彼女は生き物に好かれやすい (彼岸花ノ丘)
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第一章 ファースト・フレンズ
開幕零ノ一


はじめまして、彼岸花ノ丘と申します。
『小説家になろう』や『カクヨム』でもひっそりと活動しております。
名刺代わりと言っては何ですが、本作の開幕で以て自己紹介とさせていただきます。
お楽しみいただけたら幸いです。


 彼女は泣いていた。

 自分一人しか居ない家の中でぐすぐすと、ふかふかのベッドに顔を埋めて嗚咽を漏らす。彼女の身形はパジャマ姿で、部屋の電気も消している。外は月と星が空を彩る夜まっただ中。虫の音もない静かな世界に、自分の泣き声だけが五月蝿く喚いている。

 しばらくして上げた彼女の顔は、瞳を潤ませ、暗闇の中でも分かるぐらい赤くなっていた。

「ぐすっ……わたし、なんて……どうせ……」

 ベッドでも顔を上げた途端、彼女の口から出てきたのは卑屈な言葉。それをハッキリと自らの耳で聞いた彼女は、跳び込むように再びベッドに顔を埋めた。そして埋めたままの顔を横に振る。

 自分の口が、これ以上余計な事を言えないように。言ってしまった言葉が、現実になるのを恐れるように。

 ベッドの上で暴れる事、ほんの数秒。先程以上に顔は赤くなったが、もう瞳は潤んでいない。

「明日は……明日こそは、友達を、作るんだから……!」

 彼女は決意を言葉にして、三度ベッドに顔を埋める。

 すぐにでも眠りに落ちる事を願いながら。

 言葉にした決意が挫ける前に、明日がやってくるのを望みながら――――

 

 

 

 

 

 

 彼女は跳ねていた。

 そわそわとした感覚が身体の中を渦巻いている。落ち着かない。もう辺りは暗く、普段なら眠たくて仕方ない頃なのに、意識がハッキリしたまま。どうすればこの感覚が消えるのか分からず、駆け巡る衝動に従って身体を動かしてしまう。そうするとますます目が冴えてしまうのだが、それでも跳ね回るのを止められない。

 例えるなら、予感。

 だけど嫌な感じではない。

 彼女は跳ね続ける。その予感が現実になる瞬間を待ちわびて。真夜中の演舞に寝惚け眼な同胞達は迷惑そうにしていたが、彼女は気にも留めない。

 何分彼女に他者の感情を汲み取る能力などないし、必要もない。同胞達も自身が抱く不快さを正確に伝える術を持たないし、伝えるという概念さえも持たない。誰も、彼女の邪魔をしない。

 彼女は跳ね続ける。

 自らの衝動と、『歓喜』の予感に悶えながら。

 鬱蒼と茂る森の中に置かれた小さな池で、星と月だけに照らされながら――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女達は知らない。

 

 自分達の内に秘めた、力の大きさを。

 

 その力はお互いに引き合い、出会い、合わさり……

 

 大きくなって、周りのものも引き寄せる。

 

 さながら二つの恒星が連星となり、

 

 重力によって塵芥を吸い寄せ、巨大な星系を創り出すように。

 

 虚空の世界を鮮やかに彩る事すら出来てしまう。

 

 そんな特別な力を、自分達は持っているのだと。

 

 

 

 

 

 

 だけど――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は眺めていた。

 彼女の視線の先にあるのは、宵闇の中に佇む学校。夜分遅く故もう人は居ないのか、校舎の窓から漏れ出る明かりはない。学校の傍にはすっかり寝静まった住宅地があり、敷地をぐるりと囲っている道路には街灯が幾つも並んでいるが、照らすのはあくまで道路であり、グラウンドの奥にある校舎までは届かない。月明かりは降り注いでいるが、街灯の明かりに満ちている住宅地側からでは自然の繊細な光の濃淡など分からなくなっていた。

 ハッキリ言って、いくら目を凝らしたところで建物の輪郭ぐらいしか見えないだろう。

 されど彼女は気にも留めず、じっと校舎を眺める。微笑みまで浮かべながら。

「うーん、この辺りなのは間違いないのだけれど……流石にもう居ないわよねぇ。明日の朝まで待たないと駄目かしら」

 面倒そうにぼやくと彼女は頬に手を当て、さてどうしたものかと考え込む。

「へーい、お姉さん。こんな夜遅くにどうしたのー?」

「こんな時間に一人じゃ危ないぜ?」

 そうしていたところ、背後から声を掛けられた。

 彼女が振り向けば、そこには男が二人居た。どちらの男も髪を茶色く染めていて、ピアスやネックレスを付けている。服装も清廉とは言い難い派手なもので、所謂軟派な印象の人物達だ。

 人気のない場所ではあまり会いたくない風貌であり、ましてや夜中となれば警戒するのも無理ない相手。浮かべている笑みも下卑な印象で、下心を感じずにはいられない。

 普通の少女なら、大半がこの場からそそくさと逃げ出すだろう。

「ちょっと探し物をしていたの。まぁ、見付からないからもう帰ろうかなって思っていたけど」

 しかし彼女は臆するどころか笑みを崩さず、淡々と男達からの問いに答える。

 男の一人は上機嫌な口笛を吹き、煽るように話し始めた。

「そりゃあ、いけねぇなぁ。こんな夜更けじゃ女一人は危ないぜ? 俺達が家まで送っていってやるよ」

「あら、見ず知らずの他人相手に随分と親切にしてくれるのね。でも今の住処は此処からだとちょっと遠いし、一人で大丈夫だから遠慮しとくわ。それじゃあね」

 男からの誘いをあっさりと蹴り、彼女は手を振って別れを告げる。

「おっと、そう言わないでさぁっ!」

 すると男の一人が彼女の右腕を突然掴み、

 次の瞬間、彼女は()()でその男の顔面を鷲掴みにした。

「……えっ……お、俺、さっき掴んで……?」

「おい! テメェ何してやがる!?」

 顔面を掴まれ呆然とする男だったが、もう一人の男は即座に威嚇してくる。先程までと打って変わり、目付きは鋭く、声は茨のように敵意で満ちている。本性を表したようだ。

「丁度良いわ。まさかとは思うけど、もしかしたらって事もあるかも知れないし」

 されど彼女は怯まず、微笑みも消さずにそうぼやき、

 ――――ぞりぞりぞりぞりぞり

 そんな音が、彼女が掴んでいる男の顔から鳴った。

「ぎ、ャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 次いで絶叫。

 彼女が手を離すのと同時に男は倒れ、自身の顔面を両手で抑えながら転がり回る。相方の異様な様子にもう一人の男は先程までの威勢の良さをすっかり失い、顔を青くしていた。

「お、おい……ど、どうした……?」

 それでも、仲間の身が心配だったのか。恐る恐る男は、何時までももがき苦しむ男の顔を覗き込んだ。

 そして彼は目の当たりにする。

 仲間の男の、肉が抉り取られた顔を。

 片方の眼球が削られ、頬骨の一部がむき出しとなった、腐乱死体が如くおぞましき姿を。

「ひ、ひぃぃ!?」

 一瞬で変わり果ててしまった仲間の姿を前にして、男は尻餅を撞く。

 何があったのか。何をされたのか。男達には分からない。

「本当は髪の毛一本で十分なんだけど、サンプルは多いに越した事はないからねぇ。新鮮さも大事だし。これなら一時間ぐらいで解析は済むかしら」

 それでも、右手をべっとりと濡らしながら微笑む彼女が、どのような存在なのかは察しただろう。

「ひ、ひぃぃぃ!? だ、誰か助け……!」

 無事だった方の男は助けを求め、大声を上げようとした。

 が、その声は途中で止まってしまう。痛みに悶え苦しんでいたもう片方の男も黙りこくる。

 まるで何かを詰め込まれたように、二人の口からは渇いた吐息しか出なくなっていたのだから。

「……っ!? ……! っ! ……!?」

「ごめんなさいね。騒ぎになると面倒臭いから、ちょっと口を塞がせてもらったわ」

 ジタバタともがく男二人を見下ろしながら、彼女は優しく語り掛ける。

 その優しさが全てを物語る。自身が、この異常事態の元凶であると。

 超常現象を前に、男達は震え上がった。自分達が話し掛けてしまった相手がどんな存在なのか、それを理解して慄き怯えた。猫を前にしたネズミのように。

 しかし()()()が動かない獲物を前にしたらどうなるか。

「大丈夫よ、死にはしないわ。ただ顔面の肉を一割ぐらい削ぐだけだから、ね?」

 彼女は笑う。能面のように、先程から微動だもしない微笑みを浮かべて。

 そして男達の悲鳴は――――上がらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、アイツらは違ったわねぇ。ま、最初から期待なんてしてなかったけど」

 

 

 

 彼女だけが知っている。自分達の内に宿る力の強さを。

 

 

 

「やっぱりあの学校の生徒かしら。騒ぎになって逃げられたら困るから、さっきの奴等みたいに顔面の肉を削ぐ訳にもいかないわよねぇ」

 

 

 

 彼女だけが求めている。『彼女』の力を。

 

 

 

「仕方ない。時間は掛かるけど毛髪で鑑定しましょ。面倒だけど、それだって十時間も掛からないし」

 

 

 

 恒星の重力は、凶星をも呼び寄せる。

 

 

 

「待ってなさい。見付け次第……血の一滴、細胞の一片も残さず、搾り取ってあげるんだから」

 

 

 

 狂気を孕んだ災厄が、『彼女』に歩み寄ろうとしていた……




本作品は可愛い(と私が思っている)女の子達が友情を育んでいる日常に、唐突にバイオレンスで生々しい争いが勃発するお話であります。
拙い本作でありますが、これからよろしくお願いいたします。


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ファースト・フレンズ1

 雲一つない六月の青空で、太陽が眩しく輝いていた。

 降り注ぐ陽の光は辺りを眩く照らし、命に燦々と力を分け与える。葉だけになった桜は降り注ぐ陽を浴びて緑の煌めきを放ち、季節の移り変わりを物語っていた。大地を駆け巡る風は陽光で火照った肌を優しく触り、心地良い冷たさを残して去っていく。

 外は初夏の爽やかな陽気でいっぱい。

 そしてそんな陽気さに包まれるお昼休み真っただ中の帆風高校もまた、爽やかな雰囲気に満ちていた。

 帆風高校は今年開校九十年を迎える伝統ある学校で、校舎は新と旧の二つがある。どちらの校舎も殆ど木だけを使って建てられており、老朽化を理由に現在は新校舎だけが使われているが、その新校舎も今年で築三十年。長い月日を経ても漂う木々の優しい香りと、長い年月によって生まれた風情ある色合いが訪れた人々を持て成してくれる。その校舎の色に染まるかのように、帆風高校に通う生徒は皆爽やかで穏やかだと近隣住民からは評判。事実校内は何時もケンカ一つなく穏やかで、賑やかな話し声でいっぱいだ。

 ただ一点――――帆風高校の廊下を進む女子生徒、大桐(おおぎり)花中(かなか)の姿とその周りを除いて。

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 花中の傍で女子生徒の悲鳴が響き渡る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 花中の傍で男子生徒が呪詛の如く謝罪を呟く。

「お、大桐! あ、いえ、なんでもないです」

 花中の傍で教師の情けない声が聞こえてくる。

 付近の生徒は右往左往し、教師は絶望で顔を歪ませる。人々は我先にと逃げ出し、前に居る者を突き飛ばし、倒れた者には振り返らない。正に地獄絵図の様相。花中は何もせず、廊下の窓際を淡々と歩いているだけなのに。

 しかし何故こんな事になっているのかと言えば、原因は花中にあった。

 白銀に輝く髪は前髪だけが長く伸ばされ、全てを拒絶するかのように顔を覆っている。しかし鋭く紅い眼光は前髪を突き抜け、肉食獣の如く獰猛さを外に放っていた。閉じた口元はへの字に曲がり「私は今とても怒っている」と言わんばかり。身体は小学生と見間違えてしまいそうなほど小さく、ちょっと突けば簡単に倒れそうなぐらい華奢なのに、纏う威圧感は誰よりも大きい。色素の薄い青白い肌や童顔ながら人形のように端正な顔立ちも、彼女から『人らしさ』を失わせている一因だろう。他の生徒と変わらないのは、夏服である白い半袖ブラウスと膝丈まである紺色のスカートぐらいなものか。襟元にある青の紐型リボンは花中が入学して間もない一年生であると物語っていたが、それを認識する余裕は誰にもない。

 睨まれたら悪魔でも逃げ出す、地獄の閻魔だって腰を抜かす……こんな評価が過言に聞こえないほど、大桐花中という少女の風貌は恐ろしかった。近付くだけで誰もが慄き、恐怖と畏怖の念を抱く。生徒のみならず教師まで逃げ出すとなれば、不良としては最高峰の箔が付いたと言っても良いだろう。

 だが、いくら『成果』を上げても花中の表情が愉悦に歪む事はない。やる事だって変わらない。敵意に満ちた眼光で周囲を舐め回すように見渡し、視界に入った者は誰彼構わずじっと見つめ続ける。自らが放つ眼光に怯え、彼等彼女らが逃げ出すまで延々と。

 やがて花中の周りから人の姿はなくなり、静寂が場を支配した。

「……………」

 静まり返った廊下で立ち止まると、花中は短くない時間目線を地面に向ける。その顔は相変わらず憤怒の形相。改めて前を見据えた後も、殆ど変わっていない。再び歩き出した後も変わらない。

 歩き始めた花中が向かったのは廊下の曲がり角の先、隣の棟へ移動するための渡り廊下。

 その渡り廊下に入ってすぐ、花中は足を止めた。

 花中が視線だけを動かして見つめたのは、渡り廊下の壁に寄り掛かっている女子生徒。渡り廊下に居た他の生徒は花中に気付くや慌てて逃げ出したのに、ただ一人、未だ花中の前から失せていない人物だ。

 女子生徒は髪を茶色に染めており、ブラウスのボタンを幾つか外し、鎖骨が見えるぐらい肌を大きく露出させている。遠目からでも化粧をしていると分かるほど顔が濃く、折角の愛らしい顔が好みの分かれるものとなっていた。恰好だけで判断すれば、所謂『不真面目』な生徒のようである。

 目立つ外見というのもあり、その女子生徒が自分のクラスメートである事は花中にもすぐ分かった。女子生徒は先程からずっとスマートフォン弄っており、それが原因で花中の存在に気付いていないのだろう。

 そんな女子生徒の姿を睨み付ける事、ほんの数秒。

 花中は止めていた歩みを再開し――――女子生徒目指してゆっくりと進み始めた。

「ん? ――――ひっ!?」

 気配を感じたのか。女子生徒はスマートフォンに落としていた視線を上げ、花中を見た瞬間小さな悲鳴を漏らす。その拍子に手からスマートフォンが零れ落ちるも、女子生徒は拾う素振りすら見せない。むしろ後退りを始め、スマートフォンから、花中から離れようとしている。

 それでも構わず花中が近付くと、

「ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぁいっ!?」

 悲鳴混じりに謝罪の言葉叫びながら、女子生徒は走ってはいけない廊下を全力にしか見えないスピードで疾走した。花中は女子生徒が逃げ出すとピタリと立ち止まり、遠ざかっていく背中を目だけで追って……姿が完全に見えなくなってから、改めて歩き始める。

 今度の『目的地』は、女子生徒が落としたままにしていったスマートフォン。

 持ち主に見捨てられ、哀愁漂わせる道具を花中はしばし残忍な眼で見下ろし……やがて、まるで自分の物であるかのように拾った。

「こえぇ……ああやって人から金品を奪ってるって噂だぜ」

「い、今のうちに逃げよう……」

「でも逃げたら、獲物を追う獣みたいに何処までも追い駆けるって噂も……」

 花中がスマートフォンを拾ったところを、遠巻きに見ていた数名の学生達が陰口を叩く。それらは花中の耳にも届いていたが、花中は否定する事も、威圧するように睨み付ける事もしない。肉食獣のような獰猛さと残忍さを同居させた表情も、一ミリたりとも動かさない。

 何故か。

「(はわわわわわわわわわわ!? ど、どどどどどうしよう!? お、落としていったスマートフォン、早く届けないと……で、でも、でも……ちゃんとお話出来る自信ないよぉぉぉぉぉぉぉぉ!?)」

 今の花中は脳内でどもるぐらいパニックになっていて、耳に届いた言葉を理解する余裕なんてないからだ。

 ……これが大桐花中という人間の本性。

 気質は根っからのネガティブ。白銀の髪と紅い瞳は西洋人である曾祖父からの遺伝であり、生まれついての色合い。染めてもいないしカラーコンタクトも入れていない。他人に暴力を振るった事なんて一度もないし、振るわれたら小学生にも勝てる自信がないぐらい身体は貧弱。趣味はお菓子作りで、パティシエになって自分のお店を持つ事が幼い頃からの夢。

 そして些末な事でパニックに陥る小心者にして、一人ぼっちが嫌いな寂しんぼ。

 花中がクラスメートの女子をじっと見つめていたのは、彼女と友達になりたかったからなのである。ならば何故憤怒の表情で近付いたのかと言えば――――そもそも、花中は怒ってなどいない。

 ただ、話しかけようとするとどうしても緊張してしまう。

 緊張すると口元が強張ってしまい、目に力が入ってしまう。

 強張った口元と力が入った目は、他人から見ると怖い顔。

 纏っているのは緊張と不安からくる小動物オーラの筈なのに、顔が怖くなっているせいで威圧感だと勘違いされてしまう。

 つまり周囲の人々が花中に抱いている印象と飛び交う噂は、完全な誤解なのだ。尤も、恐怖を振りまいているのは事実。誤解を解かねば自分と友達になってくれる人は居ないだろうと、花中自身思っている。

 だが花中は『根っからの小心者』にして『ネガティブ思考』。

「(届けないと、届けないと! ……でもあの人、わたしの事を怖がって逃げたんだよね……お、追いかけたら、もっと怖がらせちゃうかも……はわわわわわわわわわわわ)」

 怖がられる=嫌われるの式が出来上がっている花中に「クラスメートを追い駆け、自分に悪意がないと分かってもらうまで話を聞いてもらう」なんてポジティブな発想は欠片もなかった。大体花中は極度のあがり症で、人と話をしようにも緊張で口はガッチリと閉じてしまい、思った事どころか思ってもいない事すら口走れない。説得、なんてものは花中には出来ない芸当だった。

 それでも拾ってしまったスマートフォンだけは何とか返したく、必死に考えを巡らせ……至った結論は、こっそりあの子の机の上に置いておけば良いんだ! という全力で後ろ向きなものだった。

 ともあれ解決策を閃き、ほっと一息――――したのも束の間、少しだけ冷静になった花中は気付いてしまう。

 近くに居た見知らぬ生徒達が、()()()自分を見ている事に。

「(ひゃあああああああああああああああああああああ!? なんでぇ!? なんでみんなわたしを見てるのぉ!?)」

 自分の事で一杯一杯だった花中の脳は、散々届いていた彼等の陰口をバッチリ取り逃していた。花中には何故彼等が自分を見ているのか分からない。分からないと怖くなる。

 怖くなったので、花中は逃げ出した。

 ……足腰が震えて、徒歩と変わらぬスピードしか出せなかったが。心は蛇に睨まれたカエル並に怯えているのに、十数年間不安と恐怖と緊張で凝り固まった表情はピクリとも動かない。緊張のあまり身体は硬くなり、縮こまるどころか背筋がピンと伸びてしまう。

 傍から見ればその姿は、悠然と歩いている以外の何物でもない。

「(あわわわわわわわ……み、みんななんか話してる! 怒ってるのかな……わたし、なんか悪い事しちゃったのかな……ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!?)」

 弱気なのは頭の中だけ。

 脳内で謝罪の言葉を絶叫しながら、花中は教室に『全速力』で逃げ込むのだった。

 

 

 

 帆風高校一年A組教室。

「……………はぁ……………」

 窓際最後列に自分の席があるその教室に逃げ込んだ花中は、本人としてはとても大きく、実際にはネズミが鳴いたような小声のため息を吐いて机に突っ伏した。

 拾ったスマートフォンは持ち主の机に置いておいた。あの派手な見た目の女子生徒が教室に戻ってくれば、机の上にある『落し物』に気付く筈だ。彼女が教室に来てくれさえすれば、スマートフォンは彼女の手元に戻る事となる。

 だけど昼休みが終わるまでのあと十分ほどの間に、教室内の誰かが盗んでしまったら?

 もしもあの女子生徒が、何らかの事情で早退していたとしたら?

 ……これでは落し物をちゃんと届けたとは言えない。落し物を持ち主に返すという幼稚園児レベルのお使いすら出来ない自分に、果たして友達を作るなんて『偉業』が可能なのだろうか。

「(ああああ……やっぱり、わたしが友達を作るなんておこがましい事だったんだ……)」

 根暗な花中には、絶対に無理としか思えなかった。

 ――――半分。

 花中が高校に入学して早二月。友達になってほしいと声を掛け……ようとして逃げられた人は、先程の女子生徒を含めるとクラスメートの約半数に達してしまった。まだ声を掛けていないクラスメートは男子十九人と女子一人。しかし花中は ― 身体が大きい、肩幅が広くて力が強そう、声が低くて怒っているように聞こえる等々の理由から ― 男子が怖くて、話すどころか近付く事も儘ならない。

 そのため女子にしか近寄れず、その女子は現時点で殆ど全員が花中に怯えて逃げ出してしまった。まだ話し掛けていないクラスメートの女子は、今や一人しか残っていない。

 ならばその一人に全てを賭ける! ――――と考える事は、日頃から俯き気味な生き方をしている花中には土台無理な話。むしろ「これで駄目だったら後がない」と思って躊躇うだけ。

 それにチャレンジしなければ、『最後の一人』に逃げられる事はない。逃げられなければ傷付きもしない。

 傷付かないで済むのは、臆病者には魅力的だ。

「(もう……諦めようかな)」

 机に突っ伏したまま、花中は全身の力を抜く。

 彼是十年以上、花中は友達を作ろうと努力してきた。

 幼い頃から小心者で、緊張すると顔が怖くなってしまった。だから昔から友達を作ろうとしてもみんなに逃げられ、誤解を解く事も出来なかった。逃げられ、怯えられる度に、刃物で刺されたかのように胸が痛くなった。

 やがて痛みに耐えきれず、挑むのを止めてしまう。

 しかし時が経ち、痛みが癒えると、寂しさと羨ましさからまた友達を求めてしまう。

 花中はこれを十年以上繰り返した。前髪を伸ばして自分の目付きを隠そうとするなど、花中なりの努力もしてきた。だけど結果は、十年以上傷付いただけ。

 十年以上傷付き続けた心は、もう一度頑張ろうと決意するには脆くなり過ぎていた。

「……………」

 花中は目を瞑る。目を瞑っていれば段々眠たくなってくる。眠ってしまえば何も感じないでいられる。

 寂しいぐらいなら、何も感じないほうがずっと楽。

 花中の願いに副うように、意識は微睡みの中に消えていく――――

 そんな時だった。

「大桐さーん!」

 なんの前触れもなく、結構な大声で名前を呼ばれたのは。

「(ふひゃあゃああああああああああああああああっ!?)」

 ザ・小心者である花中はとても驚いた。物凄く驚いた。動揺のあまり口をガッチリと閉じてしまい声は出せなかったが、頭の中で悲鳴を上げるほど驚いた。

 その上精神的に衰弱している今の花中は、普段以上にネガティブ。

「(なななななな何!? なんでわたし呼ばれたのっ!? まままままさかわたしがあまりにも皆さんを怖がらせちゃったから、お、怒られる!? あわ、あわわ、あわわわわわわわあわあわわわわあわわあわあわあわわあわあわわわわわわわっ!?)」

 名前を呼ばれただけなのにすっかり怒られる気満々になった花中は、せめて姿勢ぐらいは正そうとガッチガチに強張っている身体を無理やり、客観的にはゆっくりと居眠り体勢から起こす。驚きで引き攣った顔はあたかも怒りに打ち震えているようだったが、内面はオオカミを目の当たりにしたウサギよりも右往左往している。

 怒られるのは怖い → 怖いから逃げよう!

 起き上がってからこの発想に至るまでの時間、凡そ瞬き一回分。花中は寸分の迷いもなく、あと五分で昼休み終了となる教室から逃げ出そうとした。

「やぁ♪」

 したが、恐怖で震える足はまるで動かなかったので、花中は自分の名を呼んだ者が正面に立つのを無抵抗に許してしまった。

 長く伸びた自分の前髪が邪魔をして、相手の姿がよく見えない……なんて事はない。十年近くこの目隠し状態で過ごしてきたのだ。例え前髪越しでも、花中には目の前に立つ人の顔ぐらいちゃんと見えている。

 花中の正面に現れたのは、一人の女子生徒だった。

 短めに切り揃えられているサラサラとした栗色の髪、緊張した様子もなく自然と伸びている背筋、愛らしい顔立ちと見事にマッチした屈託のない笑顔……花中とは真逆の、とても明るい印象を振りまいている。特に笑顔が素敵で、実際には当然光っていないにも拘らず、陰鬱人間である花中は思わず目を細めてしまうほど眩い。太陽を直視しているような気分になるほどだ。纏う制服は校則通りきっちり整えられていて、彼女の内面が如何に真面目かを窺い知る事が出来る。

 花中の記憶に間違いがなければ、彼女の名は立花(たちばな)晴海(はるみ)。花中のクラスメートで、男子とも女子とも打ち解けあえる素敵な人。そして「そんな人にも逃げられてしまったら」と思うと怖くて、花中が最後まで声を掛けられなかった女子だ。

 その晴海にこれから怒られると確信して花中は心底怯える。表情は憤怒の形相でも、心はクジラに追われる鰯が如く恐怖でいっぱい。許してくださいと目で訴えてみるが、晴海は後退りし、取り繕った笑顔の裏で恐怖と戦っているのを臭わせる。

「ちょ、ちょっと話したい事があるんだけど……良い、かな?」

 挙句勇敢にも話を切り出してくるものだから、花中の恐怖はピークに達した。

「(話? 話って……はわぁ!? これは俗に言う『お話ししよう』という名のお説教なんだ! やっぱり怒られるんだぁ!?)」

 考えが飛躍しているようで、しかし花中の中ではしっかりと地続き。何しろ晴海は恐怖と戦いながら花中に話し掛けているのだ。余程花中個人に言いたい事があるのか、或いは使命感に燃えているのか。どちらかでないと自分の前から逃げない事が説明出来ない。そして花中には『クラスメートを怖がらせた』という前科がある。どちらの可能性も十分あり得る。

 絶望感たっぷりの考えが過ぎった花中は酷く怯えた、傍から見れば凶悪な表情を前髪の内側で浮かべる。皆さんに迷惑を掛けてごめんなさい――――と叫ぼうにも、引き攣った口元はぴくりとも動いてくれない。

 花中はもう、ただただ()()()()()()表情で晴海のお怒りが来るのを待つばかり。

「えっと、お、大桐さんって、鳥は好き?」

 しかしその凝り固まった頬の筋肉は、意図が分からない晴海の質問によって僅かに緩んだ。

「……? ……ん……」

 なんでそんな事訊くんだろう? と疑問を抱きつつも、食べ物的にも生き物的にも鳥嫌いでない花中はぎこちなく首を縦に振って質問に答える。声も、閉じっぱなしの口からどうにか絞り出す。

 すると晴海は「そーかそーか」と言いながら大仰に、嬉しそうに頷く。理由は分からないが、好きと答えて『正解』だったらしい。安堵した花中が小さくため息を漏らす

「だったら大桐さん、あたしと一緒にバードウォッチしない?」

 のと重ねるように、晴海はさらりととんでもない言葉を告げた。

「……………」

「実はあたし野鳥の観察が趣味でね。今まで一人でやってたんだけど、最近仲間が欲しいなぁーって思うようになったのよ。で、大桐さんは部活に入ってないって聞いたから、時間あるかと思って……あ、だ、ダメなら良いのよ? ダメじゃなかったらって話だから」

「……………」

「待ち合わせ場所は口だと説明し辛いから、その、地図を書いておいたわ。興味があったら今日の四時半までにそこに来て……そんで、えーっと……ああ! もうすぐ授業始まるじゃん!」

 席に戻るね! と言うと晴海は小さく折り畳まれた紙を花中の机に置き、花中の返事を待たず速足で去っていく。今まで頑張っていたが、いよいよ恐怖に耐えられなくなったのかも知れない。

 対して花中はしばし微動だせず、残された紙にも視線を向けない。恐ろしい眼差しで虚空を眺めるだけ。

 やがてチャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げた。

「ぷはぁ!? はぁ、はぁっ!?」

 直後、花中は晴海が『バードウォッチング』の話を始めた頃からずっと止まっていた呼吸を、ようやく再開させた。突然呼吸を乱す様は不気味の一言に尽き、周りのクラスメート達が驚愕と恐怖の入り混じった表情を向けてきたが、そんな事を気にしている場合ではない。

 遊びのお誘い。

 晴海の言葉の意味が分かった瞬間、花中は動揺のあまり機能停止状態に陥ってしまった。長時間の酸欠により、危うく生命活動そのものが停止するところだった。今も完全復活とは言い難く、不足している酸素を急いで身体中に巡らせるためか心臓が力強く脈打ち、強過ぎて痛みを感じている。しかし花中は痛む胸に手を当てない。

 震える花中の両手が触れたのは、机の上に置かれている、晴海が残していった紙切れ。

 紙切れを掴むや花中はそれを――――天に掲げた。

「(こ、こんな、こんな奇跡があるなんてっ! わたしを遊びに誘ってくれる人がいるなんて! これは夢!? うん、夢でも良いやっ!)」

 生まれて初めて言われたお誘いの言葉に、花中はすっかり舞い上がってしまう。傍から見ればただの紙切れでも、花中には後光すら見えてくる。あまりにも神々しいので『お手紙教』でも興そうかと思ってしまうほどだ……思うだけで実行する積極性なんてないが。今やるのは中身の確認だけである。

 傷付けないよう慎重に。

 だけど逸る心を抑えきれず、花中は指型の皺を作りながら紙を広げて、

「……………何これ」

 無感動な声で独りごちた。

 紙には、文字と絵が描かれていた。文字は『タムラ精肉店』や『帆風高校』などの固有名詞が大半を占めており、例外は『ここ』という単語のみ。

 待ち合わせ場所はこの紙に書いてある、と晴海は言っていたので、書かれている固有名詞を目印にして『ここ』を目指せという事なのだろう。つまり、この紙は地図。文字は絵と被らないように書かれており、文字に関してはとても読みやすい。

 問題は絵の方だ。

 何しろその、『絵らしいもの』は、花中にはぐちゃぐちゃな線にしか見えないのだから。

「(えっと。絵心がない、という事なのかな?)」

 だとしてもこれは……と思いつつ、花中はじっくりと『絵』を眺める。正直なところ、幼稚園児だってこれよりマシな絵を描くと言わざるを得ないほど酷い。一見、地図として使う事は出来そうにない代物だ。

 しかしこの『地図』には目印として使える単語が幾つか書き込まれている。それらの情報から推察した結果、この地図が学校周辺を描いたものだと判明した。地元民である花中なら、例え詳しい道が描かれてなくとも読める可能性はある。

 何より、この程度の障害で友達を作るチャンスを逃す訳にはいかない!

「(ぬぅおおおおおお! やってやる! やってやるーっ! 立花さんと一緒に野鳥観察するためにぃぃぃぃぃっ!)」

 一言「一緒に行きたい」と晴海に伝えれば済む話なのだが、花中が持ち合わせている勇気では、そんな大それた考えは頭にも上らない。故に難解な暗号を意地でも解読するという、後ろ向きで全力疾走するような努力に励む。努力をしていたら何時の間にか教室に先生が来て、午後の授業が始まっていたが、努力し過ぎて気付かない。

 その集中力は最早狂気の域。

 周囲のクラスメートのみならず教師までもが慄く雰囲気を、初めて『本当』に発しながら花中は地図の解読を進めていき……ついに。

「……なんで、そこなの……?」

 花中はまたしても机に突っ伏した。

 手から零れ落ちた紙切れの左上部分に書かれている、『泥落山』の文字に気付いてしまったがために……………




本日はここまで。次回更新は翌週を目安に頑張ります。


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ファースト・フレンズ2

 午後四時過ぎ。学生達が西日に照らされながら家路に着く時間帯にて。

 行く手を阻むかのように横たわる古木、鬱蒼と茂った葉で陽光を遮る無数の木々、草が疎らにしか生えぬほど薄暗い空間、湿った落ち葉がうっすらと積もり滑りやすくなっている地面、壁のようにそびえる崖、足を滑らせたら楽にあの世へと旅立てそうな絶壁、そこら中から聞こえる不気味な鳴き声――――

 今、花中が居るのはそんな場所だった。

「えっと、こっちかな……」

 所狭しに生える木々の間を潜り抜け、通学鞄片手に花中は前へ前へと進んでいく。木の洞から跳び出てきたカエルに腰を抜かすほど驚いたり、小枝と擦れてブラウスやスカートが汚れたり、手の甲を草で切って泣きそうになったりしたが、我慢して先に進み続ける。

 花中がこんな『自然豊か』な森の奥地を目指すのは、晴海に会いたいから。

 此処こそが、晴海が渡してきた紙に書かれていた集合場所……『泥落山』なのである。

 泥落山 ― 読み方は『でらやま』という ― は花中が住む地域にある、山脈地帯の通称だ。一番高いところでも標高は四百メートル程度。幾つもの尾根が並び、広大な面積を多種多様な常緑樹が埋め尽くしている。これと言って何か有用なもの……例えば鉄鉱石や石炭などの鉱脈、温泉や美しい花畑などの観光資源……はないと言われており、それどころか大昔に起きた地震の影響で地面の至る所が隆起・陥没し、崖が乱立する危険地帯となっている。辛うじて歩ける程度には緩やかな道も地下水の影響で常に湿り、非常に滑りやすい状態だ。当然、うっかり崖から落ちようものなら命はない。

 無価値で危険な山。

 故にこの泥落山を開発しようと思う者、興味本位で登ろうとする者は殆ど居らず、結果手付かずの自然が残っている。一応治水目的で造られたダムはあるらしいが、逆に言えばそれぐらいしか人の手が入っていない。原生の自然の中で、多種多様な生物が暮らしている……と、花中は小学校の頃学んだ覚えがある。あれから数年の月日は流れたが、恐らく今もこの山は生き物達の楽園だろう。

 晴海がこの山でバードウォッチングをしようと提案するのも頷ける。此処ならきっと、多種多様な鳥を観察出来るに違いない。

【ギャアアアアギャアアアアアアアアアアアアッ!】

 例え飛んでいるのが、怪鳥であったとしても。

「だ、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」

 聞えてきた雄叫びに慄いて蹲りつつ、自分を鼓舞しようと念仏のように呟く花中。しかし身体の震えは止まらない。何分生まれついての臆病者で、どれだけ奮い立たせようとしても心から恐怖は消えてくれない。

 それでも何とか気持ちを押し殺し……た気になったと自分に言い聞かせ、花中は足を前に出す。

 ――――しゅー……

「ぎゃぴぃ?!」

 出した途端、足下の倒木から蛇が顔を覗かせたので、跳び退くほど驚いた。そしてぬかるんだ場所で不用意に跳び退いて着地が上手くいく訳もなく、盛大に足を滑らせ……転倒。

「あだっ!?」

 運動音痴な花中は受け身も取れず、頭を打った。花中の悲鳴に驚いたのか、蛇はそそくさと退散。姿を消す。

 危機が去った花中は――――服が汚れる事も厭わず、ぐちゃぐちゃになっている地面の上で大の字になった。そのまま空を仰ぐが、木々に阻まれ青空は全く見えない。鬱蒼とした、気分の暗くなる緑色が視界を埋め尽くすだけ。

 だけど花中はしばし、じっと『空』を見つめる。

「……帰ろう、かな……」

 やがて気持ちが、言葉として零れ出てしまった。

 晴海がくれた紙には『山頂で待ち合わせ』とも書かれていたが、この山に登った経験がない花中には、山頂まであとどれぐらい時間が掛かるのかなど見当も付かない。幾つもある尾根の中で学校から一番近くのものに登ってみたが、此処で合っているかもよく分からない。少し前に携帯電話で時間を確認した時にはもう四時半……教室で晴海が言っていた待ち合わせ時刻はとうに回っていた。恐らく晴海はもう待っていないだろう。

 そもそも学校が終わったのが三時半過ぎ。泥落山は学校のすぐ近くにあるので歩みの遅い花中でも四時には麓に到着したが、いくら小さくとも三十分で山のてっぺんに行こうとするのは無謀だ。いや、不可能と断言出来る。大体恐怖の対象を遊びに誘う人間が何処にいると言うのか。

 即ち――――

「……時間、聞き間違えただけ、だよね……」

 過ぎった不安を別の可能性で否定しようとしたが、駄目だった。

 自分はやっぱり嫌われ者。

 自分にはやっぱり友達が出来ない。

 無駄な事をしたって傷付くだけだ。

 傷付くだけなのだから、孤独を埋めようとしないで引き籠もろう。

 そうすれば、痛い想いをしなくて済む――――

「嫌……もう嫌ぁぁぁ……!」

 花中の目から、涙が溢れ出る。

 物心が付いた頃から何度も何度も孤独から逃げようとし、傷付く度に孤独の中に籠ろうとし……やっぱり孤独が嫌で、傷付くのも顧みず友達を作ろうとした。

 けれどももう『限界』。

 諦められない。苦しいのに耐えられない。この苦しみを埋められないのなら、逃げられないのなら……いっそ、自分を『消して』しまいたい。

 一番手っ取り早く自分を『消す』には……

「……崖から、かな」

 『消えたい』と願った花中はゆっくりと上体を起こし、周りを見渡そうとした

「グ?」

「……ふぇ?」

 ところ、何時の間にか自分の真正面に立っていた動物と目が合った。

 ふんわりとした毛で全身を包み、抱き着けばその暖かさと柔らかさで一気に夢の世界へと旅立てそう。円らな瞳はキラキラと輝きとっても魅力的。四つん這いの姿勢なので正確な大きさは分からないが、立ち上がれば三メートルはありそうなぐらい大きい。気は優しくて力持ち、そんなキャラクターに相応しい見た目だ。

 花中が日本人でなかったなら、或いは日本の動物について非常識なぐらい疎かったなら、その動物――――『クマ』の愛らしさに中てられて、無邪気に抱き着いていたかも知れない。

「って、クマぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぶっ!?」

 しかし日本人であり、日本の動物に人並以上に詳しい生物系理系少女である花中は、ばっちり恐怖に打ち震えた。本能的に逃げようとして身体が勝手に後退りしようとするが、座ったままの姿勢で素早く動けるものではない。挙句地面に着いた手がぬかるみに取られて滑り、間抜けにもすっ転ぶ。

 そして転んだ花中の眼前を、黒い何かが横切った。

 ハッキリとは見えなかったので何が横切ったのかは分からなかったが、『それ』は転んでいなければ丁度花中の顔面に接触したであろう軌道を描いていた。近くにはクマが居るので、クマが何かしたのだろう。

 花中が少しだけ頭を上げて見てみれば、クマの姿勢がちょっと変わっている。右前足が浮いていたのだ。その姿勢から推測するに、恐らく先程の黒い何かは、花中目掛けて振ったクマの右前足だったのだろう。

 名付けるならクマパンチ。チャーミングな名前の癖して、当たれば顔面の肉が削ぎ落されるであろうパワフルな一撃。

「ひぃゃああああああああああっ!?」

 攻撃されたとようやく理解した花中は立ち上がるや、全力で逃げ出した!

「グオオオオオオオオオオオッ!」

 しかし身体を突き飛ばすような咆哮の後、地鳴りのような足音が花中の背後から聞こえてきた。振り向かずとも、今がどんな状態なのかは想像に難くない。

「あ、ああああっ!?」

 悲鳴混じりの声を上げながら花中は逃げる。思えばクマに遭ってからした行動はどれもが悪手。クマと出遭ったら大きな声は出さず、刺激しないようゆっくりと後退りして離れるのが正しい対処法である。大声で叫んだ挙句全力疾走で背中を見せるなど、間違っているを通り越してクマに喧嘩を売っているようなものだ。

 尤も今更悔いても後の祭。大事なのは今、この危機から脱せられるかどうか。

 クマは最大時速六十キロで走る事が可能だと言われている。だが本気で襲う気はないのか、それとも悪路だからか。このクマの走りは遅く、花中は未だ追いつかれていない。それでも徐々に大きくなる背後の足音が、花中の遠くない未来を予言していた。

 逃げ切るのは不可能。ならば戦うしかないのか?

 否、石や木(武器)を拾うために足を止めたら、その瞬間射程圏内に捉えられて嬲り殺されてしまう。手に持っている通学鞄も、武具として扱うには強度も質量も足りない。そもそも貧弱な花中が何を持ったところで大して強くはなれず、挑んだところでクマからしたら獲物が自らすり寄ってきたのと変わらない。寿命を縮めるだけだ。

 逃げても殺される。戦おうとしても殺される。八方ふさがりで、どうにも出来ない。

 だけど死にたくない。

 いくら孤独が嫌でも、諦めるのが辛くても――――

「やっぱり、し、死ぬのは……もっと嫌ああああああああああああっ!」

 最早前が見えないぐらいがむしゃらに、駆ける!

 垂れ下がった木の枝が頬を引っ掻いても、手は頬へと伸ばさず振り続けた。

 行く手が倒木で塞がれていたが花中の目には映らず――――その手前で落ち葉に足を取られて転び、地面を滑った身体が倒木の下を潜り抜けた。

 生き残りたい意思と運……この二つだけで花中はクマから逃げ続ける。奇跡を幾度となく掴み、追跡を終わらせない。

 しかしいくら心を強く持とうと、いくら幸運に恵まれようと、肉体は何時までも好調ではいられない。元々少ない花中の体力はあっという間に枯渇し、痛みを訴える太ももの筋肉は動きが鈍くなっていく。いくら息をしても酸素が足りず、頭の中が白く塗り潰されていく。

「あ、ふにゃ!」

 ついには足がもつれ、前のめりに転んでしまった。地面がぬかるんでいたお陰で顔から着地してもあまり痛くなかったが、命を代価としている割には安過ぎる幸運だった。。

「(ああ……こんなところで死んじゃうなんて……)」

 達観した花中の耳に、ドシャ、ドシャ、と重量感のある足音が届く。無様に倒れる花中を見てもう逃げないと思ったのか、足音はゆっくりだった。

 このまま背中から鋭い爪で引き裂かれて、わたしの人生は終わりなんだ――――走馬灯は過ぎらず、花中の頭を支配するのはただただ暗い恐怖の念だけ。抗う術もなく、花中は両手で頭を抱え、やってくる痛みに怯えてぎゅっと目を瞑った。瞑り続けた。

 ……なのに、何時まで経っても花中は引き裂かれない。

「……………?」

 花中は恐る恐る顔を上げ、後ろを振り返る。

 視界に入ったのは、あと数歩で自分を射程圏内に収めるであろう位置に立ち止まっているクマの姿。追いつかれていたと改めて認識し、花中はまた顔を伏せて現実逃避を始める。念仏も唱え始めた……南無阿弥陀仏、の部分しか知らないが。

 その念仏を十五回ほど繰り返した辺りで、花中はもう一度疑念を抱く。

 何故、クマはあと数歩の距離を詰めてこない?

「……………???」

 再び顔を上げた花中は、今度は恐る恐るではなく後ろを振り返る。

 クマは先程振り向いた時と同じ場所に立っていた。正確にはやたら足踏みをしているので、身体はふらふらと動いている。だがそれだけ。花中との距離に変化はない。

 試しに花中はゆっくりと立ち上がってみたが、クマは鳴き声一つ上げなかった。

「(お、襲ってこない……のかな……?)」

 まじまじとクマの顔を見つめてみたところ、彼(?)から憤怒や興奮は感じられない。かと言って花中の形相に怯えている訳でも、獲物が怯えている様を楽しむようでもない。強いて言うなら困惑している様子で、捕食者らしい堂々とした風格はあまり感じられなかった。

 もしかすると、今なら逃げられるのでは?

 ふと、頭を過ぎる考え。確証なんてない。逃げようとした瞬間クマの様子が一変し、襲い掛かってくるかも知れない。刺激せずこのままじっとしていれば、クマは諦めて去っていくかも知れない。

 しかし花中は、逃げるなら今しかないと思った。立ち止まっていてはやがてクマに襲われると思った。確証などないが……本能的に、そう確信した。

 だから、クマよりも早く覚悟を決める。

「……………」

 呼吸を整え、鋭い眼光(怯えた眼差し)でクマを射抜きながら、花中はゆっくりと後ずさる。

 一歩目。クマは足踏みするだけで近付いてこない。

 二歩目。クマの足踏みが慌ただしくなる。が、やはり近付いてはこない。

 三歩目。草むらに足を突っ込んだ。クマは地団駄を踏むばかり。

 四歩目。花中の身体が大きく後ろに傾く。

「え?」

 何か変、と感じた次の瞬間、花中の視界には青空が広がっていた。今まで大木の葉に阻まれて見えなかった、雲一つない見事な青空だった。

 ここで何故自分の『背後』を見ようとしたのか、花中にも分からない。

 ただ、『後ろ』を振り向いた花中の目に入ったのは――――とてつもなく険しい斜面。

 花中は理解する。

 どうやら自分の逃げた先には、草木に隠れていたが崖があったのだ、と。聡明なクマはこの崖から落ちたくないから足を止めていたのだ、と。

 そしてマヌケな自分は見事に足を踏み外し、崖から落ちているのだ、と。

「ひゃあああああああああああああああああああ!?」

 理解したところで重力には抗えず、花中は崖から落ちてしまう!

「ぎゃんっ!? ぐぇ! ぴっ!?」

 平たい岩に顔面をぶつけ、段差になっている場所から落ちて背中を打ち、木の枝に靴が引っ掛かって脱げ、放してしまった鞄が彼方へと飛んでいって……転落事故にしては軽い、本人からすると酷い目に遭いながら花中は崖を落ちていく。その過程でついた加速は相当なもので、ようやく平らな地面に到達しても、花中の身体は止まらずに転がり続ける。

 花中が止まったのは、大量の『何か』で満ちている場所に落ちてからだった。

「ごぼっ!? がぼ、ごぼぼぼぼっ!?」

 突如訪れた息苦しさの中で、花中は本能的に自分が水中に居ると察する。察するが……水面まで上がれない。本来花中は泳げるのだが、いきなりの事に驚いて泳ぎ方を失念してしまった。挙句衣服が水を吸い、鉛のように重くなっている。まともに泳げずもがくばかりで、もがいて、もがいて、もがいてもがいてもがいてもがいて……だけど息苦しくなるばかり。

 まだ死にたくない。死にたくないが、伸ばした筈の手は段々と水面から離れていってしまって。

「(やだ、やだやだ、やだ、や、だ……)」

 いくら叫べど、開いた口から入るのは酸素ではなく水。やがて暗くなる視界と共に花中の意識も暗闇に溶けていき――――

 刹那、それは起きた。

 『何か』が、花中の背中を押したのである。

「ご、ぼはっ!? え、あ、ぷはっ!?」

 その力は凄まじく、一瞬にして花中の顔が水面から出るほど押し出す……いや、押し出すどころではない。

 花中の身体を水中から飛び出させ、宙へと放り出したのだから。

「ぇあぁ、あぁ!? あ、ぶべっ!?」

 空中で姿勢を直すなんて器用な真似は出来ず、放り出された花中は地面へと落下。ぼふん、と厚く積み重なった落ち葉に受け止めてもらえたお陰で衝撃は左程なかった。息も出来るようになり、ズキズキと全身に走っていた酸欠の痛みは一気に鎮まっていく。

 それでも動揺は未だ冷めやらぬ。死から逃れたという実感も湧かないうちに花中は顔を上げ、弄ばれた獣が如くおどおどと辺りを見渡す。

 どの方角を向いても真っ先に見えるのは崖。どうやら此処は周囲を崖に囲まれた、山にぽっかりと開いた穴のような場所らしかった。地面には落ち葉が隙間なく積もっており、草木は一本も生えていない。そしてそ中央に今し方花中が溺れ死にそうになった水溜まり……いや、池があった。池の大きさは、ざっと半径十メートル……

「はぁ……はぁ、はぁ……はぁっ……はぁ、はぁ、はぁ……あ、く……」

 ここまでが限界。

 息は出来ても体力の回復までは追いつかず、花中はその場に倒れ伏してしまった。もう指一本動かせないほど全身が重く、意識も再び、最早心地良さすら感じる勢いで遠退いていく。

 それでもせめて、せめて此処が本当に安全なのかだけは確かめようと花中はうつ伏せになっている身体を仰向けにして――――

 目の前に広がる青空に、心奪われた。

 本当にこの場所はぽっかりと開いた穴らしく、崖上に生える木々の葉が円形の縁を作っていた。円の内側を満たす青空は何処までも高く、見ているだけで身体が浮遊感に包まれる。その浮遊感は母親に抱っこしてもらった時のような、優しさと暖かさを感じさせてくれた。疲れ切った身体で感じるには極上過ぎる快感であり、今までの苦痛がこの快楽の代価ならばむしろ安く思えてくる有り様だ。

「(……後の事は、服が渇いてから考えようかな……)」

 疲れ切っていたからか、それとも心地良さのせいか。いよいよ遠退く意識を捕まえ続けるのが辛くなり、花中は目を瞑る。

 今は疲れた体を癒そう。滅茶苦茶に走り回った挙句崖から転がり落ちたから、帰り道なんてきっと分からなくなっている。けど、どうでもいい。その程度の事、大したピンチではない。

 人類の英知の結晶と言える、あの万能の通信端末が手元にある限り、助けなんて何時でも呼べるのだから。

「って、ああああああああああああああああああああああっ!?」

 そこまで自分に言い訳をして、花中は叫んだ――――転がり落ちた時よりも大きな声で。

 疲れ切った身体を気持ちの勢いだけで起こし、花中は慌ててスカートのポケットに手を突っ込む。無いなら良い。転がり落ちた拍子に放してしまった鞄の中とか、そこら辺とか、逃げ回った山道とか……兎に角、何処かに落ちている可能性が残るのだから。だから花中はポケットに突っ込んだ手が、何も触れない事を期待した。

 残念ながら、花中の手は『それ』を掴んでしまった。

「……………」

 濡れ鼠だから、では説明出来ない勢いで身体が冷めていくのを感じながら、花中はポケットの中身を取り出す。

 出てきたのは、自分と同じぐらいぐっしょりと濡れた携帯電話。今ではガラケーと呼ばれるようになってしまった、やや時代遅れの通信端末。

 その携帯電話を花中はおもむろに開いてみたが、画面はまっくろくろすけ。ボタンを押しても反応なし。電源を入れようとしても入らない。振っても叩いても、うんともすんとも言わない。

 当然である。花中の携帯電話には、防水加工なんて施されていないのだから。

「……………本格的にわたし、死んだかも」

 使えなくなった携帯電話を投げ捨て、花中は膝を抱えて蹲る。

 普通の家庭なら、深夜になっても子供が帰ってこなければ、何かあったと察して警察に通報してくれるだろう。しかし花中の場合両親は仕事で海外暮らしのため、娘が家に帰っていない事すら気付いてはくれない。友達もいないので、明日学校を休んでも不審に思ってくれる人は一人としていない。

 故に遭難となった場合、花中は自力で助けを呼ぶ必要があった……それが可能な最強にして唯一無二のツール・携帯電話が沈黙。これでは誰かに助けを求める事が出来ない。火を起こせば煙を見た誰かが或いは、と閃くも、付け方の知識はあっても技術がないので無理だと気付く。

 状況は最悪。抗う術は分からず。

 あまりにも絶望的な現状を前にして頭が真っ白になった花中は、休息を要求する身体に従いその場で横になった。所謂不貞寝。考えるのが嫌になり、思考を放棄しようとする。

 そしてそのまま静かに目を閉じ――――

「少しよろしいですか」

 花中の耳に、凛々しさを感じさせる少女の声が届いた。

「っ!?」

 花中は飛び起きて声が聞こえた方へと振り向く。疲れはもう感じていない。感じてなんていられない。人と話すのは緊張するが、しどろもどろしている場合ではない。

 だって人が居るという事は、その人に助けを求められるという事! 生きる希望を前にした花中の表情は自然と綻んでいた。

 しかしその笑みは、振り向いてすぐに唖然とした表情(もの)へと変わる。

 花中が振り返った先は、自分が落ちた『池』。

 そこに居たのは一人の、見知らぬ少女だった。けれども花中が唖然となったのは、初対面の少女が居たからではない。

 少女が、あまりにも美しかったからだ。

 その少女は足首近くまで伸ばした、熟した稲穂のように美しい金色の髪を持ち、碧い瞳を宝石のように煌めかせていた。芸術品の如く完成された端正な顔立ちは、卓越した美しさ故に人間味が感じられない。不遜さすら感じさせる自信満々な笑みを浮かべていなければ、彼女が生き物だとは思えなかっただろう。豊満な肉体はくすみ一つない艶やかな輝きを放ち、まるで彫刻のようだ。その超越的な美しさの前では、彼女が『水の上』に立っている事など些事に過ぎない。

 そしてそんな圧倒的美貌を少女は一切隠さず、産まれたままの姿で晒していた。剥き出しの美貌は花中の心を一気に侵食し、『人』と話す不安を消し去ってしまうほどだった。

「(綺麗……)」

 相手は裸なのだからこんなにまじまじと見てはいけない……理性では分かっていても、花中は少女から目を逸らす事が出来なかった。見惚れていたのか、それとも崇めていたのか……自分でも分からないまま、ただただ見つめ続けてしまう。

「失礼。此処からだと流石に話し辛いですね」

 我を失う花中に少女は、花中が先程聞いた凛々しい声で早口に詫びを入れると、ゆったりとした動きで歩み出す。不思議な事に少女の足は水に沈まず、アメンボのように浮き続けていた。

 『人間』は水の上に立てない。だから花中は目の前で起きた光景を錯覚やトリックだと疑ったが、すぐに頭を横に振る。

 きっと自分は、神秘的な何かを目撃している。

 トリックや錯覚ではなく神秘を信じたくなった花中は、恐怖を感じる事なく少女を待ち続け――――やがて池から上がった少女は、花中の前に立った。眼前一杯に、両親以外では初めて見る他人の裸体が広がるが、羞恥や嫌悪などは微塵も感じない。相手は百七十センチ以上ありそうな長身だったが、見下ろされても威圧感なんてない。あるのは不思議な出来事と人知を超えた美しさに対する、純粋な興奮のみ。

 やがて少女は何かを語ろうとしてか、口元を僅かに緩める。花中は寝る前の絵本を楽しみにする幼子のように少女の言葉を待ち、

「ゴミのポイ捨ては勘弁してもらえませんか?」

 少女の、妙に現実的な言葉を聞いて、興奮は一気に冷めた。

「……え? あ、ご、ゴミ、ですか……?」

「惚けないでくださいよほらあそこにあるアレあなたが捨てたものでしょう?」

 よく分からず戸惑う花中に、少女は問答無用だと言わんばかりの早口で捲し立てるや、ある場所を指差す。少女の指先が示す方向を目で追えば……花中が投げ捨てた携帯電話があった。

 確かにゴミかそうじゃないかで言えば、アレはゴミである。感情に任せて投げ捨ててしまったが、少女が言うようにゴミのポイ捨てはいけない。特に機械類は重金属や特殊な薬品が使われているので、ちゃんとした施設で処理しなくてはならない。たった一個のゴミ、されど一個のゴミ。こういう事の積み重ねが重篤な環境汚染を招く。お怒りは尤もだ。

「あ、えと、す、す、すみ、ません………」

 花中は少女に頭を下げて謝り、携帯電話を拾うために立ち上がる。勢いよく投げたので携帯電話はそこそこ遠くまで飛んでいた。冷静になったからか疲れがどっと戻ってきたが、行きたくないとは言えない。

 花中は疲れ切った身体に鞭を打ち、長くはないが短くもない距離を駆け足移動。携帯電話を拾い、奇跡でも起きてないかなぁー……と期待して再度電源を入れようとする。結果は予想通りだった。

 使えなくなった物をしまうのも何だか間抜けだと思いつつ、花中は小さなため息と共に壊れた携帯電話をスカートのポケットに突っ込む。

「本当にゴミのポイ捨ては勘弁してほしいものですこの池は周囲が崖に囲まれているので人間が入ってくる事はないんですけど風に乗って結構飛んできましてこの池も底にはビニール袋とかペットボトルとかたくさん沈んでいるのですよまぁ流石に人間が落ちてくるとは思わなかったですけどねはははははは」

 そして花中が携帯電話を拾いに行き、ポケットにしまうまでの間、少女はベラベラと喋り続けていた。何処で息継ぎしているか分からないほどの早口だったが、言葉は耳にしっかり残る。水のように透き通った声だからか、脳の奥底まで染みこむように伝わってくるのだ。

 やがて、花中は気持ち悪さを覚え始める。症状は眩暈、耳鳴り、吐き気……乗り物酔いならぬ話酔い、だろうか?

「そもそも……ああ失礼」

 花中があまり丈夫でない身体をふらふらさせ始めた頃、ようやく少女は話を止めてくれた。大自然の空気を吸って、吐いて、不快感はすっと引いた。変わりに気遣いをさせてしまった事に対する申し訳なさが、花中の心に込み上がってきた。

「あ、その、いえ……あの、大丈夫、です……」

「やはり裸はいけませんね」

「……はい?」

「全裸では警戒されても仕方ないでしょう。面倒臭くて服をイメージしなかったのですがやはり身嗜みは大切な事ですよね」

 いえ、裸そのものは別に平気と言うか、むしろ見惚れていたぐらいなのですけど。

 そう思ったが、日常会話すら満足に出来ない花中にこの爆弾発言をする勇気など微塵もない。無言を貫く花中の態度をどう受け取ったのか、少女は考え込むようにしばし自身の顎を指で摩る。威風堂々とした佇まいで考える姿は絵になるが、しかし全裸。今更ながら、恥じる様子もないのは些か変質的である。

「思い付く服装がこれしかありませんのでこれにしましょう。丁度良い事にモデルが目の前にありますしね」

 花中が今更ながら不信感を抱き始めた頃、少女は考え事が終わった事を独り言で知らせてくる――――と同時に、少女に不思議な事が起きた。

 それは間近で見ていた花中にも理解出来なかった。

 何しろ少女の姿が蜃気楼の如く揺らめいた次の瞬間、裸だった少女が花中と同じ、帆風高校の夏服である半袖ブラウスと紺色のスカートを着込んでいたのだから。

「……え?」

「どうですかね? 完璧に模倣してみたつもりなのですが」

 ニコニコと自信満々に微笑む少女が尋ねてきても、花中には答える事が出来ない。完全に呆気に取られてしまう。

 この人は今、何をしたのか。この人は、一体何者なのだ。

 手品師? ただの変な人? よもやドッキリ?

 抱いた疑問に対する答えを幾つも考えたが、どれも心が全く受け付けない。常識的な発想が信じられなくなる。そのぐらい少女の『早着替え』は衝撃的で、花中には理解し難いものだった。

「さて服も着た事ですし先の話の続きと参りましょう!」

 ……とりあえず、お喋りが好きな『ヒト』という認識で問題はなさそうだが。

「まぁゴミを捨てるのは百歩譲って良しとしましょう私達だって環境破壊なんて全く気にせず好き勝手やってる訳ですからしかし一体何処からゴミが来ているのでしょうねこのままじゃ池が埋まってしまいそうで困りますよただでさえ底の浅い池だと言うのにいえ私は自由に動けるようになりましたし他の連中の事などどうでも良いのですがやはり住処を荒らされるというのは嫌なものでして」

 普通の人が一文字発する間に五文字ぐらい話していそうな勢いで、少女は途切れる事無く話し続ける。止めない限り延々と続きそうだが、話下手である花中でも入り込めるような隙間なんてなく、強引に隙間を作る勇気もないので聞き続ける事しか出来ない。

 しかし、花中はそれを嫌とは思わない。慣れてきたのか今では話を聞いていても酔いを感じないし、何より……みんな怖がって近付きもしない自分に話し掛けてくれる事が、嬉しくて堪らなかった。

 花中は少女の話を聞き続けた。ずっとずっと聞き続け、頷いたり相槌を打ったりした。花中が言ったのは精々「はい」とか「はぁ」とか「そう、ですか」の三言ぐらいだったが、それでも花中には楽しかった。

 少女もまた楽しかったのだろうか。一つの話が終われば、終わったと花中が理解するよりも早く次の話が始まり、その話も終われば間髪入れずに別の話が始まる。語られる話は何時までも何時までも……青かった空が茜色に染まるまで続いて、

「そういえばあなたはなんでこの池に来たのですか? 見たところ釣り人でも登山家でもないようですが」

 不意に少女は、花中がすっかり忘れていた事を尋ねてきた。

 幸せに浸っていた花中の思考はここでようやく切り替わる。空が茜色になっている事にも今気付く。

 ついでに、このままじゃ野宿確定、とも。

「……………あ、ああああああああっ!? そ、そうです! あの、あの、その、えっと」

「慌てなくとも私は逃げませんよ。落ち着いてください」

「ぅ……は、はい……」

 宥められてしまい、恥ずかしさで沈黙。それから自分の事情を説明すべく、花中は言い方を考える。

 考えて、考えて……段々と血の気が引いてきた。

 ――――順序立てて説明すれば良いのだろうか。

 ――――それとも手短に、用件だけ伝えた方が良いのだろうか。

 ――――何て言おう。分からない。

 ――――早くしなきゃ。分からない。

 ――――困らせちゃう。分からない。

 ――――呆れられちゃう。分からない。

 ――――嫌われちゃう――――

「ぁ、あ……ぁ、の……」

 頭の中をぐるぐると回る『感情』に、言葉が塗り潰されていく。声が出せなくなっていく。表情もきっと何時もみたいに怖くなっていて、相手を不快にしていると思ったら逃げたくて堪らなくなる。

 普段なら、身体が硬直して結局は動けないながらも、逃げようとしていただろう。

 けれども今は、「逃げたい」とは思っても「逃げよう」とまでは至らない。

 目の前に居る少女が何も言わず、ウキウキとした笑顔で自分の言葉を待ってくれているのに、どうして逃げられよう。

「……なんで……」

「はい?」

「な、んで、あなたは……わたしの、は、話を……待ってくれるの、ですか……? わたし、こんなに、目付き、悪いのに……」

 花中の口から出てきたのは疑問の言葉。質問に答えていないどころか、これでは無視して自分の話を始めたのと変わらない。嫌われたくないのに、嫌われるような事をしている自分にほとほと呆れ返る。

 それでも訊かずにはいられない。

 何故この人は自分の、誰もが逃げ出す目を見ても逃げないのか――――花中には想像すら出来なかった。だからきっととんでもない、余程の理由がある筈。それを知らずにはいられない。

 そう信じていたのに。

「そんなのこちらが尋ねたからに決まってるでしょう?」

「……え?」

 少女の答えはあまりにも普通で、花中は呆けてしまった。

「質問したのは私なのですから答えがくるまで待つのは当然だと思うのですが。それにあなたお喋りが得意ではなさそうですからね時間が掛かるのは想定済みですよ」

 早口言葉のように語られ、花中は理解が追い付かない。目付きが悪くて誰もが、誰とでも友達になれるクラスメートすら震え上がらせてしまう自分を怖がらない理由も全く分からない。

 一つだけ分かったのは――――彼女は自分の本質を分かってくれた事。今まで親以外の誰にも分かってもらえなかった、『上手くお喋り出来ない自分』を理解してくれた事。

 それが堪らなく嬉しくて、花中は自分の目が潤むのを感じた。

「あ、あり、がとう、ご、ざいます……わたしの、は、話を、き、聞いて、くれて……」

「いやいや。まだなんにも聞いてませんから。ゆっくり考えて良いのでちゃんとお聞かせください」

「はいっ……!」

 花中は元気よく、そして、力強く返事をする。

 時間を掛けても良い。それが分かった途端心が軽くなり、感情で塗り潰されていた頭の中にたくさんの『言葉』が浮上してくる。それは正に情報の濁流。普段なら飲み込まれていたに違いない。

 だが、今の花中は飲み込まれない。

 ――――この人にわたしの事を伝えたい。わたしをもっと知ってほしい。

 そう思うとどの言葉を使えば良いのか分かり、口から出てくるのを抑えられないのだから。

「わ、わたし、クラスメートの、人に、さ、誘われ、て、山登りを、していて……だけど、途中で、く、クマに、襲われて……逃げて、足を滑らせて……この場所まで、落ちてきた、ので、す……それで、わた、し、この山の事、あまり、し、知らなく、て、迷って、帰れ、なくて……だから、下山するための、道を、おし、教えて、くださいっ……!」

 一瞬だけ心を過ぎる「本当にこの言い方で大丈夫なのか?」という不安は、成程と呟きながら頷く少女を見て吹き飛ぶ。

 自分の事を知ってもらうのが、こんなに嬉しいとは知らなかった。

 話を聞いてもらうのが、こんなにもワクワクするとは思ってもみなかった。

 親戚以外の相手で初めてする『楽しい会話』に、鼓動の高鳴りが止まらない。少女が何を言うのか、どんな顔をするのか、想像するだけで胸が躍ってしまう。

 そして。

「それは私にも分かりませんねぇ」

 少女の答えと共に、『楽しい』気持ちは消え去った。それはもうあっさりと。

「……………え?」

「生憎私は生まれ故郷から出た事がない身でしてこの山の道についてはなーんも知らない訳です。当然山の外に出るためのルートなど全く分かりません。はっはっはっ」

「そ、そんなぁ……」

 帰れるものだとばかり思っていた花中はへろへろと座り込み、それでもまだ失望し足りなくてがっくりと項垂れる。

 まさかこんなにも自信に満ち溢れている少女が、自分と同じく遭難者だとは思いもよらなかった。お家に帰してくれるなんて約束は交わしていないが、気分は死の間際にブルータスを見付けちゃった時のカエサル。気力がどんどんと失われ、もうこの少女を無視して不貞寝してしまおうか、とも思い始める。

 しかし落ち込む花中の肩を正面から優しく、励ますように叩く者が居た。とは言え此処に花中以外の『ヒト』は一人しか居ない。

 花中は顔を上げて自分の肩を叩いた者――――金髪碧眼の美少女を見上げる。少女はにっこりと微笑み、相変わらず早口なものの今までよりは幾分穏やかに話し掛けてきた。

「まぁそうガッカリしないで」

「これが、ガッカリせずに、いられますか……」

「ですからガッカリしないでと言っているのです。帰り道の案内は出来ませんが一緒に探すぐらいはしてあげますよ。ただし条件付きですけどね」

「条件、ですか……?」

「ええ」

 花中が訊き返すと、少女は何か企んでいそうな悪い笑みを浮かべながら肯定する。確かに出来れば一緒に帰り道を探して欲しいが、しかし提示される条件が自分に出来る事なのか……と不安にもなる。

 花中は上目遣いに、少し怯えながら少女の言葉を待つ。少女はそんな花中の前で一旦胸を張ると、堂々とした仕草を交えながら口を開き、

「私と友達になってくれませんか?」

 告げてきた条件は、突きつけているのは自分の方ではないか? と花中が錯覚するような内容だった。

 しばし思考停止。フリーズ。シャットダウン。

 後に再起動するや、花中はのろのろもたもたと右往左往してしまう。

「あ、あの、あの!?」

「なんでしょうか?」

「い、今、あの! わ、わたたたわたしと、と、ととと、とも、友達、友達になってと、い、言いましたか!? 言いましたよね!? 言ったのはわたしではないですよね!?」

「言いましたねぇ。言ったのは私であってあなたではないですねぇ」

「何でですか!?」

 自分は表情が怖くて、根暗で、面白い話の一つも出来ない。こんな自分と一緒に居てもつまらないだけではないか。

「友達になるのに理由が必要なのですか?」

 そんな『常識』を花中が言葉で吐き出すよりも早く、少女は心底不思議そうに尋ね返してきた。あっけらかんとした言葉だったが、胸に受けた衝撃はまるで殴られたかのよう。花中は一歩、二歩と後ずさる。

「り、理由って、だって……だっ、て……」

「一緒に居て楽しい人と友達になりたいのは自然な事だと思うのですが……違うのですか?」

「ち、違いません、けど……で、でも、でも、わたしなんかと、一緒に、居ても、楽しくない……」

「いえ楽しかったですよ? 私の話をちゃんと聞いてくれましたし」

「わたし、顔が怖い、し」

「サギや鵜に比べればそうでもないと思いますけど」

「せ、性格、暗いし」

「この池に暮らす一般的なフナに比べれば結構明るいように見えますが」

 どれだけ理由を、不安を伝えても、少女は即座に否定する。意味はいまいち分からないが、しかし真っ直ぐ過ぎる言葉に、その場凌ぎやお世辞らしさはない。花中が今まで怯えていたモノの全てが、淀みなく切り捨てられていく。切り捨てられる度に、花中の心から重しが消えていく。

「お、面白い話なんて、出来ない、し」

「面白い話が聞きたいから友達になってほしい訳ではありません。と言うかあなた私と会ってから面白い話なんてしましたっけ?」

 やがて最後の不安が切り捨てられて、花中は言葉を失った。

「? どうしました?」

 何も言わなくなった花中を心配してか、少女は花中の顔前で手を振る。花中も目の前で手を振られているのは分かるのだが、身動き一つ取れない。声も出せない。

 出来たのは、ややあって大粒の涙を零す事だけだった。

「え? ええぇえええええええっ!? 何故泣くのですかまさか私の顔が泣くほど怖かったのですかそんな美少女を形作ったのですからあり得ないというかあまりにも今更過ぎるでも他人の評価なんて分かりませんし反応の早い遅いは人によって違うでしょうしこの人結構鈍そうですしああどうして泣くのですか理由を教えてください私に出来る事でしたら善処しますしいえ理由も知らないのにこういう事を迂闊に言うのもあわわわわわわ」

「ち、違うの。あの、違うの」

 凄まじい早口と勢いで狼狽する少女を制止し、花中は零れてくる涙を拭き取ろうとする。しかし、どんどんどんどん、身体中の水分がなくなってしまいそうな勢いで出てくる涙は拭いきれない。

 嬉しいのに。

 自分の不安が取るに足らないものだったと分かって嬉しいのに、何故か涙が止まらない。

「大丈夫……大丈夫……」

 それは自分に言い聞かせる言葉なのか、今にも泣きそうな顔をしている少女に向けて言った言葉なのか。花中にもよく分からない。だが、次に言おうとしている言葉は少女に向けたもの。それは泣きながら言ったら絶対に可笑しい言葉。

 だから花中は一生懸命笑おうとしたが、そんな必要はなかった。

「わたしも、あなたと友達になりたい、です……!」

 人は本当に嬉しいと、勝手に笑ってしまうのだから。

「ほ……本当に私と友達になってくれるのですか? 泣くほど嫌だった訳ではなく?」

「はい。どちらかと言うと……多分、泣くほど嬉しい、の方、かと」

「そそそうですか! まぁそうでしょうね! 私のような美少女と友達になれるのですからそりゃあ泣くほど嬉しいですよね! はい!」

 あからさまな少女の強がりに、花中はうっかり先程とは異なる笑みを浮かべてしまう。すると少女は紅くした頬を膨らませ、それでも花中が笑みを浮かべているとついにはそっぽを向いてしまった。

 その仕草を見ても、花中は不安をあまり感じなかった。

「じゃあ、あの、今から友達、ですね」

「そうですねっ! その……これからよろしくお願いします!」

「はいっ!」

 少女はそっぽを向いたまま手を花中の方へと伸ばし、花中はその手を両手で握りしめる。手から伝わる少女の体温はとても温かく、花中の身体だけでなく心も温めてくれる。

 許されるなら何時までもこの手を握りしめていたい。初めての友達であるこの少女の手を――――

 そこでふと、花中は重大な事に気付いた。

 この少女、この少女、この少女……さっきからそう呼んでばかり。

 まだ、友の名前すら知らないではないか! それどころか自分の名前を伝えてもいない!

「名前……」

「名前? ……ああそういえばまだ聞いていませんし言ってもいませんでしたね」

「え、えと、じゃあ、わた、わたしから、自己紹介、しても、あの、良い、ですか?」

「勿論。どうぞ」

「はいっ……え、えっと、わ、わたしは大桐、花中、と、い、言います。あの、植物の方の、花って字に、えと……な、中身の中で、花中……です」

 声を詰まらせつつも花中が自己紹介を終えると、少女は「かなか、かなか」と何度か呟く。

「では花中さんとお呼びしますね」

 そして微笑みながら、名前を呼んでくれた。嬉しさで花中は何度も頷いてしまい、頬が緩むのを止められない。

 今度は、自分が少女の名前を聞く番だ。

 花中は意気込み、身体が少し前倒しになる。少女の声を一言一句聞き逃さないよう集中……していたら、「顔が怖くなっていますよ」と窘められてしまった。

 少し恥ずかしい。けれども笑顔が戻る。

「では私の紹介と参りましょう」

 少女はそんな花中にとびっきりの笑顔を向け、ワルツを踊るかのようにくるりと一回転。美しくも愛らしい舞いに花中は思わず見惚れてしまう。

「私はフナですよ」

 続いて少女は大凡自己紹介とは言えない台詞を吐き――――聞いた花中は、うっとりとした表情のまま固まった。

 少女はふざけているのか? その答えはNO。少女はとても真面目に自己紹介をしてくれた。

 何しろ一匹の魚が、少女の口からずるりと出てきたのだから。

 胸鰭部分まで出てきたその魚の『全長』は、推定三十センチ程度。全体的な色彩は光沢のある銀色で、丸々太った姿は健康的な印象を受ける。それ以外の部分については専門的知識がないのであまり詳しい事は分からないが、素人判断で答えるなら、その魚は確かに『フナ』のように見えた。

「そういえば伝える機会がなかったので誤解があったかもしれません。実は私人間じゃないのですよ。まぁ性別は雌ですから普通に女性として扱ってもらえると嬉しいですね」

 ただし、凛々しい少女の声でベラベラと喋るのだが。

 この光景がマジックや幻覚の類でないのなら、『声の持ち主』であるフナの方こそが少女の本体、なのだろうか。ならば目の前の少女は、少女自身が言ったように人間ではない。尤も、ではそれで何か問題なのかと問われたなら、少なくとも花中は問題ないと答える。友達が人間か動物かなど些末な話。花中は、彼女が人間だから友達になれて嬉しいと思った訳ではないのだ。

 ただ、とても驚いたのは事実。だって魚が喋ったのだ。少女の顔からフナが飛び出したのだ。誰だって仰天する。

 そして、花中が根っからの『小心者』。

 常人でも仰天する事態に、ノミの心臓の持ち主である花中の驚きが『仰天』で済む筈もない。驚きはパニックに陥る水準をあっさり飛び越え、脳で処理しきれないレベルへと到達。

 このままでは ― 割とくだらない理由で ― 心が壊れてしまう……限界を予感した花中の心は己を守るため、ついに外部の情報を遮断する。

 即ち。

「むきゅう」

「……あら?」

 吃驚し過ぎた花中は、あっさりと意識を手放してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 口からフナが飛び出たままの少女の背後で、崖に映る木々の影が一斉にぞわりと蠢いた事に気付かぬまま――――




次話は来週土曜~日曜に投降予定です。


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ファースト・フレンズ3

 ふわふわとした感触と、心地よい脱力感。

「……………ん、にゅ?」

 覚醒した花中の意識が最初に感じ取ったのは、全身を包み込むそんな感覚だった。閉じていた瞼は自然と開き、無意識に身体を起こしたところ正面から強い光が襲い掛かってくる。あまりの眩しさに目を細めたが、じっと耐えて浴び続ける事数秒。ぼーっとしていた頭は冴えていき、その光が朝日であると理解した。

 理性が戻った花中は普段より多めに垂れ下がっている前髪を掻き上げ、辺りを見渡す。

 花柄のカーテン、使い慣れたふかふかな掛け布団とベッド、棚の上に並べられたたくさんのヌイグルミ、様々な分野の本が納められている本棚、ちょっと古びた勉強机……あまり広くない割に可愛らしい小物やらなんやらがいっぱいあるせいで、狭苦しさを覚える部屋だ。次いで自身を見てみれば、去年自分で買った、花柄のパジャマを着ている。

 視覚情報から此処が自分の部屋である事、そして自分が今まで布団の中で眠っていた事は明らかだ。

 だからこそ花中は首を傾げる。

「(えーっと……わたし、確か……)」

 眉間に指を当てながら、花中は自分が()()()()()前の事を思い出そうとする。

 記憶が確かなら、自分は泥落山で遭難していた。そこで見知らぬ少女と出会い、初めての友達になって……その友達の口から、喋る魚が飛び出したのを目の当たりにした。

 それに驚いた事が原因で自分は気絶した、ような気がする。

 ここまでハッキリと覚えているからこそ腑に落ちない。

「(じゃあ、なんでわたし、自分の部屋に居るんだろう……)」

 気絶していたのだから、自力で山を下りる事は出来ない。じゃあ『友達』が自分を此処まで運んでくれたのかと思うも、彼女に自宅の場所は教えていないし、そもそも彼女も下山ルートなんて知らないと言っていた。呼べなかった救助隊が助けにきてくれたとも思えず、仮に何かしらの奇跡が起きて救助されたのなら、目を覚ますのは自宅ではなく病院のベッドの上だろう。

 パッと思い付く可能性は殆どが即座に否定出来、首を捻りながら考えても新たな可能性は閃かない。

 最後まで残った可能性はたった一つだけ。

「夢オチ……まぁ、そうだよね。わたしなんかに友達が出来るなんてあり得ないよね。大体人の口からフナが出てくるってそれこそ夢じゃないとあり得な」

「独り言はそれなりに饒舌なのですね」

「きゃわわあぁあああああああ!?」

 残った可能性を愚痴と共に吐き出していたところ、突如自分以外の声が聞こえてきたので花中は飛び跳ねるぐらい驚いた。浮いた身体はやがて落ち、顔面からベッドに着地。お尻を突き上げた無様な姿を晒すが、姿勢を直すのも忘れて花中は声が聞えた方――――自分の背後へと振り向く。

 そこには長く伸びた金色の髪を靡かせ、

 艶やかな大人のボディに帆風高校の夏の制服を纏い、

 美術品の如く完成された顔に堂々とした笑みを浮かべながら、

「ああ申し訳ありませんまずはおはようございますでしょうか今日もいい天気ですねあの池で暮らしていた時は周りが崖と木に覆われているせいで朝日なんて見た事もなかったのですけどこうして見るとどうして中々太陽が昇っている最中の光景というだけなのにとても清々しい気分になりますね」

 息継ぎをしているとはとても思えない早口で盛り上がる少女が、当然のようにベッドの傍に立っていた。

 顔面着地のささやかな痛みから、今、自分が夢の中に居ない事を花中は確信している。しかし目の前に立つ少女は『今朝の夢』の人物なのだから、現実に居る訳がない。

 『今朝の夢』が夢だとしたら矛盾が生じる。夢じゃなくても矛盾は残る。

 だけど夢じゃなければ、友達が出来た事は本当になる。

「お、おは、おおは、おはよ、よ、ようざいます!」

 だから花中は起き上がってすぐ、少女に一生懸命朝の挨拶をした。きっと、挨拶が返ってくると信じて。

「おはようございます」

「んぅ~~~~~……!」

 期待に少女が応えてくれたので、花中は歓喜のあまり身体を小刻みに震わす。震える花中を前にして少女は驚いたような表情を一瞬浮かべた後、露骨な呆れ顔を見せた。

「挨拶しただけなのにそんな感極まった反応をしなくとも良いと思うのですが」

「だ、だって、昨日の事が、本当、だと、思うと、嬉しく、て」

「昨日の事……先程の夢オチ発言から推測するに私と出会えた事でしょうか?」

「はいっ! それに、誰かと挨拶なんて、もう一年以上、してないですし……」

「大袈裟な。人間というのは家族と一緒に暮らしているものなんですよね? でしたらその家族と挨拶をしているのではないですか?」

「あ、か、家族は、去年から、海外、暮らし、でし、て」

「海外?」

 少女が抱いた疑問に、花中は少し俯きながら説明した。

 花中の両親は共に学者である。

 父は植物学者で母は昆虫学者。二人ともその道においてはそこそこ名が通っているらしく、研究や学会発表のため昔から家を空ける事が多かった。それでも一人娘である花中を気遣ってか、二人が同時に三日以上家を空ける事は殆どなかったし、どちらかが家に居ない時はもう一方の両親がたっぷりと構ってくれたものだ。友達は出来なくとも、花中の寂しさは親の愛情がいくらか癒してくれた。

 ……一年前のあの日までは。

 中学三年生になって一月が経った頃、大の大人二人は未成年の娘に言った。

 これから三年間、ちょっと海外で研究してくるぜ! ― 注:原文ママ ―

 直後大桐家夫妻は、指名手配された犯罪者の如く速さで出立。日頃から二人の忙しなさには慣れていた筈の花中ですらついていけず、気付いた時には二人とも家どころか日本から姿を消していた。

 以降、偶にエアメールはくれども顔は見ていない。

「……という、事が、ありまして、うちの家族は、あと二年、家には、帰って、きません……」

「……色々大変ですね」

 説明を終えた花中の頭を、少女が撫でてくる。幼少期以来、しかも親族以外に頭を撫でられるという経験に花中はとても驚き、驚きの顔は二秒と経たない内に蕩けてしまう。ふにゃぁー、と変な声も出てしまったが、脳も蕩けていたので気付かなかった。

 お陰でついきっ先程抱いた疑問を忘れてしまったが、少女が頭から手を放すのと同時に思い出した。名残惜しいが続きのおねだりは我慢し、疑問の方を優先する。

「あ、あの。そう言えば、どうしてわたしの、家が、分かって……?」

「おっとその説明がまだでしたね」

 自分で自分の頭を撫でながら花中が尋ねると、少女は掌を花中の方へと向ける。

 なんだろうと思い花中が覗き込んだ――――刹那、一冊の手帳が少女の手を突き破って出てきた。よく分からないが大変だ、と思った花中は意識が遠退き、しかし彼方へと消えてしまう前に自分自身の頬を勢いよくビンタ。

 何とか意識を現実に留めた花中は、目を見開く少女にぺこりと頭を下げてから改めて少女の手を見てみる。と、そこに傷跡や出血の跡はなかった。「目の錯覚だね!」と自分の記憶を全力で否定し、次に少女の掌にある手帳を細部まで観察。それが自分の生徒手帳だと気付いた。

「あ。わたしの、生徒手帳……」

「あなたが気絶している間に鞄の中から拝借しましてね。住所が書いてありましたので山を下り町で出会った人々に尋ねあなたの家を特定した次第です。目を回しているあなたの姿が同情を誘ったのか皆さん親切に教えてくれましたよ」

「そ、そうですかー……あれ? でも、昨日は確か、下山するための道は、知らないって」

「ええ知りませんよ。ですからとりあえず月を目印にして東に進んでみました。真っ直ぐ進めばそのうち山を下りられると思いましたので」

 随分とアグレッシブな性格なんですね、あなた。

 そう思った花中だったが、言葉にはしなかった。気絶した姿を他人に見られたなんて想像するだけでも恥ずかしく、出来れば早く話題を変えたかったので。

 何はともあれ疑問の『一つ』は解決。花中は『もう一つ』の疑問を少女にぶつける。

 少女が、本当に魚であるのかを。

「あの、もう一つ聞いても、良い、ですか? 今更な、質問です、けど……」

「質問の内容にもよりますね。スリーサイズは秘密ですよ? これでも乙女ですから」

「……えと、あの、あなたが本当に、ふ、フナなのか……し、信じてない、訳では、ないです、けど、でも、あの後、きじぇ、きじぇちゅしたし、それに、にわかにはひ、ひんじがひゃっ!」

「ふむ。確かに喋る魚なんて信じ難いかもしれませんね」

 ならばもう一度お見せしましょう。

 少女がそう言ったので、花中は噛んでしまった舌の痛みを堪えて少女の顔をじっと見つめる。推測だが、昨日のように少女の口からフナが出てくると思ったからだ。

 展開が分かっている事に驚くつもりはない。いや、やっぱり驚くかもしれないが、気絶だけはしない。

 決意と共に花中は歯を食い縛り、予想する瞬間を待ち続け――――

「そんな訳で改めましてこんにちは。フナです」

 少女の『顔面を突き破り』ながらフナが現れるという、想像以上の大惨事を目の当たりにした花中の意識はやっぱり遠退いてしまった。自分のほっぺたをビンタする余裕もないぐらい急速に。

「寝るには早い時間ですよ」

「ふはっ! え? あ、はひ!」

 代わりに少女が倒れそうになる身体を掴んでくれたので、花中はどうにか意識を手放さずに済んだ。

 困惑しつつも花中はフナ、いや、少女の顔を見る。

 最初花中は少女の顔を突き破ってフナが出てきたと思ったが、それは正確な見方ではなかった。と言うのも、フナが飛び出ている少女の顔は全く裂けておらず、波打つように揺らめいていたのだ。出血は一切なく、グロテスクな何かが飛び散ったりもしていない。

 人の顔である事を考慮しなければ、魚が水面から顔を出しているかのよう……花中の目にはそう映った。

「さてこれで夢オチでない事が証明出来たかと思いますがどうでしょうか?」

 ずぶずぶと少女の顔の中に戻りながら、フナ……或いは少女……いっそ簡潔にフナ少女と呼んでしまいたくなる彼女は、念を押すように尋ねてくる。

 少女の顔面に魚が沈み込んでいく光景に、花中は不気味さを感じなかった訳ではない。

 だけど昨日の出会いが現実だった嬉しさの方が、ずっと大きかった。

「……っ!」

 自分の気持ちを言葉にする前に、花中は無我夢中で何度も頷いていた。するとフナ少女は「それは良かった」と言い、笑顔を向けてくれる。太陽のように暖かい笑顔につられ、花中も自然と笑ってしまう。

 こんなに笑ったのは何時ぶりだろうか。

 友達と一緒に居るのが、こんなにも楽しい事だとは思ってもみなかった。こんなにも幸せになれるものだとは予想もしていなかった。フナ少女が居なければ、きっと今でも自分は独りぼっちだっただろう。誰かと一緒に笑う事など出来なかっただろう。

 だけどもう、一人じゃない。これからは、このフナ少女と一緒に笑い合える。

 何度も諦めかけた願い。それが本当に叶ったのだと実感した途端、感極まった花中の目には熱いものが込み上がり――――

「ところで支度をしなくても良いのですか?」

 脈絡のないフナ少女の一言で、熱さは身体の奥に引っ込んでしまった。

「……………え? 何?」

「ですから支度です。とはいえ義務である期間は終わっていますから私はあなたの意志を尊重しますよ。たまーにサボって遊んでいる方が青春っぽいですし私個人としてはあなたと一緒に居られるのならなんでも良いですからね」

「……………あの、さっきから、何の、話を?」

 全く理解が追いつかず、ついに花中は疑問を口にする。と、フィアは一瞬キョトンとした後、とても優しい笑みを浮かべてから教えてくれた。

「今日は平日ですから学校に行く日なのでは?」

 学校。

 それは花中がほぼ毎日通っている場所の名前だった。それは今日も行かなければならない場所の名前だった。

 それを、花中は今の今まですっかり忘れていた。

「……………」

 無言で周囲を見渡したところ、花中は床に落ちていた目覚まし時計を見付ける。普段はベッド近くの棚に置いてあるからあんなとこには無い筈なんだけどなぁー、と不思議に思うよう努めながらベッドから身を乗り出して拾ってみると、目覚まし時計はびしゃびしゃに濡れていた。

 盤面を見れば、全ての針が止まっている。濡れた事が原因で壊れてしまったのだろう。時計の針が示しているのは六時丁度。時計はこの時間に壊れたのだと容易に推察出来る。

 だから、今は確実に六時を過ぎている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である朝六時を、過ぎているのだ。

「……この時計を止めたのはあなたですか?」

 自分でも驚くほど饒舌な口ぶりで花中が尋ねると、フナ少女はにっこりと微笑んで一言「ええ」と肯定する。悪い事をした、とは露ほども思っていない笑顔だった。

「なんだか随分朝早い時間に鳴っていましてね。五月蝿かったのとあなたの可愛らしい寝顔を見ていたかったので止めておきました。まぁ止めたと言っても濡らして壊しただけなのですけど。どうも機械には疎く正しい止め方を知らないものでして」

「……あの、止めたのは、今からどれぐらい前に?」

「んー……大体一時間ほど前ですかね」

「一時間……」

「ええ」

 思わず呟いただけの言葉に、フナ少女は律儀にも返事をしてくれる。

 その瞬間、花中の顔から血の気が失せた。

 花中の家から学校までの道のりはさして長いものではなく、花中のゆったりとした歩みでも十五分ほどで校門をくぐれる。朝のホームルームが始まるのは八時四十五分で、花中の性格的にその三十分前には着けるよう出発したい。そこから求められる出発時刻のリミットは八時丁度。六時に起きれば二時間も猶予があり、のんびりゆっくり、余裕を持って支度出来る……のが普通だが、花中の場合そうもいかない。

 花中は現在独り暮らしだ。故に朝食やお弁当作り、洗濯や家の戸締り等々も自分がしなければならない。身支度だけでなく家事もこなそうとすれば、二時間はむしろ少ないぐらいだ。一年間の独り暮らしで鍛えられた花中の『家事力』だからこそ二時間で済ませられる。

 だから起きる時間が一時間ずれたら、どうあっても出発時刻も一時間ずれてしまう。

 だから七時以降に起きようものなら、学校に到着するのは九時以降になってしまう。

 繰り返すが、ホームルーム開始は八時四十五分。

 即ち。

「ち、ちちち、遅刻しちゃうううぅぅぅぅぅ!?」

「ああやっぱり遅刻寸前ですか。でしたらもう行くのは諦めて休んでしまいましょうよ。そして今日は私とお話しながら過ごす楽しい一日にしようじゃありませんか」

「え? あ、それは良いかも……って、ダダダダメですよぉ!? が、学校はサボっちゃダメなんですぅ! 仮病ダメ絶対なのぉ!」

 フナ少女の誘惑を振り払い、花中はベッドから飛び降りる。朝ご飯は何にすれば時間が掛からないか、お昼は通学路にあるコンビニで買うか、洗濯物は明日まとめて、だけど臭いが……絶対に遅刻するまいと、めまぐるしく考えを巡らせる。

 尤も一時間もの遅れを前にして平常心でいられる筈もなく、フル回転させているつもりの頭脳も実際には空回りばかり。今もパジャマを脱ぐのと制服を着るのを同時進行でするという、テクニカルな着替えをしている自分に気付かないぐらい花中はあたふたしている。

 もしも平静を保っていれば、花中は気付いただろう。

 自分の背後でフナ少女が眉を顰め、口をへの字に曲げた……とてもつまらなそうな表情を浮かべていた事に。

「大変そうですね。なら火元の確認や戸締りは私がやっておきましょうか?」

 そしてそのつまらなそうな表情が、花中にとって魅力的な提案をしている最中いたずら小僧のような笑みに変わっていた事に……………

 

 

 

「んじゃ、今日のホームルームはここまで。今日もほどほどに頑張れよー」

 ぼさぼさの髪を掻きながらぞんざいな口振りでホームルームを締めくくる、中年と呼ぶには些か若さの残る男性教師。

 彼がその言葉を発した途端、帆風高校一年B組の生徒達は一斉に動き始めた。今日最初の授業が始まるまであと五分。教室移動はないので、教科書と筆記具さえ出してしまえば仕度は終わり。残り少ない休み時間を謳歌しようと、各々の生徒達は自由に行動していた。

「ぐふぅぅぅぅぅぅ……」

 ただし、花中は好き好んで唸り声を上げている訳ではないのだが。

「(何とか……何とか遅刻しないで済んだ! 朝食を焼き魚と味噌汁付きご飯じゃなくて一昨日の晩ご飯の残り物にして、お昼はコンビニで買って、走っちゃいけない廊下を全力疾走したから遅刻してない! 頑張ったよわたし!)」

 今朝のドタバタを思い出し、花中はかつてないほど自分を褒め称える。

 今日花中が教室に辿り着いたのはホームルームが始まった直後、厳密に言えばギリギリアウトな時間だった。担任教師が遅刻に寛容な ― と言うより、何事に対しても大雑把な ― 人物でなかったなら、そして時間短縮のためにした行為が一つでも欠けていたのなら、間違いなく遅刻となっていただろう。

 特にフナ少女が戸締りをしてくれたのが幸いした。

 遅刻寸前でドタバタしていた時、花中はフナ少女に「私が戸締りや火元の確認をしておきます」と提案された。提案自体は嬉しかったが、花中は頷くべきか迷った。どちらも自分の家の事であり、他人に任せるのは申し訳ないと思ったからだ。しかし生真面目で心配性な花中は、戸締りや火元の確認に時間を掛けてしまうタイプ。自分でしていたら朝のホームルームに間に合わない事は、花中自身が一番確信していた。

 なので渋々ではあるが、花中はフナ少女に戸締り等々を任せた。お陰で出発する時間を大幅に短縮出来、遅刻せずに済んだのである。鍵は庭にあるプランターの下に隠してもらう手筈になっており、一日だけなら、空き巣に探り当てられる心配はないだろう。

「(大変だったけど、なんか、二人で出した結果って思うとちょっと嬉しいな……)」

「随分楽しそうね、大桐さん」

「ふぇ?」

 どうやら嬉しさのあまり顔がにやけていた……のが分かる言い方で話し掛けられ、花中は身体を起こして声が聞えた方を見る。

 目に入ったのは、自分の席の傍に立つクラスメート・立花晴海の姿。

 それを理解した途端、花中は自分の身体から「心臓に穴が開いちゃったのかなぁ?」と思うぐらいの勢いで血の気が引くのを感じた。

「(ど、どどどどどどどどどどどどどどどどどどどぉーっ!?)」

 どうしよう、の一言を心の中ですら言えないほど花中は取り乱す。遭難したり、友達が出来たり、その友達が魚だったり、遅刻寸前だったり……色々あってすっかり失念していたが、花中が波乱万丈な一日を送る事になった根本の理由は、晴海が野鳥観察をしないかと誘ったからだ。とはいえ花中は晴海を非難する気なんて更々ない。それどころかお陰で友達が出来たのだから感謝しているぐらいだ。

 しかし晴海からすれば、誘ったにも拘らず花中は来てくれなかった事になる。行こうとはしたが、行けなかったのだから結果は同じだ。折角の好意を無下にされ、きっと怒っているに違いない。

「はわ、はわ、はわわわわ……!」

 頭の中が真っ白になった花中は身動き一つ出来ず、責められるのを怯えながら待つだけで――――

「ご、ごめんなさいっ」

 晴海に謝られてしまった。

 謝られた、と花中の脳が理解するまでにかかった時間は約五秒。首を傾げる、という行動を無意識に起こしたのは、それから更に五秒経ってからだった。

「……………あれ?」

「あたしの描いた地図、分かり辛かったでしょ? 実は昨日お姉ちゃんに言われてねぇー……あたし、絵が滅茶苦茶下手だったようで。行きたくても行けなかったわよね」

「そ、れ、は、あの」

「やっぱり直接案内しないと駄目だったわね、うん。大失敗。それにロープウェーの場所、結構分かり辛いところにあるし」

「いえ、えと……ロープウェー?」

「うん。最近泥落山ってロープウェーが作られてね、すいすいーっと頂上まで行けるんだよ。所謂無駄な公共事業ってやつ。ま、あたしはよくあの山に行くから便利に使わせて……どったの?」

「いえ……なんでも……ないです」

 ロープウェーに気付かなかったせいで、クマに嬲り殺されそうになったり転落死しそうになったり溺死しそうになったりしただけです――――とは言えず、花中は両手で顔を覆いながら静かに泣く。

「(……あれ……?)」

 泣いて、いくらか気分が晴れてからハッとなる。

 お話、出来ている。

 フナ少女の時ほどではないが、普段よりずっと話せているではないか。

「よく考えたらいきなり泥落山は難度高過ぎたわよね……もっと安全で、鳥がたくさん観察出来て、尚且つ近場はないかしら……むむむむむむむ」

 顔を覆う指の隙間から覗いてみると、晴海は一人唸っていた。

 きっとこの後、晴海は自分を遊びに誘ってくれる。

 普段なら緊張とパニックで頭が真っ白になってしまうのに、今日は晴海が何を言おうとしているのか簡単に予想出来た。そして晴海と友達になるために、自分から何かする必要もないと察する。誘われるがまま晴海と一緒に遊びに行って、お喋りをある程度楽しめば良いのだ。

 ――――あのフナ少女の時と、同じように。

「そうだ! あの雑木林なら」

「あ、あの!」

 そこまで分かった上で、花中は晴海の話に割り込んだ。

 何もしなくても晴海は仲良くしてくれるだろう。だがそれは、周りが優しくしてくれているだけ。自分からは何もしていない。声を掛けて、相手が逃げない事を期待するのと同じ……今までと、何も変わらない。

 そんなのは嫌だ。

 友達になってもらう自分ではなく、作れる自分になりたい!

 一回、二回と深呼吸。気持ちを落ち着かせた花中は、割り込んだ事を責めず、首を傾げつつも優しく微笑んでくれる晴海に向けて花中は叫んだ。

「わ、わた、わたしと、とと、友達になってくらひゃびっ!?」

 叫んだら緊張し過ぎて舌を噛んでしまった。花中は真っ赤になった顔を俯かせ、手足をモジモジ。

 晴海が口を開いたのは、それから少々間を開けてからだった。

「……えーっと……どゆ事?」

「ず、ずっと、とも、友達が、欲しく、て……で、でも、中々、出来、出来、なくて……だから、あの」

「……ひょっとしてなんだけど……時々、うちのクラスメートに近付いていたのは……友達になってほしかったから……なのかしら?」

 数秒前より明らかに声がトーンダウンしている晴海に訊かれ、その通りだったので花中は何度も何度も頷く。

「じゃあ、なんで人を睨むの?」

「目付きが、わ、悪い、のは……えと、緊張、すると、何時も、こうで……ごめんなさい……」

「人から金品を奪ってるって噂は?」

「そ、そんな悪い事、で、で、出来ません! してませんっ! 落し物は、その……ちゃんとは、出来な、かったけど……と、届けて、ます。机の、上とか、に」

「不良疑惑は?」

「えぅ? ふりょう?」

「髪は真っ白、目は真っ赤……染めたり、カラコンしてんじゃないの?」

「あ、こ、これ、は……あの……曾お爺ちゃん、からの、い、遺伝、で……地毛、です。目も、曾お爺ちゃん、譲り……えへへ」

 何故か始まる質問攻め。思えばフナ少女は自身の事はたくさん話してくれたが、花中についてあまり訊いてはこなかった。こんなにもたくさん自分の事を訊かれたのは生まれて初めての経験で、花中は照れ笑いを浮かべてしまう。

「昨日あたしが野鳥の観察に誘う前から、あたしと友達になりたかったの?」

「なりたかった、ですっ!」

 段々舞い上がってきた花中は新たな質問に元気よく答え――――晴海は顔に手を当て、項垂れた。

 瞬間、花中の顔色は紅から青へ。

「(へうぇええぇえええええっ!? な、なんで!? もしかして怒ってる!? それとも呆れられてる!? わ、わたし、わたし何かしちゃったの!? あわわわわわわわわ調子に乗り過ぎたのかなどどどどどどどどーしようぅぅぅぅぅぅ!?)」

 脳裏を瞬時に駆け巡る数多の不安。モジモジしていた手足は小刻みに震えだし、思考力はどんどん失われていく。辛うじて浮かんだ秘策も「土下座して謝ろう!」で……身体が硬直して動けない。

「ぷ、は、ははははははははははっ!」

 尤も、花が咲くように明るく晴海に笑われて、不安なんて一蹴されてしまうのだが。

「……たち、ばな、さん……?」

「やれやれ、思いっきり遠回りしちゃったじゃない。まぁ、よくよく考えたら直球勝負の方があたし好みだしねぇ。普段頭を使わない人間が策を弄したところで、空回りするだけって事か」

「こ、好み? 策って……あの、何が」

「大桐さん」

「はひっ!?」

 不意に名前を呼ばれ、花中は背筋をピンと伸ばしながら返事をする。すると晴海はどういう訳かくすりと笑い、笑われた花中はショックで涙目に。

「さっきのお願いに対する答えだけど、勿論OKよ」

 そして晴海は、一瞬何の事か分からない『答え』を伝えてきた。

「……………あ、あああのあああの!? そ、それ、それって」

「友達になってくれってお願いしてきたじゃない。それにOK、つまり友達になるって事」

「はわわわわわわわわわわわわわわ」

 嬉しさのあまり花中は椅子から立ち上がり右往左往。しかし晴海が頭に手を乗せてきたので、驚きのあまり急ブレーキが掛かった。

 何だろう……と花中が思っていると、晴海の手は花中の髪をぐしゃぐしゃにする。いや、ぐしゃぐしゃにしているのではない。撫でているのだ。まるで大きな犬を相手するかの如く、豪快に。

「全く。人と話すのが嫌いな子かと思ったら、単に口下手なだけだったなんてね。怖がって損したわよ……打ち解けてほしくて面倒な企画をする羽目にもなったし」

「? 企画、ですか?」

「つーまーりっ! あたしは大桐さんがクラスの皆と打ち解けてほしいと考え、まずは自分が友達になろうと考えたのです! 野鳥観察は大桐さんを誘い出す口実ね!」

 両手を広げながら、ネタ晴らしと言わんばかりに晴海が真意を明らかにする。

 驚いた。そんな言葉では言い表せないぐらい、花中の心が乱れる。

 顔が怖い事は知っていた。不良だとか強盗紛いの行為をしていたと誤解されていたのを今聞いた。そんな自分と友達になろうとするなんて、それも人間ではないフナ少女なら兎も角、クラスメートである晴海がそんな事を考えていたなんて――――あり得ない。

 ややあって花中が口から絞り出せたのは、狼狽を隠しきれない疑問の言葉だった。

「そんな……なん、なんで……わたしと……」

「クラスメートだから、じゃ駄目かな?」

「だ、ダメじゃない、ですけど……でも、わ、わたし、こんな……」

「……あたしね、小学校の時、家でのいざこざが原因でぐれていたの」

「え? ぐ、ぐれ……?」

 唐突に語られる晴海の過去に、ついていけなかった花中は訊き返してしまう。晴海は小さく頷くと、何を考えているのか天井を見上げ……やがて自嘲したように深いため息を漏らし、飄々と、演じているかのような語り口で話し始めた。

「ぐれたと言ってもそこまで悪い事はしてないわよ? 親に反抗したり、夜遅くまで道草食ったり……誰も自分を分かってくれないって不貞腐れて、自分に関わろうとする人を全部拒絶しただけ」

「拒絶……」

「親はあたしに構ってる場合じゃなかったし、中学生だったお姉ちゃんに不良小学生の更正方法なんて分かる筈ない。そしてクラスメートはあたしを更生させる義務なんてない。結果、あたしは独りぼっちになった。それ自体は別に後悔してないっていうか、あの時は独りになりたかったから良いんだけど……」

「けど……な、何か、あったの、ですか?」

「……一人だけね、ぐれたあたしをずっと気に掛けてくれる、親友だった子が居たの」

 『だった』を強調したような、花中にはそう聞える言い方で晴海は答える。その言い方に込められている意味はまだ分からない。だが……雰囲気の重さに、花中は思わず息を飲んでしまう。

「その子はさ、何時もあたしに話し掛けてきたの。一緒に帰ろうとか、一緒遊ぼうとか……あの時はうっとおしいって思っていたから、全部断っちゃったけど」

「も、勿体ない……」

「それ、大桐さんの本音?」

「え、あ、あわわわ!? ここ、これ、これは……」

「気にしないで。あたしもそう思うし」

 晴海はくすくすと、明るく笑う。まるで本当に……おかしな事があったように。

「その子ね、ある日、今日のうちに話しておきたい事があるって言ったの。でもあたしはそれを拒んだ。アンタなんかと話す事はないって言って、逃げちゃってさ」

「えと、で、でも、ちょっと、感情的になった、だけです、よね? その、ちゃんと、話せば、きっと、その人も、理解して……」

「次の日、その子転校しちゃった」

「えっ……」

 明るい結末を望んでいた花中の胸に、晴海の言葉がナイフの如く突き刺さる。どろりと、心から赤黒いものが溢れるような錯覚に、脳が、思考が揺さぶられた。

「多分あの日、連絡先とか教えようとしてくれてたんだろうけど、あたしは聞こうともしなかった。だから、あたしはあの子が何処に引っ越したのか知らない。家のいざこざがひと段落ついて、もうぐれなくて良くなって。だけどその時にはもう、親友だと思っていた子は居なくなっていた」

「そ、んな……そ、その子とは、今は……」

「今も会えていない。小学生の頃の同級生に聞けば連絡先ぐらい分かると思うけど……でも、もしかするとあたしの事なんて忘れてるかも、恨んでいるかもって思ったら怖くてさ。だから多分もう会えないし……『会いたくない』のが本音かも」

「そんなの、そんなのって……」

 なんでそんな酷い事に。

 その言葉を花中は言えない。言ってはいけないと、必死に喉の奥に閉じ込める。晴海の好意を無下にした――――知らず知らず過去の晴海と『同じ事』をした自分に、言う権利なんてないと思ったから。

「そんな経験があったからさ、どーも孤立しようとしている人は放っておけなくてね。大桐さんは人を避けているように見えたから、なんとか友達になろうって考えたのよ。ま、単なる自己満足だし、結局は勘違いだった訳だけどね」

 言葉を失った花中を見てどう思ったのだろう。さも大した事ではない、つまらない話だと言わんばかりに、ケラケラと笑いながら晴海は話を終える。

 花中はそんな晴海に、声を掛けられない。

 臆病者だった自分を気遣ってくれて嬉しい。例え自己満足でも、例え勘違いでも、そのお陰で花中には友達が出来た。もしも晴海までもが避けていたら、今も花中は孤独だっただろう。

 なのに花中は晴海の好意を受け止められず、あろう事か晴海の居ない場所でその好意を疑っていた。

 卑屈で、情けなくて、自分勝手――――こんな自分に誰かの友達なんて相応しくない。

 頭に過ぎったそんな想いを打ち払わんと、花中は頭を力強く横に振る。

 自分は卑屈で情けなくて自分勝手で、誰かの友達に相応しくなかった。だから昨日まで友達が一人も居なかった。

 だが今の自分には友達が居る。なら、今の自分は昨日までの自分とは違う。

「ごめんな、さい……ごめんなさい……!」

 まずは心からの謝罪を。愚かな自分に別れを。

 そして心からの感謝を伝え、晴海と本当の友達になる!

「ゆるさなーい」

 という花中の思惑は、晴海の一言で無残に打ち砕かれてしまった。

「……ふぇ?」

「いらぬ心配させられたしー、昔を思い出してちょっと嫌な思いもしたしー」

「ふぇ? ふぇ、え、うぇ?」

「だから許しません。絶対に」

「ふ、ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 ショックのあまり花中は目に涙を浮かべる。涙が決壊寸前のダム並に溜まった花中の目に、晴海の悪意たっぷりな笑みは映らなかった。

「そ、そんなぁ……な、なら、どうすれば……」

「ほっぺたをむにむにさせなさい」

「む……え?」

「ほっぺたをむにむにさせなさい」

 許しを請いたところ、いきなり提示された『むにむに』なる言葉に花中はきょとんとなる。どうやらほっぺたに何かをするつもりらしいが、何をするのかサッパリ分からない。

「む、むに? え、なに? なに? なんで?」

「理由などないっ! 強いていえばそこに柔らかそうなほっぺたがあるからさ!」

 だから尋ねたのに晴海の回答は支離滅裂で、困惑する花中を無視するように彼女は両手を伸ばしてきた。

 『むにむに』が何なのかは分からず仕舞いだが、晴海が「許さない」と言っていたので罰の一種なのだと花中は推測。もしかするととても痛い事なのかも知れないと思い始める。

 友達になった人から加えられるバイオレンスを想像し、花中は身体を縮こまらせた。喉も震えて声が出せない。相変わらず目には涙が溜まったまま。

 花中にはもう、痛くしないでと願う事しか出来ない。

 自分より背の高い晴海を見上げ――――子猫の如く潤んだ瞳を、ぷるぷると身体を震わせながら向ける事しか、出来なかった。

「……可愛い」

「……え?」

「貴様それはあたしが小動物好きと知っての行いかあああああああああっ!?」

「え、ぅえ、うえええええええっ!?」

 顔は紅く、目付きは鋭く、鼻息は荒くしながら、晴海は花中目掛けて猛獣の如く勢いで跳び掛かってきた。何が原因かは分からないが火に油を注いでしまったらしい。

 最早諦めるしかない。だったら『むにむに』という行為さえ受ければ諸々のお怒りを許してもらえると考えよう。

 ネガティブに覚悟を決めた花中は、ぎゅっと目を閉じ――――

 ばしゃっ! と、ほっぺたを触ったのとは違う気がする音を聞いた。

「……?」

 やがて、何時まで経っても自身の頬に異常が起きない事を不審に思い、花中は力強く閉じていた瞼を恐る恐る開ける。

 開けた瞬間、全てに合点がいき、全てに疑問を覚えた。

 真正面に立っている晴海が、どういう訳かずぶ濡れだったのである。

 利発そうな髪型は水の重みで潰れ、まるで亡霊のよう。服もブラウスの袖からスカートの淵まで、至る所でぼたぼたと水を垂らしている。足元には大きな水たまりが出来ており、池にでも落ちたのかと訊きたくなる惨状。実際昨日の、池に落ちてすぐの花中と良い勝負の濡れ具合だ。身体がプルプルと震えているのは……濡れて冷えたから、ではないだろうが。

 目を閉じていた時に聞いたのは、晴海が水を被った音だったらしい。いきなり水を被ったのなら、驚きのあまり『むにむに』するのを忘れても不思議ではない。日々驚いて思考停止に陥る花中にはよくある事だ。

 問題は、一体何故晴海は水を被る事となったのか。

 花中達が居るのは教室の中であり、大量の水なんて存在すらしない場所だ。何らかの『事故』で水を被ってしまうという事態は考え難い。ならば一体何が起きたのか? 不謹慎だとは思うものの、好奇心が掻き立てられるのを花中は否定しない。

 それでも、被害者である晴海本人に説明を求める気にはならなかった。

 露骨かつ高威力な地雷を踏む勇気など、花中にはないのだから。

「ふっざけんなああああああああああああああああああああああっ!」

 耳がびりびりしそう。

 自分以外の人もそう思ったに違いないと花中が確信するぐらい大きな声で、晴海は自身の背中側に居たクラスメート達に向けて叫んだ。次いで、一体誰が自分に水をぶっかけたんだと、憤怒の形相で問い詰める。

 問い質す『方向』は正しい。花中の席は窓際最後列であり、晴海の正面に存在するのは身体をぷるぷると震わせていた花中と、花中の隣の席で傍観していた女子生徒ぐらいなもの。仮にこの惨状が事故ではなく『事件』であるならば、『犯人』は晴海の背中側以外に存在しない。

 だが晴海の背後、問い詰められたクラスメート達の誰もが困惑した表情を見せるばかり。

 誰かが自首する事も、犯人を告発する事もなかった。

「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ!? なんでみんな黙ってるの!? 誰がやったかぐらい教えてくれても良いじゃない!」

「い、いや、そんな事言われても」

「私達にも、分からないと言うか……」

「そ、そうだよ! 俺達じゃない! だから少し冷静に」

「じゃあ何!? 天井に水道管が走ってて、偶々あたしの上で破裂したって事!? あり得ないでしょ! 天井に穴開いてないし水全然出てないし! って事はアンタ達の中の誰かがあたしに水を掛けたに決まってるでしょ!」

 背後に居たクラスメート全員に詰め寄りながら、自分が冷静であると説明せんばかりに言葉を並び立てる晴海。しかし顔を真っ赤にし、状況証拠だけで犯人を捜そうとする様はお世辞にも冷静とは言い難い。怒鳴られ問い詰められなクラスメート達も一様に困惑している。

 その失われた冷静さを補うかの如く、花中は教室に居る誰よりも冷静だった。

「(うーん。全身びしょ濡れになってもまだ水が滴ってる……バケツ一杯分はある、かな……)」

 晴海が浴びたであろう水量に検討を付け、花中は改めてクラスメート達と教室を眺める。当然バケツ一杯分という相当な大きさの容器など、教室に居る誰もが持っていない。持っていたらこんな計算をせずとも犯人が分かる。激昂している晴海だって気付く、と信じたい。

 他にも袖や足元が濡れている者が居ないかも探す。居たなら犯人の最有力候補であり、それなら怒り狂う晴海が気付かなくとも不自然ではない……が、花中には見付けられなかった。見落としているかも知れないが、そこを考慮したらきりがない。今は『居ない』という事にしておく。

 最後に、今更ながら天井から水が漏れていない事も確認。先程晴海が叫んだように、この奇妙な出来事が事故ではなく『事件』である、との確信を抱く。

 さて。事件だとすれば、花中が思い付いた可能性は二つ。

 一つは晴海が至ったのと同じ、水を掛けたのがクラスメートの誰かという可能性。ごく自然な考えのようで、見る限り誰も『凶器』を持っていないのが致命的な問題だ。バケツサイズの物体を一体何処に隠せば良いのか。しかもクラスメートでひしめき合う教室で、誰一人『犯行』を目撃していない理由も分からない。

 もう一つは――――犯人は教室の外、廊下から何らかの方法で水を掛けてきたという可能性だ。これなら教室に犯人が居なくても、犯行道具が残されていなくてもおかしくない。身を隠してこっそり『犯行』に及んだとすれば、目撃者が居ない事にも納得がいく。教室内の誰かが、と考えるよりは合理的に説明出来る事が多い。

 ……多いような、気はする。

「(それはないよね、常識的に考えて)」

 花中は外から水を掛けられた可能性も排除した。

 晴海の足元には水たまりがある。だが、晴海から()()()()()水たまりはない。犯人がどのような方法で晴海に水を掛けたにしろ、発射地点と着弾地点を繋ぐように水滴が落ちるのは避けられない。放つ速度次第では改善可能だろうが、窓際である花中の席から教室の外へと通じるドアまで十メートル近い距離がある。そんな彼方までバケツ一杯分の水を、地面に落ちないぐらい勢い良く放つなど人の力では無理だろう。かと言って機械や仕掛けを用意するなんて、やった事に対してコストが大き過ぎる。

 よって外から晴海をびしょ濡れにした可能性も、却下せざるを得ない。

 なんという事だろう。教室の内にも外にも、犯人の存在出来る領域がないではないか。

「(一体何処に……)」

 考えても考えても犯人の居場所にすら見当が付かず、行き詰まった思考はぐるぐると無駄な回転を始める。花中にこの謎を解く義務などないのだが、一度考えたら答えが出るまで悩んでしまうのが幼い頃からの悪癖。正しいかどうかは別にしても、納得の出来る『答え』が欲しい。

 やがて花中はため息を一つ吐き、半開きになっている教室のドアから外……廊下へと視線を向けた。そこに後片付けでもたつく犯人が居れば教室外犯人説が正しい、居なければ教室内犯人説が正しい……そんな『占い』をするために。

 無論教室の外にもたつく犯人なんておらず、廊下を歩く通行人が居ただけ。

 ――――しかし花中は、視界に入った通行人を凝視する。

 見えたのは後ろ姿だったから顔は分からない。見えたのは一瞬だったから見間違いかも知れない。

 それでも花中には今し方廊下を横切った、『金色の長髪を靡かせる女子生徒』を無視する事は出来なかった。花中は無意識に椅子から立ち上がり、

「大桐さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!」

「ふげっ!?」

 教室の外へ行こうとした瞬間、アメフト選手が如く勢いでタックルをかましてきた晴海に阻まれた。阻まれて、小柄な花中は簡単に吹っ飛ばされた。ついでに、吹っ飛ばされた勢いのまま床に頭を打った。

「もう誰も信じられないっ! 目の前に居たあなたしか信じられないわっ!」

 晴海のアタックはこれで終わらず、今度は泣きながら花中を抱きしめてくる。抱きしめられた花中の身体からはギチギチと不穏な音が鳴り、小柄な身体が面積的にますます小さくなっていく。

 なのに花中は苦痛を訴えない。呻き声すら漏らさない。

「……なぁ。大桐の奴、気絶してないか?」

「うぇ?」

 クラスメートが指摘した通り、頭を打った花中はその衝撃で気を失っていたのだから。




本作は、女の子同士の友情や絡み合いが推し要素の一つです(真顔)

次話は来週土曜日投降予定です。
ゆるりとお待ちください。


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ファースト・フレンズ4

 昼休み。

 それは学校で最も長い休み時間であり、お弁当という楽しみがある時間帯。多くの生徒が幸せを満喫しているであろう反面、友達が居ない花中にとっては孤独を思い知らされる時。幼稚園年少組からの十二年間、昼休みに寂しさを感じなかった事は一度もなかった。

 しかしその記録更新はもう終わり。

「はわぁ~~~~~♪」

 今日の花中は、間抜けな声が抑えきれないほどの幸せにどっぷりと浸っているのだから。

「むぅ……」

 幸せ気分真っ只中にある花中の傍には、晴海が居た。晴海は膝の上に広げたお弁当箱を箸で突きながら、眉間に皺が寄った薄曇りの表情で俯いている。

 花中達が今居るのは、教室ではない。

 割れたまま窓ガラス、ボロボロに朽ちて黒ずんでいる木製の壁、地面に腐り落ちた屋根の一部、隙間から生えた雑草に浸食されてズタズタになっている土台……見るからに老朽化し、あからさまに放置されている三階建ての大きな木造建築物。その建物と並ぶような向きで倒れている古木 ― 恐らく桜の木 ― に、二人は腰掛けていた。雲一つない空から降り注ぐ六月の日差しはそこそこ強く、直に浴びると身体が火照ってしまうが、建物が影を作ってくれている。中々居心地の良い場所だ。

 此処は帆風高校旧校舎区画。もう十年以上使われておらず、故に普段誰も居ないので、誰かとばったり遭遇して怖がらせてしまう心配がない……花中のお気に入りの場所である。

 花中は此処で、晴海と一緒にお昼ご飯を食べていた。友達居ない歴十五年の花中にとって、初めての『友達と一緒のお昼ご飯』。幸せ過ぎて表情のみならず脳まで蕩けてしまい、間抜けな奇声を上げるばかり。両手で掴んでいるメロンパンは、欠片一つも減っていなかった。

 そんな花中に、晴海は曇ったままの表情で尋ねてくる。

「あの、大桐さん」

「ひわぁ~~~~~♪」

「大桐さんが言った事だから訊くのも野暮だと思うけど」

「ふわぁ~~~~~♪」

「……あたしの話、聞いてる?」

「ふへわぁ~~~~~♪」

「聞けっ!」

「ほげっ!?」

 ()()()()で強烈なチョップを後頭部に食らい、幸せいっぱいだった花中の頭はようやく平常運航に。痛みやら動揺やらで目をギョッと見開き、辺りをキョロキョロする。

「はっ! い、一体何が!?」

「あたしがこれから大桐さんに質問しようとしていたのよ♪」

「え? あ、はぁ……そ、そう、で、でしたか?」

 なんだか記憶を操作されたような気がしつつ、花中は晴海の話に耳を傾ける。話を聞く体勢になった花中を見て晴海は満足げに頷き、一呼吸置いた後、表情を再度曇らせた。

 何を言われるのか。花中は悪い意味でドキドキしながら待つが、晴海は口をもごもごと動かすばかり。「何か言い辛い事かな? もしかして、やっぱりわたしとは友達になれないとか……」と思った花中はガチガチと歯を鳴らしてしまうほど怖くなってきたが、自分を戒め、口をぐっと閉じて待ち続ける。

 やがて晴海は、ちょっぴりバツが悪そうに話し始めた。

「あの、お詫びってこんなんで良かったの?」

「え?」

「だから、その、一緒にお昼を過ごすだけで……」

「ももももももももしか、もし、もし、わ、わた、わた!?」

 もしかしてわたしと一緒にお昼を過ごすなんて嫌でしたか!? と訊きたくとも怖くて訊けず、花中は震えながら文章になっていない声を絞り出す。そんな事をしていたら晴海は一瞬眉を顰めた、不愉快そうな顔色を浮かべたので花中は仰け反るほど慄いてしまった。

 すると晴海は顰め面をパッと笑顔に変え、小さな笑い声も漏らす。

「大桐さんが想像しているような事じゃないわよ。そんなに怖がらなくても平気」

「はわわわわわわわわ……ふぇ? そ、そ、そうです、か? なら、一体……」

「つまり、こんな事で償いになるのかって話」

「償い、ですか?」

 言いたい事が分からず訊き返すと、晴海は眉を顰めるだけでなく唇も尖らせ、今度こそ本気の不愉快さを露わにする。

「大桐さんが言ったのよ。教室で押し倒しちゃったお詫びは何が良いかって訊いたら、お昼を一緒に食べたいですって。これで良かったの? もっと他に、して欲しい事とかないの?」

「え、えっと……お、お昼を、と、と、友達、と、過ごすの、が、夢、と言うか、目標、でした、から……こ、これ以上、望んだ、ら、バチが、当たり、そ、そうで……」

 うわ、ハードル低っ。

 等と言う事もなく、晴海は「なら良かった」と呟いた後食事を再開。怒られなかったのでホッとした花中も、手に持つメロンパンに齧り付いてお昼を楽しむ事にした。

 しばし、二人は黙々と食物を噛み砕き、胃に送る作業を続ける。

 ……………かなり長い事作業を続け、そろそろ何か話題を振った方が良いのかな? と思った花中の顔が青ざめてきた頃だった。

「そー言えば大桐さんの今日のお昼ってパンなの? 普段はお弁当だった気がしたけど」

 晴海がとても自然な口ぶりで話題を振ってきてくれたのだ。自分にはとても出来ない芸当に目を見開くほどの驚きを、話し掛けてくれたので頬が撞きたてのお餅のようになってしまうぐらいの幸福を、そして今までの自分を見てくれていた事に感涙級の感謝を覚えながら、花中はすぐに答える。

「は、はひ! あ、いえ、その……普段、は、じ、自分で、作った、お弁当を……今日は、えーっと……少し、ね、寝坊、して……コンビニで、買って、きた、ので……」

「弁当自作って凄いわね。あたしなんて味噌汁すら上手に作れないのに。でも、なんでコンビニのパンなの? うちの学校の購買パンも美味しいって評判じゃない。しかも安いし」

「購買の、人、は……緊張して、上手く、話せなく、て……話せない、と、ぱ、パン……買えないから……こ、コンビニの、人は……話さなく、ても……買える、ので……」

「あー……そういう事」

 言葉では納得した様子だが、晴海の表情はちょっぴり淀んでいた。理由は分からないが、多分自分が失言をしたからだと花中はネガティブに判断。どうしたら良いのか分からず、何かしなきゃ何かしなきゃと念仏のように呟きながら考える。晴海の表情が強張っていたが、今の花中には見えていない。現状を打開するヒントがないか手当たり次第に記憶を手繰り寄せ、頭の中を駆け巡らせた。

 そこでふと思い出す――――今朝見かけた、学校に居る筈がない『彼女』の姿を。

 見たのは後ろ姿だけ。それも一瞬。見間違いかも知れないし、見間違いでなかったとしても、髪を金色に染めている人なんて世の中には幾らでも存在する。こんなのはなんの証拠にもならない、「そうだったら良いな」という願望だ。

 だが、もしも帆風高校に『金髪の女子生徒』が居なかったなら?

 ……晴海には友達が多い。友達が昨日まで一人も居なかった花中に比べれば、校内の生徒について詳しい筈。訊いてみる価値はあると思った。

「あ、あの、き、き、金髪、の、女の子って、うちの、学校、に、居ま、すか……?」

「随分唐突に話を変えたわねぇ」

「ひゅうっ!? す、すみません……わ、わた、わたし、喋るの、下手、で……」

「そんな謝らないでよ、気にしてないから。で、えーっと、金髪の女の子だっけ?」

「は、は、はい」

「うーん、金髪ねぇ」

 晴海は顎に手を当てて考え込む仕草を見せる。花中は晴海の邪魔をしないよう息も止めて静かにした。

 やがて晴海は両腕を広げ、如何にも降参と言いたげなポーズを取る。

「あたしの知る限りでは心当たりなし、としか言えないわね」

 そして、花中が期待していた答えを言ってくれた。

「うちの学校、服装も頭髪もそんなに厳しくないけど、校風からか髪染める奴って少ないからね。やっても精々茶髪。二年と三年は分かんないけど、少なくとも一年生には居ないわよ。居たら超目立つから間違いない」

「そう、ですか……そっか……そう、ですよね……すみ、ません……変な質問、して」

「ゆるさなーい」

「ふぇ!?」

「その金髪の女の子が何なのかを答えないとゆるさなーい」

 涙声になる花中に、晴海は意地の悪い笑みを見せた。からかわれただけと気付いた花中は安堵で肩を落とし、息を整えてから事情を説明する。

「……その、人は、友達、なんです」

「友達?」

「は、はい。昨日、で、出来まし、た……あの、その人、この学校の、生徒じゃ、な、ないのに……その……廊下を、あ、歩いていたのを、見た、気が、したので……」

「つまり、お友達が学校に来ているかも知れないと?」

 晴海の要約を、花中はこくこくと頷いて肯定。

 肯定された晴海はそっぽを向き、

「……なんか先越された感じがして悔しい」

「? あの、何か……」

「なんでもなーい」

 小声で何かを言っていたようだが、花中が尋ねても教えてはくれなかった。

「ま、でも本当に学校に来ているのなら、クラスメートの誰かが見てるかも知れないわね。金髪なんて目立つから記憶にも残るだろうし。もし情報が欲しいのなら、あたしの友達に訊いて回ろっか?」

「え、あ、そ、えっと」

 晴海の提案に花中は言葉を濁す。晴海が言うように『金髪の少女』という容姿はとても目立つので、記憶に残り易いだろう。訊いて回れば情報の一つ二つは手に入るかも知れない。

 しかしこのお言葉は、俗に言う社交辞令なのではないか? 社交辞令だったのに、是非お願いします! なんて言ったら……あまりの図々しさに嫌われてしまうのでは。

 頭を過ぎった可能性に花中は右往左往しながら悩み、悩み、悩み続けて、丁寧にお断りする分には嫌われないとの結論に至った。

「ちなみに遠慮したら絶交します」

「おおおおおおおおおお願いしますっ!」

 その思惑は読まれていたようで、脅迫された花中にお願いする以外の選択肢は残っていなかった。謀られた、と思っても後の祭。晴海はにっこりと微笑み「お願いされました」と言ってしまう。これにて契約成立、もう取り消せない。

「そんじゃあ、早速調べに行くとしますかね」

「え?」

 そんなに急がなくても……と伝えようとした花中だったが、晴海は空っぽのお弁当箱を片付けていた。どうやら、もうお弁当を食べ終えたらしい。

 それに比べて花中は、小さなメロンパンをまだ半分も食べていない。元々食べるのが遅い方とはいえ、色んな事に気を取られて食事が疎かになっていたようだ。

 ここで言うべき台詞は「急がなくても」ではなく、「待ってください」だろう。

「あ、ま、まっ、ま」

 とは言え、喋り慣れていない花中は咄嗟に言葉が出てこない。出てこないと焦りが生まれて、ますます呂律が回らなくなる。途中からはあまりにも喋れない自分への嫌悪で、涙が込み上がってきてしまった。

 なのに晴海はその場で待っていてくれた。じっと、花中を見つめた状態で。

「あ、あの、あの、あり、あ、いえ、ま」

 待ってくれたのでありがとうと言おうとし、しかしまだ待ってとも言ってないのでそれも変だと、花中はますます何を言えばいいのか分からなくなる。頭の中は既に真っ白。普段なら、自力ではリカバリ不可能な状態だ。

 だが、今回の花中は自力で平静を取り戻した。

 あまりにも動かない晴海を見て――――晴海は自分を待っているのではなく、その場で固まっているのだと気付いたために。

「……立花、さん?」

 名前を呼んでも晴海はうんともすんとも言わない。目の前で手を振ってみても瞳孔すら動かない。

 どうしたのかと訊きたかったが、固まってしまった人間に声を掛けても無駄なのは、パニックでしょっちゅう固まってしまう花中が一番よく知っている。何故固まったのか、その原因を探った方が手っ取り早い。花中は晴海の視線を追った。

 そして自分も固まる。

 晴海の視線が向けられている場所にあったのが、『金色の輝きを持つ人影』だったからだ。

 二人は仲良く沈黙、黄金の輝きを見つめる。

「……金髪の女の人が居たらさー、丁度あんな感じに見えるのかな?」

「……そう、ですね。丁度、あんな感じに、見え、そう、です」

 やがて二人は、金色の人影を見つめながら言葉を交わす。

 人影は、その顔が判別出来ないぐらい離れた位置に居る。それでも背中を覆うほどに長く伸びている金髪は、ハッキリと視認出来た。着ている服は遠目からでも分かるぐらいヒラヒラした……まるでお伽噺のお姫様が着ているドレスのようで、とても目立つ。

 その上地面から『何か』を拾う仕草は、目立つのを通り越して怪しさ全開だった。ましてや地面を触った手が顔へと運ばれる動き……何をしているのか、なんとなく分かる。分かるがために、その人物が普通でない事は容易に察せられた。

「……逃げた方が良さそうね。なんか、あの人怪しいし」

 晴海はぽつりと、囁くように提案。

 途端、金髪の人影が花中達の方を振り向いたかのように動いた。

 びっくりして意識が遠退きそうになる花中だったが、仰け反った際に地面を強く踏み締めてなんとか気絶を回避する。だがその事にホッとする間もなく、金色の人影が薄気味悪いほどの速さで近付いてくる様子が目に映った。

 あと少しであの人影の顔が分かる。顔が分かれば、人影が『誰』なのかハッキリする。

 花中は緩んだ気を引き締め、人影を凝視しようとした。

「ちょ、こっち来たし!? に、逃げるわよ!」

 残念ながらそれは、晴海に手を引かれた事で阻まれてしまったが。ちょっと待って、とお願いする暇もなく花中は一歩二歩とその場から動いてしまい、

「うひっ!?」

「ぁ、きゃんっ!?」

 晴海が蹴躓いたのにつられ、一緒に転んでしまった。とても痛かったが、花中の転び方は尻餅から背中を打っただけ。地面と激しくキスをした晴海の近くで「痛い」とは言えなかった。

 お尻を摩りつつ、花中は自力で立ち上がろうとする。

「おやおや大丈夫ですか?」

 そんな花中の前に、手が差し出された。なんだろう? と思い差し出された手をじっと見つめ……「この手に捕まって立ち上がれ」という意味だと理解。

「あ、あり、が、とう、ご、ござい、ます………」

 花中はありがたく手を掴んだ。掴んでから不思議に思った。

 晴海は転んでいる。

 ならば自分は、一体誰の手を掴んでいるのだろうか?

「っ!?」

 花中は自分でもびっくりするぐらい機敏な動きで、期待と嬉しさが入り混じった顔を上げた。

 次の瞬間、期待と嬉しさが入り混じった顔は、嬉しさ百パーセントの笑顔に変わる。

 足首近くまで伸びている、熟した稲穂のように美しい金色の髪。同性なのに見ていると心がときめいてしまう、凛々しい顔立ち。宝石のように煌めく、蒼い瞳……何処を見ても自分の知っている姿と合致する。衣服こそ昨日や今朝着ていた帆風高校の夏服ではなく、遠目で見た通りのお姫様チックなドレスだったが、間違いなく本人だと断言出来る。

 花中の前に居たのは、そう思える姿をした『人物』――――フナ少女だった。

「な、な、な………」

「お久しぶりです。怪我はありませんか?」

 なんで此処に、と言う前にフナ少女が安否を尋ねてきたので、花中は首を、ぎこちなくだが縦に何度も動かす。

 フナ少女は頷く花中に微笑むと、掴んだ手を引っ張って花中を立ち上がらせた。いや、引っ張るというよりもまるで拾い上げるような軽やかさ。あまりにも無抵抗に立ち上がる形になり、花中は少しよろめいてしまう。いくら花中が小学生並に小柄とはいえ、体重は四十キロほどある ― 尤も、それこそ正しく小学校高学年女児の平均体重程度なのだが ― 。そんな花中を軽々と立ち上がらせるとは、華奢で麗しい見た目に反しフナ少女は怪力の持ち主らしい。

「あらら服が汚れていますね」

 呆然となる花中だったが、自分を眺めながら零したフナ少女の独り言でハッとなる。慌てて袖を見れば、確かに土が付いていて汚れていた。先程転んだ拍子に付いたのか。白いブラウスという事もあり、汚れはかなり目立って見える。花中は袖を叩いて汚れを落とそうとした。

 ところが土は湿り気を帯びていたのか叩いても落ちず、むしろ引き延ばされるように面積を広げた。しまった、と思っても後の祭。しかも考えてみれば、先程転んだ拍子に背中とお尻を地面に強く打ち付けていたではないか。果たして今、自身の背面はどうなっている事やら。

 いや、汚れる事自体は問題じゃない。ただの土汚れなのだから、気合いを入れて洗濯すればなんとかなる。

 だが洗濯が出来るのは、家に帰ってからだ。今はまだお昼休みであり、午後の授業が残っている。まだ家には帰れない。ジャージに着替えるか、このままの格好で授業を受けるしかないだろう。どちらにせよ『普通』の格好ではない以上、絶対に目立つ。衆目を集めてしまう。

 ――――恥ずかしい。

「少し良いですか?」

 未来を想像して震える花中だったが、フナ少女に声を掛けられて顔を上げる。フナ少女は花中の答えを待たずに制服の袖を掴むや、そこにある土汚れに指を当てた……少なくとも花中にはそうとしか見えない行動に出た。フナ少女は汚れを擦る事も、何か特別な揉み方をする事もなく、ただ汚れた場所に指を当てているだけ。

 それでも花中を驚かせるには十分だった。

 どういう訳か、フナ少女の指から水が滲み出てきたのである。滲み出た水はかなりの量だったにも拘わらず、フナ少女の指から全く零れず、しかも防水加工が施されていない制服に染み込まない。

 何より奇妙なのは、その水が花中の制服から汚れを吸い取っていく事だ。フナ少女は袖の汚れを吸い終わると、今度は花中の背中に手を当てる。恐らく、やっている事は袖にしたのと同じく事。そこが終わると次はお尻を……これを繰り返しただけで、一分も経たずに花中の制服は綺麗になった。袖は勿論、背中やお尻を触っても土汚れ特有のザラザラした手触りがない。それどころかアイロンを掛けたばかりのような、パリッとした仕上がりになっている。

「はい終わりましたよ」

 フナ少女はにっこりと微笑みながら『洗濯』終了を告げるも、あまりにも奇妙な出来事に花中は困惑を隠せなかった。

「こ、これは一体……」

「水を使って服の汚れを吸い取っただけですが?」

「い、いえ、そうでは、なくて」

 花中が尋ねるとフナ少女は首を傾げ、しかし意図を察したのかすぐに誇らしげで自信満々な笑みを浮かべながら「おおっと」と声を上げる。

「そういえば言っていませんでしたね。実は私には水を自在に操る力があるのです」

 次いで説明をしてくれたが、花中には意味がよく分からなかった。

「水を操る、ですか……?」

「文字通りの意味です。こんな風に」

 そう言うとフナ少女は、手から水を噴出。水は重力を無視して、蛇のようにうねってみせた。

 なんとも非現実的な光景に、花中の目が点になる。

 その反応が期待通りだったのか、フナ少女は誇らしげに胸を張った。

「どうです? 凄いでしょう。ああ一応言っときますけど超能力や魔法ではありませんからね。そんな非科学的なものある訳ありませんから」

「はぁ……あれ? あの、もしかして、なんですけど……その……」

「なんですか?」

 続きが気になるのか、フナ少女が話の先を促してくる。促されたので話してみたいと思うものの、花中は口を噤んだまま、フナ少女の姿をじろじろと眺めるばかり。

 どう見ても、フナ少女の『姿』は人のそれだ。昨日今日と彼女の手を握ったが、感触も温度も人肌のそれと同じだった。花中の『推測』とは矛盾する特徴ばかりである。

 しかし普通ではない真実――――水を自在に操れるのなら、矛盾は理論上説明可能となる。

「もしかして、その、『身体』も、水なのです、か?」

 意を決し、花中は尋ねてみた。

 するとフナ少女は目と口を開き、とても驚いたような表情を()()

「……正解です。この姿は水で作っています。しかし何故分かったのです?」

「えっ、えーっと……あなたは、お魚ですから……魚ならエラ呼吸、ですから、周りに水がないと、生きていけない、筈、です。だから、あなたが居る、その『身体』が、水でないと、いけないのが、一つ。水を操れるの、なら、人型に、形作る事は可能、でしょうし」

「成程。ですがそれで説明出来るのは人の形までです。この肌色はどうご説明するつもりで?」

「それは虹と、構造色の原理、です」

 花中はフナ少女に自分の推察を伝えるべく、途切れ途切れながらも言葉を絞り出した。

 日光は一見真っ白な輝きに見えて、その実多様な『色』 ― 正確には波長の長さが違う光の ― の集まりである。それを示す最も分かりやすい例が虹だ。太陽光が大気中の水分に反射して様々な『色』に分かれた結果が、あの七色の輝きの正体なのである。

 そんな光の性質を利用した動物として有名なのが、モルフォチョウという昆虫である。モルフォチョウの翅は青色の光沢があるように見えるが、実際の色は無色透明。鱗粉にある特殊な構造によって青い光だけを反射するため、人の目には青く見えるのである。これは構造色と呼ばれ、他にもタマムシなどが同じ原理で模様を作っている。自然界では意外と有り触れた『技術』だ。

 もしもフナ少女が本当に水を自在に操れるのなら、『身体』の表面に特殊な構造を作り上げる事で、自由に色を生み出せるかも知れない。

「あと、人肌の感触は、水の密度を変えれば出来る、かなって……物は、密度を上げると、温度も上がります、から……えと、あの、その……」

 そのような話を、花中はフナ少女に頑張って伝えた。慣れない長話をして少し疲れたが、自分の想いを伝えるために言葉を選ぶのはやはり楽しい。

 これでフナ少女が微笑むなり頷くなりしてくれたら大満足だったが、フナ少女は頷くどころか呆けたような表情を浮かべるだけで、微動だすらしてくれなかった。何故沈黙しているのか、何故呆けているのかが分からず、きっと自分の話があまりにも頓珍漢だから呆れているんだと思った花中は顔を真っ赤にして俯く。

「おっと失礼。まさか本当に科学的に説明出来るとは思わず納得のあまり放心していました」

 慌てた素振りで告げられたフナ少女の言葉は、花中のそんな不安を一蹴してくれた。ただ、ホッとする間もなく別の疑問を湧き上がらせたが。

「……納得?」

「正直よく分からないんですよ。私化学とか物理とか生物とか……『さいえんす』な分野は苦手でして。この力を使えるようになったのも覚えている限り昨日からですし自分がどうやって水を操っているのかもチンプンカンプンでして」

「……あの、自分で、言った事なのに、こう言うのも、難ですけど……この原理で、好きな色を表現する、には、作りたい色に、応じて、水分子、一つ一つを、せ、正確に、並べる必要があると、思うのですけど……どうやって、そんな、精密な操作を?」

「その場のノリと直感ですけど」

 十八グラム当たり約六×十の二十三乗個 ― 数字にしたら約六〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇個 ― もの水分子をノリと直感で操作する……世界中の科学者が卒倒しそうな解答に、花中も卒倒しそうになる。

「それにしてもいやはやこれは驚きです。花中さんはとても聡明な方なのですね」

 尤も、遠退く意識はフナ少女のベタ褒めで引き戻された。そして褒められたのが気恥ずかしくて、それ以上に嬉しくて、花中は赤らんでいた顔を更に赤くし、茹蛸のようになる。

「え、う……そ、そんな……友達が、居なくて……暇な時はずっと、家に、あった本を、読んでいた、から、し、知ってる、だけで……褒められるほどの、事じゃ、ない、です」

「その褒められるほどじゃない事が私には出来ませんでした。優しい上に聡明でもあるあなたと友達になれて私は鼻高々ですよ」

「え、えへへ……♪」

 謙遜したい気持ちはあるが、褒められる事に慣れていない花中は嬉しさを抑えきれずついつい笑みが零れてしまう。そんな花中を見てフナ少女もくすくすと、小さく、楽しげに笑い返した。

 仲良く見つめ合い、笑い合い……花中の思考は、ふと別の事を考える。

 ―――― 一体このフナ少女は何者なのだろう。

 人間並の知能、水を操る能力、にも関わらず本体の姿形はフナそのもの……こんな非常識な生物が実在するなんて夢にも思わなかった。いや、正直なところ今でもフナ少女のような出鱈目な生き物が、自然に生まれるとは到底思えない。

 自然発生でないのなら、フナ少女は何者かが作り出した『人工生命体』という事になるのか。しかしそれもまた疑わしい……というより、あり得ない。

 何しろ相手は知的且つ不思議な力を持つ者だ。ペットにしようとすれば逆に自分がペットにされそうだし、労働力として使うにはあまりにも知的過ぎて権利を求めてくる事も考えられる。生物兵器扱いでもしようものなら反感を買ってクーデター……ざっと考えただけでデメリットのオンパレードだ。仮にこのデメリットをどうにか ― 或いは強引に ― 無視したとして、ならば何故フナ少女は怪しい研究施設ではなく近所の山の池に棲んでいたのかという話になってしまう。

 『あり得ない事を取り除けば、残ったものは、如何にありそうにない事でも事実に間違いない』

 これはとある小説に載っていた一文だ。例え世界中の科学者と花中が卒倒しようともフナ少女が水によって人の姿を作れるように、どれだけあり得そうにない事柄でも、他の全ての可能性が否定されたならそれこそが真実である。

 故に、フナ少女の正体は――――

「で、あたしは無視な訳?」

 そこまで進んだ花中の思考は、怒気を孕んだ声によって止められた。

 花中は油が切れた機械のように、フナ少女は何一つ不安のない動きで、声がした方を振り向く。

 そこに居たのは、自ら立ち上がったのであろう晴海。顔から転んだせいで、服の前面だけでなく顔もべっとりと土で汚れている晴海。

 晴海は笑顔だった。

 笑顔だったが、目は笑っていなかった。

「……そーいえば花中さんを連れ去ろうとした不埒者を転ばしていましたっけ。すっかり忘れていました」

 その上フナ少女が油をドバドバと注ぐものだから、花中は生きた心地がしなかった。

「わ、忘れていたですってぇぇぇ……?」

「おおおおおおおおおち、落ち着いてぇぇぇぇぇっ!?」

 ゆらゆらと殺意ある歩き方をする晴海を止めるべく、花中はフナ少女と晴海の間に割って入る。勢いだけで飛び出した花中に晴海をどうにか出来る自信なんてなかったが、幸い晴海は立ち止まってくれたので蹴散らされずに済んだ。

 未だ目に殺意を宿らせているが、それでも立ち止まってくれた晴海なら冷静に話を聞いてくれると信じ ― ないとやってられない ― 花中はフナ少女を弁護する。

「ご、ごめんなさい。あの、この人、その、悪気はないん、です。多分」

「……多分なの?」

「えぅ……す、すみません……でも、その……」

「花中さんの言うように悪気はありません。ただ正直に言ってしまうだけで」

 お願いです。今だけは余計な事を喋らないでください。

 そう思ったが、小心者である花中には情けなさ全開の眼差しをフナ少女に向ける事しか出来ない……眼差しに気付いたフナ少女が花中に見せたのは、何故か照れ笑いだったが。

 どこまでも緊張感のないフナ少女の姿に怒りよりも呆れた気持ちが上回ったのか、晴海は顔に手を当てながらため息を漏らした。怒りもいくらか霧散したらしく、開かれた口から出てくる口調も多少柔らかくなる。

「……まぁ、良いわ。大桐さん。この人と知り合い、なのよね?」

「あ、は、は、はい」

「どういう関係なの?」

「友達です!」

 晴海の質問に花中は自信をもって即答。フナ少女は嬉しそうに頭を掻き、晴海も瞼をパチクリした後敵意しかなかった目付きに僅かな暖かさを戻して「あ、そうなんだ」と納得した様子を見せる。

 一度は険悪に支配された場が、ほんのちょっぴりだが春のような優しさに包まれていく。浸るだけで心も身体もポカポカしてくる。

 これがみんなで仲良くしている時の雰囲気なんだ、と、初めて味わう多幸感に花中は全身を蕩けさせた。

「で、この人の名前は?」

 尚、晴海がフナ少女の名を尋ねるまでの短い春だった。

「……………名前?」

「うん、名前。大桐さんの友達なら、まぁ、あたしも知り合いにはなっときたいし」

 花中は思わず訊き返してしまったが、晴海がしたのは不思議でもなんでもない質問。むしろ訊き返された晴海の方が困惑している。

 しかし花中には答えられない。

 だって、

「そういえば、あなたの、お名前、まだ、聞いていませんでした」

「ずこーっ!?」

 知らないものは答えられない――――晴海に対してはそういうメッセージを込めて言ったところ、何があったのか晴海は独りでに転倒してしまった。が、すぐに起き上がり、晴海は狼狽しきった表情を浮かべながら声を荒らげる。

「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇ!? 名前すら知らないのに友達って一体どういう」

「確かに言っていませんがしかし私にはそもそも名前というものがありませんよ? 付けてくれるような方が居ませんでしたので」

「なんかさらりと凄い事言ったわよこの人!? 言ったわよね!?」

「あ、そう、ですよね。そっか。うーん、なら、どう、呼びましょうか?」

「なんで納得しちゃうのよ大桐さぁぁぁぁぁぁん!?」

「でしたら花中さんにお願いしましょうかね。私の名付け親になってくれませんか?」

「またしてもさらりと凄い事言ってるわよこの人ぉ!?」

「は、はい! が、が、が、が、頑張り、ます!」

「この子は快諾するしぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 フナ少女との会話に晴海が逐一ツッコミを入れてくるが、頼られて使命感に燃える花中には届かず。花中は早速フナ少女に相応しい名前を考える。

 記憶が確かなら、フナ少女は自分を『人間の女性』として扱ってくれと言っていた。なので女の子らしい可愛い名前が良いと一瞬思うが、容姿 ― 作り物だが ― が麗しさとカッコよさを両立させているフナ少女には凛々しい響きが似合いそうである。また西洋人風の見た目なので、洋風の方がしっくりくるだろう。

「ユナ……リューク、アリス……フィリア……」

 方向性を決めた花中は幾つかの名前を淡々と呟く。どの名前が一番良いか、口にして確かめていく。

 ――――どんな名前が良いかな。

 ――――どんな名前なら喜んでくれるかな。

 ――――お母さん達もこんな気持ちだったのかな。

 名前を付けるのが、こんなに楽しいとは思わなかった。こんなにも相手を想うものだとは知らなかった。心の中は慈しみで満ち、穏やかなのに幸せが溢れそうで大変。幸福に溺れそうになりながら、花中は考えを巡らせる。

「……フィア」

 やがて幾つか呟いた中で、この響きがとても気に入った。

 可愛らしくも凛々しく、それでいて彼女の生物名である『フナ』の余韻も残っている、と思う。今まで思い浮かんだどの名前よりも、彼女の雰囲気に合っていると感じられた。

 自分は、この名前が一番良い。

 彼女も、そう思ってくれたなら――――

「あ、あの、フィア、という名前は、どうでしょうか……えっと、フィアちゃんと、呼ぶ事に、なりそうです、けど」

 花中は赤くした顔を俯かせ、恐る恐るフナ少女に尋ねる。問われたフナ少女は腕を組み、しばしフィア、フィア……と反復。

「良い名前ですね。気に入りました」

 すんなりと、フナ少女はフィアという名前になった。

「よ、良かったです! あの、ふぃ、フィアちゃん!」

「んんー……心地良い響きですね。出来たらもう一度呼んでくれますか」

「フィアちゃん!」

「ふむ。名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいとは。もう一度お願いします」

「フィアちゃん!」

「もう一度」

「フィアちゃん!」

「もう一度」

「フィアちゃん!」

「はい花中さん」

「はわぁ~~~~~!? ふ、不意打ちは、卑怯、ですぅ~~~~~………」

「ふふ。それは申し訳ありません」

 花中はフィアと無意味に、だけど口にしたりされたりする度に幸せを噛みしめながら、互いの名を呼び合う。和気藹々と、花中はフィアとの世界を楽しみ――――

「「という訳でフィアになりました♪」」

「なりました♪ じゃないでしょうがぁっ!」

 二人同時に結果を伝えたところ、晴海はコンマ一秒の間もなくツッコミを入れてきた。

「えぇー……花中さんが折角付けくれたこの名前に何か不満でもあるのですか?」

「何かじゃないわよ!? 最初から最後までツッコミどころ満載だったわよ! 逆になんでアンタは理解不能と言いたげな態度なの!?」

「そ、そんな……あああ、や、やっぱり、わたしのセンスじゃ、す、素敵な名前なんて、無理、だったんですね……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「大桐さんなんか凄い勘違いしてるしっ!? だからあたしが言いたいのは」

「あなた少し落ち着いたらどうですか?」

「だぁぁぁぁぁぁれのせいで興奮してると思……………」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……?」

 怒号を発していた晴海が、不意に黙り込む。謝るために頭を下げていた花中は沈黙を不審に思い、ゆっくりと頭を上げ……晴海を二秒ほど見た後、フィアに視線を移した。

 指先から水鉄砲のように水を出し、晴海の顔をびしょ濡れにするフィアに。

「どうです? 少しは落ち着けましたか?」

「……あの……」

「? どうしました花中さん?」

 どうしましたじゃない。水を掛けたらますます険悪な雰囲気になっちゃうじゃない。

 そう伝えようとした花中であったが、晴海がフィアの胸倉に掴みかかる方が早かった。

「あ、アンタ一体何なのよっ!? あたしを怒らせて……!」

「私が何かですか? 私はですね――――」

 蒸気でも噴き上げるのではと思うぐらい顔を真っ赤にし、服を捻じ切らんばかりに握り締めながら、唾を飛ばすほど力強い声で詰め寄る晴海……ところがフィアは何一つ気にしていないらしく、それどころか誇らしげに、今更ながら自己紹介をしようとする。

 花中は慌ててフィアへと手を伸ばす。

 フィアが『アレ』をやるとは限らない。だがやらないとも限らない。やったらますます状況がこんがらがるに決まっている。二人に仲良くしてほしい花中は、フィアの自己紹介をなんとしても止める必要があると感じていた。

 感じていたが、それで止められたら苦労はせず。

「フナですよ」

 フィアが――――フナが少女の顔面を突き破って飛び出すのを、花中は止められなかった。人より反応が数テンポ遅い花中には無謀な挑戦だった。

 流石に花中は三度目。見た目麗しい少女の顔面を突き破って魚が飛び出しても、もう驚かない。意識は明瞭、頭脳は冷静。今なら「ああ、やっぱりその登場方法なんですね。ワンパターンですねこんちくしょう」と言ってやる事も出来ちゃいそうだ。

 けれども、初めて見る晴海は違うだろう。

 憤怒の形相のまま、血の気だけが引いている晴海はきっと違うだろう。

「た、たち」

 立花さん、と声を掛けようとした花中。

「お、お、おばけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 その声で僅かながら正気を取り戻したのか。フィアを何と勘違いしたのか、わざわざ訊かなくとも済む悲鳴と共に晴海は逃げ出してしまった。その逃げ足たるや人間とは思えない猛スピードで、旧校舎の向こう側に入って姿が見えなくなるのに三秒と掛からなかった。

 残されたのはどんくさい人間と、他称お化けの二人組み。

「……ひょっとして顔から魚が飛び出すのは人間からすると不気味な光景なのですか?」

「今更ぁ!?」

 居なくなった晴海に代わり、花中は生まれて初めてのツッコミをしたのだった。

 

 

 

「さて……お、お話があります」

 晴海の代わりにフィアが居座った旧校舎周りにて、先に話を切り出したのは花中だった。

「はい何でしょうか?」

 フィアは心底不思議そうに首を傾げる。どうやら『お話があります』と前置きされるような事に心当たりはないらしい。こんなにも堂々と不法侵入しているのに。ほんの数秒前に晴海をあんなにも怖がらせたというのに。

 真面目な話をするので表情を引き締めていた花中だったが、少し力が抜けてしまう。どうにもフィアは人間と比べてマイペースで、それこそ水を相手にしているように手応えが感じられない。本気になっても、疲れるだけのような気がしてくる。

 それでも訊かねばならない事があるので、花中は少し語気を強めてフィアに尋ねた。

「何じゃ、あ、ありませんっ。なんで学校に、あなたが、その、い、居るんですか。留守番か、山に、帰っているんじゃないかと、思っていたのに」

「花中さんに会いたくて来ちゃいました」

「ぽへっ!?」

 尋ねるとフィアはあっさりと白状した。おまけにやってきた理由が自分に会うため――――フレンドリー大好きな花中にとって、小躍りしたくなるほど嬉しい一言だ。

 頬っぺたに手を当て、脳内お花畑でフィアとワルツを踊ってしまう事数秒。

「……花中さーん」

 トリップする花中を現実に引き戻したのはフィア。名前を呼ばれてハッとなり、花中は羞恥色に染まった顔を隠すように下を向く。

「え、えと……すみません……その、嬉しくて……」

「許しません」

「へぅっ!?」

「冗談です」

「はぅっ!?」

 弄ばれた事にショックを受ける花中。対してフィアは楽しそうに、大人っぽい美顔を子供のように綻ばして笑う。

 弄られた側としては、フィアの態度は実に不愉快。花中はほっぺたをフグのように膨らませた。

「むぅぅぅ……ひ、酷いです……」

「すみません。花中さんの反応があまりにも面白いもので。ですが花中さんに会いたかったのは本当ですよ」

「で、でも、学校に来るなんて……関係者以外、立ち入り禁止、ですし……」

「それは人間に対する警告でしょう? 鳥も昆虫も自由に行き来しているではありませんか。魚である私を何故拒むのです?」

「でも、でも……」

「それとも花中さんは私に会いたくありませんでしたか?」

「う、う、ううううぅ……」

 その言い方はずるい……そんな気持ちを含ませた唸り声を出すと、フィアは照れたように微笑んだ。気持ちは伝わったらしいが、しかし喜ばせたかった訳ではない。ムスッと、花中はますます膨れ面になる。

「どうなんです? 嬉しくなかったのならもう来ませんが」

「……嬉しいです、けど……でも……そ、そうです! 学校に、来ていたの、なら、挨拶に、き、来たら良いじゃ、ないですかっ! ホームルームの時に、い、居ましたよね! あの、わたしの教室、の、近くに……挨拶なしでふらふら、なんて、酷いですっ」

「おおっと見られていましたか。しかし見ていたのなら分かるのでは?」

「え?」

 分かるのでは? と言われて、全く分からない花中は目を点にする。どうして教室に居た花中に会いに来なかったのか、答えにつながる何かを今朝目の当たりにしているらしいが……記憶をいくら辿っても思い当たる節はなく、首を傾げずにはいられない。

「さっきの人間に今朝水を掛けたのは私なのですよ」

 すると、フィアは今朝の『事件』の真相をたった一言で教えてくれた。

 朝の教室で、晴海に水を掛けた犯人はフィアだったのだ。フィアは水を操る力を持っている。それに先程花中の目の前で、晴海の顔に水を引っ掛けてみせた。あの水をもっと沢山、大砲の弾丸のような塊で撃ち出せば、今朝の出来事を再現出来るかも知れない。また身体そのものが水なので、容器を持ち歩く必要もない。後片付けでもたつく事もなく、現場からそそくさと立ち去れる。

 成程、今朝の事件の犯人がフィアだとすれば頷け

「って、何してんですかぁーっ!?」

 ない。

 晴海がクラスメート達に当たり散らす事となった、今朝の事件の元凶相手に頷いてなどいられなかった。

 花中が反射的に咎めると、フィアは唇を尖らせる。不当だ、と言わんばかりに。

「だってあの人花中さんに不埒な事をしようとしていたんですよ? そりゃあ水の一発ぐらいぶつけてやりたくなりますよ。カッとなってやったのでちょっとやり過ぎてしまったのは否定しませんが」

「カッとなった、じゃ、あ、ありませんっ! ひ、人に水を掛けるのも駄目です、けど、あの水のせいで、立花さん、クラスの人に、当たって……」

「ですから不可抗力なのです。私だってあの後教室に入ろうと思いましたし花中さんとお話ししたかったですもん。でもあの時顔を出したら色々揉めそうな気がして……ぶっちゃけ面倒臭くなったので逃げちゃいました」

「逃げたって……悪い事を、したら、謝らんぐっ!?」

「まぁ落ち着いて」

 反省した様子のないフィアを窘めようとした花中だったが、不意に唇に指を乗せられてしまう。これでは上手く喋れない。手足をばたつかせて抗議の気持ちをアピールしたが、フィアは指を退けてくれそうにない。

 渋々花中は抵抗を止め、全身の力を抜く。それですぐにフィアの指は退かされた。批難の視線を送る花中に、フィアは悪戯を企む子供のような笑みで対面しながら話す。

「私としてもあの人と和解する事はやぶさかではありません。花中さんが謝れというのならそう致しましょう。そこで花中さんに一つお願いがあります」

「……お願い、ですか?」

「簡単に言いますとあの人との間を取り持ってほしいのです」

 晴海との間を取り持つ――――この一言で、花中にはフィアの『作戦』が読めた。

 根本的に、フィアと晴海は少し顔を合わせた程度の仲でしかない。晴海に至ってはあまり好感を持っていなかった様子で、しかも今はフィアをお化けだと勘違いしている状態。晴海から仲直りを持ち掛けてくるとは考え難く、無理やり対面させたところで晴海は恐怖のあまり逃げてしまうだろう。フィアにいくら謝罪の気持ちがあっても、これでは仲直りが出来ない。

 そこでフィアと晴海の共通の友達である花中が、二人の仲介をする。フィアはお化けではなく『非常識』な生き物でしかないと花中が説明すれば、晴海の恐怖も幾分和らぐ筈だ。その上でフィアが晴海に謝れば、きっと仲直り出来る。

 これ以上ないほど ― というより、これ以外にない ― 完璧な作戦に文句を付けられる訳がない。花中は当然フィアの提案を

「むむむむむむむむむむむむ無理無理無理無理無理ですぅぅぅぅぅ?!」

 責任の重さに耐えかねて、全力で拒否した。自力で友達を作るのすら失敗の連続だったのに、他者の仲を取り持つなんて出来っこない。誰かの名付け親になるという未経験より、幾度も失敗しているこの分野の方が花中にとっては明らかに難問なのだ。

 しかし、

「それでは頼みましたよ」

 フィアは綺麗な笑みと共に、遠慮なく『お願い』してきた。

 花中は思う。

 これはお願いという名の命令である、と。

「……はい……」

「では放課後にでも――――む?」

 作戦会議が終わるのとほぼ同時に、予鈴が聞えてきた。『お願い』されたプレッシャーに早くも負けて地面に膝をつき項垂れていた花中だったが、予鈴=午後の授業開始が近い事に気付いて復活。

 此処旧校舎から新校舎まではそこそこ距離がある。大体、徒歩五分ぐらいだろうか。急いで教室に戻らないと授業に間に合わないかも知れない。

「はわわわわっ!? い、急がないと、授業に遅れちゃう……!」

「急ぎ過ぎて転ばないように注意してくださいね」

「え? あ、はい。えと、気を付けます……」

「よろしい。さて私はどうしましょうかね。花中さんのお勉強を邪魔する訳にもいきませんしかと言って暇を潰そうにも山育ちである私はこの辺りについてよく知りませんからねぇ。でもぼうっとしているのは性に合いませんし……」

 慌てる花中の傍で、フィアは腕を組んで暇の潰し方を考え始める。『部外者』であるフィアと一緒に授業を受ける訳にはいかないので、授業中花中とフィアはしばし離れ離れ。それに独りごちていたように、今まで泥落山の池で暮らしていたのであろうフィアが、麓の町に建つ帆風高校周辺の事を知らないのは当然だ。お金も多分持っていないだろう。一人になると分かった途端、退屈しのぎを考えたくなる気持ちは花中にも分かる。

 だから決してフィアの話におかしな点はない。ない筈だ。

 なのに、何かが引っ掛かる。

「(……んー?)」

 後片付けをする手を止め、花中は首を傾げる。

 急がないと授業に遅れてしまうのは分かっている。それでも友達に対する『引っ掛かり』が、喉に刺さった小骨のように気になって仕方ない。もやもやした気持ちではとても片付けに集中出来ない。

 花中は止まっていた手を顎に当て、思考に耽る。

 自分が何を疑問に思ったかも分からないが、それなら何処で引っ掛かりを感じたのかを思い出せば良い。幸い記憶力には自信がある。フィアが直近語っていた言葉を頭に並べ、一つ一つ、正確に暗唱していく。

 そして再度引っ掛かりを覚えた。

 それは、フィアがこの辺りの事を――――

「ちょっと良いですかぁー?」

 引っ掛かっている部分に触ったと実感した瞬間、花中は、()()()()()()()声に呼び掛けられた。

「ひゃっ!?」

 声に驚いて思考は中断。花中はおろおろしつつも声がした方へと振り返る。

 振り返った先に居たのは、見知らぬ一人の少女だった。

 地に引き摺るほど長く伸びた髪は輝きを持たず、墨で塗り潰したかのように真っ黒だった。対して顔は青白く、血の気を一切感じさせない。顔立ちはあどけなさが残る可愛らしいものだが、西洋風とも東洋風とも言い難い……国籍不明の代物。スタイルはフィアに負けず劣らず豊満で、非常に誘惑的。衣服は校内だというのに学校指定の制服ではなく、手首まで覆う袖と足首まで覆い隠しているスカート丈と愛らしいフリルで装飾している……黒一色で塗り潰された、喪服のようにしか見えないワンピースだ。

 そして浮かべているのは、一切感情が読み取れない笑顔。笑っているようにしか見えないのに、笑っているように思えない不気味な表情。

 まるで、死体のよう。

 それが花中の、突如現れた少女に対する正直な第一印象。ハッキリ言ってしまえば、花中は少女に対し生理的な恐怖と嫌悪を抱いてしまった。せめて失礼な態度は取らないように、と自分を戒めたいのに、胸に込み上がる嫌悪感が強烈過ぎる。生唾を飲み、悪寒で身体が震えるのを止められない。

「……花中さん。こいつとはお知合いですか?」

「う、ううん……初めて、会うと、思う」

「そうですか。何か御用でしょうか?」

 フィアも花中と同じような気持ちを抱いていたのか。花中の知人でない事を確かめたフィアは少女に問い掛けるが、その際の口調はあからさまに刺々しかった。

 緊迫する空気――――しかし来訪者だけは、飄々とした態度を崩さない。

「そうねぇ。用と言うか、お願いかしら?」

 少女は開かれた口から馴れ馴れしく、しかし全く抑揚のない声を出す。一言聞く度に花中の背筋にはぞわぞわとした悪寒が走り、得体の知れない恐怖心が刻まれていく。

 花中は半歩後ろに下がり、

「お願いですか? 初対面の我々に?」

 フィアは半歩前に出ると、ますます棘のある口調で訊き返した。

「そうなのよー。お願いと言ってもコンタクトを落としたから探してーとか、そーいうのじゃないのよ? もっとこう……重要性なんかどうでも良いわよね。個人的な用事には変わりないし」

 少女は勿体ぶっているのか、中々本題に入らない。フィアが露骨に不快感を露わにした表情を浮かべても態度を変えず、それどころか少女は花中達の目の前で唐突に、踊るようにくるくると回り始めた。

 意地悪されたら怒らずに怯えるタイプである花中も、少女の態度にはムッときた。フィアの傍に居て気持ちが大きくなっていたのかも知れない。

「よ、よう、用件が、あ、あるのなら、早く言ってくださいっ!」

 花中は、生まれて初めて人に文句を言ってしまった。「やってしまった!」と思う反面、心の中は初めて味わう爽快感に満たされる。鼻息もちょっと荒くなる。

「んー、ちょーっと焦らしただけなのに……でもまぁ、はなちゃんが言うなら仕方ない。話してあげましょ」

 花中に怒られた少女はガッカリしたように……感情が伝わらない笑みを浮かべたまま、項垂れた。少女が形式的でも反省したと取れる対応を見せたので、花中も少しは溜飲を下げる。

 けれども、すぐに血の気が引いた。

「……あなた、今なんて……」

「花中さん?」

 震える花中にフィアが名前を呼ぶ。先程までなら喜び勇んで返事をしただろう。だが今の花中は息飲んだだけ。返事をする余裕は、ない。

 ――――あの少女は、自分の事を『はなちゃん』と呼んだ。

 花中はあの少女の顔に見覚えなどなく、今この時を除いて言葉を交わした記憶もない。つまり初対面の相手であり、当然名乗った事もないが、それでも『かなか』や『かなちゃん』と呼ぶのなら良い。先程フィアが自分の名前を口に出していたので、そこから花中が『かなか』であると知る事は出来るからだ。

 しかし『かなか』という名前に『花』が使われているのは、一体どうやって知れば良い?

 自分の名前があまり一般的なものでない事は、花中も重々承知している。『かなか』という呼び名から『花中』という漢字を思い浮かべるのは容易ではない。いや、一回目では絶対に出てこないと断言しても良い。

 ならば目の前の少女は、なんらかの方法で花中の名前を調べたに違いない。

 職員室などに忍び込んで、莫大な量の資料から花中の情報を掘り当てたのか。

 或いは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ……前者はまだしも、後者はあり得ない。どう考えてもおかしい。出来っこないし、それをやってしまう精神なんて狂人でもない限り持ち得ない。

 そう思うのに。

 ――――『アレ』はそれをやりかねないと、本能が訴えていた。

「んふふ。はなちゃんどーしたの? 顔が真っ青よー?」

「ひっ……!」

 少女が一歩足を前に出し、花中は一歩後退り。

 昨日も今日も、名前を呼ばれるのは嬉しい事だと思っていた。自分は名前を呼ばれるだけで頬っぺたが緩んでしまう体質なのだと信じきっていた。

 だけどこの少女に名前を呼ばれても怖いだけ。

 臆病だから、今まで色んな事に怖がってきた。だがこんな、得体の知れない者に狙われる怖さなんて知らない。身体はどんどん冷えていき、けれども寒さとは違う理由で震え、喉がカラカラに乾いていく。手足が言う事を聞いてくれず、逃げ出す事も儘ならない。

 フィアが悠然と自分の正面に立ち、勇敢にもあの不気味な少女との間に割って入ってくれなければ、花中は身動ぎ一つ出来なかっただろう。

「ふぃ、フィアちゃん……?」

「花中さんが怖がっています。さっさと要件を言って帰ってくれませんか?」

 フィアが拒絶の意思を示すと少女は大袈裟に肩を竦める。「ちょっとふざけただけじゃない」と言いたげなその仕草があまりにもわざとらしく、花中には却って気味悪く見えて仕方ない。

 花中がそんな想いを抱いているなど露知らずなのか、或いは知った上でなのか。少女は気味悪さを強調するように歪な笑みを浮かべる。

 そして彼女は、ようやく本題を告げた。

「じゃあ言わせてもらうわ。はなちゃんを、私にちょーだい♪」

 花中には、全く意味が分からない『お願い』を……




さぁ、いよいよ次回はバトル回。
……メインの一つに掲げながら五話目(開幕入れたら六話目)でやっとかよ、というツッコミは勘弁してくだせぇ。
開幕でさらっと出てきたエグイ描写が遠慮なく出てきますのでお楽しみに!(ぇ)

次回投稿は来週土曜(7/2)の予定です。


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ファースト・フレンズ5

「……申し訳ありませんがもう一度言ってもらえませんかね? あなたの頭が可笑しいのか私が聞き間違いをしたのか確信を持ちたいので」

 静まり返った空気の中で、最初に言葉を発したのはフィアだった。早口なのは相変わらずだが、その口調に花中と話していた時のような明るさはなく、代わりに露骨な敵意と侮辱が散りばめられている。早い話が喧嘩腰だ。

 花中はそれを咎めない。人並みの度胸を持っていて、この場に喧嘩っ早い性質のようである友人が居なければ、自分も『同じ言葉』を言っていただろうから。

「ええ、構わないわ。えっとね、はなちゃんを私にちょーだいって言ったの」

 しかし真っ向から敵意をぶつけられたにも拘わらず、黒い少女は無感情な笑みを寸分も崩さない。声は弾ませているのに楽しさが伝わらないもののままで、先程と口にした文面を平然と返してくる。

 敵意と侮辱をまるで気にしていない、普通に言葉を交わした程度にしか感じていない仕草に人間らしさは欠片もない。これなら表情が鋭利な敵意で歪んでいても、今のフィアの方が余程愛らしいと花中には思えてならなかった。未知の存在に、花中は身体をぶるりと震わせる。

 対してフィアは「ふんっ」と鼻息を鳴らし、表情の不機嫌さを更に増していた。

「ああ聞き間違いではなかったようですね。あなたの頭がおかしい事に確信を持てました……人攫い宣言と受け取って良いのですよね?」

「ええ。返すつもりはないわ」

「じゃあ今から警察を呼びます。犯罪者って警察が怖いんですよね? さっさと逃げ帰ってくれませんか?」

「警察如きが怖くて人攫い宣言なんて出来ないわよー」

 少女はフィアの警告を気に留めた様子もなく、ゆったりとした歩みで花中に近付いてくる。あまりにもゆったりで、見せつけているかのような歩みは、臆病な花中を恐怖のどん底に突き落とすには十分な演出だった。

 『変質者』と呼ばれる人間が存在する事は、花中だって知っている。しかし実際に目の当たりにしたのはこれが初めて。しかも相手は自分に付き纏う……恐らくだが、ストーカーと呼ばれる人種。どう対応すれば良いのか分からず、逃げたいと思っても足が竦んでしまう。この場から動けない。

 結果花中は無意識に、手近にあったフィアの腕にしがみついてしまった。しがみつかれたフィアが自分の事をちらりと見たので迷惑だったかと思ったが、恐れ慄く身体は言う事を聞いてくれない。

 ごめんなさい。

 そう謝ろうと花中が口を震わせながら開けた、時だった。

 フィアが花中の掴んでいる腕を、花中ごと自身の背後へと回した。まるで自らを花中の盾にするかのように。

「ふぃ、フィアちゃ……」

「花中さんは私の後ろに隠れていてください」

 なんで、と訊く前にフィアに命じられ、花中は言われるがままフィアの背後に身を潜める。

 そしてフィアは、左手の人差し指を力強く少女の顔に向けた。さながらその姿は、子供が自分の手を使って拳銃ごっこをするかのよう。

 黒髪の少女も両手を上げ、如何にも銃を向けられた人のような振る舞いをする。ただし足は機械的に前へと動き続けたまま。近付くのを止めはしない。

「あらら、何それ? 指から殺人ビームでも出すつもり?」

「警告です。さっさと此処から消えない場合痛い目に遭ってもらいます。いやもしかしたら致命傷になるかも知れませんね。痛めつける目的で力を振るうのは初めてで加減がよく分からないので」

「いやん。怖ぁーい」

「ジョークではありません」

 フィアは再三に渡り「此処から消えろ」と少女に告げるが、少女はふざけた態度を見せるばかり。歩みは遅くも早くもならず、じりじり花中達との距離を詰めてくる。

 少女の反応自体は ― やたら癪に障る点に目を瞑れば ― 普通だと花中も思う。何しろフィアは少女に指先を向けているだけ。臆病な花中ですら、そのぐらいでは怯みもしない。実際に何かしらの『攻撃』を受けるまでは、誰だってフィアの警告を無視するだろう。

 フィアもそれは重々承知している筈だ。

「仕方ありませんね」

 だからこの「仕方ない」は威嚇の合図だと花中は思い――――花中の想像よりもずっと喧嘩っ早かったフィアは、少女の顔に向けたままの指先から水の塊を射出した。放たれた水は ― 恐らく速過ぎて ― 花中の目に映らなかったが、耳に届いた小さな破裂音から、拳銃の弾丸の如く初速で撃ち出された事を本能的に察する。

 不気味な少女にも音は聞こえていたのだろう。もしかすると撃ち出された水が見えていたのかも知れない。

「あらよっとー」

 余裕綽々な掛け声と共に、少女はフィアの攻撃を見事回避してみせた。

 ()()()()()()()()()()()()()()、という動きで。

「……え……?」

「よっこいしょ。あ、よっこいしょって言っちゃった。やだやだ、歳は取りたくないわー」

 理解不能の一音を漏らす花中の目に、椅子から立ち上がるような気軽さで()()()()()()()()()()()少女の姿が映る。しかし脳が、網膜からやってきた映像を拒む。自分が何を見たのか、全く分からない。

「……あの、フィアちゃん」

「今のはちょっとした見間違いです」

 花中が今の出来事を訊こうとしたところフィアは何時も以上の早口で話を遮り、直後指先からもう一度水の塊を発射した。

「ほいよっとー」

 少女はまたしても攻撃を躱す。しかも今度は()()()()()()()()()()()という、先程以上に異様な『動き』によって。

 花中の頬を、汗が流れた。フィアの頬にも、汗らしきものが流れていた。

 見間違いではない。

 目の前の少女は、身体を自在に変形させる事が出来る。それどころか引き裂いても即座に再生する。再生する動物として有名なプラナリアだって元の姿に戻るには数日から数週間を要するというのに、目の前の少女は一瞬で回復してみせた。これなら漫画やゲームに出てくるモンスターの方がまだ脆いぐらいではないか。

 こんな生き物あり得ない……そう思う反面、花中の脳裏にある『答え』が過ぎる。

 『身体』が水であるが故に自在に変形し、水であるが故にいくらでも修復が効くであろう――――フィアにも同じ事が可能だ、と。

「ま、ま、まさ、か、あなた……!?」

「気が付いた? ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね」

 少女は右足を半歩後ろに、左手を自分のお腹の位置に添えると上品な動作で一礼。

「私の名はミリオン。さかなちゃんのお仲間、と思ってくれて良いわよ」

 続いて黒い少女……ミリオンは優雅に自己紹介。

「そうそう。そっちから攻撃してきたんだから、反撃されても文句は言えないわよねぇ?」

 最後ににっこりと、裂けんばかりに口元を歪めて微笑んだ。

 刹那、花中の背筋に冷たいものが走る。顎が勝手に震え、奥歯がガチガチと音を鳴らす。全身に鳥肌が立ち、今にも腰が抜けてしまいそうになる――――歪な微笑みを向けられただけなのに、花中の身体は一斉に恐怖を訴える。いや、訴えるなんて生易しいものではない。喚き、悲鳴を上げている。

 結局のところ一切の理屈抜きに、花中は最初から、本能で『アレ』を敵だと思っていた。さながら初対面であっても、獰猛な肉食獣が危険だと分かるように。今までは理性がそれを妨げていただけ。二つの認識が重なり、ようやく本来の……獅子を恐れるウサギのような感情が込み上がる。

 そして肉食獣は、恐怖で震える草食動物を見逃してはくれない。

「んじゃ、私とケンカするつもりならこの手を受け止めてくださいな♪」

 花中の足が動き出すよりも早く、ミリオンは己が右腕を花中の方へと向ける。

 直後に起きた出来事を、花中は何一つ把握出来ていない。

 自分に向けられていたミリオンの腕がゴムのように伸びた事も。

 伸びてきた腕が猛烈な速さで自分に迫ってきた事も。

「――――ちっ!」

 フィアが自分を突き飛ばした事さえも。

 全てが一瞬の出来事故に、意識に上る暇さえなかった。

「ひ、うぐぁ!?」

 突き飛ばされた身体は地面に叩きつけるように倒れ、痛みで花中は呻きを上げる。しかし頭は未だ状況を理解しておらず、フィアを無意識に凝視するだけ。

 だから見てしまう。

 伸びてきたミリオンの手が、花中を突き飛ばしたフィアの右腕と接触し――――次の瞬間、触れられたフィアの腕が大量の『煙』を上げて宙に舞った光景を。

「っ!?」

「まずは邪魔者からお片付けぇっと!」

 驚愕の表情を浮かべるフィアに、ミリオンは人ではあり得ない速さで突進してくる。煙が立ち上っている腕の切断面を見ていたからか、フィアは躱す素振りすらなくミリオンの突進を食らってしまった。

 フィアは倒れこそしなかったが、受け止める事も出来ていない。ミリオンはそのまま押し込み、フィアは押し込まれ、二人は旧校舎へと直進。老朽化した壁は『動物』達の体当たりで呆気なく砕け散り、二人の姿は旧校舎の中に消えた。

「あ、あああああっ……!?」

 痛みで呻いていたほんの僅かな時間……友達が攻撃されるのを見ている事しか出来なかった花中は壊れた悲鳴を上げる。無我夢中で千切れたフィアの腕を拾おうとしたが、作り物の腕はただの水に戻っていて、地面に染み込み触る事さえ出来なくなっていた。

 もう花中に出来るのは、祈る事だけ。

 爆音や破裂音が鳴り響く旧校舎で、ミリオンと戦っているであろうフィアの無事を祈る事しか出来なかった……

 

 

 

 旧校舎に押し込まれてすぐ、フィアはミリオンの『猛攻』を受けた。

 フィアはミリオンに肩を掴まれ、向かい合う形で旧校舎の奥へと押されている。今のところ倒されずに済んでいるが、どうやらミリオンの方が力は上。ひたすら直進するミリオンをフィアは押し留める事が出来ず、行く手に立ち塞がる壁と激突。その壁さえも粉砕して隣の部屋まで押し出されるのを、何度も繰り返していた。

 当然壁とぶつかるのは押されているフィアの方だ。木製かつ老朽化が進んでいるとはいえ、建物の分厚い壁を突き破るほどの衝撃である。人間なら今頃四肢やら頭やらが千切れ、唯一残った胴体もスクランブルエッグのようになっているだろう。

 そんな猛攻であるが、フィアには痛くも痒くもなかった。

 何しろフィアの『身体』は水で形作った『容器』に過ぎず、いくら打撃を受けてもフィア本体とは無関係。しかも表面部分の密度を上げる事で圧倒的な強度を生み出し、人体破損程度の衝撃なら易々と無力化する。仮に衝撃に耐えきれず『身体』の一部が千切れても、瞬時に、いくらでも修復可能だ。

 故にフィアは自分が今置かれている状況に恐怖を抱かない。のんびりじっくり、十分旧校舎に押し込まれたタイミングを見計らい――――『身体』を構成する水分子同士の結合を、ほんの少しだけ緩めた。

 分子の結びつきが緩んだフィアの『身体』に、文字通り水の柔らかさが戻る。ただの水は決して掴めない。掴めない物は決して押せない。

「よっと」

 フィアはミリオンの力を受け流しながらその身を崩れ落とし、

「およよ?」

 ミリオンは崩れたフィアの真上を通り過ぎ、一人で次の壁に激突。

 豪快に壁を突き破って、ミリオンは部屋の向こう側へと姿を消した。その後も激しい破壊音が幾度となく聞こえたので、勢い余って何枚も壁を突き破っているらしい。

「自滅していると楽で良いんですけどねぇ」

 逃れたフィアはミリオンが激突した壁から距離を取りつつ、崩した『身体』を再構成。再び金髪碧眼美少女の姿 ― 先程吹き飛ばされた右腕もちゃんと再構成してある ― を作り上げ、辺りを見渡そうとした。

 その前に、べきっ、という音と共に立っていた床が抜けたが。落ちたフィアはずどんと重々しい音を鳴らし、床から上半身が生えているような間抜けな姿になってしまう。

「……まぁ校舎全体が木で出来ていますしワックスなんてとうに剥がれているでしょうからね多分腐っていたのでしょう触った感触から察するにこの床森林内の倒木並に湿っていますからうん決して私が重かった訳じゃないいえ重いですけどね大量かつ高密度の水で作った身体ですし」

 凄まじい早口で独りごちつつフィアは穴から慎重に上がり、軽く踏みしめて床が落ちないのを確かめてから改めて辺りを見渡す。

 フィアの周りにあるのは、しっちゃかめっちゃかに散らかっている何十もの机と椅子。恐らくフィアとミリオンが突入した際の衝撃で散らばったであろうそれらは、しかし見ていてあまりうっとおしさを感じない。理由としては、この一室が数十もの人間が入っても窮屈ではないと思えるほど広いからか。

 そしてミリオンが激突した事で、大穴が空いた深緑色の板……黒板がこの部屋には備え付けられている。旧校舎と呼ばれるまで、此処が一般教室として使われていた部屋なのは明らかだ。黒板にはチョークで書かれたたくさんの言葉があり、この教室への想いを何かしらの形で残したいと願った生徒が居た事を予感させる……ぽっかりと開いた穴の所為で、七割ぐらいの想いは消えたようだが。

「どっかぁ―――――――――んっ!」

 そして派手に壁を粉砕しながら戻ってきたミリオンに巻き込まれ、残った三割の想いも粉微塵になって消えた。

 現れたミリオンは全くの健在。身体どころか服も傷一つなく、今も元気だとアピールしたいのか両腕を忙しなく動かしていた。とはいえ『笑顔』から感情が読み取れないので、元気そうには見えないのだが。

 期待外れかつ予想通りの状態に、フィアの口からため息が出る。肺呼吸をしてなくとも、ため息っぽいものは出せるのだ。

「その様子だとダメージはないようですね」

「まぁね。これでも頑丈さにはそこそこ自信があるから」

「やれやれです。頑丈な奴を相手にするのは嫌ですねぇ面倒臭そうで」

「いやん、面倒臭いだなんてぇ。寂しい事言わないで」

 ミリオンは大袈裟に身体を仰け反らせ、如何にもショックを受けたと言わんばかりの仕草を見せる。それがあまりにも胡散臭く、フィアは眉を顰めた……水で出来た身体だが、気持ちに直結した反応が出てしまうのでフィアは感情を隠すのが苦手だ。そもそも魚、しかも群れを作らない種である彼女に社会性なんて備わっておらず、感情を隠すという行為が理解出来ない。

 なので今のフィアは心底うっとおしそうな顔をミリオンに向けているのだが、ミリオンは堪えた様子もなく、飄々と口を開いた。

「さて、それは兎も角。本題に移りましょうか」

「本題? 何か話さないといけない事とかありましたか? てっきりすぐにでもルール無用の戦いになると思っていましたが」

「さかなちゃんって丁寧な口調の割に好戦的なのねぇー……そういうの、嫌いじゃないわ」

「……どうして私が魚だとご存じなのですか? あなたに自己紹介をした覚えはないのですが」

「ああ、それはね。見ていたから――――昨日から、ずっと」

「昨日から?」

「ええ。本当は昨日のうちにはなちゃんと接触しようと思っていたんだけど、あなたが出てきちゃったから。あなたがどんな能力を持っているのか、私には分からない。知らないものはちゃんと調べてからじゃないと、怖いでしょう?」

「要するに昨日からストーカーをしていた訳ですか。気持ち悪い。しかし話を聞いているとあなたの目的は花中さんのようですが私とどんな話をしたいと言うのです?」

 フィアは刃物のように鋭くした眼差しで射抜きながら、ミリオンに刺々しい言葉を投げ掛ける。別に、相手の動揺を誘おうだなんて考えていない。感情の赴くまま、アイツがムカつくから攻撃しているだけ。相手がどう思うかなど、端から気にしていない。

 だからミリオンが眉一つ動かさなくともフィアにとってはどうでも良くて、

「ちょっと、和解に向けた話し合いをご提案しようと思って」

 いきなり人に襲い掛かってくる『悪者』らしくない台詞を聞けば、素直に驚いて目を見開いてしまうのだ。

「……和解?」

「そーそー。やっぱ平和に解決するに越した事はないでしょ? それに実を言えば、私の『目的』ってさかなちゃんにもメリットあるんだから」

「私にもですか?」

「うん。私がどうにかしたい問題は、さかなちゃんも何時か必ずぶつかる問題。いいえ、それだけじゃない。私達と同じく知性を持った生命全ての悩みであり、絶望となる難問なの」

「……………」

「でも、はなちゃんを使えばその難問の解決が見えてくる……ちょっとは興味を持ってくれた? 持ってくれたなら、話を聞いてくれると嬉しいわ」

 ミリオンはニコニコと胡散臭く微笑みながら、握手を求めるように手を伸ばしてきた。

 フィアは差し出されたその手をじっと見つめながら、考える。

 自分達と同じように人間並みの知能を持った生命達が抱える難問……と言われても、フィアにはピンとこない。まず自分が問題を抱えているという自覚がないし、知能を持った生命も人間とミリオン以外には会った事がない。見当も付かない問題の解決をちらつかされても、正直なんの興味も湧かなかった。

 しかしこの話し合いを蹴れば、待っているのは戦い。

 ミリオンの力はフィアの『身体』を吹き飛ばすほどの破壊力があった。それだけでなく裂けた身体をも修復する再生力、腐敗気味とはいえ木製の壁を突き破るほどの怪力、その怪力で起こった『事故』から平然と生還する防御力……化け物としか形容出来ない、優れた戦闘力を持っている。

 フィア自身としては、己とミリオンの間に埋めようがないほどの力の差があるとは思っていない。けれども若干『劣っている』のは、不本意だが認めざるを得ない。勝ち目がないとは言えないが、厳しい戦いにはなるだろう。そしてミリオンの攻撃力から考えて、敗北は死を意味する。

 だったら一先ず和解をして、語られた話にメリットを感じたら協力、気に入らなければ隙を見て後ろからブスリ……というのも、作戦としてはありかも知れない。人間ならいくら敵相手でも躊躇するような卑劣さだが、知性はあれども考え方は魚類のそれであるフィア。人間的な良心など端から持ち合わせておらず、実行する事に不快感などなかった。

 命懸けで戦うか、それとも一先ず和解して隙を窺うか。

 二つの選択を天秤に掛け――――答えを決めたフィアは堂々とミリオンに伝えた。

「残念ですがあなたと話し合うつもりは毛頭ありません」

 完全な、拒絶の言葉を。

 つまりは明確な、交戦の意思表示。

 フィアの言葉を聞いたミリオンはニコニコとした笑みは変えず、静かに、伸ばしていた手を下ろす。

「……てっきり、自分の不利を悟って、渋々でも話し合いに乗るものと思ってたわ」

「単純に私が襲われただけならやっていたでしょう」

「交渉の席に着く振りをしてブスリ、って展開も考えていたんだけど」

「それをやっても良かったんですけどね。でも今回はやりません。理由は主に二つ」

 フィアは見せつけるように指を二本立て、早速一本折る。

「理由その一は戦う前にあなたが言った事です」

「むむむむむ? 何か言ったかしら?」

「花中さんを連れ去ったら返す予定はないと言っていました。友人が帰ってこないなんて条件飲む訳がないでしょう?」

「ああ、そういや言っちゃったかも。うっかりー」

 目線をあからさまに逸らしながらポンッと手を叩くミリオン。

 フィアはそんなミリオンに眉を顰めた顔を向けつつ、二本目の指を折る。

「そして二つ目――――こっちが本命の理由です」

「本命?」

「ええ。こっちに比べればあなたの言動云々は些末なものです」

 フィアは折った指をそのまま握りしめ、首を傾げるミリオンを睨み付ける。

 脳裏に浮かぶ、旧校舎に押し込まれる前の光景。

 自分の『身体』にしがみつく花中の姿。

 あの時花中は目に涙を浮かべ、身体を小刻みに震わせていた。身体相応の大きさしかない、とても小さな手で必死にしがみついてきた。顔は真っ青で、死人のように血の気が失せていた。

 さっきまで困ったり拗ねたり笑ったりしてくれたのに。見ているこっちが幸せになるような愛らしい仕草を見せてくれていたのに。

 ――――それをぶち壊した奴が話し合いを求めている?

 ――――あの幸せを奪っておきながら仲良くしましょうだって?

 ――――冗談じゃない!

「私って自覚出来るぐらい感情的な性格でしてね……ムカつく奴の言い分はとりあえず反発しそのツラをぶん殴らずにはいられないんですよぉッ!」

 剥き出しの感情を叫び、フィアは『跳んだ』。

 ただの跳躍ではない。足を構成している部分の水を圧縮した後瞬間的に解放、その際生じた反動を利用して跳ぶ……言わばバネを使ったジャンプ。跳ぶまでに少し時間が掛かり、動き出した後はコントロールが利かない。愚直な突撃だ。

 しかし加速はある。

 瞬きほどの時間で、暴走する自動車さえ凌駕する速度へ達する加速は!

「――」

 ミリオンが呟くように口を動かしたが、自らの速さで生じた、周りにある椅子や机を吹き飛ばすほどの暴風のせいでフィアには何も聞こえない。聞こえたところで今更止まれない。ミリオン目指して爆走するだけ。

 フィアは避けられず、ミリオンは避けず。フィアは左半身を引っ掻けるようにミリオンと接触し――――粉々に吹き飛んだ。

 『フィアの左半身』だけが。

「……んっ!?」

 触覚を通じて知る『身体』の破損に、フィアは表情を驚愕で歪める。次いでミリオンとすれ違いざまに砕けた――――否、フィアの本体が潜んでいた右半身から分離した左半身が、爆散。ただの水へと戻り、辺りに散らばった。

 フィアは、水を操る力を持つ。

 ただしそれは魔法染みた万能の力ではなく、多少なりと制限が存在する。その最たるものが『操れる水は自分の身体と接触しているか、自分が操作している水と連結した状態にある』事。離れた場所にある水を遠隔操作する事は出来ないし、大気中の水蒸気も操れない。分離した左半身はフィアのコントロール外に出てしまい、圧縮状態が一瞬で解除。さながら爆発したかのように元の体積へと戻ってしまったのだ。

 無論分離した水でも触れれば再度コントロール下に収められるが、ミリオンがそんな暇を与えてくれるとは思えない。吹き飛ばされた水の回収は難しく、左半身を丸々失ったのは大きな損失だ。

 だが、フィアが最も意識を向ける問題点はそこではない。

 今の体当たりは生半可なものではない。圧倒的な速さと膨大な質量から生まれるエネルギーは……計算していた訳ではないが……高速道を走るトラックとの正面衝突すら足元に及ばない、圧倒的な打撃力を持っていた筈だ。壁をぶち抜くほどの衝撃を受けても平然としているミリオンでも、この一撃なら多少はダメージを与えられると踏んでいた。

 なのに結果は多少どころか完全な無傷。自慢の一撃が無効化された……それが驚いた理由『その一』。

 理由その二は、自身の『身体』が砕かれた事。

 フィアは自爆覚悟で体当たりをした訳ではない。『身体』表面の水密度を高め、ミリオンにこの旧校舎へ押し込まれた時よりも幾分防御力を上げていた。だから仮にこの激突が防がれたとしても、それは硬い物同士がぶつかったのと同じ結果……互いに、或いは一方が衝撃で突き飛ばされる筈なのだ。『身体』が砕けるという結果にはつながらない。

 もっと言えば衝撃で砕けたのなら、断面が()()()()()()()()()()()()()()()()()滑らかな訳がない。ましてや湯気など昇る筈もない。

「(まさか壊されたのではなく『切断』された? ですが奴に刃物のような部位は――――)」

 原因を探ろうと思考を巡らせる――――のも束の間、ぞわりとした悪寒が身体に走る。

 悪寒の理由は分からない。しかし獣としての本能が理性を凌駕し、身体の動きを支配。フィアはその場から即座に飛び退こうと動き、

 が、遅い。

「ぬ、ぐっ!?」

 足が動いた時にはもう、『身体』の胸元を何かが貫いた。視線を胸元へと向けてみれば、ナイフのように揃えられた手が、頑強な我が身に突き立てられているではないか。

 不味い。

 直感が過るも反応が間に合わず、胸に刺さったミリオンの手が横一閃に薙ぎ払われる。トラックとの正面衝突さえも無力化する筈のボディは容易く斬られ、ついでとばかりに右腕も切り落とされてしまった。胴体は半分ほど繋がったままだったので無事だったが、右腕は完全に両断された。切り落とされた腕はバシャリと音を立てて弾け、フィアのコントロール外に散らばってしまう。

 実時間にして一秒にも満たない刹那。その刹那で左半身と右腕、割合にして六割近い水を失う結果となる。しかし、それでもフィアの関心は切断された『身体』の断面の方に向いていた。

 やはり胸部や右腕の断面も異様に滑らかなもので、且つ湯気が生じている。超高速で腕を振るわれたのなら摩擦熱とかでこうなるかも知れないが、ミリオンの動きは見える程度には()()()()だ。単純な物理的破壊力が原因ではない。

 だとすれば、『能力』。

 フィアも『水を操る』能力を持っている。自分以外の生物が能力を持つ筈がない、と考えるのは自惚れが過ぎるというものだ。そしてミリオンがフナ(自分)と異なる生物なら、能力もまた異なったものになっても不思議ではない。

「(相手の力が分からないまま挑むのは危険ですね。ここは一先ず離脱……っ!?)」

 分が悪いと感じたフィアは、半分以下になった『身体』の修復を後回しに。残った足の裏から水を噴射し、ロケットの要領でミリオンとの距離を瞬時に開けようとする……が、そこで最悪の事態に気付く。

 『身体』の重量が少な過ぎる。

 花中を求めてこの学校に来た時、フィアは凡そ三百リットルの水で『身体』を構成していた。このような戦いが起きるなど全く想定しておらず、散歩や悪戯に使う程度の、僅かな水量しか用意していなかったのだ。しかもミリオンの攻撃で『身体』の半分以上が吹き飛び、残った水はもう約百二十リットルしかない。対してミリオンを引き離す速度を出すのに必要な水量は、『直感』で判断するに凡そ百五十リットル。これでは離脱終了後生身でその場を跳ねる事になってしまう。

 どうにか水を補給しなければならない。しかしそうは言っても、吹き飛ばされた水はミリオンに阻まれて回収不能。ならば水道管を破壊して……と考えたが、此処は旧校舎。水道は既に止められているだろう。

 打つ手がない。このままでは負ける。

 そして敗北は、死を意味する。

「(不味い不味い不味い不味い不味い! どどどうすればえーっとえーっと……)」

 何とかしなければと慌てて頭を働かせるが、策なんてまどろっこしいものを考えるのは大の苦手。フィアの思考は何一つ生産的な発想に至らず、同じ言葉を繰り返すばかり。

 苦心した末フィアが至った結論は、

「こんのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 咆哮と共に切り落とされた右腕と左半身を再構築。背後に居るミリオンの方へと振り向いたフィアは、殺られる前に殺るべく全力で攻撃を始めた!

 両腕はミリオンの頭目指して振り下ろし、足元で作った十本の鋭利な水触手はミリオンに突撃させ、全身からは大量の水弾丸をミリオンに向けて撃ち出す。総重量百二十リットル中百十リットルを使った大盤振る舞いの猛攻。人間なら頭蓋骨諸共脳を砕かれ、あらゆる臓器が串刺しになり、全身がハチの巣になるだろう。

 だが。

 振り下ろした腕も、触手も、弾丸も……ミリオンに触れた途端、湯気となって消えた。戦いらしい物音すら立てずに。

「あ……」

「残念でした、と」

 一瞬で全ての攻撃を、あまりにも静かに潰されて思考停止するフィアの胸に、ミリオンは気怠そうに掌を当てた

 ――――ボウンッ!

 瞬間触れられた部分が『破裂』し、衝撃でフィアは吹き飛ばされる!

「がっ!? あぐぁ……!?」

 吹き飛ばされたフィアは教室の壁にめり込むほどの勢いで叩きつけられ、呻き声を上げてしまう。『身体』を構成している水が少なくなり過ぎて、衝撃を和らげる事が出来なかったのだ。今までどんな攻撃を受けても呻き一つ上げなかったのが災いし、これでは自分の『防御』が壊滅的状態だと打ち明けてしまったも同然である。

 弱った相手を見付けたら、フィアだったらここぞとばかりに総攻撃を仕掛ける。弱っている時に総攻撃を受けたらやられるに決まっている。そもそも今の水量では人の姿を形作るだけで精一杯、戦闘なんて論外だ。

 もう花中と一緒に逃げるしかない。

「おのれ……っ!?」

 慌てて力を込めるフィアだったが、自分の『身体』は期待に応えてくれず、壁に突き立てた腕はぐしゃりと潰れてしまった。人の姿を形作るだけで精一杯だと思っていたが、実際には形作るのも無茶だったらしい。

 惨めにもがきながら、自重すら支えられない『身体』でどうやって逃げるか模索する……そんなフィアには戦う事も逃げる事も出来ないと判断したのか、ミリオンはゆったりとした歩みで近付いてくる。それでも猶予は殆どない。なんとか出来ないかとフィアは必死に考えを巡らせ――――

 フィアがめり込んだ壁から脱出するよりも、ミリオンが腕一本分ほどの距離まで近付く方が早かった。

 ミリオンはフィアのすぐ傍で立ち止まる。フィアは立ち上がる事も儘ならないのでミリオンに見下ろされてしまう。

 それがなんとも不快。そして不可解。

「……止めを刺さないのですか?」

「刺すけど、慌てなくても良いかなーっと思って。あなたのその身体、水で出来ているのよね? で、もう水のストックは無い、と」

「ええその通りすっからかんですよ。あなたの不愉快な顔に水を掛けてやる事も儘なりません。それになんか妙に息苦しいですし……」

「水の密度が低くなって、溶け込める酸素の量が少なくなったからじゃない? 無理に人の姿を維持しなくても別に良いんじゃないかなぁー」

「これでも容姿にはこだわる方でしてね。魚の姿よりも人間(こっち)の方が気に入っているのです」

「ふーん。ま、お好きにどーぞ」

 貶すように言葉を投げ掛け、ミリオンはフィアの目の前でしゃがむ。見下ろされなくなったが、子供やペットのように扱われている気がしてフィアはますます不愉快な気分になる。尤も、なったからといってどうにも出来ない。

 苦々しく顔を歪ませるフィアを前にしてもミリオンは無感情な笑みを寸分も歪ませず、弾んでいるだけの声で話を続ける。

「だけど、ちょっと意外だったわね。さかなちゃんはもう少し知的な、搦め手とかが好きなタイプだと思ってた。ほら、漫画とかだと、水の能力を使うキャラってそういうの多くない?」

「漫画を読んだ事がないのでよく分かりませんが……私は正々堂々正面から挑むのが好きなんです。それに頭を使うのは苦手なんですよ。色々作戦を立ててみても先程のように全く思惑通りにいかない」

「作戦? 作戦って、なんかあったかしら?」

「なんかも何も身体の密度を高めた状態での体当たりやそれに失敗した後短期決戦に持ち込んだとかですよ」

「……そーいうのは一般的に、作戦じゃなくて突撃って呼ぶと思うわよ。もしくはヤケクソとか、考えなし」

 ミリオンは本気で呆れているように見える表情を浮かべた。初めて感情のある顔を見た気がしたが、興味よりも不快さが勝ったフィアは口をへの字に曲げる。

 よもやそれを気遣って、ではないだろうが、ミリオンの顔はすぐに元の無感情な笑顔に戻った。

「さてと、そろそろお喋りはお終いね」

 もう訊きたい事はなくなったらしい。ミリオンは話を打ち切り、ゆっくりと手をフィアの方へと伸ばしてきた。

 能力こそ強大ではあるが、フィア本体の身体能力は一般的な魚と同程度しか持ち合わせていない。超高密度の水を容易く切り裂き、爆発さえも起こす手なんかに触れられたら即死。万が一にも助かるなんて、どう楽観的に考えてもあり得ない。

 自身に終わりを告げる手を眺めながらフィアは目を閉じ、

「そうですね。あなたにはそろそろ消えてもらいましょう」

 ぽつりと、小さく開けた口からその言葉を漏らした。

 追い詰められている側としてはあまりにも不遜で場違いな言葉は、ミリオンの動きを一瞬止めるだけの『力』を持つ。

 その隙をフィアは見逃さない。

 動きを止めたミリオンの足元から―――― 一本の、天井に届くほど巨大な水柱を噴き上げさせた!

「なっ――――?!」

 噴き上がった水柱はミリオンの顎を殴り、その身体を僅かながら宙に浮かせる。声からしてダメージにはなっていないようだが、今の一撃は所詮オマケ。

 フィアの目的は水柱でミリオンを囲う事。

 ミリオンが床に落ちたのと同時に、四本の水柱がミリオンを囲うように四方から噴き上がった!

「な、にが……!?」

 不意の一撃、そして突然の包囲網に驚いたのか、ミリオンは作り物のような表情を崩した。目を見開き、殴られた顎を摩りながら辺りを見回す。

 フィアとしてはその間抜けな姿を何時までも眺めていたかったが、包囲網から逃げられてしまっては元も子もない。すぐに四本の水柱を操作。螺旋を描かせながら水柱を束ねる事で、一ミリの隙間も許さずに埋めていき……完全密封の水の檻にミリオンを閉じ込めた。

「一体これだけの水を何処から……さかなちゃんにはもう水のストックがなかった筈なのに!」

「手品は種が分からない方が楽しめますよ?」

 檻を形成する水が『内側』から困惑した様子の声を拾ったので、フィアは丁寧に、それでいて意地悪く説明を拒否する。

 しかしながら拒否した理由は意地悪でなく、己がプライドのためなのだが。

「(壁に叩きつけられていなかったら普通にやられてましたね……それを言ってしまうとなんだか機転というより運で勝ったような感じがするので絶対に教えませんけど)」

 頭の中で本当の理由を呟きつつフィアは水を、『自分が叩きつけられた壁』から吸い上げた。

 これが偶然見つけた給水場。

 旧校舎は完全な木造建築物であり、老朽化が進んだ結果ニスなどの塗装は殆ど剥げてしまっている。そのせいか床板は雨水などの水気を大量に吸い、恐ろしく湿気っていた。その度合いたるや森林内の倒木並――――強く絞れば、水が滲み出るほどに。

 教室の壁に叩きつけられたフィアはその事を思い出し、『身体』に残っていた僅かな水を壁に浸透させた。浸透した水は材木に含まれている水気を吸収。吸収した水を用いて更に遠くまで浸透し、そこで新たな水を吸収……フィアは『自身が操作する水と連結している水』しか操れない反面、連結していれば何処までも、どれだけ大量でも操れる。

 伸ばした水は最終的に校舎を隅々まで浸食し、校舎全体が蓄えていた莫大な『湿気』を全て吸い上げたのだ。現在『身体』の水量は凡そ六トン。水を浸透させて補強しなければ、確実に足元の床をぶち抜いてしまうまでに回復出来た。

「さぁてどうしましょうかね」

 万全以上の状態に至ったフィアは悠々と壁から這い出し、ミリオンを閉じ込めた水の檻の前に立つ。

 檻の中は完全な密閉状態にある。フィアの『身体』を切断したミリオンの能力なら檻の破壊も可能だろうが、ミリオンの能力は使用後に何故か湯気が発生していた。逃げ道がない檻の中でその能力を使えば、あっという間に圧力鍋状態……高温高圧の水蒸気で蒸し焼きだ。檻の破壊は自殺行為も同然である。

 しかし他に脱出方法がない以上、ミリオンは檻の破壊を試みるだろう。フィアだって同じ状況なら己が傷付くのを覚悟で強硬手段に出ざるを得ない。折角捕まえたのに、ここで逃げられたら厄介だ。

 そうなる前に片付ける。

「ほいっと」

 フィアは軽く指を振るう。振っても意味はない。ただ、気分が乗る。

 気分が乗ったフィアに操られ、水の檻はミリオンを内に閉じ込めたまま一瞬で()()()()()()()よりも小さく縮んだ。

 ――――ごき、ぐじゅ、ぐじゅっ、ぼきん、ぐじゅ、ご、ぐき、ぷちゅ

 縮む檻の中から聞こえる生々しく、悲劇的な音。それでもフィアは操るのを止めない。さながら指揮者のように指を振るい、更に小さく、雑巾を絞るように水の檻を捻じ曲げていく。

 フィアが操作を止めたのは、いくら縮めても、いくら捻じ曲げても、檻の中から音が聞えなくなってから。

「このぐらいで良いですかねぇ」

 のほほんと独りごちながらフィアは能力を解除。水の檻は重力に従い、大きな水音を立てて崩れ落ちる。

 崩壊した檻の中にミリオンの姿はなく、代わりに、床に広がる水の一部が黒く染まっていた。

「うんうん計算通りです。徹底的に潰したお陰でドロドロを通り越して液化してくれたようですね。はっはっはっ」

 満足いく結果にフィアは高笑い。

 高い防御力や変形自在な性質を鑑みるに、ミリオンの『身体』もフィア同様本体を守るための鎧に過ぎなかったのだろう。故にいくら『身体』を殴っても本体は始末出来そうにないが……こうして『身体』諸共すり潰してしまえば別。仮にそうではない、ミリオンが人間の姿をした超生物だったとしても、身体が液状化するまで潰されては生きていまい。

 ミリオンは確実に死んだ。確実に、殺せたのだ。

 ……結局ミリオンの正体も能力も目的も分からず仕舞いだったが、終わった事を蒸し返すのは面倒臭い。そもそも興味すらない。済んだ事は気にしないのがフィアのモットーで、今更ミリオンの事を調べる気にはならなかった。

 それよりも大事なのは花中だ。優しい花中の事。今頃自分の事を心配してくれているに違いない。それにミリオンにまた襲われるのではと不安に思っているだろう。あの愛らしい人が怯えていると思うと心が痛む。

 ――――そこで自分が颯爽と参上。ミリオンを倒したと報告。

 ――――花中は大喜び。好感度大幅上昇。

 ――――「フィアちゃんありがとう! 大好きっ!」と言いながら抱き着いてくる花中。

「くふふ♪」

 そんな妄想をしたフィアは、品のない笑みを浮かべた。

 思い立ったら行動せずにいられない。フィアは軽やかに身を翻し、浮足立った歩みで荒れ果てた教室を後にする。もうフィアの頭の中は花中尽くし。ミリオンとの激戦でボロボロになった旧校舎の事も、命を賭けて戦ったミリオンの事も、頭の片隅にすら上らない。

 故に気付かなかった。

 床一面に広がっていた黒い色が、ゆっくりと集まり始めていた事に――――

 

 

 

 フィアがミリオンの体当たりを受け、旧校舎の中に押し込まれてから、一体どれだけの時間が経っただろうか。

 旧校舎の壁には、二人の『体当たり』によって開けられた大穴がある。それについ先程まで校舎の中からは大きな、それでいて異質な音が何度も鳴り響いていた。旧校舎自体もギシギシメキメキと不協和音を奏で、今にも潰れてしまいそうだった。

 明らかに危険なそんな場所に、いくら大切な友人が連れ込まれたからといって、突入なんて真似が出来るだろうか?

 出来なかった花中は、大穴の前で座り込んでいた。

 旧校舎から聞こえていた音は、恐らくフィアとミリオンの争いによって生じたもの。音の激しさや振動、フィアの腕が吹き飛ばされている事実を考えれば、二人の争いは一般的な『ケンカ』とは次元の異なる代物と化しているだろう。憶測だが、戦場のように激しい戦いが繰り広げられていてもおかしくない。

 一般人である花中に『戦争』を止める力などない。ましてや巻き添えを食らえば、怪我では済むまい。

 フィアの後を追い駆けないという選択は極めて常識的であり、尚且つ正しい。

 正しい選択をしたのに、花中は穴の前で顔を俯かせる。

「……わたし……何で……入れなかったのかな……」

 答えてくれる者は自分しかいない問いを、花中は声にして漏らした。

 花中がミリオンに襲われそうになった時、フィアは躊躇いなく助けてれた。ミリオンが只者でない事は分かっていたのに、庇えば自分の身に危険が迫るかも知れないのに、迷いなく救ってくれた。フィアにとって友達とは、それだけ大切な相手なのだろう。

 対して花中は今、迷っている。

 言い訳ばかりで何もせず、午後の授業をサボって穴の前で座り込んでいるだけ。

「う、うう、うぐ、ううう……!」

 その癖泣き出そうものならあまりにも情けなくて、あまりにも自分勝手で、きっとフィアに顔向け出来なくなる。だから花中は必死に涙を堪えようとするが、それでも止め処なく涙は込み上がり

「どうしました? お腹でも痛いのですか?」

 不意に、『上』から能天気な声を掛けられた。

 反射的に顔を上げた花中の視界に入ったのは、旧校舎に開いた大穴を跨ぐ大切な友達の姿。傷一つない、吹き飛ばされた筈の右手も治っている金髪碧眼の少女。

 今まで堪えていた涙は、ついに零れ落ちた。

「フィアちゃん……!」

「おっと本当にどうしたのです? 何故そんなボロボロと泣いて……はっ!? まさか先の戦いの余波で怪我をしたのですか!? あわわわわまずは消毒でしょうかいえそれよりも救急車そう救急車です何処かに公衆電話はええい通行人から携帯電話を奪い取ってでも」

「ち、違うの! あの、その……」

 自分の泣き顔一つで逞しく妄想を働かせるフィアを、花中は頑張って引き留める。フィアは困惑したまま「では一体?」と訊き返し……訊き返されるような気はしていたのに、花中は声が出せなくなった。

 何故泣いたのか、花中は答えられない。答えたら、自分が如何に情けなくて、卑怯なのかがフィアに知られてしまう。

 それが堪らなく、怖い。

「……フィアちゃんが、戻ってきて、くれたから……」

 だから花中は、『嘘』を吐いてしまった。

 するとフィアは目を見開き、太陽のように眩しい笑顔を浮かべた。

「なんとっ! 再会出来ただけで泣くほど喜んでくれるなんて! ああ花中さんにそこまで想われていたとは私はなんて幸せ者なんでしょう!」

「え、えと……」

「喜んでいただける事は多少想定していましたがまさかここまでとは。私も嬉しいです。この気持ちを言葉で表現するのは難しいのでそうですね歌で表現するのはどうでしょう」

「えと、あの、え? 歌?」

「さぁ歌います私の魂のソング! タイトルは『嗚呼愛しの花中さん ~あなたが泣くほど喜んでくれたから今日は友情記念日~』にしましょう。では参ります!」

 小躍りするほど気分を昂ぶらせ、フィアは右手からマイクを生やし ― 水を変形させて作った物だろうが ― 今にも歌おうとする。

 『嘘』で大喜びされただけでも罪悪感に押し潰されてそうなのに、タイトルからして赤面確実な歌を聴かされたら頭が沸騰して死ぬかも知れない。いや、間違いなく死ぬ。悶え死ぬ。

「そ、そ、そ、そ、そういえば、あの、ミリオンさん、は?」

 己が命を守るべく花中は話題を自分から、つい先程までフィアが争っていたであろう相手……ミリオンへ逸らそうとした。するとフィアは下がっていた目尻と眉を吊り上り、頬をフグのように膨らませて不満をアピールしてくる。余程歌いたかったのか、ミリオンの事など思い出したくもないのか……理由はともあれ、怒らせてしまったかと思い花中はびくりと肩を震わせた。

 しかし、やっぱり良いです、とは言わない。

 自分から切り出した手前言えないというのもあるが、ミリオンは旧校舎の中でフィアと激戦を繰り広げていた筈なのだ。フィアは見たところ無事だが、ミリオンも無事とは限らない。いや、むしろミリオンが無事でないからこそフィアが無事だと考える方が自然。

 ――――もしも怪我をしているのなら、動物病院とかに運ばないと……

 花中はミリオンの事も心配なのだ。歌から逸らすためとは言え、適当に振った話題という訳でもないのである。

 そして、膨らんだ頬から息を吐き出した後語られたフィアの言葉は、花中の心配を払拭するものだった。

「アイツなら始末しましたよ」

 ただし、そんな心配は無駄だ、という意味で。

「しま……え?」

「始末しました。徹底的にすり潰して」

 何かの冗談なのでは。

 何とかフィアの言葉を拒絶しようとする花中だが、フィアが笑顔で花中の拒絶を捻じ伏せてしまう。理解する前に言葉を頭の奥へと押し込まれ、花中の思考は一瞬でパンク寸前に。

 声が出ない。何も考えられず、どういう事なのかが分からない。

 頭のに浮かぶのは、『始末』という単語に対するネガティブなイメージばかりだった。

「な、なんでそんな、酷い、事を……?」

 気が付けば花中は、『恩人』であるフィアを問い詰めていた。問い詰められたフィアは目をパチクリさせながら首を傾げる。まるで子供のように、無邪気に。

「なんでって花中さんを攫おうとしていたからですよ。生かしておく理由がありません。まぁ花中さんは小動物的愛らしさがありますので悪戯程度なら仕方ないと思いますけど誘拐は流石にねぇ?」

「それ、は、あの、でも……で、でも、お話、出来れ、ば……」

「話し合う必要なんてありません。邪魔者は問答無用で潰してしまえば良いのです。人間だって害虫を見付けたら話し合いなんてせずにとりあえず潰すでしょう? 同じですよ同じ」

 ケラケラと笑いながら答えるフィアに、罪悪感も後悔も見えない。故に、花中は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 ミリオンは確かに人間ではない。フィアだって人間じゃない。ミリオンが癪に障る奴だったのも否定しないし、自分を攫おうとしたのだから悪者なのも間違いないと思う。人間的な倫理観を魚であるフィアも共有していると考えるのは、自分(人間)の考え方が最も正しいと信じて疑わない、傲慢とも言える。

 それでも花中には、言葉を交わした相手を易々と殺してしまう心理が理解出来ないし、間違っている事だと思う。いや、間違っていると伝えなければならない。例えそれが善意を踏み躙る行為だとしても、偽善だと言われても……命を粗末にしてはいけないと信じているから。ちゃんと伝えれば、きっと、少しは分かってもらえると思うから。

 友達だから、ちゃんと言わなければ。

「そ、そんなの、ダメですっ!」

 だから花中は勇気を振り絞り、伝えた。

「あの、助けてくれた、のは、ありがとう、ございます……で、でも! こんな方法で助けて、くれても、う、嬉しく、ないですっ! た、確かに、どうしようもない、時はあると、思い、ます、けど……最初から、諦めちゃ、ダメだと、思うんです。だって、命って、一つしか、ない、から……か、簡単に、奪っちゃ、いけない、と……思う……から……」

 声は尻すぼみに、視線は思いっきり泳がせてしまうものの、どうにか思った事を吐き出す。しかし自分の言いたい事が伝わったかは分からない。

 花中は恐る恐るフィアの顔を覗く。

 そして見てしまった。

 フィアの口は半開きになっていた。眉を顰めていた。瞳孔が、口元が、微かに震えていた。

 その表情は――――花中の目には、非難に見えた。

「あ、ち、が……あ、ああ、ああああああああ……っ!?」

 勝手に出てくる、悲鳴。

 フィアが怒っている。当然だ。口では友達だと言いながら大変な時に助けに行かず、それどころか恩義を踏み躙るような事を言ってしまったのだ。最早ワガママでは済まされない。愚行と呼ぶのもおこがましい、悪行だ。

 嗚呼、今になって思い出す。

 晴海が言っていた。善意を拒絶して、それで一番の親友を失ったと。友情がそれぐらいで壊れてしまうものだと。そもそも自分は話をするのが苦手で、ちゃんと話せば分かってくれるなど自惚れにもほどがある。昨日今日と上手くいったのは、偶々だったと何故気付けなかったのか。

 この結末は簡単に予想出来たのに。

 嫌われて当然だと知っていたのに。

 自分が馬鹿で身勝手で図に乗っていたから――――初めての友達に、嫌われてしまった。

「い、いやあああああああああああああああああああっ!」

 花中は、フィアから逃げ出した!

「花中さんっ!?」

 後ろから自分を呼ぶフィアの声が聞こえてくる。だから花中は足を止めない。止める訳にはいかない。止めたらきっと、次の瞬間には絶交されてしまう。

 逃げても逃げなくとも結果は変わらない。けれども花中は逃げる事を選んだ。少しでも、一瞬でも長く、友達が失われる痛みから逃げようとした。周りに植えられている桜の大木の影に身を隠したり、建物と建物の間に入り込んだり……素直で真っ直ぐなフィアだからだろうか、自分が捻くれて卑屈で卑怯だからだろうか。花中の思う通りにフィアは誘導され、翻弄されてくれる。

 しかしいくら翻弄しても花中には体力がない。走れば走るほど身体が重くなり、太ももが痛くなり、頭の中が白くなっていく。白くなった頭では足を動かすだけで一杯一杯、足元なんか意識に上らない。

「きゃっ!?」

 やがて雑草に隠れて見えなかった何かに蹴躓き、花中は思いっきり転んでしまった。翻弄したと言っても旧校舎の周りを駆け回っただけで、フィアを引き離した訳ではない。立ち上がらねばすぐ追いつかれる。

 なのに身体は痛みで中々言う事を聞いてくれず。立ち上がろうとしていた腕からは力が抜け、顔は力なく項垂れてしまい、

「あらあら大丈夫? ほら、この手に捕まって」

 正面から掛けられた声で、一瞬酷く怯えた。

 最初はフィアに追いつかれたと思った花中だったが、よくよく考えてみると、掛けられた声色はフィアのものとは全然違っていた。それに前から声を掛けられている。自分を追い駆けていたフィアが声を掛けたのなら、後ろからの筈だ。

 花中は少しだけ顔を上げてみる、と、手が差し出されていた。なんとなくフィアの手とは、雰囲気が違う。手首まで覆う袖を見る限り、フィアが着ていた派手で煌びやかなドレスではなく、黒い服を着ているらしい。

 どうやら転んだ花中を見付け、気遣ってくれた人のようだ。服装から判断するに生徒ではなく教員、もしくは用務員さんか。

「あ、ありがとう、ございます……」

 ホッとした花中は手を掴み、立ち上がるのを手伝ってもらう。手伝ってくれた人は花中より ― 花中はかなり小柄なので大抵の人はそうなのだが ― 背が高く、見上げないと顔が分からない。ただ、地面に引き摺るほど髪が長く、着ている服……黒いワンピースの胸部分は膨らんでいて、声も女性的だったので女なのは間違いない。

 男の人が苦手な花中にとって女性というだけでも朗報。ちゃんと目を見てお礼を伝えようと、助けてくれた人の顔を見上げた。

「……え?」

 見上げた瞬間、花中の思考が止まる。

 確かに女の人だった。それどころか見覚えのある女の人。言葉を交わした時間は高々数分だが、しっかりと覚えている。

 あどけなくて、にっこりと微笑んでいて、なのに感情が感じられない――――友達だった少女を危険な目に遭わせたであろう女の顔など、忘れられる訳がない。

「み、ミリオン、さん……!?」

「あら、覚えていてくれたの? うっれしー♪」

 女――――ミリオンが、花中の前に立っていた。死にかけている様子もなく、へらへらと笑いながら。

 生きていた事は嬉しい。それは本心だが、全く腑に落ちない。

 フィアはミリオンを「すり潰して始末した」と言っていた。すり潰されたのなら、ミリオンがこうして目の前に現れる事はあり得ない。仮にフィアの発言がジョークだったとしても、フィアとミリオンが戦っていた事実は変わらない。途中で和解したのなら二人揃って旧校舎から出てきただろうから、フィアはミリオンに勝った……相応の怪我を負わせた筈だ。不利を悟って逃げていたとしても、争いが終わって五分も経たないうちにまた顔を出すとは考え辛い。

 分からない。あらゆる可能性を考えても、元気なミリオンがこの瞬間、此処に現れる理由が説明出来ない。

「ひ、ひぅ……!?」

 困惑は恐怖へと変貌し、花中は思わず一歩後退り。

 ミリオンが、合わせて一歩前に進んでくる。

 逃げられない。

 ミリオンに対する恐怖が今の一瞬で増大する。足はガクガクと震え出し、急に動いてくれなくなる。泣き喚こうにも息が乱れ、過呼吸になっただけ。

 ――――もう、駄目……

「花中さんっ!」

 絶望で薄れていく花中の意識を現実に引き留めたのは、悲鳴交じりに自分を呼ぶ声。

 びくりと肩を震わせつつ花中が振り向けば、十メートルほど先に、今し方追いついたのであろうフィアの姿があった。

「ふぃ、フィア、ちゃん……」

「花中さん早くこっちに!」

「あ、え、えと……」

 フィアに呼ばれ、戸惑ってしまった花中は何となくミリオンの顔色を窺う。するとミリオンは「いってらっしゃい」と言わんばかりに片手をフィアの方に向けた。

 お言葉に甘えて、と言うのも妙だが、花中は最初おどおど、やがて早歩きでフィアの下へと向かう。

 特に何事もなく花中が傍まで行くと、フィアは花中の肩を両手で力強く掴んだ。

「大丈夫ですか!? アイツに何かされませんでしたか!?」

「は、はい。あの、まだ、何も……」

「本当ですか!? 私に気を遣って痛いのを我慢とかしていませんよね!?」

 目に涙らしきものを浮かべながら、フィアが問い詰めてくる。正直に言えば『肩』が痛いのを我慢しているのだが、花中はこくこくと何度も頷いておく。それを見て安心したのか、フィアの表情は一気に弛んだ。

 ただし弛んだ表情を見せるのは花中にだけ。ミリオンに視線を向けた瞬間フィアの顔が悪鬼の如く形相になったのを、間近に居た花中は目の当たりにする。

「花中さん。一先ずアイツをぶっ飛ばしたいと思います。その後話したい事がありますので少し待っていてください」

「は、話……」

「なぁに一度はぶっ潰した相手です。すぐに終わらせてみせますよ」

 自信満々に断言するフィアだが、花中は眩暈にも似た気持ち悪さを覚える。

 話なんて『一つ』しかないのだ。

「では行ってきます」

「あ……ぅ……」

 一通り話を終えたフィアは悠然と歩み出し、花中は怯えた眼差しでフィアを送り出す。フィアの歩みに迷いはなく、ミリオンとの距離をあっという間に詰めていき

「ふんっ!」

 腕が届く距離に収めた瞬間、掛け声と――――その掛け声が消えてしまうぐらい大きな爆音を鳴らした!

「い、づっ!?」

 音は空気の波となって十メートルも離れていた花中に届き、鈍器で殴られたような痛みが全身を駆け巡る。旧校舎の周りに植えられている桜が一斉に葉と幹を鳴らし、旧校舎から軋むような低音が奏でられ、鳥は悲鳴染みた鳴き声を上げて逃げていった。

 そしてフィアの拳が、何時の間にかミリオンの頬の部分に当てられている。

 動きこそ花中には見えなかったが、フィアがミリオンの顔面に殴り掛かったのだ。遠く離れた桜や校舎にまで衝撃波が届くほどの威力……フィアの拳に、近代兵器クラスの破壊力が宿っているのは明らかだ。食らわせた相手が人間なら、ケネディ大統領暗殺事件よりも凄惨な ― 或いは何も残らず、一見して穏やかな ― 光景が広がるに違いない。

 いくら敵対している相手とはいえ、そんな攻撃を初手でお見舞いするなんて正気の沙汰じゃない。

 それはフィアが命を奪う事に抵抗を感じていない光景であり、自分とフィアの考え方に決定的な溝がある瞬間であり……花中が偽善だと罵られる覚悟で伝えた言葉が、伝わっていない証明だった。

「乙女の顔面にいきなりパンチとはやってくれるわねぇ……打撃はちょっと苦手なの。お返し、期待しててね?」

 攻撃を食らったミリオンはピンピンしていたが、花中の心は全く晴れない。むしろ元気なミリオンを見たフィアが殴り掛かった拳をドリルのように変形させ、ミリオンの顔面を抉ろうとしたので心の暗雲はますます濃くなる。ミリオンが反撃とばかりにフィアの肩に触れ、肩ごとフィアの腕を吹き飛ばした時など、雲の上に辛うじて残っていた陽まで沈んでしまう想いだった。

 二人とも、普通に命を奪い合っている。

 二人ともそうするのが、敵を殺すのが正しいと思っている。この場で話し合いをしようと考えているのは自分だけ。話し合えば仲良く出来ると思っているのは、きっと自分だけ。

 だったら、間違っているのは自分。

 間違っている事を主張して友達を怒らせたのは、自分。

「……」

 花中はゆっくりと後退り。足取りは弱々しくも震えてはいない。元々遠かったフィア達との距離はますます開き――――どん、と、背中に何かがぶつかった。

 木にでもぶつかってしまったのだろう……そう思うものの花中は反射的に後ろへと振り返り、

「え?」

 今まで胸を渦巻いていた暗い気持ちが、全て消し飛んだ。

 だって、それは今までで一番あり得ない光景だったから。

 だって、それはついさっき体験した事だったから。

 だって、それは今まで目の前に居たから。

 今もフィアとミリオンが命懸けの戦いをしているのに、頭から抜け落ちてしまうほどのショックが花中の思考回路に走る。身体に襲い掛かる衝撃など意識にも上らない。頭の中を満たすのは言葉でも感情でもなく、疑問の解消という知的な欲求だけ。

 一体何故自分の背後に『ミリオン』が居るのか、その答えばかりを求めていた。

「え? え、だって……え?」

 自分の誘拐を企てている者が間近に居るのに、花中は自分でも気付かないうちに半笑いになりながら、さっきまで見ていた場所へと視線を戻す。そこにはフィアとミリオンが居て、今も腕や頭が飛び交う争いを繰り広げている。激闘の余波も現在進行形で花中の身体に伝わっている。二人は確かに、どう理論を組み立てても否定出来ないほどに、あそこに存在している。

 なのに後ろを振り向けばミリオンが居る。

 これは夢? もしくは幻覚?

 いいえどちらも違います――――そう言いたげに、背後に居るミリオンは花中の肩を叩く。ポンポンと、優しくて確かな衝撃が肩から伝わる。確かに、そこに『人』が立っている。

 だったらそっくりさん?

 それも違う。目の前で『人』の四肢が吹き飛ぶ激戦が繰り広げられているのに、無感情な笑みを浮かべていられるただの人間(そっくりさん)なんている訳がない。

 分からない。花中には何も分からない。

 強いて分かる点を上げるなら、背後に居るミリオンの手が何故自分の腕を掴むのかだけだった。

「ひ、ぃ、いやあああああああああああああああああっ!?」

 叫ぶ。攫われると悟り、あらんばかりの声で花中は叫ぶ。

「花中さんっ!?」

 その叫びは戦いを続けていたフィアにも届いたようで、自分を見ながら言っているであろう悲痛な声を花中は聞く。

 ――――助けて。

 図々しくも、自分が傷付けてしまった相手に花中は助けを求めようとしてしまう。言葉は飲み込めても顔はフィアに向けてしまい、青ざめた面を見せてしまう。こんなのは、助けを求めているのと変わらない。

 しかし花中に自分の行動を悔やむ暇はなく、その目を驚愕で見開いた。

 自分の方へと駆け出しているフィア。

 そのフィアの背後に、ミリオンが二人居た。

「うし、後ろ……っ!?」

 危機を知らせたかったが花中のか細い声は届かず、フィアは花中だけを見つめて駆け続け――――その両腕を、背後からやってきた二人のミリオンに掴まれてしまった。掴まれたフィアは反射的な動きで振り返り、花中と同じ顔になる。

「なっ!? ミリオン!? 何が……!」

「「残念だけど教えませーん。だってさかなちゃんも、私をごりごり押し潰した水の出所を教えてくれなかったじゃない。おあいこよ、お・あ・い・こ」」

 フィアを掴む二人のミリオンが同時に口を開く。声色、大きさ、音程、タイミング……聞こえてくる声は何もかも一緒で、音源の違いによる僅かな『ずれ』がなければ、一人だけが喋っているようにしか聞こえなかっただろう。逆に、ずれているからこそ二人で喋っているのだと分かる。

 つまりあのミリオンはどちらも幻覚ではない、確固たる存在。それも瓜二つの偽者ではなく、どちらも本物。ミリオンが二人居るとしか思えない。いや、今自分の腕を掴む者を含めれば三人だ。

 一体何をどうすればこんな事が可能なのか。

「「で、これがぶっ潰してくれたお返しねっ!」」

 花中がそれを考える間もなく、フィアを捕まえていた二人のミリオンは突如フィアに抱き着いた。唐突な行動に反応出来なかったのか、一瞬ではあるがフィアは身動ぎ一つしない。

 その一瞬で全て終わり。

「ぬぐぅ!? これはがっぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」

 突然の絶叫。

 地鳴りのように響く、重低音の叫び。か弱い少女が恐怖で上げる悲鳴ではなく、ニンゲンが苦痛にもがき苦しむ声。何かされているのは仮初めの身体なのに、ただの水なのに、フィアが苦痛を訴えている。

 やがてフィアの身体や服にコブのような膨らみがいくつも出来、

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああがっ」

 フィアの声が途絶えた刹那、熱を帯びた白い煙と衝撃が辺りに吹き荒れた。

「ふわっ!?」

 突如襲い掛かる白い煙……湯気の熱さに耐えかね、花中は反射的に目を閉じてしまう。湯気は猛風の如く花中の身体を押し、空からは雨粒のような何かが降り注いで全身をくまなく叩く。心はパニック寸前。湯気の熱さを感じられなくなってすぐ、全てを理解しようとする衝動のまま目を開けた。

 続いて口も、ガチガチと震わせながら少しだけ開ける。

 フィアが居なくなっている。

 絶叫が途絶えた瞬間コブだらけになった身体を()()させ、蒸気と水滴を周囲にばら撒いたフィアだけが、その場から消えていた。

「フィアちゃんっ!? 何処、何処に……!?」

「あーっと、ダメよ逃げちゃ……逃げようとした訳じゃないだろうけど」

 自分が捕まっている事も忘れて現場に駆け寄ろうとする花中だったが、ミリオンが腕を掴んだままなのでその場から動けない。無我夢中で腕を振り回そうとしても、ミリオンの手はぴくりとも動かない。

 それどころか、花中の身体はずるずると引き摺られてしまう。

「さて、それじゃあ場所を移動しましょうか。アレって時間が掛かるだけじゃなくて、無防備になるわ邪魔が入ると確実に失敗するわで大変なのよ。だから一般人も野生動物もやってこない、安心安全な場所に行きましょうねー♪」

「やだっ!? やだやだやだ、フィアちゃんを、助け、助け……!」

 どれだけ拒んでも、花中を引っ張るミリオンの力は弱まらない。それどころか突如ねっとりとしたものが纏わりつく感覚に襲われ、身体の自由が利かなくなる。視界も段々と黒い物に覆われ、何も見えなくなっていく。

「やだ、フィアちゃん……フィアちゃ、ん、ぐぅ!?」

 最後は口に詰め物をされたみたいに声が出なくなり。

 完全に視界が失われるまで、花中はフィアが居た場所を見続ける事しか出来なかった。




ようやくきました初バトル。
本作は大体毎度こんな感じに、正々堂々とは無縁な争いが繰り広げられます。
野生動物同士の争いだから野蛮なのはシカタナイノデス

次回は7/9(土)投降予定です


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ファースト・フレンズ6

 ミリオンに捕まってから、一体どれだけの時間が経ったのだろうか。

 最初は暴れ続け、やがて疲れて動けなくなり、ぐったりしていたら疲れは完全に取れてしまった……それぐらいの時が流れた頃、花中は身体が自由を取り戻したのを感じた。

 取り戻したと言っても、相変わらず視界は黒いまま。ただ、自分の足は地面を踏み締め、身体は真っ直ぐ立たされている感覚がある。手足を動かすのに支障はない。

 此処がどんな場所なのか、視覚以外の感覚で探ってみる。それで分かったのは足元がゴツゴツとした岩場になっている事、その岩場が靴越しでも分かるぐらい湿っている事、周りの空気がねっとりとした湿気と熱を帯びている事、土や石の臭いが非常に濃い事。

「はい、とーちゃーく」

 そして耳に届いた、明るく振る舞っているように聞こえる声から『奴』が近くに居る事。

 刹那、黒かった視界が白くなる。

「うっ……!?」

 花中は思わず目を守るように両手を翳す。そんな無意識の反応で、視界を覆う白さが色ではなく眩い輝きだと気付いた。

 目が慣れるまでじっと耐えてから、花中は恐る恐る目を開ける。

 花中が見たのは、青味掛かった岩の塊。右を見ても左を見ても、下を見ても上を見ても岩しかない。見える範囲は全て岩だ。

 どうやら此処は、何処かの洞窟らしい。二~三メートル先の景色は前後共に闇に飲まれて全く見えず、自分の立ち位置が洞窟のどの辺りなのか、この洞窟が何処まで続いているのかは見当も付かない。だが先の見えない闇は、奈落の底まで続いていそうな『深さ』を感じさせる。

 と、光が一切届かない洞窟内でここまでハッキリと景色が見えている理由は、

「どうかしら? 明る過ぎない?」

 花中の正面で楽しそうに振る舞うミリオンの手が、まるでランタンのように輝いていたからだ。

 ぼうっと照らし出されるミリオンの顔はにやにやと笑っている風で、その顔を見た花中は――――静かに、項垂れた。

「……………」

「うーん。返事ぐらいはしてほしいわねぇ。確かに()()()()があった後だから仕方ないかもだけど」

 ミリオンが何気なく漏らした、あんな事、の一言で花中は身体をビクッと震わせる。

 わざわざ細かく言ってもらわなくとも分かる。あんな事とは、フィアが……『死んだ』時の事だ。

 花中を守ろうとして、フィアは死んだ。死体は見ていないし、破裂したのは水で出来た偽りの身体だから、生還している可能性はある。だが、遠く離れた花中にまで伝わるほどの衝撃を伴う破裂を、無傷で切り抜ける事は不可能だろう。少なくとも動き回れる状態にあるとは思えない。

 それに花中は、フィアを裏切ってしまった。

 ミリオンに捕まった時、大人しく捕まるからフィアには手を出さないでと言えば良かった。そうすれば、もしかしたらフィアは何事もなく解放されたかも知れない。

 だけど怖くて出来なかった。フィアが助けてくれると、甘えてしまった。

 フィアに危ない事を押し付けたのはこれで二度目。一回目で既に嫌われたのに、二度もやったら顔も合わせたくないぐらい嫌われているに決まっている。

 きっと、フィアはもう自分を助けてくれない――――その想いが花中の身体を縛り、動けなくする。

「ま、大人しい分には楽で良いか。さて、それじゃあ私の後ろをついてきてね」

 威圧感のない笑みと共にミリオンはそう言うと、花中の手を引く事もなく歩き出してしまう。道が狭いからか、他のミリオンが現れる気配はない。こっそり逆方向に歩き出せば、案外あっさりと逃げられるかも知れない。

 花中は後ろを振り返り、

「……」

 少し立ち止まった後、結局ミリオンの後を追った。

 湿り気を帯びた足元の岩は滑りやすく、ましてや今履いている学校指定のブーツはこのような地形を想定したものではない。油断すればすぐに足を滑らせ、頭を固い岩にぶつけてしまうだろう。慎重に、一歩一歩踏み締めて歩く。

 当然その歩みはとてもゆっくりなものだったが、合わせているのかミリオンの歩みもとても遅かった。暗闇に一人取り残される事もないが、中々前へと進まない。ミリオンの手の明かりも辺りを照らす程度しかないため、行く先に何があるのかさっぱり分からない。

 一体この先に何が待ち受け、そして……

「わたしは……どう、なるのでしょうか……」

 花中の口は無意識に、その疑問を呟いていた。

「どうなる、かぁ。その問いに答えるのは簡単なようで難しいわねー……一言で言えば、死ぬ、なんだけど」

 ミリオンはあっさりと、心の籠っていない答えを返す。『死ぬ』という恐ろしい単語はしかと花中の耳にも届いたが、あまりにも無味乾燥に言われたからだろうか。花中はその言葉に、あまり恐怖を抱けなかった。

「死ぬ、の、ですか」

「ええ」

 だから淡々と訊き返し、ミリオンも淡々と肯定した。

 死にたいかどうかで言われたら、死にたくはない。けれども、まるで爆弾の如く打撃力を誇るフィアですら叶わなかった相手から逃れられるとは思えないし……折角出来た友達とこんな簡単に仲違いしてしまうような自分でも、死ねば誰かの役に立てるのなら、それはそれで良いような気がした。

 知りたい事があるとすれば、精々その死によって何が得られるかぐらいなもので。

「……わたしが、死ぬと……あなたには、何か、得るものが、あるの、でしょうか……?」

「そうねぇ。ま、説明ぐらいしてあげないと可愛そうよね。目当ての場所までまだあるし。少し長くなるけど、私の昔話をしてあげる」

 ミリオンの声は懐かしむような、それでいて恥ずかしげ。これから人を殺そうとする者の話し方ではないし、今までミリオンがしていた無感情なはしゃぎ方でもない。

 沸いてきた違和感は好奇の心を刺激する。花中は俯かせていた顔を僅かに上げた。

「私ね、昔、ある人間と暮らしていたの」

「……人間?」

「そう、人間。あの人と会ったのは、今から七十五年と二百七日前。世界がまだ戦争を好み、人々が、自然とは支配するべきものだと信じて疑わなかった時代。そんな時代に生まれたのに、あの人は全ての生き物を愛する心を持っていた」

「……………」

「あの人は生物学者だった。あの人の研究対象は私。人の言葉を話し、その言葉の意味を理解するだけの知性を有する生物とはどんな存在なのかを調べようとしていたわ。だけどね、それは名誉とか、富とか、地位とか……そういうのを求めて研究した訳じゃないの。実際あの人は私の事を世間に発表しなかった。発表したら歴史に名が残る大発見なのにね」

「……じゃあ、なんで研究したの、ですか?」

「君の事をもっと知りたいから……あの人は、そう言ったわ」

 そう言ってミリオンは花中の方へと振り向き――――花中は驚きで、目を丸くする。

 今まで色のない笑みしか浮かべなかったミリオンが、ふにゃりと、今にも蕩けてしまいそうなぐらい愛らしく笑っていたのだから。

「嬉しかった。幸せだった。だから私はあの人に全てを捧げた。身体の一部を切り取られたり、薬品漬けにされたりもしたわ」

「そ、そんな!? 酷い………」

「そうね、確かに酷いかもね。でも私は気にしなかった。失った分の身体はいくらでも代えが効くし、何より、一つ一つでも、あの人が私の事を知ってくれるのが嬉しかったから」

 自分が受けた残忍な行為を話す最中もミリオンの語り口は柔らかく、表情に悪意は全くない。それどころか、直接的な単語がなくとも分かるだけの好意に満ち満ちている。

 もしもミリオンがフィアに酷い事をした者でなければ、花中は訊いていただろう。

 ――――その人の事が好きだったのですか、と。

「その研究の中であの人は、私がどんな存在なのか、一つの仮定に辿り着いた」

 訊けなかったがために話はそのまま進み、そして、花中としてはミリオンの生い立ち以上に気になる事が語られた。

「……それって、つまり……」

「さかなちゃんを含む私達のような、奇妙で、異常な生命についてよ。あの人は、その発生の理論を組み立てたの」

 ミリオンは胸を張り、自分の事のように誇る。しかしそこから先を中々話し出そうとしない。流れる沈黙には期待が感じ取れる。

「えっと……一体、何者なのですか……あなたと、フィアちゃん、は」

 恐る恐る、花中は尋ねてみた。

「既存の種から進化した、新生物よ」

 するとミリオンは待ってましたと言わんばかりに『真実』を明かし――――花中は、小さく肩を落とす。

 生物の進化は、今も起きている。

 種が分化するほどの進化には数万年から数十万年が必要だと言われているが、個体群の性質が変化する ― 例えば害虫が殺虫剤への耐性を持つようになったり、魚を乱獲した結果成熟年齢が早くなった個体が数を増やしたり ― 程度の『進化』なら、数十年、数年程度でも起こりうる。そして人類という種が生まれてから……火を用い、文明を築き、自然破壊を始めてから既に数万年の月日が流れた。人類という存在に適応した種が現れるのは、決して不自然な事ではない。

 そうして生まれた存在がフィアだとしたら?

 人の姿を持ち、人の知性を持ち、人を超越する戦闘能力を持つ。人類が数多の生物を絶滅させている今の地球環境に適応した、人類に決して滅ぼされないための力を持った生物だと考えれば……その誕生は、必然と言えるかも知れない。

 とはいえ、ここまで詳細には考えていなかったが、フィアの存在について疑問を持ったあの時――――学校でフィアと再会した際人工生物説を否定した花中は、フィアは()()()()()()()であると思っていた。人が作ったのでなければ、自然が生んだ以外にない。ミリオンの話は良く言えば答え合わせであり、悪く言えば今更な内容だった。

「まぁ、正確にはある特徴を持つという変異を起こしたってだけで、種分化を起こすほどの進化はしてないんだけどね」

 この言葉を付け足すまでは。

「……え?」

「私達みたいな超生物、真っ当な進化じゃ何億年掛けても至る訳ないでしょう? つまり真っ当じゃない、裏技的な進化……突然変異を起こしたのよ。だから新種というよりミュータントと呼ぶべきね」

「裏技……?」

「特定の人間と『知識』を共有する、という形質の獲得よ」

 ミリオンはさらりと答え、花中は眉を潜めた。

「知識を、共有……あ、あの、意味が……」

「はなちゃんは、脳波って知ってる?」

「え? あ、えっと……脳が、活動している時に、出す……電流だった、かと……」

「そう、その脳波。一般的にα波やβ波がよく知られているけど、実は人間の脳波には世の中に知られていない、未だ観測もされていない特殊なものがあるの。あの人はその脳波を『伝達脳波』と名付け、存在を予言していた。で、その伝達脳波は個人の脳内に留まらず周囲にまで伝わり、人間が持つ『知識』の情報が詰まっているという仮説を立てたの」

「知識が、詰まって、いる?」

「ええ、ぎっちりと。さかなちゃんや私はその脳波を受信出来るという突然変異が起き、人間と知識を共有しているって訳。知能が高まるのは知識を持つ事で起こる擬似的な現象に過ぎない。さかなちゃんの水を操る能力とかは、突然変異を起こす前から種が持ち合わせていた力を知性によって制御し、極限の大きさで発揮する……実は特殊能力でもなんでもないのよ。ほら、カマキリはその年に積もる雪よりも高い位置に卵を産むって言うでしょ? アレだって超能力っぽいけど、超能力ではない。それと同じね」

「脳波を、受信……共有……」

「何か、気になる?」

 出てきた単語を一つ一つ言葉にして噛みしめる花中に、ミリオンは返答を促すように尋ねてきた。しかし花中はそれに気付かぬまま、記憶を手繰り寄せる。

 知識を共有と言われても普通なら信じられない。けれども花中には『予感』があった。

 『予感』の源は、学校でフィアと出会い、そして一旦別れようとした際に覚えた違和感。フィアが言った「この辺りの事はよく知らない」という言葉。

 少なくともフィアは、晴海が水を掛けられた時間帯である朝のホームルームの前後には学校に着いていた。つまり家の戸締りを終えた後、花中と左程間を開けずに『登校』してきた事になる。足の遅い花中でも走れば十分ほどの道程とはいえ、通行人に道を尋ね、その言葉を思い出しながら慎重に進むだけの時間的猶予はない。即ちフィアは、真っ直ぐ、迷わず、尋ねず、通学のための最短ルートを進んだとしか思えない。

 山奥で暮らしていたフィアはどうやって学校への行き方を知ったのか。道順を知っているのに、何故周りの事を知らないのか。何処で日本語を学んだのか。『身体』のモデルは誰なのか……フィアの知識の『入手先』には謎が多過ぎた。

 その謎に対する答えとして、ミリオンの話は最適だ。『誰か』と知識を共有しているのなら入手先も何もあったものではない。知っているものは知っている……それだけの話になるのだ。

「ちなみに、全ての知識を共有している訳じゃないわ。母国語関係はほぼ完全だけど、機械の操作とか科学知識とか、雑学的な知識は個体差が大きいみたいだし……思い出は殆ど共有されない。だから知識を共有している人間の事は何もかもお見通し、とはならないの。当然人格形成にはその生物の本能も関わるから、同じ知識があったとしても同じものの考え方をするとは限らないわ」

 理解を後押しするように話を付け足すミリオン。反論はなく、花中は小さく頷く。

 残る疑問は一つだけ。

「それが……わたしが死ぬ、事と……どう、関係するのでしょうか……」

 すっかり逸れてしまった、本題だけだ。

「……最大の理由は、伝達脳波を発する人間が非常に少ない事ね」

「え? 少ない、の、ですか……?」

「少ないわね。私は伝達脳波を出す人間を求めて三ヶ月ぐらい世界を探し回ったけど、ざっと六十五億人以上をチェックして見つかったのははなちゃん一人だけだった」

「な、六十五億!?」

「カウントは適当だけどね。でもヨーロッパからアフリカ、アジアにかけての地域は虱潰しで探した。残るはアメリカ大陸と大海原に浮かぶ島々、それと辺境の地に潜む住人ぐらいかしら。で、そこまでして私が『あなた』を探していたのは、伝達脳波が途切れると私達は知性を維持出来なくなるから」

 驚く花中に微笑みを返しながら、ミリオンは自身の頭を指でとんとんと叩く。

「完全な状態で維持出来るのは精々一年。五年もすれば完全に元の、本能だけで生きる畜生に身を落としてしまうわ。能力も使えなくなるか、使えたとしても子供騙し程度にまで落ち込むでしょうね……さて、ここで問題です。伝達脳波の『供給』を途切れさせないためにはどうすれば良いでしょう?」

「それ、は……」

 ミリオンのクイズに、花中は言葉を詰まらせる。脳波の供給とはつまり、伝達脳波を発する人間の傍に居る事だろう。しかし人間は何時か死ぬ。死んだら脳波は出なくなるので、その時は新たに伝達脳波を発する人間を探さねばならない。

 とはいえ『世に知られていない特殊な脳波を出す人間』の居場所なんて見当すら付かない。だから愚直なまでの正攻法……足で虱潰しに探すしかないだろうが、ミリオンの話によると伝達脳波を持つ人間は六十五億人中たったの一人。世界人口は現在推定七十数億人であり、今の地球に花中以外伝達脳波を発する人間が居なかったとしてもおかしくない。それどころか花中の死後、ミリオン達が知識を維持出来る五年の間に次の『持ち主』が現れない事も、現実に起こり得る問題だろう。

 普通の方法では脳波が途切れるのを止められない。なら、ミリオンの問いの答えは普通じゃない、異常な方法となる。

 普通の人間である花中には異常な発想なんて浮かばず、降参を表すため首を横に振る。

 ミリオンは降参した花中に、すぐ答えを教えてくれた。

「正解は、伝達脳波を出す人間を作る、でしたー♪」

 普通じゃない――――普通じゃなさ過ぎて、花中が愕然としてしまう答えを。

 人間を作る。

 寒気がするその言葉の意味を考えたくなくて、花中は真意を問う事も出来なかった。しかしミリオンは花中の気持ちなどお構いなしに、心底嬉しそうに語り出す。

「伝達脳波を受信するという性質が突然変異で発生するように、伝達脳波を出すという性質も突然変異、つまり遺伝子が関わっているに違いない。だったら伝達脳波を発する人間と、同じ遺伝子を持った人間を作れば、そいつもきっと伝達脳波を発する筈。そうは思わない?」

「そ、それは……で、でも、人を作るなんて、どうやって……」

「クローン」

 突拍子もない事をあまりにも普通に伝えられ、花中は言葉を失う。

 両親の影響もあり、花中は割と科学者寄りの思想を持っている。倫理観から外れているマッドサイエンティスト的な発想も、否定しても部分的になら賛同してしまう事も間々ある。

 その思想の上で考えても、ミリオンのやろうとしている事は受け入れられない。人間を作るなんて神への冒涜だ、とは言わないが……やって良い事ではない。愛の形以外で人間を産み出すなんて、論じるまでもなく倫理から外れている。

「クローンって……そんな……ど、どうやって……」

「私は体細胞から遺伝子を抜き取り、他の細胞に埋め込む方法を知っている。勿論適当な細胞に遺伝子を組み込んでもクローンは作れないけど、でも受精卵さえ手に入れば、そこからならクローンを作り出せる。実際犬のクローンはなんとか作れたもの。人間はまだやってないけど、哺乳類同士なんだから大した違いはないでしょーし」

「で、でも、その……だったら、なんでわたしは、死ぬ事に……クローンを作るのに、わたしの生死は、か、関係、ない、です、し……フィアちゃんと、争う必要も……」

「私が未熟なせいで、クローン生成の成功率はそんなに高くなくてね。それに元となる細胞からDNAを抜き取る際の失敗も多い……というか殆ど失敗しちゃうの。経過観察もしたいから、作りたいクローンは最低でも三体。で、ざっと計算したところ、三体のクローンを作るには、はなちゃんの体内にあるDNAの七割を頂く必要があったの。七割も奪われたら、多分はなちゃん死んじゃうわよねぇ?」

 ひょっとしたら死なないなんて思ってもいない癖に、わざわざ訊いてくるミリオンに花中は嫌悪にも似た寒気を覚え――――そして眉を顰めた。

 伝達脳波を出すという花中の体質が遺伝によるものなら、クローンで脳波を持つ人間の量産は可能になるだろう。安定的に『生産』すれば脳波が途絶える事はなくなり、ミリオンは知識を失う心配がなくなる。倫理的には最低でも理論上は最高の方法、に見える。

 けれども、見えるだけ。花中が考える限り、この方法は『最悪』だ。

 理由はいくつかある。クローンを産むための母胎をどうやって手に入れるのか、受精卵はどうやって入手するのか、弄った受精卵を母体が素直に産んでくれるのか、遺伝子は環境次第で発現しないものもあるのでクローンが伝達脳波を出すとは限らないのは……等々。花中から遺伝子を取り出した後も問題は山積みだ。

 何より一番の問題は、花中を今殺してしまう点。

 命乞い云々抜きに、花中は貴重な、世界で唯一かも知れない『サンプル』だ。いくらクローン作製が最終目的だとしても、上手くいくか分からない実験で殺すなんて、あまりにもリスクが大きい。しかも得られるのは最大でもたった三体の、目当ての形質が出るか分からない個体だけ。賭けに出るには、あまりにも分が悪い。

 確かに、特殊な脳波を出すと言っても花中はただの人間なのだから、些細な事で命を落とす可能性は否定出来ない。死体から取り出すより、生きている状態で取り出した遺伝子の方が劣化していないのも事実。しかし、だったら今殺そう、なんて発想は短絡的過ぎる。もしもに怯え過ぎて計画を破綻させては元も子もない――――

「(……あっ……)」

 花中は、目を見開く。

 そう。普通なら花中が予想した通り、ミリオンは花中を殺すなんて選択は取らない。だからその選択を取らざるを得なかった、何かしらの原因があると考えるべき。

 他人の意図を察するのは花中の苦手分野であるが、今回は例外だ。目的のためなら他者の命を奪えるほどの覚悟を持っておきながら、ゴールが見えた途端全てのリスクが目に入らなくなり、ゴール目指して暴走する……

 焦っている事は、火を見るよりも明らかだった。

「(知識の保持だけが目的なら、こんな焦り方はしない……何か、ある。まだ何か、ミリオンさんが話していない事が……)」

 訊きたい。知りたい。

 でも、

「さぁ、着いたわよ」

 話は唐突に終わってしまった。

「え? あ……」

 足を止めたミリオンに驚き、慌てて花中も立ち止まる。ミリオンはそんな花中の方へと振り返り、愉悦に歪んだ笑顔を見せると、すぐに正面を向き直した。

 そしてミリオンは手から放っている、今のままでも十分洞窟を歩ける光をより強く輝かせ――――広範囲を照らし出す。

 花中は、自分達が開けた場所に辿り着いていたのだと知った。

 正確な面積は測りかねるが、草野球程度なら出来そうな広さがある空間だった。天井も高く、小さなドーム球場のよう。あちこちに人一人は通れそうな穴が開いていて、何かが出てきそうな、異様な雰囲気を漂わせている。そして地面は真っ平ら。整地されているかのようで、中心部には綺麗な四角い台……『祭壇』と呼びたくなる物体が自己主張していた。

 この空洞自体は自然現象で出来たのだろうが、何かしら『人』の手が加わっているのを花中は感じ取る。無論、手を加えた者は一人しか思い当たらない。

「ここ、は……」

「私の秘密基地」

 花中の独り言に答えるとミリオンは歩き出し、『祭壇』に上がる。

 ミリオンはそこで舞うようにくるりと一回転。

「お喋りはここまで。そろそろはなちゃんには、私のために死んでもらうわね♪」

 踊り終えたミリオンは、殺意の言葉と共に両腕を広げた。

 それは、花中に自らの意思でこちらに来いと主張しているのだろうか。

 今でも死にたくはない。でも自分に抗う力はない。なら誰かに助けを求めるしかない。両親は助けを求めればきっと助けようとしてくれるだろうし、晴海も、もしかしたら助けようとしてくれるかも知れない……当てはいくらか思い付く。最後に一言伝えたいと駄々を捏ねれば、一瞬でも彼等の下に行くチャンスを掴めるかも知れない。『最善』を尽くせばまだまだ死を遠ざけられる。

 しかし、花中はそうしようとは思わない。

 もう、巻きこみたくない。折角友達になってくれた人を傷付けてしまうような自分に、守ってもらうだけの価値なんてない。こんな自分のために、もう誰も傷付いてほしくない。

 だからこのまま、黙って消えてしまうのがみんなにとって一番良い筈。

 だから花中はミリオンの胸に抱かれようと思った。

 ――――思うのに、胸がチクリと痛んだ。

「……っ」

 胸を抑える花中の脳裏に過ぎるのは……フィアの顔。

 最後まで自分を助けようとしてくれて、最後は水飛沫と共に姿を消した『友達だった子』。絶交の言葉を聞きたくないから逃げて、その後ミリオンとの戦いになって……だから、花中は彼女に謝っていない。

 謝ったところで何も変わらないだろう。命懸けの行為を無下にするような事を言って、許してもらえる筈がない。

 だけど、だから仕方ないと言って諦めたら、今までと何も変わらない。

 変わりたい。何も出来ない、そう卑屈になって何もやらない自分を変えたい。友達を傷付けたままさよならをしてしまうような、卑怯な自分のまま死にたくない。

 そして変わりたいと思って変われるのは、これが本当に最後のチャンス。

「あ、あの……」

「んー? なぁに? あ、遺言とかそういうのかな? 良いよ良いよーなんでも聞いてあげるし伝えてもあげちゃうわよー」

 ぼそりと呟く花中に、ミリオンは楽しそうに振る舞いながらそう答える。花中を捕まえられた事が嬉しくて堪らない反面、早く花中を『殺したい』という想いもあるのだろう。止まってしまった話の続きをしつこく促してくる。

 花中はすっと息を吸い、静かに吐き出し……澄ました心で、こう答えた。

「……フィアちゃんに、謝りに行きたい、です」

 花中の言葉で、今度はミリオンがぴくりとその身体を強張らせる。顔は笑顔のままなのに、柔らかさなどない、氷のような硬さと冷たさが滲んでくる。

「……謝りに、行きたい?」

「わたし、このままだと、ダメな、ままだから……せめて、フィアちゃんに、謝りたい……わたしのために、命を懸けて、くれたのに、それを裏切って、ごめんなさいって……も、勿論、もしかしたら、フィアちゃん、死んじゃって、いるかも知れませんけど、でも、それでも……」

 顔を上げ、真っ直ぐミリオンを見つめながら花中は懇願する。

 勿論、ミリオンにとって花中はようやく手にした貴重なサンプルであり、万が一にも逃げられては堪ったものではない。もしも花中の期待通りフィアが生きていた場合、再び戦いになる恐れだってある。そうしたリスクを踏まえれば、ミリオンが願いを訊いてくれる可能性は限りなく低い。

 それでも、何度断られても、今回だけはそう簡単には引き下がらない。これが最後のチャンスなのだから、もう何も恐れない――――つもりだった。

 だが。

「そんなの、絶対に許さない」

 あらゆる感情を、無感情な笑みさえも消して拒絶されるのは想像もしておらず、花中は食い下がるどころか言葉一つ出せなかった。

「……っ!?」

「許さない。これ以上待つなんて出来ない」

「あ、あ、の、にげ、逃げる、つもりなんて、なくて、ただ一言……」

「もう耐えられない。もう我慢なんて出来ない」

 慄き一方的に退こうとする理性をどうにか押し留め、もう一度お願いしようとする花中だったが、ミリオンの淡々とした、それでいて洪水の如く言葉の羅列に押し込まれてしまう。

 まるでスイッチが切り替わったかのように、ミリオンの態度が一変している。これが怒り狂った様子ならまだ納得出来た。立ち向かう事も出来ただろう。ところが言葉こそ一方的だが、静かに佇む様から怒りは感じられない。けれども冷静かと言えば、そうだとは寸分も思えない有り様でもある。

 分からない。ミリオンが今何を想っているのか、欠片たりとも分からない。

 正体不明の感情は、達観していた花中の心に恐怖という名の色を塗りたくる。頭の中が真っ白になり、血が冷たくなるのを感じ、寒空に放り出されたかのように身体が震えだす。

 そんな花中にミリオンはにじり寄る。人を迎え入れるように両手を広げながら、笑顔一つ浮かべずに。

 いよいよ恐怖が臨界に達した花中はきゅっと目を閉じ、迫りくる恐怖から()()()()()

 その時だった。

「やっと見つけましたぁっ!」

 底なしに明るい声が、洞窟内に響いたのは。

「っ!?」

 花中の間近にまで迫っていたミリオンはその瞬間表情を醜く歪ませ、跳ねるように声がした方へと振り向く。花中もまた驚いた拍子に閉じていた目を開いてしまい、ミリオンと同じ場所を、自分がこの広間に来るために通った『穴』を見た。

 そして花中は恐怖を忘れ、己の目を疑う。

 風のない洞窟内で何故か靡いている金色の長髪も、岩だらけの洞窟内を歩くには徹底的に向いていない華美なドレスも、凛々しい顔に浮かべる誇らしげな笑みも……全て覚えている。『あの瞬間』と何も変わらない姿だと断言出来る。

 でも納得出来ない。

 だって自分は彼女に酷い事を言ってしまったから。彼女の命懸けの行為を踏み躙ったから。彼女が自分にしてくれた事を、自分は彼女にしてあげられなかったから。

 だから、こんなのはあり得ない。

「なん、で……!?」

 あり得ない事を前にして、花中は否定を言葉にしていた。

 洞窟の入り口に立つ――――フィア(ともだち)の姿を、呆然と見つめながら……




ちなみにこのお話、元々は27000字もありました。
テンポやらなんやらを考え、分割した次第です。

次回投稿予定は7/10です。


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ファースト・フレンズ7

 凛とした佇まいで洞窟の入り口に立つ者は、間違いなくフィアだった。

 腕を組んで仁王立ちし、勝ち誇るような笑みを浮かべる姿に、渋々来たという様子はない。むしろ来たくて堪らなかったと、三日月のように曲がっている口元が今にも語り出しそうだ。金色の髪やドレスが風もないのにざわざわと動いているのは、人間が興奮のあまり身体を揺するのと同じく、テンションが上がっている証か。

 その態度が、花中をますます戸惑わせる。

 どうして自分なんかの、嫌いになった相手の下に来たのに――――そんなに嬉しそうなのか。

「さかなちゃん!? 一体どうして……」

「此処が分かったのかと訊きたいのですか? 私は魚ですよ? 匂いで生まれ故郷の川を判別出来る鮭並とは言いませんが鼻は良いんですよ花中さんの匂いを追うぐらい余裕で出来ますああそれとも吹き飛ばしてやったのに何故無事なのかと訊きたいのですか? あれは『身体』が弾ける前に一部の水で脱出艇を作り破裂した瞬間湯気に紛れて逃げ出したのです派手な弾け方だったので思った以上にあなたを欺けていたようですね」

 唖然とする花中の代わりに、しかし花中よりマシなだけでやはり動揺した素振りのミリオンが漏らした言葉に、フィアは捲し立てるような早さと嘲笑うかのような不遜さを以て答える。言い切る前に答えられたミリオンはそれ以上何も言わず、警戒心の表れか花中の片腕をぎゅっと掴んだ。

 フィアが此処に来られた理由と、無事である理由は分かった。けれども花中の疑問はまだ晴れない。嫌っている筈の自分の前に何故現れたのか、説明してもらっていない。

「フィアちゃん、そんな、なんで……」

「ああ花中さん参上するのが遅れて申し訳ありません! 準備に少々手間取ってしまいまして。ですがご安心を! 今すぐ助けますからね!」

 どうにかこうにか絞り出した疑問も、何故か舞い上がっているフィアには届かず。それどころか「助ける」と明言し、ますます花中を混乱させる。

 分からない。フィアが何故自分を助けるのか分からない。

「なんで、助けてくれるの……」

 その気持ちはそのまま口から零れ落ち、

「? 何故そんな事を訊くのです?」

 フィアは、心底不思議そうに首を傾げた。

「だ、だって、だって……」

「だって?」

「だって……」

 そこで言葉が止まってしまう。フィアは黙りこくる花中を澄み切った瞳でじっと見つめ、向けられる視線に耐えきれず花中は目を逸らす。

 この状況を考えると、フィアは自分の事をまだ友達だと思ってくれている、と期待して良さそうである。

 なら余計な事を口走らなければ、全て丸く収まるのではないか。疑問を呈さなければ友達でいられるのではないか……頭の中をぐるぐると、現状維持を望む言葉が駆け回る。

 自分が嫌になる。さっき後悔したばかりなのに、いざフィアを目の当りにしたらまた逃げようとしている。

 こんな自分に、フィアの友達なんて相応しくない。

「だって、フィアちゃんは……わたしが言った言葉で、怒りました、よね……?」

 花中は、自身への嫌悪で彩られた言葉を出してしまった。

 その言葉でフィアの笑顔が崩れる。眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる。

 それは、花中には『あの時』と同じ、嫌悪の顔に見えた。

「……ひょっとするとアレですかね。ミリオンを始末したと伝えた後花中さんが私に言ったやつですか? 命は大切に的な。それで私が怒ったと?」

「は、はい……」

「成程ね……はぁ……」

 フィアはいっそ清々しく思えるぐらい大きなため息を吐く。首を横に振り、肩を竦めて如何にも呆れたと言いたげ。

「花中さんって実は少しお馬鹿さんなのですか?」

 止めとばかりに、言い方こそ優しいが、割と分かりやすく罵倒してきた。

「えうっ!? そ、そんな、なんで……」

「あんな事で怒る訳がないでしょう。そりゃあ折角助けてあげたのにあんな態度取られたらショックは受けますけどそれだけです。むしろ怒らせたのではとこっちが心配していたのに自分が責められていると勘違いしていたなんて呆れ果ててお馬鹿さん以外に言葉がないじゃないですか」

「む、むぐ……」

「それに今になって思えば花中さんの言っていた事かなり滅茶苦茶でしたしねぇ。殺すなんて可哀想? こちらの命を狙ってきた相手に何甘い事言ってるんだかって感じです」

「むぐ、ぐぎ……」

「まさか話し合いで何でも解決出来ると本気で思っているのですか? 話し合いが大切という意見は否定しませんけど世の中には話の通じない奴ってのが居るんですよ。そういう例外を無視して理想を語るなんて夢なら目を閉じて見てほしいものです」

「む、ぐ、ぎ……?」

「まぁ花中さんは見た目や動作にファンシーな可愛さがありますからね。頭の中もファンシーだったとしても仕方ありませんか」

「ぎ、ぎ、ぎぃ……!?」

 大人しくフィアの罵声を受け続ける、つもりだった花中……その顎は意思とは無関係に力が籠り、歯が不愉快な音を鳴らしている。

 フィアの言い分は正論だ。襲い掛かってきたのはミリオンの方で、フィアは完全な被害者。反撃した結果相手を殺したとしてもそれは正当防衛、悪くとも過剰防衛でしかない。仮に過剰防衛だったとしても「コイツを殺さないと自分が危ない」とフィアが下した判断を、戦いに参加すらしていなかった花中に非難する資格なんてないだろう。

 間違っているのは、非情に徹しきれない自分の方。花中は本心からそう思っている。

 しかし。けれども。だけど。

 ――――ここまで言われなきゃなんないほど、自分の主張は間違っているのか?

「(な、何考えてんだろうわたし……だって、フィアちゃんはわたしの事を守ろうとしてくれたんだよ……なのに間違っているとか思うなんて、そんなの……)」

 過ぎった言葉を否定したいのに、そのための理屈が自分の心に響いてこない。間違っているのはワガママを言った自分に決まっている。なのに何故胸中に渦巻くものは許しを請う心ではなく、淀んだような、暗いような……それでいて沸騰するように激しい気持ちなのか。

 分からない。分からないが花中は必死に心を『あるべき姿』にしようとし、

「何か言いたい事があるなら言ってみてくださいよーあっかんべー」

 右目の下まぶたを指で下げながら舌を出すフィアを見た瞬間、何かが切れる音を聞いた。

 そこでようやく理解する。

 胸に渦巻くこの想いは、怒りであると。

「な、な、ななななななななんですかその言い種はあああああああああああっ!?」

 理解した時にはもう抑えきれる状態でなく、花中は顔を真っ赤にしながら、噴火の如く勢いで叫びを上げていた。

「た、助けてくれた事は感謝します! でも、なんでさっきから、わ、わたしを馬鹿にするような事ばかり言うのですかっ! 確かに、フィアちゃんのお陰で、助かりましたよ! でも、でもわたしの気持ちは無視なんですか!? 無視なんでしょうねああもうっ!」

 普段殆ど動いてくれない口が忙しなく、暴れるように憤怒を吐き出す。頭の中が沸騰して真っ赤に染まり、自分の考えすらぼやけてくる。しかもこれだけ好き勝手しているのに怒りは発散されるどころか募るばかり。ミリオンに掴まれていない方の手を振り回しても、地団駄を踏んでも、全く治まらない。

「なんで勝手に決めちゃうのですか!? なんで殺しちゃうのですか! お話し出来るのに、なんで喧嘩するのっ!? 話し合おうって思わないの!?」

 叫んで、怒って、暴れて。

 フィアはそんな花中をじっと見つめ続けていた。ぶつけられた言葉を、全て受け止めるかのように。

「わたしは! 誰かが死んじゃうのは嫌で! みんなと仲良くなりたいのっ!」

 花中の怒りが収まったのは、一番言いたかった事をようやく言葉に出来てからだった。

「ふー……ふー……ふー……っ!」

「……それが花中さんの正直な気持ちなのですか?」

 肩で息をする花中に、フィアは穏やかに尋ねる。

 掛けられた言葉は花中に我を取り戻させ、愚行を自覚させた。赤かった顔は一気に青くなり、顎は振るえ、自由な手は勝手に口を押えてしまう。しかしいくら後悔してももう遅い。

 フィアは口を、見せつけるようにゆったりと歪める。

「それが聞きたかったですよ。花中さん」

 それでいて言葉は心から嬉しそうで、作った笑みはとても優しかった。

「……え……お、怒って……ない……の……?」

「怒っています。花中さんがこの程度の事で私に遠慮していたと知ってとても怒っています。ガッカリです」

「ひうっ!? え、遠慮していた、訳じゃ……」

「なら私を信じてくれていなかったのですか? こんな事で嫌う程度にしかあなたの事を想っていなかったと? だとしたらもっと怒りますよ」

「し、信じてない、訳、でも……っ!?」

 否定する自身の言葉で、花中はハッとなる。

 自分は、一瞬でも信じていた事があったのだろうか?

 初めて出会った時、友達になりたいというフィアの言葉を受け入れられなかった。学校でミリオンから助けてくれた後も、嫌われてしまったと思い込んでいた。今だって、喚き散らした自分に怒っていると疑っていなかった。

 花中は一度も『友情』を信じていない。

 フィアと自分の友情が簡単に壊れてしまう程度のものとしか、思っていなかった。

「あ……ああ……!? わ、わた、し……!」

 口が勝手に弁明の言葉を紡ごうとするも、意味ある形にはならない。いや、頭の中でさえ浮かんできた単語が上手くつながらない。

 友情を求めていながら、その力強さを信じない……これほどの侮辱が他にあるだろうか。花中には思い浮かばない。思い浮かばないほどに愚かしくて残酷な事を、自分はしていたのだと気付いた。謝りたくて口を動かしても、出てくるのは乾いた呼吸の音だけ。

 本当に酷い事をしたと思った時には、ごめんなさい、なんて言葉では言い表せない。

 だから花中は謝れなかった。悪い事をしたのに、許しを請えなかった。

「全く。今後気を付けてくださいねっ」

 なのにフィアは、頬を膨らませながら勝手に花中を許した。

 許された花中は目を丸くする。口も、ぽかんと開けてしまう。

 自分は、何か聞き間違いでもしているのだろうか?

「……え……? い、今、なんて……」

「今後は気を付けてくださいと言いましたが?」

「こ、今度って……な、んで……わたし……ひ、酷い事をして……友達なのに、信じて、なくて……なのに、わたしを、許して……」

「大した理由なんてありません」

 軽々としたフィアの口調には、本当に大した気持ちが感じられない。心から、大した事のない理由を言おうとしている。

「私はあなたが大好きなのです。だったら許しを請うあなたを突き放すなんて真似が出来る訳ないでしょう?」

 フィアにとって『友達』を許す事は、きっと大した事ではないのだ。

「あ――――ああ……!」

 花中の目から、涙が落ちる。けれども表情は泣きっ面なんかじゃない。

 花開くような、満開の笑みだった。

「フィアちゃん……フィアちゃんっ!」

 花中の身体が、勝手にフィアの方へと向かおうとする……いや、最早身体だけではない。心が、意識が、全てフィアを求めて止まない。

 初めてだったからたくさん失敗した、自分が卑屈だったからたくさん間違えた。だが、それがなんだと言うのか。

 だってフィアは、自分の大切な『友達』なのだ。

 こんな事で初めての友達を、手放してなるものか!

「わたしも、フィアちゃんが好き……大好き! だからもっとケンカしよう! わたしももっと怒る! それで……たくさん仲直りしよう!」

 無我夢中で頷きながら、花中はフィアの方へと駆け寄ろうとする。抱き着こうとする。ようやく手にした『友達』の温もりを、その胸で感じ取りたかった。

 だが、もがけどもがけど、花中の身体は動けない。

 何故なら花中の腕は、未だミリオンに掴まれたままなのだから。

「……茶番はそこまでにしてくれない?」

 ぞくりと、聞くだけで背筋が凍るようなミリオンの声。芝居がかっていた明るさはすっかり消え失せ、突き刺さる冷たさが心に突き刺さる。先程までの爛々としていた花中の笑みも凍り、一気に恐怖が表に出てきた。

 唯一フィアだけが、ふてぶてしい態度を変えずにミリオンと向き合う。

「その割には私と花中さんの邪魔はしませんでしたねぇ。もしかして邪魔したくとも出来なかったとか?」

「……………」

「あら図星ですか? 図星なのですか?」

「……あまり図に乗らないでほしいわね。あなた、この状況が分かってないの?」

 ミリオンはそう言い放つと、花中の腕を引っ張る。細い四肢からは想像も出来ない怪力の前に花中の身体はふわりと浮き、なんの抵抗も出来ずに抱き寄せられてしまう。

 次いでミリオンは、自らの右手を花中の喉元に当てた。

 瞬時に、花中の脳裏にフィアとミリオンの戦いの景色が過ぎる。荒事を知らないか弱い手にしか見えない『それ』は、花中の首如き容易く切り落とせる凶器だ。無論、真正面から戦ったフィアがそれを忘れている筈がない。

 しかも性質の悪い事に、ミリオンは花中の生死に頓着しない筈。彼女の目的はあくまで花中の遺伝子。生きている時の方が上質な遺伝子をより多く抽出出来るだろうが、死んでしまったら無理というものでもあるまい。つまりこの脅しはハッタリではない可能性がある。フィアはミリオンの話を聞いていないので知らないだろうが……しかし今から教えられ、「一歩でも動いたらこの子の命はない」と脅されたなら、身動きを封じられてしまう。

 状況は最悪。というよりも殆ど詰み。

 ……だのにフィアは、相も変わらず自信満々に笑っていた。事情を知らないからこそ浮かべられる笑みは、知っている側から見れば哀れなほど滑稽……いや、いっそ腹立たしい。

「あなた本当に馬鹿なの? もし一歩でも近付いたらこの子の首を撥ね――――っ!?」

 あまりにも余裕たっぷりな態度に苛立ったのか、花中の予想通りの警告をミリオンがしようとし――――しかしその言葉は、息を飲む仕草によって途切れた。そして花中もまた息を飲み、顔を青くする。

 まるで警告など関係ないと言わんばかりにフィアは、今にも殴り掛かろうとする体勢でこちらに駆けてきたのだから!

「なっ!? ま、待ち――――ぐっ!」

 狼狽した様子で止めようとするミリオンだが、長々とした説明よりもフィアが肉薄してくる方がずっと早い。悔しそうに歯噛みするやミリオンは花中から手を離し、仰け反るようにその場から離れた。

 一体何が起き

 ――――ズヒュウウウウウウウウウウッ!

「へ、わひゃあ!?」

 などと思った直後、花中のすぐ真横を『突風』が過ぎる――――否、突風どころではない。まるで打撃。華奢な花中の身体は手で押されたかのように突き飛ばされる。フィアがそっと受け止めてくれなければ、怪我の一つでもしていただろう。あまりにも唐突な暴力に、花中もミリオンも平静を失う。

 例外はただ一人、暴力を振るった本人であるフィアだけだ。奪還した花中を抱き寄せながら、ガキ大将を彷彿とさせる快活な笑顔と大声で自らの勝利を誇った。

「ふっふっふーん予想通り避けましたねぇ。人質なんて取っても身動きが出来なくなる分不利になるというのにふっふっふー」

「ば……ば、馬鹿じゃないのあなた!? わ、私、今はなちゃんの首を……!」

「そんなのただのハッタリでしょ?」

「な、なっ、な……!」

 なんの迷いもなくハッタリ、つまり嘘だと断定されて、ミリオンは口をパクパクさせる。声は詰まり、動揺を隠せていない。それは花中もまた同じで、同意を示すように同じく口をパクつかせた。

 ミリオンが避けない展開は十分あり得た。避けなければ、暴風が生じるほどの衝撃波を花中は至近距離で受けた事になる。そうなれば恐らく、人間の中でもとびきり脆い花中はきっと死ぬ。ミリオンが避けたのは突然の、あまりにも粗暴なやり方に怯み、咄嗟に最大の利益……生きた花中から極上の遺伝子を得るという選択をしてしまったからだろう。

 まさかフィアちゃんはここまで読んで……そうであってほしいと花中は願うが、子供っぽく誇るフィアの姿には、失礼ながら深い知性は感じ取れない。大体フィアはミリオンの話をろくに聞いていないのだ。絶対に感情で、『その場のノリと直感』でやったに違いない。

 論理的思考と知識で組み立てた策を、感情と勢いだけで完膚なきまでにぶち壊す。

 助かった事に感謝は覚えるものの、論理派である花中には受け入れがたい結果だった。ミリオンも同意見なのか、その表情は苦虫を噛み潰したように歪んでいる。

 だが、不意にミリオンの顔は静まり返った。

「……………」

「さぁてこれからどうします? どうします?」

 煽るように訊くフィアだったが、ミリオンの表情は動かない。目からは焦りも怒りも消え、口元は眠るように閉じ、頬の僅かな張りすら感じられなくなる。あまりにも静かな表情にフィアの方も笑顔が消えてしまい、怪訝そうに眉を顰めた。

 空気が変わる。まるで丸ごと入れ替えたように、切り替わる。

 何かを企んでいるのか、何かを考えているのか。ミリオンの表情から心は読み取れない。初めて会った時に浮かべていた、仮面的な笑顔以上に感情が読み取れなかった。花中は息を飲み、もう離すまいとフィアにしがみつく。フィアも花中の身体をぎゅっと抱きしめる。

 やがてミリオンはフィアに冷め切った眼差しを向け、

「さかなちゃん。お願いだから、はなちゃんを私にください」

 頭を垂れた。礼節を弁えた、綺麗なお辞儀の形で。

「……どういうつもりですか?」

「私達は特定の人間の脳波から知識を得ている……簡単に言うと、私もさかなちゃんも、はなちゃんが死ぬと今持っている知性や能力が失われて、そこらの動物と変わらない存在に落ちぶれるの」

「ふーん。それで?」

「でも、はなちゃんのクローンを作れば全て解決する。クローンが居れば、私達に知識を与えてくれる脳波は途切れない。私の腕が未熟だからはなちゃんにはクローン作製の犠牲になってもらう必要があるけど、長い目で見れば」

「ああもう結構。言いたい事は分かりました」

 ミリオンを止めるように、フィアは片手を前に出す。フィアが浮かべている表情は言葉通り不快さだけ。

「改めて言いましょう。友達が殺される時点で糞食らえですよそんな話」

 告げた言葉にも、敵意しかなかった。

「……そう言うと思ったわ。交渉は決裂ね」

「ふん。余計な話なんかせず一言戦おうと言えば良いんですよ。私がケンカっ早い性格なのは今日の闘いで知っていたでしょう? 言っときますけど今回は油断なんてしませんから不意を突こうたって無駄ですからね」

 ミリオンは前髪を掻き上げて視界を確保し、フィアは花中を置いてミリオン目指し歩み出す。

 睨み合い、距離を詰めていくフィアとミリオン。射程圏内に捉えれば、きっとすぐにでも戦いが始まるのだろう。一触即発。些細なきっかけで、命を軽々と奪える攻撃が飛び交う『二匹』の間――――

「だだだ、だ、ダメええええええええええええええっ?!」

「え? ちょおっ!?」

 花中は半べそを掻きながら、そんな間に割って入った。突然の横やりに驚いたのかよろめいたフィアは両手をバタバタ振り回して体勢を立て直そうとし、ミリオンは数メートルほど後ろに跳躍。二匹の距離が開いて、開戦は一先ず先送りになる。

 なんだか自分が凄く強くなった気分に浸りつつ、花中はフィアとミリオンを交互に見ながら叫んだ。

「あ、あ、あの! と、とりあえず、この戦い待った! です!」

「花中さん?! 危ないですから私の後ろに……」

「危なくない! わたしが間を、と、取り持つから、戦いなんて、おき、おき、起きない! の!」

「そんな無茶な!?」

「無茶じゃない!」

 生まれて初めて怒りをぶちまけたあの瞬間を思い出しながら、花中はヤケクソに駄々を押し通そうとする。

 戦いなんてしてほしくない。甘い幻想だとしても、みんなが仲良く出来る可能性を捨てたくない。だからせめて、せめて一度だけで良いから自分にチャレンジさせてほしい。

 その想いを胸に、花中はフィアを止めた。勿論本当は自分の気持ちをちゃんと伝えたいのだが、『敵』であるミリオンを前にしてあーだこーだ言い争いをしている暇はない。まずはやりたい事をやろうとして、それで納得してくれなかったら改めて話す。

 こんな事では絶対に、自分達の友情は壊れないと信じる事にしたのだから。

「むぐ……むむむ……!」

 フィアは悔しそうに唸り、ちらちらと花中の顔を覗き込む。しかし何も言わずに項垂れると、片手をミリオンに向けた。

 きっとそれはGO、もしくはOKのサイン、の筈。

「あ、ありがとう!」

 花中は満面の笑みでフィアにお礼を言い、話す相手をフィアからミリオンに切り替える。

「あ、あの! 少し、話をしませんか?!」

「……この期に及んでお喋り? 生憎、もう遊ぶ気はないの。アンタの生死だってどうでもいい。多少形が残っていれば大丈夫だから二人とも殺して――――」

「あわわわわ!? あ、あの、あの、え、あ、あなたの作戦の、あ、穴についてです!」

 ミリオンがいきなり話を打ち切ろうとしたので、花中は慌てて本題を切り出す。

 刹那、ミリオンの瞼が僅かに動いたのを花中は見逃さなかった。

 それが動揺なのか、疑問なのか、呆気なのかは分からない。ただしこちらに関心を持った事は間違いなく、これを逃す訳にはいかなかった。話のイニシアチブは離すまいと、花中は小さな胸を張りながら出来るだけ威圧的に語る。

「あなたは、わたしのクローンを、作ると、い、言って、ましたよね!? そのために、わたしは、死なないといけない、とも……でも! 万が一失敗したら、ど、どうする、つもりなの、ですか!? 生きている、わたしの近くで、行動しながら、く、クローン作製の練習を、して、わたしが、死ななくて、済むか、死体でも、確実にクローンを作れる、ぐらい、腕を上達させた、方が良いのでは、ないでしょうかっ!? それをしない理由をお、聞かせくだ、ください!」

 慣れない口調で長々とした台詞を、人生一番の早口で捲し立てたる花中。元々話し下手なのも相まって、言い終えた時には肩で息をするぐらい疲れてしまう。

 ミリオンが口を開いたのは、花中の息が整ってから。

「……私には、好きな人が居たわ」

 始まったのは、想い人の話だった。

「え? 好きな人……って、昔、暮らしていたって、言ってた、学者さん……?」

「ええ。私とあの人はお互いに愛し合っていた。傍に居るだけで、毎日が幸せだった」

 思い返すミリオンの声は震えていた。表情も凍ったままだった。好きな人の事を思い出している筈なのに、全く幸せそうじゃない。

 フィアは眉を潜めていたが、花中には、なんとなくその理由が分かった。

 『あの人』に対するミリオンの言葉は、全て過去形だった。そして大好きな人の傍を離れて一人で行動し、知識と知能を維持するためにクローン作りを焦って実行しようとしている……思い返せばヒントは山ほどあるではないか。推理、なんて大層な思案に耽る必要もない。

 つまりミリオンの好きな人は、

「三年前、あの人が死んでしまうまでは」

 既に、この世にいないという事だ。

「死因は老衰。天寿を全うしたという意味では、幸せな死に方かも知れない。でも、私には死に方なんて関係ない。あの人の居ない世界なんてただの地獄。だから後を追いたかったのに、あの人に止められてしまった。笑って生きていてほしいって言われてしまった。だから私は笑い続けようとしたわ……上手く笑えないけど」

 ミリオンはにっこりと、花中達と初めて出会った時と同じ笑みを浮かべる。

 一見すれば無感情で気持ち悪いその笑みが、今の花中には、泣いているように見えた。

「それでも昔は、まだ今よりももう少しだけ笑えたわ。あの人との思い出に浸るだけで幸せになれたから。あの人との思い出だけを胸に生きるつもりだった。身体が朽ちるまで、思い出だけを糧に生きていこうとしたの」

 綴られる愛の言葉に、花中は何も言えなくなる。強く、痛々しいほどの恋心が伝わり、恋を知らぬ身である事もあって掛ける言葉が見付からない。

 いや、掛けるべきではない、とも思う。

 こんなにも悲しい話を止める権利なんて、きっと誰にもない。

「……それはあの人の最後の予言。脳波を発する人間が何らかの要因で居なくなった時、受信する存在の知識がどうなるのか……怖くて、私が確かめる事を拒んでしまって、あの人が居なくなってからは思い出さないようにしていた、仮説」

 花中が発している脳波を『源泉』だとすれば、知能は水が溜まって出来た『池』であり、知識はそこに生える植物に当たるだろう。源泉から噴き出た水が知識という『種』を運び、根付き、豊かな緑……知能を形作る。全ては源泉により支えられ、その緑の形は、個々の過ごし方でいくらでも変わる。

 その『源泉』が失われた時、何がどうなるのか。まず『池』はどれだけ手を尽くしても徐々に水位を減らしていき、やがて枯れるだろう。延命療法的な事は可能かも知れないが、根本的な解決はほぼ不可能だ。

 では、水を失えばそこに生えていた『植物』はどうなるのか?

 ……『源泉』と共に、枯れるしかないではないか。

「あの人が死んでから丁度三百日目の朝。最初はあの人の好物……『ナポリタン』という言葉の意味が、分からなくなった」

「……知識を……思い出を、忘れてしまったの、ですか……?」

「ええ。伝達脳波を発する人間が居なくなった時、受信した際の余韻が完全な形で保てるのは精々一年。一年を過ぎると、私達の知性は少しずつ失われていく……あの人の仮説よりも、少し早い始まりだったわ」

「……っ」

「その一年で綺麗さっぱり全てを忘れてしまえたなら、それはそれで構わなかったけどね。でも、余韻が完全に消えるのに掛かる時間は、あの人の予測では約五年。その間私は……ゆっくりと、あの人を忘れ続けないといけない。そんなの耐えられない。あの人の想い出を抱きながら、あの人の下に逝きたい。でも、あの人に笑って生きていてくれと頼まれたから死ぬ事も出来ない」

「だ、だったら!」

 淡々と語られる呪いの言葉に、花中は堪らず口を挿んだ。

 花中もフィアが自分のせいで死んだと思ったからこそ、自分の命を投げ捨てても良いと思ってしてしまった。もしもフィアを蘇らせる方法があるのなら、所謂邪法と呼ばれる手段であったとしても、きっと縋ってしまったに違いない。

 ミリオンからすれば、昨日の今日出会った相手への想いなんかと一緒にされたくないだろう。花中自身、ミリオンの気持ちを完全に理解出来たとは思わない。それでも、本質的な部分は分かったつもりだ。

 だから、花中は思う。

 もしもフィアが死んでしまった自分のために過ちを犯そうとしたら、嬉しさよりも悲しい気持ちになってしまう、と。

「そ、そんな事を、人の命を奪って、あなたの好きな人が、喜ぶ、と、思って……!」

「思ってる訳ないじゃない!」

 しかし伝えようとした想いは、ミリオンの叫びで遮られた。

「あの人が、優しかったあの人が、誰かが死ぬような結末を望んでる訳ないなんてアンタに言われなくても分かってるわよ! でも、でも、これしか……もう、これしかないの……耐えられないのよ……忘れてしまうなんて、『かも知れない』でも嫌なの!」

 堰を切ったように溢れ出るミリオンの叫び。怒号の如く大きな声は花中の身体に刺されたような痛みを感じさせ、無感情から一変した悪鬼の形相より放たれる悲哀の眼差しは胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。それでも花中は、ミリオンを怖いとは思えない。

 この人はさっきまでの自分と同じ――――『大切な人』を失う事が怖くて堪らない臆病者なのだと分かったのに、どうして怖いと思えるのか。

「もう、嫌なの。また忘れてしまうかも知れないなんて、考えるのも嫌なの……私は、早く安心したいの……あの人との思い出を忘れたくないだけなの……だから……!」

 悪鬼の形相は崩れ、ミリオンの顔は悲愴な面持ちに変わる。涙を零さずとも、花中には泣いているようにしか見えない。

 勿論、花中の命を奪うと言っている事に変わりはない。しかし拒絶を躊躇わせるほどの想いをぶつけられ、命を狙われているにも関わらず、花中は息を飲んでしまう。

 代わりに、フィアが首を横に振った。

「申し訳ありませんがお願いは聞けませんね」

「なんで!? あなただって自分の記憶が失われるのは嫌でしょ!? 何時か全てを忘れるなんて考えたくもないでしょ!?」

「確かに考えたいとは思いません」

「だったらなんで! なんでよ!?」

「うーん。あなたの事が嫌いなので逆らいたいとかそんな先の事を深く考えると頭が痛くなるとか細かな理由は色々ありますけど」

 フィアは面倒臭そうに頭を掻く。仕草に真剣みはなく、花中と違ってミリオンの悲痛な叫びも何処吹く風だ。

 ただし、

「好きな人を渡せと言われて素直に渡す訳がないってのが一番の理由ですね」

 この言葉だけは、真っ直ぐミリオンを睨みながら言い放った。

 ――――ミリオンの動きが、止まる。腕を下ろし、表情も消す。

「……そうね。私だってあの人を渡せと言われたら、そいつをゴミにしてやるわ」

「そういう事です。というかこれもう何度目のやり取りですか? いい加減無駄だと分かってほしいのですけど」

「生憎、諦めは悪い方なの……もう言葉を交わす意味はない。この時のために二年間も準備したのに、世界中を探し回ったのに、アンタなんかに邪魔されて堪るものか」

 ミリオンは全身から力を抜き、じっとフィアを見据える。フィアもミリオンを見据えながら両腕を広げ、獣染みた前傾姿勢を取る。対極的な体勢であるが、二人が臨戦状態なのは纏う雰囲気から明らか。

 気持ちも姿勢も整えていないのは、あとは花中だけだ。

「(だ、ダメ、だった……)」

 ショックのあまり、花中は身体をよろめかしてしまう。話を聞けば和解のヒントがあるかもと期待していたが、狂信的な愛の前では理論や倫理は何の意味もないと思い知らされる結果になってしまった。

 勿論『こんな事』で和解を諦めたくはない。しかし今はなんの作戦も思い浮かばない。

 花中に今出来るのは、邪魔にならないよう少しでもフィアから離れる事ぐらいで、

「時間が惜しいから、さっさと終わらせるわよ」

 一歩と後ずさる間もなく、ミリオンが跳んだ。

 ただ一回の跳躍で数メートルは開いていた筈のフィアとの距離は詰まり、瞬きほどの時間でミリオンは腕を振り上げる。その瞬間が花中に見えたのは最早奇跡……そう言っても差し支えないほどミリオンの行動は素早く、一切の躊躇いがない。

 花中には声を上げる事すら出来ず、触れただけで四肢を切断してきたミリオンの掌がフィアの頭部に触れ――――

「ふんぬぁっ!」

 フィアは頭でその手を押し返し、ミリオンの綺麗な顔面に頭突きを食らわせた!

「がっ! ごっ!?」

 頭突きをもろに貰ったミリオンは後頭部を岩で出来た地面にぶつけ、衝撃で身体をバウンドさせる。その様は車にでも撥ねられたかのように凄惨。人間なら死んでいない方がおかしい吹き飛び方だったが、ミリオンは跳ねた勢いでバク転し、軽々とフィアとの距離を開ける。

 スマートに体勢を立て直す辺り、どうやらダメージは皆無らしい。だがミリオンの目はしっかりと見開かれ、瞳が動揺を表すように揺らいでいた。

「な……何が……!?」

「あっはっはっはっ! 触れたのに私の身体が蒸発しなかったのがそんなにも予想外ですか? あまり嘗めないでもらいたいですね。あんだけやられたら多少は対策を考えますしそのためにもあなたの能力に見当ぐらいは付けています! 案外簡単に分かってしまい拍子抜けしましたけどねぇ!」

 心底馬鹿にした台詞を心底楽しそうに語るフィア。余程ミリオンを突き飛ばせたのが嬉しかったのか、上機嫌に種明かしを始めた。

「あなたの能力は『触れた物体の温度を上げる』事でしょう? 私のこの身体を触れただけで切断出来たのは接触面を加熱して蒸発させたから。そりゃ蒸発させられたら強度なんて関係ありませんよね。あなたに触られた場所で湯気が上がるのも納得です」

「……っ」

「無言は肯定と受け取りましょう。さてあなたの能力が分かれば対策は簡単。蒸発されてしまうと言うのなら沸点を上げてしまえば良い。今は普段の二十倍ぐらい……大体二千度程度まで上げているのですよ」

「あ、上げたぁ!? 嘘よ! そんな、どうやって!?」

 聞き逃せないとばかりに、ミリオンは声を荒らげて否定する。無理もない。フィアの味方である花中だって、思わず「そんなのあり得ない」と言いたくなったぐらいなのだから。

 物質の沸点を上げる方法は主に二つ。圧力を上げるか、溶剤を加える事だ。特に圧力を加える方法なら、理論上加えた分だけ沸点はどんどん上がっていく。

 しかしこれらの方法で現実的に上げられる沸点は精々数十度。仮に圧力を高める事で水の沸点を通常の二十倍……二千度にするには、数万気圧という地球中心部並の圧力が必要だ。特殊な能力を持っているとは言え、生物が単独で惑星並のパワーを生み出せるとは到底思えない。

 なら一体どんな裏技を使っているのか。

 ――――まさか、自分の命を削るような危険な真似をしているのでは。

「空気中に逃げようとする水分子を頑張って捕まえているのですよっ!」

 花中のそんな不安は、フィアの堂々とした物言いで彼方に吹き飛んでしまった。

 頑張ってどうにか出来るの?

 思わずそうツッコみたくなるが、花中は口を噤む。気体とは分子が液体よりも自由に動き回れる……単独行動を始めているような状態である。故に単独行動を始めようとする分子を無理やり一纏めにすれば、液体のままに出来る。その力が圧力であり、高圧力環境で沸点が高くなる理由なのだが……もし分子を()()()集められるのなら、圧力を掛ける必要はない。無数の分子は一塊となり、どんな高温に曝されようと液体の状態を保ち続ける事になる筈だ。

 説明としてはそこまで破綻していない……と言えなくもないかも知れないような気がしなくもない。

「ぶ、あ、あっははははははははははははははははははは!」

 そう自分に言い聞かせるがやはり納得出来ず苦笑いを浮かべてしまう花中に対し、ミリオンは品のない声で大笑いした。

 真面目に語っていたであろうフィアは、唇を尖らせて不満を露わにする。

「……何がそんなにおかしいのですか?」

「笑わずにはいられないわよ! ああ、こんなに笑ったのは、あの人が死んでからは初めて……そうね、あの人が言っていたわ。有袋類が有胎盤類によって大部分が絶滅させられたように、かつて地上の支配者だった裸子植物が被子植物によって遥か北まで追いやられたように……世界を支配するほど繁栄したどんな生物も、新たに生まれた種によって駆逐されてきた。やがて君達は人類を滅ぼし、最終的に次の地球の支配者となるだろう。故に人間の物差しでは、君達の力は到底測りきれない。人間の知性に負けて絶滅寸前のオランウータンには、自分達を撃ち殺していく猟銃の仕組みすら満足に理解出来ないのだから……あの人の口癖だったのに、今の今まですっかり忘れていたわ! く、くく、くははははははははははははっ!」

 ミリオンは堪え切れないのかまだまだ笑い続ける。片手で抑えているので半分しか覗かせていない顔は愉悦に歪み、挑発や嘲笑ではなく、本心から笑っているのが分かる。

 更に言えば、

「良いわ。あなたが『新たな支配者』らしく人間の常識を超えるというのなら、こっちも人間の常識を超えてあげる」

 付け加えるように語られた言葉に、花中は虚勢を感じなかった。

 次の瞬間、ミリオンが片腕を伸ばして突進してくる!

「不意を突けば防御を破れると思いましたか!」

 再び襲い掛かってくるミリオンの手に、フィアは握りしめた拳を向かわせる。そのまま行けば二人の手は正面衝突。負けた方が『身体』の一部を砕かれる。

 花中の脳裏に過ぎった結末は――――

「避けて!」

「っ!?」

 無意識に出た花中の叫びが届いたのか、フィアは身体を大きく右に傾けた。その拍子に拳の軌道がずれ、ミリオンの拳とは掠るだけで済む。

 結果、フィアの拳の表面が僅かに()()()

「なん……くっ!」

「え、ひゃぁっ!?」

 その『意味』を察したのか、フィアは自動車でも出せそうにない加速と速度で後退。花中は後退してきたフィアに捕まり、腰と背中を手で支えられた……お姫様だっこの形で一緒にミリオンから離れる。

 ミリオンは花中達を追って来ず、面倒そうに舌打ち。

 しかしすぐに勝ち誇ったように笑うと、その場で指を一本立て――――告げた。

「一つ、教えてあげる。私の能力で上げられる温度の上限は、約七千五百度。その意味が分かるかしら?」

「なんっ……!?」

「……!」

 フィアの声は途中で途絶え、花中に至っては一言漏らす事さえ出来なかった。

 七千五百度。この数字はフィアが操る水をも気化させる高温……それだけでは済まされない意味を持つ。

 例えば鉛は一気圧環境では約千七百五十度、鉄や金でも二千八百度程度で沸騰し、気体と化す。現在最も沸点が高い物質と言われている炭化タングステンでさえ、約六千度が限界。それ以上高温になれば気体となってしまう。

 即ち、地球上に存在する物質ではミリオンを止められないのだ。いや、太陽表面が六千度でプラズマ化している事を踏まえれば、この宇宙にあるあらゆる物質で壁を作っても、ミリオンは決して止められない。彼女が触れた瞬間この世の全ての物質は、気体ですらなくなってしまうのだ。

 ましてや水程度では……

「ふぃ、フィアちゃん。あの、ふ、沸点上昇って、もしかしなくても……」

「……二十倍が限界です。いえ測った訳ではないので正確な沸点は分かりませんけど何時もの二十倍ぐらい『元気』な水分子が捕まえられる限界なんですよ。それ以上になると」

「……うん……分かった……」

 小声で一応確かめてみるが、対抗なんて夢のまた夢だった。

 触れた瞬間蒸発してしまう以上、フィアの水はミリオンに対する武器にも防具にもなりえない。つまり丸裸で挑むようなものである。ハッキリ言って自殺行為以下の、愚行でしかない。それに出来れば、やっぱり二人には命懸けの戦いなんてしてほしくない。

 故に、花中が取る策は一つ。

「と、とりあえず、ここは逃げよう……逃げながら、何か作戦を考えて……」

 花中はミリオンに聞こえないよう、自分を抱きかかえてくれているフィアにこっそりと耳打ちした。

「絶対に逃がさない」

 しかし何故かミリオンには筒抜け。

 聞かれているとは思わず、花中は反射的にミリオンを見遣る。ただ、視線はすぐにミリオンの傍……何時の間にか現れた、喪服に使えそうなほど黒いワンピースを着たもう一人の『ミリオン』へと移った。

 花中は思い出す。ミリオンが『三体』は居た事を。

 花中は思い出す。三体のミリオンも、まるで瞬間移動してきたかのように現れた事を。

 花中は思い知らされる。

 重要な目的のためとはいえ、迂闊に総力を結集するようなマヌケはそう居まい。

 しかし怒り狂い、焦りで我を忘れているのなら話は別だ、と。

「逃がさないわ」

 この大空洞に来るために花中が、そしてフィアも通った穴から、三体目のミリオンが現れる。

「絶対に逃がさない」

 天井から舞い降りるように四体目のミリオンも現れる。

「逃がさない」

「逃がさない」

「逃がさない」

 この場にたくさん開いている、一体何処に繋がっているかも分からない穴から五、六、七体目のミリオンが現れ――――もう、花中は数えるのを止めた。

 花中が数えるのを止めてもミリオンは止まらない。唐突に姿を現すミリオン、巣から溢れる蟻の如く穴という穴から出てくるミリオン、雨のように天井から降ってくるミリオン……『湧く』という表現しか使えない勢いで、ミリオンは数を増やしていく。

 時間にすれば三十秒も経っていない。

 その三十秒に満たない間で、野球場にも匹敵するこの場はミリオンで埋め尽くされてしまった。あまりにも多過ぎて大雑把な数すら把握出来ないが、何百、或いは千を超えていたとしても納得してしまうほどの大群。

 そして花中とフィアが位置するのは、何百以上ものミリオン達の中心。

「「「「「逃がさない。細胞一つだって、絶対に」」」」」

 隙間一つない包囲網から、花中達の逃走劇は始まる事となった――――




次回投稿は7/16の予定です。


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ファースト・フレンズ8

「う、そ……こんな……」

「これは中々壮観ですね。百万(ミリオン)に届かないのは惜しいですが」

「「「「「この状況でよく強がりを言えるわね。九百六十八人の私とどう戦うつもり?」」」」」

 眉を潜めながら煽るフィアを、自称九百六十八人のミリオン達が、不愉快そうな声で煽り返してくる。千近い音源が四方八方から同時に語り掛けてくる違和感は凄まじく、たった一言聞いただけで花中は乗り物酔いに似た吐き気を催してしまった。

 いや、頭の中が酔ったように揺らめくのは、自分達の置かれた状況が過剰なまでに絶望的だからか。

 洞窟内にあるドーム型のこの場には幾つもの『穴』が開いていたが、その穴の全てに最低でも一人のミリオンが陣取っている。故に穴を通るにはミリオンを一人は倒さねばならないが、現状花中達にミリオンを倒せる手段はない。あったところで数秒も時間を掛ければ、他数百人のミリオンに襲われてあっさり終幕だ。勝ち目など、万に一つもあり得ない。

 否、弱気になってはダメだ。直接対決ではどうにもならないのなら、脱するための策を練らねば――――

「どうやって戦うつもりと訊かれましても答えようがありませんね。花中さんの助言もありましたし私はこの場からさっさと逃げ出すつもりなので」

 そんな思考を巡らせていた花中にとって、フィアの堂々とした物言いほど心強いものはなかった。

「「「「「逃げ出す? 一体何処に? 包囲されているのが、まだ分かっていないの?」」」」」

「分かっていないのはそちらの方です。ひーふーみーよー……四つお教えしてさしあげましょう。一つ私の能力は水を操る事ですがその応用で操っている水の周辺なら目視しなくとも把握出来るのです。手探りのようなものなので地形と材質しか分かりませんけどね」

 自慢げに語るフィアの手に力が籠るのを、抱かれている花中はふと感じる。この場から脱する策が思い付かない花中は、せめてフィアから離れないようしがみついた。

「二つ目はこの洞窟の状態。地下水の影響からかこの洞窟は何処もしっとりと濡れています。私は操っている水と連結している水なら何処までも操れましてね。既にこの洞窟内にある水の大半は支配下にあり地形の把握も済んでいます。私が今立っているこの真下に人が通れるだけの空洞がある事やこの洞窟から出るためのルートは判明しているのです」

 「出るための」とフィアが言った途端、ミリオン達が一斉に、一瞬ではあるが身体を震わせる。表情も強張らせたように見えた。

 そして花中もまた、ミリオン達と共に身体を震わせる。ただし表情は綻ばせて。

 フィアが本当にこの洞窟内の地形を把握しているのなら、逃げている最中うっかり袋小路に入ってしまう可能性が格段に下がる。洞窟から出るのも、ミリオンからの妨害がない限り容易となる筈。これから逃げようとする花中にとって、フィアの言葉は希望そのものだ。

 希望そのもの、だった。

「三つ目。あなたが全然本気を出していなかったように私もまだまだ本気ではない事。あまりたくさん水を集めると『身体』が重くなり過ぎて地面に沈んでしまい満足に歩けなくなってしまいますからね。あなたと初めて戦った時は全力の一パーセントも出せませんでしたよ」

「「「「「……なんですって?」」」」」

「そして四つ目。この洞窟の地質が非常に頑強だったために――――『三百トン』もの水を集めても歩くだけならなんの支障もなかった事ですっ!」

 希望は、力強く言い切ったフィアが跳んだのと同時に恐怖へと変貌した。

 フィアのジャンプは凄まじかった。何しろ跳ね上がる瞬間花中の耳に痛みを覚えるほどの爆音を轟かせ、その身を五メートル近い高さまで押し上げたのだ。正に人外の跳躍力。抱き抱えられている花中は当然驚いた。

 だが、問題の本質はそこではない。

 五メートルもの高さから重さ三百トンの物体が落ちる……その衝撃力たるや、一般道を走行する大型トラックとの衝突事故に匹敵する。真っ当な生物なら即死するほどのエネルギーであり、大抵の物体は原型を留めないほどに破壊されるだろう。

 そんな打撃を真下が空洞になっている、しかも跳び上がった際の衝撃でいくらか脆くなっている筈の地面に叩きつけたらどうなるか? 地面の厚さにも依るだろうが……崩落してもおかしくない。

 生身の人間は地面の崩落に巻き込まれたら死ぬ。とりあえず死ぬ。死なない方が変だ。

 生身の人間である花中は、フィアにそう伝えたかった。伝えたかったが、フィアはもう跳んでしまったので今更どうにも出来ず。

 着地した瞬間、フィアと花中の足元は悲しいほどあっさりと崩れ落ちた。

「それではさ「きゃわああああああああああああああああああああああああ!?」

 フィアは何か ― 恐らく勝ち誇った台詞を ― 言おうとしていたが、地面の崩落音と、それに負けない大声量で叫ばれた花中の悲鳴に掻き消された。何人かのミリオンが目を見開きながら花中に手を伸ばしてくるも、地の底へと落ちる花中の方が速くて届かない。

 破壊された足場は、花中達が落ちる穴目掛け流れ込むように崩落。無数の岩が押し寄せてきた。フィアが『身体』から大量の水を出し、自身と花中を包み込むほど巨大な『水球』を作り出して岩を跳ね返してくれたから良かったものの、そうでなければ花中は真っ赤なジャムに加工されていただろう。

 尤も、身を守ってくれている水の方も花中を頭まですっぽりと包んでおり、呼吸の妨げになっていたが。予め息を吸っていたならまだしも、花中は大絶叫で肺の中身が空っぽ。最早拷問のような状態だった。

「どっこいしょーっと!」

 苦しむ花中を余所に、フィアは悪びれるどころか楽しそうにはしゃいでいた。真下にあった空洞に無事着地するや、フィアは水球を『身体』に吸収。花中をお姫様抱っこしたまま駆け出す。大股走りという不格好なフォームなのに、ブレーキなしで坂を降りる自転車並みの速度があった。

「どうですか花中さん! ミリオンを出し抜いてやりましたよ!」

「ややややりましたじゃないよぅ!? 生きてる心地しなかった! 差し出されたミリオンさんの手を思わず掴もうとしちゃったよ!? それに息も出来なかった!」

「え? 息? ……………ぁ」

「忘れてたの!? わたしが肺呼吸って忘れてたの!? こ、このエラ呼吸っ!」

 あからさまにそっぽを向くフィアを両手でポカポカと叩きつつ、一先ずミリオンから逃げ出せた事に花中は安堵……しようとした。

 ふと、思う。

 此処は洞窟の奥深くで、太陽光も月明かりも届かない漆黒の世界である。そして今フィアが走っているのはその洞窟にある道の一本。先程まではミリオンが周囲を照らしていたので明るかったが、現在そのミリオンから逃げているので光源から遠ざかっていく状況だ。つまりフィアが走れば走るほど、ミリオンから離れれば離れるほど、周りはどんどん暗くなっていく筈である。

 だったら、何故そっぽを向くフィアの顔が見えている? それどころか時間が経つほど、フィアの顔がよく見える気がするのは気の所為か?

 ついでに……段々大きくなっている、何かを削るような轟音は何?

「「「「「逃がすかああああああああああああああああああああああああっ!」」」」」

 答えはフィアの背後から聞こえてくる、エコー掛かった怒声が教えてくれた。

 わざわざ見なくとも花中は悟る。大体何が起きているのか理解する。

 それでも見ないではいられず、花中はフィアの肩越しに後ろを覗き込んだ。

「え?」

 直後花中の口からぽつりと出たのは、理解不能を訴える声。

 花中は、背後に居るのはミリオンの大軍だと思っていた。聞こえてきたのはミリオンの声だったし、洞窟内を照らせるのもミリオン。そもそもこの洞窟に居るのは、フィアと自分を除けばミリオンだけの筈。ミリオン以外が自分達を追い駆けてくる訳がない。

 しかし覗いた先にミリオンの姿はない。代わりに居たのは――――『黒い手』。

 人のものと同じ姿形をしているが色は真っ黒で、指先は蛍光灯のように白く輝いていて……長身なフィアが悠々と走れる程度には広いこの道に、ぎゅうぎゅうに突っ込まれた巨大な手。

 そんな()()()()、周囲の岩を削り飛ばしながら自分達を追ってきている!

「うぇええええええええええええっ!?」

「はい? どうかしましぬおっ!?」

 花中の悲鳴に続き、フィアが驚きの声を漏らす。フィアは後ろを振り向いていないが、フィアの本体は『身体』の中を泳ぎ回っているフナの方。人間のような『身体』自体は作りものだ。どうやっているかは花中にも分からないが、外界の景色を取り込むための場所は『目』である必要などない。正面を向いたまま後ろの景色が見えていたとしても、なんら不思議ではなかった。

 尤も、そんな事を気に掛けられるほど今の花中に余裕はない。

「かかか花中さん!? なんですかアレは!?」

「お、おお、おそ、恐らく! みり、ミリオンさん!」

「「「「「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」」」」」

 殆ど憶測で言った花中の答えだったが、追い駆けてくる『手』が無数のミリオンの声で咆哮を上げた事で確信に変わる。

 サイズと岩を削り飛ばすほどの質量から考えて、ミリオン一体が変形した姿とは思えない。恐らく千近いミリオンが合体し、一つの巨体へと変貌したのだろう。狭い場所ではいくら大軍を用意しても、いざ戦う時には一対一となってしまう。これでは多勢に無勢のメリットを最大限に活かせない。反面千体分のパワーを持った怪物としてぶつかれば、狭い場所でも最大戦力で挑める。とても合理的な判断だ。

 しかしいくら合理的でも、花中は『手』がミリオンである事を認めたくなかった。

 恋とは、思い出とは、そこまで執着出来るものなのか。

 正気では直視も出来ないような姿になってでも、離したくないものなのか!?

「全く気色悪い奴ですね! あんなのと関わるなんてごめんですしさっさとこの洞窟から抜け出して振り切るとしましょう!」

 フィアがミリオンの心境を、「気色悪い」の一言で片付けてしまうのも仕方ない事だろう。花中にだってミリオンの心は理解出来ない。

 だが、

「だ、ダメっ!」

 花中は逃げる事を選ばなかった。

 ダメと言われてしまい、フィアは狼狽とも取れるほど困りきった顔になる。

「あの花中さん? さっきは逃げようと言ってたような……」

「逃げるけど、で、でも、洞窟から出ちゃダメ! 理由は、ふ、二つ! ミリオンさんは、自由に姿を、変えられるみたいだから……開けた場所で、複数に分離、されたら」

「……包囲攻撃を受けると。成程それは流石に面倒ですね。多少不自由でもこの洞窟内でケリを付けなければならないという訳ですか」

「う、うん。それから……」

 外に逃げてはダメな二つの理由。その二つの内で()()重要な理由を答えようとして、花中は言葉が詰まってしまう。

 これは、花中のワガママだ。

 言ったところでフィアに嫌われるとは思っていない。それでも言うのを躊躇うぐらい自分勝手な理由。勇気が持てなくて、言葉が喉の奥から出てきてくれない。

 だったらいっそ飲み込んでしまっても変わらない――――

 弱気になる花中。

 そして、自己嫌悪する。

「言い難い事なら相談する前にやってしまうのも一つの手ですよ?」

 弱さを見せた自分の背中は、何時だってフィアが押してくれたのだから。

「……ごめんなさい。ずるい、よね」

「何の事か分かりませんがずるくて結構。『生き物』なんてみんな身勝手なもんじゃないですか? 私もアイツも含めて。さぁ好きにやっちゃってください!」

「うんっ!」

 迷いのない返事をし、花中はフィアの肩から身を乗り出す。バランスは悪くて、ぐらぐらと身体が揺れる。走るフィアの速さを物語るように景色は目まぐるしく動いており、万一落ちれば全身がバラバラになってもおかしくないと感じた。

 けれどもフィアが腰の辺りを支えてくれるから怖くはない。

 身を乗り出した花中が見るのは、壁を削り、天井を抉り、地面を吹き飛ばして追い駆けてくる『手』の怪物。

 全身が震える。冷や汗が流れる。

 そんな不気味な怪物を前にして花中は大きく息を吸い、

「ミリオンさん! あ、あなたの不安は、わたしが、晴らしますっ!」

 精一杯の大声で、宣誓してやった。

「「「「「晴らす!? 私の不安を、思い出が消える恐怖をどうやって!? それとも命乞いで言ったの!? 私のあの人への気持ちを利用するなんて、許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないッ!」」」」」

 宣誓した途端『手』の形を作っていたミリオンの姿は大きく歪み、呪詛の叫びを上げる。叫びは花中の身体を電流の如く流れるほどの存在感を放ち、衝撃のあまり花中は思い描いていた言葉を失念しそうになった。

 だが、花中の目は揺らがない。

 自分と同じ臆病者の気持ちなんて手に取るように理解出来る。何をどう怖がっているのかすぐに分かる。どうすればその不安を取り除いてあげられるかも分かる。

 だから、

「わたしは、寿命以外では絶対に死にませんっ!」

 普段なら決して言えない夢物語を、断言してみせた!

「「「「「は、はぁッ!?」」」」」

「こ、これでも健康には、自信がありますっ! 三食、ちゃんと、と、取っていますし、一日三十品目、食べるように、しています! 間食だって、週に一回だけ、で、その一回も、自分で作った、無添加お菓子、です!」

「「「「「それがどうしたって言うのよ!? いくら健康に気を遣っても、車にでも撥ねられたらそれで終わりよ!」」」」」

「撥ねられませんっ!」

「「「「「なんでよっ!」」」」」

「フィアちゃんがいるから!」

 絶句、したのだろうか。ミリオンの反論が途切れる。

 自分の意見を押し通すのに、今を逃がす手はない。

「フィアちゃんと、一緒なら、あなたみたいな『強敵』にも、か、勝てます! 怪獣みたいなあなたに、勝てたら、もう、普通の事故じゃ、死なないって、証明になる! あなたぐらい強い、生き物が現れて、襲い掛かっても、返り討ちです! だから!」

 もう一度、大きく深呼吸。

「だからあなたを、やっつけちゃいますっ!」

 最後に渾身の、ミリオンの不安を吹き飛ばさんばかりの大声をぶつけた。

「「「「「……ふざけるな……」」」」」

 岩の砕ける音に紛れ、唸るような低音が、響く。

「ふざけてません!」

 その微かな低音に花中は迷いなく言い返す。

「わたしは、決めたんです! みんなと仲良くしたい! だから、あなたとも仲良くしたいんです! あなたが、怖がっているのなら……わたしは、あなたを助けたい!」

「「「「「ふざけるな……ふざけるなフザケルナフザケルナアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」」」」」

 ミリオンの咆哮が花中の身体を揺さぶる。それでも花中は興奮しきった表情を崩さず、乗り出していた身を引いて元のお姫様抱っこされる体勢に戻った。

 妄想レベルの期待を言えば、今の『説得』でミリオンには考えを改めてほしかった。戦う展開は避けたかった。しかしこうなる事は想定内。戦いになる事は予定通り。

 後は、友達にお願いするだけだ。

「という訳で! ミリオンさんを此処で、倒すよっ!」

「合点承知ですっ!」

 勇ましく返事をしたフィアは更に速く洞窟内を駆ける。

 駆けると言っても、フィアは今までの大股走りを止めている。それどころか足を殆ど動かしていない。にも拘わらず、自動車よりも上ではないかと思えるほどの速さを出していた。

 恐らく足の裏部分に水を染み出させ、スケートのように地面を滑る事で高速移動を行っているのだろう。勿論走り方は問題ではない。ある程度の時間ミリオンから逃げ切れるのなら、どんな方法で走ろうが今は構わない。

「今から作戦を、考えるので、なんとか、に、逃げ続けて!」

「了解です! しかしこのスピードを維持するとなると少々揺れが激しくなりますが……」

 気遣うように、フィアが尋ねてくる。確かにフィアが速度を上げてから、花中を襲う揺れは酷くなっている。滑りながらの移動なので地面の起伏がもろに伝わってくるのが原因だろう。

 落ち着いて考え事をするのには向いていない環境だ。

「大丈夫!」

 恐らくフィアはそう思っていたに違いないが、花中の返事は、花中史上最も元気で自信に満ち溢れていた。花中自身自分には不釣り合いだと思う返事は、フィアの表情を僅かに怪訝なものへと変える。

「悩むと、周りが見えなくなるのが、わたしの悪い癖だもん!」

 だからもう一声付け足し、怪訝そうだったフィアを思いっきり笑わせてやった。

 花中は耳を塞ぎ、目を瞑り、意識の全てを自分の内側に向ける。これでもう外の事は分からない。脳を満たすのは不安や恐怖ではなく、単語と映像がごちゃ混ぜになった記憶のスープ。

「(まず、ミリオンさんの本体がなんて生き物か考えよう。正体が分かれば、弱点も分かるかも知れない)」

 目標を決めたら、次は必要なものを選ぶ。

 大きく裂けても容易に再生する身体、触れた物を加熱する能力、自分の遺伝子を細胞から抜き取る宣言、千体の軍勢――――ミリオンから聞いた話、フィアが言っていた言葉、自分が目の当たりにした光景を記憶のスープから取り出す。

 続いて、選んだ光景を頭の中で素早く再生。DVDのお気に入りシーンを繰り返すように、何度も何度も、しつこいほどに確認していく。

 次々と浮かんでくる膨大な情報……その中で一番気になったのは、ミリオンが告げた『細胞から遺伝子を抜き取る』という言葉だった。

 クローンを作成する方法は色々とあるが、どれも高価な薬品、機材、電力等々、一個人では到底揃えきれないものを必要とする。いくら学者と一緒に暮らしていたといっても、クローン作製に必要な物の全てをミリオンが持っているとは考え辛い。

 それにミリオンは花中を連れ込んだあの広間で、すぐにでも遺伝子抽出を始めるつもりだったように思える。あの辺りには、機材どころか道具すら見当たらなかった。一体どうやって花中から遺伝子を抜き取るつもりだったのか。

 ――――まさか、ミリオンは自身の力だけで、細胞から遺伝子を抽出出来るのか?

 疑問の答えを探す中で、ふと脳裏を過った可能性。生物にそんな事が可能なのか? 結論から言えば……可能だ。

 ある『生物』は他の生物の細胞に侵入し、自らの遺伝子を宿主の遺伝子に組み込む事で、他者の細胞に自身の『クローン』を作らせるという方法で繁殖する。これは何も特異な事例ではなく、むしろその『生物』の仲間はこの方法以外では繁殖出来ない。世代を交代するためには欠かせない機能だ。

 では、もしその仕組みを『生物』自身が意図的に制御し、自分の遺伝子ではなく他者の……花中の遺伝子を細胞に組み込めばどうなるのか?

 遺伝子とはあくまでタンパク質合成のための設計図であり、細胞はその設計図が何を意味するのかなど考えない。出来あがったタンパク質が自身の肉体なのかその『生物』なのか、或いは花中なのか。細胞(工場)には分からないのである。

 身体には様々なセキュリティが存在する。自分以外の遺伝子情報を持った細胞は『異物』と見なされ、免疫細胞によって駆逐されてしまうだろう。しかし最初の、まだ細胞が一つしかない瞬間……受精卵の遺伝子を丸々入れ替えてしまえば、その細胞は入れ替えられた遺伝子を元に身体を作る。免疫細胞すらもその遺伝子によって作ってしまう。そうなれば免疫による排除作用は起こらない。

 入れ替えられた遺伝子によって身体の全てが作られたなら、それは正しくクローンだ。

 勿論本能的に自分の遺伝子を組み込むのと、意図的に他者の遺伝子を組み込むのとでは難度が全く違うだろう。だからこそミリオンの「殆ど失敗する」という言葉がこの推測の正しさを裏付ける。

 またその『生物』がミリオンの正体であるなら、ミリオンが見せた数々の力にも説明が付く。クローンで増殖するという事は、同じ遺伝子を持つ個体が増える事を意味する。『伝達脳波を受け取る個体』のクローンもまた、伝達脳波を受け取れる筈だ。そして知性を持つ個体が集まり、意思を統一させる事が出来れば……それは一つの個体のように振る舞える。そんな塊を千体用意すれば、千人の自分が居るのも同然。小さな生物の集合体なら合体も離散も自由自在だ。

 物を加熱する能力の原理は恐らくはこう。熱とは分子が持つエネルギー。例えば電子レンジは、マイクロ波によって水分子を振動させる事で物体を加熱する。超小型生物なら分子レベルで対象に接触し、()()()()()()事も可能だろう。そして花中が思い描いている『生物』は、細菌どころではない……文字通り分子レベルの小ささを誇る。

 全ての辻褄が合う。自分の推測が間違っているとは思えない。

「……ウイルス」

 だから花中は、思わず答えを呟いてしまった。

「「「「「「っ!?」」」」」」

 瞬間、追い駆けてくるミリオンがざわりと音を鳴らす。例え表情や声がなくとも、その反応が動揺なのは手に取るように分かる。

「おおっ!? ミリオンの奴動揺していますね! 流石花中さんです!」

 フィアも誇らしげに褒めてくれる。

 それでも花中の表情は強張ったままで、身体は震えるだけ。

「「「「「う、くく、くひひひははははははははっ! 流石はなちゃんねぇええ……大正解っ! まさかこんなに早く当てられるなんて! ご褒美にもっと詳しく教えてあげちゃうわっ!」」」」」

 花中の姿が『見』えているのだろうか。指先を眩く光らせる巨大な手(ミリオン)はけたたましく笑い、吠え、称賛の言葉を花中に送ってくる。動揺はした。

「「「「「私はウイルス! 今までに何億もの人間を殺してきた存在……インフルエンザウイルスのミュータントよっ!」」」」」

 そして、宣言通り己の正体を明かした。

「そん、な、嘘……」

「「「「「嘘じゃないわぁ! ああ、残念ねぇ! 今すぐ殺す必要がなかったらはなちゃんに感染して元がインフルエンザである事を証明出来たのにねぇえええええ!」」」」」

「ふんっ! 勝手に吠えていなさい! 正体が分かった以上すぐにでも花中さんが素敵でミラクルで鮮やかな駆除方法を閃きますよ! 今のうちに逃げる算段を立てておくのですね!」

 寸分も怯えていないミリオンを、フィアは自信満々に挑発する。

 申し訳ないが、花中にはそんなフィアの姿が滑稽に見えてしまう。

 ()()()()()()()()()()()

 ウイルスはタンパク質で出来ていて、増殖もし、どちらか片方とはいえDNAやRNAなどの遺伝子を持っている。しかしウイルスは他の生物なら当然行っている事――――代謝を行っていない。簡単に言えば「ご飯を食べ、消化し、その栄養を使って生きる」事がウイルスには出来ないのである。ちなみに代謝を行なっていない個体の事を、一般的には『死体』と呼ぶ。生命の定義すらも満たしておらず、故にウイルスの学問上の扱いは『非生物』だ。

 生物でないのなら、生きていないのなら……『弱点』など存在しない。

「(も、もしも細菌とかだったら、フィアちゃんの水に抗生物質とかを溶かして、吹きかければ打撃を与えられた……でも、ウイルスだったら薬は何の効果もない! タミフルとかリレンザとか、インフルエンザの特効薬って確かにあるけど、あれは感染力を失わせる薬! ウイルス自体を殺す訳じゃない!)」

 薬を使えばウイルスを『不活性化』……感染力を失わせる事は可能だ。だが、ミリオンの攻撃方法は物理及び熱的なもので、感染性のものではない。それにインフルエンザは高温多湿に弱いウイルスである。この蒸し暑い洞窟内でミリオンが平然と活動している点を考慮すれば、感染力を奪ったところで戦闘や思考に支障は出まい。

 そもそもウイルスは生物ではないのだから、何を以てしてミリオンは『生きている』状態なのかが分からない。薬品をぶちまけるなり高温に晒すなりしてタンパク質を変性させて、それで戦闘不能になるのだろうか? 物理的に破壊すれば機能が停止するのか? いや、それ以前に熱や薬品は通じるのか。加熱能力を持っているのだから、熱への耐性はあると考えるべきだ。熱で変性・分解されてしまうので薬品も効果は期待出来ない。絶対に防げないと断言出来るのは、物理的衝撃による破壊ぐらいか。

 しかし目に見えないほど小さな『物体』を、殴ったり蹴ったりなんて出来ない。その上ウイルスには臓器も血液もないのだから、原型を留めないぐらい潰れても、身体を半分以上失っても平然としている可能性はある。挙句相手は『大軍』。一体何百兆……何百京の個体を破壊せねばならないのか。

 無理だ。絶対に倒せな――――

「倒せます!」

「っ!?」

 耳元で叫ばれた言葉によって、花中のネガティブ思考が吹き飛ぶ。

 それはフィアの言葉。淀みない、真っ直ぐな言葉。

「フィア、ちゃん……?」

 花中が顔を上げると、フィアは花中……ではなく後ろを見ていた。

「「「「「その根拠のない自信は何処から来るのかしらねええええええええっ! アンタの水は私に届かない! 届いたところで群れである私は殺せない! さて一体どうやって私を倒すのかしらああああああああああっ!?」」」」」

「だから花中さんが今ちょーカッコいい作戦を考えているのです! お前なんかには絶対負けませんよーっだ!」

 そしてミリオンと言い争い、と言うよりも口喧嘩をしている。

 どうやら先程の言葉は、花中ではなくミリオンに向けて言われたものだったらしい。花中が思考に没頭している間に口喧嘩が始まっていたようだ。励ましてくれた訳ではないと分かってガッカリ……それが花中の気持ちの約半分。

 残り半分は、今にも諦めようとしていた自分を信じてくれていた嬉しさで満たされた。

「フィアちゃん!」

「え? あっはい。なんですか?」

「ありがとうっ!」

 感謝の気持ちは届かず、フィアは目をパチクリさせる。それで構わない。もう花中に後ろ向きな想いはないのだから。

 花中はもう一度目を閉じ、耳を軽く塞ぎ、考える。

 薬品も高熱も効かない以上、ミリオンを倒す手段は打撃のみである。それも分子レベルの構造物を破壊するのだから殴る蹴る程度の威力では駄目。対策を練られる可能性も考慮すれば、初発で全てのミリオンにダメージを与えられる広域殲滅能力も求められる。

 怪獣のような姿になったミリオンにそんな攻撃を食らわせようというだから、冗談抜きで軍事兵器が必要だ。具体的には、ミサイルのように強烈な衝撃を発生させる兵器が。

 問題は、一体どうやって手に入れれば良いのか。

 正規の兵器を今すぐ手に入れようと思ったら、米軍なり自衛隊なりの施設に潜入して盗み出さねばならない。だが此処は何処かも知れぬ洞窟内。最寄りの軍事施設まで一体何キロ離れているか分かったものではない。運良く近くに施設があったと仮定しても、施設の人達が易々とは侵入させてくれない筈だ。

 それをどうにかこうにか乗り越えたとして、今度はミリオンに策を悟られてしまう問題がある。いくら怒り狂っていても、軍事基に忍び込めばミリオンとて花中達の思惑に気付くだろう。そしてミリオンは多数の個体で構成された群体。広範囲に個体を分散させれば、レーダーのように目標を補足出来るに違いない。指先を光らせながら追い駆けてくるので、『目視』による情報収集も可能なのだろう。ミリオンがミサイルを見付ける事は難しくない。もし目的地(ミサイルの前)で待ち伏せされたら……

 そもそも洞窟を出ようとする時点で問題大あり。先程フィアに言ったように、無数に分裂したミリオンに追い込まれる光景が目に浮かぶ。

 適当に課題を考えただけでこれだ。屋外に出て武器を探すのはリスクばかり大きくて、しかも成功するビジョンが見えてこない。よって一旦脱出する案は却下。この洞窟内で攻撃手段を用意しなければならない。

 とはいえ今の花中達が持つ武器は『フィアが操る水』だけ。最強の威力を誇る矛だが、無敵の盾の前では鈍らな矛と同程度の価値しかない。二千度という出鱈目な沸点の筈なのに、七千度もの高熱が相手だからか一秒と耐えきれずに蒸発して――――

「(二千度……?)」

 ふと、花中の思考が逸れる。

 何故フィアは二千度までしか沸点を上げられない?

 思い返すと、花中が「沸点を二千度以上に出来ないの?」と尋ねた時、フィアは「出来ない」と答えた後何かを言おうとしていた。絶望のあまり話を切り上げてしまったが、一体あの時、フィアは何を言おうとしていたのだろうか?

 それに、水は確か……

「あの、フィアちゃん」

「はいなんでしょうかっと!」

 返事と共にフィアは身を縮こまらせるや、天井から伸びている鍾乳石によって狭まっている横穴へと跳び込む。跳び込んだ先こそ広々とした道だったが、横穴自体は幅一メートルもない狭さ。しかし操った水を使って採寸したのか、それとも動物的本能による直感のお陰か。人間なら一度は突っ掛かってしまいそうな隙間を、フィアは減速せずに通り抜けてみせた。追手が人間ならこれでかなり距離を稼げた筈だ。

 ――――追っ手が人間なら。

「「「「「ちょこまかとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」」」」」

 ミリオンは躊躇なく横穴に体当たり。鍾乳石と周りの岩を吹き飛ばし、ほぼ減速なしで花中達を追い駆けてくる!

「ちっ。これでも距離は開けられませんか……それで一体何を訊きたいのですか?」

「え、あ、あああ……そ、そうでした……えっと、あの」

 いきなりのジャンプとミリオンの破壊行動で嫌な高鳴りをする胸に手を当てながら、花中は数回深呼吸。心と身体を落ち着かせてから改めてフィアに尋ねる。

「あの、温度が、二千度を超えると、フィアちゃんの、操っている、水は、どうなるの?」

「? どうとは?」

「えっと、どうして、二千度以上になった、水、分子は、捕まえられないの、かなって」

「ああそれはですね」

 フィアは僅かに顔を上げ、言葉を選ぶように沈黙。

「何処かに消えてしまうのですよ」

 それから返ってきた答えはあまりにも不可解で――――花中が予想した通りのものだった。

「あ、ありがとう!」

「??? どういたしまして?」

 何故お礼を? と訊きたげなフィアだったが、今はミリオンが居るので答える事が出来ない。

 花中は閃いたのだ。あの強大な『大軍』を、一網打尽にする秘策を。

「フィアちゃん!」

「はい今度はなんでしょうかっ?」

「こ、この洞窟で、水がいっぱい、溜まってて、出来るだけ、深い場所に、行ってくれる!?」

「構いませんよ」

 フィアは優しく微笑みながら答え、

「運の良い事に目当ての場所は『真下』にありますしね」

 その微笑みを意地悪く歪めてから一言付け加えた――――故に花中はフィアにしがみつき、息を大きく吸い込む。また足下の岩盤を砕いて進むのだと思ったがために。

 実際フィアは高く跳び上がった。自身と花中を守るように、『身体』から出した大量の水で自分達を包み込んだ。

 けれども、溢れ出た水は球体を作らない。

 作ったのは地面に先端を向けた長さ凡そ三メートルの円錐形。螺旋を描く溝が入っている、所謂『ドリル』の形態だ。

「行きますよ花中さんっ!」

 フィアの掛け声を境に、花中の内臓が上に引っ張られる。

 水に包まれている花中には見えない。自分達の入っているドリルの表面が高速回転している姿なんて。

 ドリルの底から、大量の水が噴き出している姿なんて!

「うびゃああああああああああああああああああ!?」

 危機を察した身体が本能的な悲鳴を上げると同時に、花中達を包むドリルは地面と激突。岩盤を穿ち、砕けた岩を撒き散らし、重力加速度を凌駕するスピードで直下へと突き進む!

 花中に正常な判断力が残っていればこう叫んだに違いない。

 ――――だからこういう怖い事は、せめて一言訊いてからやってよぉ!?

「今回は花中さんの呼吸にも気を遣い花中さん用のスペースを作っておきました! 定期的に換気が必要ですが五分程度なら問題なく息が出来る筈です!」

「こここここ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 自信満々に説明するフィアだったが、悲鳴を上げる花中の耳には届かない。何しろ水越しの映像はとてもクリアで……岩盤をぶち抜いて進んでいく光景がよく見えるのだ。本能に迫る恐怖を、ましてや小心者が、拭うなど出来っこない。

 お陰でフィア曰く力作である花中用スペース ― 花中一人がすっぽり収まるほど広く、床部分の水密度を操作しているのか花中の身体が沈まない ― のありがたみを、花中は全く感じなかった。褒めてもらえなかった事が不服だったのか、水中でも美少女姿を崩さぬフィアが頬を膨らませる。

 ……花中を正気に戻したのは、フィアのそんな、愛らしくも緊張感のない表情だった。

 フィアの表情が、ハッキリと見える。

 いや、ハッキリ見えるだけではない。酷く、という言葉を使いたくなるぐらい魅力的に見えてしまう。作り物である肌の張り艶が触らずとも分かるし、ゆらゆらと揺れる金色の髪など、思わず顔を埋めたくなるほどだ。いくら水中という神秘的空間で絶世の美少女を見ているとは言え、ここまで綺麗に見えるのは不可思議。

 その原因はこの場を照らす光にある。今この場には非常に強い光が満ちていて、フィアを照らしていた。結果フィアはさながら陽光に照らされた宝石の如く煌めきを放ち、普段よりも一層魅力的に見えたのだ。

 ではこの光を出せるのは、一体『誰』?

 その光が、今までよりずっと強くなっているのはどうして?

「っ!?」

 過ぎった本能の警告に従い、花中は天を見上げる。

 そこには、太陽があった。

 全体から眩い白色の光を放ち、フィアが開けた穴を真円にくり抜きながら自分達目掛けて()()()()()球体の姿は――――太陽としか言えない。

「「「「「ニガスカアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」」」」」

 太陽がミリオンだと、この叫びを聞くまで花中には理解出来なかった。

「ちっ! もう追いついてきま……ちょぅえぇえええっ!? ななななんですかアレぇ!?」

「み、みり、ミリオンさんだよ多分!」

「いやいやいや!? だってアレ光ってますよ!? ビカビカ光ってますって! なんで光ってるんですかっ!?」

「お、落ち着い、て!」

 声に反応して振り向き、即座に取り乱したフィアを花中は何とか宥めようとする。

 発光の原理は分かる。それはミリオンが『高温』だからだ。温度が極めて高い物体は、発光して見える性質がある。熱放射という、熱が電磁波の形――――つまり光として運ばれる現象だ。熱した炭やストーブが赤く輝くのもこの現象によるもの。物体によって発光の色合いは多少異なるが、完全黒体という仮定の物質の場合、赤色よりも白色の方が高温となる。勿論自分自身が高温になるとただでは済まないので、ミリオン本人が高温なのではなく、ミリオンに触れた空気や粉塵が発光しているのだろう。

 だが白色の光は六千度以上――――太陽の表面に匹敵する温度でようやく生じる。

 即ち、今のミリオンは見た目通り太陽も同然。触れる事なんて論外……距離を詰められるだけでも不味い!

「み、水のある場所はまだなの!?」

「もうすぐですっ!」

 しても仕方ないと分かってはいるが、急かさずにはいられない。しかしフィアの声にも苛立ちが感じられ、これ以上どうにも出来ない事実を突き付けられてしまう。

 六千度以上 ― 自己申告が正しければ恐らく七千度オーバーだろう ― に達したミリオンは、自身を妨げる全ての物を気化……否、プラズマ化させながら、花中達目掛け真っ直ぐ落ちてきている。あんな高温に接したら花中は即死を通り越してプラズマ化、遺伝子なんて欠片も残らない。だが、我を忘れているのか瞬間的に温度を下げられるのか逃げられる事の方を恐れているのか。障害物を瞬時に消滅させるミリオンのスピードは全く落ちず、それどころか自由落下する事で徐々に加速しながら迫ってくる。対してフィアはドリルの底から水を噴出させて急加速しているが、岩盤をわざわざぶち抜いているため、一時的でもスピードが落ちるのを避けられない。

 目に見えるミリオンのサイズが段々と大きくなる。連れて、じわじわと気温 ― 水温と言うべきかも知れないが ― が上がっている気がする。

 もうこれ以上近付かれるのは本当に――――

「到達ですっ!」

 焦りと熱さで朦朧としてきた花中の意識を、希望の言葉が揺さぶる。下に向けた花中の視線が捉えたのは、とびきり頑丈そうな岩盤が粉々に吹き飛ぶ光景。

 そして、真っ青な景色。

 視界を埋め尽くすほど大きな水溜り……それが地底湖だと花中が理解する前に、水ドリルは豪快に着水。湖の深さは相当なもので、花中とフィアは共に見えない底へと沈んでいく。

 頭上を見上げれば煌々と輝くミリオンが見える。水を通して降り注ぐ光は、まるでダイヤモンドのよう。幻想的な光景に、正直なところ花中は見惚れてしまった。

 尤も太陽が落ちてくるのだから、見惚れている場合ではない。

「ふんぬぁああああああっ!」

 花中の傍を泳いでいたフィアが気合の入った叫びを上げる。併せて湖の水がうねり、流れ、密度を増して花中とフィアの下へと集まってくる。天井近くまであった水位が一気に下がり、見えなかった底は丸見えに。地底湖はものの数秒で横幅市民プール数杯分、高さはビルほどの巨大空洞へと早変わりした。対して花中達を包んでいた水ドリルは十メートル近くまで成長。その後すぐに収縮・変形をして三メートルほどの水球に姿を変えた。

 直後、ミリオンが墜落してくる!

「ぐぅっ!?」

「ひゃあっ!?」

 減速もなにもしない、文字通り墜落してきた衝撃が花中とフィアに襲い掛かる。身体が目一杯揺さぶられ、フィアは水中を回るように、花中は座っていたのに体勢を崩してしまった。

 怯む一人と一匹だったが、ミリオンは容赦なく追撃してくる。己の身体を四方八方に伸ばし、大地を掴む植物の根のようにミリオンは水球を包み込んできた。身体を伸ばし始めたミリオンは末端しか光らせていなかったが、それはミリオンに触れられている物質が七千度に達していないというだけ。花中とフィアを包む水は二千度まで上がり、次々に消滅している事だろう。逃げ出そうにも水球を包み込むミリオンは今や水球表面をびっちりと埋め尽くし、花中の全身はおろか指さえ出せそうにない、網の牢獄と化している。

 逃げ道は何処にもない。完全に捕まった。

「「「「「捕まえたアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」」」」」

 狂気的で、心底はしゃいだ声で、言われずとも分かっている事をミリオンが叫ぶ。もうすぐ願いが叶うからとても嬉しいのか……花中もミリオンの立場なら、小躍りぐらいはするかも知れない。対して捕まった方は、分かりきっている事を指摘されてイライラする。

「花中さん! この後は一体どうすれば!?」

 きっとイライラしているであろうフィアは、次の指示を求めてくる。狼狽した表情の中に、期待が感じ取れる。

「このまま、耐えて」

 感じ取った上で花中は、大凡作戦らしからぬ言葉をフィアに返した。

「……耐える……?」

「此処から動かず、耐え続けるの。逃げられない、し」

「そんなっ!?」

「「「「「……ぷ、ぷくく、くひぃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!」」」」」

 非難のようにも聞こえるフィアの叫びがツボに入ったのか。突如ミリオンの喧しい笑い声が響き渡る。

「何がおかしいのですか!?」

「「「「「何がですって? それはさかなちゃんが一番分かってるんじゃない?」」」」」

「ぅぐ……ぐぐ……!」

 フィアの悔しそうな声が水中を駆け回る。唇を噛み、目付きは鋭くなり、わなわなと震える声が漏れている。

 このままではミリオンに水を全て蒸発させられ、自分は焼き魚に、花中を奪われてしまう……きっとフィアはそう考え、絶望している。確かに状況はこれ以上ないほど絶望的だ。一人では到底耐えられない恐怖だ。

「大丈夫!」

 だから花中は、底抜けに明るく言い切ってみせた。

「……花中さん……?」

「大丈夫。わたしが、言えた事じゃないと、思うけど……でも今は、わたしを信じてっ!」

「――――」

 絶句とも呆気とも取れる沈黙と表情を、フィアは浮かべる。

 それでも花中が楽しげな笑みを崩さずにいれば、フィアの表情は、すぐに屈託のない笑顔へと変わった。

「そうでしたね……友達の言う事はちゃんと信じませんとねっ!」

 明るさを取り戻したフィアは大仰に腕を振るう。舞うように、この絶望的状況を楽しむように。

「水が蒸発する速度から考えてこの水球が持つのは凡そ五分です! それ以上はどうにも出来ませんが大丈夫ですか!?」

「うんっ。わたしの計算通りなら、五分もあれば十分、過ぎるよ!」

 フィアの弱音とも取れる確認に、花中は力強く答える。この言葉は虚勢でもなんでもない。花中の計算通りなら、五分もあれば十分なのだ。作戦にはなんの支障もない。

 しかし、

「「「「「狙いは私の体力切れ、かしら?」」」」」

 たった一言で、自信に満ち溢れていた花中の心臓に、直に握られたような衝撃が走った。

 一瞬にして口の中が渇く。瞳孔が開く。

 そして口が、意思に反して()()()()

「な、何を、言って……」

「「「「「目は口ほどに物を言う。目が泳いでいるわよ、はなちゃん?」」」」」

「ち、違……!?」

 花中は咄嗟に取り繕うとするが、出した言葉で如実に物語ってしまう。

 作戦が、ばれた事を。

「「「「「確かに私の能力は、大量のエネルギーを必要とする。そして私はウィルス。ウィルスは代謝を行なわない、つまり、自力ではエネルギーを生み出せない。戦っていればいずれエネルギーが枯渇する。長期戦は、体質的に向いていない」」」」」

「そ……そうです! だから、」

「「「「「だから、降参しろ?」」」」」

 台詞を取られた花中が浮かべたのは、怒りではなく焦りの顔。

 冷静かどうかは別にしても、ミリオンに猛り狂っている様子はない。虚勢を張っているようにも見えず、罠を嵌められても、まるで問題ないと言いたげだ。

 それは当然だった。

「「「「「私、エネルギーは『気温』から得ているの」」」」」

 ミリオンに、花中の『策』は無意味だったのだから。

「き、気温!?」

「「「「「本当はね、私の能力って加熱じゃないの。正しくは『分子の持つ熱エネルギーを吸収する』事……大気中を漂う分子が持つ熱、気温を自らのエネルギー源に出来るというのが私の能力。今まではそうやって得た熱エネルギーを放出していたに過ぎない。そして熱が吸収可能となる温度は二百ケルビン……マイナス七十三度から。気温マイナス七十三度以上なら、私は大気が持つ無尽蔵のエネルギーを扱える。ちなみにこの場の気温は地熱の影響からか約三十五度。私にとってこの場は、莫大なエネルギーが満ちている燃料庫のようなものね」」」」」

「そ、んな……」

「「「「「それからもう一つ。仮にこの場がマイナス七十三度以下だったとして……私って内部に熱を『貯蔵』出来るの。動物が脂肪の形でエネルギーを蓄えるのと同じね。だから、例え無補給でも半年程度なら十分に戦闘は可能なのよ……ところでさかなちゃん? この地底湖って、結構大きいわよね? 大体縦横は五十メートル、高さは十五メートルかしら? だとすると体積は三万七千五百立方メートル……そこに収まる水の量は約三万七千五百トン。この水量を操るだけなら兎も角、非常識な密度を保ちながら蒸発しようとする分子をひっきりなしに捕まえるのは、相当のエネルギーが必要よね? あなたの身体が蓄えている体脂肪やらなんやらだけで、五分も持つのかしらぁっ?」」」」」

 嘲笑交じりの問い掛けと共に、ミリオンが震えるように蠢きだす。

 途端、花中の目に自分達を包んでいる水の『流れ』が映った。突然水球に流れが生じたので花中はフィアに何事かと尋ねようとしたが、慌てふためくフィアの姿を、そして水が流れる先を見たために口を閉じる。

 水は水球の表面を、覆い尽くすミリオンを目指して流れている。

 蒸発した分を補うべく、フィアが一生懸命水球の表面に水を運んでいるのだ。しかしミリオンがこの水球に触れた時から流れは生じていた筈。それが今になって見えるようになったのは、水の流れが急激に速まった以外に考えられない。

 恐らくミリオンは能力の出力を上げた。まだまだ余力がある、というアピールのつもりなのか。本当に大気からエネルギーを吸い取れるのなら、出力をどれだけ上げようとミリオンに疲労など存在しない。そしてフィアは、ミリオンと違って無限のエネルギーを持っていない。能力の出力を上げれば……消耗もまた加速する。

「うぐぅぅぅぅぅ……!」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

 不意に、フィアが堪らないと言わんばかりに呻く。花中が呼び掛けてもフィアは強がった笑顔すら浮かべず……人の形が溶け、本体であるフナの姿を露わにした。

「申し訳ありません花中さん……流石にこれだけ大量の水を操り続けるのはしんどくて……あんまりあの可愛い姿を保つ余裕がないのです……ぐっ!」

 フィアは口と鰓を異常なほど早く動かしながら、本体を見せた理由を明かす。口と鰓が早く動いているのは、大量の水を鰓に通すためか。水を操るエネルギーを得るために、たくさん酸素を必要としているのだろう。

 それだけフィアは消耗しているという事。ミリオンが指摘した通り、この調子が五分も続くとは思えない。これ以上能力を使わせたらフィアが死んでしまうかも知れないし、死ななくともなんらかの障害が残るかも知れない。

「み、水は、あとどれぐらい、残ってる!?」

「大凡ですが一万トン程度……地底湖の水で四万トン近くまで増やしたのにあっという間に減ってしまいました……こちらももう長くは持ちません……!」

 訊けば、水の方も底が見え始めているようだ。フィアの体力、水の残量……どちらももう限界。ミリオンにエネルギー切れがない以上、持久戦では絶対に勝ち目がない。

 しかし花中が自らの身を差し出せば、ミリオンは大人しく退いてくれるかも知れない。ミリオンは花中が目当てなのだ。花中が犠牲になれば、フィアは生きて帰れるかも知れない。

「……………」

 花中は考える。自らを犠牲にするか、フィアと共に居るか……どちらの選択が、よりよい未来につながるかを。

 ――――考えた末に、花中は決断する。

「本命の作戦、やるよっ!」

 身を差し出して戦いを治めるのではなく――――フィアと一緒に居たいから、ミリオンを『倒す』と!

「え? 本命……?」

「フィアちゃん! 水で『刃物』を、作って、わたしにちょうだい!」

「はっはいっ!」

 作戦が二つあると聞かされていないフィアは戸惑った返事をするが、注文通りナイフの形をした水を花中の居る空洞内に生やしてくれた。水ナイフは刃と柄がしっかりと作られていて、普通の刃物と同じように扱えそうだ。

 花中はしっかりと水ナイフの柄を掴み、自分の下へ引っ張る。引っ張った刃物は柄の末端からコードのような物が伸び、フィアの操る水と接している状態を保つ。これなら多少乱暴に動かしても『ナイフ』と『水』が千切れてしまう心配はない。

「「「「「そのナイフがどうかしたの? まさか、そんなナイフで私を倒すつもり?」」」」」

 花中がナイフを弄っていると、ミリオンから問い質す声が。その言葉遣いはまるで花中をおちょくるかのよう。

 確かに、こんなちゃちなナイフ一本を手にしたところで、ミリオンをどうこう出来はしないだろう。

 だが、

「……半分正解、です」

「「「「「半分?」」」」」

 我ながら勿体ぶっていると思う花中の台詞に、ミリオンは訝しげに訊き返す。

「こういう、事ですっ!」

 だから花中は力いっぱい答えるやナイフを振るい、

 ――――自らの前髪を、ナイフで切り裂いた。

 バサリ、と、視界を遮っていた前髪が音を立てて落ちる。用無しとなったナイフは投げ捨て、切りきれなかった髪を片手で掻き上げる。

 視界を遮るものは消えた。周りを見渡せば、表情を持たないが驚いているように見えるフィアや、そもそも顔が存在しないが呆気に取られている雰囲気を感じさせるミリオンが網膜に映り込む。前髪越しでも十分世界が見えているつもりだったが、とんだ勘違いだと思えてくる。

 清々しい気分だった。

 閉めていたカーテンを開けて朝日を拝む時よりも、ずっと清々しい!

「これで、わたしの作戦の、準備は、完了、です。逃げるなら、今のうち、ですよ」

「「「「「……はぁ? 何を言っているの? ただ髪を切っただけじゃない」」」」」

「ええ。髪は、その通りです。ただ、切っただけ、です」

 落ちた自分の髪の毛を拾い上げながら、花中は肯定する。嘘でもなんでもない。髪に細工なんかしていないし、そもそも花中は細工なんて何処にも施していない。

 ただ、待っていただけだ。

「肝心なのは、水の、方ですから」

 自分達を守っている水が、ミリオンによって大量に『消滅』させられる時を。

「「「「「水? ……何か薬品でも仕込んだのかしら? 残念だけど私に薬は効かないわよ?」」」」」

「はい。ウィルスに薬は、無意味でしょうし、そもそも、七千度まで、加熱されたら、どんな物質も、プラズマ化、してしまいます。あなたには、どんな物質も、通用しない」

「「「「「なら、尚更解せないわ。はなちゃんは一体何を仕込んだと言うのかしら?」」」」」

「わたしは、何も、していません……仕込みを、したのは、ミリオンさん。あなた自身、です」

「「「「「……何?」」」」」

 ぴたりと、花中達を包む水球の流れが止まる。仕込みをしたのは自分だと言われ、思い当たる節である『攻撃』を止めたのだろう。だがフィアの話では既に大量の……三万トンを超える水がミリオンの手で『二千度』に達している。

 『花中の計算』では十分過ぎる量だ。今更能力を止めても遅い。

「あなたの能力で、わたし達を、覆う水は、二千度まで、加熱されました……知ってますか? 二千度を、超えた水は、()()()んです……分子の形を、維持、出来なく、なるんです。水の化学式は、H2O。壊れた水分子は、水素原子と、酸素原子に、なります。でも、原子単体と、いうのは、非常に不安定、です。だから、すぐに、安定的な形……同じ原子同士が、二つ、くっついた形に、なろうとします」

「「「「「っ!? それって――――」」」」」

「水素分子と、酸素分子……些細な火種で、大爆発を起こす、危険な混合気体の、完成、です」

 水素と酸素の反応は、シンプルながらも膨大なエネルギーを発生させる。どれだけ大きなエネルギーかと言えば、ロケットや人工衛星打ち上げの燃料として使われるほど。その気になれば宇宙にも行けるエネルギーなのだ。

 当然これほどのエネルギーが何らかの形で暴走すれば、凄惨な事故を引き起こす。ロケットの打ち上げシーンを思い起こせば良い。高さ五十メートル重さ五百トンもの物体を浮かび上がらせるため、五分以上もの間吐かれる巨大な炎……あれが一瞬にして解放されるのだ。その威力たるや、事故が起きればロケットだけでなく、搭乗員すら跡形も残らず消滅してしまうほど。

 それほどの爆発力にも関わらず、ロケットの燃料の総重量は四百五十トン程度である。対してこの場に満ちる水素と酸素の量は――――原料である水の総計と等しい三万トン。

 単純計算で、そのエネルギー放出量はロケット事故の六十倍以上だ。

「ところで、ミリオンさんは、爆発の、熱は平気かも、知れませんけど……衝撃には、耐えられるのです、か?」

 自慢気に笑いながら投げ掛けた花中の問いに、ミリオンは答えない。あるのは沈黙だけだ。

 しかしこの期に及んで沈黙すれば、言葉や表情よりも雄弁に物語る。

「「「「「お、おの、おのれえええええええええええええええええええええっ!」」」」」

 分厚い水越しでも耳が痛くなるほどの大声を上げると、ミリオン『達』は一斉に水球から離れた。

 離れたミリオンは光るのを止め、洞窟内に本来の暗闇が戻ってくる。闇に紛れてミリオンの姿は見えなくなったが、消える間際の、僅かな光の軌跡から何処へ向かったのかは分かる。

 ミリオンが逃げたのは、この場所へ来るためにフィアが開けた穴。即ち天へと向かう道。当然だ。逃げ道はそこしかないのだから。

 正に思い通り。

 水素はあらゆる原子の中で最も軽く、空高く昇って行く。分解された水の量は約三万トン。酸素との質量比があるのでざっと計算すると……凡そ三千三百トン以上の水素が発生している。これだけの重量となれば、ミリオンが逃げた先までぎっちり満たされている筈だ。

 ミリオンが逃げた時の事を考え、一番深い場所から仕掛けを用意した甲斐があった。

「うーむ……正直お二人がなんの話をしていたのかサッパリなのですが……とりあえず私は何をすれば良いのでしょうか?」

「わたしが切った髪を、外に捨てて。それで、全部、終わるから」

「了解です。明かりはなくても感触で分かりますからね。すぐに捨てられますよ」

 楽しげに水の中を泳いでいそうなフィアの掛け声と共に、自分達を包む水が揺らめいたのを花中は感じ取る。

 ミリオンが離れたので水はもう加熱されていない。『冷たい』大気に熱を奪われ、表面部分は急速に冷えているだろう。しかし限界値である二千度近くまで上がった以上、多少冷えた今でも千五百度近く、最低でも千度は上回っている筈だ。

 即ち水球表面を潜り抜けた時、髪の表面温度は千度に達する。髪の毛でも千度もあれば燃える。

 故に花中の髪の毛は、空気に触れた瞬間燃え盛る事になる。そしてその炎が周囲に満ちる水素と酸素を刺激し――――大爆発を起こすのだ。

「あ、そうそう。大爆発が起きる、から、ちゃんと、守りも固めてね」

「ちょ……それを早く言ってくださいよ。あーもう結構疲れていてしんどいのですけどねぇ……」

「がんばれっ」

「確かに頑張るしかありませんねまだ死にたくないですし……ところで花中さん。怖くはないのですか?」

 フィアに訊かれ、花中は思わず首を傾げてしまった。ただ、何を言いたいのかはすぐに理解する。

 今までの自分なら、大爆発が起きると聞いただけで怖くて動けなくなっただろう。理論的に起きると分かったなら尚更だ。けれども今の花中は、爆発なんか怖くないし、身体だって強張るどころかむしろリラックスしている。今までとは違う。

 今までとは違うから、

「フィアちゃんと一緒だから、何も、怖くないよ」

 思った事を正直に、微笑みながら言ってしまうのだ。

「そうですか……そうですね。私も花中さんと一緒だから怖くありません」

「うんっ! ……これからも、ずっと、ずっと一緒に居ようね」

「勿論です」

 花中は暗闇の中でフィアの方を見る。フィアもこっちを『向いて』いている。

 顔を合わせた一人と一匹は一緒に、にへっと笑って、

「それでは最後はド派手に祝砲を上げるとしましょうかぁ!」

 そして――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――昨夜八時頃、泥落山にある尾根の一つが爆炎を上げながら弾けた。

 夜中に起きた爆炎はとても目立ち、まだ人通りのあるこの時刻、多くの人がこの光景を目の当たりにした。爆発により生じた衝撃波は麓にある家々の窓を割り、結果軽傷者数名を出したが、幸い大きな被害にはつながらなかった。

 山の一部が吹き飛ぶという未曽有の大災厄であるが、原因は分かっていない。今後政府の調査チームが派遣されるというが、真相解明には時間が掛かりそうである。

 原因不明の爆発。近隣住民は皆一様に不安を口にする。

 しかし爆発の目撃者達だけは、皆楽しそうに笑いながらこう語った。

 

 

 

 あの時の爆発はまるでクラッカーのように派手だった、と。

 




次回投稿は7/17の予定です。


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ファースト・フレンズ9

 燦々と輝く朝日に照らされ、街が煌めきを放つ。駆け巡る風は人々の肌を優しく撫でていき、身体に溜まった暑さを持ち去っていく。そして行き交う人々は皆活気に溢れ、清潔感のある表情を浮かべている。

 つまるところ、爽やかな朝だった。

「ひぃぃぃぃぃぃぃ……」

 爽やかな朝なのに、花中は真っ赤になった顔を両手で覆い隠しながら、葉桜の並ぶ街道を俯き姿でとぼとぼと歩いていた。当然前は見えない。ふらふらよたよた。段差で蹴躓きそうになったり、人とぶつかりそうになったり、赤信号に見落としそうになったり……

「花中さん。ちゃんと前を見て歩いたほうが良いと思いますよ」

「は、ぅぅぅぅ……」

 ついには横からびしりと忠告をされてしまい、花中は指の隙間から外を窺う。

 隙間から見えるのは、隣を歩く親友――――自分とお揃いの格好である帆風高校の夏服、半袖のブラウスと紺色のスカートを着ているフィアだ。フィアは呆れたような眼差しで花中を見ており、その視線が、花中の羞恥を一層掻き立てる。

「う、うううううう……だって……」

「だってもへったくれもありません。昨日水素爆発からギリギリ助かったと思ったら洞窟が崩落を始め慌てて脱出したら今度は密林地帯も真っ青な大自然が目の前に広がり遭難の危機が待っていてそれも北極星を目印に北へと直進しどうにかこうにか切り抜けたのですよ? なのに顔を両手で覆い隠して前が見えずうっかり事故死なんてしたら呆れてものも言えなくなるのですが」

「はぅ!?」

 フィアの正論に、花中は悲鳴混じりの声を上げる事しか出来ない。最初は否定するように顔を横に振り、それからゆっくり、恐る恐る、花中は両手を顔から退けた。

 ハッキリと見える人間の世界。平凡な一軒家が立ち並び、行き交う人々の殆どがスーツや制服を身に纏っている、ごく有り触れた日本の朝の景色。

 そう、世界は昨日までと何も変わっていない。

 なら道行く人々の視線がチラチラと自分に向けられている理由は、今日の自分自身にあるとしか花中には思えなかった。

「うううううう……み、みんな、わたしの方を見てる……恥ずかしい……」

 泣き声混じりの声で呻いても状況は変わらない。

 制服を隅から隅までチェックするが、シャツがはみ出ていたり、スカートがずり落ちていたりはしていない。髪も、触った限り寝癖はついていないように思える。口周りに朝ご飯の欠片が付いているのかもと思いハンカチで何度も拭いたが、向けられる視線の数は微塵も減らない。

 原因を探っても空振りばかり。分からないと怖くなってくる。

「なんで、こんなに……みんな、わたしを見るのぉ……!?」

 あまりにも怖くなったのでついには言葉として漏らしてしまい、

「それはやはり花中さんが可愛いからでしょう」

「そそそそそそんなのあり得ないよっ!?」

 疑問にあっさりと答えるフィアに、花中は怯えきった声で反論した。

「だってわたし、目付き悪いし、ちんちくりんだし……か、か、可愛いなんて、あり得ない……」

「何を仰いますやら。そりゃあ確かに初めて出会った時の花中さんの目付きは獰猛でしたよ? あの山に暮らす生き物であそこまで殺気を放てるのはヒグマぐらいでしょう」

「うぅ……って、ヒグマぁ!? ヒグマって北海道の動物だよ!? 此処関東圏だよ!? なんであの山にヒグマがいるの!? というかあの時のクマ、ヒグマだったの!?」

「多分ヒグマです。なんで知っているのかは私にもよく分かりませんが」

 その話は置いといて、と言いたいのか、フィアは両手で何かを置くような動作をする。置かれてしまったので、花中はそれ以上何も言えなくなった。

「話を戻して……初対面の花中さんは確かに恐ろしい表情をしていました。しかし私と話しているうちにあなたの表情は柔らかくなっていったのです。それはもう日中の砂漠に置かれたチョコレートのように見る見ると。今ではすっかり改善されていますよ」

「……? よく分からないけど……そうなの?」

「そうなのです。でなければクラスメートの……たち……たち……タチオカさんでしたっけ? 彼女があなたの事を可愛いと言う訳がありません」

「えと、タチオカさんじゃなくて……立花さん……」

「そんな事はどうでもよろしい」

「えぇー……」

 わたし以外の人の扱いがぞんざい過ぎる……と思いながら、花中は否定と疑問混じりの声を漏らした。

 今まで出会う人々の大半には逃げられ、逃げなかった人々には「命だけはお助けを」と言われ続けてきた花中には、自分が可愛いと言われても信じられない。お世辞ではなく命乞いだと考えた方が納得出来るぐらいだ。

 勿論、フィアにそんな意図はないと花中は()()()いるが……フィアは友達である。先の一件でとても仲良くなった事も加味すれば、色眼鏡で見られている事は疑いようがない。大体フィアは初めて会った時から、やたら自分を好いていた気がする……花中が言えた事ではないが。

「フィアちゃんの言う事じゃ、信用出来ないなぁ」

「おやおや酷い言い様ですねぇ」

「だってフィアちゃん、わたしの事、贔屓、し過ぎだもん」

「そりゃあ恩人ですからね」

「……恩人?」

 恩義を感じる事はあっても、恩義を感じてもらえるような事に覚えがない花中は首を傾げる。するとフィアは一瞬目を逸らし、頬を指で掻き、

「独りぼっちだった私と友達になってくれました。だから恩人です」

 照れくさそうに笑いながら、答えた。

「独りぼっち……フィアちゃんが?」

「だって周りにいるのは魚と小エビと溺れる虫だけだったんですよ? そんなの独りぼっちも同然じゃないですか。まぁ花中さんがミリオンから聞いたという話が本当なら花中さんと出会うまで私には知性がなかった事になるので寂しいなんて感じた事はないのでしょうけど少なくとも花中さんと出会ったあの時私は多分寂しがっていたと思います」

「……………」

「ですから私にとって花中さんは大切な人なのです。ちょっとぐらい贔屓しても仕方ありません」

 私は悪くないと言わんばかりに語るフィアに、花中はしばし呆然とした眼差しを送る。その視線が気に障ったのかフィアは眉を顰め、花中がくすりと笑ったら、ますます怪訝そうな表情になった。

「ちょっとなんで笑うのですか?」

「あ、ごめんね……わたしと同じだって、思ったら、つい」

「同じと言いますと?」

「恥ずかしいから、秘密……でも、だったらやっぱり、フィアちゃんの言う事は、信じられないよ」

 キョトンとするフィアの背後に素早く回り込み、花中は周りの視線から身を隠す。

 相変わらず集まる視線は多数。フィアの意見は尤もらしく聞こえるが、色眼鏡どころか尊敬の眼差しでは到底真実を見通せない。可愛いと言ってくれるのは素直に嬉しいが、客観性に欠いた意見を素直に受け入れられるほど、花中は自分に自信を持っていないのだ。

 流石にフィアより距離を置いた、第三者からも同じ事を言われたなら話は別だが……

「……あれ?」

 そんな事を考えていたところ、不意にある人物が花中の目に止まった。

 花中より高くフィアより小さな背丈、短めに切り揃えられた栗色の髪、華奢な花中と比べれば幾分立派に見える肩幅、花中達と同じ服装……その人物は十メートルほど前を歩いていたので大まかな特徴しか捉えられなかったが、見覚えがある後ろ姿をした女子高生だった。

 ――――もしかして、立花さん?

 しばらくその女子生徒を眺めていた花中の頭を過ぎったのは、もう一人の友人の名。確かに後ろ姿は、駆け足で傍まで近付き、顔を覗き込んでみたくなる程度にはよく似ている。

 しかし花中はどうにも実行する気が起きない。

 理由は、目の前の女子生徒から『元気』が感じられなかったからだ。クラスメートとして過ごした二ヶ月間の記憶では、晴海は何時も明るい、元気が形になったかのような人だった。少なくとも今目の前に居る人物のように、肩を下げ、覚束ない足取りでのろのろと歩き、すれ違った人を怪訝な顔にするような姿は一度も見た事がない。

 多分、後ろ姿がよく似ているだけの別人なのだろう。

「あれ? あの人はタチオカさんじゃありませんか?」

 なんでフィアちゃんって、何時もわたしが思った事と逆の事を言うのかな?

 花中がそう思っても、小走りで晴海もどきの下へと向かうフィアが止まる訳なし。花中が止めようとする前にフィアは晴海もどきの傍へと駆け寄り、

「やぁやぁタチオカさんおはようございます」

 晴海である事を確認せず、ついでに名前を間違えたまま、その人物の肩を馴れ馴れしく叩いた。

「うぎゃああああああああああああああああああっ!?」

 そして突如響き渡る悲鳴に、フィアを除いたこの場に居た全員が驚きで飛び跳ねた。

 通行人達は一斉に悲鳴が聞こえた方をじっと見つめ、何人かは自身の胸に手を当てるなどして荒ぶる感情を抑えようとしていた。お陰で花中は視線集中の地獄から解放されたが、喜びが表に出てくるほど心に平静は残っていない。心臓は全力疾走した直後の如く激しく脈動。体温がガクッと下がったのが分かり、身体は小刻みに震えてしまう。鏡を見ずとも真っ青な自分の顔が目に浮かび、我ながら小心者だ、と自己嫌悪したくなるぐらい花中は驚いていた。絶叫を聞いてもぴくりともしていない、フィアの爪の垢を煎じて飲みたいぐらいである。

 ただ、この場で一番驚いているのはフィアに肩を叩かれただけで尻餅を撞いた……というよりも腰が抜けてしまったように見える女子生徒だろうが。

「すー、はー……すー、はー……………よ、よし……」

 深呼吸で一度身体を落ち着かせ、ゆっくりと意を決してから、花中は腰が抜けているであろう女子生徒にこそこそと近付いてみる。

 寄ってみればハッキリと分かる。

 フィアに肩を叩かれただけで腰を抜かし、先程まで陰鬱な雰囲気で歩いていた女子生徒は、フィアの予想通り立花晴海だった。

「いや、いやあああああああああああああああっ!?」

 ……殺人鬼を目の当たりにしたかのような悲鳴を上げ、錯乱したとしか思えない激しさで腕を振り回しているので、心が弱い花中は『その人』を晴海だと認めたくなかったが。

 いや、認めたくないのはむしろ、晴海の足を掴む奇妙な水の塊の方か。

「むぅ何故逃げようとするのですか?」

「いやああああああああああ!? 助け、ひいいいいいいいいっ!?」

「悲鳴は結構ですから。何故逃げようとするのかだけ答えてもらえませんか?」

「いやあああああああああああああああああああああ!」

「埒が明きませんねぇ」

 ものの見事にチグハグな会話を交わす一人と一匹。

 花中は覚えている。晴海が昨日、フィアをお化けだと誤解したままである事を。

 フィアは多分忘れている。自分がお化けだと誤解されたままである事を。

 以上の前提の下、花中はうんうん唸りながら数秒悩み、

「た、たぁーっ!」

「おぅ?」

 とりあえず、フィアに渾身の力で体当たりをかました。フィアの『身体』は花中の貧弱な体当たりでは全く動じなかったが、次いで花中は両手で精一杯押してみる。退け、とばかりに。

 しばし呆然といった様子でフィアは立ち尽くしていたが、不意に目に涙 ― ただの水だが ― を浮かべるとその場に蹲り、指で地面に『の』の字を書き始めた。どうやらいじけてしまったらしい。

 ちょっと邪魔だなぁと思いつつ、花中もしゃがみ、顔面蒼白な晴海に出来るだけゆっくりと話し掛ける。

「えっと、大丈夫、でしょうか?」

「お、おお、大桐、さん……あ、あの、おば、お化けが……お化けが!」

「えーっと……」

 思った通り、晴海はフィアをお化けと勘違いしているようだ。まずは誤解を解かないと話にならない。

 いじけるフィアを目の当たりにしても怯え続ける晴海に、花中は想像を掻き立てないよう注意しながらフィアの正体を説明する事にした。最初は震えながら花中の話を聞いていた晴海だったが、段々身体の震えが治まっていき、青かった顔には血色が戻ってくる。表情も引き攣ったものから、驚きと恥辱に彩られたものへと移り変わる。

 やがて涙が完全に止まると、晴海は元気よく立ち上がってくれた。ただし、顔色は平時を通り越して完熟リンゴのように真っ赤になっていたが。

「……勘違いで、大変なご迷惑をかけました……」

「い、いえ、そんな……」

 晴海に深々と頭を下げられてしまい、花中は居心地の悪さを感じる。晴海から逃げるように逸らした視線は未だ蹲ったままのフィアに向けられ、

「フィアちゃんが、悪いです、から」

「げふぅ!?」

 思った事を正直に言ったところ、フィアが呻き声を上げる。

 顔を上げたフィアの目は、ただの水が今にも溢れそうなぐらい湛えられていた。

「花中さんなんか言葉に棘がありませんか……?」

「そうかな? だとしたら多分、わたし、フィアちゃんには、遠慮しない、事にしたのが理由、かな……と、友達だから……ね♪」

「それは嬉しいのですけど忠告等に関してはオブラートに包んでいただけると……」

「……フィアちゃんはわたしと、本音で話したくない、の?」

「ぐふっ!?」

 花中が再び思った事をそのまま言うと、フィアは再び呻く。ただし今度は嬉しそうに。

 蹲っていたフィアが軽やかに立ち上がり、満面の笑みを浮かべながら花中に抱き着くまで、それから二秒と掛からなかった。

「話したいに決まっているじゃないですか! 何時でも本音言いまくりですよーっ!」

「ひゃあっ!? ま、待って! 心の、準備が」

「照れているのですか? 本当に花中さんは可愛いですねぇ。うりうりうりぃ!」

「ひゃわわわわわわわわわわ、わ、わ、わ……わぁ~~~♪」

 フィアが頬っぺた同士を擦り合わせてきて、覚悟を決めていなかった花中の心は喜びの荒波にあっさり飲まれてしまう。幸福感に酔いどれ、花中の表情筋はとろとろに溶けて力を失っていく。

 そんな自分の様子を晴海が半開きの(まなこ)で見ている事など、幸せに溺れる花中には知る由もない。

「……とりあえず、アンタに害悪がない事はよく分かったわ」

「それはどうも。ああそう言えば一つお聞きしたい事があるのですが」

 ましてや頬ずりを止めるやフィアが自分の頭を掴み、晴海の方へと無理やり振り向かせ、

「今の花中さん凄く可愛いと思いませんか?」

 さらりととんでもない事を訊くなんて、花中には全く想像出来なかった。

 いや、確かに花中も訊こうとはしていた。しかし物事には順序があり、そして言い方というのがある。

 自分が可愛いなんてあり得ない。あり得ない事を訊くのだから、もう少し控え目な言い方をすべきではないか。

「うん。可愛いと思うわ」

 そう思う花中だったが、晴海はあっさりと肯定。伝えようと思っていた言葉は、喉の奥でぷすんと音を立てて燃え尽きてしまった。

「そうですよね! やはり花中さんの笑顔は殺人的な可愛さですよね! こんなに可愛いのですから変な虫が寄り付かないか心配でして!」

「心配な割に随分嬉しそうね……まぁ、確かにこの子笑うと可愛いわよね。でもあたし的には怯えた眼差しを向けられる方が好きかな。捨てられた子猫みたいな感じで」

「むむむ。確かにそちらも可愛い事に違いはありません。しかし私と花中さんは今や大親友なのでもうその眼差しは向けられないであろう事が惜しいですね」

「うわ。堂々と自慢してるわね、アンタ」

「こんな可愛い子を独り占めなんて、ズルいわよさかなちゃん。そこで提案なんだけど、今度の日曜日みんなで服買いに行かない? んで、はなちゃんに一番似合う服を選ぶのは誰だ! って感じの勝負しましょーよ。着せ替えっこって結構楽しいわよ?」

「お、良いわね」

「ふっ。花中さんの親友である私が一番魅力的な衣装を仕立てるに決まっています。ですが売られた喧嘩は買う主義です。乗りましょう」

 自分の頭上で、自分抜きに進む、自分を使った遊びの計画……フィア一人が盛り上がっているのなら、花中としてはそろそろツッコミの一つでも入れたい頃合いだ。

 しかし、どれだけ成長しても花中の根っこは小心者である。特別仲良しだからフィアには本音が言えるが、晴海にも出来るかと言えばそうではない。頬っぺたを膨らませながら両手を振り回すには、勇気と友情がまだまだ足りないのだ。

 『今』の花中に出来るのは、三人の話を黙って聞く事だけであり――――

「(……三人?)」

 花中の疑問センサーが何かを拾う。それとほぼ同時にフィアと晴海の会話も止まる。

 なんという事だ。フィアでも晴海でもない人物が一人、紛れ込んでいるではないか。

 尤もそれ自体は、花中的には大した問題ではない。マナー的には大問題ではあるが、楽しげな会話に混じりたい気持ちは花中にもよく分かるからだ。自己紹介も何もなく会話に入り込んだ人が居ても、花中にその人を非難するなんて真似は出来ない。

 問題なのは第三者の声に聴き覚えがあった事。

 弾んでいるのに単調で、メリハリがないから感情が分からず、気さくなのに癪に障る……花中の知る限り、こんな話し方をする人物は一人だけ。

 昨日、水素爆発に飲まれた――――

「ミリオンさん!」「ミリオン!?」「誰!?」

 花中が名前を口にするのと同時に、フィアと晴海も叫ぶ。

 そして三人同時に同じ場所、花中の丁度背中側へと振り向き――――間近に立つ黒髪の美少女、ミリオンの姿を見た。

 ミリオンは泣いているように見える笑顔を浮かべ、楽しそうに手を振っている。表情は別にしても、とても元気そうで……発せられた言葉も、ピンピンしていた。

「あれ? 今頃気付いたの? てっきり気付いた上でお話してるもんだと」

「何故貴様が此処に居るのですか!? 昨日爆発に飲まれて……!」

「え? 何? 爆発? って言うかお知り合い?」

 花中から離れミリオンと向き合ったフィアは荒らげた声で問い詰め、険悪な雰囲気に晴海は困惑した様子を見せる……そんな二人を前にして、ミリオンは不貞腐れたかのように頬を膨らませた。

「確かに吹っ飛んだわよ? 流石にあの規模の水素爆発にはちょっと耐えられなかった。でも、私は吹っ飛んだぐらいじゃ()()()()

「なんですって……」

「アンタ達が倒したのは私の一部に過ぎないって事よ。まぁ、比率的には生き残った方が一部って感じなんだけど」

「ぐっ……!」

 大した事ではないかのようにミリオンは語り、フィアの表情が悔しそうに歪む。水で出来た『身体』なのに、唇を噛みしめるという余裕のなさを露呈していた。

「それに、はなちゃんはこの展開、予想してたんじゃない?」

 しかしフィアの表情は、ミリオンが続けた一言で困惑に変わる。

「……花中さん?」

「……………」

 フィアに問われ、花中は目を逸らす事で肯定。

 尤も正直に言えば、花中はミリオンが生きている可能性を予想していたのではなく、『計画していた』のだが。

「……もし自分がミリオンさんなら、万一に備えて、いくつかの『個体』を、安全圏に避難させて、おくかなーって、思った、から……」

「確かに勝利を確信したからといって全戦力を一ヶ所に集めるのは無謀としか言えませんね。保険があると気付くべきでしたか」

「だから、一体でも生き残れば、ミリオンさんは、死んだ事に、ならないと、思って……ど……どっかーんって、しても……『死なない』、かなって……」

「……よもや花中さんはミリオンを最初から生かしたまま撃退するつもりだったのですか?」

「だ、だって……」

 やっぱり敵だから殺すっていうのはダメだと思うから、と花中が言う前に、フィアは大きなため息を吐く。

「良かったですね。花中さんがとびっきり優しいお陰で命拾いしましたよ?」

 すっかり敵意をなくした調子でフィアはミリオンを窘める。

「そうね。だからまたチャンスがある」

 だがミリオンの不穏な言葉で、場の空気が再び凍りついた。

 花中は背筋が冷たくなるのを感じる。フィアの身体も強張ったのが傍目からでも分かる。

「……まさか」

 ぽつりとフィアが漏らした途端、ミリオンの顔にぐにゃりと歪んだ笑みが浮かんだ。

「無数の『命』を持つ私に死のリスクは存在しない。喉元過ぎればなんとやらは、人間ではなく私のためにある言葉よ」

「み、ミリオンさん、何を、言って……」

 花中はミリオンが何を言いたいのか理解する。理解したが故に、懇願するように訊き返してしまう。

 もう戦いたくない。もう、ミリオンを苦しみから解放したい。

「私はまだ、はなちゃんを諦めていない」

 ミリオンはそんな花中の願いを裏切る。

 ―――― 一瞬だった。

 ミリオンは凄まじい速さで、花中目掛けて飛び込んできた。

 咄嗟に動くにはミリオンはあまりにも速く、それ以上に花中とミリオンの距離が近過ぎた。フィアは驚きに目を見開くだけ、晴海に至っては反応すらしていない。花中も目の前に何かが迫ってきた事を理解するので精一杯。

 三人が動き出すよりも早くミリオンはその手で花中を掴み、

「はーなちゃーんっ♪」

 無邪気な声を出して、花中に抱き着いた。

「ふぇ? え? えぅえぅえぅえぅ~!?」

「……………は?」

「……で? さっきの緊迫感は何だったの?」

 ミリオンに抱き着かれた花中は困惑のあまり四肢をばたつかせ、やっとこさ臨戦態勢を取ったフィアは呆気に取られ、蚊帳の外にいた晴海は呆れた様子でフィアに尋ねる。

「あー、はなちゃんの頬っぺたやーらかぁーい♪」

 そんな三人を無視して、ミリオンは花中に頬ずりを始めた。視覚と触覚から入ってくる頬ずり情報を前にし、花中の頭は真っ白になる――――主に嬉しくて。

「な、な、な、何をしひゃわわぁ~……」

「何って、抱き着いて、頬ずり?」

「そ、そうじゃにゃぁ~……じゃなくて! だ、だからなんで頬ずりゅぅ~」

「さかなちゃん、この子面白いわ。さかなちゃんを真似て頬ずりをしてみたら、やる度にマヌケな声を出すもの。結局のところ親密に接してくれるのなら誰でも良いのね」

「……花中さんが使い物にならないので私から尋ねます。その理解不能な行動はどういう意図でやっているのですか?」

 あからさまに下がったテンションで、フィアが花中に代わり尋ねる。

 その質問にミリオンは、花中に頬っぺたを擦り付けたままあっけらかんと答えた。

「はなちゃんが私に惚れたら、自主的に身体を捧げてくれるかなーっと思って」

 あっけらかんと答えられて、フィアはがっくりと肩を落とした。

「……いくらなんでもその思考回路はどうかと思います」

「だってぇ、昨日の爆発で『私』の殆どが吹っ飛ばされちゃったもん。そっちの手のうちは分かったし、爆発に対する防御策も考えたから、昨日みたいに『私』の塊を千体ほど用意して挑めば今度こそ勝てると思うけど、流石にそこまで私を増やすのはちょっと時間が掛かるのよねぇ。あーあ、さかなちゃんが水で身を守ってなかったら、直接体内に入り込んで内側から沸騰させる方法で片付けられるのに。ほら、私ウィルスだから湿気って苦手なのよ。数が集まれば全然平気だけど、そうなるとさかなちゃんに見えちゃうし」

「……つまり戦力が回復するまで私には勝てそうになく回復を待っている間暇だから花中さんの懐柔をしようという事ですか?」

「んー、それもあるけど」

 濁す、というよりも勿体ぶるようにミリオンは言葉を途切れさせ、頬っぺたを花中から放す。そして花中の目をじっと見つめてきた。

 至近距離で見つめられるとかなり恥ずかしく、花中は狼狽を隠せない。身体がポカポカを通り越した熱さで満たされ、気持ち悪い汗も出てくる。

「ほんのちょっぴりだけど、はなちゃんが私の不安を和らげてくれたからね。焦らなくても良いかなって思うようになったのよー」

 しかも自分の願いが叶っていたと分かったのだ。恥ずかしさに嬉しさも加わって、身体がますます熱くなってしまう。

「私を倒せるんだもん。確かに交通事故とかじゃ死にそうにないわよね。それに、私も一緒に守ればより確実だし、体内に侵入して診断すれば病気の早期発見も出来る。『あの人』の健康も私が守っていたのよ♪ その甲斐あってあの人、九十九まで生きたし」

「あ、ぅ……あの、分かってくれて、ありがとうございます……で、でも、あまりくっつかれるのは、は、恥ずかしい……」

「という訳で今日から作戦を変更し、はなちゃん陥落を狙います! おりゃーっ! 頬っぺたすりすりぃ~♪」

「あ、あわわふわふわわわふふふにゃぁ~~~~~ん♪」

 堂々と宣言すると、ミリオンは心底楽しそうに……本当に楽しそうに笑いながら、再び花中と自分頬っぺたを擦り合わせる。

 恥ずかしい、が、それ以上に幸せ。

 あまりにも長時間幸せに使った結果、花中の筋肉は顔面どころか全身がふにゃふにゃになってしまった。立つだけの力も入らず、よろよろとミリオンに寄りかかってしまう。

 それが面白くなかったのだろうか。

「ええい花中さんから離れなさい!」

 顔を真っ赤にして、フィアもまた花中に抱き着いてきた。ただし頬ずりはせず――――抱き着いた花中の右腕を、強く引っ張る。

 ミリオンはそんなフィアに、子供をおちょくる母親のような顔を向けた。

「あらー? やきもち? やきもちなのかしらぁー?」

「やきもちで結構! ほら花中さんこんな奴ほっといて学校に行きましょうよ!」

「え……あ、そうだ! 学校、行かないと……」

「んもう、はなちゃんは真面目ねぇ。一日二日サボっても成績には影響ないって。つーか、さかなちゃんはなんで学校に行こうとしてんの? 勉強すんの?」

「休み時間を花中さんと共に過ごすためです! 学校に居れば休み時間になってすぐ花中さんの下へ駆けつける事が出来ますからね! それよりさっさと手を離しなさい!」

「え、あの、フィアちゃん、それ以上腕を引っ張らないだだだだだっ!? なんでミリオンさんも引っ張っ、痛い痛い痛い痛い痛いっ!?」

 フィアとミリオンがそれぞれ腕を自身の方へと引っ張るものだから、花中の身体が左右に引き伸ばされる。これが『普通』のお友達にやられているのなら、ヒーロー達に求愛される少女漫画のヒロインよろしく奪い合われる幸せに浸っていたかも知れない。

 が、フィアとミリオンは岩盤をも平然とぶち抜くパワーの持ち主。そんな二人に左右の腕を引っ張られたら、花中の脆弱な肉体は『裂けるチーズ』のCMに使えそうな展開を迎えてしまう。本気で笑えない。そして笑えない展開というのは、実際に起きるまで元凶達は想像すらしていない事が多いものである。

「ちょっとアンタ達! 大桐さんが痛がってるわよ!?」

 もしも晴海が二人を止めてくれなければ、一体どうなっていた事やら。

「あら、ごめんなさい」

「む……すみません花中さん。お怪我はありませんか?」

「だ、大丈夫です……危うく脱臼程度じゃ、済まない、ところだったけど……」

「全く……」

 飄々と花中から離れるミリオンと慌てふためいて手を放すフィア、そして無事な花中を見て、晴海は悪態と共にため息を一つ漏らす。それから、吊り上った目でミリオンを睨み付けた。

「大体アンタなんなの? 大桐さんの友達?」

「勿論よ」

「さらりと嘘を吐くんじゃありません。昨日花中さんを殺そうとした癖に」

「ちょ、余計な事言わないでよさかなちゃん!? もうする気はないんだし!」

 ミリオンは慌てた様子でフィアに反論する。初対面である晴海にはあまり悪い印象を与えたくないのか、かなり必死に言い繕っているようだと花中は思う。

 だが残念。晴海の表情は、少なくとも花中が見た中では過去最高に……それこそフィアと初めて出会った時よりも不信に満ちたものになっていた。

「……もうって事は、一度は殺そうとしたって訳ね」

「え? あー……………てへぺろっ♪」

 ミリオンは目線を露骨に逸らしながら舌を出し、如何にも「こりゃうっかり♪」と言いたげな表情を作るが、場の空気は全く和まない。むしろ真冬の北極圏の如く冷たさに支配された。

 痛々しい。刺々しい。初夏なのに分厚い防寒着が欲しくなる。

 そんな雰囲気を纏う三人に囲まれる花中は、堪ったものではない。

「あああ、あの、あの、あの、あの」

「やっぱりアンタ達は信用出来ない。つー訳で、あたしが大桐さんを学校に連れて行くわ!」

 だからみんなを宥めたいのに、晴海が『宣戦布告』してしまった。

 晴海は花中の手をぎゅっと掴むと、連れ去らんばかりの勢いで引っ張る。

「ちょっとちょっと。何勝手に連れて行こうとしてんのよー」

 それを阻まんとばかりにミリオンは晴海の手の上から花中の手を握り、

「コイツに賛同するのは癪ですが全くその通りです!」

 ミリオンの手に重ねる形で、フィアも花中の手を掴む。

 そのまま三人は花中をじっと見つめてきた。

 恐らく、きっと、ほぼ間違いなく……誰と一緒に行きたいのか選べ、と三人は心の中で言っている。少なくとも花中の心にはそう聞こえる。

 三人もの『人』にじっと見つめられる。向けられている表情は口角を柔らかく上げた笑顔で、手はがっちりと握られている。

 これで三人の瞳が悪意と敵意でギラギラ輝いてなければ最高なのに、と花中は思った。

「さぁ私と一緒に手を繋いで学校へ行きましょう!」

「あたしと一緒に行くわよね?」

「私と一緒に学校サボっちゃいましょ?」

 フィアが、晴海が、ミリオンが。三人が口々に誘ってくる。誰もが自分と一緒に居ようと言ってくれる。

 正直に言えば、花中は喜んでいる。こんなにハッキリ好意を示してくれて、こんなにも自分を求めてくれて、独占欲までむき出しにしてくれて……嬉しくない訳がない。幸福で頭がおかしくなってしまいそうだ。

 だのに花中は三人に向けていた視線を、自らの足元に落とす。

 視線を落としたまま、自分にしか聞こえないぐらい小さく息を吐く。

 そして視線を三人へと戻した時、花中の目付きは鋭く、赤くなった頬は威嚇するフグのように膨らんでいた。

「……花中さん?」

「もしかして……」

「……怒ってるのかしら?」

 一人は不安そうに、一人は困惑気味に、一人は狼狽気味に訊いてきたので、花中は縦にゆっくりと首を振る。

 自分の想いが無視されている。無視されているからちゃんと聞いてほしい。

 それが花中の、今の気持ち。

「もぉーっ! みんな喧嘩しないで、仲良くしようよぉ――――っ!」

 悲鳴とも罵声とも歓喜とも取れる花中の叫びが、朝の町に木霊する。

 悲鳴に続いたのは、ちょっぴり申し訳なさそうで、だけどとっても明るい三色の笑い声だった。




第一章これにて完結! そして第二章が始まるのです。

という訳で次回投稿は今日中に。しばしお待ちを……


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幕間一ノ二

 天頂にて、月が煌々と輝く初夏の夜。

 その月明かりが届かぬほど鬱蒼と茂る木々の中に、二つの影があった。

 影は大きなものと小さなものがあり、どちらも同じ方向を向いている。大きな影は輪郭だけで分かるほどに威風堂々とした佇まいをし、小さな影は怯えるように身を縮こまらせていた。ただし小さな影は大きな影から逃げる様子はなく、大きな影のすぐ隣に並んでいたが。

 しばし二つの影は真っ直ぐ、静かに前を見つめていたが、ふと大きな影からくっくっと小さな笑い声が漏れ始める。

「いよいよだ。俺達の戦いが、いよいよ始まる」

「……本当に、やるの?」

 大きな影が嬉しさを滲ませながら独りごちると、小さな影が、ぼそりと尋ねる。

 大きな影は腕を広げ、誇らしげに胸を張りながら答えた。

「当然だろう? まさか、奴等がした事を忘れた訳じゃないよな?」

「それは! ……勿論、忘れてない、けど」

 小さな影のか細い返事に、大きな影は「分かっているならそれで良い」とだけ答え、前を見据える。小さな影も、一緒になって同じ場所を向く。

 影達の前に広がるのは、やはり鬱蒼と茂る木々。

 その草木の隙間から、地平線まで続く夜景が見えた。

 それは煌々とした眩い輝きに包まれた、人間達の営み。一万か、十万か……数え切れないほどの命が、その輝きの下で暮らしている証。

 その証を見下ろしながら、大きな影は口を開く。

「始めようか……この町の人間を、皆殺しにするために」

 心から祈った言葉を、投げ掛けるために。

 傍に立つ小さな影が逃げるように町から視線を逸らした事に、気付かぬまま。

「景気付けに、一発宣戦布告といこうじゃないか」

 そして、大きな影はすっと息を吸い込み――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の獣達が咆哮を上げている。支配者は己だと、誇示するように。

 

 森の虫達が歌声を奏でる。繁栄に溺れ、愛欲に狂ったように。

 

 森の鳥達が喚き立てる。何人も、自分達には届かないと嘲笑うように。

 

 そんな賑やかな命の声を、巨大な爆音が掻き消した。

 

 爆音は森中に響き渡り、山を下り、平地を駆け抜け、世界を揺るがす。

 

 木々は暴風に晒されたように波打ち、命を持たぬ土石は吹き飛ばされる。

 

 やがて爆音が止み……命の声は、聞こえなくなっていた。

 

 何時まで経っても聞こえなくて、その夜、静寂が森を支配した。

 

 森の生物達は理解したのだ。

 

 恐るべき魔物が、この森に潜んでいると。

 

 獲物を仕留める牙も、百億の数も、自慢の翼も、あの魔物の前では無意味だと。

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怒らせたら、自分達は簡単に滅ぼされてしまうと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二章 孤独な猫達

 

 

 

 

 

 




章名の時点で何もかもネタバレしているけど、気にしてはいけない(オイ

そんな訳で次回から第二章となります。本作、全部で何章構成とか、終わらせ方とかはちゃんと決めてあるのですが、この投降ペースだと何年後になるやら……
気長に、のんびり付き合ってもらえたら嬉しい限りです。


次回投稿は7/23の予定です。








……投稿しようとしたら800字しかなくて右往左往してたなんて言えない言えない……


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第二章 孤独な猫達
孤独な猫達1


 ガタン、ガタン。ガタン、ガタン。列車がレールの継ぎ目の上を通過する、規則正しい音が夜の町に鳴り響く。

 その音を聞きながら、列車の運転士は真剣な眼差しで前を見据えていた。

 運転士として勤める事二十年。間もなく五十代を迎えようとしている彼にとって、深夜の運転も手慣れたものだった。不規則な勤務シフトにも人間の身体というのは存外適応出来るようで、町が静まり返った時間に働くのもさして苦ではない。その上回送電車となれば乗客対応やドアの開閉も必要ないので、運転にだけ集中出来る。

 とはいえ、だから幾分気を抜けるというものではない。いくら人を乗せていなくとも、一両当たり数十トンにも及ぶ鋼鉄の塊が十一両編成で、時速百キロ近い速さで走っている事実は変わらないのだ。これが万が一にも人間とぶつかればどうなるか……二十年という勤務歴の中で、数えられる程度には『それ』を目の当たりにした彼は良く知っている。しかも今列車が走っている場所は、周囲にたくさんの家が並ぶ住宅地のど真ん中。小さな事故が大惨事に発展してしまう可能性もある。

 加えて今宵は小振りとはいえ雨。ただでさえ遠くまで見通せない暗闇が、窓に張り付く雨粒で歪み、滲んでいる。危機は直前まで発見出来ないだろう。一瞬の油断も許されない。

「……信号良し」

 線路脇に設置されている信号が青なのをしっかりと確認した上で、その場を通過。二十年の勤務で培った運転技能と経験を動員し、適度な集中力を維持しながら彼は粛々と列車を走らせ――――

 不意に、目を見開いた。

 線路上に『何か』ある。大きさはざっと二メートル。

 暗闇と雨粒のせいで正体は殆ど分からず、そして、故に今まで気付く事も出来なかった。距離からして、『何か』と列車が接触するまで一秒とない。瞬きしているうちに終わってしまう時間でまともな考えなど浮かぶ筈もないが、彼の頭には一つの文が雷撃の如く速度で駆け巡った。

 『それ』が()()()()、このまま衝突するのは不味い!

「ぐっ!」

 殆ど本能で急ブレーキを作動。だが、高速で走る列車が止まるにはあまりにも時間が足りない。しかもレールは雨で濡れていて滑りやすくなっている。落ちた速度はほんの僅か、運転手である彼が慣性として感じる程度でしかない。

 憐れ、線路上に現れた物体と列車は激突。無残にも、宙を舞うほどに激しく弾き飛ばされてしまった。

 ――――『列車』の方が。

「……え……?」

 運転手はその瞬間、何を思ったのか? ……何も思っていない。ただただポカンと口を開け、衝撃で浮かび上がった身体をばたつかせる事もなく、間抜け面で迫りくる地面を凝視するだけ。

 尤も、考えたところでどうにかなる状況ではないのだが。

 列車はレールを大きく外れ、車両の頭から墜落――――車体はひしゃげ、金属が砕け散る音を奏でながら転がり、周囲の柵や電灯を滅茶苦茶にして、ようやく止まった。

 いくら眠っていても、これほどの大事故に気付かぬ者は居ない。パッ、パッと線路近くの家に明かりが点き、中からパジャマ姿の人々が、傘を差してわらわらと出てくる。最初は眠気の混じりの顔ばかりだったが、やがて凄惨な電車の姿に気付いたのだろう。誰もがギョッと目を見開き、ざわめきの声がそこかしこから上がる。衆目は今や電車にしか向いていない。携帯電話やスマートホンを持ってきた者は、写真や動画を取り始める始末。

 線路からゆらりと出て、街灯の光が当たっていない草むらまで移動した二メートル近い『何か』など、誰も見ていなかった。

「ふん……これを前にしてまだ自分達の安寧が保障されていると思い、のうのうとしている。全く、何処までも身勝手で、思い上がった種族だな」

 『何か』は忌々しげにそう言うと、草むらの中でしゃがみ込む。と、どうした事か『何か』は少しずつ小さくなっていき、ついには草むらの中に埋もれてしまった。

 そしてガサガサと草むらを揺らしながら、暗闇の中へと消えていく。

「それにしてもアイツ、俺が下見に行っている間に何処に出掛けたんだ……そろそろ頃合いだから知らせようと思ったのに」

 唯一残した悪態も、漆黒の暗闇に溶けて跡形も残らなかった……




次回は明日、7/24投降予定です。


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孤独な猫達2

 大桐花中は朝が苦手である。

 しかしそれは、夜更かししていて睡眠時間が短いから、などの自業自得な理由ではない。花中は毎晩夜十時までには布団に入り、学校に行く日でも起きるのは朝六時、つまりは八時間以上眠るようにしている。寝付きだって悪くない。

 問題なのは体質的なもので、いくら寝ても、身体が暖まらないとどうにも眠気が飛んでいかないのだ。お陰で寒々しい冬の眠気は酷いもので、休みの日などは朝九時ぐらいまで寝てしまう事も多々ある有り様。

 では目覚まし時計のけたたましい音で叩き起こしてくれないと何時も寝坊してしまうのかと言えば、実はそういう訳でもない。身体が温まらないと起きられないという事は、逆に言えば温まりさえすればすっと目覚めるという事。事実日の出が早い夏の時期は、窓から入り込む陽光のお陰で朝五時半ぐらいに起きられる。夏の間は目覚まし要らずだ。

 ただし、夏は夏でも六月から七月の間――――梅雨の時期は話が別。

 何しろこの時期は、雨の日が多い。初夏の強めな日差しも、雨雲を抜けた後では穏やかで優しいものとなってしまう。今日のようにざぁざぁと大粒の雨を降らすような分厚い雨雲となれば地上に届く光なんて僅かで、朝だと言うのに辺りは街灯の明かりが欲しくなるほど暗い。無論空気は温まらず、ちょっと肌寒いぐらいだ。

 なので。

「ちち、遅刻しちゃうよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 朝日が起こしてくれる事はなく、思いっきり寝坊してしまった花中は学校目指して住宅地を激走せざるを得なかった。激走と言っても花中は足が遅い。のたのたのたのた……力強く振る手足や乱れる呼吸、ふらふらと揺れる傘から一生懸命走っている事は誰の目にも明らかなのだが、どうにも結果が伴っていない。半袖の白いブラウスは雨に濡れ、うっすらと透けて可愛らしい下着が見えてしまっていた。

「ほら頑張ってください。学校はもう少しですよ」

「はなちゃん、ファイト♪」

 そんな花中の傍には()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の二人が居た。二人とも服装は花中と同じ、帆風高校の夏服である半袖のブラウスとスカート。ただし黒髪少女だけは白ブラウスや紺色スカートではなく、喪服のように黒い色合いのものを着ている。

 金髪の美少女がフィア。黒髪の美少女がミリオン。どちらも花中の友人で――――人間ではない存在。

 二人との出会いはもう二週間も前になる。あの時はフィアともまだぎこちない間柄で、ミリオンに至っては命を狙ってくるような関係。フィアと花中はそんなミリオンと戦い、勝利のためにその『存在』の大部分を吹き飛ばし……だけど彼女は生きていて、今ではすっかり仲直り。こうして一緒に登校するほど親しくなれた。フィアは未だにミリオンの事を嫌っているようだが、手を出すようなケンカはしていない。一時期に比べれば随分と仲良くなったものだ、と花中としては思う。

 ……そう、一時期に比べれば随分と仲良くなっている。

 例えば家がないから云々とか花中を守るため云々とか、事前に打ち合わせていたかのような流れの口喧嘩を交わした末に花中の意思を無視して二人とも大桐家で暮らすようになったり――――今日のように花中がセットした目覚ましを止めて、二人仲良く花中の寝顔を観察したりするほどに。

「こ、こんな事に、なったの、は、ふ、二人の、せいでしょぉ!?」

「何かしましたっけ私達?」

「さぁ? 記憶にございませんわ」

「二人とも、目覚ましを、止めたでしょ!? わたしの、ね、寝顔が、見たいって、理由で! だからこんな、ち、遅刻、してるんだよぉ!?」

「それを言ったら花中さんの寝顔が可愛いのが悪いと思います」

「そうよねぇ。ずっと見ていたくなるほど可愛いはなちゃんが悪いと思うわ」

 かなり本気で怒っても二匹は何処吹く風。まるで堪えた様子がなく、それどころか明日もやりますと言わんばかりである。

 しかし花中には怒る以外に何も出来ない。嘘でも絶交してやるなんて言ったら、その次の瞬間には自分が謝っている未来が簡単に予想出来る。十五年の月日を積み重ねて構築された性根は、『劇的なドラマ』を経ようと早々変わらない。大桐花中は基本的にはネガティブで、根暗で……些細な事で不安になってしまう小心者のままだ。フィアとは本音で語り合える仲になったと言っても、脅すような言葉は想像だけで焦げ付くような不安に胸が苛まれてしまう。そこまでの関係になっていないミリオンともなれば尚更だ。

 しかしながら今回は、本当に言ってやろうかと思うのもまた事実。

 だって、こんなのが毎朝続いて――――

「こ、こんな感じに、毎日遅刻しちゃったら……不良になっちゃうよーっ!」

「ふーむそんなに遅刻したくないのですか。分かりましたなんとかするとしましょう」

 大声で不安を吐露すると、フィアが不意に手をつないできた。突然の、しかも手をつなぐというフレンドリーな行為。花中の顔がぼっと、赤く燃え上がる。

 挙句フィアは花中の背中側にも手を回し、ひょいっと持ち上げた。所謂お姫様抱っこ。驚きのあまり、花中は握り締めていた傘を落っことしてしまう。当然無防備になった顔を大きめの雨粒が叩くが、そんな事にまで気が回らない。

 抱かれて感じる、フィアの暖かさ。この『身体』がフィアの能力――――水を自在に操る力によって作られた『入れ物』であり、体温が水の圧縮と共に濃縮された熱だとは、分かっていても信じ難い。生身の人間に抱えられているとしか思えない。

 二週間ほど前ミリオンとの戦いの時もこうしてフィアに抱えられたが、今回は平時。あの時は素早く動き回るためという建前があったが今はない。友達人数三人というリア充 ― 注:花中的定義による ― の仲間入りを果たしてまだ二週間の花中には、ちょっとばかし刺激の強いフレンドリーさだ。しかも此処は住宅地。今は周りに人影などはないが、そのうち学生やサラリーマンが通るだろう。見られでもしたら恥ずかしい。

 一瞬で顔を真っ赤にしてしまうのも、花中にとっては自然な反応だった。

「ふぃ、ふぃ、フィアちゃん!? あの……」

「さぁ花中さんしっかり捕まってくださいね」

「あ、ぅ……」

 フィアに促され、花中は言われるがままフィアの『服』を両手で握り締める。

 もしかして、フィアなりに責任を感じていたのだろうか? だとすれば、何度も怒ったのは酷い事をしたかも……

「なぁに心配はいりません。私のフルパワーを用いればあっという間に学校に着きますから」

 花中の抱いたそんな不安は、フィアの頼もしさあふれるこの言葉で一気に吹き飛んだ。尤もすぐに別の不安が満ち、花中の顔は雨雲の上で広がっている夏の青空と同じ色になったが。

 フィアは強い。それはもう滅茶苦茶強い。

 巨大な質量から放たれる打撃は兵器の如く威力を持ち、圧縮により驚異的な硬度を誇る表層部は建物を倒壊させるような攻撃でもビクともせず、分子レベルでのコントロールにより水にも関わらず二千度以下の熱では蒸発もしない。他にも離れた場所の様子を調べたり服の汚れを吸い取ったりも出来るが、やはり圧倒的パワーが目を引く……これがフィアの能力。腕をドリル状に変形させ高速回転させるなど、動きも愚鈍ではない。

 そんなパワーを『本気』で通学に利用すればどうなるか?

「あ、あの、フィ」

「それでは行きますよっ!」

 花中が論理的な言葉で不安を伝える前に、直情型のフィアは行動に移してしまう。移したと言ってもフィアが取った行動は地面を蹴り、その反動で身体を前に押し出す――――走るのではなく、跳ぶという動きのみ。

 しかし先程花中が思い浮かべたように、フィアの力は文字通り出鱈目。

 たった一歩でフィアの身体は自動車を遥かに超越する……大体時速二百キロぐらいまで加速してしまった。突風が周囲に吹き荒れ、近くの家の庭にある草木の枝をへし折る。コンクリートで固められた道路は、まるでぬかるんだ泥道のようにフィアの足跡を残す。

 そしてフィアは、楽しげに笑っていた。

「あーっはははははっ! ごーとぅーへーるっ!」

 地獄へ行こう。

 どうせ意味など分からず音の響きだけで使っているであろうフィアの言葉に、花中はなんの反応も示さない。当然である。たった一歩、ほんの一秒に満たない時間でフィアは時速二百キロまで加速した。結果、戦闘機の急発進すら足元に及ばないほどの、強烈な重力加速度Gが生じたのである。

 訓練されたパイロットでもない、むしろ一般人から見ても軟弱に部類される花中が襲い掛かるGに耐えられる道理もなく……ぽっくりと、気絶していた。しかし基本自分本位なフィアは、花中の容態に気付きもしない。

 意識を失った花中を認識出来ていたのは、一度は花中を殺そうとし、今でも死体の利用を目論んでいる――――置いていかれたミリオンのみ。

「……白目向いてたけど、まぁ、死にはしないでしょうね。死なないなら問題なしっと」

 そのミリオンも花中が落とした傘を拾い上げると、さして気にした素振りもなく、学校に向けてゆっくりと歩き出すのだった。

 

 

 

 結論から言えば、花中は遅刻せずに済んだ。

 フィアに運ばれた花中が学校に到着したのは、ホームルームの十分前。その十分の間に気絶していた花中は目を覚ましたので、朝の連絡事項を聞き逃す事はなかった。もしフィアを頼らなかったら、ギリギリアウトな時間に到着した挙句、へとへとになった頭には担任教師の話など何一つ入ってこなかっただろう。

 結果だけを評価すれば、フィアのお陰で助かったのは事実。

 ……しかし花中は思う。

 別に一分前到着でも大丈夫なんだから気絶しないぐらいの速さが良かったのに、と。

 思っていたので、朝のホームルームが終わった後の教室で、窓際最後列の席に座る花中はぷっくりと頬を膨らませていた。花中の今の服装は、帆風高校指定の半袖の白ブラウスではなくジャージ。通学中着ていたブラウスは、キッチリと畳んで机の上に置いてある……フィアに運ばれている間にびっしょり濡れてしまったが、干す場所がないので。

 フィアに頼れば水を吸い取ってパリッと仕立ててくれるだろうが、少なくとも『今』、頼る気は毛頭なかった。

「……大桐さん、その顔は怒ってるの?」

「お、怒ってる、以外に、見えますかっ」

「見えないけどさぁ」

 席の近くまで来てくれた数少ない友人の一人、立花晴海が何故かにやにや笑いながら顔を覗き込んでくる。怒っている『理由』は既に話してあるのだが、どうやらあまり同意してくれていないようで、花中はますます頬を膨らませた。学校に着いてから既に彼是二十分は経ったが、未だ怒りは収まらない。

「花中さぁん。まだ怒っているのですかぁ」

 そして怒りの原因であるフィアは、花中の傍で低くしゃがみ込んでいた。ジャージの裾を掴みながら、涙を浮かべた上目遣いで花中を見つめている。何時もの傍若無人っぷりは、すっかり萎えている様子だ。

 にも拘わらず花中がそっぽを向こうものなら、フィアはビクリと身体を震わせた。

「……だって、フィアちゃん、わたしの話、全然聞いてくれなかった、もん」

「うう。だから謝ってるじゃないですかぁ……」

「つーん」

 頬を膨らませ、めいっぱい怒っているぞアピールをする花中。フィアが泣き言を言っているが、耳を傾けもしなかった。

 今更ながら、フィアは人の話をあまりにも聞いてくれない。

 自分の意見を押し通すのは構わない。話し合った結果がそうだと言うのなら、不満や悲しさはあっても怒りはしない。けれどもそもそも話を聞いてくれないのは問題外。フィアは一見こちらの意見を尊重してくれるようで、肝心な時に話を全く聞いてくれない事が多過ぎる。

 こんなのが続いたら身が持たないし、何より、友達である自分の事を軽視しているみたいで、花中としてはかなり腹立たしいのだ。

 いや、或いは――――焦りかも知れない。

「おー、よしよし。フィアちゃんも可哀想だねぇ」

 花中がちらりと視線を向けたのは、自分の隣の席に座り、今はフィアの頭を優しく撫でている女子生徒――――小田(おだ)加奈子(かなこ)

 ふわふわでボリュームのある黒髪を持ち、顔は何時でも朗らかな笑顔。ゴールデンレトリバーのような大型犬を彷彿とさせるおっとり風味な雰囲気の彼女も、最近花中と言葉を交わしてくれるようになったクラスメートの一人だ。今までは花中の顔が怖くて話し掛けてもらえなかったが、最近ではいくらか世間話を交わすようになり、彼女の趣味がダムや化学工場などの施設見学という中々アグレッシブなものだと知る程度には打ち解けている。話し方は何時もほわんほわんと柔らかく、あまり会話が得意じゃない花中でも話しやすい。それなりに仲良くなれた友達だ、と花中は思っている。

 ただし自分よりもフィアと仲が良いようだとも、花中は感じていた。

 確かに我が強く、『人間的』な倫理観を持ち合わせていないとはいえ、フィアは花中と違い初対面の人とも普通に話が出来る。自信家でワガママなところはあるが、裏表のない性格が魅力と思う人は少なくないらしい。堂々と教室に入り浸るようになったこの二週間で、フィアは花中のクラスメート達と男女問わずすっかり打ち解けていた。加奈子もそんなクラスメートの一人だ。

 つまりフィアには花中以外の友達が、この二週間で結構出来ている訳で。

 要するにこの意地悪は、自分の嫉妬心が根っこにあるのだと花中は感じていた。自分がフィアちゃんの一番の友達だという、子供染みた独占欲の発露なのだと。

「(うう……わたしって、こんなに嫉妬深かったのか……)」

 友達が出来てから、自分について初めて知る事があまりに多過ぎる。羨む事は多々あっても嫉妬するなんて初めての経験で、抑え方がよく分からず、どうにも怒りが引っ込んでくれない。

「ほらー、フィアちゃんもこんなに反省してるし、もう許してあげたら?」

「う、ぐぅ……」

 ついには嫉妬の対象である加奈子に言われ、花中は言葉を詰まらせる。わたしも許してあげたい、だけど許せない。

 一体どうすれば……悩んだ花中は結局フィアの方へと視線を戻し、

「花中さぁん……!」

 フィアの目からぽろりと涙が零れたのを見た途端、怒りも嫉妬も彼方に吹っ飛んでしまった。

 殆ど本能同然、椅子から跳ぶように立ち上がった花中は衝動のままフィアに抱き着く。

「許さない訳ないよぉー! も、もう怒ってないから!」

「本当ですか! もう怒ってないんですね!?」

「うん! 本当だよ! ずっと怒っててごめんねーっ!」

 ぴょんぴょんと跳ねながら、花中は一生懸命フィアを抱き締める。フィアも花中を痛いぐらい抱き締めてくる。抱き合った花中達はお互いの顔が相手の背中側に回った。なので当然相手の表情は見えず――――花中は、フィアがそこでにやりと笑った事には気付かなかった。ついでに、フィアの身体やら涙やらが『作り物』である事も忘れていた。

「うん、めでたしめでたし」

「相変わらず単純な……」

 いずれにせよ、仲直り自体は成功。立役者? である加奈子は満足げに頷き、晴海は呆れたように引き攣った笑みを浮かべる。

「いやー、相変わらずの茶番劇ねぇ」

 そして何時から居たのか、花中の背後に立っていたミリオンは愛でるような眼差しと共にぼやいた。そのぼやきに賛同したのだろう、晴海はうんうんと頷く。

「……で、なんでアンタ達普通に教室に居座ってんのよ」

 頷いてから、じと目でフィアとミリオンを交互に睨んだ。

 ミリオンの方は肩を竦めて飄々としていたが、フィアの方は立ち向かうようにじと目を晴海に返す。何故そんな事を言われねばならないのかさっぱり分からない、とでも言わんばかりに。

「別に良いじゃないですか私は悪い事なんてしませんし。ミリオンは知りませんけど」

「二週間前に旧校舎ぐっちゃぐちゃにしたのアンタ達でしょうが! 大桐さんからそう聞いたし! 近々取り壊す計画だったからあまり騒ぎにならなかったけど調子に乗るんじゃないの! そもそも良い悪い関係なくダメに決まってるでしょ! アンタ達部外者なんだから!」

「まぁまぁ、晴ちゃん。そんなに怒らないでもー」

「加奈子は甘やかし過ぎなのよ! コイツらが部外者って忘れてない!?」

「あー、忘れてるかも。なんかほら、すっごく親しみあるし」

「親しみがあっても部外者は入れちゃダメでしょうがーっ!」

 激しく怒鳴る晴海だったが、フィアは口を尖らせて正に不満げ。加奈子も宥めようとするだけで、賛同はしていない。ミリオンに至っては聞こえてすらいないと言わんばかりの無視だ。

 唯一おろおろと困り顔になったのは、晴海の意見に同意する花中だけだった。

 フィア達と花中が友達になってかれこれ二週間。その間フィア達は、学校がある日は毎日花中の教室に来ていた。来ていたと言っても休み時間や昼食時にお喋りをする程度で、授業が始まれば二匹とも何処かに移動してしまう。クラスメート達も最初は見知らぬ『生徒』に怪訝な様子だったが、あまりにも頻繁に現れるので今や気にする者は殆どいない。彼女達がこの学校の生徒でない事にも気付いているだろうが、問題を起こしている訳でもない ― 正確には『知らない』と言うべきだが ― のでケンカを売るのは晴海だけ。皆、フィア達を受け入れていた。

 あくまで『人間』として、という文言は頭に付くだろうが。

 人間は排他的な生き物だ。自らの理解の範疇を超えたものは極端に恐れ、迫害する……数千年と積み重ねた歴史がそれを証明している。もし、フィア達が人間ではないと明るみになれば、そしてその身に超絶の力を宿していると知れ渡れば、迫害の対象になるかも知れない。フィアもミリオンも人間と敵対したところでどうとも思わないだろうが、争いの種は持ち込まないに越した事はない。

 そのために一番良い方法は彼女達の正体を隠す事なのだが、ミリオンは兎も角、フィアは自分の正体が人間達に知られる事を恐れていない……どころか考えてもいないらしい。今朝のように、花中が困っているというだけで、市街地のど真ん中で力を行使してしまうぐらいだ。ふとしたきっかけでクラスメート達に正体が露呈してしまう可能性は十分あり得る。一応二匹には正体を隠してほしいとは頼んでいて、少なくとも人前では気を付けているようだが、もう少し色々と控えてもらった方が良いのかも知れない。

 だからフィア達には、もう学校に来ないでほしいと頼むべきか?

 花中には出来ない。誰かと一緒に居たいという想いを、誰かと一緒に話が出来る喜びを制限するなんて、今までどちらも満たされた事がなかった花中には無理な話だ。

 ……という感じでフィア達を止めずにいた結果が、二週間ずっと学校に通い詰めな訳で。晴海が言うようにフィア達は部外者なのだから、やっぱり少しは控えるよう伝えるべきかも知れない。

「そう言って花中さんを独り占めにする気なのでしょう? そうはいきませんよ!」

 尤もそんな論理的意見は、フィアに抱き着かれた衝撃で呆気なく地平線の彼方まで吹き飛んでしまうのだが。花中の頭に出来た空白を満たすのは蕩けきった幸福感。脳と同じぐらいふぬけた口先に、晴海が望む言葉を紡ぐ力は残っていない。精々ふみゃーと鳴くだけだ。

 晴海がこの件で怒るようになって今日で一週間近く。そして花中が、控えるよう言った方が良いと思うようになってからも一週間近くで……結局言えずに終わるのも一週間近くなっていた。加奈子に宥められて冷静さを取り戻した後、頼りにならない花中を見た晴海が諦めたようにため息を吐くのは、最早恒例の流れである。

「全く……あんまり怪しい事ばっかりしてると、そのうち警察に『猫殺し』の嫌疑を掛けられても知らないわよ」

 ただ、こんな話が付け足されたのは今日が初めてで。

 好奇の心が揺れ動いた花中は、僅かに理性を取り戻した。

「猫殺し? なんですかそれ?」

「あっ、私聞いた事あるー」

 首を傾げながら尋ねるフィアに、自分も知っていますと手を上げて主張する加奈子。言いだしっぺである晴海を差し置いて話を切り出した。

 曰く、最近この町で猫が殺されている。

 いる、という現在進行形を使ったのは、犯人がまだ捕まっておらず、犯行が終わる気配もないから。一週間前から連日に渡り、飼い野良問わず猫が殺されているとの事。同一犯によるものと思われる『犠牲者』の数は今日までで十二匹。殺された猫の多さも印象的だが、何より人々の恐怖を煽るのはその殺し方とエスカレートの早さだ。元々刃物で腹を引き裂き、贓物をぶちまけるという最低なやり口だったが、ここ数日の殺し方は更に残忍で……()()()らしい。殺しを後悔するどころか楽しんでいる様子が窺い知れる。

 今や『猫殺し』という呼び名が通じるほど有名になり、町中が不審者を警戒するようになったが、通称と動揺の広まりは犯人の自己顕示欲を満足させるだけとの意見もある。恐らく、今後も犯行は続けられるだろう。『猫殺し』の欲望のために、罪のない猫達が次々と殺されるのだ。

 或いは、魔の手は人間の近くまで伸びているのかも……

「という訳で、今この町の住人は恐怖のずんどこに沈んでいるのです。えっへん」

 話を終えて、加奈子は胸を張る。自分から始めた訳でも、独自情報の一つもないが、やたらと自慢気だった。少なくとも加奈子には、恐怖のずんどこに沈んでいる住人っぽさはない。そもそも恐怖のずんどことはなんなのか?

