東方今昔鬼物語 (PureMellow)
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第1章:そして俺は鬼になった
1億3000万分の1のエピローグ


 

 

 

 もし、生まれ変われるのなら。

 俺は人間になりたくはないと切に願う。

 

 

 

 蝶がいいかもしれない。

 孵化して、鳥に襲われないよう隠れながら葉っぱを食べながら成長して、綺麗な羽で空を羽ばたく夢を見ながら蛹になってじっと春を待ち、羽化して宙を舞いながら花の蜜を吸い、卵を植え付け鳥に食われて朽ち果てる。

 

 野良猫がいいかもしれない。

 自由気ままなルールもない日常で、大欠伸をしながら昼寝をし、虫と戯れ、縄張り争いで喧嘩をして、偶に人を観察し、飽きたら寝て、誰もいない場所でそっと死を迎える。

 

 鮎がいいかもしれない。

 冷たい沢の中で生まれ、海へと下って食べられないよう身を守りながら成長し、いつか元の沢に戻って子孫を残し、獣か鳥か人に食われて死ぬ。

 

 山桜がいいかもしれない。

 ある日山の中で芽を出し、美しい桜の花びらを咲かす夢を見ながら静かにゆっくり成長し、春に山の一部として山肌を彩り、季節を巡って咲いて枯れてを繰り返し、最後に寿命を迎えた巨木として朽ち果てる。

 

 生き物として生まれたのであれば、その生き物として全うな生き方をし、何かを残して死ねたのならば、それは幸せ以外の何ものでもない。

 生き物は最終的に死からは逃れられないのだから、せめて悔いもなく潔く死ねる方が、本当の意味で『生きた』と胸を張れるのだろう。

 

 けれど、人間はきっと、未来永劫それができないと俺は悟った。

 感情がある時点で、生死を意識できる時点で、人間は死にたくないと願って生きている。

 

 今の俺は、どちらでもないのだろうか。

 

 病に侵され、人として全うな死を望んでいる俺の心。

 家族や友人の願いで、治らないと知っていながら延命治療を受けている俺の体。

 見事に、心身が分離している。

 

 人間はどうしてこうも、面倒なのだろう。

 

 どうして潔く死ねないのだろう。

 何故周りは、俺の生に固執するのだろう。

 

 この腕に、足に、胴に、首に、顔につけられたチューブが、俺をこの世界から逃がさない為の鎖にしか見えない。

 家族や恋人や、友人の言葉や愛は、針となって俺の心に傷を与えてるようにしか感じられない。

 こんな俺は、果たして人なのだろうか。

 

 人間の死に、どうして自由な選択肢がないのだろう。

 自己決定権なんてもはや形骸化した権利だ。人は結局、周囲に死の選択肢を潰されて『生きろ』と願われ生きてしまう。そこに自分の本当の意志はなくてもだ。

 

 死を選べば、他人はそれを『諦めた』と決めつけて罵倒する。

 死ぬ=諦めだなんて、あまりに横暴すぎるだろ。

 

 この病に侵された時、俺はこれが俺の人生の終わり方なのだろうと気が付いた。

 薬や、人の手に俺の体を弄られるなど気持ち悪く、俺は一人そっと、静かに息を引き取れればそれでいいと思っていた。病の痛みなんて怖くなかった。

 

 寧ろ俺は作曲家として、この病に侵された時に最高の一曲を作れたのだ。

 それが世に渡り、ミリオンヒットした訳だが、俺はこの曲以上の曲を書けることはないと分かった。

 

 小さな星が自身の重力に耐えかね消滅する時、爆発の一瞬の輝きにその星の全てが集約される。

 だから星の光は美しい。それと同じなのだ。

 

 死の間際だからこそ、この曲は生まれた。

 俺の人生の輝きがこの曲だった。

 

 ならその先は、死ぬだけだ。それで満足だ。

 下手に更に大きな輝きを期待して、どん底に落ちて死ぬ時に「俺の人生は散々だった」と嘆いて終わるなんて嫌だ。

 

 全てが満たされた時に、幸せな気持ちで眠りたい。

 それが俺の死生観だ。

 

 それに今は、死後の世界というものに興味がある。

 

 京都の寺に行った時に見た、閻魔の絵や像を思い出す。

 本当にあんな存在がいて、天国か地獄に行くのが決まる裁判は行われているのだろうか。

 三途の河とか、花畑って本当にあんのかな。

 

 俺仏教徒じゃないしな……日本人なら関係ないのかな。

 

 もしそんなのがあるのなら、俺はどっちだろう?

 別に犯罪を犯した事がある訳ではないけど、向こうではどの程度と大きさが罪なのか。

 大切な人たちを泣かせてまで死ぬ奴は、地獄行きなのかな。

 

 まあ、どっちでもいいか。

 

 論より証拠。

 もういいだろ。

 

 既に遺書は用意してある。

 必要な事はちゃんと書いてある筈だ。頼むから家族で喧嘩しないようにな。

 

 小さい時に『生死』を意識してしまった俺は泣いた。

 でも今は『生死』を意識して俺は笑っている。

 

 この話を、来世の俺にしてみたい。

 どんな反応をするのか見てみたい。

 

 逆に、前世の俺はどんな思いをして死んだのかな。

 俺はどんな反応をすんのかな。

 

 そんな願いが叶うとは思わないけど。

 

 まあとにかく。

 

 

 

 それじゃあ。

 

 

 

 バイバイ。

 

 

 



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800万分の1のプロローグ

*ご指摘があったので、風呂に関しての文章を変更(2016.6.5)


 

 

 ――前世にて、4歳だった時のある夜、俺は両親と飼い猫のリンと一緒に寝ていた。

 

 ふと目を覚まして寝返りを打ち、隣に寝ていたリンの腹に顔を埋めて抱いた時、その心臓の音を聞いた。

 

 トクン、トクン、トクン。

 

 時計の針の音の様に正確で、絶えず動き続ける生命の営み。

 音と振動の心地良さにまた眠りかけたのだが、沈みゆく意識の中で俺は何故か思ってしまった。

 

 この音が聞こえなくなるとしたら、それはどういう事かと。

 

 ポタリと、真っ白いキャンバスに黒い絵の具が一滴垂れたように現れたその考えは。

 一瞬にして、俺の思考を埋め尽くしていった。

 

 全身に駆け巡る鳥肌。

 溢れ出す汗。

 止まらない震え。

 

 生まれて初めて、『死』という得体の知れないものに恐怖を抱いた瞬間だった。

 

 堪らず、俺は声を上げて泣いた。

 リンは突然泣き始めた俺に驚いて跳び起き、窓の方へと逃げ出して避難すると、じっと俺を見つめた。

 

 次に両親も跳び起きた。

 赤ん坊の時も殆ど夜泣きをすることが無かった俺だから、両親も驚いたらしい。

 俺を抱きしめ、頭を撫で、俺に泣く理由を問うた。

 

『どうしたの? 怖い夢でも見たの?』

 

 俺は答えられない。言葉にできない。

 その時の俺はこの抱いた恐怖の正体を理解していなかったから。

 あれが、『死』に対する恐怖だったと明確に理解したのはもうしばらく後のこと。

 

 黒は次第に、白に埋め尽くされ消えた。

 俺はそれに安心し、母の腕の中で泣き疲れて眠った。

 

 それからずっと、俺は人の『生死』を考え生きてきた。

 あの夜のことを思い出しながら。

 

 死の間際まで、ずっと……。

 

 

 

 

 

 

 体中のチューブを引き千切り、隠し持ってた致死量を超す睡眠薬を飲んで眠りについた俺。

 

 次に意識が浮上した時、世界は真っ暗だった。

 

 俺がいた、深夜の病室の暗闇ではない。

 あの日は満月で、開いていたカーテンの隙間から月明かりが射していたから、部屋は割と明るかった。

 それに、まるで水の中の様な心地のいい浮遊感と温もりを感じる。

 

 きっとこれが、死んだという感覚なのだろう。

 ちゃんと、俺は死ねたようだ。

 

 結構意識ははっきりしているもんなんだな。

 これから、三途の河にでも向かっていくのだろうか。

 

 そんな事を思っていたら、ふと、真っ暗で何もない筈の世界で、どこからともなく小さな音が聞こえてきた。

 

 何だろうと思いながら、俺は軽く()を動かした。

 

 瞬間、俺の周りに感じていた水の様なものが急速に無くなっていく事に気が付いた。

 

 そして浮遊感もなくなり、俺の頭上が柔らかい窪みか何かに嵌る。

 

 何かがおかしい……ここは本当に死後の世界か?

 

 周りの状況の異様さを考えていると、俺は段々と窪みに飲み込まれて行っている事に気付いた。

 

 そして……俺は理解してしまった。

 これは、出産だと。

 

 俺の周りを覆っていたのは羊水で、俺が腕を動かしたために破水したんだと。

 そして俺は今、母親の膣の中から出ようとしているんだと。

 

 え……もしかして、また俺は……。

 

 狭いザラザラした空間を進んでいると、やがて俺の頭が掴まれた。

 そしてゆっくり俺を引っ張り、やがて体を覆ってた圧迫感から解放された。

 

 真っ暗な世界が一転、眩さに支配される。

 俺の中から体に響き渡る、命の声。

 

「生まれたわ!」

「元気な男の子よ!」

 

 俺の耳に聞こえてきた、歓喜に沸く女性らしき人たちの声。

 遠くから近付いてくる慌しい複数の足音。

 

 ああ……やっぱりか……。

 

 本当に、涙が出そうだ……もう既に泣いているが。

 

 俺は……生まれ変わったのだ。

 

 ――人に。

 

 もう生まれたくないと願った、人間に。

 

 前世の記憶を継いだまま。

 

 また。

 

 

 

 おい、神様。存在するのか知らないけど。

 

 これがあんたの仕業なら、あまりにも、意地悪過ぎやしないか?

 

 

 

 

 

 俺が生まれたのは、小さな村の農民の子だった。

 父と母、姉が二人の5人家族。

 続けて女が生まれたため、俺はようやく待ち望んだ男児だったのだ。

 

 時代は、恐らく奈良時代。

 

 父と母や、村の人の会話から偶に聞く『平城の都』という言葉から俺は小中学生の時に学んだ歴史の授業の知識を引っ張り出して、時代に当たりをつけたのだ。

 この村から歩いて1日で着く距離にあるらしい。結構近い。

 

 しかしこの時代のことなんて、平城京があったこと以外殆ど憶えていない。

 歴史の授業なんて、特に好きにもなれず寝てばっかだった。

 

 にしても、生まれ変わるって普通、前世の時代より後に生まれるものだと思ってたのだが。

 しかも同じ種族、同じ人種で、時代を逆行して生まれ変わるなんてどんな確立だ。もはやミクロの世界の確率だ。

 0と点の後に、どれだけ0が続いているのやら………。

 

 それに、何故俺は前世の記憶を持って生まれている? 普通は、記憶なんて消去されて新しく生まれるものだろう。

 

 加えて、この体は不思議だ。丈夫なのだ。

 今俺は18歳だが、生まれた時から病気もせず、力は人より少し強く、あまり疲れない。

 背も高く、村の男性の平均でも160あるかないかぐらいなのに、俺は190近くはある。

 

 それから……やたら性欲が強い。

 

 前世に比べれば苛酷な環境な訳だし、子孫を残そうとする意識が強いだけなのかもしれない。

 今世の俺がただの変態なだけではないと願いたい。

 

 今はまだ暴走していないが、この時代の服装はしっかりとしていないし、それ程男女間での羞恥心みたいな意識も薄いため意図しない誘惑が多い。

 なので、正直しんどい。特に姉たち。恐ろしい事に美人でナイスバディだし。

 なのに未だに『弟可愛いよ』が治らず、20を過ぎても独身。

 

 早く結婚しろ。してください。頼むからホント。

 

 キンシンナンカゼッタイシマセンヨ?

 

 そんな煩悩を抑えつつ、俺という存在に対しての疑問も全て背負い込んで俺は、農民としてせっせと畑仕事に精を出す18年の毎日。

 前世では畑を耕したりなんて事は一度もしたことがないが、俺はこの生活を割と楽しんでいた。煩悩云々は違う。

 

 前世の生活水準を知っている俺にしてみれば、食事や衛生面で苦に思う事はあれど、生活そのもので不満は特になかった。

 水の美味さには感動したっけな。

 

 確かに、食事は貧相だ。農民は米ではなく粟や稗がもっぱらの主食。農法も堆肥何てものがまだ取り入れられていない時代。

 

 肥料の作り方を知らない俺でも、腐葉土が作物に良いという事ぐらいは知っていたので、5歳ぐらいの時に無知と無垢を装って腐葉土の有用性を両親に気付かせた。

 おかげで、ここの村は他に比べれば豊かになった。

 

 それから風呂もなかった。この時代の農民は水を浴びて体を布で擦って洗う程度の文化。

 けれどあの湯に浸かる心地良さを忘れられず、俺は人が浸かれる程の深さのある風呂桶(というか木箱)を木だけで頑張って作ったのだ。水が漏れない様工夫したり、都に行く度に少しずつ和釘を買ったため作製には時間も掛かったが。

 燃料には限りがあるため週に一度ぐらいしか入れない。加えて入るには水を汲んだり、石を焼いたりの作業もあるが、そんな事は全く苦ではなかった。

 

 俺はこの生活に充実を感じている。

 人間として、生き物として生きている事を確かに感じられるこの生活を愛している。

 

 今となっては、この時代の人間に生まれた事も、悪くはないと思えた。

 

 

 

 何となくこの18年を振り返ってみた俺は、屋根の上に登って沈みゆく太陽を眺めながら、楓の木の枝を削って作った篠笛を吹いていた。

 

 前世の記憶があるせいで、楽器が欲しくて仕方がなく。

 しかし今世のこの時代にピアノがある筈がなく。

 というか、あっても農民の俺が手に入れられる訳がなく。

 

 フルートを少し齧ってたこともあり、気軽に演奏できるこの楽器を選んだ。

 

 吹いているのは、前世で俺が最後に作った曲。

 この村でもとても人気だ。

 

 村の一日の営みを労うように、毎日この時間に吹くのが恒例となっていた。

 

 曲も終わりに差し掛かり、最後の一音は肺の空気を一杯に使い奏でる。

 もう少し吹きたい。

 そんな名残惜しさを抱きながら、ゆっくりと唇を離した。

 

「ひぃー!」

「ご飯だよー!」

「あいよー……その呼び方はいい加減止めろっての」

 

 曲が終わったタイミングで、姉たちの俺を呼ぶ声が掛かった。

 何度言ったか分からない恒例の文句を言いながら返事をし、笛を懐にしまって、俺は屋根から飛び降りた。

 

 

 

(ヒイラギ)

 

 

 それが俺の今世の名前。

 

 

 

 この名前を授かった時、神様は本当に、俺に対する厭がらせが過ぎると思った。

 

 

 

(シュウ)

 

 

 それが俺の前世の名前。

 

 

 

 自ら世界を飛び出そうとも、生まれ変わろうとも、

 

 

 俺は、『柊』のままだった。

 

 



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都の友人

時代設定を平安から奈良に訂正しました。
それから風呂に関しての文章も少し変更です(2016.6.5)
お風呂って中々難しい。


 

 

 前世における、成人と見なされる20歳になる年の冬。

 

 冬は作物を育てられないため、村で作った笠や草鞋、鹿や猪の皮を使った蓑や革袋。

 それから庶民でも簡単に親しみを持てるようにと作った、竹の簡単な篠笛を都に売りに行き銭を得て、それで食糧や衣類などを買い、村に戻る。

 

 丁度俺はその目的で、荷車を引いて都へと向かっていた。

 

「最近、やけに頭の左側に違和感があるんだよな……」

 

 今にも雪の降りそうな暗い曇天の下。

 村から都へと続く道を少し急ぎ足で歩を進めながら、俺は頭の違和感のする左耳の少し上の部分を触りつつそう呟いた。

 

 一月ぐらい前から度々、ふとした瞬間にやたらむず痒さを覚える。しかも内側に。

 こんな事は今世のこの体に生まれて、初めての事だった。

 

 痛みがある訳じゃない。

 だが脳に直接鳥の羽に撫でられたような感覚で、気持ち悪くて仕方がない。つい苦虫を噛み潰したような顔になる。

 

 先日も、漸く上の姉に続いて下の姉が結婚を決めたと報告してきた時にその違和感が走り、顔を歪めてしまったもんだから危うく変な誤解をされかけた。全くもって迷惑だ。

 

 ただ、この原因に特に思い当たる節がない。

 最初は寝ている最中に寝返りを打ってどこかにぶつけたと考えはしたが、瘤もないし、姉たちに確認してもらったが痣もなかった。

 

 今の所体調に変化はないが……何かの病気か?

 しかしこの時代は病院がなければ医者もいない。都には陰陽師や呪術師がいるが、胡散臭いので訪ねに行く気も起きない。

 

「とりあえず、都に着いたら阿礼に相談してみるか……」

 

 疑問の落とし所が一先ず着き、俺は腰に掛けてた竹筒を手に取って中の水を飲もうと顔を上げた。

 

「………ん?」

 

 上を向いた瞬間に視界に映った、無数の白いそれ。

 一つが鼻先に静かに落ち、仄かな冷たさを残し消える。

 

 ついに降って来たか。

 

「雪が降る前に着ければ良かったんだがな……仕方ないか」

 

 距離的には後数刻で着くだろうという所まで歩いて来たが、間に合わなかったようだ。

 

 次第に本降りになるだろうと思い、俺は笠を被った……が、道端に生えていた枯れ木の根本にあった地蔵の存在に、俺は気付いてしまった。

 

「こんな所に地蔵があったか?」

 

 最近作られたのか、それとも今まで気付いてなかっただけか。

 これから雪は強くなるというのに、その地蔵は優しい笑顔を浮かべ、寂しくそこに鎮座していた。

 

 笠と蓑をつけてやろうかと思った。

 だが、運んでいる笠や蓑を、簡単に「はいどうぞ」とやる訳にはいかない。

 冬は食糧が尽きれば終わりだ。飢えないように家族全員で作った物でこうして食糧を得ようと都に売りに向かっている。

 俺の独断で、家族の食える飯が減るのはいただけない。冬はなるべく蓄えが欲しいのだ。

 

 しかし、このまま何もしないのもアレだなと、俺の良心がそれを言っている。

 

 ……どうせ風邪なんて引いたことないしな。

 

 地蔵の前に止まると、俺は自分の蓑と笠を外して、地蔵の身につけてやった。

 これが昔話みたいに何個も並んでいるのであれば流石にスルーしたが。

 あんな恩返しが本当にあるとは思っていない。あれはただの道徳を教えるため作り話だ。

 

 これは、そう。

 ただの気まぐれで、自己満足。

 

 良いことをすれば晴れやかな気持ちにはなる。

 人間は複雑なようで単純だ。

 

 だから俺も、気分はいい。寒いが。

 都の方で良いことがあるのを期待しよう。

 

 早く阿礼の屋敷で暖かい飯が食いたいなぁ……。

 

 寒さに震えつつ、雪がこれ以上強くなる前にと俺は、都へと急いだ。

 

 

 

 

 

 都の方で良いことがあるのを期待しようとは言った。

 

 だがそれは、小さなもので良かったんだ。

 

 流石に限度というものがあると、俺は心の中で頬を引き攣らせざるを得なかった。

 

「貴殿の笛の音をとても気に入った。ぜひ、我が屋敷で演奏してもらいたい」

「えっと、私は小さな村のしがない農民で……その、貴方は」

「失敬。私は藤原不比等と言う。貴殿の名を聞いても良いか?」

「私は、柊と言います」

 

 助けてくれ、阿礼。

 

 

 

 何とか雪が本降りになる前に都に着いた俺は、早速品を売りに向かった。

 持って来た品は全て売れ、米俵が2~3俵は買える程の金が手に入り俺は上機嫌に店を後にした。

 

