結局、厠付近の修理は昼過ぎまでかかってしまった。ところどころ雑なのは否めないので、最終的には業者に頼むことになるのだろう。

 花子は今、響子と一緒に参道を掃除している。響子が毎朝行っている日課らしい。もう昼をだいぶ過ぎているが、それでも中止はしないようだ。

 

「ぜーむー」

「ぜーむー」

「とーどーしゅー」

「とーどーしゃー?」

「しゅー」

「しゅー」

 

 毎日読経しているらしい響子に続く形で般若心経とやらを初めて唱えている花子だが、仏教どころか宗教とも程遠い小学校暮らしだった彼女には、不思議な呪文としか感じなかった。

 そもそも、花子は仏教とはどういったものを教えているのかすら分からない。なにやら仏様がありがたいことをしてくれる、という非常にアバウトな認識だった。

 お寺の参道は、掃除をしたからというだけではない清潔感に包まれている。ただ立っているだけで、不思議な解放感に満たされるのだ。響子が仏門に入った理由が、花子にもなんとなく分かった気がした。

 一通り落ち葉を集め終え、二人がかりで袋に集めたところで、響子が大きく伸びをした。

 

「ふぅー、綺麗になった」

「葉っぱ、いっぱい集めたものね」

 

 満足そうに、落ち葉の消えた参道を眺める二人。花子も手伝ったとはいえ、毎日やっているだけあって、響子の箒がけはとても上手だった。花子の倍以上の速度で、あっという間に落ち葉を片付けてしまったのだ。

 綺麗好きとはいえ、花子のテリトリーはトイレだ。モップがけには自信があるが、箒にはあまり縁がない。これからは落ち葉集めをやることも増えそうなので、響子の動きはしっかり見習おうと心に決めた。

 

「……さて」

 

 一息ついて、響子はわずかに目を伏せた。できればこの時間には来てほしくなかった、とでも言いたげな顔だ。

 その理由は、花子にも分かる。参道を掃除している途中で、セーラー服を着た黒髪の活発そうな少女に、「掃除が終わったら聖のところに行くんだよ」と言われていたのだ。

 聖なる人物が誰なのか、花子は知らない。だが、その時に浮かべた響子の表情で、とても偉い人なのだろうことは分かった。

 昨晩のことを、怒られるのだろうか。悪いのは自分達なので、花子も響子も掃除をしながら覚悟を決めてはいたが、やはり怖いものは怖い。

 

「いこっか、花子」

「うん」

 

 掃除用具を倉庫にしまい、二人は幾分重い足取りで、寺の中に向かった。

 改めて歩いてみると、木目張りの床はとても綺麗に磨かれていた。柱や壁も丁寧に掃除されていて、この寺の住人はとても綺麗好きなのだということが伺える。

 もしかしたら全部響子がやらされているのではと思ったが、本人に尋ねたところ、

 

「私一人で? それはさすがに無理だよー」

 

 と笑われてしまった。新人だからと、こき使われるようなことは――ある先輩を除き――ないらしい。

 襖に区切られた屋内は意外と広く、見た目も似たような部屋ばかりなので、花子だけで歩いていたら迷ってしまうだろう。

 しばらく歩いたところで、響子が足を止めた。ふぅ、と小さく深呼吸して、彼女は襖越しに中へと声をかける。

 

「聖様、響子です」

「お入りなさい」

 

 ちらりと、響子がこちらを見てきた。花子も意を決して頷き、襖を開ける。

 その部屋は、他の部屋と変わらない広さだった。それでも花子が息を呑んだのは、そこにいた人物が原因だろう。

 

「どうぞ」

 

 微笑みながら入室を促す、その女性。

 紫のグラデーションが入った長い金髪は、緩やかにウェーブがかかっていて、まるで月光に照らされた海辺のよう。黄金の瞳は慈愛に満ちていて、見つめられるだけで心が溶けてしまいそうだ。

 白と黒の色調でまとめた服装は、一瞬魔理沙を彷彿とさせたが、彼女に比べると遥かに落ち着いたドレスだった。

 人も妖怪も等しく救う、絶対平等主義者の大魔法使い。彼女の名を、聖白蓮(ひじりびゃくれん)という。

 

「失礼します」

 

 一礼して、響子が部屋に入る。慌てて頭を下げ、花子もそれに続いた。

 どうやら自分達のために用意されたらしい二枚の座布団に、それぞれ正座する。妙に畏まってしまい、花子は後ろに倒れてしまいそうなほど背筋を伸ばしていた。

 心配そうにこちらを見やる響子の視線にも気付かないでいると、白蓮は手を口元に当てて失笑し、

 

「花子さん、といったかしら。楽にしていいのよ」

「は、はい」

「ふふ、うちに来たばかりの頃の響子にそっくりね」

 

 恥ずかしげに頭を掻く響子。柔らかな雰囲気に、花子もいくらか肩の力を抜くことができた。

 尼のような格好をした少女――後に、雲居一輪(くもいいちりん)という名前だと聞いた――がお茶を運んできてくれてから、白蓮はようやく本題を切り出した。

 

「さて、昨晩の話、ナズーリンから聞きました」

 

 よりにもよって、ナズーリンか。花子と響子はそろって下を向いて、ばれないように舌打ちをした。

 すぐに顔を上げると、白蓮の瞳は真っ直ぐ花子に向けられていた。主な原因は響子ではなくこちらにあるのだから、花子も萎縮してしまう。

 

「花子さんは、どうしてお手洗いで響子を襲ったのかしら」

「えっと、その……。私は外の世界で、『トイレの花子さん』という妖怪――お化けだったんです。学校のトイレで子供を驚かす妖怪だったんですけど、幻想郷には学校がないから、もうトイレだったらどこでもいいやって……」

「この寺を選んだ理由、聞いてもいい?」

 

 白蓮の口調に棘はないが、それでもぶれない真面目さが感じられ、花子はますます肩を縮こまらせた。

 

「こ、小傘に、教えてもらいました。唐傘のお化けで――」

「小傘ねぇ。あの子のことだから、悪気はないのでしょうけど」

 

 苦笑と共に、白蓮が溜息をつく。どうやら面識があるようで、小傘の天然ボケっぷりも知っているようだ。

 

「妖怪が誰かを驚かすなとは、言えません。それがあなたの存在意義ならば、厠での一件も致し方ないことなのでしょう。ただ、うちのように壁が薄い家屋では、近くの部屋に迷惑がかかるだろうことも考えなければいけませんよ。ナズーリンはカンカンで、なだめるのに苦労しました」

「す、すみませんでした……」

「あの子の癇癪にも困ったものですけど、次は極力、襲う人だけを驚かすようにしてくださいね」

 

 穏やかに、しかしはっきりと釘を刺してから、白蓮は響子に向き直る。

 

「さて、響子」

「はい……」

 

 何度も話をしたり食卓を囲んだ仲であっても、命蓮寺の頂点に立つ白蓮のお叱りだ。名前を呼ばれただけで、参ってしまっているらしい。

 花子には、ただでさえ小さい響子の体が、さらに小さくなっているように見えた。

 

「あなたの大きな声、私はとても好きですよ。元気な挨拶は、心が洗われる気持ちです」

「あ、ありがとうございます」

「ですが、昨晩の悲鳴。怖がりなあなたのことだから、花子さんに驚かされてびっくりするのは仕方ないと思っています。でもね、それでももう少しだけ、抑えられたんじゃないかしら。もう五十年も生きているんだから、夜中のお手洗いは克服しないといけませんよ」

「うぅ、返す言葉もありません……」

 

 臆病な性格は、誰よりも響子自身が直したいと思っているのだろう。申し訳なさそうに、白蓮に頭を下げている。

 

「お手洗いの修理は、とりあえずあれで良しとします。謝罪のついでに、人里の大工さんに綺麗に直していただけるよう頼んでおきました」

 

 自分達のせいで、とんでもない手間をかけてしまった。花子と響子はそろって俯き、しゅんと静まり返ってしまう。

 二人の様子があまりにもそっくりため、白蓮が思わず笑みを零す。はっきりと反省の色を浮かべる少女達に、白蓮は両の掌を軽く打ち鳴らした。

 

「さて、お説教はお終いにしましょう」

「え、もうですか?」

 

 あまりに短いものだから、花子は思わずそう訊ねてしまった。まるでもっと説教してくれと言わんばかりの物言いだ。響子の「何を余計なことを」という非難の視線に気付き、慌てて口を押さえる。

 しかし白蓮は、とうとう堪えられなくなったのか、わずかに声を上げて短く笑い、

 

「私は、星ほど説教好きじゃありませんからね。あ、今の話、星には内緒ですよ」

 

 唇に人差し指を当てて、白蓮が悪戯っぽく呟く。釣られて笑ってしまい、花子と響子はようやく説教から抜け出したのだという安堵感を味わった。

 ふと見れば、障子から差し込む光が赤くなっていた。つい先ほどまで昼下がりだったというのに、冬が近づく太陽は、早々に身を隠し始めている。

 さすがに迷惑をかけたその日に、宿を借りるような真似はできない。花子はお茶をきちんと飲み干してから、いそいそと立ち上がった。

 

「あの、私、そろそろお暇します。今日は本当にすみませんでした。他の皆さんにも謝りたかったんですけど……」

「いいんですよ。皆には、私からあなたの言葉を伝えておきます」

「もう行っちゃうの? もっとゆっくりしていけばいいじゃない。なんなら、私の部屋に泊まっていきなよ」

 

 白蓮はこちらの心中を察してくれたが、響子には伝わらなかったようだ。命蓮寺の面子で一番後輩となる彼女にとって、同じ目線で会話をできる相手は貴重なのかもしれない。

 しかし、今日は無理だ。響子の誘いは素直に嬉しかったが、花子は苦笑しつつ、頬を掻いた。

 

「また、今度来るね。次は、ちゃんと玄関から挨拶して入るよ」

「そうしてくれるなら、私達もきちんとおもてなしするわ。お手洗いも綺麗にしてね」

「楽しみにしてます」

 

 白蓮と冗談など交わしながら、リュックを背負う。

 響子は今も残念そうな顔をしているが、花子の出立は白蓮も納得しているので、それ以上引きとめようとはしなかった。

 

「私はまだ少し私用が残っているから、ここで失礼するわ。響子、花子さんをお見送りしてちょうだいね」

「はぁい、聖様」

 

 座布団から立ちあがった響子は、花子より先に廊下へと出ていってしまった。

 響子を追いかけようとしたが、もう一度白蓮に詫びたほうがいい気がして、花子は立ち止まった。しかし、これ以上言葉のやり取りを繰り返すのも、無駄な時間になってしまうだろうか。

 結局、白蓮へと向き直り、数秒間、深々と一礼した。白蓮も軽く礼をして返事としてくれたので、花子は顔を上げてから、

 

「それでは、さようなら」

「またいつでも、いらしてね」

「はい!」

 

 元気に返事をして、花子は廊下に出た。待ってくれていた響子と共に、寺の玄関へ向かう。

 参道に出てみれば、ちらほらと人間の姿も見える。妖怪だらけの寺だというのに、なんとも不思議な光景だ。もっとも、人里にも妖怪が当たり前のように出入りするのだから、珍しくないといえばそうなのだが。

 寺の門を通り抜け、街道に出たところで、響子と別れる時間となった。しつこいかとも思ったが、花子はそれでも響子に向かって、小さく頭を下げ、

 

「響子、ごめんね。あんな驚かし方して」

「いいよいいよ、もう謝らないで。それより、きっとまた遊びに来てね。今度はみんなにも、花子を紹介するからさ」

「うん。また般若心経、教えてね」

「もちろん!」

 

 またねと挨拶を交わしてから、花子は歩き出した。

 夕日はさらに深く体を隠し、空はもう夜の色が濃くなっている。

 今から泊まる場所を探すのは難しいだろうが、まだ冬ほど寒くはない。適当な岩か木で風を凌げれば、一晩くらいの野宿は大したことないだろう。

 夕暮れの街道で、花子は何度も命蓮寺を振り返り、大きく手を振った。響子の大きな声が、ずっと花子の背中を追いかけてきたからだ。彼女の元気いっぱいな声は、花子にまでエネルギーを与えてくれる。

 響子に会うために、彼女の声を聞くために、また必ず命蓮寺を訪れよう。花子の旅の目的地に、新たな名前が刻まれた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 日が暮れかけた街道に、響子の声が響いている。またねだとか、ばいばいだとか、似たような言葉を何度も繰り返していた。

 響子の声がやかましいのは、今に始まったことではない。彼女の大きな声は、もう大して気にならない。

 ただ、彼女が叫んでいるその対象。ようやく見つけたその妖怪に、封獣(ほうじゅう)ぬえは命蓮寺の屋根の上から、真紅の瞳をきらりと輝かせた。

 黒のショートボブと、歪な形をした赤と青の翼。黒いワンピースを纏い、足を覆うニーソックスもまた黒だ。靴だけは赤く、彼女にとって一番のおしゃれでもあった。

 正体不明を司る、千年を生きる太古の妖怪。長らく封印されていたが、彼女こそが正真正銘伝説の、(ぬえ)である。

 

「あいつが……花子ね」

「ずっと探しとったが、まさか向こうから来るとはのう。しかしおぬし、ずいぶんとあの(わっぱ)に固執しとるようじゃが、なんぞ恨みでもあるのかえ?」

 

 傍から聞こえたその声は、喋り方こそ年寄りのようだが、まだ若い女のものだ。そちらを横目で見やり、ぬえは口元を笑いに歪める。

 

「ちょっと違うかな、マミゾウ。恨みっていうより――」

「存在が気に食わん、じゃったか?」

 

 頭に乗せた葉っぱに触れる、相棒の化け狸――二ッ岩マミゾウが、物騒なことを軽く言ってのけた。

 しかし、その通りなのだ。マミゾウには何度となく話してきたその感情に、嘘はない。

 意気揚々と街道を行く御手洗花子なる少女の背中を、ぬえはじっと睨みつける。

 

「そうそう。あのチビに何かされたわけじゃないけど、私にとって、あいつは邪魔なのよ」

 

 瞳を鋭くさせて、冷たい声音で、呟いた。

 

「あいつの……『トイレの花子さん』という存在は、邪魔でしょうがないの」



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そのじゅうなな 恐怖!正体不明と化け狸!

 

 

 

~~~

 

 

 太郎君へ

 

 

 こんにちは。とっても寒くなってきたね。北の方ではもう雪が降っているころかな?

 

 今日は、ちょっと不思議な妖怪に出会いました。私たちと同じで、化けて人を驚かす妖怪です。

 

 私を人間と間違えたのかと思ったのだけれど、なんだか違うみたい。私のことを知ってる、というか、私を嫌ってるみたいでした。

 

 初めて会う人だと思うんだけど、どうしてだろう。おかしいね。

 

 その妖怪さんは、人間に化けていたの。私もできたらいいなと思ったのだけれど、考えてみると、私は化けなくても人間と間違われるものね。このままでいいかも、えへ。

 

 もうすぐレミリアさんのお家につきます。あのお館は久しぶりだから、楽しみ!

 

 また明日、お手紙します。おたよりは楽しい日課なので、太郎君にも楽しんでもらえていると嬉しいな。

 

 それでは、またね。

 

 

 花子より

 

 

~~~

 

 

 

 まだ日が昇ったばかりの街道を、小さな後姿が鼻歌交じりに歩いていく。

 おかっぱ頭にセーラー服の上着と古びたもんぺという姿は、人里の子供と間違われても仕方がないだろう。恐らくぬえも、彼女から妖怪の妖気が伝わってこなければ、疑うことなく人間だと思い込んでいたはずだ。

 

「さて……。どう料理してやろうかな」

 

 朝もやが覆う草むらの陰から、ぬえは舌なめずりなどしつつ花子を見据える。彼女の纏う黒いワンピースはお世辞にも防寒性に優れているとは言い難いが、ぬえが妖怪だからか、あるいは目の前の敵に心を奪われているからなのか、寒さは感じない。

 一方、隣の相棒。佐渡からはるばるやってきた化け狸の二ッ岩マミゾウは、北国の生まれだけあって寒さには強いようだが、小さく丸い眼鏡を持ち上げ、眠そうに目をこすっている。

 

「のう封獣(ほうじゅう)よ。いっぺん寺に帰らんか? もう眠くて敵わんのじゃ」

「妖怪のくせに徹夜程度で音上げないでよ。やっとあいつが動き出したってのに、今から帰って寝るなんて、馬鹿げてるでしょ」

 

 本当ならば、花子が寝ている夜のうちにあれやこれやを実行するつもりだったのだが、花子はどういうわけか、一晩中八雲紫と一緒にいたのだ。スキマ妖怪の恐ろしさを何度も話で聞いていたぬえは、紫がいなくなる瞬間を狙う以外になくなってしまった。

 朝まで待ってようやく得たチャンスを、逃すつもりはない。ぬえはこっそり体を起こし、花子の後を追いかける。

 

「ほら行くよ、マミゾウ。遅れないでよね」

「わしは花子とかいう(わっぱ)に恨みはないんじゃがのう」

「いいじゃない。友達でしょ」

 

 ウィンクなどしてみせると、マミゾウは目を逸らして小さく溜息をついた。

 

「そうじゃな、友達じゃな」

「む、ノリ悪いな」

「眠いだけじゃ。ほれ、花子を見失うぞえ」

 

 マミゾウに背中を押され、ぬえはしぶしぶ花子の後を追う。

 草むらをかき分けながら進んでいると、背後からしっかりついてきているマミゾウが言った。

 

「しかし、どうするつもりじゃ? 花子をこの郷から追い出すつもりかえ? それともいっそ、亡き者にするのか?」

「へ? あー、いやまぁ、そこまでするつもりはないけど。適当に仕掛けて、あいつが困ってるところが見れたらそれでいいかなぁって」

「……しょーもな。まぁおぬしのイタズラが基本的にしょうもないってことは、知っておったがのぅ」

 

 じっとりとした視線を背中に受けたが、ぬえは返事をしなかった。無言を貫いていると、マミゾウが諦めたような声音で、

 

「まぁ、殺生が好かんのは、わしも同じじゃがの」

「さっすがマミゾウちゃん。分かってくれると信じてたわ」

 

 生い茂る草を極力揺らさぬようにしながら、花子の横を通り過ぎる。間近で見ると、その顔のなんと暢気なことか。イタズラを仕掛けるのが申し訳なくなるほど、意気揚々と街道を歩いている。

 もっとも、そんな花子の表情を見たからといって、ぬえの気持ちが変わるわけではない。マミゾウの横に並んでから、小声で作戦の確認を始める。

 

「いい? まずは私が『種』で正体を隠してから、あいつの前に出るわ。花子には私がそこらの町娘か何かに見えるはずだから、あんたは昨日話したとおりに頼むわよ」

「あい分かった。じゃが、大丈夫なのか? おぬしの『正体不明の種』は、相手の知識に依存するんじゃろ。花子から見た封獣が、絶対に人間の娘に見えるとは限らんじゃろうて」

 

 ぬえの能力――『正体を判らなくする程度の能力』は、不定形な『正体不明の種』を植え付け、その対象に対する周囲からの視覚的認識をかく乱させる能力だ。種を植え付けられた対象は、見るものによって見た目が変わる。先の聖白蓮復活騒動では、空飛ぶ木片がUFOに見えたりしたそうだ。

 残念ながらこの能力は、対象の正体を知っている者には通用しない。例えば、今のようにぬえが『種』で何者かに化けようとしても、相手がぬえの正体を知っている知人であったとしたら、化けることは叶わずぬえにしか見えないのだ。使い所が難しい能力である。

 

「大丈夫よ。あいつは私の見た目から得た先入観で、私がどう見えるか決める。人の子供がたくさん集まる場所にいた花子なら、私の姿を見て真っ先に人間の女の子をイメージするはずだわ」

「根拠のない自信じゃのう。まぁしかし、『種』を長年使ってきたおぬしの言うことじゃ。そっちは任せて、わしは準備に入らせてもらうぞえ」

「頼んだわよ。この作戦の成功は、あんたにかかってるって言ってもいいんだからね!」

 

 他力本願もここまでくるといっそ清清しいほどだが、ぬえに反省の色はない。

 自身に『種』を仕込み、やれやれと呆れながらも変化(へんげ)の術を唱えるマミゾウを尻目に、ぬえは街道に出る。

 花子がこちらを見た。草むらから突然現れた少女に、首を傾げている。

 覚悟しろ。心の中でにやりと笑い、ぬえは作戦を開始した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

「……?」

 

 街道の外れから慌てた様子で出てきた少女に、花子は訝しげに眉を寄せた。

 整備された街道とはいえ、花子が歩いている場所は人里からかなり離れている。こんなところに人間の少女が一人でいることなど、あるのだろうか。

 黒い着物を着た少女は、年のころ十四か十五程度。酷くうろたえた様子で辺りを見回した後、花子を見つけ、目を輝かせる。

 

「あぁっ! そこの聡明そうなお嬢様!」

「へ?」

 

 花子は周囲を見渡した。悲しいことだが、どう見繕っても自分が賢そうな外見だとは思えなかったからだ。

 しかし早朝だけあって、だだっ広い街道に見える人影は花子と少女の二人だけ。少女の視線も一心に花子へ向けられており、どうやら自分のことで間違いないようだ。

 一目散にこちらへ走り寄ってきた少女は、花子の前にひざまずくと、

 

「お助けください! 化け物に追われているのです!」

 

 黒のショートヘアは朝露に塗れ、赤い瞳が恐怖に潤んでいる。彼女を追う化け物とは、恐らく妖怪だろう。

 人里から離れた場所で、それも夜の効力が残る朝方に人間がうろついていれば、妖怪に襲われるのは当たり前だ。自業自得ともいえる。

 とはいえ、こうも必死に助けを求められては、無視することもできない。だが、幻想郷の妖怪ならば彼女を取って食うことはしないだろうし、同じ妖怪として仕事の邪魔をするのも忍びない。

 どうしたものかと考え込んでいると、わずかに俯いた少女が、小さく呟いた。

 

「何とか言えよおかっぱ」

「……え?」

「このままでは私、食べられてしまいます! あぁ、父亡き後、女手一つで私を育ててくれた母に、まだ何も親孝行できていないというのに!」

 

 芝居がかった仕草で、少女は呆気にとられている花子に懇願した。

 

「おぉ、愛らしいおかっぱのお嬢さん! どうかこの、哀れな小娘をお救いください!」

「えぇと、そう言われても……」

 

 頬を掻きつつ、花子は苦笑いを浮かべる。少女の挙動からは、危機感よりもうそ臭さの方が強く伝わってくるのだ。

 できるだけ関わりたくなかったが、お人好しな花子は、どう考えても怪しい少女に手を差し伸べてしまった。

 

「追っかけてきてるの、どんな妖怪なんですか?」

「え? えっと……その、そう! 猿の顔に狸の胴、虎の手足と蛇の尾を持つ妖怪なのです! ヒョーヒョーと、トラツグミに似た気色の悪い声で鳴くとんでもない化け物で――」

「なんか、あべこべですね。混ぜればいいってものじゃないのに」

「……いや、実際本当に恐ろしいんですよ。マジで。平安の世を恐怖のどん底に叩き落したんだから。当時の天皇を恐怖のあまり病床に伏せさせ、弓の名手である源頼政と家来の猪早太が二人がかりでようやく退治した伝説の大妖怪。その恐ろしさは今も語り継がれているのよ!」

 

 後半からは、まるで自慢するかのように得意げな顔で語っている。

 なんとなく感じていた嫌な予感が確信に変わりつつある中、花子は努めて冷静に本題へ戻す。

 

「それで――私はどうしたらいいんですか? あなたを人里に送ればいいのかな」

 

 引きつり笑いで訊ねると、少女はハッとした後、必要以上に何度も頷き、

 

「そうです! それで、その、なんだっけ……。あそうだ、えぇと! こんなところで同じ人間に出会えたのは、幸運でした! 恐ろしい妖怪に追われ、哀れな小娘に何ができましょう。あなたもひ弱な人間であるとは知っています。ですが、今の私にはあなたこそが一筋の光明!」

 

 長々と語る少女。件の化け物は、まだ姿を見せない。どころか、いつの間にか朝日が昇りきった街道は、実に静かなものである。

 静寂の朝日に包まれる中、一人でミュージカルをやる少女を眺めながら、花子は早く終わらないかなと思い始めていた。

 

「例えか弱い人間の女子(おなご)でも、二人ならばきっと窮地を脱出できるはず! さぁ、あなたと私、手を繋いで仲良く逃げましょう! 人の身にできることなどその程度です!」

 

 思わず、深い溜息が出る。花子はさっさと正体を明かして、この場から逃げることに決めた。

 恐怖に沈んだ瞳でこちらを見つめる少女に半眼を向けたまま、花子は極力感情が出ないよう淡々と告げる。

 

「あのぅ、私も妖怪なんですけど」

 

 一瞬、少女の顔が歓喜に歪んだ。

 この時を待っていたとばかりなその表情は一転、学校の美術室で見たムンクなる画家の『叫び』という絵に良く似た顔に豹変する。

 

「ひぃぃぃやぁぁぁぁぁッ! 妖怪ィィィィッ!」

「え、えぇっ!?」

 

 外見が外見だけに、妖怪であることを怪しまれると思っていた花子は、このリアクションに大変驚いた。

 手をメガホンにして、周囲に知らせるかのように、少女が絶叫する。

 

「おたすけぇぇぇぇ! 妖怪よぉぉぉぉっ!」

「ちょ、ちょっとやめてください! まだ朝早いんだから、迷惑ですよ!」

 

 見当違いな忠告だとは分かっていたが、花子はとりあえず思いついた制止を口にする。しかし、少女は止まらない――どころか、とても楽しそうに、

 

「触らないで! 食べられるぅぅぅっ!」

「あぁもう、お願いだから静かにしてください!」

「いやぁぁぁぁっ!」

 

 肩を抑えて止めようとしても、少女は小柄な体にあるまじき腕力で振り払ってくる。

 いい加減嫌になった花子は、妖力で加速させた頭突きで気絶させようと決めた。仕方なく全身に妖気を滾らせた、その時。

 

「待てぇいッ!」

 

 朝もやに響く新たな声。花子は面倒ごとが増えた事実に泣きそうになった。

 舞台袖から出てくる役者のように草葉の陰から現れたのは、紅白の巫女装束。長い黒髪には大きな赤いリボンもつけている。

 妖怪の天敵である、博麗霊夢だ。花子も何度か痛い目を見ており、できれば出会いたくない人物なのだが、

 

「霊夢……だよね?」

 

 その外見を上から下まで見渡し、花子は首をかしげた。

 確かに霊夢なのだ。なのだが、目元にかけた小さな眼鏡や、いつもの彼女らしからぬやる気に満ちた瞳など、どうしてか霊夢からは尋常ではない違和感が伝わってくる。

 しかし、こちらの疑問など知ったことではないらしく、霊夢らしいその少女は、大幣を花子へ突きつける。

 

「か弱き乙女を襲う悪しき妖怪よ! このわしが成敗してくれるから、そこに直れい!」

「博麗の巫女様! この哀れな小娘をお救いください!」

「もう大丈夫じゃ、お嬢さん。わしが来たからには妖怪の一匹や二匹、ほーみんぐあむれっとで一網打尽じゃよ!」

「あぁ、なんと頼もしい!」

 

 黒い着物の少女を小脇に抱える霊夢。一連の流れが心底馬鹿らしくなってきた花子は、とりあえずいつでも出発できるようにリュックを背負いなおした。

 花子の動きを逃げようとしたと見たのか、霊夢がキッと眉を吊り上げる。

 

「おぉっと、逃げられると思うなよ(わっぱ)! わしと出会ったのが運の尽き、大人しく退治されいっ!」

「別に逃げるつもりはないよ。ところでさ、霊夢」

「なんじゃ、言い訳は聞かぬぞ!」

 

 いちいち挙動が小芝居な霊夢。花子は溜息も一緒に吐き出して、

 

「あなたって、そんなお婆ちゃんみたいな喋り方してたっけ?」

「ぬ? ど、どうじゃったかのう。わしは、いやえっと、私は」

「ちょっと、しっかりしてよ!」

 

 小声で呟く黒髪の少女に、霊夢は額の汗を拭いながら「分かっておるわ」と囁き返す。

 ここまでくると、もう構ってやらなければ解放してもらえないのだろう。幻想郷で生きるコツだかなんだかを会得し始めていた花子は、仕方なく事情を説明することにした。

 

「あのね、この子を襲ったのは私じゃないよ。草むらで襲われたらしくて、私を人間と間違えて助けてほしいって言ってきたの」

 

 花子のリアクションは、どうやら二人が待ち望んだものだったようだ。揃って満面の笑みを浮かべ、霊夢は嬉々として大幣を刀かなにかのように構える。

 

「言い訳は聞かぬ、ないわ! 人間を襲う卑しき獣め、覚悟するんじゃ、だわ、よ!」

「なんと凛々しき博麗の巫女様! さぁ早く、子供の姿に化けている妖怪を退治なさってください!」

「化けてないよ」

 

 訴えてはみたものの、やはり二人に聞く気はないらしい。

 霊夢が大幣を振り上げて、威嚇だろうか、犬歯をむき出して花子を睨みつける。思わず身構えるが、以前霊夢と対峙した時ほどの緊張感は芽生えない。

 じっと霊夢を見据えていると、大幣を頭上に構えたままの霊夢の頬を、一筋の汗が伝った。

 

「おぬし、じゃなくて、あんた……。私が怖くないのかえ?」

「え? んー、今日の霊夢になら勝てそうな気がするよ」

「なかなか失礼なやつじゃの……。しかし、そこまで言うからには覚悟できておろうなっ!」

 

 老人じみた喋り方に戻ってしまった霊夢――この時すでに、花子は彼女が本物の霊夢ではないと確信していたが――が、大幣に力を込めた。

 振り下ろされる大幣は素早く、とても人間の腕とは思えない腕力だ。受け止めることも叶わず、大幣は花子の頭を思い切り叩いた。

 

「あいたっ!」

 

 重々しい音が辺りに響き、黒髪の少女が痛そうな光景に顔をしかめる。

 思った以上の威力だったが、花子も妖怪だ。痛いことは痛いが、大幣の形をした木の棒で叩かれたところで、致命傷にはなりえない。

 涙目で霊夢を見上げると、彼女はかなり得意げに口の端を持ち上げた。

 

「どうじゃ、大幣の破壊力は!」

「さすがです、巫女様! 妖怪をこうも簡単に退治してしまうなんて!」

「……」

 

 どうやら退治されたということになっているらしいが、さすがに痛い目にあったとなれば、花子も彼女らの芝居に付き合う気がなくなっていた。

 こぶができていそうな頭をさすりつつ、花子はぽつりと呟く。

 

「霊夢の大幣なら、もっと痛いはずなんだけどな」

 

 少女と霊夢が、固まった。二人揃ってこちらを凝視し、何事かを囁きあっている。

 しばしの沈黙。花子は今までの人生で一番と言えるほど冷たい気持ちで、霊夢と少女が動き出すのを待った。

 やがて、どうしてか大幣を背後に隠した霊夢が、引きつった笑みを浮かべた。

 

「の、のう。おぬ、いやあなた。私と戦ったこと、あったかしら」

「一回目は人里の寺小屋で。二回目は、橙と小傘と一緒にいるとき、大幣で散々叩かれたよ」

「……そうだった、そうだったのう、わ、よね! 思い出したわ花子、今日ここであったが百年目、あの時の決着をつけようじゃないの!」

「きゃ、きゃー霊夢様、おがんばりになって!」

 

 かなり苦しくなってきた演技だが、さすがにもう我慢してやるつもりはない。

 ずれてしまったリュックを背負いなおし、叩かれて乱れたおかっぱを手ぐしで整えながら、花子は言った。

 

「もういいよ。あなた、霊夢じゃないよね。気付いてたよ、ずっと」

「なん……じゃと……?」

「まさか、そんな――」

 

 信じられないと顔色を変える二人。花子は霊夢を象る少女から、黒髪の少女に視線を移す。

 

「あなたも。人間じゃないんでしょ? 妖気が溢れていたもの」

「え、う、嘘よ! いつ、私から妖気が出たってのよ!」

「私が妖怪だって教えてあげた後、すっごい悲鳴を上げたでしょ。あの時、私より強い妖怪なんだって気付いたよ」

 

 途端、少女は悔しげに歯を食いしばった。ギリギリと花子を睨みつけ、突然身を翻したと思うと、着物を一瞬で脱ぎ捨てる。

 黒い着物が宙を舞い、花子は一瞬、そちらに気を取られる。次に少女を見たとき、黒髪と顔立ちはそのままだが、少女は黒いワンピースとニーソックスを身に纏っていた。背中には青と赤の、なんとも形容しがたい二対の翼を生やしている。

 一瞬の早着替えではなく、あの着物も変化(へんげ)のうちだったのだろう。感心するでもなく、そら見ろ妖怪ではないかと、花子は呆れた視線を黒髪の少女に向けた。

 

「ハハッ! ばれてしまっては仕方ないわね、そう、私は誰もが恐れる大妖怪、封獣ぬえよ!」

 

 ぬえというらしい少女は、なにやら切羽詰った様子で、霊夢もどきの背後に隠れた。

 

「さぁ我が(しもべ)、博麗霊夢よ! この弱小妖怪をこらしめてやりなさい!」

「いやだから、その人は霊夢じゃないって。もう妖気でばれてるよ」

 

 まだ続くのかと、花子は心底辟易した。幻想郷で出会った妖怪の中でも、ぬえはかなり諦めが悪いようだ。

 二度、三度背中を押されて、霊夢っぽい何かがようやく気を取り直し、胸を張った。

 

「あ、甘いわ花子! わし、じゃなくて私はね、妖気も自在に操れるのよ。なんていったって博麗の巫女なんじゃからの!」

「……ふぅん。すごいね」

「そうじゃろう、すごかろう」

「謝るなら今のうちよ、チビのおかっぱ!」

 

 すっと、花子は右手を持ち上げた。その人差し指を、霊夢もどきの頭――そこにいつの間にやら生えている獣耳に向ける。

 

「博麗の巫女って、耳も生えるんだね」

 

 はっとして、頭の耳を押さえる霊夢もどき。しかし、花子の手はそのまま彼女のお尻に移動した。

 

「すごいよね。尻尾まであるんだ」

 

 花子の言うとおり、巫女装束の後ろからは、大きく丸っこい狸の尻尾が現れていた。ぬえが慌てて隠そうと試みているが、あまりにも遅すぎる。

 二人して耳と尻尾を隠す努力をしているが、気が乱れた状態では、変化(へんげ)はうまく保てない。やがて、霊夢もどきの足元から、ぼんと白い煙が立ち上る。

 煙が消えて現れたのは、赤茶色の髪を肩まで伸ばし、その頭にはご丁寧に葉っぱまで乗せた、丸眼鏡が似合っているいかにも狸な妖怪少女だった。

 

「……あ」

「ちょ……」

 

 ぬえと狸の少女が、二人して何かを言いかけ、止まる。

 硬直したまま徐々に顔色が青くなる妖怪少女二匹に、花子は宿敵であった文の口調を意識しつつ、言い放った。

 

「今度は誰に化けるの? 魔理沙かな。それとも早苗さん? 変化(へんげ)するまで、待ってあげてもいいよ」

 

 青ざめていた顔をみるみる赤くさせ、ぬえは悔しげに唇を噛んでから、

 

「くっ……。お、覚えてなさい! 行くわよ、マミゾウ!」

「とほほ。なんでわしがこんな恥ずかしい思いをせにゃならんのじゃ……。小娘妖怪に変化(へんげ)を見破られるし、もう佐渡に帰りたい」

「ぶつぶつうるさい! ほら行くよ!」

 

 いじけてしまった狸少女――マミゾウの手を無理矢理引っ張り、ぬえが宙にふわりと浮かぶ。花子が声をかける暇もなく、二人はあっという間に飛んでいってしまった。

 ぬえとマミゾウがいなくなった空をしばらく見上げていた花子だが、ややあって、おかっぱ頭を掻いてから溜息をつく。

 

「……なんだったんだろ」

 

 ぬえという少女は、自分に何か恨みでもあったのだろうか。あるいは、花子を敵視していたのはマミゾウの方なのか。

 朝っぱらからの騒動について何一つ分からないままだったが、不思議と大して気にならなかったので、花子は肩をすくめる。

 

「まぁ、いっか」

 

 声に出すと、本当にどうでもよくなった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 作戦は失敗に終わった。その原因は、マミゾウにある。ぬえはそう断言した。

 

「なんじゃと? わしの変化(へんげ)は完璧じゃった。失敗したのはおぬしの演技がへたくそだったからじゃろ」

「はぁ? 私は花子を完全に騙してたわよ。あんたが耳やら尻尾を出さなきゃ、うまくいってたに決まってるわ」

「よくそんなことが言えるの、おぬし。奇声上げた時には、妖怪とばれとったくせに」

 

 命蓮寺の門を出てすぐの切り株に腰掛け、マミゾウが膝に頬杖をついた。その正面に仁王立ちしているぬえは、すっかり不機嫌に膨れている。

 ぬえとマミゾウは、響子やナズーリンと同じく命蓮寺の住人だ。もっとも、最近外の世界から来たばかりのマミゾウはともかく、ぬえに仏を敬う気持ちはあまり見られない。

 化け狸としてのプライドが傷つけられ、マミゾウはかなり落ちこんでいるようだ。鬱々とした嘆息をゆっくり漏らし、

 

「そもそも……。わしとおぬしが化けてあいつを困らせて、最後はどうしたかったんじゃ?」

「え? そりゃ、まぁ……」

 

 目線を宙に漂わせ、ぬえは唇に人差し指を当てた。

 花子が困惑する顔を見るのが目的だったのだが、ここにきて、最終的に彼女をどうしたかったのかまでは考えていないことに気がつく。

 ふと見れば、マミゾウが丸眼鏡の奥から冷たい目を向けている。つい目を逸らすが、追い討ちをかけるような声が聞こえてきた。

 

「封獣よ。昔っからじゃが、おぬしは考えないで動くのう」

「か、考えながら動いてるのよ」

「その言い訳も、なんど聞いたかわからんわ。みなもとのナニガシとかいう奴に退治された時にも、似たようなこと言っとったじゃろ」

「昔のことは言わないでよ」

 

 ばつが悪そうに、ぬえが頬を膨らませる。

 

「どうしても花子に嫌な顔させなきゃ、気がすまなかったの。仕方ないじゃない」

「分からんでもないが、物騒な理由の割りに、やることが小さいしのう」

「……物騒? なにが?」

 

 腕組みをして、ぬえは首をかしげた。座ったままこちらを見上げ、マミゾウが目をぱちくりとさせる。

 昼を過ぎた時刻の街道を、荷馬車がカラカラと通り過ぎていった。見つめ合う妖怪二匹を見るや、御者が馬を加速させ、駆けていく。

 蹄の音が遠くなってから、マミゾウはようやく口を開いた。

 

「なにがって、花子が邪魔なんじゃろ? あいつの存在が」

「うん」

「物騒じゃろうが。あたかも幻想郷から葬ろうと言わんばかりの口ぶりじゃったぞ」

「そんなつもりはないってば。あいつが邪魔なのは本当だけど」

 

 何度も言ったではないかと、ぬえは眉を寄せた。しかし、マミゾウは納得していないらしい。

 

「……そもそもおぬし、なんで花子が邪魔なんじゃ?」

「あれ? 言ってなかったっけ」

 

 すっかり話したつもりになっていた。ぬえは一つ咳払いをし、

 

「私のスペルカードにさ、正体不明『厠の花子さん』ってのがあるのよ」

「あるのう」

「でしょ。あんたから聞いたトイレの花子さんの話をスペルにしたんだけど」

「本人が現れたせいで、トイレの花子さんが正体不明じゃなくなった、と」

「そういうこと。ね、邪魔でしょ?」

 

 頷くと、マミゾウは深い深い溜息を吐いた。付き合いの長いぬえであっても、今まで見たことがないほどだ。

 マミゾウが立ち上がる。彼女は半眼で、ぬえの顔を間近で覗きこんだ。

 

「そんな理由で、わしを巻き込んだんか」

「うん」

 

 ぬえのイタズラにマミゾウを巻き込むことなど、今に始まったことではない。幻想郷が生まれる前からよくあったことだ。

 マミゾウも諦めているらしく、呆れ顔で眼鏡の位置を直した。

 

「やれやれ。まぁいつも通りじゃの」

「何がよ」

 

 訊ねても、マミゾウは答えてくれなかった。ただ軽く肩をすくめて、

 

「それで、どうするんじゃ? また奴に仕掛けるんか?」

「どうしよっかねー。ま、適当に考えておくわ。そんなことより、そろそろ朝ご飯だし、戻ろうか」

「自由な奴め。しかし、腹が減ったのは同じじゃ。帰ろ帰ろ」

 

 失敗に対する反省は結局なかったことになり、ぬえとマミゾウは朝食のために、意気揚々と命蓮寺へ帰るのだった。



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そのじゅうはち 恐怖!悪魔の館にご招待!

 

 

 

~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日の花子は、とてもご機嫌です。

 

 えへ、太郎くん。今の私ね、お姫様みたいなの。想像できるかな? 膨らんだスカートの、綺麗なドレスを着ているんだよ。

 

 久しぶりに来た紅魔館は、相変わらず真っ赤でした。改めて中を歩いてみると、本当に大きいお家なんだ。学校ほどじゃないけどね。

 

 大きなお庭や、プールまであって、ここが日本だってことを忘れてしまいそうでした。なんだか、夢の中にいるみたい。

 

 今日はとっても楽しかったけれど、お姫様みたいな日は、しばらく続きそうです。

 

 私ばっかり素敵な思いをしてなんだか申し訳ないけれど、この気持ちが太郎くんにも伝わっているといいな。

 

 それでは、またお手紙書くね。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~

 

 

 

 レミリア・スカーレットは幸福だった。

 冬の冷たい空気が幻想郷に満ち始めたこの季節、新調したばかりであるふかふかの毛布に包まれ、ベッドの中で素敵な夢の中を漂っている。

 真っ赤な満月の夜、自分を崇めるたくさんの部下を見下ろしながら、テラスで血のワインを飲むのだ。咲夜が用意した料理はどれもレミリアの好物で、山のように詰まれた納豆巻きやふんわりオムレツが並んでいる。いつもは小食で食べたいのに食べられない思いをしていたが、夢の中ではいくらでもお腹に入ってくれた。

 一緒に食卓を囲むフランドールも生意気を言わず、とてもいい子でレミリアを慕ってくれる。パチュリーや美鈴も、レミリアは素晴らしい悪魔だと賞賛するのだ。

 

「う……ん、くるしゅうない……」

 

 口元をむにゃむにゃとさせながら、レミリアは小さな寝言を呟く。溢れんばかりの幸せが、ほんの少し零れたのだろう。

 しかし悲しいかな、それらはどう足掻いても夢なのだ。いずれ目が覚め、現実がやってくる。どれほど抵抗しようとも、夢を操る力を持たないレミリアは、いつか覚醒しなければならないのだ。

 何本目か分からない納豆巻きを頬張ったところで、肩を叩く感触に意識を引っ張られた。

 

「お嬢様。レミリアお嬢様」

「むぅん……」

 

 薄っすら瞼を開けると、そこにはレミリアが誇る完璧で瀟洒なメイド、十六夜咲夜がいた。その手は優しく、レミリアの肩をぽんぽんと叩いている。

 

「おはようございます、お嬢様」

「うぅん、なによぅ。今、何時ぃ?」

「午後の三時ですわ」

 

 眠りについたのは朝方だったが、まだまだ寝足りない。普段の咲夜ならば、レミリアが勝手に起きるまで待ってくれるのだが。

 どうして起こしたのかを訊ねようとして、レミリアはその理由を思い出した。同時に眠気もあっという間に引いていく。

 

「そっか、今日か」

「はい。まだいらしてはおりませんけれど、もう少しおやすみになられますか?」

「もういいわ。お出迎えの準備をしないとね。お着替えとって」

 

 寝巻きを脱ぎつつお行儀悪く言うと、咲夜はそれを注意するでもなく、いつものドレスをよこしてくれた。

 慣れた手つきとはいえ、レミリアが気に入っている服を着るのは時間がかかる。結局咲夜の手も借りて、五分ほどで着替えを終えた。

 豪華なドレッサーの丸いチェアに腰掛け、青みがかった銀髪に櫛を通す。咲夜にやってもらっていることがほとんどだが、今日は自分でしたい気分だった。

 昨日、どこからともなく現れたスキマ妖怪から受け取った手紙。花子からのもので、今日には紅魔館へやってくるという旨が書かれていた。レミリアの気持ちを躍らせるには、十分すぎる内容だ。

 

「お嬢様、ご機嫌ですわね」

 

 後ろから鏡を覗き込む咲夜が言った。鏡に映る自分の顔は、確かにとても嬉しそうだ。

 

「うん、そうね。とてもいい気分だわ。今日は素敵な夢を見たの」

「それは羨ましいですわ。どんな夢だったのですか?」

「うふふ、秘密」

 

 唇に人差し指を当てて振り返ると、咲夜は「あらあら」と小さく笑った。

 髪の手入れを終え、いつものナイトキャップを被り、

 

「よし、完璧。咲夜、今日のおゆはんは人の血を使っちゃダメよ。花子は食べられないと思うわ」

「承知致しました。人間向けのお食事を用意しますわ」

「そうしてちょうだい。それから、紅茶やワインも血を混ぜてないやつにしてね」

「かしこまりました」

 

 一礼する咲夜に、レミリアは満足そうに頷いた。

 咲夜が用意してくれた紅茶を飲みながら、花子が来たら何をして遊ぶかを考えていたレミリアだが、ふと感じた振動に、眉を寄せる。

 振動は徐々に近づいてきて、やがてドタバタとやかましい音を従え、部屋の前までやってきた。

 音は、レミリアの寝室前で止まった。レミリアは自然と、耳を手で塞ぐ。

 

「お姉さま、起きてる!?」

 

 扉を壊さんばかりに――実際何度か壊されたこともある――勢いよく開けて飛び込んできたのは、やはりフランドールだった。ブロンドヘアーは結っておらず、寝起きから手入れもしていないようで、下ろされた長い髪はあちこちに寝癖が跳ねている。服も寝巻きのままだ。

 ぜいぜいと息を荒げるフランドールの頬は、わずかに上気していた。ここまで全速力で駆けてきたのだろう。廊下もめちゃくちゃになっているに違いない。

 レミリアの自室は、紅魔館の最上階にある。フランドールは逆に、最下層である地下二階に部屋を持っていた。上に来てもいいと言っているのに、住み慣れた地下から離れようとしないのだ。

 姉が起きているのを確認するや、フランドールはレミリアに駆け寄ってきた。

 

「花子は? もう来ちゃった!?」

「まだ来てないわよ。落ち着きなさいな」

「そ、そっか……。よかったぁ」

 

 どうやら、寝坊したと思ったらしい。レミリアも今起きたところだが、心から安堵する妹の姿をとても可愛く感じた。

 時間を操った咲夜がフランドールの服を持って現れ、それに着替えさせてから、レミリアはフランドールをドレッサーの椅子に座らせた。髪をいつものサイドテールに結ってやりながら、

 

「もうすぐ夕方だから、そろそろ来ると思うけれどね」

「そうなんだ。天狗と弾幕してた時は全然話せなかったんだもん。早く会いたいなぁ」

「私もよ」

 

 フランドールにナイトキャップを被せてから、レミリアは咲夜へと振り返る。

 

「さてと……。パーティの準備をしましょうか。今日は私も手伝うわ」

「あら、助かりますわ」

「えぇっ、お姉さまも準備するの? 珍しいねぇ」

「今日は機嫌がいいの。ね、咲夜」

 

 目配せすると、咲夜はにっこりと頷いてくれた。

 こんなに特別な日に、あんなに素敵な夢を見たのだ。今日はきっと、想像もできないくらい素晴らしい一日になるに違いない。

 その揺らがぬ確信は、レミリアが浮かべる満面の笑みに、たっぷりと現れていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 今日は霧がだいぶ晴れているが、白いもやがなくとも、紅魔館の威容は相変わらずだった。

 花子が巡った学校よりも小さいが、その造りは細部まで豪勢で、そして何よりも赤い。とにかく赤い。

 

「はぁー……」

 

 感心なのか放心なのか、花子は紅魔館の全容を見上げ、なんともいえない声を出した。

 妖怪の山での一件ですっかり親近感が沸いたレミリア一派だが、こうして住居を見ているだけで、住んでいる世界が違うのではないかと思ってしまう。

 ともかく、立ち止まっていても仕方がない。花子は「よし」と気合をいれて、紅魔館の正門に向かう。

 門の前には、長身の女性が立っていた。紅魔館が誇る門番、紅美鈴(ほんめいりん)。彼女はこちらを見つけると、軽く会釈をした。

 

「こんにちは、花子さん」

「美鈴さん。こんにちは、お久しぶりです。この間は挨拶できなくて、すみませんでした」

 

 礼儀正しくお辞儀をすると、美鈴は泡を食ったように手を振り、

 

「いやいや、気にしないでください。私はほら、妹様の付き添いみたいなもんでしたし。いやもちろん、決闘はしっかり見届けましたけどね。ともかくまぁ、大したことじゃないです」

「そ、そうですか?」

「そうですそうです。私は、お嬢様たちに新しいご友人ができたことが何よりも嬉しいんですから。さ、館にご案内しますよ」

 

 門を開けて、美鈴が館に向かって先行する。

 紅魔館の庭園には、たくさんの花壇があった。そのどれもが綺麗に整備されていて、赤い壁に覆われた庭園は、花子が見たどの学校の花壇よりも美しい。

 美鈴の後ろを歩きながら、花子は訊ねた。

 

「あのぅ、魔理沙とか霊夢は、遊びに来ないんですか? なんだか、レミィ達と友達なのが特別みたいに聞こえましたけど」

「霊夢はほとんど来ませんねぇ。魔理沙はまぁ、割りとよく来るんですが……」

 

 庭園中央の噴水を迂回しつつ、美鈴が苦笑する。

 

「正門から遊びに来るだけなら、お嬢様に通すよう言われているんですけどね」

「無理矢理入ってくるんですね。あは、魔理沙らしいや」

「来るたびに紅魔館の備品がなくなるのも、困りものです」

 

 悪魔の館に人間が平然と遊びに来るのもどうかと花子は思ったが、人里の者は近寄ろうともしないこの屋敷に飛び込み、吸血鬼と遊んだ挙句物品を強奪していく魔理沙も、やはり普通ではない。

 魔理沙は嫌われているわけではないようだが、咲夜や美鈴にとって、フランドールやレミリアの教育的にあまり安心できる友人ではないようだ。保護者の悩みは、人も妖怪も変わらないらしい。

 

「花子さんなら、レミリアお嬢様もフランお嬢様も、グレたりする心配はありませんから」

「悪魔も、不良になっちゃうんですか?」

「少なくとも、魔理沙を見習えば手癖は悪くなりますよ」

 

 美鈴が肩をすくめる。魔理沙は花子にとってもいい友人なのだが、話を聞く限りでは、確かに見習うべきところを選ぶ必要がありそうだ。

 館の扉に施された装飾がよく見える距離まで近づくと、大きな二枚扉が突然開いた。

 飛び出してきた小さな影を見て、花子は身構える。もっとも、どれだけ踏ん張っても耐えられる自信はない。

 

「花子ぉぉぉぉ!」

「のわぁぁぁっ!?」

 

 日傘を差したまま器用に飛びつかれて、案の定ひっくり返る。起き上がろうにも、ブロンドのサイドテールを揺らしながら頬ずりしてくるフランドールを引き剥がす腕力を、花子は持ち合わせていない。

 フランドールを離そうとしてくれる美鈴と一緒にしばらくもがいていると、フランドールを追ってきたらしいレミリアと咲夜もやってきた。

 

「フランドール! 花子が困っているじゃない」

「会いたかったよぉー、花子ぉ」

「フランちゃん、息ができないよぉ!」

 

 必死に訴えて、ようやく伝わったらしい。フランドールは物足りなそうな顔をしつつも、花子から離れた。

 息を整えてから、花子はフランドールと咲夜、そして彼女が差す日傘の下にいるレミリアへと振り返る。

 

「えへへ、遅くなってごめんね。レミィ、フランちゃん」

「いいの。よく来てくれたわ、花子」

 

 花子の手を取って、レミリアが目を細める。こうして面と向かって話すのは、以前紅魔館を訪れた時以来だ。

 実に、半年近くの時間が空いてしまった。だが不思議なことに、花子は吸血鬼姉妹との間に、それだけの長い時の流れがなかったかのように感じる。

 

「それじゃあ、私は仕事を続けさせてもらいます」

 

 美鈴の声にそちらを向くと、彼女は咲夜の「お願いね」という一言に頷き、足早に門へと戻っていった。

 ここまで連れてきてくれたお礼を言い損ね、花子は後を追おうとした。が、美鈴の歩幅は花子よりずっと大きく、追いつけそうにない。

 小さな後悔を抱きながら美鈴の後姿を眺めていると、咲夜がくすりと笑った。

 

「花子さん、いいのよ。美鈴は真面目だから、お礼なんて言われるとかえって弱っちゃうと思うわ」

「あはは、花子と似てるもんねぇ、美鈴は」

 

 フランドールに頬を突かれて、花子はそうだろうかと首を捻った。

 もっとも花子がどれだけ疑問に思ったところで、この場にいる皆が三者三様に頷いているのだから、きっと似ているのだろう。

 

「さぁさぁ、こんなところで立ち話もなんですし、西日も強くなってきましたわ。お館に戻りましょう」

 

 手を叩いて、咲夜が言った。

 

「はぁい」

 

 皆が揃って返事をするものだから、花子はつい外の世界の小学校を思い出していた。人数こそ三人しかいないが、まるで咲夜の生徒にでもなったかのような気持ちになる。とはいえ、館の扉を開けて吸血鬼姉妹が入るのをじっと待つ姿は、やはり従順なメイドだ。

 紅魔館に招き入れられ、改めて館の中を見回す。外見と同じく全体的に赤い装飾で彩られ、とても高いエントランスホールの天井には、おとぎ話でしか聞いたことのないような大きなシャンデリアが佇んでいる。

 

「ほぁー……、やっぱりすごいお家だなぁ」

「ふふ、ありがとう。咲夜が毎日丁寧に掃除をしてくれるから、とても綺麗なのよ」

「恐縮です。それでは、客間の方にどうぞ。紅茶と、モンブランケーキをご用意いたしますわ」

 

 うやうやしく一礼すると、咲夜は突然、その場から消えた。まるでこいしが無意識の中に溶け込んだ時のようで、花子は何が起きたのか理解できなかった。

 目を丸くしていると、フランドールがケラケラと笑い、

 

「花子、咲夜の力を見るの初めてだっけ? 驚くよねぇ、やっぱり」

「あの子はね、時間と空間を操れるの。きっともう、客間にはお茶とケーキの準備ができているわ」

 

 自慢げに胸を張るレミリア。妖気も魔力も感じない咲夜は間違いなく人間だろうが、ただの人間というわけではないらしい。

 

「うぅん、吸血鬼さんのメイドなんだから普通じゃないだろうとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかったよ」

「よく言われるわ。あの子だからこそ、この館の面倒を見れるのよね。さ、行きましょう」

 

 レミリアの後ろを、花子はフランドールと並んで歩く。

 館の廊下はとても広く、下手をすればそこらの街道くらいの大きさはありそうだ。咲夜の能力で、館の外見に比べて内部は大きくなっているらしい。窓はないが、魔力の照明があるおかげか、暗くはない。暗がりで躓く心配もなさそうだった。

 妖精メイドが慌しく行き来する廊下を少し歩くと、客間はエントランスから大して離れていない場所にあった。扉はとても大きく、レミリアの背丈ではドアノブを握るために腕を上に伸ばさなければならないようだ。

 重厚な音を立てて、高そうな木材の扉が開く。客間は、館全体から見たらとても小さかった。客人が少ない紅魔館に、広い客間は必要ないのだろう。

 部屋の中心に鎮座する脚の短いテーブルには、レミリアが言ったとおりカップとケーキの準備がされており、咲夜が紅茶を淹れ始めたところだった。タイミングを見計らっていたようだ。

 テーブルを挟むように置かれた二つのソファは、見るからに柔らかそうだ。フランドールと隣り合って腰掛けると、想像以上に座り心地がよかった。

 対面のソファにレミリアが座ると、咲夜がカップに紅茶を注ぎ始めた。招かれた客人ということで、最初に花子のカップが紅茶で満たされる。鼻腔をくすぐる紅茶の香りに、花子は以前水筒に入れてもらった紅茶の味を思い出す。

 

「おいしそうー! お姉さま、もう食べていい?」

 

 訊ねながら、フランドールは容赦なくケーキにフォークを突き刺した。レミリアが少し待てと止めたにも関わらず、フランドールのモンブランケーキは早々に削られていく。

 客とはいえ、これだけの待遇を受けるのが初めてな花子は、どうにも萎縮してしまった。ケーキも紅茶もおいしそうなのに、手を伸ばせそうにない。

 察してくれたのか、レミリアがケーキを一口頬張り、

 

「うん、おいしいわ。花子もどうぞ」

「あ、う、うん。いただきます」

 

 勧められるがままにフォークを手に取り、花子はモンブランの隅っこを遠慮がちにすくった。

 口に含むと、その甘露のなんとまろやかなことか。栗はもう旬を少し過ぎているというのに、それを全く感じさせない濃厚な味だったさ。

 あまりの美味しさに、花子は思わず口元を綻ばせた。よほど美味そうな顔をしていたのか、空になったフランドールのカップに紅茶を注いでいた咲夜が微笑む。

 

「喜んでいただけたようで、なによりだわ」

「おいしいです、とっても」

「咲夜のお料理は、幻想郷で――いえ、世界で一番おいしいのよ。私専属のメイドなのだから、当たり前よね」

 

 カップを片手に、レミリアがウィンクしてみせる。喜ぶでもなく隣に佇む咲夜との間に強い絆を感じ、花子はとても羨ましく感じた。花子にとってここまで信頼し合えていると思える相手は、双子同然に接していた太郎くらいなものだろうか。

 モンブランを突きながら学校で過ごした日々を思い出していると、すでに自分のケーキを平らげたフランドールが、フォークをレミリアのモンブランに向けた。

 

「お姉さま、乗っかってる栗、食べないならちょうだい!」

「ダメ! 私は一番好きなものを最後にとっておく主義なの!」

「知ってるよ。知ってるうえでお願いしてるの」

「絶対ダメ!」

 

 力技でレミリアのケーキを侵食せんと迫るフランドールを、レミリアはフォークを置いて両腕を掴むことで応戦した。テーブルの食器が音を立てて揺れ、咲夜の手にはすでに布巾が用意されている。

 このままではケンカになってしまうだろう。花子はフランドールの服の裾を引っ張り、

 

「フランちゃん。私の、あげるよ」

「え?」

 

 こちらを振り返り、フランドールは一瞬返答を躊躇したが、すぐにかぶりを振った。

 

「だ、ダメだよ。花子はお客さんなんだから」

「でも、食べたいんでしょ? 友達なんだから、遠慮しないで」

 

 笑顔で告げるも、フランドールは頷かなかった。レミリアより精神的に幼くワガママでも、貴族としてのプライドがあるのだ。

 少しの間を置いて、フランドールは花子の隣に腰を下ろし、紅茶を少しだけ飲んでから、呟いた。

 

「我慢する。おいしかったから、花子に食べてもらう」

「ご立派ですわ、妹様」

 

 咲夜に褒められて、フランドールは機嫌を良くしたらしい。嬉しそうに頷いた。

 一方、なんだか悪者のようになってしまったレミリアだが、彼女は特に気にする様子もなく、宣言通り最後まで栗を残して、これでもかとばかりに堪能した。

 花子もほとんど同時にモンブランを食し終わり、フォークをお皿に置く。西洋の作法は分からなかったが、失礼にならないよう気をつけたつもりだ。

 

「さて、おやつも食べ終わったことだし、少し館をお散歩しましょう。花子もまだ行ってない場所があるものね」

 

 レミリアが立ち上がり、スカートを翻して扉に向かう。フランドールも姉の後を追ったので、素早くテーブルを片付ける咲夜に会釈をして、花子は二人についていった。

 長い廊下はあちこちで枝分かれしていて、紅魔館の内部はとても入り組んでいた。だが、我が家だけあってか、レミリアとフランドールの足取りに迷いはない。

 途中途中でフランドールが妖精メイドをからかったりしながら、三人は館の中を練り歩く。

 以前花子が滞在した時は、レミリアの部屋とフランドールの部屋、そしてトイレくらいにしか足を運んでいなかった。紅魔館に用意された設備に、花子は何度も驚くことになる。

 この館には、百人分では収まらない量を作れるだろう広いキッチンや、海を模したプールがあった。最上階の渡り廊下を渡った先には、レミリア自慢の魔法仕掛けの時計台も存在するらしい。パチュリーが管理しているそうだ。

 妖怪と悪魔とはいえ子供の歩幅の三人は、のんびり話しながらということもあり、二時間ほどかけてようやく紅魔館の中を散策し終えた。

 日はすっかり暮れ、ケーキで満たした小腹も空っぽになるころだ。

 

「お姉さま、お腹空いたぁ」

 

 甘え声で訴えるフランドールの頭を、振り返ったレミリアが優しく撫でる。こうして見ると、やはり彼女は姉なのだなと花子は感じた。

 

「そうね。それじゃそろそろ、パーティを始めましょうか」

「パーティ? レミィ、今日は何かお祝いなの?」

 

 今日訪れたのは邪魔だっただろうかと、花子は若干不安になりつつ訊ねる。しかし、レミリアとフランドールは揃ってきょとんと花子の顔を見て、また同時に笑い出した。

 何がおかしいのかと首を傾げる花子のおでこを、レミリアが突っついた。

 

「何言ってるの。今日は花子が遊びに来たじゃない」

「え、えぇっ!? 私のために?」

 

 花子の胸に、とても大きな歓喜が生まれた。しかしすぐに申し訳なくなり、眉をハの字に歪める。

 

「でも、やっぱり悪いよ。他のお友達が来るたびにパーティしてるわけじゃないんでしょ? 私はレミィとフランちゃんと遊べれば、それでいいよ」

「だぁめ。あなたは私のために戦ってくれたのよ? 友人の勇気を称えなかったなんて、末代までの恥になってしまうわ」

「そうそう、感謝はもらうのも礼儀だよ。お姉さまったら、感動しておいおい泣いてたんだから」

「フランドール!」

 

 顔を赤くして怒鳴るレミリアに、フランドールは舌を出しておどけてみせる。

 仲の良い姉妹に思わず笑みを漏らしつつ、花子はレミリアに告げた。

 

「それじゃ、遠慮なく楽しませてもらうね」

「うん、そうしてくれると嬉しいわ。でも、その服じゃちょっと格好つかないかしら」

 

 いつものもんぺとセーラー服は、確かに紅魔館のパーティには不釣合いと言えるだろう。しかし、花子が持っている服となると、季節はずれの赤いワンピースくらいなものだ。洋服ではあるが、それでもレミリア達のドレスとは比べられる代物ではない。

 花子の身長を手で測っていたフランドールが、両手を合わせて目を輝かせた。

 

「私のクローゼットに、少しおっきくて着れないドレスがあるよ! 花子は私より背が高いから、ちょうどいいと思うの」

「ホント? じゃあそれを借りましょうか」

 

 レミリアも嬉しそうに頷いて、花子の手を引く。二人はすっかり花子を着飾らせるつもりでいるようだ。

 

「で、でも私、ドレスなんて着たことないし――」

 

 言いかけた言葉を遮って、レミリアが左手を花子の口に当てる。

 

「大丈夫、着ちゃえばどうってことないわよ」

「うんうん。色も赤いから、花子のワンピースみたいなもんだと思えばいいよ」

 

 フランドールまでもが、花子の空いている腕をしっかりと掴む。

 笑顔でぐいぐいと、レミリアとフランドールは花子の腕を引っ張った。吸血鬼の腕力に逆らえず、花子は半ば運ばれるようにフランドールの部屋へと連れていかれる。

 そうなるだろうと思っていたが、やはり二人に振り回されることになるらしい。

 

「待って! ちゃんと付いていくし、ドレスも着るから、引っ張らないでよぉ!」

「ダメダメ。もうパーティ始まっちゃうんだから」

「急がないと、妖精メイドが全部食べちゃうよ!」

 

 まったくもうと呟きながらも、花子は頬が緩むのを抑えることができずにいる。

 レミリアとフランドールのワガママは、花子にとって、とても心地がいいものになっていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 レミリアが用意してくれたパーティは、とても楽しかった。料理はどれもおいしかったし、最初こそ食器を片付けたりしていた妖精メイド達が勝手に参加しだしてからは、賑やかさも一気に増した。フランドールに幻想郷で出会った者や出来事をたくさん話して、レミリアにはダンスも教えてもらった。

 これでもかというほどお喋りをし、笑い、宴がお開きになってもまだ、その余韻は抜けずにいる。妖精メイド達がせわしなく後片付けをしている様子を、花子は食堂の端っこにある椅子に腰掛け、ぼうっと眺めていた。

 紅魔館秘蔵のワインを味わいながら、うっとりと溜息をつく。グラスに踊る美酒と同じワインレッドのティアードドレスに身を包み、髪型は変えていないが、頭には静葉がくれた楓の髪飾りを、胸には穣子にもらったブドウのブローチをつけている。そんな自分がまるでおとぎ話のお姫様にでもなったかのようで、酔いもあってか、すっかり夢心地だ。

 雰囲気に酔って瞼をとろんとさせていると、隣にレミリアが座った。

 

「花子、楽しんでもらえた?」

「……うん。すっごい楽しかった。ホントに、すごく」

「そっか、よかった。嬉しいわ」

 

 にっこりと破顔してから、レミリアはなにやらそわそわと、視線をあちこちに移し始めた。

 何か言いたいことがあるのだろう。しかし、言い出せないのか、レミリアはこちらを何度か覗き見るようにしている。遠慮がちなその姿は、どうにも彼女には似合わない。

 首を少しだけ傾げて待つと、レミリアが咳払いをしてから、意を決したようにこちらを見つめた。

 

「あのね、花子。これから先、どこかに行く予定とか、あるかしら」

「え? うーん、考えてなかったよ。レミィのお家に来るのが目的で歩いてたから、次は何も」

「そ、そう。……あのね、その、もう冬になっちゃうじゃない。外は寒いのよ、歩くとなると特に」

 

 椅子が少し高かったようで、レミリアの足はぶらぶらと空中を彷徨っている。

 

「それで、その。春先くらいまで、うちにいない? 暖かいし、ご飯も食べれるし。どうかしら?」

 

 横目でちらりと花子の顔色を伺うレミリアは、期待と不安が入り混じった表情をしている。

 花子はしばし下を向いてから、少しだけ唸る。

 

「うぅん。でも、迷惑じゃない? 春までって、まだずっと長いし」

「迷惑なんかじゃないわ。花子は妖精メイドよりもしっかりしているし、咲夜だってそんなに困らないって言ってたのよ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……」

 

 遠慮がちに答えると、レミリアはわずかに俯き、揺れていた足を止め、

 

「以前、あなたに――言われたわよね。フランドールを、館の外に出してあげてって」

 

 突然の話題に、花子は慌てた。あの時はレミリアの事情も知らず、勝手なことを言ってしまったのだ。

 謝ろうとしたが、それより先にレミリアが続けたので、花子は口を閉ざすしかなかった。

 

「本当は、無理だと思ってたわ。あの子は自制ができないと、ずっと信じていたから。暴れ出したら、私かパチェ以外には――今では、魔理沙や霊夢も止められるか。でも、簡単には抑えられないの。外に出したら、幻想郷もフランも壊れてしまう。だから、館にいさせたほうがいいって。

 でも、花子と出会ってから……あの子はきっと、外の世界の話を聞いたのね。館だけじゃない、幻想郷の外にも広い世界が広がっていると知って、フランは外への憧れをもっと強くしたわ。どうしても出たいって聞かなくて」

「それは、ごめんなさい」

 

 余計なことをフランドールに吹き込んでしまったのかと、花子は思わず頭を下げた。だが、レミリアはそれに、首を横に振る。

 

「ううん、とんでもないわ。今までずっと頑固に『私は悪くない』って言い張っていたのに、あの日からフランドールは、自分の制御が足りていないってことを認めたの。毎日パチェのところに行って、力を抑える方法を勉強して。

 まだまだ感情に左右されやすいけれど、少しだけなら外にも出られた。あの子はとても喜んでいたわ。外に出られたことも、花子の応援に行けることもね。私だって、すっごく……」

 

 何かがつっかえたように、レミリアは一度言葉を止め、ゆっくりと吐き出した。

 

「花子、あなたは魔理沙や霊夢でもできなかったことをやってくれた。フランはきっと、あなたをとても近くに感じているのね。素敵なことよ、きっと」

「私はレミィも、フランちゃんと同じくらい好きだよ」

「うふふ、分かっているわ。ちゃんとね」

 

 妖精メイドが運んできたワインを受け取って、レミリアが唇を濡らす。真似て、花子もワインを一口飲み込んだ。

 一息ついてから続けるレミリアの声は、どこか湿っているような気がした。

 

「フランはね、あなたのおかげで変わったの」

「そんな……」

「本当よ。どうしてかなんて分からないわ。でも、あの子は間違いなく優しくなった。生意気なところは相変わらずだけど、姉の私が言うんだから、絶対そうなのよ。フランを外に出してあげてと私に頼んできたのも、あなただけなの。だからきっと、フランも変わろうと思えたのよ」

 

 友達なのだから、当たり前の心配だと思っていた。その当たり前が、フランドールの心にはとても強く響いたようだ。

 椅子から降りて、レミリアはあろうことか、花子の前に跪いた。驚く花子の手を取って、彼女は懇願する。

 

「お願い花子。しばらく館にいてちょうだい。そうすれば、フランドールはもっと変われるわ。変わることができたら、あの子は本当の意味で外を知ることができるの。フランは人懐っこいから、きっと私よりたくさん友達を作れるわ」

「レミィ……」

「自分勝手だって分かってる。困らせちゃってるわよね、ごめんね。でも、お願い。花子じゃないとダメなの。あの子のそばにいて。フランに、フランを――」

 

 本当は、レミリア自身が教えてやりたかったのだろう。不器用な彼女は、妹を大切にしすぎただけなのだ。

 驚いてこちらを見ていた妖精メイドにグラスを渡し、花子は椅子から降りてレミリアの肩を抱いた。

 

「私は、そんなにすごい妖怪じゃないよ。レミィが思ってるほど特別なこともしてない。ただ、フランちゃんの友達でいただけだよ」

「それが特別なの。フランにとって、普通であることはとても特別なの」

「うん、うん。大丈夫、私はずっと友達でいるよ。レミィとも、フランちゃんとも。だから、二人の力になれるなら――」

 

 レミリアが顔を上げる。それ以上の言葉はいらなかった。花子は笑顔で頷き、レミリアの手を取って立ち上がらせる。

 

「……ありがと」

 

 小さく、唇の動きだけでしか分からないような声で、レミリアが呟いた。同時に、元気な足音が近づいてくる。

 口の周りにミートソースをつけた、フランドールだ。

 

「お姉さまと花子、こんなところにいたの?」

「フラン、口を拭きなさいな」

 

 ハンカチで妹の口を拭いながら、レミリアは花子に訊ねた。

 

「でも、本当にいいの? 旅の途中だったんでしょう?」

「目的があるわけじゃないもの。それにレミィの言うとおり、これからは寒いしね。春までお世話になるよ」

「えぇっ、花子、うちにいてくれるの!?」

 

 これ以上にないほど嬉しそうに、フランドールがレミリアの腕から乗り出す。

 花子がフランドールに首肯すると、彼女は心から喜び、抱きついてきた。椅子に押し倒されたものの、背もたれのおかげでなんとか支えることができた。

 

「やったぁ! じゃあじゃあ、花子は私の部屋で寝ようよ。ベッドでいっぱいお話しよ!」

「ダメよフラン。花子はお客様なのだから、私の寝室に泊まってもらうわ。主の私と一緒に寝るのが一番よね」

「えぇっ、そんなのずるい!」

「私は紅魔館の主よ。私が絶対なの」

「お姉さまのいばりんぼ!」

 

 客室という選択肢は、ないらしい。文字通り牙――八重歯にしか見えないが――を剥いて睨み合う二人に、花子は苦笑する。

 フランドールのそばにいてほしいと言っていたのに、レミリアは花子を放すつもりもないようだ。嬉しいことだが、自分のためにケンカをされてもらっては困ると、花子は頬を掻きながら提案した。

 

「あのさ、レミィの部屋で三人でってのは、ダメなのかな」

「……」

「……あ、そっか」

 

 手を叩いて、フランドールは納得したようだった。レミリアもその手があったかと言わんばかりに、神妙に頷いている。

 そんなに深く考えずともたどり着けそうな答えだったが、それぞれ最上階と最下階に寝室を構えていると、こんなものなのだろうか。

 

「私は、みんなと一緒がいいよ」

 

 付け加えて言うと、レミリアは腰に手を当てて、

 

「花子がそう言うなら、仕方ないわね。フラン、私の寝室に来ていいわ」

「やったぁ! じゃあすぐ用意するね。お手玉も持っていくね!」

 

 楽しげな声を上げながら、フランドールは食堂から飛び出していった。駆け抜けていく途中、妖精メイドが何匹か吹き飛ばされたが、慣れたものらしく、何事もなかったかのように片づけを再開している。

 慌しい妹を見送ってから、レミリアはやれやれと肩をすくめた。

 

「それじゃ、あの子が来る前にお部屋へ行っていましょうか、花子」

「うん」

 

 差し出された手を取って、花子はこれから始まる騒がしくも楽しいだろう毎日に、胸を躍らせる。

 

「お世話になりますっ」

 

 弾んだ声音に、レミリアも微笑んだ。



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そのじゅうく  恐怖!大図書館と七曜の魔女!

 

 

~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。花子は今も紅魔館でお世話になってます。

 

 太郎くん、私たちが初めて出会った場所、覚えていますか? 私は今もはっきり覚えてるよ。

 

 あの時太郎くんに出会っていなかったら、きっと私はくじけていたんだろうね。本当に、ありがとう。

 

 えへへ、どうしてこんなことを書いているか、きっと気になるよね。今日ね、太郎くんと初めて会った時を思い出すことがあったの。

 

 誰にでも、大切な出会いがあるんだよね。私がレミィやフランちゃんたちに出会ったことも、いつか素敵な思い出になるんだろうな。

 

 これからも辛い時は、太郎くんと一緒に過ごした時を励みにします。太郎くんも、私のこと、忘れないでね。

 

 それでは、またおたよりします。

 

 

 花子より

 