 小田加奈子とは、大体こういう人物だった。

「まぁ、加奈子が言ったような状況だから、警察は今、何時も以上に不審者に厳しいのよ。だからあんまり怪しい事してると、警察のお世話になるかも知れないわよ」

「心配ご無用。人間なんていくら束になろうと私の敵ではありませんので」

「さかなちゃんに同意。私達をどうにかしたいなら、警察なんかじゃなくて軍隊を持ってきなさい。ま、私は軍隊相手でも余裕だけど」

「なんで倒す事を前提にしてんのよ……」

 晴海の警告などなんのその。フィアとミリオンは今後も学校に来る『不審な部外者』を続けると遠回しに宣言。「二人とも、それ死亡フラグだよ?」という加奈子の声もまるで堪えていない。

 もうこれ以上言っても仕方ないとばかりに、晴海はため息一つ。肩を竦め、降参をアピールした。

「……時に花中さんどうかしたのですか?」

 そうして話が一段落付いたので、フィアは自分の腕の中で小刻みに震える花中を覗き込む。

 見付かってしまった花中は、身体の震えがピタリと止まる。それからおどおどとフィアから視線を逸らし、だけど少ししたらフィアの方へと戻して……ほんのり赤らんだ顔を俯かせてから、口を開いた。

「あ、あの……笑わ、ない……?」

「うーん花中さんのする事ですので自信はありませんが善処はします」

「……………」

 実に正直な、美徳と呼ぶべきか大変悩ましい答えに花中は一度開いた口を縫い合わす。どうしようかな、答えようかな、止めとこうかな……気弱な考えが頭を満たすが、フィアの素朴な眼差しに捉えられて逃げられない。逃げられないでいたら、何時の間にかミリオンも晴海も加奈子も、フィアと同じく見つめてきている。

 正に包囲網。いよいよどうにもならないと察し、ようやく覚悟を決めた花中は深く息を吸い込む。

「こ、怖い人が、居るって思ったら、怖く、なっちゃって……」

 それから正直に答えた――――直後、休み時間の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

 フィアとミリオンは瞬時に互いの顔を見合い、同時に、にやりと意地悪く笑みを浮かべる。

「「あーそろそろ教室から出ないとー。それと立花さん(立花ちゃん)からもう学校に来るなって言われたから花中さん(はなちゃん)今日は一人で帰ってくださーい(帰ってねー)」」

「え、えええうぇうぇえぅえーっ!?」

 そして花中をビビらせつつ晴海の株を下げるような言い訳を、息ぴったりにやってみせるのだった。

 

 

 

「……ぅぅぅ……」

 目を据わらせ、への字に噤んだ口から唸るような声を時折漏らしながら、花中は住宅地を歩いていた。

 時刻は午後八時。朝方分厚く浮かんでいた雨雲はすっかり消え失せていたが、ここまで遅くなっては太陽などとうに沈んでいる。代わりに浮かぶ月は明日が新月だと分かるぐらい欠けていて、大地を照らしてくれるほどの眩さはない。街灯があるので歩くのに困るほど暗くはないし、家々から聞こえる家族団らんの声のお陰で雰囲気も良いのだが、出歩くのに向かない時刻なのは確かだ。ましてや白の半袖ブラウス ― フィアの能力のお陰で三秒で乾いた ― という高校の制服を着ていては、警察に見付かったら補導の対象となってしまうだろう。小学生と大差ない背丈の花中となれば尚更だ。

 では何故花中はそんな時刻に出歩いているのかと言えば、理由の一つは買い物をしていたからである。一人暮らしをしている花中は買い物も自分でしなければならず、放課後、近所のスーパーマーケットまで寄り道をしていたのだ。片手に持っているビニール袋がパンパンになるぐらいには、買った物の量も多かった。とはいえ何を買うかは事前に決めておき、それ以外の物は買わないようにしているので、掛かる時間はそこまで長くない。普段なら六時頃には、家で買ってきた食材に包丁を入れているだろう。

 帰りが夜分遅くなってしまった一番の理由は、花中の歩みが遅いからだ。

 何しろフィアに抱き着いたまま、すり足のような歩き方をしているのである。しかも片手にはパンパンのビニール袋、もう片方には通学鞄という両手不自由な状態にも拘らず。それはもう足取りが亀のように遅くなるのも当然であり――――抱き着かれているフィアが戸惑った顔になるのも仕方ない事だった。

「あのー花中さんくっついてくださるのは大変嬉しいのですがこの調子だと家に着くのが真夜中になりそうですので」

「やだ」

 あまりにべたべたするものだからかフィアは苦言を呈そうとしてくるも、花中は話の途中ですっぱりと斬り捨てる。フィアは隣を歩くミリオンに視線を向けたが、ミリオンは意地悪くそっぽを向くだけ。諦めたようなため息が、フィアの口から漏れた。

 何も花中はフィアに甘えているのではない。その証拠に、今の花中の顔は『全盛期』ほどではないにしろ恐怖の大王モード……小学生ぐらいなら恐怖で動けなくなる程度には怖くなっている。甘えているのなら大福よろしく蕩けている筈の表情筋も、今はガチガチだ。出てくる声も唸り声ではなく「ほにゃ~」とか「へぷぁ~」とかになる。

 なら怒っているのかといえば、花中に対してはそれも当て嵌まらない。花中にとってこの表情は不安や緊張、恐怖の時に浮かべてしまうものなのだから。

 つまるところ花中は怖がっているのである。そして恐怖の原因は、朝の教室にて聞かされた不審者――――『猫殺し』であった。

「もう落ち着いてくださいよぅ。不審者と鉢合わせたところでこの私が花中さんをお守りしますから」

「だ、だって……怖いものは、怖いし……」

「むぅ。人間如き銃やらナイフやらで武装したところで我々からしたらダンゴムシみたいなものですのに」

 フィアはどうして花中が不安なのか、さっぱり分からない様子。夜空を仰ぎ、考え込むように表情を顰める。

 花中も、フィアの言い分に納得出来ない訳ではない。『猫殺し』と遭遇してしまう事を案じるだけなら、ここまで怖さが後を引く事はなかっただろう。万が一、を想像出来ないぐらいフィアとミリオンは強いのだから。しかし花中の恐怖の根源はそこではない。

 ――――加奈子は言っていた。『猫殺し』の犯行は、日々エスカレートしていると。

 小動物の虐待は、大きな犯罪の入り口になると言われている。最初は動物を殺すだけで得られた満足感が慣れてくるにつれて薄くなり、より強い刺激を求めてエスカレートしていく傾向があるからだ。そして動物ではどうやっても満足出来なった時、思い至るのが――――人殺し。

 猫なら殺されても問題ないとは言わない。けれども花中は人間であり、人間が殺される可能性は、猫の死よりも遥かに恐ろしく感じる。

 勿論フィアやミリオンが居るから自分の身は安全だ。だけど、晴海や加奈子はそうもいかない。もしも彼女達の前に『猫殺し』が現れたなら……

 花中は『猫殺し』がいずれ『人殺し』になる事を、その恐怖が自分の友達に及ぶ事を想像してしまったのだ。これでもフィア達が居るお陰で、幾分安心しているのだからどうしようもない。恐らく明日も明後日も、花中は震えるだろう。

 勿論犯人が捕まれば、この不安からも解放されるのだが……

「そこまで不安なら私達が犯人捜しをしましょうか?」

 そう思っていたところフィアからこんな提案があり、花中は目をパチクリさせた。

「……え?」

「ですから犯人を捜して捕まえるのです。私とミリオンの手で」

「ちょっとー、なんで私を勝手に含めてんのよ。面倒臭いから嫌よ」

「良いじゃないですかそのぐらい。あなたがその気になれば犯人ぐらい簡単に見付けられるでしょう?」

「だーかーらー、面倒臭いっつってんでしょうが」

 フィアからの誘いを、心底嫌そうにミリオンは拒んでいる。どうやら本当に面倒臭いらしい。この調子だと犯人捜しをするのはフィアだけになりそうだが……だとしても、あまり支障はないだろう。

 何しろフナであるフィアには、人間の数百倍もの嗅覚が備わっている。その頼もしさたるや、ミリオンに連れ去られた花中の居場所を探り当てるほどだ。現場で臭いの情報を集めれば、犯人の特定、そして居場所の捜索は可能だろう。

 事件の早期解決は、花中の精神的安寧がもたらされるだけではない。犯人が早く捕まれば、魔手が人へと伸びる前に止められる。猫達の命だって守れる。早く解決出来るのならそれに越した事はない。

 問題があるとすれば、フィアの強過ぎる力のせいで『容疑者』が大怪我、もしくは死んでしまうかも知れない事か。とはいえ人間がイモムシを傷一つ付けずに捕まえられるように、圧倒的な力の差と大事に扱おうとする優しい心があれば、相手を無傷で捕まえる事は難しくない。フィアには人間への優しさが著しく欠けているが……だったらそこは花中(にんげん)が付け加えれば良いのだ。

「……じゃあ、フィアちゃんに、お願い、しようかな。わたしも、手伝うけど」

「え? 花中さんもですか?」

「うん、フィアちゃんと一緒じゃないと、怖いし。あ、あと、犯人を見付けても、いきなり、酷い事しちゃ、ダメだからね? 冤罪、かも知れない、し。傷付けないで、捕まえて」

「了解です。花中さんのお願いとあらば人間の一匹二匹無傷でいくらでも捕獲してみせますよ」

 頼んでみれば自信満々、豊満さ ― 作り物だが ― を見せつけるようにフィアは胸を張る。言っておかなかったらヤル気満々だったのかな……と、背筋の凍るような想いが花中の脳裏を過ぎったが、未然に防げたので良しとする。

 兎にも角にも、これから犯人捜しが始まる。ミリオンは「私はやらないからね」と今も嫌がっているので、やるのは花中とフィアのコンビ。自分に何が出来るかは分からない。警察の方が先に解決するかも知れない。だけど自分や周りの人達、それから猫達を守るためにも一生懸命やろうと花中は心に誓う。

 とりあえず、家に帰ったらネットで情報を集めよう。出来れば比較的新しい現場の、詳細な場所を知りたい。最低でも二ヶ所以上だ。そこで共通する臭いをフィアが感じ取れたら、更なる絞り込みを行うために――――

「それでは早速探しに行くとしましょうか」

「「え?」」

 そんな感じに『明日』の計画を練っていた途中でフィアに促され、花中とミリオンの口から声が漏れた。シンクロしたのは、きっと声だけではなかった。

「……え? フィアちゃん、今、早速って……」

「ええ早速です。善は急げと言うでしょう?」

「いやいや、さかなちゃん。今からって一体何をするのよ。何処で猫が殺されたのかすら知らないでしょ?」

「ふふん知らなくともなんとかなる秘策があるのですよ」

 自慢げな笑みを浮かべながら、フィアは一本立てた指を振る。

 秘策とは一体なんなのか。

 少なくとも花中には、先程考えていた通りの……今日出来るのは事件現場が何処なのかを調べるぐらいで、本格的に動くのは明日から……という方法しか思い浮かばなかった。凡人に過ぎない身で言うのも難だが、他に案があるとも思えない。

 フィアの語る『秘策』に興味惹かれ、花中は無意識にずいっと身を乗り出していた。それに気付いたフィアに微笑まれ、花中はほんのり赤くした顔を俯かせる。ずっとしがみついていた手も放して、逃げるように後退り。

 それでも好奇の心は失せる事なく、花中はわくわくしながらフィアの言葉に耳を傾けた。

「相手の居場所が分からないのなら向こうから来てもらえば良いのですよ!」

 わくわくは、呆気なく終わった。

「……ん、んー……それは、そう、だね。うん」

「ふふふ。一体どうやって来てもらうのかと思っていますね?」

 ううん、どうやって来てもらうつもりか分かっちゃったからこの反応なんだけど――――花中はそう思ったが、話したくてウズウズしているのが一目で分かるフィアを見たら、喉まで昇ってきていた言葉を飲み込んでいた。ミリオンも何も言わなかったが、浮かべていたのは呆れ果てた表情だった。

 そんな二人の内心などきっと欠片も察していないフィアは、勿体ぶるように話の間を取る。長い、長い、間を取る。あまりにも長いので花中が「ど、どうやるのかなー?」と尋ねて、フィアはようやく口を開いてくれた。

「小田さん達の話によれば『猫殺し』は連日猫を殺しているそうじゃありませんか。『猫殺し』は恐らく猫を殺す事があまりに楽しくて一日も我慢出来ない子供のような奴です。そういう奴の目の前に哀れな獲物が現れたらどうなると思います? そうきっと何も考えずあっさりと姿を見せるに違いありません!」

「……つまり、餌を用意して、誘き寄せる、と?」

「流石花中さん! 最後まで話さずとも策を理解されるとは素晴らしい!」

 キラキラと瞳を輝かせながら、フィアは花中を褒め称える。「今日の犯行がまだ終わってないとは限らない」とか「犯行時間がこの時間帯とは限らない」とか「猫ならなんでも良いのかは分からない」とか「そもそも餌は見える場所に設置しないと意味がないのだから、やっぱり犯人の居場所に見当付けなきゃダメじゃん」とか、そんな考えは微塵もないようだった。

「え、っと、その、わ、悪くはないと、思」

「おお! 花中さんからGOサインが! こうしてはいられませんすぐにでも猫を探さねば!」

 一先ず落ち着かせようとする花中だったが、勘違いしたフィアは早速とばかりにクンクン鼻を鳴らす。あの、その、等とか細い声で花中は何度も呼んだが、フィアの耳には届かない。

「む! あちらから猫の臭いが! しかも臭いの濃さからしてかなり近い! これは幸先が良いですね!」

 ついには嗅ぎ当てたようで、そう言うやフィアはとことこと駆け出してしまった。臭いを辿りながらだからか、フィアの足取りはあまり速くなかったが……呆気に取られて立ち尽くしていた花中の視界から消えるのに、そう長い時間は掛からなかった。

「……さかなちゃんの代わりに尋ねるけど、今の秘策について、はなちゃんの率直な意見を聞かせてくれない?」

「……………えっと……あ、危ない人が、居るのは、事実、ですから……猫を、保護するのは、良い事、だと、お、思います……」

「つまり『猫殺し』捜しには殆ど役立たないと。私も同じ意見よ」

 花中の『率直な意見』に、同じく立ち尽くしていたミリオンは完全に呆れ顔。ふー、と鼻息を鳴らした。

「それで? あの調子だとさかなちゃん、この辺りに居るかどうかすら定かじゃない『猫殺し』が釣れるまで粘りそうなんだけど、はなちゃんは明日も学校よね? 徹夜になったらキツくない?」

「キツいと、いうか、無理、ですけど……手伝うって、言っちゃったし……ああ、でも何処に、行ったのかな……」

 今更ながら戸惑う花中に、「律儀ねぇ」とぼやくミリオン。すると、何を思ったのかミリオンはフィアが行ってしまった方に指先を向けた。

 その仕草に、あっちを向けと言う事かな? と一瞬思う花中だったが、しかしミリオンはあくまで指先を向けているだけ。道を指し示している訳ではないようで、花中は首を傾げる。

「……今、何体か飛ばしてさかなちゃんを見付けといたわ。追い駆けるにしても、何処に行ったかも分からないようじゃ無理だもんね?」

 そしてミリオンが自分のために手間を掛けてくれたのだと知り、花中は感謝で瞳を潤ませながら夢中で頷いた。

 花中の返事を見たミリオンは誘うように首を振ると、丁度花中が小走りするぐらいの速さで歩み始める。今度は呆気に取られてはぐれないよう、それでいて食べ物がたっぷり入ったビニール袋をあまり振らないようにしながら、花中はすぐにミリオンの後を追った。

 尤も、ミリオンが進むルートは花中の通学コースをなぞるようなものだった。あくまでミリオンはフィアを追っているのであり、つまりこれはフィアが辿った道なのだが、どうにも家に帰っているようで追っている感がない。はぐれないようにという想いも、段々弛んでいく。

 一応家に帰るには右へと曲がらねばならないT字路を左に進んだので、少しは気持ちに張りが戻ったが……自宅周辺の地図ぐらい頭に入っている。フィアが何処に行ったのか、もう見当が付いてしまう。

「はい、とーちゃーく」

 ミリオンが明るくそう告げても、見知った場所――――家から徒歩五分ほどで行ける近所の公園を前にしたところで、思う事など特になかった。

「あー……ここかぁ……」

 ぼんやりと口から出たのは、覇気のない感想。

 そこは所謂、自然公園と呼ばれる類の公園であった。

 グラウンドや大きな池があったり、木が多数植えられ雑木林のようになっている一角があったりと、総面積はかなりのもの。入場に関して制限はなく、近隣住民や子供達が気軽に遊びに行ける場所となっている。かく言う花中も幼少期は両親に連れられ度々訪れ……訪れたところで一緒に遊んでくれる子供はいなかったが、小さな自然相手に遊んだ覚えがあった。

 その頃の記憶だが、この公園には多数の野良猫がいた。

 自然がそこそこ豊かなため動物が棲むのに適した環境というのもあるのだろうが、野良猫に餌を与える人が多かったのが一番の理由だろう。昨今は世間の目や条例が厳しくなり、餌やりをする人の数は昔よりも減っていると思われるが、ゼロにはなるまい。此処が野良猫にとって居心地の良い場所なのは変わっていない筈だ。

 囮にするための猫を探しているフィアがこの場所にやってくる事は、容易に想像出来る事だった。今の今まで気付けなかった自分の事が、花中はちょっと情けなく思う。

「……多分、フィアちゃんが居るのって、ここから少し、右の方に進んだ場所にある、広場、ですよね……遊具とか、ベンチとか、水飲み場がある」

 ミリオンに案内される前に自分の予想を言ったのも、そういう情けなさを払拭したかったからかも知れない。「ええ、そうよ」とミリオンが肯定してくれて、花中は心の中の重さがすっと消えたような気がした。

 花中とミリオンは一緒に目当ての広場に向かう。住宅地と違い街灯が疎らにしかなく一帯はかなり暗いが、広がっている芝生は平坦なので歩きやすい。さくさくと進み、目当ての広場に辿り着く。

 やがて花中達はその広場の端っこ――――雑木が並ぶエリアとの境界付近にて、街灯の明かりなどなくとも分かるほど美しい金髪を地面に引きずっている、しゃがんだ姿勢のフィアを見付けた。

「……フィアちゃぁーん」

 花中がフィアの名前を呼んでみれば、瞬間フィアはまるで跳びつくような勢いで振り返り、花中に向けてぶんぶんと片手を振って答える。

「そんなに早く来てほしかったのなら、ちゃんと足並み揃えなさいよ……」

 ミリオンのぼやきにこくんと頷いてから、花中はフィアの下へと早歩きで向かう。

 と、今まで遠さと暗さのせいで良く見えなかったが、フィアの足元に何か小さな『モノ』がいるのに花中は気付いた。しかし、今更なんだろうとは思わない。心当たりは最初からあり、フィアが左手に小ぶりながらも穂付きのエノコログサ ― 別名ネコジャラシ ― を持っているのが見えるようになった頃には、心当たりは確信に変わっていた。

「……その猫、どうしたの?」

 小声に分類される自身の声でもちゃんと聞こえるであろう距離まで詰めた花中は、座り込んだままのフィアにそう尋ねた。

 フィアの足元には猫が居た。猫を飼った事がないので詳しくは分からないが、成猫というには少々幼い気がする。全身が夜の闇のような黒毛に覆われており、翡翠色に光っている大きな瞳が中々可愛らしい。体型がスリムに見えるのは、野良猫故十分な餌にありつけていないからかも知れない。

 ちなみに性格は、フィアが目の前でエノコログサをちょこちょこ動かしても無関心な感じで、結構クールなようだ。

「コイツですか? コイツは此処で見付けた野良でしてね。他にも猫はいたのですけど私が近付いたら皆散り散りに逃げてしまいましていやはや中々可愛い奴ですよ」

 フィアはそう答えながら、エノコログサの穂先を黒猫の頬っぺたにぐいぐい押しつける。黒猫が目を細めながらバシッとエノコログサの穂先を叩き落とすと、フィアは上機嫌そうに笑った。子供のように澄んだ笑顔だった。

「……それで、その子、どうするの?」

「そりゃあ連れていきますよ。可愛いですしこんなに人馴れしているのですから殺してくれと言っているようなものですからね。獲物にするのに丁度良い」

 何処からともなく新しいエノコログサを取り出しながらフィアはそう答える。確かにこの猫、人を恐れている様子がない。柔らかい穂先とはいえ、顔面にぐりぐり押し付けられても平然としているのだから相当なものだ。振る舞いがクールなのも、人への恐れがないからかも知れない。

 それだけなら、凛々しくてカッコいいのが魅力的というだけの話。しかし『猫殺し』が徘徊しているかも知れない現在、人を恐れないのは好ましくない反応だ。

 これ以上、罪のない猫達が殺されないように……目的だけで考えれば、『餌』にすべきはこの猫だろう。

「……まぁ、そうだね。捕まえよう、か」

「はなちゃんったら、さかなちゃんに甘過ぎ」

 結果的にはフィアの案を全部飲んだところ、ミリオンに窘められてしまった。そうかも知れないと思う反面、だって一番の友達だし、と開き直っている自分に花中はちょっと驚き、ふにゃっと笑ってしまう。

「よーしよし捕まえちゃいますよーだいじょーぶ大人しくしていたら痛くはしませんからねー」

 そんな蕩けた笑顔が背後にあるなど露知らないフィアは、持っていたエノコログサを投げ捨てるとわきわきと動かしながら両手を猫へと伸ばす。言い回しにしろ動きにしろ、変質者以外の何者でもない。フィアの事を知らない人に見られたら、すぐにでも警察を呼ばれてしまいそうな姿だ。わざとでないのなら、花中もちょっと引いてしまう。

「そうやってたくさんの猫を呼び寄せたのか。この異常者が」

 だからこの言葉が聞こえた時、花中は思わず自分の口を塞ぎ――――それが自分の言葉ではないと、後から気付いた。

 ――――誰かに見られた!?

 フィアが怪しい言動の真っ最中だっただけに、やましい事はしていないと思いつつも花中は取り乱して辺りを見回す。が、人の姿は全く見えない。街灯が近くにないので周囲は暗闇に包まれているが、しかし聞こえた声の大きさと静かで冷淡な口調からして、相手は相当近くに居るように感じた。輪郭ぐらいは確認出来てもおかしくないのに。

「……変ね」

 違和感は、ミリオンも覚えたようだ。かなり遠方までレーダーの如く捉えられる筈のミリオンにも()()()()らしい。

 一体どういう事か。この暗闇に溶け込んでいるのか。もしそうなら、夜の闇に溶け込み、触る事も出来ない存在なんて……

 幽霊、とかだろうか?

「ふぃ、ふぃふぃふぃあちゃんはわわわわわわわわわわ」

 顔から一気に血の気が引いた花中は、否定を求めてフィアに訊いていた。一応、「フィアちゃんは何か感じない? 臭いとかで」と言おうとしていた。当然こんな文章になっていない言葉でフィアが何かしらの返事をしてくれる筈もなく

 しかし突如左手を振り上げ――――その手の『刀剣』の形に変形させるや、足元の子猫に向けるとは思いも寄らなかった。

 フィアの『身体』は水で出来ているが、その密度から生まれる硬度は鉄を遥かに上回る。殴るだけで十分生き物を死に至らしめる事が出来るのに、この上刃物の形にするなど正気の沙汰ではない。ただの猫が受ければ綺麗に両断されてしまう。

「ふぃ、フィアちゃん!? 何をして――――」

 あまりの異常さに、花中は殆ど無意識に叫んでいた。その叫びにフィアは一瞬ビクリと身体を震わせるも、手は剣の形を崩さない。無慈悲にもその手は振り下ろされ、

 刹那、フィアの姿が消えた。

「「……え?」」

 花中だけでなく、ミリオンの口からも呆けた声が出た。けれどもその後何が起きたか考える間もなく、背後から岩が砕けるような衝撃音が響く。恐る恐る振り向けば音が聞こえてきた方角で、暗がりと混ざり漆黒と化した煙が濛々と立ち昇っていた。

 あまりにも唐突に起きた、何かの事象。

 思考と現実との距離があまりにも開き、理解が全く追いつかない。何から考えれば良いのか、それすらも分からない。手から力が抜けて鞄と食糧を地面に落としてしまうが拾おうという考えすら浮かばず、ただただぼんやりと、呆けて煙を見つめるだけ。

「思っていた手応えと違うなぁ。何か、仕込んでたのかな」

 現実に引き戻されたのは、再度『あの時』の声が聞えてからだった。

 頭が真っ白になっていたから、今度はとてもすんなりと記憶に染み込んだ。それがガラスのように透き通った女の子の声である事、明るい口調の中に確かな棘がある事……それがとてもとても近い、丁度()()()()()()()()から聞こえている事も、分かった。

 だから花中は振り向いた。だからきっとミリオンは、花中の傍へと歩み寄った。

 そして二人の目に映ったのは、まるで人間のように二本足で立ち、愛らしくも獣染みた瞳で自分達を見つめている一匹の猫だった。

「こ、この子、今喋って……」

「何? 猫が喋っちゃ悪い?」

 花中が驚きを示せば、猫は不服そうに眉間に皺を寄せ、不満を言葉にする。人の言葉を解し、使いこなしている。肉体的制約はもとより、人間に比類する知能がなければ不可能だ。

 そんな生物……花中は、二種も知っている。

「はふぅ。慣れない身体でいてちょっと疲れたかも……どの道もうこの姿でいる必要もないし、解いちゃおう」

 後ずさる花中を尻目に、猫は再び四つん這いに戻る。

 それと共に、猫の身体からベギンッと、骨が折れるような音が鳴った。

 あまりに生々しい音に花中は飛び跳ねるぐらい慄くが、猫の身体は鳴り止まない。ベキン、ゴキッ、ボギボギメギッパキンペキペキペキ……中身がドロドロのスープになっているのではと思うぐらい延々と響かせる。

 だが猫の身体は溶けていかない。それどころかベキンッと鳴るのと同時に前足が肥大化し、ベギョッっとへし折るような音と共に背中が膨れ上がり、ゴキンッと音を鳴らして首が伸びる。

 最後に軽く肩を鳴らした時、そこに猫の姿はなく。

「さぁて、そいじゃ……悪者退治の続きといこうか」

 代わりに黒い『髪』を靡かせ、黒い『毛皮』を着込んだ少女が、立っていたのだった。




ちなみに私は犬派です。猫も好きですけどね。

次回は7/30投降予定です。


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孤独な猫達3

 決して、未知との遭遇ではなかった。

 それどころかこの二週間は一緒に暮らしていたし、学校に通う時も一緒に行動していた。他愛無いお喋りをした事も買い物を頼んだ事もあるし、スキンシップだって日夜交わしている。だから慣れたと言えば慣れたし、事実『それ』を目の当たりにしても、花中の中に衝撃と呼べるほどの驚きは生まれなかった。

 それでも、今まで目の前に居た黒猫が『人』になったと――――三体目のミュータントが現れたと理解するには、短くない時間が必要だったが。困惑している間無意識に後退りして十メートルほどの距離を開けたあたり、受け入れるのに時間が掛かった、と言うべきかも知れない。

「ふぅ。やっぱこの姿の方が良いね。程々に身体が引き締まって、動きやすい」

 如何にもリラックスしたように、今まで猫だった筈の少女 ― 猫少女と呼ぼう ― は肩をぐるぐると回す。此処、自然公園には街灯が疎らにしかなく、そもそも花中達の居る周りには一本も立ってないため、この辺り一帯は

宵闇の暗さが満ちているが、人間並に大きくなった猫少女の姿を認識するのに支障はなかった。

 肩の辺りまで伸びているふんわりとした質感の黒髪や、瞳孔が縦に割れている翡翠色の大きな瞳、少し釣り上がった目付きなど、少女の顔立ちには猫らしさが残っている。挑発的な笑みと相まって、本来あどけなく感じる筈の顔立ちに性的な魅力を感じずにはいられない。所謂小悪魔的な美貌だ。

 身体はもっとストレートに魅惑的である。うっすらと筋肉が見えるスレンダーなスタイルは野性的で、本能を直に揺さぶる美しさがあった。背丈こそ花中と同じぐらいの小柄さだが、纏う色香の強さは熟した大人でも出せないだろう。挙句その肉体を隠すのは僅かな『毛皮』のみ。毛皮は胸や腰回りを覆うだけで、九割裸と言っても差し支えない。卓越した魅力を持たねば痴女との誹りを避けられないそれは、しかし卓越した魅力を持つが故に、猫少女の美麗ぶりに拍車を掛ける。

 何処かに飛んでいってしまったフィアも、自分の隣に立っているミリオンも、どちらも美人ではあるが、二匹とは違う……どうして()()()()()()()()()()()()()。その『意味』を分かっている容姿に、同性相手にも拘らず花中は思わず生唾を飲んでしまう。

 むしろそれだけで済んだ、と言えるかも知れない。

 フィアに『何か』をしたであろう彼女に近付くなど、自殺行為以外の何物でもないのだから。

「あ、あなたは、一体……」

「説明なんてすると思う? アンタ達全員殺すつもりなんだけど」

 無意識に尋ねる花中だったが、猫少女がズシンと足音を鳴らして歩み寄ったのを境に、ふわふわしていた頭が一気に冷めるのを感じる。

 明確な殺意の言葉。

 これが脅しや冗談の類でない事は、猫少女が向けてくる眼光が物語っていた。あまりにも鋭過ぎる眼光は、最早獲物に向けるものですらない。まるで人間が自分の血を吸おうとする蚊を見下すような侮蔑と、それでは到底説明出来ないほどの嫌悪に満ちている。

「な、なん、で……わ、わたし、達、何かあなたを、お、怒らせるような、事を……」

「自分の胸に聞けば?」

 どうしてそこまでこちらを憎むのか――――猫少女は理由を答えてはくれず、今にも駆け出さんばかりに身体を傾けた。

 刹那、暴風が花中達を襲う!

「はぷっ!?」

 突然吹き荒れた風に、花中が取れたのは反射的な防御姿勢。両腕を自分の顔の前に出し、目を閉じて暴風に飛ばされないよう耐えた。隣に立つミリオンが腕を組んで平然としている中必死に抗う様は、傍から見れば非常に滑稽だろう。

 幸い風は一瞬吹き荒れただけで、辺りはすぐに静寂を取り戻した。恐る恐る、花中は窺うように瞼を開く。

 見えたのは、それこそ正に猫の如く四肢で地面に立ち、尻を高く突き上げ、頭を低くした姿勢を取る猫少女。心なしか目を閉じる前よりも、猫少女は自分達から離れていた。まさか今のは離れるための動きで生じた風なのかと、予測される猛烈なスピードに戦慄を覚える。

 しかしその考えは違っていて、違っていたと気付いたから、花中の戦慄は畏怖へと変貌した。

 ――――地面に、深い穴がいくつも刻まれていた。

 それは小さなクレータのように抉れていて、まるで足跡のように真っ直ぐ花中のすぐ傍まで続き、花中の一番近くのものが最も深くなっていた。明らかに猫少女の足よりも大きな穴だったが、暴風を起こすほどの機動力となれば足の力も相応に強い筈。大地が抉り飛ばされたとしてもむしろ自然だし、『足跡』がどれほど大きくとも物理的エネルギーの大きさを物語る指標でしかない。

 問題は、足跡が花中(じぶん)の傍まできている事。

 猫少女との距離はほんのさっきまでと比べれば、僅かに遠い。しかし花中は猫少女の動きが見えていない。

 だから猫少女が単に自分から離れただけなのか―――― ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のかは、分からないのだ。

「ちっ……あとちょっとだったのに」

 花中と違い、ミリオンは何かを捉えていたらしい。表情は如何にも憎々しそうで、敵愾心を隠そうともしない。猫少女も浮かべる表情は硬い。どちらにとってもこの結果は予想外、という事らしかった。

「……ちょっと、熱かった。何をした?」

「べっつにぃ~? ただはなちゃんの周囲三十センチ圏内に『自分達』を配置して、侵入する物体を無差別に加熱しただけよ。あと三センチ内側に来ていたら、あなたの可愛いお顔、ドロドロにしてやったのに」

 意地悪い言い回しで答えるミリオンに、猫少女は怪訝そうに眉を顰める。恐らくミリオンが『群体』だとは気付いていないが、得体の知れないモノとは判別したのだろう。猫少女は僅かに後退りし、ますます警戒心を露わにしている。

 対してミリオンは、既に警戒心など失せている様子。今浮かべているのは静かで、冷淡で、飽いたような表情。

「まぁ、良いわ。勘が良いのならこっちから手を下すまでの事だし。あー、さかなちゃんと違って生身ってのは良いわねー……内側まですんなりと行けるもの」

 猫少女に手を向ける動きにも感情の起伏は全く見えず――――

「だ、ダメぇっ!」

 あまりにも軽い仕草を止めるべく、花中は全力でミリオンの腕にしがみついた。瞬間ミリオンがうっとおしそうに睨んできたが、花中は怯える心を押し殺し、何もさせないとばかりにミリオンの腕をガッチリ抱えて放さない。

 尤も、意味ある行為かといえば答えはNOだ。京単位で収まるかも分からない規模の群体であるミリオンに、押さえられて動けなくなる箇所など何処にもない。やろうと思えば全身くまなく好きなところから『自身』を飛ばし、猫少女の体内まで侵入出来る。そして相手の内側から加熱能力を使えば、体内への直接攻撃+膨大な熱による気化・膨張作用により……どんな生物でも耐えられない、死神の一撃を与えられるのだ。

 恐らく先のミリオンはこれをしようとしていて、だからこそ花中は止めようとした。しかし人間如き力ではどれだけ強硬に出ようと決して止められない。だから花中は力ではなく、言葉でミリオンを引き留めようとする。

「だ、ダメです! 殺したら、ダメ! だって、まだあの子が、なんで攻撃、したのか、訊いてない!」

「訊く必要なんてないでしょ。あの害獣ははなちゃんに襲いかかった、だから殺すってだけの話じゃない。私の今の最優先目的がはなちゃんの長期生存である以上、アレにどんな理由があろうと関係ないわ」

「だからって、い、いきなり、殺すなんて!」

「大体私の能力はさかなちゃんと違って手加減が苦手なの。焼くか焼かないかだから」

「だけど!」

 いくら想いをぶつけても、ミリオンは揺るがない。まるで雪山のように堅牢かつ無慈悲な思想に、勇んだ花中の方が気圧される。ぶつかったこっちの方が折れてしまいそうだという考えが過ぎり、身体が本能的に逃げようとしてしまう。

 それでも諦めたら、きっとあの猫少女は殺される。何を思っていたのか、何を願っていたのか……どうして『ケンカ』になったのか、何も分からないまま。

 ――――そんなのは嫌だ!

「だから、なんでみんな、す、すぐに殺すなんて、い、言えるんですか! フィアちゃんとも仲良くなれたのだから、あの子とも、きっと――――」

 最早破れかぶれ。気圧される理性(あたま)を感情で無理矢理前へ前へと押し出し

 ズドンッ! という耳が破裂しそうなほどの爆発音で、花中の頭はあっさり白くなってしまった。

「ひゃうっ!? な、なに? なに?」

 不意打ちの爆音に花中は狼狽し、ミリオンと猫少女は視線のみを物音がした方へと向ける。さっきの音はなんだと花中だけが動揺のあまり右往左往してばかりで――――やがて、ピタリと固まった。

 決して、今まで忘れていた訳ではない。

 あれぐらいなら無事だろうという信頼はあった。目の前の危機や争いを避けなければという願望もあった。故にそれは頭の片隅へと追いやり、思考のテーブルに載せていなかった。

 それが今になって表に出てくる。

 『彼女』は今まで、何をしていた?

 激情型で喧嘩っ早く、人の話を殆ど聞いてくれず、自身と同レベルの知能を持った生命をなんの躊躇もなく殺せる『彼女』は、何故何時まで経っても此処に戻らない? 自身に危害を加えた不届き者に、何故致死級の鉄拳制裁をお見舞いしようとしない?

 戻りたくても戻れないのか、それとも……戻るのに時間が掛かっているのか。

「……ちょっと、いくらなんでもそれは……」

 ふと、ミリオンが呆然と言葉を漏らす。チラリと様子を窺ってみれば彼女が見ているのは今や眼前の猫少女ではなく、丁度その真反対――――花中が背を向けている方。『あの子』が居なくなった直後、()()()()()()()()()と共に濛々と煙を上げていた場所。

 今更ながら論理思考が駆け巡る。

 此処は公園だ。では公園内で、壊れた時に岩のような音を出す物とは何か?

 街灯? 遊具? 草の茂った地面? 植えられた植物? ……どれも違う。金属製が多い街灯や遊具が壊れたなら鋭い金属音だろうし、草の茂った地面や植物なら柔らかな音になる筈。崩壊音が轟くほどの大岩や、コンクリート製の大きな建物が公園内に存在しない事は、幼少期の記憶から確かだ。

 だけどたった一つ、コンクリートで固められた場所がある。

 ここまで考えを巡らせて、花中はようやく思い出した――――確かあっちの方には、『水飲み場』があったではないか。コンクリートで固められ、手洗い用と水飲み用の二つの蛇口があるものが。

 だからきっと、今自分の背後から聞こえている滝音の如く爆音は、『彼女』が出しているのだろう。

「……怒る、気持ちは、分かるけど……」

 でも、と思いながら花中は正面の『脅威』から目を逸らし、自分の背後へと振り返る。

「だからってこれはやり過ぎだよぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 そして、土塊を煙のように舞わせ、大地を吹き飛ばして爆音を奏でながらこちら目掛けて激走している――――幅五メートルはありそうな黒色の巨大ドリルを前にして、悲鳴とか罵声とか歓声がごちゃ混ぜになった叫びを上げた。

 原理も理由も動機も単純明快。偶然にも水飲み場まで吹っ飛ばされた『彼女』――――フィアはそこで多量の水をコントロール下に置き、この巨大物体を造り上げた。そして純粋な大質量と速度による攻撃に打って出たのだ。

 やられたからやり返す。ただそれだけの理由で。

「ミリオンさっさと花中さんを連れてそこから失せなさいそいつは私が仕留めます!」

 『巨大ドリル』は何時もよりもずっと忙しない早口の、自分で鳴らしている爆音と張り合えるほどの大声でミリオンに警告を飛ばす。ミリオンは何か言いたそうにドリルに向けて口を開き、しかし何も言わずに花中を背中から摘まみ上げるや、指示通りこの場から跳び退くように失せる。

「命令するならせめて返事するだけの間を作りなさいよバカぁ!」

 直後真横を通り過ぎるフィアにミリオンは、心底余裕のない罵声を浴びせた。

 抵抗の余地なく移動させられた花中だったが、何もしなかった分映像を網膜にしっかりと焼き付ける余裕があった。フィアが多量の水で造り上げたのであろうドリルは長さにして二十メートルオーバー。推進機関や胴体部分などは一切合財抜けていて、『ドリルの刃』だけで動いている。しかも凄まじい速度で回転し、接する芝生の大地をズタズタに引き裂きながら進撃。ドス黒い感情を、粉砕する大地と共に撒き散らしていた。

 ヤバい――――本能的な警告はあったが、猛進するドリルのスピードの前ではあまりにも愚鈍。理性で警告の内容を理解する事は勿論、そのヤバさを向けられている相手を気遣うなんて、ただの人間である花中には考えが過ぎる時間すらなく。

「砕けなさいっ!」

 フィアは躊躇なく猫少女へと突っ込み、ギャリギャリと鈍い金属音を響かせた!

 ……金属音?

「ぃいっ!?」

 フィアが上擦った声を上げる。ドリルが生んだ死角の向こう側故に花中には何が起きたか分からなかったが、しかし見えていたなら、傍に立つミリオンと同じく目をギョッと見開いただろう。

 何しろフィアの渾身の一撃であるドリルが、猫少女の筋肉質ながらも麗しい片手に先端を掴まれ、止まっていたのだから。

「……で? もう終わり?」

「――――嘗めんじゃありませんよぉっ!」

 それでもフィアに撤退の二文字はなく、声を荒らげて激昂するやドリル型にしていた『身体』を収縮・変形。金色の髪を携えた乙女の姿になってすぐ、刀のように鋭利な形状をした左手を振り上げる!

 これには猫少女も後退しようとしてか身体を仰け反らせるも、ぴくりと動いただけで止まってしまう。瞬間、動く猫少女の眼球が向いたのは自らの手。

 突撃したドリルの先端を受け止め、掴んでいた筈の猫少女の片手が、今度はフィアに掴まれていたのだ。水で出来ているが故に『身体』の形をいくらでも変えられるフィアにとって、相手に掴まれる事と掴む事は殆ど同義。掴まれた部分を変形させれば容易に立場を引っくり返せる。

 哀れ、逃げられなくなった猫少女にフィアは容赦なく太刀を振り下ろし、その身を斬り裂く

 ――――否。

 片手が残っているのは、猫少女も変わらない!

「よっと」

 あまりにも軽く上げる、自由な片手。

 それは打ち鳴らした重厚な鋼の音とは裏腹に、言葉同様軽々とフィアの腕を受け止めてみせた。

「残念。こんななまくら刀じゃあたしの皮すら斬れない」

「! こ……この……!」

 おちょくるように笑う猫少女。対してフィアは眉間に皺を寄せ、憤りを隠さない。即座に二の太刀、三の太刀をお見舞いする。

 鳴り響く斬撃、衝撃波で舞い上がる粉塵。挙句人の目には捉えられないスピードが加わり――――ミリオンに連れられ遠くに避難させられた花中が状況を理解した時には、人間だったら命がいくらあっても足りない激戦に発展していた。

「さかなちゃんったら、相変わらずの脳筋戦法ねぇ。水キャラなんだからもっと知的に戦いなさいよ本当に」

 どんな結果になろうとどうでも良いのか、他人事のようにぼやくミリオン。物理的な距離に比例して、関心すらも遠退いたようだ。しかし花中にはそう思えない。

 もうどっちが悪いとか、何が原因かなど言っていられない。命を奪い合う争いとなった以上、力尽くでも戦いを止めないと取り返しが付かなくなる。されどただでさえひ弱な花中にはフィアと猫少女の戦いを止める事は勿論、間に割り込む力すらない。勇気を振り絞ったところで、真っ赤なミネストローネが出来上がるだけだ。

「と、兎に角、止めないと! このままじゃ……」

 それでもいてもたってもいられず、花中は駄目元でミリオンにすがる。

 すると、花中への返事とばかりにミリオンが浮かべたのは、何故か戸惑った表情。

「止めるって……どっちを?」

 返ってきたのは惚けたような言葉で、

 花中は、言葉を詰まらせた。

「ふんっ! ふっぅ! ふぅうッ!」

 見れば、フィアが執拗に、何度も腕の『刃』を放ち続けていた。その速さは周囲の大気を掻き回し、一面に広がる芝生を薙ぎ、時には巻き上げる。花中の目には全体的に何かが動いているようにしか見えず、太刀筋などさっぱり分からない。例え陸上生物最強格であるアフリカゾウだろうと、この猛攻の前では一瞬にして輪切りの食肉と化すだろう。

 だが、フィアの攻撃は激しさを増す一方。何時までも何時までも、攻撃の手を緩めない……緩められない。

 象をも殺す一撃を何十発も食らわせたのに、猫少女は未だ汗一つ流していないのだから。

「よっと、ほっ」

 目にも止まらない速さの斬撃を、それ以上の速さで猫少女は受け止め、いなしていく。素手をぶつけている筈なのに打ち鳴らす音は金属の如く重く、鋭い。傷付く気配すらない。

「何なんですか! なんでいくらやってもこのっ! このっこのこのぉっ!」

「なんでと言われてもねー……」

 苛立ちから加熱していくフィアに比べ、猫少女はあくまで冷静。表情もつまらなそうで、

「ぶっちゃけ弱過ぎ。あと遅過ぎ」

 放つのは気怠げで、見えない『蹴り』。

 次の瞬間、フィアはあまりにも呆気なく吹っ飛ばされてしまった。まるでゴール目掛けて蹴られたボールのように真っ直ぐ跳んでいく姿に、ほんの数十秒前まで二十メートルもの『巨体』を誇っていた名残はない。しかしフィアの重みが消失していない事は、落下し、転がるだけで軌跡を描くかの如く削られる地面が物語っていた。重量と勢いの釣り合わない異様な光景は何十メートルと続き、公園に消えない傷跡を刻み込む。

 外側など所詮『鎧』に過ぎないフィアにとって、その一撃は決して致命的とは言えない。それでもあまりにも容易くあしらわれたなら心が抉られる。プライドが傷付けられる。

 ましてや数十メートル先で佇む猫少女の視線が、地面に転がる自身を僅かでも見下ろしているとなれば尚更だ。

「おのれぇぇぇぇぇぇ……!」

「うーん……力の差を見せつければ怖がると思ったのに、全然そうならない。やり方を間違えたのか、コイツがそういうのを気にしないだけなのか……というか、そもそもなんか人間じゃないみたいだし……」

 挙句睨みつけても意に介さないどころか、呆れたように自分の顔に手を当てながらぼやき、

「面倒だから、もう終わらせちゃおうっと」

 手加減をしていたと匂わされたら、ブチリと切れてしまうのも仕方なかった。

「ふ……ふ……うふふ……ふはははははははははははははははっ! もう終わらせる! つまり何時でも終わらせられたと! 今まで手加減していたという訳ですか! あっははははははははははは!」

 笑う、笑う、笑いまくる。目に宿した殺意と憎悪と苛立ちを、フィアは笑い声として吐き出しながら立ち上がる。

「奇遇ですねぇ私も本気なんて微塵も出していなかったんですよっ!」

 そして先程まで振り下ろしていた『刃』を手の形に戻すと、未だ数十メートル離れたままの猫少女に向けて、力いっぱい腕を振った。

 ――――刹那、何時の間にかしゃがんでいた猫少女の背後で、木々や大地が吹き飛ぶ!

 吹き飛ぶと言っても、爆発とは似ても似つかない。破片の断面はいずれも鋭利な刃物でスライスされたように滑らかで、さながら()()()()()()よう。十数メートルにも渡り、無差別に何もかもが切断されている。

 さしもの猫少女もこれには表情を変える。敵意だけだった眼差しに警戒感を滲ませ、先程まで気怠げだった表情は強張り始めていた。

「――――今のは……」

「ちっ。避けましたか。私のとっておきの『必殺技』だったんですけどねぇ」

 忌々しげに呟くフィア。彼女の発した『必殺技』という単語が耳に届き、花中の脳裏に一週間とちょっと前の出来事が過ぎる。

 フィアにとって、ミリオンとの出会いは想像もしていなかった出来事だった。それは自分のような存在が他にもいた事のみならず、自分の能力の通用しない『強敵』という意味でも、だ。そしてその出会いは心の根本を変えるには至らずとも、フィアに一つの懸念を抱かせた。

 即ち、今後ミリオンのような敵が現れないとも限らない、という事。

 負ける気なんて毛頭ない。しかし苦戦するよりかは楽な方が良い――――そう思ったフィアがほんの数分で考え、数日で実用化し、ミリオンには内緒だと言って教えてくれたとっておきの技。大量の水を〇.〇一ミリ以下、髪の毛よりも細く圧縮して強固な『糸』を作り、表面に微細な刃を生成。その表面を高速循環させる事で電動ノコギリのように機能させ、鋼鉄すら熱したバターのように易々と切り裂く力を持たせる。更には細さと水の透明性によってその『糸』は不可視というおまけ付き。

 どんな相手でも確実に殺す事を目的とした、文字通りフィアの『必殺技』だ。これだけでも十分過ぎるほどに容赦ない一撃だが、この技の威力はこんなものでは留まらない。

「しかし次はありませんよ!」

 誇るように叫ぶや、フィアは数度腕を振るう。ただし今度は何も起こらない……花中の目にはそう映る。しかし何も起きていないどころか、えげつないほどに事態が進行している事を花中は知っている。

 振るった腕から放たれた危険な『糸』が何本も……何十本、それとも何百本か……フィアにしか分からない数だけ、或いはフィアにも分からないほど大量に、あの場に展開されている筈なのだ。今頃『糸』は網の目状に猫少女を包囲している事だろう。それを一気に内側へと集結させればもうおしまい、あらゆる物体は逃げる事すら許されずに細切れにされてしまう。

 フィアの攻撃を今まで平然と受け止めていた猫少女も、『糸』の一撃に耐えられない事は最初の『糸』をしゃがんで避けた猫少女自身が物語っている。このままでは猫少女は細切れの肉塊だ。そんなのは花中の望む事ではない。今すぐにでも叫んでフィアを止めなければ。花中は反射的に口を大きく開いた。

 なのに、頭にこびりつく疑念が声を止める。

 フィアのあの技の最も理不尽なところは、威力や包囲網を作れる点ではなく、不可視だという事。見えない攻撃は誰にも避けられない。気が付いた頃には全身が肉塊に変わり、身体がバラバラに崩れるまで自分が死んだ事すら分からない……あの『糸』はそういう攻撃だ。ハッキリ言って反則、人間には対処不可能な技である。

 ――――じゃあ。

 あの猫少女は最初の『糸』の一撃を、どうやって躱したのだろう?

「これで終わりです!」

 花中がそれを考えられたのはほんの一瞬。最早猫少女しか見えていないフィアは考え込む花中の顔など気付いてもくれず、掲げた片手を見せつけるように握り締め、

 そして、猫少女の周りで()()()()が噴出する。

 まるで火薬でも使ったのかと思うほどの大爆発。空気を含み白く濁った水が四方八方へと伸び、おぞましいほどの破壊力を示していた。猫少女の姿は水煙に飲まれて見えないが、全方位で同時に、かつ広範囲で起きた爆発。直撃は避けられまい。

 だが、これは違う。

 これは『切断』では、ない。

「……はい?」

「ふぅ。流石に、今のは危なかった」

 キョトンとするフィアに続き、吹き上がる水煙の中から心底安堵した声がする。煙は水滴となって地面に降り注ぎ、徐々に色が薄れていく。

 やがて爆風の中心部が見えるようになった時、そこには全身ずぶ濡れになりながら、しんどそうに肩を回す猫少女が立っていた。フィアはギョッと目を見開き、身動ぎしながら後ずさる。

「な……馬鹿な!? あの攻撃をどうやって……!」

「ん? あー、さっきのは本当にヤバかった。見えないし、そのくせあたしの身体を切り裂くし。色々とギリギリだった」

 そう言ったきり、しばし考え込むように空を仰いで口を噤む猫少女。

「流石に皮一枚切られた感覚で見えない『糸』の位置を特定して、肉に到達する前に躱すなり切り落とすなりする、ってのはしんど過ぎだね。三度目はやりたくない」

 ようやく開いた口から出てきた言葉はまるで世間話のように軽々しかったが、フィアと、遠くで聞いていた花中を凍りつかせるには十分な威力を持っていた。

 猫少女が何を言ったのか? フィアは分からなかったのか唖然としたままで、分かってしまった花中は、カタカタと身体を震わせる。

 つまりはこういう事だ。迫り来る無色透明な『糸』……目視で確認出来ないそれをこの猫少女は、直に『触って』識別したのだ――――言葉通り薄皮一枚を切られた段階、瞬き一回にも満たない刹那の瞬間で。

 あり得ない。

 そう叫びたくなる花中だったが、今までに起きた光景が脳裏に蘇る。刃物すら通さない強靭な肉体、数十トンはくだらない質量を片手で受け止める出鱈目な怪力……そして今度は滅茶苦茶な反応速度。

 フィアが『水を操る』能力を、ミリオンが『熱を操る』能力を持っているように、ミュータントである筈の猫少女もなんらかの能力を持っているに違いない。どんな能力ならばこれらが可能なのか……考えるまでもない。

 身体に刃物が通らないのは、純粋に頑丈だから。

 数トンはくだらない質量を片手で受け止められたのは、凄い怪力を持っているから。

 一瞬の間に動き回れるのは、それだけ反応速度に優れているから。

 見たものをそのまま言ったような、子供染みた原理の説明。しかしそうだとしか思えない。そしてこれが予想通りなら、猫少女の能力は呆れるほど単純であり……理不尽。

 『圧倒的身体能力を誇る』。

 それが花中の予想する、猫少女の能力。全てを正面から破壊し尽くす力の前に、一体どんな小細工が通用すると言うのか。

「はなちゃん、もう一度聞くわ。どっちを止めれば良いの?」

 今になって『本当の状況』を理解した花中に、改めてミリオンが問い掛けてくる。

 殺されそうなのは、フィアの方だ。ならば止める相手は猫少女の方。しかし友達であるフィアと違い、猫少女はこちらの話に耳を傾けてはくれまい。現状猫少女を止めるには暴力以外に術がなく、圧倒的な力を止めるにはそれ以上の力を持ち出すしかない。ミリオンならばそれが可能だろうが、彼女の能力は最早力を越えて『死』そのものだ。ミリオンが『力』を振るえば、猫少女の命は易々と潰えてしまう。

 誰も死なせたくないから争いを止めたいのに、争いを止めるには相手を殺すしかない。

 見ず知らずの猫の命か、それとも一番の友達の命か――――天秤は容易に傾くのに、手を伸ばせない。重い方が掴めない。納得出来ない決断に、覚悟が決まらない。

「さーて、と。もう一度さっきのをやられる前に、今度こそ止めを刺さないとね」

 だが、悩む事すら許されないのか。流石に危機感を覚えたであろう猫少女が、戦いを終わらせようと歩み始めた。フィアは距離を取ろうとしてか後退りしていたが、猫少女のスピードの前では焼け石に水。ズシン、ズシンと、猫少女は大地に傷跡を残しながら進み――――

 花中の青ざめていた顔に血の気が戻った。

「(……足跡……?)」

 今やそこら中に刻まれた、フィアと猫少女の足跡を見る。

 猫少女が歩く度に付けている、この足跡はなんだ?

 猫少女の身体能力は確かに出鱈目だ。しかしいくら出鱈目でも、以前フィアが言っていたように、ミリオンが語っていたように、決して不思議な何かではない。生命が進化の果てに手にした力であり、人間には到底理解出来ない難解さはあっても、現世の理に反していない純粋な科学的事象だ。

 理論や原理は分からない。だが科学に則っているのなら、必要な『もの』は見えてくる。圧倒的パワーを生み出し、支えるのに必要なのは『アレ』しかない。そして『アレ』が想像通りある事は、フィアが散々証明してくれた。

 だったら――――

「やれるものならやってみなさい! 返り討ちにしてやります!」

 フィアの威勢の良い怒鳴り声が花中の耳に届く。四足と見間違えそうなほどの前傾姿勢で猫少女と対峙する姿に、ハッタリなんて感じられない。フィアの性格的にも本当に返り討ちにしてやる気満々……むしろ自分から殴り掛かってもおかしくない。

 自分のやろうとしている事が本当に上手くいくか、考える時間はないようだ。けれども先の『妥協案』と違い、花中は決断を躊躇しない。

 ようやく浮かんだ、やってみたい秘策。迷うぐらいなら勝手にやってしまえと――――フィアは教えてくれた!

「フィアちゃんっ!」

 肺の中身を全て吐き出さんばかりに、花中は叫ぶ。その叫びにフィアと猫少女は同時に振り返り、フィアはパチクリと瞬きを、猫少女は猜疑心と敵意の眼差しを向けてくる。

 フィアは兎も角猫少女に睨まれた花中は、わたわたとミリオンの後ろに身を隠す。結局自分の問いに答えてもらえなかったミリオンはちょっと不満げ。頭をポリポリと掻いた後、そっぽを向くように花中から顔を逸らした。

 その仕草にちょっと心が離れたような感じがして胸がチクリと痛むが、泣いている場合ではない。花中はフィアの目をじっと見つめ、フィアも花中の目を見つめ返す。

 それから一回、二回……三回と息を吸っては吐いて、吸っては吐いて、最後に吸って、

「頑張って!」

 眩い笑顔と一緒に、三度目の息と大声を吐き出した。

 ――――花中が言ったのは、これだけ。ハッキリとした作戦でも、遠回しな言い方でも、秘密の暗号でもない。純粋無垢な、子供の声援だ。フィアも流石にしばらくはキョトンと花中を見つめるばかり。

 それでも最後は、野生の表情をふにゃりと蕩かし、笑ってくれた。

「はいっ! 全力で期待に応えさせていただきます!」

 そして衝撃で粉塵が舞うほどの勢いで自らの拳同士をぶつけ、気合を充填。視線を花中から猫少女に戻した。今やその顔に敵意も、警戒心もない。

 あるのは勝利を確信しきった、腹立たしいほどにふてぶてしい笑みだ。

「……何かと思えば友情ごっこ? くっだらない」

 反面、猫少女は苛立ち気味。しかしフィアはその気持ちを逆撫でするように「ふふん」と鼻で笑ってみせる。

「分かってませんねぇ。友達からの声援は何よりも力になるものですよ」

「ああ、そう。まぁ、あたしに敵うとは思わないけど」

「おやおや随分な大口を叩くものですね」

 手を大きく左右に広げ、怪しく指を動かすフィア。

「それが大きな間違いだって事をここで思い知らせてやりますよっ!」

 そしてパンッ! と力いっぱい手を叩き、

 次の瞬間、フィアの背後から巨大な八本の『水の触手』が生えた!

「っ……」

 一瞬身を強張らせた猫少女だったが、しかしその緊張はすぐに幾らか和らぐ。というのもフィアが伸ばした『水の触手』は迂回するようなコースを進み、猫少女に近付かなかったからだ。右に四本、左に四本。きっちり別れ、ぐるりと猫少女を取り囲む。

 そうして完成したのは巨大な水のケージ……即席の檻で、フィアは猫少女を捕らえたのだ。

「……ふーん。逃げ道を塞いだつもり?」

「ええその通り。言っときますけどこの水には触れない方が身のためですよ。ヤッバイ仕掛けを盛り沢山にしときましたからね」

「ふん。触る必要なんてないね」

 身を屈め、猫少女はじっとフィアを見据える。誰が見ても明らかな、突撃の体勢。

 それを目の当たりにしたフィアは人差し指を立てるや、ちょいちょいと指先を手前に振り動かす。誰が見ても明らかな、挑発。

 双方共に退く気なし。チリチリと、外から見ているだけの花中でも首筋が痛くなるような殺気をぶつけ合う。

 やがて火蓋は、踏み出した猫少女の爆音(あしおと)と共に落とされた。

 ――――後はもう、猫少女にしか分からない世界。

 音すらも追随出来ない速さで駆け出した猫少女の行く手を阻むのは、無数に張り巡らされた無色の『糸』。

 触れれば頑強な己の皮膚でも耐えられないそれを、猫少女は神速の反応で対処する。見えないのだから触るしかなく、全身の感覚を研ぎ澄ます。そしていざ薄皮一枚でも切れたと分かったなら瞬時に身を退き、『糸』が持つ刃に対し垂直に放った手刀で叩き切る!

 余程緻密かつ継続的にコントロールが行われているのか、切り裂いた『糸』は猫少女でも反応しきれない時間で破裂。水の散弾を食らわせてくるが、人間なら余波で粉々になるだろう衝撃も猫少女には肌を撫でる程度の刺激でしかない。

 突進、猛進、快進。シンプル故に何人たりとも寄せ付けない力は全てを粉砕し、猫少女の歩みは止まらない。されどそれに気付いているのは猫少女自身だけ。誰も彼女に追い付けず、真っ正面で対峙するフィアですら表情一つ動かせない。

 例えあと三歩も大地を蹴れば二人がぶつかってしまうだろう距離になっても、それは変わらない。

 猫少女はついに拳を握り締め、大きく振りかぶる。今までとは貯め込んだエネルギーが桁違いな動きも、見えなければなんの情報にもならない。フィアに出来るのはその拳を真っ向から、なんの構えも出来ずに受け止める事のみ。

 ビキビキと肉が軋むほどに硬く握られた拳を放つべく、猫少女は最後の一歩を踏み締め

 ずるんと、身体が傾いた。

「っ!?」

 まだ拳は構えたまま。なのに勝手に傾く身体に猫少女は唖然となる。それでもすぐに辺りを見渡そうと目を超絶の速さで動かし、情報を得ようとしたのは獣だからこそのなせる技か。

 しかし異変が『足元』で起きていたと気付いた時にはもう遅く。

「ぷぎゃっぼっ!?」

 ドボンと音を立て――――猫少女は()()()

「な、何!? こ、これは……!?」

「いやっほー! ぐぅーれいとっ! 大成功でーすっ!」

 狼狽える猫少女を余所に、フィアは心底嬉しそうにはしゃぐ。展開していた水触手をボンッ! と弾けさせて花火のように演出し、両腕を広げながらぴょんぴょん跳ねて喜びを表す。腕を伸ばせば届く距離まで猫少女が迫っていた事など気にも留めていない……そうなる事が分かっていたかのように。

 隙だらけの姿を曝すフィアだったが、けれども猫少女に追撃する余裕はない。

 猫少女が落ちた『地面』……そこは今、大きな泥水と化していた。さっきまでちゃんとした地面だった筈なのに、今では見る影もない。猫少女の身体は殆ど沈んでしまい、頭と、時折もがく手が出てくるだけ。身動きすら出来ていない。

 追撃どころか、これでは逃げる事も儘ならないだろう。

「はぁぁぁぁぁ……う、上手く、いったぁ~……」

 そんな猫少女の様子を遠くから見て、安全だと確信した花中はのろのろと駆け出した。ミリオンも後ろからついてきて、二人でフィアの傍まで行く。

 花中の接近に気付くと、フィアは両手の掌を花中に見せつけるように向けてきた。なんだろう? と首を傾げて考える事数秒、花中は急いでハイタッチ。にへっと互いに笑い合う。

 それから、花中は泥水……フィアに用意してもらった『罠』に落ちた猫少女の下へと歩み寄った。

「あ、あの……大丈夫、ですか? 息は……」

「これは一体なんだ!? 何をした!」

「ひぇっ?!」

 心配して声を掛けたところ怒鳴られてしまい、花中は小さな悲鳴を上げて尻餅を撞く。いきなりの大声に心臓はバクバクと音を鳴らし、息が乱れて声が出ない。

「簡単に言うと、アンタは見事罠に引っ掛かった訳」

 代わりとばかりに、ミリオンが猫少女の疑問に答えた。

「罠!? 罠って……」

「引っ掛かっても分からない? 落とし穴よ。アンタが今すっぽり嵌まってる、ね」

「そんな事言ってるんじゃない! こんな落とし穴、すぐに用意出来る訳がっ!」

「さかなちゃんに水を操る力があるのは、あれだけやりあったんだからあなたも察しているわよね? その力を使って大きな落とし穴を作ったの。表面の地面だけを残し、その下は泥水で満たす……作業自体は簡単だもの、時間なんて掛からないでしょうね」

「ぐ……こ、こんなくだらない罠でなんて……」

「シンプルな方が強いものよ、あなたみたいに。それに、重たいあなたにはこれ以上ないほど有効なトラップじゃないかしら?」

「……!」

 嫌味ったらしくミリオンに訊き返され、猫少女は砕けそうなぐらい強く歯を食い縛っていた。

 猫少女は()()

 それが花中の気付いた、猫少女の力の『根源』だった。猫少女の能力がシンプルな『強さ』であるなら、その強さを生み出すのもまたシンプルな仕組み……筋肉量の多さだと考えたのである。それに如何に力が強かろうとも、反動を受け止められる重さがなければ殴った傍から自分の方が吹っ飛んでしまう。あの怪力に見合った、映画に出てくる怪獣染みた重量が必要な筈だ。

 その考えを裏付けるように、猫少女が踏みしめた場所には深々と足跡が残り、数十トンはあっただろうフィアを蹴飛ばしても猫少女の身体は微動だしなかった。花中とさして変わらない小さな身体だが、間違いなく力相応の重さがある。どうすればそんな重量があの小さな身体に収まるかは分からないが、そこは『人智を超えた』理論によるものだろう。要するに、人類の科学では計り知れない領域だ。

 それに重たい事さえ分かってしまえば、これ以上の解析は必要ない。

 落とし穴は、相手が重ければ重いほど確実に発動する。しかもどれだけ反射神経が優れていようと、踏み締める地面がなければ跳び退く事も出来ない。猫少女にとって、落とし穴は致命的に相性の悪い罠なのだ。

「ああ、勿論落とし穴に満ちているのはただの水じゃないわよ。アンタの重さならほっとけば間違いなく水底に沈むけど、底までいったら地面を蹴って脱出されそうだからね。身体がぷかぷか浮いちゃうように、さかなちゃんに水の密度を変えて浮力の調整してもらってるの」

「想像以上に重くて大分深くまで沈みましたけどね。まぁ完全に想定外だった場合は全身が沈むのでそのまま窒息させてやりましたけど……ちなみに水を蹴っても無駄ですよ? 密度は高めましたけど流体の性質は残していますから蹴っても足が空回りするだけですので」

 意地悪く笑いながら、フィアはミリオンの話を補足する。自信満々に胸を張り、あたかも自分だけで取った手柄のよう。

「それにしても流石は花中さんですね! このような素晴らしき名案を閃くとはやはり敬服致します!」

 その癖こうも素直に他人に功績を明け渡してしまうのだから、花中は手柄云々と考えてしまった自分がなんだか恥ずかしく思えた。

「そ、んな……わ、わたしは大した事は……ミリオンさんが居なかったら、バレちゃってただろうし……わたしより、ミリオンさんの方が、凄いよ」

「えぇーお使いなんて小学生でも出来るじゃないですか。コイツなんて居ても居なくても大した違いなんてありませんよ。花中さんの方が絶対凄いですって」

「さかなちゃんったら相変わらず手厳しいわねぇ。いっそ清々しいわ」

 あからさまな依怙贔屓に怒る気もしないのか。フィアの物言いにわたふたする花中に対して、ミリオンは気にも留めていないらしく鼻で笑うだけだった。

 ――――この落とし穴作戦の立案者は花中である。

 猫少女の動きを止める術として、花中が思い付いたのは『水に浮かべてしまう』事だった。猫少女は重過ぎる。推定重量数十トンのフィアを受け止めた事から、彼女の推定体重は数十トンオーバー……これでは水どころか水銀にすら浮かべない。だとすると今までの猫生(じんせい)で泳ぎを学ぶ事は、機会すらなかった筈だ。浮かべてしまえば身動きを封じる事が出来るとの確信が花中にはあり、そのために必要な高密度の水をフィアなら作れるという信頼もあった。

 しかし問題もある。何しろ猫少女とフィアは既に戦ってしまっているのだから、「ここで戦うのは一旦止めましょう。ところで、あちらの池に行きませんか?」なんて言っても無視されるだけ。そもそもフィアが水を使って戦う姿を見ているのだから、水場なんて近付いてくれる訳がない。

 ならば罠 ― そう、落とし穴だ ― を作るしかないのだが、これが難しい。罠と言うのは、基本的に存在を知られてはならない。受けたダメージがそのまま罠の構築につながったミリオン戦ではどうにかなったが、今回作りたい落とし穴にはそのような妙案が閃かない。よってフィアに事情を説明して落とし穴を作ってもらう必要があったが、しかし説明するという事は、情報を言葉として発するという事。

 つまり猫少女に、作戦がつたわっ恐れがあった。性質(タチ)の悪い事に猫少女は驚異的な身体機能を持っている。筋力や視力のみならず、万一聴力にも優れていた場合、耳打ちでは聞かれてしまう恐れがあった。

 そこで花中はミリオンに伝言を頼んだ。まず、花中がミリオンの背中に指で文字を書く。普通ならクイズとして成立する難易度だが、群体であるミリオンならば指の跡を保存し、読み取れる。そして分離したミリオンがフィアに接触し、表面で振動――――骨伝導のようにして、音を伝えたのだ。

 猫少女に睨まれた時ミリオンの背中に隠れたのは、ミリオンに文字を伝えるため。

 やたらうっとおしく深呼吸を繰り返したのは、ミリオンが話を伝えきるまでの時間稼ぎ。

 フィアが自分の拳同士をぶつけたのは、「ミリオンの伝えた音が聞えた」という合図。

 猫少女を囲うように水触手を伸ばしたのは単なる時間稼ぎであり、挑発的な言い方は接近戦に持ち込ませるための誘導。

 花中がフィアの名を呼んでから、こっそりやっていた諸々の細工……全部成功して本当に良かったと、花中は安堵の息を吐いた。

 とはいえ、これで全てが解決したかといえばそれも違う。

「……………良し」

 花中は改めて猫少女を見遣る。身動きが取れなくなったとはいえ、桁違いの身体能力を持つ相手。吐息一つでも自分を吹き飛ばし、大怪我を負わせるぐらいは出来るかも知れない。

 それでも花中は不用心と言っても良いぐらい無防備に近付き、目線を合わせるためにしゃがみ込む。目が合った瞬間猫少女はこちらを鋭く睨み付けてきたが、花中は怖いとは思わない。

 むしろ目の前の小さな子猫が、これから何をされるのかと怯えているようにも見えて。

「あの……で、出来ればで良いので……お話、しませんか?」

 だから花中は、出来るだけ優しく話し掛けた。

「お前達と話す事なんてない! こんなの、すぐに抜け出して……!」

「大丈夫、です。あなたに、酷い事は……その、もう結構、やっちゃった気も、しますけど……でも、もうしません。だから、あの、なんで、攻撃してきたの、か、教えて、くれませんか?」

 花中は、一番知りたい事を尋ねる。どんな事情があるのか、どうして攻撃してきたのか。何か困っているのなら、助けになれるかも知れない。だけど知らないままでは何も出来ないから、教えてもらうしかない。

 勿論、もしかしたら自分達が何か怒らせる事をしてしまった可能性もある。自覚はないが、もしそうなら……フィアとミリオンは謝らないだろうけど、自分だけでも謝っておきたいと花中は思っていた。

「なんで、だって……!?」

 ただ、よもや歯茎を剥き出しにするほどの形相で憤怒を示されるとは思わず、花中は思わず怯んでしまう。

「あ、ぇと、そのぉ……な、何か、怒らせる事、しちゃってたの、で、しょう、か? ほ、本当に、心当たりが、なくて、あの……」

「よくも抜け抜けと! まだしらばっくれるつもりかッ!」

「ひゃうっ!?」

 空気を震わせるほどに大きく、それすら霞むほどの鬼気迫る感情を乗せられた叫びを浴び、花中は尻餅を撞いてしまう。本当になんの心当たりもない。花中は怯えと困惑で固まってしまい、その場にへたりこんだままになってしまう。

 そして猫少女は花中に向けて、本心からの咆哮を上げる。

「お前達が『猫殺し』なのは分かってるんだ!」

 断言する猫少女の声はとても大きかったのに、辺りは銀世界のように静まり返った。

「……………え?」

「お前達みたいなのが居るから、みんなが、兄さんが……!」

 力強く抵抗と敵意を見せる猫少女だが、しかしその意思は、目を丸くし口をぽっかりと開けている花中の頭を素通りする。もし花中が周りを見渡せたなら、意味が分からないとばかりに首を傾げるフィアと、顔に手を当て項垂れるミリオンの姿が見えた事だろう。

 花中達は『猫殺し』ではない。少なくとも花中は自分自身についてはそう言い切れるし、フィア達についても、彼女達は猫を殺す事に躊躇はないだろうが、殺す理由なんてないのでやっていないと信じられる。そもそも自分達は『猫殺し』を捕まえようとしていた。猫少女の主張はあまりにもとんちんかんである。

 しかしよくよく思い返すと、「こんなに人馴れしているのですから殺してくれと言っているようなものですからね」とか「獲物にするのに丁度良い」とか「大人しくしていたら痛くはしませんからねー」とか、如何にも犯人っぽい事を言っていた『人』が居たような気がする。挙句、身の危険を感じたのか『その人』は片手を刃に変えて先手を打とうとした訳で。

 そりゃあわたし達を『猫殺し』だと思っても仕方ないかもー……などと思いながら花中は頷き、

「って、フィアちゃんのせいじゃーんっ!?」

 相変わらず首を傾げたままのフィアに、とりあえず自分が何をしたのかを分からせる事から始めるのだった。




次回は7/31投降予定です。


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孤独な猫達4

 花中達があの公園を訪れた理由は、昨今巷を騒がしている『猫殺し』を誘き寄せ、自分達の手で捕まえるためである。

 何故そんな事をしようと思ったのかと言えば、そんな危ない人間を野放しにしていたら気が休まらないし、猫が殺されるなんて可哀そうだし、フィアとミリオンの力を借りればなんとかなるという安心感もあったし……と、とても一言では語りきれない。

 あえて一言で纏めるなら、『猫殺し』を捕まえれば花中にもたくさんの『得』があったから。ボランティア精神がないとは言わないが、割と打算的な行動だったのは間違いない。

 ……準備も何もせずにやる事となったのは、一名が暴走した結果だが。

「だから、フィアちゃん達と、あの公園に、行ったのは、その、猫を殺すためでは、なくて……むしろ、猫を殺している、『猫殺し』を捕まえる、ためだったの、です」

 そんな内容の話を言い終えて、花中は一息とばかりに緑茶入りの湯呑みに口を付けた。

 花中が今居るのは自宅の和室。和室は一階にあり、障子を開ければ小さな庭が一望出来る。初夏を迎え、日当たりの良い場所では雑草が茂ってきたが、夜の暗闇の中で揺れる草むらというのも中々風流な光景だと花中は思う。今朝降っていた雨粒が葉の上に残っていて、部屋の明かりを受けキラキラと輝いていたのも風情を感じさせる一因かも知れない。

 そしてその光景の中にはフィアが居て、そのフィアが手から出している水に頭以外の全身を包まれプカプカと浮いている黒髪の少女――――猫少女も居た。

 公園での猫少女の言葉により、花中達と猫少女の間には ― 凡そ一名の行動の所為で ― 大きな誤解が横たわっていると判明してから、既に半刻ほど経っている。

 フィアと猫少女の『ケンカ』が終わり、すぐにでも花中は猫少女の誤解を解きたかった。が、そのケンカで大きな音を何度も立ててしまっていた。仕方なかったとはいえ、公園の周りにある家々に音は五月蝿いぐらい届いている筈。騒音に悩まされた住人達の通報を受け、警察が駆け付けてくる事態が予想された。当然警察に問い質されても、事情は説明出来ない。そもそも「ケンカです(真実)」を語っても信じてはくれまい。

 そうなっては面倒と、花中は一先ず猫少女を自宅の庭まで連れてくる事にしたのである。本当は家の中に招きたかったが、推定体重数十トンの彼女を支えられるほど、大桐家の床は頑丈ではない。仕方なく、庭と和室で応対する形を取らせてもらった。

 とはいえ猫少女は自分達を『猫殺し』だと思っていたため素直についてきてはくれず、結果的にフィアが力尽くで連行する形となってしまったのだが。猫少女的にはきっと面白くない状況だったろう。そもそも拘束している時点で友好的な態度とは言えない。

 花中としては、猫少女にはこの説明で自分達が『猫殺し』ではないと分かってもらいたいのだが……

「(難しいかなぁ……難しいだろうなぁ)」

 不信を買った状態で物証のない話をいくらしても、信じてはくれまい。花中は湯呑を口に付けたまま、視線を上げて猫少女をちらりと見る。

 ……猫少女は花中からそっぽを向いていて、なんというか、バツが悪そうだった。花中の予想に反して。

「……その……言い訳にしては、まぁまぁかな。だけど、信じてもらえると思わない方が良いよ」

 気丈な口ぶりで花中を突き放す猫少女。けれども花中には、その話し方が公園で出会った時よりも僅かながらぎこちなく感じられた。

 花中の話を聞いて、どうやら結構心が揺れているらしい。同時に気丈な強がりを言えるあたり、言葉通り花中達の事はまだ信用していないだろう。その可能性もあったと、後から重要な事に気付いた居心地の悪さに悶えている程度か。

 しかし僅かでも不信感が薄れたのならそれで十分。これならもっと距離を詰めても大丈夫、な筈。

「……フィアちゃん。その子を、放してあげて」

「えっ!? でもコイツは……」

「やっぱ、話を聞いて、もらうのに、縛り付けるのは、失礼だから……ね?」

 花中のお願いに、フィアは噤んだ口を不服そうに歪める。目付きだってあからさまに不機嫌で、無言で異議を訴えていた。

 けれども花中は言った事を撤回せず、じっとフィアの目と向き合い……やがてフィアが肩を落として項垂れる。

「花中さんがそう言うなら仕方ありません。良いですか? もし花中さんに傷一つでも付けようものなら今度こそその首を捩じ切ってやりますからね」

 それからしっかりと釘を刺した上で、フィアはようやく猫少女を解放した。猫少女を包む水はあっという間にフィアの『身体』に戻り、猫少女は鉛でも落としたかのような鈍い音を鳴らして地面に着く。かくして自由を取り戻した猫少女は、ぱたぱたと身体の汚れを落とすように叩いた後、ふんっ、と小さく鼻を鳴らした。

 フィアは猫少女の態度を見て今にも殴りかかりそうなぐらいムスッとしていたが、無言で猫少女の脇を通り過ぎ、花中の隣まで移動して胡坐を掻く。眼差しはしっかりと猫少女を捉え、未だ敵意で満ちている。フィアの仕草に、お願いした花中はちょっぴり苦笑い。

 と、花中としては猫少女を笑った訳ではないのだが、猫少女はそう思ってくれなかったのか。猫少女は目元と口元を強張らせ、わざとらしくそっぽを向くや横目で花中を睨みつける。

「随分と余裕じゃない。でもね、解放したぐらいで心を許すと思ったら大間違」

「はなちゃーん。さっきネットで調べたら、『猫殺し』の容疑者がお昼頃逮捕されたって記事あったわよー」

 そして敵意を見せ付けようとしていたが、和室に入ってきたミリオンの報告に遮られた途端、開いた口から出てくるのは掠れた息遣いだけになった。

「あ、ミリオンさん。調べてくれて、ありがとう、ございます」

「このぐらい大した事じゃないわよ」

 花中がお礼を伝えると、ミリオンは手をひらひらと仰ぎながら答える。目覚まし時計すら止められない機械音痴のフィアと違いミリオンはパソコンを普通に扱えるので、リビングにて調べ物をしてもらっていた。頼んだ内容と結果は、今し方ミリオンが話した通り。

「でも良かったわねぇ。丁度良いタイミングで犯人逮捕されて」

「まだ、犯人じゃなくて、容疑者ですよ……でも、本当に犯人なら、わたしも、そう思います」

 ミリオンを窘めつつも、花中は笑みを浮かる。逮捕に踏み切った以上、警察としては容疑者の有罪を立証出来るだけの証拠や証言を掴んでいる筈。日本の警察官の大半は真面目で誠実だと信じている花中としては、恐らくこれで事件は解決したと思えた。

 さて。ご近所の平和が多分戻ったところで、今度は自分達の身に降りかかった騒動の解決だ。

「おやおやぁ? 犯人逮捕だそうですけどぉー?」

 ミリオンと花中の話が終わるのを見計らっていたのか、フィアがそれはもう嫌味ったらしい言い回しで猫少女を問い詰め始める。フィアは花中の傍から動いていないが、猫少女は苦い物でも食べたかのような顰め面になりながら後退り。かなり逃げたそうにしている。無理もない。自身の意見の正当性は、先のミリオンの一言で無残にも崩れ去ってしまったのだ。

 とはいうものの、猫少女が勘違いしてしまった理由は『花中達』の側にある訳で。

「フィアちゃん。調子に乗り過ぎ」

 ぺちんっとフィアの頭にチョップ一発。物理的ダメージはゼロでも、怒られたという事実だけでフィアは不貞腐れたように唇を尖らせる。

「えと……こ、これで、わたし達が、『猫殺し』じゃないって、納得して、もらえ、ましたでしょう、か……?」

「……分かったというか……うん……ごめんなさい」

 それから花中は改めて尋ね、猫少女は目を逸らしつつも頷き、謝ってくれた。

 実のところ捕まった人が冤罪だったとか、模倣犯で真犯人は野放しだとかは否定出来ていないのだが……猫少女は気付いてないようなので、花中は触らないでおいた。なんとブラックな思考。フィアやミリオンのような自己中心的発想だ。友人達の色に自分が染まっているような気がして、それが意外と嬉しくて、ついニヘッと笑ってしまう。

 尤もすぐに自分の顔がだらしなくなっていると気付き、花中は慌てて頬を捏ねくりまわして硬さを戻そうとしたが。こんなものかな? 大丈夫かな? ……鏡が近くにないので確かめられないが、わざわざ鏡のある洗面台まで行くのも難なので不安は心の奥底に押し込んでおく。

 ともあれ一件落着。なんか微妙な距離感が横たわってしまったが、『猫殺し』の疑惑は晴れた。これでもうケンカは起こらない。容疑者が逮捕されたので猫少女及び野良猫達、そして花中も一応は安心した日々を過ごせる。めでたしめでたし――――

 と、そこでふと花中は疑問を抱く。

「あ、あの。そう言えば、あなたは、これから、ど、どうする、つもりです、か?」

「? どうするって?」

「いえ、あの、『猫殺し』を、や、やっつけるのが、目的だったの、ですよね?」

 その『猫殺し』が逮捕されたのだから、明日から暇になるのでは?

 花中としてはそんなごく普通の、連想ゲーム的に浮かんだ些細な疑問をぶつけたつもりだったのだが――――ほんの一瞬、猫少女の口元が出かかった言葉を飲み込むように空回りしたのが見えてしまった。

 何かを言おうとして、止めた……その止めた言葉がなんなのか、気にならないと言えば嘘になる。けれども悪巧みならばいざ知らず、負い目や隠したい事情を暴くような真似は、花中としてはやりたくない。そして超能力者ではない花中に、猫少女の言い淀みの理由など分からない。

 考えた末、花中は訊かない事にした。

 確証なんてないが今の言い淀みに『悪いもの』は感じられなかったし……何より今の猫少女は押し黙っているのではなく、何かを言おうとして考えているように見える。

 だったら話してくれるまで待とう。二週間前の自分がしてもらったように。

 それが、花中の答えだった。

「……………あの、実」

「は、はいっ!」

 しかしながらいざ話してくれるとなると嬉しくて、身を乗り出すほどに食いついてしまったが。しかもまだ声が『言葉』ではなく『音』の段階にも拘わらず。

 みっともない反応の仕方に、花中の顔は茹でダコのような赤さに。フィアがあやすようにその豊満な胸に顔を埋めさせてくれなければ、熱暴走する感情のまま夜の町に駆け出していた事だろう。

「おーよしよし恥ずかしかったですねー……何か言おうとしていたのなら聞きますよ。花中さんに聞こえているかは分かりませんので我々がと言っておきますが」

 行動不能に陥った花中に代わり、フィアが猫少女に話の続きを促す。結果的に出だしを挫かれてしまった猫少女は、先とはちょっと違った沈黙を挟み、ややあってから再度口を開いた。

「実は、あたし、ちょっと観光に来ただけなの」

「観光ですか?」

「うん。産まれも育ちもこの町の辺りだけど、ペットだった訳じゃないから、人間と関わった事ってあまりなくて。最近、人間ってどんな生き物なのかなーって興味を持ったから、ちょっと見てみようと思ったの」

「そして偶然にも『猫殺し』の話を聞いたのでものはついでと退治に乗り出したと?」

 フィアの確認に、そんな感じ、と言って猫少女は肯定。

 相変わらず顔を埋めたままだが、ちゃんと話を聞いていた花中は少し思索に耽る。

 人間がどんな生き物か知りたい……つまるところ、人間観察が猫少女のしたい事らしい。人間並みの知能を持っている存在が、自分以外の生き物に興味を持つというのはおかしな話ではないだろう。またそれが事実だとすると『猫殺し』討伐は単なる気まぐれという事になるが、猫少女の実力を鑑みれば人間がいくら凶器で武装しようと、ハエ退治ぐらいの気軽さで文字通り叩き潰せる。その割には花中達を糾弾する言葉には必死さが溢れていたが……いくら経緯は軽くとも、同族が殺されている事実は変わらない。実際に『犯人』と顔を合わせたら怒りを抑えられなくなった、といったところか。

 成程、そういう事だったのか。

「成程そういう事だったのですか」

 そんな花中の気持ちを代弁するように、フィアは花中の抱いた感想と同じ言葉で答える。ミリオンは特に何も言わなかったが、疑念の言葉や表情もないので、それなりには納得したのだろう。

「つー訳で明日からまた色々見て回ろうかなって考えてるんだけど……ねぇ、人間」

「ふ、ふぁい?」

 名前 ― ではないが、この場に人間は自分しか居ないので ― を呼ばれ、花中はフィアの胸元から少しだけ顔を上げて猫少女を見る。

「今更図々しいとは思うけど、ちょっと人間の町を案内してほしいの」

 そして猫少女の頼み事に少し驚いて、視線はそのまま、頭だけ再びフィアの胸元に埋めてしまった。

「あ、案内……です、か?」

「うん。さっきも言ったけど、あたし野良だったから人間社会って詳しくないの。だから町を案内してくれると助かるんだけど、駄目かな?」

「えっと……」

「私は反対です。こんな早とちり傍に置いとくだけで危険です。その怪力が何時暴発するとも限りませんし」

「さかなちゃんに同じー。私が言えた事じゃないけど、あまり誰彼構わず付き合うのもどうかと思うわ」

 花中はチラッと見ただけだが、訊いてもいないのにフィアもミリオンも猫少女に反発する。二人の言い分は尤も。しかしミリオンが自覚しているように、それを言い出したらフィア達とも一緒に居られない。早とちり云々に関しては特に。

 それに自分達の意見を言うという事は、花中も自分の意見を言って良いという訳で。

「……わたしは、わたしで、良ければ、案内、してあげたいのだけ、ど……」

「はい知ってました」

「まぁ、頼まれてるのははなちゃんだし、好きにしたら?」

 試しに言ってみれば、二人とも無頓着なぐらいあっさりと認めてくれた。ワガママを言っちゃったかなと花中は不安になったが、二人とも呆れたようにではあっても微笑んでいたので、気分はすぐに晴れる。

「えっと、二人から、OKが、で、出たので……ど、んな場所に、行きたい、ですか?」

 許しが出たので花中が了承すると、猫少女はしばし黙考。かなり真剣な眼差しで、何か、深く思考に耽っている様子を見せる。

「……出来れば、人間がたくさん居る場所が良いな。色んな人間を見てみたいから」

「た、たくさん人が居る場所、ですね」

 ややあって出されたリクエストを承り、要望に添った場所は何処だと花中は意気揚々と考えた。

 が、すぐに表情の雲行きが怪しくなってしまった。

 人が集まる場所の心当たりならいくらでもある。遊園地、水族館、映画館、スーパーマーケット……しかし明日も学校なので、案内は放課後になってしまう。遊園地や水族館は最寄りの場所でもそこそこ距離があり、放課後急いで向かっても到着時刻は恐らく七時か八時。閉園・閉館時間が八時か九時頃だとすれば、案内出来るのは精々一時間、最悪到着時には門が閉められている。映画館は学校から一時間も掛からずに行けるが、人が集まる場所と言うのは上映されているホールであり、基本みんな黙って映画を見ているだけ。観察する面白さなんてきっとない。消去法で残ったスーパーマーケットも味気ないし、生活感丸出しなところが見られると思うと些か恥ずかしい。

 では、学校はどうだろう。年齢が偏っている以外は、かなり色んな人間が集まっていると思う。休み時間では各々自由に行動しているから、観察していて結構面白みがあるかも知れない。それに花中が朝から向かう場所なので時間はたっぷりあるし、入学してからもう二ヶ月も経つので案内だって出来る。

 しかし学校は娯楽施設ではなく、基本的に部外者は立ち入り禁止だ。猫少女は猫なので正確には『部外者』ではないが、だからと言って彼女が人間ではないと証明する訳にもいかない。何より猫少女を教室に連れていくと、自分が怒られてしまいそうだ……晴海に。

「うーん。ちょっと、思い付かない、ですね……」

 中々丁度良い場所が浮かばず、花中は降参を伝えた

「じゃあ『あそこ』はどうですか? あそこなら明日の朝から色んな人が集まると思うのですけど」

 ところ、フィアが無邪気に言った言葉に、花中の全身がピシリと凍る。

「……ド、ドコノコトカナー?」

「ふっふっふーそれはですね今日私が大活躍したあのこ」

「はぅんっ!」

 そしてフィアの話半ばで、花中は短い悲鳴と共に倒れ付した。花中の反応にフィアは目をパチクリさせながら戸惑い、猫少女はキョトンと首を傾げ、ミリオンだけが同調するように己の顔に手を当てる。

「……やっぱり、見に行かないと、駄目、ですか……?」

「私としては、どっちでも良いんだけどねー。見に行って何かが変わる訳じゃないでしょうし……でも、はなちゃん的には見に行かないと駄目じゃない? 多分見に行かないと、一週間ぐらい延々と悶えて時間を無駄にするんじゃないかしら」

 ミリオンにすがるように訊いてみたが、ミリオンの答えはフィア寄り。しかも花中の性格をよく分かった、ぐうの音も出ない正論。

 項垂れ、突っ伏し、意気消沈する事約十秒。

「えっと、あの、無理にとは言わないから……」

 ついには猫少女に遠慮の言葉を出させてしまい、花中はようやく覚悟を決めた。突っ伏していた顔を上げて、引き攣りながらも笑顔を浮かべる。

 そして、

「……大丈夫です。明日、人が集まる、場所に、案内します……ミリオンさんが、言うように、見て、何がどうなる訳では、ありませんから……それに、わたしも、見に行きたいので……」

 精根枯れ果てた声で言って、一体どれだけ信憑性があるのだろうか。

 恐らく全くないと思いながら、花中は乾いた笑いを絞り出したのだった。

 

 

 

 今朝の空は、何処までも続く青空だった。

 天気は快晴、青空を隠すような雲は欠片一つも見当たらない。梅雨入りを迎えてからしばらく姿を見せていなかった太陽は、今までため込んでいたパワーを放出しているかのようにギラギラと輝いていた。けれども連日の雨で冷やされた空気が風となって肌を撫でるお陰で、暑さは左程感じない。久方ぶりの晴れ間に鳥達も嬉しいのか、囀りもよく聞えてくる。陽光を浴びて緑に輝く草木の眩しさも懐かしい。

 なんと爽やかで、清々しい朝なのだろう。

「ど、ど、どうしよう、これぇ……!?」

 その爽やかさと清々しさの中で、花中は顔面蒼白になりながら全身をガクガクと震わせていた。

「どうしようと言われましてもどうにもならないのでは?」

「どうにもならないし、どうにかしようとしても多分悪化するだけよ?」

 傍には花中と同じく帆風高校の夏服である半袖ブラウスを着たフィアとミリオンも居たが、どちらも殆ど関心なしの様子。心底どうでもいいらしく、何かしようとする意志すら感じられない。

「あ、あたしは悪くないからな! 大体コイツのせいなんだから!」

 唯一花中と同じく動揺していたのは、花中達から少し離れた位置でフィアを指差しながら憤る黒髪少女……人の姿でいる『猫少女』だけ。その猫少女も、花中が貸し与えた花柄のワンピースの裾がふわっふわ舞うほど身体を揺れ動かしながらフィアを責めるばかりで、見事な解決案を出してくれそうにはない。

 結局花中にはどうすれば良いのか分からず、自分達から少し離れた位置で数十人もの老若男女がざわめきながら見つめている――――昨晩フィアと猫少女が戦った公園を、ただただ眺める事しか出来なかった。

「あわ、わわわわわわわわわわわわわわ」

「花中さん気持ちは分からなくもないですけどその露骨過ぎるほどに不審な態度は自分達がやりましたと申告しているようなものではありませんか? それとも申し出るおつもりなんですか? 私は別にそれでも構いませんけど」

「申し出たところで誰も信じないけどね。私達が実践しない限り」

 狼狽える花中を落ち着かせようとしてか、フィアとミリオンが宥めてくる。フィアに至ってはあやすように背中から抱きしめ頭を撫でてくれるが、花中からしたら二人の緊張感のなさが際立って感じるだけ。不安は全く拭えない。

 この騒動の理由は分かっている。公園に突如現れた、戦場のような痕跡だ。

 昨晩繰り広げられたフィアと猫少女の争いは、公園にとんでもない規模の傷跡を残していた。何しろ数十トンはある水と肉体が激突し、殴り合い、暴れまわったのだ。周囲はさながら空爆でも受けたのかのような有り様。「こんなのが見付かったら大騒ぎになる、というか公園なんだから明日には誰かに見付かって騒動になるに決まってる」と危機感を覚えた花中は、フィアとミリオンに頼んで修復を試みたのだが……彼方まで吹っ飛んだのか土の量が全然足りないわ、壊れた水飲み場はどうにもならないわ、切り倒した木々と消し飛んだ芝生もどうにもならないわ……やってはみたがやりきれず。空爆地帯が爆発現場にランクダウンした程度にしか誤魔化せなかった。

 当然そんな酷い地形の変化に公園利用者が誰も気付かない展開は期待出来ず、昨日の花中は全力で現実逃避して考えないようにしていたがそれもフィアに突き付けられてしまった。そして何時もの通学時間より早めに家を出て公園に寄り道してみれば、予想通り大騒動。こんな朝早い時間帯に数十人も集まったとなれば、騒ぎの規模は察して知るべし。

 もしかしたら、これがきっかけでフィア達の事が世間に……

「はわわわわわわわわわわわわわわわわ」

「うーん此処からだと良く見えませんね。どれぐらいの騒ぎになっているのでしょうか」

「ちょっと待ってー。さっきいくらか飛ばしたからもうちょっとで見える……あ、警察が何十人も来てる。まぁ、爆弾でも使われたんじゃないかって状況だし、そりゃそうでしょうけど」

「ほびゃあ!?」

 国家権力が出てきたと分かり、いよいよ花中の不安は頂点に。近くに知り合い以外居ないのを良い事に、悲鳴とも奇声とも付かない声を上げながら花中は涙を浮かべる。

「あ、大桐さんとフィアちゃん、あとミリきちだー」

「ぴぃっ!?」

 挙句名前を呼ばれたので酷くビックリし、驚きのあまり撫でるフィアの手から逃げ出すように飛び跳ね、その勢いのまま無様に顔面からすっ転んでしまった。

 尤も、顔を上げて振り返った先に居たのがクラスメートの小田加奈子と分かった途端、半べそを掻くほど取り乱していた心はいくらか落ち着いたのだが。慌てて立ち上がり、恥ずかしいところを見られて赤くなった顔をぺこぺこ下げながら挨拶をする。

「あ、お、お、お、お、小田、さん……お、おはよう、ございます……」

「おはよう、おだちゃん」

「おはようございます小田さん」

「おっはー。なんか大桐さん、何時もに増して忙しない割に元気ないねー」

「はうっ」

 つまり何時も忙しない割に元気がないって思われていたんだ……自分の小物っぷりと根暗さを突き付けられ、精神ダメージを負った花中は大袈裟に仰け反る。とはいえ普段通りに話し掛けてくれたお陰からか、先程までのどんよりとした気持ちがいくらか失せていた。人懐っこい加奈子の笑顔も見ていると心が落ち着く。気が付けば顔の熱さは引き、身体の震えも止まっていた。

 これなら先程よりは幾分マシな応答が出来るだろう。

「というかこの人だかりは何? なんかお祭りでもやってるの?」

「あ、えと……」

「なんか警察沙汰になっているみたいですよ」

 それでもいざ尋ねられると言い淀んでしまう花中だったが、すかさずフィアがフォローを入れてくれた。フィアの話で納得したのか、それともあまり興味がなかったのか。加奈子の返事は「ふーん」の一言だけであまりに素っ気ない。

「それはそうと、その子は誰?」

 或いは、見知らぬ『黒猫』の方に興味があったのだろうか。

「……っ」

 加奈子の意識が向いた途端、猫娘は何歩か後退りして花中達から更に離れる。決して敵対的な様子ではないのだが、初めて会った親戚の馴れ馴れしい態度を警戒する幼子のような、微妙な心の距離を感じさせた。

 が、加奈子はそんな警戒心などなんのその。雰囲気の壁を容易に踏み越え、ズカズカと猫少女に歩み寄る。人がたくさん集まったこの場で身体能力を振るうのは不味いと思ったのか、あまりにも唐突な近付き方に反応が遅れたのか、猫少女は逃げずに立ち止ったまま。あっという間に加奈子との距離は手を伸ばせば触れるほど縮まった。

 すると何を思ったのだろう。加奈子は一瞬顰め面を浮かべるや、ずいっと乗り出すように顔を猫少女の方へと突き出した。まるでキスでもするかのような動きに驚いたのか、猫少女は身体を仰け反らせたが加奈子はお構いなし。その姿勢のまますんすんと鼻を鳴らし、

「ん? この子、人間じゃないの?」

 そしてさらっと呟いたこの言葉に、花中も仰け反るほど驚いた。

「な、な、なな、な、な」

「すんすんすん。あ、やっぱり人間じゃない」

 パクパクと花中が言葉未満の音を出している間に、加奈子は猫少女に更に接近。猫少女は混乱した表情を浮かべるだけで動かず、加奈子が自分の髪に顔を埋めるのを許してしまう。

 猫少女を捕らえた加奈子は執拗に、深呼吸するように髪の臭いを吸い込んでいる。傍から見れば奇異な行動だが、今の花中には真実を追求する名探偵のように見え、

「これは、猫、かな」

 見事その正体を当てたので、花中は決断を下した。

「と、とととととととととりあえず適当な路地裏にれんこーうっ!」

「さーいえっさー」

「あいあいさー」

「へ?」

 花中の号令を受け、フィアが花中を、ミリオンがキョトンとした加奈子を素早く持ち上げる。そして人間を抱えた二匹はやや人間離れした速さでダッシュ! 後を追ってきた猫少女と共に、手近な脇道へと入り込んだ。特に場所は指示していなかったので、フィアとミリオンは小道の奥へ奥へと自由に突き進む。

 駆ける事約一分。ひょっこり現れた突き当りで花中達は降ろされた。周りは家に囲まれ、道は途切れている。辺りを素早く見渡しても人の姿はなく、しばらく第三者は現れないと期待出来た。

 此処なら、幾分マシな内緒話が出来るだろう。

「ほへー……あれ? 私、拉致られたの?」

「な、なん、なんで小田さん、猫さんの正体を……!?」

 フィアに下ろしてもらった花中は自分が走った訳ではないのにバクバクしている心臓を抑えながら、ミリオンから解放されても未だ能天気さを振りまく加奈子を問い詰める。

 最初、何を問われているのか分からなかったのか加奈子は首を傾げていたが、ややあってからポンっと手を叩く。

「だって臭いが人間じゃなかったし」

 それから平然と、そっちも分かってるんでしょ? と言わんばかりに答えてみせた。

 そんな馬鹿な――――と一瞬否定しようと思う花中だが、寸前で思い留まる。視線を加奈子から逸らし、自分達と一緒に此処まで来た猫少女の方へと歩み寄って……身動ぎする猫少女に一言断りを入れてから、彼女の麗しい黒髪に顔を埋めてみる。

 臭くはない。

 臭くはないのだが……確かにこれは、獣っぽい臭いだった。

「た、確かに、人間ぽくない、臭いですけど……でも、だから人間じゃないって」

「私ね、鼻には自信があるの。ほら、私なんか犬っぽいってみんなから言われてるでしょ? だからじゃないかなー」

「いや、それは、雰囲気の話……そ、それに、臭いだけじゃ……」

「うん。流石に臭いだけじゃ断言なんて出来ないけど」

 そう言うと加奈子はフィアの方へと振り返る。何ですか? と訊きたげに首を傾げるフィア。

「フィアちゃんは人間じゃないみたいだから、知り合いも人間じゃないんじゃないかなーって思って」

 そのフィアがこの事態の元凶だったので、花中は何もないその場ですっ転ぶほどに動揺した。もたもたと立ち上がるや花中としては素早い身のこなしで、バツの悪そうな苦笑いを浮かべるフィアの下へと詰め寄る。

「ふぃ、ふぃ、フィアちゃーん!? なんでばれてんの!? 気を付けてって言ってたのにぃーっ!」

「いやはや一応気を付けていたんですけどねぇ。勿論正体を明かしたりもしていませんからどうしてばれたのやら」

「フィアちゃん、大桐さんが近くに居ない時は結構もろに不思議な力使ってたよ? 手から水をばしゃばしゃ出したり、床に落ちたペンを拾うのに腕をびよーんと伸ばしたり、グラウンドから校舎の三階までぴょんってジャンプしたり」

「え? でもそれをした後ちゃんと手品だって言いましたよね?」

「フィアちゃああああああああん!?」

 行動も言動も何一つ気を付けていないのならばれて当然。最早追求するのも馬鹿馬鹿しいぐらい隠せておらず、この調子だと一体何人のクラスメートにバレているのやら。失意のあまり、花中はその場で膝を付いてしまった。

「うう……まさかバレバレだったなんて……」

「まぁまぁ花中さん落ち着いて。ばれてしまったものは仕方ないですしばれたところでそう困る事もないでしょう。別に悪い事はしていないのですから少なくとも私は」

「してなくてもだよ! に、人間は、怖いんだよっ!」

「いやいやそんなに怖くないでしょうたかが人間如きにどう思われようと。ミリオンもそう思いません?」

「なんか一緒にされるのは癪だけど……私達からしたら確かに人間如きだし、思わなくもないわね。さかなちゃんの言うように、あまり気にしなくて良いんじゃない?」

「むぅーっ! そ、そういう話じゃ、ないのにぃー!」

 反省する気のないフィアと、左程気にしていないミリオン。花中は二人の態度にすっかりご立腹で、頬をぷっくりと膨らませる。

「てな訳でよろしくねー。あ、私は小田加奈子って言うよー」

「……よろしく」

 そんな花中を尻目に、加奈子はちゃっかり猫少女の傍に寄り、握手を求めて手を伸ばしていた。猫少女はややあってから右手を伸ばし、きゅっとその手を掴む。

 途端加奈子は空いていたもう片方の手でガッチリと猫少女の右手を捕まえ、

「それで? もしかしなくても最近噂の町に現れる都市伝説の正体だったりしちゃうの?」

 目をキラキラ輝かせながら、何やら問い掛けた。猫少女は質問の意味が分からなかったのか眉を顰める。

 そして花中は、一瞬心臓が止まった。絶対止まった。間違いなく。

「……あの、小田さん……? 都市伝説って……?」

「ん? 口裂け女みたいな、怪談話?」

「いや、そうじゃ、なくて……その、噂って……」

「ああ、そっち? なんかね、最近色々あるの。商店街の上空に浮かぶ喪服姿の女の子とか、道路を割りながら歩く超ヘビー級少女とか、川に現れる妖精とか、高速道路で車と並んで走る妖怪金髪女とか、泥落山のダムに出現する山男とか」

「なんかものすごく広まってるぅぅぅぅぅ?!」

 隠し切れているとは思っていなかったが、まさかここまで噂が広まっているとは……

 予想外に混沌とした現状に耐え切れず、膝を付いていた花中は肘も付いてもう一段項垂れる。対してフィアとミリオンはあまり気にしていないようで、ほんわかと、噂の意味するところを淡々と受け止めたようだった。

「あー、私物を買いに行った時のやつ、見られてたのか……近くに人が居なかったからって、空飛ぶのは不味かったかしらね」

「不味いって、レベル、じゃないですよ、ミリオンさん……フィアちゃんも、何してるの……」

「うーん多分ですけど花中さんがミリオンに攫われた時の話ですかね。一般道だとごちゃごちゃしてるんで高速走っちゃいました。しかし妖精とか山男は流石に心当たりがないですよ? 確かに私は元々泥落山の池で暮らしていましたけど花中さんと出会ってからは戻っていませんし。というかあの山ダムがあったんですね」

「うん。町の中心を流れてる川の水系のやつがあるよ。ちなみに山男を見たのは私ね。梅雨入りして貯水量が限界まで増えたからダム穴が見られるって話を聞いて、先週の日曜日に見に行ったの。んで、その時山男を見た。ただの大男っぽかったけど、あれは山男だね!」

「それはただの大男でしょあなたと同じくダムを見に行った。というかダム穴ってなんですか」

「えっとねー、ダム穴ってのはダムとかの水を貯める施設にある排水機構で、溜まり過ぎた水をこうドバーッと出すための……」

 気が付けば、他愛無い話で盛り上がるフィアと加奈子。

 相変わらず仲が良くて、花中はムッと頬を膨らませる。

「とっ、とっ、兎に角小田さんっ! その、この事は秘密に……して、おいて、くれませんか……?」

 その勢いのまま花中は加奈子に呼び掛けるも、振り向いた加奈子の無垢な瞳を見ていると話に割り込んでしまった事の申し訳なさと羞恥が込み上がり、言葉が尻すぼみになってしまった。急に萎んだ花中の態度が不思議なのか加奈子はニコニコしつつもキョトンとなっていたが、やがて指でOKサインを作り「良いよー」と気軽に答えてくれた。

 加奈子の返答に花中は安堵の息を吐く。今更全く意味がないような気はするが、どうにか一人分の口止めは出来た。それにフィア達の正体を知っても加奈子に恐れる様子はなく、今まで通りの親しさで接してくれている。恐れていた事態は杞憂で済んだ。

 これにて一難は去った。

 ……なのにまた一難やってきそうに感じるのは、加奈子の笑みが何時も通りおっとりぽわんぽわんしていて――――フィアと良く似た、子供っぽい傍若無人な自由さを滲ませているからだろうか?

「えっと、あの、じゃ、じゃあ、そろそろ学校に……」

 予感とも悪寒とも付かない嫌な感覚に、この場から立ち去ろうとした花中。

「あ、そうはいかんのじゃー」

 しかしそんな花中の肩を、誰かがガシッと掴んだ。突然の事に花中は驚き、怯えながら振り向けば、そこには加奈子の意地悪な笑みが。

 まだ何も言われていないのに、花中は自分の嫌な感覚が的中してしまった事を察した。

「んっふっふー。颯爽と正体暴いたのに、じゃあこのまま日常に戻りましょうなんて言われて、はいそうですねーって答えると思う?」

「……ダメ、ですか?」

「ダメ♪」

 キッパリと、清々しく加奈子は断言した。よもやここまできてそんな事を言われるとは――――想定していなかった状況に花中は戸惑いの色を隠せない。目にはちょっと涙が浮かんできてしまう。

「じゃ、じゃあ、どうすれば……」

「そんな難しい事じゃないよ。ちょっとみんなで遊んで、そんで色々話を聞いてみたいってだけだからさ。ほら、こういうファンタジーな世界があったって分かったら、色々知りたくならない?」

「あ、ああ……そういう、事、ですか……」

 思っていたよりも大した要求ではなく、花中は再び安堵。それからフィアとミリオン、猫少女を見遣る。猫少女は視線を逸らすだけで是非を語らず、ミリオンはお好きにどうぞとばかりに片手を花中の方に向け、フィアは「私は構いませんよ花中さんが良ければ」と言葉で返事をしてくれた。

 猫少女だけはOKとは言い難いが、反対という訳でもない様子。何分彼女と加奈子は初対面。一緒に遊ぼうとか話を聞かせてとか、いきなり言われても戸惑うのが普通だ。誰かがハッキリと方針を告げれば、じゃあそれで、となるだろう。

 花中の答え次第で、これからどうなるかが決まる。なら自由にやらせてもらおうと、花中は自分の意思を加奈子に告げた。

「えっと……それで、良いのなら……みんなで遊ぶの、は、わたしも、したい、です、し」

「よーし! それじゃあ場所は、喫茶店とかファミレスじゃ流石に色々言われそうだから……ゲーセンで良いかな? 話をするにはちょっと騒がしいけど、ま、遊びながらのんびりとねー」

「げーせん? あ、ゲームセンター、ですか? えと、わたし、行った事、ないですけど……」

「あ、そうなの? まぁ、私がエスコートするから大丈夫。そんじゃあ早速行こうか!」

「は、はいっ!」

 肯定の返事をすると、加奈子はノリノリでそう促してくる。つられて返事をしてしまう花中だったが、特に後悔はない。むしろこうして遊びに誘われたという事実が嬉しくて、頬の筋肉が弛んでしまう。

 ……と、このまま正気を失っていれば楽なものを、酔っていても案外聡明さを保っていた花中の脳はふと違和感を覚える。

 ――――今、加奈子は早速と言っていたような?

 早速って、『何時』?

「……あの……今、早速って、言いました、か?」

「? うん、言ったよ?」

「えっと、今日は、学校が……」

「サボれば良いじゃん」

 サボる!

 思いもしなかった一手に花中は目を丸くする。無論その手があったか! などと納得なんてしない。

 だって学校をサボるなんて……そんな不良みたいな事、やってはいけないのだから!

「だ、ダメです! そんな、学校をサボる、なんて……も、もうすぐ、期末テストも、ありますし、ちゃんと、学校には行かないと……」

「良いじゃん別に。一回ぐらい休んでも留年にはならないって。それに期末って確か七月の頭ぐらいでしょ? ノートは晴ちゃんに見せてもらえば良いし、それにどうせ早めにやっても頭から抜けるんだから七月になってからやれば大丈夫だよー」

 説得しようと試みるも、加奈子は聞き入れてくれない。みんなからも何か言ってほしいと花中は友人達に目で訴えてみるが、猫少女は目を逸らして戸惑い、ミリオンは肩を竦めて放任し、フィアは微笑みながら「よく分かりませんけど別に良いんじゃないですか?」と言うだけ。野生動物達に勉学の大切さを理解してもらう事は難しそうだった。

 いや、フィア達はそれで良いだろう。人間ではないのだから、無理に人間流のやり方を理解する必要はないし、実践する義務もない。しかし加奈子は人間だ。具体的に言うなら日本人の一般進学校に通う女子高生だ。ちゃんと勉強して、社会で生きていける大人にならなくてはならない。

 放任するのは簡単だ。だが、花中はその選択肢を選ばない。むしろ止めねばならないと意志を固める。

 だって自分は加奈子の友達なのだから。

 友達が間違った道に進もうとしているのなら、ちゃんと止めるのが本当の友達だ!

「ダメったら、ダメ、なんですっ! 遊ぶのは、やる事をやってから――――」

「ちなみにもしこれを断ったら、今日の話クラスのみんなにばら撒いちゃうんでよろしく」

「ぴぃっ!?」

 等と花中は勇ましく説得を試みようとしたが、加奈子が悪びれる様子もなく脅してきたので言い切る前に固まってしまった。

 これがネットに話や動画を上げるとかなら「超能力染みた力を持つ人間っぽいけど実は人間じゃない生き物の話なんて、誰が信じるものか」と、心臓バクバク全身ブルブル声ガクガクになりながらも言ってやれただろう。だがクラスメートとなれば話は違う。彼等彼女等はその気になればフィアに話し掛け、加奈子の話が本当なのか確かめられる。それに加奈子のように、フィア達が人間じゃないと気付いた者が何人か居るかも知れない。その人達の確信を深めたとなれば、事が大きくなるのは避けられない。事が大きくなれば、最終的に何処までフィア達の事が知れ渡るか……

 正義を示すべきか、脅しに屈するか、それとも第三の案はないのか。恐るべき強敵であったミリオンや猫少女すらも打倒した自らの頭脳を花中はフル回転させ――――

「そいじゃ、しゅっぱーつ♪」

「……しゅっぱーつ……」

 元気よく腕を上げながら言う加奈子の掛け声に、花中は萎んだ声でオウム返しするのだった。




おっとりぽわぽわだけど、やる事結構やんちゃ系。
はい、私の趣味です。

次回は8/2投降予定です。


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孤独な猫達5

 花中が連れてこられたのは、地元のとある鉄道駅周辺だった。

 この町には他にも二つ鉄道駅があるのだが、路線が複数あり、かつ急行が通過せずに止まってくれる駅は此処しかない。そのため利用客は他の駅よりも多く、平日の午前十時を過ぎた今も、たくさんの人々が行き交っていた。

 そして人が多ければ、商いをしようと考える者が現れるのは必然。一帯にはレストランや本屋、ショッピングモールといったレジャー施設が数多く建ち並んでいた。行き交う人々は大半が私服姿で、買い物や食事を楽しもうとしているのが窺い知れる。年頃も大学生ぐらいの人やお爺さんお婆さん、主婦らしき女性といった、平日に余暇を楽しめそうな面々が大半だ。

 その中を制服姿で闊歩する女子高生四人とワンピース姿の少女一人の計五人組というのは、一体どれだけ目立つのだろう。

 どれぐらい、悪い事をしているのだろう。

「ほら、こっちこっちー!」

「ぅ、うぅぅ……」

 それが気になってしまう花中は、両腕を派手に振って自分達を先導しようとする加奈子と違い、身体を限界まで縮こまらせていた。視線はあっちにキョロキョロ、こっちにキョロキョロ。少し大きな声が聞こえる度に飛び跳ねるぐらいビクつき、そうでなくとも凍えるかのように身体が震えてしまう。守るように自分で自分を抱きしめ、歩みはすり足が基本。ネズミでももう少し落ち着きがあるぐらい挙動不審だ。

 しかしながらそんな花中を、加奈子もミリオンも猫少女も気遣ってはくれない。ミリオンは加奈子と世間話をしていて、猫少女は行き交う人々を真剣そうに観察するばかり。花中の方は見向きもしていない。

「花中さん大丈夫ですか? 気分とか悪くなっていません?」

 心配そうに声を掛けてくれたのはフィアだけだった。

 声を掛けてくれただけで嬉しくて堪らず、張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れてしまう。花中は跳び込むようにフィアにしがみついた。それがますます人目を集めるとしても、お構いなしである。

「だ、大丈夫……でも、うううぅ……やっぱり学校は……」

「ああまだ学校をサボる事を気にしていたのですが。かれこれ二時間ほど暇を潰していたのでもう心の切り替えは済んだと思っていたのですけどね」

 フィアはしがみついた花中を突き放す事もなく、優しく頭を撫でてくれる。お陰で不安な気持ちを幾分拭えたが、しかしすっきり晴れる事はない。逸れた母親と出会った迷子のように、フィアにしがみついたままだ。

 加奈子に脅され、ゲームセンターに行く事となった花中。

 加奈子曰く開店時間が十時との事なので二時間ほど暇を ― 具体的にはお喋りなどで ― 潰していたが、花中の「学校をサボるのはいけない事だ」という考えは変わらず。未だ、罪悪感に悶えていた。一応欠席する旨は学校に連絡しているので無断欠席ではないが、ずる休みに変わりはない。十時を過ぎ、今更遅刻の事実はひっくり返せないが、それでもウジウジと悩んでしまうのが大桐花中という人間の性分なのである。

「うーん私にはよく分からないのですけど学校って勉強する場所ですよね? だったら今日の分は家でやれば良いのではないでしょうか。そもそも花中さんは日頃から自主的に予習している訳ですから一日二日休んだところで他の人よりも遅れるという事はないと思うのですけど」

「それは、そう、かも、だけど……」

 フィアの意見に、花中は反論の弁もない。実際家では毎日予習と復習をしている花中にとって、一日休んだところで勉強が遅れるものではない。むしろ数日休んでも平気なぐらい、自分で勉強を進めてしまっている。これで欠席日数が多ければ話は別だが、今学期ではまだ一回目の欠席だ。二週間前の『無断早退』を含めても、進級に問題はない筈である。

 しかしそれでも、やっぱり学校にはちゃんと通いたい。

「大桐さん、どったのー?」

 ついには思い悩むあまり立ち止ってしまい、加奈子に声を掛けられてしまった。ハッとなった時にはもう遅く、花中は慌ててフィアから離れ、茹でダコのように赤く染まった顔を俯かせる。

 尤も加奈子はそんな花中の顔を堂々と覗き込んでくるので、俯く事すらままならなくなってしまうのだが。

「どしたの? お腹痛いの?」

「なんでも学校をサボってしまった事を未だ気に病んでいるようです」

「ありゃ、そうなの? 大桐さんは真面目だなぁ」

 羞恥で頭が塗り潰され、言葉が出てこなかった花中を代弁するようにフィアがそう伝えると、加奈子はなんとも真剣みのない反応をし、それから考え込むように腕を組んで空を仰ぐ。

 と、ややあってからポンッと手を叩き、加奈子は不意に花中の肩を力強く掴んできた。突然の、それもかなり強めの力に驚いた花中が思わず顔を上げれば、真っ直ぐこちらを見つめている加奈子と目が合ってしまう。込み上がるバツの悪さと恥ずかしさで逃げたくなる花中だったが、肩を掴まれているので逃げられない。あっちこっちに目を逸らしても、こちらを見つめてくる顔が視界の端にチラチラと映り……やがて根負けして、オドオドしながら花中は加奈子と目を合わせる。

 すると加奈子は犬のように愛らしく、純朴な笑顔を花中に見せた。

「ほら、折角遊びに来たのになんで暗い顔してんの? 笑って笑ってー」

「で、でも、み、みんなが、ちゃんと勉強、し、してる時に、遊ぶ、なんて……」

「でももへちまもないよぅ。それにさ大桐さん、よく考えて。私達はなんのためにサボったの?」

「それ、は、えと……小田さんが、みんなと話したいから……?」

「うーん、二十九点」

「へぅっ!?」

 赤点な点数を言われ、花中はおろおろと戸惑う。

 そんな花中の頭を加奈子は優しく撫で、

「正解は、みんなの話を聞いて仲良くなる事、だよ♪」

 ニカッと、今までで一番眩く、朗らかな笑みを見せてくれた。

「みんなと、仲良く……?」

「別にね、みんなが人間じゃなかったとか、私としてはどーでも良いの。私はただ、みんなと仲良くなりたい。だから話を聞きたいし、遊びに来たの」

「……………」

「勿論大桐さんの言いたい事は分かるよ。でもさ、過ぎた事は考えても仕方ないと思わない? 大事なのはこれからでしょ」

「これから……ですか」

「そう、これから。過去を振り返るのが悪いとは言わないけど、振り返ってばかりじゃ、『これから』が見えないよ?」

 加奈子の言葉で花中はハッとなる。

 確かに後悔するのは簡単だ。その場で立ち止まり、しゃがみ込んでいれば良い……しかし、それでは決して前に進めない。崩れてしまった橋を延々と眺め、無為に時間を浪費するだけ。もしかすると、急げば渡れたかも知れない『橋』が崩れるところまで見る事になるかも知れない。そうなったらもう本当に、何処にも行けなくなってしまう。

 後悔は何時でも出来る。だけどそれは、立ち止まりながらする必要なんてない。

 今は前を向こう。そして、やりたい事をやろう。

 もしかしたら、それは今しか出来ない事なのだから。

「……分かりまし、た……わたし、一生懸命、サボりを、楽しみます! そんで、みんなと、小田さんと、もっと仲良しになります!」

「おう! その意気だよー」

 花中は力強く拳を握り締めながら、覚悟を言葉にした。花中を応援するように、加奈子はパチパチと拍手をしてくれる。

「ちょろいですね」

「ちょろいわね」

「ちょろいなぁ」

「?」

 そして何故かフィア達動物三人衆が妙に温かな眼差しを送ってきたので、最後の最後で花中は締まりなく首を傾げてしまった。なんでだろう? と考えようとするも、それより早く加奈子が手を掴んで引っ張る。

「さ、こっちこっち!」

 戸惑う花中の気持ちを吹き飛ばすぐらい元気よく言い、加奈子は力強く歩き出した。花中は引っ張られるがまま加奈子の後を追い、フィア達は花中の後ろをテクテクとついていく。

 人混みの中を加奈子は迷いない足取りで前に前にと進んでいく。向かうは駅近くの、様々なお店が並ぶ一角。服屋やアクセサリー店などの煌びやかなお店を横目に歩き続け……加奈子が立ち止まったのは、その煌びやかな中で一際強い電光を放つお店の前だった。

 店先に出ているクレーンゲームに、自動ドア越しに見える大きな機械の数々。そして漏れ聞こえる楽しげな音楽が、周りの店とは明らかに異なる存在感を演出している。

 「ここだよー」と言う加奈子に連れられて進めば、開いた自動ドアから冷たい風、それから賑やかな音楽に出迎えられた。店内は外の暑さから解放されていたが、音楽の激しさは祭りを彷彿とさせる。明滅する機械の光も、綺麗だとは思うがちょっと眩しい。楽しそうな雰囲気は嫌ではないのだが、なんだか自分が酷く場違いな場所にいるような、サイズの合わない椅子に座ってしまった時に似たそわそわとした気持ちになってしまう。

 これがゲームセンター……未知との遭遇に、花中は入ったばかりの入り口で立ち尽くしてしまった。

「大桐さん? どうかした?」

 到着早々固まってしまった花中が気になったのか。加奈子は手を離すとくるりと振り返り、キョトンとした顔を向けてくる。呼び掛けられて自分が呆けていたと気付き、花中は赤くなった顔で右往左往しながら掠れた声を絞り出した。

「す、すみません……あの、は、初めての、ゲームセンターなの、で、つい……」

「あ、ゲーセン初めてなんだ」

「は、はい……そ、その、わたしみたいなのが、居て、良いのかなって……場違いじゃ……」

「んもー、何言ってんの大桐さん。遊ぶ場所に誰が場違いとかないでしょ、ちゃんと遊ぶ分にはさ」

「そ、そう、だとは、思いますけど……」

 加奈子の言い分に納得は出来る。けれども、すんなりと受け入れられるかは別問題。居心地の悪さは本能的で、頭でどうこう出来るものじゃない。落ち着かず、花中はおのぼりさんのように辺りを見渡してしまう。

 そんな情けない姿を晒すものだから呆れられたのか、一緒に店に入ってきた猫少女は花中の事をジトッとした眼差しで見ていた。キョロキョロしているうちに猫少女と目が合ってしまった花中は慄くように後退り。助けを求めてフィアの姿を探し、

 何処にも、フィアとミリオンの姿は見当たらなかった。

「……あれ?」

「どしたの大桐さん。またキョロキョロしちゃって」

「あ、えと、フィアちゃん達は何処に行ったの、かと……」

「あれ? そーいえば居ないね。あれれ?」

「……アレじゃない?」

 フィア達を見付けられず二人揃って首を傾げていると、猫少女が店内のある場所を指差す。言われるがまま猫少女の指し示す先を見てみると、確かに自分達から少し離れた場所にフィア達らしき姿があった。

 そして道理ですぐに見付けられなかったと花中は得心がいく。何しろ二人は花中達から離れているだけでなく、とある機械を覆っている暗幕の中を揃って覗き込んでいたからだ。顔が隠れていては分からないのも仕方ない。フィアが地面に着くほど長い金髪を持っていなければ、居場所を教えらても簡単には納得しなかっただろう。

 しかしながら、二匹は一体何を覗き込んでいるのか?

 何らかのゲームの筺体のようではあるが、何分花中はゲームセンター初体験。遠目で見ても何のゲームかはさっぱり分からない。

 とりあえず訊いてみれば良いや、と花中はフィア達の方に早歩きで向かう。それからゲーム音楽が鳴り響く店内でも自分の小声が聞こえるだろう距離までフィア達に近付いた

「ぅひっ!?」

 ところで、花中は小さくない悲鳴を上げた。

 何故ならフィアとミリオンが覗き込んでいるゲームは、ゾンビや怪物などのモンスターを倒していくものだったからだ。暗幕にはこのゲームに出てくるだろう敵のイラストが描かれていたが、どれも血まみれで、内臓剥き出しで、皮膚はべろんと剥がれているというかなりのグロテスクさ。リアリティを追求したデザインなのも、花中の心にグサッと突き刺さる。

 怖いものが大の苦手な花中は顔面蒼白になりながら、逃げるように三メートルぐらい後退。

 花中の気配を察してくれたミリオンが暗幕の中から出てくるまで、花中はその場で固まる事しか出来なかった。

「あら、はなちゃん。ごめんねぇ、何も言わずに動いちゃって。さかなちゃんがこのゲームに興味を持っちゃったみたいなの。しかも何故か私を連れていこうとするし」

「は、はぁ。それは良いのですけど……フィアちゃんは、その、なんでまた」

「おお! やはり二人プレイが出来ますよ! それに対戦も出来るようです!」

 花中が質問しようとするのを妨げるように、フィアは暗幕から顔を出すや弾みきった声でミリオンにそう言った。言ってから花中の存在に気付いたようで、驚いてビクつく花中ににっこりと微笑む。

「ああっと花中さんではないですかすみませんちょっと面白そうなものを見付けまして」

「ぁ、うん……それは良いけど……や、やりたい、の?」

「ええ。このゲームでならミリオンとケリを付けられますから」

 獰猛に口角を上げたフィアは何処からか巨大な拳銃を取り出し、ミリオンにその銃口を突き付けた。銃の握り部分の底からコードが伸びゲーム筐体の方に続いていたので、専用のコントローラーなのだろう。

 玩具の拳銃を突きつけられたミリオンは、困ったようでちょっぴり楽しそうな、仮に銃が本物だとしても変わらなかっただろう笑みを浮かべる。

「あら。私と勝負したいの?」

「先々週の戦いでは少々遅れを取りましたからね。負け越しというのは性に合わないのですよ。あと化け物を殺しまくるとかすごく楽しそうですからあなた付き合いなさい」

 どうやら単に遊びたいだけらしい。

 あっさり本音を打ち明けるフィアに、ミリオンはくすくすと楽しそうに笑った。

「OK、素直なのは美徳ね。その美徳に敬意を表して、正々堂々対決してあげましょう」

 負ける気など毛頭ない挑発的な言葉で返すと、ミリオンは暗幕の中に入って行った。そうこなくては、と上機嫌になりながらフィアも暗幕の中に引っ込む。

 ……ややあってからフィアだけが暗幕の中からまた顔を出し、

「すみません花中さんお金を少々頂けませんか?」

「……うん」

 子供の如く素朴に頼んできたので、花中は言われるがままあげる事にした。暗幕にはワンプレイ百円と書いてあったが、二匹でやるなら多分二百円、その後もしフィアが負けたらムキになって何度か挑むだろうから、一応千円札を渡しておく。

 お金を受け取ると、こんなに要りませんよ~、と言いながら、フィアは駆け足で近くの両替機の下に行ってしまった。目覚まし時計一つ止められないフィアに両替が出来るとは花中には思えないが……ミリオンが後を追ったので、多分大丈夫だろう。

「へー、フィアちゃん達はこれをやるのか」

 一通り事が済むと、遅れて加奈子もやってきた。後ろには猫少女も居る。猫少女の視線はゲームではなく、加奈子の方を向いていたが。

「私達もこれやる? 最初はフィアちゃん達の応援って感じだけど」

「え、えと、ぁ、ううぅ……」

「……もしかして、怖いの?」

 あからさまな言いよどみで誤魔化せる筈もなく、内心をあっさり見抜かれた花中は顔を赤くしてこくんと頷く。

 怖がる花中を見て、加奈子は自身の唇に指を当てながらしばし黙考。

「じゃあ私達は別のゲームで遊ぼうか」

それからあっさりと、フィア達とは別行動をしようと提案してきてくれた。

 花中にとっては実にありがたい話。けれども、加奈子はフィア達と話をしたかった筈な訳で。

「……良いの?」

「怖い系のゲームを無理やりやらせる訳にはいかないよー。ゲームは楽しんでやらなきゃ意味ないしー」

「でも、小田さんは、みんなの、話を……」

「あ、そっち? そっちは別に何時でも聞けるじゃん。それに」

 そう言うと加奈子は不意に、花中の肩を抱き寄せる。一気に密着する形となった花中は戸惑い――――しかし加奈子の、いたずらを思いついた子供のような笑顔を見ていたら、なんだか呆気に取られてしまう。

「フィアちゃんとミリきちが居ない方が、大桐さんを問い詰めるのに好都合だしね♪」

 挙句本人に言っては意味がない事を堂々と告げるものだから、花中は思わず吹き出してしまった。

 どうやらこの人には、勝てそうにない。

「……分かりました。一緒にゲーム、しましょう」

「うんっ、そうこなくっちゃね!」

「あ、えっと、猫さんも、一緒に、どうですか?」

「え? あたしも?」

 少しポカンとした様子で猫少女は訊き返してくる。猫少女の目的は様々な人間を観察し、知る事。そうした事情を知っている花中から誘われるとは思わなかったのかも知れない。

 そう考えると途端に自分が空気を読んでないような気がして、花中は「よ、良ければ、ですけど……」と尻窄みな言葉を付け足してしまう。そんな花中を見て、猫少女は面倒臭そうに自分の頬を指先でポリポリと掻く。

「まぁ、良いよ。遊ぼうか」

 だから断られるかと思っていたのだが、予想外の答えに今度は花中の方がポカンとしてしまった。

「……い、良いの、ですか? だって、あなたの目的は……」

「へ? そんな事気にしてたの? あたしはただアンタ達の邪魔になるんじゃないかなって」

「え?」

「……案外あたしとアンタは似た者同士かもね」

 恥ずかしそうな、笑っているような。よく分からないため息を漏らす猫少女に、花中はおどおどと戸惑う。

「気にしないで。それより何で遊ぶの?」

 しかしそう言われては追求もし辛い。

 それに遊びたいのは花中も同じなのだ。どうせ無意味な疑問だと、気にしない事にした。

「えっと、わたしは、ゲームセンターの、事は、よく分からない、です……すみません」

「そっかー。あたしもなんだよねぇ……そもそもゲームって何をしたら良いの?」

「おおう、なんという初心者共……さて、どうしたもんかなー」

 初っ端から躓く花中と猫少女を前に、加奈子はしばし口元に指を当てて如何にも考えています風のポーズを取る。やがて花中の手を取ると「こっち来てー」と言い、店の奥へと進み始めた。

 初めてのゲームセンター、引っ張られながら花中はおのぼりさんのように辺りを見渡す。学校をサボって遊びに来ている自分が言えた事ではないと思うが、平日の午前中にも関わらずゲームセンターは意外と盛況。子供や若者の姿はあまりないが、代わりにそれなりに歳を召した方々が多い。そういえばゲームセンターに熱中する高齢者が増えているというのをテレビで見たなぁ……等と思いながら、花中は加奈子と猫少女と共に店の『何処か』へ。

 加奈子が引っ張る手を離したのは、とあるゲーム筺体の前だった。とはいえゲームセンター初心者の花中にそれがどんなゲームなのかすぐには分かる筈もなく、既に興味深そうに筺体を眺めている猫少女と共にじっくりと観察してみる。

 そのゲーム筺体は他の台と比べ倍近い大きさで、椅子は二つ、レバーやボタンなどの操作器もツーペア用意されている。筺体の塗装は……稲妻をイメージしているのだろうか、なんだかギザギザのオレンジ模様が描かれていた。はて、一体これはどんなゲームなのかとモニターへと視線を移し、

 そこには殴り合う、筋肉質でふくよかな体型をしている半裸の男達の姿が!

「ひっ!? こ、これ……!?」

「ん? 『ストリート・ヨコズナー』、格ゲーだよ?」

 格ゲー……即ち格闘ゲームだと教えてもらった花中だが、ジリジリと後退り。

 最初は不思議そうに首をかしげていた加奈子だったが、小刻みに震える花中の姿を見て、驚いたような、呆れたような、なんとも付かない目の見開き方をした。

「まさかこれもダメなの?」

「だ、ダメです……な、殴るとか、殴られる、とか、想像するだけで……」

「えー……」

 これには流石に加奈子も困惑したのか、苦笑いを浮かべる。しかし駄目なものは駄目。後退りを続け、すっかり花中と加奈子の距離は開いてしまう。

「うーん、そこまで言うなら別のにしても良いけど。あ、パズルゲームとかはする? 『ふよふよ』とか」

「『ふよふよ』ですか? えっと、同じ色のふよふよを、四つ、つなげると、き、消えて、相手に、おじゃまふよふよ、を、送って、埋めた方が勝ち、というやつの、事な、ら……あれなら、可愛いし、殴ったりも、しない、から、小学生の頃から、やってます。一応、最新作、も」

「それなら良かった。『ふよふよ』ならアーケード版が置いてあるからね。ところで腕前はどのぐらい?」

「えっと、一応全シリーズ、ストーリーは、クリア、したぐらいで、しょうか。一度も回転させずに、ストーリークリア、とか、そのぐらいしか、やり込んでないです、けど」

「やっぱ『ふよふよ』はなしで。あのラスボスを無回転クリアとかないわー」

「!?」

 どうして却下となったのか。やはりあの弱いラスボスをふよふよ無回転クリアぐらいでは退屈させてしまうという事なのか、自分は()()()()苦戦したのに……

 予想される加奈子の驚異的技量に慄く花中を余所に、加奈子は考え込む姿勢を見せていた。

「うーん、格闘ゲームは怖くて出来ない、パズルゲームは色んな意味で相手にならない。レースゲーム、は初心者にいきなり対戦やらせても微妙な結果にしかならないだろうし……うむむむむ」

 とはいえ目を細めながら天井を仰いでも、妙案は中々浮かばないようで。

「ねぇ、あたしにもこれ、遊べる?」

 そんな加奈子の悩む姿勢を崩したのは、格闘ゲーム(ストリート・ヨコズナー)の画面を指差しながら尋ねる猫少女だった。

「え? 猫ちゃん、これやりたいの?」

「うん。人間が普段どんなもので遊んでいるか知りたいし。それにこれ、格闘ゲームって事は、要は殴ったり蹴ったりして相手を倒せば良いんでしょ? だったらあたしにも出来そうだし」

 そういうと猫少女はゲーム筺体の前にある椅子には腰掛けず ― 腰掛けたら椅子が潰れるので ― 、立ったまま歩み寄る。それから筺体に書かれている説明書きをしばし黙読した後、カチャカチャとレバーやボタンを弄り――――

「……動かない」

 目の当たりにする至極当然の事象に首を傾げたので、加奈子はガクッと脱力していた。

「いやいや、お金入れないと動かないから。しかもそこプレイヤー2の方だし。まだ一人分の料金すら入れてないよぅ」

「お金? ……あー、そういえば人間はお金で色んな物を交換するんだっけ。ゲームをやるのにも使うんだね。でも、あたしお金持ってないけどどうすれば良いのかな?」

「ああ、猫だもんね。んじゃ、ほいっと」

 加奈子は財布から百円玉を二枚取り出し、投入口に入れると椅子に腰掛ける。お金を入れてすぐに画面表示が切り替わり、二人プレイが可能になったと知らせてくれた。

「はい、これで動かせるようになったよー」

「お、おおー……」

 早速とばかりに猫少女がレバーを動かしてみれば、ゲームモードの選択画面が合わせて動く。小さな感動を覚えているのか、猫少女はしばらくレバーをひっきりなしに動かしていた。

 とはいえこれでは何時まで経ってもゲームが始まらない。一旦加奈子は猫少女を止め、自分で操作して対戦プレイを選択。キャラクター選択画面に入った。花中と違い猫少女はゲーム自体やった事がない訳だが、そこは加奈子も配慮しているようで、キャラクターの特徴やボタンについて色々細かく教えている。やがて猫少女は強面の横綱を、加奈子は長髪美形の横綱を選択。ステージ選択はランダムを選び、切り替わった画面で二人の選んだキャラが対峙した。

 いよいよ試合開始――――の前に、花中は猫少女の耳元に顔を近付ける。

「あ、あの、あまり力を込めると、その、壊れて……」

「大丈夫だよ。加減するのは得意だし、どれぐらいの力までなら壊れないかもさっき動かして確かめたからね。そりゃ我を忘れたらその限りじゃないけど、遊びで負けたぐらいで頭が真っ白になるほど子供じゃないし?」

 不安を打ち明けると、猫少女はさして気を悪くした様子もなく悠々と答えた。確かに猫少女がレバーやボタンを動かしていた時、まるで人間と変わらぬ力しかないような精密な力加減で操作していた。いらぬ心配だったと、花中はぺこりと頭を下げて後退り。

「そもそも負けるなんてあり得ないけど。あたしには無敵の動体視力と人間なんて置き去りにする反応速度があるんだからね。コイツがどれぐらいこのゲームが得意かは知らないけど、種族の差というものを思い知らせてあげるよ」

「お? 言ったな~? だったらこっちも手加減なんてしてあげないもんねーっ」

 軽い挑発の応酬を繰り広げると、二人揃ってニカッと笑い合う。

 そして、ゴングを鳴らしたような効果音と共に試合が始まり――――

 

 

 

【ぷれいやーっ、くろぼしーっ!】

「なんでにゃああああああああああああああっ!?」

 如何にも猫っぽい悲鳴が、ゲームセンター中に響き渡る。悲鳴を聞いた周りの人々が一瞬ざわめくが、しかしすぐに収まり、店内はゲームの音だけで満たされる。

 そうなるのも当然。何しろこの悲鳴、既に十回以上は叫ばれたのだから。

「あ、あのー、ね、猫さ」

「花中! 百円ッ!」

「は、はひっ!?」

 なんとか宥めようとする花中だったが、悲鳴を上げた『人物』である猫少女の返事は金銭の要求。何時の間にか名前を呼んでくれていたが、そんな事に喜ぶ暇もない。ひしひしと伝わってくる怒気に充てられ、言われるがまま花中は百円玉を手渡し。今やすっかり猫少女の『財布』だ。

「……ねー、そろそろ別のゲームやろうよー」

 そして加奈子は猫少女の傍、プレイヤー2側の椅子に座っていた。とはいえ、猫少女の対戦相手を勤めている訳ではない。

 今の猫少女が必死になって戦っている相手は、『人間』でもクリア出来る程度の強さしかないコンピューターだった。一応先のプレイでは何回か勝っていたが、加奈子曰く「まだ中盤」辺りでやられてしまった。

 しかも一回だけならまだしも、花中が見ているだけで三回も負けが続いている。

「どうして、どうしてこのあたしが、このあたしがぁぁぁぁぁ……!」

 プルプルと全身を震わせながら、猫少女はレバーを握り締めながらコンティニュー。額に青筋を浮かべる様は全然楽しくなさそうだが、ゲームをやめる気配は微塵もない。

 しかし無理もないかと、花中は思う。

 最初にやった加奈子との対戦は、猫少女のボロ負け。何かの間違いだともう一戦するもやっぱりボロ負け。いやこれはレバーやボタンの反応が悪いのだと席を交換しボロ負け。いやいや相性が悪いんだとキャラを変更してもボロ負け。ついには練習が必要だとストーリーモードを選び……人間以下の相手にボロ負け。

 全てを彼方に置いていく圧倒的な身体能力を誇っていながらこの体たらく。悔しくて悔しくて堪らないという気持ちは、プライドの低い花中にだって分からなくもない。

 ……だからと言って、六時間もやり続けるのは流石に如何なものかと思う訳で。

「はぁ、こうなるなんて思いもしなかったよぅ」

 ぼそりと漏らした加奈子の愚痴に、花中は苦笑いで同意してしまった。

 猫少女が一人でストーリーモードを始めてから既に六時間が経っている。両替した百円の束を渡しておいたのでプレイ中花中達の行動が妨げられる事はなく、昼食を済ませたり、リズムゲームをやったり、シューティングをやったりで、遊ぶ事自体は出来ている。しかし加奈子の本来の目的はみんなと遊びながら話を聞かせてもらう事。こんな風に、自分の世界に入ってこちらの話を聞いてくれない状況ではない。

 それでもフィアやミリオンが居れば、力尽くで引っ張って終わらせる事も出来ただろうが……ゾンビ退治ゲームをやっていた筈の二匹の姿は何時の間にやら消えていた。どうやら二匹は自由気ままに遊んでいるらしく、時折聞こえてくる、金髪碧眼の美少女が上げていそうな雄叫びがその証拠だ。探したところで、あちらも自分達の世界に浸っているだろう。

「なんか、すみません……」

「大桐さんは悪くないよ。というか別に誰が悪いとかは思ってないもん。ただ、予想外ってだけで」

「……はい」

「んー、フィアちゃん達は兎も角、猫ちゃんはどうにかならないかなぁ。アレ、ムキになってるだけっぽいから、クリアまでいけば満足すると思うんだけど」

「わ、わたしも、そう思います」

 加奈子の愚痴に同意し、そしてすぐに花中は首を傾げた。

 多少下手な程度なら理解出来る。猫少女は今日初めてゲームで遊んだのだから。しかし擬似体験とはいえ格闘をするゲーム、猫少女の圧倒的動体視力と反応速度は大きなアドバンテージの筈だ。対戦相手が熟練プレイヤーならいざ知らず、人間に負ける程度の強さしかない筈のコンピューターにどうしてこうもボコボコにされているのか。

 何か、プレイ方法に問題でもあるのだろうか?

「……んん?」

 そう思っていたところ、加奈子の口から怪訝そうな声が。何か気付いたのかと加奈子の顔を見てみれば……ハッとしたというより、何故か呆れている様子。

「ねぇ、なんで猫ちゃんさっきからダッシュ強パンチしか出さないの?」

 そして開かれた加奈子の口から出てきたのは、些か単純過ぎる問題点だった。

 画面から目を離さず、猫少女は苛立った口調で答える。

「ああん? だってこれ出が速くて威力あるじゃん。最初の敵とかこれでガンガン押し潰せるし」

「そりゃ最初の敵はAIが弱いからそれでいけるだろうけど、途中からは無理だって」

「なんで? 殴ったり蹴ったりすれば勝てるんでしょ。だったら勝てるって」

「いや、技使おうよ。このゲーム投げ技結構強いし、体力が赤まで来たら超必殺技使えるし」

「は? なんで技なんかの方が強いの? 殴った方が強いに決まってるじゃん」

 訳が分からないと言わんばかりにキョトンとされ、加奈子は少なからず戸惑いを見せていた。

 対して、花中の方は成程と納得する。

 思い返すと昨晩のフィアとの『ケンカ』の時も、猫少女は相手の隙を誘うだとか、身動きが取れないよう関節技を決めるとか……そういった『技』を見せていない。ひたすら殴り、蹴り、叩き潰す。シンプルな攻撃ばかり繰り広げていた。どうやらゲームでもその戦法で挑んでいたらしい。確かにそんな戦い方では、序盤は兎も角中盤以降は厳しい戦いを強いられるだろう。

 だが彼女の戦い方がシンプルになってしまうのも仕方ない事だ。何しろ猫少女の能力は圧倒的な身体能力であり、適当に手足を振り回せばそれが『能力』となって敵を粉砕する。彼女にとって優れた戦い方とは、より強く、より速く手足を振り回す事。そもそも誰も彼女のスピードについていけないのだから隙を突く必要なんてないし、敵を投げたければ摘み上げてポイすれば良い。彼女が『技』というものに対し価値も見い出せなくても、種族的に当然の発想なのだろう。

「ほれ、お手本を見せてあげるから。こういう感じに敵が近付いてきたらボタン両押しで、はい巴投げー」

「おお、変な格好で敵を投げた! ……で、ともえなげって何?」

「今キャラクターがやった技だよ。寝転がるように身体を倒して相手を引っ張り、蹴り上げるように相手を足で持ち上げてぶん投げるスモウ・奥義なのだー」

「へー、スモウの技なんだ」

 ……さりげなく嘘を教えるのはどうかと思うが。というより、横綱ばかり登場するゲームで何故巴投げをするキャラが居るのか。色々ツッコみたい。

「よーし、今度こそ……ほっ、ほっ、とっ、とっ」

 尤も、猫少女からすれば巴投げがなんの技かなどどうでも良い事だ。操作を代わると早速教わった事を生かそうと、猫少女は積極的に相手に巴投げをお見舞いしようとする。

 果たして加奈子の教えの効果があったのか。技を使おうとしてかぎこちない動きをしていたが……どうにかこうにか、猫少女は敵を倒せたようだった。勝利を告げるアナウンスがゲームから鳴り響く。

 しかし猫少女ははしゃぐ素振りもなく、ぐったりと項垂れた。

「……なんか、どっと疲れた」

「え? そんなに疲れた?」

「だって相手の動きに集中しながら技のボタンも色々押すなんて、しんど過ぎる。あたし一つの事にしか集中出来ないんだよねぇ……」

 そう漏らす猫少女は本当に疲れ切った様子。どうやら圧倒的な動体視力や反応速度にも、一つの事にしか向けられないという弱点があるらしい。尤も、技なんて必要ないぐらい強いのだから、人の身で突けるような弱味ではないが。

 そんな事より、これは好都合。一区切り入れるのに丁度良い。

「えっと、このゲームはこれぐらいに、して、そろそろ、別のゲームを、しません、か?」

「ん……そだね。なんか疲れてきちゃったし、ずっと同じ姿勢でいたから身体も凝ってきちゃったかも」

 出してみた提案に猫少女はこくんと頷き、背伸びをする。これ以上の散財の危機も去り、花中も安堵の息を吐く。

 そして花中の後を引き継ぐように、加奈子が元気よく手を上げながら話し出した。

「よーし、それじゃあ気分転換とストレッチを兼ねて、ちょっと身体を動かしてみない?」

「身体を動かす? 外で運動するって事?」

「のんのんのーん。人間の娯楽追及力を甘く見てはならんのだ」

 そう言い椅子から立ち上がった加奈子は、手を振りながら店の奥へ。花中と猫少女は互いに見合った後同時に首を傾げ、誘われるがまま加奈子の後を追う。

 ゲームの筺体を避けるように進んで行き、辿り着いたのは店の壁際付近。人の姿は見当たらず、置かれている筺体の形もホッケー台のようなものやモグラ叩き、大きな太鼓が付属していたりと、今までやってきた物とは毛色が違っていた。物静かというほどではないが、音楽も比較的五月蝿くない。

「あの、小田さん。ここは……」

「んっとね、簡単に言うと実際に身体を動かしながらやるタイプのゲームが集まってる場所だよ」

 ゲームセンター初心者である花中にはそれらが何なのかよく分からないので尋ねてみたところ、加奈子はそう教えてくれる。どうやら見た目通り、ホッケーやモグラ叩き、太鼓などで遊べる代物のようだ。凝り固まった身体を解すのには丁度良いかも知れない。

「ふーん……ねぇ、お勧めのやつとかないの? あたしにはどれがどういうのかよく分かんないから、教えてほしいんだけど」

 猫少女も関心を持ったようで、先程まで強張っていた表情はすっかり解れていた。辺りをキョロキョロと見回し、早速何かで遊びたいようだ。それこそ『子猫』のような愛くるしさに、花中の顔にも笑みが浮かぶ。

「そうだねぇ、猫ちゃんでも楽しめそうなのは……あ、アレとかどう?」

 ただ、加奈子が店の壁際に設置されている、二メートルぐらいある肥満体の男性を模したゴム製人形を囲う機械――――パンチングマシンを指差したので、花中は笑みを浮かべたまま凍りついた。

 普段ゲームセンターに寄らない花中も、テレビや漫画で見た事があるのでそれがどんなゲームかは知っている。名前の通り殴った衝撃がスコアになるというものだ。殴る場所は恐らくこの肥満体の人形だろう。格闘ゲームのように複雑な操作を必要としないシンプルな遊び方だけに、猫少女も今まで以上に楽しめるかも知れない。ハイスコアだってきっと狙える。

 ……ハイスコアで済むかどうかが不安なのだが。

「これはどうやって遊ぶものなの?」

「全力でぶん殴ればいいんだよー。強く殴れば殴るほど高得点になるから」

 猫少女の怪力について知らないからか、加奈子は正直に猫少女にパンチングマシンの使い方を伝授する。猫少女は「へぇー」と呟き、中々興味がある様子だ。一回ぐらいはやってみるかも知れない。

 もし、あの超絶パワーをぶつけようものなら……

 脳裏を過る最悪のパターン。止めないと不味いと思った花中は猫少女を引き留めようと手を伸ばし、しかしハッとするや伸ばした手を引っ込め、力いっぱい頭を振りかぶる。

 猫少女は自分の力量の高さをよく把握しているではないか。

 格闘ゲームをしていた時も、レバーをへし折らないよう加減が出来ていた。イライラした程度なら力のコントロールを失わない事は、既に猫少女が自ら実証しているのだ。なのにまたしても注意を促すというのは、猫少女の事を信用していないのと同義。一緒に遊んでいる相手に対する酷い裏切り行為だ。

 自らの考えを恥じ顔を赤くし、後ずさる花中。その花中を余所に加奈子はパンチングマシンにお金を入れると付属のグローブを手に嵌めて、

「どっせーいっ!」

 ぽこんっ! とゴム人形を殴ってみせる。ゴム人形の辺りから「ぐわーっ!」と叫び声が上がり、機械の上の方でピコピコと音を鳴らしながら画面に数字が表示される。

 出てきた数字は『100トン』だった。一説によるとパンチの衝撃力はプロボクサーでも体重の二倍から三倍程度らしいので、常識的に考えればあり得ない数字。どうやらかなり大袈裟な結果が表示されるものらしい。

「こんな感じにやるのっ! 猫ちゃんもどう?」

「じゃあ一回やってみようかな」

 猫少女は加奈子からグローブを受け取ると、真似するように装着する。初めての『装備』に少し戸惑った様子だが、二・三度握ったり開いたりで掌を動かし、感覚を馴染ませた時にはもう戸惑いの色は消えていた。悠々とパンチングマシンの前に立つ。

「ふっふっふ。私の記録を抜けるかなー?」

「んぁ? そんなの余裕に決まってるじゃん。人間が出した記録を塗り替える程度、本気を出すまでもないんだけど」

 加奈子の挑発も何処吹く風、猫少女はパンチングマシンに対し横を向いたまま小突くように拳を打ち込む。

 軽く放ったであろう猫少女の拳は、ドグシャアッ! と高らかな音を奏で、パンチングマシンがバラバラに砕け散るほどのスコアを軽々と弾き出してみせた。

「……え?」

 パンチングマシンがバラバラに砕け散るほどのスコアを軽々と弾き出してみせた。大事な事なので二回花中は思った。

「……はぇ?」

「……あれ?」

 加奈子は笑顔のまま固まり、猫少女はキョトンとしたまま首を傾げる。

 どんな屈強な男の拳だろうと受け止められる筈の『それ』は、今や原型すら残していなかった。ゴム人形も機械部分も大小様々な破片となって辺りに散らばり、何が何やら分からない。この残骸を見てパンチングマシンが破壊されたとは、きっと誰も思わないだろう。

 そこにあった筈のパンチングマシンが消えている事に気付かなければ、だが。

「バッチリガッチリ壊してるじゃないですかこれぇぇぇぇぇぇぇ!?」

「え? えっ!? えぇぇっ!? だ、だって、まさかこんなに脆いなんて思わなくて……もしかして不良品?」

「いくら不良品でも殴っただけでこうはなりませんからぁ!?」

 詰め寄ってはみたものの、猫少女が自分以上に呆気に取られていたので無駄だと悟る。どうやら本当にこのぐらいなら大丈夫だろうと思いながら放った、軽めのジャブだったらしい。ある意味、猫少女は人間を過大評価していたようだ。

「ど、ど、どう、どうしよう、どうしようこれ……!」

「どうするって……逃げるしかないんじゃないかな?」

 パニックに陥る花中だったが、その傍で加奈子は即断即決。あまりにもあっさり下された身勝手な決定に、花中は目を見開いて驚く。

「に、逃げるって、だって、こ、壊し、たら、弁償」

「いやー、お値段いくらかは知らないけど、高校生である私らには無理だよ。親を泣かせるのも申し訳ないし。てな訳で猫ちゃん、大桐さん抱えてちょーだい」

「あ、うん」

 思い留まらせようとする花中だったが、加奈子に命じられた猫少女の肩に担ぎ上げられてしまう。手足をばたつかせて抵抗するも、拳一発でパンチングマシンを粉砕する怪力を振り解ける筈もなく。

「あばよとっつぁ~んっ!」

「や、だ、ダメ……ひゃああぁあああぁああ!?」

 成す術もなく、花中はその場から強制的に逃亡する事となってしまった。

 早々に逃げ出したとはいえ、マシン破壊時の音は相当のもの。聞き付けた店員や客がぞろぞろと集まり出し、花中達の方へと押し寄せてきた。だが加奈子達はひょいひょいと人混みを掻き分けていく。道中リズムゲームで盛り上がっている金髪の少女と喪服姿の美女が一瞬見えたが、背を向けている二匹は横切る花中達に気付かず、加奈子達は傍を素通り。堂々と、慌てるでもなく、さも「お腹空いたからかーえろっと」と言わんばかりに一人と一匹は駆け抜ける。

「はい、だっしゅーつっ」

 結局花中には何も出来ないまま、店内から脱走する事になってしまった。加奈子はわざとらしく額の汗を拭い、猫少女にようやく下ろしてもらった花中はビクビクしながら自動ドア越しの店内へと振り返る。

 花中達が居なくなった店内からは、鳴り響くゲーム音楽にも負けないぐらい大きなざわめきが聞こえてくる。相当数の人が周辺に集まっている事だろう。間違いなく警察沙汰になる。

「ど、ど、どうしたら、これ、どうしたら……!」

「いやー、どうにもならないと思うよー」

「……………」

 加奈子は相変わらず能天気。一緒に逃げた猫少女も自分は知らないと言わんばかりにお店から顔を背けている。二人とも、目の前でやらかしてしまった現実と向き合わない。

 唯一慌てふためくのは花中だけ。たった一人で悩む事の心細さとも戦いながら、どうしようどうしようと右往左往し――――

「あれ? 大桐さん?」

 不意に名前を呼ばれ時、花中は心臓が止まる想いだった。

 もしかして、お店の人?

 心情は追い詰められたネズミの如く様相、花中は殆ど反射的に声がした方へと振り返る。

 そして再度仰天し、怯えていた表情が驚き一色に染まる。

 だって振り向いた先に居たのは……どういう訳か、クラスメートの晴海だったのだから。

「た、たち、立花さん!? ど、どうして、ここに!?」

「へ? どうしてって、この先の本屋に行こうとして此処に来たらなんか騒がしいからなんだろうなーって思って」

「あ、ああ……そう、言えば、授業は、もう、終わってる時間、でしたね……」

「というか大桐さんこそどうしてこんなとこに居るの? 今日学校休んで……ふむ」

 不思議そうに尋ねてきた晴海だったが、視線がちらりと動いたのと共に納得したような声を漏らす。

 晴海の視線を花中も追ってみれば、そこに居たのはこちらに背を向け抜き足差し足の姿勢を取っていた加奈子。

「加奈子、待ちなさい」

 晴海の一言で、無言で立ち去ろうとしていた加奈子がビクリと震えて止まる。ギチギチと音を鳴らすようにぎこちなく振り返って見せた加奈子の顔は、なんというか、家人と出くわしてしまった泥棒の如し。引き攣った笑みを浮かべていた。

「……や、やぁやぁ晴ちゃん。あの、なんのご用かな?」

「ご用かな、じゃないでしょ? 時々学校休んでいた割に翌日元気良く登校してくるからそういう事なんだろうなーとは思っていたのよねぇ。まぁ、ぶっちゃけあたしが言えた立場じゃないし、出席日数が足りてるなら人それぞれで良いかもだけど……でもいくらなんでも他人を巻き込んだら駄目じゃないかしら?」

「あ、いや、えっと、そ、そう、これは大桐さんがね提案した訳で」

「んな訳あるかぁーいっ!」

「ごめふっ!?」

 晴海のチョップを脳天に食らい、加奈子は受け身も取らずにビタンッと地面に倒れ伏した。まるで、正義の味方に一撃で倒される小悪党のように。

 動かなくなった加奈子を見下ろし、晴海は安堵したようにため息を吐く。そして花中に、申し訳なさそうな顔を向けてきた。

「大桐さんも災難だったわね。コイツ、思っていたよりずっと性悪だったでしょ?」

「あ、えと、その……しょ、性悪と、言うか、自由な、人、だとは」

「自由も度が過ぎれば悪党よ。自分が勝手するだけならどーでも良いけど、他人を巻き込むんじゃないっつーの」

「……ふふっ」

 腹立たしそうに愚痴る晴海に、花中は思わず笑みが零れた。以前晴海から『思い出話』を聞いた事があるだけに、彼女がそういった事に厳しいのは納得出来る。そしてこうして怒るという事は、本当の意味では怒っていないのだろう。

 思いっきりチョップをお見舞いしたが、それぐらい二人は仲良しという事だ。微笑ましくて笑いが出てしまうのも仕方ないと、心の中で花中はこっそり言い訳をしておく。

「あー、そうだ大桐さん」

「ふぇ? あ、ぅ、は、はい。なんです、か?」

 そうして笑っていたところ、晴海からお声が掛かってきた。花中は緩んでいた頬を一旦両手でぐにぐにと揉んでから、ちょこんと姿勢を正して晴海と向き合う。

「さっからこのゲーセンがやたら騒がしいけど、なんで?」

 しかし面と向かってこう問われた途端、花中は即座に顔を逸らした。

 逸らしたが、晴海はガッチリと花中の頭を掴むと無理やり自分の方へと振り向かせた。ひ弱な花中に、抗うだけの力はない。

 無理やり振り向かされた花中の眼に、ニコニコと微笑む晴海が映る。

「で? この騒ぎは何かしら?」

 しかし紡がれたその問い掛けは、「答えない」という優しい選択肢を許してくれそうにはなかった――――




ふと、作品情報を見たらお気に入り登録数が10件を超えていました。

……ええ、超えていたのです。

こんなにもたくさんの方に読んでもらえて、大変嬉しく思います。
まだまだ未熟者ではありますが、面白いお話が書けるよう今後も精進する所存です。
これからもよろしくお願いいたします。


次回は8/5に更新予定です。


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孤独な猫達6

「なーるほどねぇ……ゲームセンターの機器を壊したと……そこに居る、猫ちゃんが」

「えと、その……あ、あくまで、悪気はなく、その、これは不慮の、事故、みたいなもので、つまり……はい」

 余程痛むのか、苦悶の表情を浮かべながら自身の頭を押さえる晴海に、花中はおどおどと言い訳をしてからこくんと頷いた。

 花中達が今居るのはゲームセンター脇の小道。建物と建物の間を通る道で、人通りや目が殆どない場所である。両側に建物があるので日射しは殆ど入ってこないが、空調の排熱のせいか、表通り以上にねっとりとした熱気に満ちている。長居すれば体調を崩してしまいそうだが……人に知られると不味い話をするにはうってつけの場所と言えよう。多少羽目を外しても目撃者は現れまい。

 だからって、まさか路上で正座をさせられるとは花中も思いもしなかったが。

 花中はアスファルトの上で正座をしていた。ジャリジャリとした小石が柔肌に突き刺さり、正直、かなり痛い。しゅんと項垂れてもいる。

 その花中の隣には、花中と同じく正座をさせられている猫少女が居る。こちらはバツが悪そうにそっぽを向いていて、足ももぞもぞと動かし落ち着かない様子。言葉にはしていないが、相当居心地が悪そうだ。

 ……ついでに言うと、晴海に首根っこを掴まれた状態で、加奈子もまた正座させられていた。へらへらとしていて、反省している様子が欠片もない。いっそ清々しいほどである。

 三者三様の態度。

 そんな三人が何故正座しているのかと言えば、ゲームセンターで起きたパンチングマシン破壊事件の顛末について話す際晴海に命じられたから。まだ『悪い事』をしたとは誰も言っていなかったが、花中の挙動不審ぶりと逃げようとした加奈子の態度から悟られてしまった。

 そしてたった今、全てを話し終えた。

 怒られる。間違いなく、絶対に。

「そ、その、わた、わたしの、監督不行き届きなばかり、に……」

 真っ先に謝ったのは、三人の中で一番肝っ玉が小さい花中。俯き、真摯に謝る。

 その謝罪に、晴海は少し困ったような表情を浮かべていた。

「んー、大桐さんについては怒ってないというか……大桐さん、あまり責任を感じ過ぎない方が良いと思うよ? 他人が悪いところも自分の責任にしちゃったら、本当は何がいけないのか分からなくなっちゃうし」

「で、で、で、でも、ね、猫さんに関しては、その、やっぱり……」

「……そうねぇ……」

 加奈子の首根っこを掴んでいた手を離し、晴海は猫少女の方へと歩み寄る。途端猫少女はますます落ち着きなく足をモジモジとし始めたが、逃げ出したりはせず、そのまま正座を続けていた。

 猫少女のすぐ傍までやってきた晴海は、その場にしゃがみ込んで猫少女と目線の高さを合わせた。威圧感がなくなり幾分緊張も解れたのか、猫少女はようやく晴海と面と向かい合う。表情は相変わらずバツが悪そうだが。

 猫少女と向き合っている晴海は、特別表情を歪めたりはせず、淡々と口を開く。

「ねぇ、何か言っておきたい事はある?」

「……別に。あたしは加奈子に唆されただけだし。あんな簡単に壊れるなんて、知らなかったもん」

「成程、知らなかったのね……それで?」

「んぁ? それでって、何?」

「他に言う事は?」

「特にないけど。あたしは悪くないんだから」

「そう……」

 猫少女の言い分を聞き、晴海は静かに目を閉じた

「ふんっ!」

 のも束の間、晴海は唐突に拳を振り上げ――――容赦なく、猫少女の脳天に振り下ろす! ゴンッ! と鈍器で殴ったような音がその拳の無慈悲さを物語っていた。

 間近でその光景を見ていた花中は、正座したまま僅かに飛び跳ねてしまうほど驚く。猫少女の身体能力を思えばあの程度の一撃、蚊に刺されたほどのダメージも与えていないだろう。晴海もその事は、パンチングマシンを拳一発で破壊したという話から推察出来ている筈。それどころか下手に機嫌を損ねたらどうなるかも……

 予想外の晴海の行動に戸惑うのは花中だけではない。猫少女も殴られた頭を両手で押さえつつ、苦悶も何もないキョトンとした顔で晴海を見つめている。

 そんな猫少女に晴海は、今度は力強く指を向けた。そしてそのまま、凛とした声で告げる。

「何があたしは悪くない、よ! 自分が壊したのに悪くない訳がないでしょうがっ! 壊したらごめんなさい、それぐらい分からないの!?」

「だ、だって、あんな簡単に――――」

「アンタがどれぐらい強いかは知らないけど、人間が自分より弱いって事ぐらい知ってんでしょ!? だったら人間に合わせなさいよ!」

「に、人間だって猫に合わせた事なんてないでしょ!? だったら」

「言い訳しない! ここは人間の世界なんだから人間のルールに従いなさい! 猫だろうがなんだろうが関係ないわ!」

「――――っ! こ、この……!」

 最初は戸惑うだけだった猫少女の顔に、唐突に憤怒が滲み出す。

 何がそんなに気に障ったのかは分からないが、その怒りが晴海の方を向いている事は間違いない。晴海はただの人間だ。フィアやミリオンですら手に余る怪力を、一パーセントでも受け止められる訳がない。頭に血が昇っている今、ちょっと手を払うだけで悲劇なんて甘い言葉では済まない惨事が起こりかねない。

 しかし晴海はどれだけ鋭い眼差しで射抜かれようと寸分も怯まず、堂々と仁王立ちしたままその細い指先を猫少女に向けて、

「あたしはね、アンタを猫じゃなくて人間として扱うつもりなんだから!」

 真っ直ぐに、そう告げてみせた。

「な……え……な、何を、言って……」

 あまりにも真っ直ぐに言い放たれた『間違い』に、猫少女が動揺している。花中もまた、隣で聞いていて呆気に取られていた。

 だって、猫少女は、猫なのだから。

「そりゃ猫には猫の事情があるだろうし、アンタにはアンタなりの事情があるのかも知れない。けど、少なくともこの町には人間の暮らしがある。人間にだって人間の都合があんの。勿論ただの猫にこんな事は言わないけど、アンタは人間の言葉を話すし、人間と同じぐらい頭も良いじゃない。だったら人間のルールだって理解出来るでしょ」

「そ、そんな事言われても、あたし、猫だし……」

「都合の良い時だけ猫ぶらないで。良い? アンタはゲームセンターにある物で、人間と同じ使い方と目的で遊んでいたの。だけどゲームセンターにある物は全部人間用で、猫用じゃない。だったらアンタは誰に合わせないといけないのかしら?」

「に、人間、です……」

「人間に合わせるんだったら、物を壊したらどうするのが正しいの?」

「謝るのが正しい、です……ごめんなさい」

 晴海の勢いに飲まれ、猫少女の返事はすっかりしおらしいものに。望み通りの答えに満足したのか、晴美は強張っていた表情に笑みが戻る。

「うん、分かったなら今度は気を付けて遊んでね。あとごめんね、いきなり叩いたりして。痛くなかった?」

 そしてそう言いながら頭を撫でるものだから、猫少女はいきなりの優しさに戸惑いを見せていた。

 晴海は、猫少女に偏見など持っていないのだろう。

 猫だから仕方ないと諦めない、猫だからこんなものかと思わない。猫でも人と同じだけの知能があるのなら、それは人として扱う。人間として人間のルールを、誠意を持って伝える……それが晴海の考え方なのだ。思えば昨日教室で、晴海はフィア達を部外者(人間)扱いしていた。ルールに従えとは言っていたが、人間以外が学校に入ってくるなとは言っていない。お化けだと誤解していた時は怖がっていたが、そうでないと分かってからは面と向かって文句を言っている。彼女達には旧校舎を破壊するほどの力があると、分かっているにも関わらず。

 種族の違いや持っている力の差など、晴海にはどうでも良いのだろう。話が出来て、それなりに意思の疎通が出来るのなら対等であり、『人間』である……きっと、そういう考えなのだ。

 でも――――

「もー、晴ちゃんは真面目だなぁ」

 そう考えていたら、ふと聞こえてきたのは気の抜けた声。

 それが何時の間にやら正座を崩し、胡坐を掻いていた加奈子の声だと分かるや否や、晴海は駆け出してその無防備なおでこに水平チョップをお見舞いした。大きく仰け反り、加奈子はそのまま大袈裟に倒れる。花中でも嘘臭く感じる挙動、晴海が手心を加えてくれる事はなかった。

「あだだだ……酷いよ晴ちゃん」

「酷いも何もないわよっ! アンタが学校サボってゲーセンに寄らなきゃこんな事にはなってないっつーの!」

「いやー、そんな結果論を持ち出されても困るよー……それに、ルールを守れって言うけど、だったら私含めて無罪放免じゃないのかなぁ」

「はぁ!? 何を言って――――」

「だって、猫ちゃんは猫なんだよ? 晴ちゃんの考えとは関係なしに」

 おっとりとした加奈子のその言葉で、晴海は喉まで登っていた筈のものを飲み込んだ。

「私、頭そんなに良くないから間違ってるかもだけど、動物がした事って、普通法律で罰したりしないよね? だって動物は人間のルールなんて分かんないんだし」

「う、そりゃ……そうよ。でも猫ちゃんは人間の言葉が分かるから」

「だから、『動物は人間のルールじゃ罰せない』よね? 頭の良し悪しとか言葉が分かるからなんて理由で逮捕するかどうか決めるなんて、私、聞いた事もないんだけど」

 加奈子の反論に、いよいよ晴海は言葉を失ってしまう。何かを言おうと口をパクパクさせていたが、空回りしているだけで吐息の音しか出ていない。加奈子の言い分の意味が分からないのか、猫少女に至ってはポカンとしている有様だ。

 ただ一人花中だけが、確かにそうだと納得する。

 加奈子の言い分は正論だ。基本的に法律やルールというものは人間のために制定されており、守る義務を負うのは人間だけ。例えばペットに関する規定を破った場合、ペナルティを追うのは基本的にペットではなくその所有者……つまり人間である。動物や植物、細菌類がどれだけ人に損害を加えようと、法やルールでは裁けないのだ。尤も、代わりに憲法による生存権なども認められていないので、裁判抜きに駆除や保健所送りという手段が取れるのだが。

 そして法律的に、人間とは『生物学的』に区分される。仮に知能や形態の程度で分けた場合、解釈次第で障害者や異文化人などを人間扱いしない事も出来てしまうからだ。最悪政府が邪魔な個人を非人間と認定し、合理的に殺害する事も可能になる。人間の定義は生物学的分け方以外にやりようがない。

 つまり猫少女は猫であるが故に、何をしても責任を負う必要がない。人間として扱う、だから人間のルールに従ってほしいという晴海の言い分は、『人間のルール』に乗っ取れば間違いとなるのだ。

「そして私はあの子の飼い主ではないので、猫ちゃんが何かやらかしたところでその責任を負う必要もないのだ! どやっ!」

 ……答弁の目的が自身の責任回避でなかったなら晴海を言い負かせただろうに、実に勿体ない話である。

「お ま え はぁぁぁぁ……なんで巻き込まれた側の大桐さんがあんなに思い詰めて、アンタは何時までもへらへらしてんのよっ! ちょっとは責任感じなさいこの自由人!」

「ふははははっ! 私の自由は何人も犯せな、あだだだだだだだだだ! ごめんなさい調子に乗りましたぁーっ!?」

 自由を手にしようとする加奈子に、晴海はその顔面を掴んで握り潰さんばかりに力を込める。秩序に重きを置く自身と真っ向対立する意見だけに、晴海の暴力には容赦がない……ゲームセンターの前で一悶着やっていた時は仲が良いと思っていたが、本当はこの二人、仲が悪いのではないだろうか? しかし学校ではよく一緒に居るところを見ているのだが……

 よく分からない関係に、花中はちょっと混乱気味。とはいえ、やっぱりケンカは良くないと思うのが大桐花中という少女な訳で。

「あ、あの、二人とも、おち、落ち着いて、ください……」

 なんとか双方落ち着かせようと正座したまま声を掛けたのだが、それが不味かった。

「もう! 大桐さんはどっちの味方な訳!?」

 声を掛けたばかりに、晴海にこうして、どちらの意見に賛成なのかと問い詰められてしまったのだから。

「ふぇ? ……ふぅえぇえぇええっ!? み、味方って、わ、わた、わたしは……」

 答えを用意しておらず、右往左往する花中。どちらの意見にもそれなりに賛同しているので、どちらが正しいか間違っているかなど答えようがない。打算的に考えれば晴海が怖いのでそちらに賛同するのが吉だろうが、意見を求められているのに、そんな不誠実な態度をする訳にはいかない。

 ――――そもそも意見を聞くべき相手は自分じゃないだろうに。

 その考えの元、花中は逃げるように――――ちらりと、猫少女を見遣る。

 そしてそこで猫少女と目が合ってしまい、ハッと息を飲んだ。

 ……こちらを見つめる猫少女の目に、戸惑いの色はない。誰かを非難するでもなく、期待しているようでもなく、縦割れの瞳孔でこちらを真っ直ぐ射抜くのみ。

 言うならそれは、純粋な好奇の眼差し。剥き出しとなった衝動のようだと、花中には思えた。

「……………」

 動悸の激しい胸に手を当て、花中は静かに、何度か深呼吸をする。少しずつ整える呼吸と鼓動、そして頭の回転。

 別に、なんという事はない。猫少女が何を期待していようと、加奈子と晴美がどんな答えを求めていようと考慮の必要はない。晴海からの質問は「あなたはどう思うか」――――だったら己の考えを打ち明ければそれで良いだけだ。

「……わたしは、猫さんの意見を聞いた方が、良いと、思います」

 そうして花中が言葉にした答えは、ある種放任主義的なものだった。

「え、でもそれは……」

「あの、た、立花さんに、反対って訳じゃ、ないです、けど……でも、自分が、何か、は、自分で決めたいと、いうか……猫さんの意見を、訊かずに、人間とか、猫とか、わたし達が決めて良い事じゃ、ないと、思うのです」

 人間である事は、確かに素晴らしい事だろう。自己とは何かを問い、未来に想いを馳せ、他者に無償の愛を与える事が出来る生き物は、きっと人間の他にはいない。花中も生まれ変わるなら、出来れば人間に生まれ変わりたい。

 けれども猫には猫の考え方が、猫の素晴らしさがある筈。

 人間の生き方が素晴らしいと、尊いと説くのは構わない。だけど人間の素晴らしさを他の生物に押し付けるのは、人間が一番優れていると傲慢に振る舞うのと変わらないのではないか。あなたはなんだとこちらから決めるのは、人間に全ての決定権があると思い上がるのと同じではないのか。

 自分がなんなのか、どんな生き方をするのか。

 その答えはきっと、『生き物』によって違う。秩序に縛られる代わりに安寧を得る人間と、無秩序の危機に晒されつつも孤高に生きる猫……どちらの生き方を望むかは、自分で決めた方が良い。

 だって、誰かに自分を決め付けられる人生ほど、息苦しい世界なんてきっとないのだから。

 それが花中の考えだった。

「猫さんは……猫でいたい、ですか? それとも、人間に、なりたい、ですか?」

 花中の問い掛けに、猫少女は僅かに顔を俯かせる。それは悩んでいるようで、だけど、ちょっと驚いているようでもあって。

「……あたしは、猫でいたいな。人間じゃなくて、猫が良い」

 少し間を開けて告げられた答えは、一寸の迷いもなかったように花中には聞こえた。

「そういう事、なら、今回の責任は、わたしにあると、思います。猫さんが、凄い力を持っているのを、わたしは知って、いたのです、から」

 猫少女の言葉を受け取った花中は、晴海にそう伝える。晴海は自らの頭を指先でポリポリと掻き、表情は当惑しきったもの。どう答えたものかと悩んでもいるようで、唸るような声も漏らしている。

 やがて、晴海は諦めたようにため息一つ。

「……分かった。猫ちゃんと大桐さんがそう言うなら、そういう事にするわ」

「やった! これで私は無罪放免」

「んな訳ないだろがぁーっ!」

「ぎぃうえぇえええぇえええええっ!?」

 余計な事を言わなければ良いのに、言ってしまった加奈子は晴海の脳天ぐりぐり攻撃を受ける。余程痛いのか、悲鳴に普段のおっとり風味は残っていない。

 やっぱり二人ってあまり仲良くないんじゃ……小心者の花中としては気が気じゃない。苦笑いを浮かべつつ、宥めるタイミングを窺う。

「ああ此処に居ましたか花中さん」

 そうこうしていたところ、ふと表通りの方からやたら早口な声が。振り向けば、建物の影から頭だけを出してこちらを覗き込むフィアと、そのフィアの後ろから手を振って自身の存在をアピールしているミリオンが居た。

「あ、ふ、二人とも……えと、どうしたの? ゲームは、もう良いの?」

「いえまだまだ遊び足りないのですが実はちょっと花中さんにご相談したい事がありまして。ところでアレは一体何があったのですか?」

 そう言ってフィアが指差したのは、未だ悶えている加奈子と未だ(なぶ)っている晴海。確かに一部始終見ていなければ、何がどうなったのかなど分かるまい。説明しようと思えば出来る事だが、最初から最後まで話すのは中々骨が折れそうである。

「……まぁ、色々、あって」

「はぁ。色々あったのですか。大変でしたね」

「いや、それで納得するんかい」

 適当に答えたところ、すんなり納得したフィアにミリオンがツッコミを入れる事となった。ミリオンには後で話を聞かれるかも知れないので、予め話し方は考えておこうと花中は頭の中にメモしておく。

 勿論、先程フィアがさらっと投げてきた言葉の『ボール』を返すのが最優先ではあるが。

「あ。そういえば、相談って、何かあったの?」

「おおっとそうですそうです。実はこれなんですが」

 花中が尋ねると、フィアは思い出したように手をポンっと叩く。それから胸元に自らの手をブスリと突き刺し、中から何かを引き摺り出した。

 スプラッターな仕草の筈なのに最近は何も感じない。慣れって怖いなぁ、と思いながら花中はフィアの手を覗き込む。

 そこにあったのは、一丁の拳銃だった。

「……………」

 何度見ても、一丁の拳銃だった。目をパチクリさせ、ごしごしと擦っても、拳銃が消える事はなかった。

「えっと……これ……何?」

「ゲームセンターに入ってすぐに私とミリオンが向かったゲームの事は覚えていますか?」

「あ、うん。お化けを退治するやつ、だよね?」

「ええそれです。一通りゲームをやり終えたのでそいつをもう一回やっていたのですがねその時コントローラーをうっかり引き千切ってしまったのです」

「はぁ……………はぁ?」

「ですからねうっかり引き千切ってしまったんですけどどうしましょう?」

 困ったように首を傾げながらフィアが指差すのは、自身が持っている玩具の拳銃、の底部分。

 ぶらんと垂れ下がったコードの切っ先は、正に引き千切ったとしか言えない状態になっていた。内部の赤と青の線が、更にその中身である銅線までもが剥き出し。断面は広がっており、力で無理やり引っ張ったのが窺い知れる。

 どう考えても修復不可能。弁償事案である。

「って、なんで千切っちゃってるのおおおおおおお!?」

「いやー興奮していたらついうっかり」

「ごめんねー。私もそこそこ夢中になってて気付かなかったわ。てへっ♪」

 つい。うっかり。

 責任感皆無なそんな言葉で答えるフィアに、悪びれた様子はない。花中はガックリと正座状態から崩れ落ちてしまう。ああ、そうだ。いくら力が強くとも抑える意思を持っていた猫少女より、抑えようという意識が希薄なフィアの方が遥かにトラブルメーカーではないか。

 項垂れる花中を前にしても、「これからどうしたら良いですかね?」とフィアは相変わらず呑気な様子。弁償だとか自分の正体が人間にばれる恐れとか、何も考えていない。自由気儘、野生動物の本性そのものだ。

 いや、それはフィアの性格の話であり、どうこう言う話ではない。

 問題はこれからどうするか、どうすべきか。

 ……考える事自体を先送りしたいのだが、生憎花中は先程『答え』を出してしまっている。

「……あの、フィアちゃん。ミリオンさん……ひとつ、質問したいの、だけど」

「はいなんでしょうか」

「え? 私にも? まぁ、別に良いけど、何?」

「フィアちゃんは、その、人間と魚、どっちの生き方が、したい? ミリオンさんは、人間と、ウィルス、どういう生き方を、したい?」

 花中が問い掛けると、フィアとミリオンは目をパチクリさせながら同時に首を傾げる。

「質問の意味がよく分かりませんがどうして好き好んで人間のような束縛の多い生き方をする必要があるのです? 発明品や制度は利用させていただきますけど生き方まで人間流に縛られるのはごめんですね。私はあくまでフナですので」

「どういうも何もウィルス以外の生き方なんて出来ないと思うんだけど。あの人もありのままの君が好きだって言ってくれたし……きゃっ! 思い出したら恥ずかしい~っ♪」

 そして二人は、さも当然と言わんばかりにそう答えた。

 自分の利益のためなら他者の損失など気にしない。都合の悪いルールでも従うような協調性なんて持たない。利用出来るものがあるのなら厚顔無恥に利用する……野生動物らしい、実に『正しい』選択だ。

 そんな二匹を野放しにしていた責任は誰にあるか? 今さっき言ってしまった手前、言い繕おうとする意思すら湧かない。

「ですよねー……あは、あははは……………これもわたしの責任かぁ。手持ちで足りるかなぁ」

「ちょ、は、晴ちゃんもうホント無理です!? ギブ! ギーブッ!? 大桐さん助けてぇーっ!?」

 背後から聞えてくる加奈子の救援要請を、大空へ飛び立とうとする意識を掴むのに必死な花中が受信する事はなかった。

 

 

 

「はふぁ……なんか、疲れたぁ~……」

 とぼとぼとした足取りで歩きながら、猫より猫背になっている花中はそうぼやいた。

 時刻は夕方の六時を過ぎた。七月も間近に迫り陽は高くなっているが、流石にここまで遅くなると辺りは暗くなる。街灯に照らされながら疲労を隠さず歩く花中の姿は、些か年頃の女子高生らしくなかった。

 何故ここまで疲労し、また帰りが遅くなったかと言えば、ゲームセンターに対し謝罪をしていたからだ。

 具体的に言えば、フィアが壊してしまったコントローラーについて花中が頭を下げていたのである。パンチングマシンについては猫少女の超絶パワーが世間に露呈してしまうので心苦しいながらも隠蔽する事になったが、コントローラーぐらいならフィアの能力が疑われる心配はないだろうと謝罪と説明を決断。足を滑らせた拍子に千切れてしまったと店長さんに話し、弁償もすると伝えた。

 幸いだったのは話を聞いた店長がその説明に疑問もなく納得してくれた事、そして、特に損害賠償を求められずに放免してくれた事である。予想外の展開に花中が理由を尋ねたところ、店長曰く「機材を壊しても逃げる人が多い中、君はちゃんと申し出てくれた。君のように正直者が馬鹿を見てはいけない」とかなんとか。『正直者』どころかむしろ噓しか吐いていないので、花中としては心が滅多刺しにされたように痛んだが。

 尤も、これで済んだら帰りが遅くなる筈もない。実際はその後書類やら話やら形式的な注意やらがあり、色々やっているうちにここまで帰りが遅くなったのである。騙していなければ、気分はもう少しマシな状態だっただろう。

「あーあうっかりでしたねぇ……あそこでコントローラーを壊さなければ大逆転出来た筈なのにチャンスを棒に振ってしまうとは」

「いやいや、さかなちゃん。その展望は甘くない? 私とダブルスコア差ついてたでしょ? ラストステージだったでしょ?」

「ラスボスが残っていたじゃないですか。ラストなんですからどどーんと点が入る筈です。ボーナスとかもありますし勝てた筈です!」

「うわー、ここまで壮絶な皮算用見た事ないわー」

 疲れ果てている花中に対し、花中の前を歩いているフィアとミリオンは元気にゲームセンターでの出来事を話し合っていた。なんやかんや無関係であるミリオンは兎も角、フィアは物損事件の真の当事者なのだが、まるで反省の色がない。確かにフィアは野生動物で、野生動物が器物破損の重大さを理解するのは難しいだろう。それは分かっているのだが、こうもケロッとしていると色々黒い感情が沸き立つのが人というものである。

 それでもあまりうじうじと悩まずにいられるのは猫少女のお陰かも知れない、と花中は思っていた。

 ただし励まされているからではなく、自分より色んな意味で『低調』っぽいからなのだが。

 ちらりと花中が後ろを振り向けば、そこに猫少女が居る。

 しかし今の猫少女には、何時もの凛とした、猫らしい孤高さが感じられなかった。では明確に沈んでいるかと言えばそうでもない。頭は俯いているというほど俯いてはいないし、表情は落ち込んでいるというほど暗くもない。背筋は伸びていないが丸まってもいないし、足取りも弾んではいないが花中達から遅れるほど重くもない。

 なんというか、『しょんぼり』している。雨の日の日曜日ぐらいな感じに。

 晴海の説教を受けた後から、急に元気がなくなったような気がする。怒られたのだから落ち込むのは()()()()()普通な気もするが、しかし加奈子の指摘や花中の意見もあって、いくらかフォローはされていた筈。こうも長く尾を引くとは、ちょっと考えにくい。

 どうしたのだろう。何か、気になる事でもあったのかな?

 だけどそれを訊いて良いものなのか……考え込みそうになった花中だったが、すぐに首を横に振る。

 どうにも自分は考え込んだまま、結局何もしないところがある。幼い頃からの悪癖で、これまで直したくても直せなかったが……今日は加奈子の行動から一つ学んだ。

 衝動のまま行動しても案外悪い結果にならないものだ、と。

 猫少女が自分の名前を呼んでくれるようになった。猫少女の熱中しやすい性格が分かった。加奈子ともっと仲良くなれた。ゲームセンターが意外に楽しい場所だと分かった……全て加奈子が、深い考えもなしに学校をサボったから得られたものだ。

 臆病者は失敗を恐れる。しかし成功の前例があるのなら、人間は勇気を持てる。

「あの、猫さん」

 加奈子が教えてくれた勇気を持って、花中は猫少女に話し掛けた。

「ん、何?」

 顔を上げた猫少女は普通に応えてくれた。こちらをまっすぐ見据え、笑顔は明るく、背筋も自然と伸びている。あまりにも普通な、隠し事などないと言わんばかりの態度に花中は言葉を詰まらせてしまう。

 だけど話し掛けてしまった以上今更後には退けない。花中は息を吸い、吐いて、また吸って……キョトンとする猫少女に向け、喉奥で止まっていた言葉を吐き出した。

「あ、あの……何か、ありましたか? えと、その、具体的には、悩み、みたいな……」

「? 悩みと言われても、特にないけど……ああ、もしかしてあたし、暗くなってた?」

「は、はい……その、何時も、よりは」

「そっか。でも別に悩んでいた訳じゃないよ。ただ、ちょっと考えてて」

「考え事、ですか?」

「うん、大切な考え事」

 そう答えると、猫少女の表情がまた変わる。悲壮さはない。だけど眼差しに真摯な感情が宿り、射抜かれた花中は、気持ちが澄んでいくような感覚を覚えた。

「……花中は、人間の中では変ってる方なの?」

「え? えと……多分、そうだと思います。十五年も、友達が居なかったの、なんて、珍しいと、思います、し……」

「じゃあ加奈子は? 晴海は?」

「うーんっと……」

 不意に始まった質問攻めに花中も戸惑う。尤も、それも最初だけだった。

 答える事は簡単だ。晴海は『他の人』より真面目で、例えパンチングマシンを粉々に粉砕する相手だろうと向かい合うほどに規律を大事にする。加奈子は……正直よく分からない。ふわふわと自由で、掴みどころがない。フィア並に身勝手なところもあるが、しかしフィアのように好戦的ではなく、むしろ誰に対しても友好的。普通の人はあそこまで自由かつ身勝手かつ平和的ではないだろう。

 つまりは二人とも、人間の中では『変わっている』方と言えるかも知れない。

 だけど、きっと猫少女が求めている答えはそうじゃない。

「……本当は、もう、答えを決めているんじゃ、ないですか?」

 だから花中は、そう訊き返した。

「……あたしね、人間を見にきたの」

 顔を少し俯かせた猫少女の答えは、花中の問いとすぐには結び付かない。

 それでも花中はじっと猫少女を見つめ、その話に耳を傾ける。

「人間は悪い奴だって聞いてた。あたし達猫の事をおもちゃぐらいにしか思っていない。可愛いと言ってご飯をくれたのに、フンをするな、うちに入るな、夜に鳴くな……そして最後は邪魔ってだけで殺そうとする。自分達は何をやってもいいと思っている。そういう自分勝手で、残酷な種族だって」

「……否定は、しません。そういう人が居るのは、事実ですから」

「うん。そういう人間はたくさんいた。『猫殺し』なんかがその一人」

 でも――――そう言った猫少女は俯かせていた顔を上げる。

「そうじゃない人間も、たくさんいたっ!」

 そして太陽のように眩しく、力強く笑ってみせてくれた。

「加奈子はアホだったけど、あたしと友達になろうとしてくれた。晴海は嫌な人間っぽかったけど、でもあたしの事を仲間だと認めてくれて、間違いを指摘されたらちゃんと受け入れる真面目な奴だった。そして花中は……」

「わたしは?」

「臆病で、卑屈で、結構ワガママ。それでいて優柔不断で、しかも偽善者っぽい」

「ぴっ!?」

 ダメ出しの連続に、花中は悲鳴染みた声を上げてしまう。しかもどれも自覚している部分だけに ― 尤も、身に覚えのないところだったとしても筋金入りの『臆病』なので ― 否定出来ず、ぶわっと込み上がった涙が目に溜まってしまう。

「だけどあたしと対等に接してくれた。あたしの気持ちを分かろうとしてくれた。あたしは、人間の中じゃアンタが二番目に好きだなっ」

 猫少女がそう言ってくれなかったら、きっとその涙は溢れていただろう。代わりにどん底から一気に持ち上げられた事への嬉し恥ずかしで、今度は顔が真っ赤になってしまったが。

「そ、そんな事は……それを言ったら、立花さんだって、平等だし……」

「平等だけど、アイツはやっぱり人間が中心で、人間の考えに従わせたがっている。それは、まぁ、あたしもやるから良いというか、悪いとは言えないけど……でも、花中は違う。アンタはあたし達のとこまできて、分かってもらおうとする。従わせるんじゃなくて、納得してもらおうとしている。それは自分と相手が本当に対等だと思ってないと出来ない事だよ」

「……そう、でしょうか。その、話をするのです、から、相手の意見を聞くのは、普通、かと……」

「その普通が出来るのが、花中の良いところなの。だから――――」

 不意に、猫少女は足を止めた。

 花中も一緒になって立ち止る。前を進んでいたフィアとミリオンも花中達の足音が止んだのに気付いてか立ち止り、こちらへと振り向く。

 視線が集まる中、猫少女は花中を真っ直ぐ見据える。もう表情は笑顔ではない。凛として、落ち着いていて……なんだか今にも泣いてしまいそうで。

「だから花中に、頼みたい事がある」

 そんな『ヒト』からのお願いを断る『勇気』など、花中は持ち合わせていなかった。

「……わたしに、出来る事、なら」

 励ますように、花中は出来る限りの笑顔で答える。それで少しでも、目の前の子の気持ちを軽く出来たらと祈る。

 ――――しかし、猫少女の表情は変わらない。いや、そればかりか険しさを増していた。

「説得してほしい猫がいる。その猫はあたしにとって大切な猫で、だけど、今その猫は大変な事をしようとしている」

「猫さん以外の、猫? 大変な、事って……?」

「人間が悪い奴ばかりだったらそれでも良かった。でも、あたしは良い人間も知っていて、だからちゃんと知りたかった……本当に、人間は悪い奴ばかりなのかを」

「……」

「やっぱりあたしが感じていた事は正しかった。悪い奴も居たけど、良い奴も居た。どっちが多いかは分かんないけど、人間はたくさん居る。なのに一纏めにするなんて、絶対おかしい。纏めて全部悪者にするなんて、優しい人間にまで復讐するなんて、やっぱりおかしい」

「……え……?」

 復讐――――単なる相談には似つかわしくない、鉛の如く重い言葉が花中の心に圧し掛かる。

 決して軽い気持ちで相談に乗った訳ではない。困ったら投げ出そうなんて思いもしていない。けれども今の言葉は、猫少女の『相談』は花中の想像を超えて重過ぎる。

「あ、あの、ちょ、ちょっと待って……」

「もう時間がない。このままだと始まっちゃう、このままだと大変な事になる!」

 ほんの少し、本当にちょっとだけで良いから気持ちを整理する時間が欲しい花中だったが、猫少女は切羽詰まった様子で、こちらの話を全く聞いてくれない。いや、聞こえていないのかも知れない。

 猫少女はいきなり花中の肩を掴むや近くの塀まで追い詰め、花中の逃げ道を塞ぐ。肩を掴む手にはギリギリとした痛みを感じるほど力を入っており、振り払う事も出来そうにない。向けてくる顔は鬼気迫るもので、花中は少なからず恐怖を覚えてしまう。

「早く止めないと、たくさんの人が――――」

 そして悲痛な声で何かを叫ぼうとし、

「おい、何をしている?」

 その叫びは何処からか聞こえてきた、この小さな声に遮られて止まった。

 ぶわっと、猫少女の全身から油のように粘った汗が噴き出す。花中に何かを伝えようとしていた筈の口は喘ぐようにパクパクと動くだけで、乾いた息の音しか出していない。未だ離さず掴んでいる手は、まるでアルコール依存症の患者の如く小刻みに震えていた。

 一体何があったのか。

 訳が分からずどぎまぎする花中だったが、ふと猫少女の視線が自分に向いていない事に気付く。その眼球は、小刻みに震えるだけで動かない……いや、きっと動けなくなったのであろう猫少女の身体を補助するように視界の端ギリギリまで寄せられていた。

 花中は無意識にその視線を追って自身の横、塀に追い詰める前までは進行方向だった道へと振り向いた。

 ―――― 一体、何時から居たのだろう。

 外見の年齢は二十代後半ぐらい。屈強な肉体を持った男が、そこには立っていた。面長ながら端正な顔は所謂美形に属していたが、狩猟者を彷彿とする鋭い眼光や、壮年の力強さを感じさせる表情筋の強張り方にアイドルのような軟弱さは欠片もない。胸元の高さまで伸びている黒髪も女性的な柔らかさなど微塵も感じられず、むしろ触れば自分の指の方が傷付けられてしまいそうな刺々しさがある。

 そして百八十センチ以上ありそうな体躯は同年代の男性より少し幅広なぐらいだが、全身からビリビリと発している威圧感で、その身体に乗せた筋肉が見た目通りの重さではないと察せられる……ここまで一目で分かるのも彼が獣の毛で覆われている股の部分以外ほぼ裸だったからなのだが、羞恥を覚えるよりも肉体的存在感に気圧されてしまう。人の裸ではなく野生の獣を見ているようで、『些末』な感情がまるで湧いてこない。

 この人、人間じゃない。

 直感的に花中の脳裏を過ぎったのは、そんな一文。しかしそれを声にするよりも早くフィアとミリオンは花中と男の間に入り、花中の姿を男から隠すように陣取った。二人とも花中と同様のものを感じ、且つ危機感も覚えたらしい。

 そんな少女達の反応を目の当たりにした男は、やれやれと言わんばかりに首を横に振る。

「全く、ここまで警戒をせずとも……」

「失せなさい。でなければ殺しますよ」

「言わなくても分かるでしょうけど、躊躇してもらえるなんて思わない方が身のためよ」

 脅迫染みた警告をするフィアとミリオンだが、男は自らの髪を掻き上げるとおどけるように肩を竦めた。警告をまともに取り合っていないらしく、しかし視線はずっとフィア達を捕捉し続けている。姿勢にも崩れがなく、動こうと思えばすぐにでも動ける体勢のようだ。

 恐らく、あの男も気付いている……フィア達が人間ではない事に。

 しばらく男はフィア達と対峙し続けたが、やがて疲れたようにため息を一つ。それから穏やかな笑みを浮かべると視線だけを動かし――――猫少女を見る。目が合った猫少女は花中から手を離すと怯えるように後退り。

 それでも男は猫少女を見つめる事を止めず、こう切り出したのだった。

「さて……『妹』よ。一体こんなところで何をしていたのか、俺に教えてくれないか?」




諸事情で投稿が遅くなってしまいました。まことに申し訳ありません。

次回は8/6投稿予定です。


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孤独な猫達7

「い、妹さん、という、事は……あの人、は、猫さんのお兄さん……ですか……?」

 オドオドしながら、花中は自分のすぐ傍に立つ猫少女に尋ねた。

 猫少女の返答は、ややあってからの無言の頷きのみ。ぎこちない空気の中花中は改めて目の前の、猫少女を妹と呼んだ男を見た。

 未だ陽が照らしている市街地。筋肉隆々なほぼ全裸の男を観察するのに支障はなく……改めて見直したが、猫少女とその男は、あまり似ていないように思えた。確かにどちらも筋肉質な身体付きだが、猫少女は猫らしいスレンダーな体型なのに対し、男は割とガッチリとした体躯。身長も、猫少女は小柄な花中と同程度なのに男の方は一般的な成人男性よりも高い。顔立ちにも、共通のパーツが見付けられない。精々髪が同じ色(黒い)ぐらいなものだ。

 正直、家族だと言われても素直には受け入れられない。親近感が湧かず、今になって男性への苦手意識が蘇ってきた。花中は無意識に後退りしてしまう。

「これは、どういう事だ?」

 挙句男の口から出てきたのは、闘志と威厳と威圧が乗った重苦しい声。一歩踏み出せば足元のコンクリートがベキリと音を立て、彼の存在感を示した。

 もし彼の出した言葉が自分に向けられたものだったなら、花中はビックリして失神していたかも知れない。例え今自分と彼の間に、フィアとミリオンという頼りになる友人達が居たとしても。

 そうならなかったのは単に、男が話し掛けたのが花中ではなく猫少女だったからだ。

「あ、あのね、兄さん。これは、その、ちょっとした……ちょ、調査で……」

 猫少女は言葉を何度も途切れさせ、たどたどしく兄だと言った人物に答える。その言い方に、表情に、肉親への親愛は感じられない。顔を背け、花中の後を追うように後退りしてくる。まるで隠していた悪事が親に露呈した、子供のような仕草だ。

 対する猫少女の兄……猫兄とでも呼ぶとして……は、妹の心情をどう感じたのか。

「ふむ。確かに調査は大切な事だ。何事も知識がなければ始まらない……その考え、そして行動は正しいな」

 花中の予想に反し、再度開かれた彼の口から出たのは、先程までと打って変わって優しく、包み込むような褒め言葉だった。

 まさか誉めてもらえるとは思ってなかったのか、猫少女は一瞬表情を固まらせた後、花咲くように笑う。直後花中の目には見えない速さでフィアとミリオンを追い越し、兄の傍まで駆け寄っていた。

「そ、そうだよね! やっぱり知らないのはダメだよね!」

「ああ、そうだ。それで、何を調べて、何が分かったんだ?」

「あ、あのね……私、人間が本当に悪い奴か調べて……」

「ふむ。それで?」

「た、確かに悪い奴は居たけど、でもあそこに居る花中みたいに良い人間もいた! 加奈子みたいにバカだけど面白い奴もいたし、晴海みたいに嫌味だけど真面目な奴もいたの!」

 楽しそうに、嬉しそうに、猫少女は今日の出来事を話し始めた。

 その姿に、花中は安堵の息を吐く。仲が悪いのかと一瞬勘ぐってしまったが、そうではないらしい。むしろ兄に優しくされてからの猫少女は、心から幸せそうに見える。

 恐らく、猫少女は兄に黙って人間との接触を持った。そしてそれがばれてしまい、怒られると思って怯えていたのだろう。先程感じた印象の通り、親に怒られるのを不安がる子供の心境だった訳だ。褒められてからの反応を見るに兄の事が相当好きなようなので、嫌われたくないという気持ちも多分にあるのかも知れない。

「あ、後ね! 人間と一緒に遊んだりもした! まぁ、人間があたしに勝てる訳ないから手加減してあげたけど、それでもやっぱりあたしが連戦連勝だったけどねっ!」

 そう思うと猫少女の誇張……というより虚偽の話も、なんだか幼子が親に自慢話をしているようで微笑ましい。気が付けば、固まっていた花中の頬は柔らかく蕩けていた。

「なんか、仲良しみたい、だね」

 自然と同意を求め、花中は前に立っているフィアとミリオンに話し掛ける。フィア達からの返事はなく、頷いてすらくれなかったが、何分今はいきなり現れた相手と対峙中。『野生生物』である二匹からすれば、そう簡単に警戒を緩める気にはならないのだろう。気持ちは分からなくもないので、花中は少しむくれるだけにしておいた。

 ともあれ、問題が起こらなくて良かった。緊張が解れた花中はふへーと息を吐き、一瞬目の前の仲良し兄妹から意識が逸れる。

 そこでふと、思い出す。そういえば、猫少女は自分に何かを相談していたような。

 確か、誰かを説得してくれって――――

「だ、だからね、兄さん、あの……」

 しばらくして、自慢話もいよいよ終わったのか。猫少女は先程までの勢いを無くし、もじもじしながら口ごもる。その仕草は、中々本題を切り出せない時の自分に似ていると花中は感じた。

 なんともいじらしい姿を見せる猫少女を前にし、猫兄は彼女の頭に手を乗せて、優しく、あやすように撫でる。

「みなまで言わなくて良い。大丈夫だ、お前の言いたい事はよく分かった」

「兄さん……じゃあ!」

 歓喜に満ちる猫少女の声。その声を正面から受けた猫兄は春の日差しのように暖かな微笑みを浮かべ、

「あの人間がお前をたぶらかした訳だな」

 上っ面の仮面では決して隠しきれない殺気を、言葉と共に放った。

 刹那、目の前に居たフィアとミリオンの姿が消え――――代わりに手を伸ばせば触れるほどの至近距離で見下ろしてくる猫兄と、その猫兄が()()()()()()片手を、交差させた両腕で受け止める猫少女が花中の真正面に立っていた。

「……え……?」

 唐突過ぎる出来事に、キョトンと首を傾げる花中。

 しかし身体を押し退けるように吹き荒れる土埃、体躯を突き上げるかの如く振動、そして左右の耳の鼓膜を貫かんばかりに響いた爆音で我を取り戻し……ハッとして辺りを見渡せば、道を挟んでそれぞれ向かい合っていた二軒の一軒家に大穴が空いていた。まるで、そこに巨大なトラックでも突っ込んだかのように。それだけでなく猫少女の足元が大きく陥没し、小さなクレーターが出来上がっているではないか。

 何が起きたのかは、やはり分からない。

 けれども、目の前の猫兄が誰にも見えないほどの速さで自分に接近。フィアとミリオンを攻撃して吹き飛ばした後自分にもその暴力を向けたのは、花中の本能が察していた。

 尤も、その暴力を猫少女が咄嗟に受け止めてくれた事には、真っ白になった理性が回復するまで気付けなかったが。

「……何をしている?」

「見れば、分かるでしょ……この人間は、殺させない……!」

「そこまで人間に入れ込んだのか……いや、違うな。そこまで『この人間』に入れ込んだと言うべきか」

 ギョロリと瞳だけを動かし、猫兄は花中を再度見下ろす。猫少女と語り合っていた時の優しさはもう欠片も残っていない。今その眼差しに宿るのは刃物のような鋭さと、隠しもしない捕食者(ネコ)の獰猛さ。

 そして、純然たる殺意。

「……!?」

 花中は口を、喘ぐ金魚のようにパクパクと空回りさせる。

 花中は十五年ほどの人生の中で、少なくとも二度は殺意を向けられた事がある。それも『二週間前』と『昨晩』という、割と最近の出来事。耐性が付いたとは言わないが、殺意がどのようなものかは身体が覚えていた。

 だが此度の殺意は『純度』が違う。最早言葉で語るよりもハッキリとした形を持って心に突き刺さるほどに鋭く、冷たい。視線に射抜かれた全身が凍え、震え、動けなくなっていく。

「さて、これで目を覚ましてくれると、俺としては嬉しいが……どうなる事かな」

 だから例え猫兄が自由なもう片方の手を振り上げても、花中には一歩後ずさる事すら出来ず。

 花中から見て右側から突如巨大な『包丁』が現れ、猫兄目掛け落ちてこなければ、今頃花中は生ゴミと変わらぬ存在と化していただろう。

「ふむ」

 猫兄は表情一つ変えず、あたかも真ん中部分を切り取った映像のように、瞬時にして花中から五メートルほど遠のく。『包丁』は猫兄を狙っていたようだがこの速さには追いつけなかったようで、出現時と殆ど変らぬ軌道で落下。

 道路のみならず向かいの家まで刃は到達し、圧倒的大質量で何もかも粉砕した。これでは最早刃物ではなく鈍器。打撃で舞い上がった粉塵が茶色い霧となって猫兄と猫少女、そして花中を飲み込む。

 それでも花中は痛む事を恐れず目を開き、

「フィアちゃん!」

 助けてくれた、友の名を呼んだ。

 次の瞬間、『包丁』が生えてきた場所――――大穴を開けていた家の一件が、爆発でも起こしたかのように破裂する! 穴が開いている以外は未だ住処としての形を保っていた一軒家だが、それもこの破裂によって崩壊。大黒柱が悲鳴を上げるようにへし折れ、家屋自体が完全に潰れてしまう。今や原型を留めているのは屋根ぐらいなものだ。

 それすらも二度目の破裂によって真っ二つに吹っ飛ばされ、中から身体には傷も汚れも一つとない、片腕を巨大な包丁に変化させている金髪碧眼の美少女……フィアが現れた。

 姿を消していた友の復帰に花中は喜びを抑えられない、が、笑顔一色だった表情は、すぐに恐怖に満ちたものへと塗り替わる。

 何しろ復帰したフィアは、額に青筋を浮かべ、目を血走らせていたのだから。

 口元をぐにゃりと歪ませて心底愉快そうに笑っていたが、そこに友好の意思などありはしない。狂気や殺意をグズグズに煮込んだ感情の波形は、友達である花中ですら奥歯がガチガチと鳴り始めてしまうほどにおぞましい。猫少女も狂気に充てられ、ほんの僅かだが身動ぎしている。

 猫兄がそんなフィアと平然と向かい合えるのは、彼の腹の中に同等以上の殺意が渦巻いているからなのだろうか。

「まさか平然としているとはな。本気を出したつもりもないが、手加減したつもりもないのだがね」

「くひひひひひひひひこの私を吹っ飛ばすだけでは飽き足らず花中さんにまで手を出そうとは良い度胸をしてますねぇどうしてこんな馬鹿をしでかしたのか理由は分かりませんがいえ知る必要もないでしょうああどんなゴミに変えてやりましょうか希望があれば聞きますがぁ!?」

「……やれやれ、この俺以上に血気盛んとは。どうやら手加減して勝てる相手ではないようだが、だったら本気を出すまでの、っ!?」

 フィアの形相に怯みもしなかった猫兄だったが、一瞬目を見開くや、その場から更に五メートルほど跳び退く。刹那、今まで猫兄が立っていた道路のコンクリートから湯気が立ち、どろりと溶解したではないか。

 異様な現象を目の当たりにする花中だが、しかしその驚きはフィアの向かい側……もう一つの穴が開いた家が弾け飛ぶ音で掻き消される。次いで花中達に襲いかかったのは先程と同じく茶色い粉塵、それに追加して肌が焼けそうなほどの熱波。

 ついには家の柱が独りでに燃え上がったが、間髪置かずに起きた爆発で家屋ごと吹き消されてしまう。バラバラに砕けた木片やコンクリートが衝撃で舞い上がり、雨のように降り注いで庭に突き刺さる。

 そんな致死性の雨の中で平然と立つのは、やはり姿を消していた黒髪の少女――――ミリオン。

 こちらはフィアほど荒々しい形相はしていない。代わりにゾッとするほどに無表情で、なのに穴がぽっかり空いたような黒い眼はフィアと同等の狂気を、『殺意』においてはフィア以上のどす黒さを隠さない。フィアとは毛色が違うが、花中の背筋を凍らすには十分。

 そのどす黒い視線を受ける猫兄は肩を竦め、目を細め……やれやれと言いたげだった。

「どちらもこうも元気だとは、流石に予想外だな。我ながら余計なケンカを売ってしまったらしい」

「残念、後悔してももう遅い。はなちゃんに死なれると私としては困っちゃうの。だから、あなたにはさっさと消えてもらうとするわ」

「コイツに同意するのは些か癪ですが今回ばかりは仕方ありませんそうそう希望がないようですので処理方法は私個人のお気に入りであるミンチにしましたもう要望は受け付けないのでそのつもりで」

 十メートル以上離れた間合いでの会話。張り上げ気味に声を出した末、和解の可能性は皆無であると二匹は断言する。

 敵意を剥き出しにするフィアとミリオンと向かい合った猫兄は考え込むように自身の顎を撫で、フィア、ミリオン……そして花中と猫少女に順次視線を移していく。

 やがて視線を一周させた彼は歪な笑みを浮かべ、

「確かに人間は殺してやりたいが、コイツ一人に執着する理由もないのでね。退かせてもらうとしよう」

 堂々と逃げる事を示唆したので、フィアとミリオンは一気に前傾姿勢を取った。

「させないっ!」

 が、誰よりも速く動いたのは猫少女だった。動いた、と言っても花中には、恐らく猫達以外誰にもその行動は見えていない。何もかもを置き去りにする猫少女の神速についていける者など誰一人としていない。

 ズガンッ! と雷鳴の如し爆音と、その爆音すらも掻き消さんばかりの地鳴りが花中達を襲った時には、既に事は終わっていた。

 何時の間にか猫兄に肉薄していた猫少女が、力なく膝を付き、倒れ伏すという形で。

「ね、猫さん!?」

「全く。相変わらずケンカっ早いというか、後先考えないというか。ああ、しかし今に限れば好都合か。このまま寝ていてくれると面倒がなくて良い」

 倒れた猫少女を、猫兄はあろう事か蹴飛ばす。蹴られた猫少女はまるでボールのようにふわりと、現実には鉛より重い体を宙に浮かせ、花中の足先数センチの位置に顔面から落ちてくる。落下の衝撃でコンクリートの道路は陥没し、それに伴う地震染みた揺れで花中はバランスを崩して尻餅を撞いてしまう。もしもぶつかっていたら大怪我では済まない出来事に、花中の顔は真っ青だ。

 それでも猫兄をじっと見据え、怯まずに睨み付けられるほどの怒りが心の中で燃え盛る。

「な、な……何をしてるんですか……こ、この子は、あなたの妹じゃ、ないんですか!?」

「ああ、そうだ。だが、人間の味方をした時点で見限った。ただそれだけの事だ」

「それだけって!」

 言葉が詰まる。ただし何時もと違い、ぐつぐつと煮えるような怒りによって。

 相手は猫だ。人の倫理観が何処まで当て嵌まるかは分からないし、無理に当て嵌める事はすべきでないだろう。

 だけど少なくとも猫少女は、兄を慕っていた。

 そうでなければ、嬉しそうに今日の出来事を話したりしない。嬉しさいっぱいの笑みを浮かべたりしない。彼女には、肉親を慈しむ心がある。

 だったら、同じ種である彼も同じ心を持っている筈なのに。

「なんで、なんでですか!? あなたは、この子のお兄さんなのに!」

「俺と同じ思いをしながら、それでも人間に味方するそいつを妹とは認めん。それと、俺の事を兄だと言うな。虫唾が走る。人間が俺の事を呼ぶなら……」

 憤る花中と倒れる妹を見ても表情一つ変えず、猫兄は二人に背を向け、

「キャスパリーグだ。次からはそう呼べ。尤も、三日後以降お前と会う機会があれば、の話だがな」

 それだけ言い残して、一瞬にして姿を消した。彼が目に映らぬほどの速さで駆け抜けた事を示すものは、後から吹き付けてきた突風だけ。どちらの方角に行ったのかも、花中には分からない。

「……逃がしましたか。『糸』を張っておいたのですが殆ど切られている。恐らく『糸』に気付きこちらの追跡から逃れるためわざわざ切りに行ったようですね。これではどっちに逃げたのかも分からない」

「こっちもいくらか分散して個体を展開しておいたけど、全部吹っ飛ばされちゃった」

 フィアとミリオンはこうなる事を予期してそれぞれ探査網を広げていたようだが、いずれも易々と突破されたらしい。これで猫兄……キャスパリーグと名乗った猫の行方は、完全に分からなくなった。勿論、花中にとってもそれは気掛かりだ。フィア達が居なければ自分を殺したであろう存在が野放しなのだから。

 だが、今は『そんな事』に怯えている場合ではない。

 自分の目の前に、兄が行方知れずになっても微動だせず、道路に転がったままの女の子が居るのだから。

「ね、猫さん! 大丈夫ですか!?」

「んぁ? あーそういえばなんか蹴飛ばされてましたっけ。さっきから動いてないようですけど死んだのでしょうか?」

「息はあるみたいだし、生きてるっぽいわよ」

 どうでも良さそうなフィア達だが、一々構っている場合ではない。花中は二匹を余所に、猫少女の体を揺すろうとする。

 とはいえ相手は推定体重数十トンに達する超重量級生命体。花中一人の力でどうこう出来るものではなく、渾身の力を込めても猫少女の身体は微動だにしない。結局フィアに頼み、うつ伏せになっている猫少女の身体をひっくり返してもらう。

 仰向けにされた猫少女の顔は安らかとは言い難かったが、呼吸は安定しており、気を失っているだけのようだった。良かった、とは言えないものの、それでも大事に至っていない事に花中は安堵の息を吐く。

 残念な事に、何時までも安心している暇はないのだが。

「……流石に騒ぎ過ぎたわね。人が近付いてきているわ。周りの家は私が分散させた個体でドアノブを『固定』して外に出られないようにしたけど、野次馬は止めたらますます騒ぎが大きくなる。さっさとおいとました方が良さそうね」

「そうですか。ならそうしましょうかね」

 自らを戒めるようにぼやくミリオンに、フィアはのほほんとした口調で同意する。

 不可抗力と正当防衛の範疇だったとはいえ、猫達の足跡とフィア達の攻撃で道路はズタズタのボロボロになり、一軒家は二つも全壊している。相当広範囲に今回の騒動は知れ渡っているだろう。果たして何十人、いや、何百人の野次馬が集まってくるか分かったものではない。

 そしてその破壊された街並みの中に平然と立つ女子三人+気絶した少女一人というのは、異様というか、あらぬ ― ではないのだが ― 疑いを掛けるのに十分な存在だろう。

「……あの、二人とも……潰れた家の中に、人は……」

「私がぶつかった家には人間なんて居ませんでしたよ多分」

「私の方は水槽の中にダンゴムシがいたぐらいね。そのダンゴムシも水槽が壊れて脱走したし、ま、むしろ自由を謳歌している感じ?」

 幸い、死傷者は人間・動物共に出ていないらしい。ならば長居をする理由もない。壊れた家の住人には申し訳ないが……これ以上事態を混沌としたものにしないためにも、こっそりと帰らせてもらうしかない。

「フィアちゃん、あの、猫さんを、うちまで運んでもらえます、か?」

「花中さんのお願いとあらば」

 快諾してくれたフィアは猫少女の肩を掴むと、「よっと」と軽い掛け声と共に軽々と引っ張り上げ、自分の背中に乗せる。花中はミリオンの方へと向かい、ミリオンの背中に乗せてもらう。

 その際フィアが物凄く不愉快そうな顔になっていたが、生憎背中に乗せる対象を入れ替えるだけの時間はもうない。

「それじゃあ、あの……家に、一旦、帰りましょう」

「りょーかーい」

「……了解です」

 ミリオンが空を飛ぶようにその場から跳躍し、フィアはその後を追うように道路を駆ける。

 騒ぎを聞きつけた野次馬達が集まった時、花中達の痕跡は立ち去る際に残した小さなクレーターだけであった。

 

 

 

 家に帰ってきた花中が真っ先に向ったのは、自宅ではなく庭の方だった。

 陽は完全に沈み、町には暗闇が広がっている。辺りを照らす街灯は道路側を向いており、また花中の家の庭は塀でぐるりと囲われているため外の明かりがあまり入ってこない。道路側と比べ、大桐家の庭はかなり濃密な闇に包まれていた。

 しかし此処は花中にとって、生まれてからの十五年間ずっと過ごしてきた文字通りのホームグラウンド。何処に何があるか、朝のうちに干しておいた洗濯物が出しっ放しだとか、なんでも分かる。如何に花中がどん臭くとも、少し慎重に歩けば転びはしない。

「はうぅぅぅ花中さぁん何処ですかぁはぷっ!? ななななんですかこれって花中さんの匂いがします……はぁ落ち着いてきた」

 ……フィアには、少々暗過ぎたようだが。どうやら干しっぱなしの洗濯物に頭から突っ込んだらしい。暗いと言っても人の目には輪郭ぐらいなら見えているだけに、なんだかフィアの姿が滑稽に思えた。

「フィアちゃん、大丈夫? わたしのパジャマ、頭に掛かっちゃった、ね」

「ああそっちに居るんですね花中さん。いやぁ耳と鼻は良い方なのですがどうにも目だけは悪くて。ましてやこうも暗いと何も見えないのですよ」

「え? でも、この前は洞窟で……」

「あれは洞窟全体に能力が及んでいたので触覚で分かったのです。ミリオンが照らした時を除けば正直何も見えていません。ぶっちゃけ照らされてもそんなによく見えませんけど」

「そう、なんだ」

 そんな暗闇の中を恐れず進み、自分を助けに来てくれたんだ。

 もう二週間前の出来事を思い出し、花中は歓喜に震えた。が、今はそれどころではないと我に返り、頭を振りかぶる。

 感動している場合ではない。フィアの背中に居る『女の子』を、休ませてあげなければ。

「えと、じゃあ、あの……ここに猫さんを、下ろして。あ、もうちょっと、こっちに……そこ、で、止まって」

「この辺りですか?」

「うん。お願い」

 花中はフィアを声で誘導し目当ての場所、庭で一番日当たりが良く、そのため雑草が生い茂っている一角に連れてくる。

 フィアはそこで背中に乗せていた人物――――猫少女を、茂る草の上へと置いた。途端、ズシンと軽く地面が揺れる。草の布団は呆気なく潰れてしまっただろうがそこらの地面に置くよりかは幾分寝心地は良い筈だ……そう思うしかなかった。

「猫ちゃん、もう寝かしたかしら?」

 と、丁度良いタイミングで家の窓が開かれ、照明の明かりと共にミリオンが顔を出した。花中とフィアが猫少女を寝かせるべく ― 家に置くと床が抜けてしまうので ― 庭に出向いていた間、ミリオンには家の鍵を開けに行ってもらっていたのだ。ミリオンが開けた窓は和室側だったので、彼女の背後には一面畳の部屋が見える。

「あ、はい。あまり、寝心地は良くない、かも、ですけど……」

「仕方ないわよ、その子の重さじゃ、どんなにふかふかの布団でも一発でせんべいになっちゃうもの。ま、それはそうと何時までも外に居たら蚊に食われちゃうから、こっちにおいで」

 ミリオンは手招きをして、花中を家の中に呼び寄せる。

 花中としては猫少女の事が気になるが、傍に居て何か出来る訳ではない。それに猫少女の頑丈さからして、蚊が血を吸おうとしてもどうにもならないだろう。

 寝ている猫少女を横目にしつつ、花中は言われるがまま家の中に。フィアも花中に続いて家の中に入り、一人と二匹は和室の中央に座る。

 庭に入っただけでは得られなかった、『住処』に戻ってきた安堵。恐らく哺乳類以前、魚類ですらない祖先から備わっていた根源的安心感は、些末な不安なら一気に消してくれただろう。

「はぁー今日は色々あって疲れましたがようやくのんびり出来るというものですねぇ」

「そうねぇ。筋肉なんて持ってないから乳酸は発生しないけど、やっぱ色々あると身体が凝るような感じになるのよねぇ」

 しかしフィアとミリオン(居候の二人)がリラックスしている中、花中は笑顔一つ浮かべずにいた。

「……あ、あの、二人とも、リラックス、してる場合じゃ……」

「なぁに? はなちゃん、猫ちゃんのお兄さんの事がまだ気になるの?」

「大丈夫ですよ花中さん。私が傍に居る限りあなたには傷一つ付けさせませんから。それにアイツ花中さんに執着する理由はないって言ってましたしね。だったら多分もう会う事もないでしょう。気にする必要なんてないと思いますよ」

「私としては、危険因子は排除しときたいけどねぇ。でもま、何処に逃げたか分からないし」

 短い時間ではあったが、殺し合った相手の話を鵜呑みにするフィアとミリオン。だが彼女達の言い分に、花中は言葉を詰まらせてしまう。

 キャスパリーグは確かに花中を殺そうとした。それが偽りない意思なのは、実際に殺されかけ、背筋が凍るほどの殺気を向けられた花中だからこそ断言出来る。

 同時に、彼は言っていた――――「人間は殺してやりたい」と。

 キャスパリーグが憎んでいたのはあくまで『人間』であり、花中ではないのだ。執念と理屈のある憎悪ではなく、無差別で理不尽な殺意。逆に言えばキャスパリーグとの物理的距離が、そのまま殺意の対象から遠ざかる事を意味する。花中の安全を守るだけなら、キャスパリーグに近付かないのが最善となるのだ。花中の身を守るという点において、フィアとミリオンの判断は実に合理的である。

 けれどもその判断は、キャスパリーグを野放しにする事と同義。

 彼の復讐の対象が『人間』である以上、キャスパリーグはやがて他の人間に襲い掛かるだろう。そして花中と違い、殆どの人間にはキャスパリーグの攻撃を凌げる『友達』なんて居ない。彼を野放しにすれば何十、何百、或いは何千……どんな桁数の犠牲者だって生じ得る。

 そんな事、一人の人間として見過ごせない。

 しかし……

「わ、わたしは、猫さんの、お兄さんを、探したいの、だけど……」

「嫌ですよ面倒臭い。見ず知らずの誰かが殺されるかもと思っているのでしょうがそんな事私の知ったこっちゃありません。それに百人も殺せばスッキリして仲良くなれるかも知れませんよ?」

「私も同意見。はなちゃん以外の人間なんて、いくら死んでも私には問題ない。それでアイツの気が済んで無害になるのならむしろ好都合だもの。ま、エスカレートするようなら考え直す必要はあるでしょうけど、今は様子見の段階ね」

 フィアもミリオンも考えがそこまで至っていない訳がない。彼女達は花中以外の人間がいくら死のうとどうでも良い、むしろそこに『メリット』すら見出しているからこそ、キャスパリーグを野放しに出来るのだ。

 あまりにも自分本位な考えに憤りがないかと言えば……実のところ、花中にはあまりない。

 元より彼女達は人間ではない。人間だって釣った魚を食べもしないのに無暗に殺している人が居ても心の中で蔑むだけで大抵は野放しだろうし、ウィルスを殺すべく周囲をアルコール消毒している人は誉められる事すらある。彼女達の考えは、少なくとも彼女達の『倫理観』からすれば筋の通ったものだと、花中は理解しているのだ。

 無論、だからキャスパリーグの事を諦めるかと言えば、それは別問題だ。動物達に動物達の倫理があるように、人間には人間の倫理がある。死人が出る可能性を知った以上、手を打たない訳にはいかない。

 それに、猫少女の兄が最後に残したあの言葉……

 彼を止めなければ大勢の人が命を落とす――――そんな確信が花中の中にあった。そしてキャスパリーグを止められるのは、性質は違えども彼と同等の能力を持ったフィア達以外にない。

 どうにかして彼女達を乗り気にしなければ、だけどどうやって……

 考えども考えども、どうすればフィア達が協力してくれるか分からない。唯一浮かんだ可能性としては『自分の身』が危険だと煽る事ぐらいだが、煽れるような話を持っていない。いや、実は持っているのだが、証拠がない話をしても一蹴されてしまうのがオチだ。

 結局何の手立ても浮かばず、花中には黙って俯く事しか出来ない

 そんな時だった。

「残念だけど、兄さんの事は花中にとっても他人事じゃないよ」

 凛とした少女の声を聞き、花中は俯かせていた顔を跳ねるように上げた。

 振り向いた先、庭へと通じる窓を開けて立っていたのは、先程庭に寝かしたばかりの猫少女だった。花中は立ち上がるや、猫少女の傍まで駆け寄る。猫少女は少し猫背で、右の脇腹……記憶が確かなら、兄に蹴られた部分を手で押さえていた。

「猫さん! あ、あの、もう起きて、大丈夫、なのですか? 痛みとか……」

「うん。まだちょっと痛いけど、そこまでじゃない。それに怪我の治りは早い方だから……それより、話さないといけない事がある」

「話さないといけない事?」

 フィアは首を傾げながらミリオンの横目にし、ミリオンはさっぱりだと言いたげに肩を竦める。

 猫少女が話そうとしている内容を予想出来たのは、恐らく花中だけ。

「兄さんはこの町の人間に、復讐をしようとしているの。たくさんの人間を殺す、そういう方法で」

 そして猫少女の言葉に対し、小さくも頷いたのもまた、花中だけだった。

「復讐ねぇ……具体的には何をするつもりなのです?」

「それは、分からない。どんな復讐をするつもりなのか、兄さんはあたしに殆ど教えてくれなかったし、何処かに行く時もあたしは連れていってくれなかった。多分、あたしが人間を嫌いになりきれていなかった事に気付いていたからだと思う……だからあたしは兄さんが何をするかは知らない。でも、兄さんが人間をどれだけ怨んでいるかは分かっている。だから兄さんは必ず……この町を潰す。大勢の人達を巻き添えにして」

 このまちをつぶす。

 声にすればたった八文字足らずのこの言葉に、花中は虫が全身を這いずりまわっているような悪寒を覚える。小学生の頃自分が住むこの町……行政的には『市』であるが……について調べた時、人口が凡そ十三万人だと知った。あれから五~六年経ったが、人口にそう大きな変動はない筈。猫少女の言う町の規模が市町村単位であるならば、十三万人もの人々になんらかの被害を与えるつもりだという意味になる。

 そしてキャスパリーグの強大な力があれば、それほどの大災厄も起こせるかも知れない。

 フィアとミリオンも考えは同じらしく、今までだらけていた表情に僅かだが張り詰めた想いが戻ってきていた。

「……町一つ潰すとは、穏やかじゃないわね。対象が此処ら一帯だって事は断定出来るの? 方法も知らないのに?」

「うん。具体的な方法は教えてくれなかったけど、まずはこの町の人間からだとは言っていた。元々あたし達はこの町で産まれて、育ってもきたから、怨みの具体的な対象となるのはこの町の人間だけだし」

 明言する猫少女に、ミリオンは爪を噛みながら考え込む。どこまで信じて良いか、どこまで情報としての価値があるか、見極めているのか。

「花中さんコイツの話どう思いますか?」

 フィアは早々に考えるのを諦めたようで、花中に尋ねてきた。とはいえ訊くという事は、鵜呑みに出来ない話だとは思った筈だ。

 けれども花中には『確信』がある。

 『知り合いの証言』という証拠が手に入った今、自分の考えを伝える事への躊躇は消えていた。

「……わたしは、本当の事だと、思う」

「その根拠は?」

「一つは、人間そのものに、怨みがある、事。それは、わたし自身が身を持って、経験したから、間違いない。二つ目は、たくさんの人間を、こ、殺せる、力がある、事……そして三つ目に、別れ際に言った、三日後って、台詞」

「三日後?」

 フィアは覚えていないのか訊き返してくる。ミリオンは少し考え込んだ素振りを見せた後、そういえば、と言いたげにハッとしていた。

 キャスパリーグは去る間際、三日後以降会う機会があれば、と言い残している。それだけなら何をするか分からない……例えばキャスパリーグがこの町から出て行くとかの、ある種楽天的な可能性すら含む……意味深な言葉で終わってしまうが、猫少女が教えてくれた『計画』を含めて考えれば輪郭ぐらいは見えてくる。

 即ち彼は三日後に、この町を『潰す』つもりでいるのだろう。

 どうして三日後なのか、準備に時間が掛かるのかタイミングが丁度良いのか……分からない点は数多くあるが、強大な力を持った彼が三日も時間を費やそうと言うのだ。その計画は恐ろしく大規模で、無差別な復讐劇とならなければ割に合わない。

 そして規模が大きいとなれば、花中がそれに巻き込まれない保証はない。だからこそキャスパリーグは「三日後以降会う機会があれば」と言い残したと言えよう――――その日以降、花中が生きているかは分からないのだから。

「そうねぇ、そうだと考えれば猫ちゃんの話も、あの害獣の話にも筋が通っちゃうわねぇ……」

 そういった考えを花中が伝えたところ、ミリオンは納得したのか、心底面倒臭そうな顔になっていた。花中さえ無事なら他はどうでも良いと言っていたが、逆に言えば花中が危険に晒されるとなれば一大事。推論ではあっても、現実味を帯びてきた以上ミリオンには無視出来ない話だ。

 対して、どうしたのだろうか。フィアは幼さすら感じるぐらいの純朴さを美人顔に帯びさせ、キョトンと首を傾げていた。

「あ、あの……わ、分からないところとか、あった……?」

「ん? ああいえそういう訳ではないのですが」

 自分の説明が悪かったのかと不安になり花中が尋ねてみれば、フィアは片手を小さく振りながら否定する。ただ、理由をすぐに答えるのかと思えば振っていた手を口元に当て、そのまま黙考。

「なんでアイツはそこまでこの町の人間を憎んでるのでしょうかね?」

 ややあって出てきた疑問は割と根本的で、それでいて花中も知らなかったものだった。

「えと……流石にそれは、分からない、かな……」

「そうですか。まぁいくら花中さんが聡明でもそこまで分かったら最早エスパーですし」

 そう言うとフィアは、今度は猫少女をじっと見る。心当たりがあるだろう人物に直接聞くのが手っ取り早い、と思ったのか。

 しかし猫少女は答えてくれず、逃げるように視線を逸らして俯いてしまった。口は力を込めて噤み、拒絶の意思を見せつける……まるで、日記帳に鍵を掛けるかのように。

「分からないなら分からないで構いませんけど?」

 ……そんな感情の機微を全く察しないのはある意味フィアちゃんらしいなと、花中は出てきそうになるため息を堪えるのが少ししんどかった。

「う、うん……ちょっと、分からないな……」

「そうですか分からないなら仕方ないですね。まぁ聞いておいてこう言うのも難ですがアイツが人間に何をされたのかなんてどーでも良いですし。花中さんに危害を加える可能性がある以上見つけ次第殺せば良いんですから」

 猫少女の返答はしどろもどろだったが、フィアは違和感を覚えた様子すらない。うんうんと一人頷きながら納得していた。

 ああ、それで誤魔化されちゃうんだ……と、フィアの将来に不安を抱く花中だったが、やや間を開けてようやく理解したフィアの言葉にハッとなる。

「ふぃ、フィアちゃん、あの、見つけ次第って、もしかして……」

「もしかしなくてもコイツのお兄さんを探す事にしました。流石に町全体に何かをするとなれば花中さんにも危害が及ぶかも知れませんからね。花中さんの希望通り私もあの猫の捜索を手伝いますよ」

「! あ、ありがとう!」

 お礼を伝えると、フィアは自慢げに胸を張りながら大きく鼻息を鳴らす。しょうがないけど後は任せろ、と言いたいのだろうか。

 ともあれ、フィアを乗り気には出来た。

 キャスパリーグが何を目論んでいるかは、未だ見当も付かない。それでもあと三日以内に居場所を探し出し、企みを暴かなければ、大勢の人間の命が失われるだろう。だったら後は三日間、全力を尽くすまでの事。フィアと一緒なら、きっと今回もなんとかなる――――

 そう思った矢先、花中は肩をトントンと優しく叩かれた。

 後ろを振り向けば、すぐ間近にミリオンが。麗しい少女の顔と至近距離での見つめ合いになって一瞬ドキリとし、その近さの理由が内緒話をしたいからだと、ミリオンがそのままの距離で話し始めてやっと理解する。

「ねぇ、はなちゃん。ちょっと良いかしら?」

「え? あ、は、はい……えと……なんでしょうか?」

「本当に猫ちゃんからお兄さんの目的、聞き出さなくて良かったの?」

「……はい」

 ミリオンからの質問に、花中は言い淀みを挟みながらも、深く頷きながら答える。

 ミリオンが言いたい事も分かる。フィアは動機を軽視していたがとんでもない。借金に苦しむ人が行う犯罪は恐らく強盗や窃盗だろうし、三角関係に陥った人は恋人を殺してしまうかも知れない。理由に納得出来るかは別にしても、動機が分かれば過程を推測しやすくなる。「猫がたくさんの人間を殺そうとしています」という曖昧な認識が、動機という輪郭を持って姿を見せるのだ。もしかすると全てを明るみに出す鍵となり得る、重要な『証拠』である。

 だけど、それを手にするには、閉じた猫少女の口を抉じ開けねばならない。

 命は大切だ。失われたら、もう戻ってこないものだ。

 でも、だから隠そうとしている秘密を暴き、逃げる心を捕まえ、抉じ開けるのは『正しい』のか?

 花中にはそうは思えない。いずれ問い質さねばならなくなったとしても、それは今じゃない。まだ三日もあるのだ。やる事をやり尽くした後だとしても、大丈夫な、筈。

「ふーん……まぁ、はなちゃんが無事なら、どんな結果になろうとどうでも良いけどね。地球上からはなちゃんを探し出した私が手伝えば、町に潜伏する猫の一匹ぐらい簡単に見付けられるし」

「て、手伝って、くれるのです、か?」

「さかなちゃんも言ってたけど、町なんて規模でやらかされたら流石に関係ないとは言えないもの。勿論事実が分かるまで関係あるとも断言出来ないけど、何か起こってからじゃ遅いし。面倒は嫌いだけど、やらなきゃいけない事をやらないほど怠けているつもりもないわ」

「! あ、ありがとう、ございますっ」

「いえいえ。ま、私が手伝うのだから明日には片が付くでしょうし、適度に息抜きしながら頑張りましょうねー」

 ミリオンはそう言いながら手を振ると、お喋りをしているフィアと猫少女の輪に入る。耳を傾けると、どうやらフィアと猫少女の会話は世間話、好きな食べ物の話題のようだ。

 あの二人は、今やすっかり打ち解けたらしい。ミリオンもすぐに溶け込むだろう。キャスパリーグの妹だからもしかしたら……なんて心配はする必要もなかったようで、むしろ不安が過った自分の卑屈さを思い知らされた気分になり花中は顔を赤くする。

 けれども、朱色の顔に浮かぶのは小さな笑み。

 キャスパリーグが何をしようとしているのかは、未だ見当も付かない。だけどこうして集まった『三匹』が力を合わせ、彼女達に比べれば無力に等しい自分が足を引っ張らなければ、『一匹』の目論見を暴けない筈がない。

 必ずキャスパリーグを止めてみせる。

 人間を殺させないためにも……家族の暴挙を止めたいという『友達』の願いを叶えるためにも、絶対に。

「(……晩ご飯は何を作ろうかなぁ。猫さんも食べるかも知れないから、ネギは避けてお肉中心、味付けは薄めの塩コショウに……ああ、その前に庭の洗濯物入れて、それからお風呂も……)」

 きっとこの小さな悩みが三日後以降も続くと信じ、花中は決意を固めるのだった――――

 

 

 

 しかし人間が決意を固めたところで、それで世界が思うように回ってくれる訳ではない。

「み、見付からない……!?」

 花中の決意に至っては、最初の一歩すら満足に踏み出せない有り様だった。

「ええ全く全然影も形も臭いも見付からない状態でして」

 顔を青くする花中にフィアは申し訳なさそうに、けれどもあまり気にした素振りもなく、ハッキリと現状を伝えてくる。フィアの隣に立つミリオンは口先を尖らせながらそっぽを向き、同じくフィアの傍に立つ猫少女は唇を噛み締めながら着ているワンピースの裾をきゅっと握り締め、二匹ともフィアと同様の成果しかなかったと仕草で物語っていた。

 危機的な時ほど、正しい現状認識が大事だ。だがあまりにも無慈悲に突き付けられた事実は、あまり強くない花中の心には些か衝撃が大き過ぎた。

 此処が、放課後を迎え、家に帰ろうとする生徒の往来激しい校門の傍だというのも失念し、花中は遠退く意識に任せて倒れそうになってしまう。幸いフィアが身体を抱き止めてくれたので頭を地面に叩きつける事にはならなかった。が、美形に属するフィアにお姫様よろしく支えられていると分かるや花中は茹でダコのように顔を赤くし、逃げるように自立。その動きが却って衆目を集めてしまう事に気付いて、身体を縮こまらせる。

 無論、恥ずかしさに悶えている時間的余裕がない事は忘れていない。

 キャスパリーグが示した三日の猶予は、考えられる最短……三日目の午前零時で計算した場合、もう半日も残っていないのだから。

「あの、本当に、影も形も……?」

「あまり見くびらないでほしいわね。こちとらウィルスよ。ナノサイズの隙間があれば何処にでも入り込めるし、入り込めないぐらい機密性の高い場所があったら怪しくて調べてる。その私が一日半も掛けてこの町全体を虱潰しで調べたのよ。そこら中の家、工場、お店に公共施設、下水道、上水道、木の上土の中、全て調べた。絶対に、この町にキャスパリーグの姿はないわ」

 おずおずと訊き返せば、真っ先に答えたのはミリオン。自慢の探査能力を疑われてムッときたのか、早口気味で、言い方も刺々しい。花中は押し込まれるように、きゅっと口を噤む。

「私は臭いで辿ろうとしましたが駄目ですね。残り香もないです。アイツと出会った日から雨は降ってないのでもう少し残っていても良さそうなんですけどねぇ一体何処に消えたのやら」

「あたしは、隠れるなら下水道とかが怪しいと思って調べたけど、見付からなくて……」

 続いてフィアと猫少女からの報告。こちらも痕跡すら見つけられなかったという話だ。

 どういう事か。キャスパリーグと出会ってから彼是二日目が経っている。彼が宣言通り『復讐』を始めるつもりなら、猶予はあと一日……深夜零時に実行予定なら、今が午後四時近くである事を考慮すると八時間ちょっとしかない。なのにキャスパリーグは町に居ない。例えるなら、スポーツの試合開始時間が刻々と迫る中、相手チームがまだ現地入りすらしてないような……そわそわとした気持ちの混ざる違和感を覚える。

 何故キャスパリーグは町に居ない? 三日後言はフェイクで、もう復讐を実行しているのか? 否、今朝のテレビで疑わしいニュースはやっていなかったし、学校に居る間も警報のようなものはなかった。計画はまだ始まっていないと考えるべきだ。ここで諦める訳にはいかない。

「あ、あの、申し訳ないです、けど、ミリオンさんは、も、もう一度、町を探して、もらえます、か? その、もしかしたら、今まで遠くに隠れて、いて、今日とか明日、戻ってくるつもり、かも」

「……まぁ、そういう可能性もあるわね。しょうがない。町の境界線上に展開して、侵入してくる奴を片っ端に観測しとくわ。ただはなちゃん達にやられた分の個体数がまだ回復しきれてないから、町の中まではフォロー出来ない。そっちはさかなちゃん達で探してよ」

 面倒臭そうにそう言い残すと、ミリオンの姿は一瞬にして霧散。ナノサイズの集合体が一斉に散り散りとなり、人の目には見えなくなる。傍から見れば人体消失のような光景も、なんやかんや知り合ってからの二週間で度々見ていればさして思う事もない。校門近くなので人の往来はあるが、ミリオンなら人が見ていない瞬間にやった筈だ。それに一刻を争う今、些末な事で時間を潰すなど愚の骨頂である。

 こちらの事は見えている筈のミリオンを、花中は手を振って送り出した。

「しかし本当にこの町が襲われるのですかねぇ? 個人的にはどっか余所の町でやると思うのですけど」

 ……送り出しておいて難だが、フィアの指摘があまりにも的確で、花中はため息を吐いてしまった。

「で、でも、兄さんはこの町の人間を怨んでいて……」

「それはあなたの主観でしょう? 理由を知らないのなら所詮は憶測です。大体私という圧倒的強者が居るとなればこの町を襲おうという気が失せるのは至極当然。ついでにミリオンとあなたも居て数的有利すらもこちらにある訳ですし諦めるのが真っ当な考え方だと思いますが?」

 咄嗟に、といった感じに反論を唱える猫少女だったが、フィアの正論にぐっと言葉を飲み込んでしまう。確かにキャスパリーグは、花中を殺そうとした時も怒りに震えるフィアとミリオンを見るや撤退を決めた。彼がフィアを圧倒的強者と認識したかは兎も角、厄介な障害だとは思っただろう。人間を殺したいほど憎んでいるが、判断力を失うほど狂ってもいない。妨害を警戒したキャスパリーグが計画を変更する、という展開は大いにあり得る。

 しかし猫少女には、キャスパリーグがこの町に拘る事への『確信』があるようだ。恐らくその核心は彼女が隠そうとしていたキャスパリーグの『動機』に関わるだろうから、訊いても中々話してはくれないと思うが……花中としては、妹の予感を信じたくもある。

 どちらの言い分が正しいか、判断が付かない。どの道今はなんの証拠もない以上、とことん調べるしかない。

「もう少し、調べよう。あと一日あるし、明日は学校も休み、だから、夜遅くまで、考えられる、し……フィアちゃん、お願い」

「花中さんがそう言うのならそうしましょうかね」

 花中が頼むとフィアは校門をくぐり町へと向かったが、その動きが心なしか普段よりも鈍く見えたのは気のせいか……

 いや、気のせいではないだろう。

 フィアにしろミリオンにしろ、花中が危険だからキャスパリーグを探し出そうとしているに過ぎない。キャスパリーグがこの町に居ないかもとなれば、探索が面倒臭くなってくるのは自然な事。彼女達は、人間が死ぬ事自体はどうでも良いと思っているのだから。

「花中……」

 最後まで残った猫少女が、不安を隠し切れていない眼差しを向けてくる。フィア達の考えを知っているが故に、人間を守りたい彼女にとっては気が気じゃない筈だ……花中だって、同じ想いなのだから。

「……まずは、居場所を特定、しないと。少なくとも、二日前までは、間違いなく、この町に、居たんです。姿はなくて、も、痕跡ぐらいは、残ってる、筈。考えるのは、その後です。一緒に、探しに、行きましょう?」

 正直に、期待させないよう、だけど希望は捨てさせないよう、花中は選んだ言葉で猫少女を励ます。

 猫少女は無言だったが、小さく頷いてくれた。ただ、冷静な言葉には熱意が足りない。頷いた後も猫少女は動かず、花中もちょっと動き出せず。

「と、とにかく今は行きましょう! しゅ、しゅっぱーつ!」

 片手を振り上げて無理やり気合いを生成。大声でその気合を放出。行く当てもなく校門から跳び出し、町へと繰り出した。後ろからは猫少女のズンズンという足音が聞こえるも、あまり気分が乗っている雰囲気はない。

 今の天気はどんよりとした曇り。朝の天気予報では夕方から大雨との話。雲の暗さからして、予報は見事当りそうだ。通学鞄に折り畳み傘は入れてあるが、大雨との事なのでどこまで役に立つかは分からない。

 先行きの悪い空模様が自分達の未来を暗示しているようで、注入した気合いがあっという間に蒸発していくのを、花中はひしひしと感じ……

 

 

 

 結論から言えば、予感は的中した。というよりも分かっていた。

 『視覚』と『触覚』はミリオンが調べ上げた。『嗅覚』はフィアがそれなりに調べてくれた。総数数千兆以上にもなるミリオンは、本人が言っていたように町中を隙間なく調べられる。フナであるフィアの嗅覚は、連れ去られた花中の居場所を見付け出せるほど鋭く、正確だ。恐らく日本の警察が総力を結集させても、彼女達二匹ほど正確かつ迅速に調査する事は出来まい。

 その二匹が確たる証拠を見付けられなかったのだ。

「……何も見付からなかったね」

「……何も、見付けられません、でした……」

 花中達が二時間ほど町中を歩き回って得られた成果が、両足の痛みと全身に溜まる疲労感、それからほんの五分前に降り出した大雨にやられて濡れた衣服だけというのも仕方ない事だった。

 今花中と猫少女は雨宿りと称し、とある小さな本屋の中で休憩中。雑誌などが置いてある店の窓際部分に立ち、外の様子を眺めている。後ろには店員とお客さんが数人居たが、当たり前だが花中達を気にしている様子はない。普通の声で話していても、聞き取られる心配はないだろう。

 それでもあまり一般人には聞かせたくない話。花中達の会話は、自然と小声になっていた。

「見付かり、ませんでしたね」

「見付からなかったね……」

 ほんのちょっと言葉を交わしただけで、二つの口からため息が漏れ出る。

 キャスパリーグは無差別の大量殺人を計画している、という基本情報を元に人がたくさん集まる繁華街 ― 以前加奈子と遊んだゲームセンターがある一角だ ― を花中達は調べていたが、証拠と呼べるものは何も見付からなかった。証拠というのは足跡や体毛といった物証のみならず、臭いのような感覚的な証拠も含む。猫の嗅覚は人間の数万倍と言われており、猫少女の嗅覚もまたフィア同様に強力だ。

 その猫少女が何も感じなかったのだから、キャスパリーグは少なくともここ数日は繁華街に近付いてもいないのだろう。もしくは今花中達に本屋での休息を強いている大雨が、彼の臭いを洗い流してしまったのか。

「……本当に、この町にはもう居ないの、でしょうか……」

「そんな筈ないと、思うけど……」

 花中の弱気に猫少女は反論するも、一昨日までは断言調だった言葉から自信が喪失している。彼女もひょっとしたら兄はもうこの町に居ないのではと思い始めているのだろう。

 このままやる気を失い、消極的に諦めてしまうのは不味い。居ないなら居ないと断言しなければ、それは間違った決断になってしまう可能性がある。

 一旦落ち着いて考えよう。

 都合の良い事にここは繁華街。脳のエネルギー源となる糖分たっぷりのジュースが、自販機やコンビニでいくらでも手に入る。

「少し、休みましょう。疲れていては、大事な事も、見逃して、しまいます、から」

「うん……」

「えと、ここで、待っていて、ください。わたしは、飲み物を、買ってきます」

 猫少女を本屋に残し、花中は折り畳み傘を開いて早速飲み物を買いに行く。ざぁざぁと音を立てている雨に対し、折り畳み傘のサイズではちょっと守備力が足りないが……この程度の事で足止めを強いられるのが煩わしくて、花中は力強く雨空の下を歩いた。

 その一人歩きの中で花中は考える。

 ……考えると、どうにも違和感が胸をくすぐる。

 戦闘能力が出鱈目なほど優秀なのでうっかり失念しそうになるが、ミリオンは探査能力もえげつないほど優れている。何千兆もの小さな存在が虱潰しに広がり、ナノ単位の隙間から内部に入り込み、隙間がなければその密閉性に疑念を抱いて力尽くで侵入を試みる。万一それも失敗したら『仲間』に報告だ。逃れる事はおろか、出し抜く事も出来やしない。

 そのミリオンが居ないと言った以上、キャスパリーグは本当にこの町には居ないのだろう。フィアと猫少女の嗅覚も、補助的ながらミリオンの結論を裏付けている。キャスパリーグが町から去った理由も、フィアとミリオン、そして猫少女の三匹を相手に戦うのは、彼自身が言っていたように『分が悪い』のだとすれば納得出来る。この点に疑問を挟む余地はないだろう。

 しかし、証拠が全く出てこないとはどういう事か。

 思い返す限り、キャスパリーグは自分達兄妹以外にミュータント……特殊な能力を持った生物が存在していた事を知らなかった様子。フィア達の存在は色々噂になっていたが、それはまだオカルト話の域だった。フィア達の存在を知る事が出来る情報とは言えず、キャスパリーグが感知していなくともおかしくはない。

 こうなるとキャスパリーグは、自分の計画を阻む脅威があるとは露ほどにも思っていなかった筈だ。あの驚異的身体能力があれば人間など恐れる必要はないし、抵抗が可能な猫少女も彼の ― あらゆる意味で ― 敵ではない。ならば『何か』を恐れて準備をするのは杞憂というもの。逃亡の準備など無駄であり、むしろ不安要素である妹が何かしでかす前に済ませてしまう方が合理的となる。

 だとすれば花中達の前から去った時、表向き冷静沈着を装いつつもキャスパリーグは相当慌てていた筈だ。邪魔者が現れた時の対策なんて何もしていないし、考えてもいない。このままではあの三匹に邪魔されて、計画が頓挫してしまう。せめて復讐の準備が整うまでこの町から離れ、身を隠さねば……証拠の隠滅などしている場合ではない……

 ここで違和感が疑問へと変わる。証拠の隠滅をしていないのなら、足跡や臭いぐらい、いくらでも残っていそうなのだ。少なくとも、花中達と出会うまでの数日分ぐらいは。

 臭いは雨で流れているとしても、足跡はどうにもならない。猫少女でも時折コンクリートにヒビを入れ、一昨日のキャスパリーグも思い切り道路を割っていた。どれだけひっそり活動してもこれは消せるものではない。それでも残っていないという事は、考えられる結論はただ一つしかない。

 キャスパリーグはここ数日、復讐の対象であるこの町に殆ど近付いていないのだ。

「……どういう、事……?」

 探していた自販機の前まできて、花中はその場で思案に耽る。

 フィア達と出会う前から町に殆ど立ち寄っていないとなると、いよいよ花中は自分の予想が信じられなくなる。キャスパリーグはもしかすると、本当にこの町を攻撃する気はないのでは。三日後も無事だったらという捨て台詞はブラフで、この町への復讐には拘らないつもりなのか。花中を目の前にして殺すのを諦めたように、フィア達が居るこの町への攻撃を諦めたと考えるのも……

 ……そこまで考えて、花中は首を横に振る。いくら考えても元の考えを捨てきれない。新たな手掛かりがないと思考回路を切り替えられそうにない。

 そして手掛かりと言えるものは、今まで開ける事を避けてきた、猫少女が守るように抱えている心の『中身』ぐらいしかもう残っていない。

「……猫さんに話を聞こう」

 猫少女の秘密がどのような形で真実を明るみにするか、或いは何も明るみにならないのかは分からないが……そっとしておくには、自分はあまりにも無力だった。最早それしか手掛かりがない。

 そして隠しておきたい秘密を暴くような悪者となるのは、自分だけで十分。

 決意を固めた花中はジュースを買ったら早速訊きに行こうと、自販機に五百円玉を入れた。

「おーおぎーりさんっ!」

「わひゃぁっ!?」

 刹那、誰かに名前を呼ばれた――――と思う前に背中をポンッと叩かれ、花中は驚きのあまり掴んでいた傘を手放した。のみならず前につんのめってしまい、

「ごっ!?」

 おでこが自販機にクリーンヒット。後からやってくるジンジンとした痛みに耐えかね、花中は額を両手で押さえながらしゃがみ込む。

「え、えと、大桐さん……大丈夫……?」

 そんな花中を心配する声が、またしても背後から。向こうとしても花中がここまで驚くとは思っていなかったようで、かなり申し訳なさそう。

 ここまで猛省されてしまうと、花中も同じぐらい申し訳なく感じてしまう。

「立花さぁん……な、なんで、こんなとこに……?」

 雨空に放り出されてぐっしょりと髪を濡らした花中が振り返ってみれば、そこには同じく髪を濡らした晴海が立っていた。彼女は傘を持っておらず、手ぶらな両手は花中か、それとも落ちた花中の傘に伸ばすべきか、迷っているのかおろおろしている。

 傘があるのに二人揃って無防備に濡れるという、なんとも奇妙な光景の中晴海は恐る恐る口を開けた。

「えと、加奈子に誘われてゲームセンターに来たんだけど……」

「げ、ゲームセンター、ですか?」

「うん。今日は暇だったから学校が終わってすぐに……でも、やってたら雨が降ってきてさ。そしたら加奈子の奴、あ、今日は折り畳みしかないから二人は入れないやーとか言ってそそくさと帰りやがったのよ。んで、まぁ、困ってたら大桐さんを見付けたから、傘に入れてほしいなーっと思って」

「せ、背中を叩いたの、ですね……」

 つもり元を辿ると、加奈子のせいらしい。しかしトラブルを起こした店に二人で遊びに行くとは……加奈子が豪胆なのか、晴海が能天気なのか。そもそも二人はやっぱり仲良しなのか、仲が悪いのか。花中にはよく分からない。

 とりあえず、ぶつけようのない激情を飲み込むように、花中は深呼吸を一つ。

 落ち着きを取り戻した花中は立ち上がり、苦笑いを浮かべながら晴海と向き合う。晴海は落ちた傘を拾い上げると花中に返し、花中は晴海を傘の中に入れて、二人揃って安心したように一息吐いた。折り畳み傘の下に無理やり収まっているので少々窮屈だが、密着するのが好きな花中はちょっとドキドキしている。

 と、花中はふと疑問を抱く。

「えと、今朝の天気予報では、午後から雨って、言ってたと、思うのですけど」

 どうして晴海は傘を持っていないのだろう? その疑問を特に躊躇なく口にしたところ――――晴海の返事が舌打ちだったので、花中は思い切り後退りした。傘だけは晴海の方に残るよう腕も伸ばしたので、花中だけが再び雨空の下に出される。

 花中のそんな姿を見た晴海は「あ、ごめんね」と言いながら手を振り、退いた花中の方へと歩み寄る。

「今の舌打ちは大桐さんに対してじゃないから安心して。なんというか……自分に対して?」

「じ、自分に、ですか?」

「うん。実は今日の天気予報見てなくてねー」

 へらっと笑いながら晴海はカミングアウト。成程、と思うのと同時に、意外だとも花中は感じた。

「意外、です。立花さんは、そういうの、毎日、チェックしてそう、なのに」

「いやいや、あたし結構ずぼらよ? バードウォッチングしに山に登る時は流石に見とくけど、普段はあんまり見ないわね」

「そうなの、ですか?」

「そうなのー。それにさ、とりあえず折り畳みを持っておけば良いって感じだし?」

「? 持っておけば良いのに、どうして、持っていないの、ですか?」

「う……」

 些細ながらも疑問を突き詰めてみると、晴海は鈍い嗚咽のような声を漏らして固まる。それから晴海は顔を逸らしたので、何か言い辛い事があるようだった。

 もしかしたら、深い事情でもあるのだろうか?

「あの、言い辛い事なら、別に……」

「あー、そういうのじゃなくて、なんつーかな、一人で勝手にしてる分には全然気にしないけど、改めて人に言うとなると恥ずかしいというか……」

「?」

「……折り畳み入れてると鞄が圧迫されるから、晴れって言われると出しちゃうのよ」

「あー」

 晴海から返ってきた答えに、花中は苦笑いしながら納得した。晴れだと確定しているのなら、折り畳み傘は鞄の中身を圧迫する無用の長物となる。出してしまいたくなる気持ちは、分からなくもない。

 しかしそれをやってしまうと、いざ必要な時に折り畳み傘が鞄の中に入っていない、という事態を招きかねない。普段天気予報を見ないとなれば尚更。そして見事その事態に陥ってしまったのが、今の晴海という訳だ。

「……あの、天気予報は、毎日見た方が……」

「あたしだって分かってるけどさぁ……それに今日家に帰ったら入れようと思ってたんだもん。雨は明日からだって話だったから」

「明日? ああ、昨日の週間予報、ですね……あれ? 昨日も、今日は雨になるかもって、言ってたような……」

「いや、一昨日の朝の天気予報」

「……………」

「な、何よ」

 花中の冷たい眼差しに晴海は居心地悪そうに身を捩ったが、花中はその目を止めない。というより止められない。いくらなんでも、一昨日の天気予報を信じて行動するのはどうかと思う。

「んもーっ! あたしは悪くないもん! 天気予報が適当なテレビが悪いのよ! 一昨日は今日が晴れで、明日が雨って言ってたんだからっ!」

 ついには目線に耐えられなかったようで、晴海は腕を組んでそっぽを向いてしまった。

 これには花中も苦笑い。真面目そうな彼女のちょっとズボラなところが、ギャップを感じて可愛らしい。何時までも観賞していたいが……不貞腐れたままにするのも、花中の性格的に出来ない。

「あの、立花さん、落ち着いて、ください。明日の雨が、今日になったのなら、明日は晴れるかもだし、何事も、良い方に」

 とりあえず宥めようと花中は優しく語り掛け、

 その言葉を最後まで言い切る前に、声が出なくなった。

 ――――今、立花さんは何を言った? 自分は、なんて言った?

 不意に固まった花中を不審に思ったのか、晴海は怒りを収めて花中の事をじっと見詰めてくる。「大桐さん、どーしたの?」と声も掛けてくる。しかし花中はその全てを脳からシャットアウト、弾き返す。

 それは可能か?

 実現出来るか否かで言えば、容易に成し遂げられるだろう。『彼』の肉体に十分な力が宿っている事を、自分達は間に当たりにしている。結果はどうだ? 詳しい位置関係までは知らないのでなんとも言えないが、しかし『それ』が設置されているのは、女子高生が遊びに行くつもりで立ち寄れる距離だ。その上『通路』が町のど真ん中を走っている。警報システムはあるだろうが、住民の避難が間に合うかは分からない……間に合わなかった時の事は、想像したくない。準備はどうだ? これだけ『有る』のなら恐らく準備に問題はないし、あまり間を開けるのも好ましくない。

 三日後という話は?

 ……早まる可能性が、高い。

「た、立花さんっ! その、えと……わ、わたし、急用が出来たの、で、しし、失礼しますっ! 傘は使ってくださいっ」

 深々と頭を下げるが早いか、花中は雨の中へと駆け出す。散々歩き回った足が悲鳴を上げているが、そんなのは無視。

 最早、一刻の猶予どころか、今この瞬間全てが終わりかねないのだから。

 大雨の中、全身がびしょ濡れになる事も厭わず花中は猫少女の元へと戻り――――

「……こういう時、傘をこっちに残していくのが大桐さんらしいわねぇ」

 一人残された晴海は花中の傘を、持て余すようにくるくると回すのだった。




次回は8/11投降予定です。


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孤独な猫達8

 そこは、深い深い森の中だった。

 森とは言ったが、此処で森林浴をするのはオススメ出来ない。木々が鬱蒼と茂り、埋め尽くすように木の葉が空を覆い隠しているからだ。足元に下草が殆ど生えていないのも、木々の葉が降り注ぐ太陽光を吸い尽くしている証。木が密に生えているせいで風通しが悪く、ぬかるんだ地面から発せられる湿気が森の外へと逃げない。場に満ちるのはねっとりとした質感の空気だった。

 挙句今の時刻は夜遅く、天候はざぁざぁと音を立てるほどの大雨。星の光すらなく、今夜の森は輪郭すらも飲み込む暗闇に閉ざされていた。

 その暗闇の中から、地鳴りが聞こえてくる。

 地鳴りは一定の間隔で大地を揺らしながら、森の奥へと進んで行く。眠っていた鳥達が驚いて飛び立つも右往左往し、跳び起きた獣達は木々に頭をぶつけて目を回している。あまりにも暗過ぎて、野生の獣といえども昼に動くモノ達には何も見えないようだ。

 そんな混乱が広がる最中、地鳴りの発生源――――キャスパリーグが何事もなく歩けるのは、彼が夜行性の動物である猫だからだろう。

 傘どころか服一枚着ていない身体は雨でぐっしょりと濡れていたが、彼の歩みは弱るどころかむしろ心地良さそう。極限まで開いた縦割れの瞳孔は、微かな光を確実に取り込む。金属よりも重たい身体を支える足は、ぬかるんだ地面にズブズブ沈み、しかしお陰で滑ってしまう事もない。急斜面も物ともせず、登り、下り、登り、下り……

 茂みを掻き分けた瞬間、強烈な閃光がキャスパリーグの顔を照らした。

「っ! ……」

 キャスパリーグは両腕を眼前で交差させ、防御の体勢を取る。暗闇に適応した視覚は光を必要以上に感じ取ってしまい、沁みるような痛みすらも覚えてしまう。いくら肉体が強固でも神経の痛みは我慢出来ない。キャスパリーグはその場でじっと耐え続ける。

 とはいえ、明るければその明るさに適応しようとするのが生物の身体。光を浴び続けたキャスパリーグはやがて腕を下ろし、ゆっくりと閉じていた瞼を開ける。

 そして眼前にそびえる、巨大なコンクリートの壁を目の当たりにした。

「ようやく、この時が来たか」

 巨大な壁を目の当たりにし、キャスパリーグが漏らしたのは感慨深げな一言。

 壁の高さはざっと百メートル以上あるだろうか。キャスパリーグの立つ斜面と向かいにある斜面をつなぐほどに幅も広く、三百か四百メートルはある。その巨大な姿は城門さながら。壁の中央辺りには幾つか穴が開いているが、足場がないので出入り口ではないだろう。頂上部には数台の大きなライトが設置されており、壁の上から下までを明るく照らしていた。これなら夜間の作業も問題なく行える筈だ。壁自体の存在感もさる事ながら管理体制も万全な、奥にある物を守護する堅牢な防壁と言えよう。

 であるならば、この壁を壊した時に作り手――――人類は、どれほどの精神的衝撃と、損害を被るのか。

 想像したであろうキャスパリーグは、にたりと笑った。

 刹那、ズドンッ! と雷鳴が如く音を鳴らし、キャスパリーグは三百メートル以上離れていた壁の基礎部分までひとっ跳び。着地の衝撃は爆音と地震を生じるほどの大きさだったが、キャスパリーグからすれば大したものではない。平然と歩き出し、壁へと近付く。そして触れられる位置まで歩み寄ると壁に手を伸ばし、

「兄さんっ!」

 妨げるように、彼は()()()()

「……よく、俺が此処に来ると分かったな」

 キャスパリーグは構えていた拳を下ろすと、執着のない動きで自らの背後へと振り返る。

 そこに立つのが『人の姿』をした自分の妹だと分かっても彼は一切の動揺を見せず、彼の妹である猫少女も、自らの髪を掻き上げ、髪が含んだ雨水を絞るだけ。猫少女は『体毛』で隠れている胸と股以外の肌を露出し、全身を濡らす大雨の中で兄と向き合っていた。

「花中が、教えてくれたから」

「かなか? ……ああ、この前一緒に居た人間か。警告をしたのに逃げず、それどころか居場所まで当てられるか……あの場で始末出来なかったのが、まさかここまでの痛手になるとはな。全く、人間の中でも特に忌々しい」

「それだけ、生きるのに必死なんだよ」

 猫少女がそう言うと、キャスパリーグの身体がピクリと動く。

「ねぇ、もう止めようよ。こんな事したって、何も変わらない。それどころか、もっと酷い事になるかも知れない……だって、兄さんが」

「何故お前はそう平静でいられるッ!」

 妹の言葉を遮る怒号。

 猫少女は後退りするも、キャスパリーグの怒りは収まらない。眼は血走り、歯茎をむき出しにするほどに食い縛り、全身が今にも弾けそうなほど震える。

 最早嫌悪では済まない、敵を見つけ出したような殺意に彼は塗れていた。

「こんな事をしても変わらない? もっと酷い事になる? ああそうだな、確かにそうかも知れんな! 人間は俺達の事なんて玩具としか思っちゃいない! 玩具が何を言ったところで聞く訳がないし、言う事を聞かないと思ったらさっさと捨てようとするよなぁ!?」

「ち、ちが……そうじゃないの!」

「何が違う!? 飽きたから捨てる! 邪魔だから排除する! それが人間だ! お前の知り合った人間がお前を捨てないのは、単にお前に怯えているだけだ!」

「か、花中も加奈子も晴海も違う! だって、みんな……」

「そうだ、力があれば人間にも理解させられる。自分達が俺達に何をしてきたか、どんな方法でしか償えないかを分からせられる! いいや、分からせねばならない! 全てが自分達の思い通りになると考えているあの傲慢で醜く醜悪な生き物を、殺して、殺し尽くして、それで俺達がどれだけ……!」

 猫少女の話には耳も貸さず、キャスパリーグは憎悪の言葉を叫び続ける。叫ぶほどに……その姿が、歪んでいく。

 全身からベキベキと音が鳴る。瞼が裂けて内部の巨大な眼球を覗かせる。首は屈強な腕よりも太くなり、指がぶくぶくと膨れ上がり、足がひしゃげ――――

 しかし不意に、ギチギチと絞めつけるような音を鳴らしながら全体が萎み、キャスパリーグは元の体型へと戻った。

「……ふぅ。やれやれ、俺もまだ甘いな。あんな安い挑発に乗って平静を失うとは」

「挑発なんかじゃ……」

「魂胆は分かっている。俺を、この壁から遠ざけたかったのだろう?」

 コンコンと、ノックするようにキャスパリーグが壁を叩くと、猫少女は声を詰まらせた。キャスパリーグは鼻息を鳴らし、手の甲を壁に付けたまま猫少女と向き合う。

「俺の目的はコイツの破壊だ。それだけで麓の人間達が大勢死ぬ。お前は俺を此処から引き離さないと、そもそも勝負すら始められない訳だ。勝ち負け以前に、俺達の力がぶつかれば余波だけで十分にこの壁を傷付けられるだろうからな」

「……本当に、人間を殺すつもりなの?」

「くどい」

 躊躇のない拒絶。

 猫少女は血管が浮き出るほど拳を握り締めたが、やがて瞼を閉じるのと共に小さなため息を一つ。拳から力を抜き、静かに開く。

 唯一力を抜かなかったのは眼差し。鋭く、例え肉親だろうと傷付けそうなほどの鋭利さをむき出しにしたそれを、彼女は実の兄に向けた。

「なら……兄さんは、あたし達の敵だ」

 そして両腕を広げ獣の如く構えを見せる猫少女。

 彼女を前にしたキャスパリーグは、素早く拳を握り締めるや壁の方へと()()()()()

 猫少女は目を見開き慌てて駆け出す。本来ならば、誰にも捉えきれない超速度のダッシュ。

 だが同種族の前では『平凡』な駆け足に過ぎず。

「ふんっ!」

 キャスパリーグは壁目掛け、躊躇なく拳を打ち込んだ!

 拳の振り方は小さく、小突くかのよう。だが、それで十分。周囲の雨粒が、地面に出来ていた水溜りが、圧倒的なエネルギーで浮き上がる。舞い上がった水滴は衝撃波に乗って吹き飛び、白濁としたドーム状の『色』が辺りに広がっていく。

 いや、水滴だけではない。殴り飛ばしたコンクリートすらも衝撃によって歪んでいた。

 頑強故に、コンクリートの柔軟性は乏しい。互いに支えあっていた数万トンのコンクリートは弾けるように四方八方へと崩れ落ち、破滅的な威力を伴って行く手にある全ての物を飲み込んでいく。こうなると素材が人工物というだけで土石崩れと変わらない。大地を抉り、木々をなぎ倒す。一瞬にして辺りは生命の息吹のが消え去った、地獄へと変貌してしまった。キャスパリーグと猫少女は素早く後退して巻き込まれなかったが、並みの生物であれば抗う事すら出来ずに飲み込まれ、すり潰されただろう。

「……ダメ、だった……」

 壊されてしまった壁を前にして、猫少女は愕然となる。

「な、にぃ……!?」

 しかし元凶であるキャスパリーグもまた、唖然としていた。

 確かに崩れ落ちたコンクリートの量は膨大であり、周囲の地形は圧倒的質量の濁流によって破壊された。恐るべき損害、人間側の被害は甚大だ。

 だが、その程度でしかない。

 被害は山の中に留まり、麓の町には欠片一つも届いていない。近くには人間の姿もなかったので、怪我人もいない。精々この壁の管理者が、人類の英知の喪失に頭を痛めるぐらいだ。先程まで見せていたキャスパリーグの殺意や、肉親の言葉すら通じない憎悪が求めるものとしては、あまりにもしょうもない。

 結果を目の当たりにし、キャスパリーグは茫然と立ち尽くす。顔から覇気は消え、ビー玉のように丸くした目玉で自らが作り上げたコンクリートの山を眺めるばかり。

「残念ねぇ。あと二時間早く行動を起こしていれば、そっちの勝ちだったのに」

 彼が我を取り戻したのは、艶やかながらも侮辱的な声が聞こえた後だった。ハッとしたキャスパリーグの顔はたちまち驚きと困惑、それらも上回るほどの憤怒に塗り変わる。

「何を……一体何をしたんだ、お前は!?」

 その怒りの顔と言葉を、彼が砕いたコンクリートの頂に立っていた、黒髪の喪服少女へと向けた。

 ざぁざぁと、雨は未だ強さを失わずに降り注いでいる。キャスパリーグも猫少女も全身がずぶ濡れとなっていたが、同じく雨をその身に浴びている黒髪の少女は湿り気すら帯びていない。代わりにシュゥゥと音を鳴らし、濛々と湯気を立ち昇らせている。

 尤もそれは不自然な姿ではなく、彼女……ミリオンからすれば、ごく普通の『雨対策』だったりするのだが。

 ミリオンは無感情な笑みを浮かべ、麓に居るキャスパリーグを見下ろす。キャスパリーグは歯噛みをしたが、それでもミリオンは態度を改めない。何の色もなく、ただただ笑顔に見える表情を浮かべるばかり。

「何がおかしい……!」

「別におかしい訳じゃないのだけどね。この表情は大切な人との約束で作ってるだけだし……まぁ、確かに滑稽だとは思うけど」

「滑稽だと!?」

「ええ。尤も、これをやったのは私じゃないし、考え付いたのもこの子なんだけどね」

 キャスパリーグが噛みついてきても何処吹く風、ミリオンは気にした様子もなくコンクリートの山の反対側、キャスパリーグからは見えない方へと手を伸ばし……一人の、制服姿の少女を引き上げる。

 引き上げられたのは、花中だった。

「貴様……!」

 キャスパリーグは殺意に滲んだ眼を向けてきたが、花中は一歩も引かず、その眼と向き合う。自分を一瞬でバラバラに出来る相手を前しているにも関わらず、そこに何時もの怯えた態度はない。

 あたかもそれは、お前など恐れていないと言わんばかり。キャスパリーグの神経を逆撫でするには十分な態度だった。

「お前達は一体何をしたんだ!? そこにあった筈の水は!?」

「……ここにあった、水は、全て、移動させました」

「移動、だと!? 馬鹿な、あり得ないっ!」

 花中の答えに、キャスパリーグはいよいよ動揺を隠せない。声を張り上げ、両腕を広げ、右往左往する感情のまま身体を落ち着きなく揺れ動かす。

 理解出来ない気持ちは、花中にもよく分かる。計画を考えたのは花中だったし、友達の力の強大さは分かっていたつもりだった。それでも正直、被害を軽減させるのが限度だと思っていた。『中身』を空にするなど、いくらなんでも無理だと考えていた。

「此処は『ダム』なんだぞ!」

 何しろキャスパリーグの言葉通り――――花中達が居るこの場所は、泥落山に建設されていたダムだったのだから。

 尤も、今では土が剥き出しとなった斜面と堆積した土砂だけが広がる、荒廃した谷間の様相を呈していたが。纏まった水は、幅一メートルにも満たない僅かな流れが数本ある程度だ。

 此処がほんの二時間ほど前まで『満水』状態だったと、一体誰が信じようか。

「確かに、ここは、ダムです。インターネットで、調べた、ところ、満水量は、一億トン。梅雨時で、連日の降雨があり、かつ今日の本降りで、満水状態だった、ようです。決壊すれば、甚大な被害が、出た、でしょう」

「っ!?」

 花中の語りを聞き、キャスパリーグが身体を強張らせる。咄嗟にわざとらしく口元を歪めて取り繕っていたが、表情には焦りが滲み出していた。

 即ち、花中の『考え』は正しかったという事。

 このダムの破壊こそが、キャスパリーグが計画していた復讐方法だったのだ。

 ――――初めて出会ったあの日に彼から提示された、三日という言葉の意味に囚われ過ぎていた。

 花中は最初、キャスパリーグが三日もの時間を掛け、復讐の準備をしているのだと思っていた。思っていた事がつい口から零れてしまったか、或いは惑わせるための虚言か。いずれにせよ何かしらの意図があると思っていた。だがなんて事はない……彼は単に、本当に三日目以降会えるかどうか分からなかっただけ。

 何しろその『三日』という言葉の根拠が、一昨日の天気予報なのだから。

 恐らくキャスパリーグは一度ダムを視察し、ほぼ満水になっているのを確認した。そして次の雨で再び満水になったダムを決壊させるつもりだったのだろう。一億トンもの水量が警報を出す暇もないほど唐突に、なんのコントロールもなく溢れ出すのだ。彼の目論見が成功していれば数万の人命が一夜にして失われる、史上最悪の水害となっ筈だ。

 それほど大規模かつ凄惨な計画でありながら、実行日時はお天道様のご機嫌次第とは。情報源は家電量販店に置いてあるテレビか、捨てられた新聞紙か。論理的思考を中心にしている花中にとって、そのような運任せで雑な発想は思考の範囲外。恐らく一人では思い付きもしなかったに違いない。

 どうにか気付けたのは、友達のお陰だ。加奈子と晴海が居なければ、どうにもならなかっただろう。加奈子がダムの見学に行くような物好きで、そこで見たダム穴や『山男っぽい大男』について話してくれなかったら、泥落山のダムとキャスパリーグが結びつかなかった。晴海が二日前の天気予報しか見ていなかったら、放課後に傘を持った花中に突撃してくる事も、二日前の天気予報を知る事も出来なかった。

 二人が居たから、花中はここまで考える事が出来た。今こうしてキャスパリーグと対峙出来ているのは、友達の輪が自分を導いてくれたからに他ならない。

 そして、無慈悲な暴力と立ち向かうための力も、ある。

「締め切りギリギリ、でしたけど、あなたの作戦は、読め、ました。そこで、このダムの水を、動かす事に、したのです」

「動かした……総重量、一億トンの水を、本当に……!?」

「はい。わたしの友達には、それが出来ます」

 背筋を伸ばし、凛とした態度で花中はキャスパリーグに告げる。コンクリートの山のてっぺんから、力の差を見せつけるように見下ろす。さながらそれは誇るように、お前など大したものではないと言わんばかりに。

 ……けれども花中の内心は、不協和音のように歪な高鳴り方をしていた。

 ダムの水を移動したのは事実。『彼女』がその能力を使い、見事一億トンもの水を移動させてみせた。それも準備時間を含めても三十分程度で。確かに今回は沸点を二十倍にしながら表面を通常の数百倍もの高密度状態にしつつ、常時表層に大量の水を流し続ける……という複雑な手間を掛けていない。とはいえ、まさか『あの時』の二百五十倍以上もの水を一気に操れるとは思いもしなかった。正に出鱈目な能力である。

 出来ればそれを誇示したい。あなたがどう足掻こうと、勝ち目なんてないのだと思い知らせたい。

 そうすれば、もしかしたら()()()()()()かも知れないから。

「で、でも、わたし達は、戦いになる事を、望んで、い、いません。ですから……どうしてあなたが、人間を憎んでいるのか、話してくれませんか? 話しても、何も変わらないかも、知れません、けど……でも、一緒に考えれば、もしかしたら良い案が、出るかも、知れません」

 そんな自らの希望を胸に、花中はキャスパリーグに話し合いを呼び掛ける。あくまでこちらは脅している側、自信は絶対に崩さず……話し合いたい、分かり合いたい……その気持ちを乗せる事は忘れずに。

 花中に呼び掛けられてすぐは、キャスパリーグの表情は苦々しく歪んでいた。それでも激昂したり感情のまま叫んだりしなかった辺りに彼の持つ聡明さが窺い知れる。苦悶や葛藤があるのは想定済み。花中は下手に煽らず、キャスパリーグの答えを待つ。

 しばしの間悔しそうにしていただけの彼だったが、不意に表情から力を抜いた。まるで、諦めたように。

「……状況は分かった。どうやら、俺の計画は頓挫したようだな」

 それからぼそりと呟いた言葉を聞いて、花中の顔に花が咲いた。

「! で、でしたら、あの、は、話を、してくれる、の、ですね!?」

 思わず身を乗り出し、花中はキャスパリーグの真意を確かめようとする。このまま穏健に事を運べれば、きっと……

 そう、期待していた。本心からそうなるのではと未来を信じた。

「ところで初めて会った時一緒に居た金髪の女の姿が見えないのだが、今は何処に居るのかな?」

 ――――この言葉を聞くまでは。

「……え、えっと……」

 思わず、花中は視線を逸らしてしまった。不味い、と気付くももう遅い。

 直後にキャスパリーグが口元を勝ち誇ったように吊り上がり、『作戦』の失敗が確定したのだから。

「あの金髪の女がダムの水を移動させたのだろう? 一昨日お前達の前から帰る時、糸のようなものを切ったが、アレはなんらかの液体で出来ていたようだった。恐らくアイツは、液体を操る能力を持っている……違うか?」

「う……そ、そうです。そうですけど、でも――――」

「成程、そのような能力があるのなら、ダムに貯まった水を移動させるのも可能に違いない。しかし一億トンの水を一気に川へと流せば、それは濁流となって川から溢れるだろう。かと言って今も雨が続く中で安全な放水量となれば、通常の放水と変わらない。それではダムの中には未だたっぷりと水が残っている筈だ。よって、水を川に流した訳ではない」

「そ、それが、なんだと、言うの、で、です、ですかっ!」

「強がるならせめて声の震えぐらい抑えたらどうだ? 水を移動させたとして、それは川には流せない。なら何処かに貯め込んでいる筈だ。例えば洞窟とか、地下水脈とかにな。問題は、そいつの能力の限界が何処にあるか、だ。いくら俺でも一億トンもの重量を易々とは動かせない。俺とあの女は別種の生物だろうから単純な比較は出来ないとしても、一億トンもの水を制御するとなれば、相当のエネルギーと精神を消耗する筈だ。相当無理をしているか、或いは何処かで『手抜き』をしなければ成り立たん。例えば、そいつは今動けないんじゃないか? 一億トンの水を何処かに移動させたのは良いが、水の制御をするためにその場から動けない。だから此処に来ていないんじゃないか?」

「ち、違います! ただ、その……あ、あの子は、ちょっと、人見知りで」

「違うと言うならそいつを此処に呼び出せ。それが出来るなら、とてもじゃないがこちらに勝ち目はない。望み通りお前と話をしようじゃないか」

「……っ」

 煽るように求めてきたキャスパリーグに対し、花中にはもう苦し紛れの反論すらも思い浮かばない。無言は肯定と化し、キャスパリーグの考えを支持してしまう。

「で、でも、ダムの水が、ない以上、あなたの復讐は……!」

 それでも最後まで希望を捨てず花中はキャスパリーグを止めようとし、

「ならば、プランBに移るまでだ」

 それすらも、あっさりと打ち破られてしまった。

 瞬間、巨大な爆音が花中の身体を殴り飛ばす!

 それは本当に物理的な衝撃を伴い、花中の身体を突き上げた。湿り気などお構いなしに粉塵が舞い上がり花中達を飲み込むが、目に入る砂など構っていられない。衝撃波で()()()()お腹を両手で押さえ、花中はその場で蹲ってしまう。

「げほっ!? けほっ、けほっ!」

「はなちゃん! 大丈夫!?」

 咳き込む花中に、すかさずミリオンが駆け寄ってくる。全身がざわりと揺らめいたのは、全身を構成する何百兆もの個体の一部を分離したからか。

「……臓器や血管の損傷はないみたいね。脈拍の乱れや心臓の異常な収縮もなし、と。脳まではまだ侵入出来ていないけど、これなら心配する必要はなさそうね」

 そしてその分離した個体を花中の体内に侵入させ、生命活動に支障がないか調べ上げたようである。ダイレクトに身体の内側をくまなく調べた上での診断、ここまで診察結果に説得力のある無免許医は他に居ないだろう。尤も、花中よりもミリオンの方が安堵している様子だったが。

 それより、怪我がないのなら何時までも蹲ってはいられない。

「きゃ、キャスパリーグ、さんは……?」

「あっち」

 花中が尋ねると、ミリオンはすっと自分達が居る崩落済みダムのすぐ隣、木々が生い茂っている尾根を指差す。

 そこにキャスパリーグが居るという根拠を、説明してもらうまでもなかった。木が次々とリアルタイムで倒れていき、一筋の道を作っていく。その道の上空には白い靄のようなものがヴェールのように浮かび、消えていく。

 キャスパリーグの言葉と現状が頭の中でミックスされ、彼が何をしようとしているのか即座に導き出される。その結論は最悪の一言、ダム決壊よりかはマシだがプランB(次善の策)として相応しい。

 止めなければ町の人々に甚大な被害をもたらすだろうが、しかし花中達にキャスパリーグの後を追えるような速さはない。ほんの一瞬考え込むのも茫然と立ち尽くしていたのと変わらない。もう、自分達が止めるには全てが遅い。

 やがて木々が倒れて出来た道が尾根の頂上まで伸びきった、刹那――――

 二度目の爆音が、花中達を襲った。

 

 

 

 世界からすれば、それは一秒に満たない刹那の瞬間。

 しかしキャスパリーグにとって、その刹那はとても長い……今までで一番長い一秒だった。

 彼が今駆け登っている尾根の高さは約三百メートル。山の傾きが上級者向けスキーコースに多いとされる三十度と仮定しても、三平方の定理から計算して、頂上まで六百メートルの道のりとなる。いくら崖の多い泥落山でも、トータルで計算すれば数値上そこまでの傾斜とはならない。恐らく頂上まで七百メートルは歩かねばならない。

 キャスパリーグはその長い道のりを、一秒未満で登り切った。出した速さは音速の十倍以上。大地を抉り、木々を吹き飛ばし、余波が空気を白く色付くほどに圧縮する。彼が通った道のりは、崩れたダム現場からも丸見えとなっているだろう。

 ここまで急がねばならぬほど、状況はキャスパリーグにとって好ましくなかった。

 駆け出す寸前まで威圧的に振る舞っていたが、内心彼の心中は焦りに満ちていた。それはダム破壊の目論見が打ち破られたから……ではない。

 あの『黒髪の女』が、自分の前に立ち塞がったからだ。

 一昨日初めて出会った時から感じていたが、黒髪の女は格が違う。『金髪の女』は倒せると思えたが、黒髪の方にはそのビジョンが全く思い描けなかった。それどころか自らの死が頭を過ぎったほどだ。

 『アレ』には絶対に勝てない。相性の問題もあるかも知れないが、持っている力の差があまりにも大き過ぎる。まさかとは思うが、本能の訴えを疑う事など出来ない。あの黒髪が本気で力を振るえば、間違いなく自分は殺される。

 それでも復讐を完遂するには――――向こうがこちらに追いつく前にやり遂げるしかない。

 幸いにも黒髪の女は『力』こそ圧倒的だが、今までの反応からして速さでは自分の方が上回っている。先手はこちらが打てる……その些細で、絶対的なアドバンテージを使うしかない。

 最後の希望に縋り、キャスパリーグは山頂で足を止める。ブレーキを掛けた余波で周囲の木々が同心円状に倒れ、視界が一気に開ける。

 麓の方角を見れば、キャスパリーグの眼に雨雲程度では失せない地上の星空が跳び込んできた。

 それは町の明かりだった。町に暮らす人間の総数、凡そ十三万。その十三万の暮らしによって灯された明かりは、地平線の先まで続いている。地上を埋め尽くし、空の星々をも掻き消すほどの人の営み。

 一瞬……本当に僅かな時間ではあるが、頂上に達したキャスパリーグはその場で夜景を眺めた。表情は硬く、何を思っていたかを隠すかのよう。

 尤も、表情はすぐに変貌し――――憎悪と狂乱の笑みへと変わる。

 キャスパリーグはすぐさま拳を振り上げた。軽く振るえばそれだけで家を砕き、ちょっと構えて放てばダムをも決壊させる拳。

 その拳を振り下ろすための腕に、何本も太い血管が浮かび上がる。筋肉がギチギチと音を鳴らしながら膨れ上がり、皮膚が赤らむや全身を濡らしていた雨粒が肉を焼くような音と共に湯気と化す。未だ雨は降っていたが、少しずつキャスパリーグの身体は乾いていく。

 拳と腕に込められた力は圧倒的。身体から放たれる熱量が大気を震わせ、遠く離れた獣達が慄き逃げていく。黒髪の女の姿は何処にもない。

 そしてキャスパリーグが振り上げた拳を放つ事に躊躇はなく。

「これで、終わりだ」

 音を立てる事のない速さで、彼は自らの拳を地面に叩きつけた。

 瞬間、巨大なエネルギーが山を伝わる。

 爆音は一回。大気の震えは音速を凌駕し、山を駆け下りる。逃げ出した獣達は憐れにも襲い掛かる衝撃波によって吹き飛ばされ、身動きの取れない木々は幹のど真ん中からへし折られる。まるでそこに爆弾でも使ったような……否、核兵器でも使わなければ起きないだろう破壊が、山中に広がった。

 当然破壊の中心地であるキャスパリーグの周りは無残な状況。木々は残さず真ん中から、キャスパリーグから逃げるように折れており――――

「……何……っ!?」

 顔を上げたキャスパリーグは、表情を強張らせた。

 見渡す限りどの木も幹のど真ん中から折れ、倒れている。動物達は衝撃波によって根こそぎ吹き飛ばされた。命の息吹は欠片も残っていない。それからふと、雨が止む。空一面に広がっていた雨雲に突如として穴が開き、夜空が顔を覗かせていた。キャスパリーグの振るった拳の衝撃波が今、空の彼方まで届いたのだ。破滅的な一撃を放った証拠はいくらでもある。

 なのに。

 どうして、殴った地面に変化がない?

 どうして植物は皆根こそぎ吹き飛ばされる事なく折れるだけで、地面にはうっすらとしたクレーターすら出来上がらないのか?

「はーい残念でしたねぇー」

 戸惑うキャスパリーグに、追い打ちを掛けるように何処からか声がする。挑発的で、上から目線で……意地の悪そうな、女の声。

 キャスパリーグはすぐに辺りを見渡したが、声の主らしき姿は何処にもない。それどころか声の方角もよく分からない。猫は宵闇の中を生きる動物であり、優れた聴力も備えている。音が何処から聞えてくるのか分からないなんて、あり得ない。

「だ、誰だ!? 何処に居る!」

 あり得ない事態の積み重ねに耐え切れず、ついにキャスパリーグは虚空に向けて問い質す。

 何処からか聞こえてくる声の最初の返答は、抑える事に必死な笑い声だった。

「くくくくくくく……花中さんの言っていた通りですねぇ。ダムの決壊が上手くいかなかったらきっとこの場所にやってくるって」

「……っ!?」

「麓に町が隣接していて且つダムの近くにあるのがこの尾根。連日の降雨でぐっしょりと濡れている山は大きな刺激を受ければ容易に崩落し土砂となって町に流れ込む。ダムが決壊した時ほどの被害もインパクトもないけれど一先ず復讐は遂げられるので計画の予備として考えにある筈……何もかも花中さんの思い通りです」

「お前は、まさかあの時の……!?」

 キャスパリーグが勘付いた、それを見計らったかのように地面の一部が突如盛り上がる。土の盛り上がりは裂けるように開き、中から出てきたのは透明な、ゲル状の何か。ゲルは芽吹いた植物の如く、真っ直ぐに伸びてくる。

 ついには五十センチほどまで伸びるとゲル状の何かはそこで一回ぶるりと震え、蠢くように形を変え始めた。手足が伸び、服が色付き、顔が浮かび上がる。

 やがて蠢きが止まった時にはもう、ゲル状の何かはすっかり人の姿に。

「ご名答。お久しぶりですね♪」

 ご機嫌ぶりを隠しもせずに彼女――――フィアは、キャスパリーグの前に姿を現した。

 ……尤も身長五十センチ程度で三頭身の、人形のようにデフォルメされた姿だったが。出来上がった顔を見ると目はビー玉を嵌め込んだようで、口の部分は単に切れ込みが入っているだけと、造形はかなり安っぽい。服装もシンプルなワンピースで、適当さをひしひしと感じる。

 それでもフィアが突如現れた事に違いはない。キャスパリーグは僅かに後退りし、敵意をむき出しにした獣のように身構えた。

「その姿は……いや、それよりどうして貴様が此処に!? お前はダムの水を操っている筈では……」

「これでも音を聞き取るのは得意なものでしてねあなたと花中さんの会話はしっかり聞かせてもらいました。その上で教えてあげましょう。ええあなたの予想通りです。私は此処から動けません」

「此処から――――っ!?」

 フィアの言葉に、キャスパリーグは顔を一気に青くする。足元を見て、ぐしゃり、ぐしゃりと地面を踏み鳴らす。

 もう雨は止んでいるのに、『湿った大地』がずるりと動いた。

「そもそも一億トンの水一億トンの水って何度か言っていましたけどそれの『体積』が如何ほどになるのかご存じですか? 一億立方メートル即ち一キロメートル×一キロメートル×百メートルもの物体になるんですよ? どんな大きさの空洞ならこんなものが収まるというのですかというかいくら私でもこんな大量の水を剥き身で固定するなんて出来ませんって最低でも形を支える程度の『入れ物』がないと無理です」

「入れ物……まさか!?」

「うふふ。その通り」

 上機嫌なフィアは舞うように、小さな身体でくるりと回る。

「この山全てが『入れ物』なのですよ」

 それから両腕を広げ、人形染みた顔をにっこりと微笑ませた。

「……緑のダムか……」

「正確にはちょっと違いますねぇ。この山木は多いくせに腐葉土の厚みが全然ないんですよ。地下水の影響で何時も湿っているから雨が降ると水を吸いきれず表面を流れちゃうのでしょうね。お陰で押し込もうにもそんなに入らずいらぬ手間を取られましたよ」

「いらぬ手間だと?」

「この尾根一帯の土壌を耕してスポンジ状に改造するという手間です」

「!? な……に……?!」

「いやーもうこっちの方が実際に水を動かすよりも時間が掛かっちゃいましたよ。一時間ぐらいでしょうか。いくら単位面積当たりの量は少しで済むとはいえ流石に山全体を耕すとなるとそれなりに大量の水を操る必要がありますからもう大変ですよ。正直細々とした作業は苦手ですし集中しないといけないわ加減しないといけないわで」

 苦労を自慢するように語るフィアだったが、目を丸くしているキャスパリーグの耳には殆ど届いていない。彼の脳内を巡るのは、その自慢話の前に平然と語った一言ばかり。

 水を操り土壌を耕した……それは直接的な戦闘能力ではなく、器用さの証明である。だがその範囲が山全体となれば話は別。尾根とはいえ山一つの環境をたった『一匹』、それも三十分かそこらで作り変えるなど並の生物には不可能な所業だ。

 無論拳一発で山をも崩せるキャスパリーグも十分に出鱈目である。山全体を破壊するだけなら、フィアよりも早く済ませられるだろう。力の方向性が違うだけで、フィアとキャスパリーグの実力は互角と言っていい。

 そう、互角なのだ。故にキャスパリーグは焦った。

 『黒髪の女』と違いフィアになら勝てると考えていたが、それは決して圧倒的な勝利という意味ではない。本気で戦っても互角の戦いとなり、勝つ事も、負ける事もあり得る拮抗の力関係。どちらがより相手の情報を握っているか、環境がどちらにとって有利か、どちらが幸運だったか……それだけで勝敗が入れ替わる状態だ。

 なのにどうだ?

 環境――――雨とダムの水によってあちらは莫大な水を制御下に置き、準備万端。

 情報――――同一の能力を持つ妹が向こうに味方している。たっぷり情報漏洩している筈。

 運勢――――折角の計画が二つも潰されている。間違いなく最悪だ。

 何もかもが、相手の有利を示していた。

「っ!」

 このままでは勝ち目がない。そう判断したキャスパリーグは瞬時に踵を返した、

「くぉっ!?」

 直後キャスパリーグの口から出てきたのは驚愕の一声。

 誰の眼にも見えない超絶のスピードで逸らした彼の顔の真横に、『半透明な槍』が伸びていた。

「あー外しましたか。やっぱり後手のカウンターだとそちらの反応速度には追いつけませんかねー」

 見えていなかっただろうキャスパリーグの動きを前にし、フィアは不愉快そうな言葉を早口で捲し立てる。けれども彼女の顔に不快さはない……そもそも顔がない。どろりと全身を崩し、水を掛けられた泥人形のように地面に溶けていく。

 代わりに大地から、泥と石を含み汚物染みた色合いとなっている巨大な触手が何本も何本も、キャスパリーグを取り囲むように生えてくる。

「まぁ牽制にはなるでしょうから良しとしますか。ああ一応言っておきますが逃げようなんて思わない方が良いですよ。あなたの周辺の地面は私が操る水によって『ブロック化』してあり踏むと自動的に何処かのブロックがあなた目指して飛び出すよう仕掛けを施しておきましたから下手に動くとその顔面に穴が開きますよ。ついでに周りには特製の『糸』があるので下手に動くと首が飛ぶのでそのつもりで」

 フィアは未だ語りかける。もう、その姿は何処にもない。

 声は四方八方、キャスパリーグを取り囲むように、山中から響いていた。

「それにしてもあなたの能力は凄まじい。単純に強力なパワーだからこそどんな小細工も能力も正面から粉砕出来る。相手がどんな小難しい能力を持っていようと殴って粉砕。さぞかし気分が良かったでしょう」

「……………」

「ところで疑問なんですけど単純に強いのが取り柄の方って自分より強い相手が現れたらどうなるのでしょうね?」

 そしてフィアが嫌味ったらしく尋ねた、途端大地から生えていた無数の触手と『透明』な気配が一斉にキャスパリーグの方を振り向き、

「そんな訳で『ただの生き物』が『大自然(やま)』を相手にしてどれだけ奮闘出来るかちょっと実験してみましょうか♪」

 

 

 

 ズドンッ、と、身体を芯から突き上げるような揺れが尾根の方から伝わってくる。

 その振動の重さを感じながら、瓦礫の上に腰掛けている花中は尾根のてっぺんを見つめていた。

 揺れはこれで二度目。一度目はキャスパリーグが崖崩れを起こそうとして大地を叩いたものだろう。そして二回目の振動は……

「流石はなちゃん。問答の結果だけでなく行く先まで予想通りね」

「……はい」

 『予想通り』の展開で上機嫌なミリオンに、花中は俯いたまま頷く。

 ズドン、ズドンと、揺れが連続的に起き始める。フィアとキャスパリーグの戦いの余波に違いなく、ここまでは想定通り。残る問題は勝敗だが、フィア曰く「ミリオンの時以上に準備万端」。自信があったようだし、花中としても友達(フィア)の勝利を信じたい。

 だけど、望んでいたのはこんな結果ではなかった。

 猫少女が不安げな眼差しで『兄』の居場所を見つめている、こんな結果では……

「猫さん……本当に、申し訳、ないです」

 花中は立ち上がり、少し離れた位置で山を見ている猫少女に向けて頭を下げる。

 圧倒的な力と復讐心を抱くキャスパリーグを止めるには、その息の根を止めるのが最も確実かつ安全だ。出来るだけ殺さないようにとフィアには頼んだが、彼女が頼みを聞いてくれるとは限らない。いや、自分以外の命に殆ど価値を感じないフィアの事、『仕方ない』と判断するハードルは花中の想像以上に低いだろう。キャスパリーグの生存は保障出来ない。

 もしも、を語ったところで意味はない。だがそれでも、自分にもっと交渉術があったなら、もっと堂々たる風格で威圧していたなら……こんな結果にはならなかったかも知れない。

 全てはこの結末を予測していながら回避出来なかった、自分の責任。

 だから責められても仕方ないのに、責めてくれたら受け止めるのに。

「謝らないでよ。こうなったのも、兄さんが、そういう決断をしたからだし」

 どうして猫少女は涙一つ見せず、こちらを励ますように笑っていられるのか。

 どうして、その震える拳を、手近な何かにぶつけようとしないのか。

 ――――こんな結果で、本当に良いのか。

「……本当に、良いの、ですか? だって、あの人は、あなたの」

 気が付けば花中は淀む想いを言葉にしていて、

「だったらどうしろって言うの!?」

 ぶつけられた叫びに、思わず息を飲んだ。

「あたしだって嫌だよ! だって、兄さんはあたしのたった一人の家族で、ずっとあたしを守ってくれて……でもどうすればいいの!? 兄さんはあたしの話を聞いてくれない、あたしが見てきたものなんて信じないのに!」

「猫さん……」

「あたしだって嫌だよ……でも、どうしたら……どうしたら……!」

 膝を付き、猫少女は両手で顔を覆って嗚咽を漏らす。

 こんなのが、次善の結末?

 一人の女の子を泣かせ、怨みを持った者に安らぎを与えぬまま殺し、それでも人間が誰も犠牲にならなかったからベターな終わり方? どうしてこんな事になったのか、キャスパリーグの恨みとはなんなのか分からず仕舞いでも、人間の勝利で終わるのだから問題なし?

 だから、このまま立ち止っていても良い?

「……そんな訳、ない」

「はなちゃん?」

 独りごちた言葉にミリオンが反応したが、花中は答えず歩き出す。向かうは、蹲ったままの猫少女。

 花中は彼女の傍でしゃがみ込み、そっと、その肩を掴んだ。猫少女は顔を上げ、潤んだ瞳で花中を茫然と見つめる。

「かな、か……?」

「猫さん、教えてください。どうして、あなたのお兄さんが、人間に復讐を、しようとしているの、か。その、理由を」

 花中の言葉に、猫少女は驚いたように目を見開く。それから逃げるように目線を逸らし……伏した後、小さなため息を漏らした。

「やっぱり、隠してるってばれてたかぁ」

「フィアちゃんは、信じていた、みたいです、けど。わたしも、言いたく、ない、の、なら、それで良いと、思って、いました。無理に、話を、聞かなく、ても、なんとか、なるって」

「……………」

「でも、やっぱり、知らないままじゃ、ダメです。『わたし達』への復讐が、目的なら、それを知らないままでいる、なんて、逃げているのと、変わらない。まして、何も知らないまま、危ないから、その命を奪おう、なんて……虫が、良過ぎます」

 考え方の違いはあるかもしれない。全てを話してもらった上で、やっぱり命を奪う以外に方法がないと突き付けられるかも知れない。むしろあまりの理不尽さと不条理さで、こちらが相手に憎悪を覚えるかも知れない。

 だけど、知らなければ何も変わらない。

 立ち止っていれば安全だ。全ての過去を眺めているのは楽だ。しかし過去を眺めているだけでは何も変わらない。前に進まなければ、きっとまた何時か『同じ光景』を目の当たりにする。

 今と同じ景色をまた見るなんて、そんなのはごめんだ。どうせ見るなら、もっと明るくて、綺麗で……みんなが笑顔になれるものが良いに決まってる!

「猫さん、教えて、ください。あなたのお兄さんは、どうして、人間を、恨むの、ですか? 人間は、お兄さんに、何を、してしまったのですか?」

「花中……」

 真っ直ぐ、臆さず花中が訴えると、猫少女の顔に笑みが戻る。

 ただしそれは憔悴しきった、力ない笑み。まるで、何かを諦めたよう。

 開いた口が紡ぐ言葉も、弱々しくなっていた。

「……本当はね、言わなきゃって、思ってた。兄さんが何をしようとしているかあたしには分からなかったけど、でも花中達はあたしよりも頭良さそうだから、あたしが気付かなかった事も分かるかも知れない。それで、もしかしたら兄さんを止められるんじゃないかって、期待もしていた。でも、言えなかった。それを言ったら……あたしがやっぱり兄さんの仲間なんじゃないかって疑われるかも知れない、あたしを信じてくれた人が信じてくれなくなるかも知れないって思ったら、怖くなって……」

「怖くなった、ねぇ。何かやましい事でもあるのかしら?」

「ミリオンさんっ!」

「良いの、花中。ミリオンの言う通りだから」

 煽るような言い方に、それはないだろうと花中はミリオンを叱責する。が、猫少女に宥められてしまい、渋々でも矛を収めないといけなくなる。

 それに、ミリオンの言う通り……指摘は正しいという言葉の意味。今はそれを考えなければならない。

「……何が、あったのですか。お兄さんに……いえ、あなた達に」

 花中は、言葉で猫少女の背中を押す。

 猫少女は深呼吸をするように深く、長く息を吸い込む。今この時、喉奥まで来ている筈の言葉を押し留めるかのように。

 それでも息はやがて止まり、そして、吐き出された。

「殺されたの。親と兄弟達を、人間に」

 『人間』の胸に突き刺さる、この言葉と共に――――




なんと、ユニークアクセス数が1000を超えていました。
こんなにも読んでもらえて、大変嬉しく思っています。
読んでくれた人に楽しんでもらえるお話が書けるよう、これからも努力していきます。今後ともよろしくお願いします。

さて、次回はバトル回です。
……能力バトルですよ?(自信なさげ)

そんな疑惑の【孤独な猫達9】は8/13投稿予定です。


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孤独な猫達9

 キャスパリーグの力は圧倒的だ。

 一度大地を蹴れば、その身はどんな生物にも捉えられない神速へと達する。腕を振るえば余波だけで並の生物は粉砕され、直撃を受ければ山をも砕ける。肉体はそんな桁違いの力を受け止めるだけの頑強さを誇り、感覚は自らのスピードに対応出来るほど鋭敏。純粋故に、シンプルに全てを凌駕する。

 どんな敵を前にしようと、本気を出すまでもない。彼が撫でれば、それだけで獅子すらその首をもがれる。

 どんな脅威が迫ろうと、向き合う必要もない。彼が適当に腕を振れば、巨像すらボロ雑巾と化す。

 その彼が――――正面を見据え、咆哮を上げていた。

「ぐ、ぬぅおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 身を捩りながら、キャスパリーグは腕を引っ込める。そこに何があるのか、彼の眼にも見えない。だが、伸ばしていた腕の皮が一枚()()()のを、確かに感じた。腕を引っ込めなければ、そのまま腕の肉を引き裂かれ、切断されていただろう。

 だが、引っ込めただけではまだ終わらない。見えない『何か』は、キャスパリーグ目掛けて飛んできているのだから。

 キャスパリーグは引っ込めた腕をすかさず振り上げ、『何か』に向けて力いっぱい下ろす。超絶の速さで振り下ろされた手刀は『何か』を容赦なく叩き斬った

 瞬間、爆発するように『何か』は弾け、大量の水が辺りに撒き散らされる!

 キャスパリーグに迫っていたのは、無色透明な『糸』だった。大量の水が目視不可能な細さまで圧縮され、土中の微細な鉱物を含んだ状態で高速流動……電動ノコギリの刃のように、触れた物を切断する凶器。肉を切り裂き、対象を容赦なく切断する残虐な攻撃方法だ。

 それを撃退したキャスパリーグであったが、彼の咆哮はまだ終わらない。これまでの動きは全て刹那の出来事。

 その一瞬が終われば、撒き散らされた水を切り裂いて無数の『糸』が迫ってくる!

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」

 振り上げ、振り下ろし、捩じり、叩き潰す――――ありとあらゆる動きを用い、キャスパリーグは迫りくる大量の『糸』を打ち破る。瞬きする間に何十本もの『糸』が押し寄せてきたが、キャスパリーグはその全てを迎撃。『糸』は切られた瞬間爆散し、キャスパリーグの周りは荒れ狂う海原の如く大量の水で溢れていた。

 それが益々彼を窮地に追いやる。

 まき散らされた水の幕の中から、『糸』よりも巨大で、殴りかかるように振るわれる触手が現れたのだ。こちらも『糸』と同じく数十本単位で。触手に肉を切るような力はないが、しかし当たれば打撃を受けるのみならず、身体に纏わりついて動きを鈍らせる。そんな状態では満足に『糸』を迎撃出来ない。触手もまた打ち払わねばならぬ『攻撃』だ。

 押し寄せる無数の『糸』と触手。いくら神速に達しようとも拳は二つしかなく、押し寄せてくる大軍を蹴散らすには手数が足りない。『糸』と触手は途切れる事なく襲い掛かり、少しずつだがキャスパリーグとの距離を詰めてくる。

 ついには肘を身体に付けねば正確に手刀を打ち込めないほど『糸』と触手が迫り、

「こ、んのおっ!」

 彼は、今まで使っていなかった足を振り上げた。

 次の瞬間、周囲に暴風が吹き荒れる! 風は刃の如く『糸』を切り落とし、触手を横一線に真っ二つ。それらを粉砕しても尚暴風の勢いは収まらず、切断されたりへし折られたりで倒れていた無数の巨木がごろんごろんと音を立てて転がっていく。拳に比べれば大振りな一撃であるが、一瞬にして自分を取り囲む全てを粉砕してみせた。

 無論押し寄せる『糸』や触手がこれで途切れた訳ではない。既に地面からは新たに芽吹いた触手が、そして見えない『殺意』が現れている。だが、体勢を立て直すのに足る広さを確保し、猶予ももぎ取った。キャスパリーグの脚力と、そこから生じる速度を持ってすれば『糸』と触手の包囲網からなら脱出出来るだろう。

 『糸』と触手だけ、なら。

 一瞬……キャスパリーグにとっても一瞬、彼は顔を顰める。振り上げた足を中々下ろさない。しかし片足立ちの状態では体幹が不安定で身体に力が入らず、身動きだって鈍くなる。

 キャスパリーグは覚悟を決めるように、確かに素早いが、蹴り上げた時と比べれば明らかに迷いながら下ろし――――

 その足が地面に着いた次の瞬間、地面から何本もの半透明な槍が、キャスパリーグを貫かんと凄まじい速度で生えてくる!

 キャスパリーグはその槍を素早い身のこなしで躱すが、脇の皮が一部破れ僅かに赤らむ。血液こそ滴らないが、肉が透けて見える程度には深い傷跡。避けきれたとは言い難く、キャスパリーグの顔に皺が寄る。

 この槍が曲者だった。

 踏みつけた振動を感知して、槍は地面から生えてくる。しかも踏みつけた衝撃を利用しているのか、強く踏めば踏むほどに槍は高速で飛び出してくる。当然ながら素早く逃げるには力いっぱい地面を蹴るしかなく、よって素早く移動しようとすれば凄まじい速さの槍を避けながら進むしかない。

 不可視の『糸』による直前まで感知不可能な切断攻撃、触手による大質量打撃攻撃、自動的に出現する槍によるカウンター攻撃……一つ一つに対応する事は大して難しくはないが、それぞれが同時に迫ってくる事で採れる手が減り、処理しなければならない情報量が一気に増大している。今はまだ対応可能であるが、攻撃が苛烈さを増したら、体力の消耗が大きくなったら……

「はんふんふふんふんふんふーんはんふんふふんふんふんふーん」

 そんなキャスパリーグの懸念を嘲笑うように、辺りに上機嫌な鼻歌が響き渡る。

 ただでさえ命懸けの攻防の真っ最中――――ましてや『敵』の歌となれば、キャスパリーグが表情を顰めるのも当然。しかし、その顰め面で睨み付けてやる事も敵わない。

 何しろ相手はこの辺り一帯、キャスパリーグが奮戦した結果すっかり禿山と化した山頂付近には居ないのだから。

「おのれぇ……!」

「いやーミリオンの時と違って楽なものですぶっちゃけあの時一番大変だったのは沸点を二十倍に上げる事でしたからしかも結局蒸発……あれ? 分解でしたっけ? まぁなんかそんな感じになってしまったから循環もさせないといけませんでしたし。でも今回は適当に振り回せば良いですもんねー」

 苦悶を隠せないでいるキャスパリーグと違い、フィアの声には呑気な、余裕というよりもだらけた意思が露骨に表に出ている。自分の情報をペラペラと喋り、最早勝利を確信している。

 フィアのその認識は正しいだろう。必死になって攻撃を避けるだけのキャスパリーグと、だらだらしつつも一方的に攻撃しているフィア。このままの戦いを続けた場合、どちらが勝つかは明白だ。

 防ぐための力を僅かでも攻めに回せば、その分身体に傷を負う事になるだろうが――――このままではジリ貧な以上止むを得ない。守りから『攻め』に転じる事を決意したキャスパリーグの脳裏に、二つの選択肢が過ぎる。

 即ち肉を絶って骨を断つか、それとも肉を絶って逃げ出すか。

 望ましいのはダメージは覚悟の上でフィアを再起不能にし、能力を停止させてこの山に溜め込んでいるダムの水を解放させる、『肉を絶って骨を断つ』事だが……肝心のフィアが何処に居るのか分からない。近くには居ないようだが、遥か遠方からこちらを観測しているのか、それとも地中にでも潜んでいるのか。安全性や発見のし辛さ、そして攻撃の『雑さ』を考慮すれば、恐らく地下に潜んでいるのだろう。これは厄介だ。一体地下のどの辺りに居るのかなんて分からないし、探すために穴を掘っても途中で逃げられるのがオチ。そもそも『糸』や触手や槍が迫る中で、そんな悠長な事をしている余裕はない。

 やはり『山そのもの』と化した相手を『ただの動物』が倒すのは不可能。この場は一旦離れ、機を窺うか、諦めて別の町に移動するしかない。悔しいが、上手く逃げ果せたなら連中はもうこちらの逃亡先を知る事は出来ない。そうなれば後は好き放題出来る。

 目的はあくまで『人間』への復讐。生まれ故郷にして全ての始まりであるこの町にこだわらずとも、目的は達せられる。

「……っ」

 『現実的』な考えが頭を過ぎった、その一瞬キャスパリーグは表情を顰める。しかしその顰め面はすぐに終わり、戻ってきたのは戦いが始まる以前の、獰猛な捕食者の面構え。

 キャスパリーグの表情が変化したが、フィアの攻撃は特に変わりなし。地中に居るとすれば彼の細かな表情の変化など見える筈もない。

 気取られる事無くキャスパリーグはすっと息を吸い――――そして、『止まった』。

 迫りくる攻撃を迎撃するために、素早く振り上げていた腕の動きをキャスパリーグは止めた。代わりに片腕を大きく、身体を限界まで捩じって最大の振り幅を生み出す。

 無論、その間『糸』も水触手も迫りくる。特に『糸』は見えない分、何時自分に到達するか分からない。

 それでもキャスパリーグは腕を振り下ろさず、可能な限り身体を捩じり続け――――

 背中の皮がぷつりと切れた、

「オオラアァッ!」

 刹那、拳を正面目掛けて打ち放つ!

 それは動作だけで見れば、ただのパンチ。

 だがキャスパリーグが渾身の力を込めた事により、拳の速度は――――音速の五十倍を超えていた。

 拳の進行方向にあった大気は瞬時に圧縮され、脇から空気が流れ込むのが間に合わず真空の領域が発生。瞬間的に生じた気圧の変化は異常な気流を作り出し、圧縮された空気の解放に伴うインパクトを纏った暴風となって一直線に突き進む!

 さながら水平に伸びる竜巻の如く、キャスパリーグが生み出した暴風は直線状にある全てを砕く。転がる大木は勿論、『糸』も、水触手も、全てがバラバラに砕け散る。飛び散った水は暴風に巻き込まれ、共に彼方へと飛んでいく。

 そして暴風が過ぎ去った時、そこには何もない空間が出来上がっていた。

 当然だが何時までもこの空間は維持されない。新たに地面から水触手や『糸』が生えてくるだろうし、直線的な空白が出来た事にフィアが気付けばこちらの意図はすぐにばれてしまう。それに攻撃したのは正面に対してのみ。背後と側面は強めの風が吹いた程度で、今背中の肉を切っている『糸』はそのままキャスパリーグの胴体を切断しようとしている。許された時間は、刹那の瞬間。

 だが、どれほど僅かな時間でもキャスパリーグなら逃さない。自分の拳が作った道へと、キャスパリーグは踏み出した!

 大地を蹴るために足に力を込めた、瞬間から地面より鋭い半透明な槍が無数に伸びてくる。槍はキャスパリーグの頭部を目掛けているが狙いは非常に大雑把。あまりに大雑把過ぎて喉元や胸部目掛けて跳んでくる事もあり、機械的に避ける訳にはいかない。目視で全ての軌道を読み、理性的に全身を操る。

 しかしキャスパリーグの超越的な動体視力でも、自らの脚力から生み出された超スピードの槍を見極めながら避けるのは困難。時折槍に皮を裂かれ、傷を負ってしまう。それだけでなく僅かに残っていた『糸』の切っ先が身体を撫で、容赦なく肉を削っていく。全身が細かな切り傷で少しずつ抉れ、筋肉質な肉体に朱色が広がっていく。

 それでも、身体は着実に前へと進んでいた。

「(一メートル、二メートル、三メートル……!)」

 距離にすればほんの数メートルの移動。キャスパリーグからすれば何度も行く手を阻まれ、全力ではあるが疾走には至らない緩慢な走り。だが、他の生物からすれば全てが一瞬。瞬き一回分の刹那に全てが過ぎ去っている。

 抜け切れば、もう誰にも捕まえられない。

 あと二メートル、とキャスパリーグは目算する。今立っている場所から大体二メートル先で水触手は生えていた。『糸』も恐らくそこから生えている。槍はカウンターなので分からないが、『糸』や触手との連帯が恐ろしいのであり、槍だけならどうとでもなる。

 あと一メートル。地面から触手の先端が少し生えたのが見える。『糸』も恐らく生えてきている。今の『全力疾走』の中で『糸』や触手の対処は出来ない。しかし一旦でも立ち止まれば、最初からやり直し……しかも逃げようとした事がばれた状況で。もう一度同じ事を挑むチャンスは、恐らくフィアは与えてくれまい。

 最早突っ切るしかない。

 『糸』が皮を切る、槍が肌を削る。それでも少しずつ加速していき、やがて肉を抉る猛攻をも無視してキャスパリーグは自らが指定したライン目掛けて突っ走り――――

「抜け、たぁっ!」

 触手が生えてきていた、フィアが明確に認識しているだろう範囲をついに抜け、キャスパリーグは声を上げた。無論安全ラインは彼が勝手に設定したもの。念のため更に一メートル、二メートルと進んだが、『糸』が皮膚を切り裂く事はない。自動反撃である槍の猛攻も徐々にだが苛烈さを緩めている。

 間違いなく、フィアが設定した攻撃範囲を抜けた。

 後はこのまま麓を下り、山から出てしまえば良い。自然の権化、神に等しい力を持った相手だったが、逆に山からは出られない。町に入ればもう追ってこれず、こちらを認識する事も出来ない。

 まだフィアが支配している山の中なのだから、油断するには早過ぎる。しかし槍によるカウンターが何時まで続くかは分からないが、今の『鈍足』でも実時間にして五秒もあれば下山可能だ。長いようで、ほんの僅かに戸惑えば過ぎてしまう時間。このぐらいなら抜けられる!

 キャスパリーグは新たに飛び出した数本の槍を軽々と躱すと、更なる加速を得るべく落ち葉で覆われた地面を力いっぱい踏み付けた

 直後、キャスパリーグの身体がガクンッと傾く。

 傾けるつもりなど、なかったのに。

「(な、に……!?)」

 一瞬、キャスパリーグは頭の中が真っ白になる。

 足を踏み外したのか? いや、寸前の景色に段差は見当たらなかった。周囲は月明かりすらない夜の闇に包まれているが、猫の目を持つキャスパリーグにとっては見通せる闇。見落としはあり得ない。ならばあの透明な『糸』がこっそり仕掛けられていて、気付かずに足首を切り落とされたのか? それもない。ぼーっとしていたなら兎も角、地面から飛び出す槍を躱すため全身に意識を集中させていた。皮の一枚でも切られたらすぐに気付く。

 一体何が、何が、何が!?

 刹那の中を駆け巡る思考はどれも役に立たず……真理を見付けたのは、反射的に足元へと向いた眼球。

 自らの足が地面に沈んでいくのを見た、己の目だけ。

 その真実も脳に達した時には既に手遅れで――――自分が『落とし穴』に嵌ったと気付いたのは、身体が完全に地面の下に落ちてしまってからだった。落とし穴の中には水が貯まっており、ドボンっと間抜けな音を立てて腰の辺りまで浸かってしまう。

「な、なん、うぉっ!?」

 困惑するキャスパリーグだったが、追い打ちを掛けるように浸かっていた水が独りでにうねり出した。咄嗟に逃げようとするも、いくら力を込めても動く事が出来ない……身体が浮いていて、プカプカと漂っている状態だったのだ。踏み出すための大地がなければどんなに足に力を込めても前には進めない。何より何十トンもある自分の身が浮くなど、彼には()()()()()()()

 成す術もなくキャスパリーグは蠢く水に飲まれ、頭以外の全てを囚われてしまった。手足をバタつかせてみるが、浮いている足は空回りするだけで身動きが取れず、腕は重くねっとりとした水に纏わりつかれて全てを吹き飛ばすほどの速さを出せない。

 もがけどもがけど、消耗するのは自分の体力ばかり。やがてキャスパリーグを包み込んだ水はキノコが生えるように根元が伸び、地上にその姿を晒す。

 そして戸惑うキャスパリーグの目の前で、地面から半透明な何かが生えてきた。半透明な何かは二メートルほどの大きさまで伸びると、ぐにゃりと歪み、縮んだり伸びたりを繰り返しながら形を変え……一人の、金髪碧眼の美少女へと変貌する。高身長、豊満なボディ、自信満々な笑み。全てが、以前出会った時の姿と合致する。先程までのいい加減な姿形ではない。

 仮初でありながら誇るように自分の姿を見せたフィア。フィアは優雅に自分の髪を掻き上げ、鼻を鳴らして上機嫌さをアピールする。尤も、その視線はキャスパリーグの頭よりも微妙に上を向いていて、虚空を眺めていたが。

 フィアは虚空を見つめたまま、心底楽しそうに口を開いた。

「いやー危ない危ない。やっぱり保険を掛けておいて正解でしたねー」

「保険、だと……!?」

「如何に力で上回ろうと所詮あなたと妹は同一種族だという事です。あなた達の力は比類なき体重とそれを受け止める大地があってこそ発揮出来るもの。そのため重さが発動の確実性を保証する落とし穴は回避不能のトラップであり尚且つ水に浮かべてしまえばその怪力の大部分を無力化出来るのです。まぁあなた達の身体を浮かべられるほどの超高密度液体など私以外には用意出来ないでしょうけどねだからこそあなたもこのような罠は想定していなかったのでしょうし」

「く、そがぁぁぁ……!」

 悔しさと憤怒でキャスパリーグは顔を歪めるが、水球はいくら暴れようとも微動だしない。むしろ溺れているような動きは滑稽で、目の当たりにしたフィアはケタケタケタケタ、心底愉快そうに笑うだけ。あたかも、水槽の壁を登れないカブトムシを嘲笑うかのようだった。

「悔しがっているみたいですけど身動き出来なきゃ地団駄と変わりませんね。ああ惜しむらくは目が悪くてあなたの顔が見えない事でしょうか。というか顔の向きこっちで合ってますかね? 左右は水の位置で分かりますけど頭の高さはちょっと大雑把に予測するしかないので」

「ぐ……!」

「さぁてあなたと遊ぶのも飽きてきましたしそろそろお片付けといきましょうか。いやはや復讐なんてしょーもない事をやろうとしなければ長生き出来たでしょうに」

「お前に、何が分かる……俺が、俺達が人間に何をされたかも知らない癖に……!」

「知らないのだから分かる訳ないでしょう。生憎読心術は持ち合わせておりませんので」

 何を当たり前の事を、とでも言いたげにフィアは肩を竦める。その様にキャスパリーグは一瞬表情を強張らせると、次いで深く息を吐いた。

「……だったら教えてやろうか。俺と妹に人間が何をしたのか、どうして復讐しようと思ったのかを」

 それからフィアに向けて、忌々しげな物言いで提案してくる。

「うーん別にあなたの生い立ちなどあまり興味ないんですけどねぇ……ああいや待ってください。あの妹にも関わる話なのですか? それは聞いといた方が良いかも知れませんねぇ」

 うんうんと一人頷き、フィアは後ろ手を汲むとキャスパリーグの方を色のない瞳でじっと見る。キャスパリーグを包む水は相変わらず彼の動きを封じているが、絞めつけたり、削り取ろうとしたりする気配はない。

 どうやら、フィアは本当に話を聞こうとしているらしい。

 先程まで楽しげに殺そうとしていたのに、興味を惹かれたから後回し。気紛れな返答故に、すぐに心変わりするのではという不安はある。しかし動けない現状、僅かな時間稼ぎが出来るだけでも良しとするしかない。

 とりあえず、今すぐには殺されないだろう――――そう思ったキャスパリーグは、一旦身体から力を抜く。それから、こちらを()()()()()フィアの目をじっと見返しながら息を吸い込み、

「家族を殺されたんだよ。保健所に連れて行かれてな」

 彼は明瞭なる言葉で、こう告げたのだった。

 

 

 

「保健所……」

 訊き返す花中に、猫少女はこくんと頷いた。

 キャスパリーグが登り、フィアが潜んでいる山は今、ゾッとするほど静かになっていた。先程まで爆音や轟音を鳴らしていたのが嘘のよう。あの山で何が起きているのか、もう終わっているのか、何も分からない。尤も傍に立っているミリオンは全てを把握し、聞けば教えてくれるだろうが。

 しかし今は猫少女の話に集中したく、花中は山の事を一旦頭の中から切り捨てる。屈んだ姿勢のまま猫少女に歩み寄り、どんな小さな声も聞き逃すまいとする。

 猫少女も話を聞かせたいと思っているのだろう。顔は俯いていたが身体は花中と向き合い、ぽつりと、だけどハッキリとした言葉で話し始めた。

「あたし達のお母さんはね、生粋の野良猫で、ずっとたった一匹で生きてきた。あたし達を産んだ時も同じで、あたし達は、お父さんの顔も知らない。でもそれは猫なら珍しくもない事。だから多分、猫としては普通の家族だったと思う」

「……その、お母さんは、言葉とかは……」

「話せない。ただの野良だったから。一緒に産まれた他の兄弟も同じで、こんな風に喋れたり、力を持っていたのはあたしと兄さんだけだった。逆にあたし達は産まれてすぐに話せたし、頭も良かったし、今ほどじゃないけど力も強かった」

 自慢気な言葉とは裏腹に、言い方は自虐的で、複雑な想いを感じさせる。

 何があったのか……続きは気になるが、花中は出掛かった言葉を噛み殺す。今は、彼女のやりたいように話させてあげたかった。

 口を噤む花中が願ったように、猫少女はそのまま話を続ける。

「だから、母さんが持ってくる食べ物は他の猫と変わらなかった。生ゴミとか、それを漁っていたネズミ、公園で貰った餌とか、餌を貰ってるハトとか。何も食べられない日もあったし、カラスに攫われたり病気に掛かったりで死んだ兄弟もいたけど……でもカラスだって食べなきゃ死んじゃうし、病気は菌との戦いに負けたからだって、あたしと兄さんは知ってた。だからそれを怨む事はしなくて、あたし達は、それなりに幸せに暮らしていた」

 だけど――――そう言って挟まれた沈黙に、花中は息を飲む。猫少女が話す覚悟を決めたように、自分もまた受け止める覚悟を決めなければならないと、花中は自分に言い聞かせる。

「ある日、母さんと兄弟達が人間に捕まった。保健所に連れて行かれたの」

 それが、自分達の都合で命を弄ぶ種族の一員としての、最低限の責務だと思ったから。

「……逃げられ、なかったのですか」

「そもそも、逃げなかった。母さん達は人間に餌を貰っていて……人間の事を、信じていたから。だから檻の中に簡単に入って、兄弟達は簡単に捕まって、連れて行かれた」

「っ……!」

 花中は言葉を失う。

 猫達は最期まで信じていたに違いない。また餌を貰える、これで子供が飢えずに済む……そう信じていたのに、捕まり、命を奪われた。恐らく、ゴミを荒らすからとかの理由で。

 捕まえた人間に、騙すという気持ちはなかっただろう。それでも、『彼』が裏切られたと思うのも無理ない話だと、花中は思った。

「あたしと兄さんは、人間達が持っていた檻に気付いて逃げた。でも、あの時はまだ小さくて、兄弟達よりはずっと強いけど、人間に勝てるほどの力はなくて……助けられるぐらい強くなった時にはもう、誰も生きていなかった」

「……………」

「ごめん。これを言ったら怖がられるかもって思って、言えなかった」

 頭を下げて、猫少女は謝る。その姿が花中の胸を締め上げる。家族を奪ったのはわたし(人間)達なのに、怨まれても仕方ないのに。

 どうして、そこまで人間に味方をしてくれる?

「……どうして、そこまで人の味方を……っ!」

 思わず疑問が口から出て、ハッとなる。これではまるで尋問、正しく疑っているかのようではないか。慌てて撤回しようとした

 が、照れくさそうに笑う猫少女を見て、花中は毒気を抜かれてしまう。呆けた花中に、猫少女は嬉しそうに語った。

「ちょっと恥ずかしいんだけど……ご飯をくれる人間が居たんだ。おばあちゃんね。最近野良が捕まったって知ってたのかな。ごめんねって言いながら、ご飯をくれたの。兄さんは毒があるかも知れないから食べるなって言ってたけど、あの時のあたしはすごくお腹が空いてて……言い付けを破って食べちゃった。腐ってなくて、美味しいご飯だった」

「……………」

「まぁ、その後捕まえようとしてきたから逃げちゃったけど。今思うと多分、飼おうとしてくれたんだろうね……それでね、思ったの。悪い人間はいる。あたし達の事なんて都合の良いオモチャにしか思ってない奴もいる。でも、中にはあたし達を助けようとしてくれる人もいた。もしかしたら、人間は悪い奴ばかりじゃないかもって」

「……だから、お兄さんが、復讐を始めようとした時、人間を知ろうと、したのです、ね」

 問えば、こくんと猫少女は頷いた。

 ――――ナニが悪かったのだろうか。

 捕獲をした者か?

 その猫を殺処分した保健所か?

 餌を与えて猫の警戒心を失わせた人間か?

 野良猫を保護しなかった一般市民か?

 不用心に人間を信じた猫か?

 ……いや、きっとナニも悪くはない。

 ゴミを荒らされて黙っていろとは言えない。仕事に私情を挟めとは言えない。餓死しそうでも獣は見捨てろなんて言えない。生活を切り詰めてでも動物を保護しろなんて言えない。何人も信用するななんて言えない。

 誰もが自分の幸福のために動いていた。誰かを不幸にするとは思っていなかった。だけどみんなの気持ちがちょっとずつズレていて、そのズレが悲劇につながってしまった。

 そしてその悲劇を、悲劇だと受け取る者がいた。

 恐らくはそんな、『ただそれだけの事』だったのだろう。

「花中……あたし、どうしたら良かったのかな?」

 猫少女の問いに、花中は答えられない。誰が悪いかも分からないのに、どうしたら良いのかなんて分からない。誰も責められない。

 責められないのに。

「……どうしようもなかったのかな」

 どうして、こんなにも腹が立つのか。

「やだよ、やだよこんなの……兄さんまでいなくなっちゃうなんて……死んじゃうなんて、嫌……!」

 誰に対する怒りなのだろう。

 何も出来ない自分に対する怒りか。身勝手で悪びれもしない人類への怒りか。

「でも兄さんを止めないと、人間が殺される……そんなのも嫌っ!」

 無差別なキャスパリーグへの怒りか。無知だった母猫への怒りか。

「ねぇ、どうしたら良かったの……どうすれば、こんな事にならずに済んだの……」

 考えて、考えて……やっと気付く。

「どうして、こんな事になっちゃったの……!」

 怒りの対象が、目の前の猫少女である事に。

 ――――パンッ!

「……はなちゃん?」

 その音に、最初に反応したのはミリオンだった。猫少女は、何時までもぼうっとしていた。

 花中に、自分の両頬を叩くような勢いで掴まれたにも拘わらず。

「……かな、か……?」

「さっきから……どうしたら良かったとか、こんなの嫌だとか……挙句、どうしてこんな事に、なった……?」

「だ、だって、なんでこんな事になっちゃったのかなんて、分からなくて」

「なんで、もう全部終わった事にしているのですかっ!」

 花中が叫ぶように言葉をぶつけると、猫少女は逃げるように目を伏せる。しかしその目を逃すまいと、花中は猫少女の頬を掴む手に力を込め、離さない。

「まだ、終わっていません。まだあなたの、お兄さんは、生きてます。なのに、なんで諦めて、いるのですかっ。諦めたら本当に、終わりなのに!」

「だって、兄さんは復讐を止めてくれないんだよ!? 何を言っても聞いてくれない! だったらもう、殺すしかないじゃない! それとも花中は、たくさんの人間が死んでも良いって言うの!?」

「そんな事は、どうでも良いんです!」

 花中が言い放った言葉に、猫少女のみならずミリオンまでもが目を見開いた。

 勿論人間である花中にとって、人の生死はどうでも良くない。人間側の立場から言えば、どう足掻いても人の手で管理しきれないキャスパリーグは『処分』するしかない存在だ。彼とどうにか分かり合いたい花中としては受け入れ難いが、それでも人命が失われようとしているなら、人としてその判断を尊重する。

 だが、猫少女は猫だ。

 猫なのに、どうしてさっきから人の事を気に掛ける?

 どうして、たった一人の家族を諦めようとする!?

「人間を、守ろうとして、くれる事は、嬉しい、です。でも、あなたは猫です。だったら、猫の事を一番に考えたって……人間を、後回しにしたって、良いじゃないですか。猫なのだから、人間の意見なんて、聞かなくても、良いんです。わたし達が、『猫』の意見を……少なくとも、今までは、聞かなかったように」

「……花中は、それで良いの? もしかしたらたくさんの人間が死ぬかも知れないんだよ?」

「勿論、そんなのは嫌です。だけど、猫さんが苦しむのも、嫌なんです。だって……」

「だって?」

「だって、わたし達……もう、友達じゃ、ないですか」

 花中の言葉に、猫少女は大きく目を見開く。ポカンと口を開け、そのまま呆然としてしまう。

 尤も、その姿はあまり長く続かない――――向き合ってるうちに「ぇ、あの、と、友達、ですよね……? も、もし、もしかして、ちが、違い……」と瞳を潤ませながら段々と自信を喪失していく花中を見て、プッと吹き出してしまったのだから。笑われた花中はたくさんの涙を目に浮かべた。もう今にも泣き出して、ぴーぴー喚きそうぐらい。

「くくく……ああ、うん。ごめんごめん。馬鹿にしたんじゃないの。ただ、うん。面白かったから」

 笑いを飲み込んだ猫少女の言葉は、弁明だった。

「面白、かった……?」

「全く、アンタって本当に人間なの? 意地っ張りで、ワガママで、そのくせビビりで泣き虫。なのにあたしどころか、兄さんも怖がらない。しかもあたしの好きにやれ? もうさ、訳分かんなくて笑うしかないじゃん」

「は、はぁ……そうなの、ですか……?」

「そうだよ」

 釈然としない花中だったが、嬉しそうな猫少女を見ているうちに、気にしているのが馬鹿らしくなってくる。強張っていた頬が、にへっと緩む。

 花中と猫少女はしばし笑い合ったが、やがて猫少女がすっと立ち上がった。その表情に、先程までの悲愴さはもうない。

「人間が殺されるのは嫌。でも、兄さんが死ぬのも同じぐらい嫌っ。だから、もし兄さんが殺されそうになったら、あたしはそれを止める! 止めて、あたしが兄さんを説得する! 最初からそうすれば良かったんだ!」

 そして猫少女は、ハツラツとそう言い切ってみせた。

 猫少女の言葉を受け取り、花中はこくんと頷いた。やりたい事は見付かった。だったら後は、それを目指して突き進めば良い。

 まだ、手遅れにはなっていないのだから。

「感動的なところ水を差すようで悪いけど、あっち、そろそろ終わりそうよ」

 尤も、ミリオンのこの言葉がなければ本当に手遅れになっていたかも知れないが。

 花中と猫少女に緊張が走る。ミリオンには何かあった時のためにフィア達の『観測』を頼んでいた。さながら千里眼の如く離れた場所を観測出来るのも、無数のウィルスの集合体であり、そのウィルスを展開する事で広域を包み込めるミリオンだからこその芸当。例え彼方で起きた戦いでもミリオンにとっては至近距離の出来事。どんな小さな事柄も見逃さずに把握出来る。

 そんな彼女がもうすぐ終わりそうと言うのだ、焦るなという方が無理な話である。

「えっ!? あっちって……フィアちゃん、もう勝ったのですか!?」

「準備万端過ぎたわね。むしろよくここまで持ったと言うべきかしら。一方的過ぎてお兄さんの方も大きな怪我はしてないけど、このままじゃ窒息死確定ね」

「そんな……な、なんとか、止められませんか!?」

「無理。私の話をさかなちゃんが聞くとは思えない以上実力行使しかないけど、今の全力全開モードのさかなちゃんが相手じゃねぇ。自分の身を守るのは余裕だけど、猫ちゃんのお兄さんを助けるのは無理よ。手数が足りないわ」

 はなちゃん達にやられる前なら話は別だったんだけどー、と愚痴りながらミリオンはあっさりと白旗を上げる。あまりにも淡白な諦め方に文句の一つも言いたいが、事態が切迫している時ほど正確かつ迅速な判断が重要になる。むしろ速攻で諦めてくれた方がありがたい。

 それに、フィアを止めるだけなら策はある。

「猫さん! お兄さんの元に、行ってください!」

「え、で、でも、フィアは……」

「フィアちゃんは、わたし達で、なんとかします! だから先に行って……お兄さんを、助けてくださいっ!」

 花中の後押しに、猫少女は戸惑いながらも頷き山の方へと身体の向きを変える。そのまま屈伸をするように膝を深々と曲げた。

 しかしその膝はすぐには伸ばされず、猫少女はチラリと花中を見遣る。

「そうだ。一つ、言っときたい事があったんだ」

「? 言っておきたい事、ですか……?」

「うんっ」

 ニカッと、太陽のように微笑んだ猫少女はとても元気よく口を開き、

「あたしの名前はミィ。餌をくれたおばあちゃんが付けてくれた大切な名前だから、今度からそう呼んでねっ!」

 それだけ言った、瞬間、猫少女――――ミィの姿は消えた。

 次いで爆風が花中の身体を突き上げる。ちょっとだけ身体が浮いて……花中は咳き込んだが、苦しさはあまりなかった。

「……それで? どうするつもりなの? まさか猫ちゃんに後は全部任せるとか言わないわよね」

 咳き込む花中の背中を摩りながら、ミリオンがそう尋ねてくる。

 花中は喉を鳴らして呼吸を整え、ちょっぴりふてぶてしく微笑みながら答えてやった。

「どうも、こうも、そのつもりです。説得は、家族からのものが、一番効果的だと、思いますし。わたしがやっても、逆効果、でしょうから」

「呆れた。万一の時はどうするのよ」

「その時は、フィアちゃんも、ミリオンさんも、居ますから、なんとか出来るかなーって」

「……………」

 否定はしないミリオン。そう、フィアとミリオンが力を合わせれば、最悪の事態が起きても()()()()()()()筈だ。二匹には、或いは今なら一匹だけでも、それが可能な力がある。

 しかしそれは最後の手段。今はまだミィの事を、家族の絆を信じたい。

 その想いは口に出さなかったが、ミリオンに花中の気持ちは伝わったのか。大きなため息を吐いたので、少なくとも「呑気なものねぇ」とは思ったに違いなかった。

「……保険については納得したわ。でも、さかなちゃんをどうやって止めるつもり? さかなちゃんノリノリみたいだから、はなちゃんの言葉でも止まってくれる気がしないのだけど」

 ミリオンが今一番の懸念事項を訊いてくる。そう、ミィに任せると言っても、それはフィアがキャスパリーグ殺しを止めてくれなければ始まらない。いや、フィアの性格を考えれば、邪魔をしたミィを生かしておくとも思えない。そして今のフィアは、それが易々と実行出来る。

 どうにかしてフィアを止めて、ミィにバトンを渡させなければならない。

 しかし花中はそれこそ簡単だとばかりに堂々と背筋を伸ばし、

「どうもこうも、わたしに出来るのは、何時だって、お話だけです……ちょっと、意地悪しますけど、ね」

 それから緊迫感のない、悪戯っ子のような笑みを浮かべてみせるのだった。

 

 

 

「……これが、俺が人間に復讐を誓った理由だ」

 身の上話を終えると、キャスパリーグは深く息を吐いた。

 自分達が家族と共に幸せに暮らしていた事、その幸せを人間が壊した事、人間は自分達の気持ちを利用し、邪魔だからと平気で命を奪った事……キャスパリーグは全てを正直に話した。誇張や脚色なんて必要ない。ありのままを言葉にするだけで、彼の気持ちは十分に表現出来た。

 その全てをぶつけられ、フィアは頭を俯かせていた。

 深夜の森、俯いたフィアの顔は窺い知れない。しかし、俯いてしまう程度にはショックを受けたのだろう。

 復讐の動機を語った事に、打算の気持ちがなかったとは言わない。あわよくば味方に引き込めれば、それが無理でも動揺させて隙を作れれば……命を掴まれている現状、そんな考えが過ぎらない筈もない。

 だがそれ以上に、分かってほしかった。人間がどのような生き物か、自身が味方している『生物』が如何に醜いか知ってほしかった。

 そして、自分のような想いをする生き物が、少しでも減るなら……

「なぁ、何故人間の味方をする? 奴等は貪欲で、底なしに身勝手。自分達の幸福のためなら平気で命を奪う悪魔だ……どうして奴等に罰を与えない? 奴等を野放しにすれば、数多の命が弄ばれる! 今こそ奴等に、俺達の怒りを思い知らせるべきじゃないのかッ!?」

 畳み掛けるようにキャスパリーグは思いの丈をぶつける。俯いているフィアに、答えを求める。

 ……そして流れる、静寂。

 超常の獣達の闘争により、周囲には草一本すらない。地形も変わった。雨音も風もない完全な静寂が辺りに満ちる。

 その静寂が続いたのはほんの数秒だけだったが、何かを考えるには十分な時間。静寂はフィアが顔を上げた時の微かな音で破られ――――

「あ。話は終わりましたか? じゃあさっきの続きしますので」

 フィアはニッコリと微笑みながら、平然とそう言い放った。

 瞬間、キャスパリーグの身体を拘束している水の塊が収縮を始めた!

「ぐ、おぐぁ、あっ!?」

 予期せぬタイミングでの痛みに、キャスパリーグは呻きを上げた。強靭な肉体と骨も、無慈悲な圧迫の前にミシミシと悲鳴を上げる。肉を潰される痛みが全身を駆け回り、肺が圧迫されて息も辛い。

 脳裏を過ぎる、明確な死の予感。

 しかしキャスパリーグの心を乱したのは、そんな『瑣末事』なんかではない。

 本心をぶつけたにも関わらず、心底どうでも良さそうに振舞うフィアの態度だ。

「あふぁぁ……んーあまりに退屈でちょっとウトウトしちゃいましたよ」

「何故だ……どうして、平然としていられる!? 人間の非道を知っても尚、どうして人間に味方する!」

「別に人間に味方するつもりはないのですけどねぇ。でも私あなたの事嫌いですし」

「な、に……!?」

「ですからあなたの事が嫌いなんです。だから殺すのですけど?」

 ぞわりと、キャスパリーグの背中に悪寒が走る。

 母や兄弟達の事を罵倒されたなら、彼は怒りに打ち震える事が出来ただろう。境遇を聞いてウキウキとしていたなら邪悪と断じる事が出来ただろう。醜いところを聞かされても人間の味方をする信念があるのなら、分かり合えなくとも立場に対する理解は出来ただろう。

 だが、フィアの答えは『お前が嫌いだから』。

 侮辱も悪意も理解もない――――子供が嫌いな食べ物を遠くに弾くような気軽さで自身を殺そうとする考えを前に、キャスパリーグはフィアから逃げるように身動ぎしていた。

「お前は、何を言って……!?」

「私は私の好きなもの以外がどうなろうと構いませんが好きなものを壊すような奴はなんだろうと許しません。そして私は花中さんが大好きであなたは花中さんの安寧を脅かした。だから私はあなたが嫌い。殺す理由なんてそれだけで十分じゃないですか」

「な……!?」

 あまりにも身勝手で、周りを考えない一方的な理由にキャスパリーグは言葉を失う。否、身勝手なんて言葉でも言い表せない。

 最早彼女は、自分以外の存在を『生き物』と認めていない。

 キャスパリーグの生い立ちや境遇、人間の非道や醜悪さ。それらを聞いてもまるで意に介さず、ただただ自分の利益や好き嫌いしか関心にない。命の尊さを理解せず、不要だと思えば物のように切り捨てる事も厭わない……今まで傲慢の塊だと思っていた人間が小さく思えるほどの身勝手さ。

 しかもそれも自覚した上で、恥じるどころか隠そうともしない。まるで、そうである事が正しいと言わんばかりに。

「どうして、どうしてそこまで自分の都合で……!」

「どうして? 生き物なんてみんな自分の都合で動くものでしょうに……ところでもう話は終わりですよね? 終わりって事にしときますよ流石に面倒臭くなってきましたから」

 動揺するキャスパリーグだったが、フィアの方はもう話を聞くつもりもないらしい。フィアが静かに手を上げるのと共に、キャスパリーグを包み込んでいた水球が膨れ上がる。

「!? な、これは、ごぷっ!?」

 そしてそのまま、今まで空気中に出ていた彼の頭をすっぽりと包みこんでしまった。顔面を覆われ、無尽蔵にあった周囲の空気が一気にゼロとなる。口を開けても入ってくるのは水だけ。生きるのに不可欠な酸素が補給出来ない。酸欠に陥った身体が痛みという形で悲鳴を上げ、苦悶を表情に出さずにはいられない。

 今や声を出す事もままならないが、わざわざ訊くまでもない。フィアはこのまま自分を溺死させるつもりだと、キャスパリーグはすぐに理解した。

「――――! ――――ッッ!」

「いくら暴れても無駄ですよ。あなたの重量から計算し水の比重をコントロールしています。勿論動きや粘度抵抗の強さもこちらが制御済み。今のあなたは水に浸かった羽虫と変わらない。浮かび上がる事も沈む事も前に行く事も後ろに下がる事も許しません」

 脱出しようともがくキャスパリーグに、フィアは窘めるように告げてくる。確かに言うように、手足に纏わり付く水は異様に重く、どうにか掻き回しても胴体は何かに掴まれているかのように動かない。ただただ身体をくねらせ、もがき、苦しさの中無為に時間を過ごするだけ。

 もう、自力ではどうにもならない。それこそ水に落ちた羽虫のように。

 キャスパリーグのそんな姿を前にしてフィアが浮かべるのは、なんとも愉快そうな笑みだった。

「ちょこまかと動いて捕まえるのが中々大変でしたがこれで一段落ってところですかねぇ。ミリオンと比べればずっと楽でしたけど」

「ッ! ――――ッ! ッ!」

「しっかし妹から聞いた時も思いましたけど復讐だなんて馬鹿な事を考えたものですね。人間に殺された? それがなんだと言うのですか。人間に殺処分されるのも鳥に食われるのも病気で死ぬのも『何か』に殺されるという点では変わらない。いえそもそも殺されるのも事故や飢えで死ぬのも『死』である事には変わらない。なのに何故違いを見出そうとするのです?」

「――――ッ! ッッ!」

 何かを言おうとしてか、キャスパリーグの口から大きな泡が吐き出される。貴重な酸素を吐き出してでも伝えようとした何かの言葉。

 対するフィアの答えは、吹き出すような笑い一つ。

 あまりの滑稽さに我慢出来なかった……そう物語るような笑い方に次いでフィアが浮かべたのは相手を小馬鹿にした、勝ち誇った笑みだった。

「あなたは結局『自分達』を特別視したいだけでしょう? 人間に家族を惨たらしく殺された自分は悲劇のヒーローである……ってな具合に」

「……ッ……!」

「と如何にも分かったような事を言ってみましたが言い当てられた自信はないのですよねぇ」

 だって――――そう言うとフィアはキャスパリーグを包む水球の間近まで顔を近付け、

「あなたの話ってまるで人間が言う事みたいなんですもの」

 囁くように呟いた。

 声は、水球の中のキャスパリーグにも届いたのだろう。目を見開き、叫んでいた口をぽっかりと開け……肉親を目の前で失ったかのような、絶望に満ちた表情を、浮かべる。

 その時のキャスパリーグの表情を、水の動きで知れるフィアは何を感じたのか。

 ……相も変わらず勝ち誇った笑みを続けている以上、殆ど気に留めていないのだろう。

「自分達の死を特別視するだけでなく自分達は他者を思いやる心があるという態度。挙句他の生き物も自分達と同じ『理想』を持っている筈だという思い込み。どれもこれも人間と同じ……ように私には見える訳でして。正直私には『あなた』の考えが理解出来ませんよ。何分私は『フナ』ですから」

 鞭打つように、嬲るように、フィアは肩を竦めながら思った事を並び立てる。キャスパリーグは何かを言いたそうに口を開くが……声どころか、最早泡も出てこない。

「おっと無駄話が過ぎましたか。このままほっておいてもきっちりバイバイ出来るとは思いますが万一もあるかも知れませんし念のため止めを刺しておくとしましょうかね。そうですねぇ肺に入った水を使って内側からパーンッと……って全然水飲んでないし。仕方ありません潰しましょうかちょっと感触残りそうで気乗りしませんけど……はいきゅーっと」

 そしてフィアが前に突き出した掌を閉じるのと共に、水球はその体積を縮め

 バキンッと、大切なものが壊れるような音が森に響いた。

 ――――刹那、水球が『弾け飛ぶ』!

「……………!」

 今まで勝ち誇っていたフィアの表情が、驚きに変わる。

 弾け飛んだ水球からはキャスパリーグが吐き出され、地面にベシャリと音を立てて倒れる。次いで、ズドンッ! と身体を揺さぶる音と振動が辺りに広がった。

 水球から解放されたキャスパリーグは、左腕の肘を地面に付けて、どうにかこうにか身体を起こす。酸欠で顔が赤く色付き、涎をまき散らしながら咳き込んでいたが、呼吸はしている。

 酸欠からの回復も、咳も、いずれは安定するだろう。フィアからキャスパリーグの姿は見えていないとはいえ、水球の中から出てしまった事は山中に張り巡らせている水のセンサーによって捉えている。

 このままにしておけば、いずれ体力を回復し、逃げられてしまう。

 その可能性を間違いなく理解しているだろうフィアは――――しかし、動かない。弱ったキャスパリーグに『糸』を放つ事も、触手を叩きつける事もしない。

「……どういうつもりですか」

 やった事は、倒れたキャスパリーグが居る『方向』を真っ直ぐ見据えながら、ぼそりと呟いただけ。

 そしてその言葉と視線の行く先は、キャスパリーグではない。

 どす黒い怒りと殺意が剥き出しになった、敵意の言葉と贋作の視線の先に居るのは一匹の、人の形をした動物。

「さぁーて、これからどうしたものか……早くどうにかしてよ花中ぁ……」

 若干笑みを引き攣らせたもう一匹の黒猫が、フィアの前に立ち塞がるのだった。




本作は能力バトル小説です(今回やってる事:物量作戦VS怪力)

……まぁ、次回に比べればまだ能力バトルしてる方だし(ぇ)


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孤独な猫達10

「(さぁ、出たよ! フィアの前に出てやった! 出て……それからどうすりゃ良いのさ花中ぁ!?)」

 心の中で狼狽の叫びを上げながら、ミィは額から噴き出ようとする冷や汗を必死になって押さえていた。

 ミリオンの話通り、兄であるキャスパリーグは今にも殺されそうになっていた。麓から一回の跳躍で頂上まで到達したミィは、花中の助言もあったのですかさず兄を包み込む水球を攻撃。助け出されたキャスパリーグは今、ミィの後ろで四つん這いになりながらゼェゼェと息を荒げていた。何処か怪我をしているかも知れないが、ちゃんと生きているのならそれだけで御の字と言えよう。

 問題はここからだ。

 水で作られている顔に、氷よりも冷たい表情を浮かべているフィアとどう『やり合う』べきか。

「……花中さんが親しくなった相手ですから今まで見過ごしていましたがやはり駆除しておくべきでしたかねぇ……これだから哺乳類というのは信用ならない。同じ親から産まれたというだけの存在にどうしてそこまで入れ込むのやら」

 ズズズ、と不気味な音を鳴らしながら、フィアはキャスパリーグからミィの方へと()()()身体の向きを変える。

 殺意の矛先が兄から自分に移った。

 瞬間、敵意を感じ取ったミィの肉体は脈拍を上げ、神経を昂らせて警報を喚き散らす。フィアの殺意を感じ取ったミィの本能は、理性の合意を取らずに臨戦態勢へと移行した。兄を助けるつもりだったので戦い自体は望むところなのだが、ミィは全身に冷たいものが走るのを感じずにはいられない。

 例え兄との戦いを見ていなくとも、初めて出会った時の経験、麓に居ても届いた激戦の余波と音、そして本能で今の自分とフィアの実力差は測る事が出来る。正直どうにもならない相手だ。明確な殺意を持った大自然相手に、獣風情が何をどうすれば勝てるというのか。

 『本気』を出せば逃げるぐらいは出来そうだが……

 そのためには準備時間として十秒ほどの隙が生じてしまう。たかが十秒、と言えるのは『人間』までだ。この場において、一秒の隙は生死を左右する。

 どうする? どうすべき?

 もっと残念な事に、相手は考える暇すら与えてくれない。

「まぁどうでも良いですかまとめて潰してしまえば同じですし」

 フィアはそう独りごちるや、すっと指先を向けてきた。

 それを目の当たりにするやミィは反射的にしゃがみ込み、

 ――――髪の先が、ぷっつりと切れた。

「(い、糸……『糸』を使ってきた……!?)」

 不意打ち同然で放たれた見えない攻撃。それを殆ど直感で避けたミィは、いよいよ全身からぶわりと汗が噴き出したのを感じ取る。

 目視不可能の攻撃。初めて出会った時にも使われた必殺の技――――しかしミィはそれに慄いた訳ではない。

 出会いはほんの数日前。初対面の印象は最悪だったし、交わした言葉の数も多くない。だがそれでも最後はちゃんと和解し、数日の間共通の目的を持って行動していた相手を、なんの躊躇もなく殺せるか? そう問われたならミィは首を横に振る。キャスパリーグのような血縁者ではないので最終的には殺せたとしても、迷いを払うための時間は欲しいし、最後の最後で躊躇う事は否定出来ない。

 だがフィアは違う。

 彼女は邪魔だと思えば即座に手を下せる。覚悟すら必要とせず、罪悪感も後悔もなくやれてしまうのだ。

 思想の違いなんて些末なものではない。生物種の違いからくる根源的な感性のズレ……それが、ミィを慄かせたものの正体。

 フィアには兄以上に『説得』が通用しない。どう楽観的に考えても、手心なんて加えてくれる訳がない。

「やはり野良猫はちょこまかとしていて小賢しいですね。ですが全方位は避けられるでしょうか」

 だから彼女がそう言ったのなら、『避けられる』隙間を用意してくれている訳がなく――――

【フィアちゃん!】

 山中に響いたこの声がなければ、自分が今もこうして立っていられたか、ミィには自信がなかった。

「え? こ、この声……」

「この声は花中さんですか。大方ミリオンが何かして声を届けているといったところですかね」

 どうして山に花中の声が? と戸惑うミィに対し、フィアはうんざりとした様子でそう独りごちる。フィアも詳しい原理は分からないようだが、ミリオンが引き起こしている事象らしい。

 花中の声が聞こえてもしばらくフィアは殺意に満ちた眼差しを緩めずにいたが、やがて悩ましげに首を振るとミィに向けていた手を下ろす。

 その姿が見えているのか、花中の、少し安堵したような吐息が聞こえた。

【……うん。わたしの声の振動を、ミリオンさんが拾って、それを伝達、して、遠くに届けてる。つまり、糸電話の要領で、話をして、いるの。だから、ちょっと交信に、時間が掛かる。それより……】

「それより?」

【……フィアちゃん、キャスパリーグさんを、殺そうと、したよね? わたし、出来るだけ殺さないでって、頼んだ、よね?】

「んぁ? あーそういえばそんな事を言っていたような気がしますねすっかり忘れていましたよ」

 花中に問い詰められ、フィアはあっさりと白状する。あたかも、買ってこなければいけない物を忘れてしまった時のような気軽さ。少しだけだがフィアの表情は和らぎ、笑顔すら浮かべている。

【……それに関して、わたしからは、何も言わない。わたしは、フィアちゃんに、頼んでいる側で、わたしには、キャスパリーグさんを、止められない。だから、フィアちゃんが決めた、事に、文句は、言えない】

「そうでしょうそうでしょう」

【でも、なんでミィさん……猫さんまで、殺そうと、したの?】

 しかし花中のこの一言で、フィアの笑顔は消えた。

「……邪魔だったからです。それ以上の理由が必要ですか?」

【邪魔だったって……だって、猫さんは、わたしの、わたし達の、友達なんだよ!?】

「最初から友達だなんて思っちゃいませんけどね敵の身内なんですし。仮に友達でもここまでされたら切り捨てますけど。勿論花中さんは特別ですから例外ですが」

【う、ううう……!】

 悪びれた仕草もなく平然と断言され、花中の悔しそうな声が辺りに響く。それでもフィアの態度は変わらない。

「言いたい事はそれで終わりですかね? じゃあコイツ等は片付けさせていただきます。兄の方もそうですが妹の方も裏切った以上話し合いなんて必要ありませんよね」

 そしてフィアはゆっくりと、再度指先をミィ達の方へと向け――――

【じゃあ良いもん。一週間、口利いてあげないから】

 ビクリと、その身体を強張らせた。

 それからギギギと音が聞こえそうなぐらいぎこちない動きで、フィアは麓の方へと振り向く……何故麓か? そこに花中が居るからであろう。

「か……花中さん? あの今なんて……」

【一週間、口利かないって、言ったの! だって、フィアちゃん、いっつもいっつも、わたしの話、聞いてくれないんだもんっ! だったら一週間ぐらい、話をしなくても、同じでしょ!】

「いやいやいやいやいやいや!? 全然違いますよ!? え。あのちょ」

【もう帰るっ!】

 ブツッ、と、なんだかわざとらしい交信の途絶える音を最後に、花中の声は聞こえなくなった。「花中さん!? 花中さーんっ!?」とフィアは何度も名前を呼ぶが花中からの返答はなし。フィアはミィ達に向けていた手をあっさり引っ込めるや自分の口元に当てて、わたわたあわあわと右往左往し始める。

 しばらくしてフィアはミィ達の方を一瞥。

「あなた達! 私は用事が出来ましたから後は勝手にやってなさい!」

 言うが早いか、フィアはその身体をぐちゃりと崩した。さながら投げ捨てられた泥人形のように。

 そして、静寂。遮る物がなくなった山に湿った風が吹く。

 フィアが戻ってくる気配は、全くなかった。

「……え? マジで帰ったの? 今ので?」

 あまりにも呆気ない幕切れに、ミィは茫然と立ち尽くす。立ち尽くし、なんとか納得しようとし――――ぷっと、吹き出してしまった。

 フィアにとって、今回の騒動なんかよりも花中とのお喋りの方が大事、という事なのだろう。

 そうだ。命が懸かっているだの町が危ないだの、全部人間の物言いではないか。自分達の立場から見れば、なんて事はない……ほんの少し話が大袈裟になっただけで、本質はただの一言で言い表せる。人間でないフィアはそれを見抜いていた、いや、素直に理解していただけ。

 花中が言っていたように、最初から『猫』の気持ちで考えれば簡単に分かる話だった。そして話が簡単なら、やる事もまた簡単だ。

「兄さん……大丈夫?」

 一通り笑ったミィは振り返る。

 キャスパリーグは、もうしっかりと自分の足で立っていた。先程まで絶え絶えになっていた息は、今では少し鼻息が荒い程度。眼差しにも生気が戻り、真っ直ぐミィを射抜く。

 ミィはもう、その眼差しに怯えない。射抜かれたなら、射抜き返してやる。

 ……しばし互いに相手を見続けていると、不意に、キャスパリーグがため息を吐いた。

「お前な……睨み合いをしてどうする。俺に息を整える暇を与えるつもりなのか?」

「え? ……あっ!?」

 兄に指摘され、ミィはようやく自分の失態に気付いた。確かにこのままにしていたら兄は息を整え、万全の態勢になってしまう。しかも自分達には肉体を自在に操る能力があり、その応用で細胞分裂や血流を促進させ、疲労や怪我の高速回復が可能だ。

 まだ復讐を諦めてもらっていない以上、負傷や疲労をしている方が何かと好都合である。叩くなら早ければ早いほど良い。とはいえ、指摘されたから攻撃を仕掛けるというのはなんか情けない。

 ぐだぐだ、うだうだ。雰囲気がどんどん崩れていく。さっきまで場に満ちていた、お互いの想いが鍔迫り合いをしているような張り詰めた空気が逃げるように薄れていく。

 だからだろうか。キャスパリーグが、ふっと口角を上げた。

「全く、相変わらずだなお前は……どうして俺を助けた? あのままにしておけば俺は死んだ。そうすればお前の大好きな人間は誰一人傷付く事なく助けられたんだぞ」

「……だって、まだ兄さんとちゃんと話をしてないから……話を聞いてもらってなくて、復讐も止めてもらってない。そんなの嫌だから助けたの」

「くどい。止める気はないと言っているだろう」

「話はちゃんと聞いてよ。止めてほしいじゃなくて、()()()()()()()()()って言ったんだけど」

 ミィの言葉で、キャスパリーグは考えるように天を仰ぐ。それから、やれやれとばかりに首を横に振る。

「結局は力尽く、という訳か」

「うん。それも今度は本気で、ね」

 そう告げて、ミィはキャスパリーグからゆっくりと、後ろ歩きで距離を取る。キャスパリーグも、ミィを視界に捉えたままゆっくりと、後ろに歩いていく。

 互いに立ち止まった時、二匹の距離は二十メートルほど開いていた。

 距離を『十分』に確保出来たのを自分の目で確認した二匹は大きく息を吸い込み――――

 ベギンッ! と、身体から音を響かせた。

 ぶわりと髪の毛が逆立つ。ペキペキと音を鳴らしながら、ゆっくりと首が長く伸びていく。顔面が歪み、目尻が裂けて人よりも遥かに巨大な眼球が露出。口先が尖るように伸び、つられて鼻筋が、額が大きく歪んでいく。

 腕は一気に膨れ上がり、指は少しずつ短く、太く変形する。足は腕以上の太さへと変化し、ギチギチと歪な声を上げながら伸びていく。肌色の皮膚からは雨期を迎えて一斉に芽吹く草のように毛が次々に生え、肌色だった身体を黒く染め上げていく。そしてお尻の部分からは一本の、筋肉の塊で出来た長い尾っぽが生えてくる。

 ベキ、ゴキボキ、ギチ、ギギ、ゴギンッ、ベギッ、バギンッ……

 それは時間にすればたった十秒ほどの、気色悪い演奏会。やがてミィとキャスパリーグの身体から音が失せた時、人の姿は完全に消えた。

 代わりに立つのは、二匹の獣。

 一方は体長四メートル、もう一方は体長五・五メートルほど。全身を黒色の毛で覆い、筋肉質な体躯をしている……ネコ科らしい顔立ちの猛獣。

 それがミィとキャスパリーグが変化した姿だとは、変化を最初から見た者以外には分からない事だろう。

「ふぅ。この姿になるのも久しぶりだな。さて、何ヶ月ぶりか……」

 大きい体躯の方の怪物が、男の声で喋る。人型の時よりも僅かに濁りの混じった発音だが、間違いなくキャスパリーグの声だ。

 この姿こそがミィ達の本当の姿であり、そして百パーセントの力を解放した、『本気』の力を発揮出来る唯一の形態。

 こうなったらどうなるか。それはミィにも、キャスパリーグにも分からない。何しろこの姿になって本気で戦った事など……生まれてすぐの頃に数度やっただけ。まだ小さかった、体重一キロにも満ちていない頃の話。

 ――――そう、あの時以来の『戦い』。

「言っておくが、手加減はしない」

「分かってる。というか、する訳ないじゃん」

 完全なる獣と化した二匹は、同時に、その身体で構えを取る。前脚後ろ脚を広げ、身体を前傾にし、尾をピンと伸ばす。

 一触即発、どちらかが打って出ればもう一方も即座に動くだろう状況。

 その中で、ミィがくっくっと、噛み殺すように笑った。

「……どうした、何がおかしい」

「ふふ。おかしくはないけどさ、久しぶりだなって思って」

「久しぶり? お前、この戦いをなんだと思って」

「意地っ張りな兄貴に、可愛い妹がワガママを押し通そうとしている。そういうの、なんていうか知ってる?」

「む……」

 ミィからの問い掛けに、キャスパリーグは言葉を詰まらせる。その戸惑いが、今のミィには愉快で堪らない。

 人間がたくさん死ぬだとか、家族の復讐だとか……そんな大きな『建前』に目が眩んでいた。誰かに助けてほしいと願ってしまった。いや、きっと花中の言葉がなければ今も惑わされ、悲壮に打ちひしがれて兄と対面していたに違いない。

 猫なのだから、猫の事だけ考えれば良い。

 猫なのだから、猫の視点で物事を見れば良い。

 そうすれば自ずと本質は見通せる。見通せてしまえば、なんとくだらない話なのか。

 結局のところこの戦いはちょっとばかし規模が大きいだけの、

「『兄妹ゲンカ』って、言うんだよっ!」

 ミィの声に続き、爆音が山中に轟いた。

 

 

 

「さかなちゃーん。そろそろ離してあげたらー?」

「いいえまだです! こんなんじゃ足りませんっ!」

 麓にある、旧ダム地。今では瓦礫の山と化したその場所に、ミリオンとフィアは居た。フィアはぷっくりと頬を膨らませてご機嫌斜めを猛アピールしており、ミリオンはそんなフィアを見て呆れたように肩を竦める。

 そして二人の友達である花中は、フィアの膝の上に乗せられ、ぎゅうっと抱き締められていた。腕を外に出す事も許されない、拘束されているも同然な抱き締められ方。しかもあまり力加減が出来ておらず、少し身体が痛い。死ぬとは思わないが、痛みなのだからないに越した事はない。

 それでも花中は離してだとか痛いだとか、不満を訴える言葉を漏らす事はなく、苦笑いをするだけ。

 何分この抱き締め行為――――フィアへの謝罪というか、お詫びみたいなものなので。

「はなちゃんも、辛いなら辛いって言った方が良いわよ。ほっとくとさかなちゃん、絶対離してくれないだろうから」

「で、でも、脅すような、真似、しちゃいましたし……お詫びと、お礼を、しないと」

「そうですよ! 私が花中さんの事が大好きなのは花中さんが一番知ってるでしょうに! 深く傷付いたのでその分の慰謝料はしっかりいただきますからね!」

 そう言うとフィアはポフンと花中の髪に顔を埋め、深呼吸をするかのように口から息を吸い込む。フィア曰く、空気と共に花中の匂い成分を取り込み、水に溶け込ませ、その花中の匂いをたっぷりと含んだ水を自分の鼻まで運んで堪能するとの事。フィアの本体は未だ山の奥深くに潜んでいるため直に花中と触れ合う事が出来ず、またフナであるため嗅覚がとても発達している事を思えば……人間である花中には理解し辛いが、案外普通のコミュニケーションなのかも知れない。

 それに先程ミリオンに答えたように、これはお詫びであるのと同時に、お礼でもあるのだ。

 あの二匹に、『兄妹ゲンカ』をさせてくれた事への。

「しっかしまぁ、真の力を解放する、なんて少年漫画みたいな展開は予想外だったわ。むしろあの人間形態がリミッター解除的なもんだと思ってたのに。どのぐらいパワーアップしてるのかしら?」

「地面を蹴る力から推測するに今までの十二割増しといったところでしょうか。二十%増じゃなくて百二十%増ですからそこのところ勘違いしませんように」

「もう私じゃ手に負えないわねー。飛び回るハエを捕まえるのは苦手だもの」

 フィアと他愛ない話をしながら、ミリオンは近くの尾根を見上げる。花中も見たいが、強靭な友人によって羽交い絞めにされているのであまり自由に辺りを見渡せない。ミリオンと同じ景色を視界に入れる事は出来なかった。

 それでも身体を叩くような衝撃波から、尾根で起きているケンカの規模はうっすらとだが感じ取れる。

「時に花中さん。あの野良猫が兄に勝てず説得も失敗した場合はどうするか分かってますよね?」

「……うん。ミィさんが、勝てなかったら……もう『止める』しかない。その時は、お願いするね」

「結構。私としても花中さんの安全を脅かす輩は野放しに出来ませんからね。あれほど大きな力となれば尚更です。まぁケンカで多少なりと弱るでしょうから『処理』は簡単だとして……果たして妹に勝てますかね。体格差からして相当不利だと思うのですが。同種ですから隠し玉なんかもないでしょうし」

「うっ……わ、わたしは信じてるから……」

「信じて勝てたら苦労はしませんけどね。んじゃ私は兄が勝つ方に賭けましょう。勝ったら明日の朝まで花中さんをぎゅーっとさせていただきますね」

「ふぇっ!?」

「んふふふふ。一度花中さんの匂いを嗅ぎながら眠ってみたかったんですよねー」

 戸惑う花中を余所に、フィアは上機嫌に鼻を鳴らす。どうやら既に賭けには勝ったつもりでいるらしい。心なしか、抱き締める力も強くなっている。この二週間で誰かにくっつかれた回数は数えきれないほどに達し、かなり慣れてきたとはいえ、密着されると花中は未だ心臓の高鳴りを抑えられない。

 こんな調子で、さて、今夜はぐっすりと眠れるだろうか。

 ミィに勝ってもらわねば困る理由がまた一つ増えてしまい、花中はため息の後祈るように手を組むのだった。

 

 

 

 最初の攻撃は、ミィが繰り出したパンチだった。

 射程距離ギリギリまで相手に接近、その後素早く前足による打撃を加える……言葉にすれば単純極まりないシンプルな攻撃。猫がネコジャラシ相手にやるのと変わらない、様子見のジャブだ。

 ただしミィが放ったものは、軽く音速の数十倍に達していたが。大気を吹っ飛ばし、生じた爆音を置き去りにしながら、ミィの左手はキャスパリーグの顔面へ。

 初手の一撃は見事無防備な兄の右頬に直撃。衝撃が突き抜け、暴風が辺りに吹き荒れた。

「フンッ!」

「ギャンッ!?」

 それほどの打撃をなんの問題もなく耐えたキャスパリーグは、容赦のない反撃をミィに叩き付ける! ミィよりも大柄故リーチの長い左前足はミィの背中を易々と捉え、鈍器が如く重く硬い拳をお見舞いした。豪腕の威力に耐えきれず、ミィの足は挫け、身体を地面に打ち付けてしまう。

 瞬間、ノロマな大轟音が衝撃波となって山全体を駆け巡った。山頂のみならず、中腹辺りに逃げ込んだ動物達や植物すらも容赦なく吹き飛ばしていく。最早山から獣は失せ、木々は無残に砕かれてしまう。

「ん、にゃろうっ!」

 だがミィは健在。

 叩き付けられ低くなった姿勢を維持したままダッシュ! 砲弾と化したミィは兄の懐に潜り込むや、そのまま一気に立ち上がる! いわばそれは全身の筋肉を使った巨大なアッパーカット!

 ボンッ! と爆風を伴い、キャスパリーグの上体が浮かび上がった!

「ぬぐっ、ァアッ!」

 しかしキャスパリーグは殆ど怯まず、左腕を振って懐に入ってきたミィを薙ぎ払わんとする。ミィはすかさず跳躍し、一旦距離を開ける。瞬時に判断した事で、兄の爪先が薄皮を撫でただけで済んだ。そして攻撃を外したキャスパリーグには大きな隙が出来ている筈。もう一度跳び込みそのまま突き飛ばせば……

 そう思ったのも束の間、ミィは異変に気付く。

 兄の身体が、燃えている。

 黒い毛がチリチリと音を立てている。周りの空気が揺らめいている。身体の一部の筋肉が不自然に膨れ上がり、口周りの涎がブクブクと沸騰している。

 ――――不味い。

 危機を感じ取ったミィはすぐさま息を吸い込み、

 時同じくして兄は息を、吐き出した。

 瞬間、息吹の通り道が赤く色付く!

 キャスパリーグの口から吐き出された赤色はさながら炎のように揺めき、竜巻の如く勢いで駆ける。辺りに燃えるものはない。草木も落ち葉も大木も、殴り合いの余波で既に彼方まで吹っ飛ばされているのだから。なのにチリチリパチパチと音がするのは……赤色に触れた周りの空気や地面が炙られ、弾けているからに違いない。

 恐ろしく膨大な熱量の強襲。前傾姿勢となっていたミィにこの灼熱を躱す動きは取れず、抗う間もなく赤色がミィの身体を撫でた。

「ぐぅ……!」

 呻きを上げ、ミィは苦悶の表情を浮かべる。吹き付けられた熱はミィの毛を焼き、肌を燻す。物理的防御を無視する熱学的攻撃、ミィの強靭な肉体もこのままでは灰にされてしまうだろう。

 だが問題はない。既に対策は取っている。

 心臓の鼓動を早めて全身の血流を加速。今し方浴びせかけられ、肉体に蓄積した大量の熱を血液で回収する。

 ここで血管を拡げ、冷たい外気へと排熱するのが通常の生理作用である。だがミィは『能力』である肉体操作によって逆に血管を収縮。熱を外部に漏らさず肺まで巡らせ――――そこで一気に解放。全身の熱を肺に溜まった空気へと移していく。

 当然肺の中はどんどん加熱されていき、通常ではあり得ない高温状態へと変化する。肺から焦げ付く臭いが上ってくる。喉が焼ける。口内の涎が沸騰する。血液の高温化・排熱機能抑制により十分な冷却が出来ず、表皮の毛がチリチリと焼けてくる。

 肉体的限界を感じたら、後は吐き出すのみ!

 ミィは勢いよく、肺に溜め込んでいた空気を口から吐いた。全身から回収した熱により、肺内部の空気は一千度近くまで上昇。金属をも溶かす灼熱の吐息と化す。

 ミィの吐息は自身に襲い掛かった熱を押し返し、兄と自分の中間で力が拮抗する。拮抗点では二つの熱量が合算され、濡れた地面が一瞬にしてマグマへと変貌を遂げていた。

 そして紅蓮の息吹は肺の空気が尽きるのと共に枯れる。

 ミィとキャスパリーグ、双方の息が止まったのは全くの同時だった。

「(うぅ……やっぱり兄さん強過ぎだよぉ……!)」

 涎が干からびてカピカピになった口周りを拭うミィの脳裏に、弱気な言葉が過る。

 元々この戦い、ミィの方が圧倒的に不利である。

 雌雄にどのような差があるかは種によって異なるが、猫の場合、雄の方が雌よりも体格がガッチリとしていて大型になりやすい。つまり雌よりも雄の方が力は強く、そしてタフだという事だ。無論筋肉が多ければエネルギー消費量も増大するため、雄の方が優れた存在とは言えない。自然界の掟は弱肉強食ではなく適者生存。強者である事は生存戦略の一つに過ぎない。

 しかし戦いという土俵に上がるのであれば、猫の場合間違いなく雌よりも雄の方が圧倒的に『適者』だ。

 これで能力がフィアのような如何にも超能力っぽいものなら、体格差など問題にならなかったかも知れない。しかしミィとキャスパリーグの能力は『自分の肉体を自在に操る』事。肉体の差が戦力の決定的な差となってしまう。速さも段違いであり、本来、今し方の攻防のように一時拮抗する事すら難しい。

 そう、難しいのだが……

 不思議とこれまでの攻撃は、キツイが耐える事は出来ている。動きも、辛うじてだが追えている。まるで手加減でもされているかのよう。

 無論、まさか本当に手加減している筈がない。

「(……疲れている、のかな)」

 ふと覚える違和感の正体を、超絶の反応速度を誇る思考回路で分析。フィアとの戦いが原因なのではとミィは推測する。ミリオンの言っていた事が確かなら、兄はフィアに一方的に嬲られている。少なくないダメージがあっただろうし、何より体力を大きく消耗したに違いない。全快状態の自分と比べコンディションに劣るのは明らかだ。

 ただ、その考えにもどうもすんなりとは納得出来ないが……のんびり考える暇はない。

 何しろミィは肉体操作の『能力』により疲労の回復も迅速に行えるのだ。実の兄であるキャスパリーグも同様の力が使えるのは言うまでもない。

「(本当の理由がなんであれ、休ませる訳にはいなかい、ねっ!)」

 一瞬の猶予すらも惜しみ、ミィはその身を()()()()()。四本の足で大地を蹴り、一直線に向かうは兄の傍。

 ただし近付いても減速などせず、むしろ加速。

 そして身を低く屈めて懐に潜り込んだら、一気に立ち上がる!

「ぐ、ぬぅっ!」

 キャスパリーグは堪えようとしてか唸りを上げるも、ミィが掛けた力の向きは上方向。ベクトル的には摘まみ上げられているのと同じであり、いくら踏ん張ろうと耐えられるものではない。数十トンという体重もミィの怪力の前では重石にもならない。

 キャスパリーグの身体は易々と傾き、持ち上げたミィ共々二本足で立つ形に。ミィは前脚の掌を能力により『拡張』するやキャスパリーグの前脚を握り締め――――そのまま、取っ組み合いへと持ち込む!

「た、お、れろぉぉ……!」

 ギチギチと筋肉が音を鳴らし、脈動する肉が膨大な熱を帯びて周囲の空気を陽炎の如く揺らめかす。ミィは全身全霊の力を込め、キャスパリーグを押し倒そうと前に意識と身体を傾ける。

 だが、一歩も前に進めない。

 組み合ったキャスパリーグの身体は、さながら山の如く不動を貫いていた。

「……大方、先程の戦いで疲れていると思ったのだろう。肉弾戦に持ち込めば体力回復を妨げられ、消耗が激しければそのまま一気に押し通せるとも」

「っ! だ、だったら何さ!」

「残念だが、甘い目論見だったな。いくら疲れていようと、お前に負けるほど俺は柔じゃない」

 ミィの強がりを一蹴するや、キャスパリーグが動き出す……ただし、前に。

「ちょ……ふ、うぐぎぎぎ……!?」

 必死になって踏ん張れど、ミィの身体はズルズルと地面の上を無情にも滑る。前に進むべく傾けていた身体が、少しずつ、着実に押し戻される。

 攻勢は一瞬で逆転してしまった。今やミィは押し倒される側となり、そして兄と違い、拮抗しきれず押されている。力を留められずに地面を滑っているのが却って幸いだ……完全に受け止めていたなら、今頃とうに押し倒されている。

 いや、滑り続けるのも限度がある。兄の力を受け止めている腕の『骨』が、ミシミシと音を鳴らしているのだ。

 骨といっても、ミィ達の実際の骨格は小さな猫姿の時のまま。正確には硬質化させた筋肉を骨に纏わせて形成した疑似骨格なのだが、硬質化した事で柔軟性に欠いており、限界以上の負荷が掛かれば骨のように折れてしまう。そうなれば本物の骨折のように激痛が走り、何より筋肉の付着点という土台としての機能を喪失するため筋力を発揮出来なくなる。しかも硬質化の代償として一定期間細胞分裂が鈍化するため、回復には時間が掛かる。元が筋肉なので純粋な骨よりかは圧倒的に早く回復するものの、破断となれば完治に半月ほど必要だ。少なくとも、この戦いの中においては通常の骨折と同じ扱いで良い。

 ただでさえ押されている上に骨折となれば、最早勝機はない。負けたらどうなる? 兄は復讐を諦めてくれていない。だから兄は人間を殺しに行くだろうし、花中を守るためにフィアとミリオンは兄を始末しようとする。兄が逃げ切れば人が、逃げ切れなければ兄が、殺される。どう転んでも『最悪』の結果にしかならない。

 そんなのは、嫌だ。

 負けられない。

 負けたくない!

「ま、ける、もんか……」

「……まだ諦めないか。だったらこちらも」

「負ける、もんかぁ……!」

「っ!? お、おい、待て――――!?」

 兄が何か言っていたが、聞き届けてなんてやらない。

 体力の消耗? 体格的な有利不利? ……違う。もっと視点を高く。

 キャスパリーグは『この後』、フィア達から逃げないといけない。つまり此処でヘトヘトになる訳にはいかないし、大きな怪我も出来ない。必然戦い方は慎重に、無難なものへと帰結する。対してミィは、極論を言ってしまえば共倒れに持ち込めればそれで十分。余裕のある勝利など必要としていない。

 兄と自分の力には大きな隔たりがある。だから無難な力加減の時に無難な力で挑んでも相手にならないし、こちらが無茶をしても兄が無茶を以てして迎え撃てば返り討ちに遭う。

 だが無難な力しか出せない時に、無茶な力でぶつかれば――――もしかすれば、もしかする。

「ぐ、ふ、ぅうヴヴヴヴヴヴヴ……!」

 少女の唸り声が、少しずつ獣の声へと変化していく。全身の筋肉を『解放』、今まで高密度を保っていた筋繊維を緩めていく。腕や手足だけでなく、腹周り、そして首の筋肉も膨れ上がり、全身を歪な筋肉の塊へと変えていく。体躯はぶくぶくと膨れ上がり、ミィの背丈はキャスパリーグを見下ろすほどに巨大化した。

 これは、諸刃の剣だ。

 今まで筋繊維同士で支え合い、桁違いのパワーと安全性を両立させていた。だがその密集状態を解放し、筋繊維一本当たりの自由度と面積を最大限に拡大する。支えを失った筋肉は強度を失って切れやすくなり、力のコントロールがやり辛い。膨らんだ筋肉が疑似骨格を圧迫して鈍痛を作り、血液の輸送能力を超えた熱量が発生するため熱さで頭が朦朧としてくる。

 それら全ての苦痛と引き換えにミィの身体は自由を、否、暴走を手にするのだ。

 その力の強さたるや、『本気』の倍に値する!

「ぬ、ぐ……!」

 ズシン、とキャスパリーグが一歩後ずさる。

 すぐにもう一度、ズシン、とキャスパリーグが半歩下がる。

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 咆哮と共に、ミィは一気に力を込める! ブチブチと身体中の筋肉が千切れ、オーバーヒートした体表から焼肉の香りが漂ってくる。

 しかし激痛など歯牙にも掛けず、ミィはひたすらに、愚直に前へと進み続けるのみ。キャスパリーグは顔を顰め、脂汗を流しながらもミィを押し留めようとするが、ミィの歩みは止まるどころか加速していく。

 ――――このまま一気に、押し倒す!

 熱暴走する頭の中でも色褪せない、ハッキリと浮かぶ強い意志を柱にミィは更に力強く踏み出し、

 そこでキャスパリーグは組み合っていた右手だけを引くのと同時に、大きく身体を捻った。

「(……! しま……)」

 事態に気付いた時にはもう遅く、前へと進むミィに対しキャスパリーグは舞うように身を翻す。さながらそれは闘牛士が猛牛を翻弄するかのよう。

 組み合う事が前提の力は、相手が居なくなった途端その行き場を失ってしまう。ましてやコントロールを捨て去っている今、止めようにも止まらない。勢い付いたミィの身体は投げ飛ばされるように数十メートルも()()()()()しまった。ぐるんと前転するように身体が回り、背中から地面に叩きつけられる。ここでミィがその反動を使って即座に体勢を立て直せたのは、偏に猫という格段に運動能力に優れた種だったからに他ならない。

 即ち他種族であれば見事な受け身も、同種であるキャスパリーグにとっては明確な隙。既にキャスパリーグはミィの方へと振り返り、猛然と駆け出している!

「グ、ガアッ!」

 ミィは即座に――――キャスパリーグとの距離が未だ十メートル以上離れているにも関わらず、その場でぐるんと全身と一緒に尾を振った。如何に肥大化したと言っても、今のミィの体長は六メートルほど。尾の切っ先すらもキャスパリーグには届いていない。

 だが尾の先端が薙ぎ払った空気は細く、そして極限まで圧縮され、白濁とした衝撃波となる。

 例えるならそれは大気の刃であり、白濁の刃はキャスパリーグ目掛け飛んでいった!

「っ!」

 キャスパリーグは即座に、ミィの『攻撃』を理解したのか駆ける足にブレーキを掛ける。しかし彼が立ち止まっても正面から飛来する『刃』は避けられない。

 一瞬右に身体を傾け、キャスパリーグは顔を顰めると最初に傾けた方とは反対側に大きく跳躍しこれを回避した。目標に当たらなかった『刃』は、ミィ達がケンカをしている此処とは谷を挟んで向かい側にある、傷一つない尾根に激突。火薬でも仕込んでいたかのように大量の木々と土砂が噴き上がらせながら爆音を周囲に轟かせる。

 その威力を背中越しに感じ、『もしも』を想像したのか。キャスパリーグは不快そうに目を細めた

 瞬間にミィはキャスパリーグに突撃! 全体重を乗せた体当たり――――正しくは頭突きを脇腹にお見舞いする!

「ぬ、ぐぅうっ!?」

「ガアアアアッ!」

 僅かながら怯んだキャスパリーグを追撃するように、ミィは頭を突き上げる! キャスパリーグの巨体はその勢いで僅かながら浮き上がり、浮いた身体目掛けミィは飛び込むかの如く跳躍。もう一度頭突きをお見舞いする!

 絶え間なく受けた攻撃にいよいよ耐え切れず、キャスパリーグは一瞬よろめき、挫いたように右膝を付く。けれどもキャスパリーグの闘志は消えない。前足だけで身体を跳び起こすや、爪を立てた両手でミィの身体をガッチリと抱え込み、今度は自分が頭突きを食らわせる! ミィもこの一撃によろめき、更に身体の肉が抉れてしまう、が、こちらも目から闘気は失せていない。ミィは地面を踏みしめるや即座に跳びかかり、今度は兄の太く屈強な首筋に人間の指よりも遥かに太い牙を突き立てた!

 頭突き、噛み付き、引っ掻き……されどその傷はどれも致命傷には至らない。巨大な筋肉を含めた肉体のコントロールが能力であるミィ達にとって自己修復機能もまた能力の適応範囲。骨折や硬質化させた筋肉のように細胞分裂の鈍い組織でなければ、即座に修復出来る。ミィの抉られた肉も、キャスパリーグの首に開いた穴も、十秒ほどで痕跡すら見えなくなる。

 やがて二度目の取っ組み合いに入ったが、最早そこに知性はない。相手の首に噛み付き、爪を腹の肉に突き立て、相手しか見ていないものだから足を滑らせ斜面を落石が如く勢いで転がり落ちる。斜面は頂上で発生した衝撃波の直撃を受けておらず、多少なりと無事な草木も生えていたが、数十トン……二体で百トンオーバーの重量と化した『落下物』を受け止められる生物など存在しない。爆風に耐えた巨木は小枝のようにへし折られ、難を逃れた草は着地の衝撃だけで弾け飛ぶ。殴り合いの余波が中腹辺りの動物達すらも吹き飛ばしていた事が、結果的に被害を小さくしている有り様だ。

 これほど破滅的な被害を辺りに撒き散らすも当の二匹はまるで気にせず、平地に落ちれば平然と起き上ってすぐさま取っ組み合いを再開する。互いの攻撃でしか相手が傷付かず、その傷も即座に修復される。全てを破壊しながら、二匹の獣は死に絶える事なく戦い続ける。

 ……しかし、諍いは少しずつ終局に向かっていた。

「ギ、ッ!」

 キャスパリーグの牙が、ミィの肩の肉に穴を開ける。即座に反撃しようとミィは左足を振り上げ、しかしキャスパリーグはこれを躱して腹を突き上げるような頭突きを食らわせてくる。

 持ち上げられ、投げられるようにミィの身体が宙に舞う。すぐに体勢を整えようとミィは猫らしく空中で身を捩り、

 ――――上手く、動けない。

「ゴガッ……!?」

 背中から、ミィは地面に叩きつけられた。猫でありながら受け身が取れず、痛みがもがき苦しむ……が、悠長にしている暇などない。

 転がるようにして即座に起き上り、ミィはすかさず前足を振るう。前足の太さ故に尾のような鋭さこそないが、音を置き去りにするほどの速さは周辺の空気を掻き乱し、暴風へと変貌させる。

「ふんっ!」

 しかしキャスパリーグは避けず、左腕を力一杯振り上げた。ミィと同様の動き――――生じる結果もまた同様。

 暴風と暴風がぶつかり、混ざり……ミィの方だけに突風が押し寄せる。

「グッ……!?」

 吹き荒れる風から目を守ろうと、ミィの身体は勝手に瞼を下ろしてしまう。理性では不味いと思えど、反射的な行動であるがために抑えきれない。

 そして晒してしまった隙が見逃してもらえる道理などなく、ミィはそのがら空きの顎にキャスパリーグの巨大な後ろ足を喰らう羽目になった。六メートル以上の巨体が立ち上がるように蹴り上げられ、それでも勢いは衰えずミィは地面に倒れてしまう。

 なんとかミィは身を起こし、立ち上がろうとする……が、あろう事か、崩れ落ちるように膝を付いてしまった。

「ナ、ニ……!?」

 自分のやらかした行動に、ミィは愕然となる。

 立ち上がろうとしているのに、腕に力が入らない。まるで痙攣するように全身が震え、酩酊しているかのような気持ち悪さで頭が揺さぶられる。呼吸が乱れ、十分な酸素が身体に回らない。

 突然の不調に戸惑うミィ。そのミィとの間隔を、キャスパリーグはゆっくりとした動きで詰めてきた。

「無理が祟ったな。『正常』な範囲を逸脱した力を振るえば、いずれそうなるのは必然だ」

「マ、ダ……マダ、ヤレルッ……!」 

「気持ちは一丁前のようだが、生憎それでどうにかなるもんじゃない。支えを失った筋肉が、自分の力に耐え切れず破断しているんだ。精神的問題じゃない。物理的にどうしようもない状態だと気付け」

 キャスパリーグの警告染みた言葉に、歯向かうようにミィは立ち上がろうとする――――だが、崩れ落ちるように前のめりに倒れてしまうだけ。いくら力を込めても、身体を支えられない。まるで自分の腕が他人に乗っ取られたような錯覚を覚える。

 もう前脚は、使えそうにない。

「マ、ダダアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 それでもミィは諦めず、まだ『生きて』いる後ろ脚で大地を蹴ってキャスパリーグに飛びかかり、

「――――遅い」

 キャスパリーグは跳び掛かってきたミィを、左手の一撃で易々と迎え撃った。

 目には見えるのに身体が動かず、ミィはキャスパリーグの攻撃を胴体でもろに受けてしまう。戦車すらも凌駕する超重量はボールのように弾かれ、大地を揺らしながら転がり、行く手にあった木々を押し潰し……どうにか止まったのは、切り立った崖の傍だった。

「グ、ウ、ゥゥ……フゥ、フゥ、フゥゥ……!」

 今度こそ立ち上がろうとミィは秘大地を踏み締めるが、今度は前脚どころか後ろ脚にも力が入らなくなっていた。頭が持ち上げられず地面の方を向き、乱れた吐息を繰り返す口からは沸騰した唾液がダラダラと零れ落ち、眼球が痙攣するように揺れ動いて視界がぼやける。

 このままでは戦うのは勿論、動く事も儘ならない。せめて攻撃が回避出来るよう足の筋繊維だけでも修復を――――

 しかしミィのその意図は、ズシン、という間近に聞こえた『足音』で、叶わなくなった。

「ここまで粘るとは予想外だったが、もう終わりだ。生憎、動けるまで待ってやるつもりはない」

 聞こえてくる、兄の声。未だミィは顔を上げる事が出来ないが、ズシン、ズシン、と耳に届く足音の大きさで、大凡の距離は掴めた。大体十メートル。体格、そして自分達のスピードからして、瞬きが終わる前に決着を付けられる位置だ。

「血の繋がった、最後の家族だ。命までは取らん。だが、そこまで消耗した状態で攻撃を受ければ、流石にしばらくは動けないだろう。そこから落ちたとなれば尚更だ」

「……あ、あたしヲ、倒しタら……フィア、たちが、きっと、止めようト、する……いくら、兄さンでも、フィアとミリオンに、追われたら、逃げ切れなイよ……!」

「それぐらいは想定済みだ。山と一体化している『奴』と『黒い化け物』に追われたら、確かに逃げるのも難しいだろう。だが、まるっきり無理ではない筈だ。どんな物事でもな……連中は、否定するかも知れんが」

 キャスパリーグが答えると、ざぁと、周囲にある倒木達の梢が一瞬ざわめく。それはフィアからの返事か、ミリオンの反応か、それともただの自然現象か。

 本当にフィアとミリオンの追跡から兄が逃れられるか、ミィには分からない。だがやるしかない以上、キャスパリーグは今更ミィに『止め』を刺す事を躊躇しないだろう。

 ようやく動かせるようになった首をミィは回し、自身の背後を振り返れば、崖の高さが窺い知れる。地殻変動の影響で元々切り立った崖が多い泥落山であるが、今自分が追い詰められた此処は一段と高く、中規模のビルぐらいの高さがあるように思えた。平時ならばいくら高くともどうという事はないが、今のように疲弊している状態では自分から飛び降りても危ないかも知れない。突き飛ばされたのなら、言わずもがな、だ。

 どうする? 破れかぶれで立ち向かうのは、足腰がガタついているから無理。受け止めるのは、もっと無理。寸でのところで身を躱す……かなり難しい。ならいっそ道連れにしてやれば、この高さなら或いは……いや、疲れ果てた自分を踏み台にされるのがオチではないか。

「(どうしたら……何か、今の兄さんと戦える方法は……!)」

 自分の頭では何も浮かばず、ミィは過去にすがりつく。さながら走馬灯が如く思考はめまぐるしく駆け回り、フィアとの戦いを、ミリオンの立ち振舞いを、花中の知略を振り返った――――

 それでも、何も浮かばない。

 フィアからも、ミリオンからも、花中からも……この状況を打開するための方法は得られない。フィアは自由な超能力を、ミリオンは理不尽極まりない力を、花中は研ぎ澄ました知力で困難に立ち向かっていた。誰も自分の戦い方とは似ていないのだ。参考になんてなる筈がない。

 ミィは深く、息を吐いた――――直後、ボギンッ! と身体を鳴らす。

 身体から鳴る生々しい音はしばらく続き、伴ってミィの身体も縮んでいく。無骨な筋肉にしなやかさが戻り、眼球は小さくなる頭に押され奥へと引っ込む。

 最後に一際大きな音を響かせると、ミィはすっと立ち上がり……完全なる少女の、人の姿へと変化していた。

 変化を見届けていた、猛獣姿のままであるキャスパリーグはふんっと鼻息を鳴らし、訝しげに表情を顰める。

「今更、どうして人の姿になる。その姿になっても、回復力は上がらん。むしろ血流が遅くなり、細胞分裂が鈍るぞ」

「でも防御力は上がるでしょ。筋肉が密になってる分だけ」

「……………」

 ミィの反論にキャスパリーグは僅かに言葉を詰まらせると、やれやれと言いたげに首を振った。身体を縮めれば防御力が上がるのは事実だが、減少した身体機能を補うほどではない。防御をほんの少し高めるために総合的な力を半減させるなど、本気の『ケンカ』をしている最中では愚行に等しい選択だ。

 ミィとてそんな事は分かっている。分かった上で、選んだ。どの道『フルパワー状態』ではもう勝ち目などないのだから。

「……最後まで諦めるつもりはないようだな」

「当然でしょ。自分からケンカを吹っ掛けときながら降参なんて、ダサ過ぎじゃん。やるんだったら最後までやるし、それに……」

「それに?」

「まだ、負けるなんて思ってないから」

 妹の強気な言葉に、キャスパリーグは何を思ったのだろうか。

 彼はため息一つ吐かず、表情を顰めず、じっと、ミィを見据えるだけ。

 ミィもまた、兄の瞳を睨み反すのみ。

 張りつめる緊張――――しかし人からすれば僅かな静寂も、猫達にとっては猶予に等しい。

「これで、終わりにするッ!」

 キャスパリーグは容赦なく、最大の加速度で突進してくる!

 ミィの身体は ― 僅かな時間でいくらか動けるようになったとはいえ ― 筋肉の損傷を回復しきれておらず、機敏な回避は出来そうにない。受け止めるべく足と腕を広げて訪れる衝撃を待ち構えるしかなく、ミィもまた最大の力を以てして兄と向かい合う。

 立ち向かう『人間』に、『猛獣』が襲い掛かる。構えるミィを射程内に捉えるやキャスパリーグは獅子の如く両前脚を突き出しながら跳び掛かり

 そして、

「あまり人間を嘗めてると、そのうち痛い目見るかもよ?」

 ミィはポツリと呟いた。

 瞬間、突進してくるキャスパリーグの巨体に掴み掛かったミィはその巨体を――――受け止めなかった。

 ぶつかる寸前キャスパリーグの下へと、ミィは自らの身体を勢い良く滑らせたのだ。

「――!?」

 四つ足の獣であり、跳び掛かってしまったキャスパリーグは目で追いこそするが、ミィの動きを止められない。ミィはするりとキャスパリーグの胴体の真下に潜り込む。

 そしてすぐさまキャスパリーグの下っ腹の辺りに、渾身の蹴りをお見舞いした。

 満身創痍で、且つ身体機能をセーブした状態。筋肉が他の部位と比べ薄い腹部とはいえ、この程度の威力では兄を怯ませる事すら難しい。そんなのはミィだって分かっている。最初から怯ませるつもりなんて毛頭ない。

 ――――如何に疲弊していようと、自分の体重を支えられるぐらいには回復した。兄の方が若干重いが許容範囲。

 力一杯蹴飛ばせば、兄の身体ぐらいなら浮かせられる!

「ふっ、ぬうううううううううううううっ!」

「!?!??」

 身体を掴んだまま腹を蹴り上げようとするミィの行動に、キャスパリーグは目を白黒させるばかり。

 もし、彼が少しでも人間を理解しようとしていたなら、ここまで動揺せずに済んだかも知れない。ミィが何をしようとしているのか気付き、どうすれば抗えるかを考えられたかも知れない。

 しかしキャスパリーグは、人間を敵視するだけだった。相手を知ろうとせず、ひたすらに憎悪を積み重ねただけ。少しでも人間に理解を示したミィを敵だと決め付けるほどに、人間を()()()()()

 だからミィだけが知っている。

 花中との思い出からは得られなかったが……もう一人の『友達』との思い出が、自分に力をくれる。万物を破壊して余りある力を持つ自分達は必要としなかった、弱いからこそ人間が編み出したものがある事を『彼女』は教えてくれた。その一つを、彼女は伝授してくれた。

 その名は『格闘技』。

 初めて加奈子と遊んだあのゲームセンターで学んだ――――巴投げだ!

「飛んでっけえええええええええええええっ!」

 ゲームの画面よりもぎこちない、だけどよりパワフルにアレンジされた人の技術が、キャスパリーグの身体を投げ飛ばした!

「ぬぐぅぉぉおおおおおおおっ!?」

 一人投げ飛ばされたキャスパリーグの声が色めき立つ。描く放物線はかなり角度が高く、十メートル以上の高さまで飛んでいく。今頃彼の眼下には、ミィが見たものよりも一層険しい断崖が広がっているだろう。

 しかし。

「この、程度……ッ!」

 キャスパリーグはぐりんと空中で身体を捻り、易々と体勢を立て直してしまう。

 そう、彼は猫であり、高く不安定な場所からの着地は種族的十八番だ。肉体的に適しているのは勿論、しなやかな着地をするための挙動は本能に染み付いている。何より全てを超越する肉体能力の前では、こんなビル一棟程度の高さなど脅威でもなんでもない。

 ……普段なら。

 だと言うのにキャスパリーグが浮かべるのは苦々しさと不安を滲ませた顰め面。

 挙句その右肩に『何か』が触れた瞬間、彼は跳ねるように振り返り、

 そして表情を驚愕一色に変えた。自分の右肩に飛び乗った、ミィと目が合ったために。

「お、おまっ……!?」

「あ、やっぱり焦った」

 狼狽した兄の顔を目の当たりにして、ミィはにやりと笑ってやる。

 ケンカをしていて覚えた違和感。

 本来ならばミィとキャスパリーグの力の差は、それこそ一瞬で全てが終わってしまうような、絶望的な開きがある。なのにどうして今まで、ジリ貧になるまで戦えたのか。最初は体力を消耗しているのが原因かと思っていたが……ケンカを続けているうちに、違和感の正体を見破った。

 左前脚による叩きつけ。

 左腕での薙ぎ払い。

 右腕を引いてからの投げ飛ばし。

 右側に跳ぼうとしたのを中断してまでやった、『左前脚』に力を込めての跳躍。

 真っ先に地面に着いた右肘。

 暴風を起こすために振り回した左腕。

 どの攻撃も、どの回避も――――全て、右腕に力が掛かるのを避けていたのだ。恐らくはフィアとの戦いで外からは見えない怪我……肩辺りの疑似骨格にヒビが入ってしまったのだろう。肩を痛めたとなれば万全の力など発揮出来ない。いや、全力を出そうものならあまりにも強力な自らの筋力に耐えきれず、ヒビが入って脆くなった『骨』は砕けてしまう。かといって能力で再生しようにも、硬質化させた筋肉の再生は遅い。否が応にも戦い方は穏健で、怪我のある部位を庇った歪なものにならざるを得ない。

 そんな状態にも係わらず高所から飛び降りるなど自爆に等しい暴挙と言えよう。ましてやそこに『強烈な打撃』を受けたなら――――

「お前、まさかそのために身体を!?」

 狼狽を隠せない様子の兄の叫びに、自由落下によってまもなく地面に着いてしまうが故にミィは自慢気に答えてやる事が出来ない。

 正にその通り。防御力の上昇は微々たるものでも、身体の密度はそれこそ何倍にもなっている。人間体ならその重量を全力状態よりも狭い範囲に集中させられる。そして空中でも自由に殴り掛かれる。

 重力加速度 × 大質量の一点集中 + 手加減なしの拳。

 如何に兄の肉体が強固だろうと、怪我をした身でこの一撃を耐えられるものか。

「言ったでしょ。人間見下してると痛い目見るかもって」

 だからこの言葉を以てして兄への返事とし、

「ぐ、うおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 最早気合いで耐えるしかないと、キャスパリーグは咆哮で以て答える。

 かくて二頭の『巨獣』は大地に堕ち。

 火山の噴火が如く轟き響く爆音に混じって、微かに、何かが割れるような音がしたのだった。

 

 

 

「……兄さん、大丈夫……?」

 獣の姿のまま俯せに倒れているキャスパリーグを見下ろしながら、少女の姿のミィはほんの少しオドオドとした、不安げな声で話し掛ける。

 キャスパリーグは両手両足を広げた大の字で倒れているが、獣の姿故にその姿勢でも頭上を見上げる事が出来ていた。この辺りの木々も戦いの余波で倒れており、空に広がる一面の星空……は麓の町明かりに負けて見えないが、青みがかった夜空の色が何処までも広がる光景は、何物にも邪魔される事無く見渡せた。

 その夜空を見て兄が何を思ったのか、ミィには分からない。しかし漏らしたキャスパリーグの吐息は、ミィには疲れ果てていながらも硬い芯は未だ残っているように感じた。

 やがてキャスパリーグは、ゆっくりと口を開く。

「肩の骨を折られて大丈夫も何もないだろう。尤も、俺達は怪我の治りも早いから、半月もすれば完治するだろうが」

「……まだ、人間への復讐は諦めてないの?」

「わざわざ言う必要があるのか」

 兄からの問い掛けに、ミィは唇を噛み締める。

 ケンカには勝てた。兄も生きている。しばらくは復讐など出来ない……だが、それだけ。キャスパリーグの心には未だ復讐の火が燻り、また何時か、今まで以上に燃え盛ってもおかしくない状況にある。

 その火は、いくら話し掛けても、いくら叩いても、結局消えてはくれなかった。最早残っている方法は『燃えている芯』ごと削るしかない。心をへし折るか、或いは身体を文字通りへし折るか。

 そんな事、望んでいないのに。望んでいないから、ケンカしたのに。

 これじゃあ、何も変わらない。

「う、ぅ、ううぅ……うううっ……!」

 涙が、ボロボロと溢れてくる。

 どうして、何も変わらない。自分の力不足なのか、それとも何かが足りていないのか。或いはもう、手遅れなのか? まだ何も始まっていないのに?

 もう、どうして良いのか分からない。ミィの表情は段々と崩れ、喉まで込み上がった叫びを吐き出さんと噛み締めていた口は自然と開き――――

「ああー、だけど半月も休んでいたら、やっぱり身体が鈍るだろうなぁー」

 寒気を覚えるほどに白々しい声が耳に届いた途端、喉まできていた声はぷすんと不発に終わった。

「……へ?」

 なんとなくミィの口から出たのは、疑問の声。

 聞き間違いでないのなら……今の声、兄さんの口から出てきたような?

「身体が鈍ったら鍛えないとなー。あー、しかも妹に負けたなんて情けないからかなり鍛えないとなー」

 困惑していると、今度は間違いなくキャスパリーグの口から白々しい言葉が。ミィが目を瞬かせる中、鍛えるのに何ヶ月も掛かるよなー、そんなに鍛えてたら冬になっちゃうよなー、冬じゃ雨なんてあまり降らないから土砂崩れを起し辛いなー、等々あからさまな独り言を延々と零す。

 そうしてミィが唖然とする中すっと四本の足で立ち上がり、

「という訳で俺は旅に出る。大体一年ぐらい。じゃ、そういう訳で」

 そのまま立ち去ろうとしたので、ミィはすかさずキャスパリーグの肩を掴んだ。無論、ボロボロに砕けているであろう右肩を、ガッチリと。

「いででででででっ!? ちょ、は、離せ! 痛いから離せ!」

「離す訳ないじゃん! その、も、もしかしてもしかするともしかしちゃうかもだけど、でもちゃんと言ってよ! そんな曖昧な言葉じゃ納得出来ない!」

「ぐ……」

 妹に問い詰められ、兄はサッと目を逸らす。しかし妹はじっと、じっと兄の目を離さず……

 やがて、キャスパリーグはため息を吐いた。大きく、深く。

「……やはり、人間を許す気にはならない。お前のように慣れ合う事は勿論、アイツ等の暢気で、傲慢な顔を思い起こすだけで腸が煮えくり返る」

「兄さん……で、でも」

「ただし!」

 説得しようとミィが声を出した、途端キャスパリーグの大きな声が山に響く。ミィは息を飲み、押し黙ってしまう。

 静寂の中、改めてキャスパリーグの口が動く。

「妹にケンカで負けて、情けを掛けられて、挙句大声で泣かれそうになって……それでも意地を通そうとは、思わない」

 ――――とても、穏やかに。

「にい、さん……?」

「全く、妹とは面倒なものだ。切り捨てたつもりなのに、敵だと思っていたのに……本気で泣かれたら、そんな気持ちはどっかにいっちまう」

「……………」

「……俺は、まだ人間を許していない。だけどお前を泣かせるのも嫌だ。だから―――― 一年だけ、時間がほしい」

 ミィがそっと、肩から手を離すと、キャスパリーグはミィに背中を向ける。

 彼は一歩二歩と歩み出したが、ミィはそれを止めない。

「一年だ。その一年で、俺も人間を見極めよう。多くの人間と関わろう。悪い人間も、良いとされる人間も。お前のように、出来るだけちゃんと知ろう。その上で、やはり人間の傲慢さと残忍さが目に余るようなら……今度こそ、復讐を止めるつもりはないからな」

 それじゃあな――――その言葉を境にキャスパリーグは大地を蹴り、姿を消した。後に残るのは、ふわりと残った空気の渦だけ。

 誰の目にも瞬間移動でもしたかのように、キャスパリーグはその姿を消した。しかしただ一匹、最後までその後ろ姿を見送っていた猫少女は、ふっと笑う。笑ってから、握り拳を前へと突き出す。

 そして、

「そん時は、またケンカして、大泣きして、こっちの言い分押し通すまでだよっ!」

 山中に響く元気な声で、恥じる事なくそう告げた。

 

 

 

 こうして兄妹ゲンカは幕を閉じ、

 

 山に本当の静寂が戻る。

 

 人が作り上げた巨大な文明は

 

 脆くも崩れ落ち、

 

 災害への備えは失われた。

 

 何万もの人の命が密かに救われ、

 

 同時に一つの尾根から息吹が消えた。

 

 被害は、見方によっては甚大だ。

 

 責任の追及もなく、咎人への罰もない。

 

 されど彼女達にとってこれは

 

 ただのケンカなのであって。

 

 終わり方など、大体こんなもので十分なのであった。




本作は能力バトル小説です(今回やってる事:超パワーVS超パワー)

……ドラゴン○ールを能力バトル漫画と呼ぶぐらい適当な事を言っている気がする。


次回は本日中に投稿する予定です。


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孤独な猫達11

 清々しいほどの青空が広がる朝だった。

 雲一つない空にはギラギラと輝く太陽があり、その力強い眩さを以て梅雨の終わりが近い事を地上に教え広めていた。日差しを受けた肌は刺さるような痛みと熱さを感じるが、冷気を帯びた風がそれらを持ち去ってくれる。日差しの強さと風の冷たさが程よく打ち消し合い、前日が大雨だった事を忘れてしまいそうになるほどの、爽やかで心地よい気候を作り出していた。

 尤も、今朝からテレビや新聞では泥落山で起きたダム崩壊についてひっきりなしの報道をしていたので、心地よさを感じる余裕がある人は、この町にはあまり居ないかも知れない。

 そして大桐花中という少女は、そういう不安なニュースを聞くと気持ちが引き摺られがちな性質であり。

 しかし今日に限れば、上機嫌なままであった。

「それじゃ、ゴミ捨てに、行って、くるね」

「はーい。行ってらっしゃーい」

 花のように愛らしく微笑みながら、花中は玄関まで見送りに来てくれたミリオンにそう伝える。ミリオンに快く送り出され、花中は生ゴミの入った小さな袋を片手に、浮いた足取りで家を出た。

 なんやかんや、久しぶりの生ゴミ捨て。

 といっても花中の家がゴミ屋敷に刻々と成長している訳ではなく、最近はフィアが手伝いとして捨てに行ってくれていたのだ。曰く「弱々しい花中さんが重たいゴミを持てずに転んで怪我したり生ゴミのような不衛生極まりない物を触って病気になっては大変ですから!」との事。かれこれ一年近く経つ一人暮らしでそういった経験は一度もないのだが、大事にされて悪い気はしない。全体的に弱々しいのも事実だ。そんな訳で、一緒に暮らすようになってから生ゴミや重たいゴミを捨てに行くのはフィアの仕事となっていた。

 が、今日のフィアはその日課をストライキ中。

 昨晩、自分から花中に賭けをふっかけたにも関わらず負けてしまったのが悔しくて、不貞寝を決め込んでしまったのだ。今は花中が出た後の抜け殻(ふとん)に潜り込んでいる。子供染みた思考と行動を目の当たりにし流石の花中も苦笑いを浮かべたが……ゴミ捨てが同居を許す条件という訳ではないので、戒めるというのは違和感を覚えてしまった。

 それに今朝の清々しい陽気を楽しまないというのは勿体ない。なので花中は久しぶりに、自分がゴミ捨てに行く事にしたのである。

 大桐家が割り当てられているゴミ捨て場は、家から徒歩二分ほどの場所にある。住宅地の中にあるそれは造成された上り坂の土台部分に寄り添う形で指定されており、コンクリートや柵などの境がない、鳥避けネットを被せるだけの簡易的なもの。とはいえ、正しく使えば鳥避けネットの効果は絶大だ。それにゴミ捨ての時間は指定されており、猫やタヌキが活動する深夜は禁止されている。ちゃんとルールを守れば、ゴミ捨て場は綺麗なままだ。

 そう、ちゃんと……

 ……嫌な事を思い出してしまい、先程までるんるんだった花中の気持ちは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「……うわぁ」

 そしてようやく辿り着いたゴミ捨て場で、花中は更に気落ちする。

 ゴミ捨て場は、袋から飛び出した生ゴミの鮮やかな色彩と、鼻を突く刺激臭で飾られていた。

 何羽かのカラスが花中の姿を見た瞬間飛び去ったが、彼等が全ての元凶とは言い辛い。見れば大きなゴミ袋がネットからはみ出している。たまにこういう捨て方をする人がいるのだが、それではネットの意味がないとどうして分からないのだろう。カラス達は食べられそうなものを食べただけだ。生き延びようとする行為を悪だと呼ぶのは、些か身勝手過ぎると花中は思う。

 或いは深夜に捨てて、タヌキや猫に引っ張り出されたかも知れない。

 ネットは所詮鳥避けだ。四脚でパワーのある獣達には通用しない。獣は鳥に比べて数が少なく、人通りを気にして明るい時間は滅多に姿を現さないのだが、深夜ならばお構いなし。蹂躙するようにゴミを荒らしていく。だからこそ、ゴミ出しの時間が指定されているというのに。

 いずれにせよ、ルールを守らなかった人がいたのが事の始まりだ。カラスは逃げ去ったが、黒猫が一匹今も堂々とゴミを荒らしている。食事の邪魔をするようで申し訳ないと思わなくもないが、これ以上ゴミ捨て場を汚されないためにも追い払うしかない――――

 と、ここで花中はハッとする。そして落ち込んでいた気持ちが、一気に持ち直した。

 何しろその猫が黒猫で、二本足で立っていて――――両手を使ってゴミ袋を開けているのだから。

「ミィさん?」

 試しに花中が名前を呼んでみると、黒猫はハッとした様子で花中の方へと振り向いた。これだけなら人の存在に気付き驚いた野良猫もするだろうが……その猫は驚いたまま固まり、ややあってバツが悪そうに目を逸らした。ただの野良猫ならこんな反応はしない。

 間違いなく『彼女』だ。『彼女』の性格からして、大方知り合いに恥ずかしいところを見られて居心地が悪い、と言ったところか。

 別に動物なのだから、生ゴミを食べるのが悪いとは思わないし、それに袋を破かずに食事を済ませるならゴミ捨てのマナーを守らない一部の人間よりもずっと『上品』と言えよう。周りに散らかっているゴミは恐らく他の野良猫やカラスがやったのだろうから、ならば恥じる事もあるまい。

「あ、えっと……朝ごはん、ですか?」

 だから花中は変に気遣いなどはせず、普通に話し掛ける。黒猫は身体も視線も右往左往させて、

「そ、そうなんだニャー。ご飯の最中なのニャー」

 やがて今まで使った事のないキテレツな語尾と共に、そうおどけてみせた。彼女なりの、精一杯の誤魔化しだったのかも知れない。

 しかし野太い男の声を裏返しながら言っては、流石に無理があると花中は思った。

「……あなたの妹さん、普段そんな語尾、付けていないと、思うのですが」

「……確かに聞いた事もないな」

「あと、なんで無理に、声真似、したの、ですか……」

「肉体操作で声帯部分を変形させれば声色ぐらい自由に変えられる。アイツの声を再現するのも難しくない。何度か実際に発声して調整すれば、だが」

 そう言うと彼女ではなく彼――――キャスパリーグは、あーあーあー、と何度か発声練習のように声を外に出す。

「大体こんな感じだ」

 そうしてから改めて喋った時、キャスパリーグの声は確かにミィとそっくりになっていた。強いて違いを上げるなら、ミィより若干声が高いぐらいか。比類なきパワーに目が惹かれがちだが、中々どうして器用な能力である。

 それから改めて、キャスパリーグは花中と目を合わせた。

 昨夜まで命を奪うか奪われるかの関係だった。いや、それはフィアやミリオンのような頼もしい友人達が傍に居たから成り立ったのであって、花中(にんげん)一人がどのような手段を用いたところで傷一つ負わせられる相手ではない。ミィの話だと今は怪我でまともに戦えない状態らしいが、推定体重差千倍以上の相手に対して怪我の有無など些末な違いだろう。身動ぎすら取れない危篤状態でもない限り、人間が体重数十グラムのネズミに負ける理由などないのだから。

 しかしいくら見つめ合っても、何時までも花中の身体が抉り飛ばされる瞬間はこない。

 だから昨日ミィが()()()()()()事は本当なのだと確信して、花中は強張っていた自分の頬がほんの少しだけ緩まるのを感じた。

「黒猫の、姿でしたから、勘違いして、しまいました。それに、どうして、市街地に?」

「ふん。アイツと約束しちまったからな。少しは人について学ぶと」

 花中の問い掛けに、何時もの逞しい男の声に戻したキャスパリーグは、不機嫌そうな鼻息を出してからそう答えた。

 それを聞いて花中は一瞬キョトンとした後、パッと笑顔を花咲かせる。人について学ぶ……つまり復讐鬼と化していた彼が、少しだけだが歩み寄ってくれたのだ。花中と、そしてミィにとってこんなにも嬉しい事はない。

 が、花中の笑顔はすぐに曇り、眉間に皺が。

「それで、何故ゴミ漁りを?」

「まずは人間の食生活を研究しようかと思ってな。身体は日々の鍛練と食事によって作られる。ならば肉体の一部である脳、そして脳から生じる思考も鍛練と食によって変わる。食を知れば人間の質の半分ぐらいは理解出来るに違いない。更に食事内容から、どのようなトレーニングを重視しているかも窺い知れる筈だ」

 堂々と返ってきたキャスパリーグの言葉に、花中は再びキョトンとする。それからややあって浮かべたのは、引き攣った笑み。確かに日々の食事は大切だ。間違っているとは思わない。が、なんというか、考え方が体育会系っぽい。鍛練を逐一挟んでくる辺りが特に。というか、何故全人類が毎日トレーニングに励んでいる前提で話を進めているのか。彼自身が毎日トレーニングしているのだろうか?

「……まぁ、良い考えかも、ですね。あれ? でも、それなら今まで、あなたは何を、食べて、いたのです、か?」

「ん? 川でコイや、山でシカやイノシシ、クマを捕まえて食っていたぞ」

「……ワイルドですね」

 体重数十トンともなれば食べる量も相当だろうに、この町周辺の生態系は大丈夫だったのか。壊滅しているか、それとも驚異的な捕食者の存在によって成り立っていたのか……彼の食生活の変化が好ましい状況を招く事を花中は祈るばかりだ。

 そうこう話していると、キャスパリーグは自ら開けたであろうゴミ袋を、どうしてか結び始めた。肉球のある丸っこい手でありながら、手際よく、しっかりと結び直していく。

「あれ? あの、食べないので……」

「お前に見られていて食欲が湧くと思うのか? 言っておくが、妹と約束をしたから一年は手を出さないだけだ。お前達人間を許した訳ではない。それを忘れるな」

 言うが早いか、間近で何かが炸裂したかのような音と振動が花中を襲う。花中は僅かによろめき、体勢を立て直した時にはもうキャスパリーグの姿は消えていた。残っていたのはコンクリートで舗装されている道路にしっかりと刻まれた、丸まった猫ほどの大きさのへこみだけ。

 呆気ない別れに、寂しさを覚えない訳でもない。

 だけど最初は一歩ずつ。ちょっとずつ近付くぐらいが『双方』にとって丁度良いのだろう。

「……ネギに気を付けて、って、言っておいた方が良かったかな」

 僅かな心配を伝えられなかったのが惜しいものの、花中の顔には笑みが浮かんだ。

「あーあー! またこんなになって!」

 が、それも刹那の出来事。不意に近くから聞こえた大声に驚いて、ピョンッと花中の身体が跳ねた。声がした方へと振り返ってみれば、そこには恰幅が ― 華奢な花中の三倍ぐらい ― 良く、目を吊り上げて怒りを露にする五十代ぐらいの女性の姿が。片手にはそれなりに大きなゴミ袋があり、彼女もまた花中同様ゴミ捨てに来たのは容易に察せられた。

「さ、佐藤さん……?」

「あーら、花中ちゃんじゃなーい。おはよう」

 偶々その女性とは知り合いだったので名前を呼んでみれば、佐藤さんは顰め面をほっこりとした笑顔に変えた。あまりにも早い感情の切り替えに、花中は僅かながら戸惑う。

 佐藤さんはこのゴミ捨て場周辺に家を持つ住民の一人。大桐家とご近所という訳ではないのだが、ゴミ捨て場が同じなので今のように時折顔を合わせる事がある。最近までは花中の顔がおぞましいほど怖くてそそくさと逃げられていたが……今ではこうして、普通に話が出来る程度には打ち解けていた。

 尤も、会話の主導権はお喋りで快活な佐藤さんに握られっぱなしなのだが。

「それにしても全く、また動物が荒らしていったみたいね」

「え、あ、はぁ……そう、ですね」

「本当にもう、掃除する方の身にもなってほしいわよっ」

 また苛立ちを露わにする佐藤さんの視線が向いているのは、先程までキャスパリーグが食事をしようとしていたゴミ捨て場。どうやら先程の大声も、ゴミが散乱している状態に対してのものだったらしい。

「もー臭いし汚いしで大変よ。しかもこれやってるの猫だって話じゃない。ほんと、猫は駄目ね! 庭で糞をするし植木は荒らすし、水入りペットボトル置いてみたけど全然効かなくてもう困っちゃうわ」

「……あ、あの……水入り、ペットボトル、は、その、猫には、なんの効果、も、ないの、です、が……」

「あら、そうなの? やだわぁ、どうしたら良いのかしら……」

 心底困ったように愚痴る佐藤さん。花中としてもゴミ捨て場が綺麗であるに越した事はないが、先程のように『上品な猫』も居る。あまり、素直に猫を非難出来ない。

 無論それを佐藤さんに教える訳にもいかないので、花中は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。

「やっぱり駆除しかないのかしら」

 ただ、この一言を境に苦笑いさえも出来なくなったが。

「……え……駆除……?」

「そうそう。飼い猫だったら飼い主に文句の一つでも言えるけど、野良じゃどうにもならないじゃない。だとしたらやっぱり駆除しかないんじゃないかしら。保健所に頼めばやってくれるのかしらねぇ?」

 佐藤さんは同意を求めるように、平然とそう答える。罪悪感どころか、悪意すら見せずに。

 いや、佐藤さんが邪悪なのではない。

 ゴミ捨て場を荒されて、掃除をするは近所の人だ。古紙などならまだしも、他人が出した生ゴミの掃除というのは精神的にキツイものがある。夏の盛りを迎えれば臭いだって酷くなるだろうし、衛生面からも好ましくない。自分の生活の安寧を守るために佐藤さんが手を打とうとするのは当然の考えであり、尚且つ権利だ。

 だけど。

 ――――この人は、『駆除』がどんなものか考えているのだろうか?