 その金で必要な諸々の物を買うと、一泊する予定の友人の阿礼の屋敷に一旦荷車を預けに行き、その後俺は大通りの店をぶらぶらし、一軒の茶屋へと入った。

 

 甘味と熱いお茶を頼み、配膳されるまでの間に俺は笛の手入れをしていると、他の客が俺の笛を見て、俺に演奏出来るのかと尋ねてきた。

 俺は頷くと、他の客達が期待の眼差しで、演奏をしてみてくれないかと俺に頼んだのだ。

 

 娯楽の少ない時代。加えて楽器を嗜むのは貴族だけ。

 今は俺が庶民向けに作った笛が都に流行しているため、庶民でも楽しむ事は出来るが、とても演奏とは言えない。

 なので俺みたいに庶民でありながら、演奏出来ると自信満々に答える奴はそういない。

 

 俺はそれを快く受け入れ、手入れを終えるとその辺にあった椀を前に置き、俺は目を閉じ、笛の音を震わせた。

 

 最近作った、冬の静かな雪原の空虚な物悲しさをイメージした曲。

 今回は甘味を頼んでいるので、少し短めにして演奏した。

 

 演奏中に目を閉じるのは俺の癖だ。

 笛を奏でる時に必要なのは聴覚と曲に対するイメージだけ。音に集中したいため、視覚を遮断した方がより演奏に没頭し、沈み込んでいく。

 

 それに、演奏を終えた時に、目を開けた瞬間に飛び込んでくる観客の表情を見るのが俺の楽しみだった。

 

 音が消え、笛から唇を離し会釈をした瞬間に沸き起こる拍手喝采。

 

 目に涙を溜めて感動している者。

 堪え切れず流して大きな拍手を送ってくれる者。

 とても良かったと心のままに演奏を褒めてくれる者。

 

 椀に、次々と入れられ溢れる程溜まっていた銭をしまい、代金は要らないと言って茶屋の娘さんが置いてくれた甘味に手をつけようとした所で、

 

「貴殿の笛の音をとても気に入った。ぜひ、我が屋敷で演奏してもらいたい」

 

 と、耳触りのいい渋く低い声が俺へと掛かった。

 

 

 

 

 

「まあ、不比等殿に声を掛けられるとは。流石ですね、柊」

「一瞬俺の心臓が止まったがな」

 

 俺の言葉に、阿礼はクスクスと口元を隠しながら上品に笑った。

 

 茶屋での一件から、その日の夜。

 俺は友人の阿礼の屋敷へと戻り、広過ぎる大広間で阿礼と二人夕食を取っていた。

 

 稗田阿礼。

 歴史上では『古事記』を編纂した人物。それ以外は特に知らない。

 歴史で習った時はてっきり男だと思っていたが、本人を見て女だと知った時は酷く驚いた。

 因みに俺の4つ年下で16歳だ。

 

 阿礼が俺を呼び捨てなのは、阿礼の方が身分が上だから。

 かと言って、俺が阿礼を呼び捨てなのは恩人だかららしい。

 

 彼女と知り合ったのは5年前の冬。

 今回と同じ様な目的で都に来ていた時に、通りの陰で体調を崩して動けなくなっていた所を偶々保護して屋敷に送り届けたのが切っ掛けだった。

 

 阿礼は体が弱い。病弱だ。

 だから余り外には出ないのだが、その時はふと散歩をしたくなったとかで外に出てそんな目に遭ったため、もし俺が見つけなかったら確実に死んでいたと、彼女と彼女の両親には恩人扱いされ、都に来た際はぜひ泊まっていってくれとこちらがドン引くぐらい感謝された。

 

 だがその申し出は素直に嬉しかった。

 都には大してツテもなかったため、基本的に都に行く間に野宿し、都に着いたら品を売って買い物をしてすぐに都を出てまた野宿し、村に戻るのが普通だった。

 体力のある俺はその強行スケジュールがそれ程苦ではなかったが、野宿は余り好きではない。特に冬は辛い。

 日が昇る頃に都を出られれば、夜には村に着ける。それだけで大分変わる。

 

 以来、俺はそれに甘えて、都に来た際はこの屋敷で一泊してから村に帰るのが毎度の事となった。

 しかし、毎度来る度に貴族しか食べられない茶碗一杯の混じりっ気ない米と豊富なお菜が食えるのは申し訳なかったので、俺はその度に笛を演奏した。

 そして余計に気に入られ、来る度に屋敷に仕えないかと言われる。

 良いのか悪いのか分からない循環が続くのだった。

 

「しかし、どうしよう。流石にこんな小汚い農民でしかない俺が、藤原家の屋敷に入るのはどうかと思うんだが」

「柊、自分で自分を小汚いなんて言わないで下さい。貴方は汚くありませんよ。寧ろ、他の農民たちより全然汗臭くないのが逆に気になります」

 

 自虐的な言葉が癇に障ったのか、嗜めるような口調で阿礼は俺を睨む。

 全然怖くないがな。そんな頬を膨らませてたら。

 頼むからやめてくれ。潰して揶揄いたくなる衝動に駆られるだろ。

 

「村じゃ毎日ちゃんと垢や虱を落とす様にしているし、それに都に来る際は週に一度の村の風呂に入る日の翌日に合わせてるからな。本当は毎日入りたいんだが」

「……そんなに、その『風呂』というのは良いのですか? お湯に全身浸かるなんて贅沢、私たちだってできませんよ? 占いで入る日が決まりますし、せいぜい蒸し風呂で体を洗うぐらいです」

「俺は余り占いを気にしないからな。まあ蒸し風呂もあれはあれで良いものだけどな。それに俺の村は水源と燃料が豊富だから、準備さえ面倒臭がらなければ入るのは難しくない」

 

 都では蒸し風呂、つまり前世でいうサウナで汗を流すのが一般的だ。

 そもそも風呂文化が普及し出すのは確か江戸ぐらいからだったと思うから、あの村だけが異常なのだ。

 

 というか俺がその根源である。

 

 今では風呂専用の小屋が二つ、男女に別れて川の側に建ててある。

 村民の間で風呂の人気に火がつき、余りにも取り合い状態で作った俺が入れなくなって俺がブチ切れて浴槽をぶっ壊すという事件が起きたので、村の皆で新しく作ったのだ。やっぱり独り占めは良くないな。

 一度に10人が入れる程のでかい浴槽が出来たのを見た時はとても感動的だった。入る時は仕事を早めに切り上げて、ちゃんと皆で準備しているので一人ひとりの負担も少ない。

 

「私も、入ってみたいです」

「いや、都だと結構大変だと思うぞ。大量にお湯を用意しないといけないし。せめて、大きめの桶を用意してそこに湯を張って、体にお湯をかける程度にした方がいい」

「むぅ……そうですか。そうですね……」

「ああ。湯を体に掛けるだけでも、それだけで体に良い。体の弱い阿礼はその方が良いかもしれないな」

「そうなのですか……では、風呂に入る日が来たら、私の体を洗って貰えますか」

「ごふっ」

 

 阿礼の突然の爆弾発言に驚き、飲み込もうとした水が鼻腔と気管に同時に入った。

 最悪だ。

 

「げほっ、がほっ……ちょ、阿礼。げほっ、お前そんな事を冗談でも言うんじゃない」

「うふふ。すみません。お風呂に気軽に入れる柊に嫉妬したので、ちょっと揶揄ってみました」

「阿礼の冗談は質が悪い……はぁ」

 

 貴族の前で溜息を吐くなど死刑ものだが、阿礼はそんな俺の様子を華やかに笑っていた。

 そんな彼女の笑顔に、俺もつられて笑う。

 

 いつの間にか随分話が逸れたな。

 

「で、話を戻すぞ」

「あ、はい。そうですね。ええと、柊が不比等殿の屋敷に向かう際の服装の事ですよね?」

「そうだよ。演奏するのは構わない。だがこんな格好は明らかに場違いだし、失礼だろ。それに藤原氏の屋敷なら文官とか士官の人間や囲っている女性たちが多い筈だ。そんな多くの人に白い眼で見られて笑い者になるのは御免だよ」

 

 しかもあの人、去り際に「良い茶会の余興になりそうだ」と上機嫌に呟いていた。

 下手をしたら、他の有力貴族が多く来るのかもしれない。

 

 ……考えただけで口から魂が抜けそうだ。

 

「柊の言い分はよく分かります。その気遣いができるのは素晴らしいですね。ですが、その件については既に解決策がありますよ?」

「えっ? 本当か?」

 

 まさか、貴族の服を貸してくれるとか言わないよな?

 けど、俺の背丈に合うものがあるのか?

 

「はい。今、それを用意しますね」

「……今?」

 

 阿礼はそう言って微笑むと、パンパンッ、と手を2回叩いた。

 音が広間に広がって響くと、少しの間の後に襖が開き、そこに使用人の女が3人、風呂敷の包みを持って現れた。

 

「例の物を、柊にお見せなさい」

「「「かしこまりました」」」

 

 阿礼の命令に、使用人達は風呂敷の包みを開けて、それを俺の目の前に広げて見せた。

 

 ―――それは、この都における貴族の服装とは全く違う服装だった。

 この時代には無い筈の、着物によく似た、一目で分かる程の上質な物だった。

 

「これは、唐の華服を元に私自らが、貴方を想像しながら意匠した衣服です。上は濡れ羽の羽織り、中は藍の直裾、帯は薄紅に金の文様。羽織りと直裾には柊の花の縫を施しました。全て絹です」

 

 俺は阿礼がドヤ顔をしながら語る説明を、ポカンと口を開けた阿保面を浮かべて聞いていた。言葉が出ない。

 それ程に、目の前の物が素晴らしく、美しかった。

 

「そしてこれを……柊へと贈ります」

「……は?」

 

 思考が追い付かない。

 頭の中で、阿礼の言葉が火花を散らして爆ぜていた。

 

 これを、俺に?

 

「な、んで……」

「だって……明後日は柊の誕生日じゃないですか。これを用意するのに、半年近く掛かったんですからね? 私は、この衣服を纏う貴方の笛を演奏する姿が見たいのです」

 

 それだけのために、これだけのものを用意したと言うのか?

 

「だ、だからってここまでの品は貰えぐっ!?」

 

 そう叫ぼうとしたら、俺は阿礼の小さな掌に口を塞がれた。

 目線を阿礼に合わせると、目の前の阿礼の表情は普段大人びて見せている淑やかな彼女ではなく、年相応な子どもっぽさを備えた少女のような不機嫌さを見せて、黙って受け取れと俺に訴えていた。

 

 口を塞がれたまま俺は観念して、再度溜息を吐いた。阿礼は一転、嬉しそうに顔を綻ばせ、俺の口から手を離し両手を合わせると、可憐な笑みを浮かべて言った。

 

「では早速、柊にこの服を着せて差し上げなさい!」

「「「かしこまりました」」」

「……え?」

 

 阿礼の言葉に使用人の一人は衣服を風呂敷に包み直し、もう二人はガシッと俺の両腕を取った。

 そしてそのまま俺は引き摺られるように、使用人たちに大広間から連行されていった。

 

「あ、ちなみに明日の藤原氏の茶会には私と私の両親も呼ばれていますからね。最初は行きたくないと思ってましたけど……今ではとても、本当にとても楽しみにしています」

 

 そんな彼女の嬉しそうな言葉を聞きながら。

 

 

 

 数分程して、その衣服を着せられた俺は大広間に戻った。

 俺を見て、阿礼は誰もが美惚れそうなほどうっとりとした表情を浮かべ瞳を潤ませながら、「完璧……完璧です、柊」と、うわ言の様に呟いていた。

 

 そんな阿礼に、俺は苦笑いを浮かべざるを得なかった。

 

「阿礼」

「はい、なんでしょう?」

「……ありがとうな」

「ふふ、どういたしまして」

 

阿礼の心からの笑顔を見て、俺は明日の演奏を少し、楽しみに思えたのだった。

 

 

 

 

 

 阿礼は友人だ。

 

 それ以上でも、それ以下でもない。

 

 それ以上を、俺と阿礼は踏み込んではいけないし、望んではいけない。

 

 俺は農民で、彼女は貴族。

 

 お互いがどんな気持ちを抱いていようとも

 

 二人の間には、身分という壁が存在する。

 

 その壁は分厚く、強固で、高く。

 

 だが俺たちに唯一許されていることは、

 

 その壁にはほんの少しの亀裂が入ってできた小さな穴があり

 

 その穴の両口から腕を入れて

 

 届いた手と手を繋ぎ、絡ませ合う事だけ。

 

 だから俺は、この家へ仕えることを拒む。

 

 それを理解して、阿礼の両親も、俺に強くは勧めてこないのだろう。

 

 俺にはそれが、とてもありがたかった。

 

 こんなにも近くて遠い距離でも

 

 俺はそれで良かった。

 

 

 

 そう。

 

 俺は、阿礼が好き。

 

 

 



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震える心

 

 

 ―――広く美しく荘厳な、藤原氏の屋敷の大広間。

 

 その広間に設けられた舞台の上に、彼は上げられていた。

 

 その舞台の正面には私を含めた、彼よりも圧倒的な身分の貴族達が彼へと視線を向け、観察しながら、その演奏の時を待ち侘びている。

 

 彼は、この場の誰よりもその存在感を発していた。

 

 細身ながら高く、逞しい駆。

 鋭く、怖いようで優しさを宿した切れ長い眼。

 彼の着る羽織りの染め色の元にした、女性が嫉妬する程の美しい濡れ羽の、癖のある髪。

 

 そして、そもそもそれが彼のものであったかの様に、彼が着ている事こそ自然の摂理であるかの様に、私が贈った服を着こなし、彼が服の、服が彼の魅力を最大限に引き出していた。

 

 農民である事が、もはや嘘としか思えない、不思議な彼。

 貴族だったならば、不自由ない生活を送る事が出来ただろう。

 

 そんな彼は、普段の雰囲気からは想像できない程、その纏う空気を鋭く研ぎ澄ましている。

 背筋をピンと伸ばした凛とした佇まいで、舞台の上に腰を下ろしていた。

 

 さながら、完成された一つの芸術品。

 そんな彼に私は見惚れながら、同時に彼の異様さを再度肌に感じているのだ。

 

 確かに私の目の前にいるのは『柊』なのに。

 私の知っている『柊』じゃない。

 思わず不安になってしまう程、普段の『柊』の面影がない。

 

 はしたなくない様、目線だけで周りの様子を窺ってみる。

 

 ある者は、農民という身分で彼の全てを否定し、蔑んだ目で睨み。

 ある者は、あの不比等様に興味を持たれたという彼が、どんな演奏をするのかと興味の眼差しを向け。

 ある者は、彼のその潜在価値を見定めようと値踏みする様に、その一挙一動に注目する。

 女性達は、私と同じ様に『彼』の存在感に見惚れ、色のある目線を送っていた。

 

 彼は、気付いていないのだろうか。

 この沢山の視線に。興味に。色目に。

 ……いや、色目には気付いていて欲しくないのだけれど。

 

 兎も角そう思ってしまう程、彼は堂々としているのだ。

 その中心にいながら。

 農民である彼は一人、貴族だらけの空間にいながら。

 

 ……彼は本当に、何者なのだろう?

 

 一目で分かる。彼はこの空間の空気に飲まれていない。

 それどころか、逆だ。

 

 彼の持つ空気の方が、この空間を支配しようとしている。

 

 こんな傑物が、農民という地位に埋もれてしまっていいのだろうか。

 

 最後に、この茶会の主催者である不比等様の様子を見てみる。

 

 ――笑っていた。

 

 彼の余りの肝の据わりよう、圧倒的存在感に、面白い者を見つけたと口角を釣り上げて。

 無邪気に、けれど不敵に。

 

 そして、不比等様は口を開いた。

 

「では柊よ。お主の笛の音を聴かせてみよ」

 

 その言葉が広間に響いて少し間を置き、彼は目をゆっくりと開く。

 綺麗なお辞儀をしてから、またゆっくりと目を閉じ、笛を構えた。

 

 彼が目を閉じる前に、ふと、目が合った。

 

 そして、私は安心した。

 

 目の前にいるのは『柊』だと。

 

 彼がいつも笛を聴かせてくれる時に見せる、彼の優しい瞳が見えたから。

 

 つい安心してか、にやけてしまった。頬が緩んでしまった。

 周りに気付かれないよう平静を保ち、すぐ表情を引き締めたのだが、父様と母様には気付かれ、笑われてしまった。

 

 顔が火照るのが分かって、私は羞恥の余り俯く。

 ぅぅ……後で柊にはお説教です。

 

 心の中で彼を恨めしく思っていると、彼が息を吸う音が聞こえた。

 

 始まる、と思い顔を上げた刹那。

 

 

 

 呑まれ掛かってた会場の空気が、完全に彼に支配された。

 

 

 

 私の、いや、会場にいる者の全ての心が、

 

 彼の笛の音に震わされた。

 

 

 

 そして私の目に、それは映った。

 

 

 

 彼は静かな、どこまでも広がる夜の雪原の中で演奏していた

 

 

 冷たい風が、新雪の軽い雪を舞わせ

 

 

 幻想的で綺羅な世界を演出する

 

 

 そして彼を優しく照らすのは

 

 

 煌々と美しく、けれど寂しげに輝く

 

 

 黄金の月

 

 

 

 

『今日の演奏は、ちょっと一味違うかもしれない』

 

 演奏を始める前、別れ際に私に言った、彼の言葉。

 何が違うのかと、演奏が始まるまでは疑問に思っていた。

 

 けれど本当に、今日の演奏は違った。

 

 彼の笛が唄う曲の調、音の揺れ、音の長短、音の強弱。

 様々な感情がそれらの音に反応し渦を巻いて調和し、心を豊かにしていく。

 

 この最初の演奏曲が見せたあの光景。

 あんなにはっきり、曲に対する心象を思い描けたのも初めてだった。

 

 これが、彼の笛の音の力なのか。

 人の心を音で震わせ、彼の音の幻想世界の中へと引き込む。

 

 これは本当に人の力なのか。

 最早神の御技ではないかと疑いたくなる。

 

 そんな彼の音は、問答無用とばかりに私を誘う。

 

 抵抗する術も、意思もなく。

 

 私は、彼の音に身も心も委ねるのだった―――。

 

 

 

 

 

 私は幼い頃から体が弱かった。

 だが、そんな私にも一つの特技があった。

 

『一度見聞きしたものを忘れない』

 

 その特技を持って、私は家の中で只管、学を伸ばした。

 そして私は学とその才を買われ、帝の舎人として帝から、蘇我家の滅亡の際に失われた国史の書物に代わる歴史書の編纂の命を受けた。

 

 聞かされた天皇の系譜と、それまでに残されてきた古い記録、伝承を私は一字一句記憶し、それを漢字で只管書に記していく。

 その量は膨大で、終わりが見えない。

 

 勅命を受けたのは私が13歳の時。

 編纂を始めたのはその1年後で、2年が経った今になっても、まだ全体の2割程度しか記せていない。

 

 最初の頃の、1、2年目の時の私はそれは酷かった。

 その膨大な量を前に焦りと不安で押しつぶされそうになり、満足に眠れもせず、文机に噛り付くように一心不乱に書き続けていた。

 けれど字を間違えたり、失敗したりして全く仕事が進まない毎日。悔しさ、情けなさで書が涙に濡れて滲み、更に駄目にする。

 

 底無しの泥沼のような、悪循環の連鎖の中に私はいた。

 

 そんな私を父様と母様は心配し、ある日、少し息抜きをしなさいと言われ、私は久々に家の外に出て、冬の寒空の下を歩いた。

 

 だが、私は散歩の間もずっと歴史書の編纂の事しか考えられず、私の体質、睡眠不足、そして壊れかけの精神状態と冬の寒さが、私の体調を簡単に崩し、私は道端に倒れたのだった。