 

~~~

 

 

 

「見える……。見えるわ、私の、選ぶべき道が!」

 

 高らかな声と共に、レミリアは右手を振りかざした。強大な力を持つその手は、揺ぎ無い勝利の運命を宿している。

 振り下ろす、右腕。狙う先は、縦三列目、横五列目。

 勢いよく手にしたカードを、レミリアは迷わず引っくり返した。カードの絵柄は、スペードのジャック。彼が握る剣の輝きは、深淵の奥底までもを照らすだろう。

 しかしその光は、レミリアが求めていたものではなかった。絵札を見るや、がっくりと肩を落とし、

 

「……」

 

 先ほどまでの勢いは消え失せ、引っくり返したカードと、その前に選んでいたカード――ダイヤのキングを元に戻す。

 その様子をにやにやしながら眺めていたフランドールが、迷わず二枚を選び取る。ひっくり返ったダイヤのキング二枚を手元に引き寄せ、悔しげに睨み付けてくるレミリアに舌を出した。

 

「間違ったお姉さまが悪いんだからねー」

「むぅー! 花子、敵を取ってちょうだい!」

 

 ワインレッドのドレスがすっかり板についてきた花子に、レミリアは涙目で訴えた。しかし、花子は苦笑いを浮かべ、

 

「一応、私もライバルなんだけどなぁ」

「そ、そんな! 花子が私を裏切るなんて」

「別にそういうつもりはないけれど、三人で神経衰弱をやっているんだから。第一、私が一番負けているというのに」

 

 手に入れたカードの枚数は、花子が一番少ない。次点でレミリア、そして二人を突き放す成績で、フランドールが一位となっている。

 記憶力には自信があったが、まさか妹にこれほどの頭脳が備わっているとは。嬉しいような悔しいような、レミリアは複雑な気持ちになった。

 館に篭っている時間が長かったフランドールは、進んで外に出ることのないパチュリーと共に、読書や魔法の研究に打ち込むことが多かったのだ。いつの間にか、頭の良さだけならばレミリアを超えていたらしい。

 何はともあれ、負けっぱなしは悔しい。しばらく唸った後、レミリアは最良の手段を閃いた。思い出したのだ。自分には、ずばぬけた知能を持つ相棒がいるではないか。

 

「い、一時停戦よ。しかるべき後に仕切りなおしましょう」

「えぇー!? まだ途中じゃない、そんなのずっこいよぅ!」

 

 フランドールの訴えを、レミリアは断固として受け入れない。そそくさとカードをまとめ、花子の今も消せていない苦笑を無理矢理肯定と解釈して、立ち上がる。

 

「図書館に行くわよ。決着はそこでつけましょう」

「あー、ずるい! パチュリーに手伝ってもらうつもりでしょ!」

「あなたも花子と組めばいいでしょ」

 

 こうなってしまったら、レミリアが決定を覆すことはほとんどない。膨れているフランドールも、それ以上訴えることをやめてしまった。

 大きく長い廊下を歩いていると、妖精メイドが花瓶を割るところと遭遇した。花子が慌てていたが、よくあることなので、レミリアとフランドールは揃って無視して通り過ぎる。すぐに咲夜が何とかしてくれるだろう。

 地下へと続く階段を下り、上階よりも赤が少ない廊下を少し進む。すぐに、巨大な二枚扉が目に入った。高さだけならば、レミリアの身長三人分くらいはありそうだ。扉を開けようとして、ふと思い出し、レミリアは花子へ振り返る。

 

「そういえば、花子は図書館に来るの、初めてよね」

「うん。すっごい大きいんだよね。学校の図書館よりも、いっぱい本があるのかな」

「量だけならば、世界で一番かもしれないわ。読めるものとなると、香霖堂より少ないけれど」

「私はほとんど読めるけどね」

 

 フランドールの自慢げな視線に、レミリアはそっぽを向いた。本など読めなくても、レミリアは魔法を使えるし、弾幕だってフランドールより強い。何も問題はないと、心の中で自分に言い聞かせる。

 二枚扉を押し開け、毎度の事ではあるものの、紙とカビが混ざったような独特な臭いに、レミリアは少しだけ顔をしかめた。花子も隣で「うっ」と小さく唸ったので、同じ気持ちなのだろう。慣れているのは、フランドールだけのようだ。臭いを我慢し、三人は図書館の中に入っていった。

 壁にかけられた、図書館のどこにいても見えるほど大きな振り子時計が、重いリズムで時を刻んでいる。この図書館に来るたび、レミリアは時間がゆっくり流れているような感覚を覚えた。魔法の力ではない、不思議な空間だ。

 

「……静かだね」

 

 呟いた花子の声は、硬質な空間に阻まれるかのように、固く霧散していく。張り詰めた緊張感ではなく、騒ぐことが許されないような威圧感が、図書館を満たしていた。

 もっとも、そんなことでひるむ紅い悪魔ではない。

 

「パチェー! いるんでしょ、どこー?」

 

 無機質な空気を躊躇なく破壊し、レミリアは図書館を闊歩しだした。フランドールは慣れた様子で、花子はずいぶん戸惑いながら、後についてくる。

 整然と並ぶ、縦にも横にも大きすぎる本棚。そのどれもが例外なく本で埋まっている様を見れば、妹の頭が良くなるのも致し方ない。どんなに時間があろうと、これだけ並んだ本を手に取る気は、レミリアには起きなかった。

 

「パチェー! パチェェェェ!」

 

 次第に声を大きくしながら歩いていると、ようやく人影が現れた。目的のパチュリーではなく、赤い髪と悪魔の羽に似た耳を持つ少女だ。白いブラウスと黒いベストを着こなし、ネクタイもしっかり締めている。

 大図書館の本を管理、整理する、パチュリーの使い魔。特定の名前を持たない、小悪魔だ。パチュリーは彼女を重用しているのだから、そろそろ名前くらいやってもいいのではないかと、レミリアは思っていた。

 

「あら、レミリアお嬢様」

「こあ、お邪魔してるわよ」

 

 愛称で呼ぶと、小悪魔はにっこりと微笑んだ。悪魔のくせに、憎たらしいほど笑顔の似合う女だ。レミリアは、自室の鏡で彼女の笑顔を真似ようと練習したこともある。無論、誰にも口外していない。

 

「ねぇねぇ、パチュリーは?」

 

 手短な本を本棚から抜き取りつつ、フランドールが小悪魔に訊ねる。小さく頭を垂れて「あちらに」と自分の背後に通す小悪魔を見て、やはり悪魔らしくないなと、レミリアは思った。

 本棚と本棚の間にある小さな空間に、パチュリーはいた。彼女が向かっている机には山のように本が積まれ、座っている椅子の横にも本のタワーが何本もできている。

 ちょうどレミリア達の目の前で、そのうちの一本が崩れた。同時に、パチュリーが立ち上がる。

 

「さっきから聞こえてた大きな声は、レミィのものよね」

「あら、そんなにおっきな声は出してないわ」

「十分大きかったわよ」

 

 紫の長い髪を揺らし、パチュリーはレミリア達を見回した。いつもより一人増えていることに違和感があるのか、彼女が再び口を開くまで、いくらかの間があった。

 

「それで、雁首(がんくび)揃えて何のようかしら?」

「そう、そうだったわ」

 

 すっかり遊びに来たつもりになっていたレミリアは、ここに来た目的を思い出し、パチュリーの手を取る。

 

「パチュリー・ノーレッジ、我が生涯の友よ。私にその明晰な頭脳を貸していただきたいの」

「……どういうこと?」

「私は今、妹と友人の反逆によって窮地に立たされている。あなたの力が必要なのよ」

 

 かなり真剣な面持ちだが、レミリアの手にはケースに入ったトランプが握られていたりする。背後のフランドールと花子が、そんな大層なことではないと手を振ってパチュリーに伝えた。

 事情を察したらしいパチュリーは、レミリアの手をそっと握り返し、口元に微笑を浮かべ、

 

「嫌よ」

「な、なんでぇっ!」

 

 悲鳴に近い声を上げるレミリア。まるで全てを失ったかのように、絶望に暮れる。

 いつものパチュリーなら、レミリアの頼みはしぶしぶながら聞いてくれるのだ。しかし、今日はどういうわけか、すぐに後ろを向いて椅子に座りなおし、再び本に目を落としてしまった。

 こうなるといてもたってもいられず、レミリアはすがりつくように、パチュリーが腰を下ろしている椅子に手をかける。

 

「パ、パチェ? どうしたの? お腹でも痛いの?」

「いいえ。むしろ、体の調子はいいわ」

「じゃあ、どうしたってのよ。私、何か怒らせるようなことした? ねぇってば」

 

 背後のフランドールが、また始まったと呆れている。わがままで意地っ張りなレミリアだが、パチュリーの機嫌を損ねることだけは、どうしてか恐ろしく感じてしまうのだ。きっと、彼女以外に友人がいなかった時間が、あまりにも長すぎたからだろう。

 

「ねぇ、パチェ? もういいわ、トランプなんてどうでもいいもの。それより、紅茶でも飲まない? 咲夜においしいの、淹れさせるわ」

「いらないわ。喘息に効くハーブティーを、小悪魔に淹れてもらってるから」

「そ、そう。えぇと、じゃあ、ケーキ! みんなでケーキ食べない? 花子がいるから、彼女の口に合うものを作ってもらってるの。きっとパチェの口にも合うわ」

「お腹も空いてないの。今は大切な作業中だから、静かにしてくれない?」

 

 必死に機嫌を取ろうと話しかけるレミリアに、パチュリーはむしろ苛立っているようだ。親友の無慈悲な言葉を受け、レミリアの目に涙が浮かぶ。

 あわや泣き出すかというところで、花子がレミリアの横から顔を出した。

 

「ご、ごめんなさい。お邪魔してます。あ、私、御手洗花子っていいます。前に一度、会いましたよね」

「お手洗いでね。あれは大変だったわ」

「あの時はどうも、ご迷惑をおかけしました。それで、ええと、パチュリーさんがいいなら、少し休憩しませんか? ずっと本読んでるみたいですし、疲れちゃいますよ。レミィも、その、ね?」

 

 花子の顔には、何とか二人を仲直りさせようという焦りが出ている。申し訳ないなと思いながらも、レミリアはいじけた気持ちを立て直すことができなかった。

 このままでは埒が明かないと見たのか、パチュリーが背もたれに肘をかけ、やれやれと振り返る。

 

「あのねレミィ。私が今必死になってるのは、あなたのためなのよ?」

「ふぇ? どういうこと?」

 

 我ながら情けないと思える声で聞くと、パチュリーは手元のハーブティーで唇を湿らせてから答えた。

 

「レミィのというより、この紅魔館のためね。最近、時計台の調子が悪いのよ。動かしてる魔力が足らないわけじゃないから、きっと魔術式の問題ね」

「そ、そうなの? でも、時間はちゃんと計れているじゃない」

「時計の針に問題はないのよ。おかしいのは、大鐘のほう。このままじゃ、鐘がちゃんと鳴らなくなってしまうわ」

 

 紅魔館の時計台は、レミリアが動き出す夜中に鐘が鳴る。迷惑極まりないとよく言われるが、夜の帝王を自称する吸血鬼姉妹にとって、大切なものだ。

 レミリアを押しのけ、フランドールが机に広げられている本を覗き込む。

 

「ふぅん。こんな仕組みだったんだねぇ、あの時計。ここに住んでたけど、知らなかったよ」

「作ったのは、レミィと妹様の先代ね」

「その時計が、壊れちゃったんですか?」

 

 花子に聞かれ、パチュリーは首を横に振った。そんなに大げさなことではないのだろう。この時には、レミリアもだいぶ落ち着いていた。

 フランドールが本から目を離したのを確認してから、パチュリーが分厚い本を閉じる。

 

「なんにしても、ここで本を広げてても分からないか。時計台の中を見たいのだけれど、一緒に来てくれないかしら」

「そういうことなら、構わないわ。みんなで行きましょう」

 

 トランプをポケットにしまい、レミリアはパチュリーの手を取り、立ち上がらせる。

 体が弱いパチュリーの歩幅に合わせながら図書館の出口に向かっていると、後ろを歩いていた花子が訊ねた。

 

「時計台って、夜中に鳴るんですよね。何時に鳴るんですか?」

「特定の時間に鐘が鳴るわけじゃないわ。それはレミィが決めるのよ」

「ふふん、その通り。この私の意志で、あの大鐘を自在に鳴らせるの。すごいでしょ」

 

 自慢げに振り返ると、花子はとても感心したようで、感嘆の声を上げた。

 

「はぁー、レミィが鳴らしてたんだね。すごいなぁ」

「そうでしょ? もっと褒めてもいいのよ」

「どんな時に鳴るの? やっぱり、レミィとフランちゃんにとって特別な時間なのかな」

 

 好奇心に目を輝かせる花子の問いに、パチュリーが歩みはそのまま、表情も変えずに、

 

「レミィが遊びを思いついた時。ようするに、この指とまれと同じね」

 

 花子の眼差しから、尊敬の色が消えた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 紅魔館の最上階へ辿りついた一行は、渡り廊下へと続く扉を開けた。

 日はもう暮れていて、夜の空気はすっかり冷え込んでいる。花子は思わず身震いした。

 

「うぅ、寒い」

「ほんと、もう冬なんだねぇ」

 

 横を歩くフランドールも、寒そうに身を縮こまらせている。パチュリーは自室が近かったので、これでもかというほど厚着をして、顔は半分ほどマフラーで包まれていた。先頭を行くレミリアは、まるで寒さを感じないとばかりに歩いているが、小さく折り畳まれて震えている羽は正直だ。

 渡り廊下の先に見える時計台は、近くで見ると想像以上に大きく、花子は初めて紅魔館を見た時と同じ威圧感を覚える。学校の校舎にも大きな時計がかけられていたが、それとは比較にならないほどの大きさと豪華さだ。

 

「すっごいなぁ。立派な時計だね」

「そうでしょ? 先代から受け継いだ、紅魔館の宝だもの」

 

 自慢げに言って、レミリアが時計台の内部に続く扉を開けた。あまり人が来ないのだろう、鉄扉は錆びた音を響かせながら、ゆっくりと開く。

 中の空気は、酷く埃っぽかった。咲夜もここの掃除はしていないようだ。パチュリーが入る前にマスクをつけていたが、花子はそれがとても羨ましく感じた。

 フランドールと二人して口元を抑えていたが、花子は驚きに目を見張っていた。絡み合う大小様々な歯車は、見えない何かに吊るされているかのように、空中に浮いているのだ。

 埃が舞う空気を意に介さず、レミリアは目を細めて時計台の中を見回した。

 

「懐かしいわ。そう思わない? パチェ」

「……そうね」

 

 マスク越しでも、花子にはパチュリーが微笑むのが分かった。

 音を立てて回る歯車を、二人は愛おしそうに見つめている。この場所は、二人にとって思い出深い場所なのだろう。

 レミリアとパチュリーが思い出に浸っているところを邪魔するのが申し訳なくて、花子は二人に話しかけられなかった。しかし、姉に負けないほどワガママなフランドールは、気持ちの赴くままに眉を寄せ、

 

「ねぇ、早くしようよー。埃っぽいしかび臭いし、寒いよぅ」

「そうね、喘息にもよくないし。見たところ、魔術式そのものが寿命みたいだから、新しく組みなおしましょう。妹様、手伝ってくれる?」

「りょーかい。ぱぱっと終わらせちゃお」

 

 歯車がひしめき合う室内の中央、その床に煌く魔方陣に、パチュリーとフランドールは揃って手をかざした。

 なにやら複雑な紋様が光っているが、花子にはどこが悪くなっているのかも分からないし、また二人が何をしているのかも理解できなかった。

 妹と親友ほど魔術式に詳しくないらしいレミリアも、花子と一緒に二人をじっと見守っている。

 パチュリーとの絆と時計台にどんな関係があるのかが気になり、花子はフランドール達の邪魔にならないよう、レミリアの耳元で、

 

「レミィ、この時計台って……」

「ん? あぁ、ここはね、私とパチェの『誓い』の場所なのよ」

 

 宙に浮かんで回る歯車に、レミリアは優しい眼差しを向けた。

 

「花子にもあるでしょ? 手紙の、太郎といったかしら。彼と過ごした、一番大事な場所」

「……」

 

 花子の心に、一つの景色が浮かび上がった。

 トイレの妖怪として生まれたばかりで、まだまだ未熟だった頃のことだ。子供を驚かすために四苦八苦していた花子は、とにかく経験を積むために、各地の学校を転々としていた。

 そんなある日、いつものように固有空間を通してやってきたのは、波の音が近くに聞こえる、海辺の丘に建てられた学校だった。

 しかし、花子には初めて見る海にはしゃぐ余裕などなく、噂を流してはトイレに隠れて、呼ばれるのをじっと待つ毎日を過ごしていた。まだ噂の流し方も下手だったので、子供が花子を呼んでくれることは、一ヶ月を過ぎても一度もなかった。

 すっかりいじけた花子が廊下の隅っこでべそを掻いていると、男の子の声がかかった。彼は優しい言葉をかけてくれるわけでもなく、花子の手を握って、「こっち」と花子を引っ張った。日が昇り始めた朝方のことだ。

 少年は花子の手を引いたまま、階段をぐんぐん登っていく。必死についていく中、花子が「君は誰なの?」と訊ねると、彼は短く、「太郎。君と同じ」とだけ答えた。

 太郎に導かれて辿りついた場所は、学校の屋上。丘の上に位置し、さらに学校の最上階から眺める朝焼けの海の、なんと美しいことか。

 不器用な太郎は、花子に何も言わなかった。ただ、握った手だけは決して放さず、花子が何度も繰り返す「綺麗だね」という言葉に、ずっと頷いてくれていた。彼が慰めようとしてくれていることが、太郎の相槌と掌のぬくもりから、しっかりと伝わってきた。

 

 花子が太郎と行動を共にするようになったのは、その日からだ。

 トイレは男子と女子で別々だが、いつも同じ学校、同じ階の、隣り合ったトイレに隠れた。夜中には学校中を探検したり、校庭で遊んだり。二人はずっと一緒だったのだ。

 あの朝焼けの屋上こそが、花子と太郎にとって、言葉なき誓いの場所といえるかもしれない。

 

「私にも――ある。そっか、レミィとパチュリーさんにとっては、ここがそうなんだね」

「えぇ。とても大切な場所よ。咲夜もそれを知っているから、この部屋だけは手をつけないの」

 

 掃除くらいはしてもいいのにね、とレミリアは苦笑した。それでも、咲夜の気遣いに対する感謝の念が感じられる。

 レミリアとパチュリー、二人の間にどんなことがあったのか、花子は気になった。おずおずと遠慮がちに、レミリアの顔を覗きこむ。

 

「レミィ、もしよかったら、その」

「ここで、私とパチェの間に何があったのか、かしら?」

「う、うん」

「ちょっと長くなるけれど」

 

 どんなに長話になろうと、花子の好奇心が消えることはなかった。素直に頷くと、レミリアはパチュリーとフランドールの作業がまだ続いていることを確認し、壁際に積まれた古い木箱に腰掛ける。

 花子が隣に座ると、彼女はゆっくりと目を閉じ、語り始めた。

 

「あれは、半世紀くらい前かしら。あの頃はまだフランを地下から出さなかったから、事実上、紅魔館には私しかいなかったわ」

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 一九四二年、ルーマニア。世界中に大戦の戦火が広がる中、その館は悠然と佇んでいた。

 広大で美しい大平原に建つ真紅の館は、その異様を持ちながら、存在をほとんど知られていない。否、知っているが故に、誰も近寄らないのだ。

 その館には、吸血鬼が住んでいる。遥か千年以上前から伝わる伝承は、近代化が進むこの国においても、強く信じられていた。

 吸血鬼は恐るべき悪魔だ。誰もがその存在から逃れるため、館がある平原には近寄らない。昔はヴァンパイアハンターなる者が館の住人を排除しようとすることもあったが、最近ではそれもすっかりなくなってしまった。

 

 先代が死んでから、百数十年。吸血鬼のレミリア・スカーレットは、日々の大半を一人で過ごしてきた。力の制御ができない妹も、地下で似たような暮らしをしているだろう。

 時々町に出向いては、人間をさらって食料にしている。恐怖の悪魔として恐れられながらも、レミリアにはもう食事以外で人を襲う気はなくなっていた。

 その日も、町から攫ってきた身寄りのない若い女を殺し、血を味わった後、妹のために残った血液をワインの瓶に移していた。

 先代が生きていた頃は、妹のフランドールとも一緒に食事をしたりしていたが、代がレミリアに変わってからは、それもなくなってしまった。フランドールの魔力は父譲りでとても大きく、またその能力は、使い方を間違えれば非常に危険な代物だ。レミリアには、妹が暴走してしまった時に止めてやる自信がない。そのせいで、半ば強制的に地下へ幽閉してしまったのだ。

 バランスの取れた能力を持ち、力のコントロールにも長けていたレミリアが主の座を受け継いだが、姉としては最低だと、いつも唇を噛んでいる。

 ワインの瓶に血を入れ終わり、蒼白になった女の死体に、レミリアは寂しげな笑みを浮かべる。

 

「……まったく、ダメなお姉さまよね。 そう思わない?」

 

 屍は、一言も発さない。自分の行動に小恥ずかしさを覚え、レミリアは恐怖に見開いたままの女の瞼を、そっと閉ざした。

 広いばかりで誰もいないキッチンに死体を放り投げてから、フランドールのいる地下に向かう。今は亡き父の巨大な書斎を通り過ぎ、粗く切り取られたような印象を受ける階段を下りる。

 冷たい空気が充満している廊下の突き当たりで、レミリアは止まった。大きな扉の先には、妹のために用意した部屋がある。彼女が好きなぬいぐるみやおもちゃを、たくさん用意してやった。しかしそれも、百年以上前のことだ。あれから、一歩もこの部屋には踏み込んでいない。

 入れてもらえないのだ。フランドールは、姉の入室を避けている。これ以上嫌われたくない、そのための拒絶だ。この部屋に来るたび、レミリアは胸が引き裂かれそうになった。

 

「フラン? 起きているかしら。血を持ってきたわ」

『ありがとう、そこに置いてて。あとで、お部屋でもらうね』

「えぇ」

 

 扉に踵を返し、レミリアは早々に地下から去った。

 妹の顔を見たい気持ちはある。いつだって、フランドールと一緒に仲良く暮らせたらと思っていた。きっとフランドールも同じ気持ちだろうし、だからこそ、何もしてやれない自分が悔しかった。

 夜の帝王、永遠に紅い幼き月、恐怖の吸血鬼。そう呼んで恐れるのは人間ばかりで、レミリアとフランドールは、いつも孤独だった。館に満ちていく虚しさは、やがて二人の心を蝕み、食い尽くしてしまうだろう。

 

 レミリアの足は、自然に最上階へ向かっていた。彼女の寝室がある階だが、自分の部屋には寄らず、レミリアは渡り廊下の扉を開ける。夜風が駆け抜け、思わずナイトキャップを押さえた。

 風が収まり、視線を上げる。巨大な時計台が、ルーマニアの夜空を見上げていた。先代から受け継いだ、スカーレット一族の誇り高い象徴。父の魔力で動いていた時計台は、もう動かない。

 時計台の魔術式は、ただ時刻を刻むためだけのものではなかった。複数の魔術が組み合わさり、それそのものをあらゆる魔術の媒体として使用できるほど、強力で複雑なものだ。レミリアの手では、到底扱えなかった。あるいは、魔術に長けているフランドールならば扱えたのかもしれないが、考えても仕方のないことだ。

 

「……情けない」

 

 呟いた声は、レミリアの心にまた一つ、重石を載せた。静まり返った大時計は、吸血鬼姉妹の時間までも止めてしまったかのようだ。

 もしも、知人に魔術に長けた者がいれば、時計は止まらなかったのかもしれない。しかし、スカーレット一族は強大すぎたがために、他の悪魔からすら避けられていた。

 

「スカーレットは、私の代でおしまいかしらね」

 

 跡継ぎはいない。残すつもりもない。このまま孤独と死んでいくのが運命というのならば、レミリアは受け止めるつもりだった。

 ただ、せめて妹だけは――。

 

「……」

 

 時計台の扉は、酷く重かった。長年使っていなかったから、錆びていたのだろう。強く引いて壊れなかっただけ幸運と呼ぶべきか。

 なぜ入ろうと思ったのかは分からない。それでも、レミリアは衝動的に、時計台の駆動室に足を踏み入れていた。

 大小様々な歯車が、あちこちに転がっている。無機質な悲鳴が充満しているようで、思わず耳を塞いだ。父の魔力がわずかに感じられ、それがまたレミリアの胸を強く締め付ける。

 この歯車がもう一度噛み合い、時計台の鐘を鳴らすことができれば、姉に戻れるのだろうか。先代が持っていた強力な力を受け継ぐことができていれば、フランドールをあんな目に合わせる必要もなかったはずだ。

 悔しくて情けなくて、壊れてしまいそうだ。だが、どんなに心を黒いもやが覆っても、レミリアの目に涙が浮かぶことはなかった。

 一番小さな歯車を一つ拾い上げたところで、レミリアは扉へ振り返った。

 

「覗き見とは、感心しないわね」

「声をかけたら通してくれたのかしら?」

 

 扉に寄りかかっていたのは、少女だった。外見年齢は、レミリアよりいくらか上だ。紫の長い髪も目を引くが、眠たげな瞳が印象的だとレミリアは思った。

 歯車を床に戻し、立ち上がる。この近隣では有名な悪魔を前にしても、少女は恐れもしない。

 

「ずいぶん埃っぽいわね。魔術式もだいぶ壊れてしまっているし」

「人間じゃないわね。何者? 何のようでここに来たの? 館にはどうやって入った?」

「いっぺんに聞かないの、躾がなってないわね」

 

 レミリアの殺気をものともせずに、少女は前髪をかき上げた。

 

「私はパチュリー・ノーレッジ、魔法使いよ。まだ五十年も生きていないけれど。ノックをしたけど返事はないし、館の扉が開いていたから、勝手に入らせてもらったわ」

「何をしに来たの? 私を倒そうとでもいうのかしら」

「まさか。人間じゃあるまいし、悪魔を殺しても私には何のメリットもないわ。近くを通って、気になったのよ。あなたのお家、とても目立つから」

 

 冗談に付き合うつもりはなかった。レミリアは、じっとパチュリーを睨みつける。

 目があっても、パチュリーは動じない。落ちている歯車を見回して、

 

「この館には、面白い魔力が二つもあるのね」

「二つ?」

「そう。一つはこの場所にある魔術式から感じるもの。もう一つは、ここの地下に……あなたによく似た魔力があるわ。幼くて可愛らしい、女の子のものよ。不安定で、垂れ流しているような状態で……、そのくせとても大きく強い。手に負えないから、地下に封印しているのかしら?」

「あまり、知った風な口を聞かないでほしいものね。死にたいの?」

 

 一歩近づき、レミリアは牙を剥いた。しかし、パチュリーは恐れるどころがレミリアを押しのけ、落下した歯車の下に書かれている魔法陣を見つめる。

 

「館に入った瞬間、時間のぬかるみに足をとられたような感じを覚えたけど、理由はこれだったのね。住んでいた者の思念を飲み込んできたこの魔術式が、館の時間を止めている」

「質問に答えてもらっていないわ。あなたはここに、何をしにきたの?」

「あぁ、そうね。私は、この時計台を使わせてほしいのよ」

 

 思わず、眉を寄せた。パチュリーの意図が分からないし、彼女程度の魔女に時計台が扱えるとも思えなかったのだ。

 こちらの心中など知らずに、パチュリーは狭い室内を歩き回り始める。レミリアは慌てて、その後を追いかけた。

 

「試してみたい魔術があってね。完成までは程遠いんだけど……。それを使うためには、どうしても巨大な魔術媒体が必要なの」

「その媒体に、この時計台を使うつもり?」

「えぇ、魔術式を直すだけなら造作もないし。それから、あなた達の魔力も少々借りたいわ」

 

 さらりと言ってのけるパチュリーに、レミリアは思わず声を上げて笑った。こうも堂々と、吸血鬼に協力を求める魔法使いがいようとは。

 根暗そうな雰囲気からは想像できない豪胆さが、すっかり気に入ってしまった。

 

「面白いわね。この私を利用しようと?」

「もちろんタダとは言わないわ。時計台の魔術式は、すぐにでも修復してあげる。時計はまた動き出すわ。それから――」

 

 パチュリーの指が、下を指した。

 

「もう一人のお姫様に、力の使い方を教えてあげることもできる」

「……!」

 

 自分の瞳が輝くのを、レミリアは感じた。もしもその言葉が本当ならば、もう一度フランドールと笑いあえる日が来るのではないか。

 笑顔で頷くようなことはしなかったが、それでも一筋の希望を抱えたまま、訊ねた。

 

「もし、私がその要求を飲むとして……パチュリー、あなたはここでどんな魔術を使うつもりなのかしら」

「この世界は、もう私達魔に属する者には住みにくい。だから、ある場所に引っ越そうかなってね。この館ごと」

「ずいぶんと、突拍子もない話ね。やりにくい世の中になったってのは認めるけれど、一体どこに引っ越すっていうの?」

 

 魔法陣に、パチュリーが手をかざした。五芒星が輝き出し、彼女の白い顔が淡い紅の光に照らされる。

 歯車が浮かび上がり、一つずつ組み合わさっていく中で、パチュリーは続けた。

 

「東洋の端に、日本という国があるのは知っているかしら」

「知識だけなら」

「結構。その日本で、魔物が住みやすい結界世界を作った妖怪がいるの。名前は、幻想郷」

 

 東洋の地名らしい、詩的な響きだ。どんな世界なのか、レミリアは想像を膨らませるも、まったく見当がつかなかった。

 

「私はそこに行きたい。あなたもどう?」

「どうって、私が断ったら、パチュリーも行けないじゃないの」

「まぁ、そうなんだけれど」

 

 肩をすくめるパチュリーに、レミリアはもう一度笑った。

 

「仕方ないわね、まぁいいわ。このまま何もなく死にゆく運命だと思っていたけれど、幻想郷とやらに行ってみるのも楽しいかもね」

「運命、ね。あなたほどの悪魔が、運命程度に囚われるとは思わなかったわ」

 

 感情が薄く、淡々と告げるパチュリーは、いたって真顔だった。まるで、本当にそう信じているかのようだ。

 久々に他者と会話らしい会話をしたこともあって、レミリアはとても上機嫌だった。最初に抱いていた警戒心などは、もうすっかり吹き飛んでしまっている。

 レミリア自身には分からなかったが、外見相応の愛らしい笑顔で、

 

「そうね。私は運命なんてつまらないものに縛られはしない。……いいえ、むしろ、運命すらも操ってみせるわ」

「あぁ、そのくらい傲慢なほうが悪魔らしいわ。ワガママが似合うしね、あなた」

 

 パチュリーの言葉に優しさはなく、とげとげしさすら感じたが、そんなものでもレミリアには嬉しくてたまらなかった。

 みるみる修復が進み、やがて全ての歯車がかみ合い、回転を始めた。魔法陣はよりいっそう美しく輝き出し、レミリアはその光に目を細める。

 

「……パチュリー・ノーレッジ」

 

 振り返るパチュリーに、レミリアは言った。

 

「時計台を使うことと、私の館に住むことに、もう一つ条件をつけるわ。それが飲めるなら、館で何をしても構わない」

「なにかしら」

 

 すっと、右手を差し出す。パチュリーはあっけに取られた後、首をかしげた。

 気付いてくれないかと期待していたが、やはりそう簡単にはいかないらしい。仕方なく、レミリアは上目遣いに、

 

「友達になりましょう。生涯の友人になってほしいの」

「はぁ?」

「せっかく一緒に住むんだから、そうでもなくちゃ、うまくいかないじゃないの」

 

 思ったままを言ったのだが、パチュリーにとってよっぽど予想外の出来事だったらしく、レミリアの右手は宙に伸ばされたまま止まっていた。

 ややあってから、パチュリーは口元に笑みを浮かべる。

 

「……吸血鬼の友人。面白そうね。いいわ、あなたとの友情を誓いましょう。こんなところで、薄っぺらかもしれないけれど」

「そんなことないわ。ありがとう、とても嬉しい」

 

 握ってくれたパチュリーの手を、レミリアは両手で包み込んだ。

 不健康そうな冷たい手だが、どうしてか、とても暖かく感じる。勝手に、頬が緩んだ。

 

「私達、きっといい友達になれるわ。よろしくね、パチュリー」

「えぇ、よろしく。レミリア」

 

 百年以上の時を超えて、時計台の鐘が、鳴り響く。

 紅魔館の時間が、再び動き出した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「それから、パチェはお父様の書斎をそのまま図書館に使って、紅魔館に住み始めたの。フランの面倒を見るのも、地下の方が都合が良かったしね」

「友達になったのは、結構突然だったんだね」

「うぅん、そうね。でもそれは、私と花子も同じじゃないかしら」

 

 言われてみれば、確かにそうだ。フランドールや萃香、こいしと仲良くなったのも、そんなものだったかもしれない。そもそも、どこまで仲良くなれば友達と呼べるのかも、花子にはいまいち分からなかった。

 要は、気持ちが通じ合うかどうかなのだろう。友達になるのは簡単なのだ。その友情を深めた時に、出会いは宝石のような思い出になる。それは悪魔も同じのようだ。

 

「幻想郷に転移する魔術をパチェが完成させるまで、とても時間がかかったわ。その間に、パチェはフランの魔力を制御して、あの子に能力の恐ろしさを説いてくれた。おかげで、私は妹とまた一緒に紅茶を飲んだりできるようになったの。全部、あの子のおかげなのよ」

 

 微笑むレミリアの顔は、とても幸せそうな顔をしていた。彼女とパチュリーの間にある絆は、きっと花子には考えられないほど強いものなのだろう。

 羨ましさすら感じていると、一仕事終えたらしいパチュリーとフランドールが戻ってきた。

 

「ずいぶんと長いお話だったようね、レミィ」

「まぁね。思い出話に花を咲かせるのも、悪いものじゃないわね」

「なに年寄りみたいなこと言ってるのよ、あなたは」

「引きこもって本ばかり読んでるパチェも、大概お婆ちゃんよ」

 

 くだらないことを言い合いながら、レミリアとパチュリーは渡り廊下に出ていってしまった。花子も立ち上がり、フランドールと一緒に後ろをついていく。

 お互いを馬鹿にし合っているというのに、前を行く二人はとても楽しそうだ。

 人差し指をくわえて、フランドールが呟く。

 

「いいなぁ、お姉さまとパチュリー」

「……そうだね。なんだかあったかそうで、羨ましいね」

「うん。いつか私にも、あんな友達できるかな」

 

 花子に向けられたフランドールの視線には、明らかな期待が込められている。遠まわしに聞かれて率直に答えるのも恥ずかしかったので、花子は「必ずできるよ」とだけ返した。フランドールなら、分かってくれるだろう。

 

「だから、私が図書館で本を読み続けるのは、紅魔館とあなたのためなのよ」

「私のためを思うなら、もっといっぱい遊んでくれてもいいじゃない。最近また運動してないから、少し太ったんじゃないかしら?」

「なっ……! レミィだって、こないだ『昔のドレスが着られない』って騒いでたじゃない」

「あれは、私が成長したからなの! おっきくなってるの!」

「横に?」

「縦に!」

 

 夜も深まる静かな湖畔に、少女の声はよく響いた。それを聞いている花子とフランドールも、楽しくなってしまう。

 吹き抜けた北風は、ちっとも冷たく感じなかった。



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番外編     手紙のお姉さん

 外の空気は、何度吸っても酷く不味い。東京都心の雑居ビル群、迷路のように入り組む細い路地で、八雲紫は顔をしかめて濁った青空を見上げた。

 人の目に慣れすぎたスモッグが、紫の瞳にはしっかりと見えている。幻想郷のうまい空気を知ってしまった妖怪にとって、空中に散布されたあの汚物は、それだけで結界としての役割を果たすのではないだろうか、などと考えた。

 歩を進める。使われなくなったゴミ箱からは腐臭が立ち上り、どこからか迷い込んだ丸まっている新聞紙は、風雨に晒され文字が完全に読めなくなっていた。人の領域でありながら、人から――それこそ、浮浪者からすらも――忘れられた道だ。

 紫の足取りに迷いはなく、目的の廃屋を見つけるまで、そう時間はかからなかった。しかし、服には薄汚れた東京の臭いが染み付いてしまっている。

 

「……最悪ね」

 

 いつもならばスキマで訪れていたのだが、わずかに芽生えた東京を見学してやろうという気持ちに負けて、彼女は今日一日中東京を練り歩いていたのだ。しかし、灰色の街は彼女に何の利益ももたらさず、ただ悪臭が体を包むという結果になってしまった。

 次からは、またスキマで来よう。次回の気まぐれがいつになるか分からないが、その時の自分が今日のことを鮮明に覚えてくれていることを願いつつ、紫は廃屋に足を踏み入れた。

 廃屋には小規模の結界が施されており、人間にはコンクリートの壁にしか見えていない。妖怪しか足を踏み入れることが許されていないこの場所を、『妖怪生活相談所 東京支部』という。

 その名の通り、科学的進化を遂げていく人間に追いやられた妖怪が、新たな道を模索する場所だ。ここの係員も、妖怪として人を襲うことがままならなくなった者たちである。

 今日も、覇気のない顔をした妖怪達が、係員と向い合って座り小声でぶつぶつとやっている。その弱々しい後ろ姿に、紫はしかし、同情すらも抱かなかった。

 彼らの大半は、幻想郷に行くことを拒む。外の世界の妖怪でありたいという主張だけは、決して変えないのだ。

 

「無理もないこと、なのかしらね」

 

 外の世界に執着する妖怪は、若い。まだ生まれて日が浅い彼らは、幻想郷に住む妖怪達を見下している。曰く、人間に負けた者共の掃き溜め、逃げ場であるらしい。

 返す言葉もないと、紫は思った。妖怪の楽園と言えば体よく聞こえるが、彼らの言うとおり、それは逃げの選択肢ですらない。科学を恐れ、山に閉じこもり、さらに隔離したのだから。

 無論、それでいいとも考えている。紫が創り上げた楽園は正真正銘妖怪の世界であり、精神に重きを置く尊い空間だ。そこに暮らす人間達は、妖怪を恐れながらも共に生き、外の人間達よりも清らかな心を持っている。

 人に追われて己を見失った妖怪が、もう一度幸せになれる所。紫はその側面を大切にし、これからも小さな幻想郷を守っていくつもりだった。

 

 適当な係員を捕まえて、紫はある人物を呼び出した。二分ほどで、応接室に通される。

 建物の割りに立派なソファに座って待っていると、赤黒い顔に長い白髪の、牙を生やしたいかにも妖怪といった女性が、お盆にお茶を乗せてやってきた。

 

「どうも、毎度ご苦労様です」

 

 顔に似合わない愛想のいい笑みで、女性はお茶を紫の前に置いた。『トイレの花子さん』こと御手洗花子がここを訪れた時に応対した係員だ。

 外見だけなら紫より年がいっていそうだが、彼女は花子よりも若いらしい。生まれた時から、どうしてか相談所のセンター長になる教育を受けていたとか。現センター長が引退したら、彼女が後を継ぐそうだ。

 ともかく、紫はいつも通り、花子から預かっていた手紙を差し出した。

 

「では、お願いします」

「はい、お預かりしました。しかしまぁ、これで何通目だったかしらねぇ。あの子が元気なのはいいけど、宛名の子は返事も書かないのかしら」

「例え返事がなくても、花子は手紙を書くことが楽しいから、苦痛にはならないそうですわ」

「強がりだわねぇ」

 

 女性が豪快に笑う。確かにと、紫も思っていた。手紙を書く以上、相手からの手紙も期待しているはずだ。

 もう半年以上、花子から一方的に手紙を書き続けている。運ぶ立場の紫としても、太郎という少年のことはなんとなく気になっていた。

 紫に手紙を運ばせている張本人からも、頼まれたきり、連絡がない。その人物が花子の幻想郷入りを仕組んだようなものなのだから、一言くらい言伝があってもよさそうなものなのだが。

 

「……」

 

 軽く思考を巡らせ、本日中にやらなければいけないことを脳内に纏め上げる。結果、全部を式の八雲藍に押し付けられると判断し、紫は差し出したはずの手紙を手に取った。

 女性が訝しげにこちらを見る。紫はそれに、おどけるような笑みで返した。

 

「今日は、気まぐれが連鎖する日みたいですわ。手紙は私が直接、太郎少年にお渡しします」

「あらまぁ、そりゃ私らとしては郵送の手間が省けるからありがたいけれどねぇ。いいんですか?」

「えぇ、気まぐれですから」

 

 すらりと優雅に立ち上がり、女性から太郎の所在を聞いて、縦長のスキマを召喚する。

 スキマの縁に手をかけて、紫は彼女だけの特殊空間に右半身を沈めた。

 

「それでは、ごきげんよう」

「八雲さんも」

 

 女性の返事を受けて、全身をスキマに投じる。入り口が塞がれ、紫は別の――花子が最後にいたという学校へ続くスキマを、開けた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 夕刻を過ぎ、日が沈む。子供達が下校し、教員や事務員らも残りの仕事を終えて、帰路についた。時が夜中へ近づくにつれ、学校の静寂は次第に大きくなっていく。

 紫は、真っ暗な闇に覆われる三階の教室で、子供用の小さな机に腰掛けた。壁の時計を見上げれば、時刻は深夜手前だ。

 

「そろそろ、私達の時間ね」

 

 独りごちて、自分に施していた結界を解く。存在の境界を薄れさせることで、人間どころか妖怪からすらも気付かれないようにする、割りと頻繁に使う結界だ。

 学校に満ちる妖力は、やはり弱い。妖怪も幽霊も、その力が弱まっているのだろう。

 

「嘆かわしいこと」

 

 セキュリティが強化され、夜中に子供が忍び込むこともなくなった学校では、この時間になってから獲物にありつけることなどないだろう。

 もっともこの古い学校には、不法侵入者を警備会社に通報する装置は取り付けられていないようだった。それらの認識境界をいじる手間が省けたのは、紫にとって好都合だった。

 妖気が立ち込める廊下を、高級そうな靴底が叩く。足音が妙に響く中で、紫はふと、妙な音を聞いた。異音ではない、美しいピアノの音色だ。どれほど綺麗な音であっても、夜中の学校で聞く代物ではない。

 足を止め、耳を澄ます。切なく、ロマンに満ちたメロディー。有名すぎるが聞き飽きない名曲だ。

 

「……エリーゼのために。あぁ、生で聞くのは久々ね」

 

 呟いて、紫はピアノの音色がするほうへ向かった。音の発信地である音楽室には、学校が古いせいだろう、防音設備がない。

 そっと音楽室の扉を開けると、それでも気付かれてしまったらしく、ピアノは止まってしまった。グランドピアノを弾いていたのは、黒いパフスリーブのワンピースを着た、ブロンドのポニーテールが似合う少女だった。

 

「あら、続けてくれてもいいのよ」

「久々に人間を襲えると思ったのに、とんだ見当違いだったみたいね」

 

 大人びているというよりは、生意気と感じる話し方で、流暢な日本語を喋る。整った西洋の顔つきで瞳も青いが、日本の生まれだろう。

 少女はピアノの椅子から足をぶらぶらとさせながら、わずかに釣り目がちな瞳で紫を眺めた。

 

「それで、あなたは誰? 学校の新入り?」

「お嬢さんのファンと言ったら、どうするかしら」

「やめておいたら? 私のピアノは、四回聴いたら死ぬわ。……ということになっている、ってだけだけど」

 

 少女の声は外見相応の愛らしい、しかしどこかガラスのように硬質なものだった。

 椅子から飛び降りて、少女は肩にかかる横髪をかき上げる。

 

「あなたも妖怪?」

「えぇ、その通りよ」

「やっぱりね」

 

 少女は澄ました顔で、色白な手を紫に伸ばした。

 

「クララよ。クララ・ピアニッシモ」

「八雲紫と申します」

 

 握手を返し、紫が笑みを浮かべる。だがクララと名乗った少女は、紫の名を聞いて眉を寄せた。

 

「八雲……紫? どこかで聞いたことのある名前だわ」

 

 握っていた手を放して、少女は唇に人差し指を当てて思案する。

 彼女と紫は初対面だ。太郎という少年が、手紙の内容をクララに話したのだろう。

 答えを教えてやろうかとも思ったが、クララがあまりに真剣な顔で考えているものだから、紫は待つことにした。

 数十秒ほどすると、思い出したのだろう、クララは目を見開いた。

 

「あ、手紙のお姉さん! たろちゃんに届いてた手紙に書いてあった」

「クララ、太郎という子とお知り合いなのね?」

「うん。でも、いつも手紙は別の妖怪さんが届けてくれているのに、あなたが直接なんて。花子に何かあったの?」

 

 彼女の問いはもっともだが、その顔に心配そうな影はない。むしろどこかツンツンしていて、冷たい印象を受ける。

 嫌悪ではない。ライバル意識とでも言うべきだろうか。クララは腰に手を当てて、青い瞳でじっと紫を見つめている。

 紫は肩をすくめた。

 

「花子には何も。私が直接手紙を届けに来たのは、ただの気まぐれですわ」

「……そう。あの子、元気にしてる?」

「えぇ。友達を作るのが上手なのね、花子は。みんなと仲良くやっているわ」

 

 ふと、クララの顔が曇る。俯き気味になって、目を細めた。

 

「そっか。花子は、初めて会った時からそうだったわ。何もしてないのに、みんなに好かれる子よね」

「人も妖怪も呼び寄せる、不思議な魅力があるのでしょう」

「きっとね。笑った顔が可愛いから、あの子。……いっつも、花子の周りは賑やかだったもん」

 

 ポニーテールを揺らして、クララはくるりと振り返った。小さな背中は、音楽室のドアへ向かう。

 

「本当に、いつも、あの子ばかり。たろちゃんも、花子花子ってさ」

「あらあら」

 

 子供らしい嫉妬に、紫は思わず微笑んだ。高飛車な雰囲気が漂うクララは、常に誰かと――特に、太郎と――一緒にいた花子が羨ましかったのだろう。

 自然と人の輪を作る花子への羨望もあるだろうが、幼いなりの恋心が、花子への対抗心をいっそう煽っている。なるほど、子供ながらに中々複雑な関係だ。

 廊下に出てから、紫は意地悪な質問を思いついた。ためらうことなく、口に出す。

 

「では、あなたが花子の代わりになればいいのではないかしら? 外見なら、クララの方が美人よ」

「……冗談じゃない。あの子の『代わり』なんてごめんだわ。そんなことで、たろちゃんの――」

 

 言いかけた言葉を、クララは飲み込んだ。紫からは彼女の顔が見えなかったが、声はとても苦しそうに聞こえる。

 

「私には、無理よ」

「あら、どうして?」

「たろちゃんもみんなも、花子がいなくなってから、元気なくなっちゃってるの。でも、誰もあの子を責めない。逃げた弱虫だなんて言わないわ。

 あれだけみんなに好かれていたんだもん、私なんかが代わりになれるわけ、ないじゃない。できることなんて、せいぜい、ピアノの音色で少しでも賑やかにすることくらいよ」

 

 花子のようになれないことに苛立ちながらも、自分にできることを見つけて実践しているクララは、大したものだ。紫はその賞賛を、口には出さなかった。安い同情でクララのプライドを傷つけるまで、意地悪を続けるつもりはない。

 階段を下り、二階と三階の間に位置する踊り場で、クララが紫へと振り返る。

 

「ねぇ、手紙のお姉さん。花子は、いつか帰ってくるの?」

「どうしてそんなことを聞くのかしら」

「……私としては、別にあの子がいなくても困らないわ。でも、たろちゃんが寂しそうなの」

 

 澄ました態度の割りに、素直な少女だ。もし花子が戻ってくればまた嫉妬に苦しむだろうに、太郎への純粋な好意が、自分の気持ちよりも彼の幸せを優先させているのだ。

 あまりの誠実さに、紫は不覚にも感動を覚えていた。誰かに恋愛感情を抱いたことはないが、それでも紫は女だ。恋慕の話に興味を持たないほど老いてはいないし、乙女の純情に心を打たれないほど冷徹でもない。

 せめてもの誠意を見せるため、いつもの胡散臭い微笑を消し、紫は真剣な心でクララと目を合わせた。

 

「原則として、妖怪であるならば幻想郷の出入りは禁止されていませんわ」

「じゃあ……」

「彼女が帰ろうと思えば、いつでも帰ることはできる」

 

 クララの表情が、明るくなる。この笑顔を消さなければならないことは辛かったが、彼女のためにも言わねばなるまい。

 静かにゆっくりと、紫は首を横に振った。

 

「でも、花子は『トイレの花子さん』という自分を見失って、相談所に行き、幻想郷を知った。相談所を頼るということがどういうことか、あなたにも分かるわね?

 あの子は郷に来る前から、学校の怪異であることを諦めてしまっていたのよ。諦めて、幻想郷に訪れ、新たな道を模索していた。そしてとうとう、見つけたらしいわ」

 

 見る間に、クララは顔色を変えていった。理解しているし納得もしているが、心が頷かないといった様子だ。

 追い討ちをかけるつもりはなかったが、結論を出していない。紫はクララを極力傷つけないよう、落ち着いた声音で言った。

 

「花子はもう、学校の怪談ではない。幻想郷に生きる、子供を怖がらせる妖怪『御手洗花子』。それが、あの子の目指す道だそうよ」

 

 今日届ける手紙を受け取った時、花子はそう、嬉しそうに語っていた。

 

「じゃあ……花子はもう、帰ってこないのね」

「そうかもしれないわね」

 

 クララの呟きに、紫は短く返した。

 怪談を降り、二階の廊下に出る。この階にある男子トイレに、太郎がいるはずだ。

 

「本当は、ちゃんと分かってたの。私がもっとがんばって、たろちゃんを元気にさせてあげないといけないのよね」

「お互い、心を削りすぎてはダメよ。妖怪が精神を磨耗することは――」

「大丈夫よ。私は花子と違って、しっかり者なんだから」

 

 特に何を言われたわけでもないのに紫をここまで案内してくれたクララは、素振りから何まで花子よりも大人っぽい雰囲気を持っている。花子が学校にいた頃は、彼女がこっそりサポートすることもあったのだろう。

 トイレの札が、近づく。そこでクララは踵を返し、紫に背を向けた。

 

「それじゃ、私は音楽室に戻るわ。また、ピアノを弾きたくなっちゃった」

「ここからでも、聞こえるかしら?」

「任せて。ちゃんと聞かせてあげる」

 

 顔は見えなかったが、クララは笑っていた。

 彼女のように心の強い妖怪がいるのなら、外の世界で生きる妖怪にも、まだ希望があるのかもしれない。

 階段へ向かう黒いワンピースを見送りながら、紫は一人、破顔した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 男性用の札がかかれたトイレに足を踏み入れることに、紫は一瞬躊躇した。女性なのだから、当たり前なのだが。

 しかし、夜中の学校に人間の常識は存在しない。昼間に男子トイレとして認識されていたこの場所は、今や太郎という妖怪のテリトリーにすぎないのだ。

 そんな言い訳を心で呟きつつ、紫は恐る恐る男子トイレに踏み入れた。千年以上を生きようと、女としてのプライドはいつも邪魔をする。

 

「お邪魔するわ」

 

 冷たく湿った空気が満ちる空間を見渡し、男性用の小便器が目に入るや、ついと目を逸らす。妖怪の賢者とまで呼ばれておきながら、一体何をしているのやらと、紫は自分に呆れて溜息をついた。

 男子トイレの中には、花子と良く似た妖気が満ちている。太郎がどこかに出かけているかもしれないという可能性は、なさそうだ。

 

「太郎、姿を見せなさい」

「……誰?」

 

 返事はすぐに返ってきた。トイレの隅に妖気が凝縮し、少年の影が象られていく。固有結界に隠れていたのだろう。

 現れた少年は、黒い短髪と、青のシャツに短パン。花子同様、人間の子供に紛れてしまえば分からなくなりそうな妖怪だ。服装だけなら、花子よりうまく人間に溶け込めるだろう。

 太郎少年の瞳は沈んでいた。初対面でもそれと分かるほどに、輝きがない。紫が想像していた以上に、重症だ。

 

「花子の手紙を運んできたわ」

「いつもの人じゃないんだね。お姉さん、新しい人?」

 

 壁に背を預け、太郎は気だるそうに紫へ視線を向けた。

 

「今日も、返事は書いてないよ」

「そう。いいのよ、あなたの声がなくとも、花子はあなたが元気だと信じているから」

 

 分かりやすい含みを言葉に混ぜると、太郎は濁った瞳にわずかな驚きを滲ませ、

 

「花子を知ってるの?」

「えぇ、とても良く知っているわ。手紙を受け取る時、いつも素敵な笑顔を見せてくれるのよ」

 

 花子の今を伝える言葉に、太郎の表情が少しだけ輝きを取り戻す。手紙だけでは伝わらないものを、紫の短い言葉から感じ取ったのだろう。

 

「もしかして、手紙のお姉さん?」

「最近はよくそう呼ばれるわ。名前は、八雲紫と申しますわ」

「……そっか、あなたが、手紙のお姉さんなんだ」

 

 一転し、太郎はすがるような瞳を紫に向けた。その視線は紫にではなく、その後ろの、さらにもっと遠くにいる、花子に向けられている。

 彼の心にあるものは、恋慕の情か、それとも別の、もっと大きなものか。紫には分からないし、関係のないことでもある。

 

「さぁ、これを」

 

 手紙を差し出すと、太郎はおずおずと手を伸ばし、小さく「ありがとう」と言うと、そのまま封筒をポケットに入れた。

 この場で読まないのかと思っていると、太郎が顔を上げ、

 

「手紙のお姉さん。今、時間ある?」

「花子の話を、聞きたいのね?」

 

 花子の主観で語られる手紙だけではなく、第三者の言葉で花子の歩みを知りたいと思うのは、あの少女と親しい者ならば当たり前のことだろう。

 二人は、トイレの向かいにある教室に場所を移した。太郎は子供用の机に、紫は窓を開け、その縁に腰を下ろす。音楽室から届くピアノの音色が、耳に心地良い。

 

「さて、どこから聞きたいのかしら」

「できるなら、全部。お姉さんが知ってる花子のこと、全部教えてよ」

「あらあら」

 

 遠慮のない言葉に、紫は苦笑しながらも了解した。

 花子の手紙を届け始めた頃から、幻想郷で花子が歩いてきた道を丁寧に語る。話の中には手紙の内容と重なることもあるだろうが、太郎は真剣に耳を傾け、時折、言葉の一つ一つを噛み締めるように目を閉じた。

 幻想郷で彼女が出会った人物、手に入れたもの、失ったもの。想像は交えず、事実だけを伝えていく。新たな友情も味わった挫折も、紫は自分の感情を一切含ませず、花子の回顧録を読み上げるように話した。

 話を終えるまでとても時間がかかったが、太郎は相槌を打つこともほとんどせずに聞き入った。

 

「……手紙にもあったように、今滞在している紅魔館の面々からも、学ぶことが多かったみたいね。会うたびに成長しているわ、花子は」

 

 最後に自分の感想もつけて、話を締める。二時間ほど続いたが、あまりにも真剣に聞いてくれるものだから、紫も楽しくなってしまい、ずいぶんと長話をしてしまった。

 太郎はきっと、花子はもう戻ってこないと思っているのだろう。何度も手紙を読み返しているだろうし、そうすればするほど、花子が幻想郷に馴染み、幸せになっていることに気付くはずだ。

 会いたい気持ちと、花子が幸せになってくれている安堵とで、太郎は揺れているのだ。紫の話を聞いたところで、その気持ちが落ち着いたとも思えない。

 それでも太郎は、ようやく笑顔を見せてくれた。

 

「ありがとう、お姉さん」

「いいえ、私にとっても楽しい時間だったわ」

 

 微笑を向けながらも、紫は太郎の孤独を感じていた。友人はたくさんいるだろうが、彼にとって花子が消えたことは、家族を失うよりも辛いのかもしれない。

 このまま学校に留まることは、果たして彼のためになるのだろうか。紫は訊ねた。

 

「太郎。あなたは、幻想郷に来ないの?」

「……」

「幻想郷は、全てのものを受け入れる。誰もあなたを拒みはしない。花子と共にもう一度歩くこともできるわ」

 

 沈黙の中に、強い迷いがあった。

 花子が子供達に忘れられてしまったのなら、その片割れである太郎も同じ境遇のはずだ。だというのに、どうして彼は幻想郷に、さらに言えば駆け込み寺でもある妖怪生活相談所にも頼らず、未だ学校の怪談にこだわっているのか。

 紫には、なんとなく答えが分かっていた。ただ、妖怪の賢者であり先達として、太郎の口からその答えを聞かなければならないと思ったのだ。

 

「僕は――」

 

 太郎少年がようやく搾り出した声は、痛いほどに明るいものだった。苦痛を耐えるように唇を噛んでから、続ける。

 

「僕は、花子が大切にしていた場所を、守りたいんだ」

「彼女にとって、ここはもう過去でしかないのかもしれない。それでも?」

「うん。花子は僕達と一緒にいた時間を、大切な思い出だって言ってくれてる。思い出の場所がなくなっちゃったら、きっと悲しむ。花子が泣くのは、嫌なんだ」

 

 その言葉は、本心からのものであった。

 花子が毎日のように手紙を出す理由が、紫にはよく分かった。太郎が花子を心から大切にしているように、花子にとってもまた、太郎は誰よりも――幻想郷でできた友人も含めて、その中の誰よりも――かけがえのない存在なのだ。

 

「本当に、いいのね?」

 

 最後の確認は、太郎の後悔をなくすためのもの。彼は、わずかに目を伏せながらも、首肯した。

 学校の怪談という地位を捨てた花子にも、花子がいたその場所を守ろうとする太郎にも、相応の覚悟があったのだ。だからこそ、お互いを責めず、止めもしなかったのだろう。

 ならば、これ以上紫が言うことはなかった。ここから先は、本人の心で決着をつけなければならない。

 

「もしも、花子に手紙を出したくなったら」

 

 ロングスカートを揺らして、紫は窓枠から降りた。太郎の前を通り過ぎ、

 

「ムラサキ様に、お渡しなさい」

「ムラサキ婆ちゃんに?」

 

 同じトイレの怪異であるムラサキ婆のことを、太郎が良く知らないわけがない。

 きっと、あまり力もなく顔も広くないと思っているのだろう。相変わらずだ。紫はやれやれと、太郎に見えないように苦笑した。

 

「あのお方は……そうね。私の古い知り合いよ。ムラサキ様にお預けすれば、間違いなく花子に届けられるわ」

「う、うん。手紙を書いたら、婆ちゃんに渡すよ」

「よろしい」

 

 満足気に頷いて、紫は太郎の方へ振り向くこともせず、廊下へ続くスライドドアに向かう。

 

「手紙のお姉さん。……また、花子の話、聞かせてよ」

「そうね。気が向いたら、遊びにくるわ」

 

 素っ気ない返事だったかもしれないが、太郎は小さいながらもはっきりと聞こえる声で「うん、待ってる」と告げた。

 いつか、花子の手紙が太郎の迷いを断つ日が来るはずだ。その時を楽しみに思いつつ、紫は教室の扉を開けた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 学校の屋上で、空を見上げる。月は沈みかけており、夜はあと数時間で終わるだろう。

 夜風を受け、ブロンドの髪がなびく。帽子を抑えながら、紫は呟くように言った。

 

「妖怪と人間の共存――。幻想郷では当たり前のようにある光景も、こうして外に出てみると、まるで奇跡のように感じますわ」

「そうさねぇ」

 

 背後の気配に振り返る。立っていたのは、老女だった。髪は白く背を丸め、紫色の着物を身に纏っている。

 

(あやかし)は人の裏、人の陰。目を逸らし蓋をしたいもの。受け入れ、共に暮らすっちゅうのは、難儀なことやねぇ」

「何をもって共に生きるとするか、その線引きにもよりますわ。……お久しぶりです、お婆様」

 

 紫が優雅に一礼すると、老女は皺だらけの顔で、にっこりと笑った。

 まるで孫を愛でるような微笑を浮かべる老女――ムラサキ婆と呼ばれる彼女は、生粋の妖怪ではない。かつては八百万の神が一人、名もなき厠神だった。

 現代になり信仰を失った彼女は、消えゆく運命に抗い、妖怪となってでも現代に留まった。

 便所は汚く忌み嫌われる場所ではない。生命の営みに必要な、清き聖堂でなければならない。恐怖という形であっても、子供たちに『トイレは特別なところだ』という意識を持ってもらうために、神であった過去をすて、人に嫌われる道を選んだのだ。

 ムラサキが八百万の神だったころから、紫は彼女を知っている。その人柄や生き方を、とても尊敬していた。

 

「懐かしいねぇ。何年ぶりだろうねぇ」

「お婆様が妖怪になった日から、お会いしていませんわ」

「そぉかい、そんなに前かい。時間が経つのは早いねぇ」

 

 何度も頷きながら、ムラサキは変わらず優しい笑みを浮かべた。

 

「今日は、たろ坊に手紙を届けてくれたんだってねぇ」

「花子があんなに手紙を出すんですもの。どんな妖怪か、一度見ておきたかったのですわ」

「えぇ子じゃったろぉ」

「とても。花子と似て――強い少年でした」

 

 便所の妖怪である花子と太郎を、ムラサキは大変可愛がっていた。心が折れて『トイレの花子さん』を諦めてしまった花子を相談所にやったのも、昔なじみの紫が管理している幻想郷を紹介してやってくれと相談所に頼んだのも、紫に手紙を運んでほしいという便りをよこしたのも、全て彼女だ。

 紫と並んで夜空を見上げ、ムラサキが口を開く。

 

「お花ちゃんは、どうね」

「迷っていますわ。ようやく行くべき場所を見つけたようですが、歩き始めるのは、これから」

「そうかい」

「残念ながら、トイレの妖怪というものには、もう固執しないようですが……」

 

 花子はムラサキにとって同胞であり後継でもあったはずだが、ムラサキは大して気にしていないようだった。

 

「いいのよぉ。あの子はね、ようやったんじゃ。日本中駆け回って、よう子供を怖がらせた。もうええのよ、好きにやったらええ」

 

 数十年という短い間とはいえ、花子は子供達にとって伝説的に語られる妖怪となったのだ。どこまでいけば、という明確なものこそないが、あの小さな花子だ。十分な仕事をしたとみてやってもいいかもしれない。

 太郎も花子と一緒に行かせるつもりだったのだが、太郎自身がそれを拒んだ。ムラサキはそれでも二人の絆は失われてはならないと思い、旧知の仲である紫に手紙の配達を依頼したのだ。

 ムラサキが巣立った我が子にもう一度会うことは、ないだろう。紫にはそれが分かった。彼女はもう、長く生きられない。神格を失い、妖怪としての知名度も失せ、ムラサキの命を繋ぎとめられるものは、もう何もなかった。

 自分でも気付いているだろうに、あるいはだからこそか、ムラサキは昔から変わらない微笑を湛えている。

 

「紫や」

「はい」

 

 答えると、横に立つムラサキは、いつもと変わらないのに、ずっと感情が篭っている声で、

 

「お花ちゃんを――、頼んだよ」

「えぇ、承りました」

 

 まだまだ話したいことは山ほどあった。しかし、ムラサキの体に障ってはまずい。そろそろ帰る頃合だろう。

 空中にスキマを生み出し、紫はふわりと飛び上がった。

 

「それでは、またいつか」

「あい、元気でのぅ」

「お婆様も、お達者で」

 

 スキマの中に身を投じ、その口が閉まり見えなくなる瞬間まで、ムラサキの微笑みは一切変わらなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「それでは、紫様は今後も花子とかいう子の手紙を相談所にお運びになるんですか?」

 

 妖怪の山にひっそりと佇む屋敷、マヨヒガ。その縁側で湯飲みに茶を注ぎながら、紫の式である妖獣、九尾狐の八雲藍(やくもらん)が言った。

 湯気が立つ緑茶をすすってから、紫は流し目で藍を見やる。

 

「あら、不服かしら?」

「いいえ。紫様の人生は紫様のものですし、式である私風情がとやかく言うことではないと理解しています。御手洗花子とは、(ちぇん)と遊んでいた時に一度会いましたが、礼儀正しい子でしたしね」

「橙とも仲がいいんじゃなかったかしら」

 

 以前、新入りの便所妖怪に人間の驚かし方を教えてやったと、橙に自慢されたことを思い出す。事実がどうだったかは、橙の主である藍が後で教えてくれた。

 茶菓子として用意された煎餅を上品に齧ってから、藍は屋敷の庭で遊ぶ橙に視線を移す。

 

「仲良しの友達、とまではなっていないようです。人間を驚かす妖怪同士で、競争をしていただけで。もっとも、後二、三回遊べばどうなるか、分かりませんが」

「淡々と語る割りに、顔は嬉しそうね」

「橙にお友達が増えることは、歓迎すべきことですから」

 

 相変わらず、藍は自分の式を溺愛している。紫も藍を大切にしているつもりだが、二人の仲のよさは式と主というより、親子に近い。妖獣同士、ということもあるのかもしれない。

 茶を一口飲み込んだ藍は、また無表情に近い顔に戻った。彼女が怒りの感情を表に出すことはめったにないが、こうして軽い話を真顔でしている時は、不機嫌な証拠だ。

 

「藍、言いたいことがあるのなら、はっきり言いなさい。それとも、式をつけて無理矢理喋らせてあげましょうか?」

「……不服とまでは言いませんけど、紫様は幻想郷の頂点に立たれるお方です。ムラサキ様の頼みとはいえ、幻想郷の一住人でしかない御手洗花子を、優遇しすぎではありませんか?」

 

 ムラサキのことを、藍は知っている。直接面識はないが、人間のために妖怪にまで身を落とした神の話をしたとき、彼女もまた感銘を受けていた。

 

「あら、私だって幻想郷に住まう妖怪の一人にすぎないわ。それじゃ、満足できない?」

「できません」

 

 即答する藍。反抗ではなく、ただ純粋に納得のいく答えがほしいだけなのだ。

 とはいえ、紫自身も明確な答えを持ち合わせていない。ムラサキの頼みを断りたくなかった気持ちもあるし、花子のことを気に入っているのも間違いないのだが、紫がただ一個人を優遇する理由としては希薄だ。

 庭で大きな鞠を追いかけている橙を眺めながら、紫は呟いた。

 

「……なんでかしらね。花子は本当に、不思議な子よ」

「紫様が毒されるとは。これはいよいよ、異変ですね。巫女にでも依頼します?」

 

 藍が真顔で、意地悪く提案してくる。これには、何も言い返せない。ただ苦笑を返すばかりだ。

 きっと、特別なことでもないのだろう。花子は弱い。今もきっと、幻想郷にいるどの妖怪より、腕力も妖力もないだろう。だからこそ、彼女は『手を取り合う』ということの大切さを、誰よりも知っている。

 そんな、強さこそが正義である幻想郷ではっきりと異質な彼女と共にいると、言葉に表せない懐かしさを感じられるのだ。

 何も特別なことではなく、花子はただ、妖怪達が忘れかけたものを思い出させてくれているだけなのかもしれない。

 

「橙を見ていると――」

 

 鞠でじゃれている橙に目をやりながら、紫は口の端を緩める。

 

「温かく、優しい気持ちになれる。人に忌み嫌われる、悪しとされてきた妖怪であっても」

「人間の敵というだけで、私達にも感情や愛があります。当然ですよ」

「しかし、力に縛られて視野が狭まった妖怪達は、膨れ上がる自尊心に押し潰され、そんなことも忘れてしまうわ。あなたも橙と出会う前まで、そうだったじゃない」

 

 湯飲みから口を離し、藍は「そうでしたね」とだけ言った。彼女は頭の回転が速い。紫が言わんとしていることは伝わっただろう。

 

「花子はね、あなたや私にとっての橙みたいなものよ。少しでも仲良くなれれば、誰が相手でもそうなれてしまう」

「ふむ、なるほど。嫌われる相手には、とことん嫌われる性格ですね」

「そのあたりは、あの子が成長する中で学んでいくことですわ」

 

 紫が花子の手紙を届け続ける理由としては厳しいものがあったが、それでも藍は分かってくれたようだ。しかし、彼女の表情は依然険しい。 

 なんとか煙に巻こうと思っていたのだが、やはり藍は手強い。溜息をついて、湯飲みを盆に乗せる。

 

「藍。遠慮しないでちゃんと話なさいな。あなたが考えていることを、私が見破れないとでも思って?」

「まさか。紫様を騙せるなんて思っていませんよ。ですが、私はあなた様の式です。この八雲藍、紫様に心身を捧げた身。自分の感情で紫様に迷惑をかけるなどという無礼千万な行いをするわけにはいきません」

 

 大層な言葉を立て並べているが、藍の目はイタズラを仕掛ける動物のそれだ。遠まわしに聞こえるが、なんと直接的な攻撃なのか。

 ここ数ヶ月、紫はやるべき仕事を藍に押し付けていた。たまには自分で働いてくれと言えばそれで済むだろうに、何が何でも、紫の口から言わせるつもりらしい。しぶしぶ、紫は立ち上がる。

 

「仕方ないわね。あぁ、気分が乗らないけれど、今日は私が結界の強度調査に行くわ。藍、今日は橙の教育に専念なさい」

 

 ようやく、藍が笑った。勝者の笑みだ。

 

「御意に」

「まったく、式に化かされるなんてね」

 

 スキマを召喚しつつ、嘆息を漏らす。

 固有空間にもぐりこみかけ、紫は思い出したようにスキマから上半身だけを出した。

 

「あぁ、藍。それから橙も」

 

 二人の妖獣が、こちらを振り向く。紫がスキマから話しかけることに慣れている彼女らは、ちっとも驚いていない。

 

「外の誰かに――中でもいいけれど、手紙を出したくなったら、私に言いなさい。破格で届けてあげるわよ」

「紫さまがですか? わぁ、じゃあ誰かにお手紙書いてみようかな」

 

 猫の耳をぴこぴこ動かしながら、橙が遠慮なく喜ぶ。一方の藍はわずかに眉を寄せて、

 

「式の使いぱしりなんて、やめてください。紫様の尊厳に関わりますよ」

「あら、いいじゃない。そんなことで落ちぶれる尊厳なら、最初からいらないわ。それに――」

 

 藍が苦笑を浮かべる。諦めの合図である。最後に勝つのは、紫なのだ。

 スキマの縁を肘掛にして、紫は頬杖をつく。ウィンクを一つ、藍に向けた。

 

「それに私は、『手紙のお姉さん』なんだから」



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そのにじゅう  恐怖!館を守る従者達!

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。いつも手紙を読んでくれて、ありがとう。

 

 私は、どうやら迷っていたようです。今日、ひょんなことからそれを知ることができました。

 

 話してみると、自分がどんな気持ちでいたのかが分かって、ちょっとびっくりしました。

 

 私はもう、トイレの花子さんじゃないんだね。最近は誰も驚かしてないから、今更かもしれないけれど。

 

 でも、花子はまだ諦めません。トイレがダメでも、きっと立派な怪談になるよ!

 

 私もがんばるから、太郎くんも、子供を驚かせることをやめないでね。

 

 場所は遠くになっちゃったけど、これからも一緒に、がんばろうね!

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 ぐらりと体が傾くのを感じ、直後に花子は完全に目を覚ました。

 

「わわっ」

 

 窓のない部屋では自分がどういう体勢なのかは分からなかったが、ともかく花子は落下した。床の絨毯が多少クッションになってくれたらしく、思ったより痛くはない。

 床にぺたんと座ったまま、寝癖がついているであろうおかっぱ頭を掻く。花子はふかふかのベッドで気持ちよく寝息を立てているフランドールを、半眼で見上げた。寝相が悪い彼女に押し出されてしまったのだ。フランドールの反対側にはレミリアも寝ているが、彼女に被害は及んでいないらしい。

 窓がない部屋は真っ暗だが、夜目の利く花子はベッド近くの壁にかけてある時計を見上げ、今が早朝であることを知る。

 昨晩はフランドールと弾幕ごっこに興じていたため、体にはまだ気だるさが残っている。フランドールの羽を思わせる七色の弾幕は、とても美しく可憐で、そして痛かった。三度やって、三回とも完敗を喫した。

 

「うぅん、弱ったな」

 

 不慮の事故とはいえ、すっかり目が冴えてしまった。二度寝する気にもなれず、仕方なく寝巻きを脱ぐ。

 借り物のドレスに手を伸ばしかけた花子だが、思いなおして、かばんと一緒に置いてあるもんぺとセーラー服を掴んだ。久々にお気に入りの服を着たいという気持ちもあったが、眠りから無理矢理覚まさせた友人へのささやかな仕返しである。

 すっかり慣れていたと思っていたドレスだったが、こうしていつもの服を着てみると、やはり肌への馴染み方が違う。花子は暗がりで一人、にんまりと笑みを浮かべた。

 

 ふと、花子は思い出した。以前紅魔館から出発した時、咲夜にサンドイッチをもらった。それが入っていた弁当箱を、まだ返していない。

 リュックの中から竹編みの弁当箱を取り出し、吸血鬼姉妹を起こさないよう静かにドアを開け、レミリアの寝室を出る。二人がいたら遊びに夢中になってしまうし、今がいいタイミングだろう。

 朝の紅魔館も、窓がないのでやはり暗い。しかし、暗がりの廊下でも早朝の空気はとてもさわやかだ。すれ違った妖精メイドも、晴れ晴れとした顔でバケツを引っくり返している。

 花子はまず、キッチンに向かった。館の主が夜型なので、紅魔館には朝食という概念がないものだと思っていたのだが、咲夜を始めとするメイド連中や門番の美鈴は、しっかり朝食をいただいているらしい。ちょうど、食事の支度をする時間のはずだ。

 キッチンを覗いてみると、確かに朝食の準備が進んでいたが、そこに咲夜の姿はなかった。花子は、並んだ皿にパンを載せている妖精メイドに声をかけた。

 

「おはようございます」

「あ、おはよーございますー。何かごよう?」 

「咲夜さんを探してるの。どこにいるか、知らない?」

「んー、メイド長はねー」

 

 考える素振りをしながら、妖精メイドは手に持っていたパンを当然のように頬張った。花子が止めなければと思う間もなく、齧られたパンは無残な姿となる。

 

「さっきねー、お洗濯班を見に行ったよー。すぐ戻ってくるよー」

「う、うん、ありがとう。あの、勝手にパンを食べるの、ダメなんじゃないかな」

「えへへ、おいしいよー」

 

 花子の忠告をどう取ったかは知らないが、彼女は笑顔でそう答えた。すっかりパンを食べ終えてから、妖精メイドは作業に戻っていく。大きなこの館のことだから、つまみ食いの影響でパンが足りなくなることはないだろう。

 大きなキッチンの隅っこで、花子は椅子に座って咲夜が戻ってくるのを待った。妖精メイドが仕事になっているのかいないのか分からない作業を見守る。

 五分ほどしてから、咲夜は帰ってきた。怠け始めていた妖精メイドにテキパキと指示を出してから、花子のところへやってくる。

 

「おはよう、花子。早いお目覚めね」

「おはようございます。ちょっと、目が冴えちゃって」

「お嬢様か妹様に蹴られでもした? お二人とも、寝相悪いから」

「はは……ビンゴです」

 

 空笑いで答えると、咲夜は「そうだと思った」と口元に手を当てた。

 朝食の時間までまだ余裕があるとはいえ、咲夜は忙しそうだ。あまり手間を取らせたくないので、花子はさっそく弁当箱を返すことにした。

 

「咲夜さん、これ。サンドイッチ、すごくおいしかったです」

「あら、ずっと持っていたの? 安物だから、捨ててもよかったのに」

 

 口ではそう言うものの、咲夜の顔はどこか嬉しそうだ。彼女は物を大切に扱う人なのだろうなと、花子は感じた。

 主が不在の朝食ではあるが、館の従者達ほぼ全員が食べるため、その準備は楽なものではない。弁当箱を受け取ると、咲夜は早々に仕事を始めてしまった。

 困ったことに、やることがない。花子はその場で立ち尽くしてしまった。レミリアの部屋へ戻ったところで、あの姉妹が目覚めるのは夕方過ぎだ。かといって、メイド達が忙しく仕事をしているところを散歩するのも気が引ける。

 結局、咲夜を手伝うことにした。

 

「あの、私にも手伝えることがあれば――」

「料理はできる?」

 

 単刀直入に聞かれ、花子は一瞬口ごもった。給食の残りや学校の外から遊びに来る妖怪の買出しで食事を済ませていた花子は、食べ物を作るという経験はほとんどない。それこそ、幻想郷に来てから山で魚を焼いたくらいなものだ。

 首を横に振ると、咲夜は落胆するでもなく、数秒キッチンを見回し、

 

「それじゃ、洗い物を片付けてくれる? 妖精達には、お皿を運んでもらうから」

「は、はい。……多いですね」

 

 咲夜が指差す洗い場には、鍋やらフライパンやら、調理に使った洗い物が山のようになっている。わずかに気圧(けお)されたものの、手伝うと言い出したのは花子だ。セーラー服の袖を腕まくりして、たわしを握る。

 フライパンの表面をたわしで撫でると、どうやら誰かが焦がしたらしく、かなりの手応えがあった。水に浸けてあったおかげでだいぶ柔らかくなってはいるが、これは苦戦しそうだ。

 外の世界にいた頃は、住処であるトイレを自ら掃除していたほど綺麗好きな花子である。フライパンや鍋の汚れが落ちていくのが楽しくて、つい夢中になってしまった。

 どれほど洗い物をしていただろうか。全ての洗い物を片付け終えて振り返ると、咲夜が後ろから覗き込んでいた。

 

「ずいぶんと、仕事が丁寧ね」

「そ、そうかなぁ。お鍋が綺麗になるの、なんだか気持ちよくて」

「ふふ、メイドに向いてるわよ、あなた」

 

 顔を赤くして、花子は頭を掻いた。咲夜の仕事っぷりがどれほどのものかは知っているので、彼女に褒められるのは、とても嬉しい。

 朝食の支度が整うまで、あと少しだ。スープを皿に盛りつける咲夜を手伝いながら、花子は訊ねた。

 

「咲夜さんは、毎日こんなにたくさんの仕事をしているんですか?」

「そうね。ここ何年か、毎日よ」

「大変じゃないですか? 妖精メイドもいっぱいいるし……」

「お嬢様はワガママだし?」

「う、は、はい」

 

 正直に頷くと、咲夜はしかし、楽しげに笑った。

 

「いいのよ、本当のことだし。お嬢様も妹様も、自覚してらっしゃるんだからね」

「うぅん、確かに。でも、咲夜さん、疲れちゃいませんか? 毎日こんなに働いて、人間なんだから、体力も私達妖怪より少ないだろうし」

 

 妖精メイドが、それはそれは慎重に、スープの皿を運んでいく。危なっかしいその後姿を見送ってから、咲夜は皿を二枚、危なげなく持ち上げた。花子も一枚を手に取って運んだが、皿の底がとても熱く、一度に二つも運べる咲夜は、魔法でも使っているのかと本気で疑った。

 食堂のテーブルに皿が並べられていく中、咲夜が先ほどの問いに答える。

 

「確かに、疲れるわ。眠る時なんか、もうくたくたよ」

「やっぱり、そうですよね」

「でも、嫌いな疲れじゃないの。お風呂に入って体を伸ばす時、今日も一日がんばってよかったと思えるわ。

 仕事そのものだって、とても楽しいのよ。もちろん、辛いこともあるけれどね。お給金なんてもらったことないけど、お嬢様や妹様に喜んでもらえる。あの笑顔を誰よりもそばで見られる。それが最高の報酬だと思っているわ」

 

 花子は、とある小学校で卒業式を覗いていた時の事を思い出した。初老の厳つい顔をした教頭は、卒業していく子供達の前で、『君たちの笑顔が、私に勇気と希望をくれた』と、瞳を潤ませて語った。児童にとても厳しいことで有名だった男の涙に、ついもらい泣きしてしまい、太郎に笑われたものだ。

 誰かのために、自分を犠牲にして働く。レミリアのために文と戦った時の心境がそれに近いのかもしれないが、一時的な情熱と、一生涯を――特に、寿命の短い人間が――他人に捧げる覚悟とでは、まるで別物な気もする。

 まったく他意を感じさせない咲夜の言葉に、花子は強い尊敬の念を覚えた。

 

「さてと。それじゃ、朝食にしましょうか」

 

 手を叩いて咲夜が言うと、妖精メイド達がいっせいに元気良く返事をし、席についた。まさに、給食の時間そのままな光景だ。

 椅子はメイド達で全部埋まってしまい、咲夜はじっと立ったままだった。

 

「咲夜さん、食べないんですか?」

「後でいただくわ。あの子達と一緒じゃ、落ち着いて味わえないから」

 

 なるほど、確かに妖精達はマナーなど無視していて、皿を引っくり返す者も一人や二人ではない。この状況で食事に参加したいとは、花子も思わなかった。

 お祭り騒ぎのような朝食風景を眺めていると、咲夜が言った。

 

「花子、お願いがあるんだけど、いいかしら」

「私にですか?」

「えぇ。美鈴に、朝ごはんを持っていってほしいの。ついでにあなたの分も用意するから、一緒に食べてあげて。あの子、ほとんど一人でご飯食べてるから」

「いいんですか? ありがとうございます!」

 

 お辞儀をすると、咲夜は軽く笑って、キッチンに入っていった。その後姿を、知らず踊るような足取りで追いかける。

 どんな朝食を作ってくれるのだろうか。すっかり咲夜が作る手料理の虜になってしまった花子は、今から胸の高鳴りを抑えることができなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 紅魔館の庭に出ると、ひゅるりと木枯らしが駆け抜けた。生まれつき寒さに強い花子は、風が冷たいなと感じる程度で、薄着でも苦痛は感じない。

 朝日に照らされた館の庭は、ここが悪魔の住まいであることを忘れてしまうほど明るく、清清しい。館の門に向かう花子の歩調も、とても軽やかだ。

 咲夜から受け取ったバスケットには、以前いただいて凄まじい感動を覚えた、あのベーコンエッグサンドが入っている。作りたてで、まだ温かい。水筒には、前回とは違う茶葉の紅茶が入っているそうだ。

 大きな鉄門を少しだけ開けて、花子は紅魔館の敷地外に出た。すぐに美鈴の姿を見つけたが、声をかけるのを戸惑ってしまう。

 美鈴は、紅魔館の外壁を背もたれに、朝の陽光を浴びながら、気持ちよさそうに眠っていた。赤い長髪が風に揺れ、まるで彼女の周りだけが春になったような印象を、花子に与える。

 

「……」

 

 レミリアの話では、彼女は一日のほとんどをこの門前で過ごしているという。疲れているのかもしれないと思うと、起こすことはためらわれた。

 一緒に食べたかったが、朝食だけを置いて帰ろうと、花子は美鈴の傍にそっとバスケットを下ろした。その時だ。

 

「ありがとうございます」

「っ!」

 

 突然聞こえた声に、花子の体は文字通り跳ね上がった。何とか叫ばずに済んだのは、まだ美鈴が寝ていると思っていたからだろう。

 まさか起きているとは思わず目を丸くしていると、美鈴が後頭部を掻いて苦笑した。

 

「驚かせちゃいましたか、すみません」

「い、いえ。私こそ、起こしちゃってごめんなさい」

「いやいや。花子さんが館を出られた辺りから、気配には気付いていましたから」

 

 当然のように言ってのける美鈴だが、花子は首をかしげた。館の扉も静かに閉めたし、ここに来るまであまり大きな音を立てていない。紅魔館から出ただけで、美鈴が気付くとは思えなかった。

 ちょうど空腹だったらしい美鈴は、バスケットから漂う香りに目を輝かせ、ふた代わりにかけられたハンカチを取った。

 

「やぁ、おいしそうなサンドイッチ! 二人分の量ですね。花子さんもご一緒に?」

「あ、はい。良ければ一緒に食べたいなって」

「喜んで。地べたに直接座ることになりますが」

「大丈夫です」

 

 バスケットを挟んで美鈴の対面に座り、花子は陶器製のカップに紅茶を二杯注いで、一つを美鈴に渡した。

 カップを受け取り、せめてものテーブル代わりとして草の上に敷いたハンカチに一度置いて、美鈴がバスケットへ両手を合わせる。

 

「大自然の恵みに感謝して、いただきます」

「いただきます」

 

 花子も美鈴を真似て合掌し、二人揃ってサンドイッチを手に取った。一緒になって頬張り、口いっぱいに広がる味に舌鼓を打つ。

 今日の紅茶は以前飲んだそれよりも味が柔らかく、春の花を感じさせる香りがした。朝からとても贅沢をしている気分だ。

 一つ目のサンドイッチをすっかり食べ終えてから、花子は気になっていたことを美鈴に訊ねた。

 

「あのぅ、さっき、私が館を出た時に気付いてたって言ってましたよね」

「えぇ、そうですね。館周り程度の範囲なら、気配で分かります」

「じゃあ、もしかして、その……。前に私が忍び込んだ時も」

 

 ようやく質問の意図が分かったらしく、美鈴は紅茶で口の中を潤してから、

 

「気付いてましたよ。可愛らしい気の持ち主が、お館に忍び込んでいくの」

「あう……。でも、なんで止めなかったんですか? あの頃の私なら……って、今でもですけど。美鈴さんに勝てっこないもの」

 

 地べたに正座していた美鈴は、痛んだわけではないだろうが、足をあぐらに組みなおした。花子も、正座を女座りに崩す。

 

「まぁ、邪気がなかったですから。何か企んでるなとは思ってましたけど」

「そんなことまで分かるんですか?」

「分かりますよ。気は、体の流れであり心の流れです。その人が持つ力や病気、怪我、迷いや思いも、大雑把に分かります。もっと修行を積めば、覚妖怪もびっくりな境地に辿り着けるらしいんですけど、私は未熟ですから」

 

 感嘆の吐息を漏らす花子に、美鈴は照れくさそうに頬を染めた。

 

「いや、本当に大したことじゃないんですよ。私の師匠は、それはもうとんでもない人でしたし。

 まぁともかく、花子さんの侵入は、魔理沙なんかより実害が少なそうなので手を出さなかったんです。お嬢様と咲夜さんには後でたっぷり怒られましたけど、たまには私だってサボりたくなるんですよ」

 

 舌など出しておどけて見せる美鈴だが、本気で言っているというわけではなさそうだ。侵入する全ての存在を排除しなければならないほど、幻想郷は殺伐とした世界ではないのだろう。

 しかし、それでも年がら年中ほとんどの時間を門前で過ごす美鈴だ。そんなに平和ならば門番はいらないのではと、花子は首を傾げた。

 

「美鈴さん、あまり危ない人が来ないなら、お休みしてもいいんじゃないですか?」

「そういうわけにも。危険があってから門番をしても遅いですし、平和ならば和を守るのも、門番の務めですから」

 

 二つ目のサンドイッチを頬張りながら語る美鈴の口調は、割りと軽いものだった。しかし、言葉の切れ端からは、彼女の並々ならぬ誇りを感じる。

 なんとなく背筋を伸ばして、花子は美鈴の話に聞き入っていた。

 

「以前お話したように、私は紅魔館の挨拶係――いわゆる顔でもあります。悪魔の館として恐れられていますが、人間に恐怖を振り撒くのはお嬢様と妹様のお役目。私は門番として館を守り、紅魔館の顔として人や妖怪との縁を守る。

 それが私の、存在意義です。だから私は門の前に立ち続ける、と」

 

 たまには居眠りもしますけど、と冗談を付け足し、美鈴は紅茶を啜った。

 彼女もまた、レミリアに忠誠を誓って働く一人だ。人のために命を賭すことがどれほどの意味を持つのか、幼い思考回路の花子には分かりかね、知らず口をついていた。

 

「咲夜さんも美鈴さんも、レミィとフランちゃんのために一生懸命ですよね。それ、すごいことだと思います。私には、とてもできそうにないや」

「そんなことありませんよ。花子さんは、レミリアお嬢様のために戦えたじゃないですか」

「でもそれは、あの時だけというか。友達だし、そりゃレミィ達のためにって思ってたけれど、うぅん。そういうのとは、違うんです」

「はは、なるほど」

 

 何かを感じ取ってくれたらしく、美鈴が笑う。花子としては真剣に話しているのだから、できれば笑わないでほしかったのだが。

 それでも、美鈴は笑みを消さなかった。ただ、おかしいからではなく、嬉しそうな笑顔だ。

 

「花子さんはつまり、特定個人との関わりではなく、最終的には世のために繋がる、そういうことをしたいわけですね」

「えぇっ! そんな大げさなことじゃ――」

「そうですね、大げさなことじゃないです。『働く』ことの究極は、誰でもそこに辿りつくんですよ。人も妖怪も、あるいは神も、きっと。

 例えば私の場合なんかは、紅魔館を守り、お嬢様を守る。そうすると、お嬢様や妹様のお世話をする咲夜さんや、紅魔館の頭脳役であるパチュリー様をお守りすることにもなります。パチュリー様はお嬢様と妹様が悪魔として大成するための知識を授け、お二人は恐怖の吸血鬼として、人を襲い恐れさせる。

 一見すればそこで終わりのように見えますが、恐怖の裏には安堵があり、安堵の裏には温もりがあります。温もりは人の輪となり、やがて世の和を為す。全ては世のために繋がっているのです。だからこそ、人に悪と決め付けられた昔でも、私達妖怪は己の存在意義を見失わずに生きてこれた――と。これは、師匠の受け売りなんですけどね」

 

 途方もない話に、花子はカップを持ったまま俯いてしまった。長年子供を怖がらせてきたが、そんな大義を感じたことはなかったし、考えたこともない。

 紅茶が冷めてしまっても、花子の頭にはぐるぐると、螺旋の思考が渦巻いている。そんな花子の悩みを察した美鈴が、おかっぱ頭に温かな手を置いた。

 

「花子さんも、学校の怪談――トイレの妖怪として、子供を驚かしてきたんですよね」

「はい……でも……」

「それは立派なことです。学校と言う学び舎は、読み書き算盤だけを教えてもらう所ではないのでしょう? 人間としての行き方、道徳、友達付き合い、様々なことを学べる場所なのでは?」

 

 軽い調子で紡がれる美鈴の言葉は、とても正しい。しかし、花子はどうしてか、頷くこともできなかった。

 

「だとしたら、ですよ。花子さんが学校で子供を怖がらせることも、重要な役割だと私は思うんです。子供は無鉄砲ですから、危険を危険と思わず飛び込んでしまいがちです。そんな子供達に『怖い』という認識を与えるお化けは、彼らに警戒心と危険回避を教える大切な存在です。

 妖怪の私がこんなことを言うのもおかしな話ですけど、子供に生きるうえで大切な知識を授ける花子さんが学校のお化けだったことは、私には必然であったように感じるんですよね」

「そう、ですか? でも、だとしたら……。私は幻想郷で、どんな役割になればいいのかな」

 

 幼くワガママなレミリアやフランドールにさえ、ここで生きるための役目がある。そのことが、花子に焦りとなって襲い掛かっていた。

 友達と仲良く過ごす、ただそれだけの毎日ではいけない。自分が楽しいだけじゃダメだという、いつかこいしに言われた言葉を思い出す。

 花子の焦燥を、美鈴は優しく受け止めてくれた。気楽な口調が一転、穏やかなものに変わる。

 

「急がなくても、いいじゃないですか。幻想郷は逃げません。花子さんが思うまま、やるべきだと思うことを、じっくり見つければいいのです。探し出そうとするその瞬間が、すでに第一歩なのですから」

「……そう、ですか」

 

 焦るなと言われても、無理な話であった。身近に感じていた紅魔館の皆が、とても遠く大きな存在に感じられてしまう。

 水筒の紅茶を花子のカップに注ぎながら、美鈴が言った。

 

「きっと、これ以上私がお話しても、花子さんを迷わせてしまうだけでしょう。そこで、提案というほどのものでもないのですが、図書館の小悪魔さんと話してみたらどうでしょう?」

「小悪魔さんと?」

「はい。彼女は花子さんと同じくらいの年齢ですし、パチュリー様の使い魔になってから、悪魔として扱われることが少なかったと聞いています。きっと、同じような悩みを抱えていたと思いますよ」

 

 花子は、紅魔館の時計台を見上げた。レミリアとフランドールが起きるまで、まだまだ時間がある。

 残ったサンドイッチをいただいてから、紅茶を飲み干し、バスケットを片付ける。美鈴と一緒に立ち上がり、

 

「なんだか、色々勉強になりました。朝から、ありがとうございました」

「いえいえ。朝だからこそ、なんでも話せる開放感があったのかもしれないですし。また一緒に、朝ご飯食べましょうね」

「はい!」

 

 手を振る美鈴に、精一杯の感謝をこめて、花子は笑顔で礼をした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 キッチンで咲夜に弁当箱を返し、花子は意気揚々と図書館を目指した。

 しかし、乗り気だったはずの気持ちはだんだんと穏やかになり、やがて冷静さを取り戻した時、花子は小悪魔とほとんど面識がないことを思い出す。

 突然お邪魔して、人生論について語り合うなど、厚かましいのではないか。考えながらも歩みは止めず、とうとう図書館の前にやってきてしまう。

 扉を開けるべきか否か。ここまで来て尻込みしてしまい、花子は腕組みをしてうんうんと唸った。

 その背後から、声がかかる。

 

「花子さん?」

 

 振り返ると、小悪魔がいた。小首を傾げて、赤い長髪が揺れる。

 彼女の持つ盆には、透明なティーポットのカップが載っている。パチュリーのために用意したハーブティーだろう。

 仕事の邪魔をしてはいけないと、花子は誤魔化すように、道を譲った。

 

「あはは、おはようございます。えぇと、どうぞ」

「……? 図書館にご用ですか? それとも、パチュリー様でしょうか」

「えぇと、んと、実は小悪魔さんに、ちょっと」

 

 もじもじしながら小悪魔を見上げると、彼女はきょとんとした顔をしていた。ポットに浮かんでいたハーブが、底に沈んでいく。

 しばらく沈黙が続いたが、数秒して、小悪魔が我に返る。

 

「ごめんなさい、私に用事なんて、あんまりないものだから。えぇっと……」

「あの、忙しいなら、私は別に」

「ううん、お茶をパチュリー様にお渡ししたら、しばらく手が空きますから。ちょっとだけ、ここでお待ちになっててください」

 

 にこりと微笑まれ、花子はどうしてか、どぎまぎとしてしまった。小悪魔の笑顔には、同性すら魅了する不思議な力がある。

 図書館の扉前で待つこと数分、小悪魔はお盆も置いてきたらしく、何も持たずに戻ってきた。

 

「お待たせしました。それじゃ、行きましょう」

「えっと、どこへ?」

「私の部屋ですよ。誰かを招くなんて初めてだから、ドキドキしちゃいます」

 

 嬉しそうに歩く小悪魔に案内されたのは、フランドールの私室がある最下層へ続く階段の手前にある部屋だった。一人だけが生活できる程度の小さなスペースだが、花子は部屋中を飾り付けている装飾に目を見開く。

 窓がないのでカーテンこそないが、薄桃色の壁紙と可愛らしいガラス細工のランプ。一対のソファと足の短いテーブルにかけられているカバーは、壁紙と合わせているのだろう、ピンクのチェック柄だ。ベッドも庶民的な大きさながら、シーツや枕に可憐さが見られる。

 レミリアやフランドールの部屋とは違う、飾らない少女らしさが散りばめられた寝室だった。小悪魔の真面目そうな雰囲気とは多少かけ離れているが、彼女が暮らしていると言われても違和感はまったく感じない。

 無遠慮に眺め回していると、小悪魔が花子をソファーに促した。誘われるままに腰掛けて、

 

「なんだか……女の子って部屋ですねぇ」

「そうですか? ほとんどレミリア様やフランドール様のお下がりを手直ししたものばかりですけど」

「これ、手作りなんですか?」

 

 テーブルクロスをつまんで聞くと、小悪魔は自分達のハーブティーを淹れながら、

 

「そうですね、大体は。使えるものを捨てちゃうの、なんだかもったいなくて。パチュリー様は卑しい真似だって仰るんですけど、咲夜さんにお願いして、お嬢様が飽きてしまったものをこっそり頂いているんです」

 

 もったいないという精神は、どうやら人間だけの専売特許ではないらしい。もっとも、妖怪の花子も、物を大事にしすぎて捨てられない癖があるのだが。

 ハーブティーを花子のカップに注いでから、小悪魔はソファに腰を下ろした。自分のカップを淡いグリーンの液体で満たしながら、ちらりと視線だけで花子を覗く。

 

「それで、私にご用というのは、なんでしょう」

「あ、はい。その……何から話せばいいのかな……」

 

 言葉に詰まりながらも、花子は先ほどあったことを話した。

 咲夜の仕事ぶりとその姿勢、美鈴が持つ門番にかける誇りや、自分自身のやるべきことをしっかりと見据えていたこと。対して、自分は好き勝手のうのうと生きてきて、外で人間に忘れられるという苦労こそすれど、今は幻想郷で遊んで暮らす毎日だということ。そして、花子自身が何をすべきなのか、妖怪としてあるべき自分の姿が見えないことを、ゆっくりと時間をかけて話した。

 花子の話は時計の長針が半回転するほど続いたが、小悪魔は嫌がる顔一つせず、真剣に聞いてくれた。余計な質問をせず、ただ相槌だけを打って、花子の声に耳を傾ける。

 同じ悪魔なのに、彼女からはレミリアやフランドールのようなワガママさが微塵も感じられない。あの姉妹は小悪魔の爪の垢を煎じて、一日三回毎食後に飲むべきだと、花子は心から思った。

 ようやく話し終えて一息つく頃には、二人のカップもティーポットも空っぽになっていた。小悪魔は「ちょっと待ってくださいね」と立ち上がり、次のお茶を淹れてくれる。

 

「こないだ、山の上にある神社の人が来て、緑茶を頂いたんですよ」

「山の上……早苗さんかな」

「そんな名前でした。さぁ、どうぞ」

 

 湯気立つ緑茶を受け取り、花子は息を吹きかけてから、少しだけ啜る。緑茶の味は、久しぶりに飲むからか、とても懐かしく感じた。

 花子がカップを置くのを見計らって、小悪魔は柔らかく静かな声音で、語り出した。

 

「美鈴さんは、立派な人ですよね。私は立場上、あまりお話はしませんけれど、何度か門の前で顔を合わせただけで、それが分かるくらいです。お館の門を守ることに全身全霊を注いでいて、自分の力をどう使うべきかもよく理解している人でした。紅魔館って、好き放題やる人ばかりだから、初めて会った時はびっくりしたくらい。

 それから咲夜さんも、垢抜けた人ですけど、花子さんが仰るとおり、仕事にはとても真摯に向き合っていますよね。まだお若いのに、死ぬまでお嬢様に尽くすと明言しています。短命な人間にしておくのは、本当にもったいない人だわ」

「うん、そう思います。でも小悪魔さんだって、図書館のお仕事がんばってるじゃないですか」

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいです。パチュリー様は、あまり褒めてくださらないから。でも、私はあのお二人とは、ちょっと違うんですよ」

 

 緑茶を一口飲んでから、小悪魔は続ける。

 

「私は……自分から進んでこの仕事をしているわけじゃありません。パチュリー様の使い魔で、召喚されて契約した時に、図書館の司書となるように命令されました。あのお方に言われたことをやっているだけで、私が選んだことではないんです」

「じゃあ、本当はやめたかったり、するんですか?」

 

 失礼になるかとも思ったが、花子は聞かずにはいられなかった。強制的にやらされているのだとしたら、彼女はどれほど辛い目にあっているのだろうか。

 しかし、花子の心配は杞憂だったようだ。小悪魔は、小さく首を横に振った。

 

「やれと言われたことですけど、私はこの仕事が楽しいんです。本を読むのは好きだったし、パチュリー様はちょっとクールすぎるところがあるけど、とても優しいお方です。レミリア様や咲夜さんもよくしてくれますし、妹様なんて、何度か私を間違えて『お姉さま』と呼んだくらいですから」

「あは、懐いているんですね」

「えぇ、とても。まぁ、そんなわけで、私は自分の為すべきことが分かっているから司書をやっている、というわけではありません。パチュリー様にお仕えすることは幸せですけど、美鈴さんや咲夜さんのように、人生を賭けて打ち込めるかと言われると……頷く自信はありません。

 つまり、私は花子さんと同じです。今の生活は楽しいけれど、本当の意味でパチュリー様にお仕えするとはどういうことなのか、見出せずにいるんです」

 

 意外な言葉だった。花子は小悪魔も、咲夜や美鈴と同じほど大人の女だと思っていたのだ。

 小悪魔が天井を見上げ、「難しいですね」と呟く。彼女もまた同じ悩みを持っているのだと思うと、花子は少しだけ安堵することができた。

 その安堵に押されたせいなのか、花子の口からつい無意識に、言葉が零れ落ちる。

 

「でも……小悪魔さんは、いいですよね。パチュリーさんのためにがんばるっていうことは、見えているんだもの」

「そう、かもしれませんね。一からやることを探そうとしている花子さんよりは、きっと気楽でしょう」

 

 返事を聞いてから、花子はハッと顔を上げた。相手の感情を気遣う前に本音を言ってしまう、油断すると出てくる悪い癖だ。これではまるで、小悪魔の悩みは大したことがないと言っているようではないか。

 慌てて弁解の言葉を探したが、小悪魔は怒りも悲しみもしなかった。

 

「仰るとおり、私はパチュリー様に一生を捧ぐ。契約した悪魔として、それは当然のことです。あとは心の問題ですから」

「ご、ごめんなさい」

「いいえ。それより花子さん。あなたは――」

 

 カップを置いて、小悪魔が真剣な面持ちをこちらに向ける。赤茶の瞳に覗き込まれて、花子は息を呑んだ。

 

「あなたは、何をしたいのですか?」

「何を、ですか……?」

「はい。お手洗いで子供を驚かすという妖怪だったとは、パチュリー様から聞いています。花子さんはきっと、そこに囚われすぎているんだと思うのです。産まれついた妖怪としてのアイデンティティを守りたい、その気持ちは分かります。けれど、トイレの妖怪でいることが美鈴さんの言う『役割』ならば、あなたが迷うことなんてないはず」

 

 もんぺの裾を、きゅっと握る。認めたくないという気持ちが強かった。昔の自分に縛られるなとは、以前秋姉妹にも言われたことがある。分かっていたのだ。花子はもう『トイレの花子さん』ではない。幻想郷の妖怪、御手洗花子なのだ。

 妖怪であろうとするだけならば、人を襲えればそれでいい。対象が子供である必要も、場所が厠である必要もない。それでも、捨てたくなかったのだ。

 培ったプライドや崩れかけた地位にしがみついていたのではない。外の世界にいる、同じトイレの妖怪だった太郎との接点であり、絆だったから。

 

「私は……でも、トイレの花子さん、だったのに……」

 

 だが、それでも、花子は迷ってしまった。『トイレの花子さん』こそが自分の役割だと、胸を張って言えなかった。

 大切なものを失ってしまったような、大好きな人を裏切ってしまったような、そんな悔しさが心を満たしていく。

 

「……」

 

 言葉が出てこなかった。すがっていたものが手から放れてしまったようで、途方にくれる。

 俯いてしまった花子に、小悪魔は何も言わない。ただじっと花子を見つめ、答えを待ってくれていた。

 ずっと、花子は厠の妖怪として誇りを持っていると思っていた。しかし、ここ何ヶ月かほとんど誰かを驚かさなくても、なんとも思わなくなっていた自分もいた。

 結局は、捨てられる程度のものだったのか。自分が積み上げてきたものは、そんな価値しかないものだったのか。否定したかったが、考えれば考えるほど、胸が締め付けられていく。

 

「捨てなくても、いいんですよ」

 

 ぽつりと呟いた小悪魔の声は、あまりにも優しかった。フランドールが姉と間違えたのも分かるほど、甘えたくなる声音だ。

 

「花子さんが歩いてきた道は、花子さんだけのものです。あなたの過去は、あなただけの養分となって、花子さんの経験は、花子さんだけに水を与えてくれます。あなたは、どんな花を咲かせるか、そこに迷っているだけ。

 ねぇ、花子さん。トイレで子供を驚かしていて、一番楽しかったこと――嬉しかったことはありますか?」

 

 花子の脳裏に、小学校で過ごした日々が蘇る。確認するかのようにゆっくりと、花子は話した。

 

「子供達が、私に驚かされて、怖がって逃げて。でも、また挑戦しにくるんです。みんな、私に会うまでは、怖がりながらも楽しそうで、逃げていった後も、校庭で『怖かったね』って、笑ってて――。

 それが、嬉しかったんです。学校のみんなと一緒に遊んでるような気がして、楽しかった」

「お化けとして嫌われても?」

「だって、私は妖怪だもの。人間と仲良くなんて、外の世界じゃできません」

 

 落ち着きかけていた花子だが、それでも小悪魔にすがるような視線を向ける。誰かに甘えたかったのだろうか。自分でも分からなかった。

 

「だから――悲しかったんです。だんだん子供に忘れられていって、私の力じゃ、子供達のお化けになってあげられなくなったのが、悲しかった」

「そうだったんですか……」

 

 その後しばらく、会話はなかった。数分か、数十分か。花子はただじっと俯き、小悪魔も時々カップを口に運ぶだけで、ただ優しい瞳だけは、しっかりと花子を見つめてくれていた。

 ようやく感情の高ぶりが引いていき、花子は頬を赤くして小悪魔に頭を下げた。

 

「ごめんなさい、すっかり甘えちゃって。えへ、同い年くらいだって美鈴さん言ってたのに」

「いえいえ。私もちょっとお姉さんになったみたいで、嬉しかったです」

 

 微笑んでくれる小悪魔。花子は照れ隠しに頭を掻く。腹を割って話すつもりだったのに、これではただ甘えに来ただけだ。

 しかし、心の中はすっきりしていた。何をどうするか、はっきりと見えたわけではない。それでも花子には、ある筋道が見え始めていた。

 

「やりたいこと、決まりました?」

 

 まだ残っているもやもやを吐き出すように深く息を吐いてから、花子は頷く。

 自分が学校の怪異として産まれた理由。過去にトイレの怪談として得た喜びが、花子に未来を見せてくれた。

 高らかに、とまではいかなかったが、しっかりとした口調で、花子は誓う。

 

「私は、子供達のお化けでいます。大人は怖がれない、子供だけの妖怪――。幻想郷じゃ、難しいかもしれないけれど」

「素敵だと思います。花子さんなら、きっとなれますよ」

「ありがとうございます」

 

 悩みが消えたわけではないが、花子はそれでも心から安心しきっていた。

 問題を先送りしただけかもしれない。だが、今はそれでもいいと思えた。

 もしまた迷ってしまっても、この幻想郷には、迷いを打ち明けられる人がいるのだから。

 

「私も、自分があるべき姿を探します。一緒に、がんばりましょう」

 

 小悪魔の言葉に、花子はしっかりと首肯した。

 独りじゃない。そんな分かりきっていたはずの事実が、胸の中に幸せな安心感を満たしてくれる。

 知らず浮かべた花子の笑顔は、小悪魔のそれと同じほど、優しく柔らかなものだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 レミリアは宙を舞った。ベッドで気持ちよく寝ていたはずなのに、体が突然空中に放り出される。

 あまりに唐突な出来事に、飛行で姿勢を制御することも叶わず、レミリアの小さな体は床に激突した。

 

「いったぁ……」

 

 もろに顔面から突っ込んで、鼻の頭を押さえて立ち上がると、シーツを引っつかんで仁王立ちしている花子と目があった。フランドールは、床に転がってもまだ寝ている。あのタフさは、正直羨ましい。

 眉を吊り上げてこちらを見据える花子だが、レミリアには彼女の顔がどこかすっきりしているようにも見えた。

 

「おはよう、レミィ」

「おはよ……。って、なに? どうしたの?」

 

 花子はそそくさとシーツをたたんで、普段咲夜がよく使っている洗いかごに放り込んだ。

 いつもの彼女なら、こんな手荒なことはしないはずだ。一体何が友を変えてしまったのか、レミリアは寝起きからうろたえた。

 

「は、花子? どうしたのよ、いきなりこんなことして」

「もうお昼の三時だよ? そろそろ起きようよ」

「……私、吸血鬼よ? 夜型なの。人間やあなたからしたら、まだ早朝なんだけれど」

 

 昨晩の就寝時間は、朝の六時だった。花子はその四時間ほど前に寝てしまったが、その後、レミリアとフランドールは二人でオセロを楽しんでいたのだ。

 寝るのが遅かったとはいえ、もう九時間は寝ている。早朝は無理がある計算だ。

 そのことに気付いているのかいないのか――きっとどうでもいいのだろう――花子は腰に両手を当てて、まるで母か姉のように厳しい口調で言った。

 

「だめ! 咲夜さんや美鈴さんは朝からがんばっているというのに、一番えらいレミィがそんなことでどうするの」

「え? そうよ、一番えらいのよ。だったら私がゆっくり寝れるのは当然じゃない」

「そんな考えじゃ、いつか咲夜さんにも愛想尽かされちゃうんだから! そもそもレミィは――」

 

 どうしてか、レミリアは花子の勢いに呑まれてしまった。なぜか正座をし、誰かから吹き込まれたのだろう言葉で続く説教に、嫌々耳を傾ける。

 妹が掛け布団を抱き枕に床で安眠する様を見て、たくましく育ってくれたなと胸中で呟いた。頬を伝った涙は、うれし涙か、それとも別のものか。

 

「だから、ね、いい? レミィもたまには、紅魔館のみんなに恩返ししなきゃ。私はみんなに感謝してるんだよってところ、見せなくっちゃ」

「うぅん、そんなこと言ったって、どうしろってのよ」

 

 唇を尖らせて訊ねると、花子は待ってましたとばかりに手を叩き、

 

「今日はね、一日中咲夜さんのお手伝いをするの。もう咲夜さんにはお話してあるし、喜んでくれてたよ」

「えぇっ! 咲夜の仕事って、すっごく大変じゃない。嫌よ私、今日こそフランとオセロの決着をつけなきゃならないんだから」

「どうせレミィが負けるでしょ。ほら、早く着替えて!」

「う……。さりげなくえげつないことを言うのね、あなた」

 

 ぼやきながらも、言われたとおり寝巻きを脱いで、いつものドレスに着替えた。

 靴紐を結んでいると、ようやくフランドールが目を覚ました。花子は彼女にも着替えを促し、

 

「もう、咲夜さん待ってるよ。私は先に行ってるから、早く来てね!」

 

 とだけ言い残して、寝室を出て行ってしまった。

 室内が、妙に静かになる。今も少し寝ぼけているフランドールが、ナイトキャップを被ってから目をこすった。

 

「お姉さま。花子、なんであんなに張り切ってるの?」

「……さぁ、知らない」

 

 知らないが、花子はとても楽しそうだった。

 

「なら、まぁいっか」

 

 花子が楽しいならば、自分も楽しくなれる。楽しければ、大体のことはどうでもよくなってしまうのだ。

 今日もきっと、面白いことがあるに違いない。そんな確信を胸に、レミリアはフランドールの手を引き、花子の後を追いかけるのだった。



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そのにじゅういち 恐怖!悪魔の妹大脱走!

 

 

~~~~

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。幻想郷は少しずつ暖かくなってきたけれど、そちらはどうですか?

 

 紅魔館に来てから、もう三ヶ月くらいになります。とても楽しくて、あっという間でした。

 

 春になるまでって約束だったから、次はどこに行こうかってレミィ達と話すことも増えていたのだけれど……。

 

 ねぇ、太郎くん。大好きな友達に、ずっとそばにいてくれなきゃ嫌いになるって言われたら、どうする?

 

 私は何も言えなかったの。自分の本音がどれなのか、分からなくなってしまったの。

 

 せっかく春が近いというのに、こんなお話をしてしまってごめんなさい。

 

 太郎くんは、ずっと一番の友達でいてくれると信じられるから、つい甘えちゃうんだ。えへへ。

 

 今度はきっと、笑って読んでもらえるようなお手紙を書くね。

 

 それでは。

 

 

 花子より

 

 

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 新年を迎えて時が過ぎても、紅魔館の賑やかさは変わらなかった。

 冬の冷たい青空は、その澄み渡る空色の中に温もりを含み、幻想郷の住人達に近づく春を教えてくれる。気温こそまだまだ低いが、人々の心は早くも躍り始めていた。

 妖怪といえど、うららかな陽気を嫌う者は少ない。花子もまた、春が好きな妖怪の一人だ。暖かな太陽に包まれる季節は、何をしてもうまくやれる気がする。

 日の光を浴びられない吸血鬼にとってはつまらない季節かもしれないと思っていたが、「庭園の花が咲き始めたと美鈴が言っていたわ、月の綺麗な夜に見に行きましょう」と、レミリアはにこにこしながら話していた。

 今夜も、春の気配に心を躍らせるレミリアは、満面の笑みだ。

 

「咲夜、今日のおやつはなぁに?」

 

 妖精メイドが慌しく駆けているキッチンに、楽しげな声が響く。レミリアとフランドール、そして花子の三人は、館の主に導かれてここに訪れていた。

 小首を傾げるレミリアの問いに、咲夜が苦笑する。レミリアの隣で、花子もまた同じような顔をしていた。

 

「さきほど、お食事を終えられたばかりですよ」

「だって、最近あったかくなってきたでしょ? そろそろ春の果物を使ったケーキが作れるじゃない」

「申し訳ございません、まだ季節の果実は仕入れできていないのです。今日はプディングにするつもりですわ」

 

 不服そうに、レミリアが頬を膨らませる。とはいえ、キッチンの全権を握っているのは咲夜であるし、彼女が作るお菓子はどれも美味しいので、しぶしぶながら文句は言わないようだ。

 鼻歌交じりにプディングを作る咲夜をしばらく眺めていた三人だが、料理の知識がほぼ皆無な少女達は、早々に飽きはじめてしまう。

 結局レミリアの自室に戻ることになり、一同はのんびりと廊下を歩く。ふと、花子は一番後ろを歩いているフランドールがずっと黙っていることに気付いた。

 お腹でも痛いのだろうか。振り返ってみると、フランドールの顔色はやはり優れていない。

 

「フランちゃん、どこか具合悪いの?」

 

 聞いてみても、彼女は首を横に振るばかりで、答えてくれなかった。

 階段を登りかけていたレミリアが、妹に駆け寄る。フランドールの顔を覗きこむようにして、

 

「何かあったの? お姉さまに言ってごらんなさい」

「……なんもない」

「何もないこと、ないでしょうに。フラン、元気ないわよ」

 

 スカートの裾を掴んで、フランドールはそっぽを向く。今日はゲームで負けたわけではないし、花子にもレミリアにも、いじける理由が分からない。

 ここ数日、あの天真爛漫なフランドールから口数が減っている。彼女は元々情緒不安定なところがあるので気にする者は少なかったが、いつも一緒に行動していたレミリアと花子は、たまにある癇癪とは少し違うことに感づいていた。

 特に肉親であるレミリアは、言葉にこそ出さないものの、最近のフランドールをとても心配していたはずだ。

 

「隠し事かしら。お姉さま怒らないから、話してすっきりしましょ?」

「……そういうんじゃないの」

「ずっともやもやしてると、体に悪いよ。フランちゃん、私でも力になれるなら、何でもするよ」

 

 花子も諭すように言うと、フランドールはしばらくもじもじとしてから、少しだけ顔を上げた。

 廊下にある数少ない窓の一つに近づいて、フランドールがカーテンを開ける。少しばかり雲が出ているが、冬の寒さが残る空には、星と月が美しく輝いていた。

 

「まだ、冬だよね」

 

 暦ではもう三月に入りかけているが、まだ寒さが厳しく、お世辞にも春爛漫とはいえない。

 長く続く寒さに、嫌気が差しているのだろうか。とにかく慰めなければと、花子はフランドールの肩に手を置いた。

 

「すぐに暖かくなるよ。春はもうそこまで来てるもの」

「そっか。春、もう来るんだ」

 

 元気になるかと思われたが、フランドールは小さな口から重い溜息を吐いて、目を伏せてしまう。

 一体どうしたものか。レミリアと目を合わせても、二人揃って妙案は沸いてこない。

 しばしの沈黙を置いて、フランドールが呟く。

 

「春なんて、来なきゃいいのに。壊しちゃおうかな」

「……え?」

 

 春が嫌いなのだろうかと思った花子だが、レミリアがそれを否定する。

 

「どうして? フラン、毎年暖かくなると、喜んでいたじゃない」

「あったかいのは好きだよ。でも、今年の春はやなの」

「イヤイヤしててもしょうがないじゃない。ちゃんと言わなきゃ、分からないでしょう」

 

 フランドールは答えず、ただその視線を、ちらちらと花子に向ける。

 何かを言いたいのに躊躇しているような雰囲気を感じ、花子は首を傾げた。しかし、すぐに思い至る。

 

「あ……」

 

 花子が気付いたことで踏ん切りがついたのか、フランドールが小さく頷いた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 

「春になって、あったかくなったら、花子は出ていっちゃうんでしょ?」

 

 今度は、花子が俯いてしまった。フランドールの言うとおり、花子はもう少し暖かくなったら、旅を再開するつもりだった。

 幻想郷を見て周り、もっと自分自身の可能性を模索したい。今でもその気持ちは変わらないが、すがるようなフランドールの視線を受け、はっきりと答えてやることができない。

 きっと、フランドールは否定してほしかったのだろう。ずっとここにいる、そう言ってあげられたら、どれほど気が楽になることか。

 だが、花子はその言葉を選べなかった。確かに、紅魔館は居心地がいい。誰もが花子を家族のように扱ってくれる。だが、レミリアとフランドールは友達であり、この館は友人宅にすぎない。花子にとっての我が家には、なりえない。

 

「やっぱり、行っちゃうの?」

 

 涙ぐんでいるフランドールの声が、花子の心を締め付ける。元来が泣き虫なせいで、釣られて泣いてしまいそうだ。

 できることなら一緒にいてやりたい。だが、花子の旅は娯楽ではなく、やるべきことを見つけるための、大事な旅なのだ。自分で決めたことを投げ出したくないという気持ちも、また強い。

 

「フランちゃん、私は――」

「フランドール、花子を困らせないの。春になったら出発するという約束だったでしょうに」

 

 被せるように、レミリアがきつく言い放つ。花子は言葉がまとまっていなかったので、この助け舟には素直に感謝した。

 しかし、身内の叱責は容易に反感を呼ぶ。パッと顔を上げたフランドールは、目じりに溜まった涙を散らし、レミリアに掴みかかる。

 

「約束なんて、私はしてないもん! お姉さまが、花子と勝手に決めたんじゃない! だったら、私がまた花子と約束する。ずっと一緒にいてって約束するの!」

 

 彼女には、ほとんど友達がいない。それこそ、魔理沙と花子くらいなものだ。友達がずっとそばにいたのだから、この数ヶ月はきっと、五百年近い人生で一番と言えるほど楽しい時間だったに違いない。

 これほどの人恋しさを妹に植え付けてしまった、その責任を感じているのだろう。レミリアが唇を噛む。

 しかし、彼女はすぐに厳しく目を尖らせる。妹のために。

 

「ワガママ言うんじゃないの、花子はウチの子じゃないんだから。それに、もっと旅をしたいって言ったのは、花子なのよ。あなたは大切なお友達の気持ちを、ないがしろにするの?」

「そんなんじゃない。そんなんじゃないけど、お姉さまは寂しくないの? 花子が出ていっちゃったら、とっても静かになるわ」

 

 レミリアの袖を掴んで揺さぶるフランドール。話の渦中にいる花子は、ただ口を閉ざして下を向いていた。

 しがみつく妹の手を、レミリアはそっとどける。

 

「そうね。花子がいなくなると、寂しいと思うわ。でも、ずっとさよならするわけじゃないでしょう? また来てもらえるし、フランは最近いい子だから、外で遊ばせてあげてもいいのよ」

「でも、やっぱやだ。寂しいの、やだよ」

 

 フランドールが、花子の方を向く。視線を上げると、彼女はまるで媚びるような、少なくともプライドの高い吸血鬼がしてはいけない表情をしていた。

 こんなフランドールは、見たくなかった。

 

「ねぇ花子、これからも紅魔館にいようよ。おいしいご飯もあるし、ベッドもふかふかだし、それに――」

 

 言葉の途中で、フランドールが顔色を変える。花子が、目を逸らしたからだ。

 

「ごめんね、フランちゃん」

「……なんで?」

 

 ぽろぽろと、フランドールの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。普段はレミリアに負けないよう大人びた態度を取る彼女だが、その実は、姉よりはるかに幼く、感情の起伏も激しい。

 ワガママを鵜呑みにしてしまっては、友人のためにならない。そう思っての拒否だったが、とんでもない引き金を引いてしまったことに、花子は気づいた。

 なんで、なんでと繰り返しながら、フランドールは花瓶が置いてある小さな机に手をついた。衝撃で花瓶が落ち、陶器の割れる音が響く。

 それをきっかけに、フランドールが叫んだ。

 

「お姉さまとは約束したのに、なんで私とは約束してくれないの? 花子は私のことが嫌いなの!?」

「そ、そんなことないよ! 私は、フランちゃんのことも大好きだよ。友達だと思っているよ」

「じゃあ一緒にいてよ。ずっと私と遊んでよ!」

「でも、だってそれは……」

 

 口ごもる花子に、涙の混ざったフランドールのきつい眼差しが突き刺さる。

 

「友達だって言ったのに。花子の嘘つき! 大ッ嫌い!」

 

 落雷を脳天から受けたような凄まじい衝撃が、花子の全身を駆け抜けた。これまで嫌われることの少なかった花子は、他人に面と向かって嫌悪の言葉を叩きつけられることに慣れていない。ましてそれが、とても親しい友人からのものならば、破壊力は凄まじい。

 顔色が青ざめ、吐き気すらしてくる。言葉など出るはずもないし、頭の中は真っ白になっていった。

 倒れてしまいそうになるほど薄れていく意識の中で、乾いた音が響く。

 レミリアが、フランドールの頬を叩いたのだ。

 

「っ――」

 

 獰猛な悪魔の顔つきで、フランドールがレミリアを睨みつける。しかし、その眼光をものともせずに、レミリアは吐き捨てた。

 

「フランドール、いい加減になさい」

 

 静寂が、紅い廊下を包む。妖精メイドの姿は、どこにも見当たらなかった。

 大ダメージを受けた心が徐々に落ち着きを取り戻し、花子はようやくフランドールを直視することができた。叩かれた頬を押さえて、呆然としている。

 フランドールの中に満ちていた怒りが悲しみに変換されていくのが、花子には分かった。妖怪も裸足で逃げ出すほど怖ろしかった彼女の顔が、見る間に泣き顔へと歪んでいく。

 限界に達するまで、そう時間はかからなかった。幼子の姿そのままに、フランドールが泣き叫ぶ。

 

「お姉さまの、お姉さまの――、馬鹿ぁぁぁぁぁ!」

 

 感情が高ぶり制御しきれなくなった魔力が、廊下に吹き荒れる。吹き飛ばされそうになった花子は、レミリアに受け止められた。

 身動きが取れない二人を見もせずに、フランドールが羽ばたいた。翼についている七色のクリスタルが、虹の軌跡を描く。

 まさかと思った直後、花子とレミリアは同時に声を上げた。

 

「お待ちなさい、フラン!」

「フランちゃん、話を聞いてよ!」

 

 しかし、言葉は届かない。飛び上がり、渦巻く魔力を纏った体当たりで、窓をぶち破る。ガラスが砕け散る音と共に、フランドールは夜の幻想郷へ消えた。

 慌てて割れた窓に駆け寄ってみるが、時すでに遅し。吸血鬼が飛ぶ速度は、天狗にも匹敵するという。もう、彼女の姿は見えない。

 

「フランちゃん……」

「まったくもう、何を考えているのよ」

 

 スカートについた埃を払って、レミリアが溜息をつく。

 

「仕方ないわ、手分けして探しましょう」

「……」

 

 花子は自分を責めていた。事の発端は自分にあるし、出発を春から夏まで延ばしてやれば、フランドールの機嫌を損なわなかったのかもしれない。

 罪悪感で胸がいっぱいになり、つい泣きそうになるのを堪えて、花子は夜空に浮かぶ半月を、祈るように見上げた。

 

「ごめんね、レミィ。私のせいで……」

「いいの、大丈夫よ。あの子がわがまま言っただけなんだから、あなたは悪くないわ」

 

 レミリアが、優しく頭を撫でてくれる。気持ちよかったが、花子の心は晴れなかった。

 箒やちりとりを持って、ようやく妖精メイドがやってくる。背後でせわしなく片づけが始まり、二人は揃って、割れた窓から夜空へ飛び出した。

 花子と並んで飛ぶレミリアが、後悔の念を滲ませる。

 

「あなたによく懐いているものね、フランは。もっと早く気付いてあげられればよかった」

「私も、なんで分かってあげられなかったんだろう」

「でも、花子のせいじゃないからね。ちゃんと約束していたんだもの、気にしなくていいのよ」

「……ありがとう、レミィ」

 

 弱々しい笑顔で礼を言いつつも、心の中には不安と心配しかない。

 輝く半月に、どうかフランドールが見つかりますように、無事でいますようにと、花子はただただ、祈る。

 

 だが、願いは届かず、フランドールはその日、帰ってこなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 勢いで飛び出してしまったことを、フランドールはもう後悔し始めていた。

 憧れた一人での外出が、まさかこんな形になってしまうとは。月に照らされる夜空を漂いながら、嘆息を漏らす。もう、涙は流れていなかった。

 なぜあんな駄々をこねてしまったのか。思い出すだけで、恥ずかしくて仕方がない。

 花子を困らせるつもりなどなかった。ただ、もう少しだけ一緒にいてくれと言うつもりだったのだ。それが、溢れ出る感情に押されて、とんでもないワガママをまき散らしてしまった。

 挙句の果てには、花子に向かって「大嫌い」などと。きっと花子だけでなく、レミリアにも呆れられてしまったことだろう。

 夜の幻想郷は、暗い。宵闇こそが吸血鬼の生きる世界だというのに、フランドールは明かりの灯る紅魔館が恋しくて仕方なかった。

 しかし、戻れない。帰ったところで、姉と友にどんな顔で会えばいいのか。心のどこかで自分を探してくれているのではと思っていることもまた、なんとも虚しかった。

 

 真っ暗な幻想郷の中に、光が密集している場所があった。人里だ。提灯などで照らされた町の明かりは、温もりに溢れている。

 あの光の中で、多くの人間が、家族や友達と楽しく暮らしているのだろう。悪魔であるフランドールが、そこに馴染めることはない。そのことが酷く悲しく思えて、瞳にまたも涙が浮かぶ。

 このまま、ずっと一人ぼっちで暮らすのだろうか。寂しくて寂しくて、たまらない。心が重石となって、フランドールは徐々に下降していく。

 力なく着地した場所は、人里の近くだった。里の中には入る気になれず、とぼとぼと歩く。向かう先など分からず、紅い瞳は暗闇の地面を見つめている。

 ふと、日傘を持ってきていないことに気がついた。このまま日が出れば、焼け死んでしまうかもしれない。太陽光に当たったことは一度もないが、とっても痛いとレミリアが言っていた。

 消えてなくなれば、この気持ちもなくなるのだろうか。それもいいかななどと自嘲気味に考えて、フランドールはふと顔を上げた。

 

「……?」

 

 そこそこの距離を歩き、もう人里の明かりが届かない場所まで来たはずだった。だというのに、目の前の建物には煌々と光が灯っているではないか。

 門は夜だというのに開け放たれ、広い庭の先には立派な和風建築が佇む。寺と呼ばれる、仏教の聖堂。書籍で読んだことはあったが、見るのは初めてだ。

 幻想郷の寺は妖怪が管理していると、魔理沙から聞いたことがある。寺のトップに立つ大魔法使いが魔理沙をとても気に入っているそうだ。花子もここを訪れたと言っていた。

 明かりに吸い込まれるようにして、寺の境内に足を踏み入れていた。興味が沸いたということもあるが、魔理沙や花子と仲がいい人ならば自分とも友達になれるはず、という子供らしい確信が、彼女の背中を押していた。

 しかし、フランドールは人の家を訪ねる術を知らない。作法はそれなりに知っているし、戸を叩けば誰かが出てくるだろうことも容易に想像がつくのだが、その勇気が沸かなかった。

 なにせ、吸血鬼なのだ。妖怪からすらも嫌われている、強大すぎる悪魔。普段は誇りに思っていた事実も、今では不安材料でしかない。

 ノックしようと伸ばした腕を、引っ込める。臆病風に吹かれてしまい、何度目か分からない嘆息を漏らした。

 

 とはいえ、どこかに行くあてがあるわけでもない。明かりから離れるのが心細く、フランドールは境内の中を彷徨うように歩く。もしかしたら、誰かが気付いてくれるかもしれない。

 しかし、現実は厳しかった。一時間以上経っても、独りぼっちで立ち尽くすことになる。さすがに気が滅入り、境内にある池を囲う大きな石を背もたれにして、地べたに腰を下ろした。スカートが分厚いおかげか、砂利は痛く感じない。

 膝を抱えて、冬の寒さに耐える。寺の中からは、妖怪達の楽しげな笑い声が聞こえてくる。孤独感がフランドールを包み込み、思わず「お姉さま」と呟いた。

 自分はなんと不幸なのだろうかと、両膝の間に頭を押し付ける。夜空で散々泣いたおかげか気持ちは多少晴れたものの、普段から大人ぶっていた反動か、すっかり自己憐憫に囚われてしまっていた。

 物心がついた頃には家から出られず、父亡き後は地下にも幽閉された。あげく、信頼していた友にまで裏切られ、あぁ、自分はなんと悲しき吸血鬼なのか。

 本当のことを言えば、地下に閉じ込められていた過去について、彼女は怒っても恨んでもいない。だが今のフランドールには、全ての過去が不幸に思えてしまうのだ。

 有名歌劇に登場する悲劇のヒロインもかくやというほど悲哀に酔っていた、その時である。

 

「こんばんは」

 

 突然声をかけられて、フランドールは固まった。こんなにそばまで妖気が近づいてきていたのに、まったく気付けなかったのだ。独創悲劇を演じていた感情は一転、焦りに埋め尽くされる。

 なにせ、一人での外出は初めてのことだ。挙句、人様の敷地に無断で侵入している始末。出先で初対面の他人に声をかけられる経験も、当然ない。

 強大無比な吸血鬼とはいえ、世間知らずなフランドールは、膝を抱えた格好のまま一言も発せずにいた。

 

「こんばんは」

 

 二度目の挨拶に、苛立ちや不信感はない。どころか、親しみやすさすら感じてしまう。

 おずおずと顔を上げてみれば、金に紫色のグラデーションが入った髪の女性が、フランドールを見つめていた。

 月光を受けて美しく輝くその微笑は、悪魔のフランドールにすら女神を連想させる。呆然と、見入ってしまった。

 

「どこか、お加減でも悪いのかしら。人間ではなさそうだけれど」

「……あ、私は」

「いいんですよ、無理してお話にならなくても。ここは寒いですから、中へ入りましょう?」

 

 差し伸べられる手を、知らず知らずに取ってしまった。立ち上がって、スカートについた砂利を払う。

 名前すら名乗り合っていないのに、女性は縁側から上がり、おろおろしているフランドールも招き入れ、彼女の靴を手に歩きだした。

 流れに飲まれて、後をついていく。初めて見る和風建築に心を奪われ、ついつい無遠慮に眺め回してしまう。しかし女性は怒らずに、終始ニコニコとしていた。

 玄関にフランドールの靴を置いてから、女性が振り返る。

 

「自己紹介がまだでしたね。私の名前は、聖白蓮と申します」

「ひじり、びゃくれん」

 

 おうむ返しに繰り返すと、白蓮と名乗った女性は「えぇ、そうですよ」と頷いた。どことなく咲夜と話している感覚に似ているが、それよりもっと大らかで、高貴な雰囲気だ。

 彼女の前にいると、不思議なことにスカーレット一族の高いプライドが、胸の奥に身を潜めていった。自分でも驚くほど素直に、

 

「私、フランドール。フランドール・スカーレットよ」

「スカーレット……と言いますと、湖にある、真っ赤なお屋敷の吸血鬼さんだったかしら」

 

 紅い館。その単語だけで一連の出来事を思い出し、俯く。笑みになりかけていた口元は、再び真一文字に結ばれてしまった。

 白蓮はそれ以上詮索せず、フランドールの手を引いた。

 

「さぁさぁ、私の部屋でお茶でも飲みましょう。寒い所にいたから、お手てがとっても冷たいわ」

「で、でも私、ここの子じゃないから」

「もう上がっているんだもの。フランドールさんは、大切なお客様ですよ」

 

 優しく言われては、逆らう理由などなかった。出て行ったとしても、今のフランドールには帰る場所など――彼女の妄想にすぎないが――ないのだから、好意を受け取らない理由もない。

 なにより、今もなお傷心癒えぬフランドールには、白蓮の温かな手を放すことが、できなかったのだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「今日もおいしく朝ご飯! いっただきまぁーす!」

「っさいわね! ちょっと響子、朝っぱらから私の鼓膜ぶち抜くのやめてくれない?」

「これで耳の具合が悪くなったら、響子のせいじゃな。わしらには謝罪と賠償を請求する権利があるのう」

「えぇっ、ぬえさんとマミゾウさん、酷い! 元気な声は私のチャームポイントなのに」

「その『ちゃーむぽいんつ』とやらで、厠を吹っ飛ばしたのはどこの誰だい」

「ナズーリン、いつまでも根に持つのは感心しませんよ」

「そうですね。響子はちゃんと修理したんですから、許してあげなさい」

「しかしですねご主人、聖。あの日から毎晩響子のトイレに付き合う身にもなってくださいよ」

「へぇー、ナズーリンがねぇ。結構面倒見がいいじゃん、何か企んでる?」

「こら村紗。ナズーリンは善意でやっているんだから、そういう言い方はよしなさい。他人のために何かをする喜びは、その当人しか知りえないのよ」

「一輪が言うと、説得力はんぱないわー」

 

 ちゃぶ台を囲んだ賑やかな風景に、結局一晩泊まってしまったフランドールは、再び固まっていた。なれない正座も気にならず、膝の上で手をぎゅっと握り、すっかり緊張してしまっている。借りてきた猫のほうがいくらかマシかもしれない有様だ。

 和気藹々とした空気で進む朝食の中、自分だけが完全に場違いで、今更和やかに食事を始める気になど、とてもなれない。湯気立つご飯や野菜中心のおかず、豆腐が浮かぶ味噌汁など、用意された朝食は美味しそうなのだが。

 緊張のあまり頬も紅潮していると、隣に座るセーラー服と黒髪の少女、村紗水蜜(むらさみなみつ)が顔を覗きこんできた。

 

「吸血鬼ちゃん、大丈夫? なんかしんどそうだけど」

「食事も進んでいませんね。和食は口に合わなかったかしら。それとも、箸を使えない? フォークを持ってきましょうか?」

 

 尼のような頭巾を被った雲居一輪(くもいいちりん)が、立ち上がりかける。これ以上迷惑をかけて居心地が悪くなるのはごめんだと、フランドールは慌てた。

 

「う、ううん! お箸、使えるよ」

「なんだい、喋れるんじゃないか。挨拶の一つもないもんだから、てっきり吸血鬼は口が聞けないものなのかと思っていたよ」

 

 ネズミ耳のナズーリンが、とても嫌味っぽく言う。口の端を片方持ち上げ、実に憎たらしい笑顔だ。

 一発殴ってやろうかと思ったが、その前に彼女の隣にいる金と黒が混ざった、虎のような髪の女性――彼女は聖と並んで、とても姿勢がいい――が、ナズーリンをきつく見据える。名を、寅丸星(とらまるしょう)といった。

 

「ナズーリン、フランドールさんは聖のお客様ですよ」

「はいはい、分かりましたよ」

 

 と適当に受け流して、ネズミ少女は味噌汁を啜った。

 なおも遠慮がち、というよりも逃げ腰なまま、フランドールはほうれん草のごま和えに手をつけた。ごまの香り豊かで、ほうれん草もシャキシャキとしていて、野菜はあまり好かなかったというのに、面白いほど箸が進む。

 膳に載せられた食事は初めて食べるし、和食のマナーにも疎いので、隣の村紗や対面に座る犬の耳を持つ少女、幽谷響子をチラチラと見つつ、真似をした。お椀を持ち上げて食べる習慣がなかったので、いまいち違和感が抜けてくれない。

 ぎこちなく食事を続けていると、一番早く食べ終えてお茶を飲んでいた化け狸の二ッ岩マミゾウが、正座を胡坐にして、その膝に頬杖をついた。

 

「ときにお主、確か紅魔館とかいう面妖な屋敷のもんじゃったな」

「め、面妖……。うん、そうだけど」

「なによマミゾウ、あんたもしかして、あそこに住みたいの? ないわー」

 

 趣味が悪いなと住人を前にどうどうと言ってのけたのは、マミゾウと隣り合って茶をすする、奇怪な翼を持つ少女だ。以前花子と一悶着あった、封獣ぬえである。彼女は誰もが正座で食事をする中、唯一最初から胡坐だった。

 ほうれん草を噛むぬえの軽蔑するような視線を受け、マミゾウは半眼を向けることで対抗した。

 

「わしゃ純粋な日本育ちじゃ。ああいった洋館は好かん」

「じゃあなんでこいつが紅魔館の奴かなんて聞いたのよ。吸血鬼なんてあそこ以外にいないじゃない」

「ぬえ、喋るのは口に入れたものを飲み込んでからにしなさいよ」

 

 一輪の叱りを、ぬえは完全に無視してのけた。フランドールよりも大人びた外見を持ち、実際も五百歳以上年上だが、彼女は躾がなってないとフランドールは断定した。

 湯飲みを空けたマミゾウが、里芋の煮物に箸を何度も突き刺して遊ぶぬえの頭をはたいてから、質問に答える。

 

「紅魔館というと、おぬしが必死こいて追っかけておった(わっぱ)が目指しとったとこじゃろうが」

「あれ、そうだっけ。ねぇあんた、御手洗花子って知ってる?」

 

 結局突き刺された里芋を口に運びながら、ぬえが訊ねた。

 彼女と花子の騒動を知らないフランドールは、正直に首肯する。

 

「花子なら、うちにいると思うよ」

「ふーん。ま、もう追いかけてまでどうこうしようとは思わないし、どうでもいいかな」

「わしを巻き込んでおいて、よくもまぁ」

 

 マミゾウが引きつり笑いなどしているが、ぬえは見て見ぬふりを決め込んだ。

 以前花子が妖怪二人に絡まれたと言っていたが、どうやら彼女達のようだ。どうしてそんなことをしたのか聞いてみようと思ったが、対面の響子が上げた嬉しそうな声に、フランドールはそちらを向いた。

 

「花子、あなたの家にいるんだ! じゃあ、フランドールは花子の友達なの?」

 

 うん、と答えようとして、それができない自分に愕然とした。

 つい一昨日までは、確かに友達だった。しかし、大嫌いだと言ってしまったのだ。謝りもせずに飛び出してきたので、きっと花子もフランドールを嫌いになったに違いない。

 箸を持ったまま、フランドールは悲しそうに俯いた。羽まで萎れるその様子を見て、響子が口を押さえる。

 

「わ、私、まずいこと聞いちゃったかな」

「そのようだね。まったく君は、デリカシーが絶無なんだから困るよ」

 

 冷たく吐き捨てるナズーリンの言葉に、響子はいっそう顔色を青くする。

 しかし、会話に割って入ったのが白蓮だったために、ナズーリンがそれ以上の追撃をすることはなかった。

 

「花子さんとケンカでもなさった?」

「……ううん、なんでもないよ。花子とは、友達だよ」

 

 できれば、知られたくない。誤魔化すような明るい顔で、フランドールは白米を口に運んだ。自分の口から出た『友達』という言葉は、酷く空っぽだった。

 皆がその強がりに気付いていながら、問いただすような真似はしてこない。そのことがありがたくもあったが、フランドールとしては、無理せずに言ってごらんという言葉をかけてくれることを期待していた。無論、優しくしてくれなどと言えるはずもない。

 どことなく気まずい空気が流れ始めた居間だが、そんな雰囲気をなんとも思わないらしいぬえが、とうとう片方の膝を立てて、中年の男が酒を呷る要領で味噌汁を飲んでから、

 

「ま、どうでもいいじゃん。家での理由なんて大体くだらないもんなんだし」

「ちょっとぬえ、そういう言い方はないでしょ」

 

 水蜜にきつく言われても、ぬえは平気な顔で味噌汁の椀を空にした。

 

「はーいはい、ごめんなさいね。反省してまーす」

「この世にこれほど信頼できない言葉があろうとはね。いやはや、驚いたよ」

 

 真顔で毒を吐くナズーリンだが、彼女直属の上司である星は、たしなめることをしなかった。同意ということだろう。

 どうやら、ぬえはかなりの問題児らしい。態度や言葉の節々からも自分勝手にイタズラを繰り返しているのだろうことが伺える。酷い言われ方をしたフランドールだが、腹を立てるどころか、ぬえに親近感を覚えていた。

 会話はぬえが過去にやらかしたイタズラの話題に移っていき、食卓は賑やかなものに戻っていく。

 安堵と共に、もう少し構ってもらいたかったという未練も芽生えたが、さすがに情けなさ過ぎる。昆布の煮つけと一緒に、飲み込んでおくことにした。

 

 その後も、笑いの耐えない朝食が続く。フランドールの緊張も徐々にほぐれ、会話にも参加できるようになっていた。

 響子が「朝日を浴びよう」と障子を開けかけ、慌てて逃げるフランドールを星が庇い一輪が響子を必死に止めるアクシデントもあったが、皆が朝食を済ませる頃には、すっかり打ち解けていた。

 最近は花子も一緒にご飯を食べるようになっていたが、やかましいほど賑やかな食事は初めてである。悪くない喧騒だった。

 

 一輪と響子が皆の膳を片付け、聖と星、そして星に付き従うナズーリンが退室し、居間にはフランドールと水蜜、ぬえ、マミゾウの四人が残った。

 食事の時はそこそこくつろげたものの、過ごし方が変われば、慣れない場所の居心地悪さが再び襲ってくる。星が出て行き際に「くつろいでいてね」と言ってくれたので、正座は崩しているものの、なんとも落ち着かない。

 頂戴した緑茶を、間を持たせるためにちびちび飲んでいると、外に干していたらしいスペアのセーラー服を畳んでいた水蜜がこちらを向いた。

 

「フランドールちゃんは、普段どういう生活してるの?」

「え? うぅんと、夜に起きて、ご飯食べて、遊んでるわ。朝日が昇る前にお風呂入って、それから寝るの。花子が来てから、夜に寝ることもあったけど」

「だから今朝も起きれたわけだ。朝型の吸血鬼なんて、おかしいと思ったんだ」

「朝型の幽霊も大概おかしいでしょ」

 

 ぬえの突っ込みに、水蜜が苦笑する。食事をしたり物を触ったりとしていたので、フランドールは彼女が幽霊であるとは思わなかった。

 しかし、本音を言えば少し眠い。緊張のおかげで誤魔化せている部分もあるだろうが、ベッドに入ったらすぐにでも寝入る自信がある。それでも我慢できるのは、フランドールの中にスカーレット一族としての誇りが少なからずあるからだろう。

 

「しっかしまぁ、羨ましいわ。毎日遊んで暮らしてられるなんてさぁ」

 

 畳に寝転がり、ぬえが伸びをする。マミゾウがじっとりとした視線を向けているあたり、きっと彼女も大差ない生活をしているのだと思うが。

 仰向けになったまま、ぬえはフランドールを見上げた。

 

「じゃあ花子も、今はあんたと同じような生活してるってわけか。あのおかっぱにゃ、もったいなさすぎるなぁー」

「私、花子って子にちょっとしか会ってないんだよね。一声かけたくらいでさ」

「別にいいんじゃない? 会う価値があるほどの奴じゃないよ」

「その割りに、追っかけ回しておったがのう」

 

 話題が花子のことになると、フランドールは途端に気が重くなる。今頃、心配しているだろうか。もしかしたら、幻想郷中を探し回っているかもしれない。

 しかし、確認する方法はない。深々と溜息を吐き出すと、場にいる三人が一様にこちらを見た。

 

「やっぱり、なんかあったんだ」

「なんかってほどじゃないわ。全部、私が悪いんだもん」

 

 そう、だから、説明する必要などないのだ。自分にそう言い聞かせながら、フランドールはそっぽを向く。

 しかし、さすがに幼すぎる意地だ。水蜜だけならずマミゾウやぬえにまで、内心は見透かされている。

 マミゾウが胡坐に肘をつき、呆れ果てたと言わんばかりの顔で、

 

「おぬし、そりゃ『聞いてくださいお願いします』って言ってるようなもんじゃぞ」

「……違うもん」

「いるわー、こういう子よくいるわー。寺に来る人間のガキも、いじけるとこうなるよね」

 

 ニヤニヤしているぬえに、水蜜が肩をすくめる。

 

「あんただって、たまに似たようなことしてるよ。それよりさ、フランドールちゃん。話してみなよ、聞いてあげるから」

「で、でたー、一輪の真似っこ! そんなにお姉さんぶりたいか、尊敬を集めたいか!」

「うっさい! ちょっと黙ってて!」

 

 ぬえのちゃちを切って捨て、水蜜は真摯な瞳でフランドールを見つめる。力になりたいという気持ちが伝わってきて、口を閉ざしている理由が薄れていく。あるいは、最初からそんなものはなかったのかもしれないが。

 それでもしばらく躊躇していたが、皆が待っているから仕方ないと、昨晩のことを少しずつ話し始めた。

 一度言葉に出すと、必死にとどめていた感情は堰を切ったかのように溢れ出した。花子が自分よりレミリアを大切にしている――そう思い込んでいるだけだが――ことへの不満、身内には甘えっぱなしなくせに他人の前では偉ぶる姉の愚痴、なんでもかんでもボロボロと、片っ端から喋ってしまう。

 五百年近くも幽閉されていたことを一時の苛立ちに任せて大げさに話すと、水蜜は目を丸くした。

 

「なにそれ、酷いことするねぇ」

「うん。私はもっと、みんなと遊びたかったのに。友達だって、魔理沙に会うまで一人もいなかったんだ」

 

 唇を尖らせるフランドールに、水蜜はうんうんと頷いた。正確な情報を与えられていない水蜜には、レミリアは妹を虐待する極悪非道な悪魔としか映っていないだろう。下手をすれば、花子もその延長線上にいるかもしれない。

 あくまで純粋に心配する水蜜が、同情を隠しもせずにフランドールの両手を取った。

 

「可哀そうにね。私がお姉ちゃんにズバッと言ってあげよっか?」

「え? でもそれは、そのぅ」

 

 かなり偏った意見だと知りつつ吐き出していたので、フランドールは困った。今更、一部は大げさでしたとも言えまい。

 水蜜の善意を受け取りながらも、内心で彼女に謝りつつ、辞退する。

 

「いいの。聞いてもらっただけでも、すっきりしたよ」

「そっか、力になれてよかった。私でよかったらいつでも相談に乗るからさ、また声かけてよ」

「うん。ありがとう、水蜜」

 

 純粋な善意を他人から向けられることなどなかったので、フランドールはとても嬉しかった。こんなことなら、もう少し事実に近い内容を話しておくべきだったと、後悔すら覚える。

 用事があるからと退室する水蜜は、とても名残惜しそうだった。相談役として誰かに礼を言われたことは、ほとんどないのだろう。

 それもそのはずで、悩みを聞いてはげまし、時に手を貸すという役割は、本来ならば白蓮か星、あるいは一輪の仕事である。水蜜は嫌な仕事でも率先してやり、その明るさで元気を振りまくことが使命となっていた。聖輦船の船長という本来の役目は、現在必要とされていない。

 経験の浅さが祟って、水蜜はフランドールの語りが子供特有の誇張表現だと気付けなかったのだ。

 

 居間が静かになり、フランドールは昨晩のことを思い出していた。

 あんな癇癪を起こしてしまったとはいえ、いつかは帰らなければならない家だ。どんな顔で皆に会えばいいのかと、不安で仕方がない。

 マイナス思考の渦に沈んでいると、突然声がかかった。

 

「フランドールさぁ」

 

 ぬえである。同情する気はかけらもなさそうな、涼しい顔をしていた。

 

「フランでいいよ」

「あ、そ。じゃあフラン、あんたさ」

 

 ずいと身を乗り出して、ぬえは遠慮なく顔を近づけた。息がかかるほどの距離で、開口一番、

 

「これから、どうしたいの?」

 

 今まさに悩んでいたことを単刀直入に聞かれて、フランドールは大いに狼狽した。

 赤の他人とすぐに打ち解けられて、油断していたのだろうか。言葉がすぐに出てこない。

 

「私は、その、すぐには帰れないし、でも」

「じゃあしばらく、ここで厄介になるのかえ? 世話好きが多いから、嫌な顔はされんじゃろうが」

 

 頭に乗せていた葉っぱを手の上で転がして遊んでいたマミゾウは、あまり興味がなさそうだった。

 フランドールには、せっかく一人で外に出れたのだから、簡単に帰ってはもったいないという気持ちもある。もう閉じ込められることはないだろうが、外出する時はさすがに付き人がつくだろう。咲夜か美鈴かは分からないが、自由が制限されることに変わりはない。

 命蓮寺の居心地はいい。仏門に下るつもりはまったくないが、しばらく世話になるのもいいかもしれない。

 

「……まぁ、聖はもう、うちで預かるつもりだったみたいだけどね」

「ほう、そうなのかえ」

「朝ご飯作るときに星達と話してたから、たぶん一輪あたりが、フランの家に挨拶しに行くんじゃない?」

「えぇっ、そんなのダメだよぅ!」

 

 居場所がバレては連れ戻されてしまうと、思わず声を上げていた。

 しかし、ぬえは手をひらひらと振り、

 

「だーいじょうぶよ。一輪達に任せておきゃ、なんとかなるって」

 

 簡単に言ってくれるが、気が気ではない。下手をすれば、レミリアが迎えに来る可能性だってある。もしそうなったら、どんなおしおきが待っていることか。考えるだけでも怖ろしい。

 身震いするも、フランドールはぬえの言葉を信じて、運を天に任せるしかなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 咲夜は深々と頭を下げた。問題が問題だけに、そうせざるを得ない。フランドールの家出騒動が、よその家に飛び火していたのだ。

 挨拶に来た一輪は非常に礼儀正しく、突然お邪魔したフランドールのことを一言も悪く言わない。豪勢な椅子で偉そうにふんぞり返っていたレミリアですら、今は花子の隣に移動してつつましく座っている始末だ。

 一輪の顔を見ることすら憚られ、礼をした状態のまま、咲夜は心の底から言った。

 

「この度は本当に、妹様がお宅にご迷惑をおかけして、お詫びの言葉もありません」

「いえいえ、そんな。うちは賑やかになる分なら大歓迎ですし、フランドールさんだって、とってもいい子にしていますよ」

「そう言っていただけると、ありがたいのですが……。なにせ気性の激しいお方でございますから」

「あらあら、ご苦労なさっているのね。うちのナズーリンも、あれで結構感情に流されやすいんですよ。お互い、大変ですね」

 

 なんという人格者なのだ。命蓮寺は夜中もうるさい妖怪寺と聞いていたが、一輪はそこらの人間よりずっと人ができている。

 いっそのこと仏門に下りたいと考え始めた時、成り行きを心配そうに見守っていた花子が口を開いた。

 

「あの、じゃあフランちゃんは、まだ帰ってこないんですか?」

「そうですね。私見ですが、フランドールさんの様子を見る限り、今は帰りにくいのではと思います。命蓮寺としては、しばらくお預かりしても問題ありませんよ」

「でも、咲夜も言ったけど、フランは大変よ? ワガママだし、すぐ泣くし、怒るし、物にだって当たるわ。アレが欲しいと言い出したら、もう聞かないのよ」

 

 レミリアの言葉は心底心配してのものだろうが、よくもまぁ他人のことを言えたものだと、咲夜と花子は胸中で同時に呟いた。フランドールの方が感情表現が豊かだが、似たもの姉妹なのだ。

 しかし一輪は、妖怪であるはずなのにまるで天使か何かのように微笑み、

 

「まだまだ、幼いのでしょう。お姉様はよくできたお方でいらっしゃいますし、フランドールさんもきっと、素晴らしいご婦人になられるのでしょうね」

「そ、そうかしら。まぁ私の妹だから、当然素敵なレディになると思うわ」

 

 昨晩のことを怒ってはいないらしく、レミリアは妹を褒められて上機嫌だ。

 だが咲夜としては、まだ不安が残る。命蓮寺の妖怪には強い力を持つ者がいると聞いているが、フランドールは加減を知らないところがあるからだ。一度癇癪を起こすと、酷い時には地下の部屋が全壊することだってあった。

 もしも命蓮寺を倒壊させるようなことになれば、いくら賠償金を払えばいいのか。いや、相手は妖怪なのだから、戦争が起きる可能性だって否定はできない。

 一方、フランドールの成長を考えるのならば、今回はチャンスでもある。彼女が他人と触れ合い、その難しさとコツを学んでくれれば、姉と一緒にどこへでも連れていってやれるようになる。

 

「お悩みのようですね」

 

 日常的に人の悩みを扱っている一輪は、さすがに鋭かった。苦笑いを答えとするも、結論には達せない。

 そんな時、ぽつりと言葉を零したのは、花子だった。

 

「フランちゃん、まだ怒っているのかな」

 

 フランドールが飛び出していってから、彼女は人が変わったのではというほど落ちこんでいる。フランドールとはレミリア以上に仲が良かったはずなので、自責の念を感じているのだろう。

 この一月ほど、フランドールは咲夜や美鈴に「花子が構ってくれない」と愚痴を漏らすことがあった。花子にそのつもりはないのだろうし、咲夜から見ても三人で仲良く遊んでいたと思うのだが。

 レミリアと遊ぶことがほとんどない魔理沙と違って、花子はどちらとも平等に付き合おうとする。もしかしたら、フランドールは花子を独占したかっただけなのかもしれない。

 いつもは姉よりも冷静な物の見方をしていたので、こんなことになるとは咲夜にとっても予想外だった。レミリアの話では、彼女らの両親が健在だった頃は、今日のような癇癪を起こすことが多かったそうだ。

 花子と過ごす時間が、彼女の素を引き出したのか。あるいは、レミリアと同じベッドで寝ることが増え、今までの反動で甘えてしまったのか。

 どちらにしても、このまま無理に連れ戻したところで、何も解決はしない。例え花子が出発を延ばしたところで、問題を先送りするだけだ。

 

 レミリアも花子もすっかり目を伏せ、フランドールに会いたい気持ちと仲直りできるのかという不安で揺れ動いているようだ。

 従者として、また保護者として、どの選択肢が一番レミリアとフランドールのためになるのだろうか。

 考えに考え抜いてから、咲夜はレミリアに告げた。

 

「お嬢様、妹様をお預けしてみたらいかがでしょう」

 

 しょんぼりと元気なく、レミリアが顔を上げる。

 

「なぜ?」

「妹様は、他者との触れ合いが少なすぎたのです。花子と出会うまで、友人は魔理沙一人だけでした。フランドールお嬢様にとって、友達はおもちゃと同じ――所有物に近い感覚だったのではないかと」

 

 あくまで、咲夜の想像だ。本当はこんなことを言いたくもないのだが、説得のためには仕方がない。

 案の定、レミリアに睨みつけられてしまった。

 

「フランは、そんな子じゃないわ」

「では、なぜ妹様は花子の出立をあんなにも嫌がったのでしょう? もし本当に相手の気持ちを尊重できるのであれば、今回のようなことにはならなかったはずですわ」

「咲夜さん、でも――」

 

 何かを言いかけた花子を、咲夜は視線で制した。

 

「私としても、妹様にはお帰りになって頂きたいですわ。ですが、今妹様をお迎えになって、また同じことを繰り返さないと、お嬢様は断言できますか?」

「うぅ……」

「花子は、どう? あなたは自分がやるべきことや他の友達を全て投げ出して、一生フランドール様だけの友達でいられる?」

「それは、その」

 

 二人は揃って口ごもり、そのまま言葉を失ってしまった。

 フランドールが帰ってくるまでの間、しばらくこんなレミリアを見なければならないのかと思うと、気が滅入って仕方がない。

 しかし、これは彼女自身の成長にも繋がるのだ。心を鬼にして、咲夜は続ける。

 

「命蓮寺が信仰している宗教は、悪魔であるお嬢様とその従者の私達には縁が遠いもの。ですが、一輪さんを見る限り、信頼に値する方たちであると私は感じていますわ。

 人里近くとはいえ、日が出ているうちは妹様も外に出られませんから、迫害されることもないかと」

 

 あのフランドールに限って、人間やそこらの妖怪から酷い目に合わせられることはないだろう。これも、説得するためのカードだ。

 考えている間も、そして今もじっと待ってくれていた一輪が、ようやく口を開いた。

 

「妹さんを案ずる気持ち、お察しいたします。ですが、楽しく過ごしていただけるように努めますので、ご安心ください。寺は修行の場ですから、最低限の仕事はしてもらうかもしれませんが、遊ぶ感覚で楽しんでいただけたらと思っています」

「妹様は人懐っこいから、外に出れば友達をたくさん作れるはず。お嬢様は、常日頃からそう仰っていたではありませんか」

 

 じっと考え込むレミリア。その横顔を、花子が申し訳なさそうに見つめている。

 山の頂上で行われた花子と文の決闘を応援しにいくときも、レミリアは最後までフランドールを連れて行くべきかどうか迷っていた。フランドール本人と誘いに来た萃香に押されて承諾したが、今も箱入り娘でいてほしいという気持ちがあるのだろう。

 レミリアは、フランドールを愛しすぎている。たった一人の身内なのだから、決して悪いことではない。むしろ、喜ぶべきことだ。

 だが、だからこそ、咲夜はレミリアに決断してほしかった。いつまでも妹を我が物にしようとしていては、誰も成長しない。

 何よりそれでは、フランドールが花子に行くなと駄々をこねているのと、同じことではないか。

 

「お心は、決まりましたか?」

 

 囁くようなその声は、いつもの咲夜らしい柔らかなものだった。これ以上レミリアにきつく言うのは、咲夜だって辛いのだ。

 心配そうに様子を伺う花子にも気付かず、レミリアは紅茶とケーキが置かれたテーブルをじっと見つめた。まるで、何かがそこに映っているかのように、視線はまったく動かさない。

 長い沈黙を経て、ふぅと一息つくと、レミリアは告げた。

 

「……分かったわ。フランドールを、預けましょう」

 

 肺の空気を全て吐き出すように言い切り、紅茶を飲み干す。

 彼女の付き人になってから、悪魔の側面に恐れたことは何度もあった。だが、こんなにもレミリアが大人びて見えたことは、今までに一度もない。

 大きな壁を乗り越えた主を、咲夜は声の限り賞賛したかった。

 

「確かに、承りました。フランドールさんがお帰りになりたいと仰られるまで、うちで大切に預からせていただきます」

 

 一輪の笑顔に、花子がなんとも複雑な表情を浮かべる。いまだ心の整理がついていないのは、彼女だけなのだろう。

 しかし、これはもはやスカーレット一族の問題になりかけている。花子には申し訳ないが、今回は意見しないでもらったほうがいい。

 

「フランを、お願いね」

 

