ソロモンの空に舞う (らーめん)
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窒息しそうな宇宙に

 

 

 

 

 

宇宙に溺れる、という感覚はひどく恐ろしい。

想像してみるといい。鋼鉄で覆われているコクピットのすぐ外、多重装甲の向こう側には無限の暗闇が広がっている。

星々が放つ赤や緑の閃光はドラマティックな色彩を与え、ただ静かなだけの空間も暴力的な赤と靄のかかった青白い恐怖に侵される。

正面にあるメインモニターにはそれら空の背景が映し出されている。

まるで真っ黒なキャンバスの上に、無造作に白の絵の具をまき散らしたような星々の光。

静寂を湛える空気に呼吸音が響く。耳に届く音はそれだけだ。宇宙の真空。世界中で自分がひとりぼっちになったような感覚。

誰が信じるだろう?ほんの二、三百年前から人類は宇宙に飛び立った。たったそれだけの間に宇宙に居住区を作るようになり、やがては生活圏を開き国をも作り出した。今となっては生まれてから死ぬまで星の重力を知らない人間までたくさんいる――――勿論、自分もその中の一人だという自覚は大いにある。

だからこそ俺は宇宙を見るときに頭蓋を揺り動かすような金切り声となんとも表現しがたい息苦しさを感じるのだ。

今着ている厚手のノーマルスーツといえど宇宙に吸い出されたら一貫の終わりだ。死というやつはいつだって唐突で、容赦を知らない。

パイロットだった叔父さんはルウムで撃墜された。

コクピットから吹き飛ばされたその体は無数の漂流物の一つとなって戦闘区域を漂い続け、数時間の宇宙遊泳の末に酸素欠乏症になって死んだらしい。ただ必死に空気を求めたその形相はまるで悪鬼羅刹の様で、回収された死に目はとてもじゃないが見られたものじゃなかったと聞いた。

人間は宇宙で生きていけるように作られていない。テクノロジーとは生命体それぞれに備わった感覚器に基づいて発展していくべきだ。少なくとも俺はそう思う。それを追い越してしまった人間は何処かに無理が出るのだ。スペースノイドとしてはあるまじき考えかもしれない。

それでも、俺はこの宇宙が怖い。コロニーで慣れ親しんだ0.8Gの疑似重力から解放されると余計に。

 

――――ああ、こんなこと考えてるのがばれたらまた教官に怒られる。

 

そんなことを思い浮かべたのとほぼ同時に俺は宙域の変調を察知した。

レーダーに僅かなノイズが走った。コクピットに警告音が鳴り響く。正面のモニターにはCAUTIONの赤文字が明滅する。

 

「なんだ?ミノフスキー粒子の干渉波……?」

 

過去、戦場となったことがあるこの暗礁宙域ではそれほど珍しくないノイズだった。

些細なアクシデントとしてはそこまでおかしいことではない。だが視界の端で膨れあがった今の波は不自然に大きすぎた。まるで”そう”設定されているかのような干渉波。

慌てて僚機に向けてレーザー回線を開きかけ、手が止まる。不必要な通信会話は禁じられていた。どうする?

いや構うもんか。そもそも、これがもしそうだとしたら通信が繋がるかすらわからないのだ。やってみる価値は大いにある。

それに。ジョンはご禁制の寮の中なのに何処からか質のいいペーパーバックを手に入れて分けてくれるいい奴だが、いかんせん間抜けだ。

 

「ジョニィ、こっちのセンサーが妙な波形を拾った。そっちも確認出来るか?」

 

『――あ?なに言っ―――のか――聞こえ――』

 

通信ウインドに顔を寄せると雑音混じりの返答が響いた。この距離でレーザー回線が通じない?

怖気が背中を一気に駆け上っていった。これはミノフスキー粒子が戦闘濃度になっている証だ。

 

「やっぱりだ、くそったれっ!」

 

悪態を吐き捨てつつ、強張った指先が姿勢制御バーニアを大きく噴かした。

戸惑っている余裕はない。同時にフットペダルをいっぱいに踏み込んで操縦桿を一気に右に引き倒す。ジョンの機体を背後に、俺の乗ったMS-06FザクⅡが体勢を大きく捻るようにして右に加速した。

がくん、と一気に加速したせいで衝撃がもろに伝ってきた。全身の血が足元に集まっていく。酸素不足を訴えた視界が赤く明滅する。

しかしモニターの隅にちらりと映った火線を見るに咄嗟の判断としてはそれほど間違ってはいなかったようだ。

オートバランサーが作動して機体の体勢を整える。不自然な体勢のまま加速したせいで真空に囚われていた四肢がようやく自由になる。

 

「はっ」

 

ヘルメットのせいで息苦しい。跳ね上がった心臓。塞がれた肺に意識して空気を送り込んでやる。

鼻につく焼き付いたフィルタの臭い。嫌な臭いだ。

焦るな。普段から言われている通りに動かせばいい。体に叩き込まれた教習マニュアル通りの動きだ。レバーを引く。

巨大なザクの右手が腰溜めに120mmマシンガンを構える。ばらまく。大袈裟なキックバックが体に伝わる。視線は遠くに。ターゲットを眼で追うな。

銃口から溢れるように吹き出したマズルフラッシュが視界の端に映った火線の元を追っていく。

それは腹を揺り動かす乾いた音だ。真空状態で聞こえる筈のない衝撃音。しかし腕を伝ってくるそれらは容易く耳に届く。

 

「聞こえるか!ジョニィ、左上方80度から敵だ!」

 

暢気にもようやくセンサーが敵機接近の報を知らせてきた。

遅すぎる。俺は更にトリガを引いた。トリガを引けば弾を吐き出す。誰がやろうと同じだ。

赤いレーダーが敵機をロックする。

視界にようやく敵の姿が映り出す。白色にマークされたザクⅡが二機。こちらと同じ編成。120mmマシンガン持ちが一機と280mmバズーカが一機。

ジョンが撃たれた。だが、ザクの前方装甲はジオニック社が誇るカーボンセラミックと超硬スチール合金で出来ている。少しの運と当たり所さえ良ければマシンガンの直撃にも耐えうるはずだ。きっと。だからジョンはまだ生きている。僚機の撃墜判定は出ていない。きっと。ああきっとだ。

 

「おい、大丈夫なのか駄目なのかなんとか言ってくれ、ジョニィ!」

 

通信は途絶している。警告音。また銃弾が機体のすぐ隣りを駆け抜けた。

そして真空を引き裂いて真一文字に伸びていく大物―――機体の背後でバズーカ弾が爆発する。モニターが膨れあがった爆発の光に染まる。沈み込むような衝撃が突き抜け、鋼鉄の巨人が爆風で揺れる。空気はないというのに衝撃波がダイレクトに伝わってくる。

一気に血の気が引いた。あんなもの受けたら一発でやられる。

歯を食いしばりながらフットペダルを踏む。俺の意志を受けたザクはやや大袈裟に回避運動を起こす。周囲に推進剤を派手にまき散らして移動する。

スラスターの噴射光が明滅する。無理な体勢をとったせいですぐさまバランサーが働く。

鋼鉄の巨人はとても優雅とは言い難い鈍重な動きをする。がしゃんがしゃん。実際には一瞬なのだろうが俺には気が遠くなるほど遅く感じた。

膝を曲げ体勢を低くした巨人がマシンガンを構えて即座に反撃をする。

 

不意打ちを受けている。体勢を立て直さなければ。

ジョンがいないとなれば二対一の戦いを余儀なくされる。圧倒的不利な状況。

 