 

 運の悪いことに、人気のない小道に入った所で倒れた私。

 朦朧とする意識の中、死を覚悟した。

 

 帝の勅命を受けながら、その命を全うできずに死ぬなんて、何と不名誉で無礼な事か。

 家族に、一族に多大な迷惑が掛かるだろう。

 

 それを憂い悲しみ、私は涙を流した。

 こんな不孝者の私をお許し下さいと、心の中でずっと謝りながら、なす術もなく私は瞼を閉じて、死を待った。

 

『大丈夫ですか?』

 

 突然空から掛かってきた声に、私は意識を引き戻され、重い瞼を開いた。

 

 その瞳に映った相手こそが、柊で。

 

 それが私と柊の出逢いだった。

 

「私は柊と申します。しがない農民です。体調を崩されたのですか?」

「私は……稗田阿礼と、申します」

 

 彼は農民と言いながらも、言い慣れてないようなぎこちなさを感じない、農民らしからぬ丁寧な言葉を使った。

 

「稗田……? とにかく、屋敷までお送りいたします。貴方に触れることをお許しください」

「申し訳……ありません……」

 

 柊は一瞬、私の一族の事を知っているような素振りを見せたが、すぐに自分の着ていた蓑を私に羽織らせて、私を軽々と抱き上げた。

 その時感じた彼の温もり、匂い、心臓の鼓動はとても心地が良く、私の冷え切った体に熱が宿ったのを憶えている。

 この特技が無かったとしても、私は一生忘れないだろう。

 

 少し意識がはっきりしてきた私の案内で、彼は私を屋敷まで送り届けてくれた。

 母様は柊に抱えられた顔色の悪い私を見て血相を変え、降ろしてもらった私を抱いて泣き崩れ、父様は柊の手を取って、涙ながらに感謝した。

 

 柊は、父様に目を丸くしていた。その顔を思い出すだけで可笑しく思う。

 貴族が農民に手を取って感謝を述べるなど、ましてや簡単に頭を下げるなど、予想だにしなかったのだろう。

 

 実際、後で聞いてみると「あんなに農民の俺に対して感謝を表すとは思わなくてな。逆にそのあまりの剣幕に少し引いた」と言っていて、私は暫く笑いが止まらなかった。

 

 父様も母様も、優しい人。

 貴族だけど、それを偉ぶったりしない。

 私はそんな父様と母様を誇りに思い尊敬し、私もそんな2人のようになりたかった。

 屋敷の使用人たちも、父様と母様の人柄に惚れて、雇われに来た者達だから。

 

 私が倒れた時の事も、帝様からの信頼を失う事よりも、お前を失う方が私達には耐え難い事だったと真剣に言ってくれた。

 そう言われて、つい私は泣いてしまった。

 父様たちの愛情を嬉しく思うと同時に、簡単に死を覚悟してしまった事に罪悪感を覚えたから。

 

 話を戻す。

 

 それで、柊は私を屋敷に届けた後、父様たちの引き止めの言葉をやんわりと断り、立ち去ろうとした。

 身分の差を考慮し、屋敷に上がる事を遠慮したのだ。

 それを分かって、父様たちも強くは引き止めなかった。

 

 でも私は、ここで帰られてしまったら二度と会えないような気がして、それが途轍もなく嫌で。

 

 丁寧な礼をして踵を返そうとした柊に、母に抱きしめられていた私はか細く、振り絞る様な声で「待って。行かないで」と言った。

 

 柊にその声は届いた。動きを止め、私に向き直ってくれた。

 その表情は、とても複雑そうだった。迷っていたのだろう。

 

 そんな彼に、「娘の想いを、どうか汲み取ってくれないだろうか」と父様が助け舟を出してくれ、柊は漸く首を縦に振ってくれたのだ。

 

 父様は柊に、私を寝床まで運ぶよう頼んだ。きっと、私の為に。

 柊は少し悩んだ表情を見せて了承し、父様と母様に案内されて私の寝床まで運んでくれた。

 

 寝床に運んでもらい私は柊に礼を言うと、母様が私を寝着に着替えさせるからと、父様に目配せしていた。

 父様は頷いて、柊を連れて一度退出していき、母様と私の着替えが完了した所で、再度柊と戻って来た。

 

 そして私は、母様と父様、柊に、ここ暫く抱えていた自身の焦りや不安、苦しみ、不甲斐なさを弱音として、涙の雫と共に吐き出した。

 

 3人は真剣に聞いてくれた。

 父様と母様は、気付いてあげられなくて済まなかったと謝った。

 

 謝るのは私の方なのに。

 親を頼らなかった、私がいけないのに。

 

 柊は言った。

 

「全てを吐き出せたのなら、貴方の心が軽くなられたのなら、それを喜ばしく思います。私に少し、貴方の心を癒す手助けをさせて貰えませんか」

 

 彼は懐から笛を取り出すと、優しく穏やかな音色を奏で始めた。

 

 父様と母様、そして私は、柊が笛を吹ける事に最初は驚いた。

 けれど、その音色の心地良さにすぐに私は心を預けた。

 

 彼の音色に包まれた時、私は揺籠の中にいた頃のような安心感と温かさを思い出した。

 

 私はいつの間にか眠っていた。

 

 次に目が覚めた時は朝になっていて、起きてみると不思議と晴れやかな気分だった。

 いつも眠れなくて、眠っても朝が来るのが怖かったのに。

 その日の朝は、本当に心が羽の様に軽やかだった。

 

 私はすぐにそれが、彼の笛の音のお陰だと分かった。

 彼は『柊』だから、私の中から邪気を追い払ってしまったのかもしれない。

 

 彼はもう、帰られたのだろうか。

 そう思うと、胸が締め付けられるような思いだった。

 

 使用人を呼び、父様と母様を呼んでもらった。

 私が眠った後、柊はどうしたのかと聞きたかったから。

 

 数分程して、父様と母様が来た。

 けれど、何故か父様だけ顔色が悪かった。

 まさか私の風邪が移ったのかと心配していると、母様の後に柊も部屋に入って来た。

 

 つい、「柊様!」とはしたなく叫んでしまった。

 

 もう逢えないと思っていたから。

 柊がいる。

 それだけで、その時の私は涙が出そうな程嬉しかったのだ。

 

 私の眠った後の事を聞くと、父様と母様は私の命の恩人である柊のために、帰ろうとする彼を説得して屋敷の者たち全員で彼をもてなしたらしい。

 

 父様の顔色が悪いのは、ただの二日酔いだった。私の心配を返して欲しい。

 だが、主賓の筈の柊は特に酔いが後に引きずっているようには見えなかった。

 

 私はお酒に強くない方だ。

 以前水と間違えて飲んでしまったらしく、気が付けば朝だった。頭痛に苛まられて。

 父様と母様には「お前は酒を飲まない方がいい」と窘められてしまったから、きっとそうなのだろう。

 

 記憶を忘れない筈の私にその晩の記憶がないのだから、きっと飲んだ瞬間に眠ってしまったのだろうと思い、食事の際は飲まないよう気を付ける様になった。

 

 沢山の者に酌をされた筈の柊も、父様みたいになっていてもおかしくない。彼はお酒に強いようだった。

 その時の事を柊に聞くと、苦笑いをしながら「お腹が飯とお酒で破裂しそうでした」と言っていた。

 

 そんな彼が堪らなく可笑しく、私は口元を押さえて笑った。

 そんな私を見て柊も笑うと、何故だか体が熱くなった。

 

 その時は気付かなかったけれど、私は随分久々に笑ったらしい。父様と母様はあの時、泣くのを我慢してたそうだ。

 

 私は柊と沢山お話しがしたくて、父様と母様も交えて彼に色んな事を尋ねた。

 

 どこで生まれ、暮らしているのか。

 歳は幾つなのか。

 家族はどんな人達なのか。

 普段村ではどんな事をしているのか。

 趣味は何か。

 笛をどこで練習したのか。

 想い人はいるのか。

 都へはどれくらいの頻度で来るのか。

 好きな食べ物は何か。

 嫌いな食べ物は何か。

 女性の好みはどんなのか。

 好きな色は何か。

 どうしてそんなに背が高いのか。

 どうしてそんなずるいくらい綺麗な濡れ羽の髪をしているのか。

 

 彼は私たちの質問に、ちゃんと全て答えてくれた。全部暗唱できる。

 この時初めて、自分の特技の事を有難く思った気がする。

 どさくさに紛れて聞いた想い人がいるかや女性の好みといった色恋の事を、彼は嫌な顔をせず答えてくれた。

 最後の方の私の僻みにしか聞こえない質問については、苦笑を浮かべるだけだったが。

 

 想い人は特にいなく、女性は髪が長い人達が好みらしい。

 それを聞いて、私は仕事の時に邪魔だからと切っていた髪を伸ばす決意をし、手入れには凄い気を配るようになった。

 

 ……最近都で話題の『かぐや姫』の事を柊は今も知らないようなので、このまま彼に知られずに『かぐや姫』にはさっさと結婚して貰いたい。ええ、是非とも。

 

 柊と出逢い、接し、話し、触れ。

 彼の事を、人柄を知る度に、どうしようもなく私は惹かれていく。

 父様と母様も、彼をとても気に入っていた。

 

 体が弱かったから、殆ど外に出た事はない。

 気心を許せる友人も、そんな友人を作る余裕もなかった。

 

 彼と過ごしたこの時間は、本当に楽しかったのだ。

 

 だから、彼が村に帰ると言った時は、酷く悲しみに暮れた。

 

 けれど、彼にも家族がいる。

 都に来ているのは、少しでも冬の蓄えの足しになるようにと品を売り、食料や生活品を買いに来ているためだと彼は言っていた。

 流石に、帰らないでなんて我が儘を口にするのは憚られた。

 

 だからせめて……。

 

 私は、柊に手を差し出した。

 私と目が合い、私はこの手を握ってと訴える。

 

 柊は私の手に触れようとし、だがその手を止めた。

 私を見つけた時や寝床に運んでくれる時は緊急で、父様たちの頼みでもあったから触れたものの、父様と母様の目の前で私に触れようとする事に躊躇いがあったのだろう。

 

 彼はとても、真面目で誠実な人だった。

 

 だから私から柊の腕を取って、その掌の上に私の手を乗せた。

 父様と母様は、何も言わず、私と柊を静観している。

 

 彼は目を見開くも、私の気持ちを優先してくれた。

 まるで調度品を扱うように私の手を、その大きな手で包み込んでくれた。

 壊れないように、優しく丁寧に握ってくれるその手は、とても暖かった。

 

「また都に来た時は、ここにいらしてください。また、その笛を聞かせてください。私の、お話の相手をしてください。

 

 私の、友人になってください」

 

 私の、せめてもの願い。

 彼との出逢いを、一度きりにはしたくなかった。

 

「私たちからも、頼んでもよろしいか?」

「私たちも、貴方の笛の音を聞きたいですわ。それに、都に着いてすぐに村に帰るのは中々大変でしょう。ぜひ、都に来た際はこの屋敷に一晩泊っていって下さい」

「……はい。必ず、来ます」

 

 父様と母様にそう告げて頭を下げると、柊は私に向き直り言った。

 

「阿礼様。友人として、私は貴方に会いに来ます」

 

 ――友人として。

 その言葉がどんなに嬉しかったか。

 だからつい、私に少し欲が出てしまった。

 

「……阿礼。阿礼と、呼び捨てで呼んでください」

「……え? いや……でもそれは流石に……」

 

 確かに、農民が貴族に名前で、しかも呼び捨てで呼ぶなど普通は許されはしない。

 困ったように、柊は父様と母様に視線を向けた。

 でも、2人は微笑ましそうに笑って頷いた。

 

「構わない。柊殿なら私たちは許そう」

「ええ、阿礼の恩人ですものね」

「そうですか……分かりました。では、私のことも柊とお呼びください」

「ありがとうございます……柊」

「それは私の台詞です」

 

 何故か柊は、その場で私の名を呼ばなかった。

 それを不満に思いつつも、私は父様と母様に支えられながら、屋敷の門戸まで柊を見送っに行った。

 

「絶対に、来てくださいね」

 

 私の言葉に、彼は微笑み、そして応えた。

 

「はい。では、また。

 

 ―――阿礼」

 

 不意打ちだった。

 余りの驚きにドクン、と心臓が跳ねた。

 全く心の準備なんかしていない状態で、この瞬間に呼ぶなんて。

 

 柊は案外、ずるい性格だと思った。

 

 彼は私の心情なんかいざ知らず、父様が用意したお礼の米や布などを乗せた荷車を引いて、屋敷を後にした。

 

 心は宙ぶらりんになって、顔は熱で火照っていて。

 私はそのままぼーっと、彼の後姿が見えなくなるまで、見つめ続けていた。

 

 その後、私は父様と母様にお願いし、私の部屋から見える小庭に柊を植えて貰った。

 植えられた柊を見る度に心に余裕ができ、以来歴史書の編纂も落ち着いて取り組めるようになり、以前のような不安や焦りを抱くこともなくなった。

 けれど偶に、彼の事を考え過ぎて字を間違えたりしてしまうが、それでも仕事の進みは格段に速くなった。

 

 柊は春夏秋冬、季節が変わる毎に私を訪ねて来てくれ、その度に色んな話を、そして笛の音を聞かせてくれた。

 

 そして今に至るまで、私と柊の関係は続いているのだった。

 

 

 

 

 

 柊の演奏が終わった。

 計5曲。時間にして、大体半刻程の演奏。

 

 彼が笛から唇を離し、私たちに向かって礼をした刹那の無音の直後。

 

「見事だ! 誠に見事であった柊殿よ!」

 

 不比等様が勢いよく立ち上がって、心からの賛辞と共に大きな拍手を贈った。

 それを皮切りに、私を含め会場にいた観客は全員立ち上がって口々に称賛の言葉を叫びながら拍手を贈った。

 

 彼の演奏は本当に素晴らしかった。

 今までで一番、最高の演奏だった。

 

 ―――なのに、どうして、

 

 どうして私は今、泣いているのだろう。

 

 心の奥底で、私は誰かに何かを叫んでいる。

 

 彼の笛の音を求める様に、応える様に、私がその手を必死に伸ばしている。

 

 でも、その『誰か』とは、『何か』とは何なのだろう。

 

 

 

 分からない? ―――違う。

 

 私は、分かりたくないんだ。

 

 

 

 

 

『私の命を救い、心に巣食っていた邪を払い、私の生活の支えとなった『柊』は、私にとって特別な存在。

 

 命の恩人で、私の初めての友人。

 

 でも私は『その先』に踏み込みたいと望んでいます。

 

 けれどもし私がこの想いを言葉にすれば、きっと彼は私を想うが故に、私の前にはもう現れなくなると分かっていました。

 

 彼は、稗田家に仕えることを拒んでいる。

 

 加えて、彼は最初の出逢い以降では、自分から私に触れることをしなかった。

 

 それが、私への想いやりだということも分かっています。

 

 でもそれが悲しくて哀しくて、それを思う度に胸が苦しくなるのです。

 

 その分だけ柊への想いが積もり、(かな)しくなるのです。

 

 稗田一族に生まれたことを後悔しているわけでありません。

 

 私はこの家が好きだから。

 

 けれど、だからこそ。『身分』という見えない壁が存在するこの時代を呪いたい。

 

 この近くて遠い距離が嫌なのです。

 

 このたゆたう心が辛いのです。

 

 それでもお願い。

 

 お願い、気付いて。

 

 私は………。

 

 

 

 

 

 ―――柊。

 

 貴方が好き。

 

 貴方が愛おしい。

 

 心の底から

 

 全身全霊で

 

 貴方が好きと伝えたい』

 

 

 




まだ3話しか投稿してないのにお気に入り件数が200近くに……嬉し過ぎて泣きそうです。

『問題児たちが異世界からやって来るそうですよ?』にハマりました。
めっちゃ面白いです。
正直一番かっこいいと思ったのはアジ・ダカーハだったり(笑)

感想、評価、誤字脱字等あれば、ぜひよろしくお願いします。


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茶会と少女、そして小さな歪み

課題レポート2000字なんて全然進まないのに、小説だと気付けば5000字超えが当たり前という不思議。
そして今回は9000字超えてます。ちょっと長いです(白い目


昨日、日間ランキング1位と5話投稿の現在、お気に入り件数1200件越え。
まだ4話しか投稿してないのに……驚き過ぎて変な声が出ました。

本当にありがとうございます!
これからも頑張ります!

*『妹紅』という名前は後に自分で付けた名前だという設定を完全に忘れてました……なので急遽適当に考えて変えました。すみません。


 

 

 藤原氏の茶会で笛の演奏をする羽目になった日の朝を迎え、俺は目を覚ましてすぐに、自身の中にある違和感に気付いた。

 

「……ん?」

 

 布団から起き上がってみると、いつもより体が軽く、頗る調子も良い。

 手を開いたり握ったり、指を動かしたりして己の状態を確認しても、やはりいつもと違う。

 

 そもそも、今日は貴族の茶会で演奏するというのに不思議と緊張すらない。

 寧ろ、普段以上に心が穏やかだ。まるで凪の様。

 それでいて、不思議な昂揚感に満ちていた。

 

 こんな感覚は初めて……いや。

 

 憶えがある。

 

「そういえば、あの時も……」

 

 前世で俺が最後に作り、後にミリオンヒットする事となったあの曲をスタジオでレコーディングした日の朝も、こんな風に調子が良かった。

 

 ――そうだ。

 

 あの日の、あの曲の演奏こそ、俺の前世における人生最高の輝きだったんだ。

 そしてそれが偶然CDとなり、俺の曲と名が世に知れ渡った。

 

 ヒットを記録してすぐにライブ公演やメディア出演の話が沢山舞い込んで来たが、俺はもうその時既に病は末期の状態で。

 

 あのレコーディングから1週間もしない内に、俺は血を吐いて倒れたんだ。

 

「……今日は、良い演奏ができるかも知れない」

 

 ならば、怖れることはない。自然と笑みが零れる。

 前世では結局、小さなライブ活動はしても大舞台に立って演奏する事はなかったしな。

 

 俺の初の大舞台。失敗など自分が許さない。

 それに、ガチガチに緊張し演奏を失敗する俺の姿などを阿礼に見せたくもないし、心配もさせたくない。

 下手をすれば稗田家と藤原家に泥を塗る事になる。

 

 貴族の茶会だろうと、俺は俺を貫いて堂々と演奏しよう。

 

 そう決心し、俺は顔を洗うために部屋を後にした。

 

 

 

 

 

「おお、これはこれは阿京殿! よく来て下さった!」

「お呼び頂き、誠にありがとうございます。不比等様」

 

 阿礼の父親が藤原不比等にそう挨拶し、俺たちも習って礼をする。

 まさか不比等自ら、ゲストの出迎えをしてるとは思わなかった。

 

 こういう位の高い貴族はただ偉ぶって、下位の人間は相手しないみたいなイメージしかなかったが、案外そうでもないらしい。

 稗田家も優しい人たちばかりだし、俺の貴族に対する偏見が過ぎただけか。

 

「阿礼殿も久しいな。見違えるほど麗しくなったものだ」

「まあ、ありがとうございます不比等様。不比等様にそう言っていただけると、自信が出てきてしまいますわ」

「はっはっは! 言うようになったではないか!」

 

 阿礼の言葉に、愉快そうに高笑いをする不比等。

 そしてようやく、阿礼の背後に立つ俺へとその関心が向いた。

 

「……む? お主はどこかで……」

「私です不比等様。昨日茶屋でお声を掛けて頂いた柊です」

「な、何と柊殿か!?」

 