 頭を垂れるようなことはしなかったが、レミリアは真摯に頼んだ。一輪が首肯する。

 決断からの流れはあっという間だったが、その短いやり取りは、主の大きな成長があってこそのものだ。咲夜はそれが、ただただ嬉しかった。



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そのにじゅうに  恐怖?酒と涙と妖怪少女!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日の花子は、ちょっと辛いです。

 

 うぅん、がんばって手紙を書こうと思ったのだけれど、やっぱりきついかな……。

 

 手紙のお姉さんにも無理するなって言われちゃったので、今日はあんまり書けません。許してね。

 

 心配かけちゃってるかもしれないけれど、一日寝ていれば大丈夫だと思います。

 

 太郎くんも、お酒の呑みすぎには注意してね。

 

 それでは、またおたよりします。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 レミリアの寝室は、空気が見事に変質していた。

 不快、と言ってしまうと友人に申し訳がないのだが、ただでさえ照明が暗めだというのに、さらに湿っぽく鬱々とした雰囲気が追加されている。少なくとも、いい気分になれるような居心地ではない。

 フランドールの家出から三日が経ち、紅魔館はあるべきものが欠けてしまった不自然な静けさに包まれている。おてんばがすぎる妹だが、いなくなると寂しく感じるのだから、不思議なものだ。

 そう、レミリアも寂しい。いつものような元気はない。フランドールがうまくやっているかどうか、心配でもある。

 しかし、それにしたって。レミリアは頬を掻いた。

 

「……参ったわ」

 

 思わず口から発してしまった声に、自分で驚く。もしも聞かれたりしたら、この空気がいっそう重くなるに違いないからだ。

 しかし、気付かれていないようだ。ほっと胸をなでおろす。しかし、根本的なことは何一つ解決していない。

 突然の家出騒動直後から、花子が完全に意気消沈してしまったのだ。全て自分の責任だと思い込んでしまっていて、何を言っても慰めとしか受け取ってくれない。

 

「花子、お茶にしましょう。おいしい紅茶を飲めば、気分もよくなるわ」

 

 ベッドの上で膝を抱えてうずくまっている花子に声をかけて、レミリアはテーブルを指差す。

 膝の間から、まるで亀のようにゆっくりと顔を上げて、花子が笑う。文字通り、死にそうな笑顔だった。

 

「うん……。ありがとう」

「い、いいのよ。友達でしょう?」

 

 応えつつ、自分がうまく笑えているかどうか不安になる。最初こそ心配していたが、ここまで来ると少し面倒くさいとも感じてしまう。

 花子の影響を受けてか、面倒見のいい姉が板につきつつあったレミリアだが、付け焼刃の世話好きは、長続きしそうになかった。

 それを自分で感じてしまっているからこそ、花子には早く立ち直ってほしい。でなければ、今度はレミリアと花子がケンカをしてしまいかねない。

 のそのそとベッドから這い出して、花子はテーブルについた。咲夜が用意してくれた紅茶と茶菓子を見ても、まるで嬉しそうな顔をしない。

 香りのいいダージリンを口に含み、花子が息をつく。吐き出される吐息はやたらと長く、誰がどう見ても溜息だ。

 

「……ごめんね、レミィ」

 

 引きつりかけた頬を、なんとか止める。二日も前から、もう謝るなと何度も言っているのだ。

 花子は、自分がレミリアとフランドールの仲を引き裂いたと思っている。見方によっては正しいのだが、レミリアからすれば久しぶりに大きな姉妹ゲンカをしたな、といった程度だ。はっきりと言ってしまえば、妹との衝突に対する後悔やら悲しみは、この三日間で消滅していた。

 仲直りまで多少時間はかかるだろうが、少しすれば、またいつものように過ごせるはずだ。フランドールも今頃は、レミリアとケンカしたことなど忘れて、寺生活を楽しんでいるだろう。花子のことは気にかけているかもしれないが、姉妹ゲンカなど、その程度のものだ。

 だからこそ、花子にここまでウジウジされてしまうと、レミリアとしては非常にやりにくい。

 

「もう、いいってば。フランもそんなに怒ってないわよ」

「怒っているよ。私はフランちゃんを、裏切ってしまったんだもの」

「……いや、ホントに大丈夫だからね。どう見積もっても、あなたがフランを裏切ったことにはならないから。気にしすぎよ」

「でも、フランちゃんは……私のこと――」

 

 大嫌い、というフランドールの台詞が、かなり効いているらしい。レミリアからすれば、何度言われたかも分からない言葉だった。かつては思うままに人の命を奪う悪魔だったのだから、憎悪を向けられることに慣れているのは当然だ。

 妖怪である以上、花子だって忌み嫌われる存在のはずだと思っていたのだが、直接人を殺したこともない彼女は、「学校の怖いマスコット」程度の扱いだったのだろう。

 気が合う親友だと思っていた花子との間に、思わぬすれ違いがあった。何をしてやればいいのか、皆目見当もつかない。

 隣に座っているだけで気が楽になる、などという歯の浮くような台詞があるが、隣にいるだけで疲れることもあるのだなと、レミリアは痛感していた。

 

「そうだ、いいこと思いついたわ。花子、お庭に行きましょう。もう夜だし、日傘もいらないわ」

「……なんで?」

「前に話したじゃない。美鈴が育てているお花、とっても綺麗に咲いているそうよ。枯れちゃう前に見ないと、損じゃない」

 

 レミリアとフランドールが夜まで起きてこないとき、花子はよく庭園の花を見て回っていることを思い出したのだ。門番をしている美鈴とも、暇つぶしに話をしていることが多いと聞く。

 花子を美鈴に押し付けてしまおうという考えがほんの少しだけ芽生えていたが、誘い自体は善意からのものだ。

 が、花子は頷かない。紅茶の水面に視線を落とし、

 

「フランちゃんとも、一緒に見たいな。三人で一緒がいいよ」

 

 なんとか顔には出さなかったが、膝の上に置いてあった左手は、血管が浮きでるほど握り拳を固めていた。

 もしかしたら、今は吸血鬼姉妹よりも花子のほうがワガママなのではないか。何を言っても耳を貸してくれないし、二言目には「フランちゃん」だ。

 

「まったく……」

 

 なんともなしに、それこそまるで呼吸でもするかのように呟いて、直後にレミリアは後悔した。

 慌てて花子を見れば、彼女の顔はみるみるうちに泣きそうな表情へと変わっていく。

 

「ごめんね、レミィ。迷惑だよね、私こんな、レミィもいるのに、こんなっ……」

「あぁ、いいのよ花子。大丈夫、私なら大丈夫だから。ねぇ、そんな顔しないで、後生だからもう泣くのやめて」

 

 どうしろというのだ。一切喋らずに機嫌を取れとでも言うのか。様々な文句が脳裏を過ぎったが、今の花子にはとてもぶつける気にならないものばかりだ。

 努力もむなしく、花子はテーブルに突っ伏し、声を上げて泣き始めてしまった。こうなると、もう手に負えない。

 

「は、花子? ねぇ、泣かないでよ、私なら大丈夫よ。ほら、全然気にしてないわ」

 

 肩をぽんぽんと叩きながら必死に慰めるが、花子が泣き止む気配はない。むしろ、だんだん酷くなっていく。

 レミリアが一生懸命になればなるほど、花子は友達を気遣わせてしまっている罪悪感に襲われるのだから、悪化はすれど、状況が好転することはなかった。

 いっそ部屋に閉じ込めて、しばらく放っておくのが一番いいのだが、混乱し始めたレミリアがその答えを得ることはなかった。

 

「うぅ、なんでよぅ。なんで泣くのよぅ」

 

 いい加減、レミリアの限界も近い。

 花子が来てから数ヶ月、レミリアは彼女を見習ってみようと、他人を気遣う努力をしていた。最初は感謝されることに喜びを感じたりもしていたのだが、彼女の本質は悪魔である。本人が気付かないところで、かなりのストレスとなっていた。

 徐々に溜まっていた憤懣は、ここに来てはっきりと知覚できるものになった。そしてそれは、もう取り返しがつかないほど大きなものになっている。

 頭の中が混乱していき、とても気持ちが悪い。自分ほどの悪魔が慰めてやっているというのに、なぜ受け入れようとしないのかという傲慢な気持ちもあれば、友達の役に立てない悔しさも混在していた。全部が本音であるため、切って捨てることもできない。

 

 複雑な感情は、涙腺を一気に緩ませる。

 腹の底からこみ上げてくるものに、レミリアの小さな体が小刻みに上下する。目じりには涙が溜まり、最後の足掻きと歯を食いしばるも、唇の震えは止まらない。

 

「私だって、私だって、がんばって慰めたのにぃ……」

「ごめんねぇ、レミィごめんねぇ」

「謝らないでよぅ、泣かないでよぅ! もう、もうヤだぁ――」

 

 必死に抑えていた心の堰が、切られた。

 泣き始めたレミリアに反応して、罪悪感を増した花子が謝りながらいっそう号泣し、そのせいでさらにレミリアが泣き喚く。終わりの見えない悪循環が始まる。

 

「私のせいで、ごめんね、ごめんね、うわぁぁぁぁん!」

「謝るの、やめてってばぁっ! もう助けてよぅ、しゃくやぁぁぁぁぁ!」

 

 久方ぶりに泣き喚いたせいか、レミリアは力の制御に失敗した。

 背後に向けて放出された魔力は家具を根こそぎなぎ倒し、頑丈な壁やドアすらもぶち抜いて廊下を蹂躙し、館の外壁に大きなヒビを走らせる。

 魔力の暴走は止まらず、地震が来たかのように館を揺らし、あちらこちらで備品が落下しては砕け散った。時計台の鐘が、なんとも情けない中途半端な音を奏でる。

 部屋と廊下を隔てる壁がなくなり、レミリアと花子の泣き叫ぶ声が、紅魔館に響き渡る。二人分の泣き声は、驚いた妖精メイド達が一斉に壺やら皿やらを手から落とし、いつも冷静な咲夜が時間を止めることも忘れて主のもとへ全力疾走するほど、酷いものだった。

 

 後にこの出来事は、妖精メイド達の間で「カリスマ・ハザード」と呼ばれるようになったという。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 結果として、花子はレミリアと離されることになった。魔力の暴走が治まったレミリアは、咲夜に引っ張られていった。

 一方の花子は美鈴に預けられ、今は紅魔館の敷地外を歩いている。なんでも、気晴らしに行きつけの店へ連れて行ってくれるとか。

 ひとしきり泣いた後だからか、気持ちはだいぶ落ち着いていた。しかしそうすると、今度は今までレミリアに晒していた醜態を思い出し、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、穴があったら入りたい心地だ。

 

「誰にでもありますよ。一回落ち込んじゃうと、周りが見えにくくなりますからね」

 

 よほど顔に出ていたのか、美鈴は花子の心を読んだかのように言った。

 

「お嬢様も、たまにはあんな風に泣いたほうがいいんです。ワガママなのに、苦しい時は我慢したがりますからね」

「うぅ。我慢、させちゃったんだなぁ」

 

 この三日間、花子は世界で一番不幸になったような心地で、気晴らしに誘ってくれるレミリアの言葉もことごとく耳に入らなかった。冷静になって考えれば、なんと自己中心的なことか。

 思い出せば思い出すほど、気落ちしてしまう。がっくりと肩を落とす花子を見て、美鈴が苦笑した。

 

「まぁまぁ、いいじゃないですか。これも経験ですよ」

「そうですかぁ? レミィに嫌われちゃったんじゃないかなぁ」

 

 フランドールに続いて、レミリアにまでも。これはいよいよ、二人に黙って旅立たなければならないかと、花子は妙な覚悟を決めていた。

 夜闇が落ちた林道を歩きながら、美鈴が空を見上げる。釣られて顔を上げれば、散りばめられた星が花子を待っていた。

 

「お嬢様はあんな性格ですけど、誰かを嫌うことはほとんどありませんよ。見下すことは、多々ありますけど」

「でも私、レミィをあんなに困らせちゃったんだもの。それに」

「あぁ、ストップです。その先は、一杯やりながらにしましょう」

 

 花子の言葉を制して、美鈴が一点を指差した。湖に続く林道と街道を繋ぐ分岐路に、赤提灯が見えている。

 その屋台には、見覚えがある。というより、花子にとって馴染み深い店だ。のれんに書かれた『八目鰻』の文字と聞こえてくる楽しげな歌声が、夏の山を思い出させる。

 賑わいは上々で、屋台の近くに設けられた三つのテーブル席は、満席になっていた。

 

「ミスティアさんの屋台……。なんでここに?」 

「毎週金曜日になると、彼女はここに出張してくれるんですよ。ちなみに、土日は人里近くにも行ってます」

 

 ミスティアは、妖怪にしてはかなり精力的に働いている。焼き鳥を撲滅させる運動と、ついでにお小遣い稼ぎということらしいが、最近はどちらがついでなのか分からないほど繁盛している。

 今の情けない自分をミスティアに見られるのが恥ずかしくて、花子は屋台に足を進められなかった。しかし、美鈴に手を引かれてしまっては、逆らいようがない。

 

「さぁ、行きましょう。今日のこれは経費で落としていいって咲夜さんに言われてますから、気兼ねなく呑めますよ」

「で、でもいいんですか? 私のために、その、紅魔館のお金を……」

「大丈夫ですって! 花子さんを元気にしてこいってお金渡してくれたの、咲夜さんなんですし」

 

 使いすぎて怒られるパターンだなと花子は思ったが、美鈴は仕事だからという理由だけでなく、真心から花子をはげまそうとしてくれている。断るのは、野暮というものだろう。

 のれんをくぐって、二人はカウンター席に座った。秘伝のたれが焦げる匂いは、それだけで食欲をそそる。先客らしい妖怪の男は、すでに出来上がっていた。

 

「こんばんはー、二人、お願いします」

 

 男共の喧騒に負けないよう、美鈴が大声を出す。すると、奥から「はーい」と懐かしい声が返ってきた。

 カウンターの向こうにしゃがんで火の調整をしていたらしいミスティアが、立ち上がった。袖をたすきがけにした蘇芳(すおう)の和服が、相変わらずよく似合っている。

 

「いらっしゃいませー……って、花子ちゃんじゃない。うわぁ、久しぶり! 元気にしてた?」

「あはは、まぁ、ぼちぼちです。ミスティアさんも、お元気そうで」

「私はいつも元気だよ。今日は美鈴さんと一緒なんだね。レミリアさん達は?」

 

 ミスティアに悪気はない。美鈴がいるのなら、主のレミリア達がいてもいいはずだと、紅魔館の住人を知る者なら誰しもが思うことだ。

 返事をしかねて曖昧な空笑いをすると、首をかしげているミスティアに、美鈴がおしぼりで手を拭いながら容赦なく告げた。

 

「ケンカしちゃったんですよぉ。お嬢様だけじゃなくて、妹様とまで」

「ちょちょ、美鈴さん!」

 

 慌てて止めようとするが、もう遅い。ミスティアに振り返ると、彼女は八目鰻を焼く手を動かしたまま、

 

「あらら。花子ちゃんのことだから、すっごく落ち込んだんじゃない?」

「うっ……」

 

 図星を指され、花子は呻いて目を逸らすくらいしかできなかった。

 美鈴の注文を受けて、ミスティアは一番オーソドックスであるらしい焼酎を二杯、カウンターに置いた。久々に呑む屋台の酒は、故郷に戻ってきたかのような不思議な気持ちにさせる味だった。

 カウンターの酔っ払いが勘定を済ませて、去っていく。焼けた鰻を花子と美鈴に差し出しながら、ミスティアはにやりと笑った。

 

「さて、じゃあ今日は、たっぷりと愚痴を聞かせてもらおうかな」

「そんな、私はそんなつもりじゃあ……」

「遠慮かな? 無駄だと思うなぁ。花子ちゃんは抱え込むタイプだけど、お酒呑むと全部吐き出す人でもあるから、ここに来た以上諦めたほうがいいよ」

 

 さすがに屋台を切り盛りしているだけあって、常連が酔っ払うとどう豹変するかもよく分かっている。思えば山で修行をしていた頃も、ミスティアにはよく愚痴を零していた。

 助けを求めるように、美鈴の顔を見上げる。彼女は焼酎を一息に飲み干し、目じりに涙を溜めて歓喜に震えた。

 

「くぅーっ! 仕事を終えたあとの一杯は、たまりませんね。あれ? 花子さん、全然進んでないじゃないですか。もっと飲みましょうよー」

 

 どうやら、花子を助けるつもりはないらしい。

 参ったなと思いながらも、花子は自分が徐々に解放的になっていると感じていた。紅魔館は美しく豪華な館だが、花子にはこういった、庶民的な場所の方が肌に合っているのかもしれない。

 八目鰻を一口食べて、焼酎を口に流し込む。熱が喉を下っていき、胸元で留まる熱さは、すぐに言葉へと変わっていった。

 

「美味しい。やっぱり私、ワインよりこっちの方が好きだなぁ」

「あは、紅魔館じゃ焼酎は出ない?」

「出ませんよぉ。お茶だって紅茶ばかりだし、お菓子もケーキとか、そんなのばっかり」

「普段食べられるものじゃないから、いいじゃない」

「毎日毎日じゃ、飽きちゃいます。そのくせご飯になると、納豆とかが出るんですよ。納豆ご飯食べた後にケーキが出るもんだから、口の中が粘っこくて。よく普通な顔して食べられるなって思いますよ」

 

 あっという間に饒舌になってしまい、美鈴がくつくつと笑っている。乗せられてしまったことが癪だったが、こうなってしまうと、花子自身も止められない。

 

「大体、レミィはおかしいんだよ。流れ水がダメだからシャワーは浴びれないくせに、お風呂は好きなんだもん。コツがあるからなんて言って、いつも二時間近く私を巻き込むんですよ? フランちゃんは逆に、十分くらいで出ちゃうのに。姉妹なのにあべこべなんだから、あの二人は。

 そうだよ、フランちゃんもフランちゃんだよ。私は春になったらまた旅をするって、ずぅっと前から言っていたのに、今になってなんであんなこと言うの? そりゃ私だって、ずっと遊んでいられたらって思うけど、私には大きな家もお世話してくれる人もいないんだから、自分で努力しなきゃいけないんだもの。

 幻想郷に来る前だってさ、外の世界じゃもうどうしようもなくなって、死ぬまで惨めな妖怪でいなきゃいけないのが嫌で、いっぱいがんばってきたんですよ。それなのにフランちゃんったら、私が暇をもてあましてるから旅をしてるんだと思ってるんだから」

 

 喋っているうちに、コップは空になっていた。美鈴の合図を受け、ミスティアが再び焼酎を注ぐ。

 

「今日のことは、私だって悪いと思ってますよ。人の家でお世話になってるのに、レミィの前であんなにいじけちゃったんだもの。だから何度も謝ったのに、謝らないでよって泣き出して。おまけにお部屋や館はボロボロになっちゃうし、あれ私のせいじゃないですよね?」

 

 熱くなってきた顔を、美鈴に向ける。突然話を振られても、彼女は冷静だった。

 

「魔力の制御に失敗するのは珍しいことですけど、まぁ花子さんだけのせいだとは、言えませんねぇ」

 

 言外に、花子にも責任はあると告げたのだろうが、すでに酔い始めている花子には、理解できなかった。

 テーブル席の客に呼ばれてミスティアが行ってしまったが、気にせず思いつく言葉を片っ端から発していく。

 

「そうでしょ? あれで吸血鬼だー紅魔館の主だーなんていばっちゃってるんだから、おかしいったら。そりゃ、レミィは力も強いし魔法も使えるし、弾幕だって強いし綺麗だもの。すごい悪魔なんだなぁってのは分かるけれど」

「西洋の悪魔は、日本の妖怪よりずっと実力主義ですからねぇ」

「でも、ここは幻想郷ですよ? こっちでもずっといばりんぼでいるのは、間違ってます」

 

 本音は、小さな体でふんぞり返るレミリアを少し可愛いと思っている。咲夜がレミリアのワガママを聞き続けている理由も、なんとなく分かるのだ。

 もしも酒が入っていなければ、そんなところも嫌いじゃないと言ってやれたのだろう。すっかり酔ってしまっているせいで、花子の口からフォローの言葉は出なかった。

 ワインではほとんど酔うことがなかったというのに、焼酎は花子をあっという間に変えてしまった。泣き疲れていたせいで、酒の回りが速かったのかもしれない。初めて酒を酌み交わす美鈴は、花子が想像以上の愚痴上戸で驚いているようだ。

 カウンターに頬杖をついて、行儀悪く箸で八目鰻を突っつく。美鈴も戻ってきたミスティアも、それについて注意するようなことはしなかった。

 

「そりゃ、妖怪なんだから強くて怖くなくちゃってのは、分かりますよ。私は力もないし、見た目もこんなだから、レミィより立派な妖怪じゃないかもしれないけれど。それでも友達だって、レミィだって言ってくれたのに」

「確かにお嬢様は偉ぶる癖がありますけど、花子さんのことは本当に大切に思っていらっしゃいますよ」

「うん、それくらい分かってますよ。分かってますけどぉ」

 

 肘を突いていた腕を倒し、とうとう花子はカウンターに突っ伏した。コップが倒れかけ、溢れた焼酎をミスティアが布巾で拭く。

 酒をくいと喉に押し込んで、熱い溜息を吐き出す。

 レミリアが泣いたのは自分のためだろうし、フランドールだって花子と離れたくないという気持ちからの家出だ。責任を感じる一方で、嬉しくも思っていた。

 とはいえ、そもそもはレミリアが「紅魔館にいてくれ」と頼んできたのだ。それも、他でもないフランドールのために。

 期待に応えようと、がんばったつもりだ。ワガママをほどよく聞いて、朝方だった生活を二人に合わせたりもした。もっとも、生活リズムに関しては、レミリアとフランドールが花子に合わせてくれることもあったのだが。

 努力くらいは認めてくれと思う反面、何ヶ月も世話になっておきながら、最後の最後でこんな迷惑をかけてしまっていることへの罪悪感もある。特に、隣で涼しい顔をしながら八目鰻を食べている美鈴。彼女には、大きな貸しができてしまった。

 どうしてこんなことになったのだろう。何がいけなかったのだろう。花子は一生懸命考えたが、アルコールに支配され始めた脳みそでは、答えに辿り着けるはずもない。

 

 もんもんとした思考は酒の力でさらにかき回され、花子の話は次第に支離滅裂になっていった。仕舞いには、自分が何を言っているのかも理解できなくなってしまう。

 吸血鬼姉妹の文句を垂れているくせに、気付けば二人がいかに素晴らしい友人であるかという話をしていたり、なぜか全ての責任をまったく関係のない射命丸文に被せてみたりと、聞いている二人が苦笑しかできないような話題を次々に量産していく。

 紅魔館での暮らしは豊かで楽しかったが、やはり馴染めなかったようだ。無意識のうちに溜まった鬱憤を晴らすべく、花子はひたすら酒を呷り続ける。

 体に毒かもしれないが、一応は彼女も妖怪なので、命に関わる事態にはならない。美鈴もミスティアも、分かっているから止めないのだろう。

 

 延々と愚痴を垂れ流し続けているうちに、花子と美鈴以外の客はいなくなってしまったようだ。賑やかだった屋台には、もう三人の声しかない。

 何杯目かはとっくに分からなくなっていたが、コップに酒が注がれるのを横目に、花子はろれつの回っていない声を出す。

 

「それで、うぅん……なんだっけ。どこまで話しましたっけぇ?」

「花子ちゃんが、本当はレミリアさんとフランドールさんのことが好きだってところまで」

 

 これは、ミスティアの嘘である。本当は、寝る時に姉妹の羽が邪魔だという文句だった。

 もう思考回路がまともに働いていない花子は、突っ伏していた顔を挙げ、緩みきった笑みを浮かべた。

 

「あはぁ、そうなんですよぅ。私ぃ、レミィもフランちゃんも、大好きぃ」

「いつも仲良しですもんね。お二人とケンカしてしまったとしても、すぐに仲直りできますよね」

「うぅん? ……私は悪くなぁい、ですもん」

 

 ここに来て、花子はまだ粘った。さすがに予想外だったのか、美鈴が一瞬眉を寄せる。

 しかし、酒でふやけきっていた意地は、突っ伏した花子の(まぶた)が閉じかけると同時に、もろくも崩れ去った。

 

「悪く、ないけどぉ。でも、レミィ……困らせて、ごめんねぇ」

 

 ぐるぐる回る視界の中で、レミリアとフランドールが笑っている。二人と遊んだ時間は、涙が出るほど幸せだった。

 

「ごめんねぇ……フランちゃん、会いたいよぅ……」

 

 視界が潤むと、途端に睡魔が襲ってきた。まったく抵抗できず、目を閉じる。

 一つ、二つと呼吸をするたびに、眠りが花子を包んでいく。赤い提灯に照らされて、なんとも心地よい。

 

「ミスティアさん、そろそろ」

「はい。えぇと、お勘定は――」

 

 美鈴とミスティアの声は、もう耳に入ってこなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「なのに、花子は自分に酔っちゃってさぁ。『私のせいで、ごめんね』なんてしおらしく言っちゃって。似合わないってぇのよ。そう思うでしょ? パチェ」

 

 四度目だ。正確には、四週目か。パチュリーはワイングラスを片手に親友を半眼で見つめた。

 紅魔館を謎の地震が襲ってから、数十分後のことだった。また天人がなにかやらかしたのかと調査の準備を始めていたパチュリーの下に、異変の原因である偉大な吸血鬼が、従者を引き連れて半べそで現れたのだ。この時点で、面倒ごとに巻き込まれることは覚悟していた。

 レミリアにしては珍しく、力の制御を誤ったらしい。紅魔館を揺るがし外壁にまで亀裂を走らせるとは、さすがに吸血鬼は凄まじい力を持っていると感心した。咲夜からすれば、たまったものではないだろうが。

 

 あれだけ泣き喚いたというのに、レミリアは誰かに聞いてもらわなければ気がすまなかったらしい。白羽の矢が立ったパチュリーを図書館から引きずり出し、こうしてテラスで二人だけの酒宴を開いている。

 いつもはそばに控えている咲夜も、今はいない。館の修繕を急いでいるのだろう。たっぷり用意されたワインと妖精メイドが運んでくる料理を楽しみつつ、もう何時間も話し込んでいる。

 

「私がさぁ、このレミリア様がよ? 必死こいて慰めてあげてるというのに、あのちんちくりんのおかっぱときたらさぁ」

「……レミィ、あなたちょっと飲みすぎよ」

 

 喘息持ちのパチュリーは、酒を大量に呑めない。テラスに散らかった酒瓶のほとんどは、レミリアが空けたものだ。

 真紅のテーブルクロスに、レミリアが頬杖をつく。目は据わっていて、白い素肌も朱色を帯びている。

 レミリアは酔いで性格が変わることがない。暴言を吐き連ねているが、これが本来の彼女なのだ。

 

「飲みすぎぃ? 何言ってんのよ、飲まなきゃやってらんないわ! プライドまで投げ捨ててやったってのに」

「ずいぶんがんばったのね。私が花子と同じ状態になっても、そこまで献身的になってくれないんじゃないかしら?」

 

 目を細めて、意地悪く呟いてみる。しかし、レミリアは動じた様子を一切見せず、しゃあしゃあと言ってのけた。

 

「当たり前じゃないの。むしろ殴ってでも正常に戻すわ」

「そうね、そうしてちょうだい。自分で想像して、ゾッとしたから」

 

 望んだ答えとは違ったが、二人の間柄を考えれば、彼女の反応は当たり前か。生温い馴れ合いを必要とするほど、二人の仲は浅くないのだから。

 レミリアは、まだ鬱憤を吐き出しきれていないらしい。チーズが乗ったクラッカーを齧りながら、不機嫌を隠そうともしない。

 この数ヶ月間、花子がいるおかげでパチュリーはレミリアと話す機会が減っていた。親友をお役御免になったかとも思ったが、いらぬ心配だったらしい。

 腹の底から遠慮せずに本音を言える、その相手に選んでもらえることは、素直に嬉しかった。

 赤く揺れるワインを眺めながら、レミリアが言った。

 

「夜の帝王とか恐怖の吸血鬼とか、悪魔としての面子を保つのも大変なのに。なんだか、らしくなかったわ。最近の私ったら、人間みたいじゃなかった?」

 

 質問というよりは、同意を求められている。パチュリーは考えるまでもなく、首肯した。

 

「そうね。花子が人間に近いのは仕方ないとして、あなたが花子みたいになっていくのを見ていると、なんだか背中がむずむずしたわ」

「あはは、でしょうね。やっぱり私には向いてないのよ。なんで真似しようとしたのかしら」

 

 首を傾げてから、レミリアはワイングラスを空けた。すぐに赤い酒を注ぎ足す。

 花子を真似るようなことをした理由は、パチュリーにはすぐに分かった。が、親友のためにも教えないことにした。

 ともすれば八方美人と呼ばれてしまうほど、花子は人がよく誰にでも好かれる。強すぎることとワガママな性格で嫌われがちなレミリアは、花子のそんな部分に憧れていたのだろう。無自覚なのは、プライドのなせる業か。

 

「人付き合いの勉強という意味では、いい経験になったのではないかしら?」

「うぅん、そうかもね。他人を気遣うのはどうしても向いてないってことは、よく分かったわ」

「……成長しないで元に戻った、ってこと?」

「そういうこと」

 

 ウィンクなどしてみせるレミリア。パチュリーは何も言わず、口元に笑みを浮かべるだけだ。

 本人は気付いていないようだが、レミリアは成長している。それは、誰の目から見ても明らかなのだ。

 ふと、レミリアが時計台を見上げる。このテラスからだと少し見にくいが、時間は確認できた。

 

「それにしても、美鈴と花子はどこまで行っているのかしら。そろそろ花子が目をこすり始める時間じゃない」

「あら、花子のことが心配?」

 

 訊ねると、レミリアはわずかにそっぽを向いて、

 

「そりゃ、ちょっとはね」

「あれだけ文句を言っていたから、嫌いになったのかと思ったわ」

 

 からかうような口調で、パチュリーはレミリアの顔を覗きこむ。頬の赤みは、酔いだけが原因ではなさそうだ。

 ワインを飲みつつ、レミリアが小さな声で「分かっているくせに」と呟いた。

 彼女が花子のことを嫌う可能性は、ないわけではないだろうが、ほぼゼロと言っていい。よほど酷いこと――それこそ身内を殺されでもしない限り、絶交ということにはならないだろうとパチュリーは踏んでいた。

 レミリアは友達が少ない。まして、力の差を気にせず接するパチュリーや花子のような者には、なかなかめぐり合えないのだ。故に、彼女は友と呼べる者をとても大事にする。紅魔館の外では決して見せない一面だ。

 

「レミィと花子、相性はいいものね。ただ、ちょっと花子に流されていたんじゃない?」

「不覚にも、その通りね。我ながら恥ずかしいわ。もしかしたら、花子があんなに落ち込んだのも、私がらしくなかったからかしら」

「あり得るわね。妹様の暴走も、それが理由かも。あなたは三人の中心にいたんだから、軸がぶれて色々調子が狂った、とも考えられるわ」

 

 はっきり告げると、レミリアは小さく唸って眉を寄せた。

 花子から受けた影響が悪いものだったなどと、パチュリーは思っていない。むしろ、幻想郷で生きていく上では間違いなくプラスになるだろう。

 ただ、それとレミリア・スカーレットという人格が崩れてしまうこととは、また違う。フランドールもしかりである。

 吸血鬼の姉妹はあくまで彼女達らしく、永遠に幼いワガママな吸血鬼であるべきだ。

 難しいバランスだろう。綻びも出てくるに違いない。そのフォローをするために、咲夜や美鈴が、そしてパチュリーがいるのだ。

 だから、パチュリーはいつもと変わらない調子で、さらりと告げた。

 

「まぁレミィのことだし、明日からはうまくやれるわよ。もう調子は戻ったんでしょう?」

「うん、そうね。花子が出て行くまで、今度は私が振り回す番よ。私に恥をかかせたんだから、友達でも責任は取ってもらわなくっちゃね」

「ケンカにならない程度にしなさいよ」

「分かってるって」

 

 答えながらも、レミリアの顔にはイタズラを企むいつもの笑みが浮かんでいる。本当に分かっているのやらと、呆れるしかない。

 二人のグラスが同時に空になり、新たなワインを注いでいると、鉄門を押し開く音が聞こえた。この時間に侵入してくる者は、さすがにいない。とすれば、答えは一つだ。

 テラスから一望できる紅魔館の庭に、人影が見えた。美鈴だ。その背中には、熟睡している花子も見える。

 

「……あっちも、憂さ晴らしはできたみたいね」

 

 パチュリーが呟くと、レミリアは優しい微笑を口元に湛えた。素の彼女でもこんな顔ができるのかと、わずかに驚く。

 

「よかった。花子、紅魔館では窮屈そうだったから」

「そうかしら? 楽しんでいるように見えたけれど」

 

 思ったままを訊ねるが、パチュリーは花子との付き合いが浅い。きっと、レミリアにしか分からないこともあるのだろう。

 案の定と言うべきか、レミリアは答えなかった。聞いたところで理解できないかもしれないし、知らなくていいとレミリアが判断したのなら、パチュリーも無闇に聞き出す真似はしない。

 妖精メイドが、新たな料理を持ってきた。野菜スティックとカットチーズの盛り合わせだ。

 パチュリーが棒状のニンジンをポリポリやっていると、レミリアが言った。

 

「あぁ、そうそう。さっきパチェは『あっちも憂さ晴らしはできたみたい』と言ったわよね」

「えぇ、言ったけれど」

「ちょっとだけ、訂正させてくれないかしら」

 

 ワイングラスを持ち上げ、こちらに向かって突き出してくる。意図は嫌というほど伝わってきた。

 

「私はまだ、鬱憤を晴らしきれてないの。今日はとことん飲みたいわ、付き合ってちょうだい」

 

 真っ直ぐ見つめてくるレミリアの瞳は期待にキラキラ輝いていて、拒もうとすることすら許してくれない。

 いつもの彼女に戻ったのだなと、パチュリーはいよいよもって確信した。

 観念して、ワイングラスを持ち上げる。レミリアが嬉しそうに目を細めた。この顔をされると、負けを認めざるを得ない。

 

「ありがと。我が最愛の友パチュリーと、今宵の美しい月に、乾杯」

「私の困った腹心の友レミリアと、明日の苦しい喘息に、乾杯」

 

 グラスがぶつかり、紅いワインが揺れる。レミリアの笑顔に、よく似合う色だった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 寺での生活は、今まで自由気ままに暮らしてきたフランドールにとって、はっきりと窮屈なものだった。

 時間には厳しいし、食事は自分達で用意しなければいけない。その料理には肉が一切なく質素で、片付けは自分でやれと言われる。

 食事が終わると、寺中の掃除。フランドールは太陽光に当たれないので、もっぱら廊下の雑巾がけをやらされた。泊めてもらっているぬえの部屋を掃除するのも、フランドールの仕事になっている。

 どれもこれも、咲夜や妖精メイドがやるようなことばかりだ。命蓮寺は修行僧が妖怪だからか、人間の寺と比べて自由時間がとても多いのだが、それでもフランドールにとっては酷い束縛感を感じさせられていた。

 世話になっている以上文句を言うつもりはなかったが、自分にあった暮らしだとは、口が裂けても絶対に言えない。

 

 夕食を終え、夜中が近づいた頃。フランドールは一人、部屋の隅っこに座っていた。

 命蓮寺で経験したことは全てが新鮮だし、寺の住人とも仲良くなれた。それでも彼女の心には、抜け出せないもやもやがかかってしまっている。

 ここでの生活が嫌になったわけではない。好き勝手に暮らしてきた日々に比べて息がつまるのは確かだが、そういう感覚とは違う。

 理由は分かっていた。目に入る和室の情景、鼻腔をくすぐる畳の匂い、その感触。何もかもが、紅魔館と違う。

 住人の談笑からは、レミリア達の声が聞こえない。探せど歩けど、寺の中にはフランドールの家族がいない。ここは命蓮寺で、紅魔館ではないのだから、当たり前だ。

 当たり前であることが、それを理解してしまっている自分自身が、苦しくて寂しくて仕方がない。

 フランドールは、ホームシックになっていた。

 

「……」

 

 それでも、飛び出した理由が理由だけに、帰りづらい。もし帰宅してレミリア達に怒られてしまったらと思うと、怖くなってしまう。

 命蓮寺で世話になってから、三日がたった。勝手気ままに帰ると言い出せば、ここの人達もフランドールを嫌いになってしまうかもしれない。

 長い吐息をつくと、それだけで視界が涙で歪んだ。こんなに弱虫じゃなかったのにと、唇を噛む。

 と、その時だった。部屋の襖が開き、ぬえが入ってきたのだ。フランドールは慌てて目を袖で拭った。

 隠せたかと思ったが、ぬえは怪訝な顔をしてこちらを見ている。気付かれたようだ。

 

「フラン、どしたの?」

「なんでもないよ。なんでもないの」

 

 ぬえはフランドールに負けないほどおてんばで、イタズラが好きな少女だ。吹聴されては、たまったものではない。

 あわやからかわれるかと思われたが、ぬえは襖を閉めて、フランドールの前に座った。

 

「なんでもないって、そんな鼻まで赤くしてちゃ、信じられるわけないでしょ」

「ち、違うもん。泣いてなんかないもん」

「……ふぅん」

 

 それ以上、ぬえが何かを言うことはなかった。畳にだらしなく寝転がって、尻を掻きながら人間向けの雑誌をめくり始める。

 本音を聞いてもらえば楽になったかもしれないと、フランドールは悔いた。今更になってやはり聞いてくれとは言い出せず、膝を抱えて小さくうずくまる。

 雑誌に目を落としていたぬえが、突然振り返った。ちょうど、フランドールの足元に顔がある。

 

「ねぇフラン」

「な、なに?」

 

 気付いてくれたのかと、フランドールは目を輝かせた。しかし、

 

「パンツ丸見え」

「……」

 

 黙って抱えていた膝を崩し、女座りに切り替える。ぬえはもう雑誌の方を向いてしまった。

 静まり返った室内は、時々雑誌をめくる音が聞こえるだけで、他の音は一切しなかった。普通に話していても大きな響子の声が、どこかの部屋から少しだけ聞こえてくる。

 十分が過ぎた頃、またぬえが振り返り、雑誌をこちらに差し出してきた。読むか、とジェスチャーで聞いてきたのだ。そんな気になれず、首を横に振る。

 

「あ、そ」

 

 実にそっけない返事と共に、ぬえは雑誌をそこいらに放り投げて立ち上がった。

 出て行ってしまうのかと思い、咄嗟に呼び止めようとして、その理由が見つからず、フランドールはぬえの背中に伸ばした手を引っ込める。

 また独りになることが怖くて、響子の部屋にでも遊びに行こうかと考えていたが、しかしぬえは部屋から出なかった。布団がしまってある箪笥を開けて、物置となっている下段をゴソゴソとやりだす。

 レミリアが使っているベッドの下がまさしくおもちゃ箱になっていたので、それと同じようなものだとフランドールは踏んだ。実際似たようなものらしく、出てくる物はガラクタばかりだ。

 ぬえのお尻だけが突き出ている押入れから、くぐもった声が聞こえてくる。

 

「どこにしまったっけかなぁ」

「何を探してるの?」

 

 好奇心に負けて、訊ねた。押入れから出てきたぬえは、引っ張り出した物を無理矢理元の場所に押し込んでから、反対側を開けつつ答える。

 

「命の源」

 

 またも押入れに上半身を突っ込んで、ぬえが再び物色を始めた。

 どうやら押入れ内部はフランドールが予想している以上の魔境らしく、時々何かが割れたのではないかという音が鳴り響いた。しかし、部屋の主に動じる様子はない。

 やがて、ぬえは生還した。達成感に溢れた顔をしていて、腕には木箱を抱えている。

 

「やっと見つけた。これよこれ」

 

 舌なめずりをしつつ振り返り、ぬえは自慢げに箱を置いた。覗き込むフランドールの前で木箱の蓋を開ける。

 入っていたのは、一升瓶だった。上物の酒なようで、豪華な装飾がされている。

 フランドールは驚いた。ここは寺で、ぬえは一応修行僧なのだ。

 

「お酒、だよね。お坊さんはお酒飲んじゃダメって、本で読んだことがあるわ」

 

 仏教の戒律に、不飲酒戒(ふおんじゅかい)というものがある。仏教徒が守るべき戒律の一つだ。フランドールは知識として知っているだけだが、当事者のぬえが知らないはずはないだろう。

 何も真面目ぶって言ったわけでもないのだが、ぬえは一瞬面倒くさそうな顔をした。同じ木箱に入っていた二つのコップを取り出し、一つをこちらに押し付けてくる。

 

「いいのいいの。般若湯ってやつよ」

「はんにゃとー?」

「そうそう。知恵が湧き出る素敵な水よ。ちょっとおいしいだけ」

 

 よく分からなかったが、宗教上の隠語だろうということで、フランドールは納得した。

 お互いのコップに一升瓶の中身を注ぎ、ぬえと同じタイミングで口に流し込む。

 やはり、アルコールだ。いつも呑んでいるジュースなどとは、だいぶ味が違う。初めて飲む日本酒の味は、フランドールの口には合わなかった。

 

「……あんまり美味しくない」

「うわ、ひっど。せっかく苦労してばれないように調達してきたってのに」

「そんなこと言ったって」

「慣れればうまいって思うようになるわよ。あ、もう口つけたんだし、フランも共犯だからね」

 

 頬が引きつる。流されるままに酒を呑んでしまったが、もし誰かにばれたら、星の長い長い説教が待っているに違いない。

 ぬえに罪悪感は一切なさそうなので、責めても無駄だろう。フランドールもレミリアや花子にイタズラを仕掛けることがよくあるので、彼女の気持ちは分からなくもなかった。

 せっかくもらったのだからと、日本酒をもう一口、含む。やはり美味しいとは思えない。

 もうすっかり一杯目を飲み干してしまったぬえが、コップに酒を注ぎ足しながら、唐突に言った。

 

「フラン、あんた帰りたいんでしょ?」

 

 飲み込むのに苦労していた酒を、全て吹き出してしまった。ぬえの顔面にかかり、慌ててハンカチを取り出す。

 

「うわ、ご、ごめん!」

「あー、うん。図星だってことがよく分かったわ」

 

 受け取ったハンカチで顔を拭きながら、ぬえが半眼を向けてくる。

 世間話でもするかのような口ぶりで真意をついてくるものだから、驚きを隠せなかったのだ。

 酒で濡れたハンカチを部屋の洗濯物入れに放り込み、ぬえは再びフランドールの前に座った。

 

「で、なんで帰らないの?」

 

 あまりにも真っ直ぐな質問に、フランドールは答えられなかった。

 命蓮寺滞在が許されたと教えてくれた一輪は、帰りたくなったらいつでも帰っていいと言ってくれた。

 しかし、簡単には帰れない。フランドールにとって、複雑な問題なのだ。

 だがそれは、第三者から見たら至極単純な悩みだった。ただ、フランドールが意地を張っているだけなのだ。

 現に、本音は帰りたいと叫んでいるではないか。だというのに、それに従いたくないという葛藤が、本心をがんじがらめにしてしまっている。

 言葉に出せず沈黙していると、ぬえはコップを傾けながら、

 

「ふぅん」

 

 と、彼女らしい適当な相槌を打った。興味がなさそうな態度だが、その視線はしっかりフランドールに向けられている。

 この目は、何度か見たことがある。美鈴や咲夜、レミリアとパチュリーにも、同じ目で見られたことがあった。

 見透かされているのだ。その上で、余計なことを言ったり聞いたりしてこない。フランドールの知らない人付き合いのうまさを、ぬえもまた持っていた。

 

「だったらしばらく寺にいたら? 別に誰も困りゃしないし、私は部屋の片づけが楽になっていいし」

「でも……」

 

 出かけた言葉を、一瞬飲み込む。コップを傾けながら、ぬえは相変わらず表情を変えずにこちらを見つめている。

 ぬえに言っても何一つ解決しないだろう。だが、彼女がどういうつもりでフランドールに酒を勧めたのかを考えると、吐き出してしまってもいい気がする。

 自然に、口は開いていた。

 

「お姉さまに、会いたいの」

「じゃあ帰れば?」

「……だって」

 

 呟いた言葉は、無意味なものだった。

 どうしたいのか、どうすべきなのか、考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。

 唇を尖らせ拗ねてみせても、ぬえの態度は一向に変わる気配を見せなかった。良くも悪くも、彼女はフランドールに優しくしない。

 

「優柔不断ね。吸血鬼ってもっとこう、ズババーっていってゴゴゴゴゴってなってドカーンってするのかと思ってたわ」

「なにそれ。意味分かんない」

「ん、私にもよく分からん」

 

 そう言うと、ぬえはようやく笑った。屈託がなく、実に朗らかだ。フランドールも釣られてしまう。

 三杯目の酒を注ぎ足して、ぬえがコップを畳に置いた。

 

「でもまぁ、悩んでるんなら帰らないほうがいいわね」

「……どうして?」

「だってそうでしょうが。半端な気持ちで帰っても、同じことを繰り返すだけよ。誰のためにもならないし、他でもないフラン、あんたが不幸になるよ」

 

 言葉に詰まった。もう同じ過ちを繰り返したくはないが、どうすれば心にかかったもやが晴れるのかも分からない。このまま寺に居座り続けて、本当に解決へと向かうのだろうか。

 すっかり思い悩んでいると、とうとう一升瓶をラッパ飲みしだしたぬえが、口元を腕で拭い、

 

「私がこういうこと言うの、らしくないんだけどさぁ。元気だしなよ。あんたは他人って気がしないから、凹まれてると妙に落ち着かないんだよね」

「そ、そう?」

 

 そっけない態度が多いぬえが、まさか自分に親近感を抱いてくれていたとは。思ってもみなかったが、妙に嬉しかった。

 

「うん、なんとなくだけどね。いい友達になれると思うよ、私ら」

 

 まるでただの感想を述べるような言い方だったが、その言葉がどれだけフランドールを元気付けたことか。

 家に帰りたいという葛藤は今も残っているし、心のもやも取れていない。しかし、素直な気持ちで笑うことができた。

 

「そっか。そうだね、私もそう思う」

「よしよし。苦しゅうない、ちこうよれ」

 

 ぬえは楽しげに、少しだけ減ったフランドールのコップに日本酒を注いだ。

 一口飲んでみたが、やはり独特な風味がして、一気には飲めそうにない。だけれど、なぜか好きになれそうな気がした。

 

「まぁさ、焦ってもいいことなんてないんだし、適当でいいじゃん。あんたも花子も妖怪なんだし、時間なんて腐るほどあるでしょ」

「うん……。でも、花子はとっても傷ついたと思うわ」

「大丈夫だって。もうちょっとすれば、みんな丸く治まると思うよ。姉妹ゲンカも友達とのケンカも、そんなもんよ」

 

 軽く言ってのけるぬえだが、不思議な説得力がある。

 もしも彼女の言っていることが本当なら、もう少し命蓮寺に留まるべきだろう。

 フランドールには、もうぬえの言葉にすがる意外の道がなかった。新しくできた友達の言うことなのだから、信じてもいいはずだ。

 

「……じゃあ、もう少しここにいる。そうしたら、みんなとまた仲良くできるんだよね?」

「たぶんね」

 

 確証はない、ということだろう。それでも十分だった。

 

「さて、と。そろそろ寝ようかな。フラン、それ飲んじゃってよ」

「うん」

 

 一升瓶に蓋をして木箱にしまい、ぬえが立ち上がって木箱を押入れにしまう。

 慌ててコップの中身を飲み干し、喉を通る熱さをこらえる。

 立ち上がろうとして、フランドールはふらついた。慣れない酒を一気飲みしたせいだろうか。

 

「っとと……」

「やだ、あんた酔っ払ったの? 一杯しか飲んでないのに」

「そんなこと言われても」

 

 腰に手を当て、ぬえは溜息をついた。

 

「仕方ないわね。布団敷いてあげるから、そこに座ってなさいよ」

「う、うん」

 

 言われたとおり、その場にぺたんと座り込む。

 やれやれと呟きながら布団を敷くぬえを眺めていると、フランドールはなんともいえない感情を覚えた。

 魔理沙や花子と友達になった時とは違う。しかし、この感覚は何かに似ている。

 布団を敷き終えたぬえが、両手を払った。

 

「これでよし。ほらフラン、寝巻きに着替えちゃいな」

 

 外見は――実年齢もだが――フランドールより年上に見えるぬえが、腰に手を当てて振り返る。その姿を見て、気付いた。

 

「……そっか、お姉さまだ」

 

 面倒そうな顔をしながら、いつもフランドールを心配してくれる。レミリアの影が、ぬえに重なった。

 性格も顔も身長も、似ているところなんて一つもない。だというのに、なぜ――

 

「あんた、私が吸血鬼に見えるの? どんだけ酔ってんのよ」

 

 ぬえに言われて、ハッとする。慌てて、胸の前で手を振った。

 

「ううん、なんでもないの」

「またそれぇ? まぁいいんだけどさ」

 

 そそくさと服を脱いで、フランドールは寝巻きに着替える。

 布団にもぐりこむと、ぬえが部屋の照明を消した。妖力の光源に照らされていた部屋は、すぐ暗闇に包まれる。

 目を閉じた。ぬえが布団に入る音が聞こえる。

 

「そんじゃ、おやすみ」

「うん。おやすみ」

 

 いつもならこれから遊ぼうという時間だが、眠気は自然にフランドールを包み込んだ。今朝も早かったからか、はたまた、他の理由か。

 その晩、フランドールは、寺に来てから初めて熟睡することができた。

 

 翌日、しまい忘れたフランドールのコップがナズーリンに見つかり、飲酒がばれた二人は、揃って星の長い説教を頂戴することとなった。



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そのにじゅうさん 恐怖?友の絆と異変の兆し!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日は嬉しいお話があります。

 

 フランちゃんがね、帰ってきたの! 私、嬉しくて嬉しくて、今もごきげんなんだ。

 

 太郎くんとも、一度だけ大ゲンカをしたよね。泣きながら謝った私を、太郎くんが笑いながら許してくれたこと、今でも覚えているよ。

 

 ケンカをしちゃうと悲しいけど、仲直りすると全部飛んでいっちゃう感じは、こっちに来ても同じでした。

 

 私はもうすぐ紅魔館を旅立つんだけれど、その前に、とってもすごいことが起こりそうです。

 

 もしかしたら、私の名前が幻想郷の歴史に乗ってしまうかも。いい意味では、ないんだけどね。

 

 暖かくなってきたし、トイレが臭い始める季節だね。太郎くんにとってはお家なんだから、ちゃんとお掃除してね。

 

 それでは、またね。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 

 紅魔館の新たな伝説の一つとなったカリスマ・ハザードから、早三週間。人里近くで桜が満開になった頃、フランドールは帰ってきた。

 帰宅の知らせを聞いて、花子は一目散にレミリアの部屋を飛び出した。いつもは遠慮がちに歩いていた廊下も、今日は全力疾走だ。

 階段を飛び降りて、曲がり角を急カーブし、妖精メイドとぶつかっても一言謝るだけで走り抜ける。テラスから飛べばよかったと気づいたのは、玄関の大扉を開けてからだった。

 門の前で、美鈴が立っていた。寺の住人、雲居一輪と話している。

 

「美鈴さん!」

「おっと、やっぱり花子さんが最初でしたか」

 

 予想通り、と美鈴が言う。花子はその場で、周囲を見回した。探す姿はただ一つだ。

 見つけた。門から少し離れた場所にいる水蜜の背後に、桃色の日傘が揺れている。こちらの様子を恐る恐る伺っていた。

 サイドテールの金髪も、姉と同じ紅の瞳も、何もかもが懐かしく感じる。たった数週間しか離れていないというのに、どうしてこんなにも――

 水蜜が、フランドールの背中を押した。一歩前に出て、隠れるところがなくなったフランドールは、上目遣いに花子を見つめる。

 

「……花子」

「フランちゃん」

 

 呟いて、花子は胸のうちからこみ上げてくるものを感じた。体いっぱいに広がっていくそれを、止められない。

 泣かないと、決めていたのに。歯を食いしばっても、我慢できなかった。フランドールもまた、日傘の下でポロポロと、涙を零している。

 初めにどんな言葉をかければいいのか、どう謝ろうか、花子は三週間の間、ずっと考えていた。それらはこの瞬間、全て無駄になってしまったようだ。

 

「フランちゃんっ……」

 

 もう、止まらない。花子はフランドールに飛びついていた。彼女の反射神経なら簡単に避けられただろうに、日傘を少し持ち上げて、片手で受け止めてくれる。

 フランドールの温度が、抱き返してくれる優しい腕が、嫌われていないのだと信じさせてくれた。

 二人は揃って、その場で盛大に泣き喚いた。真昼間からの大音声だが、美鈴や一輪と水蜜、後からやってきたレミリアと咲夜も、それを止めようとはしない。

 耳元で、ごめんねだとか会いたかったとか、これが大人の男女であったならそのまま恋愛喜劇になりそうな台詞を、恥ずかしげもなく囁きあった。

 さんざん泣いて、二人はほぼ同時に落ち着いた。フランドールの首に腕をからめたまま、花子は鼻も耳も真っ赤になってしまった顔で、照れくさそうに笑う。

 

「えへへ。……フランちゃん、おかえり」

「……ただいま、花子」

 

 にっこりと、フランドールは花子がずっと見たかった顔を見せてくれた。

 咲夜と美鈴は、一輪と水蜜を相手に菓子折りを渡しながらひたすら謝罪している。今回の騒動で一番苦労したのは、きっと彼女達だろう。

 花子がフランドールから離れると、それを待っていてくれたらしいレミリアがやってきた。フランドールが再び顔を俯ける。

 

「フラン、まずはお帰りなさい」

「ただいま、お姉さま。……あのね、私、ごめんなさい」

 

 唐突に謝られ、レミリアは妹とお揃いの日傘をくるりと回した。

 

「自分がどういうことをしたのか、分かっているかしら」

「……うん。高貴な一族の名を汚す、恥ずべき行為……だったと思うわ」

「よろしい。ちゃんと反省はしてる?」

 

 レミリアの顔は、今も厳しい。

 花子としては、できればこれ以上フランドールを責めないで欲しかったが、姉として言わねばならないことなのだろう。じっと見守ることにする。

 日傘があるのであまり大きくは出来なかったが、それでもフランドールは頭を下げた。

 

「反省してるよ。もう、勝手に飛び出したりしません」

「お姉さまと、お父さまやお母さまに誓える?」

「誓えるわ。ちゃんと言うこと聞いて、立派な吸血鬼になります」

 

 そこまで聞いて、レミリアはようやく満足そうに頷いた。彼女だって、フランドールに会いたかったに違いない。実際、花子はレミリアが寝言でフランドールを呼んでいるのを、何度か聞いている。

 ずっと遠慮していたらしい一輪が、ようやく菓子折りを受け取ってくれたらしい。咲夜は土下座せんばかりの勢いで頭を下げている。それよりいくらか柔和にだが、美鈴も一輪に礼を述べているようだ。

 フランドールが、門の前に広がる林――正確にはそのもっと奥だろう。館の外を名残り惜しげに見つめる。彼女の自由は、今日で終わってしまったのだ。

 しかし、レミリアはきっと、近い将来フランドールが自由に外出することを許してくれるだろう。花子はそう信じて疑わない。レミリアは、彼女がそうだと思うよりもずっと、妹思いのいい姉なのだから。

 

「それでは、私達はこれで」

「また何かあったら、いつでも言ってくださいね」

 

 咲夜の謝罪を受けきったのか、一輪が美しく一礼し、水蜜が片手を上げた。

 街道へ続く道に向かう二人の背中に、フランドールが声をかける。

 

「一輪、水蜜!」

 

 振り返った一輪と水蜜は、優しく微笑んでいた。

 言いたいことがまとまっていなかったのか、言葉に詰まったフランドールだが、すぐに日傘の下で満面の笑みを浮かべる。

 

「……今日までありがとう、楽しかったよ!」

「こちらこそ。また遊びにいらしてくださいね」

「うん、絶対行く。ぬえとマミゾウにも、ありがとうって言っておいて!」

「もちろん。他の皆にも、ちゃんと伝えとくよ。元気でね!」

 

 再び背を向けて、今度こそ一輪達は行ってしまった。

 ぬえとマミゾウという名前に、花子は聞き覚えがあった。というよりはっきり覚えているのだが、今ここで詳しく聞かなくとも、今夜にでもフランドールがたっぷりと語ってくれるだろう。

 一輪と水蜜の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、一行は紅魔館へと引き返した。門の前で、レミリアが皆に向かって、

 

「さ、フランも帰ってきたことだし、お茶会でもしましょうか。咲夜、パチェとこあも呼んできてちょうだい」

「かしこまりました」

「美鈴も、一緒にいかが? あなたにも苦労をかけたものね」

「あれ、いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

 

 あるべきものが、戻ってきた。今まで感じていた違和感がなくなり、歯車が滑らかに回り始めたような心地よさを覚える。

 和やかな、いつもの紅魔館だ。花子もフランドールもレミリアも、恐らくこの館に住む者全てが望んだ日常が、そこにあった。

 桜咲き乱れるこの時になって、花子の心にはようやく春が訪れていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 プールと間違えられるほど大きな紅魔館のバスルームは、たった三人しかいないのに、とても賑やかだった。

 

「それでね、私はぬえの部屋に泊めてもらってたの。ぬえは意地悪だけど優しくて、新しいお姉さまができた気分だったわ。あ、でも一番はレミリアお姉さまよ、うふふ。でね、ぬえとマミゾウはすごく仲良しで、私もそこに入れてもらったんだ。三人で一緒に響子とかナズーリンにイタズラして、すっごく楽しかったぁ。

 お寺の食事は、こう言っちゃ悪いんだけど、とっても質素なのよ。お肉は絶対に出ないし、野菜ばっかりなの。でもなんでかな、咲夜の料理に負けないくらい美味しかったわ。あぁ、また食べたいな。咲夜にお願いしようかな。おやつの時間には、お抹茶をいただいたの。苦くてびっくりしたけど、慣れると紅茶よりも癖になりそう。おまんじゅうも甘くて、口の中がとろけるかと思ったの!」

 

 独特のリバーブを効かせて、フランドールの楽しげな声が響く。時々レミリアの相槌も聞こえてくるが、髪を洗っているため目を閉じている花子には、彼女がどんな顔をしているかは見えなかった。

 流れ水を渡れないとはいえ、風呂には入るらしい。シャワーを使えないのでコツがいるそうだが、さすがに五百年も生きているだけあって、二人とも慣れたものだ。

 髪を洗い流して、花子は手で顔の水滴を拭った。大きな浴槽に浸かる間にも、フランドールの話は続く。

 

「でね、私がいる間は来なかったんだけど、命蓮寺には魔理沙がたまに遊びに来るんだって。なんでも、白蓮と仲良しなんだそうよ。白蓮はお寺で一番えらくて、すごく優しくて真面目な人だったわ。昔は人間だったって言ってたけど、本当かしら? そういえば、お寺の妖怪は人間臭い妖怪がいっぱいだったよ。花子に似てるっていうのかな。響子とか一輪とか、星と水蜜もそうだわ。他は、まぁ、ぼちぼち」

 

 よほど楽しかったのだろう。昼のお茶会から、フランドールは話しっぱなしだ。こんなにも朗らかな顔をされると、ケンカをしてよかったとさえ思ってしまう。

 彼女がぬえとマミゾウとつるんでいたことには驚いたが、何もあの二人とは敵対しているわけではない。イタズラを仕掛けられた時は面白くなかったが、考えてみれば、フランドールもかなりのイタズラっ子だ。馬があったのだろう。

 西洋の風呂だからか、湯の温度はぬるい。浴室のスタンドテーブルには冷たい飲み物まで用意されていて、いつも長風呂になっていた。三人でいると、時間はあっという間に過ぎていくから不思議だ。

 

「とても楽しかったのは分かったけれど、何か学んだことはあったのかしら?」

 

 レミリアの問いに、フランドールは瞳を輝かせた。

 

「あったよぉ! 廊下の雑巾がけは上手になったし、響子には般若心経も教わったよ。正直に言えば、あれもやれこれもやれって言われるのは窮屈だったし、ぬえがいなかったら嫌になってたと思うわ。でも、お掃除もお片づけも、慣れるとすっごく楽しいの。花子がきれい好きな理由、分かったよ」

「汚れが落ちるって、気持ちいいものね」

「うんうん。今度、咲夜のお手伝いをしようかな。こあでもいいわね、図書館は埃っぽいしかび臭いし。あぁでも、勝手にいじくったら、パチュリーに怒られるかな?」

 

 そうかもねと首肯して、レミリアが浴槽から出た。ペタペタとスタンドテーブルに向かい、並んでいる瓶の一つ――中身は冷やされた牛乳だ――を手に取り、腰に手を当てて呷る。その姿は実に親父臭いが、なぜか似合っていた。

 浴槽の縁に手をかけ、バタ足の要領で水面を叩きながら、フランドールは上機嫌に鼻歌など歌っている。その横顔を眺めながら、花子は一抹の不安を覚えていた。

 仲直りできたとはいえ、近いうちに旅立つことに変わりはないのだ。いつそれを言うべきか、ずっと悩んでいた。

 しかし、そのタイミングは花子が予想もしなかった時に訪れる。瓶の中身を飲み干したレミリアが、フランドールと花子の分の瓶を持ってきながら、

 

「そういえば、花子はいつ出発するんだったかしら?」

 

 あまりにもさっぱりと言ってのけるものだから、花子は思わずフランドールの顔色を伺っていた。

 少しだけ寂しそうだったが、もう駄々をこねるつもりはないらしい。浴槽縁に座って、レミリアから瓶を受け取りつつこちらを見ている。

 花子も牛乳をもらって、蓋を開けながら答えた。

 

「えっと、まだ考え中なの。目的地も決まってないし……。でも、来週か、遅くても再来週には出発するよ」

「そう。必要なものとかがあったら、遠慮なく言ってちょうだいね。準備してあげるから」

「ありがとう、レミィ」

 

 半分は、嘘だった。どこに行くかが決まっていないのは本当だが、もともとそんなものを決めるつもりはない。いつでも旅に出ることはできるのだ。

 ただ、フランドールと再会して、今度は花子がもう少し一緒にいたいと思ってしまったのだ。正直に話そうものなら、からかわれるのは目に見えているので、口には出さないが。

 牛乳を飲みつつ談笑していると、おもむろにフランドールが言った。

 

「花子がもう少しいるんなら、お別れパーティーとかもしたいね」

「そんな……」

 

 紅魔館での暮らしは、ただでさえ毎日パーティーのようなものだった。花子にとって、これ以上のもてなしはない。

 だが、遠慮しきれない自分がいた。花子のためでもあるだろうが、フランドールは再会の時まで我慢できるほどの思い出を欲しがっていると、そう感じたからだ。

 レミリアもそれを理解しているらしく、濡れた前髪をいじりながら、

 

「そうねぇ。何かやりましょうか」

「あの、簡単なのでいいからね? 私は二人に何もしてあげられていないもの」

 

 結局気がねしてしまい、花子はフランドールにおでこを突っつかれた。

 

「そんなことないよ。まったく花子は、すぐそういうこと言うんだから。私達に任せてくれてればいいの。そうだよね、お姉さま」

「うん。私達が派手好きだってこと、花子も知っているでしょう? それでも遠慮するってなら、あなたのために開催はしないわ。私とフランがやりたいからやるの。私んちがパーティーするのなんて、今に始まったことじゃないしね。花子がうちにいるなら、当然巻き込むわ」

 

 レミリアの言葉は、まさに花子が想像していた通りのものだった。レミリアと相性がいいのだと思えば、嬉しくもある。

 花子としても、催し物は嫌いではない。むしろ好きな部類で、小学校の運動会や学芸会では、主役の子供達以上に心を踊らせていた。

 遠慮してしまった手前表情には出さないが、レミリアとフランドールがどんなパーティーを開くのだろうと、内心ではワクワクしている。

 

「普通に食べて飲んで騒ぐだけってのも飽きちゃったし、なんか変わり種がほしいわね。フラン、いいアイディアないかしら?」

「んー、そうだなぁ。暖かくなってきたし、どかーんとおっきなことをしたいな」

「具体性が全くないわね……。うぅん、花子は何かやりたいこととか、ないの?」

 

 訊ねられて、花子は空中を見上げた。二人と過ごす日々は退屈とは無縁だが、思えばレミリア達について回っていたばかりで、自分がしたい遊びを提案したことはほとんどなかった。いざ考えてみると、意外に思いつかない。

 

「お手玉大会、とか」

「絶対盛り上がらないわ。却下」

「じゃあ、紅魔館のみんなで運動会?」

「私とフランがぶっちぎりね。つまらないと思うから、却下」

「……」

 

 意見を聞く気があるのだろうか。花子は半眼でレミリアを睨んだ。その後ろにいるフランドールの顔を見るかぎり、わざと否定して楽しんでいるのだろう。

 とはいえ、確かに今述べたことは、いまいち盛り上がりに欠けそうだ。三人だけで遊ぶならまだしも、パーティーと呼べる人数を集めてとなると、なんとも難しい。

 レミリアとフランドールの顔が、湯から立ち上る湯気で霞む。湖の霧と似ているなと心中で呟いた時、花子はあることを思い出した。

 何ヶ月か前に聞いた、レミリアが起こした異変のことだ。赤い霧で幻想郷中を包み込んだ、紅霧異変とか言ったか。スペルカードルールを使った異変を初めて起こしてやったのだと、レミリアはとても自慢気だったことを覚えている。霊夢と魔理沙が乗り込んできて、紅魔館の住人総出で迎え撃ったとか。

 スペルカードルールに必要な第三者のジャッジを疎ましく感じ、霊夢や魔理沙とレミリア達が即興で作ったルールが異変後に細かく練られ、今の弾幕ごっこになっているそうだ。

 

 思考はすっかりずれていたが、花子は本題に戻ることを忘れて、声に出していた。

 

「異変が起きるって、どんな感じなんだろう」

 

 呟いてから、ハッとして吸血鬼姉妹を見る。二人はそっくりな紅い瞳をぱちくりとさせて、

 

「あなた、異変を起こしたいの?」

「結構大胆だねぇ、花子」

 

 しまったと、花子は焦った。ただなんとなく思ったことを呟いただけなのだが、会話の流れを考えれば、そう取られても仕方がない。

 弁明しようとして、花子は足を滑らせた。湯の中に沈み、慌てて立ち上がる。レミリアとフランドールが、おかしそうに腹を抱えていた。

 

「わ、笑わないでよぅ! えっと、そういうつもりじゃないんだよ。異変をやってみたいわけじゃなくって」

「あらあら、ダメよ花子。自分には正直でなくちゃ」

 

 取り合ってくれないレミリアが、にやりと白い小さな牙をのぞかせる。やってしまった。花子は頭を抱えたくなった。

 フランドールの方を見れば、双子かと思ってしまうほど姉にそっくりな笑みを浮かべていた。

 

「そうそう、お姉さまの言うとおり。もっと素直に生きなきゃ損だよ?」

「今の私は、誰よりも素直だと思うな! ねぇ、今の異変がどうのってのはなしで、お願い」

「ダメー! 私もお姉さまもちゃんと聞いちゃったもんね。もう前言撤回はできませーん」

「……いじわる」

 

 頬を膨らませて訴えてみるものの、いつもの調子を取り戻した二人が相手では、通用するはずもない。

 言いだしっぺになってしまった以上、関わらないというわけにもいくまい。振り回されるのにもいい加減慣れたので、花子はいっそ開き直った。

 

「あぁん、もう。どうにでもなっちゃえ!」

「あはっ! いいわね、花子のそういうところ、好きよ」

 

 濡れたおかっぱ頭をワシワシと撫でながら、レミリアはとても嬉しそうだ。彼女にこの顔をされると、どんなに酷いワガママであっても、逆らうことができない。

 

「やったぁ! じゃあ決まりだね、どんな異変にするの?」

 

 踊る心を抑えきれないフランドールが、お湯をかき分けてレミリアに詰め寄る。

 

「そうねぇ。せっかくだし、今回はフラン、あなたがやってみる?」

「え、いいの?」

「紅霧異変の時は、ずっと地下にいてくれたものね。いい機会だから、あなたの存在をもっと世間にアピールしてごらんなさい。花子が一生忘れられないような、素晴らしい異変にするのよ」

「うん! お姉さま、大好き!」

 

 不意に抱きつかれて、レミリアは妹ごと湯船にザバンと沈んだ。二人分の水しぶきが上がり、すぐに浮き上がってくる。

 仲のいい二人を見ていると、花子も和む。大きなケンカをしてしまったが、やっぱり仲良しが一番だと、花子は一人頷いた。

 こちらを向いたフランドールが、湯の中を一生懸命に進んできた。花子の手を握り、

 

「花子、私、がんばるよ。絶対楽しい異変にしてみせるからね!」

 

 屈託のない笑顔は悪魔とは思えぬほどキラキラと、宝石を散りばめたかのように輝いていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 こいつは何を言っているんだ。声にこそ出さなかったが、パチュリーは口の中でこっそりと呟いた。

 紅魔館の一室、食堂の正面にある、応接間だ。めったに使われることはなかった部屋だが、最近は使用頻度が上がっているとか。

 あまり広くない部屋には、レミリアとフランドール、花子の三馬鹿娘を初めとして、咲夜、美鈴、パチュリー、小悪魔と、紅魔館の主要な面子が集められている。

 

「あのぅ、差し支えなければ、もう一度仰っていただけませんか……?」

 

 傍らに立つ小悪魔が、遠慮がちに訊ねる。何度聞いても結果は変わらないだろうに、律儀な女だと、パチュリーは横目で彼女を見上げた。

 聞かれたレミリアは、壁にかかっているどこから持ってきたのか分からないホワイトボードを指さした。

 

「だから、見ての通りよ。異変を起こすわ」

 

 ホワイトボードには、地面から木が生えており空には太陽が浮かんでいるという、実に単純な上に悲しくなるほど下手な絵が書かれていた。レミリアの直筆らしい。

 特徴として太陽と地面の間にバツ印が書かれていて、空は青ではなく、赤やら黄やら緑やら、ごちゃまぜの色になっている。好意的に解釈をすれば個性的な絵画だが、何が見ての通りなのか、パチュリーの頭脳を持ってしても理解はできなかった。

 頬杖をついてレミリアを見つめるパチュリーの視線を受けて、レミリアが膨れ面をする。馬鹿にした覚えはないのだが、内心が伝わってしまったようだ。

 レミリアは、信頼を置く従者に助けを求めた。

 

「咲夜はこの絵の意味、分かるわよね?」

「……えっと」

 

 頬を掻きながら、咲夜は誤魔化し笑いをした。しかし、レミリアに引くつもりはないと見える。

 しばらく考えてから咲夜が出した答えは、かなり苦しいものだった。

 

「太陽が……嫌い、ということでしょうか」

「そんなの昔っからじゃない! 今更説明するようなことじゃないでしょ、もう。じゃあ美鈴は?」

「そ、そうですねぇ。えぇっとなにかなぁ。うぅーん」

 

 なぞなぞをしているわけではないのだが、美鈴は真剣そのものだ。

 理解してもらえないことが悔しいのだろう、レミリアは目尻に涙など溜め始めていて、フランドールには呆れられ、花子に肩をぽんぽんと叩かれ慰められている。

 腕組みをしつつ唸っていた美鈴が、おもむろに膝を打った。ウィンクをしながら、人差し指を立てる。

 

「分かりましたよ、お嬢様」

「ほ、ほんと?」

「えぇ! この絵、地面と木は黒一色で描画されています。これは闇、すなわち夜の意味。夜の帝王たるお嬢様方が生きる暗黒の世界です。対して、太陽は赤く塗りつぶされている。一見すれば当たり前の配色ですが、この赤は言い換えれば紅、スカーレット――お嬢様のパーソナルカラーです。そう、吸血鬼のお嬢様にとって天敵である太陽は、しかし大地にとってなくてはならないもの。大地が枯れれば、夜暗を舞うお嬢様が支配する者もいなくなってしまう。空のごちゃまぜな色は行き場のない混沌の感情を表していて、真ん中の大きなバッテンは、そんな矛盾に苦悩するお嬢様の御心そのもの。この絵画は、お嬢様と太陽の、切りたくても切り離せない悲しい宿命を描かれた、大作なのです!」

 

 どうだ。説明を終えた美鈴は、これでもかとばかりに胸を張った。

 そういう考え方もできるのかと納得しかけて、パチュリーは小さくかぶりを振る。あんな捉え方ができるのは、美鈴くらいなものではないだろうか。

 案の定不正解だったようで、レミリアはそっぽを向いてしまった。

 

「あれ、ハズレ?」

 

 間の抜けた美鈴の声を受け、その場の一同がため息をつく。美鈴は先程の威勢を引っ込めて、恥ずかしげにティーカップの中身を啜った。

 このまま何も説明をされないのでは、いい加減話が進まない。とりあえず、パチュリーは見たまま分かることを口にしてみた。

 

「……土と太陽の間にバツ印があるということは、その間にあるものを消すとか、そういうことじゃない?」

 

 改めて言ってやったが、あの絵を見れば誰だってそう思うだろう。しかし、レミリアは文字通り飛び跳ねて、

 

「そう、そうよその通り! さすがパチェ、私の親友! 愛してる!」

 

 尋常ではないレミリアの喜びように、パチュリーは苦笑を禁じ得なかった。描き終わるのに五分とかからなかったのではないかと思える絵だが、彼女なりに思い入れがあるのだろう。

 以前レミリアがやらかした紅霧異変は、太陽光を遮るために紅い霧で幻想郷を満たしていた。今回もそれに似た異変だと踏んでいるのだが、なんとも嫌な予感を覚える。

 

「今回は、フランが異変を起こすわ」

「えっへん」

 

 紹介されて、フランドールが両手を腰にやり自慢げに一歩進み出た。

 まさかとは思ったが、予感は当たってしまったらしい。パチュリーは頭痛を覚えた。

 

「妹様が主催とはね。太陽でも壊すつもり?」

「惜しいっ。さすがに太陽を壊しちゃったら怒られるだけじゃ済まないから、他のものを壊すわ」

 

 もったいぶっているのか、フランドールは人差し指を立てて、ちっちと左右に振る。

 

「壊すのは、お日さまの光よ!」

 

 今度は、目眩を覚えた。太陽を破壊することと、何が違うというのか。

 姉より鋭いフランドールは、パチュリーの疑問を察したようだった。

 

「あぁ、大丈夫だよ。私の能力じゃ光は壊せないから、パチュリーが考えてるようなことにはならないわ」

「じゃあ、どうするつもりなの?」

「お姉さまがやったみたいに、霧を出すの!」

 

 紅霧異変の再来、ということだろう。リベンジのつもりなのか、他に思いつかなかったのか。本人が満足そうなので、パチュリーが言うことは何もないのだが。

 両手を突き出して、フランドールはニコニコしながら言った。

 

「お姉さまの霧は光の屈折で赤くなってたけど、私はお姉さまより魔法が上手だから、自分の意思で色をつけられるんだ。きっと楽しい異変になるわ!」

 

 誰が楽しいのかなど、聞くまでもない。吸血鬼の姉妹と、隣で明らかに諦めの表情をしている花子のことを差しているのだろう。

 紅魔館の住人にとって、二人の気まぐれはいつものことだ。今回のように無茶苦茶を言い出すことにも慣れている。花子もいい加減順応しているらしい。

 

「それにしても、突然異変なんて。何かあったんですか?」

 

 小悪魔の問いは、もっともなものだった。紅霧異変の時でさえ、数日前から日光が邪魔だとレミリアが騒ぐという前兆があった。今回はそれが、全くない。

 皆が同じことを疑問に思っていた。レミリアとフランドールは、時々誰もが驚くほど思慮深くなる。もしかしたら、何か大きな理由があるのかもしれないという期待もあった。

 あったのだが、無駄な期待だったようだ。

 

「なんもないわ。花子のお別れパーティーよ。太陽を隠すのはついで」

「異変をやろうって言い出したのも、花子だよ」

「えぇっ!?」

 

 突然話を振られた挙句主犯格に持ち上げられ、花子が驚いてレミリア達に振り返る。

 心外だと言わんばかりに、レミリアが眉を寄せた。

 

「なによ。嘘はついてないでしょ」

「そ、そうだけど。でもそんな、幻想郷中を巻き込むなんて」

「それが異変だもの。知らなかったわけじゃないでしょう? それに、私とフランはあなたのためを思って、がんばって考えたのよ」

「むぅ……。分かったよぅ」

 

 異変の提案者が花子だとは驚いたが、彼女のリアクションを見るかぎり、率先して異変をやろうと言い出したというわけではなさそうだ。

 紅魔館の外にも友人が多い花子だ。自分のせいで他の妖怪にまで被害が及ぶことは、できれば避けたいのだろう。

 残念ながら、その望みを叶えてやることはできなそうだ。紅魔館の主とその妹は、他人様に全力で迷惑をかけ、それを楽しむ性質なのだから。

 

 しかし、異変である。パチュリーには異変による幻想郷への影響よりも、最近ご無沙汰だった弾幕ごっこをうまくやれるだろうかという心配があった。

 どうあっても、平穏に解決するはずがあるまい。否が応にも、一戦交えることになるだろう。

 

 異変となれば必ず、あの二人がやってくるのだから。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 桜の季節に心浮かれたか、昨日の晩は飲み過ぎた。天狗と鬼を交えての宴会は、どうしてか自分まで浴びるように飲めると錯覚してしまうから恐ろしい。

 暖かくなっても未だに出しっぱなしのこたつに埋まっていた霊夢は、突然飛び込んできた何者かに頭を引っぱたかれた。二日酔いの霊夢には酷すぎる仕打ちだ。

 

「おい霊夢、起きてるか?」

「起きたわ」

 

 痛む頭を抑えて、こたつから這い出す。昨晩は魔理沙も一緒に飲んでいたはずなのに、霊夢とは対照的なほど顔色がいい。

 呑む量をうまい具合に調整したのだろう。鬼やらを相手に、まったくしたたかな女だ。霊夢はちゃぶ台に置いてあったコップを手に取り、中の水を飲み干した。

 

「調子に乗って飲むからだ。少しは加減しろよ」

「仕方ないでしょ。萃香の面倒見てたら、嫌でも飲まなきゃなんないのよ」

 

 まだ、頭がガンガンする。気だるげにかぶりを振ってから、頭の大きなリボンを直した。

 

「それで、なんの用?」

「おっとと、そうだそうだ。忘れるところだった」

 

 許可無く上がりこんだのだからよっぽど慌てていると思ったのだが、魔理沙も霊夢に負けないほど暢気な少女だ。こんなものだろう。

 なぜか咳払いなどしてから、魔理沙はいくらか真剣な顔つきで告げた。

 

「異変だぜ」

「パスするわ」

 

 即答してこたつに潜りこもうとするが、魔理沙は霊夢を羽交い絞めにして、無理やり引きずりだした。

 

「ダメだぜ。お前が行かないと張り合える奴がいないじゃないか」

「早苗でも呼べばいいでしょ」

「あいつじゃダメなんだよ。私は霊夢に勝ちたいんだ」

「あんたと張り合うために異変解決してるわけじゃないわよ。今回は譲るから、魔理沙が何とかしてよ」

「そうか。じゃあ人里からの依頼報酬は私のものだな。米五俵と酒四斗だったかな、ありがたいありがたい」

 

 霊夢はすっくと立ち上がった。

 幻想郷の異変は霊夢の異変だ。か弱き人間を守るため、愛しいお米を救うため、立ち上がらねばなるまい。酒は、今はいらない。

 ずきんと痛む二日酔いを活で吹き飛ばし、魔理沙を見る。

 

「私が行かねばならないようね。直感が言っているわ、妖怪を退治しろと!」

「ちょろいぜ」

「なに?」

「なんでも?」

 

 ぴゅうぴゅうと口笛を吹く魔理沙。簡単に乗せられてしまったが、悔しさはない。豊かな食生活のためだ。

 大幣とスペルカードを取るため自室に向かい、ついでに皺だらけになってしまった服を着替えて、準備完了。風呂にも入りたかったが、弾幕ごっこをすればどうせ汚れてしまう。

 居間に戻ると、魔理沙が勝手にお茶を淹れて飲んでいた。異変解決に向かう人間の姿ではない。

 

「おう、待ったぜ」

「待たなくてもよかったのに」

「つれない奴だなぁ」

 

 やれやれとぼやきながら立ち上がる魔理沙に、訊ねる。

 

「で、どんな異変なの?」

「外を見てみろよ」

 

 庭が見える障子の向こうを親指で指し、魔理沙が半笑いを浮かべた。

 また紅霧でも出ているのか、あるいは夜が終わらないのか。肌を撫でる空気は温かいので、春を奪われたわけではなさそうだ。

 今まで数々の異変を解決してきた霊夢は、今更驚くことなどなにもないと鼻を鳴らして、障子をガラリと開けた。

 そして、

 

「な、なにこれぇぇぇぇッ!?」

 

 見事に驚き、絶叫した。

 天狗の新聞に書いてある天気予報によれば、今日は晴れのはずだ。しかし、外はなんとなく薄暗い。もちろんそれだけでは、霊夢が驚くわけもない。

 暗い原因と霊夢が叫んだ理由は、太陽光を遮る霧だった。紅霧異変の再来かと思われるほど、空全体を霧が覆っている。

 その霧が、あまりにも酷かった。雲も空も分からないほど、まるで子供がでたらめに塗った塗り絵のような有様になっている。

 レミリアが出した紅い霧に比べたら、人間への毒性は薄く感じる。しかし、太陽光は間違いなく遮られているし、何よりも視覚効果が最悪だ。見ているだけで、目がチカチカして敵わない。

 

「ひっどい配色。これは米五俵出してでも解決したいわ」

「あと酒もな。ダメ元でマスタースパークを撃ってみたんだが、霧だからかな、全然手応えがなかったんだ。やっぱり元を断たなきゃダメだな」

 

 障子を閉めて、二人は神社の玄関に向かった。赤い小さな靴を履き、つま先で何度か床を叩いて、かかとを整える。

 

「いつも通りってわけね。私の勘だと、湖の方に原因があると思うんだけど」

「たぶん正解だぜ。あの霧から、フランドールの魔力が感じられるんだ。弾幕を散々やりあってるから、嫌でも分かっちまうんだよな」

「仕事がスムーズに進んでいいじゃない。この異変、一日も持たせないで終わらせてやるわ」

 

 玄関を開けながら、霊夢は息巻いた。やる気があるというよりは、さっさと終わらせて米をもらおうという魂胆だ。魔理沙には丸見えのようで、ニヤニヤされているが、まったく気にならない。

 神社の外に出て、魔理沙が箒に跨った時だった。なんの前触れもなく吹いた突風が、二人を襲った。咄嗟に目を腕で守る。

 風が止むなり、霊夢は怒鳴った。

 

「ちょっと文! 普通に出てきなさいよ!」

「あやや。私は比較的優しく着地したつもりだったんですが」

 

 烏天狗の射命丸文が、いつの間にか二人の前に立っていた。文花帖とペンを手にしているところを見ると、取材に来たのだろう。何のと聞かれれば、今日の異変以外にない。

 

「霊夢、出陣ですね?」

「異変だからね。邪魔するなら退治するわよ」

「仕事はスピードだぜ。お前も天狗なら、そんくらいの空気は読めよ」

 

 霊夢と魔理沙に軽くあしらわれても、文は顔色をまったく変えない。取材用スマイルを全面に押し出し、

 

「邪魔をするつもりはありませんよ。ただ、お二人の見事な異変解決の腕前を記事にさせてもらいたいなぁと」

「いるだけで邪魔なのよ。うるさいしちょこまか動くしで、気が散るったらないわ」

「酷いですねぇ。分かりました、では、この虹色異変を起こしている主犯格の居場所を教えてください」

 

 虹色異変。なんともまぬけなネーミングだが、虹霧異変とした場合、読みが紅霧異変と被ってしまうのだと、霊夢は気づいた。

 あの吸血鬼は、異変の名前をつけるところにまで迷惑をかけるのか。怒りよりも呆れてしまう。

 嘆息を漏らしつつ、文の質問に答える。

 

「たぶん、紅魔館よ」

「また連中ですか。……ん? 待てよ、確か紅魔館には……」

 

 一瞬考える素振りを見せたが、文はすぐに明るい調子に戻った。

 

「なるほど、了解です。では私、一足お先にあちらへ向かっておりますので。ご活躍、期待してますよ」

「言われるまでもないぜ」

 

 お気楽な魔理沙の返答を受け、文は「それでは」と一言残して、風の如く去っていった。

 漂う虹色の霧からは、紅霧異変の時とは違う、まるで子供が遊んでいるような波動を感じる。あの傲慢吸血鬼のことだから、ふざけ半分で起こした異変なのだろうなと霊夢は確信した。

 こんなにもカラフルな霧であることにも、理由はないだろう。まして、霧を出しているのが妹の方であるとしたら、なおさらだ。

 どんな理由があるにせよ、これ以上にないほど迷惑であることに変わりはない。霊夢は空へ飛び上がった。魔理沙も箒に乗ってついてくる。

 せっかく桜が咲き誇っているというのに、純色まみれになった空の下では目立てていないようだ。

 

「そういえば、まだお花見をしてないじゃない」

「お前、まだ呑むつもりか? さっきまで二日酔いだったのに」

「今も二日酔いよ。それとこれとは別」

「さようで。っと、妖精さんのお出ましだぜ」

 

 まだ神社から大して離れていないが、異変に乗じて好き放題やろうと考えた妖精たちが、霊夢達に妖弾を飛ばしてきた。虹色の霧に包まれていても、妖弾はとても強く光っているので、見落とすことはない。

 弾幕にもなれていない妖弾を回避し、霊夢が博麗の札を投げ、魔理沙はミニ八卦炉からレーザーを発射する。

 異変の開幕を告げる輝きが、虹色の空を駆け抜けた。



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そのにじゅうよん 異変!七色の霧と弾幕地獄!(1)

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日は、レミィとフランちゃんが私のためにお別れパーティーをしてくれてます。

 

 といっても、いつものように食べながらお話したりっていうのじゃないんだ。

 

 私、異変を起こしちゃいました。実際はフランちゃんがやっているのだけれど、名目は私が犯人ってことになっちゃってるみたいで……。

 

 これで有名になっちゃうのかな、良くも悪くも。今までのように旅ができなくなるのは、ちょっと困るかも。

 

 とにかく今は、レミィとフランちゃんが私のために起こしてくれた異変を、楽しもうと思います。

 

 フランちゃんが出す霧は、すっごくカラフルで可愛いんだ! あんまり見ていると、目がチカチカしちゃうけどね。

 

 目が回るような虹色の空、太郎くんが見たら、なんていうかな。見せてあげたいな。

 

 

 二枚目に続きます。

 

 

~~~~

 

 

 

 紅魔館のテラスから空を見上げて、花子は自分の目がぐるぐると回っていくのを知覚した。最近は着ていなかったワインレッドのドレスを身に纏っているせいもあってか、下手をすれば転んでしまいそうだ。

 今日はずっとこのテラスで、朝から飲んで食べてのどんちゃん騒ぎをしている。

 時刻はまだ夕方だが、太陽は霧の上にあり、日の光はここまで届いていない。レミリアとフランドール、そして日光は本と髪が痛むと嫌うパチュリーがテラスにいるのは、そういうわけである。

 空に向かって手を広げ、虹色の霧を撒いているフランドールは、とても楽しそうな顔をしている。その傍らでは、レミリアがなんとなく悔しげに唇を結んでいた。

 

「レミィ? どうしたの?」

 

 顔色を伺いつつ訊ねると、レミリアは我に返ったように、胸の前で両手を振った。

 

「ううん、なんでもないわ」

「そ、そう? ならいいのだけれど」

 

 気にしないでと言いつつも、レミリアの視線はフランドールの掌から溢れる虹の霧を見上げている。色とりどりの霧が出せる妹が羨ましいらしい。

 この大きな空を好きな色で彩れるのだから、フランドールはさぞ楽しいだろう。その力を妬むレミリアの気持ちも分からなくはないなと、花子は思った。

 目に優しくない空は花子でさえ頭が痛くなるというのに、ただの人間――と聞いている。信じられないが――の咲夜は、何事もないかのように主達のために紅茶を用意している。美鈴は門前でやってくるであろう敵を待っているらしい。

 

「それにしても、妹様は器用ね。あれだけ霧を出してしまうと、私でも色を混ざらないようにするのは骨が折れるわ」

 

 小悪魔と共に空を見上げていたパチュリーが呟く。フランドールに魔力の制御や魔法のいろはを教えたのは彼女らしいが、今は彼女がフランドールの魔法を解析しているようだ。

 最近ようやく空を飛んだり妖弾を作れるようになった花子には、魔法がどういったものなのかも分からない。レミリアも結構な魔法を使えるそうなので、少しだけ寂しい気もした。

 虹色の空を眺めていた花子は、ふと眉を寄せて目を細めた。純色の霧が歪んだような気がしたのだ。目が馬鹿になったかとも思ったが、レミリアや咲夜、パチュリーも似たように首をひねっている。

 そして何より、フランドール本人が困惑の声を上げた。

 

「あれ? おかしいな、私何もしてないのに」

 

 魔力での制御を試みるが、歪みは徐々に大きくなる。何かがこちらに近づいてきているのだと気づいた瞬間、花子は盛大に吹っ飛んだ。咄嗟にレミリアが受け止めてくれる。

 暴風だ。魔力の霧を歪め吹き飛ばすほどの風が、紅魔館のテラスで数秒暴れ、消える。

 レミリアに礼を言いつつ立ち上がる。花子はこの風を知っていた。忘れるはずもない、天狗の風だ。

 

「ひっどーい! 私の霧がむちゃくちゃになったじゃない!」

 

 悲鳴を上げるフランドールは、ナイトキャップを被りなおしながら涙目になっている。見上げてみれば、彼女の言うとおり虹色だった空は汚く混ざり合ってしまっていた。

 

「あやや、これは失礼。スクープの予感に、つい焦ってしまいまして」

 

 どこからともなく現れた少女に、花子は一瞬凄まじい緊張を覚えた。条件反射と言ってもいいかもしれない。

 いつかの宿敵、花子が誰よりも勝ちたいと思い続けている、射命丸文だ。紅魔館の一同を見回し、最後にこちらを向いた。

 目が合う。花子は自然と目つきを鋭くしていた。山での激しい戦いが脳裏に蘇る。

 

「……ずいぶん怖い顔をしますねぇ」

 

 文が言った。どことなく挑発的に聞こえたのは、花子がそう意識してしまっているからだろうか。

 何かを言い返そうとする前に、文は咳払いをした。カバンから綺麗な木箱を取り出し、咲夜に押し付ける。

 

「さてさて、まずはご迷惑をおかけしたことにお詫びを。これ、つまらないものですが」

「つまらないものなら受け取るな、とお嬢様に言われておりますわ」

「あややや、手厳しいですね。妖怪山名物の天狗饅頭ですよ。人間向けに作られてますから、咲夜さんでも食べていただけるかと。紅茶にも合いますよ」

「なら、つまるものね」

 

 さっそく木箱を開けて、咲夜は人数分用意された茶菓子が載っている皿に配り始めた。

 ごちゃ混ぜになってしまった霧を一生懸命直すフランドールは、饅頭どころではないようだ。レミリアも突然の珍客をじっとりと見つめ、

 

「それで、何のよう? ことと次第によっては叩き潰すわよ」

「そんなこと言わないでくださいよ。久々の異変ですし、今回は早々に犯人が割り出せましたので、独占取材をと思いまして」

「……おっきな記事になる?」

「それはもう。『紅魔館の悪魔、再び異変を起こす!』、ビッグニュースですからね。一面トップは確実ですよ」

 

 ニコニコと文が言うと、レミリアは途端に態度を変えた。

 

「そ、そう。仕方ないわね、このレミリア・スカーレットが、特別に取材を許可してあげる」

「ありがとうございます。さすがは紅い悪魔、懐の広さが違いますねぇ」

「それほどでもあるわ」

 

 上機嫌に紅茶を一口、饅頭を食べて頬を緩ませるレミリアである。

 文が花子に向き直る。いつぞやの、唇の端を持ち上げる嫌味な笑みを浮かべ、

 

「ドレスなんか着ちゃって、いい格好ね。吸血鬼のお人形にでもなったの?」

「お人形さんになれる若さなんです。自分に似合わないからって妬むの、止めてもらえませんか?」

 

 まったく同じ口調で返すが、鼻で笑い飛ばされる。しかしなぜか、文は満足そうにも見えた。

 一瞬で営業スマイルに戻り、文はペンと手帳を手にパチュリーへ迫った。同じテーブルにレミリアがいるのに、迷いは全くない。

 

「さっそくですが、今回の異変はどういう経緯で始まったので?」

「なんで私に聞くのよ。レミィに聞けばいいでしょう」

「そうよ、私に聞きなさいよ。異変は花子のお別れパーティよ。だからあの子にもドレスを着てもらったの」

「霧を出すのは妹様のアイディアね。あの子はレミィより魔法がうまいから、霧そのものに細かく着色できる。光の屈折で赤く見えた紅霧異変とは、そこが根本的に違うわね」

「ふむ、なるほど。しかし……」

 

 突然、文は話し相手がいなくて立ち呆けていた花子を指差した。

 

「あんなおかっぱのために、どうして異変まで起こすのです?」

 

 その問いに、レミリアはわずかに冷笑を浮かべる。挑発と取ったのか、それともくだらない質問だと思ったのか。

 手でおいでと言われ、花子はレミリアに近づいた。頭を抱えられ、なすがままに抱き寄せられる。

 

「友達だからよ。おかしい?」

「おかしいですねぇ。あなたらしくもない」

「お前のイメージを押し付けられても困るわ。まぁ確かに、らしくないかなとは思うけど、仲良しなんだから仕方ないじゃない。ねぇパチェ」

「そうね。私とレミィじゃそんなにベタベタしないし、いいんじゃない?」

 

 パチュリーは興味が薄そうだったが、それでも同意を得られたことで、レミリアはご機嫌だ。おかっぱ頭をわしゃわしゃと撫でられ、花子は髪よりもせっかく借りたドレスがしわになる方が気になった。

 ごちゃ混ぜになった空の色が、再び純色の塗り絵に変わる。修復作業を終えたらしいフランドールが、額の汗をぬぐった。

 

「ふぅ。まったく、手間を増やさないでよね」

 

 再び霧を召喚し始めたフランドールに、文が頭を下げる。

 

「すみません。しかし、なんでこんな目が痛い配色にするんです?」

「綺麗でしょ?」

「はっきり言って奇抜すぎです。紅霧のほうがまだマシだった」

「あなたはこの芸術性が分からないのねぇ。あぁかわいそう」

「そんなんだから狂っているとか言われるんですよ。まぁ、その方が記事としてはウケるんですけどね」

 

 発言はしっかりとメモに取りつつ、文はため息をついて首を振った。フランドールの取材をしたことがある彼女だが、その時もまともな会話にはならなかったのだ。呆れているのだろう。

 レミリアに解放されて、花子は友人の隣に腰掛けた。すかさず、咲夜が紅茶を淹れてくれる。

 

「ありがとうございます、咲夜さん」

「いいえ」

 

 このやり取りもいつものことだが、咲夜曰く、細かいことでもお礼を言われるのは嬉しいらしい。レミリアとフランドールはやってもらって当たり前という考えが体の芯まで染み込んでいるので、彼女に礼を言うことは少ないようだ。

 紅茶をいただきつつ天狗饅頭を食べようとして、花子は手を止めた。強烈な視線を感じる。

 

「……」

 

 文がこちらにカメラを向けていた。口元には不吉な笑みを浮かべていて、何かを企んでいることは明白だ。

 皿の饅頭を見る。薄茶色に焼かれた皮はとても香ばしそうだが、他の皆に配られた饅頭よりも赤みが強い。まさかとは思うが、文の顔を見る限り、何かがあるのは間違いない。

 配ったのは咲夜のはずだ。しかし、文は風を思いのままに操れる。饅頭を一つすり替えることくらい、造作もないだろう。彼女の策略にはまればおかしなことを記事に書かれるのは、火を見るより明らかだ。

 仕方なく手を引っ込めると、文がはっきりと舌打ちした。今度は花子がにやりとする。

 

「あー、今日はなんだか食欲が湧かないなぁ。文さん、代わりに食べてくださいよ」

「い、いやいや、私は取材で来てますから、遠慮します」

 

 断る文の笑みは、引きつっていた。

 

「遠慮しないでください。ほら、早く食べて」

「い、いいえ、私も実はその、饅頭恐怖症でして」

「そんな人がおまんじゅうをお土産にするわけないです。それとも、このお饅頭を食べられない理由があるんですか?」

 

 あくまで無邪気な笑みを浮かべ、花子は文にずいと赤い饅頭を突き出す。テラスにいる皆が注目している。

 フランドールまでもが手を止めて、文を見つめていた。吸血鬼の姉妹は事態が飲み込めずきょとんとしているが、もし花子に何かを仕掛けたのだと分かれば、文はただでは済まないだろう。

 苦心の末、文は花子の手から饅頭をひったくった。勝った。花子は胸中でガッツポーズを決める。

 一気に饅頭を頬張り、ろくに咀嚼もしないで飲み込む姿はあまりに必死で、笑ってやろうと思っていたのに、花子はむしろ申し訳なくなった。

 

「うっ――おうぁッ!」

 

 唐辛子でも入れていたのだろう、顔を真っ赤にして妙なむせ方をする文に、咲夜が苦笑しつつ水を手渡す。もしかしたら、こうなっていたのは自分だったかもしれない。そう考えると、罪悪感は消し飛んだ。

 一滴の水も残すまいとコップを逆さにする文に、フランドールが笑い転げる。花子も腹を抱えて、笑いが止まらなくなった。

 この出来事がきっかけで、文はしばらく本当に饅頭恐怖症になってしまったというが、それは余談であろう。

 コップを咲夜に返しながら、文はケラケラ笑う花子を、息を荒げながら睨んだ。

 

「お、覚えてなさいよ……!」

「忘れられませんよ、こんな楽しいこと。あ、記念写真撮ります?」

 

 文のカメラを指差すと、とうとう彼女は花子から視線を逸らしてしまった。

 山でのリベンジというわけではないが、実にいい気分だ。勝利の余韻に浸りながら食す天狗饅頭は、実に美味い。

 

 文が来てからのくだらない騒動で、花子は今が異変の真っ只中であることをすっかり忘れていた。身も心もすっかり油断していた、その時だ。

 紅茶を飲みながら花子と文のくだらない戦いを見守っていたレミリアが、カップを置いて呟いた。

 

「……来たわ」

 

 なにがと訪ねようとした直後、空を揺るがさんほどの轟音が響き渡った。花子は身をすくませて、音の方向を探す。

 湖の方からだ。そちらを見れば、林の向こうから極太のレーザーが空に通り抜けていくではないか。あまりに眩しいその輝きは、レーザーが消えるまでの間、虹色の空を純白に染め上げる。

 

「な、なにあれ」

 

 呆然と呟いたのは、花子だけだった。皆はあの光が何なのか、分かっているようだ。

 レミリアが椅子から飛び降り、

 

「やっとお出ましね。咲夜、お客様よ。美鈴と一緒に『ご挨拶』してきなさい」

「かしこまりました」

 

 恭しく礼をして、咲夜は珍しく時間を止めずに、テラスから飛び降りた。その後姿を、文がシャッターに収める。

 門前で合流した咲夜と美鈴が、紅魔館の前に生い茂る林の向こうへと飛んでいく。二人に手を振っていたフランドールが、振り返った。

 

「お姉さま、今のマスタースパーク、魔理沙だよ!」

「そうね。きっと霊夢もいるわ。だから咲夜と美鈴、二人で行かせたのよ」

「二対二で遊ぶのね、楽しそう! 私は花子と一緒がいいわ!」

「そうね、いいわよ。譲ってあげる。パチェ、私と組んでね」

 

 レミリアに視線を投げかけられても、パチュリーは何も言わなかった。無言の肯定だ。

 あのレーザーは、魔理沙が撃ったものなのか。魔法使いとはいえ人間の魔理沙が、あんなに強そうな弾幕を使うことに、花子は驚きを隠せなかった。

 魔理沙は強いとフランドールから何度も聞いていたが、あれほどの魔法を使えるとは。では、妖怪や神すら叩きのめすという霊夢は、どれほど強いのだろう。不安な半面、楽しみでもあった。

 

「フラン、霧は出し続けてね。太陽が出たら痛いわよ」

「うん」

 

 姉に言われたとおり両手を天に向け、フランドールが再びカラフルな霧を空に満たす。

 空に魔力の霧を撒くフランドールにカメラを向ける文は、咲夜と美鈴には興味がないのだろうか。花子は気になって、聞いてみることにした。

 

「文さん、あっちには行かないの?」

「いいのよ。弾幕ごっこなんて、珍しいものでもないし。主犯と一緒にいたほうが、話も聞けるでしょ。ねぇフランドールさん」

「今日の異変は、花子が犯人だよ」

「ふ、フランちゃん!」

「あはは、本当のことだもーん」

 

 こちらを見もせずにさらりと言ってのけたフランドールは、霧を出したまま元気に笑う。まったく意地悪だが、どうしても怒る気になれない。

 よほど意外だったのだろう、文は口を半開きにして花子を見つめた。

 

「あんたが、異変の主犯ですって?」

「あぅ、これはつまり、違うんです」

「違わないよ。この異変は花子のお別れパーティだもん。花子が異変起こしたいって言い出したんだもん」

「い、言ってないよ!」

 

 文に誤解されては大変なことになると言い訳を考えたが、時すでに遅し。腕組みをして、文は花子を値踏みするかのように上から下まで見下ろした。

 

「ふぅん。あんたが異変をねぇ」

「だから言ったでしょ。この子は私の友達なのよ。私が友と呼ぶにふさわしいだけの度胸を持っている妖怪なの」

 

 フォローなのか、レミリアは花子の肩に手をかけながら言った。嬉しいのだが、何かが違う。

 しばらく顎に手を当てていた文は、思いのほかすぐに引き下がった。

 

「……ふむ。まぁこの場はそういうことにしておきます」

 

 この時、彼女の中で花子の評価がまた少し変化したのだが、そのことを花子が知ることはないだろう。

 霊夢の聖なる光と魔理沙の力強い煌きが、爆発音を引っさげて近づいてくる。

 多彩な霧に彩られた空の下、レミリアが不敵に笑った。

 

「さぁ、楽しい夜の始まりよ」

 

 異変の本番を告げるその呟きに、花子は息を呑んだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 世間一般的に、箒に跨る魔女のイメージは、もっとふんわりと飛ぶものなのだろう。そんなことを考えつつ、とんがり帽子を飛ばされないように抑えながら、魔理沙はさらに速度を上げた。

 途中で理由もなく襲い掛かってくる妖精たちを蹴散らし、趣味の悪い霧を出しているおてんば吸血鬼を懲らしめるために、湖上の真っ赤な館を目指す。

 スピードには自信があった。天狗や吸血鬼といった化け物と比べられたら困るが、人間の中では最速だと信じていた。

 しかし、努力で勝ち得たその速度に、霊夢は何食わぬ顔で追いついている。巫女服とリボンをはためかせ、ぴったりと魔理沙の横を飛んでいるのだ。

 彼女がこの速度で飛ぶために努力をしたとは思えない。むしろ、絶対にしていないだろうと言い切れる。認めたくないが、もう何年も前から嫌でも分かっていることだ。

 博麗霊夢は、霊力を使うことにおいて、紛れもなく天才だ。飛行や秘術、祈祷、さらにはスペルカードルールの決闘においても、信じられないほどの才能を持っている。

 

「……腹立つぜ」

 

 呟きは駆け抜けていく風に消え、霊夢に届くことはなかった。もっとも届いたところで、お互いの笑い話になる程度だろうが。

 その霊夢を追いかけているからこそ、自分がここまで伸びれたのも事実だ。そういう意味では、いい友人を得たと思っている。妖怪に対してあまりにも容赦がないのが、たまに(きず)か。

 今回の異変も、魔理沙としてはもっと楽しみたいと思うところがあった。いつもなら三下の妖怪がちょっかいを出してくるのだが、今回は対応が早すぎたせいか、それもない。

 

「もう少ししてから、霊夢のとこに行くんだったかな」

「なんでよ。早いうちから解決したほうが、後処理が楽でしょ」

 

 今度は聞こえたらしい。真面目に聞こえるが、霊夢の行動は現金な思考回路で決まる。すなわち、報酬額と面倒さだ。

 

「確かに楽だけどさ、もっと弾幕ごっこをしたいじゃないか。異変の時は弱い妖怪もそこそこやるようになるし」

「そう? みんな似たようなもんよ」

「そんなことないぜ。今日はいないけど、チルノなんて妖精のくせにやたら強いじゃないか」

 

 チルノは、霧の湖に住む氷の妖精だ。人間以下とまで言われている妖精の中では、間違いなく別格と言える力を持っている。魔理沙も何度か追い込まれたことがあった。

 引き合いに出すという意味では一番ベストな名前だと思ったのだが、霊夢はふんと鼻を鳴らし、

 

「どうせ最後は負けるじゃない。だったら似たようなものでしょ」

「可愛くないやつだな。そんなんじゃ、誰も嫁にもらってくれないぞ」

「じめじめした森で怪しいキノコを漁ってる女の台詞じゃないわね」

「私が採るキノコはいいもんだぜ? 栄養価も高いし、幻覚だって見れるんだから」

「それは毒キノコって言うんじゃないの?」

「幻覚程度で毒なんて言ってたら、魔法使いにゃなれないな」

「ならないから安心していいわよ」

「冷たいぜ」

 

 くだらない会話をしながら、二人は湖を囲む林の中腹上空を越えた。

 揃って同時に、空中に止まる。紅魔館はもう目前だが、やはり簡単には辿りつけないようだ。魔理沙と霊夢の前に立ちはだかる、二つの人影。

 

「ごきげんよう」

 

 完璧で瀟洒なメイド、十六夜咲夜。そして、

 

「今回はずいぶん早いですねぇ」

 

 紅魔館の守護者、紅美鈴。七色の霧の中、悠然と空中に佇んでいる。

 咲夜の両手には左右合わせて六本のナイフが指に挟まれ、美鈴が手に巻かれたバンテージの端を口に咥えて、締めなおす。

 魔理沙は八卦炉を握りなおした。まさか二人がかりで来るとは思わなかったが、楽しくなりそうだと口の端を吊り上げる。

 

「よう。今日はずいぶんいい天気だな」

「そうね。妹様もご機嫌だわ」

「そいつは何より。機嫌がいいうちに寝かしつけといてくれると、なおいいんだけどな」

 

 言葉は軽く、しかし八卦炉を握る力は強い。

 バンテージを固定し終えた美鈴が、拳を打ち鳴らす。火花が散りそうな迫力だ。

 

「妹様はお嬢様以上のおてんばですから、なかなか寝付きませんよ。お二人だって知らないわけじゃないでしょう」

 

 魔理沙には嫌になるほど分かってしまうのだが、霊夢は腰に右手を当てて、眉を寄せた。

 

「私はほとんど知らないわよ。うちに来るのは決まってレミリアだし、妹の方にはほとんど会ってないもん」

「そうですか。でもまぁお嬢様とよく遊んでいらっしゃるなら、あのお二方を止めるためにはどうすればいいのか、分かっていますよね? タッグで挑みます」

 

 美鈴が右手を突き出す。指は三本。持ち点は九点、二人で三枚というスペルカード数は、少ないようだが使いどころが難しく、出し惜しみしがちな数字でもある。

 頷くようなことはしない。必要がないのだ。ここに来て逃げるという選択肢はないし、弾幕勝負を回避しようなど思うはずもない。

 

 握りこぶしを腰に溜め、美鈴が構えを取る。以前美鈴は弾幕ごっこが苦手だと言っていたが、武術の達人である彼女は、最近は自分の体を弾幕の一つとする技を使うという。

 そして、ジャグラーのように六本のナイフを指で遊ぶ咲夜。彼女もまた、日々腕を上げている。激務の中にどうやって練習時間を作っているのかは知らないが、同じ人間だからと油断はできない相手だ。

 しかし、そんなことは相手も同じだ。魔理沙も霊夢も、異変解決においてはプロフェッショナルと呼んで差し支えない実力者である。

 静まり返る双方の間に、張り詰めた空気が流れる。この試合前の緊張感が、魔理沙はたまらなく好きだった。

 

 瞬間、空気が動いた。初めに仕掛けたのは、美鈴。格闘に持ち込むかと思われたが、初撃は煌く気弾。色とりどりの弾幕は、フランドールのキャンパスとなった空の下では、集中しなければ見えづらい。ましてこの至近距離では、目を凝らしている余裕もない。

 弾幕ごっこでは圧勝できると思っていた美鈴が、ここに来て嫌な相手となった。魔理沙は舌打ちしつつ、箒に跨ったまま反転、加速し、一気に間合いを取る。霊夢は上空に退避したようだが、そちらに飛んでいく咲夜のナイフも見えた。

 分散させられたかと思った刹那、魔理沙は悲鳴じみた声を上げて箒から飛び降りていた。霊夢を追いかけてるはずの咲夜のナイフが、眼前に迫っていたのだ。

 落下する途中も、美鈴の気弾が体をかすめていく。本人まで一緒に近づいており、この場でスペルカードを発動させられては被弾は免れない。箒を魔法で操り引き寄せ、両足を乗せる。身を軽く捻り方向転換しつつ、まるで波乗りでもするかのように妖弾を回避しながら、八卦炉に魔力を注いだ。

 

「逃げてばかりは、性に合わないんでね!」

 

 白金色のレーザーが、美鈴へと発射される。魔理沙を象徴するかのような、真っ直ぐで迷いがなく、素早い光線だ。

 高速で接近していた美鈴が減速、身を翻してレーザーを回避する。その間にも気弾は休まず発射されている。目がようやく慣れてきた魔理沙は、弾幕を避ける合間に咲夜と霊夢の姿を探した。

 背後の上方、すぐそばに咲夜がいる。霊夢はそのさらに向こう側だ。魔理沙は今、挟み撃ちされかねない位置に滞空している。しかしそれは咲夜も同じで、霊夢も美鈴も、下手をすれば味方を巻き込みかねないせいで、スペルカード技を使えないようだ。

 味方のスペルやショットに当たっても、減点にはならない。しかし被弾は例外なく痛みを伴うので、肉体や精神へのダメージは免れないのだ。お互いを信頼できなくなろうものなら、目も当てられない内輪もめが始まってしまう。

 判断は一瞬、熟考している暇はない。咲夜が振り返るより早く、美鈴が仕掛けるより早く、魔理沙は八卦炉を背後に向けた。左手で取り出したスペルカードを、高く掲げる。

 カード宣言。チーム戦の場合、相手も味方もショットを中止しなければならない。スペルカードの使用は誰でもできるが、魔理沙以外の宣言者はいない。

 

「霊夢、避けろよ!」

 

 空の純色をかき消すほどの、圧倒的な輝き。極太のレーザー、恋符「マスタースパーク」。弾幕はパワーという魔理沙の信念を具現化したような魔法は、咲夜を光の奔流に飲み込んだ。空を裂く轟音が鳴り止み、両腕を眼前で交差させて痛みに耐えた咲夜が、よろめく。

 魔理沙の代名詞とも呼べるこの魔法は、弾幕ごっこを嗜む者で知らない者はいないほど、有名なスペルだ。遊び用なので派手なばかりで威力は抑えてあるが、それでも普通の人間がまともに食らって意識を保っていられる火力ではない。

 箒に座り直して、魔理沙は鼻の下を掻いた。

 

「ちぇっ。平気な顔しやがって」

「悪いけど、忍耐力には自信があるの。メイドの仕事はやせ我慢だから」

 

 手ぐしで髪を直してから、咲夜が美鈴と合流する。美鈴に心配されているようだが、魔理沙の目から見ても、彼女はまだまだ戦えるだろう。

 しかし、先手は取れた。これで魔理沙と霊夢はスペルカード二枚の持ち点九点、一方の咲夜と美鈴は、スペルカードは三枚で持ち点は六点。

 この後、咲夜達が一気に仕掛けてくるか、それともショットで粘ってくるか。いずれにしても流れは掴んだと、魔理沙は八卦炉をお手玉にしてにやりと笑う。

 

「ラッキーヒットね」

 

 いい気分になっていた魔理沙の心を、隣についた霊夢が踏みにじる。まったく真顔で、冗談で言いましたというわけでもなさそうだ。

 なんと嫌な奴だと、魔理沙は渋面を浮かべる。

 

「咲夜が霊夢に集中してたから、私はその隙をついたんだ。ラッキーなんかじゃないぜ」

「咲夜の注意を私が引いてたんだから、やっぱりラッキーじゃない」

 

 ふんと鼻を鳴らす霊夢に、魔理沙は噛み付きたくなる衝動に駆られた。弾幕ごっことなると、彼女は本当に性格が悪くなる。天才故だろうが、それがまた余計に腹立たしい。

 八卦炉の出力を通常に戻してから、魔理沙は霊夢に吐き捨てた。

 

「もうお前には、茶屋のぜんざい奢ってやんないからな!」

「ちょ、ちょっと魔理沙! それとこれとは関係ないでしょ!」

 

 悲痛な叫びを上げる霊夢にべぇと舌を出し、箒を操り宙返り。美鈴の妖弾が眼下を駆け抜けていき、それを見ただけで、魔理沙は弾幕ごっこへと精神を集中させていく。

 逆さまになった世界で、美鈴を捉えた。先制されたというのに、気持ちが乱れている様子はなかった。彼女と咲夜には、心理的揺さぶりは通用しない。

 箒を左手で掴み、ぶらさがる。レーザーを細かく発射しけん制するも、美鈴は軽く体を動かすだけでそれらをかわしていく。武術を極めているだけあって、回避の動きに無駄がない。

 気配を感じ、魔理沙は箒から手を離した。銀のナイフが、魔理沙の腕があった場所を通過していく。すぐに箒を引き寄せ掴み取り、跨りながら振り向いた。霊夢の霊力弾に追われながら、咲夜もこちらに狙いを絞っているのだ。

 霊夢より当てやすいと思われている、そのことが気に食わなかった。とうとう挟み撃ちにされ、ショットの嵐が魔理沙を襲う。

 

「上等だぜ」

 

 通り抜けていく咲夜のナイフはどれも刃が削られ先端も丸められているが、鉄の塊に違いはない。当たり所によっては刺さりもするだろうが、魔理沙はそれをちっとも恐れなかった。

 むしろ怖いのは、慣れてきたとはいえ空の色に隠れるかのようなショットを放つ美鈴だ。先に落とそうと近づけば、彼女の体術が待っているだろう。至近距離で達人の武術を避けられる自信は、魔理沙にはない。距離をとって戦わねばならない。

 咲夜のナイフに視線をやれば美鈴の妖弾が間近に迫り、それを躱せば死角からナイフが飛んでくる。二人の連携は抜群にうまかった。霊夢と魔理沙にはない強さだ。

 しかし、タッグバトルは所詮派生ルールであり、個人技に磨きをかけた者こそが強者であると、魔理沙は固く信じていた。数多の妖怪と弾幕を交わしてきた自分が、妖怪のくせに割りと平和に暮らしているこの連中に負けるはずがないと。

 上空から、霊夢の霊力弾が降り注ぐ。援護のつもりだろう。突然の奇襲に驚いたのか、美鈴と咲夜の弾幕が薄くなったが、霊力弾は魔理沙にまで降りかかる。

 

「馬鹿、私に当たるだろうが!」

「当たる奴が悪いのよ」

 

 暴論でありながら正論な言葉に、魔理沙は口をつぐんだ。霊力弾の援護が収まり、八つ当たり気味に攻勢へ出る。八卦炉を構え、咲夜に突撃した。

 高速のレーザーを相手に、咲夜は涼しい顔で避けていく。彼女は時を止められるが、その力はスペルでしか使わない。今魔理沙の弾幕を避けているのは、彼女の実力だ。

 二人の距離が縮まる。美鈴の姿が見えないが、構わずさらに加速。優雅に弾幕を回避する咲夜に、つい苛立ってしまった。

 

「魔理沙、突っ込みすぎ!」

 

 霊夢から珍しく忠告が入る。だが、ここまで来て止まれるものかと、魔理沙はいっそう速度を上げる。

 ひらりひらりとレーザーを躱す咲夜は、魔理沙の接近に一切焦りを見せない。油断しているのか、それともただのポーカーフェイスか。舐められたものだと、舌打ちをする。

 しかし、油断していたのは自分の方だったと、すぐに気付かされた。咲夜はもう目前で、もはやレーザーを避けられる間合いではないと思った瞬間、上空からカードが一枚、魔理沙の眼前に滑り落ちてきたのだ。

 紅魔館の住民が使う、蝙蝠の羽が記されたカード。緑とオレンジのツートンでカラーリングされたそれは、美鈴のスペルカードだ。

 

 魔理沙はショットを中断していた。カード宣言されたということに気づくより早く、体が避ける姿勢に入る。

 勘の働くままに体を左に傾けると、視界の端――魔理沙の斜め上から、美鈴の蹴りが飛び込んでくるのが見えた。長く美しい足は虹色に煌く気を纏い、魔理沙の眼前を通過する。

 気符「地龍天龍脚」。様々な弾幕を見てきた魔理沙が冷や汗を感じるほど、一切無駄のない蹴撃だ。

 空中に足場でもあるかのように、反転した美鈴が膝を曲げ、上空に飛び上がる。気に包まれた足を高く振り上げ、彼女から溢れる戦意がスペルはまだ終わっていないことを伝えてきた。

 

「魔理沙!」

「手ぇ出すな!」

 

 援護のスペルを撃とうとしたらしい霊夢に釘を刺す。ここでスペルカードを消費するのは得策ではないし、何より魔理沙は、美鈴のスペルが気に入らなかった。

 弾幕ごっこはあくまで弾幕ごっこであり、己の肉体を弾幕だと言いはって肉弾戦に持ち込むのはナンセンスであるという持論が、魔理沙を意地にさせているのだ。

 超至近距離で放たれる蹴りは、天狗のそれをも凌駕する速度だ。美鈴が動く前に、勘だけで避けるしかない。美鈴も急所は避けて仕掛けているので、支点からずれた攻撃は避けやすくなっている。気休め程度だが、その気休めが大事だった。

 高く舞い上がった美鈴が、急降下しながら蹴りを繰り出してくる。凄まじい気迫だが、完成された武術はあまりにも美しい。

 

「……認めたくないぜ」

 

 こんなものは弾幕ではない。だが、本来のスペルカードルールならば、この美は確実に通用する。魔理沙のどの魔法よりも、技として洗練されていた。

 二撃目が迫る。咄嗟に箒ごと仰け反り、直後に目の前を美鈴の蹴りが通過していく。纏う気が嵐となって、体勢を崩した魔理沙を巻き込む。

 もみくちゃになりながらも、魔理沙は目だけは閉じなかった。美鈴を捉える。もうこちらを狙って、三撃目の姿勢に入っていた。

 

「くっ、そが!」

 

 思わず声に漏れたが、美鈴が止まってくれるわけもない。しなやかな足を突き出し、七色の気が膨れ上がる。

 箒に跨り損ねたが、構わず移動し回避を試みる。中途半端にぶらさがった状態で、上方に移動し蹴りの軌道から逃れる。

 美鈴は来ない。避けれた安堵がよぎったが、魔理沙は嫌な予感を覚えた。あの軌道では、轟々たる気の塊となった美鈴が真下を通過していたはずなのだ。

 

「魔理沙、どこ見てんの!」

 

 霊夢の声が聞こえる。気遣ってくれているというより、苛立っているような声音だった。

 しかし、それを気にする余裕は、魔理沙にはない。予感が胸の中で大きくなり、顔色が青くなるのが自分でも分かった。

 まさか――。魔理沙は自分の背後、その下方に振り返る。

 

 美鈴と、目が合った。目の前だ。上体を捻り長い足を体とほぼ垂直にしならせ、気の輝きが膨れ上がる。もはや、蹴りは放たれる寸前にあった。

 外れたと思った三撃目は、フェイクだったのだ。魔理沙は焦りを誘発させられてしまった。

 

「しゃあぁぁぁッ!」

 

 いつもは温厚な美鈴が、吠える。もはや魔理沙に避けるという選択肢は残されていなかった。

 とうとう目を閉じ身を縮こまらせた瞬間、右半身を衝撃が襲い、鈍痛が体中を突き抜ける。魔理沙は空中高くまで吹っ飛ばされた。

 魔理沙、スペルに被弾。三点減点で持ち点は六点となり、美鈴と咲夜のカード枚数は二枚に減った。これで同点、同枚数。

 

 痛みを堪えて箒を呼び戻し、跨り直す。見たくはなかったが霊夢の方へ視線をやると、やはりやれやれとため息をついていた。

 完全に自分のミスだ。落ち込みかけたが、すぐに立ち直る。やってしまったものは仕方がない。次は冷静に動いて、この失敗を取り戻せばいいだけだ。

 敵に振り返ると、咲夜は腕組みをして、美鈴は頬を掻きつつ、二人揃って苦笑していた。

 

「手加減はしましたけど……。相変わらず、人間のくせに嘘みたいに打たれ強いなぁ」

「妹様の遊び相手が務まるんだから、簡単には死なないわね」

「殺されてたまるか。パチュリーに借りた本、まだ読みきってないんだ。死んだら返さなきゃならないからな」

 

 気丈に言いながら、魔理沙は再び八卦炉を握り直す。直後に、上を霊夢が飛び抜けていった。咲夜と美鈴が散開する。

 霊力弾のショットに、博麗の札が混じっている。本体の分身らしい無限の札は、相手を追跡するような動きを始めた。とうとうやる気を出したらしい。

 咲夜のナイフと美鈴の気弾が、霊力弾と交差する。熟練者の弾幕が入り乱れる光景は、魔理沙の体からスペル直撃の痛みを消し飛ばした。

 

「……負けるかよ」

 

 誰になのかは、自分でも分からない。あるいは、自分自身になのかもしれない。

 相棒の八卦炉を握りしめ、魔理沙は空を駆け抜ける。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 霊力弾に混じる博麗の札は、美鈴の動きに合わせて軌道を変えてくる。追跡してくるショットばかりに集中していては、霊力弾や魔理沙のレーザーに当たりかねない。

 まるでスペルのような難解さだが、それでもショットとしての難度をぎりぎり守っている。反則だと言えないラインを保つ霊夢は、やはり弾幕ごっこにおいては天才だ。

 彼女だけではない。咲夜も魔理沙も、この場にいる人間全てが、おおよそ人間とは思えない力の持ち主だ。こと弾幕ごっこにおいては、妖怪でも彼女らに勝てる者はそうそういない。

 身体能力だけで言えば、美鈴は人間の彼女達より遥かに優れている。それこそ、咲夜の時を止める能力を持ってしても、本気でかかれば負ける気はしない。

 

 しかし、それは強者の証ではない。この幻想郷では、特にだ。

 今、美鈴はこの場で誰よりも弱い。それは認めざるをえない事実だった。体術を弾幕に組み込んでみても、この遊びだけは得意になれそうにない。

 

 背後からの気配。小さいながらも激動する力強い気は、魔理沙のものだ。

 体をわずかに左へ傾げて霊夢の霊力弾を避け、すぐに背後へ振り向く。八卦炉から発射されたレーザーが何本も、眼前にまで近づいていた。

 持ち前の反射神経を生かし、体をわずかに動かすだけで全て避け、虹色の気弾をばらまく。フランドールの霧が保護色になっているせいで、視認しにくいのだろう。美鈴がショットを展開すると、魔理沙と霊夢は美鈴から大きく距離を取った。

 

「弾幕が上手な人って、こんな気分なのかな」

 

 誰ともなしに呟き、ショットの外側から狙ってくる霊力弾と札、レーザーの射線から退避する。さすがに目は離してくれないらしく、特に魔理沙の弾幕は執拗なほど美鈴を狙ってきていた。

 どちらにもうまく狙いをつける霊夢と違い、魔理沙は一点集中に重きを置いている。拳士の素質があるなと、美鈴は頭の片隅で彼女を評価した。

 

 ショットを撃ちあいながら、咲夜の気を探る。霊夢に真正面から仕掛けているようだ。

 そちらを一瞬だけ見れば、ナイフのなかに魔力弾が混じっているのが見えた。拙い術式だが、弾幕ごっこならば十分使える代物だろう。ナイフを投げては時間を止めて回収するという、かなり面倒な弾幕を平然とこなす咲夜だが、あの巫女が相手ではやはり余裕が削られるということか。

 援護するべきかと考えたが、魔理沙に狙われている以上、下手に駆けつけることができない。気をそらせるほど、魔理沙は優しい相手ではない。

 実を言えば、美鈴にも咲夜にも勝つ気はなかった。あくまでレミリアやフランドールが楽しむことが前提なので、紅霧異変の時ほど真剣に戦っていなかったというのが本音だ。

 が、やはり根っからの戦士である美鈴は、いつの間にか熱くなっていた。戦いに妥協はしたくない。例え苦手な分野でも、やる以上は本気で戦いたかった。

 

 魔理沙を注視する。美鈴が撃つ気弾の間をすいすい通り抜けながら、幼い顔に似合わぬ狩人のような鋭い目付きで八卦炉からレーザーを撃ってくる。

 白金色の光線はあくまで真っ直ぐだが、魔理沙が箒に跨ったまま激しく動きまわるので、避けるのは難しい。美鈴も高速で移動しながら弾幕を散弾のようにばらまき、レーザーと思い出したかのように降ってくる霊力弾や札を回避していく。

 こちらにも援護が欲しいと思ったが、美鈴とて咲夜に援護射撃はしてやれていない。先程魔理沙を二人で集中的に狙ったせいで、連携は警戒されてしまっている。分断されたのだ。

 

 咲夜もジリジリとこちらに移動してきてはいるが、下手に近寄れば美鈴が避けた魔理沙のレーザーに当たる可能性も出てくる。ただでさえ、ホーミングする霊夢の弾幕と正面から戦っているのだ。彼女にこれ以上期待を抱くのは酷だろう。

 ならば、自分が行くしかない。美鈴は賭けに出た。

 

 急上昇してレーザーを回避、魔理沙に背を向ける。留まっている時間はない。霊夢に向かって一気に加速する。

 気付いた霊夢が振り返る。それより早く、虹色の弾幕を展開した。かなりの至近距離でばらまかれたショットを、霊夢は顔色一つ変えずに回避していく。

 まるで、焦りというものを知らないかのような素振りだ。思わず苦笑が漏れた。無論、ショットを撃つ手は緩めない。

 霊夢の狙いが美鈴へと移る。博麗の札と霊力弾が、美鈴の飛ぶ軌跡をなぞるように飛んでくる。背後からは魔理沙のショットも狙っている。

 

 弾幕の嵐に閉じ込められた美鈴は、自分の中で何かがすぅと引いていくのを感じた。戦意に燃えていた心が、静寂に包まれていく。

 極限まで高められた集中力、明鏡止水の境地。わずかな逃げ場しかない弾幕地獄で、美鈴は一時も目を閉じず、流れるようにショットを回避していく。

 向い合って撃っているというのに、霊夢も魔理沙もお互いの弾に被弾する気配はない。個人プレイが目立つ二人だが、息は合っているのだ。

 一点、突破できる隙間を見つける。美鈴は迷わず飛び込んだ。弾幕の嵐が薄まり、すぐさま下降する。

 

「こんにゃろ、逃げんな!」

 

 魔理沙の叫びが背中を打つ。振り返り、口元をにやりと歪めた。

 

「戦略的撤退ですよ」

 

 妖怪を恐れず立ち向かう猛者とはいえ、二人はやはり子供だ。いつもは簡単に倒せている美鈴が粘るので、二人ともムキになっていたのだ。

 冷静さを取り戻した魔理沙が、顔色を変える。ショットを撃つ手を止め、後悔や焦燥感やらが表情に滲み出る。その視線の先は、三人の上空。

 蝙蝠の翼が描かれたスペルカードが、空中に漂っていた。シルバーに輝くそのカードは、咲夜のものだ。

 

「私をお忘れになってないかしら?」

 

 上空で、咲夜が微笑む。いつの間にか、霊夢と魔理沙を囲うように、おびただしい数のナイフが空中に配置されていたのだ。

 ナイフが、一斉に動いた。空虚「インフレーションスクウェア」。上下にぽっかり穴が開いたナイフの球体は、霊夢と魔理沙を閉じ込めたまま、急速に縮小していく。

 下の空間から魔理沙が脱出した。しかし、霊夢は出てこない。刃引きしてあるとはいえ、あれだけの数だ。直撃すればただでは済まない。

 狭まるナイフの包囲陣に向かって、魔理沙が何事かを叫んだ。霊夢の名前だったろうか。虹色の霧の中で鈍く輝く咲夜の弾幕を見上げ、美鈴もまた息を呑んだ。

 鈍色の球体はもはや大人二人分程度の大きさしかない。見る間に小さくなっていき、霊夢の脱出はもはや不可能と思われた。

 

 無数のナイフが噛みあい、金属音が響く。魔理沙が悲鳴を上げるが、咲夜は眉をわずかに寄せる程度だった。

 被弾させるつもりならば、咲夜は当たる直後にナイフの動きを極端に和らげる。あんなに激しくナイフがぶつかり合うということは、スペルが外れたと考えるべきか。

 衝突しあったナイフが崩れ、落下を始める。

 やはり、いない。霊夢が脱出したところを見たものは誰もいないのに、彼女の姿はどこにもないのだ。

 

「……いや」

 

 美鈴の頬を、汗が伝う。霊夢の気は感じられる。それも、先程よりもずっと強くなっている。

 見上げる。落下するナイフを回収することもできない咲夜の背後に、霊夢はいた。右手の人差指と中指で、白に赤枠の入ったスペルカードを挟んでいる。

 一瞬、時が停止したように思えた。その直後、霊夢が左手に握る大幣が、強く輝き始める。

 

「咲夜さん!」

「くっ」

 

 咲夜のスペルは継続中だ。時を止め、霊夢の周囲に再びナイフを設置し、同時に美鈴の隣に移動してくる。咲夜以外の三人には、ナイフが突然霊夢を囲んだように見えた。

 しかし、霊夢は動じない。ゆっくりと左へ、まるで漂うかのように移動を始める。美鈴はそちらを目で追った。

 追った、はずだった。だというのに、霊夢は突然、あさっての方向から咲夜と美鈴の前に現れた。博麗の札が、霊夢の周囲に出現する。

 神霊「夢想封印 瞬」。慌てて後退した美鈴と咲夜を遠目にみながら、こちらに直進しつつ、霊夢が札をばらまく。虹色の空に白く輝く霊力の札は、どうしてか威圧感を与えてくる。

 迫りくる博麗の札を見据え、避ける。速度は遅いので、回避は簡単だ。咲夜の弾幕から逃げるためのスペルだと踏んだ美鈴だが、

 

「美鈴、後ろよ!」

「ッ――!」

 

 咲夜の声に振り返り、戦慄した。すぐ背後に霊夢がいるのだ。先ほどまで確かに正面で弾幕をばらまいていたはずなのに、いったいなぜ。

 考えている余裕などない。霊夢は鋭い眼差しで、ゆっくりと移動しながら美鈴に向かって札を発射した。

 不規則な動きをする札を躱し、美鈴の正面から反時計回りに動いていた霊夢を見据える。

 

 まばたきの一つもしていない。だというのに、次の瞬間、霊夢は美鈴の右隣に現れた。

 

「なっ……!」

 

 消える瞬間がなかった。気配を残していたのとも違う、ただ移動先が美鈴の右隣だったかのような、なんとも言い難い不気味な感覚を覚える。瞬間移動の類とはまったく別物の力だ。

 一旦後退し、距離を取る。咲夜は霊夢が美鈴を狙ったと見て、魔理沙に標的を絞っているようだ。すばしっこい魔理沙は、どれほどナイフで囲んでも簡単に被弾してくれそうにない。

 視線を戻す。ゆらゆらと空中を漂いながら、札をばらまき、唐突にありえない方向から出現し、霊夢が徐々に距離を詰めてくる。

 

 美鈴は気づいた。視認はできないが、霊夢は恐らく結界を作り出しているのだ。その両端が繋がっているのか、合わせ鏡のようになっているのかは知らないが、結界の壁から壁へと移動している。その壁も複雑な形をしているからこそ、まるで彼女が意図したところに現れているように見えている。

 霊力を纏う札を避けながら、美鈴は自嘲気味な笑みとともに吐き捨てた。

 

「分かったところで、どうしようもない」

「弱気ね」

 

 また背後に回っていた霊夢が、札を展開しながら鼻を鳴らす。

 

「それでよく門番が勤まるものだわ」

「私はどっちかというと、挨拶係なんで」

「あー、なるほど。そんじゃあんたはやっぱ、レミリアには必要ね」

 

 言いながらも、博麗の札はしっかりと美鈴に射出されている。身を捻ってかわしつつ、咲夜の様子を伺った。

 スペルの時間が残りわずかなのだろう。咲夜には焦りが見えた。魔理沙の魔法を食らった時のダメージが残っているらしく、顔色が悪い。

 その背後に、まるで壁の向こうから現れるかの如く、霊夢がぬぅと現れた。すぐに忠告しなければと思ったが、先ほど射出された博麗の札が、美鈴にも近づいてきている。

 美鈴は高く上昇した。霊夢のスペルには追尾性能がないようで、弾幕が追いかけてくることはなかった。安堵は一瞬、咲夜に叫ぶ。

 

「咲夜さん!」

 

 声に反応して、咲夜が美鈴に振り返る。違う、こちらではない。叫ぼうとしたが、その言葉は、間に合わない。

 霊夢が札をばらまく。咲夜が気付くが、遅すぎた。白く輝く札が、一斉に直撃する。美鈴はそれを、ただ見ていることしかできなかった。

 バチリと雷光が走るような音が鳴り響き、咲夜の体が大きくのけぞり、吹っ飛んだ。

 

 咲夜、スペルに被弾。美鈴達の持ち点は三点となり、カード枚数は残り一枚。

 一方、魔理沙と霊夢は、持ち点は変わらず、六点。スペルカードは、同じく残り一枚となった。

 

 落下する咲夜を抱きとめると、腕の中で呻きながら、わずかに目を開けた。

 

「ごめんなさい……。酷く足手まといになってしまったわね」

「いえ、そんな。私がもうちょっと霊夢の気を引けていればよかったんです」

「そう。……ありがとう、美鈴」

 

 頭を軽く振ってから、咲夜は美鈴の腕から降り、自分で宙に浮かんだ。まだ痛むのだろう、札の直撃を受けた腹部を押さえている。

 霊夢と魔理沙が、二人の前に並んだ。まだ戦意に満ちた顔をしているが、美鈴と咲夜は顔を見合わせ、揃ってかぶりを振る。

 

「降参よ。もう結構だわ」

 

 咲夜が笑みを交えて告げると、霊夢も魔理沙もぽかんと口を開けた。しかしすぐに、同時に噛み付いてくる。

 

「ふざけないでよ。中途半端で終わらせるつもり?」

「そうだぜ。三枚って言い出したのはお前らだろ、最後まで付き合えよ」

「いやぁ、それが……」

 

 頭を掻きつつ、美鈴はなるたけ怒りを買わないように言葉を選びながら、答えた。

 

「この異変、実は花子さんの、お別れパーティー異変でして」

「……はぁ?」

「まぁそういう反応になりますよね。お嬢様の話だと、花子さんが異変というものをやってみたいと言い出したとかなんとかで」

「ようするに、異変を起こして解決されるまでの流れを、花子に経験させてあげたいのよ。だから、ここで私達が粘って時間を稼ぐより、あなた達に早くお嬢様たちと遊んで差し上げてほしいの」

 

 フォローを入れてくれた咲夜に目配せで感謝を伝えつつ、美鈴は霊夢と魔理沙の顔色を伺った。二人とも、怒りを通り越して呆れている。

 

「ようするに、私と魔理沙は利用されたってわけ?」

「あはは、悪い言い方すると、そうなりますねぇ」

「良い言い方なんてないけどな。まったく、遊び半分で異変起こすなよ。いや、いつもこんなもんか」

 

 箒に横乗りになって、魔理沙は八卦炉をポケットにしまった。降参が受け入れられたと見ていいだろう。

 だが、霊夢は納得していないようだった。大幣を肩に担いでヤクザよろしく、

 

「そんなんで言い訳になると思ってるわけ? 悪魔の一派が目の前にいて、退治しないわけないでしょ。弾幕しないなら実力行使よ。ちょうどタイミングよくポケットに陰陽玉があるから、霊夢さんの豪速球を存分に食らいなさい」

「いやいやいや、落ち着いてくださいよ。この後にはお嬢様や妹様もいるんですから、体力は温存しておいたほうがいいでしょ?」

「あんたらを退治するくらいで、スタミナが切れるわけないでしょ。言い訳かましてないでじっとしてなさい。避けたら当てるまで投げるわ」

 

 聞く耳を持たない霊夢に、美鈴は頬が引きつるのを感じた。しかし、ずれた帽子のリボンを直している魔理沙が美鈴に助け舟を出してくれるわけもない。

 腕組みをして聞いていた咲夜が、突然にっこりと笑った。

 

「霊夢。今日は花子のお別れパーティーなのよ」

「聞いたわよ」

「それでね、どうせなら外からもお客様を呼びたいと思っていたところなのよ。そんな時にちょうど、あなた達がいたりするの」

「……」

「良かったら、お呼ばれしてくれないかしら。ご馳走はこれから作るけど、あなたとお嬢様方が遊び終わる頃までには間に合わせるわ。美鈴と二人でやれば早いから」

 

 霊夢の顔は厳しいまま変わらない。しかし、その頬は徐々に上気してきていた。その隣で、魔理沙が直し終えた帽子をかぶりながらニヤニヤしているが、彼女は気づいていない。

 

「まぁ、どうしてもって言うなら、食べてやらなくもないわ。人間が食べられるものを出してくれるならね」

「花子の好みは人間の味だから、それに合わせて作っているわ」

「あっそう。さて、こんなところで時間かけてられないわね。魔理沙、本丸を叩きに行くわよ」

「ちょろいぜ」

「うっさい」

 

 魔理沙の頭をはたいてから、霊夢は紅魔館へ向かって飛んでいってしまった。こちらに手を上げ、「じゃ、後でな」と言うや、魔理沙も霊夢の後を追いかけていく。

 二人の背中が小さくなるまで見送ってから、美鈴は咲夜に向き直った。

 

「いいんですか? お嬢様の許可も取らないで、あんなこと」

「どうせこの後は宴会になるんだし、だったらうちでやってもいいじゃない。お嬢様もそうしたがるわ」

「異論はありませんけど。でも、今から料理して間に合います? 霊夢も魔理沙も、ああ見えて結構食べる子達ですよ」

「だから、あなたにも手伝ってもらうんじゃない」

 

 この場を収めるための発言だと思っていただけに、美鈴は狼狽した。まさか本当に料理を手伝わせようと思っていたとは。

 できないわけではない。しかし、紅魔館で出されるような料理は、作ったことがなかった。

 

「で、でも私、中華しか作れませんよ?」

「あら、中華作れるんだ? いいじゃない、材料あったかしら」

 

 備蓄してある食材の在庫を指折り数える咲夜は、本気で美鈴に料理をさせるつもりらしい。花子達の異変に付き合うだけでよかったはずなのに、なんだかおかしな方向に話が進んでしまった。

 揃って着地して、二人は徒歩で紅魔館への帰路についた。飛んでいけば、下手をしたら弾幕ごっこに巻き込まれかねないからだ。

 

 この後美鈴は、久々に握った包丁に、弾幕ごっこよりもずっと神経をすり減らすことになるのだった。



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そのにじゅうご  異変!七色の霧と弾幕地獄!(2)

 

 

