緑の花咲く系統樹 (メンシス学徒)
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前編

二・三話程度の中編にする予定です。
では、しばしお付き合い下さいませ。





「とんでもないものを連れて来てくれたな。なんだありゃあ、何処から拾ってきやがった」

「それを訊ねるのは本来私の方なのだがな。判っていたら、態々こんな所にまで足を運んだりはしないよ」

 

 少し落ち着け、と未だ興奮覚めやらぬ女医を宥める。

 この闇医者とはそれなりに長い付き合いだが、これほどまでに狼狽した姿を晒したことはかつて無かった。腹を銃弾に食い破られたときでさえ淡々と処置し、眠たげな半眼を崩さなかったというのに、今やその目蓋は限界まで開かれ、白目が血走り鬼相を呈する始末である。

 

(まあ、こいつの気持ちもわからんでもない)

 

 スミカ自身、アレ(・・)を発見した瞬間は作戦行動中にも拘らず呆然とし、ネクストごと棒立ちになり、オペレーターの悲鳴のような呼び掛けでようやく正気に戻るという失態を犯している。その負い目が、彼女に平手の一つも張らせずに、自然鎮火を待つだけの寛大さを与えていた。

 

「それで? アレの中身はどうなっていた」

「その訊き方。おおよそのアタリはついているんじゃあないか?」

「まあ、な」

 

 歯切れも悪く、スミカは一度薄汚れた天井を仰がねばならなかった。これを口にするには勇気が要る。

 

(アレはそれほどまでに現実離れした、悪夢の如き光景だった)

 

 正直、未だに自分の脳がイカれてありもしない幻覚を見たのだという疑いが、頭の隅から離れない。それはそうだろう、

 

「プライマル・アーマーが自然減衰してゆく高濃度コジマ汚染の真っ只中。あらゆる生命を拒絶する、そんな場所で。……防護服も纏わずに平然と歩き回るような奴が、ただの人間なわけないだろう」

 

 こんなことを大真面目に告げてくる奴がいたならば、スミカは迷わずそいつを病院に叩き込む。

 コジマ粒子に脳味噌まで犯されたか、戦場のストレスに精神が挫けでもしたか。いずれにせよ、正気を失ったと判断するに違いない。

 だが、女医は動揺しなかった。納得だと言わんばかりに深く頷くのみだった。

 

「結論から言おう。アレは人間じゃなかった」

「どこかの企業が秘密裡に開発した人造人間(アンドロイド)とでも? それにしては柔らかかったな」

「違う。そんな低次元なものではない―――これを見ろ」

 

 と言って数列やらアルファベットやらがこれでもかとばかりに刻印された紙束を渡してくるが、スミカには何がなにやら分からない。宇宙言語を理解しろと迫られている気分だった。

 

「生憎と戦争以外に能のない女でね。噛み砕いた説明を頼む」

「奴の遺伝情報の解析結果だ。一目で人間とは別種と分かるレベルにまで変異している、いや、この場合は『進化』と呼ぶのが適切か」

「進化、とはな。大きく出たものだ」

「でもあるまい。生命は過酷な環境に晒される度、それを乗り越えようと画期的な飛躍を遂げてきた。この惑星では何十億年も前から繰り返されてきた現象に過ぎんよ」

「で、その生命とやらはとうとうコジマ粒子の害毒さえも超克するに至ったと? 傑作じゃないか、安っぽい大衆小説に採用されそうな設定だ」

「或いは、それ以上やもしれん」

 

 皮肉を真っ向から切り返されて、スミカはちょっと反応に詰まった。

 

「骨格・筋肉・神経・血液―――ここの設備で洗えるものは残らず洗ってみたんだが。正直、なんでアレが人間の形をしているのか分からなくなったよ。一種の欺瞞作戦なのかと疑いたい気分だ。霞、アレは多分、コジマ粒子をエネルギー源として取り込んでいるぞ。だから食事の必要性も薄いし、膂力・回復力共に化け物の域だ。拘束衣程度なら紙切れよろしく引き千切ってのけるに違いない」