 目を見開いて驚く不比等。無理もない。

 農民という身分に似つかわしくない、貴族とて見たことのない立派な衣装を纏い、ましてや稗田家と一緒にやって来るなど誰が想像出来るだろうか。

 俺は苦笑しながら頷き、自分には敬称は要らないと言った。

 

「柊は以前、私の命を救って下さった大恩人なのです。それを切っ掛けに交流があり、彼の纏う衣服は、私が意匠して今回、彼に贈ったものです」

「ほう、阿礼殿の命の恩人とは! それは大儀な事をしたものだ! それに阿礼殿が意匠した着物とは……ううむ、立派だ。我を唸らせる程、この着物は素晴らしい。唐の華服が着想の元なのか?」

「そこに気付かれるとは、流石不比等様ですね。大正解でございます」

「阿礼殿にはこの様な特技があったとは……いやはや恐れ入った。柊よ、今回の茶会での演奏、是非よろしく頼もう」

「お任せ下さい。必ずや、素晴らしい演奏を皆様にお届け致しましょう」

「うむ。期待しておるぞ。ささ、稗田一家と柊よ、お呼びしている来賓が揃うまで、中で茶と菓子を召し上がって待っていて下され」

 

 そう言って不比等自ら、俺たちは立派な屋敷の中へと案内されていく。

 

 流石は藤原氏の屋敷。

 失礼だが、稗田家よりも一回りも二回りも大きく、明らかにそこらの貴族とは段違いに立派な屋敷だ。

 

 確か、後に法華寺となり重要文化財となる建物だったと思う。

 京都の寺や神社は巡った事があるが、奈良は時間がなくて足を運べなかった。

 

 まさか法華寺の本来の姿が見れて、更には中に入れる機会が来るとは思わなかった。何だか感慨深い。

 古代の遺跡学者とか歴史学者などからしたら、嬉しさの余り卒倒してもおかしくないな。

 

 会場となる大広間に着く。

 中では左右に茶と菓子を楽しみつつ談笑していた来賓達が縦にずらりと奥にまで並んでおり、一番奥には舞台が設置されていた。

 

 貴族達の視線が俺たちへと向く。当然だ。

 不比等が稗田家と共に、見知らぬ着物を着た大男を連れて来れば嫌でも目立つ。

 不比等は手を叩いて注目を集め、貴族達へと声を張り上げて俺の紹介を始めた。

 

「皆の者、此度はよくぞ我が催しへとやって来てくれた。今回の催しにて、一番の目玉となる演し物を披露するであろう奏者を紹介する」

 

 随分と俺を買ってくれているものだ。

 不比等に促され、俺は稗田家の前に出て不比等の横に並び立った。

 

「彼は柊。本人曰く都近くにある村に住む農民らしいのだが、その笛の音は私の聴いた中で最も素晴らしい音を奏でてくれる。昨日、茶屋で彼の演奏を耳にして、急遽この催しに呼ばせてもらった。聞けばこちらの稗田阿礼殿の命の恩人で、知己の仲との事。この着物も阿礼殿が意匠し用意したものだそうだ。ぜひ、彼の演奏を楽しみにされよ」

 

 不比等の余りの俺の褒めようというか期待に、周りの貴族達は皆騒めき出す。その空気の中で、俺たちは席へと案内された。

 

 気を遣ってくれたのか、まだ空いていた左側に並ぶ席の列の丁度真ん中付近に俺は座らされ、その左隣に阿礼、右隣に阿礼の父親が座った。

 阿礼の左隣には阿礼の母親が座っており、俺と阿礼が阿礼の両親に挟まれる形だ。

 

 そして現在、俺はピエロになった気分だ。

 

 この中の貴族の誰よりも背が高く、阿礼が意匠した明らかに身分とそぐわない着物に身を包み、挙句不比等に褒めちぎられる程の笛の音を奏でる男。そりゃ目立つわな。

 様々な視線が俺へと集中する。

 

 低俗、場違い、嫉妬、身の程を知れといった視線が貴族の大半から俺へと向けられている。

 嫉妬に関しては不比等に認められているというものと、阿礼の隣に座っているといった、貴族または男としての二つが混じっているように感じる。

 だが、純粋な興味で向けられている視線も多いようだった。

 

 俺はどちらかと言うと殆どの貴族に前者の視線を向けられると思ってたので、どこか拍子抜けした。

 ……というか、女性からの視線に関しては何というか、違う意味で怖い視線が集中している。何かギラギラしている。

 

「ごふっ」

 

 何故か、阿礼から割りと痛い肘鉄を脇腹にもろに喰らった。

 いきなりなんだと阿礼に批難の眼を向けても、目の座った無表情で俺に視線を合わせない。

 阿礼の両親は、笑いを堪えようと震えている。

 

 そして、周りからの嫉妬の視線がより濃くなった。

 

 ……解せぬ。

 

 

 

 

 茶会も始まって、色んな催しが次々と披露されていく。

 雅楽に合わせた優美な舞や、一転陽気なリズムで展開される芸。

 それを茶や菓子、果物を食べ、希望者は酒を飲みながら鑑賞している。まあ殆どの男性陣は酒を呑んでいるが。

 俺は演奏するので、阿礼は酒が飲めないため、茶を飲みながらだが中々楽しいものだ。

 

 茶会が始まっておよそ一刻が過ぎた頃、入り口前の舞台に向かって真正面に座る不比等が、手を叩いて注目を集めた。

 

「さあ、次の演し物が最後だ。柊よ、頼むぞ」

 

 まさか大トリに俺を持ってくるとは思わなかった……まあ、いいか。

 立ち上がろうとする俺に、阿礼が笑顔で声を掛けて来る。

 

「柊、頑張って下さいね」

「ああ。……そうだ、阿礼」

「何ですか?」

 

「――今日の演奏は、一味違うかもしれない」

 

 その言葉に阿礼は、不思議そうな表情を見せる。

 俺は立ち上がって、貴族たちの後ろを通り舞台へと上がった。

 舞台に座り、笛を取り出して不比等の合図を待つ。

 

「では柊よ。お主の笛の音を聴かせてみよ」

 

 不比等の言葉に少し間を置いてからゆっくり礼をし、俺は笛を構えようと目を伏せる直前、俺は阿礼と目があった。

 

 何故か不安気に俺を見ていたが、それも一瞬。俺と目が合うとその不安の色は消えた。

 阿礼は心配性だな。

 

 そして俺は目を閉じ笛の唄口に唇をあて、大きく息を吸った。

 

 

 

 ――ああ、一緒だ。

 

 

 

 あの日、あの時、あの瞬間。

 あの曲の最初の一音を奏でようとピアノの鍵盤に指を構えた時と同じ感覚。

 

 

 

 俺の全てが、笛へと一点に集約され、そして――

 

 

 

 あの時と同じように、音が光を放った。

 

 

 

 

 

 

 演奏を終え、俺は庭園の中に設けられた椅子に腰かけて、美しい景観を眺めていた。

 

 演奏は大盛況だった。茶会がお開きになった後に向けられた俺に対する好意的視線から、負の感情が込められた視線を殆ど払拭できたように思う。

 

 稗田家は他の貴族たちと少し挨拶して回ると言って別れ、俺は不比等から、疲れただろうから気分転換でもしたらどうかと、ここへ案内された。

 

 やはり、自然の景色を見ると落ち着く。

 静かな池、風に揺られ囁く草木、太陽の光に笑う花。

 

 俺は大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐いた。

 

 ああ……和む。

 

「あの……」

 

 突然、横から掛かって来た声に俺は振り向く。

 そこには地に届きそうな程長い黒い髪に大きな赤と白の髪飾りを付けた、阿礼と同じぐらいの年齢の少女が立っていた。

 確か、茶会にいた不比等の娘の一人だったと思う。

 

 俺はその少女に用件を尋ねた。

 

「何か御用でしょうか?」

「貴方と少し、話をし……お話しをしたいと思って……隣に座ってもいいか……いいですか?」

 

 どこか口調がたどたどしく、喋り辛そうな様子。

 無理して敬語を使っているのだろうか。

 

「構いません。どうぞ」

「ありがとう! ……あ、ありがとうございます!」

 

 朗らかな笑みを浮かべた少女は俺の横に座って、もじもじと恥じらうように話を始めた。

 

「まずは……私は藤原不比等の娘の一人で、緋芽(ひのめ)と言います。先程の演奏はお見事でした。とても感動しました」

「ありがとうございます。改めまして、柊です。私はしがないただの農民。無理して敬語など必要ありませんよ」

「本当ですか? ……わかった。ありがとう。私は敬語が苦手で……こういう喋り方の方が好きなんだ」

 

 緋芽はこの時代の貴族の女性には珍しく、気さくで中性的な口調に変えて、俺に尋ねた。

 

「……私は、柊を見て聞きたい事があるんだ」

「何ですか?」

「柊はどうして……堂々としていられるんだ?」

 

 その言葉にはどこか重々しい感情が宿っていた。

 

「あんなに沢山の貴族の中にいて、普通農民なら緊張とか身分差を気にする余り縮こまって、普段の力を出す事なんて普通無理だと思う。なのに柊は、あんなに背筋を伸ばして、まわりの言葉や視線も気にせずに堂々と演奏をして見せた。

 それが凄く……かっこ良かったんだ」

 

 そう言って俺に向けた視線には、純粋な尊敬と羨望の念が込められていた。

 緋芽姫は話しを続ける。

 

「私が柊だったら、無理だ。怖くて、失敗した時の事を考えて、きっと震えが止まらなくなる」

「……緋芽姫様」

「緋芽でいいよ」

「……口調も?」

「うん、敬語なんていらない」

「……じゃあ、緋芽」

「……ぁ、」

 

 言葉に甘えて口調をいつも通りに、緋芽と呼び捨てで呼ぶと、緋芽は照れてるのか顔を赤くした。

 一先ずそれには触れず、俺は緋芽の様子から思った事を尋ねる。

 

「何か悩みがあるのか?」

「……うん」

「それは、家族関係みたいな事か?」

「え……何で分かったの?」

「何となくだ。どうも、立場みたいなものを気にしている様に感じたから」

「……柊は凄いね。その通りだ」

 

 そもそも、こういった高位の貴族に生まれた子の関係というのはどこも複雑なものだ。

 そう言った悩みは特に打ち明け辛いのもよく分かる。

 緋芽はきっと、家の中で孤立しているのだろう。

 

「私はね、望まれない子だったんだ」

 

 そうして、緋芽はポツリとそう、ずっと胸に秘めていた悩みを吐き出し始めた。

 妾の子……そういった位置関係なのか?

 

「お父様は……私を娘として愛してくれるけど、他の兄妹や兄妹の母親は、私の事を認めてくれない。

 

 ――私は、要らない子。生まれて来た事が、罪なんだ」

 

 ポタリと、弱音とともに零れ落ちる彼女の涙。

 ……ずっと、一人で心をすり減らしながら、息を潜めるように暮らして来たんだろう。

 敢えて何も言わず、聞き手に回る。

 全て吐き出した方が、彼女の心は少しでも楽になるだろうから。

 

「私はずっと、心の中でお父様に謝り続けて来た。生まれて来てごめんなさい、生まれて来てしまった事をお許しくださいって。

 ……でもそれと同時に、私は何で生まれて来たんだろうって自問自答し続けるんだ。何のために、私はここにいるのか……そう思いながら、いつもこの場所で虚空を見ながら……一人で……!」

 

 緋芽の静かな慟哭が、景観を震わせた。

 

 その怒りと悲しみに暮れた彼女の想いは、誰かに助けを求めている。

 答えの在処はどこかと、答えの姿形を知りたいと。

 一人、ずっと一人、その身と心を削って彼女は今日まで生きて来たのだ。

 

 己の存在を問い。

 己の価値を問い。

 己の意味を問う日々。

 

 答えのない問答と分かっていながら、それでもなお問わずにはいられない。

 それはどれだけ想像し難い程の孤独や苦痛、恐怖と戦い、寄り添い歩く日々なのだろうか。

 

「ねえ、柊。私はどうしたらいい……?」

 

 俺の着物の袖を震える手で握って、俺に縋りつくように緋芽はその答えを乞うた。

 

 そんな緋芽が、今にも消えてしまいそうで、崩れてしまいそうで。

 

 俺は彼女のその手を、守る様に優しく包み込んだ。

 

「柊……?」

「なあ、緋芽……今から俺は、冗談を言うよ」

「へっ? ……何でまた、冗談なんか言――」

 

 緋芽の若干苛立ちを含んだ声を遮り、俺は語り始めた。

 

「俺は前世で人として死んだ時、次に生まれるなら蝶になりたいと願った」

「前世……え? どういうこと?」

「もしくは、猫になりたいと願った。鮎になりたいと願った。山桜になりたいと願った。他にも、蛍に、鳥に、花に……俺は、そう願い、それでも尚、こうして今も人になったんだ」

 

 本当は、今も『柊』に、だが。

 

「……」

「間に受けるなよ? ただの冗談だ」

「え、あ……うん」

 

 そう頷きつつも疑問を浮かべている緋芽。

 まあ、いきなり意味の分からない冗談を言われれば無理もない。実は本当の事なのだが。

 俺は続ける。

 

「生き物は前世にどんな生を受けて死んでも、来世ではどんな生を受けるのかは分からない。どんな時代に、どんな生き物として生まれるか……そんなものは、俺たちには到底予想も出来ない。俺は人にはなりたくないと願いつつも、結局、この時代に農民として生を受けた。

 緋芽、分かるか。俺たち生まれてくる生き物というのは、時代も、親も、容姿も選ぶことは出来ないし、その権利もないんだ。

 

 ――だから緋芽。お前がどれだけ周りから疎まれる存在なのだとしても、お前が『藤原緋芽』として生まれた事に、何の罪も無いんだよ」

「……ぁ、ぅあっ……」

 

 緋芽の瞳から止めどなく零れ落ちる涙。小さく漏れ出す嗚咽。

 今まで存在を否定され続けて来た彼女にとって、最も欲しかった言葉だったのだろう。

 我慢し、溢れないよう堰き止めていた感情が漸く、流れ落ちても許される場所を見つけたのだ。

 

「我慢するな。全部吐き出せ。今だけは、誰にもそれを咎められる事はない」

 

 俺はそう言いながらハンカチ代わりの布を取り出し、緋芽の目にそっとあてた。

 そしてそれが最後の後押しとなり、彼女は俺の胸に顔を押し付けて、声を上げて泣き始めた。

 俺はそっと、彼女の背を優しく撫でる。

 

 ……俺には緋芽の気持ちが痛い程よく分かる。

 

 俺も、己の存在についてずっと考えてきたから。

 

 どうして前世の記憶を持っているのか。

 どうして俺は時間を遡って生まれたのか。

 どうして俺は『柊』のままなのか。

 

 そんな事を、ふとした瞬間に考えてしまう。すぐに止めるが、それでもまたふと、どこかで考え出す。

 答えなど、結論など期待していない癖に。

 

 こんな問答といつまで付き合っていけばいいのだろうと、俺も心が満たされない思いをずっと抱えて生きて来た。

 

 だから緋芽には、親近感を抱いたのかもしれない。

 仲間がいたと安心したのかもしれない。

 

 同じ悩みを抱える友人に、俺と緋芽はなれるかもしれないと……。

 

 

 

「ごめんね、柊……みっともない所を見せて」

「気にするな……すっきりしたか?」

「うん。ありがとうね」

 

 緋芽が泣き止むのを待ち、落ち着きを取り戻した所で、俺たちは会話を再開した。

 

「それから、俺がどうして貴族の中でもあれだけ堂々としていられるかを知りたいって言ってたな」

「うん」

「それも、さっきの話に関わってくるが……ようは開き直りだ」

「開き直り……?」

「ああ。自分に価値が見出せないのなら、自分で作るしかない。俺は笛という自分だけの武器を作った。誰も持っていないような、自分にだけしか出せない音を作った。そういったものを作るには、周りの眼なんか気にしている暇なんかないんだって、俺は気付いたんだ」

「自分の価値を自分で作る……か」

 

 前世でも、俺の音楽が認められるのには随分時間が掛かった。

 周りに何を言われようと、俺はピアノが好きでずっと弾き続けてきた。

 家族にも随分迷惑を掛けただろう。

 

 それでも俺は俺を貫いたから、最後の最後にあの曲は生まれたと今も思っている。

 

「緋芽。自分の存在価値や存在意義を考えても結論なんか一生出てこない」

「うん」

「ならいっそ、今の自分に出来ることを考えて模索し、行動してみるといい。自分を飾るな。周りの眼なんか気にするな」

「うん」

「けれどそれには、踏み出すための多大な勇気と、持続し自分を信じ続けるための強い心がいる。でも俺は、緋芽は既に持っていると思っているよ。孤独と一人で戦い続けて来た緋芽なら、きっと見つけられると信じている」

「うん」

「無責任な事は言いたくない。だから、もしまた自分を見失ないかけたら俺を頼れ。また、こうして話を聞く。笛の音で心を癒してやる」

「うん……!」

「だから緋芽、俺と友人になろう」

 

 その言葉で、彼女はまた涙を流した。

 でもその瞳に今まで宿していた負の感情はどこにもなかった。

 

「ありがとう……柊」

 

 そう言って笑った緋芽の笑顔は、とても美しかった。

 

 

 

 

 

「柊、此度はとても良い演奏を聴けた素晴らしい茶会となった。礼を言おう」

「勿体無いお言葉です」

 

 あれから夕刻となり、茶会はお開きとなった。

 俺は稗田一家と合流し、最後に不比等と挨拶をしていた所で、不比等が俺に向かってそう礼を言った。

 

「柊、私はお主がただの農民である事が堪らなく惜しい。そこでどうだ。私の専属演奏家となって仕えぬか? お主とその笛の音に見合うだけの、優雅な暮らしを約束しよう」

「いえ、私は……」

「何、足りぬか? なら、緋芽をお主の妻に娶らせても良いぞ? 緋芽がお主に世話になったようだからな」

 

 え、この人知ってたのか?