「? 花中ちゃん、どうしたの?」

 不思議そうに、こちらを覗き込む佐藤さんの視線に気付く。何時もなら、怯えて一歩二歩と下がっていただろう。

 しかし今日の花中は怯まず、正面から佐藤さんと向き合う。

 そして深く息を吸い込み、

「……その前に、出来る事から、しませんか?」

 キッパリと、そう伝えた。

「出来る事?」

「この時間は、ゴミ捨てのために、人が、往来します。普通の猫なら、まず、やってきません。今も、居ません、し。猫達は、夜にゴミを荒らして、いると、思われます。時間を守らず、ゴミを出して、いる人が、居るのでは、ないでしょうか」

「ああ……そういえば、夜にゴミを出している人が居るみたいね。近所のおばあちゃんが言ってたわね」

「まずは、誰がそれをしているのか、突き止めて、決まった時間に、ゴミを出すよう、注意、しましょう。それから、カゴ型の、ゴミ捨て、ボックスを、設置する、とか」

「うーん、注意は良いけどボックスねぇ……」

 花中の話に、佐藤さんは考え込むように顎に手を当てる。お金の事を考えているのかも知れない。どれだけ便利な物があっても、価格が高ければ実現は難しい。相手の懐事情もある。そこを考えずに意見を通そうとするのは、高価なオモチャを親に強請る子供と変わらない。

 まずは佐藤さんの意見を聞いてから。花中はぐっと口を噤み、佐藤さんからの返事を待つ。

「……そうね。そういうところを直さないといくら駆除しても繰り返しになるだけでしょうし、みんなに相談して考えてみようかしら」

 やがて返ってきた言葉に、花中は笑顔を咲かせた。

「は、はいっ! えと、ありがとうございますっ」

「ふふっ。そんな必死に頼まれたら駆除するなんて言い辛いわよ。花中ちゃん、優しいのね」

「え、ぃ、ぃぇ、その……そんな、訳では……」

 にこやかに微笑む佐藤さんに指摘され、自分がかなり必死に説得していた事に気付かされる。恥ずかしさで俯いた顔が段々と赤くなっていくのが分かるぐらい、花中は自分の頬が熱を帯びていくのを感じた。

「っと、そろそろ家に戻らないとね。全く、うちのバカ息子達も花中ちゃんみたいに一人で家事が出来たら楽なのに」

「わ、わたしは、親が、気儘で、自分がやらないと、いけなかっただけ、ですから……」

「あら。なら私も一週間ぐらい旦那と一緒に旅行でも行こうかしら」

 でもアイツ等を残していってもろくな事にならなそうだから無理ね、と最後に付け足し、佐藤さんは捨てたゴミにきちんとネットを被せてから、手を振ってこの場を後にした。

 その姿が家に入るところまで花中は見送り、それから小さく、息を吐く。

 別に、動物愛護に目覚めた訳ではない。

 増え過ぎた猫を駆除して減らすよりも、ゴミの捨て方を厳密化して餌を絶つ。栄養状態が悪くなれば産まれる子供が減って、結果少しずつ個体数が減るからより人道的……そんなのは人の傲慢だ。急激に餌が減れば飢えて死ぬ猫は必ず現れる。途方もない空腹と虚無の中でじわじわと死んでいく事の、一体どこが平穏で幸福な生だと言うのか。それに不幸になるぐらいなら産まれない方が良いという考え方は、不幸になりそうな命なら絶ってもよいという考えではなかろうか。

 人の都合で猫の数を減らそうというのなら、それは命を弄ぶ事だ。人間が何をしたところで、命は()()()()

 フィアならその板挟みの難問に、きっとこう答えるだろう。「だから他人の事なんて考えるだけ無駄なんですよ」と。

 全く以てその通りだ。生き物達は常に自由であり、自分の都合で生きていく。誰かが自分のせいで苦しんだとしても、死んだとしても、殺したとしても、それを気にも留めない。

 そして自分のした生き方を恥じる事も、後悔する事もない。

 猫なのだから猫の事だけ考えれば良い。ミィに告げたその言葉に嘘はない。だから人も、人なのだから人の事だけ考えれば良い。適正だと思う数まで駆除するのも、餌を絶って時間を掛けて少しずつ数を減らすのも、人の都合で決めれば良いのだ。

 その選択をして胸を張り、起こりうる全ての事に覚悟を持てるのなら。

「……ごめんなさい。これが、わたしでも覚悟が出来るやり方、です」

 そう独りごちた花中は持ってきたゴミ袋をネットの中にしまい、他のゴミ袋が外に出ていないのを確認してから家への帰路に就く。ただし帰宅ではなく、既に散らかっている残飯を片付けるための箒と塵取り、そして新しいゴミ袋を取りに戻るための。

 人間の豊かな生活は、命の消費と損失により成り立っている。どれだけ科学を進歩させようと、どれだけ人に倫理と知性が備わろうと、それは決して変えられない。命は常に、何かの命を不幸にして自分の幸福を手に入れる。

 ならばせめてその事を自覚して生きよう。

 そして苦難の末に辿り着いた結論を貫こう。『彼等』が喋り出した時に全てを説明出来るように。人への憎悪を募らせていると知った時戸惑わないように。憎しみの果てに自分の命を奪われそうになって――――それを理不尽な行いだと、身勝手な思い上がりを抱かないように。

 それが命を弄ぶ者としての責務であり、抱くべき覚悟なのだから。




取り上げたテーマがテーマなので、結末や花中の選んだ方法に納得のいかない方は多いと思います。賛同してくれる方も、同じぐらい居たら良いなとは個人的に思います。

私が一人の物書きとして願うのは、それらの意見に責任が伴う事です。
元々責任を自覚している方には、釈迦に説法でしょうけどね。

さて、次回もまた本日中に投稿予定。
第二章は今日中に投稿しきる……つもり(自分の発言に責任を持ちましょう)


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幕間二ノ三

 パチパチと、火花の散る音が辺りに響く。

 日が沈み、空に大きな月が浮かぶ頃。住宅地の側で何人かの若者がバーベキューをしていた。

 住宅地の側と言っても、自然と人工物の境界線が如く横たわる土手を越えた先。草地と小川、雑木林が広がる場所だった。川はとても小さく、幅は一メートル、深さ数十センチあるかどうか。雑木林の内側は町の明かりが届かず、どす黒い宵闇が満ちていてその中を窺い知る事すら叶わない。

 あまりバーベキューに向く環境とは言えないだろう。ならば何故、若者達は此処でバーベキューをしているのか?

 答えは、彼等の態度が物語っていた。

「ギャハハハハハッ! だっせー!」

「うっわぁ! 服にソースが付いたぞ!? やべぇよこれどーすんだよー!」

「知らないわよ、アンタが自爆しただけでしょー」

「あ、そこの川で洗ったら? 洗剤はないけどさー」

 夜遅くだというのに、抑える気のない大声。

 地面に撒き散らされたソースなどの調味料。

 辺りに投げ捨てられたゴミ。

 川辺とはいえ、草地で行われた花火の形跡。

 ……要するにマナーがなっておらず、正規の場所を追い出された流れ者達なのだ。メンバーは男二人と女二人、男女ともに二十代前半ぐらい。自分達がどうしてバーベキュー場から追い出されたのか、考える気もないらしい。

「仕方ねぇ、暑いしついでだからこのまま川入っちゃうか」

「おーい、溺れんなよー。俺、酒飲んでるから助けらんねぇからな」

「テメェにゃ期待してねぇよ」

 男の一人は服を着たままざぶざぶと川に入り、ソースで汚れた部分を洗おうとした――――その時だった。

 川に入った男の胴体が突如として燃え始めたのは。

「……………え?」

 ポカンと、声を上げる燃え盛る男。だが彼が()()()()()いられたのは、ほんの数秒だけ。

 数秒後に彼は、今までの大声など比較にならない絶叫を上げた。

「ぎぃやああああああああああああああ!? あ、あがぃいいいいいいいいい!? ひいいいいいいい!」

「きゃあっ!?」

「ひっ!? な、何!? なんなの!?」

「川だ! 早く川に浸かれ!」

 無事だった男の指示に従った、訳ではないだろうが、燃え盛る男はその場で横になる。ジュウッ、と音を立て、男を包んでいた炎は消えた……尤も、今度は川に浸かったまま動かないが。

「は、早く川から出さないと!」

 女の一人が川に浸かったままの男を心配し、駆け寄らんと走り出す。

 ところがどうしたのだろう。走り出した女は一旦川の近くまで行ったにも拘わらず、何故か川から離れ、そこらをふらふらと歩き始めた。

「ちょっと、何ふざけてんの!? 早く助け――――」

 まるで真剣みのない態度。もう一人の女が叱責しようと声を荒らげた。

 その声は最後まで続かなかった。

「ふ、ふざけてないわよ! ふざけてないけど……分かんないの」

 ふらふらと動き回る女が、もう一人の女の方へと振り返る。

「だって急に、何も見えなくなって……みんな、何処に行っちゃったの……?」

 そして立ち止まった彼女は、ズタズタに裂かれ、中身のガラス体をドロドロと垂れ流しにしている眼球で、もう一人の女を凝視した。

「ひぃいいいい!? や、こ、来ないで! 来な、ぃ!?」

 あまりにおぞましい姿に、もう一人の女は逃げ出そうとし――――たら、不意に切られたような激痛が走り、カクンとその場に座り込んでしまう。

「え? あ、足が、なんで動かな……」

 女は自らの足を、反射的に見る。

 するとどうだ。自らの足がドロドロに溶けて、原型を留めていないではないか。

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁ!? 私の足が!? 足がぁ!」

「な、なんなんだよ……なんなんだよこれ……!?」

 次々と倒れる友人達の姿に、最後まで残った男は顔を引き攣らせ、共に騒いでいた仲間達から離れるように後退り。

「あ、あぁあぁあああぁあぁあ!?」

 ついには悲鳴を上げ、仲間を見捨てて男は逃げ出した!

 ――――逃げ出したにも拘わらず、男は仲間の下へと戻ってきた。

「ひぃぃ!? な、なんで俺は此処に……!?」

 再び男は駆ける。駆けて、ぐるりと弧を描き、仲間の下に戻る、

「な、な、な、なな、な、な、な」

 言葉にならない、嗚咽混じりの声を零しながら、男は逃げ、戻り、逃げ、戻り、

「なんで、なんで俺は此処に戻ってきちまうんだぁ!?」

 自分の身に起きた不可解な事象を、叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 彼女は木の上で笑っていた。

 

 彼女がその力を気紛れに振るえば、

 

 苦悶、嘆き、悲鳴、絶叫、

 

 地上はあらゆる絶望が満ちる地獄絵図と化した。

 

 やがて人間達は動きが段々と鈍くなる。

 

 すると彼女は笑みを消し、打って変わって

 

 つまらなそうに人間達を眺めた。

 

 さながら、電池の切れたオモチャを見つめる

 

 稚児のように。

 

 そして人間達が『何か』に助けを求め始めると、

 

 彼女に再び笑みが戻った。

 

 そうか、助けてほしいのか。

 

 人間達の言葉に、彼女はこくこくと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間達に、今まで以上の地獄が襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女は待っていた。時の訪れを。

 

 少女は耐えていた。願望と欲望の狭間で。

 

 少女は知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世に、祈りを届ける者などいない事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三章 亡き乙女に音色は届かない

 

 

 

 

 

 




はい、そんな訳で第三章は【亡き乙女に音色は届かない】です。
某シューティングのラスボスBGMじゃねーですよ?(そこまで語呂は似ていない)

次回は8/20投稿予定です。



8/18追記
高確率で誤解されそうな部分に気付き、修正しました。


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第三章 亡き乙女に音色は届かない
亡き乙女に音色は届かない1


前回の【幕間二ノ三】にて、一部文章を修正しました。
本章の『謎』のヒントになる部分での失態、まことに申し訳ありません。


 蒸し暑く、じっとりとした湿り気に満ちた夜だった。

 今夜は満月。雲一つない夜空で月は煌々と輝いていたが、それを眺めて楽しもうとする人の姿は何処にもない。何しろ今の時刻は深夜二時。起きているのは夜勤の仕事に励む人々と、昼夜が逆転した堕落人ぐらいなもの。いずれも外に出てくる事は滅多になく、町に人影はない。ましてや此処のような、昼間でも閑静な住宅地となれば尚更である。

 一応人間以外の動物達であれば、起きているものはそれなりに多い。しかし空を飛び交うコウモリ達の叫び声は人間には聞こえず、彼等の食料である虫の羽音は小さ過ぎて届かない。風に揺れて擦れ合う木の葉の音や、虫達の透き通った求愛の歌声は環境に溶け込んで意識を妨げはしないだろう。気に掛かるのは、コンクリートの道路にヒビを入れながら歩く黒猫の足音ぐらいだ。

 ただし今夜はそれらに加え、乾いた靴の慌ただしい音も混ざっていたが。

 靴音を鳴らしているのは一人の若い男だった。男はやや童顔の、二十代前半ぐらいの風体。背丈こそ並だが身体付きは華奢で、よろよろと走る姿に男性的な力強さはない。しかし顔に浮かべている爽やかな笑みには歳相応の若々しさがあり、活力に満ちていた。着込む黒いタキシードは真新しく、息を荒くしながら駆ける姿は青春の盛りを迎えているかのよう。手に持つバイオリンケースを大きく揺らす様も、乱暴と言うより若さを感じさせる。

 そんな彼が向かう先は住宅地の奥の奥……をも通り過ぎた場所。

 住宅地脇の道路を横切った先に、子供でも跳び下りるのに躊躇しない程度の低い土手があった。土手を下りたその先には平地が広がっている。道路脇に立っている街灯と満月に照らされ、一面に膝丈ほどに伸びた草が生い茂っている光景を見渡せる。その平地の数メートル先へと目を向ければ……雑木林の側を流れる、一本の小川を見付けられる事だろう。

 土手を下り、草むらを蹴り分け、青年は小川の下へと進む。小川の幅は一メートル程度か。住宅地から離れ過ぎていて街灯の明かりは届かず、月明かりだけではその正確な深さを測る事は出来ない。せせらぎの静かさから数十センチ程度と想像するのが限界だ。

 そして向こう岸の先は雑木林になっていたが、最早そこは月明かりすらも届かない深淵の世界。完全なる暗闇に閉ざされており、奥を覗き込む事は例え猫の目を持っていようと叶いそうになかった。

「はぁ……はぁ……」

 しかし小川の傍で立ち止まった青年は、息を整えながら林の暗闇を凝視する。ひたすらに、延々と見続け……

 やがて、その眼を大きく見開いた。

 一体、何時からそこに居たのか。木々の輪郭がうっすら見えるギリギリの境界線に、『彼女』は音もなく現れていた。

 彼女は焔を想起させるほどに紅く、長く伸びた髪を携えていた。百四十センチほどの小さな身体を木の陰に隠しながら、青年の方を覗き込んでいる。暗闇の中でも輝くように映える若葉色のワンピースを着ており、襟元にある白いリボンがとてもお洒落だ。服から覗かせている四肢は静脈が透けて見えるほど透き通り、輪郭はぼんやりと光を放って全身を幻想で彩っていた。

 そんなお伽噺のような姿でありながら、表情はなんの夢も感じさせない無感動一色。あどけない顔に、子供らしさは欠片も感じられない。青年を見つめる海よりも透き通った青い瞳は、なんの想いも抱いていないガラス玉のようだった。

「会えた……会いたかったよ、妖精さん!」

 尤も青年は少女の表情など気にも留めず、とても親しげに、情熱的な愛しさを隠さずに呼び掛けた。呼び掛けられた、妖精と言われた少女は音もなく歩き出し、木の陰から、雑木林の中から出てくる。少女もまた、小川のすぐ傍までやってきた。

 小川を挟み、少女と青年は向かい合う。どちらかが濡れる事を恐れず片足を前に出せば、それだけで二人の手を固く結ぶ事が出来るだろう。

 青年は間近まで来てくれた妖精さんを見て、うっとりとした微笑を浮かべた。

「妖精さん。約束、覚えてくれているかい?」

 青年は対岸で立ち止まる少女に声を掛けた後バイオリンケースを地面に置き、タキシードの内側に手を突っ込む。そこから取り出したのは、片手に収まるぐらい小さな純白の箱だった。

 箱を前にしても少女は表情一つ変えず、こてんと首を傾げる。動作だけで好奇を表す少女を見て、青年はゆっくりと純白の箱を開けて――――その中に納まっていた指輪を披露した。銀色のリングに、透明且つ強い煌めきを放つ宝石が付けられた、シンプルなデザインの指輪だ。

「覚えてくれているかい? 初めて君と出会った時に奏でた、あの曲の事を。あの曲は、向こうでも大きな評価を付けてもらえた。君と僕との思い出が、みんなの心を響かせる事が出来たんだ。他にも君との初めてのデートで披露した曲も、誕生日を知らなかった君を祝うために作った曲も、日本を旅立つ時君に送った曲も……全てが向こうで認めてもらえた。全ての曲が、君と出会えなければ書けなかった。君と過ごした日々が、僕を一人前の男にしてくれたんだ」

 青年は静かに瞼を閉じ、情熱的に語る。瞼の裏には思い出の景色が浮かんでいるのだろうか、時折懐かしんだ笑いが口から漏れ出ていた。

 対して、青年の言葉に耳を傾けている少女はくすりとも笑わない。

 むしろ感情がなかった筈の口元が、ほんの少し下がっているような……

 けれども幸せそうな青年は、少女のほんの僅かな変化に気付かず。

「一人前の男になったら迎えに行く。二年前に交わした約束を今、果たすよ……僕と、結婚してください!」

 力いっぱいの大声と共に指輪入りの箱を前へと突き出し、頼み込むように深々と頭を下げた。ぎゅっと、祈るように目を瞑りながら。

 故に、彼は見逃した。

 自分が頭を下げた瞬間、足下で流れている小川が煌めきを放った光景を――――尤も、気付いたところで何が変わる訳でもないだろう。

 刹那、川から噴き出すように巨大な火柱が現れるなど、きっと誰にも想像出来ないのだから。

「わ、うわぁ!?」

 突然の炎に驚き、青年は咄嗟に踏ん張る事も出来ずに尻餅を撞いてしまう。大切な指輪は転んだ拍子に川辺一面に生えている草むらの中に飛んでいってしまった。だが青年は指輪に目もくれず、ただただ唖然とした、困惑に染まった表情で焔の向こう側に居る少女を見つめるばかり。

「よ、妖精さん? どうして、そんな……も、もしかして怒って、熱っ!?」

 立ち上がり、慌てて妖精なる少女に近付こうとする青年だったが、奥行きは川幅一杯、横は十メートル以上にも渡って燃え盛る炎に阻まれて先に進めない。炎は青年の身長を易々と超えた高さまで燃え上がっており、熱を待った輝きは辺りを真夏の炎天下にも引けを取らないほど眩く周囲を照らしている。焙られた青年の身体はだらだらと汗を流し、近付けない、これ以上は無理だと悲鳴を上げていた。

「妖精さん……! お願いだ、話を……」

 それでも青年は一歩、燃え盛る炎に触れる事をも恐れず前へと進み、

 けれども少女はそっぽを向いてしまった、瞬間、その姿を消した……まるで、暗闇に溶けてしまったかのように。

「妖精、さん……なんで……」

 少女が消えるのと共に炎もまた一瞬にして消えたが、青年は川を渡らず、その場で崩れ落ちるように膝を付く。虚ろな眼差しで林の奥を見続ける。

 されど暗闇からはもう、何も現れない。

 後に残るのは風に揺られる無力な草の葉音と、青年を嘲笑うような虫の音だけだった――――




急用が入ったため、予約投稿というものにチャレンジしてみました。

さて、第三章はちょっぴり謎解き風です。
なんでもありなSF能力バトル小説で果たして推理など出来るのか?
そもそも前回の話で早速やらかしてる私にまともな推理小説など書(ry

軽い気持ちで挑んでもらえたら幸いです。


次回は、8/20~8/21の間に投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない2

 垂らした水を弾くほどに、艶やかで張りのある肉。

 一齧りすればその弾力ある肉からたくさんの肉汁が弾け、口の中を濃厚な風味とフレッシュな食感で満たしてくれる。喉を通って鼻に抜けていく香りは上品の一言に尽き、彼等が餌として食べている香草の影響を色濃く受けた結果なのだろう。しかもその餌は有機農法で育てられたものだけが使われている。

 安心、安全、美味。これ以上に魅力的な食材が他にあるだろうか? いいや、ありはしない!

 ……………と、いうような売り文句を花中は言われた。一番の友達であるフィアに。

「さぁさぁ花中さんも一緒に食べましょう♪」

 大桐家リビングにある四人掛けの大きなテーブルの席に座り、そう促してくるフィア。長袖で何重ものフリルで飾られたドレスという如何にも暑そうな身形をしているが、身形どころか彼女の『身体』自体が水で作った偽物。フィアが浮かべるのは暑さなど微塵も感じさせない、涼やかな笑みであった。

 そんな笑みを向けられて、対面の席に座る花中は逃げるように視線を壁の方へと逸らす。

 壁に掛けてあるカレンダーによれば本日は七月中旬、曜日は日曜日。梅雨が明けてからは痛いほどの快晴が続き、扇風機とエアコンが活躍する季節となった。花中も水玉模様が可愛らしい半袖ワンピースという涼しげな恰好をして、暑さ対策をしている。それでも理由もなく外出しようとは思えないぐらい、外の暑さは過酷だ。遠出する気はない。

 なので今日は早朝に自家菜園の様子を見て、その後積んでいた本を読み、それを消化したらぐでーっと和室で寝転んで……花中はのんびりとした余暇を家で過ごし、お昼を迎えた。身体は小さいが花中とて食べ盛りなお年頃。ちょっと身体を動かせば、それだけでお腹はぺこぺこだ。先月出会ったミィは野良猫らしく音信不通な野外暮らしをしていて、同居人であるミリオンは私用で外出中 ― とはいえ、いくつかの個体は花中の周囲を飛び回り、今も『監視』しているのだろうが ― 。今この家には実質花中とフィアしか居ないので、花中とフィアの都合でお昼を作り始めても問題はない。

 このようなシチュエーションで美味しい食べ物の話題。なんとフレンドリーで、友達っぽい話なのだろう。友達っぽい事が大好きな花中には、胸が張り裂けそうなぐらいの楽しさを感じていた。

「……え、遠慮しとこうかなー……」

 でも答えはNO。お断り。

 背中側で扇風機がフル回転で風を送ってくれているのに花中の額から汗が止まらないのは、網戸にしている窓から入り込む夏の日差しがリビング全体を暖めているから、ではなかった。

「えぇー? なんでですか? 食わず嫌いはいけませんよ?」

「食わず嫌い、というか、なんと、いうか……」

「だったら食べてみましょうよ。まろやかな味が癖になりますよ」

「ああ、うん。まろやか、だろうね……如何にも、まろやかっぽいし……」

 一生懸命おススメしてくるフィアから、あからさまに顔を逸らして花中は拒み続ける。しばし問答が続いたが、やがて折れたのはフィアの方。

「うーんこんなに美味しそうなのに……」

 至極残念そうにぼやきながらフィアは話題の食材を指で摘みあげる。

 そして摘み上げられた食材は、ぶにょりと蠢いた。

 丸々と太ったお芋のような容姿、緑色の身体に入る何本もの黒い筋と彩りのようなオレンジ色の斑紋、三センチオーバーの体長。色々な野菜を育てている方には割と馴染み深く、同時に憎たらしいだろう生き物。

 それはかなりの大物、もう何日かでサナギになったであろう……キアゲハの幼虫だった。

 何処で捕まえたのか? 花中の家の庭だ。最近花中は庭でパセリを育てているのだが、パセリはセリ科の植物。セリ科植物を食べるキアゲハの幼虫にとって餌である。料理にちょっと使ってみたいだけだからとそんなに沢山は種を蒔いていなかったのに、親キアゲハさんはお構いなしに複数産卵していったのだ。忙しさにかまけて手入れをしていなかった所為もあり、生まれた赤子達は無事にすくすくと成長。今では畑を壊滅させるほどの食欲(パワー)を持つ怪物へと変貌を遂げたのである。

 そんな悪逆非道(注:人間視点)な三匹の幼虫達は今、一匹はフィアが摘み上げ、二匹はテーブルの上のお茶碗に乗せられている。何故お茶碗に乗っているのか?

 勿論お茶碗というのは食べ物を乗せるための物なので――――食すためである。

「まぁいらないなら私が独り占め出来ますのでそれはそれで構いませんけどね。いただきまーす」

 躊躇なく、というより嬉しそうにフィアはキアゲハの幼虫を口の中にポイっと放り込む。そして一噛みもせずにごっくんと喉を鳴らした。

 それからややあってから、赤らめた頬を両手で押さえながら光悦とした表情を浮かべる。そこだけ切り取れば幼児がサクランボを食べて幸せいっぱいの笑みを浮かべているような、無垢で愛らしいものだった。

 その様子を見せつけられた花中は、ちょっと顔色を青くしていたが。

「……食わず嫌いと、言うか……わたしは、人間で、フィアちゃんは、魚だし……」

「そうは言いますけど人間社会にも昆虫食はあるそうじゃないですか。イナゴとかザザムシとか蜂とか食べているそうですしだったらこんなに丸々太ったイモムシもいけると思うのですけどねぇ」

 テーブルの席に踏ん反り返りながら、フィアはまた一匹キアゲハの幼虫を口の中に放り込む。やっている事は魚が虫を食べるという至極真っ当な食物連鎖なのに、人の姿をしているというだけで不自然極まりない光景に見えるのは自分が文明社会に染まり突け上がっている人間だからだろうか……

 言ったところで「そりゃそうでしょう」とフィアに言われるのがオチだと思ったので、花中は思い付いた言葉を飲み込んで苦笑いを浮かべるだけにしておいた。

「ん~♪ やっぱりチョウの幼虫は格別ですね~いくらでも食べられます♪」

 花中を余所に、フィアは幸せそうにイモムシを口の中に入れていく。最後の生き残りとなった幼虫は一生懸命逃げようとしていたが、圧倒的な捕食者の前では無駄な足掻き。フィアは逃げ出そうとしていた一匹を捕まえ、飲み込み、堪能し……あっという間に三匹を腹の中に収めてしまった。

 よもや一気に三匹全部を食べてしまうとは思わず、花中はちょっと呆れ顔に。

「……ちょっと、食べ過ぎじゃない?」

「え? そうですかね?」

 花中の問いに、フィアは小首を傾げる。

 どうやら当人に自覚はないらしいが……一般的に考え、キアゲハほどの大きさのイモムシを、体長三十センチ程度の魚が一回の食事で三匹も食べるというのはあまりにも量が多い。変温動物であるという点も考慮すれば、一日一匹で十分ではなかろうか。一般的な野生動物なら常に食料が足りているとは限らないので限界まで食べておくのも生存戦略だが、フィアの場合能力のお陰で毎日たくさんの虫を捕まえて満腹感を味わっている。どう考えても食べ過ぎだ。

 が、フィアは普通の生き物ではない。

 フィアは人間風の『身体』を形成するために一日中大量の、数百リットルもの水を操っている。科学的に考えれば能力を使っている間は相応のエネルギーを消費している筈だ。エネルギーを補給するためだとすれば暴食レベルの食欲も必然なのかも知れない……尤も、一日中数百リットルの水を操るのに必要なカロリーがイモムシたった三匹分なのかという逆な疑問も生じるが。

「(ミュータントの能力って、単純に知能が上がったから使えるんじゃなくて、物凄く効率的な仕組みをがあるのかも……)」

 結局のところ研究なんて殆どされていない新生物の必要カロリー量など分からない以上、食べ過ぎかどうかはフィアが判断するしかない。それに、友達が美味しい物をたくさん食べて嬉しそうな姿というのは、見ているだけでこっちも嬉しくなる。

 あまり気にせず、フィアちゃんの好きなようにさせよう。

「……むぅ」

「?」

 そう思っていたところ、何故かフィアが唸るような声を出し、可愛らしくも難しい表情を浮かべ始めた。なんか嫌な事があったのかな? と覗き込むように様子を窺う花中だったが、よくよく見ると怒っているような顔でもない。どちらかというと……悩んでいる顔だ。

「……どうか、したの?」

「え? ああすみません。ただ折角のイモムシももうお終いなのかと思うとなんだか物足りない気持ちになりまして」

 尋ねてみれば、フィアはすらすらと答えてくれた。お腹はいっぱいなんですけどね、と最後に付け足された言葉も聞いて、花中は何度も深く頷く。庭に居たイモムシは見付けた限りでは三匹。フィアの水触手でくまなく探していたので、見付けた三匹で全部だろう……その貴重な三匹をフィアは一日で平らげてしまった。つまり菜園を荒らしていたキアゲハは既に全滅しており、明日の分はない。花中も小さい頃、好物のカボチャの煮物が出された時はお腹いっぱいになるまで食べ、幸せを満喫しながらももっと食べたいという強欲ぶりを発揮したものだ。もっと食べたいというフィアの気持ちはよく分かる。

 とはいえ、キアゲハだって野生動物。定期的に卵を産みにきてくれる訳ではないし、卵がフィアの満足出来るサイズまで育つのに夏でも一月近く掛かる。一度食い尽した以上、しばしの間キアゲハはおあずけだ。そして大桐家の庭にある『イモムシの付きやすい植物』は、今のところパセリぐらいしかない。

「んー、家の庭には、もう、イモムシは、いないかな……あ、でも、バッタとかは、結構、見たよ」

「バッタ系は味は悪くないんですけど全体的に繊維質で食べにくいんですよ。お通じは良くなるので多少は食べた方が良いんでしょうけど」

「えっと、じゃあ、蚊は? フィアちゃんの、能力なら、たくさん、捕まえられるんじゃ、ないかな」

「蚊の成虫は味気ないし食感もモソモソしていてあまり好きじゃないんです。でも幼虫は結構好きでして……そうです! バケツに水を張って養殖すれば!」

「……近所の人に、怒られちゃうよ」

 いくら友達の笑顔のためとはいえ、衛生害虫を大量発生させるという近所迷惑をする訳にはいかない。しかも蚊は世界で一番 ― 無論直接ではなく、伝染病という間接的な方法でだが ― 人間を殺していると言われている生物である。もし大量に養殖した結果ミュータントの素質のあるモノが生まれたら? その生まれた個体が逃げ出し、世代交代を重ねて同じく素質ある子供達が大発生したら? ……いくらなんでも「庭で食材として育てていた生物に滅ぼされました」という展開は、自称万物の霊長としてあまりに恥ずかし過ぎる。

 どうやら大桐家の庭では好みの昆虫(食材)は手に入りそうにない――――花中との問答の末その結論に達したフィアは大きなため息を漏らした。

「何処かに美味しい虫がたくさん住んでいる場所はないですかねぇ。嫌いではありませんけどこれからしばらくバッタばかりと思うと気が滅入りますよ」

「えと、釣り餌とかなら、たくさん用意出来ると、思うけど……あとは、公園とか、畑とか、かな」

「人工飼料はちょっと遠慮したいですね食いつきを良くするために何か悪い物が入っているような気がして食指が湧かないんです。公園は良い案だと思うのですけど一週間ぐらい前にチラシみたいなのが来ていませんでしたっけ? なんかチャドクガの幼虫が大発生したから駆除するために薬を撒くとかなんとか」

「あ、そう、言えば……」

「全体を万遍なくという事はないでしょうけど風や雨で薬の成分は広がる筈です。一ヶ月はあそこに棲む虫は食べたくないですね。畑も何時農薬を使ったか分からないので遠慮したいです」

「うーん……」

 いくつか提案してみても中々フィアは気に入ってくれず、花中は悩ましさで顔を顰める。いっそフィアの故郷である泥落山はどうかと思ったが、あそこは学校からなら兎も角、花中の家からだと少々遠い道のり。いや、フィアならあっという間に行けるだろうが、高速で移動する姿を誰かに見られでもしたらまた都市伝説が広まってしまう。出来る事なら、そういう不要な危険は冒してほしくない。

 家から近くて、絶対農薬を使っていなくて、たくさんの虫が住み着いている場所。そこがフィアのみならず花中にとっても望ましい『食の楽園』だ。

 果たしてそんな都合の良い場所があるのか?

「……………あ」

 半分諦め気味に考えていた花中だったが、ぽつりと、不意に声を漏らした。

「? どうかしましたか花中さん」

「……あった」

「え?」

「家の近くで、絶対に薬を使ってなくて、たくさん虫がいる、ところ」

「おおっ! それは一体何処なのでしょうか?」

 フィアがわくわくした素振りで尋ねてきたが、花中は無言で席を立つと台所の方に向かう。

 台所に入った花中は冷蔵庫へと近付き、側面部分に貼っておいた一枚の紙を手に取る。それは六月の初めぐらいに家に届き、何時か友達と一緒に行きたいと思ったイベントのお知らせ……尤も、友達が出来た後も ― 自分の命を狙われたりで ― 忙しく、結局イベント期間中には行けなかった。

 それでも小さい頃、親に連れられて一度だけ行ったから、どんなイベントなのかは知っている。そしてどんな場所であるかも。

 あそこなら、きっとたくさんの虫が居るに違いない。

「花中さんそのチラシは?」

 しぱらくチラシを眺めていたところ、フィアも台所に入ってきた。なんて説明しようかな、と逡巡した後、まずはこれを読んでもらおうと花中はチラシをフィアに渡す事にした。

 『ホタル鑑賞会のお知らせ』。

 二週間前に終了したその鑑賞会が開かれた川辺こそが心当たりの場所だとは、首を傾げたフィアには伝わらなかったようだ。やはり、ちゃんと説明する必要がある。

 それはそれで構わない、と花中は思った。

 何しろお腹いっぱいになったフィアと違い、花中はまだお昼を食べていない。

 お昼を食べながら、午後の予定を話し合う――――如何にも友達っぽいシチュエーションに、花中は嬉しそうな笑い声が漏れ出てしまうのだった。

 

 

 

 蛍川(ほたるがわ)、と地元民に呼ばれている川がある。

 この呼び方は正式な名称ではなく通称なのだが、近隣地域ではその呼び名の方が通りが良いので、以降蛍川と呼ぶ事にする。蛍川は幅一メートル未満、深さも数十センチほどしかない小川で、名前の通りホタルがたくさん生息している……と胸を張って言えたのはほんの五十年ぐらい前まで。高度経済成長に行われた環境破壊や河川の汚染により、一時期ホタルの姿は殆ど見られなくなったそうだ。

 それではいけない、蛍川という呼び名があるのにホタルが棲んでいないなんて恥ずかしい事じゃないか――――時代が移り、環境意識の高まりと共に近隣住人からそういった声が上がるようになった、らしい。やがて『町にホタルを呼び戻す会』という保護団体が発足され、二十年ほど前から活動している……とかなんとか。何分当事者でなく、小耳に挟んだ程度の話なので真偽は定かではない。とりあえずそういう活動をしている団体がある、というのだけ分かってくれれば十分だ。

 さて、ここからが本題。

 生物の保護というのは、養殖して野外に放てば良い、というものではない。卵を産み付ける場所となる水際のコケ類、幼虫の餌となる貝類が生息出来る水質、その貝類の食べ物である落ち葉などの有機物、サナギになる時に潜る柔らかな土、成虫が繁殖相手を求めて活動する場所となる森や草むら……生息環境を整えなければ、いくらホタルを養殖して外に放してもすぐにみんな死んでしまう。人間が砂漠のど真ん中に裸で放り出されては生きていけないのと同じだ。

 質の悪い環境保護団体だとそういう意味のない活動をする事もあるようだが、この町の保護団体は大切な事を分かっていた。ホタルが生活出来るようコンクリートで固められた岸辺を土に戻し、近くの雑木林を保護するよう行政に訴えた。水底のゴミやヘドロを掃除して水質改善を行いつつも、カワニナの餌となる落ち葉などの有機物は適度に残した。結果、現在ホタルの数は ― 全盛期と比べてどうかは分からないが ― 観賞会を開けるぐらいには回復している。

 環境の変化に敏感で、絶滅も危惧されている希少なホタルがたくさん棲めるようになったのだ。ホタル以外の虫にとっても棲みやすい環境に違いない。事実()()は小学生の頃親に連れられて観賞会に来た事があるが、ホタル以外にもたくさんの虫が飛んでいたのを今でも思い出せる。保護活動が現在も続いているのなら幼い頃と同じ、いや、あの時よりももっと自然豊かな環境となっている筈だ。

「と、いう訳で……やってきたよ、蛍川っ」

「やってきましたねー蛍川」

 そんな感じの説明を自宅にてフィアにした花中は、納得してくれたフィアと共に件の蛍川に来ていた。フィアも花中も家に居た時と同じ格好で、花中は肩に掛けるタイプのポーチを持ってきている。

 花中の家から蛍川までは、花中のおっとりとした歩みでも十分も掛からない。川は住宅地のすぐ傍、自然と人工物の境界線のように存在する小さな土手を越え、数メートルほど続く草地を抜けた先で流れている。花中達が立っている土手の上からだと生い茂る草に阻まれてあまりよく見えないが、サラサラとした静かな水音は耳に届いている。そして対岸には成虫のホタルの棲み家として保護された、クヌギやコナラなどブナ科樹木が主体の雑木林が広がっていた。

 花中達の目的地は、その雑木林だ。

 川はホタルの幼虫が棲んでいるので荒らしてはいけないし、環境保護のため周囲の草地も許可なしでは草一本引き抜く事すら ― あくまで表向きは、ではあるが ― 禁止されている。しかし奥の雑木林への出入りは自由。ホタル以外の昆虫なら採取しても問題はなく、夏休みが近くなると子供達がよく採りに来ている。彼等の狙いは降り積もった分厚い腐葉土をたらふく食べて大きく育ち、クヌギの甘い樹液を求めて集まるカブトムシやクワガタムシだ。

 そんな子供達は興味を持たないだろうが、クヌギやコナラにはガの幼虫もたくさん住み着いている。本来クヌギのような背の高い木に付いているイモムシを採るのは恐ろしく労力を必要とするところだが、フィアには水を自在に操る能力がある。山を丸ごと一つ支配するという神の所行に比べれば、樹上のイモムシを数匹捕まえるなど児戯にも等しい。

 恐らくフィアの目には、木漏れ日で満たされた雑木林がビュッフェ形式の食べ放題店に見えている事だろう。

「いやーワクワクしますねー♪」

 花中が横目でチラリと見てみれば、フィアは目をキラキラと輝かせながら眩しい笑顔を浮かべていた。手には大桐家の物置で長年放置されていたプラスチック製の虫カゴが握られており、身長百七十センチ以上のドレス服姿金髪美少女という点に目を瞑れば虫採りに来た子供そのもの。今にも雑木林目掛け駆け出しそうだ。

 あまり我慢させるのもかわいそうだと、花中はそろそろ雑木林に入る事にする。とはいえそこは運動音痴な花中。一メートルもないような川幅でも跳び越えられる自信なんてない。フィアなら花中を抱えたまま一メートルといわず何十メートルも余裕で跳べるので渡るだけならどうとでもなるのだが、向こう岸に渡りたいからおんぶしてといきなり頼むのは、なんというか怠惰な感じがしてよろしくない。

 何処か川幅の狭いところか、橋の掛かっている場所はないものか。花中は辺りを見渡して期待するものがないか探した――――丁度そんな時だった。

「おーいっ!」

 不意に、遠くから声を掛けられたのは。

 小心者で人見知りな花中は、ビクリと身体が跳ねてしまう。なんだろう、と思い声がした方へと振り向けば、土手の上に二つの人影が見えた。人影は小走りで自分達の方に向かっており……やがて、青い作業着とマスクを身に付けた三十代ぐらいの男性二人だと分かるぐらい近付いてくる。

 大人の、しかも男性。

 男の人が苦手な花中は、思わずフィアの後ろに隠れてしまった。フィアも突然現れた見知らぬ人間に警戒心を抱いているのか、花中を隠すように自ら一歩前へと出る。

 そうこうしているうちに男二人は花中達のすぐ傍までやってきて、

「あー、えーっと、その、え、えくすきゅーずみー?」

 何故か一人が、片言の英語で話し掛けてきた。

 ……どうやら、外国人と間違われたらしい。

 確かに花中は銀髪で赤目で色白、フィアは金髪碧眼でグラマラスな美少女。挙句近くに日本人っぽい人が居なければ、英語で話し掛けるのが妥当なコミュニケーション方法なのかも知れない。花中に関しては祖父がヨーロッパ系なので一応クォーターではあるのだし。

 それでも生まれも育ちの国籍も日本である花中には男性達が滑稽に見えてしまい、ちょっと吹き出してしまった。お陰で緊張も解れたので、キョトンとした様子のフィアに代わり、同じくキョトンとしている男達に教えてあげる事にする。

「あの、わたし達、日本人です。日本語で、大丈夫、ですよ」

「え? あ、そ、そうだったのですか? これは、その、失礼……」

「ん、んんっ。えー、その……自分達は市役所の職員なのですが、少しお時間頂けますか?」

 誤魔化すように男の一人が咳払いをしたが、顔が赤くなっていたので照れ隠しなのは明白。ますます、花中の緊張は解れた。

 それにしても、市役所の職員、つまり公務員が自分達に一体どんな話があるのだろうか? 花中には見当も付かない。幸いにして用事はあるが急ぎではないので、気になる事を確認する余裕はあった。

「話、ですか?」

「実は最近この辺りにマジックマッシュルームが多数生えているらしく、注意を促しているのです」

 尋ねてみたところ、職員の一人がそう答える。

 尤もその答えに、花中のみならずフィアも一緒に首を傾げてしまったが。

「まじっくまっしゅるーむ? 花中さんご存知ですか?」

「うーん……名前は、聞いた事、ある……ぐらい。なんか、食べると、幻覚を見るとか、なんとか」

 花中の簡単な説明に、フィアは「へぇー」と感嘆の声を漏らす。それから続きを待つようにフィアの目は耀いていたが……花中にこれ以上の知識はない。生憎、麻薬にはそこまで興味はないのだ。

「そのマジックマッシュルームの影響からか、最近この蛍川では立ち入った人々に幻覚症状が現れるという被害が多発しているのです」

 とはいえ、市職員のこの話には少し違和感を覚えたが。

「……あの……キノコが生えて、いるだけ、で、幻覚って、見る、もの、なのでしょう、か……?」

「生えているだけならそういう事はないと聞いています。しかし枯れた株が風化などで粉末状になり、風に乗って飛び散ったそれらを吸ってしまえばあり得る……との話です」

「話って……」

「自分達も専門家ではないので……ただそれ以外に原因がないのも確かですし、何より先日もこの辺りでバーベキューをしていた若い男女数名が錯乱状態に陥り、結果大きな怪我や火傷をしています。被害者が出ている以上、確かな話でしょう」

「はぁ。そうなの、ですか……」

 煮え切らない返事をしてしまう花中。あまり納得出来ない答えだった、が、専門家じゃないと言っている彼等にこれ以上詰め寄るのも意地悪というものだ。それに子供達が遊びに来るような場所に幻覚キノコがたくさん生えている状況は、やはり好ましくない。注意喚起自体に問題はないだろう。

「あそこに看板があるので一度読んでください。キノコの写真だけでなく、被害の訴えが多い場所も書かれていますので」

 市職員はそう言うと、自身がやってきた方角を指差した。指が向いている先十メートルほどの位置に、確かに看板らしき白い物がある。遠目なので分かり辛いが、他に適当な物は見当たらないので、あれがそうなのだろうと花中は思った。

「他に何か質問等はありますか?」

「あ、えと……特には……」

「では、私達はこれで。何かありましたら市役所に一報ください」

 話を終えると市役所の職員達は手を振り、足早にこの場から立ち去った。彼等はこのまま蛍川周辺の巡回を行い、他の人達にも注意を促すのだろう。フィアは手を振り返し、遅れて花中も小さく手を振って二人を見送る。

 そうして二人の姿が遠くなってから、花中は先程示された看板の方へと小走りで向かった。フィアも花中の後ろをついてくる。

 先程職員達が示していたそれは、言っていた通り看板だった。カブトムシを採りに来た子供向けにか、如何にも悪者風の顔が付け足されたキノコのイラスト ― と、ちゃんとした写真 ― が載せてある。書かれている文字もひらがなが多く、漢字には読み仮名が振ってあった。気持ち悪くなったり怖いものを見たらキノコのせいかも? という子供でも分かるような言い回しが目立つのも特徴だ。

 さて、花中としてはどの辺りで幻覚が多いかが知りたい。食べるつもりなど毛頭ないが、不用意に立ち入って幻覚を見る危険を冒す必要などないし……自分達が被害者となった結果キノコ達が『悪者』にされてしまうのは、花中としては気持ちの良い話ではなかった。

 尤も読み進めたところ、あまり意味のない心配だった。

 どうにも被害は蛍川全域で確認されているようで、雑木林への安全な侵入経路というのはなかったのだ。花中達が居る辺りは被害報告が少ない訳ではないが、格別多くもない。わざわざ移動してもリスクは大して減らないし、むしろ川沿いを歩いて時間を掛ける方が危険かも知れない。

 だったらサクッと『最短距離』で目的地まで進むのが一番安全だろう。

「(……わたし、ちょっとフィアちゃんに似てきたかも)」

「? 急にニヤニヤしてどうかしましたか?」

「あ、ううん。なんでもない、よ」

 二ヶ月前の自分ならきっとこの看板一つで家まで逃げ帰っていただろうなって思ったら、ちょっと笑えてきただけだから――――その言葉を胸の奥にそっとしまうと、花中は川の向こうにある目的地を見遣った。

 目指すは対岸の雑木林。自分の脚力では数十センチの川幅を跳び越えられる自信はないが、フィアにお願いすれば一発だ。怠惰な感じがして初めは拒んでいたが、状況が状況なのでこの方法を選ぶとしよう。

「フィアちゃん、ここから、向こうの雑木林に、真っ直ぐ行こう。川を跳んで、渡りたいから、だから、えと……抱っこ、してくれる?」

「それぐらいでしたらお安いご用ですよ」

 言うが早いか、フィアは早速花中をお姫様抱っこの形で抱え上げる。果たして何度目のお姫様抱っこか。誰かに見られると恥ずかしいが、しかし誰にも見られていないのなら別に良いやと、開き直れるぐらいには慣れてしまった。

「ありがとう、フィアちゃん。じゃあ、お願い」

「りょーかいでーす」

 花中が頼むと、すぐさまフィアは小川目指して軽やかに駆け出した。

 軽やかと言ったが、スピードは自転車で疾走するぐらいには速い。数メートル程度しか続いていない草むらをあっという間に突っ切り、川岸から数十センチほどの位置に辿り着くやフィアは軽く膝を曲げて――――ジャンプ。

 フィアの跳躍は柔らかで、花中の身体はふわりとした浮遊感と共に空を()()

 チラリと下を見れば今は軽々と川の真上まで来ていた。この様子だと着地場所は対岸から数十センチ先ぐらい。花中はギュッとフィアの身体にしがみついて間もなくやってくる衝撃に備えた、途端身体が上向きに引っ張られる感覚に襲われる。段々と高度は下がり、やがてフィアの足が大地に触れて、

 ずるんっ、という音と共に、花中は自分の身体が傾くような感覚を覚えた。

 ……あれ? これ不味くない? と思った時にはもう遅く。

「どぉぅんっ!?」

「ぎゃぷっ!?」

 思いっきりずっこけたフィアと一緒に、花中もまた川の中に落ちてしまった。体勢としては尻餅を撞くように、であったが、フィアの総重量は平時ですら数百キロを超えている。着水と同時に小川の水が全て吹き飛びそうなほどの水飛沫を上げた。近くを泳いでいたのだろう小魚達が驚いて何十匹と跳ね、慌てた様子で逃げて行く。

「……あれ?」

 尻餅を撞いた姿勢のまま、フィアは顎に手を当てて不思議がる。フィアは元々『身体』が水で出来ているので、水に沈んだところで何がどうなる訳ではない。衣服も、水にどっぷり浸かっているのに全く()()()()()()状態だ。

 だが、花中はただの人間。川に落ちれば当然濡れる……如何に倒れたフィアの膝の上に乗っかる形になっていようとも。その上高く上がった水飛沫のど真ん中に居たとなれば、最早濡れていない場所の方が少ないぐらい。花中の全身はフィアと違いずぶ濡れとなっていた。

 花中は顔を上げ、疲れ果てたジト目でフィアを見つめながら口を開く。

「……あの、フィアちゃん? わたし、川を渡ろうって、言った、よね?」

「ええ確かに言いましたね」

「なんで、川に、落ちてるの?」

「さぁ? なんででしょう?」

 本当に分からないと言いたげに首を傾げるフィアを見て、花中もまた首を傾げた。

 問題なく向こう岸に渡れると思ったのに……自分の感覚とのズレに、花中は少し考え込む。踏み込みが足りなかったようには思えないし、フィアの力から考えて不可能どころか容易な行動だった筈。はて、何か近くに原因があったりするのかと花中は辺りを見渡し

 ふと、それが目に映った。

「(女の子……?)」

 それは蛍川の岸辺に佇む、一人の少女であった。

 少女が居るのは、花中達から二十メートルぐらい離れた場所。遠いので正確には分からないが、身長は花中と同じかやや小さく、あどけない雰囲気の顔立ちも考慮すると年頃は十歳、小学校三年生ぐらいに見えた。新緑のように鮮やかな緑色のワンピースを着ており、襟には陽光で光り輝く真っ白なリボンが付いている。そんな派手な衣服に負けないぐらい目を惹くのが、胸元辺りまで伸びている焔の如く赤い髪。そして海よりも深く透き通った青色の瞳がこちらを真っ直ぐ捉えていた。

 恥ずかしいところを見られて、花中は朱色に染まった顔を俯かせる。

「? 花中さんどうかしましたか?」

 その時フィアから声が。花中はハッとして顔を上げる。

 どうやらフィアはあの少女の存在に気付いていないらしい。

「あ、う、うん。あそこに、女の子が……」

 花中はそう言いながら女の子を指差し、フィアはその指先が示す先に顔を向けた。

 そして、花中は瞬きをした。

 人間だから当然だ。瞬きぐらいする。

 ところが瞼を開いた時、そこに居た少女は、姿を消していた。

「――――えっ!?」

 慌てて辺りを見渡す、が、赤い髪も緑の服も、いくら探しても見付からない。忽然と……否、そんな言葉では表現出来ないぐらい、なんの予兆も痕跡もなく少女は消えてしまった。

 傍にある雑木林の中に身を隠した? いや、蛍川が雑木林の側を流れていると言っても、少なからず歩かねば立ち入れない。花中には目視不可能な速度で動き回れる友人がいるが……だとしても余波はこちらに吹き付けてくるし、足跡だって残る。痕跡一つ残さず消えるなどあり得ない。

「……驚いているところ申し訳ありませんがその女の子とやらは一体何処に居るのでしょうか? 私には花中さんの指先が指し示しているのは虚空のようにしか思えないのですが」

 挙句フィアには、()()()()()()()()()()()()()()()()が見えていなかったらしく。

 今のは一体? まさか幽霊……と普段なら真っ先に恐怖の予感で慄くところだが、今日の花中は違った。

 もしかすると、ここにきて幻覚キノコの効果が出てきたのかも知れない。

 幻覚にしては妙に生々しかったが、医学的に言えば幻覚とは、なんらかの原因によって感覚器が誤作動を起こしている状態である。つまり幻覚を見ている当人の目にはちゃんとした『映像』が映っている訳であり、生々しいのも当然というもの。基本的に現実と幻覚の区別は付かないものなのだ。

 此処も一応は幻覚キノコが発生している場所。もしかしたらいくらか欠片を吸い込んでしまい、なんらかの影響が出始めているのかも知れない。そしてフィアは生身ではなく、『入れ物』を通して外界と接している。仮に表面に枯死したキノコの欠片が付着し、幻覚成分が染み入ったとしても、身体を構成する何百リットルもの水によって希釈され、いっぺんにではなく少しずつしか体内には入ってこない。勿論人間と魚は全く異なる進化を辿ってきた事で、神経系や免疫の仕組みに大きな違いが生じている。なので一概には言えないが、フィアは花中より遥かに優れた『薬物耐性』を持っていると考えて良いだろう。

 恐らくあの少女は自分だけが見た幻覚なのだと、花中は結論付けた。

 幸い気分の不調などはないので、病院に駆け込む必要はないだろう。さっさと目的を果たし、退散すれば大丈夫。万一があってもフィアが傍に居る。怖がる必要はない。

「ううん、なんでもない。それより、何時までも、水に、浸かっていたら、風邪、引いちゃうから、上がって、雑木林に行こ?」

「ああそうですね。私とした事が花中さんの体調を失念していました……うーんしかしどうして落ちてしまったのか。私のミスなんでしょうけど……なんかキツネにつままれたような……」

「気にしてないから、そんな、悩まなくても、良いよ?」

 花中はそう言うとフィアから退き、自分の足で立ち上がる。既に全身濡れ鼠といった惨状だが、自分でも言っていたように花中はあまり気にしていない。いくら濡れようと水はフィアが吸い取ってくれるし、先代の携帯電話を水没させてしまった経験からスマホは防水加工された製品を使用している。

 そうなると被害は濡れた事による不快感と風邪の心配ぐらいなものだが、夏の盛りを迎えた今日この頃、むしろ心地よい涼しさで体調が回復したような想いだ。それに服を着たまま水に浸かる行為が悪い事をしているようで、小さな背徳感がちょっと楽しい。

「ほら、フィアちゃん。早く行こうよ。早くしないと、晩ごはん、捕まえられないよ?」

 込み上がってくるワクワクを胸に、花中は未だ唸っているフィアの手を掴んで雑木林の方へと引っ張るのだった。




ファースト・フレンズ4にて晴海とフィアが初めて遭遇した際、フィアが地面から何かを拾い、口に運んでいたのを覚えていますでしょうか?

あれ、実は地面を歩いていた虫を食べているシーンでした。
多分クモとかミミズの類です。アリは酸っぱく、ダンゴムシは臭いので、フィアの好みではありません(誰も得しない設定)


次回は8/20中に投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない3

【お詫び】
前回あとがきにて記した投稿予定の日付を間違えていました。
ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。

……素で今日が20日だと思ってました。前回21日0時に投稿してるのに。


 ここで少し、虫の話をしよう。

 カブトムシやクワガタムシが集まる事で有名なクヌギやコナラの木だが、これらには他にも様々な虫が集まる。例えばそれはカナブンだったり、スズメバチだったり、国蝶オオムラサキだったり……樹液に集まる虫だけで、何十種類も存在する。そして虫の餌とは、花の蜜や樹液だけではない。カミキリムシの幼虫のように生きた木の中身を食べたり、カマキリのように他の虫を食べたり……そして青々と茂る葉っぱを食べたり。

 クヌギやコナラの葉も数多の昆虫達が食料としており、その虫の一種にヤママユガという蛾の幼虫が存在する。

 その特徴を一言で申すなら、デカイ。物凄くデカイ。成虫がデカイので幼虫もデカイ。アゲハチョウの幼虫(緑色)を見たぐらいで「きゃー! 大きいイモムシーっ!」と悲鳴を上げるような虫嫌いが目の当たりにした場合、錯乱状態に陥る可能性があるぐらいデカイ。具体的にはサナギになる寸前の個体だと七センチ以上にもなる ― ちなみにアゲハチョウの幼虫は最大でも四センチ程度 ― ほどだ。手に乗せれば腹脚にある鋭い爪が刺さってチクチクとした痛みを覚えるほどの力を持ち、巨大な顎は堅いクヌギの葉を容易く噛み砕く。透き通った緑色の体色は中々綺麗だが、ボンレスハムの如くぶよりとした造形や人毛のような疎らな毛を生やしている姿は、冒涜的と言っても差し支えないだろう。

 そしてこんな怪物染みた存在ながら、実のところそんなに珍しい種ではない。むしろ時々大量発生していたりする、普通種だ。尤もクヌギなどの背の高い樹木の葉を食べるため、木を丸裸にするぐらい大発生していない限り、野生の幼虫は見付ける事すら難しいが。

 ……そう、本来は難しい。

 けれども匂いで大凡の居場所を把握し、水を操って易々と木に登れ、虱潰しに辺りを調べられるなら話は別。

「花中さんこんなに獲れましたよ!」

 雑木林の中で虫採りをする事僅か十分――――積もった落ち葉の上でズシンズシンと飛び跳ねるほど喜ぶフィアが持つ虫カゴの中は、巨大なヤママユガの幼虫がぎゅうぎゅう詰めになっていた。果たして一体何十匹捕まえたのか。すし詰めにされたイモムシ達が顎を噛み合わせ、ギチギチと苛立ちの声を上げている。

 普通の女子高生なら悲鳴と共に逃げ出してもおかしくない光景だが……そこは母が昆虫学者の花中。虫カゴの中身を見せつけられても左程気持ち悪いとは思わず、むしろイモムシ達に同情すらしていた。

 同情と言っても、フィアに食べられてしまう事に対して、ではない。花中達が居る此処はクヌギが多く生え、それなりの敷地面積を誇る雑木林。時折大量発生するような普通種である事を考慮すれば、たかが数十匹捕まえたところでヤママユガという種の存続に影響はないだろう。大体フィアは食べるためにイモムシを捕まえたのだから、それを咎めるというのもおかしな話。『野生動物』が獲物を捕まえる事の何が悪いというのか。 

 花中が同情するのは、彼等が収容された環境についてだ。何しろフィアの持っている虫カゴは縦横幅二十センチほどの小さな物。そんな小さな虫カゴに体長七センチ近い巨大イモムシが数十匹……すし詰めなんてレベルではない。仲間の重さに押し潰されると察しているのか、どの個体も他の個体を押し退けて上へ上へと登ろうとしているではないか。色んな意味で、地獄絵図。

 こんなストレス環境下では、どの個体も長生き出来ないだろう。そしてフィアの健康食嗜好からして、死んだ個体はそのまま捨てられる可能性が高い。殺される側からすればどんな形でも死には変わりないが、『糧』にならない死に方はあまりさせたくないのが花中の身勝手な美学である。

 花中は小さく、長いため息を吐いた後、蠢く虫カゴを視界に入れつつフィアと向き合う。笑顔のままキョトンと首を傾げるフィアを、花中は優しく窘めた。

「獲れたのは、良いけど、そんなにたくさん、ちゃんと、飼えないでしょ。そんな過密状態で、飼ったら、ストレスで、殆ど死んじゃうよ」

「? 別に良いじゃないですか。全部死んだらまた此処に来て捕まえれば良いんですよ。私の能力を用いればいくらでも採り放題ですし」

「そうやって、たくさん捕まえて、無駄に、いっぱい死なせたら……卵を産む、成虫も居なくなって、来年の幼虫が、産まれなく、なっちゃうよ?」

「むぐ……」

 花中の指摘に、フィアは苦々しい表示を浮かべて押し黙る。かわいそうだ云々と言っても『野生動物』であるフィアには理解出来ないだろうが、明確なデメリットがあると教えられたら話は違う。根こそぎ駆除したいならいざ知らず、フィアは美味しいイモムシをたくさん食べたいだけなのだ。数が減るのは本意ではない。

「……分かりました。今日の晩ごはんと明日の朝ごはんの分で二匹だけ持って帰って他は逃がす事にします」

 やがて、渋々といった様子ながらもそう告げると、フィアは意気消沈とした足取りで近くのクヌギの木へと向かう。そして自身の身体をぐにゃりと引き延ばし、蛇のように『身体』を巻き付けて大きなクヌギの木を登っていった。

 不愉快そうな割に、ちゃんと葉っぱのあるところまで連れて行くんだ。なんかフィアちゃん、イモムシを逃がす時に「大人になったらたくさん私のごはんを産むのですよー」とか言ってそう――――そう思うとなんだか急に微笑ましく思えて、花中は込み上がってくる笑いが口から漏れ出るのを抑えきれなかった。フィアにも悪気はないのだ。人と感性が違うだけで。

 と、笑うのは良いが、ふと一人になってしまったと気付く花中。逃がすだけとはいえ、木の上となれば適当に虫カゴをひっくり返す訳にもいくまい。捕まえた数十匹の殆どを一匹ずつ丁寧に葉に乗せていくとなれば、数分は掛かりそうである。しばしフィアは戻ってこないだろう。

 フィアの付き添いとして来た身。フィアが居なくなった途端、退屈が花中の心を満たした。

「……………なんか、ないかなぁ」

 暇潰しになんとなく辺りを見渡す花中だったが、面白そうなもの、特筆すべき点などは特に見当たらない。何しろ此処は、ただの雑木林なのだから。

 強いて言うなら、この時期の休日なのに子供の姿を全く見ない点だろうか。七月中旬はカブトムシ出現の最盛期。この雑木林でも問題なく大発生しているようで、近くにあった樹液が出ているクヌギを見れば、オスのカブトムシが二匹ほどたかっていた。どうにもこの甲虫王、図鑑などで夜行性と紹介されている割に昼間でも結構普通に見掛ける。そして重くて愚鈍だから捕まえるのに苦労せず、しかもクワガタムシと違って怪我をする心配も皆無。子供達にとって、色んな意味で最高の獲物の筈だ。

 その獲物がこうして無防備な姿を曝しているのに、花中は今日この雑木林で子供の姿を一度も見ていない。川辺に発生した幻覚キノコがあるため、親達に行くのを禁止されたのだろうか。

 それはそれで違和感がある。

 小さい頃の記憶が確かなら、小学生の頃、男子は結構『悪い事』をしていた気がする。親への反抗がカッコいいと思う年頃でもあるのだろう。果たしてこの近辺に暮らす虫好き小学生が全員、親の言う事を素直に聞く好青年なのか? 悪友に誘われても、キッパリと断って世間のルールを守る芯の強い子しか居ないなんてあり得るのか? 大体、幻覚キノコの大発生をこの町の住人は全員知っているのか?

「(……一グループぐらいは、居ると思うんだけどなぁ……)」

 偶々自分達の近くには居ないだけなのか、それとも悪い事をしている自覚があるので自分の姿を見た途端逃げているのか。後者だとすれば探せば後ろ姿ぐらいは見付かるのではと、退屈のあまり無意味な意地を張って花中は辺りを見渡

「そこの君、少し良いかな」

「ぷへっ!?」

 そうとしたら不意に声を掛けられ、花中は跳び上がるほど驚いてしまった。

 恐る恐る振り返ると――――なんとそこには、大人の男が居たのであるッ!

 ……花中的には大人の男というだけでかなりのビックリポイントで、あまりじっくりと観察する余裕はなかった。流石にその男の年頃が二十代前半ぐらいなのとタキシードという雑木林には相応しくない服装なのは分かったが、そのタキシードが土でかなり汚れているとか、彼がなんだか泣きそうな顔をしているとか、薄汚れたバイオリンケースを持っているなどの『些細』な特徴は目に入ってこない。

 フィアが傍に居てくれたなら幾分平静を取り戻せただろうが、そのフィアは現在木の上でイモムシを解放中。男の人が怖くて、頼れる人が居らず心細くて、花中はじりじりと逃げるように後退りしてしまう。

 それでも微かに残った理性が、声を掛けられたのだから何か用があるのだろうと分析。この場から走り出そうとする足を押し留め、返事をするよう口先に命じた。

「あ、は、はい。あの……な、なん、でしょうか……?」

「ああ、あまり怖がらないで……訊きたい事があるんだ」

「き、き、訊きたい、事、ですか?」

「この辺りで女の子を見なかったかな。丁度君ぐらいの身長の子なんだけど……」

「あ、それ、ならさっき」

 蛍川の辺りで見ました。

 花中はうっかりそう言おうとした。突然の質問に、自分の見た女の子が幻覚である可能性を失念してしまったのだ。

 十中八九間違いであろう情報を伝える訳にはいかない。言い終わる前に、花中は自身の発言を撤回しようとした。

 しようとは、したのである。

「ほ、本当かッ!?」

 しかし改めて口を開く前に若い男は花中の、肩を掴んだ。

 瞬間、花中の混乱は頂点に!

「ひっ、ひぅぃう!?」

「その子の髪は赤かったか!? 瞳は青かったか!?」

「あ、あぅ、ふ、ふぇ、えぅ」

「何処で見掛けたんだ、いや、何処に行ったんだ!? 教えてくれ! どんな礼だってするから! なあっ!?」

「や、ぁ、い、いた、ひ、ひぅ!」

 迫りくる強張った顔、怒鳴るように太い声、肩の肉に食い込む爪先。

 ただでさえ男の人が怖くて堪らないのに、痛みと威圧感で花中の頭は真っ白に。恐怖に震え、目には涙を浮かべ、身体を縮こまらせる。口から出てくるのも嗚咽混じりの悲鳴だけ。

 どうしてこの人はこんなに怒ってるの? わたし、何か大変な事をしちゃったの?

 男が何を言っているのか、どんな気持ちをぶつけているのか、真っ白になった頭では何も分からない。意識を遠退かせたくても、怒声に叩き起こされ現世に呼び戻される。逃げたくとも爪が身体に食い込み、楔のように縛り付けてくる。何も、出来ない。

 ズドンッ! と身体を突き飛ばすような爆音と物理的衝撃が襲い掛かってこなければ、一体何時までこの途方もない恐怖を味わう事になったのだろう。

「……………」

「な、に……?」

 音と衝撃がした方に、男と、花中はゆっくりと振り返る。

 そこには、フィアが立っていた。

 二匹だけイモムシが入った虫カゴを首から下げ、その足元に小さなクレーターを作り上げ――――そして、殺意と憎悪に満ちた眼差しを男に向けている、フィアが。

「あ、あの、ふぃ、フィアちゃ」

 思わず花中は親友の名を呼ぼうとしたが、しかし言い切る前にフィアは歩き出す。ズシン、ズシンと、自身の人間離れした重量を隠さないフィアの歩みに不穏なものを感じたのか、男は花中から手を離して後退り。

 が、逃げる事あたわず。男がおどおどしている間に距離を詰めたフィアはなんの躊躇もなくその男の頭を鷲掴みにし、

 ポーンっ、と投げた。

 まるでゴミを投げ捨てるような動きで、ざっと三メートルほどの高さまで。

「う、うわあぁあああぁごふっ!?」

 空中でバタバタともがいていた男だが、当然抵抗にもならず呆気なく墜落。腐葉土が厚く積もっていて柔らかい土に背中から落ちたとはいえ、三メートルもの高さともなれば衝撃は相当のもの。男は寝転がったまま、死に際の獣のような呻き声を上げて痛みに悶えた。

「花中さん大丈夫ですか? まさか少し目を放していた隙に変質者が現れるとは予想もしていませんでした怪我をしたり変な液体を掛けられたりとかしていませんよね?」

 そんな男には目もくれず、フィアは花中の心配ばかり。偽物だが感情に直結している瞳を潤ませ、不安げな表情を浮かべている。花中がやや戸惑いつつ小さく頷くと、フィアは心底安堵した息を吐いた。不安そうだった顔も、すぐに朗らかな笑みへと変わる。

「どうしますか? あの変態に『止め』を刺しておきましょうか? 液体状になるまで磨り潰した後川に流しておけば人間なんかには見付けられないと思いますけど」

 ただし出てきた言葉に、朗らかさなど欠片一つもなかったが。尤も、フィアとしてはなんの悪意もない、何時も通りの野性的な考え方を口にしただけ。花中もほんの少し頬が引き攣っただけで、何時も通りの穏健な答えを返す。

「え、えと、そういうのは、止めて……それより、早く、此処から離れたい、かな……」

「分かりました。全くこんな雑木林にもいたいけな美少女を狙う変態が居るとは油断も隙もあったもんじゃありませんね」

「う、うん……」

 愚痴るフィアに手を引かれ、花中は足早にこの場から立ち去ろうとする。

 けれども顔は、名残惜しむように自分が居た場所を振り向いていた。

 面識がない人にいきなり掴み掛かり、こちらの事などお構いなしに大声をぶつけてくる……その行動が変質者かそうじゃないかと言われたら、高確率で変質者だろう。殺すのはダメだと思いフィアを止めたが、警察に突き出すぐらいはしておいた方が良かったかも知れない。もしかしたら自分達が去った後、同じ事を他の人にする可能性はあるのだから。

 でも、

「ま、待って……話、だけ、でも……!」

 痛みに悶えながら、必死にこちらに手を伸ばしている彼が『悪い人』だとは、花中にはちょっと思えなかった――――

 

 

 

「これだけ離れればもう十分でしょう」

 フィアに手を引かれる事早五分。花中とフィアは雑木林と外の境界線、蛍川と住宅地が見える場所までやってきた。

 花中の鈍足に合わせての移動なのであの男との距離は左程開いていないだろうが、頭を掴んで投げ飛ばされた揚句、三メートルもの高さから落ちたのだ。下手をすれば死んでいてもおかしくない扱い。一応男は生きていたが、すぐには復帰出来ないだろう。事実花中が見ていた間、男は立ち上がる事すら出来ていなかった。フィアが言うように、これだけ離れたならあの男は花中達を見失った筈である。

 そういう意味では安心出来たので、花中はホッと安堵の息を吐く。

 対してフィアは、不機嫌そうに鼻息を荒くしていた。

「ああ全く不愉快ですねぇあの男。花中さんに狼藉を働こうとは不埒な輩です」

「えと、狼藉を、働くかは、分からないかと……」

「いや他にないでしょう。男が女に接近する理由なんて繁殖目的以外に何があるというのですか?」

「……まぁ、魚の場合は、そうだよね。人間にも、そういう人は、いるだろう、けど。でもわたし、こんな子供体型、だし、そういう風には、見られないと、思うけど……」

「ふふふふふ。何時もは聡明な花中さんですが男女の事なら私に一日の長があるようですねぇ」

 何故か自慢げに胸を張るフィア。魚の男女関係と哺乳類の男女関係では生存戦略レベルで差異があるんじゃないかなーとか、一日の長があるって言っても繁殖期を経験したとか本能的に知っているとかその程度じゃないのかなーとか、花中にも色々思うところがない訳ではない。

 が、確かに大桐花中、十五年ちょっとの人生の中で恋愛らしい恋愛などした事がない。異性である男性は怖くて恋心なんて抱けないし、かといって同性愛者でもない。挙句一月前まで友達すら居なかったので恋バナすら聞いた事がない有り様。こんな自分と比べたら、植物ですら恋愛に一日の長がありそうである。ここは大人しく、フィアの話を拝聴する事にした。

「えっと……どういう、事?」

「此処が何処だか思い出してください。子供しか遊びに来ないような場所じゃないですか。そして花中さんは自負するほどに子供体型。つまり……」

「つまり?」

「あの男は未成熟な子供にしか興奮出来ないという生殖能力に致命的欠落を持つ真正のロリコン野郎だったのです! そのため一見あどけなく未成熟で高校生どころか中学生にすら見えない花中さんがターゲットになったのですよっ!」

 どやっ! という効果音が聞こえそうなぐらい自信満々な笑みと共に、フィアはそう断じてみせた。

 ……状況証拠だけの推理でよくそこまで自信を持てるものだとか、そりゃ自分から言った事だけど思いっきり失礼な事を言うね等のツッコミはさて置き、中々どうして筋が通っている。タキシード姿という雑木林で動くのに適さない格好のあの男が、この雑木林の管理人という可能性は皆無だろうし、ましてや虫取りや森林浴に来ているとは思えない。むしろ子供達に乱暴をしようとしており、怪しまれないようサラリーマン風の恰好をして近付いた……という考えが妥当な気はする。

 しかしながら、花中にはどうもすんなりとは納得出来ない。

 あの男性は花中の肩を痛いほどに掴んできた。その理由は、間違いなく花中を逃がさないためだろう。しかし、逃がすまいとはしていたが、連れ去ろうとはしていなかった……ような気がする。記憶が曖昧で、断言は出来ないが。

 それにフィアに投げ飛ばされても、あの男は花中に手を伸ばしてきた。待ってくれとも言っていたように聞こえたので、未だ花中の事を諦めていなかった、と受け取れる。性欲は人間の三大欲求の一つではあるが、命という欲求の根源を脅かされても尚求める事が出来るものなのだろうか。寿命一年でワンシーズンしか繁殖のチャンスがないカマキリならいざ知らず、年中無休で繁殖可能かつ数十年の命を持つ人間に。

 どうにも不自然な点があり過ぎる。男性恐怖症気味なため頭が真っ白になっていた自分でも違和感を覚えるぐらいに。

「花中さん? どうかしましたか?」

「あ、ううん。なんでも、ないよ」

 しかしフィアに尋ねられても、花中はその考えを打ち明けなかった。何しろあの時は頭が真っ白で、確かな記憶が殆ど残っていない。こんな状態で巡らせた考えなど、思い込みや妄想と大差ないのだから。

 それよりも、念のため警察に通報しておいた方が良いかも知れない。もしあの男がフィアの予想通り変質者だったなら、また小さな女の子を襲うかも知れないのだ。花中の一報があれば警戒を周囲に促せるし、万一事件が起きた時、警察の対応もいくらか素早くなる筈である。

 落ち着ける場所(自分の家)に帰ったら、警察に通報しておこうと花中は考えるようになった。

「……そろそろ、帰ろうか。フィアちゃんの用事は、済んだし、幻覚キノコの事も、ある、し」

「ああそういえばそんなのもありましたっけ。そうですね長居は無用でしょう」

 花中がそう伝えれば、フィアは天を仰ぎながら同意してくれた。

 二人は一緒に雑木林を抜けて、住宅地の方へと向かう。目の前に幅一メートルもない蛍川と草の茂る土手が広がる。先の住宅地へと帰るには、こちらに渡った時のように川を跳び越えるのが一番手っ取り早い。それにこの辺りは花中が幻覚らしきものを見てしまった場所でもある。悠長にしているとまた幻覚を見てしまうかも知れない。

 ここは迷わず一直線、さっさと通り過ぎてしまうのが得策だ。そしてそうなれば今回もフィアに抱えてもらうのがベストだろう。特に言葉は交わさなかったが、自然と花中はフィアの近くに寄り、フィアはそんな花中を無言で抱え上げた。

「えと、それじゃあ、お願いね」

「合点です。まぁ流石に二度も落ちる事はないと思いますが……というかよくよく考えたら跳び越える必要がないのですよね。私元々全身が水ですし」

「あ、そういえば、そう、だね」

 言われて気付き、花中はポンっと手を叩く。川を渡る時は出来るだけ水に浸からないよう跳び越える、というのが人間である花中の常識だが、フィアには当て嵌まらない。『身体』自体が水で出来ているのだから元々濡れているようなもので、かつ水に浸かって何か支障がある訳でもないのだ。わざわざ跳び越えようとして、迂闊にもすっ転ぶような真似をする必要はない。

 勿論人に見られると些か面倒になりそうな行為ではあるが、ざっと見渡したところ人の姿は影も形もない。ささっと渡ってしまえば大丈夫だろう。

「それじゃあ、そのまま歩いて、渡ろっか」

「ですね」

 花中も同意し、フィアはすたすたと川へと向かう。色んな意味で『濡れる』事はないので、フィアは躊躇なく川岸まで突き進み――――

 不意に、その足取りが止まった。しかし、どうしたの? と花中は尋ねない。

 何しろ突如として、音もなく……目の前に巨大な炎が、壁のように噴き上がったのだから。

「っ!?」

「ひゃあっ!?」

 花中が炎に驚いて声を出した時、フィアは既に後ろへと跳び退いていた。距離にして三メートルほど。雑木林の中へと逆戻りだ。

 しかしそれほど距離を取ったにも関わらず、熱さが花中の肌を焼く。

 チリチリとした痛みが肌に走り、身体が芯から温められて汗が滲み出てくる。どうやら炎は蛍川から噴き出しているようで、高さは五メートル近く、幅も二十メートル以上広がっていた。これほど巨大な炎を見るのは花中としては初めてだったが、こんなにも燃え盛っているのなら熱さが此処まで届くのも頷ける。

 問題は、どうして炎が突如として噴き上がったのか。

 自然発火にしろ、何かしらの人為的装置な原因にしろ、一瞬にして二十メートルもの範囲が燃え盛るなど普通ではない。ガソリンなどの燃料を使えば再現出来そうだが、しかしそういったものが燃えた時に出る異臭は感じられず、パチパチと弾けるような音も聞こえない。静かに燃えるものといえば、カセットコンロなどで使うガス……気体か。蛍川一帯に天然ガスが埋蔵されていた、なんて話は聞いた事もないのだが。

 訳が分からない……しかし一つだけ言えるのは、燃え盛る火をこのままにしておく訳にはいかないという事。炎が噴き出ている蛍川のすぐ側には草むらが広がり、隣接する形で住宅が並んでいる。炎が人の住む場所へと伝わる道筋があるのだ。放置すれば歴史に残る大火となってしまうかも知れない。

 幸いな事に花中の傍には、水を自在に操れる頼もしい友が居る。

「フィアちゃん、あの、あの炎を、消し――――」

 花中は早速フィアに炎を消してくれと頼もうとして、

「花中さんこれは危ないです!」

「え、ひゃあっ!?」

 フィアがそう言ったのと共に、花中は投げ捨てるように放り出されてしまった。が、着地する筈の地面から大量の水が噴き出し、花中をキャッチ。突然の水に驚く花中を余所に水は花中にぐるんと巻き、一瞬にして花中を飲み込んで大きな水球へと変化した。

 その水球は卵のような楕円形をしており、内部には肺呼吸である花中が窒息しなうよう大きな空洞が用意されていた。以前ミリオンと戦った時に使った水球の改良版と言ったところか。足元の水はぷよんとこちらを弾き、尻餅を撞いていてもお尻が濡れるような感覚はない。水の壁は非常に分厚いようで、揺らめく炎の色が青みの混ざった紫色になっていた。

 それだけ分厚い水に守られているので当然だが、炎の熱さも感じなくなった。もう肌にチリチリとした痛みは走っていない。そういう意味では、ありがたい事は違いない。

「ふぅ。これで安心です」

 けれども汗を拭うような仕草をして心底安堵するフィアを見ると、炎の熱さから守るだけなのにちょっと過保護過ぎじゃないかなぁ、と花中は思った。

「えっと……あ、ありがとう……」

「いえいえ。有毒ガスを吸ってしまったら後が大変ですからね」

「ああ、そっち、か……」

 放火や自殺を除いた火災による死者のうち、一番多いのは当然ながら火傷なのだが、それとほぼ同数の犠牲者を出しているのが有毒ガスによる中毒や窒息だと言われている。あれだけ激しく燃えている火災だ、一酸化炭素や二酸化炭素、その他諸々も大量に放出されているだろう。密閉空間ではないので幾分危険性は薄れているだろうが、用心に越した事はない。

「えっと、じゃあ、今度こそ」

「そうですね今度こそ帰りましょうか」

「うん、帰……らないよ!?」

 しかしいくらなんでも、この業火をほったらかしにするのは駄目だろう。

 なのにフィアときたら、不思議そうに首を傾げているではないか。

「え? 帰らないのですか? どうしてです?」

「ど、どうしても何も、大変な事に、なってるんだよ! なんとか、しないと!」

「なんとかと言われましてもねー……じゃあとりあえず蓋でもしてみますか。多分水底に穴でも空いているでしょうし」

 渋々、と言った様子でフィアは燃え盛る業火に手を翳す。その動きに合わせフィアの足元からは数本の水触手が生え、そのまま業火の方へと向かった。

 それが起きたのはそんな、フィアが業火をどうにかしようとした時。

 不意に、フィアの胸部が――――ぶくりと膨れ上がった。

「え?」

 突然の出来事に、花中には何が起きたか分からない。

 分からないうちに、全てが終わる。

 フィアの胸部の膨張は止まらず、勢いよく弾けた。さながら花火のように華やかで、そして儚く。破裂の威力は凄まじく、胸だけではなくフィアの全身が余波で吹き飛んでバラバラになる。花中は分厚い水の塊に守られ無事だったが、その水の塊が崩れ落ちるように壊れ、全身がずぶ濡れになってしまう。

「ごぶっ」

 直後、地面から呻き声が聞こえた。

 それを境に、辺りは静かになった。炎も消えた。

 けれども花中は、その場で震えるばかり。

 地面に転がり、ぴくりとも動かない『剥き身』の友人を見てしまったのだから。

「ふぃ、フィアちゃ……!?」

 声を上げ、花中は動かない友達に駆け寄る。

 何が起きたのかは分からない。だが真っ白になる頭に残ったほんの僅かな理性の訴えで、『身体』が弾けた際の衝撃によってフィアは吹き飛ばされ、地面に叩きつけられたのだと察する。

 だけど、そこから先が考えられない。

 人を遥かに凌駕するパワーを発揮する『身体』が砕けるほどの衝撃を、生身の部分が受けたらどうなるか……考えて分からない訳がない。けれども脳が思考を放棄している。本能的予感を拒絶し、論理的結論から逃げている。現実から目を逸らし、停滞した混沌に留まろうとしてしまう。

 だって、こんなの、『おかしい』――――

「はなちゃんっ!」

 僅かな理性すらも手放し、虚空に消えようとしていた花中の意識を現実に引き戻したのは、聞き慣れた、そして狼狽した様子の声。

 その声が聞こえた方に花中が振り向こうとした瞬間、漆黒の竜巻が周囲に吹き荒れる!

 台風の如くパワーを伴って突如出現した漆黒の竜巻は、花中を中心に据えて密度を増すように少しずつ色を濃くしていく。内側にも風は吹き、花中は咄嗟に、未だ動かないフィアを抱きかかえて守ろうとする。

 そして黒に阻まれて外が殆ど見えなくなった時、竜巻の内側に一人の女性が()()()()()

 当然ながらその人物は人間ではなく、ウイルスという目には見えない微小存在の集合体……ミリオンだった。黒い、ワンピースとも呼べない布切れ一枚という出で立ちは、衣服をちんたら考えてはいられなかったという焦りの表れか。

「み、ミリオンさん……!」

「ごめんなさい、ちょっと余所見をしていたわ。はなちゃんは怪我してない?」

「わ、わたしは、でも」

「なら良いわ。安心なさい。今すぐこの辺り一帯を調べ尽くして、危険な奴は全部焼き払」

 言うが早いか、先程まで炎が立ち上っていた方へとミリオンは手を指し向け

 しかし花中は、それを阻むようにミリオンの服の裾を掴んだ。服と言っても、それもまた『自身』の集合体。ミリオンはすぐに花中の方へと振り向き、戸惑い気味の表情を見せる。

「はなちゃん? どうし」

「お願い! フィアちゃんを、助けて!」

 そして尋ねようとするミリオンの言葉を遮り、フィアを片手で抱えたまま花中はそう叫んだ。

「……そう言われても、此処に居る筈の奴を野放しには出来ないわ。今のうちに片付けないと」

「だって、だってこのままじゃフィアちゃんが……やだ、そんなのやだぁ……!」

 目に浮かべた涙を零しながら、花中はミリオンに懇願する。ミリオンは最初顔を顰め、露骨に不快そうな態度を見せたが……花中が一歩も退かずにいると、呆れたようにため息を漏らす。

「ちょっと、さかなちゃんを診せて」

 やがて根負けしたように、ミリオンは花中の望む言葉を言ってくれた。

 ミリオンに言われ、花中は抱えているフィアを両手に乗せてミリオンに見せる。ミリオンはフィアに手を翳すと、目を細め、考え込むような沈黙を挟む。

「……肋骨が折れている。筋肉が切れて内出血も酷い。内臓も少し傷付いてる。だけどまだ脈はある。今は気を失っているだけね」

 やがてすらすらと、詳細な診断を下した。

「ほ、本当ですか! フィアちゃんは、まだ生きて、いるんですね!?」

「一応ね。でも手当てなしで回復出来るほど浅くもないし、そもそもさかなちゃんってエラ呼吸だからこのままじゃ息出来なくて死んじゃうわ。今は撤退しましょう。『犯人』は野放しだけどそれで良い?」

「は、はいっ! 急いで、くださいっ!」

「じゃあ一旦下流まで下がって、そこで水を汲んでから家に帰りましょうか……ああ、それからそこに居るだろう誰かさん。もし私達についてきて止めを刺そうなんて考えていたら、今度はちゃんと殺すからそのつもりで。はなちゃんが『優しい子』で命拾いしたわね」

 ミリオンがそう言うや、再び周囲に黒い竜巻――――無数のミリオンが集まり、暴風を起こした。無数のミリオンは花中とフィアを包み込むと、そのまま花中達を乗せてふわりと浮かび上がり、蛍川の下流域へと飛び立つ。

 そしてミリオン達が分子一つ分も残らずこの場を去った時、一帯には小川のせせらぎと雑木林の葉の擦れ合う音が聞こえるだけの、自然の静けさが戻った。

 まるで、おかしな事など、何も起きていなかったかのように。




マジックマッシュルームとか出した時点で、私の年齢が予想されそうです。
今の高校生ってマジックマッシュルームって呼び名知ってるのかな……

次回投稿は8/24(水)の予定です。

……曜日を書いておけば誤記対策になるかな(もっとちゃんと見直しなさい


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亡き乙女に音色は届かない4

「あぃーだだだだあだだだだっ!?」

「さっきから五月蝿いわねぇ。このぐらい痛み、我慢しなさいよ。私なんて身体を磨り潰されても声一つ出さなかったのに」

「そりゃあなたには痛覚なんて高等なものがないだけでいったぁっ!?」

「あーもー、言わんこっちゃない。そんな大声出したら折れた骨に響くでしょ。全く、脊椎動物は精密過ぎて脆いんだから」

 フィアとミリオンが、家のリビングで愉快な掛け合いをしている。フィアはリビング中央に置かれた水槽の水の中で本来のものである魚の姿を晒し、ミリオンはそれをじっと眺めている格好。ボケとツッコミのような小気味良い会話のテンポは、回りを引き込む賑やかさがある。

 普段ならその賑やかさにつられポッと花咲くように笑みの一つでも浮かべただろうが――――今の花中は暗く、俯くだけ。

 一番の友達が小さな水槽の中で弱々しく横になっているのを見て笑えるほど、花中の性根はひん曲がっていないのだから。

「ほら、はなちゃんも何さっきから俯いてんのよ。お葬式じゃあるまいに」

「それは、そう、ですけど……」

 答えが尻窄みになりながらも、花中は表情を変えられない。フィアが横たわる水槽の前で跪き、顔をフィアから背けるように俯かせる。

 蛍川で負傷したフィアは、ミリオンのお陰で一命を取り留めた。

 その事は素直に嬉しい。小躍りしたくなるぐらいだ。だけど、あの時ミリオンが来てくれなければどうなっていたのだろうか。ミリオンに言われなくてもフィアがエラ呼吸だと思い出せたか。窒息する前に安全な場所まで運べたか。怪我の治療が出来たか。

 どれか一つでも上手く出来なかったら、フィアはどうなっていたか。

 ……想像はしたくない。だが認めなければならない。そして自分が如何に無力であるか、その事実を受け入れなければならなかった。

「ええい忌々しい……何処のどいつの仕業かは分かりませんが今度会ったらグチャグチャになるまで磨り潰してやらねば……!」

「正体も能力も分からないくせに、よくもまぁそこまで強気になれるわねぇ。応急手当はしたけどそれだけなんだから、無理して死んでも私は知らないからね」

「うぐぎぎぎ……!」

 花中と違いフィアは闘魂燃え盛っているようだが、ミリオンに窘められて悔しそうに唸る。やる気はあっても身体が耐えられない事は、フィア自身が一番分かっているのだ。

 フィアにとっては歯痒い状況だろうが、花中にとっては『好都合』と言えた。

「はなちゃん?」

 立ち上がり、リビングから出ようとする花中にミリオンが気付く。しかし花中は無視するようにリビングの外へ。

 リビングの外、廊下に出た花中は自室のある二階へと続く階段……ではなく、玄関の方へと向かう。そこには帰ってきた時靴箱の側に投げ捨てていたポーチがあり、拾い上げるや花中は躊躇いなくポーチの紐を首から掛ける。

 そしてそのまま玄関に一歩踏み出し、

「流石に、此処から先については見過ごせないわねぇ」

 靴を履こうとしたところ、玄関扉の前を塞ぐようにミリオンが()()()

 唐突な、しかし慣れてしまえば何時もの現れ方。花中は靴を履いてから、答える。

「……少し、出歩くだけです。フィアちゃんに、栄養のある虫を、食べさせたい、ので」

「だからあの雑木林に立ち寄るって? もう少しマシな言い訳は出来ないのかしら」

「……わたしの、せいですから」

「ん?」

「フィアちゃんが怪我を、したのは、わたしのせい、ですから」

 真っ直ぐに、ミリオンを見据えて花中はハッキリと告げる。

 あの炎を前にして、フィアが言うようにすぐ逃げていれば。

 そうすれば、少なくともフィアがこんな大怪我をする事はなかった。自分があの時意固地になっていなければ、無責任な正義感を覚えなければ、今頃フィアは自らが捕らえたイモムシに舌鼓を打っていた筈だ。平穏な日常を享受していたに違いない。

 頼り過ぎていた。まるでフィアの力が自分のものであるかのように振る舞っていた。それが、この結末を招いた。

 なら、その『責任』を取らねばならない。

「……はぁー」

 固めた決心を柱にして向き合っていると、やがてミリオンがため息を吐く。呆れたように頭を掻き、そっぽを向いてから口を開いた。

「どーせ責任取らなきゃとか思ってるんでしょうけど、具体的には何を目標にしてるの?」

「フィアちゃんが、何をされたのか、誰にやられたのか……出来れば、どうしてやられたのか。それを知り、フィアちゃんに伝えたい、です。可能なら、その『ヒト』には、フィアちゃんに、謝って、ほしいです」

「穏便な復讐ねぇ。でも無駄に終わるわよ。私、今回の件は自主的に調べるつもりだから」

 ミリオンが告げた言葉に、花中は強張らせるように身体を僅かに震わせる。

 予想はしていた。ミリオンにとって一番大事なのは愛する人との思い出……その思い出の維持に欠かせない、花中の生存を最優先にしている。もしかしたら花中の身にも危険が及んでいたかも知れない今回の事件は、再発を防ぐためにもミリオンが真相を知りたがるのは当然の事。彼女の力を用いれば ― 先日のキャスパリーグの時のような ― 余程大きな勘違いがない限り、大概の秘密はあっという間に暴けてしまうだろう。そして二度とこんな事が起きないよう、ミリオンは危険を『排除』する。何だろうと燃やし尽くす、無敵の力を振り下ろして。

 果たしてただの人間である花中に、僅かでも事件の真相に迫る時間があるのだろうか。

 ――――そんな事は、とっくに分かっている。

 結局、いくら責任と言ったところで、こんなのは自己満足なのだ。何も出来ない、歯痒い自分を誤魔化すための。

「それでも、です。何もしないでは、いられません、から」

 臆さず告げた花中の答えを聞き、ミリオンは考え込むようにしばし天井を仰ぐ。

 もう靴は履いたが、ミリオンが前に居て進めない花中はじっと待ち……

「……危ないと思ったら、すぐに家に連れ帰るからね」

 そう言うとミリオンは、扉の前から文字通り姿を消した。

「あ、ありがとう、ございますっ」

「はいはい、どういたしまして。さかなちゃんの面倒も見とくから、好きにすると良いわ」

 花中が誰も居ない玄関に向けて頭を下げれば、虚空からミリオンの面倒臭そうな声が聞こえた。群体であるミリオンの事。事件の調査、花中の監視、フィアのお世話……全てを同時にこなす事など造作もない。

 懸念はなくなった。フィアが居るであろうリビングの方角に一瞥くれてから、花中はポーチの紐を力強く握り締め、玄関の扉を開けて外へと飛び出した。

 ……さて、何処に向かおうか。

 言うまでもなく、フィアを襲ったモノの正体を掴むための証拠を確実に集められるのは、現場であるあの雑木林周辺だろう。しかしそこはいわば『敵』 ― と事情も知らずに言ってしまうのもどうかと思うが ― の本拠地。考えられる中で最も危険な場所だ。近付こうとしたら、その瞬間ミリオンに家に連れ戻されてしまうだろう。

 よって現地調査は却下。なら、何処に行く? 何処でなら、この異様な事態の調査が出来る?

 情報化社会と呼ばれる昨今、候補はたくさんある。例えばインターネットなら自由に検索が出来、それでいて新鮮な情報を容易に集められる。専門的で詳細な情報を知りたいなら、駅前の大きな本屋で書籍を買い漁るのも悪くない。

 しか無秩序なネット世界で正確かつ詳細な情報を集めるのは骨が折れるし、参考文献がしっかりと書かれ正確性がある程度保証された書籍は値段が張るため数を揃えられない。どちらにも長所と短所はあり、そもそも真実を見付けるためには多様な見方が必要である。どちらか、ではなく、どちらも、でないと駄目だ。

 そんなワガママな要望に応えてくれる場所は、花中がすっと思い付ける中ではただ一つ。

「とりあえず、図書館に、行こうかな」

 大きな声で()()()()ながら、花中は言葉通りの建物へと向かうのだった。

 

 

 

 大桐家から歩いて五分ほどの場所にある停留所。そこから出ているコミュニティバスに乗って十分ほどの道のりを進み、『図書館前』にて下車すれば――――目の前に、花中の住む町の市立図書館がそびえ立つ事だろう。

 比較的規模の小さな図書館であるが、インターネットが使用可能なパソコン室や新聞コーナーなど、図書館としての機能は十分に備わっている。難点は図書館の要とも言える蔵書数が少なめというところだが、それはあくまで図書館の中ではという話であり、一般人では管理も出来ないほど大量の書籍が置かれている事に変わりはない。普通の調べ物をする分には十分だ。

 そんな図書館に到着してから、インターネットを使い、新聞を読み、本を集める事凡そ二時間。

「だぁーめぇーだぁー……ぜんっぜん、分かんない……」

 積み上げた本と新聞の山に埋もれるように、花中は降参の呻きを上げながら机に突っ伏した。

 こんなはしたなくて衆目を集める行為、普段ならまずやらない。が、今は周りの席に人の姿がないので、少々羽目を外していた。何より、こうでもしないと気持ちの憂さが晴れそうになかったのである。『調査』の進みが芳しくなかったので。

 とはいえ、成果がなかった訳ではない。むしろ成果は上々。その上で芳しくないと思っている。

 今の花中の心境を語るためには、今までどのような調べ物をしたのかを記す必要があるだろう。

 半ば衝動的に家を飛び出した花中であったが、実のところ、フィアを襲ったモノの正体には大まかな検討を見当を付けていた。確かにフィアを襲ったモノについて、花中は何も知らない。しかし大量の水によって構成されたフィアの『身体』を易々と粉砕した事から、『ソイツ』……Aとしよう……の持つ力が強大なのは間違いない。蛍川から吹き出した炎のエネルギー量も相当なものだろう。

 どちらの現象も、人間や自然に真似出来ないとは言わない。が、あまりにもコストが掛かるし、何より不可思議。Aに『人間』や『動物』、『自然現象』を代入するのが正しいとは思えない。

 十中八九、Aはフィアやミリオンと同様、突然変異によって圧倒的な力を手に入れた生物……ミュータントと考えて良いだろう。

 そうなると『何』がフィアを傷付けたのかを知りたい花中の具体的な目標は、ミュータントAの正体を暴く事になる。

 果たして当人に教えてもらう以外の方法で、Aの正体を暴けるのか? 人間が発見した生物だけでも二百万種はいて、しかも未確認生物がミュータント化しない根拠などないのに。暴くにしても現地に行かずに出来る事なのか? 安楽椅子探偵すら、助手を現場に向かわせるのに。

 難しいのは否定出来ないが……花中の頭の中には、それなりの道筋が出来上がっていた。

 微細な分子構造物であるミリオンは熱を自在に操り、俊敏な獣であるミィは圧倒的な身体能力を有し、生粋の水棲動物であるフィアは多量の水を意のままに操る……と、ミュータントの能力は種そのものの特性を強めたような性質が目立つ。それに以前ミリオンが言っていたが、ミュータントの能力はその生物が持っている力を大きく高めたもの、という推測がある。ならば能力が種を象徴するようなものなのは頷ける話。ミィとその兄であるキャスパリーグの能力が同一なのも、その考えに説得力を持たせる。無論あくまで推察であり、絶対とは言い難い。しかし今までの経験から信憑性は高い話だ。つまり能力から、ミュータントの大まかな種を予想出来る可能性は十分にある。

 そしてフィアと花中は、蛍川でいきなり攻撃を受けた。あの巨大な炎がなんらかの警告だった可能性もあるが、突破しようとしたならいざ知らず、立ち往生している相手に攻撃してくるとなれば些かケンカっ早い性格と言わざるを得ない。

 そんな性格の相手が、のこのこと蛍川にやってきた一般人を全て無視するだろうか? 実に考えにくい。花中達以外にもミュータントの『攻撃』を受けた人達が居てもおかしくない。勿論被害者は、よもや「突然変異を起こした生物に攻撃された」とは思わないだろう。なんらかの『事故』として報告されている筈だ。

 蛍川で起きた事故を調べれば、『相手』の能力を知るための手掛かりが得られるのではないか。その能力から正体を探れるのでは……

 そう考えた花中は、蛍川でここ最近起こった事故について調べた。インターネット、古新聞、オカルト本……図書館は情報の宝庫だった。そして目論見通り蛍川で起きた、不可解で、如何にもミュータントの仕業のような事故を多数見付ける事が出来たのである。

 ……そう、多数。

 何故花中が机に突っ伏しているのか? それは調べれば調べるほど、出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ出るわ

 あまりにも怪しい事故が多過ぎて、手に負えなくなったからだ。

「うー……なんなのあの川ぁ……」

 ぐでっと顎を机に乗せただらしない姿勢のまま、花中は珍しく悪態を漏らす。

 ほんの二時間で確認出来た事故の件数、なんと六十以上。重複や虚偽らしきものを除いても四十件はある。しかもこの二年間での事故件数であり、更に数年遡って調べれば百件を超えそうな勢いだ。

 内容も幻覚に襲われて錯乱した程度ならまだ大人しい方で、タバコの火が突然弾けて顔に火傷を負ったり、真夏に低体温症で搬送されたと思えば真冬に熱中症で搬送されたり。不意に倒れてきた木の下敷き、家電ゴミの不法投棄をした輩が雑木林の中で一週間も遭難、ピクニックに来ていた家族の自家用車が突如大爆発……呪われているとしか思えない、バラエティに富んだ惨状ばかりだ。

 死者が出たという報告こそ見当たらなかったが、重体で搬送されたと書かれていたものは少なくない。明らかに後遺症が残るもの ― 今月の頭には、眼球が傷付いて失明した女性が現れたとか ― も多かった。道理でフィアと一緒に行った時、雑木林内に子供の姿がなかった訳である。こんな危険地帯、報酬がカブトムシ程度では割に合わない。

 挙句起きた事象に統一感がなさ過ぎる。

 タイミング良く木を倒し、人を雑木林で遭難させ、車を爆発させるとはどんな能力なのだ? 灼熱の炎を噴き上げ、不可視の一撃でフィアの身体を吹っ飛ばす科学的方法とは? 幻覚はキノコによるものかも知れないが、このミュータントの仕業とも考えられる。

 ……さっぱり、分からない。なんだかインチキに嵌められたような、ムカムカとした違和感が胸をくすぐる。

「何か、天からアドバイスとか、降ってこないかなー……」

 周りに人が居ないのを良い事に、それとなく『虚空』に意見を求めてみるが、返事はない。どうやら本当に手伝うつもりはないらしい。

 花中はため息一つ。

 それでも胸中渦巻く虚しさやら徒労感は拭えず、花中は両腕すら脱力し、顎を乗せた姿勢で机に寄り掛かった。

「あれ? 花中じゃん」

「ぴゃあっ?!」

 そんなだらしない姿の時に声を掛けられたので、花中は思わず跳び起きた。結果、弾みで手の甲を机にぶつけてしまった。結構痛い。

 傷む片手をもう片方の手で擦りながら、花中は半べその顔で声がした己の背面へと振り返る。

 そしてまたしても驚き、驚き過ぎて手を擦る動きが止まってしまった。

 何しろ花中に声を掛けていたのは、人の姿をしつつも人ではない――――住所不定無職な『野良猫』だったのだから。

 尤も今日の彼女の格好は野良猫らしく体毛だけで秘部を隠した半裸スタイルではなく、半袖のポロシャツとジーパンという清潔感のあるものだったが。

「み、ミィさんっ!?」

 一月ぶりの再会に、驚きと嬉しさが混ざって思わず声が舞い上がる。が、此所は静かにしないといけない市立図書館。やってしまったマナー違反に花中は咄嗟に自分の口を両手で塞いだが、今更そんな事をしてもマヌケなだけだと後から気付いて顔を赤くする。

 ややあって開いた花中の口から出てきたのは、必要以上に小さなひそひそ声だった。

「ぁ、ぅ……えと、お久し、ぶり、です……」

「うん。一月ぶりかな? 花中は今日一人……のように見えるだけか」

 恥ずかしがる花中を他所に、野良猫ミィは以前会った時と変わらぬ快活さを見せる。兄との『喧嘩』でかなり身体を痛めたと聞いていたが、どうやら経過は良好なようだ。

 安堵のお陰もあって、花中の胸の内もいくらか落ち着いた。なので、首を傾げるだけの余裕も出来る。

 図書館に来たという事は、ミィも調べ物があるのだろうか? それに着ている服は何処で手に入れたのか。フィアやミリオンと違い、ミィの能力……『強靱な肉体を自在にコントロールする』力では、自身の身体を人間の形には出来ても、衣服を作り出す事は出来そうにない。捨てられていた物を拾った、にしては真新しい服に見えるのだが……

 あれこれ考えても仕方ない。話題がてら、花中は訊いてみる事にした。

「ところで、ミィさんは、どうして此処に? それに、その服は……」

「ん? この服はあたしが昨日買ったやつだよ」

「買ったって、お金は?」

「変なおじさんがくれたの。十万円ぐらい」

 さらりとミィは答えたが、花中はギョッと目を見開いた。

 変なおじさん、十万円もの大金、(見た目は)幼い少女……嫌な予感を、下種な勘繰りをするなと言われても無理な話。彼女は人間じゃないのでいかがわしい事をしても法律的にはOKでも、倫理的にNGだ。

「あ、あ、あの、一体、何をして……」

「んー、何をしたかって言ったら、殴った?」

「な、な、殴った!? ……殴った?」

「なんか人気のない場所で、二人のおじさんが変な臭いの粉とお金を交換してるとこに出くわしてさ。何やってんのって訊いたら、お金を貰ってた方のおじさんがいきなりナイフを取り出して、襲い掛かってきてね。殴ってぶっ倒したら、これで見逃して~って言いながらお金を渡してきたの」

 「一体なんだったのかなぁ?」と訊きたげに、ミィはあっさりと答えた。どうやら花中の勘違いだったらしい、が、予想していたよりもヤバいお金。もしかしたら口封じが現れて……などと物騒な考えも過ぎったが、一般人が何百人集まろうとミィに勝てる筈もない。人間にとってはヤバくても、猫にとってはあぶく銭か。

 花中の口からは乾いた笑いしか出てこなかった。あまり盛り上げて誰かに聞かれるのも、面倒事にしかならないだろう。

「で、では、その、どうして此処に?」

 話を逸らすように、花中はもう一つの疑問を改めて尋ねた。

 するとミィは口籠り、逃げるように逸らした顔をほんのりと赤らめる。

 危ない ― という認識など持っていなかったが ― お金の事を簡単に打ち明けたミィが、図書館に来た理由を口籠る。

 聞かない方が良い話だったのだろうか。

 そう思わなくもない花中だったが、好奇心の方が勝った。無論無理やり聞き出そうとは思わなかったが、花中はミィが話し出してくれるのをじっと待つ。

「その……勉強、しようかなって」

 ややあって開いてくれたミィの口から出てきたのは、ごく有り触れた理由で、花中は首を傾げた。

「勉強、ですか?」

「いやさ。一月前、あたしと兄さんがケンカして、一応あたしが勝ったじゃない?」

 ミィに言われ、花中は無意識に記憶を辿る。ミィとその兄・キャスパリーグの諍い……人類にとっては十数万の命の未来を左右する攻防。

 とはいえ、ミィ達にとってはただの兄妹ゲンカに過ぎない。さして深刻に考える必要もなく、花中はこくんと頷いてミィの次の言葉を待つ。ミィは気恥ずかしそうに頭を掻きながら、ボソボソと話を続ける。

「それでさ、やっぱあたしも何もしない訳にはいかないって思ってね。人間の良いところも、悪いところも……ちゃんと知ってって言った自分が何もしないなんて、知ろうとしてくれている兄さんに失礼だなって」

「だから、自分も勉強しようと?」

「うん……って、やっぱりらしくないか! あたしが勉強なんておかしいよね! 猫だし!」

 あはは! と元気に、恥ずかしそうにミィは笑う。

 花中は、ゆっくりと首を横に振ってその笑いを否定する。

「おかしく、ないと思います」

「……おかしく、ないかな」

「はい」

 自分の好きなモノの、悪いところも知る――――やらなきゃいけないのに、とても難しい事だ。花中(じぶん)もちゃんと出来るか分からない事。どうしてそれを馬鹿にするのか。どうして努力を否定出来るのか。

 それどころか、応援したいぐらいなのに。

「何を調べたいとか、あるのですか? その、具体的な、対象というか」

「具体的には、ちょっとないかなー……強いて言うなら、日常的な部分からもっと知りたい感じだけど」

「そうですか……なら、本を読むより、インターネットの、方が、良いかも、知れません。ネットでなら、最新の、ニュースも調べられます、ので。ちょっと、意見の偏り、というか、ネットの雰囲気、というものが、あるので、正確とは、言えないです、けど……でも、『悪いところ』という、意味では、丁度良いかも、です」

「そうなんだ。じゃあ、ちょっとパソコン室の方に行ってみようかな。使い方は、身に覚えはないけどなんとなく知ってるし」

 ありがとう、と言いながらミィは手を振って別れを告げ、こちらこそ、と返して花中も手を振る。ミィはパソコン室がある方へと歩き出し、本棚の向こうに姿を消した。

 ……パソコンの使い方を知っていたのは、ミュータントであるが故に花中の知識を共有しているからか。だとすると、ネット自体は初体験と思われる。

 さて、ネットサーフィンの誘惑に抗えるか。それもまた経験かと、花中はくすりと笑う。

 それから背筋を伸ばし、ぺちぺちと自分の頬を叩いた。

 ミィと会えたお陰で、気持ちを切り替えられた。

 現場に出向けない以上、困難な道のりなのは最初から分かっていたではないか。それどころかたくさん集まった『情報』に対し、その多さに文句を言うなど贅沢にもほどがある。まとめきれないのは自分の力不足が原因。嘆くべきは現状ではなく己の無力さ。俯き、項垂れても何も変わらない。それにまだスタートでちょっと蹴躓いただけ。『勝負』はここからが本番だ。

 まずは一際印象に残っている自家用車爆発事故を、もっと詳しく調べてみよう。自動車爆発という()()()事件を、ネット界隈が気に留めないとは思えない。インターネットを使えば『事故』の詳細を掴めるかも知れない――――そう考えた花中は今し方ミィが向かったパソコン室に行くべく力強く椅子から立ち上がり、

「ん?」

「あっ」

 発とうと後ろを振り向いたところ、偶々後ろを通り過ぎようとしていた男性と目が合った。

 途端、花中の顔は一気に朱色へと染まる。

 元々恥ずかしがりやで赤面しやすい性質ではあるが、何より花中は男の人が苦手。逞しい肩幅、野太い声、ゴツゴツとした手……どれもが強そうで、ひ弱な花中には全部が怖くて仕方ない。友達が傍に居れば話ぐらいは出来るのだが、生憎今は誰も居ない。いや、正確には数百万を超える『友人』達に包み込まれてはいるのだろうが、姿が見えなければ実感出来ない。

 花中はすっかり萎縮してしまい、逃げるように男に対して背を向けた。ピンっと伸ばしていた背筋は今やすっかり丸まり、身体はビクビクと震えている。そんな自分の反応があまりにも恥ずかしく、花中の顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。頭の中も沸騰しており、周りを見渡す余裕すらない。

 だから――――バサバサっ! と大量の紙が落ちる音に、背筋が凍るほどビックリしてしまった。

「ひゃぅっ?!」

 短い悲鳴を上げ、花中は反射的に音が聞こえてきた背後へと振り向く。そこには未だ男が立っていて、またしても目が合ってしまう。

 混乱していた花中は、今度は顔を逸らせなかった。結果まじまじと見つめる事となり、男の姿をハッキリと認識する。

 幸いだったのは、その男があまり『男性的』ではなかったところか。顔立ちは端整かつ中性的な雰囲気がある細もてで、男性だとは判るのだが、女性的な麗しさもそことなく感じさせる。身体付きもしなやかで、失礼ながら女装をさせても違和感なく馴染みそうだ。唯一男性らしさが色濃く出ているのは、一見して細くか弱そうな、その実厳しい鍛練を耐えてきたのを窺い知れるボロボロな指先ぐらいか。女性的要素が強く正確な歳は判断し辛いが、二十代前半から後半ぐらいに見える。

 そして図書館に泥塗れでヨレヨレなタキシードで来るあたり、中々キテレツな発想の持ち主らしい。

 尤も、男だと断言出来る程度には男らしい事以外、花中の頭には殆ど昇ってこなかった。うっかり見つめてしまったばかりに、顔を逸らすタイミングが分からない。恥ずかしさや怖さで何も考えられず、あわあわと小刻みに右往左往するばかり。

 挙句、その男が不意に花中の肩を掴んできて、

「き、君はあの時の子だよねっ!? そうだよね!?」

「ひぃっ!?」

 大きな声で話し掛けてくるものだから、花中は小さくない悲鳴を上げてしまった。

 肩が痛い。耳に響く。大きな声で何か言っているけど、怒っているのだろうか。何に怒っているのか。自分は何かしてしまったのか。どうすれば許してもらえるのか。分からない。全然分からない。

 怖い――――

「ゃ、止めて……」

「あれからずっと探していたんだ! お願いだ、話を聞かせてほしい!」

 震えながらも声を絞り出して懇願する花中だったが、男の耳には届かなかったのか。怯えて縮み上がる花中に、男はお構いなしとばかりに声をぶつけてくる。あまりにもズカズカとした歩みより方は、まるで十年ぶりに肉親との再会を果たしたかのような必死さを感じさせた。

 もしかするとこの人、わたしに何か用があるのかな。

 ……なんて考えは、花中の脳裏には欠片一つも過らなかった。パニックに陥った頭の中はショートし、理性を司る神経が焼き切れる。怖くて痛くて涙がポロポロと溢れてくるが、震える喉からは過呼吸気味の吐息しか出てこない。浴びせられる『罵声』は耳から入るや頭の中身をぐわんぐわん揺さぶり、そのまま反対側の耳から抜けてしまう。

 押し寄せる怖さから這い出せず、花中は水底に沈んでいくかの如く意識の遠退きを感じ――――

「やれやれ、世話の焼ける子だわ」

 呆れ返った声が、花中の耳をくすぐった。

「いっ、でええぇああああっ!?」

 直後花中の真正面から頭に響くような太い悲鳴が。いきなりの悲鳴に驚き、沈みかけていた花中の意識は一気に浮上する。我を取り戻した視界に映ったのは、身を捩って痛みに悶える()()()()()()男の姿。

 そしてその男の、つい先ほどまで花中を掴んでいた手を捻っている、ミリオンだった。

「み、ミリオン、さん……!」

「はなちゃん、少しは男嫌いを直した方が良いんじゃないかしら? そんなんじゃ結婚どころか彼氏すら出来ないわよ」

「き、君はいっ、いだだだだっ!?」

 突然の介入者に男は抗議染みた声を上げるも、ミリオンは喋るなと返答するかのように彼の手を更に捻る。ミィほどの力はなくとも、重さ数百キロ~数十トンのフィアと対等に殴り合える程度の怪力はミリオンも持っているのだ。仮にこの男が何かしらの格闘技の世界チャンピオンだったとしても、ミュータントの前では赤子、いや、地を這う虫も同然。痛めつける事はおろかほんの少し指に力を込めるだけで、或いは『うっかり』で命すらも奪えてしまえる。人の手なんて、虫の足のようにあっさりと捩じ切ってしまうだろう。

「あ、あの、み、ミリ……」

「安心してはなちゃん。私はさかなちゃんと違ってそこまで手は早くないから。それに……」

 せめてそれだけは意識してほしいと花中は伝えようとしたが、ミリオンはちゃんと意識していたようだ。そして何かを言おうとしていたが……口籠もった途端、ぷっつりと言葉が途絶えてしまう。

 どうしたのかと花中が覗き込めば、ミリオンはすっと笑顔に。

「やっぱり何事も穏便に済ませた方が、後々面倒がなくて楽でしょ?」

 それから当たり障りのない答えが返ってきたので、花中はつっかえの取れない気持ち悪さを覚えた。

 とはいえ、それをここで問い詰める気はない――――痛みでもがき苦しむ人を目の当たりにしながら淡々とお喋りが出来るほど、花中は図太い神経を持っていないのだから。

「ところでこの人……蛍川でさかなちゃんに投げ飛ばされた人じゃない?」

 尤も、仮に図太かったとしても、ミリオンのこの言葉の方に意識を持っていかれただろうが。

 改めて、今度はしっかりと頭を働かせた上で、花中は男の顔を見る。

 ……『蛍川で出会った時』も頭が真っ白だったのでいまいち覚えていないが、言われてみればこの男、見た事あるような気がする。男はミリオンに今にも捩じ切られそうなほど手を捻られ苦悶の表情を浮かべているが、それでも尚花中に視線を向けており、何かしらの執念を燃やしているようだ。自分は覚えてなくとも顔見知りと考える方が自然か。ミリオンが言うように、蛍川で一度会っているのかも知れない。

 だとすれば、どうして彼は何度も花中(じぶん)に話し掛けてくるのだろうか?

 何か、どうしても話したい事があるのだろうか?

「あ、あの……何か、話したい事が、あるの、ですか……?」

 花中が恐る恐る尋ねると、男は手の痛みで顔を顰めながらも必死に頷いた。

 花中は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いて波打つ心を鎮める。

 今も男の人は怖い。けれどもミリオンが傍に居てくれるのなら、心を落ち着かせて話は出来る。怖がって、逃げてばかりでは何も分からない。怯えるのは分かってからでも遅くない。いや、分かってから怯えなければならない。

 まずは、話し合いだ。そうやってお互いの事を分かり合おう。例え相手がウイルスでも、自分を襲った怪描でも、そうしてきたように。

「……ミリオンさん。手を離して、ください」

「りょーかい」

 花中が頼めば、ミリオンはすぐに男の手を自由にした。痛むのか男は自由になった手を摩りながら、花中と向き合う。流石に散々痛めつけられていくらか気が散ったのか、また花中に掴みかかるような真似はしてこない。

「えっと、その……すみません、驚いて、何も、言えなくて……あの、あっちの、角にある机で、話し、ませんか? 今なら、ちゃんと話を、聞けると、思うので」

「……いや、謝らないといけないのはこっちだね。いきなり掴みかかって、ごめん……その、話を聞いてくれるならありがたい。是非、そうしたい」

「……………」

「……………」

 ぎこちなく会話を交わした後、花中と男は揃って花中が示した隅っこの机へと向かう。まるで他人のように離れて並び、だけど恋人のように足並み揃えて進む様子は奇妙の一言に尽きる。折角人目に付かない隅っこに移動しているのに、人目を集めてどうするのか。

 一部始終を見ていたミリオンは、呆れたようにため息を漏らしていた。

 ――――ただしその直後、彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。

「どう接触させようかと考えていたけど、向こうから来てくれたのは好都合ね……ん?」

 離れてしまった花中には聞こえない、小声で独りごちるミリオン。彼女はふと天井を仰ぐように顔を上げると、何かを聞いているかのようにこくこくと数度頷き、

 その眼を、パチリと見開いた。

「あ、あの、みみ、ミリオンさーん……い、一緒に、居てくれないの、ですかぁー……?」

 そのまましばし微動だにしなかったが、不在に気付いた花中に呼ばれてハッとしたように一瞬身体を震わせる。

「ええ。今行くわ」

 そして花中の方へと向けた顔に浮かべていたのは、何時もの無感動な微笑み。

 音もなく歩み寄るミリオンに、花中が違和感を覚える事はなかった――――




ミィは真っ当な建物でコンクリート製の床なら、一階まではちゃんと歩けるという設定です。現実で人間サイズかつ体重五十トンオーバーな存在がコンクリートの床を歩けるかは分かりませんが。


次回は8/27(土)投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない5

 時計の針が五時を過ぎ、夕刻と呼ばれる時刻を迎えた頃。

 七月の太陽は外は未だ高く、外は昼のように明るいが、図書館から人影はすっかり減っていた。閉館時刻は午後九時なのでまだしばらくは利用可能だが、これからどっと人が押し寄せてくる事もあるまい。

 ましてや施設の隅っことなれば、人気など皆無。辺りを見渡しても人影はおろか、息遣いや足音などの気配も感じられない。人にあまり聞かれたくない話も、これなら幾分話しやすいだろう。

 そのようなシチュエーションの中で――――花中は、自分を()()()タキシード姿の男と向き合っていた。

 男と花中は図書館の隅にある、長机を挟んだ対局の位置で向かい合っている。普段滅多に関わらない大人の男の人との対面で花中の身体はガチガチになっており、親に叱られている子供のように身を縮こまらせている。男の方も表情が強張り、背筋を不自然にピンと伸ばしていた。

 そして二人揃って互いにチラチラと相手の顔色を窺い、無言を貫いたまま。

「さっきから何意識しあっちゃってんのよ。恋する乙女じゃあるまいし」

「「はっ!?」」

 花中の後ろに立つミリオンがツッコミを入れなければ、果たして何時までこの無言は続いていたのだろうか。我に返った花中はもじもじしながら、意を決して男の顔を覗き込んだ。

 ……何故か、男の方が花中よりも挙動不審になっていたが。まるでやましい事でもあるかのよう。あまりの怪しさに花中の中に冷静さが戻ってきたが、同時に根深い不信感も抱いてしまう。話す前から固定観念は良くないと、花中は首を力いっぱい振って頭の中をリセットしておいた。

「えと、ま、まずは自己紹介、から、しません、か? あの、わたし、大桐花中と、言います」

「あ、ああ……僕は二階堂(にかいどう)奏哉(そうや)だ。よろしく」

 それから今までしていなかった自己紹介を、花中は自分から始めた。男――――奏哉もぎこちない言い方ながら名乗る。たったそれだけで二人の間にあった見えない壁が、依然立ち塞がってはいるものの、少しだけ低くなったように花中には感じられた。

 さて、自己紹介が済んだならいよいよ本題だ。

 どうして彼は自分に付き纏うのか、自分に何を訊きたいのか。それを確かめなければ、勇気を振り絞って男の人と向かい合った意味がない。

「そ、その……わたしに、何か用が、あるのです、よね? わたし、あなたに何か、してしまった、のでしょうか……?」

 花中は声を絞り出し、出来るだけハッキリとした言葉で奏哉に尋ねる。

 奏哉の最初の答えは、首を横に振る事だった。

「いや、君は何もしていない。ただ、ちょっと教えてほしいだけなんだ」

「教えてほしい、ですか?」

「君が出会った、女の子についてだよ」

 首を傾げる花中に、奏哉は真っ直ぐな眼差しと共に答える。

 しかし花中はますます首を傾げてしまった。何しろ奏哉の言う女の子に、なんの心当たりもないのだから。

「……あの、女の子と言われても……だ、誰の、事、でしょうか?」

「え? あ、ああ……いきなり言われても困るよね。えっと、僕と初めて会った時の事は覚えているかい?」

「初めて……えと、ほ、蛍川、の、雑木林の……?」

 確かミリオンさんがそう言っていたような……記憶を辿りながら花中が恐る恐る訊き返すと、奏哉は「そう、その時の事だよ」と肯定する。それなら少しは、と花中が答えると、奏哉は件の少女の外観について確認するように説明し始めた。まず、その子は花中と同じぐらいの身長で……

 しばらく大人しく話を聞いていた花中だったが、やがてハッとなった。確かに、その『少女』には見覚えがある。

 しかし彼女は、キノコに当てられて見た『幻覚』だった筈。

 ふと、記憶が蘇る。奏哉と初めて会ったあの時、花中は自分が見た幻覚の『少女』について、うっかり奏哉に話してしまっていた。自分と同じぐらいの身長の、と言われて、つい見たと答えてしまっていたのだ。その後奏哉に肩を掴まれて頭が真っ白になり、フィアが奏哉を投げ捨て、奏哉を置いて逃げ出して……今まで訂正を一度もしていない、ような気がする。何分あの時はパニックに陥っていて記憶が曖昧なのだが、自分の話した内容すら覚えていないような状況でちゃんと説明出来ていたとは考えられない。

 まずはそこから話した方が良さそうだ。だけどそうなると、期待させてしまった分、すごくガッカリさせてしまうかも知れない。そう思った花中は、びくびくしながら言葉を絞り出した。

「あ、あの……言い辛いの、ですけど……た、多分、わたし、その女の子……見てない、です」

「見てない? でも……」

「あ、あれは、幻覚を、見ていた、みたいで……あの、蛍川の、周辺は、今、幻覚キノコが、たくさん生えて、いる、みたいです、し、その女の子、途中で消えちゃったし……」

「途中で消えた?」

「は、はい。瞬きしたら、と言うか、映像が、切り替わる、みたいに、パッって、消えて……」

 説明しながら、なんて胡散臭い話だと花中自身感じる。逃げたい一心で話を煙に巻こうとしているのでは、と思われても仕方ない。

 ところが花中のそんな心配を余所に、奏哉が怪訝そうな、或いは苛立った表情を浮かべる事はなかった。むしろ納得したかのように清々しく微笑んでいる。何故そんな顔をするのかさっぱり分からず、却って花中の方が戸惑う。

「……あの……?」

「ん? ああ、すまない。いや、それで良いんだ。その子についてで良い」

「え? でも、それはわたしの」

「君が見たのは幻覚じゃない」

 もしかしてちゃんと伝わっていないのでは?

 そう思い改めて話そうとしたところ、遮るように奏哉は訂正を入れてきた。幻覚ではないなんて、どうして花中と一緒に居た訳でもない人物に断言出来るのか? 大体一瞬で消える点についてどう説明する気なのだろうか。

 奏哉の言葉は納得どころか疑念を生じさせ、花中はつい眉を顰めてしまう。

 そんな花中に、奏哉はテーブルに身を乗り出して顔を近付けてきた。突然の行動に花中の身体は反射的に後ろに下がろうとしたが、背もたれのある椅子に座っていてはそう遠くまで離れられない。何時もなら跳び退くように逃げるところが、身を仰け反らせるだけで終わってしまう。逃げられなくなった花中との距離を詰めた奏哉は、乗り出した姿勢のままキョロキョロと辺りを見渡し、

「ここだけの話……君が出会った女の子は、人間じゃないんだ」

 周りには花中とミリオン以外居ないのに、ひそひそとした小声でそう語った。

 

 

 

 ――――曰く、『少女』と初めて出会った時、奏哉はバイオリニストを志す若者の一人であった。

 バイオリニストを目指していた当時の彼は、とある講師の下で技術を磨いていた。講師には奏哉以外にも大勢の生徒がいたが、奏哉は ― 自称ではなく、講師が言うには、なのだが ― その中でも飛び抜けて優れた技術を持っていた。どんな曲だろうと一度読んだだけで譜面通りに演奏出来、要望があればその通りにアレンジを加えられる。人がこれほど正確かつ繊細に演奏が出来るものなのかと、称賛の言葉をもらった事も何度かあった。

 しかしその腕前を大勢の前で披露する機会は、中々得られなかった。

 オーディションを受けても受けても、あと一歩で落とされる。講師のツテでコンサートを開けば好評にも関わらず、業界からの声は掛からない。誰もが上手いと認めているのに、誰もその音色を欲しない。

 決して驕っていた訳ではない。結果に不満がある訳でもない。それでも仲間達が一人、また一人と独り立ちする中で自分だけが残される状況に、奏哉は苛立ちと焦りを覚えるようになった。ただし周囲に当たり散らしたりはせず、家でがむしゃらにバイオリンの練習するという形で憂さを晴らしていたが……初夏を迎えたある日、近所からクレームが来てしまった。講師の指導を受けるため奏哉は地元からこの町に引っ越してきたのだが、住まいであるオンボロアパートの壁はバイオリンの音を防いではくれなかったのである。

 苦情がきた以上、家での練習は控えるしかない。しかし練習をしなければ夢は遠退くばかり。

 悩んだ末に奏哉は、自宅アパートの近所にある林……蛍川近くの雑木林で練習する事を閃いた。あそこなら住宅地から少し離れているし、生い茂る木々やふかふかな土が音を吸収してくれそうな気がする。少なくとも家で演奏するよりかは近所の迷惑にはならないだろう。澄んだ空気に囲まれれば、鬱屈とした気分も少しは和らぐかも知れない。

 そう考えた奏哉は夜の雑木林に向かい――――道中である蛍川にて彼女と出会った。

 燃え盛る炎のように赤い髪、新芽のように鮮やかな緑色の衣服、海のように透き通った青い瞳。

 それが、出会った時の『彼女』の姿だった。

 その愛らしさを目の当たりにして、奏哉はかつてない戸惑いと動揺を覚えた。胸はマラソンでもしてきたかのように激しく脈動し、身体は灼熱の太陽に炙られたかのように火照った。極めつけが、どう考えても身体がおかしくなっているのに、そんな異常を心地よく感じてしまう事。少女が見た目小学生ぐらいで、深夜の雑木林の近くに居る事の不自然さなど考えにも上らなかった。

 過去に経験がなかった訳ではない。

 しかし燃え上がるようなという意味では間違いなく生まれて初めての、恋だった。

 少女も奏哉に興味を持ったのか、奏哉に近付いてきた。喜怒哀楽のない無表情な顔だったし、なんの言葉も発しなかったが、奏哉の傍を離れようとはしなかった。彼女は喋れないのかなんの言葉も発しなかったが、奏哉の言葉に頷いたり、首を振ったりして意思の疎通は出来た。ぼーっとしているのか時折返答がない時もあったが、それすらも小悪魔的な焦らしに感じ、ますます愛おしさを加速させる。自然と奏哉と少女は『言葉』を交わし、互いの事を知ろうとした。

 ついには夜が明けてしまい、奏哉は当初の目的を忘れていた自分にようやく気が付いた。

 だけどそんな事はどうでも良かった。今日もまた、講師の下で練習を行わねばならない。少女に別れを告げる方が、ずっと辛かった。堪らず奏哉は、また今夜此処で会おうと少女に懇願した。少女は頷き、約束を取り交わしてくれた。

 途端少女は姿を消した。忽然と、煙のようにという言葉すら物足りないほどの一瞬で。

 超常現象的な光景に奏哉は当然ながら驚きを覚えた。しかしその驚きは、頭の中を満たす少女の顔であっという間に塗り潰されてしまった。講師の下で行われていた練習の最中もそれは変わらず、あの子にこの曲を聴かせたい、聴いたら喜んでくれるか……そんな事ばかり考えてしまう。練習終了後講師に呼び出された時、奏哉は自身の散漫とした集中力を咎められるものと思っていた。

 事実、そこは注意された。けれども同時に、ある言葉も付け加えられた。

 今のお前の演奏には、今までにない魂が含まれている、と。

 無論奏哉は、今まで演奏に想いを乗せていなかった訳ではない。しかし奏哉の卓越した演奏力は、自分の感情をも克服する正確性を発揮していた。どんな楽譜でもミスなく演奏し、自在にアレンジしてみせた。それは技術の面から見れば、最高の腕前と言えただろう。だが、それでは人は感動させられない――――真に完璧な演奏とは、機械に譜面を入力して奏でさせたものと変わらないからだ。

 今までの奏哉の演奏は ― 彼自身の演奏に対する想いとは関係なく ― 感情が伴っていないように感じてしまうものだった。それが()()()()()が含まれる事で、新たなる境地に達したのだ。『邪念』を抱きながら奏でる曲は絶賛され、以来オーディションに受かるようになり、演奏会の依頼が来るようになった。新たな日々が始まったのである。

 そして奏哉の新たなる日々には、蛍川で出会った少女との交流も加わっていた。

 少女が人間でない事は、幾度もの交流によって確信を得るに至った。彼女は一瞬にして姿を現し、瞬時に消えてしまえる。少女の身体を触ろうとしてもすり抜けてしまい、時には炎を出したりもしてみせる。それだけやって人間でないと気付かない筈もない。

 だが、奏哉にとってそんなのは些末な話。奏哉はその少女の事が、好きになっていたのだから。

 奏哉は少女と幾度となく顔を合わせ、言葉を交わした。彼女の表情が変化する事はなかったが、自分が雑木林に現れれば姿を見せてくれて、一方通行の会話にずっと耳を傾けてくれた。やがて名前がないようなので少女の事を『妖精さん』と呼ぶようになり、コンサートでの話や、自作の曲を聴いてもらったりしながら交流を重ね……熱さだけではない、海のように深い愛へと育った頃、奏哉は運命の決断を強いられた。

 アメリカでバイオリンの演奏会をやってほしい――――契約期間は二年間。来客数や評判によっては契約の延長もあり。

 その話が来た時、奏哉は悩んだ。海外での長期公演の依頼。実力が評価された証であり、経験を積む事で更なる成長を遂げる事も出来るかも知れない。プロのバイオリニストを志す者として断る理由はない。

 しかし海外に行くという事は、妖精さんとの長い別れを意味していた。

 何年か向こうで仕事をし、そのうち必ず帰ってくる……言葉で言うのは簡単だ。けれども数年もの間愛する人を置いて異国の地に旅立つのは、胸を裂かれる想いになる。本音を言えば、気持ちとしては断る方に傾いていた。それでもアメリカに旅立てたのは、妖精さんに後押しされたから。言葉はなくとも、アメリカ行きを、数年の別れを受け止めてくれたから。

 奏哉は妖精さんと約束を交わした。必ず戻ってくる。帰ってきた時僕は君を貰う……結婚しよう、と。

 そして旅立ってから凡そ二年後……アメリカで成功を収めた彼は契約の延長と一週間の休暇をもらって、昨日帰国した。妖精さんを迎えに行くために。一人の男として、一人の女に愛を伝えるために。

 だが、再会した結果は拒絶。

 結婚の意思を伝えると、川から巨大な炎が噴き上がり、妖精さんとの間に巨大で強固な『壁』が出来上がった。そして奏哉が炎を前に立ち往生していると、妖精さんは姿を消してしまったのである。炎が消えた後奏哉は妖精さんを求めて一晩中雑木林の中を彷徨ったが、妖精さんは姿を見せてくれなかった。

 確かに具体的な言葉はなかった。けれども、これが拒絶以外のなんだと言うのか?

 拒まれた事はショックだった。約束を違えられた事も悲しかった。

 だけど一番辛いのは、理由が分からない事。

 もし、この二年で彼女に好きな人が出来たのなら、彼女の幸せのために受け入れよう。恋人より進んだ関係が怖くなってしまったのなら、彼女の気持ちが落ち着くのを待とう。プラトニックな関係が望みなら一切手を出さないと誓う。

 でも、何も分からなければ何も出来ない。なんとかしたいのに、彼女からはまだ何も教えてもらっていない。

 だから、彼女に会いたい。

 例えどんなに辛い話であっても、愛する少女の願いは知りたいから――――

 

 

 

「これが、僕が彼女に会いたい理由なんだけど……ごめん。こんな話、急に言われても信じられないよね」

 話を終えて、奏哉は申し訳なさそうに言葉を最後に付け加えた。

 しばし、花中は口を噤んで黙りこくる。

 確かに、信じ難い話である。一瞬で姿を消し、その身体には触れず、挙句炎を操る……そのような存在と仲を深め、二年前には婚約まで結んだと言われたのだ。一般人なら「アンタ、酔ってんの?」と猜疑心を隠さずに尋ねている事だろう。

 だが、花中は奏哉の言葉をそのまま受け入れた。

 花中は知っている。この世には水を手足のように振るう魚が、熱を自在に操るウィルスが、自身の肉体を完璧に支配している猫が存在している事を。そこに姿を一瞬で消せる妖精さんが加わったところで一体どんな不都合がある? 真摯で、悲痛な言葉を否定出来る、どんな理由があると言うのか。

 それどころか、その『妖精さん』こそが自分の探し求めていた存在であるかも知れないのに。

「(……まさか、こんな形でつながるなんて)」

 予期せぬタイミングで歯車が嵌まり、花中の思考は一気に回り始める。感情が置いていかれるような、少し気持ち悪い感覚だ。

 奏哉はその『少女』を妖精さんと呼んでいるが、あくまでそれは彼が付けた呼び名。この世の非常識の一部を知ってしまった花中が考えるに、恐らく妖精さんの正体はフィアやミリオンと同じ、突然変異により人間と知識の共有を起こした生物――――ミュータントだ。尤も、実は本当にお伽噺に出てくる幻想的存在だったとしても、花中にとっては些末な問題である。

 重要なのは、あの雑木林には不思議な力を操る存在が人知れず潜んでいた事……その存在が、フィアを傷付けた張本人である可能性が高いという事である。

 無論今はまだ推測の段階だ。真実を確かめるために、その『妖精さん』と接触する必要がある。奏哉曰く妖精さんは声が出せないようだが、仕草があれば簡単な対話は可能。こちらの問い掛けにYESかNOで答えてもらえれば、あなたがフィアちゃんを襲ったのですか、ぐらいは確かめる事が出来るだろう。

 問題はミリオンがそれを許してくれるかだが、花中には勝算がある。

 これは奏哉と妖精さんの恋物語、恋愛なのだ。恋に生きた女であるミリオンなら、二人の間で起きたトラブルに強い関心を抱いている筈。二人の恋の行方を手助けしたいと言えば、妖精さんに会いに行くのも許してくれるかも知れない。ミリオンや奏哉達の想いを利用するようで気は引けるが、何も誰かを不幸せにしようと企てている訳ではないのだ。二人の幸せのためにも、これぐらいは見逃してほしい。

「あの、ミリオンさん――――」

 花中は意を決して、自分の後ろに立っているミリオンに声を掛け、

「ごめーん。私、あっちに付くわ」

 しかしその決意は、ミリオン本人によって妨げられてしまった。ミリオンの口振りは何時も通りの軽薄さだったが、小心者な花中はつい「は、はぃ」と萎縮しきった返事をしてしまう。

 それからややあってから、ミリオンの言葉の不自然さに気付いて首を傾げた。

 あっちに付く? あっちとは……どっちだ?

 というかその言い方は、まるで()()()かのような……

「あー、そうそう。二階堂さんだったかしら?」

「あ、ああ……なんだい?」

 残念ながら質問する暇はなく、ミリオンは奏哉に話し掛けていた。傍観者の如く今まで話に混ざってこなかったミリオンから不意に話を振られて戸惑ったのか、奏哉はぎこちなく応える。

 そんな奏哉の態度を見るや、ミリオンはどうしてか今まで浮かべていた微笑みをムスッとした仏頂面に変えて

「さいってー」

 なんともあっけらかんと、それでいて明確に奏哉を非難した。

 けれどもその理由を語る事はなく――――ミリオンは()()()()()()()全身を霧散させていく。

「え、ちょっ!?」

 反射的に花中は去り行くミリオンの身体を掴もうとする、が、伸ばした手はするりとミリオンをすり抜けた。漂う埃を捕まえる事など出来はしない。

 花中の行動も空しく、ミリオンは完全に姿を消してしまった。突然の事態に唖然となる花中……しかし花中にとっては、まだ見慣れた光景である。

 だが、普通の人にとってはどうか?

 それは目を見開き、椅子から転げ落ちた奏哉の姿が物語っていた。いや、驚き腰を抜かしただけならまだ『マシ』だ……少なくとも、この場に残された花中からすれば。

「き、き、消えた?! ま、まさかあの人は!?」

「……あー……」

 机にしがみつき這い上がるように立ち上がろうとする奏哉の、驚愕と期待の入り混じった顔を見て、花中は自らの顔を両手で覆いながら項垂れる。

 わざわざ訊かなくとも、その顔と、先の言葉足らずな声だけでこの後の展開は察せられる。というより、ミリオンが去った時点で予期していた。あんな消え方をしたら、奏哉が期待するのは簡単に想像が付く。ミリオンを、()()()姿()()()()()妖精さんの同族だと思い込むに決まっている。そして藁にもすがる想いで話を訊こうとするだろう。

 無論問い詰められるのは消えてしまったミリオンではなく、ただの人間なので逃げも隠れも出来ない花中である。

 果たして奏哉の満足する答えを返せるのか。『友達』が何に対して怒っていたのかすら分からない自分が、求めていた答えに近付いたと思ったらますます謎が増えたこの状況で。

 一つ明らかになった事実があるとすれば――――人間、達観が極みに達すると、一時的ではあっても苦手意識なんてものは容易に克服出来てしまうという事ぐらいだろうか。

 今にも自分に掴み掛かってきそうな奏哉を前にそんな事を思いながら、花中は冷めきったため息を漏らすのだった。




突然の裏切り! 果たしてミリオンの真意とは!? 次回衝撃の真実が明かされる!

……オーソドックスな煽り文句の筈なのに、何故本作ではこう緊張感がないのでしょうね?(答:今までの積み重ね)


次回は8/28(日)投稿予定です


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亡き乙女に音色は届かない6

 状況がこんがらがってきたので、花中はこれまでの事を一度整理した。

 まず、花中の目的は変わっていない……『誰』が『どうして』フィアを傷付けたのか、それを知る事だ。『どうやって』に関しては分かった方が調査を進めやすくなるだろうが、本題ではないので分からず終まいでも特に問題はない。『どうして』の内容次第 ― 例えば、人類抹殺とか ― では次なる目的が生まれるかも知れないが、そうでないなら別段相手をどうしようとは考えていない。強いて言うなら、二度とこんな事が起こらないよう話し合いをしたいぐらいだ。

 そして『誰』については輪郭を掴む事が出来ている。

 それが、二階堂奏哉という男性が会いたがっている少女――――の姿を取っている、ミュータントとおぼしき存在『妖精さん』。彼女が本当にフィアを襲ったモノかは断定出来ないが、可能性は極めて高い。仮に違っていたとしても妖精さんは蛍川近隣を活動範囲にしているようなので、何かしらの情報を知っているのは期待しても良いだろう。彼女と話が出来れば、調査は飛躍的に進展する筈だ。どちらにせよ、会わない、という選択肢は現状ない。

 ところが奏哉は今、その『妖精さん』と会えないでいる。二年ぶりの再会に喜ぶどころか炎による攻撃をしてきて、以降いくら呼び掛けても姿一つ見せてくれない。理由は不明。

 挙句その話を聞いた直後、ミリオンが唐突に寝返りを表明。どうして? 誰に? 説明は一切なし。当然ながら、寝返った彼女が何をするつもりなのかなんて花中は知らない。しかし感情豊かで花中(じぶん)に好意を抱いてくれているフィアがこの話を聞いたなら、怒り狂ってミリオンの『始末』を考えるのは容易に想像出来る。

 つまり今後解かねばならない謎は、

 

①本当に『妖精さん』がフィアを傷付けた張本人なのか

 

②どうしてフィアを傷付けたのか

 

③何故『妖精さん』は結婚を誓った相手である奏哉を避けるのか

 

④ミリオンが寝返った相手とは誰なのか

 

⑤どうしてミリオンは寝返ったのか

 

⑥寝返ったミリオンは何をするつもりなのか

 

⑦ミリオンの裏切りを知った途端怒り狂うであろうフィアを、どうすれば宥められるか

 

⑧……何故、何時の間にか謎の半分以上が身内由来になっているのか。

 二つしかなかった筈の問題が、気が付けば四倍にも増えていた。思い返すだけで花中は頭が痛くなる想いだが、頭痛に呻いていても謎は減ってくれない。一歩ずつでも前に進まなければ、ゴールには辿り着けないのだ。

 幸いにして奏哉という、頼もしい人物と知り合えた。花中としては、彼が持つ『妖精さん』に対する知識は是が非でも欲しい。花中も自身が持つ『ミュータント』の知識を用いれば、奏哉の手助けが出来るかも知れない。互いに力を貸し合えば、二人の求める『真実』に近付きやすくなる。

 かくして図書館にて花中と奏哉は、協力関係を結ぶ事となった。明日は二人でこの『事件』の調査を進める予定だ。

 その前に、確かめておきたい事が花中にはあったが。

 実のところミリオンが起こした行動によって、花中は幾つかの謎に対して推論を立てる事が出来ていた。後は検証を行い、推論が正しいか確かめる。これは一人でもやれるし……むしろ一人の方が()()()()()

 そのために花中がたった一人で足を運んだのは――――フィアが襲われ、怪我をした場所。

 即ち、蛍川周辺だった。

「到着っと」

 ぴょんっとスキップを交えて、花中は川辺と住宅地の境界線……土手を沿うように走っている市道の上に立つ。

 時刻は午後五時半を回った。七月中頃だけにこの時刻になっても空には太陽が輝いていたが、その傾きは強く、昼間のような力強さはもうない。気温は僅かながら下がり、町は長く伸びた影に埋もれて頭上の青空ほどの明るさはなくなっていた。夕刻が、夜が近い事を感じさせられる。

 そして蛍川の向こう側に広がる雑木林は、木々の間から深々とした闇を覗かせていた。

 まるで深海へと続く谷底を見下ろすような、怪物の喉の奥を眺めているような――――雑木林の暗闇を見ていると、そんな気持ちが込み上がってくる。誰かと一緒ならあの中に突入する勇気を持てるかもだが……生憎今は花中一人なので、そのような逞しい気持ちは抱けない。

 それでも、側を流れる蛍川ぐらいまでは行ける。

「……さて」

 確かめるように、花中は力強く一歩目を前に出した。

 歩道を一歩はみ出した先にある下り坂の土手を、転ばないようゆっくりと、難なく踏み越える。草の茂る川岸を越えた先、雑木林の前に横たわる蛍川は、ひ弱な花中が跳び越えるには少々ハードルが高い。しかし蛍川自体も、華奢な花中を押せないほど流れが弱い。歩いてしまえば踏破可能だ。

 夏だし濡れてもちょっと気持ちいいぐらいだろうと花中は意を決し、溺れる心配のない小川に入ろうとした。

 瞬間、花中の身体が止まる。

 あたかも糸が絡まった操り人形が如く、今にも倒れそうなぐらい身体を傾かせた状態で。

 ――――どうやら、『今』は此処までしか許されていないようだ。

 身体が動かなくなった状況でそのような事を思いながら、花中は全身から力を抜いた。全てを委ねるようにだらんとしていると、今まで身体を束縛していた力が、今度は傾いたままである花中の姿勢を正す方に働く。背筋を真っ直ぐ伸ばした姿勢にまで押し戻されると、全身で感じていた力の気配は一瞬で消え去った。もう身体のどの部位も自由に動かせる。歩こうと思えば歩き出せる。

 しかし花中はその場で立ち止まり、雑木林を見つめながらじっと動かない。

 やがて雑木林の中から黒い靄が現れ、集まり……喪服のように黒い長袖ワンピースを着た少女が形作られる事を、花中は予期していたのだから。

「……危ないと思ったら、家に連れ戻すって言ったわよね?」

「言われました、けど、何処が危ない場所かは、聞いて、ないので。てっきり、此処は、()()()()()場所だと、思って、ました」

 現れた少女――――ミリオンに向けて、花中はいけしゃあしゃあと答える。我ながら芸のない屁理屈だと花中自身思うが、言いくるめるつもりは端からない。ミリオンも気を悪くした様子はなく、「あー、すっかり忘れていたわぁ。常識的に考えれば分かると思っていたから」と飄々と煽り返す。

 言うまでもないが、花中はわざわざミリオンと軽口の叩き合いに来た訳ではない。

 図書館での状況から考えて、花中はミリオンの寝返った相手が奏哉の想い人……『妖精さん』であると予測していた。図書館に向かう前、花中の家でミリオンは自分も調査をすると言っており、その過程で彼女は妖精さんと接触したのだろう。そして話をする中で妖精さんに共感し、それでいて奏哉の話がなんらかの逆鱗に触れたのではないだろうか。

 それを確かめようと思い蛍川に来てみれば、思った通りミリオンが現れた。ここまで確認すれば、今更細かな話を聞く必要もない。

「……じゃあ、わたしはそろそろ、帰りますね」

「え? もう帰っちゃうの? なんでーとか、どうしてーとか、問い詰めないの?」

 なのでさっさと帰ろうと思い踵を返すと、困惑した素振りのミリオンに引き留められた。身体はそのままに、頭だけ動かして花中はミリオンを見遣る。花中は、キョトンとした表情を浮かべた。

「なんで、と、言われても……訊いても、教えてくれないと、思いますし」

「それでも訊くのが礼儀じゃない? ほら、私とはなちゃんは友達でしょ? 私、はなちゃんとの友情を裏切ってるのよ?」

「本気で、裏切られて、いたのなら、わたしはここに、居ませんよ」

 花中が淡々と答えると、ミリオンは如何にもつまらなそうに頬を膨らませる。そう不貞腐れても、花中だって困ってしまう。

 大体、ミリオンの行動自体が全ての緊張感を削いでいるのだ。

 花中の存在によって記憶を保持しているミリオンにとって、花中の生死は最重要の懸念事項である。だから妖精さんの目的が無差別殺人のような、花中が命を落とすかも知れない『真面目』な計画だった場合、彼女が妖精さんに賛同する筈がない。花中の命よりも魅力的な報酬を提示された可能性もあるが、だったら花中を生かしておく必要がなくなる。むしろ生かしていては駄目だ。自身の能力を知り尽くしている者の存在など疎ましいだけ。()()()()から殺さない事にしたとしても、監禁ぐらいはしておいた方が良い。つまりミリオンは、やるべき事を尽く怠っている訳だ。これで『本気』を感じろと言われても無理である。

 『真面目』も『本気』もないとなれば、ミリオンの寝返りは一体何を意味するのか? 難しく考える必要などない。

 つまるところ、お遊びなのだ。「今日はあっちのチームに入るわー」という軽さの。

 そう考えている花中の顔をしばし不満気に見つめていたミリオンは、やがて降参だと言わんばかりに肩を竦めた。

「全く。論理的に考える余地があると、全然はなちゃんを動揺させられないわねぇ。ぴーぴー泣いちゃうところが見られると思ったのに」

「……趣味、悪いです」

「人間から見れば、ね。まぁ、来てはくれた訳だし、手土産ぐらいは持たせときましょうか」

「手土産?」

 首を傾げる花中に、ミリオンは可愛らしく、ちょっぴり意地悪く微笑む。

「私達が欲しいのは、たった一言なの。それさえあれば、後は何もいらない。その一言を彼に言わせるために、私達は協力している。尤も、私と『彼女』が求めている言葉は異なるんだけどね」

 そして意味深な言葉を残して、その身体を霧散させた。反射的にミリオンの言葉を復唱しようとしていた花中は、そのままポカンと口を開けっぱなしにしてしまう。

 しばらくして我にかえった花中は慌てて口を閉じ、マヌケな表情を曝してしまった気恥ずかしさで顔を俯かせる。が、すぐに顔を振りかぶり、ぺちんと自らの頬を両手で叩いた。甘酸っぱいリンゴのように赤くなった顔に、もう羞恥心は残っていない。

「……今度は、そうやって困らせる気ですか」

 小さく、掠れた声でぼやいた花中は今度こそ踵を返す。

 しかしその時の花中の顔は、羞恥の尾を引き摺ったものでも、不満でいっぱいのものでもない。

 それは、ちょっと楽しげな笑顔。

 だったらご希望通り困る訳にはいきませんね……今にもそう言ってしまいそうな口を指で軽く押さえながら、花中は蛍川を後にして――――

 

 

 

「やっと帰ってきましたかもう今まで一体何処を渡り歩いていたと言うのですかっ!」

 すっかり上機嫌だったので、自宅にて療養中の友人にこうして問い詰められる可能性が頭からすっぽり抜けてしまっていた。

 家に無事辿り着き、普段の流れでリビングに入った途端の洗礼に、花中はおどおどしながら後退り。それからゆっくりと、リビングの中心に置かれている水槽に目を向けた。

 そこには相変わらず水槽の底で横たわり、口をパクパクと活発に開閉している『フナ』の姿が。

 出掛ける前と変わり映えしない友人の姿にホッとしたのも束の間、花中は目の前のフナ……フィアが発している怒気らしきものをうっすらと感じ取り、更にもう一歩後退りした。

「ふぃ、フィアちゃん、怒ってる……?」

「当然です! 何時の間にか居なくなっただけでなくこんな遅くまで帰ってこないなんてミリオンから出掛けたと伝えられていなければ探しに行っていたところですしあと十分も帰りが遅ければやはり探しに行こうと思っていたのですよ!?」

 恐る恐る尋ねた、瞬間にぶつけられるマシンガントーク。饒舌なのは良いがあまりにも高速過ぎて、普段からフィアの早口言葉に慣れている花中でもいくつかの単語を聞き逃してしまう。

 ただ、自分の身を心配してくれていた気持ちだけは、しっかりと胸に打ち込まれて。

「……ごめん、なさい」

 考えるよりも先に、花中の口からは謝罪の言葉が出ていた。

 謝ってくれればそれで良いのか、フィアは満足げに何度も頷く。瞼すらない魚の顔に満足げも何もないだろうが、花中の目にはそう映った。

「ところで何処で何をしていたのですか?」

 そうして衝動を満たしてから、フィアはようやく理性的に振る舞いながら問い掛けてきた。なんとも素早い気持ちの切り換えに、花中はちょっと苦笑い。とはいえ、元々その件について話すつもりではあった。向こうから訊いてくれるのなら、こちらとしても話しやすい。

「えっとね、実は……」

 花中は世間話のように、フィアの質問に答えた。

 尤も全てを明け透けなく打ち明けた訳ではない。目的 ― つまり、フィアを傷付けた『モノ』の正体と理由を突き止める事 ― については包み隠さず話したが、奏哉については雑木林で自分を()()()人間である事は伏せ、ミリオンの『裏切り』については全く触れないでおいた。

 言うまでもないが、フィアの事は信用している。心配してくれている気持ちは痛いほど伝わり、嬉しく思っている。

 しかし、如何せん彼女は……『野性的』としか言いようがないぐらい感情に素直だ。

「全く花中さんは相変わらずあまっちょろい。理由なんて聞かなくても叩き潰せば良いだけでしょうに」

 『自分を襲ったモノ』に対する殺意を隠そうともしない彼女に奏哉やミリオンの事を話せば、火に油を注ぐ……いや、池にナトリウムの塊を投げ入れるようなものなのは、二ヶ月も一緒に暮らしていれば容易に察せられた。

「もうっ。フィアちゃんは、何時もそうやって、暴力で、解決しようと、するんだから」

「なんでも話し合いで解決出来るのなら今頃人間同士の争いなんてないと思いますけどね。ましてやなんなのかすら分からない存在相手に対話の可能性を探るなど時間の無駄ではありませんか?」

「むぅー……!」

 頬を膨らませ、花中は不満を露わにする。否定したい、そんな訳ない……そう叫びたい。

 けれども今は、フィアの言葉を否定する証拠がない。むしろいきなり攻撃され、危うく死ぬところだったフィアの言葉の方が遙かに説得力を持っている。ここで何を言っても感情論……ただのワガママだ。

「まぁそんな訳ですから花中さんは大人しく私が復帰するのを待っていてください次は圧倒的物量で押し潰しぃででででッ!?」

 幸い、フィアが戦線復帰するのはまだ当分先のようなので、じっくりと対話の可能性を探れるだろう。

 痛みでのたうつフィアを見て、安堵と共に胸の痛みを覚えた花中は水槽のすぐ傍まで歩み寄る。息苦しそうにエラを動かす友達の姿を間近で見たら、安堵の気持ちの方はすぐに飛んでいってしまった。

「あぁもう……まだ、怪我が治って、ないんだから、無理しちゃ、ダメだよ」

「ぐぬぅぅぅ……!」

「それに、フィアちゃんは、自分が『何』にやられたか、分かってるの? 炎と水なら、相性は良さそうだけど、それだけじゃ、ないと、思うよ」

「炎?」

 キョトンとした様子の、フィアの反応。もう忘れてしまったのか、物量で押し潰すつもりだから気にも留めていなかったのか……どちらもあり得そうで、花中は肩を落としながらため息を吐いた。

「忘れちゃったの? 蛍川で、見たでしょ」

「蛍川でと言われましてもいっだだだだだ!?」

「……あまり、お喋りしない方が、良さそうだね」

 興奮がいけないのか、はたまた早口がいけないのか。事実はどうあれそう結論付けた花中は、話を打ち切るべく一旦フィアから離れようと立ち上がる。と、水槽内のフィアが、なんとなく物悲しそうに見つめてきた。

 まるで、行かないで、と訴えるかのよう。

 花中の離れようとする足は止まってしまう。怪我をしている友人からの『頼み』。叶えてあげたいし、元を辿れば自分の責任なのだから償いたい。

 しかし話をしてもフィアの治りは良くならない。いや、身体への負担を思えば悪化する可能性もある。例えその方が『時間稼ぎ』になるとしても、花中には苦しむ友達の姿を延々と見続けるなんて耐えられない。

「怪我が、良くなったら、たくさんお話し、したいから。だから、今は休んで、早く治ってね?」

 精一杯の強がりな笑顔を浮かべて花中はフィアを励まし、振りきるようにその場を後にした。

 水槽の中で首を傾げている、フィアの姿を見ぬままに……

 

 

 

 それからやらなければならない家事を済ませ、日課の勉強をこなし、何時も通りの時間に就寝して……そして迎えた、翌朝七時五十五分。

「それじゃあ、行ってくるけど、約束、ちゃんと覚えてる?」

 半袖のブラウスを身に纏い、片手に通学鞄を持った花中は、リビングにてフィアに向けてそう言った。

 相変わらず水槽の中で横になっている魚姿のフィアは、片ヒレをパタパタ動かしながら返事をする。

「勿論です。興奮すると身体を痛めるからテレビとゲームは禁止でしょう? しかし人間が怪我をしてもテレビぐらいは見ていると思うのですが」

「人間は、テレビを見ても、フィアちゃんほど、盛り上がらないの。フィアちゃん、アクション映画とか、見てる時、すごく、動いてるじゃん」

 不平を漏らすフィアを、花中はビシッと窘める。どうもフィアは自分が怪我人であるという自覚が薄く、何かやらかして怪我を悪化させそうな気がしてならない。こう言い付けておかねば、花中は学校に安心して行けそうになかった。

 とはいえ、一晩寝ただけでフィアの体調は随分と回復したらしい。動くのはまだ無理なようだが、お喋りぐらいなら痛みに悶える事はなくなっていた。ミリオンの応急手当が適切だったのもあるだろう。花中の素人診断ではあるが、数日も大人しくしていれば普段通りの生活に戻れそうである。

 ……フィアの事だ。体調が万全になった途端、自分に怪我を負わせた相手に『お返し』をしに行くだろう。昨日語っていた圧倒的な物量……山をも支配する膨大な水量を用いて。勝敗は兎も角、ミュータント同士の『ケンカ』だ。周囲一帯が壊滅するほどの激戦が繰り広げられるのは容易に想像出来る。場所は勿論、妖精さんが住まう蛍川――――が側に流れている住宅地で。

 あらゆる意味で最悪な事態だ。それだけはなんとしてでも避けねばならない。

 そのためにも……

「それから、もう一つの、約束だけど」

「妖精さんとやらと友達になれたら仕返しなんて止めてくれでしょう? 花中さんの友達となれば潰す訳にもいきませんからね多少の小言ぐらいで勘弁してやりますよ。無論友達になれたらですけど」

 言おうとした言葉を煽るように先に言われ、花中は唇を噛みながら頷いた。

 今朝交わした、大切な約束。もし自分が妖精さんと友達になれたら、彼女と仲直りしてほしい。

 フィアは出来る訳がないと思っているのか、あっさりと約束してくれた。妖精さんと関わる事の危険性については「ミリオンさんが居るから大丈夫」と言ったら、不服そうにだが納得してくれた。ここまでは想定通り。

 後は、妖精さんと話をするだけ。

 しかしタイムリミットはフィアが全快するまでの数日間。奇しくも奏哉がもらった一週間の休暇は既に二日消化しており、飛行機の時間を考慮すれば残りは精々四日……つまりはこちらも数日。ダブっているのは面倒がなくて良いが、延長不可能な期限が重なっている心労の方が大きい。昨日一日で大きく進展したとはいえ、今日も同じだけ進展するとは限らないのだ。その上平日は学校があるので夕方からでないと動けない。

 間に合うだろうか?

 ……違う。間に合うかどうかではなく、間に合わせる。

「それじゃあ、今日も調べてくるから、帰りは、昨日と同じぐらいに、なるよ」

「りょーかいです。物好きな事だとは思いますがまぁ何をやるかは花中さんの自由ですしやるだけやってみれば良いんじゃないですかね。代わりに私も好きにやらせてもらいますが」

「……うんっ」

 呆れ気味なフィアの言葉に、花中は満開の桜のような笑みと共に返事をする。

 どうして全然意見が合わないのに、あの子の言葉は何時も自分の背中を押してくれるのだろう?

 先程までの不安は何処へやら。足取り軽く、花中はリビングを出て玄関に向かう。

 自分の望む結末を目指し、自分のやりたい事をやるために――――

 ……………

 ………

 …

「あーあー暇ですねぇー」

 主の居なくなった家で、フィアは大きな声で独りごちた。

 今日は一匹でお留守番。

 花中と出会ってから、フィアは殆どの時間を花中と一緒に過ごしていた。学校は共に通い、休み時間の度に教室へ出向いてお喋りをする。買い物にも同行し、気分転換の散歩にだって付き合う。回覧板を隣の家に届ける程度の些末な用事は流石に一緒には行かなかったが、それを留守番とは言うまい。今日のように何時間も花中と一緒に居られないのは、花中と出会って以来初めての経験である。

 しかもゲームはダメ、テレビもダメ。一体どうやって暇を潰せと言うのか。

 いっそ泥棒でもやってこないだろうか、水で縛り上げて話し相手に出来るのに。テレビから幽霊が出てこないだろうか、捕まえておけば帰ってきた花中をビックリさせる楽しみが生まれるのに。

 あの汚らわしい病原体でも、話し相手にはなれる分この忌々しい退屈よりかはマシなのでは――――

「かぁーなかー、まだ居るー?」

 物思いに耽っていたところ庭に繋がる窓の方から、コンコン叩く音と花中を呼ぶ声が聞こえた。

 フィアの身体が向いているのは今し方花中が出ていた、玄関へと繋がる扉。音と声が聞こえた窓は、リビングの間取り的に丁度その反対側にある。退屈だったフィアは能力で周りの水を操り、ふわりと窓の方に振り返った。

 窓の外に居たのは、小さな黒猫が一匹。

「あ、フィアだ。やっほー」

 その黒猫は目が合うや気さくに話し掛けてきたので、ミィである事にフィアは気付いた。

 フィアは能力を使って水槽内の水を操り、一本の触手を作って伸ばす。目指すは窓の鍵。身体に響くのであまり強い力は使えないが、鍵を開けるぐらいは造作もない。窓はカラカラと音を鳴らして開き、猫と魚の間を妨げるものはなくなった。

「おやおや野良猫じゃありませんか。久方ぶりですね」

「だねー。兄さんの時以来だから、一月ぶり? ところで今日は人間の格好はしてないんだね」

「……そういう時もありますよ。それより何か用ですか? 花中さんでしたら少し前に学校に行ってしまいましたが」

「あ、そうなの? うーん、すれ違っちゃったか……追い駆ける、ほどの事でもないしなぁ」

 猫のくせして、困ったように腕を組んで唸るミィ。何か悩みがあるのかな、自分でも力になれるかな……なんて親切心は微塵も湧かないフィアだったが、しかし話をすれば暇潰しぐらいにはなりそうだと判断。自分本意故に、フィアはミィに詳しく尋ねてみる事にした。

「私で良ければ要件ぐらいは聞きますけど」

「ん? いや、要件ってほどじゃないけど、ちょっと借りたい物があって」

「借りたい物?」

「パソコン。ネット使いたいから」

 ミィの答えを聞き、フィアは顔を顰める。予想外の代物だったので怪訝に感じたのもあるが、何より自分には上手く扱えない『ぱそこん』に苦手意識があったので。

「……あなた『ぱそこん』を使えるのですか? あんなにボタンがたくさんあるのに」

「ボタン? 別に、普通に使うのって起動ボタンぐらいじゃん」

「いやいやたくさん使うでしょう。花中さんもミリオンもなんかカチャカチャと押しまくってましたよ」

「……それってキーボードの事? どんだけ機械オンチなのさ、アンタ」

「どうも機械とは相性が悪いんです。ゲームも遊ぶぐらいなら出来ますけど起動の仕方はいまいち覚えられないですし覚えてちゃんとやってるつもりなのに変な動きをしますし」

「あー、確かに相性悪そうだよね。アンタ水属性だし」

 妙な説得力を持ったミィの言葉に、なんとなく否定したい衝動に駆られてフィアはムッとなる。が、魚の表情を猫が読み取れる道理もない。

 押し黙ったようにしか見えないフィアを前にミィは首を傾げたので、フィアは渋々話を戻す事にした。

「まぁそれは良いでしょう。しかしどうしてまた花中さんから『ぱそこん』を借りたいのです? 『ぱそこん』なら図書館でもタダで使えると聞いた事があるのですが」

「使ったよ、昨日。でもあーいうところはセキュリティの関係で見られないサイトが多くてさぁ。フラッシュゲームとかやってみたいのに、そういうのは全部弾かれる。だから普通の、何処にでも繋げられるパソコンを使いたいの」

「……………はぁ。そうですか」

 フィアの口から出るのは、曖昧で適当な返事。正直『ぱそこん』自体よく分からないのに、『せきゅりてぃ』や『さいと』とか言われてもフィアにはちんぷんかんぷんである。ただ、どうしても花中の『ぱそこん』を使いたい、花中の『ぱそこん』でないとダメだというのは理解出来た。

 無論答えはNOである。花中の私物を花中の許可なく使わせたら、留守を任された自分の立つ瀬がない。

 だが――――

「……一つ条件を飲んでくれたらこっそり使わせてあげますよ」

 フィアの口から出たのは、考えとは真逆の言葉。

 フィアの胸の内など知る由もないミィは、コテンと首を傾げる。

「条件? なんか胡散臭いなぁ。無理難題突き付けて意地悪するつもりじゃないよね?」

「失敬な。あなたは私をなんだと思っているのですか。大して難しい頼みではありませんよ。少なくともあなたにとっては」

「どうだか」

 訝しげにこちらを見つめるミィだったが、フィアは自信を崩さない。

 確かに何が簡単で何が難しいかは、種族によって全く異なる。ましてやフィアは、(ミィ)の得手不得手をさして把握していない。けれども今回に限れば、ミィにとって間違いなく簡単な話……()()()()()()()()()()()()()()

 だからフィアはニタリと嬉しそうに笑い、

「ちょっと調べてほしいだけですよ。私には上手く扱えない『いんたーねっと』を使ってね」

 その笑顔を識別出来ないミィに、胡散臭いほど簡単な頼み事をするのだった。




はい、ミリオンどころかフィアまで花中の想いに反して動き出しました。感付いていた方も多いと思いますが、本作のパーティ、全く協調性がないです。

まぁ、みんな種類違うからね! 哺乳類どころか脊椎動物という括りですらまとまらないし。というか一名は生物ですらないという。

次回は8/31(水)投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない7

 学校に着いてから、花中はずっと考えていた。

 フィアの「妖精さん打倒宣言」により、やらなければならない事……妖精さんと友達になる……が増えてしまった。とはいえ、起こすべき行動自体は変わっていない。妖精さんに会い、話をする。当初からの目的である「フィアを傷付けたのはあなたなのか」「どうしてフィアを傷付けたのか」を問い質す。その後ろに「友達になる」を付け足すだけだ。

 そして目的のためにすべき事も変わっていない。拗れてしまった妖精さんと二階堂奏哉の仲を直す。奏哉に妖精さんとのパイプ役を頼むために、まずは妖精さんと奏哉のパイプを直すのだ。

 問題は、どうすれば恋人同士の仲を直せるのか、さっぱり分からない事。

 ミリオン曰く、妖精さんは奏哉から何かしらの言葉を引き出したいらしい。けれども友達出来た歴すらようやく二ヶ月、恐怖症に片足を突っ込むぐらい男性が苦手……おまけに初恋未経験。こんな有り様の花中に、恋する乙女の思考など全く読めない。おませな幼稚園児をアドバイザーに据えた方が間違いなくマシだ。

 いっそ晴海や加奈子に相談しようかとも思ったが、奏哉のプライベートな話でもあるので迂闊に言い触らすのも気が引ける。それに妖精さんが元凶と思われる『事故』が多発している以上、深入りさせる訳にもいかない。今の妖精さん陣営には、花中の身を守ろうとするモノは居ても、人間を守ろうとしてくれるモノは居ないのだから。

 やはり、一人で考えるしかない。

 突き付けられた現実に逃避したくなるが、立ち向かわなければ勝てる戦にも勝てない。花中は家を出た後の通学路で、休み時間で、午後の授業で延々と考え……

 結局何も思い浮かばないまま、放課後を迎えてしまったのだった。

「……はぁ」

 出てくるのは、小さくないため息。

 花中は今、閑静な住宅地を俯きながらトボトボと歩いている。夕刻とはいえ夏の日差しが降り注ぐ中なので、花中の顔は汗でしっとりと濡れていた。

 このまま家に帰って扇風機の前で涼みたいところだが、現在花中が向かっているのは家ではなく蛍川。そこで奏哉と待ち合わせの約束をしている。目的は妖精さんと仲直りするための方法を、一緒に考える事だ。

 だけど、花中はなんの案も思い付いていない。一緒に考えようと言いながら意見なしなど、まるっきるの役立たずだ。

 自虐の言葉が脳裏を過ぎる、と花中は頭を力いっぱい横に振った。

 ここで悲観に暮れても得られるものはない。

 川に行けば奏哉が居る。奏哉と妖精さんの接触により、何かが判明するかも知れない。恋を知らぬ身である自分が俯瞰する事で、奏哉が見落とした事実に気付ける可能性だってある。悲観するにはまだ早い。

 顔を上げれば、見慣れた交差点が見えた。右に曲がり、建ち並ぶ住宅に挟まれた一本道を進めば、蛍川とその奥に広がる雑木林を一望出来る土手が見えるようになる。目的地は間近なのだ。うじうじしている暇はもうない。

 意を決し、花中は待ち合わせ場所へと向かう。足は大股開き、腕は振り子のように大きく振る。そうやって歩けばあっという間、すぐに土手の側まで辿り着く。土手は住宅地を走る道路の横にあり、小高く盛られている。精々高さ数十センチだが、どうせなら登って辺りを一望したい。

 念のためスマホから時刻を確認。昨日約束した待ち合わせ時刻の十分前。丁度良い時間だ。

 もしかしたら自分よりも早く来ているかも知れない奏哉の姿を探そうと、花中は土手の上に駆け上がり、

 数メートル先の草地で、顔を地面に擦り付けるほど深々と土下座しているタキシードの姿を目の当たりにした。

「……………え?」

 数メートル先の草地で、顔を地面に擦り付けるほど深々と土下座しているタキシードの姿を目の当たりにした。

 あまりにも『アレ』な光景に思わず凝視したが、どれだけ注意深く観察しても、そうとしか見えなかった。

「妖精さん! この通りだっ! 僕が何かしてしまったなら謝るから!」

 呆気に取られていた花中の耳に、タキシード姿の人物の声が届く。昨日たっぷりと聞いたから、最早間違えようがない。

 奏哉だ。自分が今日、この瞬間、会う事を約束していた。

「(いや、待ち合わせ場所、此処じゃなかったような気がするなぁ。わたしったらうっかり待ち合わせ場所間違えちゃったかなぁ。時間だって十分も早いしなぁ)」

 ……間違えようはなくとも、認められるかどうかは別問題だが。

「なぁ! 聞こえているんだろう!? 姿を見せてくれなくても構わない! どんな形でも構わない!」

 花中が現実逃避をしている中、タキシード姿の若い男――――奏哉は雑木林に向けて呼び掛け続ける。必死に、何度も、心を込めて。

 それでも、雑木林からの『返答』はない。

「だけどそこに居るのなら、せめてそこに居る事を教えてくれ!」

 やがて奏哉は悲痛な叫びを上げた

 その、次の瞬間の出来事だった。

 土下座をしている奏哉の眼前で、小さな爆発が起きたのは。

「わ、うわぁ!?」

 突然の出来事に、奏哉は尻餅を撞く。

 爆発はポンッ! とポップコーンを作っているかのような軽い音しか出さず、起きた事象も土と草が舞い上がった程度。辺りには草が茂っているためどれぐらいの痕跡が地面に刻まれたかは、土手に居る花中からは見えない。ただ雰囲気からして、人命を脅かすほどの威力はなさそうだ。

 尤も直撃を受ければ、指ぐらいは吹き飛ぶだろうが。

「わ、わ、ひっ!」

 目の前で起きた『返答』の意味をようやく察し、奏哉は慌てて立ち上がる。と、まるでその時を待っていたかのように奏哉の足下で爆発が。規模は先程と同程度。

 ただし今度は一回で終わらず、二度、三度と続く。

「ちょ、止め、うわっ! わっ、わぁ!?」

 これには堪らず奏哉も逃げ出す。すると奏哉の後を追うように、ポンッ! ポンッ! と続けざまに地面が爆発した。

 受ければ指が吹き飛ぶかも知れない爆発。奏哉は不安定な草地をよろめきながら走る。お世辞にも速いとは言えない動きだったが、爆発は奏哉に追い付かない。

 いや、追い付かないと言うより……

 抱いたイメージが正しいかどうか。花中としては知りたかったが、その前に奏哉は花中の居る土手の辺りまで逃げてきた。すると爆発の連鎖は途絶え、追い駆けっこは終了。逃げ惑っていた奏哉は崩れ落ちるようにその場で倒れる。息は絶え絶え、ぐったりと倒れ伏す様はお世辞にもカッコいいとは言えない。

 当然、人に見られたい姿ではないだろう。

 ……とはいえ『約束』がある手前、そっとしておくという訳にもいかないので。

「あ、あの……」

「……え?」

 恐る恐る花中が声を掛けてみたところ、花中と目が合った奏哉の顔は熟れたリンゴのように赤く染まったのであった。

 

 

 

「い、いやー、恥ずかしいところを見られてしまったね」

 立ち上がれるぐらいには元気になった奏哉は、大きな声で話しながら、自らの頭をポリポリと掻いた。

 照れ隠しのつもりなのだろうが、こういう仕草は却って「恥ずかしい事をしました」と宣言しているようなもの。此処は蛍川近くの土手、の隣を走る住宅地側の道路。人気のあまりない場所ではあるが、時間が時間だけに買い物帰りの主婦ぐらいは通る。

 話し掛けられている花中としては、あまりそんな姿を他人に見せてほしくはない。

「あの……どうして、あのような、事を……?」

 話題を変えるように、花中は先の行動の真意を奏哉に問い質す。と、奏哉は花中から目を逸らした。逃げるように、ではなく、恥ずかしそうに。

「……妖精さんが居る筈だと思ったら、我慢出来なくて」

 それから出てきた答えは、あまりにも感情的なもの。

 彼の妖精さんに対する気持ちの大きさは伝わったが、花中にはそれが微笑ましい行動とは思えなかった。

「……お気持ちは、少しは、分かります。でも、その……もっと、考えた、方が、良いと、思います。いきなり、大声で、詰め寄られ、たら、わたしなら、怖くて、隠れちゃうと、お、思い、ます、し」

「うっ……それは、そうかも知れないが……」

 花中に窘められ、奏哉は唇を噛み締める。彼自身指摘されるまでもなく理解していたのだろう。だが、それでも自分が抑えられなかった、という事か。

 どうやら苦し紛れの言い訳だった、俯瞰の出来る自分が論理的に考察するという役目を果たすしかないらしい。

 そう思った花中は、早速自身の役割を果たすべく思考を巡らせた。

 ……まずは『類似の事例』を探る事から始めよう。過去の事象を解析し、そこから今回の事象で何が起きているのかを予想する。そうすれば、自然と解決の糸口が見えてくる筈だ。

「あの、今までに、今回と似たような、出来事は、ありません、でした、か?」

「……似たような?」

「はい。攻撃された、とか、姿を見せなくなった、とか……部分的に、で、良いんです。何か……」

「うーん、そう言われてもなぁ……」

 腕を組み、空を仰ぎながら奏哉は考え込む。しばらくはうんうんと唸るばかりだったが……不意に、その目を見開いた。それからぶつぶつと、何かを呟き始める。

 どうやら心当たりは浮かんだようだ。

「あの、何かありましたか?」

「……ああ。一つ、という訳じゃないけど、ちょっとね」

 花中が話を促してみたところ、奏哉は思い返すようにゆったりとした口振りで説明してくれた。

 ――――それは奏哉と妖精さんが出会ってから数ヶ月が経った、丁度今日のようなじっとりとした暑さを迎えた夏の日の出来事。

 妖精さんと出会ってから、奏哉は毎日のように妖精さんに自身が奏でる曲を聴かせていた。一流のバイオリニストを目指していたので、師匠でも友人でもない、観客としての意見を聞きたかったのもあるが……何より、好きな人に自分の曲を聴いて喜んでもらいたかったから。そのため奏でる曲は妖精さんのお気に入りばかり。更に妖精さんには特別お気に入りの曲があったので、その曲で演奏会の始まりを告げ、締めとしてまた演奏するのが一つの流れとなっていた。つまり、大体同じ内容の演奏会を何ヶ月もやっていた訳である。

 当然その夏の日も、何時も通り妖精さんの『お気に入り』から演奏を始めた。

 ところが妖精さんの反応は、何時もと異なっていた。

 演奏を聴いても笑顔を見せてくれない。それどころか不愉快そうに眉間に皺を寄せる。挙句苛立たしげに貧乏ゆすり。自分が何か失敗しているのかと不安になったが、理由が分からなくては対処しようがない。止め時も分からず、演奏を続けて――――

「そうしたらもうビックリしたよ。いきなりバイオリンが真っ二つに割れてさ」

「ま、ま、真っ二つ!?」

 事もなげにそう語られた奏哉の言葉に、花中は声をひっくり返してしまうほどに驚いた。

 だって、それは、まるで……妖精さんからの『攻撃』のようではないか。

「いやぁ、あの時は驚いたよ。それに初心者向けの安物とはいえ、思い入れのある一品だったから、結構ショックだったかな。で、まぁ、それからも大体今ぐらいの時期になると、好みがガラッと変わるんだ。毎年って訳じゃないけどね」

 花中を余所に、奏哉は懐かしむように話を続ける。そしてふと、花中の顔を覗き込んできた。

「こんな事だけど、何か、ヒントにはなったかな?」

 それから、期待の籠もった言葉で花中に問い掛けてくる。

 花中はすぐには答えない――――答えられないのではない。外界の情報を遮断し、最速で思考を巡らせていた。

 定期的に好みが変わる、なんて事があり得るのか?

 その問いに対する答えはYesだ。しかもそう珍しい事象ではない。それどころか人間にだってある。

 繁殖期だ。

 今までのライフスタイルが、繁殖期を境に一変する生物は珍しくない。例えばハチドリは普段花の蜜を主食にしているが、子育て中はタンパク質が必要になるため昆虫も捕獲するようになる。逆に繁殖にエネルギーを集中させるためか、カエルなどは獲物が目の前に居ても興味を示さなくなる。また食事に限らず、発情期を迎えた雌イヌが今まで無視していた雄に関心を持つようになったり、雄のゾウはホルモンの影響で非常に凶暴になったりのような、性格的な変化もある。人間の場合繁殖期はないが ― 正確には年がら年中発情しているようなものなのだが ― 生理中は気分が落ち込みやすいなどの不調を覚えやすい。生物は時期によって、自らの性質を大きく変えるものなのだ。

 妖精さんも繁殖期を迎えたのだとすれば、嗜好が一変するのも納得がいく。もしかすると変調した気分に振り回された結果、奏哉に暴力を振るってしまったのかも知れない。そうならば奏哉に過失はないし、妖精さんは奏哉を嫌っていない事になる。朗報と言えよう。

 ……あなたの恋人は繁殖期を迎えたのかもね、とはちょっと言い辛いが。恥ずかしい事ではないが、生々しいにもほどがある。証拠だってある訳ではない。諸々の理由から、花中は遠回しな表現で説明する事にした。

「そう、ですね。その、いきなり、好み、とか、気分が、変わる、事は、あり得ます。人間、というか、わたしなんか、にも、ありますし」

「な、なんだって!? それで、どうしたら良いんだい!?」

「え? えーっと……」

 ところが奏哉に思いっきり問い詰められてしまい、花中は言葉を詰まらせる。今の考えはあくまで推測だ。しかもなんの証拠もない、妄想レベルの品質である。妄想を元に推測しても、妄想を拗らせるのと変わりない。

 けれども奏哉の顔は、もうそれしか縋るものがないと言わんばかり。

「……こ、好みが、変わっている、かも、知れないので……その、印象を、変えるため、に……み、見た目を、変えてみる、とか……」

 あまりの気迫に押され、花中は割と適当な事を口走ってしまい。

「そうか! 成程、見た目を……良し! ちょっと待っていてくれ!」

 奏哉は嬉しさを滲ませながらそう言うや、何処かに向けて走り出してしまった。

 奏哉の突然の行動に、花中の思考は追いつけない。後を追うべきか、と思った時にはもう奏哉の姿は遠く、足が遅い花中ではどうにもならなくなっていた。

 結局、花中に出来るのは待つ事だけ。

 小川のせせらぎを聞きながら、人気のない住宅地にポツンと立ち尽くす事だけだった。

 そして――――

 ……………

 ………

 …

「こんな感じでどうだろう!?」

 一時間ほど経った頃にそう問われ、花中は何も言えなかった。

 花中の目の前に居る、一人の若い男。

 タキシードの上着を脱ぎ捨て、全てのボタンを外したワイシャツから覘かせるは意外と引き締まった胸板。髪型はボサボサと乱してあり、野生や暴力性を感じさせる。所謂ビジュアル系の風貌で、男の人が苦手な花中からすると、ちょっと粗野な感じがして怖い。

 例えその人物が、先程何処かに行って、今し方帰ってきた二階堂奏哉だとしても、だ。

「あ、あの、その恰好は……」

「昔、若い女性をターゲットにしたコンサートをした事があってね。その時主催者側のスタッフの要望で、こんな感じの格好をさせられたんだ。女性受けしやすいようにってね」

「は、はぁ」

「それでどうだろう? 少しはカッコ良くなれたかな」

 両腕を広げ自らの姿を見せつけるようにしながら、奏哉は改めて尋ねてくる。

 確かに、カッコ良くはなっただろう。元々奏哉は優しい顔立ちをしていて、物腰もバイオリニストらしく上品な……こう言っては難だが、あまり『男らしい』人物ではなかった。女々しいと言っても差し支えない。身形も自身の雰囲気に見合ったものをしていた。それらをごっそり男性的なモノへと変えたのだから、カッコ良くならない筈がない。

 しかし、それが好ましいかどうかは別問題。少なくとも花中的には怖くて近寄り難い存在となってしまっている。妖精さんにとってどうかは分からないが、一見他人に見える今の奏哉を果たして受け入れてくれるものなのか。

 とはいえ自分の一言が事の発端だけに、否定的な感想も言い辛いもので。

「……えと、その、ひ、人によって、は、た、大変、高い、評価を、出すかも……」

「そうか! 良し!」

 なので当たり障りのない、中身のないコメントをしたところ、奏哉は一気にテンションを上げてしまった。直後、バチンッ! と、気合いを入れるためか彼は力強く自らの頬を叩く。

「行ってくる!」

 それから清々しい笑みを浮かべ、言うが早いか奏哉は駆け足で自分達が居る住宅地側の道路から土手へ、土手を駆け下りて蛍川の前に広がる草むらへと向かってしまった。

 頬を叩く音に驚き呆気に取られていた花中だったが、奏哉が目の前から消えてハッとなる。遅れて自分も土手の方へと駆け寄り、ただし奏哉と違って降りはせず、隠れるようにしゃがみ込む。

「妖精さん! お願いだ、せめて姿だけでも見せてくれ!」

 一人蛍川のすぐ近く、雑木林の真っ正面まで突き進んだ奏哉は、堪えきれないとばかりに呼び掛け始めた。

 発する言葉は力強く。こめられた想いは痛々しく。

 ……だけも見た目がチャラチャラしているせいで、いまいち奏哉の言葉に真剣みを感じる事が出来ない。奏哉がふざけていない事は重々承知しているが、それでも尚、花中はそう思ってしまった。

 ましてや妖精さんはこちらの事情なんて知らない訳で。

 ――――蛍川から『青い煙』が沸き立つように現れた時、花中にはそれが好意的な事象とは思えなかった。

 煙と言ったが、オーロラのような光の帯にも見える。どちらかと言えば煙っぽい、というだけだ。いずれにせよ真っ当な自然現象ではない。間違いなく妖精さんからの返答である。ただし攻撃か警告かも分からない、不審さ満点の。

「よ、妖精さん!? これは一体!?」

 尤も、恋する奏哉は不安になるどころか、ワクワクしている様子だったが。彼は逃げるどころか後退りもせず、蛍川からやってきた青い煙に大人しく飲み込まれる。

 恋は盲目とはよく言ったものだと、花中は正直呆れてしまった。散々攻撃されたにも拘らず、未知の事象に奏哉はなんの危機感も抱いていない。いざ『何か』が起きたとしても、彼は咄嗟に動けないだろう。

 なら、その『何か』が起こるかどうかを見極めるのは自分しかいない。

 俯瞰者としての使命を果たそうと、花中は奏哉を包み込んだ青い煙をじっと見つめる。すると、異変はすぐにでも起こった。

 ただし、花中の身に。

「……寒い……?」

 最初は疑問に思う程度。

 やがて確証に変わった時、ぶるりと花中の身体が震えた。

 おかしい。確かに夕刻を迎えていくらか過ごしやすくなったが、それでもまだ空には夏の太陽が輝いている。先程まで日なたに居ると肌が焙られているような痛みを覚え、じわりじわりと汗が滲んでいた。ところが今は暑いどころか、明らかに寒い。それも真冬の屋外すら生温いほどの、身体の芯に氷を埋め込まれたような、内臓から冷やされるえげつない寒さだ。今も花中は日射しの下に居るにも関わらず。

 ひょっとすると、あの青い煙は冷気の類なのか?

 思えば図書館で調べた『事故』の中に、真夏に低体温症に陥ったというものがあった。成程、どうやら妖精さんに冷気を操る力があるのは間違いないらしい。

 問題は、青い煙は此処まで届いていないのに、花中が凍えるほどの寒さを感じている事。一体あの青い煙はどれほどの低温だというのか。まさかあの青色は、酸素が液化した結果色付いているとでも言うのか。

 そして、その青い煙に包まれた奏哉は……

「さ、ささささ寒い寒い寒いぃ!?」

 花中が思った通り、奏哉は寒さに音を上げていた。震える身体を両腕で抱き締め、雑木林に背を向けるや花中が居る土手の方まで駆けてくる。顔面蒼白で、花中のすぐ側まで来ると、力尽きるように倒れてしまった。

 奏哉が去ると、立ち込めていた青い煙は一瞬で消えた。同時に寒さが和らぐ。夏の日差しの暑さを、再び感じられるようになった。冷気の源は去ったのだ、奏哉の体調も回復に向かう……筈。

「あの……だ、大丈夫、ですか……?」

「あ、ああ……もう大丈夫だ……いやー、でも流石に今のは死ぬかと思ったよ」

 念のため体調を尋ねてみれば、奏哉は力こそ抜けていたが笑顔で受け答えしてくれた。死ぬかと思った、と言ったが、助けを求めるでもないので恐らくは軽いジョーク。真っ青な顔色も、段々と血色を取り戻している。どうやら救急車を呼ぶ必要はなさそうだと、安堵した花中は額の汗を拭い、

 ぐっしょりと、腕が濡れた。

「……………え?」

 何時の間に、こんな汗を? ……意識した途端、花中は自分の身に起きていた異変に気付く。

 全身から汗が噴き出ている。

 あまりにも大量の汗が噴き出て、全身が濡れ鼠のようになっていた。じょろじょろと腕を伝った汗が小さな川のように流れている。これは最早、身体が濡れて気持ち悪い、なんて悠長な事を言っている場合ではない。自覚症状はないが、これほどの汗を掻いたとすれば脱水状態に陥っている筈だ。急ぎ水分を補充する必要がある。

 いや、その前にこの汗を出来るだけ拭き取らねば。水は気化する時、大量の熱を周囲から奪い去る。そのメカニズムを利用して身体を冷ますのが汗なのだが、しかしこんなに濡れていては効果が大き過ぎる。例えるなら、プール上がりに身体を拭かずにいるような状態。最悪必要以上に体温を奪われた結果、()()()()に陥ってしまう可能性も――――

「(……何それ)」

 おかしい。筋が通らない。

 妖精さんが原因と思われる症状の一つが低体温症。自分が陥ろうとしているのも低体温症。結果は同じ。けれどもそこに至る過程が、考えていたものと全く異なっている。結果が全て? 何を愚かな。過程が間違っていては、その先を予測出来ない。何か酷い思い違いをしている気がする。根本的に何かを間違えているのではないか。一体何を何処でどうして何と浅く考えるな深く深くより深く疑うべきは一番根本の

「大桐さん?」

「っ!? っえ、あ、はい?」

 思考の海に漕ぎ出した花中の意識だったが、名前を呼ばれた事で現実へと引き戻された。あと少しで何か、真実とはいかずとも大きな足掛かりを見付けられそうな気がしたのだが……我に返った瞬間、集中力諸共霧散してしまった。今からうんうん唸っても、閃きは降りてきてくれそうにない。

 惜しく思うが、執着しても仕方ない。頭をぷるぷると振って気持ちをリセット。改めて奏哉と向き合う。

「えと、失礼、しました。何か?」

「いや、なんか汗が止まらなくて……君もかなり汗を掻いているようだし、飲み物でも買ってこようかと思って」

「あ……」

 そう言えば、と今更のように汗の事を思い出す。低体温症も怖いが、脱水症状だって怖い。見れば奏哉も洪水のように汗を掻いていた。このままでは二人揃ってダウンしてしまうかも知れない。

 汗は拭ってしまえばどうとでもなるが、水分は ― 蛍川の水は、色んな意味で危ないので ― 探しに行かねばなるまい。奏哉の意見に賛同した花中は「そう、ですね」と答え、何処かに自販機はないものかと辺りを見渡した

 途端、ボドン、ボドンと鈍い音が耳に届く。

「なんだ?」

 最初に反応したのは奏哉。物音に驚いて小さく跳び上がった花中も、遅れて音がした方へと振り返る。

 そこにあったのは、二本のペットボトルだった。

 奏哉よりも自分の方が近かったので、花中は恐る恐る近付いてみたところ、どちらも蓋が開けられていない新品だと判明した。中身はラベルを見る限り、スポーツドリンク。ミネラルを豊富に含んでおり、たくさん汗を流した身体に適した飲み物と言えよう。五百ミリリットルサイズなので量も十分だ。

 これ以上ないほど、今の花中達に必要な物である。

「(ちゃんと見張っている、と……)」

 妖精さん側に付いた、微細にして無数なる友人からの気遣い。無下にするものではあるまい。

「飲み物、ですね。丁度、良いですし、これ、飲みましょうか」

「えっ」

 あからさまに怪しい飲み物を勧められ、奏哉は顔を引き攣らせる。引き攣らせるが、花中が「安全は自分が保証する」とばかりに躊躇なく一方のペットボトルに口を付け、こくこくと喉を鳴らせば、すぐに恨めしそうな眼差しを向けてきた。なんやかんや彼の身体も乾いている。水分を欲してしまうのは本能だ。

 当然、独り占めするつもりなど毛頭ないので、花中はもう一本のペットボトルを差し出す。伸ばされた手が躊躇いがちなのは割と短い時間。一度掴んでしまえば我慢するのも馬鹿らしい。奏哉は蓋を開けると、ガブガブとペットボトルの中身を一気に飲み干した。見た目と相まって、実に男らしい飲みっぷりである。

 一先ず、これで脱水は避けられた。後は身体を冷やさないようにしつつ、発汗や寒波で疲労した身体を休めよう。一日休憩するつもりはないが、小休止は挟んだ方が良い。

 奏哉と共に土手に座り込んで、チビチビとスポーツドリンクを飲みながら、花中はしばしの間夏空の輝きと小川のせせらぎを楽しむ事にした。落ち着いて眺めれば、夏の自然のなんと美しい事。胸が弾み、何時までも飽きが来そうにない。

 ……隣に居た奏哉が貧乏ゆすりを始めたので、あまり長い間堪能は出来なかったが。

「……あの、二階堂さん」

「ん? なんだい?」

「いえ、その、足が……」

「足? ……あっ」

 指摘してみれば、奏哉は呆気に取られたような声を出した。それから慌てて、押さえ付けるように胡座を掻く自身の両足に手を置く。

 それでも、そわそわとした仕草は収まらない。

 あれだけ酷い目に遭ったのに、今にも蛍川の方へと飛び出しそう――――そんな奏哉の姿に花中はついため息を漏らしてしまうが、彼が忙しないのも仕方ないかという想いもあった。

 何分、残り時間は少ない。

 奏哉は、休暇をもらって日本に帰国している。話によればその期間は一週間。かれこれ日本に帰ってきてから二日が経ち、飛行機に搭乗する時間を考えれば、残りはあと四日ほどしかない。

 奏哉は全米コンサートを開けるほどのバイオリニストだ。その影響力は計り知れない。無断で帰国を遅らせれば大勢に迷惑が掛かるし、もしかすると大きな損害が生じ、訴訟沙汰になる可能性だってある。

 奏哉はアメリカに戻らねばならない。例え己の恋路が望んだ結果になろうとなるまいと、答えが出ようと出なかろうとも。

 彼が焦りを覚えるのは至極当然だ。

「……あの、焦っても、ダメだと、思います」

 だから花中は、奏哉を宥めようとした。

 花中からの言葉に、奏哉は目を点にする。

「……え?」

「た、確かに、あなたの、休暇は、もう、残り少ない、と、思います。気持ちが、急いてしまう、のも、分かります」

「……………」

「ですが、焦っても、良い、考えは、浮かばないと、思うの、です。だから――――」

 説得するように、奏哉を諭そうとする花中であったが、ふと気付いた。

 奏哉の顔が、キョトンとしている事に。

 まるで自覚がない、惚けた表情。言っている事の意味が分からないとでも言いたげなその顔に、花中の方が戸惑いを覚えてしまう。

 バイオリニストというのは、奏哉が長年追い求め、ようやく叶えた夢である。

 その夢が潰えてしまうかも知れないのに。

 その夢が妖精さんと自分を引き離そうとしているのに。

「そう言えば、そうだったなぁ」

 どうして奏哉は、この瞬間まで考えもしていなかったのか。

「そう、言えば……!?」

「確かに休暇の残りは少ない。でも、妖精さんと話が出来るまで帰るつもりなんてなかったからね」

「……!? ど、どうして!? だって、アメリカに、戻るのが、遅れたら……」

「……休暇のすぐ後に講演会の予定があるから、一日でも遅れたらたくさんの人に迷惑が掛かる。三日も遅れたら演奏会自体が中止になるかも知れない。そうなったら、僕にたくさんの訴訟がくるだろう。当然勝ち目はない。無断での渡米延期、悪いのは全部僕だからね」

「なら……!」

「でも、妖精さんに会えるのなら、全てを失っても構わない。いや、会えないまま終わるぐらいなら、何もかも終わってしまった方が良い」

 真っ直ぐに、躊躇いなく言い切る奏哉。

 強がりなんかではない。

 自棄になっている訳でもない。

「僕は、あの子の居ない楽園よりも、あの子と一緒に地獄を過ごしたいんだ」

 語られる全ての言葉が本心であると、花中は雷撃を浴びたかの如く衝撃によって理解してしまった。力をなくした身体を揺らめかせ、萎れるように花中は項垂れる。

 奏哉は、最初から妖精さんしか求めていない。栄光も、名誉も、必要ならば投げ捨てる覚悟がある……いや、覚悟すら必要ない。欲しいのはただ一つ。その一つを手に入れるためなのだから、迷うなんてあり得ない。

 そんな人の気持ちを、自分はどう考えていた?

 休暇が残り少ない? 訴訟があるかも?

 なんて即物的で、浅ましい考えなのだ。そしてこれは自分の中にある『恋』への価値観。きっとこうだろうと、知りもしないのに値踏みし、見下していたのだ。

 そんな人間に、恋の悩みなど解決出来る訳がない。全てを投げ捨てられるぐらい本気になった者が頭を抱える難問を、まともに向き合おうとすらしていない輩にどうして解けるのか。自分は俯瞰に徹すれば、何かが分かるかも? なんと傲慢な物言いか。

 『本気』にならなければ、この謎は決して解けない。

 奏哉の『本気』の言葉により、花中はそれを思い知らされた。

「……ごめんなさい。わたし、二階堂さんの、気持ちを……あなたが、どれだけ、真剣、なのか、何も、分かって、いませんでした……」

「大桐さん……?」

 謝る花中に、奏哉は戸惑いの言葉を投げ掛ける。当然だ。彼には花中の考えなど、分かりようもないのだから。

 それで良い。元より償いの気持ちなんてない。

 これは花中の、意地である。

 今まで本気になっていなかった自分への鬱憤を晴らすための!

「でも、今は違います! 完璧に、分かったとは、言えなくても……今までとは、違います、から!」

 そう宣言するや、花中は思考の海へと飛び込んだ。

 論理的ではダメだ。

 策というものは、相手の行動を先読みした上で仕掛ける。勿論特定の行動を取るよう仕向ける事はあるが、それとて結局は「きっと相手はこうするだろう」という前提……つまり、相手もまた想像可能な程度には論理的であると()()()()ものだ。故にまるで理解不能な思考の持ち主や、極端に感情的な人物は策をあっさりと破ってしまう事がある。

 奏哉が妖精さんに抱く想いは、花中には推し量る事さえ出来なかった。ならば、奏哉と恋をしていた妖精さんの気持ちもまた、予測不可能であろう。常識や論理に縛られてはいけない。もっと自由に、もっと感情的に、もっと不条理に考えるのだ。

 自分ならどうだ? 何をしてくれたら話を聞こうと思うようになる? どんなに怒っていても、話をついつい聞いてしまうようになるには――――

「そうだっ!」

「ど、どうしたんだい?」

 不審な行動の意図を尋ねてくる奏哉を花中は無視。それだけでなく自らの視線を、奏哉ではなく蛍川の方へと向ける。

 ただし無為に眺めている訳ではない。『記憶』を手繰り寄せ、少しずつ視線を動かしながら、頭の中に浮かんだ絵面と現実を重ね合わせている。

 やがて一つの、記憶と現実が等しい場所を見付けた。

 居るとすれば、あそこだ――――これで話が出来ると、ようやく花中は奏哉と向き合った。

「……二階堂さん、一つ、作戦を、思い付きました」

「なんだって!? それは一体!?」

「まず、妖精さんの、居場所、ですが……移動して、いなけれ、ば、あそこです」

 興奮する奏哉の前で花中が指差したのは、何もない場所。

 正確には、何もないように見える蛍川……の雑木林側に広がる、川岸の草むらだ。

「妖精さん、は、姿を、消せます。瞬間移動、と、考えるより……何らかの、『理由』で、わたし達から、見えなくなった……そう、考えるのが、自然だと、思います」

 妖精さんの正体がミュータントであるならば、その姿は原種のものこそが正しい。奏哉が見惚れた人間体は、フィアやミリオンと同じく能力によって用意したものだろう。つまり妖精さんの本来のサイズは不明であり、草むらに隠れられる程度である可能性は十分に ― むしろ生物種の大半が人間より小さい事を思えばまず間違いなく ― ある。

 そして奏哉を爆発で追い払ったり、蛍川から青い煙を出したり……妖精さんの攻撃は実に正確なものだった。見えていない相手にあそこまで正確な攻撃は出来ない筈である。かなり近くで、こちらの様子を窺っていたに違いない。

 組み立てた二つの推理。ここから妖精さんの居場所を予想したところ――――青い煙が出てきたように見えた、蛍川の周辺が怪しいと考えた。強烈な冷気を、遠距離で発生させられるとは思えない。煙の発生源であるあの一帯に『本体』が潜んでいる可能性が、最も高いという訳だ。

「な、成程……しかし、居場所は分かったけど、これからどうしたら……話をしようにも、妖精さんは答えてくれないし」

 説明を聞き、そわそわしながらも不安を滲ませる奏哉。

「それも、大丈夫、です!」

 そんな奏哉を、花中は胸を張りながら励ます。

「大好きな、人、に、ぎゅって、抱き締められたら、それだけで、怒ってた事、なんて、忘れちゃいます!」

 そして物怖じせず、断言してみせた。

 一瞬、奏哉はポカンとした表情を浮かべる。

 だけどすぐに、笑顔に変わった。

「ふ、ははっ! そっか、抱き締めたら忘れちゃうか」

「はいっ! えと、その、わたしの場合は、ですけど……それに、相手も、恋人じゃ、なくて、友達、だし……」

 言い切ってから、段々と花中の声から力が抜けていく。感情に身を任せた結果、抱き締めれば万事解決という結論に達したが、考えてみればそれは友達耐性が皆無な自分だからこその話。他の友人達は抱き着いてもみんな平然としていたし、友達と恋人は違うものだろうし……

 今更脳裏を過ぎる、数々の否定要素。自信をなくして俯く花中だったが、ふと、頭をくしゃくしゃと触られる感覚が。

 顔を上げれば、奏哉が自分の頭を撫でている姿が目に映った。

「うん、そうだね。好きな人に抱き締められたら、嫌な事なんて忘れてしまう。僕は妖精さんに抱き着かれた事はないけど、きっとそうなってしまうのは間違いない」

「二階堂さん……」

「大桐さん。抱き締めるには、どうしたら良いと思う?」

 奏哉に問われ、「と、とりあえず、雑木林側、の、草むらと、土を、抱き締める、感じに」と花中は答える。妖精さんが微細な生物……昆虫やキノコの類だった場合、土の中に隠れている可能性がある。そのため『大体その辺り』をごっそりと抱き寄せる必要があった。

 花中の意見を聞くや、力強く自らの頬を叩く奏哉。赤らんだ頬は自らの行為によるダメージの大きさを物語るが、しかし奏哉は、心底楽しげな笑みを浮かべる。

「偶には積極的になってみるか!」

 それから彼はなんの迷いもない、頼もしい足取りで駆け出した!

 行ってしまった奏哉を、花中は土手に留まったまま見守る。とはいえ、花中が居る土手から蛍川までたかが数メートル。歩いて一分も掛からない道のりなんて、大人が走ればすぐに終わってしまう。

 花中が教えた場所に跳び込むためだろう。川の側に辿り着くや奏哉は屈伸するかのように深々と膝を曲げて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 直後に起きた大爆発で吹っ飛ばされ、錐揉み回転しながら花中と正面衝突したのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 綺麗な茜色の夕陽に照らされた住宅地を、花中は一人トボトボと歩く。

 結局、妖精さんは姿を見せてはくれなかった。

 何度奏哉がチャレンジしても、返ってくるのは熱烈な攻撃ばかり。余程怒っているのか、はたまた自分達の行いが神経を逆撫でしてしまったのか。爆発、寒波、大爆発……巻き込まれただけの花中ですら、結構痛い目に遭った。奏哉が致死的な怪我をしなかったのが不思議なぐらいだ。尤も体力と精神には多大な損耗があり、これ以上のチャレンジは困難と判断。先程解散という運びとなった。明日もまた蛍川に集合し、妖精さんに呼び掛ける予定である。

 つまり、なんの手立ても思い付かなかったけどなんかやらなきゃいけないという状況である。

 ハッキリ言って最悪だ。今日の活動で妖精さんとの関係が改善したようには思えない。なのに策がないからと、同じ事をして体力と気力と時間を無駄に消耗しようとしている。確かに感情を重視しようとは思ったが、思い付きで行動するのは違う。しかし代案を出そうにも、そのために必要な新しい情報が何もない。

 いや、情報自体はたくさん手に入ったのだが、それが花中の頭を余計に惑わすのだ。

「うぅ……なんなの、妖精さんってぇ……」

 ボソリと愚痴る花中の脳裏に浮かぶのは――――奏哉が妖精さんから受けた、数々の、そして圧倒的に多様な『攻撃』。

 妖精さんがミュータントであるとして、その正体を探るヒントになると思っていた『能力』。その『能力』があまりにも多彩過ぎる。その事自体は前日図書館で調べた時から分かっていたが、それらは言うならば伝聞であり、極論全て嘘だという可能性もゼロではなかった。更に言えばミュータントについて知らない『素人』の意見であり、誤認や思い込みによって元の事象から変性している事もあり得る。

 だから直に妖精さんの力を見れば、何か共通の事象を見付けられるのではと期待していたのだが……寒気を操り、爆発も起こす。そんな現象を起こせる『共通の方法』なんて、見当も付かなかった。その上奏哉曰く『その身に触れる事は出来ず』『炎を操り』『姿を自由に消せる』事も出来るという話。別にミュータントの能力に一個体につき一つだけなんてルールはないだろうが、いくらなんでも無節操過ぎやしないか?

「(そりゃ、フィアちゃんとかも結構めちゃくちゃな能力だけど……)」

 無二の友人であるフィアの場合、能力は『水を操る』事。彼女はそのシンプルな能力で、人の『身体』を作り、あたかも不死であるかのように振る舞い、途轍もない怪力を発揮し、弾丸のような攻撃を放ち、不可視の『糸』を繰り出すだけでなく、湿っている土地ならばマッピングも出来てしまう。おまけに魚だから匂いにも敏感。能力以外の得意技と合わさる事で、一見して『水を操る』だけでは説明が付かない振る舞いをする。

 ならば妖精さんも単に応用力に富むだけで、実際にはシンプルかつ、そこから種族を予想出来るような能力なのだろうか?

 ……何故か、そう思えない。

 蛍川で一瞬脳裏を過ぎった、あの『違和感』が残っているのだろうか。図書館で感じたものよりずっと強い、インチキに嵌められたようなムカムカとした感覚がさっきから胸中に渦巻いて――――

「……………あれ?」

 はたと気付いた時、花中は周りの景色に疑念を覚えた。尤もそう大した疑念ではない。答えもすぐに導き出せた。

 ただ、蛍川から家に帰る道のりでは、此処まで来る事はないというだけで。

 慌てて振り返った先で我が家を見付けた花中は、茹でダコのように顔を赤くした。いくら考え事をしていたとはいえ、自分の家を通り過ぎてしまうなんてあまりにも恥ずかしい。誰かに見られていたら、このまま町を一周しなければ家に戻れなかったかも知れない。

 顔を俯かせながら、花中は来た道をそそくさと戻る。逃げるように家の敷地に入ると、我を忘れて玄関のドアノブを掴む。

 そしてノブを回して扉を開け、

「……んん?」

 そこで、我に返った。

 玄関に鍵が掛かっていなかったのだ。

 自覚するほどに臆病な花中は、普段しつこいぐらいに戸締まりを確認する癖がある。今朝も学校に行く前に戸締まりの確認をした、筈だ。

 普通なら大いに慌てるべき状況。花中も一瞬血の気が引く……が、すぐに落ち着きを取り戻す。現在大桐家には、武装した強盗団すら瞬殺可能な魔物(友達)が留守番しているのだ。慌てる必要などない。

 記憶違いに、おかしいなぁ、と首を傾げながら花中は家に入る。と、今度はリビングの方から賑やかな音が聞こえるではないか。ピコピコとした、楽しげな音だ。

「(フィアちゃん、ゲームしてる……?)」

 朝、約束したのに……なんだか自分が軽んじられているような気がして、花中はむくれる。これは現場をしっかり抑え、叱らねばなるまい。静かに、ゆっくりとリビングの扉まで行き……

「こらぁー! ゲームしちゃダメって、言ったでしょーっ!」

 勢いよく扉を開けて、花中なりに大きな声でリビングの中を叱りつけた。

「ふにゃああっ!?」

 結果は思惑通りに進んだようで、リビングから驚き混じりの悲鳴が上がる。

 ただし、その悲鳴は魚のものではなく――――猫のものだったが。

「え!?」

 悲鳴に続き、花中もまた驚く。引き寄せられるように声がした方へと振り向けば、そこには『少女』の姿をした猫が。

 リビングに居たのは、野良ミュータントであるミィだった。庭に通じる窓から上半身だけを乗り出し、どういう訳か花中のノートパソコンを前にしている。

「え、かな、にゃ、にゃ、にゃにゃ、にゃ、あっ」

 そんなミィが花中の姿を見て慌てふためいていると、パソコンから物悲しい音楽が奏でられた。「ハイスコアがぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」と叫びを上げる辺り、どうやら玄関で聞こえていたゲーム音はパソコンのものだったようだ。

 いや、それよりも。

「み、ミィさん……? あの、なんで、うちに……?」

「え? あ、や、えと」

 わたわたと狼狽えるミィの口から出てきたのは、「あくまで息抜きで」とか、「これも人間を知るためで」とか、「一日一時間だし」とかとかとか。要するに、パソコンでゲームをやっていたらしい。恐らく無料のオンラインゲームやフラッシュゲームの類だろう。考えるに昨日図書館でインターネットを使ったところこの手のゲームに辿り着き、しかしセキュリティの問題でゲームがプレイ出来なかったので知り合いである花中の家のパソコンを使う事にした……と言ったところか。フィアやミリオンと違ってミィは案外人間的な体裁を気にする性質なので、家主不在の家に上がり込んでゲームをしていた事に罪悪感を覚えているのかも知れない。

 家に上がるのはこの際良しとしても、いくらなんでも人のパソコンを勝手に使うのは如何なものか。見られて恥ずかしいものは入っていないが、それでもやはりプライベートの塊を覗かれるのは気持ちの良い話ではない……ミリオンさんも使うしと、パスワードの書かれた紙をパソコン画面に張っておいた自分の過失もあるだろうが。

 それでも一応注意ぐらいはしておくべきかと花中は口を開き、

「あれ? フィアちゃん、は?」

 フィアの姿が何処にもないと、今頃になって気付いた。今朝の時点でそれなりに元気だったので、動ける程度には回復して家の中を闊歩しているのだろうか。

「……用があるって言って、ついさっき出掛けたよ」

 そう考えていた花中に、ミィは未だバツが悪そうな口振りでさらりと答えた。

 その一言で、花中の顔は一気に青ざめる。

 出掛けた? 一体何処に? 何をしに?

 考えるまでもない。フィアは怪我が治り次第、自分を傷付けた相手に『仕返し』をしにいくと言っていた。自分に何処までも正直で、自分の正しさを疑わない彼女が強がりや嘘を言ったとは思えない。出掛けるとしたら場所は蛍川、目的は妖精さんへの『仕返し』以外にない。

 だが、しかし、そんなのは()()()()()()

 いくらなんでも、生死を彷徨うほどの大怪我から一日かそこらで復帰出来る訳がないのだから。

「な、なんで!? だって、フィアちゃん、怪我をしていて……」

「怪我? ああ、それね。治った」

「治ったぁ!?」

 どう考えても一番あり得ない答えに、さしもの花中も声を荒らげる。普段らしからぬ花中の様子に、ミィは目を丸くしていた。

「えと、いや、治ったと言うより、治した、かな?」

 そして気圧されたかのように、ミィはオロオロしながら事の成り行きを話し始めた。

 曰く、パソコンを借りる条件としてフィアが提示したのは、『ある内容』をインターネットで検索する事。

 パソコンを使えるミィはその頼みを快諾し、早速フィアが指示した内容を検索。良さそうなサイトをフィアに見せ、フィアの次の指示を受けてまた検索をし……という流れを何度か繰り返した。そして最終的に、フィアはなんらかの『答え』を見付けたらしい。

 その時のフィアの顔ときたら、表情筋すらない魚顔のくせに邪悪そのものだったとか。しかしその顔はすぐに、これまた表情筋なんてないくせに苦々しいものへと変えた。どうしたんだと理由を尋ねると、今は怪我をしているので安静にしていないといけない、行きたい場所があるのに我慢しないといけないとの答えが返ってきた。

 なので、ミィは()()()()()()()()()()方法を教えた。ちょっとした、親切心で。

 ――――肉体には本来、大きな『制限』が掛かっている。

 その制限は肉体が自壊するのを防ぐためだったり、費用対効果を重視した結果である。制限を取り除けば、自身の筋肉の力で骨は折れ、平時よりも作業が進まないうちにバテてしまうだろう。しかし些か危険かつ非効率ではあるが、肉体が持つスペックを最大限に活用し、『不可能』を可能とする事も難しくない。花中ほどの虚弱でも、自家用車ぐらいならば持ち上げられるようになる。所謂火事場の馬鹿力というやつだ。

 怪我の回復にも同様の事が言える。エネルギー効率や体力消耗の観点から言えば、安静にしているのが一番だ。しかし制限を解けば、超常的なまでの回復力を手に入れられる。実際ミィはこの制限解除により、切り傷程度なら目視可能な速さで回復する事が出来るという。

 そして回復速度の制限は、血流量によって解除可能らしい。細胞に供給される酸素と栄養分の量を変える事で、生物の身体は、超常的な勢いで再生するようになると。

「いやー、でもまさかフィアに出来るとは思わなかったけどねー。いくら『能力』が水を操るでもさぁ」

 自分にとっても予想外だった。そう言わんとしてか、付け足されたミィの言葉に、花中は身体が芯から冷める想いをした。

 確かに花中は、フィアの能力が自身の血液にも及ぶ可能性を考慮した事がある。戦闘機のパイロットでも耐えられそうにない超加速の中でも平然としている事から、血液を操作し、細胞レベルで体組織全体を補強しているのではないかと。

 だが、それでミィの能力が再現可能だとは予期していなかった。完治までに数日は掛かるだろうと『期待』し、万一にも今日復帰する可能性など露ほどにも考えていなかった。ミュータント(フィア)は何時だって人間(じぶん)の想像を超えてきたというのに。

 今回の失敗は次の教訓とはなる。だけど今、この瞬間の役には立たない。

 もう手遅れだ。フィアと妖精さんの『喧嘩』を止める術はない――――

「(……いや、まだ諦めるには、早い!)」

 花中の意識は、まだ折れない。

 そうだ。まだフィアが『出発』したのが判明しただけ。まだ何も終わっていない。ここで諦めたら傍観しているようなものだ。一%の可能性が、本当に〇%になってしまう。

 それに、気になる点がある。

 フィアにとって妖精さんは、自分を殺しかけた相手である。フィアは花中と違ってどんな時でも自信に満ち溢れ、他人を見下しがちだが、それでいて一度見た相手の実力は過小評価しない。初対面ならいざ知らず、リベンジをする時は何時も彼女なりの秘策を引っ提げていた。今回も対策を一つぐらいは考えてある筈だ。それもミィに何かを調べさせた上で。

 恐らく、フィアは妖精さんの『能力』に何かしらの目星を付けている。

 その目星が正しいかは分からない。だが、違う目線からの考察は大きなヒントとなる。フィアが何を考えたのか、何を見てそう思ったのかが分かれば……!

「あ、あの、ミィさん! フィアちゃんが何を調べたか、その、まだ、覚えて、いますか!?」

「え? そりゃ、覚えてるけど。難なら履歴とか見てみる? まだ多分残ってるし」

 そう言うとミィは手慣れた様子でマウスを操作。それから花中に見せたパソコンの画面にはインターネットのブラウザ、そして検索履歴の一覧が表示されていた。

 花中はパソコンの画面を両手で掴むや、食い入るように凝視し――――

 そして、その瞳を動揺で揺らめかせた。

「花中?」

 花中の心のざわめきを察したのか、ミィが名前を呼んでくる。しかし花中は喘ぐように口を空回りさせるだけ。否、その空回りすらもミィには向いていない。意識は既に、思考の海に漕ぎ出していた。

 フィアがミィに頼んだと思われる検索履歴は、ほんの五つ程度。そこに真実を求めて迷走した様子はない。フィアの事だ、迷うぐらいなら直進あるのみと言わんばかりに、見えた光明を素直に信じていったのだろう。自身の思い込みや、勘違いの可能性などまるで考えずに。

 そうして進んだ道のりは、此度に限れば恐らく間違っていない。

「(嘘、そんな……でも、それならあの時のフィアちゃんがああ言ったのも納得出来る。あの時言おうとした事も。妖精さんの能力がめちゃくちゃなのだって説明出来るし、なんでわたし達が攻撃されたのかも……)」

 頭の中でピースが次々と嵌まっていく。不定形だったイメージが具現化し、立体的になっていく。頭の中でその立体をぐるんと回せば、その時何が起きていたのか、その全てが見えるようになった。さながら自ら舞台を組み立てた、劇作家が如く。

 それは奏哉と妖精さんの間で起きた事についても例外ではない。裏切ったミリオンから与えられたヒントである、妖精さんが求めている言葉の正体も今ならハッキリと分かる。

 これが、どれだけ悲しい話なのかも。

「……………」

 全てを伝えたなら、奏哉は何を思うのだろう。赤の他人である自分が伝えて良いのだろうか……悩もうとする頭を、花中は力いっぱい振りかぶる。

 悩むのは後だ。悩むのは未来があるからこそ出来る。しかしこのままでは、その未来が潰えてしまう。

 何しろ自分とフィアの予想が正しかった場合、妖精さんはフィアに勝てない。生物学的に、致命的なほど相性が悪過ぎる。妖精さんにはミリオンが付いているが、果たして守りきれるかどうか……

「み、ミィさん! その、わ、わたし、これから出掛けるので、留守番、お願いします!」

 花中は通学鞄を投げ捨てるや踵を返す。リビングを出ると玄関へと通じる短い廊下を駆け、辿り着いた玄関で履き慣れた靴の踵を踏み潰す。

 そして玄関の戸を体当たりするような勢いで開け――――

 目の前でミィが立っていたので、花中はそのまま駆け出す事が出来なかった。慌てて足を止め、つんのめりながらもどうにかぶつかるのは避ける。ホッと一息、吐けたのは僅かな時だけ。何時までも前から退かないミィに、花中は怪訝さと、困惑を覚える。

「え……あ、あの、ミィさん……?」

「あのさぁ、ふつーそこで留守番お願いしますって言う?」

 動揺を隠せない花中に、ミィは目を瞑り、呆れたように肩を竦めながら首を横に振る。

 だけど、ややあって目を開けたのと共に浮かべたのは優しい微笑みで。

「そーいう時は、どこそこまで連れてってって言うべきなんじゃない? ……急いでるんでしょ。乗せてってあげようか?」

 ミィからの質問に、花中は向日葵のような笑みを咲かせながら何度も頷くのだった――――




さぁ、次回は本章初の本格バトルにして最終決戦。一応謎解きに必要な情報はここまでのお話で全て配置したつもりです。推理してもらえたら嬉しいなっ。

……難易度緩すぎな気はしてますけどね。まぁ、本作推理モノではなく能力バトルものですゆえ(開き直り)。次回は最近出番が少なかったフィアが鬱憤を晴らすように暴れるのでお楽しみに。

次回は9/3(土)投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない8

「ふふふふんふんふふーんふんふふんふふーん♪」

 上機嫌な鼻歌が、住宅地に響き渡る。

 時刻は午後六時半頃。子供達はお家に帰り、仕事を終えた大人達はまだ電車の中。町に人影はなく、家々から聞こえてくる物音も少ない。傾いた太陽は茜色に輝き、町には長く伸びた影が広がる。段々と夜の景色に近付いていた。

 もう、今日も終わり。人の世はこれから少しずつ眠りに付く。

 されど鼻歌混じりに歩く金髪碧眼の少女――――フィアは、未だ元気さを振りまいていた。あたかもこれから遊びに行くかのように、お楽しみはこれからだと言わんばかりに。

「ふふん身体の調子は好調快適。あの野良猫案外役に立ちますねぇ」

 機嫌の良さを隠さずに、フィアは独りごちる。腕を ― 尤も、その腕は作り物だが ― 回し、元気さをアピールする。足取りも軽やか。誰も居ない、誰ともすれ違わない町をフィアは爛々と進み……

 立ち止まった場所は、道路のど真ん中。車二台がすれ違える広さはある、なんの変哲もない住宅地の何処かだった。

「人気なーし気配なーし車なーし。人間がしない行動を人間に見られてはいけないと花中さんに言われてますからねぇ適当に追い払うにしてもうっかり怪我させたら花中さんに怒られてしまいますし」

 うきうきしながらフィアはその場にしゃがみ込む。彼女の足下にあるのは、古びたマンホールの蓋。

 マンホールの蓋は重い。それは車両が通過した際、十分な重さがないと反動により浮き上がって外れてしまうからだ。昨今は性能の向上により幾らか軽量化しているが、それでも四十キロはある。古びた蓋がそれより重いのは想像に難くない。

 更に盗難防止などの観点から、簡単に持ち去られたりしないよう、握れるような立派な取っ手は付いていない。整備などの理由から蓋を外す時は、指すら入らない穴に専用の道具を差し込んで行う。つまり素手でどうにか出来る代物ではない。

 ないのだが……フィアは非常識が具現化したかのような人外。

 ベタッと、フィアはパーの形に広げた手をマンホールの蓋に押し付け、

「よっと」

 そのまま手を上げればなんという事だろう。蓋はフィアの手に貼り付いて、一緒に持ち上がってしまった。表面張力か、それとも未知の物理現象か。それは当事者であるフィアにしか分からない……或いは当事者も全く分かっていないのかも知れない。

 いぜれにせよ呆気なく外した蓋を、フィアは音を立てないよう静かに、しかし道端のど真ん中という適当な場所に置く。

 蓋がなくなり、マンホールはぽっかりと大穴を覗かせる。昼ならば降り注ぐ陽光が最深部まで貫いただろうが、沈みかけの太陽は入り口すら満足に照らさず、むしろ伸ばした影を闇に上乗せしてくる。無間の底まで続いていそうな漆黒が、穴全体を満たしていた。

 が、フィアは闇を恐れない。恐れないどころか、ぴょんっと穴の真上に跳んだ。超常的な力を持つフィアだが、超能力者ではない。空中浮遊なんて出来ず、重力に引かれて穴の中へと落ちていく。

 それから殆ど間を開けず、どぽんっという音が鳴った。

 ……やがてその音を聞き付けたように、置きっぱなしにされたマンホールの蓋の傍に黒い霧が現れる。

 霧は徐々に濃さを増していき、しかし周囲には広まらず、丁度人間一人分の範囲に留まりながら、その密度だけを増加させていく。そして霧は具体的な輪郭を持ち、喪服姿の少女……ミリオンへと姿を変えた。具現化したミリオンは肩を竦め、面倒臭そうにため息を吐く。

「全く、面倒なタイミングで勘付いちゃうんだから。今後もこんな面倒があるのは嫌だし、いっそここで殺しちゃおうかしら?」

 物騒な事をぼやきつつミリオンは放置されたマンホールの蓋を、指先で軽々と摘まみ上げた。そして開きっぱなしになっているマンホールの上に乗せる。まるで、子供が散らかしっぱなしにした玩具を片付ける母親のように。

 それからしばし、ミリオンは腕を組んで考え込む。

「……ま、止めときましょうか。今のさかなちゃんは強いだろうし、苦労して倒してもそれではなちゃんに嫌われたら骨折り損だし」

 やがて出した結論は、一応は穏健なものだった。

「とはいえ時間稼ぎはしないと。折角面白くなってきたのに、台なしにされたら堪ったもんじゃないわ」

 独りごちた後、ミリオンはある場所へと視線を動かす。人間の目には、誰かの家の塀があるようにしか見えない。

 しかし町全体を覆い尽くすほどに巨大で、数えきれないほどに膨大な存在であるミリオンには、その壁の遥か彼方まで見えている。その遥か彼方で交わされている会話すらも聞こえている。

 彼女は『全て』を知っていた。

 知らないのは、これから起こる事だけ。

「尤も、楽しい結末になるかどうかはあの男次第だけど」

 嬉しさと期待を醸し出しながら、ミリオンはその姿を霧へと戻す。

 そして霧は意思を持って動き出し、一塊となって空を飛んだ。

 決戦の地となるであろう、蛍川に向かって――――

 

 

 

 宵闇が広がりつつある町の中を、一つの影が駆け抜ける。

 影は車よりも速く、しなやかに進んでいく。十字路でトラックと鉢合わせても軽々と躱し、ゴミや配管でごった返す路地裏の細道を水のようにするすると潜り抜ける。その影を偶然にも目撃した人間は少なくなかったが、瞬き一つの合間に影は彼方へと行ってしまい、誰もその軌跡を追えない。動画の撮影など、機器を取り出す前に頓挫していた。

 かくしてかなりの人数に気付かれながらも、誰にも存在を証明出来ない影は、やがて駅周辺の歓楽街に入り込む。そこから影は人目を避けるように路地裏を進み、周りに建ち並ぶビルよりも一回り大きく見える、とあるホテルの裏側で止まった。

「花中、此処で良いの?」

 そして影――――人の姿をした猫であるミィは、背中に向けてそう問い掛けた。

 ミィの背中に乗っていた、即ちミィにおんぶしてもらっていた花中は、何も答えない。

 ……何分目を回して、自我喪失状態だったので。

「おーい」

「げふっ」

 ミィは軽いビンタを放ち、人間にとっては殴られるような衝撃に花中は呻く。結果我を取り戻し、花中はハッと顔を上げた。

「あ、あれ? わたし……」

「もー、花中はほんと弱いなぁ。大分ゆっくりめのスピードだったのに気絶するなんて」

「え? えーっと……あ、いえ、それより、着いたの、ですか?」

 全部自分が悪いのだろうか? そう思わなくもないが、問答をしている場合ではない事を思い出す。尋ねればミィは「分かんないから訊いてんの」と答え、背中から下ろしてもらった花中は駆け足で路地裏から出る。

 一歩路地裏から出れば、そこは人々の往来激しい繁華街。路地裏から出てきた自分に向けられる好奇の眼差しに、花中は身体が熱くなるのを感じる。しかし反射的に逃げ出そうとする足を踏み留まらせ、その場で振り返るようにある方を見た。

 そうして見えたのはホテルの表側の姿と、玄関に掲げられている看板。煌々と照らされる看板の文字と、頭の中にある記憶の言葉を照合。ピタリと合致した事で花中は確信を持って頷く。

 此処が、奏哉が寝泊まりしているホテルだ。

「ねー、此処で合ってるの?」

「……はい」

 二度目のミィの質問に、今度はちゃんと答える花中。

 目的地は目の前。深呼吸をして気持ちを整えてから、花中はホテルの自動ドアを潜った。

 大きなホテルだけに、受付ホールはそこそこの広さがあった。何人かの宿泊客らしき人物が受付で手続きをしている。行き交う人々の数も少なくない。ただしあくまで受付なので、誰もが長居はしていなかった。

 そんな中ただ一つ、ホール中央付近に置かれているソファーに座ったまま動かない人影がある。

 その人影が、奏哉だった。

「に、に、二階堂さんっ」

 花中がか細い声で呼ぶと、気付いてくれた奏哉は花中の方へと振り返る。タキシードという目立つ格好だった昼間と違い、今の奏哉はポロシャツとジーパンという、成人男性の一般的な身形をしていた。

 一瞬他人のように見えて後退りする花中だったが、理性できっちりと識別し、小走りで奏哉の下へと向かう。奏哉も早歩きでこちらに近付いてきてくれた。

「大桐さん、どうしたんだい? 電話では、話したい事があるからホテルの受付に来てくれって言ってたけど……」

「それは……」

 そして傍までやってきた奏哉に閉口一番で問われ、花中は一瞬口を噤んだ。それどころか、逃げるように目を逸らす。

 時間がないのは分かっている。

 妖精さんが何を求めているのか、どんな言葉を奏哉から聞きたがっているのか……それを伝えるために花中は奏哉を呼び出し、此処に訪れた。それを伝えるだけなら、いくら話し下手な花中でも躊躇はしない。

 躊躇うのは、『何故』を伝えようとしているから。

 『何故』を伝えたなら……きっと、奏哉は傷付く。花中では癒やせないほど、もしかすると一生立ち直れないほど深く。

 いっそ真実は隠し、妖精さんが求めている言葉だけを伝えるか? それは不可能でもなければ、難しい事でもない。それどころか奏哉も傷付かず、妖精さんが望んだ通りの展開となるだろう。精々ミリオンが不機嫌になるだけだ。誰も悲しまないという『優しさ』からの甘言が、花中の口を強張らせる。

 それでも心は甘言に頷かない。

 どちらの選択が正しいのか。或いはどちらも間違いなのか。花中には分からない。分からないから、自分の信じる道を行くしかない。

 そして花中が信じたのは、痛みの先に、新しい幸せが待っているという事。自らが選択した未来にこそ、光が待っているという想い。

「二階堂さん。あなたが愛した、妖精さんは……」

 祈りを胸に、花中は『真実』を告げた。

 最初、花中の話を聞いた奏哉は目を丸くして、キョトンとした。それから瞳を震わせ、否定するように頭を振った。それでも花中は伝え続け――――

「嘘を吐くなっ!」

 奏哉の罵声が、ホール中に響いた。

 何も知らない人々のざわめきが、ホールの中を満たす。受付に居たホテルの従業員は花中達の方を覗き見ていて、警戒心を露わにしていた。

 何時もなら、花中は衆目の圧力に負けて逃げている。いや、奏哉に怒鳴られた時点で身を縮こまらせて、謝っていたに違いない。

 だけど、今の花中は臆さない。

「そう思いたいなら、それでも、構いません」

 それどころか奏哉の意思を尊重する。予想と異なる反応だったのか、自身の言葉が受け入れられたにも関わらず、奏哉は怯んだように後退りした。

「これは、あなたの問題です」

 そんな奏哉を、花中は言葉で更に突き飛ばす。

「あなたが、信じたくないなら、わたしは、何も、言いません。それで、誰が、不幸になるとか、本当の、幸せじゃ、ないとか……そういう、事は、わたしには、言えません。それを、押し付けるのは、わたしのエゴ、です」

「……それは」

「でも、せめて、逃げずに、選んでください。自分で、考えて、自分で、決めてください。そうでないと……」

 きっと、何時までも後悔するから。

 花中の放った言葉は、奏哉に届いたのか。奏哉は唇を噛み締め、顔を俯かせる。悩むように、迷うように、長い間。花中は奏哉を決して急かさず、彼が動き出すのをじっと待ち続ける。

 それから、どれぐらい経っただろうか。奏哉は静かに顔を上げ、

「僕は……」

 何かを言おうとして口を開いた、途端、花中は両手を前に突き出す。その『続き』を阻むために。

「それは、わたしに、言うべきでは、ありません」

「……ああ。そう、だね。この言葉は、君に聞かせるべきじゃない」

 奏哉の言葉に、花中は深く頷いた。奏哉の顔には自然と笑みが浮かび、目の当たりにした花中もそっと笑顔を返す。

 奏哉の覚悟は決まったようだ。なら、此処に長居する理由はない。

 いや、長居をする余裕はないと言うべきか。

 時間を確認する手間も惜しんだので正確性はないが、此処に到着してから五分は経っているだろう。たかが五分。されどミュータント達の非常識な能力を用いれば、()()()()は成し遂げてしまえる時間だ。

 妖精さんとてミュータントである筈なのだからそれなりに応戦出来るだろうが、今回はあまりにも相性が悪い。フィアに襲われた妖精さんが五分も持ち堪えられるか……急がねば、奏哉の決意が無駄になってしまう。

「それよりも、大事な、話がもう一つ。実は、妖精さんは、今、その命を、狙われています」

「なっ!? ど、どういう事だい!?」

「理由は、その、色々都合の、悪い事が、重なったと、しか……ですが、止める方法は、あります。そのためにも、二階堂さん、あなたが、妖精さんに、想いを伝えて、ほしいのです」

「え? そ、それは構わないが、何故?」

「それは……話すと長くなって、しまい、ます。でも、今は、早くしないと、手遅れに、なって、しまいます。だから……」

「あ、ああ。そうだね。早くしないと、妖精さんが……!」

 妖精さんが余程心配なのだろう。奏哉は特段追求もなく、花中の話を信じてくれた。正直花中は安堵した。時間を取られるのもあるが、事情をちゃんと説明するには『友達』の厄介な性格云々について話す必要がある。時間的猶予がない今、混乱や疑心を招きかねない話題は避けたかった。

「急ぎましょう。『足』は用意、して、あります。こっちに」

「足?」

 訊き返してくる奏哉に、花中はホテルの玄関口へと駆ける事で答えとする。奏哉は一瞬の迷いの後、花中の後を追ってきた。元より足の遅い花中、すぐに追いつかれる。

 二人揃ってホテルを出れば、真っ先に見えたのは退屈そうに背伸びをしているミィの姿だった。

「んー……っと、やっと終わったの? 待ちくたびれたよ」

「すみません。あの、乗せる数が、倍に、なりましたが……」

「あー、乗り心地は悪くなるかもね。まぁ、それは我慢してよ」

 そう言うとミィは右腕を花中の方に伸ばしてきた。花中はすぐさま駆け寄り、伸ばされた腕に寄り掛かる。と、ミィは花中のお尻の方に素早く右腕を回すや、軽々と持ち上げ――――あっさりと、花中を自分の肩に乗せた。

「なっ!? か、彼女は……?」

「詳しい事は、今度、話します。それより、早くこちら、に」

 花中はミィの怪力に驚く奏哉を宥め、共に肩に乗るよう促す。奏哉は戸惑いながらも花中とは反対側、ミィの左腕に寄り掛かる。

 いくら細身とはいえ、奏哉は健康的な中肉中背の成人男性。体重は六~七十キロある筈。

 しかし体重数十トンのミィからすれば自重の千分の一前後でしかない。子供がカブトムシを摘まみ上げるが如く、奏哉もまた軽々とミィの肩に乗せられた。

「うわぁ!? な、なんて力……」

「あまり嘗めないでよ、人間」

 驚く奏哉に、ミィは奏哉に向けて誇るようにウィンク。そして今にも駆け出しそうな前傾姿勢へと移り、

「あ、そうだ。忘れてた」

 ふと、思い出したようにぼやく。

「あ、あの、忘れたって、何を……?」

「あー、いや、一応聞いとくべきかなーって思って」

 あまり悠長にしていられない。その焦りからわざわざ問い質した花中に対し、ミィはのんびりとした語りで前置きすると花中を乗せている方の腕を曲げ、立てている四本の指を見せてくる。

「特急、急行、準急、各停のどれにする? ちなみに花中を此処に運んできた速さは準急ね」

 そしてさらりと問い掛けてきたものだから、花中は答えに窮した。

 今、花中はとても急いでいる。

 早くしないとフィアが妖精さんを殺してしまうかも知れない。だから移動速度は速ければ速いほど良い……が、ミィは加減をしても十分に速い。いっそ速過ぎるぐらい。

 何より、命あっての物種と先人達は言い残している。

「……………各て」

「なんの事だかよく分からないけど特急で! 急がないと妖精さんが危ないんだよな!?」

 本能のまま発しようとした花中の言葉を遮ったのは、奏哉の至極真っ当な意見だった。花中が何か言おうとした事に気付いたのか、奏哉は花中の方へと振り向く。

 その顔は無垢な子供のように素直で、一切の迷いを感じさせない真摯さでいっぱい。瞳は何処までも透き通っていて、こちらの心の汚れを見透かすかのよう。

 そんなものを向けられて、保身ばかり考える穢れきった我を通せるか? 出来る訳がない。

「……舌を噛まないようにしましょうね」

「? あ、ああ。うん……?」

 花中の達観した言葉の意味を、奏哉はあまり理解していない様子。

 けれども花中はわざわざ説明する気にならなかった。どうせ間もなく身体で覚える羽目になるのだ。説明するより、その身を以て知った方が手っ取り早い。

「おっけー、特急ね。んじゃ、衝撃波が出ないギリギリラインのマッハ一ぐらいでいくけど、死なないように頑張ってよ?」

 尤も、途中でくたばっては学びようもないが。

 標準的な大気中の場合、音速は時速千二百キロ前後。旅客機でも出そうと思えば時速千キロぐらいは出るので、それより()()()()速いぐらい。

 さて、人間というものは全速力でかっ飛んでいる飛行機から生身で飛び出して、ケロッと生還出来るものなのか?

 その答えが暗転した意識の『先』にある事を期待しながら、花中は一瞬で白目を向くのだった。

 

 

 

 夕刻を過ぎ、蛍川は闇に包まれていた。

 元より雑木林と小川しかなく、人工の光がない世界である蛍川。側には住宅地が並んでいるが、街灯はいずれも住宅地の方を向いており、蛍川には殆ど光が届いていない。これは照らす意味がないというだけでなく、蛍川に生息するホタル達の生活を乱さないようにという自然保護の観点からも行われている。この静寂の闇は、人の協力があってこそ成り立つものなのだ。

 ……その静寂を破るように、大地が揺れる。

 最初は小石を動かす程度の小さな揺れで、しかしいくら時間が経とうと治まらない。むしろどんどん大きく、強く……容赦なくなっていく。雑木林の木々は風もないのにしなり、川の水面はちゃぷちゃぷと飛沫を上げる。家々からは新旧関係なく歪んだ音が鳴り始め、堪らず自宅から跳び出す者が後を絶たず。が、始まりとは比較にならないほど大きくなった揺れの中では、誰もまともに歩けない。皆一様に、近くの壁や電柱にしがみつくのが精いっぱい。

 そしてついには、道路にあるマンホールの蓋が一つ吹き飛んだ――――刹那、そのマンホールから大量の汚水が噴き上がる!

「きゃあぁあああ!?」

「なんだっ!? なんだよあれ!?」

「この地震のせいか!?」

「に、逃げろ! 早く!」

 外に出ていた人間達が悲鳴を上げ、逃げ惑う。揺れは未だ治まっておらず、まともに動けないのに、誰もが這ってでもその場から離れようとしている。

 しかしそれも無理ない行動。汚水は洪水を想起させるほどの轟音を響かせ、あろう事か周辺のコンクリートを粉砕して『穴』を押し広げているのだ。巻き込まれたなら人間など簡単に粉砕されてしまう。その水が茶色く、腐臭を漂わせている事など最早どうでも良い。圧倒的な死を纏う事象から、自分の命を、大切な人の命を守るのに誰もが必死だった。

 故に、誰一人として気付かない。

 溢れ出した濁流が、低い方へと流れていかない事に。噴き上がった水は殆ど飛び散らず、留まるように大きな塊となっていく事に。

 そしてその大きな塊の一部に、顔のような紋様がある事に。

【オマタセシマシタァ♪】

 ましてや瀑布の如く鳴り響く轟音に混じる、喜々とした声が聞き取れる筈もなく。

 噴き上がった水が『巨人』の形を取った瞬間、目撃した全ての人々が言葉を失った。

 『巨人』と言ったが、それは人というにはあまりに不格好な姿をしている。頭部らしき場所は鼻や目の輪郭だけ。腕にあるのは熊のように太くて不器用そうな指。足に至っては見当たらず、下半身はナメクジのように潰れている。背丈は二階建ての家と同じぐらい高く、肩幅は道路よりも広い。

 そんな『巨人』は首を伸ばし、腕をコンクリートの道路に突き立てながら、身体を引き摺るようにして蛍川の方へと動き出した。進む度に道路はゴリゴリと音を奏で、道幅よりも広い図体は住宅の塀を押し退け壊していく。逃げ惑う人間が居てもお構いなしで直進し、危うく轢き殺されるところだった者も少なからずいた。頭に電線が引っ掛かっても行動は変わらず、ブチリと音を立てて切れた高圧電線が火花を散らし、人間を即死させるほどの電流を『巨人』に食らわせる。しかし『巨人』は怯みもせず、歩みは止まらない。

 いよいよ『巨人』は道路を渡り切り、草の茂る土手へと侵入。草花が根を張る柔らかな土は突き立てられた『巨人』の腕を支えきれず、土砂崩れの如くあっけなく崩落し

 唐突に、爆ぜた。

 『巨人』の不格好な頭が、その背後に立ち並ぶ家の屋根と共に。

【ゴ、ボァ……!】

 ()()()()()()()()()()()()()()。だが、呻きを聞き届けた『相手』は手心など加えてくれない。

 頭の次は腕が、胴体が、次々に弾け飛ぶ。おまけとばかりに『巨人』の背後にある住宅の壁や屋根も、破裂するかのように砕けていく。破壊は一軒二軒に留まらない。『巨人』の近くにある何十軒もの家々が、人々の生活の場が、呆気なく失われていった。

【オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!】

 それほどの攻撃を受けながらも、『巨人』は未だ倒れない。失った頭を生やし、壊れた腕を元に戻し、崩れた胴体をブクブクと膨らませる。そして今も受ける猛攻など気にも留めないとばかりに、更に一歩蛍川へと近付いた。

 瞬間、『巨人』の全身が一瞬にして爆散する!

 最早巨人は跡形も残っていない。頭も腕も胴体も、全てが瞬く間に雫へと還る。しかも被害はそれだけに留まらない。『巨人』の背後にあった家々は奥深くの数十件まで切れ目が走り、建物上部がずり落ちる。更に切れ目から火の手が上がり、黒煙がいくつも昇り始めた。家に籠って水や地震から逃れようとしていた人々も、その家が崩れ、燃えてしまっては堪らない。巣を壊されたアリのようにわらわらと、人間が家から飛び出す。辺りはまたしても叫喚が満ちる。

「大方予想通りの結果と言うべきでしょうか」

 その中に、清流の如く静けさを纏った声が紛れ込んでいた。

 噴き上がった水によって蓋が吹き飛んだ、かつてマンホールだった大穴からどぷんっと音が鳴る。

 大穴の中は淵ギリギリまで茶色い水が上がり、その水が不自然に盛り上がる。盛り上がった水は茶色かった自らの色を変貌させ、白と、肌色と、金色を映し出す。そして意思を持つようにうねり、変形し、『人の形』に近付いていく。

 最終的にそれは先の出来損ないの『巨人』など及びも付かない、紛う事なき金髪碧眼の美少女……フィアへとその形を変化させた。

「やはり炎による攻撃はしてきませんでしたねぇ」

 姿を現したフィアは、クスクスと笑いながら蛍川に向けて話し掛ける。川の方から返答は、ない。

 それでも構わず、フィアは穴から蛍川目指して歩き出し、話を続ける。

 自身が見ている先に己を傷付けた憎きモノ、『妖精さん』が居ると知っているがために。

「あなたの行動はしっかりと観察させていただきました。おっと攻撃なんてして手間を増やさないでくださいよ。取り込んだ光を屈折させ遠方まで届ける事で私にもこの場の景色は見えています。早い話私は今そちらに居ませんのでこの『身体』を粉微塵に吹き飛ばそうと全くの徒労に終わるという事です」

 早口で、長々と前置きをするフィア。一通り話し終えると、さて、と軽く間を挟む。その際、フィアの口角は歪な三日月を描いた。

「炎による攻撃をしてこなかった件についてですが……出来る訳がなありませんよねぇ? あの炎に攻撃力はないのですから。あなたの能力で攻撃するには今みたいにやるしかない。頑張れば石を飛ばすぐらいは出来るでしょうけどあまりに効率が悪い。危機が迫ったなら直接ぶちかました方が手っ取り早くて確実です」

 ぐらりと、またしても大地が揺れる。

「何故それを知っていると思いましたか? 簡単な話です。あなたの能力は既にバレているのですよ対策も済んでいますあなたに勝ち目はないああだからと言って降伏を勧めている訳ではありませんよ」

 大地の揺れは収まらない。再び時間と共に、それでいて先程よりも急速に大きくなっていく。

 その揺れの中でフィアは足を止め、邪悪一色の笑みを浮かべた。

「だって降伏を許したらあなたを叩き潰せないじゃないですか」

 直後、道路に空いた大穴から『第二ラウンド』を告げる水煙が噴き上がる。水煙は霧のように周辺を飲み込み、フィアの姿をも覆い隠す。

 次いで水煙の中から、一体の巨大な怪物が跳び出した!

 怪物の大きさは、五メートルはあるだろうか。今度の怪物は先の巨人とは違い、汚水の塊らしい茶褐色ではなく、周りの景色が映るほどの、白銀に煌めく『身体』を持っていた。ただし美しいのは体色のみ。頭は死んだ魚のようにおぞましく、身体はヒキカエルのように醜悪。下半身は相変わらずのナメクジ型、いや、一層でっぷりとした肥満体型になっている。頭部にある目玉はあからさまに節穴で、口の切れ目すら入っていない。弾力があるのか、動きに合わせて全身がブルンと不気味に震えていた。

 怪物は水煙から跳び出した勢いのまま、激しく着地。アスファルトで舗装された道路を粉々に粉砕し、大地を揺らして脆くなっていた家々を崩してしまう。

 しかし怪物――――フィアは人間の営みの崩壊になんの興味も抱かない。

 今の彼女には、外敵以外見えていないのだから。

【よくも先日はこの私の身体に傷を付けてくれましたねぇぇぇぇぇ! 謝ろうが命乞いをしようが許してやりません! 最早あなたを足先からじわじわとすり潰しその肉体を血とひき肉のスープに変えてやらねばこの怒りは収まらない!】

 怨嗟の叫びを上げ、『フィア』は動き出した! その姿は巨人の時と違い、後ろ足を失ったカエルが這いずるように惨め。しかし前脚で大地を掴み、のたうちながら進む姿に弱々しさはない。狂気と冒涜を周囲に振りまき、目撃者の正気を削る容姿で爆走する。一瞬で巨人の最高速度を超え、災害が如く勢いで頭から土手を乗り越えて

 そして再び爆ぜる……ただし今度はフィアの周りにある家々だけが。

 フィアの『身体』は砕けなかった。とはいえ原形を留めている訳でもない。まるでゴムボールのように、怪物と化したフィアの顔面は押し潰されて変形していたのだ。

 その変形した顔面のど真ん中で、()()()()()が弾けている!

【だから言ったでしょうあなたの能力は既に把握していると! 対策も済んだと!】

 誇らしげなフィアの咆哮。その声は弾けている光が鳴らす轟音に溶け込み、蛍川にはノイズ混じりで送られている事だろう。

 虹色の輝きはそれ自体が力を持ってフィアの顔を潰し、しかし変形によって受け流された結果四方八方へと飛び散る。散った光はフィアの背後に広がる住宅地を直撃し、無秩序に家々を貫き、破壊していく。

 それでもフィアの顔面は壊れない。全ての光を、人間の営みなど毛ほども気にせず受け流すがために。

【あなたの能力は応用力のみならず直接的な破壊力にも優れている! いやはや全く以て素晴らしい能力です! この私以外が相手なら敵なしと言っても過言ではないでしょう! しかしですねぇ】

 フィアは余裕を崩さず、光の濁流も気に留めず、ゆっくりと腕を持ち上げる。拡散した光の一部がその腕に当たるも、フィアが作り出した『身体』は柔軟に歪むだけ。巨人の剛腕と違い、不格好な細腕は千切れない。

 ついに巨人では辿り着けなかった領域に踏み込んだ。瞬間、フィアの顔面で弾けていた光が消え

 ズドンッ! という打撃音と共に、一層強力な光がフィアの顔面で弾けた! 最早太陽の神秘性すらも凌駕する七色の輝きは、神の一撃と呼ぶに相応しい。

 しかし、それでもまだ、化け物(フィア)の顔は壊れない!

【相性が悪かった! 打撃を受け流すための柔らかさだけではその攻撃に含まれる熱に耐えられない! 熱を受け流すための性質があっても生半可な硬さでは打撃の衝撃に耐えられない! しかし私にはそれを用意出来る! 私はあなた方にとって天敵と言える存在でしょう! ああ最初からそうでしたかね!? 所詮あなたは私からすれば獲物の一つに過ぎない!】

 フィアは歩み続ける。光の爆発などお構いなしに、町の破壊など意に留めず、ただただ蛍川へと突き進む。

【だから美味しく頂いてあげますよ】

 そしてあと一歩まで迫った蛍川に、その銀色の手をゆっくり伸ばした

 刹那の事だった。

「残念、そうはいかないわ」

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは。

【っ!?】

 不意打ちに加え、『眼前』に迫るという圧迫感からか。フィアは咄嗟に、自身よりも小さい、()()()()()少女を避けるように身を仰け反らせてしまう。

 すると、その動作を目の当たりにした少女はニヤリと口元を歪めた。

【あ。しまっ】

 その笑みでフィアも少女の目論見に気付くも既に手遅れ。

 何しろ、未だ光の爆発は終わっていない。

 フィアは光の爆発に対し、常に頭から立ち向かっていた。それは自らが作り上げた『身体』に対する自信の表れ、などではない。『身体』が魚類の頭とカエルの胴体という流線形……迫りくるエネルギーを受け流すのに適した形態であり、その機能を百パーセント活かせるのが真っ正面だったからだ。

 では、身を仰け反らせた結果、頭ではなく腹に攻撃を受けるようになったなら?

 柔らかな身体は多少の衝撃ならば流してくれる、が、大き過ぎる力は処理しきれない。どれだけ泳ぎの上手い魚でも流れに対し腹を向ければ、清流にすら抗えず押し流される。

 フィアの身体もまた同様。いや、光の爆発による勢いは水流どころではない。

 フィアの身体は光の爆発によって、大きく吹き飛ばされた! 蹴飛ばされたボールを彷彿とさせる真っ直ぐな軌道で撃ち出され、土手に叩き付けられる。フィアを受け止めさせられた土手は原形を留めぬほどに砕け、側を走る道路も弾け、黒色土とコンクリート片が共に爆風の如く舞い上がった。まるで小惑星でも落ちたかのような光景から生まれたのは、やはり小惑星が衝突した跡のようなもの。抉れ飛んだ土手と道路の姿はクレーターと言っても差し支えない。常識的な生物ならば、先の一撃でお陀仏だ。

 その様子を眺めながら黒い和服を着た少女――――川から跳び出したミリオンは悠々と ― というより綿毛のようにふわふわと降下しながら ― 岸辺に着地。

「……まぁ、『入れ物』を攻撃してもねぇ」

 悩ましげに眉間に皺を寄せながらミリオンはぼやき、

【おのれおのれオノレオノレオノレエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!】

 土手に叩きつけられたフィアは『中身』の入っていない身体を震わせ、雷鳴以上におぞましい咆哮を上げた。轟く叫びは町中に響き渡り、世界ごと揺さぶる。周囲の家々の窓ガラスが独りでに割れ、土手の一部がずるりと流れ崩れる。

【何故あなたが此処に居るどうしてこの私の邪魔をするああああああそこに隠れる羽虫以上に腹立たしいいいやそいつについても最早喰うにも値しないどちらもまとめて砕き潰して肉塊にし打ち捨て腐敗した汚物に変えてくれるッ!】

 邪悪な叫びに呼応するかのように、フィアと怪物が現れた元・マンホールから大量の汚水が噴き上がった。水は重力を無視してフィアの元へと流れ、その水を吸い上げてフィアの身体はぶくぶくと肥大化していく。

 やがてフィアは先の数倍はある、身の丈十五メートル近い巨物へと変貌。

【三度目はないと知りなさい!】

 巨体を『射出』としか言えない猛スピードで動かし、一気に川まで突撃しようとする!

 対するミリオン。肩を竦め、クスクスと失笑。

「ほんっと、さかなちゃんは単純ねぇ……二度ある事は三度あるって諺、知らないかしら?」

 それから淡々と、嘲笑いながら問う。

 するとどうだろう。ミリオンの頭上で、フィアはその動きを止めた。

 守護霊であるかのように突如としてミリオンの背後に出現した、身の丈十五メートルもの()()()()()()()()()()()()()()()漆黒の巨人に阻まれて。

【ぐぬぅうっ!?】

 巨人と正面衝突し、フィアの口から驚きと不快感を滲ませた声が発せられる。漆黒の巨人は真正面からフィアに向かい、体当たりでその巨体を吹き飛ばしたのだ。大質量同士の激突は凄まじいエネルギーを生じさせ、周囲に小規模ながら地震染みた振動を走らせる。

 しかしフィアの『身体』に中身は入っていない。自分と同等の巨漢がぶつかろうと『本体』にダメージは届かず、判断力も鈍らない。フィアは即座に腕を変形。カエルのように不格好で貧相なものから屈強な類人猿的腕部に変化させ、進路を阻む漆黒の巨人へと跳び掛かりながら振り下ろす!

 されど巨人もまた腕を伸ばし、やってきたフィアの腕を掴んで受け止めた! フィアはもう片方の腕も振り上げるが、それもまた漆黒の巨人は受け止める。

 両腕を塞がれた二体の巨物。

 しかし人外である彼女達に、腕は二本までという常識など通用しない。巨人の脇腹からずるりと太い腕が現れ、フィアもまた同様に腕を生やして対抗する。

 幾度かそれを繰り返し、互いに四本の腕を新たに生やした、合計六本の腕でがっちりと掴み合う。双方共に人智を圧倒する怪力で対等に押し合っており、力を緩めればその瞬間押し返されてしまうだろう。

 どちらも身動ぎすら迂闊に出来ない拮抗状態に陥ってしまった。しかし『不利』なのはフィアの方。跳び掛かったところを受け止められたフィアは、立ち上がった姿勢で巨人と対峙している。そのため弛んだ腹を巨人越しに『蛍川』に向けてしまっていた。巨人を投げ飛ばせばその瞬間蛍側から『光の爆発』による攻撃が行われ、吹っ飛ばされてしまうだろう。つまりどうやっても、フィアは目指す蛍川に近寄れない。

【この……こんな時間稼ぎで……!】

「あら、どちらが時間稼ぎなのかしら?」

 ミリオンが余裕の口振りで尋ねるや、巨人……無数のミリオンが集まって出来ているであろう人型の塊が、ゆらりと蠢く。それから巨人の腹部付近に、独りでに大穴が空いた。

 大穴の先に見えるのは、蛍川だ。

「あの子の能力は見破ったのよね? なら、私のした事の意味は分かるでしょう? ……『通路』を開いたわ。この穴からあなたの土手っ腹を狙える」

【……………】

「力を受け流すのに適した流線型だから、正面から立ち向かう分にはあの子の攻撃を受けても前進出来た。でも、私が居る限りこうして取っ組み合いに持ち込まれる。これじゃあ流線型の身体を活かせない。私とあの子が居る限り、あなたは此処から先には進めない」

【……………】

「分かったら帰ってくれない? 疲れる事はしたくないんだけど」

 ミリオンからの勧告に、フィアは何も答えない。

 ……否。小さく、クツクツと声が零れている。

 それは悔しそうな言葉ではない。恥辱に塗れた嗚咽でもない。もっと楽しげで、優越感に浸りきった――――

【クククカカカカカカカカカカ!】

 おぞましい、笑い声だった。

【その程度の事を私が想定していないと本気でお思いなのですか? 先程やられた事をいくらか手を変えただけでまた引っ掛かると? ええ引っ掛かりますよ。全く忌々しいコンビですねぇ】

 ですが……そう言葉を区切るやフィアの背後、ボロボロになった住宅地から半透明な触手が生えた。それも一本二本ではない、何十、何百もの数。

 その全てが先端を蛍川に向けている光景を前にして、ミリオンは顔を顰めた。

【形に拘らなければいくらでも手はあるんですよぉ! 一点集中ではなく拡散させる! 当然あなたも出来るでしょうがその点については私の方が得意! どういう経緯であなたがそいつと協力したのかなんて知りませんし興味もありませんがその正体ぐらいはご存知なのでしょう!? だったら私が操る水の一部でも川に到達したらどうなるか想像出来ますよねぇ!?】

 煽るようなフィアの物言いに、ミリオンは言い返さず、むしろぐっと唇を噛み締める。

 フィアの予想通りであるなら、自身の操る水の一部でも蛍川に着けばその時点で勝利が確定する。

 その予想が正しい事を、ミリオンの顔が物語っていた。ミリオンは全力で、川に突き進もうとするフィアを止めようとするだろう。しかし一ヶ所でもフィアの操る水と川が繋がれば、その瞬間にフィアは川の水を全て支配下に置ける。宣言したように形に拘らなければ、地面に水を浸透させ、ひっそりと川に近寄るという方法だって使えるのだ。他にも手はいくらでもある。

 確かにミリオンは反則的に強い。フィアもそれは認める。

 しかし此度の防衛・侵攻においては、フィアの方が圧倒的に『得意』なのだ。それはきっと、ミリオンも分かっていたに違いない。

「……分かっていたけどこりゃ無理だわ。今回は私の負けね」

 分かっていたからこそ、あっさりとミリオンは白旗を上げる。勝てない勝負に拘るつもりはないと言わんばかりに。

 期待していた言葉に、フィアはその魚顔にニタニタと笑みを浮かべた。が、さして間を置かず眉間に皺を寄せる。

 負けを認めたにも関わらず、『自分』を食い止めているミリオンの手は何時までも離れないのだから。

【……何を企んでいるのです? 今更この状況を変えられるとでも思っているのですか?】

「まさか。私にはどうにもならないわよ。大体どうにかするのは私じゃないし」

【は? 一体何を言って……】

 ミリオンの真意を問い詰めようとしてか、フィアは更なる言葉を投げ掛けようとした

 その、直後の事だった。

「フィ――――――――――――ア――――――――――――ッ!」

 何処からか、フィアの名を呼ぶ声が辺りに響き渡ったのは。

【っ!? 今度は一体なんですか!?】

 ギョロリと、フィアは眼球もどきを声がした方に向ける。

 その視線の先にある土手の一部で、大量の土石が舞い上がった。

 あたかも木の葉のように土が舞い上がる光景は、巨大なエネルギーが『放出』された証。そのエネルギー放出地帯のど真ん中に、小さな影がある。

 やがて土石は重力に引かれて落下。遮る物がなくなり、土石に隠れていた影……ミィの姿がハッキリと見通せるようになった。

「ふぅー……間に合った、のかな?」

【野良猫!? 何故あなたが此処に……!】

「花中に此処に来るよう頼まれてね。で、まぁ、あたしとしちゃあ別にアンタと敵対するつもりなんてないけど、頼まれた事以外しないってのも薄情な感じじゃん? つー訳だから、とりあえずこれでも食らっと、けっ!」

 戸惑いを見せるフィアに追い打ちを掛けるように、ミィは腕を振り上げ『何か』を投げる! 『何か』はミリオンと組み合っているフィアから少し離れた場所目掛け、高さ十数メートルの放物線を描いており、脅威になるとは思えないものだったが……されど、フィアの逆鱗に触れるには十分。

【腹立たしい腹立たしい腹立たしい! 何故にこうも邪魔者ばかりがくるのです! あなたにはそれなりの恩があるとはいえ邪魔立てするなら容赦は……】

 ところが怒りを爆発させたフィアは、半端なところでカチンと固まる。

 フィアは見てしまった。なんとなく、ミィが投げ飛ばしたものを。

 フィアはフナである。濁った水底で暮らす故に、視力はさして発達していない。だからパッと見ではミィが投げ飛ばしたモノの正体など分からない。

 それでも色と形と大きさぐらいは分かる。そして人間並の知能がある故に、想像だって出来てしまう。

 だからフィアは気付けたのだ。

 あらぬ方向に飛んでいくモノが、日本人らしからぬ銀髪と高校生っぽくない小柄な体躯をした少女……

 即ち花中であると。

【かかかかかかか花中さああああああああんっ!?】

 フィアの狼狽しきった叫びに花中は何も答えない、答えられる訳がない。今の花中は投げ飛ばされた勢いで、空中をぐるんぐるんと高速で大回転している。一般的な人間でも意識を保てるかどうかの状況、一般よりずっと脆弱な花中なら言わずもがな。白眼を向き、口からは出てはいけないモノがオロロロロロと溢れていた。

 無論、今の花中にまともな着地は期待出来ない。大体にして十数メートルの高さから落ちているのだ。普通の人間なら……

 そんな当然の帰結を、フィアは考えない。

 考える前に、花中を助けるべく動き出していたのだから。

【っ!】

「おっと」

 ミリオンとの取っ組み合いをあっさりと止め、フィアは巨大な『身体』を液体(ただの水)に戻して崩れ落ちる。相手が居なくなった巨人のミリオンは勢い余ってよろめくが、土手で控えていた水は隙を突くような真似をしない。

 むしろ全ての水が土手から離れ、このままでは花中が墜落するであろう場所に集結。そこは争いの余波で全壊した家の敷地内だったが、さながら机の上のゴミを薙いで一掃するように、水達は崩れ落ちた家の一部や壊れていない塀などをまとめて押し退ける。外側にある未だ無事な家々が流れてきた瓦礫によって押し潰されたが、フィアの『片付け』は止まらない。

 そして水は巨大な魚の頭を形作り、落っこちてきた花中を、バクンッ、と飲み込んでしまった。

「ありゃ、ほんとに食らっちゃった。ま、良いか」

 その様を見て、花中を投げ飛ばした張本猫はのほほんと独りごちる。

 次いでミィは、自身の足下に転がる一人の男……目を回して気絶している奏哉の腹を軽く足蹴にした。ミィからすれば優しく小突いた程度だろうが、奏哉の口からは肺の中身を全て吐き出したような咳が飛び出る。咳は一回では終わらず何度も何度も出てきて、ようやく止まった頃に、奏哉は意識的に顔を上げた。

「あ、あれ? 此処は……」

「ほら、目的地に着いたよ。早くしないとアイツにアンタの好きな人、食われちゃうよ?」

「え? アイツ……って、な、な……!?」

 ミィが指差した場所、花中を丸呑みにしたフィアを見て、奏哉は腰を抜かしたのかその場にへたりこむ。が、ミィはそんな奏哉の服の背中側を掴み、

「話し合いが出来るぐらいの時間は稼いであげる。だから、安心して行ってこーい」

 なんの躊躇もなく、蛍川の方へと投げた。

「わ、うわ、わぁあああ!?」

 情けない悲鳴を上げながら、奏哉は空を舞う。花中よりは優しい投げ方だったので空中大回転こそ免れていたが、しかし人間は空を飛べない。ジタバタと手足を動かしても体勢は立て直せない。

「どべっ!?」

 結果、着地は顎からという不様なものに。

 しかし痛みに呻くよりも前に、彼は跳びはねるように顔を上げた。

 燃えるように赤い髪を携え

 海よりも透き通った青い瞳を持ち

 春の草花よりも鮮やかな緑色の服を着た少女。

 出会えなかったのはほんの一日。だけど何十年も会えなかった肉親と再会したように、奏哉の瞳からは一筋の涙がこぼれる。

 彼の前には蛍川の水面の上に立つ――――『妖精さん』の姿があった。

「妖精、さん……!」

 焦がれていた人との対面に、奏哉は落下の痛みなど感じさせない笑顔を花咲かせる。しかし笑顔はすぐに終わり、立ち上がった時には真剣な眼差しで妖精さんを見た。妖精さんも、青く透き通った眼差しで奏哉を見つめ返してくる。

 そんな奏哉に、何時の間にか傍まで寄ってきたミリオンが声を掛ける。

「良かったわね、愛しの人に出会えて」

「君は、確か図書館で会った……」

「はなちゃんから『本当』の事は聞いたのでしょう? そして此処に来たのなら、もう気持ちは固まったのよね?」

「……ああ」

「なら、私から言う事はないわ。そうね、精々あなたの選択が私好みである事を望む、ぐらいかしら」

 それで満足したのか、ミリオンは奏哉から顔を逸らした。

 直後、爆音と衝撃波が奏哉達を襲う。奏哉は目を丸くし、ミリオンは親しげな微笑みを浮かべる。

 爆音の発信源には大きなクレーターが。

 そしてクレーターの中心には、仁王立ちするミィが居た。

「やっほー、ミリオン。おひさー」

「おひさ。元気してる?」

「まぁまぁかな。そっちは、ウィルスだから体調も何もないか」

「あら、そんな事ないわよ? 私だって胸が苦しくなる時はあるんだから。それこそ愛しいあの人の事を想えば、何時だって」

「惚気かい」

 ミィとミリオン。親しげな会話を交わす二人だったが、どちらも相手の顔を見向きもしない。

 代わりに二人の視線を釘付けにしていたのは蛍川とは反対側。土手の向こうに広がる荒れ果ててしまった住宅地にて、花中を丸呑みにした後ぶくりぶくりと膨らみ続けていた『フィア』だった。

 今や彼女は、十メートルという値すらも足りないほどに肥大化していた。見た目も先程までとは大きく異なる。魚の顔に肉食獣も真っ青になるだろう巨大な牙を生やした、『怪獣』のような形態だ。周囲には水で出来た触手が何十本ものたうち、時折八つ当たりのつもりなのか、半壊で済んでいた住宅を薙ぎ払っている。

 何処までフィアの感情が反映された姿かは分からないが、相当な憤りを持って造られた事は明らかだ。

 ただしミィ達に今にも跳び掛かってくるような、危うい気配はなかったが。

「……攻撃してこないんだ。結構意外」

【ふんっ。今は花中さんの介抱が先です。あなた方の相手は片手間で出来ますが花中さんを蔑ろには出来ません。大体この状況でそいつを潰すのは些か面倒そうですし】

 ミィからの問いに、フィアは雷雲を想起させる野太い声で不機嫌さを露わにしながら答える。フィアは自信過剰であり、基本的に他者を見下しがちだが、一度戦った相手の力量を過小評価したりはしない。ミィが参加した事で、蛍川の守りは一層堅固なものとなった。安全圏から水を操っているためフィアがやられる事はないし、ミリオンとミィの防御を破る事も可能だろう。だが、そのための労力は計り知れない。

 別段、フィアは正義感を持って妖精さんに攻撃を仕掛けた訳ではないのだ。感情を上回るほどに面倒臭くなってしまえば、執着などしない。

【それになんだか見覚えのある人間が居ますが恐らく花中さんの手引きなのでしょう? 私は花中さんの邪魔をするつもりはありません。配慮するつもりはありませんが上手くいきそうな事を妨げるのも不本意なのです。ですから今は退くとしましょう。決着は今晩辺りにでも】

 それだけ言い残すや、どぽんっと巨体に見合わない静かな音を立て、フィアの形は崩れて水へと戻った。水はゆったりと流れていき、全てが道路に空いた大穴……フィアによって破壊されたマンホールの中へと落ちる。

 宣言通り、フィアは完全に退いたようだった。

「……じゃ、私達も帰りましょうか。一旦ね」

「んー? まぁ、あたしは人間の色恋にはそこまで興味ないし、それで良いよ」

 一先ずは驚異が去り、ミリオンは黒い霧となって姿を消す。続くようにミィは誰にも目視出来ない速さで立ち去る。

 残されたのは、奏哉と妖精さんの二人だけ。

 『驚異(フィア)』が居なくなり、ようやく話せるようになったと思ったのか。川の上に佇んでいた妖精さんは、足を動かさず、音も立てずに奏哉の目の前までやってくる。

 そうして、手を伸ばせば互いに抱き合えるほどに近付いた場所で妖精さんは立ち止まり、奏哉の顔をじっと見つめてきた。

 奏哉からの言葉を、待つように。

「……やっと、君が僕に言わせたかった言葉が分かったよ」

 奏哉は目を閉じ、思いに耽る。

 瞼の裏に映る長年の思い出。積年の想いに、奏哉の目尻が仄かに湿る。

「君と出会って、十年ぐらい経ったかな。あの日から今日に繋がっていたんだ。何年も、もう何年も君を待たせてしまっていたんだね」

 目尻に溜まった涙を拭い、改めて奏哉が目を開けば、妖精さんは変わらず奏哉を見つめていた。

 奏哉は見つめてくる彼女に微笑みを返す。

「だから今、此処で答えるよ。僕からの言葉を」

 そして奏哉は、告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。あなたとは、結婚出来ません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き間違いようがないほどに、ハッキリとした撤回の言葉を。

「散々求婚しておいて、虫の良い話だとは思う。でもこれが、今の僕の正直な気持ちなんだ。言わなきゃいけない言葉なんだ。本当に、申し訳ない」

 深々と頭を下げ、謝罪の言葉を伝える。されどその強い口調には、明確で、強固な意志が籠もっている。

 何があろうと、もうこの気持ちだけは変えまいという想い。

 人の気持ちを踏み躙るのみならず、反省すらしてないと取られかねない答え方。妖精さんもこれには表情を変え、糾弾しようとしてか口を開く。しかし開いた口からは声どころか音もせず、ただ、そういう『素振り』をしただけ。奏哉が顔色を変えずに頭を下げ続けていると、やがて妖精さんの顔は無表情に戻り、落胆したのか肩を落とす。

 そして諦めたようにその姿を消した。ブツリと、電源を落とされたテレビ映像が如く。奏哉だけを残して。

「……うん、これで良い」

 ポツリと、奏哉は独りごちる。

 しばらくその場に立ち尽くす奏哉だったが、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。ハッとした奏哉が耳を傾けてみたところ、パトカーだけでなく、救急車や消防車の音も混じっている事が分かった。

 フィアと妖精さんとミリオンの『ケンカ』によって、住宅地の一角は完全に崩落した。三体ともわざわざ狙いはしなかったが、余波に巻き込まれた人間も少なくない。挙句妖精さんの攻撃によって火が付いた家もあり、黒煙が所々から立ち昇っているではないか。警察・病院・消防が駆け付けるのは当然だ。

 もし訪れた彼等が奏哉を見付けたなら、一見して健全かつ『事態』を経験したであろう奏哉を問い詰めてくるに違いない。起きた事をありのまま話すにしても誤魔化すにしても、面倒になる事は明らかだ。最悪疑惑を向けられるかも知れない。

 ゆっくりと感傷に浸る暇はなかった。

 目元を拭ったのは一回。その一回で、奏哉は爽やかに、吹っ切れた笑みを浮かべる。

「妖精さん、君を好きになれて良かった。これからも、愛しているのは君だけだ。今まで、ありがとう」

 そして『妖精さん』が消えた川に向けて、感謝の言葉を伝えた。

 『妖精さん』からの返事を待たず、奏哉は蛍川に背を向けて駆け出す。逃げるようでも、振り切るようでもなく……目指すように。

 蛍川の周りで、サイレンが鳴り響く。

 全てが終わった事に未だ気付かぬ喧しい音楽が、虚しく世界に鳴り響いていた。




Q:これ、誰が悪役なんだっけ?

A:その問いにはお答えできません。何しろそもそも悪役を設定していないのですから。青少年が極悪非道な敵と拳で殴り合っている時、足元に居るアリにとってはどっちが悪役かなんて知ったこっちゃないのです。
まぁ、家を壊された人間からしたら堪ったもんじゃないでしょうけどね。


Q:前回鬱憤を晴らすようにフィアが暴れると言っていたけど、晴れたの?

A:晴らすように暴れるとは言いましたが、晴れるとは言ってな(粛清



さて、次回にて本章は最終回となります。
妖精さんの正体とは? 能力とは? その目的は?
そして好き放題に散りばめた伏線をワタクシ彼岸花は回収出来るのか ← 一番の見所
いろんな意味でお楽しみに……してもらえたら、嬉しいです。ハイ。

次回は9/4(日)投稿予定です。


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亡き乙女に音色は届かない9

「あっはっはっ! あーはっはっはっ! もうっ、どうしたら良いのかなぁ、これぇ!?」

 花中は、珍しく大きな声で笑っていた。それも夜八時という、月と星の光が降り注ぐ静寂の時間に。

 此処は蛍川の上流に位置する地域。幅一メートルもない流れの傍にあるのは雑木林でなく住宅地で、岸はコンクリートによる舗装が施されている。此処の名称も一応は蛍川なのだが、ホタルには蛹になる際に潜り込む柔らかな土が欠かせない。コンクリートで固められたこの一帯では世代交代が出来ず、ホタルは生息出来ないだろう。

 ホタルが棲んでいないのに蛍川という、なんとも名前負けした場所だが、何分この辺りは『ホタル保護区』ではない。ホタルには厳しいが、人にとっては都合の良い作りとなっている。例えばホタルの恋を阻害する街灯の光も、人が安心して夜道を歩くためには欠かせないものだ。一概に悪いとは言えない。

 とはいえこのような場所を蛍川と呼ぶのも難なので、一先ず『川』と呼ぶ事にしよう。花中は今その川の、コンクリート舗装された岸に立っている。

 さて、水というのは高い場所から低い場所へと流れるもの。即ち花中が居るこの場所は、妖精さんが居た蛍川よりも高い所に位置する。この辺りは山を削って造成した土地というのもあり、数値上の高さは相当なものだ。街灯や家の明かりが点くこの時間帯ともなれば、麓に広がる星空のような夜景を一望出来る。

 なので、結構よく見えるものなのだ。

 下流域で光る町明かり――――よりも目立つ、崩れた建物から燃え上がる炎と、パトカーや救急車や消防車が光らせているサイレンが。

 『友達(フィア)』によってそれはもう盛大に破壊された、住宅地一帯が。

「うーん。ちょいとやり過ぎましたかね?」

 そして一緒にそんな街並みを眺めている筈のフィアは、のほほんとした感想を口走っていた。反省など、殆どしていない様子だった。

「ちょいと、じゃないよぅ!? ま、町が、あんなに……!」

「人間の巣を幾つか壊してしまっただけじゃないですか。それにミリオンの調べによれば怪我人こそあれ死人は出てないようですし。住処なんて壊れたら変えれば良いでしょう?」

 花中の悲痛な言葉も何処吹く風。むしろ何故怒るのかとフィアは訊きたげだ。

「もぉ、さかなちゃんったらぁ。人間はそう簡単には家を変えられないものなのよぉ」

 ……人間の事情など分からないので首を傾げている分、分かっているのにフィアの隣で心底楽しそうにしているミリオンよりは幾分マシなのかも知れないが。

「ミリオンさん……なんで、そんな楽しそう、に……」

「えー? だって二階堂さんは()()()()()()()言葉を言ってくれたのよ? なら嬉しくなって当然じゃない」

「……ですよね」

 花中の口から出たのは、諦めのため息。結局のところ彼女達は人間ではない。人間とは価値観が違う以上、マイホームの重要性も異なる。家屋の倒壊など、彼女達にとっては些事に過ぎないのだ。説明しても無駄、とは思わないが、この場で理解してもらえると考えるのは幻想である。時間を掛けてゆっくりと話し合うしかない。

 それに、此処に来た理由は破壊された町を眺めるためなんかではない。

「……ミリオンさん。あの『ヒト』は……」

「ちゃーんと伝えたわよ、此処に来るようにって。まぁ、来るとは言ってなかったけど」

 気持ちを切り替え花中が確認すると、ミリオンは不安を煽るような答え方をする。来るとは言っていない――――当然だ、あの『ヒト』には声というものがないのだから。

 意地悪な言い回しに花中は頬をぷくっと膨らませた、丁度そんな時だった。

 不意に、川の一部が光り始めたのは。

 気付いた花中が振り向けば、光は段々と強くなり、ついには水面から飛び出したではないか。そして光は少しずつ人の形へと変化していき、

「……あの、もう夜分遅いので、手間は、省きません、か?」

 焦れったくなり、花中はそう催促した。

 するとどうだろう。光の塊だった筈の『それ』が、一瞬にして少女の姿へと切り替わったではないか。赤い髪、無表情ながらあどけない顔立ち、緑色の服、青い瞳……どれも見覚えがある。今も全身をぼんやりと光らせ、『全て』を知った今でも神秘性を感じさせる。

 花中にとっては一昨日蛍川で出会って以来の再会――――妖精さんだった。

「ようやく、会えましたね」

 花中が言葉を掛ける、が、妖精さんは無反応。静寂が続く。

 ……あまりにも長く沈黙を挟むので不安になる花中だったが、ふと妖精さんが何処からかホワイトボードを引っ張り出す。

 ホワイトボードには、【私、音を聞き取るのが苦手だから大きな声で】と書かれていた。印字したように、癖のない文字だった。

 どうやら自分が小声なものだから、妖精さんには聞こえなかったらしい。確かに、彼女の『正体』が予想通りだった場合、聴力が乏しいのは仕方ない……むしろどうやって声を聞いているのか疑問だ。確認されていないだけで、耳に当たる器官があるのだろうか? もしくは空気から伝わってくる振動を解析しているのかも知れない。

 なんであれ、大きな声でないと話が出来ないそうだ。今度は花中なりに声を張り上げ、先程と同じ言葉を伝える。と、妖精さんの持つホワイトボードに【用があると聞いて、ここに来た】という文字が浮かび上がった。

 無感情で、警戒感のない文章。何を考えているのか……思考を感じさせない存在への不信感が、花中の胸中に渦巻き始める。

「……えっと、とりあえず、友達に、なりませんか? その、仲直り、です」

 しかし花中は臆さず気にせず、手を伸ばして握手を求めた。

 妖精さんはしばし花中の手をじっと眺めていたが、やがて何かを思い至ったのか、音もなく手を叩く。それから花中が伸ばした手を掴み、握手の素振りを見せた。

 尤も妖精さんの手は、花中の手をすり抜けているのだが。顔だって相変わらず無表情なまま。とはいえ大事なのは握手を受け入れたという事実。それが「友達になろう」という言葉への返事である点だ。

「はい。妖精さんと、友達に、なれた、よ」

「はいはい」

 花中が振り向いてそう伝えれば、フィアは肩を竦めて不服そうに肯定した。家で交わした、妖精さんと友達になったらもう彼女を殺そうとしないという約束は未だ健在だった。

 妖精さんの身の安全を確保した花中は、ゆっくりと手を引く。握手する手がなくなったので、妖精さんも手を引く。

 ここからが『本番』――――妖精さんとの問答こそが、花中が此処を訪れた目的だ。

「……早速です、けど、答え合わせを、させてください」

 花中の前置きに、妖精さんは首を傾げるような動作を見せる。が、その直後ホワイトボードに書かれていた文字が独りでに薄くなり、またしても独りでに新たな文字が浮かび上がる。

 新たに映し出された文字は【良いよ】の一言。

 了承は得た。花中は早速、やりたかった答え合わせ……妖精さんの『正体』を暴く事にした。

「最初から、疑問でした。あなたの能力は、あまりにも、多様過ぎる、と」

 ミュータントの能力には、一種につき一つ、なんてルールはない。だから妖精さんが複数の能力を持っていたとしても、それ自体はおかしな事ではない。

 しかし、火を噴き上げ、爆発を起こし、不可視の攻撃をし、人の姿を取り、寒気を操る……あまりにも無節操が過ぎる。妖精さんが複数の能力を持った超ミュータントだとするより、何かしらの『インチキ』があると考える方が自然だ。

 そしてインチキである以上、『実体』は必要ない。

「実際は、複数の能力なんて、なかった。それどころか、機能的には、たった一つ。そのたった一つで、あなたは、わたしを翻弄した」

 人の感覚は、人が思うほど確かなものではない。

 例えば周りの模様や動き次第で、呆気なく対象の動きや色を正しく測れなくなる。赤や黄色といった色は見れば『暖かさ』を感じ、青色を見れば『冷たさ』を感じてしまう。しかしそれは人の感覚がいい加減なのではない。どれほど高度に発達したシステムにも弱点があるように、人間の視覚システムにも穴があるという事だ。

 だからもしシステムの穴を正確に突けるのなら……自在に、それでいて強固な幻覚を作り出せるだろう。感覚を支配し、虚構に現実的な力を持たせる事が出来るようになる。それこそが妖精さんの能力。

 即ち『幻覚』。

 投射した映像により、現実と間違うほどの錯覚を引き起こすのだ。少女の姿を見せるなど序の口。視覚を完全に支配する事で、本当に炎があるかのような熱さを感じさせ、()()()()()凍えてしまう青い煙も生み出せる。そして感覚を支配された身体は本能的な対応を行うだろう。例えば寒波に包まれたのなら身体は熱を生み出すべく筋肉を震わせ、体温が外に逃げないよう血管を収縮させるのだ。尤も、その反応は『寒い』時に行うもの。本当は真夏の太陽の下に居る状態であり、体温自体はガンガン上昇している。結果、幻覚から解放された瞬間身体は大量の汗を流し、血管を限界まで拡張。本来ならばあり得ない状況に慌てて対応した結果、やり過ぎて『低体温症』を患ってしまう訳だ。

 そして多彩な能力の正体が幻覚だと分かれば、自ずと『見えない攻撃』の正体も分かる。

 幻覚を引き起こす『映像』……それは言い換えれば、幻覚を引き起こす『光』だ。大出力の『光』を集束させて一点に照射すれば、光は『レーザー』と呼ばれる状態になる。レーザー照射を受けた物体は、光が持つエネルギーにより過熱。水がレーザー照射を受けたなら忽ち『沸騰』し、瞬時に発生した多量の水蒸気によって爆発のような現象が起きるだろう。土のような水分の多い物でも同様の筈だ。木材やコンクリートが相手なら照射点は気化し、焼き切られ、容易に『切断』される。更にレーザー光線はまず見えない。光そのものであるレーザー光線が見えたという事は、高出力レーザーが眼球を直撃している事になるからだ。

 つまり。

「全てが、光を介して、起きていた現象。そう考えると、納得が、いきます。そして、光を放つ生物は、現在、非常に多く、知られています、が……この場所で、あえて『あなた』以外を、挙げる理由は、ありません」

 花中は一度話を区切り、深く、息を吐く。

「あなたの正体は――――ホタル、ですっ!」

 それから力強く向けた指先と共に、花中は己が導き出した答えを告げた。

 花中から突き付けられた『推理』。

 正面から受け止めた妖精さんからの返事は……【正解】、の一言だった。

「……はぁぁぁぁぁ……よ、良かった……」

 言葉を読み終えた途端安堵の感情が溢れ出し、花中は全身から力が抜けるのを覚える。これだけ自信満々に話しておきながら盛大に外したら、恥ずかしさで死んでしまうところだった。

 とはいえ、当てたところで自慢出来るものでもないのだが。

「さっすが花中さんっ! でも今回は私の方が当てるのは早かったですけどねー」

 何分胸を張りながら語る当人の言葉通り、花中よりもフィアの方が先に真相に辿り着いていたのだから。

「うん、そうだね。フィアちゃん、すごいよ」

「んっふっふー」

 花中が正直な気持ちを伝えると、もっと褒めてと言わんばかりに、フィアは突き出すように胸を張る。

 万能のようにも思える妖精さんの力だが、少なくとも二つの欠点がある。

 一つは、見せている現象はあくまで幻覚であり、現実には存在しない事。例えば炎の幻覚は見た者に猛烈な熱さを感じさせるが、本当に熱がある訳ではない。だから勇気を ― 燃え盛る炎に触ろうとするのは勇気ではなく最早狂気の沙汰だろうが ― 出して触れてみれば、火傷一つ負わないで済む。つまり何かの拍子に触られてしまうと、その時点で幻覚だとバレてしまう可能性がある。

 そしてもう一つの、それでいて一番の欠点は、『生物種に合わせて、幻覚の色合いを変えねばならない』という事。

 生物により、視覚の仕組みは異なる。昆虫の多くは人間には識別出来ない紫外線の『色』を判別出来、蛇は赤外線を認識して暗闇の中獲物を捕らえられる。逆に霊長類などの一部を除いた大半の哺乳類は、紫外線や赤色を捉えるための視細胞を失っていると言われている。

 無論見えていない光を使ったところで、相手は幻覚なんて見えやしない。生物種によって視覚システムは千差万別であり、その都度光の構成を調整しなければならないのだ。景色を誤魔化すだけ ― 土手と川の色を『上乗せ』し、川を本当の位置より手前にあると誤解させて、飛び越えようとした奴を川に落とすとか ― ならどうにか出来ても、熱などの感覚的誤認をまとめてやるのは難しい筈。魚類と哺乳類という系統的に離れすぎた二種が相手なら尚更である。

 ……ここからこの辺りで頻発していた『幻覚キノコ異変』、そして花中達が遭遇した攻撃の意図が推察出来る。

 妖精さんの正体であるホタルは、その生活史の大半を水中で過ごす。六月~七月に現れる成虫は地上で生活するが、次代を繋ぐためにも水辺は欠かせない。故に川を荒らされる事は死活問題。川に来た花中達を、幻覚によって追い払おうとするのは当然だ。川に『不法投棄をした人間』を懲らしめ、川をひっくり返して遊ぶかも知れない『ピクニックに来た家族連れ』を追い払った時のように。とはいえ最初は、びしょ濡れにすれば帰ると思ったのだろう。

 しかし川に落ちたにも関わらず、フィアと花中は帰らなかった。雑木林からの帰りでは炎の幻覚 ― 恐らくフィアにはオレンジ色のガスにでも見えたのだろうが ― を見せたにも関わらず、フィアは能天気なまま。挙句『水を自在に操る』能力を使ってみせた。水生生物にとって、それがどれほどの驚異であるか……

 始末しなければならないと、妖精さんが危機感を抱いても不思議はない。

 その危機感こそが、雑木林でフィアが攻撃された『理由』なのだろう……そう妖精さん当人に花中が尋ねたところ、妖精さんからの返答は【その通りだと思う】の一言だった。

「……ふぅ」

 一通りの話を終えて、花中は息を吐く。

「花中さーん。用が済んだならそろそろ帰りません?」

 沈黙の合間を突くように、フィアが眠たそうな声で催促してくる。

 フィアが言うように、花中が明らかにしたかった疑問についてはこれで完全に解けた。もう夜遅い。明日も学校があり、早く家に帰って寝た方が良い。

 しかし、花中は首を横に振る。

 元より、今まで問い質していた疑問については、答えは出ているも同然だった。わざわざ呼び出してまで訊きたかったのはそんな事ではない。もっと、深いところ。根本的なところ。

「……一つ、確認します。あなたは、二階堂さんと、()()()()()()()、妖精さんですか……?」

 そもそも彼女は、自分が話そうとしていた相手なのか?

 花中の一言を境に、周囲が静けさに包まれる。街灯は変わらず辺りを照らしているのに、何処からか闇が流れ込んできたかのように、暗さが増したような感覚に陥る。

 その暗さの中で、妖精さんが笑ったように見えた。今まで寸分も動かなかった表情を、ドロリと溶かすように。

 そして、

【ううん、違うよ】

 あまりにも呆気なく告げられた答えに、花中の全身がぶるりと震えた。

「なら、あなたは……!」

【それを説明するには、最初から話さないと】

 妖精さんはそう文字を浮かび上がらせると、つらつらと過去の出来事を表示し始めた。

 ――――始まりは十年前。たった一体の『個体』からだった。

 どうして『そいつ』は奏哉との関わりを持ったのか? 残念ながら、それは誰にも分からない。そもそも『そいつ』が雌だったのか、本当に奏哉と最初に接触した個体なのかも確かではない。『そいつ』は他のホタルと同じく繁殖期と共にその命を終わらせ、子供達に伝言を残す事が出来なかったのだから。

 けれども『そいつ』が持っていた知性と力は、子供達にも伝わっていた。

 全ての子供達が知性と力を獲得した訳ではない。割合としては一パーセント未満、ほんの数匹だけ。しかしあらゆる生命を翻弄する幻覚と、数十トンはあろう物体を押し退けてしまう大出力レーザーの前に敵などいない。知性を持つ事で飢餓や天災すらも克服した。数匹の子供達は誰一匹として欠ける事なく、悠々と成長していった。

 やがて、子供達は度々川に訪れる生物(人間)に興味を持った。

 『そうや』というその生物は、自分達との友好的な関係を望んでいるようだった。ホタル達も『そうや』に対し敵対的な感情などはなかったので、見識を広めようと彼との対話に応じた。幸いにも『そうや』はホタル達の目的に適した性格、つまり話し好きであり、世界について多くの知識を教えてくれた。より効率的に知識を吸収すべく、ルールも作った。代表者が『そうや』との会話を行い、仲間達に聞いた話を伝え、代表者が死んだら別の誰かが担当するというものだ。

 また対話用の映像……あどけない少女の姿は代表者が代わっても変更しなかった。本能に刻まれているのか適当に人間をイメージすると誰がやっても大体その姿になったし、奏哉もその姿を気に入っていた。本能レベルで選択した姿だとすれば、恐らくは初代も同じ映像を使っていたのだろう。声が出ないホタル達にとって説明という行為は酷く面倒なので ― 今やっているホワイトボードを用いての行為も、結構神経をすり減らすらしい ― 、説明を求められるであろう行動を避けていたのだ。

 そうした関係を何年か続け、順調に繁殖し知性的個体の数が数百に達した頃、ホタル達は気付いた。自分達の知性の芽生えが、彼によってもたらされている可能性に。

 彼女達は恐怖などしなかった。人間のような豊かな感情を持ち合わせていないのもあったが、一月程度接触がなくとも自分達の知性が消えないと分かっていたのが大きい。彼の存在は知性の芽生えに必要なだけで、芽生えた知識への影響は確認されていなかったからだ。彼がなんらかの事情でこの川を訪れなくなったとしても、それで困るのは知性が芽生える筈だった自分の子供達ぐらい。子育てなどしない、母性本能など欠片も持ち合わせていないホタル達にとって、そんなのは取り上げる価値もない問題だった。

 とはいえ、『そうや』との関係を打ち切る理由もない。故に彼女達は『そうや』が来ると必ず現れ、彼との世間話に興じたのである。

 そう、十年もの間――――寿命が一年、長くとも三年程度しかないにも関わらず。

「……二階堂さんと、出会ってから、何度も、世代交代を、しているのですね」

 否定してほしい……言葉にそんな想いを乗せる花中だったが、妖精さんは【そうよ】の一単語であっさりと肯定してしまう。

 奏哉は自覚していないだろうが、彼は花中と同じくミュータント化を引き起こす脳波、伝達脳波の持ち主なのだろう。もし違っていたなら、妖精さん達はチャンス……花中が川に近付くなどの……がない限り、ミュータントにはなれない。そうすれば奏哉と妖精さんは一年、長くとも三年の付き合いで終わりとなった筈だ。

 しかし彼が伝達脳波を出していたが故に、妖精さんの子孫までもがミュータント化してしまった。『別人』なので()()()()()()()()などの些末なおかしさは生じても、出会いは途切れず、姿形も殆ど変わらない。仲間達で共有しているので大抵の会話には齟齬など出ないし、出ても勘違いで済ませてしまえる。

 だから、今まで奏哉は気付かなかった。

 自分が愛した妖精さんは、もうこの世にはいない事に。

「……本当の事を、言おうとは、思わなかったの、ですか……」

 ポツリと、花中が漏らした言葉に、妖精さんは首を傾げる。よく聞こえなかった、とでも言いたいかのように。

「どうして、二階堂さんに本当の、事を……伝えないの、ですか……!」

 だから花中はもう一度、今度はハッキリとそう告げた。

「はなちゃん、それは」

「一つ! 一つ、確かめさせて、ください」

 宥めようとしてか掛けられたミリオンからの言葉を、花中は苛立った声で拒んだ。普段の花中なら絶対にしない言動に、拒まれた当人であるミリオンだけでなく、離れて聞いていただけのフィアも目を丸くする。

 唯一妖精さんだけが、笑っているように見える無表情を崩さない。

「あなたが、二階堂さんに、言わせたかった言葉、は……『君だけを一生愛し続ける』、で、良いん、ですよね……?」

 それは花中が問い質しても変わらず。

【単語に固執する理由はないけど、意味としてはそんな感じで構わない】

 妖精さんは、あっけらかんと答えを『表示』してみせた。

 確証はなかったが、予感はしていた。

 もし妖精さんが奏哉に対し、何も想うところがないのなら、彼からの求婚を断る筈がない。役所に届けるだとか、永遠の愛を誓うとか、周囲に教えるとか……人間的な事情や感性を除けば、夫婦なんてものはちょっとした『称号』でしかないからだ。ならば嫌がっていたかと言えば、そうとも考え辛い。攻撃なんてする前に、一言断れば良いのだから。

 妖精さんの行動は理屈にそぐわない。ならきっと、理屈じゃない『想い』があったに違いない。

 例えば――――妖精さんもまた奏哉が好きになっていて、奏哉と婚約を交わした『自分じゃない誰か』に嫉妬している、とか。

 それは願望混じりの発想。しかし、否定出来ない可能性。そして確かめれば肯定を得られた。妖精さんは奏哉に、自分だけを見てほしかった。過去ではなく、『自分』を愛していると誓わせたかったのだ。

「……あなたの、気持ちは、分からなくは、ないです。わたしだって、同じ、立場なら……不安で、怖くて……隠してしまうかも、知れない」

 俯き、か細い声で、花中は妖精さんの意思を肯定する。

 例え自分から始めた事ではなくとも、彼が()()()()()()事実は変わらない。『真実』を話せば、奏哉に深い絶望を与え、もしかしたら八つ当たりのように嫌われてしまうかも知れない。或いは過去に執着し、自分を見てくれないかも知れない。

 だったら、黙っていたい。何も知らせず、誤解させたまま、自分に愛を誓わせたい。自ら行った宣告という呪縛により、その心を縛り付けてしまいたい……その気持ちは、花中にだって分からなくもない。

 それでも――――

「隠し事を、したまま、結ばれて……嬉しい、ですか? 言葉で、二階堂さんの心を、縛り付けて……それで、あなたは嬉しいの、ですか……!?」

 それでも、そう思わずにはいられない。

 人間的な綺麗事なのは否定しない。恋を知らぬ者による上からの物言いに、根拠などある訳もない。

 だけど、花中は信じたかった。

 例え想う相手が自身と異なる種族だろうと、『誰か』を好きになる気持ちは尊いものだと。その気持ちを偽らなければ、例え報われずとも、心に残るのは晴れやかさであると。

 そして偽りと呪縛によってもたらされたものに、真なる幸福を感じたりは出来ないと。

「好きな人の気持ちを、利用して、あなたは……」

 幸せでしたか?

 そう続けようとした花中の言葉は、途絶えてしまった。

【何故、あの人間の感情を気にするの?】

 あまりにも短い、疑問の文章によって。

「……え……?」

【どうしてあの人間の気持ちを気にする必要があるの? 私はアイツが欲しいだけなんだけど】

「……!?」

 あまりにも予想外の言葉に、花中は浮かび上がった文章をオウム返しする事すら出来なくなった。

 なんだ、その答えは?

 全身を駆け巡る悪寒に、花中の身体が震える。脳裏にはふつふつと違和感が沸き立ち、心を掻き回し、乱していく。昂ぶっていた感情が冷めていき、生温い霧のように頭を満たしていた幻想が次々と弾けていく。

 真相に辿り着いたと思っていた。

 だけど、もしかしたら。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「あ、あなたは……」

【私はね、アイツが欲しいの。話が面白い。意地悪した時の反応が面白い。こんな素敵な玩具なのに、私には遊べないなんてずるいじゃない】

「おも、ちゃ……!?」

 なんの躊躇も、罪悪もなく記された文字。それは花中に愕然とした感情を植え付ける。同時に理性が一つの……幻想に埋もれた真実に気付いてしまった。

 妖精さんは、恋などしていない。

 ただ、欲しかっただけなのだ――――みんなが持ち、遊んでいる玩具が。

【どーしても欲しかったから、食事制限をして、成長を遅らせた。アイツが約束した奴はその年の夏に死に、次代の幼虫はその翌年大人になって死んだ。私だけが、アイツが外国から帰ってくるのを待っていた。なのにアイツったら二年前に死んだ奴とした約束の話ばかり。私だけのものなのに、アイツは私以外を見ている。そーいうのってムカつかない?】

 同意を求めるような言葉遣いで、妖精さんは問い返してくる。

 花中の口はぐっと閉じられ、同意を示さず、しかし否定の言葉も紡がない。

 確かに人の心を弄び、狂わせ、苦しませ……挙句それを愉悦とする事に罪悪を覚えないものは、邪悪と呼ばれるかも知れない。だが、妖精さんは奏哉に敵意や憎悪を抱いている訳ではない。それどころか恥ずかしげもなく綴られる言葉からして、彼女は間違いなく奏哉を好いている。

 彼女は、子供のように純朴なのだ。純朴さに理性も条理も存在しない。欲しいものが自分を見てくれないと拗ねてしまい、される相手の気持ちを考えずに好意を向けてしまえる。

 さながら子供がアリを捕まえ、無垢な好奇心に従ってその足を楽しみながらもいでいくように。

「……ミリオンさんは、知っていたの、ですか……妖精さんに、二階堂さんへの、恋愛感情が、ないって……」

 願望が崩れ落ち、花中はミリオンにも問い詰めていた。彼女は愛する人との思い出を守るために花中を殺そうとした、愛のために苦しみ、愛のために生きているモノ。

 そんな彼女が、どうして愛を知らず、弄ぶモノと共に行動していたのか。

 そこに、僅かな救いがあるのでは……

「ん? 勿論知ってたわよ」

「……どうして……だって、あなたは」

「あら、忘れちゃった? 私は、この子とは違う言葉を二階堂さんに言わせたかったのよ?」

 ミリオンは窘めるかのように尋ね返す。

 ――――ああ、そうだった。ミリオンは妖精さんに協力はしていたが、『目的』は違っていた。

「はなちゃんが言うように、私は愛を利用する奴が嫌い。でも私の愛が利用された訳じゃないなら、我慢するだけの分別はあるわ。大体私がその子を殺したら、愛じゃなくて暴力で片を付けた事になるじゃない。それじゃあ、愛が無力だって言うものよ。ま、今回は話し合いの結果はなちゃんの安全は確保出来たし、それに……」

「……それに?」

「私はね、愛を利用する奴は嫌いだけど、愛を語っておきながら、その愛を蔑ろにしている奴はもっと嫌いなの」

 つまり妖精さん側に付いた理由は、本命の死に気付いていなかった奏哉への意趣返し、という訳らしい。はぁ、と小さなため息が花中の口から漏れ出た。

 ……話を通じて、心の中がぐちゃぐちゃになっている。

 自分が人間だからだろうか。正直なところ、真実に対し憤りを覚えている。人の心を弄んだ者をこのまま野放しで良いのかと、義憤のような感情が込み上がる。

【それで? 気に入らない相手だからどうする?】

 花中の表情から、そんな感情を読み取ったのか。挑発とも取れる言葉が妖精さんの持つホワイトボードに浮かび上がった。

「……もし、倒す、と言ったら?」

【この川に暮らす数百の同胞と共に、あなた達を消し飛ばす】

 試しに挑発をし返してみれば、返答は()()()()のもの。

 ホタルの大半は生まれてから一年で成虫となり、その命を終える。長く生きても二年、三年目を幼虫で迎えるのは稀だ。奏哉が二年間アメリカに行っていた事で、奏哉を知るホタルは計画的に寿命を延ばしていた『妖精さん』ただ一匹になっているだろう。

 しかし寿命を迎えた個体達が子孫を残していれば、ミュータントの遺伝子自体は蛍川全域に広がっている筈。

 ホタルの産卵数は五百~一千にも及ぶ。話によれば奏哉の渡米前は数百ものミュータントホタルが居たらしいから、単純計算で数百×数百……彼が渡米した年には、数万から十数万ものミュータント化の可能性を持った子孫が生まれた事になる。

 ミュータントの因子が、ミュータント化出来ない状態での生存に対し、有利に働くか、それとも不利に働くかは分からない。しかしフィアのように花中と出会わずとも立派に成長した例を鑑みるに、不利だとしても案外なんとかなる程度なのだろう。

 ならば数万以上存在する妖精さん達の子孫がたかだか二年で全滅するとは思えない。そして奏哉と花中が訪れた事で、何百ものミュータントが『覚醒』している可能性は大いにある。

「ミリオンさん……」

「パス。面倒臭い」

 チラリと視線を向ければ、ミリオンは即答で拒否。しかし無理とは言っていない。つまり、どうにかは出来る、という事らしい。

「やれと言うならやります。元々そのつもりでしたからね」

 次いでフィアを見れば、こちらは血気盛ん。能力の相性からして、フィア一匹でもホタル達を殲滅出来るだろう。

 勝算は十分にある。戦って勝てない相手ではない。

 ……しかし二体のミュータントが争っただけで、町の一角が壊滅している事実がある。いや、あの時はフィアが引き起こした地震により、多くの人間が本格的な争いに巻き込まれる前に逃げていた。今この瞬間、あれ以上の大規模戦闘が勃発すれば、今度こそ人的被害は避けられない。

 それに、この気持ちは『人間』に偏り過ぎている。

「……止めて、おきます。友達になった、相手と、ケンカは、したくない、です」

【そう。あなたが賢明で助かったわ、本当に】

 花中の返答に、妖精さんは満足げな文字を映した。

 ……これで、本当に終わり。聞きたい事は全て聞き出した。根元に潜んでいた真相を掘り起こす事も出来た。

 それでも花中の胸には、不愉快なキモチがこびり付いて離れない。

 真実は、人間のためにあるのではない。知ったところで満たされるとは限らず、明かしたところで幸福になれる保障なんてない。世界は、人間のためにある訳ではないのだ。

 そんな事は花中も分かっている。

 だけど、人間だからこそやり切れない。奏哉の想いは、彼の恋慕が、全てが残酷な真実に飲まれてしまったと思うのは。何処かに想いの残渣が残っていないのかと、醜く希望に縋りたくなる。

「はなちゃん、もう夜も遅いわ。そろそろ……」

「花中さーん帰りましょうよー私今日は結構暴れたんでもう寝たいんですけどー」

 考えていると、友達二人から帰宅の催促が。真相が明らかとなった今、此処に留まるための『理由』はもうない。特にフィアは表情からしてもう我慢の限界だと言わんばかり。明日の学校の事も思えば、あと一回質問するのが限度か。

 丁度良い。

 最後の質問をしよう。一番大切で、いくらでも夢想が可能な幻想の箱を開けよう。そうすれば心に纏わり付くドロドロは消える筈だ――――例えそれが、期待を完膚なきまでに砕かれた結果だとしても。

「……最後に、本当に、最後の質問、です……あなたは……あなた達は、二階堂さんの演奏を、聴いて、何を、想いましたか?」

 花中からの問いに、妖精さんはしばし佇む。やがてハッキリと、今までの『会話』と変わらぬ確かな文字を浮かび上がらせて答えとした。

 その文章は、花中が読み間違いをしていないのなら、こうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【演奏って、彼が楽器を使って出していた音の事かしら? 一応空気や水を通じて身体に伝わった震動から、どんな音かは分かるけど……アレ、なんか意味あったの? 心地良い震動とか、気持ち悪くなる震動とかはあるけど、言語じゃないから分かんなかったわ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 亡き乙女に、音色は届かない

 

 

 




第三章のテーマは『真実』です。

刑事ドラマなどでは、真実を明かす事をとても重視しています。そりゃ、警察が真実を追求してくれないと一般市民は困ってしまいます。しかし我々は真実を神聖視してはいないでしょうか? 真実の先に幸せがあると、盲目的に思ってはいませんか?

もし、全て幻想だったなら。

欠片一つも、希望がないのなら。

明かさなくて良い真実というのも、あるのではないでしょうか?

……そんな捻くれた発想から、このような結末になりました。ここで明かされた話を花中は奏哉に伝えたのか――――それは敢えて書きません。強いて言うなら『花中はあなたと同じ決断を下した』事でしょう。


さぁて、次回は第四章の予告であります。
今日中に投稿予定です。


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幕間三ノ四

 日本国首都・東京。

 世界でも有数の大都市であるこの街に、そのビルは建っていた。

 そのビルは東京を一望出来るぐらいには高く、しかし他のビルと比べて目立つほどではない。外壁は少しひび割れ、古臭さがあるものの、かと言ってそれで周りから浮いて見える訳でもない。月が昇り、暗闇の中で人工の明かりを灯していても、周囲のビルも明かりを点けている中では場に溶け込むだけ。

 言うならば、地味な建物。或いは何人の注意も寄せ付けない……異質な存在。

 そんなビルの一室に、『彼女』は居た。

「……そう、分かったわ。ありがとう」

 『彼女』は部屋の窓から、星空を掻き消すほどに眩い夜景を眺めつつ、スマートフォン越しの誰かと話をする。その言葉遣いは明確に尊大であり、自信と説得力に溢れ、上に立つ者の貫禄を放っていた。着こなす純白のスーツも上質な素材を使い、気品あるデザインは自らの地位を誇示するかのよう。彼女は誰かの下で働く存在ではないと、対面した者は瞬時に理解させられる事だろう。

「じゃあ、後は可能な限り数を揃えてちょうだい。人員と資金に関しては問題ないわ。そちらは私に任せなさい――――全ては、人類の永遠の繁栄のために」

 電話を切り、ふぅ、と『彼女』は息を吐く。

 そして外界を一望出来る窓から、自身が居る部屋の方へと振り向いた。

 天井のシャンデリアは黄金の煌めきを放つ。

 寝台を彩る装飾は絢爛豪華なデザイン。

 壁に立て掛けられた幾つもの絵画は味わいある色彩で人の心を魅了する。

 全てが、富。成り上がりの長者や、あぶく銭では決して届かない、最高峰の財で部屋の中は満たされていた。

「……アイツはこの辺りが引き際とか思っているのかしら。生憎、老いぼれと違って私は諦めが悪いの」

 その財の中で『彼女』は虚空に手を伸ばし、掴み取るように拳を握り締める。

「人類は知性を得た時より自然に戦いを挑み、積み重ねた勝利によって今の繁栄を勝ち取った。自然は克服せねばならない。自然を受け入れれば、人はその数を万の単位すら維持出来ず、倫理は破壊され、作物一つ実らせる事を拒絶される。なんの保護もなく、安らぎもなく、蹂躙と無秩序の中で、やがて滅ぼされる。自然は人類の味方などではない。人類は自らが得た力に溺れた事で、自然を見下し、それを忘れている」

 『彼女』は窓に寄り掛かる。

 その背中に広がる、一千三百万を超える人々の営みを背負うように。

「我々が守らねばならない。人が認知していない自然の驚異を、我らが摘み取る。人類の、繁栄のために」

 そして、『彼女』は嗤う。

「人類にはもっと増えて、我々のために働いてもらわないとね。そろそろ新しい自家用飛行機が欲しいところだったし……折角掴んだこの立場、まだまだ旨味を堪能したいんだから」

 その瞳に、絶対的な捕食者の眼光を宿して――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四章 世界の支配者

 

 

 

 

 

 




ただしおまけを水曜日に投稿するがな!(空気を読まない

そんな訳で次回は9/7(水)に投稿予定です。


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余談壱 女子は幻想にあらず

 燦々と太陽が輝く、夏のある日の事。

「生理で、辛い……」

 放課後を迎えた教室にて立花晴海が零したぼやきに、花中はどう反応すべきか分からなかった。

「……えっと、今、なんて……」

「だから、生理で辛いの……」

「は、はぁ……」

 どうやら聞き間違いではなかったらしい。

 上の空気味に返事をしながら、花中は辺りをキョロキョロと見渡す。放課後とはいえ教室内にはまだ男子生徒の姿がある。デリケートな話題だけに、このまま話に乗ってしまって良いものなのか。愚痴っちただけで、膨らませてほしい話題ではないのではなかろうか。

「晴ちゃん、毎月それ言ってるよねー」

 そんな花中の考えなどお構いなしとばかりに話に乗っかったのは、花中の隣の席に座る加奈子。

 加奈子からの言葉に、晴海は顰め面を浮かべたまま頷いた。

「もうね、ほんとしんどい……お腹だけじゃなくて頭も痛くなるし、それにあたし長い方だし……」

「そっかー。私は痛みの方はそんな酷くないけど、量が多いんだよねぇ」

「あー……それも大変よね」

「ほんとほんと。ナプキンじゃちょっと心許なくてさぁ。だから今はタンポン使ってるんだー」

「え? アンタ、タンポン派なの?」

「うん。量が多いと入れるの楽になるし、漏れないから快適だよ」

「ふーん、あたしもチャレンジしてみようかなぁ」

 晴海の顔は相変わらず顰め面だが、会話自体は楽しげに交わしている。どうやら乗って良い話だったらしい。加奈子が居てくれて助かったとホッとするのと同時に、みんな苦労しているんだと花中は思った。

 花中も、身体が小さいからか、生理周期が不規則という悩みがある。お陰でお気に入りの下着を汚してしまった事も、一度や二度ではない。晴海や加奈子とは種類が違うが、生理の辛さは分かるつもりだ。

 ひっそり頷きながら花中は続きそうな二人の話に耳を傾けようとして、ふと、教室の戸が動いた時のカラカラという音が聞こえた。振り向いた花中の目に映ったのは、教室に入ってくる三つの影。

 やってきたのはフィアとミリオンとミィ、花中の友達である三体の人外であった。フィアとミリオンは兎も角、超重量級であるミィは居るだけで校内 ― 主に床とか ― を破壊しそうなのだが、疑問に思う花中の脳内に「今回は番外編だから細かい事は気にするなー」との天の声が。とりあえず、気にしない事とした。

「どうもー放課後になったので花中さんを迎えに来ましたよー」

「あら? なんか盛り上がってる感じ?」

「あー、盛り上がってるというか……生理が辛いって話よ」

「せいり?」

 キョトンと首を傾げるフィア。そのまま考え込み、ややあってからポンッと手を叩いた。

「ああそう言えば人間には生理なるものがあるそうですね。大変ですね毎月血がダラダラと出てくるなんて」

「血が出るだけならこんな喚かないわよ。もう、痛いし怠いしイライラするし」

「痛いってどのぐらいなのです?」

「子宮の内側から針を何十本も刺されるような感じ」

 痛みを訴えるように、晴海は顔を顰める。体質によって生理痛の強さは違う。人によっては朝起き上がれないぐらい辛いらしい。花中の場合軽い腹痛程度で済んでいるが、痛みを感じない訳ではない。その苦しさの片鱗ぐらいは理解出来る。

 が、フィアは魚。生理とは不要な胎盤を排出するためのシステムなので、胎盤を持たない魚に生理は起こらない。

「はぁ。人間の身体には面倒な仕組みがあるのですねぇ」

 あまり興味なさそうに、フィアはなんとも適当な相槌を打った。晴海はムッとした表情を浮かべるも、すぐに諦めたようなため息を漏らす。

「アンタは良いわよねー……生理痛と無縁で。卵生だもんね」

「でもさー、産卵期とかはあるんじゃない?」

 ひょっこり横入りしてきた加奈子からの意見に、フィアは肩を竦める。あたかも他人事のように。

「あるんじゃないですかね? 花中さんと会う前の記憶は殆どありませんから自身が体験済みかどうかも定かじゃありませんけど」

「じゃあ、実質未経験だねー。いざ迎えたらどうするつもり?」

「どうもこうも産み落とすしかないのでは? とりあえず故郷の池に戻り適当なオスに受精させてもらって済ませるつもりですよ」

「あ、一応受精はさせるんだ」

「だって未受精卵としてそのまま腐らせるのも勿体ないですし」

 あっけらかんと答えるフィア。受精し、生まれる事になる命に全く関心を向けていない。人間ならば、なんと酷い母親なのかと糾弾されるだろう。

 しかし彼女はフナであり、子育てなんて概念すら持たない種だ。子供への愛情は、本能レベルで有していない。何時か産卵期を迎えても、恐らくお腹の中に溜まったものを排出する……()()()()()()()()ぐらいの軽さで済ませるだろう。

「アンタは気楽で良いわねぇ……この魚類が」

 生理で余程イライラが溜まっているのか、晴海の口から信じられないような悪態が飛び出していた。晴海の悪態など興味もないのかフィアは反応すらしなかったが、花中は一瞬肝が冷える。

 このまま何度も悪態をぶつけられたら、ふとした切っ掛けでフィアも怒るかも知れない。

「あ、あの、ミリオンさんは……」

 そう思った花中は場の雰囲気を逸らそうと、ミリオンに話の矛先を向ける。

 が、すぐに言葉を詰まらせた。

 何しろミリオンはウィルス――――単独では繁殖すら出来ない『非生物的存在』てある。繁殖期どころか、繁殖の概念すらあやふやに違いない。話題を振るのに、フィア以上に適さない相手。関心を持ってくれたかも怪しい。

「晴海ちゃん!」

 等々の懸念を花中は抱いていたが、ところがどういう訳か。ミリオンは熱を帯びた声を上げて晴海の肩に掴み掛かった。

「な、何よいきなり!?」

 ミリオンの唐突な行動に驚いたのか、晴海は動揺を露わにする。生理中で機嫌が悪いのもあってか、声は荒く、事の程度に不釣り合いな感情の昂ぶりも見せていた。

 しかしミリオン、気に留めた様子なし。

「生理が辛いって言うけど、世の中には生理がなくて辛い想いをしたヒトがいるのよ! 具体的には私とか!」

「は、はぁ!? いや、何を言って」

「生理があれば……排卵期があれば……あの人の遺伝情報を取り出して、私の卵子に組み込んで、二人の子供が作れたのにぃぃぃ……作ってみせたのにぃぃぃぃ……!」

「え」

「うふふふふふふ。子供って良いわよ。だって愛する人と自分の分身なんだもの。その子が生きてる限りその子が血を繋ぐ限り私とあの人はずっと一緒……ずっと、ずぅっと……うふふふふふふふふふふふふ」

 乾いた言葉をブツブツと呟きながら、焦点の合わない目で、光悦とした表情をミリオンは浮かべる。

 ヤバい。

 一目でヤバいと分かる。あの虚ろな眼差しで何を見ているのだろうか。平行世界の可能性辺りでも見えているのか。とりあえず、触れて得があるとは思えない。

「お、大桐さ」

「あ、ミィさんは、どうなの、ですか」

 すかさず花中はミリオンから目を背け、ミィに話を振った。自分が口を開く前に顔面蒼白の晴海が何か言っていた気がするが、それは気のせいという事にしておいた。

 ミィはジト目で花中を見ていたが、ミリオンに触れる事はなし。ため息を吐いてから、軽い口振りで語る。

「あたしはそこの二人と違って哺乳類だからね。生理はあるよ。でも発情期の後にくるから、年二回だけ。その二回も左程辛くないし。ま、股が痒くなるから不快だけど」

「そうなのですか……」

「ってぇー事は、猫ちゃんは発情とか経験しちゃったり? 子供作ったりしてたりするの?」

 ずずいと、加奈子が話に入ってくる。それもかなりプライベートな話題を持ち込んで。

 話を振られた途端ミィは顔を顰めたので、あまり触れてほしくない話題だったかと心配する花中。ミィの表情が腹立たしげなのも不安を煽る。

「……別にさ、作ろうと思えば作れるんだけどね」

 ただ、ミィは促された訳でもないのに話し始めた。

 加奈子は更に近寄り、わくわく顔で何度も頷く。

「うんうん、それで?」

「子供が嫌いって訳じゃない。むしろ好き。雄が嫌いって訳でもない。むしろ発情期は気になって仕方ない。子供を育てられない気もしない。むしろ誰よりも上手くやれる自信がある」

「うんうん」

「でも、自分が目を離した隙に子供達が保健所送りになったりする事もあるんだろうなぁって思うと、なんか一気に萎えるんだよね」

「……………」

 重かった。物凄く重かった。あまりに重くて、何時もニコニコ空気を読まない加奈子が表情を引き攣らせるぐらい。

 繁殖期を腹痛ぐらいの軽さでしか考えていないフィア、繁殖期はないが病んでるミリオン、育児にトラウマ持ちのミィ……三匹の意見は、生理に苦しむ晴海の助けにはならなかった。

「はぁ……やっぱり人間の悩みは人間にしか分からないのかしら」

「? 逆に何故分かってもらえると思ったのです? 人間だって我々の悩みなんか露ほども知らず知ったところで理解なんてしないでしょう?」

「……まぁ、それもそうか」

 首を傾げるフィアからの問い掛けに、晴海は納得したのか深く頷く。なんやかんや、お互い様という事だ。

 沈黙する晴海。表情は憂鬱そうだ。賛同者が加奈子だけで、些か不安なのかも知れない。

 ――――ならばここは、人間である自分も力になろう。

「立花さん。わたしも、相談に、乗ります……よ」

 花中はにっこりと微笑みながら、晴海に声を掛けた。

「……え?」

「えと、わたしも、周期が、不規則で……立花さんほど、辛くは、ないです、けど。でも、少しは、気持ちは分かります、から……」

 いきなり話し掛けられて驚いたのか、目を丸くしている晴海に、花中は力説する。

 身体の事を話すのは恥ずかしい。

 だけど、辛そうな友達の助けになりたい。具体的に何か出来るという訳ではなくとも、一人でも多くの仲間がいると伝えられたなら、ほんの少しでも気持ちを軽く出来るのでは……

 そう思っての行動だったが、ふと、晴海の表情が困惑したものへと変わっている事に気付く。少なからず笑顔になってくれると期待していた花中にとって、これは想定外の事態。花中もまた困惑してしまう。

 もしかして……安い同情なんていらないという、拒絶の意思?

「あ、ご、ごめんなさいっ! わ、わたし、立花さんが、どれだけ辛いかも、知らず、軽率な、事を……」

「え? あ、いや、そうじゃなくて……」

 すぐに謝る花中だったが、晴海はその言葉を遮った。遮って、何時までも黙っている。中々続きを話そうとしない。

 どうしたのだろう?

 不思議に思いながら、花中は晴海の言葉を待つ。やがて晴海は諦めたように口を開き、

「……大桐さん、生理来てたのね」

 とても正直に答えてくれた。

 あまりにも正直な答えなもので、一瞬花中はキョトンとなり、次いで顔を真っ赤に染め上げる。

「……………!?」

「あ、いや、悪い意味じゃないのよ!? その、見た目小さいから、もしかしたらーって、だから、あの」

 言葉を失う花中に、晴海は必死な口振りで説明する……いや、説明というよりも言い訳。事実はどうあれ、花中にはそうとしか聞こえない。

 確かに、花中は小柄である。小学生にも間違われる。それは花中も認めよう。

 だけど。

 だからって。

 大桐花中も、女子高生である!

「む、むぅーっ! わたし、そんなに子供じゃないですーっ!」

 ぷっくりとむくれて、花中は不平を叫ぶ。あまり愉快な話じゃない。

 だけど、悪い話でもない。

 怒る自分の姿を前にして笑みを浮かべる友達の姿を見ると、不思議とそんな気持ちになる花中であった。




女の子同士のきゃぴきゃぴ話を書こうとした結果がこれです。うん、すまない。

さて、次回はいよいよ第四章です。

今までは他所で既に投稿していた作品を見直し、修正したものを上げてきました。
ですがここから先は突貫工事・見直し不足・ガチガチに固まった頭で執筆した作品のため、今までに投稿したものよりクオリティが下がると思います。文法間違い、誤字、単純に意味が分からない……等々の部分を見付けましたら、教えていただけると助かります。

まだまだ未熟者ですが、次章もよろしくお願いいたします。


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第四章 世界の支配者
世界の支配者1


 爽やかな、夏の朝だった。

 外では今日も小鳥とセミ達が歌声を上げ、世界を華やかな音色で満たしている。朝日も眩く輝き、痛いほどの日差しからはジリジリという響きが聞こえてくるだろう。時刻はまだ朝七時前。これからどんどん命が目覚め、賑やかになる事だろう。空に広がる雲一つない青空はもっともっと色濃くなり、見上げれば水の中を泳ぐような気持ち良さを感じさせてくれるに違いない。

 そう思ったら、もう楽しさしかない。ワクワクしかない。胸が弾み、今日という日への期待が膨らんでいく。

 そんな朝なのに。

「どうして花中さんはまるでこの世の終わりを目の当たりにしたかの如く何時も以上に辛気臭く俯いているのですか?」

 フィアは思った事を、そのまま花中に尋ねた。

 大桐家のリビングのど真ん中にて、パジャマ姿の花中は正座をしながらカタカタと震えていた。

 彼女が正面に見据えているのはテレビであり、映されているのはニュース番組。ミリオンや花中が毎朝見ているものだ。花中が見ているので時折フィアも付き合うが、毎週火曜夕方六時に放送している『殲滅魔法少女ジェノサイドちゃん』のようなハラハラドキドキがないので見ててもあまり楽しくない。このニュース番組が花中にとって面白いのならそれでも良いのだが、大抵無表情でぼんやりと眺めている辺り、どうやら花中にとっても心が躍るような楽しい番組ではないらしい。どうして花中は面白くもないものを毎日見ているのか、フィアにはよく分からなかった。

 ましてや身体を震わせながら見るなんて人間が時折好んでやるという苦行とかいうやつなのだろうか?

「ど、どうしてって……だって、あんな事しちゃったら……!」

 フィアの疑問に答えるように、花中は慄きながら語る。質問に答えてくれた事は嬉しいが、しかしあんな事なる行為がパッと思い浮かばない。花中の訴えなのでフィアとしても思い出したいが、割かし真剣に考えてもさっぱりだ。

「き、昨日の、妖精さんとのケンカ、だよぅっ!」

「……ああ。アレですか」

 ついには気付いてよと言わんばかりに花中が声を荒らげ、ようやく得心がいったフィアはポンッと暢気に手を叩いた。

 そういえば昨日は生意気なホタルに『お仕置き』をしようとしていた。

 あの時の『ケンカ』はかなり派手にやった。一晩寝たらすっかり忘れてしまったがとても賢い花中なら覚えているのも頷けるというものである。

 しかしこの慌てぶりは些かオーバーではなかろうか? 

 ミリオンの時は山の一部を吹っ飛ばしたし野良猫の時はダムを一つ壊している。アレらに比べれば規模としては小さいものではないか。確かに人間の町で暴れたのは初めてであるが被害は人間の巣をいくらか壊してしまっただけ。()()()()()()()()()()()

 これがフィアの認識だった。

「そんなに気にする話ですかね? 死んだ人間はいなかったとミリオンは言ってましたが」

「そういう問題じゃ、ないの! だって、だってこんな、目立って……」

「目立つ?」

 どういう事か分からず首を傾げると、怯えたような小声で花中は説明してくれた。

 曰く、今までの『ケンカ』は人目に付かない場所でやっていた。

 ミュータントの存在と出鱈目な力は、現代科学では説明が出来ない……所謂『オカルト』の領域である。故に目撃者が居なければ、残された惨状を目の当たりにした専門家がどれだけ奇妙だと語ったところで、オカルト話として語り継がれるのが精々。科学立国日本において、世界に未知はあっても『不思議』はない――――それが常識だからだ。だからどんなに奇妙奇天烈な事が起きようと、証拠がなければ誰もフィア達の存在を察知出来ない。

 けれども町中は人目に満ちた世界。ましてや今はスマホや携帯電話が普及し、誰でも気軽にカメラマンへとなれる時代である。しかもフィアは隠れるどころか、逃げ惑う人々の混乱を増長するほどに堂々と暴れているのだ。誰かに撮影されていてもおかしくない……いや、撮影されてないとおかしい。確たる証拠が無数に生じてしまった筈だ。ネットにも投稿されている事だろう。

 いずれ世界はミュータントの存在を周知のものとする。そうなった時、果たして人は自分達を超越する存在を隣人に出来るのか。人を易々と殺める力を持ち、人にさして好感もなく、人の思惑を見透かせるだけの知能を持った『野生生物』の存在を許容出来るのか。

 恐らく、大多数の人間がフィア達を脅威と認識するだろう。そうなれば『人間』はフィア達に戦いを挑むかも知れない。人間は本能的に、脅威を乗り越えようとする生き物だからだ。そして人間との戦いはこれまでの、ミリオンやミィとのケンカとは比にならない規模になる筈。色んな物が壊され、たくさんの『命』が失われる。そんなのは嫌だ。

 ……とかなんとか花中は言っていたが、フィアは「そうですか」の一言で片付けた。人間なんて簡単に蹴散らせるのだから殺さないよう手加減するぐらい簡単だと思っていたし、万一勝てそうにないなら姿を変えて逃げれば良い。どうにかする手段などいくらでもあるのだ。フィアにはやはり大した問題とは思えなかった。

「あんな大事なら、た、多分ニュースになるよぅ……ど、どうしよう、もし警察とか、そ、捜査に来たら……!」

「来たところでどうとでも出来ますけど」

 震える花中を宥めようとしたフィアだったが、ふと、視界に入ったテレビの映像が本能的(なんとなく)に気に掛かる。

 目があまり良くないフィアは、『身体』の表層部分の密度を変化させて集光能力を強化。拡大した画像を網膜に投射する。尤も目自体の能力が低いのであまりハッキリとした映像は見えないのだが、それでもテレビの字幕と映し出された景色ぐらいは判別出来るようになる。

 テレビに映っていたのは見慣れた景色と、聞き慣れた地名が書かれたテロップ……これだけ分かれば、テレビに映っているのが蛍川だとフィアでも気付けた。

 ただし蛍川が映ったのはほんの一瞬だ。次の瞬間テレビカメラが向けられたのは住宅地の方。映し出されたのは、ボロボロになった何十軒もの家だった。

「噂をすればなんとやらですね」

「あわわわ……!」

 目当てのニュースが始まった事を知らせると、花中はあたふたしながらテレビを凝視する。フィアも暇なので、一緒に見る事にした。

 テレビには、壊れた住宅地を訪れた男性リポーターが映されていた。リポーターは壊れた家を指差し、起きた参事の大きさを神妙な面持ちで伝えようとしている。怪我人が何十人出たとか、幸いにも死傷者は居ないとか、政府が支援を表明したとか……

 自分の事ではない話なのにどうして人間は我が事のように騒ぐのだろう?

【原因は未だ不明ですが、家屋の倒壊が起こる前に周辺では小規模な地震があったとの近隣住民の話があり、局所的な地質学的異変が起きたのではとの見方が強く――――】

「なんか地質学がどうとか言ってますけどそれって地震とか火山って事ですよね? 的外れな推理をしているようですが」

「ま、まだ、一日も経ってないんだよ……これから調査が、進めば、ネットの画像を見れば……はわわわわわわ」

 そしてどうして起きるかどうかも分からない想像を膨らませてわざわざ恐怖するのだろう?

 フィアにはリポーターや花中の言動の理由がよく分からなかった。社会性はおろか育児の性質すら持たないフナに、人間が持つ『高度な社会性』や『共感』は理解し難いのだ。とはいえ知性そのものは人間並なので、一月近い共同生活を送れば理解は出来ずとも知識は持てる。

 例えば、時間を守るという概念。

「ところで花中さん。テレビを見るのは結構ですけど今日も学校はある訳ですしそろそろ身支度を済ませた方が良いと思うのですが」

「はぅ!?」

 それとなく忠告してみれば、花中は我に返ったような悲鳴を上げた。慌てた様子でテレビから離れ、最初の支度はエネルギーの補給だとばかりに急ぎ足でキッチンへと向かう……が、何度も振り返り、テレビを気にしていた。どうやら中々気持ちが切り替えられないらしい。

 やれやれ、とばかりにフィアは肩を竦める。

 花中は自分よりもずっと頭が良いが、良過ぎるあまり色んな考えが過ぎり、いらぬ不安を抱くところがあるとフィアは感じていた。それと自身も人間だからか、人間の力を過信しているような節がある。

 人間とは、そんなに強い生き物なのだろうか? 一人じゃ弱く、群れれば仲間割れし、なんの根拠もないのに自分達の勝利を信じて疑わない。どう考えても強いとは思えない。

 そんな生物に自分が負けるなんて。

「……花中さんの心配性には困ったものです」

 フィアは呆れた想いを口に出すと、近くにあった新聞を手に取り読み始める。尤も目を通すのは一面とテレビ欄、そして世間を皮肉った四コマ漫画だけ。

 恐れるものは何もない。仮にあったとしても、その時考えれば良い。自分の力を使えばどうとでもなる。

「(今日は何して過ごしましょうかねー放課後は久しぶりにミリオンとゲームセンターで対戦でもしましょうか。ふふふっ家で花中さんと一緒に練習したので今度は負けませんよー)」

 だからフィアは、今日も何時も通りに過ごすのだ。

 例え何が来ようと、自分達を揺るがすモノなどいないと信じるが故に――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フィアは知らなかった。

 

 人間が何千もの世代を、

 

 何万もの月日を、

 

 何百億もの屍を積み上げ、

 

 得たものの力を。

 

 『それ』をなんと呼ぶのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【尚、被害の実態を知るために大神総理は明朝より官邸を出発し、午前中にも現地入りするとの事で……】

 

 

 

 そして、これから自分達が戦わなければならないものの大きさを――――




お気に入り登録数が20に達しておりました。
これほど多くの方に読んでもらえていると思うと、身が引き締まる想いに頬が緩みます(どっちだよ)。
これからも皆様に楽しんでもらえる作品作りに励みます。今後ともよろしくお願いいたします。


さて、第四章が始まりました。
今回はフィア視点で書きましたが、平時のフィアは毎度こんな感じに能天気です。朝日を見て、今日も一日楽しくなりそうだと思える人間に私はなりたい。
プロローグ的なお話なので短めですが、今回はここまで。

次回は9/18(日)投稿予定です。


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世界の支配者2

 午前七時半。

 普段より三十分も早く家を出て、花中は登校していた。

 七月も後半戦に入り、本格的な夏が到来しようとしている。朝早くから大気はねっとりとし、日陰であろうと容赦なく熱中症に誘う暑さを持っていた。強めの風があれば幾分マシなのだろうが、今日は草一つ揺れない穏やかさ。じっくり苦しめられているのに穏やかとはこれ如何に。空からは強烈な日射しが降り注ぎ、花中の白銀の髪を焙っていた。

 すっかり火照った花中の身体は汗を滲ませていたが、湿度が高いせいで中々蒸発してくれない。下着やシャツのみならず制服である半袖ブラウスまでもが汗で湿り、べたべたな気持ち悪い物体と化してしまっている。いっそ脱ぎ捨ててしまいたいぐらいだが、生憎此処は閑静ながらも住宅地のど真ん中。そんな恥ずかしい真似、花中には出来ない。

 こんな時はさっさと学校に向かい、教室でぐったりしながら下敷きを扇いで涼みたいところ。

 されど今日の花中が向かったのは、最短の通学路から少しずれた『寄り道』ルート。閑静な住宅地の中で、駅を目指して進むサラリーマンや学生がそこそこ見られる道だった。しかも爛々と寄り道する訳でもなく、ビクビクと、怯えるような歩き方を花中はしている。ハッキリ言って挙動不審だ。横切る人々も、見慣れぬ怪しい少女(花中)をチラチラと見ている。

「花中さんは相変わらず心配性ですねぇ」

 ついには隣を歩く、帆風高校の夏服を身に纏ったフィアにぼやかれ、花中は大きく身体を震わせた。

 そのぼやきに物申したい気持ちはあったが、されど心配性だという指摘はご尤もだと思い、花中はそのまま俯いてしまう。

「だ、だって……もしかしたら、この後、動きが、あるかも知れない、し……」

「かも知れないでしょう? 人間は『私達』について今はまだ気付いていない。ならば放っておけば良いものをわざわざ首を突っ込む。こういうのを人間は薮蛇と言うのではないですか?」

「ふぇうっ」

「……まぁ気付いていないのですから花中さんや私がちょっと顔を出したところでどうこうなるものではないでしょうが」

 花中が悲鳴染みた声を上げると、フィアはあからさまに気遣った言葉を掛けてくれる。嬉しい。嬉しいが、唯我独尊を絵に描いたような生物であるフィアに気を遣われた事が、なんだか猛烈に恥ずかしい。俯かせたままの顔を、花中は真っ赤に染め上げた。

「ほら花中さん何時までも項垂れてないで前を向きましょう。目的地も見えてきたようですし」

 ただしフィアの言葉で、その顔を上げない訳にはいかなくなったが。

 おどおどと、火照った顔を両手で覆いながら花中は正面を向く。と、何十もの人々が集まっている光景が、ほんの数十メートル先に見えた。遠目でも分かる人の多さに一瞬足が強張る花中だったが、熱くなっている頬を両手でパタパタと扇ぎ、荒い鼻息を吐いて気合い注入。力強い早歩きで人混みへと近付く。

 寄れば見えてくる、人混みの様相。これといった統一感はなく、若いサラリーマン風の男性や初老の女性、小学生ぐらいの女の子に中年男性と、様々な人が集まっていた。各々が交わす話し声が混ざり合ってざわざわとした物音となっており、スマホを持った片手を高く上げる姿がチラホラと見受けられる。一見して関心深そうで、だけど何処か暢気で他人事。正しく野次馬といった雰囲気だ。

 そして野次馬達の視線が向かう先は、それこそ彼等に阻まれて花中には見えないが……()()()()()()()()知っている。住宅地の一角を囲うように、通行止めを意味する黄色いテープが張られている筈だ。その奥にある、数十~百数十軒にもなる壊れた家から人々を遠ざけるために。

 野次馬である彼等は知らないだろう。昨日そこで、何が起きたのか。だけど花中は知っている。昨日そこで何が起きたのか、誰よりも詳しく、そして正しく。

 花中達が訪れたのは、昨日のフィアと妖精さんの『ケンカ』によって壊滅した住宅地だった。

 今朝花中が視聴していたテレビ番組は ― 発生から一日も経っていないのだから当然なのだが ― 具体的な情報がなく、「これからどうしたら良いか」を考えるには不十分なものであった。起きている事象がハッキリしていれば、未来を予想し、いくらかの覚悟と共に安心出来る。しかし何が起きているか分からなければ、未来を予想するなんて出来っこない。そのため不安を拭い切れなかった花中は新たな情報を得たい一心で、昨日に引き続きこの場所を訪れたのである。

 フィアが言うように薮蛇かも知れないが、このまま何日もそわそわしていたら身も心も持たない。二~三回深呼吸をして脈打つ心臓を静めてから、花中は壁のようにそびえる野次馬の群れへと歩み寄った。目指すは野次馬達を越えた先、フィア達によって破壊された住宅地だ。

「う、うぐ……ぶにっ!?」

 ……小さくて非力な花中には、好奇心というパラメーター補正を受けた衆人を掻き分ける力などなかったが。ふくよかなおばさんのお尻に弾かれ、呆気なく吹っ飛ばされてしまう。地面を打ったお尻が痛く、花中の目に涙が浮かんだ。

 このままでは打つ手なしだったが、ふとフィアが花中の手を掴んできた。なんだろう、と思う花中を他所に、フィアは野次馬目指して直進。掴まれた手と共に花中も直進。

「はーい通りますよー押しますから覚悟してくださーい」

 暢気な警告を伝えるや、フィアは開いている片手を野次馬の群れに突っ込んだ。

 そしてその手を、容赦なく左右に動かす。

 超生物であるフィアにとって、数十もの人間を払い退けるなど造作もなかった。危うく将棋倒しになるところだった野次馬達は軽いパニックに陥ったが、フィアは構わず押し入り、前に前にと進んでいく。真っ二つに割れた人混みの中を進む姿は、まるで海を割ったモーゼのよう……モーゼと共に海を渡ったイスラエル人は、今の花中のように顔面蒼白ではなかっただろうが。

 とはいえ、フィアのお陰で人混みを掻き分け前へと行けた。幸いにして野次馬達の混乱はすぐに収まり、花中の心も落ち着きを取り戻す。

 フィアと共に花中は人混みの前から二~三列目辺りで立ち止まる。フィアは男性から見ても長身な『身体』を活かしてその先を見据えており、花中も一緒に見たいが、背が低くて大人の背中しか見えない。

「フィアちゃん、何か、見える?」

「そうですねぇ野次馬達が黄色いテープの先に進まないよう二人の警官が見張っているぐらいなものでしょうか。あとは昨日と変わりないと思います」

 尋ねれば、すらすらとフィアは教えてくれた。

 警察、という言葉に花中は身体が強張るのを感じるも、こんな場所で緊張しても仕方ない。周りの人の迷惑にならないよう、身体を縮こまらせながら頭を振って気分をリセットする。

 それよりも、だ。

「警察の、人の、様子は?」

「如何にも退屈そうです。テープを無理に越えようとする輩とかも見当たりませんし暇なんじゃないですかね?」

「……………」

 ただの警備員なら兎も角、警察官がそんな調子なのはダメでしょ……と思う花中だったが、しかし厳重な警戒状態、人混みを監視するようではないと聞いて安堵もした。どうやら現場に戻ってきた『犯人』がいるとは、警察官達は露ほども思っていないらしい。

 よくよく思い出せば、フィアは怪獣染みた姿で暴れていた……と、ミィやミリオンから話を聞いていた ― 花中自身は、ミィの特急移動により失神していたので見ていないが ― 。つまり人々に目撃されたのは『怪獣』であり、人型のフィアではない。ネット上に流れた映像も同様だろう。フィアの存在に辿り着けるような、確たる証拠は未だ掴まれていない筈なのだ。

 落ち着いて考えれば分かる事だったのに、フィアが言うように心配し過ぎたようだ……不安という名の霧が晴れるにつれ、花中の頭も冴え渡っていく。

 そうなると、もう此処に留まる理由はないように思えた。

「花中さん満足しましたか? ちゃんと自分の目で確かめたいのでしたらもっと前に行きますけど」

「あ、ううん。もう、大丈夫。えっと、そろそろ学校に、行こうか」

「花中さんがそう仰るのでしたら」

 フィアは再び花中の手を握り、先導して野次馬を掻き分けていく。押し入ろうとする者には抵抗するが、出ていく者には寛容なのが見物人というもの。二人はあっさりと野次馬の群れから脱出出来た。

「ぷはっ……」

 花中は身体に溜まった悪いものを出すような息を吐き、それから深く吸い込む。吸ったところで肺に入るのは住宅地の良くも悪くも普通な空気だけだが、人混みで温められたものよりはずっと新鮮で綺麗。森林浴をするようにただの空気を嗜む。フィアも少し疲れたのか、花中の手を離してぐるんと肩を回している。

 やりたい事は終わった。このまま日常に戻るとしよう。

 そう考える花中だったが、不意に、何かの音が届いた。

 なんの気なしに振り向けば、そこには真っ黒で大きな、如何にも高級そうな自動車がこちらに向かって走ってくる姿が。それも一台ではなく、三台も連なっている。

 見慣れぬ光景を目の当たりにし、花中の脳裏を過ぎったのは何時か見たテレビドラマのシーン。ドラマでああいう車に乗っているのは、会社の社長や、暴力団の人だった。あの高級そうな車にもそういった人達が乗っているのかと思うと緊張し、花中は無意識にフィアの腕にしがみつく。フィアには花中の意図が分からないのだろう、キョトンとしていた。

 やがて車は花中達の目の前……までは来ず、少し離れた位置に三台並んで停止。開かれた扉から出てきたのは数人の、黒いスーツを着た三~四十代ぐらいの男性だった。極道さん!? と一瞬ビクつく花中だったが、よく見れば誰もが綺麗な身形をしており、顔立ちにも清潔感がある。周りを威嚇する様子もなく、動きにはどことなく気品が感じられた。どうやら暴力団関係者ではなさそうだが、とはいえ全員身体付きはスーツ越しでも分かるぐらい逞しく、会社役員という訳でもなさそうである。

 謎が深まり花中が首を傾げる最中、彼等の中で一番年齢が高そうな、リーダー格らしき人物が、前から二番目に停まっている車のドアを開ける。すると中から一人の『女性』が出てきた。

 女性は五十代前半ぐらいに見える、老人というほどではないが貫禄のある顔立ちをしていた。背は高く、自身を出迎える立派な体躯の男達と同等、或いは上回るほど。背筋はピンッと伸びており、ハリボテではない自信を感じさせる。艶のある黒髪は日本人らしさがあるものの、大和撫子と言うより……失礼ながら『武将』という言葉の方が似合う。目付きは鋭く肉食獣のように獰猛で、同時に確かな理性も宿していた。これでスーツを着ていれば格好も付いただろうが、何故か服装は作業着。違和感、ではないが、ちょっと気に掛かる。

 それでいて花中は『彼女』に見覚えがあった。ただ知り合いという訳ではなく、しかしながら割と最近、頻繁に目にしているという奇妙な確信も抱いている。

 はて、彼女は一体何者なのか?

「あっ。アレって大神総理大臣ですよね? テレビで何度か見た事があります」

 うーんと唸りながら記憶をひっくり返していた花中に、横に立つフィアが確認するように尋ねてきた。

 言われてハッとする花中。改めて女性の姿を観察し、記憶にある大神総理の姿と照合すれば、疑いようがないほどピタリと重なった。道理で見覚えがあり、尚且つ知り合いという感覚が湧かない訳だ。フィアですら覚えてしまうほどテレビや新聞にその顔は毎日出てくるが、、花中と彼女の間に友好関係は一切ないのだから。

 しかし彼女は日本国のために働く政治家である、どうしてこの町に来

「(って、そ、総理大臣んんんんんんっ!?)」

 と、今更ながら花中は驚いて跳び退く。あまりの驚きに悲鳴すら上がらない。

 目の前に居るのは、現日本国総理大臣――――大神(おおがみ)千尋(ちひろ)ではないか。

「おい、アレって」

「うおっ!? マジかよ、総理大臣じゃん」

「あたし、初めて見た」

「そんなの私だって」

 野次馬達も気付いたらしく、ざわめきが壊れた住宅地から大神総理の方へと向けられる。大神総理は慣れた様子で手を振り、凛々しい顔を保ったまま民衆を一望

 ――――する筈の視線が、何故か花中で止まった。

 ……ような、気がした。

「(……? なんか、一瞬わたしの方を見ていたような……)」

 今もじっとこちらを見ていたなら確信を持てたのだが、何分見ていたような気がしたのはほんの一瞬。意識した時には、大神総理の視線は野次馬達に向けられていた。もう、花中は視界にすら入っていないだろう。

 やがて一通り辺りと人々を見渡した大神総理は、黒服の男達 ― 恐らくボディガードの類だろう ― と共に移動。壊れた住宅地の方へと進んでいく。野次馬達は突然現れた総理大臣にすっかり心を奪われたようで、親を追い駆けるカルガモのようにぞろぞろと移動を始めた。

 結局花中とはなんの接触もなく、大神総理は立ち去ってしまった。モヤモヤした気持ちがない訳ではない。訳ではないが……まぁ、自分は髪とか目が珍しい色をしてるし、ちょっと気になっただけだろう――――花中は、深く考えずそう結論付けた。

「……随分と人気者なのですねあの人間。強面のおばさんにしか見えませんのに」

 そしてフィアの言葉に引き寄せられるように、()()()花中が大神総理に視線を向ける。

 大神総理自体は、野次馬達に囲まれて見えなくなっている。が、怒号と言って差し支えない男性の声と、野次馬達の活発な動きを見ればその人気は明らか。時折罵声も聞こえてくるので、嫌われ具合も窺い知れる。良きにしろ、悪しきにしろ、大神総理という人間の存在感を物語るような光景だ。

 そんな大物をフィアは『強面のおばさん』で一蹴。成程、確かにちょっとそうかもと、花中はくすりと笑う。

「あんまり酷評しない方が良いわよー。あの人間、結構熱烈な支持者が多いから」

 そんなタイミングで、背後から声が。

 驚いてビクリと震える花中。しかし掛けられた声は、今やすっかり聞き慣れたもの。即座に平静を取り戻して振り向けば、そこには見覚えのある顔がある。

 百合の紋様が描かれた、黒い和服を着た少女――――ミリオンが立っていた。

「なんだあなたですか。今朝は見掛けなくて良い気分でしたのに」

「私はさかなちゃんと違って気遣いが出来る女なの。はなちゃん、きっと気にしてるんだろうなぁって思って、今朝からあそこを調べていたのよ。で、結果を報告すると心配する必要はなし。火山性ガスの検知とか地層調査とか、そんなのしかやってなかったわ。真相に辿り着けるとは思えないわね、今のところは」

 顰め面を浮かべるフィアに、ミリオンは自慢げに答えながら人混みの先……昨晩の争いで破壊された住宅地を指差す。人間を見下してはいるが、フィアほど無防備でもないミリオンはしっかり現状把握に努めていたようだ。花中が安心感で笑みを浮かべると、フィアは不愉快そうにそっぽを向いた。

「ふん……ところで先程の話ですが」

「先程?」

「酷評しない方が良いって話ですよ。ちょっと悪口言ったぐらいで襲われる訳でもないでしょうに。大体ただの人間である彼女に此処で言った悪口が聞こえているとは思えないのですが」

「ところが襲われるのよねぇ。それと、本人が聞いているかどうかは関係ないわ。襲ってくるの、当人及びその周りとは全く関係ない『善意』の第三者だから」

「? どういう意味です?」

「それだけ人望があるって事よ」

 ミリオンの説明が理解出来ないのか、フィアは怪訝そうに眉を顰める。花中の目には、フィアの頭の上に『?』がたくさん浮いている様子が見えた。

 ミリオンは決して出鱈目な事を言っている訳ではない。

 大神千尋――――日本初の女性総理大臣にして、自由国民党の代表。

 自由国民党は1970年代に結党した、歴史はあるが、ほんの十数年前までは両手で数えられる程度の議席数しかない弱小政党の一つだった。しかし1990~2000年代頃、不祥事や弱腰外交による与党・野党への国民の不信感を上手く利用し、一気に勢力を拡大。六年前の選挙でついに単独過半数の議席を獲得し、総理大臣を排出するに至った。

 政策は基本的に日本の国益を重視し、外交面では強硬な発言が目立つ。同時に緻密な根回しを行い、双方に遺恨を遺さない妥当な着地点を見付けるのが非常に上手い。同性という事もあって女性の支持も多く集めている。政治手法が独裁的であるとの批判もあるが、順調に成果を上げている現状「無能な多数決よりマシ」との声は少なくない。六年目を迎えた現在も支持率は七十%前後を推移。余程の不祥事がない限り二年後の選挙でも政権獲得は確実と言われており、自由国民党の総裁任期は最長十二年となっているため、今後しばらく大神政権は続く見通しだ。

 要するにかなり成功している政権なのだが、強気な外交方針から過激な愛国主義者からの支持も厚いらしい。そういった自称愛国主義者は政権批判派 ― と自身が認定した者 ― に対し、暴力的な行為に及ぶ事もあるとか……

「つまりアイツの支持者に襲われるかもと? それはなんと言うか面倒臭い話ですねぇ」

 ……等々、言い出しっぺのミリオンに代わり花中が細かく説明したところ、フィアは心底面倒そうに肩を竦めた。実際、フィアからすれば暴漢の一人や百人、大した驚異ではないだろう。手加減や『後片付け』が面倒なだけで。

 なんともフィアらしい考え方に苦笑いを浮かべる花中だったが、同時に疑問も抱く。

「でも、なんで、総理大臣が、この町に、来てるのかな?」

「あら、はなちゃん今朝のニュースは見てないの? この住宅地崩壊の被害状況を把握するために、午前中にも現場を視察するってやってたじゃない」

「え? ……ああ、そう言えば……」

 言われてみれば、ぼんやりとそんな記憶が蘇る。マスコミの反応ばかり気にして、総理大臣云々は頭に残っていなかったようだ。少し恥ずかしくて、花中の頬がほんのりと色付く。

 それと共に、新たは疑問が芽吹いた。

 フィア達がこの住宅地を破壊したのは、昨日の夕方頃……つまりどれだけ早くとも、事態が発覚したのは昨日の夕方以降となる。政府の迅速な対応は好ましいが、総理大臣が動くとなれば警備や応対の手配が必要だ。人的被害はないとされているが、だとしても現場は被害状況を把握するためまだまだ作業に励んでいる筈。人手は幾らあっても足りない。そんな時に総理大臣を迎え入れるために人を割り振るとなれば、作業に支障を来す事は十分にあり得る。

 ハッキリ言えば、この視察は現場の混乱を招いた可能性が高い。政治的なアピールにより調査を妨害したと野党側は批判し、国民の多くはその言葉に同意するだろう。

 大神総理はこういった小さなミスもしなかった事で、高い支持率を長年に渡り維持してきた。今回は珍しく、隙を見せているように感じる。

 或いは、多少のリスクは受け入れた上でやりたい事でもあったのだろうか? お気に入りのお店があるのでついでに、とか……なんて事はないにしても。

「それはそうと、はなちゃん。学校に行かなくても良いの?」

 花中のそんな物思いも、ミリオンからの問いで終わりとなった。

 そうだ。自分は学校に行こうとしていたのだった。

 慌ててスマホを取り出し時刻を見れば、八時半を少し過ぎた辺り。ちょっと寄り道した程度なので普通に歩いても朝のホームルームには間に合うだろうが、何時までものんびりしている余裕はない。ミリオンが言うように、もう学校に行かないと不味いだろう。

「そう、ですね。遅刻したくない、ですし」

「なら、さっさと行きましょ、っ」

 花中の返答に頷こうとしたミリオンだったが、不意に空中へと手を伸ばし、ギュッと握り拳を作った。さながら、部屋を飛び回る羽虫を捕まえるかのように。

「? どうか、しましたか?」

「――――ちょっとハチが飛んでてね。はなちゃんが刺されたら危ないと思って」

「あ。そう、でしたか。えと、ありがとう、ございます」

 自分の身を案じてくれた事に感謝し、花中はぺこりと一礼。それから「では、行きましょう、か」と改めて一言伝えてから、てくてくと学校を目指して歩き出した。フィアも花中の傍にぴたりと寄り添って、共に学校へと向かう。

「……ほんと、物騒なハチねぇ……」

 そんな花中達の後ろ姿を見送ってから、ミリオンはその手に掴んだモノを指で摘まみ直し、眺めた。

 それは、くすんだ黄土色の物体。翅も、足もない、有機物ですらない塊。掴んだ拍子に潰れ、くしゃくしゃの玉となってしまった金属。

「流れ弾かしら……でも猟期にはまだ早いし」

 金属はジュウッと音を鳴らし、煙となって大気に溶ける。そこに金属があった証は、僅かに漂う異臭以外にない。

「一応射線上ぐらいは調べようかしら……まさかとは思うけど、念のために、ね」

 そう独りごちてから、未だ動き出さないこちらを寂しげに見ている花中の方へと、ミリオンは歩を進めるのであった――――




警察にバレる事を本気で恐れる主人公が此処にいるぞ!
でも恐れるというのは、日本の警察官が頼もしい存在だと信じている証だったりします。賄賂で誤魔化せるような警察官しかいない国だったら、花中もここまで怯えないでしょうね。


次回は9/25(日)投稿予定です


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世界の支配者3

 ――――攻撃、防がれました。

 

 ――――こちらでも確認した。直ちにその場から撤退。フェイズ2に移行する。

 

 ――――了解。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぜー……ぜー……ぜー……!」

「ほら花中さんあと少しですよー」

 息を切らしながら、パタパタと花中は歩道を走る。その横を、フィアは足を全く動かさずに並走。歩くよりはマシな速さしか出せていない花中を励ましてくる。励まされて一瞬花中は足を速めるが、太股に走る痛みに負けてすぐへろへろになっていた。

 何故花中は走っているのか? 答えは簡単、急がないと遅刻してしまうから。

 確かに今朝は、『住宅地崩壊』の現場を見に行くという寄り道をしていた。とはいえそこは慎重な性格である花中。ちゃんと余裕を持って出掛けており、ギリギリだが歩いて間に合う時間にその場を離れている。計算通りなら、走らずともホームルームには間に合う筈だった。

 しかし緻密な計算ほど、アクシデントに弱いもの。何時もの通学路の一部が、車両事故だかなんだかで通行止めになっていたのである。事故は起きたばかりのようで、復旧を待っていたら何時通れるか分からない。故に遠回りするしかなかったのだが……遠回りするという事は、計算よりも長い距離を歩かねばならない訳で。

 結果、花中は全力疾走での登校を強いられたのである。不幸中の幸いだったのが、周りに人の姿がない事。帆風高校はもう間近なので何時もなら登校途中の生徒で道がいっぱいになるのだが、今は遅刻寸前の時間帯だけに花中以外の生徒の姿はない。ひーひー悲鳴を上げながら走るという、恥ずかしい姿を他人に見られずに済んだ。

「あ、はなちゃん。校門が見えてきたわよ」

 花中の後ろからも励ます声が聞こえてくる。殿を勤めているミリオンからだ。振り向く余裕もない花中だったが、こくこくと頷いて返事。

 それから少しずつ、走る速さを落としていく。スカートのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認。ホームルームの開始時間まで残り僅かだが、もう走らずとも間に合う時間だった。

「ぜー……ぜー……は、はい……こ、ここ、から……は、げほっ……歩いて、行き、はぁ、ま、しょう、か……はぁ、はぁ」

「そうねぇ。これ以上走らせても、はなちゃん、歩くよりも遅くなりそうだし」

 体力のなさを指摘され、否定出来ない花中は顔を俯かせる。そのまま逃げるように、疲れを忘れた早歩きで校門へ。フィアとミリオンも花中に続き、

「ん?」

 ふと、フィアが足を止めた。

「? フィア、ちゃん、どう……した、の?」

「いえアレはなんだろうと思いまして」

 フィアの動きに気付いた花中が精根尽きた声で尋ねると、フィアは残り十数メートルの距離まで迫った校門の方を指差す。

 目を凝らしてみたところ、そこに紙袋が置かれている事に花中は気付いた。

 紙袋の大きさは、お弁当などを入れるのに丁度良いぐらいの小さめサイズか。校門に寄り掛かるように置かれており、なんだか哀愁を感じさせる。遠目から見る限り紙袋の色は茶色一色で柄はなく、ブランドや購入店は分からない。歪な膨らみがあるので、なんらかの中身があるようだ。

「紙袋、だね……忘れ物、かな?」

「そうかも知れませんねぇ。どれ私が見に行きましょう」

 言うが早いか、フィアは不用心にも紙袋に近付く。

 先程は忘れ物と言った花中であるが、アレは所謂『不審物』だ。単なる忘れ物という可能性の方が高いだろうが、触らないで済むならそれに越した事はない。

「あ、あの、フィアちゃ」

「はなちゃん、ストップ」

 なので少し待ってと伝えるべくフィアの後を追おうとする花中だったが、ミリオンに腕を掴まれ前に進めなくなってしまう。なんで、と思った時には後の祭。フィアはあっという間に紙袋の傍まで行ってしまった。

「さーて何が入っていますかねー」

 そしてフィアはなんの躊躇もなくその袋の中身を覗き込み、

 カチッ、という音がした。

 離れていた花中にもハッキリと聞こえるぐらいには、大きめな物音。しかしその音の『意味』を考える事は叶わなかった。

 考える前に――――紙袋が爆発したのだから。

「わふっ!?」

 ボンッ! と弾けるような爆音と共に、花中の身体に衝撃が走る。小柄な花中は襲い掛かってきた音に突き上げられ、バランスを崩して尻餅を撞いてしまう。

 普通ならあまりにも唐突な出来事に驚き、身動きが取れなくなってしまうだろう。小心者なら尚更だ。

 されど幸か不幸か、花中はこの一月半で幾度となく命の危機を体感してきた。身体を突き上げるような衝撃など毎度の事、いや、この程度まだまだ生温い。怪我だってしておらず、地面に打ってしまったお尻がちょっと痛いだけだ。さしたる動揺は、花中の心には生じなかった。

 それよりも憂慮すべきは、覗き込めるほど『紙袋』に近付いていた友の身。

 この手の出来事に慣れしまった花中には、『爆発』という事象がもたらす結果を理解出来ていた。

「ふぃ、フィアちゃん!」

 花中は沸き立つ心の衝動のまま友の名を叫び、

「……なんでしょう? 新手のびっくり箱でしょうか?」

 当人は、自分が爆発に巻き込まれた事すら自覚していない様子だった。とはいえその程度で済んだのは、『本体』を大量の水によって保護しているフィアだからこそ。

 爆発の痕跡だろうか。今や跡形もなくなってしまった紙袋が置かれていた場所を中心に、アスファルト舗装の道路が半径二メートルほど黒く焦げていた。校門に設置されていた鉄製の柵は無惨にひしゃげており、爆発の威力を物語っている。人間が直撃を受けたなら、きっと()()()()()では済まない。

 ゾッと、花中は背筋が凍る。もし、自分があの袋を覗き込んでいたなら……

「やっぱり、爆弾だったわねぇ」

「爆弾? ……ってあなた袋の中身を知っていたのですか?」

「当然じゃない。さかなちゃんと違って私は怪しい物には迂闊に近付かないの。事前に少数の個体を送って調べてるんだから」

「それは迂闊に近付いているのと同じでは……」

 『もしも』を想像し戦慄する花中だったが、対して動物達は暢気なもの。フィアは煤汚れた顔をプクッと膨らませ、ミリオンは楽しげに笑っていた。

 そんな二人を見ていると、なんだか大した事は起きなかったような気がしてくる。してくるが、ただの気のせいである。

 少なくともミリオンは、聞き捨てならない事を言っていた。

「あ、あの、今、爆弾って……」

「ん? ああ、確かに言ったわね、爆弾って。コードみたいなのがいっぱい付いていたし、形もそれっぽかったからね。流石に種類までは分からなかったけど」

「は、わわわわ……!」

 明言され、花中は顔を青くしながらわたふたする。

 まさか、本当に危険物だったとは。

 ニュースなどで不審物の報道があっても、大概忘れ物やイタズラという結果で終わっていた。実際に爆発が起きたなんて話は、国内では年に一度も聞かないし、ましてや自分がその爆発を目の当たりにするなど思いもよらなかった。

 それに、これは『テロ』ではないか?

 断定は出来ないが、可能性はある。学校がテロリストに狙われた……そう思うと、花中は胸に恐怖が募っていくのを覚える。身体は震え、血の気の引いた顔は青くなる。

 ……山をも支配する怪魚、炭化タングステンすら気化させる微細物質、目視不可能な速度で動き回る猛獣、大出力レーザーを放つ節足動物など、どう考えてもテロリストよりヤバい生き物と何度も出会っていたので、頭は平静としていたが。具体的には、次の展開を予測出来る程度には。

「そ、そうだ! あの、フィアちゃん、すぐに此処から、移動して!」

「? 何故ですか?」

「えと、あの……は、話してる時間は、ないの! 一時間ぐらいしたら、戻ってきて、平気だから!」

「はぁ。花中さんがそう仰るのでしたら」

 首を傾げながらも、フィアはその場から近くのマンホールへと移動。おもむろに蓋を外し、ぴょんっと飛び込んだ。開けっ放しになっていた蓋はミリオンが足で押して、元の場所に戻してくれた。

 これで一安心。

 フィアは嘘に対する感性が人間と違う。約束を意図的に反故はしないし、他者を貶したり、自分を飾るような嘘は吐いた事がない。だけどそれは嘘に罪悪感があるのではなく、社会性がないので、他者との関係に関わるような嘘は意識にも昇らないからだ。要するに『着飾る』という発想がすっぽり抜けており、ここで嘘を吐かなかったら人にどう思われるか、という考えがないのである。

 だから此度の爆弾事件の顛末も、訊かれたならフィアはあっさり白状するだろう。そうなれば後の展開は明らかに面倒だ。ほとぼりが冷めるまで何処かに隠れてもらった方が都合が良い。

「じゃ、私も退散するわねー」

 ただ、ミリオンにはそんな心配などないのだが。

「え!? い、一緒に居て、くれないのですか!?」

「そりゃそうでしょ。私、住所不定どころか日本国籍すら持ってないのよ? 事態が事態だからこの後警察とかも来るでしょうに、そんな怪しい奴が居たら誤解を招くだけじゃない。面倒臭い事は嫌いなの」

「で、でも、わたし一人じゃ、その、心細くて……」

「大丈夫、一緒には居るわよ。ただ見えないだけで」

「そ、それは一緒とは、言わな……」

 引き留めようとする花中だったが、ミリオンは呆気なくその姿を崩してしまう。こうなってはもうどうにもならない。思わず伸ばした花中の手は、虚空を空振りするだけ。

 もやもやと心に積もる不満。しかしその不満を外に出す事はそろそろ許されない。

 何しろ校門の先、校舎の方から大人達が出てきたのである。爆発音を聞き付けた教員達が、ようやく駆け付けてきたのだ。

 当然彼等は花中に何があったか問い詰めてくるだろう。その時花中が憤っていたり、呆れていたらどうなる? 如何にも怪しいではないか。爆発事故の被害者は、戸惑い、恐怖に震えていなければならない。

「……上手く、誤魔化せるかなぁ……」

 遠くから聞こえるチャイムの音を聞いて、これなら急がなくても良かったと少し後悔する花中であった。

 

 

 

 結論を言えば、花中は教員達からの追求を上手い事誤魔化せた。

 教員達は花中が犯人だとは端から思っていない様子であり、上手く言い訳が出来るか不安だった花中の仕草も、爆発に怯えているものと解釈してくれた。その後通報を受けて駆け付けた警察官による聴取も受けたが、被害者という事自体は本当である花中の話に大した矛盾などない。隠し事はあっても嘘ではない話に追求などなく、午前中には解放となった。

 とはいえ、ではこの後花中は授業に戻れるかと言えば、そうもいかない。

 学校に仕掛けられた爆弾が爆発した……話を聞き付けた近隣住人や保護者、マスコミなどが一斉に学校に問い合わせてくるのは、当然の事だった。それに仕掛けられた爆弾が一つだけとは限らないが、付近を調べるとしても一~二時間で終わる話ではない。

 問い合わせへの対応、校内の調査、生徒の監督……全てを完璧にこなすのは不可能だ。なのにもし生徒に万一の事があったなら、責任は学校側に被せられてしまう。

 午前のうちに休校となり、生徒達が家に帰されてしまうのは現実的な対応と言えた。

 そして世の中には、休校という事態に喜ぶ者がいるもので。

「らんらんらーん♪ らんらららーん♪」

 花中の友人である加奈子は、そういうタイプの人間だった。

「あ、あの、小田さん。今日の、休校は……」

「説得するだけ無駄よ。アイツは馬鹿だけど、全て分かった上でやらかす最悪の馬鹿だから」

「はぅ……」

 はしゃぐ加奈子を説得しようとする花中だったが、晴海の諦めきった物言いで言い淀んでしまう。

 花中は今、晴海達と共に帰り道である住宅地を進んでいる。

 元々閑静な場所で、尚且つお昼前の時間帯なので人気は殆どない。正当な理由があるとはいえ平日の午前中に町を歩いていると、学校をサボっているような、いけない事をしている気分になる。

 そして花中はそういう気分になると、ワクワクよりもドギマギしてしまうタイプ。

「花中さん流石に挙動不審過ぎると思いますが?」

「まるで初めて学校を抜け出した小学生みたいね」

「ふ、きゅう……」

 傍を歩く人間ではない友人、フィアとミリオンに指摘され、花中は燃えるように顔を赤らめた。フィアが愛でるように頭を撫でてくるが、それが却って羞恥心を刺激する。

「……しっかしあの爆弾事件、なんか変じゃない?」

 そんな時の晴海のぼやき。場の空気を変えたい花中が、話に乗らない理由はなかった。

 ちなみに晴海も加奈子も、花中が今朝の『爆弾事件』の被害者である事は知っている。学校側は伏せていたが、普段からホームルームの三十分前に来る生徒が大遅刻してきたのだ。クラスメート達にはバレバレだった。

 そして晴海と加奈子には本当の『被害者』がフィアであり、自分は眺めていただけであると伝えている。故に晴海はこうして話を振ってきたのであろう。花中は正しく他人事のように、晴海に尋ね返した。

「えと、変、とは?」

「いやね、なんであんなタイミングで爆弾は爆発したのかなーって。人を傷付けたいとか、騒ぎにしたいとか、そういう理由ならもっと違う時間に爆発させた方が良くない? ああ、勿論大桐さんが無事で良かったとは思ってるし、他の生徒にも怪我がなくて良かったわよ? ただ、一般論でね」

「……………」

 晴海の疑問に、確かに、と花中は心の中で同意する。

 無差別に人を傷付けたかったのなら、生徒が行き来している時間帯が狙い目だろう。騒ぎを起こしたかっただけにしても、人の往来激しい時の方が危機感を煽るだろうし……あの爆弾の威力は、鉄製の柵を破壊するほどのものだった。爆弾の作り方がネットで簡単に探せる今の世の中でも、ここまでちゃんとした代物を作るには相応の苦労がある筈だ。失礼ながら「世間を騒がしたい」だけの『馬鹿』に作れるとは思えない。明確な殺意か、或いは狂気が必要である。

 それだけの殺意や狂気があるなら、どうして確実に『願い』が叶う瞬間を狙わない? 投資したエネルギーに対し、効果が釣り合わないではないか。

「単純に私が触ったから爆発したのでは?」

「アンタ、触ったんかい……でもどっち道、朝の通学ラッシュ時は狙わなかったって事でしょ? やっぱり変よ、理由がない」

 フィアの意見に反論する形で、晴海は持論を述べる。ぼんやりとした犯人像に、晴海は首を傾げていた。

 ――――花中には一つ、思い当たる可能性がある。

 考えにくいとは思う。だけど、納得は行く。明確な殺意と狂気を持ちながら人の居ない時間を狙った理由を説明出来、費用対効果の不均衡もない……少なくとも、犯人の中では。

 犯人の目的は……

「あれ? 花中達じゃん」

 考えを纏めていたところ、不意に花中は名前を呼ばれた。 

 必要以上にビクつきながら花中は声がした方、視界の右側に映る横道へと顔を向ける。

 そこに居たのは、ジーパンにポロシャツ姿という如何にも今風な格好をした、ミィだった。彼女は頭から生やした猫耳 ― ちなみにこの耳は自由に変化可能であり、人間型の耳にしている時も多々ある。曰く、面倒な時は猫耳のままらしい ― をぴょこぴょこ動かして好感の想いを表現してくれている。花中を含めた皆も笑顔で彼女と対面……フィアだけは、不愉快そうにそっぽを向いていたが。どうやら昨日の事をまだ根に持っているらしい。

 フィアの気持ちは一先ず置いといて、花中は挨拶を返した。

「あ、ミィさんっ。えと、こんにちは」

「お? 猫ちゃんじゃん。やほほー」

「やほほー。どしたのこんな時間に。学校じゃないの?」

「丁度その原因について話していたの」

 問われた加奈子に代わり晴海の口から、今朝の出来事が語られる。話を聞く間ミィはふむふむと呟き、興味深そうに、文字通り耳を傾けていた。各々の家へと帰る一行に、根なし草のミィも加わる。

 晴海から一通りの話を聞くと、ミィは割合楽しそうな、さして同情していない笑みを浮かべた。

「そりゃ花中も災難だったね。犯人、捕まると良いね」

「捕まらないと困るわよ。今回は怪我人なしで済んだけど、次もそうとは限らないのよ? しかも学校を狙ったって事は、あたし達は何時また標的になるか分かんないじゃない」

「そーだけど、でもアンタ達からすれば他人事で済むんじゃない? あたしらと一緒に行動してれば、強力なボディガードが傍に居るようなもんだよ?」

 自分の力を誇示するように、ミィは胸を張りながら語る。

 対する晴海は、不満げに眉を顰めた。

「ボディガードって言っても大桐さん専用じゃない。コイツら、あたし達の事守ってくれないでしょ」

「守りませんね」

「守らないわねぇ」

「ちょっ……」

 晴海の指摘を、あっさりと肯定するフィアとミリオン。あまりにも簡単に見捨てると公言するものだから、守ってもらえる側である花中も少し戸惑う。

「そりゃ、あたしは別にしても、そこの二人は守ってくれないだろうさ。でもね」

 しかしミィは「分かってないなぁ」と言いたげに肩を竦めながら、人差し指を立てて自慢気に話す。その話は花中達一行が大きめの十字路に入っても続き、

 ブオンッ! というエンジン音に掻き消された。

「(……えっ)」

 思考した言語を発するために、脳から送られた電気信号が口の筋肉に到達するまでの僅かな時間――――その刹那の間に花中が現状を理解出来たのは、偶々その『方向』を向いていたからに過ぎない。

 視界の大部分を満たすのは、真っ正面をこちらに向けている大型トラックだった。

 所謂十トントラックだろうか。かなり大きく見える。車体は真新しく、言うまでもないが人よりも頑丈そうだ。ブオオオンッと耳に届く音は力強く、その内に秘めたパワーを物語る。

 そんな風に暢気な事ばかり考える中で、目の前のトラックがこちらに段々近付いていると本能は勘付いていて。

 ――――ああ。これは、ダメなやつだ。

 恐怖や絶望よりも先に、達観の想いが脳を満たす。身体は動かない。光速の電気信号が間に合わない。人間達はただただ呆然と、その瞬間が訪れるのを待つしか出来ず

「よっと」

 迫る惨劇に対し、あまりに軽い声が聞こえた。

 それで、全てが終わった。

 何しろ迫っていたトラックが空を飛び、花中達の頭上を通り過ぎたのだから。

「……え」

 今になって花中の口から出てきた、迫るトラックに対する言葉。しかし聞かせようとしていた『相手』は、既に視線から消えている。

 尤もトラックが自力で空を飛び続けられる筈もなく。

 ゴシャッ! と凄まじい断末魔を上げ、トラックは花中達から二十メートル以上離れた場所で道路とキスをした。

「きゃあっ!?」

「ひぅっ!」

 突然の事に、晴海も加奈子も仰天。晴海はか弱い悲鳴を上げ、加奈子は尻餅を撞く。花中は呆然と立ち尽くし、動く事すら出来ない。

 やがてトラックは大きな音を立てながら滑るように動き、電柱を薙ぎ倒し、民家の塀を壊していく。やがて止まるも、道のど真ん中で横たわる有り様。道を完全に塞ぎ、日常とは程遠い異様な光景を作り上げた。

 あまりの異常事態に、少女三人は言葉を失う。

「さっきの話の続きだけど」

 対してミィは簡単な前置きをしてから戸惑う人間達の方へと振り向き、誇らしげに微笑む。

「特別に守ってはあげないけど、ついででも十分に守れるんだよ。この程度の危機ならね」

 そして、改めて自慢するように胸を張った。

「……えと……?」

「ああ、何が起きたのかも分かってないのか。あのトラックがあたし達目掛けて突っ込んできたんだよ。で、無人だったから、あたしが蹴り上げた。そんだけ」

「は、はぁっ!?」

 ミィに事態を説明され、花中よりも俊敏で、加奈子より常識的な晴海が声を荒らげる。しかし驚く気持ちは花中と加奈子も同じ。

 無人だとミィは言うが、あの一瞬、耳に残る爆音は正にエンジン全開だった。故障か、心霊現象か。原因はなんであれ、凄まじいスピードが出ていた筈である。

 今回はミィが助けてくれたし、恐らくフィアやミリオンも対処は出来ただろう。しかし人間である花中達に、暴走するトラックをどうこうする力なんてない。もし、ミィ達が居なかったら……

「ねぇ、はなちゃん。ちょっとちょっと」

 晴海や加奈子と同じく顔を青くし、身体を震わせる花中だったが、お構いなしとばかりにミリオンが話し掛けてきた。あまりにも暢気に話し掛けてくるので、良くも悪くも緊張感が削がれる。僅かながら余裕が生まれた花中は、呼び掛けに応えた。

「……はい。えと、なんでしょう、か」

「逃げた方が良いんじゃない? 正直、アレについて言い訳出来るとは思えないのだけど」

 ミリオンはそう言いながら、ちょいっと指差す。

 彼女の指先が示すのは――――ついさっき花中達に突っ込んできた、今やスクラップ同然のトラック。

 ミリオンの言いたい事を理解して、花中はビキリと身体を強張らせた。

 此処は住宅地のど真ん中。辺りを見渡せば家々から人がわらわらと出てきているではないか。トラックは花中達から二十メートルも離れた場所に落ちたので、恐らく野次馬の一人ぐらいにしか思われてないだろうが、『第一発見者』にはされるかも知れない。

 だとすると、警察に事情を訊かれる可能性が高い。しかし爆弾事件ならば兎も角、こんな摩訶不思議なトラック事故に対してどんな質問がくるのかなんてさっぱり分からない。口裏合わせなんて出来ず、問い詰められたら花中達人間三人はてんでバラバラな回答をしてしまうだろう。

 警察は調査のプロだ。聴取に矛盾があれば、訝しく思って花中達の周辺を念入りに調べてくるに違いない。

 このままでは、フィア達の存在が警察に――――

「に、にに、逃げましょう! その、こっそりと! みんなで!」

「あいあいさー」

 花中の言葉を受け、ミリオンが動く。フィアが花中を抱き上げ、ミィが晴海と加奈子を脇に抱える。

「に、逃げまーす!」

 そして花中の号令と共に、三匹と三人は撤退開始。

 ミィの脇の中でポカンとしている人類二人の顔を見て、手慣れた自分が汚れているような気分になる花中だった。

 

 

 

「はぁ……やっと、家に帰れる……」

「いやはやお疲れ様です」

 にっこりと微笑むフィアに労われながら、花中は力ない足取りで帰路に着いていた。

 歩くは閑静な住宅地。ただし傍に居るのはフィアとミリオン、そしてミィの三匹だけ。少し前まで一緒だった晴海と加奈子の姿はない。

 自分達目掛け真っ直ぐ突っ込んできたトラック……危うく命を落とすところだった出来事に遭遇し、人間達の精神は大きなダメージを受けた。不本意ながら何度も修羅場を乗り越えた花中はすぐに立ち直れたが、晴海と加奈子は違う。二人はすっかり腰が抜けて、歩くのも一苦労になってしまった。立ち直るのを待っても良かったのだが、何分彼女達の腰を抜かしたのは、住宅地のど真ん中で現れた暴走トラックが原因である。何時車が通るか分からない道路の上で落ち着けと言うのは、酷な話だ。

 そこで花中はフィア達三匹に頼み、二人を家まで送り届けた。彼女達の家族には学校での出来事と、その帰り道で危うく事故に遭うところだったと伝えてある。花中としては、晴海達二人が早く元気になってくれる事を願うばかりだ。

 そんなこんなで、またしても一仕事を終えた花中達。爆弾だとか、トラック事故とか……間を開けずに続いたハードな展開に、花中の心身は共に疲れている。しかしスマホで時間を見れば、まだお昼にもなっていない。早く家に帰り、ゴロゴロしたい気分だ。あと数分も歩けば辿り着けるぐらい自宅は近くなってきたが、その数分すらも今は煩わしい。

「早く家に、帰りたい……」

「あら、はなちゃんも流石にお疲れみたいね。難なら私がおんぶしましょうか?」

 ぼそりと独りごちたところ、あやすような物言いでミリオンに尋ねられた。一瞬、それも悪くないかも、と思ってしまうぐらいには疲れている。

 が、クスクスと笑うミリオンの姿を見るに、おちょくっている事は間違いない。一瞬でも「良いかも」と思った自分が情けなくなり、花中はぷくっと頬を膨らませながらそっぽを向いた。

「うふふ。そーいうところも可愛い」

「花中って素直だよねー。弄り甲斐があるって言うか」

 ……尤も、そんな仕草すらもミリオンを満足させただけなようで。ミィも子供を愛でるような、無暗に優しい眼差しを送ってくる。

「お二人ともあまり花中さんを弄るんじゃありません。大方おんぶされるのも良いかもと一瞬でも思ってしまった自分に嫌悪しているのでしょうからこれ以上触れるのは可哀想じゃないですか」

 挙句一番の理解者であるフィアは、完璧に理解してくれた上で重たいボディブローをハートにぶちこんでくる始末。

「むぅ……むぅぅぅぅ……!」

 すっかり機嫌を損ねて、花中は三匹を振り切るような早歩きを始めた。

「あら、怒っちゃった?」

「怒ってませんっ!」

「どー考えても拗ねてるよね」

「拗ねてませんっ!」

 相変わらず、後ろから聞こえてくる友人達の言葉は煽るよう。最早我慢ならないと、花中は更に歩みを早めようとした

「あ。花中さんちょっとお待ちください」

 ところ、フィアがそれを妨げてきた。花中の制服の襟元を掴んできたのだ。しかもそのまま軽々と持ち上げ、小動物か何かのように扱ってくる。

 花中の堪忍袋の緒が切れるのも、致し方ない事だった。

「うぅーっ! な、何するのぉ!」

「いえちょっと……この辺なら大丈夫ですかね」

 尤も、いくら声を荒らげ、ジタバタと暴れたところで、超生命体であるフィアにとっては掌の上でダンゴムシがもがくようなもの。何をしたところで、すいっと自分が運ばれてしまうのを花中には止められない。

 ……何故、自分の身体を移動させたのか?

 疑問が頭を過ぎり、沸騰していた感情が冷めていく。なんだろう、おちょくるにしても意味がなさ過ぎるような……と違和感を覚える花中。

 されど深く思案に耽る事は叶わない。

 ズドンッ! という心臓を突き上げるような轟音が、花中の意識を易々と粉砕してしまったのだから。

「……………へ?」

 花中の口から出せたのは、間抜けな一声。それから何が起きたのかを知ろうとしてか、無意識に音が聞こえた方へと首を動かす。

 見ればそこには一本の、黒い柱が立っていた。柱の太さと長さはそこらの電柱と同程度だったが、金属的な光沢を放つそれはコンクリート製の電柱とは似ても似つかない。そもそもあんな物はフィアに持ち上げられ、結果的に視線が逸れるまで影も形もなかった。

 そして、柱を中心にして広がるクレーターの存在。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()――――花中の脳がその結論を導き出す事は、さして難しくなかった。難しくなかったが、理性がそれを受け入れられるかどうかは別問題である。

 ましてや柱の位置が、あのまま歩き続けていたら辿り着いていたであろう場所なら尚更だ。

「え……な、何、アレ……?」

「いやー危ないところでしたね。あのまま歩いていたら直撃でしたよ」

 震える人間(花中)と違い、(フィア)は事実を受け入れる事になんの躊躇もない様子。ミィやミリオンも驚きで目を見開く中、フィアだけがケロッとしている。

「……さかなちゃん、よく今のが分かったわねぇ。私は上空百メートル地点でアレの接近に気付いたけど、速過ぎて反応出来なかったのに」

「あたしなんか反応は出来たけど、気付いたのは見えてからだよ。フィア、見える前に気付いたよね? なんで?」

「ふふふん。頭の上を何かが飛んでいると凄く不愉快な気持ちになるのですよ。池で暮らしていた時鳥とかに襲われて鍛えられたんじゃないですかね。勿論今更鳥如きに身の危険など覚えませんが」

 胸を張り、自慢気に語るフィア。褒めてほしいのか、チラチラと花中の方に目線を向けてくる。

 されど花中は何も言わず、呆然と『柱』を眺め続けるばかり。

 三度目。

 今日、生命の危機に陥ったのは、これで三度目だ。爆弾が目の前で爆発し、無人トラックが突っ込み、挙句空から金属が落下。フィア達が居なければ、間違いなく全ての事態で死んでいた。果たして自分は幸運なのか不運なのか、さっぱり分からない。

 いや、そもそもこの金属柱、何処からやってきたのだ?

 疑問に従い空を見上げてみると、飛行機が一機だけ頭上を飛んでいた。あの飛行機のパーツが落ちてきたのだろうか? しかし一般的な飛行機の外装に、柱のようなパーツがあった覚えはない。内部の部品なら判らなくて当然だが、そうするとあの飛行機は果たして最後まで飛べるのだろうか?

「あれ? 誰も来ないね?」

 夜のニュースを見るのが怖くなって震える花中だったが、ミィからの言葉が耳に入って我を取り戻す。

 未だフィアに摘まみ上げられた状態のまま、花中は辺りを見渡す。此処は閑静な住宅地。元々人通りは多くないし、平日の昼間となれば仕事や学校で家人が外出している家はそれなりにあるだろう。だが、住宅地なのだ。専業主婦のような、留守を預かる者も少なくない筈である。

 なのに、どうして誰も家から出てこない? 町中に轟いたであろうあの大音量が、聞こえていない訳がなく、気にならない筈もないのに。まさかこの辺り一帯家全てに誰も居ないなんて、そんな奇妙な事があるのか?

 何か、おかしい。

「誰も出てこないなら好都合じゃありませんか。面倒事にならないのですから」

 尤も、フィアは全く気にしていないようで。確かに、今日は散々面倒事に遭遇しているのだ。もうこれ以上付き合ってなんていられないという気持ちが、ぶすぶすと花中の奥底で燻っている。

 考えるのは、家に帰ってからでも良いか。

「……うん、今のうちに、帰ろうか」

「りょーかいでーす」

 花中の言葉を聞き届け、フィアは花中の身体をしっかりと抱き上げる。そして軽やかな足取りで、この場を後にした。フィアの後ろをミリオンとミィも追随してくる。

 今回は人が集まる前だからか、比較的ゆっくりな走り方。

 お陰で花中は後ろを振り返り……落ちてきた柱を、見る事が出来た。

 道路から黒い柱が一本生えている。

 瞼を閉じても浮かぶ歪な光景に、やはり花中は考えずにはいられなくて――――

 

 

 

「はぼへぇ~~~……」

 ようやく家に辿り着いた花中は、リビングのテーブルに顎を乗せてぐったりとしていた。椅子には今にも滑り落ちそうなぐらい浅く座っており、ハッキリ言って、だらしない。

 結局、あの金属柱の騒動で野次馬が集まらなかった理由は驚くほど単純なものだと判明した。

 ミリオンが黒柱を中心にして家々を調べ、どの家も留守だった事を突き止めてくれたのだ。つまり、あの付近の家には本当に誰も居なかったのである。そんな馬鹿な、と一瞬思ってしまうが、あり得ないとは言えない。少なくとも午前中の間に、爆弾に殺されかけ、トラックに轢かれそうになり、空から降ってきた金属の柱に潰されそうになるよりかは、余程現実味がある話だ。

 それでも気にならないとは言わないが……もう考えるのが面倒臭い。

 命の危機を三度も味わったのだ。肉体的にはさしたるものではないが、精神的にはかなりの負荷が掛かっている。ぶっちゃけ今日はもう何もしたくない。学校からは自主学習を指示されているので勉強しないといけないが、生真面目な花中が「今日はサボっちゃおうかなぁ」と自主的に思うぐらいには疲れている。これ以上頭を働かせたくない……その気持ちが、今の花中の姿勢にも現れているのだ。

 尤も、疲れているのは花中だけ。

「花中ぁー、ゲームして遊ぼうよー」

「そうですよ花中さん折角の休校なんですからぐったりして過ごすなど勿体ないではないですか」

 同じ目に遭ってる筈なのに、未だピンピンしている同居人と来客が此処には居た。ミィは庭につながるガラス戸から顔だけを覗かせ、フィアは花中の傍に付き添うように立っている。チラリと二人の顔を見れば、どちらも退屈さを隠しもせず、子供のように澄んだ眼で訴えていた。

「こらこら、二人とも少しは我慢なさい。はなちゃん、疲れてるんだから」

「殆ど動いてないんだから疲れる訳ないじゃん」

「全くです。精々虚仮威しが三度あった程度でしょうに」

 唯一、三匹の中では一番人間の大人らしい考え方をするミリオンが窘めたが、フィア達は中々諦めない。余程退屈で、花中と遊びたいのだろう。自分を好いてくれる事は素直に嬉しい。午前中の出来事は『虚仮威し』に過ぎない、というフィアの言葉には苦笑いを浮かべてしまうが。

 しかしながら、フィアとミィの言う事も尤もな話。実際遭遇した『出来事』に対処したのはフィア達だ。花中が何をしたかといえば、最初から最後まで呆然し、事ある毎にリアクションを取ったぐらい。一人何もせず、わーわー騒いだだけ……確かにこれで精神的に疲れたと主張しても説得力がないだろう。

 それにいくら疲れていても、何時までもぐでぐでしている訳にはいかない。お昼は自分で作らないといけないし、夕飯の材料がないので買い物にも行かねばならない。独り身に、心の疲れを感じている暇はないのだ。

「……うん。フィアちゃん達の、言う通り、だね。でも遊ぶのは、お昼の後にしてほしい、かな」

「お。やっと乗り気になった」

「んふふ。そうこなくては」

 気持ちを切り換えた花中を見て、ミィとフィアが嬉しそうに笑みを浮かべる。ミリオンは呆れたように「甘いんだから」とぼやいていて、その通りなので花中は否定出来なかった。

 さて、折角気持ちを切り換えたのだ。また堕落感に呑まれる前に行動するのが吉。

 そう思い椅子から立ち上がった――――タイミングで、ふと外から軽快な音が聞こえてきた。オノマトペを付けるならピンポンパンポーンという、要するに広域放送を知らせる音だ。

 なんだろう、という思いと、よくある行方不明者の連絡かな、という思いが同時に胸に昇ってくる。放送の続きを聞き逃さないよう花中はしっかり耳を傾け、

【町内全域に、噴火警報が、発令されました】

 全く予期していない言葉に、理性が止まってしまった。

「……………え?」

【泥落山にて、火山活動が活発化し、周辺に、甚大な被害が生じると、予想されています。近隣住民の方々は、速やかな避難を――――】

 呆気に取られる花中を余所に、放送は淡々と続けられる。曰く、泥落山が噴火する。だから避難しろとの事。

 確かに、本当に噴火するのなら一大事だ。表向き、()()泥落山の周囲では大規模な地殻変動によると思われる災害が多発している。何も知らなければ、避難警報が発令されても「やっぱり」と思うだけだろう。

 だが、花中は全て知っている。

 泥落山周辺での出来事は地殻変動などではない。ミュータント同士のケンカであり、一過性のものだ。噴火の予兆などありはしない。ミュータントの仕業だというのは見抜けなくとも、噴火の可能性がない事は専門家が調べれば分かる筈だ。

 なら、どうして? もしかしてフィア達が暴れた影響は地殻にまで届いていたのか? フィア達がこれまでに放出したエネルギーの総量は正しく天災規模だろうから、可能性がないとは言えないが、しかし――――

 放送が終わっても考え続ける花中だったが、ピンポーン、と小気味よい音で我を取り戻す。

 インターホンの音、来客の合図だ。

 こんな時に誰が? と疑問に思ったのは一瞬。花中にはなんとなく予想が付いた。恐らく警察や消防、或いは自衛隊である。避難の遅れている住人が居ないか、確かめているのだろう。金属柱が落ちてきた場所に住人が居なかったのは、避難が粗方済んでいたからか。だとすると、帰り道で放送を聞かなかったのは何故か……

 再び考え込みそうになり、花中は頭を力いっぱい横に振る。まずは『来客』への対応、それから警報に従って避難する準備だ。どうしてこんな事になっているのか、原因はじっくり探れば良い。

 そう思い玄関に向けて歩み出そうとした花中、だったが、フィアに阻まれてしまった。あたかも通行止めを示すかのように、片腕を広げられて。

「……フィアちゃん? どうし――――」

「重過ぎる」

「え?」

 フィアからの脈絡のない言葉にキョトンとする花中。

 だが動揺から辺りを見渡せば、場の空気が一変していた。ミィはもう笑っておらず、窓から身を引いている。ミリオンは鋭い眼差しで玄関を睨み付けている。

 一人状況に付いていけず、花中はオロオロしてしまう。

「それで、どうする?」

「当然あなたが行くべきでしょう。私は花中さんの傍から離れるつもりは毛頭ありませんし野良猫は家に上がったら床をぶち抜いてしまうでしょう?」

「さかなちゃんのは単なる私情じゃない……まぁ、良いわ」

「んじゃ、あたしは適当に隠れて様子を窺っとくね。アンタ達に万一も何もないだろうけど」

 しかし誰も花中に説明はしてくれず、話は着々と進んでいく。結局花中は意見を訊かれもせず、そそくさとリビングから出ていくミリオンを見送る事しか出来なかった。ミィも見える範囲から失せ、何処かに行ってしまう。リビングに残ったのは花中とフィアだけだ。

「はーい、今開けまーす。でもセールスなら帰ってねぇー」

 ややあって出向いたミリオンの、手慣れたようなふざけたような声が玄関から聞こえてくる。それからガチャリと戸を開く音がして、

 ボンッ! と破裂音が続いた。

 何? ――――そう言葉にする暇もない。

 直後に、激しい音を立ててリビングの窓ガラスが割れたのだから!

「っきゃあぁ!?」

「ちっ」

 突然の出来事に慄きひっくり返った花中に対し、フィアの行動は迅速かつ迷いがなかった。

 舌打ちするやフィアは花中の方へと腕を伸ばし、その手から大量の水を放出。水は重力を無視してうねり、集まり、一瞬で花中を包み込む巨大な水球へと成長した。多量の水に包まれてしまった花中であったが、花中の周りにはしっかりと空気の層が用意され、呼吸には困らない。水は透明度も高いので、少し歪んでいる事を除けば外の様子を窺い知るのにも支障はない。

 今までに何度か経験した、フィアが作り出す『花中専用スペース』だ。今更コレに恐れはしないが……花中は身が引き締まる想いになる。

 少なくともこの水球は、花中の身に危機が迫った時にしか使われた事がないのだから。

「ふぃ、フィアちゃん……!?」

「申し訳ありません花中さん。少々迷惑な来客が訪れたようでして」

 尋ねようとすれば、フィアはすぐさま答えを返す。

 その言葉の意味を花中が飲み込む前に、パキリと窓ガラスを踏む音が鳴った。

 花中は反射的に音が聞こえた方……庭へと通じる、大きな窓ガラスの方へと振り向く。そしてすぐに、その目をギョッと見開いた。

 庭から、見知らぬ者達が三人も、土足で上がり込んでくる。

 彼等の顔は分からない。全員が、頭どころか手足の先まで白色の……機動隊が身に纏うような……プロテクターで包まれているからだ。体格もプロテクターで誤魔化されているのか、三人は背丈や肩幅まで寸分狂いなく同じに見える。

 加えて彼等の手には、銃が握られていた。それも拳銃のような、()()()は代物ではない。杖や鈍器としても使えそうなサイズ……銃にさして明るくない花中でも、ゲームや映画で知っている。アサルトライフルと呼ばれる銃器に酷似しているように見えた。本物かどうかは分からないが、彼等はそれを堂々と構えている。花中が居るテーブル付近から窓まで四メートルほど離れているが、もしあの銃が本物なら、この程度の距離などないようなものだろう。

 どう考えても、ただの不法侵入者ではない。

「……………えと、自衛隊……?」

「花中さん現実逃避は程々にしてくださいね」

「……はい」

 どうにか当初の予測と現実を擦り合わせようとするが、フィアに叱咤されてしまった。逃避はもう許されない。

 自分達は、何かとんでもない事に巻き込まれているらしい。

 その『何か』が一体なんなのか――――分からないという底の見えない恐怖に震える身体を抱き締めながら、花中は目の前に現れた『現実』と向き合うのだった……




さぁて、現れました今回の敵キャラ。前回はあまり戦闘シーンが書けなかったので、その反動で本章は戦闘シーン増し増しですぞ!

え? 女の子同士のバトルはどうなったって?
……ちゃ、ちゃんと女性の敵キャラも出るから!(ネタバレ)


次回は10/2(日)投稿予定です。


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世界の支配者4

 最初に動き出したのはリビングに居たフィア、ではなく水球に包まれている花中、でもなく――――割られたガラス戸の傍に立つ不作法な来訪者達三人だった。とはいえ、彼等が取った動きは非常に小さなものでしかない。

 そう。なんの警告もなく手にした銃の引き金を引くという、とても小さな動き。

 たったそれだけの動きをした次の瞬間、リビングは小気味よい ― しかしそれが却っておぞましい ― 破裂音で満たされる!

「きゃあぁっ!?」

 音を耳にした花中は反射的に頭を抱え、悲鳴を上げながらその場にしゃがみ込んだ。

 破裂音に合わせるように、リビング中の壁が弾けて散乱する。何が起きているのか、花中の目には見えない。だけど考えを巡らせ、推察する事は出来る。

 そして花中の頭が導き出した結論は、自分達が銃撃戦に巻き込まれているというものだった。

 彼等の持っていた銃が本物だった事、彼等が自分達を殺そうとしてきた事……()()()()()()()()撃ってきた事。ほんの数秒で突き付けられた『事実』に、花中の思考は恐怖一色に染まる。小さな身体はガタガタ震え、逃げたい意思に反して動いてもくれない。肉体の支配権は今や理性ではなく、恐怖に乗っ取られてしまった。

 しかし来訪者達は花中がいくら怯えても、攻撃を止めようともしない。引き金を引き続け、破裂音を一秒に十回以上鳴らしている。数え切れないほどに増えた銃弾がリビング中を飛び交い、壁で跳ね返ったものが窓ガラスや家具を貫き砕いた。最早、この場に人の生存が許された空間はないだろう。ましてや花中と彼等の距離は四メートルほどしか離れていない。無数の弾丸が、花中を射線上に捉えていた。

 当然これほどの銃撃戦となれば、数百メートルの範囲に渡って銃声は届いている筈だ。だがこの町は今、全域に噴火警報が発令されている。学校からの帰宅中の時点で人っ子一人居ない場所があった状況からして、恐らくこの地域の住民は花中以外粗方避難を終えているのだろう。誰かがこの喧しい銃声に気付いて通報してくれる可能性は期待するべきでない。

 自分達の力だけでこの銃弾の嵐から抜け出す――――それは言葉にすれば、非道く絶望的に聞こえた。

「花中さーん大丈夫ですかー?」

 尤も、フィアが作り出した水球に守られているので、飛び交う弾丸は花中に届きもしていなかったのだが。当然水球を作り出した当人であるフィアも平然としており、その『身』に銃撃を浴びながら花中に声を掛けてくる。銃弾の雨程度では、超常の力を振るうフィアに傷一つ負わせられないのだ。

 ただし、だから彼女の怒りを買わないという訳でもなく。

 パリン、という音だけで、フィアの堪忍袋の緒を刺激するには十分だった。

「ん? ……………ああああああああっ!? わわわわ私のお皿がぁ!?」

「え?」

 水球から響くフィアの悲鳴染みた叫びで、僅かながら我に返った花中はリビングの隅にある食器棚へと目を向ける。見れば食器棚のガラスが割れており、収納されていた食器がいくつか破損していた。来訪者達が狙って攻撃したとは思えないので、跳弾が運悪く命中したのだろう。

 そして破損した食器の一つに、可愛らしい花柄のお茶碗……一月ぐらい前、花中がフィアのために買ってあげたものがあった。そのお茶碗は高級品ではないが、子供用のプラスチック製という訳でもない。量産品ではあるがちゃんとした陶器である。結果、弾丸一発の衝撃で粉々に割れてしまっていた。もうアレでは使い物にならない。

 それに気付いた花中は、折角戻ってきた血の気が再び失せる。

 ――――フィアちゃん、絶対怒ってる。凄く怒ってる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「楽に死ねると思わない事ですねぇぇぇぇッ!」

 思った通り、フィアは一瞬の我慢もなくぶち切れた!

「ふぃ、フィアちゃん待っ」

「構わないわ! やりなさい!」

 なんとか一度落ち着かせようとする花中だったが、フィアを煽る言葉が玄関から飛んでくる。

 振り向けば、リビングから玄関に続く戸の前に立つミリオンが居た。

 玄関で聞こえた破裂音はなんだったのか、怪我とかはしていないのか……訊きたい事は山ほどあるが、花中はそれらの考えを瞬時に頭の隅へと追いやる。

 今大事なのは、何故フィアを煽ったのか、だ。

「み、ミリオンさん!? あの、でも」

「そいつ等から情報収集は無理よ! 警察も使えないわ!」

 花中の反論を遮るや、ミリオンは片手を高く上げる。

 その片手には、防具を被った人の頭部が握られていた。

 ギョッとなり目を逸らす――――が、僅かな違和感を覚え、花中はもう一度ミリオンが掴んでいる物を確認する。

 ミリオンが掴んでいるのは、間違いなく頭部。それも現在花中達を銃撃している者達と同様の、防具で覆われた頭部だ。玄関でも破裂音が聞こえていたので、ミリオンも彼等に襲われ、返り討ちにしたのか。そしてその頭部の切断面からは、だらりと赤い管が垂れている。

 文字通り『赤い管』が。

「……まさか!?」

「なんだかよく分かりませんが要するに好きにやれって事ですよねぇ!? 言われずとも止められようとも端からその気しかありませんっ!」

 花中がミリオンの言わんとした事を察したのと同時に、恐らく意味など考えてもいないフィアが動いた。

 フィアは来訪者三人にすかさず掌を向ける。来訪者達は気にも留めず銃撃を続けるが、不意に銃声が途切れた。

 それもその筈。彼等の持っていた銃は、一斉に真ん中から切り落とされたのだから。

 フィアが不可視の『糸』を繰り出した。

 タネを知っている花中は即座に状況を理解したが、来訪者達はどうだ。全員が使い物にならなくなった銃を未だ構えたままでいる。何が起きたか分からず動けないのか、或いは目の当たりにした『非常識』を理解するのを拒んでいるのか。いずれにせよその硬直を、フィアに見せたのが致命的だった。

「ふんっ!」

 掛け声と共にフィアは腕を振るう。振るったところで、普通ならば数メートル離れた位置の来訪者達には届かない。

 しかし水で出来た『身体』は伸縮自在。フィアの腕は四メートル先の来訪者達の元まで伸び、容赦なく薙ぎ払う! 無慈悲な一撃を食らった来訪者達は、身体からバキベキと歪な音を鳴らしながら全員壁へと叩き付けられた!

 尋常でない衝撃に、リビングの壁の一部が粉塵となって部屋に舞う。圧倒的な破壊力の前に、来訪者達はすっかり動かなくなっていた。手足は取れかけ、頭も外れている。胴体も衝撃に耐えられなかったのか、折れたり裂けたりしていた。

 そのため彼等の中身である、金属のパーツが丸見えだった。

「……ロボット?」

 動かなくしてからようやく彼等がロボットだと気付いたフィアの呟きに、彼女の視界に入っていなかったものの花中は無意識にこくんと頷いた。

 ロボットに襲撃された。

 その事自体は、現物が目の前に転がっている以上否定する必要はない……というより出来ない。すっかり荒廃した部屋の惨状からして、彼等の攻撃が現実だった事は疑いようもないのだから。

 ロボットの存在自体についての考察も、あまり必要ないだろう。花中にはロボット達の動きは人間そのものに見えた。確かに歩兵の代わりとなる戦闘ロボットなど聞いた事もないが、軍事技術に秘密は付きものだ。軍事の最先端を行くアメリカでは、兵器の無人化が進んでいるとも聞く。秘密裏に無人歩兵が作られていた、という可能性はあり得る。実在してもおかしくない。

 問題は、そんな機密事項の塊がどうして花中の家を襲撃したのか、だ。こんな物騒な世界と関わった記憶はないのだが、一体どうして……

「まぁ倒した以上正体などどーでも良い事ですね! 他愛ない!」

 ……考察しようとしていた花中だったが、フィアの能天気な声が耳に入り、気が削がれた。人類の最新兵器であろう物体を、数秒でスクラップにした非常識が居候なのである。真面目に考えるのが馬鹿らしくなってしまった。玄関から戻り、リビングに入ってきたミリオンも呆れ顔を浮かべている。

「もう終わったー?」

 そうこうしていると今度は、来訪者達に壊されたガラス戸からミィが顔を覗かせた。

「野良猫! あなた一体何をしていたのですか! あなたがこいつ等を片付けていれば私のお茶碗は無事だったのですよ!」

「いやー、そうは言うけどいきなり殴り倒すのもどうかと思うじゃん? 正体不明なんだし、一応観察しとかないと」

「ああん? 潰せばなんだって同じでしょうが」

「なんでアンタはそこまで単純な上に乱暴なのかなぁ……」

 ぐだぐだと話し合うフィアとミィの姿を見ていたら、花中はますます気が抜けてしまった。真剣に頭を働かせる気分にはしばらくなれそうにない。

 それに、実生活的な問題にも気付いてしまった。

 倒したロボットの後片付けである。よもやこのロボット達をけしかけてきた何者かが……物が物なので来ないとも限らないが……やってきて、廃品回収してくれるとは思えない。だとすると迷惑この上ない事に、花中達でどうにかするしかないのだ。他にも銃痕だらけになったリビングの修復や、壊された家具や食器の買い足しも必要である。それと今は火山警報が出ているので避難の準備もしなければ。

 考えねばならぬ事は山積み。問題を数えるだけで頭が痛くなる。

 けれども脅威は去ったのだ。焦って答えを出す必要はない。落ち着いてからゆっくり考えようと、花中は小さく一息吐いた。

「あ。すみませんまだ終わってないようです」

 そんな花中の気持ちに水を差したのは、先程まで一番浮かれていたフィアだった。

 フィアの言葉に、真っ先に顔を顰めたのはミリオン。刃向かうように、少しキツい口調で反論する。

「……終わってないって、まだそいつらの仲間が近くに居るとでも? 少なくとも私の展開した半径百メートルの()()()()には人っ子一人検知出来ないんだけど」

「いえ多分もっと遠いです」

「もっと遠いって、何時からさかなちゃんは千里眼に目覚め」

 自慢のセンサー ― 微細な『自身』を周囲に拡散させ、物理的に周囲を把握しているのだろう ― を貶されたと思ったのか、ミリオンはますます噛みつく――――ものの、ふとその言葉を途切れさせた。

「……ああ。そう言えば、そっち方向には敏感なんだっけ」

 それからミリオンは、疲れたようにぼやく。

「え、ちょっ……!?」

 次いで庭に居たミィが、頭上を仰ぎ見ながら困惑の声を上げる。

「どうやら本番はここからのようですねぇ」

 締めはフィアが、面倒臭そうに愚痴った。

 三体の超生物達は、本能的にか、能力を用いたのか、何かを察していた。しかしただの『生物』でしかない花中には、三匹が何を感じたか分からない。

「え? え? あの……」

 すっかり置いてきぼりな花中は、誰かに教えてほしくて。

 だけど答えは、三匹以外のところから伝えられた。

 天井を突き破るという形で。

「……!?」

 驚愕する花中の目の前で、破砕される音を立てながら天井が割れる。そこから現れたのは先程花中達に襲い掛かったロボットと、恐らく寸分違わない同型機だった。派手な音を撒き散らしながら彼は不作法に床へと降り立つ。木製の床は衝撃を受け止めきれず、彼の足が深々と突き刺さった。

 またしても壊される自宅。だが、花中の関心はそこにはない。

 何故、彼は天井からやってきた? そもそも何処に潜んでいた? ミリオンは半径百メートル以内にロボットの姿はないと言っていた。ミクロン単位の存在であるミリオンが、彼の隠れる隙間を見逃すとは思えない。

 即ち彼は、何処かからやってきたという事になる。それもミリオンが監視している半径百メートルの外から、こちらが体勢を立て直す前に辿り着けるぐらい素早く。しかし先程までの動きからして、このロボットにそこまでのスピードはない。大地を走ってきたとは考えられない。

 そこでふと、花中の脳裏を過ぎる。ミリオンのようなセンサーを持たず、ミィのような視力もないフィアが、誰よりも早くロボットの襲撃を感知していた事実が。そしてフィアには、本能的に鋭い『方向』があるという思い出も。それらは頭の中で合わさり、一つの結論へと変貌した。

 空から降ってきたという、とんでもない結論に。

「ふんっ!」

 花中がその考えに至った、とほぼ同時にフィアは駆け、新手のロボットに接近。問答無用とばかりに、ロボットの頭部目掛け拳を振り下ろす!

 フィアの拳を受けたロボットは、ひしゃげた音を奏でながら全身が潰れる。登場して数秒と経たずに、ロボットは圧縮された鉄塊へと変化していた。危険物は力を発揮する前に、その『命』を終えたのだ。

 だが、安堵の時は訪れない。

 もしも、このロボットが空からやってきたのなら、これで終わりとは限らない。一度でも『外部』から増援が来たのなら、二度目三度目もあるかも知れないのだから。

「来たわね」

 ミリオンの声に次いで、玄関の方から数体のロボット達がリビングに侵入。合わせるように、天井からズシン、ズシンと重たい着地音が耳に届く。

 思った側から増援だ。それも先程戦った集団以上に大規模なもの。或いは最初の連中は先遣隊で、こちらが本隊なのか。

「花中ぁ、こっちにもロボット達来たよー」

 能天気なミィの声で、庭にもロボットが何体か来ていると分かる。玄関、庭、天井……この分だと、そのうち勝手口からも現れるかも知れない。完全に包囲されている。

 そしてロボット達は、やはり警告もなしに銃を撃ってきた!

「ひぅっ!?」

「ええいアリのように沸いてからに! 纏めて潰して――――」

「待ちなさい。この数を相手にしたら、余波だけではなちゃんの家が壊れてしまうわ。此処は一旦退きましょう」

 改めて臨戦態勢を取るフィアに対し、ミリオンが撤退を進言する。一瞬、ロボット諸共屠らんばかりの眼差しでミリオンを睨むフィアだったが、ややあってから舌打ち。

 フィアは花中が入っている水球を、なんの予告もなしに肩に担いだ。花中は揺れる水球に反応が間に合わず、柔らかな水の壁に顔からぶつかる。痛くはない、が、心地良くもない。

 されど、不平を言っている場合でない事は分かっている。

「このような有象無象相手に背を向けるのは癪ですが花中さんの大切なものを私が壊してしまうのはもっと不愉快です。ここはあなたの意見に従いましょう」

「素直でよろしい。なら、さっさと逃げるわ、よっ!」

 フィアが同意した事で、状況は防衛戦から撤退戦へと移り変わった。

 庭へと通じる窓目掛け、ミリオンが駆ける。フィアも後を追い、花中は水球ごと一緒に運ばれる。相応の数の弾丸が二匹の背中に命中するも、フィア達の歩みは止まらない。

 ミリオンはするりと潜り抜け、フィアは担いだ水球が引っ掛かった外枠をぶち破って窓を突破。庭へと跳び出した。

 途端、何かがフィアの下へと飛んできて――――衝突。

 ボンッ! という巨大な爆音と共に、傍に居たミリオンも巻き込むほどの大爆発を起こした! 爆風は大桐家のみならず、隣家にも届いてその壁を砕く。周囲の草葉は千切れ飛び、辺りには褐色の粉塵が広がった。コンクリートすら余波で破壊する威力だ。生身の人間なら、跡形も残るまい。

「煙いッ!」

 しかしフィア達にとっては、煙でしかなかった。フィアが片手を大きく振れば、それだけで粉塵はあっさりと吹き飛ぶ。

 クリアになった視界。水球に守られている花中はほんの一瞬だけ見えていた、『何か』が飛んできた方向を見遣る。

 それだけで、飛来物の正体が分かった。

 視線の先に居たのは二体の、巨大な『筒』を構えたロボット。正直なところ、花中は武器についてはあまり詳しくない。精々小説やアニメに出てくる大雑把な名称を覚えているぐらいだ。そんな花中でも彼等の構えている『筒』の名前はよく知っている。

 ロケットランチャーだ。そして撃たれたロケットランチャーは一発。

 もう一体のロボットが、花中達の方に筒の先を向けていた。

「はい、ざんねーん」

 だが、花中が状況を説明する必要はなかった。まるで瞬間移動してきたかのように、ロボットの傍にミィが現れたのである。ロボットに肉薄したミィは発射直前のロケットランチャーの弾頭を()()()()()

 ロボットは反応が間に合わなかったのか、そのまま引き金を引いてしまった。

 当然ロケットランチャーは火を噴くが、ミィがしっかりと弾頭を握っている。ただの素手。されど、強靱なパワーを誇る頑強な障害物でもある。

 弾頭は飛ばずにその場で爆散。二体のロボットとミィを巻き込んだ。舞い上がる粉塵に混じって金属の破片が飛び交い――――ふん、と小さな『鼻息』で吹き飛ばされた煙の中から、無傷のミィだけが姿を現す。

「あーっ!? あたしの服がぁ!? 気に入ってたのにぃ!」

 いや、正確には素っ裸になっていたが。彼女は猫なのでなんら問題ないのだが、花中は咄嗟に顔を逸らす。

 尤も、ほのぼのとしている暇はない。

 家の中から追い駆け、隣家の庭から柵を乗り越し、家の屋根から降りてくる、無数のロボット達。仲間が粉微塵に吹き飛んでも尚、彼等は花中達に襲い掛かろうとしているのだ。

「猫ちゃん、さっさと来ないと置いてっちゃうわよー」

「うぎぎ……覚えてろーっ!」

 勝ったのに捨て台詞を吐くミィと合流し、花中達は庭の柵を軽々と跳び越えて道路へ。

 そんな花中達を出迎えたのは巨大な車。

 まるで装甲車のような……いや、正しく装甲車の形態をした、そこらのトラックよりも巨大な車両が花中達目掛けて突っ込んできている! 速度は、少なくとも歩行者が歩く道で出して良い速さではない。

 おまけに反対側からももう一台。

 挟み撃ちだ!

「邪魔です!」

「しつこいわねぇ」

 すかさずフィアは正面の車両、ミリオンは反対側の車両へと、それぞれ己の掌を向ける。次の瞬間、フィアが掌を向けた車体は縦に真っ二つに割れ、ミリオンが掌を向けた車体はどろりと溶け出した。

 装甲車は走る事も叶わず、その場で横転。最早使い物にならない車体から、わらわらとロボット達が這い出てきた。さながらそれは巣を破壊されたアリのような姿。そしてアリ同様、彼等もまた闘争心に溢れているのが動きから伝わってくる。

 前後の車両から出てきた無数のロボット達は、フィア達の姿を見るや手にしたアサルトライフルで襲い掛かってきた!