~~~~

 

 

 二枚目だよ。

 

 

 今ね、レミィとパチュリーさんが、霊夢と魔理沙と戦っているんだよ。

 

 遠くから見ているだけだけれど、レミィもパチュリーさんも、霊夢と魔理沙も、すっごい弾幕が上手なの。

 

 とても綺麗で、強そうで、私なんかは足元にも及ばないんだろうな。どうやったら勝てるかなぁって、色々考えました。

 

 文さんと戦った時のように、本気になれる理由がなきゃがんばれないかなぁと思っていたのだけれど、その文さんに怒られちゃたんだ。

 

 直感を信じろって言われたの。楽しめば、どんなに弾幕が難しくてもそれなりに戦える、だって。

 

 そういえば、小学校のお昼休み、男の子達はよくドッジボールをやっていたよね。太郎くんと一緒に見ていた時のことを、思い出しました。

 

 小さい子も怖がらないで、大きな子に立ち向かっていたものね。私だって、きっとできるよね。

 

 

 三枚目に続きます。

 

 

~~~~

 

 

 咲夜と美鈴は、負けてしまったらしい。どうやってそれを知ったのかは花子には分からないが、パチュリーとレミリア、文が言うのだから間違いないのだろう。

 

「さてはて、次はどなたがあの二人と戦うので?」

 

 文花帖を片手に仕事熱心な文が、レミリアに訊ねた。咲夜がいなくなったテーブルは、早々に散らかり始めている。

 指についたクッキーの粉を行儀悪く舐めながら、レミリアが答える。

 

「そりゃまぁ、花子とフランは主犯だし、黒幕は最後って相場が決まってるから、私とパチェかしらねぇ」

「よかったら、うちの小悪魔を使ってみる? 靴紐を結ぶ時間くらいは稼げるわよ」

 

 パチュリーに真顔で示されて、小悪魔はサッと顔色を青くした。

 

「パ、パチュリー様、それだけは、後生ですから……」

「冗談よ。優秀な秘書に怪我されたら大変だからね」

「仲がいいこと。妬けちゃうわ」

 

 レミリアに笑われても、よほど心臓に悪い冗談だったのか、小悪魔の頬は引きつったままだった。

 これから弾幕ごっこだというのに、レミリアはしきりに身だしなみを整えている。一生懸命ドレスや帽子をいじっているが、口の周りについたクッキーの粉には気づいていないらしい。

 

「レミィ、こっち向いて?」

「ん? むぅ――」

 

 ポケットからハンカチを取り出して、花子はレミリアの口を拭ってやった。

 口周りが綺麗になり、レミリアは恥じるでもなくにこりと笑って、

 

「ありがと、花子」

「どういたしまして」

「……異変らしい緊張感がまったくありませんねぇ」

 

 やれやれと、文が溜息をつく。しかし、パチュリーに三馬鹿とまで言わしめた花子とレミリア、フランドールである。思いつきの異変に、真剣味があるはずもない。

 胸元のリボンを締め直し、ふわりとレミリアが飛び上がった時だ。紅魔館正門の上空に、霊夢と魔理沙が見えた。宙に漂い、遠目ではあるが、こちらを見ているのが分かる。

 パチュリーもレミリアに続いて空へ舞い上がり、花子とフランドールに振り返った。

 

「時計台に行ってなさい。ここは巻き込まれるかもしれないし」

「そうね、それがいいわ。黒幕は一番てっぺんにいるもんだものね」

 

 とても上機嫌に、レミリアがウィンクなどしてみせた。花子とフランドールが揃って頷くと、二人は颯爽と門前に向かって飛んでいく。

 レミリアの後ろ姿を見送りたかったが、フランドールに背中を押されたので、花子は仕方なく館の中へと入っていった。文と小悪魔も続いている。

 館の中では、妖精メイドがすわ一大事とばかりに走り回っていた。走り回っているだけで、何かをしているわけではない。

 慌ただしい館の中を、時計台へと向かう。もはや慣れたもので、フランドールと並んで迷わず歩いていると、ペンを指でくるくる回しながら、文が言った。

 

「あんた、本当にここで暮らしてたのねぇ。違和感がないのが不思議でしょうがないわ」

「えへへ」

 

 照れくさくて、頭など掻いてみる。文が半眼で「褒めたわけじゃないわよ」と呟いたのは、聞かなかったことにした。

 最上階の渡り廊下に出て、四人は時計台の屋根に登った。紅魔館で一番高い場所に立ったことになるのだが、普段から館の上空で弾幕ごっこをして遊んでいたため、景色の感動は薄い。

 再び霧でお絵かきを始めたフランドールが、目線だけを隣の花子に向けた。

 

「お姉さまとパチュリーが負けちゃったら、私と花子の番だね。準備できてる?」

「う、うーん。たぶん大丈夫だよ。体の調子はいいもの」

「よしよし。魔理沙と霊夢はとっても強いから、いっぱい楽しめるよ」

「足を引っ張らないようにがんばるよ」

 

 苦笑しつつ、答える。花子もこの数カ月でだいぶ強くなったが、フランドールやレミリアと同等かそれ以上だという霊夢や魔理沙を相手にどこまでやれるか、不安ではあった。

 この位置からならば、レミリア達の戦いを観戦することができる。額に手をかざして眺めていると、四人の背後に突然咲夜が現れた。

 

「妹様、ただいま戻りました」

「おかえり咲夜。お姉さま、もう行っちゃったよ」

「そのようですね。お見送りできなくて申し訳ない限りですわ」

「仕方ないよ。それで、どうだった? 二人の弾幕」

 

 フランドールが聞くと、文が文花帖を開いてペンを握りしめた。メモを取るつもりなのだろう。

 一言一句逃さず記録されることを気にするでもなく、咲夜は微笑を口元に湛えたまま、

 

「霊夢は相変わらずというか、なんというか」

「だろうねぇ。魔理沙は?」

「成長していますわ。前に一戦交えた時より、強く感じました」

「さすが魔理沙! 今から楽しみぃ」

 

 友人が強くなっていることを素直に喜ぶフランドール。自分ももっと強くなれば、彼女に同じように喜んでもらえるのだろうかと、花子は魔理沙に羨みを覚えた。

 雑務が残っているからと、咲夜はすぐに去ってしまった。弾幕ごっこの直後だというのに、休むことを知らないかのような働きっぷりだ。

 心配げに咲夜がいるであろう本館を見つめていると、小悪魔がクスクスと笑い、

 

「大丈夫ですよ、咲夜さんは時間の使い方が上手だから」

「上手というか、反則気味な使い方をしますからねぇ」

 

 文の言葉に、小悪魔は頷きはしなかったものの、否定もしなかった。時間を止めている間に休憩しているらしいという噂は妖精メイドから聞いたことがあったが、どうやら本当のようだ。

 和やかな雰囲気だったが、花子は突然ピリリと空気に走った緊張に、思わず背筋を伸ばした。

 門の上空だ。レミリアの魔力が真紅のオーラとなって、立ち上っている。

 

「始まるわね。さて、どんな戦いになるかしら」

 

 張り詰めた空気に、文が呟く。彼女の瞳には新聞記者のそれではなく、強者の好奇心が宿っていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 時間は、少し遡る。

 レミリアとパチュリーが紅魔館上空にたどり着くと、待ち構えていた霊夢は、意外そうな顔をした。

 

「あんたらが先にやられるの?」

「やられることを前提に話さないでちょうだい。今回の異変は花子とフランが黒幕だから、私とパチェが先なの」

「だから、やられるんだろ? あいつらが弾幕できないんじゃ、意味がないじゃないか」

「むぅ」

 

 さっそく霊夢と魔理沙に言いくるめられ、隣でパチュリーが悲しげとも取れる表情で嘆息を漏らした。

 しかし、これしきの事でめげるレミリアではない。すぐに顔を上げ、霊夢と魔理沙を順繰りに見回し、

 

「いくら妹と友達のためとはいえ、手を抜くなんてつまらないことはしないわ。私とパチェは本気でいくから、覚悟しなさい」

「あぁ、私も全力を出すのね」

「もちろん」

 

 いまいち乗り気じゃないパチュリーだが、いつものことだ。彼女は弾幕ごっこが始まると、だんだん熱くなってしまう。放っておいても、本気になってくれるだろう。

 ふと見れば、魔理沙が目をぎゅっと閉じて、また開くを繰り返している。この空の色に疲れてきているようだ。

 

「あぁ、目薬が欲しい。パチュリー、持ってないか?」

「持ってても貸さないわ。その方が有利になるし」

「酷いやつだ。まぁいいや、目が痛くてもお前らくらいなら楽勝だぜ」

 

 自信満々に語る魔理沙だが、彼女のこれは過信ではない。魔理沙は、レミリアの妹フランドールとまともに弾幕ごっこで遊べる強者(つわもの)なのだ。

 脅威ではあるが、それ以上に苦戦するであろう相手が、大幣で肩を叩く霊夢である。彼女以上に強い者を、少なくともレミリアは、片手で数えられる程度しか知らない。その中には、しっかり自分もカウントされていたりする。

 幻想郷の英雄と呼べるだろう少女は、何やらそわそわと落ち着かない。いつもは何事にも興味なさそうにしているので、レミリアは気になった。

 

「どうしたのよ霊夢、もじもじして。おトイレ? 家の使う?」

「いらないわよ馬鹿。そんなことより早く始めましょう。一分一秒でも早く異変を解決しなければ大変なことになるわ」

「……そうなの? なんで?」

 

 フランドールが出している霧は目に悪いとはいえ、レミリアの紅霧よりも無毒だ。眉を寄せて首を傾げると、霊夢は神妙な顔で頷き、

 

「そうよ。事態は一刻を争うわ、じゃないと冷めちゃう」

「咲夜が飯をご馳走してくれるって言ったんだ。あいつは逃げたくて口滑らしたんだろうけど、霊夢に火をつけちまったな」

「そんなの私は許可してないわよ。ご飯くらい別にいいけど」

 

 なんとも霊夢らしい理由だ。度々神社へ遊びに行っているレミリアから見ても金に困っているわけではないと思うのだが、彼女はタダ飯とか奢りという言葉にとても弱い。

 しかし、面白い。本気の霊夢や魔理沙と戦うのも久しぶりだし、相棒のパチュリーも、喘息の具合は良さそうだ。

 

「楽しめそうね。さて、それじゃあ霊夢が腹ペコで倒れないうちに始めましょうか」

 

 レミリアの冗談を聞いても、霊夢とパチュリーはクスリともしなかった。魔理沙には多少ウケたようだが、笑いを取ろうと思ったわけでもない。

 カードを召喚する。血色の炎に包まれて現れる、蝙蝠の羽が描かれた真紅のカードは、六枚。パチュリーの正面にもまた、同じ模様だがそれぞれ色の違うカードが浮かんでいる。

 一人頭、三枚といったところだ。点数はチームにつき十八点。この面子では、ショットでの削り合いも相当激しくなるだろう

 

「タッグだし、このくらいはないとね」

「六枚か。楽勝よ」

 

 ふふんと、霊夢が鼻を鳴らす。相変わらず極端なほど自信家だが、そのくらいの負けん気があってこそ、彼女らしいというものだ。

 魔理沙がミニ八卦炉を握りしめ、パチュリーは魔法の媒体となる魔導書を広げた。霊夢も右手で博麗の札を掴み、その周囲に分身の札が無数現れる。

 得物を持たないレミリアだが、不利だとはまるで思わない。吸血鬼は、何も持たずして最強の種族なのだから。

 不気味なほど明るい虹色の霧は、四人の視界から消えていた。もう誰もが、目の前の相手しか見えていない。

 提示したスペルカードが、炎に巻かれて消える。パチュリーのカードも魔力の粒子となって空中に溶けた。

 

 瞬間、合図もなしに、全員が動く。パチュリーと霊夢は後方へ、レミリアと魔理沙は前方へ、迷いなく進み出る。

 誰よりも早く、魔理沙が八卦炉からレーザーを射出した。明るい輝きが脇をかすめる。狙いは正確だが、魔法の光は、その速度も術者の魔力に依存する。魔理沙の魔力では、レミリアの反応速度には及ばない。

 魔理沙とすれ違う。彼女は振り向かないだろう。今レミリアを狙えば、パチュリーに背中を向けることになるからだ。

 上空から降り注ぐ、霊力弾と博麗の札。霊夢のショットだ。相変わらず嫌らしく追跡してくる札をすいすいと躱し、レミリアは左の腕に右手の爪を立て、引っ掻いた。

 白い肌から、鮮血がほとばしる。血液の玉は魔力を持って巨大化し、魔力弾と化す。引っ掻いた痛みはなく、傷も次の瞬間には消えている。

 レミリアの身長ほどの大きさになった血液球を、殴り飛ばした。破裂した血の弾は大粒小粒、無数の弾幕となって、霊夢を襲う。

 しかし、避けにくく威圧感もたっぷりであろう魔力弾の間を、霊夢は目の前に何もないかのように進んできた。

 恐れをまるで知らない霊夢の回避に、レミリアの口元が緩む。

 

「そうこなくてはね」

 

 霊力弾が近づく。レミリアの魔力弾に比べたらいかにも小さいというのに、その神聖な輝きを見るだけで、体が本能的に逃げようとする。

 しかし、冷静さは失わない。レミリアは上空に移動した。直後、足元を魔理沙のレーザーが通過していく。

 上を取った。見れば、動きを読んでくれたのだろうパチュリーが隣にいる。目を合わせて頷き、同時にショットを放つ。

 パチュリーのショットは、照射され続ける二本のレーザーで相手を挟みつつ魔力弾を撃つという、敵をじわじわと追い詰めるいやらしい代物だ。レーザーは完全に挟む前に消えるとはいえ、レミリアは彼女のショットが苦手だった。しかし、味方となれば心強い。

 頭上に浮かんでいるパチュリーの魔力球から、青のレーザーが伸びる。紅魔館の庭に突き刺さらん勢いで放たれたレーザーは、左は魔理沙を、右は霊夢を追いかける。そこに、さらに腕を引っ掻いたレミリアが、散弾の如く血液の魔力弾を撃ちまくった。

 レーザーと真紅の魔力弾に挟まれた魔理沙が、一瞬動揺する。その隙を、パチュリーは逃さない。魔理沙の右腕に、レーザーが命中した。

 

 魔理沙、ショットに被弾。霊夢と魔理沙の持ち点、十七点。

 

 被弾した痛みがあるだろうに、魔理沙は体勢を立て直すのが、とてつもなく早かった。破けて中途半端にぶら下がる袖を引きちぎって、魔理沙は反転、一瞬気を抜いたレミリアとパチュリーに猛進してきた。

 箒を軸に回転しながら、何度も何度もレーザーを発射してくる。無駄にばらまかれているようで狙いの絞られたショットに、やはりただの人間ではないと、レミリアは賞賛した。

 魔理沙のショットは速い。レミリアの目でならばいくらでも躱せるが、問題はパチュリーだ。彼女の魔法は大したものだが、身体能力となれば人間にも劣る。動体視力もまた然りだ。

 

「くっ――!」

 

 歯を食いしばってショットの嵐を避けているパチュリーに手を差し伸ばそうとしたが、割って入った博麗の札に妨害され、離されてしまう。

 勢いのある魔理沙に意識を取られ、霊夢を見失っていた。真下だ。真っ直ぐ上昇しながら、こちらに向かって博麗の札を撃ち出してくる。

 咄嗟に霊夢へ魔力弾を放つ。大小様々な血の弾丸は非常に避けづらいはずなのに、霊夢の回避には一切の躊躇がない。レミリアは撤退を余儀なくされた。

 追跡してくる札から逃げようとすればするほど、パチュリーが遠くなっていく。歯噛みしても、レミリアの位置からでは援護射撃も行えない。弾が大きいレミリアのショットでは、パチュリーを巻き込んでしまいかねないのだ。

 狙ってくる博麗の札が、突然減少した。何事かと見れば、霊夢はショットをパチュリーにも向けている。反撃に転じながら、レミリアは叫んだ。

 

「パチュリー!」

 

 スペルを使えと言おうとしたのだが、それより早く、事態は変わってしまう。

 魔理沙のレーザーに追い詰められて、パチュリーが読み間違った。接近されて勢いが増した光線に注視するあまり、霊夢の札に気づけなかったのだ。

 小さな背中に、博麗の札が直撃する。分身体の札が弾けて消え、パチュリーがよろめく。

 

 パチュリー、ショットに被弾。レミリア達の持ち点は、十七点となる。

 

 ショットに当たる程度のことは、覚悟していた。パチュリーを責めるつもりも、減点への動揺もない。

 素早く立ち直り、パチュリーがショットを再開した。青い魔力球から伸びる照射型のレーザーで、魔理沙と霊夢を狙う。

 レミリアは左腕に再び爪を立てた、血飛沫が舞い、複数の巨大な魔力弾と化す。それらを殴り飛ばし、また蹴り飛ばした。

 分厚い弾幕とはいえ、所詮はショットだ。魔理沙はレーザーでこちらを牽制しつつ余裕を持って躱し、霊夢にいたってはレミリアに背中を向けたまま避けてみせる。

 

「化け物ね」

 

 吸血鬼という身でありながら、思わず呟いてしまった。レミリアに言わせるだけの力を、二人は持っているのだ。

 しかし、舐められたままでは面白くない。何本も撃たれた魔理沙のレーザーを細かく動いて避け、天狗と並ぶと言われるスピードをもって魔理沙と霊夢の間に移動し、真紅のカードを召喚した。

 カード宣言、一枚目。人間二人がショットを中断し、身構える。

 

 スペルカードが炎に消える。両手を大きく広げたレミリアを、紅い魔力のオーラが包んだ。

 魔力は両の掌に集い、一瞬の静寂の後、弾けるように伸び広がった。紅に輝く幾十本もの鎖が、霧の空で暴れだす。

 運命「ミゼラブルフェイト」。真紅の鎖が、うねり、しなり、まるで生きているかの如く、魔理沙と霊夢に迫る。

 長い長い魔力の鎖を両手に握り、レミリアは縦横無尽に虹色の空を駆け巡る。パチュリーにだけ当てないように意識しながら、後は大雑把に狙いを定めて、十も二十もある紅い鞭を振るいまくる。

 

 蠢く真紅の鎖を前にして、霊夢はふわふわと漂うように、魔理沙は対照的に、箒に跨ったままちょこまかと素早く動いて被弾を免れている。

 さすがに上手い。だが、ここからだ。レミリアはにやりと唇を歪め、魔力の鎖を握った両手を、振り上げた。

 勢い良く空気に叩きつけ、その振動を受けて、全ての鎖が大きく波打つ。パチュリーが気づき、慌ててこちらに逃げてくる。

 変化は、すぐに起きた。鎖が、途中で、また先端で、さらにはレミリアのすぐ手元で、枝分かれしだしたのだ。一瞬にして倍以上に増えた鎖に、さしもの霊夢も焦りを浮かべる。

 このスペル自体は何度も使っているが、この変化は最近編み出したばかりだ。実戦で使うのは初めてだが、練習の甲斐あってか、思った通りの魔力変化を起こすことができた。

 さぁ、どうする。もはや百に届かんとしている鎖の鞭を振るいながら、レミリアは敵を観察した。

 スペルの時間はまだまだある。いくら神をも倒す人間離れした二人とはいえ、長期戦に持ち込んでは吸血鬼のスタミナに敵うはずがない。被弾させるチャンスは必ずくる。

 だが、持久戦になれば不利であることは、彼女らも気づいているはずだ。ただ逃げ惑うだけで終わってくれるとは、思えなかった。

 

「レミィ」

 

 パチュリーが背後にいた。振り返らずにスペルを継続していると、彼女は後ろをついてきながら言った。

 

「霊夢よ」

「分かってる」

 

 短く返す。霊夢の握る大幣が、強く光り輝いている。霊力を練り上げて、スペルを撃とうとしているようだ。

 なんとか鎖で集中を妨害したかったが、さすがにそこまで甘くはない。あっという間に霊力を集中させ、スペルカードを掲げてみせる。

 

「来るわ、パチェ」

「えぇ」

 

 離れるパチュリーを確認するが早いか、スペルカードをしまった霊夢が、博麗の札を天高く投げた。

 紅白の札は空中で静止し、分裂、増殖して、やがて七色の霧を覆い尽くすほどの量となり、レミリアとパチュリーの周りを囲う。

 妖怪を縛り上げる秘術、夢符「封魔陣」。上下左右、網の目上にめまぐるしく飛び交う博麗の札は、徐々にその包囲網を狭め、こちらの動きを制限してくる。避けられるように作られているとはいえ、今までのように鎖を振るえないのがもどかしい。

 

「ふん、生意気!」

 

 レミリアは両掌に魔力を込め、札の包囲が完全に動きを束縛してくる前に、真紅の鞭を豪快に振り回した。落ち着きかけていた無数の鎖が再び暴れ、博麗の札を散らし、砕いて、霊夢と魔理沙を強襲する。

 あるいは今の相手が別の者であったなら、反撃のスペルを早々に打ち砕かれ心を乱してくれたかもしれない。だが、霊夢は年に似合わぬ冷静さで、すぐに切り替えしてくる。破壊され霧散した霊力が再び札の形を取り、執拗に動きを封じてくる。

 スペルの中心にいる霊夢は、一種の結界となった博麗の札に守られている。かといって魔理沙を狙おうと思えば、彼女は封魔陣の外だ。あまりに離れすぎているため、大ぶりとなった鞭はあっけなく避けられてしまう。

 せめて接近できれば違うのだが、霊夢の術がそれを許してくれない。何度も鎖を振るっては捕縛術を破壊しているのだが、その度に再生を繰り返し、攻防は一進一退、どちらも譲ろうとしない。

 

 まだあと数十秒ほど時間は残されているが、ここで霊夢を打ち砕かねば、パチュリーが被弾してしまう可能性もある。例えお互いに避け切ったとしても、自分の中で負けだと思ってしまうだろう。それはどうあっても、プライドの高いレミリアが許せることではなかった。

 紅が強く輝き、虹色の霧を一時、鮮烈な血色に染める。魔力をさらに練り上げ、振るった。遠方の魔理沙が退避するほどの破壊力をもって、霊夢の術を一瞬、完全に破壊した。

 瞬間、レミリアが動く。弾幕ごっこなので遊びの範疇が出ないよう加減はしているが、それでも目を見張るほどの高速で霊夢に接近し、魔力の鎖を叩きつける。

 霊夢が明らかな焦りを見せる。素早く後退しつつ術を再構成し、レミリアの周囲が博麗の札で覆われる。包囲陣は一気に狭まり、レミリアを包みこまんとした。

 

 真紅の鎖が霊夢を打つか、博麗の札がレミリアを縛るか。タイミングは非常に際どい。構わず、振りぬいた。

 霊夢の肩に鎖が当たり、小さな巫女の体が吹き飛ぶ。鎖には体に触れる直前に威力が減衰する術式をかけてあるため、大きな怪我にはならないだろう。

 被弾させた、勝ったという優越感は、しかしすぐに消え失せる。時間にして一秒も満たぬうちに、レミリアも博麗の札に包まれ、全身を電流のような衝撃が駆け巡った。

 

 レミリアと霊夢、同時に被弾。両チーム共に残り点数は十四点、カードはあと、五枚。

 

 効力を失った博麗の札が、体から剥がれ落ちていく。まだ体に痺れは残っているが、痛みは霊夢より少ないだろう。見れば彼女は、肩口を抑えてうずくまっている。魔理沙が慌てて駆けつけ、

 

「お、おい霊夢。大丈夫かよ」

「大丈夫よ……。くそ、油断したわ。まさかあの歩く自尊心が、プライド捨ててゴリ押ししてくるなんて」

「だから言ったでしょ、私は本気だって。どうする? 降参して家で手当てしてきてもいいのよ」

「またあなたは、そうやってあからさまに挑発するんだから」

 

 どこで避けていたのやら、ようやくやってきたパチュリーがレミリアの帽子をポンポンと叩いた。もっとも、レミリアの挑発癖は今に始まったことではないので、彼女も本気で咎めているわけではないだろう。

 今も肩を押さえているが痛みは引いたらしい霊夢が、「冗談じゃないわ」と吐き捨てた。

 

「こんなもんで私が参ると思ったの? 言ったでしょ、油断したって。次は気を抜かない、覚悟しなさい」

「ふん、面白いじゃない。せいぜい強がっていればいいわ」

 

 久々の熱い戦いに、すっかり興奮してしまっている。レミリアは霊夢との間に火花が飛び散っているのを感じ、それがまた、たまらなく高揚感を煽った。

 そのすぐそばで、若干蚊帳の外になりかけている二人が、なにやらぼそぼそと言っている。

 

「くっそー、完全に部外者だったな」

「だったら、スペルに飛び込んで避けるくらいしたらよかったじゃない」

「どうせ飛び込むならマスタースパーク撃ちながらがいいな。絶対そっちのが楽しいし」

「いつでも暴れたがりなのね。人間っぽくないわ」

「人間だぜ」

 

 こちらはなぜか和やかなムードだ。パチュリーは魔理沙のことをあまり良く言わないのだが、嫌っているわけではないのだろう。図書館の本を盗まれてもやれやれまったくとぼやくばかりで、機嫌が悪くない限り、本気で怒ったりはしないようだ。

 ともあれ、今はまだ戦いの最中だ。レミリアは二人の間に割って入り、

 

「はいはい、お喋りはそこまでよ。霊夢も立ち直ったことだし、続けましょ」

「そうよ。早くしないと私のご馳走が冷めてしまうわ」

「そんなヘマはしないわよ、うちのメイドは」

「そうか? 咲夜はあぁ見えて、時々ズボラじゃないか」

「料理には手抜きをしないの。変なものを入れることはあるけど」

 

 笑いながら、パチュリーと並んで間合いを取った。ある程度の距離まで離れ、ショットを撃ち合う間合いまで来ると、それだけで体が戦闘の緊張に包まれる。

 虹色の霧が揺れる。レミリアは手の甲を噛み血を飛ばし、魔力弾を作り上げた。

 一斉に動く。パチュリーが下がり、後方から支援してくれている。血の魔力弾を蹴飛ばして、レミリアは高鳴る胸を抑えきれず、凶暴な笑みを浮かべた。

 あまりにも、あまりにも楽しい。フランドールや花子のためであっても、加減などできるものか。 

 吸血鬼の、悪魔の血が騒ぐ。唸る鼓動のままに、レミリアは戦いに没入していった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 紅魔館の庭園上空で繰り広げられる弾幕ごっこに、花子は舌を巻いた。始まってからものの数分でショットとスペルを当てあい、そのスペルもとても高難度で、かつ外から見た美しさときたら、フランドールの霧が薄く見えてしまうほど見事なものだった。

 スペルに霊夢とレミリアが被弾してからしばらく間があったが、もう戦闘は再開し、凄まじいショットの撃ち合いが展開されている。文との決闘の時とは比べ物にならない密度だ。味方の弾幕も合わされば、スペルの中にいるのと大差ないだろう。

 

 今また、パチュリーに気を取られていた魔理沙が、レミリアのショットに被弾した。霊夢と魔理沙の持ち点は、十三点に変わる。

 文と戦った時は、ショットに一度当たっただけで酷く動揺したものだが、箒から落ちかけた魔理沙は何事もなかったかのように跨り直し、すぐに反撃へ出ている。

 肉体的にも精神的にも、なんというタフネス。あれが本当に、人間の少女だというのか。

 

「……すごい」

 

 感動すら覚えて呟くが、花子には大きな不安が芽生え始めていた。あんなにも強い霊夢と魔理沙を相手に、まともな勝負ができるのだろうか。

 感心やら不安やらで半ば呆然と戦いを見つめていると、虹の空を覆い尽くす弾幕を写真に収めた文が、嫌味な口調と共にこちらへ振り向いた。

 

「あら、怖気づいたの?」

「そ、そんなことないですよ」

 

 慌てて取り繕ったが、文はしたり顔で、花子の方をチラチラと見ながら文花帖にペンを走らせ始めた。

 

「ちょっと、何書いてるんですか」

「記事の覚書に決まってるでしょ。弱小トイレ妖怪が吸血鬼と人間の弾幕ごっこに怯えているという」

「変なこと書かないでくださいよ! 怯えてなんて、ないんだから」

 

 とは言ってみたものの、あの弾幕に喜び勇んで飛び込んでいけるかと聞かれたら、頷ける自信はなかった。

 霧を出しつつ瞳を輝かせて観戦していたフランドールが、一転して心配そうに花子の顔を覗き込む。

 

「花子、怖くなっちゃった?」

「う、ううん! そんなことないよ。私は霊夢と魔理沙と弾幕するのが、楽しみでしょうがないよ」

「だよね! 今日はどんな弾幕になるのかなぁ」

 

 強がりをを信じてくれるフランドールに、花子は心中で詫びた。もちろん楽しみだとは思っているのだが、目の前で繰り広げられる戦いを見てしまったせいか、もう観戦するだけでもお腹いっぱいになりつつある。

 そも、紅魔館に滞在している間に遊んだ弾幕ごっこで、一度もレミリアとフランドールに勝ったことがない。別格なのだ。文と同じで、花子の手が届く相手ではない。

 いやしかしと、花子は考えなおす。その別格の文を相手に善戦したのもまた自分自身なのだ。あれからさらに上達したし、もっとうまくやれるのではないか。あの時のように本気になれれば、きっといい戦いができるはずだ。

 とはいえ、今回の異変には、文との決闘ほど熱くなる理由がない。悔しいが、我を忘れるほど全力を尽くせる気がしなかった。

 

「ずいぶんと考え込んでるわね」

 

 いつの間にか俯いてしまっていると、文の声が聞こえてきた。そちらを見ると、カメラのレンズが花子に向けられているではないか。思わず手で顔を覆い、

 

「ちょ、ちょっと! 勝手に撮らないで!」

「はいパシャリー。時すでに遅しです、いい写真が撮れたわ」

「もう、酷いんだから」

 

 文句を言ってみても、文の耳には聞こえていないようだ。相変わらず嫌な人だと吐き捨てたくなったが、おかげでわずかに気が晴れたので、悔しいが感謝の念も覚えていた。

 唯一助け舟を出してくれそうな小悪魔をチラリと横目で見てみるも、彼女はパチュリーの応援に一生懸命なようで、花子と文のやりとりに気づいていない。主を慕っている良い使い魔だが、今だけは自分を見てほしいと、花子はうなだれた。

 

「霊夢も魔理沙も、余計なことを考えながら避けられるような弾幕は使わないわよ。あんたのそれは、全部無駄ってこと」

 

 花子なりに一生懸命がんばろうとしているというのに、文の言い方は明らかに馬鹿にしていた。少し、ムッとする。

 

「分かってるもん。弾幕ごっこの時は、ちゃんと弾幕を避ける方法を考えます」

「だから、それがダメだって言ってるの。私とやった時もそうだったけど、花子は変に頭を使おうとするから、余裕がなくなるのよ。避けるのはそこそこやれるのに、自分を信じられてないんじゃ、せっかくのセンスが無駄になってしまう。宝の持ち腐れね」

「……じゃあ、どうしたらいいんですか?」

 

 好き勝手に分析された気がして、花子は腹が立っていた。分かったような口を聞くなと言ってやりたかったが、文は教えを請われたと取ったらしく――あるいは、最初からそのつもりだったのかもしれないが――、小さく肩をすくめる。

 

「直感よ。第六感ではなく、第一感を磨くこと。目に入って、感じた瞬間のそれが正解だと信じる。今の瞬間を大事にすれば、自然と取るべき道も見えてくるし、余計なことを考えないから弾幕の全てが楽しめるようになるわ」

「直感……ですか」

「そう。『どんなものでも楽しめるようになった時、初めて本当のスペルカードの魅力が見えてくる』。魔理沙の言葉だけど、人間にしてはなかなか的を得た発言ね。どんなに難しい弾幕を前にしても、楽しんでやろうと思うだけで、肩から力が抜けていく。もちろんこれはスペルカードだけに言えることじゃないけど、弾幕ごっこじゃ、余裕の差というのは特に顕著に出てくるもんよ」

 

 思えば、フランドールやレミリアと弾幕ごっこをする時、花子はいつも効率ばかりを考えていた。楽しくなかったわけではないが、それでも勝ちに執着したり、もっと強くなりたいと思うばかりで、吸血鬼姉妹の弾幕の美しさに心躍らせることなど、ほとんどできなかった。

 文の言うとおりに思い切り楽しむことができれば、身も心も弾幕に溶けこませることができれば、それはさぞ素晴らしいことだろう。

 

「できるかな、私に」

「できるよ。花子は強いから」

 

 少しだけこちらを向いたフランドールが、笑ってくれた。花子の言葉をどう取ったかは分からないが、その笑顔は花子にとても大きな勇気を与えてくれる。

 楽しもう、フランドールと一緒に、精一杯遊んでみよう。そう心に決めると、それだけで不安は払拭されていった。霊夢達の凄まじい弾幕を見るだけで、早く体験してみたいと、どんどん心が訴えてくる。

 

 上空で、レミリアが魔理沙のレーザーに被弾する。フランドールと小悪魔が悲鳴に近い声を上げる。レミリアとパチュリー、一点の減点。これで、お互いの持ち点は十三点。

 再び同点となった弾幕ごっこはさらに激しさを増し、花子ではもはや目で追いかけるのがやっとという状況だ。

 見れば見るほど緊張し、体が強張る。鼓動がどんどん早くなり、思わず握りこぶしを胸に押し当てた。

 

「……すごい」

 

 圧倒的な美しさを誇る弾幕を前に、花子はそれ以外の言葉を出すことが、できなくなっていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 最近の人間――特に女の子は、何か異様な進化でもしているのではないか。下手をすれば、そこらの人食い妖怪より彼女らのほうがよほど化け物じみている。迫りくるレーザーや霊力弾を避けながら、パチュリーは顔をしかめる。

 霊夢については、彼女は明らかに別格なので、もはや何も言うまい。しかし、問題は魔法使いを自称し、実際に魔法を研究し会得している魔理沙の方だ。異変のたびに成長していき、弾幕ごっこやスペルカードルールに則った戦いでは、大妖怪にすら比肩する強さを身に着けている。

 ここ最近の異変では、彼女ら二人に加えて山の上にある神社の巫女や半人半霊の庭師までもが解決に乗り出している始末で、里の退治屋はいよいよお役御免になりつつあるとか。考えてみれば、紅魔館の住人である咲夜も、あれだけの力を持っていながら、やはり人間だ。

 スペルカードルールが提案された数年前は、まさか人間がここまで強くなるとは思ってもみなかった。あの頃から霊夢と魔理沙は人間以上の力を持っていたとは思うが、それにしても――

 

「パチェ!」

 

 レミリアの声で、我に返る。思考に耽る悪い癖が出てしまったらしく、状況がまるで見えていなかった。魔理沙のレーザーが、もう目の前にある。

 避けきれるかどうかを考えている暇もなく、反射的に頭を守った左腕に、激痛が走る。

 パチュリー、ショットに被弾。紅魔館組の持ち点は、これで十二点に減少した。 

 油断していたというより、レミリアと組んでいる安心感に身を預けすぎた。言い訳にしかならないが、久々の弾幕ごっこに感覚が戻ってこないというのもあるかもしれない。

 腕を抑えて痛みが引くのを待っていると、八卦炉を右手で(ほう)っては受けて遊びながら、魔理沙が唇の片端を吊り上げた。

 

「おいおい、当たりすぎだぜ、パチュリー」

「あら、まだ二回よ。あなたも人のことを言えないのではないかしら?」

 

 言い返してから、レミリアの方を見る。目が合っただけで伝わり、首肯してくれた。

 冷静沈着をモットーとしているとはいえ、自称魔法使いにやられっぱなしではいられない。パチュリーにも、生粋の魔女としてのプライドがある。

 カードを召喚する。レミリアと同じ柄のスペルカード、色は燃えるような火色。スペルカード宣言、パチュリーとレミリアの残り枚数は四枚となる。

 

「あなたに魔法の授業をつけてあげるわ。感謝なさい」

「ほう、そいつは楽しみだ」

 

 まったく余裕を崩さずに、魔理沙が離れていく。霊夢もショットを中断し、身構えた。

 魔導書を広げ、詠唱を始める。本が赤く光り輝き、魔術式が展開される。魔方陣が空一面に広がり、パチュリーの周囲に炎弾が出現した。虹色の霧を焼き払わんほどの量だ。

 火符「アグニシャイン」。燃え盛る魔術の炎弾は、渦を巻きながら広がり空を飲み込んでいく。無造作に動くのではなく、避けられるように一定のムラを用意してある、基本魔法の一つだ。

 この程度の魔法なら、恐らく魔理沙でも使えるだろう。だが、基礎は徹底して極めれば極意となる。この魔法がまさにそうで、これほど精密な炎の渦を作れる魔法使いはこの世に自分一人だけだと、パチュリーは自負していた。

 綿密な無造作を描く炎の渦に、魔理沙と霊夢が被弾した気配はない。二人のスペルは残り五回、カード一枚分の余裕がある。反撃が来ると見たほうがいいだろうが、下手に動いて集中を崩されるのも嫌だった。

 同じ事を考えたのだろうレミリアが、炎弾をくぐり抜けてパチュリーのそばまでやってきた。

 

「カウンターが来るかもしれないわ」

「分かってる。私は飛行に魔力を割きたくないから、レミィ、頼める?」

「任せて」

 

 背後から抱きつくようにパチュリーを抱えて、レミリアが飛ぶ。動いたせいでわずかに集中が揺らぐが、自分で飛行するよりはずっといい。

 吹き荒れる火炎の間から、霊夢と魔理沙の様子が伺えた。危なげなくムラを見つけて回避している。悔しいが、やはり一筋縄ではいかない。

 スペルの残り時間は、あと二分といったところか。焦ることなく、徐々に火炎渦の規模と密度を上げていく。あくまで避けられるようにはしてあり、少しでも慌てさせることが目的だ。

 火炎に分断された霊夢と魔理沙は、だんだんとその距離を開いていき、やがてパチュリーを挟んで対角の位置にまで移動を強いられた。これでお互いにフォローし合うことは難しくなったはずだ。

 時間は刻一刻と過ぎていく。避け切られて加点となればしばらくショットで粘らなければならなくなるが、それを気にするよりは今に集中したほうが得策だ。淡々と、まるで図書館の大時計になったかのような心で、時を数えていく。

 

「来たわ。二人ともよ」

 

 レミリアが告げる。見れば、霊夢と魔理沙が挟み撃ちをするかのように、同時に迫ってきていた。炎の間をかいくぐり、かなりの熱波にも動じず、恐れず、一心に突っ込んでくる。

 仕掛けてくるのは、一人だ。一目見ればすぐに分かる。少女に似つかわしくない攻撃的な、それでいて真っ直ぐ純粋な瞳。

 

「魔理沙よ、レミィ」

「うん」

 

 返事が聞こえた直後、霊夢が停止し回避に専念しつつ、再び下がっていった。息を合わせたのではなく、魔理沙が仕掛けると判断しての撤退だろう。

 高速で移動するレミリアとパチュリーを追いかける魔理沙が、チャームポイントである三角帽子が描かれた白黒のカードを取り出した。カード宣言、霊夢と魔理沙の残り枚数は四枚に減る。

 指に挟んだスペルカードを、魔理沙はパチュリー達に向かって投げ飛ばした。それそのものが弾幕になるわけでもなく、パチュリーもまたカードには目もくれず、その向こうに光るミニ八卦炉を注視する。

 

「魔法ってのは、やっぱパワーがないとさぁッ!」

 

 八卦炉が輝いた刹那、放出された巨大なレーザーが、自身のカードと炎の渦を吹き飛ばす。

 恋符「マスタースパーク」。フランドールの霧やその向こうにある雲さえもかき消す怒涛の光線が、幻想郷の空を貫いた。

 抱えてくれているレミリアのおかげで避けられたものの、次弾がある。魔理沙のマスタースパークは、一分ほどの制限時間の間、狙いを定めては連続でぶっ放してくるのだ。

 

「パチェ、スペル!」

 

 友の声で集中力を取り戻し、パチュリーは再び自分の魔法に没頭した。火炎の渦が再生し、霊夢と、何より狙いをつけてくる魔理沙を邪魔するように蠢く。

 しかし、妨害の効果は薄い。あたかも炎などそこにないかのように、光の奔流が突き抜けてくる。七色の空を真っ白に染め上げるレーザーを、レミリアに抱えられたまま避けるたびに、スペルへの集中力が途切れた。

 魔法の再構成が終わる前に、魔理沙の三撃目が放たれる。容赦のないマスタースパークの乱射は、いかにも火力第一主義者の魔理沙らしい。

 それでも、魔法という分野で人間に負けてやるわけにはいかない。持ち前の集中力で魔術式を即再構成し、炎の渦をまとめあげる。残り時間は少ないが、もともとが長いスペルだ。恐らく魔理沙のスペル時間も、同じ程度しか残っていないだろう。

 

「自信を持って。あなたの魔法、とっても綺麗よ」

 

 パチュリーを抱えて避けてくれているレミリアに囁かれ、ハッとする。苛立っているつもりはなかったが、それでもわずかに浮き足立っていたらしい。

 

「ごめんなさい、ありがとう。もう大丈夫よ」

 

 小さな変化に気付いてくれた親友に感謝しつつ、小さく呼気を絞りだす。

 息を吐ききった直後、再び閃光が煌く。すぐにレミリアが上昇し、二人は愚直なまでに真正面から放たれた巨大なレーザーを躱す。魔理沙が舌打ちをし、箒をグンと上に向けて、こちらに急上昇してきた。

 もう急がない。確実に、精密に、炎を繰る。魔理沙が動いている以上霊夢が攻勢に出ることはなく、守りに徹している彼女を落とすことは難しいだろう。

 

 スペルの残り時間が少なくなってきた。ラストスパートをかけるべく、左手に持つ魔導書に魔力を注ぐ。魔導書の輝きがさらに増し、レミリアとパチュリーの白い肌が赤く照らされた。

 渦をなす炎弾が巨大化し、火の蛇のようだったそれは、瞬時に獄炎の龍と化す。パチュリー自身の魔力なので熱さは感じないが、彼女以外の存在には例外なく熱が届いているはずだ。

 

「レミィ、平気?」

「この程度じゃ、私は燃やせないわよ」

「……ふふ、そうね」

 

 安堵は一瞬、二人はその場から水平に離脱した。駆け抜ける光の奔流は、魔理沙がまだ諦めていないことを示している。

 轟々と渦巻く炎の中にありながら、彼女の瞳に恐怖や焦りは一切ない。普段の飄々とした態度からは想像できない、熱情に溢れる眼光だ。たかが遊びと割りきらず、全てに真剣に打ち込む強さを、魔理沙は持っていた。

 しかし、それはパチュリーとて同じ事だ。特に魔法の研究開発において、十年そこらしか生きていない小娘に負けてやるわけにはいかない。

 

 炎に遮られて、魔理沙の姿が見えなくなる。魔導書に魔力を注ぐ手は休めず、パチュリーは背後に短く告げた。

 

「レミィ、お願いがあるの」

「分かった。うまくやるのよ」

 

 何かは訊ねず、レミリアはパチュリーを抱いていた手を離した。そのままそこに留まるレミリアを置いて、炎弾に身を隠しながら移動する。

 魔理沙はこちらに気づいておらず、レミリアに向かってマスタースパークを放った。恐らく、撃ててあと一発といったところだろう。

 

 アグニシャインの残り時間は、もう二十秒もない。できる限りの速度で、パチュリーは魔理沙の背後を取った。レーザーにかき消された炎の先には誰もおらず、周囲を見回した魔理沙がこちらに気づく。ようやく、彼女が焦る姿を見ることができた。

 完全に不意をついた。一気に魔力を増幅させ、炎弾の渦がさらに勢いを増す。霊夢はフォローに入るだろうかと気になったが、もしそうなったとしても、レミリアが何とかしてくれるはずだ。

 

「くそッ!」

 

 吐き捨て、魔理沙が八卦炉をこちらに向ける。想定の範囲だ。予定外の行動は取られていない。レミリアと離れてから今まで、全て、計算通り。

 パチュリーを狙う魔理沙の背後で炎の渦が崩れ、複数の炎弾を形成する。魔理沙の八卦炉が輝くより早く、炎は一斉にその背中へと襲いかかった。

 音は殆どなく、しかし体が跳ねるほどの衝撃を持って、炎弾は魔理沙に激突した。一瞬強く光った八卦炉が、急速に魔力を失っていく。

 

 魔理沙、スペルに被弾。持ち点は十点にまで減少する。スペルを避けきる前の被弾なので、レミリアとパチュリーに得点の変動はなく、十二点のままだ。

 

 炎は魔理沙の服を燃やしたりはせず、衝突した直後に霧散して消えた。魔理沙が歯を食いしばっているのは、痛みに耐えているからか、それとも悔しさを噛み殺しているからか。

 

「あらあら魔理沙、当たりすぎじゃないかしら」

「……むかつくぜ」

 

 笑みを浮かべてはいるが、彼女の眉は言葉通り、ぴくぴくと痙攣している。

 炎が全て完全に消え、レミリアがパチュリーの元へと飛び寄ってきた。余計な言葉はなく、視線だけでうまくいったことを讃え合う。

 一方、魔理沙のすぐ後ろにやってきた霊夢は、とんがり帽子の上に大幣を振り下ろした。鈍い音が鳴り響く。魔法の被弾よりも痛いのではと、パチュリーは眉を寄せた。

 

「なにやってんのよ。よりによってスペルに当たるなんて」

「お、お前だってレミリアのに当たったじゃないか!」

「私は自分のスペルも当てたわ。つまりノーカンよ」

「ノーカンじゃねぇよ! くそ、まだ中盤だ。私の本領はここからだぜ」

 

 被弾のダメージが残っているだろうに、魔理沙は気丈に言い張って帽子をかぶり直した。まさか降参させられるとは思っていないが、やはり気の強い少女だ。

 そして魔理沙以上に気が強く図太い霊夢は、一秒でも早くことを片付けたいのか、仕切り直しの間合いに戻りつつ、もう霊力弾を召喚し始めている。その様子を見ながら腕組みをしつつ、レミリアが呟いた。

 

「霊夢ったら、あんなに急いで。そんなにうちのご飯が食べたいのかしらね」

「それだけではないと思うけれどね。こんなわけの分からない異変だし、さっさと終わらせたいんでしょう。あぁ、分かる気がするわ」

「パチェは分からないでよ」

 

 唇を尖らせて拗ねるレミリアに、パチュリーは微笑を答えとした。

 魔導書を広げる。ショットの魔法を構成しつつ、わずかに上がり始めた息を整えた。魔理沙の言った通り、まだまだ中盤戦なのだ。

 レミリアが血の魔力弾を生成し、霊夢達に向かって飛び出した。同時に全員がショットを打ち出し、弾幕ごっこが再開される。フランドールや花子のために負けてやらなければという気持ちは、もうパチュリーからもすっかり失せてしまっていた。

 魔法への――弾幕への静かな情熱が、パチュリーの魔力をさらに強く、もっと高く、どこまでも洗練させていく。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 相変わらず目が痛むが、文はそれでもカメラを覗いて弾幕ごっこの様子を写真に収め続けた。前座の戦いとはいえ、紅魔館正門の上空で繰り広げられる猛者四人の戦闘は、それだけで大衆受けする記事になり得るほどの美しさを持っていたからだ。

 どうやらスイッチが入ってしまったと見えるレミリアとパチュリーは、退治に来た二人を追い返さんほどの勢いで弾幕を展開している。最初こそ歓声を上げていたフランドールの顔に心配そうな表情が浮かんでいるのは、自分達に出番が回ってこないかもしれないと思っているからだろう。

 紅魔館の数少ない理性役の一人である小悪魔は、やはり応援に一生懸命な様子だ。普段は見られないほどはしゃいでいるが、写真に収めてもあまり面白い絵にはならない。しかし霧を出すフランドールは何枚も撮ってしまったし、真の主犯――本人は否定しているが――の花子は、立ち尽くすように弾幕ごっこを眺めている。

 

「……」

 

 呆然と弾幕を見上げている姿は、後ろから見ても呆けているようにしか見えない。余計な世話をする義理はなかったが、なんとなくイラッと来た文は、小さなおかっぱ頭を文花帖の角で叩いた。

 

「あいたっ。なにするんですか」

 

 頭を抑えて、花子が振り返る。目尻に涙など溜めているが、とりあえず正気には戻ったらしい。

 溜息を一つ、文は首を振りつつ告げる。

 

「さっきから、ぼけっとしてんじゃないの」

「うっ。ぼけっとしてました?」

「してたわよ。しっかりしてよね。あんたがいい戦いしてくれないと、トップニュースにできないでしょうが」

 

 半分は本気で言うと、花子は「私には関係ないです」とそっぽを向いてしまった。友達にはとてもいい笑顔をするくせに、文の前ではずいぶんと可愛くない少女である。その原因が己にあると、分かってはいるのだが。

 文句を吐くだけの元気は出たかに見えたが、花子はまたすぐに弾幕を見上げて、黙ってしまった。落ち込んでいると取った文は、花子もやっとまともな妖怪になってきたかと思っていたので、軽い落胆を覚える。

 

「まったく、紅魔館で怠惰に過ごしたせいで、すっかりたるんでしまっているのね」

「別に、そういうんじゃないです」

「じゃあどういうのよ。もう怖くて逃げ出したいんでしょ?」

 

 すっかり冷めた気持ちでぶっきらぼうに言葉を投げつけると、予想に反して、花子は突っかかるように言い返してきた。

 

「だから、そうじゃないってば。そりゃ、魔理沙のでっかいレーザーは、ちょっと怖いなって思いましたけど。でも、私は萃香さんの弟子で、こいしちゃんにいろんなことを教えてもらったし、フランちゃんやレミィだって、手加減しながらいっぱい弾幕ごっこに付き合ってくれたんです。こんなところで、逃げたりなんかしないんだから」

「……じゃあ、どうして呆けてたのよ。どちらの応援もしないで」

「だってみんなの弾幕、とても綺麗なんだもの。弾幕を楽しめって言ったの、文さんじゃないですか」

 

 思いもよらぬ言葉に、文は驚きを隠せなかった。小言をくれてやったのはつい先程だというのに、もう気持ちを切り替えている。その言葉が虚勢ではないことなど、彼女の態度を見れば嫌でも分かってしまう。

 

「避けられるかなぁ。でも、霊夢の弾幕も、もっと近くで見てみたいなぁ」

 

 子供らしい笑顔で呟く花子の瞳は、無邪気すぎるほどに輝いていた。文の苦言をこうも簡単に実践するとは。先ほど抱いた落胆は、完全に文の思い込みだったようだ。

 文の中にあった御手洗花子へのイメージが、完全に崩壊した。今の彼女ならば、レミリアやフランドールには並べなくとも、あるいは新聞の一面を飾れるほどの戦いを繰り広げてくれるかもしれない。

 

 まだまだ、花子には伸び代がある。いつか挑まれるであろうリベンジを思うと、文は不覚にも、武者震いを覚えるのだった。



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そのにじゅうろく 異変!七色の霧と弾幕地獄!(3)

 

 

~~~

 

 

 三枚目だよ。

 

 

 時計台の屋根の上から、今もレミィ達の弾幕を見ているよ。スペルが出るたびにドキドキして、ずっと見入っちゃうんだ!

 

 私の弾幕を見て、みんなはどう思うのかな。綺麗だと言ってくれるかな? 太郎くんにも、見てもらいたいな。

 

 どちらもすごくて、私なんかじゃ勝ち負けの予想なんて、全然できなかったの。でも、まさかあんなことになるなんて。

 

 なんて驚いているけれど、その出来事の理由を作ったのは、実は私でもあるんだよね。あぁ、後で怒られるのだろうな。

 

 何が起きたのか、気になっているよね。もったいぶるのは私の悪い癖かな?

 

 それじゃあ、教えてあげる。実はね――

 

 

~~~

 

 

 虹色の霧に包まれた空で、激しい弾幕が飛び交う。レミリアとパチュリーの魔力弾を躱しながら、霊夢と魔理沙は各々のショットを放つ。

 紅霧異変後、レミリアやパチュリーとは度々顔を合わせているし何度も弾幕ごっこをしているが、今日の二人は何かが違うと霊夢は感じていた。特に、レミリアの方だ。気合いが入っているというか、いつも以上に精密な狙いをつけてきている。

 大小さまざまな紅い魔力弾を避けながら、なぜあんなにも張り切っているのだろうと、ぼんやりと考える。やはり花子が原因だろうか。しかし、彼女らの目的は勝つことではないはずだ。

 熱くなりすぎているのかもしれない。この場には見知った顔しかいないので、気取らないで戦えていることも原因か。

 

 血の魔力弾をぎりぎりまで引きつけ、当たる寸前で身を捻り回避。同時にショットを放ち、霊力弾はレミリアの右足に当たった。一点の減点、レミリアとパチュリーの持ち点は、残り十一。

 ロングスカートが裂けてしまったが、ここにいる誰もが、もう綺麗な衣服ではない。レミリアも気にせず立て直し、すぐに反撃に出てきた。

 散弾のような紅い魔力弾の間を抜け、もう一撃見舞って同点にと思ったが、直後にそれを諦める。左右から挟みこむように、パチュリーの長いレーザーが迫っていた。魔理沙の光線と違い、腕の延長のように伸び続けている光線だ。

 パチュリーとペアで挑まれたのは初めてだが、こうも連携がうまいとは。舌打ちしつつ、一旦後退する。魔理沙が援護のショットを撃ってくれたので、パチュリーとレミリアも間合いを離してくれた。

 

 ショットを撃っても牽制にすらならない距離に下がり、箒の上でレミリア達を見据えている魔理沙に、霊夢は一言訊ねた。

 

「どうする?」

「私が行くぜ。今日は星成分が多いんだ」

「そう」

 

 星成分とやらについて霊夢はよく知らないが、どうやら空気中に存在している魔力のようなものらしい。魔理沙の魔法は、その星成分を使っていることが多いと聞く。

 撃ち合いが再開する前に、魔理沙がスペルカードを取り出した。カード宣言、三枚目。残りは三枚となる。

 カードをしまい、魔理沙が箒を加速させた。上空に舞い上がり、八卦炉を掲げる。目に見えない星成分が魔理沙の八卦炉に集まっていくのを、霊夢は気配で感じた。

 魔法の発動にレミリアとパチュリーが身構えた瞬間、魔理沙の八卦炉から、小さな星が噴水のごとく噴き出す。

 魔符「ミルキーウェイ」。星は空中で徐々に大きくなり、悪魔と魔女に降り注ぐ。星は空気中の星成分と干渉し、星成分は新たな魔力弾となってレミリア達を襲う。

 弾幕はパワーが信念の魔理沙だが、時にはこうした『らしい』弾幕を使うこともある。本人が楽しいかどうかは別として、このスペルは弾の形状が独特な上に突然魔力弾が生まれるため、避ける方は非常にやりづらい。

 この遊びにおいて、弾幕に火力はあまり意味がない。気絶狙いという戦法もあるにはあるが、妖怪が相手ならば威力がなくても避けづらい方が強い。弾幕ごっこには人一倍こだわりがある魔理沙がそれを知らないわけもなく、勝たなければならない場面では、こうした器用な魔法を惜しみなく使うのだ。

 それにしても、と霊夢は唸った。魔理沙はまた成長している。弾幕を見るたびに強くなっている。彼女を見ていると努力にもそれなりに価値があるのではと思ってしまう。

 

「……思うだけだけどね」

 

 言い訳気味に呟いて、腕組みを解き、霊夢は動いた。レミリアが星のシャワーを突破したのだ。このままでは、上空に回り込まれる。星の噴水に守られているとはいえ、レミリアの反撃を防げるほど魔理沙の魔法は強くない。

 少しでもレミリアに肉薄してスペルの発動を遅らせたかったが、スピードで彼女に敵うはずもなかった。颯爽と移動したレミリアが、真紅のカードを召喚する。

 カードを掲げ、レミリアが紅い瞳を光らせた。レミリアとパチュリーの残り枚数は、これで三枚となる。

 

「いくわよ」

 

 腕を噛み切って、レミリアは血濡れの唇を歪めながら両腕を空に突き上げた。大量の血液がふわりと舞い散り、瞬時に膨張、ショットとは比較にならないほどの大きさと量の魔力弾が形成される。

 無数の魔力弾が、一斉に動く。紅符「スカーレットマイスタ」。次々と生み出される血の弾丸は、スペルにパチュリーを捉えて動けない魔理沙を狙う。

 やたらめったらな力技に見えても、スペルは必ず避けれるように配置されている。それを知っている魔理沙は、スペルを中断せずに細かく動き、冷静に第一波を避けきった。だが、スペルを発動しながらの回避は、やはり危うい。

 残りカード枚数に余裕はない。しかし、言ってもいられない。霊夢はポケットに手を突っ込んで、カードを引っ張り出す。カード枚数は、これで二枚にまで減った。

 

「宣言!」

 

 聞こえるように叫んでやると、レミリアが目を見開いてこちらを見てきた。星のシャワーを避けるのに必死なパチュリーにも、聞こえただろう。霊夢は素早く術式を編み上げる。

 警戒するかと思われたレミリアが、こちらを見もせずに腕を噛んで血を振り撒き、第二波の弾幕を作り上げようとした。魔理沙が歯を食いしばるのが見えた。間に合うか――。浮かんだ雑念を振り払い、霊夢は術を発動させる。

 今までのどの札よりも強く輝く博麗の札を、投げつけた。たった一枚なので簡単に避けられたが、何か挑発めいたことを言おうとしたレミリアが、直後、焦燥に包まれる。札が弾け、聖なる光の柱が発生、レミリアを飲み込んだ。

 神技「八方鬼縛陣」。光の柱に被弾判定はないが、その光は妖怪人間問わず、動きを強烈に縛り付ける。レミリアはほとんど身動きが取れなくなり、作った血の魔力弾が霧散し消えていく。

 

 一見すれば反則的な技だが、この術には致命的な欠点があった。それは、自分もほぼ動くことができなくなるということだ。本来のスペルカードルールならまだしも、弾幕ごっこでは使い物にならないスペルだった。

 しかし、タッグバトルとなれば話は別だ。レミリアの動きを縛り付け、魔理沙がスペルに集中を始める。これで実質、魔理沙とパチュリーによる一対一の戦いとなった。

 

 そう思った、次の瞬間。

 

「霊夢!」

 

 聞こえたのは魔理沙の声だ。まさかと思って見れば、星の雨を避けながら、パチュリーがスペルカードを召喚しているではないか。カードの色と魔導書の輝きは、翠玉(すいぎょく)色。残り枚数は、双方共に二枚。

 魔理沙への反撃であってくれという思いは、あっけなく潰えた。霊夢の真下――紅魔館の庭が大きく隆起し、カードと同じ色をした巨大な宝石が、霊夢目掛けて真っ直ぐ立ち上がってくる。

 土金符「エメラルドメガロポリス」。外の大都市にあるビルという建物をイメージしたらしいエメラルドの塊は、近づくにつれてその大きさを知らしめてくる。舌打ちをこぼしつつ、霊夢は術を解いた。その場から離れ、真後ろにそびえ立った魔法の石を振り返りもせず、レミリアの様子を伺う。

 まるでパチュリーの反撃を読んでいたかのように、もうスペルの魔力弾を精製して魔理沙を狙っている。

 

「やらせないッ!」

 

 再び術を発動し、レミリアを縛る。しかし、少し遅かった。魔力弾の多くが射出されてしまう。少しは量を削れたものの、それでもショットとは比較にならない。なんとか避け切れたらしい魔理沙も、冷や汗を隠せていなかった。

 光の柱に包まれているレミリアが、にやりと笑う。間に合わなかったことへの嘲笑と取りかけたが、すぐに気づく。先ほどの宝石は消え、新たなエメラルドが足元に迫っていた。

 やむを得ず術式を解き、再びエメラルドを回避、すぐにレミリアを捕縛する。しかし、その抵抗も強い。スペルの残り時間以上に、霊夢の霊力が削られてしまう。

 

「魔理沙、早く!」

「分かってるから黙っててくれ!」

 

 自分を守るように頭上から星を出していた魔理沙は、八卦炉を真下に向けた。噴水のように溢れていた星は一転、流星の瀑布となり、パチュリーを押し潰さんと流れ落ちる。

 慌ててくれればと思ったが、パチュリーは星の滝にいながら冷静に場所を選んで移動し、魔法を詠唱し始める。その過程の滑らかさには驚いたが、真下の地面が盛り上がるのを見て、霊夢はまたも術を解くはめになった。

 青緑の岩塊を躱し、レミリアの足元を追跡する札に霊力を込める。八方鬼縛陣のスペル時間は短い。あと何度、彼女らの動きを封じられるか。難しいところだった。

 考えている猶予はない。術を発動させ、レミリアを縛りつける。まさに魔力弾を放つ寸前だったらしい彼女は、苛立たしげに霊夢を睨みつけてきた。

 

「ざまぁみなさい」

 

 ほくそ笑みながらも、頬を汗が伝う感触だけは騙せなかった。霊力で相手を縛る術は、酷く消耗する。それがレミリアほどの大妖怪となれば、なおさらだ。

 捕縛術が切れてしまうと、回避と見なされ相手に加点となる。魔理沙がレミリアを狙う手も考えたが、そうなればパチュリーが自由になってしまう。全員がスペル発動中となると、好きなように身動きが取れないのだ。霊夢が攻勢に出ていれば、少しは違ったのかもしれない。

 

「この術を選んだのは、失敗だったわ」

 

 後悔の念を呟いたところで、気持ちが楽になるわけでもない。刻一刻と迫る時間制限に、焦りが募るばかりだ。

 思考に気を取られたのか、霊夢は一瞬、術の霊力を弱めてしまった。直後にレミリアが捕縛を打ち破り、光の柱が消滅する。レミリアは血の魔力弾をすぐさま生み出し、魔理沙へと放った。

 刹那の出来事だった。攻撃に力を入れている魔理沙が避けられる保証はない。

 ならば、敵の被弾率を上げるまでだ。捕縛術の時間は、まだわずかに残っている。博麗の札を作り出し、霊力を込める。札が白く輝き、新たな捕縛術を完成させた。

 パチュリーが気づき、魔法を放つ。渾身の一撃だ。大地を揺るがす轟音と共に、幾本ものエメラルドの塊が霊夢に迫る。その隙間をくぐり抜けながら、パチュリーへと札を投げる。一直線にパチュリーの下へ滑り込んだ札が、弾ける。

 もう足元まで来ていたエメラエルドが、消滅した。時を同じくして、光の柱が立ち上る。パチュリーを縛ることに成功したのだ。こうなれば、後は魔理沙のスペルに任せるのみ。

 しかし、容易ではない。レミリアのスペルもまた、今まで以上に力を入れている。星の滝を埋め尽くす血の散弾のなかで、果たして魔理沙は避けられているのだろうか。

 

 ほんの数秒にも満たない時間が、酷く長く感じられた。捕縛術に力を入れる中で聞こえてきた衝撃音は、誰かが被弾した音だ。

 全員が一斉に、スペルを中止する。見てみると、避け切ったらしい魔理沙は、どうだとばかりに自慢げな顔を霊夢に向けている。

 被弾したのは、パチュリーだった。ふらりと揺らいで、真っ逆さまに落ちていく。レミリアが悲鳴を上げる。

 

「パ、パチェ!」

 

 パチュリー、スペルに被弾。レミリアとパチュリーの残り点数、八点。全員がスペル発動中だったため、霊夢と魔理沙に点数変動はなく、十点から変わらず。

 

 一番近くにいた魔理沙が駆けつけるより速く飛び寄り、レミリアがパチュリーを抱きとめた。

 逆転した喜びを味わっている暇はなく、霊夢もパチュリーの元へと急ぐ。一応は敵対関係とはいえ、彼女には世話になることもあるし、弾幕だけでなく酒も交わす仲だ。さすがに心配になった。

 魔理沙と並んで、様子を伺う。レミリアの腕の中で、パチュリーが小さく呻き声を上げた。

 

「うっ……」

「大丈夫? どこに当たったの?」

「あ、頭よ……。真上から降ってくるんだから、当たり前でしょ……」

 

 苦しげに漏れる声に、どうしたらいいか分からないらしいレミリアが、霊夢に視線で助けを求めてきた。突然振られて困ったが、兎にも角にも確認しなければならないことがある。

 酷なことで言い難くはあるが、聞かねば始まらない。霊夢ははっきりと訊ねた。

 

「どうすんの? 戦えるの?」

「……残りは二枚で、点数は八対十か。決着までは遠いわね」

「パチェ……」

 

 心配そうな親友に顔を覗きこまれ、しかしパチュリーは笑った。

 

「咲夜と美鈴は降参だったんでしょう、魔理沙?」

「そうだな。逃げられたぜ」

「なら、逃げるわけにも行かないわ。紅魔館の、レミィの沽券に関わるから」

 

 よほどレミリアが大事と見えるパチュリーは、なんとか自力で飛んだ。ふらふらと非常に危なっかしく、レミリアに肩を支えられている状態だ。とても戦える様子ではないし、彼女自身もそれは分かっているだろう。

 しばし思案してから、パチュリーは霊夢に向き直った。

 

「悪いけど、私はこれまでよ。でも、レミィはまだ戦える」

「二対一になるわよ? 勝ち目があると思ってるの?」

「厳しいでしょうね。だから、私は交代しようと思うの。どうかしら、ルール違反ってことにはならないと思うのだけれど」

 

 唐突な提案に、霊夢は魔理沙と目を見合わせて驚いた。タッグルールですら珍しいというのに、交代とは。確かにルールで定めていないし、所詮は遊びなので厳しくするつもりもない。しかし、花子にしろフランドールにしろ、ここで体力の有り余った者が入ってくるのは――

 

「いいぜ、面白いじゃないか」

「ちょ、魔理沙!」

 

 勝手に答えられ、霊夢は慌てた。しかし、魔理沙は言葉通り楽しそうに、

 

「いいじゃんか。二対一で叩きのめすより、正々堂々のが気持ちいいだろ? それとも、もしかして加勢をビビってたりするのか?」

「冗談じゃないわ。楽勝よ」

 

 ふんと鼻を鳴らしてから、まんまと乗せられたことに気がついた。反射的に堂々と答えてしまったので、前言撤回することもできまい。ムッと頬を膨らませて魔理沙を睨むが、笑い飛ばされてしまった。

 困惑の中に置いてけぼりになっているレミリアに、パチュリーが振り返る。

 

「そういうことよ、レミィ」

「ど、どういうこと?」

「聞いてたでしょう? 私は交代よ」

 

 オロオロと狼狽しているレミリアは、歳相応の子供にしか見えない。先ほどまであんなに戦闘狂の一面を見せていたというのに、その姿を思い出せなくなりそうなほどだ。

 

「交代っても、誰とするの? フランと花子はダメよ、あの子達はあとで一緒にやるんだから」

「分かってるわよ。大丈夫、ちゃんと考えているわ」

 

 紅魔館の方を向くパチュリー。釣られて、皆が同じ方向へ視線を動かす。

 もう、霊夢は彼女が誰と交代するつもりなのか見当がついていた。魔理沙も恐らくそうだろう、上等じゃないかと、帽子の下で瞳を光らせている。レミリアは、分かっていなそうだが。

 

「もう一匹、いるじゃない。暇そうにしている天狗が」

 

 弱々しく宙に漂うパチュリーが、静かに言った。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「いや、暇じゃないんで」

 

 手を振りながら、文が答える。突然パチュリーと代われと言われて、驚きを通り越して呆れているようだ。

 パチュリーが被弾し気絶しかけた瞬間、花子の耳元で小悪魔が尋常ならざる悲鳴を上げた。すぐに恥ずかしさから赤面していたが、花子の耳は未だにキンキンしている。

 空の遠くには、待ち構えている霊夢と魔理沙が見えた。あんなに激しいスペルの撃ち合いをしていたというのに、疲れた様子は見せていない。

 

「暇でしょ。どうせ今はやることないんでしょ」

「レミリアさんにはそう見えるのかもしれませんが、私には私なりにやることがあるんですよ」

「それは私と弾幕ごっこのペアを組む光栄よりも、大切なことなのかしら?」

「大切ですねぇ」

 

 歯軋りをしながら睨まれても、文は一切動じずにペンを動かしている。きっと今の言動も一言一句逃さずメモしているのだろう。

 しかし、交代とは。花子とフランドールはとても驚いていた。禁止されているわけではないらしいが、花子はおろかフランドールもあまり聞いたことがない事例である。

 事の顛末を興味津々に眺めていると、文がこちらを向く。目が合って、これは嫌なことを言われるなと、花子は直感した。

 

「どうして私が、こんなちんちくりんの便所妖怪のために戦わにゃならんのですか」

「絶対言うと思ったよ、そういうこと」

 

 半眼で呟くと、フランドールが愉快そうに笑った。彼女はどうやら、花子と文の悪口合戦がお気に入りらしい。

 レミリアの説得では無理と見たのか、パチュリーが文の手を掴んで筆を止め、

 

「そうは言っても、もう霊夢達に宣言してしまったわ」

「知りませんよ、そんなこと」

「ただとは言わない。あなたにとって有益な報酬を約束しましょう」

「……ほう。例えばそれは、新聞の一番ネタになりそうな情報とか、でしょうか」

 

 唇を歪め、文が交渉の体勢に入った。顎に手を当てて考えるような仕草をしてから、パチュリーが答える。

 

「そうね……、小悪魔のスリーサイズとか。すごいわよ?」

「ちょ、ちょっとパチュリー様!」

 

 首まで真っ赤にして小悪魔が怒鳴るが、文は淡々と、

 

「結構です。この悪魔は滅多に紅魔館から出ませんし、知らない妖怪のそんな情報で得する者なんていません。例えすごくても」

「あらそう、残念」

 

 呆気無く流されてしまい、小悪魔は顔を赤くしたまま、怒りに震えている。一方、小悪魔の主は気に留めることもなく、破れて汚れたローブを払いながら、

 

「困ったわ、他に何かあるかしら」

「それしか考えてなかったんですか? 私がそんなものに食いつくとでも?」

「思っていたわ」

「……」

 

 じっとりと()めつける文に、パチュリーは涼しい顔で「本当にすごいのよ」と呟いた。スリーサイズなるものと無縁な体型の花子にとっては羨ましいようなどうでもいいような、複雑な心境である。

 ともかく、このままでは霊夢達を待たせすぎてしまう。あの巫女を怒らせると怖いことは分かっているので、花子は文を説得することにした。

 

「いいじゃないですか、文さん。パチュリーさんの代わりに戦ってくださいよ」

「嫌よ。なんであんたのために」

「それもおかしいよ、別に私のためじゃないもの。代わってって言ってるのはパチュリーさんだし、負けても勝っても私は文句を言うつもりなんてないです。霊夢達が来たら、フランちゃんと一緒に弾幕をするってだけ。守ってもらおうなんて、思ってないよ」

「ぐ……。まぁそうだけど、花子のため云々なしにしても、せっかく主犯に独占インタビューするチャンスを手に入れたのよ。しかも現場で、リアルタイムに。こんな機会を逃す手はないわ」

 

 そんなに血眼になって取材するほどの異変ではないだろうに、最近はよほどネタに困窮しているのだろうか。

 新聞のために一生懸命なのは本当なので少し申し訳なかったが、レミリアを独りで戦わせるのはもっと辛い。仕方ないのだと自分に言い聞かせながら――心の奥底では若干楽しみながら――、花子は文を煽った。

 

「本当は、怖いんじゃないんですか?」

「なんですって?」

「霊夢達に退治されるのが怖くて、私達をダシに逃げようっていうんでしょ? 霊夢も魔理沙も強いもの、文さんが震え上がっちゃうのも分かるなぁ」

「ちょ、挑発には乗らないわよ」

 

 言いつつも、文の頬はひくひくと痙攣して、確実にボルテージが上がっているのが見て取れた。

 いつもは冷静沈着な文だが、山での一件からか、どうやら花子の挑発にだけは弱いらしい。もうひと押しだ。

 

「そっかぁ、文さんは怖いんだ。だから取材だーなんて言って、私たちの背中に隠れてるんですね。あぁよしよし、私が守ってあげますよー」

「あんた……」

「だって本当のことじゃないですか。いいですよ、レミィとは私が戦うから。二戦くらいできるもの、臆病者の文さんの代わりにがんばってあげます」

「この……クソガキ……!」

 

 我ながら、こんなことを言われたら腹が立つだろうという言葉を立て並べた。やはり性に合わないのか、少しばかり罪悪感が心の中に引っかかっているが、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。

 レミリアの手を引いて、花子はにっこりと笑った。

 

「じゃあ行こ、レミィ」

「え、でもダメよ。連中と二連戦だなんて、花子にはきつすぎるわ」

「そうだよぅ。私と遊ぶ体力がなくなっちゃうよ」

「いいのいいの。弱虫天狗よりマシだよ」

 

 吸血鬼姉妹の静止も聞かず飛ぼうとした花子だが、突然後ろから襟元を引っ張られ、時計台の屋根に転がった。

 

「あいたっ」

 

 頭を抑えて立ち上がると、憤怒のあまり修羅のような顔になった文が、空に飛び上がっている。煽っておいて逃げ腰になるのは格好がつかなかったが、花子は彼女の顔を直視することができなかった。

 

「いいわ、私が行ってあげる。天狗を怒らせたらどうなるか、あんたに見せてやるわよ、便所娘」

「そ、そうですか。せ、せいぜいがんばってください」

 

 何とか煽る口調を保ったものの、声は見事に上ずっていた。怖いのだから仕方がない。

 強風が吹き荒れ、文は猛スピードで霊夢と魔理沙に向かっていった。後に続くべくレミリアも飛び上がったが、

 

「うぅん、大丈夫かしら。あんな天狗と一緒に戦わなきゃならないなんて」

「ごめん、ちょっとやりすぎたよ」

「あ、いいのよ。私のために文をけしかけてくれたんだものね。ありがと、行ってくるわ」

 

 ウィンクをして、レミリアも飛び去っていく。

 なんとか文を戦いに向かわせることができたものの、花子はこのあと自分に返ってくるであろう仕返しを想像して、背筋を震わせた。

 その様子を見ていたパチュリーが、ぼそりと呟く。

 

「自業自得ね」

「……パチュリーさんのためでもあったんですけど」

「頼んでないわ。あなたが勝手にやったことでしょう」

「ひどいなぁ」

 

 ぼやいてみても、パチュリーはまるで相手をしてくれなかった。小悪魔を引き連れて着替えてくると短く告げ、館の中に入ってしまう。

 珍しく黙っていたフランドールが、羽のクリスタルから霧をモクモクやりながら、花子の頬を突っついた。

 

「こうなるだろうなって、思ってたよ」

「じゃあ止めてよぅ。文さんが相手だと、なんだか私、嫌な子になっちゃうみたい」

「いいじゃない。妖怪なんだから、嫌いな奴を煽るくらいできなきゃ嘘だわ」

 

 悪びれることなく笑うフランドール。しかし、花子はなんとも複雑な気持ちで、

 

「文さんのこと、別に嫌いってわけじゃないんだよね」

「そうなの? あんなに仲が悪いのに?」

「なんて言ったらいいのかなぁ。嫌なことをされるとムカッとするし、私もついつい口が悪くなってしまうけれど、そういうのとは違うんだよね」

「ふぅん、変なの」

 

 それはいわゆるライバル意識というものなのだが、言葉では知っていても実際に感じるのが初めての花子には、それがそうだと自覚するまでに、まだまだ時間がいりそうだ。

 結局分からずじまいで、花子とフランドールは揃って「まぁいっか」と肩をすくめる。

 突然、純色の霧が満ちる空に凄まじい濃さの妖気が充満し始めた。驚いて見れば、文の周囲に淡いグリーンの妖気が高く立ち上っているではないか。

 

「おぉー、あの天狗も結構やるじゃん」

 

 フランドールが感心したかのように腕を組む。しかし花子は、その膨大な妖力に圧倒されるばかりだ。

 以前の決闘とは明らかにレベルが違う強い力に、今更ながら、文のとんでもないスイッチを押してしまったことに気付くのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 隣で無駄に張り切っている文に、レミリアは半眼を向けざるを得なかった。

 

「ちょっと、あんまり飛ばし過ぎないでよ」

「ふん。私はあなたより遥かに長く生きてる大妖怪、烏天狗の射命丸文ですよ。言われるまでもないわ」

「その大妖怪が、花子に煽られて顔真っ赤にしてどうするのよ」

 

 火に油を注ぐ発言であったが、文は答えずにただ妖気を滾らせるばかりだ。対峙している霊夢と魔理沙も、その怒り心頭っぷりに呆然としている。

 文の前だと花子があんなにも毒舌になるとは思わなかったが、教科書通りの良い子だった花子の意外な一面を見て、実は嬉しくもあった。むしろ、あの花子の方が好きだと思ってしまう。

 おかげで文にも火がついたし、レミリアも一人で妖怪退治のプロ二人を相手にせずにすんだのだから、花子に救われたと言っても過言ではない。負けねばならぬとはいえ、彼女のためにも無様な戦いだけはしたくない。

 

「で、始めていいの?」

 

 大幣を肩に担ぎながら、霊夢が言った。痺れを切らしたというわけではなさそうだが、それでも早くことを片付けたいという気持ちは嫌というほど伝わってくる。

 文を見ずとも、彼女が戦闘準備――あるいは、八つ当たりの準備――済みであることは、その巨大な妖力から分かる。

 魔理沙も霊夢も、同じことを感じたようだ。八卦炉と大幣をそれぞれ構え、

 

「確認するわよ。私達の持ち点があと十点、あんたらは八点。カードはお互いに二枚。間違いない?」

「えぇ、結構よ」

 

 頷いて答えると、霊夢と魔理沙は仕切り直しの間合いまで下がっていった。

 睨み合う状況になるや、怒り冷めやらぬ文が、歯軋りが聞こえてきそうな声で告げる。

 

「足を引っ張るんじゃないわよ」

 

 怒りの矛先は花子かそれとも文自身か、レミリアには分かりかねたし、分かりたいとも思わなかった。

 ともかく、まるで自分が格下だと言われたようで、レミリアは小さく鼻を鳴らし、

 

「そっちこそ。せいぜい私のために働きなさいな」

 

 文は答えず、霊夢達の背後を取らんと飛び出した。直後、魔理沙のレーザーがレミリアを急襲する。

 よそ見していたが、油断までしていたわけではない。即座に動いて光線を避け、親指の付け根を噛む。血が吹き出し、魔力弾と変化した血の弾を、思い切り蹴飛ばす。

 霊夢の札を砕き貫きながら迫る血の弾丸は、しかし札の霊力によって小さく削られてしまう。こうなってしまうと、魔理沙も霊夢も簡単に避けてしまうのだ。

 

 やはり一人では厳しい相手だった。しかし、コンビネーションは絶望的とはいえ、文がいる。素早く人間二人の死角に回り、赤と青の妖弾を輪にして、無数に散りばめる。遊びのない、密集した弾幕だ。

 背後からの奇襲だというのに、どちらも焦ることなく即座に対応してくる。霊夢よりも素早い魔理沙が、文を撹乱するためにレーザーを乱射し始めた。同時に霊夢が、分厚いショットの弾幕をレミリアに向かって展開する。

 さすがに手強いが、今はこちらが挟撃している状況だ。相手の虚をつければ、一気に攻めることができる。文が放つリング状のショットは、広く濃くばらまかれており、パチュリーとレミリアの弾幕に慣れ始めていた霊夢達は、順応するまでに時間がかかるはずだ。

 次々に血の魔力弾を生成し、殴っては蹴ってぶっ放す。魔理沙のレーザーが首元を駆け抜けていっても、また霊夢の札が執拗に追ってこようと、レミリアは攻撃の手を緩めない。

 

 パチュリーと組んでいた時よりも、弾幕の密度はずっと濃くなっている。親友を弱いと言うつもりはないが、やはり天狗とはかなりの差があるということか。ショットを放つだけで、霊夢と魔理沙という猛者を同様させるだけの力を、文は持っている。

 そしてそれは、レミリアも同じだ。血の雫が膨れ上がり、レミリアの身長よりも遥かに大きな魔力弾が完成する。爪で切り裂くと、それは爆散し、虹色の霧を埋め尽くすほどの紅が空に散らばった。弾幕は霊夢と魔理沙目掛けて、空を切って進む。

 対角からは、文が宝石のような赤と青のリングをばらまいている。放っている文自身も止まることなく移動し続け、反撃の札やレーザーをするすると回避している。見ていて安心できるその回避力に、天狗の身体能力の高さが垣間見える。

 無論、肉体の屈強さやスピードならば、吸血鬼も負けてはいない。反転して高速で接近してくる魔理沙の、いくつもの白い光線をぎりぎりまで引きつけて避け、すぐそばまで来ていた魔理沙に、口元を歪めて見せる。

 

「ちょこまかと、鬱陶しいチビだ」

「愚直なのよ、お前の光は」

 

 一言交わし、魔理沙が背後へ抜けていく。霊夢を警戒しつつ振り返り、レミリアは魔理沙へ追撃の魔力弾を放った。箒に跨る小さな背中へ、血の弾幕が飛びかかる。

 勘か、あるいは経験か。魔理沙は一瞬こちらを振り向いただけで、あとは見もせずにレミリアの弾幕を避けてしまう。

 

「やるわね」

 

 呟いて、腕を噛んで血を散らし。生成した巨大な魔力弾を、オーバーヘッドキックの容量で霊夢がいる背後へと蹴っ飛ばす。短く小さな足からは信じられないほどの力で放たれた蹴りを受け、血の塊が弾けて霊夢に降り注ぐ。

 文の弾幕に集中していたはずの霊夢はすぐに気づき、一旦下降して反転、レミリアと文の弾幕を前に恐れるでもなく正確な回避を見せた。

 埒があかないような戦いに、レミリアは少しばかり焦れてきた。とはいえ、カードの枚数から考えて、まだスペルを使うわけにはいかない。カードで点を奪い切るためには、少なくともショットで四回当てなければならない。勝ってはいけないという気持ちは、完全に消滅していた。

 背中に強い気配を感じる。振り返らずに急上昇し、すぐそばまで迫っていた魔理沙のレーザーを躱した。くるりと宙返りをし、落ちかけた帽子を押さえながら、強襲を読まれて慌てる魔理沙を見下ろす。

 

「残念でした」

「ちぃッ!」

 

 急旋回して攻勢に出る魔理沙だが、それよりも早く魔力弾を作り出し、ばら撒いた。二人の間に、距離はほとんどない。避けられる距離にない血の弾幕を目の前にして、魔理沙が悔しげに眉を寄せるのが見えた。加速直後の弾幕の直撃を受け、魔理沙が箒から落下する。

 

 魔理沙、ショットに被弾。霊夢達の持ち点は九点に減少する。

 

 すぐに箒を呼び戻して乗り直し、魔理沙はその柄を拳で殴りつけた。

 

「くそっ! 何やってんだ私は」

「お疲れみたいね。そろそろ帰ったら?」

「そうします、って言うと思ったか?」

「まさか」

 

 八卦炉を構える魔理沙を見て、即座に離れる。霊夢はどこにいるかと見てみると、相棒の被弾にもお構いなしに文と激闘を繰り広げていた。心配の一つくらいしてやったらどうだと、悪魔のレミリアが気の毒になってしまう始末だった。

 

「ふぅん、次はあの子の士気を削ぎましょうか」

 

 純白のレーザーを二、三度避けてから、霊夢目掛けて一気に加速する。引っ掻いた腕から舞い散る血で弾幕を作り、背中を向けている紅白の巫女服に狙いを定めた。

 しかし、文に集中しきっていると思っていた霊夢が、こちらを向いた。その悪魔すら貫く冷たい瞳に、悪寒を覚える。すぐに自分の心を殴りつけ、お構いなしに魔力弾を叩きつける。

 血の雨が降り注ぎ、かつ文の妖力弾にも狙われている中で、霊夢は反撃してきた。圧倒的に有利なのはこちらだというのに、レミリアは迫りくる博麗の札に恐怖すら覚える。

 

「……っ」

 

 魔理沙を打ちのめして有頂天になっていたというわけではないが、レミリアはもとより傲慢だ。少しでも相手を見下せてしまうと、条件反射的に油断が生じてしまう。昔からの悪癖だった。

 その油断を掴まれた。大した数でもない霊夢の札に当たるまいと、必死に避ける。先ほどまでなら苦にもならなかったショットが、まるで難攻不落のスペルのように思えてくる。

 

「なんで、こんな」

 

 歯噛みをしながら、体勢を立て直す。わずかに落ち着いた直後、霊夢を挟んで反対側にいる文が、叫んだ。

 

「上を見なさい!」

「くッ!?」

 

 振り返り、見上げ、戦慄する。真上から、迷わず降下してくる魔理沙が見えた。重力も味方につけた彼女は、いつもより数倍の速度で迫っている。

 回避をと思う前に、視界が幾本ものレーザーで埋め尽くされる。あまりの眩しさに、思わず帽子を両手で抑えてうずくまった。光線に打たれて、体中を痛みが走り抜ける。

 

 レミリア、ショットに被弾。持ち点は七点に減少する。

 

 なんという失態。なんという屈辱。レミリアは霊夢に呑まれたのだ。悔しさのあまり、頬が引きつる。

 

「おいおい、私らにビビってんのか? 吸血鬼サマも、思ったより大したことないな」

 

 ショットを当てた魔理沙が、意地の悪い笑みを見せてきた。そのくせ邪気がなく、まるでフランドールにイタズラをされた時のような気分だ。

 文の視線が痛かったが、当たってしまったものはどうしようもない。責められても無視しようと心に決めて、レミリアは魔力弾を作り出す。

 

「まだまだこれからよ。あなたの稚拙な魔法で、私に抗ってみなさい」

「当たったくせにほざくなよ。天狗もろとも吹き飛ばしてやるぜ」

 

 向けられた八卦炉が輝きを放つ。見れば、文と霊夢の周囲にも、各々の弾幕が展開されていた。

 いかに早くスペルで削りきれる点数まで減らせるか。恐らくこの戦いで、もっとも激しいショットの撃ち合いとなるだろう。

 連戦の疲れがあるはずの霊夢と魔理沙だが、彼女らは異変解決の際に何度も弾幕ごっこをくぐり抜けて本丸に辿りついている。スタミナ切れを狙うのは得策とはいえないだろう。

 文との共闘で、どこまで有利に戦えるか――。そこまで考えて、レミリアは思考を停止した。幾枚もの博麗の札の間を翔け抜け、思うまま、感じるままに、真紅の魔力を解き放つ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 弾幕ごっこのルールでは、終盤になればなるほど、どうしてもショットの撃ち合いになりやすくなる。「スペルを避けられたら二点加点」というルールが、それを更に酷くさせていた。開始早々スペルを放つことも多々あるフランドールからすると、少し鬱陶しいルールである。

 とはいえこの現象は、遊びの発案者である霊夢達によれば、狙った通りのものであるらしい。高難度のスペルを使えない者への救済処置であるとか。避けることに集中して、ショットで粘り勝ちを狙えば、妖精でも大妖怪に勝てるはず、という理屈らしい。

 弾幕ごっこの華は、スペルにある。これは魔理沙とも散々語ったことで、ショットに重きを置く弾幕ごっこはいまいち派手さが足りないなと、常々考えていた。

 今現在空中で繰り広げられているショットの撃ち合いは、激しい戦いではあるのだが、フランドールにはどうにも退屈なものだった。

 

「早くスペル使わないかな。つまんないなぁ」

「当てられれば大きなアドバンテージになるけれど、さすがにどちらも慎重ね」

 

 着替えから戻ってきたパチュリーが、屋根の縁に腰掛けて評論する。言われなくともそんなことぐらいは分かるので、あえて頷くようなこともしなかった。

 それにしても、思った以上に長い戦いになっている。最初こそ楽しかった空のお絵かきも、いい加減飽きてしまった。いっそ太陽を出して無理矢理終わらせてやろうかとも思ったが、そんなことをしたら姉に酷く怒られるだろうから、しぶしぶ我慢しているありさまだ。

 ちらりと花子を見ると、両手を握りしめて必死にレミリア達を応援している。次に戦うのは自分だというのに、応援だけでエネルギーを使ってしまいかねない緊張ぶりだ。

 大して興味なさそうに弾幕を見上げていたパチュリーが、独り言のような声音で、

 

「それにしても、あの天狗。渋っていた割りに張り切っているわね」

「だねぇ。花子にあんな言われ方したから、腹いせかな?」

 

 意地悪く言うと、手に汗握っていた花子がじっとりとした半眼をこちらに向けてきた。

 

「せっかく忘れかけていたというのに、フランちゃん酷いよ」

「現実から逃げちゃダメよん、花子」

 

 人差し指を立ててみせると、花子はそっぽを向いて観戦に戻ってしまった。先ほどの熱意はすっかり奪われてしまったらしく、幾分冷めた顔でレミリアの動きを追いかけている。

 よくも飽きないものだなと感心しつつ花子のおかっぱ頭を眺めていると、パチュリーのために用意したハーブティーを、小悪魔がおすそわけしてくれた。レミリアはあまり好きではないらしいが、図書館に入り浸っていたフランドールにとって、小悪魔の茶は慣れ親しんだ味だ。

 息を吹きかけながらお茶を頂いている間、花子が悲鳴やら歓声やら、忙しく叫んでいた。初めて紅魔館で出会った時に比べて、ずいぶんと垢抜けたものだ。

 ふと戦いを見上げれば、撃ち合いはいっそう激しくなっている。フランドールが目を離した間に、戦況が大きく動いたらしい。

 

「花子、今何点?」

「えっと、レミィ達が五点で、霊夢と魔理沙は七点だよ」

「ありゃ、結構減ったね。そろそろスペルが来るかな?」

「そうね。決着が近いわ」

 

 先ほどまで弾幕のまっただ中にいたというのに、パチュリーはもう完全に他人事である。従者の小悪魔も、これにはさすがに苦笑を隠せないようだ。

 まだ自分達との戦いが残っているというのに、霊夢も魔理沙も飛ばしすぎではないだろうか。手応えのない弾幕ごっこはしたくないので、フランドールはその一点だけが心配で仕方なかった。

 せっかく花子のために起こした異変なのだ。彼女には特に、目一杯楽しんでもらいたい。そんな気持ちを悟ってくれたらしく、パチュリーが着替えから戻ってきた時に持ってきた鞄を指さした。

 

「妹様、安心なさいな。こうなるだろうと思って、あの子達のために即効性の栄養剤を用意したわ。効き目は抜群よ」

「……本当に大丈夫? パチュリー、薬作るのは苦手だって言ってたじゃない」

「簡単な薬剤の調合くらいならできるわよ。伊達に百年も魔女をやっていないわ」

「実験台は、主に私ですけどね」

 

 小悪魔の控えめな訴えを完全に無視して、パチュリーは瓶入りの栄養剤を一本取り出し、

 

「主成分はにんにくだし、その他にも薬草を数種類入れただけよ。魔理沙が持ってくるキノコよりずっと安心だと思うのだけれど」

「うへぇ、にんにく……。私とお姉さまはダメだね」

「無臭にんにくよ。それにあなた達はそんなものを飲まなくても、元気じゃないの」

 

 なるほど確かにと、フランドールは妙に納得してしまった。弾幕ごっこ程度の運動ならば、いくらやっても疲れる気がしない。

 霧を出すことに本格的に飽きてきたせいで、空の色はごちゃごちゃと濁り不気味な色合いとなっている。純色が混色になったおかげで目には優しくなったが、いよいよ異変らしい空模様だ。

 パチュリーと並んで屋根に腰掛け眺めていると、長い撃ち合いの果てに、とうとう霊夢が文のショットに被弾した。

 

「あ、当たった。これで霊夢達は六点?」

「そうなるわね。カードで決着がつく点数になったわ」

 

 霊夢と魔理沙にとっては死守したかった一点、レミリアと文にはどうしても削りたかった一点だったことだろう。大きな意味を持つ被弾だが、霊夢は遠目からでも冷静に見える。

 実際のところ、人間組二人に大した動揺はないだろう。ショットで粘っていたら、遅かれ早かれこうなるのだ。スペルに踏み切れなかった自分達の責任でもある。

 なんにせよ、この戦いはいよいよ決着に向けて動き出す。その証拠に、空で戦う少女達の妖気や魔力、霊力が、今まで以上に高まっていた。

 

「いよいよだよ、花子」

「う、うん」

 

 食い入るように見つめる花子を邪魔したくはなかったが、このままでは本当に観戦だけで疲れてしまう。背後に回りこみ、花子をひょいと抱えて、フランドールとパチュリーの間に座らせた。

 

「もう、もっと力抜いてよ。お姉さま達の弾幕、綺麗なんだから、もっと楽しもう」

「私は楽しんでいるよ。ただ、すごくて見とれちゃってただけで」

「真面目なのね、本当に」

 

 パチュリーに笑われ、花子は照れくさそうに「そうかなぁ」と頬を掻いた。

 屋根の縁で戦いの行末を見守る、三人の妖怪少女。しかしその内心は三者三様で、パチュリーはレミリアが怪我をしないことを祈り、花子はどちらもがんばれとどっちつかずな応援をしている。

 そんな二人と一緒にいながら、フランドールの頭の中は、自分が繰り広げたい弾幕のことでいっぱいなのであった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 欲を言えばもう少し削りたかったと、霊夢は少しだけ悔しがった。あと一点でも削れていれば精神的に優位に立てたし、二点削れれば圧倒的な優位に立てたのだ。しかし、被弾してしまったものは仕方がない。

 レミリア達の持ち点は五点、対する霊夢と魔理沙は六点となっている。もはや一点が大きな意味を持つ局面ではない。残りカードは双方共に二枚、力を出し尽くして決着をつける場面だ。誰もがそれを分かっているからこそ、宣言がなくともショットは停止していた。

 

「そろそろお終いにしようぜ。フランと花子がお待ちかねなんだろ?」

 

 帽子のつばをつまんで、魔理沙が言った。対するレミリアは、いつも通り小生意気な目付きで鼻を鳴らし、

 

「もう関係ないわ。本気で叩きのめしてあげる」

「私としては、もう十分憂さ晴らしできたので戻りたいんですが、ここまで来て引き下がるのもナンセンスでしょう。最後までお付き合いしますよ」

 

 言うとおり、先ほどまでの憤怒は消え失せている文だが、霊夢は彼女が今も本気になっているのをその妖気で感じていた。ただでさえ強い文だ。まったく厄介極まりない。

 しかし、相手の強弱は霊夢には関係のないことだ。異変解決の邪魔をする者――特に妖怪――は、例外なく潰す。今までもそうやってきたし、これからもその方針を変えるつもりはない。それは魔理沙も同じのはずだ。

 

「さて、誰からいく?」

 

 挑発的な魔理沙の口調に、何がとは誰も聞かなかった。各々が相手の顔色を、出方を伺い、一瞬、濁った空は静まり返る。

 ややあって、カードを取り出したのは、文だった。

 

「私は位置的に客将でありますし、レミリアさんにはトリを努めてもらいましょう」

「ふぅん、分かっているじゃない」

 

 満足そうに呟いて、レミリアが文の背後に下がった。カード宣言、レミリアと文の残り枚数は、これであと一枚。

 

 妖気が膨れ上がり、同時に吹く風全てが文のものとなるのを知覚する。この圧倒的な妖力、何度も対峙した相手とはいえ、その都度戦慄を覚えるほどだ。

 途端、強風が吹き荒れた。弾幕はまだなく、ただただ強い突風が、霊夢と魔理沙を翻弄する。まともに飛ぶのも辛いほどだ。

 必死に体勢を整えつつ、風上に注視した。霊夢はこのスペルは知っている。以前も経験し、そして被弾している弾幕だ。

 風の向こうに、黒い点がいくつも見えた。近づくにつれて、その正体がだんだんと明らかになる。どうあっても見紛うことのできない、それは岩石の群れであった。

 逆風「人間禁制の道」。文が操る風に乗って、無数の岩塊が、霊夢と魔理沙を押し潰さんと迫りくる。妖力でクッションを作っているとはいえ、当たれば痛いで済む保証はない。

 何より、その威圧感が半端ではない。なにせ巨大な岩石なのだ。目の前に迫ればさすがに怖いし、妖弾のような美しさはほとんどない。圧倒的な自然の美と文は断言していたが、人を選ぶ美学だろう。

 どこから運んでくるのやら、無尽蔵に襲い来る岩を避けるのは、容易いことではない。突風の中にいるのだから、うまく飛ぶことができないのだ。霊夢はすでにコツを掴んだが、魔理沙はいまいち順応できていないらしく、箒を握りしめて四苦八苦している。

 ここまで来て、スペルを出し惜しみするのは得策ではない。チャンスがあったらカード宣言をしてしまおうと、霊夢はレミリアを探した。突風の頂点にいる文よりも狙いやすい位置にいてくれればと思ってのことだが、レミリアは文のすぐ後ろで、偉そうに腕組みをしてこちらを見据えている。

 動いているわけではない。霊夢と魔理沙から見れば、彼女ら二人は直線上にいる。これほど狙いやすい立ち位置もないが、文の繰る風と岩石弾幕が、落ち着いてスペルを放たせてくれない。

 

「まったく、頭にくるわ」

 

 舌打ちを一つ、しかし霊夢は自身を諌める。慌てるな、苛立つなと自分に言い聞かせる。以前、霊夢は今のように焦れた挙句に被弾したのだ。

 どうにか平常心を保ちつつ、反撃の機会を伺う。文は強いが、無粋ではない。弾幕の中に必ずチャンスを用意しているはずなのだ。その瞬間さえ見失わなければ、形勢逆転の余地はある。

 圧倒的な存在感を持ちながら迫る巨岩を避け、その向こうに散らばる小さな――とはいえ、霊夢の胴回り以上はあるが――岩を下降上昇、左右に細かく動きながら回避する。魔理沙が被弾した様子もなく、どうやらあちらも風に慣れたらしい。一度目を離せば被弾しそうで、直接確認はできなかった。

 あるいは、このまま避け切ってしまうか。回避できればこちらに二点の加点となる。こうなれば、勝ちはほぼ確定的だ。しかし、このあと文が仕掛けてくるであろうラストスパートや、被弾した時のリスクを考えると、得策とは言い難いかもしれない。

 何より、そんな消極的戦法を、魔理沙が好むわけもない。友人の名が脳裏をよぎった瞬間、霊夢の視界、その端っこで白く眩い輝きが見えた。

 魔理沙の八卦炉だ。もう一方の手で、スペルカードを掲げている。カード宣言、霊夢と魔理沙の残り枚数は、一枚。

 

「魔理沙、焦っちゃ――」

「もう遅い。私はいつでも、全力主義者なんだよ!」

 

 咆哮に呼応するかのように、白い光が膨張、炸裂する。小さな八卦炉から莫大なエネルギーの光線が放たれ、魔理沙に襲いかかっていた岩石をことごとく破壊した。

 恋符「マスタースパーク」。一試合中に同じスペルを使用することは禁止されていない。特に魔理沙の場合、五枚中四枚がマスタースパークだったこともあるほど、このスペルを多用する。

 怒涛の疾風に逆らい、威力を落とすことなく突き抜けたレーザーは、文とレミリアを飲み込んだかに見えた。しかし、風は止んでいない。

 

「外したか」

「簡単に当たってやるわけないでしょう」

 

 声は、背後から聞こえた。魔理沙と同時に振り返った直後、霊夢は派手に吹き飛ばされた。今まで吹いていた方向とは真逆から、風が荒れ狂うように流れ始めたのだ。

 背中を取られた挙句風の向きを変えられ、大きくバランスを崩した霊夢と魔理沙は、慌てて体勢を立て直す。魔理沙が八卦炉を向けるが、先ほどいた場所に文の姿はない。ただ、巨大な岩だけが霊夢達目掛けて飛んでくるばかりだ。

 ラッシュをかけてきたということは、文のスペルは残り時間が少ないはずだ。焦れてくれれば御の字だが、果たして文ほどの妖怪がそうなってくれるかどうか。

 文を見失い、ふわふわ飛んでいたレミリアに狙いを定める魔理沙だが、他に脅威がないレミリアは、巨大なレーザーを楽々避けてしまう。フリーの彼女を落とすのは、難しいだろう。

 一瞬、風が消えた。次の瞬間、霊夢の右側面からの突風。見れば、文が天狗の団扇を手に風を起こしていた。この瞬間、叩けるか。霊夢は叫んだ。

 

「魔理沙、四時方向!」

「そこか!」

 

 上体を捻って、魔理沙がマスタースパークを見舞う。岩石を砕きながら文へと迫る巨大な光線は、紅魔館の上空を純白に染め上げた。

 

「遅いッ!」

 

 気迫のこもった文の喝は、魔理沙の後方、斜め上から。風がさらに向きを変え、霊夢達はなおも翻弄される。このままではまずいが、カードは後一枚しかない。ここで霊夢までが使えば、負けが確定する。魔理沙を信じ、避け続けるしかなかった。

 魔理沙が声の方向に八卦炉を向けてスペルを放つが、紙一重のタイミングで文は移動してしまう。徐々に風の向きを変えるタイミングが早くなってきており、岩石は空中で不気味な軌道をとっている。まるで岩が意思を持ち、霊夢達に体当たりをしかけているかのようだ。

 闇雲にマスタースパークを乱射しているように見える魔理沙だが、霊夢は彼女の狙いが徐々に文へと迫っているのを感じた。動きの先を読みつつあるのだろう。

 

「……頼むわよ、魔理沙」

 

 他人に頼ることには慣れていないが、霊夢は思わずそう呟いていた。

 レーザーが放たれる度に、白い輝きに岩が砕かれ風を押しのける。しかし蠢く岩石は、なおも二人に突進を繰り返してくる。蚊帳の外から優雅に見下すレミリアには、この光景がどう映っているのだろうか。

 またも風の向きが変わった。豪風に飲まれながらも岩石の流れを読み、回避しようとした霊夢は、相棒を見て思わず声を上げた。

 

「後ろ、避けて!」

 

 彼女のすぐ背後に、岩石が迫っている。しかし、魔理沙は一点を注視したまま、避ける素振りを見せない。

 八卦炉の先には、文がいた。驚きを浮かべているが、同時に勝ち誇った表情も見せた。魔理沙に岩石が被弾するまで、もう数秒とないからだ。

 それでも魔理沙は動かない。彼女の八卦炉が光を放つ。

 

「もらったぁッ!」

 

 今までで一際大きなレーザーが、文を飲み込む。岩を飛び越えて見守った霊夢にも、上空から悠々と見下していたレミリアにも、文の被弾がはっきりと確認できた。

 直後に鈍い音が聞こえ、そちらを見れば、魔理沙が岩石の直撃を受けて箒から落ちかけていた。

 

 文と魔理沙、同時に被弾。霊夢達は残り三点、レミリアと文は二点となる。

 

 光線に撃たれた文は、少しばかり衣服が破れたり焦げたりしているものの、ほとんど無傷だった。唇を噛み、被弾の悔しさを滲ませている。一方で、妖力でクッションが作られているとはいえ岩石がもろに当たった魔理沙は、かなり辛そうだ。当たった場所が背中なので、さすることもできないらしい。

 

「くそ、超痛いぜ、半端じゃない」

「大丈夫?」

「なんとかな。これより痛い弾幕を、私はいくつか知ってる」

 

 腕をぐるぐる回して痛みをごまかし、魔理沙が気丈に言った。彼女の丈夫さは霊夢も知っていたので、この答えは予想していた。ようは、確認である。

 気を取り直したらしい文が、レミリアと何事かを話している。もはやショットを撃つ気はないらしく、霊夢はその様子をじっと眺めて待つことにした。

 ややあってから、文が後方に下がる。そして、レミリアの小さく白い手が、真紅のスペルカードを掲げた。

 

「ラストの一枚……、決着をつけるってことね。魔理沙、いける?」

「当たり前だろ。霊夢は何でいくんだ?」

 

 訊ねられ、しばし考えたが、霊夢は首を横に振った。察した魔理沙が、苦笑を浮かべる。

 

「意地が悪いな、お前」

「生意気な子供の躾には、プライドを打ち砕くのが一番なの。当たるんじゃないわよ、魔理沙」

「もうヘマはしないさ、任せろよ」

 

 身構えて、二人はレミリアのスペルを待つ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

「あ、あら? どうして宣言しないの?」

 

 スペルカードを手にしたまま、レミリアは困惑した。本当ならば霊夢がスペルで受けて立つはずだったのだ。レミリアの中ではそういういことになっていた。

 思わず文を振り返るが、彼女は肩すくめてにやにやしている。霊夢と魔理沙は、やはりスペルを使う気はないらしい。

 

「な、なによ。なによなによ! 散々盛り上がってたくせに、私には反撃の必要もないっていうの!?」

 

 一人で喚いて、レミリアはカードを炎に消して、目一杯掲げた右手に真紅の魔力を集中させた。魔力は槍を象って、その手に握られる。

 レミリアの怒りに応じるかのように、紅い稲妻が槍の周囲に迸る。しかし、それでも人間の二人は動じない。

 ふと、霊夢が右手を伸ばし、指先をくいくいと自分の方に折り曲げた。さっさと終わらせたいから早く投げてこい。そう言わんばかりだ。

 文と魔理沙の熱いスペル合戦を見て羨ましく感じていただけに、泣きたくなるほどの疎外感を感じて、レミリアは頬をぷくっと膨らませた。

 

「ば、馬鹿にしないでよね! 意地でもスペルを引き出してやるんだから、許さないんだからっ!」

 

 後ろで文がやれやれと呟く声など、聞こえるはずもなかった。

 振りかぶり、投げ飛ばす。神槍「スピア・ザ・グングニル」。暗雲に煌く稲光が如く放たれた真紅の槍は、澱んだ色彩の霧を切り裂き、霊夢達に迫る。

 魔理沙のレーザーショットを遥かに超える速度の槍を前に、霊夢と魔理沙が散開する。二手に別れられたが、レミリアは両手に槍を召喚して、二人に向かって投げつけた。感情が昂ぶっているせいか、いまいちうまく狙いをつけられない。

 こんな時にパチュリーがいたならば、落ち着いてと優しく声をかけてくれたことだろう。しかし、今の相棒である文は、もう満足するほど戦ったからか、後方でシャッターを切りつつ文花帖に何やら書き込んでいる。スペルで狙われる心配もないと見ているらしく、完全に観戦者となっていた。

 

「このっ、反撃しなさいよ! スペルを使ってよぉぉぉ!」

 

 さすがにここまで腹を立てるとは思っていなかったのか、次々に投げ飛ばされる真紅の槍を避けながら、霊夢は呆れ顔を浮かべて、魔理沙は「これは酷いぜ」と失笑している。それがまたレミリアの子供っぽい怒りを煽るものだから、収集がつかない。

 相手が当たってくれれば、それ見たことかと見下すこともできようが、ベテランの異変解決屋二人が相手では、それも簡単にはいかない。

 両手を持ち上げて、一際大きな槍を作り出す。大きければいいという発想は弾幕ごっこにおいては通用しにくいのだが、今のレミリアは完全にヤケクソである。

 

「馬鹿ぁぁぁぁ!」

 

 ぶん投げた巨大な槍は、今までの小さな槍より遥かに遅く、また重かった。あっけなく避けられた上にぐらりと傾き、紅魔館の中庭に落下していく。程なくして、真紅の柱が噴水を破壊し、中庭にそびえ立つ運びとなった。

 魔力の槍はやがて霧散して消えたが、崩壊してみっともなく水を撒き散らす噴水を見て、レミリアは顔面蒼白になった。紅魔館の水回りはパチュリーの魔法で管理されているし、調度品の整備は咲夜が丁寧にやってくれている。これは後でネチネチと言われそうだ。

 なんで自分ばかりこんな目にと、自業自得であることを棚に上げた、その瞬間だった。頭の奥のほうで、何かがプツリと切れる音を、レミリアは聞いた。

 

「ふふ……ふふふ。いいわ、上等よ。このレミリア・スカーレットを甘く見たことを、後悔させてあげるわ」

 

 吸血鬼とは、悪魔の一種だ。悪魔とは冷徹で慈悲なく、人間を喰らい尽くす恐怖の存在。レミリアは今、その本質を取り戻した。きっかけはどうあれ、取り戻したのである。

 血色の魔力がオーラとなって、レミリアを包み込む。右手に生まれるは、神をも穿つ真紅の豪槍。

 

「さぁ、踊りなさい。我が掌の上で、滑稽なワルツをね!」

 

 小さな手から放たれた魔力の槍は、突如速度を増し、霊夢の脇腹をかすめた。被弾こそしていないが、その余波で巫女装束が破ける。さすがの威力に、余裕すら滲ませていた霊夢の顔が引き締まった。

 ついで、レミリアは魔理沙を狙う。目が合って、魔理沙も今までと違う気迫を感じ取った。撹乱のために箒を加速させるが、

 

「遅いわッ!」

 

 唸りを上げて空を走るグングニルは、敵の動きを完全に読んでいた。急激にスピードを落とした魔理沙の鼻先を通過し、魔理沙の視界は一瞬、真紅に染まる。

 箒の先端を持っていかれたが、本人に当たっていないので被弾にはならない。それでも大きく士気を削ぐことに成功し、レミリアはいよいよ傲慢で無慈悲な吸血鬼である自分に立ち返っていった。

 右手に握った魔力の槍、その先端を、霊夢達に向ける。

 

「このまま避けきれると思って? 素直にスペルを使ったらどうかしら。それとも、スペルに頼る余裕もないの?」

「ずいぶんと安い挑発ね。もっと気の利いた文句を考えてくれない?」

「まったくだな。せっかくだから、どうしてもスペルを使いたくなる状況にしてくれよ。なぁ、吸血鬼サマ」

 

 冷や汗を感じているだろうに、二人ともまったく動じない。その胆力には、さすがと認めざるを得なかった。

 

「そうね。では望みどおり、嫌でもスペルカードを手にしたくなる地獄を味わわせてやるわ!」

 

 手にした得物を、上空に投げる。舞い上がった槍は上空で砕け、散乱した真紅の魔力はそれぞれが槍の形をとり、穂先を真下に向けて、落下を開始した。

 レミリアと背後の文だけを避けるように、真紅の槍が、豪雨よろしく降り注ぐ。避けるスペースは用意してあるが、正しく避けなければ被弾が確定する難易度だ。

 まさに奥の手。レミリアのスペルはもう、残り時間が少なかった。ここで被弾させるか相手のスペルを引きずり出すかをしなければ、負ける。もっとも、レミリアには勝敗の行方を案ずる心など、どこにもなかった。

 

「あははっ! もっと愉快にステップを踏むのよ。ほら、ほらぁ!」

 

 新たな槍を放り投げ、再び拡散、紅い雨を生む。前方で回避コースを見定めては細かく動いている霊夢と魔理沙の、なんと必死なことか。歯を食いしばり伝う汗を無視するその姿は、実に愉快極まりなかった。

 戦いの狂気に酔った悪魔の笑みの裏で、今この瞬間だけを記事にしてくれればいいなと、いつものレミリアが呟く。できれば先ほどのみっともない姿はなかったことにしてほしかった。

 徐々に密度を増す槍の弾幕に、霊夢も魔理沙も、衣服はボロボロに破けてしまっている。息も上がっているだろうに、懸命に避ける道を探し続けていた。

 

「そう、その顔よ。二人とも、とても素敵だわ」

 

 残り時間は、もうないに等しい。次が、この勝負最後の一撃となるだろう。

 真紅の豪雨が降り注ぐ中で、レミリアは凝縮した魔力の槍を精製する。大きさは今まで投げてきた槍と同じ程度だが、そこに込められた魔力の密度は、我ながらうっとりするほどの濃厚さだった。

 槍の雨を避け続ける二人に狙いを定め、小さな腕を振りかぶる。紅い稲光が、レミリアの白い肌を照らす。

 

「さぁ、受けてごらんなさい!」

 

 投げ飛ばした、終わりの一撃。自らが生み出した無数の槍が全て消滅し、紅蓮の輝きは、一直線上に並んだ霊夢と魔理沙を貫かんと突き進む。

 降り注ぐ槍が止んだのは、わずか一瞬のこと。レミリアが勝利を確信したのもまた、一瞬であった。しかし、一秒にも満たぬその瞬間を、霊夢と魔理沙は見逃さない。

 今の今まで死に物狂いで回避していた二人は、まるで別人のように平常心を取り戻し、レミリアが投げた渾身の一撃を静かに見据える。レミリアの顔から、笑みが消える。

 ゆらりと揺れた二人の間を、真紅の槍は駆け抜けていった。紅魔館を包む林の木々から葉を巻き上げ、槍は霧の湖に着水し、館の時計台よりも高い水柱が上がる。

 

「っ――」

 

 にわかには、信じられなかった。しかし、穿つはずだった敵は、目の前で平然と漂い、レミリアを見据えている。

 

 霊夢と魔理沙、スペルの回避に成功。

 

 全力にして必勝の一手が、ここに敗れ去った。所持枚数がゼロとなったレミリアとパチュリー、及び文は、敗北が確定した。



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そのにじゅうなな 異変!七色の霧と弾幕地獄!(4)

 

 