 緋芽が俺と庭で話していたことを。

 そう言う不比等の顔はとても、何というか悪戯な笑みを浮かべていた。というかニヤニヤしている。ちょっと腹立つ。

 

 ……あれ、何だろう。何か後ろから物凄いプレッシャーを感じる。

 背中の汗が止まらないんだけど。

 

「で、どうだ? 柊よ」

「……申し訳ありませんが、私はその話にはお答え出来ません。もとより稗田家にも、仕官の話を頂いていたのですが、私にはそれを断る理由があるのです」

「……聞いても良いか?」

「私は小さな農村に暮らしております。そして私は、次期村長の第一候補として期待されています。私はもしそれに選ばれるのであれば、受けるつもりでいるのです」

 

 俺の暮らす村の村長は代々、村人の若者から候補者を出し、村長が引退を決意した際、村長の命によって次の村長が決まる。

 そして俺は以前から、その話を受けていたのだ。

 

「それに私には、都暮らしに大した憧れがありません。優雅で贅沢な暮らしよりも、私は汗水を流して働き、野山を駆けて狩りをし、大自然の中で生きる今の生活に人間としての生の喜びを感じ、そして心から愛しています。私の笛の音は、そんな暮らしの中から生まれた音なのです。

 

 ――だから私は、この話を受けるつもりはありません」

 

 俺は不比等から視線を逸らさず、真っ直ぐに見据えてそう言い切った。

 少しの静寂と緊張が走り、そしてそれを破ったのは不比等の方だった。

 

「ふふふ……くはははははっっ!!! 面白い! 本当にお前は面白い男だ! よもやこの私からの仕官の話を断るとは! 益々気に入った! なればこそ、お主の想いは尊重しよう。だがお主の笛の演奏を私はもっと聞きたい。そこで、月に一度我が屋敷に演奏をしに来て貰えぬか? 勿論褒美をやる」

「そのくらいであれば、喜んでお引き受けいたします」

 

 都に来る理由ができれば、俺も阿礼と会う機会も増えるからな。それについては願ったり叶ったりだ。

 褒美も貰えるなら、村を豊かにするのにも役立つだろう。

 

「そうか、感謝する。それとお主は緋芽の友人となってくれたのであろう? 少しでもいい。緋芽の話し相手になってくれぬだろうか?」

「……ええ、勿論。約束しましたから」

 

 彼女が自分に自信を持てるようになる、その手助けをすると。

 俺の言葉に不比等は満足したように、満面の笑みを浮かべて頷いた。

 

「もし、仕官の話を受けようと気が変わったら言うが良い。喜んで、お主を迎え入れよう」

「……その言葉、憶えておきます」

 

 まあ多分、気が変わることはないだろうけど。

 

 俺は不比等に礼をし、稗田家と共に藤原氏の屋敷を後にした。

 

 

 

「……柊? 不比等様との会話の事で聞きたい事がいくつかあるのですが」

「いででででででっっ!? おい、やめろ! 脇を抓るな!?」

「いつの間に緋芽姫様と仲が良くなっていたのでしょう? 今夜、彼女と友人に至るまでの経緯を、ぜひ詳しくお話くださいな?」

「何を怒ってんだ? 嫉妬かいだだだだだっ!?」

「勿論柊の事ですから、特に疾しい事をした訳ではないと、信頼してますよ? だから私が聞いても構わないですよね?」

「わかった、ちゃんと話すから。いいからいい加減手を離せ! 痛いわ!」

「私たちも気になるからな。ぜひ酒の席で聞きたい」

「そうですね」

「まさかの四面楚歌!?」

 

 

 

 ………正直茶会での演奏よりも、帰り際の阿礼の追求の方に俺は疲れた。

 

 あー、痛ぇ。

 

 

 

 

 

 ――本当に、面白い男だった。

 

 あんな傑物にはそうはお目にかかれない。

 

 久々に……本当に久々に大笑いしたものだ。

 

 

 

 ――欲しい。

 

 あの男が欲しい。

 

 あの男の笛の音が欲しい。

 

 きっとあの方も、あの男の笛の音を気に入るであろう。

 

 あの男を保有すればきっと、あの方も我に振り向くに違いない。

 

 あの男には緋芽を娶らせてしまえば、あの男にあの方が靡く事は無い。

 

 であれば……。

 

 ふふ……待っておれよ、我が姫君よ。

 

 必ずや、我に振り向かせてみせようぞ。

 

 

 

 ――例え、どんな手を使おうとも。

 

 

 




感想、評価、誤字脱字報告、質問などあればぜひよろしくお願いします。


……さて、課題レポートやらなきゃ。
では。


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『4年』という期限

お待たせしました。

レポート課題マラソン疲れました……。
たくさん寄せられた感想や評価なんかを見て、心を癒してました。

*『政治批判が具体的過ぎる』や『柊の倫理観に矛盾がある』といった意見を頂いたので、その部分を改稿しました。


 

 

 

「ひゅわぁぁあああ……ひぃりゃぎぃぃいいい………♪」

「待て、それ以上はまずいから阿礼! ……おい! 阿京殿! 鶫殿! もう誰でもいいから早く来てくれ!」

 

 酒気に顔を蕩けさせ、纏う衣を崩しながら近寄って来る阿礼に、俺は後退りながら助けを求める。

 

 どうしてこうなった。

 

 

 

 

 

 結局2泊することになった阿礼の屋敷にて、俺は阿礼と、阿礼の両親と共に食事の席に座った。

 そして俺の隣に座る阿礼の、早く話せと言わんばかりの訴えの眼差しに負け、緋芽と仲良くなったあらましを話し始める。

 

 けれど最初に、俺は阿礼に忠告を促した。

 

「言っとくが浮ついた様な話じゃない。かなり重たい話だぞ。それでも良いのか?」

「重たい……ですか?」

「緋芽には、彼女の家族内での立場についての相談を受けていたんだ」

 

 それを聞いて、阿礼の両親の表情に影が宿った。

 彼女の藤原家での立場や扱いを知っているのだろう。

 

 阿礼もその内容に言い知れぬ暗い空気を感じた様で少し逡巡するも、それでもその瞳に意思の揺らぎはなかった。

 

「聞くからには最後まで聞いてくれ。生半可な、中途半端な興味で聞くつもりであれば、俺が許さない。いいな、阿礼」

「……はい」

 

 俺の言葉に真剣味が帯びたのを感じ、少しの緊張した面持ちで阿礼は頷いた。

 

 そして俺は、静かに俺と緋芽の間にあった出来事の内容を語り始めた。

 

「不比等様の気持ちに甘えて、庭園の中あった長椅子で一人休憩を取っていた時に、緋芽はやって来た。最初は、茶会の演奏の褒めの言葉を貰ったが、彼女は俺に尋ねたい事があって来たと言っていた」

「尋ねたい事?」

「俺があの茶会の中で余りに堂々としてたものだから、どうしてあんなに堂々としていられたのかと。緋芽はもし自分が俺の立場だったら無理だと、怖くて震え、とてもじゃないが自分では俺みたいな態度は取れないと言った」

「ああ、それは私だって無理だな。柊殿が少し異常だと私は思うぞ?」

 

 阿京殿の言葉に同感する様に頷く阿礼と、阿礼の母親の鶫殿に俺は苦笑しながら、俺は話を続ける。

 

「で、そんな緋芽の様子で俺は、彼女が何か、自分の立場の事で悩みを抱えてるじゃないかと思い、そう聞いた。緋芽は頷いて自分の悩みを少しずつ、話始めたんだ」

 

 彼女曰く、自分は望まれない子。

 

 父の不比等だけには愛されるが、周りは私の存在を認めようとしない。

 

 自分は要らない子。

 

 生まれて来た事が業である、罪深き子ども。

 

 誰にも、不比等殿にも相談できないその痛みと孤独を抱えながら、心の中でずっと不比等殿に生まれて来た事を謝り続け、赦しを乞い。

 

 そして同時に、自分の存在を自問自答する日々。

 

 答えなどないと知りながら、それでも探さずにはいられない日々。

 

 何のために自分はいるのか。

 

 何故自分は生まれて来たのか。

 

 彼女が涙ながらに吐き出した、心の奥底からの憤怒と悲しみ。

 

 彼女の俺に助けを乞うあの、今にも消えそうな手で縋り付いてきた姿を思い出しながら。

 

 己の生に絶望と失意だけを残した彼女の慟哭を、俺は代弁した。

 

「そんな……!」

 

 俺の言葉に、阿礼は批難する様に声を上げ、その瞳に涙を浮かべた。

 鶫殿は既に涙を零しており、阿京殿は鶫殿の背を摩っている。

 

 鶫殿も阿京殿も、とても良い親だ。

 阿礼を見ていて、どれだけ愛情を注がれて生きて来たかが良く分かる。

 

 鶫殿は特に、穏やかで優しい母親だ。

 だからこそ、その優しさ故に緋芽の境遇を自分の娘に置き換えて考えてしまい、その悲しみに耐えられず泣いてしまったのだろう。

 

「……緋芽姫様の母親は、元は都に暮らす一介の庶民の娘だった。不比等様は若い頃、若気の至り故その娘と一夜を過ごし、緋芽姫様を身篭らせてしまったのだ。不比等様は彼女を娶り、屋敷に上げた。だが不比等様の囲っている女性達は皆、当然身分の高い貴族の娘。周りは彼女とその生まれた子を疎んだ。特に母親は周りからの有形無形の嫌がらせを受けその心労で病気になり、緋芽姫様が5歳の時に亡くなられた」

 

 阿京殿が告げた緋芽の母親の詳細を聞き俺は、まるで『源氏物語』に出てくる帝の妻で光源氏の母、桐壺更衣に良く似ていると思った。

 

 桐壺更衣もまた、身分の高くない出自でありながら帝の寵愛を一身に受けていたが故に周りからの嫌がらせを受け、心労から病弱となり、光源氏を生んだその3年後に病気で亡くなっている。

 物語とはいえ、やはり身分故の不和は貴族の間ではとても根深いのだ。

 

 そして、緋芽。

 彼女はそんなにも幼い時から孤独だったのだと、彼女の心の悲しみの奥深さを改めて痛感する。

 

 阿礼はもう顔を俯かせて、その震える腕を抱えて、その悲しみに必死に耐えていた。

 

 阿礼もまた、一人で『古事記』の編纂に向き合い、その重責と不安、焦りを誰にも相談できず心を壊しかけ、そして死にかけた過去がある。

 一人で悩みを抱えるその孤独の辛さを痛い程知っているからこそ、彼女は緋芽の悲しみを理解できるのだ。

 

 俺は阿京殿みたく阿礼に触れる事はせず、代わりに彼女を労わる様に優しく問い掛けた。

 

「阿礼、大丈夫か……?」

「っ……大丈、夫です……続けて下さい……」

「……分かった」

 

 阿礼は悲しみに耐えながらも、ちゃんと最後まで聞くようだ。

 俺はまた、話を再開する。

 

 俺が緋芽に冗談として語った、前世の死の間際に願った来世の生まれ変わりの話。

 

 例え人以外に生まれる事を願おうと、また人として生まれてしまった俺の様に。

 

 生きとし生ける全ての生物は、生まれて来る姿かたち、時代、親、そして生まれ落ちた先で共に寄り添って来る運命を選ぶ権利を持ち合わせていないと。

 

 だから生まれて来た子に、その命に罪などはないと。

 

 俺はそう、緋芽に言った事を語った。

 

 そもそも、それを罪とするのなら。

 その罪を背負うべきはその命を育んだ親であって、自分の意志で生まれて来る権利を持たない命がその罪に苛まれる必要は無い筈なんだ。

 

「そうでないと……」

「柊……?」

 

 

 

 ――そうでないと、そんな世界で生まれた望まれなかった命(緋芽)は、一体誰にその理不尽を糾弾すればいいのだろうか。

 

 愛し愛される心を、生きる幸福を知らずに育った命は、一体誰から愛情を、命を育む素晴らしさや美しさを学べばいいのだろうか。

 

 

 

 どれだけ人の文明が発達しようと、切り捨てられる命は存在する。

 

 前世の病室で死を迎える前日まで、俺はいつも病室のテレビに映し出される社会ニュースを見ていた。

 政治、経済、世界情勢。どれもこれも死を迎える俺にとっては他人事のような話にしか聞こえていなかったけれど。

 

『××県に住む4歳の男の子が両親による虐待で―――』

『今日未明、××公園で生後間もない赤ん坊の死体が―――』

『5日前に起きた、××県にある児童養護施設で起きた少女強姦未遂事件の容疑者が――、なお、被害にあったという少女は未だに行方不明で―――』

 

 こんな、幼い命が虐げられ失われていくニュースだけは、いつも左胸に針が突き刺さるような痛みを憶えていた。

 日本だけでなく、世界中で起きていたその悲劇に。

 

 この事も、人になりたくないと思った理由の一つなのかもしれない。

 

 今世の俺の住む村で、病気で死ぬ子はいてしまっても、食料が足りないから捨てられたという子を俺は未だ見ていない。

 けれど他の村や町、そして都でも、きっとそういう行為は合法として仕方なく行われているのは確かなのだろう。

 それを、何の現状も知らない者が表面上の実態を見ただけで悪だと判断するのは愚かしいことだ。

 

 俺自身、その現場に居合わせたことがなく。

 前世でも、今世でも、本当の実態をまだ、この眼で見た事がない。

 

 だが、もしその時が来た時、俺は――

 

 

 

「……ぎ! ――柊!」

「……ん?」

 

 突然の阿礼の呼び声に、俺は意識を引き戻され顔を上げた。

 周りを見ると、阿礼たちが心配そうな目をして俺を見ていた。

 

「どうしたんですか? 急に。その……とても、心ここに在らずという眼をしていました」

「……ああ、悪い。緋芽の心情に俺も引きづられて、変な思考の泥沼に嵌っていた。もう大丈夫だ」

「そうですか……良かった」

 

 胸に手を当てて、心の底から安堵する阿礼。

 随分心配させてしまったらしい。

 

「柊殿。話の続きだが……」

「ああ、えっと、すみません……どこまで話したか……」

「緋芽姫様に罪はないって所までだな。それで、君は緋芽姫様に何を助言したんだ?」

「……自分の存在価値や意義を考えた所で、結論など出ない。だからそれよりも、答えのない問答で悩むくらいなら行動して己の価値を探せ。それには多大な勇気と覚悟がいるが、孤独と戦い続けて来た緋芽なら大丈夫だ。もし、また見失いそうになったなら、俺を頼れ。そのために俺は緋芽の友人になる……と」

 

 ……うわ、改めて思い出すと恥ずかしい。

 特に後半。

 

「ほう……流石は柊殿だ。君が言うと、まるで説得力が違う。男の私でも惚れそうだ」

「やめて下さい。ちょっと今羞恥に悶えてる所です」

「そういうのは顔を赤くしながら言うものだぞ?」

「柊殿が恥じる事なんてないわ。とても立派な言葉ですよ? 私が緋芽姫様の立場なら、ころっと恋に落ちてしまいますわ」

「人を誑しみたいに言わないで下さい」

 

 そこで、やけに阿礼が静かな事に気付く。

 阿礼に目をやると、愁いを帯びた表情で手元に持っていたお椀を見つめていた。

 

「阿礼、どうした?」

「すみません、ちょっと……お水を貰いに行ってきます」

 

 カタン、と音を立ててお椀を置いた阿礼は、そう言い残して静かに立ち上がり、部屋から出て行った。

 部屋に沈黙が漂う。

 

「……やはり、食事時にする話ではなかったですね」

「ああ……だが柊殿はちゃんと忠告していたからな。仕方ないさ。……柊殿」

 

 阿京殿が、俺の目を真っ直ぐ見据えて言った。

 

 

 

「私たちは、阿礼の婿はやはり、柊殿が相応しいと思っている」

 

 

 

「え……?」

 

 ――不意打ちだった。

 

 何の心の構えもなく、それは告げられた。

 

「あの日、柊殿に阿礼の命を救ってもらった時から、阿礼は変わった。……いや、戻った。

 それまで見せなくなっていた笑顔をみせるようになり、帝の命である歴史書の編纂も軌道に乗り出した。

 

 ――阿礼は本当に、毎日が楽しそうだ。そんな娘の日常を連れて来てくれたのは、間違いなく柊殿なんだよ」

 

 俺の絶句した表情を余所に、そう穏やかに語る阿京殿の表情は、まさに娘を思う父の顔をしていた。

 

「勿論、君の抱える想いも理解している。緋芽姫様と同じように、君もまた、自分の立場について憂い悩んでいるのも分かっているんだ。だから緋芽姫様への悩みを痛感し、共感してやれた。

 柊殿は、自分の身分が私たち一族の評判を落とし、稗田家に不幸を齎らしてしまうと思っているんだろ?」

「……はい」

「柊殿が阿礼を愛してくれるのであれば、私は気にしない。その責任は柊殿ではなく、私たちが背負う。君に全うしてもらいたいのは、ただ変わらず、阿礼の傍に寄り添い、阿礼を支える事だけだ」

 

 ――阿京殿の言葉の一つひとつに心が揺らぐ、揺蕩う。

 

 受け入れたい、でも受け入れられない。

 その間の中で、俺の心が綱引きされている。

 

「ですが……私には、村が……」

「ああ、そうだな。君が村の村長候補というのは初めて聞いたが、それも分かる。村を導き、正しい道へと手を引いてくれる期待を柊殿にはしたくなる。

 だが、それでもいい。月に何度か逢いに来るだけでもいい。阿礼の夫は柊殿であるという、『証』が欲しいのだ」

「『証』……?」

「要は、阿礼と柊殿の子どもを私はこの手で抱いてみたいと思っているのだ。愛しい娘と、君の子を。

 きっと、素晴らしい子が生まれると私は確信している」

「しかし……」

 

「柊殿……

 

 ――阿礼には、時間が……無いのだ」

 

 その言葉に、俺はとどめとばかりにぶん殴られたような衝撃を受けた。

 心臓を鷲掴みされたように、左胸が痛い。

 

「時間が……無い?」

 

 俺は眼を見開き、絞り出すような声でその真意を問うた。

 

「ああ……阿礼は元々、体が弱く病弱がちだ。度々風邪をよく引く。恐らく……後10年近く程度生きられればいい方だと、私たちは思っている。私の母も、阿礼と同じ体質で30半ばで逝ってしまったからな……阿礼も多分、自分の寿命の短さに気付いている。

 阿礼は人生を、帝様に命ぜられた歴史書の編纂に全てを費やすだろう。だから……それまでに、阿礼には子孫を残して欲しいのだ」

「そんな……」

「柊殿、後4年だ。その間に何とか、君の選択を決めて欲しい」

「………」

「君に辛く、重い選択を背負わせるのを私たちも心苦しく思う。だが、どうか、どうか……よろしく頼む、柊殿」

「柊殿……あの子の為にどうか……」

 

 俺に深々と頭を下げる阿京殿と鶫殿の想いを強く肌に感じ、俺は……。

 

 ――口を開いた。

 

「……今すぐにその答えを、私には出すことができません。ですが、分かりました。後4年……その間、俺はずっと悩み続けます。悩んで、悩んで、悩んで……悩んだその先の答えをきっと、お二人に、阿礼に伝えると……俺は今ここに誓います」

「ありがとう、柊殿……」

 

 俺はその想いを伝えると、立ち上がって言った。

 

「少し……夜風に当たりながら散歩に参ろうと思います。……阿礼を連れても、よろしいでしょうか」

「ああ、いいとも。行ってくるといい」

「いってらっしゃい」

「では……失礼します」

 

 礼をして、俺は部屋を後にした。

 

 

 




感想、評価、誤字脱字などあればよろしくです。
後は変な矛盾なども見つけたら知らせてください。

*話の中に出てくる事件はフィクションです。実際に起きた事件を元にはしていません。


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冬の夜 上:月下の散歩にて 

大変お待たせして申し訳ない……


 

 

 冬の夜は空気が澄んでいて、夜空に浮かぶ月がとても綺麗だ。

 

 新月が来れば、今度は月の光に塗り潰されてしまった星たちも顔を出し、満天の星の光が美しく瞬くだろう。

 

 前世の日本(未来)では失われた夜空。

 この時代に、生まれて来て良かったと思えた事の一つ。

 

 この夜空を見る度に、この夜空が段々と見せている筈の光を失っていくのかと思うと、文明の発展や人類の繁栄というものを憂いたくなってしまう。

 そんな思いから大きな白い息を虚空に零し、俺は隣を歩く阿礼へと声を掛けた。

 

「阿礼、寒くないか?」

「そうですね……今日は一段と冷えます。はぁ……」

 

 そう吐息を両手に吹き掛け、手をさする阿礼。

 俺は羽織を脱いで、阿礼の肩へと掛けた。

 

「腕を通しておけ。隠れるだろ?」

「あ……ありがとうございます。ふふ、温かい……柊は寒くないのですか?」

「俺は寒いの得意だからな。冬の夜は、特によく散歩するし」

「そうですか……」

 

 静かな会話も、2つの足音も、静寂に包まれた都にはよく響く。

 阿礼がくれた俺の羽織は、背が150cmぐらいしかない阿礼には大きく、羽織に足下まですっぽりと覆われたその姿は、少し幼気なその顔立ちを助長されて可愛らしいさが増している。

 

 ……って言ったら、肘鉄が来るんだろうな。

 

 そんな俺の考えも露知らず、阿礼は俺を見上げて言った。

 

「あの……柊。どうして私を誘って、散歩なんかに……?」

「阿礼の中に移入した感情が、少し重そうだったからな。俺もそうだが、少し気分転換するべきだと思ったんだ」

「……やっぱり柊には敵いませんね。隠し事もできません」

「お前は分かりやすいからな」

 