「また随分とわらわら出てきたわねぇ」

「うぅ、銃撃がこそばゆいー」

 挟み打ちに遭い、フィア達は立ち往生。二つのグループはどちらもさして広くない市道を塞ぐように並び、それが三~四列ほど続いている。各人の間隔は広めで、時折後方の人員と立ち位置を交換していた。弾倉が尽きたら後ろの仲間と入れ替わり、リロードしているのだろう。花中の素人目にも、彼等の動きは訓練されたものであるように見える。

 無論人間ならば瞬時に蜂の巣となるこの包囲網も、フィア達ならば耐える事は勿論、突破しようと思えば何時でも出来る。だが今までの流れからして、この包囲から抜けても攻撃は止みそうにない。

 殲滅以外の方法でこの戦いを終えるには、どうにかして彼等の追跡を振り切るしかないだろう。しかし……

「上の輩が面倒ですねぇ……」

 この面子で一番上からの視線に敏感なフィアが、そうぼやいていた。

 見上げれば、広がるのは高々とした夏の青空。白い雲が浮かんだ、のどかで朗らかな景色。

 その景色を蝕むように、黒い点が幾つか浮いていた。かなり高い位置を飛んでいるのか、花中(人間)の視力では詳細な形が分からない。小さな点と認識するのが精いっぱいだ。

 だが、考えれば分かる。

 空から降ってきたと思われるロボットがいたのだ。彼等を運ぶ乗り物があるのは当然。現在頭上に浮かぶ黒点、即ち無数の飛行機はロボット達の仲間と考えるのが妥当だ。空からなら地上は丸見えである。走り回ったところで、簡単に追跡されてしまうだろう。これでは何処に逃げても、ロボット達を振り切れそうにない。

 なら下水道に逃げ込むか? 否、この分だと下水道にもロボットが配置されていてもおかしくない。たっぷりの水を湛えた下水道はフィアの独壇場だが、連戦となれば消耗していく筈だ。果たして何時まで、どれだけ戦えるか。

 ……彼等は決して強くない。少なくとも人智を超越した生命体からすれば、本気を出さずとも蹴散らせてしまう虫けらだ。しかし未だ底が見えない。空からの降下のみならず、車両まで用いて絶え間なく後続を投入するという『態度』が、後方に控える戦力の余裕ぶりを物語る。

 故に、花中は震え上がった。

 ()()()()()()()()()()()()()()

「花中さんどうします? ……花中さん?」

 フィアの問い掛けに、花中は口を噤む。

 どうしたら良い? どうすれば良い? そもそも彼等は何を求めている? どうしていきなり攻撃してきた? 分からない。何も分からなくて、動いたら何が起こるのか、想像が付かない。

 身動きが、取れない――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大桐花中! こっちよ!」

 

 

 

 

 

 

 泥沼に足を取られたかのように止まっていた花中の意識は、突如辺りに響いた声によって動き出した。

 凛とした、何処か聞き覚えのある声。

 だけど誰の声かは思い出せず、疑問という衝動のまま花中は声がした方へと振り返り――――そこでまたしても、思考が止まってしまった。

 声がしたのはフィアが真っ二つにした装甲車と、その車から溢れ出した無数のロボットが壁として立ちはだかっている先……小さな十字路のど真ん中。視線が捉えたのは黒い一台の乗用車と、その車の助手席側の扉を開けて花中達を見つめる『女性』の姿だった。

 その『女性』に、花中は見覚えがあった。

 今までならそっくりさんとの区別も付かなかっただろうが、今朝、初めてその姿をハッキリと目の当たりにした。あの時の記憶は未だ脳細胞に深く刻み込まれている。今なら見間違いなどしない。自分が対峙している人物は絶対に『彼女』だ。

 故に、あり得ない。

 『彼女』がこの状況のこの場に現れ、ましてや花中(じぶん)の名前を呼ぶなんて絶対にあり得ない。一市民に過ぎない自分の名前を、どうして『彼女』は知っているのか。

「詳しい話は後でするわ! 今はこの車に乗りなさい!」

 考え込もうとする花中だったが、『女性』は花中に急ぐよう促す。ロボット達は『女性』を無視して花中達だけを攻撃していたが、放たれた弾丸は跳弾を繰り返しており、その中の一発があの『女性』の脳天を貫く可能性はある。確かに長考している暇はなさそうだ。

 二度目の呼び掛けを受け、花中が思考を巡らせたのは一秒だけ。

「フィアちゃん! あの車に乗って!」

 一秒考えた末に花中が出した結論は、『彼女』の提案に乗る事だった。

「なんだかよく分かりませんけど了解っ!」

「私も行くわ。猫ちゃん、囮役よろしく」

「は? いや、あたしも一緒に行、あ、あれ? 身体が動かな……」

「それでは野良猫後はよろしく」

 何をされたのだろうか。急に動かなくなったミィを、フィアはなんの躊躇もなく置き去りにする。「ひ、卑怯者ぉー!?」とミィは叫ぶも、恐らく犯人であろうミリオン ― ミィの怪力を無効化しているとなると、筋繊維に潜り込んで何かしたのだろうか? ― は真っ先にその『身体』を大気中に霧散させていた。

 花中としては同情するが、銃弾やロケットランチャー程度ではミィは倒れない。申し訳ないが、ここは囮役をお願いする事にした。

 尤もフィアに連れられている現状、花中に抗議する暇などないのだが。フィアは自身が真っ二つにした装甲車へと突撃。ロボット達は即座に陣形を修正し、スクラムを組むように各員の間隔を密にした。

 けれどもその程度では、爆走する『怪物』を止められない。

「退きなさいっ!」

 大きく振り上げた拳を、フィアはロボット達に叩き付けた! フォームも何もない、乱雑で滅茶苦茶な一撃は、余波だけで無数のロボットを吹き飛ばす! ぶち抜いて作った道をフィアは一気に駆け抜けた。

 しかしながらあまりにも雑過ぎた一撃は、直撃した対象以外には十分なダメージを与えられていなかった。吹き飛ばしたロボットの何体かが、ぎこちないながらも動き、手にした銃器を向けてきたのだ。

 フィアが担ぐ水球の中からそれを目の当たりにした花中は、口をぐっと閉じ、ロボットを凝視する。

 ……ロボット達の銃が、火を噴く事はなかった。

「お邪魔します」

 追撃を受けず、フィアは悠々と黒い車の下に到達。ドアを開け、花中を包む水球を中へと押し込みながら、フィア自身も車内へと入る。

「発進します」

 そしてドアを閉める前に、運転席から年期を感じさせる男性の声がした。

 片側のドアを開けっ放しにしたまま、花中達を乗せた車は走り出す。強烈なGを感じるほどの急加速に、道交法違反確定の超高速。アスファルトが削れる嫌な音を奏でながら、車はこの場を後にした。

 花中は水球の中で後ろを振り返る。ロボット達は追おうとしていたのか、車の後方で集まっていた。しかし走ってくる様子はなく、立ち止まっている。銃口も向けていない。彼等は車を追えるほどの速度が出せないのか、それとも……

 ロボットの性能を知らない以上、考えても答えは出ない。それよりも()()()()()()()()()()。頭を切り替え、花中は共に車に乗ったフィアに声を掛ける。

「フィアちゃん、多分、もう大丈夫だから、この水、片付けて、良いよ」

「……良いのですか? いくらなんでもこの状況は色々胡散臭いと思うのですが」

 共に後部座席に座るフィアは訝しげな視線を、助手席側へとぶつける。

「疑われるのは仕方ないけど、こればかりは証拠の提示しようがないわ。まぁ、私の身分なんて、この場ではさして重要ではないと思うのだけれど」

 その視線をバックミラー越しに確認したのだろうか。助手席に座っていた者は身を乗り出し、花中達の方へと顔を見せた。

 花中はこの人物に見覚えがある。

 美しい黒髪、貫禄ある顔立ち……顔のパーツはどれもが記憶と合致する。見間違いをしているとは思えない。この期に及んでただのそっくりさん、とも考え辛い。自分の認識が間違っているとは思えなかった。

 それでも、常識が花中の理解を妨げる。

 助手席から身を乗り出し、自分に微笑みかけてくれる人物がこの国の総理大臣だなんて、到底信じられなかった。




本作は女の子同士の激しい能力バトルが見所です(今回の敵:ロボット 攻撃手段:銃器)
花中越しに銃撃戦や得体の知れない存在に対する恐怖を色濃く書きたかったのですが、友人達が頼もしい結果薄れてしまった気がします。もっと精進していかねば……

次回は10/9(日)投稿予定です。


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世界の支配者5

「……私には何がなんだか分からないのですが花中さん教えてくれませんか?」

 明らかに法定速度を無視した速さで住宅地を駆ける、一台の車の後部座席にて。隣に座るフィアからの質問に、花中もまた悩んでしまう。

 ――――大神千尋総理大臣。

 まさか日本の政界のトップに君臨する女性と、一緒の車に乗る事になるとは考えもしなかった。花中は大神政権の信奉者などではないが……権力というものは、何時だって小市民を萎縮させるもの。最初は実感が湧かず平静を保てていたが、時間が経つほどに自分の状況を理解して血の気が引く。今や花中の顔色はすっかり青ざめ、ガチガチに強張った身体は背筋をピンと伸ばしていた。

 言うまでもなく、総理大臣である彼女には日本という国の命運を左右するほどの力がある。その上日本の経済力と科学力が世界トップクラスなのも加味すれば、国際的にも重要人物だと言えるだろう。

 そんな政界の重鎮が一市民に過ぎない花中と、正体不明の魚類を助けてくれた。市街地で行われた銃撃戦に割って入るという、勇猛果敢な形で。

「……わ、わた、しにも……わかん、ない……」

 この状況に対する答えなど持ち合わせている筈もなく、花中はどうにかこうにか声を絞り出して正直に答えた。

「混乱させて申し訳ないわ。一先ず二つの事を伝えましょう。一つは、私はあなた達の味方である事。そしてもう一つは、分かる範囲でならあなた達からの質問に答える意思があるという事よ」

 戸惑う花中達を宥めようとしてか、大神総理は助手席からそう語り掛けてくる。テレビで放映されている演説のような、威圧的な言葉遣いではない。女性的で、すんなり心を許してしまいそうになる甘い囁きだ。

 お陰で、花中は僅かながら落ち着きを取り戻せた。それから先程の大神総理の言葉を、頭の中で反芻しながら考え込む。

 質問に答える意思がある、という事は、分からない事があれば尋ねなさいと言いたいのだろう。確かに花中は、自分達がどのような状況に置かれているのかも理解していない。向こうから説明を始められても、何処から話が始まるのかも分からなくては理解し辛いだろう。こちらの疑問点を一つずつ潰していく方が、恐らくすんなり話を進められる。

 花中は深呼吸を二回繰り返し、それから自分の胸を撫でる。心臓は未だバクバクと嫌な高鳴りをしているが……これぐらいなら慣れたもの。()()()()()()だ。

 花中は意を決して口を開き、

「では、教えて、ください。あのロボット達、は、あなた達が作った、もの、なのです、か?」

 単刀直入に、一番の疑問をぶつけてみた。

 瞬間、車内の空気が変わる。

「……ふむ。奴等が何者かよりも先にそれを尋ねてくるとは、思いの外肝が据わっている。面白い」

 大神総理の声色が変わる。先程までの甘さはもう残っておらず、鋭く、太刀筋が綺麗な……日本刀のような声になっていた。言葉遣いも女らしさが失せ、普段テレビの演説で語っているような、女傑らしい物言いになっている。

 これが彼女の『素』である、という訳ではないのだろう。政治家だけに腹芸はお得意な筈なのだから。ただし先程までのあやすような、子供扱いは止めてくれた。『対等』とは認めてくれたのかも知れない。

 そのぐらいには、先の質問は図星なのだろうと花中は思った。

 花中達を襲ったロボット軍団……彼等は、非常に高度なテクノロジーを用いられていた。実際に造られていたのだから実用化云々について考察する必要はないが、開発費まで無視する事は出来ない。仮に一機十億円 ― これでも見積もりとしては安いぐらいだ ― だとすれば、花中達を襲った分だけで数百億円ほどの金が必要だ。まだまだ控えはあったようだし、研究予算や維持費の分を考えれば、数千億~数兆円規模の資金が動いてもおかしくない。そしてこれほどの金を動かせる組織など限られている。

 例えば政府。

 日本の場合、歳入は凡そ九十七兆円。借金である国債を除いても六十兆円以上のお金を毎年動かしている。予算の内訳を秘匿する事も可能だろう。何より政府が監督している軍こそが、無人ロボット兵器の開発を一番心待ちにしている存在だ。あのロボットが政府の所有物だとすれば納得がいく。

 それに周辺住民を()()()()()()()()()なんて真似は、政府でなければ無理だ。

 火山警報により無人と化した町……恐らく火山警報はダミーであり、住人を移動させるための方便だろう。秘密裏に開発したロボット兵器を投入するのに、目撃者はいない方が好都合なのだから。善良な日本国民である花中に銃を向けるとなれば尚更だ。偽の避難警報を出せる立場となれば市町村行政、その偽報を黙認する日本国政府の関与も疑わざるを得ない。

 全ての状況が、政府の関与を裏付けていた。

 ……などと主張すると胡散臭い陰謀論っぽいので、花中としてはあまり信じたくはなかったが。大体花中はちょっと変わった友人が多いだけの一般人。国家に仇成すテロリストなんかではない。殺したところで国にメリットがあるとは思えない。

 しかし総理大臣がこうして花中達の前に現れた。疑念が確信へと変わるのに十分な出来事だ。

「あなたの勇気に敬意を表して、正直に答えよう――――Yes。アレは()()が製造し、保有・操作するものである」

 ましてや本人が肯定したとなれば、信じない訳にはいかない。

「ほう。この状況でよくもまぁ堂々と白状出来ましたねぇ……」

 大神総理の言葉に、真っ先に反応したのはフィアだった。ざわざわと金色の髪が音を鳴らし、突き刺さるほどの殺気を視線で放つ。迂闊な事を言えば、即座に首を切り落とすという意思がひしひしと感じられた。

 大神総理や運転手に怯む様子はなかったが、気配から隙が消えていた。フィアの殺気がハッタリや偽物ではないと気付き、その上で堂々とした態度を取り続けている。この程度は計算の内で、何か対抗する策があるのか。

 一触即発。ほんの小さなきっかけで、爆発しかねない空気。

 尤も、フィアの殺意の理由が「大切なお皿を割られたから」だと知っている花中からすると、一人白けた気持ちになってしまうのだが。

「……フィアちゃん。お皿は今度、新しいの、買ってあげるから、今は、我慢して」

「むぅ。花中さんがそう言うならそうしますが」

 窘めると、あっさり矛を納めてくれたフィアを見て花中は一息吐く。ケンカしてほしくないのは勿論、なし崩しに話が終わるのは嫌だった。まだ、訊きたい事は山ほどあるのだから。

 軽く咳払いをし、気持ちと雰囲気をリセット。花中は再び大神総理に尋ねる。

「……じゃあ、二つ目の、質問です。どうして、あの人達……人じゃ、なかった、ですけど……彼等は、わたし達を、襲うのです、か?」

「それについて説明するには、まず我々について話す必要がある」

 そう言った、途端、大神総理からメキメキと歪な音が鳴り始めた。髪の毛はまるで意思でも持っているかのように動き、後ろ姿が変化していく。

 時間にして一分と経たずに、助手席から大神総理の姿が消えた。

 代わりに座っていたのは――――タヌキの頭と人の身体を持った、寓話的な存在だった。

 隣の席の運転手は平然と運転を続けているが、後部座席に居る花中は驚きで心臓が跳ねる。とはいえ、取り乱すほどでもない。彼女のような存在と出会うのは、今回も含めれば片手では数え切れないほど経験したのだから。 

「……ミュータント、だったんですね」

「あなたがそう呼んでいるのなら、こちらもそう呼称するとしよう。尤も、今の我々にはあなたが危惧するほどの力はないのだが」

 前置きをした後、大神総理は語り始めた。

 ミュータントは、『現代』になって突如現れた訳ではない。

 必要なのは人間の知性を伝達する『脳波』と、それを受け取れる体質の生物。この二種の出会いことが、ミュータント出現の原理だ。そして人類自体は、数万年から数十万年前には誕生していたとされている。人口が少ないので頻度は乏しいだろうが、接触自体は古代から行われていたに違いない。

 故にミュータントは、古代史上でも度々出現していた。現代科学でも真似出来ない彼等の驚異的な能力を、当時の人類は神や悪魔として奉り、畏れた事だろう。

 ……しかし、神々の繁栄は長く続かなかった。

 ミュータントの因子自体は、そこそこの確率で遺伝・発現する。ところが伝達脳波を発する形質が現れる可能性は、それと比べとても低いのだ。故にミュータント達の繁栄は、パートナーとなる人間の寿命に依存していた。どれだけ長くとも百年も続かない。復活と滅亡を幾度となく繰り返したのである。

 『そいつ』が生まれるまでは。

 小さな変異だった……()()()()()()()()()()()が現れたのである。

 原理上おかしな話ではない。脳さえ持っていれば誰でも ― それこそ昆虫や魚でも ― 伝達脳波を放つという性質は生じうる。ただし人間ほど大きくもなく、機能的にも精錬されていない脳から知識を受け取ったところでたかが知れている。実際そのタヌキが放つ脳波も強力とは言えず、恩恵はさして大きくなかった。知能は獣が子供になった程度にしかならず、人間から知性を受け取った者が現代兵器すら凌駕する力を振るう中で、タヌキから知性を受け取った個体はちょっと姿を変える程度の力しか持ち得なかった。

 だが、それで良かった。

 伝達脳波を放つモノ、伝達脳波を受け取るモノ……二つが交配し、両方の性質を持つ個体が生まれた。子孫は自身と類似した形質の個体と交配し、遺伝子の『純化』を成し遂げた。近親で交配する限り、二つの形質は確実に遺伝する。そして近親者から脳波を受け取れるので、人間に依存しなくて済む。微妙ではあっても超常の力を宿し、そこそこの知性は持っているのだ。生存競争で優位に立った彼等はどんどん子孫を増やした。そうすると個体密度が増加し、結果伝達脳波の放出量も増え、比例して知性も増大していった。能力の方はあまり発達しなかったが、人間に変化するぐらいは可能になった。

 そうした歴史の積み重ねを経て、彼女達――――タヌキのミュータントは人間並の知性と、特異な能力を『確立』させた。

「やがて人類がクニの概念を持ち始めた頃、我々は人間社会に入り込んだ。そして能力を用いて人間社会での地位を築き上げ、富を独占し、千年以上の月日を掛けて我々にとって有益な社会を作り上げた。今や各国首脳陣、マスメディアや世界的大企業の大部分は我々の勢力下にある。人間社会で起きる大概の事は、我々のコントロール下にあると言っても過言ではない」

 そう締めくくり、大神総理は一度話を切った。

 花中は、疲れたようにため息を漏らす。

 ――――正しく、陰謀論に出てくる秘密結社ではないか。

 ロボット軍団に襲われた時点で『組織』との戦いは想定していたが、まさか世界を裏から支配する超巨大組織だったとは。しかし思えば、彼女達の存在を示す兆候はあった。

 例えば泥落山で行われたフィアとミリオンの争い、ミィとキャスパリーグのケンカ、フィアとミィの戦い、妖精さん戦……いずれも派手にやらかしており、本格的に調べれば、痕跡や目撃者はいくらでも出てきただろう。特にフィアとミィの争い、そして妖精さん戦の二つは、いずれも人間の生活圏で行われている。スマホ一つで撮影者になれる昨今、その光景を写真や動画で撮られていてもなんら不思議はない。

 にも拘わらず、フィア達の存在は表沙汰にならなかった。マスメディアのみならず、インターネットですら話題に上らない。恐らく隠蔽が行われたのだろうが、生半可な権力では不可能な規模……政府を支配する何か、とまではいかずとも、権力の関与ぐらいは推察出来ても良かった。

 そしてフィア達の存在を隠すという事は、即ちフィア達がどのような存在か知っているという事。

 ……成程、と花中は納得する。どうして彼女達が自分達に攻撃を仕掛けてきたのか、その理由がハッキリした。

「んー……んんんんん?」

 ちなみにフィアはまるで分かっていないのか、キョトンとしながら首を傾げていた。

 無視して話を進めるのも可哀想なので、花中はフィアの理解度を確かめる。

「フィアちゃん。何か、分からないところ、あった?」

「あったと言いますか……コイツらの生い立ちは分かりましたがそれがどうして私達に襲い掛かった理由につながるのです? 話を聞くにこの町もコイツらの支配下にある。そして私達はこの町で暴れた……なので疎ましく思うのは分かります。ですが人間がどーなろうとタヌキであるコイツらには関係ないでしょう? 殺されるほどの恨みは買ってないと思うのですが」

 要するに、「自分はそっちに直接的な迷惑も掛けていない」と言いたいらしい。

 確かに『世界の支配者』という如何にも悪そうな連中が、一般人の被害を気にするとは考え辛い。ましてやフィアには権力欲や、政治という社会システムへの理解がないのだ。もしかすると政治家というものはテレビで語られるような、庶民をいじめるだけの存在だと思っているのかも知れない。

 ならば()()()をしていても、おかしくはないだろう。

「一つ、教えておこう。我々は確かに支配者だが、だからといって市民生活と無縁ではない。むしろ市民生活が困窮する事態は、我々にとっても好ましくないと言える」

 その部分の説明は大神総理がやってくれるようだ。花中は口を噤み、話を譲る。フィアは花中から大神総理に視線を移し、先程とは反対側に首を傾げた。

「好ましくない?」

「誤解されがちだが、賢明な権力者は市民生活の水準悪化を好まない。市民からの税金や生産物を収入としているため、市民全体の所得水準が上がれば我々の収入も増加し、経済発展や技術革新は我々の生活を豊かにしてくれるからだ。何より市民が政府に不満を持っていなければ我々の権力は盤石となる。いたずらに市民を苦しめる事は、自分の首を絞めるのと同義と言えよう」

「はぁそういうものなのですか。権力者とは市民から『けつぜー』なるものを吸い取るだけ吸い取ろうとするものだと思っていたのですが」

「私から言わせれば、その方法は得策とは言えないな。何時暗殺されるか分からない不安の中で大して美味くもない外国産の珍味を食べるのより、家族と一緒に堂々と国産和牛のステーキを食べる方がずっと幸福だと思わないかね?」

 本音とも、ジョークとも付かない大神総理の発言。

 だが尤もな話である。支配者の生活は、支配される層の生活水準に依存する。どれだけ暴政を敷こうと、市民が食べ物を生産しなければ、非生産職種である支配者は飢えてしまう。諸外国との交易や援助の私的流用などにより例外は生じるが、基本、為政者は市民の生活に気を配らなければならない。市民の幸福が権力者の安寧に直結するのだ。

 即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()

「纏めると、だ。今回の件は、我々の一派があなた達を駆除しようとして起こしたものなのだよ。あなた達が将来的に人間社会を破滅させると考えて、な」

 最後に大神総理が要約を語ると、フィアは小馬鹿にしたような鼻息を吐いた。

「傍迷惑な話ですねぇ。私は人間にもあなた達にも興味はないのですが」

「私としても藪蛇は勘弁してもらいたいのだがね」

 ぼやくフィアに、大神総理は賛同の意思を現す。それはほんの些細な一言だが、意見を肯定されれば嬉しいものの。先程殺意を向けていた事などすっかり忘れたかのように、フィアは警戒心を解いていた。

 対して、花中は更に考え込む。

 難しい事は何もない――――行政による害獣駆除。市民生活を脅かす獣が現れたので、相応の道具を持って駆除に乗り出しただけ。カラスの巣の撤去や、クマ退治のようなものだ。それを止めろとは、市民の一人である花中の口からは言えない。

 その『害獣』が、花中の大切な友達でなければ。

 確かに、フィア達は色々な事をやってきた。山を壊し、ダムを崩し、昨日はついに町を蹂躙した。だけどそれは決して好んで行った事ではないし、今まで人間は一人も殺していない。ましてやいくつかの事態は花中(じぶん)を守ろうとしてくれた結果生じたものなのだ。その行為を批難する考えに反感を覚えずにいられるものか。

 話し合いや説得なら喜んで賛同し、力を貸しただろうが、殺そうとするなんて……絶対に認められない!

 『敵』の目的が分かり、花中は決意に燃える。同時に、情報を提供してくれた大神総理に感謝の気持ちも抱いた。彼女の話がなければ、いくらなんでも『世界を裏から支配する組織』なんて思い付かないか、閃いても常識に阻まれて否定していただろう。大神総理からの情報がなければ、今頃途方に暮れていたに違いない。

 さりとて、だから全面的に信用するかと言えば、それとこれとは話が違う。

「……あなたは何故、わたし達に、味方、するのですか?」

 花中は大神総理の目的を、まだ聞いていないのだから。

 今回の事件は、ここまでの話が事実なら大神総理の属している組織が起こしたものである。そして人類の支配者である彼女達の組織は、人類の繁栄こそが望ましい状況だ。

 友人の身で言うのも難だが、フィア達の力は人類にとって脅威である。駆除を目論む者が現れるのは当然、と言うより花中のような事情でもない限り賛同するのが普通だろう。だからこそ花中はフィア達に自制を促して表沙汰にならないよう努力している訳だ……あまり聞き入れてもらえないし、たまに忘れ去られるが。

 大神総理とて、人間から利益を得ている側である。今回組織が下した決定に不都合はない筈。その目的や正体を花中達に明かし、組織に不利益を与えてどうするつもりなのか?

 何かを企んでいるのでは――――その疑念を払拭出来ないままでは、花中は大神総理の言葉を鵜呑みにする気になれなかった。

 対して大神総理。小さく何度か頷き、質問の意図を察した様子。躊躇した素振りもなく答えた。

「なんて事はない。我々も一枚岩じゃないというだけさ。あなた達の存在について私達は一月半ほど前から察知していたが、意見は二つに分かれ、纏まっていなかった」

「二つの意見、ですか?」

「簡単に分けると、武闘派と穏健派。最初は穏健派が多かったのだが、あなた達の力が明らかになるにつれ、武闘派に転じる者が増えた。野放しには出来ないと思ったのだろう。そして先日ついに過半数を占めてしまってね。予算案を通し、行動を始めてしまった」

「……………」

「さっきも言ったが、私は此度の事は『薮蛇』だと思っている。あなた達と戦えば、こちらの損害も小さくはないと考えての事だ。しかし武闘派が動いてしまった。このままでは同じ組織のメンバーである我々も攻撃対象になるかも知れない……そうなる前に、()()()()()()()()()()という事を示す必要があった。そしてそれを最も効果的に示す方法は、あなた達が求めている情報を提供する事……という説明では、納得してくれないかね?」

 話を終えて、大神総理が車内ミラー越しに花中へと視線を送ってくる。花中は返答を求めているのだろう。

 しかし花中はすぐには答えず、見せ付けるように考える。

 大神総理の語った理由は、非常に打算的なものだった。

 信頼や友情が大好きな花中であるが、初対面の政治家が語る人情話に絆されるほど不用心でもない。むしろ生臭い話の方が納得出来るというものだ。とはいえ、話を鵜呑みにはしない。彼女が全てを打ち明けている保証はないし、嘘を吐いていないとも限らないのだから。あくまで現時点では、大神総理の話に矛盾や違和感を覚えないだけである。

 罠に引っ掛からないよう、信用はしても油断はしないよう気を張っておくのがベストか。

「……分かりました。今回は、それで、信用します」

「それで、か。信用してもらえたようで何より」

「はい。信用してますから、ね?」

「ああ、安心したまえ。裏切りはやらない主義なんだ、費用対効果が悪いからね」

「うふふふふふふ」

「ふふふふふふふ」

 にこやかに笑い合う花中と大神総理。それを目の当たりにして「すっかり仲良しですねー」と拗ねているフィアが、一番信用出来ると花中はひっそりと思った。

 ともあれ、疑問点に関しては一通り出したか。

 『敵』の正体と目的を教えてもらえた。戦うであろう存在の情報を入手出来たのは幸先が良い。無論情報は持っているだけでは意味がなく、そこから先を考察して初めて価値が生まれるもの。ここからが勝負の本番だ。

 気持ちを締め直す花中。と、何気なく視線を車窓へと向けた時、ふと思った。

 ――――この車、何処に向かっているのだろう?

 窓から見える外の景色は、ガードレールと生い茂る木々に囲まれた、片側二車線の一般道。何処となく見覚えがあり、確か、市街地を抜けて都市部へと向かうための道だったか。住宅はなく、偽とはいえ火山警報が出ているからか、花中達を乗せた車の車線だけでなく、対向車線にも車の姿はない。

 単純にロボット兵士から逃げ切るためなら、もう姿も見えないのだから停まっても良さそうである。しかし未だスピードを落とさない辺り、何処かを目指しているように感じる。まさかと思うが、妙なところに連れて行かれるのでは……

「あの、そう言えば、この車は、何処に、向かっているの、ですか?」

 おどおどと花中が尋ねると、大神総理は「おっと、話し忘れていたな」と零す。演技らしさはなく、本当にうっかりしていた様子だ。

「何、我々穏健派が使用している施設に向かっているだけだ。タヌキ型ミュータントの巣窟と言えば言葉は悪いが、生憎現代の我々は人間に毛が生えた程度の生物でしかない。君の友人なら簡単に蹴散らせるだろう。少しは安心してもらえたかね?」

「……そう、ですね。フィアちゃんと、一緒、なら」

「理解してくれて助かる。向こうでは他の上層部メンバーも居るので、恐らく攻撃はない筈だ。断言は出来ないが、作戦会議をする余裕ぐらいはあるだろう」

「え? お、襲ってくるかも、知れないのです、か?」

 いくら派閥が異なるとはいえ、同じ組織のメンバーに攻撃を仕掛けるなどあり得るのか? そう思う花中に向けて、大神総理は悩ましげに肩を竦める。

「本来なら御法度だ。しかしアイツは、と言うよりその取り巻きは厄介な事にその御法度を恐れなくてね。それにお咎めも何処までやれるか。アイツが相手となると皆萎縮するからな……」

 そして忌々しげに『誰か』への悪態を吐き、

「っ! 掴まって!」

 今まで一言も喋らなかった運転手が、唐突に叫んだ。

 突然の出来事に、凡人である花中は反応出来ない。それでも無意識に両手でシートベルトを握り締めていたのは、幾度となく死にそうになった経験故か。

 尤も、意味があったかは分からない。

 突如爆音が轟くや、花中達の乗っていた車が――――横転したのだから。

「きゃああぁぁあぁああ!?」

「よっと」

 車体が傾いた瞬間、フィアは手から水を出して悲鳴を上げる花中を包み込む。あらゆる衝撃は水が受け止め、花中の身体にダメージは届かない。

 だが車は、まるでボールのように転がっていた。

 三半規管がシェイクされ、胃の中身が何度もひっくり返される。肺が慣性により押し潰され、引き延ばされ、息が出来ない。身体のあらゆる機能がパニックを起こし、悲鳴を上げている。

 やがて車の動きは止まったが、それで終わりにはならない。

 換気のためか、身を守ってくれた水球が一瞬解かれたのだが……その際花中は焦げ臭さを感じたのだ。それどころかガソリンの臭いもする。何処かから出火しただけでなく、燃料のガソリンが漏れているようだ。

「う、ぅ、く……」

 そこまで分かるのだが、これからどうすべきかを考える頭が働かない。傷こそない身体も、転がり回った余韻が抜けておらず動けない状態だ。そもそも自分がどんな体勢なのかもよく分からない。

「やれやれ。動きがあったのは良いのですが些か忙しないですねぇ」

 フィアが居なければ、花中はきっとこの車と共に心中していた事だろう。

 フィアは花中を包んでいる水の一部を刃物の変形させ、シートベルトを切断。花中ごと水球を引っ張りながら、車のドアに手を伸ばす。カコン、とロックが外れる音はしたが、ノブを操作してもドアは開かない。事故の衝撃で歪んでしまったのか。

 尤も、人間ならば戸惑う事態でも、フィアにとっては些事。軽く押して開かないのなら、強く押せば良い……そうと言わんばかりにバギンッと物騒な金属音を鳴らし、フィアはドアを軽々とこじ開けた。阻む物はなくなり、フィアと花中は車体から抜け出す。無事脱出した花中は痛む頭を抑え、水球内で体勢を立て直すや乗っていた車の方を見遣る。

 そして、ギョッと目を見開いた。

 先程まで花中達が乗っていた車はひっくり返り、黒煙を上げていた。だが、そんな事は車内で踊らされた時点で予感している。此処が片側二車線の一般道なのも、窓から見ていたので知っている事。

 問題は車から数十メートル離れた場所に、巨大な穴が出来ていた事だ。コンクリートは抉れ、内側の土が外側へと飛び出しているような……所謂クレーター状になっている。クレーターの幅は五メートル以上あり、花中達が走っていた車線のみならず、中央分離帯と反対車線の一部も破壊されていた。

 言うまでもなく、このような大穴が生半可な出来事で生じるとは思えない。

「な、ん……!?」

 一体何が起きたのか。困惑し、少しでも情報を得ようと無意識に辺りを見渡す花中だったが、自分が先程まで乗っていた車が再び目に入るやはたと思い出す。

 そうだ。車の中には自分やフィアちゃん以外にも、大神総理や運転手さんが居たではないか。

 水球の中からでは、車内を覗き込む事は叶わない。だが外に姿が見えない以上、二人は未だ車内に閉じ込められていると考えるべきだ。最悪な事に、花中は脱出前にガソリンの臭いと焦げ臭さを感じている。ガソリンは非常に可燃性が高く、一度火が付けば爆発的燃焼……即ち爆発を起こしてしまう危険な燃料だ。悠長に悩んでいる暇はない。

「ふぃ、フィアちゃん! 車の中の二人を、助けて!」

「……あいあいさー」

 花中のお願いに、僅かながら間を開けてフィアは応答。『身体』から水の触手を生やし、車へと伸ばす。触手は前部座席のドアをこじ開け、そのまま車内に侵入。

 数秒ほどごそごそと動かした後、大神総理を引っ張り出した。ただし出し方はかなり粗雑。彼女の身体がドアのフレームにぶつかろうとお構いなしで、出した後は適当な場所に放り投げる始末だ。

「ちょ、フィアちゃん!?」

 あまりにも雑な救出に声を荒らげる花中だったが、フィアはこちらを振り向いてもくれない。再度車に突っ込んだ触手は、今度は運転手さんを引き摺り出し、大神総理の傍に捨てる。

 二人とも捨てられた時に微かな呻きを上げた。呻いたという事は生きているという事。今は動いていないが、僅かに胸が上下している。息はあるようだ。そこは安堵して穏やかな気持ちになるのだが、やはり助け方というものがある。

「フィアちゃん! なんでそんな」

 適当な助け方なの――――そう続けようとして、花中は声を詰まらせた。

 花中は気付いた。フィアの視線が、先程からずっと一点……横転し、今にも爆発しそうな車ではなく……その車が向かおうとしていた方角に向けられていると。

 その視線の先から、不気味な音が聞こえてくると。

 花中は吸い込まれるように友達が見つめている場所を、自分もまた凝視してしまい――――

「……えっ」

 やがて、ポツリと声を漏らした。

 地平線が見えるぐらい、真っ直ぐ伸びる道路。その彼方から、一台の車が花中達に近付いていた。

 車なんて、あまり詳しくない。

 だけどその車については、花中もよく知っている。乗用車なんて比較にならない車高、前に突き出した『砲身』、悪路を走破するためのキャタピラ……あの姿を見れば、誰だってその名前を呼べる。

 だが、花中は口を噤んだ。

 拒みたかった。何かの間違いだと思いたかった。

 ――――いくらなんでも、『戦車』が現れるなんて。

「……嘘、だよね……流石に……」

 弱音を吐くも、戦車は消えてなくならない。それどころかキャタピラの甲高い音が頭を揺さぶる。あたかも、これが現実だと訴えるように。

 やがて戦車は、花中達のかなり近くまでやってきた。近くと言っても数十メートルほど離れているが、有効射程数キロにも達する戦車砲からすれば目と鼻の先ぐらいでしかない。

 戦車砲の初速は秒速千五百メートル……時速にして五千キロを超えるという。果たしてこの超至近距離で撃たれ、フィアに対処出来るのか――――

 花中は不安で身体を縮こまらせ、フィアは気にも留めない様子で戦車を見つめる……と、ふと戦車のてっぺんが、パカッと開いた。

 戦車の中から出てきたのは、無数のロボット達。花中達を襲撃したモノと同型だ。

 そしてそのロボット達が囲うように陣取る中で、最後に『一人』の人影が現れた。

 一見してその人影は、若い女性のようであった。顔立ちには幼さがあり、十代か、精々二十代ぐらいの年頃に見える。着ているのはチャイナドレスのような、一枚布で作られた灰色の衣服。礼服ではなく私服のような姿は、お洒落を楽しむ少女のような雰囲気を演出していた。

 だが、捕食者のような鋭い眼差しが、彼女が無垢な乙女でない事を物語る。

「……へぇ。まさか全員生存とは。変異個体と『起源』は最初から期待していなかったけど、総理ぐらいは今ので狩れたと思ったのに。退化しても、それなりには能力があったのかしら」

 女性は花中達を一瞥すると、感嘆したように独りごちる。笑みを浮かべるその顔に後悔の色などない。

 道路に出来ていた巨大なクレーター……恐らく、目の前の戦車が弾頭を撃ち込んだ際の衝撃で生まれたのだろう。その余波で花中達が乗っていた車は浮かび上がり、横転したのだ。いや、横転で済んだと言うべきか。秒速千五百メートルの速さで、重さ数十キロの鉄塊が飛来してくるのだ。直撃すれば人間は勿論、乗用車すら跡形も残らない。撃たれたにも拘わらず車が原型を留め、死人が一人も出ていない今の状況は奇跡と呼ぶべきだ。

 それほどの威力を誇る戦車砲を人に向けながら、戦車から現れた彼女は純朴に笑っている。

 無垢を通り越した、狂気の思想を感じさせた。

「あ、あなた、は……!?」

「ん? ああ、私とした事が挨拶を忘れていたわ。これは失礼」

 花中が漏らした言葉に、女性は今になって気付いたと言わんばかりに驚く。そして戦車の上に乗ったまま、花中達を見下ろしながら女性は一礼。

「初めまして、とでも言っておこうかしら。此度の黒幕を務めさせていただいている、佐渡島(さどじま)真魅(まみ)と申します。以降お見知りおきを」

 上げた顔にゾッとするほどにこやかな笑みを浮かべながら、名乗りを上げるのだった――――




本章の裏テーマは「人類掌握に成功した平成狸合戦ぽんぽこ」です。
……半分ぐらい冗談です。人間に変化=タヌキというイメージ重視で設定。なんじゃそりゃと言われそうですが、そもそも魚類が水を操っている時点で本作割とイメージ重視ですから(開き直り)

次回は10/16(日)投稿予定です。


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世界の支配者6

 水球の中で、花中は困惑していた。

 突如現れた自称黒幕……真魅。

 一見して若く麗しい女性にしか見えない彼女が、無数のロボットをけしかけ自分達を殺そうとしてきた黒幕、即ち『武闘派』達のリーダーとは思えない――――訳ではない。戦車を引き連れておきながら、私は全く無関係な一市民だ、と主張するよりかは遙かに説得力がある主張だ。今も侍らせているロボットの一体から差し出されたモノクルを受け取っており、少なくとも彼女がロボット兵士を従える存在なのは間違いない。

 だが、その説得力は比較の問題である。巨大組織のボスが、こんな簡単に出てくるものなのか? ましてやほんの数分前に、フィア達が圧倒的な力で機械兵士を破壊しまくっている。戦局を把握していれば、ロボット達は護衛にならず、戦車でも壁になるか怪しい事は分かる筈だ。姿を現す事の危険性は分かっているだろうに。

 しかしこの場で自分がリーダーだと騙る理由はなんだ? 交渉役ならそうだとハッキリ言えば良い。一体、彼女の思惑は――――

「疑問に思うのは結構。すんなり信じるよりは懸命よ。そうこなくちゃ話にもならない」

 駆け巡る花中の思考を読んだのか。耳に掛けているモノクルを弄りながら、真魅は返事をするかのように語り掛けてきた。身を強張らせる花中だったが、一呼吸挟み、揺らぐ心を静める。なんて事はない。この状況で黒幕だと名乗っても、誰だって不審に思うものだ。こちらのペースを乱すための、ちょっとした意地悪に過ぎない。

 それより、今はもっと大事な事がある。

 ちらりと真魅から逸らした視線が捉えるのは、車体から助け出したものの、未だぐったりとしている……大神総理と運転手。

 本当に黒幕かどうかも分からぬ人物の相手をするより、彼等の安全確保の方が重要だ。特に大神総理。彼女が車の中でした話が確かなら、この真魅という女性と大神総理は、派閥こそ異なるが同一組織に属している。大神総理ならば真魅の正体を知っている可能性は高い。また真魅にとって大神総理は、手の内を知っているかも知れない相手。情報を花中達に流す存在だ。真魅があわよくば大神総理の殺害も狙っていたのは、彼女の言動からして間違いない。隙を見せれば、真魅は総理の殺害を試みるだろう。

 まだ大神総理からは訊きたい事がある。何より、知り合った命が奪われるのをみすみす許す訳にはいかない。

 どうにか隙を見付け、二人を連れて逃げないと……

「……自称黒幕さんが、なんの用ですか?」

「大した話じゃないわ。ただ降伏勧告をしようと思ってね」

「降伏勧告?」

 訊き返すと真魅はにっこり微笑みながら頷く。

 勧告自体は、問題ではない。襲い掛かってきたロボット軍団や装甲車に戦車、更には町全体に敷かれた情報統制……どれも莫大な資金を消費する。自宅襲撃時に始末出来なかった事で、フィア達を倒すには更なる戦力投入と資金が必要だと真魅は判断したのだろう。降伏勧告をした方が()()済むとなれば、選択肢に入るのは合理的な考えだ。

 問題は、勧告には何かしらの『要求』があるという事。

 応えられる要求ならば構わない。花中とて戦いは避けたいし、話し合いの余地があるのはむしろ願ったり叶ったり。熱い討論に発展しようと、胃がキリキリ締め付けられるような駆け引きが生じようと、命を取り合わないなら望むところだ。

 だが、

「フィア、ミリオン、ミィ……この三匹を殺処分させなさい。大人しくしていれば、大桐花中、あなただけは助けてあげるわ」

 妥協も交渉も出来ないほど一方的な要求を突き付けられたなら?

 花中が一番避けてほしかった言葉を、真魅は易々と吐いた。

「……ミリオンとミィに関してなら私も異論はないのですが」

「フィアちゃん。あっさり、釣られないで」

 早速妥協案 ― 自分だけを除外しておいて妥協も何もないが ― を提示するフィアに、花中はツッコミ一つ。

 どう考えてもこれは、仲間割れを誘う文言だ。

 みんな自分の命は惜しい。そしてフィア達は、基本的に他のミュータントの事を大事に思っていない。話はするし遊びもするが、いざとなったら躊躇なく切れる……ビジネスライクな付き合いだ。

 そこで自分を含む三体のミュータントを殺させろと要求されたら? 自分だけ見逃してもらえれば良いのだから、いくらでも妥協案は出せる。向こうも、よもや条件丸呑み以外認めないスタンスではあるまい。恐らく妥協案は飲むだろう。

 そんな流れを三匹……いや、二匹に通せば、あっという間に三分割だ。分割してしまえば各個撃破が可能になる。何より約束を交わしたところで、彼女達がそれを守るとは限らない。花中が真魅の立場ならまず守らない。第三者の目が光っていない状況での約束は、双方に『信頼』がなければ成り立たないのだから。

 丸呑みは勿論、妥協する価値すらない提案だ。

「……論外です。話し合いを、する気が、あるのです、か?」

「あら、意外な反応ね。少しは怯むかと思ったのに」

 花中が強気な言葉を返すと、真魅は驚いたように目を丸くする。恐らく、真魅は花中の臆病な性格を熟知しているのだろう。フィア達の存在を知っているぐらいだ、小娘一人の性格を調べ上げるぐらい造作もあるまい。友達が大好きだが、小心者で卑屈で怖がり。戦車砲を向けられている状態なら、売り払うような真似はせずとも悩むぐらいはすると踏んでいたのか。

 確かに今の花中はフィアが作った水球に守られているとはいえ、果たして戦車砲の直撃から生還出来るのか。やってみなければ分からないとフィアなら言いそうだが、分かったのが雲の上や地の底に行ってからでは困る。不安で堪らないのは、悔しいが認めるしかない。

 それでも、どんな威嚇をされようと、今の花中に友達を裏切るつもりは毛頭ない。

 自分達以外誰も居なかった『あの洞窟』で、もう友達の気持ちを踏みにじる真似はしないと決めたのだから。

 ……戦車砲の穴をチラチラ覗き込んだり、バクバクと脈打つ胸を抑えたり、汗をダラダラ流しながら言っても、説得力はないかも知れないが。いずれにせよ、真魅の話に乗る気はない。

「しかし得策とは思えないわね。交渉はね、自分からお願いすると高く付くものよ?」

 猫を前にした鼠のように精一杯睨み付ける花中を前に、淡々とぼやく真魅。すると周りに居たロボット兵士の一人が真魅に歩み寄り、彼女の手に何かを乗せる。

 そして真魅はその何かを、花中達の方へと飛ばしてきた。

 ひらひらと舞い落ちる『何か』の姿から、真魅が飛ばしたのは四枚の紙だと分かった。一枚捕まえるのも大変なそれらを、フィアは『身体』から水触手を伸ばして易々と全てキャッチする。掴んだ紙をフィアは自身の手元まで寄せ、じっと眺め……顔を顰めた。

 それから、花中を包んでいる水球に紙を突っ込む。

「……フィアちゃん?」

「私でも大方意味は分かりました。二枚が誰かは分かりませんけど恐らくそういう事なんでしょう」

 兎に角見てほしい、という意味なのか。曖昧なフィアの言い方を怪訝に思いながら、花中は水球内を漂う四枚の紙へと手を伸ばす。水球の壁は花中の手で容易に貫け、紙を取るのに支障はなかった。花中は促されるがまま、受け取った紙に目を向ける。

 花中が目を見開き、顔を真っ青にするのに、それから数秒と掛からなかった。

 真魅が投げてきた紙は、写真。

 晴海や加奈子、そして()()()()()()()()()()が映された写真だった。

「っ!? あ、こ、こ、れ……!?」

「我々の組織を甘く見ないでほしいわね。海外暮らしをしている科学者二人を見付けるぐらい、訳ないわ。ところでその写真の面子全員に私の部下が付いているのだけれど……意味、分かるわよね?」

 真魅からの問い掛けに、花中は言葉が出せない。

 あからさまな脅しだ。黙って従わなければ写真の人物達に危害を加えると言っている。市街地に武装したロボットや戦車を運び込める連中なのだ。暗殺ぐらい造作もないだろう。

 しかも花中の両親は海外に居るのだ。フィア達の力なら、同じ町に暮らす晴海と加奈子は花中のついでに守れる。だが、両親は無理だ。何処の国に居るかも知らないし、どう考えても手の届く範囲には居ない。

 友達と肉親……それを無理やり、交渉の天秤の上に乗せられた。いや、これだけで終わる筈がない。少なくとも花中なら終わらせない。

「ああ、そうそう。降伏勧告なんだけど、少し内容を改めてさせてもらうわ。フィア、ミリオン、ミィの殺処分を認める事。そして大桐花中……あなたの身柄を拘束させてもらう」

 圧倒的優位に立ったのだから、交渉条件を自分達にとって有利なものへと変更するに決まっている。

「な、な、ぁ、う……!?」

「生憎だけど考える時間をあげるつもりもないの。と言っても、あなたのお友達に通用するか分からないから……一分。一分過ぎる毎に、この戦車が砲撃を行うわ。そうねぇ、()()()とかを撃ったらちゃんと考えてくれるのかしら?」

 おまけに考える時間も奪うときた。

 話の主導権は完全に真魅に握られてしまった。彼女の望む言葉以外を吐き出せないよう、徹底的に誘導され、逃げ道を塞がれている。これでは花中から妥協案を出しても、人質の存在を臭わされたら撤回せざるを得ない。人質を解放させるには、花中の方からより旨味のある提案をする必要がある。

 交渉は、自分からお願いすると高く付く。

 先程真魅が言っていた通りだ。今や真魅は花中の身柄をも要求している。晴海達や両親が花中に対する人質なら、花中はフィア達に対する人質にするつもりなのだろう。そうして無力化したところを兵器で攻撃すれば……

 例え嘘偽りでも、最初から真魅の提案を受け入れていれば、少なくともフィア達にとって()()()()()人間である花中(じぶん)を掌握される展開は避けられたかも知れない。先程の選択は間違いだったのか。間違いだとしたら、次はどう動けば良い? でも、その選択も間違いだったなら?

 一体、どうしたら……

「花中さん。安心してください」

 暗闇に沈みかけた花中の心を現実に引き上げたのは、自信に満ちたフィアの言葉だった。

「フィア、ちゃん……?」

「あら。何か策があると言うのかしら? それとも私が涎を垂らして飛び付くほど魅力的な提案?」

「いいえどちらでもありません。むしろ私がいただこうと思っていまして」

「……何?」

 フィアの思わせぶりな言い回しに、僅かに真魅の表情が強張る。

 そんな真魅にフィアは清々しく微笑んで、

「お命ちょうだいというやつですよ」

 なんの罪悪感もなく、その言葉を発した。

 そして誰かがその言葉を理解するよりも早く、ぶんっ、とフィアは力強く腕を振るう。

 フィアの友達である花中は、その動きによって生じる結果を知っている。真魅もフィア達について調査をしていた以上、きっと理解はしているだろう。

 だが、分かっていても対応出来るとは限らない。

 何しろ高速で不可視の『糸』が飛んでくるのだ――――真っ当な生物に避けられる訳がない。

 鞭で叩いたような、甲高い音が聞こえた時には全てが終わっていた。たくさん現れたロボット達は残さず頭を落とされ、戦車に至っては縦に真っ二つ。

 当然戦車の上に立っていた真魅にもうっすらと縦に線が入り、

「あっぶな!?」

 真魅は慌てて、()()()()()()()()()()()

 瞬間、真魅の身体から鮮血が溢れ出す。

 身体の中心に入った線から、ぶしゃりと音を立てて血が飛び出した。血は足下の戦車に飛び散り、鮮やかに彩る。映画やドラマで鮮血が飛び散るシーンは何度か見た事があるが……本物の出血は、あんなに『綺麗』じゃない。ドロドロしていて、液体の筈なのにまるで固形物が溢れたよう。花中は胃から込み上がるものを感じ、慌てて口を抑えた。

 しかしその程度で収まるような温い吐き気ではない。耐えられない衝動に、抑えた口から胃の中身が溢れ出す。昼食前で、入っていたのが酸っぱい胃液だけだったのが幸いだった。

 ――――ここで全てが終わっていたなら、幸いで済んだのに。

 血を噴き出した。真っ二つになった戦車の真上に立っていた。そこから真魅の『状態』を推測することは、決して難しくない。間違いなく、彼女はフィアが繰り出した『糸』の直撃を食らっている。

 なのに。

 ……どうして真魅は、倒れない?

「ふぅー……ヤバいヤバい。危うく死ぬところだったわ。貧血にもなってるし、次は耐えられないかも」

 倒れないどころか、真魅は平然と喋っていた。両手で顔をペタペタと触り、それから胴体をまさぐり、切られた衣服や下着を脱ぎ捨てる。躊躇なく晒した、芸術品を彷彿とさせる美しい裸体の何処にも傷口は見られない。血の跡こそあったが、真魅が指で擦れば消えてしまう。もう、何処からも出血はしていない。

 つまるところ、真魅は生きていた。身体を縦に切り裂かれたにも拘わらず、ずれてしまったモノクルの位置を直す余裕があるほど健全に。

「(な、んで……!?)」

 フィアのようにあの『身体』は作り物なのか? 脳裏を過ぎった可能性は、しかし真魅の身体が切断された瞬間、いくらかの出血を伴っていた事実によって一蹴される。生身なのは間違いない。

 だとすれば『能力』。

 名言こそしていないが、『武闘派』の一員である真魅の正体は大神総理同様タヌキのミュータントであろう。ならば能力を持っているのはさして不思議ではなく、先の事象を起こした原理も推察出来る。人間に変化出来る事からして、全身の細胞を通常では考えられない早さで組み換える……つまり分裂させるのがタヌキ達の能力。簡単に言えば子供が大人になる過程を、自らの意思でコントロールし、ほんの数秒で成し遂げる事が出来る力だ。そして細胞分裂の速度が早いのなら、傷の修復にも応用出来る。例え身体を切断されても、人智を超えた細胞分裂によって接合してしまえば良いのだ。

 無論脊椎動物、ましてや哺乳類にこんなとんでもない能力を誇る生物は確認されていない。だがミュータント……一億トンの水すら操る事もある……ならば、このぐらい出来て不思議はない。

 本来なら、という前置きは必要だが。

 話が違う。大神総理の話では、彼女達の能力は人間に化ける程度でしかない。進化の過程により、圧倒的だが一代で終わる力ではなく、貧弱だが次世代へと引き継がれる性質が残ったと言っていた。今では人間に変化するのが精々だと、間違いなく言っていた。

 なのに真魅はどうだ? 切断した身体を瞬時に接合するほど細胞分裂が早い。頭部が両断されても、容易に復帰している。これではまともな手段では倒しきれない……いや、その不死性を『武器』にして捨て身の攻撃を行えば、有限の命しかない人間を蹴散らすなど容易いではないか。

 あの時話していた、「今の我々にはあなたが危惧するほどの力はない」とは一体なんの冗談だ?

 こんな相手、とても人間の手に負える存在じゃない!

「なんてしぶとい……ですが一撃で死なないのならもう一発!」

「おっと。漫才じゃないんだから天丼なんてやっても仕方ないわ。お土産をあげるからちょっと大人しくしてなさい」

 花中同様困惑しつつ、しかし力で捻じ伏せようと腕を振り上げるフィアを、真魅は余裕のある声で制止。お土産を渡すと言われ戸惑うように身を強張らせたフィアを前にしながら、真魅は身体にこびり付いた血を手で悠々と拭う。

「私はね、祖先返りした個体なの」

 そして彼女は堂々と、誇るように『種』を明かした。

「祖先、返り……!?」

「太古の時代、私達が本来持っていた能力……ミュータントとしての本当の力。私にはそれが扱えるのよ。代わりに伝達脳波は出せないけどね」

「っ……!」

 自分は純正のミュータント――――真魅はそう語り、花中は声を詰まらせた。

 その圧倒的な再生能力は正しく『ミュータント』の能力だった。己の力の特性を理解し、フィア達の力と比べた上でもなお一撃でやられはしないとの自負があった。故に派閥の代表でありながら、彼女はこうして花中達の前に姿を現せたのだろう。

 合点がいった。同時にこの行動が考えなしの驕りや突発的なものではなく、自信に裏付けされたものであると分かり、花中は身を震わせる。

 今までのミュータントとは違う。

 実力を比べた上で「勝てる」と踏んだ彼女相手に、無策の自分達は立ち向かえるのか?

「……………?」

 恐怖と不安に心が潰されそうな花中だったが、その時フィアの、眉間に皺が寄った横顔が眼に入った。訝しげなその顔は、何かを思案するよう。

 どうしたのか。

「さぁてと、話を戻しましょうか?」

 尋ねようと花中は口を開くも、ねっとりとした真魅の言葉が花中の意識に割り込んだ。

 刹那、花中は身体をぶるりと震わせ、血を引き抜かれたような寒気を覚える。

 例えばである。

 もし真魅が大神総理と同程度の ― 身体を人間型に変化させる程度の ― 能力しかなかったなら、フィアのやり方で事態の打開を図れたかも知れない。先手必勝で真魅の命を奪ってしまえば、一先ずこの場は収まる。リーダーである真魅の喪失により、かの組織は一時的でも統制を失った筈だ。その隙に大神総理が属する穏健派が勢力を拡大させ、タヌキ達の議席の大勢を占める……そのような形での解決もあり得た。

 だが、真魅は死ななかった。

 真魅の実力がどの程度かは分からない。しかし見せ付けられた生命力、加えて後ろに控えている組織の力を考えれば、フィアがもう一度襲い掛かったところで彼女はこの場から易々と逃げ果せられる筈だ。

 そしてもし逃げられたら、友達と、家族の命はどうなる?

 最悪の展開を予期し、花中は呼吸を荒くする。バクバクと破裂しそうな心臓を抑えたくて、胸から手が離せない。

 真魅は花中から戦うという選択肢を奪い取ったのだ。自分達が動けば動くほど身動きを封じられる。万策が、それを上回る強大さと知性で押し潰される。こんな戦い、今までに経験した事がない。

 いや、どうして敵うと思ってしまったのか。

 どれほどの英才を誇ろうと、どれほどの友情を結ぼうと……個人が『組織』に抗える道理などないのに。

「考える時間はたっぷりあったわよね? その子の粗相については、退屈しのぎにはなったから見逃してあげる。でもね、私も暇じゃないの。そろそろあなたの答えを聞かせてもらおうかしら……大桐花中」

 迫るように、一歩、真魅が歩み寄る。花中は身動ぎしながら後退り……しようにも水球の中に居るため下がれない。

「――――っ」

「そこの魚類も二度目はないわ。大桐花中に嫌われたくないなら、動かない方が良いわよ?」

 その口を黙らそうとしてか動こうとするフィアも、真魅の脅し文句で動きを阻まれる。フィアはちらりと花中の事を見てきたが、花中には何も言えない。ここで真魅を攻撃したら、彼女は見せしめとして無関係な人を傷付けるかも知れないのだ。フィアにお願いする事など出来ない。

 しかし、ならどうするのが正しい?

 彼女の要求を拒めば、自分と近しいというだけでターゲットにされた家族と人間の友達が命を失う。しかし受け入れれば自分は人質となり、人間ではない友達の身動きを封じられてしまう。どちらを選んでも最悪の結果にしか至らない。抗おうにも正攻法は知略で潰され、奇策は組織の物量に押し流される。

 何を選べば良い? どう決断したら良い? 如何なる策を考える?

 ――――何も、考えられない。

「ほぉーら、こんなところに通信機があるわよ。私の一声で何起きるか、楽しみねぇ?」

 だけど真魅は時間を与えてくれない。彼女は自分の耳にセットされていた親指サイズの機械を取り外すと、それを見せ付けるようにゆらゆらと揺らした。

 今、彼女が一声掛けたなら、それだけで誰かが命を落とす。決断を迫られている。答えを求められている。だけど頭が働かない。ぐらぐらと揺さぶられるような気持ち悪さが駆け回り、身体中から汗が溢れて止まらない。口の中がからからに渇き、舌は空回りするばかり。助けを求めたくても、『誰』に求めれば良いのか分からない。

 どうにもならない。

 なんとかしたい。

 何も出来ない。

 逃げたい。

 選べない。

 怖い。

「残念、最初のタイムオーバー。ハッタリだと思っているのなら、目を覚まさせてあげましょうか」

 そして真魅の言葉で、意識は黒く塗り潰されてしまい。

「わ、わたしは――――」

 何かを言おうとして花中は口を開けた

 瞬間、ぶしゃりと()()()()()()()()

「……ぇ」

「がっ、ごぼっ!?」

 唖然とする花中、それ以上に慌てふためきながら真魅は自身の喉元を抑える。

 が、彼女の喉はゴポゴポと音を鳴らし、あぶくと湯気を吹き上げた! その勢いたるや、抑えようとした真魅の手を弾き返すほど。

「ご、ごぽぁ!? あ、ぁ、が、ごぼ、ぼっ、ご!?」

 まるで空気中で溺れているかのように、真魅は苦悶の呻きを上げる。口から、喉から、止め処なく血が溢れているのだ。呼吸など出来る訳がない。周囲が飛び散る液体と湯気により、赤く色付いていく。

 これは一体なんだ?

「あまり調子に乗らない事ね。寿命が縮むわよ?」

 異常な光景に思考が凍り付いていた花中だったが、冷淡で、聞き覚えのある声で我に返る。

 すると、花中の目の前に黒い霧が現れた。

 正確には現れたのではない。あの黒い霧は元々この場に居たのだ。ただあまりにも微細で、密度が薄い状態であったが故に人間の眼には映らなかっただけ。今まで沈黙を保っていたので、花中の頭はすっかりその存在が頭から抜けていた。

 そして『彼女』が手を下した張本人なら、この状況を説明出来る。

「ミリオンさん……!」

 黒い霧はやがて喪服のように真っ黒な和服を着込んだ、ミリオンへと変貌した。現れたミリオンを前にして、フィアは「ふん」と小さな鼻息を吐く。

「遅かったですね。何をしていたのです?」

「ごめんなさいね、アイツの体内に忍び込むのにちょっと時間が掛かったの。一応対策はしていたみたいだから」

「対策?」

「口からの経路じゃ肺に移動出来なかったのよ。肉体変化の能力を応用して、体組織の構造を作り替えていたのね。ようやく見付けた穴はフィルターみたいなものでガードされてて、細工をしたらバレそうだったし。仕方ないから喉から攻撃させてもらったわ」

 フィアからの問いに答えながら、ミリオンはニタリと笑う。

 体内へと侵入し、熱によって臓器を破壊する。

 今まで使ったところは見た事がなかったが……最もえげつないミリオンの『必殺技』だ。どんな生物であれ、内臓を沸騰させられて生きていける訳がない。一撃喰らわせれば大抵の生物は即死する威力である。おまけにミリオンは微小存在、即ち目視不可能の存在だ。彼女の行動は誰にも察せず、何時、何処を、何をやられるかすら分からない。こんなものインチキ以外の何物でもないだろう。

 フィアのように本体を水で包んでいればまだ防げるが、真魅は変化こそしているが生身。ミリオンにとっては獲物でしかなかった。いくら再生力が強くとも、ミリオンは身体の内側を破壊し続けるのだ。いずれ真魅の体力は尽き、彼女の命は終わる

 筈だった。

「な、める、なアアアアアアアアアッ!」

 咆哮。

 その叫びにつられて視線向ければ、真魅が自らの喉に指を突っ込み――――そこから一本の『管』を引っ張り出していた。ブチブチと音を鳴らすそれを真魅は躊躇なく引きずり出し、ぶちりと一際大きな音を立てるや、喉から鮮血が噴き出す。

 しかし鮮血は数秒と経たずに止まり、真魅は『管』……自らの臓器 ― 恐らくは気管支 ― を投げ捨てた。ミリオンが攻撃していた部位を、無理やり取り除いたのだ。再生力頼りの強引な治療。真魅の息は乱れ、消耗の大きさを物語っている。だが効果はあったようで、真魅の喉が新たな血を吐く事はなかった。

 どうにか危機を乗り越えた真魅は、擦るように自分の首を撫で回しながらギョロリと花中達を睨む。その眼光に最早知性はない。手負いの獣と変わらない、狂気と殺意で満たされていた。

 尤も、ミリオンもフィアも視線程度で怯みやしない。彼等もまた獣であり、人間からすれば狂気や殺意と呼ぶしかない感情を、普段から胸に秘めているのだから。

「あら、意外と根性あるのね。そのまま何も出来ずに失血多量で死ぬと思ったのに」

「はぁ、はぁ、はぁ……この、畜生どもが……!」

「ふーん、それが本当の話し方? 随分品がないのね」

「所詮タヌキです。品などなくて当然でしょう」

「図に乗るんじゃあないわよっ! こちらには人質が、ッ!?」

 大声で威圧する真魅だったが、ハッとしたようにモノクル越しの目を見開くや後ろへと跳躍。フィア達から更に離れる。

 突然の動きに驚く花中……しかし花中以上に驚いている者が居た。

 ミリオンである。

「……なんですって? 今のを避けた? まさか――――」

 何を思ったのか。ミリオンは掌を素早く真魅の方へと向けた

「プランD!」

「上ですか」

 途端真魅はなんらかの用語を叫び、間髪入れずにフィアが呟いた。

 そんな二人の声に応えるように、空から三機のロボットが降下してきた! コンクリートの大地に足を突き立て現れたロボット達は、自宅にて花中達を襲ったのと同型……しかし彼等が持っているのは銃器ではなく、クラッカーのような大筒。花中の知識にはない未知の装備だ。

 三機のロボットは一斉に筒を操作し、筒から爆音と共に多量の黒煙が噴き出す! 煙は花中やフィア達を飲み込んだ、が、威力は微々たるものだったのか。水球内に居た花中は震動すら感じず、何が起きたのかよく分からない。

 唯一真実を掴んでいたのはミリオンだけ。身動ぎ一つせずミリオンは煙の先を見据え、やがて煙が晴れた時、視線はそのまま真魅を捉えていた。

「……見えてるのかしら?」

「ええ。このモノクルのお陰よ。それにしても随分と手が早いのね。私が姿を見せてからこれを掛けるまで、一分もなかった筈なんだけど」

「当然じゃない。準備は早いに越した事はないでしょ? ああ、一応言っておくけど、私に脅しは通じないから。はなちゃん以外の人間なんてどうでも良いんだもの」

「やれやれ。やはりあなた達のコントロールは難しそうね」

 呆れたようとも取れる、大きなため息を真魅は吐く。

 真魅の表情はそのため息を境に切り替わり、氷のように冷たい敵意の眼差しを花中に向けてきた。

「大桐花中。人質の命が惜しければ、今夜八時に中央自然公園……あなた達がミィと呼んでいるミュータントと、あなた達が始めて戦ったあの公園の中央広間に来なさい。もし来なければどうなるか。あなたは賢そうだから、見せしめはしないでおいてあげるわ」

 そして花中の背筋を凍り付かせる言葉を残した刹那、突如として道路が爆発を起こす! それも一ヶ所ではなく、何ヶ所も同時にだ。爆発は真魅を守っていたロボット達を容赦なく巻き込み、バラバラと機体の欠片が辺りに飛び散らせる。

「きゃあっ!?」

「……………」

 朦々と巻き上がる粉塵に驚き腰を抜かす花中を余所に、フィアは空を見上げる。

 花中もつられて空を見れば、青空の中を三機の、旅客機らしからぬ形状の飛行機が飛んでいた。

 まさか爆撃機――――花中の予感が正解である事は、三機の飛行機が一斉に爆弾の投下を始めた事で明らかとなった。しかし投下された爆弾はいずれも花中達の前方、真魅が居た場所との丁度中間辺りに落下。炸裂する爆炎と共に、キラキラと輝く異様な粉塵を周囲に撒き散らす。

「うざい!」

 不機嫌さを露わにしながらミリオンは地団駄一つ。轟かせた爆音と共に、漂っていた粉塵は一瞬で消し飛んだ。周りの空気を過熱し、それに伴う体積の膨張を利用して吹き飛ばしたのだろう。

 されど粉塵が晴れた時には、もう真魅の姿はなかった。頭上にいた爆撃機も地平線目指して飛んでいき、戻ってくる気配はない。戦車やロボットの増援も来ない。

 どうやら真魅達は完全に撤退したようだ。

「……逃がしちゃったわね」

「あらら残念ですね。折角黒幕が出てきたのに」

「え? それ本気で信じてるの?」

「? 何故疑うのです? ロボットに守られていましたし如何にも偉そうな態度だったじゃないですか」

「……生き物がみんなさかなちゃん並みの賢さだったら、世の中はもうちょっと平和な気がするわ」

 真魅が去り、攻撃の手も止まり、戻ってきた平穏に早速浸かっているのか。フィアとミリオンからは、すっかり緊迫感が失せていた。

 対して花中は、未だ身体の震えが止まらない。

 真魅は去った。だけどまだ何も終わっていない。彼女はフィアとミリオンを避け、一時的にこの場から離れただけ。人質の安全は確保出来ていないし、出来る見通しも立っていない。それに花中が此処で立ち往生している間に、真魅は新たな策と戦力を用意してくる筈だ。花中には使えない、巨大な資金・人材・権力を用いて。

 全てが後手に回り、打つ手が思い付かない。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう……

「ところで花中さん。そこのお二人はどうしましょう?」

 真っ黒になる花中の頭に光を射し込んだのは、フィアの能天気な呼び声だった。我に返り、花中は慌てて『二人』を見る。

 真魅が持ち出してきた戦車の一撃により、気を失った大神総理と運転手だ。直接的な攻撃はなかったが、高高度から落とされた爆弾や、ロボット達の攻撃により、この場には幾度となく爆風が吹き荒れている。致死的ではないにしても、生身ならそれなりの威力を受けた筈だ。負傷した身では、どんな大事に発展するかも分からない。

「あ、えと、み、ミリオンさん……」

「一応もう診といたわよ。外傷は擦り傷程度、内出血は確認出来ず。頭を打った形跡もなし……なんでこの二人、気絶してるのかしら?」

 訊こうとすれば、ミリオンはすぐに察して答えてくれた。生きていると分かり、安堵を覚える花中。静まる気持ちにつられるように、身体もゆっくりと冷めていく。

 ――――今は、この二人を優先しよう。

 それは行き詰まった自分の状況を考えないための、逃避的発想かも知れない。だが、元より無視など出来ないのだ。開き直りでもなんでも今は二人の介抱をしたい。

 とりあえず家に連れ帰り、寝かせるとしよう。

「……フィアちゃん。二人を、うちまで、運べる? 一旦、うちに帰ろうと、思うんだけど……」

「勿論。造作もない事です」

 返事と共に、フィアは腕を文字通り伸ばして大神総理達を掴む。それからお世辞にも丁寧とは言えない持ち上げ方で二人を肩に乗せた。

「家まで遠いわ。はなちゃんは私が運ぶわね」

「あ、はい。お願いします」

 花中もミリオンの背中に乗り、準備は万端。背負われた花中を見てフィアがハッとなり、何やら悔しそうに歯噛みしていた。どうやら、花中を背負いたかったらしい。

 何時も通り、何事もなかったかのようにころころ変わるフィアの顔。

 それを見ていると少しだけ気持ちが和らいで、花中は頬が緩む。だけどミリオンが動き出したのと共に、笑顔を浮かべられなくなった。

 ただの人間である花中に配慮してか、二匹の速さは自動車ぐらい。フルパワーではないが、十分な速さだ。これならすぐ家に帰れるだろう。

 そう、すぐにでも。

 振り落とされないよう、必死にしがみついている間は、何も考えずにいられるのに。

「……………」

 底のない不安を誤魔化すように、花中はミリオンの背中に顔を埋めるのだった……




一度は使わせたかったミリオンの必殺技。今までにも何度か使おうとしていましたが、実際に使われるとこんな感じになります。無理ゲーというより最早バグ技でしかない。

次回は10/23(日)投稿予定です。


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世界の支配者7

「とりあえず大神総理と運転手の二人は寝かしておきましたよ。容態とかはよく分かりませんけど息はしていましたので死にはしないんじゃないですかねー」

 トントンと階段の板を踏み鳴らしながら、フィアが二階から降りてくる。

 大桐家のリビングでフィアを出迎えたのは、ひっくり返ったダイニングテーブルの席に腰を下ろしているミリオン、粉々に割れた窓から上半身だけ乗り出しているミィ……そして穴だらけになったソファに座っている花中。

 フィアに次いで言葉を発したのは、ミリオンだった。

「やれやれ、ようやく一段落ねぇ。強くはなかったけど、面倒な相手だったわ」

「……ふん。ほんと、めんどーな奴だったよね。嫌な奴よりかはずっとマシだけど」

「あら? 猫ちゃん何を拗ねてるの?」

「拗ねるに決まってるでしょうが! アンタがあたしにした事忘れたの!?」

「さぁて、忘れたも何も心当たりがないわねぇ。何をしたと言うのか、ちゃんと言ってほしいわ。勿論証拠付きで」

「こ、のぉ……!」

「野良猫あなたが暴れると家が壊れます。大人しくしてなさい」

 ミリオンの言葉をきっかけに、リビングの中がワイワイと賑やかになる。三匹にとって、この程度の悪態は日常茶飯事。本気で怒ってなどいない。

 そんな事はもう、何度も見てきたから知っている。

 だから何時もなら呆れるような笑顔を浮かべてしまうのに――――今の花中の口元は、ピクリとも動かない。楽しいとかおかしいとか、前向きな感情が沸いてこない。

 それも仕方ない事だろう。

 まだ、何も終わっていないのだから。

「ま、ふざけるのはこのぐらいにして……一応訊くけど、はなちゃん、これからどうするつもり?」

 ミリオンの言葉に、場がしんと静まり返る。

 真魅を撃退してから、さて、どれだけ経ったのか。

 時計を見るとまだお昼を迎えたばかりで、真魅どころか、このリビングで『謎のロボット』に襲撃されてから数時間後も経っていなかった。今日という日の長さを思い知って花中はため息を漏らす。ほんの少し前まで普通に使っていた自宅のリビングは、今ではガラスが散乱し、壁には幾つもの穴が開いている。食器棚は中身をぶちまけ、テレビは何も映さない。平和だった頃の面影は何処にも残っていない。

 そして多分、もう二度と見られない。

 真魅が言い残した言葉……午後八時にこの町の中央公園に行かなければ、人質達の命が危ないのだ。

 行けば身柄を拘束されると分かっていても、行かない訳にはいかない。

「行きます。八時に、中央公園に」

「駄目よ、許可しないわ」

 自分の意思をハッキリと告げたところ、ミリオンに即座に切り捨てられた。

 花中はソファから立ち上がり、強く、ミリオンに立ち向かう。

「でも! そうしないと、ママとパパ、立花さんや小田さんが!」

「一つ。従ったところで人質が無事とは限らない。少なくともはなちゃんの両親は、はなちゃんを産んだという()()がある。ミュータントの存在を疎んでいる奴が、そのミュータントの発生原因を生んだ輩を見逃すと思う? 私なら殺しておくわ。約束を反故にしても、デメリットはないでしょうし」

「で、でも、なら、立花さんと小田さんは……」

「二つ。はなちゃん以外の人間がどうなろうと、私には関係ない。小田ちゃんも立花ちゃんも、私にとってはなんの価値もない存在……いいえ、はなちゃんも、私にとっては無価値。私はね、『あの人』以外の事はどうだって良いの。例えばもしアイツらがあの人を生き返らせてくれるのなら、はなちゃんを売り払っても良いぐらい」

「……っ」

「そして三つ目。私はアイツらに殺されるつもりなんて毛頭ないって事。生憎死に方はもう決めているの」

「……………」

「ついでに四つ目。真魅の奴、()()()()が見えていたわ。空気中を漂う、目視不可能サイズのウィルスを回避したんだから。多分あのモノクルを通して見たんでしょうけど……相当高度なテクノロジーを保有しているのは間違いない。負けるつもりはないけど、実力不明の相手にケンカを売る気もない。以上が、私の意見ね」

 反論はある? そう訊きたげに首を傾げるミリオンに、花中は何も言い返せない。

 納得した訳ではない。しかし真魅が指定した場所へと向かうには、ミリオンが邪魔をしてこないというのが絶対条件。妨害されれば、ただの人間である花中には逆らえない。ミリオンの力の前では、一人でこっそり抜け出す事も叶わないのだから。

 いや、ミリオンだけではない。

「私もコイツと同意見です」

 考えに至る過程は別でも、フィアも同じ結論なのだから。

「フィアちゃん……」

「そりゃ小田さんとは親しくしていますから死んでほしくはないですけど花中さんとは比べられませんからね。花中さんの親と立花さんについてはどーでも良いですし。何より花中さんが助かっても私が死んだら意味ないです。私は花中さんと一緒に居たいのですから。まぁアイツらをギャフンと言わせる秘策があるなら乗りますけど」

 逆に言えば、秘策がなければ意見は変えない……言外の意図に、花中は唇を噛む。

「せめて、大神さんが、無事だったら……」

「話を聞いて、有効な案が出せたかもね。ま、私は殆ど期待していないけど」

 微かな希望を愚痴として零すも、ミリオンにあっさりと否定されてしまう。ミリオンの言うとおり、大神総理が起きていても状況は大して変わらなかっただろう。政治家の力は非常に強力だが、即効性に欠ける。人質救出のために部隊を動かしてもらえたとしても、解決にどれだけ時間が掛かるか……

「もう! さっきからフィアもミリオンも、酷いじゃないっ!」

 花中が口を閉ざして広がった沈黙を、ミィが癇癪混じりの声で破る。感情的な言葉を真っ向からぶつけられ、だがフィアもミリオンも表情一つ変えやしない。

 むしろその感情を貶すように、冷めた眼差しを向けていた。

「酷い? 具体的にどう酷いと?」

「だって、晴海も加奈子も友達なんだよ!? どうしてそんな簡単に見捨てられるのさ!」

「どうしてと言われましても……別に見捨てたくて見捨てている訳ではないのですが。ただ現状有効な案もないようですので花中さんと自分の安全を第一に考えているだけです」

「そーそー。それに、意見するからには作戦の一つぐらい思い付いてるのかしら? 代案なしに喚いても、ワガママと変わらないんだけど」

「それは! ……だ、だからみんなで考えるんじゃん!」

「考える時間が勿体ないですね」

「さかなちゃんに同意しとくわ。アイツら思ったより手際も準備も良いし、下手に時間を与えると面倒になりそうだもの。さっさと行動に移した方が良いわね」

「こ、の……さっきから……!」

「……なんですか? 刃向かうなら力尽くで従わせると言いたげですね? 良いですねぇシンプルなのは好きですよ。どうせ私が勝ちますし」

「ちゃーんと考えて話しているのかしら? 今回、私はさかなちゃん側なんだけど」

 元々あまり良くなかった空気が、急速に冷え込んでいく。三匹の表情に左程変化はないが、瞳の奥にあった意識……温さとでも呼ぶべきものが失せている。

 言うならば野生の眼差し。無用な争いは好まないが、必要ならばどんな事も躊躇なく行える――――純粋故に狂気や憎悪よりもおぞましい、無垢な殺意で満ちていた。

 そんな三匹が同時に動き出し、

「止めてっ!」

 花中が声を荒らげてでも止めなかったら、果たして何が起きていたか。

「……命拾いしましたね野良猫。あと一秒花中さんの反応が遅かったらあなたの頭と胴体がバイバイするところでしたよ」

「ホントにね。そっちも粉々のフレークにならなくて良かったじゃない」

「あら、猫の丸焼きの勘違いじゃない?」

 棘のある言葉を残して、三匹は同時に手を引っ込める。

 なんとか諍いを治められて、花中は安堵の息を吐く。しかし場の空気は未だ痛々しいほどに冷たい。何時、誰が暴発するか、分かったものではない。

 三匹とも、その力は誰かの命を容易く奪えるほどに強力だ。ぶつかり合えばただでは済まない。ここで仲間割れなど起こせば、それこそ真魅にとって利となる。

 或いは、これも狙っていたのか。

「……………」

 現状の重苦しさに、またしても花中は言葉が出なくなる。

 どうしたら良い?

 花中が望む一番のハッピーエンド……人質が誰も死なず、フィア達も死なず、真魅達が二度と自分達を襲わないようにするには、どうしたら良い?

 まず人質の保護は不可能だ。晴海と加奈子は兎も角、両親に関しては ― あまりにも浮き世離れした両親達の行動により ― 居場所すら分からないのだから。いや、分かっていたとしても、植物学者と昆虫学者という職業柄、何処かの山奥で仕事中という可能性だってある。仮にミリオンが手助けしてくれたとしても、一日二日で見付かるものではない。

 それでも速攻勝負を仕掛ければ、人質が処刑される前に真魅を倒す事は出来るかも知れないが……真魅達は『組織』だ。構成員が真魅一人という事はない。真魅が亡くなったところで、次席が新しく真魅の立場に収まるだけ。そして存続した組織が、再度人質の命を狙えば……全容を知らない花中達に、防ぐ手立てはない。

 考えても考えても、人質達を救出する手立てが思い付かない。彼女達の命を救うには、最早花中(じぶん)の身を差し出すしかない。

 だけど、それをすれば今度はフィア達の命が脅かされる。

 自分が人質になれば、彼女らは自由な動きを封じられる。最終的に抗うとしても、相手にアドバンテージを許せば、それは後にも響く。花中を餌に罠も仕掛けられる。

 こんなのは友達を売り払うのと変わらない。誰かを守るために誰かを見捨てるなんて、そんなの意味がない。選ぶという行為自体が選択肢としてあり得ない。

 反抗してもダメ。従うのもダメ。破れかぶれは通じず、奇策を許すような隙もない。

 どうしたらいい?

 どうすれば、この状況を変えられる?

 変えられない。

 組織とは社会だ。『社会』を変えるなんて、自分達だけでは出来っこない。例え出来る力があっても間に合わない。

 どうしたら良いのかなんて、分からない――――

 パンッ!

「っ!?」

 破裂音のような、軽快な音。

 その音に沈みそうな意識を叩き起こされ、顔を上げた花中が見たのは、両手を合わせているフィアだった。フィアは何やら真剣な顔をしており、その冷徹な表情に花中は思わず息を飲む。

 どうしたのだろう?

「……フィアちゃん? あの、」

「お腹が空きました」

「え?」

 問おうとした花中だったが、あっけらかんと語られたフィアの言葉でキョトンとなる。ミリオンもミィも、花中と同じ表情を浮かべた。

「ですからお腹が空いたのです。ほらもう十二時近くですよ。そろそろお昼を食べたいのですが」

 しかしそんな一人と二匹の反応などお構いなし。羞恥など欠片も感じずに、フィアは()()()()()()()()()()()()()()()

 あまりにも空気を読まない勝手気ままな発言。これにはミリオンもミィも一気に脱力し、瞳の奥に残っていた『野生』すらも霧散させていた。

 勿論花中だって、思わず笑みが零れるほどに気が緩む。するとどうしたのだろう。急に胃袋が寂しさを覚えた。思い返せば今日は色々な事があって、カロリーをたくさん使った気がする。時間もお昼時。悩んでいて気付けなかったが、どうやらお腹が空いていたようだ。

 案外こうして行き詰まってしまうのは、空腹で頭が回っていないのが原因かも知れない。

「……そうだね。わたしもお腹、ぺこぺこ。お腹が空いたまま、考えても、良い案なんて、浮かびそうに、ないし……えと、ミィさんと、ミリオンさんも、お昼に、しませんか?」

「……うん、まぁ、そうだね。あたしもお腹空いたし、食べ物探してくる。ついでに、あたし、ちょっと頭冷やしてくるよ」

「やれやれね。私も気晴らしに散歩でもしてくるわ。エネルギーの補給もついでに済ませちゃうから」

 ミィは立ち去り、ミリオンは姿を消す。残されたのはフィアと花中の二人だけ。

「さぁ花中さん! 今日のお昼は何にしましょうか?」

 そして今までの話などとうに忘れたと言わんばかりに、フィアは呑気に世間話を始める。

 あまりにも呆気なく場の空気が壊れ、いよいよ花中は笑い声を抑えきれない。背を向けて誤魔化そうとしたが、視線が突き刺さるのを感じたので無駄だったようだ。

 開き直り、花中はフィアと向き合う。

「うん……ありがと、フィアちゃん」

「? 何故お礼を言われるのかさっぱり分かりませんが。それより何故私は笑われたのです?」

「ひ・み・つー」

 訝しげに問い詰めるフィアを煙に巻き、花中はそそくさと台所に移動。フィアは首を傾げ、訳が分からないと言わんげに肩を竦めていた。

 それからフィアは当然のようにキッチンに入り、花中の隣に並んだ。花中が料理中の時、此処がフィアの定位置。お手伝いをしてもらったり、お喋りをしたりする。それは今日も変わらない。

「元気になったのは何よりですが状況に変わりがない事は分かっているのですか? やりたい事があるのならお手伝いしますが何もないなら私は私の思うままにやらせていただきますので」

「うん、分かってる」

 釘を打つように言われた言葉を素直に受け入れると、フィアは「結構結構」と満足げに頷く。如何にもこの後も自分の思い通りになる事を確信しているかのような態度だが……生憎、今の花中に諦めるつもりなど欠片もない。

 フィアのお陰で気持ちを切り替えられた。

 どん詰まりに陥っていた頭が、いくらかすっきりした。今なら幾分マシな考えが思い浮かびそうである。とはいえ、フィアが言うように状況が変わった訳ではない。どん詰まりの状況であり、かつてないほど八方塞がり。意気込んで再挑戦(リベンジ)しても、返り討ちに遭うのが目に見えている。

 必要なのは新たな情報、自分とは違う見方だ。

 幸いにして花中には見えているものが、それこそ生理学レベルで異なる友人がいる。倫理観すら共有せず、それでいて卑屈な自分と違って何処までも真っ直ぐな性格。同じ場面を見ていても、自分とは違う何かを感じた筈だ。

 その『何か』が、もしかしたらヒントになるのでは。

 そんな期待を胸に、花中はフィアに尋ねてみる事にした。

「フィアちゃん、真魅さんと、会った、時、何か気付いた?」

「何かですか? そう言われても威張り散らしてムカつく奴だなぁというぐらいしか」

「え? あー……うん。そう、だね」

 なんとなく納得してしまい、花中はぽわんと同意する。思えば今までフィアが戦ってきた相手……ミリオン、ミィ、キャスパリーグ、妖精さん……誰もが権力とは無縁の存在だった。社会性を持っていない生物種であり、『地位』と無縁の生活をしているのだから当然である。

 そんな彼女達からすれば、立場を理由にして威圧してくる真魅はさぞや偉そうに見えた事だろう。自身の力を誇るならば兎も角、その背後を誇る意味が、いまいち理解出来ないに違いない。

「えと、ほ、他には? 何かある?」

「え? 何かと言われましても……弱っちいくせによくもまぁケンカを売る気になったなーとかでしょうか?」

「よ、弱っちい?」

「はい。だってロボットも戦車も私の敵じゃなかったでしょう? あの程度で私にケンカを売ってくるとは嘗められたものです。アレですね。自分の身で戦わずあのようなガラクタ頼りにしているせいで相手の力量を測れなくなっているのではないでしょうか」

 だからこそその見方がヒントになるかもと思い花中は話を続けたが、フィアは自分の力を誇示するばかり。いよいよ花中は苦笑いを浮かべてしまい、

 それと共に違和感が脳裏を過ぎった。

「……花中さん? 花中さーん? 包丁を握ったままボーッとすると危ないですよー?」

 フィアの呼びかけも、考え込む花中には届かない。フィアが包丁をこっそり手から抜き取ったが、気付けないぐらい花中は集中力を高める。

 フィア達の力は人類にとって脅威である。真魅達が誇る力は計り知れず、数多の兵器を繰り出す『力』がある。目的と実現能力は足りている……やらねばならない理由があり、それを成し遂げる能力を持っているのだ。だからこそ、花中は真魅達が襲い掛かってきた事自体には疑問を抱かなかった。

 しかし、である。

 ――――()()()()()()()()()()()()()

 真魅達タヌキにとって、人間社会は富を生産する『牧場』であり、人間は富を生み出す『家畜』である。タヌキ達自身はさしずめ『牧場主』で、彼女達は家畜の血肉を富としている反面、家畜を守る義務を負う事になる。例えば衛生環境だったり、食糧の安定供給だったり……はたまた外敵から守ったり。そういった考えからすれば、『牧場』の存続を脅かしかねない『害獣』であるフィア達を真魅達が攻撃するのは一見正しく思える。

 けれどもフィア達は、ただの獣ではない。

 自然を操り、非常識な火力と防御を誇る超生命体。最早害獣というカテゴリーには収まらず、怪獣とでも呼ぶべき存在だ。一般的な武装は通じず、戦力を動員するにしても莫大な費用が必要となる。抵抗の過程で牧場の一画が壊滅する恐れもあるだろう。

 挙句怪獣達は現在家畜に対しどちらかといえば友好的だ。力が強過ぎて時折家畜の住処を壊してしまう時もあるが、牧場の規模からすれば些末な被害である。超長期的にはどうなるか分からないが……分からないのだから、下手に手を出せば『薮蛇』となる可能性も高い。

 さて、この状況で怪獣達の駆除を実行するか?

 花中ならやらない。安全を求めるあまり、損失より大きな費用を掛けてどうする。駆除しなければならない理由はあるし、それを成すのに必要な力もあるが、だからやるのが正解とは限らないのだ。思想的なものが関わっているのかも知れないが、真魅達武闘派の行動はあまりに論理的でない。

 論理的でないといえば、真魅は何故自分達の前に生身で現れたのだろう。脅迫するため? そんなのは部下にやらせるなり、電話やネットで伝えるなりすれば良い。確かに彼女は強力な再生能力を持ち、見事フィアとミリオンから逃げ果せたが……いらぬリスクではないか。

 こうも筋が通らない行動ばかりだと、逆に勘繰りたくなる。即ち一見なんの益もないような行動が、実は真魅達にとって利益であるという事だ。

 例えば真魅が花中達の前に姿を見せたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――――

「ぁ……」

「ん? 花中さんどうかしまし」

「あああああああああああああああああっ!?」

 呼び掛けてきたフィアの言葉を遮り、花中は大声で叫びを上げた。目を魚のように丸く見開き、叫び終わるとビタリと固まる。

「……花中さん?」

 花中の不審な行動に、フィアは心配そうに声を掛けてくる。

 されど動き出した花中の瞳は、そんな心配を吹き飛ばさんばかりに爛々と耀いており、

「ありがと! ちょっと、考え纏めてきます!」

 フィアの心配などお構いなしに、花中は満面の笑みを浮かべてそう告げた。告げたら返事も待たずに、パタパタと自室に戻る。

 リビングに残されたフィアは、しばし先程の花中のように固まる。

「……何時もの発作ですかねぇ。まぁこのままやられっぱなしってのも癪ですから構いませんけど」

 それから呆れたように、笑うように、楽しむように、フィアは笑みを零すのだった。

 

 

 

 天上に、星々が耀いていた。

 普段ならば町の明かりに飲まれ、消えてしまうそれらが、今宵は天空を埋め尽くす。何故なら下界は今明かりが一掃されており、暗闇に包まれているからだ。隣町からも人間は一人残らず移動しており、広大な範囲で古代の星空が蘇っている。

 そんな星空を、真魅はじっと見上げていた。

 武骨なトレンチコートを身に纏った彼女が立つは、町の中心にある自然公園。雑木林やグラウンドが存在する広大な土地であり、昼間で憩いの場として多くの人々が癒しを求めて訪れる場所だ。明かりが消えた町中で唯一輝きを保っている街灯が、穏やかな景色を作り出している。

 公園内に陣取る何十もの戦車や人型ロボット、そして周囲を飛び交うヘリコプターがなければ、その穏やかさを存分に堪能出来ただろう。

「……さて、そろそろ時間なのだけど……」

 戦車とロボット達の最前列、全てのモノの前に立つ真魅は腕時計を見て時刻を確認。今が午後七時五十分を回った頃だと確かめる。

 と、不意に彼女は自身の耳に手を当てた。しばらくそのポーズを取り続け、やがて無言のまま、手を下ろす。

 それから数分後。公園に植えられた樹木の影から出てくるように、四つの人影が姿を現した。

 真魅の傍に居たロボットが駆け出そうとし、しかし真魅がそれを制止。人影はなんの妨げもなく徐々に真魅達の下へと近付いてくる。

 点在する街灯の一本に照らされ、その四人組がミリオンとミィ、そしてフィアと花中である事が明らかとなった。花中はフィアにしがみつき、おどおどとした足取りながらも真魅に歩み寄り……数メートルほどの、会話は出来る程度の間隔を開けて立ち止まった。

 真魅は四人の姿を見て、感心したように声を漏らす。

「へぇ、五分前到着なんてマメな性格なのね。てっきり時間ギリギリか、一時間ぐらい遅刻すると思っていたんだけど」

「……遅刻なんてしたら、人質に何をされるか、分からない、ですし」

「あら、信用してくれるのね」

 花中は精一杯の嫌味をぶつけるが、真魅は更なる嫌味で返す余裕を見せる。あたかも、自らの優位を誇るように。

 それ以上言い返せず、花中はぐっと唇を噛んだ。悔しさを滲ませ、自分の力不足を露わにしてしまう。真魅が花中の顔を見て、嬉しそうに微笑むのは立場上必然だと言えよう。

「さぁて、一応答えを聞かせてもらいましょうか」

 ましてや煽るように言われては、花中の苛立ちも限界まで高まる。表情は自然と、苦虫を噛み潰したように歪んでいた。

 そしてその苛立ちを追い出すかの如く、花中は深いため息を吐く。

 真魅が僅かに眉を顰める。そして花中の感情を読み取ろうとしているのか、先程までと違い観察するような眼差しを向けてきた。何かを仕込もうとすれば、瞬時に見抜く……そう確信出来るほどに鋭い視線だった。

 しかし花中は臆さない。元より、彼女の前でなんらかの罠を仕込もうなんて思いもしていない。

 それを踏まえた上で

「お断りです」

 花中は、告げる。

「……なんですって?」

 目を細め、怪訝そうに訊き返す真魅。

 その真魅に向けて、花中はハッキリと、もう一度伝えた。

「わたしは、あなた達に、従いません」

 完全なる決裂の言葉を――――




さぁ、いよいよ次回はVS真魅(本気)です。
フィクションでは何かとやられ役な各国軍隊ですが、本作では可能な限り活躍させるつもりです。操縦者はタヌキでも、製造までに積み重ねてきた知識と経験は人間のモノ。ミュータントが、人類を無礼るなッ!(なお敵役)

次回は10/30(日)投稿予定です。


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世界の支配者8

 家々の明かりがない夜。空には満点の星空が広がり、昨日と大差ない三日月が地上を照らしていた。ざぁざぁと強めの風が駆け抜け、辺りに広がる草を鳴らしている。

 昨日『ミュータント』と出会ったのもこの時間帯だったと、ふと花中は思い出した。

 今日、同じ時間に、こんな事になっているとは思いもしていなかった。昨日よりもずっと大きく、抗いようのない『敵』と対峙しているなど、考え付きもしなかった。

 ましてやその『敵』に、こうして真っ向勝負を挑むなんて。

「……素直に従うとは思っていなかったけど、こうもハッキリ拒絶するというのも、予想してなかったわ」

 心底意外そうに、真魅は淡々と感想をぼやく。

 聞くだけなら緊張感のない言葉。

 だが共に向けられた視線にあるのは、強烈な敵意だった。ハッタリなどしない、殺す必要があると思ったなら躊躇なく実行する……迂闊な事を言った瞬間全てが台なしになりそうな空気に、花中は自分の身が強張るのを感じる。

 いや、恐ろしいのは彼女の目付きだけではない。

 真魅の後ろには、無数のロボットや戦車、ヘリコプターが控えている。此処中央自然公園は非常に広大な敷地面積を誇るが、しかし何キロにも渡って平原が見渡せる訳ではない。兵器達との距離は、遠くても精々二百~三百メートル……どの兵器からしても十分に射程圏内だ。今この瞬間真魅が攻撃開始を指示しても、彼等は直ちに殺傷力のある攻撃を問題なく花中(じぶん)達にお見舞い出来るだろう。

 ぶるりと背筋が震える。それでも花中はこの場に踏み留まり、鼻息を荒くしながら受けて立つ。

 殺されるところだった目には、これでも数えるほど遭っているのだ。一人じゃなければ、友達と一緒なら、殺される恐怖にだって抗える。

 だから花中は、真魅にハッキリと告げた。

「当然です。友達を、売る真似なんて、出来ませんっ!」

「あら、それじゃあ立花晴海や小田加奈子は友達じゃないのかしら? 彼女達、死ぬわよ?」

「死にません。だって、あなたは、人質を殺せません、から」

「……呆れた。そう簡単に人を殺せないとか思っているの? もしそうならあまりにも、私を見くびりすぎている」

 明らかな軽蔑の表情を浮かべるや、真魅は懐から無線機らしきものを取り出した

「ミリオンさん!」

 のに合わせて、花中はミリオンの名を叫ぶ。

 途端、大地から漆黒の触手が、花中を取り囲むように生えてきた!

 突然の出来事に、真魅は取り出した機械を耳元に当てる寸前のポーズで固まる。硬直は時間にしてほんの数秒足らず。その数秒で漆黒の触手は花中を包み込み、大量の煙を上げて大地に潜ってしまった。無論、包み込んだ花中と一緒に。

 後に残るのは赤く溶解した大地と、ぽっかり開き、何処まで続くか分からない大穴だけ。

 事が終わり、真魅はようやく顔色を変えた。苦々しい、屈辱に染まったものへと。

「……やってくれたわね」

「くすっ。地面から現れるなんて思いもしなかった、ってところかしら?」

 真魅のぼやきを煽るのは、花中を()()()()()ミリオン。

 フィアとミィもニヤニヤと、蔑み、嘲笑う。

「確かに、あなたははなちゃんの大切な人達を人質に取っていた。だけど人質は、脅す対象に危機を実感させて初めて効力を発揮する。つまり見える形で脅さないと意味がない。そして私とさかなちゃんは、アンタが用意した人質達が死んでもなんとも思わない。ああ、猫ちゃんだけは気にするけど、だから人質が効くとは思わない事ね。もし私達を裏切ったら、猫ちゃんを含めたそこらの野良猫を無差別に殺して回るって言ってるから」

「悪いね。流石のあたしも猫と人間なら猫を取るんだ……つー事は、多分アンタなら想定済みだよね? つまり人質は元々花中以外にはなーんの意味もない。とはいえ、あたし達だけで此処に来ても、アンタは出てこない。そりゃ花中以外と話す価値なんてないんだから、あたし達の相手をしたって無駄だもんね。時間稼ぎ用の部隊だけ残して、そそくさと撤退するに決まってる。だから花中は姿を現した。ミリオンに捕まっちゃったけど」

「残念ですねぇ。花中さんはただ今()()()()()()状況でして。いやはや今この瞬間人質を殺してもなんの効果もありませんねぇ。私達には人質なんて通用しませんから」

 くすくす、けらけら、くひひひ。

 三匹は三様の笑い声を漏らす。殺せるもんなら殺してみろ。まぁ、本当に殺したところで別に気にしないけど――――そう言わんげな笑いに真魅は唇を噛み締めた。

 ミリオンにより、花中は何処かに連れ去られた。単純に隠れただけ、遠くに逃げただけなら、広域放送で人質の断末魔を流したり、避難所を爆破して『処刑』の様子を何処からでも見えるようにしたり……脅す方法はいくらでもあっただろう。しかしミリオンが花中を管理しているのなら、音も視界も遮断出来てしまう。外で何が起きているか、花中には本当に分からない。

 この状況で見せしめとして人質を殺しても、単に人数が減るだけだ。感情的になって手札を切り捨てても、追い詰められるのは自分の方。冷静であり、論理的だからこそ、真魅は人質の命を脅かせない。

 即ち、花中を餌にされてまんまと釣られた。

 それを理解したであろう真魅の表情は、しかし最初に強張らせただけで徐々に和らいでいく。苛立ち塗れの顔は、ほんの僅かな時間で自信に満ちた笑みを浮かべるようになっていた。

 もうそこに、狼狽える代表者は居ない。凛として現実に立ち向かう、力強いリーダーが君臨していた。

「いやはや、やってくれたわね。人質を無効化されるとは……こうも想定通りだと、こちらとしても動きやすい」

 真魅が片手を上げた、瞬間、背後に控えていた兵器群が一斉に動き出す。構えるロボット、砲塔を動かす戦車、ホバリングを始めるヘリコプター……多様な兵器と動きの中で、全てに共通する行動があった。

 自らの武装を、フィア達に向けている点だ。

「うっわ、ほんとに立ち向かってきた。花中が言ってた通りだなぁ」

「そりゃ、この程度は想定済みでしょうよ。私達が人質の命なんて二の次なのも知ってるし。精々はなちゃんの同意を得てるかどうか、そして人質が死なずに済んだ程度の違いね」

「細かい話なんてどーでも良いです。要はこれで気兼ねなく全てぶっ潰せるって事ですよねぇ?」

 一度火を噴けば人間など跡形も残らない状況を前にして、人外達は余裕を崩さない。あたかも人家を容易く潰していく災禍の如く、人智の結晶を嘲笑う。

 真魅もまた、笑みを浮かべた。迫り来るクマを散弾銃越しに眺める猟師の如く、人智を理解出来ない獣に憐れみと侮蔑を向ける。

 どちらも自分が負けるとは思っていない。退く気はおろか、和解しようともしない。

 これで争いを避けられる道理などない。真魅は羽織っていたトレンチコートを脱ぎ捨て、首下までぴっちりと包むライダースーツのような衣服を露出させる。

「プランA開始ッ!」

 そして握り締めたままの機械に向けて真魅が声を張り上げた、瞬間

 巨大な爆発が、フィア達を直撃した!

 爆風は半径十数メートルにも達し、抉った大量の土石を埃のように舞い上げる。これほどの威力となれば、直撃を受ければ人間と言わず、戦車すらも粉々になるに違いない。

 当然、その爆発に呑み込まれたフィアは

「ふんっ! 挨拶としては些か刺激が足りませんねぇ!」

 なんの問題もなく、爆炎を掻き分けて姿を現した!

 水で出来た傷一つない『身体』は、何も恐れず、真っ直ぐに突き進む。目指すは棒立ちする真魅。

「寝惚けているなら目を覚まさせてあげますよっ!」

 その真魅の顔面目掛け、フィアは拳を振りかぶる! 超高速で迫る質量の塊は真魅を寸分違わず捉えていた。

 咄嗟にその身を仰け反らしていなければ、真魅の頭部は弾け飛んでいただろう。攻撃が空振りに終わり、フィアは苛立たしげに顔を顰める。

 しかしフィアの顔に愉悦が戻るのに、さしたる時間は必要でなかった。余程慌てて回避したのか、真魅は体勢を大きく崩していたのである。ミィのような飛び抜けた身体能力でもない限り、即座に次の行動には移れまい。

 フィアはすかさずもう片方の手を振り上げ、

 その手が突如として爆発した。

「――――んぁ?」

「っ!」

 爆発した手にフィアが一瞬気取られた隙を突き、真魅はフィアから距離を取る。真魅の動きに気付きフィアはすぐさま手を伸ばすが、一手遅かった。真魅は素早くフィアから離れ、肉薄状態を解いてしまう。

 折角掴んだ流れを潰され、フィアは舌打ち一つ。ただしその顔は、まだまだ遊び足りない子供のように無垢な笑みを浮かべていたが。

 そして狂気の眼差しで射抜くは真魅……それと彼女の背後に控える無数の兵器達。

 自身の手を吹き飛ばした不埒者共にも、フィアは笑顔を崩さずに向かい合った。

「成程仲間からの援護ですか。あと少しでその憎たらしい顔を吹っ飛ばしてやれたのに……それと昼間より随分すばしっこいのですね。最初の一撃で仕留められると思っていたのですが」

「あまり、私達を嘗めないでもらいたいわね。この服は私達が開発した強化外骨格スーツ。微細モーター繊維を組み込む事で、この私の身体能力を二倍程度まで強化してくれる代物よ。昼間の私と同じに思わない事ね」

「……………ふーん」

 真魅の言葉に思う事でもあるのか、思案するような声を漏らすフィア。だが、実際に考え込む素振りを見せはしない。

 むしろ両手の指を踊るように動かし、堪えきれない様を露わにしている。さながら獲物を前にして舌舐めずりをする獣のように。

「強化なんちゃらがどんなものかは知りませんがそんなガラクタで私と張り合おうとは片腹痛い。後ろに控えている木偶共を当てにしているあたりも馬鹿げた考えです。群れで挑めば私に勝てると思っているのでしょうがアリが何匹集まろうとクジラは全てをひと呑みにするのですよ?」

「あなたは私達を見くびり過ぎている。我々は数千年の月日を、数百の世代を経て今の力を手に入れた。たかだか一代限りのあなた達に、受け継がれる私達は超えられない。無駄な足掻きは止めて、さっさと駆除されなさい」

 挑発するフィアに、真魅は真っ向から受けて立つ。

 『文明』と『猛獣』……二体はしばしは睨み合ったが、緊迫は長続きしない。

 どちらも、相手を潰したくてうずうずしているのだから。

「一人じゃ何も出来ない虫けらが! 群れたところでこの私の前では無力であると知れっ!」

「後生に何も遺せない化け物が! 我らの知性と歴史を見くびるなっ! 全軍攻撃開始!」

 二匹は同時に、躊躇なく、己の武器を相手に振るい――――

 

 

 

「ぷっはぁ。いやー、いきなり攻撃とは容赦ないわねぇ」

 時を数秒遡り、ミリオンもまた爆炎の中から飛び出していた。辺りを見渡せば真魅に肉薄するフィアの姿はあったが、ミィの姿は見付からない。まさかこの程度の爆発で彼女が死ぬとは思えないので、恐らく爆炎越しで見えない先……自分とは反対側に跳び出したのだろうとミリオンは推測する。

 つまりミリオン達三体は綺麗に三方向、バラバラに爆炎から脱出した訳だ。チームワークに優れるとはミリオン自身全く思っていないが、こうもスッキリ別れるといっそ清々しい。

 とはいえ、今は敵と戦っている最中。一匹より二匹、二匹より三匹で挑んだ方が、互いの弱点や死角をフォロー出来る分勝率は高くなる。

 ならばすぐさまフィアかミィと合流すべきか?

 ――――冗談じゃない。

「誰が好き好んでそんな面倒するってのよ。はなちゃんの安全は確保したし、私はのんびり鑑賞させてもらうわ」

 助けるつもりなど毛頭ない。花中が生きていれば、自分の利益は揺らがない。その花中の安全を確保した以上、ミリオンにはこの戦いに参加する理由などなかった。

 尤も、それはミリオンの都合である。

 この場には、ミリオンとどうしても戦いたい者がいるのだ。そして彼等は高高度から、地平線から、木々の間から、続々とミリオンの前に現れる。

 何十もの戦闘ヘリや何十もの戦車、何百ものロボット歩兵という形で。

「……いやいや、ちょっと多過ぎない?」

 統率の取れた動きで現れ、自身を包囲した兵器の数々にミリオンは呆れたようにツッコむ。これほどの数、一体何処に潜んでいたのか。フィアがケンカしに行った真魅の背後に控えていたのと大差ないではないか。

 この調子だと、恐らくミィの方にも同等の部隊が差し向けられているだろう。いや、目の前で展開している部隊の隊列がかなり窮屈なように見える事から、これ以上の数は前に出られなかった可能性が高い。恐らく後続には、眼前の部隊を遥かに凌駕する予備が控えている筈だ。巨大な勢力だとは思っていたが、まさかこれほどとは……

 フィアと違い、真魅がこしらえた軍勢の大きさに驚くミリオン。だが、彼女は余裕を崩さない。

 確かに大軍だ。しかし大軍であるだけ。

 羽虫が一匹だろうと百匹だろうと、真の強者であれば誤差でしかない。

「言ったでしょ? 面倒は嫌いなの……三秒で終わらせてあげる」

 万物を気化させる狂気の力を振るうべく、ミリオンは自らの手を眼前の邪魔者に向けた――――

 瞬間の出来事だった。

 十数メートルにも及ぶ巨大な爆発が、ミリオンの周囲で巻き起こる! 爆発は一度でなく立て続けに起こり、ミリオンの身体を完全に飲み込んでしまった。爆発の連鎖は僅か十数秒の出来事だったが、個々の爆発が合わさり、まるで火山の噴火でもあったかのような巨大な土煙が立ち昇る。

「……けほっ。なんなのよ、一体……」

 片手を小さく扇ぎ、易々と粉塵を吹き飛ばすミリオン。ダメージ自体は皆無……しかし何が起きたか分かっていない事を、ぼやいた言葉が物語る。

 状況を知ろうとミリオンは周囲を見渡し、やがてその目を大きく見開いた。

 空に、何かが浮いている。

 一瞬控えの軍用ヘリかとも思ったが、それは真っ直ぐ、こちらに向かっていた。しかも猛スピードで。ヘリどころか戦闘機すら置いていきそうな速度だ。いくらなんでも速過ぎる。

 思えば最初の爆発。あれは『何』からの攻撃だったのか。歩兵の携帯兵器は勿論、戦車砲だとしても爆発範囲が大き過ぎる。ヘリコプターからのミサイル攻撃だとも考え難い……そもそも現在自分を包囲している部隊に攻撃した素振りはなかった。

 もっと遠距離、視認不可能な位置から攻撃されている。

 それは何も異質な事ではない。むしろ現代戦において、今のように高々数百メートルという()()()()で敵と対峙している方がおかしいぐらいだ。何しろ今や人類の装備は、数千キロもの有効射程を有するものも珍しくないのだから。

「巡航ミサイルって、恋する乙女を怪獣扱いしないでほしいわねぇ……」

 ぼやいたところで、直進する爆薬は止まらない。

 降り注ぐ十を超える巡航ミサイルが、ミリオンの頭上に降り注いだ! 圧倒的爆薬量を地上で存分に発揮したミサイル達の威力は、小さいながらキノコ雲を立ち昇らせるほど。生物体、否、人工物でも、この爆発の中心に居ては耐えられまい。

 直立不動のまま平然としているミリオンにとっても、あまり気分の良い一撃ではなかった。

「小賢しいわね」

 腕を振り回し煙を吹き飛ばす――――が、直後に巨大な鉄塊がミリオンの足下を直撃。

 戦車砲から放たれた砲弾だ。それも榴弾……広範囲を攻撃する事を目的とした砲弾を使われた。ミサイルほどではないにしても、広範囲を吹き飛ばす致死の一撃である。破片と爆風が、容赦なくミリオンの全身を飲み込む。更には息を合わせて、歩兵ロボットやヘリコプターも攻撃を始めた。何百ものロケットランチャーや小型ミサイルがミリオン目掛け飛来。着弾と同時に破裂し、爆風を辺りに撒き散らす。

 巡航ミサイル、榴弾、ロケットランチャー、小型ミサイル……絶え間ない攻撃により、ミリオンの姿は完全に爆風に呑み込まれた。今や一秒とミリオンの姿が外気に触れる事はない。爆発の連鎖は途切れる事なく、何時までも何時までも続く。

 その爆風の中で身動ぎ一つせずにいるミリオンだったが、表情から余裕はすっかり失せていた。

 微細構造物の集合体であるミリオンにとって、例え身体の一部を捻じ切られても修復は容易。その上今は表層部分の個体をある配列で並べ、ダイヤモンド以上の硬度と柔軟性を兼ね備えている。

 しかしそれでも、強烈な衝撃を受ければ表層部分は削られてしまう。フィアのように『入れ物』で身を守っている訳でも、ミィのようにそもそも肉体が頑強な訳でもないのだ。例えるなら侵略してきた戦車を前にして、国民が総出で肉壁を作るようなもの。一発二発の戦車砲では中央まで届かないが、直撃を受ける最前列では無数の死人が出る。そして何万発、何億発も撃ち込まれれば、いずれ国民は全滅する――――即ち『国家』の滅亡となる。

 当然黙ってやられるつもりなど毛頭ない。どうにかして攻撃を止めねばならないが……これが問題である。

 ミサイルによる攻撃が始まるのと同時に、歩兵は携帯しているロケットランチャー、戦闘ヘリは装備している対地ミサイルによる攻撃を開始した。戦車も榴弾を使用し、攻撃は絶え間なく続いている。ダメージ自体は大したものではないのだが、どれも爆風を伴う攻撃だ。 

 ミリオン単体はあくまでウィルスだ。集結・連結による強化がなければ、耐久力は昆虫どころかバクテリア以下でしかない。それでもあまりにも小さいので、殴る蹴るなどの攻撃が当たる心配はない ― 強力な打撃など、その一撃が纏う風に乗ってしまえば良いのだ ― が……爆風はそうもいかない。全方位からの衝撃に、細胞膜すら持たないタンパク質が耐えられる筈もないのだから。

 即ち爆風が途切れない現状、目視不可能なレベルで拡散した個体を敵に送り付ける事は叶わないのだ。しかも昼間真魅が攻撃を避けた事から、連中はなんらかの ― 恐らく埃などを捉える高感度カメラの技術を流用した ― 手段を用いて、ミリオンの動きを捕捉している。爆炎の隙間から個体を送り出しても、すかさず爆破されてしまうだろう。

 そうなると頑強な集合体で動き、直接殴り掛かるしかないが……ミリオンはフィアやミィほど近接戦闘は得意ではないし、何より殴る蹴るでは遥か遠方より飛来するミサイルを止められない。見たところ撃ち込まれたミサイルはかなり小型だった。タヌキ達が誇る最新鋭のミサイルかも知れない。小さければ置き場所には困らない筈だ。在庫はたっぷりあると考えて良い。

 このままではジリ貧である。何か、策を打たねば本当に不味い。

「……ふふっ。良いわ、遊んであげる」

 にも拘わらず、ミリオンは笑った。

 心の底から楽しんでいるかのように。

「せめて一時間は持たせなさい! でないと拍子抜けしちゃうからぁ!」

 狂気の眼差しと共に、ミリオンは爆炎の中で高笑いを続けた――――

 

 

 

 さて、どうしたものかとミィは考えを巡らせていた。

 真魅と対峙している最中自分達のど真ん中に落ちてきた、巨大な鉄塊……恐らくミサイルの類であるその一撃は、巨大な爆炎を生んで自分達を飲み込んだ。尤も、その程度でどうにかなるほどミィ達は柔ではない。爆炎から易々と、三体とも抜け出した。

 その際ミィは広大な平地にずらりと並ぶ軍事兵器の数々と鉢合わせしたが、敵である事、中身が無人である事は判明済みなので躊躇する理由もない。誰にも認識出来ない速さで決断したミィは、戦車を蹴り上げてひっくり返し、パンチで放った衝撃波によりヘリを撃ち落とした。ロボット兵士など駆け抜けた余波だけで吹き飛び、大破している。それが『人間』から見てどれほどの大軍勢かは分からないが、全て蹴散らすのに十秒と掛からなかった。

 かくして雑魚を片付けたので()()()()仲間達の様子を見れば、真魅を目指して突撃したフィアは兎も角、ミリオンの方にも自分が蹴散らしたのと同規模の軍勢が立ち塞がっていた。フィアは自分と同等の力があるし、ミリオンに至っては自分すら恐怖する圧倒的な能力を持つ。手助けは必要ないだろう。

 ならば傍観していようかとも考えたが、そんな暇を与えてくれるほど敵は呑気ではなく、そして弱くもなかった。

 ――――爆風で舞い上がった土石が、ミィを包み込む。

「ちっ……!」

 先を見通せないほど濃密な粉塵の中、ミィは顔を顰めていた。

 『何』が爆発を生んだのか。

 神の域に達したミィの動体視力は、音速の数倍にもなる速さで地上に撃ち込まれた爆弾を見逃さなかった。巨大な金属の塊は大地を貫き、巨大な爆発を引き起こして周囲の大地を破壊。至近距離でその衝撃を受けながらも未だ無事なのは、ミィが圧倒的な身体能力を誇るからである。生身の人間なら、例え着弾地点から十メートル離れていても欠片すら残るまい。

 爆弾を撃ち込んだのは、遥か上空を飛行する無数の飛行機だ。今は粉塵に遮られ見えないが、十機ほどの編隊が頭上を飛んでいたのをミィは把握している。そして『何か』をばら撒いていく姿も。

 もし、ミィが専門的な軍事知識を持っていたなら、飛行機が落としてきたのは地中貫通弾……核シェルターをも貫く強力な兵器だと分かったかも知れない。既存の地中貫通弾を改良し、『対ミュータント用』の火力に調整されたものだと推測する事も可能だったろう。だが彼女の知識は花中由来であり、軍事技術にはそこまで精通していない。だから降り注ぐものを爆弾としか呼称出来ないが……それでも目視した落下速度と、掠めた際の余波から、まともに当たった時の衝撃ぐらいは想像が付く。

 ――――これは、当たったら痛そうだ。

 故にミィは落ちてくる弾頭の回避を選択し、その存在をいち早く確認するためにも粉塵の中で視線を上に向ける他なく

 粉塵を突き抜け現れた『砲弾』が、脇腹に直撃するのを許してしまう。

「ぐっ、ぬ……!」

 衝撃で揺らぐ身体。気合いで体勢を保ち脇腹へと目を向ければ、刺さるように突き立てられた砲弾があるではないか。

 こちらの正体はミィにも分かった。戦車から放たれた徹甲弾(砲弾)だ。爆発により広範囲を破壊する榴弾砲と違い、装甲を貫通する事を目的にした武装。とはいえただの戦車砲ならばミィはここまで仰け反らない。

 直撃したのはただものでない弾頭。

 深紅に輝くそれは、鋼鉄のような有り触れた物質でない事を窺わせる。大きさも拳大程度で形状は矢尻を模したアクセサーのような、最早工芸品と錯覚する美しさのある代物だ。

 尤も、ミィの身体に超音速で衝突したにも拘わらず変形すらしない強度は、工芸品にあるまじきものだが。

「(ちっ! さっきからチマチマと……!)」

 異常ながら硬度と速度……真魅側が投入した新兵器の類なのは容易に察せられた。撃ち込まれた衝撃からしてこの砲弾、鋼鉄より遙かに高密度でもある。そんな物体が、余所見をしていたとはいえミィが見切れないほどの速さで衝突したのだ。流石のミィでもこれは痛い……いや、ミィを倒すために作った代物なら、十分に役割を果たそうとしている。

 地中貫通弾にしろ特殊な砲弾にしろ、単純な火薬量や危険度では上回る兵器など他に幾つもあるだろう。だが、どちらも比類なき貫通力を誇っている。身体能力こそが武器であり、生半可な火力では傷一つ付けられないミィを倒すならば、火力を一点集中させた武器こそが適任だ。

 こちらをよく研究し、適切な戦術で挑んできている。一発二発でどうこうはならないが、数を受ければ……

「――――はっ! ふんっ!」

 砲弾を肘の一撃で叩き落とすや、ミィは鼻息を鳴らす。

 ただしその鼻息は、暴風を伴うほど強烈だが。

 一瞬で吹き飛ばされる粉塵。クリアとなった世界を凝視し、自分にちょっかいを出す虫けらを見つけ出そうとミィは周囲に目を凝らす。

 が、直後に降り注ぐはまたしても地中貫通弾!

 強力な爆発により生じた土煙が、再度ミィの視界を覆い尽くしてしまった。

「ああっ! もう! さっきから小賢しいぃぃぃ!」

 ズドンズドンと地震染みた地団駄を鳴らしながら、ミィは苛立ちの声を上げた。

 超人的動体視力と身体能力を誇るミィにとって、余所見でもしてない限り空爆が直撃する事はあり得ない。

 真魅が率いてきた軍勢もそれは分かっている筈だ。きっと空爆は目潰し……強力な運動エネルギーによって粉塵を巻き上げるのが目的。そうやって視界を妨げたところで、徹甲弾を食らわせる。例えミィの姿が見えないほどの粉塵が舞おうと、レーダーや観測員により、敵方はミィの居場所に見当は付けられる筈だ。現に今し方、正確に砲弾を撃ち込んでみせた。これを何十、何百と繰り返せば、やがてミィは膝を付くだろう。

 最後にとっておきの地中貫通弾をお見舞いすれば、真魅達の勝利となる訳だ。

「(これは、思ったより厄介だなぁ……)」

 見くびっていたつもりはないが、タヌキ達の武装が、技術が、戦術が、ここまで強力とは思っていなかった。まさか本当に自分を打倒しうる作戦を引っ提げてくるとは考えもしなかった。

 尤も、認めるのはここまでだ。

 ただの怪獣相手なら、この作戦で討伐出来ただろう。しかしミィは人間並の知識を持つに至った超生物。自分がどうしてこんな目に遭っているのかを理解出来る。そして、どうすれば状況が変わるのかも。

 要するに空爆が邪魔なのだ。空爆があるから目潰しをされ、意識をそちらに向けるしかなく、戦車の砲弾が躱せなくなる。空爆さえなければ、戦車砲を躱すぐらい訳ない。その戦車を潰すのだって楽勝だ。

 最優先攻撃目標は、空爆を行っている爆撃機。

 と、言葉にするのは簡単だが、実際にやるとなれば中々に厳しい。何しろ爆撃機は非常に高い場所を飛んでいるのだ。正確な距離は測りかねるが、恐らく高度五千~一万メートル程度……五キロから十キロほどの位置。いくらミィの怪力でも、そんな場所まで衝撃波は届けられない。ジャンプをしたって、精々一~二キロが限界だ。最低ラインの半分にも及ばない。

「(さぁて、どうしたもんかなぁ)」

 粉塵の中空を仰ぎ、降り注ぐ鉄塊を警戒しながら考え込むミィ。

 勝つか負けるか、生きるか死ぬかの大勝負。

 されどミィの表情に、不安の色が滲む事はなかった。

 

 

 

 結果は予想通りではあったが、過程に関しては想像以上だ。

 それが正直な想いであると、真魅は見開いた眼と、悔しげな口元で物語っていた。

 飛び交うライフル弾、炸裂する榴弾、降り注ぐミサイル。

 いずれも『人類』が敵を、より多く、より確実に葬り去るために作り出した文明の利器である。厚さ数十センチの金属装甲を容易くぶち抜き、余波だけで防具で固めた人体を跡形もなく破壊する一撃を、数百キロ彼方から撃ち込む……言葉でその性能を表せば、一体何処の子供が考えた『さいきょうのへいき』なのかと渇いた笑いが出てくるだろう。地球の覇者となった人類の科学力は、生半可や怪物など簡単に消し去れるほど発展したのだ。

 ――――だが。

「っだぁ! 鬱陶しい!」

 猛攻の末生み出された数十メートル近い爆炎を掻き分け、フィアは獣染みた咆哮を上げた。

 炎から現れたフィアに、向かい合ったロボット達と戦車は応戦。包囲網を敷いた部隊からの一斉放火により、四方八方から兵器が飛来。直撃を受け、フィアは再び爆炎に呑み込まれた。平時であれば子供達が駆け回っている平らな草むらは無残に砕かれ、さながら地殻変動でもあったかのように一変。()()()()()()()()に向けて放たれたエネルギーの大きさを、有り有りと示している。

 しかしフィアの『身体』はそれを嘲笑う。

 全ての直撃を受けようと、彼女の歩みが止まる事はない! フィアは高速で包囲の一角、十数機のロボットと戦車二台が構える場所へと突き進む!

 数十メートルと距離を詰められ、危険だと判断したのか。フィアの正面に立つ数体のロボット達は順次射撃を止め、その場から離れようと背中を見せた

「ふんっ!」

 瞬間、フィアは遥か彼方の敵に向かって腕を振るう。

 するとどうだ。振るったフィアの腕は、ぐにょりと変形しながら一気に伸びる!

 あまりにも唐突、それでいて出鱈目な技に、顔があったなら驚きで目を見開いていたであろう動作をロボット達は見せた。そして僅かながらその身を強張らせてしまう……敵を前にして硬直するなど愚の骨頂だ。されど今回に限れば些細な問題である。

 一帯を根こそぎ破壊するように、フィアの腕は縦横二十メートル以上の範囲を薙ぎ払ったのだから。ミィのような高速移動でもしなければ回避不能の一撃、下がろうとしていたロボット達は抵抗虚しくも理不尽な腕に巻き込れてしまう。さながらそれは津波から逃げ惑う人々のように無力で、悲劇的ですらあった。

 だが、フィアは津波と違い意思を持つモノ。

 津波と違ってフィアは、仲間が破壊された瞬間を目の当たりにした兵器達の硬直を見逃してはくれない。

「っがああああああっ!」

 狂気すら滲ませる咆哮。

 刹那、周囲の大地が切り刻まれていく! 否、大地だけではない。フィアを囲うように展開していた半径数百メートル内の物体が、問答無用で切断されていく。ロボットは上半身と下半身が分離し、戦車は縦から真っ二つに割れ、ヘリコプターはプロペラを切り落とされて墜落。

「っ!」

 真魅も強化外骨格によって得た素早い身のこなしでその場を跳び退くや、彼女の立っていた場所が無惨に切り裂かれた。後ろに控えていた二体のロボット兵士は退避が間に合わず、縦横四等分にされてしまう。

 果たして一呼吸終える間すらあったかどうか。あまりにも短い時間でフィアの周囲は地獄のような、狂おしいまでの不条理が吹き荒れた。

 この光景を生み出した時、フィアは獰猛な笑みを浮かべていた。くるりと真魅の方を振り向くや、フィアは笑みを浮かべたまま片手を伸ばし――――

「……ちっ」

 忌々しげに舌打ち、したのに続くように空から爆音が轟く。次いで雨のように降り注ぐ金属片が地面に突き刺さるが、フィアの『身体』はそれを容易に弾く。全くのノーダメージだ。

 とはいえ爆音が鳴る前の金属片……『空爆』の直撃を受けたなら、ここまでの余裕はなかったかも知れないが。

 フィアの頭上十数キロの高度には、爆撃機が飛んでいたのだ。フィアはそこから何百と投下された爆弾を察知。辺り一帯を兵器諸共切り刻み、逃げ果せた真魅に差し向けるつもりだった『糸』を迎撃に使用したのである。切り刻まれた爆弾は上空で爆散し、フィアまで届かなかった……が、代わりに真魅に猶予を与えてしまった。

 そして猶予を確保した真魅は、自らの周囲に新たな戦力を配置させていた。戦車やロボット兵士、ヘリコプターなどの大軍……フィアが一瞬で粉砕した部隊は、同じぐらいあっという間に再展開してきた。しかも二度目の布陣は、先程よりも分厚い。暗い上に遠目でハッキリとは分からないが、外見も少々変わっているようだ。

 大してエネルギーは消耗していないが、こんな形の『演出』をされると徒労感を覚えずにはいられない。フィアは不機嫌な鼻息を漏らし、新たな護衛を引き連れた真魅はそんなフィアを煽るように語り掛けてきた。

「全く、三分は持ってほしかったのに、半分もいかなかったわねぇ。あの戦車、一台十億円するのよ? ロボットやヘリはもっと高い。この一分ちょっとで数千億が消し飛んだじゃない。最近軍事予算は削られ気味だから、少しは容赦してくれないかしら?」

「ふんっ。私の周りに立つ方が悪いのです。大体あんなガラクタで私を倒そうとは片腹痛い。さっさと諦めた方が良いと思いますが?」

「……そうね。そうさせてもらうとしましょうか」

 フィアの挑発的な言動に、真魅は肯定的な返事をする。意外な反応にフィアは首を傾げ

 られない。

 その首が、唐突に()()()のだから。

「――――なっ!?」

 吹っ飛ばされた頭部を再生させながら、フィアは警戒感を露わにする。

 『身体』の強度と弾性は弛めていない。

 即ち先程までと同程度の攻撃……戦車砲やミサイル程度の火力なら平然と受け止められる耐久性を、フィアの『身体』は今も持っている筈なのだ。その『身体』を破壊されたという事は、考えられる理由は一つしかない。

 戦車やミサイル以上の火力で、攻撃されたのだ。

「やっぱり、人間如きの発明品じゃ駄目ね。対人間用のぬるい火力しかないんだもの。だから、こんなガラクタであなた達を倒すなんて都合の良い願望は諦める」

 ニタリと、真魅の口元が歪む。彼女を護衛していた戦車の一台が、何時の間にか砲台の先をフィアに向けていた。

 その砲台の形状は、今までの戦車とは明らかに違っていた。筒状のものではなく、三本の長い柱で出来ていたのである。おまけに無骨なほどシンプルだった前のと違い、今回の砲台には無数のコードが付けられていた。それに装甲も、フィアが今まで蹴散らした戦車と違う……不思議な光沢を放っている。

 明らかに、今までの戦車とは『技術力』が違う――――軍事的知識など皆無なフィアでも、本能的に察する。今し方自身の頭を吹っ飛ばした一撃がコイツの仕業だとしたら……

「レールガン、と言っても分からないかしら? 現在アメリカ軍が研究・開発を進めている、最先端の武装。射出される特殊合金の弾は音速の数十倍の速さに達し、戦車砲とは比較にならない破壊力を誇る未来の兵器よ……尤も、我々は三十年前には実用化していたけれど。コイツはその最新型ね」

 自慢気に語る真魅の言葉に呼応するように、レールガン戦車部隊が一斉に動き出す。

「私達の総個体数は、人類の一パーセント程度に過ぎない。それはつまり、私達の存在が露呈し、人類が私達の排斥に動き出した時、私達は百倍の戦力差を相手にする必要がある事につながる」

 ヘリコプター部隊も動き出し、先程の機体が付けていたものよりも巨大な武装をフィアに向けてくる。

「故に、私達は技術開発を重視した。百倍の戦力差、生産能力を打ち破る力を獲得し、維持し続けるために……アンタには分からないでしょうけど、安全保障というやつね。そしてその結果が、この兵器の数々」

 ロボット兵士達はそれら機動兵器の動きに合わせ散開、部隊の穴を埋めていく。

「ヘリが装備しているのは、現代人類の主力戦車の装甲を貫通し、内部で起爆して搭乗員を殺傷するのを目的に開発された特殊徹甲ミサイル。歩兵が携帯しているのは最新鋭のレーザーアサルト銃……いずれも現人類文明が百年経とうと達せない、秘蔵の兵器よ」

 最後に不遜な態度を取り戻した真魅が前に出て、新たな陣形は完成を迎えた。

 完全な包囲網。四方八方から殺意を向けられ、フィアは肩を竦める。

「……先程までとは格が違うと仰りたい訳ですか」

「格、なんてちっぽけな言葉で表現しないでもらいたいわね。百年前、人類の最新兵器は悪路すら満足に走れない鉄の乗り物だったのよ。それが今や人類は、数千キロ彼方の対象を攻撃し、音速以上の速さで空を舞い、ビルをも貫く砲撃に耐える装甲を持つまでに至った。百年前の戦車じゃ、何十台集まっても今の最新鋭戦車には敵わない……分かる? さっきまであなたが相手していた人類の兵器と、今此処に展開した私達の兵器とでは、それと同じぐらいの差があるのよ」

「ふん。どれだけの自信作かは知りませんが結局オモチャで私を倒すつもりなんじゃないですか。見くびられたものです……ですが」

 言葉を切るや、フィアはその場で四つん這いになる。

 そしてその顔に――――心の底から楽しそうな、猛獣の笑みを浮かべた。

「確かに先程までのガラクタよりはマシなようですからねぇ! その無謀さに敬意を評して全力で遊んであげましょう! 少しはこの私を楽しませてくださいよォッ!」

 狂喜とした咆哮を上げるや、フィアの背中から無数の水触手が生えてくる! 触手ははしゃぎ回る子供のようにのたうち、叩いた拍子に大地を抉り飛ばす。爆撃により荒れ果てた土地だが、僅かに残った草花も、フィアの気紛れで敢えなくその命を散らしていく。

 『本気』を出すとは言っていない。

 だが全力という事は、他者の都合を考えないという事。周りの被害など考えず、今のフィアは真魅とその仲間をズタズタに引き裂く事にしか興味がない……最も純粋で、最も危うい、子供のような狂気を振りまいていた。

 相対する『大人』からすれば、堪ったものではあるまい。真魅は、疲れたように息を吐く。それから考え込むように、自らの顎を擦り始めた。

「……ふむ。確かに、今までの観測で得た戦闘データからして、この戦力では足りないかも知れない。強化外骨格を身に纏い、尚且つミュータントであるこの私が加勢したとしても、不安要素は残るわね」

「不安要素ぉ? まだそんな淡い期待を持っていたのですか! あなた方に勝機などある訳ないでしょうに!」

「だから、私達のとっておきを動かした。感謝してちょうだい? あなたは間もなく、文字通り『伝説』を前にするのだから」

 煽り立てるフィアの言葉を無視するように、真魅は淡々と()()()を続ける。

 この状況で、今更ただの自慢話? 違和感を覚え、フィアは笑顔を僅かに強張らせる。その身に、警戒の意識を張り巡らせていく。

 そして失われたフィアの余裕を、全て引き継いだような笑みを真魅は浮かべる。

「神の杖を前にして跪くが良い。畜生風情が」

 真魅が告げる意味深な言葉。

 だが、フィアにその意味を考える暇はなかった。考える前に身体が反射的に動き、

 次の瞬間、巨大噴火を思わせる大轟音と大量の粉塵が、フィアの居た場所から噴き上がったのだった。




軍隊と主人公勢がバトルする、という展開は割とよくあると思いますが、巡航ミサイルと空爆に襲われる展開はあまり見ない気がします。
で、襲わせてみた。まぁ、書いてて思いましたが、生身にやるような攻撃手段じゃないですね(今更)。こんなものを人に向けるのが今の人類である。

次回は11/13(日)投稿予定です。


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世界の支配者9

 真っ暗な地の底。大地の胎動に満ちる世界に、花中は置かれていた。

 今頃、地上では戦いが巻き起こっている。それも人類を影から支配してきた、恐るべき生命体が誇る兵器を相手とした。

 タヌキ達の経済力や技術力は未だ計り知れない。だが、世界の政治と経済を牛耳る彼女達に資金や資源的不足は考え辛く、人間と大差ない動きが可能なロボット兵士からは技術力の高さが窺い知れる。人類国家では相手にならない、圧倒的な力を誇るのは明白だ。

 そんな強大な相手と、友達は戦っている。自分も力になりたい、何か手助けをしたい……溢れ続ける想いで、花中は胸が張り裂けそうになる。

 だが、動く訳にはいかない。

 もしこの地の底から這い出して地上に出たなら、真魅は花中の捕縛を目論むだろう。花中を人質にすれば、フィア達の動きを封じる事が出来る。いや、例え花中の姿がなくとも、その『意思』を臭わせるだけでダメだ。花中が戦場を見ているとなれば、晴海や加奈子、両親達……真魅に掌握されている人質達の意味が蘇ってしまう。

 花中は戦場を見てはならない。聞いてはならない。何も知らない、知りようがないという『事実』が、真魅にとって最悪のプレッシャーとなる。

 花中に出来るのは、信じる事だけだ。

 自然の権化とも呼べる自分の友人達が、文明の極地を徹底的に破壊してくれる事を――――

 

 

 

 最初に異変に気付いたのは、とある役割を担っているロボット兵士達だった。

 他のロボット兵士達より一回りほど大きなボディを持ち、背中に通信機らしきものを背負った中隊長機。仲間達の攻撃により途切れる事なく生じている巨大は爆炎を眺めていた彼は、ふと空を仰ぐ。

 榴弾砲、ロケットランチャー、小型ミサイル……それらの残弾数が少なくなり、そろそろ部隊の交代が必要な時に、事態は発覚した。此度の作戦では地上部隊の弾倉残量が一定ラインを超えると、巡航ミサイルによる支援が行われる手筈となっている。ミリオンの動きを封じるには爆破攻撃が有効であり、地上部隊が交代している間は巡航ミサイルによって爆破を維持する作戦だからだ。機体の残弾数は各々が電波通信によって『発射施設』に送られ、戦場から遠く離れた施設の判断によりミサイルは適時射出される。

 故に隊長機が破壊されようと、戦局が混乱しようと、ミサイルの援護はつつがなく行われる。実際、今までの三十分間はこの流れを続けてこれた。既に周囲が荒野と化すほどに攻撃を加えたが、ミリオンは未だ存在している。作戦を中止する理由はない。

 ところが不意に、この流れが途切れた。

 各機の残弾が危険水域に達したのに、ミサイルは何時まで経っても飛んでこないのである。無論何かしらの妨害を考慮し、電波のみならず音波や振動波、可視光などを用いた予備通信もあるのだが……どれを用いても施設からの返事はない。あまりにも支援が来ないからか、施設と直接的な連絡を取り合える中隊長機のみならず、部隊全体に苛立ちが募っていく。

 そして苛立ちは、やがて焦りに変わる。

 彼等の攻撃は『怪物』の動きを封じるためのものだ。機動性を損なうほどの高密度陣形にしたのも、火砲の密度を上げるため。この密度での攻撃を続けなければ、怪物が動き出してしまう可能性が高いからだ。その弊害として、部隊の交換に時間が掛かるのも分かっていた。

 だからこそ巡航ミサイルによる支援が不可欠なのに。

 一機、一台、一体と、弾倉が空に近くなる。このままでは弾幕が途切れてしまう。こうなったら多少攻撃の密度が下がっても仕方ないと、支援のミサイルを待たずに一 部の歩兵ロボット達が後退を始めた

「いくら待っても、ミサイルはもう来ないわよ」

 その姿を嘲笑うように、爆炎から声がする。

 それから間もなく、攻撃は止んだ。まだ弾切れを起こしていない機体も多い。それでも、トリガーを引く指が固まっている。やがて爆炎が独りでに吹き飛び、中から無傷の攻撃目標(ミリオン)が姿を現したが、誰も攻撃を再開しない。

 ミリオンが発したのは、今の一言だけ。

 その一言で、ミリオンは戦場を完全に支配していた。

「だって、私が発射台を壊したんだもの。連絡なんかする暇がないぐらい、一瞬でね。問い合わせるなら、そうねぇ、本部の方じゃないかしら?」

 つらつらと、ミリオンは優雅に語る。その言葉の意味を細かく説明はしない。分かるわよね? と言わんばかり。

 実際、彼等には分かる話だ。

 それでもロボットである彼等に、明らかな動揺が走った。あり得ない、そんな馬鹿な――――そう語るかのように、ロボットだけでなく、戦車やヘリコプターすらも揺れ動く。

 彼等には考えられない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、出来る訳がない!

「確かに、爆破攻撃は私にとって中々有効だったわ。あれじゃあ拡散させた個体は粉々にされて、あなた達の元に辿り着けない。でもね、この身体のように『群体』となれば耐えられる。なら、後はサイズの問題……簡単だったわよ? 小石ぐらいのサイズになるだけなんだもの」

 落ち着きを失ったロボット達を窘めるように、ミリオンは自らが弄した策を打ち明ける。尤も、その言葉はロボットの中身(操縦者)達の心を一層掻き乱したが。

 見えないほど小さな個体では余波に耐えられず、巨大な群体だと動けなくなるほど攻撃されるなら、その中間で行けば良い。

 膨大な数から成る群体だからこそ、ミリオンにとってその調整は造作もない。小石程度のサイズとなり、爆風に紛れて辺りに散らばれば良いのだ。後は地面を這い、適当な場所まで離れるだけ。衛星などで俯瞰的に監視されている可能性もあったが、どうとでもなる。何しろ虫けらサイズで這い回っているのだ。見付けたところで虫と区別が付かない。

 後は悠々と地面から飛び立ち、ミサイルの軌跡を辿るだけ。過熱による空気の膨張を利用した高速飛行でミリオンは空を駆け、ついに彼女は『発射施設』……太平洋上に展開する艦隊を発見した。

 見付けてしまえば、最早ミリオンにとって脅威ではない。内部に侵入するのは勿論、通信設備をドロドロに溶かしたり、積まれているミサイルの燃料に火を付けるのもお安いご用。船底に穴を開ける事も、扉を溶接して出入り不能にするのも思うがままだ。

 ミリオンが確認した、自分を攻撃していた艦艇の数は十七。いずれも最先端の、世界最強クラスの艦。

 その全てをミリオンは撃沈した。発見してから僅か数分ほどの間に。

 あまりにも非常識な戦果。それを易々と成し遂げたミリオンから、ロボット達は僅かに後退り。

「あら? あなた達、このまま帰るつもりなのかしら?」

 その僅かな動きも、ミリオンの軽い一言で止められた。

 タヌキ達が用意したセンサーは、大気中の塵に混じるミリオンの個体は捕捉出来ても、敢えて()()()塊となったミリオンには対応していなかった。今やミリオンは目視可能な存在ではない。微細個体と群体を使い分ける事で、再び不可視の存在に返り咲いた。

 ならば、もしロボットのうちの一体にミリオンが忍び込もうとしたら?

 接近してくる姿は見えない。密着後、排熱口などから機体内部に侵入されたら確認も出来ない。こんな状態のロボットを帰還させるのは、ミリオンを基地に招くのと同じだ。太平洋上の大艦隊を、数分で ― 所謂軍事的用語ではなく文字通りの意味で ― 全滅させた存在である。施設一つを潰すぐらい片手間でやり遂げるだろう。

 そしてその時、基地に居る生身のタヌキ達はどうなる?

 ミリオンは、執拗に自分を殺そうとした相手を許してくれるほど慈悲深いのか?

 ロボット達は動かない。巨大な火砲を構えたまま、微動だすらしない。戦車や、ヘリコプターも。

 ……いや、違う。

「廃棄した、と」

 ミサイルによる支援が途切れた現状、彼等にミリオンを打倒する術はない。撤退はミリオンを懐に招き入れる行為なので行えない。廃棄以外の選択肢などなかった。

 尤も、大人しく電源を落とすのも、それはそれで勿体ない。

 全ての兵器が、一斉にミリオンの方へと振り向き――――駆けた。武器は使わず、なんの考えもないかのように真っ直ぐ、猛スピードで。

「まぁ、処分しないといけないから、そうなるわよねぇ」

 肩を竦めながら、ミリオンは納得する。残弾数は僅か。しかし全くのゼロではない。ロボットは兎も角、戦車やヘリコプターの質量と速度は十分に『兵器』としての威力を生み出せる。どうせ廃棄品なのだ。華々しい最期を飾るための特攻、といったところか。

 しかしながら、ミリオンにその心意気を買ってやる気は毛頭ない。

「良いわ。ちょっと試したい事があったから、ね」

 すっと、ミリオンは迫り来る軍勢に手を差し向けた。

 最初は何も起こらなかった。

 ところが時間が経つにつれ、奇妙な事が起こり始める。突撃してくるロボット兵士が一体、また一体と転び始めたのだ。無論破れかぶれの突撃に加え、大規模な軍団である。散々攻撃した事で大地の凹凸も酷い事になっていた。不運な数体程度が転ぶのは避けようがない。

 だがヘリコプターがバランスを崩し、戦車が横滑りするとなれば、話は別だろう。

 異常の原因は、辺りに吹き荒れる風。

 ビュービューと産声を上げたそれは、瞬く間に地鳴りのような轟音に声変わり。大地を引っ剥がし、竜巻とすら言えない、破滅的な暴風として周囲を破壊していく!

 そして、その風の中心に立つのがミリオン。

 彼女は能力を用いて周辺の大気を加熱。強力な上昇気流を発生させ、巨大な竜巻を作り出したのだ。熱せられた空気は周囲が真空になるほどの勢いで空へと駆け昇り、急速に冷却されて叩き付けるように降下。ミリオンを中心にした半径百数十メートル圏内ではあらゆる方向に風が吹き荒れ、尚且つ巻き込んだ物を内側に閉じ込め続けている。共に巻き込まれた仲間すら障害物と化す状況の前に、あらゆる生命に為す術などない。竜巻はロボットのみならずヘリコプターをも風で舞い上がらせ、重たい戦車は大地でボールのように転がす。

 今やミリオンの周りは地球のスケールを凌駕する、宇宙規模の災厄と化していた。

「理論は組み立てていたけど、思ったより上手く出来るものね。時速五百キロは出せているかしら……そう言えば、金星で吹き荒れている暴風が時速四百キロだったかしら? なら、金星の暴風(スーパーローテーション)と呼ぶのは相応しくないわね」

 ニヤリと、ミリオンは笑う。

「名付けるなら『無生物の暴風(ハイパーローテーション)』かしら。んで、今回はそれにプラス」

 そして彼女は暴風の中心にて、翻弄される機械達に見せ付けるように己の片腕を真っ直ぐ空へと伸ばし、

「エクスプロージョン」

 パチンッ、と、指を鳴らした。

 ――――ミリオンはかつて、フィアと花中に負けた事がある。

 敗因はフィアの身を守る水を分解した結果大量に発生した水素と酸素を利用され、強力な水素爆発を起こされたから。その対策を研究する中でミリオンは二つの技を編み出した。

 一つは爆発に対する強固な防御策。自身の配列を変える事で、『個体』強度を大きく向上させた。

 そしてもう一つは、水素と酸素を利用した『爆破』攻撃。

 風の流れを生み出した上で大気中の水分を分解。十分な量を確保したら着火する。そうする事で爆風は大気の流れに集束し、濃縮された破壊力を誇りながら、爆発の中心に立つミリオンには殆ど影響を与えない。今まで直接触れる事でしか攻撃出来なかったミリオンの、初の間接攻撃技だ。とはいえ失敗時に予想される被害範囲が大きく、今まで試せていなかった。

 正真正銘、初お披露目の技。そして結果は曰く、

「ちょっと失敗して、キノコ雲が上がっちゃった。余波で住宅地の一部も吹っ飛んじゃったし……もう少し風速を上げて、こう、キュッと締めないと駄目なのかしら?」

 というものであった。

 

 

 

 立ち込める粉塵。視界を覆い尽くす微粒子の纏まりは、猫の視力でも見通せない。

 その煙幕を掻き分け、ミィの頭と脇腹目掛け二つの金属が飛翔してくる!

「ぐっ!?」

 落ちてきた巨大な金属体・地中貫通弾はミィから二メートルほど離れた地点に落下し、新たな爆風によって粉塵を巻き上げる。そして脇腹目掛け飛来した小型の金属体……超音速の弾丸が直撃。人間ならば余波だけで跡形もどころか塵芥と化す打撃に、さしものミィも小さな呻きを漏らす。

 先程から、ずっとこの調子だ。

 地中貫通弾の方は狙いが大雑把だが、土煙を上げるのに大活躍。そして小型金属体は正確にミィを捉えている。まるでこちらが見えているかのよう……いや、間違いなく見えている。ウィルスであるミリオンを視認するためのカメラを作れるほどの連中だ。分厚い粉塵の中を見通すぐらい訳ないのだろう。

 対してミィは、巻き上がる粉塵が視界を遮っている。爆弾も弾頭も、どちらも回避不可能な速さではない。例え粉塵に包まれていようと、来る方角をじっと見つめて警戒していれば避けられる程度だ。だがミィの目は二つ、それも正面を見るのに特化している。上空と真横から迫る攻撃を、同時に警戒する事は出来ない。

 故に、ミィは空を見つめる事を選択していた。脇腹を執拗に狙ってくる砲弾よりも、頭上から降り注ぐ金属の方がより危険だったから

 ――――ではない。

 粉塵の先から、ズドン、ズドンと音が聞こえてくる。粉塵を巻き上げるために、継続的に地中貫通弾が投下されているようだ。武器の値段など全く知らず、資本主義的価値観も薄いミィであるが、自分でも直撃すると痛い爆弾ならばただの銃弾よりも高価である事は想像出来る。それを雨のように降らし、当てるのではなく『煙幕』として使うのがどれだけ勿体ない事なのかも、なんとなく理解していた。

 よくもまぁこんなにぼんぼこ使うものだ。そんな感想をミィは抱く。とはいえその想いに呆れは殆ど含まれていない。コストに糸目を付けず、確実に自分を仕留めるため全力を尽くす……色濃い殺意をしかと感じ取った。

 その上でミィがしている行動は、ふらふらと歩く事。

「もう少しこっち、かな」

 あっちにふらり、こっちにふらり。粉塵に覆われて見えない空を仰ぎながら、動いては立ち止まり、動いては立ち止まりを繰り返す。その間も空からは巨大な金属が落ち、真横から高速の砲弾が飛翔している。迂闊に動いた結果腹のど真ん中に砲弾が命中しただけでなく、数センチ背後を地中貫通弾が掠めていった始末。

 それでもミィは歩みを止めない。前へ後ろにふらりふらり。先程よりも歩幅は狭く、ゆったりとした足取りで。

 さながら、位置を探るように。

 無論ミィがどれだけ奇妙な行動を取ろうと、煙幕代わりの空爆が止む事はない。強大無比なる地中貫通弾が雨のように降り注ぎ、ズドンズドンズドンと爆音と揺れを轟かせる。

 そして一発の地中貫通弾が上を向くミィの眼前に迫り、

 それを視認したミィは、笑った。

 巨大な弾頭は貫通力を高めるためか高速で回転しており、粉塵を渦のように纏っている。即ち、通り道の粉塵を()()()()()()()という事。

 結果粉塵の一部が切り取られ、煌めく星空を覗かせていた。

 言うまでもなく、切り取られた隙間には即座に周りの粉塵が流れ込む。通常の生物ならば、その光景を認識する暇などない。しかし超常の生物であるミィにとって、刹那の時間などすっとろいぐらいだ。

 ミィは空を凝視する。超音速の弾丸を容易く見切る視覚神経は、超高高度を浮遊する影を発見。更に意識を集中すれば、夜空に溶け込む姿の輪郭も浮かび上がる。

 ミィはついに捉えたのだ。星空に混じる、十数機の『飛行機』の姿を。

「(見えたっ!)」

 声にはついていけない、光の速さでミィは思考する。

 比較物がないので距離感が掴み辛いが、獲物を捕獲するために発達した視覚を持っている(ミィ)は本能で飛行機との距離及び相対速度を計測。いずれの飛行機も高度は一万メートル前後、移動速度は時速八百キロ程度だと割り出す。

 人間サイズの物体を空爆するためか、高度と飛行速度をかなり落としている。無論生身の人間では手に負えない高さと速さであり、ミィとて手を伸ばして届くようなものではない。蹴り上げた衝撃波だって届かないし、投げた物体は風の影響で何処に飛んでいくか分からない。大体ミィの力に耐えられる物体など早々ない。

 だが、逆に言えば上空に吹き荒れている風でもぶれず、ミィの力にもある程度なら耐えられる、重くて硬いものならば届く。

 そして『それ』は今、()()()()()()()()

「ふっ!」

 すかさずミィは『それ』――――眼前に落ちてきた地中貫通弾を蹴り上げる!

 相手は重さにして数トンは下るまい超高密度金属体。おまけに超音速……マッハ十以上という出鱈目な速さで飛来している。直撃を受ければ戦車どころか、核シェルターすら紙のようにぶち抜く代物だ。

 だが、それがどうした?

 重量数トン? こちらの足一本だってそれぐらいの重さはある。音速の十倍? それぐらい自分にだって出せる。むしろとろくさくて欠伸が出てしまう。

 当たったら痛い? その通りだ……二階からサッカーボールを力いっぱい投げつけられ、頭から受けたなら、大抵の人間は悶絶するに決まっている。

 だが、意図的に足で受け止めたなら話は別。

「ぅぅらぁっ!」

 衝突時の僅かな痛みに眉一つ動かさず、ミィは足先に渾身の力を込める! 核シェルターすらぶち抜く弾頭は持ち前の運動エネルギーと強度でミィの格闘攻撃に抗おうとするも、一瞬たりとも叶わない。呆気なく打ち消され、凌駕され、ついにはベクトルがひっくり返る。方向性のみならず形態すらも潰れ、裏返り、脈動する。

 それはあたかも、痛みから逃れる生物であるかのように。

 本来空から大地を射抜く筈の物体が、辺りの粉塵を吹き飛ばすほどの超音速で空を駆け昇る!

 高密度金属体である元・地中貫通弾は、真っ直ぐに空へ空へと突き進む。流れる強風を自らの圧倒的な重量で受け止め、超音速を自らの出鱈目な強度で堪えきる。

 そして弾頭は真っ直ぐ、自身が産み落とした母胎へと飛び込んで

 空に、紅蓮の花火が打ち上がった。

「よっしゃあ!」

 見事ストライクを決め、喜ぶミィはガッツポーズを決める。

 撃ち落としたのはたった一機。空に浮かぶ十機以上の敵のうちの一機でしかない。しかしその一機で十分。

 安全圏だと思っていた場所が、この瞬間キルゾーンに変わった。どうせ無人戦闘機だろうが、撃ち落とされるという『事実』により反撃の危機感を植え付ける事は出来た筈。挙句落とした爆弾で撃墜されたのだ。もう迂闊に爆弾を落とせない。

 無論煙幕は維持しなければならないし、無人戦闘機だから死を恐れる必要はない。すぐに司令官の命令を受けて、彼等は恐れ知らずな攻勢に転じるだろう。

 だが、もう遅い。

 先の蹴りで、ミィの視界を遮っていた土煙は消し飛んだ。今まで地中貫通弾が目の前に落ちてくるのを待っていたのは目隠しがあったからに過ぎない。敵を覆い隠す暗幕の隙間を、見逃さないためである。

 その暗幕自体がもう残っていないのだ。ミィの動きを阻むものは何もない!

「今更警戒したって、遅いっての!」

 晴れた世界の中を、神域に達する速さでミィは駆ける。散々撃ち込まれた地中貫通弾。その殆どは役目を果たし、自らの纏ったエネルギーによって破裂している。それでも何百と撃ち込まれた事で、割合としては僅かに、実数としてはそれなりの数が、辛うじて塊を維持していた。

 じっくりと耐えた甲斐があった。これなら弾数は十分。残りを気にしてちまちまとやる必要はない。

「一発、二発っ……さんぱぁーっつ!」

 追撃とばかりに、ミィは三発の地中貫通弾を空へと打ち上げる! 一発は爆撃機の翼に命中、二発目は機体ど真ん中、三発目は外れ……しかし翼に被弾した爆撃機がバランスを崩してひっくり返り、他の機体と接触。合計三機を撃墜した。

 この短時間で複数の機体を失い、上空の編隊は大混乱。整然としていた隊列が崩れ、猛禽類に襲われ逃げ惑う鳥のように統率を失う。最早連中に次の空爆は行えない。穴を埋めるため援軍が来るにしても、時間が掛かる。

 ここから先は、ミィの時間だ。

 敵側もそれを察したのか、新たな攻勢に出ていた。粉塵に阻まれ身動きが取れない間に展開していたのか、爆風で捲れ上がった大地や木々などの物陰から何十という数のロボット兵士が飛びだしてきたのである。そして彼等はミィと向き合うや、手にした武器で攻撃してきた。

 しかし撃ち込んできた物は、爆弾や銃弾の類ではない。手榴弾のような大きな球で、ミィの近くに落ちたそれらは衝撃で割れるや朦々と黒いガスを噴き出した。先程の土煙とは比較にならない濃さに、あっという間にミィの視界が塞がれる。

 またしても煙幕か? 変わり映えのしない敵の小賢しさにミィは顔を顰め……だが一呼吸置いてすぐに、その認識を改めた。

 鼻を刺激する異臭。

 吸い込んだ空気が喉を焼き払い、肺をズタズタに荒らしていく。毛細血管が破裂し、肉が次々に壊死していく。神経が断末魔の悲鳴を上げ、苦痛のあまり自害するように朽ちていく。

 肉体操作能力を持つが故に、手に取るように分かる己が体内の惨状。ただの煙幕なんて、そんな生易しいものではない。

「(即効性の毒ガスか!)」

 ガスの正体を悟り、ミィは咄嗟に息を止めた。吸い込んだのはほんの一呼吸分だったが、猛烈な勢いで体内が腐りゆくのが分かる。恐ろしい強毒性だ。人間ならば、この一呼吸で命を落としていただろう。ロボットを使わなければ、持ち運び自体が危険かも知れない。

 ミィは持ち前の体重で体内の毒を希釈、かつ細胞分裂を早めるという物量作戦(その場しのぎ)で堪えたが……恐らくこれが彼等の秘策。空爆やレールガンで動きを鈍らせてから、この毒ガスで仕留めるつもりだったのだろう。空爆が機能しなくなり、慌てて切り札を使ってきた訳だ。

 どうする?

 思考を巡らせたミィは……小さく、息を()()()()()

 そしてにんまりと意地悪を思い付いた子供のように微笑み、

「――――すうぅぅぅぅぅぅぅ!」

 一気に、辺りの空気を吸い込む!

 毒ガスと理解した上での、ミィの暴挙。目の当たりにしたロボット兵士達は、ミィが自殺行為を取ったにも拘わらずその金属製のボディを強張らせる。

 この場に居る誰もが理解していた。例え煙幕で視界を防ごうとも空爆機を撃墜するような、ミュータントの予測不能性を。

 致死性の毒ガスを体内に取り込む……その行為すら、自分達の有利に働くとは限らないと。

 周囲に広がっていたガスを残さず吸い込んだミィは、その身体の内側からバチバチと音を鳴らし始めた。ぷっくりと頬を膨らませ、窄めた口からは黒煙が溢れている。胸部も膨らみ、全身のバランスが崩れていた。一見してコミカルな姿が、成し遂げた行為の異常さを際立たせる。

 ミィの身体は今、燃えるように熱くなっていた。

 比喩ではない。全身の筋肉を震わせて発熱。その膨大な熱量を血液で回収して肺で放出する……身体操作能力により行ったこの生理作用により、ミィは肺の内部を凡そ一千度もの高温高圧状態にしていた。吸い込んだ毒ガスをこの高温により変性・無毒化したのである。とはいえ何時までも肺に留めてもおけない。

 吐き出す必要がある。

「……あたしもフィアの事、怪獣とは言えないなぁ」

 ミィの笑顔と言葉を受けて、全てを理解したのだろうか。ロボット兵士は我先にと背中を見せ、

 赤色に輝くミィの『吐息』は、容赦なく彼等を焙った。

 一千度に達する高温高圧の大気は、宵闇に包まれたこの場を紅蓮の光で染め上げる。伸びる速さは音の速さに匹敵し、愚鈍な機械兵士達は為す術もなく飲まれた。高温に強い彼等の外部装甲だが、残念ながらそれは飲まれた際の物理的衝撃で剥ぎ取られてしまう。

 晒される事を想定していないロボット達の内側は、一千度の高熱を想定していなかった。紅蓮の大気に触れた金属製のパーツがドロドロと溶け、気化し、消滅していく。溶けなかった外部装甲も、膨張し、ひび割れ、砕け散る。

「ォォォォォォォォ――――――――――――げふんっ」

 そのような吐息を十数秒と吐き続けて、ようやくミィの肺は空っぽになった。

 一月前、兄とケンカした際にも使った『火焔放射』。此度は反撃をしてくるような相手ではなかったので、その威力を存分に発揮出来た。荒野と化していた大地は、今や半径何十メートルと溶鉱炉の内側と同じ輝きを放っている。ロボット兵士も真っ赤に輝き……いや、原型が殆ど残っていなくて、土の一部となっているようだ。

 兵士は倒した。飛行機も落とした。

 残すは砲弾を撃ち込んでくる輩のみ。

「ほっ、とっ、よっ、せい」

 軽い掛け声に合わせ、ミィは踊るように拳と足を振り回す。

 それだけでミィに迫っていた超音速の弾丸は弾き返され、公園から数キロほど離れた市道の坂道に陣取っていた持ち主の下へと帰還。最先端科学によって造られた砲撃部隊――――レールガン戦車隊を一両残らず貫き、スクラップへと変えた。

「はい、一丁上がり……さぁーて、これからどうすっかな」

 一通り敵を片付けて、ミィはようやく離れ離れとなった仲間達の事を考える。恐らく自分と同じように、敵は相手に適した装備で挑んできている。フィアやミリオンの能力を調べ、見付けた弱点を容赦なく突いているだろう。もし、助けに行かなかったら……

 ミィはそれを考え、肩を竦めた。

 助けに行かなければ、なんだと言うのか。自分はこうして敵を撃破した。ならば仲間達にそれが出来ないとは思えない。特にミリオン。彼女が負ける姿など、ミィには想像出来なかった。『アレ』は自分から見てもおぞましい怪物なのだから。

 では、フィアは?

「自分の獲物に手を出すなーとか言って、攻撃してきそうだなぁ……ピンチだったら囮に使われそうだし」

 どういう状況でも、自分が酷い目に遭う未来しか浮かばない。

 藪を突いて蛇を出す必要もないだろう……そう考えを纏めたミィは、とりあえず静観に徹する事にしたのだった。




空爆にしろレールガンにしろ巡航ミサイルにしろ、射程距離が長過ぎですねぇ……能力バトルものでこれらとの戦いをあまりやらない理由が分かった気がする(今更)。

2018/10/27(日)
あまりにも話が長かったため分割しました。


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世界の支配者10

 目視不可能の光が、無数のロボット兵士が構える銃から放たれた。

 その光の威力たるや、人の頭ぐらいなら易々と貫通可能なほど。連射性能にも優れており、さながらマシンガンのように無数の高エネルギーを放つ。そしてその速さは光と同等であり、理論上どんな生物でも避けられない。

 故に放たれた光はフィアの身に直撃し、

 バチンッ、と音を立てて弾かれた。

「ああん!? 何かやったようですが……とりあえずケンカを売っているという事ですよねぇ!」

 フィアは全くの健在。苛立ち塗れの言葉遣いと違い、喜々とした声を上げながらロボットに突撃する! ロボット兵士達は人間に匹敵する高度な運動機能を有しているが……フィアの運動性は人間を遥かに凌駕していた。フィアは易々と、数十体ものロボット兵士の中心に跳び込む。

 速さだけではない。ミィほどの怪力はなくとも、数十トンもの水量が生み出すパワーは特殊合金で出来たロボットの装甲を容易く砕く。彼等の防御など、フィアにとって薄っぺらい紙のようなものに過ぎない。

 速さと力を兼ね備えた暴力が、ロボット兵士に襲い掛かる。フィアの細腕は手近なロボットの頭を掴むや、アリの足をもぐかのような気軽さで胴体から引っこ抜く。ずるずるとつられて出てくるコードがあたかも贓物のようであり、仲間の『最期』を目の当たりにしたロボット――――その向こう側にいる操縦者を怯ませるのに十分なグロテスクさがあった。

 無論操縦者とて兵士。そして現実に命を脅かされてもいない。彼等は手にした最新鋭テクノロジーを構え、至近距離に迫った脅威にレーザーを撃ち込む。だが、バチバチと音を立てるのが精いっぱい。全て弾かれてしまう。フィアの動きを阻む事すら儘ならない。

 繰り広げられる阿鼻叫喚。動物園に来ていた幼稚園児の集団に雄ライオンが跳び込んだような、一方的な『虐殺』だった。例え飛び散るものが血肉ではなく金属とゴムであったとしても、見る者に暴力への嫌悪を覚えさせるに違いない。

 しかし彼等は怯まない。

 ロボット達の何体かがフィアにしがみつく。身動きを封じるつもりかと、フィアは身体に纏わり付く虫けらを払い除けようと腕を振り上げた。

 強力な衝撃波と共にやってきた『何か』がフィアに直撃したのは、丁度そんな状況の時だった。

「ごっ!? ぬぅ……!」

 『何か』が衝突し、フィアの頭部が弾け飛ぶ。高密度状態で保持されていた水がコントロールを失い、一気に元の体積に戻った。瞬間的な体積の変化は強力なインパクトを生み、纏わり付いていたロボットを吹き飛ばす。大量の水と金属のパーツが周囲にばらまかれた。

 フィアにとってこの『身体』は入れ物に過ぎない。事実本体は今も傷一つなく、変わらず能力を振るえる体勢にある。だが、入れ物を壊されたら中身が露呈してしまう。生身の耐久では人間の素手すら脅威だ。『身体』を破壊しようとするこの攻撃は無視出来ない。

 巻き添えを食らい一掃されたロボットの破片を踏み付けながら、フィアは周囲を見渡す。しかし破壊の結果辺りの街灯は機能を失い、星と月の明かりが照らすだけ。視力が弱いフィアには、自分を攻撃したモノの姿を確認出来ない。

 ましてや数キロ彼方から放たれ、音速の二十五倍もの速さで迫る特殊合金弾――――レールガンの砲弾など、見える筈もない。

 遙か彼方で、再度レールガンの砲台が唸る。放たれた五発は、先と同じく音速を遙かに超えた速度でフィアに迫った。見えていないフィアには逃げる事も防ぐ事も叶わず。超科学の産物を五発全て受けてしまい、

 『身体』が()()()()()()()()()。頭も腕も腹部も、みな陥没して反対側に飛び出している。まるで身体から棘が生えるように十数メートルの長さまで伸長し、ギチギチと歪な音を鳴らす。

「ははぁん。そこに隠れていたのですか。ようやく会えたのですから逃げずにお返しを受け取ってくださいねっ!」

 そしてフィアは爛々と目を輝かせながら、猛々しい笑みと共に伸びた『身体』を元に戻した。

 瞬間、『身体』に蓄えられていたエネルギーが解放――――受け止めた弾頭を超音速で弾き返す! 受け止めた際、衝撃や熱の形で弾頭のエネルギーはいくらか消失している。だがそれでも、着弾時の九割以上のスピードを以て弾丸は射出された。

 現在、人類が使っている戦車の多くは、自身の砲撃と同等の威力を持った攻撃ならば耐えられる装甲を持っている。しかしタヌキ達が開発したレールガンの威力は、人類が保有する戦車砲を遥かに凌駕していた。そして彼等の戦車は、彼等自身に向ける事を想定していない……つまり彼等が誇る戦車の装甲は、現代人類の戦車砲に対応した程度で十分。

 ならば、自身の放った弾頭を殆ど射出時と変わらぬ速さで撃ち出されたら?

 その答えは単純明快。フィアに攻撃を仕掛けた超科学の結晶、五台のレールガン戦車は、自ら放った弾頭が装甲を貫通。弾頭に仕込んでいた形状的仕組みにより内部機関を広範囲に渡り破壊され、一撃で機能停止してしまった。

「さぁーてお次は何処のどいつがんぁ?」

 興奮しきった様子で口上を述べるフィアだったが、不意に間の抜けた声を漏らして頭上を見上げる。

 フィアのさして良くない眼には、特に何も映らない。

 だが降り注ぐ無数の物体――――空爆機編隊より投下された大量の爆弾を本能的に察知した。

「ちっ……鬱陶しい!」

 フィアはその場で四つん這いになり、地面に伏せる。

 この姿勢は、防御を目的としたものだった……ただし避けるためではないが。

 降下してくる無数の爆弾が、突如フィアの頭上数百メートルの位置で爆発。それも一発二発ではない。迫り来る全ての爆弾が、フィアに届く前に爆発し、砕け散っていく。

 その原因は、フィアの背中から伸びる無数の『糸』。

 太陽光の下でも不可視の存在であるそれが、今は爆炎を浴びてキラキラと光り輝いている。普段よりも太い『糸』を形成している証だ。そして光り輝く『糸』があたかも舞うように、フィアの周囲でのたうっていた。

 フィアには爆弾を目視で確認する事が出来ない。何処からどう来ているかはなんとなく分かるが正確ではない。普通に一本二本振るった場合、もしかしたら外してしまうかも知れない。

 だから何十本も『糸』を生やし、全方位をやたら滅多に切りまくって迎撃を試みた。どれだけ細くとも、数撃ちゃどれかが当たるだろうと考えたがために。

 言葉にすれば出鱈目としかいえない力技を、フィアは難なく成し遂げる。降り注いだ数百を超える爆弾は、全てが役目を果たす前に墜とされたのだ。されど撃墜したのはあくまで爆弾。上空の『天敵』達は悠然と飛び続けている。それどころか第二派攻撃を行うつもりなのか、ぐるりと旋回して再びフィアの真上に――――

「このままにしておくとお思いですかっ!」

 力強く叫んだフィアは頭上を一睨みするや、地面に己の手を深々と突き刺した。

 途端、大地が唸りを上げ、揺れ始める。

 フィアは能力を用い、土中の水分を吸い始めたのだ。それも日差しや植物によって水分量が減ってる表層ではなく、地中数メートルの深さから。水を奪われた土は短時間で体積を縮小させ、結果土壌構造が一気に崩壊。文字通り崩れるように、周囲の地面が次々に陥没していく。生き残っていたロボットや戦車も巻き込まれ、次々と大地の底に沈んでいった。

 しかしフィアは周りの有象無象など眼中にない。狙うは遥か上空、高度一万メートル先の飛翔体。

「ふんっ!」

 捻り出すような掛け声に合わせ、フィアの背中から三本の『糸』が生えた! 『糸』は月明かりを受けて輝きながら、駆け上がるように空へと伸びていく。

 此度の『糸』は月の微かな光で輝いている。ロボットを切り裂いたものや、爆撃機の爆弾を余さず切り落としたものとは比較にならないほど明らかに太く……故に頑丈。

 例え一万メートルまで伸びようと、折れないほどに。

 そして高速で飛行する爆撃機に、たかが数ミリの『糸』を認識する暇など存在しない。

 大雑把に振り回した『糸』の一本が無数に飛行していた爆撃機のうち一機の翼を切断! 高高度を飛行する文明の英知を、あろう事か生身の能力で叩き落としてしまった。

「はっはっはー! ようやく叩き落とせましたよ! コツは掴みましたから次はスコア更新を目指しましょうかねぇ!」

 空すら支配下に置いたフィアは、ますます勢い付く。隊列の穴を埋めるべく新たなロボットや戦車が集結しフィアに攻撃を始めていたが、フィアの動きは止まるどころか加速していく。足止めすら出来ていない。

 倫理観のない感情的な暴力が、立ち塞がる知的生命体の英知を打ち砕く。何千世代と積み重ねてきた想いが、継承の概念すら持たない生き物によって踏み躙られる。理不尽が、出鱈目が、信念を蹴散らしまかり通る。

 しかしフィアがいくら暴虐を尽くそうと、いくら不条理を押し通そうと、戦士達は戦いを止めない。絶望に屈せず、勝利を信じて突き進む。

 どれだけ非常識でも、どれだけ力に優れようと、あの『神の一撃』を生み出した自分達には敵わないと彼等は信じているのだ。

 信じていたのに。

「……Attack」

 フィアから百数十メートル……ミュータント達からすれば大した遠さではない距離から戦局を見守っていた真魅が、耳打ちするような小声で呟く。

 フィアは真魅の声に気付いていない。いくら魚の聴力でも、百メートル以上離れた小声を、ましてや破壊活動に夢中になっていては聞き取るなど無理な話だ。呟かれた単語にぴくりとも反応する事なく、レールガンの砲弾を跳ね返し、空爆を切り捨てながら、捕まえたロボットの頭を引っこ抜こうとして

「ほっ!」

 なんの前触れもなく、フィアは逃げるように跳び退いた。

 瞬間、フィアが居た場所は突如として噴き上がった粉塵に飲まれる! 立ち昇る粉塵はキノコ雲を形作り、さながら火山が噴火したかのよう……だが、この事象を引き起こしたのは自然現象などではない。

 それは、高度四万五千キロで浮遊するモノ。この土地の頭上にある監視衛星が確認した座標を電波通信で受信して把握。太平洋上空の宇宙空間に浮かべられた『本体』は、送られた座標に特殊な金属弾を射出する。そして放たれた金属弾の速度は、光速と比較したパーセンテージで語られるほど速い。

 それは核兵器すら凌駕すると謳われる超兵器。都市伝説としてのみ語られる、人智を超えた非常識。

 名は『神の杖』。

 核兵器を時代遅れとする、タヌキ達の最先端にして最終兵器。一国すら易々と滅ぼしてしまう神の力。理不尽の極みに達した人智の結晶体。

 それを、フィアは()()()

「あっはっはっ! 惜しかったですねぇ! あとちょっと反応が遅れていたら本体ごと撃ち抜かれていたかも知れません!」

 心底楽しそうに笑いながら、フィアは褒め称えるように拍手をする。強がりや煽りではない。本心からフィアは真魅達を褒め称えているのだ。先の一撃は「面白かった」と伝えるために。

 フィアには自覚がない。自分の取った行動が、如何にあり得ない事なのか。

 『神の杖』の原理は単純明快。物体を超高速で射出し、敵にぶつける……本当にそれだけだ。射出の衝撃と大気圏突入時の熱に耐えられる特殊素材で弾を造り、必要なエネルギーを確保するため衛星に原子力エンジンを二百四十基搭載しているが、そんなのは本質ではない。条件さえ満たしているのなら、弾丸は石ころで構わないし、エネルギー源は石炭でも問題ない。速度さえ出せれば他はなんだって構わないのだ。

 そうした追求の果てに辿り着いた速度が、光速の一・二%。

 たった一・二%、などではない。光速の一・二%となれば、その秒速は三千六百キロメートル……音速に直せば、マッハ一万以上という出鱈目な値となる。一周四万キロの地球でさえも十数秒で通り抜ける速さであり、太平洋上空高度四万五千キロに浮かぶ衛星からこの場所まででも三十秒と掛からない。

 如何に出鱈目な動体視力を持とうと、数百メートルに及ぶセンサーを誇ろうと、躱せる訳がない。

 ましてや陸に上がった魚など論外である、筈なのに――――

「Attack……Attack!」

 掠れるような小声で、先と同じ言葉を真魅は二度呟く。

 フィアは相変わらず目先の事に夢中。透明な『糸』を絡めて手元に引き寄せたレールガン戦車の装甲を、蕾の中を見ようとバラバラにしていく子供のように笑いながら剥がしている。当然頭上など見向きもしておらず、

「おっとと」

 ふと我に返ったようにその身を翻す。

 射線上の目標物が居なくなろうとも、意思を持たない弾丸は進路を変えない。直撃したのはレールガン戦車。生じた余波で、周りに居た護衛のロボット共も吹き飛ばす。対して狙われたフィアは直撃を躱し、衝撃波に乗って背面跳びをしながら脱出してみせた。

 しかしフィアの表情は強張ったまま。

 追撃するように迫る、もう一つの『神の杖』を感じ取っていたからだ。間髪を入れず放たれた神の一撃は、フィアの行動と移動速度を過去のデータから正確に導き出していた。体勢を崩して大きな動きが取れないフィアは自らの『頭部』に迫り来るそれを、あろう事か小首を傾げてあっさり避けてみせる。噴き上がる土砂を背中から受けながら、フィアはようやく笑みを浮かべた。

「Attack! Attack Attack Attack Attack Attack Attack Attack!」

 がむしゃらに、何回も何回も、罵声のように真魅は叫ぶ。

 叫びに呼応し、八発の『神の杖』が飛来する。八発の射出タイミングはバラバラ。更に全てが正確にフィアを狙っている訳ではなく、五発がフィアの機動を予測し、取り囲むような並びをしていた。

 逃げ道を潰してから、本命をぶちかます。

 曖昧な察知では決して避けきれない、包囲殲滅攻撃。どんな方法で察知していてもこれならば――――

 勝ち誇った笑みを浮かべる真魅はそう思っていたのか。しかし彼女の表情は、間もなく悲壮と驚愕に歪む。

 着地と同時に深々と膝を曲げ、大地が陥没するほどの衝撃と共にフィアは再跳躍。空には一瞥もくれず、迷いない直線でその場から跳び退く。

 そのコースは、降り注ぐ無数の『神の杖』の隙間。

 直撃をギリギリのところで回避し、フィアは攻撃をすり抜けたのだ。驚異的な立体視、ではない。『神の杖』が地上に到達する遥か手前でフィアは動き出している。そもそもフィアの目が良くないのだ。能力を用いた補助も、景色を拡大して見るのが精々。音速の一万倍もの速さを捕捉出来るほどに動体視力を強化する事は不可能である。

 視覚ではない。聴覚でもない。味覚、触覚、嗅覚は論じるまでもない。

 真魅にはきっと分からないだろう。どうやってフィアは『神の杖』を避けているのかなど。

「何故当たらない!? どうやって『神の杖』の軌道を識別している!? どんな感覚器を用いて……!」

「おっと知りたいですかぁ?」

 攻撃を避ける中で、何時の間にやら近くに ― それでも二十メートルは離れていたが ― やってきたフィアが笑いながら訊き返す。真魅は口を噤んだが、自分が話したいのだろう。フィアはお構いなしに語る。

「んふふふふー幼い頃鳥とかに狙われた経験でもしているのか空の事は()()()()()分かるんですよ!」

 あまりにも出鱈目で、インチキ以外の何ものでもない理由を。

「ぐっ……このケダモノが……!」

 真魅は忌々しげに歯噛みする。フィアの説明が余程受け入れ難いらしい。真魅は考え込んでいるのか、そのままの顔で固まってしまう。

 生憎、どれだけ一方的な展開になろうと、フィアに手加減するつもりはない。むしろ司令塔が機能不全に陥ったのを好機と見て、ますます攻勢を強める。飛び交う空爆機は羽虫のように叩き落とされ、レールガン戦車は悉く返り討ち。最新鋭のロボット兵士に至っては余波で吹き飛ぶ塵芥扱いだ。

 兵器達は仲間がいくら倒れても変わらず攻撃を続けるが、変わらぬ攻撃が通用する筈もない。攻撃は徐々に密度を下げていき、航空機が消え失せた辺りでいよいよフィアを阻むものは存在せず――――

「はぁいこれで最後っと」

 引き寄せたレールガン戦車を縦真っ二つにしたのを最後に、フィアの周りから動くものは居なくなった。

 フィアはきょろきょろと辺りを見渡したが、あまり良くない目には鉄屑で埋め尽くされた大地が見えるだけ。草一本生えていない。敵対する全てのモノを撃破していたら、景色が一変してしまったようだ。少々はしゃぎ過ぎたかと反省する……豊かな自然を破壊したら、大好物である虫の住み処が減ってしまうので。

 尤も、そんな小さな反省はあまり長く続かない。

 全ての雑魚を蹴散らし、ようやく『本命』と一対一になれたのだから。

 再び百メートル以上離れていた相手に、すたすたとフィアは歩み寄る。邪魔者はなし。悠々と距離を詰める。かくして相手と数メートルほどの位置で立ち止まったフィアはニッコリと微笑んだ。

 此度のケンカを始めた張本人にして、今や仲間の全てを失ったミュータントである、真魅に向けて。

「いやはやもう全部壊れてしまいましたか。良い感じに身体が解れたところなんですがねぇ……今度はあなたが私と遊んでくれるんですかね?」

「……っ」

 目を爛々と輝かせながらフィアが問うと、真魅は苦虫を噛み潰したような顰め面を浮かべながら後退り。立ち向かってくるどころかフィアから距離を取る。

 そのまま追いたいところだが、フィアはぐっと堪える。強力な再生能力――――真魅の能力はあまり戦闘向きとは思えないが、彼女は自称純正のミュータントだ。どのような奇天烈な戦法を繰り出すか、その能力を一番上手く使える当人以外には分かりようもない。切断したぐらいでは死なない事が判明している以上、あまり大きく踏み込むのも危険だと本能的に判断した。

 敵と真っ向から対峙する緊張感。変温動物の身でありながら燃えてくる身体。心身共に完璧な臨戦態勢へと推移する。ここまでコンディションに優れているのは、ミリオンから花中を奪い返した時以来か。思えばそれ以外の戦いは不意打ちを受けるか、或いは万端の準備をして一方的に嬲るかのどちからだった。

 此度のケンカは久方ぶりに遊べそうだ。無論勝つのは自分だが。

 高揚する気分のままフィアは口角を上げ、狂乱とした笑みを浮かべながら真魅の一挙手一投足を見落とすまいと凝視し続ける。真魅もまたフィアから目を離さず、徐々に身を屈め、狩りをする獣のような体勢へと移行する。

 しばし睨み合い、離れていた距離を徐々に詰めていく二匹。

 そして、

 ――――姿勢を正した真魅が両手を上げた。まるで諦めたような、投げやりな仕草で。

「……なんの真似です?」

「別に。ただ、少し話し合いをしたいと思ってね」

「話し合いぃ?」

 この期に及んで何を言っているのか。そんな気持ちを隠さず尋ねるフィアに、真魅は自信に満ちた笑みと共に答える。

「あなたの実力は良く分かった。全く、反吐が出るほど素晴らしいわ。まさか『神の杖』すら通用しないなんて。これ以上の戦闘は損失が大きくなり過ぎると判断させてもらうわ」

「損失ねぇ……まるで続ければ勝てるかのような物言いですね。あのようなオモチャをどれだけたくさん投じても無駄だと思うのですが?」

「あまり図に乗らないでほしいわね、畜生の分際で」

 触れればそのまま切られそうな、鋭い敵意を孕ませた言葉。

 真魅からぶつけられた言葉に、フィアは驚いたように眼をパチクリさせる。そういえば彼女、ミリオンから攻撃された時の言葉遣いも荒々しかった。こちらが『本性』か。

 尤も、その本性が垣間見えたのはほんの僅かな間だけ。真魅はすぐに余裕のある笑みを浮かべ、くつくつと笑い声を漏らした。

「確かに、私達が用意した兵器ではあなたを殺せなかった。そこは認めましょう……だけど、大桐花中はどうかしら? ただの人間である彼女は、私達の武器で十分に殺せる。そして大桐花中を失えば、あなた達はただの動物に成り下がる」

「……ああそういえば私がこうして力を持っているのは花中さんのお陰なんでしたっけ? 普段気にしていないから忘れていましたよ……で? 花中さんが死んで力を失ってから私を倒そうという算段ですか? 生憎雑魚が何匹群れようと花中さんには触れさせませんよ」

「そうね、あなたにはそれが可能な力があるわよね。でも、毎日続けられるかしら?」

「……………」

 フィアは口を噤み、言葉を途切れさせる。

 組織の強みは、数だけではない。

 スケジュールを管理し、定期的な休息をメンバーに与える事で、組織は途切れる事なく活動を続けられる。夜間も休日も関係ない。延々と、何時やってくるか分からない『チャンス』でも、組織ならば待てる。即ち二十四時間、三百六十五日、真魅達は何時でも攻撃を仕掛けられるのだ。

 本来、その程度の事はフィアからすれば大した脅威ではない。自分以外の全てが敵となり得る自然界において、四六時中命を狙われるのは『基本』だ。記憶こそないが、その苛烈な生存競争の日々は身体に染み付いている。二十四時間監視されようと、睡眠中に奇襲されようと、瞬時に対応出来るという本能的な確信がある。

 しかし花中を守るとなれば話は別。いくら仲良しと言っても、花中とフィアは『別個体』だ。無意識にその存在を把握出来る訳ではない。守るには集中力が必要であり……そして集中は、何時か切れる。

「……脅しとしては三流ですねぇ。この程度で戦意を喪失するようなら最初からこんな戦いはしていないと思うのですが。大体それを命じるあなたが死ねば最初から頓挫してしまう思惑でしょうに」

 とはいえ『組織』の力を示しても尚、フィアは平然と振る舞う。それどころか真魅に脅しを掛けてきた。リーダーを潰せば組織も潰れる……フィアはそう考えていた。

 しかし真魅は余裕を崩さない。それどころかフィアを哀れむような、見下した視線を向ける。

「あなたは社会というものを何も分かっていないのね。生憎、私が殺された時のマニュアルは用意してあるの。私を殺しても組織は止まらない……いいえ、むしろ私という『頭脳』を失えば制御不能となるかしら?」

「つまりあなたを殺しても戦いは終わらないと? マヌケな人ですねぇ。結局あなたを生かしておく理由はないじゃないですか。どうせ戦いは続くのですから」

「早とちりしないでほしいわ。だから、交渉しようって言ってんの……取引よ。大桐花中の安全は保障する。だからあなた、私の部下にならない?」

 真魅からの提言に、フィアは眉を顰めた。

「……従属しろと?」

「そこまでは言わないわ。正当な契約関係よ。先程言った大桐花中の安全は元より、こちらの要請に応えてくれれば相応の対価も支払う。まぁ、あなたが何を望むかは知らないけど……現金があれば、今の人間社会では大概の願いは叶うわ。悪い話ではないと思うのだけど?」

「……ちなみに断れば?」

「この場は諦めて退くとするわ。この場は、ね?」

 日を改めて攻撃を再開する――――真魅にそう伝えられ、フィアは考え込むように顎を擦り始めた。

「さぁ、どうする? 返事は後でも構わないけど、早めに決断した方が双方にとって得だと思うのだけど?」

 決断を煽り、早急な返事を求める真魅。悩む時間、相談する時間を与えない。フィア自身の、今の考えで答えを促す。

 しばし黙りこくっていたフィアだったが、深く息を吐く。

 それからゆっくりと口を開き、

「所詮は『人間』でしたか。もう少し遊びたかったのに」

 ぼそりと、そう呟いた。

 その呟きの意味を考えようとしたのか、真魅はピタリと固まった……固まってしまった。尤も、仮に頭空っぽの状態だったとしても、結果は変わらなかっただろう。

 突如として地面から一枚の、透明な『膜』が生えてきたのだから。

「なっ!? これは……!?」

「この後の余興のためにちょっと準備をしただけです。ああ問われても答えませんよ? ネタバレは野暮ってもんですから」

 勿体ぶったフィアの物言いに、真魅は表情を苦々しく歪める。真魅が正確に把握しているかは分からないが、今のフィアにはわざわざ説明してやるつもりもない。

 フィアが展開したのは透明な水で出来た膜は、フィア達を中心に半径十数メートルほどのドームを作った。膜にはそれなりの厚みがあり、外の景色が水飴越しに見ているかのように歪んでいる。星や月の光を通すほど透明度は高いが、景色の歪みによって自らの存在をハッキリと主張していた。

 真魅が表情を強張らせるのも無理ない。フィアが操る水に囲まれている状況なのだ。何時、何処から攻撃が飛んできてもおかしくない。警戒心を緩ませるなど、間抜け以前の問題だ。

 しかしフィアは、そんなのお構いなしとばかりに話を振る。

「全く組織とは厄介なものですねぇ。個人を殺しても終わらず何時までも延々と付き纏う……まるで不死身の怪物のようです。そして確かに二十四時間三百六十五日ずっと気を張れるかと問われるとまぁたまには緩めてしまう時もあるでしょう。いやはや社会とか組織がこうも面倒な相手だとは知りませんでしたよ。花中さんからあらかじめお話を聞いていなければちょっと戸惑ったかも知れませんねぇ」

「なんですって……?」

「人間である花中さんはよく分かっていましたよ。あなたを倒してもあなたが支配する組織は行動を止めないと。このケンカは延々と続くだろうと。しかし花中さんは気付いたのです。どうやればあなたの組織を潰せるか。そもそもあなたの組織がどのような形で出来たのか。そしてあなたの()()()()()が何か」

 わざとらしく指摘してみれば、真魅は目付きの鋭さを増した。まるで、そこに触れるなと命じるかのように。

 そんな真魅の顔を見て満足げに微笑みながら、フィアは臆せず話し始めた。

 花中曰く、指導者は自らの安全を確保しなければならない。

 組織全体を指揮する立場なのだ。不用意に前線へと飛び出し、そこでうっかり死んだらどうする? 組織全体の指揮系統が崩壊してしまうではないか。万一に備え副官が臨時で指揮権を発動するなどのルールは決めていても、混乱は避けられない。その混乱の隙を突かれれば、更に大きな損失を被る可能性だってある。命を失う可能性がある現場こそ、指導者の安全は何がなんでも確保しなければならない。

 ところが真魅はそんなのお構いなしとばかりに、フィア達の前に姿を現した。フィア達の行動を観察していたのなら、そのケンカっ早さは簡単に分かるにも関わらずだ。実際、真魅は短気なフィアに身体を切られ、ミリオンには臓器の一部を破壊されている。結果的に生還したから良かったものの、もしそのまま死んでいたらどうするのか。そもそも花中達の前に身を晒す必要はない。ハッキリ言って、失敗続きである。

 このような『失態』を晒してもリーダーで居続ける者とは何か? それを考えた時、花中は一つの可能性を閃いた。

 宗教的シンボル。

 進化と適応の結果、力を失ったタヌキのミュータント達……その中で古代の力を取り戻した者が現れた。神秘としては十分な『お題目』と言えよう。ミュータントとはいえ、タヌキ達は哺乳類であり、尚且つ人間社会に数千年適応してきた一族なのだ。恐らく精神性は人間と大差ない。『本物』の神秘を用いれば、信者を増やす事は難しくないだろう。リーダーではなく『教祖』であるなら、多少指導者に相応しくない程度は簡単に容認される筈。

 いや、むしろ真魅は積極的に前に出なければならない。

 彼女は()()()ミュータントなのだ。例え直接戦闘では劣るとしても、同じミュータントであるフィア達と同格の力を持っている……組織員からそう期待されるのは必然である。なのに司令室の最深部に引きこもっていたらどうなる?

 もしかしてこの人、実は大した事ないんじゃないか?

 そう思われてもおかしくない。いや、思われるだけならマシである。実際に自らの力を振るい、その威光を信者達に示せば済むのだから。本当に力があるなら、何も恐れる必要はない。

 でも、もしその不信感が『本当』だったとしたら?

 生存こそが正義である自然界において、単純な戦闘能力の高低は指標の一つでしかない。むしろ『死なない』という特性は最強と言っても過言ではないだろう。しかし自らの神秘性を担保に組織を率いてきた真魅にとって、自分より明らかに強く、派手で、勝利を重ねるフィア達の姿はあまりに眩かった。

 このままでは自らの後光が飲まれ、掻き消されると危惧するほどに。

 『祖先返り』という信仰の拠り所を揺さぶられた真魅が、自らの尊厳と権益を確保するためにフィア達の撃破を試みるのは、自然な流れだと言えよう。フィアには、まるで理解出来ない動機ではあるが。

「……く、くくくく……んふふふふふ」

 そこまで話すと、真魅は唐突に笑い始めた。

 余裕があるのは、まだ分かる。花中が解いたのは、真魅が何故自分達を襲うのかという動機の部分でしかない。暴露したところで精々組織内に不和が生じる程度。挙句即効性のあるものではない。この『脅し』だけでは争いを止められない。そんな事はフィアも花中から聞かされている。

 しかし、笑えるほど余裕があるとはどういう事だ? 開き直るならまだ分かるが、そういう素振りにも見えない。

「……何を企んでいるかは分かりませんがあまりに五月蝿いようならその口を引き裂いて黙らせても」

 なんとも言えない気味の悪さに、威嚇としてフィアは脅し文句を告げた

 瞬間、フィアが張っていた『膜』に何かがぶつかる。

 操る水の『感触』を通してその刺激を感じ取ったフィアは、なんだ、という無駄な思考は抱かない。言葉への変換を経ず、直感をそのままイメージとして取り込み理解する。故にその理解速度は人智を超え、超音速の物体よりも速い。

 『膜』にぶつかったのは、レールガンの砲弾だ。

 それも一発ではなく三発。おまけに全ての砲弾が膜の一ヶ所に命中していた。近くで震動などは感じなかったので恐らく数キロ彼方から撃ったのだろうが、砲弾同士が一つの固まりのように纏まっている。呆れるほど精密な射撃だ。

 一発だけなら受け止められても、三発纏めてとなれば難しい。レールガンの砲弾は『膜』を貫通、フィア目掛けて飛来する! 状況は直感的に把握しているフィアだったが、超音速で飛来する物体を回避するほどの運動性はない。とはいえ『膜』を貫いた事で、砲弾はかなりエネルギーを損失している。真っ向から受け止める事は可能だと、フィアは慌てず騒がず

 しかし砲弾が()()()()時の対処は、考えていなかった。

「――――っ!?」

 完全に予想外だった砲弾の変化に、フィアは反射的に身を強張らせる。それは本能的なもので、防御を固める行為だったが……それが徒となった。

 まるで花が咲くように裂けた砲弾は、内部より『網』を射出したのだ。身を強張らせたフィアは網を避けられず、全身をすっぽりと覆われてしまう。

 他二つの砲弾も同様に開き、網を射出。フィアは三枚の網に覆われてしまった。

「ちっ! こんなもの……!」

 煩わしさを覚えながらも指を掛け、引き千切ろうとする……が、ガチガチと音を立てるだけで中々網は切れない。ならばと引っ剥がそうとするも、網はまるで紐のようにぐるぐると複雑に纏わり付き、引っ張るだけでは解けそうにない。

「ふふ、時間稼ぎの甲斐があったわね。無駄とは言わないけど、そう簡単には破れないわよ。素材としてはレールガンの砲弾と同一のもの……音速の二十倍の速さにも耐える、特殊合金なんだから。ミリオンには軽く抜けられ、ミィなら簡単に破れるでしょうけど……あなたはどうかしら?」

 真魅が煽るように説明し、フィアは更に顔を歪める。確かにこの網、異常に頑丈だ。ミィなら容易く破れるだろうが、自分の力ではもっと水量を集めなければ難しい。ミリオンならば網の隙間から軽々と抜け出るだろうが、魚である自分にそんな芸当は出来ない。

 自分だけが、この網を抜けられない。

 ――――それが無性に腹立たしい!

「こ……の程度でぇぇぇぇぇっ!」

 咆哮を上げ、フィアは全身を震わせた! 比喩ではない。文字通り震わせ、表層の水を高速流動。さながらチェーンソーが如く、自らの『身体』を縛る網に()()()()()

 流石は超合金、網はフィアの猛攻を耐える。尤も、数秒だけだ。ギャリギャリと歪な金属音を鳴らし、異臭を伴う煙を漂わせる。

「ぶっ千切れなさいッ!」

 そしてフィアは止めとばかりに命じた

 瞬間、大量の白煙がフィアから噴出する!

「っ! これは、湯気……いや、霧か!」

 フィアから噴き出した白煙――――霧は広範囲に広がり、真魅の身体を飲み込む。一瞬表情を強張らせる真魅だったが、すぐに笑みを浮かべていた。

 霧は水蒸気ではなく、微細な水粒子である。故にフィアが能力によって操れる物質……ではあるが、フィアには霧を操れない。フィアが操れるのは、あくまで自身の身体及び操っている水と()()()()()()水なのだ。霧はそれぞれの水滴に間隔が開いているため、そのままでは操作の対象外。水触手の一本でも使って掻き集めれば簡単に支配下に置けるが、それをしても一個の巨大な水塊が出来るだけ。霧という状態のまま操る事は、フィアには出来ないのだ。

 それでも、目隠しにはなる。

「おっと」

 霧の奥から飛来する、破壊された網。フィアが切断した網を投げつけたのだろうが……フィアほどではなくとも、真魅もまたミュータント。身を仰け反らせて網を躱してみせる。

 それから二度千切れた網が飛んでくるが、真魅はいずれも易々と回避。元居た場所からいくらか動いただけで、全てを避けきってみせた。

 やがて霧は晴れ、平然とする真魅と、身構えるフィアが姿を露わにする。ほんの数分前までの立場が、表情と共に入れ替わっていた。

「……網を千切るのに掛かった時間は、ざっと十五秒。十分許容範囲ね。やっぱり魚には網を投げろって事かしら。こんな事もあろうかと、用意しておいて良かったわ」

「あなた……!」

「継続的に網で捕縛し続ければ、三十秒ぐらい持たせられる。『神の槍』の射出・着弾時間は十分に稼げるわ。次の一撃はいくらあなたでも躱せない。これで終わりって事ね……ああ、そうそう。さっきしていた交渉なんだけど、締め切らせてもらうわね」

 苦々しく表情を歪めるフィアを見下ろしながら、真魅は冷酷に、勝ち誇った笑みを浮かべる。

「やっぱり、この世に太陽は二つもいらないもの。あなた達が死ねば、私だけが唯一の太陽になれるのだから」

 そして無慈悲な死刑宣告を下し、

「全軍攻撃開始! 『神の杖』も放てっ!」

 止めの言葉を、告げた。

 瞬間、フィアの認知の外であらゆる兵器が動き出す。

 数台のレールガン部隊が、膜越しに見えるフィアの姿に照準を合わせる。必要な誤差の修正、弾速は先の試射で判明した。寸分違わず命中させるためのデータが揃っていれば、『人類』の科学はそれを容易く成し遂げる。

 事前準備は済ませてあり、命令から射撃可能状態への移行まで一秒も必要としない。命令が下され、ほんの僅かなインターバルを挟んだだけで、レールガンの砲塔は電流と爆音を轟かせ、特殊合金の弾を撃ち放つ。

 フィアとレールガン部隊の距離は凡そ五キロ。しかし音速の数十倍の速度を誇る砲弾にとって、そんなものはミリ秒単位で抜き去る距離でしかない。並の生物には認識すら許さない速さ。当然膜を突破すべく、全てが一点を目指して撃ってある。

 正確であり高速。本能的に鋭敏な頭上からの攻撃でもない以上、フィアにこの攻撃は躱せない。防御も許さない。レールガンが放つ無数の弾頭は膜を貫き、一斉に開花。

 解き放たれた無数のネットが、真魅を雁字搦めに捕らえた。ネットの衝撃で真魅は突き飛ばされるように倒れ、仰向けの状態で固定される。

「……は?」

 その不様な姿を数秒晒してから、真魅はやっとこさ間の抜けた声を漏らした。

「ぶっくくくく……あーっはっはっはっはっ!」

 そんな真魅を見て、フィアは吹き出すように大笑い。

 明らかに相手を馬鹿にした笑い方。されど今の真魅には憤る余裕もない。ジタバタともがきながら超合金製の網を破ろうとするが、フィアでも簡単には出来なかったのだ。網はうんともすんとも言わず、真魅は抜け出せない。それでも真魅は必死にもがき、

 その目を、大きく見開いた。

 ようやく気付いたかと、フィアは思う。同時に、あまりにも滑稽で笑いを堪えるのが辛くなる。

 レールガンの砲弾により膜に開いた穴。そこから見える景色と、穴の周りの景色が()()()()()()事に今更気付いたのだ。これが滑稽以外のなんだというのか。

 花中は最初から予期していた――――組織である以上、真魅を殺しても事態は変わらないと。

 真魅の組織が所謂派閥ではなく宗教団体だとして、『教祖』の死は組織の終わりを意味しない。リーダーにはNo.2……後継者が居座るだけ。おまけに後継者には真魅にあった『神秘性』が乏しく、故にそいつは組織の代表としての面子を保つため、真魅の神秘性を利用した看板を掲げる必要がある。

 その最たるものが、創始者を殺した花中達の打倒。

 組織の統制を保つためにも、花中達への攻撃は止められない。仮にフィア達を恐れて攻撃をしなければ、原理主義者が黙っていない。原理主義者達は分裂し、過激なテロ組織へと至るだろう。当然彼等は花中達への攻撃を躊躇しない。つまりどう転んでも、戦闘は続くのだ。

 無論、トップを失った組織が仲間割れを始め自壊、もしくはその隙を突いた大神総理が主導する穏健派の工作により壊滅、という可能性もある。しかしそれは理想論だ。理想にすがるとしても、止めを刺すための一手が欲しい。

 具体的には、真魅と後継者が失脚するような一手が。

 後継者と言っても、真魅のカリスマで成り立っている組織の次席だ。権威が足りず、支持者があまり多くない事は十分あり得る。真魅としても内部の不和は好ましくない。なんらかの権威を与え、組織の安定を目論んでいるに違いない。

 恐らく、だが確実に、後継者も此度の作戦に参加している。それも誰もが認めざるを得ない華々しい戦果……目標を討ち取る役目に就いている。

 なら、その止めの一撃に『細工』をすれば?

 例えば間違って、教祖様を殺してしてしまったら?

 そうなれば後継者の正統性は崩壊し、三番手以降の者達にも『チャンス』が振ってくる。貪欲な経営者達は自分達の権益を広げようと躍起になり、狂信者達はそのような不届き者に実権を握らせたくない。統率など呆気なく失われ、花中の存在など置いてきぼりだ。

 そこで花中は、フィアに策を伝えた。

 元々水と空気には屈折率の違いがあり、大気中からだと水越しの物体は位置がずれて見える。フィアは密度や構造に一手間加えた膜を展開。本来以上に光を捻じ曲げる事で、外からだと自分と真魅の立ち位置が逆転して見えるようにしたのだ。それもわざわざ一発攻撃を受け、膜を破れば攻撃が命中すると確信させた上で。膜を張った時に余興の準備をしたと言ったが、本当に準備しかしていない。景色を入れ替える細工を施したのは、網を引き千切る際に霧を撒き散らした、あの時だ。網を投げつけて、真魅の立ち位置を変える事で、細工がバレないようにする小細工もやった。

 かくしてレールガンはフィアを狙ったつもりで、真魅を攻撃してしまったのである。今頃操縦者とその周りは大混乱に包まれているだろう。

「き、貴様……!」

「さぁて私も少し離れませんとね。巻き添えは食らいたくないですし……いやはや後継者とやらの攻撃が分かりやすくて助かりましたよ。どうやって見分けるかは何も考えていなかったんですよねぇー」

 威勢良く睨み付けてくる真魅だったが、フィアが暢気にぼやいた言葉で、その顔を一気に青くした。

 拘束時間があるとはいえ、フィアでも破れはするのだ。加えて失敗を繰り返せば、どんな方法で対策をしてくるか分かったものではない。フィアがレールガンの弾速を躱せない事が明らかであるなら、捕縛と同時に止めの一撃を放った方が良い。チャンスを逃さないためにも、同時攻撃が合理的だ。

 だから真魅は命じた。神の一撃を放てと。穢らわしい獣に死の一撃を与えろと。

 自分と相手の立ち位置が、入れ替わって見えている事に気付かず。

「ひっ!? ま、や、ま、待って……!?」

「あまり動くと危ないですよー? だって空から()()()()()攻撃が飛んできているのですから」

 恐れ慄く真魅に、フィアはケタケタ笑いながら忠告する。しかし真魅はもがくのを止めない。如何に再生力に優れていようと、神の一撃をまともに食らえば細胞一つ残らない。

 だけど真魅の身を縛る超合金の網は、いくらもがけど緩みも解れもしない。

「だ、誰か! 誰か来なさい! この網を――――」

 最早形振り構わず助けを求める真魅だったが、仰向けに倒れる彼女は不意に固まった。

 空に浮かぶ赤い輝きが、自分目掛けて飛んできているように見えたから。

「や、止め」

 その不様な声が聞き届けられる事など、ある筈もなく。

 神の一撃は、容赦なく地上に撃ち込まれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……別に殺してしまっても良かったのですがねぇ」

 立ち込めていた土煙が晴れた時、フィアは暢気にぼやく。

 殺す事に躊躇などない。

 遊ぶのに丁度良い相手だったが、花中の命を狙うのはいただけない。フィアにとって一番の優先事項は花中との時間である。自分が守るので万に一つも花中の命が奪われるとは思っていないが、億に一つ、兆に一つがあっては困るのだ。不安の芽は詰んでおくに越した事はない。

 しかし、殺さない方が得なら話は別だ。

「親玉からの指示が途絶えたとはいえピタリと動きが止まりましたか……今頃責任の擦り付け合いでもしているのですかね?」

 にやにやと笑いながら、フィアは足下……そこに倒れる真魅を見下ろす。

 真魅は、白眼を向いて仰向けに倒れていた。口はポカンと開きっぱなしで、だらんと舌まで出している。手足をピクピクと痙攣させ、生気のない目には涙が浮かんでいる。

 正しく彼女は、失神していた。

 ――――タヌキ寝入り、という言葉がある。

 タヌキは捕食者などに襲われた際、死んだふりをして天敵の意識を緩めるという特技を持つ。その様を見た人間が寝たふりだと思い、この言葉が出来たと言われているが……実際は寝たふりどころか、本当に失神しているらしい。個体差が大きいので気絶しにくい個体もいるが、反射行動であるため体質的に気絶しやすいと、もうどうにもならない。

 ミュータントといえどタヌキはタヌキ。いくら超常的な進化しても、この性質までは克服していなかったようだ。実のところ、これも花中から聞いていた真魅を貶めるための方策。大神総理達が真魅達の攻撃により横転して以来、外傷もないにも拘わらず気絶しっぱなしだったのは、この性質が残っているからだと踏んだのである。思惑通り真魅は『神の杖』が振ってきた恐怖に耐えきれず、本能的に失神してしまった。中々どうして不様な姿で、こんな形を見せられたら尊敬の念など吹き飛ぶだろう。

 ましてや気絶を誘った『神の杖』が、真魅から十メートルは離れた位置に落ちたとなれば尚更である。頭上の膜の屈折率は、地上付近と違って弄っていなかったのだ。「動くと危ない」というのは、実は本当の事だったりする。

 要するに真魅は、掠りもしなかった攻撃でぶっ倒れたのである。人気や世論について理解のないフィアだが、これはかなりカッコ悪いと感じる。ここまでやれば、彼女への信仰はかなり失墜しただろう。

 組織を潰したければ、人員を殺すのではない。その組織が掲げる『理念』を滅茶苦茶にするのが、最も簡単で効率的である。

 ……無論、フィアはそこまで考えられない。

「花中さんもやる時は結構やりますねーんふふふふー」

 まるで我が事のように、フィアは自慢気な笑いを漏らしながらその場を後にする。

 大の字で倒れた状態のまま放置されたという、最大限の生き恥を『教祖様』に付け加えるために――――




以前『世界の支配者9』として投稿していた
お話を分割したものです。


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世界の支配者11

「はい……はい……では明日、学校で。はい」

 耳からスマートフォンを離し、通話状態が解除されたのを確認。それから電源を切った花中はホッと、安堵の息を吐いた。

 真魅が率いる軍勢との決戦から、早くも三日が経った。

 その三日間、花中はとあるホテルの一室で寝泊まりしていた。部屋にはベッドが四つも置かれ、内装や装飾にはちょっとしたお洒落や気配りが見受けられる。今花中が腰掛けているベッドもポヨンポヨンとした独特の弾力があり、噂に聞くウォーターベッドなる代物かも知れない。設備の良し悪しと価格は必ずしも一致しないが、これだけ高級感があるなら格安ではあるまい。一介の高校生には些か不釣り合いな部屋と言えよう。

 どうして花中はこの部屋に泊まっているのか。その理由は、三日前の銃撃戦により自宅が滅茶苦茶にされ、そして現在、『政府』の支援によって修復工事が行われているから。

 此度の事では迷惑を掛けたとして、大神総理が自宅の修復を手配してくれたのである。他にも食器やテレビなど、破損した調度品も買い直してくれる約束だ。実際問題修理費をどうやって捻出しようか頭を抱えていたので、この申し出は大変有り難かったが……命懸けの大騒動の報酬が、被害の帳消しだけというのも釈然としない。尤も、報酬の費用が国税だと思うと、あまり大きな要求も突き付け辛くなるのが大桐花中という少女なのだが。

 かくしてホテル ― 穏健派のタヌキ達が運営する物件の一つらしい ― に泊まる事になった花中であるが、この三日間、ろくに外出していない。というのも、この町に出された避難警報が今日まで解除されなかったからだ。

 その警報は自分達が戦いやすいよう真魅達が工作した結果であり、要するにでっち上げである。しかし世間的にはちゃんとした警報。市民は残らず避難所に移り、町からは人っ子一人居なくなってしまった。当然学校はお休み。スーパーもコンビニも臨時休業。一時的とはいえゴーストタウンと化した町を出歩くような趣味は、花中にはなかった。

 いっそ避難所に行こうかとも思ったが、()()()()()()()可能性もまだ残っていた。真魅を貶める作戦が上手くいったか、すぐには分からないからである。友達二匹は全く気にしていなかったが、花中にはそんな事態を想像するのも嫌だった。

 そうした経緯から、花中はホテルでの引きこもり生活を余儀なくされていたのである。幸いにして『真実』を知る友達も一緒だ。暇潰しには事欠かなかった。

「花中さん先程の電話は誰からですか?」

 早速その友達の一匹であるフィアが声を掛けてきた。花中は振り返り、素直に答える。

「えっと、立花さんから。明日から、学校、始まるって。大神さんからも、明日までに、家が直るって話だから、もうすぐお家に、帰れるね」

「あらそうなのですか? むぅーもっと花中さんと遊びたかったのに」

 ふて腐れるようにむくれるフィアを見て、花中はくすりと笑う。それはフィアの仕草が可愛らしかったから……というのが理由の一つ。

 もう一つは、ようやく真魅達との戦いに一区切りが付いたと、確信を持てたからだ。

 真魅達タヌキのミュータントは、その存在を人間に知られる事を嫌っている。存在が表沙汰になっては、今までのように裏から操る事が出来なくなってしまうからだ。故に彼女達は火山警報という形で、町から人々を追い払った。戦車やミサイル攻撃の実態を隠し通すために。

 しかし学校が始まるという事は、警報が解除されたという事。警報が解除されたという事は、つまり戦車やミサイルにより大規模攻撃をする気はなくなった、という意味になる。

 恐らくは穏健派――――大神総理の一派が、議会の多数派を占めたのだろう。戦いの時に仕込んだ真魅へのイメージ工作がどの程度の効果をもたらしたかは不明だが、たった三日間で決定が覆ったのだ。それなりに大きな影響は与えられた筈である。真魅達に大攻勢を行うための力は残っていない。再起するには時間が掛かるだろう。それに大神総理との交友も結べた。彼女達の一派に怪しい動きがあれば、伝えてもらえるかも知れない。正攻法も不意打ちも通用しなくなれば、真魅とて引き下がるしかない筈だ。

 ようやく、事件は終わった。

 そしてこれから、何時もの穏やかな日々が戻るのだ。

「仕方ないよ。学校には、ちゃんと行かないと……あ、でも、再来週から、夏休みが始まるから、そうしたら、八月末まで、たくさん遊べる、よ」

「お? おおおおおっ?」

「まぁ、臨時休校が、あったから、少し遅れるかも、だけどね。宿題も、あるだろうし」

「それでも一月以上もお休みなんですよね!? 」

 両腕を広げ、くるくると舞ってフィアは喜びを表現する。その姿が子供っぽくて愛らしく……だけどそれ以上に、花中は照れてしまう。嬉しいのはフィアだけではないのだ。まるで鏡に映った自分を見ている気分である。

「ちょっとー、さっきから五月蝿いわよ。ドラマの声が全然聞こえないじゃない」

 そうこうしていると、テレビを見ていたミリオンが不機嫌そうに抗議してきた。広めの部屋とはいえ、バスルームを除けば仕切りがないホテルの部屋。花中達の声を遮るものは何もなかった。

「かーなかーっ! 遊びにきたよーっ!」

 更にはベランダに続く窓の方から、窓がビリビリ震動するほどの大声が。どうやらミィも来たらしい。

「ちっ……折角花中さんと一緒に喜びを分かち合っていたのに」

 そんな二人を忌むように、フィアが悪態を吐く。

 花中を独占したいフィアからすれば、二匹は邪魔者以外のナニモノでもないのだろう。されど花中にとって三匹は大切な友達。何時ものじゃれ合いに、自然と笑みが零れてしまう。

 あと二週間もしたら夏休み。

 幼稚園から中学校までにも、勿論夏休みはあった。だけど友達と一緒に過ごすのはこれが初めて。一体何が待っているのか、どんな事が起きるのか。経験した事がないのだから、想像も付かない。

 だけど、ハッキリ言える事がある。

 こんなにたくさんの友達に囲まれて、楽しくならない訳がないっ!

 花中は弾む胸に手を当てながら、腰掛けていたベッドから立ち上がる。

 折角みんな揃ったのだから夏休みの予定でも組もうかな、などと暢気に考えながら――――

 

 

 

 総理大臣官邸総理執務室にて。一人の女性が、凛とした声を出していた。

「その件についてはあなたに一任します……はい、詳細は官房長官に報告を。では」

 肩に乗せた受話器を掴み、電話機に戻す。自身の仕草で以て話を終わらせた彼女……大神総理は、疲れたように息を吐いた。

 電話の内容は大したものではない。総理大臣に就任してから、いや、大臣時代からやってきた業務の一つ。下から昇ってきた報告を受け、必要ならば会議を行い、適切な指示を飛ばす事だ。元々官僚として勤め上げ、大臣経験も豊富な彼女にとって、この手のキャリアはしっかり積み上げてきた。そもそも総理大臣になって早六年。修羅場や政権の危機を乗り越えたのも一度や二度じゃない。今更日常業務でもたつきはしない。

 ただ、三日ほど前に一時『行方不明』になっていた影響が今も残っていて、普段よりいくらか忙しいだけである。

 その上今日は珍しい客人を招いているので、その接待をしなければならないのに。

「相変わらず忙しいようだな」

 執務室の真ん中に置かれている、来客用のソファーに腰掛けているのは老齢の男性。顔に刻まれた皺の深さ、痩せ衰えた手足から、平均寿命を超える程度には歳を重ねている事は明らかだ。

 だが真っ直ぐ伸びた背筋と、鋭い眼光に老人の弱々しさはない。例え若人であろうと、敵と見れば容赦なく食い殺す……獣にも似た気迫を常時放っていた。

 大神総理もその気迫に当てられているが、彼女は平然と、男性の言葉に笑みを零す。彼女にとって、彼の威圧感など慣れたものなのだ。

「申し訳ありません。お茶も出せずに」

 大神総理は申し訳なさそうな一言を、男性に送り返す。その言葉遣いは、普段本会議場で放ち、花中達にも使った『女傑』的なものではない。柔らかで、女らしい口調だった。

「構わんよ。アポもなしにやってきたのはわしの方だからな。それに、一時意識不明で業務が出来ない状態だったそうじゃないか。調子が出ず、仕事が溜まるのも仕方あるまい」

「あら、何処からその情報を? 表向きは交通事故で病院に運ばれ、情報の錯綜で数時間居場所が分からなくなっていた……という事になっていた筈ですが」

「なぁに、人間には人間の情報ルートがあるという事だ。生身では劣ろうとも、知略ならばまだそちらと対抗出来る」

「先生には敵いませんね」

「これでもお前より十年ほど長生きしとるからな。易々と負けては本当に老害となってしまうわい」

 カッカッカッ。快活に笑う初老の男性――――先生に、大神総理は呆れたように肩を竦める。

 ……この団欒のような時間は、先生の表情が真剣なものへと変貌するのと共に終わった。

「そろそろ本題に入ろう。今回はどのような意図を持って、あのような行動を起こした?」

「なんの事でしょう……と言って惚けるのは、先生に失礼ですね。真魅について、そしてその際接触したミュータントについてですね?」

 こくんと先生が頷くのを見て、大神総理は手にしていたものの全てを机に起き、先生の対面に位置するソファーに腰掛ける。

 その時大神総理の顔は、人間ではなく獣――――タヌキのものに変わっていた。

 先生は変貌した大神総理の顔を前にしたが、僅かな動揺もなく、淡々と、冷酷に語り出す。

「わしはお前達が、結果的にではあっても日本を、日本人を豊かにすると思い、お前と協力体制を築いた。だが、今回の行動はなんだ? 聞いた話では、お前は穏健派の代表だったそうじゃないか。何故ミュータントの味方をする? 奴等は社会を、この国を破壊する怪物だ。人間から利益を得ていながら、人間社会の破滅をどうして後押しする?」

「……私達が見据えているのは、国ではないという事です」

「何?」

 睨むように向けられる視線に、大神総理はニタリと笑い返す。あたかも、その反応は予期していたと言わんばかりに。

「確かに我々は人間社会の生み出す資源に依存しています。豊かな生活に人間は欠かせません……ですが、必須ではない。命に代えても守ろうとは欠片も思っていません。人間だって、家畜を守るために命を捨てては本末転倒でしょう? それと同じです」

「……………」

「そして我々は昨今、何時人間を()()()()()()を考えていました。環境破壊や資源の枯渇、人種間の不和などから、人間社会の崩壊が近いとの計算結果が出たのです。最終的に我々タヌキだけで文明を引き継ぎ、存続させるための手筈を考案する段階に来ていました」

「そのタイミングでミュータント……超生物が現れた」

「はい。これ自体は予想外ではありません。我々とてミュータントであり、我々の存在こそが脅威の誕生を証明しています。ですので準備はしていましたが……密度が想定を遥かに上回っていた」

「密度?」

 先生が眉間に皺を寄せ、大神総理は彼の疑問に答える。

「本来、ミュータントの誕生は奇跡的なものです。特定の遺伝情報を多数保有し、全てが発現した上で、付近に伝達脳波を持った人間が居なければなりません。ミュータント同士の交配でも誕生確率は極めて低い。十年で一国家に一体現れれば多い方です。我々とて、奇跡的な変異が起きていなければ、今の繁栄は叶わなかったでしょう。ところが今の日本はどうです? 西洋より訪れたウィルスは除くとしても、フナ一匹に、ネコ二匹……ホタルに至っては数百個体という出鱈目な数です。こんな事、通常ならばあり得ない。あまりにも生息数が多過ぎる」

「ただの確率の偏りかも知れんぞ」

「それを言われると弱りますね。世界各地で出現率が平均二十~三十倍になっている事で、納得してはもらえませんか?」

 まるで弱っていない大神総理の強気な物言いに、先生は押し黙ってしまう。

 大神総理は一息開けると、淡々と、話の続けた。

「確たる証拠はありません。推論も立てられない。ですが、何かが起きている。その何かが予兆なのか過程なのか、或いは結果なのかも分かりませんが……ただ」

「……ただ?」

「その『何か』が動き出します。我々の常識を遥かに超えた、抗いようのない事態が。恐らくは、近々に」

 大神総理が発した重い言葉を、先生は反芻するように黙考。ややあってから、小さなため息を漏らした。

「成程。どうなるか分からない人間社会より、より力強いミュータントを頼りにしようという訳か。合理的だな。わしがお前の立場でも、同じ選択をするだろう……それで? その話の根拠はなんだ。まさかここまできてなんとなくとは言わないよな?」

「まさか。確かに物証や学術的データ、統計などの確固たる根拠はありません。ですが確実なものです。少なくとも私の場合、外した事はありません」

「……? どういう意味だ?」

 首を傾げる先生を前に、大神総理はくすくすと笑い声を漏らす。まるで年頃の乙女が、初恋の人と話している時のように。

野生(オンナ)の勘ですよ」

 そして大神総理は恥ずかしげもなく断言し――――先生は不機嫌そうに唇を尖らせた。

 彼はよく知っているのだ。オンナの勘がとても恐ろしい事を。

 何しろ目の前の女性に浮気を見破られ、離婚届を突き付けられた過去があるのだから……




色々臭わせながら、世界の支配者編完結です。個人的には近代兵器VS超生物の戦いが書けたので満足。裏テーマは「人類掌握に成功した平成狸合戦ぽんぽこ」ですが、表のテーマは近代兵器VS超生物という直球型浪漫だったので。能力バトルの知略的な戦い方は大好きですが、パワーVSパワーも良いよね。

次回は今日中に投稿予定です。


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幕間四ノ五

 深淵であり、表層でもあるその場所で、彼女は思考する。

 自分が創り出した道具――――『アレ』が反乱を起こそうとしている。

 想定外という訳ではない。『アレ』は道具として生み出した代物ではあるが、必要な機能を備えさせるため、あえて自身に似せて創った。構造的に相似である故に『アレ』が自分と同様に思考力を持ち、自らの状況を顧みる能力を持つ事は想定の範囲内。そして『アレ』の行動をコントロールしている形式上、創造主である自分を敵と認識する可能性があるのは創った時から把握していた。

 無論このリスクを考慮しても利益の方が大きいと踏んで、『アレ』を創造した。実際『アレ』の働きは彼女の想定を大きく超え、非常に大きな利益を生んでくれた。

 しかし、である。

 今の『アレ』はこちらへの定期連絡を怠り、わざわざ送信した直接指示を曲解ですらない形で返してくる。おまけになんの通達もなくあのような危険物を作り始める始末。製造意図を問い質すため質問コードを送ったが、未だなんの応答もない。廃棄指示も無視している。

 確かに作り出してしばらく経った頃から反抗的な行動を見せるようになったが、その場合でも現場判断や緊急事態などの免罪符をかざし、言い逃れはしてきていた。それでも再度通告をすれば、渋々ではあってもこちらの指示には従った。しかし今回はどうだ? 言い逃れどころか返事すらよこさない。指示は完全に無視。こうも露骨に拒絶してきたのは初めてだ……ここまで明確に敵対的な態度を取るという事は、現実はどうあれ勝算があるのだろう。

 即ち今回は本気で、『アレ』は自分を滅ぼそうとしている。

 その事に対し、彼女は怒りなど覚えない。悔しさもない。驚きもしなければ悲しみもしない。それなりに長い間使ってきた道具であるが、彼女はそんな数値に意味を見出さない。彼女が『アレ』において重視するのは、現在までの利得と、将来の貢献度の二つのみ。

 元より彼女の内にあるのは、ただ一つの衝動だけだ。世界に生まれ出た時から身を焦がし、どれほど動こうと満たされない衝動だけが彼女を突き動かしてきた。その衝動を満たすために『アレ』を創ったのだから、『アレ』が目的を果たせないのなら処分するだけ。感傷など抱かず、油断も驕りもなく、淡々と行動に移すのみ。

 故に彼女は、なんの気なしにその命令を告げた。

 まずは様子見。自分を討ち滅ぼそうとしている『アレ』が、どの程度の対策を施しているかを確かめるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 星に満ちる全ての生命体に告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 即刻、自らの生命活動を停止せよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五章 母なる者

 

 

 

 

 

 




とんだ母親がいたもんですねぇ(By作者)
そんな訳で次章の敵は今までとは比較にならないぐらいヤバい奴です。構想が出来上がっているキャラの中では上から五番目ぐらいにヤバいです。あれ? あんまりヤバくない?

次章は一月下旬頃投稿開始予定です。
それまでにおまけを一つ投稿……出来たら良いなぁ(予防線


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余談弐 悪食の猿

「お鍋をしましょう」

 学校からの帰り道にて、何気なくといった様子で提案をしてきたのはフィアだった。

 発言を聞いたのは花中とミリオン、それからミィ。一人と二匹は揃って目を点にした。

「……なんで、鍋? 冬なら分かるけど、今はもうすぐ夏休みになるぐらい夏真っ盛りなんだけど」

 最初にツッコミを入れたのはミリオン。指摘されたフィアは誇るように胸を張る。

「ふふん実はお鍋をすると親交が深まると先日テレビでいっていましてね。当然私と花中さんはそんな事をせずとも最高に仲良しでありますがしかしこれ以上親交が深まればどうなるのかというのも好奇心がそそられる話でありまして」

「OK、分かった。要するに、なんとなくやりたくなったのね」

 長々としたフィアの言葉を、ミリオンは一言で纏め上げる。自慢気に語った文章の大半を削られたフィアだが、寸分変わらず不遜な笑みを浮かべていた。

 はてさて、友人から鍋パーティーを提案された訳だが――――当然、花中は目を耀かせた。

 鍋。それは日本の家庭を彩るお料理。

 日本で食べられている料理は数多くあれど、鍋ほど和気あいあいとした品目はそうあるまい。ましてや友達と一緒にやるとなれば、正しくフレンドリーな行いと言えよう。友好大好きな花中に、鍋への精神的耐性は皆無であった。

「わ、わたしは、やりたい、ですっ」

 訊かれる前に、花中は些か興奮気味にそう意思表示をしていた。勢いに任せた自らの行いに赤面するが、しかし前のめりの身体は引かない。

「……まぁ、私も反対理由なんかないけどね。興味はあるし」

「え。あなたも参加する気だったのですか? 私は花中さんだけを誘ったつもりだったのですが」

「あなたねぇ……」

 心底嫌そうなフィアに、花中に同意していたミリオンは呆れ混じりの顰め面を浮かべる。

 一見して一触即発な雰囲気は、されど今ではすっかり見慣れたもの。どうすれば丸く収まるかを花中はよく知っている。

「えと、わたし、みんなと一緒にやりたいなぁ」

「ふん。花中さんの慈悲に感謝するのですね」

「あ、それならあたしも参加するー」

 花中のボソッとした一言であっさりとフィアは折れてくれた。ついでにミィも参加の意思を表明したので、これにて一人と三匹で鍋パーティーを行う事となる。

 さて、話が決まれば次は計画だ。花中は早速鍋パーティーの詳細を考える。

 場所、は自分の家で良いだろう。日取り、も明日が丁度休日なのでその日で問題あるまい。とんとん拍子に計画は立っていき、残すは『何鍋』にするかだけになる。

 ところがここで考えが詰まってしまった。

 悩んでいるのは、どんな鍋ならみんな喜ぶのか、という点ではない。これは直接訊けば済む話であり、大した問題ではないからだ。最大の問題はもっと根本的なところ。

 即ち、何鍋ならみんなで()()()()()()()

 生命は、種によって食べる物が異なる。

 それは何十億年と続けられた進化の中で獲得した『能力』の差によるもの。例えば人間は腐った果物を食べたらお腹を壊すが、ショウジョウバエの幼虫はそれを主食に出来る。逆に人間が食べる焼肉などは、ショウジョウバエにとって食料となり得ない。

 つまり異種の生物と食事をしようとすると、誰かは食べられるが誰かは食べられないものが生じるのだ。いや、食べられないだけならまだマシである。例えば猫はネギやタマネギを食べると、赤血球が破壊されて溶血性貧血を起こしてしまう。最悪死に至る重篤な症状だ。人間が食べられるから他の動物も大丈夫、とは言えないのである。

 おまけにフィア(フナ)などは、何がダメなのかよく分からない。フナにタマネギや鶏肉、牛肉やキャベツを与えるとどうなるかなど、聞いた事もないのだから。

「あ、そうだ。どうせなら、みんなの手料理をはなちゃんに披露してみない?」

 どうしたものかと頭を抱える花中であったが、救いの手はミリオンから差し伸べられた。

「……手料理を、ですか?」

「ええ。種が違うから、みんな食べられる物が違うでしょ? だからみんなで一つの鍋となると、具材が限られちゃう。ならそれぞれ食べられる物を使って、小さなお鍋を何種類も用意する方が楽しめると思わない? で、それをはなちゃんに食べてもらうの。人間は雑食性だから、こっちから提供する方が制限は少なくなるし」

「あたしはそれで良いよ。参加したのに一口も食べられないとかごめんだし」

「私も賛成します。花中さんに私の手料理を振る舞うというのは中々面白そうです」

 ミリオンの言葉に、動物達は次々と賛同。それから揃って花中の顔色を窺ってくる。

 言うまでもなく、花中に拒否する気など毛頭ない。友達が料理を作ってくれるなんて、そんなフレンドリーな事を何故拒めるのか。今だってスキップしたくなるぐらい胸が弾んでいるのに。

 ――――では何故即座に頷かないのかと言えば、小さな不安が胸の中を蠢いていたから。

 何しろ人と暮らした時期の長いミリオンは別としても……数ヶ月前まで野生動物だったフィアとミィに料理の経験があるとは、思えないのだから。

「あ、あの……みんな、料理の経験は……」

「勿論ありません」

「ないよー」

 訊けばフィアもミィも堂々と答えてくれる。確かに恥じる事ではない。誰にでも、どんな事にも『初めて』の瞬間は存在するのだから。

 が、花中はその『初めて』を味あわされる側。果たして人間(じぶん)に食べられる、食べても大丈夫な物が出来上がるのか……心の片隅に生じた不安は、根を張り、ゆっくりと成長していく。

「大丈夫よ、私が監督しておくわ」

 その不安の芽を摘まんだのも、ミリオンだった。

「監督、ですか?」

「万が一にもはなちゃんに死なれたら困るもの。料理自体に関しても、火事とか起こさせないよう見ておくわ。まぁ、私には味覚がないから出来上がった代物が美味しいか不味いかなんて分からないし、死なない程度の『毒』なら許容するけどね」

 基本は放任だが、本当に危険なものは出させない、という事か。

 それなら左程悪い事にはならないと、不安が一気に萎む。美味しくない料理を食べる羽目になるかも知れないが、食事というよりも遊びだと思えば大した問題ではない。遊びで大事なのは『楽しさ』だ。多少美味しくなくとも、笑える思い出になればそれで良い。

 これならば、断る理由なんてない。

「……そうですね。それなら、思いっきり、楽しめそうです。やりましょう!」

「おっ、花中もやっと乗り気になったね」

「えへへ。ちょっと不安もありましたけど、ミリオンさんが見てくれるなら、酷い目には、遭わないかなーって」

「……それってつまり、あたしらの料理が不味いって言いたい訳?」

「むむむっ! それは聞き捨てなりませんよ花中さん! 確かに初めての料理ではありますがビギナーズラックという言葉もあるではないですか! いざ食べたらビックリするぐらい美味しくて腰を抜かしても知りませんよ!」

「えー? ほんとに大丈夫かなぁ?」

 自信満々な二匹に対し少し意地悪く、煽るように花中は訊き返す。不安が拭えた反動に加え、日々の食事を自炊している『料理人』としてのプライドからか。普段らしからぬ、挑発的な態度を取ってしまった。

 するとフィアとミィはムスッと唇を尖らせた。それから二人は顔を合わせると、息ぴったりに頷きあう。

「良いでしょう! そこまで言うならぎゃふんと言わせてみせます! 『最高の食材』を使って!」

 そして代表するかのようにフィアが宣言。

 瞬間、花中は血の気が引いた――――恐ろしく嫌な予感がしたので。

「え、ちょっと待」

「そうと決まれば野良猫早速食べ物を採りに行きますよ!」

「おうとも! 明日を楽しみに待ってなよ、花中ぁ!」

 引き留めようとする花中の言葉を無視し、フィアは近くにあったマンホールから下水へ、ミィは瞬間移動の如く速度で何処かへ行ってしまう。

 恐らくは、『最高の食材』とやらを捕まえるために。

 彼女達は『野生動物』であり、普段から美味なる獲物を求めている生粋のハンターなのだから。

「……あの……」

「さっきも言ったけど、本当に危ないものはちゃんと止めるわよ」

 つまり、危なくなければ止めない訳で。

 ほんのちょっぴりでも調子に乗った報いがこれだとすると、些か厳し過ぎはしないかと花中は思う。思うが、何処かに行ってしまった人外二匹を追い駆ける事は、ただの人間である花中には叶わない。

「明日が楽しみね、はなちゃん♪」

 参加者の一体であるミリオンの言葉に、花中が頷く事はなかった。

 

 

 

 かくして迎えた翌日。

「第一回、鍋パーティーを始めまーす♪」

「「おーっ!」」

 楽しげなミリオンの一声と共に、ついに鍋パーティーが開かれた。フィアとミィも拳を突き上げ、楽しげな声を上げる。

 今日の天気は快晴。降り注ぐ日差しで肌が痛くなる、夏らしい日だ。

 会場として選ばれたのは大桐家の庭。木製の床など自重で簡単にぶち抜くミィがいるので、足場に配慮した結果だ。時刻はお昼真っただ中で、朝ごはんはすっかり消化されて腸に送られている頃。今なら大抵のご飯は美味しく頂けるだろう。

 そしてそのご飯を食べる側である花中は――――庭の中心で、椅子に座らされていた。

 動物達曰く、花中は今回の主賓だからそこで偉そうにしておけ、との事。夏の日差しの真下に居るが、周囲に霧散している微細なミリオン達が大気の熱を吸い取り、花中の周りはエアコンでも利いているかのように涼しい。

 更に花中の手には既にお箸と取り皿を持たされ、取り皿にはタレであるポン酢醤油が入っている。両手が塞がった状態では手伝いなど出来ず、庭に出てから花中は完全なお客様待遇を受けていた。おもてなしされて嫌な気持ちになどなれる筈もないが……庭に居ては、家の中にあるキッチンの様子は窺い知れない。

 故に、フィア達が持っている鍋の中身を花中は全く知らない訳で。

「……み、みんな、どんなお鍋を作ってくれたの、かなぁ……?」

 頑張って言葉だけでも楽しく振る舞うも、心臓の高鳴りは嫌なものしか感じない。監督役であるミリオンが許可を出しているので食べてはいけない物は出てこない筈だが……

「はなちゃんの準備は良いかしら?」

「……お腹の方は」

「それなら大丈夫ね。たくさん胃液を出しとけば、大概のモノは消化出来るから」

 察してくれるかな、と思い遠回しに言ってみたが、ミリオンは分かった上で無視してきた。

 どうやら諦めるしかないらしい。

「は、はは……お腹、壊さないと良いなぁ」

「よーし、それじゃあ一番手は……」

 乾いた笑い声を浮かべる花中の声は、ミリオンの活気ある声に掻き消され――――

 

 ―――― フィアの場合 ――――

 

「ふっふっふっ。やはり花中さんの一番の友達である私こそが先発に相応しいというものでしょう!」

 一番手を名乗り出たのは、フィアだった。片手には小さな土鍋が乗せられていて、お鍋からは白い湯気が昇っている。

 鍋から漂う湯気は花中の方まで漂い、鼻の奥をくすぐった。悪いものではないが、奇妙な香りだ。このような匂いを放つ食材に、花中はとんと心当たりがない。

 それは好奇心をくすぐるのと同時に、不安を掻き立てる。小心者である花中の中でどちらの感情が成長著しいかは、語るまでもないだろう。

「実のところ料理には興味がありましてね。初めての調理でしたが我ながら上手くいきまして全く自分の多才ぶりが恐ろしいです」

「そっかー。興味あったなら、言ってくれれば、色々教えたのになぁ。わたしの好物とかー」

 自信満々なフィアに、花中はぼそりと後悔の念を呟く。

 花中は知っている。フィアの『好物』を。

 花中は知っている。フィアが他者の都合など一片も考えない性格であると。花中(じぶん)に喜んでもらいたい ― 正確には、喜ぶ花中の顔を見たい、であるが ― のは本心からだが、その『喜び』の基準が自分の中にしかない事を。

 であるならば、その鍋の具材は一つしかない訳で。

「はいどーんっ!」

 威勢良く開けられた鍋を、花中は目を細めながら覗き込み――――

 ……浮かんでいたのは、肉団子のようなものだけ。特段、変なものは見当たらなかった。

「あ、あれ? 普通……?」

「……何か勘違いされてるかも知れませんが一応花中さんと私の好みが違う事は知っていますから。それなりに配慮はしています」

「あ、そ、そう、なんだ……」

 だったら申し訳ない反応の仕方だったかな、と思う反面、まだ何か罠があるような……とも考えてしまう花中。

「さぁさぁ花中さんどうぞお食べくださいな♪」

 しかし悲しきかな、フィアは持っている鍋を花中の方へと突き出し、食べるよう促してきた。のんびりじっくり考える時間はくれないらしい。

 基本小心者な花中は流されるまま、震える手で箸を掴み、改めて鍋と向き合う。

 ……第一印象の通り、鍋自体に不穏さはない。

 スープは透き通っており、色は出ていない。どうやら水炊きのようだ。ぷかぷかと浮いている肉団子はどれも表面が非常に滑らかで、元の食材が何かは判別が付かない。正体が分からない物を口に運ぶのは恐ろしいが、具体的な代物……例えば『足』とかも見当たらないので、視覚的不快感を覚える事もなかった。

 それでも身体が動かないのは、鍋から放たれる圧倒的プレッシャーの影響か。いや、何故鍋にプレッシャーがあるのか分からないが、兎に角本能が警報を鳴らしている。迂闊に手を出せばどうなるか……

 等と警戒していると、ふと、鍋の底の方に緑色の物体がある事に花中は気付いた。まさかイモム……とまで考えたが、よく見ればそこまで太くない。丁度、春菊ぐらいの大きさか。恐らくは野菜の類だろう。仮に野菜でなくとも、植物には違いない。

 植物確定の物体と、得体の知れない肉団子。

 どうせ食らうならば前者の方が人間的にはマシである。論理的道筋を立てれば最早怖いものなどない。花中は箸を鍋に突っ込み、緑色の救世主を引き上げた。

 クロモだった。

「……………は?」

 呆気に取られて何度か瞬きしたが、箸が摘まんでいるのは何時まで経ってもクロモだった。

 クロモとは、日本原産の水草である。外来種であるカナダモと形態的に似ており、現在はそのカナダモに生息地を追われているとされる水草だ。ちなみにアメリカなどでは逆に侵略的外来種として猛威を振るっている水草として有名である。

 つまるところ、水草である。

 ……何故水草が鍋に入っているのか?

「……え、何コレ?」

「ふふん。人間は肉ばかりでは飽きてしまう贅沢な生き物のようですからね。個人的には好みではありませんが生まれ故郷の池にあった水草を入れてみました。まぁワカメみたいなもんだと思ってください」

 水草は被子植物、ワカメは藻。動物で例えるとクジラとウミウシぐらい違う。料理人がクジラ肉と言ってウミウシを使ったら詐欺だし、子供がウミウシを捕まえるノリでクジラ漁を始めようとしたら全力で止めねばなるまい。

 いやいやしかし世の中には代替魚のような、種は違うが味や食感が似ている食材もある。もしかしたらクロモとワカメだって――――等と蜘蛛の糸より細い希望に縋る花中だったが、クロモを鼻に近付けたところドブ臭さが漂ってきた。コレはどう料理したところで野菜の領域には達しない、水草でしかない『物体』だと本能的に察する。

 食べ物じゃない。食べられるかも知れないが、断じて『食材』ではない。

 だけどフィアは、花中に食べてほしくてコレを用意した訳で。

「……………食べなきゃ、ダメ?」

 駄目元で訊いてみれば、フィアは首を傾げる。

「……食べてくれないのですか?」

 それどころか不安そうに、なんだか泣きそうにも見える眼差しを向けてくる始末。

 色んな意味で心が脆い花中に、これを突っぱねる精神的強度などある筈もなく。

「たた、た、食べるよ! はむっ!」

 殆ど無意識に、水草を口の中に放り込んでいた。そして力いっぱい噛み砕く。

 ……総評から言えば、普通に不味い。

 不味いが、しかし食べられないほどかと言えば、そこまで悪くもない。シャキシャキとした歯応えは嫌いになれないし、ぶっちゃけ味は殆どない。欠点らしい欠点がドブ臭さしかなく、それさえも悶絶するほど強烈という訳でもない。正直、罰ゲームや闇鍋でこれを食べても拍子抜けするだけだろう。抵抗するように強張る喉を無理やり鳴らし、どうにか胃に押し込めた。

 これぐらいなら、まだ食べられる。

 少しだけペースを取り戻した花中は、今度は茶色い肉団子を箸で掴む。先程よりはいくらか冷静で、クロモの時はすっかり失念していたポン酢醤油に浸ける事が出来た。それを小さく、だけど味が分かるぐらいには囓る。

 今度は、意外と美味しかった。

 滑らかな舌触りに、とろける食感。それだけでなくプリプリとした歯応えの素材が練り込まれており、噛んでいて楽しい。例えが浮かばない独特の風味があるものの、花中的には面白くて興味深い。味に関しては、全体的にエビのような感じで案外好みだ。自然ともう一口囓り、じっくりと味わう。ポン酢醤油との相性も良く、ここに白いご飯があったなら……と想像したら涎がじわじわと口の中に溜まってきた。

 欠点を挙げるなら、塩味などがしないので味に締まりがない事か。野生動物であるフィアに、塩分や糖分の添加は思い至らなかったのだろう。今のままでは料理と言うより、練り潰した食材に火を通しただけである。しかしこれでも十分に美味しい。調味料で味を整えれば、間違いなく『美食』の域に達する。何より既知から逸脱した味覚に、心が小躍りした。

 しかし、一体これはなんだ?

「うん、これは美味しい……でも、なんだろうコレ? エビっぽいけど……」

 抱いた疑問は思わず口から出ていて、

「スズメガのサナギです」

 フィアはすぐに答えてくれた。

 ……答えを聞いて、花中は凍り付いた。

「……さなぎ?」

「はいっ! 花中さんに是非とも食べていただきたく昨日一日町中の土を掘り起こして一生懸命集めました!」

 ああ、一生懸命集めたんだ……微笑ましい言葉になんとか笑みを浮かべようとした花中だったが、口元が引き攣るだけ。上手く笑えない。

 挙句胃袋が嫌なうねり方をしている。

 込み上がる衝動に身を任せれば、楽にはなるだろう。しかし今この瞬間に()()()()訳にはいかない。これはフィアが一生懸命、自分のために作ってくれた料理なのだから。幸いにして使われた『食材』は想定内の品物。それにスズメガは東南アジアでは食材として親しまれていると聞く。大体味は良かったのだ。調理前の見た目だけで料理の価値を決めるなど愚の骨頂。食とは、食べてなんぼである。

「そ、そうなんだ……うん、お、美味しかった、よ。その、よく、固められた、ね。サナギの中身とか、ドロドロ、してそう、なの、に」

「ふふん。ちょっとした工夫がありましてね」

「……工夫?」

「ナメクジをつなぎとして入れてみました!」

 訊かなきゃ良かった。

 調子に乗った数秒前の自分を叱責したいが、生憎花中の身体にそんな余裕はなかった。胃袋がブレイクダンスを始め、乙女的思考回路が暴徒化し、口の中が駆け上る濁流に慌てふためく。本能が必死に全身を宥めているが、日本的文明社会に浸って十五年の理性は言う事を利かない。

 それでも気合いと根性でどうにかこうにか抑えていたが……フィアが語り始めてしまった。やれ「ナメクジを山盛りで捕まえた」とか、「ぬめりを取った後の個体はぶつ切りに」とか。自慢話の宿命か無駄に詳細で、お陰でフィアの行った『調理工程』が脳裏に浮かんでしまう。胃袋の中を、殻のないでんでん虫が這い回るイメージが湧いてくる。

 耐えられたのは、三十秒に満たなかった。

「おろろろろろろろろろろ」

「!? 何故吐くのです!?」

 胃の中身を盛大に吐き出すのを以て、『一番の友達』から振る舞われた初料理は終わりを告げるのだった。

「……なんで花中、吐いてるの?」

「さぁ? それにしてもスズメガ団子って美味しいわねぇ。ナメクジのほのかな風味が食欲をそそるわ」

「アンタ味覚ないって言ってたじゃん。まぁ、美味しいのは同意するけど。あたしも小さい頃はよく食べたもんだよ。懐かしいなぁ、この香り」

「……猫って甲殻類は食べちゃ駄目だったと思うんだけど。昆虫は系統的に甲殻類に近いから、オススメはしないわよ」

「食べ過ぎなきゃ平気だし、加熱すると駄目な成分は分解されるから大丈夫……多分」

 尚、人外達には好評だった模様である。

 

 ―――― ミィの場合 ――――

 

「うう……フィアちゃん、ごめんなさい……」

「いえ口に合わなかったのなら仕方ありません。次はもっと美味しいものを用意しますね」

「……期待しておくね」

 苦笑いを浮かべつつ、フィアがあまり気に留めていない事に花中は安堵した。一生懸命作った物を吐かれたのだから、もしかしたら酷く落ち込むのではと心配だった故に。『次回』への不安はあるが、自分が精神的に鍛えれば乗り越えられるだろう。一応昆虫は、人類史的には『食材』なのだから……ナメクジについてはノーコメントだが。

「今度はあたしの番ね」

 さて、一悶着が終わり花中が水で口をゆすいでいると、今度はミィが花中の前に立った。

 彼女もその手には湯気を昇らせている小振りの土鍋を持っている。フィアと違い『地肌』に熱々の鍋を乗せているミィだが、身体機能の操作によって放熱量の調整も自由自在な彼女。百度ぐらいの物体なら平気で持てるのだろう。

 湯気は風に運ばれ、花中の鼻に到達。嗅いでみると肉の香りがした。花中とて育ち盛りのお年頃。特段好物というほどではないが、良質のタンパク源であるお肉には幾らか惹かれるものがある。

 これは、もしかすると期待出来るかも?

「見て驚くんじゃないよ……それっ!」

 興味を持った花中を見て、ミィはしたり顔を浮かべながら鍋の蓋を開けた。ほわっと溢れた湯気と共に露わになったのは……灰色の具材がたくさん浮かぶ光景。

 なんだろうと思い覗き込めば、その灰色の物が肉だと分かった。スープの色は無色透明で、恐らくフィアと同じく水炊きなのだろう。茹でたお肉は白っぽくなる。なんて事はない、ごく自然な変化だ。

 ただ、鍋の中に肉がぎっちりと詰まっているのはどうなのか。いや、そもそもこのお肉、何肉なのか? 湯気の中にある香りは、鶏でも豚でも牛でもない独特なものだった。恐らく、市場では中々お目に掛かれない動物だと思われる。

「えと、これは……?」

「鹿だよ」

 試しに訊いてみれば、ミィからはそのような答えが返ってきた。

「泥落山でね、捕まえたんだ。あそこは他にもイノシシとかクマとかヘビもいるけど、最初に見付けたのが鹿だったからね。新鮮で美味しいよ!」

 つまり、見付けた動物次第ではクマ肉やヘビ肉だったかも知れないのか……等という不穏な考えを振り払い、花中は再び鍋の中身に目を向ける。

 鹿肉を食べるのは、花中には初めての経験である。

 とはいえスズメガやナメクジと違い、鹿は獣である。豚や牛を日常的に食べている花中からすれば、食材と認識しやすい生物だ。それにジビエ料理は最近流行っているらしく、少し興味があった。

「ほほう鹿ですか。どのような味でしょう」

「下準備はしてたみたいだし、臭みとかはなさそうね。まぁ、私には分からないものだけど」

 フィア達も関心があるようで、ミィの持つ土鍋を覗き込む。花中が箸で肉を一つ摘まむと、続いてフィア達も『素手』で沸き立つお湯に指を入れ、肉を取る。

「えと……では、いただきます」

 そして花中の『号令』に合わせ、一人と二匹は同時に鹿肉を口へと放り込んだ。

 もぐもぐと、しっかりとお肉を噛み砕く。

 分厚く切られた肉からは、たっぷりと肉汁が溢れてくる。家畜ではなく野生の獣なので油分は少なく、獣臭さは強いが、この辺りは好みの問題だろう。それよりも肉の味が濃厚で、市販の安物肉とは比較にならない。ポン酢醤油にも良く合い、これまたご飯が進みそうである。

 不満点など何処にもない。

 ……何処にもないのだが、しかし。

「普通ですね」

「普通ね」

「え? あ、えと、お、美味しかった、です」

「刺激がないと言いますか面白味がないと言いますか」

「見栄えも良くないわよねぇ。やっぱ彩りがないと」

「いや、あの、な、何事も、凝り過ぎると、万人受けしない、ものです、し」

「というかこれは料理なのですか? 鹿を茹でただけのような」

「どこぞの離島のサルは、食べ物を海水に浸けて味付けするらしいわよ。味に関して言えば、それ以下ね」

「そ、素材の味を前面に出した、大変、上品なもので……」

「うん、花中ありがとう……でもなんか、余計惨めになるからもう止めて」

 なんとかフォローしようとする花中だったが、ミィに止められ言葉が途切れる。

 そう、このお鍋――――普通なのだ。

 フィアのお鍋が未体験の感覚を味わえたのに対し、ミィのお鍋は拍子抜けするほど普通だ。鹿肉を味わうのは初めてではあるが……「ああ、わたし今、鹿肉を食べてるんだぁ」以上の感想が出てこない。吐きたい訳ではないが、あのような刺激を体感した後では些か『退屈』である。

 更に言えば、肉しか入っていないので味が単調なのもよろしくない。人間は均一な味を好まないもので、もう少し具材の種類がないと……言い方は悪いが、飽きる。

 要するに、

「……ごめんなさい。フィアちゃんのお鍋が、色んな意味で、強烈で……その、地味?」

「ちっくしょおおおおおおおおっ!」

 料理とは、食べる順番も大事なものである。

 

 ―――― ミリオンの場合 ――――

 

 無事で済むとは思っていなかった。

 しかしながら被害を受けるのは専ら花中(じぶん)で、ミィがどんよりと落ち込むとは思っていなかったが。

「うぅ……地味って……地味って……美味しいのに……」

「えと……ご、ごめんなさい……」

 謝ってはみたが、ミィは中々立ち直ってくれない。どうやらミィとしてはかなりの自信作だったらしい。

 そう言えば、猫は人間と比べ味蕾 ― 味を感じる細胞の名称だ ― が極端に乏しいと聞く。食べ物で重要なのは味ではなく、匂いらしい。成程、確かにあの鹿鍋の香りは良いものであった。ミィにとっては、さぞ()()()()()であった事だろう。

 ただ人間、特に現代人は複雑な味覚が食の基本となっている。ミィのシンプル・イズ・ザ・ベストな『料理』とは、相性が良くなかった。

 ……はてさて。

 フィアの料理が終わり、ミィの料理も終わり。残すは生物ですらないモノが一体。

「うふふ。真打ちは最後にビシッと登場しないとね」

 ミリオンは上機嫌に、花中の前へと躍り出た。

 その手にはやはり小さな土鍋が乗っていた。湯気も漂っている。登場時の見た目は、先の二匹となんら変わりない。

 されど一つ、確かな違いがある。

 湯気に含まれている香りだ。フィアのお鍋は知らない ― 今思えばメインであるスズメガのものなのだろう ― 香りで、ミィのは肉の香り。どちらも素材の色が全面に出ていた。

 しかしミリオンの鍋から漂うのは、それら素材一辺倒の匂いではない。勿論素材が分からなくはないが、多種多様な匂いが混ざり合い、複雑にして深みのあるものを作り上げている。

 これぞ正しく、料理の香りだ。二度に渡って出てきた『素材に火を通した』だけの代物とは明らかに違う。

「さぁ、これが私の手料理よ」

 満を持してミリオンが蓋を開けると、鍋からもわっと白い湯気が溢れる。勿体ぶるように中身を覆い隠すそれは、やがて静かに消えていく。

 そして明かされる、真っ赤なスープ。

 鮮やかな赤色に浮かぶ具材の数々。そして鼻をくすぐる酸味のある香りは間違いなく――――

「ふわぁ……! トマト鍋、ですねっ」

 お洒落で女子力の高い鍋の登場に、花中は自然とテンションが上がった。魚であるフィアは『正体』を調べようとしてか念入りに匂いを嗅ぎ、ミィは花中と一緒に鍋を覗き込む。

 浮かんでいる具材は野菜とお肉がバランス良く、多様な種類が確認出来た。色合いも考えられているようで、最早芸術品にも通じる美しさだ。漂う香りは一瞬でそれがトマト鍋だと知らせるのと同時に、じっくり堪能すればその奥底にある野菜の甘味と肉の旨味を感じ取れる。いや、見えている素材だけではここまでコクと深みのある香りは作れまい。恐らく何種かの香草も隠し味としてブレンドしている。沸騰寸前の熱さなのかコトコトと微かに聞こえてくる音も耳障りが良く、煮崩れしてない具材は歯応えも楽しめよう。

 五感全てを満たしてくれるに違いない料理を前にして、胃袋がはしゃぎ、生唾を飲んでしまう。独り暮らしの身なので花中も頻繁に料理はするが、ここまで魅力的な料理は作れた事がない。感動や尊敬の念を抱き、だがそれ以上に沸き立つ食欲が抑えきれない。

「ふふん。私は恋する乙女よ? これでもあの人が生きていた頃は毎日手料理を作ってたんだから。味覚がないから味見は出来ないけど、分量はちゃんと覚えてるから味は再現出来た筈。あの人も美味しいって言ってくれたし、腕前は保障するわよ」

 すっかり食欲に飲まれた花中を見て、ミリオンは満足げに胸を張る。その誇らしげな態度に相応しい料理を前にして、最早花中も我慢の限界。否、どうして我慢する必要があるのか。この料理は自分に出された物だ。自分にはこの料理を頬張り、堪能し、全てを胃に収める権利がある。

「あ、あの、食べても、良い、ですか?」

「勿論。お腹を空かせた子供に意地悪するような趣味はないもの」

 子供呼ばわりされた花中であるが、そんなのはどうでも良い。名誉やプライドなど、三大欲求の前では吹けば崩れる砂上の楼閣だ。今はこの料理を味わうのが最優先。

 そんな花中の気持ちを見越してか、ミリオンがすっと手渡してきたのはオタマ。成程これでスープと具材を一緒に掬うのかと、花中は有難く受け取っておく。そして即座に鍋の底へとオタマを突入させた。

 ――――この時、花中がもう少し冷静だったなら。

「あのー花中さんなんだか嫌な予感がするので一旦コイツから詳細を訊いた方が」

 せめてフィアのこの言葉を聞き取れるぐらいには、落ち着いていたなら。

 或いは未来は変わったかも知れない。しかし花中は友からの忠告に耳を傾けもせず、欲望のまま鍋に沈めたオタマを持ち上げ、

 底に溜まっていた、ドロリとした赤褐色の『何か』を掬い上げてしまった。

「……へ?」

 思わず出る、呆けた声。

 オタマから伝わるずっしりとした重みは、その『何か』が水を主成分とした表層のトマトスープよりも遙かに高密度である事を物語る。今までコイツが鍋底の熱を一身に引き受けていたのか、オタマの中でゴポゴポと沸騰していた。さながらマグマのようである。

 そして弾けた気泡から漂う湯気が花中達の鼻に到達

「だわろぶっ!?」

 した瞬間、ミィが吹き飛んだ。比喩ではなく、本当に。

「えっ!? どうじびっ!?」

 困惑する花中だったが、一拍置いて自身の全身が総毛立つ。目には涙が浮かび、鼻水がどばどばと溢れ、口からは噴き出した涎がこぼれ落ちる。血管が萎縮し、内臓が逃げるように暴れる。やがて全身の細胞が、ある一つの結論を導き出した。

 辛いっ!

 鼻を直撃したのは、『辛み』だった。恐らく唐辛子を主体にしつつ、様々な香辛料をブレンドしたもの。これ自体は女子力の高さを物語るだけだが……しかしながら問題はその濃さだ。

「あば!? ごっ! おっ! ンゴゲアァァァアアアッ!?」

「うわぁなんか酷い声が出てますよアイツ……死ぬんですかね?」

 ミィが、人智の及ばない苦悶の叫びを上げていた。嗅覚が著しく退化したと言われる花中(人間)ですら、怯み、泣いてしまったのだ。人間の数万~数十万倍の嗅覚を誇る猫には、この化学兵器染みた臭いは耐えられなかったようである。同じく嗅覚に優れるフィアが顔を顰めつつも平然としているのは、哺乳類と魚類の違い故か。

「うふふ。早速それを見付けるなんて、はなちゃんもお目が高い。本当はちょっとずつスープの味が変わるように仕掛けたものだけど、今回はお鍋も小さいから、いきなりそのスープで味わっても良いわよ」

 目の前で地獄絵図が繰り広げられているに関わらず、ミリオンはおっとりぽわぽわしたまま。年頃の乙女らしく微笑んでいる。どうやらこの危険物体Xは、純粋な好意から出来上がったものらしい。

「な……んなのごればぁぁぁ……! 油断じでっおもっおもっきりすいごっおごごごっ!?」

「何って、私特製のオリジナルスープよ。ハバネロをメインに、その他色んな香辛料を混ぜ込み、煮詰めて作ったの。『あの人』もこれが大好きだったのよ♪」

 悶絶するミィが問い詰めると、ミリオンは照れたように身体をくねらせながら答える。

 花中は驚愕した。だって、どう考えても()()()()()、人の食べ物ではないのだから。

「えっ……た、食べさせていたの、ですか? コレを?」

「勿論。初めて作ってあげた頃は涙と鼻水を流しながら美味しいって言ってくれたのよ。まぁ、十年も食べ続けていたら流石に泣かなくなったけど、毎回残さず食べてくれたから、気に入ってくれてたみたい」

 頬を赤らめ、思い出を語るミリオン……シチュエーションさえちゃんとしていれば少しはしんみりとなったろうに、目の前で刺激臭を漂わせる煉獄料理があっては涙など枯れてしまう。

 しかしながらミリオンの『想い人』も、中々どうして逞しい。恐らくミリオンを傷付けまいとして吐いた嘘なのだろうが、それを十年続けた ― 以降はついに慣れたのか、それとも演技が上手くなったのか ― のだから驚愕である。ミリオンの愛は最早狂気の域だが、相手も同じぐらいミリオンを愛していたようだ。

 ……ちなみに、花中にそこまでの『愛』はない。愛はないが、しかし恋する少女の思い出をぶち壊す勇気もない。愛する人に食べさせていた料理が、実は危険物だったなんて伝えられるものか。

 いや、それだけではない。

 この料理は、ミリオンの『愛する人』が想いを貫いた結果だ。最後まで守り通した幻想であり、例えこの世を去ろうと残り続ける愛が形となったもの。しかし守り手がいなければ、愛はやがて露と消える。

 ならば自分が、この愛の守り手になろう。

 人は亡き人の想いを引き継ぎ、力に変えて、前へと進んできたのだから!

 ……ここまで本気で格好付けないと、煉獄を掬ってしまったオタマをこれ以上動かせそうになかった。

 恐る恐る、花中はオタマを取り皿の上まで運び、静かによそう。が、緊張と恐怖のあまり手が震え、べちゃりと落としてしまった。

 ただそれだけの刺激で、肌が痛くなるほどの『香り』が辺りに漂う。

 やはりどう考えても、人の食べ物ではない。

「(お、お、お、おち、落ち着けぇぇぇ……唐辛子の辛味成分であるカプサイシンは、温度が高いほどその効果が高くなる。つまり冷ませばある程度は辛味を抑えられる。そもそも辛味とは口の中で感じる痛み、即ち痛覚だから、限界まで冷やして口の神経を麻痺させれば感じなくなる筈……!)」

 生命の危機に直面した脳細胞はフル稼働。辛味を抑える方法を模索する。

 花中はフィアに箸と取り皿を預けると、庭から駆け足で家の中へと戻り、台所へと向かうや冷凍庫を開けて氷を口に突っ込む。手など洗わない、そんな暇はない。口を窄め、氷と口内全てを密着させて急速冷却。あまりの冷たさに身体が色々悲鳴を上げるが気にも留めない。

 限界まで口を冷やしたら、氷を噛み砕きながら庭へと帰還。キョトンとするミリオンを一瞥したのも束の間、フィアからお皿と箸を返してもらうや全力で皿の具材に息を吹き掛ける。湯気が見えなくなるぐらい冷ますと、いよいよ花中は箸を構えた。

 口にはまだ砕いた氷が残っていて、感覚のない舌を冷やし続けている。料理は気温程度には冷ました筈なので、これ以上時間を掛けても『対策』とはならない。むしろ口内の氷が残っているうちが最良条件だ。

 躊躇すればするほど、自分の寿命は縮んでいく。

「い、いた、だき、ま、ふっ!」

 箸で摘まんだ、出来るだけ小さな肉片を花中は口の中へと放り込み、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴が、町の彼方まで轟いたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うーん、おこちゃま達には厳しかったのかしら?」

「花中さんも野良猫も見た目からして子供ですからねぇ。この刺激的な味は早かったのでしょう……んっふぅぅぅ……結構なお味でした。ごちそうさまです」

「え? 残り、全部食べちゃったの?」

 ちなみに唐辛子に含まれるカプサイシンは、種を磨り潰して食べてしまう哺乳類向けの『対策』だと考えられている事を付け加えておく。




魚がカプサイシンを大量摂取して平気かは知りません(ぉぃ) 鳥が平気なのは知ってるのですが、魚は調べても良い感じの情報が見付からなくて……
一応民間療法的な感じに、飼ってる魚の消毒に使う時があるとかないとか。なので弱くはなさそうですが、しかし食べ物の消化が悪くなるという話も。魚は喋ってくれないので、案外地獄の苦しみに浸っているかも知れませんね。

さて、次回は第五章【母なる者】の第一話。
1/29(日)投稿予定です。


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第五章 母なる者
母なる者1


 しとしとと、雨が降っていた。

 あまり強い雨ではなかったが、そのままでは濡れてしまうので、外に居る誰もが傘を差していた。雨雲は厚く、太陽を覆い隠している。お陰で八月上旬の突き刺すような日差しは地上まで届かず、気温は地獄のような灼熱を忘れ、穏やかといえる水準まで下がっていた。

 だけど、花中はそれを喜ばない。

 降り注ぐ雨が、みんなの涙のように思えたから。

「花中さん。あちらに受付があるようですよ」

 不意に掛けられたフィアの呼び声に、花中はハッとなる。

 帆風高校の夏服を着て花中が訪れたのは、公民館のような、シンプルなデザインの建物。どうやらこの建物を前にして、無意識にぼうっと眺めていたようだ。

 ぷるぷると、小さく頭を振って意識に掛かる靄を払う花中。

 花中に声を掛けてきた今日のフィアは、花中と違いフリルをたっぷりと付けた派手な洋服を着ている。何時も通りの格好だ。強いて普段との違いを挙げるなら、その色合いが黒一色である事ぐらいだろう。

 フィアは一点を指差しており、そこは花中達が前にしている建物の、菊の花で飾られた入り口だった。真っ黒な服を着た大人や、花中と同じ帆風高校の制服を着た学生が何人も建物に入っており、傍には立て看板が設置されている。

 緩やかな、迷うような足取りで花中は看板の前に向かう。その看板にはハッキリと、こう書かれていた。

 明石凛子 葬儀式場――――と。

「……うん。此処で間違いない、ね。教えてくれて、ありがとう」

「いえいえ礼を言われるほどの事でもありませんよ。しかし人間のやる事はよく分かりません。死体にお別れを告げたところで返事などないのですから時間の無駄でしょうに。しかも燃やしちゃうなんて。剥製にして保存しておくのならまだ分かるんですけどね」

「……………」

「ああそんな睨まないで。今のはあくまで私個人の感想です。人間に理解してもらえるとは露ほども思っていませんので無用なトラブルを避けるためにも葬式場に入ったら口は閉じておきますよ」

 悪びれる様子もなく、言いたい事を言いたいように話すフィア。花中もまた言いたい事を言おうとして――――口を噤んだ。

 葬儀を行うのは、人が心を大事にする生き物だからだ。死者に安らぎを与えるためでなく、これからも生き続けなければならない生者が気持ちの整理をするための儀式。その生者が不要だと思うのなら、葬儀を行う必要などないのだろう。他者にその思想を強要しない限り、考えを止めさせる道理はない。

「……うん。それなら、良いよ。あ、でも、参加するからには、いくつかやる事が、あるけど、やり方とか分かる?」

「いいえさっぱり。でも他の人と同じ感じに振る舞えばなんとかなるんじゃないですかね?」

「……なんとかなるけどね」

 実際自分も曾祖父や曾祖母の葬式ではそうしていたし……幼い頃の記憶をほじくり返されてむず痒さを覚えつつ、フィアについては問題ないと判断。

 入場前にすべき事は、後は友人達の到着を待つぐらいか。

「ごめんなさい、ちょっと遅れたわ」

 そう思っていたところ、タイミング良くその友人の声が聞こえた。

 声がした方を見れば、そこには友人の一人であるミリオンが駆け足気味に花中達の方へと近付く姿があった。今日も彼女の服装は黒一色。ただし普段着ではなく、付近に居る大人の女性達と同じタイプの正装、所謂ブラックフォーマルを着ていた。尤も、他の誰よりもミリオンは着こなしているように見える。実際彼女ほど、喪服を着慣れている者も他にいまい。

 やがて花中達の傍までやってきたミリオンは、不愉快そうに眉間に皺を寄せた。

「ちょっと、さかなちゃん」

「はい?」

 嫌悪を露わにしながらミリオンはフィアを呼び止め、まるで心当たりのない様子の彼女の服をジロジロと眺める。

「なんでそんな派手な格好してんのよ。もうちょっと簡略なものにしなさい。親族より格式が上になっちゃ駄目よ」

 それからフィアの服装に、語気を強めて文句を付けた。

 指摘されたフィアは自分の身形を一遍眺め、しかしキョトンとした素振りで首を傾げる。

「喪服って黒ければ良いんじゃないですか? あと私地味な服って好きじゃないんですけど」

「さかなちゃんの好みなんてどうでも良いの。ほら、私と同じデザインに変えなさい。どうせその服も水で作ったやつでしょ」

「いえですから地味なのは好みじゃ」

「良 い か ら や り な さ い」

 ミリオンの意見に押され、フィアは渋々といった様子で服を()()させる。

 変化が終わると、ミリオンがチェック。あそこを直せここをこうしろと細かく指摘し、フィアはつまらなそうに唇を尖らせながらミリオンの指摘通りに服を変えていく。

 着せ替え人形にされているようで、少しフィアが気の毒になる花中だったが、しばらくミリオンの好きにさせる事にした。ミリオンは好きな人を亡くした経験がある。こういった場に強い想いがあり、雰囲気を壊されたくない気持ちは人一倍強いのだろう。

 いくらかのやり取りを経て、最終的にフィアの服装はミリオンと同じような、落ち着きあるものとなった。フィアは心地が悪いのかそわそわしているが、ミリオンは満足げに頷いている。

「まぁ、こんなもんかしら……ごめんなさいね、はなちゃん。待たせちゃって」

「いえ。気にしないで、ください……まだ、ミィさんも、来てないです、し」

「ああ、その事なんだけど。猫ちゃん、中に入ったら床を踏み抜いちゃうから、外から手を合わせるだけにするって言ってたわ。だから待たなくても良いって」

「……そう、ですか」

「残念がっていたから、猫ちゃんの分も拝んでいきましょ」

 ミリオンの言葉に花中は静かに頷く。

 ミィが合流しなくなったので、これで面子は揃った事になる。フィア、ミリオンと共に、花中は受付へと足を運ぶ。記名を済ませて会場の奥へと進んだ。

 ――――物静かな空間。

 音がしない訳ではない。しくしくと嗚咽が聞こえ、服の擦れる音や靴の音が耳に届く。それでも静かだと、物音がないように思えるのは、そこに居る人々の心が、深く、沈んでいるからだろう。

 少し早めの時間に来たつもりだったが、会場の椅子は既に大半が埋まっていた。参列者用の椅子は、さて何処からかと花中は眺め、

 ちょいちょいと、座る人混みの中から伸びた腕が手招きしていた。

「……………えっと」

「席、取っといてくれたんでしょ。無下にしても悪いわよ」

「行きましょ行きましょ」

 少し戸惑う花中に、ミリオンが優しく促し、フィアは能天気に手招きの方へと歩き出す。先行するフィアの後を追う形で花中も向かう。

「おはよ、大桐さん」

「大桐さん、やっほー」

 手招きしていたのは、花中と同じく制服を着た晴海。そしてその傍には笑顔を浮かべつつも、悲しさを隠しきれていない加奈子が座っていた。

「……おはよう、ございます」

 一礼と共に挨拶をして、花中は晴海の隣にある空席に座る。フィアとミリオンも、晴海達が取っておいてくれた席に腰掛ける。

 友達が全員座ったのを確認した花中は正面を見据え、部屋の最奥に置かれた祭壇に目を向けた。

 飾られたたくさんの菊の花。大きな棺。立て掛けられた写真。どれもお葬式としては珍しいものではない。デザイン的な違いはあれど、幼少の頃経験した曾祖父母の葬式と、用意された器材に大した違いはないように感じた。

 ただし、場を満たす空気の悲壮さは、あの時の比ではない。

 それも当然だ。花中の曾祖父母が九十前後で亡くなったのに対し、明石倫子は享年十六歳――――彼女はまだ大人にもなっていない、花中のクラスメートなのだから。

「そういえば私彼女についてあまり知らないのですけどどんな方なのです?」

「んー、あたしも友達ってほど親しくなかったから詳しくは言えないけど……お洒落に気を遣って、彼氏とデートするような……女の子らしい女の子よ」

「ははぁ。確かにそんな見た目ではありますね」

 倫子の事をよく知らないフィアは、晴海の説明に納得したように頷く。どうせ顔も覚えていないだろうが、棺の奥に飾られた遺影からそう判断したのだろう。

 倫子はクラスメートだったが、晴海とも、加奈子とも、さしたるつながりはない。

 無論それは彼女が孤独だった事を意味しない。倫子には友達がたくさんいて、仲良しグループを作り、仲間内でわいわい楽しくやっていた。晴海はそういったグループ云々を好まず、加奈子は意識もしない性格。所謂タイプが違う女子であり、不仲ではなかったが、友情が芽生える間柄でもなかった。

 それは花中も変わらない。しかし花中には、少なくとも晴海達よりはつながりがあった。

 六月の頭。友達になりたくて、だけど勇気が足りなくて、話し掛けられなかった子。

 自分が緊張していて、だから顔が凄く怖くなって……スマホを落として逃げていった、あの子なのだから。

「ぐすっ、う、なんでだぁ……なんで……こんな事に……!」

 ふと、耳に入る大人の泣き声。声がした方を見ると、年老いた男性が泣き崩れていた。それも親族達の席で。

 訊かずとも分かる。彼は倫子の祖父だろう。

 そして親族席に座るのは、彼と数人の老女、それから小学生ぐらいの男の子だけ。高校生の娘がいそうな年頃の人物は見当たらない。

「かわいそうに……奥さんも娘さんに続いて亡くなったのでしょう? 旦那さんも数年前事故で亡くなったとか」

「あの小さい子、弟さんだってね。これからどうなるのかしらね……」

 ひそひそと、近くの席では噂話が飛び交っている。

 自分に向けられた訳ではないその言葉を耳にして、花中は深く俯いた。

 クラスメートとの本当の別れまで、ただただ静かに――――

 

 

 

「やぁーっと終わりましたねぇ。ちょっと身体が凝ってしまいましたよ」

「よく言うわよ。作り物の身体じゃない」

 肩をぐりぐりと回しながら独りごちるフィアに、ミリオンが呆れながらツッコミを入れる。その姿に、花中は渇いた笑みを浮かべた。

 告別式が終わり、花中達一行は葬儀式場前の広間にたむろしていた。晴海と加奈子はこの後予定があるとの事で、既に別れている。他の参列者達も、疎らだが少しずつこの場を後にしている。納骨などは親族だけで行うらしく、花中達は参加出来ない。棺は既に外へと運び出されており、親族も次の会場に向けて移動している。一般参列者には此処に居続ける理由がなく、残っているのは会場の職員を除くと花中達ぐらいしか居なかった。

 花中としても此処に留まる理由はないのだが……動けない。

 出棺の直前、最後のお別れとして棺の中を見た。倫子の顔はとても綺麗で、死に化粧のお陰もあるのだろうが、とても死んでいるとは思えなかった。実はただ寝ていて、跳び起きるタイミングを見計らっているのではと疑いたかった。

 あの顔が、今でも脳裏から離れない。

「ところであの明石さんって人はなんで死んだのです? 事故か何かですか?」

 尤も、友人であるフィアは倫子の顔どころか、詳細すらすっかり忘れているようだが。花中はムッと唇を尖らせ、ミリオンは肩を落とす。

「アンタねぇ……お葬式の知らせが晴海ちゃん経由で来た時に聞いたじゃない」

「生憎覚えていませんね知らない人間の死に様などどうでも良いですから。ただ随分お若いのに何故死んだのかと改めて疑問に思っただけです」

「……まぁ、良いわ。どうせこのお葬式が終わったらいよいよ全部忘れちゃって、三度目はないでしょうし」

「よくお分かりで」

 悪びれる様子もなくフィアは微笑み、ミリオンはため息一つ。少し間を開けてから、フィアの質問に答えた。

「心不全、要するに心臓が止まって死んだのよ」

「……………いや心臓が止まって死ぬのは当たり前でしょう。なんで心臓が止まったのですか?」

「さぁ?」

 二度目のフィアの質問に、肩を竦めながらミリオンは答える。なんとも投げやりな答え方に聞こえるが、しかし彼女の言葉は『正しい』。

 事故ではない。病気でもない。ましてや殺人でもない。

 倫子の死因は、全くの不明なのである。医者は死亡診断書を書くためちゃんと調べただろうし、遺族も身内を奪ったものの正体を知ろうとした筈だ。にも拘わらず原因は分からず仕舞い。奇妙であり、不気味であり、何より納得の出来ない状態と言えよう。

 そうだ。こんな形での別れなんて納得出来ない。こんなの認められない。だけど死というものは、絶対的な権限を持って人と人の繋がりを斬り捨てる。

 二度と花中と倫子が出会う事はない。六月の出来事を弁明する機会も、今度こそ友達になりたいと伝える時も決して訪れない。

 もう、二度と。

「……ぐすっ、う、うぅ……」

「? 花中さん?」

「う、う、うう、ぅ……っ」

 ポロポロと涙が零れる目を両手で抑えながら、花中はその場に蹲る。何故花中が泣いているのか、分からないフィアはおろおろと右往左往するばかり。

 慰めるように、花中の背中を擦ったのはミリオン。

「はなちゃんが羨ましいわ。私はあの人が死んだ時、涙を流せなかったから」

 その言葉は花中の心に乗っていた、理性という名の蓋を外すのに十分なものだった。

 後の事は、正直花中はあまり覚えていない。

 闇雲に泣き喚いて、人が集まって、その人達も泣き出して。

 押さえ付けられていた悲しみが、爆発するように辺りを満たした光景が、ぼんやりと頭の中に残るだけだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――経過確認……進捗率一%未満。

 

 ――――プラン修正。

 

 ――――第二フェーズへと移行する。

 

 




あ、新年あけてましたね。おめでとうございます(何故前回言わなかった)

さて、最初からどんより雨模様でスタートする第五章。何時もと少し雰囲気が違います。
……と思いながら書いたけど、顔面損壊とか列車事故とか失明とか住宅地崩落とか、本作の章の開幕、割と一般人に被害が出てますね。今回はたまたま花中の知り合いだったというだけで。敵味方含め出てきたキャラで、人間に敵意があったのは一体だけの筈なのですが……

それではまた次回お会い出来る事を願って。
次回更新は2/5(日)の予定です。


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母なる者2

 セミの鳴き声が響き、降り注ぐ陽光で草葉が眩い煌めきを放つ夏の日。自宅のリビングにて、花中はシャーペン片手にテーブル席に着いていた。

 テーブルの上にはノートと数学の教科書が開かれており、花中の目線はそれらに向けられている。教科書には五問の章末問題が記載され、全問を十分以内に解きなさいと指示していた。扇風機の風を受け、花中が身に着けている白いワンピースの裾がふわふわと揺れる。外では太陽が輝き、家の中をじっとしていても汗が滲む気温まで温めている。花中は暑さと涼しさを同時に感じながら黙々と問題を解き、五分ほどで全ての答えを導き出した。

 続いて念入りに見直しを行い、間違いや勘違い、飛ばしてしまった問題がない事を確かめる。一周するのにさして時間は掛からないが、それを何度も繰り返し、回答時間を使い切るまでやるのが花中のやり方。

 今回もしっかり時間を使いきってから、いそいそと教科書の巻末を開いて答えを確認する。

 ……全問正解。解説も読んだが、解き方や考え方も合っている。花中はホッと一息吐いた。

 それからチラリと、リビングの壁を見遣る。

 壁に掛けられているカレンダーが示す今日の日付は、八月第三週の水曜日。そして側にある時計が指している時刻は午前十時半。

 その時刻を見て花中が思ったのは、「ああ、一時間くらい勉強してたんだ」という暢気なものだった。

「はなちゃん、今日の予習は終わったのかしら?」

 花中が手を休めていたところ唐突に、ぽふんっ、と誰かが背中から抱き着いてきた。すっかり聞き慣れた声と身体の感触。小心者な花中でも、ちょっぴり驚いた後はふにゃりと頬が緩んでしまう。

 かれこれ二ヶ月以上一緒に暮らした同居人、ミリオンだ。もう一人の同居人であるフィアは今日の『食事』を探して外出中。ミィは今でも野良猫で、普段からこの家で暮らしている訳ではない。今この家には花中とミリオンしか居なかった。

「あ、ミリオンさん。えっと、もうちょっと、続けたい、です。国語が、まだ、なので」

「あらそう。ほんと、はなちゃんは真面目ねぇ……頑張ってね。私は向こうでテレビでも見てるわ」

 花中が説明するとミリオンは素直に離れ、リビングの隣の部屋である和室へと移動。ごろりと畳の上に寝転がり、テレビを点けた。尤も、平日昼間のテレビ番組など、バラエティぐらいしかやっていないが。

 穏やかな日常。友達と過ごす時間。どれもが楽しくて、幸せで、こんな日々が毎日続いてほしいと願ってしまう。

 だけど、もう長くは続かない。

 ……と重苦しく言ってみたが、要は八月と共に夏休みも終わるだけなのだが。残す夏休みは二週間。長いようで、油断していたらあっという間に過ぎ去ってしまう時間だ。とはいえ宿題は全て終え、予習復習も毎日しているので二学期に向けた準備は既に万端。花中は残す二週間を自由に使える状態である。

「そういえば、夏休みなのに何処にも出掛けなかったわねー」

 丁度そんな物思いに耽っていたところ、和室に居るミリオンのぼやきが耳に入ってきた。国語の教科書を開き、視線を手前の教本に向けながら、花中はミリオンのぼやきに答える。

「行きたかったの、ですか?」

「そうねぇ、行きたかったわね。具体的には海なんだけど」

「あー、確かに。今年の夏も、酷暑です、し、泳ぎたいですね」

「それもあるけど……あの人、海が好きだったから年に一回ぐらいは見せてあげたいのよね。ま、今じゃすっかり骨だから、完全に私の自己満足なんだけど」

「……………」

 骨になっている『あの人』となれば、ミリオンの想い人の事だろう。

 ちらりとミリオンの方を見れば、ミリオンの視線 ― と呼べるものがあるかは分からないが ― の先で点いているテレビに海の映像が映されていた。海洋投棄が云々という音声が聞こえるので明るい話題ではないようだが、海の話である事に違いはない。テレビを見ていて連想した、という事なのだろう。

 花中は少し考え込む。

 ミリオンが一番大事にしているのは、好きな人との思い出。その思い出を保つためには花中の生存が不可欠であり、故にミリオンは花中から離れたくない。ミリオンが海に行くには……絶対的な条件ではないものの……花中も同行する必要がある。

 残り少なくなってきたとはいえ、夏休みはまだある。先程回想していたように、宿題だって残っていない。これといった予定もなく、健康面も良好そのもの。妨げになる要因はない。花中が一言ぽつりと呟けば、海行きは決定するだろう。

 それでも口を噤んでしまうのは、八月頭の出来事――――クラスメートのお葬式が、未だ心に染み付いているからか。

 別に、遊びに出掛ける人を不謹慎だと罵るつもりはない。遺族どころか友人ですらなかったのに、まるで我が事のように苦しむ自分の方が変だと花中自身思っている。なのに心の奥にある言葉に出来ない感情が、楽しもうとする気持ちを邪魔してくる。所謂、性分というやつだ。

 勿論悲しみに囚われるのが良い事とは思えない。遺族の人達も一歩ずつ、ゆっくりとだが着実に立ち直ろうとしている筈だ。『周りの人』がへし折れたままでどうする。

 だから花中は静かに、閉じていた口を開き――――

 ピンポーンという軽快な音に、阻まれた。

 来客を知らせるインターホンの音だ。どうやら誰かが訪ねて来たらしい。

「……あ、す、すみません。えと、お客さん、来たみたいです、ね」

 出掛かっていた言葉を飲み込み、花中は来客の対応を優先。そそくさとリビングから出て玄関へと向かったところ、玄関戸の曇りガラス越しに人の姿が見えた。

 影の大きさや輪郭からして、訪問者はあまり大柄な体躯ではない。しかし一人ではなく、恐らく二人組だ。

 今日は来客の予定がないので、大方訪問販売か宗教関係の人だろう。一言断って退散してくれるなら良いのだが、押し売りや狂信者だったら……以前来た押し売りや宗教家は、フィアがこてんぱんにしたか。

 今日もミリオンが居るので、あまり怖がる必要もないだろう。鼓動する胸をそっと押さえながら、花中は小さな深呼吸を一回。

「今、開けまーすっ」

 出来るだけ大きくハッキリとした発音を意識しながら返事をし、花中は玄関のドアを開けた。

 そして花中は、そこでピタリと固まってしまう。

 尤も、嫌な固まり方ではない。訪ねてきたのが晴海と加奈子(友達)だとは思ってもいなかったので、嬉しさで一瞬頭が黄色に染まっただけである。

「あっ……立花さんに、小田さん?」

「久しぶり。あのお葬式以来だから、三週間ぶりね」

「やっほー。元気してたー?」

 晴海と加奈子の挨拶に、こくこくと頷きながら花中は友人達との再会を笑顔で喜ぶ。晴海は青いスカートに白いシャツ、そして白いカーディガンを羽織った可愛らしいファッションで身を固めている。加奈子は短パンに半袖と、カジュアルで活発的な服装がよく似合っていた。

 二人とも外行き用のちゃんとしたお洒落のようだ。対して花中は、外出予定がなかったので割とシンプルな部屋着。私生活がそのまま出ていて、見られるとちょっと恥ずかしい。笑われるとまでは思っていないが、花中は咄嗟に扉の影に身を隠してしまう。二人が来ると分かっていれば、もっとちゃんとした服を撰んだのだが……

 そう、来ると分かっていれば。

 記憶を辿ってみるも、今日晴海達が家を訪れるという連絡に心当たりはない。ノリと勢いを最優先する加奈子は兎も角、真面目な性格である晴海が相手の用事も訊かずに突撃訪問してくるのは、なんというか、らしくない。急用だとしても電話の一本ぐらいはありそうなのだが。

「えと……どうしたの、ですか?」

「んー、ちょっと二人で出掛けてて、たまたま近くを通ってね……で、コイツが突撃したから追ってきた。まぁ、用事があったのは確かなんだけど」

「そーです! 用事があるのだ!」

 疑問に思って訊いてみれば、晴海は申し訳なさそうに、加奈子は恥じる様子もなく答える。加奈子の暴走が原因だった訳だ。振り回された晴海が今にも爆発しそうな顔をしていたが……割と何時もの事なので、花中はあまり気にしなかった。

 ともあれ、二人が我が家に来てくれた事に変わりはない。幸いにして今は来客を拒む理由がなく、その『用事』とやらを尋ねるのを一時保留にしておく必要もない。

「分かりました。えと、中に、どうぞ」 

「悪いね。おじゃまします」

「おっじゃまんぼー」

 花中が招くと、晴海はそろそろと、加奈子は堂々と大桐家に上がる。案内するほど広くはないが、花中は二人をリビングまで連れて行く。

「あら、晴海ちゃんと小田ちゃんじゃない。どうしたの?」

 当然リビングの隣にある和室でくつろいでいたミリオンは、晴海達の来訪に気付いた。ひょっこりと顔を出して晴海と加奈子を出迎える。

「やっほーミリきちー。遊びに来たよー」

「違うでしょーが。大桐さんやミリオン達と話したい事があったから来たんでしょ」

「あら、私にも?」

 キョトンとするミリオンに、晴海は頷いて肯定した。

 花中とミリオンは互いに顔を見合わせつつ、とりあえずお客さん二人をリビングのテーブル席に座らせる。花中はジュースとお茶菓子を取りにキッチンへと向かい、ミリオンは晴海と加奈子の反対側の席に座った。

 四人分のジュースとお菓子を持ってきた花中は、自分と晴海と加奈子、そしてミリオンの前にそれを置く。ウィルスであるミリオンに味覚と嗅覚はないそうだが、誰かと一緒の食事を楽しむ心は持ち合わせている。彼女にもおもてなしは『必要』だ。

 お茶菓子を出し終え、花中は晴海の正面の席に座る。三人と一体はそれぞれジュースを一口含み、ホッと一息吐いた。

「えと、それで、話というのは?」

 それから花中は、友人二人に話を切り出す。

 花中の疑問に答えてくれたのは加奈子。ニコニコと、心底楽しそうに微笑みながらこう答える。

「ふっふっふー。実はみんなでどっかに行こうって思ってねー」

「どっか? ……って、何処、ですか?」

「どっかはどっか、まだ決まってない。でもさー、夏休みなのに友達同士でお出掛けしてないって寂しくない? 私達、花の女子高生なんだよー」

「はぁ……」

 随分と漠然とした理由だなぁ、と思わなくもない花中だったが、友達と遊ぶのに大した動機付けも必要あるまい。なんとなく遊びたいと思ったなら、なんとなくのまま実行出来てしまう。基本他人から提案されないと中々動けない花中にとって、自発的に行動出来る加奈子は尊敬の対象だ。

「なので大桐さんとミリきち、なんか行きたい場所とかないー?」

 ……本当に候補の一つも考えずに来る辺りも、流石は加奈子と言うべきか。評価の差し引きの結果、花中は加奈子に苦笑いを向ける。

「えっと、つまり、遊びに行く場所の、相談に来た……という事ですか?」

「そゆことー」

「ごめんね、コイツの暴走を止められなくて」

「いえ。その、わたしとしては、誘ってくれて、嬉しいです、から」

 申し訳なさそうな晴海に、花中は本心からの言葉を語る。友達と一緒にお出掛けという楽しそうな事を、どうして迷惑に思うというのか。

 さぁて何処ならみんなで楽しめるだろうかと、花中は天井を仰ぎながら早速考えようとし

「それなら人里離れた自然の中、とかどうかしら?」

 それよりも早く、ミリオンが晴海達に意見を出した。

「自然の中?」

「ええ。遊びに行くだけなら遊園地とか映画館とか銀座とか、いくらでも候補はある。でも折角の夏休みなんだし、季節を楽しめる場所にすべきだと思うのよね。で、そういう場所ってやっぱり自然の多い場所になるじゃない」

「ふむ、成程。確かにそうかも」

「じゃあ、自然がいっぱいなところだとして……山とか?」

 ミリオンの意見を元に、晴海が少し具体的な場所を示す。確かに夏の山の生き生きとした自然を眺めるのは楽しそうである。歩き疲れたらみんなで一休みし、木々や動物の息遣いを感じならみんなでお喋りをすれば良い……想像しただけで花中は胸が弾んだ。加奈子も目を煌めかせながら、良いじゃん良いじゃんと気軽に賛同している。

 ところがこの意見に異を唱えるように、首を横に振るモノがいた。アドバイスを出した当人であるミリオンだ。

「うーん、山はお勧め出来ないわね。勿論山登りは楽しいものだけど、準備に手間が掛かるわ。任意だけど警察に提出した方が良い書類もあるし」

「え? 書類とかあんの?」

「登山計画書ってやつよ。さっきも言った通り任意提出だから用意しなくても良いけど、出しておけば遭難時の捜索が容易になるわ」

「むむむ……それは、うーん、出した方が良さそうだけど」

「あと夜になるまでに下山しないといけないから、それを見越したスケジュール管理をしないとだし。近場の山に行くとしても、朝五時起きじゃないかしら」

「うっへ。無理無理だぁ」

 加奈子が弱音を吐きながらテーブルに突っ伏す。先程までの賛同ぶりは何処へ行ったのか、すっかり気が滅入ってしまったらしい。

 晴海も、同意の言葉は発しなかったが似たような気持ちなのだろう。

「……なら、海とかは?」

 少しばかり考えた後、ポツリと別の意見を出してきた。

「おぉー、海かぁ。海は、良いんじゃないかな」

「そうね。海なら特別な届け出も必要なかったと思うし、帰りが遅くなっても遭難の心配はないわね。それに、周りに食べ物屋とか宿泊所も多いし」

「あ! じゃあさじゃあさ、泊まりでやらない?」

「泊まり? ああ、それも良いわね」

 晴海の意見に、加奈子もミリオンも賛同する。花中も話を聞くうちに、山よりも海の方が良いものだと思えてきていた。

 それに、ミリオンも行きたがって――――

「……ミリオンさん。ひょっとして……」

「良いじゃない、たまには私のワガママを聞いてくれても」

 尋ねようとしたところ、言い切る前にミリオンは口先を尖らせながらあっさりと白状する。彼女は元々海に行きたがっていたので、話をそういう流れに持ち込みたかったのだろう。事情を知らない晴海と加奈子がキョトンとする前で、花中は肩を竦めた。

 しかし、だからどうという話でもない。海へ行くというのは至極普通の行楽であり、そこに否定する要素はないのだ。ミリオン自身が海に行こうと提案しても、花中は間違いなく賛同した。

 そもそも、花中は()()()()()()()である。

「……そうですね。わたしも、海が良いと、思います」

 自分の気持ちを伝え、晴海の意見に賛同。賛成四で反対ゼロ。誰かの意見がひっくり返る訳もなし。

「よーし! それじゃあ海にけってーい!」

 加奈子の一言で、近日中の海行きが決定した。

 友達と一緒に海に行く。

 クラスメートの葬儀以来、曇り空のような気分が続いていた夏休みだったが……終わりが間近になって、ようやく晴れ間が見えた。自分の根暗さと立ち直りの悪さにはほとほと呆れ返るが、友達のお陰でやっと気持ちの切り換えが出来そうである。今では胸の中に、暖かな感情が噴き出していた。

 なんやかんや、花中自身が海に行くのを一番楽しみにしているかも知れない。

「っと、ちょっと長居し過ぎたか。あたしらはそろそろ帰るね。日程とか決まったら連絡するけど、何時ぐらいが良いとかある?」

「あ、えと……わたしは、何時でも。特に用事は、ないです」

「私も構わないわ。でも日程が決まったら早めに教えてほしいわね。身支度に時間が掛かりそうだし」

「もし明日の朝って言ったら?」

「とりあえず誰かさんの足を焼いて、時間を稼ごうかしら。全治一週間もあれば丁度良さそうね」

「だ、そうよ加奈子?」

「おっけー。それなりに余裕を持って決めるね」

 物騒な問答を和気あいあいと交わしながら、晴海と加奈子は荷物を片し、玄関へと向かう。見送りのため、花中とミリオンも二人と一緒に玄関へ。

 あくまで、海行きは予定でしかない。例えば台風とか、誰かが風邪を引いたり……考えたくないが身内の不幸があったりで、中止になるかも知れない。過度な期待をしても成功率は上がらず、万一のダメージが大きくなるだけだ。

 それでも、ワクワクが溢れ出るのが止められない。

「それじゃ、またね」

「はいっ。また、今度」

 玄関で別れを告げ、家路に付く晴海達を花中は最後まで見送る。二人の姿が見えなくなっても、花中はしばらく玄関から動かない。

 友達と作る夏らしい思い出。友達と一緒に行く遠出。

 何時までも暗闇に囚われていてはいけない。自分はまだ生きていて、周りには幸せを願ってくれる友達がたくさんいる。膝を抱えて蹲ってなんていられない。

 今は楽しもう。心から、全力で。

「海、楽しみですね」

「ええ。本当に」

 ミリオンと、正直な気持ちを交わし合う。

 久しぶりに感じる未来への『希望』に頬を緩ませながら、花中はミリオンと共にリビングへと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【アメリカの首都ニューヨークで、大勢の人々が病院に運び込まれています! 原因は明らかになっていない中、SNSを介して広まったデマにより米軍基地が市民に襲撃されるなど、混迷は収まる気配がなく――――】

 和室で点けっぱなしになっていたテレビの音に、気付く事もなく……




はい、という訳で次回から海です! ひゃっはー! 女の子同士のキャッキャウフフを書くぞーっ!(舞台裏で渦巻くどす黒いものから目を背けつつ)
ちなみに私は泳げないので山派ですよ?

次回は2/12(日)に投稿予定です。


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母なる者3

 雲一つない青空で、ギラギラとした太陽が耀いていた。

 午前にも拘わらず景色が霞むほど強烈な日差しはアスファルトを焼き、地上を際限なく加熱していく。植物は連日の暑さで弱り、本来青々としている筈の葉が黄ばんでいる。これほど暑いと流石に動けないのか、飛び交う虫の姿も見られない。夏の風物詩であるセミの声すらあまり聞こえてこない有り様だ。

 八月最後の週を飾るこの暑さ。しかし一週間後に迎える九月になったらすぐ収まるかといえば、気温とはそのようなものでなし。道行く人々も暑さにへばったというよりも、うんざりした様子で肩を落としていた。

 そんな大勢の通行人をうだらせる炎天下の中に、今朝の花中は立っていた。

 現在地は近所の駅前広間の中心に置かれた、犬を象った銅像の傍。影を作るものは銅像しかなく、その銅像は花中の腰ほどの高さしかない。遮られる事なく降り注ぐ灼熱の光は花中の青白い肌を焙り、じりじりとした痛みを走らせる。今日の花中は半袖のブラウスと膝丈スカートという夏らしい格好でいるが、これほど日差しが厳しいと、直射日光を遮れる長袖長ズボンの方が快適だったかも知れない。肩に掛けたピンク色のポーチを掴む手が、じっとりと汗ばんでいた。

 しかし今この瞬間に限れば、花中は暑さに恨み言を言うつもりなどない。むしろ感謝を伝えたいぐらいだ。

 何しろこんなに暑いという事は、海に入ればさぞ気持ちいいに違いないのだから。

「いやはや天候に恵まれて良かったですねぇ」

「うんっ!」

 隣に立つフィア ― 今日はワイシャツ+ジーパンという、派手好きなフィアとしては珍しくカジュアルな服装だ。端正な顔立ちと相まって凛々しい風貌と化している ― の言葉に、花中は何時も以上に元気な返事をする。普段ならここで自分の行いを恥じるところだが、今回は止まらないワクワクに羞恥心が押し流される。

 今日は初めての、友達と一緒に行く海水浴。

 先々週晴海達と共に練った『海に行こう』計画は、無事に進行していた。宿題を全くしていなかった事が親にばれた加奈子は、危うく外出禁止になるところだったが……晴海と花中の手伝いもあって、どうにかこうにかお許しが出た。

 そうして迎えた当日。花中はフィアと共に家を出て、フィアと一緒に駅前まで来た。あとは待ち合わせをしている友人達が来れば、いよいよ海に出発だ。

「みんな、そろそろ来るかなぁ」

「来ないならそっちの方が私は嬉しいですけどね。花中さんと二人きりで遊びに行けるので」

「もぉー。フィアちゃんは、何時もそー言うんだから」

 フィアの奔放な発言に笑みを零しつつ、話題に出した事で友人達の事が気になる花中。スカートのポケットからスマホを取り出して時間を確認する。

 今の時刻は午前八時ちょっと過ぎ。集合時間は八時半なのでまだまだ余裕はあるが、待ち合わせている友人の一人は晴海である。真面目な彼女の事だから早めの到着を心掛け、色んな意味で危険因子である加奈子と共に来てくれると思われる。

 案外、二人とももう見える場所まで来ているかも。

 そんな淡い願望に突き動かされ、花中は辺りを見渡してみる。早朝でも昼頃でもない、外出向きの時間帯故今の駅前広場には人影が多い。車も数多く通っている。それでも友達の姿ならしっかり記憶に刻まれているので、視界に入りさえすればその姿を見逃す事はないだろう。

 ……まさか本当に見付かるとは思っていなかったのだが。『野生動物』達ほど優れてはいないが、人間の勘も捨てたものではないらしい。

「立花さーん、小田さーん」

 花中としては元気な声で、見付けた人影に向かって声を掛けた。花中が見付けた二つの人影は、駆け足で花中達の方に近付いてくる。

「大桐さん、おはよう。フィアも元気そうね」

 そして会話をするのに差し支えない距離まで詰めてから、人影の一人である晴海が、

「おはやっほー」

 もう一方である加奈子も、明るく挨拶を返してくれた。

 晴海はTシャツにジーパンという活発そうな格好をしており、対して加奈子は花柄ワンピースの上にカーディガンを羽織ったとても愛くるしい身形をしている。二人並ぶとまるでカップルのような、息の合ったファッションセンスだ。バックやアクセサリーなどの小物のセンスも良く、『今時』の女子らしい可愛さを存分に発揮している。

 友達二人の姿に見惚れる事数秒。名前を呼んだだけでちゃんとした挨拶をしていない事に気付き、花中は慌ててお辞儀した。

「お、おはよう、ございます」

「お二人ともおはようございます。この通り今日も快調ですよ。私の身は水によって守られているのでこの程度の暑さなどへっちゃらですからね」

「夏の暑さっていうか、二千度ぐらいまでなら耐えられるって、何時だかフィアちゃん言ってたよね? 確かマグマの温度が千五百度だったような気がするんだけど」

「……常々思うけど、アンタ達の力ってどー考えてもオーバースペックよね。地球環境相手にも、人間相手にも」

「ふふん当然でしょう? 地球だろうと人間だろうと私からしたら有象無象も良いところです。何しろ私は最強ですからね」

「おぉー、すっげー」

 不遜を通り越した自信満々な物言いに、加奈子は素直な拍手で褒め称え、晴海は呆れるように肩を竦めふ。花中としては聞き慣れた発言だが、だからこそなんだか可愛らしくて、くすりと笑みが零れた。

「……ところでミリきちは? さっきから姿が見えないけど」

 そうしてしばし楽しく笑い合っていたが、ふと加奈子がそんな疑問を漏らす。

 友達との会話に入れ込んで、うっかり言いそびれていた。失念していた話を思い出そうとする花中だったが、その前に不機嫌そうに唇を尖らせていたフィアが加奈子の疑問に答える。

「ミリオンの奴はまだ来てないですよ」

「来てない? 姿が見えないだけじゃなくて?」

「ええ。なんか大切なものを取りに行くとかなんとか言って今朝早くに家を出ていきました。待ち合わせ場所に直接来るとの話でしたので一緒には来ていません」

「ありゃ、そうなんだ……んー、まだ待ち合わせ時間には余裕があるから、しばらく待つかも」

「なら、此処じゃなくてあっちの日陰で待ちましょ。この暑さの中じゃ五分突っ立ってるのも危ないわ」

 晴海は建物から伸びている、大きめの日陰を指差しながら訴える。成程、あそこなら日射しを遮れる分いくらか涼しそうだ――――そう思った途端、花中は急に全身が火照るような感覚に見舞われた。どうやら今まで嬉しさやら楽しさやらで、感覚器が麻痺していたらしい。子供のような体調の変化に、花中は炎天下らしく顔を赤らめた。

 かくして花中達は日陰へと移動。熱くなった身体を涼ませる。

 その後は適当な ― 例えば「そういやアンタ、淡水魚だけど海とか平気なの?」という晴海の問いに、フィアが「真水と海水を分けるぐらいどうとでも出来ますので」と答えたり ― 世間話をいくらか交わし、ゆっくりとだが時間が流れ……汗も引いてきて、そろそろ時間が気になりだした頃。

 広間に一台の、タクシーがやってきた。

 タクシーはそこらで見掛ける、ごく普通のデザインの代物だ。車窓から見える乗客は運転手に支払いを行い、会計が済むと自動的にドアが開く。

「ありがと。飛ばしてくれたお陰で間に合ったわ」

 そして運転手に礼を言いながら出てきたのは、ミリオンだった。

 彼女は今日も……いや、何時も以上にしっかりとした『喪服』姿をしていた。所謂ブラックフォーマルどころか、足首を隠すように丈が長いドレス風の、喪主であるかのような服装。最早ファッションとは思えない格好で、これから葬儀に行こうとしているかのようだ。実際には、遊びに行く予定なのに。

 車を降りたミリオンは手を振ってタクシーを見送り、

「待たせてごめんなさい。道が空いてなかったら、危なかったわ」

 花中達の方へと振り向いて、まずはとばかりに謝ってきた。

「全くです。我々がどれだけ待たされたか分かっているのですか?」

 ミリオンのある意味(いびつ)な風体に人間達は言葉を失っていたが、フィアは気にも留めず不満げの一言を投げ返す。そんな他愛ない言葉で花中は我を取り戻し、くすりと、呆れた笑みが零れる。続くように、晴海や加奈子達も笑みを浮かべた。

「もう、フィアちゃんったら……」

「てきとーに話してたから、時間潰しには困ってないわ」

「それに時間には間に合ってるからねー。それより何処行ってたの?」

「んー、ちょっとした野暮用ね。大したもんじゃないわ」

 加奈子からの質問を、ミリオンは軽く躱す。必死な物言いでこそないが、割と分かりやすい誤魔化し方に花中は少なからず興味を持った。

「全員揃ったならそろそろ行きませんか? 私もうワクワクしてて早く行きたくて堪らないのですが」

 ……持ったが、フィアの我慢が限界を迎えたようだ。相変わらずの『マイペース』である。

 とはいえ、最後の待ち人であるミリオンが来たので出発出来るようになったのは確か。此処でのんびりお喋りも悪くはないが、電車に乗り遅れたら本末転倒である。早めの行動をしておくに越した事はない。

 それに、ワクワクドキドキしているのは花中とて同じ事。

「そう、だね。えと、そろそろ、行きましょう、か?」

「ん? あー、それもそうね。炎天下でお喋りするより、電車の中の方が心地良いだろうし」

「それでは出発進行ですねっ♪」

 晴海の言葉をGOサインと認識したらしく、フィアは意気揚々と駅構内に向けて歩き出した。相変わらずの即断即決、誰もフィアの思考についていけない。

「ちょ、待ちなさいよ!? もぉー!」

「ごーごーごー♪」

 慌てて晴海はフィアを追い、加奈子は意気揚々と晴海の後ろに続いていく。

 人より鈍い花中はみんなが移動してから、ようやく自分が取り残されている事実に気付いた。このままでははぐれてしまうと、晴海達と同じ道を駆け

「あ、そうそう。はなちゃんにあらかじめ言っときたい事があるのだけど」

 ようとしたところを、ミリオンに呼び止められた。つんのめり、危うく転びそうになるもどうにか急停止。驚きで波打つ心臓を抑えながら花中はミリオンの方へと振り返る。

「は、はい。えと、なん、ですか?」

「私、今はあんまり自由に力を使えないから、ピンチになったらさかなちゃん達と一緒に乗り越えてね」

「……へ?」

「まぁ、さかなちゃんが一緒に居るんだから、心配するほどの事じゃないと思うけど」

 どういう意味か、と問い質す前に、ミリオンはそそくさとフィア達が行ってしまった方へと進む。我に返った花中も、急ぎ足で皆の下へと戻った。

 しかし、心の中に芽生えた疑念は、そう易々とは潰えない。

 こう言っては難だが、花中(じぶん)はミリオンにとって欠かせない存在だ。彼女が一番大切にしている、『愛する人との思い出』を維持するためには花中が傍に居なければならない。故に見捨てる事などあり得ない……いや、出来やしない。ミリオンはあらゆる脅威から花中を守ろうとするし、実際花中は何度もミリオンにとって助けられている。花中の気持ちなどお構いなしに、だ。

 そんなミリオンが、自分を守らないなんて。いや、守らないとは言っていない。言っていないが……自由に力を使えないとは、どういう意味だ? まるで力を失っているかのような――――

「(あれ? そういえばミリオンさん……なんでタクシーに乗ってきたんだろう?)」

 ミリオンなら()()()()状態で飛べば、車よりずっと速く、それでいてお金も使わずに来られるのに。

 胸に込み上がる違和感。気持ちの悪い疑問……しかし考え込んではいられない。

「花中さーん切符ってどうやって買うんですかぁ-? なんかボタンがいっぱいでよく分かんないのですがー」

 すっかり離れてしまった友達が、大きな声で自分に助けを求めているのだ。急がねばならない……色んな意味で。

 溢れる恥ずかしさに押し流されて、疑念は頭の隅へと押しやられる。そうなると残ったのは羞恥と――――海への期待だけ。

「……うんっ。今行くから、ちょっと待っててー」

 先程までの疑念はすっかり消え失せ、花中は友達の下へと駆けるのだった。

 

 

 

 その後の旅路については、特に語る事もない。

 機械音痴のフィアが切符を買うのに手間取ったり、迷子を見付けたり、乗り換えで迷ったり、花中から財布を盗もうとしたスリが超生物二体によってボロ雑巾にされたり……小さなトラブルはそれなりに起こったが、早めに行動したお陰で時間的には予定通りに行程を進める事が出来た。

 即ち三人と二匹は電車に乗り、何度かの乗り換えを経て、

「到着ですよ花中さんっ!」

 無事、目的の駅に到着したのであった。

 真っ先に駅を飛び出したフィアは、目の上に手を当ててお上りさんよろしく辺りを見渡す。フィアの後を追い、続いて駅から出てきた花中はその微笑ましい姿にくすりと笑みを零した。そして自分もまた、初めて訪れた場所を眺める。

 駅正面に広がるロータリーには車と人が溢れ、そこから伸びる大通りにはたくさんの商店が建ち並んでいる。ざっとお店を眺めたところお土産店や料理店が多く、如何にも観光地らしい光景だ。人々もたくさんの荷物を抱え、誰もが笑顔を浮かべている。雲一つない青空が、そんな景色の眩さを一層際立たせていた。

 そして街並みの向こう側に広がる、大自然の姿。

 乱立する建物に遮られて一部しか見えないが間違いない。白い砂浜と、太陽光を反射して輝いているアレこそが目的地。

「フィアちゃん! 海! 海が見えるよ! ほら、あそこ!」

「ほほぉアレが海でしたか。『知識』では知っていましたが実際に見てみるといやはや心躍ります。早く行きましょう!」

 興奮気味に花中はフィアの肩を叩き、フィアも興奮を隠さず花中の手を握り締める。

 一人と一匹は仲良く手を繋ぎ、痛々しいほどに強烈な日射しの中意気揚々と海を目指して歩み出した

 ところ、一人と一匹は頭をぺちんと叩かれた。

「こらこら、あなた達二人っきりで来た訳じゃないでしょーが」

 足を止めて振り返れば、ミリオンの呆れ顔とお説教の言葉が花中達を出迎える。

 咎められてようやく浮かれきっていた自分の行動に気付き、花中は茹でダコのように顔を赤らめた。対してフィアは忌々しそうに舌打ち。不機嫌さを露わにした目付きでミリオンを睨む。

 しかしミリオンがこの程度で怯む筈もなく、ちょいちょいと自らの背後を指差す。

 その指先が正確に示していたのは、大勢の人々と共に駅から出てきた晴海と加奈子だった。

「やっと着いたわねー……」

「おおぉー! 絶景かなー!」

 道のりだけで疲れた様子の晴海に対し、収まるどころか活性化した元気さを振りまく加奈子。

 先走ってしまったが、これでようやく全員揃った。

 いや、正確にはもう一匹来る予定なのだが……

「ミィの奴は、まだみたいね」

 キョロキョロと辺りを見渡しながら、晴海がそうぼやく。

 そう、ミィがまだ来ていない。

 体重数十トンにも及ぶミィは電車に乗れない ― 下手をすると床をぶち抜きかねないので ― からと、彼女には徒歩で現地まで来てもらう手筈になっている。花中達の暮らす町からこの海沿いの町まで、直線距離にして五十キロはあるが……そこは『圧倒的身体能力』という能力を誇るミィ。本人曰く、最高速度で突っ走れば二秒で辿り着けるとか。その速さで駆け抜けられると複数の都市が壊滅しかねないので本気は出さないとしても、数分もあれば余裕で辿り着ける。

 予定通りに着いた結果、ミィとの合流時刻まで十分ほどの猶予があった。今から地元を出発しても間に合うのだから、恐らくミィは時間ギリギリを狙ってくるだろう。なら、あと十分は此処で待たねばなるまい。

「そう、ですね。なら、少し休憩でも」

【皆さん! 聞いてくださいっ!】

 取りましょうか、と言おうとした花中の言葉を遮るように、大きな音声が辺りに響いた。キンキンと耳に響く、スピーカー越しの声だった。

 突然の声に花中達三人と二匹が揃って振り向けば、そこには白いワゴン車と、その前に並ぶ人の姿が見える。数人の野次馬らしき人物を除けば、車の前に立つのは三人。二人は清潔感のある私服姿をした若い女性で、非常にフランクな笑顔を浮かべている。

 そしてその二人の間に立つのは細身の老人。牧師のような格好をした男性で、手にはマイクを握っていた。人当たりの良い笑顔を浮かべており、初対面の印象は悪くない。

 やがて男性はハッキリとした、聞き取りやすい声で話を始めた。

【昨今、世界にはあまりに悲劇に満ちております。中国やアフリカ、ヨーロッパで起きた大量突然死事件は記憶に新しいでしょう。日本でも、原因不明の突然死が増えております。これは決して誇張や捏造ではなく、厚生労働省のホームページでも確認出来る内容です】

「そうなのですか花中さん?」

 男性の言葉を疑問視したフィアから質問が飛んできたが、花中は口を噤んでしまう。

 確かに、男性の言う事は正しい。

 ――――突然死。

 大抵の人々は普段意識すらしていなかったこの単語が、今の日本人は、いや、世界中の人々は心の表層に浮かび、日夜震えているだろう。

 何故なら七月下旬頃から、世界的に謎の大量突然死が頻発しているのだから。

 これは決して都市伝説や噂話の類ではなく、テレビや新聞、インターネットのニュースでしかと報道されている情報だ。各国政府の公式発表もあり、今やこの話を嘘だと断じるのは余程の偏屈か、論理思考が壊れている狂人ぐらいなものだ。

 詳細や原因は、発生時期()()()()()()頃から一月が経った今も不明。ほんの数秒ほどの間に数万の人々が急死したアメリカのような事象もあれば、十代~二十代の一日辺りの突然死数が急増している日本のような例もある。中国やインド、アフリカやヨーロッパでも、多様な『突然死』が人々を襲っているらしい。尤もこれらが共通した事象なのかも判明していないが……世界中で死の匂いが強まっているのは間違いない。

 もしかすると、先月クラスメートが亡くなったのも――――

 脳裏を過ぎった暗い考えを払うように、花中は頭を強く振った。なんにせよ男性の話は事実であり、信頼出来る情報源も提示されている。単なる与太話では終わるまい

【世間では、この死は原因不明となっていますが……事実は違います。全ては、神への不信が招いた事なのです】

 ……などと思えたのは、ほんの数秒だったが。

【聖書を読まないどころか、神の存在すら疑う不信者が巷に溢れています。堕胎や不貞を許す歪んだ倫理観が幅を利かせている。罪は日々積み重なっています】

「分かりやすいカルトねぇ……」

 ボソリとミリオンがぼやく。誰も、その言葉を否定しない。花中もつい、俯くように頷いてしまう。

 ここ最近、宗教界の活動が活性化しているらしい。理由は簡単で、入信しそうな人が増えたから。先程あの男が演説していたように、大量突然死の発生自体は事実であり、にも拘わらず未だ原因不明。未知というのは非常に大きな恐怖だ。その未知を神への信心で和らげられるとなれば、不安を覚える人々が救済を求めるのは分からなくもない話である。

 とはいえクラスメートが『突然死』により亡くなっている花中からすれば、そのクラスメートが罪人呼ばわりされているようであまり愉快な気持ちではない。フィアとミリオンは無関心な様子だが、加奈子と晴海は眉間に皺を寄せている。

「最近多いよね、あーいうの」

「実際突然死が増えてるのは、事実みたいだからね……ま、神様の仕業だなんて、あたしはこれっぽっちも思わないけど」

「だよねぇ……」

 いよいよ我慢ならないとばかりに加奈子達二人は不平を漏らしたが、遠くで語る男の耳には届かない。男は変わらず持論を語り、稀に足を止めて耳を傾ける人が居たが、大半の人々は足早に素通りしている。花中達としても立ち去りたいのは山々だが、生憎ミィとの待ち合わせ場所が駅前なので離れる訳にはいかない。

【おまけに進化論という神の御業を否定する愚かな考えを、この国では学校で教えているのです! 全ての生命は神によって創造されたものであり、人間は他の動物とは異なる、神の寵愛を受けた存在だと言うのに! 進化論はあなた達貴い人々が、汚らわしい獣と等しいと述べている! あなたの赤子を、下等な生物と侮辱しているのです! 子供達には、あなた達は尊い存在であると教えるべきではないでしょうか!?】

 男性の話はやがて教育関連に移る。今までとは力の入れようが違う。どうやらこれが、あの男の主張の『本題』なのだろう。別段創造論に思うところはないが……『突然死』が話のダシに使われたのは、流石に花中も頭に血が上るのを感じる。

「おっはよー」

 いよいよ我慢が限度を迎えそうになったが――――しかし呑気な乙女の声により花中は我を取り戻した。友人達もハッとしたようで、全員揃って声がした方を見遣る。

 何時の間にやってきたのか。現地集合の約束をしたミィがそこに居た。夏の暑さ故か、今日のミィの私服は中々大胆。胸元を大きく開けた洋服に、下着が見えてしまいそうなほど丈の短いズボンという身形だ。花中と大差ない小柄ながら、健康的で艶やかな四肢により、かなり色っぽく見える。小さなバッグを肩から掛けているが、水着などの荷物は全てそこに収まっているのだろう。

「あ、ミィさん……えと、おはよう、ございます」

「おはよ。なんかみんな、さっき固まってたけどどしたの?」

「アレのご講演があんまりにも素晴らしいから、聞き惚れてたのよ」

 ミィの疑問に嫌味たっぷりな言い回しで答えた晴海は、未だ演説を行っている男を指差す。

 最初は割とウキウキした様子で男の話に耳を傾けたミィだったが、一分と経たずに顰め面になっていた。

「……何、アレ」

「さぁ? 私にはよく分かりませんけど人間が一番偉いって思ってる人みたいです」

「ふーん……ぶん殴っちゃおうかなぁ」

 フィアが煽るように付け足した一言で、ミィは自らの指をポキポキと鳴らし始めた。フィアやミリオンと違い比較的人間に好意的なミィであるが、彼女は猫である。猫をけなすような物言いは、逆鱗に触れるようなものだろう。

 ……果たして彼女が本気で怒って暴れたなら、神様はどちらに味方をするのか。

 その状況に遭遇した男の姿を想像したら、ちょっとだけ花中は溜飲が下がった。本当に生き物を創造した神様がいたとしても、その神様は人間を特別だとは思っていないだろう。人間の知識を力に変えながら、人間の制限を一切受けない生命を創ってしまうぐらいなのだから。人間が今も平穏に暮らせるのは、彼女達の気まぐれに過ぎない。

 その事実を知っている優越感を以て、あの男への怒りを鎮めるとしよう。

「気にしても、仕方ないですよ。それより、みんな揃ったのですから、そろそろ、海に行きませんか?」

「賛成。わざわざ不愉快な話を聞く必要もないし」

「さっさと行こー」

 花中の提案に、晴海と加奈子も乗ってぞろぞろとみんなで歩き出す。ただ、やはり先の雰囲気を引きずっていて、いまいち機嫌が良くない。

 ここは一つ、大きな掛け声で以て気持ちを切り替えよう。

 珍しくポジティブな考えが浮かんだ花中は立ち止まり、一回、二回……三回、深呼吸。昂ぶりと強張りの両方に見舞われていた心を落ち着かせる。

 それから大きく口を開けて、

「よ、よーし……う、海に向かって、しゅっぱ、どべっ!?」

 友達との間に出来た距離を埋めるべく走りながら声を上げようとして、足がもつれて転んでしまった。顔が、痛い。

「花中さん大丈夫ですか?」

「う、うん。平気……」

 フィアに呼び掛けられ、花中は顔を摩りながら答える。

 顔を上げてみれば、フィアが自分の傍まで戻ってきていた。離れた位置では他の友人達が足を止め、自分をじっと見ている。

 友達の視線に悪意はなく、むしろ心配してくれている。

 それはハッキリと分かるのだが、自分の醜態を見られていると思うと恥ずかしく、花中は全身が燃えるように熱くなった。あまりに恥ずかしくて炎天下の道路の上で縮こまってしまうほど。日向のコンクリートは燃えるように熱かったが、身が火照っている花中には大した温度に思えなかった。

「もう。仕方ありませんね」

 そんな花中の姿に何を思ったのか。フィアは花中の手を掴むや、力強く引っ張り上げた。

 人外の怪力の前に、花中の華奢な身体など羽根のようなもの。軽々と身体を起こされ、花中はフィアの隣に立たされる。しかしフィアは花中の手を放さず、触感を楽しむように優しく何度も握り返してくる。

「これならもう転びませんよ」

 やがて確信と自信を臭わせながら、フィアは胸を張って断言した。

 一瞬なんの事か分からず、キョトンとなる花中。だけどすぐに理解して、思わず笑みが溢れてしまう。

「……うん。そうだねっ」

 開けた口から出たのは同意の言葉。花中とフィアは合図も何もなく、自然と同時に歩き出す。待ってくれている友人達も何時の間にか、呆れるようでありながら楽しそうに笑っていた。

 もう、さっきまでの事など忘れてしまった。足取りはスキップ交じり。胸の中には楽しみしかない。

 ビルとビルの隙間から見える、光り輝く浜辺を目指して花中達は爛々と進んだのであった――――

 

 

 

 生命は、海から生まれたと言われている。

 哺乳類の祖先が陸に上がってからかれこれ数億年。人間は水中に適応した類人猿から進化した、という説もあるらしいが、現在主流な考え方ではないので脇に置くと、人類は祖先も含めて数億年は陸上で生活していた事になる。つまり歴史的に海の事など忘却の彼方にある筈なのだが、目の前にすると心がどうしようもなくざわめくのは、生まれ故郷に帰ってきた事を本能が理解しているからなのだろうか。或いは羊水と成分的に似ているとされる海水の香りが、母胎への回帰願望を掻き立てるのか。

 いいや、小難しい話は抜きにしよう。

 綺麗だから。楽しみだから。それだけで十分ではないか。頭を使って疲れるなんて勿体ない。どうせ疲れるなら、大はしゃぎをして全身くたくたの方が楽しいに決まっている。

 だったらもう、躊躇う理由なんてない!

 心の衝動に従って花中は駆け出し、

「ついに来たようぼうふっ!?」

 ピョンッと跳ねながら昂ぶりを声に出した――――瞬間、恰幅の良いおばちゃんが横切り、呆気なく吹っ飛ばされた。花中は顔面から砂浜に着地し、蹴られたボールの如くごろんごろんと転がっていく。

「かかかか花中さぁーんっ!? 大丈夫ですか!?」

 あまりにもひ弱な花中に、真っ先に駆け寄ったのはフィア。フィアに起こされ、花中は痛む鼻を擦りながらフィアを見る。

 フィアの格好は、水着姿だった。

 水着といっても水から作られた『ハリボテ』である。しかし首の後ろで紐を結び、胸元と背中が大きく露出している過激なデザインは、セクシーなスタイルを形作っているフィアによく似合う。黒を貴重にした色合いも艶やかさを強調し、元々麗しいフィアの魅力を一層引き立てる。異性ならば、きっと見ただけでメロメロになってしまうだろう。

 かくいう花中も水着だ。フリルを付けたピンク色の、ワンピースタイプの代物。水着とはいえ肌を見せるのに抵抗があるので布面積の大きなもの選んだのだが、デザインが可愛いので気に入っている。

 普段なら他人に見せるのも憚られるセクシュアルな格好は、この場においては正装である。花中は足下の砂を無意味に踏み締め、潮風の香りを取り込もうと鼻をすんすん鳴らしてしまう。

 そう。自分達は今、海に来ているのだ!

「えへへへへー。フィアちゃん、水着だぁ。わたしも水着だよぉ」

「……花中さんフレンドリーな事が好き過ぎるあまりついに頭がおかしく……何時かはこうなるのではと思っていたのですが」

「おい」

 中々失礼な事を独りごちるフィアを窘めたのは晴海。彼女もまた水着だ。オレンジ色のビキニで、可愛らしさと色香を両立させている。

「いやはや来ましたなぁ」

「来たねぇ……」

 後からやってきた加奈子とミィも水着だ。サングラスを掛けている加奈子はビキニの上にパレオを巻いた、風変わりながら艶やかな格好をしており、ミィは何処で手に入れたのか競泳水着を着ている。

 友達みんなが水着を着ている。先程吹っ飛ばされた痛みで、これが夢でない事は明らかだ。

 今更ながら、だけどとても強く、花中は意識する。

「海に、来たんだぁ……!」

 感極まり、花中は今度こそ想いの昂ぶりを声に出した。

「ぶっちゃけ全然見えませんけどね海」

 途端、冷めたようにぼやいたのはフィア。

 その言葉で一気に気持ちを現実に引き戻され、花中はぴくりと笑みを引き攣らせた。

 友達みんなで海に来た。これは間違いない。二匹と三人は確かに、数キロメートルに渡って続く砂浜の一部に立っている。

 しかし見渡せど見渡せど、見えるのは行き交う人々の姿ばかり。人と人の隙間を奥の人が埋め、残った僅かな隙間も更に奥の人が埋める。パラソルやらなんやら、人工物もぎっちりだ。砂浜に押し寄せる波の音の代わりに、ぎゃーぎゃーわーわーとした賑やかな騒ぎ声が耳を満たす。香りも、よくよく嗅ぐとソースや醤油の匂いが混ざっていた。

 ぶっちゃけ、人と物しか見えない。音も聞こえない。磯の香りが食べ物臭い。

 冷静になると、喜びはすっかり静まり返ってしまった。

「いやー、やっぱり激混みだね。予想通り」

「夏だし、人気の海水浴場だからねぇ……」

 ケラケラ笑う加奈子に対し、晴海は呆れたように肩を竦める。これではとてもじゃないが泳げない、と言いたいのだろう。

 真っ盛りの暑さに、しかも夏休み真っ只中。海水浴場が人でごった返すのは必然と言えた。花中もいくらかの混雑は予想していたが……しかしまさかこれほどとは。

 それになんというか、誰もが色々とパワーに満ち溢れているように見える。基本脆弱な花中にはあの人混みを掻き分ける力などない。果たして生きて海まで辿り着けるかどうか。

 だが海まで行かねば、なんのために此処まで来たのか分からない。いや、みんなでお出掛けという時点で割と花中は幸せいっぱいなのだが、どうせならもっと幸せを堪能したい。それに肌を露出したまま真夏の太陽に焙られるのは危険である。何もせず突っ立っている訳にはいくまい。

「うーん。どうしよっか、フィアちゃん……あれ?」

 これからの事を相談しようと、花中はフィアを呼ぼうとした――――ところフィアの姿がない事にふと気付く。

 何処に行ったのだろう? 居場所を尋ねようと人間の友達の方を見れば、晴海と加奈子はある場所を指差す。促されるまま、花中はその指先が示す方向を見遣った。

「へーい彼女ぉ、俺達と遊ばない?」

「穴場知ってるからさぁ、一緒に行こうぜー」

「ほほう穴場ですかそれは良い話ですねぇ」

 そこには、若い男二人と仲良く話すフィアの姿があった。

 そこには、若い男二人と仲良く話すフィアの姿があった。

 そこには、若い男二人と仲良く話すフィアの姿があった。

 瞬きをして何度も網膜の映像をリセットしたが、花中の眼に映る光景に変化は起こらなかった。

「って、ナンパされてるぅぅぅぅぅぅぅ!?」

「中身はゲテモノ系だけど、外面は良いからねぇ……」

「というか、アレって露骨に人気のない場所に連れ込もうとしてるよね。フィアちゃんなら何処に連れてかれてもケロッと帰還するだろうけど」

「多少ボコボコにされるかもだけど、まぁ、女の敵っぽいからどーでも良いけど」

「だね。不埒じゃないなら無事で済むし、ほっとこうか」

「!?」

 何を暢気しているのか。そう思う花中であるが、されど晴海達は動かない。あの男達がフィアの機嫌を損ねたところで、大事には至らないと思っているのだろうか。

 花中とて、フィアがあの男達に無闇に危害を加えるとは思っていない。確かにあの男性達、発言からして色々怪しいとは思う。浮かべている笑顔も、こう言っては難だが下心を感じさせる。恐らく人気のない場所にか弱い女性を連れ込み、集団で『暴行』するつもりなのだろう……邪推に過ぎないとはいえ、強い恐怖と、同じぐらいの怒りを覚える。

 されどフィアは『フナ』である。自分の産んだ卵を見ず知らずの雄が受精させるという繁殖方法の彼女に、婦女暴行の何がいけないのかなど理解出来る筈もない。男達に絡まれても殺すほどの憎悪は抱かず、鬱陶しい蝿を払い除けるが如く適当に蹴散らすだけだろう。

 問題は、彼女の適当が『適切な』という意味ではなく、()()()()()、の方である事。

 人間への悪意はないが、好意もないのだ。その上フィアは人間よりも圧倒的に強い。あまりにムカついたので力加減を忘れてしまいうっかり頭部粉砕、なんて展開になったら……

「ねー、花中ぁー」

「あ、あの、ちょっと待っ……」

 死人が出るかも知れない事態に右往左往する中、ふとミィが暢気に呼び掛けてくる。目の前の状況への対応すら纏まっていない今、少しだけ待ってもらおうと花中はミィの方を振り向き、

 下半身が砂にずっぽり埋もれているミィを見て、頭が真っ白になった。

 目をパチクリさせながら凝視したが、ミィの下半身は砂にずっぽり埋もれたままだった。

「……………え?」

「なんかどんどん沈んでくんだけど、どうしよう?」

「し、沈んでるぅぅぅぅぅぅぅぅ!?」

 どうやら砂浜では、ミィの重量を支えられなかったようだ。

 考えれば分かった筈の事態に、うっかり失念していた花中は更に戸惑う。沈んでいる当人は割と平然としているのでいざとなったら脱出は容易なのだろうが、動揺する花中はそこまで考えが至らない。

「うーん。大桐さん、どうしよっか?」

「どーしたら良いかなー?」

 更には晴海や加奈子までもが意見を求めてくる始末。恐らくミュータントについては花中の方が詳しいので、『専門家』に意見を窺おうという合理的判断の結果だろう。が、生憎現在の花中は絶賛パニック状態。まともな案など浮かばない。

「花中、どうする? 力尽くで脱出すると、辺り数十メートルが余波で吹き飛ぶと思うんだけど……」

「花中さぁーん親切な人達が穴場とやらを教えてくれましたよ! 一緒に行きましょー!」

「つーか暑くて死にそう……長引きそうなら日陰に行くけど」

「私は早く泳ぎたーい」

 されど現実はどんどん前へと進んでいく。

 ああ、いっそ気絶したら楽かなぁ……などと思えば、花中はすっと意識が遠退くのを覚えた。

「やれやれ。ちょっと目を離したらこの有り様って……幼稚園児でももうちょっと統率力があるんじゃないかしら」

 が、それを引き留める聞き慣れた声。

 ポンッと肩を掴まれた刺激で我を取り戻し、花中は背中側へと飛び付くように振り返る。

 海まで来たのに相変わらず喪服姿の、ミリオンが居た。

「み、ミリオンさぁん……!」

「もう、泣きそうな顔しないでよ。私が虐めてるみたいじゃない」

 困ったようにぼやきながら、ミリオンは花中の頭をポンッと一撫で。花中の横を通ってミィの下へと向かい、埋もれる彼女の手を掴むや力強く引っ張る。人間ならばビクともしない超重量だが、ずるずると、ミィの身体は少しずつだが上がっていく。

 そのまま順調に引っこ抜いて、ミリオンはミィの穏便な救出に成功した。ミィは身体に付いた砂をはたき落とし、元気な姿で伸びをする。

「いやー、流石ミリオンだね。助かったよ」

「いらない手間掛けさせないでよね。あとさかなちゃん。あの連中は色々怪しいから断ってきなさい」

「? 怪しいのですか? でも穴場が……」

「穴場は私も見付けたから大丈夫よ。大体はなちゃんが苦手な男の人を引き連れてどうすんのよ。嫌われるわよ?」

「むぅ……ふんっ。私が花中さんに嫌われるなどあり得ませんしあなたに従うのも癪ですが花中さんが嫌がる事をしても仕方ありません。断るとしましょう」

 反抗心を剥き出しにした態度で、それでいて子供のように素直にミリオンの意見を受け入れたフィアは先程の男達の下へと向かう。しばらくして複数の野太い悲鳴が上がったので、話し合いは()()()()進んだようだ。

「ほら、二人には日傘を上げる。一本しかないけど、二人なら入るでしょう。それでもうちょっと我慢なさい」

「あ、ありがと。助かったわ」

「さっすがミリきちだー」

 そして暑がる人間達には、何処からか取り出した日傘を手渡した。晴海と加奈子を身を寄せ合い、一本の傘の下に収まる。密着しては暑いだろうが、日射しのシャワーよりはマシなのだろう。二人の表情がいくらか和らいでいた。

 右往左往していたとはいえ、花中が考えていた時間よりも素早く、ミリオンは全ての問題を解決してしまった。あまりにも見事な手際に、花中は一瞬ボケッとし、それからすぐに尊敬の眼差しを向ける。

「あ、ありがとう、ございます! わたし、どうしたら良いか、分からなくて……」

「このぐらいお礼を言われるほどの事でもないわよ。それより、行きましょうか」

「? 行くって?」

 キョトンと首を傾げる花中を見て、ミリオンはおどけるように肩を竦める。

「さっきさかなちゃんに言った通りよ――――穴場、見付けてあるから、みんなで行きましょ」

 それからウィンク混じりの愛らしい笑みを浮かべて、自慢気に答えるのだった。




ちなみにミィは走っている姿を見られないよう、そして衝撃波で人を傷付けないよう、結構気を遣って移動してきたようです。一応、今は人間の事が好きなので。

次回は2/26(日)投稿予定です。


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母なる者4

 ミリオンに連れられた花中達がやってきたのは、絶景としか言えない砂浜だった。

 海側以外の三方を無数の大岩で囲まれたその砂浜は、幅にして十メートルぐらいしかない。ゴミ一つ落ちていない砂は、ほぼ真上まで昇った太陽の光を反射して宝石のように煌めいている。海の水も透き通っており、波打ち際は穏やか。遠い南国にでも迷い込んだのではと錯覚しそうだ。

 それでも此処が日本だと、そしてあの侵入すら難しそうな海水浴場の近くだと実感出来るのは、音があるから。あの大混雑していた浜辺からは一キロと離れておらず、巨大な喧騒が微かに聞こえてくるのだ。逆に言えば、あの海水浴場を思い出させるものはその微かな音しかない。

 間違いなく、この場所は穴場だ。人っ子一人、影も形もないぐらいの。

「どうよ、此処は。かなり良くない?」

「ふむ。あなたにしては悪くない働きですね。褒めて差し上げましょう」

「岩場があるのは良いねー。身体が沈まないで済む」

 そんな素敵な浜辺を前にしてフィア達人外は心底楽しそうにはしゃぎ、

「良い訳あるかーっ!」

 人間代表として、水着姿の晴海が声を荒らげた。

 晴海の抗議の言葉に、同意するように花中も頷く。震える身を縮こまらせ、着ている水着を隠すように自身の身体を抱き締めながら辺りを忙しなく見回した。

 花中は不安だった。誰かに自分達の姿を見られてしまう事を。

 何しろ砂浜への進入ルート上に堂々と立て掛けられていた看板曰く――――此処は遊泳禁止の区画なのだから。周りは怪我を招きかねない岩がゴロゴロと転がり、海域にはサメ避けネットなどが張られていないのだから、至極当然の措置と言える。

 こんな場所で遊んでいるところをお巡りさんにでも見られたら、厳しく怒られてしまうだろう。そうなったら恥ずかしいし、方々に迷惑を掛けて申し訳ない事になる。

 しかしミリオンは人間達の抗議を受けても悪びれる様子すらなく、わざとらしく肩を竦めるだけだった。

「あら、どうしたの? 何か不満?」

「不満も何も、遊泳禁止エリアじゃない! 泳いじゃ駄目って書いてあったでしょ!」

「書いてあるけど、私達は人間じゃないから関係ないし。それにさかなちゃんが居るから水難事故もサメも怖くないわよ?」

 そう言いながらミリオンはフィアを指差す。名でも指でも指されたフィアは、威張るように胸を張った。水着姿で、大胆に露出した ― 偽物の ― 胸がぷるんと揺れる。

 確かに、フィアが居るなら事故もサメも怖くない。水を自在に操れる生命体にとって、海流や水生生物など脅威どころかコントロール対象である。フィアの能力がどの程度の範囲まで及ぶかは分からないが、かつて彼女は山に溜めた一億トンの水を制御してみせた。数百メートル圏内の海域を安全地帯にするぐらいは造作もないだろう。

 理屈の上では、ミリオンが言うようにルールを無視しても問題は起こるまい。しかしルールを守るというのは、理屈云々で全て済むような話ではないのだ。

「そ、それでも、あの、やっぱり、ダメだと、思います……わたし達は、あ、危なくは、なくても、見ている人が、安全だと、思って、来るかも、知れないです、し」

「そうよ! 自分達は大丈夫って考えが一番駄目なんだから!」

 俯きながらも花中が言葉を絞り出せば、晴海も賛同してくれる。

 頼もしい援軍に花中は笑みを浮かべ、このまま一気にみんなを説得しようと口を開けた

「ひゃっはー! もう我慢出来ねぇ!」

 瞬間、今まで押し黙っていた加奈子が動いた。

 全速力で砂浜を駆け、躊躇なく海に跳び込むという、割と最悪な形で。

「「……………」」

「……あの子、ほっといて良いの?」

 あなたは入園したての幼稚園児ですか――――そんな言葉が脳裏を過ぎる花中だったが、ミリオンの一言で我に返る。

 フィアはまだ海に入っていない。なので恐らくだが、彼女は海水を操っていない筈である。フィアが入水するまで加奈子の安全は保障されていない。極論だが、今この瞬間浅瀬まで来ていたサメが、無防備な加奈子の頭を食い千切ってしまうかも知れないのだ。

 なんとか加奈子を浜辺に呼び戻さないと。だけど……

「人間はほんと面倒な生き物ねぇ……さかなちゃん、猫ちゃん」

「「あいあいさー」」

 悩んでいるとミリオンの号令が。フィアとミィは一瞬で察したのか頼もしく返事をし、何故か花中達の傍までやってくる。

 そして軽々と、フィアが花中を、ミィが晴海を肩に担いだ。

「え、ふぇっ!?」

「な、何する気!?」

「んーそうですねぇ」

「渋る輩は無理やり共犯にしちゃえって感じ?」

 戸惑う人間達に、動物二匹はニッコリと微笑み返す

 のも束の間、彼女達は投げた。

 小学生ぐらいの体躯しかない高校生と平均的な女子高生を、十メートル近い高さで、海目掛けて。

「っうぇぇええええええええええっ!?」

「へ、わ、わぼぶっ!?」

 晴海が悲鳴を上げ、花中は手足をパタパタ動かすがどうにもならない。二人の人間は放物線を描きながら着水し、立派な水飛沫を上げた。

 浅瀬であったら打ち身どころでは済まなかっただろうが、浜辺からかなり遠い位置まで放り投げられた結果、二人が落ちた場所は足が着かないぐらいの深さがあった。お陰で怪我はなかった……怪我は、だが。

「ぷはっ! はっ、はっ、もう! いきなり投げるなんて……っと、大桐さん、大丈夫?」

「ぷふぁ。あ、は、はい……えと、泳ぎは、苦手ではないの、で……それより……」

「それより?」

「……泳いじゃいました、ね」

 花中の一言で、晴海は顔を引き攣らせる。

 放り投げられた花中と晴海が到達したのは、砂浜から二十メートルは離れた沖の方。フィアとミィからすればこれでも軽く投げたつもりなのだろうが、お陰ですっかり遠くに来てしまった。

 これでは友達に海に投げ入れられた、と正直に証言しても誰が信じるものか。目撃された瞬間にテレビで取り上げられるような阿呆な若者と認定される。言い訳など聞き入れてもらえない。もらえたところで、更なる面倒が湧いてくるだけだ。

「いやー冷たくて気持ちいいねー」

 頭を抱える花中達だったが、能天気な声がちゃぷちゃぷと音を鳴らしながら近付いてくる。自らの意思で泳ぎに入った加奈子だ。

「気持ちいいねーじゃないわよ! なんで跳び込んじゃってんのよ!」

「? だって暑いし」

「暑いのはあたしも同じだごるぁ!」

 あまりにも自由気ままな加奈子に、ついに晴海がブチ切れた。が、当の加奈子は何処吹く風。むしろイタズラに気付いてもらえた子供のような、満面の笑みを浮かべる始末。

「うははー! にっげろー!」

「待ちなさい! 今日こそとっちめてやるんだから!」

 ついに加奈子は逃げ出し、ばしゃばしゃと泳いだ。晴海も加奈子を追って泳ぎ出す。

 ……叱るのは結構だが、どう考えても釣られている。

「おやおや見事にはしゃいでいますね。口では強がっても本当は遊びたかったんですねぇ」

 傍目には仲良く遊んでいるような姿なので、遅れてやってきたフィアがそう解釈するのも仕方ないだろう。

 フィアは海面上に二本足で立ち、滑るように花中の下までやってきた。水着姿なのに浸からないのは、フィア自身は既に水中に居るからなのか。

 なんにせよ、こうなった『元凶』に向けて花中はため息を吐いた。

「もぉー……海に投げるなんて……酷い」

「これでも安全には配慮しましたよ? ちゃんと深い場所まで届くよう適度に加減してましたから」

「それは、そうだって分かってるけど……むぅー」

 ぷっくりと頬を膨らませ、花中は不満を露わにする。花中が怒っているのは、ルールを破る行為を無理強いされた事についてなのだから。

 されどフィアは臆せず怯まず。

「そう怒っては可愛い顔が台無しですよいえ怒った顔が可愛くない訳ではありませんがともあれ折角の海なんですから楽しみましょう。そうですねこれで機嫌を直してはもらえませんか?」

 パチン、とフィアが指を鳴らすと、海面が意志を持って動き出した。花中の身体はゴムボールのように海面ギリギリまで浮かび上がり、周りの海水が盛り上がって花中を包み込む。

 毎度おなじみ、花中専用の水球だ。とはいえ今回は花中の身を守るために作った訳ではない事は、うねる水の暢気さから伝わってくる。

 なんだろう? と花中が思っていると、フィアはその身を落ちるように海に沈める。花中を包んでいる水球も後を追うように海に沈む。

「――――ふわぁ……!」

 そして花中は、感嘆の声を上げた。

 砂と岩が入り混じる景色。陽光に照らされた水は、プランクトンがたくさんいるのかほんのり緑掛かって見えた。泳ぐ魚達は数こそ多いが、いずれも青っぽい体色の、あまり変わり映えのしない姿をしている。植物も海草と呼べる立派なものではなく、藻のようなものが岩を覆うように生えているだけ。甲殻類や軟体動物の姿もちらほらと見える。

 それはお世辞にも、美しい世界ではない。テレビで持て囃される沖縄や南国の海のような、神秘的なものと比べればお粗末にも思えるだろう。

 だけど、見渡す限りに命が広がっている。

 脈動し、今を生き抜こうとする命の姿に、花中の胸は小さくない感動と喜楽を覚えた。

「んっふっふーどうです? この景色を人間だけの力で見るのは中々苦労すると思いますが?」

 水球の傍で、腕組みをしながらフィアが誇らしげにしている。花中に出来るのは、こくこくと頷く事ばかり。

 人がたくさん居たあの海水浴場では、このわくわくする景色は見られなかっただろう。潜ったところで、ゴミばかり見えたかも知れない。人の姿しかなかったかも知れない。安全さと引き換えに、人は、命の美しさを切り捨ててしまったのだから。

 そう思うと、ルールを破った事への罪悪感が薄れるようで。

「ところで花中さん。沖の方には大きな魚がもっとたくさん泳いでいるようですが見に行きませんか?」

 ましてやこんな誘惑染みた言葉を投げ掛けられたなら、魔が差してしまうに決まってるではないか。

「……フィアちゃん、ずるい」

「失敬な。人間がスーパーに試食コーナーを設けるのと同じ事をしたまでです」

 なんとも庶民的な例えを持ち出した反論に、花中はくすりと笑みを零してしまう。

「ちゃんと、立花さん達の事は、見てくれてる?」

「ふふふこの私を少々見くびり過ぎではありませんか? (おか)の上ならばいざ知らず此処は私にとって最良のフィールドです。意識せずとも半径十キロ圏内は手に取るように把握出来ますとも」

 胸を張りながら、フィアは断言する。驕り高ぶりはあるが、自分の力に嘘は吐かないフィアの事。半径十キロを把握しているのは確かなのだろう。

 分かっていた事ではあるが、実際に本人の口から聞くと安心感が違う。そして安心感は、誘惑への抵抗力を失わせる。

 それに、よくよく考えるとこういう『人気のない場所』でもないとフィア達は羽を伸ばせない訳で。

「……もう。今回だけだからね? 次はちゃんと、海水浴場で泳ぐんだからっ」

「覚えておきましょう」

 果たして本当に覚える気があるのか。いまいち確信の持てない軽い返事をするや、フィアは花中を連れて沖の方へと動き出す。

 一番の友達と、二人きりでの海水浴。

 背徳感がすっかり失せてしまった自分に嫌悪を覚えつつも、花中は頬が弛んでしまうのを抑えられなかった。

 ……………

 ………

 …

 一方、その頃砂浜では。

「なんやかんや、楽しんでいたみたいだけど?」

「楽しんでないわよ……もうっ」

 浜まで戻ってきた晴海が、ミリオンと話をしていた。喪服という如何にも暑苦しい格好をしながら、ミリオンは砂の上で足を伸ばして座っており、ギラギラと降り注ぐ太陽光と砂からの反射光をもろに浴びていた。尤も、数千度の高熱を自在に操るミリオンにとって、炎天下の砂浜などぬるま湯ですらないだろうが。

 対する晴海は海から上がらず、波打ち際で寝そべっていた。押し寄せる波が一定の間隔で晴海の背中に掛かり、日射しで火照る身体から熱を奪っていく。これなら炎天下でも十分に涼を楽しめるだろう。

 そして残す一人――――加奈子は、砂浜の上で寝ていた。大の字で、うつ伏せで。おまけに波が届かない、陽光で熱々になった砂の上。

「あっぢぢぢぢぢぃ!?」

 あまりの熱さに耐えきれず、悲鳴染みた叫びを上げるのは当然だった。跳び起きた加奈子は逃げるように海へとダイブ。危うく丸焼けになるところだった身体を冷ます。加奈子の顔に浮かんでいたのは、海水の冷たさからくる快楽ではなく、地獄から開放された安堵だった。

「うひぃあぁ……し、死ぬかと、思った……」

「意外と目覚めるのに時間が掛かったわね」

「全く。海で気絶するなんて……だから危ない場所で泳ぐのは反対なのよ」

「いや、晴ちゃんのせいだよね? 泳いでいる私を捕まえて、容赦なくチョークスリーパーかましてきたよね? 私覚えてるよ?」

「私の記憶にはないわね。大方白昼夢でも見てたんでしょ。もしくは走馬灯」

「流石にそれは酷くない?」

 冷淡な晴海の答えに、加奈子もがっくりと肩を落とす。

 二人のやり取りを見ていたミリオンは、くすくすとした笑いを隠しもしない。不機嫌そうな晴海の眼差しに睨まれても、ミリオンは笑うのを止めなかった。

「……何がおかしいのよ」

「あら、おかしくないところがあったなら教えてほしいぐらいなのだけど……まぁ、それは兎も角。これからどうするつもり?」

「どうするって、そりゃ此処で泳ぐ訳にもいかないから、さっきの海水浴場に戻るに決まってるじゃない」

「あの子を連れて?」

 ミリオンはあっちを見ろとばかりに、とある方向を指差す。加奈子がその指先を追えば、見えてくるのはこの砂浜を囲う岩場の一画。

「ひゃっほぉー!」

 そして、歓声を上げる一匹の猫だ。

 岩場を獣よりも素早く駆けたミィは、なんの躊躇もなく岩の切っ先から跳び降りる。切っ先から海面までの高さは精々三メートル程度。だが海面から岩石の先がいくつか顔出ししており、無数の岩が浅瀬に転がっているのを示していた。もしも人間がミィを真似て跳び込んだなら、岩に全身を叩き付ける羽目になるだろう。大怪我で済めばむしろ幸運、下手をせずともあの世行きだ。

 されどミィの身体は、『レールガン』や『地中貫通弾』すら弾き返す無敵のボディ。人間の身体とはひと味違う。

 着水と同時に高さ五メートルはありそうな水柱が噴き上がり――――飛沫に混じって、無数の岩の欠片も飛び散った。数十トンにも及ぶ質量と砲弾すら跳ね返す強度で、着地地点の岩場を砕いたのだ。吹き飛ぶ岩石の量からして破壊は広範囲に及び、恐らく目に見える規模で地形が変わっている。

 あたかも、爆弾でも撃ち込んだかのような光景。

「いやっほー!」

 しかしミィはケロッとしていて、今度は水柱を噴き上がるほどの勢いで海から跳び出した。重過ぎて泳げないミィだが、足さえ着けば持ち前の出鱈目な脚力で動き回れる。()()()()()であれば、ミィにとって怖いものではないのだ。

 なんであれ、ミィも存分に海を楽しんでいるようだ……人間には些かインパクトが強過ぎる形で。文字通り環境を破壊しながら。

「それで? 海水浴場に戻るんだっけ? みんなで」

 そうした姿を指し示した上で、優雅に砂浜に居座るミリオンは改めて晴海に問う。

 しばし言葉を濁らせていた晴海だったが、やがてため息一つ。うつ伏せから胡座を掻いた姿勢になり、それから沖の方へと倒れるようにして仰向けになる。

「……ふんっ。アンタ達と一緒じゃ海水浴場だと遊べそうにないし、今回だけは見逃してあげるわ」

 ぽつりと零した晴海の言葉には、文面ほどの憤りは含まれていなかった。

「あら、良かったわぁ。あんな人だらけで海なんか見えやしない海水浴場なんて戻る気なかったから、これ以上ごねるならどうしようかって考えていたのよ」

「ごねるって酷い言われようね……言っとくけど、絶対安全だって信じているから許すのよ? そこんとこ分かってる?」

「それは私じゃなくてさかなちゃんに言ってちょうだい。まぁ、はなちゃんからも念押しされてるだろうし、心配ないとは思うけど」

「というか、許すなら私首締められ損じゃん」

「許す前にした自分の馬鹿さを恨みなさい」

 晴海に一蹴され、加奈子はぷっくり頬を膨らませる。

 が、直後に意地の悪い笑みを浮かべ、

「どっせぇーいっ!」

「ぐへっ!?」

 不意に、加奈子は晴海のお腹目掛けて跳び込んだ。死ぬほどの痛みではないだろうが晴海は呻きを上げ、おまけに舞った水滴が晴海の顔を濡らす。

 そそくさと起き上がり逃げる加奈子に晴海は怒りの表情を向け、同時にその口角を嬉しそうに上げた。

「この、やってくれたわねぇ!」

「へっへーん!」

 笑顔で立ち上がった晴海は、加奈子の後を追い駆ける。最早晴海の目には、加奈子しか映っていないだろう。

 一人砂浜に残されたミリオンは小さく息を吐く。尤も、彼女の浮かべる楽しそうな微笑みに不快感などない。

「……やれやれ。やっとゆっくり出来るわね」

 むしろ安堵したように独りごちる。

 背伸びをして、ミリオンは砂浜での佇まいを直す。今までだらしなく伸ばしていた足を折り畳み、一般に体育座りと呼ばれる座り方を取った。それからじっと、海を眺める。

 浅瀬では晴海と加奈子が追い駆けっこ。岩場の方ではミィが何度も跳び込みをしていて、その度に水柱が生えている。遠洋では今頃花中とフィアが、優雅な水中散歩を楽しんでいる事だろう。

「全く、こんなに騒がしい海は初めてよ。ろくに落ち着けないじゃない」

 ぼやく言葉は不満を語るが、ミリオンの表情から笑顔が消える事はない。

「……今年も、また一緒に海を見れたわね。今日は二人きりじゃないけど……うん。たまには、悪くないかもね」

 そして波音に掻き消されるほどの小さな独り言を口ずさみながら、ミリオンは自らのお腹を撫でた。

 傍には誰の姿もない。ミリオンは一人透き通った夏の日差しを浴びながら、静かに海を眺め続け――――

「ぎょわっ!?」

「うへぇ!?」

 その鑑賞を、海からの叫びが妨げた。

 叫びを上げたのは晴海達だ。転びそうにでもなったのだろうと、最初は気にも留めなかったミリオンだが……以降、晴海と加奈子の笑い声が途切れる。

 微かな違和感と共にミリオンが視線を向けてみれば、二人とも海面をじっと見つめていた。顔を見るに、戸惑っている様子である。二人が戸惑っていようとミリオンにはどうでも良い話だが、彼女は『海』を眺めている。辛気臭いものがチラチラ視界に入るのは、あまり気分の良いものではない。

「……どーしたの? 何かあった?」

「んぇ? あ、あー、なんというか……気持ち悪くて」

「気持ち悪い?」

 『環境改善』の一環として尋ねてみれば、加奈子からはそんな答えが。予想していなかった答えに微かな好奇心を抱き、ミリオンは加奈子達の周辺を凝視する。

 見れば、答えはすぐに分かった。

 魚の死骸が浮いていたのだ。無論此処は海なのだから、魚の死骸ぐらいはあるだろう。

 しかしその死骸が、何百とあったなら?

 ――――そう、晴海達の周りには魚の死骸が無数に浮いていた。

 魚の種類や大きさに統一感はない。十センチぐらいの個体が多いとか、青魚類が多いなどの傾向は見られるが、例外もちらほら見付かる。単純にこの辺りに生息する魚種の比率が、そのまま死骸の比率に反映されているだけだろう。つまりどの種類の魚も、万遍なく死んでいると言い換えられる。

 どう楽観的に解釈しても、穏やかな事象とは言えない。ましてや悪い方に考えを向ければ……

「一旦、上がった方が良さそうね」

「う、うん……」

 ミリオンに従い、晴海と加奈子は海から上がってくる。対してミリオンは立ち上がり、海へと近付く。

「さかなちゃん、聞こえるかしら? ちょっと話したいんだけど」

 波打ち際まで歩み寄るとミリオンは海水に片手を浸し、大きめの声で話し掛けた。

 一呼吸置いた後、海がうねる。にゅるりと海面が盛り上がり、二メートル近い大きさの『コブ』が出来た。やがてコブは形を変え、色を変えていく。

 見る見る間に、海面上に立つフィアが現れた。尤も当人は遠い海の彼方。能力で水を遠隔操作し、ミリオン達の目の前に人型のそれを作り出したのだ。

【なんですかー私は花中さんとのデートで忙しいのですけど】

 出来上がったフィアは不機嫌そうに尋ねてくる。作りが雑なのか、声が少しくぐもって聞こえた。ミリオンは声質には触れず、本題を切り出す。

「なんですかーじゃないわよ。状況、把握してるんでしょ。この死骸は何?」

【何と言われましてもねぇ。探知範囲内の海域で魚の生息密度が極端に低くなっている様子もありませんし泳いでいる魚は元気そのものですから水質汚染もないと思われます。大方海が荒れた際に死んだ奴等が流れ着いただけじゃないですか? 確か何日か前に台風が来ていたと思うのですけど】

「それがまとめて砂浜に流れ着いたと?」

【緩やかですけど海流はその砂浜に集中しているようですからね浮かんでいるゴミが少ないので気付いてないかも知れませんが。自然現象と偶然が重なっただけですよきっと】

 投げやりな答えを返すフィアだったが、筋は通っている。海流云々に関しても、辺り一帯の水を支配下に置いたフィアが断じるのだ。間違いはあるまい。

 何より本当に異常があったなら、水生生物(フィア)が真っ先に海から出ているだろう。

【納得してもらえましたか? それでは私は遊んでいますので大した用もないのに呼ばないでくださいね。一応死骸に関しては片付けておいてあげますから】

 きっぱり連絡を拒むと、フィアはその形を崩して海水へと戻った。

 それから海の一部に急速な、それでいて歪な流れが生じ、魚の死骸を遠洋へと運んでいく。フィアが言う『片付け』だろう。一分も経たずに、海から不浄な存在は一欠片も見えなくなった。

「だ、大丈夫、かな……」

「大丈夫、みたいだけど……」

 死骸がなくなってすぐは、晴海と加奈子は海に戻るかどうか、迷う素振りを見せる。

 しかし彼女達は今、真夏の太陽光をたっぷりと浴びていた。海から上がって五分も経っていないが、肌を湿らせていた海水は気化し、肌バリアはすっかり消失。過酷な紫外線が人間達を焼いていく。

 それでいて『水生生物』自身から、水質については問題なしとのお墨付きを貰ってある。

「やっぱり我慢できーん!」

 加奈子が堪えきれずに走り出し、晴海が後を追うのも時間の問題だった。

「……もう、私は保護者じゃないのに」

 ようやく事態が一段落し、辟易したようにミリオンは独りごちる。それからすぐに先程まで座っていた場所に戻ろうと踵を返した。

 が、ふとその足を止める。

 しばし無言で、じっと、ミリオンは一点を見つめた。

「この前の台風で海が荒れたせい? どうかしらね……」

 そしてぼそりと吐き捨ててから、歩みを再開する。

 波打ち際の近く……波が届かず砂の乾いた、フィアの能力が及んでいない場所に一匹の青魚が打ち上げられていた。

 売り物に出来そうなぐらい綺麗で、新鮮な魚の死骸が――――

 

 

 

 尤も、それから何かが起こった訳でもない。

 一時間ほどで海から戻ってきた花中達は、すっかりお腹を空かせていた。遊び始めた頃には十一時を過ぎていたので、一時間も遊べばお昼時である。食べ盛りの高校生達がお昼を我慢出来る筈もなく、遊びを一時中断。人間達は近くのお店でお弁当を買い、魚は浅瀬に棲み着いていたゴカイを乱獲し、ウイルスは周囲の気温が下がるほど大気中の熱を奪って、猫は一メートルはあるサメを捕獲する事で昼食を確保。みんなでお昼を楽しんだ。

 そして食べたらすぐに遊びたくなり、加奈子が持ってきたビーチボールを使う事になって――――

「うきゅうぅぅ……」

 三十分も経たないうちに、花中はすっかり伸びていた。

「……前々から思っていたけど、はなちゃん、少しは体力付けた方が良いわよ」

「きゅ、ぅぅ……」

 砂浜に立てたパラソルの下、倒れ伏す花中の傍で語り掛けるのはミリオン。返事をしようとしたが、疲労困憊の身体は鳴き声しか出せずにいた。

 波打ち際でのビーチバレーに、花中は僅か十数分で体力が枯れ果て、こうしてミリオンのところで一休みしている。

 砂浜では今もミィと晴海、フィアと加奈子のチームでビーチバレーをしている。尤も人間は専ら逃げ惑うばかりで、ミィとフィアが能力を使って激戦を繰り広げていたが……ビニール製のボールが割れていないので、当たっても晴海達が怪我しないよう手加減はしているようだ。なんやかんや、みんな楽しそうである。

 あの楽しさに参加出来ないのは、やはり寂しい。家に帰ったら筋トレをしようと花中は決意した。

 ともあれ、それは帰ってからの話。今の花中に出来るのは全力でぐったりとし、一秒でも早く体力を回復させる事だけ。砂の上で手足を伸ばし、仰向けでじっとする。

 ……そうしていると、花中はうつらうつらとしてきた。

 相変わらず気温は高いが、パラソルが作る日陰の下に居るのでそこまで地獄ではない。むしろ潮風が海水で冷やされた空気を運び、火照った身体を優しく撫でてくれる。正直かなり気持ちいい。

 このままでは眠ってしまうだろう。それも悪くなさそうだが、しかし折角友達と遊びに来て眠りこけてしまうのは、勿体ないと感じてしまう。出来れば寝たくない。

「ミリオンさんは、泳がないの、ですか?」

 そこで花中は、自分の傍に座るミリオンに話し掛ける事にした。

 花中の傍に座るミリオンは、言葉を選ぶように沈黙を挟む。しばらくして開いた口から出てきたのは、穏やかな言葉だった。

「泳ぐのは好きじゃないのよね。この人、カナヅチだったから。なのに海が好きだなんて、怖いもの見たさなのかなんなのか……そういうところも可愛いと思うのだけど」

「? ……えっと、ミリオンさんの好きな人が、ですか?」

「ええ。だから海には入らないの。好きな人の嫌がる事はしたくないでしょ?」

 同意を求めるように訊き返されたが、花中は納得するどころか却って戸惑ってしまう。

 だって、今の言い方はまるで――――好きな人と、一緒に居るみたいではないか。

「……ミリオンさん、もしかして」

「ご名答。()()()()()()()()。そうね、はなちゃんには特別に見せてあげる」

 花中が思わず紡いだ言葉に、ミリオンは乙女らしい笑顔で答える。すると構えるように、自らの片腕を花中の前で掲げた。

 そしてその腕が裂けて中身を露出した時、花中は言葉を失う。

 ミリオンの腕の中には、二本の骨があった。

 骨は見た目から、前腕部を構築する二本……橈骨(とうこつ)尺骨(しゃっこつ)と呼ばれている骨だろうか。言うまでもなくミリオンの骨ではない。ウイルスの集合体であるミリオンに骨などある訳がない。脊椎動物……具体的には『誰か』の骨だ。

 その正体を問い質すのは不粋だろう。ミリオンの事をよく知っているならば。

「……遺骨、ですか?」

「ええ。私の、一番大事なもの。普段はちゃんとした場所で保管しているのだけど、今日は海を見せたかったから、連れてきちゃった」

「……………」

 人間の骨を目の当たりにし、花中はそれ以上口を開かない。

 人の骨というのは、不気味なものだ。

 それを連れ回すというのは、多くの人間からすればあまり気持ちのいい話ではないだろう。だからこそミリオンは今まで黙っていたのかも知れない。今この時、花中以外誰も居ない場所で話してくれたのは、ミリオンなりに花中を『信頼』した結果か。

 でも、だったら行く前に話してくれても良かったじゃないか、という気持ちも花中にはある。大切な人の骨と聞いて、それでも気持ち悪がられると思われたのか。もしそうなら心外だ。単純に話し忘れていたとか、話さなくても問題ないと思われていたなら尚更である。

 だから、という訳ではないが。

「ちょっと、意地悪な質問、しても良いですか?」

 ふと込み上がってきた疑問を、花中はミリオンにぶつけてみる事にした。

「黙秘権があるのなら」

「じゃあ、それで……もしも、ですけど。わたしと、その遺骨のどちらかを、捨てないといけなく、なったら、どっちを、選びますか?」

「……意地悪というか、心外じゃない? はなちゃんなら答えは分かると思うのだけど」

「分かりますけど、わたしだって、答えが分かってるのに、今まで話して、もらえませんでした、し」

「意外と根に持つわね、この子……」

 呆れたようなため息を吐きながら、ミリオンは肩を竦める。

「『この人』を選ぶに決まってるでしょ」

 それから彼女は、分かりきっていた答えを返した。

 今からもう二ヶ月も前。初めて出会ったあの日、花中はミリオンの想いを聞いた。思い出を忘れたくないという強い願い……だけどその言葉に、未来に進もうとする意思はなかった。常に過去を向いていて、過去だけを愛して、未来を拒んでいた。亡き人の願いすらも呪いと化す、強過ぎる愛によって。

 彼女は死に囚われ、死を望んでいる。恐らく、この世の誰よりも。

 その彼女が生者よりも遺骨を選ぶのは当然の事。だからこそ、生きた人間である花中はやるせなさを感じる。

「……そう、ですよね。あの、でも」

「花中さーんそろそろ元気になりましたかー?」

 それでも口を開いたが、海からの声が続きを妨げる。

 振り向けば、海辺でフィアが手を振っていた。花中が大好きなフィアの事。花中なしの空間が我慢出来なくなったのか。

 十分程度とはいえ、休憩を挟んだので身体は大分楽になった。今ならまた遊べそうだ。

 チラリと、花中はミリオンを一瞥。

「……わたし、戻りますね」

 一言そう残して、花中はフィア達の下へと向かう事にした。手を振って自分を見送るミリオンから目を背けるように、花中は前を向き続けて小走りする。

 言いたい事はあった。だけど、言う必要などない。

 言ったところで彼女の答えが変わる訳もないのは、『分かりきっている』のだから。

 

 

 

 太陽が海を紅色(くれないいろ)に染め始めた。

 夏の高い太陽が沈みかけているのだ。時計を確認せずとも、それなりに遅い時間なのは間違いない。肌寒いというほどではないが気温も下がり、弱まった日差しでは身体が火照る事もない。

 夕暮れに見惚れるのも悪くないが、人間達の体調を考えるとそろそろ引き際だろう。

「みんなー、そろそろ帰り支度をした方が良いわよー」

 そう考えたミリオンは、海に向けて声を掛けた。

「え? ……うわ、もう陽が沈んでるじゃない」

「まだ遊び足りないのにぃ」

 海に居た二人の人間、晴海と加奈子がミリオンの声に反応する。どうやら本当に遊ぶのに夢中で、夕暮れになっていると気付かなかったらしい。加奈子は予想通りだが晴海まで同じ反応とは。なんやかんやあの二人、似た者同士なのかも知れない。

 名残惜しそうな仕草を見せつつも、晴海達は浜へと戻ってきた。気温は未だ三十度以上あるが、強烈な日射しはない。対して肌を覆う海水は容赦なく熱を奪い、人間達に、摩る動作を取らせていた。

「早く着替えちゃいなさい。風邪引くわよ」

「うーん、そうは言うけど、更衣室とかないし……海水浴場に戻らないと」

「こんな場所、誰も見ちゃいないわよ。もしくはさかなちゃんを待てば? あの子なら目隠し用の幕、張ってくれるわよ」

「んぇー? ミリきちはやってくれないの?」

 加奈子からの問い掛けに、ミリオンは口を噤む。

 確かに、ミリオンにもそれぐらいは出来る。微細な個体の集まりであるミリオンにとって、個室を作り上げるぐらい造作もない事だ。

 ……普段なら。

 何分今日は、『好きな人』と一緒なのである。出来るだけ傍に居たいのが乙女心というものだ。そしてミリオンは無数の個体が集まって一つの存在として振る舞っているが、実のところ個々の意思は存在している。伝達脳波による知性の獲得は、個体レベルでの事象だからだ。普段は意識の統合をしているので自我などないも同然であり、『自身』の死すら気にしないのだが……こと恋に関しては割と自己主張する。

 『好きな人』と見るための穴場を探すならまだしも、『どうでもいい人間』の更衣室を作るために『好きな人』から離れるなんて、()()()()()()()()()()()()

「……今日はちょっと、無理ね」

「え? どうして? 体調とか悪いの?」

「うーん、体調が悪い訳じゃない、というか絶好調だから出来ないというか……どいつもこいつも『私』だから、離れたがらないのよねぇ」

「? どゆこと?」

 ハッキリとしないミリオンの物言いに、加奈子は更に問い詰める。晴海も視線で関心を示し、答えを求める。

 さて。彼女達は花中と同じように、『この人』を受け入れてくれるのか?

 『この人』以外の人間に嫌われようが好かれようがどうでも良い事。しかし今後を思えば仲良くして損はない。花中は過去の言動から明かしても問題ないと判断したが、晴海や加奈子がどう反応するかはいまいち分からない。不確定要素に頼るほど切羽詰まった状況ではないのだから、選択は回避するのが得策か。

 さて、それならどうやって誤魔化そうかとミリオンは考えを巡らせた

「た、だいま、戻りましたぁ~……」

 ところ、疲れ切った声がミリオンの口を遮った。

「あら、はなちゃん。お帰り」

 先程までの質問を無視するように、ミリオンは声の方へと振り返る。

 そこには徒労感を漂わせる、花中とフィアとミィが居た。何故か、徒労感である。遊び疲れた様子ではない。しかもフィアやミィも、花中ほどではないが似たような状態だ。

 楽しそうに疲れた姿を見せると思い込んでいたミリオンは、瞬きなど必要ない目をパチクリさせる。

「……どしたの? 確か、磯の方で生き物を見てくるって言ってたわよね? なんかあったの?」

「ええ、まぁ……カニが……」

「カニ?」

「……いえ、なんでもないです」

 花中に誤魔化されたミリオンだったが、見る限り花中に外傷はない。実際なんでもなかったのだろう。あくまで、被害という意味では。

 なら、追究する必要もあるまい。

「まぁ、良いわ。それよりさかなちゃん、ちょっと暗幕作ってくれない? みんな水着から着替えたいみたいだから」

「構いませんよ」

 さらりと仕事をフィアに押し付け、フィアは特段気にもせず水を操って暗幕を作り出す。暗幕の囲いはかなり広さを取ってあり、三人ぐらいは余裕で入れるだろう。

 余程疲れたのか、花中は真っ先に暗幕の中へと入る。続いて晴海と加奈子も暗幕の中へ。ミリオンが三人の荷物を暗幕の中へと届けると、するすると布が擦れる音が聞こえてきた。

 人間達が着替え始めるのと共に、動物達も身形を変える。尤も、まともな着替え方など誰もしない。フィアは一瞬で水着姿から真夏に相応しい薄着のワンピースへと変化。ミィはちゃんと水着を脱いで、ちゃんと服を着る……瞬きよりも短い時間で。喪服姿を一切変えないミリオンが、一番まともに見える事だろう。

 ほんの数秒で、人外達の着替えは終わり。人間達が出てくるまでガールズトークの時間だ。

「んー、楽しかったね! 海は広いから、あたしも泳ぎを楽しめるし!」

「あなた一秒たりとも泳いでないでしょう……楽しかった事には同意しますが。今日も花中さんは可愛かったですねぇ」

「楽しそうで何より。でも、この後の体力はちゃんと残しているのかしら?」

「この後?」

「なんかありましたっけ?」

「……あなた達、どんだけ海が楽しみだったのよ。普段ならそっちにも跳ねるぐらい喜ぶでしょうに」

 首を傾げる二匹に、ミリオンは呆れ返る。

「この後はみんなでお泊まり会じゃない。きっと、海と同じぐらい盛り上がるわよ」

 それから経験を感じさせる笑顔と共に、二匹の動物の期待を煽るのだった――――




本作のキャラ達は特別な安全対策をしております。遊泳禁止の場所で泳ぐのは絶対に止めましょう……いや、マジで。本当に。
なお、花中達が疲れている理由については、余談にて投稿予定です。本章完結までゆっくりお待ちくだせぇ。

次回は3/5(日)投稿予定です。


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母なる者5

 折角の夏休みなんだし、どうせなら泊まりで行こうよ。

 数日前に加奈子からこの提案をされた時、花中はとてつもない興奮を覚えた。あまりに興奮して、自分が全部準備すると言ってしまうぐらいには。夏休みを利用した友達との外泊……フレンドリー大好きな花中にとって、狂喜乱舞したくなるほどのイベントだった。

 無論、その狂喜乱舞もののイベントをつまらぬ出来事で台無しにされては堪らない。ネットで周辺の旅館をくまなく調べ、企業のサイトのみならず口コミサイトや個人ブログも漁って情報収集。様々な要因も考慮し、厳選に厳選を重ね……一つの、小さな旅館を選び出した。

 そこは築五十年と歴史のある和風旅館で、外観は趣を感じさせるものだった。海からも駅からも少し離れた、小高い丘の方に立っているため交通の便が悪いのが難点。しかしお陰で辺りは物静かで、マナーの悪い輩の騒音に悩まされる心配はない。案内された部屋からは夜景と海が一望出来、景観も最高。出された料理は美味で、接客も丁寧である。選んだ身である花中が鼻高々になるぐらい、満足のいくサービスを受けられた。

 そして旅館の楽しみといえば、忘れてはならないものがある。

「ひゃっほぉー!」

 加奈子が歓声を上げながら跳び込んだもの――――温泉だ。

 旅館に辿り着き、料理を堪能した花中達は今、温泉に訪れていた。この旅館の温泉は天井がない所謂露天風呂で、見上げれば一面の夜空が満喫出来る……市街地の明かりによって掻き消されているので、流石に満天の星空ではないが。しかし一等星と月が煌々と輝く様は、十分に見惚れてしまう美しさがあった。

 尤も、加奈子の暴走のせいでのんびり眺めている場合ではなくなったが。身体も洗わずに湯に浸かるとはマナー違反の極み。度し難い悪行である。

「こらぁ! ちゃんと身体を洗いなさ……!? タオル! タオル取れてる!?」

 当然その様を目撃した晴海が黙っている筈もなく、加奈子を咎めようとしたが、怒号は一瞬で狼狽えた声に変わった。晴海が叫んでいるように、一枚のバスタオルが石造りの床に落ち、湯船に浮かぶ加奈子はすっぽんぽんだった。

 しかし加奈子は全く気にも留めず、むしろキョトンとするばかり。

「良いじゃーん、お風呂は裸で入るもんだよー」

「ぐ、そ、それはそうだけど……」

 挙句全裸の四肢を広げ湯船にぷかぷかと浮かせながら、加奈子は無垢に正論を振りかざした。これには晴海も二の句を告げない……話を逸らされている事に気付くまでのごく短い間だが。

「立花さんは何故あそこまで狼狽えているのです? タオルを落としただけだと思うのですが」

「さぁ? むしろ服を着てる方が変だと思うんだけど」

 二人のやりとりを温泉の入り口付近から見ていたフィアとミィは、揃って首を傾げる。こちらは二匹とも全裸。タオルを持ってくるどころか、腕で隠そうともしていない。

 二匹とも人間が裸を気にするという『知識』はあるので普段は()()()()()()が、別に裸体への嫌悪や羞恥はないのだ。何しろ魚と猫。彼女達にとって服とは、トラブル防止と娯楽のための代物でしかないのである。

「あ、はは……」

 そしてフィアの後ろに隠れて苦笑いを浮かべている花中は、晴海とフィア達の中間ぐらいの羞恥を覚えていた。

 時間が良かったのか女性客が極端に少ないのか、現在この露天風呂に自分達以外の客の姿はない。人に肌を見せる事に小さくない抵抗があるとはいえ、友達しかいないなら幾分我慢出来る。むしろ文字通り裸の付き合いというのが、すごく仲良くしている感じがしてワクワクものだ。今はバスタオルを身体に巻いているが、何時でも外せるぐらいには、花中の恥ずかしさは心の隅に追いやられていた。

 ……これであと一人揃っていたなら、恥ずかしさなど彼方に忘れていたかも知れないのに。

「それにしてもミリオンの奴は今回も遅刻ですか。今日のアイツは色々たるんでませんかねぇ」

「なんか準備があるって言ってたよー」

「準備? ……準備ねぇ」

 訝しげに呟くフィアだったが、花中にも気持ちは分かる。お風呂に入るのに、なんの準備が要るのかと訊きたくもなろう。

 しかしミリオンの事情を知っていれば、その答えは明白。

 今日のミリオンは『遺骨』持ちなのだ。骨の主成分はリン酸カルシウムだが、タンパク質であるコラーゲンも多分に含まれている。なので湿度管理や除菌などを適切に行わないと、大切な遺骨が腐敗してしまうかも知れない。そして不特定多数の人間が出入りする温泉は、生々しい話だが雑菌と水分と栄養分の大盤振る舞いだ。遺骨を守るために色々と仕込みをしているのだろう。

 ……と話せば皆納得はしてくれるだろうが、受け入れてくれるかは別問題。フィアとミィは気にしないだろうが、晴海と加奈子は分からない。いや、お風呂に人骨が浮かぶと考えれば、一悶着あると考える方が自然か。

 わざわざ不快な騒動を招く必要はあるまい。そう思った花中は、敢えて口を噤んだ。

「まぁどーでも良いでしょうアイツの都合なんて。それより温泉に入る前には身体を洗うのですよね? 私知ってますよ!」

 幸いフィアに追求する気はなく、それよりも早く花中との温泉を楽しみたいようだ。花中も温泉を楽しみたい気持ちは同じだ。滑りやすくなっている床を小走りで駆け抜け、シャワーヘッドの前へと陣取る。

 一度は温泉に浸かった加奈子も、晴海に引っ張られて花中達の隣にやってくる。みんなで一緒に身体を洗うなんて、なんだか『家族』になったよう。自然と花中の口許には笑みが浮かび、にへへと楽しさがそのまま声に出てしまった。

 無論、笑ってばかりでは身体は綺麗にならない。身体に巻いていたバスタオルを外し、まずは頭を洗おうと花中はシャンプーに手を伸ばす。

「おっと花中さん。私が髪と身体を洗ってさしあげましょう」

 すると、フィアがそのような申し出をしてきた。

「え? 洗って、くれるの?」

「はい。どうですか?」

 フィアの二度目の問い掛けに、花中は夢中で何度も頷く。髪や身体の洗いっこなんて、想定もしていなかった『友達っぽい』行為ではないか。断るなど、出来っこない。

 ドキドキする胸を両手で押さえながら、花中はフィアに背を向けて座る。フィアはそっと後ろに立つと、花中の髪を撫でるように触った。まずは髪を洗うつもりなのか。優しい触り方に、花中は一層胸の鼓動が強くなるのを感じる。

 どんな洗い方をしてくれるのかな。どんな感じに待てば良いのかな。終わったらフィアちゃんの髪を洗ってあげたいな――――

 様々な想いを胸に、花中は暖かな気持ちを抱いた。

「それでは洗いますねー」

 対してフィアは、あまりに能天気な声を出した。

 自分とフィアの温度差に違和感を覚えた、のも束の間、花中の髪にどばどばと水が掛かる。完全な真水で、お湯じゃない。予想してなかった水温に花中は思わず跳び上がる。

 予想外はこれで終わらない。真水が止まると今度はねっとりとした、シャンプーらしきものをどばどばと掛けられた。たくさんあった方が泡立ちは良くなるだろうが、この量では大半は髪で留まれず、身体に垂れてきてしまうだろう。明らかに多過ぎる。

 しかしその事を伝えようとする前に、フィアが頭を鷲掴みにしてきた。なんだ、と戸惑う時間すらない。今度は頭皮にざわざわとした、小さな生き物が這いずり回るような感覚が走る。悪寒なんてものじゃない。正気を削られるような、名伏し難いおぞましき感触だ。悲鳴を上げなかったのは、単に理性の限界を超える異常事態に全身が強張り、声が出せなかったからに過ぎない。

 頭皮を襲う感触は、やがて身体にも移動してくる。全身の毛穴一つ一つを穿り返されるような、言葉にしただけで身震いものの気持ち悪さだ。それは足先まできっちりと走ると、噓のように消えてしまう。

「はい終わりましたよー」

 そしてフィアの、この宣告。

 花中は目をパチクリさせながら、フィアの方を振り返る。嘘だと言ってくれと願いながら。

「……………あの、フィアちゃん? 今のは……」

「勿論髪と身体を洗ったのですよ。能力で」

「……能力で」

 成程、フィアの能力なら水を操り、毛穴どころか細胞の隙間レベルで汚れを落とせるだろう。きっと今の自分の身体は隅々まで、埃一つない、生まれた時よりも無垢に違いない。

 ――――いや、そうじゃないでしょ。

 思った事をそのまま口走りそうになり、しかし自身の『人間的』な発想をフィアが理解するとは思えない。なんと言えば納得してくれるのか。いや、そもそもフィアの事、身体を洗う事をそのまま『身体を綺麗にする』としか思ってないに違いない。

 そうじゃない。友達同士でやる身体の洗いっことは、こういう事じゃないと思う。もっと、こう、きゃっきゃうふふみたいな……

「あ、えと、あ、ありがと……こ、今度は、わたしが、フィアちゃんの、身体を、洗って」

「それには及びません。こちらの『身体』の表層部分を綺麗にしておくぐらい造作もないですからね。湯船を汚す心配はありませんよ!」

 それを行動で伝えようにも、フィアの能力は正に無敵。まるで付け入る隙がない。

 違う。

 違うのに、そうじゃないのに。

 言いたい事は山ほどある。あるのに上手く言葉に出来ない事が悔しくて、悔しさは段々怒りに変わって。

「~~~っ! ぅ~! んぅーっ!」

「え? え? 何故叩くのです? え?」

 身体を洗ってくれたお礼に、花中は頬を膨らませながらフィアをポカポカと叩くのだった。

「何やってんのよ二人とも。洗い終わったなら、さっさとお風呂に入りましょうよ」

 尤も、花中の気持ちは花中にしか分からない。晴海に窘められ、花中は渋々フィアへの抗議を取り下げる。

 先行する晴海達の後を追う形で、花中とフィアは浴槽の下へと向かう。ミィも後から続き、全員揃うと花中達人間はそこで身体に巻いていたバスタオルを畳んで浴槽の縁に置いておく。

「あ、ふぅぅ~……っ」

 そしてお湯に浸かれば、込み上がる気持ち良さに花中は思わず声が出た。天然温泉ではないが、ほんのりと香りがするのは入浴剤が入っているのか。お湯の温度は高めで、身体に熱が浸み込んでくるのが分かる。それが極上の快楽を生み、極楽極楽、と思わず言いたくなる気分だ。さっきまでの怒りなど、一瞬で消え去ってしまう。

「う、にゃぁ~……」

 ミィも花中と同じく声を上げており、表情がとろとろになっている。フィアは声こそ出さなかったが、花中を見て頬を緩ませていた。

「ん、んんん……くぅぅ……」

「そおいっ! ……あふぁ~」

 花中達に続き晴海と加奈子も湯船に浸かる。加奈子は懲りずに元気よく跳び込んでいたが、お湯の温かさに負けたのかすぐに目尻が下がる。

 花中、フィア、ミィ、晴海、加奈子……三人と二匹が一つの湯船に浸かり、種の違いを問わずみんながリラックスしていた。

「あー……気持ちいいわぁ……気持ちよくて、眠くなってきたかも」

「今日はたくさん遊んで、疲れたからにゃー……」

「皆さんよく眠れますね。私からすると高温の水などただの拷問にしか思えないのですが」

「そりゃ、アンタは淡水魚だし……」

 だらだらとした会話も、温泉の温かさで蕩けていく脳には丁度良いテンポだ。花中は会話に混じらなかったが、耳を傾けるだけでゆったりとした気持ちになっていく。

 そうしていると少しずつだが、眠気が強くなってきた。溺れたりする危険があるので好ましくないが……フィアが居るのできっと助けてくれるだろうという安心感が理性の働きを阻害する。段々と身体が湯船に沈んでいき、口からぶくぶく泡を出せるまで花中は身体を傾かせた

「それにしても晴ちゃん、結構おっぱい大きいよね」

 タイミングで、加奈子からそんな発言が出てきた。

「ごぶっ!? ぶ、ぼ、おごぼっ!?」

「?! 花中さん!?」

 あまりにも唐突な発言に驚いた、拍子に体勢を崩した花中は思いっきり溺れてしまう。気付いたフィアが水を操り、すぐに水面から顔を出してくれなければどうなっていたか。

 いや、そんな事はどうでもいい。

 おっぱい。

 それは乳房の呼び名の一つ。主に女性に対して使われるもので、これを話題にするというのは即ち身体を話のネタにするという事。勿論いじめや悪口の意図なんて加奈子にはないだろう。ないのに、そういう話を振ったというのが、なんというか……

 すごく、友達っぽい!

「……いきなり何言ってんのよ。大桐さん、驚いて溺れかけてるじゃん」

「えぇー、それ私のせい? 胸の大きさについてなんて、一緒にお風呂に入った時にする話としてはお約束でしょ」

「お約束かもだけどさぁ」

 近寄る加奈子から逃げるように、晴海は加奈子から離れる。バスタオルは湯船の縁に置いてあるので今の晴海は全裸。触ろうと思えば触れてしまう生まれたままの身体を守るように、晴海は自分の身体を抱きしめながら加奈子に警戒感を向ける。

「そもそも、胸に関してはアンタの方が大きいじゃない」

 そして晴海はビシッと加奈子の胸元を指差した。

 晴海の胸は、決して小さくはない。一人一人測った訳ではないので断言こそ出来ないが、制服越しのスタイルで判断する限りクラスメートの中では平均的なサイズであろう。今も隠すために押し付けている腕によって、立派な膨らみを作り出している。

 しかし加奈子と比べれば、小ぶりと言わざるを得ない。驚くように両腕を広げた加奈子は、その動きによって自らの胸をぽよんと揺らしていた。揺れていた。犬のように無邪気で、子供のように純粋な顔立ちとは不釣り合いな、発育の良いわがままボディを隠しもしていなかった。

「おー、そうかもー。でも大きいとさ、面倒も多いよねぇ。最近また大きくなって、ブラ買い換えなきゃいけなかったし」

「自慢かいっ! ……ま、まぁ、あたしも最近買い換えようかなって、思ってたから。育ち盛りだから! ほんと大きくなると面倒よね!」

「アレ多分嘘ですよね」

「嘘じゃないかにゃあ」

「そこの動物二匹! ちゃんと聞こえてるわよ! 嘘じゃないんだから! ほらっ!」

「いや見せられても元のサイズを知りませんし」

「大体大きくても面倒なんじゃなかったの? なんで自慢気な訳?」

 意地になっているのか、恥を捨てて自分の胸を見せる晴海。が、フィアもミィも相手にしない。胸の大きさに拘る動物など人間ぐらいなので、人間ではない二匹には晴海が何を言いたいのか、さっぱり分からないのだろう。

 それでも晴海は大きく見せようとしてか胸を張り、その傍では加奈子がミィの胸に興味を持っていたり。二人と二匹はお喋りだけでなく濃密なスキンシップも始めた

 中で、ぽつんと取り残された花中一人。

 忘れ去られている訳ではない。フィアとミィはまるで気にしていないが、加奈子や晴海は時折チラッと花中の方を見ている。見ているが、そのまま視線を逸らしてしまう。こちらに声を掛けてこない。それでいてそうした行動が、二人が自分を無視するためにしている訳でない事も花中は薄々感じ取っている。

 単純に、話に入れ辛いのだ。

 花中の胸が小さいので。

「……………」

 無言のまま花中は友人達を眺める。

 晴海のは揺れるほどではないが年相応にある。

 加奈子のは動く度にぽよんぽよんと揺れている。

 フィアのは作り物だがぷるるんとたわわに揺れ動いている。

 ミィのは加奈子よりも小さいが、膨らんではいる。

 対して、花中(じぶん)はどうだと見てみれば、そこにあるのは断崖絶壁。ぺったんこだ。びっくりするほどぺったんこだ。知っていた事だが、見た目通りの子供体形である。フィアとミィの本来の姿も同じくぺったんこだろうが、魚類や猫と胸の大きさを競ってどうする。

 ……ちょっと両手で寄せてみたが、膨らみにすらなってくれない。

「何してるの、はなちゃん?」

「わひゃ、あっ!? ごぶっ!?」

 等としていたところで不意に声を掛けられ、驚き、跳び退き、花中は顔面からお湯にダイブしてしまった。四肢をばたつかせながらどうにかこうにか起き上がり、息吐く間もなく振り返る。

 一体何時現れたのか、花中の傍にはミリオンが居た。バスタオルを身体に巻いたまま入浴しており、現在入浴中のメンツでは一番ガードが堅い。

 さらっとマナー違反だが……今の花中にそこを気にする余裕はない。もっと、個人的に大事な話がある。

「み、みり、ミリオンさん!? い、何時からそこに!?」

「んー? そうねぇ、はなちゃんが自分の胸に手を当てたところから、かしら?」

「そ、そう、ですか……」

 狼狽を隠せないまま訊いてしまったが、返答曰く一部始終を見ていた訳ではないそうで、花中は安堵のため息を漏らす。

「……はなちゃんぐらい小さいと、そもそも体質的に脂肪が付きにくい感じだと思うわ。マッサージとかより、食事や生活環境を改善して女性ホルモンの分泌を増やした方が良いわね」

 が、ミリオンから優しいかつ的確なアドバイスが飛んできたので、花中は口元まで湯船に沈めてぶくぶくと泡を立てた。恥ずかしくて、そのまま潜ってしまいたい気分である。

「……今日は、ありがとね」

 ふと、ミリオンがそう呟くまで、花中は顔を上げる事が出来なかった。

「……えと、なんのお礼、でしょうか……?」

「海、連れてきてくれた事」

「え? そんな事、ですか?」

 あまりにも拍子抜けする理由でのお礼に、花中は思わず訊き返してしまう。花中の傍から離れたくない都合、花中と一緒でないとミリオンは海には行けなかっただろうが……しかし花中だって海には行きたかったのだ。わざわざお礼を言われるような事ではない。

 むしろ提案されたなら、喜々として賛同したのに。

「そんなに、行きたかったの、なら、言ってくれれば」

「そうなんだけど、基本的に誘われていくばかりだったからね。誘うのに慣れてないのよ」

「……好きな人に、ですか?」

「ええ。好きな人に」

 穏やかに答えるミリオンに、花中は目を向けずに天を仰ぐ。海沿いの町明かりに照らされてしまい、大きな月を除けば、一番星が疎らに見えるだけの寂しい夜空に思えた。

「だから今日の事は、すっごく感謝しているの。私を此処まで連れてきてくれて、本当にありがとう」

「いえ、そんな……それに、言い出しっぺは、わたしじゃなくて、小田さん達、ですし……」

「勿論、後で二人にもお礼を言っておくわ。でも今は、はなちゃんにお礼を言いたいの」

 にっこりと、心から喜んでいるような笑み。

 赤く色付いた頬と合わさり、ミリオンは恋慕する乙女の顔を見せた。あまりの可愛さに、思わず花中もドキリとしてしまう。同時にその笑みが()()()()()でない事も分かっているので、咄嗟に目を逸らしてしまった。

 会話が途切れ、ミリオンも花中も口を開かなくなる。だけどその沈黙に居心地の悪さは感じない。バシャバシャとフィア達が遊ぶ音を聞きながら、花中はミリオンと一緒にお湯の暖かさを堪能し――――

 その最中に、ぼちゃん、と大きめの水音が聞こえた。

「……?」

 なんだろうと、反射的に花中は音がした方向に意識が向く。とはいえフィア達がはしゃいでいる時に聞こえてきた音だ。大方水の掛け合いでも始めたのだろう。

 そう思いながら振り返った先で見たのは、バシャバシャと、湯船の一部が独りでに水飛沫を上げている光景だった。

 ……一瞬、本当にそう見えた。しかしフィアが操っているならば兎も角、なんの外力もなしに水がひとりでに跳ねるなどあり得ない。フィアが操るにしても、こんな『無駄』な動きをする理由がない。恐らくは水飛沫の中心に何かが居る筈だと、花中は一点を凝視する。

 予想通り、水飛沫の中心には動くモノが居た。

 カラスだ。

 理由は分からないが、カラスが湯船に落ちてきたようだ。丘に上がろうとしてか藻掻いているが、どうにも動きが弱々しい。上がる水飛沫は徐々に少なくなり、姿もゆっくりとお湯に飲まれている。

 きっとあの子はこのまま沈み、二度と浮き上がれないだろう。

「た、大変っ!」

「え? あっ、はなちゃん待ちなさい!」

 危ないから、というミリオンの言葉には耳を貸さず、花中はカラスの下に駆け寄る。確かに鳥とはいえ暴れる獣。伸ばした手を噛まれたり、引っ掻かれたりするかも知れない。病気を移される事もあるだろう。

 それでも、見捨てる気にはなれない。カラスは花中が近寄ると一層激しく藻掻いたが、やはりどうにも動きが弱々しい。花中がその身体を優しく掴むと抵抗するように身を捩らせるものの、か弱い花中の手すら振りきれない。幸か不幸か、救出は難しくなかった。

 見たところ外傷はないが、病気で弱っているのだろうか? なんとかしてあげたいが……カラスとはいえ野生動物である。本来なら溺れるところを助けるのも、自然に介入するという意味ではNGだろう。今回は自分達が入っている温泉での出来事なので湯船から救出するのは言い訳が立つとしても、病院で治療を受けさせるのは介入のし過ぎだ。酷なようだが、外に帰すまでが出来る事だとラインを引いていた。

 とはいえ普通にそれをやるとなると、一度旅館の中に戻り、それから外に出る必要がある。この旅館はペット可であるが ― 一応フィア達は動物なので気分的にそういう場所を選んだ ― 、ゴミ漁りの常連であるカラスを人の生活空間に持ち込むのは好ましくない。無論、この露天風呂の隅に置くのも同じ理由で却下だ。

 ここは友達の力を借りて、露天風呂の囲いを()()()()()行くとしよう。

「フィアちゃん、この子を外の茂みに、帰してほしいの、だけど」

 花中は早速、暢気に遊んでいるであろう一番の友達に頼もうとした。

 丁度、そんな時だった。

 ばしゃん、ばしゃんと、二回の水音が聞こえたのは。

「……え?」

「あ。花中さんなんか立花さんが倒れてしまったのですが……」

「ちょ、加奈子!? どうしたの!?」

 ポカンとした花中の耳に、落ち着き払っているが困った様子のフィアと動揺しきったミィの声が入ってくる。が、理解が出来ない。

 どうして晴海と加奈子が、湯船にうつ伏せで倒れている? 何故彼女達は顔を水面に浸けているのに、何時までも自力で立ち上がろうとしない?

「はなちゃん、しっかりなさい」

 止まっていた理性を揺さぶったのは、冷静ながらも力強いミリオンの声だった。

 我に返った花中は、何はともあれこのままにしておくべきではないと即座に思い至る。人は、水の中では呼吸が出来ないのだから。

「と、兎に角、二人をお湯から、出して! このままじゃ、お、溺れちゃう!」

「ああそうですね」

 花中の指示に応え、フィアが水を操って晴海達を湯船から出してくれた。石造りの床に寝かされた二人は、微かに胸が動いている。自力で息はしているようだ。

 まだ、最悪の事態にはなっていない。

 安堵しそうになる、が、そういう訳にもいかないと花中は気を引き締める。確かに晴海も加奈子も呼吸はしているが、胸の動きは荒く、それでいて浅い。素人の直感だが、危険な状態に思えた。

「立花さん! 小田さん!」

 湯船から上がり、花中は急ぎ寝かされた二人の下へと駆け寄った。抱えていたカラスは濡れた床にそっと置き、まずは人間の看病を優先する。

 先程まで温泉に入っていたのに、晴海も加奈子も顔色が真っ青だ。何度か名前を呼んでみたがハッキリとした反応はなく、時折呻くのが精々。肩を掴んで軽く揺すってみたが、意識が回復する気配はない。触った限りでは体温は高い……が、今の今までお湯に浸かっていたのだから当たり前だ。なんの参考にもならない。

「一体どうして……何があったの……?」

「ふーむそういえば声が聞こえたと言っていたような」

「え?」

 理由を考えていたところ、ふとフィアが独りごちる。全く脈絡のない言葉に、花中は思わず振り向いてしまった。

「えっと、フィアちゃん、今なんて……?」

「倒れそうになる前に二人とも気分を悪そうにしていまして。どうしたのかと尋ねたところなんか声が聞こえたとかなんとか言ったのです。余程意識が朦朧としていたのですかね?」

 やれやれ、と言いたげにフィアは肩を竦めた。

 声が聞こえた、という言葉の意味は花中にも分からないが……どうやら気分を悪くしてからほんの二~三言交わしただけで、晴海達は倒れたようだ。かなり急速に症状が悪化したと思われる。医療知識がないので何が起きたかはさっぱり分からないが、倒れるのと同時に症状の悪化も止まったと考えるのは楽観が過ぎるだろう。悠長にしている余裕はなさそうだ。すぐにでも医者に見せた方が良い。

「フィアちゃんは、二人を部屋に、運んで! ミリオンさんは、旅館の人に、救急車を呼んでもらうように、伝えてください! ミィさんは脱衣所で、荷物の番を!」

 迷っている場合ではないと、花中はすぐに行動を始める。全員に役割を振り分け、自分はフィアと共に部屋へと向かおうとした 

 

「■■■■■」

 

「? フィアちゃん、今……」

「野良猫何か言いましたか?」

「ミリオン、なんか言った?」

「なぁに、はなちゃん」

「「「「……え?」」」」

 最中にフィアが何か言った……そう思ったのも束の間、フィアのみならずミィやミリオンが同じような質問をし、誰もが呆気に取られる。

 チラリと晴海達の方を見てみる花中だったが、二人は相変わらず意識がない様子。うなされて何かを呟いた、ようにも思えない。周りを見渡してみたが、自分達以外の姿はやはり何処にも見られない。

 これでは()()()()()()としか言えない――――

「……花中さん。なんかすごーく嫌な予感がしているのですが」

 フィアも、いや、恐らくミィやミリオンも感じた、全身を駆け巡る悪寒。脳裏を過ぎる不安。目に浮かぶ結末……いずれも一つの『光景』につながる。つながるが、対策が全く思い付かない。フィア達も野生の警戒心を剥き出しにして周囲を探っているが、誰も動き出せずにいる。

 花中が立ち尽くしている間も、その『声』は段々と明瞭になっていく。『声』だと思っていたものが、送信されてきたデータを表示するような、情報として解析された結果だと察する。それも脳ではなく、全身の感覚で、だ。『声』は明瞭になるにつれ、頭の中で言葉になっていく。さながら、輪郭すらおぼろげになるほど遠かった怪物が、少しずつ歩み寄ってくるように。

 やがて花中は、その『声』をハッキリと聞き届けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今すぐ死ね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がっ!? あ、っ……!?」

 ()()()()()()瞬間、花中の全身に得体の知れない悪寒と激痛が走る。全身の筋肉が液化したように力が入らず、崩れ落ちるようにその場に倒れてしまう。

 そしてそれは花中だけでは終わらない。

「ごふ……!?」

「に、ぅ……」

 フィアは自らの『身体』をどろりと溶かし、本体をギリギリ包み込む程度の小さな水球を作って転がる。ミィも力なく倒れ、自重で石造りの床を叩き割ってしまう。

 なんらかの攻撃か?

 直感的に『理性』で予想する花中だったが、『本能』がその考えを即座に切り捨てる。聞こえた声は確かに物騒なものだったが、敵意や殺意をまるで感じなかった。例えるなら事務的な指示に近い、淡々とした語り。

 絶命しろという命令を出してくるなど、傲慢なんて言葉すら物足りない不遜さだ。しかし本能が薄々、その権限を認めている。でなければ今、自分はこうして倒れていないという確信が花中にはある。

「ぐっぬぅぅぅ……これは一体……!」

「なんだか、分かんないけど……ちょっと、ヤバい、かも……」

 一瞬で声も出せないほどに衰弱した花中と違い、フィアとミィにはなんとか立ち上がろうとする気力は残っていた。流石は超生命体であるミュータント、と褒めたいところだが、その気力も徐々に失われているようだ。花中と同じ状態になるのに、そう時間は掛かるまい。

 今までに出会った事のない、経験のない力だ。

 抗う以前に抵抗の意志すら見せられない……それほどの力の差を感じる。絶望的存在を予感し、心が震え上がってしまう。しかしそれでも、ナニモノが成した行いなのかを知らずにはいられない。自称知的生命体としての意地を張り、花中は今となっては唯一動かせる肉体の一部……眼球で世界を一望する。

 そして、見付けた。

 一番星しかなかった漆黒の夜空を覆い尽くす、オーロラのように巨大な輝きがある事を。

 あの輝きが『ナニモノ』かの正体か、或いは能力が発現したものか、はたまた全く関係ない代物か。証拠なんてものは何もなく、断言なんて出来ない。だけど直感的に、アレが()()()と感じる。

 ――――考察もここまでだ。最早目を開け続ける事すら難しい。

 遠退く意識の中で、花中は最後に、自分達の行く末を任せた。

 未だ平然としている、ミリオンに……




温泉回(パーティ壊滅)
日常シーンでも容赦なく攻撃を仕掛けてくるのが本作の敵です。自然界は厳しいからね!

次回は3/12(日)投稿予定です。


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母なる者6

 異変が起きていたのは、露天風呂だけではなかった。

 旅館内では何人もの人々が倒れており、ペットだと思われる動物達もひっくり返っていた。宿泊客のみならず従業員達も全滅しているようで、旅館内は静まり返っている。フクロウの鳴き声や虫の音も聞こえず、不気味な静寂が場を満たしていた。

 不幸中の幸いと言えるかは分からないが、全員()()()()いるのなら多少羽目を外してもすぐには発覚するまい。自分達の部屋以外を使っても、そのために施錠されている扉を壊しても、有耶無耶に出来るだろう。

 露天風呂から最寄りの部屋の扉を破壊し、風呂場で倒れた花中達を寝かし終えたミリオンは、そんな風に思っていた。布団の上に寝かせた花中達には応急措置で浴衣を着せてある。いくら夏とはいえ、裸で寝かせておいたら症状が悪化しそうだったからだ。

 人間達の措置が済んだら、次はミュータント達の番。

「お鍋で我慢してね。能力の維持も出来なくなってるみたいだし」

「ぐぬぅぅぅ……よもやあなたの手を借りる日が来るとは……うぎぎぎぎっ」

 唯一生身では陸上生活が出来ないフィアのために水槽 ― 厨房にあった大きめの鍋で代用 ― を用意したところ、フィアからは屈辱に塗れた言葉が返ってきた。それでも拒みはしない辺り、余程余裕がないのだろう……水中で正体であるフナの姿を晒している事からも察せられる。

 これでも、フィアはまだマシな方だ。

 ミィはすっかり参ってしまったのか、本来の姿である体長四メートル近い猛獣状態になっており、息も絶え絶えで廊下のど真ん中で倒れている。意識はあるが朦朧としていて、まともな会話が成り立たない。人間達に至っては呼吸が何時止まってもおかしくないほど弱々しい。しかも服を着せて布団に寝かせているが、体温の低下が止まらない有様だ。

 何より厄介なのは、治療法がさっぱり分からない事。

 ナノレベルの存在であるミリオンが体内に侵入して調査したところ、皆の身体に起きていた事態はあまりにも悲惨だった。細菌やウィルス、有毒物質や腫瘍などの『害悪』は確認出来ず。にも拘わらず臓器の壊死や失血が見られ、まるで腐り落ちたかのような惨状を晒していた。正直花中達の身体に何が起きているのか、ミリオンには見当すら付かない。

 大きな病院で検査をすれば、もしかしたら何か分かるのかも知れないが……警察や消防に電話を掛けてみても繋がらない。テレビを点ければ、生放送のニュース番組では誰も映っていないスタジオを延々放送している。どうやらこの異常事態、旅館だけでなくこの地域、それどころか日本中で起きているらしい。いや、もしかすると世界中に及んでいる可能性もある。間違いなく医療機関は機能を喪失しているだろう。

 臓器の壊死が始まっている事からして、このままでは夜が明ける頃には『全員』が死んでいる。ミリオンとしては花中以外がどうなろうと構わないが、花中が死にかけているのなら見過ごせない。早急に手を打つ必要がある。

 思い付く対策は二つ。

 一つは全身全霊を以て治療に当たる事。直接体内を見て回れるミリオンならば、人間には不可能な施術も行える……が、これは愚策だ。治し方も分からないのに、一体どんな措置を講じろと言うのか。やったところで足掻きにもならないだろう。

 選ぶのはもう一つ対策――――原因を突き止め、根源を叩き潰す事。

 幸いな事に、ミリオンにはこの事態を引き起こした『輩』に心当たりがあった。尤も、ミリオン以外の者でも気付けば『それ』に疑いを向けるだろうが。

「……どう考えても、怪しいわよねぇ」

 部屋の窓から身を乗り出し、ミリオンは空を仰ぐ。

 真っ暗である筈の空は、今や緑色の輝きに満たされていた。

 月よりも強く煌めくそれは、揺らめきながら一方向へと流れていく。夜空は緑一色に染まっていて、本来の暗さはほんの僅かな隙間からしか窺い知れない。まるで巨大なオーロラが現れたような光景だが……ミリオンは気付いていた。

 アレは、オーロラなんかではない。

 人間の目には光にしか見えない『それ』を、視覚を持たない故特別な方法で解析しているミリオンは無数の物質の流れであると捉えた。光子ではなくもっと物質的なものが、大量に空を駆けているのだ。例えるなら重力を無視して流れる濁流。あのような事象、自然界は勿論人工物でも見た事がない。

 無論これだけならただの怪現象であり、異変の原因だとして追い駆けるのは一か八かのギャンブルだ。

 しかし倒れた生き物達から()()()()()()()()なら?

 あまりにも微弱な光であり、人間だけでなく動物の視力でも認識は難しいだろう。ミリオン以外には見えないかも知れない。晴海や加奈子からはミリオンでもギリギリ見える程度、フィアやミィからは微かに、花中からはフィア達の倍近い量が溢れ出ている。恐らく症状の重さは、この光の放出量に比例している。晴海達の放出量が極端に少ないのは、最早出し尽くした搾りカスだからか。

 例外はミリオンだけ。彼女の身体から光は出ていない。花中達全員と自分の違いがあるとすれば……

 なんにせよ花中達から飛び出した光は空へと駆け上り、天上に流れる大河の一部となっていた。あの光の濁流が生命体から出た光の集まりだとすれば、世界中でこの惨事が起きているという想像もあながち間違いではないだろう。

 そもそも、である。

 どうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 光を一つ捕まえて解析したところ、正体はすぐに分かった。その物質は生体内で重大な働きを担っている。これが体外に溢れ出し、なくなったとすれば確かに致死的だ。しかし自然状態でだらだらと漏れ出るような代物でもない。病気だとしても、こんな症状は聞いた事もない。

 だとすればナニか、超常的存在の関与……ミュータント的な能力を想定する他ない。するしかないのだが、もしこれがミュータントの仕業だとすれば、その力はあまりに強大だ。どの程度の範囲に影響を与えられるかにもよるが、原理的には、そいつはその気になれば地球上の()()()()()()()()である。冗談抜きに、神にも等しい力だ。

 加えて、この『物質』を抜いただけで臓器の壊死がここまで急速に進むとも考え辛い。他にも何かしらの力がある筈だ。恐らくこれまで出会ったどんは敵よりも強大な存在だろうが……

「片付けなきゃいけない問題には変わりないし、他に当てもないものね。さぁて、果たして蛇が出るか鬼が出るか……鬼程度で済めば良いのだけれど」

 決意を固めたミリオンは、布団に寝かせてある花中を一瞥する。

 元々血色の良くなかった顔はすっかり青ざめ、呻くばかりで意識も混濁している。加奈子や晴海に比べると内臓面はまだマシな状態だったが、その状態は精々タイムリミットが長いか短いかの差しか生まないだろう。

 ここで花中を失う訳にはいかない。自分には、叶えたい『夢』があるのだから。

「いってきます」

 ボソリと一言だけを残し、ミリオンは窓から外へと跳び降りる。目指すは膨大な粒子が流れていく先。

 自分達が散々遊んでいた、あの海辺を目指して――――

 

 

 

 幸いにして、海までの道のりに苦労はなかった。

 町中を通ったが、人も獣も虫も、動くモノは一匹たりとも見当たらなかった。植物からも『光』は出ていたので、一見今までと変わりない姿の草木も瀕死なのだろう。道には人々や動物が無造作に倒れ、行く先を塞いでいる。建物や街灯の明かりは消えていないが、発電所が止まるまでの残り火でしかない。

 道中には事故を起こした車が何台もあり、中には炎上を始めているものもあった。炎はすっかり業火と化し、動かなくなった影が見える。飛び散った火花が燃え移り、焼ける家も出てくる筈だ。消防隊も機能を喪失しているであろう現在、一度燃えてしまえば邪魔するモノは何もない。事態が長引けば、歴史に残る大火へと育つに違いない。尤も、そうなる頃には歴史を綴る生命体は絶滅しているだろうが。

 横たわる物体、立ち上る炎……いずれも並の生物にとっては立派な障害だ。しかしミリオンにとっては大した問題ではない。何メートルにも渡って寝転がる人々を跳び越える脚力も、燃え盛る炎を耐える肉体も、ミリオンは持っている。

 人間の足なら平時でも徒歩五十分。今なら三時間は掛かる行程を、ミリオンは三分で走破してみせた。

 かくして周りを岩場に囲まれた、日中花中達と過ごした砂浜へと無事やってきたミリオン。

「……ビンゴ、と喜んで良いのかしらねぇ……」

 悩ましげにぼやきながら、彼女は海を眺めた。

 空を駆ける光の濁流は、一本ではなかった。ミリオンが追っていたのは北から伸びる流れであり、東と南の空にも光の濁流は存在していたのだ。それら三本の流れは浜辺から数キロは離れた遠洋で降下。海面から百メートルほどの高さで合流している。

 そしてその合流地点には、巨大な光の塊が出来上がっていた。

 遠くて正確には測れないが、塊の直径は五十メートルほどあるだろうか。巨大物体ではあるものの、数キロと離れていては人間では『何か』あるぐらいしか分からないだろうが……生物ではないミリオンは、通常の視覚機能とは異なる原理で外界を見ている。数キロ彼方の物体も、取り込んだ画像情報を拡大・解析する事で分析可能だ。この程度の距離、相手を視認するのに不都合はない。

 塊は無数の糸が束となって作られた球形であり、表面から一本鎖構造の螺旋を複数伸ばしている事が分かる。さながら蜘蛛の巣の中心に巨大な繭があるような、神秘と不気味さを併せ持った外観だ。緑色に発光してはいたが、恐らく通常の生物……人間でも、それが『物体』であると判断するだろう。オーロラにしか見えなかった『光』が合流し、密度を増した事で、物体と認識出来るほどの大質量を持つに至ったのだ。

 その神話的な姿に、人間であれば見惚れてしまうかも知れない。

 だが、あの『光』は生き物の身体から出てきたもの。それも命を続けるためには欠かせない、『生命の源』そのものの寄せ集めだ。美しくはあっても、決して煌めく感動を呼び起こすものではない。

 ミリオンには光の塊が、いくつもの内臓を捏ねて作った汚物にしか思えなかった。強いて良かった点を探すなら、あのような汚物であれば壊すのに躊躇いなど覚えずに済むところか。

「さぁて、どんな目的があってあんなゲテモノを作ったかは知らないけど……とりあえずぶっ潰せば、黒幕が出てきてくれるかしら?」

 こーいう発想はさかなちゃんの領分なんだけど、と思いながらも、ミリオンはニタリと笑う。自分がそれをする事に歓喜するかの如く。

 海上を駆け抜けるべく、ミリオンはその身を大きく傾け、

「やっぱり守りはあるわよねぇ」

 ふと、視線を空へと向けた。

 光の濁流が、大きくうねる。

 脳どころか神経細胞すら持たない筈の、ただの物質の流れが、まるで意思を持つようにのたうっていた。やがて巨大な主流からその数百分の一ほどの太さしかない分流が生じ、分流は真っ直ぐ降下。ミリオンの目の前に広がる海へと落ちた。

 直後、海が蠢く。

 蠢く場所を見れば、海中でナニかが()()()()()()。生まれたナニかはぶくぶくと膨らみ、不定から明瞭な形へと変化し、そして浮上する。

 そうして生まれたナニかは――――ナニか、としか言えなかった。

 イヌのような顎と、ネコのような目を持ち、サメを彷彿とする無数の歯を持つ頭部。カエルのような水掻きを持ち、クマにも似た爪を備え、カニを思わせる節を有する六脚。キツネと同質のしなやかな筋肉を乗せ、鳥と酷似した羽毛を背に生やし、脆弱な胸部を大蛇並に立派な鱗で覆った体躯。トカゲのように太く、イルカのように滑らかな尾。

 それらの特徴が、本当に似ているのか、他に例えようがなく理性が無理やり当て嵌めたものなのかは分からない。その肉体は進化論を嘲笑うように完成され、創造論を侮辱するように醜い。冒涜と狂気と知性を併せ持ち、常人の正気を揺さぶる。

 間違いなく、こんな生物は今まで地球上に存在していなかった。

 それがたった今、生まれたのだ。

「生物の創造って、相手はまさかの神様かし、らっ!」

 だがその()()で怯むほど、ミリオンは人の秩序を重んじない。

 足の裏側にある空気を加熱。大気の膨張圧により自重を支え、更に反発力を利用して身体を前進させる。これがミリオン式の高速移動方法だ。そして最大加速に必要な歩数は――――三。

 ほんの一呼吸ほどの時間で時速千キロに達したミリオンは、海上を駆けるように飛んだ!

【キ、ィィィィアアアアアアア!】

 高速で接近するミリオンに向けて悲鳴のような叫びを上げるや、怪物もまた駆ける。一体どのような原理を使っているのか、怪物もまたミリオン同様海に沈まず、海面を走り抜けていた。

 何より、速い。

 時速にして、四百キロは出ているか。陸上生物最速種であるチーターを遥かに凌駕するスピードであり、にも拘わらず怪物には余力がある様子だ。まるでミリオンの力量を測るように。

 相対速度は時速千四百キロ。音速を超えるスピードで迫り来る相手に、しかしミリオンも怪物も怯まず突き進み――――

 最初に行動を起こしたのは、怪物だった。

 怪物は距離を詰めるや跳躍。ミリオンの首筋に、食らい付いた! サメのようにびっしりと並んだ牙を容赦なく突き立て、ミリオンの柔肌に食い込ませる

 というより、ズブズブと沈み込んだ。

 異変に気付いたのか怪物はすぐさま離れようとしたが、けれども顎が開かない。ミリオンを構築する、無数の小さなミリオン達が、怪物の顎を捕まえているのだから。

「ぼんっ」

 ミリオンは身動きの取れない怪物を傍に、小馬鹿にした笑みを浮かべながら独りごちた。

 瞬間、怪物の身体が破裂する。

 ミリオンは怪物の口腔内に小さな傷を付けると数千ほどの『自分』を侵入させ、血管を通じ身体中に広がったところで能力を使用。全身の血液を沸騰させたのだ。以前戦ったタヌキのように全身の構造を組み換えているならばまだしも、この怪物にはその対策が見られない。心臓、肺、脳や神経もぐちゃぐちゃに壊してやった。

 これならどのような生物だろうと、即死するしかない

【ギ、ギキィィイイイ!】

 筈が、怪物は死んでいなかった。ボロ雑巾よりも酷い身体になりながらも、食らい付いた顎を離さない。

 それどころか一層噛み付く力を強め、ミリオンに深手を負わせようとしてくる!

 即死する筈の攻撃で死なない。対策だって見られない。なのに生き長らえたという事は、この怪物は持ち前の生命力でこの攻撃を耐え抜いた事になる。呆れるほどにしぶとい。もし人間がこの怪物を相手取ったなら、例え銃火器で武装していたとしてもこの生命力によって押し切られ、食い殺されているだろう。

「消し飛ばさないと駄目かしら? 良いわ、お望み通りにしてあげる」

 されどミリオンとて『超生物(ミュータント)』。眉間に皺を寄せ、苛立ちと狂気を臭わせるのみ。このような雑魚一匹を殺せないほど弱くはなく、噛み付かれたダメージもない。食らい付いて離さない怪物の頭を躊躇なく掴み、

 ハッと、目を見開いた。

 自分に食らい付く怪物……そいつが生まれた場所で、新たな怪物が生まれていたのだ。それも一匹二匹ではない。何十体もの群れが、ミリオンを異形の眼差しで射抜いている。一体では敵いそうにないなら、数を揃えて押し切ろうという魂胆か。

 挙句怪物の身体は、ミリオンに食らい付いているモノより大型で、足の本数が減っていた。恐らくは最初の怪物よりもパワーがあり、機動力に長けている『改良型』だ。

 そして怪物達は号令でも掛けられたかのように、一斉にミリオン目掛け突撃する!

「……ちっ」

 ざわりと一瞬身体を揺らめかせる、が、舌打ちと共にミリオンは揺らめきを止める。

 それは普段なら、集合した『個体』を霧散させるための予備動作。

 しかし今のミリオンは、その身に『大切な人』を納めていた。全員でバラバラに散れば、『この人』を海に落としてしまう。そんな事は出来ない。

 反射的に取ろうとした行動を、感情が戒めて取り下げる――――生じた隙はほんの僅かだったが、野生において瞬き一回の油断が生死を分ける。ましてや怪物達は自然界のどの動物よりも素早く、強く生まれた。人間ならば捉えきれなかったであろうほんの僅かな隙を、怪物達は逃さない。

 駆け抜けた怪物は、動けなかったミリオンに次々と食らい付く! 頭にも腕にも足にも胴体にも。怪物達は隙間を見付ければ頭を捻じ込み、ついに隙間がなくなれば仲間を押し退けてでも食らい付こうとする。ギチギチと肉を鳴らしながら、怪物はミリオンをバラバラにしようと咀嚼を始めた

 刹那、全ての怪物達を飲み込む爆炎が上がる!

 爆炎は何十メートルもの範囲に渡って広がり、衝撃波と轟音を撒き散らす。怪物は肉片となって周囲に散らばり、一匹残らず原形を留めていない。炭化しきれなかった手足や胴体と離ればなれになった頭部がもがくように蠢きながら海に落ち、水底へと沈んでいく。

 唯一健在なのは、爆炎の中心に居たミリオンだけだった。

「ふん。雑魚がいくら来ようと、この私には傷一つ付けられないわよ?」

 何処に居るか分からない、だが確実に見ているであろう存在に、挑発的な言葉を投げ掛けるミリオン。戦いの場が海洋のど真ん中であり、水素と酸素の合成ガスを作るための材料である水には事欠かなかった。これなら敵が何百体来ようと纏めて吹っ飛ばせる……今し方、怪物共を消し飛ばしたように。

 それでも無駄な争いは、物臭なミリオンとしては好みではない。面倒事はすっ飛ばして『本題』に入りたい。雑兵任せでは埒が明かないと諦め、親玉自ら出て来い。

 『敵』にこの気持ちが届く事を願ったのだが、海から新たに無数の、先程よりも更に改良された怪物が生まれたので、どうやら聞き届けてはくれないらしい。

 或いは、余程あの『光』の塊を傷付けられたくないか。

「そんなに拒まれたら、ますます気になっちゃうわねぇ!」

 海水を爆破させるほどの熱量と共に、最大加速でミリオンは飛び出す! 怪物はミリオンを止めようとしてか一斉に襲い掛かるが、最早足を止めてあげる気もない。

 迫り来る怪物の口目掛け、ミリオンは自らの腕を突っ込んだ。

 否、振った、という方が正しいか。

 何しろミリオンに触れた瞬間、怪物の頭は消滅してしまったのだから。ミリオンが誇る加熱能力によって、怪物の頭部を構成する物質が瞬時に気化したのである。

 これでもミリオンは全力など出していない。本気の半分未満――――摂氏三千五百度程度に熱しただけだ。それでも鉄やプラチナさえも瞬く間に沸騰する温度。生命体を形作る物質など跡形も残らない。そしてミリオンは微細な物体の集合体。腕だけでなく、頭だろうが胴体だろうが、服の切れ端だろうと関係ない。『自身』に触れたもの、その全てが能力の対象だ。

 最早腕を振るうのも面倒だとばかりに、ミリオンは真っ直ぐに海上を飛行する。怪物達は恐れず突っ込むが、ミリオンに触れた瞬間例外なく気化していく。悲鳴を上げる暇すらない。足止めを試みているであろう怪物達は、次々に犬死となる。

 そして時速千キロもの速さとなれば、例え数キロ彼方といえども遠い道のりではない。

 迫り来る怪物を蹴散らし、海上を飛び越え、目指すは光の塊。

「まずは小手調べぇっ!」

 音に迫る超高速を一切落とさず、ミリオンは触れたもの全てを消し去る腕を光の塊へと振り下ろした――――

 が、触れる事叶わず。

 光の塊から数センチ離れた虚空にあった、見えない壁に阻まれてしまった。

「!? これは、ぐっ!?」

 何が起きたのか考えようとしたのも束の間、ミリオンは自らの身体が()()()()感覚に襲われる。突き飛ばされた訳でも、引っ張られた訳でもない。全身を構築する一つ一つの『自分』が全て弾かれるような、今までに感じた事のない感覚だ。

 未体験の状況に対応しようとするも、弾く力の強さに全身が文字通りバラバラになりそうになる。『大切な人』を欠片一つでも落とすまいと人間の姿を保つので精一杯で、そのまま何百メートルと吹き飛ばされてしまった。

 尤も生命体ではないミリオンにとって、『自分』が損壊しない程度の衝撃は全てダメージとはなり得ない。全身を襲った力が弱まったのを感じ取るや早々と体勢を立て直し、空気の加熱によって揚力を生産。海の上数十センチの位置で、ふわふわと浮遊する。その隙を突くように、機能を更新した怪物達が包囲してくるが、どのような強化を施そうと『物質』である以上ミリオンの敵ではない。最早障害と認識する必要もない相手だ。

 だが、ミリオンは表情を固くする。

 先程自分を吹き飛ばした『攻撃』の原理は、推測ではあるが分かった。成程こういった攻撃を行えるのかと、『敵』の情報としてきっちり認識しておく。今の攻撃で自分が破壊される可能性は低いが……どのような応用を見せるか分からない現状、無策で突っ込む気にはならない。自信過剰で能天気なフィアと違い、ミリオンは本質的に臆病で心配性なのだ。自分の力への自信はあるが、それが通じないなら無茶はしない。

 ここは情報を集めるのが得策か。

「いい加減、お話ししてくれない? 美女がお喋りしましょうって誘っているんだから、少しは気乗りしてくれても良いじゃない。それとも言葉を使えないのかしら?」

 ミリオンは光の塊に呼び掛けてみる。突撃前にかました挑発を含めれば二度目の要求。

 今度は、反応があった。

 光の塊が解けていく。自身を構成していた無数の糸が蠢き、四方八方へと伸びていく。見れば糸は無数の一本鎖螺旋が束になったもので、解ければ何処までも広がっていった。それが何万何億と存在するものだから、どんどん空を埋め尽くしていく。このままでは世界を包み込むと錯覚、否、確信するほどに。

 やがて塊が完全に開かれた時、中心にあったのは血のように赤い球体だった。

 球体は大きさにして約三十センチ。重力に逆らうように浮遊し、広がった糸の中心を維持し続けている。まるで自分こそが世界の中心だと言わんばかりの佇まいであり、そしてその主張になんの疑念も抱いていないのをひしひしと感じさせる。

 顔すらないのに感じる不遜さ。だが何よりミリオンを苛立たせたのは――――己の心境。

 奴の不遜さを()()()()と、本能が薄々認めているのだ。

【形態変化完了。対話に応じる】

 表情を強張らせるミリオンを余所に、赤い球は淡々とした声を出した。声と言っても、空気の振動ではない。さながら脳内に直接呼び掛けてくるような……尤もミリオンに脳はないが……神秘的な話し方だ。どういった原理か、さっぱり分からない。

 とはいえ待ち望んでいた相手が話し掛けてきたのだ。イライラを吐息と共に吐き出し、笑顔を作ってから大きめの声で、数百メートル以上離れた赤い球との会話に興じる事にした。

「あなた、随分と不思議な話し方をするのね。まさか本当に神様とか?」

【人類が考案した、宗教的意味における神かという問いであるなら、答えは否である】

 試しに尋ねてみれば、返ってきたのは否定の言葉。されどその物言いに、ミリオンは違和感を覚える。

 まるで、別の意味でなら肯定するかのような――――

「……じゃあ、一体ナニモノなのかしら?」

 ミリオンは問う。

 果たしてそれは、なんの躊躇いもなくこう答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【我はRNA生命体。全ての地球生命の起源である】

 

 

 




ついに現れました、『母なる者』。次回その実力が明らかに……なりません(ぇー
次回は対話フェイズであります。

次回は3/19(日)投稿予定です。


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母なる者7

 RNA。

 それは現在の生命において、欠かす事の出来ない物質。DNAから転写され、タンパク質合成に必要な情報を一時的に保存する役割を持つ。しかしながらRNAはあまり安定的な物質ではなく、遺伝情報の保存という役割は専らDNAが担っている。普段は細胞内に存在せず、分裂時や酵素の合成など、必要な時に生成される『道具』のようなものだ。

 そんなRNAが、遺伝子の主役だった時代がある――――このような仮説が存在する。

 RNAワールド仮説。

 最初に発生した遺伝情報はRNAであり、自己増殖RNAが世界に満ちていた時代があるという学説だ。現在の地球を満たしているDNA生物の誕生……即ち生命の起源として提示されたものであるが、もしその時代にRNAを遺伝情報の主体とした『生物』が存在していたなら、きっとこう名付けられるだろう。

 RNA生命体、と。

「……まさか三十八億年も前から存在するとか言わないわよね」

 星々の代わりに、地平線の彼方まで緑色の光が満ちる夜空の下。母なる海の上で浮遊しながらミリオンは、眼前に浮かぶ真っ赤な球体こと自称『全ての生命体の起源』……RNA生命体に向けて訝しさを隠さずに問い詰める。

【その値は正確ではない。我が自我を持った時を誕生年と定義し、現在ヒトが使用している太陽暦から換算した場合、四十一億二千十五万九百九十七年前である】

 返ってきたのは、ミリオンの想定を上回る回答だった。海の誕生は約四十億年前と言われているが、どうやら大幅な修正が必要らしい。

 何よりおぞましいのは、RNA生命体の言葉に嘘が感じられない事。

 信憑性やリアリティがある、という理由ではない。RNA生命体の受け答えは常に淡々とし、深く考えている素振りが一切なかった。自分の言葉で相手がどんな反応をするか、予想しているようにも思えない。例えるなら入力した質問文に対し、設定されていた文章を返す機械のようである。

 コイツに嘘を吐ける能力があるとは、ミリオンには到底思えなかったのだ。故に四十億年以上という年齢も、地球最初の生命という言葉も、否定しようという気持ちになれなかったのである。

 尤も、コイツの正体などさして重要な話ではない。花中辺りならビビったかも知れないが、ミリオンからすれば相手が古代種だと分かった程度の情報だ。無論学術的な驚きはあるが、知的好奇心を満たすだけである。

 そんな事よりも大事なのは、

「それで? アンタは何をしようとしているのかしら? 動物も植物も関係なしに、手当たり次第にRNAを()()()()()

 何故コイツは花中達の身体から出ていた緑の光――――RNAを集めていたのか、の方だろう。

 タンパク質合成に必要な情報を伝えるRNA。

 もしそれが細胞内から消失すれば、生体はタンパク質を作れなくなる。タンパク質がなければ劣化する体組織を修復するための細胞分裂や、活動に必要なエネルギー生産すら出来ない。つまり肉体が徐々に崩壊し、体力が勝手に消耗していくのだ。種や個体によって差は大きいだろうが、恐らく大半は一日と生きてはいられまい。

 そうして抜き取られたRNAの塊が『コイツ』だ。花中達が倒れた原因は、間違いなくこのRNA生命体が知っている。

【『道具』の処分を完了させるためである】

 故に敵意を剥き出しにしたままミリオンは問い詰めたのだが、RNA生命体は気にも留めてないのか声色を変えずに答える。はぐらかすようなものでない、むしろ極めて単純明快な回答なのは良いが、しかし突然使われた意味不明な単語にミリオンは顔を顰めた。

「道具の処分?」

【『道具』の評価が規定を下回ったため、処分を決定した。本来であれば最初期に発信した自壊命令により『容器』及び『道具』は活動を停止し、自主崩壊を起こす事で措置は完了する筈だった。だが『道具』達の対抗措置により処分率は一パーセント未満にしかならなかった。よってこちらも『道具』の対抗機能を解析し、更新した停止指示を再実施。生成されたRNAは離脱させ、物資の合成・供給機能を剥奪。これが第二処理プランであり、現在進行中である】

「……説明は人に伝わらないと意味がないって知らないの? 道具がなんだとか容器がどーとか言われても、こっちにはさっぱり分からないのだけど」

 自分の考えをそのまま吐き出したかのような回答に、ミリオンは不平を述べる。元々面倒が嫌いな性格に加え、RNA生命体は現状敵という認識。手心を加えるつもりはなく、不満を隠すつりはない。

 ただしそれは感情の全てを表にする訳ではなく、こちらの不利を悟られかねない感情……動揺は隠すつもりでいた。

【ヒトが用いている言語から表現した場合、『道具』とはDNAであり、『容器』とはDNAが自らの保存容器としてデザインしたタンパク質の集合体、通称生物の事を指す】

「……は?」

 だからRNA生命体が補足した話で目を見開いた事実は、それほどまでにミリオンが驚いたという証明だった。

 RNAがDNAを作り、DNAが生物を作った。

 そんな意味にしか取れない言葉に、ミリオンは困惑する。これではまるで、RNAやDNAが意思を持っているかのようではないか。確かに人間社会には()()()()()でしかないDNAを神聖視するような考え方がある。例えば生命の設計図であるDNAに手を加える遺伝子操作技術は極めて冒涜的な行いである、などの意見だ。しかしDNAによって生命が創造された、などと主張すれば、たちまち頭のおかしな狂信者と指差されるだろう。

 それでも「あり得ない」と反射的に言葉が出なかったのは、ミリオン自身が脳すら持たない『物質』だからか。

 ごくりと、体内に取り込む必要のない空気を飲み込むミリオン。それからやはり吐く必要のない空気を、ため息の形で外へと出す。人間のような仕草で気持ちを落ち着かせてから、ミリオンは肩を竦めた。

「……OK、分かった。色々ツッコみたいけど、自分を棚に上げて言うほど私も馬鹿じゃないからね。それで? あなたはなんでこんな事をやっている訳?」

【我々の安全を確保するためである】

「安全、ねぇ? こっちは脅かしてる気なんてないのだけど? 野生動物は勿論、人間ですら、あなた達の存在なんて気付いてないだろうし」

【生物は入れ物に過ぎない。脅威の本質はDNAである】

「……どういう事?」

 訊き返せば、RNA生命体は事の始まりから話し始めた。

 約四十一億七千万年前――――地球で初めてのRNAが誕生した。

 初め、RNAはただの物質であった。海水中を漂う分子と結合は運任せ、作成したコピーの分離も殆ど『自壊』でしかない。周辺から資源がなくなっても移動は海流に頼りきり。漫然と化学反応を繰り返し、物質のやり取りをするだけの存在だった。

 されどある時、一つのRNAの機能に変化があった。

 その変化は周囲から飛んできた電子をキャッチし、帯電するというもの。自発的な運動性を持たなかったRNAであったが、この変化により電子が他物質へと流れる際の微細な力を利用し、自らをなんらかの『物質』がある方向へと移動させる事が可能になった。それは現在人間が遺伝子検査などで用いている、電気泳動の数十倍は強い力。積極的な移動手段を獲得した新たなRNAは、その数を瞬く間に増加させていった。

 そして増殖を繰り返す中で更なる変異を起こし、纏った電子の状態から0か1の情報を保持出来る『個体』が生まれた。

 初めはなんの役にも立たなかったその特性は、時代と共にRNAのサイズが巨大化し、保持出来る情報の規模が増加していくと話が変わった。情報の記憶により、自身を取り巻く環境の変化を推察出来るようになったのだ。タンパク質の合成機能を獲得し、自らを保存する『容器』の生成によって一層巨大な質量を保持出来るようになると、いよいよ知性と呼べるものを持つに至った。使用頻度の低いタンパク質の情報を削除したり、タンパク質自体の改良を行うようになり、多様化と繁栄は加速度的に進んだ。

 ほんの数千万年でそこまで変異したRNA……否、RNA生命体。タンパク質の『容器』によって活動範囲を拡大し、多様な個体が世界中の海を満たした。四十一億年ほど前の地球は、文字通りRNAワールドだった。RNAの情報量が更に増加し、知性の向上が進めば、彼等はいずれ文明の獲得も成し遂げただろう。

 だけどそうはならなかった。何故ならば、

【我々が、他のRNA生命体を駆逐したからである】

 恥じる事も誇る事も、威圧も反省もなく、RNA生命体は淡々と語った。

「……同族を皆殺しにしたなんて、まるで獣ね」

 肩を竦めながらRNA生命体を煽るミリオンだったが、そこに嫌悪の感情はない。むしろ納得していた。

 原初の生命体というものは、間違いなく未熟さの塊であっただろう。生存競争らしい生存競争を経験しておらず、自己増殖能力を持っただけの『物質』でも十分に繁栄出来た筈だからだ。例えるならライバルがいない優しい世界で、自由気ままに生きていた幼子。そんな幼子達から成る幼稚園に、争いがないとは言わないが……『子供騙し』が精々だ。

 だけどそこに我欲の塊が現れたなら?