「まさか」

「それだよ。その『にわかには信じ難い』というのが欺かれているというのだよ。いいか、アレを見た目通りの子供と思うな。超小型の怪獣と思え。それくらい、人類種とは隔絶した能力差がある」

 

 まったく、科学者らしからぬ発言ばかりだな、と女医は苛立たしげに頭皮を掻いた。ふけ(・・)が毟り飛ばされて、スミカのパイロットスーツにまで付着した。

 

(こいつ、また風呂に入っていないな)

 

 医者だというのに、この衛生観念のなさはどうであろう。スミカは露骨に渋面を作った。

 

「それで?」

「ん?」

「一番重要なことを聞いていないぞ。あいつのAMS適性はどうだった(・・・・・・・・・・・・・・・)

「……ああ、それか」

 

 今度は女医が鼻白む番だった。

 スミカの瞳が、凄絶なまでの輝きを湛えている。

 稚気と狂気が入り混じり、そのくせ濁りがまるでない、なんとも異様な輝きだった。

 

(どうも、苦手だな)

 

 こういう眼を、特に戦争だの殺人だのと所謂異常事に関わる人間がするときは、決まって碌な事をやらかさない。ましてやこの女は弱冠十六歳にして国家解体戦争に参画し、あの凄愴酸鼻極まりなかったリンクス戦争さえ生き延びてみせ、今なお戦功を重ね続ける札付きの怪物ではないか。

 大発見に伴う興奮を、一瞬で吹き飛ばされる思いであった。果たして事実をありのままに伝えてよいものか。……

 

「案ずるな。要求には応える女だよ、私は」

 

 が、結局女医は隠蔽を行わず、事実を事実のまま開陳した。

 場当たり的な小細工程度、この傭兵なら苦もなく見破ると確信していたのもある。

 だがそれ以上に、落魄し、権威も名誉も投げ捨てて闇の中でか細く呼吸を続けるばかりの身であっても、研究者としての誇りは棄てていないのだ。

 依頼人を欺く真似は、彼女のポリシーが許さなかった。

 

「なんというべきか、とんでもない数値が出ているぞ。計器の故障を疑って、何度か再検査を行ったほどだ。過去に存在した如何なるリンクスも、これに比べれば月と泥亀になってしまう」

「ふむ。AMS適性の高さが、そのままリンクスとしての実力に直結するわけではないが」

 

 さりとて、高過ぎて困るという道理もなし。スミカの口角が吊り上り、笑顔の形を為してゆく。

 獰猛な「笑み」だった。

 最高の獲物を眼前に控えた獣が浮かべる、犬歯の光る笑みだった。

 

「……何となく予想は付くんだが、一応訊こう。霞、お前はこれからどうする心算だ?」

「どう、とは?」

「あいつをどう処するのか、と訊いている。やはり乗せる(・・・)気でいるのか」

「無論だ。あれほどの逸材、活用しなくてどうする」

 

 常日頃の鉄面皮を崩し、頬を上気させてまで、スミカは語る。まるで童女が飼い犬の精悍さを誇るが如く、無邪気な調子で語ってゆく。

 

「これほどの適性をほこるなら、精神負荷なぞ寸毫たりとてかかるまい。完全なる人機一体が果たされる。ネクストは、文字通り奴にとっての第二の体となるはずだ。基の身体能力の高さは、それだけ無茶なGにも耐えられるということ。戦場にどんな軌跡が描かれるか、胸が高鳴って仕方ない」

 

 これが本当に、飼い犬程度の自慢だったらどれほど心は楽だろう。仮に狂を発して暴れ出しても、犬畜生風情ならば容易く鎮圧が可能である。銃弾一発で機能の停止するいきものの、なんと可憐であることか。

 

(だが、アレが暴走すれば?)

 

 ただでさえ強靭無比な生命が、その上人類史上最高の殲滅兵器を操縦し、おまけにその巧みなること無類とくれば。

 一体誰に、その凶行が止められる―――?