~~~~

 

 

 四枚目だよ。

 

 

 そんなわけで、文さんにレミィと組んでもらったんだけれど、負けちゃったんだ。とてもいい勝負だったのだけれどね。

 

 次は、私達の番。今、とても緊張しているけど、ワクワクもしてるんだ。きっと、運動会で順番が回ってきたら、こういう気持ちなのだろうね。

 

 フランちゃんは上手だから、私がポカしてもカバーしてくれると思うけれど、それじゃだめだよね。私がフランちゃんを守るってくらい、がんばらなきゃ!

 

 これから決闘だから、本当は深呼吸したりしたいんだけれど、うぅん、レミィを慰めてあげないと。拗ねちゃってるみたい。

 

 五枚目はきっと、決闘が終わってからになると思います。文さんみたく、弾幕中も写真撮ったりできる人なら、手紙も書けるのかもしれないけどね。

 

 

 五枚目に続きます。

 

 

~~~~

 

 

 時計台に帰ってきたレミリアは、本館へ続く渡り廊下の隅っこでいじけてしまった。彼女曰く、どうしても許せない負け方をしてしまったらしい。

 花子には素晴らしい戦いに思えたし、彼女のスペル――こと最後に使った真紅の槍については、その輝きと威力に言葉を失っていたほどだ。しかし、三角座りのまま動かないところを見ると、よほどショックだったと見える。

 あまりにも気の毒なので、花子は太郎宛に書いていた手紙を適当に切り上げ、ナイトキャップの上からレミリアの頭に手を置いた。

 

「ねぇレミィ、元気出してよ。私は感動したよ、レミィのスペル、とても格好よかったもの」

「うぅ、そうやって慰めてくれるのはあなただけよ、花子」

 

 なにやら切羽詰まった顔で見上げるレミリアは、まるでこの世の終わりとでも言いたげな様子だった。咲夜でもいれば違ったのだろうが、彼女はキッチンに向かったまま、まだ戻ってはこない。

 心配ではあるが、どうせすぐに立ち直るだろうから、肩を二度、三度優しく叩いてから、時計台の屋根へと飛び上がった。

 スペルカードを何枚も召喚してどれにしようか悩んでいるフランドールはともかく、花子は避けて通れぬ相手と対峙する。すっかり破れてしまった衣服を直そうともせず、文花帖にペンを走らせている文である。

 どう声をかけたものかともじもじやっていると、気づいた文が訝しげな視線を向けてきた。

 

「なにか用?」

「えっ、あーっと、その。ナイスファイト、でした」

 

 我ながら何を言っているのか分からなかったが、文はわずかに眉を寄せてから、「どうも」と短く返してきた。あわや怒らせたかとも思ったが、素っ気ない態度ではあるものの、メモ帳に向かう文の顔に憤りは見られない。

 こんなことを聞いてどうするのかとも思ったが、それでも文のプライドを傷つけ煽った花子は、訊ねずにはいられなかった。

 

「あ、あの。怒ってないんですか?」

「すっごい腹立ってるわ。はっきり言って殴りたいくらい」

「う……。ですよね」

 

 冷静な表情の裏には、やはり静かな怒りが潜んでいたのか。文から気まずそうに目を逸らし、何を言うべきかを考えてみたが、花子の小さな頭ではいい誤魔化しが思いつかなかった。

 仕方がない、謝るかと覚悟を決めた時、文花帖をそっと閉じた文が言った。

 

「ま、挑発に乗ったのは私だしね。今回は負けを認めてあげるわ。実際、連中との弾幕は楽しかったから、全部が全部悪い気分ってわけでもないしね」

「そう、ですか? うぅん、でも――」

「謝ってほしくないっつってんのよ。あんたに必要なのは、大人のデリカシーね。空気が読めなさすぎる」

 

 これには、花子もムッと頬を膨らませた。

 

「なんですか、ちょっと酷いこと言いすぎたかなって思って、だから謝ろうと思ったのに」

「それが余計なのよ。確かに頭にきたけど、あんたに謝られたところで気分が晴れるわけじゃないの。それは花子の自己満足に過ぎないでしょうが」

「そうかもしれないけれど……」

「妖怪がペコペコ頭下げるのは、みっともないでしょうに。この一年、幻想郷で何を学んだのよ、まったく」

 

 文の口調に、萃香に叱られた時にも似た懐かしい感じを覚える。あまりいいものではない。

 背中を押された挙句、しっしと手で追い払われて、花子はもう文には頭を下げてやるものかと心に誓った。この先も覚えていればの話だが。

 フランドールにおいでおいでをされたので、素直にそちらへ向かう。ちょうど、霊夢と魔理沙に栄養剤とやらを渡しに行ったパチュリーが帰ってきたところだった。

 

「そろそろ行くよ。準備はできてる?」

 

 瞳をキラキラさせながら、フランドールが訪ねてきた。もう待ちきれないとばかりに、七色の羽が上下している。

 

「うん、いつでもいいよ」

「あっちの二人も、すっかり元気になったようよ。霊夢は怪しんでなかなか飲まなかったけれど」

 

 まったく失礼な、とパチュリーが憮然とした顔で言った。ただの栄養剤と主張を繰り返していたものの、彼女は魔法使いだ。魔女の薬と聞けば、怪しまれるのは仕方ないだろう。

 ともあれ、霊夢と魔理沙は無事回復したらしい。普段の異変では休憩する暇もなく何連戦も重ねているという二人だ。持久戦に持ち込めば、フランドールはともかく、花子はまず敵わない。

 霊夢も魔理沙もフランドールも、花子より遥かに格上だ。場違いにも思われるかもしれない。それでも、フランドールが相棒として選んでくれたのだから、できる限りの力を尽くそうと決めていた。

 紅魔館中庭上空、先ほどまで激戦が繰り広げられていた空で、人間の少女が二人、じっとこちらを見ている。問答無用に仕掛けてくるような真似はしない。

 

「これ以上、待たせていられないね」

「うんうん。待ってられないね!」

 

 まるで濁色の霧に吸い込まれているかのように、フランドールの足が地面から離れた。本当に弾幕が好きなのだなと、花子は微笑ましく思う。

 

「花子」

 

 声をかけられ振り返ると、すっかり元気になったレミリアがいた。相変わらず立ち直るのが早い。

 レミリアは花子の手を取って、時々見せる優しい顔で微笑んだ。

 

「がんばってね。私はここで、ずっと見守っているからね」

「うん。ありがとう、レミィ」

「フランも、ちゃんとルールは守るのよ。花子とのチームワーク、大切にね」

「任せて!」

 

 答えて、フランドールがいっそう高く飛び上がった。花子もレミリアの手を離し、後を追いかける。フランドールの羽から溢れる虹色の霧が、とても幻想的に輝いている。

 ふと、時計台を振り返る。レミリアとパチュリー、そして小悪魔が、しっかりと見守ってくれていた。その視線は、花子にとってこの上なく心強い。

 行ってきますと言う代わりに、花子は元気いっぱいに、大きく手を振った。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 そして、花子はとうとう、この二人と対峙する。

 改めて思い返すと、なんと長く濃い一年だっただろうか。人里の寺子屋で退治された時が、霊夢と魔理沙、そして今ここにはいないが、早苗との邂逅であった。あの時は、まさか彼女らと戦うことになろうとは、想像だにしなかった。

 霊夢の薦めで紅魔館に行き、レミリアに出会い、フランドールに出会い――たくさんの友人や師を得て、花子は今、ここにいる。

 あるいは、彼女が花子を導いたと言えるのかもしれない。そう思うと、いつもは怖い霊夢にも、感謝の念が滾々(こんこん)と沸き上がってくる。

 つい物思いにふけっていると、妖怪にはとことん無愛想な霊夢が、大幣を肩に担いで怪訝そうに、

 

「なにニヤニヤしてんのよ。私の顔になんかついてる?」

「あ、ううん。違うよ。えへへ」

「……変な奴」

 

 妙に思われてしまったらしいが、花子は慌てて取り繕うようなこともせず、変わらぬ表情のまま、魔理沙の方を向いた。

 彼女と顔を合わすのは、香霖堂から出た日――花子が妖怪の山で、文に叩きのめされた日以来だ。実に久しいはずなのだが、魔理沙のカラッとした雰囲気は、不思議とそれを感じさせない。

 

「よう花子、久しぶりだな。ずいぶんなおめかしじゃないか」

「綺麗でしょ。借り物だけれど」

「私のなんだよ。少し大きかったんだけど、花子にはぴったりなの! 似合ってるでしょ?」

 

 肩口から覗いてくるフランドールが、まるで自分の服を見せびらかすかのように言った。

 ワインレッドのドレスにスペルカードが入っている同色の小さなポシェットを肩から下げている花子を、魔理沙は品定めでもするかのような目で上から下まで見回し、

 

「ふむふむ、悪くないな。馬子にも衣装って言葉の意味がよく分かるぜ」

「それ、褒めてないでしょ」

「褒めてるよ。私の中ではな」

 

 まるで悪びれない魔理沙に、花子とフランドールは、思わず声を上げて笑っていた。妖怪を前にした人間とは思えない立ち振る舞いは、いっそ心地いい。

 すっかり談笑を楽しんでいた花子達だったが、霊夢の咳払いで一斉に沈黙する。彼女は妖怪二人を順繰りに睨めつけてから、大幣を横に一閃した。

 

「こんな趣味の悪い霧ばらまいて、遊び半分の異変でしたなんて、そんなこと許されると思っているのかしら? フランドール」

「誰かに許しを請う必要なんてないわ。私は悪魔の妹にして魔法少女、高貴な吸血鬼。お前の指図なんて受けない」

「姉に似て、生意気なのね」

「生意気というのは、格下を相手に使う言葉よ。口の聞き方に気をつけなさい、人間の巫女」

 

 フランドールの魔力が高まり、虹色の霧がいっそう濃く空を彩る。スカーレット一族の紅い魔力がフランドールを包み込こみ、彼女はその左手に、悪魔の尻尾のような歪んだ魔法の杖を召喚した。

 何やら剣呑な雰囲気になってきたと思っていたところで、霊夢の視線が花子に向く。いつか橙と小傘と一緒に退治された時とは、凄みが違う。

 

「花子。あんたが異変の主役だなんて、立派になったもんね」

「それはまぁ、色々違うところもあるんだけれど。でも言い訳はしないよ、私は幻想郷の妖怪だもの、異変ぐらい起こしてみせるんだから」

「嘆かわしいわね。レミリアなんかとつるんでるから、悪い影響を受けるのよ」

「紅魔館に行けって言ったのは、霊夢だよ。私が悪い子になったとしたら、それは霊夢のせい」

 

 してやったりと、花子はほくそ笑む。霊夢は悔しがったりはしなかったが、それでも面白くなさそうに鼻を鳴らした。レミリアやフランドール、そして文のおかげで、口だけならば一人前の妖怪になれたようだ。

 箒に跨ったまま、魔理沙がおかしそうに腹を抱えて笑った。

 

「霊夢、一本取られたな。後先考えないで紅魔館なんて薦めたからだぜ」

「あの時の花子がレミリアと仲良くなるなんて、想像できるわけないでしょうが」

「それには同感だけどな。さて――そろそろ始めるか」

 

 魔理沙の目付きが変わる。同時に周囲の空気も変質したように、花子は感じた。事実、変わったのだろう。澱んだ虹色の空に、緊張の糸がピンと張り詰める。

 魔法の杖を一振り、フランドールの眼前にスペルカードが現れる。その数は、事前に決めていたとおり、八枚。花子もポシェットから用意しておいたカードを取り出し、提示する。

 枚数が意外だったらしい魔理沙が、放り投げた八卦炉をキャッチしながら、

 

「八枚か。お前のことだから、もっとべらぼうな数を覚悟してたんだけどな、フラン」

「うふふ。魔理沙、大切なのは中身よ。私も花子も、ずっと我慢してたんだから」

「ほう、期待できそうだ。花子、私と霊夢をがっかりさせないでくれよ?」

 

 比較的優しい口調だったが、花子はそれに笑顔を返すことができなかった。魔理沙の瞳に宿る戦意が、そうさせてくれなかったのだ。

 

「カードは八枚――持ち点は、二十四点ね。覚悟はいいかしら」

 

 霊夢の確認に、花子は神妙な面持ちで、対するフランドールは輝くほどの笑顔で頷いた。

 ショットの間合いへと、霊夢と魔理沙が下がっていく。いつ始まってもいいように、花子は妖力を目一杯練り上げる。

 

 数秒の沈黙を破り、真っ先に弾幕を展開したのは、フランドールだった。純粋な魔力で練り上げられた白く細かい魔力弾が、そこら中にばら撒かれる。

 とうとう戦いの火蓋が切って落とされた。花子も桃色の二重螺旋を、自分を囲むような六つの頂点から発射する。文と戦った時に比べて効率良く妖力を使えるようになり、一度に撃てるショットの量も飛躍的に増えていた。

 フランドールの弾幕を援護として、花子は積極的に魔理沙と霊夢に向かっていく。対する相手も似たような戦術で、攻勢に出る魔理沙を、霊夢の霊力弾と博麗の札がうまくカバーしている。

 狙うなら、前に出ている魔理沙になるだろう。追尾してくる博麗の札や妖怪の天敵である霊力弾を避けつつ、以前フランドールにもらったアドバイス通り、魔理沙の八卦炉に注視する。光った直後に体を動かすと、脇をかすめるようにレーザーが駆け抜けていった。

 妖力弾の二重螺旋は、魔理沙のショットに似て直線的なものではあるが、広範囲をカバーできる特徴もある。フランドールの細かい魔力弾も相まって非常に避け辛いはずだが、魔理沙は自分の進むべき道が見えているかの如く、一切の迷いもなく進み、レーザーを花子に撃ってくる。

 

「……っ」

 

 分かっていたはずだ。あのレミリアとパチュリーを負かし、文にすら勝った魔理沙と霊夢が、弱いわけがない。それでも想像以上の気迫に、花子の心臓は締め付けられるようだった。

 このままでは、勢いに呑まれる。花子は気を取り直すために、一度下がることにした。背中を向ければ確実に被弾するだろうから、視線は魔理沙と霊夢をしっかりと捉えたまま、ゆっくりと後退する。

 レーザーが、また霊力弾や札が、それがショットであることを疑わせるほどの密度と速度で迫る。フランドールの援護射撃も、今まで花子が受けてきた彼女の弾幕に比べて遥かに濃く、精密だ。

 今まで自分が吸血鬼の姉妹にどれほど手加減されてきたのか、花子は思い知った。一瞬の余裕を見つけ、気持ちを落ち着ける。焦ってはいけない。避けるのだけはそれなりにうまいと、文が言ってくれたことを思い出す。

 なにより、これほどの弾幕を体験できるのだ。楽しまなければ、もったいない。

 

「もう準備運動、終わりでいいよね? 一枚目、宣言しまぁす!」

 

 フランドールが、それはもう楽しそうに手を上げ、彼女の羽の色にカラーリングされたスペルカードを召喚した。カード宣言、一枚目。花子とフランドール、残り七枚。

 

「いっくよー! 花子もちゃんと避けてねー」

 

 歪な形の黒い杖を、フランドールが振りかぶる。直後、その先端が燃えた。伸びた紅蓮の炎は、杖を柄とした刃となる。

 禁忌「レーヴァティン」。彼女の得意技なのか、花子はこのスペルを何度も見たことがあった。しかしその剣身は、花子が体験した時の倍か、あるいはそれ以上の長さがある。

 考え事をしている暇はなかった。フランドールは「避けて」と言ったのだ。間違いない、巻き込み覚悟で振り回してくる。

 

「あわわ、フランちゃん待って――」

「とぉぉりゃぁぁぁぁぁッ!」

 

 混ざり合った絵の具の空に、紅く燃える横一文字の斬線が走る。大振りなその攻撃自体は簡単に避けられたが、振るわれた炎剣から、無数の火炎弾が発生している。霊夢達は剣だけでなく、この炎弾も避けなくてはならないのだ。

 まったく遠慮無く振り回す炎の剣から逃げ回りながら、花子は魔理沙と霊夢を観察した。人間程度なら一瞬で消し飛ばせそうな――無論、威力の加減はするだろうが――炎の剣を前にしても、二人はまるで動じる様子がない。味方なのに逃げ回っている自分がみっともなくなるほどだ。

 戦略的に言えば、この一枚は当てておかなければまずい。文との決闘で最初の一枚を外した時の焦燥感は、今でもはっきりと覚えていた。しかし、

 

「ぬりゃーっ、当たれー!」

 

 こんなにも楽しんでいるフランドールを見てしまうと、戦略云々を口にするのは野暮に思えてしまう。

 空を切り裂く炎の剣が、霊夢と魔理沙の間を通過する。剣を振るう度に増していく炎弾は、意思を持っているかのように二人を狙っていた。あの炎の弾幕も、全てフランドールが操っているのだ。がむしゃらに遊んでいるように見えて、その弾幕の精密さ、花子は心底感心した。

 しかし、今は敵である二人には、フランドールのスペルに感動を覚えているような表情は一切ない。果てしなく伸びる炎の剣、そこから生まれる火炎弾から目を離さず、淡々と避け続けている。

 霊夢にも魔理沙にも、反撃する様子はない。避け切られてしまうだろうか。気づけば、花子は半ば観客のような心地になっていた。

 

 横薙ぎの一撃が、紅魔館上空を焼く。剣での攻撃自体はやはり当たる気配がないが、生まれ出る炎弾は空を覆い尽くし、紅魔館の外壁をさらに紅く照らし出している。パチュリーが使っていた魔法が炎の嵐とするならば、こちらはさしずめ火炎の津波といったところか。

 火の熱気は花子にまで届いており、先ほどから顔がチリチリと痛い。それでも人間二人から目は離さず、反撃してきた場合に備えて援護のスペルを考えていた。

 激化していく火炎弾幕に、花子はスペルの終わりが近いことを感じた。最後の一押しにかけるべく、フランドールが巨大すぎる炎の剣を持ち上げる。

 

「こんにゃろーッ!」

 

 ゆっくりと、しかし凄まじい質量を持って、炎の剣が叩きつけられる。魔法の火は飛び散って火災を起こしたりはしなかったものの、それでも熱風が吹き荒れ、花子はおろか、霊夢や魔理沙まで腕で顔を覆う。

 今のが最後の一撃かと思ったが、ようやく熱波が去り腕をどかした花子は、驚愕した。叩きつけた炎の剣身が百を超える炎弾となり、竜巻のごとく霊夢達を襲っていたのだ。この攻撃を読んでいたらしい二人は回避を始めているが、もし対戦相手が花子だったなら、とっくに被弾していたに違いない。

 発生した火炎の渦に、空を漂っていた今までの炎弾が引き込まれていく。肥大していく炎の竜巻に包まれ、霊夢と魔理沙の姿が見えなくなる。

 しかし、それから数秒と経たないうちに、霊夢がどこかの隙間を縫って、紅蓮の竜巻から脱出した。フランドールが悔しそうに唇を噛む。

 

「まだ、魔理沙が残っているよ」

 

 声をかけると、フランドールは小さく「うん」と答えた。

 脱出した霊夢は、炎弾に襲われなさそうな下方から悠々と竜巻を眺めている。魔理沙を心配するような素振りは見せていないが、そこに不思議と冷たさは感じず、花子はなんだかんだで二人が信頼しあっているのだと感じた。

 渦の先端――地面に最も近く細い部分から、炎の竜巻が瓦解していく。残り時間は、もうあってないようなものだろう。花子にもフランドールにも、諦めの色が見える。

 

 ややあって、紅い渦は消え去った。空を埋め尽くしていた炎の弾幕もまた、消滅する。

 炎の竜巻に包まれていた魔理沙は、服にも髪にも焦げた後は一つもなく、ただ悠然と箒に跨り、額の汗を拭いている。

 

「いやぁ、相変わらず熱いサウナだ。おかげでいい汗流したよ、フラン」

 

 魔理沙と霊夢、スペルを回避。持ち点は二点加点で、二十六点となる。

 

 初撃を回避されて、展開はかなり不利に傾いてしまった。まだ序盤とはいえ、この二点と一枚は大きい。花子は思わずフランドールの顔を覗き見た。落ち込んだり怒ったりしていないかと、気になったのだ。

 しかし、その表情に悔しそうではあるものの、花子の心配は杞憂のようだ。

 

「もー! あんな簡単に避けちゃうなんて、二人とも、強くなりすぎだよぅ」

「人間は常に成長するもんだぜ」

「そうそう。努力の賜物ね」

 

 霊夢が言っても説得力がない、と魔理沙とフランドールが笑った。遊びだとは分かっていたが、あまりにも和気藹々としているので、花子も異変中であることを忘れてしまうほどだ。

 とはいえ、弾幕ごっこも決闘方式の一つである。始めた以上、決着がつくまで続けるのだ。仕切り直しのために、魔理沙と霊夢が下がっていく。

 

「花子」

 

 振り返ったフランドールは、先ほどとは打って変わって、かなり真剣な顔をしていた。

 

「これからしばらく、ショットの撃ち合いになるよ」

「うん。文さんの時と違って、二人はお情けでスペルを使ってくれそうにないものね」

「それはきっと、花子が強くなったからだよ」

 

 お世辞じゃなく褒められて、花子は照れ隠しに頭を掻いた。純粋に力を褒められることは、外の世界どころか幻想郷に来てからもほとんどない。

 霊夢の大幣と魔理沙の八卦炉が輝いている。戦闘再開が近い。

 

「花子。次のショットから、私も前に出るよ。できれば五点は削りたいかな」

「五点かぁ。ちょっと大変そうだけれど……、うん、私、がんばるよ」

 

 二人の会話は、純白のレーザーによって途切れた。輝きが近づくと共に、花子とフランドールは同時に宙返りをし、また同時に弾幕を展開した。

 宣言通り、フランドールが白く細かい魔力弾をばらまきながら、霊夢や魔理沙と肉薄する。遅れを取るものかと、花子も妖弾の二重螺旋を六つ生み出し、できる限りのスピードで突っ込んだ。

 霊力弾や御札、レーザー、魔力弾、そして桃色の妖力弾。経験したことのない弾幕の嵐にいながら、恐怖心がまったく沸かないのは、そばにフランドールがいるからか。

 あるいは、花子の中でほとんど消え失せていた妖怪の闘争本能が、再び燃え始めているのかもしれない。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 レミリアの提案で、時計台にいた面々は再びテラスに移動した。パチュリーの魔法で結界を張っているため、弾幕はここまで届かない。

 こっそり飛び立った文が戦いの邪魔にならないよう弾幕を写真に収めているのだが、果たして花子達はそれを知っているのだろうか。フランドールはさすがに気づいていそうだが、だからといって巻き込まないような配慮をするつもりもないように見える。

 もっとも、それらは小悪魔から見た素人目線での見解なので、実際にどうなのかは分からない。

 

「小悪魔、お茶のおかわりをくれる?」

「あ、はい。……ごめんなさい、次のをすぐ淹れますね」

 

 すっかり弾幕に見入っていたせいで、お茶を切らしてしまっていた。普段はあまりない失敗に、パチュリーが眉を寄せる。

 

「いいんだけれど、珍しいわね。あなた、そんなに弾幕ごっこ、好きじゃなかったのではないかしら?」

「えぇ、はっきりと苦手です。でも、見るのは好きなんですよ」

「そうだったの? 初耳だわ」

 

 言われてみると、確かに直接口にしたことはなかったかもしれない。パチュリーの手伝いばかりで弾幕と縁が薄いのだから、意外と思われるのも当然だ。

 実際にスペルの強弱などを語れるわけではなく、ただ個性的で色とりどりな弾幕を見るのが好きなだけなのだ。そのことはきっと、付き合いの長いパチュリーなら分かってくれるだろう。小悪魔が種族に似合わず少女趣味であることを、彼女は知っている。

 新たなハーブティーを淹れて、パチュリーのカップに注ぐ。薄緑の液体が満ちた時、テラスの面々が――特にレミリアが――ざわめいた。

 見てみると、フランドールの白い魔力弾に撃たれたらしい魔理沙が、よろめいている。人間チームは一点減少し、残りは二十五点だ。

 妹のショットが当たったのがよほど嬉しいのか、レミリアは兎のように飛び跳ねて喜んでいる。パチュリーを応援している時の自分もこんな姿だったのかと思うと、小悪魔は恥ずかしくなって、一人赤面した。

 

「……? どうしたの?」

 

 パチュリーに訊ねられ、正直に答えられるわけもなく、「いえ」と首を横に振った。あの姿は、できれば主には見られたくない。

 カップから口を離したパチュリーに釣られて、小悪魔は空を見上げた。ちょうど、花子が魔理沙のレーザーに被弾するところだった。派手に吹っ飛んでいて、思わず口を両手で覆う。

 得点が二十三点に減ったが、駆けつけるフランドールを制して、花子はショットを再度展開し、魔理沙達へと気丈に立ち向かっていく。見れば見るほど実力の差は明らかだというのに、怖気づく様子は全くない。

 遠すぎて顔は見えないが、それでも花子とフランドールが、とても楽しんでいることが分かるのだ。自在に空を飛び、弾幕をばらまき、避け、その一挙一動があまりにも無邪気で、弾幕を不得手とする小悪魔でさえも羨ましく思うほどに。

 

「強い子、ですね」

 

 いつだったか、自分のなすべきことが見えないと相談してきたことを思い出す。あの時はとても小さく見えたのに、濁色の空を弾幕で埋める今の花子は、まるで別人のようだ。

 これが、成長なのだろうか。小悪魔自身、パチュリーの使い魔となってから色々な知識を得たりと伸びるところはあったのだが、性格的な成長はほとんどしていないように思う。昔から、悪魔らしくない悪魔だった。

 花子はどこまで伸びるのだろう。付き合いの浅い小悪魔には想像することも難しかったが、いつかきっと、小悪魔に人生論を語れるほどの大物になってくれるだろうと、信じることにした。

 

 交わる桃の螺旋が、霊夢を捉えた。六つの二重螺旋に閉じ込められ、数秒回避を続けた霊夢だが、とうとうその一つに被弾する。霊夢達の持ち点は二十四点となる。

 予想外の出来事だったのか、テラスにいた全員が歓声を上げた。あの花子が、霊夢にショットを当てたのだ。ワゴンで料理を運んできた咲夜と美鈴までもが、ふらつく霊夢を見て絶句している。

 

「やっ……やるじゃない花子! すごいわ、みんな見た? 見たわよね?」

 

 真紅の瞳を輝かせて、レミリアがテラスを跳ねまわる。紅魔館当主としての威厳は完全に消滅しているが、仲の良い友達の武勇を見れたのだ、これだけはしゃぐ気持ちも分かるなと小悪魔は微笑んだ。

 運ばれてきた料理を保温するべく、小悪魔は簡単な火の呪文をワゴンに施した。一日くらいは熱いままの状態を保てるだろう。本に夢中でお茶が冷めがちなパチュリーのために、試行錯誤して完成させた魔法だ。

 ほとんど条件反射でしたことだが、美鈴が律儀に頭を下げてきた。

 

「ありがとうございます、小悪魔さん」

「いえいえ。美鈴さんも、お料理を?」

「えぇ、まぁ。得意じゃないんですけど、そういう流れになっちゃいましたから、ちょっとだけ」

 

 自嘲気味に笑う美鈴だが、謙虚な妖怪だなと小悪魔は感心した。得意ではないと言うが、普段の紅魔館ではまず出ない中華料理は、彼女の手製だろう。

 

「すごく美味しそう。楽しみですね」

「皆さんのお口に合えばいいんですけど」

 

 照れくさそうに、美鈴が頬を掻いた。その時、上空から何度目かの衝撃音が響く。

 今度は魔理沙が吹っ飛ばされていた。当てたのは、またも花子らしい。ショットを中止したところで、フランドールに頭をめちゃくちゃに撫でられている。

 霊夢と魔理沙、三度目の被弾。持ち点は二十三点となり、点数はとうとう同点になる。

 思わずこちらまで嬉しくなって、小悪魔は知らず呟いていた。

 

「快進撃ですね、花子さん」

「確かに、あのおかっぱがここまでやるとは思いませんでした。私の時と同じで、少しばかり飛ばしすぎてますがね。はてさて、いつまで持つやら」

 

 誰ともなしの言葉に答えたのは、文だった。写真を撮り終えたのか、いつの間にやら帰還し、コップの冷水を呷っている。

 

「まぁ、さっさとスペルにこぎつけてくれれば、私は何でもいいんですけど。ショットばかりじゃ、ネタになりませんからね」

「素直じゃないなぁ、文さんは」

 

 豪快に笑い飛ばす美鈴に、文は渋い顔をした。本当は認めるべきところは認めているだろうに、正直に褒めてやれない性格は、小悪魔も可愛いとすら思う。

 つまらなそうに文花帖へ目を落とす文を置いて、上空では戦いが再開していた。確かに文の言うとおり、花子は無我夢中になりすぎてスタミナ配分を考えていないようにも見える。

 小悪魔の心配をよそに、レミリアは出されたおやつも忘れて大はしゃぎだ。

 

「すごいすごい! 咲夜見て、花子が霊夢達と渡り合ってるわ!」

「えぇ、見ておりますよ。本当に、驚きですわ」

「そうよね。花子だもん、正直コテンパンにされると思ってたわ。うぅん、フランと一緒だから強いのかしら。どっちにしてもすごいわ」

 

 興奮気味に羽を動かしているレミリアに、咲夜はすっかり破顔している。当主が楽しむというこの異変における従者一同の目標をクリアしていることに、小悪魔も安心した。

 互角どころか、今はフランドールと花子が押している状態だ。このままいけば、もしかしたら簡単に勝ってしまうのではないか。思わず胸元を押さえ、食い入るように弾幕を見つめる。

 しかしそれは、決闘をほとんどしない小悪魔の、あまりにも甘い考えであった。

 

「ここからよ」

 

 パチュリーがふと零した声と同時に、霊夢と魔理沙の動きが変わる。より俊敏に、より正確に、一切の無駄なく、攻めに転じた。とうとう「異変を解決」し始めたのだ。

 遠巻きに見ていても伝わってくるのだから、目の前ではよほどの迫力なのだろう、花子の動きが鈍る。フランドールに名前を叫ばれ気を取りなおしたようだが、素早く背後に回り込んだ魔理沙が狙っていることに、彼女は気づいていない。

 

「花子さん、後ろ!」

 

 聞こえやしないだろうに、ついつい叫んでいた。フランドールも似たようにしていたのだろう、花子が振り返る。しかしその頃には、フランドールの白い魔力弾を避けつつ、魔理沙がレーザーを放っていた。

 至近距離での光線を避けるのは、至難の技だ。逃げようとした花子が吹き飛び、レーザーが白い粒子と散る。これで、妖怪組の持ち点は二十二点になった。

 一瞬落胆しかけたテラスの一同だが、フランドールに支えられて花子はすぐに立ち直り、息をつく間もなく弾幕を再展開する。テラスは再び、観戦の熱気に覆われた。

 

「なるほど、タフにはなってるのね」

 

 短い文の一言は、賞賛なのだろうか。小悪魔には分かりかねたが、文が口元を緩めたのだけは、見逃さなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 予想していたよりもずっと、花子は強かった。フランドールのアシストあってのことではあるが、それでも花子のショットだけで二点も奪われてしまっている。

 こんなにも花子が強くなっていたことに魔理沙は歓喜したが、それ以上に、ペースを持っていかれたままでは負けるという危機感もあった。霊夢も同じだからこそ、本気を出し始めたのだろう。

 桃色の妖弾に注視していると、上空からフランドールの魔力弾が降り注いできた。真っ白な雪のようだが、その速度はまるで空から石つぶてを投げつけられているようだ。

 小さな隙間を縫うようにして、魔理沙はフランドール目掛けて上昇した。八卦炉からレーザーを乱射するも、手応えはない。

 

「ちっ」

 

 漏れでた舌打ちは、当てられなかったからではない。背後に、二重螺旋が迫っていたのだ。ショットのくせに実に嫌らしい弾幕で、巻き込まれたら避けるのは難しい。即座に方向転換し、桃色の渦から逃れた。

 どこからともなく飛んできた霊夢の札とすれ違う。本人はそのへんをふらふら飛んでいるのだろうが、博麗の札は的確に敵へと狙いを定め、追跡していく。相変わらず、ずるいショットだ。

 花子のショットが向きを変える。彼女の動きに応じて分かりやすく動く螺旋は、チーム戦では狙いが見破られる短所があった。それを見抜いてはいるのだが、何度も花子と遊んできたフランドールがそのことを知らないわけもなく、抜群のタイミングで援護射撃を撃ってくる。簡単には攻められなかった。

 

「後ろよ!」

 

 花子の向こうから聞こえてきた霊夢の声に、魔理沙は振り返った。フランドールが、ショットを展開している。避けられない距離ではないが、一瞬遅れた反応を取り戻すのは、簡単なことではない。

 なんとか呼吸を整えて、攻勢に転じる。白い魔力弾を抜けながら、光線を放つ。時折振り返って花子の動きを確認しなければならないので、戦いにくい。反対側に回り込めればと動くが、さすがに読まれて、フランドールはそれを妨害するかのように移動してくる。

 霊夢と合流できればまた違うのだろうが、それも容易ではない。なにせ、背後では油断ならない小さな妖怪、花子が霊夢を抑えているのだ。

 

「もっとサクサク行くと思ったんだがな」

 

 現状を打開しなければ、どうにもならない。本当はもう少し点差を開きたかったのだが、下手をすればこちらが削られてしまう。

 意を決して、カードを取り出し、声を振り絞った。

 

「そろそろいくぜ!」

 

 カード宣言、一枚目。魔理沙達の残りカードは、七枚。

 霊夢とフランドールがショットを中断し、花子も宣言に気付き、振り返る。注目が集まる中、八卦炉の出力を上げた。魔力を注ぎ、フランドールに向かって術式を解き放つ。

 魔理沙の十八番、巨大なレーザー、恋符「マスタースパーク」。濁った霧を貫く光線は、避けられはしたものの、フランドールにいくらかの動揺を与えることができたようだ。

 反転し、今度は花子へ八卦炉を向ける。目前でマスタースパークを見たせいか、若干怯えているように見えた。ためらわず、魔法を発射する。

 

「勝負なんだ、悪く思うなよ!」

 

 眩い光が空全体を包み込み、独特の轟音と共に、光線が花子へと迫る。必死になって逃げ回る様は気の毒だったが、慣れられる前に仕留めたい。狙いは花子に決まった。

 反撃のスペルを警戒しつつ、三発目を撃つ。捉えたかと思ったが、花子はきわどいタイミングでレーザーの射線から逃れた。だが、徐々に追い詰めてきている。後何発かすれば当てられると、魔理沙は確信した。

 その、直後。花子が決然とこちらを見据え、ポシェットを開けた。ままならない展開だが、こうでなくては面白く無いと、思わず口元がにやける。

 

「フランちゃん、使うね、ごめん!」

「いいよ、がんばって!」

 

 仲睦まじいやり取りの後、花子は可愛らしいピンクのスペルカードを掲げた。カード宣言。残り枚数は、六枚となる。

 八卦炉で狙いは定めたまま、魔理沙はスペルの発動を待っていた。妨害などというナンセンスな真似はしたくなかったし、何より、花子のスペルが楽しみで仕方なかった。

 突如、空中に緑の妖弾が浮かび上がる。魔理沙どころか霊夢やフランドールの周囲も覆い、その数は百を超えている。

 

「こいつは――」

 

 山での決闘で文を相手に使い、見事命中させていたスペルだ。全ての妖弾に、花子の妖力が満ちた。魔理沙も八卦炉へ魔力を注ぎ、いつでも反撃に出られるように集中する。

 タイミングを計るものなど、何もない。ただ唐突に、一斉に、緑の球体がバウンドを始める。

 怪談「ホルマリン蛙の運動会」。あまりの不気味さに、魔理沙は一瞬思考が停止した。すぐに頭を振って、蠢く妖弾の隙間を縫うように動く。止まったら被弾してしまう。

 

「なるほど、『学校の怪談』ってのも、馬鹿にできないな」

 

 ひたすら跳ねまくりながら執拗に追いかけてくる妖弾は、確かに怖い。外の世界の子供が怖がるのも無理はない気味悪さだ。

 しかし、ここは幻想郷であり、魔理沙も霊夢も、幼いながらに妖怪退治の専門家だ。この程度の恐怖を屈服できずに、どうして大妖怪を仕留められるというのか。

 跳ね回る緑の間から、花子の姿を見つけた。スペルを動かしているその後姿に、狙いを定める。

 このスペルの弱点は分析済みだった。無数の妖弾を操作することは花子には難しいらしく、以前の決闘ではスペル中まともに動けていなかったのだ。

 移動が制限されるスペル。それはすなわち、魔理沙のマスタースパークとの相性が最悪であることを意味している。

 

「悪いが、いただきだ!」

 

 八卦炉から溢れた光の奔流は、一直線に花子へ向かった。最低限の回避動作しかできない状況では、極太のレーザーを避けきることはできない。魔理沙は命中を確信した。

 しかし、予想は裏切られる。スペルを操っているはずの花子は、必死ながらも魔理沙のレーザーをひらりと回避したのだ。妖弾は、今もバウンドを続けている。

 

「マジかよ……!」

 

 妖力の使い方が、格段に上手くなっている。空も飛べなかった頃の印象がまだ残っていたのか、魔理沙は油断していたのだ。

 そう、油断していた。気付けば、周囲に蠢く妖弾が、魔理沙を囲んでいた。逃げ道はもう、残されていない。

 叫ぶ余裕もなく、魔理沙はマスタースパークをぶっ放した。極太のレーザーで無理矢理突破口を開き、囲んでいた妖弾から脱出、未だ魔理沙の周囲を蠢く緑の球体を避けながら、花子の姿を探す。

 見つけた。いつの間にかフランドールと合流し、何やら言葉のやりとりをしながら、蛙を模した妖弾に守られるような位置で、スペルを操っている。遠く離れた霊夢の周囲でも、妖弾が跳ね回っている。初見のスペルに、霊夢も避けにくそうだ。

 友人として、よくここまで来たと褒めてやりたいほど、花子は成長している。しかし、今の魔理沙にとって、彼女は倒すべき敵である。

 フランドールがこちらに気付く。花子は魔理沙に背を向けていた。迷うことなく八卦炉を向け、魔法を放った。光線は噴流となり、妖弾を巻き込み蹴散らしながら、花子達へ直進する。

 命中かと思われたが、魔理沙は捉えていた。レーザーが放出された瞬間、フランドールが花子を掴んで下降したのだ。自分のスペルに視界を遮られ、魔理沙はまだそちらを確認することができない。

 光線が消え、下方を確認する。一瞬見えた花子とフランドールの顔は、勝ち誇っているように見えた。まだ魔理沙のスペルは終わっていない。花子だって命中させてはいないのだ。今だって、魔理沙の周りの妖弾は――

 

「……ッ!」

 

 声が出なかった。魔理沙の周囲で飛び跳ねていたはずの妖弾は、どこにもない。ただ、視界の片隅、霊夢のいる方向で、おびただしい数の緑が跳躍しているのが見える。

 謀られたと知るのに、時間はいらなかった。マスタースパークの威力と眩しさを利用された。霊夢の方向へわざと妖弾を吹き飛ばさせ、同時に魔理沙の目も眩まし、その一瞬で、狙いを完全に霊夢へと切り替えたのだ。

 魔理沙は歯噛みした。フランドールの入れ知恵だろうが、こんな戦い方をしてくるとは。展開されていた全ての妖弾が集中しているのだ。さすがの霊夢でも、被弾してしまいかねない。

 

「やってくれるぜ、花子!」

 

 時間がない。すぐにスペルを当てなければ、三点も減点を食らうことになる。レミリアとパチュリーにも、協力されてマスタースパークは敗れた。これ以上、このスペルに傷を付けるわけにはいかないのだ。

 大量の妖弾の中で避けているだろう霊夢に持ちこたえてくれよと念じて、魔理沙は八卦炉に魔力を注ぐ。あと何発かなど、数えている暇はない。一撃で当てなければ。

 幸い、魔理沙を狙う妖弾はない。箒を加速させ、フランドールのスペルを考慮に入れず、ただ真っ直ぐ、自身が光線にでもなったかの如く、突撃する。

 花子とフランドールは動かない。ただじっと魔理沙を睨みつけてくる。妖弾に集中しているのかとも思ったが、何か秘策があるのだろう。二人の正直すぎる瞳が、魔理沙にもっと近づけと言っているのだ。

 

「お望みどおり、行ってやるさ!」

 

 二人の顔立ちがはっきり見える距離に近づいた刹那、魔理沙は箒を地面と垂直になるまで持ち上げていた。下から現れた妖弾が、眼前を通過していく。

 花子達のほぼ真下に、妖弾が残っていた。隠されていたと言ってもいいだろう。これこそが、二人の秘策であったのだ。

 十にも満たない程度の妖弾が、高くバウンドして魔理沙の進路を遮る。弾が残っているということは、霊夢もまだ被弾していないということだ。

 緑の妖弾に触れないようにしつつ、箒を加速させた。もう、魔理沙のスペルの時間もない。否が応にも、次の一撃で決めなければならない。

 花子とフランドールに肉薄する。二人は動かない。まだ手があるということだろうが、そんなものを気にしてはいられなかった。箒に足をかけ、器用に立ち上がり、八卦炉を向ける。

 

「ふっ――」

 

 呼気が漏れた。同時に、魔理沙は箒を蹴る。空中に飛び上がり、花子とフランドールが目を丸くしているのが見える。集中しきった魔理沙の視界は、ゆっくりと流れていった。

 魔理沙の背中をなぞるように、背後数センチのところを妖弾が通過していく。隠していた最後の一手だろう。魔理沙は、妖怪少女の奥の手を躱しきったのだ。

 今も驚きに目を見開いているフランドールと花子の頭上から、八卦炉を突きつける。二人が逃げる素振りを見せた瞬間、容赦なく、怒涛の一撃を発射した。霧を切り裂く光線が、花子達を完全に飲み込む。

 重力に引かれる中、魔理沙は箒を呼び寄せてそれに跨った。体重の軽いフランドールと花子が、派手に吹き飛ばされている。命中は確定した。

 しかし、にわかには喜べない事態となった。振り向いてみれば、霧散していく緑の妖弾の中から霊夢が現れるところだった。右の離れ袖がなくなっており、霊夢も痛みに顔を歪めている。

 

 双方、同時に被弾。持ち点は、花子とフランドールが十九点、霊夢と魔理沙は二十点に減少した。

 

 妖怪二人の心配は、するだけ無駄だろう。連中が魔理沙の魔法程度で死ぬはずがない。今は、霊夢に声をかけてやるべきか。

 とりあえず行ってやるかと思ったが、その前に霊夢が近づいてきた。頬を膨らませて、憮然としている。慰めてやろうと考えていたのに、魔理沙は笑ってしまった。

 

「お前、なんて顔してんだよ」

「うるさいわね。ていうか、なんで助けてくれないわけ?」

「そりゃ、フラン達を狙ったほうが早かったからだ。事実、ギリギリだけど同時被弾にまで持ち込んだぜ? 後はお前が粘ってくれてりゃなぁ」

「あんたね、あの中で避けてみなさいよ。気持ち悪いし避けづらいし、最悪よ」

 

 反撃もできずにあれだけの数に囲まれていたのだから、さぞイライラしたろうなと、魔理沙は苦笑した。避ける側じゃなくてよかったと心底思う。

 遠目に、飛ばされたフランドール達が見えた。至近距離でレーザーを受けてドレスはボロボロだというのに、手を取り合って被弾させたことを喜んでいる。自分達も減点なのだが、単純というかなんというか、実に羨ましい。

 霊夢も被弾したとはいえ最小限の被害に抑えたらしく、いつでも再開できそうだ。魔理沙は訊ねた。

 

「どうだ?」

「何が?」

「あの二人のことだよ」

 

 白い光が纏わりつく大幣を肩に担いで、霊夢はしばらく花子とフランドールを見据えた。十秒ほどして、彼女は小さく、

 

「油断しなきゃ勝てる、ってとこね」

「お前にしちゃ、高評価じゃないか」

 

 霊夢がわずかに微笑みながら、博麗の札を取り出した。

 

「私にショットとスペルを当てられる下級妖怪なんて、そうそういないからね。フランドールが一緒にいるにしても、舐めすぎたわ」

「同感だ。いつも通り、異変の黒幕をぶちのめすつもりでいかないとな」

「花子のあの顔を見ると、調子が狂うけどね」

 

 確かにと笑って、魔理沙は移動を始めた。フランドールと花子の、それぞれ白い魔力弾とピンクの妖弾が放たれたからだ。

 濁った空に散りばめられた弾幕の中を進みながら、八卦炉に魔力を注ぐ。霊夢もとうとう前に出て、霊力弾と札を積極的に展開し始めた。

 至近距離で、激突するかのようなショットの撃ち合いが始まる。この高揚感が、人の身でありながら妖怪と堂々戦える心地よさが、魔理沙はたまらなく好きだった。

 

 この感触をもっと知ってほしいから、さらに高みへ登ってこいと思うのだ。魔理沙がいる場所へ。霊夢が、レミリアが、フランドールが、文がいる場所へ。

 花子ならば、きっと登ってこれる。そう信じているから、魔理沙は何度も、花子に向かって手を伸ばす。



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そのにじゅうはち 異変!七色の霧と弾幕地獄!(5)

 絵の具を無作為に混ぜたような霧の中、飛び交う弾幕を流れるように避けながら、霊夢は冷静に相手を分析していた。

 フランドールの弾幕は、言うまでもなく難解かつ美麗である。弾幕ごっことなればレミリアの方が実力は上だろうが、頭は妹のほうがいい。ショットの撃ち合いにあってもそれが分かるほど、彼女の弾幕は知的なのだ。

 そしてもう一人の主犯、花子。策にやられて被弾してしまったが、やはりその弾幕は荒い。地力が低く、せいぜい神社の近所に住む宵闇の妖怪か、良くて夜雀のミスティアに並ぶ程度の実力であろう。ただ、吸血鬼の姉妹と遊んでいたためか、少ない妖力を最大限に活かす(すべ)を学んでいる。ましてフランドールと組んでいる今、油断ならない相手となっていた。

 特に、そのショットだ。花子を中心として上下に一つずつ、左右に二つずつ、計六つの頂点から繰り出される二重螺旋のショットは、実に厄介な代物だった。遠く離れれば広範囲に拡散するショットとなるし、近寄れば密度の高い弾幕に化ける。交錯させて集中攻撃などされれば、避けるのは非常に難しい。

 これはもしかしたら、ショットの範疇を超えているかもしれない。あまりに避け辛いのなら、頂点を削るか螺旋をやめさせるかをしなければならないだろう。

 

 しかしそれは、この戦いの後でのこと。どうせ宴会になるのだろうから、その時にでも話そうと思いながら、霊夢は霊力弾に紛れ込ませた博麗の札を大きく迂回させ、フランドールの背中を強襲した。

 

 魔理沙に注視していたフランドールが、気づけずショットに被弾する。一点の減点、フランドール達の持ち点は十八点に変わる。

 

 博麗の札の霊力は妖怪にとって天敵であるはずだが、フランドールはあまり痛そうな素振りは見せない。熱中しているからだろうか。

 お返しとばかりに展開してきた雪玉のような魔力弾の間をくぐりつつ、霊夢は花子に向かって霊力弾を展開した。所詮はショットなので避けやすいことは避けやすいのだが、それにしても花子は、ボケっとした見た目によらず俊敏に回避してみせる。

 妖怪の山で文と戦っていた時から、花子が回避に関してなかなかのセンスを持っていることは知っていた。お粗末なおつむのせいで、いまいち生かしきれていないようだが。

 霊夢の弾幕を避けつつ、花子がショットを魔理沙に向ける。桃色の二重螺旋は広範囲に弾幕をばらまき、独特な動きを見せている。しかし魔理沙は、ショットにしては特徴的すぎるその動きを、しっかりと見切っていた。最初こそしてやられたが、今は霊夢も簡単に当たってやるつもりはない。

 

 数秒、花子の背中を追いかけていると、右斜め後方に濃密な魔力を感じた。即座に振り返り、霊力弾を放つ。しかし、そこにいるはずのフランドールの姿はない。

 

「ばぁ」

 

 驚かしたつもりなのだろうか、無邪気な声は真横から。一瞬の間に、回りこまれていた。

 そちらを向いた瞬間、霊夢の視界は純白で染まる。至近距離で放たれた魔力弾が、霊夢の細い体を無遠慮に打つ。

 霊夢、ショットに被弾。霊夢と魔理沙の持ち点は十九点に減った。

 あまりに近くで大量の魔力弾をくらい、霊夢はその痛みにうずくまった。歯を噛み締めるも、目尻に涙が浮かんでくる痛さだ。

 

「わわ、やりすぎたかな。ごめんね」

 

 フランドールは本心から詫びているようだが、彼女はもともと加減が下手なのだ。最近会っていなかったこともあり、すっかり忘れていた。謝ることを覚えたのは意外だったが、花子の影響だろうか。

 ともかく、霊夢は痛みを押し殺し、頬を叩いて無理矢理背筋を伸ばした。

 

「さすがに効いたわ。でもまだまだ、レミリアの弾幕よりずっと温い」

「涙目のくせによく言うぜ」

 

 花子と対峙したままショットを中断している魔理沙が、意地悪く唇を釣り上げる。よほどこの異変を楽しんでいると見えるが、あまりにも失礼な言動が多い。霊夢は近いうちに、彼女に何かしらの仕返しをしてやろうと決めた。

 大幣を構える。撃ち合い可能の合図である。フランドールはもちろん、ポシェットから絆創膏など取り出し始めていた花子も、それをしまって魔理沙にショットを展開した。再び、濁色の霧が弾幕で埋まる。

 素早いレーザーに追いかけられて、花子は四苦八苦しているようだ。そのくせ霊夢の弾幕はしっかり避けていて、なんとなく悔しくなる。何も劣っているわけではなく、単純に相性の問題なのだが。

 ともかく、魔理沙が花子を狙いやすいように、霊夢はフランドールを抑えることにした。援護のショットを撃とうとしているところに、容赦なく博麗の札を投げ込む。

 無数の追跡弾に追われ、フランドールは唇を噛んで回避をしつつ、こちらに魔力弾を放ってきた。やはり、彼女は霊夢のショットを苦手としている。顔や言動に似合わず理論的思考を持つ彼女だ。考えすぎて思考に囚われる、パチュリーと似た癖があった。

 対して霊夢は、直感のみで弾幕の動きを決めている。最初から頭脳戦などしてやるつもりもなく、勘の赴くままにショットを放っているので、フランドールは連続する予想外の事態に追われていることだろう。

 

 じわじわと距離をつめながら、博麗の札の中に霊力弾も交えていく。弾の方は直進しかしないが、フランドールがあからさまに嫌そうな顔をするのを見逃さなかった。札の回避で精一杯な証拠だろう。

 このまま追い詰めたいと思ったが、次の瞬間、霊夢は一時撤退を余儀なくされた。ほぼ真下から、桃色の渦が奇襲をかけてきた。

 魔理沙の追撃を受けながらも、花子が迫っていたのだ。一度上空へ舞い上がり、その後に二重螺旋の射線から脱出する。

 

 花子はまだこちらを狙っているが、構わず反転して弾幕を撃つ。霊力弾が舞い落ち、二重螺旋を相殺した。フランドールのショットが横から襲うが、距離があるので余裕を持って回避できる。

 奇襲をかけて必中を確信していたのだろう。花子は動揺を隠すこともできずに、魔理沙に追いかけられていた。心の乱れがショットに出ており、霊夢は点を奪うチャンスだと確信した。紅白のカードを掲げ、

 

「スペル、いくわよ!」

 

 カード宣言、二枚目。霊夢達の残り枚数は、六枚となる。

 霊夢の周囲に、カラフルで巨大な霊力弾が大量に出現する。数々の妖怪を封印と称して叩きのめしてきた神聖な力に、花子はおろかフランドールすらも、気圧される。 

 放たれた。神霊「夢想封印」。博麗の札など目ではない追尾性能と速度で、封印術が妖怪共に襲いかかる。

 慌てて逃げ出す花子とフランドールに、反撃の様子は見られなかった。花子は初見であるし、フランドールも慣れていないスペルだ。まして霊夢の封印術は、妖怪が当たると死ぬほど痛いと有名である。レミリア達からその体験談は聞いていることだろう。

 素早いフランドールはともかく、何度か追いついているはずなのに、花子はその都度動きを変えて避けている。格上を相手に戦い続けてきただけあって、ずいぶん厄介な下級妖怪になってくれたものだ。

 しかし、霊夢は花子に示さねばならなかった。博麗の巫女は妖怪の天敵であることを、忘れさせてはならないのだ。夢想封印の霊力弾を、さらに加速させる。

 

「ひ、ひっ」

 

 花子の悲鳴が届く。あるいは空耳だったのかもしれないが、彼女の表情から、似たような声が漏れたであろうことは容易に想像がついた。

 上空で退屈そうに見下ろしている魔理沙を一瞥してから、霊夢はラストスパートをかける。フランドールに向けていた霊力弾を、全て花子に向けた。このスペルは、最初から花子に当てるつもりでいたのだ。

 ほんの少し、花子のスペルに当たったことを根に持っていた。それ故に、似たような戦法を取ってしまったのだ。そんな自分に若干自己嫌悪しつつ、最後の一秒で花子を仕留めるように、術を操る。逆に言えば、その一秒をしのげれば、花子は見事霊夢のスペルを破ることができるのだ。

 しかし、容易いことではない。霊夢の技はその霊力だけで、妖怪を威圧する。まして花子程度の妖怪であるなら、色とりどりの霊力弾は飢えた狼の群れより恐ろしい代物に見えるだろう。そんな物に挟撃されて、冷静でいられるわけがない。

 狙いから外されたフランドールが、大急ぎで反転してくる。逃げ惑う花子のフォローをしようというのだろうが、もう遅い、と霊夢は呟いた。混乱の限界に到達した花子が、ついに捕まった。

 霊力弾が花子を捉え、美しい弾幕が一斉に弾ける。その中心にいる花子が、今度は誰にも聞こえるような声量で悲鳴を上げた。

 

 花子、スペルに被弾。残り点数は十五点。

 

 少しばかり、力みすぎたか。霊夢はわずかに後悔した。本気で討伐するほどの威力はないにしても、遊びの範囲としてはギリギリの火力だったかもしれない。フランドールが飛んでいくのを見て、魔理沙と並んでそちらに向かう。

 花子は、気を失ってはいなかった。それでも相当効いたらしく、フランドールに支えられていなければ飛んでいられないようだ。妖怪は回復も早いので、数分もすれば良くなるだろう。

 

「なに、今の」

 

 息が落ち着いてきた花子が、呟いた。顔面蒼白で、かなり精神的に削られているらしい。フランドールがしきりに顔色を伺っている。

 一方で、大して心配していない魔理沙が、なぜか自慢げに言った。

 

「博麗の巫女サマの必殺技だぜ。な、霊夢」

「別に必殺じゃないわ。序の口よあんなの」

 

 しょっちゅう使うくせに、と魔理沙に笑われたが、霊夢は鼻を鳴らすにとどめた。本当は自慢の技なのだが、それを認めるのが恥ずかしかったのだ。

 しかし、花子はどうやら額面通りに受け取ったらしかった。フランドールに礼を言って自力で飛びながら、額の汗を拭い、

 

「すごいね、まだまだ本気じゃないんだ」

「と、当然よ。私は博麗の巫女なんだから、全力を出したらもっとすごいわ」

 

 虚勢というわけではない。実際、霊夢はその気になれば指一つ触れられずに妖怪を撃滅することができる。ただ、花子の透明な視線が、なぜか霊夢をたじろがせてしまった。

 付き合いの長い魔理沙は霊夢の動揺を見ぬいたらしく笑っているが、花子はやはり純粋に受け止め、

 

「本当に、強いんだ。霊夢も、魔理沙も。びっくりしちゃった」

「……」

「フランちゃんも、レミィも、いつもよりずっと綺麗で難しい弾幕で。みんな、本当にすごい」

 

 実力の差に気付けないほど、花子は馬鹿ではないらしい。霊夢のスペルを見て、自信を失くしてしまったか。

 だが花子は、決然とした態度で、顔を上げた。

 

「でも、私、負けないから。フランちゃん達と友達の花子は弱いなんて、絶対言わせないんだから」

「花子……」

 

 フランドールに手を取られ、花子はにっこりと笑みを浮かべた。それだけで伝わるものがあったのだろう、フランドールもまた、破顔して頷く。妖怪にしておくのは惜しいほどに、友人関係の見本のような少女達だ。

 こちらも一応は友のはずなのだが、魔理沙は霊夢の頬を突っつきながら、頬をニヤけさせている。花子達のような微笑ましさなど、そこには微塵もない。

 

「せっかく当てたのに、おいしいところ持っていかれたな? メルヘンチックな乙女劇場を見て、どんな気分だ?」

「別に、そんなの興味ないし。生ぬるい馴れ合いなんて欲しくないわ」

「おーおー、怖い怖い。嫉妬が見え隠れしてるぜ、橋姫でも呼んできてやろうか」

「うっさい」

 

 とんがり帽子ごと魔理沙の頭を叩いて、霊夢はさっさと後退する。もう花子は始められる程に回復しているだろう。

 魔理沙と同時に、ショットを放つ。答えるかのように、花子達も弾幕を展開した。

 

 飛んでいく博麗の札に、花子とフランドールへの羨みが封印されていることは、霊夢以外に誰も知らない。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 弾幕ごっこという遊びを知った時、魔理沙は心底衝撃を受けた。言ってしまえば弾幕を避けて当てるという単純なルールだが、弾幕の力強さや美しさ、遊び心満載な決闘方法に、あっという間に夢中になってしまった。

 異変解決に首を突っ込むのは、好奇心ももちろんあるが、何より強い相手と弾幕ごっこがしたいという思いからだ。異変の首謀者は、いつも魔理沙を満足させる弾幕を見せてくれる。勝ち負けに関係なく、心地いい戦いをしてくれるのだ。

 今回の異変は、その点においてわずかに不安があった。フランドールはともかく、御手洗花子なる妖怪少女の弱さは、魔理沙もよく知っていたからだ。

 空もろくに飛べなかった頃から、まだ一年しか経っていない。ずいぶん成長したとはいえ、異変を起こす大妖怪に比肩するほどとは、とても思えなかった。

 そしてやはり、今も変わらず花子は弱い。工夫の見られるショットに最初は戸惑ったものの、慣れてしまえばどうとでもなってしまう。伸び代はあるが、今この瞬間、異変の主犯となるほどの力はない。

 

「……」

 

 フランドールの魔力弾に守られるような位置で、花子がショットを撃ってくる。距離を取って螺旋の射出点にだけ注意しておけば、下手を踏まない限り被弾の危険は薄い。地力の低さが、ここにきて露見しつつあった。

 それをカバーし協力することで、花子の弾幕を大妖怪以上の脅威としているのが、フランドールだ。協調性などないと思っていた彼女がここまで連携がうまいとは、魔理沙だけでなく霊夢にとっても予想外だった。援護をするだけでなく、前に出ては花子の弾幕を利用するかのように立ち回り、時間が経つに連れて魔理沙と霊夢は相手のペースに引きずられていく。

 フランドール自身も、姉のレミリアより弱い。しかし、レミリアとパチュリー、文を相手にしたときよりも戦いの主導権を握られがちなのは、どうしたことだろう。花子のショットが初見だったからかとも思ったが、どうにも納得がいかない。

 もしかしたら、タッグバトルという特殊ルールには、魔理沙が思っている以上に連携の力が出るのかもしれない。弾幕ごっこの醍醐味である、弱者が強者を圧倒するということが頻繁に起きるというのなら、これはこれで面白い遊び方だ。

 しかし、一対一こそが弾幕ごっこの原点にして頂点であり、個人の技量――弾幕の美しさも含め――こそが強さであるという魔理沙の考えは変わらない。現に、タッグバトルであっても、スペルカード発動中は大体が一騎打ちになる。全員がスペルを使う乱戦状態は、よほど点数に余裕があるか切羽詰まるかしない限り、なかなか起こり得ない。

 

 博麗の札をしっかりと回避しながら、花子がこちらを狙ってきた。あのショットに接近されては厄介なので、レーザーを撃ちながら距離を取る。フランドールの動きが気になったが、魔力弾は見えるものの、彼女の姿を捉えることはできなかった。

 花子を追う霊夢の方にも、小さな吸血鬼の影はない。魔理沙はフランドールと戦ってきた経験から、彼女の行動を予想する。

 箒を真上に向けた。嫌らしい動きをする桃色の妖弾を小さく動いて避けながら、急上昇する。視線の先には、今まさにショットを撃ち下ろそうとしていたフランドールの姿があった。動きを読まれ、わずかに眉を寄せている。

 

「残念だったな、作戦失敗だ」

「それはどうかな?」

 

 フランドールが弾幕をばらまく。百を超える雪玉のようなショットは、魔理沙の目の前いっぱいに広がり、もはや回避は不可能に見えた。

 しかし、魔理沙は彼女を良く知っていた。どんな弾幕であっても、フランドールは必ずルールを守り、逃げ道を用意しているのだ。それも、避け切れなかった時にからかえるよう、至極単純な回避方法だったりする。

 迷わず真っ直ぐ飛翔する。弾幕が体をかすめるように落ちていくが、その一つも魔理沙に当たることはなかった。逃げ道は、拡散するショットのど真ん中にあった。

 二人の間に、距離はもうほとんどない。魔力弾の群れを突破し、魔理沙はスペルカードをフランドールにつきつけた。カード宣言、三枚目。残りは五枚。

 

「いただくぜ、フラン!」

 

 右手の八卦炉のみならず、左手までも突き出して、魔法を展開する。目をまんまるにしているフランドールの顔、そのただでさえ白い肌が、放たれる光によってさらに純白に染まる。

 恋心「ダブルスパーク」。両の手から放出された二本の巨大なレーザーは、確実にフランドールを飲み込んだように思えた。下方でショットを中断して見上げる霊夢と花子にもまた、同じように見えているだろう。

 しかし、レーザーを放つ魔理沙は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。汗が頬を伝い落ちる。

 光が消えたその先に、フランドールはいなかった。ただ、七色にカラーリングされた一枚のカードが浮いている。

 魔理沙は、呟いていた。

 

「参ったな……」

 

 フランドール、カード宣言。妖怪組の残り枚数は、五枚。

 今魔理沙が宣言しているスペルならば、二箇所同時にマスタースパークを撃つことができる。しかし、その利点をもってしても、戦いは有利にならないかもしれない。

 魔理沙の周囲に浮かぶ、濃厚な四つの気配。

 

「ねぇ魔理沙」

「この私が」

「そう簡単に」

「やられると思った?」

 

 四ヶ所から聞こえるフランドールの声に、疑問は浮かばない。なぜなら、彼女は四人いるのだから。

 禁忌「フォーオブアカインド」。分身したフランドールは、それぞれ個性的に、しかし全員が勝ち誇った笑みを浮かべている。

 好き勝手に飛び回る四人のフランドールが、一斉に弾幕を撃ちだした。色も形も大きさも、速度すらもバラバラで、まるで雪崩のように魔理沙を襲う。

 急いで反転し、とにかく離れねばと箒を加速させながら、魔理沙は霊夢と花子を探した。スペルに見とれている花子はともかく、弾幕は霊夢よりも魔理沙に集中している。

 一騎打ちを望んでいるわけではないが、仕掛けてきた相手を狙ってくるだろうとは、予想がついた。フランドールは頭がいいが、中身はレミリアと同じで幼い子供と同じだからだ。

 

「遊んでほしいなら遊んでやるぜ、妹君ッ!」

 

 両手を左右に伸ばして、魔法を解き放つ。二本のマスタースパークは、四人のフランドールがばらまく弾幕を、ことごとく粉砕した。

 レーザーの向こうに、フランドールが見える。本体にだけ当てられればいいのだが、分身の誰もが同じ顔、同じ姿で、まったく区別がつかない。

 本体がどれかなど、考える必要はなかった。一人を探すくらいなら、四人まとめて吹き飛ばしてしまえばいい。愛用の箒を加速させ、再び展開された膨大な弾幕を、巨大レーザーでなぎ払う。

 魔力弾が消え、この瞬間だとばかりに、魔理沙は両手を正面に突き出した。箒の上でもまったくふらつかず、二本が合わさりさらに大きくなったマスタースパークを、フランドールに撃つ。

 散開した四人のフランドールだが、そのうちの一人は純白のレーザーに飲み込まれて消えた。手応えは薄い。分身体だろう。

 

「あぁ、酷いなぁ」

「私が一人、消えちゃった」

「寂しくなるね、私達」

 

 芝居がかった仕草と台詞で、三人になったフランドールが手を取り合って遊んでいる。一人潰した程度では、まだまだ余裕ということか。

 八卦炉を向けるも、彼女達――『彼女』が正しいか――はまったく動じない。少しは焦ってほしいものだと思いつつ、魔理沙は挑発するかのように言った。

 

「だったら、三人まとめて消してやるよ」

「えー、嫌だよ」

「まだ消えられないよ」

「もっともっと、遊びたいもん!」

 

 赤青黄、身勝手な魔力弾の嵐が、魔理沙に向けて放たれる。魔法を撃つより早く、大量の弾幕が迫ってきた。

 集中しきれず、魔法を放てない。小さく毒づきながら、まずは回避に専念する。右も左も正面も魔力弾だらけで、霊夢や花子はおろかフランドールの姿も目視できない。

 これはまずいことになったと、魔理沙は歯噛みした。視界を殺されている間に、フランドールは移動しているだろう。分身も含めて三体、その動きを正確に予想することは難しい。

 

「落ち着け、落ち着けよ私」

 

 自分に言い聞かせ、魔力弾を避けつつ、弾幕が晴れた瞬間をシュミレートする。どう動けばいいか、どの手がもっとも自分に有利なのか。

 作戦が決まった。同時に、弾幕の雪崩が収まる。瞬間、魔理沙は足の力を緩め、するりと箒に逆さ吊りになった。重みでわずかに下降し、色とりどりの魔力弾が、箒の上を交差し駆け抜けていく。二人のフランドールが、魔理沙の正面と右方面にいたのだ。

 あと一人は、真下にいた。ぶら下がったまま、容赦なく二本のマスタースパークを叩きこむ。当てたにしては、その実感が薄い。

 

「こいつも偽物か」

 

 そんな気はしていたが、それでもやはり悔しさはある。箒に跨りなおすと、二人にまで減ったフランドールが、切なげな瞳でこちらを見つめてきた。

 

「酷いわ魔理沙、偽物じゃないよ」

「あの子も大事な私の一部なのに」

「そうかい。じゃあ分身を全部削ったら、大人しくなったりするのか?」

 

 射線が交差する場所から徐々に移動しつつ、魔理沙は意地悪く聞いた。フランドールもこちらに合わせて動きつつ、

 

「まさか。消えちゃった子は、私の中に戻るだけ」

「つまり、二人になっても弾幕の濃さは変わらないわ」

「面倒くさいやつだぜ。引き算くらいちゃんと守れってんだ」

 

 スペルの残り時間は、刻一刻と減ってきている。それはフランドールも同じ事だろうし、お互いが大技だ。時間はそんなに変わらないと思っていいだろう。

 どちらが先に仕掛けるか、心理戦になりかけたが、それは今スペルを使っている二人が嫌う、地味な戦いだった。しびれを切らしたフランドールが、二人揃って騒ぎ出す。

 

「ねぇ、撃たないの?」

「早くしようよ。花子も霊夢も待ってるよ」

 

 言われて見てみると、下方で見守る霊夢と花子は、観客も同然の状態となっていた。これには、さすがに失笑してしまう。

 

「タッグ戦は、もうちょっとルールを練らないとダメだな」

「そうだねぇ」

「あとで相談してみようよ。今はほら、ね」

 

 突然膨れ上がる魔力に、魔理沙はすぐに箒を動かした。撃たれた弾幕は、色は二色に減っているが、確かに四人の時から衰えていない。

 執拗に追いかけてくるフランドールを見据えながら、細かく動いて魔力弾を回避する。一瞬の隙をついて反転、魔理沙は反撃に出た。

 残る二人は、魔理沙から見て十字方向と二時方向にいる。今のスペルなら同時になぎ払うことができるかもしれない。しかし、フランドールのスピードでは、よほど至近距離からでなければマスタースパークを避けられてしまう。二つ合わせて撃てば当てる自信はあるのだが。

 残り時間を考えれば、チャンスはあと一度きりだろう。やはり、狙いは一人に絞るか。二人に避けられるより、一人を確実に仕留めるほうがいい。魔理沙はその答えを採用した。

 弾幕の間を猛スピードでくぐり抜け、狙いをつけたのは、より多くの弾幕を撃っている左のフランドールだ。傲慢な吸血鬼が、己の分身に多くの魔力を割くとは考えにくい。吸血鬼は、より強い自分を愛する種族なのだから。

 決めたらもう迷わないのが、魔理沙の生き方だ。八卦炉と左手を前に出し、魔力弾とすれ違う中、全力で魔法をぶっ放す。

 

「いっけぇぇぇッ!」

 

 特徴的な轟音と共に、レーザーが魔力弾を喰らい尽くし、左方にいるフランドールの姿が光に包まれる。右側のフランドールは、魔理沙の眼中にない。

 二本の光が、徐々に消える。当てた。確実に被弾させ、より勝利に近づいた。

 

 そう信じたかったが、消えた光の先に、フランドールの姿はなかった。

 

「ハ、ズ、レ。惜しかったね、魔理沙」

 

 耳元で聞こえた声に、魔理沙は全身に冷や汗を感じつつ箒を急発進させようとした。しかし、動くよりも早く背中に魔力弾が叩きつけられ、魔理沙は痛みに呻く暇もなく、箒ごと吹き飛ばされる。

 

 魔理沙、スペルに被弾。魔理沙と霊夢は三点減点となり、また、スペル回避に成功した花子とフランドールには、二点加点される。

 

 人間組の持ち点は十六点、対する妖怪組は十七点。残りカードは双方五枚。接戦のまま、勝負は中盤戦に差し掛かる。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 一点とはいえ、逆転した。レミリアはそのことがとても嬉しくて、少しばかり紅茶が零れても気づかない有様だった。

 

「咲夜、咲夜! とうとう逆転よ!」

「見ておりますよ。すごいですわね、妹様」

「そうね、さすが私の妹だわ」

 

 楽しくなるとつい羽が上下に動いてしまい、隣に座っているパチュリーが鬱陶しそうにしているが、レミリアが気にすることはなかった。

 空の上では、フランドールと花子が抱き合って喜んでいた。一方で、魔理沙は心配もしてもらえず、霊夢にしこたま怒られている。箒の上で小さくなっている魔理沙の姿は、なかなか新鮮だ。文が早速写真を撮りに飛んでいく。

 いい勝負をしていることはもちろんだが、花子が楽しんでくれていることが、レミリアにとって嬉しかった。そして、あの場所にいるフランドールが羨ましくもなる。一緒に弾幕をしたいという思いは、ずっとあったのだ。

 

「妹様と交代されてもよろしいのでは?」

 

 咲夜が言った。彼女には、いつも隠し事ができない。

 

「そういうわけにもいかないわ。花子はフランと組みたがっていたんだから」

「そうかしら? レミィと組むことになっていても、嫌とは言わなかったと思うけれど」

 

 ハーブティーを啜りながら、パチュリーが空を見上げる。もうショットの撃ちあいは始まっていた。

 レミリアも紅茶の入ったカップを口につけ、一息ついてから、

 

「そうね、喜んでくれると思うわ。でも、見てれば分かるのよ。花子は私より、フランドールの方が気が合うの」

「本人がそう言うのなら、そうなのでしょうね」

「うん。もっとも、あのフランであっても、太郎という子には敵わないみたいだけどね」

 

 毎日のように手紙を書いている姿を、レミリアはパチュリーと離れ離れになってもここまではしないだろうなと、感心半分呆れ半分で眺めていた。返事はまったく来ないというのに、悪口の一つも言わないのだ。

 手紙は、八雲紫が外に届けているらしい。あの胡散臭い妖怪だから届けずに食べてしまっているのではと疑ったこともあったが、花子が信じている以上、何も言えない。

 

「花子さんは、恋をしてるのでしょうか」

 

 紅魔館の住人の口から出ることはまずないであろう単語を口にしたのは、小悪魔。レミリアを始めとした皆に見られて、彼女は首まで赤くなった。

 

「や、だ、だって、そうかなぁーって思いません? 一応、男の子と女の子なんですから……」

「うん、まぁ、そうかもしれないけど。こあ、あなたって、結構そういうの好きなの?」

「好きなのよ、この子。図書館にある恋愛物の小説は、ほとんど読んでるものね」

 

 主の容赦無い暴露に、小悪魔は両手で顔を覆ってしまう。なぜそんなに恥ずかしがるのか、レミリアには分からなかった。

 慰めというわけではないだろうが、咲夜が小悪魔に「今度、いいの貸してちょうだい」と耳打ちしているのを横目に、話題を戻した。

 

「私とフランが誰と組むかでケンカをしたら、花子が困るでしょ? だから私が降りたの」

「あら、じゃあ私は花子の代わりなのかしら」

 

 意地の悪いパチュリーの問いに、レミリアは平然と答える。

 

「そうよ。花子と遊ぶよりずっと楽しいんだもの、代わってもらうとしたら、パチェしかいないわ」

 

 にこりとしてやると、パチュリーも似たように微笑んだ。

 しばらく無言で、弾幕ごっこを眺める。飛び交う白と桃のショットを見つめて、レミリアは、ほぅと溜息をついた。広い空を飛び回るフランドールを見ていると、なんとも不思議な心地になる。

 ほんの一年少し前まで、妹を外に出してやろうなど考えたこともなかった。常に気にかけていたし、いつかきっととは思っていたが、それはもっと未来――それこそ、数百年先でもおかしくないと思っていたのだ。

 それが今、あんなに自由に、嬉しそうに、友達と遊んでいる。その、これまで想像すらできなかった光景は、五百年も妹を幽閉してきたことをまるで無意味に感じさせる。

 実際、無意味だったのだと、レミリアは思う。少々癪ではあるが、フランドールは賢い。きっと、世渡りも姉よりうまいことだろう。

 

「……もしかして、私はそれを、認めたくなかったのかしら。それで、フランを閉じ込めたのかしら……」

 

 誰にも聞こえないような声で呟き、レミリアは一人赤面した。もしもそうだとしたら、己のなんと狭量なことか。そんなことがあるはずないのに、もしかしたらと思うと、どうにもそれが本当に思えてしまって、意味のない恥ずかしさに苛まされてしまう。

 どれほど時間が経ったろうか。俯いたまま悶々と考えこみ、気づけば周りの声や景色に気づけなくなっていた。肩を指で突かれて、我に返る。パチュリーが、心配そうにこちらを見ていた。

 

「レミィ、どうしたの? ずっと下を向いて。あら、あなた、顔赤いわよ」

「だ、大丈夫。大丈夫よ。別に私はフランに嫉妬なんてしてないから」

「誰もそんなこと言ってないじゃない……」

 

 怪訝な顔をされてしまったが、深く聞かれる前に咳払いなどして、レミリアは空を見上げた。そこでふと、自分がしばらく弾幕ごっこから目を離していたことを思い出す。

 ショットの撃ち合いが続いているが、まだスペルを使う気配はない。今はどんな戦況なのだろうかと、パチュリーの袖を引っ張った。

 

「パチェ、今何点?」

「見てなかったの? 今は花子と妹様が十三点、霊夢達は十四点ね」

「逆転されてるじゃない! そんなに当たったの?」

「花子が三回、妹様が一回、ショットに当たっているわ。一応こちらも一点は奪っているけれど、お互いにスペルの射程圏だし、どう動くかしらね」

 

 霊夢と魔理沙は、そこらの弱小妖怪ならばショットだけで完封できるほど、弾幕ごっこがうまい。この短時間に花子が三回も被弾したことも、無理ないだろう。相棒がフランドールでなかったら、とっくに敗北しているかもしれない。

 当てやすいと認識されると、当然のことだが、狙われる危険が高くなる。今も魔理沙と霊夢は花子に的を絞りつつあり、疲れからか、花子のショットもわずかに弱まっていた。

 あんなに疲労の色が見えているというのに、フランドールは庇おうとしない。そばで援護してやったりして少しでも体力回復を図ればいいのにと、レミリアはやきもきした。

 そわそわと空を見上げているレミリアに、声がかけられる。美鈴だった。

 

「お嬢様、大丈夫ですよ。妹様は、花子さんのことをちゃんと見ていますから」

「うぅん、そうかしら。フランってば、自分のスタミナ配分ばっかり考えて、花子のことを置いてけぼりにしてるように見えるわ」

 

 友達が少なく、最近は良くなってきているものの、人のことを考えずワガママで自分勝手な――全てレミリアにも当てはまるが、彼女に自覚はない――妹だ。すっかり弾幕に夢中になってしまって、花子のことを忘れているのではとすら思える。

 しかし、美鈴はそう思っていないようだ。フランドールは、彼女のことを花子や魔理沙と同じく友達と呼んでいる。フランドールにとって『友達』という称号はとても大きな意味を持つので、家族という間柄上決してそこに入れないレミリアが知らない信頼を、彼女らは得ているのだろう。

 

「美鈴は、フランのことをよく知っているのね」

「お嬢様ほどではないと思いますが」

「どうかしらね。でもいいわ、あの子に友達がいてくれるのは、悪いことじゃないから」

 

 その言葉に嘘はない。フランドールをまるで人形のように思っていた自分とは違い、友達なる存在は、妹を大人にしてくれたのだ。

 あるいは、レミリアもパチュリーと出会い、変化していたのかもしれない。その自覚があったなら、もっと早くフランドールに友人を与えてやれたのだろうか。

 今更考えても、詮ないことだ。それに、自分が友達を与えるなど、それこそ今までと変わらないではないか。

 姉のレミリアが必要なくなったのではない。帰れる家で共に過ごし、一日を語らえる肉親は、どこを探してもレミリアしかいないのだから。

 フランドールは、外へ出た。もう自分で道を決められるのだ。友と呼ぶ者と一緒に、どこへだって行けるようになった。そのことが少しだけ、寂しくもあるが――

 

「……そっか。私は、寂しかったのか」

「答えは見つかった?」

 

 カップをソーサーにそっと置いて、パチュリーが呟いた。レミリアは微笑む。

 

「やっぱり、私はフランに嫉妬をしていたわけではなかったわ」

「そう」

 

 多くは訊ねず、パチュリーはテーブルに頬杖をついて弾幕を見上げた。レミリアも習って、フランドールと花子の戦いを見守る。

 

「パチェは、なんでもお見通しね」

「長年親友をやっていれば、こんなものよ」

「そうかもね。……花子が、フランドールにとってそんな人になってくれればいいのに」

「花子は友達が多いから、競争率が高そうね」

 

 パチュリーが肩をすくめる。もっともだと、レミリアは思った。花子が語る外の世界や旅の話に出てくる友達の数は、ただでさえ友人の少ないレミリアやフランドールからしたら信じられないほど、多い。

 太郎という少年を超えることはできないだろうが、フランドールが幻想郷における太郎のような存在になることは可能なはずだ。今の時点でフランドールと花子はかなり仲がいいのだから、そうなれる可能性は高い。

 いつの間にか紅茶の水面を見つめて考え込んでいたレミリアに、パチュリーが珍しく吹き出した。

 

「レミィ、妹様を思うのは分かるけれど、打算的になるようなものではないわ」

「むむ」

 

 小さく唸って、それもそうだと、レミリアは考えるのをやめた。

 顔を上げて上空を見やると、何やらフランドールと花子がハイタッチをしている。どちらの弾かは分からないが、魔理沙が被弾したらしい。

 これで、お互い十三点。カードはまだ双方共に五枚残っているし、本当にいい勝負をしている。勝敗の行方は、いよいよ分からない。

 しかしレミリアにとって、勝負の行方は、割りとどうでも良かった。妹と友が、あんなにも楽しそうに飛び回っている。今はそれだけで、満足だった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 花子の動きが鈍っていることに、フランドールは気づいていた。心配してはいるのだが、当の花子が大丈夫だと目配せしてくるものだから、休ませることもできない。

 点数はもはやカードで削りきれる範囲なのだが、フランドールと花子には、もう少し粘りたい理由があった。スペルカード一枚分の余裕が欲しかったのだ。

 あと一点奪えれば、この弾幕ごっこでどうしてもやりたかったことができる。焦る心を抑えながら、大量に飛んでくる霊夢の札をひらりと躱す。

 霊夢の注意は引きつけられたものの、魔理沙は花子を集中的に狙っている。花子はあのレーザーが苦手らしく、避けることに必死でショットが安定していない。

 援護の魔力弾を撃ってはいるが、フランドールも霊夢に背中を取られている状況だ。気を抜けば、自分が被弾してしまいかねない。

 うまく事を運べずやきもきしていると、離れたところで衝撃音が響いた。とうとう、魔理沙のレーザーが、花子に当たってしまったのだ。

 

 花子、ショットに被弾。フランドール達の持ち点は、あと十二点。

 

 うずくまった花子だが、頭を二、三度振ると、すぐにショットを展開した。桃色の二重螺旋は勢いを失いつつあるものの、しっかり魔理沙に向けられている。

 

「……花子のこと、信じなきゃね」

 

 悪魔が言うべき台詞ではなかったが、それでもつい、フランドールは呟いていた。対面で弾幕を展開している霊夢に聞かれたりしていないかと様子を伺ったが、どうやら大丈夫のようだ。

 信じるとは言ったものの、花子が疲れてきているのは間違いない。まだ余裕のあるフランドールが少し無理をしてでも、一点を奪ったほうがいいと考えた。

 弾幕を恐れず、フランドールは霊夢に向かって突進をしかけた。追尾してくる札と直線的な霊力弾を避け、ドレスがかすり、敗れた布が霧の空を舞う。

 あまりにも無茶な戦法に、霊夢は驚いたようだ。しかし、対応が早い。即座に霊力弾を多めにばらまき、進行方向を遮ってくる。

 構わず進み、フランドールは白い魔力弾を無数発射した。咄嗟に交差させた霊夢の腕に魔力弾が当たり、弾ける。それを確認した直後、フランドールも霊力弾に肩を打たれた。

 

 霊夢とフランドール、同時にショットに被弾。霊夢と魔理沙の持ち点、残り十二点。対して、花子とフランドールは十一点に変わる。

 

 少し無理矢理がすぎたが、目的の一点は無事削れた。ちらりと視線をやると、花子が頷いて、近寄ってくる。フランドールがショット再開を示さないので、霊夢も弾幕を展開せず、魔理沙までもが集まってきた。

 スペル被弾後に若干の休憩が入ることはあるものの、ショットではあまりない。被弾した腕をさする霊夢が、訝しげに眉を寄せる。

 

「何よ、始めないの?」

「焦らないでよ。これからもっと楽しくなるんだから。ねぇ、花子」

「うん」

 

 花子がカード入れになっているポシェットを開けた。フランドールもまた、スペルカードを召喚する。

 桃色と虹色、カードの色は違えど、そこに書かれているスペルの絵柄は、同じ。二人で一つの、友情の証であるスペルカードだ。

 

 二枚同時のカード宣言。フランドールと花子の残りカードは、三枚にまで減る。

 

 宣言を受けて、霊夢と魔理沙が後退する。見届けてから、フランドールはサッカーボールほどの、赤と黄色の魔力球を召喚した。花子もまた、同じ大きさで、青と緑の玉を作り上げる。

 目配せしてから、フランドールは花子に向かって赤い玉を放り投げた。同時に、花子がフランドールへと一直線に青の妖弾を投げてくる。赤いボールは、放物線を描きつつ大量の弾幕をばらまきながら、花子の元に向かい、また花子の青い玉は、こちらもカラフルな妖弾を展開しながら、迷わずフランドールのもとへ辿り着く。

 投げたボールが手元に届く頃には、黄色い玉が空中に放られ、緑の玉がフランドールへ投げられていた。

 遊符「お手玉レボリューション」。お互いを右手と左手に見立てて、フランドールと花子は弾幕のお手玉を繰り返す。

 

 出会ったばかりの花子に教えてもらい、今ではすっかり趣味と呼べるほどにまで好きになったお手玉を、フランドールはどうしても弾幕に昇華させたかった。

 文と花子の決闘を見た次の日からスペルのアイディアを練り上げ、花子が紅魔館にやってきてからは、二人でよく練習もした。

 タッグバトル専用なので、いつ使えるかも分からなかったが、こんなに早くお披露目できる日がくるとは。運命的なものすら感じる。

 

 濁りが進み、もはや淀んだ色でしかない霧の空を、四つのお手玉から溢れる弾幕が彩る。多彩な色をした細かい妖弾が、霊夢と魔理沙に降り注ぐ。避ける二人には、お手玉の風景を満喫する余裕などなさそうだった。

 遠くでシャッターを切る文が見える。一面を飾れるであろうスペルだ。今から、異変後の新聞が楽しみになる。

 花子も、お手玉を楽しんでくれている。表情は一生懸命で笑顔はないが、それでもフランドールには伝わってくるのだ。

 お手玉がさらに分裂し、合計八つのボールが宙を舞う。舞い散る細かい弾幕もその数を倍に増し、濁色の空はいよいよ賑やかになってきた。

 スペルを楽しんでいるのは本人達と外野だけで、退治に来た二人にとっては厄介以外の何物でもない。避けきるよりも早くケリをつける方が得策だと、霊夢達は気づいているはずだ。

 激しくなる弾幕に、とうとう霊夢が動いた。(ひょう)のように落下してくる魔力弾を避けながら、紅白のスペルカードを掲げる。カード宣言、人間組の残りは四枚。

 

「フランちゃん、来るよ!」

 

 花子の声が空に響く。見れば分かることだが、それでも律儀に教えてくれる友達に、フランドールは感謝した。

 霊夢が懐から何かを取り出す。小さな玉のように見えた。器用に弾幕を避けながら振りかぶり、霊夢が太極図模様のそれを、投げ飛ばす。放たれた直後に霊力を纏い、近づくに連れて、その球体――陰陽玉は、次第に巨大化していく。

 博麗神社最大の秘宝、宝具「陰陽鬼神玉」。フランドールの身長よりずっと大きくなったその玉は、吸血鬼に息を呑ませるほどの迫力を引っさげている。

 その雰囲気に呑まれかけたフランドールだが、我に返り、急いでその場を離れた。細かい七色の弾幕を轢き潰して、陰陽玉が脇を通り抜ける。やや進んだところで、陰陽玉は霊夢に引かれるように手元へと帰り、大きさも元のサイズに戻っていた。

 

 バランスを崩されたものの、花子とフランドールのお手玉は続いている。少し乱れはしたが、すぐにテンポを取り戻せた。お手玉のボールがばらまく弾幕の量も、減ってはいない。

 八つのお手玉から降り注ぐ魔力弾を避けながら、魔理沙が口笛など吹き始めた。慣れられてしまったようだ。さすがだなと、フランドールも楽しくなった。

 弾幕の間をかいくぐり、八色のボールも避けながら、霊夢が陰陽玉を投げる。狙いは花子だ。お手玉で手一杯かと思われたが、巨大化する陰陽玉に驚きの悲鳴を上げながらも、花子は避け切ってくれた。本当に、避けるのだけは中堅妖怪並に上手だ。

 投げられては手元に戻る陰陽玉は、フランドールにヨーヨーなる玩具を思い起こさせた。まるで、空でおもちゃ箱をひっくり返しているような愉快さを覚える。

 ボールを受けては投げながら、弾幕の雹を楽しんでいる魔理沙に大声で訊ねた。

 

「ねぇ、魔理沙はスペル、使わないの?」

 

 フランドールの期待が込められた声を受け、魔理沙は「今は霊夢の番だぜ」と笑った。ノリが悪いなと思ったが、魔理沙にまでスペルを使われては、花子がバテてしまうかもしれない。ここは、我慢することにした。

 巨大化した陰陽玉が目前に迫り、空中でしゃがみこんでやり過ごす。頭上を轟々と通り抜けていく巨大な玉に当たったら、とても痛そうだ。

 姿勢を戻すと、タイミングよくボールが飛んできた。花子が合わせてくれたらしく、彼女の周りには多めにお手玉が浮いている。早く流れを取り戻さなければならない。

 しかし、霊夢がこの瞬間を逃すはずがなかった。五つのボールを処理しきれていない花子に向かって、陰陽玉が投げられる。助けてやることもできず、フランドールは花子の名前を叫びかけた。

 被弾するかと思われたが、花子は咄嗟の行動に出た。五つのうち三つを、霊夢の玉に投げつけたのだ。三つのボールは消滅してしまったが、巨大な陰陽玉の勢いが、わずかに弱まる。

 すぐさま飛翔して陰陽玉を避け、花子が残りの二つをフランドールへと投げた。受け取り、放り上げて分裂、四つに増えてさらに割れ、お手玉はすぐに元の八つへと戻る。

 あっという間に調子を取り戻され、霊夢がつまらなそうに眉を寄せる。だが、こちらにもあまり余裕はなかった。残り時間は多くないし、花子の体力が回復したわけではない。

 

 繰り返し投げられる陰陽玉を避けつつ、フランドールは花子に視線をやる。ちょうど同じタイミングで、彼女もこちらを見ていた。考えていることも、同じだろう。

 ラストスパートをかけるべく、フランドールは全てのボールに魔力を込めた。本来なら花子にも手伝ってもらうはずなのだが、今はボールを操ることで手一杯のはずだ。

 八つのボールが、それぞれ分裂し、とうとうその数は十六にまで増える。もはや大道芸並の数だが、フランドールと花子は息のあった動きでお手玉を続ける。

 倍以上に増えた七色の細かい弾幕に、魔理沙から余裕が消えた。少しでも空間のあるところを目指して、体を逸らしたり箒をうまく動かしつつ移動している。

 そんな弾幕地獄の中でありながら、霊夢はなおも攻撃の手を緩めない。一瞬の余裕を見つけ、確実に陰陽玉を投げてくるのだ。巨大化した陰陽玉に妨害されて、フランドールと花子は何度もボールのコントロールを失いかけた。

 陰陽玉にボールを破壊されては作り直し、集中のしすぎか、ほんの十数秒の出来事が、とても長く感じられた。しかし、ボールに仕込んだ術式――時間が来ると発光する、簡単な魔法――が発動し、正気に戻る。もうわずかしか、残り時間が残されていない。

 花子も気づいたようで、フランドールに小さな仕草で合図をしてきた。今思いついた作戦だろうが、乗ることに決める。首肯し、フランドールは手をメガホンにして、

 

「やーい、めでたいばかりのノロマ巫女! どっち見てるのさ、私に当ててみせてよ!」

 

 思ったよりも簡単に、霊夢は挑発に引っかかった。下方から聞こえる魔理沙の静止も無視して、陰陽玉をフランドールに投げつける。

 太極図模様の球体は、フランドールの背丈をすっぽり隠してしまうほどの大きさにまで巨大化した。 

 かかった。陰陽玉に隠れて霊夢に見られないのをいいことに、こっそりとほくそ笑む。ギリギリまで引きつけて、巨大な球体を躱した。

 霊夢が目を丸くしている。避けられたことに驚いているのではない。お手玉のボールが、フランドールの手元にないのだ。細かな弾幕は降り続いているので、スペルが終わったわけではない。

 呆けたようにこちらを見つめる霊夢。すぐに勘が働き、彼女は背後上空――花子のいる方向へと振り返った。同時に、フランドールと魔理沙が叫ぶ。

 

「いっけぇ、花子!」

「霊夢、避けろッ!」

 

 全てのボールを、花子が振りかぶっていた。霊夢が逃げようとする前に、精一杯の力を持って、投げつける。小さな七色の弾幕をばらまきながら、十六色のボールが、流れ星のように霊夢へ落ちた。

 最後の一撃、これを避けられたら、霊夢達に加点となる。しかし、フランドールはもう見守ることしかできない。

 一つ、二つ、三つ、ボールを避けて、霊夢はなお攻撃に出た。周囲には小さな弾幕が舞っているというのに、構わず陰陽玉を花子に投げつける。

 息が切れている花子は、陰陽玉を避けるのも危なっかしい。休憩できればいいのだが、この状況ではそうもいくまい。

 七つ目のボールを回避した霊夢は、今度はフランドールを狙ってきた。まだまだ疲れは感じていないので、油断さえしなければ避けられる。むしろずっとこっちを狙ってほしいくらいだ。

 霊夢に投げつけられたボールが発した弾幕は、魔理沙の足もしっかり止めている。下に逃げてしまったせいで、上昇できず歯噛みしているようだ。

 ボールを十個避け切ったところで、霊夢の動きが鈍った。あまりにも多くの弾幕に周囲を覆われ、反撃に出れなくなり、回避に専念し始める。

 動きの乱れた霊夢を、フランドールは祈るような心地で見守った。もっと焦ってくれと、霊夢に頼みたいほどだ。

 願いが通じたわけではないだろう。しかし、ついに霊夢はミスをした。十三個目のボールをすれすれで躱したものの、その奥にあった十四個目を見落としていたのだ。らしくない必死な動きで避けるも、ばら撒かれた虹色の弾幕が、さらに彼女の余裕を奪う。

 そしてとうとう、バランスを崩した霊夢に、十五個目のボールが直撃した。七色の光が、花火のように弾け飛ぶ。

 

 霊夢、スペルに被弾。残り持ち点は九点となる。スペル回避前の被弾のため、フランドール達は得点変動なし。

 

 本当に当たったのかと我が目を疑ったが、次の瞬間には、フランドールは花子の元へと飛び、その首に腕を絡めていた。

 

「やったよ花子! 私達のお手玉、霊夢に当たったよ!」

「うん! あは、やったね!」

 

 一緒に喜んでくれているものの、やはり花子には疲れが見える。大丈夫かと問いかけると、小さな声で「少し休めば平気」と答えた。

 駆けつけた魔理沙に支えられ、霊夢は被弾した右の太ももを痛そうにさすっている。他のスペルに比べると火力はほとんどないので、すぐに治るだろう。

 霊夢に肩を貸しながら、魔理沙が言った。

 

「フラン、お手玉うまくなったじゃないか」

「でしょ。花子に教えてもらったの」

「そうかそうか。私がお手玉をプレゼントしたおかげだな。感謝してくれてもいいんだぜ」

「やーよ。魔理沙は教えてくれなかったもん。ありがとうは、花子に言うわ」

 

 べぇと舌を出すと、魔理沙は似たようにして返してきた。弾幕ごっこの合間にあるこういったやり取りが、フランドールにとって楽しみの一つだった。

 痛みが引いたらしい霊夢が、魔理沙から手を離す。魔理沙も箒の上で準備万端のようだが、花子はまだ少し呼吸が乱れている。

 不安げに眺めていると、彼女は小さな体いっぱいに息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。ボロ布寸前になりかけているドレスを少しだけ直して、

 

「もう大丈夫。これからが勝負だもの、疲れていられないよ」

「うん」

 

 余計な心配は、しないことにした。花子自身が大丈夫だと言うのだ、信じてやらずに、どうして親友と言えるだろう。

 花子の言うとおり、勝負の要はここから先の終盤戦にある。花子とフランドールの持ち点は十一、残りカードは三枚。対して霊夢達は九点、カードは四枚だ。

 お互いにスペルで削りきれる射程圏だが、ここからは駆け引きだ。ショットでより優位に持っていくか、スペルの一撃に賭けるか。相手が魔理沙だけならば後者だが、霊夢の戦い方はいまいち読めない。

 いよいよ緊張感を高めなければならない。しかし、後半戦の研ぎ澄まされた空気も、嫌いではなかった。

 霊夢も魔理沙も、まだまだ余力がある。フランドールもそうだし、花子だって、二人を驚かせられるだけのスペルを持っている。

 もっともっと楽しめる。そう思うと、つい口元が緩んでしまう。勝敗など、どうでもいい。霊夢は、魔理沙は、花子は、どんなスペルを見せてくれるのだろう。ときめきが、止まらない。

 ショットを展開する。同時に、翼のクリスタルが煌めいた。それは、フランドールの踊る心を表すような、実に無邪気な輝きだった。




最初の手紙がないのは、前のお話で花子が言っている通り、弾幕ごっこ中で書けなかったからです。


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そのにじゅうく  異変!七色の霧と弾幕地獄!(6)

 虹色異変という名は失敗だったかもしれないと、文は渋面を浮かべた。幻想郷に満ちる霧は、目に優しくない七色ではなく、濁りに濁った例えようのない色になってしまっているからだ。

 とはいえ、誰もが異変だと気づいたいのはあの色なのだから、変えるのも何かおかしい。記事が面白くなれば関係ないかと、一人肩をすくめる。

 

 終盤戦に差し掛かった黒幕との弾幕ごっこは、ショットによる激しい撃ち合いとなっている。双方ともに一度ずつ被弾し、花子達の持ち点が十点、霊夢達は八点になっている。どちらもスペルの射程圏だが、お互いにもう少し余裕が欲しいというところか。

 すばしっこいフランドールと避けるのだけはうまい花子を前にして、人間二人がカード宣言に慎重になるのも無理はないかもしれない。妖怪少女達も、似たような思いなのだろう。

 新聞記者としては、派手に一発をかましてもらう方がありがたい。文のカメラにはもうかなりの弾幕が収められているが、まだ物足りなかった。

 無論、ショットであっても彼女らの弾幕は見ものだし、こと弾幕ごっこに興ずる身としては、それぞれ特徴的なショットを研究考察するだけでも楽しい。

 

「とはいえ、仕事は仕事」

 

 自分に言い聞かせ、文はシャッターを切る。花子が苦手としている魔理沙のレーザーに被弾した瞬間を収めたが、記事に載せるほどの写真にはならなそうだ。

 これで、花子とフランドールの持ち点は、九点となる。霊夢達のカードは四枚残っている。

 霊夢と魔理沙のショット命中率は、この試合ではかなり高い。一枚分の余裕があり、外したとしてもショット二回で取り返せる状況ならば、彼女らが躊躇することはないだろう。

 仕掛けたのは、霊夢だった。散弾のようなフランドールの白い弾幕をくぐり抜け、紅白のカードを指に挟んで掲げる。カード宣言、残りは三枚。

 

 花子とフランドールが身構える中、霊夢は左手に握った大幣を振り払った。光の粒子が舞い飛び、それらは大量の霊力弾となり、また霊夢の周りには、この試合では見たことがない数の、博麗の札が出現している。

 大幣が、花子達に向けられる。まるでそれが命令であるかのように、霊力弾と札が一斉に射出された。

 霊符「夢想封印・散」。速度も方向も不規則に、ただばら撒かれただけのような弾幕は、まるで下級妖怪がヤケクソで放つ弾幕のようにすら見える。しかし、文にはその弾幕に隠れている技術の深さがしっかりと見えていた。

 逃げ道を確実に作り、かつ安易な退路は全力で妨害し、第一波の後には相手にわずかな思考の間を許し、その思考が終わらぬうちに次を撃つ。

 ばらける札と霊力弾の白さには神秘的な美しさもあり、純粋なスペルカードルールであっても、十分通用するはずだ。

 これぞまさに、弾幕の王道と言えよう。弾幕ごっこの提唱者は伊達ではないと、文はファインダー越しに唸った。

 

 絶妙なタイミングとバランスで繰り広げられる霊夢のスペルに、フランドールと花子は苦しめられているようだ。特に花子は、度重なる被弾と疲労で、判断を誤りがちになっている。

 原因が文にあるとはいえ、花子は文に対して凄まじいライバル意識を持っている。恐らく、間近で文に見られているというプレッシャーも、彼女の焦りに一役買っているのだろう。

 だが、その程度のことは、無様な戦いの理由にはならない。弾幕はもともと他人に見せるルールなのだし、誰かに注目されていて気が散ったなどという言い訳は、一笑に付されるのがせいぜいだろう。

 どうせ気にするのなら、素晴らしい弾幕を見せつけて驚かせてやろうというくらいの気概が欲しいと、文は期待に近いものを抱いていた。

 三度目の弾幕を避け切り、フランドールが何事かを叫んだ。花子に向かって、がんばれとでも言ったのだろうか。まったく仲がいいことだが、いささか慣れ合いがすぎると、文は眉を寄せる。

 文にも親友と呼べる者はいるが、あんなにベタベタされては気持ちが悪くて仕方がないだろう。精神的に幼い二人には、気にならないのかもしれないが。

 

 霊夢が大幣を振り上げる。大量の霊力弾と博麗の札が召喚され、第四波が撃ち出された。これだけの量と質だ、あと一、二撃がせいぜいといったところだろう。

 シャッターを切っても、花子とフランドールの姿が弾幕にかき消されることが多くなってきた。霊力弾と札の数が増えてきているのだ。

 そろそろ最後の一押しが来るなと思った直後、霊夢の大幣がいっそう強く輝き出した。からくも四撃目を回避した花子とフランドールが、顔を青ざめる。

 空を覆いつくすほどの弾幕が、霊夢の周りに浮かんでいた。遠くから写真を撮っている文でさえ、背筋に冷たいものが走るほどの物量だ。あれだけの弾幕をコントロールできる人間など、霊夢くらいなものだろう。

 それらがいっせいに、動き出す。一気に加速し、圧倒的な数の弾幕が、花子達に容赦なく襲いかかる。

 

「これは、無理かしらね」

「フランと花子じゃ、きついかもな」

 

 隣から聞こえた声に、文は冷ややかな半眼を向けた。つい先ほどから、魔理沙が隣に来ていたのだ。すっかり観客気分らしい。

 チーム戦の致命的な欠陥は、こうして誰かしらが蚊帳の外になりやすいということだろう。それにしても、魔理沙は堂々と見物に徹しすぎている。

 しかし、小言をぶつける暇はない。被弾する瞬間を逃すまいと、ファインダーを覗き込む。

 文と魔理沙が見つめる弾幕の中で、フランドール達は一生懸命に体を動かし、多少無理な体勢になってでも霊力弾やら札やらを躱している。

 努力は認めるが、あの避け方では持つまい。文がそう思いシャッターボタンに指をかけた、その瞬間だった。

 息切れのせいでふらついた花子の正面に、霊力弾が近づく。鈍った彼女の動きでは避けられない距離だ。身を縮こまらせ、花子が回避を諦めた直後、文はシャッターを切った。

 神聖な光が飛び散り、激しい破裂音が空に響く。光が消え失せ、皆は目に入った光景に、言葉を失った。

 被弾は分かりきっていた。しかし、文と魔理沙、弾幕を撃った霊夢、そして被弾したはずの花子は、それぞれ似たように絶句している。

 それぞれの視線の先には、花子を守るように抱きかかえ、被弾した痛みに小さく呻くフランドールがいた。

 

 フランドール、スペルに被弾。花子達の残り持ち点、六点。

 

 被弾する瞬間――それこそ、文がシャッターを切るというたった一瞬の間に、フランドールは花子を庇っていたのだ。天狗と並ぶスピードを持つのだから可能といえば可能だが、わずかな躊躇いもなく代わって被弾するなど、そうそうできることではない。

 まして、フランドールは残虐非道と謳われる吸血鬼だ。いくら思考が幼いとはいえ、こんなことが起こり得るのだろうか。

 

「フランちゃん、あの」

 

 抱きかかえられている花子が、ようやく声をかけた。しかし、言葉が続かない。それは文や霊夢、魔理沙も同じで、空中には不思議な静寂が広がっていた。

 ようやく痛みを押し殺したらしいフランドールは、花子を解放しつつ、照れくさそうに頬を赤らめた。

 

「えへへ、なんだか、体が勝手に動いちゃった」

「ごめんね、フランちゃん。ありがとう」

「いいの。このくらい、へっちゃらだよ。それより花子、よく避けてたね。すごいよ」

「ううん、そんなことない。フランちゃんが一緒にいてくれたから、がんばれたんだ」

 

 被弾したというのに、二人は手を取り合って、なぜだか嬉しそうだ。

 ずいぶん破けてしまっているとはいえ、二人共が人形のような服装だからか、花子とフランドールの周りだけがやたらと甘ったるい空気になっている。

 悪いわけではないのだが、文はなんだかむず痒くなって、顔をしかめていた。見れば、霊夢も似たような表情で、腕を組んでいる。当ててみせたのに見向きもされず、かといって咎めるのもおかしく、複雑な気持ちなのだろう。

 そんな霊夢の肩に、魔理沙が肘をかけた。ニンマリと口を歪めて、

 

「おいおい霊夢、そんな顔すんなって」

「うるさいわね。ちゃんとスペルを当てたんだから、文句を言われる筋合いはないわ」

「文句なんて言わないぜ。お前の弾幕は確かにすごかった。見事だったよ、ダシにされてるけど」

「……釈然としないわ。私は妖怪退治しているんだし、そのための弾幕ごっこだし、さらに弾幕を当てたっていうのに、なんで私が悪者みたいな気持ちにならなきゃいけないのよ」

 

 ぶつくさとやる霊夢に同情の念を抱きつつも、文はしっかりとその姿を写真に収めた。シャッターの音で気づき、酷く睨まれてしまったが、適当に受け流す。

 空中に花畑を作り出しつつあるフランドールと花子だが、このままでは続きが始まらない。文は咳払いをして、二人の気を引いた。

 

「いつまでやってるのよ。もう十分休んだでしょう」

「うるさい天狗ねぇ。いいじゃないちょっとくらい」

 

 フランドールが唇を尖らせるが、言わんとしていることは伝わったらしく、しぶしぶ花子の手を放した。

 それが合図となり、四人に戦意が戻る。ショットの邪魔にならないよう離れて、文は再びカメラを構えた。

 先ほどまでの空気が一変し、濁った空に緊張感が走り抜ける。花子の二重螺旋を皮切りに、弾幕ごっこが再開された。

 

 開始数分で、お互いが一度ずつ被弾する。花子とフランドールは持ち点は五点、霊夢達は八点に変動した。

 残り点数は少なく、カードも三枚づつと余裕があるというのに、双方ショットに妥協がない。この調子では、決着までそう遠くない。

 勝負がつくまでの短い時間で、皆が全力を出し尽くすだろう。その時にこそ、決め手となるスペルが披露されるのだ。その瞬間を決して逃すまいと、文は多少目が乾いても我慢して、ファインダーを覗き続ける。

 妖怪少女の友情異変。なかなか人間受けしそうな見出しじゃないかと、一人でそっと、微笑んだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 一点が重要なこの場面で、これほど激しい削り合いが起こることに、花子は驚いていた。

 すでに花子達の持ち点は四点になっており、霊夢と魔理沙は六点まで減少している。スペルの射程圏まで得点を持っていったものの、こちらはあと一度被弾すれば、スペル一発で負けが決まってしまう。

 フランドールも攻勢から守りに動きが変わってきているし、花子もショットの頂点を四つまで削り、より多くの妖力を移動に割いている。

 スペルを使うべきかどうか、ずっと迷っていた。花子達に残されたカードは三枚もあり、今使わずにいつ使うのかという状況ではある。だが、魔理沙らも同じ数のカードを持っているのだ。反撃は必須だろう。

 脇をかすめるレーザーが、ドレスの布を引き裂いていく。魔理沙のショットに追い詰められつつある事実が、花子を焦らせる。

 いっそスペルを使ってしまえば、状況は覆るかもしれない。だが、一度浮かんだ迷いが、花子にそれを決心させてくれない。少なくなった桃色の二重螺旋で霊夢と魔理沙を牽制しつつ、距離を取ってばかりだ。

 

「このままじゃ……!」

 

 ポシェットに手が伸びる。しかし、カードを選べない。最後の決め手は決まっているのだが、霊夢達の持ち点を考えると、まだその時ではない。

 後のカードは、文との決闘で使ったものばかりだ。ただ一枚だけ、空白のカードが混じっている。数合わせで入れただけで、スペルは考えていなかった。

 以前見られた技を、疲弊した今の花子が使ったところで、魔理沙達には通用しないだろう。弾幕を交わせば分かる。彼女達は、そんなに甘い相手ではない。

 いっそフランドールにスペルを使ってもらいたかったが、霊夢に追いかけられている彼女に、その様子はない。もしかしたら、大技のために体力を残しているのかもしれない。

 

 白金のレーザーをまたぐように避けて、こうなればどれでも使うしかないと、花子がポシェットに手を突っ込んだ時だった。

 魔理沙の手が、白黒のカードを掴んでいる。カード宣言、霊夢達は、残り二枚。

 花子は体勢が不十分で、立て直すのにわずかな時間がいる。八卦炉を箒の穂先に固定し、魔理沙が狙いを定めた狩人の目付きで、笑う。

 

 光が一点、八卦炉の真ん中に収束し、

 

「いただくぜッ!」

 

 解き放たれたマスタースパークを推進力に、箒が天狗並の急加速をしてみせる。巨大な光線を引っさげて迫るその姿は、まさに流星の如し。

 彗星「ブレイジングスター」。十八番であるマスタースパークをふんだんに利用した飛翔は、人の身では体験できない速度を、魔理沙に与える。

 あまりにも早い体当たりに、花子は文と決闘した時に使われたスペルを思い出す。風を纏った文の突進には、とても苦しめられた。

 しかし、だからこそ、簡単にやられたくないという思いが芽生える。少し痛かったが、背面跳びよろしく体を反らせて、体当たりと後方に向けられたレーザーを躱す。

 本当に危ういところであった。魔理沙自身は難なく避けられたものの、彼女を押しているレーザーに、ドレスの背中をほとんど持っていかれてしまった。

 

「花子、平気!?」

 

 遠くから、フランドールの声が聞こえる。被弾したと思われても仕方なかったが、魔理沙がスペルを止めないので、近づけないようだ。

 高みの見物を始めている霊夢とは対照的に、フランドールは今すぐにでも反撃のスペルを使おうとしている。

 この後に大技が控えているのなら、彼女に無理はさせたくなかった。花子はポシェットに手を入れて、フランドールに叫ぶ。

 

「大丈夫、任せて!」

 

 頷く友人を見て、花子は決意を固めた。どうせダメ元ならば、やれるだけやってみようと、自分を奮起させる。

 再び光線を従えて突進してくる魔理沙に向かって、カードを掲げる。カード宣言、花子達の残りは二枚。

 桃色のカードには、模様が書かれていない。数合わせで入れた、白紙のカードだ。

 思いつきのスペルだが、きっとできる。まだ妖力には余力があるし、魔理沙のマスタースパークが、とても良いヒントになってくれた。

 今度は余裕を持って体当たりとレーザーを避け、花子は両手を伸ばした。集中し、妖力を縁に結びつけ、水を繰る。

 手元に現れてくれさえすれば、後はどうとでもなる。狙いを魔理沙に定めて、水の力を、文字通りぶっ放した。

 

「いっ――ちゃえぇぇぇぇッ!」

 

 怒涛の水流が、突っ込んでくる魔理沙に突き進む。

 水洗「ウォーターパイプバースト」。マスタースパークをヒントに、まさに今思いついたスペルだが、この技は近い将来、花子の決め手の一つにまで昇華されることになる。

 突如使われた水のスペルに、魔理沙が急激に方向転換をする。帽子がふわりと舞い飛んで、水流の中に消えた。

 あまりにも荒い妖力の制御で、こんなところを師の萃香に見られたら怒られそうだと、花子は内心で苦笑する。しかし、雑把な妖力操作でこれほどの技が使えるのなら、悪くはない。

 視線を下方に移す。どうやら、魔理沙の弾幕魂に火をつけてしまったらしい。凶暴な、しかし愉快そうな眼光が、花子を捉えて離さない。

 一瞬怯んで水流を撃てず、体当たりを回避する。真横をレーザーが駆け抜けていく恐怖は、いつまでたっても慣れそうにない。

 いっそ霊夢を狙うかと探してみて、眉を寄せる。ハラハラと胸元を掴んで見守るフランドールの、すぐ背後にいるのだ。水流を苦手とする吸血鬼の友達がいては、このスペルは撃てない。分かってやっているのだとしたら、なんとずるいことか。

 

「よそ見してたら、轢いちまうぜ!」

 

 我に返り、花子は右を向いた。至近距離まで近づかれていたのだ。

 またも体から数センチのところで、体当たりとレーザーを回避する。今度はスカートの裾をかなり持っていかれて、右足側だけが、外の世界で見たミニスカートと同じ程度まで短くなってしまった。

 遠ざかる魔理沙の背中に水流を放つも、魔理沙には届かず、妖力となって霧散していく。

 

「くぅっ……」

 

 やはり、にわか仕込みでは通用しないのか。別のスペルにしておいたほうが良かったかと後悔しかけたが、もう宣言してしまったものは仕方がない。

 次の突進が来る前に妖力を練り上げ、水を手に呼び、こちらに箒を向けた魔理沙に解き放つ。

 水の奔流を正面から撃たれても、魔理沙は冷静だった。箒を捨てて飛び上がり、水流に吹き飛ばされた箒を素早く手の中に引き寄せて、再度マスタースパークで加速してくる。

 おおよそ、体の弱い人間が思いつく戦い方ではない。しかし、魔理沙ならば仕方がないと思えてしまえる不思議さもあった。水流を外しても、笑みさえ浮かんでしまう。

 魔理沙が標的を変えた。突然花子に背を向けて、真っ直ぐフランドールへ向かう。すっかり観戦者になっていたフランドールが、大慌てで逃げ出している。その後ろにいた霊夢もまた、魔理沙に罵声をぶつけながら、急いで上昇した。

 なぜ、という疑問は浮かばなかった。魔理沙は楽しんでいるのだ。黙って見ているなんて許さない、お前達も混ざれとばかりに、フランドールを追い掛け回している。

 そうなれば、花子もやることは一つだった。上空でやれやれと額の汗を拭いている霊夢に向かって両手を突き出し、

 

「顔を洗う水なら、ここにいっぱいあるよ!」

 

 水流を放つ。一息つきかけていた霊夢が、またも目を丸くして、流れ来る水を避ける。被弾とまではいかなかったが、それでも水滴で霊夢の服を濡らすことくらいはできた。

 フランドールは、まだ避けてくれているようだ。むしろ、今は楽しそうに魔理沙の体当たりを避けてはからかっている。

 注意は怠らないつもりだが、それでも魔理沙は当分花子を狙わない気がした。彼女のことだから、より自分のスペルを楽しんでくれる相手を狙うはずだ。

 しかしそうなると、花子の相手は霊夢ということになる。高速移動を続ける魔理沙より、ずっと当てにくいと思わせる相手だ。

 怖気づいていては始まらないと、花子は何度も水流を撃つが、やはり簡単に避けられてしまう。

 

「勢いがあったのは、最初だけね。避けてみればなんてことはない、こけ脅し」

 

 霊夢に挑発されても、花子は反論できなかった。事実急造のスペルなのだから、大それたものではない。

 だが、馬鹿にされて黙っているのも癪だった。花子にとって水の縁は、文の風に対抗すべく手に入れた、自慢の力なのだ。

 なんとかして、霊夢に一泡吹かせたい。撃っても撃っても安定した回避を見せる霊夢には、今のままでは通用しない。

 ラストスパートにはまだ早いが、仕方ない。うまく操れるか不安だが、花子は両手で一本に絞っていた水流を、二本に分割した。右手で撃ちだし、すかさず左手で追い打ちをかける。

 まだまだスペルとしては未完成なせいか、水流は一本の時に比べていかにも細くなってしまう。それでも、霊夢が先ほどより避けにくそうにしているところを見ると、効果はあるようだ。

 しかし、花子の消耗も増した。一本を分割したのだから、妖力の消耗に変化はないと思っていたのだが、連射性も上がったからだろうか、早々に息が切れ始める。

 霊夢の背中を追いかけながら水流を放っているうちに、花子はすっかり背後への警戒を怠っていた。聞こえた声で、我に返る。

 

「花子、後ろに魔理沙!」

「ッ――!」

 

 振り返る余裕などない。勘を信じて宙返りをすると、最初よりずっとスピードの増した魔理沙が駆け抜けていった。箒の穂先から放たれるマスタースパークも、さらに巨大になっている。

 なんとか避けられたが、あと一瞬反応が遅れたら、間違いなく被弾していた。安堵の息は一瞬、霊夢に激突しかけて文句を言われている魔理沙に、花子は水流をぶっ放す。

 気づかれ、口論を途中で切って、霊夢と魔理沙が散開する。水流は二人がいなくなった空間を駆け抜けて、妖力となって消えた。

 

「花子」

 

 いつの間にかそばまで来ていたフランドールに、肩を叩かれる。振り返ると、彼女はそれ以上何も言わず、ただはっきりと頷いた。

 たったそれだけで、花子はきっとスペルを当てられるという自信を身につけられた。同時に、賭けてみたい策を思いつく。

 

「フランちゃん、あのね」

 

 手短に作戦を説明すると、フランドールは「分かった、いいよ」と微笑んで、さっそく魔理沙に向かって飛んでいく。魔理沙の狙いがフランドールに移ったのを確認し、花子も動き出す。

 狙いは変わらず、霊夢だ。二本の水流で狙いを定めては撃ち、やはりあっけなく避けられる。花子は悔しそうに唇を噛むが、内心ではこれでいいとほくそ笑んでいた。

 霊夢は勘が働く。天性の勘で策を悟られる前に、実行に移さなくては。ちらりとフランドールに目をやると、作戦通り、うまく魔理沙を誘導してくれている。

 こちらも、気付かれないように注意しつつ、水流を避ける方向でうまく霊夢を動かせている。もう少しだが、スペルの残り時間も残り少ない。

 

 水流を放ち、霊夢が左に回避する。その瞬間、勝負の時がきた。

 フランドールが誘導してくれた魔理沙と、霊夢を挟んだ花子の位置が、ちょうど直線になった。これでは、霊夢が壁となり、魔理沙からは花子の姿が見えないはずだ。

 一秒もなくていいのだ。花子は即座に行動に移す。後ろを向き、霊夢と魔理沙に背を向ける形で、思いっきり強い水流を放つ。

 放たれた水流を推進力に、今まで経験したこともない速度で、花子は飛んだ。

 急加速した花子に気づき、霊夢が回避のために急いで下降する。遮っていた者がいなくなり、猛進してくる魔理沙の瞳に、花子が映った。

 花子はすでに前を向き、その手に水を呼んでいる。避けようとしても、もう間に合わない。

 

「……!」

 

 魔理沙が、口元を歪めた。この、被弾がほぼ決まった状況で、笑っている。強者の余裕か、それとも。

 ためらっている暇はない。花子は水流を発射した。同時に、箒の穂先が吹き飛ぶほどのレーザーで、魔理沙が最後の猛加速を見せる。

 今更突っ込んできても、水流が先に当たるはずだ。そう、わずかに感じた花子の自信は、いとも容易く砕かれる。

 突然箒を離し、魔理沙は飛んだ。その体は慣性のままに前進はすれど、今も加速を続ける箒の方が速い。

 レーザーに押し進められる箒は、水流の勢いに負けることなく、突き抜けてきた。

 

「う、うそっ――」

 

 まさか、箒ごときが怒涛の水流を突破してくるとは思わなかった。予想外の事態に動けず、花子は箒の柄をもろに食らう。

 空が反転する。自分が吹き飛ばされているのだと気づくのに、時間がかかった。

 揺らぐ視界の端で、魔理沙を見つける。彼女もまた、空に放物線を描いて吹っ飛んでいた。魔理沙の服からは、大量の水滴が散っている。

 

 花子と魔理沙、同時に被弾。花子とフランドールの持ち点は、残り一点。霊夢と魔理沙は、残り三点。

 

 箒に当たっただけだというのに、花子は気が遠くなるほどの衝撃に見舞われていた。抱きとめてくれたフランドールの顔が、ぼやけて見える。

 

「花子、しっかり!」

「うぅ……フランちゃん、ごめんね。相打ちになっちゃった」

「ううん、十分だよ。すごいよ花子、びっくりしちゃった」

「まったくだ」

 

 声に振り向けば、ずぶ濡れになった魔理沙が、いつの間に呼び寄せたのか、花子に当たった箒に跨っていた。

 霊夢に借りたハンカチで顔を吹いてから、魔理沙は一息ついたとばかりに大きな息を吐き出す。

 

「まさか、私のマスタースパークをパクるとはな。謝罪と賠償を要求するぜ」

「あんただって、人のスペルをよく真似するじゃない。そのために研究してるくせに」

 

 返されたハンカチを袖の中にしまいつつ、霊夢が呆れの混じった声音で言った。これに魔理沙は、心外とばかりに、

 

「私は盗んでないぜ。ただのオマージュだ」

 

 ぼんやりとした頭では、いまいちどんなやり取りなのか分からなかった。フランドールが苦笑しているあたり、取るに足らない会話なのだろうと、花子は納得した。

 だんだん意識が覚醒してきて、ようやくフランドールの支えなしで飛べるようになった。両手を握っては開き、空中で屈伸などして、体の具合を確かめる。

 

「……よし」

「いける?」

 

 フランドールの問いに、強く頷く。

 花子達の持ち点は、あと一点しかない。ショットの撃ち合いという選択肢は、そこにあるわけがない。

 霊夢と魔理沙も、それを分かっているはずだ。余裕を見せたいのか、こちらの出方を伺っている。先手は譲るということだろう。

 カードを召喚し、フランドールが呟く。

 

「それじゃあ、本気でいくよ」

 

 カード宣言、花子達は、残り一枚。

 戦闘の間合いに、霊夢達が離れる。フランドールから感じる並々ならぬ気迫に、花子も思わず後ずさった。

 残った二枚ずつのスペルカードを出し切る、最後の大勝負。異変の決着は、もう目前に迫っている。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 そのスペルを、花子は見たことがなかった。

 濁色の空に、フランドールの姿はない。しかし、彼女の魔力は、その存在感は、圧倒的なほど、幻想郷の空に満ち満ちている。

 どこからともなく現れる、七色の霧を撒き散らす青白い魔力弾が、霊夢と魔理沙をありとあらゆる方向から、攻め立てている。

 秘弾「そして誰もいなくなるか?」。フランドールは、消えたのではない。前触れもなく突然出現する全ての魔力弾が、彼女自身なのだ。

 耐久型と呼ばれるスペルである。魔力弾となったフランドールに被弾させることはできないので、霊夢達はただ耐えて、逃げ延びるしかない。

 しかしそれは、敵がフランドールのみだった場合に限る。空気中に広がるフランドールの気迫に呑まれていた花子は、魔理沙が掲げたスペルカードで我に返った。

 魔理沙、カード宣言。霊夢と魔理沙の残り枚数、一枚。

 

「全力全開、いくぜぇぇぇッ!」

 

 魔理沙の叫びに、花子は必死に逃げた。どこまでというものはない。どこまででも、逃げたくなった。

 八卦炉の輝き、それは、花子に人里の寺子屋で感じた恐怖を想起させるに十分なほど、強く激しい光だったのだ。

 放出された、超特大の光線。独特の爆音が、幻想郷を揺るがす。

 魔砲「ファイナルスパーク」。その巨大さは、ともすれば紅魔館を簡単に飲み込みかねないほどだ。

 かなりの距離を飛んで避けたはずなのに、光線は花子のすぐ背後を流れていく。あまりの巨大さに、思わず腰が抜けそうになった。

 自分で頬を叩いて叱咤し、反撃のタイミングを伺う。もう、出し惜しみをしている場合ではない。

 さすがに反動が大きいのか、魔理沙は連発をしてこない。フランドールの魔力弾を避けつつ、八卦炉に魔力を注入している。

 妨害すべきか、それとも霊夢を狙うか。迷いながら霊夢の様子を伺う。

 

「……だめかも」

 

 霊夢は狙えない。花子の、妖怪としての本能が告げている。今の彼女には、近づけない。

 紅白のカードが、投げられる。カード宣言、霊夢達は、カードを使い切った。

 霊夢の周囲に、八つの陰陽玉が浮かび上がる。目を閉じた霊夢が、両手を広げた。

 青白い魔力弾が、霊夢に迫る。被弾するはずのそれらはしかし、全てその体を通り抜けてしまった。そこには確かに霊夢がいるのに、まるで不透明な透明人間を見ているようだ。

 博麗霊夢が究極奥義、「夢想天生」。あらゆるものから()()()()()彼女の前では、いかなる弾幕も意味を成さない。

 

『避けて!』

 

 頭の中に、フランドールの声が響く。声に従い、跳ねるようにその場を離れた。直後、陰陽玉から放たれた無数の札が、高速で駆け抜けていく。

 無敵になったばかりではない。弾幕としての威力も、今まで霊夢が見せてきたスペルで群を抜いている。博麗の札の輝きが、それを物語っていた。

 大量の札を避けたところで、魔理沙のレーザーが目前を駆け抜ける。急ブレーキでなんとか被弾を免れたものの、背中に走る戦慄は消せない。

 巨大な光線は霊夢を巻き込んだはずだというのに、光が消えた後の霊夢は、やはり宙に浮かんだまま、目を閉じて微動だにしていない。

 対等に戦えると思っていた自分を、花子は恨んだ。こんな人間、無茶苦茶ではないか。

 

『怖がらないで。きっと勝てるから』

 

 音ではないフランドールの声が、優しい。安心感に包まれ、花子は目を覚ました。

 

「ありがとう、フランちゃん」

 

 フランドールがそばにいるのだ。友達が戦っているというのに、負けを恐れて縮こまっては、失礼ではないか。

 青白い魔力弾は、魔理沙に狙いを絞り始めた。その魔理沙は花子を狙っているし、目を閉じたまま自然に放たれる霊夢の弾幕もまた、花子狙いだ。

 博麗の札と巨大レーザーに追いかけられても、花子はもう恐れなかった。光の如き速度の札を避け、魔理沙の八卦炉がこちらに向いた時、花子はポシェットのカードを抜く。

 少ない余力を、この一枚に注ぎ込む。カード宣言、花子とフランドールのカード枚数は、〇枚となる。

 

 花子のスペル発動より早く、魔理沙が超級のレーザーを放つ。空を白く染め上げる光線は、もう避けられない。

 光線が爆散する。飛び散る光に、フランドールの魔力弾や霊夢の札が吹き飛ばされる。

 光が消え、勝ち誇った魔理沙の顔が、驚愕に歪む。花子に届いたはずの光線は、その手前で、掻き消えていたのだ。

 地面から伸びる、巨大な巨大な妖力の掌が、魔理沙の魔砲を遮っていた。

 見れば、空のいたるところに、白く不健康な手が伸びている。レーザーを防いだ手よりは小さいものの、蠢く手と長い腕は、十分すぎるほど不気味だ。

 怪談「花子さんの手招き」。花子の妖力を最大限に使い、実体化した無数の腕は、ぐにゃりと歪に折れ曲がる。

 

 レーザーに撃たれた巨大な手が、消える。刹那、全ての腕が、一斉に動いた。無限に伸びて、魔理沙に掴みかかる。

 無数の腕を操りながら、花子は回避行動を止めない。攻勢に出たところで、無敵となった霊夢の札が止んでくれるわけではないのだ。

 陰陽玉から撃たれる博麗の札は、速い。呼吸も許されぬスピードで迫る札が、花子のドレスを引き裂いていく。 

 フランドールの魔力弾も魔理沙を追い立てているが、魔理沙は青白い魔力弾と花子が操る妖力の腕を、まとめて怒涛のレーザーで消滅させた。

 腕を消されても、花子に痛みはない。しかし、妖力が大きく削がれた感覚は、容赦なく襲い掛かってくる。

 

「くぅっ……」

 

 呻きながらも、消えた分の腕を再召喚する。地面からにゅるりと生えた白い手が、再び魔理沙へと伸びていく。

 残った妖力を全て絞り尽くすつもりで、花子はスペルを構成し続ける。霊夢の札が容赦なく襲い来るが、いつまで対処できるだろうか。

 長時間避ける自信はない。スペルも、長く続けることはできないだろう。皆が皆、奥義と呼べる技を使っているのだ。長く持たないのは、花子だけではない。

 最後の一瞬まで、全力でいたい。こんなにも強い皆と戦える時間を、一秒たりと無駄にしたくはなかった。

 ダメ元で霊夢に腕を伸ばしてみたものの、彼女を掴んだはずのゴム質の腕は、手応えもなく空気を握り締める。直後、博麗の札で消し飛ばされてしまった。

 やはり、効かない。魔理沙を狙うしかない。狙いをつけてくる札を近くにある妖力の手で相殺しつつ、花子は標的を目指す。

 

 フランドールの弾幕がより激しくなり、魔理沙は攻撃に出れず歯噛みしていた。狙うなら今だ。十本以上の腕を魔理沙に伸ばす。

 しかし、さすがにただでは当たってくれない。あっという間に全ての腕を回避され、青白いフランドールの弾までも躱しきり、一瞬の隙を突いて、魔理沙が反撃に出る。

 全ての弾幕をかき消すレーザーが、花子に向けられた。爆音と圧倒的な輝きをもって撃たれた光線が、下降した花子のすぐ頭上を駆け抜ける。

 なんとか避けられた。しかし、次はないかもしれない。光線がパワーアップしていたし、今の一撃でまた多くの腕が破壊され、花子の妖力が大量に削られたのだ。

 

「このままじゃ……」

『花子、落ち着いて』

「う、うん」

 

 頭に直接話しかけてくるフランドールの声に首肯するも、その自信はなかった。

 回復もままならぬ状態で、博麗の札が容赦なく迫る。霊夢の周りを回転する八つの陰陽玉は、徐々に飛ばす札の数を増やしている。

 ラストスパートだ。フランドールの弾幕も量が倍以上に膨らんでいる。

 だが、花子はスペルを強化することができなかった。もう、妖力が残っていないのだ。今の状態を維持するだけでも、精一杯だった。

 悔しかった。もっとがんばりたいのに、その力がないことが、ただ情けない。涙すら浮かびそうになっていると、背中に暖かなものを感じた。

 フランドールだ。ほとんど透明なフランドールが、花子の小さな背に掌を当ててくれている。

 

『大丈夫、私は花子を頼りにしてるよ』

「でも、でも私、何もできないよ」

『そんなことない。花子にしかできないことが、ちゃんとあるよ』

「私にしか――」

 

 フランドールの温もりが消える。目前にまで迫っていた博麗の札と魔力弾が衝突し、霊力と魔力とが、空中に散った。フランドールが守ってくれたのだ。

 そうだ、何も攻めるばかりが弾幕ごっこではない。花子は思い出した。弱者には弱者なりの戦い方がある。そのための、回避ルールではないか。

 どちらかの弾幕を避けきって加点となっても、花子達の持ち点は三点になるだけだ。被弾したら、どちらにせよ削られてしまう。

 ならば、両方とも避けてしまえばいい。回避はうまいと、皆が褒めてくれたのだ。きっとできると、花子は自分に言い聞かせる。

 

「できる……やってみせる」

 

 全ての腕を、自分の周囲に集める。突然の防御姿勢に、魔理沙が訝しんだ。

 しかし、いつまでも悩む魔理沙ではない。八卦炉に満ちた魔力を、レーザーとして打ち込んでくる。

 魔力弾が間に入り、相殺を試みてくれる。フランドールの青い弾はことごとく掻き消されたが、わずかに威力を削いだように、花子には見えた。

 すかさず飛び上がる。妖力の腕五本を壁にして、今度は確実に勢いを殺し、すんでのところで光線を飛び越える。

 そのすぐ上に、博麗の札が迫っていた。見れば、目を閉じていたはずの霊夢が、開眼している。依然無敵なままで、陰陽玉から放たれる博麗の札は速度も精度も、さらに練磨されている。

 無限を思わせる数の札に、花子のドレスが原型を留めぬほど八つ裂きにされていく。回避を試みるも、全てを躱すのは厳しいと判断し、花子は妖力の腕で札を防いだ。

 弱った妖力の腕では、何度も防ぎきれない。一、二枚の札を受け止めただけで、妖力の腕は消滅し、花子の力も削がれていく。

 

 青い魔力弾の間を抜けて、魔理沙が再度八卦炉を向けてきた。もう高速の飛行はできない。特大の光線を避けられる自信は、なかった。

 

『花子!』

 

 友の声に、最後の力を振り絞る。フランドールの魔力弾も、花子を守るように固まってくれた。

 泣いても笑っても、最後の一撃になるだろう。渾身の力を込めて、花子は最初に召喚した巨大な手を、再度作り上げた。

 

「悪いが、決めさせてもらうぜ!」

 

 魔理沙の声と共に、今までで一番巨大で強力なレーザーが放出される。直視できない輝きを前にしても、花子は目を逸らさない。

 大きな妖力の掌が、レーザーを受け止めた。しかし、光は簡単に消えず、巨大な手は、徐々に押され始める。

 今のうちにフランドールに魔理沙を狙ってもらいたいが、彼女の魔力弾が間に入ってくれたからこそ、こうしてギリギリ相殺できているのだ。もしフランドールの援護がなくなれば、間違いなく押し負ける。

 耐え切るしかない。耐えて、後にフランドールに止めの一撃を決めてもらえばいいのだ。

 

「もう、少しッ……!?」

 

 自分を励まそうとして、失敗した。レーザーに注視するあまり、背後の霊夢が弾幕を展開していることに、気づくのが遅れたのだ。

 全ての陰陽玉が砕け、霊夢の無敵化に使われていた霊力全てが、博麗の札に変換される。その規模と威力は、魔理沙のレーザーを上回るだろう。

 挟撃されて、花子は咄嗟に霊夢へ左手を向け、妖力の腕をもう一本召喚していた。キャパシティを超える妖力を使い、極度の目眩に襲われる。

 

「うぅっ」

 

 二本目の巨大な掌が、博麗の札を受け止める。霊夢の弾幕を防ぐことはできたものの、スペルを維持するのがきつい。レーザーと札に押されていき、妖力の掌が削られていく。もう持ちそうもない。

 守ってくれている魔力弾を作っているだろうフランドールも、辛いはずだ。自分だけが弱音を吐くものかと、花子は最後の気力を振り絞った。

 掌が、レーザーと札を押し返す。もうすぐだ、もう少しで、霊夢と魔理沙に勝つことができる。ここで耐えることができれば――

 しかし、その一瞬は、あまりにも遠すぎた。

 

「ふぁっ……」

 

 おかしな息が漏れ、全身の力が抜ける。とうとう、限界が訪れた。

 まさか、こんなところで、お願い、もうちょっとだけ。様々な言葉が脳裏をよぎるが、どうしても力が入らない。

 

『花子!』

 

 フランドールが呼ぶ声に、返事ができなかった。

 妖力の掌が消え、フランドールの魔力弾も弾幕に飲み込まれ、花子を守るものは、もうない。

 霊夢の札と魔理沙のレーザーが、花子の体を容赦なく飲み込んだ。痛みは、通り越していた。

 

 花子、スペルに被弾。花子とフランドールの持ち点は、〇点となる。

 

 光と札が消え、全身を打たれた花子は、ふらついてから、飛ぶこともできずに落下を始めた。もうどこにも力が入らない。耐えられなかった、負けたのだと思うと、余計に脱力感が襲ってきた。

 実体化したフランドールが、花子を抱きとめる。必死に名前を呼んでくれているが、悔しいことに声が出ない。

 唇だけでごめんねと伝えると、フランドールは首を横に振ってから、微笑んでくれた。見慣れたはずの笑顔が、花子の心を癒してくれる。

 霊夢と魔理沙が駆けつける。さすがにやりすぎたと思ったのだろう、心配の声をかけてくれた。やはり、答えられなかった。

 立つ力もないし、息をするのも一苦労だ。皆の表情を見ると、自分はよほど辛そうな表情をしているのだろうなと、花子は分かった。

 しかし、それでも、満足だった。とても楽しい弾幕ごっこだった。

 少し苦しかったけれど、花子は笑ってみせた。本当に楽しいひとときだったのだと、皆に伝えたかった。

 ようやく、霊夢と魔理沙も笑ってくれた。楽しい時間を共有できた、それだけで、花子は満たされた思いになるのだった。

 

 

 弱小妖怪御手洗花子、一世一代の大異変が、幕を下ろした。



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そのさんじゅう  解決!悪魔の宴は華やかに!

 

 