呼吸が苦しい。思考がうまく働かない。

そんなことを思いながら牽制のためにただひたすらに弾をばらまき続ける。灼けた薬莢が視界の端を飛んでいく。くそったれ。

お世辞にも命中率はいいとは言えない。純粋に俺の腕が悪いのもあるがザクマシンガンの砲弾は初速が遅い。

ザクマシンガンは宇宙空間での使用を前提に射撃時の反動を軽減するように作られている。だからある程度の距離さえあれば回避は簡単だ。

教本に書いてあったどうでもいい文言が頭を過ぎる。知ったことか。弾を残して死ぬよりかは弾切れで死んだ方がまだマシだ。

スーツの下で汗が気持ち悪く滑り付く。レバーを押し込む手が震えている。

円盤型弾倉があっという間に弾切れになる。くそったれ。

 

「リロードッ!」

 

体に染みついたパイロットとしての条件反射が、聞こえないとわかっていても叫びをあげさせる。

バズーカの援護射撃はない。言葉が虚しく宇宙を駆けていく。

 

駄目だ。このままじゃジリ貧だ。

どうする?俺はどうするべきだ。考える時間は少ない。頭に様々な考えが過ぎっては消えていく。

 

目標を失った影が視界を過ぎった。追いすがってくる火線のせいで落ち着いて銃弾交換も出来ない。

一旦暗礁地帯に隠れる?馬鹿な。仲間を見捨てていく気か。まだジョンは死んでいない。返答がないのは通信機器が故障しているせいだ。きっと。きっと……。

ならどうする?勝ち目は薄い。このままじゃお前も撃墜される。ならいっそ、いっそ――――突っ込むか?

浮かんだ考えに悪態を吐いた。くそったれ。ヒートホークで接近戦を挑む。それこそくそったれ、だ。馬鹿を言うな。先程から向こうの動きにこちらを炙り出そうとしている意図が読み取れる。突っ込んでいったらそれこそ待っていましたと十字砲火を浴びる。ああああ、これは明らかにまずい考えだ。

あのクソッタレのライカー教官も戦地では痺れを切らした奴から死んでいくと言っていただろう。

手はない。ここは我慢するしかない。見せかけの希望は命を磨り潰す。

 

「本当に――――くそったれ」

 

だというのに一度過ぎった考えは粘着質のように張り付いて、なかなか頭を離れない。

どう考えても馬鹿な考えだ。なのに。溺れそうな宇宙の恐怖で頭がいかれちまったのか。現状ではそれしかないように思えるのだ。

あっちとこっちでそこまでの力量差はない。いまだに俺をしとめ切れていないのがその証拠だ。問題なのは二対一の状況。だからこその接近戦だ。敵機体を盾にするように機動を取れれば一対一になる。そしてそのまま一対一を二回。無茶苦茶な論理がやけに冴えた考えに思える。俺に出来るか?俺の格闘成績は悪くない。少なくともクソみたいな射撃成績よりかは。

胸から伝ってくる脈動が、一揺れするごとに思考を狭めていく。決断する間なんてなかった。既に俺のザクは左手にクラッカーを握っていた。

更に一度のマシンガンの火線が機体を掠めていった瞬間、考える間もなくペダルを目一杯踏み込んでいた。

 

「やってやる、」噛み合わせた歯と歯がかちりと鳴った。「やってやるぞ、畜生!」

 

放射状に伸びてくる火線を大回りで避け、加速すると同時に宇宙にとびだした。映り上がる二体の巨人。モニターいっぱいに二機のモノアイが光る。

待ってましたとばかりに降り注いでくる120mm弾が機体すれすれを舐めるように通り過ぎていく。

モニターに映る星々が一本の線を描くかのように、物凄い勢いで後ろに飛んでいった。

対物感知センサーが敵機体との距離を計算する。距離はまだある。このまま真っ直ぐ突っ込む阿呆はいない。宇宙に上下左右はないのだからもっと回り込むべきだ。

操縦桿を引き絞る。ザクの両腕が胸の前で交差し鉄の腕がコクピットを守る。ないよりマシだ。命を守る装甲はあればあるだけいい。

針路を変えるために急制動。機体が下から上に急制動をかけて姿勢を転換した。その拍子に120mm弾が右肩部のシールドに掠った。

 

「ぐぅう、ぁああ!」

 

今までで一番の衝撃がモビルスーツのコクピットを襲った。

しくじった、と思う間もなく視界が二転三転して揺れる。撃墜される、実感のわかない言葉が全身を痺れさせた。

嗚咽が口内から漏れ出る。同時にまだだと叫ぶ自分がいた。諦めていない自分がいた。瞼を開く。

発光したモニターの中には降り注いでくる120mm弾の雨とその合間からバズーカ弾が襲ってくるのが映った。一瞬で回避しようがない、と悟った。

急制動からこの状態からじゃどう加速機動したところでどちらかには当たる。なら――――、

 

瞬間の出来事だった。閃きのままに、右腕に持っていたマシンガンをそのコースに投げ捨てる。

 

爆発。ペダルを踏み込むのが早いか遅いか、再び殴りつけるような衝撃が襲い掛かってくる。

サスペンションが本当についているのかと思うくらいの揺れ。間近に迫った爆炎の塊が機体を包み込む。

機体が破損したせいかモニター画像が歪んでいた。ノイズが走る。ディスプレイのアラート表示は三分の一くらい真っ赤に染まっている。だがそれだけだ。モビルスーツとはそういうものだ。多少傷ついても堅牢に作られた複合装甲は歪みはしない。

至近距離での閃光に翻弄されつつもモノアイが炎の奥に二つの敵機を捉えた。

 

「ビンゴ!」

 

馬鹿みたいに棒立ちになっている機体目掛け、グリップを力任せに押し倒し炎の向こう側にクラッカーを投げ込んだ。74.5tの巨人が左腕をしならせ飛ばしたそれは炎を引き裂き、飛んでいく。

間もなく閃光と爆炎が周辺宙域を包み込んだ。

 

出来上がった一瞬の隙。もはや考える暇も考えることもなかった。

空けた右の腕にヒートホークを握り締め、280mmのバズーカを持った右の機体にただまっすぐに突進する。

息を吸う。息を吐く。ノーマルスーツ特有のフィルタを通った埃くさい臭いが今だけは気にならない。気にする余裕もない。

速度を維持したまま宇宙を駆け抜け、敵機体のザクに迫る。

数百メートルの距離は一瞬で埋まった。頭上を仰ぐ。すぐに全身が見えた。17.5mの鉄の巨人。

それに目掛けて戦斧を振り上げる。不意をついたこれ以上ない攻撃だった。

相手のザクは対応する間もなく戸惑っている。バズーカを捨てる隙すらない。

 

 

減速せずそのままぶち当たった。

装甲がひしゃげる音がする。変な角度で突っ込んだせいであっという間に左肩装甲板が吹き飛んだ。頭部が湾曲してメインモニターに砂嵐を走らせる。

加重に耐えきれず、亀裂が広がった装甲板から金属片となった欠片が吹き飛んでいく。

空間そのものを掴んで揺らすかのような振動。あまりの衝撃にベルトが外れ体がずり落ちた。歯を食いしばった。全身が二転三転し、身体がこれ以上なく打ちのめさる。

 

 

それはまさしく衝突だった。

剥き出しになった神経が焼け焦げたかのような痛みが肌を突き抜ける。コクピットの中でさえ全てが吹き飛び、一瞬で視界が吹き飛び真っ赤に染まった。もはやシートから振り落とされないようにしがみつくのに必死で、ショックアブソーバーが作動したのかもわからない。