 

「どうだ、正しくリンクスになるべくして生まれてきたような男じゃあないか」

「生憎と、私はお前ほど楽天的にはなれんよ」

 

 地獄の未来を想像して、女医は重苦しく口を開いた。

 妄想ではないだろう。ネアンデルタール人とクロマニヨン人に見るように、ある生物種が進化の隣人たる近隣種を駆逐するのは決して突飛な話ではない。現にこのときの女医の預言は、後年、ある可能性世界線に於いて不幸なほど正確に的中する運びとなる。

 

「いいか、先刻私は進化と言ったが。冷静になって眺めてみると、これがどれほど異常な進化かよく分かる」

「なんだと」

「早すぎるんだよ、圧倒的に。リンクス戦争終結から、まだたったの三年だぞ」

 

 コジマ粒子による深刻な環境汚染問題は発見当初から論じられていたところだが、現実にそれが深刻化したのはリンクス戦争以後といっていい。

 国家解体戦争は少数のネクストによる圧倒的蹂躙劇として短期間の内に幕が下りた。換言するなら、世界を舞台にしたにも拘らず、汚染する間もないほどの勢いで終わってしまった。

 その後に開かれたパックス・エコノミカ情勢下における戦闘は、あくまで企業間の利害にからむ間接的な妨害行動。資源・資産の所有権争いに代表される、規模も理念もちっぽけな小競り合いに過ぎない。

 だが、リンクス戦争は違う。

 この世界で初めての企業間直接戦闘は、死に物狂いになった人間は何をしでかすか分からないという単純不変の真理を人々に思い出さしめた。

 後のことなど知ったことか、ただ目の前の戦闘に勝利出来ればよいとばかりに汚染を顧みぬ大型兵器群が惜し気もなく投入され、巨大コロニーがあっけなく消滅。戦場の花形たるリンクスまでもが星が落ちるように次々死んでゆく様は、さながら悪い夢のよう。

 

(さてこそ、黙示の日の到来か)

 

 無神論者である彼女でさえ、それを思った。

 汚染は無秩序に拡大し、誰にも歯止めをかけられない。漸く終わってみたものの、後に残されたのは「もはや人類の生存圏として適しない」とまで判断された不毛の大地ばかり。たった二年に満たない程度の戦争でありながらこれほどまでの被害を及ぼしたのは、言うまでもなく人類史に於いて未曾有だろう。

 その衝撃があまりに大きかったゆえ、つい忘れてしまいそうになるが―――世界が重度のコジマ汚染に蝕まれて、まだ三年しか経っていないのである。

 

「仮にリンクス戦争勃発直後から計上しても、僅かに五年だ。『新種』が生まれる土壌ができてから、まだたったの五年なんだ。それっぽっちの時間であっさり進化を成し遂げ『新種』を生み出せるほどに、生命は適応力豊かにできていない。ましてや人間ほどの高等生物なら尚更だ」

 

 一朝明けたらボルボックスが二足歩行していたようなものだぞ、と下手な比喩まで持ち出した。

 

「だが、現にできているではないか」

「だから異常だと言っているんだ。しかも現生人類との差異ときたら、類人猿の比じゃあない。ミッシングリンクが十も二十も必要になるぞ。本来踏むべき過程を大飛ばしにして成立した、畸形そのものの新人類と認識してくれ」

 

 会話には思わぬ効果がある。相手に語りかけているつもりが、その実自分の言葉に自分自身が感化され、啓発され、気付けばとんでもない場所にまで流されていることがある。

 この場合の女医もそうだった。話せば話すほど彼の者の異常性に気付かされ、生々しい戦慄を呼び起こされ、いよいよ抜き差しならない危機を予測し、感応してくれないスミカに苛立ちを募らせた。

 ついには、殺すべきだ、と叫んだ。

 

「なんと言った、貴様」

(しまった)

 

 後悔しても遅い。スミカの全身には殺気が漲り、触れれば切れんばかりである。

 こうなってしまっては、説得なぞ不可能であろう。どころか、一秒後の自分の首の所在を心配せねばならない。

 