 

 阿礼は優しい。

 だから人の痛みも、自分の事の様に感じて胸を痛めてしまう。

 

 阿礼を散歩に誘うため台所へと向かい、水瓶の前に立っていた阿礼に声を掛けようとした時。

 俺はその様子に気付き、声を掛けようとして寸での所で止めた。

 

 阿礼は泣いていた。

 あの場では必死に我慢し、目蓋に溜めながらも止めていた涙を人知れずに流していた。

 

 その抱えた心境を完全に当てる事が出来なくても、伝わってくるその悲しみは確かに、緋芽を想って泣いていた。

 

 俺は阿礼の涙が治まる頃まで、じっとその小さな背を見守り、頃合いを見て阿礼に話し掛け、こうして散歩に連れ出したのだ。

 

 

 俺に分かりやすいと言われて、複雑そうにそっぽを向いた阿礼はポツリと呟く。

 

「私には……緋芽姫様の身の上を知った上で、何が出来るのでしょうか」

「………」

「確かに柊が言ったように、無闇に踏み込んで聞いて良い話ではありませんでした。

 ――私は、家族に、周りに恵まれています。なのに、柊に助けられるまで、抱えていた悩みをちゃんと打ち明けられず、危うく命を失いかけるまでして、父様と母様を、そして仕えている者たちを深く悲しませてしまいました。あの時の自分を今でも愚かに思っています。緋芽姫様の事を聞いて、尚更……緋芽姫様は、相談出来る相手すらいなかったというのに」

 

 やはり、阿礼には重過ぎる話だったか……。

 そもそもこんな話を、普段なら誰にも話すことはない。俺だって口が軽い訳じゃない。

 

 それでも阿礼や、阿礼の両親に話したのにはそれなりの考えがあったんだ。

 阿礼の肩に手を置き、労わるように優しく語りかける。

 

「阿礼が気に病む事じゃない。年頃の子どもは皆そんなもんだぞ。大人へと成熟し始める子どもの心には、自尊心や自立心、親に対しての反抗心が生まれて、精神が不安定になるし、意固地になる。そういった感情に苦悩する経験をして初めて、子は大人へと成るんだ」

「……柊もそうだったんですか?」

 

 阿礼の問い掛けに、俺は笑って頷く。

 

「勿論。親とくだらないことで売り言葉に買い言葉で口喧嘩したり、意固地になって人に助けを求めずやろうとして失敗したり、阿礼と同じように今になって愚かだと思う事はいくらでも思い出す。でもそういう経験が、後にきっと役に立つんだよ」

 

 今世では既に精神が成熟しきっているために、反抗期のない出来過ぎた子のようになっていたが、前世では色々とやらかした頃が確かにあった。

 親の心子知らず……。大人になって、今になって親の想いに気付き後悔することは数知れず。

 

「……柊は本当に私と4つしか違わないのですか? 歳を偽ってたりしてませんよね?」

 

 その阿礼の訝しげな目に俺は苦笑いを浮かべた。

 阿礼は時に鋭くて困る……まあ今世(・・)は本当にまだ20年しか生きていないから、嘘ではない。

 嘘は言っていない。

 

「偽ったりしてないさ。ただ……俺も日々、悩む事が多いからな。自然と、達観した様な考え方になるんだ」

「悩む事……それが、あの眼とあの言葉(・・・・)なのですか?」

「あの言葉……?」

 

 何を言っているんだ?

 

「『そうでないと、そんな世界で生まれた緋芽は、一体誰にその理不尽を糾弾すればいいのだろうか。

 愛し愛される心を、生きる幸福を知らずに育った命は、一体誰から愛情を、命を育む素晴らしさや美しさを学べばいいのだろうか』」

「え……」

 

 俺は言葉を失って、立ち止まる。

 阿礼は振り返って、俺を見据える。

 

「夕食で、柊がどこか一歩引いた場所からここではないどこか遠い場所を見ているような眼をしていた時、隣にいた私だけが聞き取れるような小さな声で、そう言っていました。私は、その言葉を一言一句覚えています。私は、見聞きしたことは忘れませんから」

 

 阿礼はその特技故に、膨大な量の国史や古文書を記憶し、それを元に争いで失われた歴史書、つまり後に言う『古事記』を編纂する命を帝から受けている。

 まさか声に漏れていたのか……。

 

「柊のこの言葉……まるで緋芽姫様に向けて言っているようで、それだけではないようにも聞き取れます。

 

 ――ねぇ柊、貴方は一体どこから何を、誰を想い憂い、悩んでいるのでしょう。

 そしてこの言葉に、貴方は一体どれだけの想いを積み重ねているのですか?」

 

 真っ直ぐ、何の汚れもないそのつぶらな瞳が、その言葉の内に宿る真意を問う。

 

 けれど……俺はそれに答えられない。

 阿礼のその言葉に答えるには、俺の今世の人生を語るだけでは決して解答にはなり得ないから。

 

 前世における、『生死』を意識したあの幼少の頃の話から、俺があの病室で死に至るまでに人生の中で経験し思考し続けた『死生観』をも語らなければ、あの言葉の生まれを言葉として、声としてこの口から吐き出す事は出来ない。

 

 何より、俺が前世から今世に生まれ変わり、尚且つ記憶、思想、自我が前世のまま引き継がれているというこの説明はどうするというのか。

 

 ……いっそ、阿礼には話した方がいいだろうか。

 阿礼ならきっと、そんな馬鹿みたいな話も信じてくれるかもしれない。

 

 だが……これは簡単に話せる事ではない。

 

 そもそも俺自身、俺のその言葉に対しての解答が見つけられていないのに。

 いや、そもそも、解答が存在するのかすら分からないのに。

 

 そんな状態で阿礼の言葉に答えて、もしそれで阿礼が私も一緒に探すと言いだしたらどうすると言う?

 

 それに俺が了承するということは……つまりそういう事(・・・・・)だろう?

 

 だとしたら、俺はまだ答えるべきではない。

 

 

 悩み抜いた先に答えを出すと――俺は誓ったんだ。

 

 

 ……この長い葛藤は、一体どれだけの沈黙だったのか。

 阿礼と俺はずっと、お互いの瞳に映る自身の顔を覗いている。

 

 ……何て情け無い顔してるんだ、俺は。

 俺は心の中で自身を嘲けながら、そして阿礼に俺は漸く否を告げた。

 

「……阿礼。今の俺は、その問いに答える事が出来ない」

「……」

「時間が欲しい。俺には今、思考する時間が必要なんだ」

「……またそうやって、一人で悩みを積み重ねていくんですか? 私では……力になれませんか?」

 

 阿礼のその寂しげな声が俺の胸を締め付ける。

 けれど、俺はそれでもなお突き離す。

 

「ああ……これは俺が出さないとならない答えだから。頼る頼らないではなく、阿礼に言う言わないの選択なんだ。だけど、ちゃんと答える。俺は阿礼に伝える。だから……今は待っていてくれ」

「……分かり、ました。今は……聞かないでおきます。でも絶対、話してくださいね……?」

「ありがとう……阿礼」

「柊、一つだけお願いがあります」

「何だ?」

 

「この約束を……ちゃんと目に見える『形』にしてください」

 

 少し顔を赤くさせ、口元を袖で覆いながらそうねだる阿礼。

 

 その仕草、表情の全てが余りにいじらしく、愛らし過ぎたから。

 

 

 

 ――愛おしい。

 

 

 

 ドクン、と。

 その想いが心臓を大きく、波を打たせた。

 

「――っ、」

 

 阿礼へのその愛おしさが、この左胸の正常な鼓動を狂わせる。

 

 俺の抑えていた理性が、己の身を焦がす様に熱くさせ。

 前世でも感じた事のない、自分の面の皮を被った知らない誰かの声が、その沸き上がる欲求を。

 

 叫ぶ。

 囁く。

 惑わす。

 

『心ノママニ抱キ締メロ』

『本能ノママニ唇ヲ奪エ』

『「オ前ハ俺ノモノダ」ト愛ヲ叫ベ』

 

 煩い。黙れ。

 頼むから……静かにしろ。

 

 耐え、抑えつける様に、俺はその衝動を否定する。

 人格に、思考すらも奪われそうで、必死に抵抗する。

 

 血の気の引く拳。

 食い縛る歯。

 燃えるように熱い目蓋の裏。

 

 そして畳み掛ける様にまたやってきた、俺の左側頭部に走るあの煩わしい感覚。

 

 ここでそれを許せば、従えば。

 今まで抑えて来た意味がなくなる。

 

 阿礼の両親の信頼を……裏切る事になる。

 

 強張り、我慢に震える体を落ち着かせるため。

 深く、深く息を吸い、肺を限界まで萎ませる様に月に向かって大きく息を吐いた。

 

「……柊? どうかしましたか?」

「いや、何でもない……心配するな」

 

 衝動の波が引き、俺の中がようやく落ち着きを取り戻す。

 

 本当に、危なかった……。

 

 突然様子がおかしくなった俺を心配気な阿礼に笑いかけ、俺は右手の小指を阿礼へと差し出した。

 阿礼は俺の小指を見て、小首を傾げる。

 

「柊、何ですかこれは?」

「この小指に、お前の小指を絡めろ。俺の村の、約束の風習だ」

 

 風習というか、広めたのは俺なのだが。

 幼い頃に姉たちと何か約束をする時に、何気なく俺がそれを提案した所、いつの間にか村に広がっていたのだ。

 

 この時代に指切りなんてものはない。これの発祥は、確か江戸時代の遊女だったと思う。

 俺の行動が、どこから時代に影響を与えるのか、既に与えているのかも分からない。

 迂闊に前世の知識をそのまま使うわけにはいかないと思ったのだ。

 

 阿礼の小さく細い右手の小指が、俺の小指に絡んだ。

 冷たく悴んだ、柔らかい小さなその指の感触。

 

 今まで、極力触れない様にしていた阿礼の肌が直接触れる。

 俺の手が少し、熱を帯びた気がした。

 

「柊の手は暖かいですね……」

「そのまま、強く俺の小指を握りしめろ」

「え?」

「跡が残るくらいにな。その跡が、約束の形だ」

「……分かりました。んっ!」

 

 阿礼なりに、強く握っているのは彼女の顔を見れば分かる。

 が、しかし。非力故にその力はとても弱かった。

 

 それがおかしく、可愛らしく。

 俺は笑い、彼女を茶化す。

 

「そんなんじゃ、跡が付かないぞ?」

「これでも精一杯なんですっ!!」

 

 終いには左手も使って持てる力で俺の小指を握る。

 疲れて力を抜いた彼女の手が離れると、なんとか俺の小指には彼女の小指の跡が付いていた。

 というか、俺の手の甲には彼女の手の跡までがくっきりと残っていた。俺はまた笑う。

 

 きっと、この跡が目に見えていられるのは今夜だけだろう。

 明日には、消えてしまっているかもしれない。

 

 それでも―――忘れない。

 

 この誓いと共に、俺の一生の記憶に刻み込もう。

 

 肩を上下させて、熱を帯びた赤い顔を冷まそうとする阿礼を眺めながら、俺はそう心に決めた。

 

 

 

 指切りをし終えて、再度歩き始めた俺と阿礼。

 暫く歩いて道角を曲がろうとしたところで飛び出して来た小さな影に鉢合わせた俺は、その影とぶつかった。

 

「ひゃっ!」

「おっと、済まない……って、あれ?」

「えっ? あっ……!? 柊!?」

「緋芽? こんな時間に、こんな場所で何してるんだ……?」

 

 俺とぶつかり、尻餅をついた影の主は、緋芽だった。

 俺に手を取られて立ち上がる緋芽は目を真ん丸く、きょとんとした表情で俺と阿礼を見ていた。

 

「柊こそ……稗田の姫様を連れて何してるの?」

「俺は都に来ている間は稗田家に泊まってるからな。月を見がてら、二人で少し散歩をしてたんだ。それで、緋芽は? こんな夜更けに少女が一人で出歩くのは危ないだろ?」

「私は……何だか胸の内が熱くて眠れなくて……気を紛らわす為に歩きたかったんだ……きっと、初めての友人が出来たからかな……」

 

 左胸に両手を当て、顔を紅に染めてとても嬉しそうな表情を、緋芽は俺に見せた。

 彼女の抱く気持ちの切っ掛けを作ったのは俺であるため、彼女の夜歩きを強く責めることはできなかった。

 

「……家の者には止められなかったのか? 不比等様とか……」

「お父様は茶会の後、知り合いの陰陽師の家に行くって言ってそのまま帰って来てないよ。それに……それ以外の家の人たちは皆、私に何の興味も、心配も抱かないから。抜け出すのは楽だもの」

 

 自虐的に笑いながらそう話す緋芽に対し、今まで静かだった阿礼は俯いたかと思うと――

 

「うえっ!? な、何っ!? 稗田の姫様!? どうされたのですか!?」

 

 阿礼は緋芽へと駆け出し、そのまま彼女を抱き締めた。

 突然のことに、緋芽は吃驚して狼狽える。

 

「……私は、阿礼と申します。どうか、阿礼とお呼び下さい……」

「阿礼様……柊、阿礼様はどうしたの?」

 

 自身の呼び名を示し、そのまま自分を抱き締めている阿礼のその行動の意味が分からないと、緋芽は代わりに俺へ尋ねた。

 

「……阿礼と、阿礼の両親には今日の茶会の時に緋芽と話した内容を話している。緋芽の現状も含めてな……」

「っ!? な、何で勝手に――」

「私が話せと申したのです。緋芽姫様」

 

 誰だって、自分の身の上を勝手に他人に話されたら怒るだろう。

 だが激昂し、俺を咎めようとする緋芽を遮ったのは阿礼だった。

 

「緋芽姫様、勝手な私の行動をお許し下さい。柊に話せと申したのは、最初は何故柊が姫様と仲良くなってるのかという只の興味本位ではありました。しかし……姫様の置かれた立場や境遇の何てあんまりな理不尽を知り、私はそれが……酷く、悲しかったのです」

「っ……同情なんて、私には必要ありません……」

「同情……ええ、それもあるかもしれません。しかし――

 

 誰にも相談できないというその孤独の辛さや苦しみ、そしてその痛みを、私は知っているのです」

「……え?」

 

 思ってもいなかったという、緋芽の表情。

 

「緋芽姫様、寂しかったでしょう? 辛かったでしょう? 心苦しかったでしょう? 胸に秘めた悩みを、不安を誰にも打ち明けられないというのは。私もそうでした。帝様から命ぜられたその仕事の重責に不安や焦りを覚え、でも心配かけたくないと言う想いで周りを頼らないなんていう愚かな選択をし、果ては命まで落としかけました。でも、私も柊に助けられて、今があります。私の最初の友人も柊なのです。ですから、緋芽姫様。私は同じ孤独の中にいて、同じく柊に助けられた貴方が他人事に思えないのです」

「ぁ……ぅぅ……」

 

 阿礼を受け止め、俯いてその言葉を聞く緋芽の体が、腕が、声が震え始める。

 

「緋芽姫様、お願いです。私にも、その悩みをお聞かせ下さいませんか? 何かに悩んだ時、私を頼って貰えませんか?

 

 私と……友人になりませんか……? 」

 

 その言葉が決定的だった。

 緋芽は目を大きく見開いた後、その瞳から二つの線を止めどなく頬に走らせた。

 

 緋芽は震える声で阿礼を抱き締め、そして嗚咽混じりに乞う。

 

「ぅん……阿礼様……私の方からも…お願いです………友人になって……くれませ、んか……?」

「はい……! 私たちは友人です……!」

「阿礼、様……ありが……っ、ぅぁああぁああああ……」

 

 静謐な空間に、緋芽は滂沱しその声が木霊する。

 

 俺だから与えられる光と、阿礼だから与えられる光。

 その光は似て非なるもの。

 

 阿礼に緋芽の事を話したのは、この為だった。

 

 俺はこの都にいる事が少ない。前よりは来る事にはなるだろうが、それでもその時間は短い。

 せめて近い距離に気軽に話せて、相談できる相手がいればと思い、同じ貴族である阿礼がそれになれればと思った。

 

 けれどそれを、俺から頼むのはまた違うと考えていた。

 無論、友人になってやってくれと俺が頼めば、優しい阿礼がそれを拒むことはないだろう。

 

 しかし、緋芽の背負う立場というのは特殊だし、微妙だ。

 名家の稗田家としても、友人関係といえどそう簡単に決めていい選択ではない筈。

 

 だから直接頼む事はせず、阿礼を悩ませる事になると分かっていながら俺は緋芽の身の上を話す事にした。

 緋芽の抱える身の上を理解した上で、阿礼自身が緋芽に歩み寄るかの選択をするべきだと俺は思った。

 

 今こうして阿礼と緋芽が抱き合い、友を誓い合ってくれた事を心の底から安堵している。

 

 少しずつでも。

 焦らずに。

 

 緋芽に光を与える確かな存在が増えていくことを、俺は切に願う――。

 

 

 

 

 

「大丈夫かな……」

「そうですよ柊、見つかったらどうするんですか?」

「少しの間なら大丈夫だろ。見つかったら二人を抱えてさっさと逃げるさ」

 

 そう言って軽い屈伸をしていた俺は、まず最初に緋芽を右腕で抱き上げる。

 

「しっかり掴まれよ」

「……」

「どうした?」

「うぇっ!? な、何でもないっ!」

 

 何故か顔を赤くしている緋芽に疑問を抱きつつ、誰かの屋敷の築地の屋根瓦目掛けて左腕を伸ばし跳ぶ。

 屋根瓦に手が掛かると、持ち前の力で懸垂の要領で屋根へと上がり、緋芽を降ろす。

 そして俺は屋根から飛び降り、次に阿礼を抱えた。

 

「……」

「……お前も何だ、阿礼」

「いえ……こうして抱えてもらうのはあの日以来だと思ったので……」

「ああ……そうだな。あの日に比べれば、阿礼は少し――」

「少し……何ですか?」

 

 その後に言葉を紡ぐ事は許さないと、瞳が笑ってない阿礼に俺は戦慄する。

 ……危ねぇ。地雷踏む所だった。

 

 緋芽の時と同様に築地の屋根に上がって阿礼を降ろすと、俺はその場に腰を下ろして夜空を見上げた。

 それにつられて、阿礼と緋芽は二人並んで俺の隣に寄り、二人で俺の羽織を纏って一緒に夜空を見上げた。

 

 緋芽が泣き止んでからその後、緋芽と会うまで暫く歩いていた事もあって少し腰を落ち着けたいと俺は思い。

 近くにあった築地に上がって月でも眺めようと二人に提案し、今の状況に至る。

 

 昼間にこんな事をすれば、この築地を囲いに持つ家の貴族に捕まりそうな行為だが、今は夜だし、もし見つかっても俺の脚力なら小柄な二人を抱えて逃げられる自信があった。

 

 偶には、こんな愚行も愉快なものだ。

 

「綺麗な月ですね」

「ああ。後数日で満月だろうな」

「どうして月って、あんなに形が変わったり見えなくなったりするんだろ……?」

 

 月の満ち欠けの現象は、小学生の頃に習ったなとふと思い出した。

 教える事は出来るが、天文学すら乏しいこの時代で俺が何故そんな事を知っているのかという話に飛び火しそうで怖い。

 こうも気軽に会話ができないというのも、中々面倒な事だ。

 適当に当たり障りのない様に、緋芽と阿礼の疑問や呟きに応えておく。

 

 

 

「――ふーん。

 貴方、随分月を知っているのね」

 

 

 




本当は一話でこの夜は完結させたかったのですが、後半部分が纏めきれなかったので二話に分けました。
下はもう少しお待ちください。
誤字脱字などあればよろしくお願いします。


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冬の夜 下:月下の夜会

5年も経ってしまってごめんなさい。


 