~~~~

 

 

 五枚目だよ。

 

 

 弾幕ごっこには、結局負けてしまいました。がんばったのだけれど、霊夢と魔理沙は、やっぱり強かったよ。

 

 でも、ちょっとは強くなれたかな、なんて。フランちゃんと一緒だったけど、そこそこがんばれたと思うの。男の子がゲームやスポーツに夢中になる理由、分かっちゃったかも。

 

 もうクタクタだけれど、パーティーはこれからが本番だそうです。霊夢達が着替えに行って、テラスには妖怪がいっぱい集まってるの! 萃香さんやこいしちゃんはいないみたいで、残念だなぁ。

 

 私も、赤いワンピースに着替えたよ。フランちゃんに借りたドレスは可愛いけれど、着慣れた服には敵わないね。地味だけれど、こっちの方が、やっぱり好きだな。

 

 なんだか私ばかりが楽しむ手紙で、ごめんね。太郎くんにも、少しだけでも楽しさが伝わればいいな。いつか一緒に、レミィ達と遊べたらいいね。

 

 フランちゃんが呼んでいるので、そろそろ行きます。長くなっちゃったけれど、読んでくれてありがとう。また、おたよりしますね。

 

 それでは、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

 

~~~~

 

 

 異変を初めて経験した花子にとって、異変後にお決まりとなっている酒宴に参加するのも、もちろん初めてのことだった。

 せいぜいが紅魔館の皆と花子、霊夢と魔理沙、そして文を交えた程度の人数だと思っていたのだが、どこからともなく妖怪が集まってきて、紅魔館のテラスはどんちゃん騒ぎとなっている。

 異変が終わり、霧が晴れた頃は、すでに夕方だった。皆衣服がボロボロだったので、一度着替えてから再集合という形になり、日が落ちてから、酒盛りは始まった。

 花子も赤いワンピースに着替え、レミリアとフランドールに挟まれる形で、テラスの手すりに腰掛けている。

 

「異変……終わっちゃったなぁ」

「そうだねぇ、あっという間だったわ」

 

 星空を見上げて、フランドールが呟く。まだまだ遊び足りないようだ。

 

「うぅん、もっと弾幕がしたいなぁ。花子、あとで遊ぼうよ」

「私はもう、煙も出ないよ」

 

 頬を掻いて答えると、フランドールは残念がりながらも、それ以上誘うことはなかった。弾幕ごっこの終盤戦で花子が無理をしていたことは、誰よりも彼女が知っているからだ。それでも誘ってくるあたりが、フランドールらしい。

 体力が回復するまで、一時間近くもかかってしまったが、今ではすっかり元気だ。妖力まで戻ってはいないので、言った通り、弾幕などとても撃てないが。空を飛ぶのも怪しいかもしれない。

 

「さて花子、異変はどうだったかしら?」

 

 足をぶらぶらやっているレミリアに聞かれて、花子は間を置かずに答える。

 

「楽しかった、とても。といっても、私は異変っぽいことを何もしていないのだけれど」

「そんなことないわ。霊夢と魔理沙を相手によく戦っていたじゃない。黒幕っぽい妖怪っぷりだったわよ」

 

 褒められているらしいので、素直に「ありがとう」と告げた。黒幕らしい妖怪といっても、花子は異変に立ち会ったこともないので、いまいち分からなかったが。

 しかし、我ながらよくやったと、花子は自画自賛できた。結果は敗北だったし、最後の弾幕には手も足も出なかったが、全体を通してみれば接戦だったのだ。

 大妖怪と並んだなどとは、口が裂けても言えない。しかしそれでも、花子は自分が強くなったと実感することができた。これでまた少し、一人前に近づけただろうか。

 テラスのテーブルで文花帖に覚書を書いていた文が、筆を置いた。三人揃ってテラスに降りてから、レミリアが文に訊ねる。

 

「どう? いい記事になる?」

「えぇ、まぁ。紅霧異変や永夜異変などと比べるとちょっとアレですが、目立つ一面記事にはなりそうです」

「楽しみだわ、ちゃんとウチにも届けてよね」

 

 あまりにも瞳を輝かせるレミリアに、文は苦笑交じりに頷いた。

 花子の視線は、せわしなく動きまわる咲夜達に移った。美鈴と小悪魔、そして幾人かの妖精メイドと共に、客人となる妖怪達をもてなしている。

 その中の一つ、一際賑やかなテーブルには、霊夢と魔理沙がいた。ようやくお目当てのものにありつけた霊夢は、幸せそうな顔で美鈴が作った中華料理を頬張っている。花子も先ほど頂いたが、とても美味しかった。

 魔理沙はといえば、妖怪に囲まれながら、紅魔館には似合わない一升瓶を手に大騒ぎをしていた。人間の少女だというのに、妖怪を相手に面白いほど打ち解けている。

 とても楽しそうだが、魔理沙達のテーブルにいるのは、知らない妖怪がほとんどだ。なんとなく、混ざりにくい。

 

「心配しなくとも大丈夫よ。あの子達は無理矢理でも飲ませてくるから、嫌でも馴染めるわ」

 

 文と同じテーブルで本を広げていたパチュリーが、微笑んだ。よほど羨ましそうな顔をしていたのかと、花子は少し赤面する。

 パチュリーに言われても、やはりすぐに混ざろうという気にはなれずもじもじしていると、レミリアとフランドールが、花子の手を引いた。

 

「行きましょう、花子。あなたは主犯なんだから、一番賑やかなところにいなければね」

「そうだよ、みんなで騒いだほうが楽しいもんね。私も友達いっぱい、作らなきゃ!」

 

 吸血鬼姉妹の無邪気な笑顔に負けて、花子は導かれるままに、賑わっている霊夢達のテーブルに向かった。

 テーブルに腰掛けたり一升瓶をらっぱ飲みしたりと、お行儀が悪い連中が固まっている場所でもあるが、そこは確かに賑やかだった。豪華なパーティーではなく、まさしく宴会といった盛り上がり方だ。

 妖怪少女と肩を組みながら飲んでいた魔理沙が、花子を見つけた。目が合うと、彼女は大声で、

 

「おぉい、花子! 吸血シスターズも、こっちに来いよ!」

 

 その声を聞いてか、魔理沙と霊夢を囲んでいた妖怪達が、一斉に花子達を招き、椅子に座らせた。テーブルの上はひっちゃかめっちゃかで、料理も小分けされておらず、好き勝手につまんで食べている状態だ。

 花子の手を引き寄せて、魔理沙が大勢の妖怪に向かって、何やら偉そうに胸を張った。

 

「よしお前ら、よぉく聞け! ここにいるお方はなぁ、虹色異変の首謀者の一人、御手洗花子。私と霊夢を苦戦させた、大妖怪様だ! 外の世界では伝説だったらしいぜ!」

 

 テーブルがどよめき、酔っ払って赤い顔をした妖怪達が、拍手やら口笛やら、好き勝手に煽りだす。恥ずかしくてたまらなくなり、花子は思わず手を振って否定した。

 

「ち、違うよ! 私はそんな、大げさなもんじゃ」

「酒の席だ、思いっきり誇張表現していいんだよ。ほら、次、次!」

 

 こんなに大勢に囲まれるのは初めてなのだろう、意気込んでいた割りにオロオロしていたフランドールが、魔理沙に引っ張られる。

 

「首謀者そのニを紹介するぜ。会ったことある奴はいないだろうな、紅魔館の悪魔の妹、フランドール・スカーレット嬢だ! 霧を出したのはこいつだな。姉貴より頭がいいんだぜ!」

「よ、よろしく……」

 

 少し人見知りをしたらしく、普段の彼女らしくない消極的な様子で、フランドールが小さく答える。場が一瞬静まったが、次の瞬間には爆発的に騒がしくなり、こいつが噂の、だの、求聞史紀(くもんしき)で見た、だの言いながら、フランドールは妖怪の質問攻めに合い始めた。

 自分達ばかり持ち上げられて、レミリアがいじけていないだろうかと、花子は後ろを振り向いた。しかし、そこにレミリアの姿はない。

 

「あ、あれ? レミィは?」

「あっちだな」

 

 魔理沙が指差すその先には、美味しい料理に囲まれてご機嫌な霊夢に酌をする、レミリアの姿があった。ニコニコと楽しそうに会話をしていて、弾幕ごっこで激しく戦っていた姿は、もう思い出せなくなりそうだ。そちらにも何人かの妖怪が一緒にいて、吸血鬼は嫌われ者だということが嘘に思えるほど、仲良くやっている。

 もしかしたら、吸血鬼が敬遠されているというのは、デマなのではないか。それを魔理沙に訊ねると、彼女は少しだけ真顔になり、難しそうに唸った。

 

「それは、嘘じゃないんだよな。レミリアは特に生意気な感じだから、あんまりいい風には思われてないってのが本当だ。吸血鬼異変で幻想郷が大変なことになりかけたのも事実だし」

「……」

「でもまぁ、だんだん仲良くなってきてるんだ。こうやって、酒の席だと楽しく飲めるし、そういう機会も増えてきた。妹君の方も、うまくやってるみたいだしな」

 

 見れば、フランドールは妖怪達と打ち解けていて、羽のクリスタルから霧を出してみたり、手品代わりにチキンの骨を破壊してみたりと、能力を宴会芸にしてすっかり人気者だ。

 友達が楽しそうにしているのを見ると、花子もつい、破顔してしまう。悪魔らしく傲慢な姉妹だが、根は素直な少女なのだ。これからも少しずつ友人を増やしていくだろう。

 その中の一人にいることが嬉しくもあるが、なんとなく彼女らが遠くに行ってしまうようで、少し寂しくもある。自分勝手な思いではあるが、花子はそれだけ、レミリアとフランドールを身近に感じているのだ。

 なんとなく考え込んでいると、魔理沙に頭をこづかれた。

 

「なに辛気臭い顔してるんだよ。お姉さんが悩みを聞いてやるぜ」

「別に、悩んでいるわけじゃないよ。ただ、その」

 

 チラチラとフランドールに視線をやる花子に、きょとんとしていた魔理沙はようやく気づいたらしく、快活に笑いながら、花子の背中を押した。

 

「なに遠慮してるんだよ、行ってこい行ってこい」

「で、でも……」

「気遣いなんて、この場にゃ似合わないって。おぉい、フラン!」

 

 魔理沙に呼ばれて、フランドールが振り返る。彼女を囲んでいる妖怪達も、同時にこちらを向いた。

 

「花子が混ざりたいって拗ねてるぜ!」

「ま、魔理沙!」

「本当のことだろ? ほら」

 

 促されるままに一歩踏み出して、花子は遠慮がちにフランドールに手を振る。魔理沙の言うとおり、いちいち気にするようなことではないと分かっていても、どうしても行きづらい。

 歩き出せずにいると、フランドールが駆け寄ってきて、花子の手を取った。

 

「花子、ごめんね。のけものにするつもりなんかなかったの、本当だよ」

「う、うん、分かってるよ。私こそ、なんだかごめんね。普通に話しかければよかったのに」

「盛り上がっちゃってたもんね、声をかけにくかったと思うよ。おいで、みんなに紹介してあげる」

 

 導かれるままに、花子はフランドールがいたテーブルに向かう。多種多様な妖怪が、花子を興味深そうに見つめている。

 羊のような角があったり、足が蛇になっていたり、どの妖怪も特徴的な容姿を持っていた。その中で一際無個性な花子は、どうにも恥ずかしくなってしまう。

 好奇の視線が集まり俯く花子に、羊の角を頭に生やした妖怪少女が訊ねた。

 

「フランドール、その子も異変の主犯なんだっけ?」

「うん。花子はね、私の、一番の友達なんだ」

 

 嬉しい紹介に、花子は照れやらなにやらで顔を真っ赤にして、

 

「こ、こんばんは。御手洗花子です」

「花子はねぇ、外の世界から来たばかりなんだよ!」

 

 なぜか自慢げに、フランドールが胸を張る。すると、周囲の妖怪から「おぉ」と歓声が上がった。

 外の世界から来たのは本当だが、もう一年経っている。まだ来たばかりという時期は、もう過ぎ去ったように思えるのだが、フランドールの友人自慢は続く。

 

「外の子供達は、みーんな知ってた妖怪なんだって。『トイレの花子さん』っていって、日本中で伝説として語られていたんだって。ね、花子」

「えぇと、間違っちゃいないけど……」

 

 誇張表現というわけでもない。事実そうだったし、日本中を忙しく駆けまわったのも本当だ。しかし、学校の怪談としてがんばっていた仲間のことを思うと、自分だけが偉ぶるのも申し訳ない。

 今もまだ、大勢に囲まれる緊張から抜け出せていないが、花子はそれでも、おずおずと語り出した。

 

「あの、私の他にも、トイレの妖怪がいるの。太郎くんっていうのだけれど」

「手紙にいつも書いてる、太郎くん?」

 

 フランドールの問いに、首肯する。

 

「うん。太郎くんはね、私と同じで、お手洗いで子供を驚かす妖怪なの。私はほとんど太郎くんと一緒にいたから、セットで噂になることが多かったんだ――」

 

 懐かしい友人の話をすると、花子の緊張はつま先からスゥと抜けていった。酒も回ってきたからか、次第に饒舌になっていく。

 それから、花子は色々な話をした。外の世界の様子や、大先輩のムラサキ婆や深夜のピアノお化けのクララ――学校の仲間達のこと。外の世界は幻想郷よりずっと広く、人間に支配されながらも、まだたくさんの妖怪ががんばっていること。

 フランドールをはじめとする妖怪達は、花子の話を肴に飲みながら、時々質問を交えたり、笑ったり驚いたりしてくれた。

 

「花子さんは、生まれてどれくらい経つんですか?」

 

 トカゲの尾を持つ妖怪少女が、何やら花子を大先輩と崇めているらしく、敬語で聞いてきた。尊敬の眼差しを向けられたことはほとんどなかったので、花子はわずかにたじろぐ。

 

「え、っと……四十年くらいかなぁ」

 

 妖怪としては、まだまだ若い部類だ。もしも彼女らが年長者だったら、失望させてしまうかもしれない。

 しかし、杞憂だったようだ。皆が一様に、適当な相槌で頷く。予想以上に若い、という反応はなさそうだった。安堵の息を吐くと、フランドールが耳元で囁いた。

 

「ここのみんなはね、十年前くらいに生まれた子達ばっかなんだって。だから、私が一番年上なんだ。花子は二番目だよ」

「へぇ……。みんな若いんだねぇ」

「花子が言うと、変だよ」

 

 言われて、なるほど確かにと、花子はフランドールと一緒に笑った。すると、何が楽しいのかも分からないだろうに、酒のおかげか笑いが伝染し、花子達のテーブルはどうしようもないほど賑やかになった。

 今度は、皆が話を聞かせてくれた。どの妖怪も花子とフランドールが聞いたこともないことを知っていて、一緒になって驚いたり笑ったり、とにかく楽しくて、花子は時間が過ぎるのも忘れていた。

 気づけば、花子とフランドールがいるテーブル以外は、ずいぶん静かになっていた。霊夢とレミリアは仲良くテーブルに突っ伏して寝ているし、魔理沙はパチュリーに魔法の講義を受けているようだ。

 咲夜と小悪魔は散らかった床やテーブルを片付けていて、美鈴は寝てしまった主や客人一人ひとりに、毛布をかけてやっている。手伝った方がいいだろうかと思ったが、逆に気を使わせてしまいそうで、やめた。

 どこを見ても文の姿が見つからず、花子は妖精メイドにどこに行ったのかを訊ねてみた。つい二時間ほど前に、帰ってしまったそうだ。楽しんでいるところを抜け出すと場が白けるから、誰にも言わず静かに紅魔館を出たらしい。そういった大人の気遣いができるところに、花子はこっそり憧れていた。

 もうそろそろお開きかと思われたが、フランドールの「そういえば」から始まり、また話が盛り上がった。咲夜が酒とつまみを追加したことで、場は静まるどころか、余計騒がしくなる。

 しばらくすると、目を覚ましたレミリアと霊夢、読書を終えた魔理沙とパチュリーまで参加して、一仕事を終えた咲夜達も混ざり、場の空気は明るくなるばかりだ。

 考えてみれば、夜は妖怪の時間なのだ。時計台を見上げてみれば、時刻はまだ、日付が変わる前。宴会は、まだまだこれからだ。

 何気なく満天の星空を見上げていると、似たようにして空を見ていたフランドールが、呟いた。

 

「楽しいね」

「うん。こんなに楽しいパーティーができるなら、また異変を起こしたいくらいだよ」

「その時は、私も一緒だからね」

「もちろん」

 

 フランドールと小指を絡め、二人一緒に微笑む。幻想郷で一番と言ってくれた友達との約束だ。きっと守ろうと、花子は星空に誓った。

 紅魔館のテラスに灯された眩い明かりと笑い声は、日が昇る寸前まで、消えることはなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 文の新聞が届いたのは、翌日の昼頃だった。ニュースは新鮮なうちに届けるのが信条らしく、文は新聞を渡し、次の配達があるからと、早々に去ってしまった。

 明け方まで騒いでいたせいか、ただでさえ寝起きの悪いフランドールが起きる気配は、全くない。レミリアのベッドで、泥のように眠りこけている。

 起こすのも悪いので、花子とレミリアは寝室を出て、漫画ばかりが並ぶレミリアの書斎に来ていた。開けられた窓から吹き込みカーテンを揺らす春風が、心地いい。

 新聞を広げると、花子とフランドールが使ったお手玉のスペルが、一面に大きな写真で載っていた。妹の姿を写真に認め、レミリアがはしゃぐ。

 

「見て花子、フランが写真に写ってる! これ、いろんな人が読むのよね?」

「文さんの新聞、人間にも人気みたいだものね。きっと、今頃みんなの噂になっているよ」

「すごいことだわ、あとで咲夜にもう一部買ってこさせて、永久保存版として図書館に保管しなきゃ」

 

 つい最近まで妹の外出をあれほど不安がっていたというのに、レミリアは、妹の存在が幻想郷中に知らしめられたことが、とても嬉しいようだ。

 一面記事には花子達の弾幕を文が考察した文章も載っており、さすがに深い物の見方をしていて、二人揃って唸らずにはいられなかった。

 まだ読んでいるというのに、レミリアが新聞をめくる。一緒に本を読んでいてもよくあることなので、花子はすっかり慣れていた。

 二面には、咲夜と美鈴、そしてレミリアとパチュリーが戦った時の写真も掲載されていた。一面の写真に比べたらずいぶん小さいが、レミリアは満足しているらしい。

 

「なかなか、いい写真だわ。天狗も分かっているじゃない。これで、紅魔館の悪魔の恐ろしさが幻想郷中に知れ渡ったというわけね」

 

 すっかり上機嫌なレミリアを見ていると、花子はつい微笑んでしまう。実際に人間からすれば恐ろしい吸血鬼なのだろうが、子供のようにはしゃぐレミリアを見ていると、どうしてもそんな風には見えないのだ。

 新聞の中には、虹色の霧を見た妖怪や人間の感想も書かれていた。奇抜な霧に目を回した妖精が湖に落ちたり、色彩感覚がおかしくなった老人がド派手な服を着て人里を歩いたりと、おかしなエピソードに、レミリアと花子は笑い転げた。

 文々。新聞を読むのは初めてだったが、真面目くさった内容はほとんどなく、花子でも楽しんで読むことができるものだった。なんとなく癪だしお金もないから購読はしないが、たまになら読んでもいいかもしれない。

 咲夜が持ってきてくれた紅茶がなくなる頃、二人はようやく新聞を読み終えた。結構な時間が経っているが、フランドールはまだ起きてこない。

 新聞を閉じると、一面の大きな写真が再び花子達の前に現れた。楽しげに弾幕のお手玉で遊ぶフランドールを眺めて、レミリアが頬杖をつく。

 

「本当に、夢みたい」

「レミィ?」

 

 先ほどまでの幼さが消え失せ、レミリアは目を細め、写真に写る妹を、人差し指で優しく撫でる。その様子がとても大人っぽくて、花子はなぜかドキリとした。

 

「あなたにしばらく紅魔館にいてって頼んだ時、私は言ったわよね。花子といればフランは変われる、本当の意味で、外を知ることができるって」

「……」

「正直、自分で言っておきながら、信じていなかったわ。あの子が外に出て、友達を作るなんて、十年――いえ、百年かけても無理だって思ってた。

 でも違ったのね。花子という一番の友達を得て、自信がついたのかしら。家出をして寺に行った時も、異変の後の宴会でも、たくさんの妖怪と仲良くなって。まだまだ外に出すのは早いだなんてのは、杞憂だったのよ。私は、愚かな姉だったわ」

 

 暖かな風が、レミリアの青みがかった銀髪を、静かに揺らす。

 花子は何も言えなかった。そんなことはないと慰めることもできるが、レミリアがそれを望んでいないことくらい、分かるのだ。だからただ、続きを待つ。

 

「でも、予想通りね。フランドールは、私よりずっと友達を作るのが上手みたい。あの子があんなにたくさんの妖怪に囲まれて、本当に幻を見ているようだったわ。あんなに……楽しそうに笑って……」

「レミィ……」

「あの笑顔を、私は地下にずっと封じていたのね。残虐非道の吸血鬼とはいえ、これほど罪深いことはないと思わない?」

「たった一人の家族なんだから、誰よりも心配するのって、当たり前のことだと思う。私には、血縁って呼べる人がいないから、あんまり言えないけれど」

「ありがとう。でも、不器用な姉の下に産まれて、あの子も大変だったと思うわ。……ふふ、自分でそんなふうに言うなんて、私も変わったわね。こっちのほうが、よほど大事(おおごと)かもね」

 

 自嘲気味に微笑むレミリアに、花子は小さく首を横に振った。

 

「変わったわけじゃ、ないんじゃないかな。レミィは、私やパチュリーさんと出会うよりずっと前から、フランちゃんにとって、大切なお姉さんだったのだろうなって、いつも思うよ」

「そ、そうかしら」

「そうだよ。確かに、閉じ込めちゃってたり、色々なことがあったんだろうけれど、レミィがフランちゃんを見ている時、とても優しい目をしているもの。吸血鬼は怖いって思ってる人間が見たら、きっとびっくりするくらい」

 

 普段はあんなに傲慢な癖に、いざ褒められると慣れていないのか、レミリアは白い頬を赤らませて、照れくさそうに目を逸らした。

 姉妹揃ってワガママで、他人の迷惑を考えず、自由気ままな吸血鬼だ。確かに人から好かれる性格とは言えないが、レミリアもフランドールも、こんな優しさや少女らしさを持っているのだ。

 強大無比な悪魔だとか、夜を支配する吸血鬼だとか、そんな建前はまったく関係なく、花子は二人と友達になれたことを心から誇りに思っていた。

 

「フランちゃんだって、レミィといる時が、一番素直なんだよ。私と一緒に遊んでいる時も楽しそうにしてくれているけれど、やっぱりお姉さんには敵わないよ」

「ちょっと、あんまりそんな……恥ずかしいから」

 

 今日のレミリアは、ずいぶん素直に恥じらう。妹を閉じ込めていたという、知らず背負っていた大きな重荷を下ろすことができたからだろうか。

 こんな風にレミリアを困らせられる時は、そう多くはない。花子はしばらくの間、思いつく限りの賛辞を尽くして、紅い悪魔が文字通り赤くなってもじもじする姿を、にやにやしながら楽しんだ。

 顔どころか全身真っ赤になった頃、ようやく褒め殺しを止める。いつものレミリアなら有頂天になっていそうなものだが、すっかり小さくなって俯く姿も、可憐な容姿にはまた似合う。同じ女の子として、花子は羨ましく思った。

 こんなの私らしくない、などと繰り返し呟いていたレミリアは、十分ほどして、ようやく落ち着いたらしい。調子を取り戻しつつある彼女は、手で顔を仰ぎつつ、

 

「あー恥ずかしい。こんなところを天狗にすっぱ抜かれたら、大変だわ」

「あはは、異変以上の噂になっちゃうね」

「紅魔館の沽券に関わるわ……」

 

 苦笑交じりに溜息をついて、レミリアは二度、手を叩いた。すると、どこからともなく咲夜が現れる。何も言われていないのに、すでに紅茶のポットを持っていた。

 新しい紅茶を頂いてお礼を言うと、咲夜は慎ましく微笑んで、音もなく消えた。時間を止める能力は便利そうだが、突然いなくなるのは少し怖い。

 お茶を飲みつつ談笑していると、話題はいつの間にか出会った頃のことに移っていた。一年前の話だが、遠く昔のことのように思える。

 

「もう一年なのか、まだ一年なのか。ふふ、五百年以上生きているけれど、時の流れだけは、変わらず不思議なものね」

「そうだね。私もすっかり幻想郷に慣れたつもりでいるけど、ここで過ごしたのは、ほんの一年なんだものね」

 

 学ぶことの多い一年だった。幻想郷での生き方も、妖怪としてのあり方も、色々なことを教わった。たくさんの友達もできたし、得たものはあまりにも多い。

 感慨深いものがあり、二人は揃って一年前に思いを馳せる。ふと、レミリアが口の端を緩めた。

 

「あの日、私が花子に『地下の本を取ってこい』と言わなかったら、花子とフランは仲良くなっていなかったのかもしれないわね」

「レミィと友達になったんだから、フランちゃんとも、そのうち友達にはなっていたと思うけれどね」

「でも、ここまで親しくはならなかったっと思うの。あの日、フランとあなたは、そうなるべくして友になったんだと、私は思うわ。私とパチェがそうだったように」

「そうなるべくして、かぁ」

「運命とも、言い換えられるかもね。フランは特に、一番と呼べる友達ができたのだから」

 

 レミリアの言う運命というものがどういった意味をもつのか、花子には分かりかねた。だが、フランドールが自分を一番と呼んでくれていることは、とても嬉しい。

 片割れとも呼べる太郎と比べることはできないが、それでもフランドールは、花子にとっても幻想郷で一番親しみを持てる存在だ。友達に順番をつけるつもりはないが、幻想郷に来て最初に友達となってくれたスカーレット姉妹は、やはり特別なのかもしれない。

 おもむろに、レミリアが手を伸ばした。カップを置いた花子の手を取り、彼女は時々見せる優しい微笑みを浮かべる。

 

「花子、ありがとう。この数ヶ月で、我が家は大きく変わったわ。フランも、私も、みんなよ。それは全て、あなたがここにいてくれたおかげ」

「そんなこと。私は何もしていないもの」

「いいえ。花子がいたから、私もフランも変われたの。私を縛っていた過去の鎖を断ち切ってくれたのも、フランドールを地下の呪縛から解いたのも、花子、あなたなのよ」

 

 紅魔館が抱えていた大問題が解決したことは、花子も喜んでいた。だがまさか、それが自分によってもたらされた結果だとは、考えたこともないことだ。

 ただ、成り行きで紅魔館に辿り着き、そこでレミリアやフランドールと仲良くなった。ただそれだけで、この数カ月も、お世話になってはいたものの、姉妹に何かをしてやれた記憶は、どこを探しても見つかりそうにない。

 だというのに、レミリアはすっかり悪魔の一面をしまいこんで、熱心に語る。

 

「ただ一緒にいてくれた。普通の『友達』として、フランドールに接してくれた。そのことが、あの子にとってどれだけ特別で、嬉しいことだったか。私には想像もできないわ。

 あの子が友達を大事にできる子だと分かったのも、花子がフランと仲良くなってくれたおかげよ。人間ではなく妖怪のあなたが、畏怖せず、嫌わないで、対等に接してくれたから。外に出してあげてって、私に直接頼んでくれたあなただからこそ、フランドールは真に心を開くことができたの」

「そんな大層なことじゃないよ。フランちゃんは、レミィのことが大好きだから、外に出たいって言うのを遠慮していただけだもの。きっと、レミィが勇気を出したから、フランちゃんもそれに答えて、ワガママじゃなく心から、外に出たいって言えたんだと思うよ」

 

 あんまり真剣に褒められるものだから、花子はくすぐったくなって、所在無さげにレミリアから目を逸らした。それでもレミリアは、痛くならない程度に、花子の手を強く握ってくる。

 

「もし、もしそうだとしても、その勇気を私にくれたのは――やっぱり花子、あなたなの。花子ならフランを変えられる、花子がいるなら、外に出しても大丈夫と思えたからなの」

「あぅ、でも、私……」

「ねぇ花子、お願いよ。あなたを困らせるつもりはないわ。ただ、このレミリア・スカーレットの思いを受け取ってちょうだい。ありがとうと、言わせてちょうだいよ」

 

 真っ直ぐ見つめられては、さすがにそっぽを向くわけにもいかない。何より、花子にとってレミリアも、フランドールと同じほど大切な人なのだ。こんなに懇願されて、拒もうとは思わない。

 褒めちぎられて恥ずかしかったが、さっきはレミリアも同じ目にあっていたのだから、お互い様だろう。なるたけ自分を落ち着けて、それでも頬は紅潮していたが、花子は心のままに自然な笑顔で、頷いた。

 

「うん……、どういたしまして。レミィとフランちゃんの役に立てて、嬉しいよ」

 

 こんな風に二人でしおらしく話すのは、フランドールが家出した時以来だろうか。なんだか落ち着かなくなり、花子とレミリアは揃って黙りこんでしまった。

 春風の吹き込む部屋で、静寂が続く。居心地の悪い沈黙ではないのだが、花子とレミリアに似合うものでもない。

 しばらくすると、レミリアがくすりと笑い出した。何がおかしいのか分からないまま、花子も釣られる。お互い、小恥ずかしさをごまかすように、コロコロと笑う。

 黙っていた時よりずっと長い時間を笑い合い、落ち着いたころには、二人揃って目尻に涙まで溜まっていた。笑いすぎて、お腹が痛い。

 ようやく一息ついたレミリアが、肩を上下させながら、浮かんだ涙を拭った。

 

「あぁ、おかしい。やっぱり私には似合わないわ、こういうの。慣れないことをやるもんじゃないと、この何ヶ月かで学んだはずなのにね」

「でも、レミィのそんな一面が見れてよかった。普段なら、絶対見られないもの」

「誰にも言わないでよ、花子」

「えー? どうしようかなぁ」

 

 意地悪く言うと、レミリアは頬を膨らませて睨んできた。いつもの二人に戻り、安心感すら覚える。

 そんな時、姉の書斎だというのにまったく遠慮無くドアを開け放ち、フランドールが入ってきた。着替えてはいるが帽子は被っておらず、髪も下ろしている。

 

「お姉さま達、こんなところにいた! って、どうしたの、二人ともお顔が真っ赤よ? あっ、さては私に内緒で、面白い話してたんでしょ!」

「フラン、髪をちゃんとしてこなきゃダメでしょう」

「あとでやるもん。それよりねぇ、なんの話してたの? 私にも教えてよ」

 

 レミリアのお叱りを適当に流して、フランドールは花子の隣に座った。

 これまでのやり取りは、姉としての立場もあるだろうし、レミリアの希望通り、花子は秘密にしておくことにした。文々。新聞を、フランドールに渡してやる。

 

「これ、文さんが持ってきてくれたの」

「昨日写真を撮ってたやつね! どれどれ……」

 

 新聞に目を通し、フランドールは写真に自分や家族、花子の姿が写っていることに、レミリア以上に大はしゃぎした。

 それから三人は、異変のことからその後のパーティの話、そこから転じて吸血鬼姉妹の弾幕講座になったり、いつものどうでもいい会話が、途切れることなく続けた。

 お別れパーティーと称した異変が終わっても、花子達の楽しげな笑い声には、何一つ変化はない。それは当然のことだった。

 

 なぜなら、花子が旅を再開しても、決して変わらないものがあるからだ。

 また、いつでも一緒に遊べる。今日のように、くだらない話で笑うことができる。

 

 彼女達は、ずっとずっと仲良しな、友達なのだから。



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第三部 旅人の花子さん
やくそくのいっぽ


 桜の花は、その美を果たして散っていく。幻想郷の空に舞うその花びらは、この紅魔館にも届いた。

 春うららな朝、桜の花びらがちらちらと落ちる空を見上げていた花子は、紅魔館門前へと振り返る。

 すっかり慣れ親しんだ館と、その住人。主のレミリアと、その妹フランドール、館が誇るメイド長の咲夜に、門番の美鈴。四人に見送られる形で、花子は今、出立する。

 寂しさもあった。妖怪の山でも長い時を過ごしたが、紅魔館には、家というものを感じられた。我が家にはならないが、親しい友人宅は、心置きなく安らげる場所であった。

 しかし、それ以上に、喜びが大きい。爽やかな晴天の、美しい春の朝に、友に見送られて旅に出る。こんな幸せが、他にあるだろうか。

 

「長い間、お世話になりました」

 

 頭を下げると、愛用の日傘に守られるレミリアが、目を細めた。

 

「こちらこそ。花子のおかげで、とても賑やかだった」

「寂しくなるねぇ」

 

 姉とお揃いの日傘の下で、フランドールが言葉通り寂しげに眉をハの字にする。それ以上のワガママを言わないのは、昨日の晩に皆で約束したからだ。

 花子を気持ちよく見送るのだと。花子自身も、後に引かぬようさっぱりと旅立つと宣言した。名残惜しさは、花子だって負けぬほど抱いているのだ。

 いつか見た竹編みの弁当箱を、咲夜が差し出してきた。花子に渡そうとしているのは明白で、遠慮がちに手を伸ばす。

 

「あの、何から何まで、すみません」

「いいのよ。お嬢様がそうしてあげてって、あんまり言うものだから」

「道中でお腹が空いたら大変だもの。花子の好きなサンドイッチにしてもらったから、遠慮しないで食べてちょうだいね」

 

 レミリアにまで言われては、これ以上の遠慮は無粋というものだろう。素直に受け取り、一度リュックをにしまう。

 背負い直したリュックにぶら下がる水筒が、かちゃりと揺れた。中には、美鈴が入れてくれた烏龍茶が入っている。あまり飲んだことはないが、健康にいいらしい。

 

「お弁当箱、必ず返します」

「あらあら、律儀なことね。いつになっても、構わないからね」

「はい。美鈴さんも、お茶、ありがとうございます」

「そのくらいしかできませんから。お口に合えばいいんですけど」

 

 あいかわらず謙虚な物腰の美鈴に、花子はつい笑顔になってしまう。彼女と会話をするのは、実に心地がいい。

 ついで、花子は同じ部屋で寝食を共にした吸血鬼姉妹に視線を移す。目を合わせれば離れたくなくなってしまうが、二人もまた、まっすぐ花子を見ていた。

 他人行儀な礼はしない。ただにっこりと微笑んで、

 

「レミィ、フランちゃん。色々ありがとう。勉強になったし、毎日楽しかった」

「それは私達も同じよ。素敵な日々だったわ」

「うん。こんなに退屈しない日が続くなんて、夢みたいだったよ」

 

 共に過ごした時間を喜んでもらえていることに、花子は幸せを覚えた。持つべきものは友だと、心から思う。

 名残惜しいが、約束を果たさなければ。さっぱりと、きっぱりと、旅立つ時がきた。

 寂しさが出ないよう、花子はなるたけ自然な笑顔で、

 

「それじゃ、行くね」

「えぇ、元気で」

「気をつけてね」

 

 レミリアとフランドールもまた、少しだけ辛そうな笑顔で、手を振り返してくれた。

 サッと背を向け、歩き出す。振り返りたい気持ちを抑えて、大通りへと続く小道を、ひた歩く。

 友達はまだ見送ってくれているのだろうか。手を振っているのだろうか。気になるし、もう一度だけレミリア達の顔を見たかったが、我慢する。

 後ろ髪を引かれる思いを断ち切らんと、ひたすら前を見続けて歩く花子の背中に、その声は届いた。

 

「花子! また来てね、一緒に遊んでね! 私、待ってるからね!」

 

 春の雑木林に響くフランドールの声に、花子は立ち止まる。思わず涙が浮かんだが、泣き虫な心を叱りつけて目元を拭う。

 一度だけだ、返事をするだけだと自分に言い聞かせ、花子は振り返る。姉と二人で見送り続けているフランドールに、大きく、大きく手を振った。

 

「きっと――ううん、必ず遊びに行くよ! フランちゃんとレミィも、元気でね!」

 

 レミリアに手を引かれて門に入るまで、とフランドールはずっとこちらを見続けていた。大きな門が閉じた後、レミリアも一度だけ、分かるように手を振ってくれる。

 みんながみんな、少しずつ、約束を守れなかった。おあいこだなと笑って、花子は紅魔館に背を向ける。

 真っ青な空はどこまでも突き抜けていて、緑は青々としているし、小道の脇に咲く花も、色鮮やかで可愛らしい。さっきまでいた紅魔館の暗い室内を、もう忘れてしまいそうなほどだ。

 だが、どんな自然の美しさも、レミリアとフランドールが見せてくれた笑顔には敵わない。友達との思い出は、花子の旅路で出会ういかなるものより鮮明で、決して忘れることはない。

 そんな心の宝物があるからこそ、花子は旅の道を行くことができる。

 友達がいる、そのことが、花子の背中を強く押す。

 また会おうという約束が、最高のお守りになってくれるのだ。

 

 後ろはもう、振り返らなかった。



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そのさんじゅういち 恐怖!霧も凍える氷の妖精!

 

 

~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 こんにちは。ずっと紅魔館にいたけれど、春はやっぱり外が気持ちいいね。

 

 学校の校庭には、まだ桜は残っているかな? 幻想郷の桜は、もうほとんど散ってしまったようです。

 

 今日は、霧の湖で妖精と出会いました。一年前は弾幕を投げつけられて逃げ回っていたけれど、今ではすっかり追い払えるようになってました。うふ、強くなったのかな。

 

 でも一人だけ、とっても強い妖精がいました。氷の妖精なんだけれど、弾幕の強さは、私と同じくらいでした。性格はなんというか、レミリアさんやフランちゃんをもっともっと子供っぽくした感じ。

 

 こういう言い方は良くないってムラサキおばあちゃんに怒られちゃいそうだけれど、頭が悪い、のかな? 一緒にいた子は、とてもいい子だったのだけれど。

 

 今日中に人里の方へ行きたかったんだけど、間に合わなそうなので、道端で野宿することになりそう。星空を見ながら寝るのは久しぶりだから、ちょっと楽しみ。

 

 人里についたら、新しい便箋と封筒を買うよ。太郎くんに喜んでもらえそうなものを買うから、期待していてね!

 

 それでは、お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~

 

 

 雑木林の細道を、花子は機嫌よく進む。

 木々の隙間から見える青空には、ちらほらと桃色の花びらが飛んでいる。満開の桜でお花見をしたかったが、今年は諦めるしかないようだ。

 そもそも、虹色異変の後一週間近くも紅魔館にいたのだ。フランドールが家出から帰ってきた時が満開だったことを思うと、桜はよく持ってくれているほうだろう。

 晴天に散る桜の花も風流だし、これはこれで悪くはない。のんびり歩く景色としては、むしろ最高と言えるかもしれない。

 この風景を眺めていれば、人里へ続く大通りまでそう遠くないかなと思った花子だが、雑木林を抜けたところで、その思いは潰えた。

 霧が、視界を遮ったのだ。異変で見た虹とは正反対の、真っ白な濃霧。すっかり忘れていたが、ここには霧の湖があったのだ。

 濃霧とはいえ、花子が初めて訪れた時に比べてずいぶんと薄い。歩きながら濡れてしまうようなことにはならないだろうが、それでも当然湿気っぽくて、花子は歩きながらしょっちゅう手櫛で髪をとかした。

 咲夜に洗ってもらったばかりのセーラー服ともんぺが湿気るのを、嫌がりつつも諦める。誰かが霧を出しているなら文句も言えるが、この湖の霧は年中出ているそうなので、そこを選んで歩く花子の方にも責任がある。

 早く抜けてしまおうと歩を進めると、最近はすっかり見慣れた光が視界の端に移った。反射的に体が動き、直後、花子の足元に光弾が突き刺さる。

 

「な、なに?」

 

 避けた後に驚いて、花子は足元を見つめた。弾はもう消えてしまっているが、湿った地面に空いた穴から感じる小さな妖力が、それが妖弾であったことを教えてくれる。

 ということは、誰かに弾幕ごっこをしかけられたと見るべきか。しかし、スペルカードは提示されていないし、煽るにしてもやり方が賢くない。

 一体誰がと口に出そうとして、花子はその答えに思い当たった。幻想郷に来たばかりの時、奇しくもこの湖で同じ相手に襲われ、逃げまわったではないか。

 霧にまみれて見えにくい空に、小さな影がいくつも浮いているのが見えた。その誰もが少女であり、また花子より背が低く、それぞれ個性的な羽を持っている。妖精だ。

 

「標的発見! そーいん、こーげきかいし!」

 

 誰かの可愛らしい声を合図に、皆が揃って、大小様々な妖弾を投げ飛ばした。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

 霧の中から襲い掛かってくる妖弾を二、三発避けてから、花子はリュックを背負ったまま空に飛び上がる。

 投げつけられる妖弾は、どれも弾幕として成り立っていないほど弱々しいものだ。ルールもない無茶苦茶なやり方だが、以前美鈴に、これが妖精なりの弾幕ごっこだと聞いた。

 妖精は何が楽しいのか、やたらと騒ぎながら妖弾を投げつけてくる。リュックが少し重いが、それでも避けるのに苦労しないほどの量だ。

 なんとなく無駄な気もするが、花子は一応話し合いに持ち込めないかを試みる。

 

「ねぇ、話を聞いて! そんないきなり――」

「うるさーい! この湖は妖精のテリトリーよ! 通りたければあたし達の屍を超えていけー!」

 

 意味など分かっていないだろうに、他の妖精たちも同調して「そうだそうだ」と口々に叫んでいる。おまけに、弾幕を飛ばす手を緩めることはない。

 ひょいと妖弾を避けてから、花子は仕方なく反撃に出ることにした。下級妖怪とはいえ、妖精程度なら簡単に追い払うことができる。レミリア曰く、妖精は体が粉砕しても次の瞬間には元に戻るそうだが、さすがにそこまではやりたくなかった。

 なるたけ弱く、桃色の二重螺旋を二つ作り出す。広範囲をカバーするショットに、妖精達はさっそく撃墜され始めた。撃っている本人にすら、どうやったらあんなに当たるのか分からないほど、簡単に被弾しては目を回して落ちていく。

 紅魔館で吸血鬼を相手に遊んでいたせいか、あまりにも手応えがなかった。妖精の弾も苦労なく避けれるし、緊張感は全くない。

 

「……なんだかなぁ」

 

 呆れる余裕すらある中で、花子は一応ショットを撃ち続ける。次々と妖精が妖弾を食らって落ちていくさまを見ていると、だんだん申し訳なくなってくる。

 まだ元気の残っているのが何人かいたが、仲間が一桁にまで減ったあたりで、ようやく劣勢を悟ったようだ。

 

「や、やるわね、おかっぱ!」

 

 一番強いらしい赤い髪の妖精に指さされ、どう返したらいいものかと、花子は頭を掻いた。

 

「はぁ、どうも」

「これは、その、手加減よ。手加減したの!」

「そうなんだ」

「そうだよ! ねぇ、みん……な……?」

 

 赤髪の妖精が振り返るも、そこに仲間の姿はない。花子からは見えていたが、彼女が手加減云々言い出した辺りから、蜘蛛の子を散らしたように撤退してしまっていた。

 どうやら、チームワークがいいわけではないらしい。一人残された赤い髪の少女は、裏切られた事実に絶望しているようだが。

 五秒ほどして、妖精はようやく花子の方を向いた。すっかり涙目で、頬を膨らませている。あまり気の毒なので、花子は妖精少女の顔を覗きこんで、訊ねた。

 

「大丈夫?」

「うるしゃい!」

 

 鼻声で怒られてしまったが、花子は苦笑するしかなかった。突然襲ってきて、ものの数分でこれだ。妖精というのは、吸血鬼姉妹より分かりやすく子供であるらしい。

 とうとう声を上げて泣きだしてしまった赤髪の妖精少女は、花子が慰めようとするより早く、背を向けてしまった。

 

「ししょーに言いつけてやるんだから! 覚えてなさいよ、ばかー!」

 

 泣き叫びながら、妖精はとうとう霧の中に消えた。その泣き声もしばらく反響していたが、どこまで遠くに行ったのか、次第に聞こえなくなる。

 師匠とやらを頼るつもりらしいが、果たしてあの少女の師とやらはどの程度の者なのか。似たり寄ったりな気もするが、妖精でも強い者がいるらしいので、なんとも言えない。

 ともかく、平和に大通りへ辿り着きたいという願いは、叶わなそうだ。

 

「もう、ホントに幻想郷って、むちゃくちゃなんだから」

 

 とっくの昔に分かっていたことを毒づいて、花子は八つ当たり気味に石ころを蹴り飛ばす。

 湖に落ちたらしく、霧の向こうでポチャリと音が聞こえたが、なんだかそれも、むなしかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 妖精というものは、ほぼ例外なく頭が悪い。中には大人びた言動で人間や妖怪を驚かせる者もいるが、大抵が幼児と同程度の知能しか持っていない。

 自然の権化としてそこにいるだけで意味があり、毎日を遊びに費やし、人間にイタズラをしかけてはお仕置きされる。生死の循環から離れた存在ながら、幻想郷でもっとも脳天気な連中である。

 そしてそれは、冬眠から冷めたばかりのカエルを氷漬けにして遊ぶチルノも、例に漏れない。昨日も一昨日も同じ遊びをしているが、飽きずに繰り返している。カエルにとっては迷惑この上ないことだろう。

 四つか五つの童女くらいしかない背丈の彼女は、青い髪に青い瞳、これまた青の衣服に、氷の翼を持っている。非常に分かりやすい外見の、氷の妖精だ。

 解凍されて身の自由を得たカエルが慌てて逃げていく様子を腹を抱えて指さしていると、霧の向こうから声がかかった。

 

「いたいた、ししょー」

 

 赤い髪の妖精が、何やらずいぶん服をボロボロにしてやってくる。弾幕に負けたのだろうなと、チルノは思った。

 しかし、彼女はこちらを知っているようだが、チルノは思い出せなかった。妙ちくりんな名前で呼ばれて、眉を寄せる。

 

「あたいはシショーなんて名前じゃないよ、チルノよ」

「えぇ、そんなぁ。昨日弾幕した後、弟子にしてやるって言ってくれたのに」

「そうだっけ? じゃああんたは、あたいの弟子なの?」

「そうですよ。スペル撃てない私に、弾幕を教えてくれるって言ったから、今朝だってずっと待ってたのに」

 

 どうやら遊びの約束もしていたらしいが、チルノの脳みそには、その情報が入っていなかった。最初からなかったのか、あるいは消去されてしまったのかは、本人にも分からない。

 しかし、長い年月を生きているおかげか、こういった場合は大体相手の言葉に合わせればなんとかなると、チルノは奇跡的に学習していた。

 

「そっか! じゃあ弟子でいいよ。それで弟子、どうしたの?」

「実はですね、ついさっき、湖で――」

 

 赤髪の弟子は、先ほど起きたことを逐一チルノに報告した。少しだけ早口なのは、できるだけ早く伝えなければ、忘れてしまうからだろう。

 湖の畔を歩いていたおかっぱの女の子を襲ったら、その少女が実は妖怪か何からしく、めっぽう強い弾幕を撃ってきたとか。チルノは聞きながら忘れていくので、最後の「おかっぱにみんなやっつけられた」という一文を聞いた時には、最初に仕掛けたのは彼女達であるということを忘れ去っていた。

 霧の湖はチルノ達の縄張りだ。そこで好き放題暴れられたとあらば、ここら一体のボス――自称である――のチルノが黙っているわけにはいくまい。弟子の仇討ちというのも、なんだか響きが格好いい。

 

「よし決めた! そのおかっぱ、どこにいるの? あたいが退治してやるよ!」

「やった! さすがししょー!」

 

 久方ぶりに褒められて、チルノはすっかり有頂天になった。湖の対岸を歩いているらしいおかっぱ妖怪へ向かおうと、空に飛び上がる。

 意気揚々と戦いに向かう妖精二匹は、ちょうど湖の真ん中あたりで、止まった。誰かに遮られたわけではないが、チルノがよく知る人物に出会ったのだ。

 緑色の髪をサイドテールにした、白のシャツに青いワンピースがよく似合う、妖精少女だった。虫でも鳥でもない不思議な羽を持つ彼女は、妖精の中でも力の強い、名も無き大妖精だ。

 大妖精は彼女だけに限らないが、この大妖精は、チルノの親友であり保護者でもある、よき理解者であった。チルノは彼女のことを、親愛の念を込めて「だいちゃん」と呼んでいる。

 

「やっほ! だいちゃん」

「チルノちゃん、こんにちは。どこに行くの?」

「なんかねぇ、あたいの弟子をいじめた奴がいるんだって。そいつをとっちめにいくの」

「弟子って、その子?」

 

 弟子を指さす大妖精に、チルノは大威張りで頷いた。何が偉いのかは、分かっていない。

 

「そうよ。おかっぱ頭の変な妖怪にやっつけられたっていうから、あたいが仇を取るんだ!」

「ふぅん。……って、おかっぱ頭の妖怪? ねぇ、その子ってもしかして、こないだの……」

「だいちゃん、おかっぱを知ってるの?」

「虹色の霧を出した吸血鬼と、一緒になって異変を起こした妖怪じゃなかった? さっき、街道に落ちてた新聞で読んだよ。ねぇチルノちゃん、やめようよ。吸血鬼と同じくらい強いなんて、勝てっこないよ」

 

 青い顔で訴えてくる大妖精だが、チルノは聞き耳を持たなかった。吸血鬼といえば、どうしようもないくらい強いことで有名だし、さすがのチルノもそのくらいのことは知っている。

 しかし、それは問題ではない。もう答えは決まっていた。

 

「だいじょーぶ! なんたってあたいは、サイキョーなんだから!」

「チルノちゃんはいつもサイキョーだけど、この間巫女と魔法使いにやられていたじゃない」

「そ、そんなこともあったね。でも、サイキョーなの! おかっぱが吸血鬼くらい強くたって、負けやしないよ」

 

 まったく根拠のない自信であったが、弟子も大妖精も、その自信を疑うことはなかった。悲しいかな、ここにいる三人の中で誰一人として、チルノの自信に裏付けがないことを考えもしなかったのだ。

 少しも怖がらないチルノにすっかり安心した大妖精は、もう勝った気でいるらしく、胸を撫で下ろす。

 

「そっか。じゃあ大丈夫だね。私も応援に行っていい?」

「うん! そんじゃ、行こう。弟子、案内して!」

「はーい」

 

 もうすっかり恨みを忘れつつある弟子が元気よく答えて、霧の湖上を先導する。

 湖のあちこちで、春に浮かれた妖精が飛び回っていた。弾幕ごっこもどきに興じたり、ただ追いかけっこをしていたり、湖畔で昼寝をしていたり、自由気ままに過ごしている。

 三人は何度か目的を忘れて、あっちへこっちへ寄り道をした。友達を見つけては声をかけたりかけられたりしては、大妖精に早く行こうと背中を押される。

 そんなことを繰り返していたせいで、目的の妖怪を見つけたのは、湖から少し離れた小道であった。大きなリュックなど背負って、のんびり歩いている。

 

「なんであいつ、飛ばないのかな。飛べないとか?」

「さっき飛んでましたよ。リュック背負ったまま」

「力持ちなんだね」

 

 妖精基準で言うと人間の女性も力持ちになってしまうのだが、彼女達は自分という物差し以外を持つことはほとんどない。

 ともかく目標を発見し、チルノ達は颯爽とそのおかっぱ妖怪の前に降り立った。おかっぱは、突然目の前に現れた妖精に、驚いているようだ。

 なんとも地味な格好と髪型と顔で、チルノは思わず腰に手をやって、舐めるように見回してしまう。

 

「あんた、ホントに妖怪?」

「そ、そうだけれど。あなた達、誰? そっちの赤い子は、さっき会ったよね」

「あたいはチルノ! こっちは大ちゃんで、赤いのは弟子よ」

「どうも、よろしく。私は、御手洗花子っていうの」

 

 いちいち頭を下げる花子に、大妖精が礼儀正しく返した。ふんぞり返っていたチルノだが、自分もそうしたほうがよかったかなと、少し後悔する。

 しかし、花子は戦わなければならない相手なのだ。湖を荒らした罪は、かなり重い。無論、チルノの中ではだ。

 赤髪の妖精に「やっちゃってください」と言われ、チルノは鼻息あらく腕まくりなどして見せる。

 

「よくも妖精をいじめてくれたね!」

「えぇっ! 先に妖弾を撃ってきたのはあっちだよ。私はそれにお返ししたんだよ」

「あれ、そうなの? じゃあ悪いのは弟子のほう? だけど、湖で暴れたのは本当だし、うぅん……」

 

 小さな頭で必死に考えても、チルノにはどちらが悪いのかが分からなかった。大妖精は謝ろうよと言うし、弟子には早くやっつけてくれと頼まれ、余計にこんがらがる。

 三分ほどして、結局何もまとまらず、ヤケクソ気味に花子を指さす。

 

「もういいわ! あんたをやっつければ全部オッケーでしょ!」

「オッケーじゃないよ、そんなの。どうして私が」

「いいの! あんたはやっつけるの、弾幕で!」

 

 喚き立てながら、チルノはスペルカードを三枚、ポケットから取り出した。氷の結晶が描かれた、青いカードだ。

 チルノは、妖精の中では別格なほどに強い。大妖精でも遠く及ばないほどの力を持っていて、人間に警戒される数少ない妖精だ。弾幕ごっこで十分に通用するスペルを使えるので、こうして妖怪とケンカすることも珍しくはない。

 掲げられたカードを見て、花子も彼女が他の妖精とは違うと分かったらしい。渋々リュックを下ろして、もんぺのポケットからカードを引っ張り出す。

 

「三枚だから、持ち点は九点だね」

「そうなの?」

「……そうだよ」

 

 花子に呆れられてしまったらしいが、チルノはちっとも気にしなかった。計算ができないなんて、いつものことだからだ。

 

「わかった! だいちゃん、あたいの点数、数えてね」

「うん、いいよ。がんばってね」

「ししょー、ファイトですー!」

 

 友達と弟子の応援を受け、チルノは無敵の力を得たような心地になった。面倒くさそうに空へ飛び上がるおかっぱ妖怪程度には、負ける気がしない。

 花子を追いかけて、氷の翼を羽ばたかせる。小さい体から思い切り冷気を振り撒き、寒そうに震える花子へと、チルノはどうだとばかりに胸を張る。

 

「寒いでしょ。これがあたいの力よ! あんたを凍らせたあと、あたいのおもちゃにしてやるんだから!」

「はいはい、私に勝てたらおもちゃにでもなんでもなってあげるよ。まったくもう、普通に遊ぼうって選択肢はないのかな。あぁでも、弾幕ごっこが遊びだものね」

「何をぶつぶつ言ってるのさ」

 

 まともに会話が成り立たないと分かったらしい花子は、手をひらひらと振って適当にあしらおうとしている。その態度に、すっかり馬鹿にされている気がして、チルノは憤慨した。頬を膨らませて睨みつけても、やはり花子が動じることはなかった。

 ショットの間合いまで離れた花子が、じっとこちらを見据える。様子見ということだろうが、チルノにはそれが、仕掛けるまでもないという挑発に思えた。

 

「このー、なめるなぁー!」

 

 怒りのままに、細かい氷のつぶてを撃ちだす。見計らっていたかのように花子が動き出し、あっさりと避けられて、それがまた、チルノの怒りに油を注ぐ。

 絶対に参ったと言わせてやるのだと意気込んで、チルノは花子を追いかける。

 彼女の頭からはもう、弟子の仇討ちや縄張りを守るといった目的は、なくなっていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 勝利を得たのは、花子であった。

 勝敗が決した時点で、花子はスペルカードを一枚残し、得点は四点残っていた。初期枚数を考えると圧勝と言ってもいいのかもしれないが、今回は運が良かったなと、花子はほっと一息つく。

 実力はほとんど拮抗していた。妖精だと舐めていたせいで序盤は苦戦したが、避けることにかけては花子のほうが上回っていたことと、独特なショットにチルノが苦戦したことが勝因だろう。チルノの頭に血が上り、花子のスペルを落ち着いて避けられなかったというのも大きい。

 弾幕ごっこで勝利したのは久々だったが、どうにも嬉しくない。突然理不尽にケンカを売られたのだし、弾幕にのめり込む前に終わってしまったからだ。

 

「なんだかなぁ」

 

 ぼんやりと呟いて、湖畔でべそをかいているチルノを眺める。大妖精に慰められている彼女は、時々花子の方をちらりと見ては、いっそう激しく泣きじゃくっていた。

 まるで、花子がいじめたような状況になってしまっている。声をかけようにも、言葉が見当たらない。あんなに泣いてしまっている時は、何を言っても無駄だということは、泣き虫な花子も自分の体験でよく知っていた。

 弟子と呼ばれていた赤髪の妖精はといえば、師匠が戦っている途中で、飽きてどこかに行ってしまったらしい。そのことでチルノがさらに落ち込むのではと思ったが、チルノも弟子のことは忘れているようだ。

 ほったらかしていたリュックは、大妖精が見ていてくれたらしい。彼女はチルノの味方のはずだが、しっかりした子だなと、花子は感心した。

 とにかく、ここで立っていても仕方がない。リュックを背負って、こっそり立ち去ろうと背を向ける。

 

「どこに行くのさ」

 

 こういう時に限って、タイミングよく気づかれたりするものだ。花子はなんとなく感づいていたから、チルノの声にも対して驚かなかった。

 しかし、返事に困る。どこへと言われても、目的地を決めているわけではないからだ。適当にはぐらかせばいいものを、すっかり真面目に考えこんでしまう。

 

「特に、考えてはいないんだけれど。人里の方かなぁ」

「ダメよ! あたいが勝つまで勝負するの!」

 

 いきなり詰め寄ってきて、チルノは花子の胸ぐらを掴んだ。泣いているせいで制御しきれていないらしく、冷気が駄々漏れである。とても寒い。

 引き剥がそうにも、チルノ自身も氷のように冷たいので、掴むに掴めない。引き剥がすことは非常に難しい。

 しばらく説得を試みたが、チルノに落ち着く気配はない。掴まれているセーラー服の胸元が凍り始めていることに気づき、花子は慌てて声を上げた。

 

「分かった、分かったよ! もう一回勝負しよう。それでいいでしょ?」

「ホント!? やったぁ!」

 

 花子から手を離して、チルノは飛び上がって喜んだ。大妖精も安心したようだが、花子はうんざりと溜息をつく。旅路を急ぐつもりはないが、こんな風に足止めを食らうとは。

 とはいえ、言い出しっぺは花子自身なので、仕方がない。リュックをもう一度下ろし、大妖精の傍らに置いた。

 

「これ、見ててもらっていいかな」

「あ、はい」

「ありがとう」

 

 にっこり笑う大妖精を見て、やはりよくできた子だなと頷く。花子はすっかり彼女を気に入ってしまっていた。比較対象がチルノであるし、最近までよくつるんでいたのがレミリアとフランドールのワガママ姉妹なのだから、余計にそう思えてしまう。

 妖精に共通して言えることだが、花子よりも背が低く、幼く見える貴重な存在だ。いっそ頭を撫で回したい衝動に駆られたが、チルノがスペルカードを突きつけてきたので、断念することになる。

 

「カードは五枚よ!」

「あぁ、うん」

「なんだかやる気がないわね! そんなんじゃあたいに勝てないよ!」

 

 大妖精が友達に選ぶのだから、チルノも根はいい子なのだろうが、できればもう少し落ち着いてほしいなと花子は嘆息を漏らした。

 勝たせてやれば満足するのかもしれないが、五枚もカードがあることを考えると、手加減がバレてしまうかもしれない。それに、五枚全部に当たると考えると、とても痛いはずだ。

 結局、負けてやろうという気持ちが固まる前に、弾幕ごっこが始まってしまう。

 

 調子を取り戻したチルノは、先の戦いよりずっと勢いに乗っていた。ショットもスペルも安定した強さを持っていたし、先ほど使ったのと同じスペルもあったが、より洗練されて見える。氷が光を反射して、とても綺麗だった。

 それでも、花子は勝ってしまった。今度は残り二点でカードも使い切るという接戦だったが、最後の一枚でチルノが使った決め技、凍符「パーフェクトフリーズ」を、花子が避けきってしまったのだ。

 スペルの氷が散っていき、チルノはしばらく呆然としていた。しかし、ほどなくして顔を真っ赤にし、腕をぶんぶん振り回しながら、

 

「もっかい! 今度も五枚で!」

「えぇー……」

 

 洗いたての服をこれ以上汚したくなくて、花子は渋った。だが、チルノには引く気がまったく見られない。

 結局もう一戦交えることになり、仕方なしにカードを取り出す。先の二戦で手の内はほとんど出し切ったので、チルノも攻略法を見出してくるだろう。少し手を抜くだけで、彼女を勝たせてやることができるかもしれない。

 どうやってうまく手加減しようかと作戦を立てているうちに、三回戦目が始まった。そろそろ疲れてきてもよさそうなものだが、チルノは相変わらず元気だ。くたびれるということを知らないかのように、氷のつぶてを飛ばしてくる。

 同じくらいの強さだと思っていたが、踏んでいる場数はチルノのほうが圧倒的に多い。花子よりもたくさんのカードを持っているので、そのスペルも多彩だった。総合的な実力は、チルノが一枚上手だろう。

 そう感じてしまったせいか、花子はつい負けん気を起こしてしまい、気づけば、手加減をするどころか思い切り戦っていた。単純な性格が災いして、熱くなるともう元の目的を見失ってしまう。

 数十分後、何が勝敗を決めたのか分からないほどの接戦の末、花子はまたも勝利してしまった。我に返ってようやく、チルノのふくれっ面に気がつく。

 

「……もっかい」

「うへぇ、まだやるの?」

「やるの! 次は六枚よ!」

 

 たくさんスペルカードを持っているチルノと違い、花子が使えるスペルは十に届くかどうかといったところだ。何度も連戦していれば当然攻略されてしまうだろうし、何より自分の手の内の少なさが露見してしまい、少し恥ずかしい。

 一生懸命勝とうとしている姿はとても可愛らしいので、チルノのことが手のかかる妹分のように思えてきた。しかし、手心の一つも加えてやれない自分を顧みると、あまり偉ぶれる立場ではないのかもしれないと、花子は自嘲の苦笑を漏らす。

 その顔を見たチルノは、どうやら自分への蔑みだと受け取ってしまったらしい。

 

「こんのー! もう許さないんだから!」

「えっ」

 

 何がチルノの逆鱗に触れたのか、花子には分からなかった。なぜ怒っているのと聞こうとしたが、チルノが唐突にスペル宣言をし弾幕を放ってきたので、避けることに集中しなければならなくなる。

 腹を立てているからか、弾幕も先程より気合いが入っている。心なしか氷の先端も尖っていて、非常に当たりたくない。

 力強い氷の弾幕にスペルで対抗しながら、花子は負けてやったとしてもまだ続けなければいけないような予感がしていた。やる気満々に弾幕を展開するチルノが、一度勝つだけで満足してくれるとは思えないのだ。

 ワガママな相手に付き合うことは、すっかり慣れている。服がボロボロになるのは嫌だけれど、紅魔館で裁縫道具をもらっているので、後で修繕することにしよう。

 こうなったら、とことん付き合ってやる。どうせ終わらないなら、勝ち続けるつもりでやろうと決めて、花子はスペルに力を込めた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 夕焼けの赤い日差しを受けながら、花子はチルノと並んで、湖近くの小道に大の字になって寝転んでいた。

 無尽蔵なチルノの気力が尽きることはなく、勝っては負けての繰り返しは、日が暮れる寸前まで続いてしまった。途中で止めておけばいいものを、勝利を掴んだチルノの挑発でムキになった花子は、負けて終わるのだけは嫌だという気持ちになってしまったのだ。

 結局、最後の一試合は引き分けに終わっている。勝敗も見事に五分五分で、誰がどう見ても綺麗におあいこ、という結果だ。

 山での決闘や異変を起こした時より抑え目に戦っていたとはいえ、これだけの連戦だ。さすがに妖力も体力も尽きて、花子はぜいぜいと息を荒げている。隣で大妖精に膝枕してもらっているチルノも、小さな胸を上下させていた。

 

「チルノちゃん、大丈夫?」

「うぅーん、もう疲れたぁ、帰るぅ」

「よしよし、がんばったもんね」

 

 遊びすぎた子供よろしく大妖精に甘えるチルノを、上半身だけ起き上がった花子は半眼で見つめた。妖精をいじめたとか湖で暴れたとか、好き放題いちゃもんをつけられたことが、何一つ解決していないからだ。

 大妖精の膝でむにゃむにゃやり始めているチルノを見る限り、誤解を解くことはできないようだ。とりあえず大妖精だけはと思ったが、目が合うと苦笑いを浮かべる辺り、彼女は途中から気づいていたのかもしれない。どうしようもないワガママ娘を友達に持つ花子には、彼女の苦労が痛いほど分かった。

 眠いやらお腹減ったやらとぐずり始めたチルノを抱っこ――彼女はチルノの冷たい体温をものともしない――して、大妖精が花子に頭を下げる。

 

「それじゃ私、チルノちゃんを連れて帰ります。今日は遊んでくれてありがとう」

「あ、えぇと、うん。気をつけて帰ってね」

「はい。おかっぱのお姉さんも」

 

 お姉さんという響きが心地よくて、花子は思わずにんまりとしてしまった。いつもは子供扱いされる方が多いが、なかなか気持ちがいいものだ。

 どっと疲れてしまったが、小さい子の相手くらいしてやれなければなと、上機嫌に頷く。気分はすっかりお姉さんで、咲夜や美鈴にでもなったような心地だ。

 霧の向こうに飛んでいく妖精二匹を見送ったあと、しばらく休憩してから、花子はリュックを背負う。その時だった。

 

「標的発見! そーいん、こーげきよーい!」

 

 聞き覚えのある声に振り返れば、チルノの弟子らしい赤髪の妖精が、子分を従え妖弾を振りかざしているではないか。爛々と輝く瞳に敵意はなく、遊んでほしいと表情が語っている。

 赤髪の少女に、花子のことを覚えている様子はなかった。どうやら、妖精に学習能力を求めてはいけないらしい。花子は視線を前に戻し、大きなリュックを背負い直す。

 花子が頼りになるなと思う女性達は、こんな時、仕方なく妖精の相手をするのだろうか。適当にあしらうか本気で追い払うか、どちらにしても、面倒くさい。

 

「……やっぱり、私にお姉さんは無理みたい」

 

 かぶりを振って、呟いた。直後に、妖精達が一斉に妖弾を投げ飛ばす。

 街道に出たら、まずはご飯、それから裁縫をしよう。そんな算段を立てながら、街道に続く小道を、花子は一目散に駆け出した。



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そのさんじゅうに  恐怖!山の河童の超技術!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。暖かくなって、気持ちがいいね。今日も幻想郷はお天気でした。

 

 今日ね、久しぶりに香霖堂へ行ったよ。覚えているかな、魔理沙と霖之助さんと友達になった、面白いお店。コンピューターの作り方を聞かれた場所だよ。

 

 霖之助さんに挨拶だけするつもりだったんだけれど、すっかり長居しちゃったんだ。えへ、また新しい友達ができちゃいました。

 

 その妖怪は河童で、私より少しだけお姉さんに見える女の子なんだ。色々な機械を作るすごい人なんだよ。河童の里は、機械だらけなんだって! 一度遊びに行きたいな。

 

 河童の機械は香霖堂にほとんどないのだけれど、霖之助さんは外の物を置くのにこだわっているみたい。売れていないのに、やっぱり変なお店でした。

 

 明日は人里でお買い物です。可愛い封筒とかが置いていればいいな。楽しみ!

 

 新しいお手紙、太郎くんも待っていてね。

 

 それでは。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 街道から少し外れた原っぱで、花子は目を覚ました。太陽はまだ頂点にないものの、小春日和の陽射しがとても心地いい。

 夜のうちに人里を目指すこともできたのだが、チルノとの弾幕ごっこで溜まった疲れに嘘はつけず、昨日は草原のど真ん中で星を眺めながら眠った。妖怪としての自信がついたからか、何も心配に思うことはなかった。

 リュックの中から竹編みの弁当箱を取り出し、一切れだけ残ったベーコンエッグサンドを口に運ぶ。昨晩の残りだが、毎日三食これでもいいと思うほど、花子は好きになっていた。美鈴の烏龍茶も口の中をさっぱりとさせてくれて、幸せな朝食の時を過ごす。

 春風の中で弁当を食べていると、まるでピクニックにでも来たかのような心地になる。実際にやったことはないのだが、ここに友達がいたらもっと楽しいのだろうなと、想像を膨らませた。

 食べ終わり、弁当箱をリュックにしまってから、大きく伸びをする。どこを目指そうかと、青空を眺めながら考えた。

 

「……そういえば」

 

 花子が行こうとしている通りには、確か香霖堂があったはずだ。霖之助とも、もう一年近く話していない。久々に顔を出してみるのもいいかもしれない。

 旅の目的地というよりは、寄り道に近い。しかし、それもいいなと花子は思った。やるべきことを見つける旅とはいえ、一刻を争うわけでもないのだ。時間はたっぷりある。

 リュックを背負って立ち上がり、街道に出る。人里から離れたこの道に人間は少ないが、霧の湖に向かう牛車が一台見えた。紅魔館に物を売りにいくのだろうか。

 人気のない道は少し寂しいが、昨日までずっと騒がしい毎日だったのだ。たまには静かに散歩をするのも悪くないなと、花子は道端に咲く花を見ながら破顔する。

 空を見上げていると、妖精達が追いかけっこをしていた。花子に気づく様子もなく楽しそうに飛び回っている様子は、春の蝶々を連想させる。

 

「似たようなものなのかもしれないな」

 

 妖精も蝶も、人間も、妖怪だって、浮かれてしまう季節なのだ。春の日差しの中では、誰しもが蝶々になれるのかもしれない。

 そんな、自分にはとうてい似合わない詩的なことを考えて、なぜか小恥ずかしくなった花子は、一人赤面した。もし誰かに聞かれでもしていたら、どうなっていたことか。もしかしたら、誰よりも花子こそが、春に浮かれているのかもしれない。

 頭を振ってポエマーな自分に別れを告げ、花子は早足で香霖堂を目指した。急ぐつもりはなかったが、恥ずかしい思いをした場所から遠ざかりたかった。

 ふと、足に何かがぶつかる感触を覚え、視線を下ろす。紺色の携帯電話が転がっていた。幻想郷に落ちている物としては、あまりにも珍しい。外来人の落とし物だろうかと推測した。

 小学校にいた時も、携帯の落とし物を拾ったことがあった。中を拝見してどの子供のものかを調べ、机にそっと戻すということをしたものだ。人間の個人情報など、妖怪の花子には関係のないことだし、悪いことだとも知らなかったのだ。

 そして今回も、何の気なしに携帯を開く。画面は暗く電源は切れているようだが、花子はそれよりも気になるところを見つけ、思わず眉を寄せた。

 

「数字じゃ……ない」

 

 ボタンの配置は似たようなものなのだが、数字が全て漢数字で書かれているのだ。変わった携帯だなと思ったが、電源ボタンらしきものを押しても反応がないので、諦めてポケットにしまう。

 このまま持っていても仕方がないので、花子は香霖堂に行くついでに霖之助に相談することにした。彼ならあるいは、こういった落とし主不明の物をどうしたらいいか教えてくれるかもしれない。売ると言い出したら渡すのを止めようと心に決めて、再び歩き出す。

 ほどなくして、大きな看板と雑多に並べられた値札の貼られたゴミの山が見えてきた。一年前に見た時と、ラインナップはほとんど変わっていない。むしろ、物が増えているようだ。

 店の扉には、『営業中』と書かれた札がかかっている。さっそくドアをノックしてみたが、中から返事はない。留守ということはないだろうが、花子は首を傾げた。

 入らなくては話にならないし、お店なのだから入ってはいけないこともないだろうと、ドアノブを捻る。やはりというか、鍵は開いていた。

 昼間でも薄暗い店内には、やはり去年とほとんど変わらない状態で、商品が置いてあった。記憶はあやふやだが、以前より非売品の札が増えている気がする。

 

「お邪魔しますー。霖之助さん、いますか?」

 

 なるたけ元気に声を出してみたが、返事はない。ドアを閉めると、店内はいっそう暗く思えた。しばらくすると目が慣れてきたので、お店の中を回ってみることにする。

 旧式のパソコンや、携帯電話、ブラウン管のテレビ、古ぼけたラジオカセット、ポケベル。どれもが花子が外にいた時に一世を風靡したもので、また時代の進みとともに忘れられつつあるものだ。

 忘れられていくものたちに自分を重ねてみてしまい、花子は切ない気持ちになった。慰め合うかのように、ポケベルをそっと撫でる。埃が取れても、なんとなく、くすんで見えた。

 感傷に浸っていた花子だが、ふと聞こえた物音――なにかが落ちたような音だった――で我に返り、音の方に近づく。

 霖之助かもしれないと思っていたのだが、落としたリモコンらしきものを拾い上げる後ろ姿は、花子よりも背の高い少女だった。青い髪をツーサイドアップにして、その上に緑色のキャスケットを被っている。背中には、花子のものより大きなリュックを背負っていた。

 泥棒だろうかと身構えたが、この店に盗んで価値のあるものはないようにも思える。真面目な霖之助には大変申し訳ないと思ったが、事実そうなのだから仕方がない。

 ともかく、花子は遠慮がちに声をかけてみた。

 

「あのぅ」

「ひゅいっ!?」

 

 肩をびくりと震わせ、青髪の少女は頓狂な声を上げた。こちらまでびっくりしてしまう。

 恐る恐る振り返った少女と目が合い、挨拶でもと思ったが、直後に目を逸らされてしまう。見れば、着ている上着とスカートも青く、またそれがよく似合っていた。

 視線を彷徨わせつつ、ちらちらと花子の様子を伺いながらも、少女は落ち着かない様子だった。やはり、何かを盗もうとでも考えていたのだろうか。

 リモコンを元の場所に戻しながらも挙動不審な少女をどれだけ見ていても、花子にはやはり怪しい人物にしか映らない。失礼かなと思いつつ、訊ねてみた。

 

「泥棒じゃ……ないよね?」

「ち、違う! 違うよ、盗むつもりなんて、ただ落としただけで、その、私は霖之助に、だから、あの」

 

 酷く狼狽しているが、霖之助の知り合いらしいので、花子はほっと胸を撫で下ろした。知人から物を盗む人物は一人しか知らないし、目の前の少女は黒白の服装ではない。

 泥棒ではないことは分かったが、少女はやはりそわそわしていて、花子とも全然目を合わせようとしない。特に話すこともないので、居心地悪さは花子にも伝染してきた。

 どうしたらいいものかと頬を掻いていると、店の扉のベルが鳴った。店主の登場である。

 

「ダメだったよ、にとり。倉庫にも、君の落とし物はなかった。やっぱり、僕は拾っていないようだ」

「あ、そ、そう。そっか、じゃあいいんだ。あとは自分で探すよ、ありがとう」

「さっきより落ち着かないね。そんなに焦ってどうした……いや、焦っているわけではないか」

 

 にとりというらしい少女の後ろに立つ花子を見て、霖之助が笑った。

 

「いらっしゃい。久しぶりだね、花子」

「お久しぶりです、霖之助さん。あの、この人は?」

「自己紹介もまだだったのかい? 彼女は河城(かわしろ)にとり。山に住む河童だよ。今日は落とし物を探しに来たそうだ」

「そうだったんですか。言ってくれればいいのに」

「とても人見知りだからね、にとりは」

 

 にとりが落ち着かず目も合わせない理由に、ようやく合点がいった。人見知りの激しい相手には、自分からアクションを起こさなければいけないことも知っている。

 立ち尽くすにとりの前に回りこんで、花子は人懐っこい笑顔で手を差し出した。

 

「私、御手洗花子です。よろしく」

「あ、あ、うん。よろしく。河城、にとり……」

 

 握手を交わし、にとりが手汗を掻いていることに気づく。よほど緊張しているらしい。やはり、目は合わせてくれなかった。

 

「落とし物したんですよね。何を落としたの? 一緒に探しますよ」

「いや、そんな、だって私達、会ったばかりだし」

「どうせ暇ですから」

「でも、それはさ、ねぇ霖之助」

 

 助けを求めるように霖之助を見るにとりだが、非売品の札を新たに張り付けていた霖之助は、割りとあっさりと、

 

「手伝ってもらえばいいじゃないか。僕だって、いつまでも店を開けておくわけにはいかないし」

「そんな!」

「私、迷惑ですか?」

「いや! 迷惑ってわけじゃ、ありがたいけど、ごめん」

 

 ついには謝られてしまい、花子はどうにも困ってしまった。そんなに緊張されるほどの人物ではないと自分で分かっているだけに、こちらが申し訳なくなってしまう。

 探し物が見つかれば、少しは変わるだろうか。早く見つけてあげようと、花子は何を落としたのかを聞いてみた。するとにとりは、おずおずと手でジェスチャーをしつつ、答えた。

 

「ケータイっていう機械なんだ。このくらいの大きさで、紺色のやつで」

「ふむふむ。って、それもしかして」

 

 ポケットから、先ほど拾った携帯電話を取り出した。それを見るや、にとりは目を輝かせて、花子の手に飛びつく。

 

「それ、私のケータイ!」

「やっぱり。あっちの方で落ちてたんです。どうしたらいいか分からないから、霖之助さんに聞こうかなって」

「あぁ、よかった! それで、あの」

 

 返してくれと言い出せないらしいにとりに、携帯を差し出す。受け取って、にとりは大切そうに携帯を胸に抱いた。

 外の子供達も携帯電話を命より大事そうに扱っていたが、彼女にはそれ以上に、まるで家族か何かと再会したような雰囲気がある。正直、花子には大げさに思えた。

 頬ずりまでしだしたにとりを見て、霖之助が二、三頷く。

 

「やはり、自分が丹誠を込めて作ったものは、大切なんだろうね」

「あぁ、なるほど、手作りだったんですか。そりゃ愛着も沸きますよね、手作りのケータイ」

 

 納得してしまいかけたが、花子は引っかかったものに気づき、すぐに驚きの声を上げる。

 

「て、手作り!? にとりさん、携帯を作ったの?」

「えっ、う、うん。私の工房で、外の物を真似て……。あの、ごめん、ダメだったかな」

「いや、悪いってことないけれど。すごいなぁ、携帯って作れるんだ」

 

 感心して呟いたが、その間抜けな発言に霖之助が笑ったことに、花子は気づかなかった。

 褒められたにとりは、嬉しそうな恥ずかしそうな、はにかんだ笑みで携帯を見つめている。照れ屋な一面もあるようだが、人見知りで卑屈になっているというわけではないらしい。

 少しだけ慣れてきた様子のにとりが、遠慮がちに花子の顔を覗き込んだ。

 

「花子、はさ。携帯に詳しいの? みんな、あんまり興味なさそうだけど、花子は違うから」

「あ、うん。私は一年前に外から来たばかりだから、このお店の物も、大体知っているんです」

「そうなんだ。あのさ、その、時間があるなら、ちょっとでいいから」

「外のお話ですか?」

 

 聞くと、にとりは小さくコクリと頷いた。できれば機械のことをと言われて、ちゃんと説明できる自信はなかったが、花子は応えることにする。

 新たな友達を作るチャンスを、逃すつもりはなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 霖之助がお茶を淹れてくれたので、お言葉に甘えて頂戴しつつ、花子はにとりの質問に答えていく。機械の構造などは分からないが、どんな機械があるのかを知っている限り教えてやると、にとりはだんだんと瞳を輝かせていき、嬉しそうに声を弾ませるようになっていった。

 動画も撮れるデジタルカメラや噂に聞いたキッチンヒーター。自動車や新幹線、飛行機、東京で見た電飾、電光掲示板。魔理沙が蹴り壊したというゲーム機の正しい遊び方や、霖之助が式神と信じ込んでいるコンピュータが実は機械であるということにも、にとりは真剣に耳を傾けてくれる。

 外の話をすると、花子はいつも里帰りをしたような気持ちになった。なので、外の世界の話を聞かれることは、花子にとっても嬉しいことなのだ。

 店の奥で二人が話に夢中になっている間、数人の客が来店したようだが、花子もにとりも気にせずお喋りを続けた。数時間立ってから、ようやく一息つく。にとりの人見知りは、すっかり影を潜めていた。

 

「いやー、いい話を聞けたよ。そっか、外にはまだまだそんなに機械があるんだなぁ。河童もがんばらないと」

「でも、自分達で作ろうとする人間はとても少ないよ。お金で買ってそれなりに使いこなして、分かったような振りをしているだけだもの。私もそうだけれど」

「幻想郷だって同じだよ。その、作ってみようとする物好きな連中が、こっちだと河童だってだけ。作る楽しさは誰にも渡したくないし、私はそれでいいかなーって思ってるよ」

 

 よほど物を作ることが好きらしく、饒舌になったにとりは、途端に自分の情熱について語り出した。これは長くなりそうだなと思いつつ、花子も楽しく耳を傾ける。

 人見知りが消え失せると、にとりは想像以上に活発な少女だった。あんなに小さかった声も元気いっぱいになって、挙動不審だった姿が嘘のように、大きな身振り手振りで話を盛り上げてくれる。

 彼女は水を操ることもできるそうだが、弾幕には好んで自分が作った爆発しないミサイルを使うらしい。魔理沙もにとりのミサイルを使ったことがあるそうだ。他にも弾幕ごっこで使うという幻想郷らしいものから、外の世界にあるような近代的な発明をたくさんしていて、花子はすっかり感心してしまう。

 山に住んでいる河童の技術は、天狗にもその恩恵を与えているらしい。人里よりも山の方が、外の世界に近い生活をしているそうだ。文も住んでいるという天狗アパートには、自動湯沸かし器付きの風呂や扇風機があり、缶ジュースまで売っているとか。

 

「そこまでくると、外の世界とそんなに変わりませんね」

「いや、そんなことないよ。山の神さまに言われたけど、外の世界は比べ物にならない技術で溢れているらしいじゃないか。どこを見ても必ず機械があるんでしょ?」

「確かにそうかも。山奥でも、電線があったりするもの。人間の手が届いていない場所は、もうほとんどないんじゃないかな」

「当たり前の自然がある場所が、貴重だと言われてるって聞いたよ。幻想郷じゃ考えられない、まるで真逆だよね」

 

 湯呑みを傾けながら、にとりが言った。花子はそれに、「そうですね」と頷く。自分で壊したものをまた欲しがる傲慢さこそが、人間らしいといえばそうなのだが。

 窓を見れば、オレンジの光が差し込んでいる。夕方になってしまったようだが、こんなにも長く話しているとは思わなかった。

 花子達がいる間、香霖堂に来た客は三人程度だった。閑古鳥が絶叫しているような店だが、これで商売が成り立っていることが、花子には不思議で仕方がなかった。霖之助曰く、固定客が大きな買い物をしてくれるらしい。

 商売といえば、と花子は思い出したように言った。

 

「私、お金をまったく持っていないな。封筒と便箋を買うつもりだったんだけど、どうしよう。えんぴつもなくなってきちゃったし」

「妖怪なら、人間を襲えばいいんじゃない? 私達は機械を売ってるけど、山の妖怪でもそうやって稼いでるのはいるよ」

「うん、その方法は知っているのだけれど……。私にできるかなぁ」

 

 最近は変化(へんげ)もほとんどしなかったし、人間を驚かすこともなかった。ブランクもあるし、他人様から金銭を奪うような真似に、なんとなく抵抗がある。

 しかし、それ以外に方法もない上に、にとりだけならず半分人間である霖之助にもそれがいいと言われてしまったので、今晩にでもやってみることに決めた。

 それから、今日は気分じゃないからと早々に店じまいした霖之助も加わって、三人はくだらない談笑に花を咲かせた。

 にとりの話によると、どうやら河童は本で読んだ通りにきゅうりが好きらしい。にとりは生のきゅうりに塩や味噌をつけて食べる派らしいが、隣に住む河童は浅漬派であるようで、しかもそれが美味であり、浅漬派閥に引きこまれそうだと深刻に語った。好きな方を食べればいいのになと、花子は首を傾げる。

 食い物の好みを聞かれ、花子はそういえばなんだろうなと考え込んだ。最近で言えば咲夜のベーコンエッグサンドだろうが、そもそも好き嫌いがなく、なんでもおいしく頂けるタイプである。その通りに答えると、二人は興味津々というほどでもなかったらしく、適当な相槌で済まされてしまった。

 雑談に間が空き、皆が揃って湯呑みを口に運ぶ。一息ついてから、霖之助が花子に言った。

 

「そういえば、新聞を読んだよ。虹色の霧、やってくれたね。目が痛くて敵わなかった」

「あー、あれはまぁ、私が出したわけではないのだけれど。でも、原因は私みたいなものか」

「虹色の霧って、こないだの? あの異変、花子が黒幕だったの?」

「うん、まぁ……」

 

 罪を暴露されてしまったような心地になり、花子は小さくなった。紅魔館の外で言われると、さすがに身が縮こまる。

 しかし、にとりはどちらかというと感心したように、「そりゃすごい」と腕組みして唸った。妖怪である以上は人間や他の妖怪連中にちょっかいを出すものだし、その頂点として異変があるのだから、尊敬されることのようだ。

 とはいえ迷惑だったことに変わりはないだろうし、花子としてもあの霧は目が回ると思っていたので、素直に謝っておくことにした。

 

「にとりさんも、ごめんなさい。目に悪かったでしょ」

「だねー。あの日はずっと工房に閉じこもってたよ。一日で解決してよかった」

 

 さすがに、花子のお別れパーティーで起こした異変であることは言えなかった。新聞には載っていたので、霖之助は知っているだろうが。

 下手に口を滑らしそうで黙っていると、それにしても、とにとりが続けた。

 

「花子が主犯なんて、ねぇ。言っちゃ悪いけど、強い妖怪だとは思えないから」

「まぁ……うん、私は弱っちいです。だから、ほとんどレミィとフランちゃんに手伝ってもらったの。吸血鬼の」

「友達がとんでもないのなんだね。異変ってことは、霊夢とかと戦ったんでしょ? 虎の威を借るなんとやら、ってわけじゃなさそうだし」

「千年も生きている天狗に果たし状を叩きつける度胸があるんだ。仲良くなるくらいなら、造作もないだろう」

 

 霖之助の言葉に、にとりが目を丸くした。花子をまじまじと見つめながら、

 

「新聞記者の文さんと戦った弱小妖怪って、花子のことだったの?」

「なんだにとり、知らなかったのかい? 山に住んでいるくせに」

「あの日は、どうしても作らなきゃいけないものがあったんだ。それに、うちは文さんとこの新聞は取ってないし。あの人に果たし状が届いたって噂は聞いてたけど、へぇー、花子が文さんとねぇ。そりゃますますすごいや」

「あ、ありがとう」

 

 褒めちぎられてくすぐったかったが、花子は照れ隠しに笑う程度で、顔がにやけるのを我慢した。油断すると、慢心してしまいそうだったからだ。

 山での決闘は、それはそれは大盛り上がりだったらしい。花子と文の弾幕ごっこも、酒の肴として楽しんでもらえていたようだ。真剣だった花子からすると、複雑な気持ちだが。

 時代を遡るように話が進み、誰に弾幕を教えてもらったのとにとりに聞かれ、花子は待ってましたとばかりに自慢げに答えた。

 

「古明地こいしっていう子と、鬼の息吹萃香さん」

 

 こんな弱い妖怪が、鬼の弟子なのだ。きっと驚いてくれるに違いないと、花子は楽しみにリアクションを待った。しかし、にとりは思惑通りに驚いてくれているものの、それ以上に困惑というか、畏怖というか、恐ろしいことでも聞いたように顔を歪めている。

 何があったのか分からず、霖之助の顔を見てみるが、彼は湯呑みを机に置いて、「言ってしまったね」と呟いた。

 

「あの、にとりさん?」

「お、お、鬼の、伊吹萃香さん? 冗談、だよね? ははは、やだなぁ花子、心臓に悪いよ」

「えっと、本当、ですけど……」

「……」

 

 笑みを浮かべたまま、にとりが固まった。春先の夕方は涼しいほどだというのに、額には汗が滲んでいて、しかし顔色は真っ青だ。

 ここでようやく、花子は文が鬼には逆らえなかったことを思い出した。山の妖怪がことごとく鬼の配下だったとするなら、にとりも萃香を恐れていることになる。

 どうにかして誤解を解かねばと思ったが、にとりは湯呑みを置いて、そっと立ち上がり、あろうことか花子に向かって土下座をしてしまった。これにはさすがに、花子も霖之助も面食らう。

 

「伊吹様の弟子とも知らず、ご無礼の数々、お許し下さい!」

「ちょっと、私、そんなつもりじゃなかったのに」

「どうか、どうかこのことは! 伊吹様にはご内密に!」

「あぁん、霖之助さん、助けてくださいよぅ」

「さて、夕食の支度でもしよう」

 

 薄情にも、霖之助は自分の湯呑みだけを持って、裏の住居に引っ込んでしまった。頬を膨らませて恨めしげに睨んだが、彼が戻ってきてくれる気配はない。

 とにかく落ち着いてもらわなければと、花子は一生懸命にとりの説得を試みる。

 

「にとりさん、顔を上げてくださいってば。ほら、私は怖くないですよ。萃香さんだって、普段はただ酔っ払ってる変な人なんですから」

「そそそんなこと、伊吹様は鬼の四天王が一角、超がつく大妖怪でございますー!」

「えぇと、そうですね。萃香さんはすごい人かもしれません。けど、だからって弟子の私まですごいわけじゃなくて。友達だって、吸血鬼とか覚とか、とても強い人もいるけれど、唐傘おばけとか化け猫とか夜雀とか、そういう子だっているんですよ」

 

 身近に感じられる妖怪の名を聞いて、にとりがわずかに顔を上げた。しかし、すぐにひれ伏してしまう。

 

「伊吹様の弟子ともあろうお方です、弱い妖怪が付き従うのは当然でございますぅー!」

「あぁもう、そんなんじゃないのに!」

 

 一度勘違いされたら、それを覆すのは容易ではない。花子はそのことをしみじみ感じ、また、うまい説得が思いつかない自分の頭を呪う。

 のれんで区切られた住居から漂う、味噌汁の平和な匂いが、なぜか憎たらしかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 霖之助が食事を終えて食器を片づけた頃に、にとりはようやく顔を上げてくれた。

 さすがに泊まるのは迷惑だということで、花子達は勧められた夕食だけご馳走になって、香霖堂を去った。今は、人里付近の街道にいる。

 さきほど、にとりの光学迷彩を借りて、人間を驚かせた。久しぶりの変化だったが、うまくいったようだ。次からは自分で便所を作りでもしない限り身を隠すことができないので、作戦をよく考えなければいけないだろう。

 一芝居打って頂戴した小遣いは、ムラサキ婆にもらったガマ口の財布に入っている。少しだけ罪悪感もあったが、花子は妖怪なのだからとにとりに言われて、納得することにした。

 

「でも、封筒と便箋なんて買って、誰に手紙書くの?」

「外の世界にいる友達です。届けてくれる人がいるから」

「ふぅん。手紙なんて、最近書いてないな。こいつがあるから、いつでも連絡できるしね」

 

 河童式携帯電話を開き、にとりは自慢げに笑った。確かに便利だろうなと思ったが、花子は首を横に振る。

 

「外の電波は、幻想郷には届かないみたいだから。前に会った外来人が、そんなことを言っていたもの」

「そうなんだよねー。電波をどうこうする技術はないから、このケータイは知り合いの妖気を探して連絡するようにしてるのさ」

「へぇ。それなら太郎くんにも届くかな? すごく遠いけれど」

「うーん、山の外に出ちゃうと、ノイズが入るからなぁ。ちょっと厳しいかも」

 

 久しぶりに太郎と話ができるかと思ったが、やはり甘い考えだったようだ。もとよりその覚悟だったし、手紙はきちんと届いているそうだから、落ち込むことはなかった。

 

「そういえばさ、花子は外ではどんな妖怪だったの?」

「あれ、言ってませんでしたっけ? 私は――」

 

 花子は、自分が外にいた時のことをかいつまんで話した。歩くついでに、幻想郷に来た理由やその後のこと、今目指しているものと、その方法を探していることも話題にする。

 受け流す程度に聞いていたにとりだが、それなりに思うところはあったらしく、携帯をパカパカやりながら言った。

 

「子供達のおばけ、ねぇ。とは言っても、里の子供はほとんど外に出てこないしなぁ」

「そうなんですよ。でも、人を怖がらせないと妖怪として成り立たないし……」

「んー、まぁ妖怪と人の付き合い方も、だいぶ変わってきてるからね。私だってたまには人間を驚かしたりするけど、尻子玉抜いて命まで取る河童はもう爺さん婆さんくらいだし、私なんかは人里に人間の盟友もいるし。人見知りするから少ないけど」

「へぇ、人間の友達。そういえば、魔理沙とも仲がいいんですよね」

 

 それなりに、とにとりは苦笑した。大方、魔理沙のペースに巻き込まれがちといったところだろう。

 しかし、人間と慣れ合う妖怪もいることは、花子にとって少し驚きだった。人里に妖怪が出入りしているのは知っていたし、考えてみれば、花子にも早苗や魔理沙という人間の友達がいる。霊夢は、まだ少し怖い。

 これが何かのヒントになるかは分からないが、人と妖怪の新たな距離が、小学校での花子と子供達のそれに近いものなら、大きな進展になるかもしれない。

 

「それじゃ、私は盟友の家に泊めてもらうから」

「あ、はい。またどこかで」

「元気でね」

 

 人里の前で別れを告げて、花子は街道脇の木陰で休むことにした。明日は里で買い物をしつつ、人間の様子を見てみようと考えながら、目を閉じる。

 まだ歩き出したばかりだが、この旅路が求めるものに近づいているような気がして、なんだか嬉しくなってくる。

 前向きな気持のおかげで、野宿だというのに、その日はまるでベッドの中にいるかのような、ふわふわした気持ちで眠りにつけたのだった。



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そのさんじゅうさん 恐怖!夜闇に響く妖怪パンク!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。花子は元気です。新しい便箋だよ! どうかな、気に入ってもらえたかな?

 

 ねぇ太郎くん、突然だけれど、もしも私が不良になっちゃったら、どうする?

 

 黒いぴっちりした服を着て、サングラスなんてかけて。がおーって、文句や愚痴を叫ぶの。

 

 あは、大丈夫。私はそんなことはできません。びっくりしたかな。それとも、太郎くんにはお見通しだったかな?

 

 そうなっちゃったのは、私の友達二人です。なんでこんなことをしたいのかは分からないけれど、楽しそうだったよ。

 

 でも、パンクロック、私もちょっと好きかも。聞くだけなら、だけれどね。真似したりはしないから、安心してね。

 

 私の一番の楽しみは、太郎くんに手紙を書くことだもの。私の手紙を読むことは、太郎くんの趣味になっているかな。そうなら、嬉しいな。

 

 それでは、またね。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 久々に訪れた人里は、とても賑やかだった。大人は忙しそうに仕事に走り回り、子供達は一生懸命に遊んでいる。隔離された里の中でも、彼らにそれを憂うような表情はちっともなく、外の人間よりずっと元気があるように、花子には思えた。

 ちらほらと妖怪が出すお店などもあり、綺麗な石の装飾品やら妖怪の山の特産品やらを売っている。前者は個人がやっているものらしいが、特産品を売っている妖怪は、どうやら天狗の下っ端らしい。文が紅魔館に持ってきた天狗饅頭も置いてあった。

 朝の活気はとても爽やかで、その中を歩いているだけの花子にも元気がもらえるような気がして、嬉しくなってくる。足取り軽やかに、文房具が売っていそうな店を探した。

 ほどなく歩くと、『道具』と書かれたのぼり旗を見つけた。なかなか大きな店らしく、ここになら手紙を書くものも売っているに違いないと、花子は足を運ぶ。

 近づくと、予想以上に立派な店舗だった。客もたくさんいるようで、妖怪の姿もちらほら見られる。

 看板を見上げて、花子は書かれている文字に既視感を覚えた。

 

「霧雨店……?」

 

 魔理沙の苗字と同じであることに、すぐ思い当たった。しかし、彼女は里ではなくどこかの森に住んでいるという話だ。あの年齢で一人暮らしはおかしいなと思っていたが、何か事情があるのかもしれない。

 もしそうだとしても、花子が首を突っ込めることではなかった。何かができるわけでもなかろうと、客として店内を見て回る。

 便箋と封筒は、すぐに見つかった。和風の花柄で、上品な可愛さがある。平成の子供が持っていたような可憐さはないが、幻想郷らしくて気に入った。

 難儀したのが、鉛筆だった。筆と墨こそたくさんあるが、どうしてか鉛筆が見つからない。店主に聞いてみると、里ではあまり主流じゃないから物量が少ない、うちでは売り切れてしまった、と言われた。

 

「うぅん、売り切れかぁ」

「すまないね。あれはなかなか、入荷がないから」

 

 中年の男性は、申し訳なさそうに頭を下げた。気にしないでくださいと言ってはみたものの、鉛筆がなければ手紙が書けない。まだ少しは持つが、旅路の途中でなくなってしまうだろう。

 いっそ、筆と墨で書くかとも考えたが、花子は筆を握ったことがない。読めたものではなくなるだろうことは目に見えている。

 しばらく店の中で唸っていると、同情したらしい店主が呟いた。

 

「一本、あるにはあるが……」

「えっ」

 

 目を輝かせて見上げると、店主は複雑な表情で悩んでいるようだった。もしかしたら、香霖堂のように非売品として置いているのかもしれない。

 

「あの、売り物じゃないなら、大丈夫です」

「一応売る物ではあるのだがね、なにせちょっと特別で……。失礼だが、君は人間かい?」

「いえ、あの、妖怪です」

 

 追い払われるかと覚悟したが、店主にその様子は見られず、そうかと頷いて店の奥に行ってしまう。立ち去るわけにもいかず数分待っていると、彼は木箱を抱えて戻ってきた。

 箱そのものは安そうだが、店主はまるで忌み嫌われたものの封印を解くかのように、慎重に蓋を開ける。中には、鉛筆が一本だけ、綿に包まれて入っていた。

 

「これが、今うちにある最後の鉛筆だ。ただ、この店では取り扱わないと決めている、魔法の品でな。使ってもなくならないということだが、本当かどうか」

「魔法の鉛筆……」

 

 響きがとてもメルヘンチックだし、いくらでも使えるというのが本当ならば、これほどありがたいものはない。花子はすっかり気に入ってしまった。

 しかし、本物かどうかが怪しい。店主を疑うようで申し訳なかったが、念のためにと、訊ねる。

 

「あのぅ、これは誰が作ったんですか? 魔法使いだと思うのだけれど」

「……お客様に嘘はつけんな。これは、私の不出来な娘が作ったものだ。置き土産という嫌がらせでね、いい値で売れるなどとほざきよって、馬鹿娘が」

「そっか、魔理沙が作ったんだ」

 

 つい口を滑らせてしまい、花子は一瞬後に後悔した。恐る恐る顔をあげると、店主が驚いたようにこちらを見ている。

 

「娘と、知り合いかね」

「その、はい。友達です」

「そうか。魔理沙は、元気かね」

「こないだ会った時は、元気でした。いつもよくしてくれます」

 

 本音ではあるものの、すっかり店主を気遣うような言葉選びをしてしまう。先ほどの口ぶりから、魔理沙を良く思っていないように感じたからだ。

 しかし、店主は「そうかね」と嬉しそうに頷いた。魔理沙の方はどうか知らないが、少なくとも彼女の父は、娘を嫌いになったというわけではないらしい。

 魔法の鉛筆を箱に収め、店主はそれを花子に手渡した。受け取ってから、財布を取り出す。

 

「あの、おいくらですか?」

「それがだね、実は値段を決めていなかったんだ。人間に売るつもりもなかったし、いつか馬鹿娘に押し返すつもりでいたのでな」

「はぁ……」

「我が店では取り扱わないと決めていた品だが、そうだな、娘も世話になっているようだから、この金額でいかがだろう。押し付けてしまったのに、申し訳ないが」

 

 男が提示した金額が安いのか高いのかは、幻想郷の物価に疎い花子には分からなかった。だが、頂戴した小遣いはほとんど減らなそうな金額だ。きっと安いのだろう。

 商談が成立し、花子は封筒と便箋の分もまとめてお金を支払い、鞄へ入れた。店主に礼を述べて、霧雨店を後にする。

 

 なかなか長いこと話をしていたらしく、爽やかだった太陽の日差しは、だいぶ力強いものに変わっていた。それでもまだ、お昼には届いていなそうだ。

 小腹が減ったので、そこらの茶屋で団子をいただく。鉛筆よりも少し高い値段のお団子を頬張っていると、子供連れの親子が手を繋いで歩いていった。

 

「いつか、あんな子を驚かせたらいいな」

 

 爽やかに言う台詞ではないが、花子にとって子供を驚かすのは仕事でもあり趣味でもあるので、一緒に遊べたらいいなと同義である。

 一息ついて、何か面白いものでもないかなと里を見て回っていると、突然背後から声がかかった。

 

「おっ! 御手洗花子!」

 

 聞いたことがあるようなないような、懐かしいけど思い出せない、そんな声だった。振り返り、花子は「げっ」と小さく声を上げる。

 よほど渋面を浮かべていたらしく、花子の顔を見た声の主――いつぞやケンカを吹っ掛けてきた封獣ぬえは、つまらなそうに腕組みをした。

 

「なによ、その顔」

「なんでここにいるの?」

「天下の往来でうろうろして、何がいけないの」

「妖怪が言う台詞じゃないがの」

 

 相棒のマミゾウに突っ込まれて、ぬえは確かにと頭を掻いた。その様子から、今日はケンカをしにきたわけではなさそうだ。

 以前、フランドールが彼女の世話になったと言っていたのを思い出す。もしかしたら、第一印象が悪かっただけで、嫌な人というわけではないのかもしれない。

 

「それで、私になにか用事?」

 

 聞くと、ぬえは手をポンと叩いて、

 

「あぁ、そうだ。あんた響子と仲よかったよね」

「うん」

「ちっとな、手伝って欲しいことがあるんじゃ」

 

 また何かイタズラでもするのかと疑いかけたが、ぬえとマミゾウは割りと真剣に悩んでいるようだった。立ち話もなんだからと、一行は先ほど花子が行った茶屋に戻る。

 一番安いお茶を注文してから、ぬえが説明を始めた。

 

「実はね、響子がグレたのよ」

「えっ!?」

 

 あの、元気だけれど臆病で、優しい少女が。花子には信じられなかった。何かの間違いではないかと訊ねたが、二人は揃って首を横に振った。

 なんでも、タチの悪い妖怪とつるんで、夜な夜な奇声を上げて回っているとか。昼行性の彼女が深夜に活動することももちろんだが、響子が率先して人の迷惑になるようなことをしているという話に、花子はショックを隠せなかった。

 いったいなぜ。何が彼女を変えてしまったのか。悩む花子の頭には、彼女も妖怪なのだからという答えは浮かんでこなかった。

 

「まぁ、奇声って言っても、一応音楽らしいけど」

「ぱんくろっく、じゃったか? (ひじり)にしばき倒されても続けるっちゅーことは、封獣のしょーもないイタズラぐらい身に染み付いているってことじゃな」

「しょうもないって言うな。でもまぁ、確かにそうかも。止めさせるのは無理だろうね」

「じゃあ、私に何をしてほしいの?」

 

 首を傾げると、ぬえは一つ頷いて、

 

「ちょっとさ、様子を見にいってよ。んで、あわよくば回数を減らすとか、ちょっと声を控えめにしてもらうとか、してもらってほしいの」

「なんで私なの?」

「わしらがいくら言っても、聞きゃせんかったからのぅ」

 

 先輩の注意を無視するとなると、よっぽど夢中になっているのだろう。人に迷惑をかけない趣味なら、むしろ褒めてやりたいほどなのだが。