レッドアウト。無茶な機動のつけが体に響く。上下の感覚が消失した身体に二度三度と衝撃が走る。しかし激痛に心身をゆだねているような暇はなかった。

血の色に染まった世界の中、加熱されたヒートホークが装甲板をガリガリと削り取っていく音が聞こえた。

複合装甲を無理矢理溶断している。グリップを握る手応えがあった。身体はまだ動く。それだけわかれば充分だった。

見えない目を無理矢理に見開く。一撃。まるで蛮族の武器のような形状だがヒートホークの一振りは信じられないくらい強力だ。一撃でモビルスーツはただの鉄塊と化す。

レバーを握り締める。考えている暇はない。半ば朦朧とした意識の中で身体を動かした。

辛うじて生きているらしい姿勢制御バーニアを噴かす。

 

 

掠れた視界が戻った。サブモニターに金属の欠片が宙を漂っているのが見えた。

直前に横目で確認した対物センサーの通りもう一機の敵機が自機と鉄塊の対角線上にある。

 

 

こっちにも、相手にも”それ”が見えていた。

マシンガンを撃てば大破した味方機に当たる。つまり核融合炉だ。ザクに乗っていてそれを考えないジオン兵はいない。

撃墜判定はとうに降っているだろうが120mm弾を撃ち込もうものならそれこそ運次第でミノフスキー核融合炉に当たってドカンだ。

撃てるものなら撃ってみろ。そしたらお互いに撃墜判定だ。

すべては自分の丈夫さと、機体の頑強さを担保に捧げた賭けだった。

いまや敵は目の前にいる白いザク一機だ。中破した上にほとんどの武器を失っているとはいえ先程までの絶望的状況よりもよっぽどいい。

あれほど望んだ一対一だ。上手くいきすぎるほど上手くいった。ノーマルスーツの下の肌が粟立つ。もはや夢の中にいるのだとも思えた。

敵機は泡を喰らったように距離を取ろうとする。

 

「距離を取る気か、させる、かよぉっ!」

 

満身創痍のまま相対距離を必死で詰めよった。

バーニアを炊き姿勢を転換した機体が、上体を反転させようとした相手の背後に迫る。

軋みをあげる間接機構で、ひしゃげたヒートホークを握り締める。

こいつは本当によく出来ている。モビルスーツの巨躯で生み出した慣性重量がそのまま破壊力になる。数回の使用でおしゃかになる使い捨て武器と言われるが多少ねじ曲がったり欠けたりした所でその加熱機構は停止したりなんかしない。

機体損傷のせいで操縦が乱れた。右腕のマニピュレーターががくつきながらも鉄斧を振り上げる。火器を装備させる暇なんて与えてやるものか。

この場面のアドバンテージが最後だった。離れた瞬間にこちらが負ける。

こうなってしまえば教本もクソもなかった。相対距離は十数メートルを割っている。全力でバーニア噴射しこのまま一気に距離を詰め寄ろうとした瞬間、視界が真っ白に染まり、弾けた。

コクピットに一際大きなアラート音が響く。

 

 

Virtual Operation

――――over

 

 

「…………あ?」

 

思わず馬鹿みたいな声がフェイスマスクの隙間から漏れた。

突然操縦が効かなくなり、壊れた筈のメインモニターには大きな白文字が躍っていた。

何が起きたかわからず呆然とした。

撃墜判定。シミュレーション状況終了。レッドアラート。MS-06Fザク3号機 大破。そこに自分の識別番号が踊っていた。

 

つまり自分が死んだ、ということだ。

 

敵機に攻撃された覚えはない。ならこちらの機体に限界が来てたのか?

冗談じゃない。わけが分からず最終状況を引っ張り出す。機体強度。損害状況。熱核反応炉は無事だ……なら、何故?

ヘルメットのバイザーを開け、受信機の周波数を変える。そしてそれをようやく見つけた。

最後の場面、アラートだらけのディスプレイにぽつんと白い光が点灯していた。味方識別信号。味方?

それにやや遅れるかぐらいに状況判定の知らせが表示された。フレンドリーファイア――――後背部からの280mmのバズーカ弾により自機撃墜。

一度読むだけでは理解出来ず、それをもう一度読み直してようやく理解した。

馬鹿馬鹿しい話だった。どうしようもない結論に何も言えなくなった。そしてつくづく思う。やっぱりあいつは間抜けだ、と。

ヘルメットの中、知らず深い溜め息をついていた。

 

「…………おいジョニィ、生きてたら言えっつったろうが」

 

こうして俺とジョンは教官に二時間ほどこってり絞られたあと、グラウンドを延々と二十週もするはめになった。

 

 

 

 

 



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レーズン入りのオートミール

 

 

 

 

 

目覚めは最悪の気分だった。

真っ白な薄いシーツが胸の前にかけられている。汗をかいたせいで、寝間着が肌に張り付いて気持ち悪い。

枕元のイヤホンからラジオ音声が漏れ聞こえる。やけにテンションの高いプリンシパリティ・ボイスのDJの声だ。誰かのリクエストでついこの間メジャーデビューしたばかりのバンドの曲を流している。錆び付いたロックミュージック。嫌いじゃないがどうにも売れそうにない曲調だ。止めた。時間を確認し、もう一度簡易ベッドの上に寝転がった。

灰色の天井に貼られた水着ギャルのポスターが無様な俺を笑っている。見慣れた狭苦しいいつもの宿舎。

軍事施設とはこうであるべき、という様式で造られた部屋には余分なスペースなど一つもない。どこにでもあるような画一的な二人部屋だ。

個人のプライバシーが存在しないこんな環境にも慣れたものだ。

それなのにいつまでたっても寝起きが落ち着かないのはどういうわけだろう。もう卒業も近いというのに一回もスムーズに起きれた試しがない。

きっとジョンが貼り付けた水着ギャルのせいだろう。どういうわけだかあいつはいつも俺のことを笑っていやがる。

どうにもその笑顔が子供の頃、隣家に住んでいた中年のおばさんを思い出させるようで妙に落ち着かない気分にさせられる。真っ赤な口紅と、頬に浮かんだえくぼなんか特にそっくりだ。

 

普通に近所付き合いをするには気さくでいいおばさんだった。ただ俺は彼女が作るレーズン入りオートミールが大っ嫌いだった。

そしてどういうわけだかそのおばさんは近所の子供達にお手製のオートミールを作っては食べさせるということを日々の生き甲斐として毎日を過ごしていた。子供だった俺はうまい断り方をすることも出来ず、ただ愛想笑いを浮かべながら食べるという日常を何度も何度も繰り返すはめになった。

おかげさまで今では誰が作ったオートミールだろうと俺は大嫌いだ。

 

ひらひらと揺れる誰かの手がすぐ近くにあった。天井のセクシーギャルに別れを告げ、視線を翻す。

寝起きの霞んだ視界には流行りのホームドラマに出てくるような陽気で青白い男の顔が浮かんでいる。なんとなく笑っているのがわかった。

眼を擦り、何度か眼を瞬いて焦点を合わせる。やはり向かい側にある簡易ベッドから金髪碧眼の痩せた男が笑っていた。ポスターの主だ。

規律正しい軍社会でしばらく暮らしていけばどんな男だろうと自然と精悍になっていくはずだがそいつの風体はいまだに優男っぽい印象を与える。

俺はスペースを作るためにシーツを蹴飛ばし、固いベッドの上で一度だけ大きな伸びをした。

体を動かすと少し骨が軋んだ。昨日の無茶のツケか体の節々が痛みを訴える。消化出来ない戦闘の残滓が脳裏に浮かび上がっては寝起きの緩慢さに揺れてまた沈んだ。

 

「ハロー。こりゃまた随分寝起きが悪そうだな」

 

「…………放っておいてくれ。いつものことだ、ジョニィ」

 

俺がそう言うとそいつはやれやれと言いながら首を竦めた。

同時に、ややくすんだ金髪の前髪がゆらゆらと揺れる。その仕草がやけに様になっていた。

やはりこいつは俳優にでもなってホームドラマに出ているのがお似合いだ。

 