(ええい、ままよ)

 

 だが、女医とて並みの胆力の持ち主ではない。殺すなら殺せ、と即座に自己を放下した。

 死ぬ前に、この腹に蔵するものを総て叩き付けてやろうと決意した。

 

「全人類規模で考えろ。異常な進化を果たした者の脳内が、正常なわけないだろう。アレはコジマの申し子だ。必ず世界に災いするようになる」

「貴様こそよく周りを見ろ、この世界の何処に正気が残っている。異常で結構、狂人で結構ではないか。狂った世界なればこそ、何かを為すのは狂人のみだ」

なにか(・・・)。そのなにか(・・・)とやらが人類滅亡であったとしても是とする気なのか、お前は」

「あのな、少しは私を信頼しろ」

 

 スミカの殺気が和らいだ。

 声色も、どこか呆れを滲ませたものになっている。

 

「別に私は、奴を冷酷無比な殺戮機械にしたいわけではない。むしろ逆だ。私の持てる全てを傾け、育て、導き、人類史上最高の戦士に仕立て上げる所存である」

「可能とでも思っているのか? 猫を飼いならすのとはわけが違う。もし奴が遺伝子レベルで人類抹殺を義務付けられていたら、どうする」

「矯正するさ。本能を超克する理性など、今日日大して珍しくもない。そこまで育て上げてみせる」

「それでも、万が一失敗したら?」

「その時は、私が殺す」

 

 さらりと言ってのけるのである。

 

(出来るものか)

 

 そう反論しようとして、出来なかった。

 喉に、空気が詰まっている。

 場末のチンピラが一つ覚えに吼え立てているのではない。霞スミカだ。

 正真正銘、命のやりとりを商売にしている猛獣なのだ。

 その行為の意味も重みも熟知していて、だからこそ容易に口にしない。少なくとも霞スミカとは、そういう節度のある傭兵だった。

 なればこそ、いざ口にした際には、その言葉は比類なき重みを帯びる。その重みに為すすべなく、女医は気を呑まれてしまっていた。

 

「私が蒔いた種ならば、私が刈るのは道理だろう。必ず殺す。殺して、その隣で私も腹を掻っ捌く。私はやると言ったらやる女だ。責任はきちりと果たすとも」

(違う、そうじゃない)

 

 今自分が問題としているのは、いざあの化物が暴走した際確実に対処が可能かという、いわば純粋な戦力論であって、そこにスミカの決意や意気込みやらが介入する余地は全くないはずである。

 

(気分があっても具体案がない以上はどうにもならない。どころか現場に於いては木偶の坊として周囲の邪魔になるだけだ。そんな基本すらわからんのか)

 

 にも拘らずこの女ときたら、議論とは何の関係もない人間的迫力によって強引に押し切ってしまおうとしているのだ。たまったものではなかった。

 

(こ、これは卑怯だ)

 

 と思いつつも、どうにも出来ない。こうまでスミカの決意が固い以上、これ以上の抗弁は徒労だと諦観しつつもあった。

 

(いっそ、企業に密告するか? ……いや、無駄だな。あれほどの逸材、連中がみすみす処分するわけがない。嬉々として実験に使うだろう。で、霞の手に委ねるよりも悲惨な結果を招来しては、何をやっているのか分からない)

 

 はあ、と。

 肩を落として、女医は大きなため息を吐いた。

 

「……お前が子育てねぇ。出来るのか? 傭兵稼業と兼業で。ネグレクトで通報されるオチが見えるが、どうなんだ」

「心配するな、そうはならんよ。どの道傭兵稼業は続けられん。暫くは母親の真似事に専念するはめになるだろうさ」

「どういうことだ」

「なに、単純な話。任務を途中で放棄した」

「なんだと?」

 

 女医は耳を疑った。にわかには信じ難い話である。

 彼女の知る限り、霞スミカが雇い主に不義理を働いたという話は一度もない。そうした身勝手さとは対極に位置する、生真面目な性根の持ち主と認識していたというのに、この発言はどうであろう。