 花子は、命蓮寺の先輩に言われても止めないのに、自分にできるだろうかと心配になった。

 

「あのぅ、私以外の人の方がいいと思うのだけれど。ナズーリンさんは?」

「あいつはダメダメ。前に一回、『私が止めてやる』なんて勇んで出ていったくせに、帰ってきたら涙目よ。響子の奇声が怖かったみたい」

「ビビリじゃからのう、あやつは」

 

 怒りんぼの怖い妖怪というイメージが強かったが、真実は真逆らしい。花子はナズーリンのためにも、今の話を聞かなかったことにした。

 とにかく、と言いながら、ぬえが一枚の小さな紙切れを差し出した。チケットらしいそれには、『鳥獣伎楽(ちょうじゅうぎがく)パンクライブ』と書かれている。

 

「これあげるから、行ってみてくれない?」

「お前さんにあんなことしたわしらの頼みじゃ、聞きたくないとは思うがの」

 

 ぬえはともかく、マミゾウはその辺りを気にしてくれているらしい。もっとも、単純な花子は、この数十分のやり取りで、すっかり彼女らを友達だと思ってしまっていた。

 鞄から小物入れのポーチを取り出し、チケットをその中に入れつつ、

 

「行ってみるよ。久々に、響子にも会いたいし。ぬえ達には、フランちゃんもお世話になったものね」

「花子とケンカした時のあれ? まぁ世話っていうか、一緒に遊んでただけだけど」

「それでも、フランちゃんはたくさん勉強できたって言ってたよ。ぬえには感謝してるって」

「そ、そう? ふぅん、なかなか、分かってるじゃない」

 

 頬杖をついてそっけなく言うぬえだが、頬がすっかり赤いので、照れ隠しは失敗に終わっている。花子とマミゾウは、揃ってクスリと笑った。

 響子が奇声を上げるコンサートの時間は、かなり遅い。それまで時間があるのでお喋りでもと思ったが、ぬえ達はやることが残っているそうなので、命蓮寺に帰ってしまった。

 茶屋を出て、花子は暇つぶしに人里を探索することにした。以前はまっすぐ寺子屋の厠に向かったので、ゆっくり歩くのは今日が初めてだ。

 一通りの店が集まった里の商店街は、歩くだけでも面白い。見るものがどれも新鮮で、とても楽しかったのだが、花子の心にはずっともやがかかっていた。

 あの優しい山彦の響子が不良になってしまったということが、花子にはどうしても、信じられなかったのだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 しかし、現実というものはあくまで現実であり続け、夢や希望を容易く打ち砕くものである。せめてもの抵抗として、花子はそっと耳を塞いだ。

 人里と博麗神社の間に位置する雑木林の真ん中に、そのステージは作られていた。時刻はもう深夜だが、多くの妖怪にとっては活動時間でもある。

 電気ではないだろう謎の光に照らされたステージに、響子は立っていた。サングラスなどかけて、黒を基調とした服はスカートが短く、同じく黒のニーソックスで露出は減っているものの、お世辞にも響子らしい服装とはいえない。

 奇声と言われていたが、どちらかというと絶叫である。マイクいらずの響子は、それっぽい音程をちょこちょこ外しつつなぞりながら、社会風刺の振りをした愚痴を叫んでいる。

 やはり、話は本当だった。そのこともショックだが、花子に追い打ちをかける事実が、ステージにはあった。

 慣れ親しんだ、柔らかそうな鳥の羽。今日は蘇芳(すおう)の和服でも普段着でもなく、響子と同じく体に張り付くような黒の衣装を纏っている。

 その優しさに花子が密かに憧れていた、ミスティア・ローレライ。怖い顔でエレキギターらしいものをかき鳴らしているが、間違いなく彼女だ。

 

 ステージに夢中の妖怪や妖精は皆、響子達と似たような服装をしている。ステージに向かって頭を縦に横に振り乱し、ナズーリンが泣きながら帰ってきても仕方がないと思えてしまう。

 盛り上がるライブ会場の隅っこで、花子は小さく縮こまって、ライブが終わるのを待った。響子とミスティアの姿を信じたくなかったし、なにより、観客の妖怪や妖精が怖くて仕方がない。

 パンクという音楽自体は、嫌いではなかった。確かに耳がおかしくなりそうなほどやかましいが、なかなか刺激的だと思えるし、たまに聞くだけならいいかもしれない。

 

「おう、そこの嬢ちゃん」

 

 低い声で話しかけられ、花子はビクリと肩を震わせた。顔を上げると、花子の倍近い身長で、筋骨隆々な肉体の大男が見下ろしているではないか。なんの妖怪かは分からないが、一つ目なので人間ではないことは確かだ。

 すっかり怯えてしまっている花子に、大男はにぃと口を歪ませる。

 

「そんなとこじゃ、ステージ見えねぇだろ。こっちきて一緒に叫ぼうや」

「わ、私はここで、いいです。みみ、見えますから」

「ノリが悪いな。まぁいいけどよ、普段言えないことをデタラメに叫べるのはここだけだぜ。隅っこにいちゃぁ、もったいねぇ」

「どどどうも、ありがとう」

 

 あと少しで泣いてしまいそうだったが、大男はその前に肩をすくめてステージの方に戻ってくれた。言っていた通り、仲間と思しき妖怪と一緒にステージへ叫んでいる。その光景は、やはり怖い。

 花子はこっそりステージを離れた。耳に優しい距離まで移動して、響子とミスティアの歌を遠くに聞きながら、早くライブが終わらないかなと願う。ライブが終われば、いつもの二人に戻るのではと期待しているのだ。

 歌が終わる度に立ち上がるが、間をほとんど置かずに次の曲が始まり、その都度またしゃがみこんで、時が過ぎるのを待つ。

 響子の歌は仏教の矛盾を風刺したものに聞こえなくもないが、修行に対する愚痴でしかない。歌によっては、屋台を経営するミスティアの酔っぱらいへの文句も入っていたりもする。

 あんな風に愚痴を叫べたら、確かに気持ちが晴れるだろう。しかし、お行儀がいいとは言えない。まして信仰している宗教の悪口をあんな大声で言っていたら、白蓮にしばかれても仕方ないなと花子は思った。

 

 早く終わってほしいという花子の願いは届かず、その日のライブは盛況で、日付が変わって数時間ほどしても終わる気配を見せなかった。

 響子達の叫びにも慣れてきて、程よく離れていたせいもあってか、花子はうとうととし始めた。大きな木に寄りかかってうたた寝をしていると、耳に入る音が突然変わった。

 絶叫は絶叫なのだが、妖怪達の声は入り交じって、悲鳴に近いものになっていた。聞こえていたギターの音も、爆発音になっている。

 

「な、なに?」

 

 ただごとではないと、花子はステージに急いだ。さすがに飛び出す勇気はなかったので、草むらの影から様子を伺う。

 先ほどまで頭を振り乱して叫んでいた妖怪達が、頭を抱えて逃げ回っていた。あの大男も、一つ目から大粒の涙を零しながら雑木林に駆け込んでいく。

 崩壊したステージの上では、照らしていたライトはあらぬ方向に光を向けて倒れ、ギターを抱えたミスティアも転がっていた。腰を抜かした響子が、上空を見上げて震えている。

 響子の視線を追って、花子は息を呑んだ。

 聖なる純白の光を纏って、しかし顔は鬼の形相の、寝間着姿の博麗霊夢がそこにいた。大幣を担いで響子を睨みつけているが、少し間抜けな姿だ。

 

「このクソ夜中に、でっかい声出してんじゃないわよ! 神社まで聞こえてきて、安眠妨害もいいとこだわ!」

「い、言いがかりよ! 神社に届く頃には、私の声も小さくなってるはずだもん」

「私は静かじゃないと眠れないタイプなのよ。ここは里と神社の真ん中だから、里の人も迷惑してるはずだわ。というわけで、あんたはこれから退治します」

「ひえぇ」

 

 ミスティアを抱えて逃げようと試みる響子だが、その目の前に霊力弾が突き刺さり、尻もちをついた。

 

「逃がすわけないでしょ。大幣か陰陽玉か、今日はこの二択よ。それ以外の選択肢は、弾幕ごっこくらいかしらね。今日の私はすこぶる不機嫌だから本気でフルボッコにするわ」

「あわわわ……」

 

 すっかり不良になったと思っていたが、響子はやはり響子のままらしい。そうとなれば、花子が彼女を庇わない理由はない。

 草むらから飛び出して、ステージに這い上がり、花子は霊夢と響子の間に立った。

 

「ま、待って!」

「あら花子、あんたもいたの」

「離れてたけど、いたよ。あの、霊夢の気持も分かるけど、ミスティアさんはもうのびてるし、響子も反省しているし、許してあげてよ」

「はぁ? 馬鹿言ってんじゃないわよ。こいつは妖怪で、悪いことしたの。だったら退治されて当然でしょ」

「それはそうだけれど。でも、こんなに怖がっているんだもの。それに、霊夢ももう眠いでしょ? 片付けはちゃんとするから、帰ってお休みしたらどうかな? 紅魔館でパーティーした時みたいに、お酒を飲めば眠れるよ」

 

 なるたけ笑顔で諭す花子だが、霊夢の表情がまったく変わらないので、内心は響子と同じくらいに怖くて仕方がなかった。

 やや考えてから、霊夢はゆっくり息を吐きだした。落ち着いてくれたかと、花子は胸を撫で下ろす。

 

「そうね……そうだったわね」

「そうだよ。今日はもう遅いもの、おうちでゆっくり――」

「あんたも妖怪だったわね。私の味方につくわけないのよね」

 

 笑顔のまま、花子の顔色は真っ青になった。あぁ、これは逃げられないなと、なぜか冷静に諦める。

 

「余計なことを考える必要は、なかったんだわ。妖怪は無条件に退治すりゃいいのよ。そうすりゃ万事解決するんだから」

 

 寝間着に大幣という珍妙な格好の霊夢が、今では鬼神のようにすら見える。背後で不幸にも目を覚ましたらしいミスティアと響子が抱き合っているが、花子はそれに混じる気にもならなかった。

 霊夢が大きく振りかぶる。どうやら今日は、陰陽玉を食らうことになるようだ。当たると痛いに違いない。

 

「何か言い残すことは?」

 

 一瞬考え、花子は自分が響子達を止めるために送られたことを思い出した。卑怯かもしれないと思う以前に、口に出る。

 

「私、ぬえ達に響子を止めろって――」

「問答無用っ!」

 

 じゃあ聞かないでよ、という言葉は声にならず、野球選手よろしく投げられた陰陽玉を、花子は思い切り顔面に食らった。

 予想以上の威力に、ステージの外まで吹っ飛ばされる。痛みと脱力感で、立ち上がることもできそうにない。

 響子とミスティアを無理矢理に気をつけさせて、一人ひとり陰陽玉でお仕置きしてから、霊夢は鼻歌など歌いながら帰っていった。ステージには、鳥獣伎楽の二人が悲しげに転がっている。

 

「私、なにしにきたんだろ」

 

 無気力に零れた自分の言葉に、花子は地面に倒れたまま、大きな大きなため息をついた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 早朝。日が昇り始めた頃にようやく片付けが終わり、面倒だからという理由で解体しなかったステージの端に腰掛け、花子達は一息ついていた。

 霊夢の襲来には驚いたが、彼女の怒りも分からなくはない。響子の声量にミスティアがかき鳴らしていたギター、そこに観客である妖怪や妖精の奇声まで混ざれば、遠く離れた神社や人里にいても気になってしまうだろう。

 鼻っ面に陰陽玉を食らったものの、怪我らしい怪我はしていない。頑丈な自分の体に感謝したが、鼻はまだ痛かった。ミスティアと響子も同じらしく、動くたびに「いたた」と声を漏らしている。

 まさかの出来事ですっかり忘れかけていたが、花子はようやく本題を切り出すことにした。たんこぶを擦る響子に、少しだけ神妙な面持ちを向ける。

 

「響子、ぬえとマミゾウが心配していたよ。響子がグレたって聞いて、私びっくりしたんだから」

「グレたなんて、人聞き悪いなぁ。私は音楽に目覚めただけよ。パンクは魂の叫びなんだから。ねぇ、みすちー」

「そうそう。芸術の形なんて人それぞれなんだから、誰にも私達を止められやしないの」

 

 なぜか自慢げに言い張るミスティアは、屋台の女将をしているミスティアと同一人物だとは思えない。そういえば、花子が初めて弾幕ごっこをやった時についてきた彼女も、活発な少女らしさがあった。

 どちらが素なのかと言われれば、どちらもなのだろうなと、一人納得する。和服の時の優しいミスティアも、普段の元気な彼女も、花子は好きだった。

 しかし、それはそれ、これはこれである。ぬえ達に頼まれている以上、花子は二人ともを説得しなければならない。

 

「でも、これだけ酷い目にあったんだもの。もう止めたほうがいいんじゃない? 霊夢にまた怒られるよ」

「うーん。別に今回が初めてじゃないしなぁ」

 

 足をぶらぶらさせながら、響子がぼやいた。聞けば、霊夢のみならず魔理沙にまで退治されたことがあるらしい。しかし、数こそ少ないが人間にもファンがいるようで、それを免罪符に活動しているようだ。

 歌で夜目を操る妖怪のミスティアが、不満そうに唇を尖らせる。

 

「だって、騒霊達のライブは許されて、私の歌が許されないなんておかしいじゃない。あこぎな商売してたのは認めるけど、私だって……」

「あれ? でもミスティアさん、さっき歌ってましたっけ?」

「今日は響子の番なの。次は私。交代でやってるんだよ」

 

 ミスティアは次と言った。きっと、またやるつもりなのだろう。響子にも反省の色はまったく見られないし、花子は自分の言葉では彼女らを説得できないなと確信した。

 どうやら、金輪際止めてもらうのは難しそうだ。それでも、回数を減らすことくらいはできるかもしれないと、口を開く。

 

「でもさ、響子。心配してくれてる人がいるのに、その人達を無視しちゃだめだよ。ぬえは意地悪だけれど、本当に心配していたよ」

「うん、分かってるんだけどね。久々に私の声で喜んでくれる場所を見つけて、嬉しくなっちゃって。花子だって、もし里で子供を驚かしてもいいってなったら、霊夢達に退治されてもやるでしょ?」

「そうかもしれないけれど。でも、友達に心配かけちゃうなら、やらない、かな」

 

 言い切ることができない情けなさに、花子は頭が重くなった。

 山彦としての存在意義を見失い仏門に下った響子にとって、鳥獣伎楽は新たな可能性だったのだろう。自分の旅に似たものを感じ、言葉を続けられない。

 それでも、お世話になっている人や友達に心配や迷惑をかけてまで続けるのは、やはりおかしいという思いはある。白蓮やぬえ達の気持ちも、理解できるのだ。

 心の中で勝手に板挟みになり、花子の思考はぐるぐると堂々巡りを始めた。元来頭の弱い少女である。こうなると、自分で結論を出すのは難しい。

 さすがに見かねたらしいミスティアが、苦笑を浮かべた。

 

「花子ちゃんの言うことも、一理あるかもね。響子、そろそろライブの間隔を開けるようにしない?」

「えーっ! 私にとって唯一の楽しみなのに」

「楽しいことを毎日やってたら、すぐ飽きちゃうかもしれないでしょ。それに、響子にはお寺の修行があるんだし、私にも屋台があるもん。時間見つけていっぱい練習して、ライブは月に一回くらいにした方がいいと思うの」

「……まぁ確かに、巫女にも目をつけられちゃったし、新しい会場を探さないといけないもんね。はぁー、また読経の毎日かぁ」

 

 ぐったりとうなだれる響子。前に会った時は、とても楽しそうにお経を読んでいたのだが。嫌になったのかと訊ねると、少しだけ考えてから、彼女は首を横に振った。

 

「お経を読むのは、嫌いじゃないよ。心がスーッとするから。でも、やっぱり私は山彦だから、叫びたくなる時があるんだ」

「鬱憤が溜まっていたんだね」

「そういうこと。まぁここしばらくでたっぷり叫べたし、我慢するよ」

 

 止めるまではできなかったものの、回数を減らすことはできたようだ。ぬえとマミゾウに頼まれたことは果たしたのだから、満足のいく結果だった。

 助け舟を出してくれたミスティアに小さな声で感謝を述べると、彼女は「いえいえ」と、優しく言ってくれた。やはり、おてんばなだけの妖怪少女ではない。花子にとっては頼れるお姉さんである。

 朝もやが晴れて気温が上がり始める頃に、三人は解散することにした。羽ばたいて飛んでいくミスティアを見送ってから、響子が花子の方を向く。

 

「花子、今日はどうするの?」

「うーん。眠気はないけれど、少し疲れちゃったから、どこかで休憩するよ」

「じゃあさ、命蓮寺においでよ。迷惑かけちゃったし、お礼がしたいんだ」

「そんな、悪いよ」

 

 遠慮してはみたのの、響子は思った以上に粘った。どうしてそこまで引き止めたがるのか分からないが、是が非でも連れて行くつもりらしい。

 結局、朝ご飯も出してあげるからの一言で、命蓮寺へ向かうことになる。彼女の一存で朝食を出してもらえるのかという疑問はあったが、あの寺はいつも多めにご飯を作るそうだ。花子自身も、空腹に嘘はつけなかった。

 

「こないだね、お寺に新しい子が入ってきたんだ。私にも後輩ができたんだよー」

 

 響子はそう、嬉しそうに笑った。なんでも、白蓮直々のスカウトで入った期待の新人らしい。響子とも仲がいいそうだ。寺に住み込む出家ではなく、家から通う在家なのだとも教えてくれた。

 

「へぇ、白蓮さんが入るようお願いするなんて、すごいね。どんな子なの?」

「ん? んー……、それは会ってからのお楽しみにしよっかな」

「いじわる、教えてくれてもいいのに」

「だーめ。お寺につけば会えるんだから、いいじゃない」

 

 寺に向かう道の上で、花子と響子の会話はどんどん弾んでいった。相変わらずの元気いっぱいな声は、聞いているだけで力が湧いてくるようだ。

 どんなにおかしな趣味を持っても、それが少し怖いと思ってしまうようなことでも、響子はずっと、明るく優しい少女なのだ。ミスティアだって、何も変わっていなかった。そのことが、花子を安心させていた。

 

 朝の空気に、少女二人の声が明るく響く。しかし、それをうるさいと思う者は、一人もいなかった。



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そのさんじゅうよん 恐怖?無意識妖怪と悟りの境地!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。そちらでは、もう新学期が始まっているはずだよね。新しく来た子達を、驚かせていますか?

 

 昨日、ライブが終わったあとで、命蓮寺に行きました。響子に朝ご飯を誘われたの。

 

 前に来た時はあまり話せなかったのだけれど、お寺の妖怪はみんないい人ばかりだったよ。

 

 白蓮さん達は、なんだか難しいことを目指しているみたい。妖怪の味方なんだけれど、人間が嫌いってわけでもなくて、一緒に暮らせたらって考えてるのかな?

 

 それができたら、きっと素敵なのだろうね。私は友達と仲良くしていこうってだけで精一杯だから、色々な人のことを考えられるのは、すごいと思うな。

 

 さっきね、懐かしい友達と再会したんだ。萃香さんの次くらいにお世話になった人だよ。何度も手紙に書いたから、太郎くんも覚えているんじゃないかな。

 

 今日はお寺にお泊りです。明日からは、また旅を始めるよ。でも、少し違った気持ちで歩けるだろうから、とても楽しみなの!

 

 一人より、二人のほうがずっと楽しいものね。やっぱり、友達は大事だなって思ったよ。

 

 それでは、またお手紙書くね。お元気で。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 命蓮寺の朝食は、質素ながら、とても美味しかった。特別な味付けをしているわけではないのだろうが、料理に込められ思いが味に出ているようだ。

 突然お邪魔した花子だったが、命蓮寺の一同は快く受け入れてくれた。最初こそ緊張したが、すぐに打ち解け、片付けを少し手伝ってから、居間でくつろがせてもらっている。

 食後、響子は白蓮に呼ばれて、顔面蒼白で居間から出ていった。こっ酷く怒られるのだろうが、さすがにフォローしきれないので、黙って見送ることにした。

 

 朝食の時にも、そして今も、響子が言っていた新人の姿は見えない。ナズーリンもいないが、彼女は最近無縁塚(むえんづか)に住居を移しているそうだ。なんでも、主である寅丸(しょう)に呼ばれない間中は、ずっとお宝を探しているとか。

 響子がパンクに走ったのは、ナズーリンといううるさい先輩がいなくなったからというのもあるかもしれない。ある程度の自由を得ると、人も妖怪も、ハメを外しすぎてしまうものだ。

 ともかく、新人のことがずっと気になっていた花子だが、居間からは一人、二人と人数が減っていき、最後には一人になってしまったので、誰かに聞くタイミングを完全に逃してしまった。

 

「……どうしよ」

 

 いただいたお茶をゆっくり啜っていたが、いつまでも持つものでもない。響子の説教が始まってもうかなり経つが、まだ彼女が帰ってくる気配もなかった。

 一輪と呼ばれていた尼のような服装の少女や、村紗水蜜というセーラー服の船幽霊も、朝ご飯が終わってから、掃除やら何やらで忙しそうだ。ぬえとマミゾウは、遊びに出かけたらしい。

 命蓮寺の中では白蓮についで偉いらしい星にお茶の相手をしてもらうわけにもいかず、一人でぼんやりと居間の天井を眺めていた。隅々まで掃除が行き届いていて、畳の匂いが気持ちいい。

 そうやってのんびりと朝を過ごさせてもらっていると、玄関の方から、おもむろに間延びした声が聞こえてきた。

 

「おはようございまぁーす」

「お、来たな新入りちゃん! どう? ちゃんと家でも読経してる?」

「うちのペットが嫌がるから、やってないやぁ」

「ありゃ。んじゃ寺にいる間にしっかり覚えちゃわないとね」

 

 応対しているのは、水蜜だろう。以前フランドールが、水蜜のことを姉御肌だと語っていて、花子もまた同じ印象を抱いた。

 それよりも、花子は入ってきた声が気になって仕方なかった。声には聞き覚えがあるどころか、忘れられるわけもなく、ずっと聞きたかった声でもあった。

 聞き間違いかもしれないので、焦って飛び出すわけにもいかない。人違いだったら、恥ずかしいではないか。自分に言い聞かせながらも、花子の耳はずっと玄関の方を向いていた。

 

「今日は、何からすればいいのぉ? 掃除かな、読経かなぁ」

「あー、じゃあ悪いんだけどさ、居間にお客さん来てるのよ。お茶が冷めてる頃だろうから、新しいのと、ついでにお茶菓子でも持っていってあげて」

「はぁーい。私の分もいいかなぁ?」

「構わないよ。お客さんの相手するのも、仕事だしね。押し付けちゃってごめんね」

「いいえー」

 

 もう確信に近くなっていたが、それでも花子は我慢した。ものの数分の間が、とても長く感じる。楽しみで、心臓はドキドキと高鳴っている。

 程なくして、居間の襖が開いた。落ち着かなくてそわそわしていた花子は、お茶を持ってきてくれたその少女を見た瞬間、弾けたように声を上げた。

 

「やっぱり、こいしちゃんだ!」

「あ、花子だ。久しぶりぃー」

 

 二人分のお茶と煎餅を大きなちゃぶ台に置いて、懐かしの友人、古明地こいしは、特に感動する様子もなく、しかし当然のように、花子の隣に腰を下ろした。

 大きなリアクションもなく、お茶を啜って「おいしいねぇー」と破顔するこいし。一方の花子は、まさかのサプライズに言葉も失い、ただその横顔を見つめている。

 話したいことはたくさんあるのに、何から話せばいいのか分からない。何より、この喜びを表せるだけの語彙が、花子にはなかった。

 

「元気してたぁ?」

 

 いつもと変わらない――きっと、会わなかった半年も変わらなかったであろうこいしの話し方に、花子は紅潮した顔で何度も頷く。

 

「うんうん、元気だったよ。いろいろたくさん、あったんだ。でも、うぅん、なにから話せばいいのかな。こいしちゃん、えぇと、こいしちゃんは元気だった?」

「うん、元気元気」

「そっか、よかったよ。それで、えぇと……どうしよ。こいしちゃんと萃香さんと離れてから、私、紅魔館に行ったの。それでね、それから――」

 

 花子の話は、唇に当てられたこいしの人差し指で遮られた。うるさかったかと反省しかけたが、こいしの顔は、笑っている。

 相変わらずの不思議な雰囲気に呆けてしまった花子の頭を、こいしは優しく撫でてくれた。

 

「もっとゆっくり話したほうが、楽しいよ」

「……うん、そうだね。でも、私と話していて大丈夫?」

「大丈夫だよぉ。今日はお泊りだから、やることは後でもできるもん」

 

 マイペースなところも変わっていない。その安心感からか、胸の高鳴りは段々収まり、花子は自分のことよりも、まずこいしのことを訊ねることにした。

 

「こいしちゃんは、どうしてここに? 新人って聞いたけど、お寺に入ったの?」

「うん。白蓮にね、私の無意識は悟りの境地に近いって、だからぜひ来てくれって言われたの。なんだかよく分からなかったけど、楽しそうだからついてっちゃったぁ」

「あはは、こいしちゃんらしいね。それで、お寺は楽しい?」

「勉強は難しいけど、友達がいっぱいできたから、楽しいよぉ」

 

 わざわざ地底から通っているのだから、修行の辛さ以上の喜びを見出だせているのだろう。それがどんな理由であれ、こいしが満足そうなら、花子は何も言うつもりはなかった。

 寺には一週間に三日程度のペースで通っていて、修行の時は真面目にやっているらしい。面倒くさがりな少女なだけに、これには花子も驚いた。

 

「こいしちゃん、がんばっているんだね」

「それなりにねぇー。花子は、あれからどうしてたの? 吸血鬼さんの家にいったの?」

「うん。こいしちゃん達と別れてから、紅魔館に向かったよ」

 

 花子は紅魔館で過ごした日々のことを、順を追って話した。レミリアに滞在してくれと頼まれたのはかなり前のことなのに、昨日のことのように思い出せる。

 幻想郷の中でも浮いている館での日々に、こいしはとても興味を持ってくれた。彼女の住む地霊殿も洋館らしいが、だいぶ印象が違うようだ。

 中でも、レミリアとフランドールは二人とも弾幕ごっこが上手だという話に、こいしはとても食いついた。相変わらず、弾幕が大好きらしい。フランドールはいつか寺に遊びに来るかもしれないと言うと、会ってみたいなと笑ってくれた。

 虹色異変の首謀者が花子であると告白すると、こいしは感心したようなそうでもないような、曖昧な口調で言った。

 

「へぇー。花子があの霧を出したんだぁ」

「霧を出したのは、フランちゃんなんだけれどね。私が言い出しっぺっていうか。実はそれも、ちょっと違うのだけど」

「花子のことだから、流されたんだろうねぇ」

「う、うん。まぁ」

「目がチカチカしたけど、あの霧は楽しかったなぁ」

 

 七色の霧は、どうやらこいしには受けたらしい。弾幕好きなところも似ているし、少しずれた価値観も、フランドールと近そうだ。もしかしたら彼女は、フランドールといい友達になれるかもしれない。

 気づけば、時計の針は正午近くを示していた。一輪に昼食の仕事を手伝ってくれと頼まれて、こいしは少し名残惜しそうに、居間から出ていった。

 一人残されてしまったが、料理ができない花子が手伝っても、かえって邪魔になりかねない。せめてもの礼儀として、正座をしてじっと待つことにする。

 数分すると、長い戦いを終えた響子が居間にやってきた。酷く疲れているが、今度ばかりは自業自得だ。苦笑で迎えてやると、響子も似たような顔をして、

 

「こってり絞られちゃった」

「あはは、そうみたいだね。三時間以上経っているもの」

「そんなもんか……。私には、何日もお説教されたように感じたよ」

 

 花子の対面にぺたりと座り、響子はちゃぶ台に突っ伏した。白蓮は優しい人というイメージが強いが、そういう人ほど怒らせると怖いのは、花子も知っている。外の世界でお世話になったムラサキ婆が、まさにそうだった。

 昼食のタイミングを見計らってか、ぬえとマミゾウが帰ってきた。彼女らは台所の前を通ったにも関わらず、手伝おうという気はまるでないらしく、迷わず居間にやってくる。

 一仕事終えたとばかりに、ぬえは爽やかな笑顔で胡座をかいた。

 

「ただいま。いやー、今日もナズーリンは不機嫌だったわ」

「おぬしが不機嫌にさせとるんじゃ。ま、それが面白いんじゃが」

「またナズーリンにちょっかい出したの? 寅丸様に怒られるよ」

 

 また、ということは、しょっちゅう無縁塚のナズーリンをからかいに行っているのらしい。響子に注意されても、ぬえとマミゾウは涼しい顔だ。

 

「真夜中にアホみたいな声出す奴よりマシっしょ」

「同感じゃの」

「あ、あれは音楽だもん、芸術だよ! ねぇ花子」

「えぇっ!」

 

 突然話を振られて、花子は困った。パンクロックは嫌いではないが、芸術かと言われると、花子の中にある芸術へのイメージとは、まるで違う。

 しかし、響子の目は明らかに助けを求めてきている。無下にできるわけもなく、曖昧な顔で頬を掻きながら、

 

「まぁ、個性的な部分が、芸術的かなぁ……」

「苦しいねぇー」

 

 ぬえに笑われてしまったが、自分でもそう思っていたので、悔しいとは思わなかった。

 心からの共感を得られず膨れ面をしていた響子だが、こいし達が昼飯を運んでくると、その匂いで機嫌を直した。魂の叫びであるらしいパンクロックも、食欲には敵わなかったようだ。

 昼食の支度が進む間に、白蓮と星も居間にやってくる。どんなに忙しくても、極力食事は皆で一緒に、という決まりらしい。和気藹々とした雰囲気の中にあっても、この二人が持つ神秘的な雰囲気は色あせない。

 配膳を終えたこいしが、花子の隣に座る。当然のようにそうする様子を見て、響子が不満そうに唇を尖らせる。

 

「花子をびっくりさせようと思ってたのに、もうこいしと会っちゃってたのかぁ」

「びっくりしたよ。まさか、こいしちゃんが命蓮寺にいるなんて、思わなかったもの」

「その顔を見たかったのにな。まぁ、自業自得なんだけど」

 

 ぶつぶつ言いながら、響子が頬杖をつく。花子はこいしと目を合わせてから、

 

「でも、ありがとう。久しぶりにこいしちゃんと会えて、すごく嬉しいよ。響子のおかげだよ」

「ううん、どういたしまして。こいしが花子の友達だって聞いて、いつか遊びに来た時に会わせてあげたいなって思ってたんだ」

 

 にこりとして言う響子は、説教の疲れをすっかり忘れてしまったようだった。対等に接せれる友達が、彼女にとって何よりの癒しなのだろう。

 皆に食事が行き渡ったところで、相変わらず姿勢のいい白蓮が、両手を合わせた。

 

「それでは、いただきます」

 

 後に続く形で、食前の挨拶が弾む。自然な形で混ざってしまったが、こうして受け入れてくれる命蓮寺は、紅魔館とはまた違う居心地の良さがあった。

 食事の間中、くだらない会話が妙に盛り上がった。皆で笑いながら食べるご飯は、一人で弁当を開けるより、やはり美味しく感じる。

 短いスカートで片膝を立てるという少女にあるまじき姿勢のぬえが、まだ口に物が入っているというのに、花子に訊ねる。

 

「んで、花子は次、どこ行くつもりなの?」

 

 マミゾウに頭を叩かれても、彼女は謝りもしないし膝も立てたままである。いつもこんな感じなんだろうなと呆れつつ、花子は答えた。

 

「まだ考えていないの。買い物も済んじゃったし、ふらふら適当に、歩いてみようかなぁって」

 

 目的地がないことを恥だとは思わなかったので、はっきりと告げる。すると、お吸い物を啜っていた水蜜が、お椀を置いてセーラー服のリボンをいじりながら、ほう、と溜息をついた。

 

「いいなぁー、一人旅。幻想郷は狭いけど、楽しいんだろうね」

「色々な妖怪と出会えるから、楽しいですよ。友達もたくさん増えたもの」

「花子ちゃんは人懐っこいしねぇ」

「えへへ」

 

 意識してやっているわけではないのだが、自分でも友達ができやすい性格だとは分かっているので、そこを褒められることは、素直に嬉しい。

 思えば、この旅路はその性格にだいぶ救われている気がする。慣れ合いを嫌う文とは大げんかしてしまったが、知り合いのいない幻想郷でうまくやれたのは、新たな友達の力があまりにも大きい。

 たくさん助けられてきたのだなと思うと、これまでの旅路と自分についた力のどれもが、愛おしくすら感じる。ただひとつとして、自分だけの力で勝ち得たものはない。

 この一年間のことをぼんやり思い出していると、白蓮が箸を置いた。

 

「花子さん、提案なのですが、よければこの寺に入門なさいませんか?」

「えっ」

「あなたの誰とでも親しくしたいという姿勢、とても共感するものがあります。善良な妖怪もいるということを、もっと人間にも知ってもらわなければなりません。花子さんには、その力があるわ」

 

 気づけば、居間は静かになっていた。皆が花子を注目していて、ただ一人いつも通りなこいしの箸が動く音だけが聞こえる。

 花子は真剣に考えた。子供を怖がらせていた頃のことを思い出すと、あの時は人間の子達と一緒に遊ぶような感覚で襲っていたし、実害も出していない。人と妖怪が傷つけ合わなくとも生きていける道はきっとあるはずだと、花子も思う。

 しかし、善良な妖怪とはなんなのだろうか。妖怪同士であれば簡単に友達になれるし、中には人間とも仲良くなれる妖怪だっている。花子自身がそうだが、自分が善良であるかは、分からなかった。そもそも、善という基準が見えてこない。

 きっと、白蓮は花子程度では到底及ばないところまで考えているのだろう。その境地に近づける気がしなかったし、遠く漠然としすぎていて、近づきたいとも思えない。

 今はまだ、自分のことしか考えられない。妖怪と人間の共存を掲げて生きるには、花子はあまりにも幼かった。

 

「……ごめんなさい。私には、無理だと思います」

「そう。いえ、いいんですよ。花子さんには花子さんのやるべきことがあるのでしょうし、たまに遊びに来てくれるだけで、嬉しいわ」

「ありがとうございます、白蓮さん」

 

 白蓮はにこりと微笑むと、また丁寧に箸を動かし、食事を再開した。それだけで場の雰囲気が元に戻るのだから、すごい人なのだなと花子は感心してしまう。

 ふと、対面に座っていた響子が花子の食膳を箸で示していることに気づく。あまり褒められた行為ではないが、何かを訴えているらしい。

 何事かと目を落としてみると、花子の漬物が根こそぎ消えていた。ついでにかぼちゃの煮つけも半分ほど、お皿の上から姿をくらましている。

 真っ先に隣を見る。予感は的中していた。白米の上に乗った漬物は花子のものだろうし、今まさにこいしの口に、かぼちゃが運ばれようとしているではないか。

 

「こいしちゃん! それ私の!」

「おいしいよぉ、花子のかぼちゃ」

「あぁん、楽しみに取っておいたのに」

 

 食事中は油断できないところも、変わっていない。花子があまりにも訴えるものだから、さすがに罰が悪くなったらしいこいしは、口の中に箸を突っ込んで、

 

「待ってね」

「いいよ、出さなくていいってば! んもぅ」

 

 漫才のようなやり取りで、食卓はどっと沸いた。花子もつい、笑ってしまう。

 やはり、こんなものなのだ。幻想郷の未来だなどという難しいことより、今こうして誰かと笑っていられる幸せのほうが、花子にとってずっと大切なのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 その日は、響子と白蓮の誘いを受けて、泊めてもらうことになった。

 こいしも含めた三人でお風呂に入っている時はとても元気だったのに、昨晩は夜通し叫び続けていたからか、響子は床につくなり眠ってしまった。

 春の終わりとはいえ、幻想郷の夜は少し冷える。響子に毛布をかけてやってから、花子は並んだ三つのうち、真ん中の布団に座る。

 寺で借りたお揃いの浴衣を着ているこいしが、柔らかい布団の上で足をバタバタとやっている。

 

「ベッドもいいけど、畳の上にお布団引くと、気持ちいいよねぇー」

「そうだね。私も畳は好きだな。落ち着くっていうか、なんていうか」

「分かる分かるぅ」

 

 同意が得られてご満悦の様子で、こいしは寝返りを打った。浴衣がだらしなくはだけて、部屋には女の子しかいないとはいえ、はしたない。

 普段の服装は花子に比べるととてもおしゃれなのに、服を労るようなことはしない少女である。妖怪の山でも、夏だからと言って洗った服を生乾きで着ることが多々あった。

 

「こいしちゃん、浴衣直したほうがいいと思うよ」

 

 一応注意してみたが、こいしに気にする様子はなく、またもゴロンとうつ伏せになってしまった。

 

「いいの。あとはどうせ寝るだけなんだからぁ」

 

 さらに寝返りをして、とうとう帯が緩み始めてしまった。それでも直す気がないらしい。花子は「まったくもう」と呟いたが、なぜか少し安心した。

 修行中のこいしはとても真剣で、花子が見たこともない顔をしていた。彼女がただ一度だけ第三の目を開いた時にも感じた、こいしがこいしでなくなってしまったような気持ちを思い出し、不安になっていたのだ。しかし、杞憂だったらしい。

 

 こいしがゴロゴロと寝返りをうつたびに、第三の目があっちにこっちに、潰れない位置へと移動している。思えばお風呂に入っている時も、浴槽の外に出ていた。

 やはり目だから、熱いお湯につかるのはきついのだろうか。聞いてみたくなったが、人の体のことを訊ねるのは失礼な気がするので、止めておくことにする。

 完全に帯が外れてから、こいしはようやく浴衣を直した。着付けは花子よりも上手である。

 

「さてとぉ。花子、もう眠い?」

「うーん、ちょっとだけ。でも、響子みたいにぐっすりは眠れないかな」

「じゃあ、お話しようよぉ」

 

 朝に何時間も話したが、花子もまだ話し足りないと思っていた。承諾して、二人はそっと縁側に出た。

 晴れが続いているので、雨戸は閉まっていない。適当に腰掛け、夜の庭を眺めた。池に映った月が、ゆらゆらと揺れている。

 

「涼しいねぇ」

 

 こいしが気持ちよさそうに目を細めた。丁度いい気温というのもあるだろうが、寺の庭という空間が、妖怪の心すら清くさせているようだ。

 こんな庭を毎日見れるなら、仏教とやらをがんばってみるのもいいかなと思ったが、幻想郷のどこかに同じくらい素晴らしい景色があるかもしれない。それらを探して見つけたい気持ちの方が強かった。

 

「私って、もしかしたら旅が似合っているのかな」

「うぅーん、分かんない。でも、いろんな所に行ったよーって花子が話す時、楽しそうだよぉ」

「実際、とても楽しいもの」

「いいねぇー」

「こいしちゃんだって、あっちこっちを旅していたんじゃないの?」

 

 放浪癖があり、いつもどこかへ出かけているこいしだ。行った場所ならば、きっと花子より多いだろう。

 しかし、こいしは少し困ったような笑みを浮かべた。

 

「私のは、ちょっと違うかなぁ。花子みたく、あっちに行こうーって決めたわけじゃないし、目標があるわけでもないし。友達も、あんまりできなかったから」

「そっか」

 

 花子は深い詮索を止めた。こいしなりに、思うところがあるのだろう。彼女の旅路は、嫌われ者の逃げ道だったのだから。

 気の利く言葉の一つも言ってやれない自分が悔しかったが、下手なことを言って傷口を開くような真似はもっとごめんだ。花子にできることといえば、いつまでもこいしの良き友であり続けることくらいか。

 そう考えたからというわけではないが、花子はふと思いついたことを、呟いた。

 

「こいしちゃんのお家、行ってみたいな」

「うち?」

「うん。地霊殿だっけ、綺麗な館なんでしょ? 紅魔館も立派だったけど、あんなに赤くないだろうし」

「赤くないけど、派手かもぉ。お姉ちゃん、あぁ見えて派手好きだから」

 

 よほど姉に似合わない趣味なのか、こいしは思い出し笑いをしつつ、頷く。

 

「いいよ、じゃあうちに行こぉ。明日に出発でいいかなぁ」

「えっと、私はそれで構わないけれど……。こいしちゃん、いいの? お寺来たばっかりなのに」

「いいのいいの。悟りの境地なんてよくわかんないし、好きな時に来て好きなだけ修行していいって白蓮に言われてるんだからぁ」

 

 恐らくそれは、多い分には構わないということだろう。が、こいしは自分に都合よく解釈してしまっているようだ。

 しかし、こいしが一緒に来てくれるとなれば、花子としてもありがたい限りだ。一人旅も気楽でいいが、友達がいる方が楽しいに決まっている。

 

「じゃあ、一緒に行こう。こいしちゃんと一緒に旅ができるなんて、思わなかった。嬉しいなぁ」

「山を目指す道、二つあるけど、どっちから行こっかぁ」

 

 幻想郷の地理にはまだ疎いが、二つのうち片方の道は、一年前に山へ向かった、湖方面の道だ。もう一方は、花子はまだ通ったことがない。

 

「せっかくだから、歩いたことない道に行きたいな。湖じゃないほう」

「んーっとぉ、魔法の森があるほうだねぇ。いいよ、じゃあそっちから行こー」

 

 道のりもスムーズに決まり、花子はもう旅を始めたような心地になっていた。明日の出発が待ち遠しくて、仕方がない。

 気持ちばかりが先走りそうな花子とは対照的に、こいしはいつもの調子で、

 

「そういえば花子、子供のための妖怪になりたいって、お風呂で言ってたねぇ」

「あ、うん。といっても、人里で襲うのはダメだし、どうしようって考えてるけれど」

「私ね、最近人間の子供と遊ぶことが多いんだぁ」

「そうなの? ちょっとびっくり」

 

 初耳だった。地底の妖怪は人間との相性が最悪で、本気で殺しにかかることも多いという話だが、覚妖怪は人間を敵視していないのだろうか。

 意外だなとこいしの横顔を見つめていると、その表情が、ふと曇った。

 

「今でも、人間の大人は嫌い。みんな、顔は笑ってるのに心では相手を傷つけようとしてるの。そうじゃない人も、たまぁにいるけど」

「……」

「でもね、子供は違うんだぁ。私が心を読んでたって知っても、嫌わないの。無意識の中にいる私を見つけてくれて、気のせいだなんて思わないで、声をかけてくれるの。嬉しかったぁ」

 

 子供の純真さは、花子もよく知っている。精神的な年齢は近くとも、彼らに比べて長く生きている花子とは、その心の透明さはまるで比べ物にならない。

 読んで字の如く、無邪気なのだ。彼らは純粋で、心のままに生きることができる。子供は時として残酷な行為を簡単に行うが、それらは大人からすると狂気とも見れる純粋さ故なのだ。

 

「私が子供と遊んでいる時、大人は誰一人、私のことが見えていないの。あの子達にしか見えない、子供だけの友達。それが私なんだぁ」

「外の世界でも、たまにいたよ。自分にしか見えない友達がいるって自慢してる子」

「そういう子達も、大人に近づくと私が見えなくなっちゃうんだけどね。でも、それもいいかなぁって。大人になってもたまに私を思い出してくれれば、嬉しいなって思うんだぁ」

「それ、分かるよ。私も、子供にしか信じてもらえないお化けだったけれど、それが楽しかったし、誇りでもあったもの」

 

 思えば、花子達のような学校の怪異も、子供だけの友達と言える存在だったのかもしれない。怖いお化けではあったものの、肝試しだって、遊びの一つに過ぎないのだから。

 こいしにいつも以上の親近感を覚えていると、彼女はもじもじと、珍しく照れくさそうに、花子を上目遣いで見上げた。

 

「あのね、そのぉ……、子供のための妖怪っていう花子の目標、私も一緒に目指してもいいかなぁ」

 

 思わぬお願いに、花子は目を丸くした。妖怪が目指すものとしては低次元な目標だと思っていたので、まさか志を同じくする者が現れるなど、考えたこともなかったのだ。

 あんまり驚いたので声も出せずにいると、こいしがわずかに肩を落としてしまう。

 

「やっぱ、ダメだよねぇ」

「あっ、ダメじゃない! ダメじゃないよ。ただちょっと、びっくりしすぎちゃったの。でも、突然どうして?」

 

 訊ねると、こいしは恥ずかしそうに頬を掻いてから、背後――襖の向こうで寝息を立てているであろう響子へと振り返った。

 

「お寺でね、響子達と話してるうちに、羨ましくなったんだぁ。人間を嫌ったり怖がったりしないで、ニコニコ話してるの見てると、いいなぁって思うの。私は、今でも人間が嫌い。きっと人間も、私が昔は覚ってたって知れば、私を嫌う。だから、すごく眩しかったんだぁ。妖怪と人間が仲良くしてるの、眩しかった。

 瞳を閉ざしたところで、私が覚だって事実からは逃げられないの。妖怪にも人間にも嫌われて、当たり前なんだぁ。花子とかみすちーはそんなことないって言ってくれるけど、私とお姉ちゃんは、ずぅっとそうだった。私達二人と、ペットだけで、寂しさを押し殺して暮らしてきたの。

 でもね、本当はずっと、友達が欲しかったんだぁ。覚の力を捨てたのは、私なりにどうしたらいいかを考えた結果だったの。何年かして友達ができたからよかったけど、誰にも気付かれなくなるくらい私の存在感がなくなった時は、本気で後悔したよぉ。お姉ちゃんにも、気付いてもらえなかったんだもん」

 

 辛い話に花子俯くのを見て、こいしが「ごめんね」と呟いた。首を振って、大丈夫と小さく告げる。

 心配そうな顔はそのままに、こいしは続けた。

 

「私がお寺に来たのも、実はそれが本当の理由なんだぁ。人間と仲良くする方法、分かるかなって。みんなには内緒だよ」

「うん」

「それでね、人間は嫌いだけど、子供だけは違ったんだ。昔、心を読んでいた私には、分かるの。お寺に遊びに来るあの子達は、本当に私を友達だと思ってくれてる。だから、子供だけの妖怪になりたいなって。そうすれば、私は地底の妖怪じゃなくて、幻想郷の妖怪になれるかなぁって」

「……うん」

 

 いつも笑顔でいるこいしが、常に自分の心を隠していることには、山にいる時から気づいていた。文に暴言を吐かれた時の、酷く傷ついたあの表情は、忘れられない。

 今日、秘めていた心を打ち明けてくれたことを、花子はとても嬉しく思った。こいしの申し出を断る理由など、どこにあるだろうか。

 

「こいしちゃん、一緒にがんばろう。子供のための妖怪になろう。私達なら、きっとやれるよ!」

「うん。……ありがとぉ、花子」

 

 こいしが浮かべた微笑みは、空の月よりもずっと優しく、輝いていた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 翌朝、花子とこいしは命蓮寺の門にいた。

 朝食の時に旅立ちを告げ、皆はとても驚いていたが、二人に共通する目的ができたことを話すと、快く送り出してくれた。

 今は、響子と白蓮が見送りに来てくれている。こいしが子供のための妖怪になると言った時、白蓮はとても喜んでいた。

 一方の響子は、後輩がいなくなるのが寂しいらしい。自分のスカートの裾を掴んで、訴えるように言った。

 

「こいし、また来るよね? また来てね?」

「うん。地底について落ち着いたら、また修行しにくるねぇ」

「約束だよ。花子もきっと、遊びに来てよ」

「もちろん」

 

 犬耳をしょんぼりさせている響子は、以前よりもずっと名残惜しそうだ。こいしも一緒にということもあるし、昨日一晩泊まったせいで、別れが辛くなってしまったのだろう。

 それは花子も同じだが、旅路につき物の一時の別れには、もう慣れている。響子の頭を撫でてやってから、白蓮に頭を下げた。

 

「お世話になりました」

「いえいえ。花子さんもこいしさんも、がんばってくださいね」

 

 揃ってお礼を述べてから、花子はこいしと共に歩き出した。いつかのように、響子の声が背中を押してくる。

 二人は響子と白蓮に何度も振り返り、大きく手を振った。その影が見えなくなってから、こいしが大きく伸びをする。

 

「今日もいいお天気だねぇ」

「そうだね。景色をいっぱい見たいから、ゆっくり歩いていこっか」

「こっちからだとすっごく遠回りになるから、山にまで何日か、かかっちゃうかもねぇ」

「ありゃ、そうだったんだ。でも、それも楽しそう」

 

 自分一人だったら後悔しそうなことでも、友達と一緒なら楽しみになる。いつもより、足取りもずっと軽い。

 同じ夢を目指す二人の旅路は、明るい道になりそうだ。

 風が吹いた。帽子を押さえたこいしが笑う。花子もまた、暖かな春風を受けて、笑みを零した。



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そのさんじゅうご  恐怖!闇を操る人食いの怪!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。花子はまだ生きています。このお手紙、太郎くんに届くかな……。

 

 今日は、なんだかおかしなことがいっぱい。こいしちゃんと一緒に歩いていたら、黒くて丸い不思議なモノが空を飛んでいたの。

 

 それを追いかけているうちに、変な森に迷い込んじゃった。新しい友達ができたことが、ただ一つのいいことかな。人食い妖怪だけれど、そんな風にはまったく見えない子なの。

 

 真っ暗な魔法の森は、とても怖いです。私は暗いのは平気なのだけれど、ここは、なんだかそういうのとは違う怖さがあるんだ。

 

 早く、お日様の光を浴びたいな。無事に出ることができたら、手紙のお姉さんにお便りを渡せると思います。

 

 お手紙が届いたら、花子が元気だという証拠です。だから、この手紙を読んでいる時は、太郎くんは安心してね。

 

 それでは、また。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 こいしとの旅は、花子がそう思っていた以上にゆっくりとしたものだった。一人旅だった時に比べて、半分以下のペースになっている。

 飛べば花子よりスピードが出るのに、こいしの歩みはとても遅い。かといって、景色を眺めるでもなく、しかしいつものように微笑を浮かべて、まるで空気を楽しんでいるかのようだ。

 急ぐ理由もないので、花子は彼女に合わせて歩いている。時々すれ違う里の人間は、花子を見ることはあっても、こいしに気づく様子はなかった。

 曰く、こいしの能力は意識外でもその力を発揮しているため、親しい者以外は目の前に立っても気づかないことが多いとか。こいし自身が隠れようとしていない限り、意識して探せばすぐに見つかるらしい。

 

「うぅん、すれ違っても気づいてもらえないのは、少し寂しいような気がするな」

 

 花子が正直な感想を述べると、春風に持っていかれないよう帽子を押さえながら、こいしが小さく唸った。

 

「最初は寂しかったかなぁ。もうずっと前のことだから、忘れちゃった。でも、慣れるとそんなでもないよ。目の前でイタズラしても怒られないしぃ、友達には気づいてもらえるもん」

「そんなものなのかな。こいしちゃんの力って、人間を驚かすのに向いた能力だよね」

「気づかれないから、驚かし放題だよぉ。私は人間が嫌いだから、自分から関わることはないけどねぇー」

 

 つい一年前まで人間と慣れ合っていたようなものである花子にとって、彼女の人間嫌いという言葉は突き刺さるものがある。しかし、嫌いなものは仕方ないので、極力気にしないことにした。

 しかし、人との関わりを良しとしないとなると、この幻想郷では少しやり難い問題があるはずだ。

 地底に篭っているならまだしも、幻想郷で生活するなら、金銭が必要になってくる。どうしているのかと訊ねると、こいしはどうしてか自慢げに胸を張って、

 

「お姉ちゃんに、お小遣いもらってるの」

「なるほど。お姉さんは、どうやってお金を手に入れているの?」

「んっとねぇ、旧地獄の管理報酬で、地底だけで使えるお金をもらってるんだぁ。それを、旧都で換金してもらうの。それができるようになったのは、最近だけどねぇ」

 

 便利になったなと、こいしは嬉しそうに言った。換金所をやっている妖怪がどういうルートで幻想郷の通貨を手に入れているのか、気になるところではあったが、彼女に根掘り葉掘り訊ねても仕方がないので、よしておくことにする。

 通貨を持っているとはいえ、こいしが人里でそれを使うことはない。使い道は大体がミスティアの夜店だったり、守矢神社の縁日だったりするそうだ。

 

「人間のお店で行くところはねぇ、前に花子と萃香さん達と一緒にいった、山の麓にあるお茶屋さんくらいかなぁ」

「あ、あそこに行っているんだ。お店のお婆ちゃん、元気だった?」

「元気だったよぉ。お客さんは、いなかったけどー」

 

 子供以外にも、心を許せる人間はいるようだ。あの優しそうな老婆なら、心を読む妖怪を嫌わないかもしれないなと、花子もどうしてか納得できた。

 飽きもせずにお喋りをして、時々足を止めて妖精の弾幕ごっこを眺めたり、街道の真ん中に咲いているタンポポを安全な場所に植え直したり、寄り道をたくさんしながら街道を進む。

 途中、リスの耳と尻尾が生えた妖怪少女に弾幕ごっこを挑まれたが、こいしがコテンパンに叩きのめした。圧倒的な点差で敗北して、リスの妖獣は泣きべそをかいて逃げていった。

 彼女の強さもそうだが、相変わらず手加減を知らない。仕掛けてきたのは向こうなのだが、それでも花子がリスの少女に同情してしまうほどだ。

 しかし、当の本人はとても満足そうに、両手を大きく伸ばしてみせる。

 

「んーっ、楽しかったぁ」

「あっという間だったね。お疲れ様」

「ありがとぉー」

 

 小春日和とはいえ、運動したことでこいしは少し汗を掻いてしまったようだ。ちょうどいい風も出ているので、花子達は少し歩いたところにある切り株で休憩することにした。

 大きな切り株に、二人並んで腰掛ける。服の襟首をつまんでパタパタと空気を送り込んでいるこいしに、水筒の蓋に冷たいお茶を注いで渡すと、彼女は一息で飲み干してしまった。

 空になった水筒の蓋をしばし見つめてから、こいしがおもむろに顔を上げ、やけに神妙な面持ちで、

 

「お腹減った」

「あは、私も。じゃあ、お昼にしよっか」

 

 リュックを開けて、花子は笹の葉に包まれたおにぎりを二つ取り出した。命蓮寺で一輪に作ってもらったものだ。たくあんが少しだけついているのが嬉しい。

 そこそこ大きめに握られていて、一個で十分満腹になりそうだ。二人一緒にいただきますとおにぎりに頭を下げてから、一口頬張る。塩気の加減が絶妙で、思わず頬を押さえた。

 

「おいしいなぁ。一輪さん、おにぎり作るの上手だね」

「うん。一輪は、お料理上手だからねぇー。ご飯作るのは当番で決めてるんだけど、一輪の日にはいつもお寺に行っているんだぁ」

「その気持ち、分かるなぁ」

 

 昨日の当番が水蜜とこいしで、今朝いただいたご飯は響子が作ったものだったが、彼女らが作った料理でも、十分過ぎるほどおいしかった。それよりも上の味となると、もう想像もつかない。おにぎりをこんなに美味しく作れるのだから、他の料理はもっと素晴らしいに違いない。

 そうなると、彼女の上に立つ白蓮や星は、どんな料理を作るのだろう。思い切って、こいしに聞いてみると、彼女はにこりと笑顔を浮かべて、即答した。

 

「普通だよぉ」

「あ、そうなんだ……」

 

 悟りに近づくことと料理の腕とは、あまり関係がないようだ。

 ほとんど同時に食べ終わり、花子とこいしは水筒の蓋を交代で使ってお茶を飲みつつ、食休みをした。すぐに歩いてもいいのだが、春の昼下がりに急ぎ足で行動するのは、もったいない気がする。

 会話はあまりせずに、のんびりと青空を見上げる。しばらくは歩く日々だから、晴れが続いてくれたらいいなと、花子は空に祈った。

 ふと隣を見ると、こいしがあさっての方向を見つめていた。何を見ているのだろうと視線を追いかけ、花子も怪訝そうに眉を寄せる。

 

「なにあれ?」

「なんだろうねぇー」

 

 二人揃って凝視しているそれは、黒い球体だった。かなり遠くにあるのだが、大きさは花子の身長を直径としたくらいだろうか。フラフラと宙に漂い、草原の向こうに見える森へと近づいていく。

 恐らく妖怪か何かだろうと、花子は見当をつけた。それにしても、危なっかしいふらつき方をしている。

 蛇行する黒い球体を眺めていたこいしが、突然立ち上がった。緑の瞳はキラキラと、好奇心に輝いている。

 

「追いかけてみよぉ!」

 

 言うが早いか、こいしは飛んでいってしまった。彼女の飛行はあまり速くはないが、それでも花子よりは速い。置いていかれてはたまらない。

 

「え、あ、待って!」

 

 慌てて鞄を背負ってから、花子も飛び上がる。リュックは大して重くないとはいえ、それでもこいしを追いかけるのは大変だ。

 黒い球が草原の先の森に入ってしまい、こいしはようやく止まってくれた。なんとか追いついて、息を整えてから、花子はその森を眺める。

 妖怪の山を覆う森に比べ、なんともおどろおどろしい森だ。木はよそ者を拒むかのように茂っていて、草原との境目が怖いほどはっきりしている。お世辞にも、春の緑豊かな森とは言い難い。 

 

「あれって、魔法の森だよね? あの中に入っちゃったなら、追いかけられないんじゃないかな」

 

 花子が訊ねると、こいしは不思議そうに首を傾げて、

 

「なんでぇ?」

「だって、入って迷っちゃったら危ないし、なんだか気味が悪いもの」

「花子は妖怪なのに、気味が悪いところが嫌いなのぉ?」

「う、うーん。深夜のトイレも大概不気味だとは思うけれど……。こいしちゃん、行きたいの?」

 

 こいしは正直に、うんと頷いた。あまり気は進まなかったが、魔法の森には花子も少し興味がある。怖いから行きたくないというのも、本心だが。

 

「じゃあ、行ってみようか。さっきの黒いの、気になるものね」

「うん!」

 

 なんのためらいもなく、こいしが森に入っていく。その度胸を少し分けてほしいと思いつつ、またも追いかける形で、花子も魔法の森に飛び込んだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 森で飛ぶと木の枝にぶつかってしまうので、花子達は歩いて進むことにした。先ほどの黒い球体は、まだ見つからない。

 魔法の森に自生している植物は、不思議な形をしているものが多かった。木の葉はどれも青や紫だし、星型のキノコや人の顔をした木の実など、見ていて気持ちのいいものではない。

 時々、鳥がギャアギャアと嫌な鳴き声を発しながら飛んでいく。空気も妙に湿気っていて、居心地が悪い。花子はこいしとはぐれないよう、ぴったりとくっついて歩いた。

 同じ女の子だというのに、こいしはまるで怖がらずに、先ほどの黒い物体を探している。あれにどんな魅力を感じたというのか、とても真剣だ。

 

「んー、いないねぇー」

「こいしちゃん、もういいんじゃないかな? きっと、森に住んでいる怖い化け物なんだよ。やめておこうよ」

「あっちの木、枝がたくさん折れてる。きっと黒いのがぶつかったんだよ、行ってみよぉ」

「聞いてくれないんだもんなぁ……」

 

 駆け出したこいしを、渋々追いかける。彼女には、吸血鬼姉妹のワガママとは別のベクトルで、振り回されることになりそうだ。

 見上げてみると、確かにこいしが言ったとおり、木々の間を何かが通過したように、枝が折れている。ぶつかっても構わず無理矢理通り抜けたのだろう。

 枝の折れている木を目印に行くこと数分、こいしが突然立ち止まった。

 

「枝、もう折れてないやぁ」

「ありゃ。見失っちゃったね」

「もっと近くで見たかったのになぁー」

 

 珍しく落胆するこいし。とても一生懸命探していたので、花子は少し気の毒に思ったが、これで不気味な森からおさらばできると思うと、安堵感も覚えた。

 急く気持ちを抑えつつ、こいしの背中を押す。

 

「じゃあ、街道に戻ろう? お日様の下で歩く方が、きっと楽しいもの」

「ちぇー。つまんないなぁー」

 

 渋々ながらこいしが歩き出した、その瞬間。花子の視界は真っ黒に染まった。

 周りの風景はおろか、目の前に立っていたこいしの姿、その背を押していた自分の手すらも見えない。まったくの暗闇に、花子の思考が一瞬停止する。

 

「……え? あれ、こいしちゃん?」

「花子ぉ? なんにも見えないよー?」

 

 どうやら、こいしも同じ状況らしい。動くべきなのか、止まるべきなのか、何もわからなくなった花子は、とりあえず右手を伸ばし、こいしの服を掴む。

 その右腕に、誰かが手を置いた。背中を向けているこいしではない、他の誰かだ。背筋に感じた悪寒は一瞬、花子は次に、悲鳴を上げていた。

 

「痛ぁい!」

 

 右腕を噛まれた。痛みと混乱とで、花子は右腕を振り回す。噛みついていた何かは、すぐに離れた。安心したのもつかの間、今度はこいしが叫んだ。

 

「あいたぁっ! 花子、私のおしり噛んだでしょ!」

「わ、私じゃないよ! そんなことする意味が分からないもの」

 

 腕をさすりつつ、花子は頬を膨らませた。もっとも、こいしからもこちらが見えていない以上、訴えを顔に出すことに意味はないだろう。

 とにかく暗闇から逃げ出さなければと、花子はこいしを引っ張って歩こうとした。すると、突然耳元で、

 

「あなた達、人間じゃないの?」

「うひゃあぁぁぁぁっ!」

 

 自分でも驚くほどの声が出て、文字通り飛び上がる。驚かす側ではあるものの、驚かされることにも強いわけではなかった。

 花子の絶叫と同時に、闇が一気に薄れる。消えはしないものの、こいしの姿を確認できるほどの明るさにはなった。彼女は耳を塞いで、迷惑そうに花子を見ている。

 そちらに構う余裕もなく、花子はいきなり声をかけられた方へ振り向く。花子と同じ程度の背丈の、金髪をショートボブにした少女がいた。こいしと同じように耳を塞ぎながら、赤い瞳をまんまるにしている。

 

「び、びっくりした」

「それはこっちの台詞だよ!」

 

 心臓がまだドキドキしているせいか、大声で怒鳴ってしまった。すると、金髪の少女はムッと唇を尖らせ、

 

「声かけたくらいで、普通あんなに驚く?」

「驚くよ。だって真っ暗だし、何も見えなかったし、突然噛みつかれるし……。あ、噛みついてきたの、もしかしてあなた?」

「うん。食べられる人間かと思って」

 

 人間と間違われることは多いが、食べられると思われたのは初めてだった。そもそも、人間を食用かどうか見極める線引が分からない。

 ともかく、花子とこいしは自分達が妖怪であることを説明した。少女は非常に残念がっていたが、噛みついてしまったことは申し訳ないと思っているらしく、素直に頭を下げてくれた。

 

「痛い思いさせて、ごめんね。あたしはルーミア。人食いで、闇を操る妖怪なの」

「御手洗花子。子供を驚かす妖怪だよ。予定だけれど」

「私は古明地こいしっていうの、よろしくねぇ。さっきの黒くて丸いの、もしかしてルーミアなのぉ?」

 

 こいしの問いに、ルーミアは「たぶん」と頷いた。先ほどの暗闇は、あの球体の中にいたせいらしい。

 なんでも、彼女は昼間の光が眩しすぎて、日中はあの球体に包まれているそうだ。前が見えないので、木や壁によくぶつかるらしい。木の枝が折れていたのも、そういうことなのだろう。

 前が見えなくて不便じゃないかとルーミアに訊ねると、眩しいほうがよっぽど不便だと返されてしまった。地底から出てくると眩しいから、こいしにはその気持がよく分かると頷いていた。

 ルーミアの光嫌いはなかなかのもので、暗い森の中にいて、しかも薄いとはいえ彼女の闇に覆われているのに、眩しそうに目を(しばたた)かせている。

 

「うーん、眩しいなぁ」

「あ、ごめんね。私達に気を使って、闇を薄くしてくれているんだものね」

「このくらいなら、まだ大丈夫。それにしても、いつの間にか森の中に迷い込んでたなんて」

 

 前が見えない状態で彷徨っているのだから当たり前だが、森を目指して飛んでいたわけではないようだ。

 ともかく、怖い化け物でなくてよかったと、花子は安心した。妖怪の中でも群を抜いて人間に恐れられる人食いだが、花子は食べられる心配がないので、そこはまるで気にならない。

 薄い闇の中から不気味な森を見回して、ルーミアは今になって震えている。

 

「うぅ、怖いところに来ちゃったなぁ。見なきゃよかったよ」

「知らぬが仏って言うものね。でも、三人いれば怖くないよ」

「そうだね。いきなり噛みついたのにアレだけど、一緒に行っていい?」

「もちろん」

 

 笑顔で頷くと、ルーミアは安心したらしく、頬を緩めて胸を撫で下ろした。

 さっそく出発しようと、花子は歩いてきた道を振り返ろうとした。しかし、どちらを向いても木が生い茂っていて、方向が分からない。暗闇の中で悶着をしている間に移動してしまったらしく、ルーミアが折った枝がある木も見当たらなかった。

 自分の顔が青ざめるのを感じた。思わずこいしを振り返り、

 

「こいしちゃん、道、分かる?」

「分かんなぁい」

 

 爽やかに返され、狼狽しかける。しかし、すぐに飛べばいいということを思い出した。一度木の上に出てしまえば、あとは簡単ではないか。

 自分の間抜けさに呆れながら、花子はこいしとルーミアに振り返る。

 

「飛んで行こっか。その方が早いし――」

 

 言いかけて、飛び上がろうと妖力を練った。しかし、体から力が抜けていく感覚とともに、飛行の妖力は霧散していく。

 

「あれ、飛べない?」

「あたしの闇も、なくなっちゃった」

 

 見れば、ルーミアの闇はすっかり消え失せている。こいしもまた、飛ぼうとしては失敗して、尻もちをついている。

 どういうわけか、三人揃って妖力が使えなくなっていた。森に漂う霧が薄緑になっているのが原因なのか、それとも、そこら中のキノコが赤黒い胞子を放出しているせいか。原因を突き止められたとしても、妖術を取り戻せる保証はない。

 

「ど、どうするの?」

 

 怯えた様子で、ルーミアが顔を覗きこんでくる。どうしたらいいのか聞きたいのは、花子も同じだ。こんな怖い森の中を、日が暮れ始めるこの時間に歩きたくはない。

 妖力が使えないとなれば、三人は頑丈なだけの子供である。特に花子はそのことをよく知っているため、なおのこと不安だった。

 唯一怖がっていないこいしが、怯える花子とルーミアを見かねて、両手に腰を当てた。すっかり年上気分の様子で、

 

「仕方ないなぁ。私が前を歩いてあげるから、二人はついてきてくれればいいよぉ」

「でも、道、分からないんじゃないの?」

 

 ルーミアに聞かれて、こいしは元気いっぱいに「うん」と首肯した。花子は軽いめまいを覚えた。

 

「大丈夫! 歩いていればなんとかなるよぉ」

 

 気楽に断言して、こいしは歩き出してしまった。軽やかな足取りでどこへともなく向かっていく、その自信が怖い。

 振り返れば、ルーミアも覚悟を決めたようだ。自分の黒いスカートの裾をぎゅっと掴んで、

 

「花子、行こう? はぐれちゃったら、もっと大変になるよ」

「うぅ、そうだね。行くしかないよね……」

 

 花子とルーミアは、怯える自分の足に鞭を打って、こいしを追いかけた。

 三人いれば怖くないと言ったのは自分だというのに、花子の中にはもう、不安しかなかった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 迷いのないこいしの歩みは、花子とルーミアを森の奥深くに誘った。

 

「あれぇー?」

 

 首を傾げるこいし。ルーミアと出会った場所に比べて、不気味な霧も濃くなり見たこともないキノコの量も増えている。もっと早くに気づくべきだったと、花子は頭を抱えた。

 日も暮れかけて、さらに暗くなった森の真ん中である。あと数時間――あるいは数十分かすれば、鬱蒼と茂る木々が陽の光を完全に遮断してしまうだろう。

 周囲を伺い道を選んでいたこいしが、花子達を振り返った。こんな状況でもいつもの笑顔を浮かべて、

 

「迷っちゃった」

「うん……」

 

 帽子を取って後頭部を掻く仕草でごまかしているあたり、まずいことをしたという自覚はあるようだ。花子とルーミアの様子を見て、こいしの笑みは苦笑へと変わっていった。

 

「ごめんねぇ、こんなに深いとは思わなくて。魔法の森って、来るの初めてなんだぁ」

「あたしも、普段は近づかないようにしてたんだ。今日は本当にたまたま迷い込んじゃっただけなの。ここの雰囲気、ちょっと嫌だから」

 

 縮こまって、物音のたびに怯えているルーミアを見ると、ちょっとどころではないようだ。花子も似たようなもので、風が木の葉を揺らすたびにこいしの袖を掴んでいる。

 今から歩いても日暮れまでに脱出はできないだろうし、かといってこの場に留まるのが正しいとも思えない。花子達は、この先どうするべきかを話し合った。

 しかし、こいしはまだなんとかなると思っているし、怯えている花子とルーミアは同じ程度の知恵しか持っていないせいで、ろくな答えが出ない。そうこうしているうちに、森の中は宵闇に包まれてしまった。

 いっそ真っ暗でなにも見えなくなった方が、暗がりが住処だった花子と闇を操るルーミアにとっては都合がいい。しかし、森のキノコはありえない色で発光したりしているため、中途半端に森の中が見えるという、お化け屋敷のような状態になっていた。

 

「わぁー、綺麗だねぇー」

 

 手を合わせてはしゃぐこいしが、本当に羨ましい。ルーミアと隣り合わせに三角座りで座り込み、膝をぎゅっと抱えて、花子は神様かなにかにひたすら祈る。

 

「うぅ、どうか、怖い化け物が出ませんように」

「出たとしても、私が食べられる人間でありますように。できれば塩味強めで、おいしい人間でありますように」

「……」

 

 目をぎゅっと閉じて一生懸命祈っているが、もしかしたらルーミアは、花子ほど危険を感じていないのかもしれない。それとも、ただ単におつむが弱いだけなのか。

 そうしてしばらく震えていると、こいしが光るキノコを大量に持って戻ってきた。できれば捨ててきてほしいが、明かりがあれば怖くないだろうという、彼女なりの心遣いらしい。

 

「これ置いておけば、明るいよぉ」

「ありがとう、こいしちゃん」

「ま、眩しい」

 

 光が苦手なルーミアにはきついかもしれないが、キノコが放つ謎の光は、思った以上に強い。花子にとってはなかなか心強かった。

 森の中を見ないように、キノコの光をぼんやりと眺める。混ざりすぎて形容できない色になっているところ以外は、ホタルが放つ輝きにどことなく似ている。

 なんとなく、こいしが綺麗だと言った理由が分かる気がしてきた。ルーミアは目をしぱしぱさせているが、このまま眺めていれば、朝まで怖い思いをしなくてすむかもしれない。

 そんな希望が芽生えた時だった。辺りをふらふら歩いていたこいしが戻ってきて、花子達の後方を見るや、首を傾げる。

 

「あれぇ? 花子、その人だぁれ?」

「え?」

 

 釣られて振り向いても、相変わらず容赦なく不気味な森が広がるばかりで、人影はない。少し見回してみたが、やはり誰もいなかった。

 見間違いだろうかと思ったが、こいしはなおも、花子とルーミアの背後を指さし、

 

「だって、ほらぁ。そこにいるじゃない」

「だ、誰もいないよ。真後ろにいたら、さすがに気づくもの」

「こいし、やめてよ。怖いこと言わないでよ」

 

 二人で訴えるも、こいしは花子達に見えない何者かを、視線で追い続けている。どうやら、花子達の周りをウロウロしているようだ。あまりに怖くて、花子とルーミアは抱き合って震えた。

 見えない影に怯える妖怪というのも滑稽だが、だからといって恐怖に嘘をつけるわけもない。頼むからやめてくれと言っても、こいしは「だって、そこにいるんだもん」と言って聞かない。

 キノコの光はもはや慰めにもならず、花子は目を閉じることも忘れて、こいしの目線を追い続けることしかできなかった。

 ふと、こいしの背後を見た。なんとなくとか、気まぐれとか、そういった類ではない。視線を吸い寄せる何かが見えたのだ。

 

「ひ、ひぇぇぇっ!」

「花子? 花子、どうしたの!?」

 

 ルーミアが肩を揺さぶって聞いてくるが、答えられない。こいしの後ろに、森の霧がそのまま顔になったような化け物が現れたのだ。目と口だけがぽっかり開いて、今まさに、こいしを食べようとしている。

 怖さもあったが、友達の危機を感じて、花子は叫んだ。

 

「こいしちゃん逃げて!」

「えー?」

 

 こいしが振り返る。しかし彼女には見えていないのか、何もいないよと笑いながら、また花子達の周りにいるらしい何かを眺めた。

 霧のお化けは動かず、こいしを品定めするかのように眺めている。花子にはしっかり見えるのだ。しかし、同じ方向を見ているはずのルーミアまでもが、困惑している。

 

「花子、大丈夫? あっちには何もいないよ」

「いるよ、いるもの、でっかい霧のお化けが!」

「でも、私には見えない――」

 

 最後まで言えずに、ルーミアが固まった。顔色が真っ青になり、目には涙が溜まってきている。彼女の視線を追いかけ、花子もすぐに、ルーミアと同じ顔をする運びとなった。

 木々の向こうから現れたのは、魔女だった。かぎ鼻によれた黒い服、帽子。片手に杖を持ち、もう片方にはキノコが入ったバスケット。花子達を見て、ニヤニヤと笑っている。

 悪い魔女だ。花子は直感した。ルーミアも同じだろう。こいしだけが、爽やかに「こんばんは」と挨拶をしている。

 

「た、食べられるぅ……」

 

 ルーミアが呟く。どちらかというと食べる側の彼女だが、森の雰囲気にやられてすっかり参っているらしい。

 霧の化け物もまだ見えているし、こいしも花子の周りを歩く謎の人影を気にしている。八方塞がりの状況で、花子はルーミアを抱きしめて少しでも恐怖を紛らわした。

 シワだらけの口元が、くちゃりと嫌な音を立てて開く。魔女の黄金色の眼球が、ぎょろりと花子達を見回した。

 

「お前ら、なにしてるんだ? こんなとこで」

「ぎょえぇぇぇぇぇっ! 魔女が喋ったぁぁぁぁぁっ!」

「いやぁぁぁぁ! 食べないでぇぇぇぇっ!」

 

 聞き覚えのある口調であることを、花子が思い出せるはずもなかった。パニックに陥り、ルーミアとお互いの服を掴んだまま逃げようとしては転び、光るキノコが散乱し、それでまたわけが分からなくなる。

 魔女が歩み寄ってくる。極力離れようと務めたが、霧のお化けが近づいてきて、花子は腰を抜かした。もつれるようにルーミアも倒れる。花子達やこいしには目もくれず、魔女はキノコを拾い上げ、バスケットに入れた。

 

「マボロシダケをこんなに集めやがって。探すの大変なんだぜ、これ」

「ごごごごめんなさい全部あげるから許してください!」

「あたし、人間食べてるから灰汁が強いよ。食べてもおいしくないし、キノコともあわないよ!」

 

 一通りキノコを拾ってから、魔女はとうとう、花子とルーミアに歩み寄ってきた。その顔は不快そうに歪んでいて、それがまた、死ぬほど恐ろしい。

 

「お前ら、さっきから人を化け物みたいに言いやがって。私が魔法使いなのは、今に始まったことじゃないだろ」

「あわわわわ、もうダメ、こいしちゃん助けてぇ!」

 

 最後の希望とすがってみたが、こいしは魔女のバスケットに収められていくキノコを名残惜しそうに見つめていて、こちらを見ようともしなかった。

 とうとう死を覚悟したらしいルーミアが、半ば放心しながら、虚空を見上げて乾いた笑みを浮かべる。

 

「最後にもう一度、食べごろの人間を味わいたかった……」

「ルーミア、しっかり! 戻ってきてぇ!」

「おい花子。お前どうしたんだよ、なんかおかしいぞ」

 

 魔女の手が、花子の肩に置かれた。細く長い指の先には、歪に歪んだ爪が伸びている。捕まったと思うと、花子の混乱は頂点に達して、とうとう感情の処理が不可能になった。

 大声で泣き始めてしまい、さすがにこいしが駆け寄ってくる。しかし、一度泣きだしてしまうと、なかなか止めることができない。ルーミアはまだうつろな目で、遺言らしい何かを呟いている。

 

「よぉしよし、花子大丈夫だよぉ。この魔女さんは怖くないよぉ」

「怖くないっつか、知った顔だぜ。マボロシダケのせいか? ほら花子、あとルーミアも、私の顔を見ろよ」

 

 恐ろしい魔女の顔が目の前にやってきて、花子はいっそう強く泣き喚いた。霧の化け物がゲラゲラと笑っていて、それがまた、花子の恐怖を煽る。

 ついでに、ルーミアまでもが恐怖に負けて泣きだした。どちらを慰めたらいいものかと、こいしが慌てている。

 森の真ん中で繰り広げられる阿鼻叫喚に、魔女がとうとうしびれを切らし、立ち上がった。右手に持った杖を妖怪少女三人に向け、

 

「あぁもう、面倒だな。こうなったら荒療治だ、歯ぁ食いしばれよッ!」

 

 杖が輝き、怒涛の光線が放たれる。森の木をなぎ倒す威力のレーザーは、花子とルーミア、こいしを盛大にふっ飛ばした。

 光の奔流にもみくちゃにされながら、覚えのある痛みに、花子はようやく恐怖の魔女が友人である可能性に思い至るのだった。



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そのさんじゅうろく 恐怖!不気味な森の魔法使い!

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。前の大げさな手紙と一緒に、これも届くのかな。

 

 結局、私が見た怖いのは、全部幻でした。キノコには色々なものがあるんだね。太郎くんも、適当に取って食べたりしないようにね。

 

 魔理沙に助けられて、私達は幻を見なくなる薬をもらったの。すごい効き目で、すぐに直っちゃった! 味は、とっても苦かったけれど。

 

 小学校にも勉強をがんばってる子がいっぱいいたけど、魔理沙はとても熱心なの。弾幕の勉強は遊びかもしれないけれど、何かに一生懸命なのって、すごく格好いい。

 

 太郎くんは、今でもリフティング千回を目指しているのかな。練習している太郎くんを見ているの、好きだったな。達成できたら、教えてね。

 

 また、お便りします。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 魔法の森にある小さな家に、花子達は案内された。

 魔法で吹っ飛ばされても、花子達の幻覚は元に戻ってくれなかった。机に向かって薬を調合している魔女は、今も絵本に出てくる恐ろしい魔法使いそのままだ。

 無論、もう彼女が友人の魔理沙であることには気づいている。あの光――マスタースパークは疑いようもなく彼女の魔法だし、男の子のような口調や得意の軽口も、魔女が魔理沙であることを確信させてくれる。

 ただ、やはりどうにも、目の前の恐ろしい魔女が魔理沙であるということに違和感がある。外見の印象は、やはり大切らしい。

 離れたところで邪魔をしないよう見守っているが、ルーミアはおかまいなしに、魔理沙に話しかけている。

 

「いっぱいマボロシダケを集めたせいで、魔理沙が怖い魔女に見えたのかな」

「お前らが引っこ抜いた奴は、そんなに関係ないぜ。ちょうど一昨日くらいから、森のキノコが胞子を飛ばす時期だったんだ。当然、マボロシダケも活発に飛ばす。あれを吸うと、そこにないものが見えるんだ。私も初めは苦労したよ」

「じゃあ、あたし達が妖力を使えなくなったのも、キノコのせい?」

「あれはまた違うんだ。緑の霧が出てたろ? あれが出ると、妖怪は力を使えなくなるんだ。私の魔力も調子が悪くなる。どうして出るかは、今でも分からないんだよなぁ」

 

 ルーミアの質問に答えながら、魔理沙はゴリゴリと薬の元を磨り潰している。魔女の姿と相まって、とても怪しい。

 

「魔理沙はどうして、マボロシダケを集めていたの?」

 

 花子が訊ねると、魔理沙がこちらを向いた。魔女の顔にはやはり慣れず、失礼だと分かっていても、思わず目を逸らしてしまう。

 

「魔法の材料にするんだ。森のキノコを乾燥させて粉末にしたあとで、いろいろ実験して、魔法を開発するんだぜ」

「魔法って、作れるんだねぇー」

 

 散らかった部屋を眺め回していたこいしが、感心しているようなそうでもないよな、なんとも言えない口調で頷いた。

 魔理沙曰く、生身の人間である以上は、種族としての魔法使いのように魔法を修得することは難しいそうだ。彼女は独学で魔法らしい効果の出るキノコなどを集めているうちに、魔力に目覚めることができたらしい。運が良かったのだと魔理沙は笑うが、それは努力の賜物だなと花子は思った。

 見れば、部屋中に散らばる本は、どれもが魔法書だ。本が私物かどうかは別として、これだけの量を読み漁っているのだ。一昼夜で手に入れた魔法ではあるまい。

 

「よし、できたぜ。マボロシダケの解毒剤だ。苦いから一気に飲めよ」

「えー、あたし苦いの嫌いだよ」

 

 緑色の粉末を受け取り、ルーミアはまだ舐めてもいないのに不味そうな顔をしてみせた。こいしが一気に飲み干して、「うへぇ」と舌を出している。本当に苦いらしい。

 せっかく魔理沙が作ってくれたのだからと、花子も覚悟を決めて粉を口に流し込んだ。今まで味わったことのない苦味に、ついこいしと似たような声を出してしまう。

 

「うひゃぁ、本当に苦い!」

「だからそう言っただろ。でも、効き目はすぐ出るぜ」

 

 言われた通り、視界が一瞬白ばんだかと思うと、次の瞬間には魔理沙の姿が元に戻っていた。ようやくいつもの魔理沙を拝めて、花子はホっと胸を撫で下ろす。

 一方、ルーミアはまだ飲めていないらしい。紙に乗っている粉末を見つめて動かない彼女を、魔理沙が促す。

 

「ほら、ルーミアも飲めよ」

「苦いの嫌だもん、飲みたくないよ」

「そうか、残念だぜ。こいし、捕まえろ」

「ほい」

 

 素直に従って、こいしがルーミアを捕らえた。左手で体を抑えこみ、右手で無理矢理ルーミアの口を開けさせる。

 人間を食べるだけあってか、彼女の犬歯はとても尖そうだった。噛まれた時の痛みにも、納得がいく。しかし、こいしは怖がる様子もなく、がっちりと口を固定した。

 

「魔理沙、いけぇー!」

「やらー! はらしれー!」

「ちゃんと飲み終わったら、放してやる」

 

 容赦なく粉末を流し込み、ルーミアが盛大にむせた。予想以上の苦さに半泣きになりながらも、ちゃんと飲み込んでくれたらしい。彼女の幻覚も、もう解けているだろう。

 口直しにと、魔理沙が三人に飴玉をくれた。甘い飴は、口の苦味を徐々に取り去ってくれる。

 

「ありがとう、魔理沙。助かったよ」

「解毒薬を作るくらいなら、どうってことないぜ。それよりもお前ら、なんでこの森に来たんだ? ここにゃ妖怪もあんまり近づかないんだぞ」

 

 花子はこいしとルーミアと目を合わせてから、揃って恥ずかしげに俯きながらも、魔理沙に事の顛末を話した。誰もが間抜けなせいで起こった事態だ。誇らしげに語れることではない。

 話し終えると、魔理沙は「お前ららしいや」と笑った。笑い飛ばしてもらった方が、花子としてもありがたい。

 幻覚は消えたが、少し休憩しても、花子達の妖力は戻ってこない。例の霧が、まだ出ているのだろう。

 

「魔理沙、霧はいつ頃なくなるの?」

「さぁ、どうかな。一日で消える時もあるけど、二週間以上続く時もあるからなぁ」

「それは、困っちゃうな」

「今日はもう暗いし、泊まっていけよ。散らかってるけど、まぁ適当にやっててくれ。私はもうちょっと、スペルの研究をしてるから」

 

 世話になりっぱなしは気が引けるが、夜の森をもう一度通る気には、とてもなれない。花子はお言葉に甘えることにした。

 

「ごめんね、ありがとう」

「気にすんな。あいつらはもう、そのつもりらしいしな」

 

 見れば、ルーミアとこいしはもう、我が家のごとくくつろいでしまっている。魔理沙の気さくな性格がそうさせているのだろうが、もう少し立場をわきまえた方がと、花子は渋面を浮かべた。

 とはいえ、魔理沙は二人を咎めるようなことはしない。きっと彼女のことだから、こいし達のように好きにしてくれていた方が、気楽なのだろう。

 そうなると、花子もいつまでもかしこまっているわけにはいかない。魔理沙が机に向かってしまったので、物をどかして床に座り、適当な本を拾い上げた。外国の本で、中身を見ても読める気がしない。

 

「英語、なのかな。魔理沙は読めるの?」

「あぁ、それか。辞書を片手に半分くらい読んだけど、飽きちゃったんだよな。私向きの魔法は載ってないし」

「辞書があれば読めるって、すごいね。私なんて、まず辞書とにらめっこになっちゃうよ」

 

 ノートにペンを走らせながら、魔理沙は笑った。作業をしながら会話ができる器用さは、彼女の豪快なスペルや飄々とした性格とアンバランスで、なんだかおかしい。

 外国語の魔導書を置いて、花子はタイトルからして日本語の本を探す。本の山を慎重に漁っていると、古ぼけた漫画の単行本を見つけた。幽霊族の生き残りである少年が、目玉だけで生き返った父親や個性豊かな妖怪達と、悪いお化けを退治するという話だ。

 外の世界では、とても有名な漫画だった。学校の図書館にも置いてあったことがあり、自身も退治される側だというのに、花子も太郎と一緒に夢中になって主人公を応援したものだ。

 

「懐かしいな、これ」

「あぁ、それか。まだ私が小さい頃に、香霖が拾ったのをくれたんだ。面白いよな」

「うん」

「どれぇー?」

 

 興味を持ったらしいこいしに渡してやると、彼女は一言礼を言って、そのまま読み始めた。花子も読みたかったが、ここは初めて読む者に譲ってやるべきだろう。

 どうやら気に入ってもらえたようで、こいしはいつにもまして真剣な顔でページを捲っている。こうなると、またも花子は暇になってしまう。

 また別の本でも探そうかと思った時、ぐぅと小さな音が鳴った。花子の腹ではない。見れば、本の山に座ったルーミアが、お腹を抑えている。恥ずかしがるでもなく魔理沙に向かって、

 

「お腹減った。魔理沙を食べてもいい?」

「いいわけないだろ。待ってな、キノコを焼いてやるから」

「えぇー、キノコはもういいよ」

「ちゃんと食えるやつだよ。醤油をたらすと美味いんだ。米も炊いてあるけど、そんなに量がないんだよな。みんなで分けて食おうぜ」

 

 立ち上がり、魔理沙がキッチンに向かった。花子も手伝うために、後を追いかける。

 霧雨宅の台所は、料理をするところというよりも、実験施設と言ったほうが似合いそうな様相だった。見たこともない器具や切り刻まれたキノコが散乱している。

 混沌としたキッチンを眺めていると、顔に出ていたらしく、魔理沙が苦笑した。

 

「言わんとしていることは分かるけど、出す物はちゃんと食えるから、安心しろよ」

「ご、ごめん。そういうつもりじゃないんだけれど」

「いいっていいって。そろそろ片付けなきゃって思ってるんだけど、どうしても手をつけられないんだよなぁ」

 

 散らかってはいるが、どこに何があるかは把握しているようで、魔理沙は迷いなく茶碗と箸、皿を取り出した。

 慣れた手つきで大きい三脚台の下にミニ八卦炉を置き、網を三脚台に乗せる。『食用』と書かれた袋から半分に切られたキノコを取り出して網に並べ、八卦炉に火を灯した。

 料理というより、理科室で子供達がしていた実験に酷似している。しかし、網の上からキノコが発する香りは食欲をくすぐって、視覚と嗅覚があべこべになり、花子の頭はこんがらがった。

 人数分のキノコが焼き上がり、醤油を少々たらして、実にシンプルな料理が出来上がった。添え物も何もないが、ご飯は進みそうだ。花子は皿を、魔理沙は白米が盛られた茶碗を、それぞれお盆で運ぶ。

 

「おまたせー」

「いい匂い!」

 

 キノコにブーイングをつけていたルーミアが、目を輝かせた。こいしも漫画を閉じて、正座をして待機している。その瞳は、皿の上のキノコを注視していた。

 テーブルがないので床に皿と茶碗を置き、四人は食事にとりかかる。香りもさることながら、その味も驚くほどおいしい。醤油の香ばしさが、白米に実に合う。

 箸の使い方に四苦八苦しながら、ルーミアがキノコを口に運んだ。瞬間、目を見開き、

 

「お、おいしいー! キノコって、こんなにおいしかったんだ」

「だろ? このキノコは味もいいし栄養価も高いんだ」

「あたし、人食いやめてキノコ食いの妖怪になろうかな」

「そんなもん、妖怪でもなんでもないだろ。ただの動物だぜ」

「そーなのかー」

 

 新しい味覚に目覚めたルーミアは、会話も半分上の空で、握りしめた箸にキノコを突き刺し食べている。箸の使い方がお行儀悪いが、幸せそうなので、花子は何も言わないことにした。

 量が少なかったからか、皆があっという間に食事を終えてしまった。片付けは四人でやって、魔理沙の部屋に戻る。

 満足したらしいルーミアが、魔理沙のベッドに横になるや、うとうととし始めてしまった。こいしに負けず、自由人である。

 助けられた身でありながら、ベッドまで占領するのはまずい。花子はルーミアを起こそうと、その肩を揺さぶった。

 

「ルーミア、そこは魔理沙のベッドだよ」

「知ってるぅ……」

「うん、だから、床で寝よう? 私のワンピース、枕にしていいから」

「やだぁ。ベッドで寝れる機会なんて、滅多にないんだからぁ」

 

 駄々をこねる姿が、外見の特徴も似ているせいか、フランドールを思い起こさせた。きっとあの少女は、こうなるとテコでも動かないだろう。

 ルーミアならもう少し聞き分けてくれるかとも思ったが、ゆっくり目を閉じて、寝息を立て始めてしまう。寝顔がとても気持ちよさそうで、起こし辛い。

 どうしてものかと眉を寄せていると、花子達の布団を引くために本をどかしていた魔理沙が、花子の肩を軽く引いた。

 

「いいよ、気にすんな。あんまり上等なベッドじゃないけど、気に入ってもらえてるなら私も嬉しいしな」

「ルーミア、住み着いちゃうかもねぇー」

 

 押入れから布団を出しながら、こいしが言う。人食い妖怪が人と住むなんて危険極まりないが、魔理沙ならうまくやれるかもしれないと花子は思った。

 普通の人間なら勘弁してくれと言うところだが、魔理沙は小さく肩をすくめ、

 

「ルーミアはダメだな。こいつ、食い物を勝手に食いそうだから」

「妖力が使える日は、いつも真っ暗になるしねぇ」

「あぁ、それが一番困るな。スペルの研究ができないなんて、死んだほうがマシだぜ」

 

 三人で布団を敷いて、花子とこいしはその上に座った。長い間使われていなかったらしい予備の布団は、奇跡的にカビてはいない。魔理沙曰く、魔法をかけていたらしい。

 魔理沙はまたスペルの研究に没頭し始めた。とても真剣で、弾幕への熱意が感じられる後ろ姿だ。

 横になったら眠ってしまいそうで、花子は布団の上に正座していた。しかし、叫び疲れたからか、徐々に足が崩れて女の子座りになり、うつらうつらと、睡魔が頭の中を飛び始める。

 せめて魔理沙が寝るまではと思ったが、意識が飛び飛びになり始めた。何度か頭を振ってごまかしていたが、とうとうこいしにもたれかかってしまう。

 

「あぅ、こいしちゃん、ごめん……」

「花子、眠いのぉ?」

「大丈夫、まだ、起きてられるから……」

 

 言葉ではそう言えたが、視界はぼんやりとしているし、まともに思考が回らない。体はすぐにでも寝転がりたいと訴えている。

 見かねた魔理沙が振り返り、花子の頭に手を置いた。

 

「もう寝ちゃえよ。私に遠慮してるんだろうけど、我慢は体に毒だ」

「うぅ、でも」

「無理に起きてられる方が、気になるぜ」

 

 そこまで言われてはと、花子は諦めの言葉に素直に従った。こいしに寝かされ、掛け布団を被されると、あっという間に睡魔が広がってきた。

 花子が眠りに向かうのを確認し、魔理沙が机に向き直る。その動きをぼんやりと見つつ、花子の意識は夢の重力に引かれていく。

 

「おやすみ、花子」

 

 こいしの優しい声を耳元で聞き、花子は眠りに落ちた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 魔理沙がグリモワールと呼ぶ自筆の本を読んで、こいしは思わず唸ってしまった。彼女が戦った相手のスペルを細かく考察してあり、弾幕が大好きなこいしにとって垂涎ものである。

 もちろん、こいしだって何度も遊ぶ相手のスペルは研究攻略しているが、ここまで丁寧に分析したことはない。初対面でこいしが人間ではないと思い込んでしまった魔理沙の強さにも、納得がいく。

 机で熱心に何かを書いていた魔理沙が、その手を休めた。グリモワールを読み耽るこいしに、

 

「お前は寝ないのか?」

「うん、眠くないの。魔理沙は、毎日こうやって勉強してるのぉ?」

「まぁ、そうだな。寝る前にはいつもスペルの開発か考察をやってる。じゃないと落ち着かないんだ」

「ふぅん」

 

 立ち上がって、花子を踏まないように注意しつつ、魔理沙の机を覗きこむ。ノートにびっしりと書かれた文字列は、日本語と外国語が交じり合っていた。

 もとより勉強が嫌いなこいしだ。本を読むのは好きなのだが、自分で調べ物をしたりするとなると、途端にやる気がなくなってしまう。趣味とはいえ、魔理沙の努力には素直に感心した。

 

「そういや、お前も弾幕が好きなんだよな」

「うん。綺麗だし、楽しいもんねぇー」

「こいしの弾幕は厄介だったなぁ。頭の隅っこをつついてくるっていうか」

「あの時は、負けちゃったんだよねぇー。今度は勝つよぉ」

 

 趣味が合うもの同士、話しが盛り上がる。自分達の弾幕はもちろん、こいしと魔理沙は今まで戦った弾幕についても語り合った。

 魔理沙はスペルカードルール制定時から、こいしは地上で弾幕ごっこを知ってから、お互いに多くの場数をこなしてきた同士だ。

 美しさ重視から、ひたすら避けにくい弾幕。魔理沙のように一点豪華主義者もいれば、霊夢のようなトリッキーな戦術で攻める者もいる。いくら話しても、話題の種が尽きることはない。

 すっかり研究を中止して、魔理沙もこいしとの話に夢中になってしまっていた。気づけば、すっかり深夜を回っている。

 楽しくなるあまり、声が大きくなっていたかもしれない。こいしは花子とルーミアを起こしてしまったかと心配したが、二人は今も眠りの中にいるようだ。

 

「いやー、まさかお前とこんなに話しが合うとはな。意外だぜ」

「そうだねぇー。魔理沙は地底には良く来るのに、地霊殿には来てくれないんだもん」

「行ってもこいしがいないんだよ。ペットは歓迎してくれるんだけど、お前の姉貴は私を追い払おうとするし」

「お姉ちゃん、人見知りがすごいからねぇー」

 

 社交的になれとまでは言わないが、こいしの数少ない悩みの一つが、姉のさとりであった。過去が過去だけに仕方ないのだが、来客のたびに心を読んで嫌がらせをするせいで、こいしは友達を呼ぶこともできないのだ。

 花子ならきっと仲良くなれると思っているのだが、正直不安でもある。そのことを魔理沙に話すと、彼女は腕組みして、神妙な顔で唸った。

 

「そうだなぁ。花子はいい奴だけど、単純だからな。心を読まれることは嫌がらんだろうけど、嫌味を言われると怒るかもしれないな」

「天狗の時みたいに?」

「有り得なくはない、ってところだな。まぁお前が間に入ってやれば、うまくいくんじゃないか? たぶん」

「やっぱり、そうかぁー。がんばってみるよぉ」

 

 花子と仲良くなるのは、姉のためにもなると、こいしは信じていた。自分が彼女と関わって変われたと思えたからだ。

 ふと、魔理沙がこちらをじっと見ていることに気がついた。首を傾げると、彼女はどこか不思議そうな顔で、

 

「いや、さとりは人間も妖怪も毛嫌いするけど、こいしは妖怪が相手ならそうでもないよなぁって思ってさ。私は人間だけど」

「……」

 

 あまり考えたことはなかったが、言われてみるとそうだった。こいしは、覚の力で人間にも妖怪にも嫌われていた。心の醜い姿を見るのが嫌で、一時はさとりと同じように、人間も妖怪も避けていた。

 他の妖怪と接するようになったのは、いつからだろうか。胸に手を当てて、こいしはゆっくりと思い出す。

 

「きっと……第三の目を閉ざした時からかなぁ。地上に出るようになって、気付かれないように無意識に隠れながら、妖怪達が遊んでいるのを見ていたの。相手が心の中で自分をどう思っているか、そんなことを気にしないで、みんなすっごく楽しそうだったんだぁ。今思うと当たり前なんだけど、覚の私にとって、心を読めない相手を信頼するってことが、信じられなかったの」

「なるほどな。でも、なんで人間は嫌うんだ? その条件なら、人間も同じじゃないか」

「人間は、違う」

 

 人間の魔理沙を相手に、こんなことを話すべきなのだろうか。しかし、彼女が人間だからこそ、聞いてほしくもある。

 口を開くと、言葉は思った以上にすんなりと出てきた。

 

「一度だけ、人里に行ったことがあるの。ずっと昔のことだけどね。その時出会った人間は、私にとても良くしてくれたの。住むところもご飯もくれた。人間もいいなぁって、あの時は思えてたんだよ」

「……」

「でもね、その人間は私が覚だと知っていたの。知っていて、私の能力を利用しようとしていた。嫌いな人の心を読ませて、そのことを利用して相手を貶めようとしていたの。それが、とてもショックだったんだぁ。

 覚られるのを怖がって逃げられることは、どうとも思わない。私も妖怪だしね。でも、まさか私達の力を、あんな薄汚いことに使おうって考えるなんて。だから断ったの。もう心は読めないし、そんなのは嫌だって言ったら、あいつ、私を妖怪退治屋に売ったの。魔理沙、知ってる? スペルカードが出来る前の妖怪退治って、とっても痛いんだよ」

 

 魔理沙は真剣に聞いてくれていた。同じ人間を庇ったりせず、こいしを慰めようとするでもなく、滅多に見ない真顔で続きを待っている。こいしは続けた。

 

「痛くて苦しくて、やっぱり誰も信じちゃダメなんだって思った。人間も妖怪も、自分のことしか考えられないクズばかりなんだって。私だって、人のことは言えないのにねぇ。それで、その妖怪退治屋と私を利用しようとした人間、殺しちゃったんだぁ。

 後悔なんてなかったよ。ざまぁみろって、いい気味だって、清々しい気分だった。あれから、人里にはできるだけ入らないようにしてるんだぁ」

「……」

「妖怪の友達も信じられなくなっちゃったから、ケンカもたくさんしたよ。殺し合いになりかけたこともあったなぁ。でも、みんな人間とは違うの。妖怪のみんなは、すごく正直だから。真正面から私にぶつかってくるか、逃げるかのどっちか。ずるいのもいるけど、人間みたく汚くない。私が妖怪だから、贔屓目もあるかもしれないけどねぇ」

「それで、妖怪だけは信じようって思ったのか?」

「そう思えたのは、また別のこと。妖怪とケンカして傷だらけで地底に戻った私を、鬼の萃香さんが手当してくれたの。他人の世話にならないって暴れる私を押さえつけて、無理矢理。

 鬼は嘘をつかないって言葉も信じられなかった私に、萃香さんは『なら何も言わない、信じなくていい』って、すごく真剣に言ったの。その後は本当になんにも言わないで、ただ手当だけをしてくれた。その時になってなぜか、私は誰かを信じたかったんだって、気づいたんだぁ」

 

 普段はそんな風には見えず、どころか他人に迷惑をかけることの方が多い萃香だ。魔理沙が意外そうに「あいつがねぇ」と呟くのも、無理はない。

 

「なにも、人間全部を憎んでるわけじゃないよ。いい人間がいるのは分かってるけど、どうしても、一緒くたに見ちゃう癖が抜けてくれないんだぁ。

 誰かを信じられるって、すごく気持ちいいでしょ? それを教えてくれたのが、萃香さんとか花子とか、友達って呼べる妖怪達だったんだぁ。だから、例え相手に嫌われていても、妖怪まで嫌う理由は、もうないかなぁ」

「そっか」

 

 あまり自分のことを語ったことがなかったので、こいしはなんだか恥ずかしくなった。魔理沙も気まずそうで、妙な沈黙が部屋を包む。花子とルーミアの暢気な寝息が羨ましい。

 しばらくして、魔理沙が頬を掻きつつ、なんともいえない表情を浮かべた。

 

「まぁ、なんだ。お前みたいなボケっとした奴にも、言えない過去ってのがあるもんなんだな」

「なにそれ、酷いなぁー。私、一生懸命話したのにぃ」

「私はてっきり、『わかんなぁーい』って言われるかと思ってたぜ」

 

 魔理沙のモノマネが実に微妙で、二人は一緒に、花子達を起こさないよう声を殺して笑った。

 机の上で灯る八卦炉の火に、魔理沙が少しだけ寂しそうな目を向ける。

 

「でもま、その気持ちは分かるな。人間は汚い、その通りだよ、ホント。大人ってのは特にそうだ。いつか私もあぁなっちまうのかと思うと――ぞっとするな」

「魔理沙は、変わらないような気がするけどなぁー」

「どうかな。変わりたくないけど、人間は短命だからさ。生きるうちにやりたいことを全部やろうとすると、どうしても他人を蹴落とさなきゃならなくなる。だから、どうしても醜い心になっちまうのかもしれない。それでも私は、短い一生で大切な夢を成し遂げる人間でいたいんだけどな」

 

 こいしが心を動かされた子供達と、魔理沙は違っていた。幼くして独り立ちしたからだろうか、子供と大人の中間ではなく、それらが混ざり合ったような、不思議な少女だ。 

 小さく溜息をついてから、魔理沙はゆっくりと伸びをした。

 

「思った以上に長話になっちゃったけど、聞きたかったことは聞けたな。ありがとな、こいし」

「いえいえー」

「さて、そんじゃ寝るか。明かり消すぜ」

 

 うん、と答えて、布団に潜り込んだ。八卦炉を消し、魔理沙も花子を挟んだ向こう側で、もぞもぞと床につく。

 他人に話せなかったことを吐き出せて、こいしの心は羽が生えたように軽くなっていた。布団の柔らかな感触が、いつもより心地良い。すぐにでも寝付くことができそうだ。

 妖怪と人間という超えられない種族の壁があっても、本音を打ち明けられる友人になれる。こいしの中の人間への価値観が、また少し、和らいだ。



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そのさんじゅうなな 恐怖!人形操る森の魔女!

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。お元気ですか? 体調を悪くしたり、していないかな?

 

 今日は、とても素敵な魔法使いさんに会いました。パチュリーさんと同じで、魔法使いという種族の妖怪なんだよ。でも、昔は人間だったんだって。

 

 その人は、人形をとっても上手に作るんだ。それだけじゃなくて、いっぱいの人形をいっぺんに操ることができるの! まるで、生きているみたいだったよ。

 

 こいしちゃんがお姉さんのために人形を作ってもらっていたから、私もお願いしちゃった。どんな人形かは、秘密。えへへ。

 

 太郎くんにも作ってもらおうと思ったのだけれど、男の子に人形は変かなって思って、言わなかったの。欲しかったらお願いに行くから、いつでも言ってね。

 

 ルーミアは、人間以外にもおいしいものがあるって森に来て分かったみたいだから、もしかしたら人間と仲良くなれる日がくるかもね。

 

 なんだか少しだけ、太郎くんに会いたくなっちゃった。少しだけだから、大丈夫。こいしちゃんもいるし、寂しくないよ。

 

 手紙のお姉さんがいつか会えるかもって言ってたから、そうなったら嬉しいね。お話たくさん、聞かせてあげたいな。

 

 今日はこのへんで。またお手紙書くね。

 

 

 花子より

 