「昨日の宙域シミュレーションで派手に怒られたせいかい?――――お前はAMBACの使い方がまるでなってない!これまでいったい何を習っていた!」

 

ジョンはやや大袈裟にライカー教官の真似ごとをしてけらけらと笑った。

仲間内では彼の十八番ネタとなっている。これがまた声音までやけに似ていて、教官に本当に怒られているような気さえして朝っぱらから更に気が滅入った。

 

「やめてくれ、まだ怒られてる気がする」

 

「悪かった悪かった。これでも僕も責任を感じてるんだ」

 

「そうか?」

 

「なんせ敵機体ごと君をバズーカ砲の藻屑にしちまったのは僕なのに、なぜか君が怒られているのを隣でずっと聞いてるんだぜ。罪悪感で潰れそうだったよ」

 

「ライカー教官は俺が嫌いなんだろうよ」と俺は鼻をならした。「そうとしか思えない」

 

「どうだろう。もしかしたらそうなのかもね」

 

「罰走はともかく教官のお小言にはもううんざりだよ」

 

「この前の失敗の時も。そのまた前も。まったく同じ言葉だった」

 

ジョンは俺がまるで最高のジョークを言ったかのようのな表情で俺を見た。

耐えきれず俺はくたびれた含み笑いをした。

 

「あぁ、くそったれ、ってもう何度言われたかな。すっかり口癖がうつっちまったよ」

 

「まぁそれもじきに終わり。士官学校を卒業出来れば同じ、さ。だろ?」

 

そう言ってまた快活に笑った。ジョンはどこまでも適当な男だった。

普通はこういった場所で間が抜けた人間は嘲笑され、周囲からは敬遠される対象だ。そいつの間抜けが原因で失敗し連帯責任で罰を与えられてはたまったものではない。しかしジョンの場合は根っこの気質が真面目なのと持ち前の愛嬌のせいか”こいつはこういうやつだから仕方がない”と周囲に思われてしまう不思議な魅力を持っていた。

陽気な上に分け隔てもなく親切で、特別に威張ってるわけもなく、ただ間抜けなのがたまに傷。そういう男だった。

一言で言うと憎めないキャラをしているということだ。俺は時々こいつのことがどうしようもなく羨ましく思える時がある。

 

「こんな調子で本当に卒業出来るのやらな……」

 

「おいおい、君が卒業出来ないとしたら僕も卒業出来るわけがない。そういう頭の痛くなる話は勘弁してくれよ」

 

「…………どうだか」

 

そう言って溜め息を吐いた。本当の所どうすればいいかわからないから困っていた。

抑制された息遣いの奥底で色々なものが渦を巻いていた。国や家族、親しい人たちをこの手で守りたかったこと。親と交わしたいくつかの約束。

軍人になると決めた時には確かに心にあったはずのそれらがいつの間にかばらばらになっていた。

なぜか唐突に全てがどうでもよくなってしまう時がある。戦争に加わるということに実感が持てない。果たしてこのまま卒業していいのだろうか。

それに少しの後ろめたさを感じていた。

怯えているのかもしれない。同じパイロットだった叔父さんのことをここ最近よく思い出す。自分でもよくわからない。

 

「だいたい俺にはAMBACってのがいまだによくわからねぇよ」

 

「無重力下でモビルスーツを扱う上での基礎理論だろ?」

 

「じゃあジョニィ、お前は戦闘中にいちいちモビルスーツのどこに重量がかかってるからどう動かして……とか考えてるのか?」

 

向かいの簡易ベッドの上でジョンは今にも欠伸をしそうな顔をしていた。

 

「いいや」

 

「だろ?そんな余裕なんてない」

 

教官にさんざん言われたことは当然頭にすべて叩き込まれていた。

Active Mass Balance Auto Control.能動的質量移動による自動姿勢制御。

稼動する重量物を動かすことで機体本体の進行方向も一緒に変える。俺は両手を振り上げ、身振り手振りでモビルスーツの動きを再現してやった。

文字通り、質量を移動することによって姿勢を制御することだ。右腕を動かす反動で体を正面に、そして今度は左足を動かす反動でその動きを止める。

まるで回転する椅子の上で見えない敵相手に格闘しているかのような動きだ。

馬鹿らしい。悠長にそんなことしてたら恰好の的になる。ただでさえ俺の動きは遅いというのに。

 

「潔くスラスターを使えばいいじゃないか。背中についたそれはなんのためにあるんだ?」

 

そもそもモビルスーツには自動的に慣性を打ち消すようにバランスを取る、オートバランサーが取り付けてある。

当然の話だ。動かす度に慣性がかかってしまえばマシンガンの照準一つつける度に機体は意図しない方向へ吹っ飛んでいく羽目になる。だからこそ、そうはならないように機体が計算して自動的にバランスを取ってくれる。これがオートバランサーだ。しかしこれらの機構は慣性を殺さず利用するAMBACと真っ向から対立する。

なんだ?仕舞いにはバランサーを切れってことか?そんな馬鹿な話が……。

 

「あー……」

 

うつむき加減でジョンは言葉を続けた。

 

「ええっと、エネルギー効率がいいんだろ……あとは推進剤が少なくてすんだり?そんなところじゃないかな」

 

「本当かよ」

 

「知らないさ。ただ教官が言うからにはこっちはイエッサーで一も二もなくただ従うだけ、そうだろ?」

 

「それとこれとは別だろうが」

 

その言葉が正しすぎて苦々しい思いに囚われた。自分の言い分が間違っているということはわかっているつもりだった。

上官の言うことには疑問を持つな。今更言われるでもなく軍隊では当たり前のことだ。

それに言いたくはないが教官はこの上なく信頼しているし、尊敬もしている。ただAMBACという理屈そのものにどうにも納得が出来ない。

疑問は躊躇いを生む。トリガを握る刹那、命を賭ける一瞬でつまらない躊躇いを持つのはゴメンだ。みんなはそうじゃないのか?

納得出来ていない時点で俺は兵士としては失格なのかもしれない。

 

「君はいつも難しく考えすぎだよ、なんとなくでいいじゃないか」

 

そう言ってジョンは簡易ベッドから降りて、シーツをそれなりに見えるように整えた。

 

「それはお前がいつも適当すぎるだけだ」

 

「でも教官たちはみんなそれをやっているわけだろ?教官が正しい」

 

教官たちは恐れを知らない古強者の集まりだ。

首を支える肩口の筋肉なんか軍服の上からでも盛り上がっているが見て取れるくらいマッスルで、例え何十時間だろうがモビルスーツに連続搭乗していられる屈強でタフな野郎どもだった。女性教官もいるが”野郎”には変わりない。あれは間違ってもレディなんて呼称で呼んではいけない。レディに失礼である。

生死を幾度と無く潜り抜けたモビルスーツ乗りは常に不屈の笑みが頬にへばりついているような人間たちだ。

とてもかつて同じ様な訓練を受けて育ったはずのパイロット達には思えない。俺は半ば本気で呆れながら言葉を返した。

 

「行き着くところは教官と同じことやれってか?無理無理」

 

「ハハハ、それは同感」

 

実機訓練や戦闘シミュレーションをやっているとそんなことばかり思う。

自分と教官は違う。階級も人生経験も何もかもが違う。なんだったら生物としてのくくりからして違うかもしれない。

そんな馬鹿げたことを思いながら壁時計を見上げた。点呼の時間が近い。

ベッドから立ち上がって手早く新しいシャツに着替えた。さっぱりとした新しい布地の感触が心地良い。

 

「ああいうのがニュータイプっていうのかねぇ……」

 