 月が叢雲に隠れて暗くなったその瞬間、突然背後から響き渡ったその透き通る様な声に、俺たちは驚いて振り返った。

 

 屋敷側の中の、さっきまでは誰もいなかった広い庭園のど真ん中に人影があった。

 月が隠れたため、暗くてその相手はよく見えない。だが、声質的には女だと思う。最悪の場合、この家の家主かもしれない。

 声の主はゆっくりと、俺たちの所へ近づいて来る。

 

 ヤバッ……全く気付かなかった。

 俺は急いで二人を抱えて逃げようとする。

 

 だが、そんな様子を可笑しそうに笑う声が待ったをかける。

 

「待ちなさい。別にそこにいる事を咎めたりしないわ。ただ――私もそこに登りたいのだけど」

 

 その意外な申し出に、俺は目を丸くして二人と顔を合わせた。

 まさかこの状況で、自分も登りたいなんて言うとは普通は思わないだろう。

 俺は警戒しつつ、その言葉に偽りがないか聞き返す。

 

「……本当に咎める事はないですか?」

「ええ。寧ろ、こういう事は私も大好きだもの。それと、別に敬語なんて堅っ苦しいの使わなくて良いわ」

 

 その美しい声は、楽しそうに弾んでいる。

 恐らく嘘ではないだろう。

 

「……分かった。二人とも、ちょっと待っててくれ」

「柊、大丈夫かな……」

「多分嘘は言ってない。それに、下手に拒んで騒がれる方が不味い」

 

 一応警戒は解かず、俺は築地から庭に飛び降りてその人影へと近付く。

 そしてお互いが立ち止まった所で月が再び顔を出し、相手の姿がようやく確認できた。

 

 ――絶世の美少女。

 

 その言葉でしか言い表せない程完成された、その容姿。

 

 長く真っ直ぐで、艶やかな黒い髪。

 吸い込まれるように妖しく、爛々と輝く紅い瞳。

 そしてこの時代の貴族女性を象徴する、色鮮やかな十二単。

 

 これ程の絶世の美少女はそうはいない。

 俺は目の前の人物を見て、この時代のあの人物が思い当たった。

 

「あんた……かぐや姫、か?」

「あら、私の事を知ってるの? 私に求婚に来た貴族連中の中に貴方もいたのかしら?」

「いや……俺は噂で聞いた名前だけしか知らないが」

 

 そりゃあれだけ絶世の美少女として噂になってれば、いくら偶にしか都に来なくても小耳に挟むぐらいはする。

 てか、口悪いな。

 

 ーー昔話として親しまれ、また日本最古のファンタジー小説として有名な文学作品『竹取物語』。俺も高校生の時に古文の時間で習ったのを覚えている。

 今俺の目の前にいるのが、その主人公のかぐや姫。

 

 彼女の竹から生まれて来たなんて設定は信じてないが、それでも実在した人物を元に娯楽要素のフィクションを加えたのがあの『竹取物語』というのならそれも納得できる。

 実際の所、それが真実なんじゃないかと思っていた。

 

 だがまさか、本人と相見えるなんて微塵も思ってもいなかっただけに、冷静を装って見せている俺とて内心では結構驚いていた。

 

「私の事は知っている様だけど、一応自己紹介ぐらいはしておこうかしら。私は『なよ竹の輝夜姫』よ」

「柊だ。姓は無い」

「柊……ふーん、面白いわね、貴方。余り私に興味なさそう」

「そうでもない。本当に噂通りなのかくらいには興味は持ってたさ。……まあ会ってみたいかと言えば、会いたいとは余り思っていなかったな。というか会えるなんて思ってなかった。俺は氏がない農民だし」

「……農民? そんな上質そうで素敵な服を着て?」

「これは……贈り物だからな」

 

 その言葉に輝夜は俺の背後へと視線を向けた。

 そして俺に視線を戻すと、揶揄う様な笑みを浮かべて言った。

 

「見たところあっちの二人は貴族みたいだけど、どっちが貴方の女性? それとも両方?」

「……友人だよ。稗田の娘と藤原の娘だ」

「あら、藤原ってこの都の公卿じゃない? ……そう言えば求婚してきた中にいたわね。そうそう、藤原不比等と言ってたかしら」

 

 ……は?

 藤原不比等がか……?

 

「それに稗田は、確か猿女君の末裔よね? 自称農民を語りながら、そんな名のある両家と友人になれるものかしら?」

「確かに、普通は有り得ないな。俺も数奇な機会を経験したものだと自分でも思うよ。……そして今も。求婚するどの男性貴族もその全貌を見た事がない輝夜姫を、俺は目の当たりにしている訳だしな」

 

 俺はそう言って苦笑する。

 改めて考えれば、輝夜姫の言う通り普通じゃない人脈関係ではある。

 最近そんな自覚が薄れてきてやがるな。

 

「貴方は、貴族の女性と親しくなる変な運でも持ち合わせてるのかしらね」

 

 遠回しに玉の輿を狙う女誑しみたいに言うな。

 非難する眼を向けても、輝夜姫はどこ吹く風といった態度だ。

 

「それより、私も早く上に登りたいのだけど」

「それは良いが……俺が輝夜を抱き上げて登る事になるぞ?」

「……良いわ。貴方、ちょっと気に入ったもの。他の阿保貴族達みたいに、私に対して特にいやらしい色目を向ける様子もなかったし。私に触れる事を光栄に思いなさい」

 

 俺の目の前まで歩いて来た輝夜はそう言って、俺の胸に手を当てて悪戯に笑った。

 

「……良い記念だ、ぐらいには思っとくよっ、と」

「きゃっ!」

 

 俺はその笑みへの意趣返しにと、勢い良く抱き上げる。

 驚いた声を上げた輝夜のその表情に俺は満足した。

 そして悪戯に皮肉を口にしてみる。

 

「やっぱ十二単は重いな……それとも自重か?」

「失礼ね、そんな訳ないでしょ! ……私としては、十二単の重さに音を上げると思ってたのだけど。見た目は細身なのに結構……逞しいのね」

「村での肉体労働の賜物だな。まあ元より人並み以上に力は強い方なんだが……というか、何だ。急にしおらしくなったな」

 

 緋芽と阿礼の時もそうだが、何故女性はこうも抱えると借りてきた猫の様に大人しくなるのだろう。

 いやまあ、そういう経験がないからだろうが。

 

 そのまま急に口数の減った輝夜を抱えて阿礼達の下に戻ってみると、阿礼はまあ、どことなくジトリと目が据わっているのを、俺は気付かない振りをしたが。

 

 緋芽の築地に下ろした輝夜に向ける敵対心を帯びたその異常な瞳だけは、無視する事は出来なかった。

 

 俺が緋芽に声を掛けるよりも早く、輝夜姫がその視線に挑発的な態度で応えた。

 

「何かしら、藤原のお姫様?」

「……貴方が、本当に輝夜姫なんだよね?」

「そうよ? それが何かしら?」

「よくも父様を……! 貴方が……あんたが居たから父様はっ!!!」

 

 突如激昂して掴みかかろうとする緋芽に、俺は咄嗟に輝夜を庇い緋芽を抑える。

 

「どいて柊! 邪魔しないで!」

「馬鹿言え。何で突然輝夜を……いや、理由はさっき聞いたか。輝夜がお前の父親を誑かしたと憤っているんだろう?」

「そうだよ! 父様は輝夜姫の存在を知って以来、毎日の様に輝夜姫の下へと足を運ぶんだ! おかげで私は、全然父様に相手してもらえなくなったんだ……!」

 

 抑えている俺の腕を掴む緋芽の手の力で、その怒りがどれ程の物かを実感する。

 

 ――ああ、思い出した。

 高校生の時に習った『竹取物語』でかぐや姫に求婚し、かぐや姫から無理難題を突きつけられた五人の貴族。

 

 その中の一人の、蓬莱の玉の枝の献上を突きつけられた車持皇子は藤原不比等がモデルとされていたという事を。

 昨日や、今日の茶会で会った様子からして、まだあの無理難題を押し付けられていた訳ではないのだろう。

 

 緋芽にとって今まで、不比等の存在が唯一の希望で支えだったのだから、それを奪われるのではという恐怖や危惧が彼女に大きな喪失感を与えていたのは想像に難くない。

 

 ――だが。

 

「緋芽、落ち着け」

「落ち着けるわけないでしょ!? 私は――」

 

「落ち着けと、言ってるんだ。緋芽」

 

「……っ!?」

 

 少し圧を込めた俺の低い声に、緋芽はびくりと体を震わせてその口を噤んだ。

 一つ溜息を吐いた俺は声を戻し、諭すように事実を告げた。

 

「緋芽、悪いが今回の場合で言えば輝夜は悪くない」

「え……? 何で……!? 何で柊は輝夜姫の肩を持つの!?」

 

 俺が輝夜を悪くないと言うのが、自身の憎悪を全否定された様に感じたのだろう。

 緋芽は再度怒りを露わにしてその意味を問い詰める。

 

「結論から言ってしまうと、誰も悪くない」

「え……?」

「お前の父親を含めて貴族の男が輝夜に求婚するのは、当然その美貌に惹かれているのと、そんな彼女を嫁にしたという箔の欲しさ故だ。

 なあ……緋芽。俺はあの時、お前に何て教えた?」

「あの時……?」

 

 怪訝な顔を浮かべる緋芽に、俺は自分が伝えたあの言葉をもう一度語った。

 

「『俺たち生まれてくる生き物というのは、時代も、親も、容姿も選ぶことは出来ないし、その権利もないんだ』」

「あ……」

「選べずに持って生まれた容姿、存在。それが美しかろうと醜かろうと、それが理由で他人に責められる謂れはない。ましてや、他人が勝手に抱いた感情を己のせいだと他人から非難されるなんて理不尽でしかないだろ。

 ――その意味を、一番理解できるのはお前じゃないのか? 緋芽」

「う、ぅぅ……」

 

 緋芽は膝を突き、力無く座り込んでしまった。

 

 目の前で俯き震える緋芽の気持ちが分からない訳じゃない。

 俺は同情するように、また溜息が出た。

 

 緋芽はどうしてこうも、複雑な状況の板挟みにされなくてはならないのだろう。

 

 この時代の風潮、文化がそうさせているのもある。

 一夫多妻が認められ、貴族ではそれが普通のこの時代。

 

 医療が発展していないこの時代では、産まれた子どもの死亡率は高い。

 一族の繁栄のためでもあるから、貴族は色んな女を娶り子を産ませるのが普通であるため、不比等の行為を責められる理由はこの時代では見当たらない。

 その中でも妹紅の母親は、かなり下の貴族か、平民の立場に当たる人だったんだろうな……。

 

 しかしそれを仕方ないと片付け、目の前で悲しむ少女にただ我慢しろと伝えることも、俺には出来ない。

 

 俺はこの時代に生まれてもなお、どこかで前世の価値観に引き摺られている節がある。

 過去の日本の時代に新しい肉体で生まれようと、俺の人格は未来の日本に生まれ、未来の社会や思想の中で育って死んだ『(シュウ)』だ。

 そう簡単に価値観を塗り替える事が出来ず、この時代では当たり前で仕方のない事であっても、俺にも許せないと思う感情が沸く。

 

 緋芽を助けたいと、思ってしまう。

 

 前世の記憶なんて持たずに生まれていれば、俺はこの時代をもっと気楽に生きられたんだろうか……。

 

 そんな想いが、俺の感情までも沈めようとするが、今は俺の事ではない。

 負の意識に蓋をして、俺は緋芽に語りかける。

 

「緋芽、不比等様の行動や、輝夜の存在を責める事は誰にもできない。この事に関して、お前に味方してやれる人はいない」

「……」

「お前は、不比等様の関心を全て輝夜に取られているから、輝夜に怒っているのか」

「うん……」

「でも不比等様は、ちゃんとお前の事を気に掛けていたぞ」

「……え?」

 

 俯いていた顔を、緋芽は上げて俺を見上げた。

 

「今日の茶会で、俺がお前と庭で話していた事を不比等様は知っていた。それに茶会での別れ際に、屋敷に演奏をしに来た時はお前の話相手になってくれとも頼まれた。不比等様はその時、確かに父親の顔をしていたよ」

「……本当?」

「本当ですよ、緋芽様。私と、私の両親も聞いていましたから」

「……そっか、そうだったんだ……」

 

 再度俯きながら、そう呟く彼女の顔下の瓦が、ぽつりぽつりと雫で濡れ始める。

 

 俺は膝を曲げてしゃがみ、緋芽の肩に手を置いた。

 

「後は、緋芽が。お前が、不比等様だけに抱き縋るのを止めて、外に踏み出せばいいんだ。今まではその機会すらなかったかもしれない。でも、今は違うだろ?」

「ひ、らぎ……」

「緋芽様、今度私の屋敷へ遊びにいらして下さい。沢山お話ししましょう?」

 

 静聴していた阿礼も俺の横に並ぶと、膝を曲げて緋芽に手を差し伸べそう言った。

 

「阿礼、様……うん、ありがとう」

 

 涙を拭い、俺と阿礼の手を取り立ち上がった緋芽は、ただじっと成り行きを眺めていた輝夜に向かい、少しの沈黙の後に軽く頭を下げた。

 

「……怒鳴って、理不尽な怒りをぶつけて悪かった。ごめん」

「別に気にしてないわ。どうでもいいことだもの」

 

 嫌味の含んだ輝夜のその言い方に、緋芽は眉根を顰めた。

 

「……やっぱり、アンタ嫌いだ」

「私は貴女と仲良くしたいなんて思ってないの」

「……ふん。アンタのその捻くれた性格じゃ、柊にすぐ嫌われるよ」

「……っ。あら、貴族の女性とは思えないそのお転婆じゃ、柊の気を引くことなんてできないんじゃないかしら?」

「言ったなっ!?」

「何よっ!?」

 

 仲直りしたかと思えば何故か俺を引き合いに出して口喧嘩を始めた緋芽と輝夜。

 どうやら、元から馬が合わないようだ。

 ああいうのを犬猿の仲と言うのだろう。

 

 だが、先程の重い険悪な雰囲気が緋芽からは消えているので、俺は安心して二人の気が済むまで傍観しようと決めた。

 

「……柊? またなんですか?」

 

 ……俺の背中を冷たい空気が撫で震えたのは、この冬の寒さが原因だ。

 

 決して、阿礼の冷たい声が背後から聞こえたからではない。

 

 

 

「ねぇ、柊」

「何だ?」

 

 結局、いつまでも終わらない緋芽と輝夜の不毛な口喧嘩にいい加減にしろと仲裁に入り、輝夜を加えてまた夜の空を見上げた俺たち。

 緋芽と輝夜は当然隣同士に座るわけがなく、現在俺と阿礼が間に入る形で横並びになっている。

 

 そんな中で、緋芽が不意に俺に声をかけてきた。

 

「柊はいつまで都にいるの?」

「……明日の夜明け前には都を出るよ。明日の日暮れまでに、村に帰らなくちゃならないんだ」

「そっか……」

 

 明らかに声のトーンが下がった緋芽に、俺は苦笑した。

 

「そんな落ち込むな。来月にはまた都に来るから、その時に会えるさ。……そうだな、置き土産に一曲、演奏をするか」

「本当!?」

 

 懐に入れていた笛を取り出すと、緋芽の表情は一転して華やいだ。

 阿礼も笑って手を叩き喜びを露わにする。輝夜は俺が取り出した笛をまじまじと見て、興味を示した。

 

「柊は笛が吹けるの?」

「まあな」

「柊はあの藤原不比等様が認めた素晴らしい奏者なんですよ、輝夜様」

「へぇ……なら、早速聴かせて頂戴」

「ホント、自分勝手だねアンタは」

「私は貴方達と違って、自由に外に行くことはできないもの。何も縛られない今ぐらいは、我が侭を言わせて欲しいわね」

 

 輝夜が月を見上げながら、傍若無人さを持って緋芽に言い返した時、俺は輝夜の横顔を見た。

 俺にはその紅い瞳が、悩ましさと物悲しさを帯びているように感じた。

 輝夜の暮らしには、輝夜なりの苦労や不自由さもあるのだろう。

 

 輝夜はあの月を見ながら、何を思うのか。

 本当にあの物語のように、いつか月へと帰ってしまうのか。

 もしそうだとしたら、月に帰りたいのか、それとも帰りたくないのか。

 聞いてみたい気もするが、俺がそれを知っていたら絶対に怪しまれるだろうな。

 

 さて、どんな曲にしようか。

 

 それぞれに複雑な思いを抱える少女達の心を明るくする、楽しい曲にするべきか……いや。

 

 敢えて、静かな曲にしよう。

 無理して気分を上げさせるよりは、ただその感情に寄り添う曲を聴かせてやりたい。

 

 唇にそっと、笛口を当てる。

 だがそこで、一つ懸念が思い当たって吹くのを止めた。

 

「ここで笛を吹いたら流石にバレないか?」

「大丈夫よ。この時を誰にも邪魔させないから。吹いて頂戴」

 

 そう自信ありげに言う輝夜の瞳が気のせいか、一瞬妖しく輝いた様に見えた。

 ……ここまで来て、演奏しないというのもあれだしな。

 家主が言っているわけだし、なるようになるか。

 

 再度、笛を構える。

 

 ――不思議だ。

 今日は笛を吹こうとするたびに、あの感覚が蘇ってくる。

 

 肺の中の空気が唇から笛へと繋がり、俺の中のイメージが脳から指先へと繋がる。

 

 静謐な月夜の下にそよぐ風と共に、笛の音は夜の冷たい空気を震わせた。

 

 

 

 

 

「父様、母様。ただいま戻りました」

 

 阿礼の屋敷に戻って戸を開けて入ると、奥から阿礼の両親が出迎えに来た。

 

「おお、二人とも戻ったか。随分と歩いていたようだね?」

「知り合いに会ったもので。少し世間話に花が咲いてしまって」

「寒かったでしょう? 奥の部屋に暖かい醴酒(こさけ)を用意してありますから、二人で飲んで下さいね」

 

 聞き慣れない飲み物に、俺と阿礼は首を傾げた。

 

「醴酒?」

「母様、お酒ですか?」

「大丈夫よ阿礼。お米で作った甘くて飲みやすい飲み物だから。藤原様から手土産にと頂いたのよ」

 

 もしかして、甘酒の事か?

 確かに甘酒は現代でも幼児が飲むこともできるものだったし、阿礼でも平気だろう。

 

 せっかく用意してくれたのだから、頂こう。

 俺と阿礼は部屋へと向かった。

 

 ―――それが悲劇を生むとも知らずに。

 

 

 

 

 

「すぅ……すぅ……」

「……眠ったか。まさか甘酒で酔っ払うとは思わなかった」

 

 俺の腹に縋り付くように寝落ちしてしまった阿礼を見て、俺は溜息を吐く。

 相当アルコールに弱い体質なんだろう。

 阿京殿には阿礼に甘酒さえも飲ませないよう伝えないと……。

 

「阿礼を寝床に運ばないとな……誰かまだ起きているだろうか」

 

 部屋を出て人を探そうと立ち上がろうとする。

 

「ひぃ、らぎ………」

 

 だが、うわ言のような阿礼の呼び声に俺は動きを止めた。

 まだ起きていたのか?