 

「民間人を虐殺しろとでも命じられたのか?」

 

 可能性としては、それくらいしか考えられない。だが、スミカは首を横に振った。

 

「実はな、私があいつを見付けたのは、とあるミッションの最中だったんだ」

「おい待て、まさか」

「直ちに確保して戦域を離脱した。ユニオンの連中も大層面食らっていたな、何が起きたのか理解不能だったろう。初動の遅れが追跡の遅れにも繋がった。おかげで随分と逃避行が楽になったよ。やはり人生は即決即断だな」

「何やってんだお前、馬鹿なんじゃないか?」

 

 開いた口が塞がらないとはこのことだろう。女医は再び、前途に激しく不安を掻き立てられた。

 が、スミカにも言い分はある。

 

「あのときはああするしかなかったのだ」

 

 仮にあのままミッションを遂行するとなれば、当然「彼」からは目を離さざるを得ない。

 で、いざ終了後に戻ったところで、「彼」が相も変わらず同じ場所に留まっているとは限らないのだ。むしろ何処かへ移動する方が人情として自然な行動に思える。

 それきり二度と逢えないようなことになってみよ、それこそ悲劇ではないか―――。

 

「なら、確保してからミッションを完了させればよかったろう。ちと狭かろうがコックピットに同席させるなり、やりようは幾らでもあったはずだ」

 

 正論である。

 が、スミカに言わせればそれも否であった。

 まず第一に、コックピットに乗せろと言うがあの場は高濃度コジマ汚染地帯である。

 そんな場所でハッチを開ければ、間違いなくスミカは重度の汚染を受ける。運が悪ければそのまま墓場へ直行だ。パイロットスーツで軽減できるような、そんな甘い代物ではなかった。

 更に言うなら、そんな場所で確保した子供をのこのこ連れ帰ったとして、果たして後ろの研究者どもが静観してくれるだろうか。いいや、否、否、断じて否だ。これほどの奇跡、あの好奇の狂熱に取り憑かれた変態共が見逃すわけがない。場合によってはスミカを殺してでも奪い取ろうとするだろう。

 結局、逃げるしかないという結論に達する。

 それもスミカが何を見付けたのか、モニタリングしているオペレーターにも察知できないほどの迅速さで、だ。

 結果的に、それは成功したのだろう。追っ手の様子を見れば瞭然である。もし「彼」の価値に気付いているのなら、もう百倍は執拗であっていいはずだ。

 

「或いは、オペレーターのあいつが隠蔽してくれたのか、濃厚なコジマ粒子が通信にまで悪影響を及ぼしたのか。いずれにせよ、こうして私は晴れて逃亡者の身の上だ。営々築き上げてきた信頼も、これでいっぺんに失った」

「歓迎しよう、こちら側の世界へようこそ」

「なんだ、酒でも出してくれるのか? 知らなかったな、お前がそんなに気前のいい女とは」

「エチルアルコールなら浴びるほどに呑ませてやるよ。……しかし、よく決断したな。それも即決で。控え目に言っても、前半生をどぶに叩き込むようなものだろうに」

 

 仮に将来ほとぼりが冷め、インテリオル・ユニオンがこの一件を不問に処したとしても、霞スミカという傭兵が再び戦場を疾駆する日は来ないだろう。

 

 ―――戦闘中に錯乱し、敵前逃亡を犯した恥知らず。

 

 こんな烙印を押された傭兵を、使いたがる企業は皆無だろう。一度事故を起こした以上再発の危険性は永劫離れず付き纏い、しかも今度は前回以上の惨事を招くやもしれない。ただ逃げ出すならまだしも、後ろから撃たれるなど最悪だ。

 買い手がつくとすれば精々反動勢力あたりが関の山だが、今度はスミカの信条が邪魔をする。

 タイミングも最悪だった。リンクス戦争の影響で、企業はリンクスの扱いに神経を尖らせきっている。

 