ジョンは遠くを見るかのようにぼんやりとした表情を浮かべていた。

はじめて見る顔だな、となんとなく思う。

ジョン・ハーモンはもともとはグラナダ出身のルナリアンだ。幼少の頃に親の仕事の関係でサイド3に移り住むことになり、それからずっと26バンチコロニーで育ってきた。そして今では俺と同じジオン公国の士官候補生となっている。とぼけた顔をしても本心では色々と思うところがあるのかもしれない。触発されてか、俺も様々なことを思い返した。

焦臭くなってきたこの戦争の行方。士官となった俺たちの将来。そういった思いに心が乱されるのは俺たちがまだそうなりきれてないからかもしれない。

 

「卒業する頃にはわかるかもしれないな」

 

自分でも信じていない願望だったからこそ、すっきりと言えた。

俺はジョンを軽く見遣り眉を吊り上げて見せた。そしてそのまま彼の肩を軽く叩き、なんとか立ち上がらせることに成功した。

 

「行こうぜ、点呼に遅れたらまたライカー教官に怒られる」

 

「オーケイ。そうだな。それがいい。僕なんかもう腹ぺこだよ。早く飯が食いたい」

 

「朝飯ってなんだっけ」

 

「うん、なんだったかな?オートミールだった気がするけど」

 

「…………マジかよ、勘弁してくれ」

 

 

 

 

 



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ジョンとミシェル

 

 

 

 

 

何度も、何度もミノフスキー粒子の濃度を確認する。

ヘルメットの狭い視界の中、スラスターの残光がモニターの一面に散っていく。

全身の熱が鳩尾のあたりに集中している。どくどくと脈動を繰り返す鼓動に促されるようにそのままスロットルを大きく開いた。

骨の芯から揺さぶっていくようなGが全身に纏いつく。こういう時は生身の体がひどく、重たい。

人間の体はどこまでも飛んでいこうとする巨人の枷となって機体を縛り付けていた。

フットペダルを幾度か踏み込み、傾こうとした針路を細かく調整する。脳裏に浮かび上がっては消えていく雑念が鬱陶しい。

まるで些細な煩わしさに囚われているような、そんな観念的な思考が頭の隅を捉えて離さない。

もしかしたらパイロットは機体の邪魔にしかなっていないんじゃないか、そんなことを一瞬真剣に思ってしまう。

この血肉を纏った体さえなければ何処までも遠くに飛んでいけるのに。

そう思わせるくらい加速が効いていた。宇宙空間では初速さえ与えてやれば全てが事足りる。MS-06FザクⅡが、思い描いていた軌道そのままに飛翔していく。

レーダーの感知域を広げ、頭の中で反芻する。障害はない。星の煌めきが心を掻き乱す。みんな宇宙の深淵に吸い込まれていったようだ。

暴れ回る呼吸音がやけに五月蠅い。馬鹿な思考と、自分自身に苛ついてスロットル把柄を軽く叩いた。何度も確認した速度計をもう一度だけ横目で見遣る。

 

Record Time 289.83。必要以上に消費している推進剤の残量。ゴールまでの残り距離―――――余計な考えだ。

省みるのは全ては終わってからでいい。

 

鋭く警告音が鳴る。モニターに障害物が映った。指定コース上に漂っている小さい瓦礫群。

機体と同程度の大きさのそれが、視界の隅、暗黒の虚空から現れる。

そう認識した矢先に自分の射撃成績と120mm弾の初速が頭にちらりと浮かんで消えた。

いけるかもしれない、という思いこそが思い違いである。

射撃はセンスだ。基本的射撃能力の話に限っては持てない者は持つ者を羨むしかない。

全ては一瞬の判断力だ。対象との距離を読み切ってトリガを引く決断をする力。それは瞬きほどの刹那だからこそ容易に伸ばしようがない分野でもある。

努力や研鑽などといった言葉の誤魔化しでは追いつけない向こうに天性の素養というものがある。そして俺にはその素養がないことをここ最近痛感させられていた。

この状況は俺には無理だ。距離が近すぎる。それに太陽を正面にした射撃は分が悪い。

 

迂回すると決めた。

フットペダルを踵で大きく蹴り付け、ディスプレイに表示された第二次迂回コースへと操縦桿を動かした。

上昇に転じた機体に一層の負荷がかかる。重水素とヘリウム3を燃料として消費した熱核融合炉が一層低い唸り声を上げる。唇を噛みしめ、振動を伝える操縦桿を強く握り締めた。

接近する小惑星がモニターに映る。心臓が跳ねた。あともう少しでそれが脚部と接触するかどうか、といった所をギリギリで回避していく。

避けきれない細やかな瓦礫が機体に衝突する音が断続的に響く。これが正しい。出来る限り近づいて回避するのが教本で教えられる理想の機動だ。

ザクの足元の光景をモノアイがしっかりと捉えていた。反射的にその行く末を見遣る。銀粉をまき散らしたような星々の向こうに暗礁宙域が加速して通り過ぎっていった。下へ。下へ。

地上より宇宙の方が自由が効く。単純に移動の選択肢が多くなるのは有り難い。

 

――――いつからだろう。宙域戦闘シミュレーションが多くなったのは。

 

第2次降下作戦が展開された頃か。それとも連邦がモビルスーツの開発をしているって噂になった頃か。

漠然としていた暗い不安が、宇宙の暗闇に誘い出されたかのように浮かび上がる。いいや、違う。これは不安なんかじゃない。

胸の奥で疼きを訴えるような確かな予感がある。きっとみんな口には出さないだけで、確信しているのだ。

同時に。加速する反応炉のざわめきが僅かに大きくなり、それが宇宙の向こうから迫り来る何かの音のように聞こえた。

 

「俺たちは宇宙で戦うことになるんだろうな」

 

モニターの上で小さくなっていく障害物に向けて、口の中で呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エアロックが解かれるスムーズな音がして、それに続いて自動ドアが開く機械音が響いた。

暑苦しい。疲労と緊張感が体を包んでいた。だが、どうにか集中を途切れさせずに最後までいけた。ヘルメットを脱ぐ。汗で張り付いた前髪が鬱陶しい。

毛先から汗が滑り落ちるのを首から下げたタオルで拭き取った。まるで雨の中を駆け抜けたかのような有様だ。

子供の頃に霧雨の農業ブロックを走り抜けたことを思い出す。確かコロニー公社が気象コントロールをしくじったか時だったか。

どうしても霧が見たかったその頃の俺は学校の授業をサボって見に行ったのだ。水浸しになりながらも一日中走り回っていたのをよく覚えている。

そのまま過去の思い出に浸って手に持ったヘルメットをしばらく眺めていたが、やがてシミュレーション結果のことを思い出して広間に向かった。

疑似重力のコロニーと違って宇宙で歩くにはコツがいる。体の倦怠感を意図的に無視しながら床を軽く蹴ると、靴裏のマグネットが掴んでいた鉄面を放してくれた。

僅かな間だけ体が無重力に漂って、やがて磁力に捕まって地面へと落ちる。それの繰り返し。俺は一息つきたい一心で気持ちだけ足を速めた。

狭い廊下を通り抜け、訓練生待機室というプレートがかかった扉をくぐり抜けると、緊張感の抜けた陽気な声が耳に飛び込んでくる。

天井から刺してくる橙色の照明がやけに目にちらつくようで、俺は何度か指で視界を擦った。

 

直径15メートルほどの大きな広間に十数人かのノーマルスーツを着た人間が屯していた。

訓練生待機室。壁面いっぱいに映る巨大モニターのすぐ隣には成績用紙であろうものを挟んだバインダーを手に掲げるライカー教官の姿もあった。

あちらには出来る限り近づきたくない。俺は見慣れたルームメイトの姿を見つけて教官の反対側へと足を向けた。

立っている傍まで行くと、ジョンはお疲れ様とでもいうかのように右手を上げてひらひらと動かした。

 

「どうだ?」

 