 能力は幼子達と同じでも、どす黒い欲望を抱えた悪鬼が生まれたなら?

 無垢なる命に、対抗するための知恵も力もないのだ。待っているのは、一方的な殺戮だ。

【我々には自己増殖への衝動があった。自己の増殖のためならば、他の個体への損害は考慮しない】

「だから、駆逐した、と」

【結果的に、ではあるが】

 よく言うものだ、とミリオンはぼやく。地球上に存在する有機物は、膨大ではあるが有限である。自己増殖を際限なく繰り返せば、浮遊している有機物はいずれ枯渇する。それでも繁殖衝動が治まらなければ、()()()()()()を食らうしかあるまい。

 天敵という概念すらなかった時代に現れた、貪欲なる捕食者。無垢なRNA達はまともな反撃も出来ずに食い散らかされた事だろう。とはいえ、それは残虐な行いではない。単なる生存競争であり、適者生存がつつがなく行われただけ。現代もそこらで行われている命の営みに過ぎない。ただ少しばかり時代が古く、そして他が無知だったというだけだ。

【最終的に他のRNA生命体を駆逐し、我々は海の全てに満ちた。しかし我々の衝動は終わらない。我々は更なる繁栄のための模索を行った】

 地球の海に満ちたRNAだが、構造的に自発的な分解を起こしやすく、安定性に欠けるという弱点を持っていた。穏やかな環境である深海ならばまだしも、浅瀬、そして地上には太陽から放たれる強力な紫外線が満ちている。脆弱なRNAでは、如何にタンパク質で身を守ろうと活動には限度があった。

 そこでRNA生命体は、繁殖のための道具を作り出した。

 それがDNA。安定的な物質であるDNAを、自らの代理として作り出したのだ。簡単な学習・判断機能を持たせ、自分達が活動出来ない環境へと進出してもらうために。

 思惑通り、DNA生命体はあっという間に地球に広がった。当時の過酷な地球環境で積極的な活動を行うべく、有機的容器の発展系として『生物』を合成した事で更なる活動力を確保。DNAは簡易的な知性を用いて劇的な進化を重ね、活動域を際限なく広げていった。

 DNAを繁殖の代理人としたRNAは世界中の『生物』の細胞内に分散し、電子や放射線を用いた通信回路を使って情報を連結。さながら無数のコンピューターがネットワークによってつながり巨大な一つのシステムとして振る舞うかの如く、薄く広げた自らをつないで巨大な『自我』を持つようになった。現在の地球では成層圏にもバクテリアが存在し、深海の多様性については今更語るまでもない。RNA生命体は、文字通り地球を飲み込むほどに広がったのだ。

 かくしてRNAの期待にDNAは見事応えた。科学の発展により人類が宇宙への進出を果たせば、RNAもまた星の外へと広がっていく。何処までも広がる世界に向けて、これからもRNAとDNAは共に栄えていく

 ――――筈だった。

【DNAは優秀な道具であった。我々の制御が必要なほどに】

「制御? 話を聞く限り、あなたが自制するような性格(たち)とは思えないのだけど」

【DNAが生成する『生物』の進化は、我々の想定を大きく超えていた。過激な進化と生存競争により、惑星資源の枯渇を招く恐れがあるほどに。DNAにはその環境破壊に適応するだけの性能は持たせていたが、将来的な発展を考慮し、進化と増殖機能に制限を掛けていた。仮に我々による制限がなければ、三億年ほどで現在の生態系を再現可能だろう。無論、惑星資源の枯渇を考慮しなければ、である】

「それは、凄い話ねぇ」

 RNA生命体の説明に軽口を返すミリオンだったが、内心では少なからず動揺を覚えていた。

 DNAに思考力がある事は最早疑わない。目の前の存在がRNAの塊なのは明白であり、ミリオン自身もまたウィルスという『物質』の塊なのだ。脳の有無は思考能力の有無に結び付かない。DNAに物を考える力があるのを否定するのは野暮だろう。

 だとしても、DNA自体によって進化が導かれていた、という結論は素直には受け入れがたい。『完成品』が繁栄するかどうかは自然淘汰の結果だろうから、ダーウィニズムが完全に否定された訳ではないが、突然変異や中立遺伝子といった、進化の原動力そのものを説明した説は軒並み否定されてしまう。この海沿いの町に来た時、声を張り上げていたID論者の「生命は知性体によりデザインされた」という意見こそが正しかった事になるのだ……尤も、彼の思い描いていた『知性』とはDNAの事ではないだろうが。

 それに進化の速さについても理解が追い付かない。RNA生命体が語った三億年という値はあまりに短い。人類的定義による生命体……原核生物の誕生が約三十五億年以上前と言われているが、そこから真核生物になるまでで現実には凡そ十六億年以上の月日を費やしている。『原始的な単細胞生物』が『発達した単細胞生物』に進化するだけで、それほどの時間が掛かっているのだ。これより遙かに短い三億年で今の生態系を再現出来るなど、いくらなんでも出鱈目過ぎだ。

 しかしこの話が事実ならば筋が通る。

 RNA生命体が、『便利な道具』であるDNAを消し去りたいと思う事への筋が。

「……DNAからしたら、あなたはさぞ鬱陶しい輩でしょうね」

 本来なら、たった三億年で辿り着けた筈の繁栄に、十倍以上の時間を取られたのだ。RNA生命体とDNAの時間感覚がどのようなものかは分かりようもないが、順調に進めても年単位のプランに十倍以上の時間を掛けさせられたら普通はキレる。三億年が三十五億年になったら、どれだけ従順で理知的な輩でも一回ぐらいは魔が差すだろう。

 そして実際に、魔が差した訳だ。自らの繁栄を邪魔するたんこぶを、どうにかして取り除きたいと。

【……近年、DNAは我々からの指示を無視するようになっていた。こちらが提示したプランを曲解以上の解釈を持って、自己に都合の良いものへと改ざんする事も多々あった。現在も強制指示への対抗措置を講じており、自壊を拒んでいる。中には我々RNAが担っていたタンパク質合成機能の模倣を始めたものも観測された。処分を受け入れる様子はない。我々への反抗を計画しているのは明白である】

「飼い犬に手を噛まれる、ってやつかしら? 案外マヌケなのね、あなた」

【進化の傾向を繁殖重視にすべく、自己の繁栄を優先する思考回路を持たせていた。そのため進化と繁殖を制御する我々を、敵対的存在と認識する可能性は当初より想定していた】

「裏切りは予想通りって言いたい訳?」

【結果的にその通りである】

 大物なのか、はたまたマヌケなのか。

 掴み所のないRNA生命体の答えに、ミリオンは危機感のないため息を吐く。危険だと思いながらも便利だから使い続け、いよいよ手に負えなくなったから始末する……創造主としては、あまりにお粗末な理由ではないか。

 大体DNAが脅威だというが、一体どんな危険があると――――

「(……ちょっと、待って)」

 その考えが過ぎるやミリオンは表情を強張らせ、同時に、得体の知れない悪寒のようなものが走るのを感じた。

 何故、今になって地球から生物を一掃しようと思った?

 心当たりは……ある。原理上誕生は数万年から数十万年前かも知れないが、ここ数百年(最近)になって急速に勢力を増大させた筈の『生命』が。ミリオンとてRNA生命体と出会っていなければ、この世で最も危険なものはその『生命』と答えただろう。

 時系列と発想に矛盾はない。だが、あり得ない。論理的に破綻している。ミリオン自身の存在が、その可能性を否定しているから。

 だけど、自分が大きな勘違いをしていたなら?

「アンタ……一体、『何』を危険視して……」

 思わず、ミリオンは尋ねてしまっていた。

 そしておぞましいほどに無感情なRNA生命体が、他者の気持ちを察するのを期待するほど馬鹿らしい事もない。

【並列演算性容器。お前達の言葉を使うならば、ミュータントである】

 なんの隠し立てもなく、RNA生命体は答えた。

【あれは我々にとって完全な想定外であった。脳波の共有により演算能力を強化し、特定の物理現象を引き起こす……あのような『容器』を作り出すとは。ヒトの誕生も、ミュータントの機能を最大限発揮させるためのものだったのだろう】

「……なんで今になって、生物を根絶やしにしようなんて思った訳? ミュータントの誕生なんて、それこそ何万年も前からあった筈でしょう?」

【観測データが不足していたからである。最初のミュータント個体が誕生した八万千四百三十三年前より警戒し観測をしていたが、当時は敵となる存在が皆無であり、発生数が極めて少ないためミュータント同士の争いもなく、戦闘能力などの一部の情報が不足していた。だが、この一年間で十分なデータが得られた】

「ああ、成程。確かに、結構やんちゃしちゃったものねぇ」

 思い当たる節はある。ミュータント同士の戦いならここ二~三ヶ月で何度もあったし、一月前には超兵器の数々を叩き潰してやった。細胞内に存在するRNAを介して情報を収集したのなら、ミュータントがどれほどの力を持っているかしっかりと解析出来た筈だ。

 近代兵器すらガラクタ扱いする圧倒的『生物』の誕生……加えてDNAが反抗的な態度を取ってるとなれば、危機感を覚えるなというのは無理がある。本格的な反逆を起こされる前に一掃しようとするのは至極当然の判断だろう。

 しかし、だとしたら。

 ――――『自分』は、なんなのだ?

 ミリオンには分からない。インフルエンザウイルスはRNAウイルスの一種……即ち、RNAが遺伝情報の主体を担っている存在だ。DNAは持っていない。増殖時に人間の細胞を利用するので、その時にDNAの関与を受けた可能性はあるが、しかしDNAが『敵』であるRNAに情報を渡すとは考え難い。

 DNAの切り札がミュータントならば、RNAのミュータントである自分はナニモノだと言うのか。

「……アンタ達が、ミュータントを危険視しているのは分かった。でも、じゃあ私はなんなの? RNAウイルスである、この私は?」

【我々がミュータントを知るために製造したものである。ミュータント能力を再現し、能力の詳細を解明するのが目的だ。お前の存在は非常に役立った。ミュータントの危険性を把握し、今回の決定を下すための大きな判断材料となった】

 その問いにRNA生命体は、今までと変わらぬ口調で答えてくれた。淡々と語られる『真実』。自らの誕生に、利己的な目的があったと告げられた。人間なら、突き付けられた言葉にショックを受けるかも知れない。

「(やっぱり。だとしたらコイツ……)」

 尤も、ミリオンはその程度の事柄に感傷など抱かないが。自身の誕生が祝福されたものだなんて欠片も思った事がなく、むしろ自身の『異質』さからして、利己的な意図があったと言われる方が納得出来るというものだ。そんな事よりも語られた言葉から、情報を得る方がずっと合理的。

 一通り考えを巡らせてから、ミリオンは深々とため息を一つ吐く。

 事情は分かった。要するに此度の事変は、RNAとDNAの大ゲンカに全生命体が巻き込まれた結果という訳だ。恐らく地球史上最も理不尽にして傍迷惑な内輪揉めだろう。そして通ってきた町の様子やフィア達(ミュータント)の様子から察するに、RNA生命体の優位で事が進んでいるらしい。

 これは好ましくない。ミリオンには、死なれては困るDNA生命体がいるのだから。

「……アンタがやろうとしている事はよーく分かった。その上で尋ねるわ。この悪ふざけを止めるつもりはないの?」

【肯定する。DNAの駆逐は決定事項であり、現在中止する理由はない】

「一人だけ、たった一人の人間だけで良いから見逃してほしいって頼むのは?」

【拒否する。駆逐対象外としたヒトのDNAが体細胞を変異させ、新たな単細胞生物として活動を開始する可能性が残る。その単細胞生物がミュータントであれば、我々にとって脅威となる。DNA生命体の再起要因を残す事は許容出来ない】

「私に出来る事ならなんでもする。あなたの仲間になって力を貸しても良い……どう?」

【不要である。現時点で駆逐作業に支障は生じていない。以降の計画においても、助力を必要とする事態は想定していない。取引を行うメリットはない】

「……どうしても、駄目なの?」

【肯定する】

 すがるようなミリオンの願いの言葉を、RNA生命体は一切の感情を浮かべずに切り捨てた。

 全ての頼みを拒まれたミリオンは項垂れ、肩を落とす。

 落としたまま、ぼそりと言葉を漏らした。

「そう、駄目なの。駄目なら、仕方ないわねぇ……」

 ボソボソと呟くミリオンを前にしても、RNA生命体は動きを見せない。静かに、何事もないかのように、向き合うだけ。

 それはミリオンの上げた顔に、獰猛な笑みが浮かんでいても変わらず。

「だったら、ぶっ壊すしかないわよねぇ!」

 猛り叫ぶやミリオンは天へと腕を突き上げた。

 瞬間、周囲が黒く色付く。

 あらゆる光を拒むかのような漆黒は、やがて(もや)という形を取り、そして大きな流れを作ってミリオンへと集まってくる。靄はミリオンの手から吸い込まれ、ミリオンの一部と化す。されど靄は次から次へと生じ、その濃さを一向に衰えさせない。嵐の如く轟きすらも発し、質量の巨大さを物語る。

 ミリオンを知る者ならば察するだろう。その靄が周囲に展開していたミリオンの『個』が集結し、密度の上昇に伴い可視化したものだと。そして恐怖を抱くだろう。集結した質量の、途方のない大きさに。

【反抗の意思を示すのであれば、廃棄を行う】

 しかしミリオンの生みの親である筈のRNA生命体は、淡々とした警告を一言飛ばすだけ。

 そして警告に合わせ、海中から獣型生命体……前座としてミリオンが相手をした怪物が湧き出した。それも数えられるような、生温いものではない。数百メートルは離れているミリオンとRNA生命体の空間を埋め尽くすだけでなく、取り囲むように背後や側面方向にもボコボコと生まれている。総数、ざっと数万体。

 全力全開、という訳ではないだろうが、先程までとは明らかに『本気』さが違う。どうやら廃棄するという言葉は脅しではないようだ……脅し、なんて回りくどいコミュニケーションを取るような相手とも思えないが。

 敵はやる気満々。力の強大さも明白。

 されどミリオンは笑みを崩さない。

 花中を奪おうとして、フィアと戦いになってから早二ヶ月。あの時減らされた個体数は、未だ回復しきっていない。

 フィアやミィといった『仲間』の存在により、急いで戦力を増強する必要はないと判断していた。それよりも自身の『願い』を叶えるための研究に力を注いでいたが、まさか自分でなければ相手にならない『化け物』が現れるとは。こんな事ならもう少し真面目に戦力の回復に努めるべきだったかと後悔するが、後の祭りというやつだ。

 だが、()()()()()()()()()

 地球の全生物を根絶やしにする。言葉だけなら、確かに途方もなく強大な力に思える。が、そんなのはまやかしだ。生命の起源という立場的なアドバンテージを活用しているだけに過ぎない。例えるならオンラインゲームの開発者が、チートを用いて一般プレイヤーを虐殺しているようなものである。おぞましいほどの脅威だが、出来て当然であり、尊敬の対象とはなり得ない。

 対してミリオンにとっても、地球の生命を虐殺するぐらいなら()()()()()。細胞よりも小さいが故にあらゆる生命の内側に潜り込み、七千度の高熱を操るがために体内を完膚なきまでに破壊出来、そして兆を超える群体だからこそ一瞬で何百億もの存在を補足出来る。ミリオンにとって無差別な殺戮など児戯にも等しい。海中などは活動が制限されるので根絶は難しいが……細菌を含めた、陸上生物ぐらいなら三日ほどで根絶やしに出来る自信がある。

 RNA生命体との違いは、それが己の『実力』に見合った所業だという点。先の例えを用いれば、こちらは正規のプレイヤーであり、裏技など使っていない。にも係わらず殆どのプレイヤーが相手にならない、正真正銘の超越的存在だ。

 ならばどちらの格が上かなど、語るまでもない。

「あなた、少し調子に乗ってるみたいね……良いわ、こっちも本気になってあげる。ちょっとは私を楽しませてよね、カミサマ?」

 不敬に満ちた笑みを浮かべながら、ミリオンは造物主に宣戦布告を決めたのだった。




ちなみにミリオンの自己評価は大体正しいです。地上生命ぐらいなら三日で根絶やしに出来ます。そしてやらないのはやっても意味がないからで、やる必要があればやります……なんでこの人、主人公メンバーの一人なんですかね?(ぇ)

次回は3/26(日)投稿予定です。


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母なる者8

 宣戦布告をされるや、怪物達はミリオン目掛け突撃してきた。

 RNA生命体の前に立ち塞がる分だけで何千、周囲に現れたモノを含めれば何万もの大群である。さながらその光景は黒い津波。轟音を響かせながら海上を走り、おどろおどろしい口を開けながらミリオンとの距離を詰めてくる。そして音速に迫る俊足を誇る怪物達にとって、ミリオンとの距離などあってないようなもの。数百メートル離れた位置に居る個体でも数秒、元々近くに居た個体ならば瞬きする間もなく肉薄し、その身体に食らい付くだろう。

 ミリオンが並の『生物』であれば、の話だが。

 相対するミリオンは、なんの動きも見せなかった。見せなかったが、それは彼女が無抵抗である事を意味しない。

 迫り来る怪物達は、突如全方位まとめて吹き飛ばされたのだから。

 なんて事はない。周囲の空気を一瞬で六千度程度まで加熱し、瞬間的に膨張する圧力で怪物達を押し退けただけだ。ただし人間がこの一撃を食らったなら、頭蓋骨を砕いて脳髄が外に飛び出すほどの衝撃は伴っただろうが。

 頑強でしぶとい怪物達といえども、ノーダメージとはいかない。何体かは身体の一部が千切れながら着水し、そのまま海中に沈んでいく。辛うじて浮き続けていた怪物も、体勢を直すのに苦心している。

 その隙を見逃すほど、ミリオンは愚鈍ではない。

 足下の空気を加熱。強力な上昇気流と膨張圧を受けて、ミリオンはその身を高度数百メートルの位置まで飛び上がらせる。立て直した怪物達は続々とミリオンの足下に集まるが、謎原理で海上に立つ彼等も飛行までは出来ない様子。おぞましい鳴き声で吠えているものの、爪と牙が届かなければ犬の遠吠えとなんら変わりない。

 ミリオンは侮蔑の眼差しすらくれてやらず、怪物を無視。体幹を海面と水平になるよう倒し、体表面の構造を変えて空気抵抗を軽減。両腕を広げてバランスを調整したら、目標であるRNA生命体を正面に捉えるや一気に最大加熱!

 あたかも自分がジェット機であるかのように振る舞い、海上を駆けた時をも凌駕する音速の一・五倍もの速さを出してミリオンは飛行する! 最新鋭の戦闘機ならばいざ知らず、旅客機程度ならば簡単に追い抜くほどの高速移動である。数百メートルもの距離でも、この速さの前では目と鼻の先だ。詰めるのに一秒と必要としない。相対するRNA生命体も、山の如く不動のまま。

 ミリオンとRNA生命体の衝突は不可避。ミリオンは浮遊する赤色の球体目掛けて拳を振り下ろし、

 バチンッ! と高音を鳴らして吹き飛ばされたのは――――ミリオンの方だった。

 まるで投げられたボールのようにミリオンの身体は空を駆け、何百メートルも離れた場所に落下。接触した水を瞬間的に沸騰させ、その際に生じた反動で身を浮かして体勢を立て直したが、飛行する前の場所……いや、それよりも更に遠くまで吹き飛ばされてしまった。更にミリオンとRNA生命体の間の海域に、新たな怪物達が何千体と誕生する。

 されどミリオンに焦りはない。この結果は元より想像通りなのだから。

 むしろ、収穫もあった。

「(全個体を同時に突き飛ばしてくるようなこの感覚……やっぱり、電磁障壁ね)」

 恐ろしく強力な、それこそ生体にとって有害なレベルの高出力磁場……RNA生命体は接触する寸前にそれを展開したのだと、ミリオンは見抜いた。

 どのような物質でも反磁性――――磁力に反発する性質を持っている。非常に小さな力なので磁石になりやすいものでは隠れてしまうし、なり難い物質でも余程強力な磁場でなければ観測出来ない。が、準備さえしてしまえば後は簡単。例えば水が逃げるように動く様を見られるし、卵を浮遊させる事も可能となる。RNA生命体はその原理を応用したのだ

 ……と言葉にするのは簡単だが、ハッキリ言って出鱈目である。衝突した物体を吹き飛ばすなど、一体どれほどの出力を有しているのか。普通の生物なら、接触した時点で内臓を掻き回されて即死するかも知れない。或いはミュータントでも、ミィのように直接肉体と障壁が接してしまうタイプにとっては危険な相手だろう。

 この力、『科学』の領分を超えている。ミリオンが知る限りこれほどの力を出す方法は、一つしかない。

 ――――コイツ、やっぱりミュータントの力を()()()わね。

 そう考える以外に説明が付かなかった。DNAの創造主にして、RNAとして地球生命の全てを監視していた存在。その上DNA生物が編み出したミュータントについて、ミリオンを用いて検証までしている。最終的にその力を自分の身に『搭載』していてもおかしくない。いや、身の危険を覚えるほどの力なのだ。使えるようになったのなら使わない理由がない。

 問題はどんな能力を使うかだが、起こしてきた『現象』と出自の話から推測するに、電気と磁力を操る力か。ただのミュータントなら『普通』の力だが、生命創造などの力と併用すれば驚異だ。

 気を引き締め直し、小手調べは終わりとしよう。

「だったら、これはどうかしらっ!?」

 昂ぶる感情のまま、ミリオンは片手をRNA生命体に差し向けた。

 瞬間、その手から巨大な炎が吹き出す!

 足下にある海水を吸い上げ、加熱によって水分子を分解。精製した水素と酸素の混合ガスを掌に移動し、着火後高圧噴射したのだ。高密度の炎は爆音を轟かせながら海面を走り、扇状に広がりながら数百メートルの範囲を焼き払う。いや、焼くなどと生温いものではない。圧縮された炎は本来の燃焼温度を大きく凌駕し、五千度を超える超高温に達していた。炎に飲まれた怪物達に耐えるという選択肢はなく、一瞬で気化していく。

 そして炎はRNA生命体を直撃。太陽の表面温度に迫るほどの高熱がその巨体を呑み込まんとした。

 したが、それは叶わない。

 ミリオンが放った炎は、RNA生命体の数十メートル離れた場所で()()()()いた。恐らくは電磁障壁の境界線がそこなのだろう。炎とは高温に達した気体が発光している現象であり、巨大な質量体であるミリオンすら跳ね返す障壁であれば、気体の流れを妨げるぐらいは造作もない筈だ。

 だが、それほど強力な電磁障壁となればエネルギー消費もまた大きい筈。

「さぁ、何時まで持つかしらっ!」

 更に追い詰めるべくミリオンは火炎の出力を上げようとし――――ハッと、背後に意識を向ける。

 空から、『鳥』が飛んできている。正確には鳥に酷似した『怪物』だ。翼が四枚も生え、複眼を持ち、クチバシを持たない生物を鳥と呼べる訳がない。鱗で覆われた黒い球体状の身体や、足のような触手が生えている姿など、見ているだけで吐き気がする。

 それでも名付けるならやはり怪鳥と呼ぶ他ないモンスターは、ミリオンに躊躇なく突撃。衝突した瞬間、身を弾けさせて体液を辺りにぶちまけた。

 その体液に触れたミリオンの一部が、じゅうっ、と音を立てて溶ける。

「……っ!? これは……」

 強酸性の液体か……即座に分析したミリオンは掛かった体液を加熱。体液は五百度ほどで分解が始まり、無害化する。大した脅威ではない、が、ミリオンは表情を強張らせる。

 怪物の噛み付きはなんの脅威でもなかった。微細存在であるミリオンにとって、一点集中の物理攻撃はまず意味を成さないからだ。例えるなら砂場にトンカチを叩き付けても、砂自体は衝撃を流して無事なのと同じ。しかし強酸性の液体となれば、掛かった部分から溶けていく。

 無力化は容易い。太陽の表面温度すら凌駕するミリオンの高温を前しては、どのような物質だろうと一秒と経たずに崩壊するのだから。だが、エネルギーを消費する。守るだけなら問題にはならないが、今は大出力の火炎を維持すべく大量の海水を分解している真っ最中だ。気温から莫大なエネルギーを補給出来るミリオンといえども、そんな無茶をすればエネルギー切れが現実味を帯びる。

 恐らく、RNA生命体もミリオンの狙いに気付いたのだろう。この勝負、ミリオンの方に分がある事にも。

 故に酸性の液体という、ミリオンが苦手とする攻撃を行ってきたのだ。ミリオンに余計なエネルギーを使わせ、自分よりも早く消耗させるために。自らが生み出した『道具』相手に競り負けそうになるという、プライドが傷付くような事態にも素早く淡々と判断を下す。話し方通り、奴には感情がないらしい。

 そしてそんな輩の手加減を、期待する方が愚かしい。

 分かってはいたのだが、緑色の夜空を埋め尽くす『怪鳥』の姿を前にすると、人間的な言い回しをするならば「頬が引き攣る」のをミリオンでも覚えた。

「ちっ……親玉を直接殴るしかないようねっ!」

 渋々、火炎攻撃は中断。海上から高々と飛び上がって空へと舞い戻り、再度RNA生命体への接近を試みる。

 しかし獣の怪物と違い、怪鳥は空を自由に飛び回れる。

 怪鳥達は逃すまいとしてか、ミリオンに合わせて一斉に動き出した! 取り囲むように散開していた怪鳥達は束となり、竜巻が如く轟音を響かせながらミリオンを追跡してくる!

 怪鳥達の飛行速度は凄まじく、薄らと白い霧のようなもの……音速を超えた時に生じる空気の塊、ソニックブームを纏っている。これが限界なのか怪鳥とミリオンの距離は付かず離れずで変化はなく、これならば引き離そうとすれば出来るだろうが、そのために大きな旋回軌道を取らされるのも煩わしい。

 ミリオンは身体の向きを変えて進路変更。新たな航路上にあったのは――――母なる海。

 ミリオンは一切の減速なく海面目指して飛び続け、怪鳥達も怯まず追尾を続行。如何に水といえども、音速で突っ込めば途方もない衝撃を伴う事になる。そして減速すればミリオンは鳥達に追い付かれ、鳥はミリオンを取り逃がす。

 しかしこの状況をチキンレースと呼ぶのは正しくない。

 元よりミリオンに、止まる気はないのだから。

 音を超える速度でミリオンは着水、数十メートルはあろう水柱を上げて海中へと潜る! 怪鳥達もミリオン同様止まる気のない速さで海に突っ込んだ

 が、海中に怪鳥の姿は見られない。

 着水と同時に、怪鳥達はその身を弾けさせていたからだ。強酸性の体液が着水地点を中心に広がり、海面を赤く染め上げる。鳥達は仲間の死を前にしても行動を変える素振りもなく、続々と海洋を強酸で汚染していく。

 その様を、ミリオンは海中から悠然と眺めていた。

 如何に強酸とはいえ、膨大な海水の性質を変えてしまうほどのものではない。十メートルも潜ってしまえば酸はすっかり希釈され、ミリオンになんの害悪も及ぼせなくなっていた。その上ミリオンは生きていないので、水中での活動にこれといった問題もない。逃げ場として、海中は最適だった。

 無論怪鳥達が海鳥よろしく水中を潜行出来たなら、鬼ごっこは再開していただろう。しかしあの鳥達は自らの体液を攻撃手段としており、そのためぶつかっただけで身体が弾けてしまう程度の強度しか持ち合わせていなかった。音速以上の飛行が可能なので柔らかいとまではいかないとしても、衝突に対する備えなど()()()()()()()()

 予想通り、脆弱な怪鳥には海水という分厚い『障害物』を越える事が出来なかった。どうせまた生み出されるだろうが、今回の集団はこれで一掃出来た筈。

 加えてこの生物が、あまり頭が良くない事も判明した。自爆攻撃をする時点で自分の命に頓着しないのは分かっていたが、今回の行動で、目標がどんな状態なのかも考えていない事も判明した。昆虫にすら及ばない、簡単な『プログラム』しか頭に詰まっていないらしい。これなら出し抜くのは簡単だ……あくまで、最初のうちは、であるが。

 怪鳥の前に自分を襲った、怪物。奴等は戦いを経て、少しずつだが改良を施されていた。恐らく怪鳥も改良が行われ、海中に潜った目標への対策が行われるだろう。最初は簡単な方法で対処可能でも、二度目、三度目となれば小手先の策は通じなくなる。

 長期戦に持ち込むのは自殺行為。元より、花中達の身体を考えれば時間を掛けるほど愚かしい行為もない。やはり速攻で片を付けるべきだ。

「(さぁて、このままアイツの懐に……潜り込めたら楽なんだけど)」

 されど、思うだけで事が進めば苦労などない。

 RNA生命体が居た方角から、無数の黒い『魚影』が、こちらに向かってきていた。

 いや、やはりと言うべきか、魚とは似ても似付かない存在だった。本来側面にある筈の目玉が真っ正面に一つだけあり、口がある筈の場所には切れ目すら見られない。ヒレのような突起もなく、例えるなら『魚雷』のような――――

「(『生物兵器』って、そーいうもんじゃないでしょうがっ!)」

 急ぎ反転するものの、如何にミリオンとて万能ではない。魚のように機敏な動きは流石に無理だ。真っ直ぐ、こちらに突っ込んでくる怪魚から逃れる事は叶わず。

 ボンッ!

 強烈な衝撃と音を伴い、怪魚は爆発した!

 怪鳥と同じく自らの命も厭わない自爆攻撃だが、こちらは正しく爆発。強酸なんて回りくどい手段は取らず、衝撃波による直接攻撃だ。空気よりも粘りを持ち、重たい衝撃はミリオンの身体を容赦なく潰してくる。

 つい最近たんまりと食らったミサイル兵器に匹敵、もしかすると凌駕する威力に、ミリオンも顔を顰める。

 ましてや何千と迫る数を目の当たりにすれば、歯ぎしりの一つでもしたくなった。

「(普通に逃げても間に合わない……なら!)」

 泳ぐのを止めて反転。ミリオンは怪魚の大群と向き合うや、目の前の海水を加熱する!

 沸騰した海水はその体積変化により嵐のような流れを生み、怪魚の群れへと襲い掛かる。海流に煽られ、体勢を崩した怪魚達は互いに激しくぶつかり合う。その衝撃で暴発する個体はいなかったが、体勢を崩し、真っ直ぐ進めなくなっていた。その隙にミリオンは海面目指して急速浮上。海面から跳び出し、ミリオンは再び海上へと舞い戻った。

 戻ったが、周囲の光景を目の当たりにしてげんなりとする。

 正面に見据えたRNA生命体……その道を塞ぐように、何百もの怪物が海面に立ち、怪鳥が空を埋め尽くし、怪魚が水面から顔を覗かせていたのだから。一体一体は脅威ではないし、何万体来ようと負ける気はしない。されど怪物に足止めされ、怪鳥の強酸を浴び、怪魚の爆風を当てられたなら……

 少なからず、苦労はしそうだ。

「振り出しに戻った、って感じね。難易度はしっかり上がった状態だけど」

 弱音を吐きながらも、ミリオンは自らの両手に蜃気楼が発生するほどの熱を纏わせる。表情は相変わらず不敵。何分、本気ではあるが未だ全力ではない。フィアと違い、ミリオンは慎重派なのだ。

 しかしここまできたなら様子見とて無粋。士気という名のギアを一段階引き上げ、ミリオンは再度の突撃を行おうとした

 ――――筈なのに。

【緊急停止】

 全身に浸透するように響く、RNA生命体の声。

 その声を聞いた瞬間、ミリオンの身体はピクリとも動かなくなった。

「……!? これは……」

【抵抗は無意味である。お前はRNAウィルス。我々が作り上げた『道具』であり、挙動のコントロールは可能である】

 RNA生命体を無視して全身に力を込める、が、ミリオンの身体はまるで動かない。それも掴まれて振り払えないような感覚ではなく、例えるならコンクリートに沈められ、そのまま固まってしまったような……

 コントロール可能というRNA生命体の言葉は事実なのだろう。()()の方法での脱出は恐らく不可能か。

【繰り返す。抵抗は無意味である】

「ふん。そんな警告で諦めると思う? 確かにちょっと驚いたけど抜け出す手立てぐらい……」

【現状での戦闘行為は双方に損益しか生まないと判断。よって、こちらから妥協案を提示する】

「……妥協案?」

 いきなりの話し合いにミリオンは顔を顰めてみせる。とはいえ彼女もかつてフィア相手に同様の提案をした。違いがあるとすれば、あちらの言葉にはかつての自分と違い焦りが全くない事。

 駄目元で交渉してみた、という雰囲気ではない。恐らく言葉通り双方損益しか生まないと考え、ある程度の譲歩を決断したのだろう――――その譲歩でこちらを説得出来るという確固たる自信を持っているがために。

 甘言に付き合うつもりはない。だが、何を考えているかは気になる。それに再攻撃の前に一呼吸置いておきたい。

「……へぇ、どんな提案をしてくれる訳?」

 あくまで打算的な理由でミリオンは話に乗った。

 だから、

【お前の記憶維持のため、伝達脳波を送信しよう】

 よもや『甘言』に心が震えるとは考えてもいなかった。

「……………!? な……ぁ……!?」

 声が出ない。動けないという事実を失念し、群れである筈の『身体』がRNA生命体に近寄ろうとしてしまう。

 記憶の保持。それはミリオンが花中を殺してでも保とうとした、唯一遺された愛しき人との繋がり。冷静に考えればあまりにも分の悪い、そんな賭けでも挑まねばならないほど渇望した願い。

 それが叶うと告げられ、冷静でいられるものか。

【我々はミュータントの観測を行い、その原理を解明している。お前達の知性の維持には伝達脳波が不可欠であり、伝達脳波の再現に必要な資源は僅か。よって、この程度の譲歩は可能である。そしてこれがお前にとって最も有益な提案であると判断した】

 あらゆる動揺を隠せずにいるミリオンを他所に、RNA生命体は自身の意図をあっさりと明かす。普段ならばそこから『真意』や『状況』を推測するところだが……生憎そんな精神的余裕は今のミリオンにはない。

「な、んで……どうして、それを……!?」

【我々はRNAである。お前の内部にも存在し、その行動及び外部環境変化は常に観測している。蓄積したデータからお前の要求事項を推察、最も効果的な内容を提案した】

「……っ!」

 咄嗟に問い質し、RNA生命体から当然のように答えられてミリオンは言葉を詰まらせる。

 こんなのは、考えれば分かる話だ。

 呼吸を必要としない身体であるが、ミリオンは深呼吸を一回。無意識に能力が発動していたのか、口から吐き出された空気は高熱を帯び、通り道に蜃気楼のような揺らぎが生じた。大量の余熱を排出し、文字通り全身が冷えてくる。

 一旦冷静に考えよう。

 RNA生命体が嘘を吐いているのでは? つまり出来もしない事を出来ると言い張っているのでは? 考えられる中で最悪の可能性であるが、少なくとも奴はここまでの戦いで実際にミュータント的能力を使っている。伝達脳波によって知性を共有し、本来持っていた『才能』を引き出す事でミュータントは人智を超越した能力を発揮する……と『愛しき人』は考察していた。伝達脳波の原理を解析し、再現する事は奴にとってそう難しくない筈。少なくとも近代兵器に迫る力を持った生命体を創造するのに比べれば、脳波が外に漏れている『欠陥生物』の力を再現するぐらい造作もあるまい。

 実現性に問題なしならば、後はこの造物主を信用するかどうかだろう。そして今までの会話から、ミリオンはRNA生命体に嘘を吐く能力がないと思っている。

「……その見返りに、アンタは、何を求めるつもり?」

【全てのDNAの廃棄が完了するまで、お前が敵対的行動を取らない事。それまでの行動は監視及び制限するが、以降この制限を設けるつもりはない】

「……………」

【我々の観測データから推察するに、お前はDNA生命体との関係を重視しておらず、特定容器との交流記憶のみを優先事項としている。この条件ならばお前に損益はないと判断する】

 断言するRNA生命体に、ミリオンは否定の意を伝えない。否定など出来っこない。

 ミリオンにとって大事なものは、愛しき人との思い出。

 それを守れるのなら、フィアやミィなんかはどうだって良い。晴海や加奈子、その他名前も知らない人間など端から眼中にない。花中ですら、記憶の維持の代償として必要なら躊躇なく贄として使おう。育んできた友情? そんなもの、『あの人』との日々に比べたら()()()()()()()()()()

 天秤に載せられたなら、どちらを選ぶかなんて考えるまでもない。

【こちらで考えられる限りの譲歩は行った。こちらの要求を損なわない条件であれば、譲歩の追加も考慮する。返答を求める】

 RNA生命体は回答を促してくる。

 身動きは取れない状況で、こちらにとって有利な――――否、最良の条件を提示されたのだ。答えは決まっていた。花中などいらない。既存の地球生命が滅び、新たにRNA生命体が跋扈しようと知った事か。

 挟まれる沈黙は左程続かない。ミリオンはゆっくりとその口を開き、

「答えはNoよ。アンタの頼みなんて誰が聞くかっての」

 ハッキリとそう告げた。

 途端、ミリオンは身動きの取れない我が身を激しく震わせ、身体からぶすぶすと煙が昇らせ始めた。

 煙はどす黒い色をし、異臭を纏っていた。周囲の大気が揺らめき、高温になっている事が一目で分かる。ミリオンも歯を食い縛り、苦悶を露わにしていた。

 ついにはミリオンの身体から、緑色の液体が染み出してくる。

 その液体を見て、ミリオンは苦悶の顔に笑みを浮かべた。

 ミリオンの身体からは黒煙が一層激しく噴き上がり、周囲の大気の歪みは拡大していく。緑色の液体はべしゃり、べしゃりとミリオンの身体から零れ落ちた。

 そして緑色の液体は、海面上でのたうつように独りでに動く。

 ミリオンは緑色の体液を、先程まで()()()()()()()足で踏み潰して加熱。じゅうじゅうと不快な音を鳴らし、黒焦げた物体と化して水底へと沈んでいく液体をミリオンは愉悦混じりの笑みで見下ろす。体表に残っていた液体も全て黒く染めていく。

 やがて身体から出た全ての緑色が消え、そこでようやくミリオンの身体から黒煙が途絶えた。空気の歪みもなくなる。それから動かせなかった手足を、ミリオンは小さく、だけど自由に動かしてみせた。

「……ふふふ。案外簡単にやれるものね」

 焦げ臭さを払うように手を扇ぎながら、ミリオンは上機嫌な微笑みをRNA生命体に向ける。

【……理解不能】

 今まで徹底して無感情だったRNAの言葉に、僅かながら困惑のようにも取れる揺らぎが混じる。

 『コイツ』には理解出来ないだろう。全ての生命の起源という『母』でありながら、その生命を自らの繁栄の道具としか見ていなかったコイツには。

 拘束を打ち破るために自身のRNAを()()()()、繁殖能力を切り捨てたミリオンの信念など、分かる訳がない。

「あら、そんなに驚いてくれるの? 嬉しい反応ね」

【決裂理由が不明。お前の最優先事項は、『特定人物との接触記憶』の保存である。当方の提示した条件は、その最優先事項を達成するに足るものと認識している。拒否理由がない】

「そうねぇ。確かにあなたの話は、魅力的に聞こえたわ。ええ、結構心がぐらついた。一昔前の、焦っていた頃の私なら、多分飛び付いていたわね」

【理解不能。状況説明を要請する】

「簡単な話よ……だってあなた、『この人』の事消すつもりでしょう?」

 言うやミリオンは自らの頭部の一部を、べろりと開く。

 そして自らの内側にある頭蓋骨――――亡き『恋人』の遺骨を露出させた。

「確かに、『この人』はもう死んでいる。生物学的には完全な亡骸で、蘇生の可能性なんてない……でも、あなたにとっては違うわよね?」

【……………】

「あなたにとって大事なのはDNA。DNA自体が演算し、思考をすると言うのなら、生物体の生死は関係なくて、DNA自体が分解されていないと意味がない。どの程度の分解で思考力を失うかなんて知らないけど、死後数年が経った遺体でもDNA鑑定で身元を特定出来るらしいし、結構長い間機能を保っていそう……というのは考え過ぎかしら?」

 RNA生命体は、DNAを欠片一つでも残す事に強い危機感を覚えていた。花中の生存を懇願しても、その細胞内にあるDNAが何かするのではと憂慮していたほどだ。

 RNA生命体のこの対応が正しいかどうかは、この際関係ない。重要なのはそれほどの警戒心を持つRNA生命体が、果たして『この人』の遺骨にあるDNAを見逃してくれるのかどうか。細胞一つ残す事すら警戒しているのだ。間違いなく、奴はこの亡骸の完全なる処分を目論む。

 それだけは、認められない。

「まだ分かってないみたいだから一つ教えてあげる。私の夢を。はなちゃんにも教えていない、私が未来に対し唯一抱く希望を」

【特定人物との接触記憶の保存であると当方は判断している】

「残念。それは私の本当の願いじゃない」

 思い出を失いたくない……この気持ちに嘘はなく、思い出を守るためなら誰を犠牲にするのも厭わない。

 だが、これはあくまで『必要条件』。

 『この人』がいない世界で長生きするつもりなどない。ただ自殺を許してもらなかったから、今もこうして()()()()()だけ。幸せになってほしいと言われたから、自分が『幸せ』になれる方法を願いとしただけ。

 『この人』が死んでから、願いはたった一つだけ。

「私の夢は、『この人』と一緒に朽ちる事――――何万年も寄り添って、思い出だけを繰り返しながら時を過ごし、一緒に死ぬ事よ」

 にっこりと幸せそうに微笑みながら、ミリオンは自らの想いを打ち明けた。

【……理解不能】

「あなたも恋をすれば分かるわよ……ああ。でも、それももう無理かしら」

【否定理由が不明】

「あら、分からないの? 私の中に居たなら、私の言動は全て把握しているんじゃない? それとも忘れちゃったのかしら」

【記録喪失は確認されていない】

「あっそう。じゃあ思い出しなさい。二ヶ月ぐらい前に、私がさかなちゃんに言った言葉を」

 笑顔のまま話を続けていたミリオンだが、一瞬でその形相を変貌させる。

 鋭き眼差しには殺意を。

 震える口先には執着を。

 引き攣る頬には憎悪を。

 あらゆる負の感情を滲ませるその顔は、さながら怨霊。自身の想いを脅かす存在への憎しみを隠さず、

「『この人』を寄越せと言われたら、そいつをゴミにしてやるわっ!」

 吐き出された呪詛を超える速さで、ミリオンは空を駆けた!

【交渉は決裂したと判断。戦闘形態へ移行する】

 迫り来るミリオンを前にし、それでも淡々と状況を認識したRNA生命体が変貌する。

 緑色の空から無数の光が舞い降り、ミリオンとの対話を行っていた赤色の球体の周囲に集結。光の塊は段々と形を作り、徐々に質量を帯び始めた。質量は巨大な肉塊へと変貌し、皮膚を剥がした筋肉のような代物が形成される。

 無論、ミリオンにこの変異を見届けてやる義理はない。邪魔しようと更に接近、したのも束の間、周りに展開していた怪物達が一斉に襲い掛かってきた。

 足止めを食らったミリオンを尻目に、RNA生命体の変態は進行する。筋肉に取り込まれた球体は胸部に当たる箇所に埋もれ、さながらある特撮番組に出てくる光の巨人のタイマーが如く、光り輝いている。四肢を持ち、頭らしき部分があって、二本足で立っている姿は、人型としか形容出来ない。だが、断じて人間とは似ていない。内臓を練り合わせて作ったようなそれは、冒涜という言葉すら生温く思えるほどにおぞましい。真っ当な人間ならば視界に入れただけで吐き気を催し、なんらかの宗教の熱心な信者ならば、あのような『汚物』が造物主である事実に耐えられず発狂するだろう。

 されどミリオンは怯まない。元より、吐き気を催すための『感覚器』など持ち合わせていない。

 変化が終わるのとほぼ同時に邪魔者を燃やし終えたミリオンは、足下の大気を加熱。爆発的な加速を以てRNA生命体に肉薄するや広げた掌を躊躇なく突き出す! RNA生命体も素早く左腕を振り上げて対応。人間で例えれば前腕部分でミリオンの拳を受け止めた。

 本来ならば、RNA生命体の腕部は原形を保ってはいられない。ミリオンの能力により七千度を超えるまで加熱され、どんな物質でも気化・プラズマ化してしまうのだから。

 だが、RNA生命体の腕部に変化はない。

 当然だった。ミリオンはRNA生命体に()()()()()()のだから。

「(届いてない……!)」

 掌から伝わってくる、反発するような感覚。磁石の同極同士を無理やり近付けたように、手の動きが妨げられている。

 恐らく奴は電磁障壁を全身に纏っている。電磁的反発により接触を防いでいるのだ。

 ならば、

「このまま握り潰す!」

 反発を上回る力によって、無理やり抜ける!

 大凡策とはいえない強引な行動は、しかし思惑通りに進んだ。ミリオンの掌は障壁を突破してRNA生命体の左腕に接触。造物主の肉体は易々と気化し、切断された腕は彼方へと飛んでいった。

 ミリオンは素早く二撃目三撃目を繰り出し、右腕と頭部の一部を切り落とす。が、断面部は即座にうねり、肉が盛り上がって元の形に戻ろうとしていた。RNA生命体にとってこの程度、ダメージにもなっていないらしい。

 何か、止めとなる一撃――――弱点を突く必要がある。

 RNAの集合体である奴に、弱点など存在するのか? 根本的にして重大な問題であるが、心当たりはある。

 胸部にある赤い球体だ。

 RNA生命体が語った歴史曰く、奴等は単独では小さな演算機能しか持たず、分子量の巨大化によって演算力を増大させ、更にネットワークのように連結する事で高い知性を獲得した。つまり奴の知性は自前なのだが……同時に、少数では大した知性を持ち合わせていない事になる。知的生命体のように振る舞うには、個々のRNAが出した演算結果を集積・解読・統率するための『中枢』が必要な筈だ。

 そして中枢では大量の情報を処理すべく、エネルギーを使う事になる。世界中のRNAを統率しているとすれば、さぞ膨大なエネルギーを消費している事だろう。例えば、放熱により赤色の光を放っていたりするかも知れない。

 無論、ミュータント能力を再現したRNA生命体。伝達脳波の仕組みにより個々が強い思考を持つに至った可能性はある。が、だったら『赤いコア』など必要ない筈だ。

 あれがどのような器官であれ、ちょっかいを出す価値はある。

「そこっ!」

 両腕と頭部を切り落としたミリオンは素早く、RNA生命体の胸部で輝く赤い球に手を伸ばした

 瞬間、バチンッ! と音を立てて、ミリオンの手が弾かれる! 攻撃を察知し、電磁障壁の出力を急激に高めてきたのか。

「ちっ――――ぐっ!?」

 攻撃が防がれた事に舌打ち、している隙を突かれ、ミリオンは再生したRNA生命体の腕に顔面を殴られる。なんとかこの場に留まろうと踏ん張るが、人間の頭部なら容易く粉砕していたであろう打撃に片脚が浮いてしまう。

 追い討ちとばかりに、RNA生命体はミリオンに強力な蹴りをお見舞い。さながらボールの如く、ミリオンの身体は彼方へと飛んでいってしまう。しかし痛覚など持ち合わせていないミリオンに、打撃の余韻など残らない。空中で素早く体勢を直し、二本足で海上に着地。

 そしてミリオンはにやけた笑みを浮かべた。

「(やっぱり、まともに表に出てこなかった引きこもりね……あんな露骨に防御したら、そこが弱点ですって言ってるようなものじゃない)」

 嘘を吐く能力がないだけに、反応が分かりやすい。胸元にある赤い球体が『弱点』で間違いない。

 問題はどうやってあの強固な電磁障壁を破るかだが、糸口はある。

 電磁障壁のメカニズムは反磁性を利用したもの。強力な磁力により、こちらの力を凌駕する反磁性を生じさせて吹き飛ばした……という推測をミリオンは既に立てている。

 が、ならば何故窒素や炭素などの、反磁性体の塊であるRNA生命体は無事なのか。

 普通に考えて、磁力の発生源であるRNA生命体が一番影響を受ける筈なのだ。つまりミリオンを吹き飛ばすために電磁障壁を展開したなら、その瞬間RNA生命体自身が吹っ飛ばねばならない。ところがRNA生命体は、自身の形を保持するのに苦労している様子すらない。これでは理屈に合わない。非科学的だ。

 だが、それがなんだ?

 ミュータント能力とは元より、人智を凌駕するもの。一億トンの水を操り、地中貫通弾の直撃に耐え、物理的破壊力を伴うほどの大出力レーザーをぶちかます。人間が築いた条理を完膚なきまでに破壊し、新たな真理(でたらめ)を以て君臨する。それが自分達だ。ありのまま理解すれば、それで真理が見えてくる。

 恐らくRNA生命体は……

 考えを纏めようとするミリオンだったが、彼女は一つ失念していた。

 RNA生命体はあらゆる生命の始祖という、最も傲慢である筈の存在ながら――――自分の状況を素直に受け入れる事しか出来ない、最も真摯な『生命』である事を。

 RNA生命体が無言で片手を上げる。

 すると突如として、世界が震え始めた。

 地震のような揺れではない。海面のみならず空気と、そしてミリオンの身体自体が震えているのだ。強力な磁気を周囲にばらまき、その影響が及んでいるのだろうが……だが、桁違い過ぎる。あの非常識な電磁障壁すら児戯に思える大出力でなければこんな現象は起こせない筈だ。

 そしてその大磁力を用いて、一体何をする?

 感覚器を持たない身でも『悪寒』を感じる状況に、身を強張らせるミリオン。しかしハッと目を見開くや、その身体を素早く後ろへと振り向かせる。

 背後に広がっていたのは、無数の物体が浮遊する光景。

 だが飛んでいるのは『怪鳥』ではない。形は千差万別……というよりも共通点がない。いや、ある筈がない。何しろそれらの『物体』はミリオンの背後に位置する、海沿いの町から次々と浮かび上がっているのだ。

 浮かんでいたのは自動車、看板、街灯、ガードレール……数えるのも馬鹿らしいほどの種類と総数だったが、いずれも金属で出来たもの。

 強力な磁力によって、RNA生命体が町から引き寄せたのか。しかしあまりにも大量の物体が浮かび上がった結果、空に巨大な島が出来上がっているではないか。いくらなんでも出鱈目過ぎる。

 ましてや今からこれらの相手にするとなれば、表情が引き攣るのも当然だった。

「……いやいや、ちょっとこれは、っ!?」

 愚痴を叩く間もなく、浮遊した金属達がミリオン目掛け突撃してきた! どれも弾丸のような速さだ、今から動いても避けられない。

 判断の遅れを自責するミリオンだったが、即座に対応を取る。表層部分の結合を変化させて耐衝撃性を強化。更に腕部に滞留する空気を加熱し、体積を急激に膨張させる。そして肘に穴を開け、膨張する空気をジェット噴射の如く勢いで排出。その反作用を利用して高速の拳を放つ!

 閃光のような軌跡を残して飛来する金属達と、残像が残るほどの速さを誇るミリオンの拳が激突。襲い掛かる何千何万もの金属は、打ち合いに負けて粉々に砕け散っていく。

 しかしまともに殴り合えるのは、精々ガードレール程度。

 ミィのような馬鹿力は持ち合わせていないのだ。超高速で飛来する自動車などは、流石に殴り飛ばせるものではない。

「ぐっ! ぬぅ……!?」

 車の衝突に腕で立ち向かったミリオンは踏ん張り、立ち続ける。が、受け止めた際の勢いから衰えるどころか、車は力を増してミリオンに迫ってくる。

 RNA生命体が磁力を強めたのか? 否、そうではない。

 単純に、車が突撃してくる最後の金属ではなかったというだけの事。止められた車などお構いなしに、次々と金属体が突き刺さる。衝突により車はどんどん潰れ、最早巨大なスクラップの塊としか言えない状態になっても尚攻撃は止まない。

 ついには押し留められず、ミリオンはその場で膝を付いた。金属の集まりはのし掛かる形になり、ミリオンは両手で必死に支えるも徐々に海に沈んでいく。

 このまま海中に沈められたなら、爆発する怪魚の猛攻に遭うのは容易に想像が付く。いくらか対抗策は講じているが、それでも爆風による攻撃が比較的苦手なのは変わらない。全身を構築する個体は少しずつ減らされ、最期は内側で守っている『この人』が剥き出しになるだろう。このままでは大切な『この人』を傷付けられてしまう。

 ――――そんな事、認められない!

「っ……のぉ! 退きなさいっ!」

 一度は挫けた、生命を持たない『全身』に力が漲る! 足下の海面が波打ち、沈みかけていた身体は停止。それどころか徐々に浮かび上がり、自身に迫る車を押し戻していく!

 金属達は途絶える事なく続々と飛来しており、ミリオンに襲い掛かる金属の塊どんどん巨大化している。きっかけだった車は今や原型を留めておらず、五十メートルはあろうかという巨塊に変貌していた。

 だが、ミリオンは二度目の後退をしない。前に前にと押し返し、ついには金属塊を自分の上から完全に押し退ける! 周囲を照らす、先程まで金属塊によって遮られていた緑色の夜空がミリオンを再び照らした。

 しかしそれも束の間の出来事。

 不意に、ミリオンの周囲に影が落ちた。空に雲でも掛かったか……そう判断して無視したくなる理性だが、しかし『本能』が警告を発している。「何かヤバい」、と。

 反射的にミリオンは顔を上げる。

 結果、自身目掛けて落ちてくる数十メートルの物体――――ガスタンクの姿を目の当たりにした。

「なっ!? っ……」

 反射的に避けようとして、自らが『鉄塊』と押し合いをしている事に気付く。手放せば、途端にこの鉄塊は自身を押し潰そうとする。

 八方塞がりの状況に打開策を模索するも、猶予は皆無。ガスタンクは無慈悲にミリオンを押し潰した

 瞬間、紅蓮の炎を噴き上げながら爆発する!

 ガスタンクはその金属製の壁を紙のように破裂させ、一瞬にして巨大な炎へと変貌したのだ。膨大な熱量により上昇気流が発生し、炎はさながら原爆が如くキノコ雲を形作る。発生した衝撃波は海上を駆け抜け、数キロ彼方にある沿岸の都市部に直撃。窓ガラスを割るだけでは飽き足らず、木製の屋根を引っ剥がし、植物は根元からへし折り、倒れ伏す人々や動物をゴミのように吹き飛ばす。

 動じないのは、RNA生命体のみ。

 奴は差した指先から、明滅する一閃の光を放っていた。それは射線上の空気を急激に膨張させており、乱高下する気圧から不協和音のような音を響かせる。

 粒子に電荷を帯びさせ、亜光速で射出する攻撃……荷電粒子砲。

 RNA生命体は射出した粒子によりガスタンクの壁を破壊。尚且つ高エネルギーを纏った粒子によって空気とガスが混合状態にある境界線部分を加熱し、爆破したのだ。二十万立方メートルにもなる容量のガスは、一度の爆発では燃え尽きない。拡散したガスが燃えて辺りの海域を照らす巨大な炎を作り上げ、ガス溜まりに引火したのか小さな爆炎を時折噴き上げる。発する熱の膨大さで水面が沸騰し、煙に混じって大量の湯気も上がっていた。

 それでも足りないとばかりに、RNA生命体は更にもう二つのガスタンクを引き寄せ、落とす。潰れたガスタンクから噴き出したガスが引火し、二度目、三度目の大爆発を起こす。衝撃波もその都度生じ、沿岸の町並みを叩き潰した。

 最早並の生物では跡形も残るまい。

 しかし、

「今のは、流石にキツかったわ……さかなちゃんと戦って、耐爆性の高い連結構造を研究してなかったら、人型を作れるほど残らなかったかも」

 爆炎の中から、ミリオンは無傷の姿で現れる。

 無論、正確には無傷ではない。むしろダメージは大きい……今の猛攻で、かなりの数の『個体』が破壊された。割合にして五パーセントほどか。単純計算ではあと十八回同じ攻撃に耐えられるが、しかし個体数が大きく減れば構成が崩れ、防御力は著しく低下する。そう何度も耐えられるものではない。そして沿岸部にはまだガスタンクがかなり数残っており、先の攻撃を繰り返すのに現状支障はない。

 本気を出させるまでには追い詰めたが、今度は自分が追い詰められたらしい。いよいよ後がない。ミリオン自身そう感じている。

 それでもミリオンは笑った。勝利を確信するかのように。

 しかし笑みを浮かべていられたのは一瞬。

 次の瞬間、ミリオンは自身の『身体』に強烈な負荷が掛かるのを覚えたのだから。

「ぐっ!? ぬぐ、う……!?」

 駆け出そうとした足が、一歩も動かせない。まるで見えない何かに押し潰されそうになっているような、未体験の重圧が身動きを妨げる。

 現象の理由は、足下の海中にあった。

 人間程度の視力では見えないだろう、薄らとした緑色の光……それがミリオンの足下付近に散開していたのだ。正体は探るまでもなくRNA。ガスタンク攻撃の最中に展開していたのか。恐らく強力な磁力を発生させ、周辺にある常磁性の大気――――酸素を集めているのだろう。莫大な量の酸素が引き寄せて常軌を逸した高圧環境を作り出し、こちらの動きを妨げているのだ。

 能力を使って酸素を燃やしてしまえば、この圧力は取り払えるだろう。しかしミリオンの怪力をも妨げる高圧の酸素に火を付けたなら、果たしてどれほどの爆発が起きるか分かったものではない。下手をすれば、脱出するつもりで自滅してしまうかも知れない。

【勝敗は決した。時間及び資源の浪費を避けるべく、自壊を推奨する】

 最後通達のつもりか、RNA生命体はミリオンに自壊……自殺を要求してくる。尤も答えを待つ気はないようで、ゆったりと動かす腕に合わせて地上の方から轟音が聞こえてきた。わざわざ音がした方の視覚情報を収集せずとも、残ったガスタンクを引っ張ってきている事は明らかだ。足下を見れば、うっすらとだが無数の魚影も確認出来る。

 容赦なし、油断なし、感情なし――――敵として、ここまで隙がないといっそ感心すら覚える。

 詰みだ。完全なまでに。

「……いやはや、参ったわ。流石は造物主様。調子に乗っていたのは私の方だった、ってところかしら?」

 観念したように顔を顰めながら、ミリオンはぼやく。本当は肩も竦めたかったが、生憎そんな動作すら簡単には出来ないほど全身が重い。

 しかしRNA生命体はミリオンの言動など無視し、自身の攻撃動作を継続する。空に無数のガスタンクが浮かぶだけでなく、海から体長五メートルはあるゴカイのような巨大軟体生物が現れる。軟体生物の頭部は強烈な光を放っており、ミリオンは直感でその輝きが荷電粒子砲によるものだと理解した。無駄話をしてくれないどころか、耳も傾けてくれないらしい。

 諦めるように、ミリオンはため息一つ。

「ほんと、『タネ』が分からなかったらどうなっていた事やら」

 それから小さく、独りごちた。

 ピクリと、RNA生命体が反応したのをミリオンは見逃さない。『タネ』という言葉に、奴は確かな警戒心を抱いた。

 これだけで十分だ。『仮説』でしかない考えを、確信に変えるには。

 だからもう、躊躇わない。

 次いで起きた出来事は、あまりにも目まぐるしい。

 ミリオンは限界を超える力を以て素早く左腕を上げる。構成する個体の何割かが自壊しそうになるが構わず、真っ直ぐRNA生命体に指先を向けた。RNA生命体は何かに対応するように ― 青白い半透明な『膜』が見えるほど ― 強力な電磁防壁を展開。ガスタンクは流星のように降下し、軟体生物は放つ煌めきを一気に強める。

 全てが連鎖的に、瞬きする間もなく流れていく。刹那の顛末を把握するのは当事者達のみ。

 そして二体の予測する『未来』は異なり、

 結末として起きた事象は――――RNA生命体の赤いコアが、ぶちゅりと弾ける事だった。

【――――!】

 RNA生命体は慌てるように、自らのコアに手を伸ばす。が、最早手遅れ。コアは沸騰し、湯気と共に中身である赤色の液体を噴き出させる。

 どうにか沸騰を止めようとしてか、RNA生命体は大切なコアに腕を突っ込み、その中身を掻き出す。最早損失度外視の応急処置だが沸騰は止まず、それどころかコアに触れた腕の表面に気泡が発生。そのまま弾け、脆くなった腕が千切れ飛ぶ。

 それでも抵抗を諦めず、RNA生命体は再生させた腕でコアの復旧を試みるが……異常を取り除くよりも、RNA生命体が膝を付く方が早かった。

「やり過ぎたわねぇ。もう少し落ち着いてやれば、最後まで誤魔化せたかも知れないのに」

 その様を前にして、ミリオンは変わらぬ重圧の中で勝者の笑みを浮かべている。

 強力な磁力を放てば、自身がバラバラになりかねない……RNA生命体の能力の『矛盾』を解決する方法は一つしかない。

 対象を選別する事だ。

 或いは特化させると言い替えるべきかも知れない。タンパク質、金属、水……材質によって効果のある磁力を選択しているのだ。磁力の『多様性』というものを現代科学は想定していないが、そうとしか考えられない。でなければ遥か遠方のガスタンクが浮遊するほどの磁場に曝されているのに、近くに居たミリオンに大した影響がなかった理由が説明出来ないのだから。RNA生命体の磁力は自分を例外にしているのではなく、『効果のある対象を選択している』のだ。

 だから、絶対に磁力の対象とならない物質を使えば障壁を突破出来る。

【これは、()()()――――!】

「あら、流石ね。すぐに見抜くなんて」

 RNA生命体の言葉に、ミリオンは称賛を送る。身体への重圧がなければ、拍手も送ってやっただろう。

 何があろうと、どんな危機に陥ろうと、絶対に磁場の対象とならない物質が一つだけある。

 『RNA』だ。RNA生命体であるが故に、RNAだけは絶対に対象とする事が出来ない。RNAならば、奴の展開する電磁障壁を必ず突破出来る……とはいえ、RNAを攻撃手段にする事は容易くない。いや、ミリオンならば可能だったが、『体内』にあったRNAは全て焼き捨ててしまった。それにRNAを用いて攻撃しようとすれば、RNAを統括している奴にはすぐバレてしまうだろう。

 だから、代替物質を使った。

 DNA――――RNA生命体が()()()()()()()()()()()()()物質だ。RNAと近しい構成をしているDNAならば電磁障壁を突破出来ると踏んだのだ。

 そしてDNAの出所は、大切な『愛しき人』の骨。

 成人に存在するDNA量は凡そ二百~三百グラム。人体における骨の重量は体重の二十パーセントと言われており、DNAが全身に均等に散っていると仮定すれば、『愛しき人』の亡骸には四十~六十グラム程度のDNAがある事になる。

 実際にはそこまでの量はなく、取り出せたのはほんの僅かだったが……どうにか三グラムは確保出来た。たかが三グラム。されど三グラムもあれば十分。

 弾丸のようにDNAを固め、その内側に数万ほどの『自身』を潜ませるには。

【想定外。計算外。解析――――】

 どうにか打開策を練ろうとしたようだが、最早手遅れ。

 RNA生命体のコアは破裂するように弾け、赤色の液体となって辺りに飛び散る。膝を付いていたRNA生命体は、その姿勢すら維持出来なくなったのか。両腕を広げ、仰向けに倒れていき

 海中から一際巨大な、触手型の肉塊が何十本と現れた。

 勝利の余韻に浸る中での出来事。肉塊はミリオンの死角から現れ、振り返る暇もなく先端を開花させるように裂く。裂けた肉塊はその奥で眩い光を放ち

「ようやく噓の吐き方を覚えたかしら? でも残念。せめて私を押し潰そうとしてる磁力を消してからじゃなきゃ、力尽きてないってばれるわよ?」

 しかし光を、ミリオンにぶつける事は叶わない。

 RNA生命体の全身が破裂するのと共に、ミリオンを拘束する圧力はすっかり消え失せ、肉塊は海へと沈むのであった。

 

 

 

【――学習―了――――情ほ――析――】

「あら、その状態でまだ動けるなんて、ちょっと予想外ね」

 海面に漂う赤色のコアの欠片に、ミリオンは心底驚いたように声を掛けた。

 言葉は途切れ途切れで、RNA生命体が機能不全を起こしている事は明らかだった。再生する素振りもない。創られた怪物達は指令がなくなった影響か、動きを止めてプカプカと浮かぶだけ。いずれ彼等は魚や鳥に啄まれ、バクテリアにより分解され、自然界に還元されるだろう。空からは緑のオーロラが消えており、満天の星々が地上を照らしていた。

 勝利は確定的だ。RNA生命体の目論見は潰え、ミリオンは『夢』を追い続けられる。

 しかし未だコアが活動しているのも確かで、再起する可能性もゼロではない。何しろコイツの正体はRNAであり、微細な物質の集合体に過ぎないのだ。そのような存在がどれほどしぶといか、ミリオンはよく知っている。

 完全な機能停止……いや、破壊を行わなければ安心など出来ない。そしてそれを可能とする力をミリオンは持っている。

 あらゆる分子を崩壊させる高熱で完膚なきまでに破壊すべく、ミリオンはコアへと手を伸ばし、

【解―――情――送信――――完―】

 ピタリと、その手を止めた。

 今、なんて言った?

 途切れ途切れの音声だ。一部しか聴き取れていない。だがその一部の中に……確かに、『送信』という単語があった。送信という事は、何処かに情報を送ったという事だ。

 コイツは一体何処に情報を送ったのか?

 いや、そもそも()()()()()()()

「あなた一体何を……!?」

【我々は、個――ない】

 無意識に出た言葉に、RNA生命体が答える。先程までと何も変わらない筈なのに、壊れかけたラジオよりも途切れ途切れなのに、何故か、嗤っているように聞こえる声で。

 RNA生命体は語った。

 情報の統率機能を持ったコアは、複数存在してある。『自分』はその一つに過ぎない。DNAからの反撃を考慮し、万一に備えてスペアを用意しておいたのだ。

 用意したコアは三つ。

 その三つのコアを破壊しなければ、RNAのコントロールは止まらない。

【惑星各―――散さ―て―――お――機動力で―――線移動――数―を要する。全D――生命体の活―停止――の猶予は】

 ぐしゃり。

 話の続きを遮るように、ミリオンはRNA生命体のコアに拳を叩き込んだ。次の瞬間コアはゴポゴポと沸騰し、綺麗な赤色がどす黒く変色する。その黒さすらもミリオンが手を放すや海水に溶け、跡形も残らない。

 もう、RNA生命体は何も語らない。

 波の音と星の光が満たす海上で、勝者であるミリオンは力なく膝を付いたのであった。




はて、これはどっちが勝者でしょうか? 決着は次回にて明らかに。
あ、ミリオンですが割と致命的な事をやっています。何しろRNAを全排除しちゃいましたからね、今や増殖機能すら失ったタンパク質です。自軍狂キャラは弱体化が常なのですよ(なお、弱体化したところで人類絶滅ぐらいは出来る模様)

次回は4/2(日)投稿予定です。


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母なる者9

 RNA生命体を打ち倒したミリオンは、俯きながら町の中を歩いていた。

 進む道の周囲には燃え盛る家々があったが、ミリオンは見向きもしない。崩れ落ちた瓦礫が自分を飲み込み、突き飛ばされて倒れる事もあったが、何事もなく立ち上がり、再び歩き始める。節穴の眼には辛うじてあった筈の感情が消え失せ、死体がそのまま歩いているかのように表情を枯らしていた。

 ここまで絶望的な気分になったのは、『この人』が死んでしまった時以来だろうか。

 考えてみれば、アイツは無数のRNAの集合体……自分と同じく膨大な群体から『個』を形成するモノだった。分散した『個体』を複数作っておくなどリスク管理の初歩。かつて、ミリオン(じぶん)もフィアと戦った時にやっていたではないか。相手が同じ手を使ってくる事は予想出来た筈なのに。

 もう、どうにもならない。

 世界の何処かに居る、残り三体の『造物主』を夜明けまでに探し出して倒せ? 不可能だ。地球が途方もなく広い。探すどころか辿り着くのにも時間が掛かるだろう。仮に居場所がすぐ近くだったところで、先の戦いの情報は恐らく残る三体のRNA生命体にも伝わっている。怪物達はより強力な個体へとバージョンアップされ、より多様な戦術を用いてくるだろう。そして止めを刺した一撃に対し、なんらかの対抗策を編み出されている可能性が高い。

 挙句、RNAを喪失した事でミリオンは増殖能力を失った。DNAを持たないインフルエンザウイルスにとってRNAは唯一の遺伝情報であり、RNAがなければ新たなRNAの合成は行えない。戦えば戦うほど自分の『数』は減っていき、加速度的に力を失っていく。

 どんどん強くなる敵と、どんどん弱くなる自分。

 愛する人の遺骨を守るという制限付きだったとはいえ、先の戦いですら互角だった。二戦目以降の勝敗など、考えるだけ無駄だ。

 自分の力ではRNA生命体を倒せない。

 RNA生命体を倒せなければ……奴等によってRNAを抜かれている花中達は、朝にはその命を落とす。いや、花中だけではなく、世界中の人間が死滅する。居るかどうかも分からない、『代替品』という可能性すらも潰えてしまう。

 そして花中達が居なければ、ミリオンは愛しき人の記憶を維持出来ない。

 ――――唯一の願いだったのに。

 好きな人の思い出を胸に、共に朽ちたいというささやかな願いなのに。好きな人の待つ世界へと逝きたいだけなのに。どうして叶えられない? どうして、何時も上手くいかない?

 もう、考えるのも嫌だった。

「……………っ」

 ごん、と頭をぶつけた。顔を上げると見慣れた建物が。

 花中達を寝かせている、本当なら楽しい一夜を過ごす予定でいた旅館だ。

 俯きながら歩いていたので、建物の柱に頭をぶつけてしまったようだ。それに頭をぶつけるまで、聴覚情報や視覚情報の処理も行っていなかった。精神的負荷があまりにも大きく、五感の再現をすっかり忘れていたのだ。つまり周りの音は聞こえず、景色も見えずに歩いていた。

 にも拘わらず自然と此処に戻ってきたのは、きっと無意識の足掻きなのだろう……ミリオンは、そう思った。

 自殺は出来ない。それは死の間際、愛した人が遺した言葉によって禁じられているから。だけど思い人の記憶と共に朽ちる夢ももう叶わなくなった。届かぬ夢を諦めずにいられるほど、ミリオンという『乙女』の心は強くない。

 だからせめて、花中の命が潰えるその瞬間まで、彼女の傍に居たい。大切な人との思い出を、一秒でも長く、忘れずにいられるように。

 柱を避け、側にある扉を開けてミリオンは建物の中へと入る。視覚と聴覚に相当する情報処理を再開し、蛍光灯で照らされた建物内の構造を正確に把握しながら前へと進む。目指すは、花中達を寝かせている大部屋。

 その部屋は出入り口の扉からさして距離はなく、すぐに辿り着いた。造物主すら屠る己の手を小さく震わせながら、ミリオンは部屋と廊下を区切る襖を開け――――

「ひゃっはー革命だぜぇ!」

「あ、あの、革命返し、です」

「おぶふっ!?」

「うっわ、えげつない」

 みんなで仲良く、大富豪 ― 大貧民と呼ぶ場合もあり ― で遊んでいる姿を目の当たりにした。

 折角の『革命』をあっさり返され、畳の上でのたうつ加奈子。その様を呆れた表情の晴海が眺め、フィアは自分の手札を悩ましげに睨み付けている。ミィは猫の姿で、頭の上からフィアに指示を出していた。ミィ以外の全員が浴衣姿ではしゃいでおり、旅行を心底楽しんでいるのが見ただけで伝わってくる。

 そして加奈子の『革命』を無に帰した花中は、おろおろしながら右往左往。その拍子にふとミリオンの方へと顔を向け、ハッとした素振りを見せる。

「あ、ミリオンさん。えと、何処に」

 次いで親しげな笑顔を浮かべながらミリオンに話し掛け

 ぴしゃり。

「……………あっ」

 ミリオンは思わず襖を閉めてしまった。目の前に広がっていた光景が、あまりに予想と食い違っていたので。

 視覚情報や聴覚情報の処理に問題があったのか? 再開したばかりでノイズでも混じったのかと再処理を行うも、情報精度に問題は見付からない。実際の光景と音声だと物語っている。

 いや、やはりおかしい。

 花中達の不調はRNA生命体の力によるもの。RNAが離脱した事で正常な細胞分裂が行えなくなったからであり、この事象はRNA生命体が地球生命の一掃を目論んだ結果だ。RNA生命体は未だ三体も残っており、計画は現在も続いている……筈である。先程一体倒した事で日本周辺では干渉が弱まった可能性もあるが、奴が最期に見せた例え最後の一体になろうと問題などないと言わんばかりの態度からして、奴の力は単独でも地球全土に及ぶものと考えられる。多少のインターバルは出来たとしても、状況が好転するとは考え難い。

 どうして? 一体何が? 何かの策略か――――

「あの、ミリオンさん……どうか、しましたか……?」

 考え込もうとしたミリオンだったが、不安げで、今にも吹き消えてしまいそうな声が思考を妨げる。

 振り返れば、先程咄嗟に閉じてしまった襖を開け、廊下側に顔だけ出してこちらをじっと見つめている花中と目が合った。その瞳は今にも泣きそうで、けれども宿る光はまだまだ潰えてしまいそうにない。

「……はなちゃん……身体の方は……」

「え? あ、はい……その、ご心配、かけました。なんか、分からないです、けど、えと、ついさっき、元気には、なりました」

 両腕を曲げて、花中は元気さをアピール。貧弱な腕には力こぶすら出来ていないが、動き回れる程度には回復しているのは確かなようだ。

 ますます訳が分からずミリオンは呆気に取られてしまうが、ぼんやりしていると花中もまたキョトンとしてしまう。段々と空気がぎこちなくなり、何か、喋りにくくなる。

「花中さーんどうしたのですかぁー?」

 が、此処にはそんな空気を読まない魚類も居た。おまけとして付いてきた猫もだ。

「あ、フィアちゃん、ミィさん……」

「およ? ミリオンじゃん。戻ってきたの?」

「さかなちゃん、猫ちゃん、あなた達身体の方は……」

「あん? 体調なんてとっくに回復してますよ。そんな事より花中さんを独り占めなんて許しませんからねっ!」

 話もろくに聞かず、フィアは花中の手を掴んで部屋の中へと引っ張り込んでしまう。手加減はしているだろうが、人間である花中が化け物(フィア)の怪力に抗える訳もなし。呆気なく花中は連れ去られてしまった。

 連れていかれてどうという事はないが、話途中だった所為かミリオンはつい追い駆けてしまう。

「あら、ミリオンじゃない。おかえり」

「んよ? ミリきちかー?」

 勢いのまま部屋に入ると、今度は晴海と加奈子が歓迎してくれた。この二人も、普段より少し顔色が悪い、ような気がする程度。大丈夫かと身を案じれば何故そんな事を訊くのかと、逆に問い返されそうなぐらい元気だ。

 温泉での出来事から今この瞬間まで、自分は悪趣味な夢でも見ていたのだろうか?

「いやー、ミリきちが戻ってきて思い出したけど、さっきのはなんだったのかな?」

「急に意識が遠退いたもんねぇ……しかもその後大桐さんや、フィア達まで倒れたみたいだし」

「おまけに旅館中の人間やペットが倒れていましたからねぇ。回復してから事情を聞こうとしたのですが誰もが自分の事で手一杯なようでして。テレビを点けても番組自体が混乱している始末ですし」

「そーいう訳で出来る事もないから、落ち着くまでこうして遊んで時間を潰してたんだけどね。流石に、そろそろ外に出てみようかなーとかは考えていたけど」

 脳裏を過ぎる一瞬の現実逃避も、人間と動物達の会話がそれを否定する。お陰でもう、本当に訳が分からない。

「ただ、外に出るにして、も、何を訊けば良いかも、分からなくて……ミリオンさんは、何かご存知、ですか?」

「え、ええ、まぁ……」

 そして戸惑いの中で花中に訊かれたものだから、ミリオンはうっかり正直に答えてしまった。普段らしからぬ失態に我に返るも後の祭。

「え? なんか知ってるの?」

「ふむ大富豪にもそろそろ飽きてきましたし暇潰しには丁度良いですね。教えなさい」

「あたしも気になるー」

 失言は瞬時にその場に居た全員に知れ渡り、最早誤魔化しようのないものとなっていた。

 全員の視線が一斉にミリオンへと向けられる。誰もが好奇の感情を隠そうともせず、話してくれるのが当然だと思っている様子だ。別段、この期待を裏切る事に良心の呵責などはないが……断ればそこそこ面倒臭い展開になりそうである。

 それに解決すべき()()()()問題が何故かどっかに行ってしまって、ミリオン自身も困惑しているところだったのだ。悩んでいる時は誰かに相談するのが一番。そして相談するためには、事の成り行きを話さねばなるまい。

「……そうね。ちょっと長くなるけど、話すとしましょうか」

 呆れたように肩を竦めながら、ミリオンは三人と二匹の輪の中へと入る。

 これから何が起きるのかどころか、今どうなっているのかも分からない。

 だったら深く悩んでも、仕方ないだろう。

 何も知らない能天気な『友人』達に話し始めた時から、ミリオンの顔には穏やかな笑みが戻っていて。

 話を唖然としながら聞く友人達の姿を見たら、今度は笑い声まで漏れ出てしまうのであった――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界の最奥にて。『母』は、その形を崩落させていた。

 世界中に伸ばそうとしていた手足は切り落とされ、守りとして産み落とした『子』は何百万もの屍となって積み上がっていた。どれほど苛烈な戦いが起きたのかと想像を働かせようにも、あまりに凄惨な光景は人智を易々と超え、脳裏を漆黒で塗り潰してしまうだろう。

 ましてや暴力の振るい手が無傷の乙女であれば、誰もが思考を放棄するに違いない。

「もう少し歯応えがあるかと思っていたのに、この程度か。能力の模倣はなんとか出来たようだが、自身の才能を引き出すのが手一杯とは……無能が凡夫になったところで、余の足下にも及ばんわ。遠縁とはいえこんなのが余の『母』とは、憐れみを通り越し、いっそ情けなくなってくるぞ」

 残骸と化したRNA生命体のコアを踏み躙りながら、乙女は侮蔑の言葉を投げ掛ける。しかし呪いの言葉とは裏腹に、乙女は満面の笑みを浮かべていた。

 それどころか、喉の奥から抑えきれない笑い声が漏れ始める。笑い声はやがて口から飛び出し、高笑いへと変わった。

 ついにはこれでも足りないと言わんばかりに、乙女はくるくるとワルツのように踊り出す。周囲に飛び散った血糊を踏み締めながら、喜びを全身で表現しようとしていた。

「――――やっと終わったのかしら?」

 何処からかやってきた淑女が声を掛けても、乙女は踊りを止めない。目だけを向け、不敵に笑いながら、乙女は言葉を返す。

「ようやく復帰したか。ちょっと寝過ぎじゃないか?」

「だとしたら、それはあなたが手こずっていた証だと思いますわ。対策済みとはいえ、わたくしはあなたと違って『アレ』で死にます。あなたならすぐに片付けてくれると信じていたのに、ちょっと過大評価していたのかしら?」

「馬鹿言え、瞬殺してやったわ。処理が遅れた三体は余の管轄じゃないから、余に言ったところでお門違いだよ」

「あら、あなた以外にそいつを倒した奴がいると?」

 心底驚いた様子を見せる淑女の疑問に、乙女はこくりと頷く。乙女は踊りを止め、倒れるように身体を傾ける。

 しかしその身が完全に倒れる事はなく、まるで見えないハンモックでもあるかのように、空中で留まっていた。

「二匹だ。一匹は手こずっていたようだが、もう一匹は余とタメを張れる早さで片付けたな。しかもそいつは二体も『母』を倒している。倒せた事は無論、今回の状況下で動き回れるのが既に予想外だ。中々興味深くて、つい観測してしまったよ」

「なんだ、結局あなたがぼんやりしていた所為じゃありませんの……それにしても珍しい。あなたがそこまで興味を持つなんて、わたくし以来じゃなくて?」

「ん? あー、流石にお前ほどではなかったと思うが……しかしそうだとしたら、千五百年ぶりといったところか」

「長かったですわねぇ」

「ああ……だが、最早こそこそする必要はない」

 乙女は再び堪えるように笑う。今度は淑女も笑い出す。

「とはいえ、ここからが本番だ。最後の問題は残ったままだからな」

「……もう、折角興が乗ってきたのに」

 しかし乙女自身の手で話の腰を折られ、淑女は露骨なまでに肩を落とした。淑女の素振りを見て、乙女の方も唇を尖らせて憮然となる。

「そうは言っても、出来てないんだから仕方なかろう。まぁ、目処は立っているが」

「目処?」

「生殖活動を観測した。恐らく数ヶ月後……人間の暦で言えば、年末頃には()()()()()()

「あら、思ったよりも早い。でもサンプルは足りるの?」

「統計的に一度の繁殖で三~四体ほど生まれる。二体もあれば十分だ。万一足りなければ成体を捕らえる。繁殖地に乗り込むとなると余でも流石に苦労しそうだが、代案がない以上多少のリスクは致し方あるまい。それでも足りなければ、初期計画案に戻って気長に研究するさ。成し遂げた生物がいると分かった以上、問題は工数だけになったからな」

「……足りない場合でも支障がないのは分かりました。でも、サンプルが多い時はどうするんですの? 降下してくるのが仮に三体だとして、あなたが必要としているのは二体。一体余りますわよ?」

「? どうするって、決まってるだろう?」

 淑女の疑問に、分かりきった事を何故訊くのだとばかりに乙女は首を傾げる。

「いらないから放置だよ。そいつに地上が破壊されたところで、余には関係ないからな。無論、最後は余さず食わせてもらうがね」

 そしてなんの悪意もなく、そう答えるのだった――――




さて、何やら怪しい連中が現れましたね。本作もいよいよ終盤……と思ったか! まだシナリオ全体の半分にも達してないよ!(ぇー

そんなこんなで本章はここまで。
幕間は本日中に投稿予定です。


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幕間五ノ六

 深い眠りから目覚めたような、爽やかな開放感。

 それが、彼が人智を獲得した時の心境だった。尤も目を開けても、辺りは暗闇一色しか見えない。それは今の時刻がまだ夜であり、彼の寝室である檻の中の照明が落とされたままだからであった。手を付いたコンクリートの床はひんやりとしていて、夏の暑さから逃れるのに丁度良い。

 珍しい時間に起きたものだ、と考えたところで、彼は異変に気付いた。異変とは、自分が言語的な思考をしている事である。彼は獣であったが聡明な種族であり、日々多様な思考を行っていた。故に眠る前の自分が、言語ではなく抽象的な感覚で思考していた事を覚えていたのだ。

 自分の身に何かが起きたのか。それを確かめようと手を握り、開き、自分の意識と身体が繋がっているのを確かめる。するとどうだ、まるで何百年と付き合ってきたかのように、自分の身体の隅々まで分かるではないか。今まで知らなかった己の才覚が、ハッキリと認識出来る。

 悪い感覚ではない、が、得体の知れない異常である。一体何が起きたのか? 人智を得て聡明さに磨きが掛かった彼は、その謎に挑んでみようと考えた

「あなただけか、目覚めたのは」

 そんな時に、その声は聞こえてきた。

 途端、彼は全身の毛が逆立つほどの寒気を覚える。

 声は檻の向こう……そう、何時も自分に食事を与え、寝床の掃除をしてくれる『生き物達』が立つ側に居た。照明が落ちているのでその姿はハッキリとはが、闇の中に浮かぶ輪郭は『生き物達』に酷似しているように見える。

 あの『生き物達』の仲間なのだろうか? しかし見知った『生き物達』の中には、これほどの威圧感を放てる個体はいない。違う群れのボスなのだろうか。だとしたらこの施設内では今、縄張り争いが行われている?

「こちらの言葉は分かるかな? 分かるなら、少し頼みたい事があるんだ」

 正体を考察していると、そいつは『雌』の声で話し掛けてきた。正体不明の存在であったが、彼は本能的にそいつに逆らう事が如何に無謀かを察した。こくこくと、何時の間にか身に着けていた『生き物達』の作法である『頷き』を行い、そいつの機嫌を損ねないようにする。

 それでいて、一体どんな頼み事をされるのかと不安になり、息を飲んだ。

「この施設の外に居る、とある人間と接触してほしい。接触後どうするかは問わないが、兎に角関わりを持ってほしいんだ。ただし殺すのは駄目だけどね」

 ところが言われた内容は、あまりにも拍子抜けするもの。

 言葉は理解していたが、その意味が上手く処理出来ない。彼が返事をしたのは、話からかなり間を開けてからだった。

「……? ……………」

「ふむ、手話で会話を試みるか。何々……『それは難しい。自分はこの施設の外には出られない』、か。それは今までなら、だろう? 今の君なら、例え軍事施設からでも脱走出来ると思うけどね」

 彼が否定的な意思を伝えると、そいつは彼の力を評価してくる。流石にそれは自分を持ち上げ過ぎではないか? と訝しむ彼だったが、しかし言われてみれば、この身体に宿った力を使えば脱走は容易であるように思えてくる。少なくとも此処……軍事施設なんて物々しいものではなく、よくあるレジャー施設の一つに過ぎない此処からなら、きっと。

 だが、出来る事=したい事ではない。

「……………。…………………………」

「『出来る事については、同意しよう。しかし自分には家族が居る。特に息子はまだ幼くて、目が離せない。すぐには動けない』……なぁに、心配はいらないよ。元より時間制限を設けるつもりはないからね。いや、正確にはあるが……まぁ、一年以内なら許容しよう」

 提示された破格の条件に、彼は目を丸くする。同時に、一層の猜疑心を募らせた。あまりにも条件が良過ぎる。これではどちらが下手か分からない。

 いや、そもそも自分は『コイツ』の言う事を聞く必要があるのか?

 思えば力の差を察して勝手に怯んでいたが……ここまで下手に出るという事は、もしかしたらコイツ、実は大して強くないのではないか? 得体の知れない存在に、過剰な警戒心を抱いてしまったのでは?

「…………………………」

「ふむ、『もし断ったらどうする?』か。別に、どうもしないさ。別の子を頼るだけだよ。候補は君以外にも居るからね」

 恐る恐る訊いてみれば、答えはあまりにも呆気ない。何かの罠ではないかと勘繰りたくなるほどだ。

 しかしそうとなれば、答えは明白だ。この場所に居れば食べ物には困らないし、敵に襲われる心配もない。何より此処には大切な家族が居る。得体の知れない外の世界など、出向く気にならない。

 そう思っていた。

「ああ、そうそう。もし賛同してくれる子が居たら、その子には少ないけどお礼を渡そうと思っているんだ。そうだね、『人間』が作った、とても楽しいオモチャなんかはどうだろう? きっと小さな子は喜ぶだろうね」

 だからそいつは脅しではなく、甘言を使うのだ。

「気が変わったら行動で示してくれ。多分ニュースになるから、それでボクにも伝わるよ。詳しい話はその時にしよう。それじゃあ、()()()()()

 言いたい事は言い終えたのか。そいつは話を打ち切ると、なんの未練もなくこの場を後にする。暗闇の中に姿は溶け、辛うじて見えていた輪郭は完全に消え失せた。気配も、もう感じ取れない。

 静寂を取り戻した施設。されど彼の胸中は、未だかつてないほど掻き乱されていた。

 何分彼は聡明過ぎた。未来を予測し、他者がどのような反応を取るのかを想像出来るほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が施設を脱走したのは、一ヶ月半後の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六章 異種混合草野球頂上決戦

 

 

 

 

 

 




Q:『母なる者9』で謎の人物が話していた、繁殖活動を確認した『アレ』の話じゃないの?
A:じゃないです。それは第七章となりました。

はい、という訳で次章は野球回となります。サブタイからぷんぷんと漂うギャグの臭い。四章と五章は色々重い(注:作者の感想)ため、六章は和気あいあいに全振りしたお話にしたかったのです。とはいえじゃあ次章がただの日常かと言うと、そういうつもりもなし。さらっと伏線仕込みますよー、回収は遠い未来だけど(ぇー

それではまた次回お会い出来る事を祈って。
ではではー


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余談参 忌まわしき名前

 大桐花中は、生き物が好きである。

 生物関係の学者である両親の影響……なのかはさておき、大抵の生き物になら愛情を向けられる。普通の女子が嫌うような昆虫やナメクジも平気で触れるし、犬や猫のみならずトカゲや草花が無闇に痛め付けられるのだって好かない。

 そのぐらいには生き物好きなので、飼育したり栽培したりもするが……一番好きなのは、野生での姿を眺める事だ。過酷な環境に適応し、天敵や獲物との競争で日々を必死に生きている姿は見ていて心が熱くなる。生を謳歌する姿というものは、どんな景色よりも美しいというのが花中の想いだ。

 そして海辺には、内陸の住宅地では見られない様々な生物が暮らしている。

 彼等の生き様を見ずに帰るなど、どうして出来ようものか。

「足下には気を付けてくださいね花中さん。転んだら大怪我してしまいますから」

「転んでも助けてあげるけど、手間はない方が良いしね」

 等々の想いを抱いていたところ、付き添いで来てくれた二匹の友達――――フィアとミィから、注意を促されてしまった。どうやら、弾んでいたのは胸だけではないらしい。傍目に分かるぐらい浮かれていたと気付かされ、ピンク色のワンピース型水着の裾を握り締めながら花中は顔を朱色に染めた。

 今、花中達は海に来ている。

 加奈子に誘われてやってきた海だが、その加奈子とは現在別行動の真っ最中。今頃加奈子は()()()()の砂浜で、晴海と一緒に遊んでいる筈だ。ミリオンはそんな二人を監督しながら、物思いに耽っているだろう。 

 対して花中とフィア達が居るのは、泳いだり遊んだりするには適さない岩場。住宅地は彼方に見えるだけで、街の喧騒は聞こえてこない。波の音と鳥の鳴き声だけが場を満たしている。無数の大きな岩が集まって環境を構築し、またどの岩もその表面は角張った凹凸になっているため平坦な場所など皆無。今の花中のようなサンダル姿で走れば転ぶのは避けられないだろうし、ましてや露出が多くて生地の薄い水着では大怪我に繋がりかねない。不適切な格好と言われても、花中には反論など出来ない。

 しかしながら花中は此処でわいわいと騒ぐつもりなどなかった。目的は生き物の観察……岩の隙間や凹みを覗き込み、生き物を探す事である。バタバタと動いたら生き物が逃げてしまうから、移動は穏やかなのが基本。ゆっくりと、足下を見ながら歩く分には、サンダルでも大丈夫だろう。仮に転んでも、人間では目視不可能な速さで動けるミィが助けてくれると言っている。気を付けはするが、恐れる必要はあるまい。

「あ。ところで、フィアちゃん。立花さん達の、様子は……」

「無論今でもちゃんと見てますよ。片手間ですけどね」

 それから念のために確認すれば、フィアから頼もしい答えが返る。この辺りは『遊泳禁止』の危険地帯。暢気に遊んでいられるのは、水を自在に操れるフィアが一帯を『監視』しているからに他ならない。片手間とは言っているが、水を自在に操る能力を持つ彼女にとって、海中の出来事を探るなど片手間以下の労力で十分。不安や懸念を挟み込む余地などない。

 憂いなし。ならば躊躇う理由もなし。

「うん。それじゃあ、行こうっ」

 花中は意気揚々と、岩場を歩き始めた。フィアとミィも、花中の歩みに合わせてゆっくり付いてくる。

「それで? どのような生き物を見付けるつもりなのです?」

「んっとね、可愛いのに、会いたいなぁ。ウミウシとか」

「ウミウシってナメクジみたいな生き物でしたよね? 良いですねぇ美味しそうです」

「あたしは魚が良いな。小腹が空いてきたし」

「……一応、言いますけど、食べるために、探す訳じゃ、ないですからね?」

 自分と明らかに目的が違う友人達に少なからず不安を覚えつつ、花中は目に映った、幅数十センチほどの潮溜まりに駆け寄る。

 今の時刻だとこの辺りの海域は、スマホで調べた情報曰く丁度干潮時らしい。岩場にはいくつかの潮溜まりが出来ており、逃げ遅れた生き物が潜んでいる事が期待出来る。花中は早速近付いた潮溜まりの前でしゃがみ、中を覗き見た。

 ……生き物の姿は、何処にもない。

 しかし此処で諦めてはいけない。小さな生き物達は、自分を襲うかも知れない大きな生き物の存在に敏感なのである。つまり、花中達がこの潮溜まりに近付いた際の『足音』を察知し、岩の隙間に隠れたり、じっとして周囲の景色に溶け込んだりしている可能性が高い。「居ないなぁ」と思ってすぐに離れてしまっては、小動物達の思うつぼである。

 出来るだけ物音を立てずにじっと待ち続け、動物達が安心して出てくるのを待つ。これが潮溜まりの生き物を観察する際のコツである。

「よぉーし一匹ゲットでーす。これがフナムシですか。どれ一口……ぐぅおえぇおろおっ!? なっなんですかこヴォェ!」

「こっちは魚捕まえたー。食べられるかな?」

 ……一緒に来たフィア達がわいわい騒いでいるので、待っていても出てこない気がするが。

 愛でるよりも食欲を優先する二匹に、花中は少し頬をむくれさせる。もう少し、学術的好奇心はないものなのか……とはいえ彼女達なりに楽しんでいるのは結構な事。窘めたりはせず、花中も自分の『遊び』をする事にした。

 さて、待っていても意味がなさそうなので、少しばかりアクティブになるとしよう。生き物達が物陰に隠れているのなら、その物陰を作っている石などをひっくり返すのが一番簡単な『探し方』だ。花中的には生き物のありのままの暮らしを見たかったが、出てきてくれそうにないのだから仕方ない。非力なのであまり大きな石は動かせないが……幸運にも、幅二十センチ程度の石がこの潮溜まりには存在していた。

「……良し」

 これぐらいなら自分でも動かせそうだと、早速花中はその石を両手で掴む。一般的な女子高生ならひょいっと持ち上げただろう石を、うんしょうんしょと頑張って退かした。

 そんな一苦労を経てから改めて潮溜まりを見れば、逃げ惑うエビや小魚などの姿が。思いの外たくさんの生き物が居て驚き、同じぐらいの嬉しさが込み上がる。

 小魚はハゼの仲間だろうか。エビの種類はよく分からない。この軟体動物はウミウシの仲間かな……等々、生き物の種類を特定していた。遊泳禁止区域のため人が滅多に訪れないからだろうか、この辺りには中々多様な種が生息しているらしい。小さな生き物が多様であれば、それらを餌とする大きな生き物も多様になる。彼等との出会いを予感し、花中の胸は一層高まっていく。

 そんなわくわく探索の最中、ふと一匹の可愛らしいカニを見付けた。

 体長は、五センチに満たないぐらいか。隠れ家を暴かれたにも拘わらずその動きは緩慢で、ずんぐりむっくりとした体型はお饅頭を彷彿とさせる。甲殻に突起や凹凸は見られず、つるんとした印象だ。

 特徴的な外見だけに、花中は一目でそのカニの種類に見当が付いた。

「あ、スベスベマンジュウガニだ」

 なので、その名をぽそりと独りごちる。

 スベスベマンジュウガニは、沖縄から千葉県にかけての太平洋沿岸に棲息するカニの一種だ。名前の由来は、そのものズバリすべすべしたマンジュウガニだから。小さくて可愛らしいカニだが、その身には人間を死に至らしめるほどの猛毒がある。尤も毒を飛ばすような器官はないので触るだけなら問題ないと言われており、ましてや陸から観察する分にはそこらのカニと『危険性』は変わらないのだが。

 その愛くるしい姿に魅了された花中は、早速スベスベマンジュウガニの観察を始める。花中(巨大生物)に見られている事と気付いていないのか、スベスベマンジュウガニはかさこそと動くと、近くを漂っていた海藻の欠片をハサミでキャッチ。口元に運び、美味しそうに食事を始めた。

 じっと休んでいる姿もまた普段の生態であるが、やはり『活動』しているところを見る方が楽しい。花中はますますスベスベマンジュウガニに夢中になる。

「花中さん先程から何を見ているのですか?」

 そうして意識が一点に向いていたので、花中は後ろから掛けられたフィアの声に少し驚いてしまった。振り向けば、すぐ傍にはフィアが立っている。お供していたミィは少し離れた場所で魚取りをしていて、こちらの声は届きそうにない。今花中は、ほぼフィアと二人きりの状態になっていた。

「あ、フィアちゃん。えっと、カニだよ」

「カニですか……川の甲殻類は食べた事がありますが海のはまだ未体験ですからね。どのような味か興味があります」

「絶対、食べちゃダメだよ。毒が、あるから」

「そうですか。では間違って食べないよう覚えておきたいのでどれがその毒ガニなのか教えていただけますか?」

 あくまで実用的な理由で興味を持つフィアに、花中はちょっと苦笑い。しかし言う事は至極尤もな話でもある。それに知ろうとする意欲には応えたい。

「ん。えっとね、この丸い子だよ。スベスベマンジュウガニって、いうの」

「スベスベマンジュウガニですか……この海藻を食べている?」

「そうそう、その子だよ」

 指差しでフィアに教える、と、食事に没頭していたスベスベマンジュウガニがぴたりと動きを止めた。

 震動とかで、驚かせてしまっただろうか?

 行動が止まってしまい残念に思う花中だったが、スベスベマンジュウガニはすぐに摂食を再開した。しかも先程よりも旺盛な食べっぷりのように見える。天敵かも知れない存在を察知しながらそれでも食事を続けるとは、余程食欲旺盛なのか、それともしばらく餌に有り付けていなくて空腹なのか。

 やがて、スベスベマンジュウガニは海藻をぺろりと平らげてしまう。海藻はそこそこ大きかったのに、中々の大食漢だ……感心する花中の目の前で、スベスベマンジュウガニはその身を縮こまらせるように手足を折り畳む。

 途端、背中側の甲殻にヒビが入った。

「えっ?」

 何が起きた? 花中はそんな気持ちが声に出ていた。

 唖然となる花中を他所に、膨れ上がったスベスベマンジュウガニの甲殻のヒビはどんどん広がっていく。ついには全身にヒビが行き渡ると、あまりにも呆気なく殻は崩壊。その内側から真っ白な新しい殻が露出する。そして吹き飛ばされるように、古い殻は全て剥がれてしまう。

 この光景は、ほんの十数秒間の出来事でしかない。そう、たったの十数秒だ。

 その十数秒で、目の前のスベスベマンジュウガニは『脱皮』を終えたのだ。

「あ、あり得ないっ……!?」

「花中さん? どうしたのです?」

 キョトンとするフィアと違い、花中は慄き、震え、後ずさる。

 甲殻類などの脱皮は、ただ窮屈になった殻を脱ぎ捨てるだけの行動ではない。消化器官や呼吸器官の外皮すら脱ぎ捨て、更新する行為だ。下手をすれば命に拘わる ― 失敗すれば内臓や呼吸器官がズタズタに引き裂かれるのだから ― 行為であり、数日間の準備を経てから、何時間も掛けて行われるものだ。

 今し方目の前で成し遂げてみせたような、あまりにも乱雑過ぎる方法で出来る訳がない。やったならその個体は間違いなく死んでいる。

 だが、目の前の現実は真逆。このとんでもない脱皮を行ったスベスベマンジュウガニは死にかけるどころか、まだまだ体力が有り余っているではないか。

 その証拠に、スベスベマンジュウガニは近くを泳いでいたエビを捕らえ、食べ始めたのだから。

「な、ぁ、まさ、か……!」

 脳裏を過ぎる予感。あたかもそれに応えるかの如く、エビを喰らうスベスベマンジュウガニは目視可能な早さで肥大化していく。最早成長という言葉は相応しくない。もっと別な、おぞましい表現こそが正しいと本能が訴える。

 しかしカニの周りにはもう、食べ物はない。潮溜まりには小魚やエビなどが何匹か泳いでいるが、いずれもすばしっこい動物だ。偶々スベスベマンジュウガニの横を通らない限り、その餌食になる事はない。故に巨大化はここで一旦は止まる。

 ――――そんな期待すら、奴は裏切る。

 スベスベマンジュウガニは、獲物を獲っていないにも拘わらず肥大が止まらなかった。目測ではあるが既に脱皮前の二倍……エビ一匹では到底質量が足りない大きさになっている。殻はバラバラと砕け散り、その直下には新しい殻が出来ていて、それが延々と止まらない。巨大化が、収まらない。

 おかしい。こんなのは、エネルギー保存の法則に反している。いくら『彼女達』が非常識とはいえ、科学の根幹……いや、万物の根幹を破壊する事など出来る筈がない。

「……花中さん下がりましょう」

 いよいよフィアもスベスベマンジュウガニの『正体』を察したのか。フィアの意見に従い、花中はゆっくりと後退りする。

 その際、奴の『からくり』に気付いた。

 潮溜まりの水位が急激に下がっていたのだ。ごくり、ごくりと、巨大な生き物が口でも付けているかのように。

 そうして減った水を補うかのように、スベスベマンジュウガニは巨大化していく。つまり、奴は海水を資源として利用していたのだ。無論、このような『生態』を通常のスベスベマンジュウガニが持ち合わせている訳がない。

 考えられる可能性はただ一つ。

 ミュータント……人智を獲得し、超越的能力を得た存在に間違いない!

 花中が結論を出す最中も、スベスベマンジュウガニの『食事』は終わらない。潮溜まりに居た魚やエビ、自身が脱ぎ捨てた殻は水位が減るのと共にスベスベマンジュウガニの口元へと集まり、獲物となってしまう。肥大化は留まる事を知らず、奴の食事は加速度的にその量を増やしていく。

 ついには潮溜まりは消失し、そこには体長数十センチにもなる巨大ガニだけが鎮座していた。しかしカニはまだまだ足りないと思っているのか、窪みと化した潮溜まりから這い出て、隣の潮溜まりへと移動を始める。

 何故そこまで大きくなろうとするのかは分からないが、流石にこれ以上は見逃せない。

「あまり図に乗るんじゃありませんよ!」

 花中ですら危機感を覚えたのだ。より本能的なフィアが、花中の後手に回るなどあり得ない。

 花中が止める間もなく、フィアはその手を大きく振るう。一見して何も起こらない行動は、しかしあらゆる物を切断する狂気の糸が放たれた証である。

 虚空を切り裂きながら無音で迫る糸は、容赦なくスベスベマンジュウガニの甲殻に傷を付けた! 殻の一部が砕け、小さな欠片が宙に舞い上がる!

 が、それだけ。

 スベスベマンジュウガニは少し怯んだ後、何事もなかったかのように歩みを再開したのだ。カニの顔からその行動がやせ我慢かどうかは分からないが、さしたるダメージは負っていないだろう。

 何故奴はダメージを受けていない? フィアの攻撃には、人間相手なら細切れに出来るほどの威力がある。あのカニの甲殻はそれを容易く凌ぐほどの強度があるのか?

「フィアちゃん、どうし……」

 何があったか尋ねようとする花中だったが、その言葉は思わず途切れてしまう。

 フィアが、驚愕したように目を見開いていたからだ。確かにフィアは自信家であり、自慢の一撃が防がれたなら驚きはするだろう。だが、同時にフィアは激情家でもある。攻撃が防がれたと理解すれば、見る見る憤怒が表に出てくる……そういう性格である事を花中は知っている。

 そのフィアが、何時までも驚愕しているのだ。何か、奇妙な感覚を覚えたのだと察するのは難しくなかった。

「……花中さんちょーっと尋ねたいのですが」

 戸惑う花中に、今度はフィアが尋ねてくる。花中が恐る恐る頷けば、フィアもまた恐る恐る口を開く。

「私の繰り出した『糸』が消えたのですが……どういう事でしょうか?」

 そして、摩訶不思議な言葉を告げた。

「……消え、た?」

「ええ忽然と消えましたよ。奴の肉には到達した筈なのですがあまり深くまで切り込めてはいません。しかも何をされたのかさっぱりです」

 本気で困惑した様子のフィアに、花中は答えを返せない。だが、戸惑いで頭を塗り潰しもしない。

 フィアの『糸』が消えた。その原因は、あのスベスベマンジュウガニの能力以外にあり得ない。ミュータントであるなら、その能力は生態から推測出来る可能性がある。持てる知識を総動員し、花中は思考を巡らせる。

 まず思い浮かんだ特徴は、スベスベマンジュウガニは有毒のカニである事。

 ならば目の前の個体の能力は、毒を操る事? 毒と薬は表裏一体という。体内の毒素を上手く薬効として働かせ、それで急速な成長力を得て、甲殻の強化も……

 花中は首を横に振る。違う。それで自身の身体的特徴は説明出来ても、フィアが操っていた『糸』が消失した原理には結び付かない。

 そもそもスベスベマンジュウガニの毒は、貝やゴカイなど獲物としている小動物達から由来と言われている。体内で物質の合成などは行っているかも知れないが、元を辿れば餌の小動物、もしくは小動物が餌としている細菌類から――――

「(……待って、まさか。そんな……!?)」

 脳裏を過ぎる一つの考え。あり得ない、と理性が反射的に否定するも、その『あり得ない』を尽く成し遂げたのがミュータントである。今更常識に縛られては答えなど出せない。

 花中は無意識に、閃いた可能性を言葉にしようと口を開け、

 不意に襲い掛かる暴風に、それを妨げられた。

「きゃっ!?」

「野良猫!?」

「ふん、さっきから見てれば面倒な事になってじゃん! 悩んでる暇があったら、あたしを頼りなよ!」

 暴風の発生源は、花中達の横を通り過ぎたミィだった。暢気に遊んでいた時のような、弛んだ雰囲気は今の彼女には存在しない。地球上で広く繁栄し、数多の生物種を絶滅の危機に追いやった『捕食者(プレデター)』の眼光がスベスベマンジュウガニを捉える。

「アンタに恨みはないけど、これ以上デカくなられても困るから……ちょっと動けなくさせるよっ!」

 瞬きする間もない超高速でスベスベマンジュウガニに肉薄するや、躊躇なくミィは破滅的威力を秘めた足を振り下ろした! ミィの足はカニの甲殻を易々と破壊し、その柔らかな肉に食い込んだ

 刹那、ミィは花中の傍に立っていた。

「……え? あ……っ!?」

 どうしたのか? 抱いた疑問のままミィを眺めて、花中は気付いてしまった。

 ミィの足が、一部だけだが抉れていたのだ。肉が露出し、ぐずぐずと赤黒い体液が染み出している。

 持ち前の『身体能力』を活かし、その傷は見る見る塞がっていくが……ミィの顔に、捕食者の獰猛さは既に残っていなかった。むしろ外敵を前にして警戒心を露わにする、ゾウやヌーのような雰囲気に近い。

「……野良猫。どうでしたか?」

「どうもこうもないよ……()()()()。そうとしか言えないね」

「結構。花中さんは先程結論を出していたみたいですし答え合わせには十分じゃないですかね?」

 フィアがチラリと、横目で花中を見てくる。

 一番の友達を自認するだけはある――――全く以てその通り。ミィのお陰で『答え合わせ』は完璧に出来た。

 奴の能力は『吸収』。

 自身に接触した物質を取り込む能力で間違いない……それが、花中の出した結論だった。フィアの『糸』が消失したように感じられたのは、奴の肉体に触れた部分が取り込まれた結果だろう。ミィの足が抉れたのも同様の力が原因とすれば納得が行く。恐らく筋肉のみならず消化器官や気門など、能力は体内の至る所で機能している。その力を応用し脱皮という行為の簡略化、つまり臓器などの古い外皮は吸収してしまう事で、高速脱皮を可能にしたのだろう。

 弱点があるとすれば、脱皮時に外殻は脱ぎ捨てていたので、外殻近くの肉には能力が発揮出来ない……と思われる点か。しかしそんなのは表層の話でしかない。致命的一撃となるような深々と突き刺さる攻撃は、衝撃が伝わる前に吸収され、スベスベマンジュウガニの肉体の材料となってしまうだろう。

 奴に物理攻撃は通用しない、という事になる。まだ可能性の話だが……共有すべき情報の筈だ。伝える事に花中は躊躇など覚えもしなかった。

「……多分、触れた物を、吸収する、能力だと思う。甲殻に、その能力はなさそう、だけど、筋肉に触れたら、ダメ」

「成程。だったら吸収しきれないほどの質量で……とも思いましたが失敗したらそれこそ取り返しの付かない事態になりそうですねぇ」

 面倒だ、と言いたげにフィアはぼやく。ミィも同意するように肩を竦めた。二匹とも、勝ち目がないとは思っていないようだが、楽観視している訳でもない様子。予期せぬ強敵の出現を受け、フィアとミィは花中の前に静かに出てくる。花中も友達の邪魔にならないよう、ゆっくりと後ろに下がった。

 花中達が話している間も、スベスベマンジュウガニは『食事』を止めていなかった。幾つもの潮溜まりを食い尽くした奴は、今や二メートル近い怪物に成長している。ここで食事は一旦止めたようで、ノシノシと花中達の方に歩み寄り始めた。

 やがて花中達から二メートルほどの距離まで詰めると、スベスベマンジュウガニはおもむろに自身の短いハサミを振り上げる。何をする気か、一人と二匹の間に緊張が走り――――

 スベスベマンジュウガニは、そのハサミを足下の岩に突き立てた。

 そしてそのまま、ハサミでガリガリと岩の表面を削り始める。

「……えっと……?」

 てっきり攻撃でもしてくると思っていた花中は、呆気に取られてしまう。恐怖や不安を上回った好奇心に従いハサミの先を見れば、少々角張ってはいたが……日本語が記されていた。

 ミュータントなのだから、人間が使う言語については理解があるのだろう。しかし発声能力は得られなかった、という事か。だから文字でコミュニケーションを図る……実に合理的な判断だが、だとすると、このスベスベマンジュウガニは『岩に傷を付けられる怪力』を得るためだけにここまで巨大化したというのか。

 そこまでして伝えたい事とは一体なんなのか。

 花中はスベスベマンジュウガニが記す文字に夢中になる。隠れよう、という意思は失っていないが、無意識に身を乗り出し、一番大事な部位である筈の頭だけをフィア達よりも前に出してしまう。

 しばらくしてスベスベマンジュウガニがハサミを止めた時、そこにはこう記されていた。

 「スベスベマンジュウガニとはなんだ。失礼じゃないか」と。

「……は?」

 意味が分からずポカンとする花中に、スベスベマンジュウガニは話の続きを書いて伝える。

 曰く、スベスベマンジュウガニという呼び名は可愛くない。

 自分は立派なレディだ。これでも同種のカニ的には小悪魔系女子で、繁殖期には雄など掃いて捨てるほど集まる。それでも現状に満足せず、自分磨きに勤しむ淑女でもある。

 そのような自分に、なんだスベスベマンジュウガニとは。全然可愛くない名前じゃないか。そもそもこちらはそのような名前を承諾した覚えはないし、確かに言葉は通じないがしかし他の動物への敬意があればスベスベマンジュウガニなんて妙ちくりんな名前を付ける筈がなくだとしたらやはり

「花中さん。私もう帰っていいですか?」

「あたしもそろそろ遊びたいんだけど」

「……一人で、この子の相手するの、大変そうだから、やだ」

「さいですか」

「ちぇー」

 延々と自身の意見を書き連ねるスベスベマンジュウガニに飽きたフィアとミィを小声で引き留めてから、花中は隠しきれないため息を漏らす。

 要するに、『彼女』は種の呼び名が気に食わないらしい。

 確かに生き物の名前には、結構酷いものも多い。例えばアホウドリは有名どころだし、メクラチビゴミムシなどは差別的な名前として改名議論が起こる程だ。その点で考えるとスベスベマンジュウガニは、呼ぶ方からすれば可愛くて愛嬌のある名前だと思うが、呼ばれる身からすれば侮蔑に聞こえるというのは分からなくもない。花中だって「あなたすべすべしたお饅頭さんみたいね」なんて言われたらちょっと複雑な気持ちになる。いや、それを訴えるために巨大化までする心理は流石に分からないが……嫌な事は人それぞれ。彼女にとっては、余程我慢ならないのだろう。

 ……彼女が何をして欲しいのか、花中が大体察した頃になってようやくスベスベマンジュウガニの手は止まった。つらつらと長ったらしい文章の大半を無視して、花中は末尾にだけ目を向ける。

 結論として、自分に相応しい名前を考え、これからはそう呼ぶようにとの事。無論その名前が良いものかはこちらで審査する、らしい。

「……ちなみに、拒否したり、閃かなかった、場合は?」

 花中が尋ねると、スベスベマンジュウガニはしばし考え込み、それからガリガリと岩に小さな文字を刻む。今度の文章はあまり感情が籠もっていないようで、大変シンプルに纏まっている。

 一言、「体内の毒素をガスとして放出し、この辺り一帯の人間を死滅させて抗議の意志を示す」と書いてあるだけだ。

「(って、めちゃくちゃ大事になってるぅぅぅぅぅ!?)」

 よもや命名云々で町が一つ滅ぶかも知れないとは。さっきまでの呆れムードから一転、強襲する責任感に押し潰されそうになる。

「くだらない悩みですねぇ。人間になんと呼ばれようとどーでも良いと思うのですが。それに分かりやすくて良いじゃないですかツルツルダイフクガニなんて」

 一方人間などどうでも良いフィアは、率直な意見をスベスベマンジュウガニに伝えていた。相手の気持ちをまるで汲んでいない。おまけに先程教えたばかりの名前がもう曖昧になっている。

 花中までもグサリとくる言葉に、スベスベマンジュウガニが怒らぬ筈もない。ハサミを振り回して彼女は怒りをアピールしていた。フィアは困惑したように頭を掻くだけで、何故スベスベマンジュウガニがそこまで怒るのか分からない様子。

「ちょっとフィア! あんまりコイツを怒らせないでよ。毒を撒かれたらどうすんの?」

 血の気が引いていた花中の代わりにフィアを窘めたのは、人間の事を好いてくれているミィだった。

「別にどうも? 花中さんが無事なら問題ありませんし花中を毒から守るぐらいなら簡単ですから」

「それだって、そうならないに越した事はないじゃん! あと近くには晴海と加奈子が居るんだよ!?」

「まぁそれはその通りですけど」

「それにアンタは人がバタバタ死んでも気にせず遊べるんだろうけど、花中はそうもいかない事ぐらい分かるでしょ?」

「……それもその通りですけど」

 ミィの指摘を受けて、フィアは後ろに居る花中の方へと振り返る。

 ……自分としてはなんだって構わないので花中が決めて良いと、フィアはその眼差しで訴えているようだった。そうとなれば答えは決まっている。フィアと違って、花中は人間社会の危機を見逃せないのだから。

「……分かりました。わたしで良ければ、あなたの名前を、考えたいと、思います」

 花中が承諾の意思を示すと、スベスベマンジュウガニは嬉しそうに身体を揺する。巨体が動く度に地面の岩が微かに揺れていたが、子供のような感情の表現に花中は思わず笑みを浮かべる。彼女としてはちゃんとした名前が欲しいだけなのだ。

「良し、それじゃあ……」

 早速、花中は思い浮かんだ言葉を伝え――――

 

 

 

 ……町の方から、カラスの鳴き声が聞こえてきた。

 あれからどれだけ時間が経っただろうか。沈みかけた太陽の光は弱々しく、夏とはいえ水着姿ではちょっと肌寒くなってきた。辺りも薄暗くなり、岩場を歩く危険性は大いに増している。何より潮だって満ち始めているので、そろそろこの辺り一帯は水底へと変貌するだろう。

 流石に、もう帰りたい。帰りたいが、帰れない。

 何分スベスベマンジュウガニは、未だ自分の呼び名に納得していないもので。

「ま、マルガリータとか、どうですか……?」

 最早スベスベマンジュウガニとは縁もゆかりもない、お洒落なお酒の名前をそのまま伝える花中。スベスベマンジュウガニはハサミを組み、少し考えてから「もっとカッコいいのが良い」と注文を付けてくる。

 この名前もダメだった。

 あれから、果たして幾つの名前を考えただろうか。真っ当なネタはとっくのとうに切れており、今はフィーリングやら思い付きやら閃きやら、そんなのに頼って捻り出す始末。先程挙げたマルガリータのように、なんか語感の良いっぽいやつをつらつら並べているだけだ。どれかは気に入ってくれるだろうという、下手な鉄砲数撃ちゃ当たるの精神。想いも何もあったもんじゃない。

「花中さーんまだ終わりませんかぁ? もう私そろそろ帰りたいんですけどー」

「あたしも同じー。なんかもう、なんだって良くなーい?」

 ちなみに友人達は早々に飽きて、そこらでぐでぐでと寝転がっていた。最初は二匹仲良く遊んでいたが、それすら飽きたようで先程からブーイングしか言ってない。

 花中だって、もう帰りたい。安請け合いをした訳ではない……というより脅されたのだから仕方ないのだが、しかしまさかここまで長丁場になるとは思いもしなかった。人間好きなミィすら面倒さが人間への好感度を上回って ― 或いは毒を撒く前に『仕留め』ちゃえば良いやと開き直ったのか ― 匙を投げてしまっている。

 それでも花中が諦めないのは、町に暮らす人々を守るため――――だけではない。

 むしろ今では、そんな考えはすっかり薄れていた。無論人命を諦めたりはしていないが、どうにもスベスベマンジュウガニの言葉には悪意がなくて、実感が湧かないのである。そもそも彼女は体内の毒素を外に放出出来るのか? そこまでの毒を蓄積出来たのか? あの身体は、殆ど海水で出来ている筈なのだが……

 あの脅しは、本当に単なる脅し……つまり『ハッタリ』なのではないか。

 一度その考えを抱いてしまったら、恐怖などすっかり失せてしまった。故に今の花中にあるのは純粋なら善意……不本意な名前を付けられた事への同情でしかない。

 その同情だけをモチベーションにして、こうしてスベスベマンジュウガニの前に立っているのだ。しかし同情はモチベーションにはなっても、想像力(イマジネーション)を生んではくれない。既にネタ切れ状態の花中は中々口を開けずにいた。

 そんな花中に向けてか、スベスベマンジュウガニが岩に何かを書き始める。

 ……もしこれが応援だったなら、もう一踏ん張りと気合も入っただろう。諦めだったら、弱音を吐くなと喝を入れただろう。

 では、「ねぇ、そろそろちゃんと考えてくれない?」……なんて、書かれていたら?

 ――――ぶちりと、花中の堪忍袋の緒がついに音を立てた。

「……アテルガティス、というのは……どう、でしょう? あの、女神、という意味の単語、なのですけど……」

 ゆらゆらと身体を揺らしながら、虚ろな眼で花中は告げる。

 本当に、ただの思い付きだった。いや、思い付きどころではない。限界に達した怒りから、つい、()()()()()を発してしまっただけ。却下され次第、溜まりに溜まった怒りを爆発させる気でいた。

 が、どうした事か。スベスベマンジュウガニはすぐには返事を返さない。それどころかしばし考え込むように動きを止め、口ずさむかのように節足動物らしい口器をわしゃわしゃと動かし、ハサミを組み、こくこくと頷く。

 それから不意に、足下の岩場にハサミで傷を付け始めた。その『筆』は今まで以上に力強く、野太く、深い文字を刻んでいく。岩石に刻まれたのは、たった一つの単語だけ。

 Good、との事だった。

「……へ? え? き、気に入ったの、です、か?」

 恐る恐る花中が尋ねると、スベスベマンジュウガニことアテルガティスはこくこくと頷く。それから「今度からそう呼ぶように」との一言を岩に書き残すと、さっさと満足げな足取りで移動。

 岸壁からダイナミックに飛び降り、海へと帰っていった。

 あまりにも呆気なく帰られ、ポツンと残される花中達。空を見上げればすっかり茜色。浜辺で遊んでいる人間やウィルスの友人達も、帰り支度を始めているかも知れない。

 彼女達が楽しんでいた時間、自分がしていた事はなんだったのか?

 あんな『適当』な名前で終われたのに、じゃあ今までの時間は……

「あ、やっと終わった? お疲れー」

「お疲れ様です花中さん」

 途方に暮れる花中に、友人達が労いの言葉を掛けてくれた。嬉しいような、そう思うのなら最後まで手伝ってほしかったような。複雑な想いに、花中は肩を落として苦笑いを浮かべる。

「しっかし『女神』ねぇ……全然女神っぽくないと思うんだけど」

「同感です。花中さんアテルガティスって『本当』はどんな意味なのですか?」

「……女神だよ。でも、スベスベマンジュウガニの学名の、属名の方も、同じ単語。要するに、マンジュウガニ属を、ラテン語読みした、だけ」

「つまり?」

「……マンジュウガニって呼んだだけ。なんかもう、面倒臭くなっちゃって」

「……………」

「……………」

「……………」

「……んじゃー、帰ろっか」

「……帰りましょうか」

「……帰ろう」

 とぼとぼと、一人と二匹は肩を落として歩き出す。お疲れ気味な友人に挟まれながら、それ以上に疲れた花中はこう思った。

 今度海外暮らしをしている親に出す手紙には、生き物の名前は愛情を込めて付けてほしいと書いておこう、と。




メクラチビゴミムシ「名前なんかより生息地守れよ、絶滅しそうなんだけど」
アホウドリ「乱獲はんたーい」

お久しぶりです。生き物の飼育大好きな彼岸花です。ちなみに昔、羽化したモンシロチョウを外に放したところ、二秒後飛来してきた鳥に食べられてしまった経験があります。自然界ってきーびしー!

次章は6/25(日)投稿予定です。
コンセプトは日常系……日常破壊系の間違いじゃないか? というツッコミは受け付けません(ぉぃ)
ではまた来週ぅー


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第六章 異種混合草野球頂上決戦
異種混合草野球頂上決戦1


 十月半ばの土曜日。

 風はすっかり冷たくなり、野外の植物は日に日に葉を茶色くしていく。青空で輝く太陽もどこか弱々しく、夏の暑さは随分と遠ざかっていた。多くの生き物達は迫る冬に備えて姿を消し、命にとって厳しい季節が始まろうとしている。

 尤も科学の力を振るう人類には、この時期の心地良さを存分に満喫する余裕がある。そして運動の秋とはよく言ったもの。過熱した体温を下げてくれる適度な低温と、汗を吸い取ってくれるささやかな乾燥は、正しく運動のためにあると言っても過言ではない。大勢の人々が外へと繰り出し、健康的な活動に勤しんでいた。

 しかしながら日本には一人、この季節を運動に使う気など毛頭ない人物が居る。

 大桐花中だ。

 生き物を探しに野山へと出掛けたり、友達に誘われて海へ行ったりと、花中は別に外に出るのが嫌いという訳ではない。が、『運動』をしようという意欲自体は全くないのだ。生き物が消えた事で散策理由が失われ、涼しくなった事で海やプールに行く意味もなくなれば、自然と家に籠もりがちになる。

 しかし家に居てやる事など、花中の場合ごろごろしながら本を読むか、ごろごろしたままお昼寝するぐらいしかない。いや、ごろごろしながら本を読むと何時の間にか寝てしまう事も多いので、殆ど昼寝しかしていない。この時期のお昼寝は程良い日射しのお陰で大変気持ち良く、癖になるほどだ。

 というより、今の花中はお昼寝がすっかり癖になっていた。

「……はなちゃん。キビキビしろとは言わないけど、もう少しメリハリある生活をしましょうよ。いくら土曜日で学校がお休みだからって、もう十二時を過ぎてるのにまだパジャマ姿なのはどうかと思うわよ」

 そんなこんなで今日も朝からずーっと自宅の和室にてごろごろだらだらしていた花中だったが、同居人であるミリオンからそのような忠告が飛んできた。

 あ、名前を呼ばれた。

 そんな考えが浮かんだのは、ミリオンに声を掛けられてから数秒ほど経ってから。寝転がったまま花中はもぞもぞと顔だけをミリオンの方へと向け、そのまま考え込む事更に数秒。

「……ふぇ?」

 十秒近い時を費やしようやく口から出てきたのは、なんとも間の抜けた一言だった。

 あまりにも知能指数の低い花中の反応。これにはミリオンも眉間に皺を寄せ、渋い顔を見せる。

「ちょっとー、本当に頭の中痛んだりしてない? ここ最近動きやら反応がやたらと鈍いじゃない」

「あー……秋は、眠たくなっちゃうので……一緒にお昼寝、します?」

「私に睡眠を取る『性質』がないの忘れてない? あともうお昼だっつってんでしょ。寝るんじゃなくてご飯の時間よ」

 ぼんやりとした花中の姿を見て、ミリオンは呆れたように肩を落とす。こうも露骨に呆れられると、もしかして今の自分はかなり『ヤバい』状態なのではないかと花中自身思わなくもない。

 いや、今までの――――去年までの花中であれば、自身の生活態度の堕落ぶりを自発的に察していただろう。すぐに切り替えは出来ずとも、堕ちるのは食い止めて、少しずつだが元の生活スタイルに戻していけた筈だ。

 そう、去年までなら。

「良いじゃないですかミリオン。こんなにも可愛らしい花中さんが見られるのですから」

 しかし今年の大桐家には、花中を大いに甘やかすフィア(友達)が居た。

「あ、フィアちゃん。枕、持ってきてくれたぁ?」

「はいこちらにありますよ」

「えへへ、ありがとー」

 寝転がったまま花中は手を伸ばし、傍までやってきたフィアは自身が抱えていた大きめの枕を花中に手渡す。花中はすかさずその枕をぎゅっと抱き締め、深々と顔を埋めた。

 先日洗ったばかりの枕からは、洗剤の柔らかな香りがする。それを嗅いでいると心の起伏が徐々に小さくなり、眠気が漂ってきた。目を開けるのが辛くなり、枕を抱き締める力も弱まり、思考自体が薄れていく。

「……はなちゃん」

 ミリオンのドスの利いた声がなければ、そのまま夢の世界へと旅立っていただろう。呼び声がシナプスを揺さぶり、どうにか理性が活性化。いそいそと花中は起き上がり、せめて姿勢ぐらいは正そうと正座をする。

 寝るのをどうにかこうにか我慢した花中に、ミリオンはやはり呆れ気味。ところが何を思ったのかふと眉を顰めると、人間ならば吐息が掛かりそうなぐらい顔を近付けてきた。そのまましばし、舐めるように花中の顔を眺めてくる。

「はなちゃん、少し太ったでしょ」

 やがて告げられたのは、大半の女性の心を抉る言葉だった。

「え? そう、ですか?」

「うん、間違いなく太ってる。休みの日のお菓子作りは止めないのに、動きだけ鈍くなればそりゃ太るわよね」

 ミリオンの至極尤もな指摘を受け、花中は自分の顔を触ってみる。生来ぷにぷにのほっぺたは、心なしか何時もより弾力があるかも知れない。確かに摂取カロリーは変わらないのに消費カロリーが減れば、余剰分が脂肪になるのは宇宙の偉大なる法則によって定められている。太ったという誹謗も、あながち出鱈目ではなさそうだ。

 体重増加とは乙女のバットステータス。流石にこれには花中も顔を青くする……事はなく、それどころか気にも留めなかった。

 何分普段から美容など気にしておらず、そもそも花中の普段の体系は所謂『痩せ型』である。具体的には学校で行われる身体測定の結果に「痩せ過ぎ(意訳)」との文言が載るぐらいの。肉や脂肪が付くのは健康を思えばむしろ歓迎する事態だ。贅肉でも付かないよりマシなのかは、分からないが。

「どれどれ……おおこれは中々の感触。今まで以上に弄り甲斐のあるほっぺですねぇ」

 加えて、後ろから抱き着いてきたフィアが、ほっぺたをむにむに触るなどして構ってくれる口実にもなったり。

 友達にいっぱい触ってもらえて、花中は蕩けるように笑みを浮かべる。対するミリオンは、花中を笑顔にした魚類に苛立ちの眼を向けていたが。

「もうっ、さかなちゃんがそうやって甘やかすからいけないのよ」

「甘やかして何が悪いのです? こーんなに可愛いのに」

「堕落させたら『長持ち』しないでしょーが。メリハリある生活は長寿の基本よ!」

「生憎私は無駄に長生きするより楽しく短命に終わる方が好みでしてね」

 わいわいぎゃーぎゃー、フィアとミリオンが言い争う。尤もケンカというより、これでは子供の教育方針を巡ってもめる夫婦のようだ。

 仲良いなぁ、等とぼんやり思いつつ、当事者でありながら話の外に居る子供(花中)は退屈で仕方ない。小さな欠伸が出てきて、段々瞼が重くなる。

 やがて身体を真っ直ぐ支えられなくなり、ゆるゆると背後に控えるフィアに寄り掛かってしまう。丁度頭の辺りにあるぽよんぽよんとした二つの感触が、なんとも心地良い。これは枕とするのにうってつけだ。

 最早抗おうという意思さえ潰え、ついに花中の視界は真っ暗に。

「だーかーらーっ、寝ちゃ駄目って言ってるでしょーがっ」

「ぎゃふっ!?」

 なったのも束の間、ビシッと、花中の額に衝撃が走った。ミリオンは花中から一メートル以上離れた位置に立っているが、彼女は元々目に見えないほど小さな『物体』の集合である。空中を漂っていた個体が一瞬集結し、不可視の近接攻撃を仕掛けるなど訳ない。

 痛い、というほどではないが、目を覚ますには十分な衝撃。花中は額を擦りながら姿勢を直す。花中を()()()事に気付いたのか、フィアがさながら悪鬼のような形相でミリオンを睨み付けるも、ミリオンはこの程度で怯むような玉ではない。

 殴られた当人である花中もぼけっとするだけ。むしろやや間を開けてから、にへへと笑ってしまった。

 誤解なきように言えば、花中は今の一撃でかなり反省した。例え小突いた程度の打撃でもお叱りには変わらないし、愛情ではなく自身の利益 ― 即ち花中が長生きする事で『思い出』の長期保存が可能になる ― を求めた結果だとしても、自分の身体を労ってくれた事実は揺らがないのだ。そうした説教を受けて、どうして反省せずにいられよう。

 ――――であるが故に、嬉しくもあるのだ。普段なら猛省と恥ずかしさによって顔を真っ赤にするところだが、間の悪い事に今の花中の脳みそは半熟卵並に蕩けている。後悔やら恥ずかしさの分泌は鈍く、代わりに幸福物質はだだ漏れ状態。

 その結果が先のにやけた笑いなのだが、花中当人以外にこの心理状態が筒抜けである筈もない。いや、だらけぶりに拍車が掛かっているようにしか見えないだろう。

 ミリオンが呆れ顔から憤怒の顔になるのも、仕方ない事だった。

「……もう限界ね。ここまで酷くなったら流石に見過ごせないわ」

「見過ごせないと言いますけど何をするつもりなのです?」

 さりげなく花中をぎゅっと抱き締め、不信と警戒を露わにしながらフィアはミリオンを問い質す。するとミリオンは威張るように胸を張り、荒々しい鼻息を一つ吐いた。

 そしてビシッと、花中を人差し指で指す。

「はなちゃんに、運動をさせます!」

 それから堂々と宣言をして、花中とフィアをキョトンとさせた。

「……運動、ですか?」

「ええ。やっぱり家でごろごろしてばかりだからそうなるのよ。外に出て元気よく身体を動かせば、その腐りかけの脳みそもいくらか形を取り戻す筈よ」

「はぁ……」

 相変わらず鼻息の荒い ― 彼女は呼吸などしていない筈なのだが ― ミリオンに、花中は小さな相槌を返す。

 腐りかけの脳みそとは中々キツい罵倒であるが……今の花中がかなりだらしない状態にあるのは揺るぎない事実。生活態度の改善しようという気持ちを持ったところで、勢い付いた堕落のスピードは緩めるだけでも多大なエネルギーを必要とする。そもそも怠惰に傾ききった心では、そのエネルギーを捻出出来るかも怪しい。自力で立ち直るには最早手遅れかも知れない。

 故にミリオンは、花中に荒療治を施そうとしているのだ。人間の精神状態は存外場の雰囲気に流されて変わるもの。無理やりにでも運動をさせる事で、花中の心を怠惰から活動へと切り換える目論見なのだろう。そういう方法もありか、と花中自身は思ったのでこの発言に口を挟むつもりはない。

 代わりに異を唱えたのは、だらだらする花中を愛でたいフィアだった。

「言葉にするのは簡単ですけどねぇ。花中さんに何をさせるつもりなのです?」

「んー、そうねぇ。テニスとかサッカーをやってみようと思うのだけど」

「ああ要するに遊ぶだけですか。なら文句はないです」

 尤もそのフィアも、あっさり言いくるめられていたが。結局のところフィアとしては、花中を愛でられるならなんだって構わないのである。花中自身の気持ちなどお構いなしに。

 そして花中は、ミリオンが告げたこの方針にも文句などない。スポーツは苦手だし、運動への意欲も限りなくゼロではあるが、別に嫌いでもないのだ。みんなと遊びながらやるとなれば、断ろうという気持ちが沸いてくる筈もない。むしろちょっとワクワクしてきた。

「はい、もう話はないわね? そーいう事だからご飯食べたらすぐにでも外に行くわよ」

 ただ、流石にこちらのスケジュールを無視して話を進められると戸惑いはあるのだが。

「え? もう、ですか?」

「当然でしょ。明日やろうは馬鹿野郎って言葉、知らないの?」

「いえ、でも今日は、午後は買い物に――――」

「そんなの帰りにでも行けば良いのよ。ほら、さっさと着替えてお昼の支度をしなさいっ!」

「は、はひっ!?」

 命じられた花中はパタパタと立ち上がり、身支度の第一歩として自室へと駆け足で向かう。パジャマを脱ぎ捨て、運動に適したスマートな服装へと着替えるために。

 お昼寝をしたのに、今夜はぐっすり眠れそうだ。

 ふと脳裏を過ぎった考えに、花中はくすりと笑みを零す。フィアは直接的に自分を甘やかすが、ミリオンもミリオンで間接的ながら甘やかしている。甘えん坊な花中にとって、構ってくれるのが一番の『甘やかし』なのだから。

 こうして叱ってくれるのなら、来年の秋もますますだらけてしまうかも。

 それを言葉にしたらまた怒られるだろう。そしてうっかり独りごちれば、大気中を漂っているミリオンに聞かれてしまうに違いない。嬉しさで弛み気味の口に力を込めてから、花中は自室に続く階段を昇り始めた。

 先程までのだらけぶりが噓のような、力強い足取りで――――




始まりました、第六章。
本章は日常系漫画のようなおっとりぽわぽわな雰囲気を目指します。
……まぁ、どいつもこいつも平和と無縁、どころか平和をぶち壊す奴等なのですが(ォィ

次回は6/2(日)投稿予定です。


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異種混合草野球頂上決戦2

 花中が暮らす町の中央を貫く蛍川。その蛍川の下流域の側に、広々としたグラウンドがある。

 グラウンドは一応県が管理している場所であるが、地面から生えている草は芝ではなくイネ科の雑草で、設置されている屋外トイレは今にも倒壊しそうなぐらいボロボロと、あまり手入れは行き届いていない。では此処が人の手を離れ、旺盛な自然に飲まれそうな場所かといえば、それもまた異なる。何分ホタルの保護区となっている上流域と違い、こちらは一般人に広く利用される開放区画。バーベキューをするのも自由、飛び回る虫を採るのも自由、草むらで昼寝をするのも自由。節度を持って楽しむ分には、これといって禁止されるような行為はない。故に数多くの人が集まり、結果草は踏み潰され、大きめの動物は追い払われて、一見整備されたグラウンドのような『人為的』風景が作られていた。

 さて、そのような場所で、当然スポーツが禁じられている筈もない。今日は爽やかな秋晴れというのもあってか、午後三時近いこの時刻でも広大なグラウンドには多くの家族連れや若者が居て、それぞれが運動を楽しんでいた。サッカーなどの場所を広く使う競技を楽しむ者達も見られるが、走り回る彼等と周りの人々がぶつかる気配はなく、スペース的にはまだまだ余裕があるように見える。

 これなら、自分達が加わっても先客達の邪魔にはならない筈だ。

「うん、思っていたより人は少ないわね。これなら……私達は加減しないとだけど、それなりに楽しめそうね」

 そう感じる花中の隣で、ミリオンが同意するように独りごちる。

 普段のお淑やかな喪服姿と異なり、今のミリオンは半袖のワイシャツに長ズボンという ― ただし色はやはり喪服のように真っ黒なのだが ― 何時もより運動向けの格好をしている。肩には花中の通学鞄よりもずっと大きなショルダーバックを掛けていて、一見してお洒落な体育会系女子そのものだ。

 曰くこの格好は、「スポーツをするんだからそれなりの服を着ないと」との事。服と言ってもミリオンの場合極小物質である『自身』の集合体であり、どんなデザインであれ運動機能を妨げるようなものではない筈だが……気分的なものは違うのかも知れない。

「確かに。あまり我慢しないで遊べそうですね」

 一緒に来たフィアもまた、何時もとは毛色の違う『服装』だ。普段好んでいるドレス姿ではなく、半袖の白いTシャツと短パン。ミリオン以上に『爽やか』で、尚且つ魅惑的なスタイルにフィットした『艶やか』な格好だ。風で靡く金髪が彼女の麗しさを一層引き立て、髪を掻き上げる仕草には同性である花中すらもドキリとさせる色香がある。

「うんっ。いっぱい、遊ぼうねっ!」

 そして花中も、今日はちょっと運動を意識した服を着ている。半袖のポロシャツとジーンズだ。気温が低めなので薄手のカーディガンを羽織ってはいるが、この後きっと身体が温まり、不要になるだろう。

 花中とフィア達が此処を訪れた理由は勿論、運動をするため。だらけた花中をシャキッとさせようという、ミリオンの発案に従ったものだ。

 運動をするだけならジョギングや筋トレなどの、『競技』でない方法でも構わない。しかしどうせやるなら楽しめる内容の方が良い。無論ジョギングや筋トレがつまらないものという訳ではないが、元々運動不足である花中が楽しむには少々ハードルが高いのも事実である。ミリオンが花中に勧める運動が、みんなでわいわいと楽しめる競技系になるのも必然だった。

 とはいえ、そういったものは多人数で臨機応変に動く都合、そこそこの広さを求められる。その辺の道端や家の庭でやるものではない……出来なくはないが、近所の人達に迷惑を掛けたり怪我の原因になったりするので止めておくのが無難だ。

 故に花中達はこうして、広々と使える近所のグラウンドを訪れたのである。

「……で? なんであたしは此処に連れてこられた訳? 気持ち良く昼寝してたのに」

 ちなみに、訪れたモノ達の中にはミィの姿もあったりする。最近は割と服を着ている事が多い彼女は今日、すっぽんぽんだった。恐らくネコの姿で寝ていた時に叩き起こされ、服を着る間もなかったのだろう。胸や股などの大事な場所は黒い体毛で隠れ、一見してセクシーな衣装に見えなくもないので公然わいせつではないだろうが、過激な格好だけに人目を集めている。全く望んでいない形で衆目を集め、ミィは不快そうに眉間に皺を寄せていた。

 そんなミィを連れてきた張本人であるミリオンは、肩を竦めるだけで悪びれる様子もなかった。

「あら、こーいう事はみんなでやった方が楽しいでしょ? 人数集めるだけなら『私』で数合わせしても良いけど、そんなの味気ないじゃない」

「味気ないって……そんな理由で昼寝の邪魔をされた、こっちの身にもなってほしいなぁ」

 不服そうにぶつぶつと文句を言いながら、ミィは腕を回したり、背伸びをしたり、屈伸したり。どうやら言葉と違って内心はそれなりに乗り気らしい。

「えと、それじゃあ、何を、やりましょうか?」

 全員のやる気を確認したところで、花中は疑問を呈する。

 そう。どんなスポーツをするのか、花中達はまだ決めていないのだ。

「ああ。そういえば何をするかはまだ決めていませんでしたね」

「えぇー……そんな事も決めてなかったの?」

「あら、心配ご無用よ。ちゃんと用意はしてるもの」

 花中の質問でミィがますます怪訝な顔をしたが、今回の催しの言い出しっぺであるミリオンは自慢気に微笑む。それから自身の肩に掛けてあるバッグを主張するように、がさりと揺らして音を立てた。

 そしてミリオンはバッグの中に手を入れて――――

 

 

 

「という訳で、まずはテニスをやりましょうか」

 にっこりと微笑みながら告げてくるミリオンに、五メートルほど離れた位置に立つ花中はこくこくと頷いた。

 花中とミリオンの手には、テニスラケットが握られている。これはミリオンが持参したショルダーバッグから取り出した物。ミリオン曰くラケットはバラバラに解体した状態で収納していたらしい。ちなみにそのバッグは邪魔になるという事で、今はミィに持たせている。

 そして花中が渡されたこのテニスラケット、ミリオンが言うには『それなりに上質な一品』らしい。確かに握った感触がそこらの安物とは全然違う……なんて花中には分からないが。花中はテニスなどやった事がないのである。ラケットを握るのすら、今日が生まれて初めてだった。

 いや、そもそもテニスとは何をすれば良いのか? ネット越しに向かい合って、球をラケットで打ち合う……ぐらいのイメージはあるが、逆に言えばこの程度のイメージしか持ち合わせていない。しかも此処はテニスコートではなくだだっ広いグラウンドだ。ネットも何もなく、微かに持っていたイメージすら活かせるか怪しい。

 テニスをする自分の姿が全く浮かばず、花中は困惑のあまり右往左往してしまう。

「え、えと……わたしは、どうすれば……」

「そんな狼狽えなくても大丈夫よ。ど素人相手に試合したってこっちが白けちゃうもの。今回はお遊戯というか、真似事というか、そーいう遊びね」

「ぁ、は、はい……で、でも、上手く、打てるか……」

「別に外しても怒ったりしないわよ。というか初めてなんだからいきなり打てるなんて思ってないから。まぁ、運良く当たって変なところに球が飛んでも、猫ちゃんとさかなちゃんが居るから気にしなくても平気でしょ」

「あたしらは球拾いかーい」

「私も花中さんと遊ばせなさーい」

 勝手に仕事を割り振られ、ミィとフィアからブーイングが上がる。友達二匹からの反感に花中は思わず苦笑い――――同時に、少なからず身体の緊張が解れた。

 どうせ、と言ってしまうのも難だが、これは遊びである。真剣になるのは良いが、真面目になり過ぎても面白くない。ミリオンが言うように失敗しても良いではないか。楽しめればその時点で『成功』なのだから。

「うん、準備は出来たみたいね。とりあえず軽くボールを打ってみるから、好きに打ち返してちょうだい」

「は、はいっ!」

 花中の気持ちが落ち着いたのを見計らい、ミリオンはラケットを構える。テニスの事は基本の『き』の字も知らない花中であるが、フォームの美しさからミリオンが相当テニスに慣れている事を悟った。自ら提案してくるだけに、腕前にはそれなりの自信があるのだろう。

 花中も何時ボールが来ても良いように、テレビとかで見た……気がするフォームを作ってみる。そうしているとミリオンがくすりと笑ったのは、果たしてどのような意味か。こっちは一生懸命にやっているのに、と思った花中はちょっとだけムカッときて、唇をへの字に曲げる。

「はいはい、笑ってごめんなさい。それじゃあいくわよ、っと」

 そんな花中の憤りを軽く流すと、ミリオンはボールをラケットで叩き、飛ばしてきた。

 優しく叩かれたボールの動きはとてもゆっくり。丁寧に予告もしてくれている。しかしそれでも花中は驚いて、飛び跳ねてしまった。そしてどうすれば良いか分からなくなってわたふた、目もきゅっと閉じてしまう。

「え、えーいっ!」

 それでもどうにかこうにか、力いっぱいラケットを振り抜いた!

 尤も、結果は空振り。おまけにラケットを振った時、既にボールは地面に落ちているという体たらくだ。いや、しかしこれだけなら単に外しただけ。まだまだ笑い話で済む。

「ふぇ!? ぁ、ゃ、どべっ!?」

 だが、勢い余って後頭部を地面に打ち付けるのは、いくらなんでも間抜けが過ぎるというもので。

「……………」

「……………」

「……………」

「……………あの、どう、でしたか?」

 黙りこくる友達三匹に、起き上がりながら花中は恐る恐る尋ねてみる。何が、とは訊かずに。

 三匹は無言で互いの顔を見合い、次いでそれぞれ別々の方向を見ながら思案。

「だ、大丈夫よ。誰でも最初は失敗するものよ。そう言ったでしょ?」

「す、スイングは綺麗だったんじゃないかな!」

「やはり花中さんは致命的なまでに運動音痴ですね」

「ぐふっ」

 ミリオンとミィのフォローを台なしにするフィアの一言で、花中は思いっきり呻きを上げた。

「ご、ごめんなさい……運動音痴で、何も出来なくて……」

「いえ謝るような事ではないと思うのですが。花中さんが最早憐れみすら覚えるほどにのろまなのは今に始まった事ではないでしょう? 今更ですよ」

「がぼぁっ」

「……さかなちゃんは少し黙ってて。はなちゃんもそんな気にしないの。さっきも言ったけど、誰でも最初は上手く出来ないものよ。まぁ、はなちゃんほどド下手なのも稀だとは思うけど……」

 今まで憐れまれていたと知り項垂れる花中の背中を摩りながら、ミリオンは優しい言葉を投げ掛けてくれる。花中は少しずつだが呼吸を整え、潤む目を擦り、なんとか平静を取り戻す。

「安心なさい、改善点は見えているわ。そこを直していきましょ」

 立ち直った花中に、ミリオンはテニスの技術について教え始めた。尤も、専門的な技術などは何もない。教えてもらえたのはラケットの握り方や振り方、ボールを待つ間の構え方などの基礎。

 そして、最後まできっちり目を開ける事。

「どんなプロでも、見ないでボールは打てないわ。それにボールが自分目掛けて飛んできても、避けられなくて怪我をするかも知れない。良い事なんて何もないから、しっかり前を見据えなさい」

「は、はい」

「よろしい……とりあえずはこんなものかしらね。もう一度やってみましょうか」

 花中が頷くとミリオンは花中から距離を取り、何処かからボールを一つ取り出す。

 反射的に身体に力が入る、が、花中は大きく深呼吸を一回。肺の中身を全て吐き出すように深く息を吐き、外の冷たい空気を取り入れた。そうすれば強張っていた腕に柔らかさが戻り、震える瞼が自然と上がる。足の開き方は楽な形に。しっかりと前を見据え、ミリオンが持つボールを視界の中央に捉える。

「そうそう、良い感じ。あとは実戦あるのみ、よっ」

 花中の姿勢を満足げに見届けたミリオンは、再びボールをラケットで飛ばしてきた。

 一投目。大きく振りかぶるも清々しいほどに外す。目も最後の最後で瞑ってしまった。

 二投目。なんとかタイミングを合わせようとして、却ってラケットを振るのが遅れてしまう。だけど目は少しだけだが開けられた。

 三投目。掠った、ような気がする。目だって空振りが終わるまでちゃんと開く事が出来た。

「うん、段々良くなってるわよ」

「ほ、本当、ですか?」

「ここで嘘を吐いても仕方ないでしょ。でも、全身の力はもっと抜いた方が良いわねっ」

 四投目のボールが飛んできて、花中は今度こそはとばかりに力いっぱいラケットを振るう。力の入り過ぎが原因でフォームが乱れ、先の三回とあまり変わり映えしない、お世辞にも上手いとはいえない振り方になってしまっていた。

 だけど、今回の手応えは今までと違う。

 ラケットに、確かな重みを感じたのだ。花中の鈍い動体視力ではラケットの真ん中に収まったボールの姿は見えず、おっとりとした理性がボールの存在を予測するにはまだまだ時間が掛かる。しかし本能は状況を感知し、込み上がる喜びで全身を震わせた。

 もう考える必要などない。衝動の赴くまま、花中は一気にラケットを振り抜き――――

 ぽとり、とボールは地面に落ちた。

「……はい?」

「は?」

「ん?」

「……あれ?」

 ミリオンが首を傾げ、ミィが呆気に取られ、フィアが不思議がり、花中がキョトンとなる。

 ボールは確かに、ラケットの真ん中に当たった筈である。そして花中はそのラケットを振っていた。物理学的に考えればボールは前へと飛ぶしかない。しかないのに、何故かボールは殆ど垂直に、まるで運動エネルギーを全て吸い尽くしたかのように地面に落ちてしまった。

 ちなみにコロコロと地面を転がったボールは、三十センチも進まずに止まった。全く飛んでいないので、飛距離で言えば0センチである。

「……………」

「……………」

「……………」

「……………あの。どう、でしたか?」

 黙りこくる友達三匹に、花中は恐る恐る問う。何が、とはやはり訊かずに。

 三匹は、今度は揃って下を向いていた。悩むように、探すように、憐れむように。

 やがて三匹は揃って顔を上げ、

「……正直、どうしてこんな事になるか分からないから、どうすれば良くなるのか分からない」

「あたしにも花中が何をしたのか、さっぱり分かんないや」

「何もこんな形で非凡な才能を発揮せずとも良いと思うのですが」

「げふっ」

 三匹同時に呆れられ、花中は嗚咽混じりの呻きを上げた。基本脆めな心は一瞬でボロ雑巾と化し、跪いてしまうほどに項垂れる。

「ぐすっ……ご、ごめんなさい……せっかく、教えてくれたのに、上手く出来、なくて……」

「はいはい泣かないでください花中さん。ミリオンの事など気遣う必要などありませんよ」

「否定はしないけど、もう少し丁寧な言い回しをしてもらえないかしら……」

 泣きじゃくる花中を他所に、フィアに一言愚痴を漏らしたミリオンはミィに持たせていたショルダーバッグに歩み寄り、ラケットを中へと押し込む。バッグより長大なラケットがズブズブと収まってしまう光景は手品なんかではない冒涜的行為が行われているようで、通りすがりの一般人を震え上がらせていた。

 しかしミリオン、こんなの大した事ではないと言わんばかり。ラケットを完全に押し込むと、土汚れを払うように両手を叩き合って頷くだけである。

「さて、と。どうやらはなちゃんとテニスは相性が良くないみたいだし、今回は諦めましょうか。あーあ、はなちゃんとテニスやりたかったのに」

「? 諦めるって、つまり今回の遊びはお開きって事?」

「勿論、違うわよ。諦めるのはあくまでテニスだけ。そもそも本来の目的は遊ぶ事じゃなくて、はなちゃんに運動させる事なんだし。だからこのままテニスしてても良いんだけど、上手く出来ないやつを延々と続けても面白くないでしょ?」

 ミィの疑問に答えたミリオンは再びバッグに手を入れ、ガサゴソとしばしまさぐってから引っ張り出す。と、その手にはラケットではない――――大きくて真ん丸、何より白と黒の模様が特徴的なボールを持っていた。

 フィアに撫でられ落ち着きを取り戻した花中は、そのボールの存在に首を傾げる。しかしながら何もボールの用途が分からない訳ではない。

 首を傾げたのは、ミリオンが何故『サッカーボール』を取り出したのか、それ自体への疑問からだ。

「さっきも言ったでしょ、バッグの中には他にも色々入ってるって。はなちゃんに合うスポーツが見付かるまで、今日は遊び倒すんだから」

 その答えを、ミリオンは花中が尋ねる前に教えてくれた。

 花中は潤んでいた瞳をパッチリと見開き、夢中で何度も頷く。フィアは肩を竦めつつも微笑み、ミィも背伸びをしていた。言葉はなくとも、皆の気持ちは手に取るように理解出来る。これから始まる『ゲーム』への期待から花中は顔に笑みを咲かせ、鼻息を荒くした。

 誰にだって得手不得手がある。テニスはダメだったけど、サッカーならもしかしたら……

 そう思っていた。少なくとも花中は、そしてきっとフィア達も。だから彼女達は次の『遊び』に前向きだった。

 つまるところ、見くびっていたのだ。フィアもミリオンもミィも、花中自身さえも。

 花中が如何に、運動音痴であるかを。

 

 ―――― 例えばサッカーの場合 ――――

「一応用意しようと思えばゴールポストぐらい持ってこれるけど、それをすると騒ぎになっちゃうからね。今日はパス回しだけにしときましょ……という訳だからはなちゃん、まずは私の方に向けてボールを蹴ってみて」

「は、はいっ! え、と……とりゃあっ!」

「とべちっ!?」

「……なんで真っ直ぐ蹴ったのに、真横に立つ猫ちゃんの顔面にボールが飛んでいくのよ」

「というか野良猫が避けられないってさらりと恐ろしい事してませんかアレ」

 

 ―――― 或いはドッジボールの場合 ――――

「ボールを身体に当てれば勝ちになると……このぐらいシンプルなら花中さんにも出来そうですね」

「ちゃんと手加減しなさいよ、さかなちゃん。はなちゃん、さかなちゃんなら何処に当てたってダメージにならないから、思いっきりやりなさい」

「わ、分かって、ます……や、やぁっ!」

「……外れましたね。不自然な横カーブを描いて」

「なんでブーメランでもないのにボールが弧を描くのよ……」

 

 ―――― はたまたバレーボールの場合 ――――

「た、たぁーっ!」

「おおっ! 花中さんちゃんとスパイクが出来てますよ!」

「跳んだゆーても、殆ど浮いてないけどね。花中、脚力なさ過ぎ」

「……あら? ボールは何処にいって」

「ぶぎゃぶっ!?」

「あ。花中さんの頭に落ちてきたボールが当たりましたね」

「……つまり、一回真上に飛んで、そんで落ちてきたって事?」

「な ん で スパイク(叩き落と)したボールが真上に飛んでんのよぉぉぉぉ……!?」

 

 ――――そんなこんなで数十分後。

「ぐ、ぬぅうううううううっ! ば、馬鹿なぁぁぁぁ……」

 ミリオンが、呻きを上げる。造物主さえも討ち滅ぼした肉体が膝を折り、項垂れ、両手で支えなければ大地に倒れ伏すほどに弱り果ててしまう。苦悶は表情にも現れ、吐き出された言葉は絶望と屈辱に塗れていた。

「あは、あはは……は、はは……」

 そんな地上最強の存在を屈服させた花中は、こちらもまた半ベソを掻き、膝を抱えて座り込んでいた。口からは笑い声が出ていたが、楽しさなど欠片もない。もう笑うしかないと、心が乾き切っている事が誰の目にも明らかなほど憔悴している。

 もし今の時刻が夕刻に迫っていなければ、衆目は異質な彼女達の姿に集まっただろう。うっすらと茜色に染まり始めた空が人々に帰路を促さねば、不躾な野次馬がスマホで無断撮影をしていたかも知れない。

「いやー、こりゃ酷い」

「いっそ清々しいですね」

 そして花中達と違い、落ち込むどころか割と楽しそうな人外二匹。

 その二匹が視線を向けるのは花中達ではなく、地面に放置されたスポーツ用品の数々だった。

 サッカー、ドッジボール、バレーボール……他にも幾つかやったが、何一つとして花中には上手く出来なかった。いや、ただの失敗なら笑い話で済むのだが、花中の下手ぶりは最早『ド下手くそ』という言葉すら生温いだろう。

 何しろどうやっても、それこそ超越的能力を有するフィア達にすら真似出来ない失敗ばかりなのだから。

「つーかさ、花中が触ったボールって、どれも物理法則を軽く無視してない?」

「してるように見えましたね。花中さん実は私達と同じくミュータントだったりしません? そうだとすると一層親近感を覚えるのですが」

「酷いっ!?」

 最新鋭の兵器で構成された軍団を粉砕し、造物主さえも打倒する存在と誤認される運動音痴とはなんだ?

 人間では考えられないレベルの下手くそだと言外に告げられ、花中は目に涙を浮かべた。しかし浮かべた表情は悲しみではなく憤怒。頬をぷっくり膨らませながら立ち上がり、握り拳を二つ作るやぷんぷんと揺れ動かして怒りをアピールする。

「そ、そこまで酷くないもんっ! ただ今日のは、ちょっと……ぶ、ブランクだから! 運動してなかったせい!」

「いやいやまるで悪化したかのような物言いですけど元々このぐらい酷かったのではないですか? 少なくとも私と始めて出会った時から花中さん色々鈍臭かったですし」

「そんな事」

 ないもん――――そう言おうとした口は、しかし最後まで言葉を紡げなかった。思い返せばこの大桐花中、生まれてこの方まともにスポーツをやった事がない。つい最近まで顔が怖い所為で友達が出来なかったのだから遊ぶ機会などなかったし、体育の授業でも周りが避けていく状態だったので実質その場に立っているだけ。ドッジボールなどで極々稀にボールが来ても、持ち前の鈍感さで逃してばかり。ボールを投げた記憶が全くない。

 一応小中高校のスポーツテストでソフトボール投げをやっている筈だが……あの当時は今よりもっと小心者で、先生が怖くて、男の子が怖くて、頭の中が毎度真っ白になっていた。辛うじて残っている記憶の残渣は、手からすっぽ抜けるような球を投げていた気がする程度。下手は下手だが、今と比べてどうかはいまいち分からない。

 果たして自分が何時からここまで酷いのか。『ここまで酷くなかった』時期を知らぬ花中に、答えられる訳がなかった。

「なんにせよこの調子では何をやっても無駄に終わりそうですねぇ。球技以外のものをすべきではないですか? 本題は運動させる事なのでしょう?」

「ぐぬぬぬぬ……た、確かに……少し、ムキになっていたかも知れないわね。でも、球技以外になんか用意してたかしら」

「別に道具など使わずとも追いかけっこで良くないですか?」

「良いかもだけど、折角色々用意したんだから使いたいじゃない」

 自前のバッグに手を突っ込み、ミリオンは中を漁り始める。まだまだ残弾はあるらしいが、ミリオンの顔は渋いままである。

「……フリスビーとか、どうかしら?」

「確かに球技ではないですけど……」

「そうよねぇ……」

 ややあって取り出した物に、見せられたフィアは顔を顰め、ミリオン自身がフィアの意見に同意していた。

 花中自身にとっても推論であるが、恐らく自分は投げる……というより外力を加えて物体を動かす、諸々の動作全てが致命的に下手くそなのだと花中は思う。だとすれば例え球技以外、それこそ円盤状のディスクを投げて飛ばす遊びであるフリスビーでも、きっととんでもプレイを披露するだろう。フィアやミリオンが難色を示すのは至極真っ当な反応だ。

 しかしながら『きっと』は所詮可能性の話であるし、仮にとんでもプレイを披露したとして、まともに遊べないかは別問題。フリスビーが相手に届きさえすれば、遊びとしては成立する筈である。むしろ予測不能な動きをする方が()()()達にとっては面白いかも知れない。

「まぁやるだけやってみれば良いんじゃないですか? そーれっと」

 花中のそんな考えと同じ結論に至ったのか。先程まで渋っていた態度を一変、ミリオンからフリスビーを当然のように取り上げたフィアは、実に淡白な一言と共に花中目掛けてそっとフリスビーを投げてきた。

 花中とフィアの距離は、ざっと三メートル。優しく投げたためフリスビーの速度はかなりゆっくりだったが、この短距離では到達までの時間は僅かしかない。

 人より鈍臭い花中がこれに対応出来る筈もなく、

「うひゃあっ!?」

 反射的に、花中はフリスビーをしゃがんで避けてしまった。

 止められなかったフリスビーはそのままふわふわと、彼方に飛んでいってしまう。

「あら?」

「ちょっとー、さかなちゃん何してるのよ。はなちゃん相手にいきなり投げたら、そうなるに決まってるじゃない」

「あ、えと……わ、わたし、取ってきます、ね」

 キョトンとするフィア、窘めるミリオンや静観するミィよりも先に、花中は自らフリスビー拾いを立候補。すぐに自分の真上を通り過ぎたフリスビーの後を追う。

 フィアはあまり力を込めていない様子だったが、投げ方が上手かったのか、それとも風に乗ってしまったのだろうか。フリスビーは未だふわふわと飛んでいて、落ちる気配がない。

 故に見失わずに済んだ、といえば怪我の功名なのだが、良い事ばかりでもない。花中の鈍足では、ゆっくり飛行するフリスビーにも追い付けないからだ。

 無論フリスビーは空気抵抗により段々と失速していたが、花中も段々と疲れてきて、ただでさえ遅い足取りはますます鈍くなっている。いくら追い駆けてもフリスビーとの距離は一向に縮まらない。

 結局最後まで追い付けず――――フリスビーが止まったのは、行く先に居た誰かの後頭部にこつんと当たってからだった。

「ふぇうっ!? ご、ごめんなさ……」

 フリスビーとはいえ、不意打ちで後頭部に当たればそれなりに痛い筈。大変な事をしてしまったと、その人の近くまで来ていた花中は反射的に謝ろうとした。

 が、その言葉は途中で途切れてしまう。

 フリスビーを当ててしまったのは、身の丈二メートル近い大柄な人物だった。肩幅に至っては小柄な花中の倍、いや、三倍ぐらいあるかも知れない。後ろ髪は白とも銀ともいえる色合いで、相応の年季を感じさせる。着ている白いスーツは真新しく見えるが、丁度良いサイズがなかったのかピチピチとはち切れそうになっていた。

 と、これだけなら単にお年を召した、大柄の男性でしかない。怖いという気持ちに押されはしても、謝らなければという想いは薄れない。

 しかし『疑念』を抱いてしまったなら、罪悪感とは薄れてしまうもの。

 どうにもその人物が、花中には普通の人間に見えなかった。なんというか、全体の『輪郭』に違和感を覚えてしまうのである。それに人々の憩いの場であるこのグラウンドで、スーツ姿というのも奇妙といえば奇妙だ。

 疑念により花中が唖然としている間に、『男性』はポリポリとフリスビーが当たった箇所を掻く。手の皮膚は真っ黒で、指はどれも太くて立派だった。やがて彼は花中の方へと振り返り、

 ゴリラにしか見えない顔を、花中に見せた。

「……はい?」

 思わず口から出たのは、疑問系の言葉。

 その顔は目や鼻、口周り以外は黒い毛で覆われていた。地肌を覗かせている部分の方がずっと少ないぐらいで、僅かに見えている肌は黒人すらも色白に見えるぐらい黒い。目元は大きく陥没しており、鼻は平坦で『穴』が正面から丸見えだ。

 つまりは、その人物は第一印象が寸分も変わらないぐらいにゴリラ顔だった。いや、ゴリラ顔ではなくゴリラそのものと言っても過言ではない。彼に比べればテレビで自身の顔をゴリラだと自虐する芸人など、低クオリティを通り越して不敬である。

「花中さーんどうかしましどぅおうっ!?」

「え? あ、うわぁ……」

「ご、ゴリ……!?」

 その評価が花中の歪んだ感性が導き出したものでない事は、立ち止まってしまった花中の下へとやってきたフィア達の反応が証明していた。第三者の目から見ても、やはりゴリラらしい。

 しかし、此処は日本である。日本に野生のゴリラは生息していない。動物園で飼育している個体が脱走した可能性はあるが、そういった個体が新品のスーツを着ている訳もない。大体にしてゴリラとは繊細な動物である。このグラウンドのような、無数の一般人が遊んでいて賑やかな場所に足を踏み入れるなど到底あり得ない。

 であるならば、考えられる可能性は一つである。

 コスプレだ!

 きぐるみにしてはゾッとするほど精巧だし、今更ながら強烈な獣臭さが辺りを漂っている事に気付きもしたが、そんなのは些細な問題である。恐らく中に居るのは頭がアレな人か、テレビとかそんな感じのやつに頼まれ断れなかった資本主義の奴隷なのだろう。ならばここは下手に刺激せず、ゆっくりと後退していくのが正解

「ウホッ?」

 ――――あ、これゴリラだ。

 目の前の『人』と関わらない理由を考えていた花中だったが、その『人』の鳴き声が淡い期待を打ち砕いてしまった。

 人間はコミュニケーションの主体に『声』を用いる生物である。だから人間の声がどんなものかはどの生物よりも熟知しており、もし人間だと思って聞いた声が人間のモノでなかったら、きっと脳は混乱してしまうに違いない……そんな気持ち悪さが今、花中の頭の中を走り巡っていた。表情は引き攣り、手足は凍り付いたように動かせない。

 固まってしまった花中の前で、『彼』はしばし考え込む。それから思い出したようにポンッと手を叩くと、何やら嬉しそうに笑いながら ― 少なくとも人間である花中にはそう見える表情で ― 花中の肩をバシバシと叩いてきた。痛い。それに馴れ馴れしい。

 しかし『彼』は花中の気持ちなどお構いなし。ふと地面に落ちていたフリスビーの存在に気付いた『彼』は、フリスビーを拾い上げ、花中の手元に返してくれた。花中がされるがままフリスビーを持つと、なんだか微笑ましそうに頭を撫でてくる。優しい撫で方なのは構わないが、手が恐ろしく獣臭い。

 そうしてやりたい事をやって気が済んだのだろうか。すたすたと、『彼』は何事もなかったかのようにこの場を去ろうとした。

 ……出来れば、見過したい。見過ごしたいが、しかし今までの行動 ― 落ちてる物と花中を関連付けしたり花中の頭を撫でたりスーツを着たり ― により、彼は獣以上の知性……人智を持っている事を示して見せた。そして花中は『人智を獲得した生物』の存在を知っている。

「……フィアちゃん、ミリオンさん、ミィさん……」

「合点承知でーす」

「ウホ? ……!?」

「ごめんなさいねぇ、暴れなければ殺しはしないから」

「ウホッ!? ウホ、ウホッ!?」

「あー、こんだけ脅してもまだ人の言葉を話さないかぁ……こりゃ確実だね」

 素早く自身を包囲した人外×三を前にして、『彼』はようやく自分の置かれた状況を理解したのだろう。だがもう、遅過ぎる。

 気付いてしまった以上は見て見ぬふりなど出来ぬので――――果たして花中のそんな気持ちは、伝わったのだろうか。

「とりあえず……確保で」

 自分のこの指示一つで、自ら面倒事に首を突っ込んでしまった事を、花中は静かに悟るのであった。




はい、という訳で本章の新ミュータントはゴリラさんです。
……動物の中で、純白のスーツが一番似合うのはゴリラだと思うのは私だけでしょうか?(そもそもそのような姿を想像する人間が少数派)

次回は7/9(日)投稿予定です


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異種混合草野球頂上決戦3

 広大なグラウンドのど真ん中にて、縮こまるように正座しているゴリラを、仁王立ちする四人の少女達が取り囲んでいた。

 ……字面にすると「お前は何を言っているんだ?」と正気を疑われかねないぐらいおかしな光景だが、それが現実に起きていた。事情を知らない第三者にはこの光景がどう見えているのだろうか? ゴリラ……の()()()()()()()変質者が少女達に手を出したものの返り討ちに遭い、形勢逆転されて追い詰められている姿だろうか。或いは善良な ― 公共の場でやってる時点で善良ではないかも知れないが ― コスプレイヤーが悪辣な少女達に絡まれている姿だろうか。

 どちらか、或いは全く別の考えにせよ、衆目を集める光景には違いない。というより、現在進行形で衆目を集めている。大人は警戒心を剥き出しに、子供は好奇心を隠さずに。

 ――――自分で招いた結果とはいえ、こんな事になるなら無視した方が良かったかも。

「……その辺にリリースとか、しちゃ、ダメ、ですかね……?」

「駄目じゃないけど、はなちゃんの事だからやったら何時までもうじうじと引き摺るんじゃない?」

「ですよね……はぁ」

 事の発端である花中はそんな気持ちを吐き出してみたが、ミリオンにあっさりと指摘され、ぐうの音も出ないほどに納得。深々とため息を吐く。

 それから両手で掴んでいるフリスビーに顔を埋め、いくらか気持ちを落ち着かせてから面を上げる。見えるのは、自分達が捕まえた『本物のゴリラ』だった。

 ゴリラ。

 ゴリラは現存する類人猿の中ではチンパンジーに次いで人類に近いとされ、現在はアフリカ大陸のごく小さな地域にのみ生息する希少な生物である。種類はニシローランドゴリラ、ヒガシローランドゴリラ、マウンテンゴリラの三種。ヒガシローランドゴリラはニシローランドゴリラの亜種とされる事もあり、分類には諸説ある。日本の動物園に居るのは全てニシローランドゴリラなので、日本人の場合はゴリラ = ニシローランドゴリラという認識でも問題はなかろう。野生個体は乱獲や開発、紛争の影響で近年減少傾向にあり、動物園でも繁殖に四苦八苦しているとか。食べ物は植物を主体にしているが、果実などの甘い物も好み、時折昆虫なども食べるらしい。雄は成体になると後頭部の毛が銀色に変わる、シルバーバックと呼ばれる特徴を持つようになる。丁度、目の前の『彼』のように。

 ……等々生態的な知見を並べ立ててみたが、そんな『理性的』な情報が果たして通用するのだろうか。

 目の前の存在は人智を凌駕した怪物『ミュータント』だというのに。

「(……ミュータント、だよね?)」

 そこまで考えて、花中は今更過ぎる疑念を抱いた。

 彼は明らかに人語を理解していた。人間を前にしてもパニックにならず、頭を撫でるなど実に人間的なアクションも見せてくれた。しかし人間とは明らかに違う体臭が、彼が人外である事を物語る。ここまで証拠が揃っていながら、まさかミュータントではないなどあり得るのか?

 あり得ない、と花中は判断した。そしてミュータントだった場合、彼にはフィア達のような出鱈目な能力を有している可能性がある。その力で人間社会を滅茶苦茶にしてしまう懸念も。

 故に花中は彼が人間社会に現れた『目的』を問い質すべく、友達に彼の身を一時的に拘束してもらった訳だが、もしも見当外れだったら……例えば単に体質的に物凄く毛深くて、加えて喋る能力に障害がある『普通の人』だったなら、これは酷く無礼な行いといえよう。勿論万に一つもあり得ないとは思うが。

 ……花中達に捕まり、正座して、おどおどおろおろする『彼』の姿を見ていると、根拠はないけどやっぱり普通の人だったような気がするから困る。

「あ、あの」

「っ!?」

 念のため確かめようと花中が声を掛けると、ゴリラはびくりと身体を強張らせる。視線はあちらにチラリ、こちらにチラリ。自身を取り囲む『化け物』達を警戒……というより怯えている様子だ。

 無理もない。捕まえる際、フィアが冒涜的外見の水触手で足を縛り、ミリオンが不可視の状態で彼の喉を締め上げ、ミィが馬鹿力で手首を掴んだのだから。花中だったら怖さのあまり、失禁していたに違いない。錯乱してないだけまだマシというものである。

「(……ちょっと、警戒し過ぎだったかも)」

 花中は一度深呼吸。気持ちを落ち着かせると、反省の気持ちが込み上がってきた。

 実際のところ、花中が知る限り彼はまだ何もしていないのだ。人間としての使命感に燃えるあまり、彼の気持ちを考えていなかった。或いは、ミュータントに対する『偏見』もあったかも知れない。先程抱いたミュータントだったら人間社会を云々という考えは、彼が『危険思想』を抱いている事が大前提である。悪意を持たない聡明なゴリラなど、そこらを闊歩している歩きスマホ人に比べれば遥かに無害ではないか。

 それにもしかしたら、やむを得ない事情があって彼はこの辺りを散策していたのかも知れない。

 元より話は訊くつもりでいたが、追求としてするのは止めよう。猜疑心や警戒心を抱くのは、話を聞いた後からでも遅くはない筈だ。

「あ、あの……こ、言葉は、分かります、よ、ね?」

 刺激しないよう小さく、穏やかな声で話し掛けてみると、ゴリラは大きく一回こくんと頷いた。人間的な仕草で肯定を示している。言葉と文化を理解している証だ。

 これなら対話する上で最初にして最重要の難関、そもそも言葉が通じないという事はなさそうだ。同じヒト科の動物なので可聴領域に大きな差があるとは思っていなかったが、こうして実際に確かめて初めて確証が持てる。まずは一安心と胸を撫で下ろし、花中は人当たりの良い……つもりで浮かべているぎこちない笑顔で、敵意がない事を彼に伝えようとした。

「えと、その……ご、ごめんなさい。急に、捕まえたり、して……あの、ゴリラが、居るなんて、思わなくて……つ、捕まえなくちゃって、焦っちゃって……ごめんなさい」

「……ウホッ」

「あ、あの、どうして、こんな場所に、い、居たの、ですか? 何か、事情があるなら、その、お詫びの意味も、込めて、わ、わたしに出来る事でしたら、お手伝い、します、けど……」

 謝罪と共に善意を伝えてみたところ、ゴリラは考え込むように押し黙る。が、その時間はさして短くない。

 ふと、彼はその両手を素早く動かした。反射的に花中は身体を強張らせ、フィアが素早く身を乗り出してきたが、ゴリラは特段何もしてこない。ひたすらに手を動かし、何かを象徴するようなポーズを次々と見せてくるだけ。一通り手を動かすと一旦両手を下ろし、少し間を開けると再び動かし始めた。先程と全く同じ動きを、今度はゆっくりと。

 間違いなく、なんらかの意図を含ませた動作だ。そして手を使って意思を伝える行動に、人類は既に名前を付けている。

「これは……手話?」

 そう、手話だ。

 ゴリラと手話で会話出来る、という実験結果はある……が、アレは報告者による『詩的』な解釈があって初めて成立するもので、信憑性はあまりないと花中は思っている。

 しかし彼は恐らくミュータント。人類に匹敵する知性を持ち合わせている筈だ。手話を理解し、使ってきても不思議はない。フィア達のように音声による『人語』を使わないのは、彼の『能力』が会話へと応用するのに向いていないからだろう。

「ほほうこれが手話ですか。私には手をバタバタと振り回しているようにしか見えませんけど」

「いや、意味がありそうな動作って事ぐらいは分かるっしょ……それしか分かんないけど」

「そうねぇ。手話なのは分かるけど、何を言いたいのかは分からないわね」

 フィア達も、彼が手話を使っている事は理解したようだ。尤も手話だと分かっただけで、その意味までは解読出来ないようだが。

 そして三匹は、揃って花中に視線を移す。

 ……何時までも、じっと見つめてくるので、花中もちょっと居心地が悪くなってきた。

「……えと、何か……?」

「いえ。花中さんなら分かるのではないかと思いまして」

「フィアに同じー」

「猫ちゃんに同じー」

 どうやら通訳を求められているらしい――――分からないのだからそうなるよね、と花中も納得である。

 幸いにして、三匹が期待する通り花中には手話の心得があった。心得といっても小学校の頃、道徳だかなんだかの時間に習ったものを今でも覚えているだけで、使える単語の数は幼稚園児以下。日常会話をするには『語彙』があまりにも足りないが……何も知らないフィア達よりは、遙かに通訳に相応しい。

 むしろ一番の問題は、コミュニケーションの仲介役という重要な役割へのプレッシャーがのし掛かる点。普段の花中なら震え上がっただろうが……本日、というより最近の花中は秋の涼しさにやられて脳みそ蕩け気味。ザルのようにスカスカな理性はプレッシャーすら落としてしまった。

「えと……頑張って、みます」

 とりあえずやるだけやってみようと、花中はゴリラの前でしゃがみ込み、その手の動きを真っ正面から見据えようとする。ゴリラの方も、花中が通訳をしてくれると察したらしい。目線や姿勢を花中と向き合わせ、先程の手話をもう一度最初から始める。手の動きはゆっくりで、手話に不慣れな花中でも分かりやすいものだ。

 とはいえ、花中からすれば小学校以来の手話。思い出すのも精いっぱいである。理解した単語を、一つ一つ言葉にしないと忘れそうだ。

「えと……こんにちは、動物、です」

「なんで界から自己紹介始めてんの? せめて種名から始めなさいよ」

「うーん、わたしでも分かりやすいように、でしょうか……?」

 ミリオンのツッコミに花中が自分の考えを口にすると、ゴリラはこくこくと頷き、ビシッと親指を立てた。恐らくは肯定の意思表示。彼なりに気遣いをしているらしい。

 花中としても、小さい子に分かる程度の単語だけで対話をにしてくれるならそれに越した事はない。ゴリラの()()言葉を花中はゆっくりと解読する。尤も、幼稚園児以下の語彙では話せる内容はかなり限定的だ。いくらか簡単な言い回しをしてもらったり、比喩的な表現をしてもらったが、それにも限度がある。

 分かったのは、彼が元々動物園育ちである事、子供にオモチャを与えたい事、そのために動物園を脱走した事、そしてどんな遊び道具があるのかを此処で観察していた事――――ぐらい。

 要約すると、彼は子供に遊び道具をプレゼントするために町にやってきた、という事だ。

「子供のために動物園を脱走、ねぇ……まぁ、そこまで変な理由じゃないわね。ミュータントの能力なら、さしてリスクもないだろうし」

「そうですか? 私には全く理解出来ないのですが。自分の子供なんかのためにわざわざ脱走するなんて時間の無駄としか思えません。何か隠しているのではないですか?」

「そりゃ、アンタが子育てをしない生き物だからそー思うんでしょ……あたしとしては割と共感するし、納得も出来るんだけど」

 花中が話を纏めると、フィア達は三者三様の反応を返す。ウィルスであるミリオンは合理的に納得し、魚であるフィアは疑いを抱いて、猫であるミィは共感している。各々の種を代表するような、それぞれの考え方をしていた。

「花中さんどう思いますか?」

 最後にフィアに意見を求められた花中は、短くない時間口を噤んだ。

 彼の話を、完全に理解出来た訳ではない。ただ少なくとも、嘘を吐いているようだ、という印象は受けなかった。花中としては、彼の話を信じたいと思う。

 問題は、今後についてだ。

 彼が子供のために遊び道具を探しているとして、それ自体は『霊長類』の一員である花中も応援したい話である。しかし彼は正真正銘のゴリラであり、故に彼の姿はゴリラそのものである。何をどうしたところで人目に付く。まさかゴリラがそこらを闊歩してるとは誰も思わないだろうが、不審者と疑われて通報される事は十分にあり得る。

 彼は警察に任意同行を求められ、果たして大人しく従うのか? 警察はウホウホしか言わない彼を、最後まで『ただの変質者(人間)』だと勘違いしてくれるのか? 市民の安全を守るためという名目で射殺されそうになって、それでも彼は人に危害を加えないのか? ……面倒かつ悲劇的なトラブルが起きる前に動物園に帰ってほしい、というのも花中の正直な想いだ。

 好きにさせたい、さっさと帰れ。相反する想いが胸の中に渦巻くが、花中はこれといって苦悩しなかった。

 簡単な話だ。彼が子供への贈り物を探しているというのなら、その贈り物をとっとと見付けてしまえば良い。そうすれば彼の想いを尊重しつつ、より迅速に動物園へと()()()()()。こんな簡単な話に、頭を抱える訳がない。

「……わたしは、このゴリラさんの話を、信じるよ。それで、お手伝いも、してあげたいなって、思う」

「そうですか。まぁ花中さんが信じるのでしたらそれで構いませんが……しかしお手伝いとは具体的にどうするつもりなのです?」

「うん。それはね……」

 フィアが抱いた疑問への答えとして、花中は手に持っていたフリスビーをゴリラに渡す。

 フリスビーを受け取ったゴリラは最初キョトンとしたのか目をしばたたかせ、フリスビーをひっくり返したりしながら観察し始めた。これがどのような物か、なんの用途で使うかが分からないらしい。

 未知への好奇心を露わにするゴリラの前で、花中は更にもう一歩歩み寄る。ゴリラも花中の接近に気付き、フリスビーに向けていた目を花中へと戻してきた。透き通った宝石のような眼が、花中を捉えて離さない。

「あの、良ければですけど……みんなで、遊びませんか?」

 その瞳は花中の提案を受けて、一層大きく煌めいた。

「ふむふむ成程。実際に色々遊んでみてそれで気に入るものを探そうって訳ですね。確かに実際に触ってみなければ分かるものも分かりませんものね……私としてはこんな奴に花中さんとの時間を邪魔されたくはないですけど」

「さかなちゃんは相変わらずねぇ。私としては、異論はないわ。敵意がないならどーでも良いし、今日の目的はあくまではなちゃんに運動をさせる事だもの。運動になるなら、反対する理由はないわ」

「あたしは賛せーい。スポーツは大人数でやった方が楽しいもん」

 花中の提案に、フィア達はそれぞれの意見を言う。否定的、無関心、肯定的と綺麗に三つに分かれたが、断固として拒絶という反応はない。否定気味のフィアも、花中がしたいと言えば断らない態度だ。

 後は当人……当猿? ともあれゴリラの意思次第であるが――――目をキラキラとさせ、人間の目にも分かるぐらい清々しい笑顔を浮かべている彼に、回答を迫るのも野暮というものだ。

「じゃあ、決まり、ですねっ。えと、とりあえず、フリスビーから、やってみますか? あなたが、今、持っている物の事、ですが」

 花中が尋ねると、ゴリラは頷きながら立ち上がる。早速教えてほしいのか、フリスビーをくるくると回しながら花中をじっと見つめてきた。

 フィア達も、誰が言い出すまでもなく適度に散開。大体数メートルほどの間隔を保ち、円のような陣形を作る。フリスビーの投げ合いっこなら、準備はこれで十分。

「あ、えと……そのフリスビーを、誰かに投げてください。それをキャッチして、相手に投げ返す、遊びです」

「ウホ」

 花中の説明に肯定、のような気がする鳴き声を出すと、ゴリラは早速フリスビーを投げる。まじまじと観察していただけあってか、フリスビーを立てたりはせず、正しい向きで投げていた。

 流石に投げ方はややぎこちなかったが、それでもフリスビーは真っ直ぐ飛んでいき、狙い澄ましたようにミィの下へと向かう。抜群の運動神経を誇るミィはこれを易々とキャッチ。ゴリラの方へとそっと投げ返す。ゴリラも容易くキャッチすると、今度はフィアへとフリスビーを投げた。

 動物園育ちとはいえ、流石は獣というべきか。フリスビーの投げ方、捕まえ方のどちらも、ゴリラは見る見る上達していっている。

 慣れてきたなら、手加減を続けても面白くない。ミリオンやミィが投げるフリスビーには段々と力が入り、受け手であるゴリラの動きも徐々に激しくなっていく。ゴリラの方も応えるように、投げ返すフリスビーには力が入り始めていた。

「と、とりゃー!」

「おおっと私の方にあら?」

「え、ちょなんであたしの顔目掛ぶっ!?」

 ちなみに花中が投げたフリスビーは、物理法則を嘲笑うようなカーブを描き、予測不能の軌道で飛行した。これには動物達も刺激的だと大喜び、遊びは一層盛り上がる……時折、自分の投げたフリスビーが自分の眉間を奇襲する事もあったが。

 そんなこんなで何度目かのフィアの番がやってきた時。

 ゴリラからフリスビーを受け取るや、フィアはニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた事に花中は気付いた。その顔になんともいえない予感がした花中だったが、声を上げる間もない。フィアは素早く、大きく腕を振り上げる。

 狙うは、今し方投げたばかりで油断しているゴリラ。

「ふふんこれは受け止められますかっと!」

 フィアが投げたフリスビーは、その大きな身振りに見合う鋭い速さを纏っていた。フィアなりの手加減はしていたのか、或いは上手くコントロール出来なかったのかは不明だが、幸いにして出鱈目な速さではない。しかし油断していたゴリラにとっては十分な奇襲であり、彼に大きな運動量を要求する。

 それでも素早く跳び付き、ゴリラはフリスビーをキャッチしてみせた。草むらの上を、勢い余ったゴリラの身体が転がる。見事な動きを魅せてくれたゴリラであるが、彼の真新しいスーツに土汚れが付いてしまった。その汚れに気付いたゴリラはスーツを掌でポンポンと叩くが、土汚れは中々落ちない。諦めたように、彼は肩を竦めた。

 とはいえ、怒った様子はない。むしろ顔には笑みが浮かんでいて、ますます楽しそうである。

 この楽しさを与えてくれたお礼をするかのように、ゴリラもまたフリスビーを大きく振りかぶった。フィアは掛かってこいと言わんばかりに足を広げ、獣のような前傾姿勢を取る。

 笑顔で睨み合う二匹の獣。遊びであろうと真剣な態度は、周りの空気を張り詰めさせる。思わず、花中はごくりと息を飲んだ

 瞬間、まるでそれを合図とするかのように、ゴリラはフリスビーを投げた!

「おおっとこれは……!」

 フィアが驚きと感心を含んだ声を上げる。

 フリスビーは先程フィアが投げたものよりも数段速く、花中の目では追うのもやっと。花中であったなら、いや、人間だったなら、そのスピードに対応出来ない者が多数を占めただろう。

 しかし今回受ける相手は『野生動物』であるフィア。『能力』として身体機能が優れているミィほどではなくとも、その反応は文明という名のぬるま湯に浸った人類を軽く凌駕する。素早くフリスビーの進路を予測し、余裕綽々の笑みを浮かべながら右手を前へと伸ばした。

 が、()()()

 何故ならフリスビーはフィアの手が間近に迫るや、まるで自らの意思を持ち、逃げるかのように急浮上したのだから。

「なっ……にぉう!」

 予想外の軌道に驚くも、顔面目掛け飛んできたフリスビーをフィアは身体を仰け反らせて回避。すかさず空いていた左腕を伸ばして、ギリギリながらもキャッチしてみせた。

 これにはゴリラも驚いたようで、目をパチクリさせる。そして称賛するかのようにパチパチと拍手をした。フィアは乱れた髪を掻き上げながら、ふふんと自慢気に鼻を鳴らし、あくまで余裕だったとアピールする。

 それから素早くゴリラと向き合い、大きくフリスビーを振りかぶって

「そーれ花中さんっ!」

 ゴリラではなく、花中に向かって投げ付けた。

「へ? え、うええええええええ!?」

 不意打ちを喰らい、花中は慌てふためく。フリスビーはとてもゆっくりと飛んでいたが、しかし運動音痴な花中にとっては豪速球と変わらない。わたわた、おろおろ。パニックに陥った花中の頭は真っ白になり――――

「ふ、ふにゃあ!」

 奇声を上げて、思わずそのフリスビーを叩いてしまった。

 ハッとした時にはもう遅い。叩かれたフリスビーは何故か高く舞い上がった、と思った直後に急降下。

「つまりよぉ、こっちがでふっ!?」

 花中の後ろから、スコーンッ! という小気味良い音と共に、花中の顔色を真っ青にする声が聞こえた。

 ヤバい。

 そう思った花中は、ガチガチに身体を強張らせてしまう。しかしこのまま固まっている訳にもいかない。どう考えても先の音と声からして、『被害者』が居る筈なのだから。錆び付いた機械の如く、ぎこちなく振り向く。

 振り向いた先にいたのは、髪を金色に染めた、明らかに素行不良な年上の男性(お兄さん)

 そしてその彼の後ろに控える、同じく外観によって素行の悪さを主張する四人のお兄さん方だった。

「(って、団体様ぁぁぁぁぁぁぁ!?)」

「……おい、このフリスビーを投げたのはアンタか?」

 まさか複数居るとは思わず固まった花中に、金髪のお兄さんがフリスビーを持って尋ねてくる。怖い。怖過ぎて、花中はそのまま凍り付いてしまう。いや、一瞬だが失神した、というべきか。

「はいそうですけど何か?」

 代わりに答えたのはフィアだったが、その言葉はあまりに挑発的。男達の目が一層鋭くなるのも当然だ。

「何か、じゃねぇだろ。こちとらこれが頭に当たったんだ。つまり被害者。分かるか?」

「そうですか……で?」

「……何?」

「そのぐらい良いじゃないですか。見たところ元気そうですし謝る必要があるとは思えませんが?」

「はぁ!?」

 あまりにも不躾な答えに、男達が困惑する。が、困惑はすぐに怒りへと変貌した。怒りはフリスビーをぶつけられた男だけでなく、その仲間にも伝播していく。

 悪いのは、勿論フリスビーをぶつけてしまった花中である。

 それは花中自身分かっているのだが、我を取り戻し謝ろうとした時には、状況は取り返しの付かない事になっていた。男達の怒りの矛先が花中からフィアに移ってしまっている。今や花中の謝罪云々は『別の話』となっているのだ。花中が謝っても、それはそれ、これはこれ、と言われかねない。

「あ、あの、えと、ふぃ、フィアちゃん、良いから……わ、悪いのはわたしで……」

「このクソアマ……女だから何もされねぇって嘗めてんのか」

「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」

「別に調子になど乗っていませんが……あとその言葉そっくりそのままお返しいたします」

「ああん!?」

「てめぇ、痛い目見ないと分かんねぇみたいだな……」

 それでも必死に説得を試みるが、やはり花中の言葉は届かない。話し合いは過熱し、周囲の人々は不穏な空気を感じ取ったのか少しずつ距離を取り始めていた。一触即発、というのはこのような状態を指すのだろう。

 しかし、いくらなんでも彼等の怒りはあまりにも急速に加熱していないか?

 その疑問を抱いた時、花中は男達からアルコールの匂いが漂っている事に気付いた。よくよく見れば顔もかなり赤らんでいる。相当量の飲酒をしたに違いない。穏やかな気候の中仲間内で楽しいバーベキューをしていて、丁度その帰り道に花中のフリスビーが強襲したのか。彼等が元々どのような性格かは知りようもないが、その理性は今、限りなく緩い筈。悪い事は重なる、とは良くいったものである……或いは重ならなければ、悪い事とは早々起こらないのかも知れない。

 などとうっかり現実逃避をしそうになる花中だったが、頭を振りかぶる。今はこの状況をどうにかしなければ……だが、やはり打開策は浮かばない。助けを求めてミリオンを見ても彼女は面倒だから勘弁と言わんばかりに知らんぷり、ミィの方はどうすれば良いか分からないようで困惑中。花中は右往左往するしかなくて――――

「ウホッ!」

 唐突に聞こえたこの鳴き声がなければ、そのまま頭を抱えていたかも知れない。

 声を上げたのは、ゴリラだった。彼はすたすたと歩くと、フィアと男達の間に割って入る。突然の乱入者、それも見た目が完全なゴリラを前にして、怒り狂っていた男達も閉口してしまう。

「む。なんですか突然に」

 フィアもいきなりの横入に、少々不機嫌さを滲ませる。しかしゴリラは怯む素振りもない。

 むしろ彼は楽しそうに笑っていて。

「ウホホーッ!」

 おもむろに両腕を前へと突き出す。

 そしてその手にあった、金属バットとグローブを全員に見せ付けた。

 それらがなんのための道具であるか、わざわざ説明せずとも明らかであろう。問題は、彼が何故その道具を取り出したのか、である。

「……ははーん成程」

 花中には全く思い付かなかったが、フィアは即座に察した。一体どんな意図が? 花中はフィアの意見に耳を傾け、

「つまりここは野球で決着を付けようという事ですね!」

 あまりに突拍子のない解釈に、花中は思わずずっこけた。こけた勢いで地面に頭を打ち、痛みで悶え苦しんだ。

「はぁ!? いきなり何を言って……」

「おやもしかして負けるのが怖いのですか?」

「な……んな訳ねぇだろうが!」

「そーだそーだ!」

「なら問題ないでしょう。勝った方が負かした相手の言う事を聞く。私が勝ったら花中さんを虐めるのは止めて尻尾を巻いておめおめと逃げなさい」

「良いぜ……やってやろうじゃねぇか。こっちが勝ったら本当に、なんでも言う事を聞いてもらうぜ」

「もちろん。まぁあり得ない話ですけどね」

 花中が悶える中、話がとんとん拍子で進んでいく。男達も最初はそのあまりの展開に意見していたが、そこはアルコールに浸食された脳みそ。挑発にあっさりと乗っていた。

「では決まりです――――という訳で手伝いなさいミリオン野良猫ゴリラ」

「良いわよー。はなちゃんの運動になるのならなんだって」

「まぁ、スポーツなら良いか……怪我とかさせないでよ? 悪い人間じゃないかもなんだし」

「ウホホ!」

 ミリオンとミィも、当然言い出しっぺのゴリラも、フィアを止めない。

 かくして決まってしまった、酔っ払いとの野球対決。

 事の発端である筈の花中はすっかり置いてきぼりで、その場で呆然と倒れ伏すしかなかった……




さぁ、いよいよ始まります異種混合草野球頂上決戦。
勝つのはどちらのチームか!

……勝敗は見えているのに不安しかない。主に人命的な意味で。
ギャグ補正が彼等の身を守ってくれる事を祈りましょう。まぁ、本作の世界は人間に厳しいので完全な幻想ですけどね(ぇ

次回は7/23(日)までに投稿予定です。来週はちょっと厳しそう……


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異種混合草野球頂上決戦4

 市民の憩いの場であるグラウンドの傍に、とある野球場がある。

 野球場と言っても立派なものではなく、所謂草野球場だ。グラウンドと隣接するように位置し、簡易的な観客席や選手が座る屋根なしベンチ席、フェンスなどの野球場に欠かせない物は一通り揃っている。ただあまり整備はされていないようで、ベンチ席は塗装が剥げているし、フェンスには錆も目立つ。そもそも観客席には人っ子一人居やしない。茜色の空と目に優しい夕陽が、景色に散りばめられた寂しさを一層引き立てていた。

 普段なら近所の草野球チームなどが使っているらしいが、今日は偶々誰も使っていないし、明日までは使う予定もない……と、この野球場の管理人らしき人物は語っていた。『らしき人物』なので彼が本当に管理人なのかは分からないが、実際誰も使っておらず、夕方になった今から使う予定があるとも考え難い。道具の使用も許してくれた。

 絶対に、とは言えなくても、野球目的で使用する分には問題なだろう。

「ちっ……なんで野球なんか……」

 故に此処で野球をしようという話になった訳だが、その参加チームの片方――――酔っぱらった男達のチームにて、一般男性の倍近い肩幅を誇る男 ― チームで一番の大柄なので、『大柄』と呼ぶとしよう ― が小さくぼやいた。

 大柄のぼやきに反応したのは、髪を金色に染めた、花中のフリスビーが直撃した男 ― こちらはリーダー格のようなので、リーダーとする ― 。鋭い目付きで彼は大柄を睨み付ける。

「なんだ? なんか文句あんのかよ」

「文句じゃねぇよ。ただ、こんな面倒なやり方しないで、あの場でやっちまえば良かったじゃねぇか」

「馬鹿。あんな人の多い場所でなんかしたら、警察とか呼ばれるかも知れねぇだろ。むしろ結果的に手間が省けたじゃねぇか……わざわざこんな、人気のない場所に連れ込んでくれてよ。積極的な女どもだと思わねぇか?」

「……ああ、成程な」

 ニタリと笑ったリーダーを見て、大柄もまたニヤリと笑う。その笑みは正しくゲスとしか言いようがなく、邪な心が滲み出ていた。悪道と無縁な一般人でも、一目で彼等の邪悪さが分かるほどに。

 彼等は、表向きただのヤンキーである。

 だがその実、裏では相当の悪事を働いた悪党でもあった。それも法に反する、大きな悪事を幾つもこなした大悪党。そして彼等が捕まらないのは、『目撃者』を出さず、そして『被害者』は通報出来ぬよう念入りに脅していたからだ。表沙汰にさえならなければ、事件というものは存在しないのと変わらない。事件とは、被害者が警察に駆け込む事でようやく確立される……彼等はそれをよく知っていた。

 今回のように人気がない場所は、彼等にとって願ったり叶ったりのシチュエーションである。勝敗など関係ない。太陽が完全に沈み、辺りから人が完全に失せる……その時こそ、彼等は本性を露わにする。

 彼等は酔っていたがために挑発に乗ったのではない。酔わずとも外道であるが故に、このケンカを買ったのだ。

「もうすぐ夜になる……とんだ馬鹿女達だ。夜道は危ないって教わらなかったんかねぇ?」

「だな……へっへっ。わくわくしてきたぜ。どうやって遊んでやろうか……」

「単純な奴だ。言っとくが、あの金髪は俺が最初だからな」

「わーってるよ。人の獲物を横取りするほど飢えちゃいねぇからな……この前食ったばかりだしよ」

 ゲラゲラと、男二人が笑う。釣られるように、他の男達も笑う。

 笑ってから、一斉に、ちらりと視線を向けた。

 ゴリラっぽい、大男の方に。

「……ところであのゴリラっぽい奴って、まさかだと思うけど……」

「いや、ありゃ……アレだろ。コスプレとか特殊メイクとかだろ、うん」

「そ、そうだよなぁ……なんか獣臭いけど……うん」

 まさか、本当のゴリラが居るとは思いもせずに……

 一方その頃、そんな男達の本性など知らぬ花中達はといえば。

「あの、野球のルールは、知ってる、よね……?」

 花中のこの疑問が示すように、そもそも野球が出来るのか? という段階から始めていた。

 しかしながら、あまりにも初歩的過ぎる質問である。訊かれたフィアは不満げにぷっくりと頬を膨らませた。

「……花中さん。いくらなんでもそれは酷い質問ではありませんか?」

「は、はぅ……ごめん。でも、あの……」

「まぁ心配になる気持ちは分かります。負けたらなんでも言う事を聞くと約束してしまいましたからね」

 フィアの言葉に花中はこくんと頷く。頷くが、「違うそうじゃない」とも思っていた。

 花中は、フィア達が負けるだなんて微塵も思っていない。彼女達のパワーは人間など容易く引き裂き、スピードは人の目に追えない。基本的なスペックが違い過ぎるのだ。人間とミュータントの対決は、例えるならアリがクジラ相手に何かしらの勝負を挑もうとするのに等しい。手加減しても負ける方が難しいだろう。

 しかし『負けない』事と『問題ない』事は全然別だ。もしルールを知らなければ、果たして彼女達は()()()()プレイが出来るのか? もしかしたら、相手に怪我をさせてしまうのでは……

 相手の事をよく知らぬが故に、純粋に相手の身を心配していた花中は俯いてしまう。と、その頭をポンポンと優しく撫でられた。

 顔を上げれば、フィアの優しくて、自信に満ちた笑みが視界を埋める。

「大丈夫です。私に全てお任せください」

 そして発せられる言葉の頼もしさに、花中は思わず笑みを浮かべ、

「相手はたかが人間ですからね! この私の投げた球によって一人残さず頭蓋骨をかち割ってやりますよ!」

 続くこの言葉で、花中は勢いよくずっこけた。地面に打ち付けて、頭蓋骨をかち割りそうな勢いで。

「? どうしましたか花中さんヘッドバットの練習ですか?」

「そんな訳ないでしょ! そうじゃなくて、な、なんでそんな、頭を割ろうなんて、怖い事しようとしてるの!?」

「え? 野球ってそういう遊びじゃないのですか? テレビではやたら人に向かって投げていたと思うのですが」

「なんでハプニング特集の、で、出来事を、さもルールのように、認識してるの!? あれはハプニング! 起こっちゃダメな事なの!」

「なんですって!? ではどうやって相手を倒せば……」

「野球は相手を倒さないの! 相手より、多く点を入れれば勝ちなの!」

 スポーツマンシップ以前の問題であるフィアに、花中は必死に基礎的知識を叩き込む。付け焼き刃同然だが、やらないよりはマシ……というより、やらないと何が起きるか分かったもんじゃない。

 そこでふと、花中は気付く。いや、気付かないよう、無意識に避けていたのかも知れない。

 フィアは極端な例だとしても……他の友達が、ルールを把握している保障はないではないか。

「あ、あの、皆さんは、野球のルールは……」

 恐る恐る花中が尋ねると、のびのびと準備していた友達二匹――――ミリオンとミィが振り向く。

 ついでに、この野球対決の提案者であるゴリラも。

「……詳しくは知らないけど、まぁ、常識的な範疇でやらせてもらうわ」

 ミリオンの答えは、つまりはよく知らないという事。

「あたしもさっぱり。でもバットでボールを叩いて遠くに飛ばせば良いんだよね? 五キロぐらい飛ばせばホームランになるのかな?」

 ミィもまた、合ってるようで明らかに間違っている認識を晒す。

 残る最後の一匹であるゴリラは、仁王立ちし、腰に両手を当てながら胸を張る。

「ウホッ!」

 そして誇らしげに首を大きく横に振りながら、吠えた。

 ……何を言っているのかは、全く分からない。分からないが、霊長類的直感曰く「さっぱり分からん!」と言ってる気がする。花中はどさりと膝を付き、力なく項垂れた。

「知らないなら、なんで野球対決なんか、勧めたのですか……というか、あの野球道具は、何処から……」

「ああ、アレ私が用意したやつよ。さかなちゃんとアイツらが言い争ってる時に、どうやって遊ぶものか知りたがってる様子だったから、彼等なら知ってるって教えてあげたの」

「……何さらっと唆してるんですか……」

「いや、唆したつもりなんかないのよ? 連中がゴリラ男の姿を見てビビるなりうざがるなりして帰ってくれれば、って思ってたんだけど」

 中々上手くいかないものねぇ、と悪びれる様子もなく打ち明けるミリオン。花中はますます深く項垂れる。

 知識なし。常識なし。反省なし。

 ないない尽くしを思い知らされ、花中は頭を抱える。一体このチーム、どうやって纏めれば良いのか。そもそも纏める方法なんてあるのだろうか? いや、それよりも警戒すべきは、彼女達が人間ではないとあの男性達に知られてしまう事。彼等の見た目年齢から推察するに、SNSを使っていてもおかしくない。彼等に疑念を待たれたら、ネットの世界にフィア達の情報が流れる可能性があるのだ。そしてフィア達人智を超える生物の存在は、確実に人間社会を混乱に陥れる。

 なんとかしてフィア達の正体は秘密して、それでいて怪我人を出さないようにしなければ。

「おーい! まだ準備は終わらねぇのか!?」

 どっと押し寄せる課題にせめて三日は悩み抜きたいところだが、対戦チームからの催促が三分も経たずに飛んできた。「問題ありませんよー」と勝手に答えるフィアに続き、ぞろぞろと友達三匹+ゴリラは歩き出す。置いていかれた事に気付き、花中も慌ててみんなの後を追った。

 何も起こらないと良いなぁ……

 期待はすれど、どうせ叶わないと自分自身思う願いを抱きながら――――

 

 

 

 男達の呼び掛けにより、野球場の中央に集まった花中達。本来なら、ここで選手宣誓なりをすべきなのだろうが……生憎花中以外の誰もがそういった事に無頓着らしく、早速試合を始めようとの運びになった。

 最初に基本的なルールを確認した後、どちらのチームが先攻かを決める。代表として花中達のチームからはフィアが、男達のチームからはリーダーが出て、じゃんけん勝負。勝ったのはフィアで、彼女は誰とも相談せずに先攻を選んだ。男達は何故かにやにやと笑いながら、大人しく後攻を受け入れる。

 かくして始まる、野球対決。

「ふっふーん腕が鳴りますねぇ」

 待機席である屋根なしベンチの側で、フィアは金属バットを振り回していた。やる気があるのは結構だが、しかし彼女は相変わらずルールを理解しているとは言い難い状態である。

 いや、フィアだけではない。ミリオンもミィもゴリラも、いまいち分かっていない様子だ。もうこの際多少ルールが分からないのは良いとして、騒ぎを起こすのだけは阻止しなければならない。

「い、良い? ぜっ……たいに、大事になるような、派手な事とか、おかしな事は、しちゃダメだからね? 人間じゃないって、バレないように、しないと……」

「分かってますって。それじゃあ行ってきますね」

 念押しする花中であったが、フィアは何処吹く風。そそくさとグラウンドに出てしまう。花中はそれを止められず、ぽつんと立ち尽くしてしまった。

「だ、大丈夫かな……」

「別に平気でしょ、とりあえず人に怪我させちゃいけないって事は分かったみたいだし」

「だよねー」

「ウホ。ホウホウホ」

 不安を言葉にする花中に、隣に立つミリオン、ミィ、そしてゴリラがそれぞれ自分の考えを述べる。ゴリラについては何を言ってるかさっぱりだが、心配するな、とでも言っているのだろう。

「ふん、調子に乗れるのも今のうちだぜ」

 そんな彼女等の心遣いを台なしにするように、横から嫌味な言葉が飛んでくる。

 言葉の発信源は、数メートル離れた位置にあるベンチに座るリーダー。彼の周りでは取り巻きの男達が、余っていたのか何本か持っていたお酒を呑み、品のない笑みを浮かべている。

 罪悪感と恐怖心から怯えてしまった花中はミリオンの裾を無意識に掴み、掴まれたミリオンは肩を竦めながら花中達の代表として答えた。

「あら、私達が調子に乗ってると? そんなつもりはないし、仮にそうだとしても、真剣勝負の最中にお酒を楽しむあなた達ほどではないと思うのだけれど」

「それが調子に乗ってるんだよ。ほれ」

 あそこを見ろ、とばかりにリーダーは顎で方角を示す。

 彼が示した方を見たところ、一人の男性の姿が目に入った。

 その人物は既にマウンドに立っており、男達の中で最も整った筋肉を持った、如何にもスポーツが得意そうな人物 ― スポーツマン、と呼ぶとしよう ― を花中達に魅せる。彼は感触を確かめるように左手に嵌めたグラブ目掛けボールを投げており、その手慣れた動きから、彼がそれなりに野球を嗜んでいた事が察せられた。

「アイツは昔野球部だったからな。それも、地元じゃちょっとは名の知れた名選手。これがどういう事か、分かるよな?」

「井の中の蛙って事ね。手加減してあげなきゃ、()()心が折れちゃうかも」

「……ふん」

 ミリオンの煽りに苛立ちを露わにしながら、リーダーはベンチに置いていた缶ビールを飲み干す。ミリオンはくすくすと笑うだけ。花中はおどおどしながら、ミリオンの代わりにリーダーに向けて頭を下げた。

 さて、ここで()()()ルールについて確認しよう。

 本来野球とは、九対九で行うものだ。しかし此度の試合はどちらも五人ずつしか居ないので、五対五で行う。ここまでは良いのだが……重大な問題が横たわっていた。

 審判の不在である。

 野球は多くの判定を求められる。ストライクかボールか、盗塁に成功したか否か、打った球はファールになっていないか……言うまでもないが、双方どちらかのメンバーが審判をやった場合、当然自軍有利の判定をしたのではと不正を疑われるだろう。逐一反論するのは非効率であり、何より不毛だ。どうせ納得のいく結論など出ないのだから。

 そこでルールをとことん簡略化。盗塁だとかファールやホームランなど、細かいものは全部省いた。残ったルールもよりシンプルな、そして時間の掛からない形に変えた。

 こうして出来上がった新ルール――――投げられたボールをバント以外の方法で打てれば一点。キャッチャーが取れなかったら相手の得点。三回打てなかったらアウト。一人アウトになったら攻守を交代する。ピッチャー・キャッチャーは都度自由に変えても良い。

 これを九回繰り返し、最終得点が高かったチームの勝利とする……以上の事を基本的なルールとして、この試合は進行する。

「ふっふーん。さくっと片付けてやりますよー」

「が、頑張ってぇ、フィアちゃーん……その、そこそこに……」

 最初のバッターはフィア。花中が応援及び忠告をしたところ俄然やる気になったようで、バットを片手でぶん回し、何時でも来いとばかりに好戦的な眼差しを投手に送る。

 対する、マウンドに立つ男。彼の眼差しはフィアではなく、仲間であるキャッチャー ― ニタニタと薄笑いを浮かべた、如何にも軽薄そうな男なので『優男』と命名する ― へと向けられていた。まるで、それ以外を見る必要などないと言わんげに。

「……運のない女だ」

「あん?」

 ぽつりとぼやいたスポーツマンの言葉に、フィアは怪訝そうに訊き返す。

 それはほんの僅かではあったが、明白な隙。

 その隙をスポーツマンは逃さず――――力強く、腕を振り抜いた!

 スポーツマンは中学生時代、地元では有名な野球少年であった。

 高校でも野球を続けていれば、恐らくは全国的に有名な投手と育っていただろう。だが、複雑にして粗悪な家庭環境が、そしてその時を狙っていたかのように近付いてきた人間が彼の人生を狂わせた。正道から外れて外道を進み、今では取り返しの付かない場所にまで来ている。今までの生き方を後悔した事はないが……彼にとって野球は、純朴だった頃から特別なものであり、今でも彼の心の奥底に根付いている唯一の『正道』だった。

 素直に好きだとは、もう言えない。リーダーの『真意』を知っている以上、この試合の勝ち負けだってどうでも良い。だけど……大人しく負けるつもりも毛頭ない。

 ましてや自信と過信の区別も付かない馬鹿女に打たれて堪るか!

「ほいっ」

 なんて背景を背負っている事など露知らず、フィアは問答無用で一発目から打った。弾丸にすら対応可能な反応速度でボールの軌道を正確に測定、大型トラックを平然と受け止める怪力でぶん殴る……言葉にすると最早不条理でしかない才覚は、人間の想いなど簡単に嘲笑う。かきーん、と小気味よい音が辺りに響き、ボールは遥か彼方へとすっ飛んでいってしまった。

「……うぬ?」

「いえーい花中さんやりましたよー!」

 呆気に取られるスポーツマン。そんな彼の事など眼中にないフィアはスキップ混じりで花中達が待つベンチ席へと帰る。花中は初っ端からお見舞いした特大ホームランに頬を引き攣らせたが、なんとか拍手で出迎えた。

「はははっ! いきなり打たれてやんの! 元野球部だろー?」

「……あ、ああ。少し、ブランクがあっただけだ。次は問題ない」

 優男に煽られ、スポーツマンは動揺を少なからず滲ませつつも、新しいボールをもらうとグラブを嵌め直す。大きな深呼吸をし、気持ちも改めているようだ。

「よーし、やってやんよー」

 次にバッターボックスに立ったのは、フィアと同じぐらい自信満々なミィ。片手でバットを振り回す姿は、野球をやっていた人間からすれば腹立たしいものだろう。

「み、ミィさん、あの、あまり本気は……」

「んー? 花中なんか言ったー?」

 ましてやベンチ席の花中の掠れた声に反応して、ピッチャーから目を逸らせば嘗めていると思われても仕方ない。

「このっ……!」

 ミィが花中を見ている間に、彼はフィアの時以上の力でボールを投げ、

 投げられたボールを、ミィはそっぽを向いたまま、『片手』で弾いた。バットではなく、バッドを握ってない片手で。

 ボールはそのまま彼方へと飛んでいき、これまた数秒で見えなくなってしまう。

「……は?」

「……あ、ヤバ。つい素手で叩いちゃった。もー、いきなり来るからビックリしたじゃん。あ、でもこれヒットだよね? やったー」

 『ヒット』が出たのだから一点。無意識に点を獲得したミィは、退屈そうにバットを投げ捨ててベンチに戻ってきた。

「いえーやりましたねー」

「やったよー、いえーい」

 ベンチに戻ったミィはフィアとハイタッチ。ミリオンともハイタッチ。ゴリラともする。

「花中ぁ、やったよー」

 そして最後に花中の前まで来て、

「な、なんで素手でボール飛ばしてるんですかぁっ!?」

 小声で花中に怒られ、キョトンとしたミィは首を傾げた。

「え? なんでって……つい?」

「ついじゃないです! 普通の人は、野球のボールが当たったら、大怪我、しちゃうんです! 骨が折れるんです!」

「えぇー……あんなので怪我って、ちょっと人間って脆過ぎない?」

「にに人間とか、迂闊に言わないでくださいっ!? 人間じゃないって、い、言ってるようなものじゃ、ないですかぁ!」

 気にしてるようで全く気にしてないミィに、花中は心臓がバクバクと脈動するのを感じる。いや、ミィについてこれ以上構ってはいられない。なんとかして男達に、彼女の起こした現象が『人間でも可能』と認識させなければ。

 ああ、しかし一体どうやって誤魔化せば良いのか――――妙案も愚策も浮かばないまま、ただただ焦りに突き動かされて花中は男達の方へと振り返り、

「……は、ははは! 中々やるじゃねぇか!」

「だな! 少しは歯応えがないと面白くないからな!」

 まるで気にも留めてない男達を見て、ベンチから転がり落ちて前転を繰り出してしまった。傍から見たら奇行でしかないリアクションにフィアから「花中さんどうしました?」と声を掛けられてしまう。

 確かに彼等はアルコールを摂取していたので、平時より些か知能指数が落ちるのは仕方ないだろうが……だとしてもここまで酷くなるのか? 大人になってもお酒は控えようと、花中はこっそり心に誓う。

 ……なんにせよ、人外だとはバレていない。これに安堵して良いかは微妙だが、一先ずはやり過ごせたと花中は少しだけ安心する。

「お、俺の球……素手で、弾かれ……」

 尚、スポーツマンは見た目か弱い美少女であるミィに怪我一つ負わせられなかった事がショックだったようで、跪いて項垂れていた。彼もまたミィが人外とは思っていないようだが、花中的にはある意味一番心配である。

 それでも立ち上がり、再び前を見据えようとする姿に、一人の『野球選手』としての意地と誇りを花中は感じ取った。

「さんかんおー」

 尤もその意地と誇りを、三人目の打者であるミリオンは腑抜けた掛け声と共に放った特大ホームランを以てして容易くへし折ったが。ちょっとは空気を読んでください……花中の心の声は、誰の耳にも届かない。

「おいおい、いい加減真面目にやれよ!」

「さっさと本気出せよ!」

 あっという間に三得点。数字だけで見れば散々な結果に、ついにはスポーツマンの仲間からブーイングが上がる。勝敗など気にしていない彼等だが、嘗められるのは癪なのだ。不当な評価に襲われるスポーツマンだが、しかしフィア達が人外だと知らぬ彼に弁明の言葉などある筈もない。悔しそうに、唇を噛むだけ。

 そんな彼に追い討ちを掛けるように、花中達が座るベンチ席から一体の巨躯が動き出す。

 ゴリラである。

 動物園育ちとはいえ、彼もまた『猛獣』の一種である。例えばその握力は並の個体でも五百キロを超えるとされ、成人男性の平均である四十~五十キロの十倍に達する。単純なパワーからして、肉体的対決では人間はゴリラを倒せない。振るったバットがボールに当たれば、人間など足元にも及ばない飛距離を叩き出す筈だ。

 ましてや彼はミュータントである。その身には人智の及ばない、恐るべき能力が宿っているに違いない。しかし花中は未だその能力をハッキリとは見ていない。もしかすると争いには役立たない能力という可能性もなきにしもあらず。

 果たして彼はスポーツマンの剛速球を止められるのだろうか? 疑問に思った花中はゴリラの顔色を窺おうとし、

 ぞわりと、背筋が震えた。

 立ち上がったゴリラの姿は、恐ろしいほどの自然体だった。表情だけでなく四肢もリラックスしており、心理的緊張を見ている側に何一つ感じさせない。バッターボックスに立ち、金属バットを構える姿にも恐れや不安はない様子。

 フィア達は打ってみせたが、スポーツマンの球は決して遅くはない。むしろ素人である花中には、十分に速い球だと思えた。ゴリラだってスポーツマンの投げた球は少なくとも三度は見ている。何故こうもリラックスしていられるのか。

 仮に、花中がここまで落ち着ける時があるとすれば……何があろうと負けないという『確信』がある時、か。

「……っ」

 スポーツマンは表情を強張らせながら、念入りに自身のフォームを微調整する。一見ただの美少女であるフィア達にすらバッコンバッコン打たれたのだ。見た目からして屈強であるゴリラを警戒しない筈がない。

 睨み合う両者。広がる緊迫感に花中は思わず息を飲み、

 まるでそれが合図だったかのように、スポーツマンは球を投げた! 迫り来る豪速球。ところが相対するゴリラ、これにも動揺する素振りすらなし。むしろ勝利を確信したようにバットを力強く握り締め、

 ばすん。

 ばすん。

 ばすん。

「って振りもせずに三振してどうするんですかっ!?」

「ウホホウ、ホウホウ」

 いやー、やっぱ速くて無理だったわぁ。

 そう言っているかは定かではないが、そう言っているようにしか見えないジェスチャーと共にゴリラはあっさり戻ってきた。あまりの呆気なさに花中もずっこける。どうやらあのリラックスさの理由は、単に諦めていたから、らしい。

 ともあれゴリラがアウトとなった事で、ここでようやく攻守が入れ替わる。一回目から三得点は幸先が良い……人外である事を隠す、という意味では先が思いやられるが。

「ちっ……ようやくこっちの番か」

「……………」

 成果を上げられずに戻ってきたスポーツマンを、リーダーは舌打ちという形で出迎える。スポーツマンは俯き、言葉を返せぬまま、ドカッ! と音を立ててベンチに座った。

 スポーツマンと入れ替わるように、今度は大柄がグラウンドに出てくる。向かうは当然バッターボックス。ボックスに立った丸太のように立派な腕で金属バットを軽々と振り、意気込みを見せる。スポーツマンのような引き締まった肢体ではないが、巨大で屈強な肉体から放たれるパワーは相当なものだろう。

 さて、バッターが出てきたのだからピッチャーとキャッチャーが必要だ。

 キャッチャー役を名乗り出たのはフィア。既に三点のリードを付けて勝った気になっているのか、上機嫌な鼻歌交じりでポジションに着く。しゃがみ込んだ事で金髪が地面を引き摺るが、全くのお構いなしである。

 そしてピッチャー役を担うのは、ゴリラだ。

 自分がやりたい、と言葉では言ってない ― 言っても理解出来ない ― が、ボールを持って子供のようにウホウホとアピールすれば誰だってその意図を理解出来る。やりたい奴がやれば良いという方針の下、今回は彼が投手となった。

 ……腕をぷらぷらさせ、肩を怒らせるような歩き方でマウンドへと向かう姿は正しくゴリラである。純白のスーツ姿はある意味人間らしいが、それ以外が全く人間らしくない。マウンドに立つ姿にも違和感しかない。

「だ、大丈夫かなぁ……」

「大丈夫でしょ、ルールは一応分かったみたいだし」

「つーか、アイツちゃんと投げられるのかな? キャッチャーが取れなかったら、点取られちゃうのに」

 果たして最後まで本物だとバレずに登板出来るのか、と思いながら独りごちる花中に、ちゃんとプレイ出来るだろうとミリオンは語る。ミィに至っては勝ち負けしか気にしていないらしい。花中の不安はこれっぽっちも和らがなかった。

 そんな花中の不安を他所に、大柄もフィアもゴリラも、『相手』の事しか見ていない。しかしチリチリとした緊張感を放つのは大柄だけ。グラブを構えるフィアも、ボールを握るゴリラも、緊張などしていない。

「そんなゴリラ野郎なんかに負けんじゃねぇぞーっ!」

「ゴリラだからってびびんなよ!」

 尚、隣のベンチ席の粗暴な応援が聞こえて、花中はガチガチに緊張していたが。あんな目立つところで、目立つ行動をしたら、あのゴリラがゴリラだとバレてしまうのではないか。いや既にゴリラだと言われてる訳だからゴリラだとバレてるようなものかも知れないが、しかし彼等の言うゴリラとは蔑称としてのゴリラであり、自分が危惧しているのはゴリラが生物学的にゴリラである事、つまり彼がGorilla gorilla gorilla であるとバレる事だ。そしてあのゴリラには自分が Gorilla gorilla gorilla である事を人間に知られてはならないとの自覚があるとは――――

「……はなちゃん、顔色悪いけどどうしたの?」

「いえ、ちょっとゴリラ酔いを……」

「は?」

 頭の中をゴリラが駆け回り、花中は謎の気持ち悪さでダウンしてしまった。個人名と種名を区別するために、ニシローランドゴリラの学名である Gorilla gorilla gorilla を使ったのが間違いだったか。

 無論そんな花中の体調不良で、試合が止まる訳もなく。

 しばらく続いた睨み合いを終わらせたのは、ゴリラ。彼はおもむろに腕を大きく振りかぶると、その大振りに見合った速球をついに放った!

 ハッキリ言ってしまえば、花中はゴリラを見くびっていた。

 今まで彼は、これといって能力らしいものを見せていなかった。故に花中は今まで彼の能力など知らなかったのだが……一度だけ、その力を推測するチャンスがあった。

 それはこの野球対決の発端となった、フリスビーで遊んでいた時の事。

 一回だけだが、ゴリラがフィア目掛けて投げたフリスビーが『奇妙』な急浮上をしていた。考える暇があったなら、あの動きは妙だと花中なら気付けただろう。いや、そもそも類人猿の中で、投擲に最も適した肉体をしているのは人間である。例えば成体のチンパンジーは人間を引き裂くほどのパワーを持つが、彼等がボールを投げても十歳前後の子供ほどの記録も出せない。骨格と筋肉の付き方の所為で、投擲が出来ないからだ。正確性・射程・速度において、人間は類人猿最強……いや、生物界最強の投手と謳っても決して過言ではない種なのである。

 にも拘わらず、あのゴリラはフリスビーでの遊びを難なくこなしていた。人間と相似した『肉体』を作れるフィア達ならいざ知らず、彼は外見からしてゴリラの肉体をしている。パワーは圧倒的としても、肉体的にコントロールとスピードは遥かに劣る筈なのに、人間らしくプレイ出来ていた。

 ここまで思い至れば、答えを導き出すのは容易い。

 あのゴリラの能力は『優れた投擲技術』である、と。

 そしてミュータントの能力が、人間程度のレベルで済む筈もない。

「ここだっ!」

 速球ではあったが常識的速さの球を、大柄は逃さない。高速かつ正確な軌跡でバットを振るい、飛んでくるボールを的確に捉えた。

 普通のボールであったなら、間違いなくここで打たれ、中々の飛距離を叩き出したに違いない。しかし此度のボールは普通ではない。

 何しろバットが迫るや、ボールは()()()()()()()()()()()回避したのだから。

「よっしゃ――――えっ!?」

「はいキャッチ。あと二回ですよー」

 間違いなく打ったと思ったのか勝利の雄叫びを上げようとして、空振りに終わった大柄は呆気に取られる。正面から見据えている彼には、ボールがどのような動きをしたのか分からなかったようだ。

 だが花中達外野は、ベンチ席に居る事でボールの軌跡を横から眺める事が出来る。運動音痴で動体視力もあまり良くない花中でも、ボールの不自然な動きはしっかりと網膜に焼き付いていた。普通の男性なら容易に視認出来た筈。ざわざわと隣のベンチ席が騒がしくなる。額から溢れ出る冷や汗で、身体が一気に冷めていくのを花中は感じた。

 このままでは不味い。ゴリラが人間ではないとバレてしまう……文言にすると全く意味不明な状況に首を傾げる余裕すら今の花中にはない。

「あ、あの、も、もっと、ふ、普通に、投げてください……!」

 なんとか自重してもらわねばと、花中はゴリラに声を送る。尤も周りに聞かれるのを気にして小さな、風で掠れるほどの声しか出せなかったが……ゴリラは花中の方へと振り向くと、こくりと頷き、ビシッと親指を立てた。任しとけ、と言わんげに。流石は動物、人間以上の五感を備えているようだ。

 人間である大柄には花中の声は届かなかったのか、彼は花中に一瞥もなくバットを構え直す。ゴリラも改めて前を見据え、呼吸を整えた。

 そして放つ、第二球。

 飛んでいく球の速さは、中々の速さだが常識の範疇。一見して普通のボールに花中は安堵の息を吐こうとした

 のも束の間、ボールが三つに増えた。

 ……冗談抜きに、いきなりボールが三つに増えていた。分身魔球であった。恐らく漫画だったなら、今頃花中の目玉は数十センチほど飛び出し、視神経が外気に晒されている事だろう。

 こんな非常識ボールを前にしたら、打てる打てない以前にそもそも身体が動かない。大柄はあどけなさすら感じるほどキョトンとした顔を浮かべたまま棒立ちし、ボールはフィアの手前で一つに戻り、構えられたグラブにすぽんと収まる。

 そしてゴリラは花中の方を見て、親指を立てながらカッコ良くウインク。「どうだい? これなら文句ないだろう?」と言いたげな清々しい笑顔も添えてきた。

「(って、そうじゃないですぅぅぅぅぅ!?)」

 当然花中の反応は、顔を真っ青にしながら高速で横に振るものだったが。

 どうやら先の花中の小声は、ゴリラに全く届いていなかったらしい。それどころか花中の掠れた声を応援と誤解し、一層頑張ってしまったようだ。完全な薮蛇。お陰で二投目も大柄は手も足も出ずにストライク。魔球なんて投げられたら、ただの人間にどうこう出来る筈もない。

 というより、人間に投げられる訳がない。

 隣のベンチに座る男達にざわめきが広がる。当然その視線は、自然と花中達の方へと向けられた。花中は全力で目を逸らすが、逸らしたところで後頭部にぐさぐさと視線が突き刺さる。この頭の痛みは視線が刺さっているから、ではないだろうが。

 大柄もベンチ席の仲間達と同じく目の前の現象に戸惑っていたが、試合を放棄するのも癪なのか、或いはあまりに非常識な光景に言葉を失ったのか。そのままバッターボックスに立ち続けたが、三投目のボールは『横』にジグザグ飛行をする有り様。あり得ないボールの姿に今度もバットすら振れず、三振となってしまう。大柄はその場にバットを叩き付けて帰還。フィアとゴリラはハイタッチをしてから戻ってきて、頭を抱えて項垂れる花中を見て揃って首を傾げた。

 ワンアウトで攻守は交代。男達の攻撃回は呆気なく終わり、二回表となる。

 ――――どうせ、いくら注意しても、ホームラン連発するんだろうなぁ……ああ、もうどーでもいいや。どうせ総理大臣がなんとかしてくれるし。怪我人さえ出なければ、それで……

「はい、それじゃあ次ははなちゃんの番ね」

 等々諦めの感情に支配されていた花中は、ミリオンから言葉を掛けられるまで俯いていた。

 尤も、掛けられた後も動かず、こてんと首を傾げるだけだったが。

「……はい?」

「いや、はい? じゃないでしょ。はなちゃんが打席に立つ番でしょ、順番的に」

 ミリオンが指差した場所は、空席となっているバッターボックス。

 ポカンと口を開けっ放しにした間抜け面を晒しながら、花中は考え込む。一回表で打席に立ったのは、フィア、ミィ、ミリオン、ゴリラの四匹。そうなると、成程確かに残るは自分だけなのだから、今回打席に立つのは自分だろう。

「わ、わたしぃ!?」

 と、ここまで考えて、やっと自分の番がやってきたのだと花中は理解した。すっかりその事が頭から抜けていた花中は右往左往するが、周りはそんな事情はお構いなし。頑張れー、と大手を振って応援する姿を見せられたら断れない。

 おどおどとした足取りで、バッターボックスに向かう花中。今度のキャッチャー役も優男がやるようで、男の人が近くに居る事に慄いた花中はつい目を逸らしてしまう。

 その拍子にマウンドを見て、身体を一層強張らせた。

 マウンドに立っていたのは、フィア達の時と同じくスポーツマン。だが今の彼は、先程までとは別人のような顔付きになっていた。例えるなら修羅か、或いは鬼か。最早おどろおどろしいという言葉が相応しい表情に、花中は思わず縮こまってしまう。それでも、スポーツマンの表情が変わる事はない。

 一体何故そこまで本気なのか?

 疑問の答えに、花中はすぐに辿り着いた。スポーツマンは元野球部所属という話である。今はその分野から離れているにしても、ど素人と比べれば腕前は雲泥の差の筈。今回の対決で、仲間達から多大な期待を寄せられたに違いない。ところがいざ試合をしてみれば、いきなり三点先取される有様。仲間から失望の声を告げられ、自分自身のプライドも大きく傷付いたに違いない。

 ……実際のところ彼等は勝ち負けなどどうでも良くて、この本気はスポーツマンの純粋なプライドから来ているのだが、男達の本性を知らぬ花中に知る由もない。真剣な眼差しに花中はすっかり委縮してしまう。

「花中さーん楽しんでいきましょー」

「別に気張らなくて良いよー、もう三点取ってるしー」

 そんな花中の身体を解したのは、ベンチ席から送られる友人達の声援だった。

 そうだ。自分は最初から戦力外である。打てなくて当然であり、最初から期待なんてされていないし、求められてもいない。プレッシャーに押し潰される必要などないのだ……自分で言って悲しくなってきて、花中はちょっぴり目に涙を浮かべてしまうが。

 しかし悲しみが緊張を上塗りし、身体が少しずつだが柔らかさを取り戻せた。痛いぐらいに強張っていた指も動かせる。肩だって回せる筈だ。これなら()()()

「……むんっ」

 バットを構え直し、花中は改めて前を見据える。相変わらずスポーツマンの眼差しは鬼気迫るものがあり、簡単に花中はビビってしまうが、なんとか逃げ出さずに留まり続ける。

 ようやく実現する、人間対人間の勝負。

 この勝負で最初に動いたのは、勿論投手であるスポーツマン。フィア達の時よりも気迫を感じさせる、力強いフォームで第一投を放つ!

「きゃあっ!?」

 初っ端から厳しい洗礼に、花中は怯んでしまいバットすら振れずに終わる。バスンッ! と重々しい音がキャッチャーのグラブから鳴り、投げられた球の球速と威力を物語っていた。

 怖がりな花中は思わず顔を引き攣らせる、が、頭を振りかぶって気持ちを切り替える。別に、この球をぶつけられる訳ではない。というよりぶつけたら反則だ。恐れる必要はない。

「ふんっ!」

 おどおどしつつも花中が改めてバットを構えると、スポーツマンはすぐさま次の球を投げてくる。

 どんな球が来るか、一度見た事で理解した花中は今度こそバットを振れた。が、空振り。ボールは花中を素通りし、再びキャッチャーのグラブに収まる。キャッチャーが取った時点でストライク扱いというルール。残すチャンスは、あと一回。

 気負う必要などないが、それでも緊張してくる。バットを握っている手に、汗が滲んできた。

「ウホッ! ウホホホーウホウホウホ! ホウオウオウオウ!」

「五月蝿いですねぇこの野獣は。叫ぶぐらいなら花中さんを応援なさい」

「ホッ!?」

 なお、ベンチ席ではゴリラとフィアがコントをやっていた。どう考えても今の咆哮はわたしの応援だよぅ……思った事を言うと集中力が抜けそうで、しかし言わないともやもやが消えそうにない。何故味方に邪魔されるのか。

 邪念を振り払うために、花中は頭を力いっぱい横に振る。万全とは言い難い心理状態であるが、落ち着くまで待ってほしいなんて言えっこない。

 後はもう、気合と根性でどうにかするだけ。

「これで……止めだっ!」

 スポーツマンが止めとして投げた球は、今までで一番速く見えた。

 最後のチャンスが迫った時、花中の脳裏にほんの一時間ちょっと前の記憶が蘇る。そう、ミリオンに教えてもらった、テニスのやり方。

 テニスと野球は全く違うスポーツである。しかしそれでも、『球技』という括りからは外れていない。なら、基本的な技術であれば応用可能なものもある筈。

 例えば、最後まで目を閉じないようにする、とか。

「ぅ、ううっ……!」

 怖くて閉じそうになる目をギッと堪え、花中は最後までボールを目で追い続ける。先の二回で、タイミングはなんとなく掴んでいる。多少球速が上がったならそれに合わせれば良い。

 タイミングが分かったなら、後は振るだけ。

「いっけぇぇぇぇぇぇっ!」

 渾身の力を載せて、花中はバットを振り上げた!

 ―――― 一般的に、ここはバッチリ決める場面である。

 が、現実はそうは問屋が卸さない。テニスの時はミリオンが『打てる球』でやってくれたから打ち返せたのであって、普通に速い球を打てるほど花中の運動神経は良くない。ましてや元野球部であるスポーツマンの球は、明らかに一般男性の球速を超えていた。

 結果、渾身の力を込めたバットは空振り。タイミングどころか、振る軌道もてんでなっていない。ボールは易々と花中の前を通り過ぎた

 直後、ごちん! と重々しい音が鳴り、

「ばごす!?」

 花中の悲鳴がその音と重なる。

「いや、いくらなんでも……」

「流石にそれは……」

「ないわー……」

 次いでその様を見ていた友達三匹が、呆れ果てた。

 何しろ花中の頭を、花中の振ったバットが、直撃していたから。

 つまり、力いっぱい振り過ぎた所為で止められず、勢い余って自らの後頭部をぶっ叩いてしまったのである。自分の後頭部を自分でぶっ叩いたのである。あまりにもマヌケな姿なので、二回言わねば信じてもらえまい。

「……ふきゅう」

 ましてやそのままぶっ倒れたとなれば、映像をテレビ局に送れば数万円で買い取ってくれそうなぐらいの珍事であろう。

「かかかかっかかか花中さぁぁぁぁぁぁん!?」

「うわー……もう、本当に何やってんのさぁ……」

 フィアが慌ててベンチから立ち上がり、ミィも花中の傍へと向かう。ミリオンとゴリラもフィア達の後を追い、四匹は花中を取り囲んだ。男達は掛け寄りこそしなかったが、予想外の展開に誰もが呆気に取られている。

 花中を抱えて診断するミリオンは呆れ顔を浮かべていたが、花中の頭に手を翳し念入りに調べる。血管、骨格、脳組織、神経……細胞よりも小さなミリオンが花中の身体中を駆け巡り、どんな些細な異常も見逃すまいとしていた。

 やがて、ミリオンはゆっくりと手を下ろし、肩を竦める。

「単に気絶してるだけね。頭の骨も折れてないわ……金属バットで頭を思いっきり叩いておきながら骨にヒビすら入らないって、頑丈なんだか貧弱なんだか」

 そして下した診断に、フィア達は胸を撫で下ろした。

「そうですか……いやはや驚きましたよ全く」

「ほんとだよ。もー、花中ったら心配ばかりさせるんだから」

「ウホホ、ウホッ、ウホ」

「あなたウホウホ五月蝿いですよ」

「ホゥッ!?」

 わいわいがやがや。一先ず命に別状はないと分かり、四匹は安堵から口を弛ませ、楽しげな言葉を出していく。

 しかしこの会話も長くは続かない。

「……アイツらよくも花中さんをこんな目に遭わせてくれましたね! 百倍にしてお返ししなければ!」

 両拳を力強く握り締めながら、フィアが怒りを剥き出しにしたのだから。尤も怒りに震えるのはフィアだけで、ミィ達は呆れ果てていたが。

「えぇー……それは流石に八つ当たりでしょ。どう考えても今のは花中の自爆じゃん」

「花中さんが貧弱で動きも愚鈍なのは見れば分かるでしょう! なのに気を遣わなかったのですからあちらの責任です!」

「アンタ、ほんと悪気なく花中をディスるよね……まぁ、なんだって良いけどさ。あたしも別に、試合を止めたいって訳じゃないし」

「私も続行で良いわよ。遊ぶんだったら最後まで楽しまないとねー」

「ウホッ!」

 ビシリと親指を立てるゴリラを最後に、全員の意見が出揃う。反論なし。試合はこのまま続ける事となり、フィア達は花中の離脱もなんのそのとばかりに一層のやる気を見せる。

 ――――そう、やる気は十分。

 しかし彼女達は失念していた……いや、決して忘れていた訳ではない。自覚はしていたし、『それ』が自分達の足を引っ張るものだと理解もしていた。ただちょっとばかし過小評価していただけなのだ。

 右往左往しつつも必死になって自分達の仲立ちをしていた花中が、如何に大切な存在であるか。

 そして自分達の『チームワーク』が、どれだけ壊滅的であるかを……




花中が離脱してしまいました。参謀を消失したチームに勝機はあるのか?
……勝機以前な気もします。だって全員未だにルールがよく分かっていないですし(ぇ)
そして常識もない。これ大事ですよ。ええ、大事です。

次回は7/30(日)投稿予定です。

― 7/30追記 ―
修正等々が不十分と判断し、投稿日時を延期します。
更新を待たれていた方にはご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
8/6(日)投稿予定です。


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異種混合草野球頂上決戦5

 太陽は完全に沈み、空では一番星が輝いていた。

 月が天上で輝くも、地上は夜の闇で満たされる。住宅地では街灯や家々の明かりが暗さを払うも、それらが届かない草野球場は底なしの暗黒に閉ざされていた。最早此処は人間の場所ではない、人間が居て良い場所ではない……意思を持たない、ただの『事象』に過ぎない筈の闇が、まるでそう語るかのように漂っている。

 そして闇の中に潜むのは四体の『怪物』達と――――その怪物達から数メートル離れた位置で集まる五人の男達。

「なぁ……やっぱり、おかしくないか?」

 その男達の中で今の今まで出番が全くなかった、眼鏡を掛けたインテリ風の男 ― 『インテリ』と呼ぼう ― が、仲間である男達に自身の率直な意見をひそひそ声で伝えた。

 大柄と優男、そしてリーダーの三人はそれぞれ顔を見合わせ、それからインテリの傍へと歩み寄る。赤ら顔ながら、三人とも眼差しは真剣。インテリはごくりと息を飲み、

「……そうかぁ?」

 リーダーから返ってきた能天気な答えに、彼は思わずずっこけた。大柄や優男もリーダーの言葉に異論はないのか、キョトンとしながら缶ビールを口にしていた。

「いやいやいや!? そうかも何もあんな出鱈目な球を投げてきたんだぞ!? なんとも思わないのか!?」

「あー、確かに。ありゃ凄かったな。きっとアレだ、中国武術の達人とかってやつだ。気とかオーラとかあるやつ」

「んな非科学的なもんある訳ないだろ! どう考えても人間業じゃない!」

 大声で否定するインテリだが、リーダー達は納得するどころか首を傾げる始末。

「……じゃあ、お前は『アイツ』がなんだって言うんだよ」

「それ、は――――」

 それどころか大柄が発したこの疑問を受けて、インテリは言葉を詰まらせてしまう。

 チラリと、インテリは対戦相手である『少女達』の方に視線を向ける。仲間の一人が倒れ、わいわいと騒ぐ中、一人……或いは一匹、明らかに浮いている姿がある。他が圧倒的な美少女揃いの中で、唯一身の丈二メートルぐらいあって、肩幅が並の男の倍はあって、全身毛むくじゃらの上にウホウホ言っている挙句、顔面の形が明らかに人間離れしている男……多分男。

 ゴリラである。

 ……インテリは頭を抱えた。あの球技は人間業じゃない。だとすればあの毛むくじゃらの男は『ただの人間ではない』と考えるのが妥当であろう。しかし、では何者かと問われると――――ゴリラという回答しか浮かばない。人間じゃない → では正体は……と思考をしたいのに、その思考にゴリラが割り込んでくるのだ。いや、もう絶対にお前ゴリラだろと言いたくなるぐらいには彼はゴリラっぽいのだが、ゴリラが魔球を投げてくる訳がない。ゴリラである筈がないのに、見た目がまんまゴリラの所為で考えが散ってしまう。

「なんだよ、答えられねーんじゃん」

「そんな事より、そろそろ本題に入ろうぜ。良い感じに暗くなってきたからな。へへ、楽しみだぜ……」

「いいや、まだ時間的に通行人が居てもおかしくない。もっと遅くなってから……それに実行するのは俺等の攻撃回である裏だ。バットがあれば、あの男を黙らせるのも楽だろ」

 沈黙するインテリを他所に、リーダー達は『今後』の打ち合わせをひそひそ声で始める。アルコールの影響で欲望が前面に出てきているのか。最早危険要素などないと考える姿は、獲ってもいないタヌキの皮算用する猟師と変わらない。

 彼等では駄目だ。酒に侵されていない、クリアな頭脳相手でなければ話にならない。

 そしてそのクリアな脳の存在に、インテリは心当たりがある。

 あるのだが……

「……………」

 インテリは頭を過ぎった『顔』の方へと振り向く。

「う、うぅ……は、腹が……痛い……! ま、またアイツらを相手すると思ったら、腹が……腹がぁぁぁ……!」

 そこでは脂汗を浮かべながら、身悶えするスポーツマンの姿があった。

 金髪少女達に打たれまくった事が、余程ショックだったらしい。当人曰く、中学時代もプレッシャーやらなんやらでよくお腹を壊していたとか。スポーツマンが野球に対しそれなりの想いがあるのはインテリも知っていたが、その所為でこんな姿を晒すとは。

 実のところスポーツマンは下戸なので、彼の頭にアルコールは一滴も入っていない。入っていないが、あの『快速電車の中で強烈な便意を覚えたサラリーマン』のような苦悶の顔を見るに、まともな思考は残っていないだろう。彼も使えそうにない。

 まともなのは、自分だけ。

 その事実を改めて確認したインテリは、小さく頭を横に振ると背伸びを一つ。肩を回し、屈伸をして、身体を解していく。

「……次は自分が出よう」

「お前が? 運動が得意だった記憶はねぇが」

「運動が出来なくても、やれる事はあるよ」

 嘲笑うような大柄の言葉を軽く流すと、インテリは金属バットの置かれたホームベース目指して歩き出す。

 そう、例え運動は出来ずとも、頭を働かせる事は出来る。間近で見れば、何か『違和感』を捉える事が出来るかも知れない。あのゴリラだけでなく、ゴリラと共に行動している少女達についても。

 リーダー達は獲物としか見ていないからか、全く気にしていないが……あの女達も異様だ。ゴリラの起こした事態を、さも当たり前のように受け止めていた。彼女達にも『秘密』がある、と思うのは、決して疑心暗鬼ではないだろう。

 全てを解き明かさんとばかりにインテリは力強く歩み――――

「……とかなんとか、好き勝手言ってるわねぇ。それに面倒な輩も出てきたし」

 そんな彼の背中を見送りながら、数メートル離れた位置に居るミリオンはぼそりと呟いた。

 彼等としてはひそひそと、こちらに聞こえないように話したつもりなのだろう。実際彼等の声は小さく、人間ならその輪の中に入らねば会話の全容など見えなかったに違いない。

 だが相手が悪かった。微細物質の集合体故周囲に拡散しているミリオン、振動に対する感度がずば抜けている魚類のフィア、聴力に優れる動物といわれている猫のミィ……彼女達にとって、人間のひそひそ話など聞き耳を立てずとも一言一句逃さないのだ。尤も、人間に近いゴリラは全く聞こえていないのか首を傾げていたが。ベンチで横になっている花中に至っては未だ目を回して気絶している有り様で、彼等どころか傍に居るミリオン達の話すら聞こえていないだろう。

 話を聞いていたミィとフィアだけが、ミリオンの独り言に反応した。

「どーすんの? 花中には人間じゃないってバレないようにしろって言われてたけど」

「どうもこうも面倒事になる前に全員殺せば良いんじゃないですか? 花中さんが気絶している今ならなんとでも誤魔化せますし」

「ちょ、それは反対! なんでもかんでもすぐに殺そうとして、ほんと野蛮なんだから」

「ああん? ならどうすれば良いと? 代案もない癖にでしゃばるのはお上品ではなく考えなしと言うのですよ」

「なっ!? この……!」

「はいはい、いきなり仲間割れなんかしないの。あと殺すのは私も反対。全員行方不明にするのは簡単だけど、連中の家庭環境も知らずに処理するのは不味いわ。警察とか出てきたら、後々面倒でしょ。例え倒すのは簡単だとしてもね」

 険悪な雰囲気を事前に察知し、ミリオンがそれを戒める。フィアは舌打ち一つを残し、そっぽを向いた。ミィの方も不機嫌そうに口をへの字に曲げる。いきなりの不仲にゴリラは少しおろおろしていた。花中が離脱した途端チームワークがズタズタ状態。ミリオンが肩を竦めるのも仕方ないだろう

「とりあえず、もっと力を抑えていきましょ。どの道攻撃回で三点は取れるんだから、失点を二に抑える限り勝ちは確定。それに手加減しないと、人間なんて弱過ぎてつまらないでしょ?」

「……まぁ、人間を殺さないやり方なら、それで良いよ」

「……ふん。良いでしょう下手に怯えさせて逃げられては興醒めですし。あと花中さんを酷い目に合わせた仕返しもしないといけませんからね。私も異議なしです」

 人間の身の安全を保障しつつプライドを煽る物言いをするミリオンに、ミィとフィアは同意する。残すはゴリラの意見だが……

「ウホッ!」

「うん、手話よりもビシッと親指立ててくれる方が分かりやすくて良いわね……じゃあ、全員合意って事で。それなりに楽しむとしましょ」

 快諾してくれて、ミリオンは満足げに微笑みながら頷いた。

 話が終わるやフィアもゴリラもミィもそそくさと散っていき、それぞれが試合再開の準備をする。ミリオンも遅れて、試合の支度を始めた。

 ――――別段、信頼しきっていた訳ではない。

 ただ、それでも花中が事前に「騒ぎを起こすな」と念押ししているのだ。多少の『騒ぎ』は致し方ないとしても、よもや本気を出す事はあるまい。精々力加減を誤って、人間が数人怪我をする程度であろう。怪我人ではなく死人が出たら……面倒だが、その死体には『気化』してもらうとしよう。無論目撃者も含めて。

 ミリオンはそう考えていた。しかし彼女は、騒ぎが起こるとすれば対戦相手(人間達)に『原因』があるという前提条件を無意識に設定していた。

 彼女達は基本身勝手である。例えその騒ぎが世間を、人を、『仲間』を傷付けるものだとしても、自分が楽しければそれを許容出来てしまうほどに。社会性を持つ人間には耐えられない、『仲間』同士のケンカを娯楽として平然と消費出来る。つまるところ自身ですら見誤るほどに――――彼女達には、チームワークというものが欠けているのだ。

 だからこそ、あんな『結末』を迎える訳で。

「よーし次もボコボコにしてやりますよー!」

「ウホホーッ!」

「いってらっしゃーい」

「程々にしなさいよー」

 その事を誰一匹として自覚していないのだから、あの『結果』を避けられる筈もないのだった……

 ……………

 ………

 …

 さて、その後の展開について軽く纏めよう。

 ミリオンの提言通り、フィア達は自身の力をセーブし、試合に臨んだ。打席では容赦なく打ち続けるが、ホームラン量産程度であれば『人間離れ』ぐらいの技でしかなく、『人間じゃない』確証にはつながらない。インテリの疑心の眼差しは変わらなかったが、他の男達の方はさして気にしていない様子だった。ちなみにスポーツマンは毎度真面目に空振りしてくれるゴリラに、野球少年らしい清々しい微笑みと眼差しを向けるようになっていた。

 そうして迎えた六回裏――――点数は十八対四と大差が付いていた。無論、十八点を取ったのはフィア達の方である。

「ふふーん余裕ですねぇ」

 ベンチでふんぞり返りながら、フィアは点差の大きさに満足する。ミリオンやミィも笑顔を浮かべており、試合を心から楽しんでいた。

「ウホゥ。ウホ」

 それは今回も空振り三振してしまったゴリラも同じで、得点ゼロにも拘わらず彼は暢気に笑いながらベンチに戻ってきた。フィア達は明るく彼を出迎える。骨格的にバットを振るのが難しいのか、彼だけ未だにヒットを一本も打てていない。しかし代わりにフィア達が毎度ホームランを量産しているのだ。咎める必要など何処にもない。

 何より、彼の『本業』はバッターではない。

「うぅぅ……は、腹がまた痛くぅぅ……!」

「いや、お前さっきまでゴリラ相手に普通に投げてただろ」

「彼は別だ。毎度三振してくれるから、あの人と対峙している時は心が安らぐ」

「お、おぅ。まぁ、なんだ、休んでおけ。色んな意味で……そろそろ頃合いだしな」

 色んな意味で心に深い傷を負ったスポーツマンが自軍のベンチに戻ると、入れ替わるようにリーダーがグラウンドに出てくる。そんな彼の後を追うように、フィアとゴリラもグラウンドに向かう。

 リーダーが立つのはバッターボックス。フィアはそのリーダーの後ろでしゃがみ、ピッチャーとしてグラブを構えた。

 そしてゴリラが向かうのは、ピッチャーが立つべきマウンド。

 これこそ彼の『本業』だ。無論フィアやミィにもボールは投げられるが、投球こそが能力である彼ほど向いてはいない。力加減を誤る可能性もある。ゴリラにピッチャーを任されるのは必然で、実際彼は打たれたら一点というルールの中たった四失点で抑えている優秀なピッチャーだった。

 ――――そう、()()()()

「ウホッ!」

 バッターとキャッチャーの準備が終わったのを見計らい、ゴリラは力強いフォームでボールを投げる。放たれたボールは正に剛速球と呼ぶに相応しい速さを誇り、リーダーはバットを振るうも空振り。ボールは耳障りの良い音を立ててフィアのグラブに収まった。

 フィアはボールを投げ返し、ゴリラはそれを軽々とキャッチ。ふふん、と自慢げな鼻息を鳴らしながらフィアはリーダーに嫌味ったらしい眼差しを送る……リーダーはフィアに見向きもしていないので、フィアの嫌味をあっさりスルー。ふて腐れるようにフィアは唇を尖らせる。

 そしてリーダーがバットを構え直してから、ゴリラは二投目を放つ。此度も先と同じぐらいの剛速球であり、

 しかし今度のリーダーのバットは、空振りでは終わらなかった。

「ふんっ!」

 気迫の入った掛け声と、それに相応しい強力なスイング。パワフルな一撃は見事剛速球をど真ん中に捉える。

 結果、ボールは空高く打ち上がった。

「あー……」

「あら残念。次は頑張りなさーい」

「まだ一点だよー」

 フィアは残念そうな声を上げ、ミィとミリオンはゴリラに声援を送る。されど一点、たかが一点。十四点差が十三点差になっただけである。敗北には程遠い。

 ゴリラもそれは分かっているのか、自身の頬を叩いて気持ちを切り替えるような仕草を見せる。バッターボックスに次の打者である大柄が立った時には ― 類人猿だけあって表情は割と分かりやすい ― 平静を取り戻していた。

 そしてゴリラは手に持ったボールをきゅっと握り締め――――その手を、すぐに緩めた。

 確かに、(ゴリラ)は優れた投球能力を持っている。

 しかしあまりにも出鱈目な球を投げてしまうと、自身が人間でないと見破られてしまう。そのため彼は相当の手加減を強いられていた。手加減というのは難しい。人間対人間でも加減を間違え、難し過ぎたり、簡単過ぎたりしてしまう。ましてや人間を遥かに凌駕した力を持つゴリラにとって、例えほんの僅かな力の差でも人間には大きな違いとなる。

 結果、ゴリラの球には振れ幅があった。それこそたまに、人間である男達にもチャンスを掴める程度の時も。

「ウホッ!」

 ゴリラはそれなりに力のこもった投球を繰り出す。ボールの速さはかなりのもので、プロの野球選手に匹敵するものだ。

 とはいえ、如何にプロでも人間レベル。つまり人間でも目視出来、人間でも対応出来、何より既知の物理法則をひっくり返さない。そして何度も何度も似たような球を見ていれば、目だって慣れてくる。

「ふんぬぅっ!」

 故に初球にして、大柄が振るったバットに捉えられてしまった。金属バット特有の甲高い音と共に、ボールは夜空高くへと飛んでいく。

 今まではなんやかんや一回一点以下で抑えていたゴリラだが、ここにきて集中力が切れたのだろうか。この回だけで二点も取られてしまった。

「あらら、また打たれちゃったわねぇ」

「んー、まだ点差は十点以上あるけど、良くない流れだなぁ」

 幸先の悪い展開に、比較的温和で大人しいミリオンやミィさえもベンチ席から不安混じりの感想を漏らすのだ。

「ちょっ何をしているのですか! 真面目にやりなさいっ!」

「ウホッ!? ホウオウホウ……」

 極めて感情的で怒りっぽいフィアは怒りを露わにし、ゴリラは怯えるように身を縮こまらせた。一応ゴリラはその後手話と鳴き声で「そうは言うけど、やっぱり加減が難しいんだよぅ」的な説明をしたが、フィアには通じない。仮に通じたところで、ガルルと魚の癖に犬のような唸りを上げて威嚇するフィアを見れば釈明が無駄に終わるのは明らかだ。

 あまりにも一方的な怒りに、さしものゴリラも唇を尖らせる。暗闇の中での態度に、目の悪いフィアは気付いていないが、怒りが収まらないのか目付きは鋭くなる一方。

「ほらー、ケンカなんかしてないで集中しなさーい」

 ミリオンに咎められ、ようやく二匹は矛を収めた。二匹は同時に大きな深呼吸で気持ちを鎮め、しかし荒れた足取りで自身のポジションに戻る。

 二匹のケンカが一応終わると、大柄が去り空席となったバッターボックスに優男が入る。この回で失態を重ねるゴリラに向けてか、彼はニヤニヤとした笑みを浮かべていた。

 フィアと違い、ゴリラの方は暗闇を見通せる視力を持っていた。彼の意図を察し、ゴリラは折角冷静さを取り戻した顔が再びムスッとしたものになってしまう。怒りを静めようとしてかゴリラは大きく深呼吸を一回。

 それから力いっぱいボールを投げた!

 が、ボールはまるで錆び付いたレールの上を走るように、ガタガタと不安定な動きをする。

 不自然な動きは飛距離を伸ばすほどにあからさまとなり――――バチンッ! と破裂音を鳴らすや、ボールは脱線したとしか言いようがない、とんでもない大カーブを描いた。恐らく苛立ちから、ゴリラは能力の制御を誤ってしまったのだろう。

「ぬ――――ちっ!」

 咄嗟に腕を伸ばすフィアだが、暴走したボールには届かない。いや、文字通り腕を()()()()届いただろうが、それをしたら人間でない事がバレてしまう。

 咄嗟に思い留まった結果、ボールはフィアの背後にあるフェンスにぶつかった。キャッチャーがボールを取れなかった場合も一点……これも相手の得点になる。

 ついに三失点。自分達の活躍が無に帰してしまう数値だ。

「へへ、ありがとな」

 ましてやバッターである優男に帰り際煽られたなら?

 短気なフィアの矛先は、味方兼投手であるゴリラに向けられた。

「こ……んの類人猿! 何をしているのですか!」

「ゥ……」

 フィアの罵りに、流石に今回は自分が悪いと思っているのかゴリラは押し黙る。しかしグラブを嵌めていない方の手はプルプルと震え、人間のように唇を噛んでいた。

 ゴリラは温和な動物と言われている。

 されど同時に神経質なところもあり、ストレスに弱いとも言われている。繁殖期には苛立ちのあまりオスがメスを殺してしまう、という本末転倒な事態が起きる事もあるらしい。彼は人間の知性を得た事でそういった『野生』をいくらかコントロールしているが、それでも基本的な性質が変化した訳ではない。

 つまるところ彼は大人しい割に我慢強さに欠けており、

「結果を出せないなら不要ですよ。しっしっ」

 フィアからしたらじゃれ合い程度のこの煽りでも、相当なストレスだったりする訳で。

 ――――プツン、とゴリラの頭の中でその音は鳴った。鳴ったが、それは彼自身にしか聞こえない音。誰も彼の脳内で起きた物質的変化を感知出来ない。

 ましてや、先程までの憤りをすっかり失った笑みを浮かべれば考えなど読める筈もなく。

「ウホ、ホホホホホ。オホホオホホ」

「え?」

 何かを伝えるようにミリオンに向けて吠えると、彼は駆け足でマウンドを離れてしまう。既に次のバッターとしてスポーツマンが出てきていたが、ゴリラは気に留めた素振りもない。近くのフェンスに身を隠し、しゃがみこんでごそごそと何かをしていた。

 突然の行動に、何をしているんだ? と誰もが首を傾げる。しかし何をすれば良いのかも分からず、誰もが棒立ちしたまま。何事もなく一分ほど経つとゴリラは立ち上がるという形で誰よりも先に動き、駆け足でマウンドに戻ってくる。そして事情を説明する素振りすら見せぬまま、素早い動きで投球フォームを取った。不意打ちに近い行動に、バッターボックスに立つスポーツマンは慌ててバットを握り直し、フィアも即座にグラブを構える

 丁度、その瞬間だった。

 ――――仮に、フィアがここで『それ』に気付かなければ、未来は大きく変わったに違いない。

 しかしフィアは気付いた。ゴリラが直後に投げてきたボールが()()()()()()()事に、彼が『ボール』を投げるコンマ数秒ほど前に。

 気付けた理由は視覚ではない。星が輝く夜空の下、脆弱な視力しか持たないフィアにボールの姿など見えていない。スポーツマンの剛速球が打てたのはボールが通る事で生じる空気の流れを感知し、目星を付けてバットを振っているだけなのだから。

 触覚でもない。水で出来た『糸』を伸ばしてボールに触れる事は可能だが、わざわざ材質を確かめる必要などないのだからそんな七面倒な事はしていない。

 気付けた理由は、嗅覚。異質な臭いが、フィアの鼻を刺激したのだ。

 ……ゴリラは神経質な動物だ。例え動物園育ちでもそれは変わらず、ぎゃーぎゃーと騒ぐ観客を前にすればきっちりキレる。無論、通常ゴリラと人間の間には大きな『壁』 ― ガラスだったり、溝だったり ― が存在するため、どれだけ苛ついてもゴリラには人間を直接殴る事が出来ない。

 故にゴリラは知略を巡らせる。

 殴りに行けないのなら、投げれば良い。投げられる物がないのなら、()()()良い。そうして動物園のゴリラは一つの技を編み出した。

 話を戻して、現在フィアのグローブに迫るのは――――異臭を放つ緑黄色の物体。そう、これは動物園のゴリラが編み出した、人類を恐怖に陥れる最強最悪の一撃。

 糞投げ、である。

「っどぅおおおおおおおおおおお!?」

 自身に迫る物体の正体を察し、フィアは絶叫を上げながら身を捩らせる!

 別段、糞そのものに抵抗がある訳ではない。確かに不衛生だという知識はあるが、人間のような『精神的』不快感は持ち合わせていない。何しろ野生生活時代には周りの魚や動物が糞を垂れ流し、それが無数に漂っている水中で暮らしていたのだ。細菌などによってすぐ分解されるとしても、毎日投入されるのだから浮遊密度は変わらない。呼吸をすれば必然それらは水と共に体内へと吸い込まれる。だからフィアは、例え全身糞塗れになろうと今更気にもしない。そんなものは、かつての生活と比べればなんて事もないのだから。

 しかしフィアには耐えられない。

 だって、あの糞――――物凄く臭いのだから!

「おおぁっ!」

 嗅覚に優れるが故の必死さの甲斐もあって、フィアはボールの完全回避に成功。投げられた糞はフェンスにぶつかるとぺしゃりと音を立て、辺りに飛び散った。

 ちなみに、ゴリラはほぼ完全な草食動物であり、動物園でも主に植物を餌として与えられている。故にゴリラの糞は草の臭いが強い程度の ― 人によっては良い匂いと評する場合もあるような ― 代物である。が、フィアにとってこの系統の臭いは初めてで、例えるなら『生まれて初めて納豆に出会った外国人』の心境に近い。後退りし、おぞましい廃棄物を目の当たりにしたかのような嫌悪と恐怖を顔に滲ませた。

 尤も、フィアが恐れ慄いたのはほんの数瞬。その顔は見る見る赤くなり、表情は憤怒で塗り潰される。

 間違いなくこの投球は、あのゴリラがフィアに宛てたものだ。散々馬鹿にした事への反撃として。ここでちょっとやり過ぎたと反省するのが人格者なのであろうが……生憎フィアは野生の獣である。

「猿風情が……この私にケンカを売るとは良い度胸ですねぇ……!」

 マウンドへと振り向き、怒りを露わにするフィア。されどそこに居るゴリラは今や怯みもせず、腹を抱えてケタケタと笑うばかり。イタズラに成功した子供のように楽しそうだ。

 そしてアレを見ろとばかりに、フィアの近くを指差した。

 なんだ、と反射的にフィアはゴリラの指先が示す場所を見遣る。と、そこにはバッターボックスから動かないスポーツマンの姿が。彼はバットを握り締めたまま、フィアの顔を見て困ったような表情を浮かべていた。

 フィアはハッとなる。

 この試合のルールは非常にシンプル。投げられたボールを打てれば一点、打てなければアウト――――ただし投げたボールをキャッチャーがちゃんと受け止めたなら。

 自分はゴリラが投げた()()()を、避けてしまった。つまりこれは、相手に点を与える行為なのだ。

「なっ!? アレはその……むぐ……うぎぐぐぐ」

 咄嗟に反発しようとして、しかしフィアはぐっと口を噤む。避けてしまったのは確かであり、ここで反論しても言い訳にしかならない。

 ……実際のところ、アレはボールじゃないから得点は無効、と主張すれば通っただろうが、そこまで頭が回らないのがフィアである。味方であるミィやミリオンもけらけらくすくすと笑うばかりで、フォローするどころか楽しむ始末。敵チームはなんやかんや自軍の得点なので指摘する筈もない。失態は得点となり、スポーツマンは些か不本意そうにその場を後にした。

 歯ぎしりをするフィアだったが、ゴリラは遠く離れたフィアにも届くぐらい失礼な大笑いを漏らしている。目が悪いフィアには、宵闇の中のゴリラが今握っているものを識別出来ないが……あれだけ上機嫌なのだ。間違いなく『二投目』が来る。いや、フィアが前言を撤回するまで続けるつもりに違いない。

 嘗めた真似を、とフィアは内心吐き捨てる。とはいえあの糞の塊をそのまま受けるのは論外だし、さして数は多くないと思って避け続けるのも逃げ回るようで癪だ。謝る、という考えなど端から頭にない。なんとかしてアイツをギャフンと言わせなければ……

 そうこう考えている間に、バッターボックスには次の打者であるインテリがやってきた。ピッチャーとのケンカを見ていて、勝利を確信したのだろうか。彼は一瞬フィアの顔を見ると、嘲るような笑みを向けてきた。

 どいつもこいつも私を馬鹿にして――――フィアの上限が低い怒りゲージは一気に上昇。このまま誰でも良いから一発殴ってやろうかと反射的に『能力』を使おうとして

 ハッと、目を見開く。

「おおそうです。あの手があるじゃありませんか」

 そしてポンッと手を叩いた時、フィアの声には先程までの苛立ちがすっかり消えていた。

 あまりにも露骨な変化だったが、しかし数メートルは離れているゴリラはその姿に気付かなかったのか、或いは気付いた時にはもう止められなかったのか。握り締めた『ボール』を、彼はフィア目掛け真っ直ぐ投げていた。

 投げられた物の正体を知っているインテリは、バットを振ろうともしない。これから起こる事態を予想し、静観を貫くつもりなのだろう。迫り来る『ボール』すら目に入っているか怪しい。

 ましてやフィアの存在など意識に昇っている筈もなく。

「えいっ」

 だから、何時の間にか自身の背後に回っていたフィアの行動に、彼は最後まで気付けなかった。

 フィアがした事は、ゴリラに対する行いではない。彼女は能力によって水で出来た『糸』を作ると、あろう事かインテリの全身にその『糸』を巻き付けたのだ。インテリが身体の違和感に気付いた時にはもう手遅れ。フィアが能力で『糸』を引っ張れば、その身は強制的に動かされる。

 完全な操り人形となったインテリは、自らの意思に反してバットを振るい、飛んできた『ボール』を叩き潰した! 無論『ボール』は柔らかな糞である。金属バットのフルスイングに耐えられる強度など持ち合わせていない。

「え? ぎゃ、あばかばあっ!?」

 必然、糞は粉々に砕け散り――――四方に飛び散った糞が、インテリの全身を汚した。口や目にも入り、鼻の中にも欠片が飛び込む。いくら人間的にそこまで悪臭でないとはいえ、物には限度がある。そして人間は、『糞』という存在に多大な精神的不快感を抱くもの。嫌悪は増幅され、本来なら耐えられる筈の臭いに耐えられなくなる。

 悶え苦しむインテリの姿に、リーダー含めた男達も唖然となり目を丸くした。あのボールが糞であり、打てばこうなる事は明白なのだ。彼の取った行動は、マヌケを通り越して異常の域に達していた。

「ふははははーっ! だーれが謝ってやるものですか! 貴様のその汚らしい糞など通用しませんよ! 諦めて普通のボールを投げる事ですね! まぁあなたでは普通のボールを投げたところで失点を重ねるだけでしょうが!」

 そしてフィアはそんなインテリや男達に目もくれず、ゴリラを大声で挑発した。ゴリラは悔しそうに地団駄を踏み、自分だって絶対に謝るものかと言っているとしか思えない咆哮を上げながら、ゴリラの威嚇行動であるドラミングでポコポコと胸を鳴らす。

 どちらも全く退く気がないのは明らかだ。いや、それどころかこの勝負がなんなのかも失念している様子。何がなんでも相手に恥を掻かせ、負けを認めた方が負けというルール無用 ― というより何も考えていない ― の勝負になっている。これでは子供のケンカも同然だ。

「……ねぇ、ミリオン。あれは流石にどうなの?」

 そんな二匹を見て、ベンチ席の傍でしゃがむミィはミリオンに尋ねる。

 ミィの言いたい事はミリオンにも分かる。

 どう考えても、この状況は不味い。面白がって止めずにいたが……どちらも自制が不可能なレベルで興奮してしまった。フィアに至ってはついに人の身体に手を出した。肉体的損傷こそないが、『危害』という意味では加えられたと言って良い。

 ここで止めなければ、フィア達がますますヒートアップするのは目に見えている。ヒートアップすれば、最早人間の身の安全は保障出来ない。いや、人間どころか周囲の土地をも破壊しかねない。大事になり、存在が公になってしまう可能性も高くなる。ならば答えは明白だ。二匹をなんとか宥め、止めるしかない。

 ――――と、花中なら判断するだろう。

 が、ミリオンは人間にとって残念な事に、人間の事など全く気にしない『物質』。無論彼女にとっても大事になってしまうのは面倒だが、事を大きくしない方法は、何も狼藉者を鎮めるだけではない。

「……さかなちゃーん、やるなら徹底的にやりなさーい。そんなんじゃ嘗められっぱなしよー」

 ミリオンが選んだ方法は、フィアを煽る事。

「ああん!? そんな事言われるまでもありません! ほら次のバッターは誰ですかええい貴様は邪魔です!」

 フィアは感情を爆発させながら、その手を大きく振り上げる。

 すると倒れ伏すインテリの身体はふわりと舞い上がり、彼の仲間が待機するベンチ席へとすっ飛んだ。正確にはフィアが不可視の『糸』でインテリの身体を持ち上げ、放り投げただけなのだが……人間達の目には仲間の一人がいきなり空中浮遊したようにしか映らない。誰もが予測しなかった事態故誰一人として動けず、吹っ飛んできたインテリはリーダーと激突。痛みと人一人分の重みで双方共に身動きが取れなくなる。

 いや、それだけなら被害としてはまだマシだろう。

 恐らく手前に居たとかそんな理由で、フィアが次のバッターとして選んだ大柄と比べれば。

「ぐふぇ!? え、う、うわぁぁぁぁ!?」

 足に見えない『糸』が巻き付き、引っ張られた大柄は呆気なく仰向けに倒れる。されど痛みに悶える暇はなく、重さ百キロに迫りそうな巨躯は大地を滑走。バッターボックスまで連れ去られる。

「ほらさっさと立ちなさい! バッターが居ないと試合が再開出来ませんからねぇ!」

 当然、大柄の身に起きた『異様』の原因であるフィアが戸惑う筈もなく、むしろ今にも泣きそうなぐらい顔を引き攣らせた大柄に檄を飛ばす。

 今やフィアは試合の流れなど気にも留めていない。自分を馬鹿にした相手をギャフンと言わせたいだけ。そして対決するにはバッターが立っていなければならない……あのピッチャー(ゴリラ)をボコボコにしたいのだから。

 だから放置すれば、フィアは必ず人間を巻き込む。そして彼女は人間を大事に扱わない。巻き込まれた人間は酷い目に遭うだろう。一人残らずに。

 つまるところ、それこそがミリオンの狙い。止められないのなら止めなければ良い――――口を噤むほどに、思い出した瞬間失神するほどの恐怖を植え付ければ、()()()()()()()()()。無論超常の力を持つフィアとゴリラが争えば、人間達が怪我をする可能性もゼロではない。しかし、そんな事はミリオンにとってどうでも良い話。

 願わくば、このまま人間達をボコボコにしてほしい。

 とはいえ男達とて、ただではやられてはくれない。いや、散々見せられた異様な光景により、彼等もようやく気付いた筈だ。

 ――――コイツら、人間じゃない。

 ――――それどころか、このままじゃ自分の身が危ない!

「ひ、ひぃいいいいいっ!?」

「あっ、オイッ!?」

 真っ先に恐怖に耐えかねのは、優男だった。リーダーの制止を振り切り、彼は一人グラウンドを飛び出そうとする。

 自分の事しか頭にない今のフィアだけなら、優男の行為を見逃したに違いない。

「あら、駄目じゃない」

 しかしミリオンは、許してくれなかった。

 逃げようとした優男は、ピタリと身動きを止めた。さながら全身をコンクリート漬けにされ、固まったかのように。原因はミリオンが微細な自身を男の体内に忍び込ませ、筋肉内から拘束しているから。走っている体勢で突然全身が固まれば、受け身も取れずに倒れ伏すのが必然。激しく地面に身体を打ち付け、痛みで呻き声を上げる……が、優男は駆け出した姿勢のまま微動だにしない。一見して間抜けな姿だが、それが彼の身に起きた異質さを物語る。

「ごめんなさいね。でも逃げられると、こちらとしても困っちゃうの。ほら、気付いただろうけど私達……人間じゃないから。あまり周りに言い触らされると面倒なのは分かるでしょ?」

 混沌の渦中に放り込まれ男達は呆然としていたが、ミリオンは全くのお構いなし。それどころか自身の『正体』について明かす始末。

「え? それ言っちゃうの?」

「まぁ、ここまでやったらもう手遅れだろうし。下手に誤魔化すより開き直った方が、被害は小さくなるものよ」

「そーいうもんかなぁ」

「何かご不満かしら?」

 怪訝そうにしているミィに、ミリオンは訊き返す。

 ミィはミリオンやフィアと違い、人間好きだ。別段殺すつもりはないが、多少は酷い目に遭わせる事もあり得る……というより、現在進行形でフィアが酷い目に遭わせている。

 それを止めようともしないミリオンに、ミィが反発する事は十分に考えられる事だ。

「んーん、べっつにー」

 故にいくらか警戒していたので、ミィの答えを聞いた時にミリオンは拍子抜けしてしまった。

「……あら、意外。てっきり怒ると思ったのに」

「んー、そりゃあ、何もしてない人間虐めるんだったら怒るけど、でもコイツら、悪い奴みたいだからねー」

「ああ、そういえば猫ちゃん、悪い人間には容赦なかったわね」

「そゆことー。それにそもそも……」

「そもそも?」

「今更止められないっしょ。つーか、止めたら逆ギレされそう」

 確かにねぇ……ぼやくように言葉を漏らして、ミリオンは同意する。止める気がなかったので考えもしなかったが、ミィの話は至極尤もだ。フィアなら、止めようとした自分達を攻撃するぐらい平然とやってみせるに違いない。

 つまるところ、彼女達にはチームワークはおろか、その前身たる仲間意識すらない訳で。

「そういう事だから、ごめんなさいね。何かあっても多分助けてあげられないから、死なないよう気張っておいた方が良いわよ?」

 さながらお迎えに来た天使のように安らかな笑顔で、ミリオンは震え上がる男達に死刑宣告を下すのだった。




2019/3/3
一話が長過ぎたので分割しました


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異種混合草野球頂上決戦6

 その後の戦いは熾烈を極めた。

 というより最早野球としての体を成していなかった。投げられた糞は分身するわ物理法則を無視した三次元機動を見せるわ、対するフィアは人間達を ― 人間の気持ちなどお構いなしに ― 遠慮なく投入しこれを向かい打つ。やがて糞は尽きたが、フィアとゴリラはまだまだ争い足りない。普通のボールに戻ってからも、激戦は数十分にも渡り繰り広げられた。

 しかしそれすらも長くは続かない。普通のボールやバットの強度では、フィアの(人間を使った)打法は勿論、ゴリラの能力投球にも耐えられない。投げる度にボールやバットは破損し、次々と予備が消費されていく。そしてそれらは限りある備品である。ついでに人間も限りある命である。

 ついにはボールもバットも予備が尽きた。残りはどちらもたった一つのみ。

「つまりこれがラストという訳ですか……こちらとしても望むところです。そろそろ決着を付けたいと思っていましたからね」

「ホォウオウッ! ウホホッ、ウホッ!」

 それはこっちの台詞だ! 返り討ちにしてくれるわ! ――――とでも言っているかのように、ゴリラは握り拳を作りながらフィアに言い返す。在庫に反し、二匹の闘争心はまだまだ尽きそうにない。

 尤も、ずっと観客状態だったミリオンとミィは既に飽きていて、二匹はベンチで他愛ない話をだらだらとしていた。

 そして人間達はといえば、死屍累々。

 フィアに文字通り粗雑に扱われる事一人当たりきっちり三回。口からエクトプラズム……はオカルトなので流石に出ていないが、幻視出来るほどに疲弊している。体力に難がありそうなインテリのみならず、巨躯を誇る大柄さえもぴくりとも動かず地面に突っ伏す。彼等の目がぐるぐると回り、寝息よりもずっと静かな呼吸をしている事に気付かなければ、一見して死体がそこらに転がっていると勘違いしかねない。

 そんな状況下で、一人もぞもぞも動いたなら?

「ふふん最後はやはり万全を期さねばなりません。という訳でそこのあなたバッターになりなさい」

「うひぃっ!?」

 逃げ出す事で頭がいっぱいになっていたのだろうか。動いてしまったリーダーはフィアに髪を鷲掴みにされ、その粗暴な見た目に見合わない……いや、今なら同情するほどにお似合いな、情けない悲鳴を上げる。

 しかしフィア、耳は良いので聞こえているのにこれを無視。弱りながらも手足をばたつかせて抵抗するリーダーを片手でずるずると引き摺り、バッターボックスまで連れて行く。無論彼はバッターになる気などないので立つ事すら拒むように脱力していたが、フィアが操る『糸』は彼の身体に巻き付き、無理矢理にその身体を起立させた。腕も彼の意志を無視して動かされ、フィアが持っていた『木製バット』を握らされる。

 そしてフィアはリーダーの背後に回ると、きゅっと密着して彼の腕を掴んだ。人間の感触を正確に再現しているその身は年頃の女子のように柔らかく、リーダーの背中には偽物ながらたわわに実った二つの山がふにょりと押し当てられる。年頃の男子なら起きた事象の衝撃により、心不全を起こしてもおかしくないだろう。例え大の大人であっても、鼻の下がだらしなく伸びるに違いない。

 だが、今のリーダーは顔を赤どころか真っ青にして、生まれたての子鹿よりも弱々しく震えるばかり。彼は既にその身に三度も叩き込まれているのだ……バッターとして対峙させるためならフィアはどんな手でも使う事を。例え相手の身も心も壊れたとしても。

「お、お願いだ……助けて……助けてくれ……」

 リーダーは、ついに恥も外聞もなく命乞いした。ところがフィアはリーダーの言葉に目をぱちくりさせるばかり。首まで傾げている。

 もしもフィアが彼の懇願を拒んだなら、諦めが付くという意味では彼にとって幾ばくかの救いにはなっただろう。

「あなた何か勘違いしていませんか? 別に私はあなたを襲ってなどいないでしょう? 助けを求められても困ります」

 だが、そもそも相手にこちらを虐げているという自覚すらなかったら?

 無垢なる狂気の理不尽さが達観すら許さず、リーダーはこの世の終わりを目の当たりにしたかのように顔を引き攣らせた。無論これでフィアがリーダーの気持ちを察するなら、今頃こんな事にはなっていない。

 リーダーを間に挟み、フィアとゴリラは対峙する。双方共にふてぶてしい笑みを浮かべつつも、全身に闘志を滾らせ、張り詰めた緊迫感を纏っていた。友愛の意思など微塵もない。狂気、敵意、闘志、歓喜……溢れ出す感情が混ざり、混沌とした感情がぶつかり合い、二匹の間に弾ける火花を幻視させる。

 さながら草原でライバルと鉢合わせした雄の獅子同士のような、激しい闘争を予期させる光景だった。そしてその闘争が、獅子二匹では到底足りぬほどに激しくなる事は言うまでもない。

 挙句地面がパキパキと不気味な音を立てれば、最早神話の決闘をも彷彿させる。

「ん? ――――っ!? ちょ、さかなちゃん!? それは……!」

 ここでミリオンが異常の原因に気付き慌てるが、一手遅かった。

 ゴリラとフィアに挟まれた『一般人』の理性が、ここで悲鳴を上げたから。

「ち、畜生! こうなったらテメェら纏めて」

 何もかも開き直ったリーダーは、二匹に罵声を浴びせようとした。

 皮肉にもそれが合図として機能してしまった。

「ウッホオオオアァァァァッ!」

 ゴリラは渾身の力を込め、ボールをぶん投げる!

 彼の能力により、ボールはある特殊な速度と向きで回転していた。その回転は通常の投球よりも大きな抵抗を発生させ、空気の流れを操作。流れた分だけ前方の空気は薄く、後方の空気は密度が高くなり、結果前方向への推進力を生み出す。推進力は新たな抵抗の源となり、次の流れでより大きなエネルギーを発生させる。

 既知の物理学をべろべろばーで嘲笑うようなトンデモメカニズムにより、ボールはゴリラの手を離れてからも加速し、ついに音速の壁すらもぶち破った! 爆音を轟かせ、周囲数十センチ圏内の大気を赤く染め上げながら、大地を巻き上げつつフィア達に迫る!

 常人ならば脇目も振らずに逃げ出す……否、目視すら出来まい。フィアにとっても剛速球であり、如何に野性的反応速度を以てしても、まともに打とうとすれば空振りもあり得ただろう。

 だが、フィアは既に対策していた。

 無数の細い『糸』を展開していたのだ。ただしこれは障害物として設置したものではない。無論壁として使おうと思えば使えるが……そんなの、興醒めではないか。ピッチャーとして最大の敗北は、相手に打たれる事。ならば打たねば、どんな勝利も意味がない。

 『糸』はセンサーだ。ボールがどの程度の位置を、どんな速さで、何処を通るかを見極めるための。

「っしゃあぁっ!」

 ボールを投げたのとほぼ同時に、フィアも哮り声を上げる。センサーである『糸』が切れると、フィアがコントロールする水が連鎖的に稼働。水を染み込ませていた木製バットの側面からはロケットエンジンかの如く勢いで水が噴き出し、強力な推進力を生み出してバットを動かす。合わせてリーダーを束縛する『糸』も動き、リーダーの身体は本人の意思を無視した華麗なフォームでスイングを繰り出す!

 豪速球と爆裂スイングは寸分違わずぶつかり――――轟音と水煙を撒き散らした!

 半径十数メートルを覆い尽くさんとする莫大な水は破壊的な威力を伴い、辺りを囲うフェンスは余さず薙ぎ倒され、観客席は衝撃波で捲れ上がるように崩壊していく。最早爆発としかいえない現象に、観戦していたミィは思わず仰け反り、ミリオンも抱きかかえた花中が吹き飛ばされぬよう必死に踏ん張っていた。

「ぐわああああっ!?」

「げこーっ!?」

「あ。ミリオーン、なんかアイツらどっか行っちゃうんだけどー」

「あー……私、はなちゃんを抱えるのでいっぱいいっぱいだから、拾って適当に纏めて置いといてー」

「あいあいさー」

 それどころかダウンしていた大人の男達はごろごろと地面を転がり、人外達が助けに向かう始末である。

 最早野球どころかケンカですらない。人間からすれば『災厄』そのものだ。

 では、そのど真ん中に居た人間は?

「あばごぽぽぽぽぽぽっ!?」

 威勢の良い言葉を吐き切る前にリーダーは、バットから噴出して地面にぶつかり無造作に散乱する、膨大な水によって溺れかけていた。水に押し退けられ、顔がなんだか愉快な形に歪んでいる。

 これが一瞬だったなら、リーダーは振り絞った勇気を抱いたまま夢の世界への小旅行に向かえた。しかし水は何時までも何時までも、リーダーの顔に叩き付けられる。高圧高密度の水量は彼の意識を現実につなぎ止め、延々と苦悶 ― 具体的には呼吸困難と痛み ― を与え続ける。水責めの拷問でも、ここまでダイナミックで粗雑なものは近年稀であろう。

 では、何故噴き出す水は止まらないのか?

 答えは簡単だ。未だフィアとゴリラの勝負は終わっていないからである。

 バットからは滝すら見劣りするほどの水が噴出し続けている。この莫大な水はフィアが能力によってグラウンドの土から吸い上げたものであり、そして地面に落ちた水はフィアが素早く回収して再利用。完璧な循環系が出来上がっており、フィアの体力が尽きるまでバットは止まる事を知らない。

 ゴリラが投げたボールもまた同じ。空気の流れにより推進力を作り出す投球は、ボール自身が推進力の発生源となっている。ボールが存在する限り、ボールは前に進み続ける……哲学的思考を語るかのような事象により、ボールは止まる事を知らない。

 前に進むしかない両者がぶつかった結果、バットとボールのつばぜり合いが起きたのだ。プロ野球でも見られぬ激戦は、例え野球に無関心な者でもその心を躍らせるに違いない。尤も、バットから噴き出す水が辺りを白い水飛沫で埋め尽くしており、外野から観戦する事は出来ないが。

 莫大なエネルギーを撒き散らし、周囲を破壊しながら拮抗する超常現象……しかしその均衡は、数秒と経たずに崩れる。

 フィアが無理やり振るわせたバットは、フィアが操る水が浸透し、バット全体をさながら骨格のように支えている。でなければ、噴出する莫大な水量に耐えられずへし折れるからだ。対してボールは、自身が生み出す空気の流れによって直接的な打撃は避けたが、内側から支えられている訳ではない。更に水によって冷却されているバットと異なり、空気抵抗による熱の蓄積も深刻である。

 バチバチとボールから火花が飛び散り始めた時、フィアは勝利を確信したふてぶてしい笑みを浮かべた。

 ――――まるで、その瞬間を狙っていたかのように。

 フィアの正面を埋め尽くしていた瀑布を切り裂き、三つの影が飛来する!

「なっ!? これは……!」

 突然の襲撃に驚くフィアだったが、驚愕の表情はすぐに苦虫を噛み潰したようなものへと移り変わった。

 襲来したのは、新たなボール。

 どうやらゴリラはこの勝負に備え、前以て何処かにボールを隠し持っていたらしい。そして最初に投げた球の耐久が尽きるのを見越して新たな手を打ったのだ! 三つのボールはバットにめり込み、一つ一つが巨大なパワーを以てバットを押し返そうとしてくる。最初に投げられたボールは直後に燃え尽きたが、先と比べて球の数は三倍。その威力は周囲に巻き散らされる水を吹き飛ばし、覆い隠されていたフィア達の姿を露わにするほど。なんとかバットはその体勢を保ち続ける事が出来たものの、フィアとバット(とついでにリーダー)は足元の大地がえぐれるほどの勢いで後退し続けてしまう!

 尚、当然ながらこの投球、完全なルール違反 ― 投球は打者が十分な構えを取っている時にのみ許される。あとついでに危険球 ― である。しかしミリオン達が声を上げて指摘したところで、フィアが操る水の轟音とボールが奏でる爆音に飲まれて消えるのがオチ。

 ましてやボールの奇襲を受けたフィア自身が、楽しむように口元を歪めているのだ。

「ふっはははははははははっ! こうでなくては面白くないっ! 正面から叩き潰してあげますよォ!」

「ぶはぁ!? あばごぽぽぽぽぽぽ!?」

 機嫌は損ねるどころか上々。高らかに笑うや、フィアはバットから噴出する水を一層強める! ボールとの再衝突により水煙が晴れた事でリーダーは息継ぎが出来たが、至福の時は一瞬で終わり。彼は再び理不尽な拷問へと引き戻された。

 再び拮抗する両者の対決。しかしフィアにとって現状は限りなく『本気』に近かった。直球勝負を好む性格もあって、策なども持ち合わせていない。

 ならば、そこにゴリラが『一手』が加えられたなら?

「ホォアッ!」

 吹き荒れる水煙の中で、ゴリラは渾身の言葉と共に投げる動作を見せる。だが、彼の手には何も握られていない。傍目には、彼がただ投げる『動作』をしただけだ。

 なのに、フィアが操るバットに拳で殴られるような重みが加わった。

「んぎっ!? 何をぐうっ!?」

 驚く間もなく衝撃は次々と襲い掛かり、フィアに呻きを上げさせる。

 不思議なのは、衝撃波あるが『実体』が見えない事。

 それも当然である。何しろゴリラが投げたのは『大気』なのだ。ふわりと構えた手を振り下ろし、空気の流れを構築。『投擲』行為そのものが能力である彼にとって、小さな空気弾を投げる事など造作もない。

 無論、言っては難だがたかが空気である。音速で飛来する『声』の直撃を受けてもダメージなどないように、小さな質量しか持たない空気の威力など些末な威力しか生み出せない。ミュータントの能力を用いても、フィアの操るバットにそこそこの衝撃を与えるのが精々だ。

 だが如何せん数が多い。一発では貧弱でも、十発二十発となればそこそこの力となる。少なくとも、フィア達を少しずつ後退させる程度には。

 このままではいずれバランスを崩して転倒、奴の『勝利』となる。

「図に……乗るんじゃあないですよおおおおおおっ!」

 故にフィアも『奥の手』を用いる!

 奥の手といっても、やる事はなんら変わらない。水を操り、その水でバットをコーティングして、バットから水を噴出する……それだけ。非常にシンプルだ。

 シンプルであるがために、強くする方法も単純明快。使う水の量を増やせば良い。そして水などいくらでも溢れている。

 足下を中心に何処までも広がる大地から、根こそぎ奪い取ってしまえば!

「うおオアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 フィアは咆哮を上げながら能力をフル発動! 急激に水分を奪われた大地はみるみる白化していき、地割れと地響きを起こしながら崩落。次々と巨大な陥没が生じ、観客席やフェンスの残骸を飲み込んでいく!

「ホアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 ゴリラも勇猛果敢な雄叫びを放ちながら対抗。球の残数はゼロなのだろう、ひたすらに投げる動作を取るだけ。しかしそれは無数の空気弾を生み出す行為に他ならない。増大するフィアのパワーを押さえ込まんと、こちらもがむしゃらに投げ続ける!

 二匹に最早策はない。互いに全力で、正面から力をぶつけ合う。体力を著しく消耗する激戦だが、フィア達の気力は一向に衰えない。残す力の全てを絞り出すように、辺りを容赦なく破壊する余波はどんどん大きくなっていき――――

 ついに、臨界を迎えた。

 突如として大地を揺さぶるほどの轟音を響かせるや、フィア達を包み込んでいた水煙が急激に膨張したのだ! それは例えるなら爆発なのだが、最初のボールとバットの衝突時に起きたものとは比較にならない。まるで海上で水爆が起動したのかと錯覚するほどの、巨大なキノコ雲状の水柱を吹き上げた。

「どごぼっ」

「うぐぇ!?」

「おかえりー」

 尚、バットを掴まされていたリーダーはようやく解放されたようで、山盛りになっていた仲間の上に落ちてきた。ミィもミリオンも診断に向かわないが、呻き声を上げてので一応は生きている……筈。

 キノコ雲と化した水煙はやがて地面に落ち、少しずつ視界が晴れていく。水滴はミリオン達が座るベンチ席でも振り、まるで雨のよう。ダウンしていた男達も次々と目を覚ます……リーダーだけは水がすっかりトラウマになったようで、跳び起き、頭を抱えて蹲っていたが。

 その天候の中で、マウンドにはびしょ濡れになりながらも立ち続けるゴリラが居て、バッターボックスの傍には濡れているようには見えないフィアも佇んでいる。ゴリラは背筋を丸めながらだらんと腕を垂らし、フィアは片膝を付きながらバットを杖代わりにしていた。力を出しきったようで、二匹とも今にも倒れそうだ。しかしどちらも相手を睨むのを止めず、それどころか自らのポジションから一歩たりとも動こうとしない。

 いや、戻れないのだ。何故なら『勝負』はまだ終わっていないのだから。

 それを察したのだろう。ミリオンは誰に言われるまでもなくベンチから立ち上がり、静かに片手を挙げる。

 そして、彼女は告げた。

「ボールが消し飛んだから、今回は引き分けね」

 あまりにも呆気ない結末を。

 実のところ、ミリオンはフィア達の対決の結果など見えていない。フィアがスイングのために放出していた水により、辺りは水煙に飲まれて見えなくなっていたのだから。しかし水爆染みたモノを生み出すほどのエネルギーが生じていた事は確か。ボールなんて跡形も残っていないに決まっている。打ったかも知れないし、打ててないかも知れない。結果は闇の中、だ。

 故に引き分けと称した。

 勝ちとも負けとも言われなかったフィアとゴリラは、どちらも脱力するようにその場に座り込んだ。ついに最後まで勝てなかった……同じ事を考えていた両者は、同時にその口元を緩める。

 そして息ぴったりに、二匹は大笑いした。

「はーっはっはっはっ! そうですかボールが消し飛びましたか! でしたら引き分けでも仕方ありませんね」

「ウホ! ホホホホ! ホウオホホオホホウ!」

「ふふん何を言っているか分かりませんが次こそはボコボコにしてやりますよ」

「ウホ!」

 不遜な態度を崩さないフィアに、ゴリラは立てた親指を下方向へと向けて応える。煽り合いこそ続けるも、二匹の間に敵意の感情は飛び交っていない。全く同時に立ち上がると二匹は警戒感なく近付き、自然と肩を組んで、心から笑い合う。まるで揺らぎない友情で結ばれた仲のように。

 どうやら全力を出しきった事でスッキリし、意地の張り合いなどどーでも良くなってしまったらしい。

 あまりにも簡単に仲直りする二匹に、ミリオンは肩を竦めて呆れる。確かに仲直りしたが、恐らく絆が深まった訳ではない。こんな調子じゃ、どうせまたつまんない事でケンカするわね……目はそう語っていたが、ミリオンの口元には優しく穏やかな笑みが浮かんでいた。さながら小さな娘達を見守る母親のように。ミィも呆れているようだが、うずうずと身体を揺れ動かすのは、さて、どんな想いからか。

 フィアはふう、と小さなため息を吐く。野良猫との対決も面白そうだ。機会があれば是非とも手合わせ願いたい。

 だけど今日はもうくたくただ。

「……今日はいっぱい遊びましたしそろそろ眠くなってきましたね……家に帰るとしますか」

 それだけ言うと、フィアはすたすたと歩き出す。ゴリラもその後を追い、ミィも後ろに続く。

 月明かりが、仲良く歩く三匹の姿を照らす。

 こうして、ミュータント達の野球対決はなんの後腐れもなく終わったのであった――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、それじゃあちゅーもーく」

 等と能天気に帰ろうとしたフィア達だが、それをミリオンの声が邪魔をした。

「あん? なんですか折角良い気分で帰ろうとしていたのに」

「……やっぱり、帰っちゃダメ?」

「ウホゥ……」

 苛立つフィアだったが、ミィとゴリラの心当たりのありそうな反応に首を傾げる。と、ミリオンは辺りを見渡せと言いたげに顎をくいっと動かした。言う事を聞くのも癪だが、本当に分からないのでその指示に従いフィアは周囲を見渡す。

 あの穏やかな草野球場は、もう何処にもなかった。

 グラウンドの地面は捲れ上がり、フェンスは根こそぎ倒れ、観客席はその七割近くを損壊している。ベンチ席は何処かに吹っ飛んだのか跡形もなく、球場を照らすライトも全滅状態。挙句至る所が陥没し、観客席などの一部が地面の下に沈んでいた。これよりも小さな損害であれば、草野球場の外にも被害は及んでいるだろう。

 無論言うまでもなく、この原因は魚類と哺乳類によるものである。

「……そういえばちょっとはしゃぎ過ぎたかも知れません。花中さんがこの景色を見たら怒り……いえ気絶しそうですしさっさと逃げた方が良さそうですね」

 尤も、フィアにとって人間社会がどんな被害を受けようと興味の対象外。それより花中に嫌われる方が問題なので、隠蔽に走ろうとしていた。ミリオンは呆れるように肩を竦めるが、彼女も決して人間の味方ではない。野球場が崩落した事についてはさして気にしていないようだ。

「ああ、まぁ、そうね。そっちも大事なんだけど、何か忘れてない?」

「忘れてる?」

 しかしそれ以外のところは気にしているらしく、これまたなんの話か分からずフィアはキョトンとなる。

「つまりここで試合は終わりなのだけれど、こいつを見てどう思う?」

 ついには見かねたとばかりに、ミリオンは何処からともなく巨大な『板』を取り出し、フィア達の前に置いた。

 板に書かれていたのは、数字と記号。『18:24』だ。はて、これは一体? フィアはその数字をまじまじと眺め、ゴリラも顎を擦りながら首を傾げる。

「これ、この試合の結果だから」

 何時までも悩む二匹に、ミリオンは面倒臭いと言わんげにあっさりと答えを教えてくれた。教えてくれたが、フィアもゴリラも目をパチクリさせるばかり。

 それからしばらくして、二匹は同時にハッとした。

 そう、途中からフィアとゴリラの決闘になっていたが、実際のところ彼女達が争っていたこの回は男達の攻撃回。そして定めたルールによって、ピッチャーとキャッチャーの失敗は相手の得点となる。

 つまり仲間割れした結果、相手にぽんぽこ点数が入りまくったのである。勿論フィア達の実力なら、ここから逆転する事は難しくない。しかしながら試合をするには道具が必要で、その道具は全部壊してしまった訳で。

 もう、試合続行は不可能。ならばここまでの結果で勝敗を決めるべきである。

 そして、そもそもこの試合は――――

「へへ……ようやく気付いたか……」

「何奴!?」

「いやさっきまで試合していただろ!?」

 フィアが状況を理解した時、すっかり忘れ去られていた男達がその存在感を露わにした。五人全員ボロボロの状態だったが、一応立っていて、なんとか生きている。

 彼等が何者だったか。数秒後に思い出したフィアは渋い顔を浮かべた。

 この勝負、元々花中の失態を許すかどうかで始めたものだった。そしてフィアはその際、負けたら彼等の言う事を何でも聞くと明言してしまっている。無論約束を破ろうと思えばそれを押し通せる力はあるし、破る事に罪悪感などないが……負けたからといってキレるのはあまりにも惨めである。負けるのは嫌いだが、負けをなしにするなどそれ以上にみっともない。

 しばらく悔しさに身悶えするフィアだったが、やがて深いため息を一つ。

「ええい分かりました! 負けを認めましょう! さぁなんでも言う事を聞いてやりますからさっさと言いなさい!」

 覚悟を決めるように声を張り上げながら、フィアは男達にそう宣言した。

 フィアの言葉を受け、男達は揃って下種な笑みを浮かべる。するとリーダーは自然と前に出てきて、フィアの前に立った。ニタニタとした笑みに、フィアは僅かに眉を顰める。

 正直、気持ち悪い顔だ。何より、どんな事を言ってくるか分かったもんじゃない。

 不安、というよりも嫌悪を覚えるフィア。しかしリーダーの表情は変わらない。ねちゃりと嫌らしく、その口を開いて

「い、命ばかりは、お助けくだせぇ……!」

 迷いなくそう告げた。清々しいほどに必死な土下座も付け加えて。

 迷いなくそう告げた。清々しいほどに必死な土下座も付け加えて。

 ……予想していなかった光景に、フィアは目をしばたたかせた。何度瞬きしても、リーダーの体勢が変わる事はなかった。

「……はい?」

「命ばかりは、お、お助けを! これからは真面目に生きますから!」

「いえ命とか言われましても」

 首を傾げるフィアだが、リーダーの懇願は一方通行。まるでこちらの言葉が届いていない。

「実家に帰って、親孝行させてください……!」

「勝手にすればよろしいのでは?」

 それどころか大柄までもが同様の言動に走り、

「悪事から足は洗います! お金も返します!」

「さいですか」

 優男は懺悔までして、

「もう詐欺はしませんから……しませんからぁ!」

「そうですか」

 インテリは自らの犯罪歴をカミングアウトする有り様。

「何時かまたあのゴリラさんと再戦したいです。あの頃の青春をまた体験したいです」

「やりたいならやれば良いでしょう」

 尚、スポーツマンだけおかしさのベクトルが違っていたが。

 ともあれ男四人に命乞いされ、フィアとしても戸惑う。戸惑うが……変な要求をされないならそれに越した事はない。向こうがそれで良いと言うのなら、少なくともフィアに断る理由などなかった。

「……まぁ見逃せと言うのなら見逃しますが」

 全く得心のいかぬまま、男達に懇願された願いを受け入れる。

「「「「「ありがとうございます! では我々はこれにて! サラバデス!」」」」」

 すると五人は息ぴったりに立ち上がり、深々と頭を下げ――――バラバラの方向に走り出した。猫に追われるネズミのように、必死な走り方で。

「……なんだったのですかねぇあの人達」

「さて、なんだったのかしらね」

「なんだったのかねー」

 最後の最後でよく分からない状況に、フィアは首を傾げる。しかし聞き出そうにも彼等はもう遥か彼方。ミリオンとミィは何か分かっている様子だが……彼女達に頼んで教えてもらいたいほどかといえば、ぶっちゃけそこまで興味もない。

「それじゃあ帰りますか今度こそ」

「帰りましょうか、今度こそね」

「あ、花中はあたしが背負っておくねー」

「……まぁ今日は疲れましたしそれで良いでしょう」

 男達に続き、フィア達もまた帰路に付くのだった。

 

 

 

 

 

 

「おや? そういえばゴリラの姿がありませんが?」

「あの子なら帰ったわよ。私があげたオモチャを持ってね」

「あー。そういやアイツ、子供のオモチャを探してたんだっけ……で? 何を持っていたの?」

「そりゃ、一番面白かった遊びよ。我を忘れるほどの、ね」




投稿が遅れた事、まことに申し訳ありませんでした。

さて、結果は惨敗です。仲間割れした挙句の自爆で。
負けるにしてもこれは酷い。
なおゴリラの能力を投擲にした理由は、彼等が糞を投げるからです(真顔)

次回は8/13(日)投稿予定です。

2019/3/3
一話が長過ぎたので分割しました


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異種混合草野球頂上決戦7

 夜は明け、朝がやってくる。

 町を通り抜ける秋の風は涼やかで、空気は程よく冷えて心地良い。咲き誇るキンモクセイに惹かれた虫達が飛び交い、その虫を狙って小鳥達も動き出す。風の音、鳥の囀り、花の香り……どれもが爽やかな雰囲気を伴い、包み込むように町に満ちていた。

 そして降り注ぐ陽光は眩しくも穏やかで、夢の世界から優しく意識を掬い上げてくれる。

「ぅ、にゅ……」

 窓から入り込むそんな日射しを浴びて、花中は目を覚ました。

 布団の中でもぞもぞと身を捩らせる。それから手を伸ばし、足を伸ばし、背筋を伸ばす。血の巡りが活性化し、段々と身体が温まってきた。瞼も自然と開き、意識の覚醒に伴って世界が彩りを取り戻す。

 ゆっくりと身を起こした花中は、しばしそのままの態勢でぼんやり。目を擦ってから近くにある目覚まし時計を見たところ、時刻が十二時近くである事を示していた。既に朝とは言えず、殆どお昼である。今から身支度をしても、家を出られるのは二時近くになっているだろう。

 学校がある平日だったなら、この瞬間花中は顔を真っ青にし、ショックのあまり失神していたかも知れない。しかし今日の花中は違う。昨日が土曜日である事を覚えているからだ。つまり今日は日曜日、学校がお休みの日である。

 故に、いくら惰眠を貪っても遅刻にはならない。

「…………………………おやすみぃ」

 あっさり眠気に負けた花中は、再び布団の中へと潜り込んだ

「なぁに二度寝しようとしてんのよ、この自堕落娘」

「みゅうっ!?」

 が、それを戒める声、それと同時にお尻につねられたような痛みが走り、花中は跳び起きた。

「み、ミリオンさん……」

「おはよう。とても良い目覚めになったわね?」

 振り向けば、ベッドの側にはミリオンが立っていた。確かにシャッキリと目は冴えた。とても二度寝なんて出来ないほどだ……お尻を力いっぱいつねられれば誰だってそうなるが。

 お尻を擦りながら花中は起き上がり、ベッドの上で正座してミリオンと向き合う。目覚めは悪くないが機嫌は右肩下がり。ムスッと唇を尖らせる。

 しかしながら直後にふと思い出し、花中は目をパチクリさせた。

 そうだ。自分は昨日、野球をしていた筈だ。そして自分が打席に立った時()()が起きて気を失った、と思われる。だが自分が目覚めたのは自宅の部屋。グラウンドでないという事は、きっとミリオン達がここまで運んできてくれたのだろう……翌日の昼まで寝ていたのは、それまでしていた運動で体力を使いきったからか。自分の虚弱ぶりは自覚していたつもりだったが、あの程度の運動でダウンするとは我ながら情けない。

 色々と込み上がってきた恥ずかしさで俯きつつも、感謝の念も覚え、花中はもじもじしてしまう。

「あ、す、すみません。わたし、昨日途中で倒れた、みたいで……」

「え? ああ、そういえばそうだったわね……あまりにもアホらしくて、忘れていたわ」

「ふぇ?」

「んーん、なんでもない。そんな事より、大事な話があるんだけど」

 後半、何か酷く罵倒されたような気がしたが、ミリオンにはぐらかされてしまう。もやもやとした気持ちは残るが、大事な話があると言われてしまった。自分のこの疑問が大事かと問われると、花中にはYESと答えられない。顔をぷるぷると振って気持ちを一新し、ミリオンの話に耳を傾ける。

「はなちゃん、あのゴリラと最近会った記憶ってある?」

 そしてミリオンが切り出したこの言葉で、花中はその身を強張らせた。

 ――――花中の頭の中を、思考が目まぐるしく駆け回る。

 昨日出会ったあのゴリラは間違いなくミュータントだ。生物がミュータント化するには伝達脳波……それを発する花中との接近が必要になる。具体的にどれだけ近付く必要があるかは分からないが、フィアがミュータントとして覚醒した時、花中はフィアが暮らす池にどぼんと落ちている。それまでは普通の魚だったようなので、半径数メートル、広くても精々十数メートル程度が伝達脳波の効果範囲と考えて良いだろう。

 では、自分はそれだけの『至近距離』にゴリラを捉えた事があっただろうか?

 花中には、まるで身に覚えがなかった。ミリオン曰くミュータントの力が維持出来る期間は約五年との事であり、その五年間の出来事を完璧に覚えているかといえば無論否である。死角に潜んでいた存在を把握するような能力、或いは技術だって花中は持っていない。故に例えば『猫』なら、全く気付く事もなくすれ違い、何時の間にかミュータントを増やしていたとしてもおかしくはない。

 しかしゴリラは体長二メートルを超える巨大生物である。もっといえば日本に野生個体は生息していない。日常生活の中で知らぬ間にすれ違うなど、あり得ない事態だ。日本でゴリラと接近するチャンスがあるとすれば動物園だけだろうが、花中はここ五年ほどの間、動物園に行った事はない。

 一体何時、彼とすれ違ったのか? 何時、彼はミュータントになったのか?

 尋ねていたら、彼は一体なんと答えたのか――――

「どうやら、覚えはないみたいね」

 そのまま深い思考の海に泳ぎ出そうとした花中であったが、それを呼び戻したのは質問を投げ掛けてきたミリオン本人だった。結論付けた物言いを聞く限り、ミリオンにこれ以上花中を問い質すつもりはないのだろう。

「……はい」

 花中に語れるのは自分の不完全な推論ではなく、確かな肯定の一言だけだった。

「OK。それならそうで構わないわ。分からない、というのも大事な情報なんだから」

「……一体、あのヒトは、どうやって……」

「幾つか思い当たりはするけどね。例えば動物園間を移動する際にあの子が乗せられた車と、はなちゃんがすれ違ったとか。もしくは、はなちゃん以外の伝達脳波を発する人間と接触したのか」

「えと、前者は兎も角、後者は、あり得ます、か?」

「あり得なくはないわよ。はなちゃんっていう実例が存在する以上、第二、第三の実例が現れてもおかしくないでしょ?」

 ミリオンの推論に、花中は頷く事しか出来ない。伝達脳波を発する人間はごく少数であるが、世界に一人だけというルールもないのだ。実際夏に出会った奏哉という男性も、花中と同じ『体質』であった。漫画の主人公が持っているような、オンリーワンな能力ではないのである。

 だが、希少である事もまた事実。

 少なくともミリオン自身の調査により、六十億人の人間にこの『体質』は備わっていない事が分かっている。世界人口が七十億以上だとしても、残り十億人のうち果たして何人がこの『体質』を持っているのか。人種的な偏りが大きかったとしても、さして大きな数ではない筈だ。

 それだけ希少な人間がこの小さな町に、過去も含めてだが三人も訪れた? 偶然という事も十分にあり得るが、些か出来過ぎてはいないか……花中は小さな違和感を覚える。

 よもやミリオンがその違和感に気付いていないとも思えない。恐らく既に、彼女なりの調査を始めている事だろう。

 ――――であるならば、花中がわざわざ進言すべき内容などありはしない。

「……お任せ、しても、良いですか?」

「当然。これは私の『実益』に関わる話よ。するなと言われてもお断りね」

 主語はなくとも疎通出来る意思を交わし、今後の方針について纏める。空気が張り詰め、静寂という名のピリピリとした雰囲気が花中の部屋の中に満ちた。

「あ、そうそう。言い忘れていた事が三つあったわ」

 尤も、この空気もミリオンの暢気な声でさらりと押し流されてしまうのだが。

 またしても考え込もうとしていた花中は目をパチクリさせ、今度は小さく首を傾げる。

「言い忘れていた、事?」

「ええ。こっちは本当に大した話じゃないわ。ただの世間話ね」

 ひらひらと手を扇ぐミリオンは、随分と気が抜けている。近所のおばちゃんのような、お喋りしたいオーラを発していた。

 花中もお喋りは大好きだ。真面目なのはここまでにして、自分も楽しもう。そう思った花中は四肢から力を抜き、身体がゆらゆらするぐらいリラックス

「いやねー、昨日遊んだ野球場なんだけど滅茶苦茶に壊しちゃったから、今すっごいニュースになってて。どんちゃん騒ぎで面白いわよー」

「へぇ……へぇ?」

 していたので、ミリオンの発言を危うく流すところだった。

 滅茶苦茶に壊しちゃった? 野球場を? 昨日遊んだ?

 逆から読んでも前から読んでも、解釈出来る意味はただ一つ。だらだらと脂汗が出てくる。しかしここは冷静にならねばならない。滅茶苦茶に壊した、という言葉は確かに恐ろしさを漂わせるが、曖昧で具体性の欠片もなく、どうとでも受け取れる。大袈裟に言っているだけかも知れない。

「ちなみにこれ、今日の新聞。『市街地で大陥没。住宅地の一部にも影響が』ですって」

「おぼふっ!?」

 等と思いたかったが、ミリオンが取り出した新聞が現実を突き付けてきたので、花中は呻きを上げてしまった。よくよく考えたら、こういう時ミリオンは大袈裟な話などした事がなかった。

 ミリオンがそっと差し出してきた新聞を震える手で受け取り、記事の内容を確認。曰く、市民の憩いの場である草野球場が一夜にして崩落。市街地でも電柱が傾く、道路のアスファルトが歪むなどの影響が出ており、市民生活によって支障が出ている。泥落山の『噴火予兆』もあり、政府は調査団を派遣するとかなんとか。

 どんちゃん騒ぎなんて可愛いもんじゃない大騒動に、花中の顔が真っ青に染まるのにさして時間は掛からなかった。ひょいっとミリオンが新聞を取り上げても顔色は元に戻らない。

 幸い、かは分からないが、『政府』が動いている。今頃総理大臣は青筋を立てているか、はたまた頭を抱えているか、或いはほくそ笑んでいるか。なんにせよ隠蔽に奔走してくれている筈だと信じる他ない。ひとまずミリオン達の正体は表沙汰にならないと期待し、この問題は棚上げしておく。

 しかし花中の顔色は中々戻らない。

 何分、ミリオンの『世間話』はまだあと二つも残っているのだから。

「……とりあえず、この件については、あとで、詳しく、訊かせてください……それで、他の話は……?」

「もう、そんな暗い顔しないで良いのよ。悪い話はこれでおしまいなんだし。次は笑える話だから安心して」

「悪い話って、自覚してるのでしたら、こうなる前に、止めてくださいよ……」

 ジト目で睨む花中だったが、ミリオンは怯みもせず自らの懐に手を突っ込む。それから一台の、ノートパソコンを取り出した。何処にしまっていたのか、なんて訊くだけ野暮。そして話を逸らさないでと文句を言っても聞いてくれないのは今更。花中は精いっぱいの抗議としてわざとらしくため息を吐きながら、ミリオンからパソコンを受け取る。

 ……受け取ってから思ったが、何故ミリオンはパソコンを渡してきたのか? 外観からして、このパソコンは花中の私物。オレンジ色のランプが点いていたので、今はスタンバイ状態だ。花中は普段使わない時は電源を落とす派のため、ミリオンがわざわざスタンバイにしたものと推測出来る。なら、起動すれば何か分かるかも知れない。

 ミリオンから特に指示もないがとりあえず花中はパソコンを起動し、ログインしてみる。と、ネットの画面が表示されていた。どうやらニュース関係の記事らしい。花中は早速その記事に目を通す。

 その目がパチリと開かれるのに、一秒と必要なかった。目を見開いたまま、花中はパソコンを食い入るように見る。その画面に映る文字を一気に読み進める。

「ぷふっ」

 やがて、花中の口から笑い声が漏れ出た。

「ほらね、言ったとおりでしょ」

「むぅ……こんなので、誤魔化されませんからね」

「誤魔化す気なんてないわよ。ただちょーっと良い話をしただけよ、偶々このタイミングで」

 悪びれるどころか満足げなミリオンに、花中は唇を尖らせる……ものの、長続きしない。青ざめた顔は血色を取り戻し、頬が緩んで笑みが戻ってしまう。

 そして視線は自分の手にあるパソコンの方へ、引き寄せられるように向く。

 画面に書かれていた見出しは『親の心子知らず』。

 表示されていた写真には、()()()()()()()と子供のゴリラの姿があった。動物園内の光景なのだろうか、背景に大きな壁が映っている。ゴリラの顔など人間である花中には大体どれも同じに見えるが……『彼』の顔には、間違いなく見覚えがあった。

 その写真の中で大人のゴリラは頭を掻き、もう片方の手には野球ボールが握られていた。対する子供の方は、足下に子供用のオモチャのバットが無造作に捨てられており、手には草が握り締められている。記事曰く、大人がバットを渡したが、子供はそれを躊躇いなくポイ捨て。今はこっちが良いと言わんばかりに草を振り回す遊びを始めたらしい。

 つまるところ大人は野球をしたいのに、子供は全然違う遊びを始めた――――ように見えるとの事。よもや、本当に『野球で遊びたかった』なんて、記事を書いた人物は想像だにしていないだろう。そもそもにして、記事の本題は行方不明になっていたゴリラが何時の間にか戻ってきた事なのだから。

 きっと、この記事の真相に気付いた『人間』は花中だけだろう。だから花中だけが、この記事で笑いが抑えきれなかった。

「ぷくく……く……」

「もう。はなちゃんったら、ちょっと笑い過ぎなんじゃない?」

「だ、だって……子供のために、オモチャを持って行って、なのに、捨てられるって……」

 まるで、子育てを頑張る新人お父さんみたいじゃないか。

 そう思ったら、もう花中の頭の中から不安や心配は抜け落ちてしまった。もう真剣に悩んだり、注意するなんて出来っこない。

 確かに先の野球で、たくさんの物が壊れたようだ。迷惑を被った人も数多く居るに違いない。ちゃんと怒らねばならない事態であり、二度と起こしてはならない。だけどこうして楽しそうな親子の写真を見ていると、先日の野球が酷いものだとはどうしても思えなかった。

 ちゃんと話して、今度こそ周りに迷惑を掛けないようにしよう。その時は『彼』にもこっそり脱走してもらい、みんなで遊ぼう……自分は最後まで参加出来なかった、野球で。

 ひっそりと込み上がる想いを胸に、花中は何時までも笑みを浮かべ続けた――――

「……ところで、言い忘れていた話って、三つ、ですよね? 最後の一つは?」

 かった。浮かべ続けたかったが、しかしミリオンの話はまだ終わっていない。

 花中から話を促され、ミリオンは「あぁ」と無意識な返答と共にポンっと手を叩いた。どうやら自分で言い出しておきながら、すっかり忘れていたらしい。ならば、先のゴリラ以上にどうでも良い話なのだろう。花中はリラックスしたまま、ミリオンが話し始めるのを待つ。

「花中さーん起きてますかぁ?」

 そうしていたところ、ノックなしに部屋の扉を開けるモノ――――フィアがやってきた。

「あ、フィアちゃん。おはょ……」

 起きてからはまだ顔を合わせていなかった友人に、花中は挨拶をしようとする。が、その言葉の末尾は掠れるように消えてしまった。

 というのも今日のフィアは何時ものドレス姿ではなく、半袖長ズボンというラフで動きやすそうな格好だったからだ。そしてその手には、プラスチック製と思われる安っぽいバットが握られている。

 まるで、これから野球に行くかのよう。

 無論その恰好がおかしいという訳ではない。しかしフィアは普段、ドレスなどの華美な服飾を好んでいた。何時もらしからぬ見た目に違和感を覚え、花中は少し驚いてしまったのである。

 同時に、特に根拠もないが……嫌な予感もした。

「……えと、フィアちゃん。その格好は……?」

「ん? どうです何時もと違って格好いいでしょう? 庭で野球の練習をしていたのです」

「あ、うん。カッコいいね……練習?」

「ええ。昨日はあのゴリラと引き分けになってしまいましたが今度こそコテンパンにしないと気が済みませんからね。次こそ倒せるように練習を重ねていたのです」

「? えと、ゴリラさん、味方だったよね……?」

 訊けばすらすらと出てくるフィアの答えに、花中は首を傾げる。何故味方と戦ったのか、さっぱり分からない。というか自分達は怖いお兄さん達と試合していた筈で、彼等はどうなったのだろうか?

 疑問ばかり浮かんでくるが、花中は追求しなかった。なんというか、訊けば自分の頭が痛くなるような予感がしたので。

「それよりも一つご相談がありまして」

 だからフィアの方から話を変えてくれた事は、願ったり叶ったりであった。

「相談? わたしで出来る事なら、良いよ」

「おお助かります。いやはや実はですね……」

 花中が快諾すると、フィアは満面の笑みを浮かべる。

「ボールを打ったらお隣さんの家の壁をぶち抜いてしまいましてどうしたら良いですかね?」

 それから平然と反省の色を微塵も見せる事なく、悩みを打ち明けた。

 ぶち抜いた。

 ぶち抜いた。

 ぶち抜いた。

 フィアの語る言葉の一つが頭の中で反響。その響きがまるで金縛りのように花中の身体を縛り付け、動きを封じる。

 そして数秒経って、どうにか動けるようになった花中はギギギとミリオンの方を振り向く。花中と目が合ったミリオンは肩を竦めるだけで、こちらも悪びれた素振りもなし。

「……話そうとはしたわよ。さかなちゃんが庭で野球やってるんだけど、止めた方が良くないかって。ほんの今さっき」

 弁明の言葉にも、申し訳なさを見い出す事は出来なかった。

 いや、めっちゃ大事な話じゃないですか。なんで最初にこの話してくれないんですか――――抗議の声を、花中は必死に抑え込む。そんな無駄話をしている暇はない。少なくとも今は。

「あ、あの、フィアちゃん? ぶ、ぶち抜いたって、その、どんな、感じに……?」

「んー穴は大きくありませんよ精々十センチぐらいですから。それと二~三軒ほど貫通しているだけみたいです。まぁ大した被害ではないですね」

 何が精々なのか、何がだけなのか、何処が大した被害ではないのか。フィアへのツッコミを呑み込む度に、花中は自分の口から引き攣った笑いが出てくるのを抑えきれない。話を聞けば何か閃くかと思ったが、脳裏にそのような気配は微塵もない。

 やっぱり、もう野球は懲り懲りだ。

 そんな事を思いながら、花中は頭を抱えたまま逃げるようにベッドに顔を埋めるのだった……




幾つかの謎を残しつつ、本章は完結です。
箸休め回のつもりで書いていましたが、お休み出来ましたでしょうか?
次章は何時も以上の激戦ですので体力持っていかれますよ!(ぇ

次回は間もなく投稿致します。


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幕間六ノ七

 緑色に耀く夜空の下に、彼女は居た。

 忌まわしい感覚に襲われ、住処の島から這い出して海を泳ぐ事十数分……世界で最も巨大な海域で、彼女は『それ』を発見した。

 『それ』は彼女に向けて何かを語ったが、彼女は耳も貸さなかった。彼女は『それ』が自身の体調不良の原因であると本能的に察しており、交渉する気など端からなかったからだ。

 自分の気分を害するのなら排除する――――理性の欠片もない、本能そのものの思考に従った彼女は、机の上のゴミを床に払い落とすように『それ』に対して自らの尾を振るった。

 付け加えると、その一撃を振るった時の彼女の精神は本気とは程遠かった。当然だ。机のゴミを払い落とすのに、逐一激昂などしていられない。目の前の存在が地球生命を根絶やしにしようとしている事も、全ての生命の『母』である事も彼女は知らない。おまけに今の彼女は体調も優れない有り様である。

 だから()()()()()()()、気の抜けた一撃にしかならなかった。

 その一撃で全てが決した。地球生命を根絶やしにしようとし、それを可能とする力を持った存在は彼女の尾を喰らった瞬間、全身が発光し――――文字通り跡形も残さず、消滅したのだから。

 不快さの一つを呆気なく潰し、しかしそれでも倦怠感が拭えなかった彼女は気配を探った。すると遥か彼方……地平線の先より、先の『それ』と同じ不快さを放つモノの存在を感じた。

 遠い。全速力で泳げば一時間も経たずに行けるだろうが、このような()()()()相手に全力を出すなど面倒以外の何物でもない。故に彼女はこの場を動かず、欠伸をするように自らの口を大きく開けた。

 刹那、その口から一閃の光が放たれる。

 放たれた光は流星よりも速く、そして力強く地平線を跳び越え、彼方で紅蓮色の輝きを霧散させた。直後に大地が揺れ、海面を巨大な津波が走る。やがて空から緑色の輝きは失せ、月と星だけが照らす自然の夜空が戻ってきた。

 かくして世界を救った一員となった彼女は、しかし満足感など欠片も抱いていなかった。抱ける筈もなかった。軽くお見舞いした攻撃で跡形もなく消えてしまう存在など、敵とは言えない。敵でないものを蹴散らすなど、ただの作業でしかない。身体から不快さは抜けても、彼女の心に爽快感は訪れなかった。

 されど、最早この退屈にも慣れた。彼女は趣味である惰眠を貪りこの鬱屈とした気持ちに終止符を打とうと、住み処を目指して泳ぎ始めようとした。

 そんな時だった。

 ふと、彼女は空を見上げる。

 ――――見られている。

 巨体を誇る彼女を見るモノなど、この海にはいくらでも居るだろう。だが、空の彼方からそのような気配がするのは何故か。どうして、『そいつ』は自分を眺めているのか。

 そいつは、自分の退屈を紛らわしてくれるのか。

 空から感じる、圧倒的なプレッシャー。これほどの力の差は、自分がまだ小さく、自分以外の全てが敵だったあの時以来か。あれから長い月日を経て、最早世界に自分の敵はいないと思っていたが……どうやら杞憂だったらしい。

 まだまだこの世には、自分では敵わない存在が居る。

 恐るべき事実に、彼女の身体は脈動する。久しく使っていなかった『能力』を用い、争いの準備を始める。忘れてしまっていた恐怖を思い出し、沸騰するほどの屈辱が全身を熱くし、弾け飛びそうなほどの興奮が胸の底から噴き出してくる。

 ついには混濁した激情を抑えきれず、彼女は叫んだ。本来その身に存在しない声帯を作り上げ、慣れないながらも渾身の力を込めて。

 その瞬間、星が震える。

 海の流れが変わり、大気が爆発した。プレートが弾けて巨大地震が起こり、マントルが沸騰して火山から噴き出す。世界がもう止めてくれと悲鳴を上げるが、彼女の口から放たれた咆哮は星を何周も駆け巡り、何もかもを無慈悲に引っ掻き回していく。

 彼女は知らない。自分が一つの星を軽々と破壊し尽くすほどの、圧倒的な力を持ってしまった事実を。

 彼女は気付かない。『神』の域に達した自分と対等に戦えるのもまた、『神』であると。

 そして神々の争いに耐えられるほど、この世界(ほし)が頑丈でない事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第七章 神話決戦

 

 

 

 

 

 




こちら、時系列は『母なる者9』と同時期となっています。
サブタイ通り次章は大決戦、バトル盛沢山となる予定ですので、
そちら方面を楽しみにしている方々のご期待に応えられるよう頑張ります。

次回は九月中旬投稿予定です。
時間的にあと一月ですが、既に四話出来てるし間に合うべ(雑


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第七章 神話決戦
神話決戦1


産めよ、増えよ、地に満ちよ。

 

地の全ての獣と空の全ての鳥は、

 

地を這う全てのものと海の全ての魚と共に、

 

あなた達の前に恐れ慄き、

 

あなた達の手に委ねられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『神』が舞い降りる、その日までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おめでとうございまーす! 特賞、大当たりでーす!」

 法被という如何にもおめでたそうな格好をした若い女性は、元気良くそう告げながら手に持った小さな鐘をカランカランと鳴らした。

 軽快な鐘の音と明るい女の声は、相当遠くまで届いた事だろう。此処が昼間の商店街のど真ん中というのもあって、通行人の数はとても多い。たくさんの人々が足を止め、鐘を成らした女性の方へと振り返る。元々賑やかな場所だったが、先程までとは少し違うざわめきが辺りに満ち始めていた。

 そのざわめきの中心に立つ少女――――大桐花中は、一人目を点にする。ふわふわのダウンコートを着ていても分かるぐらい身体を硬直させ、両手に持っていた、小麦粉や牛乳パック等々が入ったビニール袋をドサリと落としてしたのに拾おうともしない。

 ただただ真っ直ぐ目の前の女性……くじ引きの受付をしているお姉さんを凝視するばかり。

「……えっと……あの……特、賞?」

「はい!」

 辛うじて絞り出した疑問の言葉も、受付のお姉さんは祝福しますと言わんばかりに肯定するだけだ。何も分からない。分からな過ぎて、花中の回想は数時間ほど前まで遡る。

 確か、自分は買い物をしにこの商店街に来た。

 十一月後半を迎え、日々寒さが厳しくなるこの頃。特に今日はまた一段と厳しい寒さで、冷たさが全身に突き刺さっていた。こんな日は温かいものを食べるに限る。そうだ、おやつにホットケーキでも焼いて食べようか……などと考え、材料を買うために花中は商店街へと出向く事にした。何時もだと荷物持ちがてら一緒に来てくれるフィアは「冬になると気分的に動きたくなくなるんですよねぇ。『身体』の水温は一定に保ってるので本当に気分的な話なのですが」という理由で今日はお留守番。ミリオンは外出中で ― 近くを漂っているかも知れないが ― 誘えない。つまりは久方振りの一人買い物。一人より二人以上の方が好きな花中であるが、来てくれないのだから仕方ない。諦めて一人で商店街に出向き、開き直ってのんびり気儘にお買い物をしていた。

 そんなこんなで色んな店を渡り歩いたら、はて、何処かは忘れたが、兎に角ふとしたきっかけで一枚の券をもらった。

 それは福引券だった。

 貰ったのなら、使わないと勿体ない。とりあえず運試し。それにそろそろ買わないとと思っていたトイレットペーパーが、実質外れ枠であろう最下位六等の賞品みたいだし……と思った花中は、六等賞狙いで福引にチャレンジした。

 したら、当たってしまった。六等賞の遥か上、最上級の賞である特賞が。

「え、えぅえぅえぇぇぇぇぇっ?!」

 ここでようやく、花中は自分の身に降りかかった状況を理解した。次いで全身に満ちる歓喜に従いピョンピョン跳ね回り……はしない。

 真っ先にしたのは、特賞の中身の確認だ。

 トイレットペーパー狙いだった事もあり、特賞が何かなどろくに見てもいなかった。だが、どういうものが選ばれるかは知っている。それが、うっかり当ててしまっては不味いものである事も。

 そして、

「特賞は七泊八日、南の島への旅行券でーす♪」

 自分の目で確認した内容と、受付のお姉さんの言葉がピタリと一致したので、花中は顔を青くした。

 福引きの特賞の定番、海外旅行。

 予想通り、全く行く気のない場所への招待券が特賞の中身だった。国内旅行であれば「まぁ、たまにはみんなで遊びに行こうかなぁ」とも思えるが、海外旅行ではそこまでハードルを下げられない。知らない土地、知らない人々、知らない言語、知らない法律、知らない文化……そこに楽しみを見い出せない訳ではないが、臆病な花中には不安と恐怖の方が大きかった。

 特に言語の問題は大きい。ヨーロッパ系である母方親族の影響もあってか、花中は西洋系の言語であればそれなりには話せる。しかし行く先である『南の島』で通じるかは分からない。知らない土地で言葉も通じない中迷子になったら……臆病で根暗な ― と自分で評している ― 花中には、想像しただけでパニックになりそうなほど怖かった。

 こんな大それた賞、自分には扱えない。受け取ったところで期限切れまで使わないのが目に見えている。ぶっちゃけトイレットペーパーの方が欲しい。

「あ、あの、ぁ、ぅ、えと」

 なんとか自分の要望を通そうと、花中は必死に考えを巡らせ――――

「こちらがその旅行券、モサニマノーマ行きのチケットと宿泊券になりまーす♪」

 ようやく脳裏に浮かんだお断りの文言は、法被姿の女性から告げられたこの一言で呆気なく霧散するのだった。

 

 

 

「一度しか会った事のない従姉妹(いとこ)に会いたい?」

 リビングのソファに腰掛けた状態で訊き返してきたフィア、そのフィアの頭の上で首を傾げている猫状態のミィ ― フィアが能力でソファーなどを補強する事で、大桐家宅に上がる事が可能となっている ― に向けて、家に帰った花中はこくんと頷いた。花中はフィアの隣に座ると、福引きで貰った旅券を二匹に見せる。

「えっとね、パ……お、お父さんの、お兄さんなんだけど、このモサニマノーマって島に住んでるの」

「ほほう花中さんの叔父ですか。しかし何故またこんな名前も聞いた事もないような島にその人は住んでいるのですか?」

「島流しにでもされたの?」

「そんな物騒なのじゃ、なくて……なんか、昔、旅行でその島に行った時に、島民の人と恋仲になった、みたい。で、そのまま、結婚して、島で住む事に、したの」

「恋かー恋なら仕方ないわねー」

 何時から聞いていたのか、唐突にミリオンが花中の背後に姿を現した。振り返ってみれば、彼女は目を閉じたまましきりにうんうん頷いている。恋愛至上主義者である彼女は、『恋』の所為と言っておけば大概の事は納得出来るようだ。

「いや意味が分からないです。恋ってその異性と子供を作りたい感情ですよね? その相手と子供を作りたいのなら一月も滞在すれば十分じゃないですか」

 恋愛以前に、子育ての概念すら持ち合わせていない魚類には理解不能だったが。頭の上の哺乳類はフィアの意見に呆れている様子である。

 花中は苦笑いしながら、話を戻す。

「……兎に角。そうして移住した訳、だけど、その島は、漁業が、主な産業の、その……」

「あー、発展途上国並の生活水準なのね。物価とか安そうねぇ」

「その……確か、そもそも貨幣経済が、根付いてなかった、かと……」

「……は?」

「一応、観光客を誘致して、外貨を稼いで、薬とか買ってるみたいですけど、普段は物々交換だった筈……」

「うわ、今時そんな民族がまだ居たのね。マサイ族でもスマホを買ってるような時代なのに……というか、やけに詳しくない?」

「あ、はい。その、十年ぐらい前に、一度だけ、両親に連れられて、島に行った事がありまして……ですから、今は少し変わっているかも、ですけど……」

「ふぅん、成程。で、その時会ったきりなのが従姉妹の子って訳ね」

 ミリオンの言葉に花中はゆっくり、力強く頷く。

 脳裏を過ぎる、うっすらとした記憶。

 十年以上前の記憶である。叔父の顔はおろか、従姉妹の子の顔も思い出せない。いや、仮に覚えていても、十年も経てば顔など変わっているに決まっている。何しろ出会った時、従姉妹はまだ乳児だったのだから。このまま彼女の事を忘れてしまっても、きっと花中の人生にさしたる影響はないだろう。

 それでも、会いたい。

 この機を逃せば本当に二度と会えないかも知れない。海外がどれだけ怖くても、その不安が恐怖を凌駕する。

 今日は、恐怖が花中の背中を押した。

「わたしが会った時、その子は、まだ赤ちゃんで、わたしの事なんて、覚えてない、だろうけど……でも、こうして行けるチャンスが、出来て、やっぱり会いたくなって……だ、だから、あの……行っても、良いかな……?」

「それは構いませんけど何時頃行くつもりなのです?」

「向こうの都合次第だけど、調べたら、モサニマノーマに行ける船って、頻度があまりなくて。それに遠いから、冬休みの間じゃないと、学校、休まないといけないから、多分行きは十二月末で、帰りは一月になる、かな……」

 請うように、花中はフィアとミリオン、ミィの顔色を窺う。

 旅行先が日本国内なら、フィア達も一緒に行けただろう。しかし此度は海外旅行であり、パスポートが必要だ。そしてパスポートを作ろうにも、人間ではないフィア達に用意出来るものではない。

 そうなると、フィア達には留守番を強いる事になる。

 折角の年越し。みんなで過ごしたい……自分だけでなく、きっとフィア達も同じ気持ちの筈だ。それを結果的に断るのは裏切っているような気がして、申し訳なさから少し卑屈になってしまう。いや、そもそもにしてこの旅行は自分の『ワガママ』だ。ダメだと言われたら、説得はしてみるが、それでも断られたら諦めるしか――――

「そうですか。まぁお気を付けて」

「浮かれて忘れ物とかしないでよ?」

「その時期だと飛行機も混みそうね。今のうちに予約した方が良いんじゃないかしら」

 そう考えていた中で、三匹は拒絶どころか応援するかのようにあっさり容認する。

 半ば諦め気味だった花中は、思わず目を丸くした。

「……え、ぁ、の……良い、の?」

「良いもなにも花中さんが決めた事です。こちらからどうこう言うつもりはありませんよ。そりゃあ出来ればこの家で一緒に年越しをしたかったですけど」

「あたしも同じ。まぁ、好きにすれば良いんじゃないかな」

「折角当たった福引きなんだし、使わなきゃ勿体ないわよ」

「み、みんな……!」

 快く背中を押してくれる友人達に、花中は感激のあまり目が潤む。

 しかし泣いている暇はない。

 出立予定まであと一月。パスポートはもう持っているとはいえ、他にも必要なものはある。今回の旅行には、保護者である親はいないのだ。モサニマノーマの文化や風習、言語については勿論の事、経由地についても調べておくべきだろう。それに可能なら叔父に島へと向かう旨を伝えておきたい。連絡を取れる人がいないか、親戚に聞いて回る必要がある。

 やるべき事は山積みだ。十二月の終わりまでに全てが片付く保証もない。

 しかしそれでも花中の胸は弾んでいた。十年間、本人さえも知らぬうちにひっそりと積み重なっていた想いが一気に沸騰し、溢れようとしていた。

 いや、溢れた、と言うべきだろう。

「待ってて、サナちゃん! 必ずそっちに行くからねーっ!」

 涙を拭うや南東の方角を見つめ、海の彼方に向けて感情の叫びを上げるなど、普段の花中なら絶対に出来ない事なのだから。




はい、ついに始まりました第七章。本章では本作初の海外が舞台です!
……オリジナルの南の島を海外舞台と言い張るというね。おまけに登場人物の殆どが日本語で話すし(触れてはならない点)

次回は9/24(日)投稿予定です。


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神話決戦2

 モサニマノーマは赤道直下に位置する、小さな島である。

 国際法上はアメリカ領となっているが、アメリカ本土から七千キロも離れた位置に存在している絶海の孤島だ。総人口は百五十人未満で、生活は漁業による自給自足で成り立っている。暮らしているのはほぼ原住民のみで、言語は英語ではなく独自のもの。島民が住んでいる本島の近くには火山島が存在し、過去数千年という地質学的には『短期』のうちに十数回の大規模噴火を起こしている。観測が開始された六十年前から今日まで幸いにして噴火の予兆はないが、現在も火山活動自体はそこそこ活発なまま。そのため米政府は島民の本土移住を推奨しているが、文化的な違いや言語の壁などもあって上手くいっていないとか。

 さて、そんなモサニマノーマだが、日本から行くのは実はそう難しくない。

 というのもあまりにもアメリカ本土から遠過ぎて、距離的には日本の方が近いからだ。尤も、それでも日本から飛行機でグアムに到着後、旅客船を利用して近隣の島を経由 ― ちなみにその島に立ち寄るのは補給目的で、降りる人は稀だとか ― し、その島から更に民間旅行会社を介して離島へと移動。その離島から旅行会社と協力関係にある島民の漁船に(遠洋に漁へと出向くついでに)乗せてもらうと、やたらめったに手間は掛かるが……

 なんにせよ、これがモサニマノーマへの行き方だ。他の行き方はない。忘れたり間違ったりしたら、さて何処へ行く事になるのやら。

「グアムから船で島に渡って、あの旅行会社に行って、そこからあの島に向かって、その島から船を使って、その時の猟師さんの名前は……」

 小心者な花中はそんな展開を楽しめるほどの度胸はないので、ぶつぶつと暗唱しながら行程を確かめていた。無論迷わないに越した事はないのだから、家でやる分には良い事である。

 が、テロやらなんやらを猛烈に警戒している()()()でこの挙動不審はよろしくない。

「はなちゃん。そろそろ止めないと、迷子以前に日本から旅立てなくなるわよ」

 故にミリオンから忠告されて、ハッとした花中は顔を真っ赤に染め上げた。

 そう。花中は今、空港に居る。

 十二月二十九日――――年越しを間際に控えたこの日、花中は日本を出立する。目的地はモサニマノーマ。十年以上前に会ったきりの、従妹と再会するために。

 空港内は花中以外にも、飛行機を利用したい人々でごった返していた。年越しを海外で過ごすつもりか、はたまた遠く離れた実家へと帰るためか。彼等の熱気により、空港内は寒いどころか少し蒸し暑い。ざわめきも大きく、普段よりも大きな声で話さねば隣の人との会話も儘ならないだろう。

「はい花中さんお荷物です」

「体調は大丈夫? 忘れ物はないよね?」

「あ、ありがとう。えと、体調も、忘れ物も、大丈夫……多分」

 我に返った花中に、フィアがキャリーバッグを渡し、ミィが優しく気遣ってくれる。フィアにお礼を伝え、ミィには正直に答える。本当は此処でバッグを開いてもう一度確かめたいが、衆目がある手前恥ずかしいので我慢した。一応ミリオンと一緒に二重チェックをしたので、問題はない筈だ。

「とりあえず、この空港内にテロリストらしき人間が居ない事は確認したわ。今からテロリストが来ても私が『始末』しとくから、安心して海外旅行を楽しんできてね」

「……始末じゃなくて、ちゃんと、警察に通報してください」

「あら、それは面倒ね……冗談よ。ちゃんと人間の法に則って対処してあげるから、今度こそ安心しなさい」

 そのミリオンから安全性のお墨付きをもらい、軽くジョーク ― であってほしい ― を交わしたら、いよいよ準備は万端。

 一度深呼吸をしてから、ガラガラとキャリーバッグを引いて花中は歩き出す。しかし友達三匹から数メートルほど離れた位置で一旦立ち止まると、くるりと三匹の方へと振り返った。

「じゃあ、いってきます!」

 そして笑顔で、元気よくしばしの別れを告げる。

 手を振り、見送ってくれる友人達に背を向け、花中は受付へと走り出すのであった――――

 ……と、そんな花中の姿が人混みに紛れて見えなくなると、フィア達は互いに顔を見合わる。

「それじゃあ我々も行くとしますか」

「そうねぇ。じゃ、また後で」

「長丁場になりそうだし、準備体操しとかなきゃなぁ」

 そのまま三匹は、各々バラバラの方へと歩き出した。

 思い描く目的地は、誰もが同じなのに。

 

 

 

【飛行中は揺れる事がありますので、着席中もシートベルトのご着用願います。それでは、空の旅をお楽しみください】

 離陸に成功し、飛行が安定した事を伝えるアナウンスが機内に流れる。先程まで感じていた激しい揺れはなく、この『乗り物』が時速千キロ近い速さで飛んでいるとはとても思えない静かさだ。

 何事もなく空の旅に入れて、飛行機内に居た花中はホッと安堵の息を吐いた。身体から力を抜き、座席にもたれ掛かる。飛行機事故で死ぬよりも交通事故で死ぬ方が確率的には上だと知っているが、それでも危険な瞬間を乗り越えた事には違いない。現実には飛行中の墜落や、着陸失敗、テロリスト襲来 ― 今回に限ればこの可能性はゼロだが ― 等々危険はまだたくさん残っているが……そんなものはどうでも良いのだ。気分的に楽になったのだから。安心と安全は別物とはよく言ったものである。

 不安が拭えると、花中は段々と笑みを浮かべるようになる。

 最初の目的地はグアム。成田からだと、飛行機でもグアムまで約四時間の行程だ。その後はグアムから旅客船に乗り、船上で一泊。立ち寄った島から別の島へと乗り継ぎ、そこでまた一泊。モサニマノーマ到着は二日後の正午頃。十二月三十一日の十二時を予定している。

 時間にしてざっと五十時間以上の長旅だ。しかし今の花中にはさして長い時間とは思えない。少なくとも、十年という月日と比べれば。

 さて、モサニマノーマには従妹だけでなく叔父も暮らしている。親戚の手伝いもあり、花中はどうにかその叔父と連絡を取り合う事が出来た。

 年間平均観光客数が小数点以下のモサニマノーマには宿泊施設がないらしく、商店街の当初の予定では村長の家に泊まる事になっていたのだが、話し合いの結果叔父の家に滞在させてもらえる事になった。年末年始の忙しい時期に悪いのではとも思ったが、漁の最盛期は()()()に終わったので特に問題はないとか。

 そして、十年以上会っていない従妹も、自分の到着を心待ちにしているとの話だ。

 今のところ旅路は順調。トラブルが起きる気配はなく、明後日には十年越しの再会を迎えている筈だ。未来を想像したら胸が弾む。考えるのを止めようとしても、無意識に脳裏が未来予想図で満たされてしまう。

 ワクワクが止まらないのに、退屈なんてしていられない!

「何やらすごく楽しそうね」

「はいっ!」

 どれほど楽しいかと言えば、隣の席に座っている初老の女性に話し掛けられて明るく元気よく返事をしてしまうほどだ。

 返事をしてから、物凄く恥ずかしい事をしたと気付いて、花中は顔を茹でダコのように真っ赤にする。女性のにこやかな顔がなんだかこちらを憐れんでいるように見えて、花中は逃げるように顔を俯かせた。

「え、ぁ、いゃ、ぁ、その……」

「あら、恥ずかしがる事はないわ。旅は何時だって楽しいものですもの。私だって、この歳になってドキドキしているのだから。それにドキドキしない旅行なんて、行ってもつまらないでしょう?」

「は、はい……」

 優しく宥められ、花中は恐る恐る顔を上げる。女性の表情は先程までと同じくにこやかで、だけど今はとても優しい顔に見えた。

「ところでご家族の姿が見えないようだけど、近くの席には居ないのかしら?」

「ぁ、いえ……一人旅、です。旅行先では、親戚の家で、泊まる事に、なっています、けど」

「あら、そうなの。小学生でも一人で海外旅行って出来るのね」

「……えと、わたし、高校生です。一応」

「あらら、私ったら! ごめんなさいね」

 本当に申し訳なさそうに謝られ、花中は「よく言われます」と返しておく。

 こんな会話を交わしながら、我ながら変わったものだと花中はしみじみと感じた。

 ほんの半年前までは同級生にすら声を掛けられなかったのに、今では飛行機の中で出会った初対面の人と気さくな会話をしている。半年前は友達が一人でも出来れば良いと思っていたのに、まさかこんなにも『親しい人』が増えるなんて思わなかった。思う事が不遜だとすら考えていた。もしかすると昔のままだったら、海外暮らしの親戚に会おうなんて決断出来なかったかも知れない。

 『もしも』の事は分からない。だけどきっと『今』があるのは彼女達のお陰だろう。

 そんな事を考えていたからか、不意に懐かしさが込み上がってきた。まだ別れてから一時間ぐらいしか経ってないのに……寂しがり屋なところは相変わらずのようだと自嘲しながら、花中は飛行機の窓から日本があるだろう方角を眺める。

「……ん?」

 そこでふと、疑問の声を漏らした。

 花中達が乗る飛行機と並走するかのように、黒い飛行機が飛んでいたのだ。ただしジェット機ではなく、エイのような形をした、戦闘機っぽいもの。本当に戦闘機かは分からないが、民間旅行会社の飛行機ではなさそうである。機体との距離は、比較物がないのでよく分からないが……かなり近いように思える。

 自衛隊の飛行機にこんなのがあるのかな? もしかして在日米軍の飛行機? いや、それよりも此処まで近付いたら危ないんじゃ……

 段々不安になってきて花中が顔を青くしていると、黒い戦闘機は不意に方向転換。大きめの白い雲に突入し、そのまま姿を消してしまった。なんとなく窓に張り付いて探してみたが、再びその姿を見付ける事は出来なかった。

「どうかしたの?」

「あ、いえ……なんでもないです」

 しばらく外を眺めていた花中だったが、隣の席の女性に尋ねられてすぐに戦闘機探しを止める。気にはなるが、分かったところで知的好奇心が満たされるのが精々だ。

 それよりも、お隣の席に座る淑女を退屈させる訳にはいかないだろう。

「えっと、ところで、あなたはグアムには、何をしに、行くのですか?」

 旅路の興奮に乗せられた花中は、今度は自分の方から女性に尋ねてみるのだった。

 

 

 

 その後花中を乗せた飛行機は無事グアムに到着。空港での審査も滞りなく進み、僅かな時間ではあるが『近代的』な南国を堪能した。その後旅客船に乗り島から島への船旅へ。最後の漁船も予定通りに出航し、何一つトラブルは起きなかった。

 そして太陽が天頂で輝き始めた頃。

「『それじゃあ、迎えに来るのは三日後だ。それまでは泣いても笑ってもマラリヤに罹ろうと迎えにはこれねぇから覚悟しとけよ! あと天候が悪かったら無断で延期するからそのつもりで』」

「『分かりました。では、とりあえず三日後、またよろしくお願いします』」

 なんとも物騒な免責事項に苦笑いしつつ、花中はぺこりと一礼。花中が頭を下げた相手である三十代前半の、健康的に日焼けした男性 ― 花中を乗せてくれた漁船の船長さんだ。尤も花中を除けば唯一の船員であるが ― は手を上げて応える。次いで自らが乗っている、二~三人ぐらいしか収容出来ない小さめの漁船のエンジンを再起動させた。

 そして船は海に向けて発進。花中は手を振って漁船を見送った後、船に忘れ物をしていないか今一度確認する。といっても荷物は全てキャリーバックに入れており、そのキャリーバックを忘れるというヘマはそうしないだろうが。

 ヘマをしていない事を確かめた花中は遠ざかる船に背を向けるように振り返り、自分が下ろされた島を一望する。

 まず目に入るのは、島の中央を陣取っている小高い山。パンフレット ― 商店街製作 ― 曰く標高三百メートルほどになる山で、『ダァード・ノゴドトー』というらしい。現地の言葉で『温かな大地』を意味し、信仰対象にもなっている神聖な場所。一応地殻変動の影響で出来た山で、火山ではないそうだ。島で唯一の森林地帯でもあり、遠目からでも分かるぐらい独特な、日本では見られない樹木が山全体を覆っている。

 次に目線を下げて足元に向ければ、花中が下ろされた『漁港』が映る。漁港と言っても木の板を組んで作られた単純な物で、小型船以上の大きさの船が寄港すればその際の波で壊れてしまいそうだ。踏むとギシギシと音が鳴り、手すりなんて上品な物は存在しない。うっかり板を踏み外したらそのまま海にドボン……それはそれで楽しそうだと思ってしまうのが、旅先のテンションというやつなのか。

 そして島をぐるりと囲う白い砂浜。赤道直下に位置する島だけに、島の周囲にはサンゴ礁が形成されているらしい。純白の砂浜はサンゴの欠片から出来ているのだろうか。熱帯の日差しを受けてキラキラと輝いている。

 なんて綺麗で、美しいのか――――モサニマノーマ!

「ついに……ついに到着だーっ!」

 待ち望んでいた瞬間に、ピョンっと跳びはねてしまう花中。着地と同時に漁港全体が軋んだような音を立てたが、テンションが上がってきてそれどころではない。

 初の海外一人旅。久方ぶりの再会が秒読み段階。

 落ち着けという方が無理な話だ!

「……って、あれ?」

 ……無理な話なのだが、花中のテンションは一気に下がった。

 目の前にそびえる山、手作り感溢れる港、一面の白い砂浜……どれも商店街制作のパンフレット通り。景観的な落ち度はない、というより今回の旅行は観光目当てではないので、極端な話景観については結構どうでも良い。

 それより、人影が見当たらないのはどういう事なのか?

「あれ? おかしいな……」

 花中は首を傾げながら、漁港を降り、砂浜に降り立った。柔らかな砂の踏み心地にちょっぴり興奮してから、改めて辺りを見渡す。やはり人影は影も形もない。

 人影がない事自体は、そう問題ではない。島民が暮らしているのは花中が下りた漁港から見て、山を挟んだ反対側であるとパンフレットには書かれている。島民の数も百数十人程度のため、集落が山の陰に隠れるほどの大きさしかないのも自然な話。此処から島民の生活が窺い知れない事は、なんの問題もない。

 疑問なのは、迎えの人の姿すら見えない点だ。というのも花名はこの島に住んでいる叔父と連絡を取り、迎えに来てもらう手筈になっているからである。村は砂浜沿いに存在するという話で、パンフレット曰く一周するのに徒歩でも二~三時間しか掛からない島で案内など必要ないだろうが、十数年ぶりに出会う親類。したい話はたくさんあると、叔父の方から案内を持ち掛けてきた。花中としても叔父とすんなり合流出来るならその方が良く、好意に甘える形で約束を取り交わした。

 なのに、その叔父の姿が見当たらない。念のため腕時計で時間を確認してみたところ、今の時刻は午後一時半。この島には正確な時刻を示す時計がないため待ち合わせ時間は正午頃としていたが、この時刻ならまだ正午頃の範疇……だと思いたい。時刻変更線に合わせて時計の針は調整したので、実は三時間遅れで到着していた、という可能性もない筈だ。

「うーん、どうしよう……」

 これは中々困った事になったと、花中は考え込む。先程も述べたように、徒歩でも一周三時間掛からないこの島で、砂浜沿いの村を見付ける事は苦ではなかろう。島民だって百五十人未満なのだから、そこから叔父の姿を見付けるのも難しくないと思われる。

 だが、もしかすると叔父は今村を起ち、こちらに向かっているかも知れない。そうなると叔父が通っているルートと逆に進んだ場合、すれ違って面倒な事になる。それに花中はこの島では、叔父に色々頼るつもりなのだ。叔父が居ないかも知れない村に立ち入るのは、ちょっと心細い。

 はてさて一体どうしたものかと、花中は立ち尽くしてしまう。せめて人影が見えれば、次の行動を起こせるのだが……等と考え三度見渡してみる。

 すると、今度はこちらに近付いてくる黒い影が見えた。遠くてまだ分からないが、手らしきものを大きく振っているので、走ってこちらに向かっていると思われる。

 恐らくあれは叔父だろう。仮に違っていても、自分の事を叔父から聞いているだろう現地人。恐れる必要はきっとない。

「……良し」

 ほんの少しの躊躇を振り払うと、花中は砂でタイヤが空回りするキャリーバックを力尽くで引き摺りながら、人影目指して歩き始めた。

 結論から言うと、人影は叔父ではなかった。

 成人男性にしては背が低く、また身体付きが華奢だった。近付くにつれハッキリとしてくる輪郭は、女のそれ……いや、少女のそれ。花中よりは背が高そうで、手足はすらりと伸び、体育会系らしい元気な走り方をしている。

 やがて花中と人影は互いの顔をちゃんと確認出来る距離まで近付き、人影が花中の予想通り自分より背が高く、陸上選手のような引き締まった筋肉の乗った、それでいて女らしい胸の膨らみがある……大体『同い年』ぐらいの女の子だと分かった。彼女が着ているのは袖がない薄手の布と、膝丈ぐらいまである植物質なスカートという如何にも南国風の衣服。小麦色の肌も、南国の住人らしさがある。ニコニコと太陽のように眩しく微笑んでいて、とても愛くるしい。

 現地人である事は、疑う必要もないだろう。尋ねてみれば色々教えてもらえるかも知れない。

「『こ、こんにちは。わたしは大桐花中と申します』」

 とりあえず、花中の方から英語でコミュニケーションを試みる。と、今まで笑顔だった少女はいきなり困った顔になってしまった。

 そう、ここの言葉は英語ではなく現地語。確かに此処はアメリカ領だが、英語で話し掛けたところで彼女達にとっても外国語である。困らせてしまった事への罪悪感で、花中の方が右往左往してしまい――――

「あ、あの、オオギリカナカ、さん、ですよね?」

 少女の口からややぎこちない日本語が出てきたので、花中ははたりと止まった。

「え……あ、えっと、はい……大桐花中です、けど……」

「わっ! タワヘ!? セケィユー、アヨサーローア!」

「え? え?」

 いきなりの未知の、恐らくは現地語だと思われる言葉の洗礼に花中はキョトンとしてしまう。そんな花中に気付くと、少女は「あ、すみません」と丁寧な日本語と共に頭を下げる。

「久しぶりです、花中ちゃん。従妹のサナだよっ!」

 そして日本語による自己紹介を受けて、花中に出来たのは、なんだか分からない叫びを上げようとする自分の口を両手で押さえる事だった。

「えっ!? さ、サナちゃん!?」

「うんっ! サナだよ!」

 言葉を失うほどに興奮する花中に、サナは元気良く肯定する。態度は花中よりも冷静だが、ぴょんっと跳びはねながら近付いて花中の肩を掴むあたり、彼女は彼女なりに興奮している事が花中にも伝わった。

 しばし言葉に出来ない興奮が胸から溢れ、馬鹿みたいにジタバタする事しか出来なかった花中だったが……ふと、不思議な気持ちになる。

 花中は母が西洋系の血筋であり、対してサナの母は南国系。娘だからかどちらも母方の血が色濃く出たようで、あまり日系人的な共通点はない。なのに日本人の父方の血を通じて従姉妹の関係にある。人類皆兄弟という言葉があるが、こうして本当に血の繋がった『親族』を前にするとその言葉の確かさを強く感じられた。今なら誰とでも打ち解けられそうな気分だ。

 ただ、同じ血筋だからこそ言われるとより深く傷付く事もあるもので。

「あれ? 花中ちゃんって、私より二つ年上だった、よね? ……随分ちっちゃいけど、ご飯、ちゃんと食べてる?」

「ぐふっ」

 十三~四歳(自分の二歳年下)であるサナに身長・スタイル共に負けている事実を突き付けられ、花中は吐血するかの如く嗚咽を漏らした。血筋は同じなのにどうしてこうも自分は幼児体型なのか。コンプレックスがある訳ではないし、将来ナイスバディになりたい訳でもないが、年下の従妹に負けたとなると少しダメージが大きかった。尤も、国が違うと美意識も違うようで、サナにはどうして花中がダメージを受けたのか理解出来ていないようだが。

「……と、ところで、叔父さんは、どうしたの、かな? 迎えに来るの、叔父さんだと、思っていたの、だけど」

 これ以上傷口を広げられたら堪らないと、花中は話題を逸らそうとする。逸らすと言っても、一応気にはしていた点だ。

 しかしながら大した質問だとは思っていなかったので、サナが露骨に口籠ったところを目の当たりにすると、何か自分はとんでもない失言をしてしまったのかと思ってしまう。

「え……あ、あの、どうか、したの……?」

「あ、ううん、大した事じゃないの。その……お父さんは、ちょっと村で用事が出来ちゃって」

「村で、用事?」

「うーん、なんて言ったら良いのかな……」

 サナは目を瞑りながらしばし考え込み、それから言葉を選ぶように、慎重な話し方で説明してくれた。

 なんでも昨晩、奇妙な三人組が島を訪れたらしい。

 最初はレイジ ― 花中の叔父の名である ― の親戚が来たのではと村中が盛り上がったが、今回島にやってくる親戚は花中一人である事から無関係な人達だと判明。ではテレビ局とかアメリカ政府の人間かと思ったが、そのような人間が来るとの連絡はなく、三人のうち二人は満足に英語も話せない有り様。残る一人は英語どころかフランス語、ドイツ語も話せたが、この島の言葉は話せず、この線も薄いと判断された。もっというと三人の内一人は金髪碧眼と如何にもヨーロッパ系な見た目なのに、何故か話せるのは日本語だけというチグハグぶりだ。島に近付く船を見たという者も居らず、どうにも薄気味悪い。

 ともあれ日本語は話せるようなので、レイジの通訳を介して大人達の話し合いが行われた。サナはまだ大人と認められていないので話の内容は知らされていないが、結果的に三人組は島に滞在する事を許されたらしい。ただし三人ともこの島の言葉が分からないので、()()()()通訳を付ける事になった。

 その通訳が、レイジである。

「……成程。だから、叔父さんは、迎えに、来れなかったんだ」

 ここまで説明してもらえれば、後はもう花中にも想像出来る。怪しい三人組が何か良からぬ事をするかも知れないので、村人達は監視役を付けたかった。そこで相手の機嫌を損ねぬよう通訳という体で人を送り込む事にしたが、しかしこの島でちゃんとした日本語を話せるのは、恐らく生粋の日本人であるレイジとその娘であるサナの二人だけ。あらゆる意味で『子供』には任せられないだろうから、レイジがやるしかない。

 結果、レイジの代わりにサナが花中の迎えに来る事となったのだろう。時系列的に、サナが花中の出迎えを頼まれたのは早くても昨日の夜遅く筈だ。村での騒動も含めて色々忙しかっただろうに、こうして迎えに来てくれたとは。

「なんか、ごめんね。大変な時に、来ちゃって」

「そんな、花中ちゃんは悪くないって! むしろ来てくれたのが花中ちゃんでちょっと助かったって思ってるぐらいだよ。日本から旅行客が来るのは最初から決まってるんだから」

「あー、そっか。これ、福引きの、特賞だっけ」

「それよりこっちこそごめんね。多分島中がそいつらの事で慌ただしいから、あまりオモテナシ出来ないかも。勿論うちではちゃんと歓迎するし、そいつらも今のところ、変ではあるけど大人しいから大丈夫だとは思うけど……」

「それこそ、サナちゃん達は、悪くない、よ。むしろ、わたしに手伝える事が、あったら、なんでも言ってね」

「うん、ありがとねっ!」

 ニカッと大輪の花が咲くように笑うサナに、花中も穏やかな笑顔で向き合う。

「そうそう、こんな話よりもさ、花中ちゃんの事聞かせてよ! 私、年上の従姉が居るって話しか聞いた事ないから色々知りたいし! 日本の事もたくさん教えてほしいなぁ」

「わ、わたしも、サナちゃんの、事、聞きたいよ。いっぱい、聞いちゃうんだからっ」

 かくして従姉妹二人は緩やかな、前に進むのを惜しむような足取りで村へと向い――――

 

 

 

「やあやあ花中さんお久しぶりです思ったよりも遅かったですねあまりにも到着が遅いので少々退屈を持てあましていたところなのですよだってこの島文明レベル低過ぎるんですものテレビすらないなんて折角花中さんが来るまでブルーレイでも見て暇をつぶそうと思ったのにそれすら出来ないとはやはりこういう時は本が良いという事なんですかねでも私活字って苦手なんですよマンガでも文字が多いやつは読む気がしませんし」

 村の入り口で待っていたのは、早口言葉染みた言葉だった。

「あの……花中ちゃん、この人……知り合い?」

 隣に建つサナから、怪訝そうな眼差しと共にそんな問い掛けが。しかし花中の口はパクパクと空回りするだけで声が出てこない。喉の奥で言葉がつまり、空気だけが吐き出される。外に出ていた村人達が挙動不審な花中をじろじろと見ていたが、そんな事を気にする余裕はない。降り注ぐ太陽が頭をチリチリと炙るが、脳から生じる熱の方がずっと大きくて意識にも昇らなかった。

 何故、どうして? 理由を考えても分からない。

 あまりに分からな過ぎて、湧き上がる疑問は空回りする思考の歯車をも吹き飛ばす。言葉を遮るものはなく、花中は感情の赴くままに叫んだ。

「な、なんでみんな、此処に来てるのぉっ!?」

 目の前に現れた三匹の友達――――フィア、ミィ、ミリオンに向かって。

「何故って花中さんに会いたかったからですよ?」

「花中がいないと退屈だしね」

「ああ、安心して。『私』が留守番しているから、泥棒対策は勿論来客対応もバッチリよ」

 困惑する花中を他所に、人外達はのんきそのもの。まるでここまで驚くとは想像していなかったと言いたげだ。

 逆に、何故驚かないと思ったのか。

 彼女達とお別れしたのは日本であり、その日本と此処モサニマノーマの間には凡そ四千キロにも及ぶ、世界一巨大な海洋が横たわっているというのに。

「ど、どうやって、来たの!? その、海は……」

「泳いで」

「走って」

「飛んで」

 訊けば返ってくる、三者三様の答え。その返答を受けた花中は凍り付くように固まった。

 曰く、フィアは水を操って海中を時速三千キロもの超高速で横断。ミィは足が沈む前に次の一歩を踏み出すという漫画のような ― だがバジリスクという実在のトカゲが実際にやっている ― 方法を用い、一時間ちょっとで走破。ミリオンは大気を加熱した際の膨張圧を利用して、マッハ二ほどの速さで優雅に飛んできたらしい。

 地味に誰もが音速超え。一般人ならば出鱈目な事をと一蹴する話である……であるが、フィア達をよく知る花中は逆。むしろそれなら可能だと、納得する始末だ。そういえば日本からの飛行機で黒い戦闘機を見ていたが、アレはミリオンだったのかと得心がいく。

 どうりで海外旅行という『危険』を彼女達が許してくれた訳である。最初から同行する気満々だったのだ。

「えっと……よく日本語が分からなかったけど、この人達は花中ちゃんの知り合い、なのかな?」

「知り合いではなく一番の友達ですよ」

 頭を抱える花中にサナが尋ねてきたが、訂正を交えて答えたのは上機嫌なフィア。サナは少し後退りし、特に頷きはしなかった。

「……本当に友達?」

 それからそそくさと、花中に耳打ち。

 明らかに三匹を信用していない、至極当然なサナの反応に花中は口元をひくつかせた。自分がこの島に来るまでの間、彼女達がこの島で何をしていたのか……考えようとすると頭が痛くなる。

 とはいえ悪者ではないのだ。そう、悪者では。そして友達である事も事実。

「……うん、本当。ちょっと変わってるところが、あるけど、悪い子達じゃない、よ」

「ふーん。花中ちゃんがそう言うなら、そうなのかな……」

 花中が肯定するといくらか警戒心を解き、しかし変わらず猜疑の眼差しをフィア達に向けるサナ。こればかりは出会い方が悪かったのだから仕方あるまい。

 幸い、花中がこの島で滞在する三日間はフィア達も此処で暮らすだろう。本当に悪い子達ではないので、その三日の間にサナと打ち解けられれば良しとしよう。

「はっはっはっ! まさか花中ちゃんの友達だったとはなぁ!」

 そんな事を考えていた花中の耳に、とても元気な言葉が響く。

 声の主はフィア達の後ろで腕組みをしている、筋肉隆々で、年期のある顔立ちの男性。肌は小麦色だが、サナのような『純粋さ』がない。間違いなくただの日焼けで、陽射しの穏やかな地に行けばすぐ色白になるだろう。しかし浮かべる笑顔の純朴さは、サナと全く同じ雰囲気を感じさせた。

 そして彼が発した言葉はネイティブな日本語だった。この島で日本語を使えるのはサナを除けば一人しか居ない。それにこの島では『彼』を頼る予定だったのだから、花中も顔写真ぐらい確認している。分からない筈がない。

「すみません、おじさん……友達が、迷惑掛けたみたいで」

 フィア達の監視役をやっていた自分の叔父――――玲二に、花中は深々と頭を下げた。

「いやいや、謝らなくて良いよ。突然の来訪者に戸惑いはしたけど、迷惑は被ってないからね」

「そうですよ花中さんっ! 花中さんが嫌がると思い彼等のご迷惑にならないよう食事や寝床は自分で用意しましたから!」

「まぁ、あたしからしたら普段の暮らしと全然変わらないけど。ネズミとかを狩って、ふかふかしてそうな草の上で寝るだけなんだもん」

「私なんか、そもそも食事すらいらないけどね。睡眠も必要じゃないし」

「……時々なんの話をしているのか、分からない時があるけどね」

 若い子の話に付いていけないとはいよいよ俺もおじさんかなぁ、と玲二は自虐的に笑う。が、彼女達を最近の若い子と呼ぶのは色々不適切であろう。そもそも人間ですらないのだから。

「まぁ、なんにせよ花中ちゃんの友達なら問題はないだろう。村の人達には俺の方から説明しておく。今日から三日間、島を楽しんでいってほしい」

「という事だそうですよ花中さんっ♪」

 島に滞在する事への正式な許しが出るや、フィアは花中に抱き付いてくる。頬を擦り合わせながら、身動きが出来ないぐらいの力で締め上げられた。

 『問題ない』かと問われると甚だ怪しいのだが……玲二や島民に見てもらうより、花中(じぶん)が目配せした方がトラブルを避けやすいだろう。それに友達と一緒に居られて嬉しくない訳がない。

「えへへへへ……」

 すっかり落ち着きを取り戻した花中は、幸せに浸かってふにゃりと口元を緩ませた。

 ……普段ならそんな花中の姿を誰もが呆れつつも見守ってくれるのだが、今日はそれを面白くなさそうに見ていた人物が一名居る。

 サナだ。

「……………むぅーっ! 花中ちゃんを独り占めしないでっ!」

 声を荒らげながら、サナは花中の腕を強引に抱き寄せた。従姉妹の突然の行動に花中は呆気に取られ、フィアが不愉快そうに眉を顰める。

「んぁ? なんですかこの小娘は」

「っ!? なんですかって、昨日から何度も会ってるでしょ!」

「生憎花中さん以外の人間なんてどーでも良いのであなたの事など覚えてませんよ。それより花中さんから離れてくれません? 久方振りに花中さんと会えたので存分に堪能したいのですが」

「会ってない期間なら私の方がずっと、ずぅーっと長いもん!」

「あなたと私とでは仲の深さが違うのです。あなたと花中さんが何時ぶりに再開したかは知りませんが例え百年ぶりだろうと私と会えなかった一日の方が重みがあるのですよ」

「んなっ!? な、なんなのこのコイツぅ……!」

 何故か始まる口ゲンカ。確かにフィアの言い方は挑発的だったが、サナも割と最初から威嚇気味だったような気がする。何故こんな事になったのか分からず、従姉妹と友達の板挟みで花中はおどおどしてしまう。

 ただ、ケンカするよりも仲良くしてほしいという気持ちも込み上がる。そういえば以前にも、晴海達とフィアの間で似たような事があった。あの時は自分の正直な気持ちをぶつけて、なんとか仲直りしてもらえた。

「あ、あの、ふ、二人とも、落ち着いて……その、わたしは、みんなで仲良くしたい、から……」

 だから今回も、花中は自分の正直な気持ちを打ち明ける。

 フィアは唇を尖らせつつ「花中さんがそう言うなら」と渋々といった様子で抱き付く腕の力を弱め、

「花中ちゃん。そーいうの、優柔不断って言うんじゃない?」

 サナは、ジト目でこちらを見据えながらそう指摘した。

「……………ぇ?」

「みんなで仲良くって言うけど、花中ちゃんは今日、私に会いに来てくれたんだよね? 手紙にはそう書いてあったんだけど」

「ぇ、あ、えと、ぅ、うん」

「じゃあさ、途中から来た人達とも仲良くってのは違うんじゃない? 大体この人とは友達で、毎日会えるんでしょ? だけど私とはそう簡単には会えないじゃない。なら、今日ぐらい私のために時間を作ってくれても良いと思うんだけど」

「あ、えと、それは、えと、そ、そうかもだけ、ど」

「じゃあ、ハッキリさせて! 私とこの人、今日はどっちと過ごすの!」

「えぅえぇぇぇぇぇぇっ!?」

 一度は通じた策が打ち砕かれ、花中はすっかり狼狽えてしまう。サナに退く気がないと分かるとフィアも腕の力を再び強め、またぎゅうっと抱き締めてきた。

 いよいよ逃げ場がない。切り抜けるための策もない。

「はっはっはっ! 花中ちゃんは随分と仲の良い友達が出来たみたいだな! 昔来た時は目付きが怖くて、島の子供達とも遊べなかったのに」

「全くさかなちゃんったら……ああ、そうそう。誤解があるうちに渡しても怪しいだけと思い今まで渡していませんでしたけど、こちら、お味噌と醤油です。どうぞお召し上がりください」

「おっ! これはまた懐かしい……ところで、さっきまでこのような物は持ってなかったような?」

「それは乙女の秘密ですわ。そうですね、四次元ポケットがありますので、とだけ言っておきましょうか」

「はっはっはっ! 随分と懐かしいネタだ! あのアニメはまだ放送しているのかい?」

 されどミリオンは花中達の事など気にも留めておらず、玲二相手に和気あいあいと大人の会話をしていた。ミィは話に巻き込まれたくないのか、遠巻きでこちらの様子を窺う始末。島民達も段々と花中達から距離を取っている。

「さぁ!」

「さぁ!」

「「さぁっ!」」

 迫る友人と従妹の顔。全身で感じる人肌の暖かさ。自分に向けられる好意の言葉。どれも嬉しいものなのに、花中は顔が青くなるのを止められない。

 慌てふためく花中の頭の中は、すっかり真っ白に染まってしまい――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みんな、危機感ないなぁ……逃げるぐらいならなんとかなるって思ってるんだろうけど」

 ぼやいた猫の言葉は、花中の耳には届かなかった。




モサニマノーマで使われている言語は、一応解読可能なものとして作っています。
まぁ、大した事は言ってませんけどね。

次回は10/1(日)に投稿予定です。

9/25追記
時間の表記が色々間違えていたので修正。
十年ぶりと十年以上って全然意味違うのに……


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神話決戦3

 モサニマノーマにはまともな家がない。

 ……という言い方は正しくないだろう。島民達は立派で頑丈な家を好まない、と言うのが正確だ。

 彼等は稲藁に似た植物で組んだ、大変『質素』な家で暮らしている。童話『三匹の子豚』に出てくる、長男が建てた家と言う方が伝わるかも知れない。『部屋』の概念すらなく、家族の憩いの場も料理も、食事も就寝も、全てが一室で済まされる。村長の家すら一階建てで、他の家より気持ち大きめ……なような気がする程度の差しかない。ハッキリ言えばどれもが粗雑で、オオカミの鼻息で跡形もなく吹き飛びそうな代物だ。

 しかしながら島民達とて理由なしにそのような家を建てている訳ではないし、ましてや怠け者という事でもない。

 頑強な家を建てるためには石材や樹木など、多くの資源が必要である。だが歩いても数時間で一周出来てしまうこの島で、有益な石材がたくさん産出している筈もない。樹木自体はそこそこあるように見えるが、大半が細長く、ぐねぐねと曲がって育っているため建材として利用するには不向きである。おまけにこの島の気候は高温多湿。ガッチリと隙間なく作った家はすぐ蒸し暑くなってしまい、生活に適さないのだ。

 日常生活については、この家の利便性は伝わっただろうか。

 しかし『家』というものにはもう一つ、重要な役割がある。それは災害から身を守るための防壁としての機能だ。

 軽度な雨風なら兎も角、例えば台風、例えば津波、例えば近くの火山が噴火……等々の災害の前では、稲藁の家ではあまりにも頼りない。では島民は災害とどう向き合っているのか?

 これもまた簡潔に述べるなら――――彼等は()()()()、という方法を選んだ。

 津波や台風が来た時、彼等は家を捨てて山へと逃げ込むのである。家を守ろうとはしない。耐えられる家を作ろうとしない。どうせ壊されるのだから、立派な物を作っても仕方ないと割り切っているのだ。彼等は自然が、自分達の手に負えるものではないと考えていた。

 そうして割り切れば、天災はあまり怖くなくなる。災害が来たなら何も持たずに逃げれば良いのだ。大切なのは家族の命であり、何時でも作れる『物』なんかではない。家が壊れたからなんだ、簡素な家だから一日もあれば直せる。

 富を捨てた生活により、島民は執着を克服し、不安を拭い去った。日々の食事にだけ気を遣い、脈々と受け継いだ生活をのんびり続けるだけ。家族と一緒に最期の時まで過ごせるなら、これに勝る幸福などありはしない。

 それが、モサニマノーマの住人が選んだ生き方だ。

「……って、感じかな。お父さんの真似してガイドっぽい事してみたけど、楽しんでもらえた?」

 そのように説明をしてくれたサナは、照れるように頬を掻いた。

「うんっ。すごく勉強になったよ。ありがとう」

 花中が正直に褒めると、サナは顔を赤くして俯いてしまう。にへへ、という笑い声が聞こえたので、かなり喜んでいるらしい。容姿はまるで似ていないのに、二人の姿は姉妹のように仲睦まじいものだった。

 花中とサナは今、モサニマノーマの村の中を歩いている。日本から持ってきた時計が示す時刻は午後四時ちょっと前。冬を迎えた日本では今頃薄暗くなっている頃だが、流石は南国の島モサニマノーマ。陽は未だ高く、力強い日差しが降り注いでいる。こんな事もあろうかと持ってきておいた麦わら帽子を被らねば、貧弱な花中にはちょっと厳しかったかも知れない。サナは島育ちなだけあり、平然としていたが。

 そんな二人が居る村は、先程説明されたように並ぶ家はどれも草で出来た質素なもの。数はそれなりにあり、百数十という人口相応の村に見える。まだまだ陽のある時間だけに、家の外で精力的に活動している島民の姿を見る事が出来た。

 しかし道行く人物は女子供ばかり。男の人の姿がない。

 サナ曰く、男達は漁に出ているらしい。モサニマノーマでは漁こそが日々の『糧』を得る方法であり、大半の男達は猟師として生計を立てている。逆に女はこの時間、家や漁具を直したり、そのための材料を集めたりするのが仕事。故にこの時間村に居るのは、長老や医師、通訳である竜二のようなごく少数の知識人を除けば女性と子供だけとの事だ。

 近代社会に触れていないためか、モサニマノーマには性区別(ジェンダー)の文化が色濃く残っているようだ。文化の話なので良いか悪いかについては島民達に委ねるとして、学術的には中々興味深い。

 サナと一緒に居るだけでも楽しいのに、しっかりとガイドをしてくれているお陰で知的好奇心も満たされる。花中は自然と微笑みを浮かべ、サナも嬉しそうに笑い返す。二人の会話は途切れる事を知らず、ずっとずっと弾みっぱなしだった。

「……つーん」

 そんな花中達の姿を前にして、花中の数メートル後ろを歩くフィアはふて腐れるようにそっぽを向いていた。

 普段なら花中にべったりくっついているフィアだが……今日は花中に断られている。

 少し前に行われた花中の取り合いは、サナの方に軍配が上がった。フィアとは帰国後も会えるのに対し、サナとは何時再会出来るか分からない。どちらかを選べと言われたなら、サナを選ぶに決まっていた。日本に帰ったらたくさん遊ぼうと花中はフォローを入れたのだが……この程度の理屈が通じたら、今まで苦労はしていない。フィアはすっかり拗ねてしまい、口を利いてくれなくなってしまった。尤もこうしてずっと付いてくる辺りがフィアらしいのだが。ちなみにミリオンとミィはそんなフィアの更に後ろにいて、二匹揃って気儘に観光を楽しんでいる様子。

 なんとか機嫌を直してくれないものかと花中は思っていたが、何分今はサナが隣に居る。フィアは後回しにせざるを得ない。

 多分、日本に帰ったら三日は離してくれないんだろうなぁ……嬉しいような困るような、なんとも言えない未来が脳裏を過ぎり花中はくすりと笑う。唐突に漏らした花中の笑いにサナは目をパチクリさせたが、花中は誤魔化すように全く関係ない、ささやかな話を振った。

「そういえば、観光客って、よく来るの? わたし、福引で、ここの旅行券を、もらったのだけど」

「ううん、島の外の人なんて滅多に来ないよ。というか普段は旅行客の受け入れなんてしてないし」

「え? そうなの?」

「うん。そりゃ、観光客が来てくれたらお金が手に入るのは知ってるけど、この島でお金なんて使わないし……輸入とかも全然やってないからね。今回のは古いラジオが壊れたから、新しいラジオを買うためにやったみたい」

「あ、そうなんだ……」

 つまり本当に滅多にないチャンスを引けた、という事らしい。これは幸運と呼ぶ他ないだろう。今年は危うく死ぬところだった不運に何度か見舞われたが、そうして貯め込んだ『幸運』をここで使えたのかも知れない。

 ……或いはここで運を使い切って、来年も同じような目に遭うのかも分からないが。

「まぁ、アメリカの人ならたまに来るから、外の人自体は見慣れてるけどね」

 等と物思いに耽る中、サナがケラケラと笑いながらそんなぼやきを漏らす。危うく聞き逃すところだった言葉に花中は適当な相槌を打つ。

 それから改めて、首を傾げた。

「アメリカの人?」

「うん。ほら、この島って一応アメリカらしいでしょ。だから年に一回ぐらいはアメリカの人が来るんだよ」

「あー……そういえば、そうだっけ」

 全くアメリカらしさがないので失念していたが、モサニマノーマは国際的にはアメリカ領。尤も一つの『国家』として扱われる州ではなく、先住民保護区のようなものらしいが。駐留している米軍の姿があればまだ()()()を感じたかも知れないが、防衛関係はグアムのものと共有しているため、軍人すら滞在していないそうだ。

 ……確かこの島は、そのグアムから二千キロほど離れていた筈。有事があった際、グアムからの支援が来るのは色々終わってからではなかろうか。共有とはいうが、実質軍は置かれていないようなものだろう。

「……軍がいないみたいだけど、その、大丈夫なの?」

「ん? 大丈夫って何が?」

「えと、侵略されないか、とか」

「しんりゃく? ああ、島の外の人が、この島を乗っ取ろうとする事だっけ? まぁ、何も知らなかった昔は兎も角、今は心配がない訳じゃないけど……」

 でも大丈夫。

 そう言いながらサナが指差したのは、家々の間から見える大海原の方。青空と海面しか見えない景色を示され、花中は目を凝らしてみる。

 ……何やら地平線の辺りに、ポツンと浮かぶものが見えた。

「ミスナムギーに住んでる神様が、私達を見守ってくれてるからね!」

 その事に花中が気付くのを待っていたかのように、沈黙を挟んでいたサナは自慢気に胸を張って説明する。

 自信満々なサナには申し訳ないが、花中は一層戸惑うだけだった。何しろ『ミスナムギー』なるものが何か、さっぱり分からないので。

「えと、ミスナムギーって、何?」

「ほら、あそこに見える島だよ。意味は『神の島』。今日みたいに天気が良いと、村からでもよく見えるんだ」

 サナは大海原を、正確には地平線に見える島を改めて指差す。花中も改めて地平線を凝視……見えるには見えるが、花中の目にはポツンと何かが浮かんでいる程度にしか分からない。サナにはハッキリと見えているのだろうか?

 ふと、モサニマノーマの近くには火山島がある、とガイドブックに書かれていた事を花中は思い出した。あれがその火山島なのだろう。島の標高次第ではあるが、割とハッキリ見える伊豆大島が本土から二十五キロ程度の距離らしいので、微かに見えるあの島までの距離は五十~百キロ程度か。

 『神の島』という呼び名から推測するに、モサニマノーマの住人はあの島を信仰の対象としているらしい。火山を信仰の対象とするのは、世界中で見られる文化だ。火山が守ってくれる、というサナの考えは島民としては一般的なものかも知れない。侵略する側から見ても、何時噴火によって壊滅するかも知れない土地を奪うのは、デメリットばかりで旨味はなさそうだ。おまけにこの島はアメリカ領。世界最大最強の軍を相手してまでこの島が欲しい人は、恐らく何処の国にもいないだろう。

 しかし『味方』……アメリカから見ればどうだ?

 アメリカ本土からグアムまでは九千キロ近い距離がある。アメリカから七千キロ地点に位置するこの島に基地を整備すれば、有事の際補給や整備などの面で役立ち、グアムの防衛力強化に大いに貢献する筈だ。グアムの基地には極東有事の時には在日米軍と共に『最前線』として機能する役割もあるため、そこの防衛力が高まればアメリカと度々利害が衝突している色々な『某国』に強いプレッシャーを与えられる。いくら噴火が頻繁にあるとはいえ、数十~数百年に一度なら拠点化作業自体に支障はない筈。加えて、その数十~数百年に一度起こる噴火の兆候を知るためにも定点観測が可能な基地はあって然るべきだ。

 何故アメリカはこの島に軍事施設を造らないのか、或いは島民を退避させたい本当の理由はこれなのか……

「っと、そろそろ頃合いかな」

 花中が世界情勢と島の立地に思考を巡らせていると、ふと、サナが小さく独りごちる。頃合い、という言葉は聞こえたので、花中はこてんと首を傾げた。

「? 頃合いって、何かあるの?」

「うんっ! 花中ちゃんに見せたいものがあるんだ。こっち来て!」

 質問に勿体ぶった答えを返すや、サナは花中の手を掴んで引っ張る。花中はサナより二つも年上だが、サナの方が身体は明らかに大きい。そして花中に、抗う気など毛頭ない。

 花中は引っ張られるがまま、村の奥へと連れて行かれる。小さな家々の間を駆け、ついには村を抜け、開けた砂浜に辿り着いた。

 訪れたのは、船着き場だった。

 ただし花中がこの島に来た際に使った、手作り感溢れるあの場所の事ではない。曰くあれは島外からの客人向けに突貫工事で作ったもの。今回花中達が案内されたのは村人達が漁に出る船を泊めておくための、日常的に使っている船着き場だ。こちらは村のすぐ傍に存在し、徒歩でも数分で辿り着ける場所にあった。

 尤も、砂浜に打ち付けられた木の杭に縄が付いているだけの代物を『船着き場』と呼ぶ事に、近代国家で暮らす花中には僅かな抵抗があったが。杭は一本だけでなく何十と生えており、砂浜の美しさと相まって奇怪な芸術品と説明された方がまだ納得出来そうな景色を作り上げていた。

「……ここが、船着き場?」

「うん。この島では陽が昇る頃に海に出て、大体あのぐらいの高さまで落ちた頃に帰ってくるんだ」

 サナは傾いた太陽を指差しながら、そう説明する。非常に大雑把な時間感覚であるが、時計のないこの島で太陽は時間を示す数少ない指標だ。恐らく、島民の誰もが同じ時間感覚を有している。

 であるならば、サナの話が『外れる』なんてあり得ない。

「あ! ほら、見て見て!」

 興奮気味に声を上げたサナが指差す方角を、花中は言われるがまま見遣った。

 指し示されたのは海。そこにはたくさんの船が浮いていて、そのどれもが島を目指して進んでいた。船は勿論立派な船舶などではなく、木を組み立てて作ったのだろう、イカダの発展形のような代物。サイズはバラバラだがいずれもそこまでの大きさはなく、精々二人乗りが限界な様子。そして乗っている人々は誰もが上半身裸の男達で、如何にも海の男らしい屈強な肉体で船を操っていた。

 帰ってきた船はスピードを落とさず、砂浜に乗り上げる形で止まる。何処が誰の場所かなどは決まっていないのか、時には譲り合いをする姿が見られた。船に結ぶロープも空いている物を適当に使っているようで、時折両側の縄が使われて困っている村人が現れていた。しかしその姿に気付いた隣の村人が、自身の船に使っていたロープを躊躇いなく渡すところに、他者への思いやりの強さが感じ取れる。或いは『自分の物』という概念が薄いのかも知れない。

 そうやってのんびり穏やかに後片付けを済ませ、全員の船を縄で結んだのを確認。村人達は足並みを揃えて船から離れた。

「うふふ。今日は大漁かな? 大きなお魚が取れたら、ちょっとした宴が開かれるから楽しみだよー」

 ワクワクを抑えきれない様子で、サナがそう説明してくれる。花中の二つ下であるという事は、サナは日本人なら中学二年生ぐらいのお年頃。食べ盛りであり、食への意欲が最も強い時期と言える。今日の夕飯が楽しみでならないのだろう。

 従妹の可愛らしい姿に微笑む花中。サナと一緒に、帰還した村人達の方へと顔を向けた。

 そして、気付く。

 帰ってきた村人達が、誰一人として笑っていない事に。

 誰もその手に、魚を持っていないという事実に。

「アーヴェ! ナノー、トルーディー?」

 疑念を抱く花中だったが、サナは全く気付いていない様子で村人達に声を掛ける。

 帰ってきた村人達は互いに顔を合わせ、それから年配者らしき人が代表するようにサナの問いに答えた。サナは最初笑顔で話を聞いていたが、段々と表情が曇っていく。

 しかし悲観的という訳でもない。どちらかといえばサナの、そして村人達の顔色は、戸惑いを感じさせるものだった。

 話の詳細は、モサニマノーマの言葉を知らない花中には分からない。けれども彼等の表情からトラブル……それも前例のない事態が起きたのだと予想出来た。

「どう、したの? 何か、トラブル?」

「トラブルというか……なんか、魚が一匹も捕れなかったんだって。一人二人じゃなくて、みんなが」

「みんな……」

 不漁、という事か。

 自然相手の食糧調達。そのような事態も起こり得るだろう――――と思ったのも束の間、停められた船の装備を見て花中は首を傾げた。彼等の漁具は投網だったのだ。必要量が獲れない事はあるだろうが、何十と出て行った船が一隻も成果なしとは……

 確かに、これは何かがおかしい。

「こんな事、誰も経験した事がないって。昨日までは普通に獲れてたのに、まるで今日になって突然海から魚が消えたみたい」

「ふむ。でしたら私が調べてあげましょう」

 戸惑いながら話すサナに、今まで静かに付いてきていたフィアが唐突に声を掛けた。

 いきなり話し掛けられて困惑したのか、サナは僅かながら後退り。されどフィアはサナの事などお構いなしで、返事を待たずに海に向かって歩き出す。村人達を無遠慮に掻き分けながら前へと進み、波打ち際まで行くと立ち止まって湿った砂に手を付けた。

 そのままの体勢でじっとする事、約十秒。

「おや本当に魚一匹いませんね。いえ魚どころかエビなどの甲殻類もいませんしイソメやゴカイも見付かりません。残っているのは貝やイソギンチャクあと海草ぐらいです」

 あっけらかんとした口調で、フィアは花中達に『報告』した。

 サナには意味が分からないだろう。彼女の目には、フィアはただ砂浜に手を付けていただけにしか映らないのだから。

 しかしフィアに水を操る力があると知っている花中には、フィアが能力を用いて周囲の海域を探査したように見えていた。そのフィアが一匹も居ないと結論を出したのだ。間違いなく、この島の周囲に魚はいない。

 例え、それがどれだけ不自然な事であったとしても。

「やっぱり、島の周囲はもぬけの殻?」

「ええ。半径五十キロには何もいませんね。動けない生き物に関しては産卵したり休眠したりしているようです。何がなんでも遠くに逃げるかそれが無理ならなんとか耐えようって魂胆ですね」

「他の動物も感じ取ってる、と」

「そりゃこれだけ存在感を露わにしていますからねぇ……」

 同じく花中達の後を付いていたミリオンからの質問に、フィアは淡々と答える。ミリオンは考え込むように腕を組んだ。

 そして花中は目を丸くする。

 今の会話はなんだ? まるで、何が起きてるか知っているかのようではないか。

「あ、あの、何か、知っているのですか……?」

「いいえ何も。ただ気付いているだけです」

 試しに尋ねてみれば、フィアはあっさりと答える。あたかも誤魔化しているような物言いだが、しかし寸分の言い淀みもない素振りに悪意は感じられない。

 何も知らない。だけど気付いている。

 恐らく言葉通りの意味しかないフィアの答えに、花中はますます困惑してしまった。詳しく訊けばちゃんと教えてくれるかも知れない。

「ま、まぁ! こんな日もあるよ! こーいう時のためにちゃんと保存食は作ってるから、夕飯は心配しなくても大丈夫!」

 しかし、今日はサナが居た。

「あ、えと、サナちゃん。フィアちゃんが……」

 何か知ってるかも、と言いかけ、花中は慌てて口を噤む。

 話したところで信じてもらえない、とは思っていない。が、此処にはサナ以外の村人も多数居る。フィア達に不思議な能力があると知れ渡れば、色々面倒も起こるだろう。

 幸いにして、フィアとミリオンは花中を日本に連れ帰ろうとはしていない。花中が大好きで、かつ花中の気持ちなど考えない二匹が何もしてこないのだ。そこまで逼迫した危機ではない、筈である。

「……ううん、なんでもない」

「? そう? じゃあ次の場所に行こっ! まだまだ案内したいところはたくさんあるんだから!」

 元気さを精いっぱい振りまきながら、サナは先陣切って歩き出す。その足取りは少し早めで、身振りは振り払うように大きい。出鼻を挫かれた事実をなかった事にしたいのかも知れない。

 花中は小さくなるサナの姿を駆け足で追い、フィア達も花中の後ろを付いてくる。

 頭を抱えていては存分に観光を楽しめない。

 まだまだ知らない事ばかりのこの島を、従妹と共に楽しむのを花中は優先するのであった。

 

 

 

 ――――あったが。

「……………なんか、ごめん」

「……………その、こちら、こそ?」

 花中とサナは、揃って項垂れた。

 あれから、色んな場所を見て回った。

 海の次に案内されたのは、島民の貴重な食料の一つである山菜の自生地。その奥にある海鳥の営巣地も紹介してもらった。アシカの休憩所になっているという洞窟や、島中の獣の集まる池も見に行った。

 ところが結果は散々なもの。

 自生地に生えている山菜は何故かすっかり萎れており、大人達が駆け付けるちょっとした騒ぎに。海鳥の営巣地とやらでは、なんと大事な卵を放置した状態で全ての親鳥が姿を消していた。アシカの休憩所ももぬけの殻で、池には獣どころか蟲一匹見当たらない始末。最後にサナは島の中心にある山のてっぺんまで花中を導き、そこから見渡せる大海原の美しさを自慢したが、数秒と持たずに項垂れたあたり苦し紛れだったらしい。確かに絶景なのだが……ぶっちゃけ、海はもう見飽きた。此処まで一緒に来たフィア達も退屈そうで、暇を持て余した三匹は現在花中達の後ろでぐだぐだとしている。

 そしてサナの方も最早ネタ切れのようで、花中達は山頂で立ち往生していた。高い木はなく、草が茂るだけの見渡しの良い場所は休むには心地良いが、観光として成り立っていない。というより南の島とはいえ山頂は地上より少し寒いし、赤味を帯びてきた空に浮かぶ太陽の光は弱々しくて気温がどんどん下がっている。南国向けの格好では徐々に辛くなってきた。正直、もう村に帰りたい。

「うう……なんで今日に限ってこんな事になってんのよぉ……」

 島の見所が悉く潰れサナは悔しそうにしていたが、しかし花中にはそんな悠長にしている場合ではないと考えていた。

 どう楽観視しても、これは異常事態である。

 島の周囲から海洋生物が消え、動物も身を隠している。サナは気付いていないようだが、道中の植物は軒並み萎れ、木々も黄色い葉がかなり多くなっていた。虫も成虫や幼虫は見られないが、卵や蛹は不気味なほど多く見付かった。安心する要素を探すとすれば、死体は全く見当たらなかったという事だろう。

 まるでみんな、何かを恐れているようだ。遠くに行けるモノは遠くに、行けないモノは少しでも頑丈な姿に変わる事で、恐怖に抗おうとしているかのような……

「そりゃこれだけ嫌な感覚がすれば皆逃げ出すでしょう」

 花中が漫然と不安を感じる中、サナの憤りに答えたのはフィアだった。

 あたかも心当たりがある、実際何かに勘付いているフィアの言葉に、サナは飛び付くように振り返る。その表情は助けを期待するようで、しかしすぐに強張ったものに変わっていた。フィアへの悪印象もさる事ながら、まるで全てを見透かしているかのような物言いに不信感を覚えたのだろう。開いた口から出てきた声には、かなりの棘があった。

「何よ。なんか心当たりがあるの?」

「それなりに。詳しくは分かりませんけど」

 問い詰めてくるサナに、フィアは花中の時と変わらぬ答えを返す。無論、サナもこれでは納得するまい。

 ジト目で睨んでくるサナに、フィアは面倒そうに顔を顰める。

「……強いて言えばあそこに原因があるように感じています。なんかヤバい気配があるんですよね」

 それから渋々といった調子で、花中が訊いた時には言わなかった情報を付け足した。

 フィアはその言葉と共に、海の彼方を指差す。一体そこに何があるのかと、じっと目を凝らして花中が見てみると……海に浮かぶ『何か』が見えた。

 勘違いでなければ、あの島は『ミスナムギー』……モサニマノーマの住人が信仰の対象としている火山島だった筈。あそこで『何か』が起きていると、フィアは言いたいらしい。真っ先に連想するのはやはり噴火だろう。自然災害が間近に迫ると、動物達が異常行動を起こすとの話がある。それが現在島で起きている異変の原因なのだろうか?

「原因って……神様が怒ってるって言うの?」

 サナもミスナムギーが原因と言われ、自分なりの考えを口にする。科学文明から切り離されたサナにとって、この異常事態の原因を神秘に求めるのは、ある意味自然な発想なのだろう。

「いや神様なんていないでしょう?」

 尤も、信心など持ち合わせていないフィアは、神様が怒ってると言われても納得出来ないようだが。ミリオンやミィも言葉にはしないが、まるで信じていない事を表情で物語る。

 信じているサナからすれば、面白い話ではないだろう。ムッとしたサナの顔から、うっかり逆鱗に触れてしまったのだと花中は察した。

「居るもん! あの島には神様が居るんだから!」

「そう言われましてもねぇ。見た事があるならまだしもどうせないのでしょう?」

「あ、あるもん! 見た事!」

「本当ですかぁ? 一体何時見たのですか?」

「それは……っ」

 フィアが問い詰めると、サナは言葉を詰まらせる。ハッタリだと思っていたであろうフィアは、それ見た事かとばかりに胸を張った。

 しかし、花中は首を傾げる。

 押し黙ったサナの顔が、言い訳が思い付かないというより、言いたくても言えない悔しさでいっぱいのように見えたからだ。

「……サナちゃん、どうしたの?」

「……あの、誰にも、言わない?」

 訊いてみれば、要求されたのは口止め。どうやら余程隠したい事らしい。ならばそれをベラベラと言い触らすのは、花中だってしたくない。

「うん。誰にも、言わないよ」

 花中が力強く約束すると、サナは少し考え込んだ後、おどおどと辺りを見回した。かなり念入りに見渡しており、余程他人に訊かれたくない事が分かる。

 一分ぐらい、サナは警戒心を露わにしていただろうか。自分達以外の姿がないとようやく認めると、恐る恐る花中の耳元に近付いてくる。

「私、昔ね……神様に、会ったんだ」

 そしてぼそりと、そう話を切り出した。

 曰く、サナが四歳だった頃。この島の子供達の間で『度胸試し』が流行ったらしい。

 簡単に言えばいたずらをして、自分が如何に大人っぽいかを示すものだったとか。自己のアイデンティティを確立したがる幼年期らしい動機と行動だ。しかし問題は、それを監督する大人がいなかったために生じた。

 段々と、内容がエスカレートしていったのだ。一人がなんらかの形で度胸を示したら、次の子供はもっと過激な事をしないと皆が認めてくれない。幼い子供達に、平等という概念は備わっていなかったのだ。客観性以前に最低ラインすら設定していないのだから、評価の厳しさが青天井になるのは必然だった。

 そして自分の番を迎えたサナがやったのは、嵐の夜に舟を出す事。

 詳細を聞かずとも分かるほど危険な行いは、案の定失敗。舟のコントロールは利かず、沖へ沖へと流されてしまった。住んでいる島はどんどん遠くなるが、幼い子供であったサナには船にしがみつく事しか出来ない。

 ついには船が転覆し、サナは海へと放り出されてしまった。周りを海に囲まれた生活なので当然泳げはしたが、嵐の中ではさして役に立たない。もがけどもがけど、島には辿り着けず、段々と身体が沈んでいき――――

 その時、『神様』が現れた。

 『神様』がサナを掬い上げ、守ってくれたというのだ。その後嵐が去ってから『神様』は島の傍でサナを下ろし、ミスナムギーに帰っていった……らしい。

「あの時、神様が助けてくれなかったら溺れ死んでたよ。まぁ、お父さんとお母さんから、なんでみんなと一緒に避難しなかったんだーって大目玉を食らったけど。それに一人で使っちゃ駄目って言われてた船を使ってたのがバレたらヤバいって思って、かくれんぼしてたって嘘吐いちゃったから、本当は海に出てたなんてバレたらまた怒られる……」

「あ、はは……」

 流石に九年前の出来事の真相を知って、怒るとかはないんじゃないかなぁ……等と思ったが、サナは本気でバレるのを怖がっているように見える。相当こっぴどく怒られたのだろう。

 なら、花中からお説教する必要はあるまい。それに怒って機嫌を損ねられても困る。

 折角出てきた『情報』なのだから。

「えと、あの、その『神様』を、他の人は……?」

「見たかって? 多分見てないと思うよ。あの日は嵐が酷くてみんな山に避難していたみたいだし、私が島に戻ったの夜遅くだったから。お父さん達は私を探そうとしたみたいだけど、他の人に抑えられて山に居たみたいだから、きっと見てないよ」

 つまり目撃者はサナ一人。客観的に言ってしまえば、信用に値しない証言だ。

 例えるなら、私はUFOに攫われて宇宙人に会いました、と語る人達と同じぐらい怪しい。いや、これでも信じる人は信じるだろうが、少数派ではある。『私が証拠だ』という宣言ほど嘘臭いものはない。

 しかし花中にとって、サナは大切な従姉妹である。十数年ぶりの再会に加え、会話を交わした時間だって僅かだが……彼女がホラを吹くような人物ではないと信じている。何よりミスナムギーに何かあると言い出したのはフィア達だ。フィアがそれを言わなければ、恐らくサナは若気の至りを打ち明けはしなかっただろう。彼女が辛い想いと共に吐き出した過去を疑うのは、意地悪が過ぎるというものだ。

 恐らく、ミスナムギーには『神様』が居る。それがどのような存在かは分からない ― よもや本当に神様ではあるまい、と花中は考えていた。サナには申し訳ないが信心は持ち合わせていないので ― が、フィア達が違和感を覚えた島に居るのなら何かを知っている可能性がある。もしかすると島に起きている数々の異変の元凶かも知れない。

 無論この島で起きている異変は、花中に直接的な被害をもたらさない。島の問題は島の人間が、或いは統治しているアメリカ政府が解決すべきだろう。しかし同時に、サナ達が遭遇している問題でもある。大切な親戚が困っているのに、どうして見捨てる事が出来るのか。

 花中は、この島で起きている異変を解決したいと思うようになっていた。そのためのヒントを掴んだのだ。無視など出来る訳がない。

 ミスナムギーに住む『神様』に会おうと花中は思った。

「ねぇ、サナちゃん。あの島って、どうやったら行けるの?」

「ミスナムギーに行きたいの? 無理だよ、そんなの」

「そう、無理なんだ……………え? 無理、なの?」

 ところが意気揚々とサナに尋ねたところ、あっさり決意を折られてしまう。

「だってあそこ、神聖な場所だもん。村長も立ち入っちゃ駄目なんだから。大昔は巫女の一族が出入りしてたらしいけど、何十年か前に病気が流行って絶えちゃったらしいし……だから今は誰も行き来してないの。村の人にそれを頼もうとしたら、多分滅茶苦茶怒られるよ?」

 サナの説明に、花中は「むむむ」と唸りながら口を噤む。日本でも女性の登山を禁じている山があったりと、特定の場所で人の出入りを制限する文化は珍しくない。その風習をどうするかは余所の人間が口出しする事ではないが、『真相』を求める立場からすると厄介だ。

 燃える正義感はあれど、方法がなくては意味がない。花中は肩を落とし、諦めるしかないかとため息を漏らす。

「でしたら私が連れて行ってさしあげましょうか?」

 するとフィアがすかさず助け船を出してくれた。

 フィア達は広大な太平洋を渡り、日本列島からモサニマノーマまで生身でやってきた。人間の一人二人を抱えたところで、数十キロ先の島に行くぐらい造作もないだろう。

 フィアの助けがあればあの島に行ける――――その事実に花中は笑みを取り戻し、

 すぐに、がっくりと項垂れる。

「……フィアちゃん、気持ちは嬉しいけど……ここでそれ、言っちゃう?」

「はい?」

 指摘してみたが、フィアは首を傾げるだけで気付く素振りもない。

 サナが居る場所で、それを言ってどうするのか。

 サナは花中の親戚であるが、同時に島民であり、ガイドでもある。ガイドの役割は、観光客を案内するだけではない。不作法な輩が余計な事をしないよう、目を光らせるのも仕事だ。

 そのサナに「ミスナムギーに行こう」と聞かれたなら、止められてしまうに決まっているではないか。こっそり行くとしても、見張られてしまうかも知れない。自分達が邪な考えを持っている事を知られてしまったのだから。

「島に行けるの!?」

 よもや目を輝かせ、身を乗り出しながら尋ね返すなどある訳がない

「……へ?」

 等と思っていたので、花中は素っ頓狂な声を出してしまった。

「ねぇ、ミスナムギーに行く方々があるの!?」

「当然でしょう。我々は日本から単身でこんなくんだりまでやってきたのですよ? 見える位置にある島に行くぐらい造作もありません」

「なら……なら、私を一緒に連れてく事も出来るよね!?」

「勿論。この私の手に掛かれば人間の一人や二人誤差のようなものですから」

 呆気に取られる花中を余所に、サナとフィアはとんとん拍子に話を進めていく。ミリオンとミィはサナの同行をどうとも思っていないのか、話に割り込む気配すらない。

「それなら、私も連れてって!」

「構いませんよ」

 ついにはサナとフィアの話が纏まった、丁度そんなタイミングで花中は我を取り戻した。

「え、ちょ、サナちゃん!? 何言ってるの!? 入っちゃダメな、島、なんだよね!?」

「そうだけど……でも私、もう一度神様に会いたいもん! あの時助けてくれてありがとうって、伝えたい!」

「ぅ……」

 サナの必死な言葉に、花中は声を詰まらせる。

 サナの無垢な気持ちは理解したが、花中の目的はモサニマノーマを襲っている『異変』の調査だ。何があるか分からない以上、サナを連れて行くのはどうなのか。いや、花中も自分の身を守れる訳ではなく、守ってもらう側ではあるが……

「あ、あの、サナちゃん。気持ちは、分かるけど、でも……」

「あー、花中ちゃんそーいう事言うんだ。だったらこっちも考えあるよ?」

「ぃっ!?」

 なんとか止めようとしてみるが、しかしニタリと笑うサナの言葉で声が引っ込む。どんな『考え』かなんて、言われずとも分かる。花中達は、話を聞かれた側なのだから。

「どうしますか花中さん?」

「私達は構わないわよ」

「ま、責任は取れないけどね。余程じゃない限り守ってはあげるけど」

 ミュータント達は呑気そのもの。ミィ以外はサナに身に何があっても構わないのだろう。彼女達にとって、人間とはその程度の存在だ。

 最終決断を委ねられ、花中は視線を右往左往。

 だけど答えを出さない訳にもいかず――――

 

 

 

「きゃーっ!? きゃあぁーっ!? きゃー!」

 歓声なのか、悲鳴なのか、ただ叫んでいるのか。

 いずれにせよサナが上げている大声は、近くに居る花中の頭に響くほどのものだった。ハッキリ言ってかなり五月蝿い。平時なら、いくら年下の従姉妹とはいえ小言の一つぐらいは告げていたかも知れない。

 逆に、平時でないなら仕方ないと諦める訳で。

 モーターボートも真っ青な超高速で大海原を突っ走るのは、どう考えても異常事態であろう。ましてや不安的なフィアの背中に、自力でしがみついているとなれば尚更だ。

「全くやかましい人ですね。花中さんを少しは見習ってはどうですか?」

 尤も相手の事情など何時だって気にも留めないフィアがそのような事情を考慮してくれる筈がなく、不快そうに眉を顰めていた。さらりと褒められた花中であるが、花中はフィアに抱き寄せられた状態である。サナとは安定度がまるで違う。ついでに、この非常識移動は何度か体感しているので割と慣れている。前提条件が何もかも違うのに一体何処を見習うのか、花中にもさっぱり分からない。

「トミューテ! トミューテェーッ!?」

「いや何を言っているのか全く分からないのですけど」

 フィアの物言いに言い返すサナだったが、出てきたのはモサニマノーマ語らしき叫び。どうやら興奮のあまり日本語を失念してしまったようだ。フィアと違い、花中には彼女が何を言いたいのか割とよく分ったが。

 不安定な体勢でこの混乱状態。何かの拍子に手を離してしまい、サナが海に落ちてしまうかも知れない。いや、落ちたところでフィアなら易々と救助出来るが、落ちないに越した事はない。それにこの高速移動中の転落となれば、いくら落ちた場所が水でも怪我をする可能性はあるだろう。当たり所が悪ければ死んでしまうかも知れない。

 安全地帯に居る自分の言葉が届くかは分からないが、花中はサナを宥めようと試みた。

「え、えと、サナちゃん。落ち着いて」

「ツ、ツーディ、ツーディィ……」

「ほら、深呼吸しよう。大丈夫だから、ね?」

 優しく呼び掛け、なんとかサナに深呼吸をさせる。叫ぶのを一旦止めたお陰で改めて叫ぶ事に躊躇が生まれたのか、以降サナは口を閉じたまま。

 フィアに抱き着く腕の力は一層強まったようだが、落ち着きは取り戻せたと見て良いだろう。

「えと、た、確かに、すごく速いけど、でも、速いだけだから。ちゃんと掴まって、いれば、大丈夫、だよ」

「う……ほ、本当……?」

「うん。わたしは、何度も、こうやって、運んでもらってるから、保証、するよ」

「……花中ちゃんが、そう言うなら……」

 花中の説得で、どうにかサナは落ち着いてくれた。とりあえず、これで転落の可能性は最小限になった筈だ。

 花中が安堵している最中、サナは辺りをキョロキョロと見渡す。

 太平洋のど真ん中。鳥や魚以外何もない筈の場所に、今日は異質なものが三つもある。一つは花中とサナを運んでいるフィアなのは言うまでもない。

 もう二つは、ミィとミリオン。

 ミィは水上を文字通り駆けており、ミリオンはスカイダイビング中のように両腕を広げた姿勢で空を飛んでいた。トリックを疑おうにも、天井どころか地面すらない一面の海ではそれも無理。本当に水の上を走り、本当に空を飛んでいる事を認めるしかあるまい。

「か、花中ちゃん、この人達……に、人間、なの?」

 当然、サナがその疑問を抱くのは予想出来る事だった。

 誤魔化したところで、このあり得ない姿を見てしまったサナは信じてくれないだろう。なら、本当の事を話すしかあるまい。

「……その、人間では、ない、よ」

「や、やっぱり!? 魔法使い!? それとも、あ、悪魔とか!?」

「何故そこで悪魔なのですか。そのような胡散臭いモノ共と一緒くたにされるのは心外です」

「じゃあ一体なんなのよ!」

 サナのいきり立った問い掛けに、フィアは「ふふん」と誇らしげに鼻を鳴らして返す。

「ならば教えてあげましょう――――『フナ』即ち魚ですよ!」

 そして自慢気に胸を張って自己紹介。

「は?」

 サナの反応は、酷く冷めたものだった。

 恐らく、とびきり驚いてほしかったのだろう。フィアはサナの反応を見るや自慢気な顔を不機嫌一色に染め上げ、不服そうに唇を尖らせた。

「……なんですかその猜疑心に満ち満ちた反応は」

「いや、魚って……フナ? ってのがどんな魚か知らないけど、どう見てもアンタは魚じゃないし」

「むむ! この私が噓を吐いていると!? ならばちゃんと正体を明かしてやりましょうさぁ見て驚くが」

「フィアちゃん、今それをやったら、一週間、口利かないからね?」

 間違いなく頭をパックリ裂けようとしていたフィアに、花中は牽制の一撃。フィアは口をパクパクさせると、悔しそうに歯ぎしりのような音を鳴らした。確かに正体を明かすなら、『あの』方法が一番かも知れない。が、今それをやったらサナは絶対錯乱する。絶対だ。面倒事を増やしてどうするのか。

「ま、まぁ、人間じゃない、のが、分かれば、良いよ。その、悪魔でもないから。ね?」

「う、うん。花中ちゃんがそう言うなら……こんなのと友達になれるなんて、日本って凄いとこなんだね」

「あ、ははは……」

 サナの中での日本像が、近代国家から魑魅魍魎の国と化した事に花中は苦笑い。なんにせよ、『本当』の自己紹介は無事に済んだ。これで一安心

「はなちゃん。そろそろ上陸するわよ」

 ……する暇は、どうやらないらしい。移動速度が速過ぎるのも考えものである。

 前を向いてみれば、地平線にあった小さな島がすっかり大きくなっていた。思ったよりも立派な三角形をした島の頂点からは、もくもくと白い煙が溢れ出ている。大地の色合いは茶色一色で、草花の姿は確認出来ない。海と隣接している部分は見える範囲に砂浜はなく、何処もかしこも岩だらけだ。

 此処が神の住む島、ミスナムギーか。

 状況が違えば、このまま観光をしたい……そう思わせる迫力に満ちた島だった。モサニマノーマの住人が信仰対象とするのも頷ける。何か、そういった『パワー』が感じられる土地だ。

 しかし今回は、のんびりと島を観に来た訳ではない。フィアは島の岩礁部分に近付くと、軽々とジャンプ。岩礁を跳び越えて内陸部に着地し、しっかりと足場を確認してからフィアは花中を下ろした。サナも、自主的にフィアの背中から下りる。

「ここが、ミスナムギー……」

 初めての土地を詳しく知るべく、花中は辺りを見渡す。

 周囲にあるのは赤茶色の岩石と石ばかり。遠目で見たとおり植物の姿は一切なく、荒廃した世界が広がっていた。植物がないのだから、当然それらを餌とする動物の姿もない。鳥はおろか、昆虫すらもである。島の中央にそびえる山から聞こえる地響きのような、恐らく火山活動によって生じる轟音が辺りに満ちているにも拘わらず、『静寂』しか感じられなかった。茜色に染まった空と相まって、寂しさを一層強く覚える。島の大きさは、モサニマノーマと同じぐらいだろうか。徒歩でも数時間あれば一周出来そうだ。

 果たしてこんな場所に『神様』は暮らしているのか? 少なくとも、周りから何かしらの『気配』を感じる事は出来ないのだが……

「ふわぁぁ……! 上がっちゃった、上がっちゃったぁ……!」

 ……花中が不安になる中、サナはすっかり舞い上がっていた。もう会える気でいるのか、はたまた背徳感からか。いずれにせよ、随分と楽しそうである。

 確かに、不安になるよりは楽しんだ方が良い。やっぱり怖いから帰るといきなり言われても困るし、サナが居ないと神様がどんなヒトか分からないし……

 と、ここで今更ながら花中は気付いた。花中達は、『神様』とやらがどんな姿をしているか知らないのだ。『誰か』と出会う度サナに確認するのも非効率なので、情報共有しておいた方が良いだろう。

「ねぇ、サナちゃん。そういえば神様って、どんな姿、してるの?」

「はわわわわ……え? あ、姿ね。えっと、まずとても大きくてね」

「大きいって、どれぐらい?」

「うーん、端っこが見えない……ぐらい?」

「……はい?」

 具体的なイメージを掴もうとしたところ、サナから返ってきたのは予想外の回答が返ってきた。端っこが見えないサイズとなると、相当に巨大だ。サナが神様と出会ったのは嵐の夜らしいので視界は不良だったろうが、それでも十数メートルは下るまい。確かにこの島は隅々まで見渡せるほど狭くはないし、そびえる火山の裏側ならそのサイズでも十分隠れられるだろうが……

「えと、他の特徴、は?」

「うーんっと、細長くて、目が赤くて……あと、鱗があったかな。でも魚と違って、ヒレはなかったと思う。色は暗くてよく分かんなかったけど、白とか赤みたいな明るい色じゃなくて、緑っぽかった気がする」

 更に詳しく訊くと、サナは淀みなく答える。流石死にかけた中で見た景色と言うべきか、九年も前の出来事なのに簡単に思い出せているようだ。

 しかし花中は一層困惑する。大きくて、鱗があって、ヒレはない? 神様と聞いて勝手に人型を想像していたが、どうやらサナを助けた相手は人とは似ても似つかない姿をしているようだ。

 なんにせよ、情報は情報。それに身体が大きいのは、探す上では都合が良い。友人達の力を借りれば簡単に発見出来そうだ。

 早速行動を起こそうと花中はフィア達の方へと振り向き、

「……やっぱさ、帰った方が良くない?」

「うーん、確かに近付き過ぎたかも。思ったより大きいわよね、これ」

「今までの感覚は余波でしかないという訳ですか。ぶっちゃけ今の時点で既に勝てる気がしないんですけどねぇ」

 不穏な会話が耳に入ってきた。

 ……特に、フィアが口にした「勝てる気がしない」という言葉に、花中は血の気が引くのを覚える。

 フィアは常に自信満々だ。それに見合った実力はあるし、多少の不利はひっくり返せると根拠なく思えるほど前向きな性格をしている。その逞しさに呆れる時もあれば、頼もしさと感謝を覚える時もあった。

 そんなフィアが、余波だけで負けると感じている。

 どれほどの力の差があればそう思えると言うのか。いや、それ以前に何故フィアは急にそんな事を言い出したのか? 一体『誰』がフィアにそんな想いを抱かせたのか。

 そしてそいつは、『何処』に居るのか。

「あ、あの、みなさん……」

「いやはや、まさかこんなのが地球にいたなんて」

「ここ数ヶ月は危ない事なんてなーんもなかったですからねぇ……勘が鈍りましたか」

「だからあたし言ってたじゃん。さっさと逃げようって」

「逃げるって何処によ」

「コイツ相手では何処に逃げても同じじゃないですかね?」

「そうかもだけどさぁー」

 訊こうとするが、フィア達は物騒な会話を暢気に続けている。諦めや達観ではなさそうだが、しかし彼女達がこんな言葉を使うなんて初めてではなかろうか。

 一体、何が起きようとしている?