 ―――企業における軍事力は、コントロールをその第一の要件とし、代替不能な個人にこれを委ねることは厳に慎まれるべきである。

 

 一見尤もらしい理念だが、なんのことはない。至って単純な恐怖が根本に横たわっている。

 強大な力を持った個人がなにものの統制も受けず、己一個の理念にのみ従って行動するというのは、現在地上を支配する者どもにとっては悪夢に等しい。人を殺す効率が究極まで向上したこの時代だからこそ成立する恐怖だった。

 結果的に今回のスミカの行動は、この痛点をまざまざと抉ることとなった。「血の気多く、過激な言動が散見されるものの、命令に対しては極めて従順」と評され、一定の信頼を得ていた彼女でさえあのような暴挙に走るのである。しかも、なんの脈絡もなく、だ。

 AF(アームズフォート)が隆盛の極みに達した後年ならば、まだしも話は違ったかもしれない。

 しかし現下に於いては未だスピリット・オブ・マザーウィルすら建造の途中であり、つまりは支配者達に鎮痛剤の用意がなかった。

 彼等が叫喚するのは流れとしてあまりにも自然であろう。リンクスへの不信はますます募り、代替手段の模索に躍起になる。

 

(企業からもリンクスからも、霞はさぞや怨まれるにちがいない)

 

 だからこそ、知りたいのである。

 そのとき、まさにその瞬間に於ける彼女の心理が、如何なるものであったかを。

 

 

 

「死んだ、と思ったんだよ」

 

 女医の問いに、スミカは気恥ずかしそうにはにかんで、答えた。

 どうしたんですか、何があったんですか、しっかりしてくださいと必死に呼び掛けるオペレーターの声で我に返ったあと。

 今見た光景を告げようとして、ふと、スミカは「彼」と目が合った。

 ネクストのカメラアイ越しに、である。それでも確実に二人の視線は交錯し、絡み合い、互いが互いを認識したとスミカは断言してみせる。

 そして、彼女は「彼」の中に獣を見た。

 それも尋常(ただ)の獣ではない。巨大にして荘厳、醜悪にして美麗。狂おしき飢餓の渇望は業火に焼かれる感触に似ていて、しかし呻き声の一つも上げない。

 苦悶は総て腹に蔵して、これを練り上げ、濃縮し、いつの日か世界を喰らう覇気へと変成させている。

 人が抗うことを許されない、古代神話の怪物がそこにいた。

 そんなものの前に置かれたスミカの心境は、山道で羆に出くわした者のそれである。

 ああ、死んだなと諦観するしかないだろう。殺意の有無に拘らず、生物としての絶対的な格差は弱者に絶望を叩き付ける。

 この場のスミカも、それに近い所感を抱いた。それがすべてだった。

 

「よく分からんな。傭兵とは皆そうなのか?」

「戦士ならば分かる。私はかつて、如何なるリンクス、如何なる兵器、如何なる軍勢と相対したときでさえ、あれほどの戦慄は覚えなかった。ましてやそれが、豆粒みたいな小僧だぞ? これはもう、手捕りにするしかないじゃないか」

 

 言葉を重ねて貰っても、女医にはどうもいまいちピンとこない。

 

(要するに、一目惚れか。にしても、死の塊めいた相手に惚れる阿呆もいるまいに)

 

 と、己の感性に当て嵌めて、強引に納得した。

 理解を放棄した、といってもいい。人は論理のみにて成り立つものにあらず。むしろ矛盾の中にこそ人間性は存在する。きっとこれは論理化できない、スミカの深奥に関わる現象だったのだろう。

 

(しかし、よくもまあアレが大人しく付き従ったものだ。その気になれば、霞を殺す機会程度、いくらでもあったろうに)

 

 スミカが事を起こしてから、幾らか日が過ぎている。

 この間、「彼」は一言たりとて言語らしきものを口にしていない。木石のごとく沈黙し、何を訊かれても答えず、

 

(ひょっとすると喋らないのではなく、喋れないのか)

 

 聾者か、舌がないのか、それとも言葉を知らないだけか、とスミカをして疑わしめた。

「彼」が起こした能動的行動といえば、ものを喰うか、スミカの後をとことこついて来るか、その程度である。 

 このことはスミカにとっても謎だったらしく、後年、成長した「彼」に対して折に触れては問うている。

 

 ―――あのとき、貴様は逆らいもしなかった。ネクストの手で包んで、強引に連れ去った相手に対して、だ。いったいどういう心境だったんだ?