彼はライカー教官の横に表示されている幾つかの数字を見て行った。

 

「君は15人中8位、なかなかの成績だと想うよ」

 

どこが好成績なんだ?と、視線を向けている間にも更新され続けるレコードランキングを見ながら思った。

AからDまでの各部位に分けられたコースベストタイムが表示されている。ローレン、マーク、ミシェル、デヴィッド。

当然ながら何処にも俺の名前はかかっていない。特別誰かの成績が急激にあがってたりするわけでもなく、良い成績を出しているやつは普段から同じような奴だった。

そうしてる間に自分の順位が表示された。Record Time 324.71。五分三十秒あるかないか。なんとも言い難い、平凡な物だった。

続けて全員の名前が並ぶ総合評価の欄、ジョンの言う通り真ん中より少し下に俺の名前が表示されている。

なんとなく見ていられない気分になって、俺は数値を伝えてくるモニターから眼を逸らした。

 

「平均以下なのになかなかかよ……」

 

「途中でコース変更したろ。それにしてはって意味さ」

 

「いつも通りだな」と小さく肩を竦めながら俺は言った。

 

自分自身の言葉にどことなく諦めたような響きが混ざっていて、俺はなんだか少し居心地が悪い気持ちになった。

たぶんあのコース変更は間違っていたのだろう。教官からまた小言が飛んでくるかもしれない。くそったれ、って。

 

「ジョニィは何位だった?」

 

「13位。オーケイ。ああ、たぶん言いたいことはわかってる。あんまり僕をいじめないでくれ」

 

やれやれ、と俺は思った。首を傾げて広間の壁にかけられた一際巨大なデータ処理画に向き直る。

たぶんまた何か間抜けたことをやらかしたのだろう。お互いに難儀なものだと言い合って同情することも吝かではない。

表示されているモニターの一つではバーニア噴射の光彩が輝き、次のパイロットのザクが加速機動を続けていた。

うまいものだ。一つ一つの動きに柔らかさと鋭さ、つまりメリハリがある。ふと頭の中で自分と比べてしまったせいでなんとも言えないもどかしさを感じた。

俺は接近戦で物を壊すことしかうまく出来ない。なんだかこんな言い方をしてしまうとまるっきり粗野な男みたいに思える。

 

「1位は?」

 

「ミシェルだよ。2位以下のタイムを大きく引き離してライカー教官のタイムにあと少しで迫ろうかってところ。うーん、やっぱり彼女は凄いよ。ホント」

 

「それもいつも通りだな」

 

「いやホント凄いよ、機体の動き出しに全然無駄がないんだ。やっぱり小型ワーカーの免許を持ってるからかな」

 

ジョンは心底憧れるような起伏の大きい声で言った。

つくづく分かりやすい男だと思った。ちょっとした感情の変化で声のトーンもがらりと変わる。

 

「免許?」

 

「なんて言ったっけ、SP-W03だったかな。ここに来る前から実家の手伝いでコロニーの補修や点検やってたんだって。聞いてない?」

 

「それほど仲が良いってわけじゃないからな」

 

探せばその姿はすぐに見つかった。彼女はやや距離の離れた場所で一人きりのまま立っている。

ミシェルは無口な質で、その赤茶けた短髪の下から覗く瞳が俺にはどうにも神経質そうに感じてあまり話しかけたことがない。

最初見た時はただ小さな女だと思った。だがそんな感想を抱けたのははじめての訓練が終わるまでだった。

俺にはその時の光景を今でもありありと思い浮かべることが出来る。だが勿論そんなことはしたくない。ただ一言で言ってしまえば彼女は教官をも唸らせる凄いやつだったということだ。

ミシェルは何処までも無愛想で、意見を求められたときには簡単な言葉とわかりやすい論理を使って的確な意見を述べていた。

そしてどことなくその雰囲気は教官達にも似ていた。

プレッシャーや苦痛を友として、目の前までやってきた危機をなんでもない風に乗り越えていく男の雰囲気である。

つまり既にモビルスーツパイロットとしての風格みたいなものがあった。ごく平均的な士官候補生の俺にはそんな物は醸し出せない。

仲が悪いってほどでもないが、基本的にジョンほど人付き合いをしない俺にとっては同期の一人という括りの中に止まる。きっと向こうからしてもそうだろう。

話す機会がまったくなかったということはなかったが、俺はそのような機会に特に追求をしなかった。

 

「お前とは仲いいよな。付き合ってるんだろ?」

 

そういえばそんな話を聞いたことがあったような、と言いながら思った。

色恋沙汰は誰にとっても話の種になる。万国共通のネタだ。いくら俺がそういうことに疎いといっても勝手に耳に飛び込んでくる言葉くらいは覚えている。

この前も二人並んで歩いているのを見かけたからてっきりもうそういうことなんだと思っていた。

 

「いやいや!違うよ!僕と彼女はそういうのじゃなくてさ。その、なんというか……僕の片思いなんだ」

 

「へぇ」と俺は続けた。「お似合いだと思ったんだが」

 

「そ、そうかい?本当にそう思う!?」

 

俺は自分の成績を映し出すモニターを見た。数秒前に見たばかりだったので、あえて見る必要もなかったが、なんとなく見ることにした。

成績はやはり15人中8位だった。

 

「ああ、なんとなくだけど思うよ」

 

「どうして?君はどうしてそう思ったんだい?!」

 

「いやどうしてって……」

 

「なんでもいいよ。君がなんでそう思ったか聞きたいんだ。俺に少しの勇気をくれ、頼むよ!」

 

「頼むって言われてもな」

 

「本当になんでもいいんだ。直感とか相性占いとかそういうのでもいい。なんでもいいんだ。友人を助けると思ってさ。素直に思ったこと言ってくれよ」

 

「いや、彼女みたいな無口、あー……寡黙?そういう人にはお前みたいな男が似合うかなと思ったんだよ」

 

正直なところ恋愛経験が豊富とは口が裂けても言えない俺の保証なんてなんの当てにもならないと自分でも思った。

でも俺には「ああ」としか答えようがなかった。

その俺の言葉を聞くと、ジョンは慌てたように部屋の隅のテーブルに設置されている清涼飲料水の紙パックを二つ素早く手にとって歩き出した。

俺はどう反応したらいいのかわからないまま、その場にじっと立っていた。

どうしたものか、と眺め続けるこちらの視線を気にしたそぶりもなくそのまま彼はミシェルに話しかけていた。

 

なんて行動力だ。ジョンは時々他人をひどく驚かせるような行動を取る。

これまでのちっぽけな人生の過程において、俺は彼ほどたびたび人を驚かせてくれる人物を他に知らない。

ルームメイトとしてそれなりに仲良くやってきて、ジョン・ハーモンという人間の性格をおそらくかなり正確に把握しているというのに俺も未だに驚かされることが多い。

こういうことをさらっとやってしまうからドラマの俳優みたいに思えるのだ。

 

「すげぇ……」

 

もはやそれ以上言うべき言葉はなかった。あとはただ単に友人の努力が実るのを祈るべきかもしれない。

しばらくすると、ミシェルと向かい合ったジョンが笑う横顔が見えた。それに合わせてミシェルも小さく微笑んだ。短い赤茶けた髪の間から耳が見えた。

その耳には銀のイヤリングが付いていた。飾りっ気のないイヤリングだった。だが俺には彼女がイヤリングをしているということそのものに小さな衝撃を覚えた。

歴戦のモビルスーツパイロットの雰囲気を醸し出している彼女も、自分達と同じ年の女の子だという驚くべき事実に今更ながら気付いたのだ。

いや、たぶん俺だけじゃないだろう。なんでも完璧にこなす彼女のことは同期全員が特別扱いしていた。

教官でさえも気を抜くふとした瞬間にそういう素振りを見せることがある。

そしていつも彼女は一人でいた。訓練の時も自由時間の時も、いつも一人だった。だから俺はミシェルはそういう人間なんだと思っていた。孤独と静謐を好んでいるものだと、すっかり思いこんでいた。