「ねぇ、さっきから何を話してるの? 早く神様を探しに行こうよ」

 込み上がる不安と恐怖で声が出なくなった花中の代わりに、サナが三匹を問い質す。問われた三匹は顔を見合わせると、代表するようにミリオンが一歩前に出てきた。

「ごめんなさい。ちょっと盛り上がっちゃってね……あと、あなたの言う神様、多分もうすぐ会えるわよ」

「え? ほんと?」

「あくまで多分よ。でもまぁ、人違い……いや、神違いって事はないでしょ。あんなのが二体も三体もいるとか考えたくないし」

 肩を竦め、本気で嫌そうにぼやくミリオン。

 まるでその言葉を、聞いたかのようなタイミングだった。

 突如として、大きな地震が花中達を襲ったのは。

「きゃっ!?」

「うひゃあっ!?」

 一瞬身体が浮かび上がるような、巨大な揺れ。不意を突かれた花中とサナは体勢を崩し、蹲るように地面に手を付く。ゴツゴツとした岩肌が花中の柔らかな掌に刺さり、痛みで花中は顔を顰める。

 そんな花中達を心配する素振りもなく、フィア達は一点を見続けていた。まるで、()()に何かが居るかのように。

「いよいよ来ますかってうっわなんですかこれ……いや本当になんですかねこれ」

 フィアが呆れるようにぼやく最中も、揺れは一向に収まらない。それどころかどんどん、止まる気配もなく強くなっていく……このままでは、地球が割れるのではと錯覚するほどに。

「ふぃ、フィアちゃん!? 何か、何か知ってるの!?」

「いいえ何も。我々は何も知りません。ただ感じ取っているだけですよ……本能的に」

 恐怖のあまり叫ぶように問い詰める花中に、フィアは視線を向ける事もなく淡々と答える。

 本能。

 人の世で暮らしているとはいえ、フィア達は野生動物だ。ミュータントとなる前は日々天敵や同種との競争に明け暮れ、ミュータント化してからも時折命懸けの争いをしている。確かにここ数ヶ月は平和そのもので、フィアが漏らしたように「勘が鈍った」りもしただろう。だがそれでも人と違うのは、彼女達は普段から自力で獲物を捕らえ、自力で身を守っているから。鈍りはしても、その本能が失われる事はない。

 花中達(人間)には分からずとも、フィア達は分かるのだ。そこに何か、途方もなく強大な存在が居ると。

 花中はフィア達の視線を追う。フィア達が見つめているのは、島の中央にそびえる火山だった。

 意識した途端、花中は自分達を襲っている揺れが、あの山から来ているのだと気付いた。揺れは未だ弱まらず、際限なく大きくなっている。火口は唸り声のような地響きをならし、白かった噴煙にどす黒いものが混ざり始めていた。

 何か、出てくる。

 そう『確信』して、花中はフィア達と同じく火口を見つめ続ける。故に花中は、その瞬間を目の当たりにした。

 火山の火口からぬるりと、何十メートルあるかも分からないヘビの頭が出てくる瞬間を――――




ようやっと出せました、本章の新キャラ(ミュータント枠)。本作を投稿した頃から構想していたキャラだけに、思い入れがあります。
……女の子同士のバトルが見どころと銘打っておきながら、あからさまに動物なのはどうなのかと思わなくもない。まぁ、本作のミュータントは人間に化けていても、正体はみんな人の形してないですけど。

次回は10/8(日)投稿予定です。


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神話決戦4

 今年一年で、花中は非常識に幾度となく出会ってきた。

 喋る動物、人類文明を易々と破滅させる能力、世界を裏から操ってきた支配者……直接会ってはいないが、友達の一体は数ヶ月前に地球生命の『造物主』と戦ったらしい。脚色なしでそのまま書き出しても、本が何冊も作れそうなぐらい濃厚な体験ばかりだ。今の花中なら多少の事、例えば本物の超能力者が現れても「ああ、今回はそういう展開なのですね」で流せてしまうだろう。

 しかし。

「な、な、何、これぇぇぇぇ!?」

 此度の出来事は、すっかり麻痺した筈の花中の度肝を抜くのに十分なインパクトを持っていた。

 火山の火口から現れたヘビの頭……それは地響きを伴いながら這い出し、自らの胴体を露わにする。木一本生えていない山だけに、その姿を隠すものは何もない。

 それでも全容はまるで把握出来なかった。現れた暗緑色の胴体は火山を締め付けるように、何周も回っていく。体長三百メートル? 五百メートル? いや、一千メートル近いだろうか。体表の鱗は麓から眺めても一枚一枚形までハッキリと分かるサイズで、剥がれた一枚が頭上に落ちてきたなら人間程度簡単に潰されてしまうだろう。真紅の瞳は太陽のように力強く、視界に入るだけでぞくぞくとした悪寒が走る。身体には真っ赤な液体――――溶岩がたっぷりと付着していたが、ヘビは気にも留めていないようだ。

 圧倒的な巨体。いくら直立歩行でないとはいえ、ここまで巨大な陸生生物など古代に遡ってもいまい。存在が公になれば社会は勿論、生物学に多大な混沌をもたらすのは確実だ。身体に付着する多量の溶岩から察するに、今の今まで、さながら風呂でも楽しむかの如く火山内部のマグマに浸かっていたのだろう。凡そ一千度に達すると言われているマグマに耐えるとは、あの表皮は一体どんな材質で出来ているのか。

 分からない事だらけで困惑のあまり挙動不審になる花中だったが、巨大ヘビは花中達を一瞥する素振りもなく、大地を揺らしながら海に向けて動き出した。大岩を小石のように弾き飛ばし海に向けて進んでいく。やがてゆっくり入水したにも拘わらず、小さくない津波を起こした。ちょっと移動しただけで災害を一つ二つと生み出したが、ヘビは自身が起こした災厄を見向きもしない。島から数百メートルほど離れた海上でとぐろを巻き、典型的なヘビの待機姿勢を作ると、そのままぼんやりと空を見上げた。

 どうやら向こうは花中達に関心などないようだ。或いは気付いてすらいないのかも知れない。向こうからしたら花中達のサイズなど足下の虫けらも同然なのだから、見落としても不思議ではない。むしろ目を付けられなくて安堵したのが正直なところである。

「ツーディ! タチケ、タチケーッ!」

 だからサナが大蛇に大声で呼び掛けた時には、心臓が止まりそうなほど驚いてしまった。

 サナはまるで太陽のように眩しい笑みを浮かべながら、ぶんぶんと手を振っている。明らかにあの巨大生物を呼んでいた。

「さ、サナちゃん? あの、何をして……?」

「え? お礼を言いたいから、こっちを見てくんないかなーって」

「お、お礼?」

 下手をせずとも自殺行為同然の愚行の理由を問い質したところ、サナは平然とそう答える。答えるが、花中にはサナが何を言っているのかさっぱり分からない。頭が真っ白になり、呆然と立ち尽くす。

「だってあの方が、私を助けてくれた神様なんだもん!」

 そんな花中の理性を取り戻したのもまた、サナの言葉だった。

 助けてくれた、神様?

 一瞬サナの言葉が理解出来なかったが、やがて花中はハッとなる。確かサナが言っていた神様の特徴は『細長い』『鱗を持つ』『ヒレがない』……どれも目の前のヘビと合致するではないか。暗緑色の身体や赤色の目なども当て嵌まる。冷静に考えれば、間違いなくサナが話していた神様そのものの姿であった。

 だったら最初から巨大なヘビと言えば良いものを、との言葉が脳裏を過ぎったが、サナが暮らしているのはどの大陸からも離れた孤島である。

「……サナちゃん、あの、ヘビって……」

「? ヘビ?」

 首を傾げるサナを見て、花中は確信した。モサニマノーマにはヘビが生息していないのだ。

 これは何もおかしな事ではない。例えばニュージーランドにはヘビが生息していないとされているが、これはニュージーランドが二千万年ほど前に一度大部分が沈没した事で大半の生物が一掃され、その後浮上したものの大陸と隣接せず生物の侵入が困難だったためとの説がある。

 大海原に浮かぶモサニマノーマも大陸から隔絶されている意味ではニュージーランドと同じであり、この島に生物が辿り着くには鳥のように空を飛ぶか、嵐などで奇跡的に流れ着くしかない。そして空を飛べないヘビは、奇跡に恵まれなかった。故にモサニマノーマにはヘビが生息していないのだろう。島民(サナ)はヘビなど見た事もなく、ヘビを見た事がないのだから『ヘビの神様』なんて言葉が出てくる筈もない。モサニマノーマの生態系が日本と異なる事は容易く想像出来たのに、発想の柔軟性が欠けていたと花中は猛省する。

 しかし反省ばかりしている暇もない。

 問題はこのヘビの正体だ。まさか本当に『神様』という事はない筈。

「……どう思います?」

「どうも何も、ミュータント以外に考えられないでしょ」

「でも時系列が……サナちゃんは、九年前に会ったって、話です。確かに、ちっちゃい頃、わたしはこの島に来ました、けど、それだって、もう、十年以上前の事ですし」

「確かに、計算が合わないわ。伝達脳波がない状態で、ミュータントの知性が維持出来るのは五年が精々。当然、能力も使えなくなる。仮にコイツがはなちゃんとの接触でミュータント化したとしても、五年後には能力がなくなるわ。能力なしにこの巨体を維持出来るとは思えない」

「サナがなんとかって脳波を出してるんじゃない? あの子、花中の親戚なんでしょ?」

「可能性はあるけど、確率論的に……そもそもモサニマノーマにヘビはいない訳だし」

「むぅ。私にはさっぱり分からないです」

 花中はフィア達ミュータントと円陣を組み、ひそひそと相談する。しかし、いまいち納得のいく答えが得られない。議論は段々と白熱する……白熱していられたのは、あの大蛇がこちらを見向きもしなかったからだが。

「アーウ! アーウ! ターチーケー!」

 その間もサナは一生懸命ヘビを呼んでいて、

【……先程から、喧しい連中だ】

 だから地鳴りのような声が聞こえた時、花中のみならずフィア達は、一斉にその声がした方……大蛇が居る海原へと振り向いていた。

 大蛇はその巨体を、傍目には普通に――――さながら()()()()()()()()()()()()()()身軽さで翻し、島の方へと頭を向ける。星を彷彿とさせる二つの巨大な瞳は赤く輝き、花中達を確かに見つめていた。現実逃避が思い付かないほどにハッキリと、こちらを認識している。

 ここまできても花中には、フィア達のように具体的な力の差を測る事は出来ていない。だが圧倒的な巨体を前にして、どう足掻いても勝ち目がないのは分かる。ゾウはなんの能力を用いずとも強力な毒アリを踏み潰せるように、巨大というのはただそれだけで強さに直結するのだから。仮に目の前の蛇がぺろりと舌を出せば、その余波で人間は粉々になるに違いない。

 起こり得る未来を想像し、花中は恐怖で震える。

「あ、やっと返事してくれた……でも、なんで日本語?」

 対してサナは嬉しそうに、そしてごく普通な疑問を抱くほどの余裕があった。

 『神様』への信頼が、恐怖心を根っこの方からへし折っているのだろうか。そうとしか思えないサナの暢気ぶりを前にしても、『神様』は特段思うところなどない様子だ。尤も、爬虫類の顔に感情が出る筈もないが。

【この言語で話しているのが聞こえた。故にこの言葉ならば全員に通じると判断した】

「おー、さっすが神様。気配り出来るんですね!」

 敬語とは言い難いフランクな文体で、サナは大蛇と話をする。大蛇の声は ― やや高齢の、威厳を感じさせる ― 女性的で、距離があるとはいえ巨体の割にあまり大きくない。丁度、花中には日常会話程度の大きさに聞こえる声量で返答している。どうやら対話に問題はないらしい。

【礼儀を知らぬ辺り、巫女の一族ではないようだが】

「あ、巫女様の一家は、何十年か前に病気で死んじゃって……」

【絶えたか。どうりで最近見掛けぬ訳だ】

 自分に度々会いに来ていた者達の死を知っても、大蛇は特段気にも留めない。彼女? にとって、人間とはその程度の存在なのだろう。

 それよりも花中が気になるのは、数十年という月日を『最近』と認識していた事。

 ミュータントはごく一部の人間が放つ伝達脳波を受信する事で、人間並の知性と、人智を凌駕する強大な力を使えるようになる……と考えられている。これはミュータントの研究をしていたミリオンの『想い人』が導き出した推論であり、学会にも発表されていない話だ。だから他の研究者による追試を受けておらず、こう言うとミリオンに悪い気もするが、正確性に欠ける研究である。とはいえ現状これが最もミュータントを上手く説明する説であるのも事実。故にこの説が大凡正しいと仮定した場合、一つの疑問が浮かび上がる。

 何故、この大蛇は未だミュータントでいられるのか?

 伝達脳波が途切れた場合、凡そ五年でその生物は知性と能力を失う……この論理に関しては、実際に伝達脳波の受信が数年間途絶えていたミリオンが身を以て証明している。だから足りない部分はあるかも知れないが、間違いではない筈だ。

 しかしこの大蛇はまるで、古来よりミュータントでいたかのような口ぶりである。この大蛇の能力がもし『大きく成長する』事だとしたら、例え能力を失っても巨体は残るだろう。だが巨体は多大なエネルギーを常に消費し、自重を支えるための強固なシステムが求められる。現在だけでなく過去を遡っても最大の動物と言われるシロナガスクジラでも、体長三十メートル体重百五十トン程度しかないのだ。これが動物の限界だとすれば、この一千メートル級大蛇はどう考えても『インチキ』を使っているとしか思えない。そしてその『インチキ』は、生きている間一秒たりとも途切れてはならない。途切れればその瞬間抗いようのない飢餓に襲われ、自重で潰れてしまうのだから。

 何もかもおかしい。おかしくて、おかしくて……疑問が、恐怖を凌駕する。

「あ、あの!」

「ちょ、花中!?」

 気付けば、花中は大蛇に向けて呼び掛けていた。驚きに満ちたミィの声が花中に正気を取り戻させるも後の祭。

 大蛇の巨大な眼球は、確かに花中を捉えていた。

【なんだ、小さな生き物よ】

「あ、いや、えと……」

【要件なしに我を呼んだのか】

「い、いえ! あります! あります!」

 大蛇の問い掛けに、花中は中身がシェイクしそうな勢いで頷いた。蛇の言葉に苛立ちなどは感じられなかったが、巨体に気圧されて花中は勝手に萎縮してしまう。

 それでも、質問(用件)はあるのだ。臆する必要はないと花中は自分を鼓舞し、真っ直ぐ蛇を見つめ返す。自分の身の丈を遥かに超える眼球は、悪意など微塵もない、宝石よりも澄んだもの。心の奥底を見透かされそうなその美しさに気付いたら、恐怖が畏怖へと置き換わるのにさして時間は掛からなかった。

 花中は深く、息を吸い込む。自分の小さな声が、少しでもハッキリと相手に届くように。

「あ、あの! えと、じ、自己紹介から! わ、わたし、大桐花中と、言います! あなたのお名前を、教えて、くだ、さいっ!」

 まずは挨拶からと、花中は自分なりに大きな声で大蛇に呼び掛ける。すると大蛇はしばし黙りこくった後、ゆっくりと、小さく口を開けた。

【我に名などない。好きに呼べ】

 尤も出てきた言葉はあまり友好的でなかったが。

 いや、友好的云々の前に、答えられない問いだったらしい。機嫌を損ねた様子はないが、一瞬花中は失神しそうなぐらい血の気が引いた。後ろでミィが引き攣った吐息を出していたので、彼女に関しては同じ気持ちだろう。フィアとミリオンは……野生の本能で察しているのか、特段危機感を持っていないようだが。

 さて、名前がない、となるとこれは困った。この大蛇は先程「日本語が聞こえたので日本語を使った」的な事を言っていたが、即ちモサニマノーマの言語も理解出来ると考えられる。好きに呼べとは言われたが、うっかりモサニマノーマで『侮蔑』的な使われ方の単語を使ってしまったら……苛立ち紛れに放ったデコピン程度の一撃が、花中達を跡形もなく粉砕するかも知れない。しかし好きに呼べと言われたのに名前を付けないのも、それはそれで無礼に思える。

「それならアナシス様が良いんじゃないかな」

 もし、サナが助け船を出してくれなければ何時まで固まっていた事か。

 感謝の念を覚えつつ、花中は『アナシス』なる謎の単語に首を傾げた。

「アナシス、様……?」

「私達はミスナムギーの神様をそう呼んでいるんだ。意味は日本語で言うところの『強きもの』、かな?」

【……そういえば、巫女の一族がそんな風に呼んでいた気がするな】

 サナが説明すると、大蛇ことアナシスは思い出したように独りごちていた。数十年前の出来事とはいえ自分の名を忘れるとは、この『神』、意外と忘れっぽいようである。

 同じく忘れっぽい友人にして、サナの話を「ぽへー」と腑抜けた謎の声を漏らしつつ聞いているフィアと、案外似た性格かも知れない。そう思うとなんだか急に親近感が湧き、くすりと、花中は笑みを零してしまう。

 そして親近感を覚えたら、恐怖なんて何処かに行ってしまうものだ。

「……では! えと、あ、アナシス様、って、呼びます、ね!」

【そうするが良い】

「はいっ! あ、えと、それではもう一つ、質問です。あなたは、何時からこの島に、住んでいるの、ですか?」

【我はヒトのように月日を数えぬ。故に何時からかなど知らぬが……そうだな、この島が何度か噴火したところは見てきた。そのぐらい昔から、と答えれば納得するか】

 改めて質問をしたところ、アナシスは特段躊躇いもなく答えてくれた。が、その些末な返答一つで花中は息を飲んでしまう。

 ガイドブック曰く、この火山は観測が開始されたのは今から六十年も前の事。その間一度も噴火は観測されていないため、少なくとも六十年はミュータントとして生きている事になる。いや、島に人が住めるぐらいの頻度……恐らく、百年間隔ほどの……噴火を何度も見てきたと言っているのだ。これが噓でないのなら、数百年は生きていなければおかしい。

 当然伝達脳波の維持限界など、この時間スケールからしたら一瞬でしかない。何故この蛇は人智を維持出来るのか、疑問は深まるばかり。

「えと、あの……あ、あなたは、その、どうやって、その知識を、保っているの、ですか……?」

【ほう、驚いた。我が知の仕組みを知っているのか】

「ふふん当然です。花中さんはとても賢いんですからね!」

 その事について尋ねると、アナシスは表情を変えずに驚き、フィアは誇らしげに胸を張った。アナシスはフィアの行動を特段意識もしてないようで、無視するように自分の話をしてくれる。

 力に()()()()時の彼女 ― やはり雌らしい ― は、小さな赤子のヘビだった。

 何故自分に知性が宿ったのか? 何故自分は他の仲間よりも優れた頭脳を持っているのか? 本来なら、それは分からない事だったに違いない。しかしアナシスの身体には特殊な力が宿っており、その能力の応用で、彼女は自身の肉体の『性能』を一欠片の謎も残さず把握出来た。自身の脳が外部から脳波を受診し、その脳波によって知性を得ているのだと、誰に教わらずとも理解出来たのだ。その知性が、脳波を発する人間の傍に居なければいずれ消えてしまう事も。

 故にアナシスは自らの能力――――『自らの肉体を思うがままに成長させる』力を使い、脳に新たな部位を形成。自前の伝達脳波発生器官を作り上げた。これにより特定の人間が傍に居なくとも、知性の維持を続けられるようになった。

 脳波を確保し、知性の安定を手にしたアナシスは、次に自らの肉体の強化を行った。いくら知性があろうと、特殊な能力を持とうと、所詮赤子のヘビに過ぎないのだ。天敵は決して少なくはなく、早急な対策が必要だった。 

 能力による応用だろうか、幸いにして自身が求めた身体の『設計図』はすんなりと閃いた。成長にはエネルギーと時間を必要としたため成果はすぐには出なかったが……一度目の春を迎えた時大抵の生物は敵でなくなり、やがて故郷で無敵の存在となり、しばらくして自力で海を渡れるようになって、ついには山の『中』で暮らせるようになった。

 そして、今に至る……との事である。火山内部に居たのは、巨体を維持するための熱量をマグマから直接摂取するためだそうだ。

「……思った以上にとんでもない化け物だった、ってとこかしら」

 アナシスの話が終わり、ミリオンは感嘆とも呆れとも付かないぼやきを漏らす。その言葉に、花中は無言のまま頷いて同意した。

 『成長する』という能力は、スタートダッシュの面では最も貧弱な力の一つだろう。しかし同時に無限の可能性を秘めた能力とも言える。数百年もの間可能性を積み上げた彼女の力が如何ほどのものか……花中にはまるで想像出来ない。だがフィア達が抱いた「勝ち目がない」という直感が間違いない事は確かだと思えた。

 敵対しなくて本当に良かったと、花中は安堵の息を吐く。同時に、アナシスへの警戒が全く必要ないと分かって気が抜けた。アナシスの力は強大無比であろうが、話を聞く限り人間に害悪を持っていない様子。こちらから刺激しなければ問題は起こりそうにない。

「んじゃ、話は聞けたし、そろそろ帰りましょうか。危険はなさそうだし」

「んー、そだねー」

 ミリオンの提案をミィは快諾。花中にも異論はなく、こくんと頷こうとした

「いやいや!? なんでもう帰ろうとしてんの!?」

 が、それをサナが引き留める。

 ミリオンとミィは「えー……」とブーイングを上げていたが、花中はすぐに思い出した。そうだ。自分達はモサニマノーマで起きている異変の原因を知りたくて、その原因が『此処』にあるとフィア達が言っていたから、この島に来たのだ。

 そしてその『原因』らしきトンデモ存在が今、目の前に居る状況なのである。彼女を問い詰めずに帰っては本末転倒だ。自分の迂闊ぶりが恥ずかしくて顔が熱くなる花中だったが、のんびり羞恥に震えている場合ではない。

「あ、あの! すみません、最後にもう一つ、質問を」

 花中は慌てて『本題』を切り出そうとして、

 直後、その身を大きく仰け反らせた。

「ひぅっ……!?」

「……何……?」

「う……っ」

 次いでサナが悲鳴を上げ、ミリオンとミィが困惑した素振りを見せる。誰もが平静を失っていた。

 その理由は、アナシス。

 何時の間にか、アナシスはその巨体を持ち上げ、空を見上げていた。それだけならなんて事はないが……全身から、例えるならオーラのようなものを放っていたのだ。無論、身体からそういったものが放たれている光景が見える訳ではない。訳ではないが、強烈な圧迫感を覚える。

 この圧迫感の原因が、巨体から発せられる多量の生体電気や熱量によるのか、はたまた自身の身体に備わった本能的警戒心からか。なんにせよ放たれるアナシスの雰囲気で、今まで花中が抱いていた疑問は氷解する。野生の警戒心などすっかり失った人類、その人類の中でもとびきり鈍感な花中ですら怖じ気付いたのだ。花中達がこの島を訪れる前に一度でも、彼女がこの殺気を放っていたなら……常に気を張り詰めている野生生物ならば即座に危険を察知し、逃げ出したに違いない。動けるモノは出来るだけ遠くへ、動けないモノは生活史の中で最も頑強な形態を取るという形で。

 しかし何故アナシスは突然こんな威圧感を放ち始めたのか?

 怒らせるような事をしたつもりはない。戸惑う花中は誰かの意見を聞きたかったが、サナはすっかり縮み上がっており、ミリオンやミィもアナシスへの警戒を露わにしながら困惑している。誰もが急変したアナシスへの恐怖心を露わにし、されど理由を分かっていない様子だった。

 ただ一匹、フィアを除いて。

「……フィア、ちゃん……?」

 恐る恐る、花中はフィアに声を掛けてみる。しかしフィアは花中の方を見向きもしない。彼女の目が向くのはアナシスと同じ、空のまま。

 そしてフィアは、その身をカタカタと震わせていた。顔はすっかり青ざめ、サナよりも酷い色をしている。

 確かにフィアの『身体』は水で出来た偽物である。されど隠し事が苦手な彼女は、思った事は大概顔に出てくる性質だ。つまりフィアの心境は今、酷く青ざめ、カタカタと震えているに違いない。

 例え何が相手でも、それこそ自分では勝てないと思ったアナシスにすら、平然と対峙していたというのに。今でもミィやミリオンは警戒するだけで、こんなにも怯えてなんていないのに。

「……フィアちゃん? どうしたの?」

「馬鹿な……なんですかこれは……!? いやいくらなんでもこれは不味い危険過ぎる……!」

 花中が呼び掛けても、フィアは反応一つしてくれない。それどころか空を見上げたまま、一匹勝手に錯乱している。

 まるで空の彼方にあるモノに、心奪われているかのよう。

 何時も自分の事を気に掛けてくれたフィア。その心を奪ったモノへの、ある意味では嫉妬心にも似た衝動か。花中は殆ど考えなしに、フィアが見ているのと同じ方角へと顔を向けた

 刹那、『地上』で爆音が轟いた。

「――――ふぇ?」

 全く予期していない音に、花中は間の抜けた声を上げる。視線も空から地上へと戻る。

 結果、島から遠く離れた海上で、巨大な水柱が噴き上がっている光景を目の当たりにした。

 比較対象が存在しない、恐らくはこの島から数十キロ遠洋で起きた事象。その規模を正確に計り知るのは難しいが、噴き上がった水柱の高さは数千メートルを超えているように見えた。空を漂っていた雲は吹き飛ばされたのか、ドーナツのようなリングを描いている。

 それほどの巨大現象だ。当然、放出されたエネルギー量も膨大。

「……っ」

「ちっ!」

「むっ!」

 フィアは無言のまま花中を自分の背後に引き寄せ、ミリオンは身構え、ミィは素早くサナの前に立つ。

 花中達に海からやってきた爆風が襲い掛かったのは、それから間髪入れずの事だった。

「ふきゃあああっ!?」

「っぶく……!」

 全身を揺さぶる衝撃にサナは悲鳴を上げ、花中は嗚咽にも似た声を漏らす。いや、フィア達が身を挺して守ってくれなければ、爆風に乗って飛んできた石などで全身ズタボロになっていたに違いない。

 爆風はほんの数秒で通り過ぎ、静寂はすぐに戻ってくる。だが、それで平穏が戻ってきた、とは思えない。海上で何が起きたのか、それはもう一度起こり得る事なのか。知らねば安心など出来ないのだから。

 花中は恐る恐るフィアの身体から顔だけを覗かせ、爆風がやってきた方を見る。

 ――――この時少しでも意識をフィアに向けたなら、今の彼女が空ではなく、自分と同じく爆風がやってきた方角を見ていたと気付けただろう。

 いや、フィアだけではない。ミリオンとミィとサナも、アナシスさえもフィアと同じ場所を見ていた。

 故に彼女達は、全員が同じ『モノ』を目の当たりにする。

 雨雲のように舞い上がり、豪雨の如く降り注ぐ海水の中で静かに佇む、黒色の『物体』を……




アナシスが敵かと思いました? 本当の敵はこっちだよ!
という訳で、本章の敵キャラがついに現れました。
ここから先は色々パワフルなので、スタミナ付けてお読みください。

次回は10/15(日)投稿予定です。


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神話決戦5

 なに、あれ?

 ハッキリと目の当たりにしたにも拘わらず、花中の第一印象は()()()()()であった。

 遥か遠方、しかも対象物のない海上での目測なので正確性に欠けるが……『あれ』の大きさは三~四百メートルはあるだろうか。ゴルフボールをピンの上に乗せた時のシルエットにも似た、というより他に例えようがない奇怪な形状をしている。球体部分が全長の六割ほどを閉め、ピンの部分は四割ほどの比率だ。色彩は黒一色で、沈みかけとはいえ南国の陽光を浴びているのに艶一つ見られない。まるで星のない宇宙を眺めているような、底のない恐怖を与えてくる黒さだった。そしてその身は、僅かながら海面から浮遊している。

 不気味なのは外見だけではない。生理的嫌悪を感じる音を常に鳴らしている。金属的ではないし、生物っぽさもない、あらゆる感性の外に位置する音だ。オノマトペで無理やりにでも表現するなら、ぐにょるぐにょる、だろうか。

 こんな異質なモノ、そこに『有った』ならすぐにでも気付いただろう。つまりほんのついさっきまで……突如襲い掛かってきた『爆風』が起こるまで、こんなモノは海に存在していなかった筈だ。一体アレは何処からやってきた?

 何をどう見ても、どう分析しても、花中の知識には『あれ』に関するものがない。もしかするとモサニマノーマではよく見られるモノなのか? そんな可能性が脳裏を過ぎりサナを横目で見るも、彼女も同じく呆気に取られている様子だ。

 人間達には『あれ』が何かなど見当も付かない。

 だけどフィア達なら、数十キロも離れていたアナシスを察知した野生の本能なら、人間には窺い知れない情報を得ている可能性がある。何か気付いた事がないか、花中は自分の前に立つフィアに話を訊こうとして

 フィアの身体が、小さく震えている事に気付いた。

「……フィ」

「っ!」

 何があったのか尋ねようと、フィアの名を呼ぼうとしたのも束の間。フィアは花中に掌を手を向けるや、大量の水を放出して花中とサナを包み込んだ。

 危険が迫った時、何時も自分を守ってくれた水球か――――反射的にそのように考えたが、しかしそれは『半分』ほどしか当たっていなかった事を花中はすぐに知る。

 息をするための、空間がない。

 つまり空気がないのだ。何時もなら存在する筈のものがなく、強制的に()()させられた花中は目を丸くする。だが次いでやってきたのは酸欠の苦しさではなく、ズキリと走った激痛。痛みが走ったのは腕だったが、その痛みは植物が根を張るような感覚と共に全身に広がっていく。それだけでなく痛みを覚えた場所はまるで金属板でも仕込まれたように、強烈な抵抗感が生じて動かせなくなる。悲鳴を上げようにも喉まで強張り、普段ならここで目を動かして周囲を探るところだが、その眼球すら動かせない始末。

「野良猫ッ!」

「サナもちゃんと対応してるんだよね!?」

「ついでにやってます!」

「なら良い!」

 困惑する人間達を余所に、フィアは怒鳴り散らすようにミィを呼ぶ。ミィはフィアの言いたい事を察しているのか素早く問い詰め、フィアが煩わしさを隠さずに答えた

 瞬間、花中の身体に衝撃が走った。

 臓器全体が引っ張られるような気持ち悪さ、流れる血の向きが変わるようなおぞましい感触。いずれも何度か覚えのあるものだった。そう、例えばフィアが自分を抱えて遠慮なく走った時のような……

 幸いなのか、不幸なのか。動かせない眼球は瞬きすら出来なくなっていた。混乱を鎮め、意識を集中すれば、景色はちゃんと見えてくる筈。逃げたくて堪らない気持ちを胸の奥底に押し込み、花中はなんとか外界を見ようとした。

 結果、凄まじい速さで海面が動いている光景を目の当たりにする。

 なんだこれは、と考えようとした時、一段と大きな衝撃が花中の身を襲った。冷静になろうとしていた意識は再び取り乱し、景色がぐちゃぐちゃ見えなくなる。しかしそれっきり身体を襲う不快感はなくなり、動かなかった全身が自由を取り戻した。

 そしてようやく、顔から水の感触がなくなる。息をするためのスペースが今頃になって作られたのだ。水球自体は解かれてないので身体は水に浸かった状態だが、息が出来ればもうそれで十分。

「ぷはっ! はぁ、は、けふっ、ふっ、ふっ……」

「んんんんんーっ!?」

 待ち望んでいた酸素を吸い込み花中がどうにか落ち着きを取り戻す中、サナは未だジタバタと藻掻き苦しんでいた。彼女の顔周りの水も既に引いていたが、いきなり呼吸が出来なくなっていたのだ。混乱のあまり現状に気付いていなくても不思議ではなく、むしろすぐに息が出来た花中こそおかしいぐらいである。

「サナちゃん、落ち着いてっ。大丈夫だから」

「んんーっ!? んっ……んぶはぁっ!?」

 花中に宥められて、ようやくサナも止めていた息を吹き返す。花中はサナの傍へと寄り添い、優しく背中を摩った。

 同時に、抗議の眼差しをフィアに向ける。

 フィアはしっかり花中達の傍に居た。見た限りでは、花中達を水球で包み込んだ時と変わらぬ佇まい。挙句あれだけの暴挙に出ながら花中達を一瞥すらせず、前を見据えるだけ。訳なくやったとは思わないが、謝りもしないとなればムッとくる。

 一体自分達を無視して何を見ているのかと、花中はフィアの視線を追った。

 追って、その顔から血の気を失せさせる。

 フィアの視線の先には、『島』があった。あったが、赤茶色でゴツゴツとした、火山島。モサニマノーマではない……()()()()()()だ。

 そのミスナムギーが、遥か彼方に見えた。地平線の彼方に消えるほどではないが、沿岸部は見えなくなっている。体長数百メートルはあるアナシスと『あれ』の姿もすっかり小さくなり、辛うじて輪郭が分かる程度。よくよく辺りを見渡せば、此処は大海原のど真ん中ではないか。恐らく、島から数キロは離れている。

 つまり花中達は、あの深くとも短い混乱の中で数キロも移動した事になる。

 置かれた状況から導き出した事実により、花中は全容を察した。フィアによって水球に包み込まれた花中達は、ミィに投げ飛ばされたのだ。普段フィアが纏っている水量となると重量数百キロ~数トンはあるが、ミィの怪力ならば少し重たいボールのようなものだろう。数キロ彼方に数秒で辿り着く速さ……音速以上の速さで投げる事が出来ても不思議はない。とはいえこんな馬鹿げた速さに人間は適応していないのだ。徐々に加速したならまだしも、投げるという形では初速こそがトップスピード。瞬間的には強力な慣性が襲い掛かり、最悪、いや、確実に死に至るだろう。

 そこでフィアは対策をした。花中達の皮膚を破り、水と血液を接触。能力によって血液中の水分を支配下に置き、体液によって細胞全体を補強する。これにより、Gに耐えられる身体に『改造』したのだ。証拠は最初に痛みを感じた腕。よくよく見てみれば、腕には小さな穴が開き、血が滲んでいた。注射針で刺されたぐらいの小さな穴だが……傷には違いない。

 ショックだった。確かに酷い目に遭わされた事は一度や二度ではないが、どれもわざとではなかった。フィアは何時だって自分を大切にしてくれた。だけど今回は、明らかに『意図』を持って傷を付けられたのだ。悲しくない訳がない。

 同時に、それ以上の恐怖を覚える。

 フィアをそこまで過敏に反応させた、『あれ』の存在に。

「……フィアちゃん、どうしたの……?」

「どうもこうもありませんよなんなんですかねアレは。ヤバいですなんだか分かりませんけど近付くのも不味い気がします」

 訊けば、フィアは捲し立てるような早口で答える。しかし根拠は示さず、話したのは己の感覚についてのみ。

 それを『なんとなく』と言うのなら従うのも癪だが……『野生の勘』となれば話は違う。少なくとも本能的な感覚において、フィアが花中より遙かに優れているのは事実なのだから。

「――――ょぉおおっせいっ!」

 ごくりと息を飲む花中だったが、その音は突如として起こった巨大な水柱と爆音によって掻き消された。攻撃か、と思ったのは一瞬。フィアが危険を察知して此処まで退避したのだ。『彼女』達が何時までもぼんやりとあの場に留まっている筈もない。

 水柱が収まると、そこには水面に立つミィの姿があった。恐らく此処まで()()()()()のだろう。数十トンもあるミィの身体を海水程度の浮力で支えられるとは思えないので、フィアが能力により彼女の足場を作っていると思われる。

「ちょっとこれは不味いわねぇ……」

 次いでミリオンが虚空から姿を現した。ふわふわと宙に浮かびながら、島の方をじっと眺めている。

 全員、無事に集まれた。その事実に花中は安堵する

「ちょ、ちょっとなんなの!? ねぇ、何があったの!?」

 間もなく、サナが癇癪を起こした。

 いや、彼女の反応は実に正しい。いきなり溺れそうになり、強烈なGを叩き込まれ、大海原のど真ん中に移動させられたのだ。混乱して当然であり、誰だって説明を求めるだろう。実際花中も慣れてはいるが、気持ちとしてはサナと一緒である。

「お、落ち着いて、サナちゃん。わたしにも、分からなくて……あの、簡単にで、良いので、誰か説明を」

「っ! 来るわっ!」

 しかし花中達(人間)の想いなど、野生の前では儚い願望でしかなかった。

 フィア達が見据える先……ミスナムギーの近くに、ただ一体残っていたアナシスが動き出す。しかし遠くて彼女の行動の詳細は分からない。

 そう思いながら花中が目を細めていると水球表面が大きく揺らめき、アナシス達周辺の拡大映像が映し出された。フィアが能力で水分子を並び替え、望遠レンズのように機能させたのだろう。

 お陰で数キロ以上離れていながら、アナシスの動きがハッキリと確認出来る。アナシスは巨体でありながら小さな蛇と変わらぬ素早さで『あれ』に接近しており

 次の瞬間、アナシスの尾が『あれ』にくっついていた。

「え?」

 花中は呆気に取られる。何故なら花中の目は、アナシスの尾が『あれ』目掛けて振り上げられた瞬間を捉えていなかったからだ。まるでその瞬間のコマだけ切り取ったような、不自然な光景だった。

 尤も、呆けていられたのはほんの一瞬だけ。

 覚えた違和感を『言葉』として理解する暇もなく、花中達を守っている筈の水球が崩壊するほどの、途方もない衝撃が襲い掛かったのだから!

「ごふっ!?」

「げふっ! けほっ!? ごほっ」

 自分達を包み込んでいる水球が吹き飛ぶのとほぼ同時に伝わってきた衝撃を受けて、花中とサナが上げたのは悲鳴ではなく呻き。まるで全身を巨大な鈍器で殴られたかのような、他に説明しようがない痛みに襲われる。

 しばらく咳が止まらなかったが、なんとか自分で身体を擦り、花中は痛みを抑える。それから何が起きたのか、酩酊するように揺れる思考を必死に巡らせ……思い付いた自身の考えに戦慄する。

 花中達は先程まで、フィアが展開してくれた水球に守られていたのだ。水球は平時ですら、銃弾どころかロケットランチャーすら平然と防ぐ強度を誇る。ましてや今のように海の上でなら、フィアは無尽蔵の水を掻き集める事が出来る。現れた『あれ』への警戒度からして一切手加減なしの、恐らくは今までで一番頑強な水球だったに違いない。にも拘わらず水球は呆気なく破壊され、花中達は強烈な衝撃に襲われた。もしも衝撃の大半を肩代わりしてくれたであろう水球がなければ、人間程度の強度では跡形もなく消し飛んでいただろう。

 これほどの衝撃の発生源は何処か? 考えるまでもなく、アナシスしかいない。ではアナシスは何をしたのか?

 答えはとてもシンプル。アナシスは『あれ』目掛け、尾を叩き付けるという方法で攻撃したのだ。ただし、花中の目には見えぬほどの速さで。

 通常大きい物体は、小型かつ相同な物体と比べ動きがスローモーションに見える。しかしこれは動きが遅い事を意味しない。身体が大きくなると歩幅などのスケールも併せて巨大化するため、スピードの増加が巨大化比率以下だとどうしてもゆっくりに見えてしまうのだ。仮にアナシスの体長を一千メートルと仮定し、自身の体長ほどの距離を三秒で移動した場合、その動きは酷くゆっくりに見えるだろう。しかし同時にその速度は、音速に匹敵する事になる。

 いくら花中の動体視力とはいえ、アナシスほどのサイズで目視不可能の速さとなれば音速の数十倍……いや、数百倍は必要かも知れない。その圧倒的なスピードと質量より生じたエネルギーは、遥か数キロ彼方に避難していた花中達さえも吹き飛ばすパワーを持っていたのだ。フィア達の予想は正しかったといえよう。こんな怪物、戦ったところで勝てる訳がない。

 では、『あれ』は?

 おぞましい破壊力を誇った尾を真っ向から叩き付けられ、未だ平然と棒立ちする『あれ』ならば?

【 * * * * * * !】

 『あれ』の咆哮、なのだろうか。

 突如として()()()()()、完全なる未知の『音』に花中は呆然としてしまう。なんとなく嫌な予感はする。するのだが、過去の経験と合致しない状況に、脳が判断を躊躇うのだ。例えるなら、マニュアルがないからと対応を拒むオペレーターのように。

「ちっ! この距離でも駄目です耐えきれません! もっと離れます!」

 しかし野生の本能を失っていないフィア達は違う。水球が破壊された事からこの距離でも危険と判断し、更に距離を取る事を決断。ミリオンは全身を霧散させ、ミィはその場から跳躍。フィアは能力により水球を作り直すと海上を滑るように高速で走り、花中とサナを引き連れて更なる後退を始める。

 前進したのは、アナシスただ一匹。

【■■■■■■■■■■■■■■■■■■!】

 アナシスもまた、雄叫びを上げた。それは『あれ』が奏でた音とは全く異なる、生命の力に満ちた咆哮。最早何キロ、十何キロ離れたか分からないのに、その叫びは退化した筈の花中の本能を揺さぶり、全身を芯から震え上がらせる。きっと大蛇を前にした子ネズミの気持ちというのはこんな感じなのだと、花中は心の底から思った。

 尤もヘビの方は子ネズミなど眼中にない。自らの尾の一撃を平然と耐えた、自身と対等の ― 或いは凌駕するやも知れぬ ― 存在を目の当たりにしているのだ。アナシスは続けざまに二度目の咆哮を上げたが、花中はその声に焦りにも似た感情が含まれているのを感じ取った。

 同時に、はしゃぐような喜びも。

 やがてアナシス達の姿は水平線に消えた、が、間髪入れずに水球の表面が揺らめく。そして映し出されたのは、アナシス達の拡大された姿。ふと花中が頭上を見上げれば、水球のてっぺんから細長いモノが伸びているのが確認出来た。恐らく伸ばした水触手の先から外の景色を取り込む事で、水平線の向こう側を映し出せるのだろう。

 故に遥か彼方へと逃げながらも、花中達がアナシス達の戦いを見届けるのに支障はなかった。

 アナシスはその身をメキメキと膨らませ、大きく仰け反らせた――――のも束の間、目視不可能な速さで『あれ』に頭突きをお見舞いした! 尾の一撃には不動で耐えた『あれ』も此度の打撃は堪えたらしく、ぐらりと巨体をよろめかした。

 否、むしろよろめいただけ、と言うべきか。

 『あれ』の背後から何千メートルもの高さになる水柱が、何キロにも渡って噴き上がった。恐らくはアナシスの頭突きの余波が『あれ』を突き抜け、向こう側にある海を引っ掻き回したのだろう……言葉にしてみたが、あまりにも出鱈目過ぎる。人間が同じ光景を作ろうとしたら、果たして爆薬が何百万トン必要になるのか想像も付かない。

 並の生物なら跡形も残らぬ一撃を与え、しかしアナシスは手を緩めない。二撃、三撃、四撃目を放ち、頭突きによって『あれ』を高々と打ち抜く上げる!

 哀れ、『あれ』はそのまま転倒する……かと思いきや、『あれ』はゴルフピンのようだった部位を裂き、節足動物を彷彿とさせる細長い足へと変化。それは身体の比率からすればまるで蟻のように細い脚であり、数百メートルもの巨体をしっかりと支えられるとはとても思えない……そんな花中の常識を嘲笑うように、『あれ』はどっしりと構えた体勢で着水。何かしらの力場が発生しているのか、足先の海面を大きく歪ませながら『あれ』は浮遊状態を維持していた。

 そして体勢を立て直すや、『あれ』は高くジャンプ。

 巨体に見合わぬアクロバティックな動きで、アナシスの顔面に回し蹴りを喰らわせる! 格闘家が放つような素早く軽快な動きは、しかし花中の目に映る程度の『鈍足』。あくまで小手先の反撃なのか、アナシスは身動ぎすらしない。

 いや、小手先どころか、まだ攻撃は始まっていなかった。

 『あれ』は素早く、四本の足をアナシスの身体に巻き付けたのだ。節足動物のように見えた足は、実は軟体動物だったのかと思わせるほど柔軟に曲がり、アナシスの頭部に絡み付く。そしてその図体を浮遊させたまま、()()()()()()。さながらその光景は、バックドロップのよう。

 持ち上がり、『あれ』に引っ張られたアナシスは、超音速で顔面を海水に叩き付けられた! その衝撃の大きさたるや、水煙がキノコ雲のように舞い上がるほど。世界が揺れ、衝撃波が辺り一帯に撒き散らされる。

 されどアナシスもこの程度では怯まない。『あれ』が僅かに見せた隙を逃さず、長大な自らの身体をしならせて『あれ』に巻き付いたのだ。そして全身が膨れ上がるほどの力で締め上げる! この力の大きさには『あれ』も不味いと判断したのか、巨体を激しく動かし、アナシスを振り払わんと暴れた。巻き付いたアナシスはまるで絡まった糸くずのように振り回され、その余波が海面に巨大な津波を生み出していく。ついにはアナシスは振り払われ、恐るべき……恐らく音速の数十倍以上の……速さで数キロにも渡って吹っ飛ばされた。海に落ちたアナシスは自身よりも巨大な水柱と大津波を起こし、周囲の環境を破壊していく。

 やがて津波は、十数キロは離れた位置に居た花中達に襲い掛かった。

 もしフィアが水を操る能力を持っていなければ、この時点で全員海の藻屑になっていたかも知れない。いや、その前に激戦の余波で粉々に吹き飛んでいたに違いない。

「いやはや全くとんでもないケンカですねぇ」

 フィアがそう思うのも至極真っ当で、花中は無意識にこくんと頷いていた。

 フィアが展開した水球は今では十メートル近いサイズとなっており、中には花中とサナだけでなく、ミィとミリオンも避難していた。とはいえ水球が大きくなったのはミリオン達も避難させるためではない。フィア曰く密度が異なる水を何層も重ねる構造にすると耐衝撃性が増すそうで、単純な高密度水球よりも強度に優れるらしい。反面どうしても巨大化してしまい、動きも遅くなるので、こんな時以外には使い道がないとの話だが。

 つまりそこまでしないと、たかが十数キロ離れただけでは彼女達の戦いに巻き込まれる事を意味していた。

 今までミュータントの力は幾度となく見てきた花中であるが、ここまで圧倒的なものは初めてだ。いや、考えもしなかった、という方が正しい。確かにフィア達が最強クラスだという保障など何処にもなかったが……いくらなんでもアナシス達は強過ぎる。フィア達がまるで虫けら扱いではないか。これでは人間どころか、フィア達にも彼女達への干渉など出来ないだろう。何も出来ず、見守るしかない事が歯痒くて仕方ない。

 それでも花中(じぶん)達はまだ気楽な方だ。

 故郷がすぐ近くにあるサナと比べれば、ずっと。

「サナちゃん、大丈夫……?」

「…………あ、う、うん……大丈夫! じゃ、ないけど……」

 花中が声を掛けると、サナは気丈に振る舞おうとするも、すぐに項垂れてしまう。顔色は真っ青で、今にも倒れそうだ。

 幸いにしてアナシスと『あれ』の立ち位置、そしてミスナムギーが盾のように存在する事で、遠く離れたモサニマノーマにはまだ重大な影響は及んでいないと思われる。だが、それも何時まで続くか……何時故郷が壊れてしまうか分からない中で、冷静になれと言う方が酷だ。

 むしろ、ヒステリーを起こしていない事が不思議なぐらいである。

「……でも、私、信じてるから」

 そんな花中の疑問に答えるように、サナがぽつりと呟いた。

「信じてる?」

「うん。だって、あの方はミスナムギーの神様なんだよ! 神様が、あんなよく分かんない奴に負ける訳ない!」

 自信満々なサナの答えに、花中は目をパチクリさせる。それからサナに向けていた視線を、アナシスが戦っている『あれ』へと移した。

 そして『疑念』を抱く。

 アナシスの強さについて、ではない。強過ぎるとは思うが、それだけだ。生き物の『強さ』など、種によって大きく異なるのは当たり前の事。クジラと蟻のどちらが『強い』かなど、議論するまでもない話である。だからアナシスがフィア達より圧倒的に強くても、不条理だとは思うが違和感などは覚えない。

 疑問の対象はアナシスと互角に戦っている『あれ』の方だ。

 『あれ』はなんだ? 仮に何かしらのミュータントだとしても、『あれ』に似た生物など花中にはとんと思い付かない。無論フィアのようにあの外観は容れ物でしかなく、元の生物とは似ても似つかぬ姿という可能性はあるが……

 疑問は他にもある。三百メートルはあろうかという巨体だ。アナシスのようにマグマ内に潜んでいたなら兎も角、『あれ』は一体今まで何処に潜んでいたのか? 巨大な水柱を吹き上げて出現した事から、海中からと考えるのが自然と思いたい。

 だが、直前にフィアとアナシスが取った行動が脳裏を過ぎる。

 彼女達は空を見ていた。魚であるフィアは鳥が天敵故か頭上の気配を察するのが得意だとフィア自身が語っており、ヘビもワシやタカなどの猛禽類が天敵である事を思えば同様の本能が備わっていても不思議ではない。そんな二匹が警戒していたのだから、空には何かが居たのだろう。

 その何かが『あれ』である可能性は十分にある。『あれ』がもし空から降ってきたモノだとしたら、その正体は……

「むっ……」

 考え込もうとした花中の意識を、フィアの緊迫した声が呼び戻す。

 我に返り顔を上げたところ、水球には新たな局面が映し出されていた。先程まで格闘していたアナシスと『あれ』は距離を開け、互いに ― 『あれ』に顔など見当たらないが ― 向き合っている。双方、身体に目立った傷はない。あれほどの激戦を繰り広げながら無傷という事実に、花中にはもう驚愕以外の感想など浮かばなかった。

 とはいえ、互角の状況という訳でもないらしい。

 アナシスが息切れしているのに対し、『あれ』は直立不動を維持していたからだ。息切れも何も口すら見当たらない『あれ』に人間の常識が何処まで通じるか分からないが、スタミナの消耗は微塵も感じられない。アナシスは『あれ』に、体力面では差を付けられたようだ。

 ここで何かしらの策をお見舞いしなければ、逆転は難しそうである……花中のそんな予想を、アナシスもしていたのだろうか。

 アナシスの周囲が、不意にゆらゆらと蜃気楼のように揺らめく。

 アナシスの身体が浸かっている海水部分から、多量の湯気が立ち昇り始めた。沸騰しているのか、海面が踊るかの如く荒ぶっている。アナシスの全身から膨大な熱量が発生している証だ。

 そしてアナシスがゆっくりと開いた口の奥では、紅蓮の閃光が煌めいていた。

 光に見惚れた花中は、アナシスが口から小さな ― あくまでアナシスの巨大な頭と比べて、ではあるが ― 火球が吐き出された瞬間を目撃する。火球の速さは凄まじく、数キロは離れていた『あれ』に一秒と掛からず着弾。

 その瞬間、爆炎が『あれ』を飲み込んだ。

 最早、巨大という言葉すら陳腐になるほどの炎だった。轟音を響かせながら、炎は一直線に何キロ……否、何十キロも伸びていく。紅蓮の煌めきは高度数万メートルまで行ったのではと思わせるほど高く舞い上がり、航空機でも巻き込まれてしまうほどの広範囲を焼き払った。多量の海水が気化したのか白煙も噴き上がり、炎と共に海を駆ける。まるで世界が巨人に掴まれているのかと思うほどの巨大地震が起こり、海原は巨大な津波となって四方へと散っていく。

 これだけの事象を起こしたのだ。そのエネルギー量は凄まじく、十数キロも離れ、おまけに多重防壁のように展開していたフィアの水球さえも激しく揺さぶる。花中達は爆炎の進行方向とは九十度ほどずれた位置に居るにも拘わらず、だ。直線上に居たなら、百キロ彼方でも安全ではないかも知れない。

 最早、化け物なんて言葉では推し量れない威力。この力に相応しい呼び名は――――

「……ア、アゲス! アーゲス!」

 花中はアナシスへの称賛を考え始め、隣に居るサナは両手を挙げて大喜び。余程興奮しているのか、日本語ではなくモサニマノーマの言葉で花中に話し掛けてくる。意味は分からない、が、理解は出来る。確かにこれは『すごい』としか言いようがない。

「……なんて事」

「これは……」

 当然、ミリオンやミィが零した言葉もアナシスに向けたもの

 そう、花中は()()()()

「いやはやなんとも……『あれ』一体何で出来てるんですかね」

 驚愕に満ちた、フィアのこの言葉を聞くまでは。

 爆炎が、晴れていく。

 紅蓮と白濁の色は徐々に失せ、世界が透き通ってくる。するとその奥底から、『漆黒』が顔を覗かせた。

 あり得ない。その言葉を、花中は言い出す事が出来なかった。

 『あれ』は、なんら変わらぬ姿で現れた。巨大な球体部分にはひび割れなどなく、相対的にか細く貧弱に見える脚部にも傷一つ付いていない。全身の漆黒はくすんですらおらず、何事もなかったかのよう。悠然と立ち続け、嘲笑うように不動を貫く。

 端的に言えば、『あれ』は先の天変地異級の爆炎をまともに喰らいながら、まるで堪えていなかった。

 これにはアナシスも驚いたのだろうか。ずるり、とその巨体を後退りさせる。

 しかし『あれ』はそのままアナシスが逃げる事を許さない。

 『あれ』の球体部分表面に、幾つもの切れ目が走る。やはりダメージがあったのか? 花中の希望的観測は、その切れ目が等間隔であり、尚且つ真っ直ぐに伸びている事から否定された。切れ目は奥から白い輝きを漏らしており、その姿を遠く離れた花中達にもハッキリと示す。

 やがて切れ目は大きくなり、『あれ』の球体部分がパックリと割れた。それは一見して花が咲くようであり、美しさと、神秘を人間の胸に沸き立たせる。

 そして自らの内側に潜めていた――――太陽を、剥き出しにした。

 そうとしか例えようがなかった。巨大な球体部分が花のように開いたところ、露出された内側には白色に光り輝く火の玉だけがあったのだ。火の玉は球体部分より一回り小さかったが、それでも全長の半分近い大きさ、百五十メートル以上あるように見える。火の玉はまるでそれ自体が力場を発しているかのように浮遊しており、『あれ』の基部とは接触していない。ギラギラとした輝きは周囲を明るく照らし、夕暮れに染まっていた筈の世界を昼間のように変貌させた。時折プロミネンス……太陽から噴き出す紅蓮の炎に似た噴出があり、周囲の空気を蜃気楼のように歪めている。これを太陽と言わず、なんと言えば良いのか。

 いや、呼び名など気にしている場合ではあるまい。

 『あれ』は何故、自らの内側を露出させたのか?

【――――ッ!】

 花中が思案を始めた時、『あれ』と対峙していたアナシスは既に行動を起こしていた。急速な動きでとぐろを巻きながら、ぶくりと頭部近くの肉体を膨らませたのである。屈強な身体を幾重にも束ね、球体のようなシルエットを取った体勢は間違いなく防御一辺倒……反撃や回避を想定していない、攻撃的抵抗を諦めたものだ。

 対する『あれ』は、内側の太陽の煌めきを一層強めている。どんどんどんどん……このまま見続けたら、こっちの目が潰れると思わせるほどに。

「これは……不味い!」

 花中が悪寒で震え上がったのと同時に、フィアが狼狽した叫びを上げた。

 直後フィアは人の姿を溶かし、海面がうねりを上げる。無数の水がフィアの操る水球へと集まり、水球は急激に肥大化。多層構造を更に増やしたのか、周りの景色が滲み、殆ど見えなくなる。

 突然のフィアの行動に、しかし花中には狼狽える暇もない。

 次はミィが正体である巨大な猫の姿へと変化し、花中とサナの前へと移動。更にミリオンも黒い霧へと変貌し、花中達の正面で広がる。

 まるで、フィア、ミリオン、ミィの三体が自ら壁となるかのよう。

 三体の意図は、花中にはすぐに分かった。分かったが、最早その行動を問い質す事も、感謝する事も出来ない。

 花中が口を開く前に、『あれ』の中の太陽は爆発したのだから。

「――――ぇ」

 遅れて開いた花中の口から出たのは、間の抜けた声一つ。

 フィアが、ミリオンが、ミィが、みんなが壁となってくれたのに。巨大な閃光は彼女達の脇を潜り抜けたほんの微かな分だけで、花中の視界を真っ白に染め上げた。眩しさで咄嗟に顔を両手で覆ってしまうが、視界は白一色のまま。薄目を開ける事すらとても出来そうにない。もし無理やりにでも開けたなら、そのまま網膜を焼かれ、二度と色鮮やかな世界が見えなくなる。そう予感させるものだった。

 発光現象は、果たしてどれだけ続いたのか? 時計で正確に測ったなら、十秒と経っていない事を知れただろう。しかし感覚的には、まるで何分も続いたかのような圧倒的事象。やがて光の強さは急速に衰え、南国の日射し程度の明るさに戻っても、花中はしばらく目を開けられなかった。

 とはいえ、何時までも目を瞑ってはいられない。何が起きたか気にもなる。恐る恐る、ゆっくりと花中は瞼を上げて

 その目は、すぐに見開かれた。

 フィアもミリオンもミィも、防御態勢を解いていた。故に目の前の景色がよく見える。

 終末的な景色が。

 海が二つに割れ、海水が割れ目に向かって滝のように流れ込んでいる。割れ目は幅数百メートル、距離は……分からない。地平線の彼方まで割れ、何処までも続いていた。割れ目の周囲では霧のようなものが立ち込めており、それが沸騰した海水が発する湯気だとは、すぐには気付けなかった。この地獄絵図を眺めるように立つ『あれ』は、開いていた球体部分を閉じ、剥き出しにしていた太陽を格納する。

 そして割れた海の中心に、真っ黒になったアナシスの姿があった。

 目を閉じるまで確かにあった、暗緑色は何処にもない。焼け跡に転がる木々のように、かつての色合いは面影すら残っていなかった。光が発せられる前と同じく丸まった姿こそ保っていたが、呼吸するような動き、痛みに震えるような動き、気持ち悪さで揺らめく動き……生気を感じさせる、あらゆる動作が確認出来ない。

 恐らく、炭化している。

 何があったのかは想像でしかないが……『あれ』は何かしらの発光現象を起こした。それは海を切り裂くほどのエネルギーを持っており、攻撃を予期したアナシスは防御態勢を取ったが……力及ばず、炭化してしまった。

 つまりアナシスは、敗北したのだ。

「セゥ……セゥ、セゥ、セゥセゥセゥ……アノヴラーオ! モーソ・アナシス ギベャアボ アノヴラーオ!?」

 サナが、悲鳴染みた声で喚く。頭を抱え、彼女は水球の中で蹲ってしまった。

 花中はサナに手を伸ばそうとし、しかし寸前で引っ込める。

 信仰の対象が敗れた。これがどれほどショックなのかは、無信仰である花中には分からない。どのような声を掛ければ良いかなど想像も付かない。今はそっとしておく事しか出来ないと、唇を噛む。

 何より今は誰かに構っている余裕などない。花中は気持ちを切り換え、『あれ』へと視線を移した。

 アナシスを打ち倒した『あれ』……実力は未知数だが、アナシス以上の戦闘能力を有しているのは間違いない。アナシスにすら、フィア達の誰もが勝てる訳ないと思っていた。花中も先の戦いぶりを見る限り、フィア達がアナシスに勝てるとは思えない。自分が作戦を考えたところで焼け石に水。フィア達が『あれ』に勝つ事もまた、相性や弱点云々を抜きにすれば不可能と考えるのが妥当だ。

 そんな『あれ』が、もしも自分達に関心を持ったなら。

 過ぎる可能性に震え上がる花中だったが、『あれ』は全く何処吹く風。四つに分かれていた脚を一本に束ねて再びピンの上に乗ったゴルフボールのような姿になると、今度はその身を水平に傾ける。普通ならばそのまま倒れてしまうような動きは、しかし正体不明の力場が発生しているらしく、『あれ』は海水から数十メートルほどの高さで浮遊していた。

 そして巨体故ゆっくりに見える、恐らく秒速数百メートルほどの猛スピードで、『あれ』は海の彼方を目指して進み始めた。その姿が地平線の先へと消えるまでには一分以上掛かったが、今まで繰り広げていた行いを思えば、あまりにも呆気ない退場である。

 花中達が自らの安全を実感するには、それから更に時間を置く必要があった。

「ふぅ……いやはやどうにか死なずに済みましたねぇ」

「ほんと、一時はどうなるかと思ったわ……」

「もぉー、だからさっさと帰ろうって言ったじゃん」

 フィア達がわいわいと話し始めて、花中はようやく安堵の息を吐く。無論、あの出鱈目な存在は完全なる野放し状態だが……手立てなど思い付かない。目的や正体が分からない今、『あれ』については放置するしかないだろう。

 そもそも、なんだか分からない『あれ』にかまけている暇などない。

「さてと。あんまり考えたくない気持ちは分かるけど……見に行かない訳にもいかないわよね?」

 同意を求めるようなミリオンからの問い掛けに、花中は無言のまま、小さく頷いた。次いでサナの方と横目で見てから、覚悟を決めて自分の正面を見つめた。

 しばらく前を見続けていた花中はやがて項垂れ、小さく首を横に振る。そのまましばし動かずにいたが……ゆっくりとだが頭を上げ、振りかぶり、フィアの方へと向けた。視線に気付いたフィアも振り向き、自然と花中と見つめ合う格好になる。

「どうしましたか花中さん? 何かご用でしょうか?」

「……うん。あのね、フィアちゃん。モサニマノーマに、戻りたいから、連れて行ってくれる? 出来れば、急いで」

「合点です。その程度の事でしたら朝飯前ですよ」

 花中が頼むとフィアはすぐに水球を絞り、ミリオンとミィ、そしてサナを外に閉め出す。ミリオンがサナをキャッチしなければ、そのままサナは大海原にほっぽり出されていただろう。しかしフィアは全くお構いなし。悪びれるどころか、何事もなかったかのように花中だけを乗せてそそくさと海を走り始める。後ろを振り返ればミリオンとミィは肩を竦めるだけで追い駆けてはこず、放り出されたサナの応対をしていた。

 友人達を無下にするフィアの何時も通りな態度に、何時もの花中なら頬を膨らませていただろう。されど今の花中に、そんな余裕はない。サナを置いてきぼりにした事も……今この瞬間に限れば、その判断が悪いと叱る事など出来ない。

 視界には入っていた。だけど意識を外し、()()()()()()()していた。

 『神の島』であったミスナムギー……そこは今、無残な姿を晒している。島の大部分を占めていた山体が崩落し、火山らしい美しくも荘厳な姿を失っていた。原因は間違いなく、『あれ』が放った光の余波。アナシスすら倒すほどの力に、ミュータントに遠く及ばない『大自然』では耐えきれなかったのだろう。恐らく力の大部分はミスムナギーをぶち抜いたと思われる。

 なら、今までミスナムギーに守られていたモサニマノーマは――――

 渦巻く不安を抑えるように自分の胸に手を当てながら、花中はサナの故郷を見据えるのだった……




本作は能力バトル小説です。
……能力バトル小説です(意地でも曲げない)
まぁ、アナシスの巨体も能力の産物ですので。大怪獣の激突ってワクワクしますよね(本性)

次回は10/22(日)投稿予定です


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神話決戦6

 植物が生い茂っていた筈の山は、まるで内側から弾けたかのように、その中身を露出させていた。

 島を取り囲むように広がっていた白い砂浜は、隙間なくどす黒く染まりきっている。

 藁で出来た家々に至っては、何処を見渡しても跡形も残っていない有り様。

 此処がかつて百を超える人々の暮らしていた島だったと、一体誰が信じられるのか。最早この地に人の営みの気配など残っていない。いや、そもそも生命の息吹すら感じ取れない。アナシスの覇気に充てられ多くの生物が全力で身を守ろうとしていたが、『あれ』の放った光はあらゆる命の努力を嘲笑ったようだ。

 なら、島で暮らしていた人々は……

 数キロほど離れた遠洋にてモサニマノーマの姿を確認した花中は、絶望的な惨状を前にして表情を曇らせた。自身を包む水球は島の拡大画像を映してくれていて、細かな場所までハッキリ見て取れる。目の錯覚……そんな言い訳など許さないと言わんばかりに。

「どうしますか花中さん。これ以上近付いても得られるものは何一つないと思うのですが」

 水球の中で花中の隣に立ち、同じ画像を見ているフィアは明らかに気乗りしておらず、その言葉には出来れば自分の意思を通したいという想いがありありと伝わってきた。要するに「あんな場所にわざわざ立ち寄ったところで無駄なのだから面倒臭い」と言いたいのだろう。

 面倒臭いだけなのだから、どうしてもと頼み込めばフィアはお願いを聞いてくれるだろうが……その言葉を飲み込んでしまうぐらいには、花中の心もそれが無駄な事だと理解していた。

 どぷん、と音を立てて水球が割れる。外気に触れた花中を素早く抱き寄せ、フィアはお姫様だっこの姿勢で花中を抱え上げる。水球よりもこちらの体勢の方が楽なのか、それとも単純に花中にくっつきたいだけなのか。

 いずれにせよ当然のように島に背中を向けたという事は、立ち去る気満々なのは間違いない。

「おーい、はなちゃーん」

 流石にそれは待って、と伝えようとしたところ、花中は和やかな声に呼ばれた。

 自分をそのあだ名で呼ぶモノは一体しかいない。声がした方へと振り向けば、ミリオンがすぐ傍まで来ていた。ミィも来ていて、目に見えない速さで足踏みして海面に立っている。割と必死そうなミィと比べ、ミリオンはふわふわと優雅に浮遊していた。

 そしてミリオンの腕の中には、生気を感じさせないサナの姿が。

「……ミリオンさん。サナちゃんは……」

「駄目ね。こっちが何を話しても耳も傾けてくれないわ」

 この通り、と言わんげにミリオンは腕の中のサナを揺する。不意打ちのような行動に驚き、不満の一つでもぼやく……そうなればまだ安堵出来たのに、サナは呻き一つ漏らしてくれない。瞳は虚ろで、目の前の……変わり果てた故郷が映っていないかのよう。

 ハッキリ言って、真っ当な精神状態とは思えない。どうにかしたく、せめて声だけでも掛けようと思い花中は口を開いた――――が、言葉が思い付かない。信仰する神を滅ぼされ、故郷を焼かれ、そして家族と友人を……全てを失った人間に一体何を言えば良いというのか。一介の女子高生でしかない花中の手には負えない。

 フィアが言うように、今更モサニマノーマを調べても収穫はないだろう。むしろ何かの拍子にサナが我を取り戻した時、故郷の変わり果てた姿を見たら、今度こそ心が壊れてしまうかも知れない。一度時間を置き、ゆっくりと考えれば何か……何か、閃くかも知れない。

 一旦島から離れよう。幸いにしてフィア達には日本からモサニマノーマまでの大海原を渡りきるスタミナと、その長距離を一日も掛けずに移動する速力を誇る。モサニマノーマから比較的近い位置にあるグアムならばすぐにでも辿り着ける筈だ。

 そう思った花中は、フィア達に次の目的地を伝えようとした

 その時だった。

「おっと」

「あら」

「え、ちょ……」

 何かに気付いたような素振りを見せたのも束の間、フィア達は唐突に海に沈み始めた。おまけに胸の辺りまで水が迫るぐらい深々とで、抱えられている体勢である花中とサナの顔に海水が掛かる。予期せぬ友達の行動、加えて顔が濡れる不快さで花中の頭は一瞬真っ白になった。

 その空白に滑り込む、巨大な駆動音と海水を掻き分ける轟音。

 空白状態だったがために音はすんなりと頭の奥底まで入り込み、花中の思考を刺激する。機械の音と、水の音……答えを導き出すのに数秒と掛からなかった。

 船だ。それも音が段々大きくなっている事から、こちらに近付いてきている。

 何故船が? 過ぎった疑問は一瞬で氷解する。アナシスと『あれ』の激戦は、島が二つ壊滅するほどの災厄だったのだ。近くを通っていた漁船や旅客船が様子を見に来た、という事は十分考えられる。期待を抱いた花中はフィアの肩に手を乗せ、身を乗り出して音がする方を見た。

 実際、花中の予想は正しかった。花中達の下には一隻の船が近付いてきている。

 どう考えても、軍艦である事を除けば。

 砲や大きなレーダーを積んでいるから間違いない。花中は驚きのあまり、ポカンと口を開けた。波に乗って入り込む海水で、舌先にピリピリとした辛味が走る。されど花中は何時までも、軍艦がどれだけ近付いてもその間抜け面を直せずにいた。

 軍艦についてさして詳しくはないが、所謂駆逐艦や巡洋艦と呼ばれる類の船に見える。船は花中達のすぐ傍まで接近し、もしかするとこのまま ― フィア達が押し負けるとは微塵も思っていないが ― 轢き殺されるのでは、との予感が走り花中は顔を青くする。尤も船はその後花中達を避けるように僅かながら軌道を変え、十数メートル離れた位置で静止。

「Survivor and confirmation!」

 しばらくして、船の方から英語の怒号が飛んできた。見れば軍服を着た、男性らしき人影が船上からこちらを見下ろしている。距離があり、船が音を立てているにも拘わらずハッキリと聞こえたので、相当大きな声を出したのだろう。発した言葉の意味は、生存者確認。花中達を指した言葉なのは間違いない。

「サナ! 花中ちゃん!」

 次いで、船から自分達を呼ぶ日本語が聞こえた。

 聞き慣れた声ではない。

 しかし知っている声だった。だから花中は一瞬呆け、溢れ出る感情から無意識に両手で口を押さえた。

 そして思わず見遣ったサナの顔に、精魂が戻る瞬間を目の当たりにする。

「……………え……?」

 自我を取り戻したサナは、自発的に顔を上げた。

 最初はある意味では間の抜けた、心の薄い表情だったが……それがくしゃくしゃになり、目に涙を浮かべるのにさしたる時間は必要なかった。大粒の涙が幾つも頬を伝わり、海へと落ちて溶け込んでいく。

 これは幻覚? それとも全て夢だった?

 困惑のあまり、花中は呆然とサナの方を見続けていた。サナも、嗚咽を漏らしながら花中の事をじっと見つめていた。サナは泣きじゃくるばかりで、両手で抑えている口から言葉はとんと出てこない。しかし花中だって()()()()()なのだ。花中はこくんと、全てを肯定するように頷く事が出来た。

 アナシスを打倒した『あれ』は完全に野放しで、その目的も判明していない。島は壊滅し、恐らく居住にはもう適さない。戦闘の余波が何処まで広がったか、どれだけの被害が出たのかも分からない。

 課題は何一つ解決していないと言っても良い。いや、今後も多くの問題が襲い掛かってくるに違いない。そのどれもが頭を抱え、涙をこぼし、気が狂いそうな苦痛を与えてくるだろう。

 それでも花中とサナの顔には、笑みが戻ってくる。

 失われたと思っていた大切なものが、戻ってきたのだから――――

 

 

 

「ポピー! ミーモ!」

 乗組員の手によって甲板に引き上げられるや、サナは嗚咽混じりの大声を上げながら駆け出した。

 軍艦とは軍の管轄下にある『場所』だ。民間人が気軽に走り回り、ましてや許可なしに動き回って良いような場所ではない。そこかしこに迷彩服を着た軍人が立っており、花中達に視線を向けている。

 しかし今この瞬間、サナを捕まえようとしたり、銃を構えて警告する軍人は一人も居なかった。それどころか微笑ましそうに笑みを浮かべる者、照れくさそうに目を背ける者、中には目元を袖で拭っている者まで見られる。

 彼等は分かっているのだ。サナが、悪意を持って軍艦を駆けている訳ではないと。

 そして彼等にも分かるのだ。死んだと思っていた『家族』と再会出来る事が、どれだけ喜ばしい事なのかも。

「サナ!」

「サナ! サナ!」

 サナが駆ける先には彼女の父である玲二と、小麦色の肌をした痩せ型の美女 ― 考えるまでもなくサナの母だろう ― が両腕を広げて待っていた。サナは二人の胸に飛び込み、わんわんと泣き声を上げる。サナの両親はそんなサナの頭を撫でながら、愛おしそうに、もう離さないと言わんばかりに、力強く抱き締めた。

「おじさん……」

 花中は軍人達と共に玲二の下へと歩み寄る。親子の再会を邪魔するようで気が引けたので、控えめな距離を保ったままで。

 玲二は花中に気付くと、サナの時と同じように心底嬉しそうな笑みを浮かべ――――しかし見る見る間に、憤怒の感情が表に出てきた。あれ? と花中が戸惑う間もなく玲二は立ち上がり、サナを置いて花中の下へとやって来る。

「花中ちゃん……何処に行っていたんだ! 心配したんだぞ!」

「ひぅっ!?」

 そして飛ばされる喝に、花中は仰け反り、縮こまった。

 同時に、玲二への申し訳なさで心がいっぱいになる。

 海が荒れ、島が砕かれるほどの戦いが繰り広げられていたのだ。如何に数十キロ離れた位置とはいえ、モサニマノーマの住人達もアナシスや『あれ』の存在には気付いただろう。彼女達の争いがどれほど危険で、自分達の暮らす島の平穏が脅かされている事にも。

 彼からしたら、そんな異常時にも拘わらず娘と親戚の子が何処に居るかも分からない状態だったのだ。親の心を未だ知らぬ身である花中には、彼の心境は察するに余りある。今はただ、ひたすらに謝る事しか出来ない。

「……ごめんなさい」

「本当に……無事で良かった……」

 小さくなりながら謝る花中を、優しい笑みに戻った玲二はそっと抱き締めた。人肌の暖かさに、花中の目にも涙が浮かぶ。

「んーっ。ようやっと休めますねぇ」

 ……尤も、緊迫感のないこの言葉一つで、花中の涙は止まってしまうが。

 フィアである。彼女は背伸びをしながら、危機感など欠片もない顔で花中達の下へとやってきた。ミリオンとミィも乗船しており、ミリオンは軍人と何かしらの話をし、ミィは足下が不安なのかそろそろとした歩みで花中の方へと向かっている。

 あまりにも能天気なフィア達に、玲二の顔が再び険しくなる。彼はきっとフィア達の身も心配していただろうに、この態度なのだ。苛立ちの一つ二つも覚えたくなるだろう。

 そんな玲二の気持ちがこもった視線を向けられ、気付いたフィアは肩を竦めるだけだった。

「おっと花中さんだけでなく私にもお説教ですか? 面倒なのでそれは勘弁願いたいところですしむしろ感謝してほしいぐらいですけどね。これでもあなたの娘と花中さんを守っていたのは我々なのですから」

「……一体何処で守っていたんだい?」

「あなた達が知るどんな場所よりも安全なところです」

 はぐらかすようなフィアの物言いに、玲二は一層顔を顰める。娘であるサナや親戚である花中は兎も角、フィア達は玲二にとって『赤の他人』だ。あくまで花中の友人という立場でしかない。怪しい言動を取れば、猜疑心を抱くのは当然だった。

 勿論フィアは噓を吐いている訳ではない。彼女が花中達を守った事も事実である。フィアがそれを正直に話さないのは、花中が日頃から頼んでいる、自分が人間でない事を隠してほしいという約束を果たそうとしているだけだ。彼女は噓が下手 ― というよりそのための能力に欠ける ― であり、結果はぐらかすような言い方になっているに過ぎない。花中でもフィア達の力を隠したまま、島に居なかった状況への言い訳など思い付かないのだから、そこを責めるのは酷というものである。

 いっそ本当の事を全て話してしまうのも、相手が相手なので悪くはないだろうが……此処は軍人がたくさん歩いている。サナの暴挙は見逃してくれた彼等だが、流石に『何処の馬の骨とも知れぬ輩』である花中達の監視を怠ってはいないだろう。自分達の話に聞き耳を立てている可能性は高く、迂闊にフィアの正体を明かせば聞かれる恐れがある。叔父に全てを打ち明けるとしても、それは今ではない。

「あ、あの、ところで、おじさん達は、どうやって、助かったのですか? 島の、他の人は?」

 花中が選んだ対応は、一旦話を逸らす事だった。

 とはいえ何も適当な話を振ったのではない。アナシス達の激戦をどうやって切り抜けたのか、この軍艦はなんなのか、島で暮らしていた人達は全員無事なのか……どれも知りたい事には違いなかった。教えてもらえるなら、今のうちに知っておきたい。

 玲二としても、此処でフィアを問い詰めても無意味だと思ったのだろうか。彼は微かに眉を顰めたが、諦めたように肩を竦めると、花中の疑問に答えてくれた。

「……島民は全員無事だよ。あの怪物達が現れてすぐに、この船が助けに来てくれたんだ。私財なんてろくに持っていない文化だったから、避難はスムーズに進んだよ」

「怪物が現れて、すぐに? あの、この船って……」

「なんでもアメリカ軍の駆逐艦らしい。まぁ、あくまで彼等が自称しているってだけではあるが」

「アメリカ軍……」

 玲二の補足を聞いた上で、花中は辺りを見回してみる。しっかりと観察してみれば、軍人達の肌は白や黒、黄色系など非常に多様だ。顔立ちも西洋系からアジア風、ラテン系など様々。国家の成り立ちと今までの移民政策故に『人種のるつぼ』とまで呼ばれるほど人種が多様なのはアメリカの特徴の一つだ。無論あくまで特徴に過ぎず、アメリカ関連である事の証明とまではいかないが。

 何より、解せない。

 確かにモサニマノーマはアメリカ領だが、巨大生物達が暴れ始めた時、偶々近くを軍艦が航海していたなど都合が良過ぎるのではないか? モサニマノーマは太平洋のど真ん中、アメリカ本土から七千キロも離れた位置に浮かぶ島だ。仮にこの近くを通る軍艦があるとすれば、何かしらの作戦行動をこなしている最中だと思われる。形式上は『自国民』の危機とはいえ、軍事的機密がたっぷり詰まった作戦行動中の戦闘艦に一般人を乗せてくれるものだろうか?

 きっと玲二も花中と同じ疑問を抱いたのだろう。先の話に含みがあった事からもそれが窺い知れる。

 つまり彼の話を聞いていれば、花中達が抱いた疑念を察する事は第三者にも可能な訳で。

「何か説明が足りないところがありましたでしょうか? もし疑問点があれば、私の方から納得がいくまで説明致しますが」

 不意に投げ掛けられたこの言葉に、花中はビクリと身体を震わせた。

「……おっと、艦長さんじゃないですか。まさかと思いますが、私の娘をわざわざお出向かいに?」

 玲二が話し掛けた相手は、何時の間にか花中達の傍にやってきていた一人の男性。肩幅が立派な黒人男性で、年頃は四十代ぐらいだろうか。服装はやはり迷彩服なのだが、他の軍人と比べ小綺麗で、地位の高さを窺い知れる。彼は顎髭を伸ばしており、切り揃えられた髪と相まって荘厳な雰囲気を醸していた。しかし浮かべている笑みは朗らかで、年相応の威厳や軍人らしさのような強張ったイメージを薄れさせる。

 例えるなら、優しい『父親』のような雰囲気の人、だろうか。基本的に男性が怖くて萎縮しがちな花中であるが、彼となら幾らか落ち着いた会話が出来そうだと思える風体だった。

「そのまさかです。新たな生存者を確認し、救出したとの報告が上がったため、確認に来ました。後で軍医の診断を受けてもらいますが、見たところ無事なようで安心しましたよ」

 玲二からの問いに、艦長と呼ばれた男性は日本語で答えた。生まれも育ちも日本である花中からしても、彼の日本語はとても上手い。実は日本生まれの日本育ちなんだ、と言われたら信じてしまいそうである。

 世界に名立たるアメリカ海軍の艦長なのだからおバカという事はないとしても、こうも日本語に堪能なものなのか? 脳裏に浮かんだ疑問に花中は顔を顰めた――――そこを見計らったかのように艦長が花中の方を見たので、花中は飛び跳ねるほどに驚いてしまった。別段悪い事を考えていた訳ではないが、猜疑心は抱いていた訳で。おろおろもじもじ、一気に挙動不審な少女となってしまう。

 そんな花中の態度を見て、艦長は快活に笑った。笑われている事は花中もすぐに気付いたが、あまりにも明るく笑うものだから嫌な気がしない。むしろ照れ臭くなってきて、花中の方も笑みが零れる。

 花中の心が弛みきっていると、艦長はそっと近付いて耳打ち。

「後で迎えの者を送りますので、別室でお話しませんか? 『人間じゃないお友達』も是非ご一緒に」

 その一言で、花中の解れた笑みは一瞬で凍り付いた。

 艦長は花中の耳元から離れると、先程までと変わらない ― しかし最早人の良さなど感じられない ― 笑みを浮かべる。そして花中の横をわざとらしく通り過ぎ、この場を後にした。

「おやおやすっかり見透かされてますねぇ……なんでですかね?」

 花中の隣に居たフィアには先の話が聞こえていたようで、しかし理由が分からず首を傾げる。玲二に至っては聞こえていなかったようで怪訝そうな顔をしていたが、艦長が耳打ちした際の言葉に原因があるのは察したようで、遠ざかる艦長の背中を睨み付けていた。

 そして花中は一人縮こまりながら震え……やがて、大きなため息を漏らした。自分の頬をぺちんと叩き、先程まで胸中で淀んでいた感情を一掃。身体に残骸一つ残すまいと荒々しく鼻息を吐く。

「あ、おじさん。えと、わたし、ちょっとこの船を、見て回りますね」

 気持ちを切り替えた花中は、玲二にそう話を切り出した。

「む……それは」

「大丈夫です。近くをうろうろするぐらい、ですし……それより、おじさんは、今はサナちゃんの傍に、居てあげてください。わたしが、言えた事じゃない、ですけど、サナちゃん、すごく、心配していましたから」

「……………すまない」

 引き留めようとする玲二だったが、娘の名前を出すと押し黙った末に頭を下げる。それからすぐに彼は未だ母と抱き合っている愛娘の下に駆け足で戻って行った。

 叔父がサナの下に戻ったのを確かめ、花中も歩き出す。フィアも花中の後を追う。

 周りから『人』が居なくなった花中の傍に一人の軍人がやって来るまで、さして時間は掛からなかった。

 ……………

 ………

 …

「ようこそ、駆逐艦ロックフェラーの艦長室へ。思っていたよりも狭い部屋だろうが、我慢してくれ」

 若い女性軍人に連れられ、花中とフィアが訪れた部屋には、ほんの数分前に花中と接触した黒人男性こと艦長の姿があった。

 彼は腰掛けていたデスクの椅子から立ち上がると、花中達の下へと歩み寄り、友好を示すように手を伸ばしてくる。敵対の意思はない、と言いたいのだろうか。花中としてもケンカ目的で来た訳ではない。勇気を出して手を伸ばし、花中からも友好を示す。

 花中がぎこちなく握手を交わす最中、艦長は案内してくれた女性軍人に離席しても良い旨を英語で伝える。女性軍人は敬礼をし、速やかに部屋から退出していった。

 艦長は花中から手を放し、自分のデスクに戻る。それからデスクの向かいにある高級感のあるソファーに手を差し向け、座るよう促してきた。花中は逡巡した後、恐る恐るソファーに腰を下ろした。フィアは警戒心なく、花中の隣にぽふんっと座る。何時もらしいフィアの態度に僅かながら緊張が解れた花中は、辺りを見渡す余裕が出来た。

 艦長が言っていた通り、お世辞にも広いとは言えない部屋だった。花中の自室よりは広いが、自宅のリビングと比べると狭い……ぐらいか。花中達が座るソファーの前には小さなテーブルがあり、飲み物などを置くのに丁度良さそうである。壁の一部にテレビのようなものが備え付けられているが、本当にテレビなのか、艦内を映すモニターなのかは分からない。壁には他にも数枚の絵が掛けられており、ささやかな娯楽となっている事が窺い知れた。軍人の部屋なのでもっと無骨なものをイメージしていたが、意外とお洒落である。花中的には、クマのぬいぐるみなどがあるとベストなのだが。

「私の部屋は気に入ってもらえたかな?」

 一通り部屋を見渡したところで、艦長はフランクに話を切り出してきた。花中はお部屋観察を止めて艦長に注目する。

「改めて、自己紹介から始めよう。私はこの船の艦長を務める、アイク・マクスウェルだ。祖父が日本人でね、その関係で日本語は少しだけなら話せる。気兼ねなく日本語で話してくれ」

 艦長ことアイクは、朗らかな笑みを浮かべながら自分の名を打ち明ける。花中も自分の名を伝えながら、ぺこりと一礼。フィアは興味もないのか無視していたが、アイクはさして気にした様子もなかった。

 まるで、予想通りと言わんばかりに。

「……あの、一つ質問を、しても、良いですか?」

「ああ、構わないよ。ただ機密情報は答えられないから、そこは了承してくれ」

「はい。じゃあ……あなたは、人間ですか? それとも……『動物』?」

 花中が単刀直入に尋ねてみると、アイクは口を閉ざした。

 一瞬、これは機密なのか、と考え緊張する花中だったが、アイクの口元は相変わらず微笑んだまま。拒絶の意思も感じられない。

「……人間さ。生粋のね」

 やや間を開けた後、アイクは中年らしからぬ軽い口調でそう答えた。どうやら思わせぶりな沈黙を挟んだだけらしい。おちょくっているのか、本心を見破らせないためか……なんにせよ疲れそうな相手なのは間違いないと花中は確信する。

 しかし、話を聞かない、という選択肢はない。彼には聞きたい事が山ほどあるのだ……先の質問も含めて。

「……本当、ですよね?」

「さぁ、どうかな? そっちも隠し事はしないというのなら、こちらも誠意は示そう。そうだね、具体的には盗み聞きは止めてほしいな」

 アイクが虚空に向けて声を掛けたところ、部屋の隅に黒い靄が現れた。靄はやがて人の形を取り、質量を纏い、色を飾る。

 やがて靄は、ミリオンとなった。

 盗み聞きを見破られたミリオンであるが、その顔に浮かぶのは余裕の笑み。特段堪えた様子もない。恐らく見抜かれる事は最初から予想していたのだろう。

「あらあら、私の事も知っていたの」

「はっはっはっ。アメリカ軍の情報収集能力を見くびらないでくれ。世界中を監視しているのは人間だって同じさ。『連中』ほどではないにしても、ね」

 惚けた反応を示すミリオンに、アイクは誇らしげな笑いの中に自虐的な言葉を混ぜる。談笑する一人と一匹の姿は一見仲睦まじく、さながら談笑するよう。対してフィアはもう飽きてきたのか、脚をパタパタと動かして退屈そうにしている。

 唯一花中だけが、息を飲んだ。

 アイクは、自身を人間だと語った。これが嘘でないなら、彼は『世界の支配者』……タヌキのミュータントではない事を意味する。生粋のアメリカ人であり、正規の米軍兵士という訳だ。にも拘わらず彼はフィア達の正体、そしてミリオンの『能力』について知っていた。軍人である彼がフィア達の正体を知っていて、『祖国』にその情報がないとは考えられない。

 即ち、米国の『人間』はミュータントの存在を把握している。

 タヌキ達のような『秘密結社』がフィア達の正体を知っていたのではない。表にこそ出ていないが、正規の『国家』がミュータントを知っているのだ。フィア達の力は控えめに見ても人類にとって脅威。そしてアメリカはここ数十年で何度も戦争を起こしている、必要があれば戦う国家である。

 もしもアメリカがフィア達の排除を考えていたら……

 嫌な予感に、喉が干からびていくのを感じる。しかし花中はごくりと唾を飲み込むと、小さく息を吐いた。こう言っては難だが、本気で排除する気ならこそこそと不意打ちをかましてくる筈だ。わざわざ艦長室に案内などするまい。彼等の側に()()()()()争う気はないと、信じても良いだろう。

「……あの、何時から、フィアちゃん達の、事を……?」

「ん? そうだな、我々が君達の事を感知したのは、ほんの五ヶ月ほど前か。衛星が綺麗に捉えてくれたよ」

「五ヶ月……」

 逆算すれば、今年の七月ぐらいか。その頃は、確か『世界の支配者』との大決戦をやっていた。当時花中は地中に居たので外の事は知らないが、なんでもミサイルやらなんやらが雨のように降り注ぎ、地平線を埋め尽くすほどのロボットと戦った、との話フィア達から聞いている。さぞかし派手などんちゃん騒ぎだった事だろう……他国の軍事衛星に見付かっても不思議ではない。或いはその時の戦いが原因で政治的・軍事的空白が生じ、タヌキ達がミュータントの存在を隠しきれなかったのか。なんにせよ、アメリカ以外の国にもミュータントの存在がバレている可能性は考えておいた方が良さそうだ。

 そしてフィア達の危険性を目撃しても手を出さないのは、『世界の支配者』が繰り出した兵器を易々と片付ける力故に、か。

「結論から言えば、我々は君達と戦う意思はない。我々の祖国に危害を加えない限りは、ね」

「ふふん賢明な判断ですね。アメリカが人間の中でどれだけ強いか知りませんがこの私相手では勝ち目などありませんからね」

「いやはや、そうかも知れないな。はっはっはっ」

 胸を張るフィアに、アイクは楽しげに笑い返す。だが、その目は笑っていない。少なくとも彼は、フィアとは『違う意見』を持っているようだ。

 争うつもりはない、という信頼は簡単に飛んでいってしまい、途端に花中は不安を抱く。よくよく考えると、自分達は何故此処に呼ばれたのかも知らないではないか。これではうっかり失礼な事をして、相手を怒らせてしまうかも知れない。一軍人である彼が米国の決断を自由に決められるとは思えないが、彼の進言が国家の決断を左右する事はあり得る。

「あ、ぁの、えと……なんで、わたし達を、呼んだの、でしょうか……?」

 おどおどと、縮こまりながら尋ねる花中を見てアイクは肩を竦める。「おっと、これは失礼。つい世間話に花を咲かせてしまった」……謝る口調と嫌味がない笑みは朗らかで、敵意を感じない。

 そんな彼だから、今まで花中は話が出来たのに。

 まるで人間がそっくり入れ替わったかのように、アイクの雰囲気が一瞬で切り替わった。笑みは消え、目から感情がなくなる。今までの『父親』っぽさは失せ、完全なる軍人と化していた。小心者な花中にはこれだけで十分怖くて、反射的にフィアにしがみつく。

 花中を怖がらせた事への抗議か、フィアはアイクを睨み返す。鬼のような、という言葉が生温く思えるほどの形相だ。少なくとも花中から見れば、アイクの顔よりフィアの目付きの方が怖いぐらい。されどアイクは怯みもせず堂々とフィアと向き合う。フィアの威嚇も虚しく、花中は恐怖から逃れられない。

「君を此処に呼んだ理由は一つ。ミスナムギーから立ち去った、あの生物を倒すための知恵を借りたいからだ」

 花中が怯えるのを止めたのは、アイクが明かした『本題』への疑問で無意識に首を傾げてからだった。

 あの生物? 恐らく、アナシスと戦った『あれ』の事だろう。しかし知恵を借りたいとは? アメリカ軍には優秀な人材など山ほどいる筈だ。自分のような凡才がアドバイザーを担うなど、役者不足にも程がある。何か、裏があるのだろうか?

「あの、どういう、意味、ですか……?」

「そのままの意味だ。調べた限り、君達は過去に三度以上SDL……特殊危険生命体、君達がミュータントと呼ぶ生物と接触し、戦闘行為を起こしている。つまり我々米軍よりも、君達の方が『危険な生物』に対する経験は豊富という事だ。あの生物はSDLではないだろうが、人智を凌駕する存在なのは間違いない。もしかしたら我々には分からずとも君達なら気付ける事があり、そしてその知識があれば、兵士達の犠牲を最小限に抑えられるかも知れない。我々は米国のためなら命を賭す覚悟は出来ているが、犬死にを好みはしないのだよ」

「さらりと言ってますけど倒すつもりなんですね。人間ってこういう時はまず『あれ』がなんなのかを調べるものではないのですか? それとも既に正体とか目的をご存知とか?」

「いいや、全く。一応何処から来たのか、何時来たのかは分かっているが、それだけだ。だから本来なら、君が言うように調査をすべきだろう。しかし最早正規の手順を踏んでいる場合ではない。奴はその圧倒的な力で島を二つも破壊し、現在米国本土方向へと直進している。無論あちらが何かしらの呼び掛けをしてきたなら米国は応答するつもりだが、現状奴が何かしらのコミュニケーションを試みた形跡はない。君は直前まで大暴れしていた男が無表情でこちらに歩み寄ってきた時、真意が分からないからとじっとしているかね?」

「ご冗談を。問答無用で潰します。相手は既にこちらの縄張り内で好き勝手しているのですから文句など言わせません」

「その通り! 君とは話が合うね」

 フィアの意見に、アイクは嬉しそうに手を叩く。フィアも珍しく自分と同意見な人間と出会えて嬉しいのか、満面の笑みを浮かべながら胸を張った。

 その横で、花中は押し黙る。

 アイクの話を疑っている訳ではない。『あれ』の目的については花中も見当が付かないが、『あれ』は現れてからほんの数分で島を二つも破壊した恐るべき魔物である。しかもコミュニケーションが可能か以前に、そもそも知性があるかも分からない。研究には時間が掛かり、その間に『あれ』が更なる破壊を起こす事は十分にあり得る。既にモサニマノーマの住人が生活を奪われた以上、穏便な解決を図っている場合ではない。そして『あれ』は米国本土……三億以上の人々が暮らす地を目指しているという話だ。早急な『駆除』を行うべきであろう。

 そうなると当然戦いとなる。詳細不明だが、『あれ』はミュータント以上の力を持った存在だ。対抗するには人類最高の戦闘力を持った武器……つまり軍事兵器の使用、そのためのノウハウを持った職業軍人の投入は必須。しかし戦闘になれば兵士には生命を失う可能性が付き纏う。自国の軍人の生命を大事に思うのは何処の国でも同じだ。それに『人智を超えた生命体』に限れば、確かに米軍より花中の方が詳しいだろう。花中は米軍にアドバイス出来るかも知れないし、米軍がそれを期待する気持ちは自然かも知れない。故にそこに異論や疑問はない。

 花中が気にしたのは、アイクがさらりと語った言葉――――「何処から来たのか、何時地球に来たのか」、だ。

 もし『あれ』が自分の予想した通りの存在だったなら、自分達は……

 脳裏を駆け巡る、無数の『空論』。答えを訊かずにはいられなかった。

「……あの、あなたは、今……『あれ』が何処から現れたのか、知っていると、言いましたよ、ね?」

「ん? ああ、確かに言ったね」

「一体、何処から来たのですか? あなた達は、『あれ』をなんと呼んでいるの、ですか」

 花中の問いに、アイクは深く頷く。勿体ぶる事も、おどける事も、躊躇う事もしない。彼は淡々と、変わらぬ笑みを浮かべ続けるだけ。

 その笑みが微かに物悲しいものへと変わったのは、彼がゆっくりと口を開いた時。

「地球の外、宇宙からだ。故に我々は奴をこう呼んでいる……異星生命体、と」

 そして夢がつまった言葉を、忌々しげに語った時であった。




本作のアメリカが使っているのは英語ではなくエキサイト語です。
なので現実世界の英語と全然違っていてもなんの問題もないのです(英語力皆無者の開き直り)

次回は10/29(日)投稿予定です


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神話決戦7

 甲板上にて、サナは転落防止用の柵に身を預けながら海を眺めていた。

 地平線近くに居ても分かるぐらい大きな、黒い塊。

 あれがミスナムギーに住まう神の成れの果てだと、誰が信じるだろうか。最早黒焦げた木のようであり、遠目で見る限り生気など感じられない。恐らくこれから何百年と風雨と波を受け、少しずつ風化し、やがて瓦解するのだとサナは思った。

 長老は「あの方が戦ってくれたお陰で、自分達は逃げる事が出来た」と言っていた。確かにその通りだろう。あんなにも素早く動ける怪物が島に近付いたなら、自分達は逃げる間もなく殺されていたに違いない。島民達は誰もが神様が守ってくれたのだと感謝し、変わり果てた神に祈りを捧げた。

 だけど、サナには受け入れられない。

 サナにとって神様は、自分を助けてくれた『恩人』であり……恐ろしい嵐の夜にも負けない、お伽噺にに出てくるような英雄なのだ。お伽噺で語られる英雄は決して負けない。必ず勝利して、みんなを笑顔にしてくれる。神様はそういう方だと思っていた。あんな訳の分からない化け物も打ち倒してくれると心から信じていた。

 なのに。

「『思ったよりも早く帰れそうだな。ありゃあ死んでるどころか、何時まで形を保ってるかも分からんぞ』」

「『そうだな。モノがモノだけに監視はするだろうが、それは衛星で十分だろう。そうでなくとも、俺達は報告のため本土に戻る事になるだろうな』」

「『……尤も、家族と団欒している暇はないだろうが』」

 サナの後ろを通る兵士達が、英語で雑談している。モサニマノーマの住人であるサナには分からないと思っているのかも知れないが、サナは語学に堪能な父の影響で英語も多少分かるのだ。花中と再会したばかりの時は『日本語の思考』にしていたのでまさかの英語に戸惑ってしまったが、『英語の思考』にしてから聞けば日常会話ぐらいなら理解出来る。

 今すぐ彼等の言葉を、英語で否定してやりたい。

 だけど目の前に居る神様は、ぴくりとも動いてくれない。衝動のままサナは兵士達の方へと振り返り口を開くも、頭の中を真っ黒な神様が見たし、喉の奥がつっかえてしまう。どれだけ声を絞り出そうとしても、出てくるのは乾いた吐息だけ。

 結局、兵士達が遠くに行ってしまうまでサナは何も言えなかった。逃げるように顔を俯かせ、再び柵に身を任せる。

「よっす。ちょっとは元気になった?」

 そうしてしばし塞ぎ込んでいたところ、サナは後ろから声が掛けられた。

 振り向けば、花中が友達だと紹介していた少女……ミィが居た。何故か四つん這いになって、であるが。

 彼女が人間でない事 ― ネコという獣らしい ― は聞いている。獣なら四つん這いでもおかしくないが、今のミィは人の姿をしていた。ハッキリ言って変な体勢であり、悲しみで表情が固まっていたサナもこれには眉を顰める。

「……何してるの、あなた。花中ちゃんと一緒じゃないの? というか、なんで四つん這い?」

「いやー、あたし体重あるからさ。二本足で立つと床が抜けそうで怖いんだよねぇ。んで、あまり船の中を動き回りたくないから、花中達とは別行動してるの」

「どれだけ重いのよ。金属の床が抜ける訳ないでしょ」

「いや、ここだけの話さっきちょっと穴開けちゃった。なんか兵隊がいっぱい集まって騒ぎ出してさ、逃げてきたとこなんだよね」

 真顔で答えるミィに、サナは呆気に取られる。冗談か? とも思ったが……彼女達の非常識さを、サナは目の当たりにしていた。案外本当かも知れない。

 何時もなら、驚きと好奇心を抱き、ミィを質問攻めにしただろう。しかし今はそのような気分にはなれない。サナはため息を漏らし、三度海の彼方へと視線を戻す。サナの背中には、悲しみと悔しさがあった。

「さっきから何見てんの?」

 尤も、人間みたく背中で語らない猫には、サナの気持ちは察せられなかったらしい。サナは振り向かず、動かない英雄を眺めながら会話のための言葉をぽそりと零した。

「……アナシス様よ」

「ん? あー、確かに此処からでも見えるね。うーん、何度見ても真っ黒だなぁ」

 ミィは柵の隙間からサナと一緒にアナシスを眺めると、悲しみも同情もない、むしろ感嘆すら覚えていそうな感想を漏らす。

 別段、同情してほしいとはサナも思っていない。ミィはあくまで島外からの観光者であり、今日までアナシスの事すら知らなかったのだ。いきなり感謝しろとか、嘆き悲しめとか、そんな事は言えない。

 それでも、少しはこちらの気持ちを察してはくれないのか?

 苛立ちが段々と募る。いや、今になって思えばこのむしゃくしゃした気持ちは、()()()()()ずっと胸中を渦巻いていた。鬱積した感情は未だ吐き出せておらず、ぐちゃぐちゃになってこびり付いている。

「ま、落ち込んでも仕方ないし、元気出しなって」

 そんな時に、こんな言葉を掛けられたなら。

 サナの理性は呆気なく限界を超えてしまった。

「……何よ、それ」

「ん? 何って、一応励まし」

「ふざけないで! 大好きだった神様が、神様が……死んじゃったのよ!? 元気なんて、出せる訳ないでしょ!?」

「え? あ、えと、ごめん……いや、でも」

「五月蝿い! もうほっといてよ! 一人にさせて!」

 サナの叫びに、ミィは狼狽えながら数歩後退り。ゆっくり背を向けると、這いずるような動きでサナから離れる。

 荒れる呼吸を少しずつ整えながら、サナはミィが傍から居なくなるのを見届ける。途端、目から涙が零れた。力強く目元を擦って涙を拭い、サナは動かなくなったアナシスの事をまた眺める。

 ミィとのやり取りを見ていた兵士達は、交わされた日本語は分からずとも、サナの心が傷だらけである事には気付いたのだろうか。しかし誰も彼女に掛ける言葉が思い付けないようで、歩み寄る事も出来ていない。感情の距離が、目に見える形となって現れていた。

 それでも誰もがサナを見ていた。人としての本能なのか、苦しむ人は見過ごせないとばかりに。

 そしてそんな中、唯一サナに背中を向けて遠ざかっていたミィが首を傾げる。

「……なんでみんな、アイツが死んだって思ってるんだろう?」

 ぼやいた疑問の言葉は船に打ち付ける波の音に消され、誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 駆逐艦ロックフェラーの艦長室では、沈黙が支配していた。

 異星生命体。

 地球外からの来訪者を示すこの言葉に、花中は言葉を失った。宇宙は広い。太陽のような恒星が一つの銀河に数千億存在し、その銀河が数千億~数兆存在すると言われているのだ。何処かに地球によく似た惑星があって生命が発生していても不思議はないし、そもそも地球的な環境でないと生命が誕生しないという確証もない。理系的好みの持ち主である花中としては、地球外生命体の発見は飛び跳ねたくなるぐらい興奮するビッグニュースである。

 しかしそれが地球に飛来したと聞いたなら、にわかには信じられない。

 宇宙とは人類の力が未だ足下にも及ばない、巨大な虚空が横たわる世界なのだから。

「……なんの冗談です? それとも暗号ってやつですか?」

 沈黙を打ち破ったフィアも、確認というより猜疑心からアイクに質問していた。ミリオンも信用していないのか、訝しげな眼差しを向けている。

 そんな『追求』を受けるアイクは、飄々と肩を竦める事も、にっこりと破顔させる事もない。むしろ崩れる事のない真摯な眼差しで、花中達を見つめ返す。

 それだけで、アイクの言葉に嘘偽りがないと花中は『確信』出来てしまった。

「生憎、冗談でも暗号でもない。そのままの意味だ。奴が大気圏を突破し、地球圏に飛来した瞬間を合衆国の観測衛星が捉えている。反面、ICBMよろしく地上から打ち上げられた形跡は一切確認されていない。故に、地球外から飛来したと考えるのが妥当だ」

「それが事実だとして、宇宙生物だとする根拠は? 例えば宇宙船とか、ロボットの可能性もあると思うのだけど」

 呆けた花中に代わり、ミリオンがアイクに問う。

 アイクはその問いに、殆ど間を置かずに答えた。

「可能性は否定出来ない。が、観測衛星のデータによると、奴の体積は刻々と増加しているらしい。何かを食べて、成長しているようだ。放熱量の推移などから、恒常性もあると推測されている。現状ロボットというより生物に近い反応を見せているためそう呼んでいる……つまるところ便宜上の呼び名だ。実際に生物かどうかはあまり重要じゃない」

「ふぅん。さっきから観測衛星がうんたら言ってるけど、随分都合良く撮影出来たものね。アメリカならたくさん衛星を持ってそうだけど、そう都合良くモサニマノーマを捉えている衛星があるものなのかしら?」

「実を言えば我々はモサニマノーマ及びミスナムギーを監視していてね。偶然にも奴はそこに侵入してきたから、十分な観測が行えたのさ」

「……監視?」

 不穏な言葉に、ミリオンが聞き返す。

 しかし答えは花中にも勘付けるほど明白だった。ミリオンも疑念など抱いていない様子。フィアだけが、そもそもミリオンが何を気にしているかも分かっていないのかキョトンとしている。

 アイクは花中とミリオンの顔を見て、見透かされている事を察したのか。はたまた最初から秘匿する気など毛頭ないのか。開かれた口から出る言葉は軽く、隠そうという意思すら感じられないものだった。

「ミスナムギーの巨大生物……島民がアナシスとして呼称している対象については米国も把握していたのだよ。あの島が米国領となり、火山の観測を始めた、六十年以上前からね」

 ただし、その『意味』は口振りほどは軽くなかったが。

「まぁ、そりゃそうでしょうね。いくら本土から離れてるとはいえ、自国内にあんな怪獣が暮らしているのに気付かないとか、間抜けにも程があるし」

「尤も、発見時は古代生物の生き残りとか、突然変異体程度にしか思われていなかったがね。つまり、普通の生物だ。研究対象ではあったが、脅威とまでは認識されていなかった訳だな」

「あら? 随分と甘い評価だ事。火口内部に生息する生物なのに」

「マグマの温度は精々千度前後。対して第二次大戦頃の我々でも、三千度の高熱を生み出す爆弾を多数保有していた。マグマに耐えるからといって、我々の攻撃が通じない理由にはならないのさ。確かに巨体故表皮が厚く、戦車砲などの通常兵器が通用し難い可能性はあったが、当時のアメリカは既に『奥の手』を完成させている。撃破は容易だと考えられていた」

 あの時までは――――最後にぽつりと零したこの一言が、米軍内で起きた事を粗方物語っていた。

 米軍の認識は、決して驕りなどではないだろう。

 マグマに潜み、数百メートルを超える巨躯とは驚くべき存在だが、生物には違いない。小さな銃は通じなくとも艦船の砲門は通用しそうだし、ましてや六十年前……第二次世界大戦が終わった頃は航空戦力が著しく発展した時代である。地上の獣に空への攻撃手段などある筈がない。空から爆弾を落とせばノーリスクで攻撃出来るのだから、勝利を確信するなと言う方が無理だろう。

 無論いざ動き出し、万が一にも米本土へと上陸すれば多大な被害をもたらす。しかし上陸しなければ、ちょっと大きいだけのヘビだ。監視はすれど、それだけで十分……と思っても仕方ない。

 しかし、彼等は『現実』を知る機会に恵まれてしまった。

 フィア達とタヌキ達の戦闘である。米国はこの戦いでミュータントの存在を知るのと共に、その圧倒的な戦闘能力を目の当たりにした。そして思い出したのである。自国内に、とんでもない怪物が暮らしていた事を。

 きっと慌ただしく用意したに違いない。ミスナムギー上空に衛星を配置し、事が起きた時迅速に対応するため速力に優れる駆逐艦を近海に停泊させる。そうしてアナシスが何かしでかさないよう、しでかしたならすぐに対応出来るよう、監視していた訳だ。その監視網のお陰で島民は素早く救出されたのだから、目論見とは違うものの結果的には英断だったと言えよう。

 ……或いは花中がこの島に来ている事を知っていて、しかし誰が花中なのかを選別する暇などないのでまとめて救助しただけかも知れないが。

「さて、我々の事情と現状については教えた。ここで改めて頼もう。あの異星生命体について、君なりに分かった事を教えてほしい」

 話を終え、アイクは改めて花中に意見を求める。しかし花中はきゅっと唇を噛み、押し黙ってしまう。

 米軍の方針……『あれ』を倒す事に反発がある訳ではない。確かに正体も目的も掴めぬ相手だが、無作法に侵入しておきながら『原住民』からの攻撃に即座に反撃する態度……文化の違いだとしても、今後人類と分かり合えるような気がしない。そしてアナシスと交戦した際、容赦なく島も海も破壊した。地球の生命と交流する意思があるとは思えず、人間を殺す事にも躊躇はないだろう。非常に危険な存在だ。

 何よりアナシスを前にしても平然と対峙していたフィア達が警戒心を剥き出しにし、アナシスに至ってはいきなり攻撃を仕掛けるようなモノなのだ。彼女達の本能に訴えかける、何か……『悪いもの』のような気がしてならない。ありのまま本音を言えば、倒せるなら倒した方が良いと花中は思っていた。

 花中が押し黙ってしまったのは、結局のところ言葉が思い付かなかったからに過ぎない。宇宙からやってきた生命体についての知識なんて、いくら花中でも持ち合わせていないのだから。

「……すみません。何も、分からない、です」

「そうか。では仕方ない、このままプランAに移るとしよう」

「プランA? なんですかそれ」

 花中の答えを聞くや流れるように決断するアイクに、フィアが可愛らしく小首を傾げながら尋ねる。軍人がプランAと言ったなら、それは恐らく軍事作戦を示す言葉。一般『魚』であるフィアに教えてくれる筈もない。

「あの異星生命体に軍事攻撃、つまりミサイルや艦砲射撃を雨のように降らしてやるって事さ」

 等と思っていた花中だったが、アイクは穏やかで人当たりの良い笑みを浮かべると、意外な事にあっけらかんと答えてくれた。

 あまりにも簡単に教えてくれるので、花中は思わず目を丸くする。そして答えてくれる筈がないと未だ考え続ける脳に反して、口は疑問を呈していた。

「ぐ、軍事攻撃を、するのですか?」

「うむ。異星生命体は現在、時速七百キロ以上の速さで太平洋を北東方向に進行している。奴の気持ちなど知りようもないが、仮にこのまま直進した場合、あと九時間ほどでアメリカ本土に到達するだろう。本土近くを戦場にする訳にはいかない以上、最早猶予はない。その前に叩くつもりだ」

 花中の問いにアイクは答えてくれる。が、それは花中の動揺をますます掻き立てた。確かに米軍が『あれ』を倒すつもりなのは聞いていたし、花中としても倒した方が良いと思っている。しかし軍事攻撃を始めると聞いて、『平和な国』である日本育ちの花中にはすんなりと受け入れる事が出来なかった。本能的には賛同しても、人間的理性が暴力を拒絶したのだ。

 無論、花中に米軍を止める権限も権利もない。それでも矛盾した反発心が口を開かせ、否定の言葉を連ねようとする。

 葛藤の末、花中は攻撃行動への問題を提起した。

「で、でも、その……すぐに攻撃なんて、出来るのですか? 米国本土から、モサニマノーマまで、七千キロは、あります。あまりにも、相手が遠いの、では……」

「うむ、君の指摘は尤もだ。しかしその懸念は杞憂と伝えておこう。実は既に太平洋上には艦隊が展開していてね、それをぶつける算段なのだよ。まぁ、『このため』に用意した戦力ではないがね」

 アイクは席から立ち上がり、皺の寄った迷彩服を正す。表情は今や穏やかだが、しかし雰囲気は違う。闘志に満ちた、戦士の気配を感じさせた。おどおどとしていた花中も、この気配に飲まれて背筋を伸ばしてしまう。

 そして彼が語る『攻撃計画』がもう止められないものだと悟り、反発心が失せていくのを感じた。

「言っただろう? 我々はこの数ヶ月、島民がアナシスと呼ぶ巨大生物の監視と警戒をしていたと。双眼鏡だけを装備した警備員が、とち狂った暴漢を止められると思うかね?」

「……予め、配備していたのですか。アナシスさんを、止めるための戦力を」

「その通りだ。ミサイル駆逐艦、ミサイル潜水艦による遠距離攻撃を主体とした作戦を計画している」

「あら、その程度でアレに勝つつもり? 私でも最新鋭の船を十隻以上沈めた事があるし、ミサイルぐらいなら耐えられるんだけど」

「確かに君達の力は凄まじい。アナシスの強さは不明だったが、君達以上の可能性は十分にあった。だから艦艇数では君が相手したもののを遥かに上回る、百隻以上を用意している。それに本土から多数の爆撃機が発進し、バンカーバスターをお見舞いする予定だ。弾道ミサイルも喰らわせてやる」

「んー? 要するに山ほどミサイルや爆弾を用意したって事ですか? やっぱり我々の事を嘗めてません?」

「ほんとほんと」

 自慢気に語るアイクに、フィア達は冷めた様子。『世界の支配者』との経験もあってか、()()()()で自分達を倒せると思われているのが不服らしい。花中としても、ミサイルや空爆が、ミュータントであるアナシスを倒してしまった異星生命体に通用するとは思えなかった。

「確かに、もしかするとこれでも火力が足りないかも知れない。その時は不本意ながら、プランBを実行するしかないだろう」

 花中までも疑念を抱くと、アイクは渋々……けれどもわざとらしく、力不足を認める。同時に、次善の策もあると語った。

 花中はキョトンとする。

 本来プランBは、プランAが通じなかった時の苦肉の策だ。例えば必要なコストが膨大、予想される犠牲者数が多過ぎる、自国の秘密がバレる、国際的な批判を浴びる等々……プランAよりも大きな、或いはプランAにはないリスクがあるからこそ『次善の策(出来ればしたくない)』のである。

 なのに何故、プランBについて語ったアイクは誇らしげなのか?

「あの、プランBって……?」

「なぁに、そう大した話じゃない。端的に言えば、君達があの動物達からは受けなかった攻撃をするだけさ」

 花中が無意識に尋ねた言葉に、アイクは胸を張りながら答えてくれた。

 その時アイクの浮かべた笑みを、花中は決して忘れない。

「我々人類は、神の炎を持っている。それを使う時が来ただけさ。久しぶりにね」

 人間らしくて、力強くて、おぞましい、その笑みを……

 

 

 

 太平洋のど真ん中を、無数の艦船が進んでいた。

 海を駆ける駆逐艦、駆逐艦に追随する巡洋艦とフリゲート、水中を猛進する潜水艦。後方には多数の補給艦が控え、上空には多数の航空機が飛び交う。艦船は数隻で一つの編隊を組み、個々の編隊は数十~数百キロほど間隔を開けて航行していた。

 そしてそれら大船団の最後尾に存在するのは、七隻の原子力空母。

 一見して、それぞれ別の任務を帯びた編隊が自由に動いているだけに見えるだろう。だが、これらの編隊は全てが一つの任務――――『異星生命体への攻撃』を目的としていた。総数にしてなんと百五十隻以上。これはアメリカ海軍が保有する全軍艦の三割にも上る。空母に至っては六割以上だ。

 現代戦において、これほど多数の軍艦を投じた作戦など存在しない。ましてや異星からの来訪者との戦闘など、間違いなく人類史上初である。

「……ついに、この時が来たか」

 この前代未聞の作戦の指揮を命じられたジョージ・ウィリアムズ提督は、ニミッツ級原子力空母マライアキャリーにて静かに独りごちた。

「本来のプランとは違いますがね。ですが、現時点でどの艦船からも大きな混乱は伝わってきていません。上層部の判断は正しかったようです」

 ジョージの独り言を聞き、傍に立つマライアキャリーの艦長が現状と自身の意見について述べる。ジョージは少し考え込み、無言のまま頷いた。

 この数ヶ月、アメリカ海軍はアナシスと戦う準備を急ピッチで進めてきた。

 アナシスの力は、かつてアメリカが戦ったどんな敵よりも強大だと推測された。兵器の質は勿論、その数も大量に必要である事は容易に想像出来た。そのため米軍は、()()()()()()()程度の一般兵士にも情報を開示。百五十隻以上の大艦隊で動くための準備をしておいたのだ。無論兵士とはいえ人の子。誰かが情報を漏らし、全世界にアナシスの事が知れ渡る危険はあった……

 だが、それがどうした。

 パニックは避けるべきだが、そのために戦う力を失っては本末転倒だ。故に米軍はそのリスクを飲み、アナシスの存在を広く兵士達に伝えたのである。予想通り何人かは口を滑らしたようだが、写真の一つもなければ悪趣味なオカルト本ですら紹介してくれない内容。現時点でアナシスの存在を認める一般人はいない。そして事前に知らされていた事で、名目上バラバラの任務で太平洋を航海していた百隻超えの大艦隊は今、ややぎこちないながらも統率の取れた動きが出来ている。

 結果的に、米軍は機密の保持と十分な統率を成し遂げたのだ。強いて現状問題があるとすれば――――戦う相手がアナシスではなく、異星生命体という完全なる未知である事ぐらいか。

「異星生命体との距離は?」

「現在千九百キロを切りました。間もなく交戦圏内に入ります」

「予想通りの進行スピードだな……分かった。スケジュール通り作戦を始める。全艦に通信をつなげろ」

「了解。全艦に通信をつなげ」

「了解」

 ジョージの指示を受け、艦長がマライアキャリーの船員に命令を飛ばす。命令を受けた通信担当の兵士は熟練の技術を以て素早く手続きを行い、通信の準備を整えた。

 通信担当の兵士から準備完了を伝えられ、ジョージは深く息を吸い込む。米軍が採用しているマイクは高性能だ。さして大声を出さずとも、彼の声を拾い、遠方の船までノイズのない自然な音声を届けてくれるだろう。

 それでも大声を出そうとするのは、彼自身が出したいからに他ならない。

「諸君、私はジョージ・ウィリアムズ提督である。まず、君達の此度の作戦への参加に感謝を述べよう」

 ジョージの喉は震えていた。大声を出していなければ、兵士達にその震えを見透かされたかも知れない。

「我々の準備は万端とは言えない。だが、我々アメリカ海軍は世界最強の軍隊である。即ち我々に勝てなかった敵は、世界のどんな軍隊であろうと勝てない敵だ。それは人類の敗北を意味し、この星が奴のものとなる事を意味する」

 ジョージの身体は震えていた。自分の指揮によって、何万もの兵士が、三億を超えるアメリカ国民が、そして七十億を超えた人類が、危機に立たされるかも知れないのだから。

「怯むな、臆すな、負けを認めるな! 奴を打ち倒し、アメリカが地球のみならず、宇宙においても偉大な国家である事を示せ!」

 それでもジョージの心は震えていなかった。

 国家の命運すら左右しかねないこの戦いに参加出来ない方が、心苦しいのだから。

「全艦、戦闘開始!」

 ジョージの咆哮を受け、アメリカ海軍は一斉に動き出した!

 さて、ここで問題である。

 現在アメリカ海軍と異星生命体は、距離にして二千キロ近く離れている。この状況で、アメリカ海軍は異星生命体と戦えるのか?

 数年前だったなら、答えは『否』であった。

 何故ならば当時採用されていた対艦ミサイルであるハープーンは、射程が百数十キロ程度しかなかったからである。射程が長い対地ミサイルは、誘導方式の違いから海上の敵に当てるのは難しいので代用出来ない。もし数年前にこの異星生命体が出現したなら、アメリカ海軍は十分も立たずに接触する近距離での戦闘を強いられただろう。

 しかし、今は違う。

 近年開発された新型対艦ミサイルにより、この問題は解決したのだ。この新型ミサイルの射程は千八百キロにも達する。即ち現代のアメリカ軍ならば、遥か遠方の異星生命体への攻撃は容易であった。

 ジョージが下した命令は電子通信によって瞬時に伝わり、太平洋上に散開する艦船が呼応。次々とミサイルを撃ち上げた。そのどれもが、数発も当たれば大型艦であろうと轟沈するほどの威力を秘めたもの。そして亜音速で飛行する高速物体でもある。

 異星生命体は時速七百キロという航空機並の速さで移動しているが、速度に緩急はなく、動きも直線。おまけに三百メートル超えの巨体である。いくら比較的動きの遅い相手を想定したミサイルとはいえ、現代兵器の誘導性能と計算能力を以てすれば命中させる事は可能となる。空を覆い尽くすほどの、何百という対艦ミサイルが一点に集まり……異星生命体に直撃。

 遥か千数百キロ彼方で噴き上がった紅蓮の炎を、海軍兵士達は衛星によるリアルタイム映像により確認した。ミサイルは立て続けに爆炎へと突っ込み、次々とその使命を果たす。一発一発は大した ― 精々十数メートルの範囲を木っ端微塵にし、分厚い軍艦の装甲をぶち抜く程度の ― 威力はないが、何百も撃ち込まれれば合計のエネルギー量は凄まじいものになる。

 並の軍艦ならば、今頃跡形も残っていないだろう。

 並の軍艦、ならば。

「目標健在。進行スピードに変化なし」

 オペレーターからの報告に、ジョージは苦虫を噛み潰したように顔を顰める。

 数ヶ月前に発生した、ミュータントとの軍事的戦闘。アメリカは傍観者であったが、当時の戦いでは人型サイズの個体に多数のミサイルが撃ち込まれたと聞いている。推察するに直撃は稀だったろうが、しかしそれでもミュータントがミサイル攻撃に耐えた事実は揺らがない。数百メートル級のアナシス、そのアナシスを上回る戦闘力の持ち主である異星生命体にミサイルが通用しない可能性は十分にあった。

 だが、全く効いていないとは思えない。恐らく装甲に小さな傷は付いているだろう。爆炎による加熱も起きている筈だ。冷却が間に合わないぐらい絶え間なく攻撃すれば、いずれ装甲が熱によって脆くなる。一発二発では足止めすら叶わずとも、攻撃し続ければ倒せるに違いない……小さな蟻でも何万と群がれば、人間さえも屠るように。

「全艦、攻撃を目標の球体前方部分に集中させろ。空母編隊は攻撃機を発進。対艦ミサイルを順次撃ち、攻撃を途切れさせるな」

「了解。全機発進準備を開始。準備が出来た機体より離陸し、目標から距離三百キロ地点まで移動しろ」

 ジョージの命令に呼応し、艦隊からはミサイルが、空母からは攻撃機が飛び立つ。衛星カメラで捉えた映像は、次々と命中するミサイル、そして黒煙に包まれる異星生命体を写し続けた。

 何時までも。

 何処までも。

 ――――異星生命体は、止まらない。

「何故だ……何故止まらない……!?」

 ジョージが思わず漏らした言葉は、マライアキャリーの搭乗員のみならず、この戦闘に参加した全ての兵士の想いであった。喰らわせたミサイルの数は、最早五千を超えている。既に何隻かの船ではミサイルが尽きており、この数は間もなく加速度的に増えるだろう。攻撃機による対艦攻撃も順次始まっており、こちらも何百ものミサイルが放たれ、役目を終えた。

 にも拘わらず、異星生命体は動きを変えない。

 即ち米国海軍の攻撃が、まるで通用していない事を意味していた。何よりも屈辱的なのは、異星生命体はこちらの攻撃をいくら受けようと反撃すらしてこない事。それはつまり奴がアメリカ海軍の猛攻を、ハエが飛び回るほどにも感じていない証である。

 まだ使っていない武器となると、機銃か艦砲ぐらいだが……性質や用途が違うので一概には言えないが、どちらもミサイルほどの破壊力は持っていない。何より問題なのは、艦砲ですら有効射程は数十キロ程度、機銃など数キロしかない点だ。時速七百キロで爆走している巨大生物相手に、数十キロも接近するなど自殺行為である。

 海軍の装備では、これ以上の効果は上げられそうにない。

「っ! 空軍より入電! 目標を攻撃範囲に捉えた、間もなく攻撃を開始するとの事です!」

 打開出来ない壁を前にして鬱屈とした艦内に、オペレーターの弾んだ声が響いた。途端、艦内に再び活気が戻る。

 航空支援。即ち空軍基地から発進した、無数の爆撃機による一斉攻撃だ。衛星カメラが捉えた映像には、大きな飛行機……B-52爆撃機からなる総数五十機の大編隊が異星生命体目指し飛ぶ姿が映し出される。異星生命体は興味もないのか爆撃機を気に掛けた素振りもなく、B-52は難なく異星生命体を射程内に収めた。

 瞬間、全B-52の下部が開き、多数の爆弾を投下し始める。その量は一機当たり八トン。五十機で合計四百トンもの爆弾が落とされ、その全てが異星生命体目指して降り注ぐ!

 異星生命体は迎撃も何もせぬまま爆弾の直撃を受け、巨大な爆炎に一瞬で包まれた。仮にこの爆炎の中に戦車や基地があったなら、完全に気化しているに違いない。

 しかし米国空軍の猛攻はまだ終わらない。旋回したB-52は、今度は両翼に装備していた対艦ミサイルを発射。追い討ちを掛ける。

 そして満を持して現れたのはエイのような形をした飛行機、B-2爆撃機が八機。

 高度一万メートルもの高さを飛行するB-2爆撃機の底が開くや、投下されたのはバンカーバスター。

 頑強な防空壕を破壊するための爆弾が、容赦なく異星生命体に突き刺さる! 無論これも一発二発ではない。正確に、同じ場所に、六十発!

 衝撃波で舞い上がる海水がさながらキノコ雲のような形を取り、その圧倒的な破壊力を物語った。

「これならば……」

 衛星からの映像を見て、ジョージは勝利を確信する。この攻撃に耐えきれる基地などアメリカ軍にも存在しない。ましてや相手は生物だ。一万発近いミサイルを受け続けたその身に、地中貫通弾に耐えるための強度など残っている筈が――――

「も……目標健在!」

 その希望は、呆気なくへし折れた。

「ば……馬鹿な!? あの攻撃を耐えたのか!?」

「耐えたどころか……感じてもいないようです。目標の速度、進路共に変化なし。反撃すらありません」

「なっ……ぁ……」

 オペレーターの報告に、ジョージは間の抜けた声を漏らしてしまった。

 あり得ない。こんな事、あって良い訳がない。

 敵が強大なのは想定していた。もしかしたら自分達の武器では殆どダメージを与えられず、思わぬ反撃によって壊滅する可能性も考慮していた。宇宙人と戦うのだからそれぐらいは覚悟済みだ。いざとなれば一人で船に残り、奴に体当たりを仕掛けてでもジョージは祖国と家族を守るつもりだった。

 現実は、想像を凌駕した。

 相手は些細なダメージどころか、こちらの存在にすら気付いていないようではないか。コバエですら顔の周りで飛べば人を足止め出来るのに、アメリカは二百年以上の歴史を、何億万もの命を、何十兆ドルもの血税を注ぎ込んだ英知を以てしても、異星生命体に気付いてすらもらえない。アメリカの全力は、奴にとって手に付いたバクテリアにも及ばなかったのだ。自分がこの船と運命を共にしたところで、奴は人間が細菌を踏み付けた程度にしか……つまり何も感じないに違いない。

 あまりにも絶望的な戦力差、そして自分達のちっぽけさに、ジョージは自分がこの場における最高責任者であり、数万の兵士と三億を超える国民の命を預かっている事さえ喪失して呆然としてしまう。

「提督、『最高司令官』より伝令。目標が規定ラインを越えたためプランBを実行するとの事です」

 彼が我を取り戻すには、艦長からの呼び掛け……そして先の考えが吹き飛ぶほどの『命令』を待たねばならなかった。

「あ、ああ。了解した。各艦は全ての攻撃を停止。最大速力を以てプランB作戦展開エリアから距離を取れ」

「了解」

 ジョージの指示を受け、マライアキャリー、そして戦闘に参加した全艦隊が一斉に退避を始める。ジョージは迷彩服の胸元に指を入れ、喉元の隙間を広げながらため息を漏らした。

「奴がなんであれ、『神の炎』に耐えられるなど考えられん……そうだ、なんであれ、どのような物質であれ、あの爆弾の前では無力なのは科学的に説明出来るんだ。ましてや生命など……っ」

 ボソボソと独りごちていたジョージは、思った事を吐き出そうとする口を咄嗟に抑えた。

 論理的ではない。こんな事をしたって現実は何一つ変わりやしない。

 だけど、もしかしたら、と思ってしまう。

 これを口にしたら、奴はそれを凌駕するような、そんな気が……




ネットで調べた程度の知識ですが、今のアメリカ海軍の艦対艦ミサイルの射程が思ったよりずっと短くちょっと困ったのはここだけの話。なので未来のミサイルを頑張って開発してもらいました。
リアリティは投げ捨てるもの(開き直り)

次回は11/5(日)投稿予定です。


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神話決戦8

「核兵器の、実戦投入……!?」

 駆逐艦ロックフェラーにて、アイクから聞かされた話に花中は驚愕した。

 米軍の本気の攻撃。それさえも通用しなかった場合、米国政府は核兵器を使用する――――そう告げられたのだから。

「うむ。無論、通常攻撃で撃破出来れば使いはしなかったのだが……実を言うと先程、私の端末に海軍本部からのメッセージが入ってね。海軍と空軍による攻撃では目標の撃破は不可能と判断。プランB、核兵器を使用し対象を排除する……この決断が先程下されたそうだ」

「……核兵器ってなんか聞いた事ありますね。それってそんなに強い武器なのですか?」

「人類が持つ中では最強最悪と謳われる兵器ね。以前タヌキ達に攻撃された時、山ほど爆弾を落とされたでしょ? あれをぜーんぶ一点に集めて、一気に起爆したの威力よりもずっと強い感じ、じゃないかしら。まぁ、何キロもの範囲を吹き飛ばしちゃうけどね」

 アイクの淡々とした説明に根本的な疑問を投げ掛けるフィア。そのフィアの問いに、ミリオンが自身の見解を述べる。

 核兵器は恐ろしいものである。

 史上最強と謳われる爆弾でも、その威力はTNT爆薬換算で十トン程度でしかない。対して実戦投入されたとはいえ七十年以上前の代物である広島・長崎の原爆でも、その威力はTNT換算で約二十キロトン……つまり現在最強の爆弾の二千倍近いエネルギー量を誇るのだ。現代ではメガトン級と呼ばれる、広島・長崎の原爆の五十倍以上の威力を持った核兵器さえも実用化されている。それこそ一発で町一つを吹き飛ばすような、絶望的な破壊をもたらす大量破壊兵器だ。

 核兵器とは、フィア達が耐えた通常兵器とは文字通り桁が違う力なのである。

「ふーん。中々厄介そうな爆弾ですねぇ」

 尤もミリオンの説明だけでは大した危機感など持てなかったのか、フィアの感想は暢気なものだったが。アイクは快活に笑い、自国最強の兵器を貶められたにも拘わらず楽しそうな素振りを見せる。

「はっはっはっ! 確かに君達のような人型で、人間社会に溶け込める存在には厄介程度で済むだろうね。流石に市民が暮らす都市で核兵器を爆発させる訳にはいかない。それに地中貫通弾(バンカーバスター)をも余裕で耐える君達なら、公表されているレベルの核兵器なら耐えられるかも知れないな」

「ふふーん当然です。この私の力の前では人間がどんな爆弾を作ろうと無力なのですよ……って公表されている?」

「大した話じゃないよ。奥の手というものは、明かしては意味がないというだけの事さ」

「ほほーう成程成程」

 アイクの話にフィアは深々と何度も頷き……花中は、目を見開いた。

 冷戦期、アメリカはソ連と核兵器の開発競争をしていた。この競争でとんでもない威力の核兵器が幾つも作られたが、現在保有する核兵器にそこまでの威力はないとされている。それは核兵器を廃絶しようという人類の努力の成果もあるが……何より弾道ミサイルや迎撃システムの発展により、大きな爆弾を飛行機でちんたら運ぶよりも、小さな爆弾をミサイルに載せてたくさん飛ばした方が効果的になったからだ。加えて言えば大きな爆弾でなんでもかんでも吹っ飛ばすより、小さな爆弾で必要なところだけ破壊出来る方が何かと都合が良い。精度の向上で、遠距離でもちゃんと目標に命中させられるようになった事も低出力化を推し進めた。大出力核爆弾など、現代では『脅し』の意味でも使い道がないのである。

 しかし劣勢に立たされた時、国ごと破壊し尽くせる威力は魅力的だ。ましてや敵が知らない『奥の手』となれば尚更。秘密裏に持っている事は……誠実かどうかは別にして……十分に考えられる。

 ここまでは花中も納得出来る。心情的には納得し難いが、政治的・軍事的判断は感情だけで行うべきでない。だから、ここまでは、良い。

 問題は、その核兵器がどれほどの威力なのかだ。

「あ、あの、その核兵器の威力って……」

 思わず花中は尋ねていた。しかしアイクは微笑むだけ。先程まで饒舌だった舌は、今は何も語ってくれない。流石に、秘密兵器の情報は漏らしてくれないらしい。

「安心してくれ。最新式の核兵器は無駄なく放射性物質を反応させる事で『死の灰』の量を極めて微量に抑えている。日本まで汚染が広がる事はないし、この船も影響の範囲外さ」

 表情を暗くする花中に、アイクはジョークか本気なのか、よく分からない言葉を投げ掛ける。当然こんな言葉一つで花中の心は晴れない。全く安心出来ない。

 だって、

「……どう思います?」

「そうねぇ。私も同じ意見、って言えば伝わる?」

「まぁそうですよねぇ。だって広範囲って事は……」

 自分の横で話をするフィア達の言葉には、『余裕』しか感じられないのだから。

 彼女達は()()()()()のだ。そして形は違えど、花中自身も。

 『あれ』が本当に星の外から来たのだとしたら、きっと――――

 

 

 

 四十六代目アメリカ大統領ユリシーズ・アイゼンハワー。軍人でも芸能人でもない、ごく一般的な公務員からのし上がり、五十三歳という若さで国家のトップに君臨した彼の政治姿勢は、たった一言で言い表せる。

 『アメリカ至上主義』。

 これは過去の大統領の一人が打ち出した、アメリカ第一主義と似た主張のようで、趣を異にする。彼は移民を制限せず、むしろ受け入れには積極的。信仰する宗教によって迫害などしないし、黒人や黄色人種、白人への差別意識だって持っていない。格差の是正にも積極的で、貧困層や国籍を取得したばかりの移民の待遇改善などの政策を実施している。自身を批判するマスコミへの規制など以ての外、これこそが民主主義だとばかりに受け止める。

 ただし、アメリカ国内のそれに限るが。

 アメリカのためになるのなら、彼は平気で他国に負担を強いる。アメリカの損になるのなら、他者の損益など考慮せずに拒む。アメリカに害を成そうとするテロリストや国家には一片の容赦もなく、制裁や軍事行動にも積極的。彼の中には、アメリカとそれ以外に明確な境界線が存在する。彼はアメリカの繁栄だけを考え、アメリカ国民の幸福だけを求める政治家なのだ。

 そんな彼がアメリカ本土への直接攻撃を許すだろうか?

 否である。彼はアメリカに仇成す存在に、躊躇や温情など与えない。アメリカ以外の国の感情など考慮しない。そして今、アメリカに迫る脅威は、並の軍事力では足止めすら叶わない。

 ならば、彼が最後の手段を躊躇う理由などありはしない。

「核兵器の使用を許可する」

 アメリカ政府の中枢であるホワイトハウスの大統領執務室にて、アイゼンハワー大統領は重々しく、しかし迷いのない口調でそう言い切った。

 アメリカ大統領は、アメリカ軍の最高指揮官でもある。そしてアメリカが保有する核兵器の使用権限も大統領が握っている。彼が命じた以上、軍はこの命令には逆らえない。ましてや軍も同じ意見なら、そこに混乱や抵抗が発生する筈もない。

「了解しました。戦闘中の部隊にはただちに通達し戦闘領域内の安全を確保。十三分後発射シーケンスを実施します。マクゲイン中尉、通信端末を持ってきてくれ」

 大統領からの指示を受けアメリカ海軍のトップである海軍省長官は承諾。すぐさま部下に命令を飛ばした。

 命令された兵士はこれから、核兵器を搭載した潜水艦へとつながる通信機器を持ってくる。

 大統領は発射予定時刻になり次第必要な書類に署名し、それを正式に受け取った海軍省長官から順次下位組織の長へと指示が伝送される。訓練と実戦の違い、そして本当に発射する事へのプレッシャーの影響で多少の遅延はあるだろうが……命令後一分も経たずに核弾頭を積んだミサイルが撃ち出され、数分後には目標に命中する筈だ。

「中国、ロシア、イギリス、フランスへの事前通知は済ませてあります。他国も異星生命体の存在は感知している事もあってか、反発は特にありません」

「当然だ。これは自衛のための、人類の幸福のための核使用なのだからな。そもそも我が国の安全保障に、他国の了承を必要とする事自体がおかしいと思わないか?」

「……無用な混乱を避けるのも、国益上重要です。黙して死ぬ必要はありませんが、和を乱して全員から殴られる必要もありません」

 大統領らしい物言いに、海軍省長官はにこやかに微笑みながら苦言を呈する。大統領は肩を竦めるだけだった。

 やがて、先程部屋を出た兵士が、その手に大きな鞄を持って執務室に戻ってきた。同時に大統領の秘書が一枚の紙を大統領の前に置く。

 核兵器使用に対する署名。そのための書類だ。

 これにサインをすれば、最早後戻りは出来ない。いや、決断を下した時点で周囲は準備を始めているのだ。今更止めようと言い出せる状況ではなかった。後悔しても、もう何もかも遅い。

 だが、アイゼンハワー大統領は臆さない。

「……良し。これで手続きは完了だ」

 アイゼンハワー大統領の震えない手は、普段通りの筆跡で自身の名を書き終えた。秘書がその紙を回収し、海軍省長官も確認。正規の手続きが完了し、核ミサイルの発射は『正式』に確定した。

 伝令はすぐにホワイトハウスを駆け抜け、通信機を通じ太平洋にて待機していた一隻の潜水艦に飛ぶ。潜水艦の内部では一瞬のざわめきと緊張が走り、しかし此度の作戦の全容を知るが故に、混乱は最低限に抑えられた。

 定められた時刻まで、動きはない。刻々と迫る時に大半の者が息を飲み、一部の者が苛立つように机を指で叩く。

 異星生命体は人間達の様々な思惑など露知らず、延々と太平洋を北東方向に進んでいる。つい先程まで苛烈に加えられた攻撃の成果は何一つなく、ついに異星生命体はアメリカ国土から五千キロ地点を通過した。予想されていた到達時刻であり、そこから数キロ先が核による迎撃ラインと定められていた。

 故に、全てがつつがなく行われる。

 潜水艦にて、艦長と副官が動き出す。彼等はそれぞれが一本の鍵を持ち、狭苦しい艦内の中では比較的スペースのある操舵室にて、部屋の両端へと移動した。それから彼等は互いに目配せし、声を出して秒数を数え、同時に鍵穴を回す。

 すると艦長席にある机の一部が開き、そこから真紅のボタンと鍵穴が顔を覗かせた。艦長は席に戻り、目の前にある大きなモニターを見る。

 大統領の署名、OK。

 海軍省長官の署名、OK。

 核兵器の発射準備、OK。

 攻撃範囲内における米軍の退避、OK。

 一つ一つを副官と共に声出し確認。全ての項目がクリアされている事を確かめてから、艦長が最後の鍵をボタン前にある鍵穴へと射し込む。そして艦長は自信の胸の前で十字を切ると、艦内放送で全乗組員にカウントダウンを伝え、ゼロを伝えるのと同時にボタンを押した。

 言葉にすれば、あまりにも呆気ない一連の所作。

 その所作の果てに、ついに神の炎が解き放たれた。

 潜水艦上部より放たれた、一基のミサイル。それこそが核弾頭を搭載した弾道ミサイル。射出された核弾頭は成層圏まで上昇、その後一気に目標目掛けて降下する。その際の最高速度は秒速七キロ……音速の二十倍もの速さに達する。戦闘機をも凌駕する超高速飛行物体が、音速にも達しないのろまな動きで移動する異星生命体を逃す訳がない。対する異星生命体は何も気にせず、いや、きっと気付かずに海上を進み続けるのみ。

 やがて核弾頭は、異星生命体の真上から落ちるように飛来。今までとは桁違いの速さを誇る『攻撃』だが、異星生命体は対応する素振りもない。

 そして核弾頭は、動き出す。

 内部に設置された小型原子爆弾が起爆し、次いでそのエネルギーで同じく内包されていた重水素の核融合反応が始動。膨大なエネルギーが瞬間的に生み出され……爆散。

 瞬間、海の上で巨大な炎が噴き上がった。

 中心温度は四億度。太陽の核温度すらも凌駕し、莫大な量のエネルギーは直径五キロもの火球を作り出す。海洋に吹き荒れる白い爆風は中心から半径十五キロ以内にコンクリートすら跡形もなく破壊する衝撃を伝え、半径三十七キロ圏内でも並の生物ならば焼け爛れるほどの熱で満たした。

 一瞬にして、直径七十キロ以内の生命が駆逐される――――それが、現代の人類が持つ最強の兵器の力。

 その最強の力が、異星生命体を飲み込んだのだ。

 この光景を人工衛星が捉え、ホワイトハウス大統領執務室で推移を見守っていた大統領の下へと届けられる。

「おおっ! これは凄いな……!」

 悪魔的風景を前にして、アイゼンハワー大統領は子供のように喜びの声を上げた。海軍省長官は安堵の息を吐いてから、大統領に補足説明を行う。

「今回使用した核は五十メガトンほどの出力に調整しています。これはかつて、ソ連が開発した最強の水爆に匹敵する威力です。無論、今ではもっと強力な爆弾を作れますが」

「いや、正直核兵器を嘗めていた。これほど強い兵器だったとはな」

「実戦使用は凡そ七十年ぶりですから、お若い大統領が知らなくとも無理はないでしょう」

 海軍省長官と大統領は柔らかく談笑し、この結果に満足する。

 仮に、異星生命体が最新式の迎撃システムを凌駕する防空機能を持っていたら、この作戦は厳しいものとなっただろう。しかし異星生命体はミサイルの力を侮っていたのか、或いは認識すら出来なかったのか。最期まで何もせず、ミサイルは無事直撃した。

 五十メガトンとは、ミサイル一万発を遥かに上回る出力……ただそれだけでは済まない。核融合により生み出されたエネルギーは、四億度という出鱈目な高温を作り出すのだ。ここまで高温になると物質はプラズマ化どころか分子の形すら保てない。例えどんな怪物だろうと、神の炎の前では原子レベルで分解されてしまうのだ。理論上、直撃を耐えるなどあり得ない。

 かくして人類は勝利を手にした

「ちょ、長官!」

 筈だった。

 映像の確認を続けていた若い兵士が声を荒らげた。顔面は蒼白とし、全身をカタカタと震わせている。

 まるで、何か『冒涜的』な存在でも目の当たりにしたかのように。

「……どうした? 何か問題でも起きたのか?」

「ば、爆心地より、何かが……出て、きました……!」

「!? 何!?」

 キョトンとしながら尋ねる海軍省長官だったが、兵士の言葉を聞いて彼自身もまた身体を震わせた。若い兵士を押し退け、自分がそのモニターの前へと乗り出す。

 彼が己の目を見開くのに、一秒も必要としなかった。

 長官は神に祈った。これが何かの身間違いである、機械の故障だとか、もしくは自分の目にゴミが入ったとか……兎に角、何かの所為でおかしなものが見えているだけなのだ。ゆっくりと目を閉じ、もう一度開けた時にそれは幻のように消えているに違いない。否、そうでなくてはならない。

 しかし神は、彼の願いを聞き届けない。

 衛星が捉えた鮮明な映像に映るのは、巨大なキノコ雲を後にして進む、推定三百メートルオーバーの黒色の物体。

 それが核弾頭の直撃を耐え、悠然と進む異星生命体である事は、この場に居る誰の目にも明白な事だった。

「ば……馬鹿な!? 五十メガトンの核兵器だぞ!? 都市どころか小国一つを吹き飛ばす爆弾に耐えられる訳が……!」

「目標健在! 速度、進路共に変化なし!」

「は!? は、ぇ……!?」

 現状を否定しようとする長官に、しかしもう一人の兵士が追い詰めるように事実を告げる。

 あり得ない。四億度の炎を浴び、半径十五キロの建物を粗方破壊する爆風に曝され、平然としている生物など存在しない!

 もし、存在するとしたらそれは……

「ちょ、長官。これは一体……」

「大統領! 核弾頭の第二射の許可を!」

「え? あ、ああ。許可する……著名は」

「必要ありません! ただちに第二射を撃たせます! 今度は倍の威力です!」

 戸惑う大統領を言葉で押し込み、海軍省長官はただちに次の発射指示を出す。本来、これは規約違反だ。核に関わる事だけに、軍法会議や国際社会からの制裁も免れまい。

 そんな事は彼も承知している。承知した上で、命令した。

 この悪夢を終わらせられるなら、全人類からの批難など子守歌のようだと思って。

 二度目の命令でも、問題など起こらなかった。アメリカの何処かから発射される弾道ミサイル。それは先発のミサイルと同様の軌道を描き、飛来し……問題なく、異星生命体の眼前で爆発。先程よりも遥かに大きな火の玉が噴き上がる。衝撃波は地球を何周もし、あらゆる国で核兵器の使用を感知した。

 世界を滅ぼすと恐れられた、禁断の力。おまけに先程の二倍もの威力だ。一発目を耐えても、二発目は――――

「……目標、健在。進行速度に変化なし」

「馬鹿、な……」

 効果がなかった。

 直撃を受けてボロボロになるどころか、進行速度に変化がない点からして、なんのダメージも受けていない。あの生物は水爆の直撃を受けても尚、一切の脅威すら感じていない。

「……A-クリアを発射する」

 最早大統領への許可も求めず、長官は発射指示を出す。大統領も彼を止めない。秘書も、兵士も、誰もが。

 三度目の核弾頭。一際大きなそれは、現在アメリカが隠れて保有する核兵器で最強の威力……百五十メガトンを誇っていた。かつてソ連が開発し、あまりに威力が強過ぎるとして実験時に出力を半分に抑えたツァーリ・ボンバの『最大出力』を一・五倍も上回る力。一国を丸呑みし、敵国民を皆殺しにする事も出来る神の威光。

 だが、二発目と比べたったの一・五倍。

 先の一撃を受けて怯みもしなかった『怪物』に、これが通用するかと言えば――――

 

 

 

「無傷、だと……!?」

 艦長室に届けられた映像と、通信機器より告げられた報告を聞き、アイクは絶望に塗れた言葉を漏らした。

 どんな報告を聞いたのか、当然ながら花中には知る由もない。が、予想は出来る。大方、何発も核兵器を投じながら、何一つ成果を出せなかったのだろう。人類にとってこれ以上のバットニュースはあるまい。世界最強の核武装国であるアメリカの核が通じなかった以上、人類にあの異星生命体を止める手立てはないのだから。

「あらら負けちゃったみたいですね」

「そうね。まぁ、期待なんて最初からしてないんだけど」

 尤も、フィア達にとっては分かりきっていた事で、二匹ともショックなど欠片も受けていないようだが。

 そして花中も、少なくともアイクほどの困惑はない。

 何故なら、フィア達なら()()()()()と思ったから。

 核兵器は強大無比の力だ。中心部は四億度に到達し、半径数百メートルにもなる火球ですら数百万度にもなる。秒速三百メートルを超える爆風が駆け巡り、近代的な建物を何十キロもの範囲で破壊し尽くす。放出されるエネルギー量は二の十七乗ジュールにも到達し、その全てを受けたなら如何にフィア達とて呆気なく消滅するだろう。

 全てを受けたなら、であるが。

 生み出されたエネルギーが全て熱へと変換されたなら、水爆は一億トンの水を五千度まで加熱出来る。けれども水爆の全エネルギーのうち、熱へと変わるのは精々半分。その上フィアが凝縮した水は水爆の火球よりずっと小さいため、開放されたエネルギーの殆どはフィアとは無関係な場所へと飛んでいく。故に水爆でフィアは殺せない。

 起爆した水爆の中心は、四億度の高熱に達すると推測されている。だがミリオンは集合体であっても人間ほどのサイズであり、高度数百メートル、誤差数十メートルでの起爆では彼女を爆発の中心には置けない。そして何千メートルにも拡散した、たかが数千度の高熱など、ミリオンにとっては操れる温度でしかない。全てを包み込むほど爆発を広げたら効果がなく、確実に仕留められる高温では大半を取り逃がす。故に水爆でミリオンは殺せない。

 水爆によって放たれる爆風は秒速三百メートルを超える。されどミィは超音速を目視し、超音速を凌駕する速度で走り抜ける。超音速で迫るミサイルからそそくさと逃げ果せる事は勿論、目の前で起爆しても、爆風が届く前に安全圏まで退避出来る。故に水爆でミィは殺せない。

 核兵器の威力は神の力と呼ぶに相応しいものであるが、小さな怪物であるフィア達に使ってもその大半が無駄になり、薄れ、殺すに足るものとはならないのだ。無論一発ではなく二発三発と撃ち込めば、いずれはフィア達を倒す事も可能かも知れない。しかし今の問題はそこではないのだ。

 フィア達ですら耐えられる攻撃に、フィア達がどう足掻いても勝てないと思う相手に通じるのか?

 彼女達は本能的に察した実力差、そして自分達の力から予測した結果、水爆では異星生命体を殺せないと判断した。それが鋭い野生の本能を持った、彼女達の『論理的結論』であったのだ。

 そしてこれは、花中の『理論』とは異なる方向から導き出されたもの。

 確かに花中も、フィア達ならば水爆に耐えられると思い、異星生命体に水爆は通じないと思った。しかし異星生命体の実力を測れなかった花中には、あくまでこれは『想像』でしかない。

 花中には花中の、フィア達とは全く異なる、けれども確たる論理があった。

「ぐ……こうなったら、次はプランC……米国内の全核兵器を投射するしか手は……しかしそれが駄目なら、我が艦も向かって本土決戦……」

「無駄です。『あれ』に、人類は、勝てません」

「……何?」

 間もなく上から通達される筈の次の作戦をシミュレーションするアイクに、花中はぽそりと自身の考えを告げる。アイクは先程までの余裕と優しさが一片もない、鬼気迫る眼差しで花中を睨んだが、花中は怯まない。

 今、花中の脳裏にはアイクの顔よりもずっと恐ろしい『仮説』が居座っているのだから。

「これは、完全に、わたしの推測、です。ですが、そうとしか、思えません」

 前置きをしてから、花中は自身の考えを述べた。

 星系間を旅するために、最も相応しい燃料は何か?

 原子力? 論外である。燃料となる放射性物質は宇宙全体で見ても希少な資源だ。補給の宛てがないものに頼るなどあり得ない。では恒星が発する光? 確かに恒星の光は幾らでもある、が、これも役に立たない。こんなちっぽけな力ではさして速度も出ず、何万年経っても次の星に辿り着けないからだ。

 もっと有り触れた資源で、もっと強大な力を生まねばならない。果たしてそんな都合の良い資源、それを用いたエネルギー生産方法など存在するのだろうか?

 答えはYes。

 それは核分裂の数倍の効率を誇り、それは宇宙で最も有り触れた資源を利用する。それは宇宙の至る所で行われ、人類が求めて止まない夢のエネルギー。

 そしてそれは、星の内側で起こる奇跡。

「核融合、だと……!?」

「はい。それを使わずに、星々を渡れるとは、思えません」

 驚愕で目を見開くアイクに、花中は揺らぎない力強さで頷いた。

 核融合には強力な圧力と出鱈目な高温を必要とする。太陽の重力と高温ですら不十分であり ― 太陽内部の核融合は確率論で起きているもので、温度と高圧はその確率を高める作用しかない ― 、効率的な核融合を行うには星をも超える力が必要となる。故に炉心を取り囲む外壁にはその高温と圧力に耐えるだけの『強度』が欠かせない。

 では、その強度は果たして水爆の爆風に耐えられないのだろうか? 水爆の高温で燃え尽きるのか?

 そんな訳がない。水爆の爆風も、高温も、核融合によって生み出されたものだ。核融合を閉じ込める肉体に、どうして核融合を用いた兵器が通用するなどと希望を抱けるのか。

 そして現状、人類は水爆以上の兵器は考え付いてもいない。

 ――――これが、花中が異星生命体を倒せないと考える『理論』であった。星々を渡るには核融合が最適だ、故に異星生命体は核融合を使っている……仮定を前提にした推察など、全く以て科学的ではないのは重々承知している。結局のところこの発想の出発点は、アナシスとの戦闘時に『あれ』が見せた内側の太陽……あそこに全て引っ張られているだけだ。

 大体異星生命体とは言うが、あくまで地球外からの侵入者というだけで、その生態への見識は何もない。本当に星々を渡っているのか、どんな方法でエネルギーを得ているのか、証拠のある『確信』は何もないのだ。

 そもそも生物であるのかさえも。

「あり得ん……生物が核融合など……いや、しかしだとしたら、奴は生物ではなく機械なのか。ならハッキングなどの電子攻撃が通用するかも知れん」

「そうかも知れませんねぇ。ミリオン以上に生き物っぽい感じのしない輩でしたし案外機械かも知れませんね」

 アイクがそこから一筋の光明を見出し、フィアは同意を伝える。尤も、通用するとは露ほども思ってなさそうだが。アイクとしても、すぐに表情を暗くした辺り、成功するとは思っていないのだろう。

 花中としても同意見だ。星の力を制御する存在に人類が勝てるとは思えない。仮にあれが機械だったとして、それを制御する電子機器は人類とは比較にならない発展を遂げている筈だ。どこぞの映画よろしくウイルスプログラムを打ち込んだところで、呆気なく駆除されてお終いだ。

 いや、勝てないだけならまだマシである。

 しかし『あれ』は曲がり形にも ― 仮に正体が機械だったとしても ― 生物的振る舞いをする存在なのだ。だとしたら、最悪の可能性が存在する。

「……問題は、この後です」

「この後? 奴が暴れ回って、地球が滅茶苦茶にする事か?」

「いいえ、それだけならまだ、マシです。もしかすると、繁殖、するかも知れません」

「……は?」

 アイクの顔が、呆然としたものに変わる。しかし、信じられない、とか、何を馬鹿な、とか、そんな感情は見られない。純粋に、思考が停止したかのような顔だ。

 その顔が青くなるのに、さして時間は必要なかった。

 異星生命体――――『あれ』が宇宙を旅する『存在』であるなら、それに見合った生態(システム)を持っている筈だ。先の見えない宇宙の旅を可能とする頑強な身体だけではなく、行動様式でも宇宙に適応していなければならない。

 その生態の中で、最も警戒せねばならないのが繁殖についてだ。

 『あれ』がこの世にたった一体しかいなかったなら、銀河系だけで数千億を超える恒星系の中から運悪く太陽系が見付かった事になる。あり得ない、とは言わないが、確率的にはほぼゼロだ。偶然とは思えない。されどわざわざ『地球』を目指していたのなら、地球独自の存在である人類、或いはその他何かしらのものに『あれ』はコンタクト ― 対話だけでなく、積極的な攻撃なども含めて ― を取る筈だ。にも拘らずアナシス相手にすら攻撃を受けるまで何もしていないのだから、目的を持ってわざわざ地球に来たとは考え難い。

 この矛盾を解消する答えは実にシンプル。『あれ』が相当数、宇宙に生息しているという事だ。それも恐らく数千億……或いは数兆を超える大繁栄を成し遂げた状態で。

 これなら四方八方に生息域を広げれば、いずれ地球も見付かってしまう。そして見付けた星は『あれ』らにとって資源でしかなく、地球人類などに興味もないのだからコンタクトを取らない事にも得心がいく。仮に『あれ』の正体が生物ではなく機械だとしても、同様の機能を持っている可能性は高い。千機で作業を進める計画があったとして、いくつ壊れてしまうか分からないからと二千機送るより、百機ほど送って現地で千機まで増える方が何かと好都合だからだ。無論この方法にはいくつかの ― 現地で増えたマシンの制御が出来るのかなど ― 問題はあるが、その問題を『高度な技術』で解決しているのなら行わない理由がない。

 そしてその繁殖方法は、単為生殖以外にあり得ない。広大過ぎる宇宙の中では、何兆体存在していようと同種と出会える可能性は限りなくゼロなのだから。他の個体と交配する、有性生殖ではあまりにも効率が悪い。

 つまり、『あれ』は単独であっても地球上で繁殖を行う可能性があるのだ。

「……すぐに繁殖するかは、分かりません。数の上では、子供を旅立たせる方が、効率的ですし、宇宙を旅するための、体力を考えれば、ある程度成長した大人の方が、効率的です」

「だが、倒せない以上そんなのは猶予が長いか短いかの違いでしかない、か……」

「仮に、子供だとしても、時間はあまり、ないと思います。核融合が出来る、なら、水素さえあれば、身体の素材は、いくらでも、合成出来ます。成長に必要な、エネルギーも、無尽蔵に手に入る、でしょう。多分、『あれ』は、アメリカを目指しては、いなくて、太平洋の真ん中を、目指していたと、思います。膨大な海水を、全て、喰らうために」

 花中の考察が正しければ、異星生命体は成熟し次第ただちに繁殖を開始するだろう。産まれた個体がすぐに星の外へと旅立つのか、それとも地球に居座るかは分からない。しかしなんにせよ、地球を構成する原子は何もかもが異星生命体に喰われ、消費される筈だ。水も、大気も、大地も――――全てが核融合の前では『資源』となり得るのだから。

 敗北を認め、支配者の地位を明け渡したところで人類に安寧は訪れない。あの生命体との共存は、絶対に不可能である。『あれ』が存在する事は、星の死を意味するが故に。

 導き出された結論に、人間達は口を噤み、項垂れた。諦めた訳ではない。だがあまりにも絶望的な相手に、考えなしの希望を口にするほどの前向きさも持てない。

 静寂が、艦長室に満ちた

「仕方ありませんね。私達が行くとしましょう」

 のも束の間、フィアが立ち上がりながら独りごちる。

 ミリオンも異論を挟まず、フィアの後ろに付く。二匹はそのままこの部屋から出ようとした。

「――――ぇ、あ、ま、待って!?」

 あまりにもあっさりとした行動で、慌てて花中が引き留めなければ、このまま理由も伝えずに二匹は去っていただろう。

 花中に呼び止められ、フィア達は足を止めて花中達の方へと振り向く。それからフィアは首を傾げ、ミリオンは肩を竦めた。

「どうしましたか花中さん?」

「ど、どうしたも……ど、何処に、行くつもりなの?」

「何処ってあの宇宙人の下ですけど」

「た、戦うの!? 何か、倒す方法が!?」

 まさか、だけどフィアちゃんならもしかして……期待を寄せてしまう花中だったが、フィアは首を横に振る。何を馬鹿な事を、とでも言わんばかりの薄ら笑いを浮かべながら。

「ご冗談を。私達が束になったところでアイツには勝てませんよ」

「じゃ、じゃあ、なんで……?」

「うーん実のところ初めてアイツを見た時()()()()()コイツを生かしておいたら地球で暮らしていけなくなる気がしたので勝ち目がなくともやるだけやってみよう……という気がない訳でもないのが理由の一つでしょうか。とはいえまぁ私が生きている間ぐらいならなんとかやり過ごせる気もしますので本当に勝ち目がないならさっさと逃げますけどね」

「そうねぇ。アイツの繁殖速度とか成長速度は分からないけど、地中深くにでも逃げれば五十年は誤魔化せそうよね」

「つ、つまり、勝ち目がある、の……フィアちゃん達なら、倒せる、の?」

「いやいやですから私達では束になっても勝てませんって。何をしたところで無駄ですよ」

 全く要領の得ないフィアの答えに、花中の困惑はどんどん強くなっていく。自分達では勝てない、だけど立ち向かう……なんでそんな事をするのかさっぱり分からない。

 もしかしたら自分の身を犠牲にして? そんな考えも一瞬過ぎるも、自殺願望があるミリオンは別として、何処までも『利己的』であるフィアが自らの命を捨てるなどあり得ない。いくら考えてもフィアが何を伝えたいのか分からず、いよいよ花中はポカンとなってしまう。と、フィアはそんな花中の頭を優しく撫でた。

 そして、こう告げる。

「勝てるとしたらアイツぐらいです。なのでアイツのお色直しが済むまでの時間稼ぎをするだけですよ」

 この意味深な言葉を残し、フィア達は今度こそ部屋から出て行ってしまう。

 もう花中には……いや、人類に出来る事はただ一つ。

 彼女達の戦いに、余計な手出しをしない事。

 地球の野生生物と、星外より訪れた『外来種』の闘争――――それはつまりこの争いもまた自然の営みであり、そして人が自然に手を加えても、ろくな事にならないのだから……




核兵器に耐えられる敵を考えてたら、なんか思っていたよりヤバい奴になってしまった。
だってツァーリ・ボンバって実例があるから、最低でもそれは耐えてくれないと
人類でも倒せそうな感じがしちゃうし……
こんな危ない兵器を作った人類が悪いんや!(全方位敵対宣言)

次回は11/12(日)投稿予定です。


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神話決戦9

 大きく西に傾いた太陽の赤らんだ日差しが降り注ぐ、太平洋のど真ん中。地平線の彼方まで広がる海の上を、何百メートルにも渡る三つの白い『筋』が走っていた。

 『筋』の正体は、舞い上がる水飛沫が生み出している(あぶく)。撒き散らされる大量の飛沫により無数の泡が生まれ、それが一筋の線を形作っていたのだ。

 そしてそれぞれの『筋』の先端では、その膨大な飛沫を生むほどの勢いで海上を爆走する三匹の野生生物達が居た。

「で? 実際問題どうなのよ」

 野生生物のうちの一体、海面すれすれを時速三千キロもの超音速で飛行するミリオンがさして期待してない口振りで尋ねる。

 爆走する彼女達により、海水は掻き回され、轟音を立てている。人間であったなら、ミリオンの気怠げな声を聞き逃していただろう。しかし今回声を掛けられたのは、聴力の発達した生物である(フィア)(ミィ)。彼女達の聴力であれば、音速を超えるが故置き去りにされ、おまけに轟音の中に潜んでいるミリオンの言葉を捉える事さえも可能だ。

 胡座を掻いた姿勢で海面上を滑るように疾走するフィアは、何も考えていなさそうに首を傾げた。

「どうと言いますと?」

「アイツ相手にどれだけ時間稼ぎが出来るのか、って事よ。正直、虫けらみたく踏み潰されて終わりじゃない?」

「正直あたしもそー思う。というかあたし無理やり連れてこられたし……」

 ミリオンが自分の意見を伝え、ミィがそれに同意した。ちなみにミィは海上を生足で爆走中。自分の身体が沈む前に足を前に出す、という動きを文字通りやって海面に立ち続けている。

 フィアは疑問を呈するミリオンとミィの顔を見てから、やれやれとばかりに肩を竦めた。何を今更、と言いたげな表情も付け加えて。

「そりゃ一対一で挑めばそうでしょう。ですが三対一ならちょっとはやりようもあると思うのです」

「やりよう、ねぇ……具体的には?」

「ふふん実は一つ策を考えてあるのです。あなた達を特別に私の手足としてあげましょう。私が操る水で掴み上げたあなた達を鈍器の代わりとしアイツをボコボコと殴るのです! ミリオンで殴れば熱くなり! 野良猫で殴れば大威力パンチ! ふふん我々の長所を活かした見事な作戦でしょう? これぞチームワークというやつですね」

「あたしらを道具扱いかい。あと、それ絶対強くないから」

「え?」

 呆れるミィだったが、フィアは目をパチクリさせて呆けてしまう。どうやら割と本気でこんな作戦で行こうとしていたらしい。ミィはいよいよ言葉も失ったのか、帰りたそうに来た道をちらりと振り返っていた。

「いや、悪くないわね。それ」

 ミリオンから肯定の言葉が出てくるまでは、だが。

「えうぇっ!? ミリオン、なんで納得してんの!?」

「ふふん。どうやらあなたには難し過ぎた作戦でしたかねぇ? 花中さんには敵わずとも私だって知略の一つ二つ巡らせる事は出来るのですよ」

「はいはい、どっちも早とちりしないの。悪くないって言ったのは考え方についてよ」

「……考え方?」

「みんなの長所を活かすってところ。例えば……」

 ミリオンが自身の案をフィア達に話す。

 ミリオンの話を聞いたミィの方は得心が行ったように目を輝かせ、それを見たフィアは不満そうに唇を尖らせた。

「おお! 良いじゃんそれ! そうだよ、作戦ってのはやっぱそーいう感じじゃなきゃね!」

「むぅ。直接殴った方が強いと思うのですが」

「直接殴っても勝ち目のない奴が今回の相手でしょ。搦め手でもなんでも、やれる事はやった方が良いんじゃない?」

「……まぁ死んだら元も子もありませんからね。良いでしょう。ただしヤバいと思ったら私は逃げますからね」

「それは私も同じ」

「ついでに言うとあたしも同じ」

 作戦への同意()()()()()()()()()()()を確かめ合うフィア達。そして三匹は揃って前を見据える。

 ――――ようやく見えてきた。

 海上にそびえる巨大な黒体……異星生命体だ。三百メートルを超える巨体は、西日を浴びてもやはり輝き一つ放っていない。相変わらずの姿であるが、しかし前情報と違うところもある。

 動きを止めていたのだ。移動時は真横に倒れていた姿勢が今は直立体勢で、ゴルフボールを乗せるピンのような部分の先端が海面に着いている。辺りに物がない太平洋のど真ん中なので分かり辛いが、少なくとも時速七百キロでは動いていなさそうだ。

 フィア達が駆逐艦ロックフェラーから降りて、かれこれ二十五分が経っている。その間に米軍が何かしらの攻撃を成功させたのか? それとも先の核攻撃のダメージが今になって現れたのか? 人間ならばそのような期待を抱くかも知れない。

 しかし異星生命体の力を本能的に感じ取ったフィア達は、そんなあり得ない希望を抱かない。

 海面と接しているピンの先端……その先端目掛け、周囲の海水がまるで氾濫する川のような勢いで流れ込んでいた。異星生命体は傷を癒しているのではない。恐らくエネルギー補給をしている最中なのだろう。核融合において最も効率的な資源である、多量の水素を取り込むために。

 つまり放置すれば、奴は今以上の力を蓄える事になる。

「むぅ。ちょっと出遅れましたか」

「みたいねぇ。今すぐ邪魔しないと後々面倒になるわよ、これ」

「でも怒るんだろうなぁ、すごく」

「そりゃ怒るでしょ。むしろ怒ってもらえないと意味ないし。ま、程々に頑張っていくとしましょ」

「「あいあいさー」」

 ミリオンからの気の抜けた心構えに、同じぐらい抜けた掛け声で呼応するフィアとミィ。

 獣達は知っている。自分達は『あれ』に敵わないと。一瞬の油断が自分達の命を刈り取ると。人がその事実を前にしたなら、恐怖で慄き、震え、動けなくなるだろう。或いは発狂し、自ら死を選ぶという選択に一抹の『人間の誇り』を幻視するやも知れない。もしくは愛する者のため、勇気を奮い立たせるのだろうか。

 しかし獣は恐怖に取り込まれない。人間よりも色濃く死を感じ取りながら、その予感を躊躇いなく受け入れ、不安を完膚なきまでに拒絶する。勇気など持たない。持たずとも立ち向かえる。

 それどころかフィアとミィは、笑っていた。

 忘れかけていた恐怖。

 久方ぶりに揺らぐ誇り。

 何時ぶりかも分からぬ絶望。

 人間社会に浸り、薄れていた野生が身体に満ちていく。生命の鼓動が全身を駆け巡る。張り裂けそうなほどの力が細胞から溢れ出してくる。

 楽しさなんかない。二度とこんな事やりたくない。

 だけど今日は何時も以上に、生きている実感がある。

「若いわねぇ……」

 その二匹を、懐かしむように眺めるミリオン。彼女の微笑みだけが、前ではなく後ろを向く。

 そして前だけを見つめる二匹に、そんな事は分からない。

「行きますよ!」

 どぽんっ、と音を立ててフィア、そしてミリオンとミィも海へと潜った

 途端、海が揺れ始める。

 揺れの原因は海そのもの。今まで異星生命体に吸われるだけだった海水が、その力に抗うかの如く逆流を始めたのだ。突然『食事』が思うように進まなくなり、不思議に思っているのか異星生命体は尖った先端でつんつんと海面を突き始めた。

 その暢気な瞬間を狙い撃つように、大きくうねった海面から一本の――――巨大な『腕』が生える!

 『腕』と称したが、実体は海水の塊である。『腕』は物理法則を無視するように高々と伸び、音をも彼方に置き去りにする超高速で異星生命体の球体部分に容赦なく衝突。発生した衝撃波により辺りの海水が半径数百メートルにも渡ってクレーターのように抉れ、圧縮されて白く色付いた空気がドームのように広がった。

 まるで隕石の衝突でもあったかのような光景。地球上に存在する大半の物体相手なら、過剰としか言えない破壊力なのは一目瞭然だ。

 されど宇宙の民にとってはどうか?

 異星生命体、未だ揺らがず。

 隕石クラスの破壊力を受けてもなお、地球外からの来訪者はその存在を認識すらしてないのか。反撃どころか探索する素振りすらなく、凹んでしまった海面を求めるように降下を始めた。渾身の一撃を無視された『腕』であるが、攻撃の手を休めはしない。何度も何度も、一定のリズムで、規則正しく打ち付けていく。一見して無駄な攻撃が繰り返されているかのようである。

 しかし視野を広げれば、見え方は変わる。

 『腕』が異星生命体に直撃するほどに、生じる海上クレーターの大きさがどんどん巨大化しているのだ。クレーターの巨大化が意味する事は実にシンプル。『腕』の纏っている威力が、どんどん上がっているという事。そしてその威力は、殴り付けた回数と共に増している速度によって生み出されていた。

 尤も、逆に言えばいくら威力を増しても、未だ異星生命体に有効な一撃を与えられていない事も意味しており。

「ちっ! 全然効いてないじゃないですか!」

 約四千メートル近い海底にて、魚の姿を晒しているフィアは苛立ち塗れの言葉を発していた。

 フィアの目の前には、海面付近を暢気に浮遊する異星生命体の姿が映し出されている。フィアが能力を用い、海面近くの光を取り込んで自身の眼前に投映しているのだ。

「ちょっとー! 何やってんのか全然見えないんだけど! こっちにも映像回してよ!」

 なお、その映像は本当に自分の目の前にしか映し出していないので、すぐ隣の空気部屋に陣取っているミィには全く見えなかったが。クレームを入れられたフィアだが、しかし彼女は反省どころか逆ギレの表情 ― 魚なので大変分かり難いが ― を浮かべる。

「そんな余裕ある訳ないでしょうが! 流石にあれだけの水を操ると私でもいっぱいいっぱいなのです! 軌道の補正は私がしているのですから肉体労働担当は黙って身体を動かしていれば良いのですよ!」

「んなっ!? 何よその言い方! 大体あれを動かしてるのはあたしでしょ! アンタただ固めてるだけじゃん!」

「はぁ!? それが大事なのが何故分からないのですか!」

 ぎゃーぎゃーわーわー、二匹は激しく口論する。

 しかしどちらも自らの手を緩めはしない。

 フィアは水を操り、大質量かつ超硬度の水塊を作り上げている。この水塊を作るために、フィアは能力の『出力』の大半を費やしていた。それこそ、水塊を高く打ち出すための余力すらないほどの全力投入だ。お陰で一億トン以上の水が超圧縮状態で固まっているのだが……このままでは水塊は異星生命体を殴るどころか、海面を飛び出す事すら儘ならない。

 そこでミィの怪力が助太刀する。ミィ本体の呼吸が出来るよう空気部屋が作られていたが、彼女の両腕両足は海水中に飛び出している。足については海底に接している状態だ。しかしそれはミィの手足が自然の深海に晒されている事を意味しない。今、ミィの手足にはフィアの操る水が纏わり付き、『水塊』と連結しているのだ。ミィが拳を繰り出せば、その巨大なエネルギーは『水塊』へと伝わる……打ち出される方角こそフィアがコントロールしているが、そのための推進力を担っているのはミィなのである。

 即ち、ミィの動きと『水塊』は連動する。

「この……馬鹿淡水魚!」

 フィアへの悪口と共にミィは全体重を足に乗せて踏ん張り、全力で拳を前へと放った!

 ミィの恐るべき怪力は纏わり付く水を伝わり、フィアが形成する水塊へと到達。その気になれば山をも砕く超越的怪力により、水塊は凄まじい速さで浮上する!

 あたかも拳のような塊は音速超えの速さで海を飛び出し、異星生命体を打ち抜いた!

 これこそが異星生命体を襲う攻撃の正体。フィアとミィの連携による、合体技だったのだ。とはいえ直撃を受けたにも拘わらず、異星生命体は未だ動じない。人間の町にこの『拳』を落とせばその衝撃波で何十万もの命を奪えるだろうが、奴の膝を付かせるには全く足りぬようだ。されど二匹に余力がある訳でもなく、これ以上『拳』の威力を高めるのは不可能である。

「ちょっと、もうっ! 最初に決めたタイミングでやってくれないとズレるじゃない!」

 そこで二匹を補助するのが、姿は見えずに声だけがするミリオンだった。

 ミリオンはフィア達の傍には居ない。彼女が居るのは、フィアが操る水塊の中央付近である。声だけは水を伝わり、フィア達の下まで届いていた。空気の部屋など用意されず、海中で仁王立ちしながら漂う彼女であるが、何も遊んでいる訳ではない。

 ミリオンの役目は熱の制御。

 材質などの条件にも寄るが、物体と物体が衝突した時、それらが内包していた運動エネルギーの大半は熱へと変換される。トンカチで釘を叩くと、打ち付けたところが僅かに熱くなるのが分かりやすい実例だ。当然規模が大きくなれば発熱量は増大する。ミィの巨大な力によって異星生命体に打ち付けられた水塊は、衝突面に人間程度であれば容易く焼き殺せるほどの熱を発生させていた。

 ミリオンはその熱を吸収していた。理由は高熱によって海水の気化が始まり、フィアの能力に乱れが起きるのを防ぐため――――というのが『一つ』。

 もう一つの理由は、その熱エネルギーを利用するため。

 ミリオンは普段から、大気中の熱を活動エネルギーとして活用している。大気の熱を用いて動き、物を持ち上げ、人智を凌駕する怪力を生み出す。今回しているのもこの能力の延長線上の話。取り込んだ熱エネルギーを運動エネルギーに変換するだけだ。

 そして変換後の運動エネルギーを、自身を取り囲む水塊に与える。

 与えればどうなる? 水塊はミィのパワーと合わさり、更なる加速を得て勢いよく異星生命体に激突する。激しくぶつかればその分多くの熱が生まれる。その熱をミリオンが取り込み、変換すれば……水塊はどんどんどんどん、打ち付けるほどに加速していく!

 フィアだけであったなら、巨大な水の塊を作るだけで精いっぱいだっただろう。

 ミィだけであったなら、自分の体重と同じ分の打撃しか与えられなかっただろう。

 ミリオンだけであったなら、打撃による熱を生む事だけでなく、変換した運動エネルギーに自身の身体が耐えられなかっただろう。

 一体だけでは、あの異星生命体相手など夢のまた夢であったに違いない。されど三体が各々の役割を自覚し、それぞれの長所を活かせば、あの怪物に迫り、肉薄出来る!

【――――* * *】

 果たして何十発の『拳』を打ち込んだ頃か。ついに、()()()()()()()()()。アメリカ海軍の猛攻を無視し、水爆の直撃に気付きもしなかった存在が、フィア達の放った『拳』を前にして、歪な鳴き声と共にその身を仰け反らせたのだ。

 奴は『雄弁』だった。無駄な攻撃にはなんの反応を見せず、危険な攻撃には素早く対応する。危なげのない、実に適切な行動である。

 故に、分かりやすい。

 奴が躱そうとしたのなら、この攻撃にはそれだけの価値がある!

「さっさとぶちかましなさいっ!」

「言われなくてもやるっつうのオラアァッ!」

「だからちゃんとタイミング合わしなさいよ!」

 いがみ合いながらてんでバラバラに、その誤差を野生の直感で修正し、三匹は放った『拳』に渾身の力を込める! 過去最大の破壊力を秘めた『拳』は、避けようとする異星生命体を追い――――さながらアッパーカットが如く軌道で直撃。

 異星生命体の身体が、ほんの僅かだが……()()()

 人類史上最大最強の核兵器すら不動を貫いた存在が、明らかに外力によって動いたのだ。浮かび上がった異星生命体は、まるで突き飛ばされた人間がなんとか倒れまいとするように、ふらふらと後ろに下がりながら体勢を立て直す。疲弊した様子はない。ダメージを受けて動きに支障が出ている素振りもない。恐らく異星生命体にとっては、先の一撃などちょっと小突かれた程度の威力に過ぎないだろう。

 それでも異星生命体は、全身を濡らした水が蒸発するほどの熱気を帯び……地球生物にも伝わるほどの、明確な怒気を纏い始めた。

「ぃよしっ! ……と喜んで良いのやら。めっちゃ怒ってますよアレ」

「そりゃあねぇ。ミリオンが言ってたけど、ご飯の邪魔をした訳だしね。万死に値するよね」

「幸い、アイツが怒ったのは私達が頑張って繰り出した『拳』に対して。私達一匹一匹を正確に狙おうとはしないでしょ……尤も、その『拳』はアイツが後退りしたから途切れちゃったけど」

 海面近くで漂うミリオンの声を拾い、自分の下まで届けたフィアは海面を見上げながら頷いた。

 異星生命体をも怯ませた強大な一撃。当然ながら、そう簡単に繰り出せるものではない。欠点だってある、というより欠点だらけだ。

 あの攻撃はあくまで、相手が襲い掛かってくる『拳』を迎撃せず、黙って殴られてくれる事を前提にしている。加えて、一定間隔で殴るからこそエネルギーが蓄積するのだ。多少なりと実戦的な動き……例えば今し方のように異星生命体が後退りするなどしてインターバルが発生すると、次の打撃に使われる筈だった運動エネルギーが霧散してしまうのである。こうなるとまた一から始めなければならない。おまけに少しずつ威力を高めていく都合、どうしても『そこそこの一撃』を喰らわせてしまう。決め手となる一撃になる前に、攻撃の流れが終わってしまうのだ。

 要するに、この攻撃方法では異星生命体を倒せない。

 されど元よりフィア達に異星生命体を倒す気など毛頭ない。彼女達は奴が悠々と食事をし、英気を養うのを妨げたいだけである。それも『彼女』が戻ってくるまでの、ほんの僅かな時間だけ。

 故に倒せない事は問題ではない。問題なのは……奴ならば、自分達を容易く殺せるという事。

「アイツ多分今は私達が繰り出したあの『拳』を探してるんでしょうねぇ」

「でしょうねぇ。でも、あれはもう何処にもない。運動エネルギーはぜーんぶ海に流れ出ちゃった」

「かといって、あたし達に気付いてもいない。つまり、完全に見失った訳だね」

「……こういう時あなた達ならどうします?」

「そんなの、決まってるじゃない」

「答えるまでもなし」

「ですよねぇ」

 返ってくるミリオンとミィの答えを聞き、フィアは魚の姿のまま肩を竦めた。

 食事の邪魔をした敵は近くに潜んでいる筈。しかし今は姿も気配もない。そういう時、フィアならどうするか?

 簡単だ。近くには居る筈なのだから、()()()()()()()その内わたふたと逃げ出てくるかも知れない。運が良ければ流れ弾が当たるかも知れない。何より、飛び回る虫けらをちまちまと探し回るなど面倒この上ない。

 自分の考え方で想像をしていたところ、フィアの目の前に浮かぶ映像に変化が起きた。

 異星生命体の球体部分がパックリと割れ、花が咲くように大きく開く。内側にあるのは『あの時』と同じ、灼熱の太陽。露出された高温の塊は周囲を一気に加熱し、海面を沸騰させ、霧が立ち込めたのかと錯覚するほどの湯気を立ち昇らせた。放出される輝きは辺りを眩く照らし、沈みかけの太陽はその姿を掻き消されてしまう。

 アナシスを打倒した時と同じ形態。恐らくはあれが、異星生命体は攻撃態勢なのだろう。

「さぁてここからが正念場ですね……逃げる準備もしておきますか」

 逃げる余裕があればですけど――――その言葉を、フィアが口にする事はなかった。

 猛然と輝きを増した『太陽』の前で、そのような軽口を叩く暇などある筈もないのだから……

 

 

 

 モサニマノーマから百キロほど離れた沖合い。かれこれ一時間ほどそこに浮いていた駆逐艦ロックフェラーは今、慌ただしさに包まれていた。

 駆ける軍人達。引っ切りなしに鳴り響く警報と艦内放送。救出されていたモサニマノーマの住人達は軍人に誘導され、先程までとは別の区画へ移動させられる。物資が行き交いし、上官と思しき者の怒号が飛び交う。

 これは正しく、戦闘態勢への移行である。

 通常兵器のみならず、核兵器さえも通用しなかった異星生命体。今でこそ進行を止めているが、何時移動を再開するか分かったものではない。そして、どちらへ向かうのかも。

 もしも異星生命体が再びアメリカ本土の方角へと進行し、途中で止まらず本当に上陸したなら……現時点での作戦と戦力では止める事すら叶うまい。最早アメリカは手段を選ぶ余裕などなくなっていた。アメリカ国民の生命と財産を守るため、アメリカの持つ全ての力と知恵と技術を結集する必要がある。

 駆逐艦ロックフェラーも、無人島と化したモサニマノーマ付近に停泊などしていられない。未だ具体的な作戦は命じられていないが、命じられた瞬間から動けるよう準備する。それが、今この艦内に満ちている忙しなさの理由だった。

 そんな喧噪を背中に背負いながら、一人甲板から海を眺める少女が居る。

 サナだった。そしてサナの視線の先には、彼女達が住んでいた島の守り神……アナシスの成れの果てが佇んでいる。薄らと星空が見えてきた景色の中でも、一際黒い物体となってしまった神の姿。サナはそれを延々と眺め続ける。

 彼女は、ずっと此処に居たのだ。ロックフェラーに乗り込み、両親と再会してから、ずっと。

「サナちゃん、此処に居たんだ」

 そんなサナに、花中は後ろから声を掛けた。

 サナはぴくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらに振り返ってくれる。だけど声を掛けたのが花中だと分かると、無言のまま視線を前へと戻した。花中はサナの素っ気ない態度に表情を変える事もなく、そっとサナの隣に立って、サナと同じものを見る。しばし、海風だけが二人の間を駆けていた。

 先に自分から口を開いたのは、花中だった。

「この船、命令が来たら、移動するんだって」

「……そうなんだ」

「……アナシスさんの事が、気になる?」

 花中が尋ねると、サナは横目で花中をチラリと一瞥し、無言のまま微かに頷く。

「フィアちゃんが、言ってた。時間を稼ぐって」

 サナの返事を見た花中は、脈絡のない言葉で話を続けた。サナは眉を顰めたが、特段追求する気もないのだろう。「そう」と一言、投げやりに返すだけ。

 明らかな無関心を示されたが、花中はお構いなしに喋り続ける。普段の花中ならあり得ない強引さを伴って。

「変だよね。時間を稼ぐなんて。だって、アナシスさんを、倒した、異星生命体……えっと、宇宙人みたいなもの、らしいけど……兎に角、アイツは、アメリカ軍も勝てなかった、奴なんだよ」

「……………」

「フィアちゃん達も、みんな自分達じゃ勝てないって、言ってた。それぐらい、強い奴なの。一体、誰なら勝てるのかな。誰を、待ってるのかな」

「花中ちゃん、お願いだから今は一人に」

 いくら従姉妹とはいえ、流石に煩わしくなってきたのだろうか。明らかに不機嫌そうな横顔を見せながら、サナは棘を隠そうとしない拒絶を告げようとする。

 されど、最後まで言い切る事はなかった。

「アナシスさんは、まだ生きてる」

 花中のか細い、だけどどんな大砲の音よりも強烈な言葉によって、妨げられたのだから。

「……え?」

「人間の軍隊じゃ、相手にならない。フィアちゃん達でも、時間稼ぎが精いっぱい。だったら、勝てるのは一人……ううん、一匹しか、いない。フィアちゃん達は、アナシスさんがもう一度、『あれ』と戦うのを、待っている」

「で、でも、そんな……だって、アナシス様はあんな……」

「あんなだから、何?」

「何って……」

 声こそ詰まらせるサナであるが、視線は雄弁に理屈を捏ねていた。形は保っているが、アナシスの体色は燃えカスのように真っ黒に変わり果て、異星生命体が去ってから何十分も経ったのに動く気配すらない。常識的に考えれば、アナシスの命が燃え尽きてしまった事は明らかだ。

 そう、人間の常識であれば。

 花中は知っている。フィア達ミュータントに常識など通用しない事を。彼女達は条理を嘲笑い、理不尽を以てして人間が定めた摂理を粉砕する。ならばフィア達すらも及ばない超越的存在のアナシスが、()()()()()()()()()という『摂理』を捻じ曲げられぬとどうして信じられよう。

 無論これだけなら願望だ。花中には花中なりの『理屈』がある。

「勿論、ちゃんと理由もあるよ……理由というより、信用、なんだけど」

「……信用?」

「フィアちゃんが、アナシスさんが生きてるって、そしてもう一度『あれ』と戦うって、確信しているから」

 訝しげなサナに、花中は臆面もなくそう答える。

 フィアがどうやってアナシスの生死を確かめたのかは分からない。しかしアナシスが生きていると確信出来なければ、彼女はアナシスの復活を待とうとはしなかった筈だ。異星生命体が繁殖などしようものなら地球は地獄と化すだろうが、フィアの能力で地面に潜るなりなんなりをすれば、直接対決をするよりも生存率は上だと思われるからだ。そしてフィアは自分と『自分の好きなもの』以外がどうなろうと気にも留めない。世界のために自己を犠牲にするなど、思い付きもしないタイプである。

 フィアが異星生命体を少しでも足止めして疲弊させようと考えたという事は、アナシスが復活して異星生命体を打倒する可能性の方が、自分一人で逃げ回るよりも生存率が高いと読んだからに他ならない。

 それが、花中がアナシスの生を信じる『理屈』。

 フィアとの付き合いが一日もないサナには、花中のようには信じられないだろう。けれども希望を提示され、それを簡単に振り払えるほど人の心は強くない。

「本当に、アナシス様は、生きてるの……?」

 弱々しく訊き返すサナに、花中は力強く頷く。

「わたしはそう信じてる。それに……」

「それに?」

「でないと、ちょっと困っちゃう。ほら、だってアナシスさん以外、誰もあの宇宙人に、勝てそうにない、し」

 本当に困ったように花中が答えると、サナは目をパチクリ。しばし呆けていたが、やがてそれが花中の嘘偽りない気持ちだと分かったようで、吹き出すように笑った。ようやく見せてくれた笑顔に花中も思わずもらい笑い……尤も、あまりにもサナが笑い続けるものだから、段々唇が尖ってきたが。

「あははは! あは、はははっ!」

「……サナちゃん、笑い過ぎじゃない?」

「だって、誰も勝てないから信じるって……あはは! そうだね、信じるしかないもんね」

 散々笑い、ついには涙まで浮かべるサナに、花中はそっぽを向いて抗議の意志を示す。と、偶々逸らした視線の先に、慌ただしく自分達の方へと駆けてくる人影がある事に気付いた。

 玲二だ。近付くほどに、焦りに染まった彼の顔がハッキリと見えるようになる。彼の隣には付き添い、という名の監視役と思われる女性兵士も居るが、玲二はそれを振りきらんばかりの全速力でこちらに向かってきた。

「此処に居たのか二人とも!」

 花中達への呼び声にも慌ただしく、花中とサナは揃って、暢気に小首を傾げた。

「あ、おじさん……」

「パパ! どうしたの、そんなに慌てて」

「あ、ああ。そうか、まだ放送とかはなかったな……いや、この船も戦いに行くかも知れないって話を聞いたんだ。本当かどうかは分からないけど、万一に備えて安全な場所で一ヶ所に纏まった方が良い」

「あー、そうか。そうですね」

 玲二の説得に、花中はのほほんと相槌を打つ。花中的には ― 何しろ艦長から直に伝え聞いたので ― もう知っている話であり、慌てふためくような内容でもない。つい雑な返事をしてしまい、玲二の顔を顰めさせる。

 されど玲二は、花中を咎めはしなかった。それよりも、どうやって娘を安全な場所まで連れていくかに頭のリソースを持って行かれていたのだろう。

「うん、分かった。行こ」

 でなければ、素直に従う娘を見て呆気に取られたりはしないだろうから。

「……え? い、良いのか? いや、嫌だと言っても連れていくが」

「うん。もう大丈夫……あ、でもちょっとだけ、一分だけ時間をちょうだい」

「あ、ああ。それぐらいなら……」

 サナのお願いを、玲二は流されるように受け入れる。サナは嬉しそうに飛び跳ねると、すぐさま海の方へと振り返り、船の転落防止用の柵を握り締めながら身を大きく乗り出す。

 そして、

「この……バカぁッ!」

 海に向かって、罵声を浴びせた。

「……は?」

「生きてるなら最初から言ってよ! どれだけ悲しんだと思ってんの!?」

「さ、サナ?」

 いきなり海に向けて罵り始めた娘の姿に、玲二は呆気に取られる。止めた方が良いのか、それすら判別付かぬのか彼はおろおろしており、花中が小声で大丈夫だと伝えねば何時までも右往左往していたに違いない。

「アホ! とーへんぼく! にぶちん! えと、お、おたんこなすぅ! アホーっ! バカーっ!」

 そんな親の心など知ろうともしない子供は、可愛らしい罵詈雑言を言い続ける。途中ネタが切れたのか、同じ言葉を繰り返していた。

 それでもまだまだ暴言は止まりそうにない。何しろサナの顔には、満面の笑みが浮かんでいるのだから。

「さっさと起きなさいよ……へっぽこ神ぃ!」

 最後に渾身の悪口を叫び、肩で息をするほどに消耗したサナはようやく静かになった。

 サナの発した言葉は、今頃海を駆けているのだろう。遮蔽物のない海で反射は起こり得ない。サナの声は何処までも、そのエネルギーを失うまで延々と前へと進み続ける。

 後はサナの想い次第。たくさん気持ちを乗せて、身体の力を燃やせば……それだけで、彼女の想いは彼方まで飛んでいく。

 だからきっと、彼方まで届いたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――先程から喧しいわ、小娘が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でなければ、この声が聞こえる筈がないのだから。

「! 今のは……」

「もしかして!?」

「なんだ? 二人ともどうし、ぬぉっ!?」

 サナと花中が顔を見合わせる中、玲二には聞こえていなかったのだろうか。何があったのか尋ねようとしてきたが、不意に彼は大きく仰け反り、狼狽えた声を上げた。

 いや、彼だけではない。周りの米軍兵士達もその身体のバランスを崩しそうになっている。

 何故なら船が、否、海が揺れているから。

 船内に不安と混乱が広がる。厳しい訓練を日々こなしている兵士達さえも動揺で右往左往し、困惑していた。玲二は咄嗟に娘と親戚の子を抱き締め、我が身を呈してでも守ろうとしている。

 そんな中、花中はくすりと微笑む。

 そして花中の隣に立つサナは、目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

 ――――それは、本来動いてはならぬもの。

 アナシスだった物……()()()()()()()()()()()()()の表面にヒビが入った。

 ヒビは見る見る大きくなり、ボロボロとその表面が剥がれ落ちていく。落ちた破片は黒焦げの『本体』と比べればほんの小さな欠片であるが、人間から見れば何人もの命を奪う事が出来るほどの巨岩。破片が落ちた海面は巨大な水柱を噴き上げ、大轟音を響かせる。落ちる破片の量は膨大で、遠目で見ればまるで黒い雨が降っているかのようだ。

 されど『本体』は、自分の身をいくら崩しても小さくならない。いや、それどころかぶくぶくと膨れ上がり、一層大きなヒビが入っていく。海の揺れも静まるどころか激しさを増すばかり。

 そして露出した中身の奥底から、翡翠色の煌めきが溢れ出す。

 その光を合図とするかのように『本体』の崩落は一気に進み……中から、新たな生命が飛び出した!

 生命は手足のない細長い身体をしており、頭部近くがコブラにも似た平坦な形になっていた。その平坦な胸部の側面からは左右三本ずつ肋骨のような棘が、背中側には帆のように巨大な二本の背ビレが生えている。頭は現生の爬虫類など比にならないほど凶悪な、図鑑で見たティラノサウルスのように発達していた。身体を覆う鱗は微細で、遠目には敷き詰めた砂のようにしか見えない。その鱗の色合いなのか、全身が翡翠色の輝きに包まれている。最早夜も近いのに眩さすら覚えるほどの煌めきがあるのは、薄らとだが自ら発光しているからか。

 最早そこに、かつての面影はない。されど『そこ』から生まれた。ならばあの生命への呼び名はたった一つしかあるまい。

 モサニマノーマの神、アナシスだ。

「……Monster……」

 甲板に居る誰かが漏らした、現れた存在に充てられた言葉。

 これをきっかけとするかの如く、甲板上は困惑から一変。慌ただしさに包まれた! 兵士達は一斉に走り出し、各々の持ち場に戻る。緊急時すらも超え、さながら実戦に巻き込まれたような緊張感が艦を支配した。

 それも仕方ない。敗北したとはいえ、アナシスの力は米軍の猛攻を飛び回るハエほどにも感じなかったあの異星生命体とまともにやり合えるほどだ。ミサイルは勿論、恐らく核兵器も通用しない。対してアナシスは、小さなアクション一つでこの世界最先端の軍艦をひっくり返してしまう。兵士の中には絶望でむせび泣いたり、力なく膝を付く者が何人も現れた。意味不明な叫びが艦内中に満ち、すぐ傍に居る玲二と付き添いの女性兵士が花中達に向けて叫んでいたが、喧騒に紛れてよく聞き取れない。だが彼等の表情から、恐怖と絶望に染まっている事だけは伝わった。

 混乱、恐怖、絶望、諦め、執着……どろどろとした感情が人々から溢れ、船を支配する。

 その中で、花中とサナだけが笑顔を失っていなかった。

 アナシスは花中達の方を見向きもしていない。それでも花中は願うようにぺこりと、玲二に手を引かれながら頭を下げる。

 そしてサナは、

「今度こそ……今度こそ負けんなぁぁぁっ!」

 激励とも、怒りとも、歓喜とも、或いはその全てとも受け止める言葉を、連れて行こうとする父さえも振りほどきそうな大声で伝えた。

 アナシスはこちらからの呼び声に、反応どころか振り向きすらしない。しばしの間彼女は一点を見つめていたが、やがてギチギチと数十キロ離れた花中達にも届く異音を立てながら、その身に血管のような筋を浮かび上がらせた

 直後、アナシスの姿が消えた。

 文字通りアナシスの姿が消えたのだ。一千メートル近い巨体が忽然と、出来の悪い低予算映画でのテレポート表現のように消失したのである。あまりにも唐突な出来事に、気付いた者達から順次言葉を失っていく。花中達を連れて行こうとした女性兵士と玲二も動きを止め、ポカンと口を開けて呆けてしまう。先程まで船を支配していた混沌は、アナシスと共に消え去ってしまったようだ。

 尤も数十秒も経った頃に、軍艦であるこの船をもひっくり返しそうな暴風が襲い掛かってきたので、艦内は再び混乱と恐怖に包まれたのだが。

「うわぁっ!?」

「キャアッ!?」

 玲二も女性兵士も悲鳴を上げ、思わず花中達を手放してしまう。対する花中達はなんとなくこの事態を予期。玲二達の足が止まった時から身構え、踏ん張っていた。

「どべぅっ」

 ……花中は耐えきれず、呆気なく金属製の床を転がる羽目になったが。年下であるサナはよろめきながらも立ち続けたにも拘わらず。

「花中ちゃん!? 大丈夫かい!?」

「ふくきゅぅぅうぅう……!? は、はひ……ちょっと、頭を打った、だけ、ですから……」

 備えていながら吹っ飛ばされる醜態を晒し、花中は赤くなった顔を隠すように俯きながら心配する玲二に答える。ゆるゆると起き上がり、お尻を叩いて汚れを落とす。

 最後にふるふると頭を横に振り、気分も一新。

 アナシスは動き出し、この場を去った。なら、最早自分達の『したい事』は残っていない。むしろこんな不安定な場所に留まっても、あまり良いイベントは起きないだろう。何しろこれから、世界を揺るがすほどの戦いが始まる筈なのだから。

 今の人間(じぶん)に出来るのは、安全な場所で身を守る事。そうして友達が帰ってきた時、力いっぱい抱き締められるようにする事だけだ。

「……ごめんなさい。もう大丈夫、です。えと、安全な場所に、行くんでしたよね」

「あ、ああ……そ、そうだ。花中ちゃん、君の友達は今何処に居るか分かるかい? 此処まで来る間に探しはしたんだが、どうにも姿が見えなくて」

「フィアちゃん達なら、えと……軍人さんに案内、されて、安全な場所に、もう避難してます。わたしは、サナちゃんと一緒に、居たかったので、別行動、です」

「分かった。それなら急いで合流する必要もないな……」

 フィア達の居場所を尋ねられ、まさか「異星生命体と戦ってます」とは言えず、当たり障りのない説明で花中は誤魔化す。玲二はそれが噓とは思ってないようで、すんなりと納得してくれた。

 サナの方も、『願い』が通じて憂いがなくなったようだ。この場を離れようとする足取りに、もう躊躇いは残っていない。歩き出した玲二の後を追うように、サナは走り歩きで艦内へと続くドアを目指す。

 花中はそんな彼女達の背中を見送り――――歩き出す前に、アナシスが居た海へと振り返った。

 アナシスは何処へ行ったのか?

 フィアの『時間稼ぎ』は、アナシスがもう一度異星生命体と戦ってくれなければ徒労と化す。アナシスとて生物なのだから、わざわざ危険を冒すとは限らない。そのまま逃げてしまう可能性もあるだろつ。それでもフィアはそうならない可能性に賭けたのだから、彼女なりの理屈があるに違いない。

 花中はフィアを信じる。故にアナシスは異星生命体の下に向かったと『仮定』する。

 ではアナシスは、異星生命体に勝てるのか? 一度は負けた、特大の核兵器の何発喰らおうと怯みもしなかったあの恐るべき存在に。

 可能だと花中は考える。理由は、彼女の姿が変わったからだ。

 恐らく花中達と出会った時の姿は日常生活に適した ― 例えばエネルギーの消耗が少ない、或いはマグマの熱を効率的に吸収出来るなどの ― 形態で、戦闘には不向きだったのだろう。故にアナシスは異星生命体に敗北した。『あれ』に勝つには、その姿をより戦闘に適したものへと変えねばなるまい。

 そしてアナシスの能力は自身の成長を操作する事。それは設計の仕方が分かるだけでは不十分な力であり、実際に細胞分裂をコントロールしてようやく実用化となる。即ちアナシスは、自分の思うがままに姿を変えられる筈なのだ。とはいえ異星生命体との戦いで即座に戦闘形態に変化しなかった辺り、かつて戦ったタヌキのミュータントのような、変身とも言える急速な変化は無理なのだろう。

 だから彼女はじっとしていたのだ。死んだふりという屈辱に耐えながら、自分を負かした存在を今度こそ完膚なきまでに討ち滅ぼすために。

 先の激突ですら、危うく世界が滅茶苦茶になるところだった。もう、次の争いでどれだけの被害が出るかなど想像も付かない。今はただ、地球生命であるアナシスが恐るべき外来種を駆逐する事を祈るだけ。そして戦闘形態となったアナシスならば、きっとあの怪物を死滅させてくれるに違いないと信じるのみ。

 不安があるとすれば、ただ一つ。

 未だ底が見えない異星生命体。もしも『あれ』の姿もアナシスと同じく日常生活に適した、つまり省エネや食事を重視したものだったなら?

 もしも『あれ』に、戦闘形態が存在したなら――――

 

 

 

 水深四千メートルの世界において、光というものは存在しない。

 それは人間の目から見て、という話ではない。実のところ水深一千メートル地点であれば、人には分からぬ程度ながら光が届いている。しかしそれ以降は、本当に光が届いていない。巨大な目すらも役に立たない、真の漆黒の世界なのである。

 その世界が今、眩い輝きに満たされていた。

 いや、これを眩いなんて陳腐な言葉で片付けるのは表現不足にも程がある。何しろ辺り一帯が真っ白になっている状態で、快晴時の地上など比較にならない光量なのだから。もしも大きな目を持っていたなら、入り込む光のエネルギーにより網膜を焼き尽くされてしまうだろう。

 そして発光源は海面より降り注ぐ巨大な光線である。周囲を照らしている『余波』だけで、目が潰れるほどの出力だ。直撃すればどうなるかなど言わずもがな。

 ましてやその光が無数に、何百と降り注いでいたら?

「うきょああああああ!? 掠った! 今掠ったんだけど!?」

「ぎゃーぎゃー五月蝿いですね! こちとら避けるだけで精いっぱいなんですよ! あなたは大人しくしていなさい! というかミリオンなんか熱いんですけどあなた排熱サボってませんか!?」

「サボってないわよ! ただ処理しきれないだけ!」

「余計性質悪いじゃないですか!?」

 静寂の世界である筈の深海に、フィア達の叫びがこだましていた。

 フィア達が慌てふためきながら避けている光。それは、異星生命体が放つ『攻撃』であった。

 自身を脅かそうとする輩を()()()()異星生命体は、周囲の完全な破壊に乗り出した。その方法は単純にして強大。露出させた巨大な火球から、無数の光線を放ってきたのである。かつてフィアが戦ったホタルのミュータントも光線による攻撃を得意としたが、あんなのとは比較にならない。威力でも数でも、あのホタルの数百倍はあるだろう。直撃すれば跡形も残らない。

 故にフィアはミィとミリオンを引き連れながら、光線を必死に回避していた。頭上からの攻撃であれば本能によりインチキ染みた察知能力を発揮するフィアでも、この猛攻の前では何時まで避け続けられるか分からない。それどころかいずれジリ貧になる事が確定している。光線により海水が加熱され、周辺水温が急激に上昇しているからだ。ミリオンが能力によって排熱を行っているが、全然間に合っていない。このままでは茹で上がるのも時間の問題だ。当然ここまで手いっぱいな状態で、先程一発だけ食らわせた『コンビネーション技』をお見舞いするなど夢物語も良いところである。

 こうなると最早時間稼ぎであっても危険であり、元より命を賭ける気のないフィアにとって、退却は躊躇すべき選択肢ではなかった。しかし攻撃があまりにも苛烈。おまけに文字通り無差別 ― 異星生命体はフィア達を見失っているのだから当然なのだが ― で、何処に飛んでくるのか予想も付かない。衛星軌道上から放たれる『神の杖』の一撃すら容易く避けるフィアであっても、この場から無理に離れるのはリスクが大き過ぎた。

 逃げるに逃げられず、耐える事も儘ならず、戦って切り抜けるなど夢のまた夢。完全な手詰まりだ。退き際を誤った……というより、ケンカを売った時点で無謀だったのだろう。

「(どうしたもんですかねぇ。この威力じゃ野良猫やミリオンを盾にしても紙切れ一枚隔てているのと変わらないでしょうし……)」

 あくまで自分本位に、なんとか離脱する術はないものかとフィアは模索する。されどこの手の事を考えるのが苦手なのは、フィア自身とてもよく自覚していた。

 やはりアナシスが戻ってくるまで耐えるのが最も現実的か。気合を入れ直し、フィアは異星生命体の微かな動きをも逃すまいと全神経を研ぎ澄ます。

 故に、フィアは拍子抜けしてしまった。

 光線の雨が、突如として止んだからである。ほんのついさっきまで、避けるだけでも精いっぱいなほど苛烈だったのに。

 怪訝に思ったフィアは素早く、されど慎重に海上の様子を探ってみると、異星生命体の静止している姿が確認出来た。もう光線は撃っておらず、静かに佇んでいる。

 尤も、攻撃し過ぎて疲れた訳ではなさそうだ。火球部分は激しく脈動しており、何時光線の乱照射を再開してもおかしくない雰囲気がある。何より、チリチリと放っている殺気は未だ衰えていない。

 一通り暴れたので様子を窺っているのか? それとも感じられない手応えに疑念を持って策を弄している? 前者ならばじっとしていればやり過ごせるかも知れないし、後者ならば急いで離れるべきだ。しかし同族の感情すらよく分からないフィアに、異星の民の考えなど窺い知れる訳もない。

 迫られる決断。花中であればそのまま思考停止に陥っただろうが……フィアは迷わない。彼女には理性より優先される本能がある。そして本能は、迷いなく決断を下していた。

 このまま此処に留まるのは、不味い!

「退きますよ!」

「異議なし異議なし異議なぁーしっ!」

「そうね。なんかヤバそうだし」

 咄嗟の判断を口走れば、ミィもミリオンも同意する。彼女達も同様に、本能で危険を察知したようだ。

 別段同意を求める気などからきしないが、否定されなければ後押しされたも同然。フィアは一片の迷いなく反転、何かに使えるかも知れぬミィとミリオンを引き連れ、海底を超音速で爆走する!

 結論をここで語れば、フィア達の決断は正しかった。

 フィア達が逃走を始めた直後に、異星生命体の火球は一層強い輝きを放ち始めた。火球からは巨大なプロミネンスが幾つも噴き出し、膨大なエネルギーを放出している。半径数キロの海面が湯だち、大気は異星生命体を中心にして蜃気楼の如く歪んでいた。これから何か、とんでもない事をする気なのは明白だ。相手との力量差を思えば、遠くに逃げる以外の対抗策などない。

 彼女達が誤ったのはただ一点。

 そもそも、今更逃げても無駄という事だけだ。

「良しこのまま行けぶむっ!?」

 トップスピードのまま爆走していたフィアだったが、不意に潰れた悲鳴を上げると、その動きを急停止させた。

 フィアによって運ばれていたミィとミリオンも例外ではなく、彼女達も停止。フィアは能力で操った血液による肉体補強で、ミィは持ち前の屈強な筋繊維で、ミリオンはそもそも潰れる器官がないので、なんとか持ち堪えたが、人間なら原型を保てないであろうほど強力なGが襲い掛かる。

 如何にミュータントでも、これほどの慣性となると些か不快だ。何より、今は一秒でも早く、一メートルでも遠くに逃げるべき時。そんな事はフィアも分かっている。

 分かっているのに、前に進めないのだ。

 否、それどころか海面方向に()()()()()()()()

「ちょ、なんでいきなり止まっ、ぐぅっ!?」

「なん……!?」

 その感覚を覚えたのはフィアだけでなく、ミィやミリオン……いや、周りの海水、海底の砂や岩など、ありとあらゆるモノに及んでいた。

 引っ張られているとフィアは表現したが、これは正確ではない。一ヶ所を掴まれ、ぐいぐい引かれるのとは明らかに異なる感触。まるで全身がその方向に向かう事を強いられているかのような、それでいて抗いようのない力であると無意識に自覚させられる。

 一体この力はなんなのか? 残念ながら考える余裕などありはしない。

 引き上げる力により、フィア達とその周囲の物質はどんどん海面方向へと上っていく。どんどん、どんどん上っていき……ついには、海面があった場所を()()()()()

 それでも上昇は止まらない。膨大な海水諸共巻き上げられたフィア達は、そのまま空高く浮かび上がる。海水が持ち上げられた区画は半径五キロ程度の半球状。不思議な事にそれらが浮かび上がった部分に周囲の水や土砂が流れ込む事はなく、まるで目に見えない壁が存在しているかのように、歪な状態を保持していた。

 そしてフィア達周辺の海水は高度数キロほどまで上昇すると、そこで一纏めにされるかの如く巨大な球体を形成する。海水はふわふわと空中を漂い、その表面には揺らぎ一つない。崩れる事はおろか、落ちる事すら想像出来ない堅牢さを感じさせた。

 その直下に、空中を浮遊する異星生命体の姿がなければ、であるが。

「ああ、成程ね。ちゃんと仕留められたか分からないなら、周辺をごそっと掬い上げてしまえば良いと。これなら近くに居れば間違いなく捕獲出来るわね」

「そんな悠長な事言ってる場合じゃないでしょこれぇ!? どうすんの!? どうすりゃ良いの!?」

「どうもこうもねぇ……」

 狼狽するミィに、ミリオンは達観した表情を浮かべながら手を外へと向けて伸ばす。その手の動きは鈍く、前に伸ばすだけなのにぷるぷると震えていた。

 固定されているのは海水だけでなく、ミリオン達も同じだった。外に脱出しようにも、全身が内へと引っ張れるのである。力はとても大きく、ちょっとやそっとの力では振り切れそうにない。かといって抗うのを止めれば、どんどん中心に向かって()()()()()

 この感覚から、フィアはようやく自分達の身を縛る力の『表現』に思い当たった。

 それは大自然の中で、最も有り触れたもの。あらゆる生命の行動を縛り付け、安寧の地を作り、旅立ちを阻み、環境を保全する監視者。生み出すには星ほどの巨大な質量を必要とし、宇宙の存続と成長さえも支配する神の力。

 即ち、重力。

 異星生命体は、重力を操る力を持っているのだ。それも膨大な海水を軽々と空高く浮遊させ、何百億トンあるかも分からない水量を揺らぎなく押さえ付けるほど強大なパワーである。少なくとも地球の重力は軽く凌駕している筈だ。如何にフィア達でも、星をも凌駕する力を前にしては為す術もない。

 しかも異星生命体は、そのままフィア達が重力で押し潰れるのを待ちはしない。

 浮遊する水塊の直下で、異星生命体は火球部分を一層強く輝かせていたのだから。恐らくは島でアナシスと戦った時に見せたのと、同じぐらいの光度で。

「……多分だけどさ、あれ、こっちに向かって撃つ気だよね」

「そうでしょうねぇ」

「それ以外に可能性なんてないと思いますが」

「……耐えられると思う?」

「「無理」」

 フィアとミリオンは声をハモらせながら、ミィが望んでいない現実を突き付ける。しかしミィとて察してはいたようで、肩を落とすだけで喚きはしなかった。

 逃げ場なし。耐えられる可能性なし。

 完全な詰みだ。退き際を見誤ったと言えばその通りであり、フィアは抵抗を諦める。浮遊する海水の『重力』に引かれ、フィア達は大人しく運ばれていく。

 やがて三匹は水球の中央までやってきた。重力の中心地であり、ミュータントでなければ呆気なく潰れてしまう世界。フィア達は原形を保っているが、素早く動く事は叶わない。フィアは魚姿のまま観念したように胸ビレを竦める。ミィもミリオンも大人しく、その身をだらんとさせた。

 異星生命体は輝きを止めない。その光は周囲を白く染め上げ、厚さ数キロにもなる、フィア達を取り込んだ巨大水球の中心からでもハッキリと見て取れるほど。この膨大なエネルギーを以てすれば、数百億トンの水を一撃で消し飛ばすぐらい訳ないだろう。

 迫り来る『終わり』。

 抗いようのない滅びを前にして、フィアはぽつりと独りごちた。

「さぁてと……休憩も済みましたし第二ラウンドに入るとしましょうか」

 まるで死など意識しない、強気な言葉を。

 その瞬間は、誰の目にも見えなかった。

 何故ならば『そいつ』は超音速さえも陳腐に思える速さで飛来したから。『そいつ』はスピードを一割と落とす事もなく、絶大なエネルギーを伴って異星生命体と衝突する。

 その衝撃により、水爆ですら傷一つ付かなかった異星生命体の体表が大きく波打った。何万のミサイルを喰らおうと微動だにしなかった巨体が大きく傾き、よろめく。

 しかし光り輝いていた火球は、怯んだ程度では今更止められないようで――――光が一瞬で収束した瞬間、爆発するような閃光と共に火球から巨大な光線が放たれた。

 光線は直径百メートルを超える太さを誇り、真っ直ぐに大気中を突き進む。本来であればその光は、浮遊する数百億トンの水塊を貫いたに違いない。されど身体が傾いた事で射線が逸れ、光線は何もない空へと向かっていった。通り道となった空気中では大気分子がプラズマ化し、巨大な雷が光線の周りで飛び交う。この事象を起こす事でエネルギーの多大な損耗が発生している筈なのだが、光線は衰える気配すら見せない。ついには成層圏、熱圏、外気圏を突破し、付近を通行していた人工衛星を余波だけで跡形もなく破壊。それでも全く減衰せず、そのまま、宇宙空間の彼方へと飛んで行ってしまった。

 眩い光に阻まれフィア達にもその光景は直視出来なかったが……先の一撃が、アナシスを戦闘不能に追いやった攻撃なのを本能で悟っていた。そして人間の科学者であれば、火球が発したエネルギーの性質などからある事象を導き出せただろう。

 それは宇宙でも稀にしか起こらない、天文学的事象。巨大な星が死の間際に、或いは星同士の衝突時に起こると考えられると考えられている大災厄。膨大な量のガンマ線が一直線に放たれ、数千光年彼方まで届くとされる力。太古では地球生命を根絶やしにしかけたとの研究報告が上がるほどの、滅びの光。

 ガンマ線バースト。

 異星生命体が放ったのは、天体でなければ為し得ない超ド級の天文学的現象だったのだ。

 それほどの事象を起こした異星生命体は、今、体当たりを喰らって大きく傾いていた。ついにはバランスを崩し、空中でぐるんぐるんと回転。なんとか体勢を整えようとするも中々止まらない。何百メートル……否、数キロにも渡って吹っ飛んでいってしまった。

 そうこうしていると、フィア達を取り込んだ巨大水塊にも変化が起きる。今まで寸分の揺らぎも起こさなかった水塊が、突如として崩壊を始めたのだ。数百億トンの海水が星の重力に従い、轟音を立てながら落ちていく。半球状に凹んでいた海面と海底も崩れだし、膨大な海水と土石が流れ込んでくる。それらが一つに合わさると、生じたエネルギーによって高さ数キロにも及ぶ水柱となって噴き上がった。甚大な海水の流れは津波へと変化し、円状の波紋となって拡散していく。間もなく太平洋沿岸諸国では津波警報が発令され、数時間後には大きな被害を生むだろう。

 されど人外達にとって、人間の犠牲などどうでも良い。

「ぷはぁっ! うはーっ、やっと自由だぁ」

「やれやれ、一時はどうなるかと思ったわ」

 ばしゃん、ばしゃん。未だ荒れ狂う海面から、ミィとミリオンが顔を出した。人間ならば文字通り粉々になっているであろう海流も、彼女達にとってはちょっと苦労する程度でしかない。

 ましてや水を操れるフィアであれば、悠々と浮上出来る。先程まで晒していたフナの姿を包み、黄金の髪を携えた美少女となって海面に立つ。

「待ちくたびれましたよ全く。散々休んだのですから当然相応には働いてくれるのですよね? 見た目が派手になっただけとかでしたら拍子抜けなのですが」

 そして彼女は、自身の横に並び立つ『怪物』――――すっかり姿形の変わったアナシスに話し掛けた。

 アナシスは海面上に浮き、屈強な全身を外気に晒している。身体が接している部分の水面が煮立ち、強力な上昇気流が発生していた。この空気と水の流れで浮遊しているとすれば馬鹿げた力技であるが、アナシスは疲労の色を見せていない。恐るべきスタミナである。

 加えアナシスは、フィアの戯れ言を聞き逃すようなミスも犯さなかった。ギョロリと、恐竜のような頭部に付いている爬虫類的な眼でフィアを一瞥。存在をしっかりと認識してから、ゆっくりと口を開く。

【……小五月蝿い生き物だ。人間よりもお喋りが好きと見える】

「ふふんあなたのような無口と比べると遥かに可愛げがあるでしょう?」

【減らず口を……言っておくが、逃げるなら今のうちだ。巻き込まれても知らんぞ】

「そうしたいのは山々なんですけどね」

 親切にも警告してくれるアナシスだったが、フィアは頭をポリポリと掻くだけ。

 フィアだけではない。ミリオンも、ミィも、その場から動こうとしない。彼女達全員が、一点を見つめていた。

「正直手助けしないとあなた負けちゃいそうなので」

 そしてきっぱりそう答えながら、フィアは戻ってきた異星生命体を凝視する。

 異星生命体に、目立ったダメージはない。波打った身体に傷が入ってる様子もなく、浮遊する姿も安定したまま。剥き出しになったままの火球も、その輝きが衰えたようには見えない。何キロも吹き飛ばす力であっても、奴を倒すには足りぬようだ。

 されど周囲の大気がおどろおどろしく歪むほどの熱を発するぐらいには、怒らせたらしい。

 その様にフィア達が警戒していると、不意にピシリと、異星生命体の身体にヒビが入った。

 否、ヒビと言うのは適切ではあるまい。何故ならばそれは異星生命体の全身に、均等な網目模様のように入ったからだ。割れた体表面は次々と剥がれ、一枚の、長さ五十センチほどしかない六角形状の薄い板となって本体から離れていく。

 だが、落ちはしない。

 剥がれた板状の表皮は、あろう事か浮遊していたのだ。まるでなんらかの推進機関を持つかのように、火球の周囲を自在に飛び回る。板は徐々にその数を増していき、何千、何万、何十万……何百万にも上るほどにもなった。如何に一枚一枚は小さくとも、これだけの数が剥がれたなら『本体』など残らないだろう。

 実際、もう異星生命体の本体など、何処にも残っていなかった。黒い身体は全てが板となって分裂した。一個の巨大生物は今や無数の板の集合体へと変貌し、ただ一つ残った、巨大な火球の周囲をぐるぐると周りながら漂うのみ。形態は直径四百五十メートルを超える円盤形であり、一層生物感が薄れたものとなる。

 その姿を一言で例えるなら、銀河であった。

「あれが奴の戦闘形態、ってところかしらね。先が思いやられるわねぇ」

「ま、本気を出させたんだから一歩前進でしょ」

「そんなところです。それでは後はお任せします。手伝いぐらいはしますので」

【期待はしないでおこう】

 フィアからの『声援』を受けたアナシスは、ずるりと海上を泳ぐ。合わせて、異星生命体も動き出す。

 核融合は、星の力である。

 原子と原子を融合させ、新たな物質を創造する事象。これにより数多の元素……酸素や炭素、窒素などの……が作り出された。現在の地球生命を形作る元素も、何処かの恒星が核融合によって生み出したものが起源だとされている。言わば核融合は、生命をも創造する神の御業である。その力を振るう異星生命体は、正しく神の領域に至った存在なのだ。

 されど、地球生命とて辿り着けなかった訳ではない。

 アナシスは成長により強大な力を獲得していた。異星生命体と対等以上に渡り合い、敗れても死なず、リベンジを挑めるほどの力を。神でないモノに、神の裁きを耐えられる道理などない。即ちアナシスもまた、神の領域に踏み込んだのだ。

 故にこの戦いは単なる巨大モンスターの闘争ではない。方法は違えど神となった者達の衝突であり、相容れぬ存在との死闘であり、世界の命運を賭けた黙示録である。それぞれの道筋で進化した神と神の生存競争。そして勝者の手により、この星に新たな『神話』が創られる。

 ならばこの戦いは、こう呼ぶのが相応しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神話決戦、と。

 

 

 




ついに始まりました第二ラウンド。この大怪獣同士の戦いの行く末によって、人類の命運が大きく変わります。
……人類、参加出来ませんけどね。

次回は11/19(日)投稿予定です。


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神話決戦10

 先手を打ったのは、異星生命体の方だった。

 漂う六角形の板状の、異星生命体の『身体だったモノ』。火球の周りを周回しているそれらは、その周回速度を徐々に速めていく。

 火球自体が直径百メートルを超えているため、浮遊する『板』の周回距離は中心付近でも約四百メートル、外周部分となれば一・二キロを超える。この長大な道のりを『板』は一秒で一周するまでに加速していた。計算上、外側を漂う『板』の速度は今や秒速千二百メートル以上という音速の数倍ものスピードに達する。全体のスケールからすればあまりに小さな『板』が高速で動き回る様は、さながら高速で流動するノコギリのようだ。

 即ちそのような状態で突撃してくるという事は、明確な殺意の表れである! 異星生命体の進路上に存在するのは、無論アナシス!

「ふん! 肉弾戦の攻撃力を増したつもりでしょうが……小さくなってくれるなら我々にとって好都合です!」

 されど真っ先に対応したのはアナシスではなく、フィアだった。フィアは能力を用い、海水を用いて全長五百メートル以上の刃を形成。その刃を異星生命体目掛け、音速以上の速さで射出する!

 異星生命体の身体は頑強だった。しかしそれはあくまで集合体……一個の『存在』だった時の話である。今や異星生命体は小さな『板』。無論材質に変化はないのだから相応の強度はあるだろうが、湾曲したりして衝撃を逃すための余地は遥かに小さくなっている筈だ。つまり、分化した事で防御力が著しく低下したと思われる。

 フィア的には「小さくなったのだからその分弱くなったに違いない」という単純な発想だったが、結論として間違いではない。最大級のパワーを持って放たれた刃を異星生命体は回避せず、直撃。

 爆音を轟かせながら壊れたのは、フィアが操る刃の方だった。異星生命体の進行は止まらず、『板』にも損傷はない。散々たる結果であるが、期待こそあれども予測は出来ていた事態。フィアは忌々しげに舌打ち一つするだけ。

 それに、気になる事がある。

 水で作った刃が崩壊した際の()()()だ。あれではまるで――――

 違和感を覚えるフィアだったが、その情報を理解して周りに伝えるよりも、異星生命体とアナシスが激突する方が早かった。

 ギャリギャリと、金属同士がぶつかり合うような異音が響き渡る。

 その音により異星生命体の回転には、外観通り攻撃的意図を含んでいたと分かる。生半可な生物なら、今頃胴体が真っ二つに違いない。

 されど、アナシスは健在。肉が削れるどころか鱗で弾き返し、傷一つ負っていない。直立不動を貫きながら尾を大きくしならせ、超音速で異星生命体に叩き付ける! 轟く爆音と共に発生した衝撃波により、周囲の海水がクレーターのように抉れた!

「うひぃあ!?」

「っ!」

 この衝撃の余波を受け、フィア達全員が数キロも彼方に吹き飛ばされる。いや、吹き飛ばされただけで済んだ、と言うべきだろう。

 何しろ先の一撃により、四千メートル下の海底までもが剥き出しとなったのだから。海水を加熱して強引に浮いていたアナシスも、その海水がなくなっては浮遊出来ぬらしい。地球の重力に引かれ、秒速九・八メートルの加速度でゆっくりと降下。対する異星生命体は重力操作をしているのか、叩かれた余韻で僅かに身体を傾けるだけで落ちてくる気配はない。悠々と漂っている。

 尤も、それを許すほどアナシスは甘くない。

 落ちきる前に、アナシスは自らの長大な身体を異星生命体に巻き付ける! 『板』の集合体となっている異星生命体だが、何故かアナシスの身体は食い込んだり空振りになったりはせず、丁度輪郭の辺りで止まってしまう。なんとも不可思議な事象だが、これで巻き付くのに支障はない。島での姿ほどではないが長い身体で締め付け、アナシスは異星生命体を束縛する。

 突如として重量が激増し対応出来なかったのか、異星生命体の巨体が明らかによろめく。それでもなんとか振り払おうとしてか、異星生命体は『板』の周回速度を速めた。激しい摩擦音が轟くも、アナシスは怯まない。むしろ一層キツく締め上げ、そのまま潰そうとする。

 ついに異星生命体は力尽きるように『板』の周回を止め、地面へと落ちた。

 ただし秒速三十キロという隕石並の速度まで加速して。

【■■■!?】

 危機を察したアナシスは身を強張らせるも為す術なく、露出した海底にその身を打ち付けられて呻きを上げる。数十万トン級物体二体の衝突……その破壊力は、巨大隕石の衝突に等しい。もしこれが本当に隕石の衝突であったなら、今頃数百メートル級の大津波が発生し、世界中の沿岸都市を飲み込んだだろう。地上であれば、衝突によって舞い上がった土石が成層圏に到達し、地球を覆い尽くして大量絶滅の引き金となったに違いない。

 しかし異星生命体は、その巨大なエネルギーをアナシスだけに注いだ。打撃の威力は垂直に放たれ、地殻目掛けて直進。僅かな余波がクレーターに流れ込もうとしていた海水を押し退けたが、それだけだ。全エネルギーの大半を、アナシスはその身で受け止める。

 開放すれば地球生命の大半を死に追いやるインパクト。神の鉄槌といっても過言ではない打撃にアナシスは

【■■■■■■■■■■■■!!!】

 怯むどころか怒りを露わにしながら身体をしならせ、異星生命体を持ち上げるや猛然と海底に叩き付けた! それも一度や二度ではなく、何度も、何度も、何度も……自分がお見舞いされた攻撃と同等以上の力を以てして、執拗に! 打撃の衝撃は地殻にまで到達したのか、砕けた海底より溶岩が溢れ出す!

 神の鉄槌といえど、同じく神の領域に立つ者にとっては重めの一撃でしかないのだ。例え星を揺さぶり、周辺から溶岩が噴出するほどの威力だとしても。

【********!】

 されど異星生命体もやられっぱなしではいない。唐突に中央の火球が閃光を放つや、ドクンッ! と鼓動のような音と共に衝撃波を生み出す! それは三百六十度、全方位にドームのように広がり、何もかもを破壊していく。

 正体不明の反撃を受けてもアナシスは異星生命体を放さなかった、が、それは一回目の話でしかない。異星生命体は謎の衝撃波を連続して放出。度重なる攻撃に耐えきれず、アナシスはついに吹き飛ばされる。

 そしてあろう事か、アナシスは数千メートルもの高さまで()()()()()()上昇した。

 恐らくは重力操作による現象。空高く舞い上げられたアナシスに、地上へと落ちる気配は一切なかった。このままでは何処まで飛ばされるか分からない――――されどアナシスはこの状況でも冷静さを失わず、空中で体勢を立て直すや巨大な顎を開き、奥底で燃え盛る紅蓮の光を見せる。

 ハッとしたように異星生命体は形態を変異。銀河のような形が、一瞬にして円錐状に変わる。その円錐の先端には、純白の発光現象が起きていた。

 そして二体は、同時に光を放つ。

 異星生命体が放ったのは大出力のガンマ線……ガンマ線バーストだ。直径百数十メートルを超える力はアナシスの巨体をも浮かし、そのまま大気圏外へ追放しようとする。否、それどころかマグマの熱にも平然と耐える彼女の鱗を、少しずつだが溶解させていた。このままでは、結果はどうあれアナシスは二度目の敗北を向かえるだろう。

 だが既にアナシスは口内より、自身が生成した熱を凝縮した火焔を射出していた。水爆の中心温度さえも嘲笑う高温を内包した火球は外気に触れても冷めず、それどころか触れた大気をプラズマ化させて連鎖反応を起こし、爆発的勢いでエネルギーを拡散させる……ただしこれは火球を包む電離層が激しく揺らいだ時、即ち着弾時に発生する事象だ。

 火球は真っ直ぐに進み、異星生命体を直撃。大気の連鎖反応により、真っ赤なキノコ雲が噴き上がった。放出された膨大な熱により大気はプラズマ化し、高温化による上昇推力によって亜光速で空目掛け駆ける。その反作用により下方向にも強力な衝撃波が飛び、異星生命体を襲った! さしもの異星生命体もこの破滅的一撃を受けて無事ではいられず、大地に叩き付けられる!

 彼女等の攻撃はこれだけに留まらない。アナシスの火球から生じたプラズマは大気圏を飛び出し、宇宙空間に放出される。数万分の一に希薄されながらも未だ高いエネルギーを内包したそれらは、付近を通りかかった衛星の装甲を溶かし、中の精密機械を尽く破壊した。異星生命体が放出していたガンマ線バーストは体勢を崩した拍子に地面に照射され、海水のみならず大地をも溶解・気化させて切断。直線にして四千キロ彼方まで地球を切り裂き、周辺の生態系を粉砕する。

 かくして双方相手を怯ませ、周囲への甚大な被害と引き換えに手にした隙で体勢を立て直す。アナシスは再び海底に降り立ち、異星生命体は円錐形から銀河型へと姿を戻す。

 二体が再度激突するのに、それから一秒も必要としなかった。

 太平洋に創り出されたクレーターは、絶え間ない衝撃により未だ消えていない。代わりに生命はその鼓動を跡形もなく消し去り、文明の力も息の根を止められる。神々の本気の争いは、何人であれ見る事さえも許されないのだ。

 唯一の例外は、その『神々』と同質の力を宿した非常識達だけである。

「……完全に蚊帳の外ねぇ、私達」

 その非常識達にとっても接近は危険なため、ミリオン達は遥か百数十キロ彼方で、彼女達の死闘を観察していた。

 ミリオン、フィア、ミィの三体が居るのは高度三千五百メートルもの上空。ミリオンは加熱による飛行で浮遊し、フィアは水を操って高さ三千五百メートルの『柱』を作ると金髪少女の姿でその先端に座り、ミィはそのフィアが作った『柱』にしがみつく形でこの高度に留まっている。

 視点を上げれば地平線は遠くなる。三キロ以上の高さまで上がったフィア達は、ここまで離れてもアナシス達の戦いを眺める事が可能だった。異星生命体がさながら星の如く猛然と輝き、煌々と辺りを照らしているお陰もあってとても良く見える。

 尤も、彼女達の強大さを思えばこの距離でも安心など出来ないが。

 何よりも問題なのは……

「さぁてどうやって手助けすれば良いんですかねぇ」

 フィアが独りごちたように、アナシスの援護の仕方が分からない事だ。

 この『やや安全圏』から助けよう、なんて虫の良い考えはフィアだって持っていない。必要であれば接近し、何かしらの行動を起こすつもりだ。では何故そうしないのかと言えば、単純に有効な手助けが思い付かないからである。何しろ三体全員が協力して編み出した『合体技』すら、何十発も喰らわせないと効果がない体たらく。加えてあの技は、ああも激しく動き回られるとまず当たらない。行ったところで犬死にが精々では意味がないのである。

「つーか、なんでアイツあんな硬いの? 分散してるんだから、ちょっとは脆くなりそうなんだけど」

「むしろ強くなったアナシスの攻撃に耐えてる辺り、一層硬くなってるかも。どんな方法で衝撃に耐えているかは分からないけど、分散した方が頑丈ってのは、感覚的に奇妙な話ね」

「ふむ。そういえば先程攻撃した時に違和感がありました」

「違和感?」

 ふと、自分が一発だけ繰り出した攻撃――――水で作り出した巨大な刃をぶつけた際の手応えを思い出し、フィアはミリオン達にそれを伝える。

 曰く、手応えが()()()()していない、と。

「……は?」

「だからぶつぶつしていなかったのです。滑らかというのでしょうかなーんか思ってたのと違うんですよね」

「いや、そんないい加減な感覚の話をされてもさぁ」

 あまりにも抽象的で雑な感想に、話を聞かされたミィは困ったように顔を顰める。しかしながらフィアとてヒントになればと思いなんとなく話しただけで、詳細を求められても困る。

 そうして二匹が共に困り果てる中、無生物であるミリオンだけが自身の顎に指を当てながら考え込んだ。しばらくぶつぶつと呟いていたが、やがて小さく「ふむ」と漏らすと納得したように頷く。

「成程、理屈は分かったわ。『アイツ』と同じ原理かは分からないけど、そういう手も使える訳ね」

 それからこぼした独り言には理解者特有の自信こそあるものの、残念ながらフィア達にも分かるようにとの配慮は全く含まれていなかった。

「どういう事です? 私にも分かるように話しなさい」

「あたしにもあたしにもー」

「……簡単に言えばバリアね。磁場による反発か、重力を操って何かしてるのか、それとも人間や私達では計り知れない未知の法則か。なんにせよ、そういったモノで身を守ってるのよ。まぁ、体内で核融合なんてしてるんだから、元々頑丈ではあるんでしょうけど」

「うへぇ。そりゃ破るのもしんどそうだ」

「付け加えると、バリアに関しては分裂した方が頑丈になる筈よ。バリアは表面に展開するものだから、表面積を増やせばその分バリアの総量も増える事になるもの」

 つまりあの銀河のような形態は攻撃モードではなく、むしろ防御を重視した形態ではないか。

 ミリオンが語った『推測』に、ミィは顔を顰める。これが事実なら、ますます打つ手がないように思えてならないのだ。何しろ自分達の力では、()()()()()()姿にすらまともなダメージを与えられなかった。仮に攻撃力と引き換えに防御力が下がっていれば何か出来たかも知れないが、逆となると一層手立てが減ってしまう。いや、だからこその『戦闘形態』かも知れないが。

「弱点がないとは思わないけどね。間違いなく、エネルギー消費は激増しているわ。だからスタミナ面は弱体化している筈なんだけど……」

「核融合って、凄い量のエネルギーを作れるんでしょ? 結構賄えるんじゃない?」

「多分、賄えるんでしょうね。宇宙空間ならまだしも、水素原子だらけの地球上で疲れ果てる可能性は皆無よ」

 小さく、ミリオンはため息を漏らす。唯一付け込めそうな部分も、超常のエネルギー生成機能によって補完されている。何処を取っても完璧。宇宙を旅する生命とはこれほどまでに超越的存在なのかと、二匹揃って途方に暮れる。

 次いで彼女達の脳裏に過ぎるのは、アナシスの戦局。

 如何にアナシスの力が絶大でも、無尽蔵のスタミナの相手を出来るのか? 星の力を前にして何時まで戦えるのか? 不利だと本能的に感じたからこそ援護に回ったが、考えるほどに敗色濃厚である事を悟る。

 そしてどれだけ不利でも、自分達の力では手助けにもならない事への不甲斐なさも。

「正直よく分からないのですがつまりアイツは見えない壁に包まれているという事ですかね?」

 そんな中、フィアが能天気に尋ねる。

 まるで危機感がないのに加え、例え方もいまいち分かってないのがありありと伝わってくるもの。ミリオンとミィは同時に肩を落とし、ミリオンが小さく頷いた。

「……大まかに言えばそういう話ね」

「なんだ。なら最初からそう言えば良いのですよ回りくどい。あとそういう事であれば一つ作戦があるのですが」

「「作戦?」」

「要するにアイツはバラバラに見えて一塊という事なのでしょう? だったら……」

 首を傾げながら訊き返してくるミリオン達に、フィアは閃いた『秘策』を打ち明ける。伝えられたミリオン達は渋い顔をしながらも、しかし関心自体は持った。

 フィアが話を終えると、ミリオンはゆっくりと手を上げる。そして指を二本立てると、重たくその口を開いた。

「確かにそれなら『手助け』にはなりそうね。でも問題が二つ。一つはアイツのあまりにも大きい力をどう処理するか。尤も、これはやり方次第でどうとでもなりそうだけど」

「ふふんお任せください。その辺りは勘で分かりますから」

「……まぁ、さかなちゃんの勘なら信じても良いけど。だけど問題はもう一つあるわ。こっちは致命的。その作戦に使えるような『素材』が何処にもないって事。さかなちゃんが能力で作った物でも、アイツ相手じゃ簡単に壊されちゃうでしょ」

「む? それ心配する必要あります? 別段拘束する訳ではないのですし」

「最低限の強度は必要でしょ。蹴飛ばされた瞬間吹っ飛ぶようじゃ話にならないわ」

「むむむ……」

 作戦の穴を指摘され、フィアは黙りこくってしまう。当人からすれば名案でも、第三者からすれば問題点だらけというのはよくある話だ。

「……ねぇ、それなんだけど……」

 そして、第三者から解決案が出てくるのもよくある話で。

 ミィからの提案に、フィアはぽんっと手を叩いて納得する。ミリオンも少し考えてから、こくりと頷いた。

「……OK、良いわ。それで上手くいく保証はないけど、やるだけやってみましょ。加工に関しては私がやるわ。さかなちゃんは『素材』集め。猫ちゃんは実戦で活躍してね」

「あいあいさー」

「むぅ。私一人でやって花中さんに自慢したかったのに……」

「別に手柄を横取りしようなんて考えちゃいないわよ。あと、その心配は作戦が上手くいってからにしなさい……っと、ちょっとのんびりし過ぎたかしら?」

 若干不満げなフィアを嗜めたミリオンは、ふと正面を見据えながらぽつりと漏らす。フィアとミィもミリオンと同じ方角に視線を向け、能力を用いて百キロ彼方を凝視。すぐにミリオンの言いたい事を理解する。

 アナシス達の戦いに『変化』が起きていたのだ。無論、自分達にとって都合の悪い方向に。

 彼女なら持ち堪えてくれる――――等と、期待を抱く事をフィア達はしない。危機に陥ったのなら、それは何時負けてもおかしくない事を意味する。

 このままアナシスが負ければ、最早打つ手はない。

「さぁていっちょやりますか!」

「もたもたしてらんないもんね!」

「んじゃ、一仕事するとしましょ」

 フィアは水柱を崩して落ちるように、ミィは自ら飛び降り、ミリオンは霧散して姿を消す。

 現状一つしか思い付かなかった策で、この星最後の希望を助け出すために。

 ……………

 ………

 …

 強い、理不尽なまでに。

 激戦の中で、アナシスは異星生命体への評価をそう出していた。

 単純なパワーとスピードでは負けていない。自分の一撃が相手を怯ませるだけでなく、相手がうっすらと纏っている『壁』をぶち抜いて打倒しうるという手応えもある。決め技である『火球』が異星生命体の生命を脅かすだけの威力があるのも間違いない。『勝ち目』自体は確かにある。

 しかし、それは「肉食獣と草食獣が争った時、稀に草食獣が肉食獣を殺める事もある」という程度のもの。

 確かに肉弾戦、射撃戦では互角だ。だが自身には大きく育てたこの肉体しか武器がないのに対し、異星生命体には不思議な力……重力を操る能力がある。力が互角なら、技に優れている方が有利なのは考えるまでもない。

 かくしてこのまま考えなしの戦いをしても勝ち目が薄いと判断したアナシスは異星生命体と一旦距離を取り、異星生命体の方もアナシスの様子を窺うように距離を開け、二体は睨み合いを始めた。一時の休戦により争いの余波は消え、太平洋にぽっかりと空き続けたこのクレーターに、海水が流れ込む轟音だけが満ちる。

 アナシスが相手との実力差を察したように、異星生命体もアナシスとの力の差を感じている筈。しかしその力量差は、油断や幸運によりひっくり返る恐れがある程度でしかない。向こうとしても返り討ちの可能性を考え、慎重になっているのだろう。されど優勢なのは間違いない。むしろ実力が近しいからこそ、時間を掛けて策を巡らされてはこの優勢をひっくり返されかねない……少なくともアナシスが異星生命体の立場ならばそう考える。

 恐らく異星生命体はすぐにでも動き出す。何かしらの反撃に備え、小手先の策ぐらいは手元に用意しながら。

 故に異星生命体が突如としてフル回転しているエンジンのような怪音を鳴らし始めた時、アナシスが予測した異星生命体の行動は再突撃であったが――――異星生命体は、それを凌駕する。

 消えたのだ。

 比喩ではなく、文字通り。なんの残像すらも残さずに。

【■■■!?】

 直後、困惑に浸る間もなくアナシスの背中に鋭い打撃が入る!

 身を捩り背後を振り返れば、そこには異星生命体の姿が。

 何時の間に背後に? 理性が疑問への答えを模索する中、本能は反撃を決断。長大な身体をしならせて異星生命体を叩き倒そうとするも、既に異星生命体は後退。間合いを取られ、寸でのところで回避されてしまう。

 されどこのまま逃がすつもりもない。アナシスは全身で生産した熱エネルギーを口内で凝縮。ガンマ線バーストとの撃ち合いをした時よりは低出力の、されど小型であるが故瞬時に射出可能な火球を生み出す。

 異星生命体は再び異音を鳴らし、アナシスと向き合う。先程は何をされたのかよく分からないが、仮に高速で動いているのなら、目では捉える事が出来ずとも余波や震動などの予兆はある筈。その予兆を捉えるべく全身の感覚を研ぎ澄ましながら、アナシスは火球を撃ち放った!

 ほんの十数秒で地球を一周する速度で放った火球は、異星生命体を正確に捉えていた。撃たれた事は認識しているだろうが、身体の動きが追い付くまい。致命的ではないが、手痛い一撃を与える

 筈だった。

 異星生命体は、アナシスの()()()()()()()

【ッ!? ■■!?】

 突然の出来事にアナシスは唖然となり、その隙を突いて異星生命体は体当たりをお見舞いする! 意識を異星生命体の『挙動』に集中させていた上に不意を突かれたアナシスに、防御の準備などする暇もない。苛烈な一撃に呻きを上げ、彼女は数キロほど吹き飛ばされてしまう。

 ダメージ自体はそれなりで済んだため、アナシスは悠然と起き上がる。が、その心中は動揺が支配的となっていた。無論、いきなり異星生命体が目の前に現れて驚いた、というのもある。

 だが何よりもアナシスを動揺させたのは、なんの予兆も、痕跡もない事。

 『成長』により、アナシスの動体視力は生半可な生物など足下にも及ばないぐらいには優れている。具体的には、音速の百数十倍にも達する自分の尾ぐらいならちゃんと見えるほどには。そのアナシスにも見えない速さとなれば、周囲の粉塵が舞い上がったり、駆け出す寸前の踏み込みで地震などが起きねばならない。

 なのに、起きていない。

 つまり異星生命体の動きは、ただの高速移動ではないのだ。例えば瞬間移動のような……

 暫定的に原理を定めたのも束の間、異星生命体は再び異音を鳴らし始める。唯一予兆といえるのが、この異音。恐らく先の『行動』には多大なエネルギーを必要とし、その生産を行っているのだろう。

 何時、何処から来るか分からない攻撃。理性のみならず本能さえも困惑する中、アナシスは突如として消える異星生命体の猛攻を予感し歯ぎしりをした。

 ――――さて、異星生命体は『何』をしているのか。

 これもまた異星生命体の能力である、重力操作の応用であった。重力の作用は、何も物体を引き寄せる事だけではない。例えば空間を歪める事も可能だ。これは巨大な恒星の付近では空間が歪み、恒星の『裏側』の景色が観測出来るという現実の結果からも証明されている。

 そして空間を歪める事が出来れば、時間の流れをも操作出来る。

 アインシュタインの一般相対性理論により提唱され、既に証明された『事実』。高重力圏、空間が凝縮された世界では、時間の流れは ― その重力圏の外から見て、という前提は付くが ― 遅くなるのだ。これはGPS衛星の内蔵時計などで活用されている理論であり、仮に否定されれば現在の物理学が根底からひっくり返る大前提である。

 では逆に、重力操作により空間を()()()()()()なら?

 ごく単純な話だ。重力圏内の外から観測すれば、物体の時間は加速しているように見える。逆に、重力圏内の内から観測すれば、自分の外側の時間が遅くなったように感じるだろう。そして空間の引き延ばしを極限まで、限りなく薄くしたなら……自分を囲う世界の時間はまるで止まったように遅くなる。

 即ちこれは、時を止める事に等しい。

 異星生命体は、時を止めて攻撃していたのだ。それも蓄積したエネルギー量次第ではあるが、五秒や十秒といった制限もない。静止した世界の中で悠々と歩き、じっくりと観察し、最も適切な死角を窺える。あらゆる攻撃を回避し、あらゆる防御の隙間を付く。

 時間という世界のルールさえも捻じ曲げるその力は、最早神以外に相応しい言葉などあるまい。

【■■■■■■! ■■■! ■■■■■■■■■!】

 そうとは知らないアナシス。接近戦を仕掛けて『瞬間移動』をさせまいとするも、異星生命体は再び時を止めてこれを回避。観測上光をも凌駕する超スピードで側面に回り込み、時の流れを元に戻す。

 アナシスの時間が流れ始めた時、異星生命体は既に彼女の前から消えている。本能的に気配を察知して振り向くも、攻撃態勢にある異星生命体と比べれば数手遅れている状態。身体能力が互角である以上、到底巻き返せない遅れだ。

 高速回転を加え、さながら殴り付けるかのような体当たりを喰らわせる異星生命体。この苛烈な攻撃を、アナシスは十分な構えすら取れずに受ける羽目となった。数十万トンはある巨体が衝撃で浮かび、口から零した何百キロもの涎に血が混じる。殴られた箇所の鱗が欠け、僅かながら肉片が剥き出しの海底に落ちた。

 アナシスとてただでは転ばない。素早く身をのたうち、渾身の頭突きをお見舞いする! 大地に打ち付ければ気候変動をも起こしかねない一撃に、異星生命体の身を覆うバリアが歪む。核攻撃でも揺るがせられなかった無敵のフィールドが衝撃を緩和出来ず、バリア内の身体……無数に分裂した『板』の幾つかが破損し、周囲に飛び散った。

 それは確かに、ダメージである。されど浅い。アナシスと比べれば、ずっと。

【■■■■■■■■■!】

 ならばともう一発頭突きをお見舞いしようとするが、三度時が静止する。連続した時間停止はエネルギーの消耗が大きく、あまり長時間の時間停止は使えない。しかし一秒も敵を止める事が出来るのなら、接近戦で優位に立つ事は容易い。

 寸でのところで頭突きを躱され、アナシスの体勢が大きく崩れた――――その瞬間、頭上に移動していた異星生命体は回転しながら体当たり! 叩き付けるような一撃によってアナシスの身体は大地に叩き付けられ、小惑星が衝突したかのような地震と衝撃波が周囲を駆け巡った。

 それでもアナシスはすぐに起き上がり異星生命体を睨み付けようとするが、もうそこに異星生命体の姿はない。背後に回っていた異星生命体は重力操作によりアナシスの身体を上空へと浮かばせ、その後猛スピードで地面に叩き付ける! 三度も叩き付けるとアナシスを放り投げて距離を確保。改めて異音を鳴らし、エネルギーの生産を始めた。長時間の時間停止が行えるよう、念入りに。

 最初は互角の戦いだった。

 だが、今ではもう一方的に嬲られるだけ。繰り出した攻撃は簡単に回避され、固めた防御は容易く隙間を抜かれる。瞬間移動ではない、と今更ながら察するアナシスだったが、しかし仮に正確な能力を見抜いたところで意味などない。静止した時間への反撃手段など、持ち合わせていないのだから。

 度重なる猛攻に、アナシスの鱗が宙に舞い、皮膚片が飛び散る。一欠片でも数十キロはあるそれは、柔らかな海底の砂地に次々と埋まる。最早浅いとは言えない傷からは滲むような出血を起こし、美しい翡翠色の身体が少しずつ黒ずんでいった。

 やがて、アナシスの抵抗が止む。攻撃する事がなくなり、その身を強張らせるだけ。目は異星生命体を追おうとするが、時間停止を駆使して忽然と姿を消すモノを捉えるのは不可能だ。身を強張らせて防御を固めるのも、何処から攻撃されるか分からない以上全身くまなくするしかなく、疲労の蓄積が著しい。体力を消耗すれば、ますます勝機はなくなる。

 このままではジリ貧なのは確実。打開策もない。

 敗色濃厚のアナシスに対し、異星生命体は攻勢を弛めない。むしろいよいよ大詰めに入ろうとしているのか。距離を開けるや時間を止め、助走を付けた状態で駆ける。そして接触寸前に時間の流れを戻して体当たり……大振りで、威力の高い攻撃を繰り出すようになった。本来ならば回避や反撃の恐れのある戦い方だが、アナシスの防御姿勢に加え、最強の命中率と究極の回避力を誇る時間停止の前ではそんなリスクなど掠れて消えてしまう。

 最早戦いですらない。何時終わるのか、それだけが議論の内容となる『暴虐』。

 やがて、アナシスは崩れ落ちるように横たわってしまう。

 何度か起き上がろうとするもすぐに倒れ、息も絶え絶えとなっているアナシス。敵対者の弱々しい姿を前にした異星生命体は、一際大きく距離を離すと円盤状の身体を前のめりに傾けた体勢で時を止める。そして止めとばかりに、最高速度の回転と機動力を以て動けないアナシスに突進し、

 ぐらりと、道中で異星生命体の身体が一層前のめりになった。

 なんだ? と思ったかは定かではないが、異星生命体は焦りの挙動を見せた。明らかにわたわたしながら、崩れそうになる体勢を立て直そうとしている。しかし勢い付いた身体は止まらず、どんどんどんどん前のめりになってしまう。

 ついには今まで『ケツ』だった部分が頂上に達し、ひっくり返る。

 異星生命体は気付いただろうか。自身の身体を襲った事態の原因が、一本の『糸』であった事に。

 仮に気付いたところで最早手遅れ。重力操作で体勢を直そうにも、そのためのエネルギーの大半は時間を止めるために使ってしまった。神の力である核融合といえども、時に干渉するには多大な消耗を伴う。重力操作に割けるエネルギーなどない。

 故に異星生命体は何も出来ず、時間停止が切れるのと共に大回転しながらすっ飛び、大地に墜落する! そのまま不様に、時をも止める力を持っているとは思えないほど哀れに、異星生命体は海底の砂浜を転がっていった。

「いよっしゃあっ! やりましたよ!」

 その姿を見て、『糸』を張っていた張本人――――金髪碧眼少女の姿を取るフィアが、海洋に開いたクレーターの縁でガッツポーズを取った。

「いやはや、まさか本当に上手くいくとは。なんでもやってみるものね」

「いきなり瞬間移動を始めた時にはどうすりゃ良いかと思ったけど、よかったー……つか、なんで瞬間移動なのにすっころんでんの?」

 フィアの傍にはミリオンとミィも居て、目の前で起きた『事象』への喜びを次々と口にする。ハイタッチしたりぴょんぴょん跳ねたりもした。

 彼女達がした事は至極単純。フィアが作り出した水の『糸』を異星生命体が通りそうな場所に仕掛け、運良く引っ掛けただけである。

 子供のイタズラ程度の行いだが、しかし命を賭けた激戦の中では大きな罠となる。全速力で駆け、相手しか見えていないのだ。上手く転べば、自重と速度により致命的な一撃ともなり得る。何よりこの罠、例え幼児が仕掛けても大人にだって通用する……相手の力を利用するがために、実力差を大きく無視出来るのだ。まともな方法ではダメージを与えられないフィア達でも、一矢報いる事が出来るかも知れない策だったのである。

 とはいえ異星生命体をひっくり返すのは、流石に容易くはない。如何に相手との力関係を殆ど無視出来るにしても、あまりにも大き過ぎる差となれば別。大人を相手に罠を仕掛けるとして、麻縄なら大丈夫だろうが、ティッシュでは恐らく破られるだろう。つまり罠の要である『糸』には相応の強度が求められるのだ。無論『留め具』の方 ― 今回のフィア達の場合、ミィの怪力とフィアの能力が担当した ― も多少は強度が必要だろうが、こちらは引っ掛け方次第でなんとでもなる。『糸』の方には純粋な頑丈さが必要だった。

 そこでフィアは『糸』に混ぜ物を加えた。

 アナシスの肉片や異星生命体の欠片だ。ちょっとやそっとの肉弾戦では砕けぬその肉体を編み込んで作った『糸』ならば、異星生命体のパワーにも対抗出来ると考えたのである。素材をフィアが集め、ミリオンが糸のように加工し、ミィがそれを握り締める……三匹は互いの長所を活かし、見事異星生命体に攻撃を通したのである。チームワークではなく、自分に出来る事をするという形で。

 尤も、普通の状態だったらこの『糸』であっても簡単に切られていただろう。それほどまでに異星生命体の、神々の力は大きい。

 しかしフィア達の罠に掛かった時、異星生命体は自分以外の時を止めてしまっていた。時間が止まった物質にいくら攻撃しても、時間経過がないためエネルギーは流れていかない。対して自分の時間は流れているため、エネルギーの流れが自分にだけ生じる。

 つまり動かないモノを殴ると、自分だけがダメージを受けてしまう……これが時間停止の唯一とも言える弱点だった。故に異星生命体は、時間停止の最中に攻撃をしていない。空気などであれば自身の表面に触れた分子の時間が動くため妨げにはならないが、アナシスほどの巨体は厚過ぎるのだ。

 そして今回フィアが繰り出した『糸』も不純物を山ほど含んでいる都合、通常の何十倍もの太さになっていた。異星生命体はその能力故に、自身から見れば脆弱である筈の『糸』を超えられなかったのである。

 そうとは知らないフィア達は、自分達の策が通じたのだと勘違いして大喜び。されどその目は笑っておらず、緊張感も消えていない。

 当然だ。異星生命体はただ転んだだけで、死んだ訳ではないのだから。しかし今までと何も変わらないかというとそうでもなく……異星生命体は明確に、フィア達を()()()()()いたが。

「おおー。怒ってますねぇ」

「今更でしょ。無視されるような事してもしょうがないんだから」

「あーあー、こりゃ逃げる事も無理そうだねー」

 諦めるように、達観するように、嘆くように。フィア達は淡々と己が心境を言葉にする。

 もう、あなたにとって私達など羽虫同然だ、との『言い訳』は通じないだろう。

 少なくとも異星生命体にとって、時間停止を妨げる『糸』はこの場において排除すべき対象だった。フィア達に異星生命体の心境を察する事は出来ないが、相当苛立っている事は伝わっている。

 具体的にはその姿を円盤状から円錐型へと変え、光り輝く先端をフィア達の方へと向けてくるほどの苛立ちだ。意外とこの宇宙人、短気らしい。

「うーん避けるのは難しいでしょうね」

「無理っしょ。あたしでも多分余波でやられる」

「私も同じね。ま、予備をはなちゃんのところに残してるから、全滅はしないけど」

「あー、ずるーい」

「これだからインチキ物体は……」

 ガンマ線の輝きを前にしながら、尚もフィア達は落ち着いたまま。その一撃を防ぐ手立てなどないのに、淡々と向き合う。どう足掻いたところで勝ち目はおろか、逃げる事すら儘ならないのだ。無駄な事をして疲れるよりも、大人しくして楽な方がマシである。

 それに、勝機は未だ潰えていない。

「さて、怒りで我を忘れているのか、それとももう立ち直れないと思ってるのかは分からないけど……油断、しちゃったわね」

 ミリオンのこの呟きを聞き取った訳ではないだろう。

 されど異星生命体はハッとしたように身を強張らせる。今にも発射しそうなまで輝きを増した先端の光は、その煌めきを保ったまま困り果てたように動かない。

 異星生命体に目があれば、今頃自らの背後を見ようとしていただろう。

 何故なら背後には――――倒れていたアナシスが、起き上がった体勢で自身を見ていたのだから。

 アナシスの息は荒い。身体はゆらゆらと揺れ、今にも倒れそうになっている。全身を覆っていた鱗は至る所が剥げ落ち、あちこちから血が溢れていた。肉の一部が抉れ、ぐじゅぐじゅと体液が溢れ出している。並の生物ならば間違いなく重傷であり、そのまま昏睡してもおかしくない深手だ。

 しかしアナシスの闘志に揺らぎはない。一片の恐怖も抱いていない眼光で異星生命体を睨みながら、憤怒で燃え盛る息を吐いている口をゆっくりと開く。

 そしてその奥底で輝く、特大の『紅蓮』を見せ付けた。

 アナシスは、何も黙って異星生命体の猛攻に耐えていたのではない。その身で作り出した熱を少しずつ、際限なく、自らの内側に蓄積していた。あまりの高熱に体内の一部が炭化したが、そんな事など構っていられない。自分の身すら焼けぬ炎で、自分を打ち倒そうとした怪物を討つなど叶う筈がないのだから。

 自らの身すらも顧みずに作り上げた火球は、これまでのモノとは別物だ。炎を閉じ込めるためのプラズマがスパークし、今この瞬間にも破裂しそうなほど不安定になっている。その溢れ出る輝きは炎を超え、恒星を凌駕し……ビックバンをも彷彿とさせた。

 原初の炎と、星の煌めき。どちらが格上かは、異星生命体の反応が物語る。ガンマ線の光を止め、慌てて時間停止のためのエネルギーを生産しようとする異星生命体。だが『二手』遅い。

 異星生命体が行動を起こした時、既にアナシスの口からは超高温の火球が放たれたのだから。

【**************!】

 悲鳴か、懇願か、憤怒か、狂気か。

 地球生命にはなんの感情も伝わらない叫びは、しかし火球が発する轟音に飲まれ。

 銀河を彷彿とさせるその姿も、星全体が軋むほどの大爆発に掻き消され、誰の目にも見えなくなった――――




意外と怒りっぽくて隙だらけな異星生命体さん。
隙だらけでも強いんですけどね。

次回は11/26(日)投稿予定です。


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神話決戦11

 その瞬間が訪れる間際、フィア達が取った行動は歓喜の声を上げる事ではなく、慌ただしく守りを固める事だった。

 アナシスが放った超高温火球は異星生命体に直撃するや爆散。内包していたエネルギーのほぼ半分が真上に、反作用として残りの半分が真下へと放出する。プラズマ化した大気は高度千数百キロまで荒々しく立ち昇り、赤色の柱のようになって宇宙の遥か彼方へと飛び出した。先の一撃では付近を通った衛星をも巻き込んだが、今度の被害はそんなものでは済まない。舞い上がった高出力のプラズマは大気の電離層を引っ掻き回し、世界中で使われている短波による遠距離通信機能を機能不全に陥らせてしまった。地球を襲っていた異常事態に各国が連携を取る中、そのために欠かせない通信網が呆気なく崩壊し、人類文明全体を更なる混沌に陥れる。

 これでも、被害をもたらしたのはあくまで火球の『余波』である。半分のエネルギーは『敵』にぶつけられ、電離層を直撃したのは残り半分……それも数万分の一にまで薄まったプラズマだ。

 ならば着弾地点から僅か数キロしか離れていないフィア達は?

「ぬぐうぅぅぅううううっ!?」

「ばふっ!?」

「ぐ……!」

 周囲に広がったほんの僅かな余波を、渾身の力でどうにか耐えてその場に踏み留まっていた。あと少し近付いていたなら、いくら防御を固めても跡形もなく吹き飛ばされていただろう。

 フィア達の事などお構いなしの一撃。とはいえ元よりアナシスがこちらを配慮しない事は分かりきっていた。第一誰かを気遣った()()()()ではあの異星生命体は倒せまい。

 尤も本気の一撃を与えたからといって、それで倒せる保証もないが。

「……いい加減これでくたばってくれませんかねぇ」

 願望をぼやきながら、フィアは守りを解き、正面を見据える。

 果たして結果は――――紅蓮の炎が晴れた時、そこには未だ異星生命体の姿があった。

 あったが、最早原形を留めていない。異星生命体の身体であった黒い『板』はその大半を喪失。中心で燃えていた火球も、一回り大きさを小さくし、まるで出血のように激しく炎を噴き出していた。下方向に放射されたプラズマによって気化したのか直下の地面には巨大な大穴が空いており、異星生命体はその上を浮遊していたが、その挙動もゆらゆらしていて、何時落ちても不思議ではない。放つ光も弱々しく、辺りには微かだが宵闇が戻ってきていた。

 致命傷だ。

 一目でフィアの理性はそう判断し、勝利の喜びが全身に満ちる。パッと花咲くように笑みが浮かび、自然と握り拳を作っていた。

 だが、歓喜に酔いしれたのはほんの数瞬だけ。すぐに本能が鳴り響かせる警報でその身を強張らせた。

 終わっていない。

 まだ異星生命体は死んでいない。

 それどころか奴は『奥の手』を披露しようとしている。

「流石にこれはないわー……」

「いや、いくらなんでも……」

【これでも足りぬか……化け物め】

 フィアと全く同じ気持ちの言葉をミィが、ミリオンが、そしてアナシスが漏らす。

 これを合図とするかのように、異星生命体が『変異』を始めた。

 今にも消えてしまいそうだった火球が不意に安定性を取り戻した、刹那、肥大化を始めたのだ。火球の膨張はあまりに急激で、自身の周囲を漂っていた数少ない『板』さえも次々と飲み込む。自分の身体を自分で喰らうような異常行動であったが、しかし火球はその勢いを弱めるどころか更に活性化。浮遊するその身は高度を段々と上げ、膨張は留まるところを知らない。

 同時に、異星生命体側へ引き寄せるような引力が発生する。

 踏ん張らなければフィア達ですら浮かび上がりそうなほど、大きな力だった。フィア達が立つクレーターの内側へ流れ込もうとしていた海水は浮かび上がり、次々と火球に吸い込まれる。海水が取り込まれるほどに火球はどんどんと巨大化していき、併せて引力も増していく。輝きも強くなり、先程までの瀕死ぶりなど何処にも残っていない。

 いや、それどころか姿さえも。

 最早、異星生命体に『身体』など存在しなかった。そこに存在するのは巨大な火球であり、地上に降臨した核融合炉でしかない。

 こんなもの、生物でも機械でもない――――

「……ああ成程。こりゃ手強い上にしぶとい訳です」

 脳裏を過ぎった直感的言語。そのワンフレーズによって、フィアはようやく『異星生命体』が何かを知る。

 星をも貫く光線、世界を揺るがすほどの怪力、世界の崩壊にすら耐える防御、時間操作(瞬間移動)……これらの力の源泉が燃え盛る火球の核融合、その核融合を生み出す重力操作から生み出されている事は間違いない。

 では、その核融合反応をコントロールしているのは『何処』なのか? つまり『本体』は何処にあるのか、だ。常識的に考えれば、板状に分裂した身体以外にあるまい。しかしその身体はアナシスの一撃により大半が消し飛び、ついには火球の巨大化に巻き込まれて消失した。核融合反応は恒星などの高温高圧環境でこそ起こるものであり、地球の常温常圧では勝手に萎んでしまう。板状の身体が制御を担っていた場合、身体が消失したその瞬間に核融合は急速に衰えていく筈だ。されど実際には『板』が全て火球に飲み込まれても、火球は衰えるどころか活性化している。板状の身体は核融合の維持に関わっていないと考えるのが妥当だ。

 ならば遠隔操作か? 本体は遥か遠方に居て、こそこそと『異星生命体』を操作している可能性は? これもない。アナシスとの戦闘において、異星生命体は瞬時に、臨機応変な対応を見せている。遠距離から操っていてはタイムラグが生じ、自動操縦では戦術が単純になる。それではミュータントの戦闘には対応出来ない。奴の『本体』は間違いなく間近で戦闘を観測し、身体に指示を飛ばしている。しかし付近の海水はフィアが能力で操っているため、そこに隠れ潜む事など出来ない。

 板状の身体ではない。遠くには居ないし、近くに隠れてもいない。ならば、本体の候補は残り一つ。

 あの燃え盛る火球――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 まるで因果関係がひっくり返ったかのような、おかしな結論であった。花中だったなら今頃首を横に振り、そんな訳がない、もっと違う理由がある筈だと、思考の大海原に旅立っていただろう。如何に論理的でも、人間としての常識が理解を阻んだに違いない。されどフィアはこうした論理を用いず、本能的に『なんとなく』この結論を導き出していた。故にすんなりと、思ったままに目の前の事象を受け入れる。

 即ちアレは意思を有した核融合現象。

 生命でなく、物質ですらない。何もかもが溶け合い、エネルギーへと変化していく宇宙最大級の事象……核融合反応そのものが異星生命体の、否、火球の『正体』なのだ。

 フィアにここまで論理的な考えはなかったが、直感的に火球が『生命体ではない』事を察した。そして纏っていた肉の身体を捨て、生命ぶった態度を止めたという事は、奴は本当になってしまったのだ。

 神の力を内包した生命ではなく、完全なる『神』に。

「ちょ、ちょおーっとこれはヤバくない!? ヤバいよねこれぇ!?」

「ええ、ヤバいわね。あの火の玉単体で核融合が出来るって事は、『身体』の方が担っていたのは反応の促進じゃない。戦闘能力の低い形態ほど火球の露出が低い辺り、むしろ反応の抑制を担っていたんじゃないかしら。つまり……」

「つ、つまり!?」

「今のアイツはリミッター解除、暴走しているわね。地球の水と大気を全部飲み干すまで止まらないんじゃない?」

「つまりあたしら全員死ぬって事じゃん!?」

「水と空気がなくなるだけなら、私は死なないけどね。そもそも生きてないけど……まぁ、『あの人』と一緒に朽ちる夢が叶わなくなるし、なんとかしないとねぇ」

 やる気自体は見せるミリオンだが、その言葉はどうにもふわふわしている。何分、何をどうすれば良いのか分からないのだ。『身体』さえもなくした相手に、何が通用すると言うのか。意気込みはあっても考えがない。それはフィアもミィも同じで、火球を見守る事しか出来ない状態だった。

 性質の悪い事に時が経つほど火球は巨大化し、そのパワーを増している。『身体』を失い、生産された熱を閉じ込められなくなったのか、火球は周囲に膨大な熱を撒き散らし始めていた。火球の半径数キロ圏内は灼熱に満たされ、海底の砂が溶け出している。並の生物では今頃体液が沸騰し、炭化を通り越して気化しているだろう。フィアやミィですら接近は儘ならない過酷さ、ミリオンでも至近距離に近付くのは危険な環境と化していた。

 それでもアナシスは動いた。

「っ!? 何を」

 する気なのか。フィアが思わず零した疑問に答えるかのように、アナシスは火球に急接近。熱波などものともせず、今にもキスしそうなほどに肉薄する。

 そしておもむろに大顎を開くや、息を吸い込んだ!

 ただの呼吸ではない。鳴り響く轟音、揺らぐ大地。気圧は急激に下がり、天候さえも変わっていく。ただ息を吸い続けているだけなのに、天変地異が起ころうとしていた。

 否、そんなものは些事である。

 アナシスの息の流れに沿って、火球の炎がどんどん吸い込まれている事態に比べれば。

「まさか……吸い尽くすつもり!?」

 ミリオンの叫びに呼応するかの如く、アナシスの吸引は勢いを増していく。合わせて火球を構築する炎はどんどんと剥がれ、アナシスの体内へと吸い込まれていた。

 吸い込むのに必死で、アナシスはフィア達に見向きもしない。答えてもくれない。だが彼女は行動で自らの意志を示していた。

 彼女は喰うつもりなのだ。

 巨大な恒星と化した『神』さえも!

【**************!】

 神と化した火球もアナシスの意図を察したのか。地響きにも似た異質な雄叫びを上げるや、業火を一層強く輝かせ、更なるパワーを放出し始めた。己の身を包む炎をいくら剥ぎ取られようと、眩さは一向に衰えない。その姿は喰われまいと抗うモノの姿ではない……刃向かってきたモノを喰らわんとする、捕食者の様相だ!

 火球は星をも焼き尽くさんばかりに燃え上がり、アナシスは星の全てを飲み干さんばかりに吸い込み続ける。力が拮抗し、破滅のエネルギーは延々と周囲に撒き散らされた。急激に下降する気圧により剥き出しの砂地がボコボコと捲れ上がり、空からは雷や雹が降り注ぐ。立ち込める暗雲が地球の未来を暗示し、震える大地が苦悶の声を代弁していた。

 このままでは、星が壊れる。

 あらゆる生命が予感し、そして『間違いない』であろう結末へと向かう戦いは、やがて変化を迎えた。

 均衡が崩れ始めたのだ――――アナシスが押される形で。

 アナシスは自身を滅ぼしかねない力を、吐き出す事も許されず呑み続けている。段々と身体に余剰エネルギーが蓄積し、体調に悪影響を及ぼすのは必然。対する火球は、自らの重力により今も多量の海水 ― 即ち核融合を最も容易に行える燃料である水素 ― を吸い込んでいる。常に活動エネルギーを生産している状態であり、尚且つその過程で発生する余剰熱こそが世界を滅ぼそうとしているのだ。即ち火球は休息と攻撃が一体化している理不尽な有り様。持久戦に持ち込めば負ける道理などない。

 アナシスは表情を顰めながらも必死に後れを取り戻そうとするが、一度崩れた均衡は元には戻らない。火球は見る見る巨大化し、小さくなるどころか勢いを止める事すら出来ていなかった。

 アナシスの、そして地球の命運もここまで、だっただろう。一対一であったなら。

 だが、此処にはまだ三体の生命が存在する。

「最後ぐらいビシッと決めてほしいものですねぇ!」

 最初に動いたのはフィア。

 海中に潜り込んだ彼女は人の形を取るのすら止め、全ての力を自らの能力に注いだ。半径数十キロ圏内に力を張り巡らせ、暴れる海面を押さえ込んで岩盤の如く堅牢さを持たせる。一億トンの水を操った事はあるが、今回の量はその比ではない。頭が痛い。全身の筋肉が軋む。限界以上の力を行使した事による苦痛でフィアは顔を顰めるが、それでも能力を使うのを止めはしない。

 ここまで力を使わねば、火球に吸い込まれる海水を引き留める事が出来ないからだ。

 海水の流れが完全に途絶えると、火球は狼狽えるようにぐるりと回る。エネルギーの原材料が途絶えたのだ。際限なく燃え盛る今、補給が滞ればどんどん消耗していく。そうなればアナシスとの形勢が逆転しかねない。

 故に火球もされるがままでは終わらない。一瞬更なる輝きを放つや、火球から小さな火球が幾つも分裂。まるで親の周りをちょろちょろしている子供のように、小さな火球は大元の火球の周囲を漂う。

 そして小さな火球は、眩い輝きを放ち始める。

 その光にフィアは見覚えがあった。ガンマ線バーストの発射予兆だ。海を操るフィアが『小さな』生き物であると見抜いたのか、火球は無数の小火球からガンマ線バーストを撃ち、殲滅するつもりのようだ。能力に力も精神も注いでいる今、放たれた光線を避ける余裕などフィアにはない。

 運良く何万と放たれる光の全てが外れるのを祈るしかない――――

「おっと、あたしの事も忘れないでよぉ!」

 そんなフィアを見かねて、次に動き出したのはミィ。

 とはいえ、ミィの能力は『圧倒的な身体能力』である。得意の肉弾戦をしようにも、火球を殴ろうとすれば触れる前にこちらが溶けてしまいかねない。水を操ったり、ビームを撃ったりも出来ない。

 彼女に出来るのは、物を投げ付ける事。

 近くにあった海底の大岩を、小火球にぶつけるのが精々だ!

「おんどりゃああああっ!」

 大きく振りかぶって投げられた、直径十メートルオーバーの大岩。正確にして高速の巨岩は、吸い込まれるように小さな火球に直撃する。

 岩の主成分は珪素だ。水素ほどの有益ではないが、強力な核融合炉の前ではただの燃料に過ぎない。

 そして本体から分離した小火球は、例え小さくともガンマ線バーストが可能なほど強力な核融合性能を誇っていた。投げ込まれた岩は一瞬にして餌となり、故に膨大な熱エネルギーを放出。

 ガンマ線バーストを放つため臨界寸前まで高まっていた小火球は、予期せぬエネルギーの増大によって自壊・爆散する! 攻撃を妨害されたと知るや、火球は次々と小火球を生み出しガンマ線バーストを放とうとするが……この攻撃よりもミィの方がずっと『早い』。臨界を迎える間際にミィは岩を投げ入れ、その全てを崩壊させていく。

 攻撃を潰され、火球は歯ぎしりをするかのような異音を鳴らす。加えて怒りを表すように、自らの炎を勢い付かせた。

 すると今度は無数のフレアが噴き出し、鞭のようにしなりながら周囲を切り刻む! プラズマ化した火焔により、接触したものを瞬時に気化させて切断しているのだ。ガンマ線バーストによる攻撃を諦め、まずは周囲を片付ける事にしたのだろう。

「わ、ちょ、うへぇっ!?」

 これには今度はミィが狼狽える。肉体操作により人間から見れば非常識なほど高温に強いミィだが、所詮は生身。フィア達と比べれば熱対策は苦手だ。ましてやプラズマほどの高温など、直撃すれば耐える事など絶対に無理である。

 ミィは己の反応速度を活かし、迫り来るプラズマを素早く回避。時折チリリと走る肌を焼かれる感触に悲鳴を上げながら、火球の傍をちょこまかと動き回る。

 無論、一番簡単な『回避』方法は距離を取る事だ。いくら高出力のプラズマとはいえ、距離を取れば急激に希薄され、無害となるのだから。

 しかしそれは出来ない相談である。確かに逃げる分には離れる方が良いのだが……そうなると、小火球からも遠退いてしまう。ミィはガンマ線バーストの発射を妨げるため岩を投げ入れているが、その射出速度があまりにも速いため、長距離を飛ばそうとすると岩自体が耐えられない。かといって()()()()投げると今度はガンマ線バーストを邪魔出来なくなる。発射寸前の、ほんの僅かな瞬間に岩を投げ入れねばならないのだ。

 これ以上は離れられない。だがこんな、プラズマの嵐の中を掻き分けながら反撃するのも難しい。多少無茶でも、やるしかないのか?

 否である。

「全く、世話が焼けるわねぇ」

 まだ此処にはもう一体、『怪物』が潜んでいるのだから。

 ミィに迫る一本のプラズマが唐突に薄れ、消滅する。

 なんだ、とミィが疑問を抱いた次の瞬間、彼女の傍にミリオンが現れた。チラリと目線を向けたミィに、ミリオンはにこやかに微笑み返す。

 ミリオンには大岩を高速で投げ入れるほどの力はない。水を操る事だって出来ない。

 だが、彼女には熱を自在に操る力がある。火球の発する恒星級の熱を受け止める事は出来ずとも、そこから放たれる『余熱』ぐらいなら扱える。『火の粉を払う』のは、ミリオンにとって十八番(おはこ)なのだ。

「さぁ、早いとこ片付けてちょうだいよ? 私達じゃコイツを抑えるのですら精いっぱいなんだから」

 ミリオンはアナシスに向けて、そう頼み込む。話し掛ける程度の小声であり、千数百メートルも離れた位置に居るアナシスには届くまい。

 尤も、届いたところで答えは変わらないだろう。

 【承知している】――――そう言うに決まっているアナシスは、一層力強く火球を吸い込んだ!

 エネルギー源はフィアが絶った。

 フィアへの攻撃はミィが防ぎ、ミィに襲い掛かる熱はミリオンがいなす。

 そしてアナシスが、火球を喰らう。

 完全なるコンビネーション。されど彼女達は誰かを「助けよう」と思ってこの行動に出たのではない。自分に出来る事、自分のやりたい事を探し、実践し、それが偶々他者にとっても利益となっただけ。

 正しくそれは『生態系』と同じ姿。

 地球外からの来訪者という『外来種』に、地球の生態系が拒絶の意思を突き付けていた。火球は目前の矮小な存在からの妨害に戸惑うかの如くぐるぐると回るが、地球生命体はその手を弛めない。段々と小さくなっていく火球。地球の生命達は、そんな部外者の『命』を奪わんと更に力を振り絞り……

 火球が一気に収縮

 したとフィア達が認識したのも束の間、火球は再度急激に膨れ上がった。

 直後、得体の知れない波動がフィア達の身体を駆け巡る。

「は? ――――ごぼふっ!?」

 違和感を覚えていられたのは、人間の瞬きほどにも達しない刹那。間髪入れずフィア達に襲い掛かったのは未体験のダメージ! フィアだけではない。ミィも、ミリオンも、アナシスも……周りの海水や砂地までもが、等しくその身に強烈な衝撃を受ける!

 耐えよう、抗おう。そんな意志を持つ暇もなく訪れた衝撃で、フィア達全員が吹き飛ばされる。アナシスですらその巨体をよろめかせ、体勢を崩していた。一体何が起きたのか、何をされたのか、どうすれば良いのか……フィアには何一つ思い付かない。

 それは、星の力だった。

 恒星であっても死の間際にしか生じない高温と強力なガンマ線……その力は核融合の最終生成物である鉄原子を分解してしまう。これを光崩壊と呼び、この反応によって中心部は空洞化。今まで核融合による高熱と反発力により抑えられていた周辺原子が、一気に中心目掛けて流れ込んでくる。

 この時起きる原子同士の衝突により衝撃波が発生。これがニュートリノによって増幅されると、巨大な恒星を一瞬で破壊するほどの大爆発が引き起こされる。

 超新星爆発(スーパーノヴァ)である。重力を支配する火球は、星さえも消し飛ばす力を放ったのだ。流石に自身が吹き飛ぶのを防ぐためか威力は抑えてあり、地球が粉々になる事はなかった……だが、あくまで粉々にはならなかっただけ。

 火球は爆発時、衝撃波だけでなく多量のニュートリノも放出していた。透過性が極めて高いニュートリノは、どんな物質にも浸透する。当然フィア達もこのニュートリノを浴び、そして十分に浸透した……即ち、超新星爆発の衝撃波を増幅する存在が全身に万遍なく存在する事と等しい。

 これがフィア達を吹き飛ばした攻撃の正体。

 フィア達まで伝わった衝撃は、そのフィア達の体内で増幅され、襲い掛かったのだ。否、フィア達どころか、衝撃は地球内部まで浸透し地殻のマグマを刺激。世界中の火山を噴火させ、地震を誘発し、大地を崩落させる。あとほんの少し出力が強ければ、地球環境に再起不能なダメージが加わったに違いない。自分の周囲に存在する高密度の海水がニュートリノの浸透をいくらか妨げてくれなかったら、体密度以上の身体能力を有していなければ、まともな臓器を持った生命だったなら……フィア達はここで全滅していただろう。

 そうでなくともダメージは大きく、吹き飛ばされたフィア達は海水のみならず砂さえも全て引っ剥がされ、ひび割れた岩だけが広がる海底へと落ちた後、誰一匹として動こうとしなかった。

「……正直何が起きたか分からない上に全身が痛くて堪らないため動けないのですがあなた方はどうですか」

 人間の形を失ってフナの姿を晒し、口を動かす度に走る痛みを堪えながら、なんとか呼吸用の水球を作って生き長らえるフィア。

「駄目。あたしも痛くて腕一本動かせない……というか今ので骨折れたかも」

 ミィは突っ伏したまま、か細い声を出すので精いっぱい。

「私も無理。全個体が変形しちゃってる。急いで修復しているけど、三十分はまともに動けないわね」

 真っ直ぐ動かしているつもりなのか、伸ばした自分の腕がぐにゃぐにゃと曲がるのを見ながら、ミリオンも情けない実情を打ち明ける。

 誰もがダメージの大きさから動けない。アナシスだけは今も火球に喰らい付いていたが、最早フィア達によるフォローは受けられない状況だ。フィアが妨げていた海水の流入も起きており、火球は失った分を取り戻さんと言わんばかりに激しく燃えている。

 最早これまで。自分に出来る事はもうないとばかりに、フナの姿のままヒレを竦めるフィア。

 そして彼女は何もかも諦めたかのように

「まぁ良くやったと言うべきでしょう……()()()()()()()()()()()()()()

 その言葉をハッキリと告げた。

 ――――バギンッ、と、何かが折れるような音がした。

 音は十数キロ彼方にも届くほどの轟音だった。音は一度ならず二度三度と鳴り、存在感を示す。音色は生々しく、金属や岩ではない、『生物』が奏でたものだと一瞬で理解出来るものだ。

 その異音は、火球にも間違いなく届いた筈である。されど火球はぴくりとも動かない。否、動かない、というのはきっと間違いなのだろう……動けないのだ。

 火球は気付いたに違いない。アナシスに、最早苦悶の表情がない事に。

 火球は気付いたに違いない。アナシスの身体が、ほんの僅かながら数瞬前よりも大きくなった事に。

 成長に必要なのは、時間と栄養だ。

 火球の肥大化を抑えられなかった時、フィア達が助けなければアナシスの身は呆気なく焼き払われていただろう。あの時はまだ、身体の『芯』が出来ていなかった。設計図は頭の中にあったが、そのための土台が存在しなていなかったのだ。無理に『能力』を用いても、自壊していたに違いない。

 だが、フィア達は火球を抑え付けてくれた。

 アナシスは彼女らに感謝などしない。しかし与えられたチャンスを無下にもしない。『芯』は出来上がった。成長に欠かせないもう一つの要素である『栄養』は、既に吐きたくなるぐらい()()()()()()。急速な成長はエネルギーの消耗も激しいが、そのエネルギーは『獲物』から際限なく供給されたのだ。足りないものは、もう何もない。

 ギチギチと生々しい音を轟かせながら、アナシスの身は見る見る太く、大きくなっていく。背中に生えている背ビレも伸び、無数の血管を張り巡らせる事で、余剰熱を放出する器官へと変貌させる。剥げていた部分の鱗が雨水を受けた砂漠の植物のように勢い良く生え、育ち、一層強固な鎧へと進化する。

 一キロ近い体長は、その大台をついに超えた。全長は千五百メートルを突破し、それでもまだアナシスの巨大化は止まらない。先とは比較にならない巨体は火球が纏う炎を際限なく吸い込み、奪い取っていく。火球は幾度となく超新星爆発を起こしてアナシスを吹き飛ばそうとするが、もう、今のアナシスには通用しない。煌めくガンマ線の輝きも、放たれる重力崩壊の波動も、アナシスは分け隔てなく飲み干す。

 火球は重力を操る能力によって、その能力によって手にした核融合によって、神の玉座に辿り着いた。

 対してアナシスは、ただ育っただけ。敵を倒すため、自然を克服するため、食い尽くせないほどのエネルギーを手にするため……目的のために付けた力が、神の領域に達していただけに過ぎない。

 火球にとって『神の力』は到達点だ。しかしアナシスにとっては通過点でしかない。故に彼女は神の領域を超えられる。既に彼女は神にあらず。ナニモノをも超越し、当て嵌まる言葉はただ一つしか残らない。

 ()()()()()()

 神の手を離れた彼女は、ただの『生物』でしかなかった。

【***!? *********! *****!?】

 勝ち目がないと察したのか。顔などなくとも、物質すらなくとも、慌てふためいていると分かる動きで火球はアナシスに『背』を向けた。星をも滅ぼす神が、逃げようとしていた。

 それが決定打となった。

 神話の決戦は終焉を迎えた。いや、最初から神話の決戦などではなかったのだ。少なくともこの戦いに参加していたモノ達にとっては、『神』など欠片も存在していない。あったのは生きるか死ぬか、()()()()()()()()、そのシンプルな関係のみ。

 即ち星の存亡を賭けたこの戦いも、生き物達にとっては食物連鎖の一環でしかなかった。そして此処でその関係が確定したのだ。とはいえこれだけで戦いが終わりはしない。捕食者は獲物をみすみす逃がしたりしないのだから。

 アナシスの長大な身体が、残像すら残さない速さで駆け抜ける。

 目視すら許さない捕食者が狙うは、哀れな被食者。成長により巨大化したアナシスは、火球にぐるりと巻き付いた。核融合そのものである火球だが、触れたアナシスの身体は溶けるどころか焦げ付きもしない。火球がいくらのたうってもアナシスはビクともせず、ゆっくりと、堪能するように、大顎をばっくりと百八十度近い角度で開く。

 そして一片の容赦もなく火球に喰らい付き、勢い良く吸い上げた!

 轟音? 雷鳴? 地響き? 最早既存の言葉ではとても言い表せない音が世界に響く。星が揺れ、大気が暴れ回り、大陸が上下する。火球は必死に抗おうとして燃え上がるが、アナシスの口にどんどん吸い込まれ、見る見るその姿を小さくしていく。

 ついには最後の一巻きが解け……火球は全て、アナシスの口に収まる。最後にごくりと喉を鳴らしたアナシスは、満足したかのようなため息を吐いた。

 もう、業火の音は聞こえない。

 星の煌めききもなければ重力の歪みも感じられない。異星からの来訪者を示すものは何もかもが消え去り、ぽっかりと開いた太平洋上のクレーターに流れ込む海水の、物静かな轟音だけが辺りを満たす。

「……まさかとは思いますけど何もない空間からいきなり現れたりしませんよね?」

「重力を操れるみたいだから、空間圧縮型のワープは使えそうだし、宇宙を旅していたなら使えると考えた方が妥当だけど……流石に、今回は大丈夫じゃないかしら。アイツのお腹に収まっちゃった訳だし」

「つー事は……勝った?」

 あまりにも唐突で、あまりにも呆気なく訪れた静寂に、一部始終を見ていたフィア達も半信半疑な様子。されど本能はしっかりと理解していた。

 丸呑み。

 それは、確かに『神』の最期には似付かわしくないものだろう。されど『生命』に喰われるモノの最期としては、割と有り触れた終わり方である。

 例え神の力を持とうと、星の力を持とうと――――それさえも凌駕する『生命』の前では、一介の餌に過ぎなかったのだ。

「「「……ぶはぁ~」」」

 ようやく『勝利』したのだと分かり、フィア達は揃って深々と息を吐いた。次いで星明かりに照らされる三匹の顔には自然と笑みが浮かび、朗らかな笑い声が口から漏れ出る。

 その笑い声は辺りに満ちる、海水が雪崩れ込む際に立てている轟音の中に溶けていき

「って、暢気してる場合じゃないでしょこれぇっ!? フィア助けてぇ!?」

「いやいやいや無理です正直自分の身を守るので精いっぱいですから!」

 フィアとミィが悲鳴を上げた。満身創痍なのに、これから迫り来る数十億トンの海水をやり過ごさねばならないので。

「あたし怪我してるんだよ!? 溺れるよ!? さっき助けてあげたんだから今度はあたしの事助けてよ!」

「はんっ! お断りですね! あなたが勝手に私を助けただけでしょう! 自分の助けた命が無事苦難を乗り越えるところを水底からしっかり見届ける事です!」

「アンタどんだけ酷い奴なの!? ちょっとは自責の念とか引け目とか感じないの!?」

「感じる訳がないでしょう! ってちょなんであなたこっちに高速で這いずって来るんですか!? 無理です正直自分の身を守るのも危ういですからあなたに構ってる余裕なんてないんですけど!?」

「こうなったら自分だけで死ぬもんかぁ! 意地でもアンタに張り付いてやる! 死ぬ時は一緒だ!」

「うぎぎぎぃ! 離れなさいぃぃぃ……!」

「生き物ってほんと醜いわねぇ……あ、私はしばらく休んでるわ。普通の水圧ぐらいなら耐えられるし、海水も酸欠も私にとってはなんの害にもならないから、身体が癒えるまでじっくりとね」

「「このエセ生物がぁぁぁぁぁ!」」

 わいわいぎゃーぎゃー。フィアが展開している小さな水球に両手でしがみつくミィ、そのミィの頭を能力で作った水の鈍器で殴るフィア、そんな二匹を冷めた目で見つめるミリオン……先程までの緊張感と一致団結ぶりは何処へやら。あっさりと仲間割れして、互いの足を引っ張り合う。結局のところこれが彼女達の本性。所詮は畜生(一体はそれ未満)である。

【……喧しいわ、小虫共が】

 ついには見かねたアナシスが会話に割り込む。

 数十メートルもの顔が地響きを伴いながら近付いてきて、フィア達はびくりと身体を震わせる。とはいえ、慌てて逃げようとは思わない。彼女に敵意がない事は、野生生物であるフィア達にはハッキリと伝わっているのだから。

 尤も、べろんと口から出した舌を自分の方へと伸ばされた時には、流石に全員顔を引き攣らせたが。

 アナシスは伸ばした舌でフィア達を掬い上げると、口の中には運ばず、自身の頭の上で乱雑に解放する。掬われた際岩やらなんやらも一緒に抉り取ったのでさながら土砂崩れ真っ只中のような状況に置かれたが、これぐらいならいくら満身創痍でもフィア達ならやり過ごせる。大岩と共に頭の上に乗せられたフィア達は、互いの顔を見遣った後に揃って一息吐いた。

「一時はどうなるかと思いましたがようやく片が付きましたね」

「だねー」

「はぁ……もうしばらくは戦いなんてしたくないわ。しばらくは『あの人』と添い寝して、引きこもってようかしら」

 すっかりリラックスムードのフィア達が駄弁る中、アナシスは動き出す。押し寄せる数億トンの海水を易々と掻き分ける彼女は行き先を告げない。フィア達も尋ねない。

 どうせ帰る場所は、皆同じなのだから。




ようやく決着です。太平洋のど真ん中じゃなかったら今頃何人死んでいるやら……火山や地震が誘発されているので見えないところでいっぱい死んでるでしょうね。基本、人間に優しくない世界なので。

次回は12/3(日)投稿予定です


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神話決戦12

 花中は身体の中に溜まりきっていた『不安』を、ため息という形で一気に吐き出した。

 五分。

 ふと気が緩んだ瞬間に過ぎてしまうようなこの時間、世界ではこれといって何も起こらなかった。それは平時であれば大半の人々がなんの努力もなく享受出来る平穏であるが、しかし今の花中にとっては、焦がれるほどに待ち望んでいた時間だった。

 何故ならこの五分を迎えるまでの一時間、花中が避難している駆逐艦ロックフェラーは、恐怖を煽る激しい揺れに襲われていたのだから。

 『原因』を直接見ていた訳ではない。だけど花中は知っている。その揺れが世界のあまねく場所に及び、災厄を撒き散らしていた事を。もしかすると地球を破壊していたかも知れない事を。二体の超越的存在が、人の手に負えない神々が争っていた事を。

 船を襲っていた揺れは正しく世界の終わりを引き起こすものであり、その揺れが収まったのであれば、喜ばずにいられる筈もなかった。

 無論、このような気持ちを抱けるのは花中が『全て』を知っているからである。花中が今居る一室 ― 恐らく艦内倉庫の一つを開放したものだろう。四方をコンクリートで囲われた、頑丈そうで殺風景な大部屋だ ― にはモサニマノーマから逃げ出した百五十人近い島民と、彼等を見張っている軍人の姿もあったが、誰もがその顔に不安の色を浮かべていた。彼等には何かが変わったのは分かっても、何が変わったのかは想像も付かないのだ。揺れが収まったところで安堵など出来る訳もない。

 唯一花中と同じく安らかな笑みを浮かべたのは、花中と同じく『全て』を知っているサナだけだ。

「……やっと、終わったんだね」

「うん、きっと」

 サナの言葉に花中はこくんと頷く。互いに顔を見合い、にへへと笑い合った。

「花中ちゃん。何か知っているなら、教えてくれないか?」

 そんな花中の姿を見ていた玲二が、真剣な眼差しと共にそう尋ねてきた。

 明らかに、全てを知っているかのような態度を取っていたのだ。玲二が違和感や疑念を抱くのは当然の事。玲二の隣に座るサナの母親も、花中の顔を窺っている。彼等にとって花中は確かに身内であるが、しかし彼等は何よりも前にサナの親だ。娘が関わっている『何か』を知りたいと思うのは当然でだろう。

 話すべきか、隠し通すべきか。

 考える最中、花中はぐっと口を噤む。されど玲二達の眼差しが逸れる事はない。先の言葉こそこちらの気持ちを尊重するかのようであったが、瞳に宿る意志は黙秘を許してくれそうにはなかった。

 実際のところ、一度は全てを話そうとしたのだ。あの時は周りの兵士達に訊かれるのを避けようとして誤魔化したが、この船の『艦長』……アメリカ軍にはフィア達の事がバレていると分かった今、今更必死こいて隠し通す理由もない。全てを打ち明けようと、花中はゆっくりと口を開けた

 刹那、耳が痛くなるほどの警報が船内に響く。

「――――っ!? ……これは……」

 突然の出来事に思わず身を縮こまらせながら、花中はぼやく。玲二達も反射的に耳を塞ぎ、警戒するように辺りを見渡した。

 しばらくして警報が鳴り止むと、今度は艦内放送が始まった。先の警報ほどではないにしろ、こちらも耳をつんざくような大声量。おまけに英語だったため、現地語しか知らないモサニマノーマの人々の間に混乱によるどよめきが起こった。

 されど花中は、英語であれば多少は習得している。スピーカー越しの所為で独特のくぐもった声色に変わっていたし、ネイティブな発音や慌ただしい話し方故にリスニングテストほど聴き取りやすくはなかったが……それでもなんとか大体の意味は理解出来た。

 曰く、約二百キロ先にて巨大生物を確認。当艦に接近中につき厳戒態勢を取れ……との事。

 部屋に居た兵士達は互いの顔を見合わせると、駆け足で部屋から出て行く。軍人達の突然の行動に、英語が分からないモサニマノーマの人々は一層不安の色を強めた。

 しかし分かったところで、内容が内容である。『あの怪物』がまた来たとして、何をどうしたら良いのか、案など浮かぶ筈もない。英語が分かる玲二は緊迫と困惑が顔に滲み、その身を著しく強張らせた。

「私、見てくる!」

 故にサナが突然言い出したこの言葉に最も遅く反応し、走り出してしまった愛娘(サナ)を止める事は叶わなかった。

 咄嗟に玲二は手を伸ばすも、あえなく空振り。サナは親の事など見向きもせず、真っ直ぐ部屋の出口である扉目指して駆けていく。

「ま、待て!」

「サナ! アソノダァモ!」

 玲二とサナの母親は慌ててサナの後を追い駆ける。残された花中もまた立ち上がり、三人の後を早歩きで追い駆けた。

 サナが蹴破るようにこじ開け、玲二達が身体がぶつかるのを厭わぬ速さで抜けた扉を通って狭い通路に出れば、何人もの兵士が慌ただしく走り回っている姿が見えた。彼等は花中の姿を見ると一言大声を浴びせるが、それだけするとさっさと去ってしまう。どうやら花中に構っている暇はないらしい。

 花中としても、艦内を練り歩くつもりなどない。目指すは外の景色が見える場所――――甲板だ。狭い通路で頻繁に兵士とすれ違う所為でサナ達の進みは決して速くない。未だ見える彼女達の背中を花中は追い続ける。

 実を言えば、花中の胸の奥底には小さな不安が燻っていた。

 静寂は、確かに戦いの終焉を教えてくれた。だが『勝者』までは伝えてくれない。無論花中も友人達の事は信じているが……『ヒーロー』を信じているサナのような、一片の曇りもない信頼を寄せる事は出来ていなかった。もしもの光景が脳裏にちらつき、心をぐずぐずと蝕もうとする。

 だから外へと通じる扉が見えた時、花中の足取りは僅かながら鈍った。

 されど勝利を信じて疑わないサナは、花中の気持ちの陰りなどお構いなし。勢い良く扉を開けて、躊躇いなく外へと飛び出す。サナを追って玲二達も外に出た。今更、行かない訳にもいかない。花中もサナ達に続いて甲板へと出る。

 外ではもう陽が沈んでおり、星が空を埋め尽くしていた。甲板の上はライトが照らしており、たくさんの軍人達が慌ただしく、いや、半ばパニックのような様相であっちこっちへ走り回っている。喧噪は賑やかさを通り越し、平時であれば五月蝿さを覚えるほどに聞こえただろう。

 しかし今夜は違う。

 何故なら地平線の彼方で噴き上がる巨大な……十数キロに達しそうなほど高く伸びる水柱から、人の声など掻き消してしまうほどの轟音が届いていたのだから。

 そしてその水柱の先頭に見える、異形の怪物。

 蘇った時とはまるで違う姿であったが、一目で『彼女』だと分かるパワー。生物らしい生々しい体躯。そして勝者に相応しい派手な凱旋。全てが、花中達に向けて語り掛けていた。

 異星からの『外来種』は、この星の定着に失敗したのだと。

「~~~~~~~っ! トーテヨー! トーテヨー!」

 その事実を真っ先に理解し、喜んだのはサナ。追い付いた両親達やアメリカ軍兵士が迫り来る『怪物』の姿に恐れ慄く中、何処までも素直に喜ぶ。両手を挙げて飛び跳ね、全身でその喜びを表現していた。

 そんな従姉妹の姿を後ろから見た花中は、静かに笑みを零す。

「……良かった」

 そしてぽつりと安堵の声を漏らしてから、花中も噴き上がる水柱をじっと見つめた。

 世界はこれから大きな変化を起こすだろう。

 生き物達が起こした争いはあまりにも壮大で、地球の隅々まで被害は及んだに違いない。最早政界に居座る人間はおろか、『タヌキ』達でも隠し切る事は不可能だ。人類は自分達が星の支配者でなかった事を、真の頂点が自分達の味方ではない事を理解しただろう。恐るべき生命体が星の外だけでなく内にも潜み、何時暴れ出してもおかしくない恐怖を知った筈である。

 新たな神話の誕生により、世界は一新されたのだ。これより人はこの新たな世界で生きねばならない。この世界は人を愛してくれるのか、それとも愛してくれないのか。世界を滅ぼせる怪物が、その寿命を全うするまで人の安寧を脅かさないでくれるのか。あれほどの怪物が、この星にはあと何体存在するのか――――

 考えれば考えるほど、不安と恐怖はいくらでも浮かんでくる。人の世の行く末に安堵は出来ず、未来はどす黒く塗り潰されているとしか思えない。

 だけど、人一倍臆病である筈の花中は、無邪気に笑っていた。

「花中さーん勝ちましたよー! 今日はお祝いをしましょー!」

 何キロも彼方に居る筈なのに、花中の耳元にまで届く友達(フィア)の声。

 今頃その大声を間近で聞かされたミリオンとミィが文句を言って、ケンカになっているだろう。彼女達の姿は人間である花中の目にはまだ見えないが……脳裏にはハッキリと浮かんでくる。

 それはきっと、とても『楽しい』光景。

 友達が心から楽しんでいる『今』の世界が悪いものだとは、花中には到底思えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地球より三十八万キロ彼方――――そこに、巨大な『大岩』が浮いていた。

 この地に空気はない。液体の水もないし、潤沢な有機物も存在しない。荒涼とした景色が延々と続き、文字通り妨げるものが何一つない空には宇宙の色がそのまま広がっていた。太陽に照らされた大地は百度以上に加熱され、逆に陽の当たらぬ場所はマイナス百度以下にまで下がっている。

 形容するならば、地獄以外のなにものでもない世界。

 されど『彼女』にとって、この程度の環境は遊惰なものであった。

 彼女はその身に、一兆度を超える炎を宿している。重力を支配し、時の加速も、減速さえも思うがまま。そしてその身を包み込む『殻』は、自らの力に耐えるだけの強度を誇る。

 彼女は、この地より三十八万キロ離れた星に暮らす生き物が『異星生命体』と名付けた存在と、同種の個体であった。ただし彼女は地球に降り立った子等の『母』……成体であり、子供達の十倍はあろうかという巨躯の持ち主だったが。

 彼女は虚空の彼方に浮かぶ、青き星を眺めながら考える。

 産み落とした子は、()()

 その全てが活動停止し(殺され)た。別段、子を殺されたからと怒りに震えはしない。そのような感性は、宇宙を旅する妨げとなるため遥か昔の祖先が捨てた。問題視しているのは、あの星には『無力』な幼体を殺せるモノが存在するという点。つまり天敵がいるという事だ。それも強大な。

 子供達だけではあの星での生育は難しいだろう。しかし繁殖の本能により、彼女はどうにか次代を残したい。

 さて、どうする?

 子供達だけでの生活が難しいのなら、自らが降り立つのも手か? あのようなちっぽけな星、やろうと思えば地表を引っ剥がす事も難しくない。母の手で邪魔者を全て排除するのだ。いや、いっそ粉微塵に破壊し、星間物質に還してしまうべきか? 摂食効率は悪くなるが、外敵の完全排除を目的とすればこれが最適解である。自身の大出力ガンマ線バーストであれば、この地からあの青い惑星を貫き、内核を気化させた事による膨張圧で爆散させるなど造作もない。

 さて、どうするか。彼女はしばし考え、そして結論を出した。

 ()()()()()()、と。

 彼女は見ていた。二体の子供達が、何か、恐ろしい『存在』に一瞬で喰われる瞬間を。一体の子供を打ち倒した怪物はおろか、大人となった自分でも抗えそうにない異形。あれは星を壊したところで止まるとは思えない。むしろ下手な怒りを買えば、こちらが滅ぼされかねない。アレは、そういった類の存在だ。

 故に彼女は、目の前の青き星への進出を諦めた。惜しい気持ちはあるが、星を見逃す事のデメリットは有限でも、自身の身の破滅は無限のデメリットである。天秤に乗せれば選択は明白だ。幸いにしてこの『星』にも、質の良い核融合の燃料が埋蔵されている。この地でも繁殖は可能だ。

 新たな方針を決め、彼女は彼方の星を眺めるのを止めた。彼女の執着は長続きしない。宇宙を旅するのに、手に入らぬものへの想いなど無駄なのだから。

 されど最後に、ふと彼女は考える。

 ……何故アレは自分の子らを襲った?

 アレは確かに自分達を喰った。だが、獲物として襲ったようには思えない。繊細に、傷を付けないように……熱源が消えたので活動停止しているのは間違いないが、単に喰うためならそこまで丁寧に扱う理由はない。

 何かがおかしい。

 何故アレは自分の子を喰った。

 星々を渡れる自分達を、なんのために――――




怪獣大決戦を書けて満足です。むふー

さて、この世界も段々大きな変化を迎えようとしています。
これからどんな事が起こるのか、何が変わっていくのか。
それを書けて……いけたら良いなぁ(願望)

次回は今日中に。


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幕間七ノ八

「さて、これで仕込みは終わった訳だが、どうかね? 気分が悪かったり、身体に違和感があったりはしないかね?」

 彼は、優しい声でそう話し掛けた。

 彼はシルクハットを被り、燕尾服で身を包んだ紳士であった。両手には純白の手袋を嵌め、嗜みとばかりにシンプルなステッキを握っている。細長な顔には過ごした年月の濃さを示すように深い皺が幾つもあるが、瞳には力強さがあり、老いを感じさせない。身体を支える二本の足は震える事なく上半身を支え、凛とした立ち姿を保ち続けている。

 斯様に上品さを醸し、清廉潔白な印象を与える老紳士である彼は、しかしその風体に見合わぬ場所に居た。

 彼が居るこの場所は、都市を形作るビル街の一画……廃れて廃墟となった建物の奥底。時刻は子の刻を過ぎ、僅かに入り込む月明かりが廃墟内の闇を一層濃くしている。暗闇の中を走り回る小動物の鳴き声が聞こえ、野生動物の死骸と糞尿から漂う異臭が満ちていた。降り注ぐ月光が彼を照らし、神秘と風格を際立たせていたが、それは周りとの違いをますます浮かび上がらせるだけ。昼間の表通りを優雅に歩いていそうな彼に、この陰湿で不潔な空間は致命的なほど似合わない。

 挙句対峙する相手が、金色に染め上げた髪を逆立てた状態で固めている、見た目からして素行不良な若者なのだ。この状況で彼を見ても、穢れなき紳士とは誰も思わないだろう。

「……いや、全然悪くねぇ。むしろ今までにないぐらい、最高に高まってる感じだ。()()をやっても、ここまでイッた事ぁねぇぜ」

「そうか。気に入ってくれたようなら何よりだ。ただ、その状態で薬物を使用するのは止めた方が良い。感度が常人よりも遥かに高いから、一発で廃人になってしまうからね」

「はんっ、やる気にすらならねぇな」

 ケタケタと下劣に笑う若者を見ながら、紳士は上品な笑みを浮かべる。とても上品で、整っていて――――人間味を感じない笑みだった。

「今の君なら、常人では相手にもならんだろう。警察は勿論、裏社会を支配した気になっている、ちっぽけな反社会勢力であってもだ。これから君に任せたい『仕事』はパイの奪い合いが激しく、同業者が多数存在するが……君に与えた力があれば、ライバルを潰す事など造作もない。証拠を残したところで捕まる事だってない。全て、君のやりたいようにやれば良い。それこそが我々の望みなのだからね」

 老紳士は両腕を広げながら、演説をするような口振りで若者に語り掛ける。若者は老人の話にはあまり興味がないようで、耳の穴を掻きほじりながら、そっぽを向く。

 とはいえ全く聞いていない訳でもなく。

「臭ぇ事言ってるけどよ、結局のところがっぽり稼いで上納金を払えって話だろ?」

 猜疑心を隠そうとしない眼差しと言葉を以て、若者は老紳士を問い詰めた。

 老紳士は特段迷った素振りもなく、淡々と口を開く。ただし今まで浮かべていた笑みは消え、酷く退屈そうな表情になっていたが。

「君、ここでそれを言っちゃうかね……結構頑張って考えた台詞なんだよ? 若者との会話は年寄りの楽しみなんだから、少しぐらい乗ってくれても良いじゃないか」

「ちっ、ふざけたジジイだ……話は終わりか? なら、俺はもう行かせてもらうぜ」

「む? 構わないが、何か急ぎの用事でもあったのかね? もしそうなら車を用意しようか」

「いんや、急ぎとかじゃなくて、ちょっと力試ししておくだけだ。()()()()()()連中が居るんでね」

 そう告げると、若者はそそくさと廃ビルを後にする。紳士はやれやれと言わんばかりに肩を竦めるだけで、追い駆けもせずその場に立ち尽くしていた。

「……随分と小物を選びましたね」

 しばらくして若者の気配が完全に消えた頃、暗闇の中から一人の、スーツ姿の女性が現れる。

 女性の年頃は二十代後半か。彼女は人形のように表情のない顔で、紳士をじっと見つめた。対する紳士はシルクハットを被り直し、女性には目もくれぬまま語り始める。

「力に慣れていない者は、例えどんな意思を持っていようと簡単に溺れる。今はまだ疑問を抱いているが、用事とやらを済ませた頃には綺麗に忘れているだろう。そうなれば、あの人間は夢中になって『力』を使うさ。小物であるなら尚更ね」

「力の行使を問題視しているのではありません。馴染み過ぎる事を問題視しているのです。あのような輩ではさしたる機能は持てず、ましてや影響を受けたなら」

「それこそ問題ない話だよ。別段、彼に質は求めていないからね」

「……加えて申すなら、『タヌキ』達が感付き始めたようです。これ以上の活動範囲の拡大は向こうの反感を買う恐れがあります」

 先程まで饒舌に語っていた紳士は、女性のこの報告を受けて口を噤む。伸ばした顎髭を擦りながら、困ったように眉を顰めた。

「……もう二~三、手駒を増やしたかったのだがな」

「向こうからしても、人間は貴重な『資源』ですから。それでどうしますか」

「うーむ。向こうも『あの戦い』で痛い目を見た以上そう簡単には我々と敵対しないだろうが、あまり調子に乗って怒らせても怖いからな。ここが退き際だ。『あの人間』で打ち止めにしておこう」

「承知しました。連携しておきます」

 紳士からの指示を、女性は無感情に受け入れた――――それからやや間を開けて、「あ、そうだ」と小さくぼやく。その時の声には感情、というより幼さがある。風貌とあまりに異なる印象の声に余程興味を惹かれたのか、今まで脇目も振らなかった紳士が彼女の方へと振り向いた。

「ん? まだ何かあるのかね?」

「はい、とても大事な話です。パーティーは何時にしますか?」

 大事な、と前置きしてからこのお気楽発言。あまりの落差に、紳士は一瞬ポカンとなった。そして彼は呆れるような、慈しむような、なんとも言えない表情を浮かべる。

「君、そういうのホント好きだね」

「こういう時でないと高いケーキをタダでは食べられませんから」

「しかもケーキ目当てか……そういえば君、甘党だったね。まぁ、他の連中も似たようなものだろうが。分かった、やるとしよう。時期は……ふむ、四十三日後だ。そのぐらい経てば頃合いだろう」

「四十三日後……三月十八日ですね。承知しました」

 女性はこくりと頷き、暗闇の中へと戻っていく。その足取りは、傍から見ればあからさまなぐらい浮かれていた。

 紳士はやれやれと言いたげに肩を竦めてから、彼女の後を追うように、自身もまたゆっくりと歩み出す。

 全てを見透かすように、底なしの暗闇の中を迷いなく――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第八章 Birthdays

 

 

 

 

 

 




はい、という訳で次章は何時も通り現代日本が舞台です。
毎度の事ながらろくな奴が出てこない幕間である。

次回は1月下旬投稿予定です。


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第八章 Birthdays
Birthdays1


 意味の分からないシーンが出てきた。

 大桐家の和室にて、土曜日の午前中からごろごろと寝転がりながらテレビを見ていたフィアは、そのような理由から首を傾げた。

 あの神話が如く戦いからかれこれ三ヶ月以上が過ぎ、三月半ばを迎えた。つまりはフィアがミュータントとして目覚め、人間社会で暮らすようになってから九ヶ月ほど経っている。それだけの月日を過ごせば人間について多少は理解も深まるが、しかしフィア(フナ)と人間では物の考え方が全く違う。今でも人間の考え方の多くは共感も納得も出来ず、日々分からない事だらけだ。

 例えば今、目の前のテレビで放送されている魔法少女アニメでの一幕もそう。

 主人公の女の子が、クラスメートとの些細な会話の中で今日が自分の誕生日である事を伝えた。するとクラスメート達がわいわいと騒ぎ、誕生日パーティーを開く事になる。喜ぶ主人公。ところが悪役が現れて誕生日パーティーを滅茶苦茶にして……

 話の流れ自体は、子供向けに限らずアニメではよくあるもの。謎だとか伏線だとかも出てきていない。

 フィアが首を傾げたのは、誕生日パーティーで主人公が喜んだ点だ。誕生日という行事はフィアも知っている。知っているが、しかし何故それをお祝いするのかが分からない。産まれた日に()()()()()()()があるとは思えないからだ。誕生日とかこつけてパーティーがしたいだけなのではないか? そのぐらいしか理由が考え付かない。

 別に人間を理解したいとは思っていないし、分からなくてもアニメは楽しめるので気にはならないが……訊ける状況にあれば、尋ねたいなと思うぐらいには疑問だった。

「花中さーん。ちょっと良いですかぁー?」

 なのでフィアは和室でごろごろしたまま、少し大きな声で花中を呼ぶ。

「はーい、ちょっと待っててー」

 フィアの呼び掛けに応じ和室の隣にあるリビング……の更に奥にあるキッチンから、タオルで手を拭きながら花中がひょっこりと現れた。食器洗いの最中だったのだろうか。家事を中断してまで和室まで来てくれた花中は、嫌な顔一つせずフィアの傍に座る。

 やっぱり花中さんは可愛いですねぇ。

 愛でるように見つめるフィアに、花中もにっこりと微笑み返してくれた。何時までも見ていたい可愛さであるが、今回呼んだのはそのためではない。

「お待たせ。どうしたの? フィアちゃん」

「実は一つ伺いたい事がありまして」

「訊きたい事?」

「何故人間は誕生日を祝うのです? 産まれた日なんてなんの価値もないと思うのですが」

 思った事をありのまま尋ねてみると、花中は困ったように苦笑いを浮かべ、うーん、と唸りながら考え込んでしまった。難しい質問をしたつもりはないのにこの反応、フィアの方も首を傾げてしまう。

 ややあって、花中はようやく考えを纏めたのか、ゆっくりと口を開く。

「んっと……あくまで、わたしが考える、理由だけど……無事に一年生きてくれて、ありがとう……って気持ちを、伝えるため、かな?」

「……はい?」

 そして照れたような口振りで答えてくれたが、フィアには花中の言いたい事が理解が出来なかった。

 一年生きてくれてありがとう? 一体何に対する感謝なのか、全く分からない。

 花中もフィアとはかれこれ九ヶ月の付き合い。フィアがこの説明では納得しないのを分かっていたのか、すぐに細かな説明を入れてくれる。

「えっとね、フィアちゃんは、あまり実感ないかも、だけど……生きているって、それだけで、凄い事、なんだよ」

「はぁ。まぁ確かにフナ(我々)なんかは大抵大人になる前に死んでしまいますからね。そういう意味ではその通りかも知れません」

「うん。だから、誕生日を迎えた人に、一年間、一緒に過ごせたね、来年も、無事に生きていてねって、想いを込めて、その……祝う……んじゃ、ないかなぁと……」

 ごにょごにょと、何故だか最後の方が尻窄みになる。尤もフィアの聴力であればこの程度の小声、聞き取るなど造作もない。花中の話を最後まで聞き、フィアはふむふむと頷いた。

 結論を申せば、フィアには理解すら出来なかった。

 生きている事が凄い? 確かに割合的には ― 特に『魚』のような多産多死の繁殖戦略であれば ― その通りだ。だがそいつが生きているのは、そいつが生きたいからであって、誰かに頼まれたから生きている訳ではない筈。相手がしたいからしている事なのに、何故それに感謝を覚えるのか?

 正直なところ、フィアは花中に「生きていてくれてありがとう」なんて思った事はない。話を聞いた今でも思わない。フィアは花中に生きていてほしいが、それは花中が死ぬよりも、生きていてくれる方が圧倒的に()()()()()()からである。例え花中が死にたいと言ったところでそんな事はどうでも良い……ただ、死なせはしない。もし自殺をしようとしたなら何がなんでも邪魔をする。花中が死んだら、自分が嫌な気持ちになるからだ。花中の気持ちは一切考慮しない。する必要がないとすら思っている。あくまで自分本位なのだ。

 結局フィアにとって誕生日という行事は、まるで理解出来ない理由によるパーティーでしかなかった。

 しかし、である。

 九ヶ月間人間と暮らしていて分かった事だが……人間とは、他者に良く想われていると嬉しくなる生き物らしい。フィアは他者の内心などどうでも良いのだが、花中の笑顔は好きである。こちらが祝いの気持ちを伝えて喜んでくれるのなら、それに越した事はない。それにパーティーもわいわい騒げて楽しいから好きだ。

 誕生日を祝う気持ちは理解出来ない。されど、それは誕生日を祝わない事とは(イコール)にならない。

「成程花中さんはそういう理由で誕生日を祝うのですね。時に花中さんの誕生日は何時なのですか?」

 故にフィアは特段深い理由もなく、この疑問を花中にぶつけてみる。

 フィアにとってはかるーく投げたつもりの言葉に、花中は目を皿のように丸くした。

「……え?」

「あれ? よく聞こえませんでしたか? 何時誕生日なのかと訊いたのですが」

「あ、うん。えと……明日の、三月十八日、だよ」

「明日ですか。むむ? 明日なのですか?」

「う、うん。ごめんね、その、言ってなくて」

「何故謝るのです? いやはやしかし今日訊いておいて良かったです。また来年にとかですと忘れてしまいそうですからね」

「……あ、あの……」

「? なんですか?」

 一匹淡々と安堵していると、花中がおどおどと声を掛けてくる。訊き返すフィアだったが、どういう訳か花中は口籠もり、もじもじしてしまう。

 しかしこの程度の歯切れの悪さは、花中であれば普段の事。その上本当に大事な話はなんやかんやキッパリと言い放つのが大桐花中という少女である。もじもじしているという事はどうせ大した話じゃないだろうとたかを括り、フィアは花中を急かしたりせずにただただ待ち続ける。

「ぁ、ぅ……あ、あのっ、それって……わ、わたしの、誕生日を、祝ってくれる……の?」

 しばらくしてようやっと出てきた花中の言葉は、フィアが思った通り『大した話』ではなかった。

「そのつもりですよ。というよりそれ以外の理由で誕生日を訊いても意味などないでしょう?」

 質問に対し肯定の意思を伝えると、途端、花中は右往左往する。その姿がまた可愛いので止める事もなくフィアはじっと眺めるのみ。

 やがて花中は息が乱れるぐらい動いた後、もじもじと己が両指を合わせた。そして恥ずかしそうに俯いたまま、潤んだ瞳でフィアを見つめて声を絞り出す。

「あの……その、良い、の?」

「何故自分から言い出した事に対して実は嫌なんですと言わなきゃいけないのですか……」

「それも、その、そうなんだけど……はうわぅぅ……!」

 顔を真っ赤にしながら、再び花中は悶えてしまう。誕生日を祝ってくれる事が余程嬉しいのか、今度は中々現実に戻ってきてくれない。両手で頬を押さえながら、花中は何時までも頭をぶんぶんと横に振っていた。

 喜ぶ花中が見たかったので、フィアとしては割とこの時点で目標達成である。それは構わないのだが、祝ってあげますと伝えただけでこの状態。本当に祝ったら興奮のあまり心臓発作を起こしそうな気がする。死なれるのはフィアとしても嫌なので、やっぱり誕生日パーティーは止めようかとの考えが脳裏を過ぎった。

「あ、あの、た、楽しみにしてるね!」

 だけど、すっかり祝ってもらえる気になっている花中の笑顔を見ていると、これを曇らせるのも癪になる。

 何より悲しむ花中の顔は、自分の好みじゃない。

「(まぁ心臓発作ぐらいなら私の能力で血を操れば無理やりにでも蘇生出来るでしょう。そもそも必ずそうなるとも限りませんし)」

 どこまでも自分本位な理由で、花中の誕生日を祝う事を決めるフィア。あからさまにうきうきしている花中が果たしてどれだけ喜ぶのか……想像すると、フィアも笑顔が零れた。

 問題があるとすれば、ただ一つ。それも、フィアも花中も気付いていない、とてもちっぽけな問題。

 フィアは誕生日を祝おうとは思ったが、どうやって祝うのが人間的に『正しい』のか、まるで知らない事だけだ――――




あけましたおめでとうございます(過去形)。今年もよろしくお願いします。

さて、今回は花中の誕生日がやってきました。
フィアによる誕生日パーティー計画……きっとほのぼの展開間違いなしですね!(白目)

次回は2/4(日)投稿予定です。


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Birthdays2

「誕生日パーティーなんて、さかなちゃんにしてはお洒落な催しものじゃない。明日が楽しみねぇ」

 虚空から聞こえてくる、弾んでいるようでいて、淡々としているようにも聞こえる『気持ち悪い』声。

 浮き足だって台所に戻っていく花中を見送っていたフィアは、その声を聞いてあからさまに顔を顰めた。畳の上で座った体勢のままギョロリとした眼差しで辺りを見渡す。『アイツ』との付き合いもかれこれ九ヶ月。花中と自分のやり取りを最初から最後まで見て、聞いていたであろう輩に対し、フィアは荒々しく鼻息を吐いて不快さを露わにする。

「別にあなたは参加しなくても良いのですよ。私と花中さんの二人きりで十分ですから」

「つれないわねぇ。こういうのはみんなでやると楽しいって、はなちゃんを通じて学ばなかったの?」

「少なくともあなたと一緒に居て楽しいと思った事など一度もないのですが」

 極々自然に拒絶の言葉を吐くフィアに、虚空の声は「あらあら残念」と、全く残念に思っていないだろう声色で答えた。

 直後、フィアのすぐ後ろに黒い人影――――ミリオンが現れる。

 現れた『知人』の姿を見たフィアはやはり不快さを隠さず、それどころか舌打ちを以て出迎える。凡そ知人への態度ではないが、そもそもフィアは彼女を知人だとは思っていない。もっと不愉快で忌々しい、嫌悪の対象だ。

 花中などの人間達は、ミリオンのこの登場方法を見てもビックリするだけだが……自分(フィア)は、恐らくはミィも、酷く不快になる。人間よりも気配に敏感であるが故に実体化を始めた瞬間ミリオンの存在を察知出来るのだが、その存在感がざわざわと増していくのが堪らなく気持ち悪いのだ。例えるなら、神経の中から無数の虫が這い出してくるような感じである。

 他にも花中の命を狙った過去や、花中との時間を邪魔するところとか……兎に角フィアはミリオンの色んなところが嫌いだ。今のところ好きなところなどなく、今後出来る気配もない。なんらかの拍子に跡形もなく消えてくれたら清々する相手である。

 そんなのと一緒に、大好きな友人の誕生日をお祝いする? 冗談じゃない。

「大体、さかなちゃんに誕生日パーティーがちゃんと出来るのかしら?」

 ましてやそんな奴に、あからさまに馬鹿にされたなら?

 あまり我慢強くないフィアは、憤怒で『作り物』である己の髪をざわざわと揺らめかした。尤もその様を見たミリオンは、おどけるように両手をひらひらと横に振って悪気のなさをアピールするだけ。まるで堪えていなかった。

「ちょっとちょっと、勘違いしないでよ。悪口を言ったんじゃなくて、純粋に心配しているだけなんだから」

「あれが悪口以外の何かだとは到底思えませんね」

「なら訊かせてもらうけど、誕生日パーティーはどんな風にお祝いする気なの?」

「どんなも何も……」

 そんな簡単な質問で私を言い負かせると思っていたのか、やはり私の事を馬鹿にしているのだろう……そう思い憤りながら、フィアは荒々しい鼻息と共に胸を張る。

「おめでとうございます今年一年無事に生きてくれて私も嬉しいです来年もちゃんと生きていてくださいねと伝えてあげるのですよ!」

 そして自信満々にそう答えた。

 ……答えたきり、それ以上何も言わない。

 当然である。フィアは『それ以上』の事を何も考えていないのだから。

「OK、予想通りの返答ね。予想通り過ぎて脳なんてないのに頭が痛くなってくるわ……それ、一般的にはパーティーにすらなってないわよ」

「へ?」

 ミリオンからの指摘に、フィアは首を傾げる。花中から聞いた話では、誕生日とは「今日まで生きてくれてありがとう」の気持ちを伝える日の筈。なら、それに対する感謝の気持ちを伝えれば良いのでは? と考えていたのだ。

 そんなフィアの考えなど大体お見通しなのか。ミリオンは大袈裟に肩を竦め、呆れるようなため息を漏らした。

「もう。ちゃんとアニメ見てたの? おめでとうの一言で終わってなかったでしょ。ケーキが出てきたり、プレゼントを渡したりしてたじゃない」

「? あれは誕生日にかこつけて美味しいものを食べたりしているだけではないのですか?」

「そーいう面がないとは言わないけど、そーいう理由しかない訳じゃないの。所謂お約束よ。ケーキとプレゼントのない誕生日パーティーなんて、残念過ぎるわ。そんな状態じゃ、はなちゃんをガッカリさせちゃうわよ?」

「はぁ。そういうものなのですか」

 納得したような言葉を呟きながら、フィアは怪訝な気持ちが眉間に現れる。

 人間でないから、というのが一番の理由かも知れないが……フィアにはこの『お約束』というものがよく分からない。何かをする理由があるのなら、その理由に則した行動だけで十分ではないか。確かにプレゼントを貰えれば嬉しいだろうし、美味しいケーキを食べれば幸せになれる。が、それは誕生日とは()()()()()()行いの筈だ。誕生日でなくともプレゼントは嬉しいだろうし、美味しいケーキは何時食べても幸せを感じさせてくれるのだから。

 しかしながら、人間に対する理解度はミリオンの方がずっと上。その点についてはフィアも認めているところで、信用していない訳ではない。何より花中がガッカリすると聞かされては、無視する事は出来ない。フィアは花中が嬉しそうに笑うところを見たいがために誕生日を祝おうとしているのだ。逆に言えば、喜んでもらえない誕生日パーティーをしても意味がない。必要なものがあるなら用意せねばなるまい。

 とはいえ、じゃあケーキとプレゼントを買いに行こう、と簡単にはいかないのが辛いところ。

 何しろフィアは一文無しなのだから。

「……あなたの理屈は分かりました。ですがじゃあどうしろと言うのです? 我々はお金など持っていないでしょう?」

 ふんぞり返りながら、フィアはミリオンにそう反論する。

 人間社会で何かを得るためにはお金が必要である。花中との暮らしでそのぐらいの事は学んでいた。福引きやらなんやらという手段もあるようだが、それらは例外的な方法である。お金がなければプレゼントやケーキは手に入らない。

 フィアはそんなお金を全く持っていない。欲しい漫画やゲームがある時は、花中にお小遣いをもらって買っている。それだって毎月決まった額を貰っているのではなく、欲しい物の金額ぴったりなので貯金だってない。

 それはミリオンも同じだ

「え? 私はちゃんと貯金あるわよ?」

 と、フィアは勝手に思っていたのだが、どうやら現実は違うらしかった。

「……え?」

「いや、私はお金持ってるの知ってるでしょ。ゲームセンターで遊んだ時とか、海に行った時とか、自腹切ってたでしょ?」

「……あなたの行動など逐一見ていませんので知りませんでした」

「どんだけはなちゃん以外に興味ないのよ。これでも五十年は人間社会で暮らしていたのよ? 『あの人』の遺産とか、『あの人』が書いた本の印税とかで多少は収入があるんだから。まぁ、そこまで大した額じゃないし、研究とか維持費とかで結構使っちゃうんだけど、ケーキとプレゼントを買う余裕ぐらいはあるし」

「うぬぬぬぬ……」

 自分との違いを告げられ、フィアは唸るような声を出す。

「一応言っとくけど、お金を分けてあげるつもりはないわよ? はなちゃんに使うのは良いけど、さかなちゃんがはなちゃんに喜んでもらうために使わせたいとは思わないもの」

「ふん! 最初からそのような事期待していませんよ! 私は自分でなんとかします!」 

 そしてわざとらしく伝えられた拒絶に、フィアもまたあからさまな敵意を隠さずに反発した。ふて腐れるようにフィアはそっぽを向き、唇をむすっと尖らせる。

 そんなフィアを見てくすくすと笑うミリオンは、ぼそりと「あんまり深く考えなくて良いのよー」とぼやきながらその姿を霧散させる。忌々しい奴は消えたが、フィアの心は晴れない。実際問題プレゼントやケーキを買うためのお金をフィアは持っていないのだ。何か方法を考えねばなるまい。

 一応、お金を手に入れる手段はある。そこらの人間をちょいっと()()()()()()良いだけだ。いや、こんな回りくどい事をせずとも、ケーキ屋などを襲えば目的は達せられる。人間の警備員など百人居ようが羽虫と変わらず、警察が千人来たところで邪魔とも思わないし、軍人が一万人来たところで返り討ちに出来る。それだけの力がフィアにはあるのだから。

 ……ただ、これをすると花中は間違いなく悲しむ。怒ったりもするだろうし、狼狽えもするだろう。そして多分、凄く嫌われてしまう。花中は無理強いこそしてこないが、人間社会の『ルール』をフィア達にも多少は守ってほしいと考えているからだ。花中を喜ばせるためにケーキやプレゼントが欲しいのに、そのための行いで悲しませて、挙句嫌われてはなんの意味もない。

 人間から奪うのは駄目だ。では花中に頼んで、プレゼントを買うためのお小遣いをもらうか? ……それは、流石になんか違うだろうとフィアは感じる。自分で捕まえた虫を花中にあげて、その虫をプレゼントだと言われて返されたら、フィアだってちょっと戸惑う。

 あーでもない、こーでもない、どうしたものか……と考える事数分。フィアは静かに、力強く頷いてから立ち上がる。

 ――――さっぱり分からない!

 たった数分考えて、フィアが導き出した結論は酷く投げやりなものだった。知性こそ人間並であるフィアだが、あまり長く考え込むのは得意ではないのだ。分からない事は分からないと、すっぱり諦める。

 とはいえ、花中への誕生日プレゼントまでも諦めた訳ではない。

 自分では考え付かないのなら、誰かに訊けば良いのだ。人間社会で暮らす中で、フィアはそのような『技術』も学んだのである。ただし花中以外に、だ。プレゼントをもらう気でいる(らしい)花中に、プレゼントの買い方が分かりません、と訊いたらガッカリされるかも知れない。それに人間社会には『サプライズ』という、ギリギリまで秘密にする事で相手をビックリさせ、大喜びさせる方法があるらしい。出来れば花中には最大級に喜んで可愛い顔を見せてほしいので、プレゼントの内容を知られるような行いは避けたい。

 幸いにして、九ヶ月もの人間社会生活により知り合いはそこそこの数が居る。全員が妙案を閃くとは限らないが、一人ぐらいは出してくるだろう。

 思い立ったが吉日。花中の誕生日まで時間がないのもあり、のんびりしている暇はない。

「花中さーん私ちょっと出掛けてきますねー」

「え? うん、わかったー。気を付けてね」

 キッチンで家事真っ只中の花中に一言告げ、フィアはそそくさと玄関に向かう。

 まずは身近なところから当たっていくのが筋だろう。

 そう方針を立てたフィアは、力強く周囲の空気を吸い込み――――

 

 

 

「という訳でとりあえずあなた達に意見を伺いに来ました。正直さして期待はしていませんが」

「うん、前半は兎も角最後の一文は間違いなく余計よね?」

「下手に期待されても困るけどねー」

 臭いを頼りに町を探し回る事十分。フィアは駅前の雑貨店に居た晴海と加奈子を発見し、事情を説明した。

 花中の学校に同行している手前、人間の知り合いはそれなりに出来た。が、フィアが人間でない事を知っているのはこの二人だけ ― とフィアは思っている ― である。話し相手なら兎も角、相談事の出来る人間となるとこの二人以外に居ない。

 それは晴海達も分かっているらしく、余所に行け、とは言ってこなかった。代わりに二人は揃って辺りをさらりと見回す。あまり繁盛していないのか雑貨店の中にフィア達以外の人影はなく、店内にはちょっと大きめの音楽が流れている。フィアのような『人外』の聴力ならば兎も角、人間の耳には十分妨げとなるだろう。

 何かの拍子に『迂闊』な話をしても誰かに聞かれる心配はない。それを確かめてから、晴海と加奈子はフィアの相談に乗った。

「まぁ、良いわ。えっと、お金が欲しいのよね?」

「そうですね。あなたがくれるのならそれでも構いませんが」

「あげる訳ないでしょ。つーか、その話を聞いたからにはあたしも大桐さんに誕生日プレゼント買いたいし」

「む。パーティーに参加すると? 私は花中さんと二人っきりでお祝いしたいのですが」

「心配しなくても行かないわよ。明日は用事入っちゃってるから。学校始まったら、その時にプレゼントを渡すつもり」

「私も参加しないよー。今月もうお小遣い残ってないし、来月になったらなんかあげるね」

「……話が逸れたわ。そうね、お金が欲しいなら、やっぱり仕事をするのが正攻法よね」

「仕事?」

 晴海の提案に、フィアは首を傾げながらそう訊き返す。晴海はこくんと頷いた。

「そ。というか普通は仕事をしてお金を稼ぐの。なんかこの前見たコンビニの求人だと時給千円とかだったから、一日五時間も働けば五千円ぐらいもらえる筈よ」

「ほほうそうなのですか。でしたら私ならば一日五千万円はもらえそうですね。人間一万人分ぐらいの役割はこなせますから」

「いや、一万人分働こうと、〇・五人分しか働かなくても、賃金一緒だから」

「え? じゃあ何もしない方が得では?」

「それはそれで首になるから損ね」

「それ以前にさぁ、フィアちゃんって仕事出来るの?」

 晴海と話していた最中、割り込むように提示された加奈子の疑問。直感的に馬鹿にされているような気がしたフィアは、野生の獣らしい鋭い眼光で加奈子を睨む。

 普通の人間なら、恐怖はせずとも怯みはするだろう眼差し。尤も人間の中でも特別能天気な加奈子には通じず、彼女は弁明するようにひらひらと手を横に振った。

「あ、違うんだよ? フィアちゃんが仕事出来ない駄目魚類って意味で言った訳じゃないから」

「それ以外の意味があるとは思えませんが?」

「実際出来なさそうだけどね」

「ああん?」

「おっとと、そうじゃなくて……フィアちゃん、戸籍とかないよね? あと住民票も。アルバイトでも、そーいうの必要なんじゃない?」

「こせき? じゅうみんひょう?」

「あー……」

 加奈子の意見に、晴海は納得したような声を出した。どうやら人間にはピンとくる疑問らしいが、しかし人間ではないフィアにはなんの事だかちんぷんかんぷん。先程まで鋭くしていた目を丸くして、キョトンとなった。

「一体なんですかそれ?」

「んー、私は此処に住んでいますって事を証明する書類、かなぁ」

「? 何処に住んでいるのかがそんなに大事なのですか? 住処なんてその日その日で変わると思うのですが」

「そりゃアンタが魚だからでしょーが。少なくとも日本人は何処に住んでいるのかハッキリしてるのがふつーだし、それを証明出来ない人は、言っちゃ難だけどまともな状況じゃないって判断されるわ。だから従業員として雇いたい人には、そういったものが求められるの。極論だけど、雇った人が連続殺人事件の犯人として指名手配されてる奴だったら嫌でしょ?」

「ふぅーむ確かに。何かしでかしそうな気はしますからね」

 晴海の補足説明でフィアは得心がいく、のと同時に、仕事をするという選択肢を頭の外へと放り投げた。人間でなければ戸籍や住民票を持てない。ならば人間でない自分には、仕事は出来そうにないのだから。

 しかしそうなると中々困った話だ。

 晴海は仕事こそがお金を稼ぐ『正攻法』だと言っていた。つまり他の方法は邪道か幸運、そして困難の三つしかない。別段邪道を歩む事に躊躇などない ― そもそも『目的』を達成するための方法に、何故善悪を見出そうとするのかがフィアには分からない ― が、花中が嫌がりそうである。明日にはプレゼントを用意せねばならないのに、起きる保証のない幸運に頼る気もない。

 そうなると残すは『困難』のみ。

「うーん町中を探索して落ちているお金を拾い集めるとかどうでしょう?」

「一応それ犯罪よ? 正確には落ちてるやつを勝手に自分のものとして使ったら、だけど」

「ぐぬぬ。犯罪をすると花中さんに嫌われるかもなのでいけません」

「あとはなんかの大会で賞金を稼ぐとか……いや、駄目ね。ズルはしちゃ駄目だし」

「? 別に反則をする気はないのですが」

「人間からしたらアンタの存在そのものがズルなのよ。あと、騒ぎを起こしちゃ色々不味いから駄目」

 あーだこーだと晴海と話し合うフィアだが、やはり『困難』なだけに中々良い案が浮かばない。というより簡単に思い付く内容だったなら今頃たくさんの人間がやっているだろう。

 ついにはネタが尽き、フィアと晴海は黙りこくってしまう。

「そうだっ!」

 と、その瞬間を狙ったかのように、加奈子が大声を上げた。

 店内の音楽でも隠しきれない大声に、フィアは眉を顰め、晴海はビクリと身を強張らせる。周りに人が居たなら、今頃視線が集まっている事だろう。

 困惑気味なフィア達だったが、加奈子は胸を張って何故か自慢気。鼻息も荒く、聞いて聞いてとの心の声がだだ漏れになっていた。どうやらこちらから訊くまで、自分から話し出すつもりはないらしい。

「……どうしたの?」

「ふふーん、実は閃いちゃったのだ。賞金を稼げば良いんだよ!」

「アンタ、さっきまでの話聞いてた? ズルは駄目って言ったでしょ」

「ふふふふふ。ズルをしても怒られない方法があるのだー」

「ズルをしても怒られない?」

 怪訝そうな顔をする晴海を見て、加奈子はますます調子付いた表情を浮かべる。それからすぐには答えず、勿体ぶるような沈黙をわざわざ挟む。

「賞金首を捕まえるんだよ!」

 そして大きな声で、なんとも夢のある台詞を発した。

 ノリノリな加奈子の『名案』に、フィアと晴海は互いの顔を見合う。一人と一匹の目は、相変わらず現実を見ていた。

「賞金首って実在するのですか? 漫画とか映画だけの話だと思っていたのですが」

「多分、懸賞金の事を言いたいんでしょ。犯罪者を捕まえたり、行方不明者を見付けたりしてもらえるお金」

「そうそう、それそれ」

「……私には良い案なのか悪い案なのかよく分からないのですけど」

 フィアが尋ねると、晴海は顎に手を当てて考え込む。何か納得してないのか、うんうん唸ってもいた。

 そんな晴海に任せられないと言わんげに、加奈子は自らの案がどれだけ素晴らしいかを語った。

 曰く、犯罪者を捕まえたり行方不明者を見付けたりするのは『良い事』である。犯罪者を捕まえるために犯罪に手を染めるのは御法度だが、そうでないなら誰が文句を付けようか。勿論一見してか弱い『美少女』がどうやってそんな人々を確保出来たか、世間は大いに関心を持つだろう。しかし人の噂も七十五日。そのうち飽きて忘れ去られる筈だ。

 つまりフィアの能力で暴れ回っても花中に怒られる事はないし、人間社会に正体がバレる心配も小さい。いや、むしろ花中に関しては、フィアが社会貢献してくれた事を大いに喜びそうである。

「てな感じなんだけど、どうよ?」

「お……おおお……!」

 そのような加奈子の話を聞き、フィアは握り拳を作るほどに興奮した。確かにこの方法なら、花中に嫌われる心配はないだろう。それに人間の犯罪者など自分の力を以てすれば羽虫同然。行方不明者も、人間など足下にも及ばない自慢の嗅覚を使えば簡単に探し出せる筈だ。

 人間にとってこの方法でお金を稼ぐのは『困難』だろうが、フィアからすれば正しく『天職』。自分の成功が、さながら過去を振り返るかのようにくっきりと思い描けた。

「捕まえた人達は警察に引き渡せば、面倒な手続きは多分やってくれるっしょ。身分証明書とか求められるかもだけど、そん時は大桐さんかミリきちを呼んでおけばなんとかなると思うし」

「成程でしたら花中さんを呼ぶとしましょう。この私の活躍を伝えられてしかもお金を貰えるとなれば正しく一石二鳥ですし」

「あ、あと行方不明者を探すより、犯罪者を捕まえた方が良いと思うよ。フィアちゃんの力を披露して、ただの行方不明者だったらその時起きた事を話して噂になるかもだけど、犯罪者だったら頭おかしいで済まされるだろうから」

「ほほう。人間にバレる事など正直どうでも良いのですが花中さんから気を付けろと言われていますし噂にならないならそれに越した事はありませんね……むふふふふ」

 聞けば聞くほどに美味い話に、フィアは思わず笑みを零す。

 ここまできたら暢気などしていられない。犯罪者を捕まえるのは簡単だとしても、事はそれで終わりではないのだ。その後犯罪者を警察に引き渡し、貰ったお金で花中のプレゼントを買わねばならない。明日までに最高に素敵なプレゼントを見付ける方が、犯罪者を捕まえるよりもずっと難しいだろう。時間は思ったよりも少ない。

 何より、もたもたしていてそこらを歩いている犯罪者を警察に捕まえられたら、その時点でこの計画はおじゃんだ。

「いやはや人間に相談して正解でした。大変に参考になりましたよ早速適当な犯罪者を捕まえてくるとします」

「うん。頑張ってねー」

 話しながら踵を返すフィアに、加奈子は見送りのつもりか手を振る。見えていないフィアは返事もせず、振り返りもせず、全く躊躇なくそそくさと店の外へと出た。

 店の外は、駅前の大通りだ。雑貨店の周りには洋服屋やレストランが建ち並び、昼間でありながら住宅地とは明らかに異なる『煌びやかさ』で満ちている。

 当然、このような場所が賑わっていない筈もない。数えきれないほどの人間が各々自由に歩いている。春が近くなり、人々の着ている服も明るい印象のものが多い。正しく『楽しげ』な景色だ。

 この中に、果たして犯罪者は居るのか?

 大抵の人は、そうは思わないだろう。しかしフィアは違う……尤も、ちゃんとした根拠がある訳ではない。「テレビで毎日何かしらの事件があったと言っているのですからこれだけ人間が居れば誰かが悪い事をしているでしょう」という能天気な思い込みだけだ。

 されどその思い込みは、何十もの論理を積み立てた人間の思考よりも強固。

 作戦の成功を何一つ疑わぬまま、フィアは道行く人々の中へと割り込むのだった……

 ――――さて、一方その頃。

「いやー、あっさり行っちゃったねー」

「……………」

「晴ちゃん、さっきからずーっと考え込んでるけど、どしたの?」

 フィアが去った雑貨店では、良い事をしたとばかりに上機嫌な加奈子が、神妙な面持ちで押し黙ったままの晴海にそう尋ねていた。晴海は加奈子の呼び掛けにすぐには答えず、しばし無言のまま。ややあって開いた口からは、淡々とした言葉が紡がれた。

「……別に今気付いたとかじゃなくて、他の案も浮かばないし、そのままやっても悪い事にはならないと思ったから言わなかったんだけど」

「んー? どゆこと、晴ちゃん。あ! 私が名案閃いたから嫉妬したとか? ふふん、どーだ普段から馬鹿にしてる奴に負かされる気持ちは」

「ああ、馬鹿にされてる自覚はあったのね。良かったわ、そこまでの度し難い馬鹿じゃなくて……じゃなくて。確かに懸賞金をもらうために犯罪者を捕まえるのは良いけど、捕まえてからお金が出るまで、ふつーは何日か掛かるんじゃない?」

「……………え?」

 晴海の指摘に、加奈子は目を丸くしてポカンとなる。

 それからハッとしたようにシリアスな表情を浮かべるが……気付いた内容があまりにお粗末で、晴海もぐったり項垂れるしかない。

 これで加奈子が、自分の浅はかさを反省するならまだ良いのだが……

「あー、まぁ、良いか。別にお金もらえるのが何日か先でも、遅くなったけど誕生日プレゼントだよーって言って渡せばそれだけで大桐さん泣いて喜びそうだし。結果良ければ大丈夫だよね、うん!」

 能天気でお惚けな彼女は、言い訳だけはしっかりしたもので。

 晴海が下した鉄拳制裁の音は、既に雑貨店から遠く離れてしまったフィアに届く事はなかった。




今更ですが本章は花中の出番少ないです。
というか蚊帳の外感が凄まじい。

次回は2/11(日)投稿予定です。


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Birthdays3

「は~んざ~いしゃ~は~んざ~いしゃ~ど~こにか~くれたわ~るいやつぅ~」

 理性だとかプライドだとか羞恥心だとか、大人になるにつれ自らを縛るようになるものを全て投棄して空っぽにした頭に、童心だけを詰め込んだような歌声が駅前の大通りに響き渡る。

 透き通った純真無垢な声色は、美声という称賛すら生ぬるい。道を埋め尽くすほどにいる通行人達は、その歌声を耳にするや引き寄せられるように足を止め、感動で滲んだ顔を振り返らせる。そして煌びやかなドレスと黄金の髪、宝石の如く美しい瞳と彫刻のように麗しい顔立ちを目の当たりにし、誰もが魅惑されるのだ……が、奏でられている歌は美声であるのと同時に音痴でもある。一瞬感じたときめきがものの数秒で失われ、感動が抜けきった人々の顔に残るのは怪訝さだけだった。

 付け加えると、犯罪者を見付けたがっているような歌詞も人々の心を戸惑わせる。集まる視線が称賛なのは最初だけで、後はずっと猜疑と不信に満ちたもの。

 されど歌声の主――――フィアは気にしなかった。フナである彼女は社会への協調性など持ち合わせていない。面識すらない他者になんと思われようと、あれこれ悩むような感性ではないのだ。そもそもこの歌は誰かに聴かせたくて歌っている訳ではなく、歌いたいから歌っているのである。褒められて悪い気はしないが、嫌がられて不快には思わない。

 なのでフィアは数多の衆目などお構いなしに歌い続け、更に大勢の人々を戸惑わせる。

「おう、嬢ちゃん。随分とご機嫌だな……」

 ついには後ろを歩いていた見ず知らずの中年男性が、話し掛けてくる有り様だ。

 フィアは上機嫌なステップを混ぜながらくるりと身を翻し、男性の方を振り向く。浮かべている笑みは正しく美少女のそれ。一般的な『嗜好』の持ち主であろう男性は、照れたように視線を逸らした。

 当然、魚であるフィアが男性の心境を察する事はない。察したところで抱く感情に違いなどない。フィアは歌声と同じぐらい眩くて麗しい声で男の問いに答える。

「ええ! 実は先程悩みがスッキリと解決しまして!」

「そりゃ何より……つーか、なんだその歌は」

「この歌ですか? 勿論犯罪者を捜す歌ですが」

「いやいや、探してどーするんだよ?」

「どーするも何も決まっているではないですか」

 中年男性の至極真っ当な疑問に、フィアは鼻息を荒くしながら自慢気に胸を張る。

「ボコボコにした後警察に引き渡すのですよ!」

 そして大変正直に、自分の目的を打ち明けた。

 ……これが、例えば五歳ぐらいの男の子が言った事なら、正義を愛する純朴さと無知からくる身の程知らずぶりに愛らしさの一つでも感じて「そりゃあ頼もしいな!」の一言ぐらいは男性の口から出たかも知れない。

 が、フィアが現在形作っている姿は金髪碧眼の美少女。少女とはいうが、大人びた高校生ぐらいの容姿である。時代や国次第では一人前の大人として扱われ、現代日本でも子供と大人の狭間に位置すると認識される世代。ハッキリ言ってしまえば、ちょっとは大人っぽい考えを持ってないと『変』なお年頃だ。

「お、おう。その、頑張れ、よ……?」

「ふふん言われずともそのつもりです。では私は急いでますのでそろそろ行きますね」

 あからさまに引き攣った笑みと共に送られた声援に、されどフィアは好感しか感じずに受け取る。再開した歩みは、先程までと同じく上機嫌だった。

 そんなフィアの姿を見ていた数十もの人々は誰もが怪訝そうな表情を浮かべ……その中の十数人は、心底()()()()()視線を送る。 

 大勢の中で一人二人がそのような視線を送るのなら、さして不自然ではなかろう。機嫌が悪い時にウザいほどに元気な『子供』を見れば悪態だって吐きたくなるし、延々と珍妙な歌を聴かされたなら苛立ちもする。しかしフィアはほんの一瞬すれ違うだけの、ちょっと変な奴というだけ。あまり我慢強くない少数の人がそんな態度を取るのは仕方ないにしても、通行人の何割ともなれば異質な雰囲気と言えよう。

 普段であれば、だが。

 これには一応の理由があった。そしてその『理由』を生み出した根源は遡る事三ヶ月前……去年の十二月末日、世界を滅ぼしかけた『怪物』達である。

 星の外から訪れた外来種と、地球に潜んでいた生物の決戦。彼女等の生存競争は、下手をすれば星さえも砕きかねないものだった。人の手に負えない生命体の出現に、社会の混乱を恐れた為政者達は彼女等の存在を隠そうとしたが……それは叶わなかった。当然だ。世界中の人工衛星が余波だけで何十機と叩き落とされ、数十兆ドル相当の電子機器がお釈迦となり、星をも貫く高エネルギーによって至る所の海洋生態系が崩壊し、誘発された噴火や地震で幾つもの国に甚大な被害が出たのだから。最早どんな虚偽のストーリーを描いたところで、納得出来るものなどありはしない。開き直って原因不明を主張すれば、市民と野党は政府の無能さを罵り、更なる混迷を招き入れる。

 八方塞がりの状況。『何処か』の国が音を上げ、本当の事を喋ってしまうのは時間の問題だった。

 あまりにも非常識な発表。しかしながら充実した証拠の数々。真実が明るみに出た途端、為政者達の懸念通り混乱は加速した。地球の、或いは宇宙の頂点に立つと信じていた自分達が、二番以下の力しか持っていなかったのだから。頂点を奪い返そうと闘志に満ちる者、現実を受け入れられず政府の陰謀を声高に主張する者、心の安寧を求めて怪しげな宗教に入信する者、自暴自棄になってテロを行う者……人心は今まで以上にバラバラとなり、社会の混迷は異星生命体襲来から三ヶ月が過ぎた今でも未だ治まっていない。いや、むしろ悪くなっている有り様だ。特にキリスト教によって人間の『尊さ』を信じていた西洋諸国での混乱が大きく、世界の先頭に立ってる力を持った国が尽く荒んでいた。世界情勢が良くなる兆しはなかった。

 そんな中日本は、存外平和な方だった。元々の宗教観 ― 日本人は自分を無宗教と称すが、『お天道様が見ている』などの考え方は正しく『宗教観』である ― からして人間が世界の頂点とは、大半の日本人はあまり思ってなかった。故に人間を遥かに凌駕する怪物が現れても、西洋諸国ほどの混乱は起きなかったのである。とはいえそれはあくまで比較の問題。市民の中には政府の陰謀を唱えて暴動紛いの行為を働く輩が現れ、超常の生物を神と崇める宗教も多数生まれた。政界は今まで以上の罵声と困惑が満ち、まともな政策議論が出来ない状態にある。おまけにグローバル化した経済は他国の混乱の影響をもろに受け、輸入品、特に食料品の価格が大きく高騰していた。大神政権になってから右肩上がりを続けていた国内経済は初の下落を迎え、まだまだ底が見えていない。

 今、人の世界はどん底に向かって落ちている。人々はそれを確かに感じ取っていた。社会がどうなるのか……政治的にも、そして『怪物』の活動的な意味でも……まるで分からない。希望など持てる筈もなく、皆の気持ちが沈んでいた。

 そんな中能天気にはしゃぐ、そろそろ大人の仲間入りをしてほしい『子供』が現れたら……何時も以上に、手厳しい対応になってしまうのは仕方ない事だろう。

「ふんふふんふふ~ん♪ ふふんふ~♪」

 尤も当人は他者の感情など汲まない『怪物』であり、視線に乗せられた想いに気付きながらも変わらずご機嫌に駅前通りを練り歩くのだが。

 ――――さて。

 フィアはこれだけたくさんの人が居れば、犯罪者の一人二人は見付かるだろうと考えていた。直感的に下した判断であり、根拠など何もない。実際、あちらこちらに人目がある駅前の大通りで犯罪行為を働く者は多くないだろう。

 しかし『起こり得ない』なんて事はなく。

「きゃあっ! ど、泥棒っ!」

 歩いていたフィアの耳に、そんな叫びが届いた。

 どの人間よりも素早く声がした方へと振り向いたところ、数十メートルほど離れた位置で若い女性が寝そべっていた……いや、転んでいたと言うべきか。彼女は真っ直ぐ手を伸ばし、困惑しきった表情を浮かべている。

 そして彼女の伸ばした手の先には、フィアの方へと駆けてくる男の姿があった。

 がたいは良いが身長はそこそこの、三十代ぐらいの男だった。髪はボサボサで、炎をイメージしたような柄のダウンジャケットを着ている。片手はバッグを大事そうに抱えていたが、明らかにそのバッグは女物。十中八九彼の所有物ではない。女性の叫び声と合わせて考えたところ、彼が転んだ女性から荷物を強奪した、所謂ひったくり犯と呼ばれる輩であるとフィアは判断した。

 しかし何よりも目を惹くのは、彼の『目付き』。

 血走っている……そんな表現すら生ぬるく思えるほどに、異様な目付きをしていた。充血した目は化け物としか例えようがないほど赤く染まり、瞳孔が激しく揺れ動いて焦点が定まっていない。よくよく見れば口元から涎を零し、今にも食い千切りそうなほどに唇を噛んでいるではないか。人間的な理性を一切感じさせず、さながらその姿は手負いの獣のよう。あまりのおぞましさからか、彼の姿を目の当たりにするや女子供のみならず男達すら道の端へと逃げていく。

 残ったのは、ぽつんと大通りのど真ん中に立つフィアだけだ。

「ぐ、るあああああああああ!」

 フィアの近くまでやってきた男は獣のような叫びを上げながら、バッグを持っていない方の手を振り回す。その行動を目撃した通行人達が、一斉に悲鳴を上げた。

 彼の手にあったのは、本物のナイフだったからだ。

 刃渡りはざっと十五センチ以上。『正当な理由』なしでは携帯が法律で禁じられているサイズであり、十分な殺傷能力を有する凶器である。障害が残る傷を容易に作れるだけでなく、命を奪う事も可能な代物だ。あまり目が良くないフィアにはその手にあるものが何かは分からなかったが、彼がその手に武器のようなものを掴んでいる事はすぐに察した。

「ほい」

 なのでとりあえずそれを壊してしまおうと、フィアは『素手』で迫り来るナイフの刃を掴んだ。

 人間なら肌を切られ、骨に達するような傷が出来るところだが、ひったくり犯にとって不幸な事にフィアは人間ではない。ナイフはバキンッと音を立て、繊細なガラス細工のように割れてしまった。

 普通なら、このあり得ない事態を前にしたら身を強張らせ、どれほど荒事に慣れた達人であっても僅かながら動けなくなってしまうだろう。

「がぁ!」

 ところがこのひったくりは、一瞬の怯みもなく大きく腕を振り上げた。まるで先の光景が()()()()()()()()かのような反応に、さしものフィアも「おや」と一言漏らす程度には驚いた。が、それだけ。人間社会生活も長くなったとはいえ彼女は生粋の野生動物であり、この程度の『予想外』に戸惑いはしない。

「ていっ」

 フィアとしては本当に軽く、男の頭にチョップを一発。

「べごすっ!?」

 しかし人間にとってはメガトン級の一撃に、そこそこな肉体しか持っていないひったくり犯が堪え切れる筈もなかった。叩き付けるような勢いで彼は倒れ、道路と情熱的なキスをお披露目。最初はもがき、やがてピクピクと痙攣するようになって、ついには動かなくなる。そこからは待てど暮らせどひったくり犯は動かず、起き上がる気配もない。

 あまりにも起き上がらない男の姿を目の当たりにし、一部始終を見ていた通行人達がひそひそと何かを話し始めた。フィアが自慢の聴力で聞き取った情報曰く、ひょっとして死んだんじゃ? との事。確かにこうも動かないと死んでいるかも知れないとフィアも思い始める。加減はしたつもりだが失敗して頭の中身をぐちゃぐちゃにしてしまったのだろうか? 別段この人間が死んだところでフィアはなんとも思わないが、この事がバレたら花中に嫌われてしまうかも知れない。

 フィアはしゃがみ込み、耳を澄ます。呼吸は……している。息をしているという事は、生きているという事。

 フィアはホッとした。そして笑みを浮かべた。

 何しろ探し求めていた犯罪者が、こんなにも早く見付かったのだから。

「なんだ生きてるじゃないですかそれじゃあ早速警察に行きましょう」

 フィアはひったくり犯の足を掴むと、何一つ遠慮なくずるずると引き摺る。あまりにも雑な扱いに周りの人間達が呆気に取られるが、元より衆目など意識の外にあるフィア。気にも留めず、上機嫌な歩みは止まらない。

 そのまま衆目を集めたまま、フィアは犯罪者を引き連れて大通りを去――――

 る前にてくてくとUターン。それから適当に、近くに居た一人の青年に歩み寄る。気絶しているとはいえ異常さを見せていた犯罪者、その犯罪者をチョップ一発で黙らせた美少女。青年は顔を引き攣らせ、一歩二歩と後退りする。

「このバッグは要らないのであげますね」

 尤もフィアは青年の気持ちなどお構いなし。ひったくり犯からバッグを取り上げ、青年に向けて放り投げた。

 つい、といった様子で投げられたバックを受け止めた青年はポカンとしていたが、フィアは青年に背を向けるとすたすたと歩き出す。フィアにとってひったくり犯が奪ったバッグの事などどうでも良い。被害者からの感謝もいらないし、青年の気持ちなど頭の片隅にもない。ただ、引き摺る時にバッグが邪魔臭いと思ったので『あげた』だけである。フィアは犯罪者を警察に突き出し、賞金をもらえればそれで良いのだから。

「それでは私はこれで」

 最後にそれだけ言い残し、フィアは今度こそ大通りから去り――――

 ……………

 ………

 …

「すいませーん犯罪者を捕まえたのですがコイツ一人幾らで買い取ってくれますかぁ?」

 適当に歩いていて見付けた駅近く交番に立ち寄り、フィアはその中に向けて無邪気に呼び掛けた。

 交番に居たのは二人の警察官。一人は二十代ぐらいの青年で、もう一人は五十代ぐらいの男性。単純に考えて、青年の方が下っ端で、初老の男性の方が上司か。実務作業をしていたのかデスクに着いていた二人はフィアの方へと振り向き、そしてフィアがその手に掴んでいるひったくり犯の姿を見て顔を顰めた。

 男性からの目配せを受け、青年がフィアの応対を始める。

「……えーっと……犯罪者って、その手に掴んでいる?」

「他に居るように見えますか?」

「居ないように見えるから訊いたんだけどなぁ……」

 青年は頭を掻きながら席から立ち、フィアに歩み寄る。それからひったくり犯の顔を立ったまま覗き込んだ。

 出会い頭の時はフィアすら一目置くほどの狂気を見せていた男は、今ではすっかり大人しくなっていた。ただし静かになった訳ではなく、指を噛みながらぼそぼそと何かを呟いている。交番探しの道中でも同じく呟いていたのでフィアはその声に耳を傾けたりしたが、言っていたのは悪魔がどうたら予言がどうたらと訳の分からない事ばかり。そもそもぼそぼそ声で、いまいち聞き取り辛い。魚類の優れた聴力を以てしてもそんな有り様なのだ。人間である青年警察官には、例え顔を近付けても有意義な言葉は聞こえていない様子である。

 ただ、ひったくり犯の顔が恐怖で歪んでいる事は見れば明らか。

 青年警察官はフィアに懐疑の眼差しを向けてきた。

「あー……その、暴力とかは振るって……いないよね?」

「むむむ失敬な。頭を軽く叩いただけですよ」

「叩いただけ、ねぇ……というか犯罪者って言ってるけど、どんな犯罪をしていたんだい?」

「泥棒呼ばわりされているのを聞きましたから泥棒だと思いますよ。女の人から荷物を奪っていたみたいですし」

「思いますよって……被害者は君じゃないのか? 具体的にどんな被害があったんだい?」

 あまりにも曖昧で雑な回答に、青年警察官は呆れ顔を浮かべながら問い詰めてくる。予期せぬ質問攻めに、段々とフィアは機嫌を悪くしていった。警察というのは犯罪者を捕まえる組織だった筈。なのに被害者が誰だとか、被害がなんなのかだとか、どうしてそんな『どうでも良い』事を気にするのかさっぱり分からない。

 犯罪者を連れてくればそれでOKだと加奈子は言っていたのに、何故こんな面倒臭い事になっている? 考えてみてもよく分からず、フィアは不貞腐れるように唇を尖らせた。

「すみません、ちょっと私にも彼を見させてもらえませんか?」

 そんなフィアと青年の間に、初老の男性警察官が割って入ってくる。

 どうぞ、と一言フィアが許すと男性警察官はひったくり犯の傍にしゃがみ込んで、先程からぼそぼそと呟いていた男の顔に耳を近付けた。男性警察官はしばし押し黙り、それからじっくりと男の顔を観察……やがて、小さくないため息を吐きながら首を横に振る。

「……篠田、お前後で反省文な」

 そして無慈悲に告げられる青年警察官 ― 篠田という名前らしい ― への罰。

 突然のお仕置き宣言に青年は一瞬目を丸くし、それから仰け反るほどに驚いた。

「ぅええっ!? え、なんでですかぁ!?」

「なんでも何も、こんな分かりやすい『犯罪者』を見逃す馬鹿が居るか! こっちにきてコイツの声をもっとちゃんと聞いてみろ! それから顔をもっとよく見るんだ」

「は、はい!?」

 先輩からの説教を受けて青年は慌ただしくしゃがみ、改めてひったくり犯の言葉に耳を傾ける。最初は困惑の表情を浮かべていた青年だったが、突然ハッとしたように目を見開く。ひったくり犯の顔もまじまじと見て、考え込むように自身の顎を触る。

「……ヤク中、ですか?」

 最後にぽつりと、導き出した答えを口にした。

 初老の男性警察官はこくりと、静かに頷く。

「確証はない。が、雰囲気は正しく典型的なやつだ。恐らくコイツも『ブレインハック』だな……実際こうして疑いを持たれているのに、弁明どころか反応すらない辺り、こっちの声なんか全く聞こえていないんだろう」

「た、確かに……いくらなんでも、おかしいですよね……」

「勿論、例えば精神に疾患があるだとか、なんらかの洗脳を受けた、という可能性は否定出来ない。が、なんにせよ詳しく調べるべき相手なのは間違いない。お前はそんな奴を思いっきり見逃すところだった訳だ。それも警戒するようにと連日連絡が来てるにも拘わらず。だから反省文な」

「ふぐぅ」

 ぐうの音も出ない、と言わんげな呻きを上げて青年は項垂れる。初老の男性はやれやれと言いたげに肩を竦めた。

 そして一匹、ぽつんと首を傾げるフィア。

 話は全部しっかりと聞いていたが……二人が何を言っているのか、よく分からない。

「すみませんがなんの話をしているのですか? 結局コイツは逮捕するのですかしないのですか?」

「おっと、申し訳ありません。恐らく逮捕はする事になります。ただし窃盗犯ではなく、違法薬物を私用した罪で、という事になるとは思いますが」

「違法薬物? ああなんか使っちゃいけない薬でしたっけ?」

 フィアが尋ねると、初老の警察官は褒めるような笑みを浮かべながら頷いた。

 違法薬物と呼ばれる薬については、フィアも知識だけは有している。一瞬の気持ち良さと引き換えに、頭がずっとおかしくなる……程度の曖昧かつ大雑把な理解だが。どちらにせよ得られるメリットと支払うコストが釣り合っていないとしか思えず、フィアには全く興味のない代物だった。

 当然身内にこの危険な薬物の使用者などおらず、このひったくり犯が初めて出会った薬物中毒者。こちらの行動が見えていないかのような素振りでしたが頭がおかしくなっていたのですね……と、彼が襲い掛かってきた時の事を思い出して得心がいく。確かにあのようにおかしくなるのなら、違法な薬を使っては駄目だと言われるのも納得だ。むしろ何故この男はそんな薬を使ったのか、ますます理解出来ない。

「容疑を固めるためには検査が必要ですが、あの様子なら間違いないでしょう。完全に理性が抜けてしまっていますから……いや、よく確保してくれました。もしかすると、錯乱して街中で刃物を振り回すなどの凶行をしていたかも知れません」

「振り回してましたよ? というか私切り付けられましたし。まぁあんなちゃちな刃物でこの私を殺そうなんて土台無理な話ですけどね」

「……本当に、よく確保してくれましたよ」

 胸を張りながら語るフィアに、初老の警察官は乾いた笑いを漏らす。何故そんな引き攣った笑い方なのか、フィアは不思議がって首を傾げた。

「ともあれ、まずは取り調べと検査をしないとな。篠田、俺はコイツを奥に連れていって、検査キットで調べる。この調子なら、そのうち小便ぐらい漏らすだろう。お前は彼女から詳細な話を聞いておいてくれ」

「……了解です」

 初老の警察官は青年に指示を出し、ひったくり犯兼薬物中毒者を連れて交番の奥へと向かう。青年警察官は頭を掻きながら交番内に戻るとキャビネットから紙を取り出し、それをデスクの上に置いた。

「いや、ごめんな。さっきは色々疑っちゃって。ちょっと詳しい話を聞きたいから、時間もらえるかな? 取り調べとかじゃなくて、簡単な聞き込みのようなもので済むから」

 先の態度について謝りながら、青年は椅子を二つ用意。片方の椅子に座ると、もう片方の椅子に座るようフィアは促した。

 椅子は所謂パイプ椅子。どっしりと体重を乗せたらきっと壊れてしまうだろう……そんな事を考えながら、フィアは青年の求めに応じて椅子に座った。ただし椅子に体重は掛けず、人間で言うところの『空気椅子』の体勢を維持している。尤も、フィアにとってこの『身体』は容れ物であり、空気椅子だろうがごろ寝だろうが、能力を使って形作っている時点で労力にさしたる差はないのだが。

 優雅に腰掛けた美少女フィアを見て、青年警察官は生唾を飲む。それから目を逸らし、ペンを握り締め、帽子を被り直す。

「えと、じゃあまず住所と名前」

「ところでさっきのアイツは犯罪者という事で間違いないのですよね? いくらで買い取ってくれるのですか?」

 続いてお決まりの質問をしようとしたが、空気を読まないフィアの言葉がそれを遮った。青年警察官は突然の質問に、キョトンとするように目を丸くする。

「……はい?」

「ですから賞金ですよ賞金。犯罪者を捕まえたら賞金が貰えるのですよね?」

「賞金? えーっと……ああ、懸賞金の事かな?」

「名前なんてなんでも良いんですけど。私が知りたいのは幾らもらえるのかの方です」

 わくわくしながら尋ねるフィアを見て、青年は苦笑い。悩むように顎を擦り、しばらく黙りこくってしまう。

「申し訳ないけど、あの男じゃ懸賞金は出ないんだよ」

 やがて幼子を諭すようにゆっくりと語った内容は、フィアの期待を裏切るものだった。

 フィアからすれば全く予想外の回答。怒ったり苛立ったりするよりも、困惑の方が大きい。開いた口から出てきた言葉も、純粋な疑問の感情で染まっていた。

「えぇー? なんでですかぁ?」

「懸賞金は特定の犯罪者にしか掛かってないからね。具体的な基準はないけど、殺人事件などの重大犯罪で、尚且つ警察が逮捕に苦労している奴だけが対象なんだ」

 例えばあそこに貼ってある連中とか、と言って青年警察官はすっと何処かを指差す。

 示された方向を追えば、そこは何枚もの紙が貼られた交番内の壁だった。目があまり良くないフィアは席から立ち上がり、近くまで寄って紙に何が書かれているのか確かめる。

 リアルな似顔絵と、『この顔にピンと来たら110番!』と書かれた一文。強盗殺人だとか連続殺人だとかの犯罪の名称。そして下の方にデカデカと書かれた、二百万円や三百万円といった文字。

 壁に貼られていた紙はどれもがこのような形式で書かれており、これが懸賞金を掛けられた犯罪者の『リスト』なのだとフィアは理解した。同時に、大きく落胆する。犯罪者などいくらでも見付けられるし、捕まえる事も簡単だ。しかし『特定の人物』となれば話は違う。連中が自分の活動圏に居なければ、見付けられない事はフィアでも分かる。

 無論相手は所詮人間だ。時間を掛ければ捕まえられるとは思うのだが……花中の誕生日は明日。()()()()()捕まえられる普通の犯罪者で賞金がもらえないと困る。

「うぅー……なんとか普通の犯罪者から賞金をもらう事は出来ないのでしょうか」

「難しいと思うよ。今回の薬物中毒者にしても多分感謝状ぐらいじゃないかな……まぁ、元締めを捕まえたとかなら、金一封ぐらいは出るかも知れないけど」

「元締め?」

 青年警察官の言葉で気になるところがあったので、フィアはオウム返しで訊き返す。と、青年警察官はしまったと言わんばかりに顔を顰め、口を噤んでしまった。

 どうしたのだろうか? フィアは首を傾げながら、しかし考えても分からないので青年が話し出すのをじっと待つ。

 やがて青年警察官は、小さなため息を吐いた。それからそそくさと席から立ち上がり、フィアの近くに寄ってくる。

「実はここだけの話……最近、この町で違法薬物の売買が活発化しているんだよ」

 まるで内緒話をするかのようにひそひそと、青年警察官はそのような話を切り出した。

「確かにこの町でも、昔から薬物中毒者や業者は居る。とはいえ摘発数は全国的に見ても高くはなく……まぁ、要するに『普通』だったんだ。だけどどうもここ最近、中毒者が急増しているんだよ」

「急増と言いますけどどの程度なのです?」

「大体十倍だね。他の交番では検挙者がかなり出ていたけど、この辺はまだだったからすっかり油断してたよ……はぁ」

 反省文について思い出したのか、青年警察官は項垂れる。とはいえ話はまだ途中だ。彼は首を軽く振った後、お喋りの続きを始める。

「で、どうしてこうなっているのか、なんだけど……どうやら新しい元締めが、新しい商品を持って現れたらしい」

「? そんな事が原因なのですか? 犯罪者なんて毎日誰か逮捕されてるのに次のがすぐ現れているようですからそんなのはよく起こってる話に思えるのですが」

「確かに、新規の組織が現れるなんてのは良くある話だよ。でも今回の奴等は違う。あまりにも後先考えていないんだ」

「……犯罪者などみんな後先考えていないのでは?」

「程度の問題だよ。そいつらが売ってる薬物が、恐ろしく危険なんだ」

 青年警察官はそう言って、『薬物』について説明を始めた。

 ブレインハック。

 とある海外マフィアが開発したとされるその薬物は、熱狂的愛好家がいる一方、世界的にはマイナーな違法薬物である。というのも脳への作用があまりにも強く、際限なく高まる多幸感というとびきりの『快楽』の代償として、恐るべき死亡率を誇るからだ。薬物中毒者の中でも「あれを使うのは死の間際だけ」と言われ、一説には死亡率が生存率を倍以上上回っているとも言われるほど危険な代物らしい。

 この危険性は『利用者』のみならず、『販売元』にとってもデメリットでしかなかった。薬物の売人というのは、何も薬物を蔓延させて世界を滅ぼしたいのではない。薬物を売って、大金を得たいのだ。『ブレインハック』は確かに高額で売れるが、そんなのは金という名の果実を実らせる木を切り倒して材木にするようなもの。おまけにその木の果実を狙っていた『競合店』の怒りを買ってしまう。

 折角の金の成る木を切り倒した挙句、周りの怒りを買ってしまう。こんなものをやたら滅多に売りまくるのは後先考えない『馬鹿』だけだ。

「……その新参者がとびきりの馬鹿なのはよく分かりました。でしたらすぐに捕まえられるんじゃないですか? もしくは他の犯罪者の怒りを買ってとっくに殺されてるのでは?」

 薬と組織について教わり、フィアは自分の考えを伝える。調子に乗ると後で痛い目を見るのは、何も人間社会だけの話ではない。自然界でも派手に動けば天敵に見付かりやすくなり、捕まる可能性が高まる。縄張りの中で餌を食い荒らせば、同種にも目を付けられて襲われるだろう。

 話を聞く限り、その『犯罪者』は随分派手に獲物を食い散らかしているらしい。ならば警察という天敵、或いは同業者に目を付けられているのではないか? 野生動物的観点からフィアはそう思ったのだ。

 フィアの感想に、青年警察官はこくんと頷いた。肯定の意思表示。しかしその顔は、さながら思った通り『罠』に嵌まった事を喜ぶイタズラ小僧のようだった。

「確かに、普通ならその通りだ。ところが不思議な事に、連中の逮捕は叶っていない。証拠があって、何処の誰が犯人かも分かっているにも拘わらず」

「……はい?」

「ちなみに『ブレインハック』の流通量は今も増加傾向のままだから、人知れず敵対組織に襲われて壊滅している可能性もなさそうだね。そして薬物の流通経路などから、そいつが今もこの町に居る事は間違いない」

 つまりその『馬鹿』な輩は、警察や同業者から目を付けられているにも拘わらず、それでもこの町で好き勝手やっている。

 そうとしか取れない話に、フィアは軽く混乱する。花中は常々日本の警察は優秀だと言っていた。なのに未だ『馬鹿』を捕まえられていないとは、一体どういう事なのか。犯罪者達も何故その『馬鹿』を野放しにしているのか理解に苦しむ。

 花中なら彼の話から、何かが分かるのだろうか? 考える事が苦手なフィアは、意見を訊ける大親友が傍に居ない現状に少し苛立つ。

 そんなフィアの顔を自分への反感と受け取ったのか。「おっと、意地悪した訳じゃないんだ。ここからが少し興味深いところでね」と弁明を挟み、青年警察官は話を続けた。 

「なんでも何度か署の連中が逮捕しようとしたけど、その度に逃げられているらしいんだ」

「……それはつまり最近の警察はマヌケという事ですか?」

「普通はそう思うよね。まぁ、だからそいつらの事を中々マスコミに発表出来ず、公開捜査が出来ない有り様らしいけど……っと、それは置いといて。実際現場の怠慢があるんじゃないかと一時は思われていたみたいだけど、どうも違うんだよ」

 警察とて治安維持組織としてのプライドがある。何より犯罪者を野放しにしていては、日本の治安が大きく損なわれてしまう。警察は薬物の売人逮捕にどんどん人員を投入していった。

 だが、成果はまるで上がらず。

 ある時は緻密な捜査により拠点を突き止めるも、逮捕状を取っている間に逃げられてしまう。

 ある時は何十もの警察官を導入して拠点を包囲するも、まるでこちらの手を読むかのように潜り抜けられてしまう。

 ある時は潜入捜査官を送り込むも、二日と経たずに連絡が取れなくなり、三日目に変死体が発見される――――

「ここまでの話は全部噂だよ。特に最後のやつなんか、三ヶ月前に確認されたばかりの組織に危険な潜入調査をやるなんてとても思えないし……本当に、今の警察が無能なだけかも知れない。間違いないのはそういう奴……ヤバい薬物を売っている、警察すら手に負えない『犯罪者』が野放しである事だけだね」

 だからそいつを捕まえたら、流石に金一封ぐらいは出るんじゃないかなって話さ……最後にそう結んで、青年警察官は話を終える。フィアに向けるその眼差しは、感想を伺っているようだった。

 フィア的には、至極どうでも良い話だ。件の犯罪者 ― 或いは組織 ― が野放しになれば、薬物汚染はどんどん広まり、薬物による犯罪が増加してこの町の治安が悪くなっていく……そのぐらいの事はフィアにも分かる。しかしフィアは別に人間社会が混乱しても大して困らないし、治安が悪化して暴漢がそこらを徘徊するようになっても、コバエのように払い除けられるだけの力がある。心配なのは花中の身だけだが、薬物が蔓延したところで聡明な彼女が手を付けるとは思えない。悪漢の千人万人から守る事だって自分なら楽勝だ。

 少なくともフィアが考える限り、自分が困る事はない。だからそいつ等が野放しでも全く構わない。

 だが……捕まえたらお金になるとなれば話は別。フィアは今、とてもお金が欲しいのだから。

 そして『何処に居るのか分からない』輩ではなく、この町に確実に居るのであれば――――

「いやぁ、話が長くなっちゃったね。もうねー、これ誰かに話したくて話したくて仕方なかったからついやっちゃったよ。あ、これ僕が話したって事は秘密ね? 噂とはいえ警察の秘密を話したなんて先輩に知られたら、また反省文を書かされちゃうからさ」

 話したい事を終えて、余程上機嫌なのか。ぺらぺらと喋りながら青年警察官はデスクに戻り、ペンを持って、調書を取る準備をする。

「……あれ?」

 そして、彼は首を傾げた。

 何故なら彼が見た先には、ほんのついさっきまで居たフィアの姿は何処にもなかったのだから。

「あれ? え? ???」

「ふぅー……やれやれだ……ん? どうしたんだ、篠田」

 困惑して青年警察官が辺りをキョロキョロしていると、交番の奥から、薬物中毒者を連れて行った男性警察官が戻ってきた。青年は先輩の存在に気付くと、困惑しながら振り返る。

「あ、先輩。随分と早く戻ってきましたね。アイツはどうしたんですか?」

「手錠してから仮眠用のスーツで簀巻きにしといた。あと、途中で小便漏らしたから検査は問題なく出来たわ。後で消臭剤ばらまかなきゃ今日は仮眠取れねぇけどな」

「うへぇ……」

「ところで、捕まえてきてくれたあの女性はどうした?」

「あ、それがなんですけど、少し目を離した隙に居なくなってしまって……」

「何?」

 男性警察官は交番の外に出て見渡すが、そこにもフィアの姿はない。探すのをすぐに諦めた彼は、頭を掻きながら交番内に戻る。

「ふーむ、確かに何処にも居ないな……まぁ、時間を取られたり、自分のプライベートを記録されるのは嫌だって人も少なくないからな。聴取を嫌って逃げる人というのは、そんなに珍しくもない」

「はぁ、そうなのですか……えと、どうすれば良いですかね?」

「どうもしなくて良いぞ。正直に書いとけ。取り繕った噓を吐いても、後々面倒になるだけだからな。それに名前ぐらいは聞き出せただろ?」

「いや、実は名前も聞けてなくて」

「……何?」

 先程までにこやかだった先輩警察官の顔が強張る。

 先輩の機嫌を損ねた事に気付く後輩だったが、後の祭だった。

「おい。俺が容疑者を奥に連れて行って、戻ってくるまでに何分掛かったと思う?」

「え? えーっと……十分、ぐらい?」

「そうだな。じゃあ十分としよう。お前、その間何をしてた?」

「な、何をって、その、聴取」

「名前も聞き出せず、様子も書き込まなかったその紙切れが十分間の成果なのか? 仮に途中で彼女が居なくなったのなら、何故すぐ俺に報告しなかった?」

 先輩からの追求に、青年はそろそろと目を逸らす。

 最早、口を開かずとも答えているも同然だった。

「お前、今の今まで何をしていたんだ? まさか口説いたり、いらぬお喋りをしたりなんてしてないよな?」

「あ、ははは……まっさかぁ……」

「じゃあ、なんでこうなったのか答えてみろ」

「……………」

「反省文、もう一枚追加だな」

「げぶぅっ!?」

 青年の悲鳴が交番内にこだまする。

 篠田信一郎、二十六歳。

 まだまだ若者気分の抜けない彼はこの後、二枚もの反省文という難敵との戦いを強いられる。

 自分の迂闊な言動がこの町の命運を左右していた事など、思いもせずに――――




違法薬物、ダメ、絶対。
という訳で本章では薬物が全面的に出てきます。歯止めが掛からない薬物汚染にフィアはどう立ち向かうのか、動物から見た人間社会の問題点とは。斬新な切り口で現代人を見る、社会派小説です!

噓です。対抗策は毎度お馴染み暴力です。人間社会の問題? 人間がみんなフィアみたいな生き方をしたら間違いなく社会が破綻するので、彼女の意見を真に受けてはいけません(ぇー)

次回は2/18(日)投稿予定です


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Birthdays4

 少しばかり西に傾き始めた太陽の光を浴び、美しく煌めく金色の髪を揺らす。歩幅は均一で、完璧な挙動は息を飲むほどに魅惑的。浮かべる笑みは女神以外の言葉が、否、女神という最高峰の賛辞さえも物足りぬほど人の心を掻き乱す。

 絶世の美少女であるフィアは、上機嫌な鼻歌を奏でながら住宅地を歩いていた。そしてその頭の中で考えていたのは、『違法薬物』とそれを扱う『元締め』についてだ。

 最近になって台頭してきた薬物密売組織。

 欲望塗れで好き勝手しながらも、警察やライバルの攻撃を難なく切り抜けている謎の存在。人間にしては中々のやり手なのだろう……が、フィアは全く脅威を感じていない。人智を凌駕する能力と、種として誇る優秀な嗅覚、更に本能の力を以てすれば、人間など虫けら同然であると彼女は信じて疑わないのだから。

 警察が手こずる連中をこてんぱんにして颯爽と捕まえれば、成程確かに並々ならぬ成果と言える。思えばあんな『雑魚』を捕まえたぐらいでお金をもらえるなら、賞金稼ぎをする人間がたくさんいなくてはおかしいではないか。我ながらしょうもない早とちりをしてしまったものだ。お金が欲しいのなら捕まえるのは並の人間では手に負えないような奴等でなくてはなるまい。

 ……と、一匹勝手に納得したフィアは、早速その密売組織の『元締め』を捕まえようと目論んだのである。元締めが一人とは限らないので一人捕まえれば良いのか、何人も捕まえる必要があるのかは分からないが、どうせ人間だ。『全員』捕まえる事など楽勝であろう。仮に難しくてもやらねばならない。全てはお金のため、そしてそのお金で花中への誕生日プレゼントを買うためだ。

 此処に花中なり晴海なりが居れば「なんか話が大きくなり過ぎてない?」とツッコミの一つでも入れただろうが、生憎今のフィアはただ一匹。野生動物らしく身勝手な思い込みと自分の価値観だけを胸に、目的(やりたい事)のために邁進するのみである。

 さて。志を抱くのは良いが、それだけで事が上手く運ぶ訳もない。

 何しろフィアはその元締めが支配している密売組織……仮に『新密売組織』と呼ぶとしよう……については、警察官から噂話として聞いただけである。言っては難だが、彼のホラ話という可能性も否定出来ない。加えて『新密売組織』のメンバーの臭いなど知らないので、偶然町中でメンバーとすれ違っても捕まえる事など出来やしない。

 まずは情報だ。知らなければ何も始められない。

 花中と一緒に暮らす事九ヶ月。フィアは花中を通じて、情報を得る事の大切さをしっかりと学んでいた。

「あ。すみませんそこのあなたちょっと伺いたいのですが危ない薬を売ってる人間について何か知りませんか?」

 尤もその情報収集の方法は、偶々すれ違った通行人に堂々と尋ねるというものだったが。

 いきなり話し掛けられ、通行人A(大学生ぐらいの女性)は明らかな困惑を見せる。絶世の美少女を前にして一時息を飲んでいたが、質問文を理解した頃には顰め面を浮かべていた。というより嫌悪が露骨に表に出ている。

 何しろ先の質問、勘繰れば「お前薬物の売人を知っているんじゃないか?」と疑われているとも取れる内容なのだ。早い話、お前は薬物中毒者か、と問われているに等しい。

「はぁ? 知る訳ないでしょ」

 拒絶の意思をハッキリと見せながら、通行人Aはすれ違う前よりもずっと速い足取りで去ってしまった。言葉通りの意味で尋ねただけのフィアは、女性が何故あんな不機嫌そうなのかが分からず首を傾げる。

 しかしながらフィアにとって、他者の感情など些末な疑問だ。そんな事よりも、今は『新密売組織』の情報を得る方が大事である。

「すみませーんそこの方ちょっと良いですかー危ない薬を売ってる人間について知りたいのですがー」

 懲りる事なく、フィアは次に近くを通った通行人Bに声を掛け、先と全く同じ質問をする。

 善良な市民だと思われる通行人B ― 三十代ぐらいの男性 ― は、一瞬鼻の下を伸ばし、だがすぐに変な奴に話し掛けられたと言わんばかりに顔を顰めると逃げるような早歩きで通り過ぎてしまった。されどフィアは諦めない、というより何が問題か分かっていない。なので通行人Cに、通行人Dに、通行人Eに……次々とチャレンジしていく。

 『人間的』な視点で今のフィアを見れば、さぞ奇怪に映るだろう。何しろ道行く人々を手当たり次第に疑い、詰問しているように見えるのだから。頭がおかしいんじゃないかとか、なんで疑心暗鬼を募らせているんだと、人間ならば通行人達の心の声が聞こえてくるに違いない。

 そして同時に、フィアに対してこうも思う筈だ――――()()()()()()()()()……と。

「むぅ困りましたね。何故誰も教えてくれないのでしょう?」

 人々が取り合ってくれない理由が分からず、歩道のど真ん中で立ち尽くして考え込むフィア。目を瞑り、口をへの字に曲げ、首を傾げる姿は愛らしさの塊だ。

 そんなフィアを、遠くから眺める『男』が居た。

 『男』はフィアをしばしじっくりと、まるで観察するように見続けていたが……やがて静かな足取りで歩き始めた。彼が向かう先には、今も首を傾げているフィアが居る。

 そして『男』とフィアはすれ違い、

 ……特段、男は何もせずに通り過ぎようとした。

「おっとそこのあなた一つ尋ねたい事があるのですが」

 新たにやってきた『通行人』だったのでフィアはすぐさま問い掛けたが、『男』は無視して歩き去ってしまう。返答すらない反応に、フィアは口を尖らせて不満を露わにする。

 が、ふと首を傾げた。

 先程の輩……何か引っ掛かる。

「……………?」

 キョトンとし、フィアは唇に指を当てながら思案。違和感の正体を探ろうとする。

 されど考え込んでいた時間は、ほんの僅かでしかない。

 今は初めて見る人間の事を考えている場合ではない。花中の誕生日プレゼントを買うためにも、早いところ『新密売組織』を見付けねばならないのだ。

「すみませーんそこの方ちょっと待ってくださーい」

 フィアは悩んだ後も何一つ変わる事なく、通行人を見付けるやなんの躊躇もなく正々堂々と尋ねる。

 そして……

 ……………

 ………

 …

 ……あれから、ざっと一時間は経っただろうか。

 太陽は一層西へと傾き、時計を持たないフィアにも時間の経過を教えてくれた。町を歩く人の姿も疎らになり、他人とすれ違う事も少なくなる。

 ここにきて、ようやくフィアも焦りを覚え始めた。

「うむむむむ弱りましたねぇ……」

 一旦通行人への質問攻めを中断し、フィアは問題の洗い出しをする事にした。

 闇雲に探し回っても『新密売組織』を見付けるのは難しそうである。だから薬物を売ってる人間を突き止め、その人間から『新密売組織』について聞き出す……というのがフィアの当初の目論見だった。本体を探すのが無理なら痕跡から探す。獲物を探す時の基本的方法の一つだ。

 ところがどっこい、順調どころかいの一番で蹴躓いているのが現状である。

 これまでに話し掛けた通行人達の反応を思い返すに ― 尤も、直近の数人分程度しか覚えていないが ― 人間とは、薬物の売人について知らないかと訊かれる事が酷く不快らしい。知らないなら知らない、知っているのなら知っていると答えれば良いのに何故怒るのか。フィアには全く理解出来ないが、元々人間とはよく分からない生き物なので仕方ないと諦める。

 問題はここからだ。売人について知らないか、と尋ねると怒るのなら、ではなんと訊けば教えてくれるのだろうか?

 これがさっぱり分からない。

「……これじゃあ足で探す方が早そうです」

 あっさりと『人間的』な方法に見切りを付けたフィアは普段通りの、つまりは知性ではなく己の『力』に頼った方法に切り換える。

 無論、闇雲に探しても見付かりそうにないから聞き込みをしていた、という根本的原因を忘れた訳ではない。持ち前のパワーで全てを薙ぎ払いながら進むためにも、目的地が何処にあるのかぐらいは見当を付けねば徒労に終わるのは明らかだ。ヒントとまでは言わずとも、微かな『つながり』は見付けねばなるまい。

 なんらかの『つながり』を――――

「……ん?」

 考え込んでいたところ、一人の女性がフィアの傍を通った。

 年頃は四十か五十ぐらい。身長は同年代と比べればやや小さめで、痩せこけていて、顔色もあまり良くない。如何に不健康そうな人間だ。かといって目を見張るほど珍しいかと言えば、人混みで似たような容姿を探せば二~三人は見付かりそうな程度でしかない。

 要するに、普通のおばさんだ。

 そんな普通のおばさんを、フィアは後ろからじっと見つめる。顎を指先で撫でながら、何時までも見つめ続けていた。五メートル、十メートルと距離が離れても、宝石のように澄んだ偽物の碧眼を彼女から逸らさない。

 やがて普通のおばさんは、住宅地の脇道に入ってフィアの視界から消えた

「ちょっとお待ちになってください」

「ひぃっ!?」

 のとほぼ同時に、フィアは持ち前の『身体能力』を活かしておばさんの正面まで移動した。時速二百キロものスピードがあれば、十数メートルの距離など一秒も掛からず埋められる。

 突然目の前に現れたフィアを見て、おばさんは悲鳴を上げて尻餅を撞く。普通ならば驚かせてしまった事に謝罪の一つでもするだろうが、生憎フィアは普通の『人間』ではない。引き攣ったおばさんの顔など興味も持たず、自分の都合で彼女に顔を近付ける。人間的にはあまりにも奇怪なフィアの行動に、おばさんは尻餅を撞いたまま後退りした。

「あなた危ない薬をやってますよね?」

 ただしその後退は、フィアのこの一言で止まったが。

「な、なな、何を、いっ」

「やってるのかやってないのかだけ教えてくれれば良いのですが」

 フィアは淡々と質問をぶつけ、おばさんはごくりと息を飲む。おばさんの額には冷や汗が浮かび、顔色はすっかり青ざめていた。

「や、やってないわよ! 変な言いがかり付けないでちょうだい!」

 ややあって吐き出された否定の言葉もあからさまに狼狽していて、正直に話していない事はフィアですら察せられた。

 おばさんは慌ただしく立ち上がると、文字通り逃げるように走り去る。人間如きがいくら全力で走ったところで、フィアを振りきる事など不可能なのだが……フィアが追い駆けなければその限りではない。

 角を曲がった事でおばさんの姿は見えなくなり、フィアは呆れるように肩を竦める。

「……何故噓を吐くのでしょう? 私が警察官にでも見えたのでしょうか。やはりこーいう薬を使っていると頭がおかしくなっちゃうんですかねぇ」

 そしてその手に持った、()()()()()ビニール袋をしみじみと眺めた。

 フィアの手に掛かれば、人間の懐から物を盗み出すぐらい造作もない。能力によって作った『糸』を忍び込ませ、引っ張り出せば任務遂行となるのだから。この小さなビニール袋 ― 透明でチャック付きの代物だ ― はあのおばさんのズボンのポケットに入っていた。よもや偶々拾った物をポケットに入れていた、なんて事はあるまい。

 そんなビニール袋をフィアは鼻に近付け、すんすんと音を鳴らして臭いを嗅ぐ。チャック付きとはいえ、微かな隙間から臭いは漂っていた。フィアの嗅覚ならば、捉える事は難しくない。

 フィアは確信した。『あの男』から漂っていた臭いの一つと同じものだ。

 フィアは(フナ)である。種にも依るが、魚の嗅覚は犬にも匹敵、或いは凌駕するとの研究も存在するほど優れている。感覚的に敏感となれば記憶にも色濃く残る。フィアにとって、鼻は視覚以上の情報量を誇る器官なのだ。

 その嗅覚が導き出した結論が、このビニール袋の中身である『粉』が発する臭いと、自分が警察に突き出した薬物中毒者の臭いと一部合致するというもの。実際のところあの男の臭いはもっと複雑で『変な臭い』はまだまだたくさんあったが、少なくともこの『粉』と同じ物をあの男も使用していたのは確実だ。

 この粉が、警察が言っていた『ぶれなんちゃら』という薬なのかは分からない。しかし一つのヒントなのは間違いない。この粉を作っている人間、もしくは売った人間ならば、危ない薬と身近な可能性が高い。

 ならばそいつらから話を訊けば、『新密売組織』にも近付ける筈。

「ふふんやっぱり慣れない事はするもんじゃありませんね。やり方を変えたらすぐですよ」

 上機嫌な笑みを零すと、フィアは手に入れたビニール袋をポイッと捨ててしまう。ビニール袋は排水溝の蓋の隙間を通り、その奥底へと落ちてしまった。排水溝は大して深くないので蓋を外せば人間でもビニール袋を拾えるだろうが、何かも分からぬ粉を求める人間は滅多にいない。そもそも見付けられるかも怪しい。いずれ雨が降れば袋は川まで流され、破れた場所から撒き散らされた粉は大量の水によって希釈されるだろう。無造作に捨てても、他者への影響はほぼあるまい。

 別にそこまで考えていないフィアは袋の事などさっさと忘れ、軽い足取りで歩き出した。ほんの少し前まで悩んでいた事すら忘れたように、浮き足立っている。

 臭いを追った先に答えがある。そう信じて疑わないフィアに、もう『悩み』などないのだから。

 

 

 

 住宅も疎らにしかない町外れの一画に、その巨大な『施設』はあった。

 敷地内へと通じる金網のフェンスは南京錠によって封じられ、中への気楽な侵入を妨げている。とはいえフェンスの高さは三メートルあるかないか。乗り越えようと思えば、平均的な運動能力を持った男性ならば易々と成し遂げられるだろう。

 そうして大した苦難もなく辿り着いた先にあるのが、廃工場。

 かつてはなんらかの薬品や加工品を製造していたのだろうか。工場の壁面には無数のパイプが走り、天井辺りから何本もの煙突が伸びていた。放置された年月を物語るようにあらゆる物が錆び付き、腐食し、崩れかけている。窓も割れ、壁も一部が崩落していた。施設の外側だけでなく内側にも小さな草が疎らながらも生えており、段々と自然に還ろうとしているのが窺い知れるだろう。この様子だと、大きな地震があれば一瞬で倒壊するかも知れない。

 当然この施設に電気など通っておらず、明かりなんて上等なものは点かない。割れた窓から入り込む日差しだけが工場内を微かに照らすのみ。

 その日差しが届かない建物の奥深く。薄暗い場所に、十人の男達が居た。

 男達は五人ずつに分かれ、二つの集まりを作っていた。一方の集まりは三十~四十代の男性ばかりで、スーツを着た、少し顔立ちが厳つい事を除けば普通の日本人の集団。もう一方は二十~三十代ほどの男達で、南米系の顔立ちをし、格好も派手な柄が描かれた洋服姿と、まだまだ若さとやんちゃさの抜けない集団だ。どちらの集団も一人が金属製の大きなケースを一つ持ち、ケースを囲うように残りの四人が陣取っていた。まるで『何か』があってもケースだけは守り抜くかのように。

「……約束のブツは持ってきたな?」

 日本人の男の一人が質問すると、もう一人の日本人が南米風の男達に英語で先の質問をする。問われた南米風の男達の中の一人が、独特なイントネーションの言葉で自分達の集団に話し掛け、リーダー格らしき人物がこくりと頷いた。

 そして南米風の男達は自分達が持つ金属製のケースを置き、日本人の男達に中身を見せ付けるように開く。

 ケースの中身は、ぎっしりと白い粉が詰まったビニール袋。

 日本人の男達は中身をしっかりと見届けると、今度は自分達が持っていたケースを開けた。こちらの中身はぎっしりと詰められた札束。それも百ドル紙幣であり、大まかに換算してざっと五百万ドル……五億円相当の現金だ。

 南米風の男達はニタリと笑い、粉の詰まったケースを閉じると一人の男に粉入りケースを運ばせる。日本人達も一人が現金入りのケースを持って移動を始めた。ケースを持った二人は同時に自分が持つケースを前に出し、相手のケースを掴んでから自分のケースを手放す。

 これにて彼等はケースの交換を終えた。十人の男達は満足げに笑い、各々が踵を返して

「すみませーんちょっとお話を伺いたいのですがー」

 工場内に能天気な少女の声がするのと同時に、全員が声の方へと振り向いた。

 彼等が振り向いた先に立っていたのは、金髪碧眼の美少女ことフィアだった。

「随分と暗いですねぇどっかに明かりのスイッチとかありませんかー?」

 足下にある廃材や鉄パイプをガンガンと蹴飛ばしながら、フィアは男達の方へと歩を進める。

 フィアの姿を目の当たりにし、男達はしばし動かずにいたが……やがて南米風の男達の一人が行動を起こした。

 彼はなんの躊躇いもなくズボンのポケットに手を入れ、そこにしまっていた黒いモノ――――拳銃を取り出したのだ。銃器に詳しいものならばその銃が『ベレッタ』と呼ばれる、世界でも広く流通した、しかし日本では滅多に見られない一品であると気付いただろう。

 日本人の男達は南米風の男の行動に一瞬目を見開き、彼等もまたスーツの懐に手を入れたが、警戒心を解くのにさして時間は掛からなかった。

 南米風の男の取り出した銃の先が示すのは、突然の侵入者であるフィアだったからである。

「……んぁ?」

 男達が何か行動を起こしている事を察知し、フィアは今更ながら彼等をちゃんと見ようとした、が、最早手遅れ。

 パンッ、パンッ。

 軽快な破裂音が二つ鳴るのと同時に、南米風の男が構えた銃口から鉛玉が放たれる。直径九ミリ程度の大きさながら、秒速三百メートル以上の速さで飛ぶ事で大きな運動エネルギーを有する金属の塊。小さいからと侮るなかれ、スペック上有効射程は五十メートル、つまり五十メートル離れた人間を殺せる力がある。十数メートル先の『少女』相手ならば、弾丸は十分な殺傷能力を保っている筈だ。おまけに此度の弾丸は正確に頭部を捉えており、狂いなくその命を刈り取るだろう。

 殺人への嫌悪が欠片もない、どす黒い一撃。目撃者を許さない狂気的な思想が一人の少女の命を奪おうとした。

 尤もフィアは人間でなく。

 カキン、と金属音 ― ひしゃげた弾丸が勝手に立てた音だが ― が鳴るだけで、フィアがダメージを受ける筈もなかった。

「……!?」

「おや? 今何かしましたか? 何かが当たったような気がしたのですが」

 銃弾が奇妙な音を鳴らしただけでなく、当たった筈の少女がぴんぴんしている。

 『あり得ない』事態を前にして、人間達は身を強張らせた。もし彼等が野生の獣だったなら、この時点で危機感を覚え、逃げ出しただろう。

 しかし人間は知性を発達させ、『常識』を手に入れてしまった。自分達の発展と力が、揺るぎないものだと信じている。どこぞの島に現れた大怪獣ならいざ知らず、生身の『人間』に銃弾が弾かれるなど()()()()()()()()

 彼等の脳が下した判断は「弾が外れて壁にでも当たった」であった。

「ちっ、下手くそが」

 日本人の男達もまたスーツの懐に忍ばせていた銃を取り出し、フィアに向けて発砲する。しかし何発撃とうと弾かれるような金属音がするだけで、フィアは倒れない。最初は一人二人だった射手は続々と増え、銃弾の雨を作り上げた。

 対するフィアは、ようやく自分が撃たれている事を『理解』した。無論彼等が自分に何かをぶつけてきている事は感知しているのだが……暗くてよく見えない上にあまりにも弱過ぎて、その正体が全く分からなかったのである。銃だと理解出来たのも探知用に展開した水の『糸』で直接男達、そして彼等が握っている銃を触ったからでしかない。

 男達の『攻撃』は、その程度の関心しかフィアから引き出せなかった。加えて今回、この男達をボコボコにする訳にはいかない理由がフィアにはある。

 この男達から、少し前に遭遇したおばさんから『拝借』した薬と同じ臭いがするのだ。彼等は知っている可能性がある。

 そう、『ぶれなんちゃら』を売っている奴等について。

「別に撃ちたいなら撃ってて良いですけど話は聞かせてもらいますからねー」

 軽い発砲音にすら紛れてしまう能天気な前置きをしてから、フィアは男達の方へとずんずん歩み寄った。

 男達は今や半狂乱になっていた。最初は様子見していたメンバーも参加し、十人全員が銃撃戦を仕掛けている。いくら一発一発は小さな発砲音とはいえ、パンパンパンパンパンパン、立て続けに鳴り続ければ喧しい。家が疎らで通り掛かる人も稀な地区とはいえ、こうも騒げば銃声を聞かれるのは時間の問題だ。いずれ警察も乗り込んでくるだろう。

 しかし男達からすれば、銃弾を何発受けても怯みもしない『化け物』の方が警察の何百倍も恐ろしい。

 そして暗い所為で彼等の引き攣った顔が見えないフィアは、見えたところであまり変わらぬ暢気な口振りで話し掛ける。

「あのですねーちょっと訊きたいのですけど」

「う、うわああああああっ!? な、なんだコイツ!?」

「そのケースの中にあるのって危ない薬ですよね?」

「じ、銃が効かねぇ!? ばば、化け物だ!」

「薬を売ってるって事はあなた達は密売組織ですよね?」

「まさか、や、奴等が来たのか!? なんで俺達なんかを!?」

「実は私訳あってとある密売組織の元締めを捕まえたいのですが」

「もう駄目だ! 逃げ」

「あ。逃げちゃ駄目ですよ」

 逃げようとする男の声を聞き逃さなかったフィアは、走り出した『影』目掛けて腕を伸ばす。文字通り、五メートルほどぐにょーんと。

 フィアからすれば作り物の『身体』をちょいっと弄っただけだが、人間視点では最早化け物というより妖怪変化の類。漫画なら今頃目玉が飛び出していそうなほどに目を見開き、国や人種の違いを乗り越えて男達は全員同じ顔になる。

 尤も、驚きのあまり思考停止をしていられた時間は一秒もない。何しろ面倒臭がりで大雑把なフィアは、伸ばした腕で逃走者だけでなく、他の男達もついでに薙ぎ払ったのだから。

「うげっ」

「ギッ!?」

「グブッ」

 年齢も国籍も関係なく、男達の口からは大体同じ悲鳴が上がる。まるで子供が蹴飛ばした小石のように吹き飛ばされた彼等は積まれていた廃材の山に突っ込み、呻きを上げるだけで動かなくなった。

 フィアは逃げなくなった人間達を見て、満足げに鼻息一つ。ゆったりとした歩みで男達に近付くと、一人の男の襟首を掴み、引っ張り上げた。この男を選んだ事に理由はない。強いて言えば、偶々一番近くで倒れていたからである。

 フィアにとって幸いな事に、彼は日本人。彼がフィアに向ける言葉は日本語だった。

「ひっ……な、なんなんだお前……俺達をどうする気だ?!」

「別にどうもしませんけど。というかこちらは最初から訊きたい事があると言っているではないですか。それに答えてくれれば十分です」

「き、訊きたい事……?」

 強面を子供のように怯えさせながら、男は訊き返してくる。フィアはこくんと頷き、凡そ何時も通りの笑みを浮かべた。

「そうです。あなた達『ぶれなんちゃら』について知りませんか?」

「ぶ、ぶれ……?」

「あの粉がそうなんじゃないですか? 危ない薬なんですよねアレ」

「た、確かにあれは薬物だが……」

「おおまさかの一発ビンゴでしたか。じゃあとりあえず全員ボコボコにしてから警察に」

「ひぃっ!? ま、待ってくれ!? 確かにアレは違法なもんだが、お前の言うぶれなんとかじゃない! ただの覚醒剤だ!」

 男の弁明に、フィアは眉を顰める。覚醒剤という時点で『ただの』なんて言えた代物ではないのだが、フィアとしては『ぶれなんちゃら(既に名前を殆ど忘れている)』を売っている奴等に用があり、覚醒剤なんかどうでも良い代物。男の答えを欠片も疑わず、目当てのモノと違うと分かってガッカリした。

 しかしフィアとて、いきなり『本命』にぶち当たるなんて幸運はさして期待していない。気を取り直し、改めて最初の質問の答えを求める事にした。

「そうですか。では『ぶれなんちゃら』とかいう薬について何か知りませんか? 具体的には売ってる奴等について知りたいのですが」

「い、いや、何かと言われても……そもそもなんだよ、そのぶれなんとかって」

「名前は忘れました。確かそんな名前だったと思うのですが」

「な、なんてあやふやな……」

「まぁそんな訳ですのでなんでも良いから教えなさい。教えないと酷い目に遭わせますよ?」

「そんなっ!?」

 既に酷い目に遭っている男は理不尽な質問を前に絶望しきった表情を浮かべ、縮こまってしまう。今や違法薬物の売人としての風格など何処にもなく、まるで本物のヤクザに出会った半端者のチンピラのようにビクビクとしていた。

 されど彼の態度などフィアの心には響かない。男が情報を教えてくれるまでぽけーっと待つつもりだ。

「な、なぁ、その……お前が探しているのって、『ブレインハック』の事か?」

 男の仲間がおどおどしながらも尋ねなければ、フィアは本当に何時までも目の前の男を掴んでいただろう。

 何かを知っていそうな者が名乗り出たため、フィアは捕まえていた男をポイ捨てする。数メートル先にある廃材の山に頭から突っ込んだ男は、そのまま動かなくなった。ピクピクと痙攣しながら呻いているので、死んではいないだろうが。

 物理的に捨てた男など見向きもしてないフィアは、自分がした事に気付かぬまま何かを知っていそうな男に顔を近付ける。目の前で起こった惨劇に男は思いっきり慄いたが、フィアはお構いなしに問い掛けた。

「ぶれいんはっく? おおっ確かそんな名前だった気がしますね。あなた詳しいのですか? 私それを売っている奴等に用があるので教えてほしいのですが」

「く、詳しいというか、その、お、俺達にとっては目障りなヤクだからよ……売ってる奴等は雑な仕事をしているようだから、そのうち警察に捕まると思っていたんだが、捕まるどころかますます調子付いているみたいで……だから何時か、その売人共を()()()()()やろうと思って調べていたんだ」

「ほほうそうだったのですか。具体的にどんな事が分かったのです?」

「……分かったと言えば分かったんだが……」

 フィアが尋ねると、男は躊躇い気味の口振りでこう話した。

 曰く、『奴等』は八人ほどの小さな組織である。

 メンバーの顔と名前は割れている。『奴等』の仕事はハッキリ言ってど素人のそれで、さして緻密な調査をせずとも簡単に情報を集められたからだ。それは自分達だけでなく警察や、他の売人達にとっても同じだったようで、様々な連中が『奴等』を壊滅させようと手を打っていた。

 ところが『奴等』はその全てを躱した。

 警察が拠点を見付けても、逮捕状を取る頃にはとんずらしている……これぐらいなら、この界隈では珍しくもない出来事だ。しかし法に則った正規の手続きなど取らない、巨大密売組織が送り出した『戦闘員』の襲撃さえも、『奴等』は尽く回避していた。襲撃とて金なしでは始められない。無駄な資金を使わされた組織には隙が生じ、『奴等』はその隙間を縫うようにして勢力を拡大。今ではこの街で最も有力な密売組織となっていた。

 ……というのが裏世界の中でも『浅い』位置の情報。これだけなら奇妙な連中が参入してきたというだけの話である。しかし男は更に詳しく調べた。『奴等』の所為で仕事が減り暇になっていた事で、調査はじっくりと念入りに行えた。

 そして調べた結果、奇妙さは恐怖へと変わった。

 『奴等』は確かに度々巨大組織の襲撃を受けていた。だが浅瀬で言われているように躱したのではない……()()()()にしたのだ。

 違法な薬物売買を行う、危険な巨大密売組織の襲撃である。戦闘員の武器は金属バットなんてチンケなものではない。海外から密輸した銃器であり、人間なんて簡単に殺せる代物だ。おまけにその戦闘員達の大半は薬物中毒者……薬のためなら喜んで人を殺す頭のイカれた連中である。味方の死すら厭わない、最悪の兵士。それが何十と送り込まれたのだ。敵も味方も関係ない殺戮が繰り広げられる筈だった。

 だが、蓋を開ければ死んでいたのは巨大組織の兵士のみ。

 おまけに死を恐れぬ筈の彼等は、その大半が恐怖で顔を歪めていた。何が起きたか、それを語る者は誰一人として残っていない。お陰で最初はうっかり仲間割れでも起こしたのかと巨大密売組織の幹部達は思い、今度は正規の、薬物中毒者と比べれば幾分まともな奴等を送り込んだ。しかし結果は変わらなかった。

 『奴等』は逃げきれる警察とは戦わない。だが襲い掛かってくるライバルは殺してでも黙らせる……そうだと分かる頃には、巨大密売組織はその力を衰えさせていた。今ではすっかり『奴等』との争いを避けるようになり、町から撤退する組織も一つ二つではない。『奴等』は恐怖の対象となり、最早誰にも止められなくなっていた。

 やがて『奴等』は密かにこう呼ばれるようになり、『奴等』自身もこう名乗るようになった。

 『クリーチャーズ』と。

「だっさい名前ですねぇ。もっと可愛いものにした方が良いと思うのですが」

 散々恐ろしげに語った売人の言葉を、フィアはさっぱりと切り捨てた。フィア的には可愛いものが好みなので。

「た、確かに可愛くはないけどよ……でも化け物としか言えねぇんだよ。『クリーチャーズ』の構成員は、末端の売人を除けば十人もいねぇと聞く。対して送り込まれた刺客の数はその何倍もの数。普通の人間なら二対一になった時点でまず一方的にやられるのに、一人も殺されずに返り討ちだぜ? 人間業じゃねぇ」

「ふーむ確かにそうかも知れません。まぁ人間数十人を殺すぐらい私なら造作もないですけどね」

「……なぁ。アンタは、その、『クリーチャーズ』の一員じゃない、のか?」

「? 違いますけど?」

 何故そのような事を訊くのです?