 

「阿礼?」

「どうして……私は……」

 

「貴方を―――愛してます……」

 

「………っ、」

 

「だから……すぅ……」

 

 それは、ただの寝言なのか。

 それとも酔って零れてしまった本心なのか。

 

 完全に寝ているだろう阿礼に、それを確認する勇気は今の俺にない。

 

 だがーーー

 

「……俺も、阿礼を愛したいよ」

 

 嗚呼……、本当に。

 

 人生とは、苦しいものだ。

 

 



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妖しい、女

未だに続話を待ってくれている方々がいて、本当に嬉しいです。



「……くぁ……」

 

 台車の車輪が立てるガラガラという音をBGMに、俺は朝早いがために出た呑気な欠伸を一つしながら、まだ薄暗い冬の空を仰いだ。

 

 

 ――悠久のような刻のあの一夜が明けた朝。

 

 昨夜の自身がした事を何も憶えておらず二日酔いの頭痛に苛まれていた阿礼と、阿礼の両親や使用人達に見送られながら、俺は阿礼達からの餞別の品や不比等様から頂いた茶会での褒美の品を山積みにした台車を引いて都を発った。

 

 都から東へ、見晴らしの良い平原を裂くように伸びる道を俺はひたすら歩いている最中だった。

 

 朝一で都を出たため、天候や事故などが問題なく順調であれば、日が沈む前には村に着くだろう。

 

 今日は俺の誕生日。俺の村では村民の誕生日は村全体で祝う宴を行うので、主賓がいないんじゃ話にならない。

 遅れないようこの先何も無いことを願うばかりである。

 

「村に戻ったら、これからの事を話し合わなくちゃなぁ……」

 

 稗田家に婿入りするのか、それとも村長を担い村に骨を埋めるか。

 

「どちらも簡単に切り捨てられないから、迷ってるんだよな……」

 

 阿礼も、村も。

 俺にとっては比べられない程に大切なものだ。

 せめて、悔いが残らない選択をしたい。

 

 憂鬱な気持ちになっていると、不意に瞳に刺さった眩い光。

 山の向こうから空が燃え始め、暁の終わりを告げる。

 

 霞のごとく、定まって見えない己の未来に、様々な思いは巡るが。

今はただ只管に、歩き続けるしかなかった。

 

 

 

 

 

「あれ……この木、だったよな?」

 

 暫く歩いて、3日前に俺が地蔵に笠と蓑を貸した地点へと来た……筈なのだが。

俺は足を止めた。

 

 どこを見渡しても、その地蔵の姿はなかった。

 

 どこまでも続く平原の中の道の傍に生えた、ポツリと在る大きな枯れ木の下に確かにいた地蔵。

 しかし、いない。俺が着けてやった笠と蓑もない。

 俺は首を傾げた。

 

「狐か狸に化かされたのか……? まあいいか」

 

 とはいえ、別に笠と蓑を回収するつもりはさらさらなかったので然程気にしてない。

 運が悪かった。それだけの事にして、村で笑い話にしよう。

 

「丁度いい。腹減ったし、朝飯にするか」

 

 台車を道の端に寄せて停め、荷物の中から布の包みを取り出し、枯れ木の太い根に腰掛ける。

 

「おぉ……」

 

 布を開くと、中には御握りが5個も入っていた。

 朝出発する時、稗田家の使用人たちが渡してくれたのだ。

 

 全て純粋な白米で握られたお握りが、5個もある。

 ……本当に、稗田家の人達には頭が上がらない。

 

「いただきます」

 

 心の底から稗田家に感謝を込め、俺は御握りにかぶりつく。

 一口齧ると、少し強めの塩気が体に染み渡る。

 

 ああ……やっぱ米は美味いなぁ……。

 

 水筒の蓋を開けて、咀嚼した米を水で流し込む。

 

「――っ、はぁ……」

 

 体にエネルギーが補給され漲ってくる感覚。

 体が、養分を得て喜び、熱を発する。

 

 この時代に生まれて、食事の有り難みとその大切さを強く感じるようになった。

 飽食の時代と呼ばれた未来では薄れていたこの感覚。これがどれ程素晴らしいものか。

 ただの米でも、ただの水でも。

 この時代を生きている俺にとっては最上級のエネルギーだ。

 

 御握りを3つ食べて、残りはまた後で食べようと布を閉じ。

 俺は腹ごなしがてらに笛を取り出し、一曲奏でた。

 

 演奏に浸って暫く、笛から口を離すと、後ろから手を叩く音が聞こえてきた。

 振り返ると、草原の中に揺らめく一人の女性がいた。

 

「素晴らしい演奏ね。感動したわ」

 

 庶民的だが余り汚く見えない菫色の着物を着た、長い金髪の中々に美人な女。

 その女は、俺ににこりと笑いかけてこちらに寄りながら、そう褒めてきた。

 

「賞賛の言葉をどうも。こんな所に女性が一人でいるとは思いもしなかったな。俺は柊というが、あんたは?」

「私は紫。ただの美人な旅人よ」

「ふーん……? 旅人ね……」

 

 (ゆかり)と名乗る、見た目は若く確かに美しい女が一人で旅とは。

 それに旅人と名乗るにしても、その女は特に旅の荷物を持っている様にも見えない。余りにも身軽過ぎる。

 その笑みは男を惚けさせてしまうには十分に美しいが、俺にはどこか胡散臭さも感じられた。

 

 正直、彼女の第一印象は怪しい尽きる。

 

 そんな俺の警戒心を感じ取ったのか、俺の目の前まで来て苦笑しながら首を振る紫。

 

「そんなに怪しまないで欲しいわ。ほら、この通り幽霊でも化生でも何でもないわよ」

 

 そう言って座っている俺の眼の前でしゃがみ、俺の頬に手を添えた紫の手は確かに、仄かな(・・・)暖かさを感じた。

 頬から離れ、下がる紫の手を目で追いながら少し静まった俺の警戒心。

 とりあえず(・・・・・)は、人間であると思っておく。

 

 紫は俺の隣に座ると、俺の服装をまじまじと見て尋ねた。

 

「ねぇ、柊は見たところ上質な着物を着ているけれど、貴族に仕える奏者といったところなのかしら?」

「いや、俺はこの道を東にずっと歩いた先にある農村の者だよ。今は都から帰る途中だ」

「……農民?」

 

 そう教えたのに、紫はキョトンとした目を向けて首を傾げた。

 

「そんな、そこらの下級貴族よりも良い服を着て、農民なの?」

「都に俺の友人の貴族がいるんだ。そいつからの、20回目の誕生祝いの贈り物なんだよ。自分で言うのも何だが、結構気に入ってんだ」

「ふーん……さては、女ね? 玉の輿ね?」

「……すんなりとそうなれたら、どんなに幸せだろうな」

 

 皮肉たっぷりに茶化して言う紫に、俺は色のない声で、ただ淡くそう返す。

 そんな俺に紫は何か察したのか茶化す空気を消して、吊り上げていた口角を戻した。

 

「……まあ、色々とあるのは分かったわ。失礼な事言ったわね」

「気にするな……それで、俺に何か用でもあったか?」

「いえ、貴方の笛の音が素敵だったからつい話しかけただけなんだけど……でも、そうね。貴方について行けば今夜の寝床にありつけそうだわ。ご一緒してもいいかしら?」

「……俺の村はここから東に、大体日没まで歩く距離にあるが、大丈夫か?」

「ええ。目的(・・)はあっても、目的地なんて無いもの。構わないわ」

「ふぅん……ま、いいか。ここで会ったのも何かの縁だしな」

 

『目的はあれど目指す場所は無い』という紫を不思議に思いつつも、大分警戒心の薄れていた俺にはそれ程気にかかる事ではなかった。

 

 じゃあ行くか、と立ち上がろうと俺が脚に力を込めた瞬間。

 

 くぅぅー、

 

 という、気の抜けた音が鳴り響き、その為力が抜けた俺は立ち上がるのに失敗した。

 その音の発生源に目を向ける。

 

「……っ、…ぁ…ぅ……」

 

 お腹を抑え、顔を赤くして羞恥に震える紫。

 堪らず吹き出し、俺は隠す素振りもなく声に出して笑う。

 

「ははは、 随分可愛い腹の音だなぁ」

「う、煩いわね!? ここの所何も食べてないんだから仕方ないじゃない!」

「何だ、そうなのか。じゃあこれ食えよ」

 

 そう言って、俺は包みを開いて残っていた御握りを差し出す。

 その白いツヤツヤの米に、紫はゴクリと喉を鳴らした。

 

「い、いいの? それ……白米でしょ?」

「俺はついさっき3つ食ったしな。いいぞ、食え」

 

 御握りを持った手で促し、紫は恐る恐ると手を伸ばして御握りを手に取り、口に運んだ。

 

「~~~っ!!」

 

 声にならない歓喜をその緩んだ頬で表現する紫は、二口、三口と忙しなく一つ目を食べ終えて、二つ目の御握りを今度は大事そうにゆっくりと食べ進めていく。

 

 若干頬を膨らませて食べている紫の横顔が、なんだかリスみたいだと微笑ましく思って笑いつつ。

 

 静かで平和な朝の一時の中、紫の食事が終わるのを待っていた。

 

 

 

 

 ―――最初に柊を見た時、私はてっきり彼を同族(・・)だと思った。

 

 木の根に腰掛けて、つい聴き惚れてしまう程素敵な笛の音を奏でていた彼が纏う空気感の中に、私と同じモノ(・・)の気配を感じて私は声を掛けた。

 

 だが、演奏が終わって柊が私の方を見た時、私は彼の匂いがまさしく人間である事に気が付き、笑顔を演じていた内心ではとても驚いていた。

 

 整った顔立ちに、少し長めで野暮ったさのある黒い髪。そして貴族のような美しい着物を着て笛を吹く柊。

 見た目であれば、どこかちぐはぐではあるものの只の良いところの貴族の人間にしか見えない。本人曰く農民らしいが。

 

 私に警戒心を持つ彼と会話をして、彼の頬に触れてみたりしても、逆に人間であるという確信の方が強くなっていく。

 

 なのに、何故か初対面であるのに、柊からはどこか安心感のようなものを覚える。

 

 彼は、不思議な人間。

 無性に惹かれる何かを持った、興味深い人間。

 

 それに彼は、とても優しい。

 

 貴族しか食す事のできない混じりっ気のない米だけのお握りを、お腹を空かせた見ず知らずの旅人に惜しげも無く差し出してしまうのだから。

 私はそれを食べて、思わず我を忘れて喜んでしまった。

だって、米だけのお握りを食べられるなんて思いもしなくて、久しぶりに食べる穀物も、悪くないと思った。

 それどころか、食事している私の格好を寒く思ったのか彼は、彼の髪と同じ上品な道行まで羽織らせてくれた。

 

 妖しい歳上の女性を演じていたのに、ものの見事にそれを剥がされた。

 それが悔しくて、落ち着きを取り戻して二つ目の御握りを食べている間、ちょっと着物を着崩して胸元を少し見せてみた。

 その崩さない澄ました顔を赤くしたり目を泳がせる彼を見たかったのだけど。

 興味も無さげに「風邪を引くぞ」とだけ言って、また笛を吹き始めてしまった。

 

 意中の女性がいるという余裕かしら?

 まったく見向きもされなくて、少し腹が立ったわ。

 

 彼が纏う着物は、それはそれは見事だ。

 きっと彼の為に仕立てられたものなのだろう。彼は常人よりは背がかなり高いし、着物に施された意匠はとても丁寧で手が込んでいる。

 

 それに彼の着物からは、(まじない)の力を感じる。

 決して悪意のない、祈りと願いの篭った咒。

 

 彼は気付いてないようだけど……相当想われているのね。

 

 もしかしたら……彼は私の目的(・・)を一歩近付ける存在になるのかもしれない。

 

 そんなことを思いながら、私は彼の演奏を聴いていた。

 




もう社会人になってしまったけれど、また少しずつ書いていきます。

前話に『月下の夜会』も投稿していますので、そちらもお読み下さい。


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そして俺ハ、

職場異動で引っ越しして、ウマ娘に浮気してました。
すみません。

そんで新連載始めました。


 

 

 彼の村に追いつき、そして見つけた彼の気配が

 

 

 細い糸がギリギリと音を立てて

 

 

 真っ直ぐに張り詰めていたそれは

 

 

 やがて耐え切れず、勢いよく弾け

 

 

 そして、彼は──

 

 

 

 

 

 道中で旅路の供を見つけたことで、いつもの帰路よりも退屈がなく済んだ。

 お陰で、冬の早い日沈の前には村へと着けそうだ。

 

「もう一刻もなく到着するぞ」

 

「あら、思ったより早かったわね……ふぅ」

 

 冬とはいえ、荷車を引きながら一日中歩いていると体がじんわりと汗ばんでくる。

 あと一息と、俺は水を飲んだ。

 

 隣で息を吐く紫に水筒を差し出すと、彼女は礼を言って受け取った。

 

 ふと、空を見上げる。

 西陽が山を燃やし、黄昏に染め。

 その反対の空からは、月が昇り始めていた。

 気温も下がり、白い息が目立ってきている。

 

「もう少しだし、歩を早めるか」

 

「そうね。寒くなってきたし早く暖を──ん?」

 

 隣を歩く紫が、疲労を見せていた表情から一転、表情を消した。

 

「どうした?」

 

 彼女の雰囲気が緊張を纏うのが見て取れ、俺は訊いた。

 

「ねぇ、急いだ方がいいわ」

 

「なんだ」

 

「…の……が、するの」

 

「………何?」

 

 小さく紫は呟いた。

 俺が訊き返すと、紫は冷たい声音はっきりと告げた。

 

「ーー血よ。酷く悍ましい、濃密な血の臭い。この道のずっと先から」

 

 俺は言葉を失った。

 

血?

 この先の道には、俺の住む村しかないのに?

 

 無情にも、意識した途端に俺の鼻にも血の臭いを感じ取った。

 体から熱が消えていき、緊張の糸が細く張り詰めていく感覚を帯びた。

 

「柊、先に行って。荷車は私が引いて追いかけるわ」

 

「ーーッ、すまない!」

 

 俺は応えるや否や、すぐさま台車を捨てて全力で駆け出した。

 

 無事で……無事でいてくれ……!!

 

 緊張により、呼吸と脈が加速する。

 

 ーーざわりと、俺の頭の左側がまた疼き出した。

 

 

 

 

 

 そこは地獄だった。

 

 村は、既に滅んでいた。

 

 篝火が落とされ、斜陽に照らされる村。

 

 家屋は倒壊し、畑は荒らされ、家畜は死に絶え。

 

 村中の空気は、吐き気を催す血肉の腐乱した臭気が支配し。

 

 あちこちにある、赤い水溜りの中心には、顔を見なくても分かる家族に等しい村民の姿。

 

 村民は臓物を晒す者、四肢を欠損する者ーー何かに喰われた跡の者。

 

 そこはまさに、地獄以外に何と言うのか。

 

「ーーなぜ、」

 

 なぜ、どうしてーー、

 

 村の入り口で立ちすくみ、変わり果てた村に呆然とする。

 

 ふらりと一歩踏み出した足に、何かがぶつかった。

 

 ーーそれは、愛しい家族の、横たわる姿。

 

「姉、さん……」

 

 新婚になって、旦那の小次郎さんと仲睦まじく暮らしていた下の姉。

 この上ない絶望と苦しみを受けたであろう悲痛な表情を残して死んでいた。

 姉さんが想像を絶する苦痛を受け死に絶えたのは明白。

 

 俺は力なく膝を着き、動かない姉さんに触れ、抱きしめた。

 姉の身体に熱はなく。その冷たく硬い肌の感触が、より死と絶望の現実を己に容赦なく実感させる。

 

 声にならない悲鳴が喉を貫いた。

 

「ーーッ、ぁぁーーッ!」

 

 その亡骸を抱いた時、またあの頭の疼きが訪れる。

 今までにない、心臓が脈打つような激しさを伴って。

 

 

 ーーああ……どうシて、ナゼ。

 

 

 この慟哭に呼応するように、胸の内から湧き上がるこの現実への憎悪が。

 絶望に打ちのめされた、伽藍堂の己の自我を侵食する。

 

 

 ーー自身の未来を考えなくてはと。

 

 家族と、家族のように育ってきたかけがえのない村民たちを支えていく村長としての未来と。

 

 花のように可憐で儚く、小さな体躯に重い使命を背負い、受け入れ全うしようとする少女との恋慕に焦がれた己の幸せとを。

 

 簡単に答えが出せないから。

 これから時間をかけて、考えていこうと。

 

 そう思った矢先に、歩き出した途端に。

 

 目の前の道は奈落の底だった。

 

 

 ーーナゼ。だレが……殺シた………?

 

 

「ーーー生存者か? いや、貴様は……ああ、藤原殿のお気に入りの庶民か」

 

不意に、そんな声が目の前から聞こえてきて。

 最早思考も儘ならない意識の中、虚な視界がそれを視た。

 

 村の中心から歩み寄る、人影。

 都から離れたこの地に似つかわしくない上質で、闇に紛れそうな漆黒の唐衣を見に纏い。

 顔は黒い烏帽子から垂れる謎の紋様の記された布で隠し、鼻から下は黒い布で覆っている。

 

 明らかに、異質な装い。

 

 だが、朧げな意識の中で。

 それでも気になる一言を、目の前の奴は発した。

 

「藤、原……?」

 

「藤原殿からこの辺りに邪な物怪の気配があると調査を依頼された陰陽師の者だ。私も、数刻前にこの村に訪れたのだが………既に、この有様だった」

 

「………」

 

目の前の陰陽師の低くしゃがれた声が、嫌に耳に響いた。

 

「其方は藤原殿が認めた笛の奏者だそうだな? 藤原殿が、生存者が居たならば其の者を保護し、都へと受け入れよと仰られた」

 

「故に其方を保護し、都へ連れ帰る命を私は果たそう。ここは血の匂いが濃い。また物怪が襲いに来るやもしれぬし、獣も寄ってきてしまうだろう。この村の処理は後日、手厚く弔ってやる。なれば立つが良い」

 

 

ーーー最初から。

 

 最初の発言から、この男の言葉は、俺の心に響かなかった。

 

 それどころかーーー。

 

 酷く醜悪で、粘るような欲と俗に塗れた思考が、その声に纏わりつくように塗り固められていて。

 

 

 だから、俺は一つだけ、

 

こう言ったのだ。

 

 

 

 テメェが、死ねば良かったのに 

 

 

 

「………辞めだ」

 

それは見事なまでに、男から体裁と仮初を取り払った。

 

「やはり此奴は当初の予定通り、殺してしまおう。()しかけた妖どもに運悪く見つかり巻き込まれ、私の到着間に合わず喰われたと報告すれば、藤原殿も諦めよう。そも、此度の計画は藤原殿の依頼なのだしな。もし私に責任が及んだとしても、此奴が受け取ったとされる褒美を横取りすれば、別の国に逃げても暫くは暮らしに困るまい。嗚呼、そもそもこんな見窄らしく下賤な庶民が貴族に取り入ろうなどと考えたのが間違いだったのだ。あの稗田家と娘に見染められているのも聞いただけで虫酸が走る。

 

 ーーー全く、身の程を知れ。(ごみ)が」

 

面白い程に、笑える程に簡単に男は本音と真実を喋った。

 

 

 そうか。

 

 ソウカ……。

 

 己の私欲のために、俺の村を、未来を潰した藤原氏。

 嫉妬と傲慢と、醜い身分格差の尊厳思想に俺を殺さんとする陰陽師。

 

 

 なあ、阿礼。

 なあ、緋芽。

 

 やっぱり、人は醜いな。

 

 けれど、やっぱり。

 回り回って、こんな事になったのは俺のせいなのかもなしれない。

 

 だカラ、

 

 オレは、

 

 

 ーーーオレハ人間(オレ)ヲ、憎シミタイ。

 

 





世俗のコンテンツと活字離れが著しくて、リハビリにウマ娘やってみたらどハマりしたんです。

そんで調子に乗って、ウマ娘で小説書いたんです。
そしたらちょっとずつ筆の感じが戻ってきました。

『トレセン学園のシェフ・ソーマ』

【ウマ娘】×【食戟のソーマ】のクロスオーバー作品です。
良かったらこちらもご覧下さい。

東方小説は、にわか知識を振り絞って書いてる作品なので、少しずつ書いていきます。

よろしくお願いします。


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