だからこうして訓練生待機室の中で一人立ち尽くしていても誰も不自然に思わず、話しかけにもいかない。

ただ一人ジョンという男を除いて。

飛び交う雑音の中、シミュレーター計測終了を示す電子音が聞こえた。

モニターに16人目の順位が映し出される。

 

俺は少しだけ歩いて、テーブルの上に置いてある紙パックに触れた。

その動きがまるでスローモーションのように思えた。殊更慌てることもなく紙パックを掴み上げた。

 

しかしこうして二人がうまくいくのを横で祈って見ているという事実の奇妙さが何とも面白く感じる。自然と笑い出したくなった。

ハイスクールを卒業したばかりの俺が軍へ志願したのはこういった光景を守りたいと思ったからだ。

青臭い考えだと今では思う。だけどそう願う気持ちだけは今も変わらない。

母国は戦争をしている。宇宙移民の大儀を賭けたとても大きな戦争だ。だけどスペースノイドの独立と自治のため、などという大層な気持ちは俺の何処を探しても見つからなかった。そんな軍人がいるのはムービーの中だけでいい。

俺が守りたかったのは日常だった。

だから二人が笑うこんな日々が続けばいい。軍人という駒の一つになりかけている今だからこそ改めて思うのかもしれない。

喉を通っていく清涼飲料水を飲み込みながら、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 



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腕立て伏せと軍曹の話

 

 

 

 

 

宇宙攻撃軍には独特な腕立て伏せがあると言われている。

聞くところによると、以前ジオン士官学校の校長でもあったドズル中将が現場からの報告を総括して考案されたと言われる由緒ある腕立て伏せである。

それが普通の腕立て伏せと違うのはモビルスーツパイロットを鍛え上げるためだけに考えられたものだということだ。

もともと兵士としてはともかく、パイロットには単純な腕の筋力はあまり必要ないとされる。なぜならモビルスーツを動かすにあたってもっとも重要な筋力は腕ではなくあらゆる方向からかかってくる凄まじい重圧をもはね除ける首の力なのだから。

人体で一番重いのは頭部だ。その頭部を支えることによってはじめてバランスというものが出来てくる。

実際、操縦桿を握ってペダル操作を行えばそのことが嫌と言うほどわかる。パイロットとは常に重力負荷との戦いだ。横方向、前後方向、そして上下方向から息つく間もなく強大なGが襲い掛かってくる。それら全てを受けとめるのに首周りの頑丈な筋肉は必要不可欠だ。

教官たちの首を実際に見てみれば誰しもが納得するだろう。首周りの筋肉だけが異常に発達しているのだ。

モビルスーツ乗りかどうかは首さえ見ればすぐにわかるというのがジオン軍での常識だった。熟練のパイロットになればなるほど首の筋肉が発達している。

 

そして、一番大事なのは筋力ではなく心臓の力だ。

モビルスーツのパイロットは相当な強心臓でないと務まらない。

血液を全身に送り出す肉体的な意味でも、心理的なストレスにも耐える精神的な意味としても、そうだ。

急制動と急加速が続くために常に心拍数が非常に上がりやすい状態になる。戦闘へのストレスも当然それに拍車をかける。

モビルスーツが戦闘機動中には平均心拍数は一分間に180回近くにもなるという。心臓にかかる負担など推して知るべし、といったものだ。

当然、脳へ充分な血液を供給するといった意味でも強力な心臓が必要だ。もし血が足りなくなるとGによる意識喪失という事態に陥る。Loss Of Consciousness by G-force――所謂、G-LOCになってしまう。そうなってしまえばパイロットとしてお仕舞いだ。戦場で失神する兵士の末路は死以外に有り得ない。

そういった事にならないようにモビルスーツパイロットは特に筋肉の付け方にも注意して鍛錬を行わなければならない。全身に血液を行き渡らせる際、余分な脂肪や筋肉は邪魔になる。

だからこそバランスよく常に全身への負荷をかける均等な調練が行われることになる――――という話である。

 

すべて同期のやつらから聞いた話だ。その話が本当なのか嘘なのかは知らない。

だが俺たちの調練を主に担当するライカー教官は宇宙攻撃軍出身であり、変わった腕立て伏せをさせるということだけは確かである。

 

まず両手を床について右足だけを大きく上げた状態で腕立て伏せをする。

今度は右足を体の内側に入れて腕立て伏せをする。

それをもう一度繰り返した後、そしてそのまま左足も同じようにやっていく。

 

腕を曲げて伸ばす。腕を曲げて伸ばす。足を入れ替え。

 

4回で1セットの腕立て伏せだ。足の動きが加わっただけのように思えるのだがこれが段違いにキツイ。

通常の腕立て伏せならばやり続けていくうちに筋肉の疲労感と痺れが貯まっていき、段々時間の感覚を失っていく。そして、それでも続けているとある種の瞑想状態に入ることがある。思考がひどく緩慢になり、ただ腕を曲げて伸ばすことを行い続ける機械に成り切れるのだ。思考と体とが切り離される。次第に間接と筋肉が訴える痛みも何処か遠くに行き、余計なことも考えずにただ体だけが腕立て伏せを行う奇妙な状況が出来る。勿論、体力が続く限りではあるが。

マラソンなどで長時間走り続けた結果起こるランナーズハイと言われるものに似ているかもしれない。脳内に過剰分泌されたβ-エンドルフィンが苦痛の症状が緩和されるのだろう。

しかしこの腕立て伏せは単調な腕の動きだけでなく、同時に体のバランスをとり続けなければならないので頭を空っぽにしてただひたすら腕立て伏せをこなしていくことが難しい。モビルスーツパイロットたる者は機械的に物事をこなすだけではなく常に頭を動かしていなければならない、というわけだ。

まともな神経ではない。恨むべきは先人の知恵である。なんてものを考えやがるんだというのが俺の正直な感想である。

 

「1、2、3、4」

 

ライカー教官が数える声に続くように俺達は地面に向かって叫びを張り上げた。

 

「1ッ、2ッ、3ッ、4ッ!」

 

くそったれ!

疑似重力に従って、額から顎に向かって汗が流れ落ちてゆく。

号令に合わせて体を下げ上げ下げ上げ、そしてそのまま一秒感の間が訪れる。上半身は静止したままで足だけを入れ替える。

目に入り込んだ汗が染みて痛みを訴えた。手で拭うわけにもいかないので二度三度瞼を瞬かせて我慢する。

馬鹿みたいにだだっぴろい総合演習場の中で俺たちは腕立て伏せをただやり続ける。

 

「1、2、3、4」

 

「1ッ、2ッ、3ッ、4ッ!」

 

乳酸が溜まった腕が震える。背中が痒い。周囲に充満した空気はひたすら汗臭く、肌にぬっとりとした感触を残していく。

共に教練過程を越えた予備訓練生802隊、総勢三十二名が腕立て伏せの姿勢で固まっていた。

号令を掛ける三名の教官は各グループの前で不動の姿勢で立って、こちらを眺めている。そうやってひいひい言いながら腕立て伏せをしていると気が付くことがある。こちらを見つめる視線の中に、厳格な教官としての顔とは別に同じ失敗を繰り返す自分の息子を見るかのような、ちょっと奇妙な表情が浮かび上がることがある。中には露骨に面白がっているような顔も向ける教官もいた。だがその表情に同情と憐憫とが入り交じっている辺り、もしかしたらその教官もこの腕立て伏せをやってパイロットとして育ってきたのかもしれないと思ったりすることがある。