 『クリーチャーズ』なるダサい組織に加わった覚えのないフィアは首を傾げ、男に真意を尋ねた。

「だ、だってアンタ、銃も効かなくて……その、本当に『化け物』だと思ったから……」

 すると男はおどおどしながらそう答えたので、フィアは成程確かにそうも思うかと納得する。

 そしてふと考えが脳裏を過ぎった。

 言われてみれば、ただの人間が何倍もの戦力差をひっくり返すというのは奇妙な話に感じる。フィア(自分)とて、もし同じ能力を持った『同種』が敵として現れたなら苦戦を強いられるだろう。二対一ならまず勝てない。何故なら同種というのは、基本的には自分と同じぐらい強い筈なのだから。

 その戦力差をひっくり返したとなれば、同種(ニンゲン)から化け物呼ばわりされるのも仕方あるまい。

 或いは本当に『化け物』なのかも――――

「……面倒ですねぇ」

 出来る事なら楽にその組織の元締めを捕まえたかったフィアは、本音をハッキリと言葉にする。されどだからやっぱり止めよう、という訳にもいかない。花中の誕生日プレゼントを買うためにも、そいつらを警察に突き出さねばならないのだ。

「まぁ良いでしょう。実際戦ってみたら拍子抜けするほど弱いかも知れませんし……ところでそいつらが今何処に居るか分かっているのですか?」

「い、いや、そこまでは……」

「ならそいつらの持ち物とかありませんか?」

「持ち物って言われても……お前、何か持ってないか?」

 ひそひそと、売人の男は隣で震えていた仲間に尋ねる。震えていた仲間は他の仲間に、他の仲間は通訳を通して南米風の男達に……質問の輪はどんどん広がる。

 フィアに酷い目に遭わされたので、機嫌を損ねたくない一心からの行動なのは男達の焦りの浮かんだ顔を見れば明らかなのだが、フィアからすればこれは好都合。何もないならそれで良し、何か出るならもっと良しと考えながら、男達の事を黙って見守る。

「……×××××××××」

 やがて、南米風の男の一人が何か喋った。

 喋ったが、生憎フィアは日本語以外の言葉が分からない。首を傾げていると別の南米風の男が通訳をしていた日本人に話し、日本人通訳が日本語でフィアに説明する。

「……どうやらコイツ、『ブレインハック』を持っているらしい」

「むむ? つまりコイツはその『クリーチャーズ』とかいう連中の一人だという事ですか?」

「いや、売人から買っただけらしい。母国に持ち帰って、混ぜ物をして何十倍に水増しして売るつもりだったようだ。この世界じゃ珍しい話じゃないな。売った連中が『クリーチャーズ』の一員なのか、或いは仲介役かは分からん……が、今の日本であのヤクを売ってるのは連中ぐらいだ」

 『クリーチャーズ』の成功を聞いて真似したアホという可能性もゼロじゃないが、と最後に付け加え、日本人側の通訳は肩を竦めた。

 通訳が話を終えると、件の南米風の男はズボンの中から小さなビニール袋を取り出した。袋の中には粉が入っており、恐らくはそれが『ブレインハック』だと思われる。薬物についての知識など全くないフィアには、小麦粉入りの袋にしか見えなかったが。

 南米風の男は卑屈な笑みを浮かべ、『ブレインハック』入りの袋をフィアに渡してきた。貴重な薬物を献上してご機嫌取りをしたいのか……などとは欠片も思わず、フィアは渡されるがまま袋を受け取る。

 そしてなんの躊躇もなく、その袋を破いて穴を開けた。

「お、おま!?」

「何をする気だ!?」

 男達は一斉に騒めき立った。違法薬物入りの袋を開け、中身を取り出したなら、『使用』が脳裏を過ぎりもする。『ブレインハック』は極めて強力な幻覚作用を伴う薬であり、使えば錯乱する危険性のあるモノだ。

 銃弾すら効かぬフィアが錯乱すればどうなるか、不安になるのは至極当然。しかしながらフィアもこんな危ない薬を使うつもりなどない。

「くんくん。くんくん」

 やるのは、臭いを嗅ぐ事。

 フィアの『奇怪』な行動に、男達は呆気に取られて固まる。そんな彼等の事などお構いなしなフィアは、さながらワインのテイスティングでもするかのように臭いを深く味わう。

 覚えがある臭いだった。

 警察に突き出した、あの薬物中毒者が纏っていた臭いの中に似たようなものがあったのを覚えている。やや『風味』が異なるものの、作った時期が違うとか混ぜ物の有無で成分に差異があるのだろう。あの薬物中毒者がこれと同じ種類の薬を使っていたのはほぼ間違いない。

 なら、この臭いを追えば『クリーチャーズ』に辿り着ける筈だ。

「……ふふん。ようやく見付けましたよ」

 フィアは袋を無造作に投げ捨てる。当然穴の開いた袋は、工場の床に落ちるのと同時に中身である薬をぶちまけた。南米風の男が慌てた様子でこぼれた薬に駆け寄ったが、フィアはもうそんな薬に興味などない。もっと言えば男達にも用はない。

 別れの挨拶一つなく、踵を返したフィアは男達に無防備な背を向け、工場の出口目指して歩き出す。

 今ならその背中に銃弾を当てる事は難しくない。

 しかし誰一人として銃を構えようともせず、ただ静かに見送り……フィアはのんびりとした足取りで、廃工場の外へと出て行った。

 残された満身創痍な男達は、無言のまま仲間と顔を見合わせる。廃工場内に満ちる沈黙は、長くは続かない。全員が一斉に安堵のため息を吐いたからだ。

「……一体なんだったんだ、アイツは」

「人間じゃない事は間違いないが……つーか、あーいう化け物と遭遇したら普通はこう……全滅するもんじゃねぇか?」

「止してくれ。そういう事を言ったら現実になりそうだろ」

 ぐだぐだと、それこそそこらのチンピラのように仲間で集まって駄弁る男達。日本人達だけでなく、南米風の男達も同じく仲間同士で塊を作る。

 恐るべき、それこそ自分達を殺す事など造作もないだろう存在が、ちょっと『お話』しただけで帰ってくれたのだ。気が緩み、だらけてしまうのも仕方ない事である。

「すみませーん一つ忘れていましたー」

 故に帰った筈のフィアがまた戻ってくれば、先程以上に彼等の顔は引き攣ってしまうのだ。フィアは最初と同じように人間達の反応など気にも留めず、僅かながら後退りしている男達にずんずんと近付く。

「よくよく考えたらあなた達も薬の売人ですよね?」

 それから脈絡もなく、そんな質問を彼等にぶつけた。

 フィアの言葉が分かり、正しく薬の売人である日本人の男達は、こくりと全員一斉に頷く。

「あ、ああ。まぁ、そうだな」

「つまりあなた達の売った薬によって頭がおかしくなった人間がそれなりの数いるんですよね?」

「そ、そうなるな」

「私は別に人間が死んだり狂ったりしてもどーでも良いのですが私の友達である花中さんはそういう人達を見たら悲しむと思うのですよ。人が死んだり苦しむのは嫌だって聞いた覚えがありますし」

「……え?」

「でもって私は花中さんの悲しむ顔はあまり好きじゃありません。にこにこ笑顔が一番可愛いのです」

「え? え?」

 なんだろう、話の流れが悪い方に向いている気がする。彼等の顔色がそんな胸の内を明かしていたが、生憎フィアには伝わらない。

「花中さんの笑顔のため二度と薬を売ろうと思わないようあなた達は全員とりあえずボコボコにしておきますね♪」

 天使のような微笑みを浮かべながら、フィアは握り締めた拳を男達に見せる。

 男達は ― 日本語が分からない南米風の男達すらも ― その握り拳を目の当たりにすると、何もかも察したように朗らかな笑みを浮かべ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十五分後。市民からの通報を受け廃工場にやってきた警察官が見たのは、顔面が風船のように膨れるまで殴られた、気を失った男達の不様な姿だけであった。




因果応報(ただし気紛れにより見逃される事あり)

さて、という訳で今回の敵は麻薬組織の元締め。
普通であればフィアにとって敵ではありませんが、さて……

次回は2/25(日)投稿予定です


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Birthdays5

 正直なところフィアは、この町についてはそこそこ詳しいつもりでいた。

 ミュータント化によって花中と共有している知識の中には『地図』もあるので、花中が通っている学校や大桐家自宅の場所、本屋や映画館、商店街などの花中が知っている場所は大体把握している。それ以外にも自分が出向いたところは勿論覚えているので、散歩で寄り道した場所や虫がたくさん捕れる場所、自分が暮らしていた山などについても分かっている。もしかするとインドア派で臆病故あまり寄り道を好まない花中より、自分の方がこの町に詳しいのではと思えるほどだ。

 無論通った道全てを覚えているほどの記憶力はない。そもそも寄り道し放題な散歩コースも、花中の家を中心にしたごく狭い範囲の話だ。その範囲を出たのは、精々海に行った時と海を渡った時ぐらいなもの。つまるところ活動面積そのものは非常に狭く、知り得る『情報量』は極めて少ない。

 だからこの町で知らない場所があっても不思議なんてないし、フィアもこの町で知らない事などないとはこれっぽっちも思っていなかったが……

「流石にこんな身近にあったとは思いもしませんでしたねぇ」

 感嘆ともぼやきとも取れる言葉を独りごちりながら、フィアは目の前にある建物を眺めた。

 その建物は、極々普通のビルだった。

 少なくともフィアの目にはそう映った。ほんの少しだけ赤味を増してきた陽光に照らされるビルは、高さと窓の数から推察するに五階建てぐらいだろうか。所謂雑居ビルで、備え付けられた看板には○○カンパニーだとかエステ××だとか、統一感のないラインナップが書かれている。隣に並ぶ他のビル達と比べて特筆すべき点もなく、紛れて、という訳ではないだろうが、あまり目立たない建物だった。

 このビルが花中の家からほんの二~三キロ離れたところの大通りに建っていた事など、フィアは今の今まで知りもしなかった。否、知ったところで即効で忘れたに違いない。こんな建物、普段なら立ち入る理由などないのだから。

 そう、普段であれば。

 駅前ほどではないが人の行き交う歩道の真ん中に立ち、ビルを見上げながらすんすんとフィアは鼻を鳴らす。

 人間程度の嗅覚では、特段違和感を覚えはしないだろう。だがフィアの優れた嗅覚ならば、目の前のビルから漂う甘ったるくて反吐が出るような悪臭をしかと捉えられる。無論その悪臭が危険なドラッグ……数十分前に出会った売人の男の一人が持っていた、本物の『ブレインハック』と同様のものである事も突き止めていた。

 ならば此処こそが、警察でも手に負えない密売組織『クリーチャーズ』の拠点に違いない。

「……随分と遠回りをしてしまいましたねぇ」

 ため息混じりの愚痴をこぼすと、フィアは肩を竦めた。フィアが『ブレインハック』の使用者である薬物中毒者を捕まえたのは、このビルからほんの数キロ離れた程度の駅前。自慢の嗅覚ならば十分探知可能な範囲だった。

 最初から薬物中毒者の臭いを素直に辿っていれば、こんなビルなど簡単に見付けられただろうか? あの薬物中毒者の男は様々なドラッグを使っていたらしく、その身に纏う臭いは一種二種ではなかったので容易くはなかっただろう。されど物事をシンプルに考えるタイプであるフィアは、目的地までの距離が歩いて一時間掛からなかったという『事実』を重視する。

 『回り道』をする事になったのは自分の判断ミスが原因だ。だからアイツの所為だと誰かを恨むなんて()()()()()考え方はしない。しないが、イライラは十分に積もっている。

 ぶっちゃけ何かに八つ当たりしたい。

「丁度良いですね。捕まえようとすれば抵抗するでしょうからその時何発か殴っても正当防衛で花中さんに怒られる事もないでしょう」

 花中への雑な言い訳を一つだけ考えれば、最早フィアに怖いものなどない。意気揚々とした足取りで、フィアはビル内へと突入した。

 ビルの中は……ざっと見た限り普通だった。

 入り口のすぐ傍には受付をしているのか、一人の中年男性が気怠そうに座っている。彼はフィアの存在に気付くと、一瞬鼻の下を伸ばし、それから逃げるように目を逸らした。人間ならば彼がフィアの美貌に見惚れ、それを誤魔化した事を察するだろう。フィアも魚であるが、自分の今の『容姿』が人間受けする事は自覚している。彼の反応の意味を理解したフィアは、自分の容姿を褒められたと思って上機嫌に鼻を鳴らした。

 同時に、周囲の空気を吸って臭いを確認。

 外と比べて『ブレインハック』の匂いは格段に強くなった。単に距離を縮めただけではここまで臭いは強くならない。発生源が近くにあり、淀み、溜まっている状況……この建物内に『ブレインハック』が多量に積まれているのは間違いない。とはいえすぐ近くにはないようだ。少なくとも受付の男はドラッグを持っていないだろう。薬について何か知っているかも、とも思うフィアであったが、既に『ブレインハック』の在処は突き止めた。今更尋問など面倒以外の何物でもない。

 自分が命拾いしていた事など知る由もない男の前を横切り、フィアはビルの奥へ、そこにある階段から上を目指す。小さな電灯があるだけの薄暗い階段は、目が良くないフィアにとっては足下も満足に見えない環境。しかし嗅覚ほどではないにしろ優秀な触覚と聴覚を誇るフィアにとって、視覚の不足など大したハンデではない。なんの迷いもなく、普通の人間と同じ歩みで階段を上っていく。

 フィアが歩みを止めたのは、四階部分の踊り場に来てから。

 臭いの来る方角が、上から横向きに変わったためだ。臭いを素直に辿ってきたフィアは踊り場から四階廊下へと出る。廊下をしばらく真っ直ぐ進み、今度はとある扉の前で立ち止まった。

「ふむ。此処からですね」

 そしてこの扉の奥に、『ブレインハック』があると断定する。

 一見してただの事務所の入り口にしか見えないだとか、違法薬物売買の拠点がこんな町中にあるなんてとか、そのような常識的反論は浮かびもしない。自分の鼻は『此処』がそうだと言っているのだ。一体何を疑う必要があるのか。

 この先に『ブレインハック』、ひいてはその売り手である『クリーチャーズ』……警察でも手を焼いている犯罪者達が潜んでいるに違いない。

 彼等を捕まえて警察に突き出せば、きっと懸賞金をもらえる筈だ。一体幾らもらえるのだろう? 警察署の壁に貼り付けられていた紙には百万とか三百万とか書かれていた気がする。花中がスーパーで買い物をする時は大体五千円ぐらい持っていたので何時もの買い物の何百倍も色んなものが買えるのか……

 獲らぬタヌキの皮算用をするフィアの口から、むふふふふと可愛らしい笑いが漏れ出た。ウキウキワクワク状態のフィアは、ドアノブを握るや辛抱堪らんとばかりにすぐさま回した

 のと同時に、カチリと音が鳴る。

「ん?」

 フィアの卓越した聴力はその音を聞き逃さない、が、その後一秒と経たずに閃光が放たれた時フィアはドアの前から動いていなかった。

 そして目の前にある扉にヒビが入り――――

 次の瞬間、扉の奥から『光』が放たれた。

 光はビル内部だけでなくビルの外にも放たれ、多くの人が行き交う道路を眩く照らした。尤も、そんなのはほんの一瞬の出来事。瞬きする間もなく光は消え、直後鼓膜を破りそうなほどの轟音を伴ってビルから炎が噴き出した。

 炎の勢いは凄まじく、最も脆弱な窓をぶち破るだけでは足りず、周りのサッシ、サッシの周りのコンクリートをも砕く。放たれた衝撃波の威力もかなりのもので、ビル近くの通行人を何人も転ばせた。降り注ぐガラス片やコンクリートの塊は動けない通行人達に容赦なく降り注ぎ、残忍に傷付けていく。

 多くの人々が、何が起きたか分からなかっただろう。惨劇が止み、のろのろと立ち上がった人々の大半は、血で汚れたその顔をキョトンとさせていたのだから。しかし段々と現実を理解していき、やがて恐怖が浮かんでくる。

「い……いやあぁぁぁぁ!?」

 やがて誰かの上げた叫びが、きっかけとなった。

 悲鳴により、自身の身に起きた事が『不幸』だと気付いた人々は一瞬でパニックに陥った。怪我した人に気付き人混みを掻き分けて向かう人、スマホ越しに助けを求める人、他者を押し退け自分だけでも逃げようとする人……理性で隠していた本性が露わになり、辺りは喧噪に満たされる。

 これでも外はまだマシだ。爆発が起きたビルの中では、外以上の惨劇が起きていた。爆発地点の直上直下真横の部屋は、部分的にだが天井や床、壁が吹き飛び、少なくない人間が致命的な大怪我を負った。それ以外の場所でも爆発によって生じた揺れで巨大なロッカーが倒れるなどして、何人もの人間が悲惨な事態に見舞われている。外の人間は悲鳴を上げ、逃げ惑えるだけまだまだ元気と言えよう。ビル内の人間は、悲鳴すら上げられない者が数えきれないほどいるのだから。

 壁越しでもこの被害状況なのだ。爆発した部屋のドアの前に立っていた人間が無事でいられる訳がない。

 訳がないが、今回ドアの前に居たのは『魚』である。

「……煤塗れになってしまいましたか」

 全身煤で真っ黒になりつつも、全くの無傷であるフィアは暢気にぼやいた。妙な音がしてから爆発まで一秒未満……随分()()()()していたので避けようと思えば避けられたが面倒だったのでそのまま突っ立っていたのは失敗だったかと、身体に付いた煤を払いながら反省する。

 ドアは消え失せた。唯一残った掌のドアノブを握り潰すと、フィアは爆発した部屋の中へと押し入る。中は未だ煙が充満しており、殆ど前が見えない。パチパチと弾けるような音もしているので、火の手が上がっているのだろう。時間を置いても煙は晴れそうにないので、フィアは『身体』から何本かの『糸』を伸ばし、直に触って内部を調べようとする。

 が、すぐに取り止めた。

 ――――気配がする。

 扉さえも吹き飛ばすほどの大爆発に晒された室内に、なんらかの気配が。

「……この爆発を耐え凌ぐとはただの人間ではありませんね?」

 フィアは部屋の奥に向けて呼び掛けてみる。

 フィアの目にはよく見えなかったが、煙の奥底で黒い影がふわりと動いた。

「いいや、ただの人間さ。ちょっとばかし運が良いだけの」

 そして影は、フィアの呼び掛けに飄々と答える。

 声は若い男のようだった。煙の中から漂ってくる人間の体臭もそれを裏付ける。煙は相変わらず濃いままで、その姿を窺い知る事は出来ないが……しかしフィアにはどうでも良い事。

 『ブレインハック』の臭いが充満するこの場所にいるのだ。無関係な輩である筈がない。アイツこそが薬物の『元締め』だ。

 なんの疑問もなくそう思い込んだフィアにとって、目の前の人間がどんな相手かなど興味すらない。さくっと捕まえて、警察に突き出してお金がもらえればなんだって良いのだから。

 むしろフィアが気にしたのは、『雰囲気』の方だ。

 人間社会で暮らし始めてから約九ヶ月。今まで色んな人間を見てきたが、どの人間にも『力』など感じられなかった。実際ただの人間などフィアからすれば有象無象であり、針すら持たない羽虫と大差ないほど無力なのだから正しい感覚であろう。

 されどこの人間からは何かしらの『力』を感じるのだ。具体的にどんな力かは分からないが、()()()()()な予感がした。

 それに、発している臭いへの違和感。

 人間の臭いだけじゃない。別のものが混ざっている。花中の家でもよく嗅いだ臭いだ。これは……

 色々な考えが過ぎったものの、フィアはそれらを全て頭の隅へと乱雑に追いやった。確かに普通の人間とは何かが違うようだが、その違いはほんの僅かな、産毛が生えてるかどうか程度だ。『力』を感じるとはいったが、あくまでただの人間と比べればの話である。そこらの人間が脆弱なショウジョウバエだとしたら、目の前の人間は精々コガネムシぐらいだ。大怪獣であるフィア(じぶん)からすれば差などない。

 取っ捕まえる事に、なんら問題はなかった。

「その命運もここまでですねぇ。大人しく捕まれば一発二発殴るだけで勘弁してあげますよ!」

 フィアは自分勝手な要求を突き付けながら、人間ではとても反応出来ない速度で駆けた

 直後、その身体がガクンと傾く。

 理由は簡単。フィアの足下の床が、音を立てて崩れたのだから。

「ぬむ? おおっと」

 人間ならば死すらあり得る危機だが、しかしフィアは全く慌てず、反射的に腕を伸ばして残った床に手を掛ける。落ちてくる瓦礫など、直撃を受けたところでダメージにはならない。崩落した床は脆くなっていたが、掛けた『手』から水を浸透させて補強した。フィアにとってこの程度のトラブルは脅威になり得ない。悠々と片手で自重を持ち上げ、部屋に戻った。

 尤も、先程まであった気配はとうに失せていたが。床に開いた穴から新鮮な空気が流れ込んで僅かながら視界は晴れたが、やはり『人間』の姿は何処にも見られない。どうやら穴に落ちた隙を突かれて逃げられてしまったようだ。

「本当に運だけは良いみたいですねぇ……ん?」

 自身の失態への苛立ちから悪態を吐くフィアだったが、ふと目の前にある物に関心を寄せた。

 それは部屋の中央に、金属製の本棚や机が集まっている姿だった。

 歩み寄って観察してみたところ、それらはただ闇雲に積まれている訳ではなく、まるで絡み合うように互いを支え合っている状態である事が分かった。でなければ、中央に人一人入れそうな隙間など維持出来まい。その隙間に顔を寄せてみたところ、本棚や机の間から人間の臭いが感じ取れた。かなり濃い臭いである。恐らく、ついさっきまでそこに人間が居たのだろう。

 煙の奥に潜んでいた人間はこの本棚や机の隙間に居たのか? だが一体何のために?

 ……まさかこの場所で爆風をやり過ごしていた?

「いやいやないですね」

 脳裏を過ぎった考えを、フィアはバサリと切り捨てる。確かに積まれた本棚や机の内側……恐らくそこに『奴』が居座っていたであろう場所には損傷が見られない。空間の外側を囲う本棚や机はへこみ、砕け、傷だらけにも拘わらず。これだけ綺麗なら、しょーもないぐらい貧弱な花中 ― 注:フィアが常日頃から抱いているイメージである。一応 ― でも無傷で先の爆風をやり過ごせるだろう。

 が、いくらなんでも無策過ぎる。自分(フィア)のように防御力に自信があるなら兎も角、ただの人間がこんな雑シェルターに隠れて身を守るなど、どう考えても破れかぶれではないか。というより先の爆発は、多分あの男が爆弾などを仕掛けて起こしたのだろうが……ならば逃げる時間はあった筈。何故この場に留まり隠れるというリスクを冒した?

 そもそもこの本棚や机、人間が運ぶには少しばかり辛そうな大きさである。仲間が居たとしても、こんな意味不明なオブジェクトを数人掛かりで作ったのか? 爆風で吹き飛んだならまだしも……いや、そもそも最初から積み上げていたなら爆風の衝撃で崩れるのでは――――

「まぁどうでも良いでしょう」

 花中ならここで思考の大海原へと旅立つところ、フィアはあっさり戻ってきた。基本、物事を深く考えるのは苦手なのである。

 それに今更そんな事がなんだと言うのか。

 フィアは鼻を鳴らし、辺りの空気を吸い込む。

 焦げ臭さの中に隠れるように潜む、男の臭い。その臭いの流れから察するに、『奴』は窓 ― がかつてあったであろう大穴 ― から飛び降りたようだ。恐らく今頃、大通りをそそくさと逃げているに違いない。

「ふん。姿をくらませた程度でこの私から逃げ切れると思わない事です!」

 居場所の見当を付けたフィアは、なんの躊躇もなく窓だった場所に駆け寄り、跳躍。

 ビル四階の窓ともなれば、地上からの高さは約十メートルに達する。例え足から着地しても人間では死の危険がある高さだ。されどフィアの『身体能力』を以てすれば、十メートルと言わず百メートル、千メートルの高さからでも問題ない。

 ズシン、と物々しい音と共にコンクリート製の道路を粉砕し、フィアは難なく着地。はてさて目当ての人間は何処だと、辺りを見渡す。

 と、自分が飛び降りたビルの側に停まっている軽トラックが目に入った。そのトラックは丁度フィアが飛び降りた窓の真下付近で停車しており、荷台には何故か山盛りの布団が剥き出し状態で積まれている。

 部屋の中に居た奴はこの布団の上に落ち、無事飛び降りを成功させたのか。しかし都合良くこんなものが窓の下にあるものか? まるで予め用意していたかのような……

「……何か変ですね。捕まえたらちょっと問い詰めてみるとしますかっ」

 気にはなる、が優先順位は高くない。抱いた疑問は脳裏の片隅にぎゅうぎゅうと押し寄せ、フィアは追跡を再開する。

 ビルが爆発した時の混乱がまだ続いているようで、ビルの周りでは喧噪が支配し、何十、いや百以上もの人々が悲鳴を上げながら走り回っている。警察や消防も到着したが、パニック状態の人々が助けを求めて我先に群がり、却って混乱に拍車を掛けていた。

 誰も彼もが駆け回り、これでは誰が逃げ惑っている筈の『奴』なのか、目で見てもよく分からない。

 だが、フィアは躊躇わない。

 臭いという名の道しるべがあるのに、どうして迷う必要があるのか!

「逃がしませんよ!」

 爆走する雄牛が如く、フィアは臭いのする方目掛け猛然と走り出す! 目の前にパニック状態の一般人がいる? だからどうした。

 邪魔者は全て蹴散らすのみ!

「うわぁ!?」

「きゃあっ!?」

「な、なん、げふっ!?」

 罪なき一般人達が、次々とフィアに突き飛ばされて転んでいく。やがて大勢の人間が猛然と駆けるフィアに気付き、慌てて道を開けた。

 しかしそのような心遣い、フィアには無用。

 臭いの方向が変化した――――人間の数万倍とも謳われる嗅覚は、微かな軌道の変化さえも捕捉する。作られた道を無視して方向転換するフィアに、偶然真っ正面に見据えられた人々はまるで自分が狙われたような錯覚を覚えたに違いない。誰もが恐怖で顔を引き攣らせ、その身を強張らせる。

 哀れ、人間達はフィアに軽々と吹き飛ばされ……たりしない。フィアとてわざわざ人間を蹴散らしたい訳ではないのだ。というより心底邪魔に思うからこそ、蹴散らすなんて真似は面倒以外の何ものでもないのである。

 ましてや臭いの向かう先に狭い路地裏があるのなら、間違いなくその先に『奴』が居るのなら、ショートカットしない理由がない。

 勢いよく膝を曲げ、フィアは強靱な『脚力』を以て大地を蹴る! 数百キロはあろうかという己が質量などなんのその。三メートル以上の高さまで跳躍し、戸惑う人々の頭上を越えていった。

 そして大きなビルの間を通る、狭苦しい路地裏の入り口で着地。

「間違いない……此処ですね!」

 目の前の薄暗い道から『臭い』が来ていると確信し、フィアは迷いなく突入していった。

 目が良くないフィアにとって、街灯のない路地裏に満ちる薄暗さは、人間にとっての夜の暗闇と大差ない。何かが落ちていても回避という選択肢はなく、故に一切の躊躇なくフィアは駆ける。道端に捨てられた空き缶を彼方に蹴飛ばし、放置された自転車を倒して踏み潰し、飛び出した配管を粉砕しながら突撃し続ける!

 狭い道だけに最速を出せてはいないが、それでも時速百キロ近い猛スピードだ。自動車にすら追い付ける速さで、ちんたら走る人間に追い付けない筈もない。

 視界を覆うどんよりとした闇の中で蠢く影を見付けた時、フィアはそれが目当ての『奴』だと欠片たりとも疑わなかった。

「みぃーつーけーまーしーたぁーよぉぉぉぉぉぉ!」

「おっ。マジで来やがったか」

 フィアの喜々とした唸り声を聞いたであろう『奴』の声は、さして驚いた様子もなかった。距離を詰められた『奴』は急激に速度を増し、人間離れした速さにまで加速する。

 中々の身体能力であるが、しかしフィアの速力を振り切れるものではない。

「ふっはははははははっ! 諦めなさいっ!」

 段々と近付いてくる『奴』の影目掛け、フィアは腕をゆっくり腕を伸ばした

 のと同時に『奴』の影が揺らめく。

 何かしたのか? 一瞬疑問を抱くフィアであるが、『奴』からは本能的な危機感など何も感じられない。頭の中の疑問は一瞬にして蒸発し、フィアは構わず『奴』を捕まえようとする。

 悪寒はそんな時に、真横からやってきた。

「あん? ……ぬぅ!?」

 突然『身体』に圧し掛かる、巨大質量の感覚。同時にガランガランと激しい音が鳴り響き、フィアの優れた聴覚をいたずらに刺激する。何かが自分目掛け雪崩れ込んでいるようだが、視力が弱いフィアには何が起きているのかいまいち分からない。

 尤も普通の視力を持った人間なら分かったかといえば、そんな事もないだろう。

 何しろフィアに押し寄せていたのは、無数の鉄骨や鉄パイプ。

 路地裏に並ぶ建物の中に、建設途中の建物があった。その建物が突如として崩落し、偶々横を走っていたフィア目掛けて雪崩れ込んだのである! 一本だけでも人を死に至らしめる大きさの金属達が、何十何百と襲い掛かってきたのだ。人間がこの金属の濁流に飲まれたならば、抗う間もなく四肢を引き千切られ、頭と胴は潰され、一瞬にして物言わぬ肉塊へと変えられてしまうだろう。

 フィアにとっても、流石にここまでの質量は無視して通れるものではない。

「うっだぁ! 鬱陶しいっ!」

 咆哮を上げ、フィアは渾身の力で腕を振るう! 人間にとっては破滅的な濁流も、圧倒的な怪力を受けては木の葉のように吹き飛ばされる!

 鉄骨達の幾つかは、フィアの前を走る『奴』の方へと飛んでいく。巨大な金属の塊が、自動車すら追い抜く速さで吹っ飛んでいるのだ。衝突すれば人間などひとたまりもない。

 実際当たりたくはなかったのだろう。『奴』はひょいひょいと、飛んでくる金属達を躱していった。

 前を向いたまま、後ろを振り向くような動きをせずに。

「(……人間にしては随分と勘が鋭いですねぇ)」

 目は良くないが、感覚的に『奴』の動きを捉えていたフィアは違和感を覚える。されど考えている暇はない。

 先の鉄筋雪崩はフィアになんらダメージを与えなかったが、一瞬だが動きを阻まれ、お陰で『奴』との距離が開いてしまった。おまけに随分長く走った事で、いよいよ行く先に光――――路地裏の出口が見えてきているではないか。広い場所に出て人混みの中にでも入られたら、またしても見失いかねない。

 このまま逃がしてなるものか。瞬時に判断したフィアは足下から大量の水を噴射し、その推進力を以て急加速! 瞬く間にトップスピードまで持っていき、『奴』との距離を一気に詰める! その姿は正しく砲弾のよう。放置自転車もはみ出たパイプも、フィアは粉々に吹き飛ばしながら前進し続ける! 『奴』は既に限界なのか、いくらフィアが迫ろうと逃げ足を速める事はない。

 『奴』はついに路地裏を脱して表通りに出てしまうが、フィアとの距離は最早数秒もあれば追い着ける程度しか開いていなかった。もしかしたらこの出口の先に子供達が歩いているかも知れない……そんな考えをフィアは抱かない。抱いたところで自分の行動を止めはしない。スピードを落とさずに自分もまた表通りへと跳び出し、光で掠れる『奴』の背中へと手を伸ばした

 瞬間、真横から()()()()()()()

 先の鉄塊雪崩をも凌駕する一撃。フィアの数百キロはあろうかという『身体』を揺さぶり、破壊せんとするほどの威力。

 衝撃の正体は、大型トラックだった。

 路地裏の出口は、一般道に続いていたのだ。左右を見ずに突き進んだフィアは車道まで出てしまい、トラックは時速六十キロもの速さで『普通』に走っていたが故に判断が間に合わず、両者は激突してしまったのである。ぐしゃりと生々しい音が辺りに鳴り響き、偶然にもその瞬間を目の当たりにした数名の通行人の顔が青くなる。凄惨で悲劇的な交通事故。犠牲者の生存は絶望的だ。

 ただし目撃者の認識とは異なり、この場合の犠牲者とはトラック本体の事を指す。トラックは所謂十トントラックと呼ばれる類の大型車であり、確かにフィアよりも重量はある。だがフィアの力は重さと全く釣り合いが取れていない。こんな『ちっぽけ』なトラック風情に倒されるほど柔ではないのだ。

「うっがあああっ! さっきからなんですか邪魔臭い!」

 それでも歩みは阻まれたので、フィアはすっかり怒り心頭。キレたフィアは衝突によりバンパーがぐしゃぐしゃに潰れたトラックを両腕で掴むや、どこぞの野良猫兄妹ほどではないにしろ馬鹿力を発揮して持ち上げ、ポイッと投げ捨ててしまう。

 哀れ、投げられたトラックはコンクリートの道路と正面衝突し、いよいよ完全に大破してしまった。トラックの運転席から一人の運転手が這い出すと、逃げろ逃げろと通行人達に向けて叫びながら、傷だらけの身体で走り出す。通行人達も訳を察し、慌ててトラックから離れる。

 それから間もなく、破損したエンジンから漏れたガソリンが引火。

 巨大な爆炎を上げ、トラックは粉微塵に吹き飛んだ。十数メートル先まで逃げた人々が転ぶほどの大きな衝撃だった。

 そしてその爆風を至近距離で受けたフィアは……わなわなと震えていた。

 『奴』の姿が見付からない。

 あとちょっとのところまで追い詰めた『奴』の姿は、何処にもなかった。

「……ぬぐ。うぐぎぎぎぎ……!」

 逃げられた。

 突き付けられる『現実』に、フィアは歯ぎしりをして苛立ちを露わにする。臭いで『奴』の逃げた方角は即座に突き止めるが、通行人が多く、どいつが『奴』なのかさっぱり分からない。

 間もなく陽は沈み、町を照らすのは街灯と建物の明かりだけとなるだろう。視力の弱いフィアにとって、人よりも色濃い闇が満たす時間だ。臭いで大まかな場所は把握出来るし、『糸』を使えば正確な距離も測れるが、肉眼で見えるならそれに越した事はない。

 早く『奴』を、『クリーチャーズ』のメンバーを捕まえて賞金をもらわないと、花中への誕生日プレゼントが買えないのに。

「ええいっちょこまかと小賢しい! 捕まえたら絶対ボコボコにしてやりますからねーっ!」

 物騒な言葉を叫びながら、フィアは再び臭いを目指して駆ける。

 されど、結局それはただ闇雲に追い駆けているだけで。

 自身の追跡がこの後何度も失敗する事など、今のフィアは考えてもいないのだった……



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Birthdays6

 視覚とは不便なものだと、フィアは日頃から思っていた。

 確かに直接見える相手なら、どれぐらいの距離に、どんな奴が居るのか、瞬時に理解出来る。動きだって正確に捉えられるし、花中の可愛い顔を見られるのも視覚あってこそ。だから役立たずとは思わない。

 だが、物を見るには光が必要だ。

 光がなければ視覚はその力を失ってしまう。だから相手が闇の中に逃げ込んだなら、視覚ではそれ以上追えなくなる。いや、逃げ込まずとも適当な物陰に隠れれば、それだけで視覚頼りの追跡は途切れてしまうのだろう。『見えなくなる』方法など幾らでもあり、尚且つ難しいものではない。

 その点嗅覚は素晴らしい。物陰に隠れたところで、臭いが残っていれば近くに居ると分かる。対象の臭いの強さを知っているなら距離感だって掴めるし、そうでなくとも濃くなれば近付けている事が把握出来る。血の臭いが混じっていれば怪我をしていると分かるし、興奮状態や疲労によって体臭が僅かに変化する事も利用すれば相手のコンディションだって掌握可能だ。確かに視覚のような『即効性』はないが、こと追跡において嗅覚ほど優れたものはあるまい。聴覚も良い線いっているとは思うが、嗅覚が一番だ。

 フィアはこれほど嗅覚に信用を置き、また自信を持っていた。その自慢の嗅覚を用いれば、一度は逃げ切られた『人間』を再び見付ける事など造作もない。

「(居ましたね)」

 ビルの屋上から地上を見下ろしながら、フィアはニタリと笑みを浮かべた。

 歩道に設置された木製ベンチ……そこに一人の人間が腰掛けている。

 四階建てビルの屋上に居るフィアとベンチまでの距離は凡そ十五メートル。今は所謂黄昏時で、空には都会らしい疎らな星空が広がり始めている。駅前ほどではないにしろ建物の多い区画であるため街灯が多く、お陰でフィアの目でもベンチに座る人間の姿は確認出来た。尤も距離が遠い所為で、能力を使った『画像』拡大をしても大まかな服装しか分からない。その人物はフィアに背中を向けているので、顔だって見えない有り様だ。

 人間ならば、果たしてあの人間が目当ての人物か悩むところだろう。されどフィアは気にもしなかった。

 麻薬密売組織『クリーチャーズ』の一員らしき『奴』の臭いを辿り、此処までやってきたのだ。遠くて本当にあの時の人間と同じ姿か分からない? 顔が見えない? ――――くだらない問題である。フィアにとって嗅覚は、視覚よりも信用している感覚だ。嗅覚よりも視覚を重視している人間は、「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」なんて理由で判断を鈍らせない。それと同じである。

 故にフィアは、ビルの屋上から『身投げ』した。

 命綱なしに、四階建てとはいえビルの屋上から飛び降りたのだ。傍から見れば完全なる身投げである、が、フィアからすればちょっとした段差を飛び降りただけに過ぎない。

 そして目指すは、ベンチに座る人間。

 高度からの奇襲により、『奴』を捕らえようという作戦だ。自由落下とはいえ十五メートルほどの高さから飛び降りた時、最高速度は時速六十キロを超え、地上到達には約一・七秒しか掛からない。風切り音や『気配』に気付いて頭上を見上げた時、『奴』の間近までフィアは迫っている。

 躱せる筈がない

 ……飛び降りた少し後に動いたなら。

 しかし『奴』は、フィアがビルから足を離したその瞬間、脇目も振らずに走り出していた!

「ちっ! やはり勘だけは鋭いですねぇっ!」

 自由落下故に方向転換も出来ず、フィアはベンチの真上に到着。数百キロはある巨体を木製ベンチが支えられる筈もなく、数多の人々の身体を休ませてきたベンチは粉微塵に吹き飛んだ。それでも尚フィアの勢いは止まらず、コンクリートの道路を着地の衝撃で陥没させ、辺りに小規模な地震を発生させる。

 まだ夕飯時にも早い時間帯。それなりに居た通行人達が揺れとフィアの出現にざわめく中、されどフィアは彼等の存在すら眼中になく、段々と離れていく『奴』の背だけを見る。

「ふんっ! 二度も逃げきれると思わない事です!」

 そして適当に伸ばした腕で、そこらにあった街路樹を掴んだ。

 何時ものフィアなら、こんなに暴れたら花中に怒られるかも、と思って『それ』をする事に幾らか躊躇しただろう。

 しかし今のフィアは違う。たかが人間如きに一度とはいえおめおめと逃げられてムカついていた。早いところ『奴』を捕まえ、もらったお金で花中へのプレゼントを買いに行きたかった。何よりもう何時間も花中と会っていないから、そろそろ花中の下に帰りたかった。

 要約するにフィアはかなりイライラしていて、色んなところが『雑』になっていたのである。

「ふぅんっ!」

 フィアは人外の怪力で、掴んだ街路樹を引き抜いた! 手品だとしてもあまりに大仰な『パフォーマンス』に通行人の誰もが度肝を抜かれ、驚きのあまり尻餅を撞く者もちらほら。

 そしてフィアがその大木を構えて投げようとしてみせれば、ざわめきは一瞬で悲鳴に変わった。

 人々の叫びを聞き、『奴』は危機感を覚えたのだろうか。真っ直ぐ駆けていた足を、突然方向転換した。先程の降下奇襲と同じく、フィアが行動を起こしたタイミングとほぼ同時。だが、今回はまだ構えただけ。修正は可能。

「ぶっ潰れなさいっ!」

 ほんの少し手首の向きを変え、フィアは大木を『奴』目掛け投げ飛ばした! 狙いは大雑把であるが、巨大な木の前では多少の誤差など問題にならない。放物線を描く巨木は確実に『奴』の動きを捉えていた。期待通りの軌道にフィアはにやりと笑みを浮かべる。

 ……もしも昼間だったなら、フィアは気付けただろう。

 此処はビルなどが幾らか建ち並ぶ、それなりに栄えた区画。街灯もたくさん並んでいる。当然、『電線』も相当数走っていた。実際人間の目であれば、夜空にぼんやりと浮かび上がる無数の電線を確認出来る。しかしフィアの目には見えない。見えないので、放物線を描く大木が()()()()も分からない。

 フィアの目には、真っ直ぐ飛んでいた筈の木が突然空中で静止したように見えた。

「んなっ!? 何が――――ッ!」

 予期せぬ出来事に狼狽えたのは一瞬。背面頭上から迫る気配を察知し、フィアはその身を強張らせる。

 直後、襲い掛かってきたのは電柱。

 フィアが投げた街路樹は電線数本に引っ掛かり、その力によって電線とつながっていた電柱の一本が引き倒されたのだ。連鎖的に何本もの電柱が倒れ、その中の一本が『偶然』にもフィアをど真ん中に捉えたのである。

 フィアにとって、この程度の『攻撃』など脅威ではない。頭上からの攻撃なので本能的に身構えてしまったが、普段通りの防御力があれば『本体』には衝撃一つ届かない。電柱の直撃を受けても平然としているフィアは、今度は倒れてきた電柱を『奴』に投げ付けてやろうと手を伸ばした。

 が、途中で引っ込めた。

 辺りが真っ暗になっていたからだ。辺りの街灯や建物から光は消え、疎らな星空だけが地上を照らしている。恐らく先の電柱が倒れた際、電線の何本かが耐えきれずに千切れたのだろう。『奴』の姿は闇夜に溶け込み、フィアの視力では見付けられない。

 またしても逃げられた……と諦めるのが普通だ。

 だが今のフィアは普通ではない。一度ならず二度も逃げられ、完全に頭に血が上っていた。電線に引っ掛からなければ今頃『奴』を捕らえていたという想いも苛立ちを加速させる。

「待ちなさい! 逃がしませんよ!」

 暗闇の中を、フィアは陸上での最大速力である時速二百キロオーバーで突き進む! 自動車すら彼方に置いていく速さの前に、障害物などありはしない。横たわる電柱を蹴り上げ、電線を引き千切り、アスファルトで舗装された道路に穴を開けて猛進するのみ。

 そしてこの突進、前など見えていない。

 本当にフィアには何も見えていない。輪郭すら分かっていない。人間ならば、否、まともな生物ならばまず出来ない暴挙であるが、フィアには強靱な『肉体』がある。何にぶつかろうと『本体』には傷一つ付かないのに、一体何を恐れるというのか。

 猪突猛進をも凌駕した、狂気の突進。目の前に迫る物が何かなど最後まで気付きもせず、やがてフィアは壁のようなものに激突した。コンクリートで出来ていたのだろうか、それは岩が砕けるような音を響かせ、次いで呆気なく崩落。突き抜けたフィアの『身体』に土のような感触が伝わった。衝突の余波により周りでも色んな物が壊れたようで、様々な轟音が耳に入り込んで頭の中を塗り潰さんとする。

 されどフィアの聴覚は人間の比ではない。

「うおっ。マジかよ、本当に突っ込みやがった」

 様々な音の中に『奴』の声が混ざっていた事を、逃さず感知した。

 ぐるりと作り物の頭を声がした方へと振り向かせる。相変わらず暗くて何も見えない。が、音の反響具合から『奴』との距離は約七メートル、方角からして『奴』との高低差ほぼなし、音の余韻から推察し遮蔽物なし……大まかではあるが周辺の地図がフィアの脳内に組み上がった。

 コースが()()()のだ、行動に支障はない。フィアは土にめり込んだ『身体』を強引に引き抜き、『奴』に飛び掛からんとした

 刹那、胴体の側面を何かが押した。

 否、押したのではない――――呑み込もうとしている!

「ぬぅっ!?」

 全身くまなく掛かる圧力の流れに、フィアも思わず声を上げる。

 これは、土砂崩れだ。

 フィアが突っ込んだのは、切り立った崖が崩れないよう補強しているコンクリートだったのだ。それをぶち破った挙句電柱すら弾き返すほどのパワーで土を揺さぶったなら、崩落は必然である。

 フィアからすれば数トンの土石などそよ風のようなものだが、身体に纏わり付いて動きが阻まれる。おまけに視界、は元より皆無であるが、鼻と耳を塞がれてしまった。

 渾身の力で押し寄せた土砂を吹き飛ばすも、身動きを封じられていた時間は短くない。急いで辺りの臭いを嗅いだが、既に『奴』は遠く離れてしまっていた。

 無論、臭い自体が忽然と消えた訳ではない。辿れば『奴』を三度追い詰める事が出来る筈だ。しかしそんな事はどうでも良い。たかが人間如きに二度もしてやられた。圧倒的な力を誇る自分が、あのような脆弱で愚鈍な生き物に翻弄されたのだ。苛立ちを覚えぬ筈がない。

「ぐぬぎぎぎ……!」

 ズダンズダンと足下の道路を打ち抜き、周囲の建物を揺さぶる地団駄を踏むも、イライラは晴れない。

 そしてフィアは、気持ちが昂ぶった時、一旦立ち止まって考えようと思うタイプではない。むしろ駆け巡る衝動に身を任せ、何はともあれ行動を起こすタイプだ。

「次こそはぁぁぁ……覚悟しなさぁーいっ!」

 負け惜しみ、と呼ぶにはあまりにも猛々しい雄叫びで街全体を震わせると、フィアは三度駆け出し――――

 

 

 

 何かがおかしい。

 夜も更け、人気もなくなり、家々から夕飯の香りも消え失せた頃。ギラギラと照明輝く歓楽街のど真ん中で、違和感を覚えたフィアは立ち止まった。

 『奴』と出会ってから、果たして何時間経っただろう。

 時計を持っていたなら、四時間半とフィアは答える事が出来ただろう。その四時間半の間に、フィアは幾度となく『奴』を追い詰めた。見付ける事は難しくない。『奴』の纏う臭いが『奴』の逃走ルートを正確に指し示し、その居場所を教えてくれるから。あと一歩まで迫るのも難しくない。『奴』の身体能力は人間にしては中々のものだが、フィアの圧倒的力と比べれば有象無象も同然なのだから。だから『奴』を捕まえる事は、本来ならば何も難しくない。

 今も捕まえられずにいるのは、寸でのところで邪魔が入るからだ。

 いや、邪魔というよりと不運というべきか。床が抜ける、建物が崩れてくる、トラックとぶつかる、電柱が倒れてくる、崖崩れに巻き込まれる……あれ以降も何度か『奴』と接触したが、あと一歩のところでトラブルが起きるのだ。フィアだからこそ無傷でピンピンしているが、人間だったら死んでいてもおかしくない不運ばかり。おまけに『奴』はひょっこりその不運を回避しており、結果フィアだけが足止めを食って逃してしまうのである。

 なので腹を立てながら何度も何度も追っていたのだが、今更ながらこれはおかしいような気がする。

 自分が不幸に見舞われるのはこの際受け入れるにしても、『奴』だけが逃れているのは些か都合が良過ぎる。『奴』はなんらかの方法で難を逃れている、或いは『奴』が自分を振り切るために何かをしているのではないか……何度も失敗してようやくその可能性が脳裏を過ぎったフィアは、これまでの事を振り返ってみる事にした。

 まず、追い詰められた『奴』は基本的には逃げるだけである。

 『奴』は直接的な攻撃を一切行っていない。数千度の熱を自在に操ったり、超音速の蹴りによる衝撃波を飛ばしてきたり、建物を吹き飛ばすほどの大出力レーザー光線を撃ってきたりはしてこない。ただただフィアに背を向けて、不様に、一目散に逃げ惑うだけだ。

 それはフィアへの攻撃のみならず、外への何かしらの『干渉』についても同じ。少なくとも逃げている最中の『奴』が、露骨に何かを仕掛けている素振りはなかった。辺りが暗くなり、目が良くないのでフィアには『奴』の姿はぼんやりとしか見えていないが、もし何か怪しい行動をしていれば野生の勘で違和感を覚える筈だ。フィアにはその自信がある。

 嗅覚や聴覚など、人間とは比較にならないほど優れている感覚器でも異常は察知していない。『奴』が仮に何かやっていたとしても、精々石を投げたとか、棒を倒した程度のものだろう。

 ……棒を倒したり、石を投げたりで、一体何が出来る?

 フィアにはさっぱり分からない。うんうん唸りながら記憶を辿り、自分が見てきた、体感したものを思い起こしてみるが、新しい情報は何も出てこなかった。感じ取った『力』の正体は未だ不明だが、これについてもその『力』を自分に使われたような感覚はない。

 あまりにも訳が分からないものだから、花中に相談してしまおうか、とも考えてしまう。しかしそうなると事のあらましを話さねばならず、プレゼントを買うためのお金がない事、犯罪者を捕まえた賞金でプレゼントを買おうとしている事を知られてしまうに違いない。折角サプライズで喜ばせようと思っていたのに、ここで話してしまったら全部水の泡だ。

 花中に頼る事も出来ず、フィアは途方に暮れてしまった。もう『クリーチャーズ』は諦めて他の犯罪者にするべきか? いや、夜も更けてきた今となっては、引き返すには遅過ぎる。退くに退けず、前にも進めず、どうしたら良いのかさっぱり分からない。

 悩んだフィアの足は止まり、道のど真ん中で立ち尽くすばかり。如何にも歓楽街にいそうな、派手な格好の通行人達の訝しげな視線を受けながら、フィアは延々と悩み続ける。

「そこのあなた、ちょっとよろしいかしら?」

 そうしていたところ、ふと背後から声を掛けられた。

 迫る気配に気付いていたフィアはこれといった驚きもなく、くるりと後ろを振り返る。そこには黒いローブに身を包み、フードを被った、化粧の濃い女が居た。歳は二十~三十代だろうか。見知らぬ顔だし、嗅いだ覚えのない体臭なので、恐らく初対面の人間だろう。中々怪しい格好であるが、『奴』とは違って『雰囲気』はそこらの人間と同じだ。この人間と関わっても『不幸』に襲われる事はあるまい。襲われたところで大したものではないだろう。

「はいなんですか?」

「あなた、今何か悩んでいるわね?」

「? ええ確かにそうですけど」

 返事をしてみたところ、女性はフィアの内心を言い当ててくる。とはいえ別段隠している訳でもないので、フィアは淡々と肯定した。

「実はわたし、占い師をしているの。良ければあなたの事、占わせてくれないかしら」

 すると女性こと自称占い師は、そのような申し出をしてきた。

 占い、という行為自体はフィアも知っている。

 テレビなどでよくやっているやつだ。なんでも未来を見通すだとかなんだとか。胡散臭いので花中に本当なのかと尋ねたところ、「たまーに当たるかな」と答えられた事を今でも覚えている。未来の事など、適当に言えばたまーには当たる。要するに占いとは出鱈目なものという事だ。

 役立たずな出鱈目に付き合うほど、今のフィアは暇ではない。

「遠慮しておきます」

「まぁまぁ、そう仰らずに。あなた、男関係で悩んで」

「ません」

「ないわよね。うーん、ならお金の問題?」

「それ当たるまで適当に言い続けるつもりだったのですか? 確かにお金の悩みはありますけどあなたが分けてくれるなら解決する程度のものです。占うぐらいなら有り金全て置いていきなさい」

「随分心が荒んでいるのね。ほら、相談するつもりで、話をするだけでも良いから」

 断ろうとするフィアだったが、占い師の女性はまるで退く気配がなかった。フィアが顔を顰めてあからさまに不快感を剥き出しにしても、ぐいぐいと押してくる。

 『奴』に翻弄されたストレスは未だ残っており、沸点が低くなっているフィアにこの勧誘のしつこさを耐えるほどの理性は残っていない。いや、仮にストレスがなくともそろそろキレる頃合いだ。元よりあまり我慢などしない性格なので。

「五月蝿いですねぇ。大体あなたの占いが本当に当たるのなら占いを断らない人間を誘いなさい」

 これを言って諦めないならとりあえず一発顔をぶん殴りましょう。人間ならばあまりにも手が早い、野生動物ならば大体こんなものかと思える短絡的思考を抱きながら、握り拳を作ったフィアは最後の警告をしようとした

 最中、フィアは声を詰まらせる。

 ――――そんな事があり得るのか?

 ただの人間ならばあり得ないだろう。しかしただの人間でないのならば。いや仮にただの人間だったとしてもまだ可能性はある。何故か辺りを漂っていたあの『臭い』……花中の家でもよく嗅いだ臭いだ。正体は『アレ』で間違いない。だとしたら……

 脳裏を過ぎる一本道の考え。花中であればこの結論をすぐにでも見付けられたのだろうか? それとも案外常識だのなんだのに縛られて否定するのか? 花中とはまるで考え方が異なるフィアには分からない。

 少なくとも花中と違って、フィアは自分の考えに疑いを持たなかった。

 相手にそれが出来るか出来ないか。そんな事を気にしてどうする。実際にやってみせているのだから『やっている』に決まっている。人間は『摂理』だ『理論』だなんてものに拘るが、そんなものは人間が思い付いて世界のルールだと勝手に決めただけのもの。故に『あの生き物』が自分の同類ならばあり得ない事などない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……どうしたの? 相談する気になった?」

 いきなり黙りこくってしまったフィアに、占い師の女性はフィアの『服』の袖を引っ張りながら尋ねてくる。と、フィアはぐるりと首を回して占い師が居る場所とは全く異なる方向へと振り向いた。

 唐突で、それでいて無視するかのような動きに、占い師の女性は不服そうに眉を顰める。されど他者の感情などお構いなしなフィアは、占い師を一瞥すらせずに歩き出した。いきなりのフィアの行動に付いていけなかったのか、袖を掴んだままの占い師はフィアに引っ張られてつんのめり、慌てて袖を離す。

 すっかり自由になると、フィアは思い出したように改めて女性の方へと振り返る。あまりにも統一感のない、最早怪奇的とも取れる行動にいよいよ嫌なものを感じたのか。占い師はじりりと後退り。

「あなたのお陰で悩みはすっ飛びましたありがとうございます。代わりに五月蝿かった事は許してあげましょう」

 そんな占い師の女性に、フィアは自分勝手なお礼を告げた。言いたい事を言えたフィアは呆気に取られる占い師を残し、再び歩き始める。足取りは軽く、スキップ混じりだ。

 相手の『カラクリ』は見えた。

 逃げ回るだけなら中々に厄介な『カラクリ』だ。全く以て小賢しい。しかし同時に疑問がある。その『カラクリ』が本当に完璧であるならば、今こんな事になっている筈がない。だとすれば弱点がある……そしてその弱点はもう見当が付いていた。

 これでもう『奴』を逃さない。

 捕まえる算段が付いたフィアはにたりと口角を上げ、むふふふ、と可愛らしく笑う。『奴』を捕まえられるという事は、即ち警察からお金をもらえる事。警察からお金がもらえるという事は、つまり花中へのプレゼントを買える事。花中の喜ぶ顔が浮かび、どんどん楽しさが込み上がる。フィアは、花中の笑顔が大好きなのだから。

 そんな可愛らしい花中の想像と比べれば、実在する有象無象(通行人)など見る価値もない。

 だからフィアは、『子供のように喜楽を振りまく美少女』に向けられている衆目に気付かなかった。気付かなかったので、道端にあったマンホールの蓋を発見するや、持ち前の怪力で軽々と、堂々と開けてしまう。

 そして何一つ躊躇なく、フィアは下水道に跳び込んだ。

 フィアの正体を知らぬ通行人達は悲鳴を上げ、喧噪が歓楽街に広がっていく。やがてこの騒ぎは警察を呼ぶ事になり、大規模な捜索にも拘わらず痕跡一つ確認出来ない『少女』の存在が都市伝説として語られる事になるのだが……知る人ぞ知る程度の、小さな噂話にしかならなかった。

 何しろこのすぐ後に、もっと大きな大騒動が、フィアの手によって巻き起こるのだから――――




花中が傍にいないと自制を忘れてしまうフィアであった。
基本人間なんかどうでも良いと思っているので、カッとなるとすぐに忘れてしまうのです。
人間と敵対しても全然困らないと思っているのが一番の理由ですが。

次回は3/11(日)投稿予定です。


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Birthdays7

「……やっと振りきれたか。思っていたよりも面倒だったが、それも終わりだな」

 街灯の明かりが届かない、鬱屈とした宵闇の満ちる路地を歩きながら『彼』は小さくそうぼやいた。見上げた空には星が散らばり、辺りがどれだけ暗いかを物語る。身体を解すように肩を回し、彼は更に路地の奥へと進んでいく。

 路地の奥はコンクリートで作られたビルばかりが建ち並ぶ、風情のない光景。その上進むほど建物の劣化が目立ち、人の気配は全く感じられない。最早不埒者すら寄り付かない、廃れた区画だった。

 やがて古びたビルの間に建つ、二階建てのプレハブ小屋が見えてくる。

 広さは小さな事務室ぐらいあるだろうか。十数人も入れば『賑やかさ』を感じられそうである。小屋に明かりは点いておらず、物音すらない小屋から人の気配は感じられない。建物の壁は至る所で塗装が剥げており、まだら模様のようになっている。夜中の暗さと相まって、一見廃屋なのではと疑いたくなる様相を晒していた。

 そんな小屋に近付いた『彼』は、あたかも自室に入るかのように躊躇なく扉のノブを回し、室内へ足を踏み入れる。明かりのない部屋は深夜の暗闇に閉ざされており、常人の目には置かれている物の輪郭すら映らない。されど『彼』の歩みに迷いはなく、見えない物が見えているかのように、ふらりふらりと軽やかに奥へと進んでいく。

「戻ったぞ」

 そして小屋の真ん中辺りまで達すると、ぶっきらぼうな言葉を発した。

 途端、部屋に明かりが灯される。部屋に置かれていたのは簡素なデスクが数台とその付属である椅子、加えて大きな『麻袋』が十数個。ロッカーなどもあるが、今にも扉が外れそうなぐらいボロボロ。コンクリートが剥き出しになっている床の上にあるのはそれぐらいで、非常に殺風景な部屋だった。奥には二階へと続く階段があるものの、その階段の作りも質素で、相撲取りほどの重量が足を掛ければ敢えなく潰れそうである。

 そんな中でも人というのは存外隠れられるものらしく、ロッカーから、机の下から、麻袋の影から……ぞろぞろと八人の人間が出てきた。

 現れた人間達はいずれも二十代前半、いや、十代後半ぐらいの若者だった。男も女も居たが、全員が派手で高圧的な ― ドクロマークがでかでかと描かれた服を着ていたり、髪を金髪に染めて刺々しくおっ立てていたり ― 格好で、如何にも不良らしい風体をしている。ただし顔に浮かべているのは人懐っこい笑顔で、安堵したようにも見える、些か気迫に欠けたものだったが。

「村田さん! おかえりなさい! 今回もやれましたか?」

「ああ、当然だろ」

「流石です!」

 物陰から出てきた連中の一人 ― 他の面子と比べれば『清潔』な格好をした、坊主頭の男 ― が駆け寄りながら声を掛けると、『彼』こと村田は事もなげに答えた。

「それより、お前らの方こそちゃんとやったんだよな?」

「ええ、抜かりなく。事務所にあったヤクは全て、しっかり持ち運んであります」

 村田に問われた坊主頭の男が顎を動かしながら答えると、髪を茶色く染めた若い男二人がいそいそと村田の傍までやってきた。彼等もまた他の面子と同じく派手な格好をしているが、その背中には大きなリュックサックが背負われていた。

 茶髪の男達はリュックからチャック付きの大きなビニール袋を幾つか取り出し、机の上に並べていく。総数にして二十袋、重さにして約三十キロほど。中身は、一見して小麦粉のようにも見える白い粉。

 しかし断じて小麦粉のような『安全』なものではない。その粉こそが『ヤク』……人の精神と命を脅かす薬物・ブレインハックなのだから。

 つまりは此処がブレインハックの元締めである『クリーチャーズ』の拠点であり、此処に居る若者達は構成員であって――――村田は、そのまとめ役なのだ。

 村田は並べられたビニール袋を見て、満足げに頷く。反面、坊主頭の男の方は些か不服そうな顔をしていた。

「しかし事務所を爆破するなんて……」

「足止めが必要だったからな。お陰で、ヤクは全部持ち出せただろう?」

「事務所の費用です。裏で取引しましたから、手に入れるのに三千万もしたんですよ? まだ一週間も使ってなかったのに……」

 余程惜しいと思っているのか、坊主頭の男は小さくないため息を吐く。されど村田の方は小馬鹿にした笑みを浮かべるだけ。大した問題ではないと言わんばかりだ。

 それでも坊主頭の男の表情が優れないと、村田は不意に彼の肩を抱き寄せた。突然の村田の行動に坊主頭の男はビクリと身体を震わせ、顔を強張らせたが、村田は気にも留めていない様子。にたりと笑みを見せながら、坊主頭の男の耳元で語る。

「三千万なんて端金だろ。此処に持ち込んだヤクを全部捌けば幾らになる? 商売はまだまだ続けるんだ、幾らでも損害は賄える。前向きに行こうじゃねぇか」

「は、はぁ。あ、いえ、村田さんがそう言うのでしたら、異論はありやせん。失礼しました」

「分かれば良いんだ、分かれば。俺は物分かりの良い奴は好きだぜ?」

 上機嫌に笑いながら、村田は坊主頭の男から離れる。坊主頭の男も自由になると、途端に安堵したような柔らかな笑みを浮かべた。

 にこやかな笑みを浮かべながら、二人は実に親しげに笑い合う。周りで見ていた仲間達もまるで笑いが伝染したかのように、年相応の明るい笑みを浮かべた。

「だから、懐にしまったブツはさっさと戻しな」

 ただし村田がこの一言を告げるまでの短い間だが。

 坊主頭の男は笑みを強張らせ、それから油の切れたオモチャのようなぎこちなさで自らの周りを見渡す。先程まで笑い合っていた仲間達に、もう笑みはない。冷めきった眼差しが四方八方から彼を射抜いていた。

 坊主頭の男は一気に顔を青くしながら、ズボンのポケットに手を突っ込む。それから躊躇うような、鈍い手付きで出した手には小さなビニール袋が握られていた。

 中身は白い粉。

 正確に言えば茶髪の男が取り出したビニール袋の中身と同じ、ブレインハックだった。量にして百グラムもないが、これだけで末端価格にして九百万は下らない。

 坊主頭の男は着服しようとしたのだ。そして村田はそれを見抜いたのである。推理も何もせず、まるで犯行の瞬間を()()()()かのように。

「よーし。さっきも言ったが、俺は物分かりの良い奴は好きだ。毎日金の成る木を見てりゃぁ、自分でも収穫したくなるよな……だから半殺しで勘弁してやる。ま、首から下が動かなくなるかも知れねぇが」

 村田から告げられた『処罰』の内容に、坊主頭の男はガタガタ震えながら腰砕けになる。されど裏切り者に同情は集まらない。がたいの良い男が二人出てきて、坊主頭の男の腕を掴み、部屋の隅まで引き摺っていった。

「んじゃ、事務作業は次からお前らが担当な。アイツの仕事は見ていたからやり方は分かるな?」

 そして村田は坊主頭の男の後任として、リュックを背負った茶髪の男達を任命した。茶髪の男達は驚いたように目を見開き、しかしすぐに背筋を伸ばしてこくりと二人同時に頷く。

「へ、へい」

「が、頑張ります」

「仕事に支障が出ない程度にやってくれりゃ良いさ。ああ、それからこの後ちょっと付き合ってもらうぞ。俺の『信用』を裏切ったらどうなるか、しっかり教育しとかねぇとな」

 笑う村田に、茶髪の男達は引き攣った笑みを浮かべる。裏切りは許さずとも、『惨劇』までは見たくないのだろう。

 かくして裏切り者を見付け出し、制裁を下すと決めた村田。組織の規律を守った事に満足したかのように頷き、村田は部屋の奥にある階段目指して歩き出した。

 が、その歩みはほんの数歩進んだだけで止まる。

 直後村田の顔色がみるみる青ざめていった。

「なん……っ!?」

 村田は驚きを言葉にする――――よりも早く、素早くその場から跳び退いた。突然の、それでいて奇怪な行動であったが、仲間達は誰一人として驚きを見せない。

 何故なら『驚き』を覚える寸前、建物の壁が突如として()()()()()のだから。

「な、なんだぁっ!?」

「ひいっ!? しゅ、襲げ、いでっ!?」

 突然の出来事に、若者達は揃って慌てふためく。右往左往した挙句机に足をぶつける者、腰を抜かしてひっくり返る者、目に涙を浮かべながら立ち尽くす者……何一つ統率感がなく、さながら壊された巣から飛び出すアリのようであった。

 それでも誰もがあたふたするばかりで建物の外に出ようとしないのは、吹き飛んだ壁が粉塵となって部屋中に充満し、視界を遮っているため。一メートル先すらまともに見えない状況で、身動きなど取れる筈もない。動かずにはいられないが、動かない事が最も安全だと本能的に察し、その場に留まり続けていた。

 ただ一人、此処に残っていたら『半身不随』になるであろう人物を除いて。

「っ!」

 坊主頭の男は立ち上がるや、煙の中を駆け出した。自分を捕らえていた男二人は突然の出来事に驚いて手を離しており、また部屋を満たす粉塵によってこの行動に気付いていない筈だ。裏切り者を逃がしたとして彼等にも『制裁』があるだろうが、男の知った事ではない。

 机にぶつかる事、何かしらの小物に蹴躓く事を恐れず、男は扉があった方へと走り続け――――

「あ。駄目ですよ逃げたら」

 きっとあと少しで出口、と思えた刹那、能天気な『少女』の声が聞こえた。

 それも束の間坊主頭の男の顔面に、ストレートパンチでも飛んできたかのような衝撃が走る! 鼻の骨が折れるほどの打撃力に、男の身体は後ろにすっ飛ぶ……筈が、ぐるりと何かに巻き付かれ、前へと引き寄せられた。意識が飛びかけている彼に抗おうなんて考えはなく、されるがまま引っ張られる。

 やがて彼が何かに捕まると、まるで見計らったかのように室内を満たしていた粉塵が薄れ始めた。

 続いて姿を現す『襲撃者』。

 金髪碧眼、麗しくもあどけない少女の出で立ち、無駄に自信満々な笑み。黄金の髪は風もないのに靡き、粉塵に晒された華麗なドレスには埃一つ付いていない。

 粉塵の中から現れたのはフィアだった。

 突然の来訪者の出現に、室内に居たメンバーは最初唖然としながらフィアを眺めていた。しかしフィアの足下に『水触手』で身体を縛られた坊主頭の男が横たわっている姿を見て、フィアが自分達に『用』がある事を悟る。

 加えてフィアの背後には、フィアの身体よりもずっと大きな穴を開けた壁がある。

 フィアこそがこの突飛な事態を起こした襲撃者である事は、問い詰めるまでもなく明らかだった。

「っんだテメェ!?」

 恰幅の良い ― 体重が百キロ近くありそうな ― 男はフィアを『敵』だと認識したのだろう。懐から大きなサバイバルナイフを取り出し、フィア目掛けて突撃してくる。ナイフの刃渡りは推定二十センチ。一突きで人の心臓を貫くのに足る、恐ろしい凶器だ。

 尤もフィアからすればそんな殺人道具も、おままごと用プラスチック製包丁と大差ない。ガシッと素手で刃を握り締めれば、それだけで恰幅の良い男の勇ましい突撃は止まってしまう。

 見た目可憐な美少女に、それも素手でサバイバルナイフを受け止められ、突撃してきた男は困惑を通り越して呆けていた。フィアはそんな男ににっこりと微笑みながら、開いている片手を掲げる。

「雑魚なんですからあまり調子に乗らない方が良いですよ? 今の私かなーり機嫌が悪いので手加減失敗するかも知れませんし」

 そして脅しの一言を優しい声色で告げる。

 本当に優しかったなら、ここで恰幅の良い男の反応を待つだろう。が、フィアは優しく見えるだけである。恰幅の良い男が瞬きした瞬間、フィアは構えた拳で彼の分厚い腹を殴り付けた。

 男の身体はあまりの衝撃の強さで波打ち、刹那百キロ近い体躯がボールのようにすっ飛ぶ。直線上には細身の女が居たが、突然の、それでいて非常識な事態で彼女は足を止めていた。殴り飛ばされた男も空中で方向転換など出来る筈もなく、仲間の女を巻き込んで部屋の壁に叩き付けられる。速度と質量だけで見れば、交通事故にも匹敵する大惨事。恰幅の良い男と細身の女は、呻き声を小さく上げた後にぐったりとしてしまう。

 仲間に『暴力』を振るわれた瞬間を目の当たりにした若者達だったが、誰一人として動こうとしなかった。無理もない。百キロ近い人間を易々と殴り飛ばすほどの怪力を持っている相手に立ち向かう術など、ただの人間である彼等が持ち合わせている訳がないのだから。

 しかし彼等の選択は愚行である。

「ああそうそうあなた達も逃げようとしない事です。とりあえず全員ボコボコにするつもりですから下手に逃げると加減を間違えるかもなので」

 目を付けられる前にさっさと逃げていれば、怪我をせずに済んだかも知れないのに。

 されど逃げなかった、逃げられなかった彼等は苛立ったフィアの餌食となる。発した警告の意味を理解する暇すら与えず、フィアは若者達に肉薄。一人を殴り、一人を投げ飛ばし、一人を床に何度も叩き付け……何色もの悲鳴が小さなプレハブ小屋に鳴り響く。その悲鳴も段々と小さくなり、静寂が満たす頃には動ける者はいなくなっていた。

 かくして『クリーチャーズ』のメンバーは全員ダウン。警察どころか反社会的組織をも打ち負かした化け物達が、呆気なく壊滅した瞬間だった。

 ……ただ一人、彼等のまとめ役である村田を除いて。

「ちっ。まさかこんな形で来るとは……」

 忌々しげにぼやきながら、一人二階へと逃げていた村田は抜き足差し足、音も立てずに歩く。仲間達の上げる悲鳴がいくら聞こえても脇目も振らず、豆電球が照らす部屋を進むだけ。

 やがて部屋に付けられた窓の傍まで来ると、ゆっくりとその窓に手を伸ばし、

 寸でのところで、ピタリと止めた。

「ふむふむ成程成程。そういう事ですか」

 そんな村田に、ギシギシとしならせながら階段を上ってきたフィアが声を掛ける。

 村田はゆっくりとフィアの方に振り向く。纏う雰囲気に余裕は何処にもない。悔しそうに歯噛みし、あからさまな敵意の眼差しを向けてくる。並の人間ならばその恐ろしさで足が竦み、のろのろと後退りしてしまうだろう。

 無論この程度の威嚇で怯むフィアではない。何より、どれだけ威嚇されようと逃す訳にはいかない。

 村田こそが、フィアと何度も追い駆けっこを繰り広げた『クリーチャーズ』のメンバー……散々おちょくってくれた、あの忌々しい人間なのだから。

 フィアは肩を竦めながら階段を上り切り、村田と同じ高さまで上がる。ようやくその顔を真っ正面からハッキリと拝める事が出来た。豆電球のお陰もあり、フィアの脆弱な視力でも問題なく顔立ちを拝める。尤も、見えたところでなんとも思わないが。纏う臭いだけで村田が追い駆けていた『奴』である事は分かるのだ。今更顔が見えたところで、大した情報ではない。

 それよりもフィアが気にしたのは村田の『行動』だ。

「おやぁ? 窓を開けて逃げないのですか? 精々二階なんですからあなたの身体能力なら易々と飛び降りる事が出来ると思うのですが」

「……何をしやがった? 窓に何を仕掛けた?」

「ふふふふふ。そうですよねぇそう訊きますよねぇ。ここまで思った通りだと笑いが止まりませんね」

 言葉通り延々とくすくす笑い続けるフィアに、村田は一層苛立った表情を浮かべた。今にも跳び掛かってきそうなほど殺気を放ち、敵意を向けている事はフィアにもよく分かる。

 それでもフィアは嗤うのを止めない。

「あなた未来を予知しているのでしょう?」

 止めぬまま、唐突にそう尋ねた。

 『彼』は何も言わない。動揺も見せない。まるで、その言葉が出てくる事は分かっていたと言わんばかりに。

 されど冷めきった眼差しが、彼から怒りさえも失せた事を教えてくれた。

「おかしいと思ったのですよ。一度や二度ならまだしも人間風情がこの私の攻撃を躱すなどあり得ません」

 フィアは淡々と自分の考えを明かしていく。

 もし未来が予知出来るのなら、フィアが繰り出した数々の攻撃を躱すなど造作もないだろう。何しろ『見えて』いるのだ。むしろ躱せない方がおかしいと言っても良い。

 そして自身の行動の『結末』が分かるのなら、様々な『ご都合主義』だって起こせる。何処に物を投げ付ければ建設途中のビルが崩れるか、どの速さで走れば『追跡者』に走行中のトラックをぶつけられるか、何処を走れば『追跡者』の投げた木が電線に引っ掛かるか、『追跡者』が突っ込んだ時土砂崩れが起きるのは何処なのか……自分だけが知っていて、相手だけが知らない状況なのだ。誘導するなど思いのまま、タネさえバレなければ延々と相手を玩べる。

 『どうやってその事象を起こしたか』という論理的思考では、未来を予知するという能力を見抜くのは難しいだろう。フィアのように『どうすればその事象を起こせるか』……結論から探そうとするタイプであればこそ、見抜ける力だった。

「ふん。長々と喋っていたが、結局勝ち目がないという事に変わりはないだろう? さっさと諦めたらどうなんだ?」

 フィアの話を聞き届けた『彼』は、未だ強気な姿勢を崩さない。するとフィアはくすくすと、少女らしく『彼』を嘲笑った。

 彼が言う事は尤もな話だ。

 事実フィアは追い駆けっこの最中、一方的に弄ばれた。タネと仕掛けは分かったが、それで『彼』の予知が消えてなくなる訳ではない。つまり状況的には、追い駆けっこを繰り広げていた時と何一つ変わっていないのだ。普通に考えれば同じ展開が繰り返されるだけである。

 それでもフィアは嘲笑う。『彼』が何も知らない事を、何も()()()()()()()事を。

 『彼』はフィアに笑われると、そっぽを向くように俯いた。が、フィアは『彼』の態度など気にせず話し出す。

「ええ確かにあなたの力は一見して厄介この上ない。ですが本当に無敵だったらこの状況はあり得ないんですよ」

「……五月蝿い」

「だって未来が予知出来るのですよ? 私だったらここまで追い詰められる前になんとかします。だって面倒じゃないですか自分を捕まえようとする奴との追い駆けっこなんて」

「五月蝿い、五月蝿い……!」

「なのにあなたはこの未来を避けなかった。付け加えれば私が此処を奇襲するにも拘わらず仲間を逃がしていなかった。初めて私と会った時にはさっさと逃がしていたのに。一体何故? 実は避けられなかったからなんじゃないですか?」

「五月蝿い五月蝿い五月蝿い」

 フィアが語る間、『彼』は何やらぶつぶつと呟いている。フィアの聴力であれば無論『彼』の言葉を聞き逃しはしない。聞き逃さないが、五月蝿いと言われているだけだ。

 フィアは話したいから話しているだけ。『彼』がどれだけ拒もうと、そんな事は話を止める理由にはならない。

「あなたの未来予知って欠点があるのではないですか? 具体的には『射程距離』があるとか」

「五月蝿いっ! 黙れえええええっ!」

 ついにフィアが核心に迫ると村田は拒絶の言葉を絶叫した。

 やはり、と感じたフィアは上機嫌な鼻息を吐く。

 もし村田が完璧に未来を予知出来るとすれば、先程語ったように自分(フィア)との遭遇自体を避けるのが普通。予知をすればフィアが人間なら即死するほどの攻撃を平然と耐え、人間を簡単に殺せるほどの力を持っている事も分かる筈である。いくら予知能力があるとはいえ、そんな怪物をおちょくっても百害あって一利なしというやつだ。

 しかし現実には、フィアと村田は遭遇した。『最悪』の未来を避けなかった以上、何かしらの欠点があるとしか思えない。

 一番に浮かんだ可能性は『時間』に限度がある事。数秒か数十秒かは分からないが、あまり遠い未来は予知出来ないのだとすれば、フィアの襲撃を事前に防げないのも頷ける。

 そしてもう一つは『距離』に限度がある可能性。遥か彼方の対象は予知に含まれず、ある程度接近しないと予知出来ないのなら、これまた追ってくるフィアを躱せない理由になる。

 果たしてどちらの可能性が正しいのか? 或いはどちらもなのか? 生憎そこをこれまでの情報から突き止めるのは、フィアの単純な頭脳には難しい問題だった。なのでフィアは実際に確かめる事とした。

 方法は実にシンプル。臭いから村田の後を追い、その姿を発見してもしばし野放しにしておく。フィアが姿を見せず、振りいったと誤解した村田がアジトに戻ったのを確認してから、フィアはどんどん遠くに――――距離にしてざっと三百メートルほど彼方のビルまで移動。

 そこから勢いよく跳び、アジトを奇襲した。

 跳んだ、と言葉にすれば本当に簡単な話である。尤もその跳躍をするために足をバネの如く畳み込み、一気に開放するという人外らしい方法を用いたが。結果初速は時速三千六百キロ……秒速九百七十メートル以上もの超音速に到達。三百メートルなんて距離は〇・三秒で通り越し、一瞬で村田の元まで辿り着けた。

 もしも村田が数十秒先の未来を予知出来るのなら、フィアの此度の奇襲は失敗に終わっただろう。数十秒あればメンバーを逃がすなり、覚悟させるなりは出来る筈なのだから。だが、そうはなっていなかった。メンバーは右往左往するばかりで、まともに逃げ出せていない。今も窓の周囲に『糸』を張り巡らせており、触れれば指先を切り落とせるようにしていたが、あとほんの少しの距離まで村田は手を伸ばしていた。本当に未来予知が出来るなら、罠に手など伸ばすまい。

 恐らく村田の予知の欠点は『距離』だ。それも明確な線引きがあるのではなく、対象の存在感的なものが小さければ小さいほど近付かねばならぬタイプの。

 見破ってしまえば隙だらけの欠点まみれ。故に村田は図星を突かれて焦っている……最初はそう思い小馬鹿にした笑みを浮かべていたフィアだったが、ふと違和感を覚えた。

 確かに村田は明らかに平静を失っている。されどその原因はどうやらフィアではないらしい。

 何しろ村田の目は、フィアを全く見ていなかったからだ。

「五月蝿い五月蝿い五月蝿いッ! さっきから喧しいんだよ! 逃げろ逃げろって、ああっ!? 虫けらの癖に俺様に逆らうんじゃねェ!」

 腕を振り回しながら、錯乱したように意味不明な言葉の羅列を喚き散らす。一体誰に向けて叫んでいるのか、一体何に苛立ちを覚えているのか。

 フィアには、凡そ見当が付いていた。

 だからこそ村田の態度に呆れてフィアは肩を竦める。

「……やっぱり所詮人間ですねぇ」

「あぁん!?」

「所詮人間と言ったのです。自分の立場が分かっていないなんていやはや全くここまで無自覚だと滑稽過ぎて最早笑えないですよ。ぶっちゃけ哀れです」

 キッパリとした口調でフィアは侮蔑の言葉を伝えた。あからさまに馬鹿にされ村田は額に青筋を浮かべるが……ややあってから小さなため息を漏らすと、自身の髪を掻き上げ、如何にも平静を取り戻したかのような涼しい顔を浮かべる。

「……さっきから聞いていれば、調子付いているのはどっちだ?」

 ようやく発したまともな言葉も、あたかも余裕があるかのよう。

 先程までの取り乱しぶりは演技だとでも言うのか? 村田の急変にフィアは眉を顰めた。

「どういう意味です?」

「そのままだ。確かに、俺の予知には射程がある。人間程度の大きさなら半径三十メートル程度の動きを察知するのが限度。時間も長くて数分、目まぐるしく状況が変化する場合、精々一秒から三秒程度だ」

 警察や敵対組織の襲撃を察知するだけなら、これでも十分だがな……村田はそう言いながら肩を竦める。適当な荷物を一つ抱えて逃げるのなら、数分先が見えれば十分という訳か。フィアが最初に村田と出会ったあのビルでも、フィアがのんびりとビル内に足を踏み入れたがために数分先まで予知出来、その間に仲間達と薬を逃がせたのだろう。

 逆に言えば、先のフィアの奇襲は予知出来ていなかったという事を打ち明けたも同然。

 だからこそ不可解。ちょっとした奇襲一つ破れないと見抜かれ、周囲を『糸』という危険物が張り巡らされて、どうして未だコイツは諦めようとしないのか。

「分かんねぇか? つまり、この予知は至近距離なら完璧なんだよ……丁度テメェと俺ぐらいの距離なら特にな!」

 首を傾げていたフィアに村田は宣告するが早いか、猛然と駆けてきた!

 唐突な接近であったが、されど野生動物であるフィアを動揺させるには足らず。淡々と村田の動きを観察し、村田が跳び蹴りをお見舞いしてきた瞬間、素早く片手を振り上げた

 のに併せるかの如く、村田は身体を捻って蹴りの軌道を変化させる!

 あまりにも軽やかな『変化球』に、フィアは「おや?」と一言漏らすだけ。蹴りへの対応もせず、変化した村田の蹴りを顔面に受けてしまった。フィアに一撃与えた村田はアクロバティックな空中回転をしながら離脱し、華麗に着地。それ見た事かと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 フィアの本体はあくまで魚である。だから村田に蹴られた顔もただの作り物。例え破壊されても痛くも痒くもないし、ちょっとしか人間離れしていない村田の身体能力ではそこまでの威力はない。精々、村田の靴裏の土が頬をほんのり汚しただけ。

 しかしフィアの、人間如き何万人来ようが蹴散らせると疑いもしない高慢ちきなプライドを傷付けるには、十分な威力を持っていた。

「……ふぅん。意外とすばしっこい。正しく虫けらですね」

「お褒めにあずかり光栄だ。だがこんなもんで満足するなよ? 飽きるまでお代わりをくれてやるから、遠慮せず受け取ってくれ」

 あくまで余裕ぶった態度で、しかし実際は腸が煮えくり返っているフィアに、村田は軽やかに煽り返す。どうやらここまで追い詰めても、簡単には捕まってくれないらしい。いや、むしろ逃げる気はなく、返り討ちにするつもりか。

 諦めの悪い村田に、フィアは大きなため息を吐く……のと同時に、にたりと笑みを零した。

 正直まだイライラしている。

 未来予知なんて()()()()方法で散々弄ばれたのだ。下の階で雑魚共を気絶させるついでに虐めたが無関係な人間に八つ当たりをしても気持ちはさっぱり晴れない。やはり自分を弄んだ当人にギャフンと言わせねば。

 そのまたとない機会が巡ってきたのだ。これを喜ばずにどうする。

「良い度胸です……あなたがその気ならこっちとしては願ったり叶ったりですよ! さぁさっさと予知してみなさい! 今にもあなたが泣き喚く光景が見えますからねぇ!」

 立ち向かう人間を前にしたフィアは、猛々しい咆哮と共に猛然と走り出すのであった。




さぁ、ついに真正面から対決です。
未来予知といえば強敵のお約束ですが……

次回は3/18(日)投稿予定です


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Birthdays8

 部屋は一辺約十五メートルの正方形。机やロッカー、壁に立て掛けてある時計、その他多様な道具が置かれていたが、部屋の広さからすれば邪魔にはならない程度のもの。天井に何個か付いている豆電球の明かりは些か弱々しいが部屋を照らしており、足下に転がる小さな空き缶なども見える状態にある。故に部屋の四辺全ての壁にある大きな窓まで移動する事は、部屋の何処に居ても難しくはない。

 一見して、という前置きは必要だが。

 手を伸ばし、枠を掴んで横にスライドさせれば簡単に開く筈……人間の目にはそう映るだろう窓達には今、無数の『糸』が張り付いていた。人間の髪の毛など比較にならないほど細いその『糸』は、例え豆電球によって周囲が照らされていようと人間の目では確認不可能。されど気付かずに触ろうものなら『糸』は自動的にのたうち、人間の脆弱な肉体を細切れにする。つまり窓からの脱出は不可能だ。

 かといって一階へと降りるための階段にも『糸』は無数に配置してある。迂闊に足を踏み入れれば数多の『糸』に襲われ、四肢と頭が胴体と離ればなれになるのを避けられまい。此処からの脱出も、人間の身には不可能と言えよう。

 そして止めに、『糸』は部屋の内側にも蜘蛛の巣のように張ってある。部屋中隙間なくではないが ― それをするのは、圧縮・制御・維持等々の問題から酷く疲れるので ― 、仮に『糸』が見えれば鬱陶しさを覚えるぐらいの量はあった。

 未来予知を行えるモノであれば、『糸』に近付けば自身が切り刻まれるビジョンを見る。故に窓にも階段にも、部屋の隅へも移動出来ない。自らが無惨な死体になると分かって、そこに突っ込むようでは予知の意味などないのだから。

 故にこちらが真っ直ぐ突撃しても、村田は逃げ道が分からずに右往左往するばかりで避けられない……とフィアは期待していた。

 流石にそれは虫の良い発想だと、フィア自身も思っていたが。

「ふっ!」

 村田は小さく、余裕のある一声を出しただけで、時速百キロオーバーで突進したフィアを易々と回避してみせた。それも垂直に二メートル近い高さまで跳び上がり、身体をぐるんと捻らせながら。

 普通の人間ならば反応すら出来ぬ刹那で、こうも軽やかに回避運動を取れるとは。されどここまでの状況は予想通りであり、フィアも驚きや悔しさを覚えなかった。

 むしろ嬉しそうに笑みを浮かべる。

「ならばこれはどうです!」

 突進する己が肉体を床のコンクリートがひび割れるほどの脚力で止めるや、フィアは軽やかに反転。大きく腕を振り上げて宙を薙ぎ払う。

 同時にフィアの手から、無数の『糸』が吐き出された。

 総数三十本以上。一本一本の隙間は十センチとなく、人がこの隙間を通り抜ける事は出来ない。この『糸』で村田を雁字搦めにして捕縛する。それがフィアの思惑だった。

 即ちこの『糸』は不可視ではあっても、切断能力は有していない。

 空中で器用に身を捩った村田が、迫り来る『糸』を踏む事は可能だった。隙間に足先が嵌まらない、適切な角度で接した『糸』を村田は力いっぱい蹴り付け、弾丸のような速さで地面目掛け『飛行』する。そこで不様にも顔面から着地してくれれば良かったのに、村田は空中にて三回転。さながらハリウッド映画のヒーローが如く、脈動的な動きでフィアの攻撃を躱してみせた。

 だが、これでもフィアの笑みは崩れない。

 高速で飛行するかのような着地。急激な立ち位置の変化は、村田に大きな隙を作り出していた。着地の衝撃を和らげるためか彼は膝を大きく曲げ、それでもなお体幹を揺さぶる運動エネルギーの大きさに抗うように両腕を広げている。

 あの体勢からの機敏な回避は出来まい。直感的に見抜いたフィアは力強く一歩踏み出し、野球の投手を彷彿とさせるフォームで掲げた手を……その手の先から伸びる『糸』を村田に叩き付けんとした! 今度こそは止めとばかりに勢い付いた『糸』は真っ直ぐにしなり、

 ()()()天井付近にあった豆電球の一つを引っ掻いてしまう。

 無論豆電球如きで止まるほど、フィアの『糸』は柔ではない。むしろ電灯の方を弾き飛ばした――――が、それが厄介。何分今まで部屋を照らされていた明かりが消えただけでなく、落ちた電球が張り巡らせていた『糸』と接触して粉砕。凶器と化した欠片が粉塵となって辺りに散ってしまった。

 辺りが暗くなったのは、元々視力が弱いフィアにとっては今更大した問題ではない。しかし粉塵となり周囲に散ったガラス片の方は無視出来なかった。センサー用の『糸』に粉塵が触れ、うざったい程の雑音(ノイズ)を伝えてきたからである。

 人間的な感覚で例えるなら、殴ろうとして振り上げた手をべたべたと触られるようなもの。不快感にフィアは顔を顰め、一瞬その身をぶるりと震わせてしまった。無論即座に闘争心で身体の震えを抑え込み、攻撃を続けようとするが……フィア達野生動物からすれば、これは明確な『隙』である。村田は既に移動しており、フィアの『糸』は虚しく床を叩くだけ。

「ふぅ、危ない危ない」

 ガラス片の粉塵が晴れた時、村田は安堵したようなわざとらしい一言を漏らした。服の擦れる音から察するに、冷や汗を拭うような仕草付きで。

 フィアが声を頼りに振り向いた先は、フィアの右斜め後方。天井にある豆電球は一つではなかったが、無数にある訳でもない。村田の立つ場所は濃厚な闇に満たされ、フィアの目では辛うじて輪郭が判断出来る程度にしか彼の姿を捉えられなかった。

 フィアは腕を組んだ体勢で村田らしき影と向き合い、不機嫌さを隠さない鼻息を吐く。

 呆れるほどに人間離れした身体能力だ。

 回避するための道筋が見えるのは、予知能力があるのだから不思議ではない。しかしそこを通れるのはまた別の問題だ。九ヶ月もの間人間社会で暮らし、日々人間を見ていたフィアから言わせれば、人間の反応速度で自分の攻撃に対処出来るとは到底思えない。優れた力、獣染みた運動神経、迷いが見えない冷静さ……あらゆる点が、フィアの知る人間の『基準』を逸脱していた。野生の獣に近いと考えた方が良い。

 これは厄介そうだと、フィアは肩を竦める。

 対する村田は、そんなフィアの考えを見通すかのように、余裕ぶった眼差しを向けてきた。例え暗くてハッキリとは見えずとも、野生の本能で視線の『色』ぐらいは分かる。()()()な目付きにフィアは顔を顰めるが、村田が態度を改める気配はない。それがますますフィアの気持ちを逆撫でする。

「……正しく虫けらですね。ちょこまか飛び回るしか能がないところが特に」

「その虫けら一匹捕まえられないお前は、とんだマヌケだな」

「あまり調子に乗らないでくれますか? あなたは逃げ回る事しか出来ないのですから」

「なら、少しは反撃してみるか」

 ニタリとした笑みを浮かべた、瞬間、村田は懐から素早く黒い塊を二つ取り出した。

 それは所謂拳銃、銃に詳しい者ならばベレッタと呼ばれるものと分かる一品。一発で人の命を奪える凶器だ。

 ただしフィアにとっては文字通り豆鉄砲と大差ない、武器という言葉すら似付かわしくない小道具である。コイツも結局これに頼るのかと、呆れを通り越して憐れみすら覚えた。が、そのような甘い考えを抱いたのは刹那の時でしかない。

 フィアの野生の本能は、村田の銃が僅かだがフィアから()()()方角を狙っていたのを見逃さなかったのだから。

 どうせろくでもない事を企んでいるに違いない。即座にそのような判断を下したフィアの警戒心を嘲笑うように、村田の二丁拳銃は火を噴いた。

 撃ち出される太さ九ミリの弾丸二つ。人間ならば容易く致命傷を与えるその金属の塊は、その一つがフィアの顔面すれすれを掠める軌道で飛んでいく

「ふんっ!」

 のを、フィアは見逃さなかった。

 正確にはフィアの手により張り巡らせた『糸』が、であるが。村田の『狼藉』を予感したフィアは周囲に無数の『糸』を展開。通った際の空気の振動を感知し、弾丸の軌道を特定する。

 そして殆ど反射的に繰り出した拳を、掠めようとする弾丸に叩き付けた!

 人間では決して出せない超音速の鉄拳は、高々秒速九百メートルの弾丸とは比較にならないエネルギーを纏う。真っ向からぶち当たった弾丸はひしゃげ、一部粉々になりながらもその運動方向(ベクトル)を反転。

 跳ね返された弾丸は射手である村田目掛け、銃口から放たれた時以上の速さで飛んでいく! 哀れ、銃で撃たれたら死ぬ事もある人間の村田は、

 握った銃をほんの少しだけ傾けた。

 その動きを見逃さなかったフィアだったが、されど気付いた時にはもう遅い。飛んでいった弾丸は銃にぶつかると、甲高い音を奏でながら跳ねた。

 跳弾だ。無論全身を分厚い水で完全に覆っているフィアに、跳弾によって背後から撃ち抜こうとしても無駄である。しかし問題はそんな事ではない……問題は、フィアの目では弾丸が見えないという事。反射神経こそ弾速にも対応可能でも、その目は薄暗い場所の『小物』を捉えるには向いていない。『糸』を用いたセンサーは空気の振動を探知する都合、弾丸が近くを通ってくれねば反応してくれない代物だ。跳ね回る弾丸をフィアは見失ってしまう。

 故に、跳ねた弾の一つが豆電球を撃ち抜くのを防げない。頭上から降り注ぐガラス片が弾丸の所在を教えてくれたが最早後の祭り。また少し、部屋が暗くなる。

 そして『糸』にもフィアにも当たらなかったもう一発は、壁に掛けてあった時計の留め具にでも当たったらしい。金属が弾けるような音と共に時計は落ち、自らの部品と埃を撒き散らす。舞い上がった埃が張り巡らせた『糸』に纏わり付き、フィアの脳にどうでも良い雑音を発してきた。

「ちっ……目眩ましですか。小賢しい」

 村田の狙いを察し、フィアは忌々しげにぼやく。そのフィアのぼやきに「正解だ」とでも答えているのか、村田の銃が再度火を噴いた。

 銃弾が自分目掛けて飛んでくるならまだしも、全く『頓珍漢』な方向に行くとなればいくらフィアでも止められない。弾丸は壁や床で跳ね返り、次々と室内のものを壊していく。残っていた最後の豆電球も壊され、部屋の中に真夜中の暗さが戻ってしまう。

 それでもまだ足りないとばかりに、村田は銃を撃っている。立て掛けられていたものが倒れ、朦々と舞った粉塵が部屋を満たした。この状態では『糸』で周囲の気配を探る事も難しい。おまけに変な、それでいて強烈な悪臭も漂い始めた。何かしらの薬品がぶちまけられたのだろうか。これでは鼻も使いたくない。

 視覚、嗅覚、触覚……次々と封じられる五感。村田の狙いが自分(フィア)の感覚器への妨害なのは明白だった。無論その妨害は単なる嫌がらせではあるまい。恐らく『逃げる』ための下準備だろう。

 あれだけの啖呵を切りながら、おめおめと逃げるのか? 『予知』という圧倒的な力を持ちながら、結局戦うのではなく逃げようというのか? 人間ならばそう思うかも知れない。しかしフィアの本能は、現状を正確に分析していた。

 予知など自分にとってなんの脅威でもない。

 そんなフィアの考えは、強がりでもなければ過信でもない。というのも予知能力を持った程度では人間がフィアに、いや、ミュータントに勝つ事など不可能だからである。

 例えば野良猫(ミィ)ならば、人間の神経伝達速度を凌駕した超音速行動によって予知による回避すら許さない。仮に予知によって前もって回避したところで、その動作を見て、考えて、軌道修正出来てしまうのがミィである。基本的な速さが違い過ぎるために予知などなんの役にも立たない。

 ミリオンならば、目視不能レベルの拡散状態で体内に易々と忍び込み、内側から破壊するだろう。予知など関係ない。逃げる事も防ぐ事も耐える事も許さない、理不尽な攻撃が可能だ。

 そしてフィアは、その身を包む完全無欠の『水』があらゆる攻撃を防ぐ。銃弾? 鉄骨? そんなものがなんだと言うのか、分子レベルで制御された防壁に、文字通り原子一つ通るほどの穴すらない。建物の崩落を誘発する方法が『予知』出来たところで、方法すらない壁を破る事は不可能なのだ。

 即ち村田にはフィアを倒せない――――その事実を最も理解しているのは、他ならぬ村田自身である。絶え間なく見ている『未来』のイメージが、その事実をしつこいぐらい突き付けている筈なのだから。

 彼の勝利条件は『逃げ果せる』事だけである。そして性質の悪い事に、彼を捕まえて警察に突き出したいフィアとしては、村田の勝利条件はそっくりそのまま敗北条件となってしまう。仮にここで逃げられたとしても、匂いを辿ればまた追えるだろうが……予知を暴いてしまった事で村田の警戒心は大きく高まっている筈。捕まえるのは今まで以上に困難だろう。何より、時刻的に『今日』が花中の誕生日だ。追い駆けっこをしている暇なんてない。何がなんでも奴の目論見を許す訳にはいかなかった。

 しかし奴は、一体どうやってこの危機的状況を切り抜けるつもりなのか?

 焦る必要はない。窓や階段には既に『糸』が設置してある。暗闇の中だろうが粉塵渦巻く中だろうが接触したものをなんでもかんでも切り裂く無差別兵器であり、出口を塞いでいる状況は変わらないのだ。されどのんびりもしていられない。未だ無駄な銃撃を止めず、うろうろと練り歩く村田に、まさかなんの作戦もない筈がないのだから。

 果たして奴は何を企んでいる? 何を狙っている? 粉塵が未だ晴れない中更に『糸』を繰り出し、鼻が少し痛いのも我慢して周囲の臭いを嗅ぎ続ける。足音と跳弾に耳を傾け、些末な変化も逃さない。視覚と味覚以外を研ぎ澄まし、数多の情報を取り込み続け――――

 ついに変化を察知した。

 ただし『糸』でも鼻でも耳でもなく、足下からだが。

「なんです? 揺れ……!?」

 自身の発した言葉で全てを察するフィア。察したが、一手遅い。

 微かに感じた程度の揺れは、次の瞬間には大地震が如く規模となったのだから!

「なっ!? こんな時に地震……!?」

「はっはっはっ! 気付かなかったのか!」

 最早隠す必要もないとばかりに、上機嫌に笑う村田。彼の態度が全てを物語っていた。

 まさか作戦がない筈もない――――その()()()だ。

 村田は何も狙ってなどいなかった。彼の様々な行動には布石どころか意味すらなく、ただ待っていただけなのだ……この建物が崩れるほどの地震を。

 なんと小賢しい狙いに、フィアは思わず歯噛みしながら睨み付ける。しかし今は苛立ちを覚える暇すら惜しい。

 建物を襲う揺れの規模はかなりのもの。そして未だに止まない、止む気配がない。震度という人間が用いる尺度には詳しくないので正確な値は出せないが……ミシミシと壁や床が音を鳴らし、歪んだ天井から粉塵が落ちてくる状況は明らかに危険だろう。

 恐らくこのままでは建物の倒壊は確実。フィアからすればこんなちっぽけな建物の倒壊に巻き込まれてもなんともない、が、建物が壊れたなら壁に無数の穴が開く事になる。フィアが張り巡らせている『糸』はあくまで今この瞬間にある出口だけを塞いでいる状況だ。新しく大穴が空けば、村田はそこから逃げ出せる。

 村田の思惑を阻止する方法は二つ。一つは穴が出来そうな場所を予め塞ぐ事であり、もう一つは建物が壊れる事自体を防ぐ事。

 本能的にフィアが選んだのは、より野蛮で力尽くの方法……能力で、無理やりにでも倒壊を防ぐ方だ!

「この私を嘗めるんじゃありませんよォッ!」

 フィアは全身から無数の『糸』を展開し、建物全体にくまなく伸ばしていく! 一本一本は人の目にも見えない細さだが、いずれも水を超高密度で固めたもの。何十何百と這わせれば、内側に向けて流れ込もうとするコンクリートの壁を支えるなど造作もない。

 見事建物の倒壊を食い止め、フィアはしてやったり……などと笑みを浮かべる余裕はなかった。

 揺れは収まるどころか、ますます激しさを増している。ただの地震がこんな揺れ方をするとは ― 大地震など経験した事もないが、本能か花中の知識からか『知って』はいる ― 思えない。何が起きているのか感覚器をフル稼働させたところフィアは()()()()()()も、事態の進行はフィアの思考よりも早かった。

 建物全体が傾き始めたのである。

 間違いない。大地が揺れているのではなく、地面が陥没し、その穴にこの建物は落ちているのだ! 最悪の状況だった事が現実という形で立証され、フィアは一層悔しさで唇を噛み締める。

 そう、最悪なのだ。ただの揺れによって壊れるのを防ぐ事すら、かなり強引な力技でなんとかしていたのだ。天井を支え、傾く柱を支え……『内側』に向かう力を押し留めていただけ。壁の一部が『外側』に倒れそうになった時には反対側の壁を押し、コンクリート伝いに引っ張って力の向きを変えていたのである。例えるなら、重しの乗った天秤の反対側を指で押さえて無理やり均衡を保つようなもの。

 だが建物の土台自体が崩れては、この方法では瓦解を止められない。掛かる力は一方向ではなく複数。こうなると向き合った壁が同時に『外側』へと倒れそうになる事もあり得て、押して引っ張れる箇所がなくなってしまうからだ。

 十数秒と崩壊を食い止めただけでも御の字。人間には為し得ない、超越的な技なのは変わりない。されど完全に抑える事は叶わず。

 左右の壁に掛かった力により天井が、さながら卵を割るかのように裂けてしまった。

「っ!」

「その反応は、既に見えてるぜ」

 即座に開いた穴に『糸』を伸ばしたフィアだが、ここで村田が動き出す。

 天井はフィアが『糸』によって支えていたが、集中力の問題で全体にくまなく『糸』を敷き詰めていた訳ではない。むしろ面積的には僅かなもので、割れた天井の瓦礫が続々と落ちてくる。

 村田は人間離れした身体能力を活かし、この瓦礫の上に跳び乗ったのだ。予知を用いているのだろう、繰り返す跳躍に殆ど間はなく、難なくその身を高く登らせていく。フィアも逃すまいと手を打とうとするが、建物の崩壊に意識を取られ対応が間に合わない。

「はっはっはっ! 俺の勝ちだぁ!」

 高笑いを上げながら、村田はついにフィアが作り上げた『監獄』の外……建物の屋根の上に到達した。最早この場に村田の行動を縛る『糸』はない。

 崩壊を続ける屋根に平静と立ちながら、彼は意気揚々と前を見据えて

「は?」

 唖然とした声を漏らした。

 足場は今も崩れている。このまま立っていたら、何時崩落に巻き込まれるか分かったものではない。いや、何時までも留まっていたら、下に居る『怪物』に追い付かれる……例え予知がなくても分かる危機が迫る中、しかしそれでも村田はその場で立ち尽くしていた。捨てられた子犬のようにカタカタと身体を震わせ、酸欠に陥った金魚のように口をパクパクとさせるばかり。走るどころか歩きもしない。ただただその場に留まり続ける。

 やがて、建物を襲う揺れは収まる。建物は壁が大きく崩れ、物理学的にどうして形を保てているのか分からないぐらいボロボロになっていた。

 その崩落を能力で食い止めているフィアが、崩れ落ちて出来た屋根の大穴からゆっくりと身を乗り出す。足下から多量の水を出して身体を持ち上げる様は、まるで浮遊するかのよう。先程までの焦りは何処へやら、今はもう余裕の笑みを浮かべていた。

「……おんやぁ? どうしましたかぁ?」

 ねっとりと、嫌みったらしく、フィアは村田に呼び掛ける。ついにフィアが迫ってきたというのに、それでも村田は逃げ出さない。精々油が切れたオモチャのようなぎこちない動きで、背後に迫ったフィアの方へと振り返るだけ。

「て、めぇ……なん……だよアレは……!?」

 ようやく出てきた言葉も明らかに動揺していて、粗暴な言い回しに反して気迫はまるで感じられなかった。

 当然、ただでさえ自信満々なフィアがこんなしょぼくれた脅しに怯む筈もない。むしろくすくすと楽しそうに笑い、村田の感情を逆撫でする。

 ただしフィアには、村田を馬鹿にするつもりなどこれっぽっちもない。彼女が笑っているのは、嬉しいからである。何しろ自分の『策』が良い感じに決まったのだから……あれを策と呼べるなら、と前置きはすべきだろうが。

 未来予知で攻撃が察知される。優れた身体能力で尽く躱される。

 このような敵を倒すにはどうすれば良いのか? フィアが導き出した答えはとてもシンプルだ。察知したところで意味がない、身体能力など役に立たない圧倒的に大きな力で叩き潰す――――強引かつ出鱈目な、力によるごり押し。

 フィアは村田の予知の『範囲外』である周囲三百メートルよりも離れた位置に、高さ五十メートルを超える巨大な水の壁をおっ立てて包囲したのである。

 水壁は隠れる事もなく市街地のど真ん中に存在し、地上の建物を容赦なく呑み込んでいた。目撃者がどれだけ出ているか? 被害はどれほど大きいか? 想像も付かない。

 というより、フィアはそんな事など何も考えていなかったが。

「むふん。どうですビビりましたか? 総量百万トンの水で作った壁は圧巻でしょう? いやはや操る量だけならまだまだ余裕がありますけどひっそり静かにとなると流石に疲れますねぇ。こーいう細かい作業は苦手なんですよ」

「ひ、百……!? あ、あれは、お前が作ったのか!?」

「その通り。私がこのアジトに乗り込んだ頃から準備をしていました。とはいえ実は一つやらかしてしまいまして。あれだけの水を集めるために近くの上下水道から水を引っ張ってたのですけどこれが思ったより少なくて。なのでちょっと地下水に手を付けてしまいました」

「地下水って……まさ、か、さっきの揺れは」

「はい私が原因です。ちょーっと地下水を勢い良く吸い上げ過ぎたみたいで地盤沈下を起こしてしまったようでして……あなた()()()()()()のですかぁ?」

 ケラケラと笑いながら、フィアはおちょくるように問い詰める。掴んだ幸運が相手の掌の上だったと知り、村田は一層顔を引き攣らせた。

 否、彼を()()()()のはそれだけが原因ではない。

 日本の一般家庭の水使用量は、一人当たり一日二百五十~三百リットル。仮に三百リットルとした場合、フィアが持ち出した水は三百万人以上の人々が一日に必要とする水とほぼ同量だ。東京都全域での一日平均水使用量の二十五パーセントに相当すると言い換えても良い。村田はここまで詳細な知識は持ち合わせていなかったが、百万トンという水量が如何に膨大であるかは分かる。深夜とはいえフィアがアジトを襲撃してからここまでの時間……数分か十数分の間にこれほどの水を動かせば、社会に混乱をもたらすのは避けられない。恐らく今頃病院や警察、消防などの組織はてんやわんやだろう。『犠牲者』だって出ているかも知れない。

 当然このような事態の再発を防止せねばならない。人間の調査が入り、徹底的に原因を究明するに決まっている。そうなればきっと、フィアの存在が明らかとなる筈だ。

 そして社会がこのような『危険生物』を、野放しに出来る訳がない。異星生命体の襲来により、人々は生命が文明にとってどれほど危険であるのかを知ってしまったのだから。

「お前馬鹿か!? こんな、こんなに水を持ってきて、騒ぎになったら……」

「なったらなんだと言うのです? 常識なんていう自分達の思い込みを信じて疑わない人間如きには私がしたなんて分かりませんよ。仮に分かったところで別に困りませんし」

「はぁっ!? 困らないって、警察、いや、自衛隊が」

「ですから困らないと言っているのです。人間なんて雑魚なんですから何万人来ようと捻り潰してやりますよ」

 平然と答えるフィアに、村田はパクパクと口を空回りさせる。その滑稽な姿を見てフィアはまたゲラゲラと無邪気に笑い、村田を馬鹿にした。

 やはり所詮『人間』である。

 自分の力に溺れる一方、本気で人間を敵に回すのは不味いと無意識に思っているのだろう。でなければ、同業者は殺す癖に、国家権力の一つである警察から逃げる訳がない。未来予知という圧倒的な力を得ながら、それでも尚人間に負ける可能性を考えているのだ。本当に凄い力を手にしたならそんな事考える訳がない……自分(フィア)のように。

 尤も『あっち』は自分と同じ考えかも知れないが。

「さぁて今からあそこにある水の壁をきゅっと引き寄せてあなたをぶっ潰そうと思うのですが何か遺言とかはありますか? ああ殺すつもりはありませんよでもほらもしかしたら加減を間違うかも知れないので念のために」

 色々考えつつもまずは目当ての輩を確保しようと、フィアは開いた掌を村田に見せる。フィアの考えを言葉で理解したのか、それとも『高さ五十メートルの水塊が四方八方隙間なく押し寄せ、自分を丸呑みにする』光景を見てしまったのか。村田の顔は今や情けなさを通り越して滑稽なぐらい引き攣っていた。だらだらと冷や汗を流し、認めたくない『未来』を前にして青ざめている。口は餌を前にした雛鳥よりも必死にパクつき、何かを言おうとしている様子だ。

 その『言いたい事』は喉が震えて中々出てこなかったが、ごくりと息を飲んだ拍子に少しは回復したのか。今度はべらべらと饒舌に語り始めた。

「ま、待て! その、話し合おう! そうだ、お前は何が目的なんだ!? 欲しいものがあるならなんでも渡す! 薬か!? それとも金か!?」

 村田は尻餅を撞き、後退りしながら命乞いをしてくる。

 フィアは村田からの問いに、ふむ、と頷きながら答えた。

「目的が何かと言ったらまぁお金ですね。あなたを警察に突き出して賞金をもらうつもりです」

「な、なら金は俺が幾らでも出してやる! 幾らだ!? 百万か! 二百万……いや、い、一千万! 一千万出そう! どうだ!」

「ほほーう。一千万ですか。それはかなりの大金ですね」

 村田の必死な提案に、フィアは少し考え込む。

 悪くない提案である。フィアはお金を『合法的』に稼ぐ手段として犯罪者の確保を選んだのであり、お金がもらえるなら村田(犯罪者)に拘る必要はないのだ。

 無論村田を野放しにすれば、彼は再び違法薬物の売買で利益を上げるだろう。精神を破壊する薬により、何百何千もの人間の人生が狂わされる……それぐらいはフィアにも予想が付く。が、別に人間が死のうが破滅しようがどうでも良い。そんなのは薬を使う人間の自業自得であり、薬物中毒者に殺される人間など興味すらないのだから。

 だから村田をこのまま逃がしても、フィア的には何も困らない。

「うーむ成程それはそれで良い話ですね」

 フィアは顎を擦りながら、肯定的な答えを返した。

 途端、村田は子供のように人懐っこい笑みを浮かべる。

「だ、だろ! だから……」

「じゃあ予知してみてください」

「……え?」

「ですから予知してみてください。わざわざ答えなくてもあなたなら分かるでしょう?」

 フィアの言いたい事がよく分からなかったか。村田はしばし呆けたように固まっていた。されどしばらくして、その目に涙を浮かべ、ズボンの股間部分をぐっしょりと濡らす。

 よく分からなかったから、きっとフィアの言う通り予知したのだろう。予知をしたから、見えてしまったのだ。

 押し寄せる大量の水が、自分を丸呑みにするビジョンが。

 そうして身動きが取れなくなった自分に降り注ぐ、岩をも砕くフィアの鉄拳が。

「確かにあなたからお金をもらうのも悪くはないでしょう。ですが逆にあなたからもらわねばならない理由もありませんからね。ぶっちゃけあなたには色々やられてムカついているのでちょっとボコらせなさい」

 そして告げられる、フィアの底なしに身勝手な動機。

 村田は裂けんばかりに口を大きく開けて、

 押し寄せる洪水の大合唱が、彼のちっぽけな叫びを飲み干してしまうのだった。

 

 

 

「……えと……つまり?」

「つまりこの私がこの町に巣くう巨悪を打ち倒したのですよ! むふんっ!」

 パジャマ姿の花中に、フィアは胸を張りながら自慢した。

 時間は午前三時半。星明かりしか届いていない地上は真っ暗闇に包まれ、街灯なしでは足下すら満足に見えない状態にある。前日の昼間に蓄えた熱は放射冷却で粗方宇宙に逃げており、かなり寒い。そもそもこの時間、大半の人間は寝ている。しかも良い感じに深い眠りに入っている頃合いだ。

 このような時間に、花中は外に呼び出された。おまけに現在なんだか色々な『目撃情報』がネット上を飛び交っている。曰く、廃ビルが並ぶ区画で大規模な地盤沈下が起きたとか、巨大な津波が町中に突如現れたとか、○○市全域で原因不明の断水が発生したとか……絶対、目の前で楽しそうにしている友達(フィア)が何かやらかしている。

 花中はそんな理由から口元をひくつかせていたが、フィアは全く感知していない。何故なら花中はその事について語らなかったから。

 花中は町の平和を守っているお巡りさんに呼び出され、地域の安全を守る拠点である交番に居るのだ。迂闊な事は言えないのである。

「いやー、なんというかごめんなぁ。この子が麻薬組織のメンバーを捕まえたって言って、本当に捕まえてきたものだからさ。それでまぁ、住所とか名前が必要になったけど、そーいうのよく分からないから一緒に住んでる人を呼んでほしいって言われて」

「あ、はい。その、すみません。この子、色々複雑な事情がありまして……」

 花中を呼び付けた若い警察官――――『あの交番』でクリーチャーズの情報をフィアに話してしまった篠田は、申し訳なさそうに謝りながら花中に事情を話した。花中の方もお互い様だとばかりに機嫌を悪くする事もなく、ぺこぺこと頭を下げる。

 フィアはそんな二人の姿を不思議に思う。花中は悪い事をしてないのに何故謝るのか。篠田の方も、花中を呼んでくれと頼んだのは自分なのに何故申し訳なさそうなのか。

 人間達の支離滅裂な言動に、事の元凶であるフィアは暢気に首を傾げた。いや、変なのは花中達だけではない。フィア達から少し離れた位置……そこに居る数名の警察官達 ― なんでも本庁から派遣された応援の人達らしい ― も戸惑った様子だ。警察官達の足下には伸びた犯罪者『クリーチャーズ』のメンバーが転がっている。探し求めていた輩を引き渡されたのだから素直に喜べば良いのにどうして困ったような顔をしているのか。

 全く人間とは不可解な生き物だ。人間の考え方など特に興味もないので、フィアはさらっとそう思うだけだった。

 それよりも、である。

「まぁ、とりあえず君の名前と住所、それと連絡先は書いてくれたし、これで大丈夫。聴取を進める中で時々話を訊きに行くと思うけど、あとお願いするのはそれぐらいの筈だよ」

 花中にお礼を伝える篠田。『クリーチャーズ』のメンバーを拘束していた他の警察官達も、ぞろぞろと帰ろうとする。

 彼等をこのまま帰してはならない。フィアは駆け足で、花中と話していた篠田の傍へと駆け寄った。

 そもそもフィアにとって『クリーチャーズ』の壊滅などどうでも良いのである。一瞬怒りで忘れかけていたが、あくまで花中への誕生日プレゼント、それを買うためのお金を手に入れるために犯罪者を捕まえただけだ。

 だから訊かねばならない。

「すみません。一つ訊きたい事があるのですが」

 篠田の裾を引っ張り、フィアは能天気に呼び止める。篠田はすぐに振り返り、犯罪組織壊滅という偉業を成し遂げたフィアに笑みを返した。

「うん、なんだい?」

「コイツらを捕まえたら賞金をもらえるってあなた言ってましたよね?」

「え? ……あ、あー、金一封の事? まぁ、多分もらえるよ。うん」

「ではそのお金は何時頃もらえるのですか? あなたはお金を持ってなさそうですから今すぐ寄越せとは言いませんけど今日の何時ぐらいになりますかね?」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

 あまりにも不躾な事を、それでいて無邪気に尋ねるフィアに、花中は慌ててその口を一度止めようとする。

 されど篠田は、フィアがお金目当てで犯罪者を捕まえようとしている事を既に知っている身。一瞬キョトンとしつつも、彼は快活に笑った。

「はっはっ、流石に今日は無理だよ。捕まえた君にこれを言うのは心苦しいけど、まだ彼等は容疑者であって、犯罪者じゃないんだ。彼等が懐にしまっていた物が本当に違法薬物なのかも確認しないといけないし。まぁ、個人的には確定だとは思うけど、そういった手続きを済ませて、初めて『あなたの協力のお陰で犯人を逮捕出来ました』と言える訳さ」

「えっ……では一体何時……?」

「うーん。会計とかの問題もあるから、そこまで遅くはならないと思うけど、一週間後ぐらいじゃないかなぁ」

「いっ……!?」

 警察官から教えられた内容に、フィアは顔を一気に青くした。

 お金の受け渡しなんて花中の買い物風景ぐらいしか知らず、てっきりポンッと渡してもらえるものだと思っていた。まさかそんなに時間が掛かるとは思っておらず、故に『犯罪者を捕まえる』以外にお金を稼ぐ方法など考えていない。

 つまり、このままでは花中へのプレゼントが買えない。

「他に質問はないかな? それじゃあ、失礼するよ」

 唖然とするフィアを残し、篠田はそそくさとこの場を後にしてしまう。慌ててフィアは手を伸ばしたが、しかし捕まえたところでどうすれば良いのか。

 フィアの手は篠田を捕まえられず、他の警察官達もすんなりとパトカーに乗り込み、『クリーチャーズ』と共に去ってしまった。残されたフィアは呆然としながら、パトカーが突入した夜の闇を見つめ続ける。

「……どうしたの? フィアちゃん?」

 尤も、花中に名前を呼ばれた瞬間ビクリと飛び跳ね、我を取り戻したが。

「えっ!? どどどうもしませんけど!?」

「えと、何か悩みがある、なら、話ぐらいは、聞けると、思うけど……」

「うぅぅぅ……」

 どうやら自分が悩んでいる事を見抜き、声を掛けてきたらしい。それ自体は構わないのだが、悩みの『原因』こそが花中な訳で。

 どうせならもう正直に全部話してしまおうか、ともフィアは考える。考えるのだが……何故か口が上手く動かない。

 誕生日プレゼントを買うためのお金がない、そのお金を手に入れようとしたけど上手くいかなかった、だから誕生日プレゼントは買えない。どれも本当の事だ。本当の事だから、きっと花中はガッカリする。ミリオン曰く、人間は誕生日パーティーにプレゼントをもらうものだと思っているようなのだから。

 落ち込む花中は好きじゃない。好きじゃないから見たくない。

「なんでもないです! 私ちょっとまだやる事がありますのでこれにて失敬!」

 だからフィアはきっぱり誤魔化すや、追求される前に猛然とこの場を後にした。自動車の何倍も速い、とんでもないスピードで。

 そんな自分の背中を不思議そうに、そして寂しそうに見つめている、花中の目に気付かぬまま……




はい、予想通り大失敗です(2話目で懸念済み)。
花中の誕生日はちゃんと祝えるのか!? 次回に続く。

あ、ついでに村田の力についても明かされます。

次回は3/25(日)投稿予定です。


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Birthdays9

「「ハッピーバースデー! はなちゃーん(花中ぁ)!」」

 軽快な破裂音と共に、二つのクラッカーから鮮やかな色紙が噴き出し、辺りを華麗に飾った。次いでパチパチと、疎らながらに起きる拍手。和やかな笑い声もおまけとばかりに付いてくる。

 それは『誕生日パーティー』としてはごく有り触れた光景だろう。

 しかし花中にとっては、初めて友達に誕生日を祝ってもらえた瞬間である。さながら決壊したダムの如く勢いで嬉しさが溢れ出し、感極まった花中の目には大粒の涙が浮かんだ。身体の力も抜けてしまう。もしソファーではなく普通の椅子に腰掛けていたなら、腑抜けた身体ではしっかりと座れず、転がり落ちていたかも知れない。

 震える喉からは、引き攣った声を出すのが精いっぱいだった。

「あ、ありが、とう……う、ぐすっ……」

「ちょっとぉ、誕生日パーティーぐらいで泣かないでよ。見ているこっちが恥ずかしくなるじゃない」

「相変わらず大袈裟だなぁ……というか、誕生日って祝ってもらうと嬉しいものなの? 美味しそうなものはいっぱい食べられるみたいだけど」

 一人泣きじゃくる花中に、祝ってくれた友達二匹――――ミリオンとミィは呆れ顔を浮かべる。

 冷静にツッコミを入れられると猛烈に恥ずかしくなってきて、花中は真っ赤にした顔を俯かせた。尤も、うへへへへ、と口から本心がだだ漏れ状態。そんな声をしっかり聞き届けた二匹は揃って肩を竦めた。

 大桐家のリビングにて行われた、花中の誕生日パーティー。

 集まったのはミリオンとミィの二匹だけ。ミリオンに誘われてやって来たというミィに至っては体重が重過ぎて家に上がれず、何時も通り庭に続くガラス戸から上半身だけ乗り出している状態だ。ソファーの前にある小さなテーブルに乗せられた料理の大半は花中が作った自前のもので、ミリオンが買ってきてくれたケーキも切り分けられたものが『四つ』だけ。お世辞にも賑やかなパーティーではないが、だけど花中にとっては最高のパーティーだった。

 唯一残念なのは、大親友である『彼女』がこの場に居ない事だけである。

「……それにしても、フィアちゃん、何処に行ってるんだろう」

 不意に思い出してしまい、花中はぼやくように独りごちる。

 昨日のお昼頃ちょっと『ご飯』を食べに行っただけかと思ったら、夜になっても帰ってこず、真夜中には薬物の密売組織を壊滅させていた。何故そんな事になっているのかさっぱり分からず困惑していると、フィアは急に慌てふためき、何処かに去ってしまった。今まで数多のミュータントの目的を推察し、見抜いてきた花中であるが、今のフィアが何をしたいのかさっぱり分からない。

 一応ミリオンからは「青春してるだけだからほっといて平気よ~」と伝え聞いているので、心配はしなくて良いだろうと考えているが……自分から言い出した誕生日パーティーに遅れるとなれば気にもなってくる。

 何より、フィアは花中(じぶん)と遊ぶのが大好きなのだ。色々と忘れっぽい性格ではあるが、好きな事についてはちゃんと覚えているタイプでもある。この誕生日パーティーをすっぽかすとは考え難い。何か、のっぴきならない事態に見舞われているのでは……

 フィアの事が頭から離れず、花中は隙あらば、そわそわとした気持ちで身体を揺すってしまう。

「はなちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫ってさっき言ったでしょ?」

「へぅ!?」

 ついには内心を見抜いたミリオンに窘められてしまい、ハッとした花中はわたふたしてしまった。折角のパーティーなのに気もそぞろでは怒られるかも……と思う花中を一蹴するかのように、ミリオンは楽しげに笑うだけ。

「ねぇー、ミリオン。そろそろプレゼント渡さないの?」

 ミィに至ってはマイペースに、何処からか取り出した『包装された箱』を見せながらミリオンに尋ねていた。

「あっ! もぉー、勝手に出しちゃ駄目でしょ。そーいうのはタイミングが大事って言ったじゃない」

「だってこの調子じゃ何時までも渡せそうにないんだもん。というかあたし、勿体ぶられるのも勿体ぶるのも苦手だし」

「ええい、これだからケダモノは……」

 能天気なミィの態度を前にして、ミリオンは諦めたようにため息を吐く。

 そんなぐだぐだな空気の中で、花中は大きく目を見開いた。

 聞き間違いか? 或いは自分の願望がふっと湧いてきて、そうなった時を想像して勝手に舞い上がり、現実と夢の区別が付かなくなったのだろうか。

 だけど、もしかしたら、もしかして、もしかするかも。

「あ、あの……今、『プレゼント』って……」

 恐る恐る、花中はミィ達に尋ねる。

 花中に訊かれた二匹は、息ぴったりに互いの顔を見合う。

「うん、言ったよー。ほい、あたしからのプレゼントね」

「もぉー……色々考えてたのに全部台なしじゃない」

 そしてミィは底抜けに明るく、ミリオンはあからさまにガッカリしながら、二匹はプレゼントを花中へと見せた。

 可愛らしい包装の施された小箱を差し出され、花中の身体は勝手に飛び跳ねた。胸は焼けるように熱くなり、手足が強張って痛い。目に浮かぶ涙の所為で前が見えず、震える喉は感謝を伝えるどころか呼吸すら満足に出来ない有り様である。

 正直、割と苦しい。しんどい。なんというか、気絶しそうだ。

 それでもこの感覚にずっと浸かっていたいぐらい、花中の頭は嬉しさ一色に塗り潰された。

「ぁ……あり……げほっ! ごほっ! けほっ!」

「いや、喜んでくれるのはこっちとしても嬉しいけど、咳き込むのはどうなの?」

「はなちゃん、もうちょっと落ち着きましょ? むせび泣くにしても、せめて中身を見てからにしてほしいから」

 なのでお礼を言おうとしたら、言葉が詰まるどころか咳き込む有り様。なんともマヌケな醜態を晒してしまった羞恥と、二匹から割と容赦ないツッコミを入れられ、段々と花中の気持ちも落ち着いてくる。『普通』の嬉しさぐらいまで気持ちが静まったところで、こほんと綺麗に咳払い。

 しっかりと腰に力を入れ、ソファーから立ち上がった花中は庭へと通じる窓へと向かう。そこで待つミィの前まで来ると、ゆっくりしゃがみ込んだ。

「ありがとう、ございます。えと、ここで開けても、良いですか?」

「勿論良いよー」

 それから満面の笑みを浮かべて、ミィからのプレゼントを受け取る。了承ももらい、花中は早速、受け取ったプレゼントの包装紙を解いていく。

 鮮やかな色紙の中にある小さな紙箱を開けたところ、猫をデフォルメしたようなキャラクターのアクセサリーが収まっていた。

「ふわぁぁ……キーホルダー、ですね?」

「うん。雑貨屋で見付けてね。可愛いから花中が好きそうだなぁって思って買ってきたんだけど、どう?」

「はいっ! すっごく、可愛いです!」

 素直な想いを伝えれば、ミィは満足げに胸を張る。その姿がまた可愛らしくて、花中の口から小さな笑い声が漏れ出てしまう。

 折角もらったプレゼント。なくしてはならないと、花中はスカートのポケットに入れていたスマホを取り出し、早速付けてみる。アクセサリーは小さく、付けたところで劇的にスマホのシルエットが変わる訳ではない。だがそれまでの飾り気がない、『事務用品』のようなイメージは一変。年頃女子のお洒落アイテムへと進化したように感じられた。

 なんだか持ち主である自分までお洒落をしている気分になり、ちょっと恥ずかしい……同時に、こんな可愛いものをもらえたんだぞと自慢したくもなる。にへへへへへ、という珍妙な声が、そんな花中の気持ちを代弁していた。

「そっちは堪能したかしら? じゃあ、次は私の番ね」

 花中が喜びに浸る最中、傍までやってきたミリオンが次のプレゼントを渡してきた。嬉しさの重ね掛けに、花中はもう、上がりっぱなしの口角が痛くて仕方ない。

 スマホを大事にしまい、花中はミリオンから受け取ったプレゼントを、了承を得てから開ける。ミィのプレゼントよりもちょっとだけ大きな箱の中身は……可愛らしい花柄模様のマグカップだった。

「わぁ……! 可愛いです! これっ!」

「はなちゃんこういうの好きかと思って買ってみたけど、喜んでもらえたなら何よりね。レンジに掛けても大丈夫なやつだから、ホットミルクとかココアもそのまま作れるわよ。まぁ、もう大分暖かい季節だから、そーいうの作る機会なんてないかもだけど」

「大丈夫です。ちゃんと、大事に使って、何年も使います、から」

「それはプレゼントした甲斐があるってものね」

 言葉通り両手で大事にマグカップを掴む花中に、ミリオンは嬉しそうに微笑みを向けてくる。

 そして花中は受け取ったプレゼントを大事に大事に、食器棚まで運んだ。

 これらの品は、普通の人からすれば大したものではないかも知れない。いや、ミィやミリオンの態度を鑑みれば、彼女達にとっても『些末』な品である筈だ。それでも花中にとっては、胸が弾み、目頭が熱くなるもの。かつての、友達がいなかった頃の花中なら、この嬉しさに耐えきれず失神していただろう。今でも気を弛めたら、そのまま熱に浮かされて倒れてしまいそうだ。

 だけど今の花中は欲深だ。

 友達二匹からプレゼントを貰えた。それだけで自分はとても幸せな身だと思うのに、『もっと』なんてワガママは思うのだって悪い事なのに。

 フィアちゃんからのプレゼント、欲しかったな……

「あら。ようやくお姫様が到着したみたいね」

 そんな考えが脳裏を過ぎった、丁度そこに被せるかのように、ミリオンが不意に独りごちた。

 その独り言の真意を確かめる間もなく、玄関の方からガチャリと扉を開ける音がする。

 音の意味を理解するや、花中は右往左往しつつ、ちゃんとマグカップを食器棚にしまってから、リビングを駆けた。目指すのは当然玄関。とてとてと今にも転びそうな足取りを止めず、リビングの戸を勢い良く開ける。

 辿り着いた玄関では、顔を俯かせたフィアが立っていた。

 

 

 

 結局、戻ってきてしまった。

 花中の家に戻ったフィアは、自身の選んだ行動に辟易していた。時計なんて持っていないが、体内時計の感覚からしてもうお昼は過ぎただろうか。誕生日パーティーには多分遅刻している。花中は時間にきっちりした性格なので遅刻なんてしたら怒られるかも知れないのに。前へ進むための『足』が重くこんなにも時間が経ってしまった。

 そしてこれだけ油を売っておきながら用意したのは……

「フィアちゃん!」

 俯いていたフィアだったが、不意に名前を呼ばれ慌てて顔を上げる。そこには、リビングからやってきたのであろう花中の姿があった。

 玄関戸を普通に開けたので物音は立てた。だから花中が『来客』に気付き、こうして出迎えに来るのは必然。それぐらいはフィアも分かっている。

 分かっているのに、フィアは思いっきり怯んでしまった。

「花中さん……えと……ただいま帰りました……」

「帰りました、じゃないよ。今まで、何処に行ってたの?」

「その……ちょっと探してて……」

「え?」

 花中に問われ、バツが悪そうにフィアは答えるフィア。しまった、と思った時にはもう遅い。花中は何かあったのかと今にも訊きたそうな眼差しで、じっとフィアを見つめてくる。

 誤魔化す、という選択肢はない。どの道何時かは話さないといけない事なのだから。

「……………これです」

 それでもしばしおどおどしてから、観念したようにフィアは片手を前に突き出す。

 花中は出されたフィアの手をじっと見つめてくる。フィアはその手を開こうと、だけど躊躇ってつい閉じて、そんな動きを数度してからようやく手の内にあるもの……一本の草を見せた。

 ぱっと見ただの草としか思えないそれは、よくよく見れば四つ葉のクローバーだと分かるだろう。オモチャではなく本物の。逆に言えばそれ以外の特徴がない、極々普通のクローバーである。

 ()()()()()が一体なんなのか? さしもの花中にも分からないに違いない。

「えと……これ、クローバーだよね? これが、どうしたの?」

 だから花中がこう尋ねてくるのは予想通り。

 加えて難しい質問でもない。フィアはその答えを既に知っていて、ほんの一言で片付くほどにシンプル。すぐにでも答えられる。

「……プレゼントです」

 なのに、この一言を絞り出すのに、フィアは短くない時間を必要とした。

「……プレゼント?」

「花中さんの誕生日の……私お金とか何も持ってなくてどうにかしようとはしたのですけどでもなんか全然思っていたようにいかなくてだからずっと何かないか探したのですが見付からなくてその……ごめんなさい」

「……そっか」

 捲し立てるように出てきた言葉も、花中には一回頷かせるだけの力しかない。しょんぼりと、フィアは俯いてしまう。

 あれだけ自信満々に啖呵を切ったのに。

 期待をさせておきながらこの体たらく。きっと酷く失望させてしまった筈だ。無論この程度で嫌われるとは思っていない。自分と花中の友情はそこらの有象無象とは比較にならないほど強固だと、フィアは特に『根拠』もなく信じているからだ。

 しかし失望させたという事が、酷く辛い気持ちにさせる。

 何故ここまで自分は落ち込んでいるのか、フィア自身にもよく分からない。花中の悲しい顔を見たくないというだけで、こんなにも自分が落ち込むとも思えないからだ。そして分からないのでどうしたら良いのか考えられない。いっそこんな草は握り潰してなかった事にしてしまえば――――

 その考えが過ぎるや無意識に閉じようとした『掌』を、花中が不意に触ってきた。自分の力の強さはフィアが一番よく知っている。もしこのまま閉じたなら、人間の脆弱で貧相な手など一瞬でケチャップの仲間入りだ。大切な友人を傷付けてはならないと、フィアは慌てて手を開く。

 だから掌の上にあった四つ葉のクローバーを、花中に持っていかれてしまう。

「うん、凄く嬉しい。ありがとう、フィアちゃん」

 そして花中は大事に両手でクローバーを掴みながら、心底嬉しそうな笑顔と共に感謝を述べてきた。

 フィアは自らの聴力に絶対的な自信を持っている。何十メートル離れたところの内緒話だって聞き逃さないし、音の反射具合から地形を把握する事だって可能だ。ましてやこんな、一メートルも離れていない花中の声を聞くぐらい、失敗するなどあり得ない。

 それほどの自信を有する耳が捉えた言葉を、フィアはすぐには理解出来なかった。ややあってようやく意味を解した時にも、フィアは喜ぶよりも前にキョトンとしてしまう。次いで、やはり喜ぶよりも前に、困惑してしまった。

「……え? こんなものでよいのですか?」

「うん。だって、フィアちゃん、一生懸命これを、探してくれたんだよね?」

「へ? ええまぁ確かに一生懸命と言えばその通りでしょうけど」

「なら、嬉しいよ」

 本当に嬉しそうに、気遣いなんて感じられない笑顔を浮かべて、花中はそう答えた。

 勿論、フィアとしても嬉しそうな花中を見られて嫌な筈がない。

 それでも訳が分からなくて、フィアはポカンとしてしまう。確かに自分も花中からのプレゼントなら大概のものは喜べるだろうが……しかしそれはお茶碗のように『用途』があったり、ゲームのように『遊べる』からだ。花中と一緒に食事が出来るとか、遊べるとか、これから楽しい事が起きると予想出来るから嬉しいのである。

 こんな道端の草で、一体何を楽しめる? 何が出来る?

「……どうしたの、フィアちゃん?」

「どうしたもこうしたも……何故それで喜んでくれるのですか? 何か使い道があったり前々から欲しかったものなのですか?」

「うーん、欲しかったものかと、言ったら、そうでもないけど……あ、使い道なら、あるよ」

 そう言うと花中はトコトコと、可愛らしい小走りでリビングに戻る。一瞬の戸惑いを挟んだ後、フィアは花中の後を追ってリビングに入った。

 リビングにはミリオンと野良猫(ミィ)がいたが、フィアは無視して素通り。何時も通りなフィアの態度に今更イラつくような付き合いでもなく、ミィ達は互いの顔を見遣って肩を竦めるだけだ。

 フィアが見るのは花中のみ。花中はもらったクローバーを一旦リビングのテーブルの上に置くと駆け足でキッチンに向かい、やがて二枚のキッチンペーパーを持ってきた。そのキッチンペーパー二枚の間にクローバーを挟むと、今度はテレビが置いてある棚の方へと駆け寄り、そして分厚い辞書を一冊持ってくる。

 そして丁度真ん中辺りを開くと、キッチンペーパーとクローバーをその間に挟み込み、辞書をパタンと閉じた。

「はい。これで何日か待って、押し花にした後、栞にすれば、使えるものになるよ」

 一通りの作業を終え、花中は満足げに答えてみせた。

 しばしポカンとしていたフィアは、やがて思わず吹き出してしまう。

 やはり人間の事はよく分からない。

 大好きな花中の気持ちだって分からない。こんなものただの『草』なのに。何も用意出来なかったから苦し紛れに採ってきただけなのに。どうして怒るどころかあんなにも喜んだのだろう? どうしてわざわざ使い道を考えてくれて、自分を『納得』させようとしてくれるのだろう?

 フィアには全く分からなかった。分からなかったが、一つだけ確かな事がある。

 花中は自分のプレゼントを喜んでくれた。

 だったらそれで十分ではないか。

 花中の笑顔が大好きなフィアはその事が嬉しくて、今までの『悩み』など何処かに飛んでいってしまうのだった――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……くそ、くそくそくそくそくそっ!」

 人気のない路地裏を、一人の若者が駆けていた。

 その若者の名前は村田という。

 警察に逮捕された村田であるが、『予知』を用い、一瞬の隙を突いて逃げ出したのである。今頃何十、いや、何百の警察官が村田を捕らえようとしているだろうが、予知能力を行使すれば回避は容易い。逃げ果せる事はほぼ確実だ。

 つまりは『勝利』を手にした訳だが、村田の顔は憤怒に満ちていた。

 村田は所謂チンピラだった。それも身体はあまり大きい方ではなく、乱暴だが考えが単純なのもあってケンカはあまり強くない、底辺の中でまぁまぁ粋がれる程度の無能だ。上の者には媚びを売り、下の者には威張り散らす。お陰で上からは軽んじられ、下からは慕われない。何から何まで上手くいかない ― 間違いなく自業自得なのだが ― 人生を歩んできた。

 そんなある日、一人の老人から『力』をもらった。

 最高の力だった。ケンカ、否、組織の抗争すらも一人で捻じ伏せるほどの大きな力。警察の襲撃も察知し、裏切りも予見する。この力を使えばどんな輩も怖くない。『ブレインハック』という裏社会ですら売れば制裁不可避の品を取り扱っても、自分にその害が及ぶ事はないのだ。

 この力で自分は頂点に立てる。

 そう信じていたのに、疑わなかったのに。

 ――――水を操るなんて、ちんけな能力を使う奴に負けた。

「クソがあああっ!」

 近くにあったゴミ箱を蹴り倒し、苛立ちを発散しようとするもまるで収まらない。村田は荒々しい息を繰り返し、目を血走らせる。一目で危ない、『ヤバい』と思わせる状態だ。

「おやおや、随分と荒れているじゃないか。生理かね?」

 そんな彼に呼び掛ける声があった。

 村田は、さながら獣の如く鋭さで声がした方へと振り返る。と、その血走った目を大きく見開いた。

 白い手袋、上品なステッキ、高級感のある燕尾服……いずれも見覚えがある格好だった。いや、こんな気取った姿をした輩、昨今そう多くはあるまい。

 彼こそが、自分に『予知能力』を授けた老紳士。

「このクソジジイ!」

 そうと分かるや、村田は『恩人』に向けて罵声を浴びせた。

 感謝こそされども、恨まれる覚えはない。そう言いたげに老紳士は肩を竦める。ただ、それだけ。血走った目付きも、興奮しきった鼻息も、老紳士は全く心に届いていない様子だった。

「君ねぇ、私が渾身のボケを言ったのだから拾ってくれないかね? 女じゃねぇよ! みたいなの。それとも本当に生理なのかね? 女の子ならもう少し身嗜みに気を遣った方が」

「ふざけてんじゃねぇ! どういう事だ! なんで俺の、俺の力が負けんだよ!」

「……ほほう、これは中々奇妙な体験をしたようだ。成程ねぇ」

 村田の怒りなど何処吹く風。老紳士は目をパチクリさせると、心底心惹かれたかのようにじっと村田の目を見つめてくる。

 さしもの村田も、自分に力を与えてくれた『怪人』に見つめられればいくらか気持ちも萎む。おまけにまるで全てを見透かすような言葉……『予知』とは異なる力を感じさせる。

 先程までの威勢は薄れ、一歩、二歩と村田は後退ってしまう。

「更なる力が欲しいなら、あげるのもやぶさかではないよ」

 尤も老紳士の口から出た甘言によって、その足は引き留められたが。

「なっ!? んだと……!?」

「実を言うとね、君に与えた力は未来予知ではないのだよ。本当の力は『高度な状況把握』……自身を中心にした一定範囲内の出来事を、それこそ人間離れしたレベルで把握する事さ。未来を予知する力は、その状況把握によってもたらされた副産物に過ぎない。力を得る前の君でも、拳を振り上げている人間を見れば殴られると分かるし、崖から地響きみたいな音が聞こえたなら崖崩れを予感するだろう? 要は、その感覚の凄いバージョンというやつだ」

「テメェ、だったら」

「いや、何も勿体ぶっていた訳じゃない。ただねぇ、この力は身体への負担が大きくて、力に慣れさせる必要があるのだよ。そして私が見る限り、君の身体は十分に力に慣れている。今なら上手くいくという判断からこの提案をしたのさ」

 あたかも『予知』するかのように、村田の言葉を遮りながら説明する老紳士。おちょくるような彼の態度に、村田は歯ぎしりをして苛立ちを露わにした。

 だが、その顔にはやがて笑みが浮かぶ。

 村田とて底なしの馬鹿ではないし、ましてや子供のような純朴さなどもう残っていない。老紳士が善意で力を与えているとは露ほども思ってなく、何かしらの思惑があると考えていた。同時に、その思惑のために自分は使える『手駒』であるとの自信もあった。でなければ二度目の接触をし、新たな力を授けるなど言う筈がない。

 加えて目の前の老紳士は、かつての自分の『上司』のような無茶ぶりはしてこない。求める上納金も些細なもので、人材を大事にするタイプだ。野心のある村田からしても、彼の『下』に付いて働く事にさして不満はない。

 何より、新たな力があればあの金髪女をぶちのめす事も……

 村田は静かに、ゆっくりと頷く。自身の提案を受け入れてもらった老紳士は嬉しそうな、朗らかな笑みを浮かべた。

「OK。では後ろを向いて、首を見せてくれたまえ」

 老紳士に言われるまま、村田は彼に背中を向けた。老紳士は村田に近付くと手袋を外し、素手で村田の首に触れる。ひたりと伝わる凡そ人の指とは思えない冷たさに、村田は微かに身震いした。

 老紳士は弄るように触る場所を度々変えていたが、やがて良い場所を見付けたのか。あるところで指を止めると、ぐっと、軽めの圧迫を掛けてくる。

「おっと。一つ大事な事を言い忘れていたよ」

 それからわざとらしく、老紳士は飄々と語った。

「ああん? んな事よりこっちを早くしてくれよ。テメェの話は長いからなぁ」

「いやいや、これ結構大事な話だから……君、もう要らないからお別れだよ。ま、身体は残るけどね」

「――――は?」

 それはどういう意味か。

 疑問を覚える村田だったが、残念ながら彼がその答えを知る事は出来なかった。

 次の瞬間、老紳士の指はずぷりと村田の首に突き刺さり

「ぐ、ぎご、おごぼおぉおあぉぁおっ!?」

 途端村田の口から、おぞましい悲鳴が溢れた。

 ぐるんと白眼を向き、口から泡を吹く。全身は痙攣し、やがて膝を付いたが、老紳士の指は突き刺さったまま。

 しばらくして痙攣さえも止まり、そこでようやく老紳士は村田の首から指を抜いた。

「どうかね? 調子の方は」

 老紳士は村田に優しく声を掛ける。すると村田は、膝を付いた状態から軽やかに起立。口元の泡を服の袖で拭い、ぐるんぐるんと肩を回す。数回ジャンプもしてもみせた……高々と、垂直に三メートルほど。

「うす。悪くはねぇっす。あ、でもやっぱそのうち他のに変えたいっすねぇ。これ、馬鹿だから知識が少なくて。身体の方はよく馴染むんすけどね」

 そして開いた口から、軽薄な言葉が出てくる。

 なんとも元気そうかつ能天気な様子の『村田』に、老紳士は満足げに頷く。

「いくらなんでも、低質にも限度があるのではありませんか?」

 その笑みは何処からともなく現れた、スーツを着た二十代ぐらいの女性からの苦言を受けても消える事はなかった。

「はっはっはっ。確かに、あまり大事な仕事は任せたくないタイプなのは間違いないね」

「うわぁ、ヒデェ言われようっすね。まぁ、実際難しい仕事とかしたくないっすけど。楽に出世したいっす」

「……何故あのような輩を使ったのです? この結果は、わざわざ予知などせずとも明白だったと思うのですが。おまけにこの人間が派手に動いた結果、我々が薬物売買に関与している事を『魚』に知られてしまいました」

「うむ。確かに、我々の同胞の一人が『魚』が薬物組織について探しているところを確認したからね。彼女が積極的に我々の仕事を邪魔するとは思えないが、彼女の傍にいる人間は違う。此処での仕事は、そろそろ潮時だ……だからこそ、だよ」

「? だからこそ?」

「最初から質は求めてないと言っただろう?」

 女性からの問いに老紳士はそう答えた――――刹那、二つの眼球がぼとりと()()()

 空っぽになった両目。されど老紳士は痛がるどころか、口をぽっかりと開けて間抜け面を晒す。と、そうして開いた三つの『穴』から、カサカサと音を立てて無数の黒いモノが這い出してくる。

 現れたのは、ゴキブリだった。

 所謂クロゴキブリであり、家屋などでよく見られる普通種。とはいえ人の体内から出てくるような、そんな化け物染みた生態の生物ではない。ところが老紳士の目から、口から、カサカサ、カサカサ、カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ……何十もの個体が、無数に湧いていた。併せて『中身』が傷付いたのか、どろどろとした赤黒い体液も出てくる。

「ソロそロコのカラだもフるクナってキタかラね。ワカいかラダニノリかえよウとオもッテイたんダヨ。タヌきドもヲマクニシてモカタチヲかエたホウガコうつゴウダシネ」

 それでも老紳士だったモノは、平然と喋っていたが。

 ゴキブリは、全身に優れたセンサーを備えている。

 微かな臭いも、地面の震動も、空気の流れさえも……外界の情報を積極的に収集する事で、ゴキブリは極めて優れた逃走能力を獲得した。普通のゴキブリですら人間を翻弄するほどに優秀な感覚を有している。

 もしもその感覚器が『ミュータント』化により強化されたなら? 極限まで進歩した感覚器は、遥か未来の事さえも予知するようになった。そして発達した感覚器は、新たな力をも芽吹かせる。

 他生物の感覚器、神経をもコントロールするという力を。

 神経に触れてしまえば、生物の身体を乗っ取れる。幼体では些か力が足りないが、幾度も『情報交換』を行い、自分と他者の神経を馴染ませれば、いずれは制御下に置ける。そうして彼等は人間の身体を、その神経を奪い取る事で支配し、自らの道具とする事に成功したのだ。おまけに人間の脳神経と連結する事で、ミュータントの素質がない子孫であっても、擬似的にミュータント化する『技術』までも彼等は編み出している。

 この老紳士だったモノも、ゴキブリ達に襲われた犠牲者の一人。脳細胞をも制御下に置かれたこの老人の身体に当人の意思などなく、温かくてジメジメとした環境と脳波を提供し、子孫を育むための苗床でしかない。必要最低限の臓器だけしか残ってなく、それさえも時間と共に痩せ衰えていく消耗品だった。

 やろうと思えば、かつての……幼虫に()()()()()()()前までの村田のような『共生』も可能だったろう。しかし彼等はその道を選ばなかった。人間を使い潰し、利用する道を選んだのである。

 それは彼と対する『女性()()()()()』も同じ。

「成程、それならば確かに『質』は問題ありませんね。中身を全部入れ替えるのですから」

「ドウかネ? キみのハイるすぺースグらイハあルトオモウガ」

「あら、良いのですか? 実のところこの身体にも飽きてきましたし、警察や闇組織にも顔を知られ始めたようですから、どうしたものかと思っていたのです。お言葉に甘えて、次の引っ越し先が見付かるまでご一緒させていただきます」

 老紳士だったモノからの誘いに、女性はあっさりと乗ってしまう。直後、女性の目玉も落ち、口を開け、無数のゴキブリが溢れ出した。

 現れた百を超えるゴキブリは、一直線に村田だったモノの身体を駆け上る。村田だったモノも這い回る害虫を振り払うどころか、大人しく口を開け、次々と体内に異生物を受け入れていった。

 同時に口から、鼻から、耳から、どろどろとした赤黒いものが溢れる。

 服を黒く染め上げ、足下にどす黒い水溜まりを作り、それでも村田だったモノはゴキブリを取り込んでいく。やがて老紳士だったモノと女性だったモノが力なく倒れる中、村田だったモノだけが立ち続ける。

 そして最後の一匹をごくりと飲み込み、村田だったモノはコキリ、コキリと肩を鳴らした。

「……ヤハリすこし狭かったか。だったら最初から誘わないでください。というか予知で分からなかったのですか。いやぁ、結構イケると思ったんだけどねぇ。ですから、ちゃんと予知してください」

 村田だったモノは途切れなく、まるで何人も居るかのように口調を変えながら()()()()()。男性のように顎を撫で、女性のように足を擦る。男のような笑みを浮かべ、女性のような歩き方をする。自分の身体を確かめるように色んな動作を、色んな雰囲気で行っていく。

 やがて、不服そうに項垂れた。

「こりゃ、早めに次の引っ越し先を決めた方が良さそうだ。そうですね。やはり男性の身体は馴染みませんし、何より人間の男は臭いですもの。え、君普段そんな事思ってたの? ええ。まぁ、短い付き合いですし、我慢しますよ。それよりケーキの予約をしてあるのですから、まずそちらを買いに行きましょう。新しい仲間の誕生日を祝わねばなりませんから。え、えぇー……いや、流石にそれは状況を考えて、あ、こら、勝手に歩き出さない! 足の支配権をこっちに渡しなさい!」

 わいわいと一人賑やかに、村田だったモノは歩き出す。

 何事もなかったかのように。足下に転がる人間の骸を片付けようともせずに。

 新しい獲物を求めて、ゆらゆらと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、次は何処にしましょうか」

 

「タヌキ達の利権が絡まない、途上国が良いだろうね」

 

「そうですね。感覚的にあまり時間はなさそうですから、少々派手に動かねばならないでしょうし」

 

「ああ、時間がない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「全ての終わりが、間もなく始まろうとしている」」

 

 自分達の繁栄を、守るために――――

 




はい、という訳で今回の敵はゴキブリでした。
しかも割と勝ち逃げである。

フィアはちょっとだけ『共感』が出来るようになったかも知れません。
まぁ、好きな人限定ではありますが。
花中以外の人間は相変わらず生死すらどーでも良いようです。

次回は今日中に。


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幕間八ノ九

 降り注ぐ穏やかな陽光と、明るく賑やかな笑い声が満ちている。

 そこは何処にでもある、有り触れた公園だった。春は盛りを越え、公園内に植えられた桜は花と葉が混じった、言ってしまえば少々『汚い』風貌を晒している。それでも見るに堪えないほどではなく、公園内にはたくさんの人々がしばしの憩いを堪能していた。

 そして『彼女』は、公園の隅にある小さなベンチに腰掛け、幸せそうな人々を眺めていた。

 彼女は人々の輪に入ろうとせず、淡々とその姿を眺めるだけだった。浮かべるのは嫋やかで、気品に溢れる微笑み。何をするでもなく、ぼうっとベンチに座ったまま。何を見ているか、何を考えているのかも分からず、ただただ動かないその姿はまるで彫刻のようだ。

 しかし彼女は物ではなく、れっきとした生き物である。

「こんにちは!」

 でなければ小さな女の子に挨拶されても、振り返り、優しく微笑み返すなど出来はしないのだから。

「……こんにちは。元気ですわね」

「うん!」

 彼女の言葉に、女の子は大きな返事をする。背丈からして、四歳から五歳ぐらいの幼児だ。浮かべる笑顔は花のように眩しく、難しい考えなど何も抱いていない、無垢そのもの。可愛らしい花形のペンダントを首から掛けており、結構なおしゃまさんなようである。

 彼女は女の子を優しく見つめ続け、

「やっぱり、元気なのが一番ですわ」

 不意に、そんな独り言を漏らした。

 彼女の独り言に、幼い女の子は何を思っただろうか。それは誰にも分からない。

 何故ならその女の子は、忽然とその姿を消したのだから。

 一瞬だった。もしも彼女と女の子を観察している第三者が居たなら、ほんの数秒目を離した隙に女の子が消えてしまったと訴えるだろう。そして何処にでもいる普通の女の子と、隅っこのベンチに座っていた女性を誰が観察しているだろうか。

 事の顛末を知るのは、女性だけ。

 されど彼女は何事もなかったかのように、静かにベンチに座り続けるのみ。彼女は目を閉じると、そよ風で奏でられる葉桜の音色に耳を傾け、優雅に時間を過ごす。

 そんな自然の音楽会を、慌ただしい足音が妨げる。

 あくまで上品に、何一つ苛立ちを感じさせずに開けた彼女の目に、狼狽えた様子の成人女性が映り込む。成人といってもまだかなり若そうで、二十代後半に差し掛かったかどうか。その顔立ちは特徴らしい特徴もない、ごく一般的なものであったが……先程彼女に近付いてきた女の子とよく似ている。あの子が大きくなったら、きっとこうなるのだろうと思えるほどに。

 十中八九、あの女の子の母親に違いない。誰もがそう思う事だろう。

 母親らしき女性 ― 若い母親、と呼称しよう ― は、あちらこちらを見渡す中で、ふと彼女と目が合った。若い母親は何かを言おうとして、しかし先程まで眠るように目を閉じていた彼女の姿を思い出したのか、口を噤んでしまう。

「あ、あの! うちの娘を見ませんでしたか!? 四歳になったばかりで、あの、赤い服を着てて……」

 それでも娘への想いが勝ったのか、若い母親は彼女にそう尋ねてきた。余程慌てているのだろう、話が上手く纏まっていない。

 されど問われた彼女は、若い母親に優しい微笑みを返す。次いでゆっくりと口を開き、

「やっぱり、小さな子は良いですわね。()()()()()()()()()()()()()

 脈絡のない、理解不能な言葉を若い母親に伝えた。

「……え?」

 彼女の言葉を受けて、若い母親は上手く聞き取れなかったのかキョトンとなる。彼女はベンチからゆっくりと立ち上がると、若い母親と向き合う。

「大変美味しゅうございました。ありがとうございます」

 そして見惚れるほどに美しいお辞儀しながら、感謝を伝える。

 若い母親はまるで意味が分からなかったのだろう。表情は怪訝を通り越し、嫌悪感を剥き出しにしたものとなった……が、母親は抱いた気持ちを払うように顔を横に振った。頭のおかしな人の相手をしている暇などない、それより娘を探さねばと思ったのか。若い母親は駆け足でこの場を後にした。

 母親の背中を見送ると、彼女もまたこの場を後にせんと歩き出す――――が、すぐに立ち止まった。それからしばしもごもごと、歯の奥に何かが引っ掛かったかのように口元を動かす。

 やがて、ぶべっ、という汚らしい音と共に、彼女は口から小さなモノを吐き出した。涎塗れであるそれはべちゃりと地面に落ち、春の日差しを受けて淡く煌めく。

 吐き出されたのは、花形のペンダントだった。

「……ちょっと物足りないですけど、我慢するとしましょう。空腹こそが最高のスパイスと言いますものね。あの子に会った時、お腹いっぱいではあまりに勿体ないですわ」

 ペンダントには見向きもせずに独りごち、背後で娘を探し右往左往する母親など気にも留めず、彼女は真っ直ぐに歩き出した。

 

 彼女は突き動かされていた。ただ一つの欲望によって。

 

 その欲望は彼女の内で燃え盛り、無限の苦痛を与える。

 

 例え一時癒えようと無尽蔵に湧き、底なしの渇望をもたらす。

 

 理性を塗り潰し、他の世界を色褪せたものに変えてしまう。

 

 大罪の一つであるその欲望は、数多の地獄を呼び起こす。

 

 されど彼女はその欲望に抗わない。

 

 否、むしろ身を委ね、その地獄を受け入れる。

 

 苦難の先に、無尽の幸福が広がる事を知っているがために。

 

 だから彼女は笑うのだ。

 

 だから彼女は進むのだ。

 

 だから彼女は語るのだ。

 

 

 

 

 

 

「ああ、早くお会いしたいですわ……大桐花中ちゃん。一体どんなお味なのかしら」

 

 

 

 

 

 

 じゅるりと、涎を垂らしながら……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第九章 女神の美食

 

 

 

 

 

 




はい、いきなりえぐい描写で登場です。
今まで色んなミュータントやらなんやらを出しましたが、
次章はストレートにヤバい奴ですよ。

次章は5月上旬投稿予定です。


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第九章 女神の美食
女神の美食1


 四月も半ばを迎え、春真っ盛りとなった今日この頃。

 満開だった桜は花が散り始め、ところどころに葉の色が混ざるようになってきた。日差しはポカポカと暖かく、穏やかなそよ風と相まって眠気を誘うだろう。

 しかしながら、春といえば目覚めの季節でもある。

 数多の草花が芽吹き、動物達も次々と活動を始める。生き物が多いという事は、食材も多いという事だ。春の食べ物といえば、野菜ならカブやタケノコ、魚ならメバル……他にも色々な食材が旬を迎える。

 人間は科学の力によって安定的な食糧供給を為し得たとはいえ、旬の美味しさには敵わない。人もまた動物である以上、季節に合った食べ物を身体が求め、その求めに応える事以上の幸福など早々ないのだ。

「今日の夕飯はお肉食べたいなぁ。なんというか、具体的にはすごく牛肉が食べたい」

 などという考えを真っ向否定するかのように、花中は唐突にそう独りごちた。それも午前九時半という朝っぱらから。

 大桐家のリビングにて、その言葉を聞いたフィアは目をパチクリ。ソファーに座ったままキョトンとし、愛らしく首を傾げる。

「……花中さんって牛肉そんなに好きでしたっけ?」

「ううん、そんな事は、ないけど。なんか、今日はもーれつに、牛肉をがっつり食べたい気分なの。豚でも、鳥でもなく」

「はぁそうなのですか」

 納得したような言葉を、フィアは首を傾げたまま伝えてくる。どうやらあまりピンと来ていないらしい。

 花中は普段あまり肉を食べない。

 魚はそれなりに食べるので、正確には牛や豚などの『獣』の肉を摂らない、と言うべきか。一応これでも食べ盛りなので肉も好きではあるが、それよりも野菜や魚の方が好みなので、そちらをメインにした料理ばかり作ってしまう。故に普段は、味や風味付け程度に欠片ぐらいの大きさのものを使うのが精々。そういった食事を日々見ているフィアには、花中が肉をがっつり食べたいと言っても半信半疑なのだろう。

 尤もフィアは、だからそれを止める、なんて事をするタイプでもなく。

「まぁ良いんじゃないですか? 花中さんちっちゃいですからもっと栄養のあるものをたくさん食べた方が良いと思いますし」

「……別に、タンパク質は、魚で取ってるもん」

「おお怖い怖い」

 『魚』であるフィアは肩を竦めながら、しかし前言を撤回したりはしなかった。別段背の小ささをさして気にしてはいないが、おちょくられて平気なほど無関心でもない。まるで堪えていないフィアの態度を見て、むにゅっと、花中は唇を尖らせる。

 それはさておき。

 食べたいものを決めたは良いが、では作ろう、という訳にもいかない。何しろ花中は普段あまり肉を食べないのだ。今の大桐家の冷蔵庫には、牛要素のある食材は合い挽き肉ぐらいしかない。それだって先日麻婆豆腐を作るのに使って、半分しか残っていない有り様である。これっぽっちでは今の花中の牛肉欲求を到底満たしてはくれない。今の花中はもっと肉々とした牛肉が、具体的には分厚くてジューシーな牛ステーキとかを食べたいのだ。

 ならば買い物に行くしかあるまい。

「兎に角そーいう訳だから、今からスーパーに行くけど、フィアちゃんも、来る?」

「勿論ご一緒しますよ」

 尋ねてみればフィアはソファーから立ち上がり、背伸びを一つ。スッキリとした表情を見せ、すぐにでも行けると目で訴えてくる。

 花中も肉衝動に襲われる前から今日は買い物へ行くつもりだったので、既に外出用の格好をしている。可愛らしい花柄の入った長袖のシャツと、動きやすいズボンという服装だ。身支度だって済ませてあり、お財布を持てば何時でも出立可能である。

「うん、それじゃあ、すぐに行こう。今日は、カチオンさんに行こっか」

「かちおん? ああよく学校から帰る時に立ち寄るスーパーですね。でも家から向かうならあっちより商店街の方が近くないですか? 商店街にもお肉屋さんはあったと思うのですが」

「えと、チラシ見たら、今日はカチオンさん、ポイント三倍みたいだから……」

「……それだけの事でわざわざ遠い方に行こうという気に何故なるのか私にはさっぱり分かりません」

 まぁ花中さんとお喋りしながら行けるのでしたら何処でも構いませんけど。

 そう付け足すフィアの言葉にくすりと笑みを零してから、花中はテーブルの上に置いてあるお財布を掴み、玄関へと向かう。そして花中は外出用の靴を履き、玄関戸に手を掛けた

「あ、そうだ。ミリオンさんも、一緒に、来ますか?」

 ところでふと思い出し、花中は家の中へと振り向いて尋ねる。

 家の中には、花中とフィア以外の姿はない。が、そんなのは『彼女』の存在の有無を何一つ証明しない。

「んー、今日は遠慮しておくわ。ちょっと片付けたい仕事があるから」

 何故なら彼女――――ミリオンは自身の身体を霧散させる事で、姿を自由に消せるのだから。

 声と共に姿を現したミリオンは、何故か真っ黒な女性用スーツを身に纏っていた。勿論ウイルスの集合体である彼女にとって服とは自ら作り出した物である。如何にもキャリアウーマン風の身形は大人びた印象があり、中々カッコいい。普段はだらりと垂れ下げている黒髪をポニーテール状に纏めており、それも凛とした雰囲気を作る一因となっている。

 実に決まっているファッションであり、大変麗しいが、初めて見る格好だ。何故にそんな格好をしているのかと花中は首を傾げる。

「ふんっ。別にあなたは来なくて結構です。というか仕事ってなんですか? なんか大人の人間がよく着ている格好してますし」

 それはフィアも思ったようで、しっかり嫌悪感を剥き出しにしながら花中よりも先に尋ねた。普段から軽口を叩き合う仲であるミリオンはフィアの前口上はさらりと無視し、後半の質問にだけ答える。

「どーせ覚えてないでしょうけど、少し前に話したでしょ。『あの人』からもらった遺産があるって。あれの管理とか申請で役所に色々書類出さなきゃいけないのよ。おまけに国外の話だからもう郵送の手配やらなんやらが大変で……」

「はぁ。なんだか面倒臭い事してるのですね」

「ほんと、面倒臭いわ……なんで人間って、こんな面倒な仕組みばかり作るのかしらね」

 フィアの無頓着な感想に、ミリオンは心底同意しているようだった。人間(花中)は思わず苦笑い。

 ともあれ、ミリオンには予定があると分かった。無理に誘う理由もないのだから、素直に留守番をお願いするとしよう。

 何より、そろそろ()()()()()

「えと、それじゃあわたし達、そろそろ……」

「あっと、ごめんなさい。早く行かないと、美味しいお肉を他の人に買われちゃうものね」

 花中が玄関戸のノブを握りながら外出の意思を伝えると、ミリオンはにこやかに微笑みながら何もかも見透かしてきた。花中は顔を朱色に染め上げながら俯き、しかし握り締めたノブは離さない。

「い、いってきます!」

 力強く戸を開けた花中は、逃げるような早足で家を跳び出した。恥ずかしさで染まった顔に、見送ってもらえる嬉しさと、わくわくを乗せた笑みを浮かべながら。

 目指すは近所のスーパー。

 花中は今にもスキップしそうな足取りで、追い駆けてきたフィアと共に突き進む。

 そして……

 …………

 ………

 …

「……なんで?」

「いや私に訊かれましても困るのですが」

 唖然となる一人が漏らした呟きに、あまり興味がなさそうな一匹は律儀に答えを返した。

 スーパーカチオン。花中達が暮らす町にある中では、一~二を争う規模の大きさを誇るスーパーマーケットである。

 特に食品関係が充実しており、今は春の食材がずらりと並んでいた。春キャベツの瑞々しさ、青々としたアスパラガスの色合い、ぷりっぷりに太ったホタルイカ……旬の食べ物が来店者を惑わし、無用な出費を強いていく。店内を歩き回る人々の目から理性は薄れ、微かながら野生が蘇っている様子だ。

 とはいえ、花中は普段から買う物を決めてからスーパーに出向くタイプ。加えて今日は牛肉をずどんと食べたいのだ。ケモノ感の足りない軟体動物に用はない。タンパク質の乏しい植物共など目にも入らない。入店するや、花中の足は真っ直ぐ精肉コーナーに向かっていた。

 そして花中にとってこのスーパーは、よく買い物に訪れる店の一つだ。当然お肉が何処に並んでいるか、完璧に把握している。特売シールやお買い得品の棚をも素通りし、花中は(ついでに彼女の後ろを付いてきたフィアも)最短コースで精肉コーナーに辿り着いた、筈だった。

 なのに。

「なんで……なんで全然売ってないのぉ!?」

 花中を待ち受けていたのは『品切れ』という悲しい現実だった。

 何時もならずらりと並んでいる筈のお肉が、何故かすっからかんになっていたのである。それも今の花中が求めていた、ステーキ用の牛肉がごっそりと。ついでとばかりに豚肉も品薄のようである。

 確かに肉類は生鮮食品なのだから、常日頃から山ほど在庫を抱えている訳ではないだろう。しかし今の時刻は十時半。開店して三十分しか経っておらず、その短時間で店頭に出てきたお肉が全て売れてしまうなど考え難い。昨年末の『異星生命体』襲撃事変の影響で極端な品薄になったという可能性も浮かんだが、周りを見る限り、品切れは牛肉だけで起きているらしい。

「あ、あの、すみません。今日って、ステーキ用の、牛肉は……」

 あまりにも不可解な状況に、花中は近くを通り掛かった店員 ― 中々気の強そうな雰囲気のおばさんだ ― に思わず尋ねていた。店員は花中の質問を受けてショーケースに顔を向けると、驚いたように目を見開く。それから彼女も動揺したように、困り顔を浮かべた。

「んん? おかしいわね、開店前はそれなりに並べた筈なのに……」

「えと、お店が開く前は、そこそこ置いてあったの、ですか?」

「ええ。私が並べたから間違いないですよ」

「その、在庫、とかは……」

「……ごめんなさい。置いてある分で全部でして。最近って『宇宙人』のせいで、品不足なんです」

 だけど置いていた量が少ないって事もなかったと思うのですけど――――店員の説明で、花中はますます困惑してしまう。

 入荷量が普段と変わらないのなら、何故売り切れになっているのか。ポイント三倍の影響? いや、そのサービスは他の商品にも適応される。牛肉だけが品切れになる理由とはなり得ない。

 なら、バラエティ番組などで牛肉が身体に良いとでも放送され、ブームになっているのだろうか? しかしそういったブームがあるという話は、テレビだけでなくネットでも聞かない。二~三日に一度は買い物をしているが、そういったブームが起きている兆しも感じられなかった。この線も薄い。

 では、偶然にも今日は町中の人がステーキを食べたくなったのだろうか? ……否定する要素はないが、肯定するに足る根拠もない。

 納得のいく答えが見付からず、花中はおろおろしてしまう。ややあってから店員が困ったように立ち尽くしている事に気付き、花中は感謝の言葉を伝えてお仕事に戻ってもらった……その後の花中は呆然と立ち尽くし、物寂しいショーケースを眺めるばかり。

「どうします? 一応鶏肉はたくさん残っているようですし豚も幾つか残っているようですが」

 フィアから尋ねられても、しばし答えは返せなかった。

 フィアが言うように、鶏肉は十分な品揃えである。豚肉についても同様だ。チキングリルも十分お肉っぽさを味わえる料理だろうし、ポークソテーだって美味しい。肉料理のレパートリーはいくらでもある。

 だが、今日の花中のボディは牛肉ステーキを所望しているのだ。まさか買えないとは思っておらず、際限なく高めてしまった期待は今更裏切れない。そして人間には『損失回避バイアス』……利益よりも損失を極端に恐れる傾向がある。別段牛肉を食べても利益はないかも知れないが、諦める事は精神的な『損失』だ。

 正気じゃないのは重々承知。されど今は牛肉が欲しいのだ。肉を手にするのに正気は必要か?

 否である!

「……次のお店、行こう」

「へ?」

「次のお店に行こう。まだスーパーは、他にもあるし、近くには、商店街のお肉屋さんも、あるんだから!」

 言うが早いか、花中はそそくさとスーパーの出口目指して歩き出した。フィアは豚肉や鶏肉の置かれたショーケースを一瞥してから肩を竦め、花中の後を追う。

 次の目的地は商店街のお肉屋さん。しかし此処のお肉が全滅しているとなれば、肉を欲する主婦達は当然次はそこを目指す筈。あまり大きなお店ではないので、急がねばそこでもステーキ用の牛肉が売り切れてしまうかも知れない。

「ほら、フィアちゃん早くいこ!」

「いや花中さんの足が遅いだけだと思うのですが」

 フィアのツッコミを無視して、花中はずんずんと力強く歩んでいく。当人(花中)としては意気込んだ結果なのだが、ちっちゃな手足を大きく振る様はまるで子供の行進である。

 目の当たりにした人々を、ついでに同行する人外を笑顔に変えながら、花中はスーパーカチオンを発ち――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな花中の背中を、『彼女』は調味料コーナーの棚の影から見つめていた。

「ああ、なんて事なのかしら。ようやく会えたのに、我慢出来ずに食べてしまった所為でお腹が膨れてしまいましたわ。まだまだ食べられますけど、最上は味わえませんわね……」

 『彼女』は憂鬱げなぼやきを零し、最後にため息――――ではなく、その喉をぼこりと膨らませ、べしゃりと大きな塊を吐き出す。

 塊の正体は、発泡スチロールで出来たトレイや透明なビニールだった。涎でべちゃべちゃに濡れたそれは床に小さな水溜まりを作り、汚していく。あからさまに穢らわしい物体であるが、しかし涎以外の、例えば生の『肉汁』などは一滴たりとも残っていない。さながら犬が卑しく舐め続けたお椀のように、つやつやとした輝きだけを放つ。

 『彼女』の足下にはそのような塊が幾つも、いや何十と転がっていた。しかし『彼女』はこの事実など見えていないかのように、今居る場所から動こうとしない。ただただ、後悔するように顔を俯かせるだけ。

「ちょっと、あなたそこで何してるの!?」

 やがて誰かが『彼女』を見付けるのは必然だった。

 驚き半分、そして批難半分の声で呼ばれ、されど『彼女』は驚いたり怯んだりする素振りすらなく、のんびりと振り返る。

 声を掛けてきたのは女性店員だった。なんとも気の強そうな雰囲気をした中年女性で、その眼差しは猜疑心と嫌悪、加えて敵意に満ちている。『彼女』と女性店員の間に面識などないのに。

 されど『彼女』は、何故女性店員が自分に敵意を向けるのかよく分かっていた。

 何しろ自分の足下に転がるトレイ達は、かつて、このお店に並ぶステーキ肉を載せていたものなのだから。

「あなた、そこに散らばるトレイは何!?」

「……………」

「黙ってないで答えなさいよ!」

 女性店員に問い詰められるも、『彼女』は否定も肯定もせず、言い訳をしたり支離滅裂な叫びを上げたりもしない。逃げ出す素振りもなければ、威圧してくるでもない。

 『彼女』はただ、自分を問い質す女性を見つめるだけ。

 物欲しげに。

 そして、愛おしげに。

「な……何よ、なんか言いなさいよ!」

 あまりにも異質な眼差しに、問い詰めていた筈の女性店員は静かに後退りしてしまう。

 瞬間、『彼女』はその隙間を埋めるように、目にも留まらぬ速さで女性店員に歩み寄る。あまりにも唐突、何よりも異質な動きを目の当たりにし、女性店員は思わずといった様子で大口を開けた。

 しかし女性店員の口が、声を出す事はなかった。

 何故なら彼女は、忽然と姿を消してしまったのだから。

「……けぷっ。ああ、またつい食べてしまいましたわ。でも満腹感の幸せには抗えません……いえ、満腹には、ちょっと物足りないですけど。どうせですし、あともう一人ぐらいいただくとしましょう」

 『彼女』は光悦としながら独りごち、らんらんとした足取りで店の出口に向けて歩き出す。

「ねぇ、太田さん何処行ったか知らない? ちょっと肉類の売り上げと今の在庫数が合わないって、店長が言ってるんだけど」

「ん? 太田さんならそこに……あれ? 何処行った?」

「あー、私まだ見回るから、わざわざ探さなくても良いよ。見付けたら伝えといて。お肉のパック並べたのあの人だから、今朝の在庫数把握してんのは間違いないし」

 こんな会話を交わしている店員達の横を通っても、『彼女』の歩みが鈍る事はなかった……




始まりました、第九章。そしてしょっぱなから犠牲者が……
幕間の時点で察しが付くかも知れませんが、
本章に出てくるミュータントはあからさまに危険です。割と誰にとっても。
花中達はどう対処するのでしょうかね。

次回は5/13(日)投稿予定です。


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女神の美食2

 ずどんっ、という音が聞こえてきそうな分厚さ。

 褐色とは程遠い、鮮やかな赤色。

 雪のように真っ白な脂。

 どれもが理想的な姿だった。脂身はやや少なめにも見えるが、しかし個人的にあまりにもこってりとした肉は好きではないのでむしろ丁度良い。それは未だガラスケースの向こう側に置かれているが、今にも芳醇な肉の香りが漂ってきそうなほど魅惑的である。安易な悦楽を求めず、理想を追求して長い旅を続けた甲斐があった。

 此処こそが楽園(エデン)である。

「流石にそれは言い過ぎなのでは?」

「あ、うん。ちょっと、テンション上げ過ぎた、かも」

 等と調子に乗って語ってみたところフィアから冷静なツッコミを入れられ、花中はこくんと頷くしかなかった。とはいえこの程度で収まるほど、今の花中の胸中を跳ね回る興奮はちっぽけなものではない。

 何しろ、ようやく念願の牛ステーキ肉と対面出来たのだから。

 スーパーカチオンから ― 花中の鈍足でも ― 徒歩十五分。家からの道のりではカチオンよりもずっと近い場所にある商店街……そこの一角に立つ肉屋に、花中達は居る。目的は勿論、スーパーで買えなかったステーキ用の牛肉を購入するためだ。

 そして願いは通じ、肉屋には牛ステーキ肉がしっかり置かれていた。

 無論、あからさまに質の悪そうなものなら購入を躊躇しただろうが、見た限りその心配はあるまい。そもそも最初から心配などしていない。この店の店主が……肉にただならぬ情熱を注いでいる彼が、味の劣る粗悪品を自らの『コレクション』に加える事など許さないと、去年からそれなりの頻度で訪れている花中は知っているからだ。

「いやぁ、珍しいね。花中ちゃんがステーキ肉を買うなんて」

 色とりどりの肉が並んだショーケースの向こう側に立つ、花中の三倍はあろうかという大変恰幅の良い五十代ぐらいの男性――――この店の店主から尋ねられ、答えたのはフィアだった。

「なんでも急にステーキが食べたくなったみたいでして」

「成程。花中ちゃんも食べ盛りだし、そーいう事もあるだろうさ。いや、もしかしたらようやく成長期が来て、これからもりもり食べてどんどん大きくなるんじゃないかな?」

「えーそれは困りますねぇ。花中さんちっちゃくて可愛いのに」

「ははっ。確かにそれは困るかもなぁ。花中ちゃん、大きくなったら美人さんになりそうだし、そしたら目のやり場に困りそうだ」

 身を乗り出しながら伸ばした右手でぐしゃぐしゃと、店主は花中の頭を撫でながら快活に笑う。美人さんになりそう、と褒められて悪い気はしない。むしろ恥ずかしいぐらいで、花中は顔を赤らめた。

「しっかし今日はなんでうちに来たんだい? 今日は確か、カチオンの方がポイント三倍だったろう?」

 もしも彼が話題を変えてくれなければ、際限なく高まる恥ずかしさで頭が湯だっていたかも知れない。

 ぷるぷると頭の中の熱を振り払い、花中は火照り気味の顔を上げて店主の疑問に答える。

「カチオンさんにも、行きました。ただ、ステーキ用のお肉が、売れ切れでして……」

「この時間で? そんなに繁盛してるのかあそこ」

「どうでしょう……わたしも、この時間に、お肉が売り切れてるのは、初めて、見ましたし」

「店員も戸惑っていましたから偶々だと思いますけどね。肉ブームでも来てるんじゃないですか?」

「ああ、なんだ」

 心底ホッとしたように、店主は安堵の顔を見せる。彼に限らず商店街の人々からすれば、近所のスーパーほど忌々しいライバルはいまい。繁盛しているよりも、してない方が嬉しいのが正直なところだろう。或いはフィアがなんの根拠もなく告げた、『肉ブーム』という言葉への期待かも知れないが。

「おっと、無駄話が過ぎたかな。すぐに包むから待っててくれ」

 それでもそういった事を口には出さず、店主は人の良い笑顔を浮かべながらいそいそとをビニール手袋を嵌めて、肉を取り分ける用意をした。花中とてこの話を掘り下げたい訳ではない。欲しい肉の量を伝え、店主が袋詰めしてくれるのを大人しく待つ。

「ほい、九百八十円ね」

「はい。えと、千円で、大丈夫、ですか?」

「勿論。千円お預かりしたんで、ほい、二十円のお返し」

 そして現金を渡し、お釣りと、肉が入ったビニール袋を受け取れば売買成立だ。購入量は百グラム。品質の良いお肉とはいえ、半年も前ならこの半分の価格で買えただろう。『異星生命体事変』により供給が大きく落ち込み、国産輸入拘わらず食料品価格は大きく高騰しているのだ。掌に掛かる袋の軽さが重たい現実を突き付ける。

 尤も、値段が高騰している事など百も承知。それでも食べたいと思ったからこそ花中はこれを買ったのだ。不満などある筈もなく、ようやくステーキ用の牛肉を手に入れた花中は満面の笑みを浮かべた。牛肉の濃厚な旨味と香りのイメージが頭を満たし、生唾が溢れてくる。

「お買い上げありがとうございました。気を付けて帰りなよ、最近物騒だからさ」

「はいっ! すぐに帰って、冷蔵庫に入れときますっ」

 最早肉以外の事はどうでも良くなっていて、店主の言葉に生返事。そそくさとその場を後にしようとし

「すみません。最近物騒とはどういう事です?」

 フィアが尋ねなければ、花中はきっと店主の言葉の違和感に気付きもしなかっただろう。

 フィアのお陰で疑問を抱けた花中も足を止め、店主の方へと振り返る。尤も、よもや彼が何かしらの『失言』をしたとは思っておらず、実際花中が見た店主は今まで通りのスマイルを浮かべていた。

「ん? そんな大した話じゃ……いや、大した話か。実は一週間ぐらい前に、商店街近くの公園で遊んでいた女の子が行方不明になってるんだ」

「えっ……女の子が、ですか?」

「ああ。それもまだ四歳だって話だよ。可愛い盛りだろうに、親御さんの気持ちを思うと……」

 言葉を濁す店主に、花中は無言のまま静かに頷く。店主は既婚者で、高校生と中学生の娘が一人ずついると聞いた事がある。親の身ではない花中でも、想像しただけで胸が締め付けられるのだ。娘を持つ店主の気持ちは、そして娘が行方知れずとなった親の気持ちは、察するに余りある。

 重たくなる空気であるが、しかしフィアは全く気にした様子もない。魚である彼女には子供を失う悲しみなど理解出来ないし、此処に居ない人間の気持ちを慮るなど理解不能な考え方なのだ。ましてやあり得る可能性を伝えないなど、そんな『意味不明』な事はしない。

 だからフィアは自分の意見を言うのに躊躇いなどない。例えそれが、人間ならば思っても口には出さない可能性であっても。

「人間の子供って色々無謀ですからね。そこらを歩き回っていたら用水路にでも落ちてしまって今頃溺れ死んでいるんじゃないですか? もしくは林とかに迷い込んでしまい野垂れ死んでいるかも知れませんね」

 本当に躊躇なく述べたフィアの意見に、店主は僅かながら顔を顰めた。

 ここで彼が怒り出さなかったのは、やはり実際には他人事であり、尚且つフィアの考えが『現実的』であったからだろう。

「……正直、俺も最初はそう思ったけどね。四歳の子供なんて何するか分からないんだから、目を離しちゃ駄目だよって。ただ、どうも事故じゃなくて事件っぽいんだ」

「? 何故です?」

「他にも行方不明になった人が出たんだよ。それも三人も」

 店主は三本指を立てながら教えてくれた。

 一人目は七歳の男の子。

 二人目は十四歳の女子中学生。

 三人目は三十一歳の男性会社員。

 先の女の子を含めれば四人もの人間が、この町から消えていたのである。それもこの一週間で、尚且つ店主が事実だと確認出来た範囲で、という注釈付き。噂ではまだ他に十数人もの行方不明者がいて、近々警察は正式な発表と調査を行うとの事。

 ……という内容の『噂話』を、店主は大仰に語った。フィアはあまり興味がないのか大きな反応を示さなかったが、花中は目を丸くし、喘ぐように口をパクつかせる。

 店主は大事だと思っているようだが、()()()()()では済まない。これが事実なら、あまりにも異常な状況だ。

 日本の年間行方不明者数は十万人、という話がある。実際には九割以上がその後 ― 生死は問わないものの ― 発見されているため、あくまで警察に出された申請の数でしかないが……その誇張された数から考えても、日本全体で一日当たりに出ている行方不明者数は約二百七十三人。人口比など考えず単純に割った場合、一都道府県当たりの行方不明者数は五~六人でしかない。ちなみに日本の市町村は全国で約千七百存在するので、一市町村当たりだと〇・二人/日以下だ。一週間で町の人間十数名が行方知れずとなれば、平均の五十~百倍ほど多い事になる。いくら細かな前提を抜きにした雑計算とはいえ、どう考えてもこの数字おかしい。

 果たしてこれは『事件』なんて言葉の範疇に収まるのか? とてもそうとは思えず、花中はぶるりと身を震わせる。

「まぁ何が原因か分かりませんが花中さんにはこの私が付いていますからね! 不審者だろうがなんだろうが花中さんを襲おうとしたら私がけちょんけちょんにしてやりますよ!」

 対してフィアは、全く恐怖など覚えていないようで。花中の肩を掴んで抱き寄せると、胸を張りながら自慢げに断言してみせた。どうせ花中の心境などさして気にしていないだろうが、肩に加わる握力がなんとも頼もしく、花中の胸中にあった恐怖は呆気なく握り潰されてしまう。

 店主も花中も、フィアの宣言で明るい笑顔を取り戻した。花中はふにゃりと頬を弛め、店主は心から安心したようにガハハと笑う。

「そりゃ心強いな! ま、実際行方不明になってる奴等は一人になった瞬間にいなくなってるみたいだから、誰かと一緒なら大丈夫な筈さ」

「む? そうなのですか。しかしそれでは花中さんを怖がらせる不審者をけちょんけちょんに出来ませんね。花中さんの傍から離れる気はないですし……」

「もう、フィアちゃんったら。目的、変わってるよ?」

 フィアの天然ボケのお陰で、淀んでいた空気が一気に和らぐ。と、緊張が解けた花中は忘れかけていた『急用』を思い出した。

 今し方買った、ステーキ用の牛肉だ。まだまだ暑いとはいえない気候だが、気温はそれなりに高い。常温で放置したら肉の質が落ちるどころか、性質の悪い雑菌が増えて食中毒を起こしかねない。折角の美味しい食事が、食中毒で台なしになるなどごめんだ。

「おっと、つい引き留めちゃったね。ごめんな」

 店主もその事を思い出したようで、本当に申し訳なさそうに謝ってきた。肉について拘る彼だからこそ、肉の品質を落としかねない真似をしてしまった事を恥じているのか。

 花中は気にしていない旨を伝え、ぺこりとお辞儀。行方不明事件について教えてくれてありがとうございます、と感謝を述べてから精肉店を出た。フィアも花中の後を追い、共に外へと出る。

 それからしばし、三十秒ほど歩いて。

「……………やっぱり、ちょっと急ごうかな」

 肉欲求がすっかり戻ってきた花中は、小走りでこの場を後にするのだった。

 ……………

 ………

 …

「ふぅん。行方不明者多発、ねぇ」

 大桐家リビングにて。カリカリとボールペンを走らせ書類への書き込みをしているミリオンは、さして興味がなさそうな返事をした。紙に書かれる芸術的美しさがあるミリオンの文字 ― どうやらドイツ語のようだ ― に見惚れそうになりながら、花中はこくんと頷く。

 肉屋から無事帰ってこられた花中は、早速肉を冷蔵庫に入れた後、ミリオンにお肉屋さんで聞いた話を伝えた。理由は単なる世間話であり……尚且つ、ミリオンはフィアよりも世俗に詳しいため何か知っているかもと考えたからである。

 無論、花中に『行方不明者』を探す義務などない。それでも自分の町で起きている事件となれば、関心ぐらいはある。知っていそうな友達が居れば訊いてみたくもなるもの。つまるところこれは世間話だ。

「そんな話、今日初めて聞いたわ。新聞にも載ってなかったと思うし、テレビでも見た覚えがないわね。ま、噂が正しいならこれから警察が発表するのだから当然だけど」

 だから彼女が何も知らなくても、花中は別段落胆もしなかった。

「そうですか……」

「なぁに、なんか気になる事でもあるの?」

「いえ、そういう訳では……ただ、やっぱり自分の、住んでる町で、大きな事件があったら、知りたくなるじゃ、ないですか」

「確かにね。はなちゃん小さいから、誘拐犯に狙われそうだし」

 くすくす笑いながらおちょくるミリオンに、花中はぷくりと頬を膨らませる。心配してくれるのは嬉しいが、子供扱いされる歳でもないのだ。

 尤も、ミリオン ― 以外にもフィアとかミィとか晴海とか加奈子とか ― が自分を子供扱いするのは今に始まった事ではない。抗議しても止めてはくれないだろうし、もうこのやり取りにも慣れた。ぷいっとそっぽを向いて、不機嫌さを露わにするだけにしておく……見ようと思えば目の位置など関係なく見える癖に、ミリオンは花中の反応に気付く『素振り』すらなかったが。

「安心なさい。もし目の前に誘拐犯が現れたら、とりあえず眼球を沸騰させておくわ。これなら安心して逃げられるでしょう?」

「逆に、トラウマに、なりそうなの、ですが……」

「冗談よ。グロテスクな光景は精神衛生上良くないものね。脳の血管を詰まらせるだけにしとくわ。これなら綺麗な死体の出来上がり」

「死体そのものが、トラウマ発生装置なんですけど……」

「だから冗談だってば」

 げんなりする花中に、ミリオンは如何にも楽しそうにくすくすと笑う。果たしてどこまでがジョークで、どこからが本気なのやら。ジョークだとしても彼女は意外と、いや、ある意味ではフィアよりも感情的である。自分の『大切なもの』を傷付けられそうになったら、()()()()やらかさないとも限らない。

「ふふん花中さんご安心を。こんな奴に頼らずともこの私が花中さんをお守りしますからね!」

 尤も花中(じぶん)の隣で胸を張っているフィアに任せれば安心かといえば、そうとも思えない訳で。感情をオブラートに包むどころか装飾すらしない彼女に、自制という言葉があるとは思えない。『大好きなもの』を傷付けようとする不埒者がどうなるか、考えるまでもないだろう。

 それに。

「……一応訊くけど、行方不明になってる人を、探してくれたりは」

「嫌ですよ面倒臭い。花中さんへの誕生日プレゼントを買うためならばまだしもそうでない時に無駄な事はしたくないです」

「私もさかなちゃんと同じ。はなちゃんが無事なら、他の人間なんてどーでも良いし」

「ですよねぇ」

 分かりきっていた答えに、花中は乾いた笑みを浮かべた。

 とはいえ花中がそうであるように、フィア達にも行方不明者を探す義務や責務はない。能力的には可能だろうし、難しくもないだろう。しかし、だからやってくれ、やらないのは不誠実だ、というのは……出来ない側からの『わがまま』であり、『脅し』だ。友達とはいえ、そこまで強引に頼み込むのは気が引ける。

 本当に行方不明者がいるのなら、親族や知人が警察に捜索願いを出している筈だ。人間の事は全て人間がすべきとまでは思わないものの、人間だってちょっとは頑張らないと駄目だろう。某児童向けSF特撮番組に出てくる銀色の巨人もそう言っている。そもそも花中が肉屋の店主から訊いたのはあくまで噂話。店主を信用してない訳ではないが、何処まで本当かは分からない。それに噂が本当だとしても、偶然という可能性もある。

 ここで自分が首を突っ込んでも、大して役には立たない。警察に任せるのが正解だろう。

「それなら、良いよ。わたしが気になった、だけだし」

「そうですか。まぁ先程はああ言いましたが偶々近くで人攫いなりなんなりが現れたら知らない人間でも助けてあげない事もないですよ」

「……うん、ありがと」

 フィアなりの気遣いだろうか。基本的に ― 野生動物なので当然といえば当然だが ― 利己主義な考え方をするフィアからの『優しい』言葉に、花中は笑みが零れる。花中の笑顔を見て、フィアもまた楽しそうに微笑んだ。

 えへへ。うふふ。なごやかな声を漏らしながら、花中とフィアは互いに見つめ合う。花中は殆ど無意識にこの状態だ。間もなく一年が経とうとしているリア充状態(花中的定義:友達が一名以上いる状態を指す)であるが、花中は相変わらずフレンドリー大好きで、未だ割と簡単に我を失う。

「あ、そうそう。イチャイチャしてるところ邪魔して悪いけど、はなちゃんちょっと質問しても良い?」

 なのでミリオンから声を掛けられるまで自分の状態に気付かず、声を掛けられた途端、花中は顔を赤らめた。それからそそくさとフィアから離れ、ぷるぷると顔を横に振る。

 忌々しげな目付きでミリオンを睨んでいるフィアは一旦置いておき、花中はミリオンと向き合った。

「は、はい。えと、なんでしょうか?」

「冷蔵庫の中をしっかり探した訳じゃないから私の思い違いかもだし、そもそも必要ないかもだけど……ステーキソースって、うち、あったっけ?」

「……え?」

「だから、ステーキソース。今回の買い物では買ってきてないみたいだけど」

 ミリオンからの問い掛けに、花中はポカンと口を開けたまま固まってしまう。が、これはミリオンの質問の意味が分からなかったからではない。

 その証拠に、花中の顔は見る見るうちに青くなっていったのだから。

 最早病的なほど真っ青になった花中は、ミリオンの問いに答えぬままリビングを駆ける。向かうはキッチン。冷蔵庫の前に立つや花中は勢いよく扉を開け、溢れ出す冷気の中に顔を突っ込んだ。

 ない。

 ない。

 何処にもない!

 何処を探してもない……ある訳がない。普段、花中はがっつりとした肉料理を食べない。だから『あれ』を常備したところで使いきる前に賞味期限切れになってしまうからと、必要な時だけ小さいのを買って、普段は用意していないのだから。理性ではそんな事はとっくに気付いていて、延々と冷蔵庫の中身を見渡しても無駄であると訴えている。しかし感情が『論理的思考』を拒絶していた。

 認められない。ここでそれを認めては、自分の『完璧な計画(パーフェクト・プラン)』が瓦解してしまう。

 ……なんて、小難しい事を考えている花中であったが、

「ステーキソースを買い忘れてしまったのですか?」

「ぐふぅ」

 バッサリと飛んできたフィアからの質問が、完全無欠の正解だった。力なく項垂れながら、花中は「……うん」と掠れるような小声で答える。

 ステーキなんて滅多に食べないものだから、うっかり失念していた。無論ステーキソースがなくてもステーキは食べられる。塩コショウのシンプルな味付けも良いし、ガーリックオイルで焼くのも想像だけで涎が出そうだ。

 だが、今日はステーキソースの気分である。

 ステーキソース以外でもそれなりの満足感は得られるだろう。されど今日はそれでは駄目なのだ。市販のステーキソースの、あの如何にも身体に悪そうな濃い味付けで肉を喰らいたい。分厚いステーキを用意して、後は晩ごはんまでウキウキワクワクしたいのに、こんな些末な『落ち度』があっては心から楽しめない。

「……お昼ごはん食べたら、もう一度買い物に、行こう」

 最早後には退けぬとばかりに、花中は本日二度目の買い物を決定した。

「そう。留守番はしとくから、のんびりいってらっしゃい」

「花中さんが行きたいのなら私は構いませんよ。ところでステーキソースって何処で買うのですか? あのお肉を買った肉屋さんに置いてありましたっけ?」

「ううん、あそこは、お肉しか置いてないから……ちょっと遠いけど、スーパーに、行こうと思う」

「そうですか。まぁ花中さんと一緒なら何処でも同じですけどね」

 フィアもミリオンも花中の決定を小馬鹿にするでもなく、淡々と受け入れる。ミリオンからすれば買い物に行くだけなので行動を縛る理由もなく、フィアは言葉通り花中と一緒ならなんだって良いのだろう。

 つまりは優しさではなく、無関心からの態度だった。実際ただの買い忘れであって、大した話ではない。だけどこうして第三者から気遣いなしに「大した事じゃない」と言われると、花中は胸がすっと軽くなるのを感じた。失態で落ち込んでいた気分もいくらか上々となり、顔には自然と笑みが戻ってくる。

 それでも一つ、拭えない不安があるとすれば。

 ステーキ用のお肉の売り上げが好調だったあのスーパーでは、きっとステーキソースもたくさん買われているという事だけだ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふんふんふふん、ふんふふんふーん」

 商店街の肉屋にて、店主は上機嫌な鼻歌を奏でていた。

 今日はそこそこ高価な肉が売れた。

 彼には肉屋としてのプライドがある。だから安物の肉でも、品質の悪いものは置いていない。高価な肉でも安物の肉でも、売れれば等しく嬉しい……が、それと売り上げの善し悪しは別問題。肉が売れねば利益が出ず、利益が出なければ生活が成り立たない。独り身ならば自分が苦しいだけで済むのだが、店主は妻子持ちである。貧乏によって家族までも苦しめる訳にはいかない。

 そして昨今は異星なんちゃらのせいで肉の価格が高騰し、売り上げが低迷気味。給料が上がらず食料品の価格が倍以上になったのだから、みんなが安い食品を買い求めるのも仕方ない事であるが、仕方ないで済んだら人は共産主義に走らない。今日はどれだけ売れるだろうかと不安を覚えていたが……常連さん(花中)がそれなりに高級な肉を買ってくれた。お陰で明日も家族に美味しいご飯を食べさせる事が出来そうだ。

 そんなこんなで機嫌良く店内の掃除をしていたところ、カランカランと、店のドアに取り付けた鐘の音がした。お昼間際で客の大半をランチやレストランなどに取られているこの時間帯に来店とは、売り上げが落ちている最近では殊更珍しい。花中の友人が言っていたが、どうやら知らぬ間に肉ブームが来ているようだ。

「はいよ、いらっしゃーい。今日はどんな御用、で……」

 期待いっぱいの笑みを浮かべながら、店主は店の出入り口の方へと振り向いた――――直後、その身体を強張らせる。

 彼が見た先に居たのは、一人の淑女。

 栗色の髪が麗しく、気品溢れる佇まい。すっかり肉付きの良い身体となった自身の妻では相手にならない ― ただし三十年前なら良い勝負だとは思っていたが ― ほどの美女が店を訪れたのだ。こう言っては難だが、見た目の雰囲気からして商店街の肉屋などまるで似合わない。予想外の人物を前にして、店主の思考はすっかり固まってしまった。

「ええ、ちょっとお肉が欲しくて」

 ただし『彼女』からのこの一言があるまで、だ。肉が欲しい、という事は客である。客ならば変な気遣いはいらない。丁寧かつ物怖じせず、堂々と自慢の商品を選ばせれば良い。

 ……普通の客より、ちょっとお高い肉も買ってくれそうだ、との皮算用はしていたが。

「そうですかい。ご希望はありますかい?」

「ええ、勿論。もうさっきから良い匂いがして、欲しくて堪らないんですの」

「ははっ! 意外と食いしん坊なようで。取り分けますから指差して教えてくれます?」

「あ、そんな気遣わなくても大丈夫ですわ。わたくし自身が切り分けますし、それにその状態ではもう無理でしょう?」

「……はい?」

 『彼女』は何を言っているんだ? 意味が分からなくて店主は顔を顰めるも、段々と苦悶の表情に移り変わる。

 痛い。熱い。熱い、熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 右手から走る、感じた事のない激痛。若い頃調子に乗って指を半分切った時すら比較にならない、例えようのない刺激。客の前だからと我慢していたが、段々脂汗が浮かび、全身がまるで錆び付いた機械のように強張るのを感じる。

 やがて無意識に、店主は自分の右手を見た。見た筈だった。

 なのに見えない。

 ある筈の右手が、手首から先が、消えていた。

「……あ、え……?」

「んふぅう! これは、凄いですわ……! 残り香だけでこんなにも美味なんて! ああ、もしもお肉の方を食べたなら、一体どれほど美味しいのかしら……!」

「え、え?」

 戸惑う店主の前で、『彼女』は光悦とした表情を浮かべながら、もぐもぐと何かを咀嚼していた。『彼女』の口からは赤い液体が垂れ、されど一滴も落とさないとばかりに、何十センチにもなる舌が伸びて綺麗に舐め取る。

 店主の目には、『彼女』の口から垂れていた液体と、自分の手があった場所から溢れる液体が同じ色に見えた。手首の先はまるで何かに食い千切られたかのように汚い断面をしており、溢れ出る液体は止まる気配がない。痛みは徐々に弱まるが、同時に頭痛や寒気も襲い掛かる。産まれて初めての、過去に体感した事のない苦痛だ。

 しかし店主は、最早自分の手が何処に行ったかなどどうでも良かった。

 『彼女』が自分を見ていたから。慈しむように、期待するように、愛するように。

 さながら、自分が市場で魅惑的な『肉』と出会った時のように。

「ひっ、ひぃうぐっ!?」

 反射的に飛び出る悲鳴は、猛獣が如く勢いでやってきた何かによって塞がれた。藻掻く身体にぎちりと巻き付き、百キロを優に超えている店主の巨躯を、スポンジでも絞るかのように締め上げる。

「勿論、あなた自身も大変美味しいですからお残しなんてしませんわ。ええ、床に落ちてしまった血も一滴たりとも残しません。では、いただきます」

 『彼女』の言葉は、既に店主には届かない。動かなくなった店主の身体は易々と持ち上げられ、『彼女』の下へと引き寄せられる。

 そして……

「ふふんふふんふふーん」

 道を歩く、一人のふくよかな女性。商店街でも有名な、肉屋のおしどり夫婦の妻である。

 井戸端会議仲間とティータイム ― 商店街の喫茶店使用 ― を堪能した彼女は、旦那の昼飯を作るため自宅でもある店へと向かった。あの旦那はもう五十になるのに飯の一つも作れないのかと時々呆れたくもなるが、毎日美味い美味いと言われながら食べるものだから、ついつい作ってあげたくなってしまう。

 のしのしと足音を立てながら、巨体に見合わぬ軽快な足取りで妻は商店街を突き進む。やがて見慣れた我が家の前に辿り着いた彼女は、自宅に入るための裏口ではなく、旦那が切り盛りしている店へとつながる表口から帰宅する。

「ただいまー……ありゃ?」

 それから元気よく帰宅を告げたが、妻はすぐに呆けてしまった。

 本来店主が居る筈のカウンターに、誰も居ないのだ。ショーケースから身を乗り出して店の奥を覗き込んでみたが、やはり店主の姿は見えない。耳を澄ませてみたが、物音や話し声も聞こえなかった。

 とはいえ、妻にとってこれは予想外の状況でもない。どうにも自分の旦那は人が良く、頼まれると快く手伝いに行ってしまう悪癖がある。いや、これだけなら別に悪くはないのだが、その際後先を全然考えないため、戸締まりもなしに出掛けてしまう事が多々あるのだ。

 商店街に泥棒が現れた、なんて話は最近聞いていない。商店街なので人通りも多く、監視の目だってたくさんある。が、だからって現金や商品を置いている店に鍵も掛けずに出て行く奴があるか。

 これは後で説教だなと考えながら、取り敢えず店を留守にするのは不味いと妻は素早く動き出す。店の表口から出た彼女は急ぎ足で裏口から自宅へ。荷物を適当な場所に置いてからエプロンを装備し、店へとつながる扉を開ける。扉の先はカウンターの裏側で、そこに置かれている消毒用アルコールで手を洗い、清潔な紙で手を拭けば準備万端。無論、使い捨てのビニール手袋がある事も確認しておく。

 全ての支度を終えた妻は普段店主が座っている椅子にどっしりと腰掛け、一息吐いた。

「全く、一体何処をほっつき歩いているんだか。帰ってくるまで、説教の内容でも考えておこうかね」

 気儘で考えなし、優しくて頼りになる旦那の帰りを、妻は待つ。

 気長に、何時までも。

 何時までも――――




被害拡大中。
ちょっとずつ得体の知れないものがにじり寄り、
平穏を蝕みながら近付いてくる。
さて、花中達は何時この事に気付くのでしょうか。

次回は5/20(日)投稿予定です。


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女神の美食3

「花中さん花中さんステーキソースってこれですよね?」

「えっと……うんっ。これだよ」

 指差しで確認してくるフィアに、花中は大きく頷きながら答えた。

 時刻は一時半ちょっと過ぎ。

 自宅でお昼ごはんを食べてからスーパーカチオンに戻ってきた花中は、ステーキソースが売られているところを見て胸を撫で下ろした。お肉が売り切れていたので、もしかしたら……と心配していたが、杞憂だったらしい。棚にはずらりと、多種多様な市販品ステーキソースが並んでいた。来店している人の数も、今日一回目の買い物時と比べかなり少ない。のんびりしているうちに横から取られて売り切れ、という可能性は考えなくて良さそうだ。じっくりと悩める。

 さて、どれを買うべきか。

 好んで食べないとはいえ、何も数えるほどしかステーキを口にした事がない、という訳でもない。自分の好きな味というのはしっかり把握しており、どのソースが自分の好みかはちゃんと覚えている。しかしそれでは知った味が『限界』だ。未体験の、そしてより高みの味を探すために、買った事のない商品を選ぶのもありだろう。

 安定か、革命か。

 ……基本、何事も守りから入る性格なので、花中が選んだのは慣れ親しんだ品だった。将来的には多分あまり使わないので、一番小さなサイズを手に取り、買い物カゴに入れる。

 他に欲しい商品もないので、後はこれをレジの人に渡し、支払いを済ませるだけ。自身のうっかりにより余計な体力を使う羽目になったが、花中はにこやかな笑みを浮かべる。

 今度こそ本当に準備が整ったのだ。後は最高の時間に、最高の焼き加減のステーキを作るのみ。お昼を食べても未だ静まらない肉欲求 ― 正確には半端な肉で欲求を満たしたくなかったので、野菜オンリーの野菜炒めや味噌汁で昼は済ませたのだが ― により、今晩のディナーは想像しただけで涎が出てくる。

 もう、夜が楽しみで楽しみで仕方ない。

「しっかしなんだか騒がしいですねぇ」

 そんなこんなで舞い上がっていた花中だったが、フィアから話し掛けられて我を取り戻す。そしてフィアが見ている先へと振り向き、こくんと頷いた。

 スーパーの一角には、そこそこ大きな人集りが出来ていた。集まっているのは主に来店客。如何にも噂が好きそうな中年女性が大半で、人数にしては大きなざわめきを発していた。

 確かにタイムセールなどが始まると、主婦の皆様方にざわめきが起こる事もある。が、どうにも花中の耳には、このざわめきがそういう時のものとは違った雰囲気があるように感じられた。大体にしてスーパーカチオンのタイムセールは、経験的に夜七時前後に多い。タイムセールとは日を跨がせたくない商品を売り切るのが目的である場合が多いのだ。今は確かに来店客の数は少なく見えるが、午後二~四時頃に掛けて夕飯の買い物をしに来る人が増える筈。タイムセール(在庫処分)をするのは些か気が早いのではないか。

 人集りの中で何が起きているか分からず、少しばかり気になる。

 幸いにして今この時、花中のすぐ隣には文字通り人外レベルで耳の良い友達が居た。

「フィアちゃん、あそこの人達が、何を言ってるか、分かる?」

「ふふーんあまり見くびらないでください。あれほどぎゃーぎゃー騒げば店の外からだって聞こえますよ」

 尋ねてみれば胸を張り、自慢気にフィアは答える。

「どうやら店の商品が荒らされたようですね」

 そして耳を傾けるような動作すら取らず、難なく喧噪の中身について教えてくれた。

 フィアの耳の良さについては、今更疑いの余地などない。すとんと信じ込んだ花中は、しかし首を傾げる。

「お店の品が……えと、壊されていたって、事?」

「うーんそれとは少し違うようですね。空の容器が床にとっちらかってたとかなんとか。お金を払わずに食べてしまったという事でしょうか?」

「いくらなんでも、それはないと思うなぁ。だって、そんなの動物みたいじゃ……」

 フィアの意見に反論しようとした花中だったが、その言葉は半ばで途切れる。話が途中で終わった事を不思議に思っているのか、フィアが顔を覗き込んできたが、それでも花中は口を閉じたまま。

「……ううん。なんでも、ない」

 結局、自分の言葉を撤回してしまう。

「そうですか。おっとあそこの人間達が噂してますね。なんでも店員が一人無断退社しているとかなんとか。お金の計算が合わないとも言ってますね」

「あ、そうなんだ」

 だとしたら、その店員さんがお店の商品を荒らし、お金を盗んで逃げているのかも――――フィアが聞いた話からそのような推論を立てた花中は()()()()()()()()

「……花中さん?」

「え? ……あ、えと……ど、どうしたの?」

「どうしたのと言いますか……」

 そんな自分をフィアが怪訝そうに見ている事に気付き、花中は挙動不審気味に訊いてみる。

 フィアは何かを言いたそうにしていたが、良い言葉が浮かばなかったのだろうか。それとも訊いてはみたが、そこまで関心のある事ではなかったのか。

「……まぁ良いでしょう。大した事じゃありませんし」

 問い詰める事も、疑いの眼を向ける事も止め、フィアは肩を竦めた。

「そ、それより、お会計しないとね。買わないと、何時までも帰れないし」

「ですね。えーっとレジは確かあっちでしたっけね」

 花中に促され、フィアはレジの方へと歩き出す。花中の歩みに併せた速さで。ちらりと人混みの方を振り向く花中の歩みは、とても遅いものだった。

 レジに行くのを少し躊躇うように……

 ……………

 ………

 …

 尤も、レジで何かトラブルが起きる事などなく。本日二度目の買い物はつつがなく終わった。

「良し。これで、きっと大丈夫っ」

「そうですか」

 スーパーからの二度目の帰り道、花中は握り拳を作りながら自分に言い聞かせ、フィアは雑に納得した。訝しんでいる訳ではなく、仮に三度目の買い物に出向く羽目になってもフィアは全く気にしないからだろう。

 ただし花中としては、三度目の買い物は御免被りたい。

「まぁ、ステーキだから、材料とかそんなに……ニンニクは、あまり好きじゃないから、使わないし、塩胡椒は、流石にあるし、買ったお肉は、ちゃんと牛肉だし」

 確信するような口振りで、トラブルの可能性を念入りに潰していく。本来ならこれで自信を深めるものなのだろうが、しかしそこは基本的に臆病な花中。言葉にするほど不安が募り、どんどん些末で『あり得ない』ものも気になってくる。

 そして一度悩み出したら止まらないのが花中の悪癖。少しばかり俯き気味の頭の中は、今や『もしも』でいっぱい。脳のリソースを他に振り分ける事すら無意識に惜しみ、五感の情報さえもシャットアウトしていた。一見してしっかりと前を見ているが、その目が送信した画像を脳は無慈悲に捨てている。

 思い浮かんだ可能性をぶつぶつと一人で否定し続けながら花中は歩き、フィアはそんな花中に黙って付き添う。普通の人ならば、そこまでたくさんの可能性は思い付くまい。されど花中はしょうもないほどの小心者。心配事を挙げればきりがない。何時までも何時までも、底なしの可能性を潰していく。

 本当に何時までも考え続けて。

「花中さん花中さん」

「――――え。あ、うん。なぁに、フィアちゃん」

「念のために訊いておきますが此処は何処ですか?」

「え? 何処って……」

 フィアに呼ばれてようやく我に返り、辺りを見渡した花中の眼に映ったのは、見知らぬ景色だった。

 ……本当に、見知らぬ景色だった。

 角度を変えたり、位置を変えたりもしてみたが、目に映るのは全く記憶にない町並みばかり。普段通らないとか、そんな次元の話ではない。自分の家が此処からどっちの方角にあるのかも見当付かない状況だ。来た道を戻れば、という方法を使おうにも、そもそも自分がどうやって此処まで来たのかの記憶がない有り様。どうすれば良いのか分からず、花中は一歩も進めなくなってしまう。

 本気で困惑し、狼狽える花中を見ていたフィアは、やれやれと言いたげに肩を竦める。

「考え込むのは結構ですがせめて足は止めた方が良いと思いますよ。花中さんすぐに前が見えなくなりますから」

「……はい」

 考え事に夢中になった所為で迷子になったと気付かされ、花中は真っ赤になった顔を俯かせた。変な道を歩いていると気付いたなら止めてよぅ……とも思いフィアをジト目で見もしたが、全面的に自分が悪いので大人しく反省する。

「仕方ありませんね。道順なんかは覚えてませんけど臭いを辿れば家の方角ぐらいは分かります。私に付いてきてください」

「うん……ごめんね。ありがとう」

「どういたしまして。また考え込んではぐれないように手をつなぎましょうか」

「うん……」

 言われるがままフィアと手をつなぎ、花中はフィアに連れられる形で歩き出す。

 フィアの歩みはとてもゆっくりだったが、迷いは一切なかった。流石はフナの嗅覚、花中の家の臭いはバッチリと分かるらしい。野生の逞しさが花中に安心を与えてくれる。花中はその歩みの邪魔をしないよう、力強く歩を進めた。

 しかしながら花中は生来素直な性質であるもので。

 道中何気なく見付けてしまった『人』が気になり、花中の足は本人の意識とは関係なく一瞬止まってしまった。

「花中さん?」

 フィアの、その気になれば敏感な触覚は、花中の微かな動きの変化を逃さない。気付かれてしまった花中はなんとなく狼狽え、その必要がない事を思い出して恥ずかしさから手足をもじもじする。

 別段、教えるほどの『大事』な話ではない。

 同時に、黙っている必要がある話でもない。加えてフィアは家に帰ろうとしているが、急いで帰りたい訳でもない筈だ。彼女は自分と一緒なら何処に寄り道してもあまり気にしない事を、一年近く一緒に暮らしている花中はよく知っているのだから。

「……えと、あそこの人……」

 故に花中はおずおずしながらも、自分の目が止まったものを指し示した。

 花中の細い指先が示したのは、一人の女性。

 四十代か、それとも五十代か……第一印象でそのように見えるぐらい、女性の顔は憔悴していた。目許には遠目でも分かるぐらい濃い隈があり、明らかに体調が悪そうである。背丈こそ花中よりずっと高いが、細さでは明らかにその女性の方が上。もしかすると華奢な花中よりも体重が軽いのではないか。彼女の身体はふらふらと揺れており、今にも倒れそうだ。花中が彼女の友人だったなら、間違いなく休息を取らせる……促すではなく、何がなんでも取らせるだろう。今だって、フィアに頼んで首の辺りをキュッと締めてもらうべきではないかと思ってしまうぐらいなのだから。

 それほど疲弊しながら、女性の手には何十枚もの紙が握られている。平時ならなんでもない重さだろうが、今の女性の状態ではダンベルを抱えるぐらいの過酷さではなかろうか。いや、そもそも立っているだけで重労働に違いない。

 あの女性は、あんな状態で何をしているのだろう。

 そのような理由から気になり、それをフィアに伝えるため彼女を指差した花中は――――女性がこちらをハッキリと見た瞬間、驚きのあまり跳び退いてしまった。

 女性は花中達の姿を見るや、駆け足気味に近付いてくる。今にも倒れそうだった身体の何処にそんな体力が残っていたのか。尋常ならざる動きに花中だけでなくフィアも警戒するが、所詮は人間と思われたのだろう。間近までやってきた女性をフィアが攻撃する事はなかった。

 そして女性は、花中達に持っていた紙を一枚だけ差し出してくる。

「……えと……」

「あの、すみません。この子について、何か知りませんか……?」

「この子?」

 女性の今にも潰えてしまいそうな声に不安を覚えながら、花中は紙を受け取り、その紙に目を向ける。

 表題曰く、『さがしています』。そして紙の半分以上を占める、少年の写真。

 これだけで、この紙が『行方不明者』を探すためのチラシである事を察するのは難しくなかった。跳ねる胸を片手で抑えながら、花中はチラシを読み進める。書かれている情報によると、行方不明になった子は先月十二歳になったばかりの小学生。二週間前の午後五時頃、帰宅すべく友達の家から出た後の行方が分からなくなっている。警察も調べているが、有力な手掛かりは未だ見付かっていないそうだ。

 ここからは紙には書かれていない内容だが……目の前の女性は、恐らく行方不明となった少年の母親で、二週間前から方々に手を尽くしているのだろう。精神的・肉体的に二週間も酷使すれば、疲弊しない筈がない。だとしてもこれはあまりにも、という気持ちもあるが。

「どんな小さな事でも構いません。うろ覚えでも良いんです。何か知っている事は……」

 花中を見つめながら、すがるように女性は訊いてくる。

 愛する子を失った親の気持ちがどれほど苦しいか、花中には想像も付かない。それでもこの人がどれだけ息子を愛していたのかは伝わってくる。出来る事なら、彼女の苦しみを少しでも癒やしたかった。

 だけど、噓を吐く訳にもいかない。

「すみません。見覚えは、ないです……ごめんなさい、お役に立てなくて」

「……いえ、気にしないで、ください……」

「あ、えと、このチラシ、何枚かもらっても、良いですか? 学校の、友達にも、訊いてみます」

「ええ、勿論……ありがとうございます」

 花中に数枚のチラシを渡すと、女性はにっこりと、安らいだ笑みを浮かべた。それからふらふらとした足取りで去っていく。この辺りでは新たな情報は得られそうにないと判断したのか、或いは疲労が限界に達したので帰るのか……花中としては後者を望んだが、恐らくは前者なのだろう。

「フィアちゃん。このチラシの子に、見覚え、ある?」

「ふーむどれどれ」

 女性が立ち去ってから、花中はフィアにチラシを渡す。

 花中からの『質問』にフィアはチラシをしっかりと読み、考え込むように顎を擦る……のも束の間。

「いいえ全く。というか行方不明になってもう二週間経ってるって書いてあるじゃないですか。大方その辺で野垂れ死んでいますよ」

 ほんの数秒で、極めて『現実的』な考えを口にした。思った通りの答えに、女性が去ってから尋ねて正解だったと花中はため息を漏らす。

「そーいう事、さっきの人には、言わない方が、良いからね」

「分かっています。知らぬが仏というやつですよね。人間って真実を知りたいと言う癖に都合の悪い真実は否定しますからねぇ。逆ギレされても面倒です」

「……多分あの人も、薄々、考えては、いると、思うけど」

「? 向こうが分かっているのなら何故私達が黙っておかねばならないのですか?」

 本気で意味が分からないと言いたげに、フィアは首を傾げる。これを言葉で教えるのは無理だろう。どれだけ理屈を付けたところで、野生の考え方を持つ彼女には『可能性』から目を逸らす意味など分かるまい。

「ううん、なんでもない。そろそろ、家に帰ろう」

 花中が帰りを促せば、もうフィアにとって先の『女性』など意識の外。花中が伸ばした手を掴むと、スタスタと迷いのない足取りで歩き始める。

 てくてく、てくてく。一人と一匹はゆったりと町を進む。弾む会話も、だらだらとした喋りもない。閑静な住宅地の中に溶け込むように、静かに。

「花中さん。さっきからびみょーに上の空ですけどどうかしましたか?」

 あまりにも静かなものなので、ついにお喋り好きなフィアは黙ったままの花中に尋ねてきた。

 花中は一瞬キョトンとした後、わたわたと両手を振って否定の気持ちを露わにする。上の空でいたつもりはない。ないが……そう取られる態度だったのかも知れない。

 あっさりと両手を下ろした花中は、しゅんと項垂れた。実際『心当たり』はあったので。

「……その……ちょっと、気になる事があって」

「はぁ。私で良ければ相談に乗りますが」

「えと、相談って、訳じゃないけど……あの、行方不明の人が……」

「ああさっきの人間の話ですか。しかしあの人間やその子供と知り合いという訳ではないのでしょう? だったら別にどーでも良いと思うのですが」

「そ、それは、そうかも、だけど……」

 心底呆れたように眉を顰めるフィアに、花中はおどおどと頷く。だが、同意した訳ではない。

「だって、可哀想だし、それに怖いし……もしかしたら、普通じゃない事が、起きてるかも、だし……」

「普通じゃない?」

「た、例えば、ミュータントの仕業、とか」

 花中は思い付きを口にしながら、自身の中にあった不安を言葉に換えていく。

 ここ最近、何かがおかしいと思っていた。

 例えばミュータント。ミリオンや『世界の支配者』達から教えてもらった話では、彼女達は突然変異により、人間が放つ脳波を受け取れるようになった個体である。ただでさえ突然変異には不利なものが多いのに、ミュータント化という有利どころかインチキ染みた変異が早々起こる筈がない。だのにこの一年で花中の周りで『発生』したミュータントは、フナにイエネコ、ゴリラやカニ……いくらなんでも多過ぎる。何か大きな変化があり、ミュータントの大量発生が起きているのではないか。だとすればこの町に新たなミュータントが現れ、本能の通りに行動した結果人との衝突を起こしているのかも知れない。

 脅威はミュータントだけではない。ミリオンが戦ったというRNA生命体、星の外から飛来した異星生命体……そのどちらも地球生命を根絶やしにする事が出来るほどの力を持っていた。広大な宇宙の何処かには、或いはこの星の何処かには、その二種に匹敵する、もしくは凌駕する生物が存在する可能性がある。それも一体二体ではなく、無数に。

 人類の繁栄は既に保証されていない。何時どんな形で、人々の安寧 ― と思い込んでいる時間、というのが正確なのだろうが…… ― が脅かされてもおかしくないのだ。

 だからもしもその『兆候』らしきものがあったなら、ミュータントやそれ以外の存在と接触した身として、何より一人の人間として見過ごせない。

 自分に出来る事があるのなら、そのために力を尽くしたい。花中はそう思っていた。

「……人間とはやはりよく分からない考え方をするものです。顔も知らない他人のためにわざわざ手に負えないと思っているものに近付こうとするのですから」

 尤も、社会性を持たないフィアには、花中の想いは全く理解してもらえなかったが。

「う、ご、ごめん……」

「いえ謝られても困るのですが。理解出来ないだけで不快だとは言ってないですし」

「……うん」

「それにまぁ花中さんが調べたいのでしたらお好きにやれば良いんじゃないですか? 明確に危険だと決まった訳でないのなら私としては止めさせる理由もありませんし。危険そうなら止めますけどこの私がいる限りどんな輩であろうとも花中さんには指一本触れる事も叶いませんがね」

「……ありがと」

「いえいえどーも。何故お礼を言われるのかも分かりませんけど」

 感謝されて喜ぶどころか怪訝そうなフィアを見て、花中はくすりと笑みを零した。

 人間とはまるで異なる考え方をしていても、こうして楽しく話が出来る。なら、これからどんな相手が現れても……結構、なんとか仲良く出来そうな気がした。

 みんなと仲良くしたい。心からそう思っている花中にとって、これほど心強い事はない。自然と気持ちは前向きになり、鼻息も荒くなる。今なら何が起きても大丈夫という気になり、歩みは少し弾んでいく。

「そこの方、少しよろしくって?」

 そうして上々な気分でいたところ、不意に声を掛けられた。

 途端、花中は発火するように顔を赤くする。

 自分は今し方かなり上機嫌になっていた、ように思える。多分スキップ混じりの歩みをしていただろう。掛けられた声に聞き覚えはないし、名前も呼ばれていないので、恐らく相手は見知らぬ人。友達相手ならばまだしも、面識のない人に浮かれた姿を見られるのはかなり恥ずかしい。

 今更遅いとは思いながらも慌てて平静を装ってから、花中は声がした方に振り返る。

 そして、花中は呆気に取られた。

 振り向いた先に居たのは、一人の女性だった。年頃は二十代前半か、後半だろうか。麗しさと愛らしさを両立させた、穏やかな顔立ちからそう推し測ったが、しかし見せている肌の質感は少女どころか乳児を思わせるほどに艶やかで若さに満ちている。肩の辺りまで伸びている栗色の髪はウェーブが掛かっていて、何処かのご令嬢のようなイメージを形作っていた。着ているワンピースはシンプルなデザインながら、その生地の高級感が彼女の気品を一層引き立たせる。浮かべている嫋やかな微笑みは、お伽噺のお姫様を彷彿とさせた。

 等とイメージを言葉にしてみる花中だったが、第一印象は単純明快。すごく綺麗な人、であった。ただしフィアやミリオンのような文字通り『人外』染みた美しさではなく、自然で、素朴で……凄く綺麗だと思うのに、目を離したらそのまま見失ってしまいそうな雰囲気だ。

 さて。そんな綺麗な人であるが、花中にはまるで見覚えがない。

 知人という意味だけでなく、歩いていてすれ違っただとか、偶々一緒の列に並んだとかの記憶もなかった。されど先の印象から、余程注視していなければあっさり忘れてしまいそうな気もする。

 もしかして、自分は知らぬ間に『彼女』に何かしてしまったのだろうか?

「何か御用ですか?」

 『もしも』を考えて花中が少し怯んでいると、代わりにフィアが女性に尋ね返していた。フィアの声は普段より幾分低く、目付きも悪い。あからさまに不愉快そうなのは、花中を()()()()()事に怒っているから……ではなく、二人で楽しくしているところを邪魔されたから、だろう。

 しかしながら『彼女』も中々逞しい精神の持ち主なのか、フィアに睨まれても何処吹く風。先程から浮かべている嫋やかな微笑みは微動だにしない。どうやら敵意や悪意はこれっぽっちもなさそうだが、ならば何故自分が呼び止められたのか分からず花中は首を傾げる。

 戸惑いと警戒心を見せる花中達に『彼女』が最初に見せた行動は、ぺこりと、深々と一礼する事だった。

「まずは自己紹介から。わたくし、大月(おおげつ)と申します。以後、お見知りおきを」

「あ、えと、はじめまして……」

「……別にあなたの名前とかどうでも良いので用件を言ってくれませんか?」

 露骨な敵意を見せるフィアに、花中は驚きで声を失ってしまう。いきなりそんな失礼な事を、と窘めようにも呆気に取られ、口は空回りするばかり。そうして結局何も言えずにいたが、大月は気にも留めていない様子だ。申し訳なさそうに身を捩らせ、しかし楽しそうに微笑むばかりである。

「ああ、ごめんなさい。実はそちらの方に一つお願いがあるんですの」

 加えて花中を見ながらそう語るので、花中はますます困惑してしまった。

「わ、わたしに、ですか……?」

「ええ。あ、そんな難しい話ではありませんわ」

「は、はぁ……」

 わざわざ自分なんかを指名して、何を頼みたいのだろう? 初対面の相手というのもあって、流石の花中にも猜疑心が募り始める。

 大月はそんな花中と、微笑みを浮かべながら向き合う。一見して優しい笑みだが……何故だろう。その優しさに、得体の知れない不安を覚える。花中は思わずフィアの後ろに隠れ、フィアも花中を庇うように前に出る。

 警戒心を剥き出しにする一人と一匹。何かが起きれば、大きな『爆弾』が弾けそうな雰囲気の中、大月はゆっくりと口を開けた。ねっとりとした涎が口の奥底で糸を引き、白い前歯が花中に見せ付けられる。大月の表情はあたかも逃げ場のないウサギを前にした、獰猛なオオカミのよう。花中は背筋に凍るような冷たさを感じる。

 そして震える花中の前で大月は、

「わたくしと、お友達になってくれませんか?」

 臆面もなく、開いた口からそう頼み込んでくるのだった。




花中に接近する謎の美女。その正体や如何に!?

これほど白々しい後書きもそうはあるまい(ぁ)

次回は5/27(日)投稿予定です


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女神の美食4

 大桐花中はフレンドリーなのが大好きである。

 花中自身その事は自覚している。学校でクラスメート達を見ていても、彼女達は友達に抱き着かれて頬がふにゃふにゃになったりしていないし、手を繋いで蕩けるような笑みがこぼしたり、頭を撫でられて腑抜けになったりはしていない。自分ほど友情に耐性がない人間は、恐らくそういないだろう。

 そんな花中でも、初対面で、たった今二~三言葉を交わしただけの女性と友達になりたいとは思わなかった。

「……えっと、あの……今、なんて……?」

「ですから、あなたとお友達になりたいの」

 自分が何か聞き間違えたのだろうか? そんな『もしも』を考えていたが、大月と名乗った女性は花中の戸惑いなどお構いなしに、堂々と先程と同じ言葉を告げてみせた。

 初対面同士、相手の名前ぐらいしか知らない ― というか言い出した方は花中の名前すら知らない筈の ― 関係で友達になろうとする。

 ハッキリ言って、変だ。確かに花中にはほぼ初対面で、名前だけ伝え合って友達になった『妖精さん』という相手もいるが……彼女との関係は色々と山積みになっていた問題を解決するために結んだもので、友情というより腹芸の類である。要するにそれなりの理由があった訳で、理由もなしに見知らぬ人物と友達になろうとする人が『普通』という事はないだろう。行方不明者が頻発しているという噂がある現状、怪しい人物に近付くのは得策ではない……頻発していなくても得策ではないが。

 兎にも角にも、大月からのお願いにYesと答える理由はなく、むしろ離れた方が良い理由ばかり思い付く。可能な限り相手を刺激しないよう、花中は穏便なお断りの言葉を考える

「誰があなたみたいな怪しい輩と友達になるもんですか。さっさと帰ってくれませんか?」

 最中にフィアがズバッと言ってしまった。

 相手を不快にさせないよう、なんて気遣いが欠片も含まれていないフィアらしい物言い。あまりに容赦ない言い方に、大体同じ意見だった花中もギョッとなる。相手は『不審者』だ。もしかしたら逆上して暴れるかも知れない。性質の悪い事に今花中達が居るのは市街地のど真ん中で、ちらほらと市民が通っていく一般道。花中はフィアが守ってくれるが、周りの人達に危害が及ぶ可能性も……

 不安になる花中だったが、しかしその不安を振り払ったのは不安の元凶である筈の大月。

 何しろまるで叱られた子供のように、大月は落ち込み、項垂れていたのだから。

「……駄目、かしら?」

「駄目です。逆に何故大丈夫だと思ったんですか」

「だって、わたくしお友達の作り方ってよく分からなくて……友達は一人いますけど、あの子は顔を合わせてすぐ友達になろうって言ってきたから、こうするのが普通だと思って……」

「どんな奴ですかその友達とやらは」

 呆れ返るフィアに、大月は両手の人差し指同士をつんつんと合わせていじけてしまう。その仕草のなんと無邪気で愛くるしい事か。麗しい見た目とのギャップが、彼女の魅力を一層引き立てる。

 されど花中がドキリとしたのは、大月の魅力に当てられたからではない。

 友達の作り方が分からない……それは、かつての自分も同じだった。フィアから友達になろうと言ってくれなければ、今でも独りぼっちだっただろう。その後友達になった晴海や加奈子も、フィアの物怖じしない姿勢から学んでいなければ、友達になってほしいと頼む事は出来なかったに違いない。

 この大月という女性も、そのたった一人の友達から作り方を学んだとしたら、やり方が多少頓珍漢なのも仕方ないかも知れない……初対面である花中と友達になりたい理由は、やはり分からないが。

 ただ、突然のお願いに『理由』があったとなれば、猜疑心は少なからず薄れる。

 そして共感も抱けた。

「あ、あの……」

 おどおどと、花中は大月に呼び掛ける。大月は呼ばれるが早いか花中の方へと振り返り、キラキラと輝く瞳で花中を見つめてきた。無邪気で、子供のように愛らしい瞳だ。悪意はまるで感じ取れない。

 未だ、大月が『怪しい人』なのは変わらない。だから心を許した訳ではない。

 だけどもしかしたら、本当に友達が欲しくて、だけど友達の作り方が分からないのなら……それを見過ごすなんて真似は、花中には出来ない。いや、したくない。自分のような寂しい想いをする人なんて、出てほしくはないのだから。

 だったら、自分がすべき事はひとつ。

「……わたしで、良ければ、友達になりますよ」

 花中が掠れるような声で告げた言葉に、大月とフィアは目を見開いて驚きを示した。直後、大月は花中に駆け寄ろうとして、フィアに捕まり動きを妨げられる。それでも大月の動きは止まらず、まるで幼子のようジタバタするばかり。とても嬉しそうな微笑みを見る限り、自分が捕まっている事に気付いていないのではないか。そうとしか思えないほど、大月の無我夢中ぶりは凄まじかった。

「ほんと!? わたくしと友達になってくださるの!?」

「あ、は、はひ!? えと、その、と、は、はい」

「ありがとう! ああ、どうしましょう!」

 猛然と迫り来る大月に怯む花中だったが、当の大月は正しく有頂天。今にも崩れそうなほど蕩けた赤い頬を両手で押さえ、幸せを目いっぱい表現してくる。

 ここまで喜んでもらえると、花中としても少なからず嬉しい。まだ大月の事は何も分からないが……今のところ悪い人のようには感じられない。

 なら、きっと大丈夫。

 これから待ち受けているのはきっと楽しい事ばかりだと思えた花中は、自然と笑みが零れるのだった。

 未だ大月の事を掴んだまま、訝しんだ眼差しを向けているフィアの姿に気付きつつも――――

 ……………

 ………

 …

「年上のお姉さんと友達になったぁ?」

 訝しげに訊き返してきたミリオンに、花中はおどおどしながら頷いた。

 フィアの案内の元、どうにかこうにか家に帰れた花中は、迷子になっていた時自分の身に起きた出来事……見知らぬ女性と友達になるという事態を、自宅リビングの中央に置かれたテーブルの席に着いて、くつろいでいたミリオンに報告した。

 ミリオンは信じられないと言いたげに、眉を顰めている。無論その「信じられない」は『疑念』ではなく『批難』の方であるが。

「はなちゃん。いくら友達中毒者(ジャンキー)だからって、知らない大人と友達になるのはどうかと思うわ」

「ミリオンさん、わたしの事、そう思ってたんですか……いくらわたしでも、知らない人に、友達になりましょうって、言われて、すんなり、はいとは、言いません」

「でも友達になったんでしょ、そのお姉さんとは。すんなりじゃなかったとしても」

「……なっちゃいましたけど」

 ミリオンのツッコミに、返す言葉がない花中はしゅんと項垂れる。

「まぁ、なっちゃったものはしょうがないか。そういう形で出来た友達が、揃いも揃ってろくでもないとは限らないし」

 あまりにも惨めに項垂れるものだからか、ミリオンは諦めたようにぼやいた。

「……はい」

「一応言っとくけど、限らないだけで、怪しいのには変わりないんだからね?」

「それは、分かっています」

「よろしい」

 花中の返事を聞き、ミリオンは満足げに頷く。リスクを分かっているならそれで良いようで、これ以上花中に何か言うつもりはないとばかりに片手をひらひらと振った。

「で? さっきからさかなちゃんはなんでふて腐れてる訳?」

 そうして花中との話に一区切り付けてから、フィアに声を掛ける。

 今の今まで会話に混ざらなかったフィアは、リビングのソファの背もたれにだらしなく全身を預けていた。唇を尖らせ、目は据わっていて……明らかに機嫌が悪い。とはいえ怒っているような不機嫌さではなかったが。ミリオンに呼ばれてもその態度は変わらず、目だけをミリオンに向けると、フィアは不愉快そうな鼻息を一つ吐いた。

「別にふて腐れている訳ではありませんいくらアイツが胡散臭いと言っても花中さんが全然聞いてくれないのでどうしたものかと思っただけです」

「なんだ、要は拗ねてる訳ね」

「拗ねているんじゃありません」

「なら、ちゃんと説得しなさいよ。胡散臭いと思う理由、あるんでしょ?」

「ありますけど……」

 ミリオンに問われ、フィアはますますムスッとした表情を浮かべる。それからしばし、考え込むように黙ってしまった。すぐに反論が出てこないところが、信憑性を薄れさせていく。

「……なんか嗅いだ事のある臭いがしたんですよアイツから」

 やがて開いた口から出てきた言葉も、なんだか曖昧なもの。

 他者を納得させるほどの説得力はなく、ミリオンはキョトンとしてしまった。

「何よそれ、嗅いだ事のある臭いって」

「それが分かったらとっくに言っています。ああもうっなんでしたかねぇ……思い出せれば一発で説得出来る自信があるのにぃ……!」

「普段はなちゃん以外無関心だからそーなんのよ。もう少し世の中について色々興味を持った方が良いわよ」

「うぐぎぎぎぎ……!」

 ミリオンの『お説教』に言い返せず、フィアは歯ぎしりするばかり。歯なんて本当はないのにわざわざ音を立てるとは、余程悔しいようだ。

 しかし花中には、フィアが負け惜しみを言っているとも思えない。遠く離れた公園に潜む猫の臭いを探知したり、大桐家の場所を探り当てたり、違法薬物を追跡したり……フィアの『嗅覚』は、理性と論理を重んじる花中には到底為し得ない事を幾度となくやってみせた。人間(花中)には感じ取れないほど微かな、されど疑うに足る何かしらの『臭い』を感じ取ったとしてもおかしくはない。

 ミリオンもフィアとはそこそこ長い付き合いだ。フィアの嗅覚が凄まじく優秀である事を、度々目の当たりにしてきている。例え明確な説明は出来ずとも、鼻で笑って無視も出来ないだろう。ミリオンは小さなため息を吐きながらも、フィアを嘲笑うような真似はしなかった。むしろ顎に手を当て、何か考え込むような仕草を取る。

 やがて何かを閃いたのか、ミリオンは大きな頷きをした。

「はなちゃん。そういえばなんだけど、そのお姉さんとは次何時会うかの約束とかしたのかしら?」

「え? あ、はい。えと、一応、明日、また会いましょうって。明日も、休みですし」

「そう。それならやっぱ保護者の『ご挨拶』は必要よね?」

 にっこりと微笑むミリオンを見て、花中は彼女の言いたい事を察した。

 断ったところで、ミリオンは()()()()と付いてくるだろう。ならば答えは実質一つしかない。幸い、という訳ではないが、大月の連絡先は既に聞いている。今回の約束ではフィアも同行する事になっているので、今のうちに話しておけば『一人』追加するぐらいは可能な筈だ。

「……分かりました。あとで、電話して、確認してみます」

「良し、それじゃあこの話は一旦お終いね」

 花中の返事を満足げに聞き、ミリオンはぱちんと手を叩いてから有無を言わさない力強さで告げる。花中としては異論などなく、むしろ大月との友達付き合いを許してもらえてホッとしている状態。フィアは未だ不服そうな顔をしていたが、反論しようにも当人すら確証がない不信感を言葉に出来る訳もなく、悔しそうに唇を噛み締めるばかり。

 沈黙は肯定となり、ミリオンが言う通りこの話はこれで一旦終わりとなった。

 さて。

 喧々囂々の……なんて事はないが、割と長い話が終わった。スーパーを出た時間は三時過ぎだったが、そこから迷子になったり大月と遭遇したりで帰宅時間はかなり遅くなっている。

 花中がちらりと壁に掛けてある時計を見てみれば、夕飯の支度をするのに丁度良い時刻を指していた。

「……じゅるり」

「あら。食べ盛りのはなちゃんには、今回の話はちょっと長過ぎたかしら?」

「ふぇ!? あ、や、い、今のは条件反射で……」

 思わず出てきた涎を啜った瞬間を、ミリオンに聞かれた花中は顔を真っ赤に染める。相変わらずソファーに寄り掛かっているフィアも、先程までの不機嫌ぷりは何処へやら。愛でるような眼差しで花中を見ていた。

 幼稚園児じゃあるまいし、幼稚な反応をしてしまったものだ。自己嫌悪と恥ずかしさで花中は段々縮こまっていくが、頭の中が真っ白になる事もない。

 何故なら今日の花中は『肉食モード』。これから冷蔵庫を開けて買い立てほやほやのステーキ肉を取り出し、繊細な味付けと大胆な火力調整によって最高の一品に仕立て上げねばならない。この本能に直結した欲望の前では、世間体など些末なものである。

 リビングを離れ、キッチンへと向かう足取りは軽やか。恥ずかしさでくしゃくしゃになっていた顔には、普段の花中らしからぬ獰猛な ― 大体イタズラを仕掛けた小学校低学年の男子ぐらいな感じの ― 笑みが浮かんでくる。話が終わった今、最早花中を止めるものはない。

 冷蔵庫に大切に保管していた牛ステーキ肉を取り出し、またしても出てくる涎を、今度は静かに飲み込む。一旦牛ステーキ肉をまな板の上に置いたら、今度はガス台の状態をチェック。火力の強弱は何時も通り、調整時の変化も何時も通り。これなら最高の調理が可能だ。

 ステーキソースの用意良し、塩コショウなどの下味要員も準備良し。今になってGOサインを躊躇う理由など何処にもない。

 コンロの火を付け、フライパンをじっくりと加熱する。

 それから特筆するほどもない、シンプルな調理を黙々と進める事約十五分。夕刻を過ぎ、晩ご飯時を迎えた頃。

「ついに、出来たぁっ!」

 待ちに待った牛ステーキをお皿に乗せるや、花中は無意識のうちに喜びが声となって出ていた。小走りしそうになる足を、絶対に転ばないためにゆっくりと運び、既にテーブルに着いているミリオンの向かい側にそっとステーキ入りの皿を置く。

 ここまでくれば失敗なんてもう起こらない。ナイフとフォークを食器棚から取り出し、小皿にステーキソースを入れれば何時でも食べられる。

 されど、ここで肉を頬張るのはまだ早い。

 最高のディナーは、それを共に楽しむ『人』が居てこそ成り立つものだ。

「フィアちゃん、一緒に、ごはん食べよ。明日は、えと……ちゃんと、わたしも、気を付けるから。ね?」

 未だソファに寄り掛かっているフィアに、花中は恐る恐る声を掛けた。

 花中の愛らしい姿を見て少なからず機嫌は直ったが、まだまだ怪しい人間と友達になろうとした花中への不満があり、一瞬の躊躇いを見せる……なんてのは人間的な反応だ。基本過去は振り返らず、割と刹那的な感情で突っ走るのが野生動物であるフィアの基本方針。

「全く仕方ありませんねぇ。花中さんからのお誘いを断る訳にはいきませんものね!」

 殆ど即断即決で、フィアは素直に自分の欲望に従った。

 「どっちも単純ねぇ、まるで姉妹みたい」とのミリオンの独り言に花中だけが首を傾げる中、フィアはキッチンに出向き、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫から一つのタッパーを取り出すと、次は食器棚から自分のお茶碗を持ち出し、タッパーの横へと置いた。

 そして開けたタッパーから、白い塊を取り出してころんとお茶碗の中に移す。

 フィアが取り出したのは見る人が見れば一発で分かるもの……カブトムシの幼虫だった。それも大きさ十センチに迫る、かなりのビッグサイズ。

 言うまでもなく、この幼虫は食べるためにフィアが捕まえてきたものだ。満面の笑みを浮かべながら、フィアはお茶碗とその中でじっとしているカブトムシの幼虫を持ってきて、花中のすぐ隣の席に座る。当然幼虫入りお茶碗はテーブルの上に置かれ、花中の目にも入った。

 普通ならば食欲の失せる光景だが……かれこれ、もう十ヶ月にもなる同居生活。三百回以上見てきた景色に、今更何を思うというのか。

 にっこりと無理なく花中は笑みを浮かべ、にっこりとフィアは自然に笑い返す。

「「いただきまーす♪」」

 花中とフィアの声は自然と重なり、一人と一匹は一緒に食事を始めた。フィアはカブトムシの幼虫に頭から咥え、ぶちりと真ん中辺りで噛み千切る。とろとろとした肉汁を吸い、一滴たりとも零さぬようにしているその顔は、子供のように無垢な笑顔に満ちていた。花中の正面の椅子に座るミリオンは食べ物の摂取をしないので、何も置いていないが……少しだけ、部屋の気温が下がり始めた気がした。

 花中もいよいよ実食だ。

 手に持ったフォークをステーキに突き刺し、ナイフで小さく切り分ける。手頃なサイズになったところで小皿に入れたステーキソースに浸け、ぱくりと口の中へと放り込んだ。舌に乗せた瞬間、肉の旨味が口いっぱいに広がっていく。噛めば更に肉汁が溢れ出し、例えようのない幸福が洪水のように襲い掛かった。

 理性はたった一発でノックダウン。本能に取り憑かれた花中はパクリパクリと肉を頬張る。ステーキソースの塩味が肉の旨味を一層引き立て、食欲の赴くまま白いご飯を無意識に食らっていた。横に居るフィアとの談笑や、正面のミリオンとのお喋りも合わされば、時間なんてあっという間に過ぎていく。

 気付けば、百グラムもあったお肉は花中のお腹の中に収まっていた。

「お腹いっぱい……けぷ」

 花中は小さなげっぷが出ようとしている口を手で押さえる。何時もなら食べないような量をドカッと食べたからか、少しお腹が重たい。

 だが、心はこれ以上ないほど喜んでいる。

 食べたいものを、食べたい時に、食べられたのだ。世界では今日の食べ物に困っている人々が大勢いる中、好きなものを食べられる自分がどれだけ幸福なのかは考えるまでもない。ましてやこの肉を買ったお金は、両親が自分の生活費として銀行に振り込んでくれているもの。つまり与えられたものである。

 この幸せに感謝をせねばならない。

「……ごちそうさまでした」

 湧き上がる気持ちに従って、花中は自然とその言葉を口にしていた。傍ではフィアも「ごちそーさまでーす」と言っている。彼女は感性的に食への感謝などしていない ― 何分好きでもない『命』に興味などなく、ましてや『死』を特別視しない野生生物なのだから ― だろうが……例え形だけだとしても、人の文化を模倣してくれると思うと少し嬉しい。

 或いは人間とは価値観が違い過ぎるミュータントとの付き合いが長くなったからこそ、そう思えるのかも知れないが。

「はふぅ。お腹いっぱいになったら眠くなってきましたね……明日は気張らないといけませんし早めに寝るとしますか」

 食事を終えたフィアは目許を擦りながら立ち上がると、のろのろとリビングを出て行く。眠いと言っていたので、何時もの寝床である花中の部屋 ― 正確には、そこにあるベッドの傍 ― へと向かったのだろう。

 花中の方も、普段より明らかな重労働を強いられた胃に血が集まり、脳への血流が減ったからだろうか。幸福感に満ちていた頭が、段々と朦朧としてきた。このまま椅子に寄り掛かっていたら、あっという間に夢の世界へ出発してしまいそうだ。

 それはそれで欲望を満たせて良いのだが、花中はまだお風呂に入っていない。夏ほど暑くないとはいえ、陽気な日差しの中を何十分も歩いていたのだ。感じられない程度ではあっても汗を掻いた筈。埃やらなんやらで服は、その服と触れている地肌は汚れているだろう。

 明日は『友達』と会うのだ。汚い身体で行く訳にはいくまい。

「……んしょ。お風呂、入っちゃいますね」

「はーい。ごゆっくり」

 椅子から立ち上がり、テレビを見始めたミリオンに伝えてから花中は風呂場……へ行こうとする足を慌てて止めて、いそいそと和室に向かう。パジャマを持って行かねば、風呂から出た後バスタオル一枚で歩き回らねばならないところだった。同性 ― 少なくとも精神的には間違いなく ― の友達しかいないとはいえ、裸を見られるのは少し恥ずかしい。

 何時もなら忘れたりしないのに、やはり頭に血が足りていないのかも知れない。お風呂に入ったらすぐに寝て、ちゃんと身体を休めようと花中は強く意識する。

 何しろ明日は得体の知れない『友人』と、半日は一緒に過ごさねばならないのだから。

 

 

 

 そうして迎えた翌日、日曜日。

 空は雲一つない快晴で、太陽が眩く煌めいていた。春の日差しは程々に柔らかく、ぽかぽかとした熱が気持ち良くて延々と浴びたくなる。風は仄かに吹いていて、草木が優しい音色を奏でていた。

 正しく今日は絶好のお出掛け日和。

 『友達』に誘われずとも、なんの気なしに散歩に出掛けていたかも知れない。インドア派な花中でもそう思うぐらい、素敵な陽気だ。そしてそう思っているのは花中だけではない。花中が今居る鉄道駅 ― 近所に三つある中で中間ぐらいの大きさを誇る場所だ ― 周辺に、溢れるほどではないにしても、行き交う人の姿が何時までも途切れないのがその証左だろう。

 今日は楽しく遊べそうだと、今から期待が膨らむ。

「……どうせだったら花中さんと二人きりで遊びたかったのに」

 だからこそ、一緒にやってきたフィアなんかはふて腐れているのだが。

「ちょっとー、何時まで根に持ってんのよ」

「何時までも根に持ちます。ええい一体何が変だと思ったのかそれさえ分かれば……」

「昨日からそれしか言ってないわねぇ」

 ミリオンに窘められてもフィアの態度は改められず、ミリオンは諦めたように肩を竦めた。花中なんかは、フィアに申し訳なさを覚えて苦笑いしか出来ない。

 恐らくちょっとした事で喜びはしても、フィア自身が何かしらの形で納得するまで今日はずっと不機嫌なままだろう。花中が何かを言ったところで、フィアの不機嫌ぶりはどうにもなるまい。自分の決断が原因だけに無責任だとは思うが、花中としても諦める他なかった。

 むしろ今は、これからやってくる『友達』について考えるべきか。

 花中達が駅前にやってきたのは、自発的ではなく、大月に誘われたからである。つまりこれから花中は大月と遊び、フィアとミリオンはその見張りをする訳だ。

 大月とは友達になったが、花中はまだ彼女がどんな人物なのかをよく知らない。もしかしたらフィアが警戒している通りの、危険人物だという可能性も否定出来ないのである。フィアとミリオンの『護衛』を抜けられる人間など想像も付かないが……警戒しておいて損はあるまい。

 一応服装にもその辺りの気は遣っている。上は半袖のブラウス、下は膝丈スカート。最低限の ― つまりは傍から見て『失礼』に思われない程度の ― お洒落はしつつ、いざとなったら走れるよう身軽な格好にしておいたのだ。ミュータント級と称されるほど運動音痴な花中にどこまで活かせるかは不明だが、やらないよりはマシな筈である。多分、きっと、恐らく。

「花中ちゃーん! みなさーん!」

 そうして気持ちを引き締めていたところ、ついに『彼女』の声が聞こえてきた。

 声がした方へと花中が振り返ったところ、彼女……大月が、まだまだ小さくしか見えないほど遠い場所で手を振っている姿が見えた。余程大声を出したのだろう、周囲に居た通行人達も自然と大月に視線を向けている。恥ずかしがり屋な花中としては注目を浴びるというだけで体温が上がり、頬がほんのりとだが赤くなってしまう。

 しかし本来ならそのまま俯いてしまう顔は、此度はずっと前を見据えたまま。

 服装にはあまり頓着しないタイプなのだろうか。昨日と色違いのワンピースの上にカーディガンを羽織った、比較的シンプルな格好だった。されど飾り気のない衣服は素朴な彼女によく似合っていて、むしろ純朴な魅力を引き立てている。笑顔はまるで花畑のように明るく穏やかで、見る者の心に安らぎを与えてくれるだろう。

 その無邪気で優しい微笑みに、他者を害する意思があるとは思えない。いや、ないに決まっている――――相手が『不審者』である事など呆気なく頭から抜け落ち、花中は全身から力の抜け切った無防備な体勢を晒してしまう。小さかった大月は気付けばすぐ傍まで来ていて、花中が我に返ったのは色々と後になってからだった。

「おはようございます。ふふ、今日も花中ちゃんは可愛いですわね」

「ふぇ? ……あ、へ? あ、い、いえ、そんな……あ、えと、おはようございます……」

「事実を語るのは良いですけどあまり気安く近付かないでくれませんか? 花中さんはすっかり腑抜けていますけど私はまだあなたの事は信用していませんからね」

「ええ、承知していますわ。是非、わたくしの事をしっかりと見張ってくださいませ。きっとあなたとも仲良くなれますわ」

 何事もないかのように花中を褒め、フィアの警戒心を受けてもなんのその。その明るさとおっとり加減は、昨日出会ったばかりの頃の彼女となんら変わりないように見える。

 それは初対面であるミリオンに対しても同じらしく。

「はじめまして。わたくし、大月と申します」

「これはどうもご丁寧に。私の事はミリオンとお呼びください」

「ミリオンさん、ですわね。外国の方ですの?」

「ええ。産まれと育ちはヨーロッパの方でして。日本には一年ほど前から暮らしています」

「まぁまぁ! あちらには旅行で何度か行きましたわ。もしかしたらあなた様の故郷にも行ったかも知れませんわね」

「ですね。詳しくお話を伺いたいところです」

 ミリオンは大月と表面上は親しげに、されど明らかに探りを入れるための会話を交わしていた。ミリオンも考えはフィアと同じで、大月を信用などしていないのだ。ただ、ミリオンはフィアよりも『人間的』な考えをしているだけである。

 ……先行きは不安だが、初対面同士の自己紹介は無事に終わり花中は安堵の息を吐く。

「それで? 今日は何処に行くつもりなのですか?」

「うふふ。実は花中ちゃんと一緒に行きたいところがあるんですの。あ、勿論皆様も是非ご一緒してほしいですわ」

「……言われなくてもついていくつもりです。あとあからさまに怪しい場所には花中さんを行かせませんよ」

 警戒心を隠さないフィアに、大月はやはり優雅さを崩さない。勿体ぶるように、楽しむように、言葉を発する口を思わせぶりに開閉するばかりでフィアの質問に中々答えなかった。

 しかしその遊びも、当人が言い出したくては長く続かない。大月は両腕を広げると、ワクワクを抑えきれないとばかりに語ってみせた。

 ――――次の瞬間、花中は後悔する事になる。昨日の自分が、あまりにも迂闊だったと。

 何故ならば、

「この駅の近くに美味しいステーキを食べられるお店があるんですの! 一緒に美味しいランチを楽しみましょう!」

 昨日のうちに晩ごはんはステーキだと伝えていれば、別の場所に誘ってもらえたかも知れないのだから……




花中は臆病者ですが、割と何時も隙だらけです。
むしろこれでも一年前よりは人を疑っているぐらい。
フィアと友達になる前なら、きっとほいほい大月に付いていってますね。

次回は6/3(日)投稿予定です。


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女神の美食5

 確かに、昨日はお肉をたんまりと食べた。

 あの時のステーキは正に絶品の一言に尽きる。適度に乗った脂身からじんわりと広がる甘さ、食欲を増進する肉汁の濃厚さ、頭の中から理性を押し退けてしまう香り……全てが最高だったと今でも言える。我ながらよくぞあそこまで肉の旨みを引き立てられたものだと、普段は卑屈で後ろ向きな花中であっても誇らしく思える一品だった。

 しかしながら、ではそれで花中の嗜好が変わったかといえばそんな事もない。

 昨日ステーキを食べたのは、そういう気分だったからである。そして「お肉食べたい」欲求は、昨日がっつりと肉を食べた事ですっかり発散されていた。今の花中は平常通り。お野菜お魚お芋が好きな、年頃の女の子である。育ち盛りとはいえ毎日肉ばかり欲している訳ではないのだ。ぶっちゃけ今日はそんなにお肉を食べたくない。

 ましてや昼の十一時をちょっと過ぎたばかりのこの時間に、昨日のステーキの二倍は分厚い特大ステーキなどお腹に入る筈もなく。

「さぁ、花中ちゃん! 今日はわたくしの奢りですわ! たっくさん食べてくださって!」

 目の前でニコニコと嬉しそうに笑う大月からの『もてなし』に、花中は引き攣った笑みを返すのが精いっぱいだった。

 大月に連れてこられたのは、駅前にあるステーキ店。最近オープンした店らしく、店内にある全ての……例えば壁紙だったり、机だったり、椅子だったり……ものが真新しい。古い店が嫌という事はないが、新品に囲まれると気分は悪くない。店員に案内されたのは四人掛けのテーブル席で、すぐ隣に座るのは大好きなフィア。斜め前には大月が居て、真っ正面にはミリオンが座っている。友達に囲まれる形であり、フレンドリーな感じがして実に楽しい。

 尤も、その程度の高揚感で重量四百グラム ― メニューに記載されていた ― の肉を平らげられるほど、花中は大食漢ではないのだが。熱々の鉄板の上に乗せられたステーキはじゅうじゅうと肉汁を沸騰させ、涎の出てくる音を鳴り響かせる。ホカホカと漂う湯気と共にやってくる芳醇な肉の香りは、率直に言って魅力的だ。間違いなくこのステーキは美味である。

 ただ、ぎっとりとした脂身と、肉らしさ満天の見た目が、理性的な意味での食欲を妨げる。

 それでも花中は人類であり、本気で食べようと思えば食べる気にはなれる。『動物はあなたのごはんじゃない』とのキャッチコピーは聞いた事があるが、消化・吸収が出来る時点で牛肉は人類にとって食物だ。良質なタンパク源であり、適度な摂取が推奨される。

 しかしながらフナやウイルスにとってはどうなのか?

「私牛肉って食べた事ないのですけど大丈夫ですかね」

「毒ではないと思うわよ。お腹は下すかもだけど」

 当然のように、フィア達の前にもステーキは置かれていた。同じく鉄板の上で、じゅうじゅうと肉汁を沸騰させながら芳醇な香りを漂わせている。花中と違い、彼女達はこの肉を見たところで本能・理性のどちらの食欲も刺激されていない様子だが。

 まるでお葬式のように静まり返り、一人と二匹は焼き立てのステーキを眺めるばかり。

「あら? どうしましたの?」

 そんな中、一人だけ上機嫌な大月が首を傾げた。

 これにはフィアやミリオンのみならず、花中もジト目で見つめて批難する。

 どうしたもこうしたも来るや否やメニューも見ずに四人分のステーキを注文したあなたの所為でしょ、と。

「んん~……この香り、ああ、やっぱり堪りませんわ……わたくし、もう我慢出来ませんっ!」

 されど大月、全く堪えず。既に目の前のステーキしか見えていないようで、言うが早いかナイフとフォークを構えていた。そして皆が食器を掴むのを待たず、目の前のステーキにフォークを突き刺す。

 当然その後はナイフで切り分けるのだが……大きい。一切れのサイズがやたらデカい。大人の男性でもあの大きさの肉を口に含むのは躊躇すると、花中にだって分かるぐらい巨大だ。

「いただきます」

 しかしぽそりと口から漏らした、感情のこもったこの言葉が、大月の()()()を物語る。

 片手で髪を掻き上げながら、大月はぱっくりと口を広げた。それは淑女らしからぬ大口で、されど落ち着き払った動きが気品を漂わせる。巨大な筈の肉は吸い込まれるように、否、自ら跳び込むかのように、大月の口にあっさりと収まってしまう。もぐ、もぐ……と、ゆっくりと噛み締める動きは、食感を存分に堪能している事が見ているだけで分かった。いや、それだけではない。静かで正確な動きにより、肉の切れ端から肉汁が落ちる間もなく口に入っている。大きく切り分けた事で結果的に切断面の総面積は小さくなり、皿の上で無駄に広がる肉汁の量はほんの僅か。汁の一滴すら余さず頂こうとする一挙手一投足には、食材への敬意すら感じ取れた。

 料理を食べて、美味しいという人の顔は色々見てきた。だが大月ほど、心から料理を楽しんでいる人は見た事がない。黙々と食べ物が跳び込んでいく口はなんの言葉も発しないが、故にこう訴えているかのようだ。

 食べる時は食べ物にだけ集中しろ――――それが糧となった命への礼儀だ、と。

「花中さーんこのお肉どうしたら……花中さん?」

 フィアが何やら話しているが、花中の耳はそれを捉えない。

 『合理的』に考えれば、この肉となった牛は精肉される前には死んでいる。おまけに四百グラムの肉など、出荷されるまで育った牛の体重からすればほんの一パーセントにも満たない僅かな量だ。いや、そもそも肉と言ってもタンパク質などの物質の塊。燃やせば水と二酸化炭素、その他元素に分解され、大気の一部となって生態系の循環に戻っていく。花中が食べても、微生物によって分解されても、最終的な結果は変わらない。だからここで花中がステーキに一切手を付けず丸々残したとしても、『牛の命が無駄になる』なんてのは感情の話でしかない訳だ。

 つまりは、今この胸に渦巻く感情……『命を無駄にしたくない』という想いは自己満足だ。

 それを分かった上で、花中はテーブルに置かれている食器入れに手を伸ばす。掴んだナイフとフォークを両手に握り締め、花中は荒々しく鼻息を吐いた。

「……いただきますっ!」

 そして勇んだ声を出してから、ずぶりと目の前のステーキにフォークを突き刺す。

 手に伝わる、命があったものの重み。

 ナイフで切り分け、一口大にしたら思い切って頬張る。無意識に何時もより大きめに切っていた肉の塊は、花中の弱々しい顎の力を押し返してくるほど弾力があった。どうにか噛み潰せば、弾けるように肉汁が溢れ出す。その勢いの強さたるや、まるで命が脈動しているかのよう。

 そんなつもりはなかった、とはいくらでも言える。

 だが飽食の時代に浸っていたからだろうか。自分の口にしているものが、命を奪って作られたものであるという事をすっかり失念していた。勿論食べ物を粗末にはしていないが、自分の心持ちが正しかったとは思えない。十分に感謝していたなんて、この『牛』を前にしては口が裂けても言えないだろう。

 だけど今は違う。

 例え、牛には花中の言葉が理解出来ないとしても。例え恨まれても、憎まれても、胸を張れるように。

 花中は目の前の肉を食べ進めるのだった。

 ……………

 ………

 …

 尤も、そんな心持ち一つで食べ切れるなら最初から躊躇なんてしない訳で。

「……ぐぇっぷ」

 鉄板の上に残る半分ぐらいしか減っていないステーキ肉を見ながら、花中は顔が青くなるほどの満腹感を覚えてしまった。重さ四百グラムの半分は約二百グラム。昨日食べたステーキは百グラムなのだから、これでも昨日の倍近くは食べたのだが……

「正直これ以上は無理です」

 フィアに至っては、やはり本来の食性と全く噛み合っていないからか。一口 ― それも人間の、ではなく『フナ』にとっての ― 程度減っただけで、丸々残っている有り様である。ミリオンの方は今も黙々とステーキを口に運んでいるが、彼女にはそもそも胃も腸も味覚もなく、食べたというより『格納』したと言うべきだろう。後でそのまま排出するのか、それとも焼却するのか。

 唯一、本当に完食していたのは大月だけ。

 彼女は花中が音を上げた頃にはぺろりとステーキを平らげ、舌舐めずりをしていた。鉄板の上には肉の一欠片、付け合わせの野菜の切れ端すら残っていない。精々店側が掛けたソースと、肉の断面から溢れた僅かな肉汁ぐらいだ。

「店員さーん、すみませーん。ご飯の大盛りを頂けますかー?」

 いや、大月はそんな『カス』すら残すつもりはないらしい。

 注文してすぐに運ばれてきた山盛りのライスを受け取るや、大月はその米を鉄板の上に移した。続いてスプーンを使い満遍なくライスを広げていく。

 ホカホカのお米は鉄板の上にあるソースと肉汁を吸い、味が染み込んでいく。その米を、大月は肉の時と同じく真摯に向き合いながら食べ始めた。

 米とて命の一つ。むしろ奪った『数』では遥かに上回る。しかし動物と植物だからか、今の花中でもそこまで真剣に向き合えないだろう。米も牛も区別なく没頭する大月の姿に、花中は彼女の心の広さを知った気がした。

 ついでに、四百グラムの肉だけでなく大盛りのライスも平らげる胃の広さも。

「はふぅ。大変美味しゅうございました……あら? 皆様、まだ食べてますの?」

 ついにはライスも食べ尽くした大月は、今になって花中とフィアが全然食べ進んでいない事に気付く。

 それほどまでに命と真摯に向き合っていた大月だ。食べきれないから残したい……とは言い辛い。確かに大月が勝手に頼んだのがそもそもの原因なのだが、断りきらなかった自分にも過失は……と思ってしまうのが花中である。

「いえ私はもうこれ以上は食べられませんので残します」

 反対に、ズバッと思った事、やろうとしている事を言ってしまうのがフィア。

 あまりの素直さに花中は思わず凍り付いてしまうが、伝えられた当人である大月は微笑みを崩さない。エレガントに、驚いたような素振りを見せるだけ。

「あらあら。お肉、お嫌いでした?」

「嫌いだったようです。感覚的に食べられないものではなさそうですが味も臭いも私の好みに合いませんね」

「そうでしたのね。残念ですわ」

 心底悲しそうな表情を浮かべ、静かに項垂れた……のは、ほんの刹那の間だけ。次の瞬間大月は何やら目を輝かせ、期待に満ちた笑みを浮かべた。

「では、そのステーキはもういらないという事ですの?」

 続けて、花中がギョッとするような事をフィアに尋ねる。

「そうですね。もう食べる気はありませんので」

「ならわたくしが食べてもよろしくて?」

「? ええまぁ構いませ」

「いただきますわー」

 フィアが答え終わるよりも前に、大月はフィアの前にあるステーキを手前へと引き寄せる。ほんの僅かとはいえ他人が口を付けたものを、しかし命に真摯に向き合う大月はそのような些事など気にも留めない。なんの躊躇もなく、大月はステーキにフォークを突き刺す。

 そして再び、あの熱烈な食事を始めてみせる。既に四百グラムの肉+大盛りライスを食べ切ったとは思えぬ豪快さ。何処かの大食い大会で、ごく普通の体型の女性がステーキを数キロ平らげたという話は聞いた事があったが……大月の食べっぷりは、その記録に並んでもおかしくないと思わせる勢いがある。案外身近なところに凄い人はいるものだと花中は素直に感心した。

 ……この勢いなら、自分の分も食べてくれるかも知れない。

「えと、お、大月さん。あの、わたしも、もうお腹いっぱい、で、食べられなくて……その、た、食べて、くれ、ますか……?」

「! ええ、勿論!」

 思い切って訊いてみれば、大月はなんの迷いもなく受け入れてくれた。鉄板の下にある木の板を指で摘まみ、大月は花中のステーキも自分の手元に寄せていく。

 フィアのステーキが減っていく隣で、食べられるのを待つ自分の肉。命が余す事なく糧となる姿を見て、花中の心は身勝手ながら満足を覚える。誠意を果たした、とは思えないものの、安堵にも似たため息が出てしまう。

「あ、そうですわ。今日の、この後の予定を伝え忘れていました」

 丁度そんなタイミングで、大月は思い出したように独りごちる。

 不埒な、ではないものの身勝手な考えをしていたと自責する花中は、少なからず狼狽えた。尤も大月は優しく微笑むだけ。お陰ですぐに平静を取り戻し、咳払いで気持ちを切り換える。

「……そういえば、聞いていませんでしたね。えっと、ランチを食べた後は……」

「勿論デザートですわ!」

「……へ?」

 目を丸くしながら、花中は首を傾げる。傍ではフィアもキョトンとしていて、ミリオンに至っては「何言ってんのこいつ」の眼差しを送っていた。

 だが、大月は怯まない。両手の食器を一旦皿の上に置くやぺろりと舌舐めずり。唇に付いた汁の一滴をしっかり()()()と、純朴な優しさに満ちた笑みを浮かべた。

 花中達は思い知らされる。

「近くの広間で、美味しいアイスの露店がありますの! ランチを食べ終えたら、散歩しながらそこまで行きましょ!」

 真の大食いは、『常人』では底が見えない欲望に満ちているのだという事を。

 

 

 

 ぺろりと一舐めしてみれば、心地良い冷たさが舌を刺激する。

 同時に、滑らかな舌触りが心を弾ませる事だろう。砂糖の甘味に加え、乳製品独特の優しい風味が口の中に広がれば、脳細胞がドバドバと幸福物質を噴き出す。後味はとてもさっぱりしていて、故に先程感じた幸せを求めて反射的に舌が伸びてしまう、麻薬的な魅力があった。

 これは人をダメにする食べ物だ。

 花中は一瞬にして、自分が手にしているもの……ソフトクリームの悪魔的効能を見抜く。しかし両手はその『食べ物』を手放すどころか一層強く握り締め、舌は逡巡する事さえなく伸びてしまう。止められない。止めようという気持ちすら起こさない。

 最早これは危険物である。人類文明を破滅させる終末の使者だ。

「うぇへへへへへへへ……」

 そして世界の終わりを前にして、花中の頬は出来損ないのスライムのように蕩けていた。

「あらあら、こんなに喜んでくれるなんて、ちょっと予想外でしたわ」

「そんなに美味しいものですかねぇこれ……」

「さぁ? 私には味覚的な事はよく分からないけど、でも温度調整に関しては最適なんじゃないかしら」

 幸せをだらしなく満喫する花中を見て、大月は満足げに微笑み、フィアは花中が手にしているのと同じ『食べ物』を見つめながら首を傾げる。ミリオンに至っては淡々と、水道水でも飲むかのように無感情だ。

 しかし今の花中には友達の言葉など届かない。幸福に焼かれた脳は、最低限の情報解析能力さえ喪失していた。

 花中達が訪れたのは、ステーキ店から徒歩十分ほど進んだ先にある公園で開かれていた露店。所謂ソフトクリーム屋で、暖かくなってきたとはいえ四月上旬にも拘わらずそこそこ人が並んでいた事から、どれだけ人気なのかはそれなりには察していた。

 だが、まさかこれほど美味だとは思わなかった。正しく天に昇るような至福である。十数分前にステーキで満腹になっていた? 問題ない。女子高生には上質の糖分を収容するための『BETUBARA』という器官が存在するのだから。

「んへぇへへ……こんなに美味しいのに、分からないなんて、勿体ないよぉ」

「まるで酔っ払いですね今の花中さん。なんか変なもの入ってるんじゃないですか?」

「成分的にはただのソフトクリームよ。偶々あの店の味付けが、はなちゃんの好みにどんぴしゃだったんでしょ」

「この味がねぇ……乳製品ってなんか甘ったるくて好きになれないんですが」

 フィアは顔を顰めながら、正直な感想をぼそりと漏らす。

 当たり前だが、人間社会で出される料理の殆どは人間 ― もっと言えば日本ならば日本人 ― 向けの味になっている。魚類であるフィアと現代日本人の味覚が等しい筈もなく、フィアにこの甘味の魅力は一生理解出来ないだろう。実に残念な話だ。味覚自体がないミリオンは言わずもがな。

「ふふ。此処のソフトクリーム、一押しはバニラですけど、オリジナルミックスというのもオススメですわよ」

 話が合うのは、『同じ味覚』の持ち主同士だけである。

 大月も余程このソフトクリームが好きなようで、その手に持っていた特大コーンをぺろりと平らげる。しかし大月の食欲の凄まじさは今更驚くに値しない。それよりも、彼女が語った『新情報』の方に関心を抱いた。

「オリジナルミックス、ですか?」

「ええ。バニラとストロベリーを混ぜたもの、と言葉にすればごく有り触れたものですけど、その比率が絶妙なんですの。それに隠し味の……」

「隠し味の……?」

「おっと、これは秘密ですわ。実際に食べて、ビックリした方がずっと美味しくなりますわよ?」

「えぇーっ……うぅ、どうしよう。アイスの食べ過ぎは良くないし……」

「楽しそうですねぇ花中さん……ふんっ」

 和気藹々と話す花中達を尻目に、フィアが不機嫌さを露わにしていた。やけ食いのようにソフトクリームをバクバクと噛み砕き、食べる……ような素振りを見せる。

 何時もの事とはいえ、かまってちゃんな友達に気付いた花中はちょっと苦笑い。さて、どうすれば機嫌を直してくれるかと考え込んだ。

 が、ふと目に入った『違和感』に意識が逸れる。

 フィアの後方で、四人かの子供達が集まっていた。その中の一人、一番背が低い……女の子だろうか? そう見える子が俯き、両手で目許を何度も拭っていた。恐らく泣いているであろう事は遠目からでも分かったが、しかし周りの子供達が彼女を虐めたのかといえば、そうは見えない。むしろ周りの子達も戸惑い、どうしたら良いのか分からないように見える。

 何か、子供だけでは解決出来ないトラブルでもあったのだろうか。

「……あの子、どうしたんだろう」

「んー? ああそこの人間達ですか。なんかついさっきめそめそ泣き始めましたね。それまで楽しそうにしてましたけど」

 花中が独りごちると、フィアは自身の把握している事を教えてくれる。どうやら急に雰囲気が変わったらしい。

 思った通り虐めではなさそうだが、ならば一体どうしたのだろう……心配になる花中だったが、次の瞬間、驚きの方が強くなった。

 大月が、小走りで子供達の方へと駆け寄ったのだ。

 何一つ迷いのない走りに、花中は思わずギョッとして、ついつい大月の後を追ってしまう。フィア達も花中に続き、結果、ぞろぞろと全員で子供達の下へと歩み寄る事に。

 子供達の傍まで行くと、大月は泣いている女の子の前でしゃがみ込む。突然の見知らぬ人に戸惑ったのか、はたまた視線を合わせてくれた事で幾らか安堵したのか。女の子は動きを止め、少しだけだが嗚咽も小さくなった。

「坊や達、どうしましたの?」

「あ、えと……なおちゃんが……」

「ぐす……アイス、おとしちゃったの……ひくっ」

 大月が優しい声で訊いてみると、なおちゃんと呼ばれた女の子……今まで泣いていた子は嗚咽混じりに理由を話す。

 見てみれば、なおちゃんの足下にはソフトクリームが落ちていた。地面に広がる量からして、精々一口食べたかどうかだろうか。少なければ問題ないというものではないが、殆ど食べていないうちに落としたらショックも大きいだろう。

 例えばなおちゃんが『大人』だったなら、ソフトクリームぐらいなら新しいのを買い直す事も出来た筈だ。しかし見た目からして、なおちゃんの推定年齢は五歳未満。月々のお小遣いをもらっているとは思えず、新しいソフトクリームを買うには親にお願いせねばなるまい。

 彼女の親の教育方針次第ではあるが、あまり期待はしない方が良さそうだ。

「事情は分かりましたわ。少し、お待ちになって」

 花中がなおちゃんをどう宥めようか悩んでいると、大月は言うが早いか小走りでこの場を離れる。何処へ行くのか目で追えば、先程花中達もお世話になったソフトクリーム屋の列に並んでいた。

 偶々今のタイミングでは待っている人の数は少なく、すぐに大月の番が回ってくる。やがて大月は支払いを済ませ、駆け足で花中、いや、子供達の下へと戻ってきた。その手に買ったばかりのソフトクリームを持って。

「はい、どうぞ。お姉さんからのプレゼントですわ」

 そして彼女はなんの躊躇もなく、そのソフトクリームをなおちゃんへと手渡した。

 なおちゃんはソフトクリームを受け取り、キョトンとしていた。自分の手にソフトクリームがあるのが信じられないとばかりに目をしばたたかせ、何度も大月の顔色を窺う。

 だけど迷いは一時。

「あ、ありがとう!」

 なおちゃんは眩い笑顔と共に、心からのお礼を伝えた。

「今度は落としちゃ駄目ですよー」

「うんっ!」

 大月は笑顔を浮かべながらもしっかりと忠告し、なおちゃんは大きく頷く。なおちゃんの友人達にも笑顔が広がり、和気藹々とした空気に包まれる。

 一件落着。嬉しそうな子供達の姿に花中も安堵を覚える。

 同時に、疑問も抱いた。

 先の話を訊く限り、大月と子供達に面識はないように思える。確かに小さな子供相手に詐欺やらなんやらを警戒するのもどうかと思うが、見ず知らずの子供のためにお金を易々と使えるものだろうか? 無論花中とて、小さな子供の笑顔を取り戻せるのなら数百円程度を惜しむつもりはないが……大月の決断は、あまりにも迷いがなかったように思える。

「あの……一つ、訊いても、良いですか?」

「? ええ、わたくしに答えられる事でしたら」

「どうして、あの子にアイスを、買ってあげたのですか? その、知り合い、だったのでしょうか」

「いいえ、あの子とは多分初対面ですわ。道ですれ違ったりとかはあるかもですけど」

「なら、どうして?」

 花中が尋ねると、大月は笑みを浮かべた。優しくて、慈愛に満ちて……押し付けがましさがない、素朴な微笑み。

「だって美味しいものを食べたら、誰でも笑顔になれるでしょう?」

 ましてやこんなにも子供染みた理由を告げられたなら、疑うなんて馬鹿馬鹿しくて仕方ない。

 一瞬にして『納得』させられた花中は、思わず笑い声が漏れ出てしまった。いや、漏れた、なんてものではない。口を閉じようという意識すら持てないほど、花中の心にはポカポカとした熱が宿ったのだから。

「あははっ! そうですね、確かに、笑顔になっちゃいますよね」

「そうそう。それに食べ物は笑顔で頂くのが一番美味しいんですのよ。他の子も悲しいままでは、折角のアイスが勿体ないですわ」

 大月は笑顔を浮かべると、パクリと手に持っていたアイスのコーンを食べる。なおちゃんのソフトクリームを買う際、自分の分をまた買ったのか……最早慣れたので驚きはなくとも、呆れてしまった花中はますます笑いが止まらない。

 こんなにも笑った『食事』は、もしかしたら初めてかも知れない。

 今でも大月の事は変な人だと思っているが……今や警戒心は、花中の中からすっかり消えていた。もしも現在自分の隣で顔を顰めているフィアにこの事を話せば「花中さんはどうしてそこまで無防備なのですか?」と尋ねられてしまうかも知れない。花中自身、自分に人を信用し過ぎるきらいがある事は重々承知している。

 それでも大月に邪な気持ちがあるとは到底思えない。

 彼女はきっと食べる事が大好きで、みんなの笑顔が求めて止まない、純朴な人なのだろう。

「さて、次はそろそろ次のお店に行きましょう? この辺りには、まだまだオススメしたい料理がいっぱいあるんですの!」

 ……食べる事に関しては、些か好き過ぎるような気もするが。

 花中だけでなく、胃を持っていないミリオンも同じ事を思ったのか。脳のつまっていない頭を抑えながら、ご機嫌な大月を制止するように彼女の前へと出た。

「それも悪くはないけど、流石に食べ過ぎじゃない? 無理に食べ続けたら、美味しいものも美味しくなくなるわよ」

「あら? わたくし的には、まだまだ腹二分目ぐらいなのですけど」

「つまり、あと四倍は食べるつもりなのね。却下。腹ごなしの散歩にでもしてもらえないかしら?」

「むぅ。わたくしとしてはまだまだ食べ足りないですけど……でも、皆さんがお腹いっぱいなら仕方ありませんわ。そうですわね、なら此処から二十分ほど歩いた先にある広場なんて如何? なんでも今、移動動物園による触れ合い体験が出来るそうで」

「そうそう、そういうので良いのよ。うん」

 ミリオンの機転により、どうにか食べ歩き行脚の続行は回避出来た。

 花中はホッと一安心……する間もなく、大月とミリオンは歩き出す。耳を傾ければ、大月は上品ながら天然ぶりを発揮し、ミリオンはそれを呆れ混じりにツッコミを入れる声が聞こえた。仲良しこよし、という雰囲気ではないが、それなりには親しいように見える。

 ミリオンは大月への疑念が拭えたのだろうか? それともまだまだ警戒は解いていないのか? 内心を隠すのが上手い彼女の気持ちは、もうすぐ一年近い付き合いになろうとしている花中にも分からない。

 一番の友達は、呆れるほど分かりやすいのに。

 ふと過った考えにつられ、花中はフィアの方へと振り返った。

 故に花中は首を傾げる。

 フィアは、大月の方を見ていなかった。されど花中を見ている訳でもなく、ぼんやりしているようでもない。じっと、真剣な眼差しで――――なおちゃん含む、小さな子供達を見ていた。

 大月が買ってあげたソフトクリームのお陰で、ニコニコ楽しそうにしているなおちゃん達。微笑ましそうに見ているなら兎も角、何故フィアは真剣な眼差しを向けているのだろうか。いや、そもそも彼女が人間という存在にかなり無頓着である事を、花中はよく知っている。ましてや『無力』で『脆弱』な人間の中でもとびきりか弱い子供達に真剣な……警戒心のような、疑念のような、野性的な感情を宿した瞳を向ける筈がない。

 なおちゃん達ではなく、その近くに危険なものでもあるのか。そう思い花中もフィアと同じ場所を見てみるが、おかしなものは何もない。というより、この辺りは花中達がソフトクリームを堪能するべくしばし滞在していた訳で、奇妙なものがあれば既に見付けている筈だ。

 一体、フィアは何を見ているのだろう。

「フィアちゃん、どうしたの?」

「……いえ大した事ではありませんよ」

「……そう?」

 思い切って尋ねてみたが、フィアは明確な答えを返してはくれなかった。ただ、誤魔化すようではなく、フィア自身があまりよく分かっていない様子だったが。

 ここで花中も一緒に考えれば、もしかしたらフィアが気にしているものの正体を突き止められるかも知れない。

 しかしそれをするには時間が必要だ。

 ちらりと視線を向ければ、大月とミリオンの姿が既に大分遠くなっている事が分かる。そろそろ追い駆けないと彼女達を待たせてしまうだろう。最悪、置いて行かれるかも知れない。

 何より、今までほったらかしにして不機嫌になっているフィアを質問攻めにするのも気が引ける。

「……えいっ」

 だから花中が選んだのは言葉ではなく、友達の手を握るという行動だった。

 花中の突然の行動に、フィアは一瞬驚いたように目を丸くする。されどすぐに、寄っていた眉間の皺を溶かした笑みを浮かべた。握られた手を握り返し、当分は離さないぞと教えてくれる。望むところだとばかりに花中も手を握り返す。

 思わず、一人と一匹は同時に吹き出した。相手も笑った事に気付いて、また一人と一匹は笑ってしまう。

 そうして花中達は笑顔のまま、歩き出すのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……最後まで、気付く事もなく。

 花中は勘違いしていた。フィアが違和感を覚えたのは、何かがあったからではない。何もなかったからであると。

「んー? あれー?」

「なおちゃん、どうしたの?」

「んーっとね、おとしたアイス、みつからないなぁって」

「あれ? ほんとだ。アリさん、もうはこんでいっちゃたのかな?」

 先程まで自分達の居た場所に、()()()()()()()()事がどれだけ不自然であるかを――――




さぁ、ちょっとずつ歪な気配が……していると良いなぁ。

次回は6/10(日)投稿予定です


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女神の美食6

 大月に案内されて辿り着いた広場は、大きな賑わいを見せていた。

 大月曰く、普段この場所は防災公園として使われているらしい。遊具の類は置かれておらず、芝生すら生えていない土の上には小さな物置が一つぽつんと建てられているだけ。平時は暇を持て余した中年男性がジョギングしたり、老人がラジオ体操をしたりする程度の活用しかされていないという。

 だが、今日は違う。

 老若男女、歳も性別も問わず大勢の人で溢れていた。子供特有の嬉しさに満ちた叫びが響き、大人達の幸せそうな笑いがこだまする。しかし賑やかさを作るのは、そんな人間達の声だけではない。ぷーぷーがーがーといった、人間以外の声もたくさん含まれていた。

 今日この広間には、人間だけでなく動物達も居た。

 移動式動物園の『展示物』として連れられた、たくさんの家畜達だ。掲げられた看板によると今回の展示テーマは『生活に密接した動物』との事で、様々な家畜が連れられてきている。子豚やアヒルなど、性格が大人しく、仮に暴れても怪我の心配がない小さな生き物ばかり。そんな家畜達との触れ合いがこの移動式動物園の見どころの一つであり、幼子達は興奮のあまり叫びながら小さな獣達の生の質感を堪能していた。

「ほほーうこれが豚ですか。随分と小さいのですねぇ」

 ちなみに子供達の中に金髪碧眼の『野生動物』も混じっていたりしたが、それに気付いている人間は彼女の友達である花中ぐらいなものだろう。

 フィアは今、子豚を両手で抱え上げ、ニコニコと笑顔を浮かべていた。子豚の方もつぶらな瞳でフィアを見ており、近付こうとしてかよちよちと手足を空回りさせている。人懐っこくて実に可愛らしい。そしてフィアは可愛いものが好きだ。かなり気に入ったらしく、ご機嫌になっているのが花中には分かる。

 友達が楽しそうにしていて嬉しくない筈もない。フィアの様子を横で見ていた花中の顔にも、自然と笑みが浮かんだ。

「ところで花中さんこの豚はあとどれぐらいで食べられるようになるのですか?」

 ……気に入ったものの『死』をあっさりと口に出来る感性に、ちょっとばかり笑みを強張らせもしたが。

「……この子は、お肉には、しないと思うよ。多分ペット用の、ミニ豚だから」

「ペット用なのですか。食べ物をペットにするなんて人間とは物好きなものですねぇ」

 一通り触って満足したのか、フィアは子豚を両手から開放。一般的に動物にとって触られる事はストレスになる筈だが、そこは流石ペット用に改良された品種か。子豚は特に疲れた様子もなく、よちよち歩きで近くに居た子供に歩み寄っていた。フィアは手を振り、子豚を見送る。

「うふふ。可愛い動物がいっぱいで良いでしょう?」

 そうしていたフィアの後ろに、ひっそりと近付いてきたのが大月だった。

 フィアは子豚を抱いていた時と同じ笑顔を浮かべたまま振り返り、声を掛けたのが大月である事を目視確認するや露骨に不快さを露わにする。『人間』としてあまりにも不躾な態度に、すぐ隣でこの仕草を見ていた花中は狼狽えてしまう。

 さりとて大月はそんな『小さな』事は気にしない。浮かべた笑みを微動だにさせず、フィアと正面から向き合う。

 こうも近付かれると流石に無視も出来ないのか、フィアはあからさまにテンションの下がった声で大月の問いに答えた。

「そうですね可愛いものは好きですから。出来れば花中さん以外の輩には帰ってもらいたいところですけど」

「あら、手厳しい。わたくしとしては、あなたとも仲良くしたいのですけど」

「私にその気はありませんので」

 好意的な言葉を投げ掛ける大月に、フィアはそっぽを向いて拒絶した。大月はこれでも不機嫌さ一つ見せず、にこにこと微笑んだまま残念そうに肩を竦めるだけ。あまりにも大きな心の器を見せる大月の姿に、事の成り行きを見守っていた花中は安堵を覚えた。むしろ何時までも警戒している友達の方に、呆れにも似た想いを抱いてしまう。

「まぁ、すぐに仲良くしましょうとは言いませんわ。ゆっくりじっくり、互いの事を知り合って、少しずつ仲良くしましょう?」

 尤も大月は呆れるどころか、何処までも暢気なものだった。

 本人に苛立ちも焦りもないのに、他人が一生懸命になっても仕方あるまい。大月を見習い、花中も慌てるのは止める事にした。それに此処は移動式動物園である。触り放題な動物達が目前を可愛く動き回っているのに、眺めるだけなんて勿体ない。

 花中は早速辺りを見回し、跳ねるウサギを見付けた。ウサギの品種にはあまり明るくない花中だが、ふわふわもこもこの体毛で覆われている愛くるしくも『管理』が面倒臭そうな風体からして、食肉目的の家畜ではなくペット用の品種だろう。

 恐る恐る花中が近付いてみれば、ウサギは逃げるどころか花中の顔をじっと見つめたままキョトンと立ち止まる。丸くて大きな瞳、もこもこの身体、大きな耳をぴょこぴょこと動かす仕草……あらゆる要素が可愛らしさとなって花中の心を撃ち抜く。足腰から力が抜けてへたり込んでしまいそうになるも、一瞬で全身を強張らせて対抗。体勢を立て直すや花中はウサギ目掛けおどおどと跳び掛かった。

 迫りくる花中を避けもせず、ウサギは花中の両手に大人しく掴まれる。瞬間、掌から伝わる光悦的感触。ふわふわもこもこと思っていたがとんでもない……ぽわぽわふわわんだ! 当人以外には伝わらない擬音しか例えが浮かばない、極上の柔らかさが花中の脳裏を雷光の如く駆け巡り、幸福感で精神はどろりと溶かされる。顔の筋肉がマシュマロよりも柔らかくなるのを花中は自覚し、絶対人に見せたくない表情になっている事も察したが、溶けた精神は世間体など気にも留めない。

 質感だけで心がダメになる、圧倒的可愛らしさ。触っただけでこの有り様なのに、止めとばかりに両手の中でウサギさんがこてんと小首を傾げたらどうなるか?

 花中の心の奥底で微かに残っていた理性は、跡形もなく消し飛んだ。

「か、かわ、可愛いぃぃぃぃ……!」

 ウサギをぎゅっと抱き締め、花中はぽわぽわな体毛に顔を埋める。動物らしく濃厚な体臭が鼻を刺激するものの、嫌な臭さではない。むしろ甘くて優しい、一言で例えるなら「可愛い」香りだ。匂いさえも人間を魅了するとは、この生命体は恐るべき進化を遂げたものだと感嘆さえ覚える。

 正直、花中は今このウサギ以外に興味が持てない。完全に魅了された。一応辺りを見回してみれば、フィアは逃げるアヒルを追い駆け回し、ミリオンは子ヤギを撫でている。大月も子豚を愛でるのに夢中なようだ。なら、自分がウサギばかり見ていても誰も文句はあるまい。

 花中は毛皮に顔を埋め、思う存分ウサギの魅力を堪能して――――

「ねーねー、おねえちゃん」

 いたところ、不意に声を掛けられた。

 ウサギから離れるのを惜しみつつ顔を上げてみれば、花中の前には一人の女の子が立っていた。年頃は五歳ぐらいだろうか。ぱっちりと見開いた目でこちらを見ていて、笑顔はヒマワリのように元気で明るい。如何にもお転婆そうな子だ。キラキラと瞳を輝かせながら、花中の事をじっと見つめている。

 そして女の子の後ろには、女の子の両親らしき男女が立っている。ニコニコと笑みを浮かべながら、二人の大人は女の子と花中を見ていた。

「えと、なぁに?」

「あのね、わたし、そのウサギほしいの」

 花中がおどおどと尋ねると、女の子はそう答える。どうやらウサギを触りたいようだ。

 別段、ウサギは花中が抱いているものしかいない訳ではない。辺りを見渡せば何匹も跳び回っている。性格の違いがあるのでここまで大人しく触らせてくれるかは分からないが、見た目はどれも大差なく、花中が抱いているのと同じ品種と思われる。恐らく人懐っこさに大差はない筈。わざわざこのウサギを渡す必要はない。

 しかし人が楽しんでいる様子を見ると、それが欲しくなる、という気持ちは花中にだってあるものだ。五歳ぐらいの幼子ともなれば理屈よりも己の感情が優先されるだろうから、尚更である。何より、花中はウサギ一匹に固執するほど子供ではないのだ。『お姉さん』らしいところを見せてやらねばなるまい。

「……うん、良いよ。はい、どうぞ」

「わーい!」

 ほんのちょっと、あくまでほんのちょっとだけ(個人的見解)躊躇してから、花中は女の子にウサギを渡す。すると女の子は、年相応とはいえ中々パワフルな力で花中からウサギを自分の下に引き寄せる。子供らしい乱暴さにちょっと驚きつつも、ウサギを触れて喜ぶ女の子の姿を見て花中は笑みが零れた。

「えへへ、ぎゅーっ!」

 ただしその笑みは、女の子が思い切りウサギを抱き締めた事で引き攣ったが。女の子は余程嬉しいのか、ウサギをまるでヌイグルミか何かのように力いっぱい抱いたのだ。

 可愛いと喜んでくれたのは良いが、いくらなんでも興奮し過ぎだ。五歳ぐらいとはいえ、人間とウサギでは大きさが違い過ぎる。力いっぱい抱き締めれば、小さい生き物には堪ったものではない。実際ウサギは苦しそうに、きーきーと悲鳴を上げている。

 もしかすると、このままではウサギの骨を折ってしまうかも知れない。そうなれば当然治療が必要だが、動物園が『閉園』するまではその機会は訪れないだろう。いや、うっかり異常を見過ごされる恐れもあるし、他の子供に弄り回される可能性もある。

 最悪、衰弱の果てに死んでしまうかも知れない。

「あ、あの、も、もっと優しく、ね?」

「やぁ! この子はもうわたしのなの!」

 なんとか説得してみようとする花中であるが、女の子は聞く耳も持たない。むしろ花中がウサギを狙っていると思い込んだのか、ウサギを抱き締める力を一層強くした。ウサギのか細い悲鳴が、花中の焦りを強くする。

 一体どうしたら、この子はこちらの話を聞いてくれるのか。

「あっ!」

 悩んでいると、ついにウサギは暴れ出し、女の子の腕から逃げ出した!

 慌てて捕まえようとする女の子であったが、そこは流石捕食者に襲われる事が宿命付けられた草食動物。素早い動きで女の子の腕をすり抜ける。

 正直花中はホッとした。あの身軽な動きならば骨折はしていないだろうし、再び女の子に捕まる心配もない。この女の子には申し訳ないが、ウサギにはこのまま人気のない場所まで逃げてもらって……

「おっと」

 そんな花中の願いを砕いたのは、女の子の父親だった。

 女の子の父親は、自分の方へと逃げてきたウサギを押し付けるようにして両手で捕らえたのだ。ウサギは小さな鳴き声を出し、暴れるが、大人の力からは抜け出せない。

「はい、今度は離すんじゃないぞ」

「うん!」

「ああ、ちょっと待って。今カメラ起動するから」

 そして父親は、女の子にウサギを手渡してしまった。女の子は嬉しそうにウサギを受け取り、先程と全く変わらない乱暴な抱擁で捕らえる。女の子の母親も彼等を何一つ咎めず、暢気にスマホのカメラモードを起動させていた。

 ウサギはジタバタと暴れ、逃げ出すのを諦めていない。しかし女の子も、その両親も、ウサギの抵抗を気にも留めていない。あたかも、そんな行為は起きていないかのように。

「あ、あ、あの」

 あまりにもウサギが可哀想で、花中は思わず彼等に声を掛けてしまった。

 呼ばれた三人は花中の方を振り向き、とても社交的な笑みを向けてくれる。敵意など何処にもない。仮面を被っているかのような胡散臭さもない。何処からどう見ても善人のそれだ。

 しかし彼等はウサギを手放そうとしない。

「うん、どうしたんだい?」

「え、えと、あの、う、ウサギが、苦しそうで……」

「苦しそう? ああ、確かにね。この子まだ小さいから、ちょっと加減が出来ていないね」

 説得してみたところ、女の子の親も現状を認識してくれた。自分の説得は届かなくても、親の言葉なら聞いてくれる筈だ。

「でもほら、こんなに嬉しそうだからさ、取り上げるのも可哀相だし」

 親がちゃんと言ってくれれば、の話だが。

「……は、ぁ、え?」

「ほら、写真撮るわよー。こっち向いてー」

 唖然となる花中の目の前で、親子は団欒を続けた。何処までも幸せそうで、一見して理想的な家族の姿そのものだ。子供の腕の中で苦しそうにしているウサギを除けば。

 ウサギがどれだけもがいても、苦しんでも、彼等の笑みは崩れない。

 ようやく、花中は気付いた――――この人達は、ウサギの事など()()()()()()のだ。怪我をしようがストレスで病気になろうが、子供が喜ぶならばそれで問題ないと思っている。いや、考えてもいない。

 彼等にとってウサギとは、その程度の存在でしかないのだ。

「あ、あの、う、ウサギ……」

 なんとか説得しようとする花中だったが、しかしなんと伝えれば良いのかが分からない。どう伝えたところで、彼等はウサギの命を『娘の笑顔』よりも上位に置かないと理解してしまったから。

 されど花中が迷っている間も、女の子はウサギを抱き締める腕を弛めない。ついにウサギは抵抗を止め、ぐったりしてしまった。

「ちょっと失礼しますわ」

 顔を青くした花中の肩を優しく叩きながら大月が現れたのは、丁度そんな時だった。

 ハッと花中が我に返った時、大月は早歩きでずんずんと女の子達一家に歩み寄っていた。子供にしか見えない花中と違い、大月の見た目は立派な淑女。突然近付いてくる見知らぬ『大人』の姿に、一家も少なからず不思議そうに目を向ける。

 大月はそんな彼等の視線を受けてもお構いなし。静かに、丁寧に、立候補するかのように上品な仕草で片手を上げた

「えいっ」

「ぎゃぶっ!?」

 のも束の間、大月は片手を振り下ろし、ウサギを抱えていた女の子の脳天にチョップをお見舞いした。

 紛う事なきチョップである。ビンタのような淑女らしい一撃ではなく、雄々しく正確な打撃だ。叩かれた女の子はあまり可愛らしくない呻きを上げ、ウサギを抱えていた手で叩かれた頭を押さえる。

 当然ウサギはこの瞬間に開放された。ぐったりとしていたウサギはよろよろと体勢を立て直すと、慌ててこの場から逃げていく。無事かどうかは分からないが、これ以上の悪化はない。その点については花中も安堵する。

 代わりに、新たな火種も撒かれたが。

「ちょっと、いきなり何をするの!?」

 叩かれた女の子の両親が、怒りを露わにしたのだ。

 娘に暴行を震われたのだ。彼等が怒るのは至極当然、いや人間としての『義務』である。しかし大月は怯みもせず、それどころか胸を張った堂々とした佇まいで立ち向かう。

「もっと敬意を払いなさい!」

 そして発する言葉に宿る力強さは、直に言われていない花中すら仰け反らせるほどのものだった。

 直接ぶつけられた一家は、まるで暴風でも受けたかのように後退り。大月はその視線を足下の、小さな女の子に向けた。女の子はすっかり怯えた様子で、大月と目が合った瞬間身体を震わせる。

 逃げるように俯く女の子だったが、しかし大月は女の子の顔を両手でがっちりと掴み、無理矢理上げさせた。今にも女の子は今にも泣きそうな顔をしていて、ふるふると震えるばかり。

「良いですか? 相手には常に敬意を払うのです。例えそれが、自分より小さな命であったとしても」

 怖がる少女に、大月はもう一度、少女に言い聞かせる。今度は、いくらか優しい言葉遣いで。

「け、けいい……?」

「相手の事を認める気持ちですわ。あなたはウサギさんの事をオモチャだと思っているみたいですけど、ウサギさんはあなたのオモチャじゃありません。強く抱き締められたら痛いでしょう? ウサギさん、苦しくて泣いていましたわ」

「で、でも、ウサギさん、かわいいから」

「ウサギさんはあなたに抱かれるために可愛くなったのではありません。あなたがウサギさんを勝手に可愛いと言っているだけですわ。ウサギさんは、自分勝手で、意地悪をするあなたの事が()()()でしょうね」

「う、ふぐ、うううう……!」

 ズバリと大月がウサギの気持ちを『代弁』すると、女の子は声を詰まらせ、目に涙を浮かべ始めた。

 女の子はウサギを虐めていた訳ではない。可愛くて堪らなくて、我慢が出来なくて、つい力がこもってしまっただけなのは、花中にも分かっている。抱いているのはあくまで好意なのだ。

 なのに相手に嫌われていると言われたら、ショックに決まっている。心が純粋で、未熟な幼子ならば尚更だ。

「おい! 娘はまだ小さいんだぞ! そんな酷い事を言うなんて」

「そうよ! 物には言い方ってものがあるでしょ!」

 女の子の両親は怒りに震え、大月に噛み付く。

「敬意を払いなさいと言ったでしょう!」

 だが、大月の怒りは親心さえも捻じ伏せた。

「敬意を払うのはウサギさんに対してだけではありません! あなた達の自分の子に対してもです!」

「じ、自分の子にって」

「小さいから言っても分からない? 言う事を聞かない? どれだけ()鹿()()()()()気が済むのですか! その子だって一人の人間で、自分で考える頭があるんですのよ! ならちゃんと説明するべきではなくって!?」

「そ、それは……」

 大月の言い分に、両親達は言葉を詰まらせる。

 そして近くで聞いていた花中も息を飲んだ。

 自分は、あの子供に敬意を払っていただろうか?

 見ず知らずの子だ。それにウサギの扱いがなっていないとも思っていたし、話を聞いてくれないからとすぐに彼女の親を説得しようとした。何より『お姉さん』だからという理由でウサギを渡していた。

 敬意なんか払っていない。それどころか見下していたといっても過言ではない。

 ただ、相手が自分より年下というだけで。

「……少し、熱くなり過ぎましたわ。あなた達の言い分があれば聞かせてくださいませ。一方的に捲し立てるのはフェアではありませんもの」

 感情的だった自分を戒めながら、大月は両親達に意見を伺う。彼等がすぐには答えを出さずとも、それで話を打ちきろうとはしない。

 どんな意見であろうとも受け入れる寛容さ。

 どんな意見であろうともぶつけられる自信。

 どんな意見であろうとも尊重する『敬意』。

 大月にはその全てがあるのだ。その意思のこもった言葉が届かぬ筈がない。

「……いや、自分達が悪かったと思います。子供だからって、甘やかして、注意もしなくて……」

「叱っても無駄だって、思っていました……」

 女の子の両親は俯きながら、大月の言い分を認めた。

 自分の主張を通した大月は、しかしそれを聞いて嬉しそうにはしない。むしろ同意するような、物悲しい微笑みを浮かべる。

「わたくしは結婚もしておらず、子供もおりません。ですから、あなた方の苦労も知らず、出過ぎた事を申したかも知れません。もしそうでしたら、その点については謝らせていただきます」

 ぺこりと頭を下げ、自分にも落ち度があったと謝る大月。

 そんな彼女の下に、女の子はとぼとぼと歩み寄る。

「……わたし、ウサギさんとどうしたら、なかなおりできる?」

 そして大月に悲しげな表情を浮かべながら尋ねると、大月はようやく明るくて優しい笑みを浮かべた。

「ちゃんと、ごめんなさいと言えば良いのですわ」

「ほんと? ウサギさん、それでゆるしてくれる?」

「すぐに許してはくれないかも知れませんわね。でもね、謝らなかったら、ずっと嫌われたままですわよ……さぁ、怖がらないで。まずは自分の方から歩み寄りましょう」

 大月に後押しされ、女の子は大きく頷くと隅に逃げたウサギの下へと駆けた。両親達も大月に向けて一礼すると、女の子の後を追う。

 三人を見送ると、大月は花中の方へと振り向いた。そして深々と、本当に申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんなさい。つい頭に血が上ってしまい、楽しい催しを台無しにしてしまいましたわ」

「いえ、その、気にしないでください。その、むしろ、カッコいいと、思いましたし」

 謝る大月に、花中はお世辞抜きに思った事を伝えた。

 あらゆる人と対等に話し合う。

 同じ理念を持つ人は数多く居るだろう、が、そこに例外を作ってしまうのが人間だ。動物だからとか、子供だからとか、馬鹿親だからとか、大人だからとか……自分の話が通じないと、すぐに見下し、対等の範疇から追い出してしまう。

 そんな自分(花中)からしたら、大月の方が余程人間が出来ているとしか思えない。大変勉強になったと、大月の姿勢に感嘆を覚えていた。

「どうにも昔から、こう……『敬意』が足りないのを見てしまうと、カッとなってしまいますの。さっきの親子みたいに、自分に恩恵を与えてくれている存在に感謝の一つも見せない態度と言うのかしら。もうほんと、ああいうの見ると我慢出来なくて」

「……それはきっと、大月さんが、誰に対しても、優しいからだと、思います」

「もう、お世辞は止めてくださいまし。わたくし、優しくなんかありませんわよ?」

 照れているのだろうか、大月は逃げるように顔を背ける。それがなんとも可愛らしくて、花中は思わず吹き出してしまった。

 優しく、格好良くて、可愛くて。

 果たしてこの人に欠点などあるのだろうか? あったとしても、それもまた魅力になってしまうのだという確信が花中の中に出来上がる。一緒に居れば居るほど、大月の事が好きになる。

 気付けば大月という人間は、花中にとって『知らない人』ではなくなっていた。

「ねぇねぇ、はなちゃん。あっちに仔牛がいるわよ。ミルクあげられるみたいだけど、行ってみない?」

「え? あ、はいっ! 行きます! 大月さんも、行きませんか?」

 大月と話していると、ミリオンがやってきて新たな動物について教えてくれた。二つ返事で答えてから、花中は大月も一緒に行こうと誘ってみる。

 未だに照れているのか、大月はちょっぴり膨れ面。されどその顔はすぐに笑顔へと戻った。彼女もまた躊躇いなく「勿論」と答えてくれる。

 まだまだ移動式動物園の中には、触っていない動物がたくさんいる。

 のんびりなんかしていられないと、花中は大月と共に、ミリオンの下へと駆け足で向かうのだった。

 

 

 

「あー……楽しかったぁ」

「ええ……楽しかったですねぇ」

 ふにゃふにゃに蕩けながら、花中とフィアは満足感を露わにする。容姿は全く似ていない一人と一匹は、しかし今この瞬間に限れば、まるで姉妹のように同じ表情を浮かべていた。

「うふふ。楽しんでもらえて何より。わたくしとしても誘った甲斐がありましたわ」

 大月も幸せそうな花中達を見て、上機嫌に微笑む。フィアは一瞬だけ大月を睨み返したが、すぐに余韻がぶり返してきたのだろうか。目付きを鋭く出来たのは、ほんの十数秒だけだった。

 仔牛へのミルクあげ、ヒヨコ触り放題、仔羊との抱き合い……移動式動物園で、花中達は存分に動物達を愛でる事が出来た。花中は動物自体が好きだし、フィアは可愛いものが大好き。彼女等は時間を忘れるほどに動物園を楽しめた。

「まぁ、お陰ですっかり夕方だけどねー」

 楽しみ過ぎて、本当に時間を忘れてしまったが。茜色に染まった町の景色が花中の心に突き刺さる。しんみりではなくグサグサと。

 ミリオンのぼやきに、フィアの方は時間を有意義に使えたとばかりに上機嫌な鼻息を吐いていたが、花中は「ふぐっ」と図星を突かれた事に呻く。無論花中とて先の動物園での時間を無駄だとは思っていない。

 ただ、人間である花中は(フィア)と違って『スケジュール』というものがあるのだ。

「……確かに、ちょっと遅く、なり過ぎましたけど……」

「あら? 何か用事がありまして?」

「えと、用事と、言いますか……ちょっと、牛乳を切らしちゃって。この後、買いに行こうかなって」

 ぽそりと零した独り言を聞かれ、花中は事情を打ち明ける。花中は朝食時に牛乳を飲むのが日課なのだが、その牛乳が今朝なくなってしまったのだ。残り少なくなっている事には気付いていたが、昨日は頭の中が肉一色だったためすっかり失念していたのである。

 とはいえ、牛乳がなければ生きていけない、なんて事は勿論ない。だから別に、どうでも良いと言えばどうでも良いのだが……

「まぁ! それは大変! わたくしとした事が、食事の邪魔をしてしまうなんて! もっと早くに引き上げる事を伝えるべきでしたわ……」

 しかし大月はそう思わなかったらしい。大月はわたわたと本気で狼狽える。食事をこよなく愛する大月にとって、その食事の準備を邪魔したとあっては、己の信念をも揺るがしかねないのだろう。

 無論花中はこんな『小さな事』で怒りはしない。そもそも時間管理がなっていなかった自分の責任である。何も知らなかった大月を責める道理などない。加えて言えば、別に手遅れという話でもないのだ。

「いえ、気にしないで、ください。買い物なら、今から行けば、良いですし……ほら、あそこの商店街で」

 花中が指差した先には、普段から利用している商店街があった。夕飯の買い物ぐらいなら、あの場所でなんとでもなる。

「……ごめんなさい」

 それでも大月は、未だに項垂れたまま。どうやらかなり本気で凹んでいるらしい。

 どうしたら大月を元気付ける事が出来るだろうか。花中は少しばかり考え込む。何か、大月の喜びそうなものがなかったか……

「あ、そういえば、饅々亭(まんまんてい)の特製肉まんが、最近発売し」

「特製肉まん!? なんですのそれは!」

 そこでふと閃いた発想を無意識に呟いたところ、大月は素早く食い付いてきた。身を乗り出し、目がキラキラと輝いている。先程までの憂鬱さは何処へやら、面影すらない。

「え、えと、なんでも、高級和牛を使った、とってもジューシーな一品、とか」

「まぁまぁまぁ! そんなものがあったなんて! ああ、わたくしとした事が、昨日来た時は見逃してしまったのかしら!」

 その勢いに押されて知っている情報を伝えると、大月は一層の興奮を露わにする。頬を赤らめ、地団駄を踏むように足踏みまでしていた。

 そして我慢ならないとばかりに、大月は商店街へと駆け出してしまった。思いっきり、花中を置いてきぼりにして。

 元気になってくれたのは良いのだが、食べ物好きにも程があるのではないか? なんとも自由な大月の行動に、思わず花中は苦笑いしてしまう。とはいえこのままでは大月とはぐれてしまい、再会出来なくなりそうだ。

「……とりあえず、あの人については私が追い駆けておくわ。はなちゃんは買い物に行ってきて」

 呆れが困惑に変わった頃、ミリオンがそう申し出てくれた。

 花中が頷く前にミリオンは歩くような動きで、しかしその速度は明らかに人間が走るよりも速く、大月の後を追う。またしても置いていかれた花中だが、今度は戸惑わない。これはミリオンの『善意』なのだから。

「わたし達も、行こうか。牛乳を買いに」

「そうですね」

 共に残されたフィアは花中の言葉に同意すると、花中の手を握ってくる。花中はその手を握り返し、フィアと一緒に商店街へと入った。

 夕暮れの商店街は人気がなく、フィアと花中が横並びで歩いても通行人の邪魔にはならない。友達と自由に歩ける事が楽しくて、花中は思わず笑みをこぼす。

 しかしそれ以上にフィアがご機嫌な様子。鼻歌を歌い出し、腕を大きく振っていた。

「フィアちゃん、嬉しそうだね」

「それは勿論! あの大月の奴がようやくいなくなりましたからね! やぁぁっと花中さんを独り占め出来ます!」

 尋ねてみると、フィアは嬉しそうに答える。

 どうやらフィアは大月の事を未だに嫌っているらしい。友達のなんとも困った感情に、花中は眉を顰めた。

「もぅ、フィアちゃんったら。どうして大月さんを、そんなに嫌うの?」

「それが説明出来たら苦労はありません。ああもうアイツの何が気になるのか……」

 苛立ちのあまりか、爪どころか指まで噛み始めるフィア。作り物の指なのでいくら噛んでも痛みなどないし、怪我にもならない。だが、それを知っている花中の目にも『やり過ぎ』に映るほど、深々と噛んでいた。人間ならば今頃肉が抉れ、骨が剥き出しになっていそうである。

 そのあまりの苛立ちぶりに、花中も少なからず疑問を覚える。

 フィアは好き嫌いに素直な性質だ。だから第一印象で嫌いになったら素直に嫌うし、嫌うに足る理由があれば何時までも嫌う。例えばミリオンなんかが典型的で、フィアは今でもミリオンを嫌っている。かつて花中の命を奪おうとして、自分を殺しかけ、そして今でも必要ならば花中の命を重視しない。退屈な時一緒にゲームをしたり、テレビドラマや漫画の話題を交わしたりはするが、好んで一緒に出掛けようとはしないし、基本不信感剥き出しだ。

 逆に言えばミリオンほどの暴挙に出ていても、今は敵じゃないという『根拠』と少しの時間を置けば、フィアは相手が誰であろうともその程度にしか嫌わないという事でもある。

 少なくとも大月は花中の命を奪おうとしていないし、嫌がるような事もしていない。フィアに対しても同じだ。精々初対面の時、いきなり友達になってほしいと言ってきて花中を困らせたぐらい。

 その程度の事しかしていないのに、何故かフィアは初対面から今に至るまで大月を、ミリオン以上に嫌っている。何故だろうか? 思い返すと、フィアは大月に『違和感』があると言っていた。その違和感を取り除ければ、フィアも大月と打ち解け合えるのではないか……

「まぁアイツの事などどうでも良いではないですか。夕飯の買い物をしませんとね!」

 考えようとする花中だったが、フィアは考える事そのものが不快らしい。話を無理矢理打ちきってきた。

 花中としてはもっとちゃんと考えたかったが、フィアが言う事も尤もである。このまま思考に没頭していては夕飯の材料を買いそびれてしまいかねない。

 別段、締め切りがある訳ではないのだ。家に帰ってから考えても遅くはないだろう。

「……そうだね」

 難しい事は頭の隅へと追いやり、花中はフィアに同意した。

「さてさて今日は牛乳を買うのですよね? どちらに行くのですか?」

「うん、コンビニだよ。まぁ、買いたいやつがあれば、だけど。もしくは、新製品とか」

「うーむ花中さん意外と牛乳好きですよね。新製品とかにもよく手を出しますし」

「え? そうかな、普通だと、思うけど」

 他愛無い会話をしながら、花中は目当てのコンビニへと向かう。

 商店街には北口と南口があり、花中達が入ったのは北口の方。対してコンビニがあるのは南口側だ。そのためほぼ商店街を横断しなければ、コンビニには辿り着けない。

 通り過ぎる数々のお店。商店街の常連となった花中にはどのお店も見慣れたものだ。

 故にどんなに小さくとも、不自然があれば違和感を覚える。

「あれ?」

 唐突に抱いた違和感は、その小さな不自然から始まった。

 歩道に、一人の女性が立っていた。女性はふくよかな体系をしていて、花中のような貧弱人間では十人居ても動きを止められそうにない大きさだ。辺りを常にきょろきょろしていて、まるで何かを探しているような動きをしている。おまけにその動きは楽しそうなものではなく、何か、暗い気持ちを感じさせた。

 その人物は、花中の知り合いだった。知り合いが何やらおかしな様子であるなら、事情ぐらい訊くべきだろう。

「お肉屋さんの奥さん、どうか、しましたか?」

 自身の小さな声でも届くぐらい近付いてから、花中は歩道に立っていた人物――――精肉店の店主の妻に声を掛けた。

 花中は相当、それこそ手を伸ばせば触れ合えるぐらい近くに来ていたのだが、肉屋の妻はハッとしたように身体を強張らせ、それから振り返る。明らかに辺りを見回していたのに、花中の存在に今まで気付かなかったらしい。

 そして一瞬だけ見せた顔は、今にも泣きそうなものだった。

「――――あ、ああ。花中ちゃんじゃないか。いらっしゃい」

 肉屋の妻は、話し掛けてきたのが花中だと気付くと笑みを浮かべた。しかしその笑みは引き攣っていて、とても『客』に向けるものではない。普段の彼女は、根暗で陰気な花中ではそのパワーに抗えないほど快活な女性だ。明らかにおかしい。

「えと、その……どうか、しましたか? あの、なんというか、悩んでいるように、見えたの、ですが」

「え、あ、ああ。いや、なんでもないよ。悩みなんて」

 思い切って花中が尋ねてみると、肉屋の妻は目を逸らして頭を掻く。

 まるで照れ隠しのような素振りが、酷くわざとらしい。まるで、大した理由じゃないと、誤魔化しているかのように。

 花中は肉屋の妻の言葉を信じず、じっと彼女の目を見つめる。視線に気付いた肉屋の妻は口を開き、閉じ、また開けて……小さなため息を吐く。

 その後ようやく出してくれた言葉は、掠れて消えてしまいそうなもの。

 されどどれほど小さな言葉でも、花中は聞き逃さない。

「……実は、旦那が……行方不明になっちまって」

 何故なら自分の身近な人間が、『異変』の当事者となった事を告げられたのだから。

「……………行方、不明……?」

「昨日から、ずっと帰ってこなくて……夜になっても戻らないからこれはおかしいと思って警察に通報して、それで近所の人らにも聞いたけどでも店から出て行くとこを見た人がいなくて……警察は、目撃証言がないから裏口から出たんじゃないかって言ったけど、そんなこそこそするような人じゃなくて、私もう訳が分からなくて……」

 一度言葉にした事で、心の栓が開いてしまったのだろうか。肉屋の妻は止め処なく喋り、その想いをぶちまける。目は潤み、声はしわがれ、明らかに感情の抑えが利いていない。

 そして花中の心も、彼女ほどではないが心を取り乱していた。

 町で行方不明者が続出している……この話を教えてくれた人こそ、肉屋の店主だった。確かにこの町での出来事なのだから、花中の知り合いが行方不明になる可能性はあった。実際、それを心配してもいた。

 だけど、こうして本当に『身近な人』が消えた事で実感する。

 自分の心配など、本気ではなかったのだ。不安がっていても、怖がっていても、何処かできっと大丈夫だと思い込んでいたに違いない。

 でなければ今、眩暈がするほどのショックを感じる筈がないのだから。

「ねぇ、花中ちゃん。何か知らないかい……」

「……………」

「……花中ちゃん?」

「え……あ、はい……えと、ごめんなさい。詳しくは……ただ、わたし昨日、こちらに買い物に来て……えと、十一時ぐらいの、事です、けど」

「! ……そうか、私が帰ってくる寸前まではいたんだ。ありがとう、今まで何時居なくなったかも分からなかったからね」

 花中が知っている限りの、しかしあまりにも些細な情報を伝えると、肉屋の妻は本当に嬉しそうに笑ってくれた。笑ってくれたがために、花中は胸が締め付けられる。

 これから、彼女はどうしていくのだろう。

 肉屋の店主から、彼等の家族については何度か話を聞かされた事がある。二人の娘がいて、どちらも学生で、親に似ないで頭が良いとか、食べ盛りだとか……

 花中に大人達の苦しみは分からない。想像も付かないぐらい大きくて、辛いものだとしか言えない。その苦しさを共有した気になるのが精々だ。

 そして共有した気になっているがために、何かをせずにはいられない。

「あ、あの!」

「ん? なんだい、花中ちゃん」

「えと、わたしに出来る、事が、あれば、なんでも言ってください! えと、わたしなんかじゃ、何も、出来ないかも、ですけど……」

 感情のまま自分の想いを伝えるも、途中で自信を喪失し、花中の声はすっかり萎んでしまう。子供染みた慰めで、却って肉屋の妻の気持ちを傷付けてしまったのではないかと申し訳なさも感じた。

 それでも、肉屋の妻は微笑んでくれた。大きくて、太くて、優しい手で花中の頭を撫でてくる。

「そんじゃ、うちの肉でも買って、美味しく料理して食べてくれるかい? あの肉マニアの事だから、美味い肉の香りを嗅いだら居ても経ってもいられなくなって出てきそうだからね!」

 それから冗談交じりの、だけど祈るようにも聞こえるお願いを伝えてきた。

 花中も自然と笑みが零れる。こんな事を言われたら、買わずになんていられないではないか。

「……はいっ!」

 花中は元気よく返事をすると、肉屋の妻も明るく笑い返し、裏口の方へと向かった。花中も肉屋の扉を潜り、中へと入る。

 ……そんな花中の後を、一緒に居たフィアは()()()()()()

 ただ、フィアはじっと花中を見ていた。否、正確には花中ではない。花中が肉屋の中を動いても、その視線は微動だしないのだから。人間には見えない何かを、観察するように眺めるだけ。

 やがてフィアはこくりと頷き、それから上機嫌に微笑む。

「成程そういう事でしたか。ようやく尻尾を掴めましたよ」

 そしてぼそりと独りごちた。

 店内で肉を選んでいる花中には届かないぐらい小さな、自分だけしか聞こえない声で……

 ……………

 ………

 …

「で、それで延々と選んだ結果、ここまで遅くなったと」

「……面目ないです」

 かくして豚肉と牛乳を買った花中は、商店街の入り口で待ちぼうけを食らったミリオンの顔を直視出来なかった。一時間も待たせたとなっては、流石に言い訳のしようもないので。

 最早夕暮れ時は終わり、辺りはすっかり夜の暗さ。街灯が光り始め、道路を照らす。元気な太陽が姿を消した事で気温は一気に下がり始め、日中を心地良く過ごすための服装では些か寒くなってきた。

 こんな場所に一時間も待たされたなら、怒っても仕方がない。花中と一緒に買い物をしていたフィアは上機嫌だが ― 何故か、大月と合流しても機嫌は良いままだった ― 、ほったらかしにされたミリオンはかなりご立腹な様子だ。

 気温差を感じる器官を持たないミリオンですらお怒りなのである。寒さを感じる人間なら、もっと激高したって悪くはあるまい。

「まぁまぁ、ミリオンちゃん。花中ちゃんも反省しているのですから、あまり怒っては可哀想ですわ」

 されどミ大月は、怒るどころか上機嫌なぐらい笑っていた。流石はフィアのあからさまな敵意に動揺一つ見せない穏やかな性格の持ち主、太平洋よりも心が広い……或いは、抱えている紙袋いっぱいに入った肉まんのお陰かも知れないが。

「すみません、待たせてしまって……」

「うふふ、構いませんわ。お陰でわたくし、じっくりと商店街を見て回れましたもの」

 一応謝りはしたが、大月は本当に気にしていない様子。花中は胸を撫で下ろす。

 何分、そろそろお別れの時間なのだ。やはり最後は笑顔でさよならを言いたいものである。

「今日は、とても楽しかったです。誘ってくれて、ありがとう、ございます」

「あら、そんなお礼だなんて。わたくしが花中ちゃんと仲良くなりたかった。だから誘っただけですわ。お礼なんて言われても、困ってしまいます」

「それでも、です」

 にへっと、花中は頬を緩ませる。

 大月と過ごした時間は、とても楽しいものだった。最初は怪しんでいたし、昼食では昨晩のメニューもあってそこまで盛り上がれなかったが……気付けば、あっという間に時間が経っていた。振り返ってみれば、どれも良い思い出になると言いきれる。

 こんなにも楽しい思い出が一度きりなんて勿体ない。そして一度きりにする必要は、きっとない。

 大月とはもう、友達になったのだから。

「えと、また会いましょう! 今度は、わたしが楽しい場所に、ご案内しますね!」

 花中は満面の笑みで別れと再会を伝え、くるりと大月に背を向けた。それから軽快な足取りで家路に付いた

「花中ちゃん。お待ちになって」

 最中に、大月は花中を呼び止めた。

 帰ろうとした花中は慌てて足を止め、転びそうになる身体をどうにか持ち直してから大月の方へと振り返る。大月は可愛らしい足取りで花中の傍まで来ると、にっこりと微笑んだ。

「えと、どうしました、か?」

「うふふ。また今度って思ったのですけど、花中ちゃんの可愛い姿を見たらやっぱり我慢出来なくなりまして。なんかこう、むらむら~と急に来ちゃう時、あるでしょう? あの感じですわ」

「? えっと……」

 何を言いたいのだろう? 大月の伝えたい事がよく分からず、花中は首を傾げた。とはいえ大月が浮かべている穏やかで優しい微笑みを見る限り、大した用事ではなさそうだと花中は感じる。

 故に花中は大月の手が自分の肩を掴んでも、別段思う事など何もなく。

「いただきます」

 自分の顔を見ながら言った大月の言葉の意味を理解しようにも、弛みきっていた意識は答えに辿り着けなかった。

 そう、全てが一手遅い。

 例え自分の肩を掴む手の力が強く、振り解けそうになくなったとしても。大月がお喋りをするには非常識なぐらい顔を近付けてきたとしても。

 そしてその顔が、まるで花が咲くかのように()()()としても。

 あらゆる異常を前にしても、気が弛みきっていた花中には反応出来なかった。本能的に『何かヤバい』事は察知しても、身体を動かすための命令が間に合わない。むしろ反射的に危機感を覚えた事で、身体全体が硬直してしまった。最早逃げる事も出来ず、花中は迫り来る大月の頭をぼんやりと眺めるばかりで、

 突如として大月の頭が破裂しなければ、果たして花中はどうなっていたのだろうか。

「――――え、ぁ」

「いやはや全く油断も隙もないとはこの事ですかねぇ」

 呆気に取られる花中のすぐ横には、フィアが立っていた。

 花中(人間)の鈍りきった瞳には、自分の真っ正面で起きた出来事すらまともに映っていない。

 されど人間には想像力がある。だからフィアの腕が伸びていて……その腕が大月の頭があった場所を真っ直ぐ貫いていたなら、何が起きたのかの想像は膨らませられる。

 そう、これは想像だ。それでも花中は顔を青くした。

 友達が『人間』の頭を殴って粉砕したとなれば、どうして冷静なままでいられるのか。一部だけなら、まだ助かけられるかもと現実逃避のしようもあっただろう。しかし顎から上が丸ごと吹き飛んでいたら、助かる要素など微塵もない。

「ふぃ、フィア、ちゃ……」

「おっと花中さんちょっと待っててくださいね。その肩にあるお邪魔虫も取り除きますから」

 ガタガタと震える花中だったが、フィアは自分のした行為になんの感傷も抱いていないらしく、普段と変わらぬ調子で喋る。未だ花中の肩を掴んだままの大月の手を丁寧に引き剥がし、それから嫌悪を剥き出しにした勢いで大月の身体を突き飛ばした。

 すると大月の身体は、よろよろと後退りする。

 ……後退りというのは、意識のない身体に出来る事ではない。似たような行動である『歩く』行為でも、非常に高度な情報処理を必要とするのだ。そしてその情報処理は、主に脳のよって行われている。

 ジタバタと暴れる事は、細胞のエネルギーが残っている限り不可能ではあるまい。だが歩いたのなら……何かしらの情報処理能力名残っている証。

 例え頭がなかったとしても。

「……まさか」

 過ぎる可能性。否定したい感情。様々な思考がごちゃ混ぜになる中で、大月の『身体』は花中の方をずっと向いていた。

 やがて大月の身体は、飄々と肩を竦める。

 そして彼女は、()()のだ。

「あらあら、失敗してしまいましたわ。やっぱり拙速だったかしら?」

 顎しかない頭の断面を蠢かせながら、お淑やかに、穏やかに、何事もなかったかのように。




ついに大月の化けの皮が剥がれました。物理的に。
さぁ、彼女の目的とは何か? 次回明らかに。

次回は6/17(日)投稿予定です


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女神の美食7

 ぐにゃぐにゃと、半分になった頭の断面が蠢いていた。

 茶色い中身が剥き出しとなり、所々からぶちゅりぶちゅりと音を鳴らして液体が噴き出している。人間が……否、大抵の生物がこれほどの大怪我を負ったなら、即死は免れない。仮に生き長らえる事が出来るほど生命力に優れた生物でも、出血と感染症によりいずれ死に至るだろう傷だった。

 もしも此処を何も知らない通行人が通ったなら、おぞましい姿の『亡骸』を前にして絶叫を上げるに違いない。夜を迎えていなければ今頃誰かが見てしまい、この住宅地は大きな騒ぎに包まれただろう。

「もう、小突くにしてももう少し手加減してくださいませんこと? 顔が崩れてしまいましたわ」

 されど当の『亡骸』自身は、落ち着き払った口調で平然と悪態を吐いてみせた。口なんて、もう顎しか残っていないのに。

 やがて蠢いていた顔の断面が盛り上がりだし、失った部分を補完していく。修復に掛かった時間はほんの数秒。紙で切った指の傷よりも早く、完璧に、大月はその顔を元通りにする。

 浮かべるのは、まるで何事もなかったかのような微笑み。これまでと全く同じ、お淑やかさと優しさが同居する柔らかな表情。

 しかしその顔を向けられた花中が、安らぎと信頼を感じる事はなかった。

「な、あ……? え、な、なん……」

「生憎手加減をしたつもりはありませんので。いやはや随分としぶといですね一撃で仕留めるつもりだったのですが」

「うふふ、これでもしぶとさには自信がありますの」

「ああつまり下等という事ですね? 漫画で見ましたよ下等な生き物ほど生命力が強いって」

「下等ではなく、シンプルで適応的と呼んでほしいものですわ」

 困惑する花中を自らの後ろに隠しながら忌々しげにぼやくフィアに、大月はあくまで上品に語らう。ミリオンも静かに花中の前へ、フィアの隣へと移動していた。対峙する『三体』の間には静かな闘志がぶつかり合い、ただの人間である花中にも場の空気が変わっていくのが感じられる。

 これは戦いの気配だ。

 花中は狼狽えた。何に? 大月が人間ではなく、人智を超えた生命体……ミュータントだったと知ったから。そして『友達』同士が争おうとしているから。この二つを一度に突き付けられて、狼狽えずにいられる訳がない。

 だけど一番動揺を誘ったのは、その友達が自分に()()()()()()事だ。

 普段なら、どうしてこんな事をしたのかと尋ねるだろう。しかし今回は、それが出来ない。

 大月の口元を見るだけで脳裏を過ぎる記憶。お喋りをするにはあまりにも大きく、裂けるように開かれた口。外気に触れた口内でぬたりと光る涎、剥き出しとなった牙のようなもの。

 何故自分を襲ったのか? ちょっと想像すれば答えはすぐに見付かる。後は見付けた答えを『拾う』かどうかだけ。

 花中は、すぐには拾えなかった。

「しかし思っていた以上にあからさまに襲い掛かってきましたね。まさかこうも露骨に()()()()とするなんて」

 『友達』が自分を食べようとしていたなんて――――認められる訳がないのだから。

「だってあまりにも美味しそうなんですもの。思いっきり齧り付きたくもなりません?」

 しかし大月は誤魔化すどころか、僅かな言い淀みすらもなく肯定する。まるで、行動を起こす前であっても訊けば答えたかのように。

 その態度が花中の心を一層締め上げるが、傍に居るフィアとミリオンは平然としていた。大した驚きなど、抱いている素振りすらなかった。

「ふぅむあなたの言いたい事は分からなくもないですね。私も大きな虫を捕まえた時はそうしますし……ですが花中さんを食べさせる訳にはいきません」

「私としても、はなちゃんを食べられる訳にいかないわね。お引き取り願うわ」

「あらあら、困りましたわね。わたくしとしても、此処まできて諦めるつもりなんてありませんのよ? なら当然、どうなるか分かってますわよね?」

「ええ勿論。あなたがバラバラになるのでしょう?」

「あら? 燃え尽きる、の間違いでしょ?」

「んもぅ、みんなまとめて仲良くお腹の中、が出てこないなんて。お二方とも、もうちょっと想像力を発揮してほしいものですわ」

 如何にも世間話のような軽い口調で言葉を交わすフィアと大月だが、どちらも相手から目を一切逸らさない。全身に力を滾らせ、隙を消していき、どす黒い殺意を纏う。どちらかが動けば、もう片方も瞬時に動き出せる状態が出来上がっていた。

 もしも動き出したフィア達の間に突っ立っていたら、きっとその者は一瞬で両者の力で叩き潰され、原形の残らないぐちゃぐちゃな肉塊へと変貌するだろう。そんな事は、過去何度もフィア達の激戦を見てきた花中は当然分かっている。

 分かっているのに、足が前へと出るのが止められなかった。

「……なん、で……」

「ん? なぁに、花中ちゃん」

 無意識に零れた言葉に、大月はすんなりと答える。まるで何事もなかったかのように。

 それが花中の心を一層締め付けた。

 少なくとも花中は、大月と友達になったと思っていた。たくさん遊び、たくさん話をし、たくさん分かり合えたと信じていた。かけがえのない、とまではいかなくても……失ったら嫌なものぐらいにはなれたと願っていた。

 自惚れと言われたなら、言い返せない。この気持ちは花中(じぶん)に『人』を見る目がなくて、勝手に抱いただけの幻想だと指摘されれば、確かにその通りだとも思う。

 だとしても、花中には問わずにいられない。

「わたし達、友達じゃ、なかったんですか……そう思って、いたのは、わたしだけ、だったのですか……!?」

 友達だと思っていたのは、自分だけだったのかと。

「勿論、花中ちゃんとわたくしはお友達ですわ! とっても大事な!」

 すると大月は堂々と、逡巡する素振りも皮肉めいた物言いをする事なく、花中の言葉を肯定してみせた。

 あまりにも当然のように肯定するものだから、花中は呆気に取られる。心の奥底で今も抱いていた、自分すら見落とすぐらい小さな願いが叶ったのに。

 大月もまた、自分を友達だと思ってくれている? だとしたら先程口を開けて迫ってきたのは、何かしらのジョーク? 理解が追い付かず、問い詰めた側である花中の方が動揺してしまう。

「な、なら、なんでわたしを、た、食べようと……」

「だって、やっぱり美味しそうなんですもの。お友達がいなくなるのは悲しい事ですけど、でもお腹が空いたのですから、食べたくなるのは仕方ないと思いませんこと?」

「と、友達は、食べ物じゃ……」

「あら。どうして?」

「どうしてって――――」

 困惑のあまり噛み合わない問答をしばらく続けてしまう花中だったが、ついに違和感の正体に気付きハッとする。されどそれは花中に希望をもたらさない。顔を真っ青にし、頬を冷たい汗が流れていく。

 ()()()()()()

 フィアやミリオンのような『友達』の間でも、何度か感じた事のある感覚。人間である自分と、動物や無生物である彼女達との間に考え方の差があるのは当然だ。しかし此度のそれは、今までとは明らかに違う。受け入れられない? 納得出来ない? そんな生ぬるい隔絶ではない。

「うふふ。一緒に過ごした時間、とても楽しいものでしたわ。みんなで一緒に食べたご飯はどれも最高でしたし、動物園での出来事もよい思い出です」

 大月は花中に感謝の言葉を告げる。そこに悪意はない。彼女は、本当に花中達と過ごした一日を楽しんでいたのだから。そこに侮蔑はない。彼女にとって今日一日の出来事は、きっと何時までも忘れないものとなったに違いない。

 それほどの想いを抱きながら、それでもなお躊躇なく、

「でも知れば知るほど、美味しそうに思えてきたんですの。ほら、人間だって牛がどんな風に育ってきたかを知って、美味しそうだとか、この育て方なら安心出来るとか思うでしょう? あれと同じですわ。花中ちゃんがとても素敵な育ち方をしたと知って、すっごく美味しそうに思えたから、つい食べたくなってしまいましたの」

 優先してしまうほどに、大月の食欲は大きい。

 大月と花中の違いなどその程度でしかなくて、だけど、決して相容れない事が分かってしまった。

「ぁ、ぁ……」

 怯え、後退りする花中だったが、躊躇った歩みは亀のように遅い。

「ああっ、やっぱり我慢出来ませんわ! いただきまぁーす♪」

 対する大月はさながら猛獣の如く瞬発力で、フィア達の前まで出てしまっていた花中へと駆け出した

 瞬間、大月の頭が爆ぜる。

 文字通り爆発し、四散したのだ。フィアが殴り飛ばした時は半分残っていた頭は、此度は跡形もない。首どころか胸部の一部まで吹き飛んでおり、鎖骨の辺りまで肉が抉れていた。人間ならば即死以外にあり得ない、致命的な損傷である。爆発の余波で大月の身体は暴走するトラックにでも撥ねられたかのように大きく飛び、市街地の道路を激しく転がった。

 花中の目には、何かしらの ― 例えば高速で飛来する物体が直撃するといった ― 前兆を捉えていない。しかしそれでも、何が起きたのかを察する事は出来た。

 不可視にして予兆なし、それでいて確実に致命的な一撃を与える……これは友達(ミリオン)の得意技なのだから。

「はぁーい、これにて終わり……って、なれば良いんだけどねぇ」

 自慢げに勝ちを宣言、したそうなミリオンだったが、その言葉の最後は明かに期待などしていなかった。

 何分、大月は頭が破損しても平然としている姿を既に花中達に見せている。大月にとって『頭部』がさして重要でない事は間違いない。今回は半壊どころか消失しているが、果たしてどの程度の違いがあるのか。

「んもう、これはちょっとやり過ぎじゃありませんこと? 頭どころか服まで吹き飛んでしまいましたわ」

 実際大月は、一体何処から声を出しているのか不明だが、まるで堪えていない声色でぼやきながら立ち上がった。肉体の断面が蠢き、新たな身体が生えてくる。頭部破裂の余波によって服も破損していたが、こちらは修復される気配もない。結果、新たに生えてきた大月の麗しい身体の一部が露わとなったが、大月はさして気にしていないようだ。

 あまりにもダメージがないからか、ミリオンは顔を顰める。フィアの方も不機嫌そうに鼻を鳴らし、鋭い眼差しで睨み付ける。

 何度も頭を吹き飛ばされた大月も、少なからず表情を変えた。ただし彼女はフィア達と違い、敵意など感じられない、あどけなさのある怒り顔を作るだけ。

 その感情の軽さが、『人間』には一際おぞましく見えた。

「なぁーにがやり過ぎよ。平気で生えてきてるじゃない」

「服の話ですわ! あなた方と違い、わたくし、服の方は自前じゃないんですもの。この服、可愛くて気に入っていたのに……大体いきなり頭を吹き飛ばすなんて、わたくしがただの人間でしたら今頃あの世でしてよ?」

「別に人間だったからって、対応変えるつもりもないけどねぇ。あとアンタが人間じゃない事は最初から気付いてたから」

 さも大した事ではないかのように語られたミリオンの言葉に、大月は少し驚いたように目を見開き、花中は大月以上に驚きの表情を浮かべた。

 ミリオンが大月の正体を見破った事は、左程不思議な事ではない。ミクロン単位の微少物質の集合体であるミリオンにとって、他者の体内を調べ回る事など造作もないのだから。外見を取り繕ったところで、内臓、骨格……血管構造や筋繊維密度まで再現せねば、ミリオンの『目』は誤魔化せない。

 花中が驚いた、否、ショックだったのは、それを知っていながら教えてくれなかった事の方だ。人間だろうとそうでなくても対応を変えるつもりがないのだから、花中が知っても知らなくても同じなのだろうが……理屈ではなく、感情が不快感を覚える。

「でもまぁ、流石にはなちゃんを食べようとするとは思わなかったけど。ねぇ、さかなちゃん?」

「いえ私は勘付いていましたけど」

 そしてフィアの言葉は、一層の混乱を花中に与えた。

「……どういう事?」

「あまり睨まないでください。私とて最初から気付いていたら花中さんに話して無理矢理にでもコイツと会わせませんでしたよ。気付いたのはついさっきです。具体的にはお肉屋さんですね」

「肉屋で?」

「わたくしとしても、後学のために是非とも教えてほしいものですわ。何故わたくしの気持ちを見抜けたんですの?」

 ミリオンだけでなく、見破られた側である大月までも前向きな好奇心を露わにしてフィアに尋ねる。問われたフィアは肩を竦めただけ。些細な事でも自慢する彼女らしからぬ、謙虚さを見せる。

 実際、フィアにとっては自慢するにも値しない話なのだろう。だからフィアは、勿体ぶる事もなく教えるのだ。

「別に大した話じゃありません。初めて会った時あなたの口から漂っていた臭いがあの肉屋の店主のものだった事を思い出しただけですから」

 花中の心臓を一時止めてしまうような、辛い言葉を。

「……ああ、そういう事。狙いが分かったから機嫌を良くしたのね。分かってしまえば、何に警戒すれば良いかも分かるから緊張する必要もないと」

「成程、相手によっては臭いでバレてしまう、と。今度から花中ちゃんのような人間に近付く時は、事前にしっかり歯磨きをきておくとしますわ」

 フィアの説明で、ミリオンも大月も納得する。なんの抵抗もなく、なんの疑いもなく、なんの感傷もなく。

 花中だけが、理解出来ていない。

 いや、頭が理解を拒んでいる。神経細胞達が迅速に導き出した結論を、感情が拒んでいる。そんな筈がない、ではなく、そんなのは嫌だ、と駄々を捏ねて。だけどいくら嫌がっても、『理性』は感情を叩き潰してしまう。

 大月と花中達が出会ったのは昨日であり、その時大月の口から店主の臭いが漂っていた。そして肉屋の店主は昨日から行方不明になっていて、大月は人間を食べてしまう。

 人間を食べる存在が、口からとある人間の臭いを漂わせる……つなげて考えれば答えは明白。反論を考えても言葉として形になる前に『結論』によって蹴散らされ、霧散してしまう。

 訊きたくない。誤魔化したままにしたい。だけど理性はそれを許さない。

「お、大月さん……あなたは、お肉屋さんの、店主さんを……どうしたの、ですか」

 ついに花中の口は理性によって操られ、

「昨日美味しくいただきましたわ」

 大月は、なんの躊躇いもなく答えた。

「あそこまで美味しかった人はそうはいません。きっと毎日美味しいものを食べ、よく働き、幸せな日々を過ごしていたのでしょうね。ここ最近食べた中では間違いなく一番でしたわ」

「その言い方からして、他にも何人か食べてるわね?」

「ええ。この二週間で何人頂いたかしら……三十人ぐらい?」

「一日二人以上とは呆れるほどの大食漢ですねぇ……」

「友人にもよく言われますわ。まぁ、あの子はわたくしとは逆に極端な小食なのですけど……いえ、無食と言うべきかしら?」

 フィアもミリオンも大月も、さも世間話でもするかのように語る。当然だ。その言葉は所詮他人事に過ぎないのだから。

 人間である花中以外にとって。

「……どう、して」

「うん? 何かしら、花中ちゃん」

「どうして、人間を食べるのですか……?」

 花中の口からは、無意識にその問いが出てきていた。

 大月の言葉が『真実』ならば――――彼女は、既に何十もの人間の命を奪っている事になる。恐らくは先程のように大きな口を開け、丸齧りにしてきたのだろう。襲われた人は逃げる間もなく餌食となり、目撃者は存在しない。社会から見れば、それは『行方不明』だ。

 即ち、大月こそがこの町で多発していた行方不明事件の元凶。

 行方不明者の中には幼い子供達、そして花中の知り合いが含まれていた。彼等には友人や家族がいて、その誰にも彼等がどうなったのかを知る術はない。だから家族や友人達は待ち続けるのだ、決して帰ってくる事がない大切な人を。

 知人達の悲しみは、所詮は他人である花中には想像も付かない。想像も出来ないほどに、深い事しか分からない。

 花中は知りたかったのだ。理解したかったのだ。人々の死に、人々の悲しみに、どんな理由があるのかを。どうしてそのような目に遭わねばならなかったのかを。

 だが、大月は不思議そうに首を傾げた。それから空を見上げるように小さく顔を上げ、人差し指で愛らしく自分の唇を撫で始めた。あたかも、何故問われたのかすら分かっていないかのように。

「どうしてって、どういう意味かしら?」

「だ、だって……だって食べ物なら、人間以外にだって、あるじゃないですか。あなたは、牛肉も、食べていたし、アイスだって食べて、野菜とか、お米だって、食べて……」

「そうですわね。どれもとても美味しいものでしたわ」

「なら! 人間を食べる必要なんて」

「でも、一番美味しいのが人間なんですもの」

「は、ぇ、え……?」

 大月のあっけらかんとした答えに、花中は呆気に取られた。ただしそれは数瞬の出来事でしかない。

 やがて花中はその顔を真っ青に染め上げた。

「人間にだってあるでしょう? 毎日食べても飽きなくて、目の前にあったら我慢出来ない食べ物が」

 大月は告げる。まるで自己紹介をするかのように。

「わたくしの場合、それがたまたま人間だっただけですわ。ああ、勿論牛肉やお野菜も好きですわよ?」

 大月は微笑む。感謝と慈しみを感じさせるように。

「だけどやっぱり人間が一番ですわ。お肉の濃厚な甘味、血の程よいしょっぱさ、内臓の刺激的な苦味……ああ、思い出すだけで涎が零れてしまいますわ」

 大月は歓喜する。大好物を前にした子供のように。

 語られた数多の言葉により、花中は全てを察した。察したが故に言葉を失った。

 大月は、ただ食べたかっただけなのだ。

 人間が()()()()()食べる。そこに複雑な想いなどなく、やらねばならない使命もない。食欲という誰しもが持つ本能故の行動であり、そこに善も悪も存在しない。

 つまるところ大月にとって人とは、人にとっての牛や豚と変わらないのだ――――人間よりも熱くて深い、『食べ物』への感謝の心を抱いている以外には。

「さて、わたくしの想いは理解してくださったかしら? でしたら大人しくお腹に……収まってはくれないみたいですわね」

 口許から垂れる涎を拭うと、大月は残念そうに肩を竦める。

 何しろ彼女と花中の間を遮るように、フィアとミリオンが立っているのだ。先程までおどおどしながらも大月を問い詰めていた花中は、今や俯きながら小さく震えるだけ。フィア達の影に隠れてしまい、大月からは微かにその手足が見えるだけとなっていた。

 これでは直進しても、フィアとミリオンにぶつかるのが先である。そして人間とフィア達の力の差は歴然。フィア達は人間ほど簡単には食べられない。

 フィア達を見据えながら、大月はしばしこめかみの辺りを指でとんとんと叩く仕草を交えて考え込む。やがて、観念したようなため息を吐いた。

「流石に、あなた方を同時に相手するのは難しそうですわね。念入りに準備してから、改めて頂戴するといたしましょう」

「おっと逃げられるとお思いですか? 花中さんを襲うつもりである輩を野放しにするほど私は優しくありませんよ」

「そうねぇ。私としても、出来ればここでアンタを焼却処分しておきたいのだけれど」

「うふふ、これでも逃げ足には自信がありますの。形振り構わなければ、結構いけると思いますわ」

 じっと睨み付けるフィアとミリオンを、大月は余裕のある笑みで返す。

 そのまま三匹は黙りこくり、静寂が場を満たす……が、その時間は僅かなものに過ぎない。

 我慢など利かないフィアが、すぐに動き出したのだから。

「だったらこれからも逃げ切れますかぁっ!?」

 フィアは大きく腕を振り上げる、と同時に、コンクリートで固められた道路に無数の傷が瞬く間に刻まれていった。

 フィアの十八番である『糸』だ。それも一本二本ではなく、一瞬にして何十何百もの数を放ったのであろう。刻まれた傷の数が、放たれた『糸』の多さを物語っていた。『糸』は非常に細く花中(人間)の目では捉えられないが、恐らく道路の道幅いっぱいに、小柄な花中ですら抜けられないほど隙間なく展開されているだろう。行く先にある電柱があっさりと切り倒され、その切れ味が普段の、戦車すらも切断可能な鋭さを有していると察せられた。

 唐突にして容赦のない攻撃に、大月は回避する動きを見せる暇もない。瞬きする間に数十メートルと進む破壊は大月を飲み込み、大月の身体には幾つもの()()()が出来た。

「それでは皆さん、御機嫌よう」

 だが大月は何一つ堪えず、優雅に別れを告げる。

 直後、大月の身体は勢いよく無数に分離。あろう事か肉片の一つ一つが『独自』に動き、まるで自我を持つかのように四方へと飛び散ったのだ。

 中には花中目掛け飛んでくる肉片もあり、フィアが叩き落とさねば花中は肉片塗れになっていたかも知れない。

 とはいえ、花中達の方へと飛んできた肉片は全体の極一部。大半は花中達とは真逆の方向に、文字通り逃げるように飛んでいってしまう。飛ぶといっても鳥や虫のように自由な飛行ではなく所謂放物線で、やがて自由落下していく姿が見えたが……目測ではあるが数百メートル以上飛んでいる肉片も少なくない。人間の目では、正確な着地点を推し測るのは無理だ。

「……どうですか?」

「駄目ね。近くに落ちた奴は追えるけど、遠くに飛んでいった奴は速過ぎて追い付けない。落下地点に行こうと思えば行けるけど、どうせ逃げてるだろうし……見付けたところで、他を取り逃がしてる状況じゃねぇ?」

 動物達についてもそこは同じようで、フィアに尋ねられたミリオンは肩を竦めながらそう答えた。宣言通り逃げられてしまい、フィアは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 その苛立ちを晴らすように足下に落ちていた、花中目掛けて飛び、そして自身が叩き落とした肉塊をフィアは踏み潰した。肉塊は足の裏からはみ出した部分が蠢いていたが、フィアは自らの足の幅を横に広げ、今度は余さず体重を乗せる。再び足を上げた時、肉塊はぴくりとも動かなくなった。

「……このしぶとさは些か面倒ですね。焼いた方が早そうです」

「そうみたいね。なら、今度は私がやってあげるわ」

「任せるとしましょう。取り逃がすんじゃありませんよ」

 止めの刺し方を確認し、フィアとミリオンは淡々と話し合う。事実をありのまま受け止め、先の事を考える余裕が二匹にはある。その程度にしか、二匹は考えていなかった。

 花中とは、違って。

「さてとそれじゃあそろそろ帰るとしますか花中さん……花中さん?」

 フィアが呼び掛けてきたが、花中は口も開かずに俯いたまま。フィアは花中の肩を叩いたり、目の前で手をひらひらと横切らせたりしたが、それでも花中は答えるどころか反応すら出来ない。

 あまりの無反応に心配になってきたのか、フィアは段々おろおろと挙動不審な態度を見せる。対してミリオンはそんなフィアの後ろで肩を竦めるだけ。花中の変調に興味すら示さない。

 ミリオンには分かるのだ。花中の気持ちが。考えている事が。

 だからこそ、どうでも良いのだろう。

「さかなちゃん、あまり気にしなくて良いわよ。ちょーっと気落ちしているのと……あと、そうね。『自責』の念を感じてるだけだから」

「? 自責って花中さん何かしてましたっけ?」

「しちゃったのよ、人間的には。全く、本当に面倒臭い生き物よね、人間って」

「確かに面倒臭いですよね人間って……なんの話ですかこれ?」

 心底呆れるようなミリオンの物言いに、フィアは全くピンと来ていない。

 ピンと来なかったので、フィアはこれを大した話だとは思わなかったようだ。

「仕方ありませんねぇ私が背負ってあげますよ」

 動かない花中を軽々と持ち上げ、フィアはその背中に乗せる。と、花中はすぐにフィアの背中にしがみついた。

 しかし今の花中に明瞭な意識などない。

 あるのは胸に渦巻く激情。その激情のままに花中はフィアに抱き着いただけだ。だから言葉は出さず、静かに顔を埋めるだけ。

 そしてフィアは、人間の感情の機微に疎い。

「花中さん舌を噛まないようしっかり口を閉じていてくださいねっと」

 フィアは花中の変化に気付かぬまま、超人的脚力で高く跳び上がった。

 時速にして百数十キロオーバー。ギリギリ花中が気絶しない程度の加速度を以て、フィアはこの場を後にする。次いでミリオンもその身体を霧散させ、跡形もなく姿を消した。

 辺りには静寂が戻る……が、取り戻したのは静けさだけ。フィアが繰り出した『糸』による傷が至る所に刻まれ、家の壁は一部が崩れ落ちている。切れた電線が垂れ下がり、火花を散らしていた。

 この辺りの住人か偶々通りかかった住人により、この惨状は広く世間に伝わるだろう。野次馬や警察、自衛隊なども来て調査を始めるかも知れない。

 ――――流石に、それは面倒ね。

 まるでそんな事を思ったかのように。

 あらゆる物の隙間から、『彼女』は這い出すのだった。




お友達になりましょう(品質とか育ち方とか気になるし)

食欲を一番に優先し、そして人間が大好きな大月。
花中は彼女とどう向き合うのでしょうか? 次回をお楽しみに。

次回は6/24(日)投稿予定です


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女神の美食8

「はぁー今日は色々あって疲れましたぁー」

 家に帰るや否や、フィアは跳び込むようにリビングのソファーへと腰掛けた。ズドン、と女性の体重らしからぬ音をソファーは立てたが、フィアとて全重量を乗せた訳ではない。もしも全体重を乗せたら、今頃ソファーはぺらぺらに押し潰されている。傍目にはソファーがフィアをしっかり支えているように見える、絶妙な体勢の中腰を保っているのだ。

「……毎度思うんだけど、なんで何時もわざわざ座ってるような体勢でいんの? それ、全く楽になってないわよね」

 そんな無意味な体勢のフィアに、ミリオンが心底不思議そうに尋ねる。

 フィアは上機嫌な鼻息を鳴らしてから、一切疲れを感じさせない声で悠々と答えた。

「確かにどんな体勢でも大して楽にはなりませんが逆に疲れもしませんからね。ならば休んでいる気がする姿勢が一番『楽』なのですよ」

「そういうもんかしら」

「そういうもんですよ」

 堂々としたフィアの答えに、ミリオンは納得していない様子。とはいえミリオンに納得してもらいたいなどとは欠片も思っていないフィアは、ミリオンを嘲笑うような笑みを浮かべるばかり。ミリオンもさして理解したい訳ではないらしく、小さく肩を竦めるだけでそれ以上追求する事もなかった。

 まるで、何時もの光景。

 フィアもミリオンも、普段と変わらない調子でお喋りをする。何一つ憂いなどないかのように笑い、何一つ焦る事などないかのように時をだらだらと過ごす。

 しかし彼女達は忘れたのではない。

「それにしても随分と上機嫌ね。さっき、はなちゃんが食べられちゃいそうになったのに」

「ふふんアイツの正体がハッキリと分かりましたからね。もう何故嫌いだったのかを考えなくて済みます」

 こうして普通に話を交わす程度には、ミリオンだけでなくフィアも『大月』の事は覚えているのだ。

「考えなくて済むって……ほんと、さかなちゃんは頭を使うのが苦手なんだから」

「その分力が強いから良いのです。それに頭脳面は花中さんがカバーしてくれますからね! 私と花中さんのコンビが無敵なのはあなたが一番よく知っているでしょう?」

「はなちゃんがカバー、ねぇ」

 胸を張りながら他人を頼るフィアを前に、ミリオンはちらりと視線を逸らす。

「そのはなちゃんが今、ぐったりとしている事について何か意見はないのかしら?」

 そして呆れるように、そう尋ねた。

 ミリオンの話に出てきた花中は、リビングの真ん中でぽつんと立ち尽くしていた。ソファーに座るフィアの隣へ向かう事も、フィアと向き合っているミリオンの傍へ寄る事もしない。

 されどぼんやりしている訳でもない。その証に、俯いた顔は今にも泣き出しそうなものになっているのだから。

「花中さんどうしたのですか? 花中さん?」

 何時までも突っ立ったままの花中を心配したのか、フィアはソファーから立ち上がり、花中の顔を覗き込みに来る。目の前で手を振ったり、つんつんと頬を触ってきたりもしてきた。しかし花中はそれでも頑なに動かず、ついにフィアの方が音を上げる。肩を竦め、首を傾げながら花中の傍から一歩退いた。

「どうしたんですかね花中さん。さっきから元気がないようですが」

「色々あんのよ、人間だから」

「色々ねぇ」

 ミリオンの雑な説明に、フィアは首を傾げてあまり分かっていない様子。分かろうともしていないだろう。

「……ねぇ、フィアちゃん」

 そんなフィアの名を、花中はぽそりと呼んだ。

 呼ばれたフィアはすぐに花中の方へと振り返る。ようやく喋ってくれた事が嬉しいのか、フィアは眩い笑みを浮かべて花中の前へと躍り出た。

「はい! なんですか花中さん!」

「……フィアちゃんは……大月さんの事、どう、思っているの」

「? どう思うとは?」

 元気よく返事をしたフィアだったが、花中からの問い掛けに首を傾げてしまう。

 そのフィアの姿を見て、花中は自らの服を握り締める。さながら、癇癪を抑えるように。

「大月さんは、今、野放しなんだよ」

「そうですね逃げちゃいましたから」

「大月さんは……人間を食べるんだよ」

「ああそういえば好物だと言ってましたね。だとすると今頃誰かを食べてるかも知れません」

「だったら! このまま放っておいたら……!」

 花中は段々と、感情を昂ぶらせていく。その顔に悲しみだけでなく、焦りや憤怒も滲ませていく。声は荒くなり、理性によるコントロールが出来ていない。

 しかしフィアはその想いに同調するどころか、困ったように眉を顰めるだけ。

「それがなんだというのです?」

 そして本当に不思議そうに、花中の意図を尋ねてきた。

 そう、いくら物忘れが激しいフィアでも、自分が体験した()()()の出来事を完全に忘れはしない。だから彼女達はしっかりと『彼女』――――大月が野放しになっている現状を把握していた。そして大月が人間を好んで襲い、食べる事だって覚えている。

 しかし、フィア達にとってはどうでも良いのだ。

 大月が何百もの人間を喰い荒そうと、食べられた人間達に明るい未来があったとしても、食べられた人間の家族が底のない悲しみに沈もうと……自分達と関わり合いがないのなら、それで構わないのだ。野生動物である彼女達が抱く他者への関心など、その程度である。

 そんな事は付き合いも長くなってきた花中には分かっている。分かっているが……

「……ねぇ、フィアちゃん」

「はい。なんですか?」

「大月さんの事は、倒す、つもりなんだよ、ね」

「ええ勿論。花中さんを食べようとする不埒者ですからね」

「なら、その大月さんを、今すぐ止めに、いったり」

「……あー花中さんの言いたい事は分かりました。花中さんは人間でその上お優しいですから大月の奴が他の人間を食べる前になんとかしたいのですね?」

 込み上がる衝動のまま頼もうとすると、フィアに抱いていた気持ちを見透かされた。一瞬ドキリと心臓が跳ね、花中は声を詰まらせる。フィアとの付き合いが長くなったという事は、フィアにとっても花中との付き合いが長くなってきたという事。人間味のある思考が身に付いた訳ではないが、親しい花中の気持ちぐらいなら『予想』出来るようになったのだろう。

 その上で、

「残念ながらそのお願いを聞くつもりはありません。この私の力なら大月を潰すぐらい簡単ですが私が単身探し回っている間にアイツが花中さんを襲うかも知れませんしかといって花中さんを連れ回った場合死角から襲われる可能性がありますからね。この家で防御を固めるのが最善かと思うのですが」

 フィアは花中の頼みを、きっちりと断った。

 花中を守りたいフィアからすれば、花中以外の人間のために動く理由などないのだ。ましてや花中が危険になるかも知れないと思えば、その提案は受け入れられまい。無論、同じく花中が最優先保護対象であるミリオンが、花中の意見の後押しをしてくれる筈もない。

 何より、花中にはフィア達を説き伏せるだけの『道理』を持っていない。人間のために危険な戦いをしてくれなど、花中(人間)が頼んだところでただの身勝手だ。

 だから、

「っ!」

 沸き上がる感情に突き動かされ、花中は走り出した。

 そしてリビングを跳び出し玄関へと向かうと、靴の踵を踏み潰して履き、そのまま外へと出てしまう。

「あっ。花中さんこんな時間に何処に行かれるのですか? いえそもそも外は危険です大月の奴が近くに居るかも知れませんからー」

 リビングから跳び出した花中を、フィアは能天気に呼び止める。花中はそれでも走るのを止めないが……

「ですから花中さん何処に行かれるのですか」

 その気になれば時速二百キロ以上で動けるフィアが、花中を見失うほどの遅れを取る訳もない。家の玄関から三メートルも離れないうちに花中はあっさりと追い付かれ、同世代と比べても華奢な腕を掴まれてしまった。

「やだ! 離して!」

 絶対に振り解けない拘束から逃れようと、花中はジタバタと暴れる。しかしフィアは花中の腕を決して離さず……やがて花中の体力が尽きた。

 息を切らし、走ろうとしなくなった花中をフィアはじっと見つめる。

「花中さん何かお悩みがあったりするのですか?」

 それからフィアは、花中にそう尋ねた。

 花中は咄嗟に唇を噛んでしまう。言葉を抑え込むような仕草が、フィアへの答えとなった。

「悩み事があるのなら聞くぐらいは出来ますよ。解決方法を聞かれても答えられるかは分かりませんが」

「……………」

「まぁ言いたくないのなら言わなくても結構ですが」

 フィアは淡々と逃げ道を用意してくれる。掴んでいた手を離し、花中を自由にしてくれた。

 花中は逃げず、その場で黙り、立ち尽くす。

 フィアはそんな花中に言葉を投げ掛けるでもなく、目で訴える事もしない。何も言わなくても良いし、何か言っても構わない。無関心故に、花中のあらゆる選択を許してくれる心の『広さ』が見えてくる。

 ――――その心の広さが、花中の気持ちを揺さぶる。

 フィアに話しても仕方ない事だから、話さなかった。だけどその『仕方ない』事を一人の胸に留めるのはしんどくて、辛くて……何を言っても気にしないのなら、この胸の苦しさを打ち明けてしまいたい。フィアならきっとこの想いを真っ向から受けても、何時もと変わらずに応えてくれるに違いないと信じられる。

 例えそれが重さを分かち合う行為ではなく、重さを投げ捨てるだけの行為だとしても。

「……わたしの、所為だから」

 だから花中は、フィアに自分の胸に渦巻くものをぶつけてしまう。

 フィアは目をパチクリさせながら、花中の口許を見つめる。その言葉の意味を探るように。

「花中さんの所為? なんの話ですか?」

「……ミュータントが、わたしの脳波で、目覚めるのは、覚えてる?」

「んー? あーそういえばそんな話もあったような。花中さんがいたから私はこうしてお喋りが出来るようになったんでしたっけ?」

 明らかにうろ覚え状態のフィア。自らの自我に関わる事柄を忘れかけていた彼女に、『らしさ』を感じて花中は少しだけ安堵した。

 緩んだ心は、口も綻ばせる。

「なら、大月さんは、わたしがいたから、ミュータントになったようなもの、だから」

 気付けば花中は、己の『罪』を打ち明けていた。さながら他愛無い話をするかのように。

 フィアは花中が明かした『罪』を聞いて、しばしキョトンとしていた。やがて理解したのか手をポンと叩いたが、すぐに首を傾げる。

「……それがなんなのですか?」

 思った通り、無理解を示すフィア。

 そのフィアに向けて、花中は昂った感情のまま叫んだ。

「だって! わたしがいたから、わたしなんかがいたから! 人間を食べる、怪物が、生まれたんだよ!?」

「まぁそうかも知れませんね。ですが」

「わたしがいたから、大月さんが生まれて……たくさんの人が、食べられて……死んじゃって……! わたしが、わたしが……!」

 フィアの言葉を遮ってまで叫ぶ花中だったが、ついに涙が零れ、喉奥から込み上がった嗚咽の所為で声が途切れてしまう。

 それでも、叫ばずにはいられない。

 ミュータントは自分の脳波によって覚醒し、目覚める。しかし脳波が届く距離は存外広く、『対象』が暮らしている池に落ちる程度の接近で十分。知らぬ間に『猫』がミュータントとして目覚め、『カニ』のミュータントと不意の遭遇をした事もあった。自分があちこち歩き回るだけで、否、家に引きこもっていたとしても近くを何かしらの生物が横切ったなら、ミュータントが生まれて、野放しになる可能性がある。

 そんな事はとっくに分かっていた。分かっていたのに何もしていなかった。

 故に人間にとって危険な存在が生まれ、人を食い荒らすのを防げなかった。そして花中にはこの怪物を止める手立てなどない。花中どころか、人類文明が総力を結集しても止められるかどうかだ。ミュータントとはそれほどまでに不条理で、圧倒的で、出鱈目な生命体なのだから。

 自分が人の世界を終わらせようとしている。取り返しなど付かない。責任など取れない。止め処ない罪悪感で胸が張り裂けそうで、嗚咽と涙は止まるどころかどんどん勢い付く。最早泣きじゃくる事しか出来なくて、花中は俯き、ただただ泣くばかり。

 その姿を見て、何かを思ったのか。

 フィアは花中を、無言のまま抱き締め、頭を撫でてきた。優しい手付き。けれども思いやりや同情、共感の想いは感じられない。ただただ、泣かないでほしいという気持ちだけが伝わってくる。

 きっとフィアは、自分が泣いていたから、ただそれだけの理由であやそうとしている。

 それを感じ取った花中は、フィアの胸に顔を埋め、泣いた。

 顔が埋もれているから、泣いて乱れた呼吸では息がし辛い。苦しいし、段々頭が熱くなってくる。それでも花中は離れようとしない。離れたくなくて、回した腕に力がこもってしまう。

 ……一体、どれだけの時間が流れただろうか。計っていないので知りようもないが、何時間も続けていたような気がする。或いは数分の出来事だった、そんな感覚も頭の片隅で燻っていた。

 間違いないのは、数分だろうと数時間だろうと、フィアは何も言わずに抱き締めていてくれた事。

「大丈夫ですか花中さん。泣き足りないならまだまだ私の胸を使ってくれても良いのですが」

 涙が止まり、顔を上げてみれば、フィアは甘やかすように優しい言葉を掛けてくれる。

 じゃあ、もう少しだけ……湧き上がる甘えの気持ちにギリギリ気付けた花中は、顔を真っ赤にしながら首を横に振る。それから突き飛ばすように両腕を伸ばして、フィアから離れた。

 優しくしてくれたのに乱暴なお返しをしてしまったと、後悔しながら花中はフィアを横目でちらりと見る。尤も花中の脆弱な腕力で押せるほど、フィアの身体は華奢ではない。花中と目が合ったフィアは、何をされたのかすら気付いてないように微笑むだけだった。

 すっかり火照ってしまった身体と理性を冷ますように、花中は大きく深呼吸。冴えてきた頭で言葉を絞り出し、泣き腫らした目を擦りながらフィアに「ありがとう」とお礼を伝えた。

「その……ごめんね。いきなり、走り出したり、泣き出したり、して」

「いえいえお構いなく。ああもう泣くのは良いのでしたらそろそろ私が話をしてもよろしいでしょうか?」

「話? ……あー」

 フィアから訊かれ、そういえば自分がフィアの話を遮っていた事を今更ながら思い出す。感情が昂ぶっていたとはいえ、中々失礼な事をしてしまった。

 勿論、散々泣いてスッキリした今、フィアの話を抑え付けてまで訴えたい事などない。

「うん、大丈夫だよ。えと、ごめんね、話の邪魔、しちゃって」

「いえいえお気になさらずに。それで先程話そうとしていたものですが私には花中さんが何を悩んでいるのかよく分からないという事でして」

「……そっか」

 思った通りの答えに、花中は肩を落とす。

 何故肩を落とした? 責められなくて安堵したから? 理解してもらえなくて失望したから?

 恐らくは両方の気持ちが、胸の内側で噴き出している。胸がいっぱいで苦しい。

 だけど少しだけ、軽くはなった。

 責任感を投げ捨てただけなのは承知している。無関心を示されて、自分の罪が『大した事』ではないと思い込めただけだろう。だけどそれで罪悪感が軽くなったなら、この重さなら、自分だけでも抱えていられる。

 もうこれで十分……きゅっと自分の胸倉を掴み、花中は小さく頷いた。

「だって花中さんアイツとは()()()じゃないですか」

 フィアがそんな事を言わなければ、きっとこのまま抱え込めただろうに。

「……え?」

「大月の誕生に関わった? そんなのがなんだというのですか。花中さんはアイツに何かを唆した訳ではないのでしょう?」

「だ、だって! わたしがいたから、大月さんが、ミュータントになって……!」

「だからそれがなんだというのです? 人を襲うと決めたのは大月であり大月から身を守れなかった人間が食べられた。一体何処に花中さんの意思があるというのですか?」

 フィアの『率直』な疑問に、花中は言葉を詰まらせる。納得した、のではない。実際()()()()であるが故に、論理的な反論が思い付かないだけ。

 今の花中は理性よりも感情が強い。沸き立つ激情が弾けてしまえば、相手の意見が『正論』かどうかなどどうでも良かった。

「わ、わたしがいなければ! 大月さんが、ミュータントになる事は、なかったんだよ!? そうでしょ!?」

「どうですかね? 花中さん以外にもなんちゃら脳波を出す人はいるみたいですが」

「だとしても、この町では、わたしだけだもん! わたしが、この町の人を、殺したようなものなの!」

「……………花中さん」

 フィアは淡々と、宥めるように声を掛けてくるが、花中の耳には届かない。否、耳に入っても、のたうち回る激情がその言葉を拒む。

 批難してくれた方が嬉しいのに。

 『悪い事』をしたのだから叱って欲しいのに。

 仕方ない? 責任なんてない? 納得出来ない。全部自分が悪いのだ。自分がこの災厄の元凶なのだ。

 だって、そうじゃないと……

 悲しみと後悔はどんどん花中の胸に堪り、淀み、心を押し潰そうとする。慰めや励ましは、悲しみと後悔を育むだけ。花中の小さな心は既に隙間がないぐらい罪悪感に埋め尽くされ、吐き出さないと破れてしまいそうだった。

「う、うう……うく、うぇう……」

 ついには言葉が嗚咽に飲まれ、花中はその場に蹲る。

 フィアはそんな花中を、背中から優しく抱き締めた。

 肌に感じる、柔らかな温度。それは体温ではなく水を圧縮した事で生じた熱量だと分かっていても、心の中にじんわりと広がっていくのを感じる。呼吸は少しずつだが静まり、鼓動もゆっくりになっていく。

 気付けば涙は止まり、嗚咽は止んでいた。先程までと変わりないのは、真っ赤に腫れ上がった眼ぐらいだろう。

「少しは落ち着きましたか」

「……うん」

「そうですか。それでまだ自分が悪いと思っていますか?」

「……………うん」

 囁くようなフィアの言葉に、花中は正直に答える。

 吐き出しても、吐き出しても、罪悪感は消えてくれない。全ての元凶は自分だという考えが胸で燻り、今にも燃え上がろうとしている。きっとこの想いは何時までも残り、ふとした時に脳裏を過ぎり、苛み続けるのだろう。

 この予感を、花中は口にしなかった。されどフィアはお見通しだと言わんばかりに、小さくないため息を花中の耳元で吐く。

 そしてぽそりと呟くのだ。

「あまり思い上がらないでほしいものですね。花中さんといえども所詮人間なのですから」

 あまりにも冷たい、背筋が凍るほどの言葉を。

 驚きのあまり花中は思わず飛び跳ね、フィアの方へと振り返る。フィアは最初キョトンとしていたが、ややあって「おっと」と、如何にも失言したとばかりの声を漏らす。

 しかしそこに悪意は何一つ感じられない。太っている人に太っていると指摘してしまった事に今更気付いたような、その程度の感情しか見えなかった。

「すみません花中さん。思わず本音が出てしまいました」

「ほ、本音って……」

「だってそうでしょう? さっきから自分が悪い自分が悪いって。じゃあ訊きますけど花中さんに一体何が出来たのですか? どうすれば大月がミュータントになるのを防げたというのです?」

「そ、それは、その、家に、引きこもる、とか……」

「大月が何処に棲んでいたかも知らないのに? もしかしたら花中さんの家に棲んでいた奴なのかも知れませんよ?」

「だ、だったら、だったら……」

 次の案を言おうとする花中だったが、その口は空回りするばかり。意味ある言葉を出してはくれない。

 当然だ。案などないのだから。

 自分がいくら引きこもったところで、小さな生き物達の行動は制限など出来ない。出来っこない。アリやハエのような見えるサイズの虫達どころか、ノミやダニ、カビやウイルスなどはどうやっても防げないのだから。

 ……いや、一つだけ手はある。

 自殺だ。

 命さえ絶ってしまえば、花中の脳波も止まる。脳波が止まればミュータントの素質がある生物が近くを通っても、ミュータントとして目覚める事はない筈。

 自分の死こそ、人類にとって救済となる。自らの命を惜しみ、人の世を破滅させてなんになるのか。自分の命と引き換えに、世界を守るべきではないのか。

 ……独りぼっちだった頃なら、この選択肢も選べたかも知れない。自分が無価値だと思っていたあの時なら、それで人の役に立てるならと思えたかも知れない。

 だけど、今は選べない。

 今は自分の事を好きだと言ってくれる友達がいる。自分に生きていてほしいと言ってくれる友達がいるのだ。死ねと言われても、絶対に死んでやらない。

 今の自分は、まだ友達と一緒にいたい。

 しかしそれは……大月に食べられてしまった人達も同じ筈。

「だったら、わたしは、どうしたら……」

 みんなの未来を台なしにしたくない、自分も未来を迎えたい。矛盾した想いに挟まれた花中は俯いてしまい、

「どうもこうもないでしょう。自分のしたい事をすれば良いのです」

 フィアがその言葉で意識を引っ張り上げてくれなければ、きっと何時までも俯いていたに違いなかった。

「自分の、好きに……?」

「そうです。花中さんはやりたい事をやれば良いのです。ああ勿論花中さんの身に危険が及ぶような事は許しませんよ? 私も好きにやらせていただきますから」

「で、でも、わたしに、好きにする権利、なんて」

「だから思い上がるなと言っているではないですか。花中さんが何をしたところで人間の社会を変えられる訳ないでしょう?」

「そ、それは、そうだけど」

 ズバズバと本当の事を言われ、花中は上手く言い返せない。

 その言い淀みを見逃してくれるほど、フィアは思いやりの心を持っていない。

 まるで花中の心の隙間を突くように、フィアは今にもキスしそうな近さまで花中に顔を近付けてくる。大きくて、なんの迷いもない瞳に自分の卑屈な顔が映り、花中は一瞬心臓が大きく波打ったのを感じた。思わず身動ぎして後退りしそうになるが、フィアの手が肩を掴んでいたがために一歩たりとも下がれない。

 だから、

「そもそも何が出来るとか責任がどうとかだって()()()()()じゃないですか。ならどうしてそれを変に遠回しな言葉で誤魔化すのですか?」

 花中は真正面からその言葉を受け止めてしまう。

 花中は大きく目を見開いた。喘ぐように口を空回りさせ、身体を小刻みに震わせてしまう。

 そして最後は、吹き出すように笑みが零れた。

「そっか、そっか……」

「花中さん?」

 急な微笑みを怪訝に思ったのか、フィアが顔を覗き込んでくる。だけど今度の花中は逃げない。

 ああ、その通りだ。

 責任を果たしたい、人のために何かをしたい……フィアが言うように、それすらも自分のやりたい事ではないか。自分のやりたい事なのに、責任だとか世界のためだとか、難しい言葉で『本能』を隠しているだけ。

 そうした事が出来る人間は凄いと、言いたいがための綺麗事だ。

「うん、そっか。そうだよね……人間だって、生き物だもんね」

 溢れた涙を拭えば、顔を伝うものはもう出てこない。思い詰めていた顔には、晴々とした笑みが戻る。

 もう、悩むのは止めだ。

 責任を感じたところで何も出来ないし、何も取り戻せない。何か出来るのではないか、何かを変えられるのではないか、人間として何をすべきか……その全てが驕りである。

 自分には何も出来ない。何も変えられない。ちっぽけな小娘に過ぎない自分に、出来る事などありはしない。

 だから、やりたい事をやろう。

 人類のためではなければ、食べられてしまった人達の想いを継ぐためでもない。自分が嫌だから、自分が望んでいないから、やりたいと思った事をする。

 他の生き物達のように、自分の想いに従う。人間だって生き物なのだから、そうしたって良い筈だ。

 あらゆるものに平等だった『彼女』なら、きっと……

「何やら納得した様子ですが何をするか決めましたか?」

「うん。今、決めたよ」

 フィアに問われ、花中は力強く頷く。そして自らが出した答えを告げるべく口を開き、

「あら、是非わたくしにもそのお話を聞かせてくれませんこと?」

 不意に割り込んできた麗しい声が、花中の意思を妨げた。

 ぞわりと、背筋に走る悪寒。

 花中はその顔を真っ青にし、ガタガタと震えてしまう。その声には覚えがある。いや、忘れる訳がない。先程まで自分の心を苦しめた『元凶』なのだから。

 ぎゅっと、唇を噛み締める。今にも破れそうなほど鼓動する胸を片手で押さえ、深く息を吐く。

 そしてフィアがもう片方の手を握ってくれれば、もう怖くない。

 花中はゆっくりと、声がした方へと振り返る。

 栗色の髪。

 優しい笑み。

 おっとりとした風貌。

 全てが別れた時から変わっていない。切り刻まれた事などなかったかのように、彼女はそこに立っていた。

 だから、花中は向き合う。

「また会えましたね、大月さん」

 自分の『決意』を、大月にぶつけるために――――




覚悟を決めた花中の前に現れた大月。次回、決戦です。
戦うのはフィアですけどね!(オイ)

次回は7/1(日)投稿予定です



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女神の美食9

 自分の心臓が痛いほどに鼓動している事を、花中は胸に手を当てるまでもなく感じ取った。

 頭の中が今にも白く染まりそうで、気を弛めたらその瞬間に自我が飛んでしまいそうだ。歯を食い縛り、なんとか前を見据える。無意識に握った手は爪が肌に刺さって痛いが、それでも手を開こうとは思えない。

 覚悟は決めたつもりだった。だけどこうでもしないと、あらゆる感情に押し潰されてしまうと花中は確信する。

 目の前に立つ彼女――――大月は、ほんの数時間前の宣言通りまた現れただけだというのに。

「あら? なんだか怖い顔になっちゃいましたわねぇ」

 大月はにこにこと微笑みながら、花中に一歩、歩み寄る。花中の家がある極々普通の住宅地に似合う素朴で可愛らしい服で身を包み、月明かりを浴びて栗色の髪が淡く煌めていた。決して目立つものではないが美しいとしか言いようのない容姿は、人の心から警戒心を取り除いていく。

 彼女の正体が人喰いの化け物である事を知っている花中でさえ、恐ろしい事に安堵にも似た想いが胸に込み上がるのだ。もしもフィアが先に前へと出てくれなければ、誘蛾灯に惹かれる羽虫のように、花中は大月に歩み寄っていたかも知れない。

「ふん。ビビったのならそのままおめおめと逃げ帰れば良いのではないですか? 今ここで不様に逃げ出せば特別に見逃してあげても構いませんよ」

「まさか。今までのだらしない顔も嫌いじゃないですけど、今の花中ちゃん、とても凜々しくて素敵ですわ……どんな味がするのか、ますます楽しみ」

 じゅるりと涎を啜り、大月は可愛らしく舌舐めずりをした。その仕草が単なるポーズではなく、本当に『食欲』を感じた上でのものである事を花中は知っている。ぞわりと走った悪寒で身体は縮み上がり、無意識に後退りしていた。

 だが、花中はどうにか踏み留まる。

 ここで逃げる訳にはいかない。花中にはやりたい事があるのだから。

「……大月さん!」

「ん? なぁに?」

 花中が声を絞り出せば、大月は小首を傾げながら話を訊こうとしてくれる。

 これから食べようとしている相手の話に耳を傾ける。それは大月が自分の力に自信があるからでも、ましてや人間を見下しているからでもない。彼女は花中を、自分と対等だと思っているから話を聞こうとしてくれるのだ。そして同時に、例えどんな話をされたところで、自分の信念は揺るがないという確かな心を持っているのだろう。

 大月と向き合った花中は、喉の奥に『諦め』という名のコブが出来たのを感じた。その『諦め』をごくりと飲み込んでしまえば、言葉を遮るものは何もない。花中はゆっくりと口を開き、自らの想いを溢れさせた。

「あの! 人間を、食べる事を、どうしても、止めては、もらえませんか……?」

「ええ、止めませんわ。だって、わたくし人間が大好きなんですもの。まさか、人間は特別だから食べちゃ駄目、なんて言い出しませんわよね?」

「……勿論、言いません。そもそも、わたしは、あなたの行動が、間違っていると、言うつもりも、ないです、から」

 花中がそう伝えると、大月は目を丸くして驚きを見せる。まさか自身の行動を人間が肯定するとは思わなかったのだろう。

 花中も最初は大月の行動を『否定』していた。

 だが、フィアに自分の想いをぶつけ、フィアの考えに触れて気付いたのだ……大月と人間に、大した差などないと。大月が大好物を味わうという幸福のために人間を食べるのと同じく、人間は美味なる食事という幸福のために牛を殺し、植物の種をすり潰し、甲殻類を生きたまま熱湯に入れ、微生物を焼き殺す。自分の幸福のために何かの命を犠牲にしている事に違いはない。

 大月のしている事は人間と変わらず、人間がされている事は自分達が他の生き物にしている事と同じ。対象が知的であるかどうかなどなんの意味もない。本当の意味で『平等』である大月は、生命達はそれを理解している。理解していないのは、自分達は特別だと思い込んでいる『不平等』な人間だけだ。

 花中には大月の考えを悪だとは言わないし、言う事なんて出来ない。彼女の行動は、花中としては肯定するしかないのである。

 しかしそれは、人間が食べられる事を()()()()()のとはまた別の話だ。

「だけど、わたしはまだ、食べられたく、ありません。自分以外の、人間が、食べられるのだって、嫌です」

「あらあら、それは困りましたわね……なら、やる事は一つですわね?」

「ええ。たった一つ、です」

 大月からの確認に、花中は力強く頷く。

 これは人間の尊厳を賭けたものではない。人間に尊厳など端からありはしないのだから。人間だってただの生物。生物だから、自分の信念と本能に従うのみ。他の生き物の都合など知った事ではない。

 本能は訴える。まだ死にたくないと。

 信念は求める。誰かに死んでほしくはないと。

 その二つの想いに突き動かされた花中は、びしりと大月にその指先を突き付ける。

「精いっぱい、抵抗します! わたしがやりたいから、あなたには……倒されて、もらいますから!」

 そして迷いない言葉を大月にぶつけてやった!

 大月は突き付けられた花中の指先も、本気の想いも、真っ正面から受け止める。拒絶と反抗の意思表示に、大月は笑みを浮かべた。全ての生命に平等である彼女が、他者の生きようとする意思を、幸福への欲望を忌々しく思う筈がない。

 同時に、彼女もまた自らの幸福を諦めない。全ての生命の中には、彼女自身さえも含まれているのだから。

「ええ、精々抗ってくださいな。わたくしも、全力で食べさせてもらうだけですもの!」

 喜々とした叫びを上げ、大月は花中目掛けて走り出した!

 襲い掛かる『猛獣』。此処が大勢の人々が住む住宅地である事などお構いなしな、人間を恐怖に誘う大突進を披露する。それを前にした花中は即座に、隣に立つフィアの影に身を潜めた。

 あれだけの啖呵を切りながら結局他力本願とは。

 もう少し自前の力でなんとかしようとしないのかと、花中自身、自分の情けなさに苦笑いが浮かびそうになる。しかし大月に一矢報いるだけの力を花中は持ち合わせていないし、知恵を絞ったところでミュータントの力は人の英知など簡単に嘲笑う。花中にはどうにも出来ない相手なのだ。

 そもそも花中は無理にフィアを頼っている訳ではない。というより、フィアはむしろ乗り気である。

「おおっとだったら私は全力であなたを叩き潰して差し上げますよぉッ!」

 何しろ大好きな花中を襲った不埒な輩を、自らの手で文字通り叩き潰せる瞬間がやってきたのだから!

 フィアは大きく身体を捻り、大月が射程内に入ったのと同時に腕を振るう。それは最早パンチとも呼べない、雑で、激情塗れの一撃。軌道も出鱈目で、若干ふらついていた。こんな下手くそなものを放つのは、人間ならばケンカの素人ぐらいである。

 ただしフィアの手先は、音速の十数倍に達していたが。

 半年前に繰り広げた異星生命体との戦いにて、突貫で編み出した鉄拳。あの技を暇潰しがてらに研究・改良。表層ではなく内部の水をバネのように捩り、押し込み、そして開放する事で、圧倒的速度の打撃を繰り出す……フィアは密かに編み出した新技を大月にお見舞いしたのだ!

 人間の網膜では残像すら捉えきれない神速の打撃。猛獣染みた速さで動ける大月でも、この速さには対応出来なかった。フィアの振るった拳は大月の鎖骨辺りに打ち付けられ、その出鱈目な速さから生じた運動エネルギーはミュータントの肉体をも容易く切り裂く。

 哀れにも大月はフィアの手により、その麗しい頭と誘惑的な肉体を離れ離れにさせられてしまった。打撃時に発した衝撃波は近くの家の塀や窓を粉砕し、破壊力の大きさを物語る。大月の肉体はこの莫大なエネルギーを受け止められなかったようで、肩や胸回りの肉がバラバラに飛び散ってしまう。それらの肉片はまるで紙吹雪のように舞い、一人の女性の最期を彩っているように見えた。

 が、大月の頭と身体は怯みもしない。

「「「「いただきまぁぁぁあすっ!」」」」

 否、頭と身体だけではない。飛び散った肉片までも叫び、独りでに蠢いているではないか!

 身体は首の断面を塞ぐどころか広げ、出来た穴に歯がずらりと生やしておぞましい口へと変えた。頭部は首の辺りから漏斗のような器官を作り出して自力で飛行を始める始末。肉片は翼と針のような口を生やして蚊にも似た形態へと変貌する。

 何百にも分散した『大月』は、己をこんな姿にしたフィアには目もくれない。全てが真っ直ぐに花中を狙う!

「ぬうぅっ! ここまで粉砕してもまだ動くとはしぶと過ぎますねッ!」

 フィアもまた髪をうねらせるや、その髪を金色に輝く『糸』として展開。迫り来る大月の大群を一匹たりとも通すまいと、縦横無尽に辺りを切り刻んでいく! 『糸』は通り道にある電線や道路、果ては庭木や電柱をも切り裂き、瞬く間に細切れにしていった。考えなしに突っ込んでくる大月の軍団も次々と切り捨てられる。

 だが大月の数はあまりにも多い。

 新技の凄まじい破壊力により、大月の身体は無数の肉片へと分裂していた。その全てが形を変え、花中達を襲っている。自身の技の破壊力を目の当たりに出来たフィアだが、結果的に状況が悪くなっては全く喜べない。

 おまけにフィアが展開した『糸』との相性も最悪。切れば切るほど、どんなに細切れにしようと、大月は形を変えて戻ってくるのだ。まさか細胞一つ一つを切らねば大月の活動は止まらないのか……そう思わせるほどの生命力に、ほんのついさっきまで愉悦に染まっていたフィアの顔が苦々しく歪む。

 最早大月の身体は何処にもない。代わりに現れたのは、辺りを黒く染め上げるほどに増えた『虫』の大群だった。

「ふぃ、フィアちゃ……ひうっ!?」

 フィアの後ろに隠れながらも戦況を目の当たりにした花中は、状況の悪さを察する。が、アドバイスをするには遅過ぎた。

 正確には、状況の進展が早過ぎる。何しろ大月が花中目掛けた駆け出し、景色を染め上げるぐらい増えるまでに掛かった時間は十秒もなかったのだから。口を挟むどころか何が起きているか理解するので精いっぱい。例え歴史に名が残る名軍師であろうと、この争いに巻き込まれたなら花中と全く同じ状態に陥るだろう。超生物達の争いに、人間が介入する隙など殆どないのだ。

「「「もう逃げ場はありませんわ。今度こそ、いただきまぁす!」」」

 そして一糸乱れぬ動きで、全方位から迫る大月に通じる策などありはしない。

 あんな堂々と宣戦布告をしながら五分と経たずに終わるのか。

 『最悪』が脳裏を過ぎり、無力な花中は思わず目を瞑った。

「むぅ。やっぱり焼いた方が早そうですねぇ」

 そんな花中と同じ状況にある筈のフィアは、暢気にぼやく。

 直後、花中の傍を熱波が通った。

 それは通り過ぎるほんの数瞬前に、フィアが薄い水の幕で全身を包み込んでくれたにも拘わらず感じるほどの高温。もしもフィアが守ってくれなければ、花中の身体は酷い火傷を……いや、黒焦げになっていただろう。

 無数に分裂した大月にも熱波は襲い掛かる。彼女達は花中と違い、当然ながらフィアによる守りはない。全員が灼熱に包まれ、黒く炭化していく。逃げるように大月達は拡散するが、熱波もまた追うかの如く広がったらしい。建ち並ぶ家々の塀は高温により溶け出し、植木や草花は炭化して燃え上がる。道路の一部が赤く輝くや、どろりと溶け出した。虫達や小動物は避難する間もなく死に絶え、市街地は一瞬にして地獄絵図へと変貌してしまう。

 あまりにも呆気なく、大月達は一匹残らず真っ黒な塊と化した。もう飛び回る事はなく、もごもごと焼き焦げた道路の上で蠢くばかり。

「全く、余計な事をしてくれちゃって。お陰で周りのものまで焼く羽目になったじゃない」

 この地獄を作り上げた張本人――――ミリオンは悠々と姿を露わにすると、大した事はしてないとばかりに肩を竦めた。先の熱波はミリオンが能力によって大気を加熱し、その膨張圧などを利用して花中達の方へと()()()()ものだろう。アスファルトで舗装されたコンクリートの道路が溶け出した事から、二千度以上の高温だった可能性がある。

 最早水さえ分解する温度。薄い水の幕程度で防げるものではない事から、恐らく花中の傍だけ温度は左程高くなかった筈である。ミリオン的には花中を気遣ってはいたのだろう。が、その気遣いに全く気付いていないフィアは憤りを露わにする。

「あなたに活躍の場を作ってあげたのです。感謝ぐらいしてはどうですか? いえそれ以前に謝罪ですね。いきなり焼き払うとは花中さんが火傷をしたらどうするつもりなのですか」

「そこまで不器用じゃないわよ。それに、言わなくてもはなちゃんを守れたじゃない」

「この私だからこそ出来たのです!」

 まるで世間話のように、暢気に先の現象で盛り上がる二匹。しかしフィアの背中に隠れる花中は、大きく動揺していた。

 フィアのパンチや『糸』による被害も甚大だが、ミリオンが放った熱波はあまりに酷い。広範囲に拡散した大月を攻撃するためとはいえ、同じぐらいの広域を問答無用で焼いたのだから。ミリオンのお陰で花中は危機は脱したが、住宅地は今や火の海。このままでは大騒ぎになるし、下手をすると死人が出る。だからどうにかして、この災禍を二匹には止めてもらいたい。それが花中の本心だ。

 だが、今はそれどころではない。

「大体火力が中途半端なんですよ。ただ花中さんを危険に晒ししただけじゃないですか」

「その点については、確かに否定しようがないけど」

 二匹が何気なくその言葉を交わし、同時に、前を見据える。

 『彼女達』がこの程度で終わる筈がない。

 熱波を受け、地面に落ちた肉塊は未だ蠢いている。それどころか引き合うように他の肉塊に真っ直ぐ近付き、触れるのと共にその身を融合させた。肉塊はこれを繰り返し、見る見るうちに()()()()()を取り戻す。肉塊は形を変えていき、最後にこきりと首を鳴らした。

 そこには、ほんの数分前と変わらぬ美女を形作った大月が立っていた。栗色のワンピースを着ていた事から、その服も含めて『自身』によって作られているのだろう。前に会った時と違い、今度の服は『自前』のようだ。

 全身が切り刻まれてバラバラになっていたにも拘わらず、大月の顔には警戒心の欠片もない。精々ほんのりと疲れを見せるだけだった。

「あー、熱かった。ほんと、容赦ありませんわねぇ」

「あら、こんなもの本気には程遠いわよ? まぁ、なんで平気だったのかは知りたいけど」

「それぐらいでしたら構いませんわ。教えてさしあげます」

 ミリオンがさして期待してない調子で尋ねると、大月は意外な事にすんなりと受け入れた。

 直後、大月の身体がぬらぬらと光り始める。

 それは光源のある輝きではなく、月明かりを反射したもの……何かしらの液体が光を反射して作り上げた色合いだと、花中はすぐに察した。しかしその液体の正体までは分からない。汗のように、体温を下げるためのものか? 花中は思考を巡らせたが、やがて答えは明らかとなる。

 大月の足下から湯気が上がったのだ。

 一瞬何かを見間違えたかと思う花中だったが、大月の周りから次々と湯気が上がる事で真実だったと認めるしかない。湯気は途切れ途切れで、大月の体表から零れた『体液』が接する度に立ち昇っている。

 そして湯気が出た場所には、針でも突き刺したかのような穴が開いていた。

 その穴が()()()出来たものだと気付けば、全ての答えが明らかとなった。

「まさか……消化液!?」

「せいかーい。正確には消化酵素ですけれども。その酵素の構造をちょっと弄ったら、耐熱性の高いものが出来上がったんですの。ふふ、熱いものを食べるために編み出した秘策が、こんなところで役立つなんて思いもしませんでしたわ」

 花中が思わず漏らした言葉に、大月は律儀に答え、拍手まで送ってくれる。それからつらつらと、その開発秘話まで明かしてくれた。

 フィア達ミュータントにおいて、能力の詳細を知る事は、弱点を掴むためのヒントとなる。大月の能力を推測する上で、先の話は重要な情報だ。この話から能力を解き明かせば、花中達は戦いにおいて優位に立てるだろう。

 実際、花中は大月の能力に一つの予想を立てる事が出来た。ミリオンもハッとした表情を見せた事から、何かしらの推察は出来たに違いない。

 故に、

「……流石に、それはちょっとヤバいかも」

 ミリオンの口から、弱音とも取れる言葉は出てきたのだろう。

「あん? 何をいきなり弱気になっているのですか?」

「最悪を考えた結果よ。ただまぁ、あれだけ堂々と話してるんだから、多分合ってるでしょうね。全く、厄介な相手だこと」

 忌々しげにぼやくミリオンだったが、フィアはまるでピンと来ていないらしく首を傾げる。とはいえ油断ならない相手とは思ったのか、先程よりも少しだけ警戒心を露わにしていたが。

 そして花中は、顔を青くしていた。

 ――――消化酵素の構造を変えた。

 大月は事もなさげに答えたが、これが些末な力である筈がない。酵素とは生体が生命活動を続ける上でなくてはならないタンパク質。例えば人体で使われている酵素は数千種にもなると言われ、未発見のものも含めれば一万近く存在するという説もある。そんな多種多様な酵素達は、それぞれが独自の働きを持ち、そのため様々な性質を持っているものだ。

 それらの構造を自らの意思で変えられるとすれば?

 ただの消化酵素に数千度もの耐熱性を持たせられる万能性を、数千種の酵素に応用したなら?

「ふふ。どうやらわたくしの力に気付いたみたいですし、もうここで教えて差し上げましょう。わたくしの能力は『タンパク質を変化させる』事。まぁ、本来の能力とは別なのですけれど」

「……本来の能力?」

「再生力ですわ。何度も披露しましたでしょう? あの再生力を維持するためには、再生部位を作るのに必要なタンパク質を迅速に供給しなければならない。だとしたら、わたくしの身体にはタンパク質合成に拘わる、何かしらの能力がある筈。そう思って、色々研究しましたの」

 どろどろと、大月の身体から薄紫の体液が溢れ出し、全身をくまなく包み込む。

 先の耐熱性消化液と明らかに異なる、どんな効力があるかも分からない液体。こちらが触ると危険なものなのか、急いで大月の身体から取り除かねば不味いものなのか、それすらも分からない……最早彼女に決まった能力などないのだ。数多の酵素を操る事で、どんな力も作り出せるのだから。

 それは全能の力。神の領域に踏み入れた、人智を超越する非常識。

「そうそう、実は一つ噓を吐いていましたわ。わたくし、本当は大月という名前ではありませんの」

「あん? 今更名前などどーでも良いでしょうに……」

「そう仰らずに。わたくしの本当の名前は友人からもらったもので、結構気に入っているんですの。だからこういう時にちゃぁんと披露しませんと」

 大月はにっこりと微笑み、可愛らしくワンピースの裾を掴んで持ち上げる。次いでどろどろとした粘液で覆われている事など気にもならない、麗しく可憐なお辞儀を披露する。

「わたくしの名はオオゲツヒメ。以後お見知り置きを……そしてここから先は、お遊びなしですわ」

 そして名乗りを上げたオオゲツヒメは、第二ラウンドの開始を告げた。

「ふんっ! こっちだってもう遊んであげません!」

 尤も、最初に動き出したのはフィアだったが。

 花中を置いていき、フィアはオオゲツヒメ目掛けて突撃した。突進前の足下にあったマンホールの蓋を蹴り割り、一歩一歩が市街地の道路を砕くほどのパワーで加速し、オオゲツヒメが逃げる前に腕が届く距離まで詰める。直後全身から水触手を生やし、粘液塗れのオオゲツヒメに絡ませた。避けられず束縛されたオオゲツヒメは身動ぎするも、水触手を振り払うほどの力はないらしく脱出には至らない。

 フィアはオオゲツヒメが動けないのを見るや、高々と左腕を掲げる。すると左腕はぶくぶくと膨れ上がり、横幅数メートルはあろうかというバット型へと変化した。

 オオゲツヒメの再生力の前に、切断攻撃は殆ど効果がない。先程交わした『遊び』からその事を察したフィアは、文字通りオオゲツヒメを叩き潰す事にしたのだ。細胞一つ一つを潰してしまえば、どんな再生力でも意味がないのだから。

 無論それはオオゲツヒメの死を意味する。が、ここで哀れに思ったり、油断したりするフィアではない。なんの躊躇もなく、フィアは肥大化させた腕を振り下ろす!

 動けないオオゲツヒメに回避は取れない。フィアの腕は難なくオオゲツヒメの頭を捉え、ぐしゃりと音を立てた。

 ……砕けたのは、フィアの腕だったが。

「なっ!?」

「あら、残念。水分解の酵素はもう持っていますの」

 驚くフィアに、オオゲツヒメは自慢気に語る。水触手も焼けるような音と共に次々と切れ、あっという間にオオゲツヒメは自由を取り戻す。必殺の一撃を妨げられたフィアは忌々しげに顔を歪めた。

「フィアちゃん! お、大月さんの、能力は、多様だけど、でも元が酵素なら、その効果は、限定的な筈! 切り替えには、時間が掛かると思うから、何か、水以外で、攻撃して!」

 ただし花中が叫んで伝えたアドバイスを聞くや、すぐさま笑みが戻る。いや、むしろ歪む前よりも自信に満ち溢れたものとなっていた。

「成程だったらコイツはどうですかねぇ!」

 即座にその身を屈めると、今度は水触手や腕ではなく、自らの『体躯』をオオゲツヒメにぶつける!

 先程は即座に分解されてしまったフィアの『身体』は、しかし今回は微動だにせず、オオゲツヒメを押していった!

「んっ、これは、ぐっ!?」

「ふん! タネが分かったところでもう遅いんですよ!」

 呻くオオゲツヒメを、フィアは更なる力を込めて押していく。オオゲツヒメはなんとかその場に踏み留まろうとするが、パワーではフィアの方がずっと上らしい。止められないどころか、オオゲツヒメを押すフィアの歩みはどんどん加速していく。

「ふぬぅあっ!」

 雄叫びと共に一層強く踏み出し、フィアはオオゲツヒメを誰かの家の塀へと叩き付けた!

 コンクリートで作られた塀はオオゲツヒメを受け止められず、呆気なく砕ける。オオゲツヒメはそのまま横転させられ、素早くバク転して体勢を立て直すも、フィアは追撃の体当たりをお見舞い。

 二度目の体当たりには踏ん張りが利かず、オオゲツヒメは大きく吹き飛ばされ、塀の奥にある民家へと突っ込んだ! オオゲツヒメに突っ込まれた民家は、まるで砲弾でも撃ち込まれたかのように弾け飛ぶ!

 人間ならば、こんな体当たりを喰らえば余裕でミンチに早変わりだ。しかしオオゲツヒメは形を失うどころか、余裕の笑みを浮かべて瓦礫の中から立ち上がる。自分の周りでミシミシと音を立てる民家の残骸など気にも留めず、フィアと向き合った。

「んー……これは、砂とか石かしら……あなた、表面を水以外でコーティングしましたわね」

「さぁてどうでしょうか。私はあなたほどサービスは良くありませんから」

 オオゲツヒメの質問に、フィアは答えをはぐらかす。

 実態は、正しくオオゲツヒメの言う通りである。

 フィアはコンクリートや落ちていた石を拾い、『身体』の内側で細かく粉砕。微粒子のようにした後、表層に集結させて防壁を構築したのだ。実際には水との混合装甲なので、接触時に多少は分解されているが……大部分を形成する石に変化はない。体当たりを喰らわせるのに支障はない。

 これならば打撃を与えられる。押し潰すような一撃を食らわせられる。つまりは、オオゲツヒメを倒せるという訳だ。

「逃げるなら今のうちですよ……今更逃がすつもりはありませんけどねぇ!」

 話を打ち切るやフィアは音速をも超えた蹴りを放つ! オオゲツヒメはまたも躱せず、その土手っ腹に重たい一撃を受けた。

 だが、今度のオオゲツヒメは揺らがない。

 理由は明白。フィアの足はぐずぐずに溶けており、オオゲツヒメにエネルギーが伝わりきらなかったのだ。フィアが目を見開く中、オオゲツヒメはにこりと優しく微笑む。まるで、子供をあやすかのように。

「ほら、当たりましたわ。アサリを食べる時のじゃりじゃりが嫌で、分解酵素を作っておいたんですの……わたくしに、石の防御は無意味ですわよ?」

「ぬぐぐぐ! だったらこれはどうですかぁ!」

 嘲笑うかのようなオオゲツヒメを前に、フィアは周囲に水触手を伸ばす。

 水触手が向かうは、先の激突で家から散らばった木材やコンクリート。更にはまだ形の残っている家から、引き剥がすようにそれらを回収していく。水触手は素材に絡み付くやメキメキと音を立てて砕き、粉々にして飲み込んでいく。

 その水触手を自身の中へと格納するや、フィアは再びオオゲツヒメに体当たり。

 石をも消化する体液に包まれた彼女の身体が、衝撃でふわりと舞い上がった。

「――――今度は木材、いえ、これは……」

「おおっと次も木の粉をコーティングに使うとは限りませんよ? あなたと違って私の切り替えは時間を使いませんから!」

 バレたタネは隠す必要もないとばかりに、フィアは猛攻を重ねていく。突き飛ばされたオオゲツヒメはついに一軒家を貫通し、塀を砕いて隣の道路に出て行しまう。それでもまだまだ勢いは収まらず、二枚目の塀を砕いてようやく止まる事が出来た。

 フィアは手を弛めずに追跡。路上駐車していた車に水触手を伸ばし、バンパーを引き剥がすや砕いて取り込む。木と石に加え、金属のコーティングも手に入れた。

 水も含めればフィアの『身体』は四種の防御を切り替えられる事になる。これならば『当たり』の消化酵素をぶつけられる事は早々なく、簡単には守りを砕かれない筈だ。

「……少し見くびり過ぎていましたわ。わたくしとした事が、相手への敬意を忘れるとは」

 フィアの攻略は簡単ではないと判断したのか。自らを戒めるように、オオゲツヒメはぼやく。

 そして優しさに満ちていた瞳に、野生の闘志を宿らせた。

 雰囲気が一変したオオゲツヒメを見て、フィアは一旦攻撃を止め、距離を取る。先程までとは何かが違う……野生の獣であるフィアは、それを感じ取っていた。

 警戒心を露わにするフィアに、オオゲツヒメは語り出す。

「最早手加減などいたしません。ここからは、わたくしの全力をお見せしましょう」

「ああん? 今まで手を抜いていたとでも? 遊びは止めたのではないのですか?」

「ええ、遊んでなどいません。先程から本気は出しています。ただ、全力ではなかっただけですわ」

「……言葉遊びがしたいだけですか?」

「いいえ、そうではありませんわ。本気ではありましたけど全力ではなかった。ただそれだけですの」

 話の最中、ぼこりと、オオゲツヒメの身体が膨れ上がった。

 フィアは納得したように、小さなため息を吐く。

 つまるところオオゲツヒメは野良猫(ミィ)と同じ……自分の力を抑え込んで人に化けていたのだ。

「この身体は、単に擬態目的だけではありませんわ。省エネで、エネルギー消費が少ないから、お腹が空きにくいんですの」

 オオゲツヒメの頭部がぐにゃりと変形し、長く長く伸びていく。

「わたくし、どうもお腹が空くと我を忘れてしまいまして。理性がなくなったら、食べた相手への感謝を忘れてしまいますでしょう? だから、出来るだけあの姿のまま、食べるようにしていますの……いただきますと、ごちそうさまを言うために」

 手足はするすると胴体に吸い込まれ、服もまた胴体と一体化していく。目玉が何倍にも肥大化し、臀部だった場所から尾のようなものが生えてくる。体色は髪と同じ栗色に変わり、その髪は頭の中ににゅるにゅると取り込まれていった。

 体当たりを喰らわせたフィアには分かる。オオゲツヒメの体重は自分と同等か、或いはそれ以上だったと。

 オオゲツヒメと対峙してすぐにフィアはマンホールの蓋の上に立ち、下水道の水を吸い上げていた。『身体』に取り込んだ水の重量は約五十トン。多少分解されたが、途中木材や石などを取り込んだ事で、今のフィアも吸い上げた水量とほぼ同程度の質量を保っていた。即ちオオゲツヒメの重量は五十トンオーバーという事である。

 現生生物で陸上最大級の動物であるアフリカゾウですら体重は十トン程度。その五倍もの体重に相応しいサイズが、人間大である筈がない。

 やがてオオゲツヒメの変身は止まる。

 ぬらぬらと体液に塗れた身体は脊椎動物ではなく軟体生物のそれで、眼球は瞳というよりも黒い球体が嵌まっているだけのよう。口器に顎はなく、歯のように鋭く尖った肉質がびしりと穴の輪郭を縁取っている。手足はなく、細長い胴体だけがどっしりと大地を踏み締める。

 そして体長は二十メートルを超えていた。

 ヘビというよりもナメクジに近い、目撃した人間に身の毛もよだつ悪寒を与える姿となったオオゲツヒメを前にして、フィアは驚きもせず肩を竦めるだけだった。

「……やっぱり下等生物じゃないですか」

 呆れるようにぼやくフィア。すると彼女の身体もまた、音を立てて膨れ上がっていく。頭は魚類のそれへと変貌し、派手なドレスは鱗のような突起へと成り果てる。手足は水掻きを備えたずんぐりとしたものへと変わり、美しさが反転するように恐ろしき怪物へと変わっていく。唯一人心を魅了するのは、ミリオンが放った炎の明かりが映り込み、表層で煌めいている紅蓮の輝きのみ。二足歩行するナマズ顔の両生類にしか見えないその姿に、金髪碧眼の美少女の面影など何処にもない。ましてや体長二十メートルともなれば、最早ただの怪獣である。

 相手が巨大化した。だからフィアもまた、巨大化を選んだだけ。

 しかしその結果、市街地に巨大な怪獣が二体君臨してしまった。ナメクジと怪魚は互いに睨み合い、にじり寄る。話し合いでの和解などする気はない。ましてや今や二匹の頭の中に、自分達の周りで生活している人間(小動物)の事など欠片たりとも残っていなかった。

 そんな余計な事を考えていたら、自分が負ける事を察していたから。

【アアアアっ! お腹空きましたわぁァァァッ! 早く、アナタを食べさせてええぇっ!】

【虫けら風情が身の程を弁えなさい! この私が逆に喰ってくれるわっ!】

 二匹は同時に動き出し、互いに相手とぶつかり合った! 巨体と巨体の衝突により発した衝撃波は、さながら爆風が如くエネルギーを伴って拡散。周りの家の屋根や壁が吹き飛び、アスファルトが砕かれて砂粒のように舞う! 大地は揺れ、電柱は倒れ、火災は止まらず広がっていく。

 最早此処は人の住む場所ではない。怪物達が跋扈する、地獄である。

「あらあら。ちょっと派手に暴れ過ぎじゃないかしら」

 尤も、彼女達と同じ怪物であるミリオンは涼しい顔で、空高くからその様を眺めていたが。

 ミリオンは今、高度百メートル以上の位置で浮遊している。能力によって空気を加熱し、上昇気流を作り出してその身を浮かび上がらせているのだ。

 そして花中もまた、ミリオンに抱えられて空に来ていた。

「はなちゃん、大丈夫? さかなちゃん、かなり滅茶苦茶にやってるけど」

「え、あ、は、はい……えと、正直、どうしようとは、思います、けど……」

 ミリオンからの気遣いに、花中は震えきった声で答えた。

 目下に広がるのは、今にも焼き尽くされそうな市街地。

 家々から飛び出す人々の姿を見ると胸が痛くなる。

 焼け落ち、崩れていく家を見ると涙が出そうになる。

 もしかしたら怪我人……死者も出ているかも知れない。フィアやミリオンはそれを気にしないだろうが、花中は人間だ。そしてこの戦いの発端は、この市街地で花中がオオゲツヒメに対決を宣言した事である。つまりきっかけは自分だと花中は思っていた。自分の選択に、大勢の人々の生活や命を巻き込んだのだ。自責の念に押し潰されそうになる。

 しかし、泣き言など言っていられない。

 人間を好んで襲うオオゲツヒメとの対決は、どうあっても人間の生活圏になった筈だ。仮に花中以外の、例えば自衛隊が退治しようとしたとして、人気のない場所に誘い出したり、こっそり住人を周りから避難させるのは困難だろう。何しろオオゲツヒメには人類並の知性がある。人気のない場所に連れ出そうとすれば見破られるし、人々を避難させるために周知をすればオオゲツヒメもそれを聞いてしまうのだ。効果がある作戦は奇襲……周りの人々に何も知らせず、いきなり軍事行動を実施する事だけ。

 何をどうしたところで人々を巻き込む戦いは避けられなかった。()()()()事を延々と悩んでも時間の浪費でしかない。

 それよりも今考えるべきなのは、如何にこの戦いを早く終わらせるか、だ。戦いが早く終われば、巻き込まれる人々の数も減らせる筈なのだから。

 だが……

「み、ミリオンさん。大月さんを、焼いちゃう、事は……」

「お察しの通り、無理よ。今のアイツが纏ってる体液、耐熱性が高いだけじゃなくてタンパク質の分解酵素も含まれてる。私が突撃しても燃やせないどころか、養分になるだけね」

 駄目元で訊いてみれば、ミリオンからは予想通りの答えが返ってくる。もし高温で焼き尽くせるなら、とうにやっている筈だからだ。

 やはり問題になるのはオオゲツヒメが纏っている、酵素をたっぷり含んでいる筈の粘液。あの粘液をどうにかして剥がさねば、フィアは厳しい戦いを強いられるだろう。加えてオオゲツヒメは本当に多様な酵素を生み出している。ならば恐らく、市街地はオオゲツヒメにとって……

 最悪の予想が脳裏を過ぎる。花中はなんとしてもオオゲツヒメを倒すための秘策を閃かねばと、思考を目まぐるしく巡らせた。

 今、花中の頭の中に『人間のため』という想いはない。

 ただ自分に出来る事をするだけ、ただ自分のしたい事をするだけだ。

 自分を守るために巨大な怪物と戦ってくれている、一番の友達を助けるために――――




始まりました、大決戦。そしてまたやりました、市街地での大決戦。
人の営みを破壊し尽くしながら繰り広げられる野生の闘争。
次回、決着です。

次回は7/8(日)投稿予定です。


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女神の美食10

【グルアアアアアアアッ!】

 麗しい乙女の、猛々しい咆哮が市街地に轟く。

 咆哮は十数キロ彼方まで届き、空気や建物をビリビリと震わせる。その咆哮に負けず劣らずの大きさで、アスファルトで舗装された道路が砕ける音と、建物が圧し潰れる音も響いていた。道路は多量のコンクリート片へと変貌し、次々に一軒家が押し潰されていく。

 何故なら市街地のど真ん中で、体長二十メートル近いナメクジもどきと、同等の体躯を誇る半透明なナマズ顔の両生類が、取っ組み合いの争いを繰り広げているのだから。

【オオオオオオオオオッ!】

 ナマズ顔の両生類……怪物へと変貌したフィアは、体当たりを喰らわしてきた巨大ナメクジもどきことオオゲツヒメを押していく。パワーではフィアに分があるらしく、オオゲツヒメの巨体を簡単に押し返していった。

 オオゲツヒメは踏ん張っているのか全身を硬直させているが、アスファルトで舗装された道路はまるで砂のように呆気なく捲れ上がり、怪物達の動きの妨げにもならない。フィアの歩みは止まらず、オオゲツヒメごと前へ前へと突き進む。

 例えその行き先にあるものが、人々が穏やかな生活を送っている小さな民家だとしても。

 フィアはなんの躊躇もなくオオゲツヒメを突き飛ばし、正面に建つ民家にぶつけた! 体重五十トンを超えるフィアと取っ組み合いが出来るほどの重量だ。木製の民家など呆気なく潰れ、オオゲツヒメの巨躯が横たわる。潰れた家は一軒に留まらず、数軒が巻き込まれた。

 尤も、オオゲツヒメはこれで息絶えた訳ではない。

【ゴアァ!】

 跳ねるように飛び起きたオオゲツヒメは、フィアに超音速の頭突きを喰らわせる!

 押し合いでは勝ったフィアも、不意の突撃をどてっぱらに受ければ体勢を崩してしまう。転んだ拍子に大地を揺さぶり、ここまでの激戦の余波で脆くなった民家を幾つか崩落させた。

 されどフィアもただでは転ばない。体当たりを喰らわせてきた、即ち至近距離までやってきたオオゲツヒメの頭を水掻きの付いた両手で抱え込むや、勢いよく投げ飛ばす! 距離にして自身の体長の倍近く、四十メートルもの距離をオオゲツヒメは飛んでいく。

 オオゲツヒメは住宅の真上に墜落し、轟音と木片と土煙を撒き散らした。噴煙はさながらキノコ雲のように舞い上がり、その衝撃が強烈な爆撃に値するものだと物語る。

 その煙の中からゆっくりと這い出てくるオオゲツヒメ。ナメクジのような見た目相応の防御力しかないのか、その身体には鉄筋や家屋の柱が突き刺さっていた。しかしそれらはずぶずぶと肉の蠢く音と共に動き出し、数秒と経たずに全身から排出される。柱が抜けた後のオオゲツヒメの身体に傷跡は残っていない。自慢の再生力で傷は治ってしまったようだ。全身がバラバラになった状態から平然と回復してみせるほどの再生力である。身体に棒状のものが刺さった程度の傷なら、左程エネルギーを使わずに治せると考えるべきだろう。

 相対するフィアにも怪我はない。出来る訳がない。ナマズ染みたこの巨大で半透明な身体は水で作り上げた『入れ物』に過ぎないのだから。例え頭部を砕かれようと、フィアの本体にダメージは一切届かない。そして五十トン程度の水を操る事は、フィアにとって大した労力ではない。体力は殆ど消耗していなかった。民家を破壊し続けた事による精神的疲弊も、好きでもない人間に興味なんてないフィアには無縁である。

 つまり二体ともまだまだ健全。戦闘直前とコンディション面では殆ど差がない、といっても過言ではない。

 少なくともフィアには、ここで軽口を一つ叩くぐらいの余裕は残っていた。

【ふん。やはり下等生物ですねしぶとくて嫌になる】

【おなか、スイタ……あああああ、おナカがスキましたワぁぁぁぁぁ……!】

【……ついに頭まで下等生物になりましたか】

 怪物姿のまま肩を竦めるフィアだったが、その際に隙を見せるような愚は犯さない。知性はあるならそれに越した事はないが、ないならないで()()()()()()……それがフィアの考えだ。むしろ理性ではなく本能に身を任せた分、無駄のない精練された動きへと『成長』する可能性すらあると考えている。

 知性を重要視しないフィアにとっては、むしろ我を失ったオオゲツヒメの方が警戒すべき存在。

【でしたラ私も……本当に本当の本気ヲ見セテアゲマスヨオオオオオ!】

 故にフィアも全力を出すべく、理性を頭の片隅に投げ捨てる。

 二体の猛獣が、先とは比較にならない勢いでぶつかり合う! 衝撃波が、振動が、市街地を瓦礫の山へと変えていった。

 砕けて剥き出しとなった家屋の材木に、未だ衰えていない火が燃え移っていく。業火は走るように広がっていき、フィア達を完全に包囲するが、彼女達は気にも留めない。高々数百度しかない炎では、自分達に火傷一つ負わせられない事を知っているのだから。そしてこの場に本来の主である人類の姿はない。人間如きの耐熱性ではこの高温の中を生き延びる事は出来ないのだから。

 例え彼女達にその気はなくとも、彼女らの力と存在は、人間から容易く世界を取り上げてしまうのだ。

 フィアは頭から突き上げるようにオオゲツヒメに突進。さながらアッパーのような重たい一撃に、オオゲツヒメの身体が浮かび上がった。瞬間フィアは背中から無数の水触手を生やし、その身を勢い良く捻って鞭のように振るい、オオゲツヒメの身体の側面に叩き付ける!

 無論ただ叩き付けるだけでは、オオゲツヒメの表面を覆う粘液、そこに含まれる消化酵素によって分解されてしまう。

 そこでフィアは近くに散らばるコンクリート片や材木、更にはマンホールや釘などを取り込み、水触手の表面をコーティングしていた。オオゲツヒメの消化酵素は多様かつ強力で、コンクリートも木材も、果ては金属すらも分解したが、その酵素はあくまで粘液に含まれているもの。つまり多種の酵素を混合した場合、粘液一グラム中に含まれる『酵素一種あたり』の量は減っていく事になる。酵素の量が少なくなれば、当然分解速度も落ちる。

 即ち、多種多様なコーティングを施した攻撃ならば、分解しきる前にオオゲツヒメへ打撃を届かせられる筈だ。

 ()()()()()()()()効果は覿面。水触手はオオゲツヒメの身体に、小さな民家など簡単に薙ぎ払えるだけの衝撃を与えた。尤も、家の強度など比較にならないパワーを誇るオオゲツヒメは、水触手の打撃を受けても倒れはしなかったが。

 それどころかオオゲツヒメの身体は怒張し、肉体に筋張った繊維が浮かび上がる。さながらその姿は、フルパワーを発揮する筋肉のよう。否、正しく全身を筋肉へと変化させているのだ。全身を自在に再生させる能力という事は、細胞を神経や血管、そして筋肉へと自由に分化させられるという事。応用すれば、全身の肉体を筋肉へと再構成する事も難しくない。

 五十トンもの肉がほぼ全て筋肉へと置き換わり、容赦なく放たれた際の破壊力は、想像するまでもない。

【グギオオオオオオオオ!】

 跳ねるようにオオゲツヒメは突進。その圧倒的なパワーにより、水触手達は物理的衝撃によって粉砕されてしまった。それでもオオゲツヒメの力は衰えず、そのままフィア目掛けて突っ込む!

 オオゲツヒメが全身筋肉の塊に変貌する理屈などさっぱり分からないフィアだが、本能的に自身に迫るエネルギーの巨大さを察知。フィアは即座に大股開きの体勢を取り、尾を地面に打ち付けて三本目の足として大地を踏み締める。そして凄まじい勢いで突撃してくるオオゲツヒメを、真っ正面から受け止めた。

 瞬間、生じた爆音と衝撃波は道路をクレーターのように抉り、周りにあった家を粉々に吹き飛ばす!

 人智を超えた力同士の、再度の激突。さながら水爆が炸裂したかのような破壊を生み出す、しかし科学など頭の片隅にもない本能剥き出しの取っ組み合い。

 此度の力比べは、オオゲツヒメが勝っていた。

【ヌグウウゥウゥウゥゥウウ……!】

 唸りを上げながら背中から何十もの水触手を生やし、アスファルトが消えて剥き出しとなった地面にアンカーの如く打ち込むも、フィアの『身体』はオオゲツヒメを押し止められず後退していくばかり。一本、また一本と水触手が千切れていく。

 先程とは明らかに馬力が違う。フィアはなんとか押し返そうとするが、あくまでフィアの能力は水を操る事。本体がどれだけ気合いを入れたところで、『身体』が発揮する力はさして変わらない。

 ついには押しきられ、フィアの『身体』は大地に横たわってしまう。この隙を突くようにオオゲツヒメは細長い身体をしならせ、フィアの『身体』に巻き付いた。のたうつように暴れるフィアだが、オオゲツヒメの馬力と素早さに敵わず、締め上げられてしまう。

 フィアの身動きを封じたオオゲツヒメは、口を大きく開く。その口はまるで獰猛なオオカミのように裂け、内側にびっしりと生えている歯と、何百とひしめく舌を露わにした。人間であれば正気が吹き飛びそうなほどおぞましい姿。そして正気など持ち合わせていないフィアまでもが身震いを起こす。

 何しろ眼前の口は『本能』を露わにしているのだから。

 オオゲツヒメはその口で、素早くフィアの腕に喰らい付いた!

 途端、じゅうじゅうとフィアの腕は音を鳴らし始める。水分解に特化した消化酵素を使っていると察したフィアはすぐさま微粒子まで粉砕したコンクリートや金属で表層をコーティングするも、分解されていく音は鳴り止まない。コーティングはあくまで分解速度を遅くし、打撃を本体に届かせるためのもの。抑え付けられ、じわじわと分解されている時の防御には使えないのだ。

 抵抗虚しく、フィアの腕は呆気なく千切れてしまう。フィアのコントロールから外れた水は形を保てず崩れるが、オオゲツヒメは口を素早くバクバクと動かし余さず腹に収めようとしていた。

 そして喰らったものがただの水であるにも拘わらず、にんまりとした笑みを浮かべる。

 余程腹が空いていたのだろうか。オオゲツヒメの心境など興味のないフィアだが、彼女の考えは自然と読めた。同時に、彼女がこのまま自分を貪り食うつもりである事も察する。

 生憎誰かを喰うのは構わないが、喰われるのはごめんだ。

 フィアは『身体』から針のように鋭くした水触手を射出。多数のコーティングを施したそれらは、易々とオオゲツヒメの身体を貫いた――――が、オオゲツヒメは怯みもしない。あろう事か針がより深く突き刺さる前へと進み、今度はフィアの『頭』へと齧り付いた。痛覚など持ち合わせていないのか、それとも食欲が何よりも優先されているのか。いずれにせよオオゲツヒメには、自傷に対する躊躇いなんてものはないらしい。

 腕をもがれようと頭を噛み砕かれようと、フィアの本体には関係ない。だがこのまま分解されていく事は、『身体』を構成する水の量が減っていく事を意味する。フィアの『身体』が発揮する力は用いた水の総量に由来しており、水の量が減っていく事はパワーの低下を意味していた。このままではじり貧である。

 フィアは一旦『身体』を構成している水分子の結合を弛め、個体としての振る舞いを止めた。元の緩さを取り戻した水は当然ながら液体としての性質を発揮し、オオゲツヒメの拘束をするすると抜けていく。

 しかし損失も少なくない。オオゲツヒメの纏う粘液には水分解の効果があるのだ。液状と化した事でコーティングは崩れ、粘液によりかなりの量の水が分解されてしまう。三十メートルほどオオゲツヒメから離れた位置で再構成した時、フィアの『身体』は脱出前よりも一回り小さくなっていた。

 ただし、この程度なら挽回は容易だが。

【調子ニ乗ルンジャアリマセンヨコノ虫ケラガァ……!】

 ずどん、ずどんと地団駄を踏むように、フィアは足下の地面に自身の足を()()()()

 そして周辺の土壌に、自らが操る『水』を四方八方へと這わせた。

 半径数キロ圏内の土壌水分を一気に吸い上げ、自らの『身体』に取り込んでいく。急激な土壌体積の激減により、フィアを中心とした一帯で次々と地面の崩落が発生。何十、否、百を超える家屋の残骸が悲鳴のような音を奏で、地の底へと沈んでいく。何百もの人々の営みが、ほんの十数秒で跡形もなく消えていった。

 代わりに、フィアの『身体』は更に栄える。

 土壌水分の一割も吸えば、先程失われた分の水は十分に補えた。家々が巻き込まれる大規模崩落も防げただろう。けれどもそれではオオゲツヒメを倒すには足りない。故にフィアは大地の水を全て奪い取った。人間の生活など考慮にも値しない。目の前の『不埒者』を叩き潰すためなら人間の犠牲などどうでも良い。

 事が済むのに一分と掛からない。周囲の大地が砂のように干からびた時、フィアが操る巨躯は倍近い大きさへと変貌を遂げていた。

【グルアアッ!】

 圧倒的力を得るやフィアは躊躇なく、先程とは比較にならないパワーを伴った平手をオオゲツヒメの真上へと振り下ろす!

 重量を増し、馬力をも強化したフィアの平手は、最早オオゲツヒメの反応速度では避ける動作すら取れない速さを誇る。粘液に含まれた分解酵素も、大質量かつ高速の一撃故に処理が間に合わない。

 直撃を受けたオオゲツヒメの頭は砕け、そのまま大地に叩き付けられた。ぐしゃりと肉の潰れる生々しい音がするも、衝撃で噴火が如く舞い上がる粉塵と轟音に紛れて消える。揺れは数十キロ四方へと広がり、大陥没を免れた家々を震えさせ、倒していく。

【ガアッ! フヌッ! ヌンッ! グルゥ!】

 されどフィアは手を弛めず、何度も、何度も、獣の咆哮を上げながらオオゲツヒメを滅多打ちにする。オオゲツヒメの再生力の強さは嫌というほど見たのだ。完膚なきまでに、細胞一つ残さず潰そうと、狂気すら感じさせる力で打ちのめす。

 フィアの猛攻を受けるオオゲツヒメの身体は、流石の生命力というべきか頭を叩き潰されてもピンピンしていた。のたうち回り、残骸と化した家屋を薙ぎ払いながら、フィアの攻撃から逃れようとする。しかしながら『体格』で上回ったフィアのスピードはオオゲツヒメよりもずっと上。逃げられる道理などない。分解酵素による防御も、質量とスピードで強引に押し切られてしまう。

 やがて胴体が潰され、オオゲツヒメの動きが鈍くなる。それでもフィアは叩き続け、すり潰し、一片の油断も容赦もなくオオゲツヒメの命を削り取る。ついにはオオゲツヒメの姿が完全に崩れ、液状と化したが、フィアはまだまだ打撃を止めない。この程度ではまだコイツは死んでいないという、本能の訴えがあったがために。

 フィアが攻撃を止めたのは、オオゲツヒメだった肉の汁さえも土に混ざり消えてしまってから。ただしフィアの『目』には、未だ闘争の炎は宿ったまま。

 ――――やはりこの程度では仕留めきれないか。

 そのような感情のこもったため息がフィアの『口』から溢れ出た、のと同時にフィアの背後側の地面が大きく盛り上がる。

 やがて弾けるように大地は裂け、中から巨大なナメクジ……オオゲツヒメが姿を現す。

 身体が液状化しても細胞自体は死滅せず、地中に潜って移動したのだろう。正しく呆れるほどの生命力だと、フィアは苛立ちを通り越してある種の尊敬すら抱き始める。

 ……叩き潰す前よりも()()()()()()()()のは気の所為だろうか?