~~~~

 

 

 朝になっても、まだ緑の霧は消えていなかった。妖力も、森を出るまでは使えなそうだ。

 簡単な朝食を済ませてから、花子達は森の外に向かうことにした。魔理沙の案内があるので、さすがに迷うことはもうないだろう。

 昨日はあんなに怖かった森も、頼れる案内役がいるせいか、今朝は爽やかにすら感じる。花子はなんの不安もなく歩くことができた。

 朝日がほとんど差し込まないので、森は薄暗い。しかし、それでもルーミアには十分すぎるほど明るいようだ。

 

「うぅ、眩しいよー」

「ルーミアは、もっとお日様に慣れたほうがいいよぉ」

 

 こいしに言われて、ルーミアは分かりやすく眉を寄せた。

 

「やだよ。お肌が荒れるし髪は傷んで枝毛が増えるし」

 

 前髪の先に触れながら、ルーミアが唇をとがらせる。確かに髪や肌に気を使っているらしく、金髪の触り心地はとても滑らかだった。肌も近くで見ると、吸血鬼のように白くて綺麗だ。

 

「でも、お日様に当たるだけで髪が悪くなったりしちゃうの? だとしたら、私なんて大変なことになってそうだけれど」

 

 いつもおかっぱにしている黒髪だが、触ってみても傷んでいるのかどうかを判断することはできなかった。こいしも似たようにウェーブのかかった緑灰色の髪に触れ、首を傾げている。

 妖怪娘が三人揃って髪をいじくりまわしていると、それを見ていた魔理沙が笑った。

 

「陽に当たる程度で肌荒れなんてしないぜ。度が過ぎると分からんけど」

「そーなのかー。でも日の光はやっぱやだなぁ。月明かりは大丈夫なのに」

 

 払いのけられるはずないだろうに、ルーミアはしきりに光を振り払おうとしている。帽子の一つでも持っていれば違うのだろうが、彼女の頭には、赤いリボンがついているだけだ。

 聞けば、このリボンは御札であるらしい。ルーミア本人には触ることもできないそうだ。なんらかの神聖な力が働いているのだろう。

 よせばいいのに、花子とこいしは、つい好奇心に負けてしまう。

 

「こいしちゃん、せーので触ってみない?」

「いいよぉー。ルーミア、ちょっと動かないでねぇ」

「うん」

 

 言われた通りにルーミアが立ち止まり、魔理沙も面白そうに見物している中、花子はこいしと目を合わせる。

 二人して息を合わせ、同時に「せーの」と掛け声を上げて手を伸ばす。そして、二人はやはり一緒に、後悔した。

 リボンを掴んだ瞬間、全身に落雷を受けたような衝撃が駆け抜けたのだ。痛いなどというものではなく、花子とこいしは揃って悲鳴を上げ、飛び上がる。

 

「いたぁーい、なにこれぇ!」

「ルーミア、こんなものを頭につけて平気なの?」

 

 どこが痛いのかも分からず、とりあえずリボンに触れた手をさすりながら、花子は涙目で聞いた。ルーミアはこくりと頷き、

 

「取ろうとしなければ、なんともないよ」

「それは確か、霊夢がつけたんだよな。お前が見境なくあっちこっち真っ暗にするから、自分の周りにしか闇を作れないようにって」

「そうそう。でも、最近は人間を狩ることも少ないし、ちょっとしか闇を出せなくてもいいかなぁって。リボンが取れたら強くなるぞーって言うと、結構騙せるし」

 

 意外なことに、本人はそれほど嫌がっていないようだ。ハッタリに利用する程度にまで慣れているらしい。確かに、霊夢直々に力を封印されているとだけ聞けば、ルーミアが実はとてつもなく強いと勘違いしてしまうだろう。

 まだリボンに触れた時の痺れは抜けていないが、一行は再び森の外を目指した。ぬかるんだ地面は少し歩きにくいものの、そのせいで遅れそうになるほどではない。

 気温が上がり始めて、ルーミアが陽の光に当たりすぎてボーっとしてきた頃、魔理沙が思い出したように手を打った。

 

「おぉ、そうだ。ちょっと寄り道していいか?」

「いいけれど、どこに行くの?」

「知り合いの家だ」

 

 寄り道とは言ったものの、進行方向に変化はない。道が分からない妖怪一行は、素直に魔理沙の背中を追いかける。

 魔理沙の目指す場所には、すぐについた。彼女が思いたった時には、近くまで来ていたようだ。

 目的地にあったその家屋は、小さな洋館だった。鬱蒼とした森の中にありながら、小奇麗で上品な建物だ。紅魔館のような自己主張の強さはなく、可愛らしい。

 鉄の柵を遠慮無く押し開け、魔理沙は洋館の玄関を二、三度ノックした。花子達も、その後ろに立つ。

 

「おーい。アリス、いるんだろー。私が遊びに来たぜー」

 

 家主の名前は、アリスというらしい。魔法の森に住みたがるおかしな人間は魔理沙くらいなものだろうから、妖怪だろうと花子は予想した。

 ノックからしばらくして、ドアが開いた。しかし、現れたのは二十センチほどの、西洋人形だった。ドアを押し開け、手で中に入れとジェスチャーしている。

 魔理沙が片手を上げて礼とし、中に入っていく。花子はとりあえず人形に向かって、お辞儀をした。

 

「あの、アリスさん、初めまして。私は御手洗花子です」

 

 しかし、人形はうんともすんとも言わない。こいしとルーミアの視線がとても痛くなり、赤面したまま顔を上げる。

 

「ち、違うみたいだね」

「そりゃねぇー」

「妖怪かなーって思ったけど、魔理沙にも何も言わないしね」

「うん……」

 

 恥ずかしさに参ってしまいそうになったが、頭を振って気を取り直す。花子達は、人形に招かれるまま洋館にお邪魔した。

 中に入っても、外から見た印象はまったく変わらなかった。手入れが行き届いていて、装飾品も可憐なものばかりだ。

 だが、三人の視線を引きつけて止まないものは、他にあった。紅魔館にいた妖精メイドのように、あちこちを飛び回る小さなメイドがたくさんいるのだ。そのどれもが、人形だった。先ほど花子達を招き入れた人形と同じ程度の大きさのものが多い。

 こんなにたくさんの人形に囲まれて暮らすなんて、なんとメルヘンチックなのだろう。花子はつい見入っていたが、目の前を横切った人形に邪魔だと手であしらわれ、現実に舞い戻る。

 忙しそうに駆け回っていた人形のうち一体が、花子達を面倒くさそうに手招きした。可愛い人形に邪険な扱いをされるのは悲しかったが、そちらに魔理沙達がいるということだろうから、従うことにする。

 人形に案内された部屋には、やはり人形が敷き詰められていた。西洋人形から日本人形まで、個性豊かな人形たちが、あちこちに並んでいる。動いていないものの方が多そうだ。

 

「遅いぜ、お前ら」

 

 柔らかそうなソファから、魔理沙が振り返りながら言った。ごめんねと一言告げてから、魔理沙の対面に座っている人物に気づく。

 ウェーブのかかったセミロングの金髪とコバルトブルーの瞳を持つ、美しい少女だった。青のワンピースが怖いほど似合っていて、彼女そのものが人形だと言われても信じてしまいそうだ。

 つい見とれてしまっていると、花子とこいし、ルーミアを順繰りに見回した少女が、ため息をついた。

 

「本当に大勢で来たのね。こんなに人が来ることなんて、初めてだわ」

「だからそう言ったじゃないか。アリスはどうせ、今日も暇なんだろ?」

「いつも暇みたいに言わないでよ。まぁ、確かに今日はやることないけど」

 

 どうやら、彼女が件のアリスらしい。呆けていた花子は正気に戻り、挨拶をしなければと、アリスに頭を下げる。

 

「お邪魔します、御手洗花子です」

「あ、知ってる。新聞で読んだわ。虹色異変の妖怪ね」

「うぅ……、やっぱりそれで通ってますか」

 

 当分――もしかしたらこの先ずっと言われるのかと思うと、花子は少しだけうんざりとした。そのうち慣れるとは思うのだが。

 こいしとルーミアが順番に自己紹介を済ませてから、アリス――フルネームは、アリス・マーガトロイドという――も自分の名前を名乗り、自身が魔法使いであることを教えてくれた。館中を飛び回っている人形は、今も全て彼女が操っているらしい。

 これだけの人形を同時に操っていることが信じられず、花子は失礼だろうと思いつつも、つい訊ねてしまった。

 

「本当に、アリスさんが操っているんですか? みんな、生きているみたいに動いているんだもの」

「ふふ、信じられない? よく言われるけど、ちゃんと私が操作しているわ。私の人形劇、評判いいのよ」

 

 笑いながら、アリスは花子達をソファに座るよう促した。

 魔理沙の隣に腰を下ろすと、人形がお盆に紅茶とクッキーを人数分乗せてやってくる。その動きには一切危なっかしさはなく、やはり命が宿っているようにしか思えない。

 アリスはアリスで、人形を操るような素振りをまったく見せないのだ。新しい人形作りをしながら、運んできてくれた紅茶を楽しんでいる。

 

「胡散臭いだろ、こいつ。霊夢並だぜ」

 

 耳打ちしてくる魔理沙に、花子は苦笑いで答えた。確かに信じられない器用さではあるが、そこまで言うのは酷いと思ったのだ。

 聞こえていたらしいアリスが咳払いをして、人形作りの手を止める。

 

「わざわざ妖怪を三人も連れて、私をからかいに来たのかしら、魔理沙?」

「あー、別にそれでもいいんだけどな。今日はほら、また面白い本を貸してもらおうと思って」

「ダメよ。あんた、前に持っていったのだって返してくれてないじゃない」

「ちゃんと返すって。私が死んだらな」

「なら、魔理沙が死んだら新しいのを貸してあげるわ」

 

 辛辣な言葉だが、アリスの表情に敵意は見られない。慣れているらしく、魔理沙を嫌っているというわけではないようだ。

 思ったよりもあっさりと、魔理沙は引き下がった。彼女なら力づくでも持って行きかねないと思っていたが、もしかしたら、花子達がいるので遠慮しているのかもしれない。

 マーガトロイド邸に来た目的が消えてしまったが、アリスの「せっかく来たのだから、ゆっくりしていきなさい」という言葉に、一行は甘えることにした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 時刻が昼前になった頃、キッチンから甘くおいしそうな匂いが漂ってきた。小学校の子供達が調理実習で作っていた、ホットケーキのそれだと花子は思い出した。

 人形と遊んでいた――遊ばれていたと言ったほうが正しいかもしれない――ルーミアが、その香りに鼻をすんすんとさせる。

 

「甘くて、いい匂い」

「クッキーだけじゃ、お腹いっぱいにならないでしょ? パンケーキを焼いているの。私の得意料理よ」

「得意っていうか、アリスはそれしか食わないぜ」

「そんなことないわ。週に一度くらいは他のも食べるわよ」

 

 頬を膨らませるアリスに、魔理沙が笑った。聞けば、種族としての魔法使いであるらしいアリスは、食と睡眠はなくても生きていけるらしい。割りと最近人間から魔法使いになったので、癖が抜けていないそうだ。思い出してみれば、紅魔館のパチュリーも、レミリア達の付き合い以外は食事をしていなかった。

 お腹が空かないのは便利そうだが、おいしいものを食べる幸せを失うのは嫌だなと、花子は宙ぶらりんな気持ちになる。不要だと知りながら食事を取るアリスの気持ちは、よく理解できた。

 ほどなくして、数体の人形がパンケーキの乗った皿と、マーガリンと真っ赤なジャムを持ってきてくれた。人形とにらめっこしていたこいしも、そちらに目を奪われている。

 パンケーキの味は、花子の味覚をとろけさせてしまうのではというほど、甘さと香ばしさが絶妙に混ざり合ったものだった。イチゴのジャムも、実によく合う。さすが、得意料理というだけのことはある。

 一枚をすっかり食べ終え、量はそんなになかったが、甘みのおかげで満腹感は得られた。こいしとルーミアはおかわりを所望して、新しいのを焼いてもらっている。

 人形が用意してくれたナプキンで満足そうに口元を拭っていると、まだ一枚目の半分も食べていないアリスが、妖怪少女達を見ながら呟いた。

 

「ホントこうして見ていると、妖怪だろうとなんだろうと、子供なのね」

「たぶんこいつら全員、アリスより年上だけどな」

「実年齢の話じゃなくて。魔理沙だって、そう思うでしょ?」

「まぁ、気持ちは分かるぜ。まして、ルーミアが人食いだなんてな」

「ね」

 

 話の意味が分からず、花子はきょとんとした顔で、魔理沙とアリスを見比べる。妖怪と思えないほど怖くないと言われていることには、とうとう気づけなかった。

 二枚目のパンケーキをぺろりと平らげて、ルーミアは満足したようだ。こいしはまだ物足りなそうだが、一応遠慮しているらしく、後はクッキーで我慢するつもりらしい。

 ルーミアが口の周りにジャムをベッタリとつけているので、花子はナプキンでそれを拭ってやった。迷惑そうな顔をされたが、吸血鬼姉妹と過ごしたせいで、すっかり慣れている。

 

「はい、取れた。ちゃんと拭かなきゃダメだよ」

「後でやろうと思ったの」

「そういうこと言う子に限って、絶対やらないんだから」

 

 語尾を強めて叱ると、ルーミアは頬を膨らませながらも、反論はしなかった。

 新たに淹れてもらった紅茶を飲んでいた魔理沙が、ふと思いついたように、アリスに訊ねた。

 

「そうだ、アリス。お前は人間を食ったことあるか?」

「……は? あるわけないじゃない。私はもともと人間だったのよ?」

「だよな。いや、妖怪の中にもいろいろだろ? ルーミアみたいに人食いを公言してる奴もいれば、実は人間を食ってたって奴もいる。その線引が知りたくてさ。花子は、なさそうだな」

「私はないよ。食べたいとも思わないもの。食べられるって噂になったことは、何度もあったけれど」

 

 子供の間で誇張される噂話は、時として想像も出来ないものになる。人食いとされたのは、まだいいほうだ。

 やっぱりなと頷いてから、魔理沙はこいしに視線を向けた。

 

「こいしはどうだ? 人間を食ったことあるか?」

「あるよぉー。まずかった」

 

 思わぬ告白に、花子はギョッとして隣のこいしを凝視してしまった。覚が人を喰うという話は聞いたことがないし、こいしがそんなことをするようには見えない。

 花子の視線に気づいたこいしが、後頭部を掻く。

 

「私が襲ったわけじゃなくて、えっとねぇ、名前忘れちゃったけど、ずっと前に地上で会った妖怪が、おすそわけでくれたんだぁ。お姉ちゃんと一緒に食べたけど、全然おいしくなかったの」

「えー! 人間はおいしいじゃない。牛に比べてあっさりしてるし、硬すぎず柔らかすぎずだし、全身残さず食べられるし、ナカミの味ときたら――」

「ルーミア、話振っといて悪いんだが、ストップ。生身の人間が聞いていい話じゃない気がするぜ」

 

 気分が悪くなったらしく、魔理沙が額を押さえながらルーミアの言葉を遮った。語り足りなそうにしていたが、ルーミアは素直に口を閉ざす。

 雑談をしている間にも、アリスの手は休むことなく人形を作っていく。その手際の良さは、ものの数十分で一体を作り上げてしまうほどだ。早いのもそうだが、作りこみも半端ではない。

 人形作りも魔法の力なのかと聞くと、アリスは笑いながら首を横に振った。

 

「これは、魔法じゃないわ。人間の頃からずっと続けてきたからね」

 

 こんなに人形ばかりあっては管理も大変そうだと思ったが、アリス曰く、全ての人形の特徴を把握しているから、一体でもなくなればすぐに気づくらしい。

 ちなみに、マーガトロイド邸での窃盗事件の被害は主に本だが、今のところ人形が盗まれたことはないとか。その犯人は、まるで悪びれずにあっさりと理由を述べた。

 

「だって、私に人形はいらないし。似顔絵みたく、私に似せてくれるならもらってやってもいいぜ」

「その態度じゃ、頼まれても作ってやる気にならないわ」

「アリスは冷たい女だな」

 

 大げさに落ち込んでみせる魔理沙に、アリスがベェと舌を出した。本やら何やらを持っていかれても、二人はなんだかんだで仲がいいらしい。

 話を聞きながらクッキーを食べていたこいしが、口の中の物を飲み込んでから、アリスの隣に移動する。

 

「ねぇアリス、誰かに似せて人形を作れるの?」

「え? えぇ、できると思うわ」

「じゃあね、お願いがあるんだぁ。私の人形を作ってほしいの。お姉ちゃんへのおみやげが欲しかったんだぁ」

「構わないわよ。じゃあ、ちょっとじっとしていてね」

 

 こいしの依頼を引き受け、アリスがさっそく仕事に取り掛かる。ソファに座って動かないこいしを上から下までじっくりと見ながら、必要な色の糸や布を取り出し、早送りでも見ているかのような早さで人形をこさえていく。

 作業の間、魔理沙とルーミアは興味無さそうに他の話をしていたが、花子はアリスの手元をじっと見入ってしまっていた。

 三十分ほどで、人形は完成した。肖像画に比べてかなりデフォルメされた可愛らしい外見だが、特徴はしっかりと抑えている。こいしも気に入ったらしく、大切そうに受け取った。

 

「えへへ、ありがとぉー。これでお姉ちゃんも寂しがらないですむねぇ」

「喜んでもらえてよかった。花子とルーミアは、どうする? 欲しいなら作ってあげるわよ」

 

 人形作りを喜ばれて上機嫌なアリスに聞かれて、ルーミアはしばらく考えてから、いらないと答えた。普段は外で暮らしているのだから、あっても置く場所に困るのだろう。

 あなたはと言われて、花子は遠慮がちな上目遣いで、

 

「あのぅ、ある人に似たのを作ってほしいのだけれど、その、写真とかがなくって」

「それじゃ難しいわね。言葉で説明できるなら、下書きするけど」

「じゃあ、お願いします」

 

 思い出す必要もなく、花子は似せてほしい人物の特徴をさらさらと述べた。舌が勝手に動いているのではというほど言葉が出てくるが、アリスは一つも聞き漏らさずに下書きしていく。彼女は絵も上手だった。

 下書きができてから、アリスは人形を作り始める。こいしの人形よりも作りが単純だからか、半分ほどの時間で完成した。黒髪黒目の、青いシャツに短パン、スニーカーという、外の世界に行けばどこにでもいそうな男の子の形をしている。

 人形を受け取り、花子はお礼を言うより早く、それをとても嬉しそうに抱きしめた。

 

「……太郎くん」

「男の子の人形なんて言うからもしかしてと思ってたけど、花子の恋人?」

「よく分かんないけど、そういうのとは違うと思います。兄妹っていうか、なんていうか」

「ふぅん」

 

 さほど興味はなかったのだろう、アリスは適当に答えて、余った素材で陽の光が苦手なルーミアのために、気休め程度のフェルト帽をこしらえた。

 帽子を被らされて、ルーミアはとても鬱陶しそうに頭を振っていたが、慣れると気にならなくなったらしく、被ったまま落ち着いた。

 心のどこかで太郎に会いたいと思っていたのだろう、人形を抱いていると、花子を安心感が包んだ。アリスに向かって、心から感謝を告げる。

 

「アリスさん、ありがとうございます。人形、大切にします」

「どういたしまして」

「さて、そろそろ行くか。悪いなアリス、邪魔した上に人形まで作らせて」

 

 一同を代表して魔理沙が詫びると、アリスは「気にしないで」と首を横に振ってから、魔理沙に半眼を向けた。

 

「今日は、何も盗られなかったしね」

「借りてるだけだぜ」

「その台詞は聞き飽きたわ。ま、今日は私も楽しかったし、また遊びにいらっしゃい。泥棒以外なら、歓迎するから」

「はい」

 

 玄関までアリスと人形達に見送ってもらい、花子達は洋館の外に出た。

 昼下がりの森は、深部に比べて木々の密度が減ったからか、いくらか明るい。ルーミアはもらった帽子の具合がいいらしく、とてもご機嫌だ。

 アリスにさよならを言ってから、花子達は出発した。皆の足取りはとても軽い。魔法の森を抜けるまで、そう時間はかからなそうだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 森の出口で、魔理沙と別れることになった。花子は面倒をかけた友人に軽く頭を下げる。

 

「いろいろごめんね。お世話になりました」

「いいって。また遊ぼうぜ、今度は弾幕でさ」

「うん。負けないからね」

 

 魔理沙らしいあっさりとした別れのあいさつを告げて、彼女は森の中へ戻っていった。キノコでも取りながら歩いて帰るようだ。

 街道に出ると、花子はようやくあるべき場所へ戻ってきたかのような安心感を覚えていた。

 

「やっと出られたね」

「そうだねぇー」

 

 大して怖がっていなかったが、こいしにも思うところがあったようで、同じように胸を撫で下ろしている。

 一方、帽子だけではどうにも太陽光を防ぎきれないらしいルーミアは、妖力が復活したのでさっそく闇で自身を覆っている。一応、姿が見える程度の薄さではあるが。

 

「魔法の森、怖かったけど、おいしい物もいっぱいあるね」

「あは、そうだね」

「光もそんなに入ってこないし、妖力使えなくても帽子があるし、魔法の森に住もっかなー」

 

 どうやら、本気で検討しているようだ。キノコ喰い妖怪が誕生する日も、近いかもしれない。

 夕暮れ時になって、ルーミアが適当に飛んでいくというので、花子達は彼女を見送った。闇の球体に包まれて、相変わらずフラフラと危なっかしい動きで、どこへともなく飛んでいく。

 ルーミアが小さくなるまで手を振ってから、花子とこいしは街道沿いを山方面へと向かう。その間中、花子はアリスにもらった人形をずっと胸に抱いていた。

 

「花子、出しっぱなしにしてたら汚れちゃうよぉ」

 

 心配してくれるこいしの人形は、花子のリュックに入っている。大きなリュックなので人形二つくらいなら入ってしまうが、そうするのがなんとなく惜しい。

 太郎人形に触れていると、手紙をかくことでごまかし続けていた寂しさが、少しだけ薄れるような気がするのだ。

 いつまでも出していれば、こいしの言うとおり砂や埃にまみれてしまう。でも、今はまだ――。

 

「……もうちょっとだけ」

「仕方ないなぁー」

 

 苦笑を浮かべるこいしに、ありがとうと呟く。彼女は花子の内心を、とてもよく理解してくれていた。

 ずっと我慢してきたのだ。たまには、こんな日があってもいいだろう。明日からは、またがんばるから。

 遠い片割れにそう約束して、花子は歩きながら、すがるように、甘えるように、人形をぎゅうと抱きしめた。

 懐かしい太郎の温もりを、少しだけ感じられたような気がした。

 



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そのさんじゅうはち 恐怖?結界を守る博麗神社!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。暖かくなってきたね。今日もお日様がぽかぽかしていて、気持ちよかったです。

 

 今ね、博麗神社で、霊夢達と一緒にお酒を飲んでいるんだよ。すっかり飲むのに慣れちゃったけれど、太郎くんと一緒にいた頃は考えもしなかったよね。

 

 私はもう好きになっちゃったけど、太郎くんはどうだろう。お酒の味って独特だから、もしかしたら嫌いかも。

 

 外にある博麗神社から旅が始まったんだなって思うと感慨深いけれど、外のはボロだったのに、こっちの神社はとても綺麗だから、なんだか別の場所みたい。不思議だね。

 

 そういえば私、毎日のように手紙を書いているけれど、さすがにかさばってしまっているよね。もしも邪魔だったら、捨てていいんだよ。

 

 太郎くんは、私があげたものをずっと大切にしてくれているもんね。だから、手紙を書くのがこんなに楽しいのかな?

 

 これからも、いっぱいおたよりするからね。

 

 それでは、また。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 深夜、花子とこいしは相変わらず遅い歩みを止めて、休みを取ることにした。体力は余っているからまだ歩けるが、せっかく星が綺麗なのだから、のんびり眺めたくなったのだ。

 こいしと並んで草むらに寝転んでいると、その空中に大きなスキマが開いた。すっかり慣れたもので、花子は上半身を起こし、スキマから現れた紫に頭を下げる。

 

「こんばんは、お姉さん」

「ごきげんよう。邪魔してごめんなさいね」

「いいえ。これ、お願いします」

 

 アリスの家であったことを綴った手紙を渡すと、紫は丁寧に受け取って、懐にしまった。

 花子とこいしの視界を妨げないところまでスキマごと移動してから、彼女は花子のリュック脇にある人形に気づく。

 

「あら、それは」

「えへへ、太郎くんのお人形です。アリスさんに作ってもらったの」

「そう、良かったわね。森も無事に出れてなにより。道に迷っていたら、もしかしたらまた湖に出ていたかもしれなかったものね」

「あの森、湖まで繋がってるのぉ? 里を挟んで反対側なのに?」

 

 首を傾げるこいしに、紫は手を口に添えて上品に笑いながら、「えぇ、そうよ」と答えた。

 どうにも、魔法の森は街道から見える範囲にとどまらず、幻想郷の南部をかなり広く覆っているらしい。花子達が迷い込んだのは人里から東の街道付近だが、泊めてもらった霧雨魔法店は南部中央付近にあるそうだ。

 考えてみれば、魔理沙の家からマーガトロイド邸まで三時間以上歩いたのだから、かなりの距離である。なるほど、花子達はとんでもなく深くまで迷い込んでいたようだ。

 紫の話によれば、霧の湖に満ちる霧も森の湿気が流れ込んで発生しているそうで、周囲の雑木林や湿地帯も、大きくくくってしまえば魔法の森になるらしい。香霖堂も、森の入口と言われることがあるそうだ。

 頭がこんがらがってきた花子は、どこに行っても魔法の森があるということで納得してしまうことにした。

 

「とんでもないところで迷ってたんですね、私達」

「空から見てみれば、その広さを知ることができますわ。森の向こうには、季節感のない向日葵畑や入ったら出られない迷いの竹林があるわ。どちらも森を迂回して行くと、かなり遠いわね」

「魔理沙に案内してもらえば、森を突っ切っちゃえそうですね」

「飛べばいいんじゃないのぉー? 花子、歩きすぎて飛べるのを忘れてることが多いよねぇー」

 

 頬を突っついてくるこいしに、花子は言い返すことができなかった。そも、つい一年ちょっと前までは、空を飛ぶなど考えたこともなかったのだ。無理もないと、自分を慰める。

 年がら年中咲いているという向日葵畑や魔法の森以上に迷う竹林に興味はあったが、どちらも進行方向とは正反対の位置だ。足を運ぶのは、また別の機会になるだろう。

 三人で星を眺めながら、明日はどこまで行こうかという話をした。さっさと山に向かってしまうという選択肢は、なぜか誰も口にしない。

 

「この道を真っ直ぐ行ったら、何があるのかな」

「山だねぇー」

「そ、それは分かっているよ。その間に、なんかないかなぁって」

「脇道に入れば、妖怪で賑わう神社がありますわ」

 

 妖しげな微笑を浮かべる紫。幻想郷の東端には博麗神社があるとは聞いていたが、花子はまだ行ったことがなかった。

 正確に言えば、幻想郷の結界を越える時に、一度訪れたことがある。しかしそれは外の世界に面する博麗神社で、霊夢が住むそれとはまた別の場所だと言っていいだろう。

 未だに鳥居を超えた時に神社ではない場所へ出た理由が分からなかったが、紫に訊ねると、あれはそういうものであるらしかった。曰く、迷い込んだ人間をいきなり神社に送ってしまうと、妖怪達の食料にならないからだとか。妖怪でよかったと、花子は心底思った。

 しかし、博麗神社。霊夢が悪い人間ではないと分かってはいるが、何度もおしおきされているせいで、少し怖い。また退治されてしまうのではと不安を口にすると、紫は首を横に振った。

 

「大丈夫。あの子は神社にいる妖怪には手を出さないわ。私も顔を出そうかと思っているから、安心なさい」

「うぅん、じゃあ行ってみようかな。こいしちゃん、どうする?」

「いいよぉー。お姉ちゃんとは仲悪いみたいだけど、私は霊夢のこと、嫌いじゃないしねぇ」

 

 妖怪に好かれる妖怪退治屋というのもおかしな話だが、力の強い妖怪ほど、霊夢のところに遊びに行くらしい。思い出してみれば、レミリアもよく神社に行くと言っていた。

 博麗神社には、朝になったら出発しようということになった。紫が言うに、日が高くなる頃にはつくそうだ。

 

「それでは、また明日。神社で待っているわ」

「はい、おやすみなさい」

 

 紫がスキマに消えたのを確認してから、花子はもう一度原っぱに寝っ転がった。こいしも似たように、背中を地面にくっつける。

 朝までは、まだ時間がある。夜風も気持ちがいいし、一眠りしていこうというこいしの提案に賛成して、花子は目を閉じた。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 そして、花子達は昼過ぎに目を覚ました。むくりと起き上がり、花子は寝ぼけた頭を振ってから数秒、ようやく寝坊したことに気づく。

 まだ眠りたいという気持ちは一瞬で吹き飛び、隣でまだ夢の中にいるらしいこいしの肩を叩く。

 

「こいしちゃん、起きて。寝坊しちゃった」

「んー……」

 

 のんびりとした動きで上体を起こし、こいしが目をこすりながら鴉羽色のつば広帽子を被る。大きく伸びをして、空のてっぺんに昇った太陽を手で遮りながら、

 

「もうお昼だねぇー」

「うん、急いで神社へ行かないと」

「そんなに慌てなくてもいいと思うよぉ」

「でも、お昼くらいには行くって、昨日言っちゃったもの」

 

 こいしにはそう言ったが、約束らしい約束をしたわけではない。ただ紫に「このくらいの時間に出発すれば昼頃につく」と言われただけだ。

 靴紐を結び直してリュックを背負い、花子はいつでも出発できる状態になった。しかし、こいしは服についた葉っぱを丁寧に取っていて、まだ動く気がなさそうだ。

 結局こいしが身だしなみを整えるのを手伝ってから、花子達は博麗神社目指して出発した。そんなに遠くはないので、三十分も歩けばつくだろう。

 いい加減慌てるのも諦めて、いつものペースで街道を歩いていると、こいしが意地悪な笑顔で言った。

 

「花子、急いでても空は飛ばないんだねぇー」

「だって、私は飛んでも遅いから、そんなに変わらないかなぁって」

「それはないよぉ。飛んだほうが絶対早いよ」

「そうかなぁ。でもやっぱり、歩く方が好きだから」

 

 そう言うと思ったと、こいしに笑われてしまった。

 神社へ向かっていると、以前ミスティアと響子がライブをしていた会場の跡地を見つけた。響子と一緒に寺へ向かった時は、一時間そこらしかかからなかったはずだ。寺を出てからいかに寄り道をしてきたかを思うと、花子は小恥ずかしくなって、頭を掻く。

 道すがら響子達のライブの話をこいしにすると、彼女は知っていたらしい。どころか、何度か行ったことがあるそうだ。あまり好きにはなれなかったらしいが。

 

「あの音は、耳が痛くなるねぇー」

「響子の声も大きいものね。私はパンクロック、嫌いじゃなかったけれど」

「花子は意外とおてんばだもんねぇ」

「そ、そんなことないよ」

「えぇー? 自覚ないのぉー?」

 

 こいしに背中を突っつかれて、花子はついそっぽを向いた。自分をおしとやかだとまで思ってはいないが、認めてしまうのも、女の子として悔しい。

 その後も話題は転々とし、話すことに夢中でどれほど歩いたか忘れかけてきたころ、足元の道が街道に比べて整備が行き届いていない獣道に変わっていた。妖怪が人間を襲うのにはうってつけの場所だろう。

 獣道をさらに進むと、長い上り階段も確認が見えてきた。鳥居がないので、神社らしさを感じられない。

 遅れてしまったこともあるが、未だに霊夢と面と向かって話をするのは苦手な花子である。突然お邪魔して怒られたりしないかと、足を止めてしまった。

 花子が立ち止まったことに気づき、こいしが振り返る。

 

「どうしたのぉー?」

「う、ううん。ただ、霊夢を待たせちゃって、怒られないかなって」

「大丈夫だと思うよぉ。霊夢は花子が思ってるより私達に興味ないから、来ないなら来ないで困らないよ」

「そ、そうなの? それはそれで、ちょっと寂しいけど」

 

 とはいえ、霊夢のお仕置きをもらうよりはずっといいだろう。花子は先に行ってしまったこいしを追いかけて、階段を登る。

 長い階段を登り切って、来た道を振り返る。幻想郷が一望できる、素晴らしい景色が広がっていた。まるで空の上に昇ったようだ。実に気持ちがいい。

 境内は思っていたより狭いが、特有の透き通った静寂が広がっている。参道には木の葉が少し散らかっていて、人の気配もない。

 参道を少し歩くと、拝殿の前で箒を動かしている霊夢を見つけた。動かしてはいるものの、掃除になっているようには見えない。

 

「れぇーむ!」

 

 こいしが呼ぶ声に、霊夢がこちらを向いた。驚いたりする様子もなく、まるで初めから花子達に気づいていたかのようだ。実際にそうだとしても、花子は驚く気がしなかった。

 箒を持ったまま、霊夢は花子達へと近づいてきた。さすがに身構えたりはしなかったものの、わずかな緊張は消すことができない。

 

「こいしはともかく、花子が来るとはね。なんか用?」

「え、あの、手紙のお姉さんが遊びに行ったらって。お姉さんは来ているんでしょ?」

「手紙の……あぁ、紫ね。来てないわよ」

 

 思わずこいしと目を合わせ、二人して首を傾げる。しばらく黙って見ていた霊夢が、やれやれとため息をついた。

 

「ま、わざわざ歩いてきたんだから、お茶くらい出してあげるわ。あいつのことだし、たぶんもう私んちにいるでしょ」

 

 拝殿の賽銭箱に箒を立てかけ、霊夢は神社の裏手にある玄関に向かった。どうやら、神社に居住スペースがくっついているらしい。

 玄関の引き戸を、霊夢が開ける。彼女に続いて台所のある土間を通って居間を見ると、紫がいた。まるで我が家のように、ちゃぶ台でお茶を啜っている。

 やっぱりねと呟いた霊夢に、紫は妖艶な笑みを浮かべた。

 

「ごきげんよう、霊夢」

「もう何も言う気がしないわ。ただ、そのお茶は有料。ちゃんと新しいの買ってきてよね」

「明日にでも、藍に届けさせますわ」

 

 寝室と居間が一緒になった部屋にお邪魔し、花子とこいしは霊夢に促されて、座布団に正座する。畳のいい匂いがする、こざっぱりとした和室だ。縁側からは、参道も見渡せる。

 霊夢運んできてくれたお茶を一口飲んでから、花子は紫に訊ねた。

 

「あのぅ、お姉さんはいつ来たんですか?」

「あなた達が霊夢と話をしている時に。少し遅れてしまって、ごめんなさいね」

「私達もさっき来たばかりですから」

「ねぇー」

 

 こいしと一緒に頷くと、紫は「お互い様ね」と笑った。

 渋めの緑茶を啜っている霊夢は、花子達の会話にあまり興味がなさそうだ。勝手に上がり込んで勝手に盛り上がられても、家主の霊夢は困ってしまうだろう。少し考えてみれば分かることだ。

 

「霊夢、突然ごめんね」

「何が?」

「えっと、いきなりお邪魔して、お茶まで出してもらって」

「あー、別にいつものことよ。紫もそうだし、文も好き勝手に茶菓子食べていくし、魔理沙なんて人の布団で当たり前のように寝るし。二階の物置はレミリアの別荘になりつつあるわ」

 

 どうやら、いらぬ心配だったらしい。霊夢にとって、花子とこいしは礼儀正しい上客の部類に入るのだろう。花子は同情すら覚えた。 

 花子から見ると霊夢はクールで少し怖いイメージがあったが、力の強弱に関係なく平等に接しているのだから、勝手に怖がっているこちらが悪いのかもしれない。そう思ってはみても、霊力弾や大幣の痛みは忘れられないが。

 魔法の森での顛末を笑い話にしている間も、霊夢は自分から会話に参加しようとすることがほとんどなかった。誰かしらに話を振られて、ようやく答えるといった具合である。

 大丈夫だとは言ってくれたが、やはりつまらない思いをさせている気がしてならなくなり、花子はおずおずと霊夢に訊ねた。

 

「あの、霊夢。もしかして、退屈?」

「は?」

「だって、お話に混ざってこないんだもの。もしかして、面白くなかったかなって」

「面白いか面白くないかで言ったら、面白くはなかったわ」

 

 率直な言葉に、花子は引きつり笑いで胸元を押さえた。心を冷たい刃物でチクチク刺されているかのようだ。

 こちらの心境を知ってか知らずか、霊夢がお茶請けの煎餅をかじりながら、ちゃぶ台にだらしなく頬杖をつく。

 

「まぁでも、退屈ってわけではないわよ。少なくとも神社の掃除をしているよりは、暇つぶしになるかな」

「そ、そっか。いいのか悪いのか分からないけれど」

「もっとちゃんと掃除すれば、時間はあっという間に過ぎると思うよぉー」

 

 悪気のない笑顔でこいしにサボりを指摘され、霊夢が苦い顔をした。否定はできないようだ。

 あまり心配しすぎると、かえって鬱陶しくなってしまうだろうから、花子はこれ以上霊夢を気にかけないことにした。とはいえ、元来の性格が性格なので、苦労しそうだが。

 せめて面白い話をと思ったが、お世辞にもユーモアとボキャブラリーが豊富とはいえない花子には、難しい問題だった。結局話題もそこそこに、和室に静寂が広がる。

 さすがにまずいかとこいしや紫を見てみると、二人とも沈黙をまるで意に介せず、のんびりと茶を呑んだり煎餅を食べたりしている。霊夢も散らかった参道を、ぼんやりと眺めていた。

 いちいち不安になっているのは、どうやら花子だけであるらしい。そうすると、さすがにこれ以上話題を探さなければと思うことはなくなった。皆に習って、あまり上物ではない緑茶を楽しませてもらうことにする。

 時折思い出したようにちらほらと会話をしては、また黙る。風が木の葉を撫でる音や鳥のさえずりが聞こえる、心地良い静寂だった。最近は賑やか続きだったからか、とても落ち着く。博麗神社の居心地の良さは、訪れた他のどの場所でも感じたことのない不思議なものだった。

 ふと、霊夢が思い出したように言った。

 

「そういや、あんたら地底に行くんだって?」

「うん。真っ直ぐ行くかは、まだ分からないけれど」

「こいしは地底の住人だからいいけど、花子が行くってのはどうなのよ、紫?」

「どうもこうも、地底の妖怪が地上に出ているのだから。不文律はもうあってないようなもの、好んで地底に行きたがる者がいないだけですわ」

 

 妖怪の中でとても偉い紫が言うのだから、行っても問題ないのだろう。妖怪の賢者とやらがどれほど偉いのか、花子には漠然としか分かっていないが。

 霊夢がまじまじと花子を見つめてくる。観察されているようで、あまり気持ちの良いものではない。もじもじしていると、彼女は難しそうに唸った。

 

「こいしがいるから大丈夫だとは思うけど、あいつらのケンカはごっこ遊びじゃ済まされないところがあるからなぁ」

「あら、花子を心配しているの?」

「死なれでもしたら寝覚めが悪いなってさ。地底ってあんまりいい思い出ないのよね。出くわした連中がアレだったから仕方ないんだけど」

 

 どうやら、地底はなかなかにバイオレンスなところであるらしい。こいしも否定せず、首肯している。少しばかり、覚悟を決めた方がいいかもしれない。

 聞けば、弾幕ごっこのルールで戦ってはくれるものの、地上に比べて美しさよりも威力を重視した弾幕が多いらしい。あの魔理沙をして、「本気で殺しにくる」と言わしめたほどだ。

 地底にいる間は、こいしのそばを離れないようにしよう。花子はそう心に決めた。

 

 昼下がりが夕暮れになり、赤い空がわずかに紺色を混ぜ始めた頃、こいしが縁側から空を覗きこんだ。

 

「あれぇ、もう夕方なんだぁ」

 

 花子の位置からは空が見えなかったが、参道は夕日に照らされて赤く染まり、さらに神秘的な雰囲気を漂わせている。

 

「そろそろお暇しなきゃだね。こいしちゃん、いこっか」

「そうだねぇー」

「あれ、帰るの?」

 

 さも意外だとばかりに、ちゃぶ台に肘をついたまま霊夢が目を丸くした。紫はくすくす笑っているが、花子とこいしはわけが分からず、お互いの顔を見合わせる。

 妙な間を置いてから、花子は夕暮れの参道を指さした。

 

「だって、もう夕方だもの。おゆはんの準備とかもあるだろうし、邪魔かなぁって」

「……妖怪にそんなこと言われたの、初めてだわ。うちに誰かが来た時は、大体そのままなし崩し的に飲み会になるのよ。今夜もそうだろうって思ってたんだけど」

「おつまみでお腹を満たせば米も減らない、だったかしら?」

「そうそう、それもあるわ。まだ早いけど、あと一刻もしたら始めようと思ってたのよ。帰るってなら止めないけど、どうする?」

 

 まさか霊夢に飲みに誘われるとは。今度は花子の目がまんまるになる番だった。

 返事をしようとする前に、こいしが「お言葉に甘えてぇ」とちゃぶ台に戻ってしまったので、花子も霊夢の好意――であろう、恐らく――を受け取ることにした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 準備をしてくると霊夢が立ち上がったので、花子も手伝うためについていく。

 土間の広い台所は、霊夢の一人暮らしには大きいように思えた。なぜかと聞くと、先代の時からそうだから知らないと言われた。

 予想外というと失礼だろうが、霊夢の料理の腕はなかなかのものだった。咲夜や一輪には及ばないものの、いいお嫁さんになりそうだなという印象を受ける。花子はほとんど見ていることしかできなかった。

 食器や酒瓶を運ぶ役を与えられ、花子はそれらをせっせと居間に運ぶ。ちゃぶ台に伸びているこいしをどかして取り皿を並べていると、その様子を眺めていた紫が微笑んだ。

 

「霊夢、喜んでいるでしょうね」

「え? なんでですか?」

「宴会の準備を手伝ってくれる人なんて、ほとんどいないからですわ」

 

 そう言う本人も、テコでも動かないつもりらしい。

 霊夢が作ったつまみを持ってきたところで、宴会が始まった。外はもうすっかり夜になっている。

 皆でささやかな乾杯をしてから、コップを傾ける。優しい口当たりの、とてもおいしいお酒だ。

 

「いい酒ね」

 

 紫が言うと、霊夢もその味に舌鼓を打ちながら頷いた。

 

「虹色異変のお礼でもらったのが残ってたのよ。こんなに美味しいとは思ってなかったわ」

「あは、じゃあ花子のおかげだねぇー」

「まぁ異変なんて起きないのが一番いいんだけどね」

 

 さらりと釘を刺されて、思わず霊夢から目を逸らした。異変の主犯だったと威張れるほどの度胸は、まだない。

 この日の酒宴は、とても静かだった。人数が少ないのもあるだろうが、いつもは酒の匂いを嗅ぎつけてくる賑やかな面々が、今日はいないのだという。

 その筆頭に魔理沙の名が上がったので、花子は何気なく訊ねた。 

 

「そういえば、霊夢と魔理沙って仲いいよね。いつから友達なの?」

「あー、小さい頃からよくつるんでるわね。腐れ縁ってやつよ」

「いつも魔理沙が遊びに来ていたわね。最近はそうでもなくなったけれど、やはり寂しいかしら?」

 

 意地悪い視線を紫に向けられたが、霊夢は小さく鼻を鳴らし、

 

「今でもしょっちゅう来てるわよ。神社に来る他の誰よりもね」

「私と太郎くんみたいな感じ?」

 

 首を傾げると、それには紫が答えた。

 

「似て非なるもの、ですわ。友情とは人の数だけ形が違うものだから」

「そんなものなのかな」

「霊夢と魔理沙を繋ぐものは、あなた達のそれとは大きく異なるのよ。霊夢が持つ天賦の才を魔理沙が追い続ける、それが二人の間にある、最も強き縁」

 

 高みにいる者を追いかけているという意味では、花子と文の関係に似ている。しかし、友達と呼べるかと言われると、難しいかもしれない。文のことは、もう嫌いではないのだが。

 魔理沙が尋常ではない努力家であることは知っていたが、なおも霊夢には追いついていないのだろうか。魔理沙はとても強かったし、花子にしてみれば、霊夢よりも魔理沙の弾幕のほうが苦手なのだが。

 恐らく、ゴールなどないのだろう。魔理沙は人間としての生を終えるその瞬間まで、努力の人であり続ける気がした。

 つまみの料理を取り皿に山盛りにしながら、こいしが感心したように頷く。

 

「なんだか、かっこいいねぇー。二人はただの飲み友達だと思ってたよぉ」

「そうねぇ。私も今の今までそう思ってたわ」

「自分達では、なかなか分からないものなのよ。花子とこいしのように、同じ志があるものなら、分かりやすいのだけれどね」

 

 そう言いながら、紫が花子にお酌をしてくれた。ありがたく頂いていると、霊夢が花子とこいしを順繰りに見回し、

 

「あんたらの共通する目的って、なんなの? 些細な事ならその都度やるけど、また異変でも起こそうってならこの場で即退治よ」

「そ、そんな大げさなことじゃないよ! 私とこいしちゃんはただ、子供達のための妖怪を目指そうねって」

「子供達のための? どういうこと?」

 

 花子とこいしは、自分達がなそうとしていることを順を追って説明した。

 妖怪の志としては低い場所のあるものだが、二人の一生懸命な話に、霊夢も何かを感じてくれたようだ。三本目の一升瓶を開けて自分のコップに注いでから、肯定とも否定ともつかない相槌を打つ。

 

「ふぅん。まぁがんばってみれば? あんたらが妖怪である以上、なんかしでかすのは当然だろうし、そうなったら退治してあげるわ」

「それは、喜んでいいのかな……」

「喜べないねぇー」

 

 こいしと一緒に苦笑いをしたが、霊夢にやってみろと言われたことは、素直に嬉しい。また一歩、本当に少しだが、目標に近づいた気がした。

 ふと、花子は太郎への手紙を書いていないことを思い出した。昨日書いたばかりだが、ほとんど日課となっている。一度思い当たると、気になって仕方がない。

 食事も兼ねている酒宴の最中でお行儀が悪いとは思ったが、断りを入れて手紙を書かせてもらうことにする。リュックから筆箱と便箋を取り出し、魔法の鉛筆を走らせる。

 

「これが例の太郎ってのに書いてる手紙?」

 

 霊夢に訊ねられて、花子は鉛筆を動かしながら「そうだよ」と返した。

 

「それ、今は紫が運んでるからいいけど、こいつの気が変わったらそこで打ち止めよね」

「えっ」

 

 思わず顔を上げて紫を見ると、彼女は相変わらずの妖艶な微笑みを口元に浮かべたまま、

 

「大丈夫、ちゃんと届けてさしあげますわ」

「えへ、ありがとうございます」

 

 書き終わった手紙を小奇麗な封筒に入れて、紫に渡す。丁寧に受け取り、紫は封筒を裾に入れた。

 明日の昼頃、外に届けてくれるらしい。太郎には明後日くらいには届いているだろうか。返事はないが、読んでくれているはずだ。

 何気ない会話をしながら、のんびりと酒瓶を開けていくうちに、花子の霊夢に対する見方が大きく変わってきた。魔理沙に比べたら冷たい印象はあるものの、もう怖い巫女というイメージはなくなりつつある。

 霊夢に慣れ合う気はなさそうなので、他の友人とは距離感が変わってくるだろうが、それでももう、花子の中で霊夢は友達の一人になっていた。これからも彼女に退治されることはあるだろうが、それはお互いの立場を考えれば、詮ないことである。

 ふと隣を見れば、こいしがうつらうつらと船を漕ぎ始めている。昼まで寝ていたというのに、お酒が入ったせいで眠くなってしまったのだろう。

 

「あの、霊夢」

「はいはい、そろそろお開きにしときましょうか。今日はバカみたいな酒豪もいないことだし。花子、片付け手伝ってくれる?」

「うん」

 

 紫がこいしを見てくれている間に、花子と霊夢は食器やら酒瓶を台所に運ぶ。古い和風の台所は勝手が分からなかったが、皿洗いくらいならできそうだ。

 こいしはもう寝てしまっているだろうし、花子も酒のせいで少し眠い。霊夢の泊まっていけという言葉に、素直に甘えることにした。

 食器を洗い終えて居間に戻ると、すでに人数分の布団が敷いてあった。うち一つでは、こいしが気持ちよさそうに寝息を立てている。

 どうやら紫が準備してくれていたようだが、霊夢が必要以上に驚いている。

 

「紫、あんた、布団敷けたのね……。式がいないと箸持って口動かす以外できないと思ってたわ」

「あら、失礼ね」

 

 口では言うものの、紫の微笑は少しもぶれていない。いつも優しい印象があるが、感情の起伏が見えにくい女性である。

 こいしは寝てしまったが、花子は霊夢と一緒に風呂に入った。ただでさえ野宿したまま来たのだし、他人様の布団を借りるのだから、こいしも無理矢理にでも入れておくべきだったかと、少し後悔する。

 霊夢と色違いの寝間着を借りて居間に戻ると、紫が縁側に佇んでいた。

 

「お姉さんは、お風呂入らないんですか?」

「不浄と清浄の境界を操作したから、必要ないわ。こいしもね」

「……?」

「もうお風呂上りみたいなものなのよ。ありがとう」

 

 本人がいらないといっているのだから、無理に押すこともできず、花子はどういたしましてと頷いた。

 促されて布団に入るも、霊夢と紫はまだ寝ないとのことだった。明かりが消えて、月の淡い光が少しだけ、居間を照らす。

 襖を閉めようとしていた霊夢に、花子は布団の中から声をかけた。

 

「霊夢、今日はありがとう」

「あんたは本当に律儀ね。お礼言われるのなんて慣れてないから、むず痒いわ」

「また遊びに来ていい? 今度はお土産持ってくるよ」

「酒は足りてるから、煎餅がいいわ」

「うん。覚えておくね」

「じゃ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 

 襖が閉じられ、月光も届かなくなった居間は、真っ暗になった。こいしの気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

 博麗神社の布団と畳からは、太陽の匂いがした。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 襖を閉め、霊夢は縁側に佇む紫の隣に腰を下ろした。

 

「眠った?」

「さぁ。酔いも醒めてたから、どうかしらね」

 

 いつの間にか、紫はお茶の入った湯呑みを持っていた。傍らにあるお盆には、ご丁寧に霊夢の分も用意されている。今更とやかく言うつもりにもなれず、素直にお茶を受け取る。

 夜になっても、ほとんど寒さを感じない季節になってきている。よく晴れた夜空にぽっかり浮かぶ半月を眺めていると、紫がちらりと横目で霊夢を覗き見た。

 

「どうかしら?」

「何がよ」

「あの二人よ」

 

 茶を啜る。慣れた味が口に広がり、霊夢が吐く息が、少しだけ白くなった。

 

「こないだ言ってた、『未来に託す希望』ってやつ?」

「えぇ。このままでは逃れられない滅びに対する希望に、彼女達はなってくれるはず」

「滅びって、大げさねぇ。そんなに大層な問題じゃないでしょ」

「あなた達が生きている間だけで言えば、そうでしょうね。しかしあと百年、二百年先となれば、分からない」 

 

 幻想郷が現在と未来にかけて抱えている問題については、この郷の歴史に深く関わるものなら誰もが知っていることだろう。

 その問題を解決せしめる者が、あの花子とこいしだと紫は言う。霊夢も適任だとは思うが、頼り甲斐があるとはお世辞にも言えない二人だ。全うできるのか、怪しいところではある。

 花子とこいし以外にも、問題を解決できる妖怪として数名の名前が上がっている。時が来たら彼女らに託すことにしているそうだが、その筆頭に立つのは、花子なのだそうだ。

 

「本当に、花子でいいわけ? あいつ、他人を引っ張るタイプじゃないと思うけど」

「大丈夫よ。彼女は『トイレの花子さん』なのだから。外の世界で積み重ねてきた貴重な経験が、あの子には備わっている」

「ふぅん。あんたがそう言うのなら、そうなんでしょうね」

「えぇ。花子ならきっと、この幻想郷で、もう一度伝説になってくれるはずですわ」

 

 半分だけの朧月を見上げる紫の瞳は、優しく柔らかな輝きを湛えていた。

 



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そのさんじゅうく  恐怖?今は届かぬ彼の声!

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日も幻想郷はお天気です。

 

 博麗神社の階段から見る朝の景色は、とても綺麗でした。朝の霧がキラキラ光っていて、思わず見とれちゃった。

 

 神社を出てから、こいしちゃんとお茶屋さんに行ったの。山の麓の、前に手紙に書いたかな? 優しいお婆ちゃんがいるところだよ。

 

 おはぎを食べたの。とてもおいしかった。幻想郷で一番おいしいおはぎかもしれないな。こいしちゃんは、お団子も食べていたよ。

 

 その後、山に登って、去年修行したところで一休みすることにしました。懐かしい景色って、なんだか落ち着くね。

 

 明日はいよいよ、地底に行きます。手紙のお姉さんが来れるか分からないと言っていたけれど、なんとか手紙は届けてもらいたいな。太郎くんも、待っててね。

 

 それでは、今日はこの辺で。またお手紙書く時まで、元気でね。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 日が昇り始めた早朝、霊夢は目を覚ました。なんらおかしなことはない、毎日のことである。

 寝間着から着替えることなく、少し肌寒いのではんてんを羽織って、朝の散歩に向かう。散歩が終わったら程よく眠くなるので、二度寝するまでが、いつもの日課だ。

 客間などはないので、昨日は妖怪二匹と一緒の部屋で寝た。紫は昨日の晩、どこにあるかも知らない自宅へと帰っていった。

 今もこいしは掛け布団を抱きしめるようにして眠っている。しかし、花子の布団は空になっていた。

 お手洗いか何かだろうと思ったが、玄関に向かうと彼女の靴がない。こいしを残して出発するような真似はしないだろう。

 ともかく、霊夢は外に出た。なんとなく神社の階段にいそうな気がして向かってみると、やはりおかっぱ頭の後ろ姿があった。

 霊夢が砂利を踏む音で、花子が気づいた。振り返った彼女は、薄い寝間着のまま寒がりもせずに、

 

「おはよう、霊夢」

「おはよ。よく眠れた?」

「うん。霊夢もお散歩?」

「そ」

 

 階段から一望できる幻想郷の姿は、朝が一番美しい。日の出の空気に浄化されたその景色は、どうやら妖怪の心も射止めるようだ。霊夢が朝の散歩を欠かさない理由も、ここにある。

 並んで立って、しばらくぼんやりと幻想郷を眺めていたが、ふと思い出したように、花子が脈絡もなく訊ねてきた。

 

「そういえば、この神社は鳥居がないね。守矢神社にはあったのに」

「失礼ね、ちゃんとあるわよ」

「そうなの? 入り口にないんだもの、びっくりしちゃった。見てみたいな」

「いいけど、面白いもんでもないわよ」

 

 それでもいいからと花子に言われて、霊夢は彼女を神社裏に位置する鳥居に案内してやることにした。

 博麗神社の鳥居は、幻想郷の方を向いていない。結界の向こう側――つまり、外の世界に向いている。神社の半分は外にあるのだが、物理的にはみ出しているのとは違うので、説明が難しい。花子に聞かれないことを祈るしかない。

 階段を下った先にある鳥居は、特に珍しい形をしているわけでもなく、ただ神社の裏にあるだけの代物だった。目にした花子も、大した感想は出なかったらしい。

 

「ホントだ、あった」

「だからそう言ったでしょ」

「どうしてこっちにあるの? 入り口はあっちなのに」

「……説明し辛いから簡単に済ますけど、外の世界と繋がる入り口みたいなもんなのよ。私が結界をちょこちょこっとやると、外に行けるわけ。迷い込んだ外の人間を帰す時に使ってるわ」

 

 自分の頭の弱さを自覚しているのか、花子は適当に相槌を打つだけだった。理解できないことを理解している者とは、話しやすい。氷精にも見習ってほしいものだと霊夢は思った。

 

「外の世界からこっちに来た時に通った鳥居は、ボロボロだったよ」

「ふぅん。あっちのは見たことないのよね」

「道らしい道もなかったし、ここに来るのは大変だったんだから」

 

 当時は飛ぶことも出来なかった花子だ。博麗神社までの長い道を歩いて行ったことを考えると、下級妖怪にしては、並大抵の根性ではない。霊夢は素直に感心した。

 ふと、鳥居を眺める花子の瞳に、薄い憂いが見えた。気のせいかと思ったが、霊夢の勘が外れることはほとんどない。

 

「花子。あんた、外に帰りたいんじゃない?」

「……」

 

 こちらを振り向いた花子は、表情をあまり動かさず、もう一度鳥居を見つめる。やはり、少し寂しげに見えた。

 

「その気持ちは、ずっとあるよ。太郎くんとか、ムラサキお婆ちゃんとか、みんなに会いたいもの」

「一応言っておくけど、あんたが帰りたいってなら、そこの鳥居から出れるわよ。妖怪は出入り自由みたいなもんだから」

 

 思いやったつもりもなく、ただ事実を述べただけだった。しかしそれでも、花子は振り返ってにこりと笑う。

 

「ありがとう。……ねぇ霊夢、私、幻想郷の妖怪っぽくなってきたかな?」

 

 突然の問いかけに、霊夢は困った。性格や考え方が極端に人間寄りで良くも悪くも自己犠牲的な花子は、幻想郷の妖怪どもとは、やはりずれている。

 しかし、彼女が聞きたいのはそういうことではない気もした。れっきとした妖怪として、人に認識されるような存在になれたかということだろう。

 それならば、答えは決まっている。

 

「異変の主犯になるくらいなんだから、十分迷惑な妖怪よ」

「そっか。なら、私は幻想郷でがんばるよ。友達もいっぱいできたしね」

 

 本心からの言葉だと感じた。しかし花子は、言葉とは裏腹に、視線に混じる懐郷の想いは消せていない。

 しかしそれは、彼女の問題だ。自ら幻想郷を望んできたのだし、そもそも、妖怪の私情に首を突っ込んでやる義理は、霊夢にはない。

 いつまでも花子の郷愁に付き合うのも嫌なので、霊夢は神社に帰ることにした。こいしがまだ寝ているようなら、もう一眠りできるだろう。

 

「ちょっと寒いし、私は戻るわよ」

「あ、うん。じゃあ私も」

 

 二人して布団が敷きっぱなしの部屋に戻ると、案の定こいしがまだ眠っていた。気持ちよさそうに布団を抱きしめているが、先ほどと頭の位置が逆になっている。

 どういう寝相をしたらそうなるのか考えそうになったが、無意味なのでやめた。花子も苦笑いしつつ、自分が使っていた毛布をこいしにかけてやっている。

 もう少し寝ると言うと、花子は寝れないので起きていると返してきた。そのまま放っておいても良かったが、さすがに暇だろうから、以前魔理沙が置いていった漫画を渡してやる。

 

「ありがとう」

「ん。じゃあ二時間くらいしたら起きると思うから」

「うん。おやすみ」

 

 布団に潜って、目を閉じる。散歩で冷えた体が温まると、途端に眠くなってくる。

 花子がめくるページの音が、意識から遠ざかっていく。眠気に逆らわず身を任せ、霊夢は至福のひとときを楽しんだ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 翌朝――昼に近いが――、こいしと花子は博麗神社を出発した。見送ってくれる霊夢に手を振って、街道へ続く道を歩く。

 どうやら、花子は博麗神社を気に入ったらしい。足を運ぶことは少ないが、あの神社の不思議な空気は、こいしも嫌いではない。

 街道に出て、山の方を目指す。さすがに妖怪の巣窟に向かう道なだけあり、人間の姿は少ない。時折通る牛車には、妖怪除けの御札が貼ってあり、花子と一緒に離れて見送った。

 博麗神社で朝ご飯を頂いたが、それも数時間前のことだ。小腹が空いてきたので、こいしは花子に提案した。

 

「花子、麓のお茶屋さんでなにか食べていこぉ」

「んー、そうだね。私もお腹減ってきたし、そうしよっか。あのお茶屋さん、久しぶりだなぁ」

「あそこのお団子、おいしいもんねぇ。おはぎもおいしかったよぉ」

「へぇ。じゃあ今日は、おはぎにしてみようかな」

 

 味を想像したのだろう、花子が唇をぺろりと舐めた。彼女はこいしと同じで、甘いも辛いも選ばず、美味しい物を楽しめる口だ。

 二人とも空腹が迫っていたらしく、歩いている間中、ずっと食べ物の話をしていた。そうすると当然腹減りは加速し、次第にこいしも花子も静かになって、黙々と茶屋を目指す。

 無論剣呑は雰囲気ではなく、空を珍しい鳥が飛んでいけば指差すし、妖精同士の弾幕ごっこを見て笑ったりもした。ただ、会話をするとどうしても食べ物に話題が移るので、お互いに避けているのだ。

 そうこうしているうちに、茶屋が見えてきた。時刻は昼を少し過ぎたくらいだ。予想よりも早く着いたのは、いつもより早足になっていたからだろう。

 待ち切れないとばかりに、こいしは茶屋の中に入った。二畳の畳にちゃぶ台が一つという、多人数の客をまったく想定していない客席がある。今日は晴れているので、こちらではなく外の縁側にしようと決めた。

 

「こんにちはぁー!」

 

 大きな声で言うと、しばらくしてから老婆が現れた。もうかなり年なので、足腰が良くないらしい。人間は短命だから仕方ないが、できれば長生きしてほしいなとこいしは思っていた。

 こいしの顔を見ると、老婆はにっこりと笑った。

 

「おんや、こいしちゃんね。いらっしゃい」

「お婆ちゃん、今日は友達連れてきたよぉ。前にも一回来たことあるの。覚えてるかなぁ」

 

 背後の花子を促して前に出すと、老婆は花子の顔を数秒眺めてから、嬉しそうに破顔して頷いた。

 

「覚えとるよぉ。去年の夏の暮れに来たねぇ」

「御手洗花子です。……」

 

 今度は花子が、老婆の顔をじっと見つめた。その瞳はどこか遠くを見るような、目の前の老婆よりずっと向こうの何かを見つめているかのようだ。

 あまり人をじろじろ眺めるのは良くないなと思い、こいしは花子の顔の前で手を振る。すると、我に返った花子が慌てて老婆に頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい。お世話になっていた人に、似ている気がして」

「気にしなくてえぇよぉ。花子ちゃんって言うたね、いい目をしとるねぇ」

 

 照れて頭を掻く花子である。

 お茶とおはぎをそれぞれ頼み、こいしは団子も一緒にお願いして、縁側で待った。もう昼間になると寒さはまったく感じない。あと一ヶ月もすれば、梅雨がやってくるだろう。

 雨は嫌いではないが、地面がぬかるむと歩くのが面倒になるのは困った。飛べばいいのだが、そうすると傘を差しても濡れてしまう。お気に入りの服が汚れるのは、やはりいい気持ちではない。

 梅雨が来る前に地底へ帰れるのはいいが、梅雨中ずっと寺に顔を出さないわけにもいかないだろう。行くのは晴れた日にしようとこいしは決めた。

 空にぷかぷか浮かぶ雲を花子と二人で眺めていると、老婆がお茶とお菓子を持ってきてくれた。

 

「ありがとぉー」

「いただきます。うわぁ、美味しそう!」

 

 花子が箸でおはぎを丁寧に切り取り、口に運んだ。こいしはお団子からいただくことにする。みたらし団子で、お茶との相性が抜群だ。

 団子を一本食べ終えて、こいしはふと気になったことを花子に訊ねた。

 

「ねぇ花子、お婆ちゃんは誰に似ていたの?」

「ん? ん……」

 

 おはぎを食べている途中だったようで、花子は手で少し待てと合図してから、お茶で口の中にあるものを流し込んだ。

 

「んっとね、私が外の世界にいる時に、子供の怖がらせ方とかを教えてくれた人なの。ムラサキお婆ちゃんっていうんだけれど」

「何回か花子の話に出てきたねぇ」

「うん。私と太郎くんにとって、本当のお婆ちゃんみたいな人だったんだ」

 

 よほど大切な人なのだろう、花子の目は優しく細められていて、ムラサキという妖怪の話をするだけで幸せそうだった。

 誰かに自分のことをこんな風に語ってもらえたら、どれほど嬉しいだろう。こいしはムラサキを羨ましく思う。

 姉のさとりは、自分のことを話す時、どんな顔をしているのだろうか。困った妹だと呆れているかもしれない。それも仕方ないことだなと、苦笑する。

 お茶を飲みながら、花子はムラサキのことから始まり、外の世界にいる友達のことを話してくれた。聞くのは初めてではないのだが、花子があまりにも楽しそうなので、こいしもにこにこと耳を傾ける。

 

「……それでね、クララはとてもピアノが上手なの。夜の学校にいっつも流れているから、私は夜が楽しみだったんだ」

「そうなんだぁ」

「うん。私と太郎くんは、クララのいる学校に後から来たのだけれど、ずっと居着いちゃった理由にはクララのピアノもあったんだ」

 

 まだ残っているおはぎも忘れて、花子は夢中になって話を続けている。その様子を楽しく眺めていたが、こいしはふと、花子の声の端々にある違和感に気づいた。

 気のせいかと思ったが、外を懐かしむ話しが進むにつれて、その違和感――言葉に宿る寂しさが本物だと気づく。

 できれば、なかったことにしたかった。聞いてしまえば、花子がそう決心してしまうかもしれない。一緒に夢を目指すパートナーとなってくれるかもしれない花子を失いたくはない。

 だがそれ以上に、誰よりもこいしを大切な友達として接してくれる花子に、寂しそうな顔をしてほしくない。だから、こいしは精一杯の勇気を振り絞った。

 

「花子、もしかして……帰りたい? 太郎くん達がいるところ、戻りたい?」

「え? う、ううん。ちょっとだけ、懐かしくなったの。それだけだから、大丈夫」

 

 一生懸命取り繕おうとしてくれるのは嬉しかったが、花子に何もしてやれないことが悔しくもあった。

 口数も少なく、こいしと花子は冷めかけたお茶を啜る。どんな言葉をかけてやればいいのか、こいしは分からなかった。無意識に紛れて人と接するのを避けていたことを、ここにきて後悔する。

 萃香なら、ミスティアなら、こんな時なんと言うのだろう。小難しい言葉を並べ立てたところで、花子の寂しさはちっとも消えてくれないはずだ。

 

「霊夢にも、同じ事を聞かれたよ」

 

 花子が言った。今朝、こいしが寝ている間の出来事だろう。湯呑みを口から離して、続きを待つ。

 

「ずっと前から、帰りたい気持ちは少しだけあったんだけど、本当にちょっとなんだ。博麗神社の鳥居が外に繋がってるって聞いた時に、その気持ちを思い出したっていうかな」

「……」

「でも、だからって今帰ったら、きっと太郎くんにもお婆ちゃんにも怒られちゃうと思うの。それに、こいしちゃんと一緒にがんばろうって決めたものね」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、花子が寂しそうなのは、やだよぉ」

「……ありがとう。でも大丈夫。子供のための妖怪、目指さないとね!」

 

 見せてくれた笑顔は、いつも見せてくれる太陽のような笑顔だった。ならば、これ以上こいしが心配するのは野暮かもしれない。

 花子は強い少女なのだ。その強さを信じるのも、友達としての、パートナーとしての役割だろう。

 そろそろ行こうと、花子が立ち上がった。茶屋の老婆にお金を払い、二人は揃ってごちそうさまを言う。

 

「おいしかったよぉ、お婆ちゃん」

「そうかい、またいつでも来てねぇ。うまぁいお団子作って、待っとるからねぇ」

「きっとまた来ます。お婆ちゃん、元気でいてくださいね」

 

 老婆にお辞儀して、茶屋を後にする。

 地底に行ったら、花子が寂しくならないように、たくさん案内してあげようと、こいしは決めた。たくさん笑えば、寂しさなんてどこかに行ってしまうに違いない。

 青く色づいた妖怪の山は、もう目の前だ。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 

 山には人間も通れるような、整備された山道がある。去年花子が山に入った場所から、少し離れたところにあった。

 木漏れ日が差す山道を、花子とこいしは並んで歩く。口数が少ないせいか、こいしがチラチラと花子の顔色を伺ってくる。

 朝から外の世界を思い出させることが続いたせいで、少し寂しい気持ちになってしまったが、初めてのことではないし、元々強い精神力は持ち合わせていないのだ。

 先ほどこいしに宣言した通り、もうほとんど寂しさは消えている。こいしと目が合ったので、花子はにこりと笑った。

 

「大丈夫だよ。心配かけて、ごめんね」

「ううん、いいんだぁ。私もね、時々どうしてもお姉ちゃんに会いたくなって、飛んで帰ることがあるの。だから、花子もそうしたいのかなぁって」

「会えればとても嬉しいけれど、私は幻想郷の妖怪になるって決めたもの。それに、会えなくても手紙を書けば、太郎くんは読んでくれるから」

「そっかぁ。花子はすごいなぁー」

 

 のんびりした口調だが、こいしは心から褒めてくれている。なんだか小恥ずかしかったが、もう元気だと伝わったのなら、花子も一安心だ。

 こんなに素敵な友人がいるのだから、寂しがっていては失礼だろう。外の世界にいる太郎や他の友達もまた、花子がいなくなったことで一人になるわけではない。

 太郎から連絡はないが、元気にしているはずだと、第六感にも似たものが告げている。花子はそれを、少しも疑うことをしなかった。

 

「地底に行く前に、寄りたいところ、あるぅー?」

 

 こいしに聞かれて、唇に人差し指を当てて考える。秋姉妹に会いたいと思ったが、今は春だ。確か、彼女ら――特に姉――は、秋以外は機嫌が良くないと記憶している。無理に顔を出すのも気が引ける。

 河童のにとりも山に住んでいるはずだし、いつか人間を驚かす競争をした化け猫の橙も、この山を住処としていたはずだ。しかし、特に訪れる理由がない。

 もう親友と呼んで差し支えないこいしと一緒にいれば楽しいから、どこでもいい。そう告げると、こいしはふんわりと頬を緩めた。

 

「そっかぁー。えへへ、嬉しいなー」

 

 上機嫌なこいしを見て、花子も釣られて笑った。

 レミリアや響子といった友人と比べるつもりはないが、花子と目標を同じくしたいと言ってくれた日から、こいしは友達というだけではなく、少し特別な存在になっていた。太郎と重ねて見ているのだ。

 さすがに四十年近く一緒にいた太郎ほど親密になるのは早いだろうが、いつかこいしがそうなってくれると信じられることが、嬉しい。しかし一方で、太郎に甘えてしまっていた自分を知っているので、こいしにはすがり過ぎないようにしなければと、花子は自分を叱りつけた。

 しかし、太郎はどうなのだろう。花子がいなくなって、似たような寂しさを感じているだろうし、花子にとってのこいしのような存在は、見つかっただろうか。

 太郎は口下手なので、新しい友達を作るのが苦手だった。ピアノ妖怪のクララが親しいが、彼女は少しつっけんどんなところがあるし、難しいかもしれない。学校の怪談として生きるのが難しい今の時代、どうやって子供を驚かしているのかも、心配だった。

 いつの間にか考え込んでいると、隣を歩くこいしに頬を突っつかれた。

 

「花子ぉー?」

「……あ、ごめん! ちょっと考え事」

「太郎くんのこと?」

「う、うん。よく分かったね」

 

 ちらりとこいしの第三の瞳を見たが、青い瞳は閉ざされたままだった。心は読んでいないらしい。彼女の鋭さには、度々驚かされる。

 言い訳するのもおかしいので、正直に考えていたことを話すと、こいしは苦笑いを浮かべた。

 

「やっぱり花子、太郎くんのことが気になってるねぇ」

「たまたま、思い出すことが重なっちゃったから。それに、私がこっちに来た理由は太郎くんにも当てはまるもの」

「そっかぁー。お手紙の返事、来ないもんねぇ」

「太郎くんは、字を書くの好きじゃなかったもの。仕方ないよ」

 

 頭を掻いて答えるものの、毎回返事を期待しているのは事実だ。こいしもお見通しらしく、二人で曖昧な笑いを浮かべる。

 山道を外れて、獣道を歩く。程なくして、川原に出た。上流に登れば、地底へ続く洞窟があるはずだ。流れる清水を横目に、上を目指す。

 いつか修行に明け暮れた風景に、花子は目を細めた。あれから決闘らしい決闘は数えるほどしかしていないが、少しは強くなれただろうか。

 

「もう、夕方だねぇー」

 

 こいしが言った。空を見あげれば、雲はオレンジに染まりつつある。のんびり歩いたせいで、思った以上に時間がかかったようだ。

 地底からこいしの実家である地霊殿までは、飛んでも数時間かかるらしい。地底の妖怪は時間に縛られないらしいので、遅くに訊ねて失礼ということはないだろうが、ついた頃には花子がクタクタになっていそうだ。

 初対面で疲れた顔を見せると、印象が悪いだろう。花子は少し考えてから、こいしに提案した。

 

「ねぇ、今日は川原で休んでいこうよ」

「いいよぉ」

 

 いつか萃香がこしらえてくれた寝床は、風雨に晒されて屋根はなくなっているものの、運良く布団代わりの布は残っていた。最近は晴れ続きだったせいで、乾いている。今日は使えそうだ。

 森でこいしと木の実を採ってきて、小腹を満たす程度の夕食を楽しんでから、花子は手紙を書くために、魔法の鉛筆と便箋を取り出した。

 いつもはスラスラと筆が動くのだが、今日は少し躊躇った。一日中太郎絡みの考え事ばかりしていたせいで、そのことばかり頭に浮かんでくるのだ。

 外を思い出して寂しくなったと打ち明けたとしたら、太郎は心配するだろう。それに、文字にしてしまったら、またもやもやとしてくるかもしれない。

 

「うぅーん……」

「花子が手紙書くの悩むなんて、珍しいねぇー」

 

 こいしにまで言われてしまい、いよいよ自分らしくなさを実感する。いつも通りに書こうと思っているのに、妙に頭を使ってしまい、言葉が出てこない。

 三十分ほどかけて、茶屋でのことや川原のことを、当たり障りの無い文章で書き上げた。博麗神社の鳥居のことは、書いていない。

 何度か読み直して、おかしな書き間違いがないことを確認してから、封筒に入れる。いつも感じている書いた後の達成感は、今日は味わえなかった。

 こんなものだろうと自分に言い聞かせて、花子は川原の石に腰掛け、こいしと一緒に夜空を見上げた。夏に近いせいか、まだ少し明るく、空で妖精が遊んでいるのが見える。

 

「いよいよ明日、地底だねぇー」

 

 花子が来るのをずっと楽しみにしていたらしいこいしが、どこか嬉しそうに言った。紅魔館に長い時間いたから、次こそはと思ってくれていたのかもしれない。

 妖怪の楽園である幻想郷だが、その妖怪からも嫌われた者達の居場所だと、こいしが改めて語ってくれた。しかし、それは昔のことで、今は追い出されたことを根に持っている者はほとんどいないという。

 中には排他的な妖怪もいるそうで、そういった妖怪には近づかないほうがいいそうだ。文の毒舌を八割増できつくしたような、という例えを聞いて、花子は友達になれないことを確信した。

 

「私のお姉ちゃんも、きっつい性格なんだけどねぇ」

「さとりさん、だっけ。うぅん、仲良くなれるといいけれど」

「花子は素直だから、きっと大丈夫。私も協力するよぉー」

 

 頼もしい言葉に、花子は笑って頷いた。心を読めるということだから、接し方は難しいだろうが、きっとなんとかなるだろう。良くも悪くも単純なスカーレット姉妹よりは、苦労しそうだが。

 地底に行けば、他にも多くの友達ができるだろう。かつて嫌われ者だったとしても、同じ妖怪なのだから、仲良くなれないはずはないと、花子は信じていた。

 友達が増えれば、また楽しい手紙を書くことができるはずだ。そう思うと、明日が楽しみで仕方なくなってきた。

 

「地底、早く行きたいな」

「楽しいところだよぉー。地上のみんなは、悪い噂しか聞いていないんだもんなぁ」

「そうなんだ。私は幻想郷に来たばかりだから、そういうのはないな」

「いいことだよぉ」

 

 あまり話しすぎると楽しみが減るからと言いつつ、こいしは地底のお気に入りスポットを色々と教えてくれた。見知らぬ世界の話は、とても好奇心をくすぐられる。

 こいしがあんまり楽しそうに話をするので、花子もついついお喋りに夢中になってしまった。二人して、心だけが先に地底へ行ってしまったかのようだ。

 明日は朝一で地底へ行こうと話していたのに、夜中まで話し込んだ花子とこいしは、結局翌朝、寝坊してしまうのだった。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 慣れ親しんだ、スキマの中。どの空間にも属さないこの不可思議な情景は、八雲紫にとって故郷のような懐かしさを覚える。

 色も、形もない世界。何にも縛られない真の自由が漂う空間は最高に居心地がいいと思うのだが、式の顔を見ると、そういうわけでもないようだ。

 何度も来ているだろうに、藍の顔には緊張が見られる。妖獣の頂点に立つであろう九尾狐ともあろう者が、未だに慣れていないらしい。今日は彼女からこのスキマに入ることを選んだのだから、もう少し平静を装ってほしいものだと、紫は嘆息した。

 外に手紙を届ける紫に、同行を願い出たのだ。いつもならば一蹴するところだが、最近は彼女を酷使しすぎているし、藍は外での禁忌を守らないほど愚かな女ではないと、それを許可した。

 今は、その帰りだ。藍は外の世界を珍しそうに眺める一方で、空気の悪さに顔をしかめていた。やはり、幻想郷の美しい空気に馴染み過ぎると、外は辛いようだ。

 彼女がついてくると言った理由について、紫は聞いていなかった。聞かなくともわかっていたからなのだが、ついいたずら心で、本人に訊ねる。

 

「それにしても、どういう風の吹きまわしかしら」

「特別なことがあるわけでは。ただ、紫様が普段、どこで息抜きをされているのか、気になったのです」

「あら。私が手紙を届けるのは、サボりだとでも?」

「完全な道楽、とまで言うつもりはありませんが、絶対的な義務であるとは思いません」

「ムラサキお婆様からの頼まれごとよ。私の使命と言えないかしら?」

「幻想郷の管理を式に丸投げするほど重要な、ですか?」

「そうね。私の代わりが勤まるほど優秀な式がいてこそよ。藍がここまで育ってくれて、嬉しいわ」

 

 実際は、藍に施している式が管理の大半を行なっている。藍自身の能力も、もちろん大きいが。

 これ以上の発言は主への侮辱になると取ったのだろう、藍は口を閉ざしてしまった。彼女はいつも、ぎりぎりのラインで紫に小言を言ってくるのだ。

 ふと、手紙を受け取った時の花子を思い出す。スキマに消える紫を、いつもとは違う眼差しで見つめていたように感じたのだ。

 恐らくは、望郷。彼女が幻想郷に来てから一年以上経つが、今になって帰郷したいと思ったのだろうか。博麗神社に来たということは外と繋がる鳥居を見たことも考えられる。

 無理をしているのだろう。自分を騙し続けるのにも、限度がある。花子は幼く、その限界は決して遠くない。あるいは、地底の覚がその本心を暴くかもしれない。

 しかし、どちらにせよ――

 

「乗り越えてもらわねば、ね」

「できるでしょうか、彼女に」

 

 どうやら藍も、スキマから見えた花子の表情に、同じものを感じ取っていたようだ。彼女もまた、故郷を離れて幻想郷にやってきた一人である。精神的成熟具合の差は天と地ほどもあれど、気持ちは分からなくもないといったところだろう。

 もしも花子が帰りたいと言い出せば、それを止める権利は誰にもない。彼女の良き友人達は止めるかもしれないが、少なくとも紫の目的のために無理強いをすることはできないだろう。

 言葉巧みに花子を誘導することもできるが、それでは意味がない。彼女が自ら、それを成そうとしてくれなければならない。紫には、花子を信じることしかできないのだ。

 そこまで考えて、紫は自分の思考に激しい違和感を覚えた。思わず、吹き出しそうになる。

 

「私が、信じるしかない、ね」

「……?」

「どう思う、藍? 私が、信じるしか道がないと言い出すのよ」

「不気味です」

 

 即答されてしまったが、紫は苦笑しつつ「そうよね」と答えた。こんな選択は、数百年に一度するかしないか、だ。それも、よほど追い詰められた時のことだろう。

 今は、それほど緊迫した状況ではない。だというのに、なぜ信じるなどという曖昧極まりない選択をするのだろうか。我ながらおかしくて、つい笑ってしまう。

 あるいは、花子に毒されたのだろうか。それも悪くないが、あまり甘くなりすぎるのも困りものだ。少し気を引き締めなければならないかと、心中で頬を張る。

 スキマを開けて、幻想郷に帰還する。明け方の空は、遠くまで透き通っていた。慣れ親しんだ美しい空気を胸いっぱいに吸い込んでから、藍がこちらに微笑む。

 

「紫様。もしかしたら紫様は、御手洗花子の友達になられたのでは?」

「どういうことかしら?」

「花子と話している時の紫様の横顔を、どこかで見たなと考えていたのです。合点がいきました、西行寺の幽々子様とお話をされているときの横顔と、まったく同じでした」

「あら、そう」

 

 友人の幽々子と話している時の顔など意識したことはなかったが、藍が言うのだから、そうなのだろう。しかし、そう考えるとたちまち愉快になってくる。

 妖怪の賢者たるこの八雲紫が、子供を怖がらせるのが精一杯の小さな妖怪を友と思うなど。悪いことではない、ないが、こんなにおかしいことがあるだろうか。

 

「そう……。私が、花子の友達、ね。ふふ、楽しいわ」

「それでしたら、彼女の手紙を届けることにも、納得がいくのです。紫様にとって、友と呼べる者は、とても貴重な財産でしょうし」

「あら、私には友人が少ないと言うのかしら? 根拠はあるの?」

「あなたの式を長年やってきた、その経験こそが根拠です」

「生意気ね」

 

 口ではそう言ったものの、紫は笑っていた。虫の居所が悪かったら、きっと仕置きの一つもしただろうが、今は最高に機嫌がいいのだ。藍も分かっているから、こんなことを言うのだろう。

 地底にまで手紙を受け取りに行くべきか、ずっと考えていたのだが、紫は地底に出向くことを決めた。友の頼みとあらば、聞くわけにはいかないだろう。

 友というその響きが理由になることが、とても愉快な気持ちにさせてくれる。遠い遠い幼き日々を思い出すようで、たまらなく心地よかった。



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そのよんじゅう   恐怖!地底に蠢く妖怪の群れ!

 

 

~~~~

 

 

 太郎くんへ

 

 

 こんにちは。今日から、とうとう地底です! 

 

 思っていたよりも明るくて、地面の下にいるんだっていう実感が、あまりありません。

 

 でも、空もないし、壁で覆われているし、やっぱりここは地底なんだね。当たり前だけれど、不思議な気持ち。

 

 地底の妖怪の子とも、出会いました。少し変わっているけれど、それは幻想郷も同じだものね。きっとうまくやっていけると思うよ。

 

 本当はね、少しだけ不安なの。大きなケンカをしないように、気をつけなければね。

 

 それでは、またね。

 

 

 花子より

 

 

~~~~

 

 

 すっかり日が昇った青空の下で、朝食だか昼食だか分からない木の実を食べ終えてから、花子とこいしはとうとう地底へ続く洞窟の前に立った。

 これからしばらく地底に滞在するとしたら、空を眺めることはほとんどなくなるかもしれない。名残惜しげにぷかぷかと暢気な雲を見上げていると、察してくれたらしいこいしが、花子の頭を撫でた。

 

「太陽は見れなくなるけど、地底の天井は不思議なコケがお星様みたいに光ってるから、綺麗だよぉ」

「そうなんだ。光るコケって、図鑑で見たことあるけれど、それと同じ?」

「んー、調べたことはないけど、それとは違うんじゃないかなぁー? たくさんの色があるし、妖力もちょっと出てるし」

 

 どうやら、地底特有のものらしい。ぼんやりと空を眺めるのが好きな花子も、それならば退屈しないで済みそうだ。こいしに手を引かれて、洞窟に入る。

 地上の妖怪はほとんど入ろうとしないらしいが、幻想郷に来てまだ一年目の花子である。悪いことをしているというような感覚は、まるでない。堂々としているね、とこいしに笑われたが、曖昧な返事しかできなかった。

 暗がりは歩きにくいかと思っていたものの、夜目が効く妖怪二人にとって、それはいらぬ心配であった。こいしが言っていた輝く不思議なコケのおかげで、地上の夜道よりはずっと明るい。

 想像していた、真っ暗で何もない洞窟と違い、地底へ続くその空洞はとても神秘に満ちあふれていた。天井で色とりどりに瞬く美しい光は、花子をときめかせるに十分過ぎる。

 ふと、見上げている天井がずいぶん高いことに気がついた。飛び回っても、よほど無理をしない限りは頭をぶつけることはないだろう。

 入り口はそうでもなかったと思うのだが、もう結構な距離を降りてきたのだろうか。しかし、洞窟の先にはまだ、町らしいものはおろか、人影一つ見えない。

 

「こいしちゃん、結構歩くの?」

「んー、そうだねぇ。旧都までは大体、お寺からここまでと同じくらいだから、歩くとまだまだかかるよぉー。飛んでっちゃう?」

「ううん、歩いていこう。せっかくの地底だもの、もっとゆっくり楽しみたいの」

「りょーかいー」

 

 そうは言ったものの、旧都と呼ばれる場所の近くまでは、代わり映えのない景色が続くばかりらしい。ゆっくり楽しむという発言の中身は、ほとんどがこいしとのおしゃべりで占められている。

 そのおしゃべりの中で、こいしはこんなことを話してくれた。

 地底と地上が往来できるようになった大きな理由の一つに、彼女の自宅が絡んでいるらしい。地霊殿に住むペットが起こした騒動で、霊夢と魔理沙が地底に乗り込んだ日から、そのペットが地上に出向くようになったそうだ。こいしはそのずっと前から、地上で遊んでいたそうだが。

 地霊殿の異変後も、紫や天狗の上層部などは、地底との関わりを拒んでいたらしい。しかし、地底に封じられていた空飛ぶ船が地上に出現、案の定霊夢達と一悶着を起こしてから、人里付近に着陸、妖怪が集う寺――命蓮寺となったことで、不文律はほとんど意味をなさなくなったという。

 古くから地上にいる妖怪などは、今でも地底に行こうとはしない。世間知らずな若い妖怪は、度胸試しに潜ったりするらしいが、大抵が八雲紫やその式に引きずり出されるか、手加減を知らない地底の妖怪に痛い目に合わされて、泣きながら帰ってくるかのどちらかなのだとか。

 

「弾幕するのはいいんだけどねぇー、地底の妖怪に挑んでくる子って、なんでか私達を見下してるから、ついムッとなっちゃうんだぁ」

「それはよくないねぇ。って、こいしちゃんも地上の妖怪に挑まれたことがあるの?」

「うん。ちょうどこの辺りで弾幕したよぉ。すっごい点差で勝っちゃったら、文句言いながら出てったよ」

 

 これは、地上の代表としてお詫びの菓子折りでも持ってくるべきだっただろうか。花子は少し頭を悩ませたが、今から引き返して土産を買うのも馬鹿らしいので、進むことにする。

 地底深くに潜れば潜るほど、天井は高く、幅もどんどん大きくなっていく。幻想郷の下にこんな空洞があったら、地震か何かで崩れてしまうのではと思ったが、花子が生きているよりもずっと長い時間保っているのだから、いらぬ心配なのだろう。

 天井の星を見上げながら、いつものように談笑している時に、花子はふと視線を感じ、立ち止まった。こいしも気づいたようで、暗がりの一点を見つめている。

 

「おや、やっと気づいた。覚相手じゃ、もっと早く気づかれると思ってたんだけど」

 

 岩場の影から現れたのは、黒くゆったりとした服の上から茶色いジャンパースカートを着た、金髪のお団子頭が可愛らしい少女だった。大きく膨らんだスカートが印象的だ。

 言葉からして、ずっとつけていたらしいが、気が付かなかった。いつから見ていたのか、皆目検討もつかない。こいしもそのようで、首を軽く傾げてから、

 

「ヤマメちゃん、全然分からなかったよぉ。覚の力は、その目が向いている人にしか効果ないし、私は目を閉じているしねぇー」

「あー、それもそうか。あはは、あんたが心を読まないの、すっかり忘れてたよ」

「会うの、久しぶりだもんねぇー」

 

 致し方ない、とこいしが首肯した。どうやら知り合いらしいし、この妖怪――で間違いないだろう――少女を紹介してほしいのだが、二人は何やら盛り上がり始めてしまう。

 

「あんたの姉さんには、散々意地悪されたのにねぇ。こいしだっけ、あんたほとんど旧都にも顔見せないじゃない」

「だって、みんな私達を見ると嫌そうな顔するから、気づかれないようにしてるんだぁ」

「そんなの、気にしなくていいじゃん。そりゃ昔は覚って言ったら、嫌われることに関しては右に出る奴がいないってくらいの妖怪だったけどさ。今じゃ忘れられてるくらいじゃない? さとりの方はちっとも地霊殿から出ないしさ」

「そうなんだよねぇ。たまには外に出たらーって言うんだけど、絶対動かないんだから。そのうち太っちゃうよねぇ」

「百年以上あの生活して太らないんだから、大丈夫なんじゃないの? 油断したら分からないけど、あんたの家、色々問題抱えてるだろうしね。太ってる暇なんてなさそうじゃない」

「そうかなぁー」

「あ、あの」

 

 ようやく割って入ることができたが、二人はこちらを向いて、きょとんとしている。そんな意外そうな顔をされると、なんだか居心地が悪くなってくるのだが、文句も言えずに黙って待つ。

 数秒して、ようやく思い出してくれたのか、ヤマメと呼ばれていた茶色い服の少女が、ごめんごめんと頭を掻いた。

 

「いや、久々にこいしと会ったもんだから、ごめんね。あんたは、地底の顔じゃないね。地上から?」

「は、はい。御手洗花子っていいます」

「あたしは黒谷ヤマメ。よろしくね。地上の妖怪がわざわざ潜ってくるなんて、珍しいね。白黒の人間ならしょっちゅう来るようになったけど」

 

 普通を自称する魔法使いは、こんなところにも顔を出しているらしい。行動範囲の広さは、もはや人間の域を脱しているのではないだろうか。

 地底に来ることになった経緯を軽く説明すると、ヤマメはさも愉快な話を聞いたかのように、興味深そうに頷いた。

 

「面白そうだねぇ。って言ったら、外の世界とやらで苦労してきた花子に申し訳ないか」

「そんなことないですよ」

「まぁあたしら地底の妖怪にとっちゃ、幻想郷がすでに外の世界みたいなもんだからね。その向こう、人間が一番になった世界なんて、想像もできないんだよ」

「私も、同じ事を感じたなぁー。妖怪が住めなくなるくらい人間が強くなるなんて、信じられないよぉ」

 

 人間が妖怪を圧倒する力を手に入れたわけではないのだが、恐れなくなるどころか信じなくなってしまったということは、似たようなものなのかもしれない。

 外の妖怪がいかに腑抜けになってしまっているかを聞いて、ヤマメは複雑そうな顔をした。いつか文が怒った時と同じ感情を抱いているようだが、自分が外の妖怪になるわけじゃないからと、苦笑交じりに肩をすくめる。

 

「そういや、地上に住んでるならさ、花子もあの遊びするの? 妖弾飛ばし合うあれ」

「弾幕ごっこ? うん、やってますよ」

「あれ、面白いよねぇ。巫女と魔法使いが乗り込んできた時に知ったんだけど、すっかりはまっちゃったよ」

 

 聞けば、スペルカードルールと弾幕ごっこは、地底でもそこそこ受け入れられているらしい。弾幕にはローカルルールが付与されているそうだ。

 地底の連中は好戦的な妖怪が多いらしく、ケンカの決着ははっきりつけたいという意見で満場一致したようで、カード枚数に上限はなく、どちらかが力尽きるか降参するまで弾幕を交わし合うというのが、ここでの基本ルールだと、ヤマメが教えてくれた。

 地底で弾幕ごっこをするのはできるだけ避けようと思った花子だが、その矢先、ヤマメが蜘蛛の絵柄が描かれた焦げ茶色のスペルカードを取り出した。

 

「ねぇ、地上の妖怪がどんな弾幕使うのか、見せてよ」

「え、でも、私弱いですよ。それに、特別違う弾幕ってわけじゃあないと思うのだけれど」

「いいからいいから。それとも、あたしと戦うの、怖い?」

 

 挑発的な視線だ。どうやらヤマメも、地底妖怪の例に漏れず戦うのが好きらしい。

 知り合った矢先に弾幕を挑まれることは地上でも日常茶飯事だし、花子は地底にお邪魔している身だ。ここは、受けねば失礼だろう。

 しかし、例の弱者救済を取っ払ったローカルルールが、少しだけ怖い。返事をせずに黙っていると、ヤマメがケラケラと明るく笑った。

 

「大丈夫だよ、あたしだってそれなりに生きてるんだ。手心を加えるくらいはできるからね」

「そ、そうですか? じゃあ、少しだけ――。こいしちゃん、リュックお願いね」

「はぁい。がんばってねぇー」

 

 のんびりとした声援を受けて、花子は飛び上がった。広いと思っていた洞窟も、当然のことではあるが、天井があるので空よりも狭く感じる。それでも、弾幕ごっこで動きまわるには十分か。

 体力勝負には自信がないし、かといって短時間で決着をつけられるほど強力な妖力やスペルもない。得意の足回りでヤマメを疲れさせてから、一気に攻めるのが得策か。

 作戦を考えているうちに、ヤマメが仕掛けてきた。嬉々として弾幕を飛ばすその姿は、彼女が地上の妖怪よりもずっと好戦的であることを物語っている。

 勝敗はともかく、地上の妖怪として恥ずかしくない戦いをしなくては。気を引き締めて、花子も三個の頂点から、桃色の二重螺旋を発射した。

 

 

◇◆◇◆◇

 

 

 結果は、敗北だった。

 ヤマメはいつまでもスペルを使わず、ずっと花子を誘うように動いていた。膠着していても仕方ないのでスペルを仕掛けた花子だが、使ったスペル――怪談「目力ベートーベン」と、水洗「ウォーターパイプバースト」の二枚である――は、見事に攻略されてしまった。

 連続でスペルを使ったせいで息が切れたところで、ヤマメのスペル、蜘蛛「石窟の蜘蛛の巣」に被弾した。名前の通り妖力の通った蜘蛛の糸を張り巡らせるスペルで、絡め取られたまま、勢い良く地面に叩きつけられた。弾幕をただ当てるだけでは終わらないところも、地底の特徴なのかもしれない。

 相手の体力を奪ってから攻めようと思っていたのは花子なのに、まったく同じ手でやられてしまった。冷たい地面に寝転がった花子は、全身の痛みと同じほど、恥ずかしさにも打ちのめされている。

 

「大丈夫ぅ?」

 

 こいしが顔を覗きこんでくる。頷きたかったが、体がうまく動かないので、苦笑いを答えとした。

 糸を消したヤマメが、恐らく彼女がそうだと思う以上に弱かったのだろう、少し動揺したように、花子を抱え起こした。

 

「ごめーん、ちょっとやりすぎたね。地上の連中は、こういうやり方じゃなかったもんね」

「いえ、向こうでも痛いのはとことん痛いですし、大丈夫です。あたた」

 

 笑ってはみたものの、痛みに嘘はつけない。引きつった笑顔で頭を押さえると、ヤマメが冷たい水を取ってくると言って、どこかに走っていった。

 地底の妖怪はとても恐ろしいと魔理沙や地上の妖怪に驚かされていたが、ヤマメとは友達になれそうだ。この調子ならば地底でもうまくやれるのではと思ったが、同時に甘い考えかもしれないと頭を振った。その油断が、いつかの文とのケンカを引き起こしたのだ。

 しばらくすると、ヤマメが桶を持って戻ってきた。花子のそばに桶を置き、中の水で濡らした布を、花子の頭に乗せた。痛みが冷たさに中和された気がして、花子はほっと一息つく。

 ふと、ヤマメの後ろにもう一つの桶があるのに気づいた。先ほどは一つしか持っていなかったように見えたが、こんなに用意してくれたのだろうか。

 

「あの、ヤマメさん。そっちの桶も、お水ですか? そんなにたくさん、なんだかごめんなさい」

「え? あたしは一個しか持ってきてないけど」

 

 言いながら、ヤマメが振り返る。同時に、桶の中からひょっこりと顔が現れた。緑色の髪を二つに結んだ、花子よりも幼く見える女の子だ。

 花子が驚いていると、ヤマメは「なんだ」と笑った。

 

「キスメじゃん。いるなら声かけてよ」

「……」

 

 聞いているのかいないのか、キスメというらしい桶の少女は、花子の顔をじっと見てから、首を小さく傾げた。

 

「妖怪?」

「あ、うん。御手洗花子っていいます。地上の妖怪なの」

「キスメ。釣瓶(つるべ)落としのキスメ」

「キスメちゃん、よろしくね」

 

 にこりと笑顔を向けると、キスメは顔の半分を桶に隠してしまった。こいしとヤマメが苦笑しているところを見ると、恥ずかしがり屋なのかもしれない。

 内気で可愛い女の子だなと花子は思ったが、ヤマメ曰く、彼女は生粋の人喰いだそうで、人間からするとかなりの脅威だという。幻想郷の人間は管理されていて食べられないが、白骨死体を投げつけたりなど、なかなかえぐい悪さをしているらしい。

 ヤマメがキスメの悪事を教えてくれている間、キスメは照れたように頬を赤くして、桶の中ではにかんでいた。その姿だけを見ればやはり愛らしい童女なのだが、妖怪としての恐ろしさで言えば、花子よりもずっと上だろう。

 

「最近じゃ地上に出ても文句言われなくなったけど、やりすぎちゃだめだしね。殺したりしたら大目玉食らうし、その辺の力加減も、キスメはうまいんだ」

「へぇー。すごいんだね、私も見習わなくっちゃ」

 

 褒められたことがよほど恥ずかしかったのか、キスメはとうとう顔をすべて桶に隠してしまった。

 雑談しながら体の打ち身を冷やしていると、全快とまではいかないが、体中の痛みはだいぶ引いた。もう歩くのには支障ないだろう。

 旧都を目指すのならぜひ案内させてくれと、ヤマメ達が申し出てきた。傷の手当までしてもらったのに付き合ってもらうのは悪いなと思ったが、こいしが先に頷いてしまう。

 

「じゃ、一緒にいこぉー。今日、パルスィさんいるの?」

「いるよ。だから、あたしらも一緒のがやりやすいかなってさ」

「そうだねぇー。パルスィさん、良い人なんだけどねぇ」

「あの子の本質だから、あればっかりはね」

「あの、なんの話ですか?」

 

 割って入るようにして聞いてみると、こいしとヤマメは二人揃って苦笑いを浮かべ、行けばわかるとだけ言った。ヤマメに持たれている桶のキスメも、難しそうに眉を寄せている。

 パルスィなる人物が、どうにも問題であるらしい。ならば前情報をいくらかもらえれば、花子としてもうまく立ち回れるのだが。

 そうこいしに言ってみても、きっと無意味だと返されてしまった。人付き合いには自信があるだけに、少しムッとする。

 膨れっ面でヤマメ達の後ろをついていくと、橋に出た。朱色の漆塗りが、天上の星の光を受けてキラキラと輝いている。

 幻想的な和の煌めきにしばらく見とれていたが、こいしに手を引かれたので、花子は慌てて追いかけた。橋は思ったよりも丈夫そうで、足音も重く安心感がある。歩いてみると、幅も長さも結構なものだ。

 その中腹に、人影があった。橋の手すりに肘を置き、地底に流れる川の水面を眺めている。ショートボブの金髪が揺れ、その少女がこちらを向いた。

 つり目がちな緑の目を細め、少女が花子達一行を睨みつける。心臓が飛び上がりそうな怒りの視線に花子はすくみ上がったが、ヤマメもこいしも立ち止まらないので、ついていくしかない。

 緑眼の少女――彼女がパルスィで間違いないだろう――の前を通る時、ヤマメが親しげに手を上げた。

 

「やほ、パルスィ。今日も妬んでる?」

「そうね。妖怪のくせに仲良く歩いてる馬鹿を見かけて、最高に妬ましい気分だわ」

「……相変わらず、だね」

 

 ヤマメが持つ桶の中でキスメが苦笑すると、パルスィは眼光鋭いまま、キスメを見下ろす。

 

「キスメ。あんたは無口で群れない、私の同胞だと思ってたのだけど」

「それは、パルスィの思い込み」

「……妬ましい」

 

 パルスィから尋常ではない不機嫌さが伝わってくるが、ヤマメもキスメも気にしている様子はない。むしろ、その後ろにいるこいしのさらに背後に隠れている花子の方が、ドキドキしてしまっている。

 その態度が、どうやら気に触ってしまったらしい。舌打ちと共にヤマメをどかし、パルスィがこちらに歩み寄ってきた。とても怖い。

 

「こいし。あんたの後ろでこそこそしてるそのチビは、私の橋を渡っておきながら挨拶もしないの? 幼い容姿なら常識知らずでも許されると思ってるのかしらね、妬ましい」

「あはは、花子、怖がってるもんねぇー」

「あ、あう、その」

 

 ここにきて、ヤマメ達が抱いていた不安に納得してしまった。仲良くなれる気がしない。パルスィはこれでもかというほど、花子の苦手なタイプだ。

 しかし、確かに自己紹介もないのはよろしくない。何より、ここは彼女の橋――テリトリーだというではないか。ならば、非は花子の方にある。慌ててこいしの前に出て、頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい。私、御手洗花子っていいます。地上の妖怪で、えぇっと、こいしちゃんの友達なんです。それで、これから旧都と地霊殿に連れてってもらう途中で」

「私は水橋パルスィ。そう、地上妖怪のくせして、この連中と友達なのね。これから楽しい地底観光ってわけ」

「そういう、ことです」

「なら、あんたのことは容赦なく妬むことができるわ。嫌われ者の古明地と仲良くなれるその純真さが妬ましい、地底の妖怪と打ち解けられるその社交性が妬ましい、地底を恐れないその無鉄砲さが妬ましい」

 

 凄まじい剣幕で言われ、ヤマメに助けを求めるような視線を送ったが、肩をすくめられるだけに終わった。諦めろということなのだろうか。

 五分ほどしてようやく解放され、別れの挨拶を手早く済ませ、花子達は橋を渡った。パルスィが再び川を眺めたのを確認してから、花子はようやく息をつく。

 

「ふぅ、怖かったぁ」

「あはは。癖が強いからねぇ、パルスィは」

「妬ましいって、ずっと言ってましたね」

 

 パルスィは、嫉妬を操る妖怪であるそうだ。彼女の能力で、人間は嫉妬心に突き動かされて、他人を徹底的に妬むようになるという。妬めば争いが生まれる。その荒んでしまった心こそが、彼女の糧だそうだ。

 そしてパルスィ自身も、常に嫉妬心に駆られている。そのせいで、地底の妖怪にも友人はほとんどいないらしく、ヤマメとキスメ、こいしを含む一部の親しい者だけが話しかけている。

 妬むことができるということは、それだけ相手の長所を見つけられることでもある。だから嫌いになれないのだと、ヤマメとこいしは声を揃えて言った。

 ごく稀に機嫌がいい時があり、特に酒が入った時などは、思いの外明るい少女になるらしい。残念ながら、花子にはパルスィの笑顔を想像することができなかった。

 どうすれば友達になれるのかと訊ねると、「百年諦めずに話しかければいい」とキスメが答えた。それは大げさとしても、簡単に友情を育める相手ではないようだ。

 

「ま、無理に馴れ合おうとしなくていいよ。それはあの子も望まないしね」

「そうですか……」

 

 最近はあの文ともそれなりに仲良く慣れていたので、友達を作ることへの自信が復活していた花子は、少しばかり意気消沈してしまった。肩を落としつつ、こいしに手を引かれて歩く。

 前を行くヤマメとキスメが楽しげに話をしているのを眺めていると、前の二人には聞こえないような小声で、こいしが言った。

 

「パルスィさんで困ってたら、お姉ちゃんと仲良くなるのは、難しいかもね」

「えっ」

 

 少し悲し気な声に、花子は思わず振り向いた。しかしこいしは、少し苦笑いを浮かべるだけで、それ以上何かを語ることはない。

 もしかしたら、姉と会わせることに不安を抱いているのだろうか。もしそうだとしたら、なんとか安心させてやりたい。しかし、軽々しく大丈夫などと口にすることは、花子にはできなかった。

 地霊殿では、もっとうまく立ち回らなければ。他でもないこいしの姉なのだから、嫌ったり嫌われたりするようなことは、あってはいけない。何度もそう、自分に言い聞かせる。

 

 悶々と考えながら歩いていると、先導していたヤマメが立ち止まった。我に返って顔を上げ、花子は目を丸くする。

 一本道の洞窟は途切れ、崖になっている。その下に、とても広大な空間があった。下からこちらを見たら、壁に丸い穴が開いているように見えるだろう。

 天井の星だけが光源だった洞窟と違い、とても明るい。眼下に広がる街から溢れるその光は、とても活き活きとしていて、ここが地底だということを忘れてしまいそうだ。

 

「さ、ついたよ」

 

 ヤマメが振り返る。逆光でも、彼女の顔が自慢げな笑顔であることが分かった。桶のキスメもまた、嬉しそうにニコニコとしている。

 

「ここがあたし達の街、旧都さ。地上の妖怪を招くなんて、初めてだよ」

「ようこそ、花子」

 

 案内してくれた二人の声も、上の空でしか聞こえない。熱気溢れる街の輝きに、花子は息を呑んだ。



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