 

 この問いに、「彼」が明確な返答を行った記録はない。

 

「なにぶん、子供の頃のことなれば」

 

 碌に覚えていません、何もかもが朧です、とはぐらかすのみである。

 そのくせこのとき口にしたレーションの味だとか、スミカが彼の為に設えてくれた寝床の寝心地だとか、そんなことばかりはよく覚えているのである。酒が入り、昔話に水を向けられると、「彼」はよくこれらのことを口にした。

 

(嘘に違いない。こいつは覚えているに決まってる。私を欺こうとはいい度胸だ、いずれ必ず訊き出してやろう)

 

 と、その度にスミカは決意を新たにした。

 彼女が結局真相を訊き出せたのか、それは不明である。

 ただ、推測するに、「彼」はきっと魅入られていたのではないだろうか。

 むろん、ネクストに、である。コジマの申し子である「彼」と、コジマ技術の結晶であるアーマードコア・ネクスト。見方によっては兄弟ともいえる関係性は、「彼」をして、強烈に興趣を掻き立てられるものがあったと考えて不思議はない。

 そのネクストを駆るスミカへの従順さは、この情念の延長線上にあったのではなかろうか。

 いずれにせよ、全ては想像であり、思考的遊戯の域を出ない。真実はこの頃の「彼」が霞スミカに対して極めて忠実な態度に徹していたという一点で、場合によってはこれが、彼女が没するまで続く。

 

 

 

 まったく、「彼」の前途を左右する舵は霞スミカの一手に委ねられたといっていい。

 それを知ってか知らずか、頼むぞ、おいと責任の重大さを説く女医の態度は異様な執拗さに満ちていた。

 あまりのことにスミカが耐えかね、

 

「もう、よせ」

 

 と悲鳴混じりに叫んだほどである。

 が、当人にすればまだまだ言い足りない。

 その思いは、去りゆく二人の姿を見るに及んでなお増した。

 

(白髪(はくはつ)か。白い髪というやつは、よく雪のようにと喩えられるが)

 

 この少年にはそのような、触れれば崩れてしまいかねない六花の儚さとは無縁に見えた。

 同じ「白」の文字を宛がうにしても、これは白刃の白さだろう。玉鋼を繰り返し打ち延ばした日本刀のみが放ちうる、あの冷え冷えとした光沢である。美しくも裡に秘めたる重厚さたるや、尋常一様のものではない。

 

(なるほど霞の言う通り、戦う為に生まれてきたような。―――)

 

 戦闘とは凡そ無縁な女医でさえ、それを思った。

 ただ、眼がよくない。

 緑色なのである。それも、淡い。

 その色彩は、世界を穢し尽くしたあの粒子の持つ輝きと、あまりにも似過ぎていた。

 

(やはり、コジマの申し子だ)

 

 この目の届く場所、災禍の齎されぬことはなし。馬鹿馬鹿しい危惧であるが、どうにも一笑に付すことができない。唇を引き結ぶ女医の前を、「彼」は沈黙のまま通り過ぎた。

 以後、両者の人生に直接の接点はない。小さな手を手袋越しのスミカの指に絡め、遅れまいと若干急ぎ足になる姿が、彼女の脳裏に印象深く刻み込まれた。

 女医の足取りは杳として知れず、ただ、ずっと後年になって、一度だけラインアークを訪れたのが分かっている。

 が、すぐ去った。わずか二日の滞在だった。

 その翌日、成長し、首輪を嵌められ独立傭兵となった「彼」が、この海上都市を襲撃している。



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