その点、真ん中に立っているトーマス・K・ライカー軍曹は違う。実質的に訓練兵を纏めている人物でもある。俺たちには一切の容赦もない。

絵に描いたような歴戦の教官といったイメージをして貰うと判りやすい。

鋼鉄のように鍛え上げられた身体に左頬に大きな傷痕のある強面の顔、そしてそのまま頭に軍帽が載っかっているような特徴的な人物だ。

ケツの青い俺たちを蹴り上げる機械である。血液の代わりに全身にオイルとヘリウム3が流れている調練マシーンだ。

心臓が超硬スチール合金で出来ているんじゃないかという噂もあった。

 

「よし、そのままの状態で聞け」

 

「サーッ、イエス、サーッ!」

 

暑苦しい空気の中で野郎共の声が唱和した。

勿論、俺も半ばヤケクソ気味に叫んだ。こうやって重なると自分たちの声でも芯が通った軍人らしく聞こえるのだから不思議なものだ。

これを聞く時、俺はいつも他人事のように感心させられる。訓練生の七割は男であって、ということは三割は女だというのに一糸乱れぬ返事だ。

皆が皆野太い野郎共の声でがなり立てている。これこそ訓練の賜物としか言い様がない。

ライカー教官は大きな歩幅で数歩だけ足を進めながら、一呼吸だけ間を取って、重々しく口を開いた。

 

「お前たちは下士官ではなく士官となるべくして育てられた軍人だ」

 

そのまま奥行きのないような目で俺たちの顔をじっと見下ろした。

先日の宙域機動訓練の終了に伴い、予備訓練生802隊の宇宙での最終実地訓練が終了した。

通常ならそれは代わり映えしない調練の日々の終わりを意味する。と思っていたら喜ぶ暇もなく俺たちはすぐにコロニー内にとんぼ返りさせられることになった。

そして昨日は30kgにもなる背嚢を背負っての重装行軍訓練。走れと言われて一日走る。宇宙帰りの身体が疑似重力に慣れるまでもなく延々と歩き続けた。そして今日は朝からずっとこれだ。

軍隊に叩き込まれたての新兵のような扱きの日々だ。まるでここに入ってきた頃に逆戻りしたような錯覚さえ覚える。あの時と違うのは自分達の体力くらいだろう。

苦痛から意識を逸らすためにそんなことを考えていると教官は俺の斜め前で足を止めた。ぎくりとした。

 

「ここを卒業した後には少尉任官されることになっている。これがどういうことかわかるか、ローレン」

 

俺のすぐ隣りにいたローレンが声を振り絞るようにして返答をあげた。

 

「はい。いいえ、わかりません教官!」

 

ライカー教官がゆったりと立ち位置を直して腕を組んだ雰囲気が感じられる。

隣で静止しているローレンの緊張が俺にも伝わってくるようだ。幾人かの吐息が冷たく総合演習場に響いていた。

俺たちは地面を見つめながら凍り付いた銅像みたいにただ身体を支えることに心を砕いていた。

 

「それはお前たちが将校になるということだ」

 

「はっ」

 

「俺はお前達のことを模範的なジオン軍人として調練したつもりだ。そのことに間違いがあるか」

 

「ありません、我々は常に兵士であろうと努めております!」

 

「お前たちはモビルスーツに乗ることになる。だがその辛さをよく覚えておけ。兵の辛さを知らなければ将校にはなれない」

 

汗がこめかみを伝い小刻みに震える右腕に流れていった。

動かないということは時に動くことより辛い時がある。例えば今だった。

 

「ジョン・ハーモン!姿勢を崩すな!」

 

遠くから別の教官の罵声がとんだ。心の中でルームメイトに同情しつつ、腕を伸ばしながら殊更自分の姿勢に気を付けることにした。

人の振り見て我が振り直せ。これまでの人生の過程において、数多くの無用なトラブルを回避させてくれた格言である。母方の先祖が住んでいた東洋の島国の言葉らしい。

家族が俺に数多く持たせてくれたものの一つである。この言葉に従っていることを俺は少なからず誇りにして生きていた。

 

「……将校だ」と少し毒気を抜かれたようにライカー教官は繰り返した。

 

「はっ」

 

「その自覚をしっかりと持て」

 

「はい、了解しました!」

 

よろしいローレン、と言った後にまた一つ息を吐いて、ライカー教官は軍帽を被り直した。

 

「だがミノフスキー粒子がある限りお前たちはどれだけ昇進しても最前線に叩き込まれるだろう」

 

教官は付け足すように続けた。「そういう時代だ」

 

素早い決断を求められる、というのは戦場というものの特性の一つかもしれない。

部隊指揮官が前に出ることは現代ではよくあることだ。現代戦ではミノフスキー粒子化で通信が取り合えなくなるということが往々にあるため、上級将校自らがモビルスーツに乗って前戦で指揮系統を構築することも珍しくない。恥ずかしながら俺は歴史についてはここに入隊するまでほとんど何も知らなかった。今もそれほど自信があるわけでもない。戦史はC評価だ。しかし佐官や将官までもが最前線まで出張ってくることなど昔ではとてもじゃないが考えられなかったことだろうということは何となくわかる。

 

「モビルスーツ一つ作るのにどれだけのコストが掛かっているか、などとは今更言わん」

 

そう言ったライカー教官の目つきが据わる。その瞳孔に鈍い光が灯ったように見えた。

 

「いいか。兵士の命を無駄にするな」

 

そう一つ一つの単語を句切るように言葉を落とした。

教官は厳しい目つきを俺たちに注いだ。軍隊ヒエラルキーにおける上位階級者の視線である。これは軍曹としての言葉だ。

緊張が走り、もう限界まで反っていたと思っていた背筋が自然と伸び上がった。一切の雑音が頭の中から消え失せる。教官の呼吸音まで聞き取れるように耳をすませる。

五感が鋭敏化して兵士として体が命令を聞く体勢に移行した。軍隊における上位者の言葉というものはそれほどの力を持っている。

もはや腕の痛みは大したことではなくなっていた。耳に届く教官の声に比べればそれはなんというものでもなかった。

 

「自分の命を無駄にするな」

 

ライカー教官はまるで言い聞かせるようにして俺たち一人一人の顔を順々に見下ろしていった。

眉間に皺が寄っているいつも通りの表情だった。

 

「お前たちの行動一つで人の生き死にが変わるということを常々忘れないようにしろ」

 

その言葉を聞いても驚きはなかった。ただ少し悲しかっただけで俺の感情はほとんど動きを見せなかった。

数分が経った。みんなはいつしか教官のタイミングに合わせて同じように呼吸をしていた。

ライカー教官はただ話したことをしっかりと頭に叩き込んでおけというような顔をして、じっと黙り込んでいた。

俺もそれについてしばらく考えてみた。自分が人の上に立って命を預かるということについて。軍人として連邦と戦うということについて。

それと少しだけ故郷に残してきた家族についても。

 

「以上だ。諸君等の奮闘に期待する」

 

「イエス、サーッ」

 

予備訓練生802隊の三十二名全員で力いっぱいの返答を床に叩き付けた。

まいったことに俺たちにはそれ以外に言葉が出てこなかった。誰もが返事を張り上げることで頭がいっぱいで何も思い浮かばなかった。

苦痛の波がなくなった代わりに体は恐ろしく重かった。それでも誰もがただひたすらまっすぐに両腕を伸ばし続ける体勢を止めなかった。

三名の教官は大きく手を叩いて頷いてくれた。熱気が渦を巻く。総合演習場に人の意志のようなものが猛っているように思えた。

熱に頬が上気する。涙を流すことだけはなんとか堪えた。全てはここから始まるのだから。

数日後、俺たちはジオン公国士官学校を卒業した。

 

 

 

 

 



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