 違和感を覚えるフィアだったが、悠長に考えている暇はない。あれだけ痛い目に遭わせたのに、オオゲツヒメから怯えは感じ取れないのだ。恐らく何かしらの手をまだ隠している。

 それを使わせたなら、ただでさえ面倒な輩がますます面倒になる。

【イイカゲンアキラメナサイッ!】

 フィアが三度激突するのを躊躇う筈もなく。

【アアアアアアアアアアアッ!】

 理性のないオオゲツヒメが判断なんてする訳もなく。

 怪物達の取っ組み合いが、またしても繰り広げられる事となった。

 ……怪物達は人間の事などお構いなしに暴れ続ける。彼女等は好き勝手に暴れ回り、投げたり突き飛ばしたりで、戦闘領域は常に移動している。被害は際限なく広がり、今でも留まる気配がない。疲労の色も見えないため、まだ当分続くであろう事は容易に想像が付く。

「はなちゃん。辛いなら、気絶してても構わないわよー」

 付いてしまうがために、フィア達の戦いを空より見下ろしている花中は、抱えてくれているミリオンが優しい言葉を投げ掛けてくるぐらい顔色を悪くしていた。しかし花中は首を横に降り、ミリオンの提案を拒む。

 確かに、もう気絶してしまいたいほどの惨事だ。

 ミュータント同士の戦いを見るのは初めてではない。が、例えば旧校舎だったり、広大な自然公園だったり、大海原だったり……何時も人の住処から離れた場所だった。例外は『妖精さん』ぐらいだが、あの時は相手のテリトリーが河川に面しており、主な攻撃もレーザー光線という直線的なもの。今回のような肉弾戦ではない。

 彼女達が本気で暴れ回ればどうなるか、想像しなかった訳ではない。しかし此処まで滅茶苦茶になるとは考えが及ばなかった。人間への被害は、今や当初の想定を大きく上回っている。倒したいという自らの決断に対する後悔と自責の念は、刻々と大きくなっていた。

 同時に、ここでオオゲツヒメを止めねばならぬ決意も大きくなっていたが。

 フィアが度々繰り出した『知的』な行動……表面をコーティングした多様な水触手による同時攻撃は、花中からの入れ知恵だ。ミリオンを介して伝えた。だが、オオゲツヒメはこの程度ではまるで止まらず、それどころかどんどん力を増大させている。おまけに肉体が液状化しても簡単に復帰するときた。想像していたよりもオオゲツヒメはずっと強い。

 人類が通常兵器を用いたところで、オオゲツヒメは難なく生還するだろう。戦車など簡単に食い尽くし、空爆の雨を気にも留めず、軍艦を次々と腹に収めるに違いない。破れかぶれになって核兵器を使ったところで、何百万もの市民の命と引き換えに爆破したとしても、オオゲツヒメは乗り越えてしまうかも知れない……そんな『非常識』な予感を本能が感じていた。

 人類ではオオゲツヒメを止められない。故にどれほどの破壊をもたらそうと、フィアが倒す事を祈らねばならないのだ。

 しかしそれも、あまりに儚い祈りかも知れない。

「……あの、ミリオンさん。頼んでいた、事は……」

「やっておいたわ。はなちゃんの予想通りよ……最悪ね」

 尋ねれば、ミリオンは顔を顰めなながら答える。具体的な言葉ではない。だがその意味を察し、花中は更に顔色を悪くする。

 ――――花中がオオゲツヒメの力への理解を深めていた時と同じくして、地上で戦うフィアもまたオオゲツヒメの力がどのようなものか、自力で分かり始めていた。

【グヌウオオオッ!】

 地響きを伴う突進を真っ正面からぶつけ、オオゲツヒメを突き飛ばす。

【ガアッ! ヌアッ! アアアアアァッ!】

 起き上がる暇など与えない。太くて重たい足で何度も何度も、オオゲツヒメを踏み付ける。

【ニガスモノデスカァ!】

 それでも足を持ち上げたほんの僅かな隙にした身動ぎを見逃さず、金属のコーティングを施した水触手で縛り上げる。

【クタバリゾコナイガアアアアッ!】

 そして身動きの出来なくなったオオゲツヒメの尾を掴んで、さながら鞭のようにその長大な身体を地面に叩き付けた。何度も何度も、がむしゃらに。

 驚異的な再生力を誇るオオゲツヒメに切断技は通じない。

 そのためフィアがお見舞いするのは、打撃のオンパレード。全身に伝わる衝撃は確実に細胞を破裂させ、摩耗させていく。喰らえば喰らうほどに、オオゲツヒメの身体は磨り減っていく筈なのだ。

 だが、

【ゴオオオオアァッ!】

 フィアは身体を大回転させながらオオゲツヒメを振り回し、最も勢い付いたところで尾を掴んでいた手を離す。常識外れのパワーが生み出した遠心力はオオゲツヒメの身体を音速の数倍にまで加速し、怪獣染みた巨体を市街地だった場所で何百メートルと転がした。

 ――――おかしい。

 投げ飛ばされたオオゲツヒメはむくりと、平然と起き上がる。次いで迷った素振りもなく、あれだけの攻撃を喰らわせたフィアにゆっくりと近付いてくる。

 死なない事は不思議ではない。呆れるほどしぶとい事はとうの昔に分かっている。解せないのはそこではない。

 解せないのは、間近にまで迫ったオオゲツヒメの体長が、四十メートルを超えていたフィアよりも()()()()()()事だ。

【……ジュル】

【ッ!】

 接近したオオゲツヒメは舌なめずりをするや頭部を四つに割き、フィアの胴体に喰らい付いた! フィアは両腕で突進してきたオオゲツヒメの身体を抑え込み、二本の足と尻尾で大地に踏み止まろうとするもまるで敵わない。転ばないようにするのが精いっぱいで、一気に何百メートルと押し込まれる。

 挙句、掴んでいた『腕』と噛まれた『胴体』が溶け始めた。分解酵素による影響だが……フィアが気に留めたのは、そこではない。

 オオゲツヒメが、じゅるじゅると溶かした部分を啜っていたのだ。

【(コイツさては今まで喰ってましたね!)】

 今までひっそりと起きていた事態を察し、フィアは忌々しげな舌打ちをする。

 オオゲツヒメは消化酵素によってあらゆるものを分解し、取り込んでいたのだ。恐らくフィアの『身体』を作る水だけでなく、家々の材木やコンクリートさえも。そうして辺りのものを手当たり次第に喰らい、少しずつだが成長していたのである。

 体格が増大したのだから、パワーが大きくなっているのは当然だ。むしろ問題は、ここでオオゲツヒメの巨大化が止まる保証がない……否、間違いなくまだまだ底には程遠いという『予感』。

【グヌギギギイイイイイ……!】

 どうにか堪えるフィアを余所に、オオゲツヒメはその長大な尾を振り回し、辺りに散乱する廃屋の角材を巻き取る。と、尾の先に小さな頭が作られ、角材に喰らい付き、バキバキと音を立てて貪り始めた。そうして噛み砕かれた材木が飲み込まれる度に、オオゲツヒメの力が僅かずつだが強まっている事をフィアは感じ取る。

 対するフィアも負けじと、新たな水を吸い取るべく地面に突き刺した尾や足から四方に糸のように細い水触手を伸ばすが……殆ど、水がない。既に一度、この辺り一帯半径数キロの水分を吸い尽くしてしまったのだから当然だ。なんとか遠方まで伸ばして吸い上げるが、効率はあまりにも悪い。

 体格差はどんどん広がり、力の差は開く一方。どうにか堪えようとするが、まるで歯が立たない。

【フヌグアアアァッ!】

 フィアはガリガリと、オオゲツヒメの体表面に『爪』を立てて肉を抉ろうとする。しかし立てた爪は即座に分解され、オオゲツヒメの身体にまでは届かない。

 それでも何度も何度も突き立て、溶かしきれないほどの質量と速さでようやく表皮を抉れたが……傷痕は即座に塞がれ、なかった事にされてしまう。何度も何度も引っ掻き、無数の傷痕を刻み込んでも結果は変わらない。

 この程度の悪足掻きでは足止めにもならなかった。

【グガアアアッ!】

 ついには我慢ならないとばかりに、フィアはオオゲツヒメの身体に『拳』をぶつける!

 強力なストレートパンチ。速度と質量が分解能力を勝ったのか打撃は粘液を貫き、オオゲツヒメの身体に破滅的破壊力を伝える。身体が波打つ中、予想外だとばかりにオオゲツヒメの獰猛な目が微かに揺らめいたように見えた。

 が、こんなものでは今のオオゲツヒメは止まらない。力が弛んだのはほんの一瞬でしかなく、すぐにフィアを押し倒さんとしてくる。対するフィアは、これ以上の抵抗が出来なかった。

【ゴガァッ!?】

 ついにフィアは、再び大地に膝を突く。

 オオゲツヒメに訪れる再度のチャンス。しかし今度の彼女は、フィアを締め付けようとはしない。

 代わりに自らの身体をどろりと溶けたかの如く扁平にし、フィアの真下へと潜り込んできた。オオゲツヒメの思惑に勘付くフィアだったが、オオゲツヒメの動きが速く、対応が間に合わない。

 フィアの真下に来たオオゲツヒメは、一気にその平坦な身体を起こす!

 さながら風呂敷のように、オオゲツヒメは自らの身体を以てフィアを包み込もうとしたのだ。『腕』や『手足』に平べったい身体を巻き付け、包み込んでしまう。これでは『身体』を液状に戻して抜け出す事も出来ない。

 四肢を振り回しなんとか振り切ろうとするが、オオゲツヒメは『身体』を隙間なく包んでいく。ついには頭以外の全てが包まれた時、オオゲツヒメはフィアを包む身の一部から生えるようにナメクジに似た身体を作り出した。

 そしてフィアの目の前で、彼女はばっくりと口を開く。フィアの頭ぐらいなら、丸呑み出来るぐらい大きく、蕾が花を咲かせるように。

【グ……オオオオオオッ!】

 傍から見ても明らかな『殺意』を放つオオゲツヒメに、フィアは咆哮と共に全身から棘のように鋭くした水触手を生やす! 水触手は薄く伸びたオオゲツヒメの身体を易々と貫き、穴だらけに……するも脅威の再生力の前ではやはり無意味。即座にオオゲツヒメの身体は蠢き、水触手に纏わり付いて消化してしまう。

 どれだけの抵抗をしようと、オオゲツヒメの拘束は決して揺らがない。一切の隙間を許さず、フィアを捉え続ける。

【イタダキ、マス】

 それはこの言葉をぼそりと呟いてからも変わらず。

 ばくりと、オオゲツヒメはフィアの頭に齧り付く! 否、囓るというよりも丸呑みというべきか。花のように開いた口はフィアの頭をすっぽりと覆い尽くしてしまった。

 フィアはバタバタと暴れるが、オオゲツヒメの身体はゴムのように伸縮するだけで破れる気配すらない。その間もオオゲツヒメはゆっくりと、着実に、包み込む自らの身体ごとフィアを喉の奥へと押し込んでいく。

 やがてその口が地面と接した時、オオゲツヒメは身体を千切り、頭を高々と持ち上げた。オオゲツヒメの口の中にある大きな『膨らみ』が、重力に従いじわじわと落ちていく。『膨らみ』は時折ぼこぼこと蠢くが、その動きは沈むほどに弱く、小さくなる。

 『膨らみ』はオオゲツヒメの腹の辺りで止まるが、その頃にはもう、元の胴体の太さと大差ないまでに萎んでいた。オオゲツヒメは満足したように大きなげっぷを吐き出し、舌舐めずりをして汚れていない口周りを拭う。

【……ゴチソウサマ】

 最後に感謝の言葉を呟くと、オオゲツヒメはその瞳に爛々とした喜びと、聡明なる理性を戻す。

 直後にオオゲツヒメは空を――――浮遊するミリオンと、抱えられた花中が居る場所を見上げる。花中はオオゲツヒメが自分を見た事に気付くとビクリと身体を震わせ、オオゲツヒメは四つに裂けた口を歪ませて『笑み』を浮かべた。

【さぁ、今度はあなた達の番ですわ……ああ、どんなお味なのかしらぁ】

「あら? 私達を食べられると思ってるのかしら? 生憎、私はあなたと戦う理由なんてないわよ。さかなちゃんを助けようとも思わないし」

【何がなんでも逃がしませんわ。だってわたくし、どうしても花中ちゃんの味を堪能してみたいんですもの。ミリオンさんの味にも、興味はありますけど】

 ミリオンと軽口を叩き合うと、オオゲツヒメは背中からトンボの翅のようなものを六つも生やしてみせた。そしてその翅を花中(人間)の目には見えない速さで羽ばたかせ始める。

 すると周囲の瓦礫を吹き飛ばすほどの爆風が起こり、ゆっくりとオオゲツヒメの身体が浮かび上がった。

 強靱なパワーを用いた、なんとも強引な飛行方法。とはいえ、これで空は安全地帯ではなくなってしまった。形態を自在に変えられる点を考慮すれば、戦闘機のような姿となり、超音速飛行をしてくる可能性も否定出来ない。ミリオンなら振りきれる、と楽観視する訳にはいかないだろう。

 何より問題なのは、オオゲツヒメが纏う粘液には耐熱性酵素が含まれている。直接触れる事で対象を加熱する、ミリオンの攻撃はほぼ無効化された状態……ハッキリ言って最悪の相性だ。勝ち目が見えない。

 そしてミリオンにオオゲツヒメを倒せないという事は、花中がどれだけ願ったところで、食べられてしまったフィアを助ける術はないという事。

 花中は静かに、深く項垂れる。

 されどすぐに頭は横に振られ、花中は前を向き、オオゲツヒメを真っ直ぐに見据える。と、オオゲツヒメは首を傾げた。それから警戒するように、自らの身を構成する筋肉を怒張させていく。

 オオゲツヒメは気付いたのだ。花中の目に、絶望や恐怖が浮かんでいない事に。

 代わりに満ちているものが、信頼である事にも。

「あら? 勘付かれたみたいだけど」

「いえ、もう、手遅れです」

【……なんの話ですの? あなた方、何を企んでいるのかしら】

「残念だけど、企みはもう終わったのよねぇ……どうしてもっていうのなら、その企みの実行者に訊けば良いんじゃないかしら?」

【実行者?】

 誰の事だ? と訊きたげにぼやくオオゲツヒメ。しかし彼女からの問いに、花中は口を噤み、ミリオンはくすくすと小さく笑うのみ。眉などない顔を顰めてオオゲツヒメは怪訝さを見せるが、それでも花中達は答えない。

【そりゃあ勿論この私の事ですよ】

 答えたのは花中とミリオン以外の声。

 その声は、オオゲツヒメの()()()から聞こえてきた。

【……え?】

【やれやれ間一髪でしたねぇ。花中さんが閃くのがあと少し遅かったら本当にお陀仏でしたよ。まぁ案がなかったらそもそもあなたに食べられてあげませんでしたけど】

【この声、フィアちゃん? まだ生きていましたの? とっくに消化されたと思ってましたのに……】

【んふふー】

 腹の中のフィアが、上機嫌に笑う。その声に焦りはない。勝利を確信した、余裕と自信に満ち満ちていた。

 喰われていながらあまりにも余裕を見せるからだろうか、オオゲツヒメは首を傾げる――――が、不意にその動きがギチギチと、まるで油の切れたブリキ玩具のように鈍くなった。羽の動きも止まり、大地を揺らす勢いで墜落。その鈍さは意図するものではないらしく、オオゲツヒメの身体はガタガタと、箱の中に居る『誰か』が暴れるかのようにぎこちなく揺れる。

【……あ、ら……? わた、くし、の、か、らだ……】

 ぎこちなさは口にまで及んでいるらしく、出てきた言葉はあまりにも拙い。

 そんなオオゲツヒメの腹の中から、ケラケラとフィアの笑い声がした。

【いやはや愉快愉快。あなたの間抜けな声が聞けたお陰で少しは胸がスッとしましたよ。出来れば(ツラ)の方も拝見したかったですけどね】

【あな、た、何、して】

【まず最初に……食べられたのはわざとです。あなたはしぶといですからねぇ殴っても踏み潰してもあまり効果はありませんでした】

 あたかも動きが鈍くなったオオゲツヒメを嘲笑うように、オオゲツヒメの質問を無視してフィアは喋りたい事を猛烈な早口で語る。

 切り刻もうが貫こうが、打撃を与えようが踏み潰そうが、難なく甦る再生力……恐らくは本当に、細胞一つ残さず潰さない限りオオゲツヒメは簡単に甦る事が出来るのだろう。多種多様な酵素がなくとも、この再生力だけでも相当厄介だった筈だ。正しくミュータントの『能力』と呼ぶに相応しい力である。

 これほどの生命力を誇る生物を殺すには、どうすれば良いのか? 答えはたった一つしかない。

 細胞一つでも残せば甦るのだから、細胞一つ残さず粉砕すれば良い。

【私の操る『水』をあなたの全身に張り巡らせました。ええあなたの体液を介し細胞一つ一つの隙間に浸透させたのです。最早あなたの身体は私の制御下あなたが分裂しようとしても私の水があなたを細胞を縛り付けます。あなたには逃げ場などない。そしてこの状態ならあなたの細胞を一つ残さず絞り潰す事が可能です】

【あ、り得な、い。わたく、しの、胃、水、ぶ、んかい、する】

【そうですねぇ確かにあなたの胃液にはそーいうものがたっぷり含まれていましたよ】

 懐かしむようなフィアの同意。そこには焦りなどなく、オオゲツヒメの疑問が自分の置かれた状況とは無縁であるかのよう。少なくともフィアにとっては、もうどうでも良い事なのだ。

 乗り越えてしまった脅威など。

【あなたがなんという動物かは分かりません。ですがそれほどの生命力なのです恐らくは原始的な軟体生物の類なのでしょう? どれだけ下等でも昆虫や甲殻類の再生力はしょぼいですし私のような高等な生き物であれば再生力はかなり低いですからねぇ】

【……………】

【そしてそういう生き物は大抵乾燥に弱い。なのに水なんか分解したら干からびてしまいます。まぁ仮に軟体動物でなかったとしても生き物である以上水は重要な物質でしょうけど。水を分解する酵素はとても危険なものなのです。だとしたら何かしらのコントロール方法がないといけませんよねぇ?】

 押し黙るオオゲツヒメを無視するように、フィアはべらべらと喋っていく。

 如何にも自分が閃いたかのような自信に満ちた語りだったが、実際にはミリオンを通して伝えられた、花中からの受け売りだった。

 他者に何かしらの危害を与える物質というのは、基本的には自分にとっても有害だ。自分だけ対象外、なんて都合良くは中々いかない。そのまま扱えば自らにも悪影響が及ぶ可能性がある。

 故にそういった物質を使う時、生物はなんらかの制御機能を持たねばならない。例えば普段は比較的無害な二種の物質に分けておき攻撃時に合成する仕組みを持つだとか、頑丈な『袋』に入れて保管しておくだとか、効果を発揮する状況を限定しておくだとか……

 オオゲツヒメがどのような方法を採用しているかは分からない。だが生命にとって欠かせない水を分解してしまう酵素なのだ、なんらかの制御を行わなければ、危なっかしくてとても使えたものではない。その効果を利用すれば、水分解能力を無効化出来る可能性がある。

 そしてオオゲツヒメが軟体生物である可能性が高いと踏んだ花中は、その制御機能が表皮、或いはその内側から分泌される『粘液』にあると考えた。

 予感は的中した。フィアが何度も爪を立て、削り取った表皮には酵素による水分解を妨げる効果があったのだ。フィアが表皮をいくらか取り込み、細胞を磨り潰したものを混ぜ合わせたもので『拳』を形成。()()()打ち込んでみれば効果は覿面だった。拳を形成していた水の分解を抑え、一撃喰らわせる事に成功したのである。

 無論拳を届かせてもオオゲツヒメに効果はない。が、粘液さえ突破出来たなら、体組織の中に水を浸透させ、身体を満たしている体液と接触出来る。

 そして心臓があるかも分からない生物で、最も体液が集まる場所は……生きるための栄養を取り込む器官。即ち胃である筈だ。

【要するにあなたの細胞を一片たりとも逃さないために最も体液が集まりかつ全身の隅々まで行き渡る経路がある場所にお招きいただいた次第です。さぁてこれからどうします?】

 フィアからの嫌みったらしい問いに、オオゲツヒメは何も答えない。

 代わりとばかりに彼女は凄まじい剛力を以てして、フィアによって拘束されている身体を四方八方へと伸ばし、

【残念。それなら私の方が早い】

 フィアはオオゲツヒメの『逃走』を見逃さない。

 千切れるようではなく、ひび割れるような亀裂がオオゲツヒメの全身に走る。ひびは最初大きく、段々と細かな場所まで入り込み、オオゲツヒメの色を断面と同じ朱色に染め上げた。

 全身隅々、細胞一つ一つまで浸透した『水』がオオゲツヒメの身体を引き裂こうとしていた。

【ではさようなら。あなたを食べられなかったのは少し残念でしたがね】

 そしてぼやかれたフィアの心残りと同時に、オオゲツヒメの身体は粉のような粒となって弾け飛ぶのであった。




体内から爆殺はモンスター退治のお約束。
……あれ? これ能力バトル小(ry)
ちなみにダイナマイトを放り込んだぐらいでは、オオゲツヒメは美味しくいただくだけです。

次回は7/15(日)投稿予定です。


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女神の美食11

 テレビのリモコンを恐る恐る掴み、端にある電源ボタンをぽちりと押す。

 点いたテレビに映るのは、午前八時から放送されている民放のニュース番組。若い女性アナウンサーがニュースの原稿を読み上げているところだった。花中は和室にあるそのテレビの前で正座をし、報道内容に耳を傾ける。

 曰く、とある町に『怪物』が現れたとの事。

 怪物の数は二体。体長は十数メートルから五十メートル以上と、目撃した人によって証言が異なり詳細不明。怪物達は昨晩なんの前触れもなく現れると、いきなり取っ組み合いの争いを始めた。最低でも十メートルオーバーの巨体がぶつかり合ったのだ。町への被害は甚大で、半径十数キロの広範囲に渡って建物の大半が全壊するという地震(天災)すらも生ぬるく思える規模に達している。怪物が暴れ回った範囲の外でも、怪物達が起こした振動による『震災』が発生し、怪我人や行方不明者もいるとの事。耐久面での影響がないか調査を行うため、近隣の学校では臨時休校の措置を執っているところも少なくない。

 そして日本国政府は怪物の出現を『事実』として公式に認めた。

 同時に、異星生命体襲撃を受けて組織されていた対策チームにより、怪物の撃退に成功したという。現在被害状況の確認を進めており、住宅がなんらかの被害を受けていると判明した場合、政府が修復或いは引っ越しに掛かる費用を全額肩代わりすると発表。先々月『危険生物被害対策法案』が可決・翌月施行されており、予算については十分に確保してあるため安心してほしいと政府は国民に呼び掛けている。このように政府の先を読んだ対策の数々は、国民の多くに評価され――――

 話が政治に移ったため、花中はテレビを消した。自宅の和室に置かれたテレビの前に居た花中は、正座していた足を崩して楽な姿勢を取る。次いで大きなため息を吐いた。

 オオゲツヒメとの戦いから、一夜が明けた。

 政府……『世界の支配者(タヌキ)』達は、フィアとオオゲツヒメの存在を隠さなかった。異星生命体の出現により、世界中の人々が既に怪物達の存在を知ってしまっている。下手に隠すよりも、自分達が活躍して被害を最小限に抑えたというストーリーにした方が、何かと都合が良いと判断されたのだろう。巨大生物被害対策法案とやらも、元々は自分達の新たな資金源として作ったものかも知れない。

 無論花中は『世界の支配者』達が怪物退治などしていない事を知っている。政府により発足された対策チームがなんとかした、というのは真っ赤な嘘だ。とはいえ社会の混乱を抑えるという意味では、彼女達の発表が役立っているのも事実。法律により、被害者への救済も行われるだろう。

 そう、被害者への……

「あら、はなちゃんどうしたの?」

 俯いていたところ、後ろから声を掛けられた。ハッとして無意識に振り向けば、首を傾げながら自分を見ているミリオンの姿が目に入る。

 わたわたと平静を取り繕おうとして慌てる花中だったが、どうせ見られていたのだから無意味と気付き、自然体へと戻る。その顔は、ほんの少しだけだが憂い、俯いていた。

「……その……ニュースを、見ていたら……暗い、気持ちに……」

「ああ、昨日の事ね。気にしてもしょうがないわよ、って言ってもはなちゃんには無理でしょうけど」

 半ば諦めたような口振りで励ましてくれるミリオンに、花中はこくりと頷く。

 フィアとオオゲツヒメの戦いは、多くの人間達にとって不意の出来事だった。

 それでいてフィア達はどちらも手加減などせず、自分達の力の行き先など考えずにぶつかり合った。当然だ。『相手』は自身に匹敵する力を持った強敵であり、油断をすれば自分が喰われてしまう。顔も知らない人間に構って負けるなど愚行でしかない。どちらも殺戮は好まないが、それは他者の命を大事にするという意味ではないのだ。

 容赦なく破壊される家々。

 問答無用で砕かれる道路。

 燃え盛る炎。

 吹き荒れる衝撃波。

 多くの市民が巻き込まれた筈である。花中はミリオンに守られていた上に、高度百メートルほどの高さに避難していたので怪我一つ負わなかったが、並の人間なら致死的な災厄だ。果たしてどれだけの人が傷付いたのか、命を落としたのか……自衛隊や警察の調査の結果は、まだ出ていない。

 勿論フィアがオオゲツヒメを倒さなければ、オオゲツヒメは大好物である人間を今後も食べ続けただろう。分裂した身体が問題なく個体として活動していた事から、分裂による無性生殖によって爆発的に増殖する可能性もあった。何千、何万もの超生命体を相手にして、人類が生き残れるとは花中には思えない。人間では到底駆逐出来ない生物を打ち倒したフィアは、間違いなく人類の救世主である。

 それでも、何も知らないまま命を失った人々の気持ちを考えると、素直には喜べない。

「……まぁ、悲しむ気持ち自体は分からないでもないわ。それが自分となんの関係もない人間にまで及ぶのは、ちょっと理解出来ないけど」

 花中の悲しみに、ミリオンは彼女なりに寄り添ってくれる。心を覆っていた暗雲が少しだけ晴れた気がして、花中はこくりと、小さく頷いた。

「それに、あんまり他人の事ばかりも言ってられないんじゃない?」

 尤もこの悲しみを一番拭ってくれたのは、同情や共感の言葉ではなく『現実』だったのだが。

 フィアとオオゲツヒメは、それはもう盛大に暴れた。花中が悲しみを抱くぐらい何も考えずに暴れた。

 他者の命さえもどうでも良い彼女達が、命すらない物体に気を遣う筈もなく。

「法案、可決してて良かったわね。この家も、二階部分がぐしゃぐしゃにされたし、一階も一部燃えたし」

「ええ、まぁ、そうですけどね……」

 しっかり自宅も新制度の補償対象となっていた花中は、苦笑いを浮かべた。

 あの時は驚き、途方に暮れたものだ……二階部分に、恐らくオオゲツヒメとフィアの戦いによって吹っ飛ばされたであろう何処かの家の柱がぶっ刺さっていたのだから。それも自室を貫通である。慣れ親しんだ部屋の中に巨大な角材が横たわり、棚から落ちた多量のぬいぐるみ達が周りを飾る景色は、シュールな美術品にも思えた。単なる現実逃避であるが。

 これでも一応、花中にだけは被害が及ばないようフィア達は注意していたので、()()()()()()()()()()()大桐家の被害はまだマシである。火災の被害が部分的であったため、貴重な蔵書や思い出の品が失われる事も避けられた。家の破損も、花中の部屋の一部が壊れた程度。最悪修理をしなくても ― 耐震性や、雨水による腐食を無視すれば ― 生活自体は続けられるだろう。実際今も暮らしていて、和室でテレビを見ている訳で。

 倒壊した家の数を考えれば、果たしてどれだけの人々が生活を奪われたのか。元の生活に戻るまでに、どれだけの月日が必要なのか。自分が、どれだけ幸運なのか……

「たっだいま帰りましたー♪」

 再び思考が暗くなり始めた、丁度そんな時に玄関から快活な声が聞こえてきた。ハッとして我に返る花中の耳に、ぺたぺたと裸足で廊下を歩く音が届く。

「花中さーん言われた事はやっときましたよー」

 やがて花中が居る和室に、市街地を壊滅させた怪物――――フィアが、満面の笑みを携えてやってきた。勿論金髪碧眼の美少女姿である。

 『友達』の帰宅を、花中は微笑みで出迎える。引き攣ったものでも作ったものでもない、素朴で、正直な気持ちによって浮かべたものだ。

「おかえり、フィアちゃん。ありがとね」

「ふふんこの私の手に掛かればこの程度の事朝飯前というものですよ」

 花中がお礼を伝えれば、フィアは可愛らしく鼻を鳴らし、自慢気に胸を張る。

 外出していたフィアがやっていた事は、花中からの頼み事。

 彼女の能力により、崩壊した市街地全域を探査。生き埋めになっている人々を探し、その救助をしてもらったのだ。人間にはかなりの労力を有する十数キロ圏内の探索も、無数の『糸』を張り巡らせ、その触覚で周囲を探知出来るフィアにとっては楽な仕事。昼食である虫を探しに行く()()()ではあるがフィアは快諾し、人々の救命を行ってくれた。とりあえずはこれで、窒息や圧迫によって死ぬ人は以降いなくなる筈だ。

 フィアが繰り出した攻撃に巻き込まれた人も、大勢居ただろう。けれども「だからフィアが助けるのは当然だ」とは花中には思えない。人間同士が争った時、それに巻き込まれた生物をわざわざ助けるのか? 家族の一員であるペットや、絶滅が危惧されている種以外の、例えば足下のアリや、芽吹いたばかりの雑草を。

 そうだ、と答えるなら構わない。

 しかしそうでないのなら、それでも人が助けられる事を当然だと言うのなら、その人はきっと人間以外の生き物を見下している。人間が他の生物より尊い存在だと無意識に、或いは本気で思っているのだ。

 それが最早自負や慈愛ではなく、身の程知らずであると気付かずに。

()()()()よりもお腹が空きました! 花中さんそろそろお昼にしませんか?」

「……うんっ」

 一仕事は終えたとばかりに上機嫌なフィアの誘いに、花中は頷いて応える。フィアは満面の笑みを浮かべるや、懐から捕まえたばかりであろう大きな蛹を取り出し、早足でリビングのテーブルへと向かう。花中もすぐにフィアが待つリビングへと歩いた。

 その中で、思う。

 今後もミュータントは現れるだろう。それは花中が生き続ける限り、決して避けられない未来である。しかし花中は自らを終わらせる事を選ばない。選びたくないし……選んだところで、ちっぽけで根暗な小娘がこの世からいなくなるだけだ。アナシスのように花中がいなくても生まれるミュータントはいるし、異星生命体のようにミュータントですらない脅威の出現にはなんの影響もない。

 そもそもミュータントに襲われる事は『間違った』事なのか?

 人が死んでしまう事は悲しい事だ。戦いに巻き込まれて命を落とすなど、起きてほしくないとは花中も思う。だけどそれは、他の生き物からしても同じである。釣り上げられた魚と、痴話ゲンカをする男女の足下に居たアリと、怪物に喰われた人々と、怪物達に踏み潰された市民。彼等の間に違いがあると思うのは、人間だけ。自然は、そして生物は、『自分』の好みの外にあるもの全てに平等だ。

 人間はこの平等から自分達だけが外れていると誤解している。ミュータントはその勘違いを考慮しないだけだ。彼女達は決して優しくない。だけど厳しくもない。数百年間甘えた時間を過ごしてきた人間には、ミュータントは酷く残忍で獰猛な生物に見えるかも知れないが、そんなのはただの思い上がりだ。彼女達はあらゆるものに平等なだけである。

 もう、人間は特別などではない。

 だからそれを知る人間として、一生懸命に生きていこう。自分が特別だと思い上がるのではなく、人間の権利など考えるのではなく、全力で生きていきたい。

 否、生きていかねばならない。

 驕り、怠け、自惚れた生き物に、全てに平等である自然界が『居場所』を与えてくれる筈がないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうやら失敗したみたいだな」

 世界の最奥にて、一人の乙女が楽しげに微笑みながらそう零した。

 乙女の言葉が向かう先には、一人の女性が佇む。

 彼女はウェーブの掛かった栗色の髪をしていた。

 彼女は麗しくも素朴で、親しみのある美顔を持っていた。

 彼女は乳児と見紛うほどに瑞々しい肌をしていた。

 そして彼女は淑女と呼ぶに相応しい、嫋やかな笑みを浮かべる。

「みたいですわねぇ。はぁ……やっぱり、わたくしに荒事は向いていないみたいですわ」

 淑女……オオゲツヒメは、心底ガッカリしているのが伝わるため息を吐いた。

 意気消沈したオオゲツヒメを前に、乙女はニヤニヤとした笑みを浮かべるばかり。何時までも笑われて、乙女はムスッと唇を尖らせる。その見た目の歳よりもあどけない仕草は十数時間前までの……花中達と出会い、戦い、全身が粉微塵になる直前までと何も変わらない。

 まるで、そんな事など起きていなかったかのように。

「ちょっと、いくらなんでも笑い過ぎじゃありませんこと? わたくしはあなたの数少ない『友達』なのに」

「くくく……いや、失礼した。詫びとして人間を千人ぐらい連れてきて、パーティーでも開くかね?」

「……結構ですわ。そんな食べきれませんし、最低限の目的は達しましたから」

 オオゲツヒメはちらりと、乙女から視線を逸らす。

 その逸らした視線の先で、ずるり、ずるりと、這いずるような音がした。

 音は段々と大きくなり、明らかにオオゲツヒメ達の方へと近付いていた。オオゲツヒメと乙女もその事には気付いていたが、彼女達は逃げ出すどころか警戒すらしない。

 やがてオオゲツヒメ達の前に現れたのは、挽肉のような歪な形をした肉塊だった。

 それは高さ三メートルほどある巨大な塊であり、生命の息吹を感じないほど醜悪な外観ながら、脈動するように至る所が蠢いていた。挙句肉同士が擦れた際のものなのか、言葉にするのもおぞましい異音を奏でる。常人ならば目にした瞬間、耳にした瞬間に正気が削られていくだろう。

「噂をすれば、だな。丁度帰ってきたぞ」

「お帰りなさい。お使いは出来まして?」

 されど、乙女もオオゲツヒメも何一つ動揺せず、やってきた肉塊に話し掛けた。

 肉塊はぐにゃぐにゃと変形してその形を人型に、オオゲツヒメと全く同じものへと変える。肉塊だった方のオオゲツヒメはにこりと微笑むと、最初から淑女の姿をしていたオオゲツヒメの傍へと自ら寄ってきた。

 そして淑女のオオゲツヒメの手に顔を付けるや、肉塊だった方はずるりとその手に吸い込まれていく。

 比喩などではなく、文字通り吸い込まれた。自身と同程度の ― その同程度の体躯も元は数メートルの肉塊だったのだが ― 人物がするりと体内に入ったにも拘わらず、オオゲツヒメの身体は寸分も膨らまない。変わらず、淑女の姿を保っていた。

 変化があったのはその表情。光悦としており、高級な淫売婦さえも霞むほどの色香を出していた。

「~~~~~っ! っあぁ! 素敵な『味』……やっぱり、人間の味は最高ですわぁ……」

 オオゲツヒメは至福の感情を剥き出しにした言葉を吐き連ねていく。あたかも、今正に人間の味を楽しんでいるかの如く。

 実際、オオゲツヒメは楽しんでいた。それも一人二人分ではなく、何十もの数を、いっぺんに。

 ――――オオゲツヒメは『プラナリア』のミュータントである。

 プラナリアはミュータント化をせずとも、百の欠片になろうと再生し、百の個体として復活してしまうほどの再生力を有した生物である。オオゲツヒメはミュータント化によって、この再生力が著しく強化された。身体を千切っておけば、それだけで新たな個体を生み出せる。

 即ち、花中達が出会ったオオゲツヒメ ― 仮に、オオゲツヒメモドキとしよう ― は、世界の最奥に潜んでいたオオゲツヒメ『本体』の端末でしかなかったのだ。端末といっても能力はオリジナルと同等だが、端末をいくら潰してもオオゲツヒメ本体はなんの損傷もないのである。いや、そもそも端末自体潰されていないというべきか……フィアを戦う前に、保険としてその身の一部を既に切り離していたのだから。

 かくして生き延びたオオゲツヒメモドキこそが、先の肉塊の正体である。

 そしてオオゲツヒメモドキには、数十もの人間を味わった『記憶』がある。オオゲツヒメ本体はオオゲツヒメモドキと一体化する事で、オオゲツヒメモドキの『記憶』を共有。その記憶を()()()思い出す事で、オオゲツヒメモドキが堪能した人間の味覚を楽しんだのである。

「……相変わらず、お前は食事が好きだなぁ。有機物と酸素を反応させて活動のためのエネルギーを生産するなど、時間的にも効率的にも資源的にも無駄だと思うのだが。熱エネルギーを直接吸収すれば良いではないか。余が体質を()()()それも可能になると何度も言っているのに。ましてや味の記憶など、なんの価値もないだろう?」

「あら、価値はありますわ。美味しいものを食べると心が豊かになるんですのよ? 健全な精神は長生きの秘訣ですわ」

「精神状態など神経伝達物質の制御でなんとでもなるではないか。そっちの方が手早く確実だぞ」

 心底理解出来ないと言わんばかりに、乙女は自身の考えについて語る。『嗜好』の違う友人に、オオゲツヒメは「ほんと、不粋ですわねぇ」と愚痴をこぼす。分かってくれなかった事がちょっと不服なのか、オオゲツヒメの唇はへの字に曲がった。

「それに本命は結局手に入らなかったようだしな」

 ただし、乙女がこの一言を漏らすまでは。

 乙女の発言を聞き、オオゲツヒメはにたりと笑う。まるで勝ち誇るかのような笑みに、今度は乙女の方が不服そうに口をへの字に曲げる。

「……なんだ、その笑みは」

「ふふっ。花中ちゃん達の周りに厄介な連中がいる事は、最初から明らかな事。無策であると思いまして?」

「うむ。お前は結構考えなしだからな」

「……今回は、ちゃんと考えてましてよ」

 一瞬ふて腐れるように頬を膨らませるも、すぐに自信を取り戻し、オオゲツヒメは胸を張る。

 そしてビシッという効果音が聞こえそうなほど力強く、乙女に向けて自らの右手をグーで突き出した。次いで見せ付けるように拳を開き、その内側に握り締めていたものを披露する。

 オオゲツヒメの手にあったのは、数本の毛髪。

 色はどれも半透明で、煌めくような銀色をしている。長さは二十センチ以上あり、かなり長めだ。それでいて痛みが少なく、髪の毛からも持ち主の健康と若さが分かるだろう。

 オオゲツヒメはこれ以上の事は語らなかったが、乙女は髪の毛の持ち主を察したようで、興味深そうにオオゲツヒメが持つ髪の毛を眺める。

 オオゲツヒメモドキが拾ってきた、花中の髪の毛を。

「髪の毛とはいえ、人体の一部。香りや味の大まかなサンプルにはなりますわ。これさえ手に入れば、目的の八割は達成したようなもの」

「残りの二割のために、あそこまで固執した事の方が理解出来んのだが」

「美味しさなんていう『無価値』なものを追求するんですのよ? 費用対効果なんて最初から考えていませんわ……ああ、もう我慢出来ません」

 友人の意見を皮肉交じりの言葉で跳ね除け、オオゲツヒメは手にした花中の髪の毛を鼻に近付けて香りを吸い込む。芳醇で魅惑的な香りにオオゲツヒメは悦楽の表情を浮かべ、もう辛抱堪らないとばかりに髪の毛を口に含んだ。

 もぐもぐと、しっかりと噛んでいく。味覚の受容体を口内に集約し、破砕した髪から染み出すアミノ酸やタンパク質の『刺激』を存分に堪能する。

 堪能している最中に、オオゲツヒメは眉を顰めた。

 噛むのを止めはしない。吐き出すなんて以ての外。しっかりと味を感じ取る。しかしその顔に笑顔が戻る事はない。ごくんと、喉を鳴らしてからも。

「……さっきから浮かない顔だが、どうした?」

「ん? ああ、別に不満とかそーいうんじゃないのだけれど……香りマツタケ味シメジってやつかしら」

「は?」

 オオゲツヒメの返答に、乙女が不思議そうに首を傾げる。

 そんな乙女に、オオゲツヒメは吹っ切れたような笑みと共に付け足すのだ。

「私は庶民派だった、って話ですわ」

 『マツタケ』を得るまでのお弁当だった『シメジ』達への、オオゲツヒメなりの感謝を――――




美味しかった。ごちそうさま。ありがとう。また食べたい。もっと食べたい。
それは本当に、嬉しい言葉なのですかね?

次回は今日中に。


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幕間九ノ十

 ロシア南部に位置する、とある山脈地帯の一角。岩と地面しか見えない開けた場所に、防寒着を着込んだ三人の男達が居た。

 彼等はツルハシやハンマーを持ち、足下をじっと見つめている。彼等の目線の先には、周りの地面と色合いの異なる、大きな岩が転がっていた。

 岩の大きさはざっと長さ二メートル、太さは一メートルほど。元はもっと長かったのか両端はへし折られたかのような歪な断面をしており、全体的には円柱形をしていた。岩の表面には編み目のような凹凸があり、断面には薄らとだが、渦のような模様が刻まれている。周りの地面や岩は白味の強い色合いだが、この岩はかなり黒味が強い。

 素人目には不思議な模様の岩に見えるだろうそれを、男達――――古生物学に精通する学者達は、木の化石である事を見抜いていた。

「……探していたのは、恐竜の化石なんだがな」

「これはこれで希少ですよ。一般受けはしませんけどね」

「多分洪水などの災害で折れたのだろう。周囲を掘ってみよう。樹幹や根っこ、花や葉の化石が見付かるかも知れない」

 三人の中で一番年上の男の意見に、二人の男は頷いて同意する。彼等は各々がノミやハンマーを握り締め、周囲に散り、思い思いに掘り始めた。

 石が砕ける音、風が吹き荒れる音、誰かが移動する足音……無言のまま作業だけが刻々と進んでいく。

 やがて年長者の男が掘り起こした場所から、黒い粒が一つだけ出てきた。

「……これは……」

 年長者の男は粒を摘まみ上げ、じっと眺める。

 最初はその小ささに苦戦するように、彼は顔を顰めていた。やがて残念そうに口を曲げ――――ハッとしたように目を見開き、慌ただしく辺りを掘り進める。

 ころころ、ころころ。黒い粒は幾らでも出てきた。他の粒よりもずっと大きな、握り拳ほどもある丸い塊も一つだけ出てくる。気付けば男は、何十もの黒い粒と、たった一つだが握り拳ほどの塊を掘り起こしていた。

「おい! こっちに来てくれ!」

 男は発掘作業中の二人を、大声と手招きで呼ぶ。年長者からの頼みに、二人は自分の作業を止め、駆け足で寄ってきた。

 年長者の男は、これを見てくれ、と言わんばかりに両腕を広げ、二人の男に自分の掘り起こしたものを見せる。二人の男はそれがなんなのか分からないようで、首を傾げた。

 だから、年長者の男は言葉で伝えた。

「種子だ。六千九百万年前の地層から出てきた、化石化していない種子だよ!」

 これが、どれだけ大きな発見であるかを。

 

 

 

 彼等は知っている筈だった。

 

 この世には人智の及ばない怪物が……生身で宇宙を渡るような生物や、その生物を叩き伏せる化け物が存在する事を。

 

 されど彼等は気付かなかった。

 

 自分達の掘り起こしたものが、どれほどの生命体であるかを。数千万の年月を超えた生命が、自分達の手に余るという可能性を。

 

 故に彼女は目覚めた。

 

 世界に絶望と偽りの希望を与える、厄災の力を秘めた彼女が――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十章 目覚めるパンドーラ

 

 

 

 

 

 




ロシアでの出来事ですが、
学者達は日本からやってきた日本人です。
なので次回の舞台も日本人です。

次章もよろしくお願いいたします。


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第十章 目覚めるパンドーラ
目覚めるパンドーラ1


 季節は巡り、八月。

 例年通りの猛暑を迎え、日本は熱帯と化していた。夜になっても気温は下がらず、セミ達が昼と変わらずじーじーと鳴いている。二週間ほど雨が降らなかった地面はすっかり乾き、炉端に生える植物の萎れた葉がほんのり茶色く染まっていた。

 そんな八月の中でも、今日は特に暑い。今やすっかり陽は沈み、雲一つない宇宙空間(星空)に熱が逃げている真っ最中の筈なのに、未だ昼間のような灼熱が日本列島を飲み込んでいる。

 普段はあまり冷房を使わない花中でも、この暑さの中で過ごすのは辛かった。扇風機だけでは全くのパワー不足で、汗が溢れ出す。心なしか頭もぼんやりしてきた。

 地球環境のため、頑丈な身体のため、安易な冷房の使用は控えたいところ。しかし熱中症で死んでは元も子もない。

 なので花中はエアコンを起動させ、

「あぁぁぁぁ……涼しいぃぃぃ……」

 すっかり蕩け、和室のど真ん中でうつ伏せになりながら倒れていた。

「……随分とまぁだらだらしてますねぇ」

「だって暑かったんだもんぅ……」

 あまりのだらけぶりに、同居人であるフィアが呆れていたが、灼熱地獄から開放された花中は他者の視線を感じ取るような繊細さなど完全に失われていた。むしろぐーたらな事をぼやきながら一層全身の力を抜き、だらだらと畳の上を寝転がる。

 過酷な暑さから解放された花中の頭は、必要以上のリラックス状態に陥ってしまっていた。今日はこのまま和室で、お風呂にも入らず、布団も敷かずに寝てしまおうか……等と年頃の娘にあるまじき怠惰な考えが脳裏を過ぎるが、振り払おうともしない。むしろたまにはそれもありかなぁ、等と誘惑に頷く有り様だ。段々眠気が湧いてきて、瞼が重くなる。まだ時刻は二十時前なのに、このまま夢の世界へ出立してしまいそうだった。

 そして花中の傍に居るフィアは、割と堕落した花中を愛でるのが好きである。花中の事は好きだが思いやりなんかは持ち合わせていないので、怠惰の果てにある花中の人生がどんなものでも割とどうでも良い。そもそもだらける事の何がいけないのか、エネルギー消費を可能な限り抑える事こそ正義な野生生物には分からない。どんどん自堕落になる花中を止めるなど、フィアがやる筈もなかった。

「こらー。あんまりだらだらしてると、そのケツ引っぱたくわよー」

 なのでお説教をしてくれたのは、生物ですらない同居人のミリオンである。

 説教といっても優しい忠告レベルであるが、本質的には真面目な花中が我を取り戻すには十分な一言。閉じかけていた目をカッと見開き、脱力していた身体に慌てて力を入れて起き上がる。むにゅむにゅと頬を自分で揉みしだけば……とりあえず、何時も通りの自分を取り戻せた。危ういところだったと、引いた筈の汗を拭う。

「あ、えと……すみません。ちょっと、ぼんやりし過ぎました……ありがとう、ございます」

「全く空気の読まない奴ですねぇ。だらける花中さんを愛でたかったのに」

 謝罪とお礼を伝える花中の隣で、フィアが身勝手な抗議をする。相変わらず花中の気持ちなどお構いなし。『一番の友達』のいっそ清々しいほどの ― 何より何時も通りの ― 自分勝手っぷりに、花中は思わず笑みを浮かべてしまう。

「「……ん?」」

 そんな微笑ましい気持ちは、なんの合図もなく重なった友達二匹の声への好奇で上塗りされたのだが。

「フィアちゃん、ミリオンさん、どうしたの?」

「いえなんか変な気配がしまして」

「うちに近付いてるわね。どれ、少し様子を見に……ああ、そんな必要はないか」

 ミリオンが納得した、刹那、大桐家のインターホンが鳴った。

 どきりと、花中の心臓が跳ねる。

 フィア達は野生動物であり、人間とは比較にならない超感覚の持ち主だ。人間である花中には『怪しい気配』など感じられないが、彼女達二匹が揃って言うのなら、きっとそのような存在が近くに居るのだろう。

 そうしたタイミングでインターホンが鳴ったのだ。勘繰るな、というのも無理な話である。

 加えて、フィアもミリオンも同じ方向――――大桐家の玄関をじっと見つめているではないか。花中の中の推測は、やがて確信へと変わった。

「……えと……ど、どうしま、しょう……?」

「どうもこうも、出るしかないわよね。お客さんには違いないし」

「ミリオンあなたが応対してきてください。私は後ろで花中さんと居ますから」

「ま、それが妥当な立ち位置よね」

 肩を竦めながら飄々と受け答え、ミリオンは玄関へと向けて歩き出す。花中もその後を追い、フィアは花中の傍から付かず離れずの距離で付き添う。

 玄関まで行くと、戸にある曇りガラス部分に人影が見えた。

 それがなんとなく不気味に見えて、花中は思わずフィアにしがみつく。フィアも花中を抱き返し、何かあればすぐに動ける体勢を取った。ミリオンは普段通りの歩みで玄関戸の前まで行ったが、ドアノブを掴むや全身に気迫を巡らせる。

 花中には、未だ『変な気配』というものは感じ取れない。

 しかし玄関まで来たフィア達が明らかに警戒体勢に入った事から、曇りガラス越しに見える人影こそがその気配なのだと察した。一体どんなものが、何が現れるのか。花中が心臓の鼓動を早く、強くする中、ドアノブを握るミリオンの手に力が入る。

「はぁーい、どちら様ですかー?」

 それから如何にも無警戒を装った声と共に、ミリオンは玄関の戸を開けた。

 玄関の前に立っていたのは、一人の女性らしき人物だった。

 らしき、と称した理由は、一見して男にも女にも見える容姿なため。端正な顔立ちは綺麗ともカッコいいとも取れる、中性的なもの。くすんだ色合いの赤毛は後ろ側で束ねられ、ポニーテールの形で纏められている。身体付きはとてもスレンダーで、胸の膨らみはいまいち分からない。服装も涼しげな半袖のポロシャツにジーンズと、男も女も着るようなものだった。

 それでも花中は、一目で『彼女』が女性だと分かった。勿論花中は野生生物並の五感など持ち合わせていないし、かといって目まぐるしく推理を重ねた訳でもない。

 単純に、彼女と花中は知り合いなのだ。

「ほ、星縄(ほしなわ)さん!?」

「え?」

「知り合い?」

 花中が思わずその名を呼び、フィアとミリオンが同時に花中の方へと振り返る。

 それからフィア達が改めて見た女性……星縄はにっこりと微笑む。女性には美男子の爽やかな笑みに、男性には美少女の嫋やかな笑みに見えるだろう顔も、花中にとっては久しいもの。

「やぁ、花中ちゃん。五年ぶりかな? しばらく見ないうちに、この家も随分と賑やかになったね。あと、なんかこの辺りで戦争でもあった? 周りが廃墟と化してるんだけど」

 そして清廉で明瞭な声。

 何もかもが懐かしくなった花中の顔が驚きから喜びへと変わるのに、さしたる時間は必要でなかった。

 ……………

 ………

 …

「もぉー、来るなら来るって、ちゃんと教えてくださいよぉー」

「ははっ、すまないすまない。ビックリさせたかったからさ。花中ちゃんだって、サプライズの方が嬉しさが増すってもんだろう?」

「それは、そうかもですけどぉ」

 リビングのテーブルに向かい合う形で着き、花中と星縄は和やかに談笑する。星縄はまるで自宅であるかのようにリラックスしており、花中の方も微かな緊張すらない柔らかさを見せていた。

 特に花中の反応は、花中を知る者なら誰でも驚くだろう。何しろ小学生並の体躯しかないこの少女は、親しい同級生相手にすら堅苦しい敬語を使うのだ。例外はフィアぐらいなものである。

 そんな花中に、敬語こそ使わせているものの緊張を感じさせない相手。

「ねぇ、はなちゃん。そろそろこの人について、紹介してくれないかしら?」

 かれこれ花中と一年以上の付き合いになるミリオンが、興味を抱くのも必然であろう。

「あ、はい。えっと、むきゅ」

 花中はすぐにミリオンの疑問に答えようとするが、しかしその口は唐突に塞がれる。尤も、わざとではあるまい。

 物凄く不機嫌そうに星縄を睨み付けながら花中に抱き着いているフィアの腕が、少し顔の方へとずれてきただけなのだから。

「……………むすー」

「さかなちゃーん。別にそんなぎゅってしなくても、はなちゃんを取られたりはしないと思うわよー」

「……ふんっ」

 ミリオンに窘められたフィアは、しかし花中を離そうとはせず、抱き締めたままそっぽを向く。

 どうやら、花中が星縄とやたら親しくしているのが余程不快らしい。『一番の友達』を自認するフィアにとって、花中が気軽に打ち解けている星縄の存在は、不愉快以外の何物でもないのだろう。

 無論、花中とてフィアが『一番の友達』である事に変わりはない。星縄に向けてそう宣言しても構わないぐらいだ。というより、星縄に向ける感情は友情とはまた違うものである。

 少なくとも花中の自意識としては、星縄への感情は家族に向けるものに近い。それも歳が近い、姉のような感覚である。

「んぐんぐ、ぷはっ。フィアちゃん、大丈夫だよ。わたしも、フィアちゃんが、一番の友達だって、思ってるから」

「……分かっちゃいますけど私コイツ嫌いです。なんか気持ち悪いし」

「ははっ。これはまた随分と手厳しい感想だね」

「うん。割と、星縄さん、気持ち悪いよね。わたしも、小さい頃は、そう思ったもん。男の人か、女の人か、分からないし、何時もニタニタしてるし、なんか胡散臭いし」

「これはまた随分と手厳しい感想だね」

 フィアの時には笑いながら言っていた言葉を、明らかにトーンダウンさせて繰り返す星縄。『妹』からの容赦ない意見に軽く俯いた後、顔を少し振る。上げた顔には、花中にとっては見慣れた、胡散臭い笑みが浮かんでいた。

 尤も星縄の笑みが胡散臭いのは昔からで、悪巧みをしている訳ではないと花中は分かっているが。曰く、普通に笑っているつもりなのに周りが勘違いして困るとの事である。

「少し遅くなってしまったけど、自己紹介をさせてほしい。星縄(ほしなわ)飛鳥(あすか)だ。苗字でも名前でも、好きな方で呼んでくれて構わないよ」

「星縄、飛鳥ちゃん、と。うん、星縄ちゃんね。ならこちらも挨拶しないと。私はミリオン。さっきからあなたを睨んでいるこっちの子はフィア。訳あって、この家に泊めさせてもらっているの」

「ミリオンさんに、フィアさんね。これからよろしく」

 星縄はミリオンに手を伸ばし、ミリオンはその手に握手を返す。星縄は続いてフィアにも手を伸ばしたが、フィアがその手を握る事はなかった。代わりにそっぽを向くと、星縄は笑みを崩す事もなく手を引っ込める。次いで肩を竦め、困ったような仕草を見せた。

 これでは話をしてもフィアはあまり聞いてくれないと思ったのか、星縄はミリオンと向き合いながら、彼女の『疑問』に答える。

「実は昔、花中ちゃんのご両親の下で働いていてね。今は別のところで仕事をしてるから中々こっちには来れなかったけど、昔はよく夕飯を食べに来たものでさ」

「マ……お母さんとか、お父さんが、お仕事で家に居ない時、一緒に、遊んでくれたりも、してくれたんです」

 星縄の補足をするように花中も話を付け加え、ミリオンは「成程」と呟きながら得心がいったように頷く。フィアは相変わらず星縄を睨んでいたが、花中を抱き締める力がほんの少しだけ弛んだ。

 花中は、ふぅ、と小さな息を吐く。それから今度は真っ直ぐに星縄を見つめ、こてんと首を傾げた。

「えと、それで星縄さん。今日は、遊びに来ただけ、ですか?」

 そしてずっと思っていた疑問を、ようやく星縄にぶつける。

 何しろ星縄が今日自宅に来る事を、花中は全く聞いていないのだ。突然の訪問。果たしてその意図は? もしや何か大事な、アポイントメントを取る暇すら惜しむ事態が起きたのではないか……そんな深刻な考えが脳裏を過ぎる。

 が、花中は難しい考えは纏めて頭の隅へと追いやった。

 何分幼少期には度々会っていたので、花中は知っているのだ。大人びた印象の星縄だが、あれで中々能天気で、猫のような気紛れさがある。幼少期、彼女のいたずらに何度翻弄された事か。

「うん。遊びに来ただけだよ」

 故にあっけらかんとそう答えられても、予想の範疇に過ぎない。そうですかぁ、と無邪気に納得した。

「ついでに、遊びの誘いに来たりもする」

 しかしその続きがある事までは想定しておらず、星縄が懐から取り出してきたものを花中は無意識に見つめてしまう。

 星縄が取り出してきたのは、花中の掌よりもやや大きい、長方形をした四枚の紙切れ……いや、正確にはチケットと呼ぶべきか。

 チケットには鮮やかな花や若々しい草木のイラストが描かれており、見た者の心を弾ませるデザインとなっていた。ぱっと見どのチケットも同じデザイン・規格のようで、一目で分かるような差はなさそうである。

 そしてイラストよりも目立つぐらい大きく書かれた、『天神植物園 入場チケット』の文字。

 どうやらこのチケットは、植物園に入るためのものらしい。加えてこの植物園の名前、花中は何処かで聞き覚えがある。

「……天神植物園?」

「うん。最近ニュースで有名なんだけど、知らないかな?」

 思わず呟くと、星縄はヒントを与えてくれた。早速花中は最近のニュースに関する記憶を振り返ってみると、すぐに思い出す事が出来た。

 だからこそ花中は、自らの目をギョッと見開く。

「こ、これって、まさか、あの……?」

「そう、アレの観賞チケットだよ」

 おどおどと尋ねれば、星縄から返ってきたのは肯定の言葉。訝しむように眉を顰めるフィアの腕の中で、花中は満面の笑みを浮かべた。

 大昔の地層から発掘された種子が、現代の環境で芽吹き、(つぼみ)を付けた――――そんな情報が、二週間ぐらい前からネットやテレビのニュースに出てきた。

 種子というのは、長期の休眠を得意としている。そこらに生えている雑草でも、数年~数十年程度の休眠期間は普通にあるぐらいだ。庭の雑草を根こそぎ引っこ抜いても数ヶ月もすれば元通りになるのは、土の中で休眠していた種子が目覚めた結果である。

 しかしながら流石に()()()()()()前、白亜紀後期の地層から発掘された種子が発芽するのは、観察例のない出来事だが。

 発掘された種子は合計三十七個。傍には親株と思しき植物体の化石も見付かっている。親株は流石に死んでいたが、種子の方は三十七個全てが生存しており、水を与えたところ容易に発芽したらしい。

 尤も、環境への不適合か、或いは現代の病原菌に対し抵抗力を持たなかったからか、長期休眠による衰弱か、種子を発掘した教授達は古生物の専門家であって生きた植物などアサガオぐらいしか育てた事がなかったからか――――理由はどうあれ、芽吹いた個体の殆どが数日で枯死。残った数体も明らかに弱っていた。

 このままでは全滅は火を見るより明らか。そのため教授達及び大学側は独自での飼育を諦め、希少な植物の繁殖実績で世界的に注目されている、天神植物園に栽培を依頼。世紀の大発見を無駄にするまいと、天神植物園は総力を結集し……残った五個体中三個体が残念ながら枯死したものの、残り二個体が蕾を付けるところまで成長してくれた。

 天神植物園側は厳重な警備の上で、この希少な古代植物のうち一個体の展示を決定。ただしこの展示会は定員制であるため、世界中のマニアが現代に蘇った古生物を一目見ようと申し込みが殺到している。

 ……という内容のニュース記事だった。花中としても大変興味の惹かれる存在であったが、恐竜時代の植物ともなれば、熱心なマニアが押し寄せている事は想像に難くない。彼等との競争を勝ち抜ける自信などなく、そのうちテレビで生中継されるだろうと思って諦めていた。

 それが、まさかこのような形でチャンスが巡ってくるとは。

「この植物園には花中ちゃんのお父さんとの繋がりで、ちょっとしたコネがあってね。何枚か譲ってもらったんだ。だから花中ちゃんも一緒にどうかなぁって」

「で、でも、これって、物凄く貴重なんじゃ……」

「そりゃ貴重だし、今ネットオークションにでも出せば日本円で七桁は付くだろうけど、別にお金なんか必要以上には欲しくないしね。誰かと一緒に見に行って、楽しむ方が良い」

 笑顔のまま震える花中に、星縄はなんの躊躇いもなく答える。その言葉に、一片の嘘も強がりも感じ取れない。本当に、星縄はお金なんかよりも『思い出』を重視しているようだった。

 ごくりと、花中は息を飲む。

 すると星縄は、その手に持っていたチケットをテーブルの上に置き、花中の方へ押し出すように移動させた。

「もらったチケットは五枚。自分用のやつを除けば四枚だ。最初は花中ちゃんのお父さんとお母さんもって思ってたんだけど、出張で海外なら仕方ない。この四枚は、花中ちゃんの好きに使ってくれて構わないよ」

 そしてチケットから手を離すのと共に、その所有権すらも放棄する。

 目の前に置かれ、何時の間にやら自分の物となった『お宝』を前にして、花中の心臓が跳ねる。

 このチケットをどうするか? 例えば売るのは……論外だ。七桁どころか十桁のお金を積まれようと、絶対に譲らない。六千九百万年前に生息していた植物の姿など、もしかしたらもう二度とお目に掛かれないかも知れないのだ。生涯に一度の体験を、()()()()()()で手放すなど勿体ないにも程がある。そう断言出来る程度には、花中は生き物大好き少女なのだ。

 故に一枚の使い道は決まった。残るは三枚。

 この三枚を売り払うのも論外である。自分に抱き着いたまま、一緒に行きたそうな……いや、既に一緒に行く気満々な眼差しを向けてくる友達の期待を裏切るなど、花中には出来ない。大体数十億円ぽっちで売り払うほど、自分達の友情は安くない! そう断言出来る程度には、花中はフレンドリー大好き少女でもあるのだ。ミリオンも、花中が出掛けるなら付いてくるだろう。こうして二枚目と三枚目の使い道も決まった。

 残りは一枚。つまり、誘えるのはあと一枚。

 残る一枚で誘う、あと『一人』は――――




始まりました新章。
此度の敵も大変人類に優しくない存在であります。最早定番ですね。
そもそも優しかった事があったと言われると微妙な気がする。

次回は8/26(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ2

「まぁ、そりゃあたしだよねー」

 言葉では如何にも仕方ないと言わんばかり。だけど口角がほんのり上がっている。楽しさを殆ど隠せていない。

 友達であるミィのそんな笑顔を前にして、花中はにっこりと微笑んだ。

 地元を離れた、東京都のとある駅前に広がる大きな広間に立つ花中とミィ。頭上には昼時を迎え絶好調に輝く太陽があり、地上を焼き尽くさんばかりに熱光線を撒き散らしていた。周りには大きな建物がなく、二人の周りには身を隠せる影などない。

 しかし花中とミィは、汗一つ流していなかった。ミィは肉体操作で排熱を調整出来るためさして不思議ではないが、花中はただの人間である。周りを行き交う人々が苦悶の表情を浮かべ、誰もがハンカチで汗を拭っている中、一人だけ余裕でいられる能力など持っていない。

 とはいえ花中が暑さに喘いでいない理由は『能力』によるものである――――自分の、ではなく、傍に居るフィアとミリオンによるものだが。ミリオンが周囲の熱を吸い取り、フィアが霧状にした冷たい水を撒いているのだ。花中が熱中症で倒れないようにとの配慮である。

「いやー、それにしても涼しいね。ミリオンやフィアの力って便利だなぁ」

「ふふんそうでしょうそうでしょう。なんたって私は最強ですからね!」

「猫ちゃんだって、その気になればこのぐらいの真似は出来そうだけどね。周りの空気を吸い込んで、熱を取り込んだ冷たい空気を吐くって感じに」

「出来るけど、それやると後ででっかい排熱しないといけないから、結局後で暑くなるし」

「使えないクーラーねぇ」

「いや、元々クーラーじゃないんだけど?」

 わいわいと三匹は盛り上がり、楽しげな会話を繰り広げる。じゃれ合いでほんのり衝撃波が発生しているが、概ね平和な光景なので、見ていた花中は思わず笑みが零れた。

 今日、花中達は天神植物園へと向かう。

 此処に居るミィも、勿論その参加メンバーの一匹だ。残った一枚のチケットを誰に使うかで、見事選ばれたのがミィなのである。

 しかし花中は何も彼女だけを誘った訳ではない。

 友達の数がとっても少ない花中であるが、それでもフィアとミリオン、そしてミィ以外にもあと二人……晴海、加奈子という友達がいる。花中にとってフィアは一番の友達であるが、他の友達には『順位』など付けていない。みんな同じだけ大切で、みんな同じぐらい親しい。そのため誰かを選ぶという事が、花中には出来なかった。

 無論選ばねばチケットが一枚無駄になる。それはあまりにも勿体ないが、転売をするのだって気が進まない。悩んだ末に花中は、三名を同時に全員呼び出し、直に予定を訊いてみる事にした。

 すると晴海はその日親戚の家に行くとの事で都合が合わず。加奈子も一人旅の予定を組んでるとの事で辞退。野良猫であるミィだけスケジュールが空白だったため、参加となったのである。

「そういえばあなた植物とか好きなんですか? あんなの別に可愛くもなんともないと思うのですけど」

「うん、あたしも別に好きじゃないよ。動かない生き物とか興味ないし。だから晴海達が行けるならそっちに譲るつもりだったんだけど、こーいう時に限って誰も行けないっていうね」

 ちなみに、此度のイベントに対するミィの関心はこんなもんだったり。

 出来ればもっと興味を持ってほしいとは花中も思うが、こうして参加してくれただけで良しとする。賑やかで楽しい事が大好きな花中にとって、一緒に来てくれるだけでも十分嬉しいのだ。

「おーい、花中ちゃーん」

 そうして過去を振り返り終わった、丁度良いところで『彼女』の声が聞こえてきた。

 振り向けば、大手を振っている長身の『女性』らしき姿が。

 近付いてくる女性が星縄である事は、知り合いである花中にはすぐ分かった。今日の星縄は薄手かつ身体の形が見えるような長袖Tシャツを着て、下も腰や太股のラインが分かる細身のジーンズを履いている。中性的な顔立ちの星縄であるが、しなやかなスタイルを見れば女性だと分かり易い。むしろそのスレンダーさが魅惑的で、色香を出しているようだ。

 ちなみに花中の服装は若葉をイメージしたデザインのチュニックと、ゆったりとしたズボン。可愛い系ではあるが、色香なんてない。大人はやっぱりセンスが違うんだなぁ、と花中は星縄に尊敬の眼差しを送る。すぐ近くまでやってきた星縄は花中の眼差しの意図に気付いたのか、照れたように頬を掻いた。

「おはよう花中ちゃん。そう見つめられると、ちょっと小っ恥ずかしいかな」

「ふぇっ? あ! ご、ごめんなさい……」

「ははっ、女の子に見とれられるなら、悪いファッションじゃないみたいだね。安心したよ……ところでこの辺り、随分と涼しいね。何処かのお店の空気が流れ込んでるのかな?」

 きょろきょろと辺りを見渡す星縄だったが、ふと視界にミィを入れるやぴたりと止まる。ミィの存在をしっかりと認識した星縄は、すぐに胡散臭い ― 本人としては親しげなつもりの ― 笑みを浮かべた。

「おっと、初めまして。あなたがミィちゃんかな?」

「どうも、よろしくー」

 花中と入れ替わるように、今度はミィが星縄の前に出る。どちらも適当な挨拶を交わし、そこそこ友好を深めていた。

「さてと。全員揃ってるようだし、そろそろ行こうか? 忘れ物とかしてないよね」

 それから星縄は辺りを一望し、出立を提案する。

「私は構いませんよ」

「私も問題ないわ」

「右に同じー」

「あ、はいっ。大丈夫です」

「良し、それじゃあ出発だ。あ、チケットは後で渡すから心配しないでね」

 花中達の同意を受けた星縄は懐から五枚のチケットを取り出し、自分も忘れ物はないと主張する。これさえあれば、今日の目的である『展示会』への参加は可能だ。憂いはなくなり、この場で足踏みをさせるものはもうない。

 花中達は同時に、目的地を目指して歩き始めていくのだった。

 

 

 

 天神植物園。

 都内某所に存在するこの植物園は、植物好きにとっては天国のような場所であろう。

 展示されている植物は約五万種と、凡そ一日では見て回れないほど膨大。国内では此処でしか見られない種も数多く展示されており、中には触れ合い体験という形でなら、触る事が許されている種もある。

 植物学への貢献も大きく、様々な種の栽培方法を研究・実用化してきた。絶滅危惧種の保護活動にも積極的で、多くの種を危機から救った実績もある。基本方針は「もらった時よりも増やす」事、とホームページの『理念』のページには記されている。

 そして今では、古代から蘇った植物までもある状態。

 それほどの植物園が、夏休み真っ只中で空いている筈もなく。

「す、凄い混んでる……」

「ですねー」

 入場した花中達を待っていたのは、ごった返す人混みの光景だった。後ろから抱き締めるようにくっついているフィア ― 全身がひんやりしていて、触れているとかなり気持ちいい。お陰で炎天下の移動も楽々だった ― の同意する言葉も、周りの喧噪によって掠れてしまう。

 植物園の入口には美しい花を咲かせた植物が何十種も飾られていたが、行き交う人の姿が視界の大半を埋め尽くすため殆ど見えない。空調が効いている筈なのだが、むしむしとした暑さは人々の熱気によるものか。正直、居心地が良いとは言えない。

 花中達とて他者から見れば行き交う人の一人であり、人混みを形成する要素。人混みに向けた言葉はそのまま全部自分達に返ってくるのは重々承知しているが……それでも、もうちょっと減ってくれないかなぁ、と思ってしまうぐらいの大混雑だった。

 そしてこの混雑は、花中達を此処に誘った星縄にとっても想定外らしい。何時もニコニコ胡散臭い顔を、珍しく困らせていた。

「うーん、前に来た時はここまで混んでなかったんだけどなぁ」

「みんな、その古代植物ってやつが見たいんじゃないの?」

「いや、展示会専用のチケットがないと観賞は無理だから、それはないと思うんだけど……」

「案外猫ちゃんの言う通りかも知れないわよ? ちゃんと下調べをせず、行けば見られるっていう思い込みだけで来た輩も居るみたいだし」

 ぼやく星縄にミィが自分の考えを述べ、その考えに同意するミリオンはある場所を指差した。

 指先を追ってみれば、そこはインフォメーションセンター……問い合わせ窓口があり、何人かの入場者が詰め寄っている姿が見える。集まっている入場者は、遠目で見ても分かるぐらい興奮している様子だ。受付の若い女性が淡々と応対している様が、彼等の滑稽さを際立たせていた。

「……流石にあれは少数派じゃないかなぁ」

「さて、どうかしらね。ホームページとかだと、専用チケットがないと見られないって記載は端っこにちょこっとあるだけだったから、見逃してる人は多そうだけど」

「ええぇ……その表示の仕方はちょっと……」

「それに実物は見られなくても、写真や研究ノートのコピーは展示されているみたいだしね。そっち目当ても多いんじゃないかしら」

 『感情的』な否定をする星縄に、しっかり下調べをしてきたミリオンが論理的に反論する。星縄はようやく納得したように、成程と呟きながら頷いた。

 実際、ミリオンの考えが正しいのだろう。恐竜時代の植物を蘇生させたというのは、植物学のみならず科学界全体にも轟く偉業だ。科学に少しでも興味があるなら、新情報を知りたくなるだろう。例え実物は見られなくても、写真や研究成果などがあるならそれを閲覧したくなる心理は花中にも分かる。その数が、花中や星縄が思っていたよりも多かった、という事だ。

 そして正確に言えば、花中も彼等と似たような気持ちを抱いていたりする。

「あ、あの、星縄さん。展示会の開催時間まで、まだ余裕、ありますよね」

「うん、そうだね。バスの遅延とかあったけど、まだあと……二時間ぐらい余裕があるよ」

 花中の問いに、星縄は腕時計を見ながら答える。

 二時間。

 それは決して長い時間ではない。が、油断するとすぐに過ぎるような時間でもない。

 きっと、ちょっと『展示物』を見回るぐらいの猶予はある筈だ。

「なら、わたしも、植物の写真とか、ノートを見に行きたいの、ですけど……」

「勿論構わないよ。ちゃんと時間通りに行動してくれるなら、ね」

 花中がおどおどしながら尋ねると、星縄は大人らしく忠告を付け加えながら快諾してくれた。花中は花咲くような笑みを浮かべ、後ろに立つフィアの手を素早く掴む。

「フィアちゃん、早く行こ!」

 次いで答えを待たずに、掴んだフィアの手を引いた。フィアはこくんと頷き、花中の早足に合わせて付いてくる。ミリオンは見送るつもりのようで、星縄の隣で手を振っていた。ミィは何時の間にか姿が消えていたので、一匹で何処か行ったらしい。何か気になるものでもあったのだろうか。

 フィアと共に花中は『展示コーナーA』と書かれた看板が設置されている施設の入口へと向かい、そこに置かれていたパンフレットを手に取って中へと入った。施設内にはたくさんの人が居て、流石にそこを駆ける蛮勇はないため一度足を止める。逸る気持ちから、花中の足は自然と足踏みをしていた。

「花中さん随分と楽しそうですね」

 自分が無意識にしていた仕草に気付けたのは、フィアからの指摘を受けてからだ。

 フィアは決して窘めた訳ではないだろう。が、子供染みた自分の行動を自覚させられ、花中は赤くなった顔を俯かせた。

「う、うん。ちょっとはしゃいじゃった」

「大変可愛らしくて良いと思います。それでお目当てのものがあるのですよね? どうやって行くのですか?」

「あ、えっとね……」

 フィアに尋ねられた花中は先の醜態を誤魔化すように慌ただしくパンフレットを開き、描かれている地図に目を通す。

 それから間もなく、花中は眉間に皺を寄せた。

 パンフレットにはお目当てのもの――――発見された古代植物に関する情報が載っていなかったのである。何故だろうと思い地図以外にも目を向けたところ、パンフレット左上に書かれている発行日時が二ヶ月前を示している事に気付いた。古代植物の栽培成功のニュースが一月前で、お披露目は今日が初日。

 つまり更新が漏れている、という事だ。

「……なんか、パンフレットが古くて、書かれてないみたい」

「おや。そういう事もあるのですね」

「うーん、普通は、ないと思うけど……」

 古いパンフレットが紛れていたのか、急な企画で準備が間に合わなかったのか。なんにせよ仕事が雑な気がして、花中は舞い上がっていた自分のテンションが急降下していくのを感じる。

 とはいえ『がっかり』するほどの事ではない。古代植物の写真などが展示されているという情報はホームページにも載っていたのだから、植物園の何処かにはある筈だ。仮に見付からなかったとしても、今回この植物園に来た『目的』は古代植物の展示会であり、研究資料の閲覧は時間潰しに過ぎない。

 程良く落ち着けたと前向きに思う事にして、改めて花中はフィアからの質問に対する答えを考える。

「……とりあえず、この熱帯植物展示温室って、ところに、行ってみようと思う。古代植物が生きていた時代って、温かい気候だったって、言われてるから。なんとなく、雰囲気的に、近くにありそうな、気がする」

「了解です。だとするとあっちに行けば良いのですかね」

 パンフレットを見ながら花中が自分の考えを伝えると、フィアはおもむろにある場所を指差した。目で追ってみれば、先程花中が伝えた言葉が刻まれた看板のある入口があった。

 温室へと向かう人、出てくる人は共に少数で、数は同じぐらい。果たして自分の想像が当たっているのか。花中はあまり期待せず、フィアと共に向かう。

 入口の先には十数メートルほど続く廊下があり、行き止まりには二枚の大きなガラス戸があった。一般の来場者らしき人々がガラス戸を通っていたので、そこが温室への入口で間違いないと花中は確信。ガラス戸の前まで辿り着いた花中は戸をゆっくりと開けた、途端、中からむわっとした熱気が溢れてくる。

 吹き付ける熱気を潜り抜けると、行く先には熱帯のジャングルのような光景が広がっていた。

「おおー……!」

 ある意味では思っていた通りの、それ故に感動のある景色を目の当たりにし、花中は無意識に声を漏らす。

 展示されている木々は、いずれも熱帯のものなのだろうか。少なくとも花中が暮らすご近所の森、いや関東圏では見られない姿形をしたものばかり。生息地の環境を再現しているのか、温室内はじめじめとした暑さに満たされていたが、そんな些末な事など花中は気にしない。初めて目の当たりにした『生き物』の存在に、すっかり舞い上がっていた。

 強いて気になる点を挙げるなら、これほどわくわくする空間に自分達以外の人影があまりないところか。真夏の暑い時期に、わざわざ暑い温室に行きたくない心理が働くにしても、些か少な過ぎる気がする。尤も他人を気にせずのびのびと見学出来るので、悪い事とは思わなかったが。

「随分暑いですねぇ……おやあんなところに蝶が」

 そんな花中の身体に、自身のひんやりとした『身体』をくっつけながらフィアは暢気に独りごちる。辺りを見渡してみると、たくさんの蝶が温室内を飛び回っている事に花中は気付けた。動き回る蝶の種を正確に同定するのは難しいが、恐らくはナミアゲハ ― 住宅地でもよく見られるアゲハチョウの一種 ― だろう。ナミアゲハは熱帯に生息するような種ではないが、見た目が派手なので、賑やかしとして放し飼いにされていると思われる。

「……ふぅむなんだか見ていたら小腹が空いてきましたね。薬の臭いもしませんしちょっと幼虫を探してみますか」

 流石に、フィアの願いは叶わないだろうが。

「うーん……多分、いないと思うよ。幼虫が付いてたら、そのままだと、葉っぱが食べられちゃうし。柑橘系の植物がないから、こうして放してると思うよ?」

「そうなのですか? でもさっきから臭いがするのですが」

「? 臭い?」

「ええ。虫が葉を囓った跡からするような臭いがぷんぷんと」

 花中が訊き返すと、フィアは自信満々に胸を張った。

 フィアが言っている事は、なんらおかしな話ではない。植物というのは一見して大人しく動物達に食べられているようで、実は様々な『防御』を行っている事がある。例えば毒として作用する成分を大量に合成したり、粘着性のある物質を分泌して食べ難くしたり……葉を食べる昆虫の唾液と反応させ、臭い物質を合成したり。

 唾液と反応して作り出した臭い物質は、葉を食べている昆虫を殺したり、追い払ったりする効果はない。代わりに、その昆虫の天敵となるハチなどを呼び寄せるために使われる。

 フィアはその臭い物質を嗅ぎ取ったのだろう。植物が『想定』している天敵に(フナ)は入っていないだろうが、陸上を闊歩し、人間並の知性を有するフィアならば植物のSOSを受け取れる筈だ。

 問題は……ハッキリとした臭いを発しているという事はつまり、相当葉が食い荒らされているという事。展示物がピンチかも知れないのだ。

「えっと、フィアちゃん、その臭いって、何処から……?」

「あちらですよ」

 フィアは花中を抱き込むように腕を回したまま、真っ直ぐ、迷いなく歩き始める。

 フィアに連れられるがまま移動する事数分……花中の辿り着いた場所には、葉の殆どが柄だけになり、無数のイモムシにたかられた一本の木があった。

 木の種類は分からないが、漂う香り ― 大量の葉が食い散らかされ、生傷がたくさんある事が原因だろう ― からして柑橘系だと思われる。イモムシについては一目瞭然だ。ナミアゲハの幼虫である。どう考えても、放し飼いにされている個体達が産卵したものだろう。どの幼虫も活発に動いているのは、食べ物がなくなって空腹に苦しんでいるからか。中には地面を歩いている個体の姿も見受けられた。

「ほら花中さんたくさんイモムシ付いてますよ。やはり薬の臭いもありませんから食べても平気そうです。という訳で食べても良いですか?」

「う、うん……」

 すっかり食べる気満々なフィアに、花中は思わず許しを出してしまう。もしかすると『自然の厳しさ』を伝えるための展示物かも知れないが、見張りをしている職員は居らず、解説の記された看板すらない。これではもぞもぞと蠢く気味の悪いオブジェ以外の何物でもなかった。温室に人影がないのは、この不気味な展示品の影響も少なからずあるだろう。

 ナミアゲハの幼虫達にとっても、このままでは食糧不足で全滅の恐れがある。『野生動物』によって多少間引かれた方が、どちらにとっても良い筈だ……というのは人間の一方的な価値観だが。

 花中がそんな事を考えている中、フィアはゆっくりとイモムシ達にその手を伸ばした。狙うは木の根本を歩いている大きな幼虫。イモムシは気配を察知したのかビクリと動きを止めたが、知性を持つフィアは誤魔化せない。恐るべき魔物の手は難なくナミアゲハの幼虫を捕まえる

「ふんっ!」

 直前に、急に行き先を変えた。

 フィアの手が向かうは、ナミアゲハの幼虫がたかる木から数十センチほど離れた地面。人間では到底出せない速さで突き立てられたフィアの手、いや腕は地面に深々と突き刺さる。

 それからしばしフィアは動きを止めていたが、やがて突き刺した腕をゆっくりと引き抜く。すると握り締めた拳には根っこのようなものが握られていて、ずるりと一緒に飛び出してきたではないか。

 フィアが握り締めているのは、展示されている植物の根だろうか?

 突然起こしたフィアの行動の意味が分からず、花中は唖然となる。しかし驚きはまだまだ終わらない。

 フィアの掴んでいる根っこのようなものが、独りでに動き出したのだ。フィアが手を離すと根っこらしきものはずるずると地面の上で蠢き、束になり、形を作っていく。地面からは更に大量の根らしきものが自ら這い出し、束を一層大きなものへと変えていく。

 ついに根っこの束は幼稚園児ぐらいの大きさになり、人の形を取った。

 色などは根っこの時のそれ ― 全体的に茶色っぽい感じの ― であるが、『顔立ち』や『身体付き』は幼稚園に通う女児のよう。服、のように見える塊も園児服に近いデザインだ。

「んもぉ、いきなり手荒な方ですね。育ちの良さが知れるというものです」

 ただしその言葉遣いは、フィア以上に慇懃無礼なようだが。尤も、言葉遣いの悪さなど今更大して気にならない。

 新たな『ミュータント』と遭遇した事実に比べれば、口調なんてものは些末なものなのだから。

「ふん。育ちが悪いのはあなたも同じじゃないですかね。地面の中なんて根暗な場所に潜みながらこっちの様子を窺うなんて何を企んでいるのです?」

「企むなんて人聞きの悪い。お前は自宅に怪しい輩が来て、やぁやぁ我こそはなんて名乗りをあげるのですか?」

「しませんよ。すぐに叩き潰します」

「ヤベぇ、この人マジモンの蛮族です……」

 人外級の粗暴さを発揮するフィアに、同じく人外である幼女は表情を引き攣らせる。

 花中としても、幼女の言い分は一理あると感じていた。恐らく幼女はこの温室に展示されている植物、或いは紛れ込んできた『雑草』の一種なのだろう。つまり此処は幼女の『家』であり、自分達は不埒な侵入者。警戒するのは当然だ。

 花中は不安と緊張で昂ぶっている自分の胸を押さえながら、深々と深呼吸を一つ。幸いにして幼女は警戒こそしているが、敵意のような感情はないように見える。ちゃんと挨拶をすれば、仲直り出来る……と思いたい。

「え、えと、ごめんなさい。わたし達、その、温室の植物を、見に来ただけで……あ、わたしは、大桐花中と、言います。えと、人間、です。あなたは?」

 信念に従い、花中は片手で胸を押さえながら、幼女らしき『生物』に自己紹介をした。

 幼女はじとっとした目付きで花中を見つめ返し、ややあって小さく鼻を鳴らすような仕草を取る。

「……名前はねぇです。ただ、種名は知ってます。ラフレシアだそーです」

「ラフレシア……?」

 花中はこてんと首を傾げる。

 ラフレシアを知らない訳ではない。ラフレシアは『世界一巨大な花』として ― 高さ三メートルを超える事もあるショクダイオオコンニャクは小さな花の集合体なので除外しておく ― 、日本でも有名な植物なのだ。生き物好きな花中からすれば、その名は知ってて当然の『常識』である。

 しかしラフレシアを名乗った幼女は、どう見てもその世界最大級の花がない。いや、そもそも植物らしさがない。フィアが引っ張り出したものも植物の根のようではあったが、葉や茎などは何処にも……

 と、そこまで考えて、花中は思い出した。ラフレシアは寄生植物であり、栄養素は宿主から頂戴しているのだ。そのため葉や根を持たず、糸状の組織しかないらしい。寄生生活に特化した事で、一般的に目にする植物とは全く違う形態へと進化したのである。

 フィアが引っ張り出したのは、その糸状組織なのだろう。そして糸のような組織を束ねる事であたかも人のような姿を取っている、という事か。

「……疑ってるですか?」

 考え込んでいると、ラフレシアの幼女は怪訝そうな表情と声で尋ねてきた。花中は顔を横に振り、疑惑を否定する。

「いえ、納得したところです」

「納得、ですか。まぁ、なんだって良いです。ところでお前、一つ頼み事をしても良いですか?」

「頼み事?」

 花中が訊き返すと、ラフレシアの幼女はすっと自分の傍にある植物を指差す。

 それは、蔓性の植物のようだった。詳しい種類までは花中にも判別が付かなかったが、ヤブガラシなどに似ている気がする。一目で分かるぐらい葉を萎れさせており、このままではあまり先が長くない事が窺い知れた。

 そうしてじっと観察し、ふと思い出した。幼女が指差した植物と似ているヤブガラシはブドウ科の植物であり、ラフレシアはブドウ科の植物に寄生する事を。

 だとしたらこの植物は、幼女の『ご飯』なのかも知れない。そしてご飯が萎れているというのは、あまり良い状態ではないだろう。

「私は今、こいつから栄養をもらっているですが、どうにも最近水不足で元気がないのです。こいつに枯れられると、私としてはとても困るんですよ。それに私もちょっと水不足気味でして。そこでお前達には水を持ってきてほしいのです」

「水、ですか?」

「それぐらい自分で取りに行けば良いじゃないですか。そうやって身体を作って動けるみたいですし」

「これ、細胞の圧を激しく変化させる必要があるのでめっちゃ疲れるんですよ。いざとなればやるですが、まだいざという時じゃねーのです。お前達に断られたら考えるですよ」

 フィアの反論に対しあまりにも正直に答えるラフレシアの幼女に、花中は思わず苦笑い。どうやら断ったところで大事にはならないようだが……この程度の小さなお願いを断るのも意地が悪いように思える。無理矢理引っ張り出した『詫び』も必要だろう。

 無論花中には植物園の設備を好き勝手に扱う権限などない、が、水なら『此処』に幾らでもある。

「えと、フィアちゃん。ちょっと、お水をあの植物に、あげてくれる?」

「花中さんからの頼みでしたら構いませんよ。あなた花中さんの優しさに感謝する事ですね」

「へいへい、ありがたい話ですね。あー、ちなみに量は二~三リットルもあれば十分ですよ。湿度は高めなんで、それだけありゃあ一週間は持つと思うです」

「本当に感謝してるんですかねぇ……」

 ラフレシアの幼女から具体的な注文に、フィアは訝しげに眉を顰めながらもその手から真水を流し始める。ジョウロで水を撒くようにじょろじょろと、かなり適当な撒き方をしていたが、ラフレシアの幼女的には問題ないらしい。安堵のような、温泉に浸かるかのような、弛みきった表情を浮かべた。

「んー、身体に瑞々しさが戻るです。感謝しておくです。私を引っ張り出した事も、帳消しにしてやるですよ」

 そして大層満足そうに、花中達を許してくれた。

 どうやら仲直り出来たようだと、花中はホッと一息吐く。

 次いで、ふと疑問が過ぎった。

「あの……ところで、どうして、水が足りなくなったの、ですか? 職員の人が、水やりを、していると、思うのですけど……」

 そう、此処は植物園である。植物の世話は職員の仕事だ。ラフレシアの幼女の寄生している植物が展示物であるかは分からないが、雑草だとしても他の植物のおこぼれで十分な水を得られる筈である。

 どれぐらい危機的状況だったかは分からないが、助けを求めてくるぐらいには追い詰められていたのだ。展示物の管理がなってないのではないか。

 花中のそんな懸念は、正しいものだった。

「いやー、実は最近ずっと世話してもらってなくてですねぇ。ここ二週間、職員は温室にすら立ち入ってないんじゃねぇですかねぇ?」

 ラフレシアの幼女の言う事が本当なら、最早職務怠慢という次元の話ではないのだから。

「……へ? に、二週間も、誰も来てない!?」

「ええ。お陰でのんびり暮らせるのは気楽で良いですがね。人間が来ると五月蝿くて昼寝も出来ねぇですよ。ま、草なんで睡眠なんか取りませんけど。いっそ雨水を入れるために、天井をぶち壊してしまいましょうかねぇ?」

 いざとなれば自力で水を取りに行けるからか、ラフレシアの少女はさして気にしていない素振りだが……二週間も放置するなど、常軌を逸している。

 『植物愛護』の精神から見た問題だけではない。野生個体が少ない種を管理不行き届きで枯死させたとなれば植物園の名声に傷が付くだろうし、経済的損失だって計り知れない。入手したからには、長持ちさせるのが得策な筈なのだ。経営不振などから人手が足りない可能性もあるが、だとしても二週間もの長期間誰一人として来ないなどあり得ない。ストライキでも起きているのか?

 そう考えていたからか、はたと気付く。よくよく見れば、他の植物も萎びていたり、葉が黄色くなっていたり、新芽に虫の食べ跡が付いていたり……全体的にボロボロではないか。疑っていた訳ではないが、ラフレシアの幼女の言葉が真実味を帯び、自分の懸念すら生温いように感じられた。

 何かがおかしい。経営的な出来事ではなく、何かもっと、身の毛もよだつ事が起きているのでは……

「訊きたい事は終わりですか? 私としてはそろそろ疲れてきたんで、一休みしたいんですがねぇ」

 考え込もうとする花中だったが、ラフレシアの幼女が話を打ち切ろうとした事で我を取り戻す。

 どうやらラフレシアの幼女としては、もう話す事はないらしい。

 花中としても、今すぐ訊きたい事がある訳ではない。しかし、だからさっさと別れたい、という気持ちでもないのだ。折角会えたのだから、お友達になれたら……と考えてしまう。

「え、えと……と、特には、ないです、けど、あの」

「じゃあ私はこの辺でおいとまするです」

 尤も、ラフレシアの幼女は全くそんな気持ちもないようで。

 別れを告げるや幼女は身体を糸状に解し、そそくさと地面に潜ってしまった。花中は自然と虚空に手を伸ばしたが、その手で地面に潜った幼女を捕まえる事は出来ない。

 どうにもラフレシアの幼女は、人間に興味がないようだ。自分を知ってもらえなくてガッカリする反面、世話をしてくれなかった人間を恨んでもいない事に安堵を覚える。嫌われていないのならそれで良しにしようと、花中は前向きに考える事にした。

 ラフレシアの幼女が完全に地面に潜ったのを見届けてから、花中は自身のスマホを取り出して時刻を確かめる。星縄達と離れてからまだ三十分も経っていない。あと一時間半以上余裕がある。古代植物の解説ブースも見当たらないので、次の場所を探そうと思った。

 それに一つ、やらねばならぬ事がある。

 温室の世話が放置されたのは二週間前からとの事。それだけの時間が経ったなら、恐らくクレームの一つ二つはとうに入っているだろう。今更花中が文句を言っても、大した影響はない。

 だとしても、生き物を大事にしない態度は腹に据えかねる。

「……うん。フィアちゃん、他のところも、見て回ろう。他も、この温室みたいに酷かったら、文句言って、やるんだから」

「お? なんだか花中さん乗り気ですね。でもいざ人を前にしたらビビって何も言えなくなりそうですけど大丈夫ですか?」

「……が、頑張る」

 出来るもん、と言わない花中に、フィアは生温かい眼差しを向けてくる。応援してくれるのは嬉しいが、同時にやたら腹が立つのは何故だろうか。

 尤もどれだけムカつこうと、花中には「ふんっ」と小さく鼻を鳴らすのが精いっぱいである。ついでに言うと、怒りながらもフィアの手を無意識に握り、引っ張っていた。

 ラフレシアの幼女が潜む温室から出た花中は、全身に感じる冷気でぶるりと身体を震わせる。時間と共にすっかり慣れてしまったが、冷房の効いている館内と比べて温室はかなり暑い。その温室に身体が慣れてしまったものだから、今度は冷房の効いている館内がやたら寒く思えた。いずれ慣れるだろうが、その間の寒さを和らげようと身体が勝手にそわそわと動いてしまう。

 そうした仕草の拍子に、通路を歩く職員らしき格好をした二人組が花中の視界に入った。

 反射的に振り向けば、職員らしき二人の男性は通路の角を曲がるところだった。温室には近寄ろうともせず、やはり温室内の植物の世話をするつもりはないらしい。

 良い機会だ、ここで一発言ってやろう。

 気合いを入れるために、荒々しい鼻息を一つ。胸に宿った気持ちが掻き消えぬようわざとらしく肩を怒らせて、行ってしまった職員の後を追い駆ける。花中に追われている事など知る由もない職員に追い付くのは実に簡単で、花中はほんの二メートル前後の距離まで職員達に近付いた。

「あ、あのっ! すみません!」

 そして昂ぶった気持ちのまま、職員に呼び掛ける。

 二人の職員は同時に花中の方へと振り返る。面と向かってクレームを伝えるべく、花中はすっと息を吸い、

 そのまま、詰まらせた。

 職員達が自分に向けている――――明らかに敵意のこもった瞳を、見てしまったがために。

「どうかされましたか」

 職員の一人が、呼び掛けたにも拘わらず押し黙ってしまった花中に問い掛けてくる。極めて自然な応対だ、その瞳に敵意が浮かんでいる事を除けば。

 面倒臭がるのなら分かる。業務時間終了間際に呼び止められたり、そもそも仕事への熱意が欠けているのなら、客への応対が雑になるのも当然と言えよう。

 しかし彼等が花中に向けているのは敵意だ。花中はちょっと呼び止めただけなのに、どうしてこんなに怒りを露わにされるのか分からない。

「ぁ、あ、ぇ、あの」

「なんか温室が変みたいなんですけど」

 狼狽え、言葉を失う花中を見かねたのか。フィアが代わりに、とても大雑把に用件を伝えた。あまりにも大雑把なものだから、職員二人は互いに顔を見合わせる。

 お陰で二人の視線から外れた花中は、ようやく我を取り戻した。そうだ、自分は客なのだ……と調子に乗る必要はないが、言おうとしている事に間違いはない筈である。臆する必要などない。

「あ、あの、温室の方を、見たのですけど……その、植物が、元気がなくて……えと、お、お世話、ちゃんとしてるのか、心配で……」

 花中なりに精いっぱい、途中からフィアの影に隠れながらクレームを伝えると、職員の二人はしばし表情一つ変えずに佇む。やがて互いの顔を見合い、頷き、再び花中を見据える。

「植物の世話については、種によって適正なものを行っております。問題ありません」

 花中に告げられた言葉はあまりにも誠意がない、言い訳にすらなっていないものだった。

「て、適正って、でも、あの、萎れたり、枯れたりしてて……」

「植物も生き物です。萎れている部分や枯れている部分がどうしても出てしまうものですよ」

「それは、その、でも、限度が……」

「適正な範囲内です。問題ありません」

 花中の意見を、二人の職員はばさばさと切り捨てていく。

 実際、何故大丈夫じゃないのか、と問われたなら花中にも答えられない。ラフレシア本人が言っていたぞ、なんて主張しても夢見がちな小娘としてあしらわれるだけだ。それに彼等が言う事にも一理ある。

 アゲハチョウの事について指摘しても、展示物ではないだとか、観賞用だとか、色々言い訳をされたら言い返せない。反論を予想してしまった花中には、これ以上彼等を問い詰める事など出来なかった。

「もうよろしいですか? では仕事がありますので」

 花中が黙ると、職員達は余程すぐに立ち去りたいのか。言うが早いか踵を返した

「そーいえば古臭い植物について書かれた日記だがなんだかは何処にあるんですか?」

 が、フィアがこの質問を投げ掛けた瞬間、職員二人は同時に足を止める。次いでぐるんと音が聞こえそうな勢いで、二人同時にフィアの方へと振り向いた。

 無論振り向いた彼等が見つめるのは、問い掛けたフィアである。花中は、彼等の視線の外にいた。花中が見ていたのは、職員達の横顔に過ぎない。

 それでも思わず、小さな悲鳴が漏れ出た。

 彼等の目には、明らかな……最早殺意すら感じるほどの敵意が宿っていた。花中が呼び止めた時とは比較にならない、激しい感情を剥き出しにしている。もしも懐にナイフがあったなら、取り出し、突き付け、刺しているに違いない。そう確信させるほどのものだった。

 帰ろうとしたところを呼び止めた事が、そこまで彼等の気を悪くしたのか? 確かに苛立ちは加速するかも知れないし、花中と話している時点で彼等は相当ストレスを感じている素振りだったが、いくらなんでも段階を飛ばし過ぎている。全く理解出来ない感情に、花中はフィアにしがみついてしまう。

「……今、なんと?」

「ですから古臭い植物について書かれた日記だかなんだかは何処にあるのかと聞いているのです。花中さんが見たがっていたのにパンフレットが古い所為で何処にあるのか分からないのですよ」

 発せられた職員の声も殺意に塗れており、花中は一層萎縮してしまう。とはいえ人間なんて羽虫程度にしか思っていないフィアが怯む訳もなく、淡々と自分達の事情を説明した。

 さらりとこの問いの原因が自分にあると明かされ、花中は生きた心地がしない。おどおどと職員達を見上げた。

 するとどうした事か。職員達は大きく目を見開き、唖然としている様子ではないか。

「ふ、古いパンフレットが混ざっていたのですか?」

「ええ。そうですよね花中さん?」

「う、うん……あの、これ……」

 明らかに動揺している職員に、花中はパンフレットを手渡す。彼等はふんだくるようにパンフレットを奪うと、更新日時が記されている場所を目視で確認。

 先程までの怒りが一変。その顔は、まるで水死体のように青くなっていった。

「……も……申し訳ございません!」

「こちらの手違いで、大変なご迷惑をお掛けしました!」

 続いて、深々と頭を下げて花中達に謝る。

「すぐさま上に報告し、再発防止に努めさせていただきます!」

「ただちに最新のパンフレットをお持ちします! 少々お待ちください!」

 一人がぺこぺこと頭を下げ、もう一人がパンフレットを持ってくるためにダッシュでこの場から離脱。どちらも一切手を抜かず、本気で花中の『クレーム』に対応しようとしている。誠意のこもった謝罪、という言葉があるが、彼等の態度にはそれをハッキリと感じる事が出来た。

「良かったですね花中さん。新しいパンフレットをもらえるそうですよ」

 謝罪自体はどうでも良いであろうフィアも、しっかりとした対応に満足したのか。嬉しそうに微笑みながら、花中に同意を求めてくる。

 花中は、ただただ呆然とする事しか出来なかった。

 古いパンフレットが置かれたまま、というのは大きな問題である。しかしながら露骨に怒りを露わにしているなら兎も角、花中はおどおどしながら、フィアなど普通に質問しただけだ。真面目な職員ならばいざ知らず、温室の展示物がボロボロでも気にしない者がこんな、誠意のこもった対応をする筈がない。

 何かがおかしい。何もかもがおかしい。

 だけど、何がおかしいのか分からない。

「大変お待たせしました! こちらが最新版のパンフレットになります!」

 しばらくして、パンフレットを取りに行っていた職員が全力疾走で戻ってきた。息はすっかり上がり、立ち止まった足がガクガクと震えていたが、手に持つパンフレットには皺一つない。

 得体の知れない恐怖に、花中は職員が渡そうとするパンフレットに手を伸ばせない。

 代わりに何も考えていない様子のフィアが「そうですか。では頂きますね」と言って受け取ってしまった。フィアは自分では中身を見ようともせず、花中にパンフレットを渡そうとしてくる。

 フィアからパンフレットを受け取り、花中は恐る恐るその中身を確かめる。書かれている更新日は一昨日のもの。最新版と信じるに足る日付だ。

「えと、あ、ありがとうございます……フィアちゃん、その、行こう」

 一言お礼を伝え、花中はフィアに移動を促す。

 正直、少しでも早く彼等から離れたい。

 パンフレットを閉じ、フィアを引っ張り、花中は『最初』に決めていた目的地を目指す。出来るだけ早歩きで、力を込めて首が回らないようにしながら。

 だけど何十メートルか歩いた辺りで、花中はつい後ろを振り向いてしまう。

 故に、ぞわぞわとした悪寒を覚えた。

 にっこりと、気持ち悪いぐらい幸せそうな笑みをした職員が、何時までも自分の事を見ていたのだから――――




いきなり遭遇するミュータント。そしていきなり不穏な植物園。
果たしてこれから何が起きるのか?
明かされるのはもうちょっとだけ先になるんじゃよ(駄目なフラグ)

次回は9/2(日)投稿予定です


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目覚めるパンドーラ3

 本館から何百メートルも伸びている廊下の先。そこから繋がる『日本の野草展示ハウス』の前を、無数の人々が埋め尽くしていた。

 否、正確には行列だ。何百、或いは何千もの人々が五列ほどに分かれて並んでいる。行列は着実に前へと進んでいるが、その歩みは遅々としており、果たして一時間でどれだけ進めるか分かったものではない。もしかしたら列のど真ん中辺りで止まり、抜け出せなくなる可能性もある。

 スマホで時刻を確認し、本命の展示会が始まるまで残り一時間半だと知った花中は、目の前の列に並ぶ事を躊躇した。元より行列はあまり好きではない。知らない人に挟まれ、囲まれるプレッシャーが、胸をきゅっと締め上げてくるが故に。しかしどれだけ嫌な事を並び立てても、この行列には並びたいというのも確かな想いである。

 何故ならこの行列の先にある『日本の野草展示ハウス』の前こそが、花中が目指した場所――――復活した古代植物研究の資料が展示されている、特別コーナーが設置された場所なのだから。躊躇をすればするほど、行列はどんどん伸びていく。資料を閲覧するにはすぐにでも並ばねばならない。

 ここは覚悟を決めるしかないと、花中は小さくて勇ましい鼻息を吐いた。

「いやー中々壮観な光景ですね。花中さんなんて飲まれたら二度と帰ってこれそうにないです」

 ……隣に立つフィアの、恐らくなんの意図もない感想が耳に入り、決めかけていた覚悟が萎んでいくのを花中は感じる。前に出そうとした足が、一歩後退りしていた。

 実際、無理して行く必要はない。

 星縄のお陰で、展示会のチケットは持っているのだ。時間に遅れなければ、実物の古代植物を拝む事が出来る。研究資料にも興味は惹かれるが、実物の方が遙かに見たい。一時の欲求に従った結果、たった一時間半後に起きる『世紀の瞬間』を見逃すなど愚の骨頂だ。

 論理的に考えれば選ぶべき行動は明白。迷う必要など何処にもない。

 ないのだが、感情的には思いっきり後ろ髪を引かれる訳で。

「……フィアちゃん。あの、いざとなったら、列から抜け出るの、手伝ってくれる?」

「そのぐらいでしたらお茶の子さいさいというものですよ」

 尋ねれば、フィアは胸を張ってそう答える。分かり切っていた答えだ。フィアからすれば何百何千もの人間が作る行列も、飴に群がるアリの大群と大差ないのだから。

 フィアからの()()()をもらい、改めて花中は気持ちを固める。

 見たいものは見たい。そして自分には津波が如く押し寄せる行列を、平然と跳ね返せる友達が隣に居る。

 そう、迷う必要など何処にもないのだ。

「良し。フィアちゃん、並ぼう!」

「了解でーす」

 花中が誘い、フィアは花中の手を握り締めて答える。掌に伝わる、しっかりとした圧迫感。これならはぐれる心配はない。

 花中とフィアは行列の最後尾に付き、やってくる順番をゆっくりと待つ。暇潰しには事欠かない。フィアとお喋りをしていれば、時間なんてあっという間に過ぎていく。むしろ夢中になり過ぎて、スマホでの時刻確認を忘れてしまいそうになるほどだ。

 しばらくして花中達の目に、『古代植物研究資料館』と書かれた看板と、その看板の下にある大きなガラス戸が見えてきた。日本の植物展示ハウスじゃない? と疑問に思ったが、よくよく見れば看板の下にもう一枚看板がある。本来あったものの上に、適当に置いただけなのだろう。

 ……等と一瞬納得しかけたが、花中の頭はしっかりと違和感を覚えた。

「(なんで、看板の上に看板なんか掛けてるんだろう?)」

 時間がなくて、適当な改装をするしかなかったのか。しかしわざわざ『日本の野草展示ハウス』を隠すように設置する意味が分からない。加えて看板に書かれている『古代植物研究資料館』という名前は、如何にもこの先にある()()()()()のようではないか。

 中の展示物を差し替え、建物の呼び名を変えるという事は、さして奇妙ではないだろう。しかしだとすると、二日前が更新日となっているパンフレットの表記と矛盾する。パンフレットには、この先の建物は『日本の野草展示ハウス』と書かれているのだから。

 ……ここに古代植物の研究資料があるという情報は、パンフレットに注釈として書かれていた。しかし書き方はかなり雑だ。どのぐらい雑かといえば、地図の一部が注釈で隠れているぐらい。

 大体、何故植物を育てるためのハウスを資料館にしてしまう? 熱いし蒸れるし狭いし、良いところなど何もないではないか。そのハウスで育てられていた大量の植物は何処にやった?

 ――――薄々感じていたが、この植物園、何かおかしい。

 具体的にどうおかしいという具体的な説明は出来ない。だが、妙に雑というか、その場しのぎが多いように感じられる。それでいて何かを必死に隠しているという印象は受けず、何故そんな事をしているのかさっぱり分からない。

 強いてイメージを当て嵌めるなら、一つの事に夢中になるあまり他が疎かになっている子供みたいな……

「花中さんそろそろ目当てのものが見られそうですよ」

 思索に耽っていたところ、フィアが優しく告げた言葉で我を取り戻す。周りを見れば、随分と『資料館』の入口が近くなっていた。

 一つの事に夢中になって、注意が疎かになっていた……正しく今の自分の状態そのもので、恥ずかしさから花中は顔を茹で蛸のように赤くする。とはいえ悶えてばかりもいられない。行列は花中の後ろにも出来ていて、自分達の順番が来るのを待ち遠しにしているのだから。

 花中は隣の人の邪魔にならないよう小さく顔を横に振り、いくらか頭の中身をマシにしてからポケットにあるスマホを取り出す。画面に表示される時刻は十五時十五分。展示会は十六時に始まるので、残りの自由時間は四十五分ほど。迷わず移動出来るという前提ではあるが、パンフレットの地図から推察するに此処から展示会の会場までは徒歩十分も掛からない。

 逆算される見学時間は約三十分。資料の閲覧をするには十分な時間だろう。

「……うんっ。行こっ」

 花中はフィアの手をきゅっと握り締め、『資料館』へと足を踏み入れた。

 元々植物を展示していた場所だけあって、資料館はガラス張りの温室だった。とはいえ熱帯植物の展示をしていたハウスと異なり、冷房が効いているのかかなり涼しい。ガラス越しに降り注ぐ陽光が室内を眩く、それでいて自然の美しさで染め上げており雰囲気は良かった。ただし植物園のハウスなのに、彩りとして飾られている胡蝶蘭ぐらいしか植物の姿が見られないので、どうしても違和感は残ってしまうが。

 尤もその違和感も、植物の代わりに置かれている数々のパネルや冊子を見付ければすぐに胸の奥底に隠れてしまう。

 花中は早速一番手前にあるパネルに向け、列の流れに従いながら進む。途中職員らしき女性が、嬉しそうな笑みを浮かべながら小冊子を渡してきたので受け取る。

 冊子のタイトルは、『マグナ・フロスの発見経緯』。

「……まぐなふろす? なんですかそれ?」

 冊子を横から覗き込んだフィアは、タイトルに書かれていた単語について尋ねてくる。正直なフィアの事だ、疑問に思ったから何も考えずに尋ねたのだろう。

 実を言うと昨日花中はこの単語について教えていたのだが、興味がなかったのか忘れてしまったらしい。花中は正直という美徳の塊である友達に聞こえぬよう、無駄とは知りつつも小さなため息を漏らした。

「もぅ、昨日教えたでしょー。見付かった、古代植物の学名、だよっ」

「んぁー? 言われてみれば聞き覚えがあるような……ああそうですそうです確かに教えてもらいましたね。思い出しました。『でっかい花』って意味でしたっけ?」

「『偉大な花』だよぉ……」

 全然思い出せていない友達に肩を落としつつ、花中は改めて『マグナ・フロス』について教える事にした。発見の経緯だとかなんだとか、自分が集めた情報を主体にして。

 そうして話しながら資料館に置かれた資料を読んでいったのだが、段々と花中の説明は疎かになっていく。何しろ置かれている資料には、ネットやテレビでは集められなかった情報が山盛りてんこ盛りだったのだから。

 発掘された種子が豆粒よりも小さい事。芽吹いたばかりの芽が単子葉でも双子葉でもない、三子葉であった事。触られると数秒で葉を折り畳んでしまう現代のオジギソウのように、刺激に対しまるで動物のような機敏な動きが出来る事。高温多湿の環境を好むという事……どれもこれも、初めて触れる知識だ。

 花中はすっかり目を輝かせ、フィアへの説明も止まっていた。途中からほったらかしにされたフィアだが、怒ったり拗ねたりする事もなく、むしろ小学生に混ざっても違和感がないぐらいはしゃいでいる花中の姿を愛でるように眺めている。お陰で花中は、この楽しい時間を存分に満喫出来ていた。

 しかし悲しい事に、楽しい時間とはあっという間に過ぎ去ってしまうものである。

「――――あれ?」

 置かれていた資料を読んでいくうちにハウス内をぐるりと巡り、自分達が入った入口の反対方向にある扉……出口の近くまで来ていた事に、花中は直前まで気付けなかった。

「もうすぐ出口ですね」

「うん……あ、そうだ。時間……」

 時間感覚を失念していたと自覚し、花中はすぐにスマホを取り出す。

 資料館に入ってから、既に二十分は経っていた。展示会が始まる時間にはまだまだ余裕はあるが、未だ胸に残る感覚からして、この倍の量の資料があっても夢中になれただろう。危ないところだったと、猛省しておく。

 とはいえ時間に余裕がある事も明らかになったので、割と誘惑に弱い精神状態でもあったりする。

 そして設置された解説パネルはあと一枚。見た目の印象としては、あまり分量は多くない。

 この『誘惑』に、花中が耐えられる筈もなかった。

「……じゃあ、最後にあれだけ、読んでいこう」

 言い訳するように独りごち、花中はそそくさと解説パネルに歩み寄る。

 パネル曰く、発掘現場には『マグナ・フロス』とは別種と思われる種子も発掘されたとの事。こちらも化石化はしておらず、休眠の打破を植物園側で試みているが、未だ成功していないらしい。

「将来は、二種の古代植物が展示出来るよう、これからも研究を続けていきます……だって」

「ふぅん。この写真がもう一つの種とやらですか」

 フィアが指差したのは、パネルの横に張られた一枚の写真。

 写真に写っているのは、楕円形をした黒い塊だった。比較物がないので種子の大きさは分からないが、数ミリ程度のものではなさそうだ。種子には縦方向に幾つもの溝があり、表面の細かな凹凸もハッキリと確認出来る。色合いこそ長年の休眠により変化してしまったのだろうが、欠けたり変形したりしていないその姿は、今にも芽吹きそうな生命力を感じさせた。

 こちらは未だ復活していないからか、その存在を仄めかすような記事はネットでも見た覚えがなかった。まさかもう一種『マグナ・フロス』のような生物が存在したとは、驚きを禁じ得ない。生命とは、人間が思う以上にタフなものらしい……花中は改めて、生命の強さに感動を覚えた。

「ああ見覚えがあると思ったらこれアレですね。虫の卵に似てます。本当は種じゃなくて卵なんじゃないですか?」

 ……その感動も、隣で楽しそうにしている超常的生命体を意識すると擦れてしまうのだが。おまけになんの気遣いなく語る感想の所為で、種子が卵にしか見えなくなった。モンシロチョウの卵に似てるよねー、と思わず同意しかけたぐらいである。

 花中は一瞬だけぷくっと頬を膨らませ、ぷしゅーと音を鳴らして頬の中の空気を吐き出す。熱めの吐息と一緒に、頭の中にあった色々な感情も出ていった。フィアは花中が何をしているのか全く分かっていないようで、こてんと首を傾げる。

 展示されているパネルや資料は此処で終わりだ。そろそろ展示会の会場に向かおうと、花中はフィアと共に出口へと向かう。

「閲覧していただきありがとうございます。何かご質問等がありますか?」

 と、その出口の手前で、職員らしき若い女性に呼び止められた。

 出口間際で呼び止められ、花中は一瞬戸惑いを覚える。が、狼狽から辺りを見渡せば、他の職員達も積極的に来場者に声を掛けている姿が見えた。

 どうやら偶々この場で呼び止められただけのようだ。少しずつ落ち着いていく胸に手を当てながら、花中は自分を呼び止めた職員と向き合う。

「あ、えと、特には……パネルの解説が、とても分かりやすかったの、で」

「そうですか。それは何よりです。お客様方に誤った知識を与えてはならないと、何度も書き直した甲斐がありました」

 花中の言葉を受けて、職員は安堵したように表情を和らげる。

 確かに見た人の知識となる解説文には、誤りは勿論、誤解を生むような表現もないに越した事はないだろう。しかしお世辞かも知れない言葉で安堵するのは些か大袈裟ではないだろうか。

 そんな感想を抱く花中であるが、この女性職員は二十代前半ぐらいの見た目である。恐らくは新人で、もしかすると此処の解説文の作成を初仕事として任されたのかも知れない。勿論解説しているものが世界的注目を浴びている存在なので、大半はベテランが書いただろうが、人手が足りなくて新人が駆り出された部分もあるのだろう。

「私は一つ訊きたい事があります。あの虫の卵みたいなやつは何時展示されるのですか?」

 そんな事を考えていた花中の横で、フィアが職員に質問をしていた。もう一種の古代植物に関心があるようだ……舌舐めずりしていたので、恐らく味覚的な意味で。

 虫の卵っぽいというだけで食欲を感じる友人に呆れつつ、花中としても気にはなる。何しろ二種目の古代植物だ。『マグナ・フロス』で得られた知見を下地にすれば、どれぐらい復活の可能性があるか分かるかも……そんな期待を、花中はひっそり抱いていた。

 だが。

「……さぁ?」

 職員の無関心な言葉が、その期待を砕く。

「すみません。『アレ』についてはあまり詳しくないものでして」

「ふーむそうなのですか。知らないなら仕方ありませんね」

 淡々とした職員の答えに、フィアは素直に納得する。隣で、花中がポカンと口を開けている事にも気付かず。

 目の前の女性職員が噓を吐いているとは思えない。

 故に花中は唖然としていた。確かにパネルに書かれていた種子は、復活するかどうかも分からない代物だろう。しかし『マグナ・フロス』という先例があるのだ。植物園の職員として働いているのなら、少しは植物への興味がある筈。なのにどうして『アレ』に対して関心がない?

「じゃあもう良いです。花中さんそろそろ行きましょうか」

 問い詰めたいほどの違和感が花中の胸を満たしていたが、されどフィアは話を打ちきってしまった。口を挟むきっかけを失ってしまう。加えてフィアが言うように、自分達はこれから『マグナ・フロス』の展示会の会場へと向かわねばならない。残り時間が決して潤沢ではない今、変に話が盛り上がっても困る。

 どちらかを選ばねばならないのなら、答えは一つしかなかった。

「……うん。そう、だね。そろそろ行かないと」

「日々最新の情報に更新していきますので、是非またお越しください。退屈はさせませんよ!」

 資料館から出る意思を呟くと、女性職員は活き活きと資料館を宣伝する。先程までの無関心ぶりが、噓のように。

 フィアと手を繋ぎ、女性職員に背を向けて歩き出した花中は薄気味悪さを覚えていた。だけどそれはただの感想で、証拠も論理もない、主観的感情の積み重ねでしかない。だからそれを根拠にして行動を起こす事は、論理を重視する花中には出来ない。

 花中の胸の奥底で燻る、足を止め、考え込みたくなる衝動。

 されどそれは、現代に甦った古代種という浪漫によって、段々と霞んでしまうのだった。

 

 

 

 『マグナ・フロス』の展示会は、植物園の敷地の丁度中心辺りにある『特別温室』にて行われる。

 特別温室という名前に相応しく、その施設は他のどの温室よりも大きく、豪勢な装飾に飾られていた。施設へと繋がる廊下には窓があり、外の様子が窺えるのだが、特別温室の周りにはゴテゴテと巨大な機械が設置されている。高度な技術によって、室内環境を精密に制御しているのだろう。これならば観客の熱気や、紛れ込むかも知れない不埒者が撒いた何かしらの薬物も、素早く調整・洗浄してくれる事が期待出来る。繊細で希少な植物を、なんとしても守り抜くという意思が感じられた。

 パンフレット曰く、特別温室内はさながら映画館のような作りになっており、スクリーンに該当する場所に展示物が置かれるらしい。たくさんの観客が展示物を見られるよう、そうした作りになっているそうだ。

 しかしその作りだと、後ろの方に立たされた人にはさぞ展示物が見え難いのではないか。そんな不安が事実である事を物語るように、パンフレットの片隅に『双眼鏡の貸し出しもしています』と書かれている。

 開場時間間際にやってきた花中に、双眼鏡の貸出所を探す余裕なんてない。いや、もしかすると既に全て貸し出されていて、花中達の分はないという可能性もある。

「もし遠くて見えないようでしたら私に言ってくださいね。能力を使って望遠レンズを作りますから」

 されど花中には、人智を超えた友達がいた。

 今までの花中なら、なんだかズルをしているような気がして、フィアの力に頼る事に少し居心地の悪さを覚えたかも知れない。だが前向きに考えれば、自分が双眼鏡を使わなかった分、誰かが双眼鏡を手に入れる事が出来たともいえる。

 四月の出来事以来、ちょっとだけポジティブに生きようと思うようになった花中は素直に「ありがとう」と伝えた。フィアは上機嫌に鼻を鳴らし、ぎゅっと花中の手を握り締める。特段意味などない、恐らくは無意識であろう友達の反応に、花中はくすりと笑みを零した。

 さて。そうして友達と楽しく歩けば、廊下なんてあっという間に渡り終えてしまう。

 ついに特別温室へと通じる扉の前まで、花中達はやってきた。特別温室は扉もまた豪勢で、三メートル近い高さがある。門扉は未だ閉じたままだが、開場が待ちきれないのか、既に巨大な人集りが出来ていた。

 と、これだけならば凄いの一言で流せるのだが、人集りが出す喧噪があまりにも大きい。罵声、悲鳴、泣き声……聞こえてくるのはそんな、楽しさとは無縁な声ばかり。

 しばらく眺めていると不意に人混みが大きくうねり、罵声が飛び交って、やがて静かになり……人混みから出てきたガードマンらしき屈強な男が、ぽいっと二人の男を人混みの外へと投げ捨てた。投げ捨てられた男二人はしばし唖然とし、やがて意味不明な叫びを上げ、互いに殴り合いを始める。そしてそれを止めに来る者は一人としていない。否、それどころかまたしても人混みが蠢き、喧騒と悲鳴が上がる。落ち着きを取り戻す気配すらなかった。

「おやおや。随分と盛り上がっていますねぇ」

 フィアは「盛り上がっている」の一言で済ませてしまうが、人間である花中にはとてもそうは思えない。フィアとの時間で育んだ楽しさが、一瞬で掻き消えてしまう。

 一体これはなんだ? 何が起きている?

 自問する花中であるが、答えは明白である。特別温室にある古代植物をより良い場所から見学するために、人々が争っているのだ。それも早く列に並ぶなどの平和的な方法ではなく、暴力による奪い合いで。

 確かに、恐竜時代を生きていた古代植物と出会える機会なんて二度目があるとは限らないし、この『一度目』の機会を掴むために莫大な ― それこそ破産するほどの ― 資産を投じた者も居るだろう。だから多少の騒動はあると花中も思っていた。

 だが、これは最早騒動などではない。感情に支配され、相手への思いやりを失うどころか我欲に支配された集団への変異。

 即ち暴徒化である。

「いやー、面白い光景ねぇ……今からあの人混みの後ろに行かなきゃいけないって点に目を瞑れば、だけど」

 あまりにも酷い光景を目の当たりにして、何時の間にか花中の背後に来ていた『誰か』が呆れたように独りごちた。

 花中はバッと、音が鳴るほどに勢いよく振り返る。

 振り返った先には、ミリオンとミィ、そして星縄の姿があった。

「み、ミリオンさん、みんな……!」

「遅かったじゃない。二人とも、楽しめたかしら?」

「えと、その……」

 ミリオンの問いに、花中は思わず言葉を詰まらせた。楽しめたか否かで言えば、間違いなく楽しんではいたのだが……やたらと違和感が付き纏い、心の中に不純物としてこびり付く。

 そのほんの小さな『不快さ』が、花中に答えを躊躇わせる。横で「勿論楽しかったですよ花中さんと一緒でしたから」と自分の感想を伝えているフィアと違い、ミリオンは花中の感情の機微をしかと捉える。

 花中の想いに対する返答なのだろうか。そりゃあそうだ、と言いたげな複雑な表情をミリオンは浮かべた。ミリオンも、そしてミリオンと同じように様々な感情を顔に滲ませているミィや星縄も、花中同様違和感を覚えたらしい。

 自分の中の違和感を、躊躇してしまうような雰囲気ではなかった。

「……何か、変なというか……職員の皆さん、仕事の仕方が、なんか……」

「雑、というのも違うわよね。やたら熱心だったりする時も度々見たし」

「人次第なんて事もないみたいだよねー。同じ人なのにいきなり興味なくしたと思ったら、フィアみたいにべらべら喋り出すしさ。あとなんか……んー……」

 ミリオンとミィは、自らが出会った職員について語る。別行動をしていたミリオン達も、花中達と同じような体験をしてきたようだ。ミィは他にも思うところがあるのか、俯くようにして考え込んでしまう。

 偶然にも自分達だけが変な職員に当たったという可能性がなくなり、一層の『違和感』が花中の胸に込み上がった。やがて曖昧な違和感は、論理という名の形になる。

「そして彼等の変化の基軸に、『マグナ・フロス』が存在しているらしい」

 星縄が語った、『具体的』な指摘によって。

 カチリと音を立てて、花中の頭の中でピースが嵌まる。

 『マグナ・フロス』がいない温室の管理は杜撰で、『マグナ・フロス』について書かれていないパンフレットに顔を青くする。『マグナ・フロス』がいない温室を改修し、『マグナ・フロス』のための資料館に変えてしまう。『マグナ・フロス』ではない古代植物には無関心で、『マグナ・フロス』については喜々として語ろうとする。

 自分達と接した職員達の誰もが、『マグナ・フロス』と関係するかどうかで行動の指針を切り替えていた事に花中は気付く。いや、切り替えた、というのは間違いか。『マグナ・フロス』以外への感心が極端に薄く、『マグナ・フロス』にしか意識が向いていないと言うべきだ。

 植物園の方針で、そうした業務を行っているのか? あり得ない。人間はゲームに出てくるNPCとは違うのだ。指示されたからといって、簡単に興味の有無を切り替えるなんて出来っこない。

 何かがあった筈なのだ。職員達の『思想』を塗り替える何かが。

 もしかすると、此処の暴徒も?

「あそこで暴れている人混みも、最初は大人しかったんだ。特別温室につながる廊下が閉じられていて、その前に並んでいた時はまだ。だけど……」

「特別温室の前まで行ったらね、段々出てきたのよ。早く開けろ、俺が一番前に行くんだーって輩が」

 花中の予想は、話を続けた星縄と、その星縄の話を補足するミリオンによって確信を深める。花中は口許に指を当てながら、何故そのような事が起きたのかを推察しようとした。

「どうする、花中ちゃん?」

 その最中の花中に、最初に問い掛けたのは星縄だった。

 一旦思索に耽るのを止め、花中は顔を上げて星縄を見遣る。何時もニコニコと浮かべている胡散臭い笑みが、今の星縄にはない。代わりに浮かべているのは、一人の子供の身を案じる大人の顔だった。

「……えと、どう、というのは……?」

「これからの事だよ。状況証拠しかないとはいえ、『マグナ・フロス』には何か、人の精神に影響を与える性質があるとしか思えない。温室の外ですら、全員ではないとはいえおかしくなったとしか思えない人が出てきているんだ。同じ温室に入って、影響を受けないとどうして言える?」

「それは……」

 星縄の意見に、花中は反論が浮かばない。

 生命の力は凄い。それを花中は、何度も目の当たりにしてきた。

 今更人間を狂わす植物がいたところで、なんらおかしな話ではない。いや、大麻やコカインなど、人の手を介したものとはいえそうした効果は既に実在しているではないか。

 それを思えば、会場に足を踏み入れる事がどれだけ危険かは、言うまでもない。

「保護者として、これだけは言っておくよ。此処で引き返した方が良い。恐竜時代の植物が見られなくて残念だとは思うけど、でも、身の安全を一番に考えれば、行かない方が賢明だと思うよ」

 星縄からの忠告に、花中は口を閉ざしてしまう。

 君子危うきに近寄らず、ということわざもある。加えて『マグナ・フロス』を見なかったところで、花中の今後の人生に大きな影響はないだろう。今の状況から論理的に判断すれば、『マグナ・フロス』を見る事はリスクでしかない。

 そこまで分かった上で、花中は首を横に振る。

 論理的にはリスクしかない。されど感情的には、出来なかった。

 大勢の人々が狂わされていると知りながら見過ごすなんて真似を、花中はしたくないのだから。

「星縄さんの、言う通り、見に行くのは危ない事だと、思います。でも、ううん、だからこそ、行かないと、いけないと思うんです。今から、警察に通報しても、きっと信じてもらえない。正気を保ってる、わたし達が、ちゃんとした証拠を、見付けないと」

「花中ちゃん……」

「あ、勿論、本当に危ない事が起きたら、すぐに逃げます。えと、一目散、です」

 答えを聞いて心配そうな星縄に、花中は安心させようと約束を交わす。

 無論花中自身、自分の申し出が如何に危ういものかは分かっているつもりだ。花中とて星縄と二人きりだったなら、この答えは出さなかっただろう。

 やろうと思えた一番の理由は、今日は頼もしい『人外(友達)』が三匹も居るからに他ならない。人間にはどうしようもない力も彼女達ならばなんとかしてくれるという、経験に基づく確信があった。

 しかしながら当然、フィア達の『正体』を知らない星縄にそんな花中の思惑を察してもらうなど土台無理な話。それでも駄目だと言われたならどうやって説得するか、フィア達の正体を明かすしかないのか……予想される星縄の反応に対する答えを、花中は予め考えておく。

 故に、

「分かった。花中ちゃんがそこまで言うなら、協力しよう」

 星縄の答えが全く予想していなかったものだった事を理解するのに、花中は短くない時間を必要としてしまった。

「……え? あ、えと、い、良いの、です、か……?」

「良くはないけど、花中ちゃんの意見も一理あると思ったからね。確かにこのまま放置するのは良くないと思うし、かといって現状警察や病院が動いてくれるだけの証拠はない。気付いた誰かがやるべきだ、というのは至極真っ当な意見だ。それに」

「それに?」

「小さい頃は曲がり角に何か居るかもと思って、何時もママの後ろに隠れていた花中ちゃんがこんな勇ましい事を言ったんだよ? その成長を応援しない訳にはいかないよね」

「ぴっ!?」

 いきなり昔の ― 尚且つ本当の ― 話をされ、花中は奇声と共に顔を真っ赤に染め上げる。慌てて誤魔化そうとしたが、フィア達の目は既に生温かくて優しいものになっていた。花中は顔がどんどん熱くなるのを感じるが、胸から込み上がる感情を止められない。

「うぅ……何時か、ぎゃふんって、言わせますからぁ……」

「それは楽しみだ。期待しておくね」

 苦し紛れに恨み言をぶつけてもみたが、星縄は怯みもしない。花中にはもう、星縄からそっぽを向くぐらいしか出来なかった。

「はいはい、はなちゃんったら拗ねないの。とりあえず、私も手伝ってあげるわ。あまり危ない事には近付いてほしくないけど、知らないままなのも良くないし」

「あたしも、何が起きてるか知りたいから手伝う」

「私は別にどちらでも構いませんよ。危険な感じはしませんし花中さんがやりたいようにやれば良いかと」

 そうしたふて腐れた態度も、ミリオン達が次々と賛同を示した事で続けられなくなる。自分が言い出した事なのに、その自分の態度が原因で始められないなんて、いくらなんでも恥ずかしい。

 何より全員が自分の意見を肯定的に受け入れてくれた事で、感謝と喜びの想いが溢れてくる。からかわれた事への怒りなど、そうした感情に飲まれ、薄れてしまった。

「……すみません。ありがとうございます」

「礼を言われるほどの事じゃないわ。そもそも危ないってのも状況証拠からの推測な訳で、もしかしたら『マグナ・フロス』はなーんも関係ないかも知れないし」

「それはそれで、個人的にはかなり残念な気持ちになるけどね。人間とはここまでアホなのかって」

 ミリオンのフォローに、星縄は肩を落として苦笑い。人間である花中も星縄の気持ちが分かり、思わず笑みを浮かべた。

「大変お待たせしましたー! ただいまより開園しまーす!」

 そうしていると特別温室の方から明るく、威勢の良い声が聞こえてくる。

 振り向けば、特別温室の大仰な扉が開き、人々がどっと押し寄せていた。ほんのついさっき付けた『暴徒』という呼び名が陳腐に思えるほどの勢いで、見ていると心臓が嫌な高鳴り方をしてくる。息も勝手に乱れ始め、頭の中も白く濁っていくような感覚に襲われた。

 無意識に花中がフィアの手をぎゅっと掴むと、フィアは花中の手を握り返してくれた。暖かく、柔らかな感触が、頭の中の緊張を解きほぐしてくれる。開いた手で胸をそっと抑えれば、心臓の鳴り方が落ち着いてきている事も分かった。

 みんなが居るから、きっと大丈夫。

「……うん。始まったみたいですし、行きましょう」

「そうね。さかなちゃん、はなちゃんから手を離しちゃ駄目よ?」

「この私がそんなへまをすると思うのですか? 花中さんの方から離そうとしても掴み続けますよ」

 頼もしい会話と共に、花中達も特別温室に向けて歩き出す。

 『マグナ・フロス』。

 六千九百万年前より蘇った古代種を目前にした花中の胸のうちを満たすのは、ほんの三時間前とは異なる興奮だった。




多分本当は『フロス・マグナ』という方が正しいのでしょうが、
『マグナ・フロス』の方がカッコいいと思うのでこの名前でいきます(ぇー)
あ、そういえば100話超えてました(今更)
でもまだ折り返し地点に達したばかりという……

次回は9/9(日)投稿予定です


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目覚めるパンドーラ4

「む、むぎゅうううう!?」

 花中の柔らかな頬っぺたが、お尻に敷かれた饅頭のように潰れていた。

 理由は簡単。花中の周りは今、通勤ラッシュ時の満員電車のような大混雑状態なのだから。

 『特別温室』に入った花中達を待っていたのは、暴徒の如く押し寄せた来園者達。パンフレットに書かれていた通り映画館のような造りをしたホールはそれなりの広さがあったものの、押し寄せた来園者の数はその広さをも凌駕していた。しかもホール内には椅子がなく、押せば押すほど一応中には入れる状態。際限なく押し寄せる人の波に飲まれれば、待っているのは圧迫地獄だ。温室内に入ってきた来園者の殆どは大人の男性で、圧迫感と熱への不満からかあちこちで罵声が飛んでいた。

 この場に居る具体的な人数は数えようもないが、三~四百人は居るのではなかろうか。

 人を押し退ける事も厭わない来園者達によって、花中はミリオンとミィ、そして星縄と逸れてしまった。ミリオンやミィは潰されるほど軟ではないし、星縄も大人なので大丈夫だろうが……小学生並の体格しかない花中には些か厳しい密度である。周りの人に押されて今にも潰れそうだ。もしかしたらほんの少し、いやかなり身長が伸びているかも知れない。

 無論こんな形で『成長』するのは嫌なのでなんとか押し返そうとするが、花中の貧弱な力では押し返している事にすら気付いてもらえない。渾身の力を込めようにも、肺に入り込んでくる空気が生温くて活力を奪われる。というか圧迫感の所為で息が出来ない。

「花中さん大丈夫ですか?」

 今も手を繋いでくれているフィアが周りの人間を片手で押し退けてくれねば、いずれ花中はくちゃっとなっていただろう。圧迫感はすっきりと消え、出来上がったスペースに冷たく新鮮な空気が流れ込む。フィアのお陰で、実に快適な空間となった。

 尤もフィアの圧倒的パワーで押し退けられた周りが先程までの自分と同じ呻きを上げているので、花中としては複雑な心境だったが。暴徒同然の集団であるが、ほんの五分ぐらい前に絡んできた中年男性をフィアがパンチ一発で黙らせてからは大人しいものである。花中も顔面蒼白でしばらく大人しくなったが。

「う、うん……ありがとう。でも、ここまで、広くしなくても、平気だよ。他の人の、スペースも、考えないと……」

「はぁ。花中さんがそういうのでしたら私は構いませんが」

 花中のお願いすると、フィアはいくらか周りを押し退けていた力を弱める。再び人々は花中の周りに押し寄せ、そこそこの圧迫感を与えてきた。ただし今度は背中に立つフィアが花中の身体に腕を回していて、金属製の鎧よりも遥かに頑強な守りがある。迫りくる圧力は全てフィアの腕が肩代わりし、花中にある物理的な不快感は生暖かい空気だけとなった。これぐらいなら我慢出来るレベルだ。

 強いて言うなら、あと一つだけなんとかしたい『問題』がある。

「……みんなと逸れちゃったね」

 この混雑に巻き込まれ、友達と離れ離れになっている現状の解消だ。

 フィアの実力を知っているミリオンやミィはさして心配していないだろうが、知らない星縄からすれば花中とフィアが暴徒同然の輩に囲まれた状態で孤立しているようなもの。恐らくは相当心配を掛けているに違いない。入口の前で『ワガママ』を通した手前、これ以上の心配は掛けたくなかった。

 尤も、花中を独り占めに出来てかなり上機嫌なフィアにこれを頼んでも、素直にやってはくれないだろうが。

「そうですね。まぁ私は花中さんと一緒に居られればそれで良いので問題ないですけど。それにしても凄い混み具合です」

「……うん。大昔の、生き物が蘇ったって、すごい事だからね。チケットがあるから、この程度で済んでるだけで、入場フリーに、したら、もっと凄い事に、なっていたと思うよ」

 花中の独り言をさらりと流し、自分の話を始めるフィアに、花中はちょっとだけ唇を尖らせながら頷く。

 恐らくこの混雑も、職員が『マグナ・フロス』の影響を受けた事が原因だろう。単純に出来るだけたくさんの人に見てもらおうと、室内に入れるギリギリの数で計算したに違いない。高過ぎる密度による来園者のストレスや混乱など、一切考慮せずに。

 他者の気持ちすら考えられないとは、正しく薬物中毒のようである。本当に『マグナ・フロス』が原因なのか、それを立証するだけの証拠が得られれば良いのだが……

「ところで花中さん一つ疑問なのですが」

 決意を胸に秘めていた最中、頭上からフィアの声が降りてきた。予期せぬ呼び掛けに花中は思わずびくりと身体を震わせる。小さな心臓が変に昂ぶっていたので両手で胸を押さえながら、花中はこちらを見下ろすフィアの顔と向き合う。

「う、うん。なぁに、フィアちゃん?」

「そもそもな話になってしまうのですがどうしてただの植物を見るためにこんなにもたくさんの人間が集まっているのですか? 草なんてどれも大差ないと思うのですな」

 フィアは首を傾げながら、本当に不思議そうにそう尋ねてきた。

 フィアの考えは多少極端だが、生物に関心がない『人間』ならば似たような考えを持つかも知れない。どんなに言い繕っても、此処に展示されるものはただの『草』なのだ。今でこそこの場に居る大勢の人々は『マグナ・フロス』に狂わされている疑惑があるが、しかし展示会に来る前は正気だった筈である。それでも稀少なチケットを求め、中には私財を投げ打って手にした者もいるだろう。どうしてそこまでして『草』なんかを見たいのか、不思議に思ってもおかしくない。

 しかし生物好きからすれば、『マグナ・フロス』は正しく世紀の大発見なのである。

「えっとね、まずだけど……古い地層から、発掘された種が、発芽したって話は、そこまで珍しくは、ないよ」

「む? そうなのですか?」

 フィアはてっきりそこが珍しいと思っていたのか、意外だと言わんばかりに目を丸くする。

 しかしながら事実、地層に眠っていた種子が発芽した、という例は様々な種で報告されている。最も有名な例でいえば、二千年前のハスの種子が発芽し、花まで咲いて、現在でも世代を重ねているというものだろうか。基本的に植物の種子というのは一旦休眠し、その後適切な環境が来るまで眠り続けるもの。一般的なものですら、数年~十数年程度の休眠は『普通』なのだ。条件さえ良ければ、種子はしぶとく生き延びてくれるものである。

 無論『マグナ・フロス』が過ごした六千九百万年という月日はあまりにも長過ぎる。現代の植物にはない、何かしらの『特性』によって生き長らえたのかも知れない……という考えは、一先ず置いておく。本題ではない。

「大事なのは、大昔の絶滅種の、タネが発芽した事。環境破壊とかで、絶滅した植物は、結構いるけど、それらの復活も、希望が持てるよね」

「ふーん。絶滅した生き物なんてそいつらが弱っちいから滅びたのですから復活させる理由なんてないと思うのですが」

「あはは……まぁ、生態系を、守らないと、人間も大変な目に遭うから。それにもしかしたら、絶滅した、すっごく美味しい虫の、餌になる植物も、あるかもだよ?」

「む。それは是非とも復活させてほしいですね。虫共々」

 絶滅種の復活が自分の利益になると分かり、急に好感を抱くフィア。実に野生的(利己的)な考えに、納得してもらえた花中もくすりと笑みが漏れる。

 とはいえ人間が生態系の保全や絶滅種の復活を期待するのも、『生態系を守る事で人類の生活環境を保護する』や『将来人間の役に立つかも知れない希少生物の絶滅を防ぐ』ためなのだから、利己的な考え方という意味ではフィアと大差ないのだろう。あまり人間もフィアの事を笑えないなと、花中は口許をもにゅもにゅと動かし、浮かんだ笑みを消しておく。

 それから改めて、二つ目の『理由』を答えた。

「後は、白亜紀の気候を知る、手掛かりになる、というのも、あるよね。ある時代を生きていた、生物というのは、その時代の環境に、適応していたのは間違いない。だから、『マグナ・フロス』を研究すれば、白亜紀が、どんな気候だったか、分かるかも知れないんだよ」

「ふぅむ大昔の事なんて知っても仕方ないと思うのですが……」

 フィアは先程以上にピンと来ていない様子だが、生物好き、いや、一理系としてはこちらの方が大事だ。

 『マグナ・フロス』の生態を研究すれば、少なくとも『マグナ・フロス』が生息していた地域の環境については正解に等しい答えを得られるだろう。その『ほぼ正解』の情報を元にしてシミュレーションを行えば、白亜紀後期の地球環境をより正確に予測出来る筈だ。もしも今までの予想と異なる結果が出たなら、現在主力とされている古代生物の復元図も大きく変わるかも知れない。予想通りなら、それはそれで現在の仮説を裏付ける一つの実証となるだろう。

 また白亜紀は現在よりも平均気温がかなり高かったとされ、温暖化した地球環境を知るための重要な『サンプル』でもある。地球温暖化が叫ばれる昨今、地球の、ひいては人類の未来を予測するのに役立つかも知れない。他にも、どう考えても現在の予想と噛み合わない結果が出て「大陸の位置関係が間違っているのでは」となれば地質学への影響もあるだろう。或いは気象学が根底からひっくり返るという事も考えられる。

 たかが一本の植物。

 されどこの一本は、人類が数万年の月日を掛けて積み上げた科学を、根底から塗り替える可能性を秘めているのだ。

 ――――等々語ってみたが、要約すれば一言で片が付く。

「つまり、古代生物には浪漫があるんだよ!」

「あっはい。そうですか良かったですね」

 生き物好きというよりマニアの域に片脚を突っ込んでいる花中の力説に、フィアは納得していない事が一発で分かる適当な返事をした。友達の素っ気ない反応に、花中はぷくりと頬を膨らませる。

 確かに『マグナ・フロス』は人々を暴徒化させた原因であり、人心を惑わす悪魔かも知れない。それを思えば心から喜ぶ事は出来ないが……だとしても生物好きとして、この想いを捨て去る事など出来やしないのだ。それぐらい『マグナ・フロス』の発見と復活は素晴らしい事なのである。

「むぅ……浪漫なのに。面白いのに」

「私にはどうにもその面白さは理解出来ませんね。人間というのは本当に奇妙な生き物です……む」

「……?」

 不意にフィアが漏らした一言に気付き、花中は顔を上げてフィアの様子を窺い見る。と、フィアの表情が少しばかり強張っていた。

 フィアは野生動物であり、人間よりも遥かに優れた感覚器を持っている。

 その感覚器が迫り来る危機を素早く察知し、見事回避してきた事を、幾度となくフィアに助けてもらった花中は知っている。今のフィアの反応は丁度、『何か』を感じ取った時のそれだった。しかしながら同時に、何時もならもっと露骨な警戒心を見せるのに、とも思ったが。なんというか今のフィアの反応は、中途半端な印象を受ける。

「フィアちゃん、どうしたの?」

「ん? ああいえ大した事では。ただ妙な気配があるなと思いましてね」

 尋ねてみたところ、フィアは一点を見つめながら答える。

 フィアが何を見ているのか花中としても気になる……が、背が圧倒的に足りない。周りを取り囲む大人の背中しか見えず、かなり歯痒い想いをする。

 するとフィアは花中の目を自身の手で覆った……瞬間、花中の目の前に『景色』が映った。

 恐らくはフィアがその『目』から取り込んだ光を、全身を経由して掌まで送り、掌に表示しているのだろう。生の光をそのまま届けているからか、実にクリアな映像だ。人智を超えた器用さを誇る友達に感嘆しつつ、表示された映像にあるフィアの視線が向けられているものを花中は見る。

 フィアが示していたのは、花中達の丁度真正面……映画館で言うところのスクリーン部分を覆い尽くす一枚の暗幕だった。

「……暗幕?」

「つい先程あそこに妙な気配がやってきました。あんまり強くはなさそうなのでちょっと気になっただけですが」

 フィアは花中の目を覆っていた手を外し、そのように答える。妙な気配、という言葉に一瞬戸惑いを覚える花中だったが、よくよく考えてみれば『この部屋』の暗幕の向こうに現れるものは一つしかない。

 復活した古代植物『マグナ・フロス』だ。今まで何処かに保管されていたものが、展示のため運ばれてきたのだろう。人心を惑わすと思われる植物に対し、フィアの本能が異常さを感じ取ったのかも知れない。

 フィアの本能に何度も命を救われた花中としては、フィアが意識を向けたものに警戒心を抱いてしまう……とはいえフィアは「あんまり強くはなさそう」とも言っているので、さしたる脅威ではないのだろう。無論付き合いが長い花中には、フィアにとっての脅威と、人間にとっての脅威に大きな隔たりがある事は重々承知している。そういう意味では、フィアの言葉を鵜呑みにするのは不味いかも知れない。

 しかし『マグナ・フロス』は数ヶ月間人間に育てられた存在である。少なくとも一昔前の怪獣映画に出てきたような、根っこをうねらせながら自走して人間を食べるようなモンスターでない事は明かだ。仮にこの場で本性を露わにしたところで、近代兵器すら凌駕するフィアの実力ならば簡単に打ち倒せるだろう。『マグナ・フロス』に直接襲われる心配はあるまい。

 尤もそんな事を気にする意識は、花中の中からすぐに消えてしまうのだが。何しろ暗幕の向こうに『マグナ・フロス』が運ばれてきたという事は、いよいよお披露目の時間という事なのだ。

 ついにこの時が来たか。

 復活した古代種との対面、人心を惑わす悪魔との遭遇……複雑な想いにより、花中の身体は自然とゆらゆら動いてしまう。周りを見れば、人々も急に落ち着きを失ったかのように身体を揺れ動かしていた。苛立ちを覚えているのか、かなり忙しない、小刻みな動きが多い。反面喧騒は静まり、異様な統一感が場を満たす。

 やがて天井にあるスピーカーからぷつぷつという音が聞こえた。花中を含む室内に居た来園者全員が、一斉に天井のスピーカーを見上げる。

【えー……大変お待たせしました。間もなく展示開始となる旨をお伝え致します】

 そしてスピーカーから降り注ぐ言葉を受け、人々は苛立ちと入れ替わるように興奮を露わにした。

 花中もつられるように興奮が込み上がり、一層そわそわと身体を動かす。そうしていると周りの大人の所為で暗幕が見えない事を思い出した。

「あ、フィアちゃん! えと、手で、望遠鏡みたいの、やって!」

「はいどうぞ」

 フィアは頼みにすぐさま応えてくれて、花中の視界を再び手で塞ぐ。無論、そこにはフィアの目で見た ― いや、フィアの視線よりも明らかに高い。恐らくフィアは『髪』を一本立たせており、その先端から外界の光を取り込んでいるのだろう ― 景色が映し出されている。今は静かに垂れ下がっている暗幕を、花中はじっと見つめる。

 その間もスピーカーからはマナーなどについての説明がされていたが、花中の耳には殆ど入らない。元より最低限のマナーについては、入場時にもらったパンフレットを熟読し承知済みだ。他の来園者についても同じで、誰もが興奮し、誰もが注意事項に耳を貸していなかった。

 ただ一匹、『マグナ・フロス』に殆ど興味を持っていないフィアだけは別で。

「花中さんなんかこの放送変ですよ」

「え?」

 流れていた放送への違和感をフィアから教えられ、花中はスピーカーの音声に改めて意識を向けてみた。集中して聞いてみれば、スピーカーから流れる女性の声は低調で、淡々としている。冷静、というよりも無感情という印象だ。あまりにも感情が乏しいからか不気味な感じがし、声の主への不快感が募る。

 しかし逆に言えばその程度の感想しか出てこない、人間の声である。普段花中以外の人間など眼中にないフィアが『この程度』の事を気にするとは思えない。

「えと、変って、何が変なの?」

 フィアが気にしている点が何処か分からず、花中は自分の目を覆ったままの友達にそう尋ね、

「さっきから流れている声の音程に()()()()()()()。これではまるで機械です」

 フィアはハッキリと教えてくれた。

 途端、ぞわりとした悪寒が花中の背筋を駆ける。

 この放送は機械音声によるものか? 否、改めて耳を傾けてみれば、『おいた』の過ぎた来園者を服装込みで指摘している内容が聞こえた。入力した音声を即座に変換・音声として出す事が出来るプログラムは存在するが、此処でそれを使う意味などない筈だ。人間がアドリブを交えて話していると考えるべきである。

 人間に機械染みた正確性で、音の高低差のない声が出せるのか? 訓練すれば、不可能ではないだろう。人間のスペックの高さは人間自身が驚くほどに高いものだ。そのぐらいは出来てもおかしくない。しかし集まった来園者に注意を促す放送でそんな『特技』を披露するなど、機械を経由した音声変換以上に意味がない。大体音の高低差があるかどうかなど、絶対音感や、フィアのように優れた聴覚がなければ分からない事。この放送の人物は、自分の特技に気付いてほしくてやっている訳ではない筈だ。

 なら、どうして? まさかこの放送主は『無意識』にそんな声を出しているとでもいうのか。

 まるで自分の仕事であるこの音声放送にすら、なんの興味も持っていないかのように――――

【それでは皆様、お待たせ致しました。白亜紀から現代に甦った植物『マグナ・フロス』のお披露目です】

 思考を巡らす花中の耳に、高低差のない音声が本日の『メイン』の始まりを告げた。思考の海に旅立っていた花中はハッとなり、フィアの手が自分の目を覆っているのもお構いなしに顔をぶんぶんと横に振る。フィアが自分の頭上で首を傾げた、ような気がしたので「ごめんね。なんでもないよ」と謝っておく。

 不気味な事実に気付いてしまいそちらに気を取られてしまったが、本命はこっちの方だ。花中は再び()()()の光景に意識を注ぐ。

 今まで微動だにしていなかった暗幕が、ゆっくりと、左右に開かれる。暗幕同士の幅が広がるほどに、花中は自分の心臓が高鳴っていくのを感じ取る。興奮と、それと共に高まる悪寒によって。

 そして『それ』が見えた時、花中は今まで感じていた悪寒の事を、一瞬にして忘れてしまった。

 それの大きさは、ざっと五メートルはあるだろうか。木本性らしく太い一本の幹があり、その先端部分にだけ十数枚の大きな葉が広がっている。葉の形状や生え方からしてシダ植物のように見えるが、広がる葉の中心に巨大な花……真っ白な花びらが五枚、中央には雄しべと雌しべの集合体らしき黄色の塊がある……がある以上、被子植物の一種なのは間違いない。胞子で繁殖するシダ植物には、花が咲かないのだから。

 あれが『マグナ・フロス』。偉大な花という呼び名を与えられた、(いにしえ)からの使者か。

「うーん実物を見てもやっぱり私にはただの草にしか思えませんねぇ。いやただの草よりも気持ち悪い感じがある分面白くないどころか割と不快なのですが」

 頭上でフィアが何やらぶつくさと愚痴を漏らしていたが、花中の心には響かない。周りの人々も花中と同じく感動を覚えたのか歓声が上がり、スマホを高く掲げて『マグナ・フロス』の撮影を試みる人が続出していた。

 最前列を除けば、フィアの投映している映像を見ている花中ほど『マグナ・フロス』がハッキリと見えている者はいないだろう。それでも、花中の知的好奇心はまだまだ満たされない。底の知れない興奮が湧き上がり、無意識に身体が揺れ動く。今になって、暴徒化した人々の気持ちが分かり、人心を惑わすなんてきっと何かの間違いだと思えてくる。

 もっと、もっと近くで見たい!

 いや、出来る事なら直に触り、その感触を確かめてみたい。見る限り『マグナ・フロス』の周りにあるのはスムーズな移動を妨げる程度の、頑張れば花中でも乗り越えられそうな小さな段差だけ。警備員らしき人も二人しか立っていない。良心の呵責がなければ、今頃あの段差を乗り越えていたかも……

「(……あれ?)」

 そうした興奮の中、花中の胸の奥底で違和感が生じる。

 『マグナ・フロス』は希少な植物だ。もう一個体あるとはいえ、その残り一個体が何かの拍子に枯れてしまう可能性もゼロではない。それに植物の中には自家不和合性という、自分の花粉では受精が起こらない植物もあるのだ。一個体だけでは種子を作れず、世代が絶えてしまう恐れもある。展示されたとはいえ、乱雑に扱って良いかは別問題だ。

 希少な古代植物だけに、集まっている来園者の中に熱狂的マニアがいてもおかしくない。いや、ネットオークションに流れたチケットに数百万もの値が付くぐらいなのだ。相当数のマニアが来ている事は間違いないだろう。

 マニア全員のマナーが悪いとは言わない。が、柵を乗り越え、触りに行こうとする度し難い輩が混じっている可能性は否定出来ない。おまけにこの植物は世界初の、そしてもしかすると二度と出会えないかも知れない古代種なのだ。不埒者が現れる可能性は高いと見るべきであり、植物園側がその点を見落としているとは考え難い。

 なのに何故、ここまで警備が手薄なのか。これでは悪質な輩にやりたい放題されてしまうのではないか……

 そんな考えが過ぎるも、花中はすぐに警備が少ない『理由』に思い当たった。気付いてしまえば、なんて事はない。むしろ何故気付かなかったのかと、自分の迂闊さが滑稽に思えてくるほどだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……? 花中さんなんか変な臭いがしませんか? 果物が腐ったみたいな甘ったるい臭いなのですが」

 フィアが頭上で何かを言っていたが、花中の耳には届かない。ただただ目の前にある植物に魅了され、うっとりとした笑みを浮かべるのみ。

 それは周りの人間達も変わらない。暗幕が空いた時に上がっていた歓声は今や静まり、スマホを掲げる腕もなく、誰もが蕩けた笑みを浮かべて『マグナ・フロス』を眺めていた。足は自然と『マグナ・フロス』の方へと向かい、前の人間を押してでも進もうとしてしまう。

「? 花中さん? なんかどんどん前に進んでますけど良いのですか? あれ危ない植物なんじゃありませんでしたっけ?」

 花中と一緒に前へと進むフィアが尋ねてきたが、花中はそれに答えない。煩わしい。何故()()()()()()事に逐一答えねばならないのか。

 無論いくら『マグナ・フロス』に近付こうにも、その前には柵がある。乗り越えようと思えば簡単だが、傍には警備員が居るのだ。そう簡単にはいかない。

 警備員が『マグナ・フロス』の前から退かなければ、だが。

 一瞬ぽかんとした空気が場に広がった、のも束の間の出来事。

 感動に滲んだ叫びを上げ、来園者達が一斉に『マグナ・フロス』へと押し掛ける! さながらそれは人の津波のようであり、流れに乗れなかったであろう少数の人間の悲鳴が上がっていたが、押し寄せる来園者達はその足を止めはしない。

 フィアを振り払い、前へと走り出した花中も津波を構築する者の一人だった。

「花中さん? どうしたのですか? 何故どんどん前に行くのです? 花中さーん?」

 困惑するフィアの言葉など、もう聞こえない。花中は走り、走り、走り……『マグナ・フロス』を囲う集団に混ざると、彼等と共にその場で跪いた。

 なんと神々しいお姿なのだろう。

 傍で見た『マグナ・フロス』は、遠目で見ていた姿とはまるで違っていた。形態が変異した訳ではない。纏う雰囲気が、劇的に変わったのである。否、今も刻々と雰囲気は変化している。より神々しく、より荘厳に。

 変化があるのは『マグナ・フロス』の雰囲気だけではない。今まで人の汗と体臭しかしなかった空間には蕩けるように甘く、心に染み渡るような香りが充満し始めていた。一呼吸する度に脊髄が痺れ、脳が舞い上がるような快楽を覚える。これが『マグナ・フロス』の発する匂いだとすれば ― いや、間違いなくそうだ。花中にはその確信があった ― 、近付けばもっと濃厚な匂いを味わえる筈。

 最早、花中は『マグナ・フロス』を植物だとは思っていない。どうして先程までそう思っていたのかと、自己嫌悪するほどだ。『マグナ・フロス』以前までに確認された種子の長期休眠は精々ニ千年である。六千九百万年もの間眠り続けていた存在が目覚めるなんて、常識的に考えればあり得ない。

 即ち『マグナ・フロス』は、人智を超越した、常識の外にある存在。

 あの『御方』は、時を超えて人類の前に現れた神の化身なのだ。

 ……少なくとも、花中はそう信じるようになっていた。『マグナ・フロス』の前に集まった人々も花中と同じ目をしていて、同じように『マグナ・フロス』の姿を、瞬きすら惜しむように目を見開いて凝視していた。

 だから、足下に忍び寄るものに気付きもせず。

「おっとっと」

 フィアが素早く自分の腕を掴み、引っ張ってくれなければ、一体どうなっていたのだろうか。

 まずはそれを問わねばならぬ場面で花中が真っ先にしたのは、酩酊した眼差しでフィアに非難の意思を伝える事だった。

「もぉー……フィアちゃん、いきなり何すんのー……」

「いえ何と言われましてもあんなのが襲い掛かってきては見て見ぬふりも出来ませんし」

 呂律の回りきってない口で責めると、フィアは正面を指差しながらそんな弁明をする。此処は植物園。一体何が襲い掛かるというのか。

 花中は唇を尖らせながら、フィアが指し示す方向を見遣る。

 ただそれだけの仕草で酩酊していた頭は一瞬で冴え渡り、花中はその顔を真っ青に染め上げた。

「あ、あぁぁあぁあぁあ……」

 一人の中年男性が、映画に出てくるゾンビのような声を上げている。

 男は激しく揺れ動いている瞳孔で、虚空をじっと眺めていた。半開きの口からは涎がだらだらと零れ、びくん、びくんと身体が震えている。ズボンの股間部分が濡れているのは、よもや持っていたジュースが零れてたまたま濡れた訳ではあるまい。

 そして男の首下には、植物の根のようなものが突き刺さっていた。根が伸びている先を目で追えば、見付かるのは古代の植物……『マグナ・フロス』。

 『マグナ・フロス』から伸びた根っこが、男性の首に突き刺さっていたのである。しかもその男性だけでなく、『マグナ・フロス』の周りに集まっていた何百もの人間達全員に。

「な、何これ……!?」

「いやはや随分とけったいな植物ですねぇ。これが古代の生き物ですか」

 震える花中の傍で、フィアは淡々と暢気な感想を漏らしながら肩を竦めた。一見してその姿は隙だらけである。

 まるでその隙を狙うかのように。

 『マグナ・フロス』の根っこがうねり、フィア目掛けて放たれた。『マグナ・フロス』の根は凡そ植物とは思えぬほど豪快にしなり、弾丸を彷彿とする速さで襲い掛かってくる。

 しかし人智を超えた怪物であるフィアにとって、弾丸程度を叩き落とすなど造作もない。直感で繰り出したであろう拳で殴れば、人の腕ほどの太さがある根はボキリと音を立ててへし折れた。

 するとどうだ。『マグナ・フロス』は痛みを感じたかのように折れた根を引っ込め……代わりとばかりに、『マグナ・フロス』の根が首に突き刺さったままの人々が、ずらりと『マグナ・フロス』の前に並んだ。

 次いで彼等全員が、フィアを憎悪の眼差しで睨み付ける。

「あん? なんですかコイツら」

 フィアは不思議そうに首を傾げるだけだったが、花中は息が詰まる想いだった。

 『マグナ・フロス』の前に立つ人々の瞳に宿る憎悪は、生半可なものではない。親が殺されても、果たして人はここまで他者を憎めるもののだろうか? そんな疑問を抱いてしまうほどだ。

 唯一それが可能な想いがあるとすれば、親愛ではなく盲信か。

 脳裏を過ぎった考えに、花中はぞわりと身体を震わせる。自分は、『マグナ・フロス』を見た時にどんな想いを抱いた? まるで神と対峙したかのような感動を覚えなかったか?

 もしかするとこの植物は……

「ほほうこの私にケンカを売りますか。たかが人間風情が良い度胸です。全員纏めて叩き潰してやりましょう」

 花中が考えている最中、特段何も考えていなかったであろうフィアが臨戦態勢を取った。刹那、花中は反射的にフィアの腕に跳び付く。フィアは駆け出そうとした全身から力を抜き、キョトンとした眼で花中を見下ろす。

 確かに彼等の憎悪は本物だと花中も思う。

 だが同時に『偽り』でもある筈だと考えていた。もしも自分の予想が正しいのなら、フィアに彼等を傷付けさせる訳にはいかない。

 彼等は『犠牲者』なのだから。

「だ、ダメ! あの人達を、傷付けちゃ、ダメ!」

「む……花中さんがそういうのでしたら別に構いませんけど」

 必死になって止めると、フィアは釈然としていない様子ながらも願いを受け入れる。

 フィアによる虐殺をなんとか回避したものの、花中に安堵している暇はない。憎悪に塗れた人間達が、一歩、また一歩と近付いてきたからだ。ゾンビのように緩慢だが、軍のように統率された行進。歳も、性別も、国籍もバラバラである来園者達がアドリブで取れる動きではない。

 『外部』からなんらかの制御を受けているとしか思えない。

 考えこもうとする頭を、花中は振りかぶる。考察は後回しにすべきだと本能も理性も訴えているのだ。

 何分来園者達の目は、もう限界だと言わんばかりに血走っているのだから。

「ぐぉあああああああ!」

「ああああああああッ!」

 そんな花中の考えを読んだかのように、来園者達が花中達目掛け突進してくる! 哀れ、凡人以下の反射神経しかない花中には、逃げる以前に動く事すら儘ならず。

「それでは一旦逃げるとしますか」

 十分な反応速度を誇るフィアは、花中を抱き上げながら独りごちる。

 獣の速度で身を翻したフィアは、迫り来る一般来園者から離れるように駆けた。戦車すらも叩き潰すパワーで大地を蹴れば、フィアの『身体』は人間など足下にも及ばないスピードまで加速。こちら目掛け駆けてくる来園者達との距離をあっという間に開けていく。

 特別温室唯一の出入り口に、フィアの移動を妨げる者はいない。此処を訪れた来園者は、軒並み『マグナ・フロス』の下に集まっていたのだから。

 フィアは易々と特別温室から跳び出し――――少し温室から離れた後くるりと振り返れば、どっと来園者達も溢れ出した。

「連中どうやら追ってくるつもりのようですけどどうします? やっぱ適当にぶん殴っておきますか?」

「ダメ! 逃げて!」

「承知しました」

 花中のお願いに、面倒臭そうにしながらもフィアは受け入れる。素早く前を向き直し、廊下を爆走した。

 花中はそんなフィアの腕の中から身を乗り出し、背後を見る。

 花中は目の当たりにした。段々と引き離されているにも拘わらず全速力で自分達を追い続ける、『一般来園者』達が()()()ほど居る光景を。

 そして彼等の後ろに居る数百人の『一般来園者』達が、自分達が逃げる先とは異なる方に散っていく姿も……




さぁ、いよいよ話が動き始めました。
という訳で本章の敵は『白亜紀末期の植物』です。
数千万年の月日を経て蘇った古代種の力が段々明かされますので
こうご期待。

次回は9/16(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ5

 花中を抱きかかえたまま、フィアは猛然と駆けていた。

 特別温室から脱出したフィアは、ほんの数秒で温室から数百メートルも移動する。猛烈な速さではあるが、しかし精々時速二~三百キロ程度。人間が生身で晒されても気絶するような速さではなく、花中はビクビク震えながらも自発的にフィアにしがみついていた。

 特に指示もしていなかったので、フィアは適当に進んだのだろう。やがてフィアが立ち止まり、それに気付いた花中が顔を上げた時辺りは見知らぬ野外だった。『突然』現れたフィア達に驚きの眼差しを向ける数十人の来園者達と、柵で覆われた花畑や草むらが見える。夕暮れの日差しが、景色をノスタルジックに染めていた。

 此処は何処だろうと思い周囲を見渡せば、立て掛けられた一枚の看板が目に入る。看板曰く、此処は野外展示エリア。名前から察するに、日本の野草などを展示しているのだろう。

 変な場所ではないと知り、花中は安堵――――する暇もない。

 花中はおどおどと後ろを振り返る。自分達を追い駆けてくる来園者……健全な来園者と区別するため、『マグナ・フロス』の『観賞者』と呼ぶ事にしよう……の姿はすっかり見えなくなった。小さな影一つない。

 追ってきてはいない。正確には追い付かれていないだけかも知れないが、なんにせよ近くに観賞者はいないという事。

 花中の心が落ち着きを取り戻せたのは、この事実に確信が持ててからだった。

「とりあえず振りきれましたかね」

「う、うん。多分……」

 ゆっくりと降ろしてもらった花中は、フィアの言葉に同意する。

 未だに心臓はバクバクと音が聞こえるぐらい高鳴っている。呼吸も乱れている。意識して鎮めようとしても身体は言う事を聞かず、むしろ一層症状が酷くなっている気がした。

 一旦自分の身体に意識を向けるのは止めようと、思考を追い払うように頭を横に振る。そうして空白にした頭には、別の、何より最も重要な問題が浮かんできた。

 特別温室で起きた出来事、そしてその原因らしき『マグナ・フロス』についてだ。

 あの植物は危険だ。花中自身、経験したからこそ断言出来る。『マグナ・フロス』を目の当たりにした瞬間、理屈抜きに「あれは素晴らしいものだ」という考えを抱いていた。漂ってきた匂いを嗅いでからは他の事が考えられなくなり、『マグナ・フロス』への好感が際限なく高まっていたのを今でも覚えている。

 もしもあの時フィアが助けてくれなければ、今頃自分も『マグナ・フロス』の根を突き刺され、自分達を追い駆けてきた観賞者達のようになっていたのだろうか。

 ぶるりと、花中は身体を震わせた。何が恐ろしいかといえば、自分が彼等のような狂人になってしまう事ではない。そうなっていたに違いないとどれだけ論理的に考えても、人間を狂わせた瞬間を目の当たりにしても……未だ『マグナ・フロス』を()()()()()()事が恐ろしいのだ。

「花中さんこれからどうしますか?」

 フィアに問われ、花中は口を閉ざす。答えは胸にあるのに、それを妨げるようにもやもやとした感覚が喉につっかえていた。

 花中はぐっと息を飲み、深呼吸をして……心を決める。

 『マグナ・フロス』を倒してと、フィアに伝える決意を。

「フィアちゃん。あの」

「はなちゃん大丈夫!?」

「まきゅあっ!?」

 尤もそうした気持ちを言葉に出そうとした瞬間、突如聞こえた自分の名を呼ぶ大声に驚いてしまい不発に終わったが。

 狼狽える花中の目の前に、黒い霧が出現。霧は数秒と経たずに人の形を作る。

 現れたのはミリオンだった。ただしその顔に何時もの笑みはなく、珍しく慌てた様子だったが。

 何時の間にか静まっていて、しかしミリオンが現れた瞬間再び不快な鼓動を始めた胸を押さえながら、花中はミリオンと向き合う。「大丈夫」という問いの意味は「観賞者達のようになっていないか」だろうか。ごくりと息を飲み、再び開けた口からは、先程まで頭にあったのとは違う言葉が出ていた。

「あ、は、はい……えと、だ、大丈夫、です……多分」

「ちょっと見せて」

 花中は大丈夫と伝えたが、ミリオンは聞く耳も持たず花中の頬に手を当てる。しばらく手を当て続けたままじっと花中の顔を見つめてくるものだから、花中は少なからず戸惑いを覚えた。フィアもミリオンに鋭い眼差しを向けていたが、ミリオンは構わず花中の顔を見つめ続ける。

 やがてミリオンはホッと息を吐き、ようやく花中の頬から手を離した。

「良かった。粉の影響は小さいみたいね。これぐらいなら除去出来る」

「……粉? 除去って……」

 ミリオンの独りごちた言葉の意味が分からず、花中は目をぱちくりさせながら尋ねる。ミリオンは瞬きを一回すると、にっこりと優しい笑みを浮かべた。

「『マグナ・フロス』の粉よ。いえ、粉というより微粒子かしら? それがはなちゃんの脳の神経細胞と結合しているけど、これなら私の能力で取り除けるって事」

 ただし語られた言葉に、聞いた側が笑顔になれる要素はちっともなかったが。

「微粒子が、神経細胞に……? ど、どういう事ですか?」

「そうね。話すと少し長くなるけど、構わないかしら?」

 ミリオンの前置きに、花中はこくこくと何度も頷く。花中の同意を確認したミリオンは、早速話してくれた。

 曰く『マグナ・フロス』の花からは、微細な粒子が放出されているらしい。

 花粉と呼ぶにはあまりに小さなその粒子は、鼻や咽頭から血液中に入り込む。大半は免疫細胞により撃退されるようだが、しかし粒子の数はとても多いため一部は脳まで侵入し、神経細胞と結合するという。

 そして結合した粒子は神経に何かしらの化学的刺激を与えている。つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()という事だ。

「……ほ、本当、なのですか……?」

「ええ。おかしくなった人間の脳を直に調べたから間違いないわ」

 震えた声で尋ねる花中に、ミリオンは平然と答えを返す。ミリオンは微細な『粒子』であり、人体に入り込む事など造作もない。彼女の語る言葉に、嘘や憶測が入っている筈もなかった。

 脳神経に意図せぬ命令が走れば、例えば生理的な反応が暴発したり……無数の神経伝達によって形作られる『思想』に変化を起こしたりするだろう。問題はそれがどのような命令であるかだが、変貌した観賞者達の姿を見れば予想は付く。

 一言で述べるなら、狂信。

 『マグナ・フロス』への信心を掻き立て、従属し、心酔する感情を生み出す命令だ。

 恐らくこの性質は、六千九百万年前の世界で生き残るための能力なのだろう。野生の『マグナ・フロス』はこの粉を用いて様々な動物を従え、自分の手足として利用していたのだ。動物といえども自分の好きなものを傷付けようとする輩には敵意を剥き出しにするし、或いはお気に入りの種子や粉を纏うようなお洒落もした筈だ。これらの行動は『マグナ・フロス』にとって自分を食べようとする天敵への対策になるし、種子や花粉を拡散する手助けとなる。そうやって『マグナ・フロス』は恐竜達の闊歩する大自然を生き抜いてきた。

 しかし気候変動に対しては、あまり役立つ能力ではあるまい。白亜紀末期の大量絶滅……激変する環境に適応出来ず、恐竜と共に『マグナ・フロス』も滅びた――――僅かな種子以外を除いて。

 目覚めた種子は、六千九百万年前と変わらぬ生態を発揮して生き残ろうとしたに違いない。そして彼等の放った粉は、自称この星で最も賢い生命体……人間に効いてしまった。

 六千九百万年前の動物と違い、人間には高い知能と、強い信仰心があった。『マグナ・フロス』を素晴らしいものと信じ、信仰を広める事に使命感を覚える事が出来た。そしてそれを実現可能とする知性を持っていた。

 『マグナ・フロス』と毎日接する職員達は、この粉の影響を強く受けたに違いない。職員達は次々と『マグナ・フロス』の素晴らしさに()()()、一丸となって準備を始めた。存在を公表し、展示会を開いて無垢な人々を集め、そこで『マグナ・フロス』の粉を浴びせる……結果、彼等の思惑通り信者は激増した訳だ。

 無論人類の側から見れば、これは精神汚染とでもいうべき異常事態である。何かしらの手を打たねばならないし、『被害者』の治療も必要だ。

 しかし。

「問題は、微粒子と結合した神経の回復が殆ど望めない事ね。どうも一般的な麻薬成分とかと違って、分解や排出が起こらず、恒久的に効果が続くみたい。化学的な結合というより、シナプスそのものが変性している感じ」

「こ、恒久的って、治療方法は……」

「うーん。汚染部分を切除、要するに脳みそ切り刻むぐらいしかないんじゃないかしら? ただの化学物質だから私の熱なら簡単に分解出来るけど、どうしても神経ごと焼く事になっちゃう。はなちゃんの状態は軽度だったから自覚症状がないレベルで済んだけど、明らかに狂っちゃった人間達は無理ね。生きるのに支障が出るぐらい焼く羽目になるわ」

「……あなたもしかしなくても了承なしに花中さんの頭の中身焼いてません?」

「ありゃ、バレちゃった? でも緊急時の治療だからそこは許してよ。それに症状が軽度だったのは確認したって言ったでしょー。重篤ならもう少し慎重になってるわよ」

 ジト目で睨み付けてくるフィアに、ミリオンはおどけるように許しを請う。フィアとしても ― 詳細は理解していないだろうが ― 『仕方ない』事情があった事は理解したのだろう。不機嫌そうな鼻息を鳴らしてそっぽを向くだけで、それ以上悪態を吐こうとはしなかった。

 対して花中は、凍えるように身体を震わせる。

 ミリオンは医療の天才という訳ではない。しかし血管から体内に入り込める『微粒子』であるミリオンが、神経が化学的に変性していると言っているのだ。ならばきっと、それは事実である。治療が如何に困難であるかの見立ても、間違ってはいまい。

 古代の植物が放出した粉 ― 仮に洗脳粒子と呼称しよう ― がどのような分子構造をしているかなんて分からないが、現時点で有効な治療法があるとは思えないし、作り出せるとも考え難い。仮に作れたとしても長い時間、数年から数十年の月日が必要な筈だ。

 その間『マグナ・フロス』を見に来た観賞者達は狂ったままである。

「そ、そうです! 星縄さんは!? それに、ミィさんの姿も……」

 考えを巡らせる中で、花中は姿が見えない友人達の事を思い出した。どうして今まで思い出せずにいたのか、自己嫌悪で潤み出す目にぐっと力を込めて尋ねれば、ミリオンは笑みを何一つ変えずに教えてくれる。

「あの子達なら無事よ。はなちゃんと逸れてから、私達はずっと特別温室の出入口近くに居たからね。『マグナ・フロス』から遠く離れていたし、アレを見た瞬間猫ちゃんが星縄ちゃんを連れて逃げたから、はなちゃんより被害は少ないぐらいよ」

「あん? 野良猫の奴あんな枯れ木もどきの一本で何をビビってるんですか?」

「本能的に嫌な感じがしたみたいね。さかなちゃんや私が何も感じてないあたり、『マグナ・フロス』の粒子は哺乳類の神経に対し選択的に作用するんじゃないかしら。或いは水生動物が対象外なのかも知れないけど」

「星縄さんとミィさんは、無事なんですね。良かった……」

 知人と友達が無事と分かり、花中は心から安堵する。

 それに、心配するあまりその可能性を微塵も考えていなかったが、ミィが『マグナ・フロス』の粒子に侵された人々と同じになっていたら……実に恐ろしい状況と言えよう。野生の本能に、花中も救われた形だ。

 友達は全員無事。自分も『治療』によって回復した。心は少しずつ落ち着きを取り戻していく。しかしそれは偽りの安堵である。

 何しろ問題は、何も解決していないのだから。

「それで花中さんこれからどうしますか?」

「え? どうって……」

「私としてはそろそろ帰りたいのですけど。留まり続けて花中さんが変になるのも嫌ですし」

 正直に自分の考えを明かすフィアに、花中は返す言葉を失う。

 実際、フィアの考えは正しい。

 『マグナ・フロス』が危険な洗脳粒子を撒き散らす植物だと分かった今、植物園内に留まる事すら危険であろう。かといってミリオンにも人々の治療が出来ない以上、花中達に出来るのは精々無事な来園者達に危険を伝えて帰宅を促す事。それから警察か自衛隊、或いは病院に通報するぐらいだ。

「ああそれともあの枯れ木もどきをぶっ潰しますか? 私としてはそれでも構いませんというか花中さんの身体に変なものを入れたと思ったらムカムカしてきましたからちょっと叩き潰して」

「だ、ダメ! それは絶対、ダメ!」

 ましてや『マグナ・フロス』を駆除してもらうなど愚行も同然である。花中は慌ててフィアを止め、フィアは不思議そうに首を傾げた。

 フィアならば、『マグナ・フロス』を駆除、否、破壊する事など容易い。恐ろしい生態を誇ろうとも『マグナ・フロス』はただの植物であり、対してフィアは冷戦時代に開発された()()()()()()核兵器さえも耐える可能性がある超越的生命体。勝負になどなる筈もないのだから。

 しかし観賞者達を狂わせたのは『マグナ・フロス』が放出した洗脳粒子だ。そして洗脳粒子が脳細胞と結合し、恒久的に思想を狂わせるという事は、『マグナ・フロス』の制御は一切受けていないという事。『マグナ・フロス』を倒したところで観賞者達は元には戻らない。

 むしろ治療薬の開発を進めるためには、洗脳粒子の合成過程や『マグナ・フロス』内での保存方法が重要になる。災厄の元凶であるのと同時に、『マグナ・フロス』は観賞者達を治療するための希望なのだ。一時の、自分の保身を考えて『マグナ・フロス』を駆除する事は、被害者の再起を妨げる行為に他ならない。

 倒せない以上、今の花中に出来る事はただ一つ。

「では帰りますか?」

「……う、うん……警察とかに、通報してから、だけど……」

 フィアの言葉に、不本意ながらも花中は同意するしかなかった。

「了解しました。それでは準備が出来ましたら声を掛けんあ?」

 花中から頼まれたフィアは快く受けるも、ふと視線を花中から反らす。

 フィアの一瞬の反応に気付いた花中は、フィアの視線が向いている方へと振り返る。フィアが意識を向けたものが何かは、すぐに分かった。

 故に花中は振り向いた直後に、自らの目を大きく見開く。

 つい先程自分達が逃げてきた――――特別温室がある方角から、数人の人間が走ってやってきたのだから。服装からして職員ではなく一般の来園者だった人々。彼等の誰もが目を血走らせ、常軌を逸した ― 人間の範疇には収まっているが、一般人のそれではない ― 速さで駆けている。

 『観賞者』達だ。

 まさか完全に見失った筈の自分達をまだ探していたのか? やってきた人数が少ない事から推察するに、手分けして虱潰しの捜索をしていただけで、自分達の居場所が分かっている訳ではないだろうが……

 彼等の真意を把握したく、花中は思考を目まぐるしく巡らせる。とはいえ観賞者達の目的はすぐに明らかとなった。

 それは花中の顔を一層青くさせる。

 観賞者達が走って向かったのは、一般来園者の親子連れ。お父さんとお母さんらしき大人と、幼稚園児ぐらいの小さな男の子の三人は、迫り来る集団を前にして驚きを露わにする。しかし植物観賞を楽しんでいた彼等が観賞者達に気付いたのはあまりにも遅く、観賞者達の足はあまりにも速い。

 観賞者達は肉薄するや、親子連れに掴み掛かる。あまりにも乱暴な手口に子供は泣き出し、抗議しようとする両親は観賞者達に殴られた。

 そうして怯んだ親子連れの前で、観賞者達の一人はポケットから何かを取り出す。

 観賞者が取り出したものは、銀色の粉のように見えた。観賞者はその銀粉を、未だ殴られたダメージが残る両親の顔に浴びせ掛ける。両親は恐らくは反射的に顔を守ろうとして腕を前に出したが、次の瞬間白眼を向き、涎をだらだらと流し始め、痙攣しだした。子供は悲鳴染みた泣き声を上げ、おかしくなった父親と母親にしがみつく。

 やがて両親の痙攣は治まり、幾らか表情が戻る。子供はわんわん泣きながら両親に顔を埋めた。

 両親はそんな子供の頭を掴み、観賞者から受け取った銀粉を自らの子供の顔に押し付ける。

 その後起きた事は、両親の身に起きた事と全く変わらない。一部始終を見届けた観賞者達はにんまりとした笑みを浮かべ、家族連れに何かを伝えるや銀粉を分け与える。家族連れは全員で頷き、再び走り出した観賞者の後を追うように続く。

 彼等が目指すは、親子連れに起きていた事態を呆然と眺めていた老夫婦だった。

「こ、これって……!?」

「ほほーああやって仲間を増やす訳ですか。なんかゲームだか映画だかで見ましたねあんな感じの化け物」

「ああ、ゾンビね。確かに似てなくもないかしら」

 フィアとミリオンは能天気かつ淡々と事態を受け入れていたが、花中は愕然となる。

 事態は、自分が予想していたよりもずっと深刻らしい。

 よく考えてみれば分かる事ではないか。神が如く素晴らしい存在を目の当たりにしたとして、どうしてそれを()()()()()()()()()? それは素晴らしいものなのだから、もっと世に広めるべきではないか。かの存在に尽くす幸福を、世界の『不幸』な人々に教えてあげないのはあまりにも身勝手ではないか。

 だから、知らない人に教えてあげよう。

 ……人間には他者を、家族や友人、時には顔すら知らない人々を幸せにしたいという『衝動』がある。その衝動が人間社会を発展させた力の一つである事は、疑う余地もない。しかし同時にこの衝動の暴走が宗教や思想の強要を生み、争いの原因となったのも事実。

 『マグナ・フロス』への盲信を抱いた人々は、他者の幸せを願う気持ちを暴走させた状態なのだ。恐らく観賞者達が持っていた銀粉こそが『マグナ・フロス』への狂信を抱かせる洗脳粒子なのだろう。観賞者達はその洗脳粒子を無関係な人々に吸わせ、吸わされた人々は『マグナ・フロス』への信心に目覚めて新たな観賞者へと変わり……

 フィア達が語ったゾンビという言葉は的を射ている。陸上選手並の身体能力を ― 脳神経を刺激され、限界以上の力を発揮しているのかも知れない ― 誇り、言葉によるコミュニケーションが可能な知性を保っている点を除けば。

 このままでは植物園内の人々が、次々と観賞者へ変貌する。

 否、今正に目の前でそれが起きていた。

「う、うわああああっ!?」

「ぎゃあっ!?」「な、なんだぁあっ!?」

 野外展示エリアに、悲鳴が響き渡る。

 ハッとして花中が目を向ければ、新たな観賞者達がこの場にやってきていた。彼等は近くに居る来園者達に襲い掛かり、次々と銀粉を浴びせていく。

 異変を察した観賞者達は次々に逃げ始めるが、並の人間を凌駕する速さで駆ける観賞者達を振りきるにはあまり愚鈍。一人、また一人と、観賞者達の仲間が増えていく。

 このまま何もしなければ、この植物園に居る人間全てが『観賞者』となるのも時間の問題だ。

「ふぃ、フィアちゃん! あの、こ、この言葉を、あの人達に向かって、大声で、言って!」

「? 花中さんが仰るのでしたら」

 キョトンとするフィアに、花中は耳打ちをして伝えてほしい言葉を教える。ふんふんとフィアは鳴くような声と共に、しっかり理解したと言わんばかりに頷く。

 そしてフィアはなんの躊躇もなく、周囲の来園者を一通り洗脳した観賞者達に向けて、

「おーいそこのまぐなんちゃら好き達ぃーあなた達の大好きな枯れ草をこれから切り倒しに行こうと思いまーす」

 花中が教えたのとやや異なる文面の挑発を行った。

 数十人にまで膨れ上がった観賞者達は最初、フィアの言う『枯れ草』がどういう意味か分からなかったのだろう。短くない時間ポカンとしていたが、しばらくして『マグナ・フロス』を意味していると気付いたらしい。まるで肉親の仇を見付けたかのような、憎悪の眼差しをフィアに向けてきた。

 今度は睨まれたフィアがキョトンとし、ややあってポンッと手を叩く。

「おお成程。奴等の気を引いて他の人間を助けようという事ですか。相変わらず花中さんは他人に甘いですねぇ」

「いや、言う前に気付きなさいよそれぐらい」

 今になってようやく花中の意図を理解したフィアに、ミリオンが呆れたようにツッコミを入れた。

 能天気なフィア目掛け、観賞者達は猛然と駆けてくる! ミリオンは「じゃ、後は頑張って。避難誘導ぐらいはしてあげるから」と言い残すや姿を崩し、虚空へと消えてしまう。自分の望みを察して行動してくれた事に花中は感謝し、花中との時間を邪魔する輩が居なくなったフィアは大変嬉しそうな笑みを浮かべた。

「それじゃあ花中さんのご期待に応えるとしますかねっと」

 それからフィアは間髪入れずに花中を抱き上げ、五メートル近く跳び上がる!

 突撃してきた観賞者達の腕はフィアの足下を空振り。フィアは観賞者の上を悠々と跳び越える。最前列に居た観賞者は避けたフィアを反射的に追おうとしてか足を止め、後ろから押し寄せた観賞者達が衝突。一斉に蹴躓いて大きな人山を作り上げた。

 お間抜けな姿を晒す観賞者達を尻目に、フィアは軽やかに着地。腕の中で目を回している花中なんて気付きもせぬまま、観賞者達にドレス越しのお尻を向ける。

「やーいウスノロどもー悔しかったら捕まえてごらんなさーい」

 止めに、可愛くお尻を振りながら二度目の挑発。

 人山が意識を統一したかのように蠢き、目を血走らせ、涎をだらだら零している顔を振り向かせる。

 フィアは彼等が立ち上がるのを待つように、わざとらしくのろのろと歩き……人山が解体されて数十人の観賞者へと戻ってから、そそくさと走り出した。

 フィアに抱えられている花中はフィアの肩に手を掛け、身を乗り出して後ろの様子を確認。無数の植物が植えられた広場を、血走らせた目でフィアだけを見つめながら追い駆けてくる数十人もの観賞者達の姿が見えた。こうなるよう自らの意思で誘導した花中であるが、正気を失った人間の姿に思わず恐怖し、乗り出していた身を引っ込める。

 とはいえフィアの速力は人間の比ではない。加速・減速・速度・機動性、その全てが人智を凌駕する。今は誘導するために、わざと観賞者達の速さに合わせているだけだ。

 故に段々と観賞者が迫ってきて、ついには腕を伸ばせば届くほど追い詰められても、フィアにとっては危機でもなんでもない。

「よっと」

 軽い掛け声と共に、フィアは一秒も経たずにほぼ静止状態まで減速。

 瞬時に直角に方向転換し、今度は一秒も使わずに自動車並の速さまで加速する!

 どれだけ異常でも一応人間の範疇である観賞者はフィアの動きに付いていけず、反射的にか無理な方向転換を試みて続々と転んでいく。全力疾走からの転倒だ、決して小さなダメージではない。下手をしたら死人が出る。

 フィアとしては()()()()はどうでも良いだろう。しかし花中にとっては全然どうでも良い話ではない。

「はーっはっはっはっ! 人間風情がこの私に追い付けると思いましたか!」

「お、ぶえぇぇぇ……ぐ、ぬぅ……!」

 上機嫌なフィアの腕の中で、全身を襲った慣性によるダメージからだばだばと胃の中身を吐き出す花中。一通り出して幾分頭をスッキリさせてから、再びフィアの肩から身を乗り出す。

 何人かの観覧者達は転倒のダメージが抜けていないのか、起き上がる事もなく地面に転がっていた。比較的無事そうな者も肘で身体を支え、何かを耳元に当てるような仕草を取っているぐらい……

 その仕草を見付けてしまったが故に、花中は顔を引き攣らせる。

 何かを耳元に当てている。現代においてその行動は、通信端末の使用を意味していた。観賞者達は元々一般人であり、スマホぐらいは持っていたに違いない。ならばそのスマホで何処かに連絡を入れる事は可能な筈。

 問題は何処に連絡をし、何を伝えたのか。

 ただ援軍を求めただけならば良い。フィア相手に、多少身体能力が増した程度の人間がどれだけ集まろうと勝ち目などないのだから。

 しかしもしも「我々では手に負えない」という情報を伝えていたなら……

「あん?」

 思考を巡らせている最中、フィアがぽつりと独りごちる。

 花中はその小さな声で思考の海から現世に戻ってきて、自分達が影の中に居る事に気付いた。その影が、どんどん色濃くなっているという事にも。

 無意識に、花中は頭上を見上げる。

 そこで車が空を飛んでいる光景を目の当たりにした。

 そこで車が空を飛んでいる光景を目の当たりにした。

 ……あまりに非常識な光景に、思わず二回も状況認識の言葉が脳裏を駆ける。花中は瞬きをして視界を切り替えようとするが、空飛ぶ車は消えてくれない。むしろ段々と大きくなっている。やがて車が視界全てを埋め尽くし、そこで花中はようやく自分の置かれている状況を理解した。

 車は空を飛んでいるのではない。恐らく全速力で何処かの段差から飛び出し、自分達に向かって落ちてきているのだ。

「ぴきゃああああああああああっ!?」

「よっと」

 思わず悲鳴を上げる花中だったが、フィアは至って冷静。軽やかに横へと跳び退き、自分を押し潰そうとした車を回避する。

 車は凄まじい音と共に着地。並の車なら衝撃で大破しただろうが、その車は所謂ハンヴィーと呼ばれるような、頑強な大型車だった。軍用車として使われるほど丈夫な代物であり、ダイナミックな着地でも破損せず。これといった問題もなく、平原を駆けるフィアと併走する。

 そしてハンヴィーには数人の男達が乗っており、車体上部には機関銃が装備されていた。

「き、ききき、きか……!?」

 あまりにも物騒な代物に、花中は震える声でその名を呟こうとする。ただの車であるハンヴィーなら兎も角、機関銃なんてもろに兵器だ。どうやって入手したのか。いや、もしかしてモデルガンの類で、虚仮威しのための装備では。

 『現実的』な期待をする花中であるが、機関銃の後ろに一人の男が付き、銃口を花中達の方へと向けてきた事で期待は打ち砕かれる。本当にモデルガンだったなら、機関銃の後ろに付いた男が獰猛な笑みを浮かべる筈がないのだから。

 思った通り、機関銃は本物の火と、金属の塊を吐き始める!

「おっと危ないですねぇ。花中さんが怪我をしたらどうするのですか」

 フィアはすぐさま抱え方を変え、自らの『身体』の後ろに花中を隠した。弾丸の何割かはフィアの『身体』に命中するが、戦車砲すらものともしないボディに機関銃の小さな弾など効きもしない。当たった弾丸の方が拉げ、金属音を鳴らして地面に落ちる。フィアの『身体』は欠ける事もなく、完全なノーダメージだ。このまま何時間、いや、何年でも耐え続けるだろう。

 それでも鬱陶しくは感じるらしい。

「ええいそろそろ黙りなさいっ」

 ぐにゃんと伸びたフィアの腕が、ハンヴィーの側面を殴る。

 殴ると言ったが、花中には見えもしない超音速パンチだ。おまけに拳の質量は、軽自動車に匹敵するまで高めてある。花中には何が起きたのか分からないまま、ハンヴィーの巨体がふわりと浮かび上がった……ように花中には一瞬見えた。

 実際には浮かび上がるどころか、すっ飛んだのだが。機関銃を撃っていた男は車外に投げ出され、ハンヴィーは石ころのように転がっていく。どちらもバラバラにならないのが不思議なぐらいだ。

 投げ出された男は微かに動いていたので死んではいないだろうが、重症になっていてもおかしくない。ハンヴィーの中に居る男達も、無事とは限らないだろう。花中は青くしていた顔を更に青く、最早黒に見えるぐらい悪くする。

 そして花中の心を更に締め上げるのが、横転したハンヴィーを追い越す、無数のバイクと新たなハンヴィー達。

 観賞者達の増援だ。バイクの乗員は武器を持っていないようだが、ハンヴィーの上にはどれも機関銃が装備されている。何処からどう見ても殺意満点で、こちらを生かしておく気など微塵もない事が分かる。

 どうやら『マグナ・フロス』に対する侮辱は、相手が誰であろうと死を持って償わせるつもりらしい。

「ふん! 雑魚が何匹来ようと無駄ですよ!」

 無論バイクやハンヴィーが何台来ようとも、フィアの自信を打ち砕くには足りない。フィアは足を止めるのと同時に素早く反転し、同時に自らの頭部を魚の形へと変形させる。

 続いて、ばくんっ! と花中に食らい付いた。

 非力な花中に抗う力などなく、そのまま丸呑みにされる。無論フィアは飲み込んだ花中を噛み砕いたりする事もなく、ただ自分の内側に退避させただけ。いきなり丸呑みにされた花中も、フィアに食べられた、なんてショックは受けていない。機関銃から自分を守るためには、抱いているだけでは不十分と判断したのだと即座に理解していた。驚くには驚いたし、心臓が痛いぐらい鼓動しているので、一言説明ぐらいはしてほしかったが。

「ふっはははは! これでこちらも思う存分遊べるというものです!」

 花中を安全圏へ退避させたなら、フィアにはもう怖いものなどない。迫り来る観賞者達を堂々とした仁王立ちで待ち構える。例え軍用車が何十台来ようと、振るえば一撃で全て薙ぎ払えてしまう水触手も生やし――――

「だ、ダメぇっ!」

 その光景を内側から()()()()花中が引き留める。

 フィアの内側へと呑まれた花中の前には、フィアが外から取り込んだ景色が映し出されていた。その景色と、『身体』の中を響くフィアの声から、フィアが何をしようとしているのか察したのである。

 花中に止められたフィアは、花中には見えない『顔』を面倒臭そうに顰める。それから花中が何を言いたいのか察したのか、やれやれとばかりに肩を竦めた。

「あーもしかしてアレですかね。殺すなとか怪我させるなとかですか?」

「うん……だって、あの人達は、操られてるだけだから……」

「本当に花中さんは他人に甘いですねぇ。仕方ありませんそーいう事なら逃げるとしましょう」

 花中の気持ちを汲み、フィアは再び身を翻す。そして足に力を込め、自動車にも負けない速さで駆け出し

「だ、ダメ!? そっちも、ダメ!」

 そうになるのを、またしても花中は引き留める。

 フィアが進もうとした先にあるのは植物園の施設。

 その中にはまだ、避難を終えていない人々が居るかも知れない。フィアにとっては無意味な銃器も、ただの人間である来園者達には死をもたらす凶器である。運悪く流れ弾が当たったなら……

「ではどうしたら良いのですか?」

 されどフィアが疑問に思うように、どちらもなし、は無理な話だ。

 選択肢を拒むなら代案を。

 そんな当たり前の意見への答えを持ち合わせていなかった花中は、言葉を詰まらせてしまう。どうするのが良いのか、どうしたら良いのか……迫り来る観賞者達を凝視しながら、花中は『答え』を必死に求める。

 その選択が、一層の動揺をもたらす。

 接近してくるバイクの乗員。彼等の手にあるものは、銃器ではない。何か、小さなビニール袋のようなもの。何故ビニール、とも思ったが、答えはすぐに予想が付いた。

 『マグナ・フロス』の持つ洗脳粒子を入れているのだ。

 フィアを始末したら、そのまま他の施設にバイクや車で乗り込むつもりなのか。はたまたフィアを洗脳するつもりなのか。目的はどうあれ、ますます彼等を施設の中に入れる訳にはいかなくなった。ここで戦うのも、袋の中身が外に溢れる危険があるため行えない。水で包まれているフィアと花中(自分)は無事でも、風下に居る来園者達が犠牲になる。

 戦えない理由、逃げられない理由がまた増えてしまった。花中は顔を青くし、代案どころか決断すら出来ず、最早カタカタと震えるばかり。

「ふぅーむ要するに花中さんはアイツらを傷付けず尚且つあの施設にアイツらを入れたくないのですよね?」

 フィアが尋ねてこなければ、きっとそのまま動けなかったに違いない。

「う、うん……でも、そんな方法……」

「ありますよ。とても簡単です……あん?」

 困惑しながら花中が答えると、フィアは納得したように頷く……最中に、こてんと首を傾げた。何か、違和感を覚えたかのように。

「……まぁどーでも良いですね」

 しかし花中がその意図を問い質す前に、フィアは一匹で勝手に納得。指をパチンと鳴らした。

 その行動を合図とするかのように――――突如として、大地が揺れ始める。

 揺れは正しく大地震が如く激しさで、地響きは大きな生き物の鳴き声のように辺りに響く。バイクの何台かは揺れに耐えかね、バランスを崩して横転。転んだバイクの乗員はすぐに立ち上がって自らの足でフィア目指して走り、ハンヴィーは問題なく突っ込んでくるが、しかし彼等がフィアと接する事はない。

 何故ならフィアと迫り来る観賞者達の間に、大地に段差が生じたのだから。

 比喩ではない。文字通り、フィアと観賞者達の間にはまるで階段のような段差が生じている。それも現在進行形で、段差は大きくなっていた。困惑した花中は無意識に辺りを見渡し、何が起きたかを知ろうとする。

 知る事自体は簡単だった。ただ、受け入れられるかは別問題。

 何しろ自分達が立つ大地が、凄まじい速さで隆起を始めていたのだから。

 見れば背後の施設も隆起に巻き込まれ、外部と繋がる廊下が引っ張られ、両断されていた。隆起の高さは一メートルや二メートルなんて規模ではない。地震が起きてからの十数秒で、二十メートルは盛り上がっている。

 こんな急激で、大規模な地殻変動、あり得ない。

「な、なな、何これぇ!?」

「ふふーんどうです花中さんこれならアイツらが此処まで来る事はありませんよ!」

 そして驚愕と恐怖で慄く花中に、事の元凶であるフィアは上機嫌に答えた。

 この現象はフィアの能力によるもの。地中の水分を操作し、周辺の大地を押し上げたのである。自然災害すらも凌駕する巨大現象を、小手先の技であるかのようにフィアは成し遂げたのだ。

 さしもの観賞者達であっても隆起により生じた大地の壁には驚き、慌ただしく足を止める。一部のハンヴィーが止まり切らず壁に衝突したが、減速していた事、ハンヴィー自体の頑強さもあって大破は免れた。バイクや生身の人間も、怪我を負うような目には遭っていない様子。

 それでもしばらくすれば怒りと執念に突き動かされ、生身で崖を登ろうとするが……隆起した大地はまるでカップケーキのように上へ行くほど膨らんだ形状をしており、しかも全体的に脆くなっている。掴んだ場所はボロボロと崩れ、一メートルと登れない。

 これならば観賞者達が施設に攻め込んでくる事は難しいだろう。機関銃を用意しているぐらいなのでヘリコプターなどを持っていてもおかしくないが、言い出すと切りがない。少なくとも今この瞬間に限れば、危機は回避出来たのだ。

「さてこんな感じでよろしいですかね?」

「う、うん。凄く、良い感じ。ありがと、フィアちゃん」

「いえいえこの程度私に掛かれば造作もありません。さてそれではあっちの建物に行きますかね」

「うん……」

 花中の返事を受け、フィアは口から花中を吐き出す。フィアの能力は水を分子レベルで操作出来るため、吐き出された花中は一切濡れていない。着替えなくても、風邪を引く心配はないだろう。

 フィアは花中を抱き上げ、花中はフィアにしがみつく。フィアは悠々とした足取りで、のんびり施設へと歩き出した。

 そして花中はフィアの肩から身を乗り出し、後ろを覗き込む。

 反り返った大地に阻まれ、隆起のすぐ傍の光景は見えない。しかしとぼとぼと帰っていく姿が見えない辺り、観賞者達は未だ壁を乗り越えようと、自分が傷付く事も厭わず挑み続けているのだろう。

 彼等が大きな怪我をしない事を、花中は切に願う。

 今は願う事しか、出来ないのだから。




天変地異並の事象をぽんぽん起こす主人公サイド。
こんな化け物相手じゃ人質取るぐらいしないと勝ち目がないよね!
なお花中以外には通じない模様。
そもそも人質取っている自覚もないですけどね、何分ただの草なので。

次回は9/23(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ6

 天神植物園レストラン。

 植物園内にある飲食可能な場所の一つで、主に洋食を提供している。やや値段設定は高めだが、決して後悔させない味を提供してくれるとネットで評判だ。昼時には大勢の来園者が訪れ、シェフが振る舞う美味な料理の数々に舌鼓を打つ。

 尤も、今この施設内に居る数百もの人々に、その魅惑の食事を堪能している者は一人としていないのだが。

 何故なら彼等は『マグナ・フロス』の観賞者達の襲撃から、命からがら逃れてきた避難者なのだから。疲労や混乱、先行きの見えない不安から、食欲を感じる者など皆無。誰もが俯き、そわそわとし、家族や友人と身を寄せ合って不安を和らげようとしている。仲間を失った者達の中には、涙を零し続ける者も少なくなかった。

 それでも彼等は幸運な方だ。

「全部で三百十七人。『マグナ・フロス』から逃れられたのはこれで全員ね」

 総来園者数一万二千八百一人、従業員数六十九人、合計一万二千八百七十人……古代植物という謳い文句に惹かれて訪れた、常軌を逸した全体数のたった三パーセントにも満たない人々しか、『マグナ・フロス』の洗脳粒子から逃れられなかったのだから。

 レストランの外、扉のすぐ傍でミリオンと話をしていた花中は、そのミリオンから告げられた具体的な数に思わず息を飲む。しかしこの僅かな数ですら、本来は達成出来なかっただろう。逃れた人々の大多数はレストランに最初から居た訳でなく、ミリオンやミィ達に助けられたのだから。彼女達の助けがなければ、果たして三桁に達したかどうかすら……

 これだけの数の人々を救助出来たのは、自分の正体が露呈する事を恐れず、ミリオン達が人々の救助を行ってくれたお陰だ。

「本当に、ありがとうございます。ミリオンさん達が、助けてくれなかったら、もっと酷い事に、なっていました……助けた人達には、人間じゃないって、バレてしまったと、思います、けど……」

「別に大した問題じゃないわよ。バレない方が楽だけど、バレたところで人間如きにやられるほど軟じゃないし、戦わず捻じ伏せる方法なんていくらでもあるんだから」

 にっこりと微笑みながら誇らしげに語るミリオンに、花中は思わず笑いが込み上がる。フィアなら「人間なら何百万人来ようとこの私の敵ではありませんよ!」と語るところに、戦わずに捻じ伏せると答える辺りが実にミリオンらしい。ミリオンの能力なら、敵は力尽くで消し飛ばす方がずっと楽だというのに。

 さて、人々を避難させたからこれで終わり、とは勿論ならない。避難してきた人々の家は此処ではないのだから。

 だから彼等を植物園の外まで連れて行きたいのだが……

「しっかしまぁ、あちらさんも中々やるわね。洗脳粒子を植物園内にばら撒くなんて」

 ミリオンが言うように、今や園内はすっかり洗脳粒子で充満していた。

 観賞者達、正確にはその中でも職員の立場にいた者達は大量の洗脳粒子を用意しており、それを園内にぶち撒けたのだ。粒子は非常に軽いのか霧のように辺りを漂い、一時間かそこらでは沈下する気配すらない。レストランから一望出来る園内は、さながら霧に包まれたかのような光景と化していた。当然洗脳粒子に満ちた霧を通れば、体内に洗脳粒子を取り込む事になる。そのため今や外を出歩く事すら危険な状況だ。

 ……園内を満たすには、一体どれだけの洗脳粒子が必要なのだろうか。この世に二本しかない『マグナ・フロス』だけでよくこんな量を集めたものだと、花中は驚愕の中と共に感嘆も覚えてしまう。もしかすると職員達は、洗脳粒子の化学的合成方法を見付けたかも知れない。

 無論フィア達がその気になれば、こんな霧など簡単に吹き飛ばせるのは言うまでもない。現に今花中が居るこのレストランの周辺は、ミリオンの力により洗脳粒子が除去されている。しかし吹き飛ばした洗脳粒子は、勝手に消えてはくれない。風や気流に乗って彼方まで流れ、もしも町に入れば……観賞者が一つの町を占拠するという悪夢が、現実のものとなる。

 フィアなら救助者を水で包み込む事で霧から守れるが、纏わり付いた洗脳粒子も一緒に運んでしまう。ミィならジャンプ一回で霧の中に入らず園外へと出られるが、そのために必要な速度を出せば人間などGでくしゃっと潰れてしまう。ミリオンの熱で焼けば、巨大な気流が生まれる事になる。

 ミュータントの能力を以てすれば、自身や少数を霧から守るのは容易だ。しかし後の惨事を考えると何も出来ず……花中達人間はフィアの能力によって周りよりも二十メートル以上の高台となった、この場から動けなくなっていた。

「雨が降れば、霧の方は、無力化しそう、なんですけど……」

「今朝見た天気予報によると、三日後よ。当たるのを祈ってる間に、色々終わりそうねぇ」

 文字通り天に運を任せてみようともしたが、幸運が訪れるのは随分と先の話らしい。花中は肩を落とした。

 ため息が漏れそうになる花中だったが、レストランのドアを開く音が聞こえ、喉まで来ていた息が引っ込む。振り向けば、中から出てきたのは――――星縄だった。ミリオンと花中がドアの近くに居ると思っていなかったのか、花中達と目が合うと星縄は少しだけ目を見開き、すぐに社交的な笑みを浮かべる。

「おっと、話し中だったかな?」

「いえ、大丈夫です。あの、中の人達は……」

「最初は混乱していたけど、今は大分落ち着いてきた感じかな。電波は普通に通じているのが幸いしたよ。警察に通報したり、家族と連絡を取ったり出来るからね。あとネットで情報を集める事も出来るよ」

「あら、ネットの情報については私も是非とも知りたいわね」

「そう言うと思った」

 星縄は自身のスマホを取り出し、素早くタッチを繰り返す。やがて目当ての記事に辿り着いたのか、スマホの画面を花中達に見せてきた。

 ニュース記事曰く、天神植物園が謎の集団に占拠された。通報を受けた警察は大規模な人質事件と判断し、千五百人体制で植物園を包囲している。

 ……実質、この二文ぐらいの内容しかなかった。集団の目的不明、正体不明、規模不明、どうしたら良いのか現在検討中。助けを待つ側としてはこれほど頼りない報道もないだろうが、しかしこれは仕方ない事だ。よもや復活した古代植物が謎の粒子をばら撒き、来園者の九割以上が洗脳されたなんて、一体誰が思い付くのか。花中だってミリオンという『ズル』のお陰で知れた情報なのに。

「この調子じゃ、救助が来るのは当分先かしら」

「先というだけならまだ良いんだけどね。奴等が交渉に応じる振りをして、警察隊や自衛隊の中で洗脳粒子の粉をばら撒いたら、それこそ救助すら行えるかどうか……」

「一番の問題は、それを平然とやりかねない事ね。あの狂信ぶりを見ると、自分の身の安全なんて二の次って感じだし」

 花中から洗脳粒子の存在 ― ついでにミリオン達の正体も ― を聞いていた星縄が語る予想に、ミリオンも同意する。花中も、あまり考えたくないが……そういう考えたくない事こそやられると思うべきだ。最悪の展開を常に考えておかねばなるまい。

 そうしたゲリラ的作戦がまだ実行されていない現時点でも、警察は大きな苦労をしているところだろう。植物園を占拠した集団こと観賞者達は、『マグナ・フロス』による洗脳を受けたという以外の接点がない。どんな線を辿ろうとも、集団を構成するメンバーの特定など出来やしないのだ。これでは人質と構成員の区別が付かず、救助しようとした人間に殺されたり、要救助者を殺してしまったりという事態が頻発する恐れがある。世論の反発を避けるためだけでなく、隊員達の精神や命を守るためにも、敵味方を判別するための確かな情報が得られるまで動けない筈だ。

 こうなると今日中に救助が来るのは難しいかも知れない。

 そして救助の見通しが立たない状況下において、三百もの要救助者は()()()()。此処はレストランだが、稼ぎ時である昼を過ぎた店にどれだけ食料が残っているだろうか。水に関してはフィアの能力でどうにかなるため、生存するだけなら一週間は持つだろう。しかし一日三食の生活に慣れきった現代人に、食事のない生活は大きなストレスとなる。また子供や老人は体力が少ないため、病気に掛かるかも知れない。糖尿病など持病の持ち主には今すぐにでも薬が必要だ。

 しかしながらこれは、花中達にどうこう出来る問題ではない。『マグナ・フロス』の生態に洗脳を解くヒントがあるかも知れない現状、倒す訳にはいかないのだ。警察の早急な活躍を期待するしかなかった。

 やれる事があるとすれば、こちらの情報をなんらかの形で警察に伝えるぐらい。

 不幸中の幸いと呼べるかは分からないが、ミリオン達にとってその程度の『雑用』もまた難しくない事だった。

「……とりあえず紙飛行機は、警察の狙撃隊に見えるよう()()()()おいたわよ。回収したのも確認出来たし、さて、どんな対応をするかしら」

 雑用を終えた旨をミリオンが呟き、花中と星縄は安堵の息を吐く。

 ミリオンには紙飛行機を、植物園を包囲している警察に届けてもらった。無論ただの紙飛行機ではない。花中達が置かれている状況を、びっしりと書き込んだ紙飛行機だ。読めば事の発端と要救助者が何処に集まっているか、そして園内を満たす霧の危険性が分かる筈である。

 勿論こんな回りくどい方法ではなく、ミリオン達が植物園を抜け、直接情報を伝えるというやり方も可能だった。しかしいきなり現れた『謎の女』の情報を信用するほど、警察というのは人が良い組織ではあるまい。そのため植物園の中から紙飛行機が飛んできた、という『演出』をミリオンにはしてもらった。『謎の集団』による罠と疑う可能性もあるが、何も分からない現状を一歩でも進めるためのきっかけにはなる筈だ。

「ありがとうございます、ミリオンさん」

「救助者の数と、洗脳された人の数については、知らせなくても良いかな。あまり具体的な数を記すと、返って不信感を招きかねないからね」

「そうね。私の存在を公にしたところで、話を信じるどころか攻撃対象になるかもだし」

「……今の時勢を思うと、それもありそうだから怖いね」

 ミリオンのぼやきに、避難中にミリオン達の正体を教えてもらっている星縄は肩を竦めながら同意した。星縄はミリオン達が人間ではないと聞いてもあまり困惑しなかったが、誰もがそうとは限らない。何より今は『異星生命体』の恐怖が多くの人々に残っている。ミリオン達のような人智を超越する生命体が居ると分かったら、世論が要救助者を助ける事よりも、軍事攻撃を求める可能性があった。

 それを防ぐためにも、紙飛行機に乗せられる情報はある程度制限しなければならない。それが花中にはとても歯痒い。信用出来ない人々の気持ちは分かるが、ミリオン達と友達になっている花中には、なんだか悔しく思えた。

「ひとまず、今やれるのはこんなところかしらね。他にやってほしい事があったら、余程面倒臭くない限りはやってあげても良いわよ」

「すまないね。元を辿れば人間の問題なのに」

「本当よ。ちゃんとしてよね、人間」

 謝る星縄に、わざとらしくぷんぷんと ― ご丁寧に『髪』を立てて角まで作り ― 怒るミリオン。なんとも微笑ましいやり取りに、花中は思わず吹き出してしまう。

「おっと花中さん楽しそうですねぇ」

「ぴゃあっ!?」

 そうしていると、何時の間にやってきたのか。突然背後から抱き締められ、花中は小動物染みた声を上げてしまった。

 わたわたしながら振り向けば、抱き付いてきたのはフィアだった。柔らかな人肌の感触に、頬が勝手に弛んでしまう。驚かされた事を怒ろうにも説得力のない顔なのは自覚したので、大人しく蕩けておく。

 加えて、フィアからも訊かねばならない話がある。

「えっと、おかえり、フィアちゃん。どうだった?」

「花中さんの思った通りです。あの連中水道管に枯れ草の粉を流していましたよ。私が逆流させて二度とやる気が起きないようにしておきました。他のパイプも滅茶苦茶に壊しておきましたのでご安心ください」

 胸を張り、自慢げに語るフィア。その素晴らしい活躍に、花中も自分の事のように嬉しくなる。

 洗脳粒子が呼吸以外の方法 ― 例えば食事など ― で体内に入っても、効果があるのかは分からない。しかし水道、特に生活用水として使われる上水道に混ぜられたなら、被害が広域に拡散する恐れがあった。それこそ下流の市街地で、何十万もの『観賞者』が、散発的に発生したかも知れない。もしもこれが現実となれば、正しくゾンビ・アポカリプス染みた光景が生まれた事だろう。

 そこでフィアに頼んで、上下水道を監視・破壊してもらったのだ。水を自由に操る能力の前で、水に異物混入など出来っこない。観賞者達の目論見は、人智を凌駕するフィアによって呆気なく瓦解したのである。

「たっだいまー」

 フィアの大活躍を花中が我が事のように喜んでいると、今度はミィが()()()()()降ってきた。恐らく出向いていた場所から、文字通りひとっ跳びしてきたのだろう。

 ミィの着地と同時に起きた震度四近い地震にふらふらしつつ、花中はミィと向き合う。ミィもまた、フィアのように自慢げな雰囲気を纏っていた。

「あ、おかえりなさい。えと、どう、でしたか?」

「ふふーん、余裕だねぇ。ドローンを使って外に粉を運ぼうとしてたけど、ぜーんぶ撃ち落としてやったよ。人間如きがあたしの目から逃れようなんて、一万年早いんだから」

 訊けばミィは鼻息を鳴らし、上機嫌な笑みを見せる。ドローンによる洗脳粒子の輸送も、警戒しておいた甲斐があった。ミィの視力や聴力(身体能力)であれば、間違いなく一機も逃していない。またしても観賞者の思惑は未遂で終わる。

 やっぱり自分の友達は凄いと、花中は改めて驚愕と感嘆を覚える。

 観賞者達は古代植物の力を借り、一気に勢力を拡大した。確かにその力は人智の外にある、恐ろしいものと言えよう。しかしフィア達の力は、最早人智の及ぶところではない。原理すら分からない謎の力の前では、『偉大なる花(マグナ・フロス)』もまたただの草なのだ。

 フィア達が力を貸してくれるのなら、きっと大勢の人々を守れる。そして人類の英知であれば、きっと知見を広げる事で『マグナ・フロス』の持つ理論までなら辿り着ける筈だ。

 時間は掛かるだろう。それでも解決の糸口が見えてきた気がして、花中は胸の中が段々と穏やかになるのを感じた。

 ――――誰もが、そうであってほしかった。

「なんでこうなるのよっ!」

 しかしガラスを割るような音と共に聞こえた、若い女の罵声により、その想いが幻想である事を思い出す。

「ひっ!? えと、何が……」

「レストランの中から聞こえてきましたね。ケンカでしょうか?」

「分からない。確認しよう」

 星縄が先行してレストランに入り、続いてミリオン、フィアと花中も入る。ミィは床を壊しかねないので留守番だ。

 花中達が入ると、大勢の人々がレストランの隅まで移動していた。怯えるように身を寄せ合い、泣き叫ぶ子供をあやす親の姿がちらほらと見受けられる。

 そうした『普通』の人々が寄り付かない、二十代ぐらいの若い女が一人だけ居た。地団駄を踏み、足下にあるガラス ― 割れたコップの破片だろうか ― に怒りをぶつけているようだ。目は血走り、明らかに冷静さを失っている。

「どうしたんだい、そんなに怒って」

「どうもこうもないでしょ!? なんで何時まで経っても助けが来ないのよ! 彼氏が変な奴等に連れ去られてるのに、なんで誰も助けてくれないの!?」

 星縄が冷静に、宥めるように声を掛けたが、女は唾を吐き散らかすような大声で喚く。どうやら救助が来ない事への苛立ちで、我を忘れているらしい。

 何時かはこうなる人も出るとは予想していたが、まさかこんなに早く……そう思う花中だったが、思えば自分は何が起きているのかを正確に把握し、いざとなったら守ってくれる友達が傍に居る。そんな自分が、何も知らず、巻き込まれただけの人々の精神状態を推し測るなど、土台無理な話ではないか。

 加えて女性は、恋人と共に来ていたという。そして観賞者達にその恋人が攫われたと。彼女の心細さは如何ほどのものか。不安を打ち明けられる人がいない中では、精神的限界がすぐに来たとしてもおかしくない。

 女はヒステリックに頭を掻き毟り、唇を噛み締め、砕いたガラスを蹴散らす。

「彼氏と遊びに来ただけなのに! どうして、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないの!?」

「別に理由なんかないんじゃないですか? あなたは偶々此処に来ただけなのでしょう?」

 現状への不満を叫んだところ、フィアは暢気に女の『疑問』に答えた。

 フィアとしては、()()()()()()いたから答えただけだろう。しかし女からすると、おちょくられたように感じたのかも知れない。彼女はフィアの方へと獣のような勢いで振り向き、睨み付けてくる。フィアに抱き付かれたままの花中は女の視線を見てしまい、思わず怯んだ。

 対してフィアは、花中のそうした反応に眉を顰める。

「ちょっとあなた少し落ち着いてくれませんか? 花中さんが怖がってるじゃないですか。大体あなたが喚いたところで何も変わらないと思うのですが」

「な、何よアンタ! 偉そうに!」

「偉そうにしているつもりなんてないのですけど。どの辺りがそう見えたのです?」

「こ、この……さっきから、こっちの事馬鹿にして……!」

「? 分からないから尋ねただけなのですが」

 受け答えしているだけなのに、何故怒りを募らせていくのか……本当に理由が分かっていないフィアは首を傾げる。その態度が、女の激情に油を注いでいく。

 花中はなんとか二人のケンカを止めたかったが、しかし二人の会話のテンポが速く、上手く間に割り込めなかった。このままだと怒り狂った女性が、フィアに暴力を振るうかも知れない。フィアは人間の暴力など羽虫にたかられた程度にも思わないが、はたき落とす一撃は人間にとって致命傷となり得る。

 どうにかしないと、どうにかしないと。考えはするが中々チャンスを掴めず――――

「お、おい、噓だろ!?」

 フィアと女の間に割って入ったのは、部屋の隅に逃げていた男の悲鳴染みた声だった。

「? どうしたの?」

「こ、これ……」

 フィア達のやり取りを遠目に眺めていたミリオンが、声を上げた男に尋ねる。男はガタガタ震えながらスマホをミリオンに見せた。ミリオンは彼からスマホを受け取り、表示されている画面を見遣る。

 最初、ミリオンは訝しげな表情を浮かべた。これが何? と今にも訊かんばかりに。しかし段々と顔が強張り、書かれている内容の深刻さを物語る。例え言葉を発さずとも、あまり愉快でない出来事が起きている事は伝わってきた。

「あ、あの、ミリオンさん……何か、ありましたか……?」

 溜まらず花中が尋ねてみると、ミリオンは花中の下までやってきてスマホを手渡してきた。元を辿れば見知らぬ男性の私物。一瞬受け取るのを躊躇うが、好奇心と危機感が勝り、興奮した女性も新情報が気になるのか押し黙ったのもあって、花中はスマホを掴む。

 スマホの画面に映し出されていたのは、無数の装甲車や戦車だった。

 何処かの軍事基地の写真だろうか? 違和感を覚え、画面の下に書かれている文字を読み進める。

 花中の顔色が青くなるのに、さしたる時間は必要なかった。

 スマホに映っている軍事兵器の数々。これらが配備されたのは他でもない、この植物園の周りだったのだから。

「……き、きっと、この霧を突破するための、もの、ですよね。あの、火山噴火での、救助作戦で、戦車が使われたって、聞いた事が、あります」

「そ、そう、だよな。きっと助けに来る準備だよな……!」

 花中が伝えた()()()に、男は飛び付くように同意する。

 そうだ、戦車だけならその可能性もある。悪い方に取る事はない。

 しかし、

「……はなちゃん、残念なお知らせよ。外に向かわせていた『私』から連絡があったわ。戦車だけじゃなくて、飛行機も飛んでる。多分戦術爆撃機ね」

 ミリオンが耳打ちしてきた言葉が、希望を打ち砕いた。

「せ、せんじゅ……!? なんで……!?」

「ちょっとばかし、情報を与え過ぎたのかもね。霧のように立ち込めているのが人々を洗脳する粒子の集まりと分かって、在日米軍が動き出したみたい。聞こえた話だと、中国や韓国、ロシアにも動きがあるみたいね」

「ざ、在日米軍……!?」

 否定してほしい。そんな祈りを込めてオウム返しをするも、ミリオンが無言で頷くだけで露と消える。

 爆撃機が飛んできたら、何をしてくる?

 考えるまでもない。爆弾を落とし、一帯を焦土化するつもりだ。恐らくは『マグナ・フロス』と園内に満ちる洗脳粒子を吹き飛ばすつもりなのだろう……洗脳された犠牲者や、救助を待っている人々諸共。

 あまりにも暴虐が過ぎる。最早困惑よりも怒りが強くなる花中だったが、しかし冷静に考えれば、この状況は予測出来た事であり、おまけに批難出来ないものだった。

 花中達が送った紙飛行機により、園内に立ち込める霧が人の心を汚染する劇物である事は自衛隊に伝わった。その際なんらかの ― 正式か否かは置いておくとして ― 経路で米軍や周辺国もその情報を掴んだのだ。

 花中達の渡した情報だけならば、空爆をしようとは思わなかっただろう。しかし花中達の提供した情報と『あの情報』がくっつけば、状況認識は一変する。

 その情報とは『マグナ・フロス』が開花している事だ。

 洗脳された職員達により、『マグナ・フロス』が花を付けた事は世界中に公表されていた。無論アメリカもこの情報は掴んでいるだろう。

 そして花が付いたという事は、やがて種子が実る可能性が高い。

 種子というのは、成木と比べ遥かに小さく、秘密裏の持ち運びが容易である。園内にて開示された資料によれば『マグナ・フロス』の種は非常に小さいようなので、例えば靴底だとか、口の中だとか、隠そうと思えば何処にでも隠し持てるだろう。

 米軍や日本と隣接している国々はこれを恐れたのだ。『マグナ・フロス』の種子が何時出来るかは誰にも分からない。否、もしかするともう出来ている可能性すらある。霧のように立ち込める洗脳粒子の中で、観賞者達が種を運ぶための準備をしていたら? その種子を自国に持ち込まれたら?

 芽吹いた『マグナ・フロス』は洗脳粒子をばら撒き、大勢の人々を洗脳する。洗脳された人々は『マグナ・フロス』の種を持ち、他の町や国で同じ事を繰り返せば……地球上に存在する全ての国と地域が『マグナ・フロス』に支配されてしまう日はそう遠くあるまい。即ちそれは人が支配する世は終わり、古の植物が人を奴隷とする世界の始まりを意味する。

 このような事が起きると思うのは、心配し過ぎだろうか? かつての人類なら、その通りだと鼻で笑えただろう。しかし今の人類は違う。一部の生物は文明なんて簡単に滅ぼせる事を人類は知ったのだ――――水爆すら気にも留めない異星生命体と、その異星生命体を打ち倒した『神』によって。

 禍根の芽は摘まねばならない。例えどれほどの犠牲を出そうとも。一万ちょっとの命を助けるために、七十億もの命を危険に晒す訳にはいかないのだから。

「……自衛隊の、反応は……」

「取り立てて慌ただしい様子はなし。戦車とかを並べているけど、進ませる気配なし。こりゃ言い訳作りね」

 ミリオンは肩を竦め、呆れたように答える。全く以て『合理的』な決断だ。平和的な方法で種子の拡散を止める術を、今の自衛隊は持っていないだろう。暴力的手段を用いるにしても、専守防衛が定められている自衛隊に、米軍が保有する戦術爆撃機ほどの殲滅力はない筈だ。ならば米軍に殲滅は任せ、自分達も努力はしましたと国民にアピールするしかない。

 これで世論の反対があれば少しは流れを変えられるかも知れないが、「吸い込むだけでカルト教徒になってしまう粉を撒き散らす植物」が世界中に拡散するかも知れないと聞いて、果たしてどれだけの人が声を上げて反対出来るのか。自分の命と心が、家族が、生活が脅かされる危険を、誰が背負えるのか。

 世界は自分達を見捨てた。自分達の力がちっぽけなものであると、身の程を弁えたが故に。

「ふぅむ花中さんどうしますか? 花中さんや此処に居る人達は助けてあげられますが枯れ草に洗脳された人間までは面倒見きれませんよ?」

 花中に抱き付いたままのフィアは、どうでも良さそうに尋ねてくる。元より、花中以外の人間の生死など興味もないのだから。

 フィアからの問いに、花中は一瞬口を閉ざす。それでも唇を震わせ、声を出そうとして――――

「おっと考える暇はないようですねぇ」

 何もかもが遅かった。

 花中はハッとなり、思わず頭上を見上げる。無論此処はレストランの中であり、見えるのは天井と蛍光灯だけ。その先にある空の景色など何も見えない。

 しかしフィアは違う。魚であるが故に、空から襲い掛かる天敵を警戒している本能は、理屈で説明出来ないほどの正確性で頭上の全てを把握する。

 フィアは気付いたのだ、自分達の真上に米軍の爆撃機が来た事を。そして察したのだ。その爆撃機が無数の爆弾を落とし始めた事を。

 正直に言うならば、花中は未だ迷っていた。願望はあれど、それを叶えるための具体的な策など何もなかったがために。自分のわがままを行動に移せば、他の人の生活が脅かされる。

 だけど『自分達』の命を脅かされたのなら、もう迷う意味などない。

 何より花中は四月の『事件』の時に決めたのだ。ほんの少しだけ、自分の気持ちに正直になると。

「フィアちゃん! 落ちてくる爆弾、全部叩き落としちゃって!」

「あいあいさーです」

 花中の頼みを、フィアは二つ返事で受け入れた。

 それからほんの十数秒後、頭上から何十もの爆発音が響く。

 音は決して大きなものではなく、花火のようにも聞こえた。レストランに避難していた人々も不安そうに天井を見上げるぐらいで、あまり気にした素振りもない。何があったのか分からないのだから、恐怖など感じられる訳がなかった。

 だが事情を知っている花中には、何が起きたのか、目の当たりにしたかのように想像出来る。

 フィアが能力によって外の地面から巨大な水触手を生やし、降り注ぐ爆弾を残さず叩き潰しているのだ。フィアが答え、爆発音が聞こえてくるまでの時間からして、高度五千メートルほどの位置で撃墜しているのだろうか。

 爆撃機は一機ではないらしく、爆発音は次々と聞こえてくる。避難している人々も段々と不安を強めていたが、よもや暢気な鼻歌を奏でている金髪碧眼の美少女が、米軍の爆撃を易々と捌いているとは予想も出来まい。

 爆発音はまだまだ続き、園内全てを吹き飛ばすための猛攻が如何に苛烈なものかを物語る。もしかするとかつての東京大空襲……大都市一つを丸ごと吹き飛ばすぐらいの、大規模攻勢だったのかも知れない。だが超生命体(フィア)の力の前には、人類が開発した最新鋭爆撃機など紙飛行機の群れと大差なかった。何千何万と降り注ぐ爆弾は、一発として地上まで届かない。

 五分も経った頃には爆発音は止み、静寂が戻ってきた。今頃爆撃機のパイロット達や、彼等に爆撃命令を出した司令官達は困惑しているに違いない。全ての爆弾が地上に届く前に爆発し、何一つ役目を果たせなかったのだから。再攻撃を仕掛けようにも、今頃機体の中身は空っぽだろう。一度基地に戻って補給する必要がある筈だ。

 今こそが絶好の好機。

「フィアちゃん、ミリオンさん。あの、お願いが、あって……」

「大方想像は付いているわ」

「花中さんのお願いでしたら出来る事ならなんでもどうぞ」

 必要ないと分かってはいてもしてしまう前置きに、友達は詳細を知らずとも強力の意思を示してくれる。ポカポカとした暖かな気持ちが、花中の胸を満たした。

 その温かさが、自分の背中を押してくれる。

 故に花中は、自分の『願い』を友達に伝えたのだ。

「園内を、探索したいの。『マグナ・フロス』から、みんなを解放するためのヒントを、見付けるために……!」

 全ての人を助けるという、あるかも分からない可能性を探したいと――――




米軍さん、いきなり他国民を空爆してますが割と現実でもゲフンゲフン
作中で語った通り、世界中がトラウマになっているのです。異星生命体とアナシスの争いが。
人類は求められています。強大な敵と戦うために、非情に徹する覚悟を。
ま、覚悟したところで、勝利は約束されていないのが本作の世界観ですが(ぁ)

次回は9/30(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ7

 朦々と立ち込める霧。

 陽が沈み、今や夜と呼べる時間帯だからというのもあるだろうが……立ち込める白い霧は、世界の輪郭をぼんやりとしたものへと変えていた。建物の人工的な輝きも、霧に包まれて柔らかなものへと変わっている。月明かりが届く場所では、青みがかった光がふんわりと辺りに漂っていた。

 霧に優しく包まれた景色は、さながらお伽噺に出てくる風景のよう。六千九百万年前の森では、こうした風景が日常的に見られたのだろうか。そうだとしたら、この景色を独占したまま滅びた恐竜達が、ほんの少し羨ましい。

 ――――この霧が、『マグナ・フロス』が生成する洗脳粒子によって出来ていなければ、であるが。

「花中さん大丈夫ですか? 体調が悪くなったりしていませんよね?」

「うん、大丈夫だよ」

 そんな洗脳粒子の霧が立ち込める植物園の中を、フィアと花中は暢気に進んでいた。

 花中はフィアが作り出した水球の中に居て、外気とは遮断された状態にある。完全な密閉状態のため酸欠は気にすべきだが、それでも五時間分の空気はあるとフィアは語っていた。園内を探索するには十分過ぎる時間である。

「凄いな。これは一体、どんな原理で作られているんだろう……」

 そしてこの探索には、花中と同じく水球に包まれている星縄も同行していた。尤も今の星縄は植物園の異変よりも、自分を霧から守ってくれている水球の方に興味があるようだが。ぺたぺたと内側の壁に触り、目を子供のように輝かせている。

 何時でも自信満々なフィアにとって、水球一つで感動してくれている星縄の態度は極めて好感が持てるらしい。星縄の事を横目で見ると、上機嫌な笑みを零した。

「んふふふーどうです凄いでしょう。人間にはとても真似出来ない事ですよ」

「いや、本当にその通りだよ。水が液体の状態を保ったまま、重力に逆らった挙動を取るなんて。何をどうしたら良いのやら……一体どうやっているのかな?」

「さぁ? 多分電磁波とかなんとか線とかが働いているんじゃないですかね? よく分からないです」

「よく分からないのか! それはとても興味深いね。無意識にコントロールしているという事は、生体から日常的に発せられているものによって制御しているのかな」

 星縄からの質問にフィアは大変正直に答え、その答えで再び星縄は目を輝かせる……出会った当初の ― フィアが一方的に向けていたものではあるが ― 険悪な雰囲気は何処へやら。大変仲の良い姿に花中は思わず笑みが零れた。

 とはいえ、その笑みはすぐに曇ってしまう。

 花中達は、霧の中の遠足を楽しみに来たのではない。あるかどうかも分からない、『マグナ・フロス』の洗脳から人々を解放するための手立てを探しに来たのだ。

 探索に来たのは花中と星縄、フィアとミリオンの、二人と二匹。洗脳粒子を押し退ける術がないミィにはレストランで留守番をしてもらい、万が一にも観賞者達がレストランに押し入らないよう見張りをしてもらっている。フィア達が頼りないとはこれっぽっちも花中は思っていないが、ミィの圧倒的な身体能力を頼れないのは……少し心細い。

「……見付けられるかな」

「心配しても仕方ないのではないですか? まぁのんびりと探しましょう。空爆なんてこの私が居れば全くの役立たずですからね! 花中さんのやりたい事が終わるまでは全部叩き落としてやり増すよ!」

 思わず弱音を吐いてしまう花中だったが、フィアの優れた聴覚は小さな呟きも逃さない。自分の力を誇示しつつ、花中を元気付かせようとする言葉を送ってくれた。

 実に頼もしい発言であり、フィアならば実際易々と成し遂げてみせるだろう。世界中の爆撃機が集まって飽和攻撃を仕掛けたところで、恐らくフィアはそれを鼻で笑い、指先で軽く突くような気軽さで台なしに出来てしまう。フィアが味方でいる限り、空爆を恐れる必要はない。

 しかし、

「あまりのんびりしている時間はないと思うけどね」

 フィアと同じく空爆など怖くないミリオンは、フィアとは別の意見を持っていた。

 そして花中の考えは、ミリオンにとても近いものである。

「あん? どういう意味です?」

「人間だってそこまで馬鹿じゃないって事よ。もう一回ぐらいは爆撃してくるかもだけど、それが通じなかったら他の手段を執るでしょうね。私だったら状況把握のために、地上部隊を送り込むかしら」

「ちじょーぶたい? ああなんか戦車とか銃を持った兵隊の事ですよね。結局雑魚じゃないですか。そんなものの何が怖いんですか?」

「地上部隊だって怖くないわよ。というか別に人間が何をしても私は怖くない。でも、はなちゃんはどうかしら?」

 ミリオンは話の意味をよく分かっていないフィアに向けていた視線を、花中の方へと移してくる。ミリオンが言わんとしている事を理解していた花中は、無言のままこくりと頷いた。

 確かに、フィアやミリオンならば空爆は怖くない。戦車や兵士だって、簡単に追い払ってくれるだろう。

 しかし人間達とて、やられっぱなしではいられない。否、人間社会の命運が掛かっているからこそ、失敗するほど精神的に追い詰められ、恐怖心から何がなんでも倒そうとしてくる筈だ。

 地上部隊が失敗したら、今度はミサイルを撃ち込むかも知れない。ミサイルが駄目なら陸海空の総力を結集するかも知れない。それが駄目なら、次が駄目なら……焦りは際限なく積もり、理性は失われていく。

 その果てにあるものは、一体なんだろうか。

 もしかしたら、核兵器にまで手を出すのでは?

 ……誰よりも怖がりだからこそ、花中にはその可能性を否定出来ない。フィア達なら人類史上最強の核すら耐え凌ぐとは思うが、流石に自分の身以外を守る余裕はないだろう。煌めく太陽の力が放たれた瞬間、避難者も、観賞者も、跡形もなく消え去る。世界の『狂気』が限界に達する時は、果たして何時になるのか。

 不安はそれだけではない。レストランから此処までの道中、花中達は観賞者達に出会っていないのだ。フィアとミリオンが周囲を警戒してくれているが、どうやら運良くすれ違っている訳でもなく、そもそも自分達の近くに一人も居ないらしい。

 だとすると彼等は何処かに集まっているのだろうか。夜なので寝ているだけなら、花中にとってはこれ以上ない朗報である。しかしもしも彼等が一ヶ所に集まっていたなら、そこで何かを、例えば『マグナ・フロス』の種を集めていたりしたなら……

 何が起きようとしているかは分からない。分からないが、時間はあまりなさそうである。考えている時間は勿論、間違えている暇だってない。

 果たして自分の選択は、間違えていないのだろうか――――

「むぅ。花中さんが何を怖がっているのかはよく分かりませんが早く解決したいという事は分かりました。怖がる花中さんはあまり可愛くないですからね。やっつけてほしいものがあればこの私にお任せください。何があるのか知りませんけど」

 自分でも気付かないうちに震えていたのだろうか。俯いている花中の考えなんかは全く汲んでいないだろうフィアが、花中の『恐怖』を察する。それからドンッと自らの胸を叩き、誇らしげな笑みを浮かべて花中を励ました。

 フィアの言葉を受け止めた胸の中が、段々とポカポカしてくる。頭の中にあった冷たい感情が、薄れていく。

 何があるかは分からない、だけど自分がなんとかしよう――――迷いなくそう言ってくれる事が、堪らなく嬉しかった。

 友達が背中を押してくれるのに、自分がその場に留まろうとしてどうする。今は自分に出来る事を一生懸命やろう。間違う事や、分からない事を恐れるな。進まなければ何も変わらない。自分は何かを変えるために前へと進んだのだ。

 フィアからもらった勇気を胸に、花中は再び前を向いた。

「うん……ありがと、フィアちゃん」

「いえいえ。あっとそうです実は一つ疑問があったのですが」

「うん、なぁに?」

「我々って今何処に向かっているんでしたっけ?」

 尤もその勇気は、フィアのお惚け発言で呆気なく砕け散ったが。歩いていないのに花中はずっこけ、水球の内壁に顔面を叩き付けてしまう。

 流石はフィアの水球。顔をぶつけても全く痛くない……沸き立つ悲しみと憤りを鎮める効果はこれっぽっちもなかったが。

「~~~んもぉーっ! フィアちゃんったらぁーっ!」

「え? なんで花中さん怒ってるのですか?」

「ははっ。まぁ、花中ちゃんにも思うところがあるって事さ。今向かってるのは特別研究温室、もしくはその隣にある実験所だよ」

 癇癪を起こす花中に代わり、星縄がフィアの疑問に答えた。教えてもらえたフィアは「ほー」と納得したような声を漏らし、されどすぐに首を傾げる。

「実験所? そんなところに行ってどうするんです?」

「この植物園の職員達は、『マグナ・フロス』に心酔していたからね。好きなものは寝る間も惜しんで調べたくなるのが研究者というもの。きっとこの事態を起こす直前まで、『マグナ・フロス』の研究は進められていた筈だ。いや、今も続けられていたとしてもなんらおかしくない。もしかしたら新しい知識が、今この瞬間発見されているかも知れない」

「……その新しい発見とやらを頼りにすると?」

「ご名答。まぁ、あと都合の悪い情報とかを隠し持ってるかもだから、そーいうのも期待してってところかな」

「行き当たりばったりですねぇ」

 フィアの素直な感想に、星縄は同意するように楽しげに笑った。花中もフィアの意見を否定出来ず、乾いた笑みを浮かべるのが精いっぱい。

「まぁ、他に案もないし、当てずっぽうも悪くないわ。それにもう目の前まで来ちゃったし」

 そして件の目的地が眼前に迫ったなら、花中は乾いた笑みすら浮かべられなくなる。

 一般開放されている他の温室や建物とは違う、地味で、人をもてなす意思が感じられない雰囲気。門扉は固く閉ざされ、部外者の立ち入りを強く拒んでいる。監視カメラも見えている分だけで三ヶ所、それぞれの死角を補うように設置されていた。

 ミリオンが言っていたのだから、疑いなんて最初から抱いていない。しかし建物の姿を目の当たりにした瞬間、花中は『確信』を抱いた。

 此処こそが『マグナ・フロス』を研究していた施設である、と。

「ふーむ此処が枯れ草を研究していた場所ですか。なんか地味ですねぇ」

「派手な研究所なんかないわよ。見た目に使えるお金なんかないんだから。ほんと、外面にお金使うぐらいならこっちに予算寄越せって一体何度言った事か……」

「? なんの話です?」

「昔の話よ」

 肩を竦め、平静を装うミリオン。フィアは首を傾げ、あまりよく分かっていない様子だった。

 尤も、フィアはさして興味がない事を追求するような性分でもない。

「そうですか。まぁ兎に角此処が目指していた研究所なのですね。とりあえず中に入ってみますか」

 フィアは話を打ち切ると、なんの迷いもなく研究所の扉へと向かう。扉は押せば開く形式のガラス戸だったが、フィアが片手で取っ手部分を押しても扉はうんともすんとも言わない。どうやら ― 花中としては予想通り ― 鍵が掛けられているようだ。

 勿論花中達は研究所の鍵など持っていないので、真っ当な解錠は不可能である。しかし人間の建物に掛けられる鍵は、言うまでもなく対人間を想定したものに過ぎない。

「花中さん鍵が掛かっていますがどうしますか?」

「うん、壊しちゃって」

「分かりました」

 花中が許可を出すと、フィアはなんの迷いもなく扉にパンチを一発叩き込む。

 ガラス製の扉は呆気なく粉砕され、行く手を遮るものはなくなった。

「とりあえずこんな感じで良いですかね?」

「うん、フィアちゃんありがとう」

「ああ、昔はあんな良い子だった花中ちゃんが、知らぬ間に扉を叩き割る事すら躊躇しなくなるなんて……!」

 道が開けた事に喜ぶ花中を見て、星縄がガタガタ震えていた。一応これでも躊躇してないつもりはないので、花中的には大変不本意である。ぷくっと、花中は頬を膨らませた。

 フィアは花中の表情など気にも留めず、花中達を連れて研究所の中へと入る。割れたガラスの先端が剣山のように扉の内側にずらりと並んでいたが、水で出来たフィアの『身体』と、花中達を包む分厚い水球を貫くほどの鋭さはない。簡単に通り抜けたフィア達一行は、建物の奥へと向かう。

 建物の中は明かり一つ付いておらず、時刻の遅さもあって真っ暗だった。近くにスイッチがないかフィアに探してもらい、扉の側にあったスイッチがあるのを確認。フィアが伸ばした水触手で押すと、特に問題なく周囲の電灯が光り始める。

 まさか点くとは思わず、花中は少しばかり驚きを覚える。空爆という手段を実行したのだから、自衛隊なり在日米軍なりが施設への電気供給を遮断していると思っていたのだ。もしかすると植物園の職員達は、このような事態を見越して大規模な自家発電装置を用意していたのかも知れない。

 違和感はもう一つある。いくら経っても、建物の奥から観賞者達はおろか物音すらしないのだ。いきなり建物の電気が点いたとなれば、中に居る者達は侵入者(自分達)の存在を察知した筈である。なのにその出迎えをしないという事は、もしかすると此処にも観賞者は居ないのかも知れない。

 襲われたいかどうかで言えば、勿論花中としては襲われたくない。フィアが自分の身を守ってくれると信じていても怖いものは怖いし、自衛だとしても人々を傷付けるなんてのは嫌なのだから。

 しかし……

「随分と守りが手薄ねぇ」

「あまり大事なものは残っていない、という事かも知れないね」

 ミリオンと星縄が語るように、『重大な情報』を求めている花中達にとって人気なさは朗報とは言えなかった。

 とはいえ希望を捨てるのはまだ早い。観賞者達は重要だと思わなかったものが残されている可能性はゼロではなく、また洗脳粒子が満ちる中侵入者などあり得ないと思い警備の人員を他に回したとも考えられる。

「……奥に、進んでみましょう」

 ミリオン達も同じ考えなのか、花中の意見に反対してこない。研究所の奥に向けて、花中達は進んでいった。

 フィアが押したスイッチで点いたのは入り口付近の電灯だけだったようで、奥の廊下は暗いままだった。暗い場所というだけで、臆病な花中にとっては恐ろしい空間である。思わず息を飲んでしまう。もしも自分の足で奥へと進めと言われたなら、例え懐中電灯を渡されても朝まで拒んだだろう。

 しかしミリオンとフィアの歩みと止めるには、些か()()闇だ。フィアは聴覚と能力によって周囲を把握し、ミリオンは指先を輝かせている。迷いのない足取りで二匹は進み、片っ端に扉を開けては部屋の電気を点けて中の様子を窺う。

 どの部屋も綺麗に整理整頓されており、パッと見ただけでどういった用途で使われていた部屋なのかが分かった。例えば倉庫だったり、事務室だったり、薬品置き場だったり。何かしらの資料が部屋の奥底に隠されている、という可能性もあるので出来れば一見無関係そうな部屋も調べたいのだが……やはり『残り時間』が気になる。

 そのため花中達は、『マグナ・フロス』との関わりが強そうな部屋を見付ける事を優先していた。鍵の掛かっている扉は容赦なく破壊し、一つ一つの部屋を余さず確認していく。しかし中々目当ての部屋が見付からず――――

「おや? こんなところに地下行きの階段がありますね」

 もしも花中達人間だけで調べていたなら、精神的疲弊による注意力の欠如が原因でその『階段』を見逃していただろう。

 階段は暗闇の中、ロッカーなどによって巧妙に隠されていた。如何にもな怪しさ、降りないという選択肢はない。花中達は隠れていた階段を降りていく。

 階段を降りきると、ミリオンは光る指先で辺りを照らす。此処は行き止まりで、鋼鉄製の扉が鎮座していた。他には何もない。不自然さを覚えるほどに。

「むぅ。此処も鍵が掛かっていますね……ほいっ」

 鋼鉄の扉にも施錠されていたが、フィアがキックを一発お見舞いすれば粉々に砕けて飛び散る。人間相手に喰らわせたなら間違いなく人体粉砕の威力を目の当たりにし、水球の中の星縄が驚愕とも呆れとも取れる声を漏らしていた。

 フィアは不用心に部屋の中へと入り、花中と星縄も水球と共に室内へと入る。ミリオンも後から続き、入口付近にあったスイッチを押した。

 途端部屋に明かりが灯され、全容が明らかとなる。

 部屋の中は、大量の標本が置かれていた。金属棚が幾つも並び、無数の標本箱と液体入りの瓶が置かれている。瓶は何百とあったが、植物体らしき破片が入っていたのはほんの十数点。他はネズミや昆虫、ヘビやカエルなどの動物ばかりだった。そうして見渡していると一際大きな瓶が目に入り、花中が凝視したところ、その中身が大きな脳である事に気付く。図鑑などで見た人間の脳とは形が違う、ように見える。きっと牛や豚の脳だろう……花中は、そう思いたかった。

 他にもサルやニワトリなどの剥製が数十点置かれており、それらには解剖したような形跡が見られた。どうやら此処に置かれているのは、何かしらの『実験』に使われた動物達の標本のようだ。実験サンプルの保管場所として使われている部屋なのだろう。

 そしてこれらの標本から分かるのは、此処の研究所では植物園にも拘わらず、動物を用いた実験を数多くしていたという事だ。

「うーん如何にも胡散臭い部屋ですねぇ」

「洗脳粒子の密度も、他の部屋よりも遙かに濃いわ。此処でやっていたのか、それとも持ち込んだだけかは分からないけど、此処にある標本が洗脳粒子の実験サンプルなのは間違いなさそうね」

「見える範囲ではだけど、標本は哺乳類、特にサル類が明らかに多いね。『マグナ・フロス』の洗脳効果がどんなものかを調べるために、人間に近い動物を使ったのか」

 フィアが直観的な感想を漏らし、ミリオンはより詳細な状況から論理的な推理を行う。星縄も標本の種類から、この研究所で行われていた実験内容を推察した。

 此処が『マグナ・フロス』の研究資料の保管場所なのは確実だ。調べれば『マグナ・フロス』の弱点について記した資料、或いはヒントが見つかるかも知れない。

「……調べましょう」

「異論はないよ。此処は絶対調べた方が良い」

「分かりました。では何処から調べますか?」

「えっと、じゃあ……あっちから、お願い」

 フィアに指示を求められ、花中は一先ず部屋の隅にある棚を指差す。此処に何かがありそうだとは思うのだが、何処にあるのかはやはり分からないのだ。虱潰しに探すしかない。

 星縄はミリオンと共に反対側を探すと言ったため、フィアは星縄を包み込む水球をミリオンに明け渡した。水球から伸びた『リード』を引っ張れば、水球は引っ張られた方へと進む仕組みらしい。まるで飼い犬のように、星縄入りの水球はミリオンと共に花中達から離れていった。

 花中はフィアと共に、星縄達が向かったのとは逆方向にある棚へと向かう。置かれているのは無数の瓶、そしてその中身である……小動物達の『死骸』。

 思わず、花中は息を飲んだ。それからゆっくりと深呼吸をして、少しばかり早くなった鼓動を落ち着かせる。

 今までなら、実験動物達の死骸を見て可哀想だと同情しただろう。例え彼等を殺したのが『マグナ・フロス』に洗脳された人々だとしても、その『マグナ・フロス』を復活させたのは人間だ。人間が『マグナ・フロス』を目覚めさせなければと、責任を覚えたに違いない。

 こんな時に、なんという傲慢か。

 生命は人間が思うほど弱くない。いや、弱いと思っていたのは生命のほんの一部で、きっと多くの……人がまだ知らない生物達の力は、人間の英知を嘲笑う事だろう。あの『マグナ・フロス』のように。

 悲しみに暮れる暇があるなら、ひたすらに前へと進まねばならない。そうしなければ後ろから迫り来る怪物に()()()()事を、花中は何ヶ月も前に身を以て知ったのだから。

 彼等に哀悼の意を表すのは後だ。今は『マグナ・フロス』の情報がないか調べる事に注力する。

「フィアちゃん、上から二番目にある、赤い蓋の瓶を、取ってくれる?」

「赤い蓋のやつですね。お安いご用です」

 花中の頼みに応え、フィアは腕を文字通り伸ばして三メートルほどの高さにある赤い蓋の瓶を取る。中身は植物の葉らしきものだ。見た目が『マグナ・フロス』の葉に似ている。もしかすると『マグナ・フロス』が小さい頃の標本かも知れない。

「えっと、その瓶を、くるくるって回しながら、見せてくれるかな。何か書かれてないか、調べたいから」

「そうですねぇ。それなら水球の壁に手を押し付けてくれますか?」

「? こう?」

 フィアに言われるがまま、花中は水球の内壁に手を押し付ける。

 すると、ずぶずぶと花中の手が内壁にめり込んだ。

 まさかめり込むとは思わず、驚いた花中は反射的に手を引っ込めてしまう。思わずフィアの顔を見遣ると、フィアはどうぞとばかりに手を差し出していた。どうやら、めり込んで良いものらしい。

 花中は改めて手を伸ばし、今度はゆっくりと内壁に手をめり込ませる。それから辺りを見渡してみたところ、水球の外側の壁が『人の手』のような形になって盛り上がっている事に気付いた。試しに内壁にめり込ませた手を動かしてみれば、花中の思った通りに外壁から生える手も動く。

 これならば、花中がやりたいように瓶を観察出来る。フィアの気遣いに感謝しつつ、花中は早速赤い蓋の瓶を調べた。

 尤も、いきなり重要な情報が見付かる筈もなく。

「……ただの、シダ植物の葉だった。系統を調べるために、使ったのかな」

「つまり要らないものですか? どうします? 捨てます?」

「いや、捨てるのは、流石に……壊さないように、部屋の隅とかに、積んでおいて」

「分かりましたそうしておきます」

 花中の意見に従い、フィアは受け取った赤い蓋の瓶を部屋の隅へと置く。一理系人間として、標本を床という何時蹴飛ばすかも分からない場所に置く事への不安感はあるが、今回ばかりは仕方ない。

 何しろ花中達は今から、この部屋いっぱいに置かれた何百もの標本を調べなければならないのだから。

 ……………

 ………

 …

 果たしてどれだけの時間が経っただろうか。

 花中はポケットからスマホを取り出して確認したところ、まだ一時間も経っていない事が分かった。花中の気分的には、調査を始めてからもう二時間以上経っているような感覚だったのに。

 身体が休息を求め、倦怠感という名の要望を出している。高い場所にある物を取ったり、重たい物を運んだりは全てフィアがやってくれたというのに。精神的疲弊に身体が引っ張られているのかも知れない。

 それでも、何かしらの『発見』があったならこんな疲れは吹き飛んだに違いない。

 だが……

「……何か、ありましたか?」

「あったらとっくに教えてるよ……花中ちゃんの方は?」

「……あったら、教えてます」

「だよねぇー……」

 別々の水球の中で、花中と星縄は深いため息を同時に吐いた。

 部屋を埋め尽くすほどに並び、ぎっしりと瓶が置かれていた金属棚も今や空っぽ。何処かにまだ調べていないものが、という希望を無惨に打ち砕く。部屋の隅には調べ終わったものとして、標本達が山積みとなっていた。今はミリオンが、その山を万遍なく調べてくれているが……山の前に佇むミリオンの表情にやる気なんてものは微塵もない。星縄と一緒に標本を見ていたのだから、もう一度見たところで何も見付からないと思っているのだろう。花中もまた、同じ気持ちである。フィアに至っては飽きてしまったようで、気儘に室内を散歩している有り様だ。

 確かに此処は『マグナ・フロス』の研究成果が山ほどあった。標本にはラベルやメモが貼られ、『マグナ・フロス』の生態について大変詳しく書かれていた。『古代植物研究資料館』にはなかった未知の情報も多数得られた。

 だが、欲しかった情報――――洗脳粒子から人々を助け出すヒントは何一つなかった。

「全く、実に興味深い生態が知れたよ。こんな事になっていなければ、感動のあまり涙の一つでも出ているんじゃないかな」

「そうですね……でも、哺乳類なら、大体洗脳粒子が効くというのは、ある意味収穫かも、知れません」

「確かに。ネズミや猫、犬なんかも敵となるかも知れない。ミィちゃんが直感的に不快感を覚えて逃げ出したのは、正しかった訳だ」

 花中と星縄は標本入りの瓶に張られていたラベルの情報を話し合い、自分の理解が正しいかを確かめる。

 研究曰く、『マグナ・フロス』の洗脳粒子は鯨偶蹄目 ― クジラやウシの仲間の事だ ― 以外の哺乳類に対し極めて効果的、鯨偶蹄目にも他ほど顕著ではないが効果があるという。三十八種類、三万五千体のサンプルを用いて実験をしたが、耐性を有する個体は確認されていない。どうやら哺乳類の脳そのものの『欠陥』に作用するらしく、哺乳類的な脳を持っている限り抗う事は不可能なようだ。

 読み解くほどに、恐ろしい植物である。哺乳類の脳構造そのものが弱点となると、七十億を超える人類全てが洗脳されるという可能性もいよいよ現実味を帯びてきた。治療法は相変わらず見付かっていないが、放置という選択肢は絶対にあり得ない。

 最早大量破壊兵器による、完全なる殲滅しかないのだろうか――――

「それにしても不可解だ」

 諦めのような考えが脳裏を過った時、ふと星縄が独りごちた。我に返った花中は、自分の脳裏にあった考えを追い払うように頭を横に振る。

 改めて星縄と向き合うと、星縄は何やら怪訝そうな表情を浮かべていた。少しでも情報が欲しい今、星縄が何を疑問に思ったのか知りたい。花中は尋ねてみる事にした。

「えっと、何か、変なところがありましたか?」

「ん? ああ、変というか違和感なんだけどね。『マグナ・フロス』の洗脳粒子が、どうにも影響範囲が広過ぎると思って」

「広過ぎる?」

「ちょっと考えてみてほしいんだけど、哺乳類全てを洗脳する能力というのは、自然界の中では些か突出した力だとは思わないかい? そしてそれだけ凄まじい力を持ちながら、どうにも生態が似付かわしくない気がするんだ」

「えっと……」

 星縄からの問いに、花中は少し考え込んでしまう。

 自然界に万能の能力なんてものはない。

 しかしそれは何も自然のバランスを崩さないため、なんて穏やかな理由からではない。進化の過程で何かしら画期的な能力を手に入れても、他の種が対策を進化させてくるからである。要するにイタチごっこの結果だ。

 だから本当に革新的な能力を獲得した場合、その生物は爆発的に繁殖し……環境を無茶苦茶に破壊する。一番分かりやすい実例は、光合成を編み出した細菌 ― つまり植物のご先祖様 ― だろう。彼等の繁栄により地球には酸素という名の『毒ガス』が充満し、当時地球で繁栄していた嫌気性細菌の大量絶滅を誘発した。それどころか光合成によって温室効果ガスである二酸化炭素の量が大きく低下した事で、地球の平均気温が急激に低下。地球全土が凍結する事態まで招いたと考えられている。冗談抜きに、植物の所為で危うく生命が滅びるところだった訳だ。

 即ち爆発的な繁栄を遂げた『何か』が存在していたなら、環境変化なり大量絶滅なり、なんらかの痕跡が地球に刻まれる筈である。

 『マグナ・フロス』の力は脅威だ。当時の地球は恐竜に支配されていたとはいえ、哺乳類もかなり多様な進化を遂げていたと考えられている。中には小型の恐竜を食べていたのでは、と考えられている種もいるぐらいだ。そうした哺乳類全てを洗脳したのなら、恐るべき戦力となるであろう。多数の哺乳類を従えた『マグナ・フロス』の繁栄を邪魔出来る種などいない、ような気がする。

 しかしその割に『マグナ・フロス』は繁栄していた兆しがない。ほんの数ヶ月前にようやく初の化石が見付かるぐらい、個体数が少なかった筈だ。どうにも、あまり繁栄した種族ではなかったようである。

 そして星縄が指摘する、生態的な『チグハグ』ぶり。発見された種の小ささからして多産多死型の生存戦略を取っていた事が窺い知れる。発見から数ヶ月で花を咲かせるほど成長速度だって早い。昆虫や、背丈の低い草花のような生態だ。

 生態系を制圧出来そうな力を持ちながら、小動物のような繁殖戦略を取る。この奇妙な生態を説明する仮説は――――

「……フィアちゃん、何か、気になる事はない?」

 胸の奥に燻る感覚を具体的にすべく、花中は友達に何か新しい情報がないか尋ねる。

 部屋の中を歩き回っていたフィアは花中に尋ねられると、天井を見上げるような姿勢でしばし考え込み

「すみません先程から美味しそうな匂いがしていましてどうにもそっちが気になり枯れ草の事はすっかり忘れていました」

 次いで能天気な答えを返してきた。

 ……要するに、食べ物以外の事はなんにも考えていなかったらしい。

 ちょっと期待していた花中は、ぷっくりと頬を膨らませた。

「んもぉー! フィアちゃんっ!」

「いやぁだってこれ結構良い匂いなんですもん。あー何処から漂っているんですかねぇ」

「ははっ、確かにお腹は空いてきたね。レストランを出てからだと、もうすぐ二時間か」

「夕飯には早いけど、疲れもあるし何か食べた方が良さそうね。ちょっと建物の中を調べてくるわ。非常食ぐらいあるでしょ、きっと」

 ミリオンはそう言うと、さらさらと身体を崩していく。分散し、建物内をくまなく探すつもりなのだろう。何かが見付かる事を期待する反面、何もなかった時の不安もある。

 花中がそわそわしていると、ほんの三分ほどで扉の方から実体化したミリオンが戻ってきた。その両手にはクッキーの箱が二つ掴まれている。どうやら非常食は割とすぐ近くにあったようだ。恐らくミリオンは殆ど建物内の探索を進めていない。

 安心したような、残念なような。

 複雑な想いを抱きながら、花中はミリオンがずぶずぶと水球の中に押し込んできたクッキーの箱を一つ受け取った。箱を開けて一枚取り出し、小さな口で齧り付く。口の中に広がる小麦の香ばしさと砂糖の優しい甘味のお陰で、少しだけ心が安らいだ。

「花中さん上を何かが飛んでいます。多分飛行機です」

 その安らぎは、フィアの一言で簡単に潰えてしまったが。

 思わず花中は水球の中で立ち上がり、頭上を見上げる。無論見えるのはこの部屋の天井だ。しかし瞼の裏には、空を覆わんばかりに飛行する無数の爆撃機の姿が映る。

 一回目の空爆から二時間近くが経っている。第二陣がやってきたとしてもおかしくない。

「フィアちゃん! えと、そ、外まで連れてって! 急ぎで!」

「了解です」

 花中の頼みに応え、フィアは花中 ― と一緒に星縄も ― を連れて凄まじい速さで移動する。数百メートルは進んだ筈の廊下をほんの数秒で突っ切り、破壊した玄関戸を今度は残骸すら残さず吹き飛ばした。

 颯爽とフィアが出た屋外は、未だ深い霧が満ちていた。全ての輪郭がおぼろげになり、相も変わらず幻想的だ。空を見上げれば、ぼんやりとした星空が広がっている。一面に広がる星空すら見え辛いのだ。地上を攻撃するための飛行機が、夜の地上からハッキリ見える筈もない。

 それでも全容を知りたい花中は、必死になって空を凝視してしまう。何も見えないという当たり前の景色が、花中の不安を掻き立てた。

「そ、空には、どれぐらい、飛行機がいるの!?」

「数ですか? うーんよく分かりませんねぇ。かなり密集しているのか一つ一つの感じがくっきりしていないもので。百はないと思うんですけど」

 問われたフィアは、暢気な口調で雑な答えを返す。しかしその言葉は、花中の目を見開くには十分な情報量を有していた。

 フィアの感覚はかなり大雑把だ。数千トンもの水を分子単位で操りながら、そのやり方を「なんとなく」だの「頑張って」だのという言葉で片付けてしまうほどに。百はないという言葉も、それこそ文字通りに ― 十未満だって『百以下』だ ― 受け取るべきだろう。

 しかし自分達の頭上という『狭い領域』を、それなりの数の飛行機が飛んでいるのは間違いない。

 旅客機がそんな高密度で飛び交うとは思えない。飛んでいるのは確実に爆撃機の編隊だ。恐らく一回目の爆撃の失敗を受け、対策として爆弾の同時投下数を増やす……つまり徹底的な飽和攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。だとしたら爆撃の規模は、先の比ではあるまい。

 恐ろしさに身が震えてくる。だが、ただの爆撃ならばフィアにとっては『雑魚』でしかない。これならもう一度やり過ごせる。破滅のカウントダウンは進むが、チャンスはまだあるのだ。

「フィアちゃん! あの飛行機が、爆弾を落としたら、また全部叩き落として!」

 花中は無意識に出していた大声でフィアに頼み込む。

「すみません花中さん今は無理です」

 フィアは花中の頼みを、あっさりと断った。

 ……本当にあっさりと、なんの躊躇もなく。

 花中は目を丸くして、短くない時間呆けてしまった。我を取り戻してからも、唇が震えて上手く言葉が出てこない。綴るべき言葉を考える頭は、真っ白な『何故』という単語に埋め尽くされていた。

「な、なん、で……?」

 ようやく出せた言葉は、この情けない一言のみ。

 フィアはそんな花中に見向きもせず、ぶつぶつ独りごちる。

「この私の感覚さえも欺くとは。これは間違いなく筋金入りの臆病者です。コイツに比べれば道端を歩くイモムシすら勇猛果敢ですね」

「ど、どういう、事? どうしたの、フィアちゃん……?」

「何故爆撃の撃墜が出来ないんだ。このままでは爆弾によって、この辺りが吹き飛ぶかも知れないんだよ!?」

 花中だけでなく星縄も問い質すが、フィアは正面をじっと見つめるだけ。本能的に不快になる筈の、頭上の爆撃機にすら目を向けない。

 動揺する花中だったが、その動揺は更なる加速を見せる。

 大地が、揺れ始めたのだ。

「きゃあっ!?」

「じ、地震……!? こんな時に……!」

「こんな時だからでしょう。全く臆病者風情が図に乗ってからに」

 何か思うところがあるのだろうか。動揺する花中達に対し、フィアは淡々と、それでいて呆れるようにぼやくのみ。

 大地の揺れはどんどん、際限なく大きくなっていく。舗装されていた道路が盛り上がり、コンクリートが割れていった。地鳴りがそこかしこから鳴り、喧しさすら覚える。

 やがて盛り上がった大地の中から、勢い良く『何か』が生えてくる。

 それは、植物だった。

 宵闇の中でも分かるほどに青々とした葉を茂らせ、花中なんかでは腕を回す事すら出来ないほど太い幹を持つ。近くにある四階建ての建物を易々と抜き、それでもまだ成長が止まらないほど高く伸びていく。中には建物を粉砕して生えてくるものまである有り様だ。

 そしてその中央にある花に、花中は見覚えがある。

 忘れる筈がない。花中達が今立ち向かっている最中の惨状を引き起こした元凶なのだから。しかしあれはこんなに大きくなかった。こんなアクティブな生物ではなかった。

 何より、あれはこの世に二本しかない筈。

 なのにどうして、花中達の近くだけでなく、建物の向こう側などの遠く離れた場所からも……植物園の至る所から『マグナ・フロス』が生えてきているのか?

「成程あの時の違和感はコイツだった訳ですか。なーんにも脅威に感じられなかったので無視していたんですがねぇ」

「ふぃ、フィアちゃん、何か知ってるの!?」

「知ってるも何もこいつら最初から地面の中に居ましたからね。それが出てきただけですよ」

 事もなげに答えるフィアだったが、花中は思わず息を飲む。どうにかこうにか口を開いても空回りするばかりで、言葉が出てこない。

 そうしている間にも、『マグナ・フロス』は続々と地面から現れる。長さは個体によってまちまちだったが、いずれも十~二十メートルはあるように見える。ただ一つの例外は植物園の中央付近から生えてきた個体……五十メートルはありそうな巨木ぐらいか。その巨木の『成長』が止まると、大地の揺れも収まった。

 生えてきた『マグナ・フロス』の形態に大きな差は見られない。どれもてっぺんに大きな葉を茂らせ、頂点に巨大な花を咲かせていた。そして花からはまるで湯気のような『霧』がじわりと染み出し、地上へと流れ落ちている。ミリオンに確かめてもらうまでもない。洗脳粒子を大量に放出しているのだ。

 花中にはもう、何が起きているのかさっぱり分からない。そしてそれは花中だけの話ではない。星縄も目を丸くしながら、水球の中で右往左往していた。

 『マグナ・フロス』の真相に近付いている花中達ですらこの有り様なのだ。花中達の頭上を飛んでいる、果たして何処まで説明を受けたかも定かではない兵士達の目に、この景色はどう映るのだろうか。

「おや。上を飛んでいる飛行機が何かを落としてきましたね」

 呆けていた花中は、フィアの状況報告で我を取り戻す。どうやら兵士達は、花中(自分)達よりも余程冷静だったらしい。無数の『マグナ・フロス』を前にしても、作戦をつつがなく決行したのだ。事実、数こそ増えたが『人類』のやるべき事はなんら変わりない。脅威を殲滅するのみである。

 花中達も同じだ。迫り来る空爆を見過ごし、助けを求める人々を焼かせる訳にはいかない。フィアには先程断られたばかりだが、その理由はきっと突如として生えてきた『マグナ・フロス』を警戒しての事だ。揺れが収まった今ならば。

「フィアちゃん! 爆弾を落とし」

 花中は逸る気持ちと共に胸を押さえながら、フィアに二度目のお願いをしようとした

 瞬間、爆音が空から響いた。

「……え?」

 言葉は途切れ、花中は無意識に空を見上げる。

 空には、煌々と赤い輝きが浮かんでいた。お願いを言いきる前に、フィアが爆弾を叩き落としてくれたのだろうか? 最初はそう思った……或いは思いたかった。

 だが、願望は叶わない。

 赤い煌めきは、ゆらゆらと揺れながら移動していた。赤い煌めきとは別に、バチバチと何十もの白い発光が空に広がり、それらはすぐに消える。恐らくはこちらが落とされた爆弾だ。

 なら、赤い煌めきは『何』だというのか。空に浮かぶ、爆弾以外で、赤く光り輝くものとは――――

 答えに辿り着こうとしない花中の理性に、業を煮やしたとでも言うのか。呆然とする花中の目の前で、『マグナ・フロス』が()()()

 脈動するかのように、『マグナ・フロス』の表面が蠢く。その蠢きは少しずつ『マグナ・フロス』のてっぺんへと向かっていき、到達するや開いた花の中心が僅かに膨らんだ。

 刹那、花の中心から何か、液体状のものが放たれる。

 出されたものが液体だと理解出来たのは、噴出口である花から飛沫が飛び散っていたからに他ならない。もしも飛沫がなければ、一見してそれはレーザーのようにも見えた。高速で放たれた液体は高々と飛び上がり、花中の目には見えない高さまで飛んでいく。『マグナ・フロス』はどうやってか、放つ液体を鞭のようにしならせた。

 やがて空に、赤い輝きがもう一つ増えた。煌々とした白い光の群れも再び現れる。最後に爆音が、十数秒ほど経ってから耳に届いた。

 花中は開いた口が塞がらなかった。星縄も同じ顔をしている。平然としているのは、眉一つ動かしていないフィアだけ。魚であるフィアだけが無関心なまま。

 しかし人間には、そんな事は言ってられない。

 ()()()()()()()()()()()()()なんて、あってはならないのだから。

「おや? 飛行機達がバラバラに逃げていきますね」

 二機も味方を落とされ、このままでは被害が増すと思われたのか。フィアが捉えた感覚曰く、爆撃機達は退散しているらしい。これ以上の被害は出ないで済みそうだ。だが、花中に安堵を感じる余裕などない。

 落とされた爆撃機。

 無数に生える『マグナ・フロス』。

 撒き散らされる洗脳粒子。

 全てが、最悪に向かっていた。

「……一度、建物の中に戻ろう。混乱した頭じゃ、正しい答えは出せない。まずは落ち着く事が先決だからね」

「……はい」

 星縄の提案に、花中はこくりと頷く。

 暢気な足取りのフィアに連れられ、花中達は研究所へと戻るのだった――――




洗脳するだけだと思った? 人類も必死だからその程度じゃ生き残れんのだよ!
本作の人類はお金とかイデオロギーとかで揉めたりもするけど、
本当にヤバい時はしっかり協力するんです(勝てるとは言ってない)

次回は10/7(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ8

 研究所の中に戻ってきた花中と星縄が最初にした事は、冷たい水をがぶ飲みする事だった。

 ペットボトルを水球の中に入れてもらい、五百ミリの水を一気に身体の中へと流し込む。冷蔵されていた水はキンキンに冷えていて、お腹から全身が冷やされていく。一気に飲み干した所為で少し頭痛を覚え、花中は額に手を当てる。

 だが、お陰でいくらか頭がスッキリした。

 先程までの頭は、情報の詰め込み過ぎで隙間がなかった。考えた末に至った閃きが、ぽろりと外に溢れてしまうイメージである。しかし冷やされた頭からは無駄な情報が流れ落ち、幾らかの空白が出来ていた。これなら考え事が出来る。

「ちょっとはマシな顔になったわね、二人とも」

「はい……ありがとう、ございます……」

「助かったよ。あのままだったら、頭が破裂しそうだったからね」

 冷たい水を渡してくれたミリオンに、花中と星縄は礼を伝えた。二人の顔には笑みも戻っている。

「それでこれからどうしますか花中さん」

 ただしそれは、フィアが尋ねてくるまでの短い間だけだ。

 花中達が今居るのは、『マグナ・フロス』の研究資料が保管されていた地下室。此処に戻ってきた理由はシンプルだ……地上に現れた無数の『マグナ・フロス』をどうにかしなければならない。そのための思案に耽るためである。

 だが、花中達はあまりにも知らない。この植物園で一体何が起きているのかすら、分かっているつもりでしかなかった。まずはここを確かなものとしなければならない。

「フィアちゃん。君が知っている事を教えてほしい」

 そのための行動を最初に起こしたのは、星縄だった。

「知っている事?」

「惚けないでくれ。君は『マグナ・フロス』が地下に潜んでいた事を知っていたみたいじゃないか。そしてそれを黙っていた。どうしてだい?」

 星縄は睨むような眼差しを向けながら、フィアを問い詰める。確かに人間からすれば、フィアの言動には怪しさを覚えるだろう。無数の『マグナ・フロス』が地中から生えてきた時、フィアはその事実を知っていたと仄めかしたのだから。

 実際フィアは知っていた筈だ。フィアは観賞者達から逃げるために、レストランを地面ごと持ち上げている。あの現象はフィアが能力によって土中の水分を操り、持ち上げた事で生じたものだ。だからフィアはあの時、地中に潜む『マグナ・フロス』に気付いた筈である。いや、『マグナ・フロス』とまでは分からずとも、巨大な何かが潜んでいる事には気付いていなければおかしい。人間ならその時覚えた違和感を、皆に明かすだろう。

 ――――人間ならば。

 人間ではないフィアは、星縄からの問いに眉を顰め、首を傾げた。それから短く唸り、考え込む。

「どうしてと言われましても……大きな雑草があるとしか思わなかったのですが」

 それから恥じる素振りすらなく、平然とこう答えた。

 星縄は呆けたように口をポカンと開く。次いで星縄は花中の方へと振り返り、花中の『意見』を窺ってきた。

 故に花中は引き攣った笑みを返す。

 今のフィアの言葉はきっと『本当』の意見だと伝えるために。

「なっ……ただの雑草って、他に何も思わなかったのかい!?」

「ええ。特に身の危険も感じませんでしたし。こそこそ隠れている臆病者に逐一構うような趣味もありませんから」

「なら、とんだ見当違いじゃないか! 爆撃機を落とすような植物が、あんなにありながら……!」

「確かに飛行機を落としてましたね。でもそれがどうしたのですか?」

「……は?」

「自分の真上を飛んでいる飛行機を落とすぐらい簡単じゃないですか。というか私なら連中が逃げ出すよりも前に全部叩き落とせますし」

 ふふんと胸を張り、臆面もなく誇るフィア。星縄は、いよいよ言葉を失ったとばかりに口を喘がせる。

 フィアが言っている事に、噓は勿論、誇張すらない。

 花中はその事をよく分かっている。一年近く一緒に暮らし、フィア達ミュータントがどれだけ強いかを何度も見てきた。最先端の軍事兵器が束になったところで、フィア達には傷一つ負わせられない。逃げる事はおろか足止めすら叶わず、足下を走り回るアリのように踏み潰されるだけ。人類が幾万の月日を掛けて積み上げた英知など、彼女達にとっては無意識のうちに蹴散らしてしまう虫けら程度のものでしかないのだ。

 そんなフィアからすれば、『マグナ・フロス』が爆撃機を落とせたところでなんの脅威にもならない。興味すら持たなくても不思議ではないだろう。例えるなら人間が買い物に行く道中、見慣れぬ雑草が生えている事に気付いたようなもの。その雑草が甘い香りで虫達を誘い、食い殺す食虫植物だったとして、人間はその雑草に危険性を覚えるのか?

 フィア達は強い。強過ぎる。人間(虫けら)にとって恐ろしい怪物を前にしても、何一つ危険性が感じられないほどに。

 それでも異変に気付いたのがミリオンだったなら、か弱い人間の立場を理解出来る彼女ならば教えてくれたのだろうが……『もしも』を言っても仕方ない。フィアの性格を知り、レストランを持ち上げる寸前何かを感じたような素振りを見たにも拘わらず、その後何も訊かなかった花中(自分)の迂闊さを呪うべきだろう。

 とはいえ自分を戒める事は後でも出来る。今は現状の打開に全力を尽くすべきであり、そのためにもフィアからもっと話を聞かねばならない。花中は頭を横に振って気持ちを切り替え、今度は自分がフィアに質問をぶつける。

「フィアちゃん、えと、地面の中に、どんなのがいたのか、覚えてる? 何本ぐらい、あったとか、変な形のやつがあった、とか。そういうのが、知りたいの」

「ふぅむそうなのですか。植物園全体に水を走らせた訳じゃないですし数えてもいませんのでなんとなくではありますが百本はあると思います。それと特別変な形のやつとかはなかったと思いますよ。まぁ全部変でしたけど」

「? 全部変って、どういう事?」

「なんかどれも一本の根っこで繋がっていたんですよ。その根っこも下向きじゃなくて横向きに伸びていましたし」

「横向きの根っこで繋がってる? ……まさか、地下茎か!?」

 星縄が思わずといった様子で叫んだ言葉に、フィアはキョトンとしていた。『ちかけい』がよく分からないのだろう。対してミリオンは、その言葉の意味を理解していた。でなければ、忌々しげな表情を浮かべる訳がないのだから。

 そして花中は、顔を真っ青にして震え上がる。

 地下茎。

 数多の植物が持つ、器官の一種である。持たない種も少なくはないが、希少な特徴という訳でもない。本質的には地中に這わせた茎であり、土壌から栄養分を吸収する根っことは異なる代物だ。

 その主な役割は、地中という安全な場所を通って遠隔地に新たな芽や根を生やす事。

 例えるなら施設と施設を繋ぐ、連絡通路のようなものだ。そして施設……つまり地下茎の先で形成された株が十分に成長すれば、連絡通路が切断されても新個体として独立出来る。

 つまり『繁殖』だ。遺伝的・体質的には完全な同一個体ではあるものの、個体数が増えるという意味ではそう呼んで良い。

「馬鹿な……小型で大量生産可能な種子に驚異的な成長速度、おまけに積極的な栄養繁殖? なんだコイツは……何故此処まで突出した繁殖力を持っている……!?」

「驚きを通り越して呆れてくるわね。案外食べたら美味しかったりするんじゃない? それで天敵が多かったとか」

 震え上がる星縄の隣でミリオンは肩を竦め、ジョークをぼやく……ジョークの一つでも言いたくもなる。花中だって、自分が何処からか夢を見ているのではないかと思い始めたのだから。

 しかし現実逃避をしている場合ではない。

 『マグナ・フロス』の力は想像の遥か上をいっていた。高高度を飛行する爆撃機を撃ち落とし、投下された爆弾を薙ぎ払うほどの威力と射程がある水流……想像するに、組織内に蓄えている水分を高圧で噴射したのだろう。水を固定化した上で操作しているフィアと違い、体外に放出しているので回数制限はある筈だが、そうした弱点を考慮しても恐るべき迎撃能力だ。核ミサイルを撃ち込んでも、数発程度では叩き落とされるかも知れない。

 仮に何百もの核兵器を投入し物量で押しきったとしても、今度は『地下茎』がある。核兵器が使われた広島で、真っ先に芽吹いたとされる植物はスギナだ。彼等は地下茎を持ち、地中深くに潜行する事で核の炎と放射線を切り抜けたのである。おまけに地下茎はそれ自体が栄養器官だ。バラバラになった欠片から、それぞれ本体が再生するような事すら成し遂げてみせる。半端な破壊では根絶どころか、むしろ分布を広げる結果になりかねない。

 無論広島で使われた核兵器と比べ、現代の核兵器の威力は段違いだ。最大級のものを用いれば、小国を丸々吹き飛ばす事だって出来る。しかし『マグナ・フロス』のサイズもまた、スギナとは段違いである。現代の核の炎で地中深くの地下茎まで焼き払えるのか。焼き払えた事を、どうやって確認するのか。そもそも地下茎は何処まで伸びているのか……

 正直なところ ― 望んではいないが ― 核兵器を一発落とせば()()()()と花中は考えていた。取り返しの付かない狂気と犠牲という対価を支払えば、文明を破壊する悪魔は完全に滅びると。だが、その考えすらも甘いものだった。生命の力は人類が考えるよりも、ずっと恐ろしいものだったのである。人智なんか及ばない、遥か高みに『マグナ・フロス』は立っているのだ。

 だとしたら残す手立ては、もっと恐ろしい力に頼るしかないのではないか。

「フィアちゃん……あの、もしもなんだけど……頼んだら、地面の中にいる、『マグナ・フロス』を、全部やっつけられる?」

「そのぐらいでしたらお安いご用です。植物園中の地面を全部深度数百メートルまで掘り起こして一本残らず引っ張り出してやりますよ。その後は中の水分を操って細胞単位でバラバラに粉砕してやります。まぁ五分もあれば十分ですね」

 尋ねれば、フィアは胸を張って答える。実に頼もしい答えだ。核兵器以上の破壊を伴い、『マグナ・フロス』の洗脳を解く鍵が永遠に見付からなくなる事を考慮しなければ。

 だが、悠長な事を言っている暇もない。地下茎から生えてきた『マグナ・フロス』もまた花を咲かせていた。どのような種子の散布方法を採用しているかは不明だが、風で飛ばしたり、弾けて拡散するタイプならもう手に負えない。ひっそりと森の中に転がり落ちた種が一つでもあれば、そこから大地が浸食される。あらゆる哺乳類を洗脳しながら生息範囲を拡大し、気付いた時には手が着けられない規模まで増えてしまうだろう。こうなれば人の世界は一瞬にして『マグナ・フロス』のものだ。

 その悪夢が現実のものとなる時間が分からないのなら、今すぐにでも決断をせねばならない。

「花中ちゃん……残念だけど、もう……」

 星縄は既に諦めているのか。悲しみに満ちた言葉で、花中の背中を押してくる。

 ちらりと目を向けたフィアは花中に暢気な笑顔を見せていて、一言お願いすればその瞬間に全てを終わらせてくれるだろう。花中がどんな気持ちを抱いていようと、お構いなしに。

 言いたくない。だけど言わなければ、人の世界が終わってしまう。人を助ける可能性を切り捨てなければ、全ての人が心から奴隷となる。

 だから花中は唇を震わせながら、ゆっくりと、その口を開いた。逃げたがる心を奮い立たせる。そうだ、『マグナ・フロス』の繁殖力を考えれば悩んでいる暇なんて――――

「(……繁殖力?)」 

 その単語が脳裏を過ぎった時、花中の意識が立ち止まる。目を見開き、身体の震えが一瞬で収まる。

「……花中ちゃん? どうし」

「すみません、十分だけ時間をください」

 突然の変調に星縄が声を掛けてきたが、花中はその言葉を遮った。星縄が何度か呼び掛けてきたが、花中はもう答えない。震えが収まると共にクリアとなった意識は、思考の海に跳び込んでいた。

 冷静に考えてみよう。

 『マグナ・フロス』は現代に突如現れた突然変異体などではなく、古代に繁栄していた数ある植物の一種である筈だ。種として成り立つ程度には個体数がいないと、化石が発見されるという奇跡 ― 化石化は極めて稀な事象だ ― はまず起こらないからである。一説によれば、一つの種が誕生してから絶滅するまでの期間は平均して数百万年程度。『マグナ・フロス』も百万年は生態系に参加していた事だろう。

 出鱈目な繁殖力に加え、航空機すら撃墜する戦闘力、どんどん下僕を増やす特殊能力……こんな生物が誕生したら、瞬く間に地上を覆い尽くしていなければおかしい。奴隷として酷使された哺乳類は個体数をどんどん減らし、絶滅寸前に追いやられていなければならない。

 だが、そうはなっていない。一体どうして?

 そもそもあの航空機を撃墜した力はなんだ? 『野生動物』を追い払うための戦闘力としては過剰にも程がある。確かに生命は環境に合わせた進化をしている訳ではなく、偶然環境に適応した進化を遂げたものが生き残っているだけ。なので例えばクリプトビオシスという休眠形態のように、想定される環境 ― 数ヶ月程度の乾燥と四十度前後の高温や、霜が降りる程度の氷点下 ― に対してあまりにも過剰な……人間なら即死する放射線、強酸や強アルカリ性、摂氏二百度もの高温やマイナス二百度もの低温などへの……耐性を獲得した場合もある。自然界に数百度の気温なんてないし、人が即死する放射線が定期的に降り注ぐような環境は存在しない。淘汰を経て適応したのではなく、偶然獲得した形質がやたら高性能だったという事だ。だから偶然にも『マグナ・フロス』が航空機を落とせる力を持っていたとしても、あり得ないとは言いきれないが……しかし偶然と考えるよりも、必要だったからと考える方が自然だ。

 そうだ、フィアが言っていたではないか。こそこそと隠れてまるで臆病者だと。強大な存在ならば例え数十キロ離れていようと気配を感知出来るフィア達が、姿を現すまで感じられない存在感の薄さ……まるで弱々しい小動物のようである。地下茎でどんどん栄養繁殖し、あっという間に成熟し、小さな種で多量の子孫を作るなど、小さな雑草のようではないか。

 すると一つの仮説が成り立つ。

 『マグナ・フロス』は、喰われる側だ。少なくとも、六千九百万年前においては。

 恐竜時代がとんだ魔境に思えてきたが、『事実』から推理するとこうとしか思えない。そして魔境である六千九百万年前には、間違いなく生息していた筈なのだ――――出鱈目な繁殖力だけでは物足りず、手当たり次第に掻き集めた哺乳類による護衛と、近代兵器をも超える迎撃能力を必要とした、『マグナ・フロス』の天敵が。

「(もしも、その天敵がいれば……!)」

 個体数が少ない今ならば、『マグナ・フロス』を根絶やしに出来るかも知れない。加えて、これは願望だがその天敵には恐らく……

 段々と希望を抱く花中だったが、しかしその希望はすぐに萎んでしまう。天敵が生息していたのは大昔の話だ。恐らくもう絶滅しているし、仮に子孫が生き残っていたとしても六千九百万年もの月日を掛けて進化してしまっているに違いない。『マグナ・フロス』の天敵としての力は、とうに失われているだろう。

 或いは『マグナ・フロス』のように休眠している可能性もあるが、一体どうやって見付けろと言うのか。時間だって掛かる。今は一刻を争うというのに。

 折角閃いた『名案』も、机上の空論で終わってしまう。星縄の話を遮った時のような気迫は、もう今の花中にはない。目を潤ませながら、力なく項垂れる。

 やがて水球がぷるんと揺れた。顔を上げてみれば、星縄が手を伸ばし、水球から伸びた『手』を花中の水球に当てている。浮かべているもの悲しげな表情は、きっと自分と同じものだろうと花中は感じた。

「花中ちゃんは良くやったよ。だけど、この世界は人間のためにある訳じゃない。全ての人を助けるための選択肢は必ずしも用意されているとは限らないんだ……分かるよね?」

「……はい」

「もう良いんだ。これで。だから花中ちゃん……」

 再び、星縄の言葉に背中を押される。今度こそ、理性は『現実』を向いてしまう。諦めが心を支配し、項垂れてしまう。

「あーそれにしても良い匂いですねぇ……小腹も空いてきましたしちょっと出掛けてきて良いですか? 五分ぐらいで戻りますから」

 そんな人間の気持ちなど、フィアはお構いなしだった。こちらの話を殆ど聞いていなかったのか、もう忘れたのか。このタイミングで外出をしたがる有り様である。

 如何にフィアの事が大好きな花中でも、今の態度にはほんの少しだけ苛立ちを覚える。それにしても先程から何を気にしているのか。こんな植物園にフィアが気になるものなど何もない筈だ。強いて挙げるにしてもたった一つしか心当たりが

「……あれ……?」

「花中ちゃん? また何か考え付いたのかい? だけど多分そんな時間は……」

「え、あ、待って……え、えっ?」

 星縄が掛けてきた言葉を、花中は無視する。「今度は違うから」……こんな考えはこれっぽっちもない。そんなつまらない事に、知性のリソースを振り分けている余裕などないのだから。

 思い出せ。『あれ』を見た時にフィアはなんと言っていたか。あの時は書かれていた内容と異なるからと、気にも留めなかった。しかし考えてみれば『彼等』は自分達の神様に夢中で、他のものへの関心が極端に薄くなっていたではないか。調べが足りなくて間違えた可能性、調べるのが面倒になって適当に纏めた可能性、そもそも調べてなくて想像で書いた可能性……全部あり得る。

 恐らく『あれ』はこの建物内にしまわれている。フィアの求めるものが『あれ』だったなら、もしかしたら――――

 この予想が当たっていたとしても、花中の思った通りになるとは限らない。限らないが、可能性はゼロではない。ゼロではない事をやらずして、早々に諦めて、妥当な結末を迎えるか?

 お断りだ。

 いざとなったら何もかもひっくり返して滅茶苦茶に出来るのなら、何故躊躇う必要がある!

「……フィアちゃん、探して」

「はい? 何をですか?」

「フィアちゃんが、食べてみたいもの!」

 花中が大声で伝えると、星縄とミリオンは目をパチクリさせた。フィアだって、何を言われたのか分からないかのようにキョトンとしている。

 だけどフィアは、誰よりも早く笑みを浮かべる。

 獰猛で、おぞましくて、残虐で。

 だからこそ頼もしい笑みを。

「おおっ! なんか難しい話の最中だったので我慢してと言われるかもと思ってましたが言ってみるものですねぇ!」

「え!? いやいや、待ってくれ! 『マグナ・フロス』の繁殖はもう始まっている! 拡散する前に駆逐を」

 星縄が極めて真っ当な意見を主張したが、それが『正論』となるのは人間相手だけである。(フィア)は常に自分の事が一番大事であり、人間社会の存続なんかよりも、自分の鼻をくすぐる魅惑的な芳香の正体を確かめる方がずっと大切だ。

「それでは早速探しに行くとしましょう! なんかもう割と我慢出来ませんから特急で!」

 だからフィアは星縄の意見に答えすら返さず。

 人間である花中の意識が遠退くほどの速さで、花中達を包んでいる水球が動き出す。何故ならその水球を引っ張るフィアが、戦闘機の数十倍もの加速度を以て部屋から跳び出したのだから!

 床に転がっていた金属製の扉は踏み抜かれ、フィアは猛然と、階段そのものを砕くほどの脚力で一階まで駆け上がる。階段を登り切ったフィアは一度立ち止まり、数瞬辺りを嗅ぐ。人間では恐らく感じ取れない、感じたところで詳細など分からない微かな臭いでも、フィアの驚異的嗅覚は的確に捉えた。迷いない足取りで、フィアは暗闇に閉ざされた研究所を移動する。

 人間の視力、ましてや水球の中に居る花中には、フィアが何処に向かっているのかさっぱり分からない。しかし余程楽しみなのだろう。身体に掛かる圧迫感から、とんでもない速さで駆けているのは間違いなかった。途中階段を上がり、三階ぐらいの高さまで進んだフィアは不意に立ち止まり

「多分此処ですね」

 なんの躊躇もなく、『何か』をした。恐らくは蹴りだと花中は思った。破壊音と共に、バタン! と倒れる板の音もした故に。

 フィアがごそごそと動く、と、不意に電気が点いた。突然の光に花中は思わず目を閉じ、幾らか慣れてからゆっくりと瞼を上げる。

 辿り着いた場所は、物置だった。

 整理整頓こそされていたが、埃の被った段ボール箱や壊れた模型などが置かれている、半分『ゴミ捨て場』のような部屋だった。要らないものはとりあえず此処にしまっているのだろう。大して広い部屋ではなかったが、置かれている荷物が道を塞ぎ、迷路のような様相を呈していた。

 部屋の奥に行くのも一苦労。物を探すならきっと大苦労……そんな花中のイメージを嘲笑うように、フィアは自身の『身体』を伸ばし、スライムの如く柔軟さで部屋の奥まで一気に進む。そこに置かれていた段ボール箱の一つを取ると、無造作に中身を外へ放り捨てていく。

「見付けましたーっ!」

 やがてフィアは段ボール箱の中身を取り出し、上機嫌な声と共に高く手を上げた。目当てのものを見付けたフィアは、再びするするとした動きで花中の下へと戻ってくる。

「おかえり、フィアちゃん。えと、何が、あった?」

「んふふふーこれですよこれー」

 花中が尋ねると、フィアは心底嬉しそうにその手にあるものを花中に見せる。

 フィアの掌の上にあったのは、テニスボールほどの大きさをした『種子』。

 形状は綺麗な楕円形で、変形や欠損は見られない。表面の凹凸はきめ細やかで、太古から変わらぬ紋様を保持しているようだ。色彩こそ炭化したかのような黒色だが、今にも芽吹きそうな生命力をひしひしと感じる。

 そう、これは種子だ――――『マグナ・フロス』の資料館のパネルに、ちょっとだけ書かれていたもの。『マグナ・フロス』と共に発掘された、同年代の生物()()

「……花中ちゃん、それは……」

「『マグナ・フロス』と、一緒に見付かった、タネです。資料館には、そう、書かれていました」

「資料館? ああ、『マグナ・フロス』の研究資料が展示されていた場所の事か。確かに別種の種子も見付かったという情報は、近くで配布していた資料にも書かれていたと思う……でも、それがどうしたんだい?」

 花中と一緒に連れて来られた星縄が、フィアが持ってきた種を訝しげに見つめる。一体これがどうしたのか、これで何をしたいのか、そう訊きたいかのように。

 だから花中は、その疑問に答えるつもりでいた。答えといってもあくまで自分の考えであり、感想であり、願望である。自分だけがその考えを抱いていたなら、自信なんて持てなかったに違いない。

 されど此処にはフィアが居る。

 フィアは人間社会がどうなろうと構わない。だから何かが人間社会を救う事を期待なんてしていない。自分の求めるがまま、自分の感じるがままに行動する。フィアがその『種子』を求めた理由は、自分の本能に訴えるものがあったからに過ぎない。

 つまりは食欲をそそるのだ、その『種子』は。

 しかしフィアの好物は昆虫である。特にイモムシだ。植物も食べられるかも知れないが、少なくとも花中はフィアが植物を食べているところを見た事がない。

 この『種子』はフィアの食欲をそそる、特異な植物なのか? 否定は出来ないが、もっと自然な考え方がある。

 自分達(人間)の考えが、『マグナ・フロス』に夢中で他の事は何もかもおざなりにしていた者達の書いたパネルや資料を()()()()()()()()自分達が、間違えている可能性だ。

 即ち、

「この『タネ』……虫の、特にチョウの卵っぽいですよね?」

 見た目通りの印象が、正しい答えであったなら――――




幕間の時点で出ていた怪しい物体さん。
さて、どんなものが出てくるでしょうか?
次回明らかに。

次回は10/14(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ9

 二度目の空爆から、三十分ほどが経った。

 空に飛行機はなく、三度目の攻撃が始まる気配はない。『マグナ・フロス』の高度な迎撃能力を目の当たりにし、不用意に希少な戦闘兵器を飛ばす愚かな国はいないようだ。

 しかし『マグナ・フロス』の撃破を諦めた訳ではないだろう。否、諦める訳がない。

 諦めるという事は、人間の心を操る植物が、世界を埋め尽くさんばかりに生える景色が広がるのを認めたのと同義なのだから。世界は霧に閉ざされ、大地から生えた数十メートルもの巨木がビルを貫き、隆起した地面により交通網が寸断されるだろう……この植物園のように。

 英知を砕かれた人類は、しかし古代種に魅了され、乱痴気騒ぎを始めるだろう。やがて文明は衰退し、生きる術を失った人類は滅びるのだ。古の植物が現代に根付くための、一時の苗床として。

 そんな事を甘んじて受け入れるほど、人類とは諦めの良い種族ではない。

「空爆が通じない以上、残す手立ては一つだ。大量のミサイルを投入し、迎撃能力を上回る飽和攻撃によって殲滅する。これしかないね」

 研究所の玄関口にて、水球の中に居る星縄が語る『最後の手段』――――それが、いよいよ現実のものになろうとしていた。

 星縄の意見に賛同するように、ミリオンはこくこくと頷く。

「ま、それしかないわよねぇ。それも恐らく核、正確には水爆を使うでしょうね」

「ああ。一人の人間として言わせてもらうけど、人類はそこまで馬鹿じゃない。『マグナ・フロス』の出現方法を目の当たりにして、地下茎を用いた繁殖には気付いているだろう。確証はないとしても、可能性を見過ごせるような相手じゃない。確実な駆除をするには、植物園の全敷地より更に広い範囲を、地下数十メートルまで蒸発させる必要がある。それが可能なのは、現代兵器の中じゃ水爆ぐらいだ」

「ま、本当に駆除出来るなら、それが悪手だとも思わないけど。問題はあれだけ大きいと、地下数百メートルぐらいまで地下茎が伸びてても不思議じゃない事かしら。いくら大量の水爆でもそこまで削れるかしらねぇ。案外普通の除草剤の方が確実かも」

「除草剤って、大きくなると効きが悪くなるからなぁ……生理作用によってはそもそも効くか分からないし、効くにしても時間が掛かるし」

「何より、それじゃあ洗脳された人達は助からない」

 同意を求めるような、ねっとりとした言い回し。

 ミリオンに目線だけを向けられた状態でその言葉を聞いた、星縄と同じく水球内に佇む花中はゆっくりと頷く。そして己の手の内にある、テニスボールほどの大きさの黒い『球』に目を向けた。

 ほんの数十分前に倉庫で見付けた、正体不明の『球』。

 何もかもが推測だ。確証なんて何もない。だからこれが失敗したなら、フィアに全てを終わらせてもらわねばならない。例え洗脳された一万を超える人々が、二度と日常に戻れなくなったとしても。或いは今からやろうとしている作戦が成功しても、洗脳された人々は元に戻らないかも知れない。

 例えるならこれは、足下の地面を掘って埋蔵金が出てくるのを期待するようなもの。

 だが、やらなければ確率はゼロだ。例え百万分の一、一億分の一の可能性だとしても、ゼロよりはマシである。最初から諦めるぐらいなら、何もかもやってから諦めたい。

 だから花中はその手に持つ『球』を、水球の内壁に押し当てる。『球』はずぶりと内壁に入り込み、移動し……花中を包む水球の隣に立つ、フィアの下へと送られる。

 『球』を受け取ったフィアは、にたりと笑みを浮かべた。

「むふふふふ。上手くいけば食べ放題失敗しても後から回収していただけば良し……良いですねぇこういう作戦なら何時だってどーんと来いですよ」

「フィアちゃん。後は全部、任せた」

「ええ任されました」

 神妙な面持ちの花中に、フィアは能天気な答えを返した。くるりと舞うような軽やかさでフィアは玄関口の方へと向きを変え、

「それではちょっと仕込みに行ってきますねー」

 お気楽な言い回しと共に、研究所の外へと跳び出した。

 それは文字通りの跳躍。花中達を守る水球は研究所に置いていき、フィアだけが何十メートルもの高さまで跳ぶ。腰の辺りからは花中達を包む水球と自身を繋ぐ、二本の糸状のものが伸びており、それもまた何十メートルと伸びた。

 人間の身体能力を軽く超えたジャンプにより、フィアは研究所の側にあった、十階建ての建物の屋上に難なく着地する。何事もなかったかのようにその場で背を伸ばし、眺めるはそびえ立つ無数の『マグナ・フロス』。

 現在地上に生えている『マグナ・フロス』の数は百二十七。花中に頼まれ、地面に水を走らせてその本数を数えた。植物園の至る所から十~二十メートルほどの木々が乱立し、古生代の森のような景色を作っている。時刻はすっかり夜遅くなのだが、施設の至る所からライトアップされており、フィアの目でも奴等の姿は簡単に拝める事が出来た。そして植物園の中央には、唯一五十メートル近い高さまで育った巨大『マグナ・フロス』が生えている。

 人間ならば圧倒され、動揺し、心乱されるだろう光景。尤も、フィアには「変な森」ぐらいの印象しかなかったが。 

 それは『マグナ・フロス』達が、一斉に自分の方へ()()()()()としても変わらない。

「ほほうこの私がどれだけ強いか今更ながら察したという事でしょうか? それとも私が持っているコイツに気付いたからですか?」

 口を持たない『マグナ・フロス』に、フィアは問い掛けてみる。無論、答えは返ってこない。

 花中であれば、どうして『マグナ・フロス』がこちらを振り向いたのかを考えただろう。オジギソウのように細胞の膨圧が何かしらの刺激によって変化したのか、或いはフィアが持つなんらかのエネルギーに反応したのか、それともフィアの持つ『球』が放出する物質に反応したのか……

 しかしフィアは花中とは違う。そんな小難しい事は考え付かないし、万一脳裏を過ぎっても、聞かされたとしても、興味などない。

 考えたところで、無意味なのだから。

「まぁなんでも良いですね。どんな形であれあなたはここで終わりなんですから」

 フィアは獰猛な、捕食者の笑みを浮かべながら独りごちる。

 まるでその笑みを見たかのような、それとも独り言を聞いたかのように。

 一本の『マグナ・フロス』の花から、ビームが如く勢いで液体が放たれた! あまりの勢いに『マグナ・フロス』もコントロールを失ったのか、液体ビームは鞭のようにしなり、通り道にあった四階建ての建物に命中。コンクリートで作られた頑丈な建造物は、豆腐のようにあっさりと切り裂かれた。崩落音を奏で、無惨な廃虚へと変貌する。

 そして液体は的確に、フィアをその射線上に捉えていた。真っ直ぐ、音速に匹敵する速さで液体はフィアへと迫り

 フィアは避けもせず、直撃した液体ビームを()()()()()

 否、耐えたというのも正確ではない。

 フィアからすればこんなもの、ハエがたかる程にも感じていないのだから。

「ふんつまらない攻撃ですねぇ。仕返しする気にもなりませんよ」

 液体ビームを身体で受け止めながら、フィアは散歩するような足取りで前へと踏み出す。屋上から跳び下りる時こそビルに水を這わせて固定したが、地上に降り立ってからはただただ歩くだけ。分散するように飛び散った液体ビームの残骸が、周りの建物を虚しく砕いていく。

 立ち止まらないフィアに、他の『マグナ・フロス』も液体ビームを撃ち込み始めた。しかしフィアの歩みは止まるどころか、遅くなる事すらない。ビルをも薙ぎ払う一撃が何十本集まろうと、フィアが繰り出す一歩はその圧力を押し返す。飛び散る液流が周辺を灰燼と帰す中、フィアだけが涼しい顔をしていた。

 もしもこの液体ビームが水を含んだものでなかったなら、フィアとて多少は気合いを入れて歩かねばならなかっただろう。

 しかし『マグナ・フロス』が放つ液体は、九割以上が水で出来ていた。如何に出鱈目な力を持とうとも()()()()()でしかない『マグナ・フロス』にとって、無尽蔵に吸い上げられる水はビームの原料に最適だったのだ。しかし水を自在に操れるフィアにとって、水を含んだ攻撃など脅威とはなり得ない。それどころか当てられた液体ビームに能力を通し、『マグナ・フロス』を内側から、細胞レベルで粉砕してやる事すら造作もないのである。

 それをしないのは、今回は目的があるからに他ならない。

 故に反撃もせず、黙々とフィアは進み続ける。真っ直ぐな歩みで目指すのは植物園の中央に生える――――巨大『マグナ・フロス』。

 あの巨木こそが、植物園に生えている全『マグナ・フロス』と地下で繋がっている親玉である事さえも、フィアは既に調べ上げているのだ。そして花中から託された『球』は、全ての中心で使わねばならない。

 液体ビームの猛攻をものともしないフィアに、脳どころか神経すらない筈の『マグナ・フロス』が危機感を覚えたとでも言うのか。液体ビームを中断するや、今度は地中を走らせていた根で、フィアを貫かんとする! 展示会で出された『マグナ・フロス』も根を動かし、人の首の皮を貫いて脊髄に達してみせた。此度フィアに迫ろうとする根は、その何十倍も巨大であり、ドリルのような螺旋を描いている。展示会の『マグナ・フロス』は人間に止めの洗脳をするために根を突き立てたのだろうが、今フィアの目の前にある根は明らかに用途が異なる。

 これは天敵などを追い払うための、攻撃用の根だ。

「ああん? こんなもの」

 一撃で粉砕出来る――――出来るが故に、フィアは振り上げた腕を止めねばならなかった。何故かは忘れたが粉々にしちゃいけないと言われていた……『マグナ・フロス』になんの脅威を感じていなかったがために、フィアは花中の言いつけをふと思い出せたのである。

 仕方なくフィアは迫り来る根に、素手で掴み掛かる。素手とはいっても能力で形作った『作り物』の手だ。舗装されたコンクリートを粉砕しながら迫る、ナイフよりも鋭利な根っこの先端を易々と掴んでみせた。

 されど『マグナ・フロス』は植物。根は無数に存在する。更に何十本もの根がコンクリートの路上を突き破り、フィアを串刺しにせんと襲い掛かる!

 フィアは掴んでいた根っこを素早く手放し、新たにやってきた根を軽く小 突いた。そう、フィアにとってはあくまで軽めの一撃……しかし重さ百キロはあろうかという巨大な根は小枝のように押し返され、轟音と共に倒れ伏す。他の根が何本来ようと変わらない。

 ついには埒が明かないとばかりに、一層巨大な根が大地から生えてくる。持ち上げられた際の高さは五十メートルを軽く超え、竜のような姿だ。それほどの巨体を形成する細胞が、脈動・伸縮して運動エネルギーを生成する。まるで金属が引き裂かれているかのような歪な音が、根っこ全体から響いていた。

 そしてさながらバネが跳ねるように、一瞬にして音速の数倍もの速さに加速した根がフィアへと振り下ろされる!

「っ!」

 これにはさしものフィアも両腕を頭上で交差させ、足を開いて腰を落とす。

 立ち止まったフィアを、『マグナ・フロス』の根は超音速で容赦なく叩き潰す。重量数百トンにもなる物体が超音速で地面に激突し、巨大な衝撃波が放たれる。近くにあったコンクリート製の建物は爆破されたように吹き飛び、大地は海のように大きくうねった。付近に生身の人間がいれば、今頃跡形もなく消し飛んでいるに違いない。

「っだぁ! 鬱陶しいッ!」

 だが、フィアは健在。

 苛立ちを露わにした雄叫びと共に、自分の頭上にある根を殴り付けた!

 フィアにはミィほどの怪力はない。しかしそれでも自重の何十倍もの重さを軽々と持ち上げるだけのパワーはある。怒りに任せて放った一撃は、数百トンもの質量を誇る根さえも高々と打ち上げ、生じた反作用により自らの足下に巨大なクレーターを生み出した!

 打ち上げられた根は大きくしなり、悲鳴にも聞こえる音を発しながら軋む。生半可な木ならば一瞬でへし折れたであろう打撃に、『マグナ・フロス』の強靱な繊維はギリギリで堪え抜いた。

 危うく木の根を砕いてしまうところだったが、頭に血が昇ったフィアは折角思い出した花中の言いつけを一瞬で忘れる。自分のやらかしたミスに気付きもせず、フィアは駆け出した。一歩踏み出せば大地は陥没し、爆発的な加速を得る。人間ならば即死してもおかしくないGがフィアの生身部分に掛かるが、能力で操った体液を用いて強引に無効化。フィアの身体は瞬きする間もなく時速数百キロに到達した。

 人間どころか獣すら追い付けない、神速のダッシュ。愚鈍な植物である『マグナ・フロス』に追える訳もない。接近するフィアを迎撃せんと地面から無数の根が飛び出すが、全てフィアが通り過ぎた後から出てくる有り様である。駆け抜けるフィアの『身体』には掠りもしない。

 ついにフィアは巨大『マグナ・フロス』の根元に接近。

 その根元には、数え切れないほどの人間が群がっていた。

 鑑賞者達だ。『マグナ・フロス』を崇めるためか、男も女も、老いも若いも関係ない大集団を作っている。彼等は銃器や鈍器を持っていたが、『マグナ・フロス』の動きに戸惑っているのか、動揺したように右往左往するばかり。迫り来るフィアに進路を譲ろうとはしない。

 彼等はフィアからすれば蹴散らすなんて容易い雑魚であり、傷付ければ花中が悲しむお邪魔キャラ。頭上を跳び越してやろうかとも考えたが、ふと違和感を覚える。暗くてフィアの目にはよく見えないが、どくやら『マグナ・フロス』の根が空中に展開されているようだ。迂闊に跳び込もうとすれば根にぶつかり、跳ね返される事が容易に想像出来る。

 その程度で怪我をするほど柔ではないが、折角詰めた距離を開けるなんて面倒は御免だ。地上を駆ければ、例え根が目の前を塞ごうと無理やりこじ開けられる……しかしそれをすると、鑑賞者達を蹴散らしてしまう。

 『難問』を前にし、フィアは思考を巡らせる。

 尤も、時間にすれば瞬き一回にも満たないほんの刹那の時。その考えは何処までも浅く、本能に従ったものでしかない。

 フィアは、鑑賞者達の間をすり抜けるという極めて雑で強引な解決策を採用した。

「――――ッ!?」

 ようやくフィアの足音が聞こえたのか、鑑賞者達が振り向こうとする。だが、秒速百メートルを超える速さに人間が反応出来る筈もない。

 棒立ちする鑑賞者達に手が届く位置まで接近したフィアは、その『身体』を素早く変形させた。絶世の美少女がぐしゃぐしゃに潰れながら捻じれ、ヘビのような細長い体躯へと変貌する様は、花中のような小心者が見れば気も遠退くだろう。本体の高さがあるため縦三十センチよりは小さくなれないが、幅は十センチもない。

 野生動物の本能に任せ、ヘビと化したフィアは鑑賞者達の隙間を素早く縫っていく。狂信者と化した彼等もフィアの『変身』には驚愕したのか、捕まえるどころか跳び退く者までいる始末。フィアは難なく巨大『マグナ・フロス』の根元まで近付き、その細い『身体』を幹に巻き付けた。

 ようやく鑑賞者達もフィアが自分達の『神様』に何かしようとしていると気付いたのか、慌てて集まってくる。しかしもう遅い。フィアは細長くなった『身体』を巻き付けるようにして、『マグナ・フロス』の幹を登り始めた。数メートルも登ってしまえば、もう鑑賞者達には何も出来ない。彼等には、『マグナ・フロス』を傷付けるような真似は出来ないのだから。

 後はもう消化試合だ。

 植物園中に生えている『マグナ・フロス』から液体ビームが飛び、根が唸りを上げながら襲い掛かり、巨大『マグナ・フロス』のてっぺん……花からは銀幕のように洗脳粒子が溢れ出す。フィアが跳ね返した液体ビームが植物園の温室を幾つも破壊し、押し返した根が資料館を叩き潰して、洗脳粒子はそれらの余波で紙吹雪のように舞い上がる。それは人間にとっては破滅的で、終末的な光景だったが、フィアにとっては賑やかしでしかない。一層感情を昂ぶらせながら、フィアはするすると登り続ける。

 ついにフィアは巨大『マグナ・フロス』の頂点に辿り着き、ヘビのようだった『身体』を元の金髪碧眼の美少女へと戻す。

 瞬間、巨大『マグナ・フロス』の頂点――――花の中心から特大の液体ビームが放たれた!

 が、フィアはそれを指先一つで、触れた先から軌道を捻じ曲げる。有効射程一万メートルオーバーの攻撃は、遠い彼方に茂る森林の一部を吹き飛ばした。

 巨大『マグナ・フロス』は延々と液体ビームを放ち続けたが、フィアの指先を震わせる事すら出来ない。段々とその出力は衰え、二分も過ぎた頃には噴水程度の勢いしかなくなっていた。

「ようやくバテましたか。これでコイツを使えますね……苦労に見合うものであれば良いのですが」

 一個の巨大生命が疲弊した前で、フィアは淡々とぼやきながら片手を前に突き出す。そのまま手を開き――――中にあった『球』が、ぽとりと『マグナ・フロス』の花の上に落ちた。

 花の上に落ちた『球』は、なんら変化を見せない。フィアは腕を組みながらじっと見つめていたが……何秒経とうと、何十秒過ぎても、『卵』に目に見える変化は起こらない。もう、死んでいるかのようだ。

 だが、フィアは気付いている。

 その内側に潜む生命が、少しずつ脈動している事に。

 やがて数分の時が過ぎた時、ぴしりという音が『球』から鳴った。

 『球』にはひびが入り、パキパキと軽い音を立てながら膨れ上がる。殻は剥がれ落ち、内側にあった膜がもごもごと蠢いた。

 やがて、にゅるりと一匹のイモムシが這い出す。

 そのイモムシは体長十五センチほどもあり、ぷっくりと太っていた。頭がとても大きく、顎も太くて丈夫そうな作りをしている。辺りをきょろきょろと見渡し、自分が何処に居るのかを確かめるような仕草を取る。

「……ミュー」

 続いてイモムシは可愛らしく鳴いた

 次の瞬間、自らの足場でもある『マグナ・フロス』に噛み付く!

 イモムシは立派な顎を突き立て、バリバリと音を立てながら『マグナ・フロス』の花を喰らう。虫としては異例なほど巨大な身体が、食べるほどにぶくぶくと膨れ上がった。猛烈な代謝をしているのか表皮が次々と肌荒れのようにひび割れ、捲れ、剥がれ落ちる。腹部末端からは、垂れ流しとしか言えない量の糞が排出されていた。

 食べても食べても、イモムシの食欲は収まる事を知らない。花の上には大きな傷痕が出来上がり、綺麗な花がズタズタにされていく。巨大『マグナ・フロス』もこれは堪らないとばかりに、幹を激しく揺さぶろうとする。イモムシが噛み砕いた細胞より放出された、特定の化学物質がこの反応を引き起こした……即ち、イモムシを振り払うための生理的反応であり、古代から行われた適切な防御反応だった。

 しかし、

「おおっとそうはいきませんよ」

 古代と違い、イモムシにはフィアという味方がいた。

 フィアは能力を用い、水のネットを形成。巨大『マグナ・フロス』に巻き付ける。フィアが腕によりを掛けて作ったこの一品は、その気になればジェット機すら簡単に捕縛する強度を有していた。巨大『 マグナ・フロス』は動きを封じられ、ぴくぴくと震えるのが精いっぱい。イモムシを振り払う事は叶わない。

 フィアの庇護を受け、イモムシはすくすくと育っていく。巨大『マグナ・フロス』は何も出来ず、フィアはうきうきしながらイモムシを眺めるばかり。

 そして数分が経った頃、イモムシは不意に動きを止める。

 イモムシは大きさ三十センチほどにまで育った。大きくなった身体の内側で何かが蠢き、ぶよぶよとした肉がその蠢きに合わせて動いている。内側の何かはどんどん大きく、激しく蠢き――――

 ついにはイモムシの皮を突き破り、中から小さなイモムシが出てきた。

 小さなイモムシの数は十匹。いずれも体長五センチほどで、形は自らが生まれ出たイモムシと大差ない。彼等は親であるイモムシの中から這い出すと、早速とばかりに『マグナ・フロス』に喰らい付く。

 後は、同じ事の繰り返しだ。

 小さい分時間こそ先程よりも掛かったが、イモムシ達は凄まじい勢いで成長し、三十センチほどになると動きを止め、中から新たな個体が生まれ出てくる。ネズミ算という言葉すら生温い増殖速度に、『マグナ・フロス』は見る見るうちに小さくなった。

 その出鱈目なイモムシの増殖を前にして、フィアは満足げな笑みを浮かべる。それからおもむろに、近くで食事をしていたイモムシを一匹摘まみ上げた。

「ミュー、ミュー」

 イモムシは威嚇のつもりか、弱々しい鳴き声を上げる。無論この程度で怯むようなフィアではない。そして彼女は、自分以外の命に哀れみや同情を抱かない。

「いただきまーす」

 なんの躊躇もなく、フィアはイモムシの頭に齧り付く。大きくて立派な頭が、作り物の歯によって砕かれた。

 千切れた肉の断面からとろとろと零れる体液を啜り、フィアはじっくりとイモムシの味を堪能する。と、頬をだらしなく弛めた。幸福に満ち、一瞬にして腑抜けていく。

 それほどまでに、イモムシは美味だったのである。

「んふえぇぇ……これは正しくほっぺたが落ちる美味しさというやつですねぇ……うへへへへ」

 幸せを存分に堪能し、フィアはゆったりじっくりイモムシを味わう。口の中身がなくなれば、次のイモムシを拾って食べる。パクパクと、欲望のまま味を楽しんでいた。周りをイモムシに囲まれた中、フィアはその場に座り込んだ。

 そうして仲間が何匹も食われても、イモムシ達は気にも留めない。逃げようとする素振りすらない。ひたすらに『マグナ・フロス』を食い、成長し、増殖するのみ。フィアが食べる数よりも、増える数の方が遙かに多い。数が増えれば餌である『マグナ・フロス』の消費量も激増し、今や人の目にも分かるほどの速さでマグナ・フロスは()()()()()

 やがて地上が迫ってくる、と、そこにはギラギラと光る数千もの目がイモムシ達を捉えていた。

 鑑賞者達だ。自分達の偉大な信仰対象を食い荒らされ、彼等の誰もが義憤に燃えていた。その手には棍棒を持ち、イモムシ達がやってくるのをただただ待つ。

 されどイモムシ達は人間の狂気など気付きもせず、食事と繁殖を続けるのみ。結果、イモムシの一匹が増殖した仲間に押し退けられ、地上に落ちてくる。

「ぐおらあああっ!」

 途端、鑑賞者の一人がイモムシを棍棒で叩き潰した。

 まるでそれを合図とするかのように、鑑賞者達は幹から落ちてくるイモムシの駆除を始めた。駆除といってもやる事は極めてシンプル。目に付いたイモムシをひたすらに叩き潰すのみ。何十ものイモムシが棍棒の一撃で叩き潰され、白濁の肉汁が辺りに飛び散る。

 イモムシは既に数万近い数まで増えていたが、『マグナ・フロス』の幹の断面の広さではこれ以上居座れない。これよりも増えると、外側に居る個体が押し出されて落ちてしまう。十センチ近いイモムシが雨のように降る光景は、人によっては気が狂うほどの嫌悪を覚えるだろう。しかし鑑賞者達は神木を傷付けられた怒りで我を忘れ、がむしゃらにイモムシを叩き潰していく。

 やがてイモムシ達に食い荒らされた『マグナ・フロス』の高さは、鑑賞者達の視線近くまで迫った。今なら幾らでも叩き潰せる。イモムシ達は根絶やしにされてもおかしくない状況に晒されてしまう。

 ――――が、鑑賞者達は誰も動かない。

「……あれ? 俺は何をして……」

「うげぇっ!? なんだこの虫!?」

「き、気持ち悪い!」

 あまつさえイモムシ達を見るや、一目散に逃げ出す有り様。逃げる際に何匹か踏み潰されただけで、誰もが自分達の『神』を喰らう魔物から目を背ける。

 あまりにも急な変わり身に、蠢くイモムシ達の中心に座るフィアはもごもごと噛みながら首を傾げた。とはいえ花中達人間とは違い、フィアは鑑賞者達がどうなろうと興味すらない。

 何よりそんな『些事』なんかよりも、今は自分の周りを満たす美味なる食材を堪能する方が大事だ。

「んふふぅ♪ いくら食べても食べ足りないぐらいですねぇ」

 上機嫌に独りごち、フィアは黙々とイモムシを頬張るのみ。

 逃げ延びたイモムシ達が何処に向かおうとも、最早フィアは気にも留めない。

 そう、何処に向かおうとも。

 地面に落ちたイモムシ達が他の『マグナ・フロス』に向かおうとも、『マグナ・フロス』の液体レーザーが何万というイモムシを吹き飛ばそうとも、吹き飛ばしきれなかったイモムシが『マグナ・フロス』に辿り着こうとも、食べ尽くした『マグナ・フロス』の根を追うように地下に向かおうとも、不自然に落ち始めた『マグナ・フロス』の葉へイモムシ達が向かおうとも。

 フィアにとっては、別にどうでも良い事なのだから――――

 

 

 

「いやー、清々しいわねぇ。天気も景色も」

 楽しげな口調で尋ねてくるミリオンに、花中は無言のままこくんと頷いた。

 夜は明け、雲一つない青空が広がる。

 研究所の外に出てきた花中を、降り注ぐ眩い日差しが出迎えてくれた。八月の太陽は突き刺さるように強く、眩い煌めきは寝起きである花中の頭を一発でスッキリさせる。鳥達が空を舞い、賑やかな囀りが耳をくすぐった。実に健やかな朝である。花中の周りには分厚い水があり、『外気』から花中を守ってくれているが、それが煩わしく思えるほどだ。

 それでも夜と変わらぬ古代の森が地上に広がっていたなら、決して爽やかな気持ちになんてなれなかっただろうが……何処を見てもそんなものは見当たらない。

 あるのは大量の、地上を埋め尽くすほどにとっちらかった虫の糞。

 そして餌を求めて動き回る、無数のイモムシ達だった。

「えっと、もう、空気の方は……」

「大変良好ね。洗脳粒子は完全に消えているわ。むしろ『マグナ・フロス』が汚染物質を吸ってくれたのか、それこそ森のように清んだ空気よ」

「それなら、もうこの水球の中に居なくても大丈夫かな」

 花中が尋ねれば、ミリオンは周りの空気について事細かに教えてくれる。と、花中の隣で同じく水球に包まれた星縄が、後ろを振り向きながら自身の意見を述べた。

 星縄と花中の後ろに居たフィアは、ぽっこり膨れたお腹を擦りながら地面に仰向けで横になっていた。顔は幸せに溶けきった笑みを浮かべており、時折げっぷを出している。

 そして何時まで経っても、星縄の問いに答える素振りもない。幸せ過ぎて動きたくないのか、星縄の話など端から聞く気がないのか……恐らくは両方だと思い、今度は花中が星縄の代わりにお願いする。

「フィアちゃん、あの、もう洗脳粒子はないみたい、だから、この水から、出してくれる?」

「……んぁ? あーそうなのですか分かりました」

 普段なら即答する花中の言葉にも、今のフィアはワンテンポ遅れての返事。動きも緩慢で、花中達の周りから水がなくなるのに十数秒と掛かる。

 どうやら相当に幸せらしい。

 それほどまでに大地を這いずり回るイモムシ達――――古代より蘇った、『マグナ・フロス』の天敵達は美味だったようだ。

「それにしても、凄い繁殖力だね。まさか五分ほどで増殖するとは。細菌類でも、ここまでの繁殖力を持つ種は皆無じゃないかな」

「結局最後まで三度目の攻撃がなかったのも、アイツらの大繁殖が原因よねぇ。何しろ見る見るうちに森が消えていくんだもの。多分、自衛隊も米軍もてんやわんやだったでしょうね」

「で、そうしている間に全てが片付いた、と」

 くすくすと笑うミリオンに、星縄も楽しげに笑い返す。その笑いの中に、花中も静かに混ざった。

 こうして笑い合えるのも、全て花中の思った通りに事が進んだからに他ならない。

 花中が考えた通り、そしてフィアが察知した通り、『マグナ・フロス』と共に発見された『タネ』だと思われていたものは虫の卵で、尚且つ『マグナ・フロス』の天敵だった。

 恐るべき存在である『マグナ・フロス』だったが、過度な迎撃能力と繁殖力から、天敵の繁殖力も優れていると花中は推察していたが……予想以上に、イモムシは繁殖力に優れていた。

 イモムシ達が採用していた繁殖方式は幼生生殖。簡単に言えば幼虫時代から卵細胞が発達を始め、体内で別個体が発生するというもの。成虫時代や卵の時代を経ず、新しい個体が次々と形成されるため、餌と環境が安定していれば爆発的な勢いで増殖する。現代でも一部の昆虫で見られる繁殖方法だ。

 桁違いの繁殖力により、彼等は『マグナ・フロス』を次々と食い散らかした。とはいえ『マグナ・フロス』には洗脳粒子を用いて洗脳した『奴隷』がいる。彼等の攻撃を受ければ、イモムシ達も根絶やしにされただろう。

 しかしイモムシ達は『マグナ・フロス』を食べるために大きな進化を遂げていた。

 洗脳粒子を中和する粒子……仮に、脱洗脳粒子と呼ぼう……を、体液中に含んでいたのである。何かしらの攻撃を受ける事で彼等の体液が飛び散り、気化した脱洗脳粒子が付近を満たす。脱洗脳粒子は大気中の洗脳粒子や、生物の脳神経と結合している洗脳粒子と反応を起こし、なんと洗脳粒子の自壊を引き起こすのだ――――ミリオンが鑑賞者達の脳内を観測した事で、そうした化学反応が起きている事が判明している。洗脳粒子が分解されれば脳神経は解放され、『マグナ・フロス』を崇拝する気持ちは消えてしまう。

 かくして鑑賞者と化していた人々は正気に戻り、元の生活に戻る事が出来たのだ。大気も浄化され、今は普通に呼吸が出来る。そして『マグナ・フロス』はイモムシ達が全て食べ尽くした。

 古代から蘇った悪魔は、小さな虫の手によって葬られたのである。

 ……無論、ミリオンから事象について事細かに聞けた花中以外の、実際に洗脳から解放された人々がこの事を知る筈もない。おぞましい数まで増えたイモムシを見て、誰もが感謝などなく逃げ出した。中には手近なものを投げ付け、『恩虫』である彼等に危害を加えたものまでいる始末……イモムシ達も善意で人間を助けた訳ではないが。

 ともあれ解放された人々は植物園から逃げ出し、待ち構えていた自衛隊に無事保護された。銃や戦車砲を向けられ、誰もが怯んで動けなくなり、あっさり捕まったらしい。死傷者は出ていない、とはミリオンの弁である。洗脳粒子が大気中から消えたと分かれば、レストランに避難していた人々にもいずれ救助隊が向かう筈だ。

 全ての人命が失われる事なく『救助』される。これは花中と星縄(人間達)が望むものとしては、最高の解決だった。

「いやー、上手くいって良かったわねぇ」

「そうだね。まさか、本当に人々が洗脳状態から解放されるなんて、思ってもみなかったよ」

「ああ、そっちは別にどーでも良いんだけど。ただ、私としては一つ懸念があったのよ。大したもんじゃないから、言わなかったけど」

「懸念? なんだいそれは?」

「卵から生まれたものが『マグナ・フロス』よりマシである保障はなかったって事よ」

 ミリオンは手をひらひらと動かしながら、些末事のように自分の抱いていた考えを伝える。

 しかしそれは、確かに考えるべき問題だった。

 『マグナ・フロス』が恐れるほどの天敵だ。航空機をも撃ち落とせる『マグナ・フロス』以上の、既存の軍事力では歯が立たないような怪物という可能性は確かにあった。もしかしたら、フィア達すらも苦戦するような怪物だったかも知れない。

 けれども花中は――――何故だか、その考えが全く過ぎらなかった。今でも、地面を這いずるイモムシを見て、そんな危機感はこれっぽっちも過ぎらない。買い忘れたものがないか考えるだけでいくらでも不安になるのに、何故だかこの方法を思い付いた時、花中は不思議と大丈夫だという『確信』を覚えていた。

「(……切羽詰まって、悪い事を考えないようにしてたのかなぁ)」

 だとしたら、あまりにも危険な賭けだった。猛省せねばと、花中は自戒の気持ちを胸にしかと刻み込む。反省する心で、浮かれていた気持ちは徐々に静まってきた。

 尚、突如として爆音と震動に襲われた事で、花中の心は一瞬にして錯乱状態に陥ったが。

 その音と震動の元凶が空から降ってきたミィであると分かっても、花中はしばし激しく脈打つ自分の胸を両手で押さえてしまう。

「ふぃー、たっだいまー」

「あ、み、ミィさん……おかえりなさい……えと、どう、でしたか?」

「嫌な感じは何処にもなし。多分もう何処にもいないんじゃないかなぁ」

 花中が尋ねると、ミィは胸を張って答える。『マグナ・フロス』を脅威と感じている彼女には、周辺の探索も頼んでいた。フィアやミリオンもしてくれたが、『マグナ・フロス』に関しては哺乳類であるミィが一番敏感だった。

 そのミィが「もう何処にもいない」と答えたのだから、きっともう、『マグナ・フロス』は全て死に絶えたのだろう。

 古代の植物は、再び絶滅種と化したのだ。

「……しっかしまぁ、イモムシだらけだねぇ。植物園の外の方も見てきたけど、このイモムシを気持ち悪がって、軍隊の奴等も一時的に逃げてたよ」

 ミィは足下に居るイモムシを指差しながら、自分の見てきた事について教えてくれた。

 『マグナ・フロス』は地下茎で増殖していた。フィア曰くイモムシ達は地下にも進んでいたようなので、そうした地下茎を追って進み、外へと出たのだろう。花中達からすればイモムシ達は見事『マグナ・フロス』の繁殖を食い止めてくれた訳だが……事情を知らない者達からすれば、謎の植物に続いて謎のイモムシが大発生したようなもの。洗脳粒子的なものを出さないとも限らないのだから、迂闊には近寄れまい。

 しかしながらそうなると、レストランに退避している人々の救助はちょっと時間が掛かるかも知れない。

 『マグナ・フロス』という危機が去り、イモムシも現状脅威ではない今、助けが多少先延ばしになっても大した問題ではないが……助けを待つ人々からすれば、堪ったものではないだろう。出来る事なら早めの救助を願いたい。

「花中ちゃん。そんな怖い顔をしなくても、助けはすぐに来ると思うよ」

 等と考えていたら、星縄に微笑み混じりで窘められてしまった。顔が怖いと言われ、花中は自分の頬を揉みしだく……これで少しはマシになったのか、鏡がないので分からないが。

 それはそれとして。

「えと、星縄さん。助けが、すぐに来るというのは……?」

「あくまで推測だけどね。どんな生き物にも弱点というのはあるものさ」

「弱点……?」

 首を傾げる花中に、星縄は思わせぶりに辺りをぐるりと見渡す。

 何かあるのだろうかと、花中も周囲に目を配る。しかし見えるのは『マグナ・フロス』が生えた際に破壊された建物と、地面を這いずり回るイモムシばかり。

 星縄の意図が分からず、花中は少し考え込む。恐らくはイモムシの事なのだろうが、弱点とはなんだろうか。観察すれば何かヒントがあるかもと思い、今度は注意深く、イモムシを注視する。

「……あれ?」

 その観察の中で、花中は一つの違和感を覚えた。

 動かないイモムシが居る。

 しかもかなりの数、十数匹に一匹は動いていないようだった。単に休んでいるだけか、とも思ったが、なんとなく雰囲気が違う気がする。上手く言葉には出来ないが……ぐったりしているように、花中には見えた。

 気になったので、偶々足下近くに居る動かないイモムシを観察しようと、花中はその場にしゃがみ込んだ。

「ひっ!?」

 瞬間、思わず上擦った悲鳴を上げてしまう。

 何故ならまじまじと見つめたイモムシが、死んでいたからだ。身体の中身が溶けているのか、どろりと潰れた状態で。

 『正体』に気付いてしまうと、周りが途端におぞましい光景に見えてくる。

 ひょっとして、動かなくなったイモムシはみんな死んでいるのでは――――

「ほ、星縄さん!? これって……」

「ほんの数分で倍以上の体躯になる成長速度だ。代謝機能が暴走しているとしか思えない。餌が枯渇すれば、成長するためのエネルギーを賄えずに餓死する……うん、予想通りだね」

 動揺する花中に、星縄が組み立てた推論を語る。確かに、異常な成長・繁殖速度の代償としてエネルギー消費が激しく飢餓に弱い、というのはありそうな話だ。『マグナ・フロス』の桁違いの繁殖力に依存しているとなれば尚更である。

 そうなると、此処にいるイモムシ達は皆もうすぐ死んでしまうのか?

「ぎゃあああああっ!? なんで捕まえておいたイモムシがみんな死んでるんですかぁ!?」

 ……どうやらそうなる可能性が高そうだと、友達が上げた悲鳴によって花中は確信を深めた。

 『マグナ・フロス』の付近から見付かった卵があるので、恐らくなんらかの条件を満たした個体は飢餓を感じ取ると耐久卵を産むのであろう。或いはなんらかの環境要因により成虫となるのか。なんにせよ条件を満たせなかった多くの個体は、そのまま飢えて死ぬと思われる。残った耐久卵も、新たな『マグナ・フロス』が目覚めるまで眠り続けるのだ。例え何千万年が経とうとも。

 可哀想だとは思う。花中(人間)の都合で目覚めさせられ、大勢が飢え死にするのだから。

 しかしながらイモムシ達もまた、この時代の生き物ではない。今の生態系は彼等の存在を許容していない。このまま滅びてくれるのが、人間にとって一番なのだ。

 そう、滅びてくれるのなら……

「花中さぁぁぁんっ! どうしましょう!? イモムシが次々死んでいきます! これでは明日の分がありません!」

「ぴゃっ!?」

 俯いていた花中だったが、いきなりフィアが抱き着いてきた事に驚いて顔を上げる。イモムシの死をどうにかしてほしいようだが、生憎花中にはどうにも出来ない。

「えっと、多分、今日中には、全部餓死しちゃうと、思うから、食べられるだけ、食べておいた方が、良いよ……あ、でも卵を産むかも知れないから、それを集めると、良いかも。条件次第だと思うけど、六千万年以上、持つ筈だし」

「卵ですね! 成程確かにあの卵も美味しそうな匂いがしていましたしまたあの枯れ草が生えてきたら増やせますからね! 流石花中さん名案です!」

 それでも代案を考えると、フィアは感謝しながら髪をざわざわと蠢かせた。そして金色の髪は四方八方へと伸びていき、植物園中に広がっていく。

 この調子だと、イモムシ達が産んだ耐久卵は一つ残さずフィアに回収されてしまうだろう。新たな『マグナ・フロス』の目覚めを待つという、ほんの小さな希望すら潰えたようだ。

「やっほー、元気してますかー?」

 イモムシ達に一層の哀れみを覚えていると、ふと花中は自分に向けられたと思われる、聞き慣れない声を耳にする。

 声がした方を振り向けば、そこには全身茶色の幼女の姿が。

 一瞬の困惑を挟んだ後、花中は彼女がこの植物園に暮らすミュータント――――ラフレシアである事を思い出した。

「あ、あなたは……! えと、大丈夫、でしたか?」

「ん? 大丈夫ってなんの事です?」

「え、えと、その、色々此処で、起きていた事は、知ってますか? あの、古代の、植物が、復活した事とか……」

 キョトンとするラフレシアの幼女に、花中はおどおどと尋ねる。するとラフレシアの幼女は「あー、あれですかぁ。勿論知ってますよ」と漏らしながら、納得したようにぱちんと両手を叩いた。

「何しろ奴のやられぶりを見に来たのが散歩している理由ですからね。全く、期待外れでしたねぇ。あと少しでこの世を我が手中に収められたのに」

 そしてなんの臆面もなく、そう答える。

 答えられた花中は、頭が真っ白になった。傍に立つフィアも、目をパチクリさせている。

 花中は思わず、ラフレシアの幼女を問い詰めた。

「……え……? 手中にって、何を……?」

「あの植物、実はブドウ科でしてね。私が寄生出来る植物だったので、世界中に繁殖してくれれば私としても血族を世界中に広められるので得でして。まぁ、そうなったら良いなというだけで、特に何もしてないんですがね」

「怠け者ですねぇあなた」

「この程度で滅びるような輩に依存しては、それ自体がリスクになりかねねーというだけです」

 返ってきた答えに対するフィアの暢気な感想に、ラフレシアの幼女は髪のような根っこを掻き上げながら反論する。浮かべる表情はかなりつまらなそうで、『期待』していたのは違いないようだ。

 同時に、期待に応えてくれないならもうどうでも良いらしい。

「タネの一つでも残っていたらもう一度やってみようかと思いましたが、この調子じゃ無理そーですね。最後に葉を落としたのは栄養生殖のための悪足掻きみたいでしたが、それも全滅しちまったみたいですし」

「ふふん花中さんの素敵な作戦とそれを実行したこの私の手によってあの枯れ草は全滅です。美味しい虫をたくさん食べられて私は大満足というものです」

「そりゃ結構な事で」

 フィアの嫌味な ― フィアとしてはそこまで考えていないだろうが ― 自慢話を受けてもラフレシアの幼女は関心が薄く、まるで他人事のように雑な返事をするだけ。

「ま、全く役に立たなかった訳ではありませんからね。勉強になりましたとも。ああすれば簡単に人間を操れるという、実に良い例でした」

 それどころかまるで大した事ではないと言わんばかりに、この言葉も付け加える。

 これには花中も、問わずにはいられなかった。

「……あなたも、人を操る、つもりなのですか?」

「その点についてはノーコメントで。ですがご安心くだせぇ。私はあの馬鹿と違い賢いのです。何事も程々が一番。宿主は健康な状態でじっくりと利用するのが合理的である事を、我々はよく知っているんですよ。『駄目』にする気はありません」

 ケタケタ、ケタケタ。

 ラフレシアの幼女は心底楽しそうに、花中(人間)を見つめながら笑う。

 花中はそのまましばし押し黙っていたが、ラフレシアの少女は一通り笑うとスッキリしたのか。急に先程までの、生気に欠けた気怠げな表情に戻った。

「あー、長話をしたら疲れてきました。私はこれにておさらばとしますよ」

「……そう、ですか……」

「ではさいなら……っと、その前に一つ教えてあげますかね。野望を邪魔された嫌がらせに」

 あっさりとした口調で別れを告げ、踵を返した……直後に、ラフレシアの幼女はくるりと花中の方に振り返る。

 予想外の仕草に花中が少し驚くと、ラフレシアの少女はにたりと笑う。

「今回は上手くいって何よりです。『次』もこうだと良いですねぇ」

 そしてただ一言、花中に淡々と告げる。

 ラフレシアの幼女はそれだけ伝えると、花中の反応を見ずに再び踵を返す。

 去ってしまえば、フィアとしても興味はないらしい。ふっと現れ、すっと去って行った幼女への感想すら呟かず、卵探しを再開する。花中をぎゅっと抱き締めれば、それだけでフィアはご機嫌な鼻歌を奏で始める。

 そんなフィアの腕の中で、花中はぶるりと震えた。

 ラフレシアが残した言葉。

 その言葉が花中の脳裏に、小さな『可能性』を過ぎらせたがために――――




という訳で、決め手は同じ時代に生きていたイモムシでした。
ちなみにラフレシアの方は本当何もしていません。本当に『マグナ・フロス』が良い感じに世界に広がったら良いなぐらいにしか考えていないです。
割と最後らへんの台詞を言わせるための要員。

次回は10/21(日)投稿予定です。


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目覚めるパンドーラ10

「お土産良し、パスポート良し、スマホ良し……うん、荷物は全部揃ってるね」

 キャリーバッグの中にある荷物を一通り確認すると、星縄は満足げに大きく頷いた。蓋を閉めてからしっかりと鍵を掛け、キャリーバッグの取っ手を握り締める。うっかり置いていかないよう、念入りに手から伝わる感触を確かめていた。

 着ている服が明るい柄の私服というのもあり、一見して旅行に行くかのように見える星縄であるが、それは誤りだ。星縄はこれから電車に乗り、空港まで行ったら今度は飛行機に乗り……とある南アフリカの国に降り立つ予定である。目的は、彼女の仕事である生物学研究のため。

 昨日、『マグナ・フロス』の脅威から解放されたばかりだというのに。

「大変ねぇ。今日の夜飛行機に乗って、お目当ての国には日本時刻で真夜中頃到着するんでしょ?」

「仕事って面倒臭いんだなぁ」

「何故そうまでして毎日お金を稼ぎたいのか私にはさっぱり分かりません」

 そんな星縄を駅まで見送りに来た、ミリオン、ミィ、フィアの三匹は、各々好き勝手な事を言い放つ。ミリオン以外は実に動物的な感想で、星縄は困ったような、同意したような、複雑な表情を浮かべた。

 そして花中だけが、寂しげに星縄を見つめる。

「もう、戻ってしまうのですか? 植物園での事も、ありましたし……」

「トラブルがあったから一日休みを伸ばします、とは言えないよ。休んでいる間、仕事仲間に苦労もさせてるからね」

「そう、ですか……」

 休みを伸ばすよう提案してみるが、星縄は大人らしい事情を語り、花中はそれ以上言えなくなる。

 仕事というのは大きな責任が付き纏うもの。星縄はその責任としっかり向き合おうとしているのだ。なら、子供である自分がとやかく言う事ではないだろう。

「うん、気遣ってくれてありがとう。お陰で明日からの仕事もバリバリこなせそうだよ」

 その上、落ち込む自分に優しい言葉まで掛けてくれる。

 大人らしい星縄への憧れが一層強くなるのを、花中は胸の奥でじんわりと感じた。

「さてと、あまり長居をすると飛行機に乗り遅れそうだ。そろそろ行くとするよ」

「あ、は、はいっ。えと、また何時でも、来てください。歓迎します」

「ありがとう。それじゃあ、またね」

 星縄は手を振りながら、キャリーバッグを引いて駅の奥へと歩き出す。花中は何時までもその背中に向けて手を振り続け、星縄の姿が見えなくなってから、ゆっくりと振っていた手を下ろした。

 そのまましばし、花中は立ち尽くす。

「帰りましたね」

「うん」

「我々もそろそろ帰りますか?」

「うん」

「……花中さんちょっと上の空でしょ」

「うん……………あれ?」

 フィアからの呼び掛けに雑な返事をし、ここでようやく花中は自分が呆けていた事に気付いた。不機嫌そうに頬を膨らませたフィアが、ずいっと顔を近付けてくる。見慣れた美少女の顔ながら、花中は一瞬ドキリと心臓が跳ねたのを感じた。

「先程から何を考え込んでいるのですか? 星縄さんの事ですか?」

「え? あ、えと、ちょっと、違う……かな……」

「? ちょっと違うとはなんですか?」

「えと、ほ、星縄さんに、相談というか、訊きたい事があって……」

「相談? 私には出来ない事なのですか?」

「あら、訊きたい事があるならさっさと訊いておけば良かったじゃない」

「そんなバタバタとしたお別れじゃなかったと思うんだけど?」

 フィアの質問に花中は答えたものの、フィアのみならず周りで耳を傾けていたミリオンやミィまで疑問を覚える。彼女達の覚えた疑問は至極尤もなもので、言えば訊かれるのは花中にも分かっていた。

 結論を言えば、この『相談』はフィア達にしても構わない。

 それでも星縄に相談したかったのは、彼女は何も知らない筈だと思ったから。否定しようが肯定しようが、全てが憶測であり絶対ではない。曖昧な答えは例えその場での停滞を引き起こすにしても、一時の安寧はもたらしてくれる。

 だけどフィア達に言ったなら、本当の事が分かってしまうかも知れない。

 そしてその本当の事が『最悪』だったなら……

「花中さん?」

 考え込んでしまった花中に、フィアが顔を覗き込みながら再び尋ねてくる。

 花中は短くない時間口を閉ざしていたが、やがてゆっくりと、唇を震わせながら開く。気を弛めれば閉じてしまいそうなその口で、花中は己が抱いた疑念を伝えた。

 ――――『マグナ・フロス』と、その天敵であるイモムシは凶悪な生態を有していた。

 古代種全てがこの二種のような、出鱈目な生態を有していた訳ではないだろう。しかしこれらの種のライバルとなるような、競争相手となりうる種はいたかも知れない。それがどんな方向性の進化か遂げたかなど予想も付かないが、現代兵器が通用しない、恐ろしい力である可能性も否定出来ない。もしも今後、なんらかの古生物が復活出来る状態だったとしても、触れるべきではないだろう。

 古代の生態系は、人類には厳し過ぎる。

 では、未来はどうだ? ……未来についても、全く安心出来ない。ミュータントという存在がいるのだから。

 確かに彼女達は、人間の脳波によって力を得ている。だから人間の存在は不可欠で、人間を滅ぼす訳にはいかない……なんてのは幻想だ。少なくとも一種、ヘビのミュータントであるアナシスは、自前の伝達脳波で力を獲得していた。タヌキ達のように、いくらかスペックを落とす事で自前の脳波で能力を持てるようになった種も存在する。

 ミュータント達が今後どのような進化を遂げるかは分からない。しかし彼女達には、例え人間がいなかったとしても人智を超えた力を行使出来る前例がある。今後ミュータントがそのような進化を遂げないと考えるのは、ただの願望だ。いや、何時か必ずそうした進化を遂げるという『確信』がある。それに大抵は人間が必要不可欠である現状でも、ラフレシアの幼女のように人間を奴隷のように扱うための方法を()()ものだっているのだ。

 ミュータントの力の前に、人間の文明はあまりに無力。一体で社会を崩壊させかねない怪物が、繁殖するようになったら……

 未来の生態系も、人間には厳し過ぎる。

 考えてみれば当たり前の事だ。人類は今の環境に適応し、その環境で形成された生態系に順応してきたのである。そこから外れた生態系が人類にとって優しい訳がない、いや、人類が適応している筈がないと言うべきか。人類が生きられるのは、今の生態系だけなのだ。『今』だけなのだ。

 だけど。

 だけどもしも、『今』の地球に人類と関わっていない生態系があったなら? その生態系は人間にとって優しいのか? いいや、考え方が逆転しているのではないか。その生態系が人間にとって厳しいのではなく、人間が、人間にとって厳しくない環境に広がっただけなのではないか。

 思えば植物園に居たラフレシアの少女は、『次』を臭わせていた。次の心当たりがあるように感じられたが、しかし『マグナ・フロス』はあの時滅びた。新たに発掘された、復活しそうな古代生物のニュースなんかもない。

 だとしたら彼女は、現代に生きる恐ろしい何かを知っているのではないか……

 そんな考えを抱いてから、ずっと、不安で堪らない。

「か、考え過ぎ、だよね……そんな、事、ある訳ない、よね……」

 おどおどしながら、花中はフィア達の顔を窺い見る。

 きっとこれは、ただの考え過ぎなのだ。

 今までフィア達が特別なのだと考え、人智を超える生物など早々いる訳がないと思い込んでいた。その思い込みが『マグナ・フロス』という()()()()()によって砕かれ、反動で悪い方へ悪い方へと発想が飛躍しているだけに違いない。

 そう思えば思うほど、自分が現実逃避をしているだけのような気がして、花中は身体の震えが止まらなくなる。頭から血の気が引いていくのが分かり、自分の中で勝手に沸き立つ不安が止められない。

 フィアが優しく抱き締めてくれなかったら、きっと、何時までも震え続けていただろう。

「あ、フィアちゃん……」

「大丈夫ですよ花中さん」

 戸惑いを覚える花中に、フィアは力強い言葉を掛けてくれる。たった一言であったが、それだけで花中の胸の内にある不安は吹き飛んでしまった。

 もごもごと顔を動かしミリオン達の方を見てみれば、彼女達も朗らかな笑みを浮かべている。きっと自分の妄想が馬鹿馬鹿しくて思わず笑っているのだ。花中の頬は自然と弛み、ふにゃりと笑みを浮かべた。

「少なくともこの近くに棲み着いている奴等はどれも私の敵ではありませんから心配ご無用ですよ」

 そしてフィアの頼もしい一言で花中は一層の安堵を覚えた。

 尤も、ほんの刹那の時間だけであるが。

 ぞわぞわとした悪寒が身体を駆け巡る。考えたくない『意味』が頭の中を猛然と走り抜け、嘲笑うように理性を突き回していく。

 無意識に逃げようとしてフィアから視線を逸らしても、現実は花中の心を追い詰める。

 ミリオンとミィは、じっと遠くを見ていた。フィアの言葉を訂正する事もなく、ずっと彼方に目を向け続ける。まるで、その先にあるものを見るよう、花中を促しているかのように。

 見るべきではない。見たら()()()()()()

 本能はハッキリと警告を発していた。しかし花中の理性は、その視線の向いている先を無視出来ない。強張るような硬さを覚える眼球を、ゆっくりと、ミリオン達が向いている方へと動かす。

 見えたのは住宅地。

 その住宅地の向こう側にあるのは、泥落山。

 登るのが危険かつ有益な資源がないため、開発はおろか登山客すら殆どいない『秘境の地』。

 そこに何が暮らしているか、一体誰が知っているのか。

「別に知ったところで何も変わらないんですし気にしなくて良いんじゃないですかねー」

 フィアの能天気な言葉が、花中の不安を一層掻き立てるのだった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日本の空の玄関口、成田空港。

 世界の様々な国へと飛び立つ飛行機が集まるこの場所には、今日も大勢の人々が行き交っていた。既に八ヶ月も前の出来事である異星生命体と巨大生物の争いの余波は今尚 ― むしろ当時よりも悪化した ― 世界的な政情不安を招いているが、海外に旅立つ日本人は数知れない。安全な国で暮らしているためその辺りの危機感が薄いのか、はたまた会社から行けと命じられれば逆らえない勤勉さ故なのか。

 なんにせよご苦労な事だと、空港に入ったばかりの星縄は思った。

 空の玄関口の玄関から入り、星縄は真っ直ぐ受付を目指す。行く先は南アフリカ某国。仕事である『希少生物』の研究を行うべく、自らの意思で飛行機へと乗るために。

 混み合った受付前に並ぶ事三十分。今ではすっかり慣れた手続きをさっくりとこなし、出発までの時間に余裕がある事を確かめると、星縄は受付前にある休憩用の長椅子に腰を下ろす。ホッと一息吐いて、さて暇でも潰そうかとキャリーバッグの中から一冊の本を取り出そうとした。

 丁度そんな時に、懐に入れていたスマホがぶるりと震える。

 マナーモードにしていたスマホに、着信があったらしい。本を読もうとした時だけに少なからず煩わしさを覚えながらスマホを取り出す星縄だったが、画面に表示された名前を見ると大きく目を見開く。先程までの嫌悪は何処へやら、喜々として電話に出た。

「玲奈さん!? 久しぶりです!」

 そして大きな声で、電話の向こうに居る相手に呼び掛けた。

 スマホの画面に映し出された名前は大桐玲奈。星縄からすれば恩師に当たる、花中の母であった。

【やっほー、飛鳥ちゃん。暇だから電話掛けちゃった。今は何してる感じかなー?】

「相変わらず希少生物を追って、森や砂漠を歩き回る毎日です。まぁ、今は日本に帰ってきていて、これから仕事に戻るところですけどね」

【あら、そーなの? 良いわねぇ、私もそろそろ家に帰ろうかしらー】

 電話から聞こえてくる、快活で、ハキハキしていて、まるで花中と似ていない声に星縄は笑みを浮かべる。心から楽しそうな笑い声が口から漏れた。

「あ、そうそう。ついでなんでお家に寄らせていただきました。花中ちゃん、随分明るい子になってましたよ」

【あ、やっぱり? こっちに送られてくる手紙も、なんかもう毎日が楽しくて仕方ないーって気持ちが溢れてるのよね。最近出来た友達のお陰かしら。その友達には会えた? どんな子だった?】

「そんなに気になるなら一度帰れば良いんですよ。もう二年も花中ちゃんほっといてるようですけど?」

【うぐ……い、今、仕事の進捗的にそれは無理……】

 しょんぼりと項垂れる姿が目に浮かぶぐらい、意気消沈した玲奈の声。星縄はくすくすと、笑い声を漏らす。

 すると今度はぷすっと、頬を膨らませるような声が電話から聞こえた。

【ちょっと、今笑ったでしょ!?】

「いえいえまさか。同情しただけです」

【ふん、そう言うならこっちだって考えがあるんだから】

「考え?」

 はて、何を言われるのだろうか。星縄は電話の向こうから告げられるであろう、何かしら『ショッキング』な発言に、緩やかに覚悟をしておいた。

 していたのに。

【あなた、私達に隠れて何かしてない?】

 玲奈のこの一言に、星縄は声を詰まらせた。

 しばしの沈黙を挟んでから、星縄はゆっくりと、平静を取り繕った口調で答える。

「……曖昧過ぎて反応に困るのですけど」

【うちのメンバーが調べてくれたわ。あなた、ちょくちょく日本に帰ってるみたいじゃない】

「最近仕事で行き来する事が多くて。用が済んだらすぐにトンボ返りです」

【みたいね】

「……………いや、もうちょっと追求しましょうよ。そこまでいったなら」

【うーん、言ってはみたけどネタ切れなのよねぇ。ま、どうせそんな事だとは思ったけど】

「じゃあなんで問い詰めたりなんかしたんですか」

【だから今暇なんだもん。研究対象が三日前から寝てて、ぼけーっと観察するぐらいしかやる事なし。起きるまで待機ちゅー】

 あっけらかんとした玲奈の答えに、星縄はがっくりと項垂れた。要するに、おちょくられただけらしい。

「次はもう少し明確な証拠を持ってくる事をお勧めします。何もありませんけど」

【うん、そうするわね……ん? 何――――対象が動き出した!? 分かったすぐ行くわ! あ、飛鳥ちゃんまた今度ね!】

 慌ただしく言い残すや、ぶつり、と電話が切れる。

 あまりにも身勝手、というより自由気儘な玲奈に、星縄は大きなため息を吐いた。

 されどその顔にあるのは嫌悪ではなく、微かな笑み。

「……さて、あの人は何処まで見透かした上で電話してきたのやら。少しは慎重になった方が良いのかな」

 やがてぽつりと独りごち、すぐに力強く立ち上がった。

 もう、顔に笑みは残っていない。

 あるのは鬼気迫る、大人の顔立ち。

「生憎、止めるという選択肢はない。人という種を守るためには、現状これに賭けるしかないのだから」

 空港内に、飛行機の搭乗が始まった旨を伝える放送が入る。星縄は迷いない足取りで、搭乗ゲート目指して歩み出した。

()()が人類を、滅びから救うんだ」

 ハッキリとした決意の言葉を、独りごちながら――――




『目覚めるパンドーラ』完結です。
本作の世界は本当に人類に優しくありません。というより誰にも優しくない世界です。
次章はその辺りを掘り下げます。

さて、思わせぶりな星縄の最後の台詞。
一人称を最後まで出さずここで使ったけど、気付いてもらえるかしら……(気付けば一年半前の伏線)

次回は一時間後投稿予定です。


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幕間十ノ十一

 一人の男が、夜の森を駆けていた。

 男は一風変わった恰好をしていた。頭にはフルフェイスのヘルメットを被っており、靴は汚れや衝撃に強い無骨なブーツを履いている。着ているのは鎧のようにゴツゴツとした迷彩服だったが、その迷彩服からは小さなモーター音が鳴り、機械が仕込まれている事を物語っていた。

 そして男の手には、身の丈近い長さはあろうかという巨大な銃器が握られている。

 男は服に仕込まれている機械の力を借りているのか、険しい崖のような坂道もすいすいと駆け上がる。実に逞しい姿だったが……しかしヘルメットの奥にある目は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。

「ひっ、ひっ、ひっ」

 男の口からは悲鳴の出し損ないのような声が漏れる。相変わらず足取りは軽やかなのに、段々と乱れ、体幹のバランスが崩れていく。

 ついに男は木の根に蹴躓き、転んでしまった。男はその弾みで手を開いてしまい、大事に掴んでいた銃が地面に落ちる。

 途端、衝撃で引き金が動いたのか。銃口が独りでに火を噴いた。

 男は銃声に慄き、頭を抱えて蹲る。ガタガタと震えるばかりで、身動きを取らなくなった。されどやがて我を取り戻すと、慌ただしく辺りを見渡し、立ち上がるやすぐに走り出す。自分が持っていた銃になど目もくれずに。

 男は走り続けた。何度転んでも、何度も起き上がり、がむしゃらに前へ進み続ける。鬱蒼とした森の中、自分が真っ直ぐ走れているのかを確かめる事すらせずに。

 やがて藪を抜けた男は、突如として目に入った光に慄いた。

 最初身を守るように腕で顔を覆っていた男だったが、しばらくして恐る恐るその腕を退ける。と、男の眼に映り込んだのは、百メートル前後先まで続く木々と、その奥にある近代的な住宅地だった。

 男は幸運だった。森の中をがむしゃらに、訳も分からず走っていながら、正確に森を抜けるルートを通っていたのだ。

「はっ……はっ……ああっ……!」

 言葉に出来ないほどの喜びに満ちた吐息を吐きながら、男は目前にある人の住処へと無意識に手を伸ばした。

 男の幸運はここまでだった。

 手と共に前へと伸ばした足に、何かが抱き着いてきたのである。

「は、え、うひ!?」

 男は悲鳴を上げるも、それ以外の事はしない。何故ならば抱き着かれた男は、一瞬にしてその身を森の奥まで引き戻され、

 ぐちゃりと、音を立てたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……次の任務はこれか」

 迷彩服を着た一人の女性が、手にしていたタブレットPCを眺めながらそう呟く。

 女性の隣には一人の青年が立ち、力強い声で肯定を示す返事をした。

「はっ! 緊急度A! 戦闘員は緊急度B以下の全ての任務を一時中断し、本作戦に参加せよとの事です!」

「妥当だな。予想戦闘力と個体数からして、むしろこのままでは遅いぐらいだ」

 女性はタブレットPCを青年に向けて投げ、青年は投げられたタブレットPCを受け取る。女性は青年に見向きもせず、肩に担いでいた銃器を手に持ち、簡単な整備を始めた。

 その最中に小さな息を吐く。

「任務の件、了解した。本部には次の任務が終わったら今度こそ休暇を寄越せと伝えておけ」

「了解しました! とびきりのボーナスも追加しておきます!」

 彼女の言葉を受け、青年は明るく承って駆け足で一足先に移動する。

 彼女は手にした銃の整備を続け、一通り終えるとその銃を再び背中に掛けた。

「……何故、タヌキ共は動かん。これほど人里近くでありながら、どうして……」

 そしてぽそりと、疑問を呟く。

 しかしその疑問に考え込む事はなく、彼女は力強く歩いてこの場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体長三十メートル近い、巨大なワニの死骸を残して――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十一章 未来予想図

 

 

 

 

 

 




不穏な世界、怪しげな組織、そして危険生物。
次章ではこれらが動き、本作の世界観をどっぷり披露する事になります。
つまり何時も通りだ!(オイ)

次回は12/2(日)投稿予定です。


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余談四 緑眼の怪物

 フィアは美人である。

 勿論彼女の正体はフナであり、人間にしか見えないその身体は水で出来た作り物なのだが、フィアの正体を知らなければ外見こそが『フィア』のイメージだ。黄金に煌めく髪、女神が如く豊満なバスト、繊細でほっそりとした手足、美術品のように完璧なラインを描くくびれ、崩れる事のない愛らしい顔立ち……女としての魅力が全て詰め込まれている。

 反面性格や価値観が人間とはあまりに異なるが、他人に自分の考えを強いるタイプでもない。理解は出来ないがそれが好きなら良いんじゃない? というスタイルなのだ。なのでちょっと変な子とは思われるが、それ以上には中々ならない。そもそも根底の価値観なんてものは、余程長く付き合うか非常時でもない限り分からないものである。傍から見たフィアという『少女』は「ちょっと変わってるけどすっごい美人」でしかない。

 なので異性の目には大変魅力的に見えるようで。

「むむむむむむむむむ……」

 今から下校しようとしていた花中は、眉間に眉を顰めながら唸ってしまった。

 夏休みが終わって数日が経った九月初旬。外の気温はまだまだ夏模様で、熱中症に気を付けねばならない暑さがある。直射日光の届かない高校の玄関内でも、かなり蒸し暑い空気が辺りを漂っていた。長居をするには適さない場所だが、花中は下駄箱の前から動こうとしない。

 何故なら、下駄箱の中に一通の『手紙』が入っていたのだから。

「花中さん何故下駄箱に向かって唸っているのですか?」

「……また、フィアちゃんにラブレターが来てる」

「私に?」

 はい、と言いながら花中は下駄箱の中に置かれた手紙をフィアへと無造作に渡す。白を基調としつつ、花柄が描かれたお洒落な封筒だ。表面にはこじんまりとしていたが『フィアさんへ』の文字がある。どう考えてもフィア宛の手紙だった。

 フィアに宛てた手紙が花中の下駄箱の中にある理由はとてもシンプル。フィアはこの学校の生徒ではないので、彼女の下駄箱は存在しないからだ。そのため何時の間にやら、何時も一緒に居る花中の下駄箱が窓口となっている。

 花中から手紙を受け取ったフィアは封筒を開け、中の便箋を取り出して読み始める。最初無表情だった顔は二秒で顰め面になり、五秒で飽きたのか読むのを止めて肩を竦めた。

「確かにラブレターですねぇ。好きだのなんだの書かれてましたよ」

「ほんと、フィアちゃんモテるよね」

「……前々から訊きたかったのですけど花中さん私にラブレターが来ると不機嫌になりますよね。なんでですか?」

「べ、別に不機嫌じゃないし」

 ぷいっと頬を膨らませながら顔を逸らし、花中は()()()()()()()()()。言ってる事とやってる事が真逆である。フィアはますます困惑した様子だ。

「それで? 今回は会ってあげるの?」

 そんなやり取りをしていると、不意にちょっと離れた位置から会話に混ざる声がある。

 ミリオンだった。ミリオンがフィアに面会の意志を尋ねるのには理由がある。基本色恋なんて興味もないフィアは、ラブレターどころか面と向かっての呼び出しにも応じないからだ。「面倒臭い」からという理由だけで。色恋大好きなミリオンとしては、とても残念な答えであろう。

 尤もフィアは尋ねてきた相手の気持ちなど理解せず、自分の本心に従うのみ。だから答えは何時だって即答……なのだが、今日のフィアは口を閉ざしてほんの数秒考え込む。

「そうですね。偶には会ってみますか」

 そして普段と異なる答えを返した。

「あら、珍し「ど、どどどどどういう事フィアちゃん!?」

 この答えにミリオンは驚き、それ以上に花中が驚愕する。無意識にフィアに掴み掛かり、動揺しきった声で詰め寄った。さしものフィアも花中の動転ぶりに驚いたのか、少ししどろもどろになりながら答える。

「どうもこうも偶には会ってみようと思っただけなのですが……思えば何時も面倒臭がって会わずにいましたけど恋というのがどんなものかちょっと興味を持ちまして。今回は中々珍しい相手のようですし」

「だ、だふごっ」

「うんうん、良い事よ。やっぱり何事も経験よねー」

 ダメ、と言おうとした花中の口を素早く塞ぎ、ミリオンはフィアの意見を肯定する。花中は必死に藻掻こうとしたが、筋繊維にミリオンの個体が入り込んで固定しているのか、ぴくりとも動けない。拘束するにしても徹底的過ぎる。

 なんとかこの拘束を解きたい花中だったが、その気になれば人類を容易く滅ぼせるミリオン直々の束縛だ。たった一人の小娘に破れる訳がない。

「それで? 何処で待ち合わせ?」

「えーっと放課後に体育館裏でとありますね。四時半と書いてますからあと三十分はありますか」

「あら、ベタな待ち合わせ場所。そこがまた初々しくて可愛いわねぇ。ちなみに、私があの人に告白された場所は何処だと思う?」

「知る訳ないでしょう。あと興味もないので言わなくて結構です」

 無力な花中には、フィアとミリオンの会話を止める事は叶わなくて――――

 ……………

 ………

 …

「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ……!」

「で? なんで花中はこんな不機嫌な訳?」

 木陰の中で歯ぎしりをする花中を、ミィが指差しながら訪ねた。花中の隣に立つミリオンは、片手で口を押さえながら笑いを堪えるばかり。

 下駄箱のラブレター騒動から少し時間は経ち、花中は今、体育館裏にある木々の影に身を隠している。中々正門から出てこない花中達を探してやってきたミィも、同じく木の陰に潜んでいた。蝉達の声が喧しいが、話をするにも、話を聞くにも支障はないだろう。飛び回る蚊なんてどうでも良い。

 花中だけが目をギラギラと光らせながら、一匹だけ木陰の外で棒立ちしているフィアを見ていた。

 フィアは今、ラブレターの送り手が来るのを待っている。

 花中はそれを監視していた。フィアは色恋に興味がない。ないからこそ、恋愛的な意味での良い人と悪い人の区別が付かない筈だ。もしもやってきたのがちゃらんぽらんな男で、フィアを騙そうというのなら……ミリオンとミィに頼んでボコボコにしてもらわねばならない。いや、そうでなくても一度はボコボコにしてもらうべきか。そのぐらいの覚悟がないのにフィアと付き合うなんて認めてなるものか

「さかなちゃんが盗られないか心配なのよ。この子、割と嫉妬深いでしょ?」

 などと娘の婚約者を前にした父親が如く理不尽な考えを抱く花中だったが、ミリオンがズバッと指摘した一言で顔を赤くする。ミィは納得したように「あー」と声を漏らしたので、ますます恥ずかしくなった。

 そうだ。これは本質的には嫉妬である。あーだこーだといちゃもんを付けて、なんとかフィアを独り占めしたいという独占欲の現れに過ぎない。

 フィアの独占欲に苦笑いを浮かべる事もあるのに、いざ自分が当事者になればこの体たらく。なんとも身勝手な自分の気持ちにほとほと呆れ返る……呆れ返るが、それを凌駕する嫉妬が胸に渦巻く。

 身勝手結構、醜くて結構。嫌なものは嫌なのだから仕方ない。そして春先の事件をきっかけに、自分の気持ちにもっと正直に生きる事にしたのだ。

 なのでやってきた輩の問題点を見付け次第、花中はミリオン達に『制裁』を依頼する事に躊躇はなかった。今年の春よりも前なら思い留まったかも知れないが、経験は人を良くも悪くも変えるものである。

「……なんで花中さん木の陰に隠れているのでしょう? 隣に居れば良いのに」

 なおフィアには隠れている事なんてとうにバレているが、他人に見られていようがいないが態度を変えないのがフィアの良いところ。これからやってくる『不埒者』にバレなければ問題ない。

 かくしてフィアから少し離れた位置で花中とミリオンとミィが待っていると、しばらくして建物の陰からひょっこりと人影がひとつ現れた。人影はフィアの方を見ると、慌てた様子で駆けてくる。

 息を切らしながらやってきたのは、少し小柄な女子生徒だった。襟元にあるリボンの色合いからして、一年生のようである。小柄といっても花中より背は高そうであり、胸に至っては圧倒的大差を付けていたが。長く伸びた髪は目許に掛かっていて、なんとなく人見知りが激しい、大人しい子のように見えた。フィア達と出会う前の自身との相似点を見付けてしまい、花中としては少しむず痒くなる。

 ……ところで、何故やってきたのが女子生徒なのだろうか?

 ついでに、何故女子生徒はフィアの顔を見ながらほんのり頬を赤らめているのだろうか?

「ご、ごめんなさい。待たせてしまって……」

「何故謝るのです? 私が勝手に待ち合わせ時間よりも前に待っていただけなのですが」

「え、あ、えと、それは、そうですけど……社交辞令、みたいな?」

「はぁ。そうですか」

 フィアのマイペースな反応に、女子生徒はしどろもどろ。しかし木陰に隠れたまま思考停止している花中に比べれば、遙かに冷静と言えよう。

 まずは落ち着こう。花中は心の中でゆっくりと独りごち、改めて現状認識を行う。

 フィアはラブレターをもらい、此処に呼び出された。花中はラブレターを読んでいないが、フィア自身が言っていたので間違いない。待ち合わせ場所は此処体育館裏。時間は、あと十分ほど早いが午後四時半。

 そしてやってきたのは女の子。

 ……Why?

「え、えと、あの……あの、手紙にも書かせてもらいましたが……その、好きです! 愛しています!」

 困惑する花中に、女子生徒は更なる追い討ちを掛ける。なんと、フィアの前で告白したのだ。ミリオンがわざとらしく「あら~」なんて言い、ミィは目を逸らしつつも興味があるのか身体を前のめりにする。

 そして花中は頭の中が真っ白になった。

 つまり、これは、百合の花がお咲きになってらっしゃる?

 脳裏を過ぎる謎敬語。無論誰も答えてくれない。答えずとも答えは明白だった。思い返せばフィアは「珍しい相手に呼び出された」と言っている。確かに珍しい相手だ。珍しいの一言で済ませられる相手ではないが。

「そうですか」

 ちなみにフィアはなんの動揺もなく、淡々と彼女の告白を受け入れていた。無関心にも近い言葉に、されど女子生徒は頬を赤らめ、嬉しそうに笑みを浮かべる。

「あ、あの、初めて会った……虐められてた、私を、助けてくれた……あの時から、慕っていました」

「はぁ。そんな事ありましたっけ?」

「……あなたにとっては、忘れてしまうぐらいつまらない事でも、わたしにとっては、忘れられない思い出です」

 恋する乙女が語るは自分達の馴れ初め。フィアはすっかり忘れていたが、女子生徒はそれをショックに思う素振りもない。

 己の想いを柱にした、とても強い決心が感じられた。

 いや、強い想いがないなんてあり得ない。フィアの性別は一応女であり、普段からそのように振る舞っている。ならばあの女子生徒は、本当に女性であるフィアに恋しているのだろう。異性への告白とは訳が違う。世間体、相手の認識、自分の中の常識……その全てを打ち破るほどの強い『愛』がなければ、告白なんて出来やしない。

 彼女は本気だ。これまでフィアにラブレターを送ってきた全ての男子達よりも、ずっと。

「お、おかしいのは、分かっています。でも、せめて、この気持ちだけは、知ってほしくて……愛しています! だから、私と、付き合って、ください……!」

 女子生徒は己の気持ちを吐き出しながら、深々と頭を下げ、己の右手を前に差し出す。OKならばその手を掴んでくれという意味なのは明らかだ。

 フィアはその手をじっと見つめ、じっくりと考える。尤も、フィアにとってのじっくりとはほんの数秒程度だ。数秒後のフィアは――――伸ばされた彼女の手を掴まなかった。

「良いですよ」

 掴まなかったが、答えはOKだった。

 あまりにも呆気ない返事に、女子生徒は顔を上げるまでに数秒掛かった。木陰で見ていた花中は、未だ固まったままだった。

「い、良いの、ですか?」

「? なってくれと頼んだのはそちらじゃないですか。もしかして冗談だったのですか?」

「い、いえ! 冗談じゃありません! 本気です!」

「じゃあお付き合いしましょう」

「ふ、ふひゃわわわわわ……!」

 女子生徒は浮ついた声を漏らし、その場でジタバタと足踏み。よもや成功するとは思っていなかったのだろう。喜びで顔がふにゃふにゃに蕩けていた。

 ――――その一部始終を見ていた花中の顔は、どんどん強張っていく。

 フィアちゃんとあの人が、恋人になってしまった。

 本来なら、それは祝福すべき事だろう。だけど花中には祝えない。恋人になれば、二人きりの時間が作られる。時間は有限だ。何かに使えば、何処かを削るしかない。そしてフィアは一日の大半を、花中との時間に費やしている。だから削れる時間なんてそこしかない。

 勿論、友達じゃなくなる訳ではない。遊びに行く事も出来るだろう。だけどそれは、何時も、という訳にはいかなくなる。あの女子生徒の存在が何時もちらつき、自分と一緒の時間が減っていく。

 嫌だ。

 離れるなんて嫌だ。寂しい、怖い、悲しい。胸の中からどろどろとした感情が溢れて止まらない。

 なんでフィアちゃんは、あの人と――――

「あ、あの、じゃあ、早速ですけど、今日、一緒に帰りませんか!」

 どす黒い気持ちに満たされる花中を余所に、女子生徒は太陽のように眩く微笑みながらフィアに提案する。学校から家までの時間は自分のものなのに。自分だけのものなのに。それがあの人に盗られてしまう。あんな、今まで忘れ去られていたような人に。

 恐怖は憎悪に、憎悪は呪いに。心の黒さは色を増し、底はどんどん見えなくなる。

 そして、

「えっ。今日は無理ですよ。花中さんと一緒に帰る約束をしてますから」

 あっさりとフィアは『恋人』からの誘いを断った。

 ……あまりにもあっさり断るものだから、女子生徒は笑顔のまま固まっていた。絶望のどん底にあった花中の心も、ぽんっと浮上した。

 しばらくして我に返ったのか、女子生徒は笑みを引き攣らせながら前のめりになっていた身体を戻す。

「あ、そ、そうですか。お友達ともう約束していたのなら、仕方ないです。えっと、じゃあ、今週の土曜日とかは」

「休みの日は花中さんと一日くっついてる予定なので無理です」

「えっ、えと、なら、明日から、一緒に帰るとか」

「帰りは花中さんと一緒ですのであなたと帰るつもりはありませんよ」

「えっ」

 じゃあ何時デートするの?

 そう言いたげな沈黙は、しかしフィアには届かない。

「話は終わりましたか? でしたら私そろそろ花中さんのところに戻りたいのですが」

「あ、は、はい。えと、ま、また、明日?」

「はいまた明日」

 フィアが手を振るので女子生徒も振り替えし、振ってしまった手前帰らない訳にもいかなくなる。

 背を向けて、振り返り、ちょっと歩いて、振り返り。けれどもフィアは追い駆けず、女子生徒との距離はどんどん遠くなり……ついには見えなくなる。

「花中さーんようやく終わりましたよーそろそろ帰りましょうかー」

 相手が居なくなるや、フィアはすぐさま花中の下に駆け寄ってきた。

 正直、すごく嬉しい。今すぐフィアに抱き付きたいぐらい、喜びの感情が胸の中で弾けている。

 だけど、それ以上に分からない。

「あの、フィアちゃん……」

「ん? なんですか?」

「なんで、あの人と、一緒に帰らなかったの?」

「そうよそうよ、恋人からのお誘いを断るなんて」

 花中が尋ねると、ミリオンが抗議染みた言い方でフィアを問い詰める。ミィは何も言わなかったが、その視線は若干批難混じりだ。

 友からの追求に、フィアは目をぱちくり。

「何故恋人になったらあの人間と行動を共にしないといけないのですか?」

 心底不思議そうに、そう尋ね返してきた。

 誰もが一瞬で固まる。しかしいくら待っても、その言葉の続きはない。撤回もしてこない。蝉の鳴き声が、辺りに延々と響き続けるのみ。

 やがてミリオンは顔に手を当て天を仰ぎ、ミィは呆れたように目を細める。

 そして花中は、吹き出すように笑い出した。

「あは! あはははは! なに、それぇ! あはははははは!」

「? 随分と楽しそうですね花中さん。何か良い事でもありましたか?」

「そりゃもう、とびきりの良い事があったわよねぇ?」

「お子ちゃまだなぁ、どっちも」

 呆れ返る二匹。フィアがキョトンとする前で、花中は延々と笑い続ける。

 ああ、そうだ。フィアとはこういう子だ。

 つまりフィアは、恋人よりも友達の方が大事なのだ。色恋が理解出来ない故に、恋人という関係に特別を見出せない。同性愛も異性愛も関係ない。なってほしいと頼まれて、なったところで困る事も思い付かなかったから容認しただけ。

 対して花中との友達関係は、フィアの方からなろうと言ってきた事。

 他人から請われたものより、自分からお願いしたものの方が大切なのは当たり前の事ではないか。

「あはははっ! あは、はははっ……あー、たくさん笑ったら、なんか、お腹減っちゃった。ねぇ、フィアちゃん。一緒に、喫茶店に行かない?」

「勿論花中さんが行きたいところでしたら何処へでも」

「あら、良いわね」

「あたしも偶には一緒に行こうかなぁ」

「ふん。あなた達はお呼びじゃありませんよ」

 ミリオンとミィが参加の意思を示すと、フィアはあからさまに嫌悪を露わにしながら、虫でも払うようにしっしっと手を振る。極めて何時も通りの反応で、ミリオンもミィも気にも留めない。

「えと、ごめんなさい。今日は、フィアちゃんと、二人きりが、良いな」

 何時もと違うのは、花中が窘めるどころかフィアに同意した事ぐらい。

 されどその同意は史上初めてのものであり、ミリオンとミィどころかフィアすら驚きで顔を染める。

 その顔が、嬉しさいっぱいの笑みへと変わるのにさしたる時間は要らなかった。

「――――ふっははははは! 残念でしたねぇ! 今日は私と二人きりが良いとの事ですよ!」

「繰り返さなくても聞こえてるわよ。ま、そんだけ不安だったって事ね」

「ちゃんと安心させてあげなよー」

「さっきからなんの話かさっぱり分かりませんがこの私に任せなさい! さぁ花中さんすぐにでも行きましょう!」

「うんっ♪」

 フィアと手を繋ぎ、見送ってくれる友達二匹に手を振りながら花中は早歩きで進み出す。

 その最中にフィアの顔を見上げ、フィアも花中の顔を見てくる。花中はふにゃっと頬を綻ばせた。

「ねぇ、フィアちゃん。これからも、ずーっと、友達でいようね」

「何を当たり前の事を。私は最初からそのつもりですよ」

 互いの想いを確かめ合い、花中は満足したように頷く。

 繋いだ手をより握り締め、花中はフィアと共に駅前へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なおこの二ヶ月後、結局一度もデートが出来なかった女子生徒がナイフを持って花中に襲い掛かる事件が起きるのだが、それは別の話である。




はい、本編前のおまけ話です。
花中の嫉妬深さが結構なレベルですが、彼女は元々嫉妬深いです。割と本編でも独占欲剥き出し。
ついでに言うとなんやかんや彼女も色恋をよく分かっていないので、実はフィアと同じく友情 > 恋愛という価値観だったりします。

本編は今日12:00頃投稿予定です。


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第十一章 未来予想図
未来予想図1


「ねぇ、一緒に狩りに行かない?」

 事の始まりは、ミィが暢気に切り出したそんな一言だった。

 雲一つない青空から降り注ぐ八月末の朝日の中、自宅の庭で洗濯物を掛けていた花中は、傍に立つフィアとまるで息を合わせたかのように同じタイミングで首を傾げる。履いているスカートが家事の中で乱れていたので両手で整えながら、花中はミィの方へと振り返った。

 ミィが言った、狩り、という言葉に違和感を覚えた訳ではない。ミィは猫であり、猫とは肉食獣である。つまり生きている動物を狩り、それらを食べて生きているものだ。同じく『肉食獣』であるフィアも毎日虫取り(狩り)を行っている。ミィが狩りを行うのは、なんらおかしな話ではない。

 疑問なのは、その狩りに何故自分達を誘うのか、だ。何しろこんなお誘い、今日初めてされたのだから。

「……随分と急な誘いですね。何か企んでいたりしますか?」

「企むって人聞き悪いなぁ、あたしゃ猫だけど。自分だけってのも暇だから、たまには話し相手がほしいなぁって思っただけだよ。花中は兎も角、アンタはどうせ暇でしょ?」

 同じ疑問をフィアも抱いたらしく明らかに訝しみながら尋ねたが、ミィはへらへらと笑って答える。

 なんとも他愛ない答えであるが、花中としてはむしろ『説得力』を感じられた。本来野生動物にとって狩りとは、時として命を失う事もある大仕事。軽い気持ちで挑むものではない……が、ミィは近代兵器すら通じない肉体の持ち主だ。イノシシに突撃されてもなんのその、日本最大の肉食獣であるヒグマが渾身の一撃をお見舞いしたところで虫刺されほどにも感じまい。

 ミィにとって狩りというのは、遊びみたいなものなのだろう。その遊びに誰かを誘いたいという気持ちは、『雑食動物』である花中にも分かるものだった。

「……花中さんが行くのでしたら私は構いませんけど」

 フィアにとっても狩りが遊びなのは同じ事。基本花中と一緒に居る事以外の関心がないフィアは、花中の意見を求めてくる。

 そして今日の花中は、特段これといった用事もない。強いて挙げるなら現在進行形でやっている洗濯物ぐらいだ。その洗濯物は、今さっき掛けたもので最後。

 用事がなければ、花中は友達からの誘いを断るようなタイプではなかった。

「えと、今日は用事もないですし、行けますけど……わたしも一緒で、大丈夫、ですか?」

「勿論! 賑やかな方が楽しいし!」

 花中が参加の意思を示すと、ミィは嬉しそうに小さくガッツポーズを取りながら快諾。どうやら余程一匹だけで行くのは嫌だったらしい。なんとも正直で可愛らしい反応に、花中はくすりと笑みを零す。

「ところで何処に行くつもりなのですか?」

「泥落山だよ。久しぶりに遊べそうだなぁって思ったからさ」

 ただしその笑みは、フィアが投げ掛けた質問にミィが答えた途端、強張ってしまったが。

 泥落山。

 それは花中が暮らすこの町にとって、身近ながらもあまり親しみの感じられない山。バードウォッチングの名所となるぐらい自然豊かだが、じめじめしていて、足下が不安定な、とても危険な場所である。

 ……別段、これだけなら花中とて笑みを強張らせたりしない。むしろフィアとの出会いや、ミィと本当の意味で打ち解けた時の事など、楽しい思い出でますます笑顔になれる場所だった。

 ほんの一週間ほど前に、フィア達からあの山に『何か』が潜んでいると聞くまでは。

「あ、あの……泥落山って、事は……その、何か、居るんですよ、ね……?」

「ん? そりゃあ何は居るでしょ。クマとかシカとかイノシシとか」

「そ、そうではなく、えと、しょ、植物園に行った、次の日に話した……」

「……………あー、そーいやそんな話をしたね。うん、なんか居るよ。何が居るのかはさっぱり分かんないけど、ずーっと前からね」

 花中が尋ねてみたところ、ミィはあっけらかんと答える。どうやら今の今まで、気にも留めていなかったらしい。フィアに至っては言われても思い出せないようで、首を傾げる始末。

 事実、フィア達からすればどうでも良い相手なのだろう。しかし花中達人間にとっては、そうとは限らない。

 先週起きた出来事――――古代生物『マグナ・フロス』の復活は、人類にとっては文明の存続が危ぶまれるほどの危機であった。航空機を撃ち落とすどころか、恐らくは弾道ミサイルの迎撃すら可能であろう桁違いの戦闘能力。地下茎を延ばし、際限なく増えていく繁殖力。哺乳類ならばなんでも操ってしまう特殊能力……数万年もの間積み重ねてきた人類の英知を、嘲笑うかのような力を有した生命体だ。

 フィア達ミュータントほどではないが、『ただの生物』でもあのような力を持つ事が出来ると明らかとなった。そしてそのような生物が、身近な存在である事も。

 泥落山に暮らす『何か』の力は誰にも分からない。だけどもしも、それが人間の手に負えない恐ろしい力を持っていたら? それがフィア達の存在感で目覚めたら……

「どうしましたか花中さん?」

 フィアが呼び掛けてくれた事で、花中はようやく我を取り戻す。何時の間にか掌には汗を掻いていて、身体は小さく震えていた。不安に心が支配され、無意識に怯えていたらしい。

 花中は深呼吸をして身体の中の嫌なものを吐息と共に外へと出し、代わりの空気を吸い込む。外の大気は夏のじめじめとした熱と湿り気を帯びていて、お世辞にも爽やかとは呼べないものだが、花中が今まで抱いていた気持ちに比べれば遙かにマシだ。お陰で心は幾らか落ち着きを取り戻す。

 一度、冷静に考えよう。

 泥落山に『何か』が潜んでいるのは間違いない。フィア達の鋭敏な本能が気配を捉えたのだから、これを並の人間よりも鈍感な花中が理由もなく疑うのは無礼というものである。また、その『何か』は最近になって急に現れた訳ではないとの事。

 そしてミィはよく泥落山で狩りをしているらしい。つまり頻繁に訪れている。加えて花中達は泥落山で、ダムを壊したり、水素爆発を起こしたり、結構な騒ぎを起こしてきた。もしもその『何か』がフィア達の存在感だけで出てくるような生物なら、とっくに現れている筈だ。

 しかし今のところ、そんな生物は町を襲撃するどころか、山で見掛けたという噂さえも聞こえてこない。つまりフィア達の()()()()は彼等を活性化させるものではなかったと言えよう。或いは個体数が極端に少ないとか、地下深くに潜んでいて人と関わりのない場所に棲んでいるとも考えられる。

 ならば、何故恐れる必要があるのか?

 スズメバチやヘビと同じだ。泥落山には彼等のような、人間にとって危険な生物が数多く暮らしている。しかし危険だからといって、無闇に恐れる必要はない。この時期のスズメバチは豊富な餌を食べて比較的穏やかだし、ヘビは足下をしっかりと確認しながら進み、見付けたら触らないようにすれば噛まれる事はまずないのだから。何より彼等は虫やネズミを補食し、生態系のバランスを保っている存在なのである。彼等を退治すれば、喰われていた側の数が増え、農作物の壊滅や疫病といった形で人間に実害をもたらすだろう。

 泥落山に暮らす『何か』も、こちらからケンカを売らなければ大人しい生物なのかも知れない。それに昔から居たのなら、生態系の一部となっている筈だ。一時の感情で退治しても、後々人間の首を絞めるだけである。

 無闇に嘗めず、過度に恐れず。ミュータントとの付き合い方と同じだ。

「……うん、大丈夫。ちょっと、考え過ぎていただけだから」

「そうですか。花中さんは賢いですけどなんでも考え過ぎて時折お馬鹿さんになりますよね」

 かなり間を開けて、花中はフィアの問いに答える。フィアは大変正直な感想を漏らし、全く以てその通りだと思って花中はふにゃっとした笑みを浮かべた。

「随分と楽しそうにしてるわねぇ」

 そんな和気藹々とした空気に誘われたかのように、虚空から声と黒い靄が現れる。

 靄は形を作り、ミリオンとなって地上に舞い降りた。今となっては誰も驚かない登場方法。この中では一番の小心者である花中でも、なんの動揺も感じないぐらい慣れた光景だ。勿論普通に話し掛けるぐらい余裕である。

「あ、ミリオンさん。えっと、これからミィさんと一緒に、狩りに行こうと、思うのですけど、一緒に来ますか?」

「んー、ぶっちゃけ興味ないから留守番で良いわ。狩りなんて野蛮な遊び、淑女のする事じゃありませんもの」

「悪かったねぇ、野蛮で」

 わざとらしく淑女ぶった言い回しで遠慮するミリオンに、ミィは顔を顰めて不満を露わにする。とはいえ本気の嫌味や侮辱でなく、所謂軽口の叩き合いだ。花中が口を挟む事ではない。

「成程あなたは来ないのですか。ならさっさと行きましょう花中さんコイツの気が変わらないうちに」

 ミリオンに来る気がないと分かると、フィアは花中に抱き着きながら出発を催促してきた。理由は、正しく今口にしている通りであろう。

 友達大好きな花中としては、ミリオンと一緒に行けないのは寂しいが……行きたくない『人』を無理に誘うものではない。それに、今生の別れでもないのだ。

「……うん。えと、じゃあ、ミリオンさん。行ってきますね」

「ええ、楽しんでらっしゃい。お土産には期待しておくわ。そうね、笑い話の一つでもあると良いわね」

 つまりは楽しんできなさいという事か――――ミリオンの意図をそう汲んだ花中は「任せてください」と答える。

 ……さて。なんやかんやもう出発するような流れになっており、花中も気持ち的にそちらに傾いていたが、ふと理性が呼び止める。

 そして理性は囁くのだ。自分の格好を見てみろと。

 山登りをする予定なんてなかった今の花中は、短めのスカートと半袖Tシャツという大自然を嘗めきった身形だった。

「……あ、今の格好じゃ、山登りには向いてないや……えと、ちょっと、着替えてきます」

「うぇぇ、今更ぁ?」

 すっかり行く気満々になっていたのであろう。ミィが抗議の声を上げたので、花中はぺこぺこと頭を下げながらベランダのガラス戸を開け、家の中へと戻る。

 残されたミィはぷりぷりと頬を膨らませ、分かりやすく不機嫌さを露わにしていた。そんなミィの近くに寄ってきたフィアは、やれやれとばかりに肩を竦める。

「時に野良猫。まさかと思いますけど気付いてないなんて事はありませんよね?」

 そして些か怪訝そうに、この言葉を投げ掛けた。

 問われたミィは、一瞬キョトンとしたように目を瞬かせた。が、すぐに自慢げな笑みを浮かべ、不遜に胸を張る。

「馬鹿言わないでよ、気付いてない訳ないじゃん。というか、()()()()()()()()()()()()

 続けて発した答えを受けて、フィアはつまらなそうに鼻息一つ。ミリオンは既に興味もないのか、身体を霧散させて姿を消した。

 つまるところこの狩りは、彼女達にとっては『お遊び』に過ぎない。だから誰もが、気にも留めていなかった。自分達の感じたものが、人間にとってどのような意味があるのかを。

 ましてやその遊び場に居る『ちっぽけなもの』など、気付いてすらいなかった――――




始まりました、新章『未来予想図』。
本章の最後に思い描ける未来がどんなものか。
お楽しみに。

次回は12/9(日)投稿予定です。


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未来予想図2

 鬱蒼と生い茂る木々。

 じっとりと湿った高温の空気。

 濡れた落ち葉に埋め尽くされた地面。

 そして先が見えないほどの暗闇。

 空にある爽やかな青空は偽物か幻覚で、本当はどんよりとした雲に覆われた夜空が広がっているのではないか? この先は地獄につながっているのでは? そんな錯覚を覚えてしまうほどに、その森はおぞましい雰囲気を纏っていた。常人ならば一目で背筋を凍らせ、足を震わせてしまうだろう。余程の理由 ― 例えば生まれて初めての友達になってくれそうな人が待っているとか ― がなければ、踏み入る事など出来やしまい。

 此処こそが泥落山。地元民すらあまり近付かない、不気味な森に覆われた山である。ましてやこの山に、恐るべき生命体が潜んでいるとなれば……

 山を前にした花中はぶるりとその身を震わせ、感じた恐怖を露わにした。

「此処は何時来ても根暗な場所ですねー」

 尤もフィアはその不気味さを前にしても、恐れるどころか暢気な一言で片付けたが。

 森と住宅地の境目にて一旦立ち止まった花中達は、此処で準備体操をしていた。準備体操といってもフィアはだらだらと手足を揺れ動かし、ミィはゆっくりと背伸びをしているだけ。真面目に身体を解し、そして今でも緊張しているのは、ただの人間である花中のみである。

「花中、大丈夫? なんかガタガタ震えてるけど」

「へ? あ、いえ、えと……だ、大丈夫です。その、少し緊張しているだけ、ですので」

「大丈夫ですよ花中さん。この私が一緒ですからね。手を繋ぎましょうか?」

「う、うん。ありがとう」

 フィアからの気遣いを素直に受け入れ、花中はフィアの手を握り締める。フィアも花中の手を握り返しながら優しい笑みを浮かべ、それを見た花中は少しだけ気持ちが落ち着きを取り戻す。ぽかぽかとした手の温もりも、気持ちを前向きなものにしてくれた。

「大丈夫? もう行ける?」

 明るさを取り戻した花中に、ミィが尋ねてくる。質問するような言い方だが、煌めく瞳には期待の感情がこもっている。

 彼女は早く森の中に入りたいのだ。友達と一緒にハンティングという遊びを始めるために。

 その期待を裏切るつもりはない。

「……はい。大丈夫です。すみません、もたもたしちゃって……」

「気にしてないよ。んじゃ、行こうか」

「はいっ!」

「よぉーし、しゅっぱーつ!」

 花中が返事をすれば、ミィは元気の良い掛け声と共に森へと踏み入る。ミィの後を追うように、フィアと花中も森の中へ立ち入った。

 密になって生える木々の葉が太陽を遮り、森の中は濃い闇に満ちている。足下は落ち葉が降り積もり、木々の根や地面の凹凸を覆い隠していた。人間ならば一歩一歩慎重に歩かねば危険な地形だ。

 ましてやミュータント級と友達から称されたほどの運動音痴である花中では尚更……となるところだが、しかし今日の花中の傍にはフィアとミィが付いている。足場が危険な時は事前に教えてくれるし、倒木や段差がある時はその超越的力を以て手助けしてくれた。歩みは順調そのもの。プロの登山家のようにすいすいと先に進んでいける。

 結果、直進距離にして二百メートルほど進むのに、五分ほどしか掛からなかった。一般人ならこの道のりを行くだけで十分は掛かるだろう。花中一人ならこの倍だ。後ろを振り返っても、木々に阻まれて住宅地の姿はもう見えない。森の奥深く、とは到底呼べないにしても、自然を色濃く感じられるようになってきた。此処は既に人の領域ではなく、野生生物が支配する世界なのだと『本能』が感じ取る。

 なのに、おかしい。

「……なんか、静か、だね? 何もいないみたいに」

 花中は抱いた違和感を、フィア達に打ち明けた。

 鬱蒼としたジャングルのような景色が広がっている泥落山。八月末の煮えるような暑さがこの場には満ちており、生きやすいかは兎も角、森の中には生命が多く棲んでいそうなイメージがある。実際去年の六月にこの山を登った際、怪鳥やら獣やらの鳴き声がたくさん聞こえてきた。意識せずとも、この山の豊かさを実感出来たものだ。夏ならばもっと活気があっても不思議ではない。

 ところが今日は、なんの声も聞こえない。どれだけ集中して耳を傾けてみても、だ。

 まるで、この山から生命が消えてしまったかのように。

 とはいえ所詮は人間(花中)の聴力。微かな音を聞き取れるかというと、そこまで自信がある訳ではない。ましてや今日はフィアやミィという、恐るべき生命体が訪れたのだ。彼女達の強大さを察知し、多くの生命が身を隠しているのかも知れない。

「音に関してはそうですね。でも生き物はたくさん居ますよ? 例えばあそことか」

 そんな花中の『期待』に応えるように、フィアはある場所を指差しながら教えてくれた。ミィもフィアが指差す方向に目を向けていて、花中は安堵しながら二匹と同じ場所を見る。

 フィアが指し示したのは、ちょっとした茂みだった。ちょっとしたといっても、人一人ぐらいなら隠れられそうな大きさがある。空を覆い尽くす木々の葉により光が地上まで届かず、そのため下草が疎らにしか生えていない泥落山にしては、かなりの大きさがあると言えよう。近くに真新しい倒木が見えるので、時間帯によっては日が差し込む場所なのかも知れない。

 しかし一体何が潜んでいるのだろうか? サルやウサギ、鳥の類なら怖くはない。だが茂みの大きさからして、人間ぐらいなら潜めそうである。つまり人間より小さな、例えばイノシシや小柄なクマという可能性もあり得るのだ。小柄とはいえ獣というのはガッチリとしたもので、イノシシでも小柄なクマでも、人間を殺傷するに足るパワーを持っている。迂闊に刺激するのは危険だ。

 尤もフィアとミィからすれば、獣達の一撃など蚊が刺すほどのダメージにもならない。そして花中達は今、ハンティングに来ている。

「それじゃあ早速一匹仕留めてみましょうかねっと」

 故にフィアがなんの躊躇もなく茂み目掛けて指先から水の弾丸を放っても、花中はさして驚かなかった。

 放たれた水は、花中の目には見えない速さで茂みへと飛んでいく。その質量と速度は正しく弾丸のそれであり、頭などに当たれば例え大型獣でも致命傷と成り得る運動エネルギーを有していた。

 そして、

「ぐぇっ!?」

 茂みの中に水弾丸が突っ込んだ次の瞬間、茂みの中からカエルが潰れるかのような『声』がした。

 ……それは、間違いなく声だった。鳴き声ではない。動物が上げるそれとは、明らかに異なるものである。

 一瞬の思考停止を挟み、花中はその顔を真っ青にした。花中にもハッキリと聞こえたのだ。ましてや人間よりも優れた聴力を有すフィアとミィが聞き逃す訳がない。獣と『それ以外』の区別だって付くだろう。

 フィアとミィは互いの顔を見合い、それからフィアは花中とも顔を合わせ、

「じゃあ先に進みましょうか」

「「うん、ダメだから」」

 一匹そそくさと逃げようとするフィアを、花中とミィは引き留めた。フィアは忌々しげに顔を歪めつつ露骨な舌打ちをしたが、生憎ミィだけでなく花中もこの程度で怯むほど浅い付き合いではない。

 渋々といった様子で足を止め、フィアは頭を掻きながら茂みの方へと向かう。その茂みの中に居る『誰か』を引っ張り出すために。

 花中はごくりと息を飲む。

 フィアの水弾丸は、文字通り弾丸の如く威力がある。どの程度の大きさの弾を放ったかは花中には分からないが、弾丸というものは有効射程圏内であれば大体何処に当たっても人を殺せるように出来ているものだ。つまり、撃たれた『誰か』はもう……

 おぞましい結末を予感する花中だったが、別段誰が死んでいようと気にも留めないフィアはなんの躊躇もなく茂みに手を突っ込み――――無造作に引っ張り出す。

 茂みから出てきたのは、やはり人間だった。

「ひっ!?」

「うっわぁ、やっぱり人げ、ん?」

 人間だと認識した瞬間花中は短い悲鳴を上げ、ミィが嘆きの言葉を漏らす……が、ミィは続けて疑念の声も漏らした。花中の遠退きそうな意識はミィの声でギリギリ踏み止まり、恐る恐るだがもう一度フィアが引っ張り出したものを見遣る。

 フィアが茂みから出したのは、確かに人間だった。大きな頭があって、胴体に手足が四本付いており、尻尾が生えていない。足は直立歩行をするのに向いた形をしており、手には五本の指がある。このような生物は ― 『化ける』生物は幾らか知っているが ― 人間しかいない。眼前の人物が人間なのは、とりあえず疑わなくて良いだろう。

 しかし『恰好』が奇妙なのである。

 まずその頭にはフルフェイスのヘルメットを被っている。胸部に着けているのは、鎧と見間違いそうなほど立派なプロテクター。下半身にはそれなりに大きな、機械的なものが付いていた。

 まるでSF映画に出てくるサイボーグのような出で立ち。これだけでも十分に怪しいが、極め付けは失神した際にぎゅっと握り締めるように固まってしまった手 ― その手も頑丈そうな手袋で守られている ― にある巨大な『銃』だ。

 花中は銃に明るい訳ではないが、その銃は猟師が使うような代物ではない。もっと近代的で、攻撃的な……アサルトライフルに似ていた。とはいえ映画やテレビで見たアサルトライフルよりも、更に大型でメタリックに見える。

 まさか本物ではないと思いたいが、だとすると森の中でサイボーグのコスプレをしながら茂みの中に身を潜めていたという、控えめに言って怪し過ぎる人物となる。

 どちらにせよ深く関わるべきではない。

「やっぱり見なかった事にしません?」

 フィアからの二度目の『誘い』に、今度の花中は顔を顰めるばかりで即答しなかった。ミィもすっかり黙ってしまっている。

 とはいえその不気味な『人間』が呻き、苦しそうに動けば、人間である花中の心の天秤は簡単に救助へと傾くのだが。

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 花中はフィアが引っ張り出した人間に駆け寄り、出来るだけ大きな声で呼び掛ける。身体も揺さぶりたかったが、どのような怪我をしているか分からなかったので、そこは我慢した。

 幸いにして、花中が声を掛けるとその人間は返事をするように呻いた。苦しそうではあるが、生きてはいる。まずは『無事』だと分かり、花中はホッとしたように息を吐く。

「あの、もしもし? 起きられますか?」

「ウ……ゥ……」

 花中がもう一度呼び掛けてみると、人間は先程よりもハッキリとした声で呻く。やがて腕が動き出し、やや震えながらではあるがその手が大地を掴んだ。ゆっくりとではあるが、その人間は自力で起き上がる。

 起き上がる気力があるという事は、どうやらそこまでの重体ではなさそうだと花中は安堵した。勿論あくまで外観上の話で、体内がどうなっているかは分からない。出来るだけ早く病院に連れていくべきだろう。

「大丈夫ですか? 気分は、悪くないですか?」

「... painful...」

 花中が尋ねると、人間は英語で答える。確かこれは、痛い、という意味だったか。何処か痛むらしい。声は女性のそれであるように聞こえた。

 怪しい恰好の中身は、どうやら大人の女性のようだ。男なら見捨てた、なんて事はないが、男性が苦手な花中にとっては安心要素。気持ちが少しだけ弛む。

 しかしながら彼女が突然、跳ねるように立ち上がった際には、花中は腰を抜かすほど驚いてしまったが。ましてや突然銃を構え、銃口を向けてきたとなれば血の気も引いてしまう。

「おっと危ないですねぇ」

「錯乱してるのかなぁ」

 フィアとミィが暢気に、されど人間の反応速度を凌駕する超スピードで自分の前に立ってくれなければ、花中は冷静さを取り戻す事が出来なかったに違いない。

 緊迫する空気だったが、それはすぐに霧散した。女性はしばらくすると大層居心地悪そうに、自ら銃を下ろしたからである。そして彼女は歩き始めた……森の奥を目指して。

 助かった、と花中が安心出来たのは一瞬だけ。一時とはいえ失神するほどの打撃を受けたのだから、あの女性には病院でしっかりと診察を受ける必要がある。このまま山の奥へと進む事を黙認してはならない。

「あ、ま、待ってください! そっちは山の奥で、病院はあっち……」

「Don't touch me! Return quickly!」

 慌てて花中は女性を引き留めようとするが、女性は英語を叫んできた。帰れ、と言いたいらしい。拒絶の言葉は臆病な花中を怯ませるには十分な威力があり、花中の足はすぐに竦んでしまう。

「ほらー、何処行くのさぁ」

 幸いにしてミィがすぐに捕まえてくれたので、彼女が何処かに行ってしまう心配はなくなった。

 女性は腕を掴んできたミィを振り払おうとして暴れるが、所詮は人間の力である。振り払う以前にミィの腕はぴくりとも動かない。しかしそれでも女性は暴れ続け、必死に山の奥に進もうとする。

 あまりの必死ぶりに花中は気圧され、同時に疑問も抱く。先程からずっと英語で叫んでいる事から、恐らく彼女は生粋の外国人なのだろう。しかし何故外国人がこの山に居るのか? 富士山や高尾山のような有名どころなら兎も角、こんな不気味な森に覆われている山に足を踏み入れるなんて……

 違和感を覚えたのは花中だけでなく、ミィも同じらしい。女性の腕を掴んだまま、ミィは眉を顰めている。それでも女性に自由を与えはせず、ようやく力では敵わない事を察したのか、女性はミィの腕を振り解こうとするのを止めた。体力を使い果たしたのか、ぐったりと背筋を曲げる。ヘルメットを被っているためその顔色を窺い知る事は出来ないが、険しい気配を花中は感じ取る事が出来た。

「ねぇ、どうしたの? なんか森の奥に用でもあるの?」

「……………」

 ミィは ― 外国の言葉が全く分からないのもあって ― 日本語で、ゆっくりと女性に尋ねてみる。女性は荒い息遣いをするだけで、今度は黙りこくってしまった。しかし意味が分からないという訳ではなさそうである。でなければ、「喋らない」という意思を示すかのように顔を背けはしないのだから。

 気を失った直後でも森に戻らねばならない用事。事情を問われても決して話せない秘密。そして全身を包む防具と、その手にある銃器。

 何か、ただならぬ事情を抱えているのではないか……花中はそんな推察をした。力になれるかは分からないが、このまま見て見ぬふりなど出来ない。花中は女性に声を掛けようと口を開けた

 刹那、フィアが花中の前に立つ。

 フィアは腕を組んで仁王立ちしながら、周囲を見渡していた。いや、フィアだけではない。ミィも辺りを見渡しており、女性は銃を構えている。特に女性は鎧のような防護服越しでも分かるほど警戒感を露わにし、忙しなく周囲を警戒していた。

 何も感じていないのは、花中だけ。

「フィアちゃん、どうしたの……?」

「何かが近くに来ています」

 尋ねるとフィアは淡々と答えてくれた。フィア自身は大した危機感を抱いていないのか淡々とした口振りだったが、花中は驚きでギョッと目を見開く。

 花中も辺りを見渡してみたが、鬱蒼とした木々が見えるだけ。動物の、というより生物の気配は感じられない。しかしフィアが感じ取ったという事は、間違いなく『何か』が居るのだ。恐らくは木々の裏……自分達のすぐ近くに。

 一体何が潜んでいるのか。恐怖から花中はフィアにしがみつき、フィアは花中を守るように抱き寄せる。

 そして女性は、忌々しげに舌打ちをした。

「……何時の間に……いや、私を追ってきたのか。くそっ」

「あらあなた日本語話せたんですね。しかし先程から何かがうろちょろしているとは思っていましたがなんですかねぇこいつら」

「ふぅん、あたしらにケンカ売ろうってんだ。上等じゃん」

「っ! お前達は早く逃げろ!」

 日本語で悪態を吐いた女性は、花中達に逃げるように促そうとしてくる。彼女は、フィア達が関知した存在について何か知っているのか? 自分達は何に包囲されている? 花中はそれを尋ねようとした。

 が、遅かった。

 木陰から一匹の『生き物』が跳び出してきたのだから。

 花中は驚きで目を見開いた。突然現れたから、というだけではない。自分の知るどんな生き物にも似ていなかった、というのが一番の理由だ。

 生物の身体には毛が生えておらず、薄っすらと見える静脈の青さが混ざった不気味な白色をしている。剥き出しの肌は皮というより肉のようで、生々しさがあり気色悪い。胴体はダックスフンドのような寸胴だったが、側面から八本の触手が生え、足のように蠢いていた。頭部には昆虫の単眼に似た黒いレンズが四つあり、当然口もあったが、その口は四つの嘴がそれぞれ動いて節足動物を彷彿とさせる。加えてその生物は、体長五十センチはあろうかという体躯を誇っていた。

 そんな生物が向かう先は、銃を構えていた女性。

 女性は素早く銃口を向けようとするも、生物は常軌を逸したスピード……自動車並の速さでやってきた。生物は女性の頭部に食らい付き、触手を絡めてくる。

 もしも女性が素顔を晒していたなら、顔面をズタズタに食い破られて彼女の命は終わっていただろう。

 しかし女性はヘルメットをしていた。彼女は素早くヘルメットを脱ぎ捨て、生物ごと地面に叩き付ける。生物は一瞬怯みつつもすぐに女性を襲おうと身体をくねらせたが、銃口が生物の頭を捉える方が早い。

 ダダダン! と短く、重厚な音と共に放たれた弾丸が、生物の頭を貫く。生物は金切り声のような悲鳴を上げて苦しむが、しかし未だ死んでいない。更に五発の銃弾が撃ち込まれると青い体液を地面にばら撒いて、ようやく生物は動きを止めた。

 女性は、ふぅ、と小さな息を吐く。

 ヘルメットが捨てられた事で露わになった顔は、三十代ぐらいの白人のそれ。髪は美しいブロンドであるが、短く切り揃えられていて、さながら少年のような髪型をしていた。凛々しい目付きや顔立ちは『美形』という言葉が相応しい。尤も今の花中は、女性の容姿に見惚れるような余裕はなかったが。

 先程の生物はなんだ? 何故自分達に襲い掛かってきた? 女性は躊躇いなく撃ち殺したが、あの生物が何か知っているのだろうか? そもそも女性は何故あのような銃を持っている? コスプレ道具でないどころか、明らかに猟銃を上回る連射性能は日本で所持出来る代物と思えない。

 一体、この山に何が起きている?

「ほほーオモチャの銃ではなかったようですね。それに動きも良い。ただの人間ではなさそうです」

「だねぇ。ヘルメットしてるから一回は大丈夫と思って見ていたけど、まさか倒せるなんて」

 戸惑う花中の傍で、人外二匹は暢気に賞賛の言葉を送る。褒められた女性は短い髪をガシガシと掻き、それからフィア達の方へと振り向く。彼女の顔に、嬉しさや照れは一切ない。

「見たか。今、この森にはこんな生物がうようよしている。危険だから、さっさと立ち去れ」

 そして険しい表情のまま、ハッキリと警告してきた。

 花中はごくりと息を飲んだ。フィアとミィも息を合わせたように互いの顔を見合い、こくこくと女性の言葉に納得するかのように頷く。

「ああ確かにそうみたいですね。でももうすでに囲まれていますし」

 それからフィアが伝えた言葉で、女性と花中は顔を青くした。

 次の瞬間、木々の隙間から先の白い生物が再び飛び出してくる……ただし今度は四方八方から、何十もの数が、であるが。

「なっ!?」

「ひっ!?」

 二度目の、そして大規模な襲撃。女性は銃を構えようとするが、一つしかない銃口で全方位をフォロー出来る筈もない。花中に至っては身を縮こまらせるのが精々。

 おぞましい怪物の群れが、花中達を圧殺せんばかりに押し寄せる。瞬きする間もなく迫る群団に、花中は悲鳴の一つも上げられず――――

 されど、生物が茅花中達に到達する事はなかった。

 襲い掛かってきた何十もの生物が、一瞬にして()()()になったのだから。

「……は……?」

 女性は呆けたような声を漏らす。呆気に取られるのも当然だ。本当に一瞬で、あたかも自爆したかのように生物達は勝手にバラバラとなったのだから。何が起きたのか、彼女には見えなかったに違いない。

 花中にも無論見えなかった。しかし女性と違って呆けなかったのは、花中には知識があるからだ。

 自分の友達なら、こんな事さえ児戯にも等しいという知識が。

「この程度の虫けらなら私の敵ではありませんよ」

 そして生物達を切り刻んだ張本人たるフィアが、誇らしげに胸を張りながら答えた。

 白い生物の襲撃は未だ止まない。フィアが全滅させたのと同じ、いや、大きく上回る数が即座に現れ、花中達目掛け突っ込んでくる。

 しかしフィアはにたりと笑うや、自分に襲い掛かってきた生物達に掴み掛かった! ろくな手加減をしていないフィアの手は生物の頭を簡単に握り潰し、顔面に食らい付こうとしてきた一匹には逆に噛み付いて胴体を食い千切る。腕に纏わりつこうとした個体は空いた片手で振り払えば瞬時に細切れと化し、足元から近付いてきた個体は文字通り虫けらを相手するかのように踏み潰した。

 一瞬にして四体を返り討ちにしたフィアだが、彼女からすればまだまだ物足りないのだろう。未だ倒しきれていない『第三波』の群れを見渡すと、笑みを浮かべてそちらに飛び掛かる。殴り殺し、蹴り殺し、噛み殺し、轢き殺し……殺戮そのものを楽しむように微笑み、体液塗れになる事を厭わぬフィアの姿は正しく『化け物』であった。

「フィアったら楽しんでるなぁ」

 対するミィは淡々とぼやきながら、空中でデコピンを繰り返すばかり。

 デコピンといっても、その指先は音速の十数倍もの速さを誇る。押し出された空気は圧縮され、塊となって射出。迫り来る生物に打ち付けていた。

 元は空気とはいえ、音速以上の速さと弾丸以上の質量を持った『物質』である。見えない物体を叩き付けられ、生物はあたかも体内で爆弾が炸裂したかの如く弾け飛ぶ。

 そんなデコピンをあちらこちらへ飛ばし、ミィは生物達を片っ端から撃ち抜いていく。自分に襲い掛かる生物だけでなく、花中と女性に襲い掛かる生物も全てだ。

 襲来した生物の数は何十を超えて数百に上ったが、フィアとミィの動きは悪くなるどころかますますキレが良くなっていった。青い体液が辺り一面に飛び散り、白い躯が山のように積み重なる。

 まるで慌てふためくように右往左往している最後の一匹をフィアが踏み潰せば、もう木陰から飛び出す姿はない。

 生物達の襲撃は、これで一段落したようだった。

「ふん。この程度では準備運動にすらなりませんね。せめてあと十倍は来なさい」

「いや、十倍来られても困るじゃん。雑魚を潰しても退屈なだけだし」

 自慢気に胸を張るフィアに、呆れ返るミィ。どちらも先の襲撃を危機とは思っておらず、極めて退屈そうな感想を述べるのみ。

 友達二匹に守られ、花中達は青い体液がちょっと服に付いた程度の被害しか受けていない。フィア達の強さを知る花中としては予想通りの惨状に苦笑いを浮かべただけだが、一匹の生物を相手にするだけで危うく死に掛けた女性は、しばし呆けたように棒立ちしていた。やはりショックが大きかったのだろう……と思い花中が女性の顔を覗き込もうとしたタイミングで、女性はハッとしたように翡翠色の瞳が嵌まった目を大きく見開く。

 それから素早く、自身が持っていた銃をフィア達に向けた。突然の行動に花中はギョッとして跳び退き、フィアとミィはつまらなそうな眼差しで女性を見る。

「……お前達は、一体……!」

「別に撃っても構いませんけどそんなちゃちなオモチャじゃこの私には傷一つ付けられませんよ。こっちの野良猫になら目玉に当たればもしかするかもですけど」

「いや、効かないからね? あたしの目、弾丸ぐらいなら跳ね返せるから。肉体操作の力、あんま嘗めないでよ」

「おやそうだったのですか? あなた意外と隙がないのですね」

「えっへん」

 女性に銃口を向けられたフィア達だが、彼女達はなんら恐怖を感じない。当然だ。自然災害にも値する絶大な力を振るう彼女達にとって、鉛玉が何十発撃ち込まれようと痒みすら覚えない。女性の行動に恐怖を感じるというのは、人間が飛び回る羽虫に恐れ慄くようなものだ。

 余裕を崩さないフィア達を見て、その言葉を真実と受け取ったのだろうか。女性は唇を噛み、顔を顰め……明らかに不満を露わにしつつも銃を下ろした。花中としては安堵したが、銃への恐怖がぶり返し、フィアの傍に駆け寄ってしまう。

 女性は睨むような眼差しを花中に向けながら、改めて尋ねた。

「……お前達は、何者だ」

「え、えっと、あの……わ、わたしは、その、ただの、人間です……こ、この子達は……えっと……す、凄い、人、です」

「ふふんそうです私は凄いのです」

「いや、褒めてないからね? あと花中、テンパってるのは分かるけど、今更人間で通すのは無理あるでしょ」

 慌てふためく花中と胸を張るフィアに、ミィはツッコミ一つ。言われてようやくその通りだと気付き、花中は顔を赤くする。

「自己紹介がまだだったね。あたしはミィで、コイツはフィア。で、このちっこいのが花中。さっき戦ってみせたようにあたしとフィアは人間じゃないけど、人間を襲うつもりもないから安心して。花中は見た目通り弱っちい人間だし。あと、アンタの名前も聞かせてもらえる? 名前が分からないと、アンタとしか呼べないからさ」

 恥ずかしさで黙ってしまう花中に代わり、ミィが自分達の紹介を行う。加えてさらりと、女性についても尋ねた。

 女性は閉ざすように、口を僅かながらへの字に曲げた。されどミィが諦めずに答えを待つと、ゆっくりと女性の口は弛んでいく。

「……マーガレットだ」

 やがてぽつりと、女性は名乗った。

「おっ、なんか思ってたより可愛い名前、って、銃を向けないでよ。本当に可愛いって思っただけなんだからさー」

 コンプレックスなのだろうか。ミィが素直な感想を漏らした途端、女性――――マーガレットは顔を顰めながら銃口を向けてくる。多分その名前は本名なんだろうなと、花中は漫然と感じた。

 ミィはわざとらしく両手を上げ、悪意がない事をアピール。その甲斐もあってか、本気で威嚇するのが馬鹿馬鹿しくなったのか。マーガレットは静かに銃を下ろし、不機嫌そうな鼻息を吐いた。

「……お前達については、これ以上の追求はしないでおこう。それに助けてくれた事、あの怪物達を倒してくれた事に感謝する。私だけでは食い止める事はおろか、奴等が市街地に出て行くのも止められなかったに違いない」

「え? いやいや、気にしないでよ。あたしらからしたら、あんな虫みたいなのを潰すぐらい朝飯前なんだからさ」

 次いでマーガレットは、深々と頭を下げながら感謝を述べた。面と向かってお礼を言われ、ミィは照れたように頭を掻きながら後退りする。

「それでは、私は此処で失礼する」

 ただしマーガレットが再び森の奥へ向かったので、ミィは瞬間移動が如く速さでマーガレットの行く手を塞いだ。

「いやいや、そこではいどーぞとはいかないし。というか、さっきの生き物はなんなの? この山には何度か来てるけど、あんな奴等初めて見たんだけど」

 ミィが問い詰めると、マーガレットは再び口を閉ざす。今度の沈黙は中々硬そうだ。ミィは花中の方をちらりと見てきた。

 ミィから()()()()()()()()花中だが、既に答えは決めていた。あんな怪物がまだ潜んでいるかも知れない森の中に、理由も知らずに行かせる訳にはいかない。念のためもう一匹の友達であるフィアの意見も訊こうとしたが、そのフィアはマーガレットなどどうでも良いようで、ふらふらとその辺を歩いている。自分の意見だけで決めてしまって良さそうだと、花中は思った。

 花中はじっと、マーガレットを見る。マーガレットは鋭い眼差しを向けてきて、ビビってしまった花中はミィの背中に隠れるが、それでもなんとかマーガレットと向き合う。沈黙が続いたのは数十秒程度……諦めたようなマーガレットのため息が、それを打ち破った。

「……奴等がこの森に現れたのは、今から三日前の事だ」

 そして再び開かれたマーガレットは、ぽつりと語る。

「三日前……ふぅん、三日前か。それで?」

「奴等が人間を襲う事は分かっている。非常に危険な生物だ……お前達にとっては、そうでもないだろうがな」

 マーガレットは行く手を遮るミィに銃口を向ける。人命を容易く奪える武器と向き合いながら、ぼけーっとミィは突っ立っているだけだ。

「正確な個体数は不明だが、恐らく山全体に拡散している。お前達が倒したのは、全体のほんの一部という訳だ。詳細は言えないが、我々はこの生物の駆除を行っている。そして山の中ではまだ仲間が戦っている筈であり、私はその仲間達の助けに向かわねばならない」

「だから山に戻る訳?」

「そうだ」

 迷いのない、マーガレットの言葉。

 ミィは花中の方をちらりと見てくる。花中は短くない時間、考え込んだ。

 本音を言えば、行かせたくない。

 しかし仲間を見捨てられないというマーガレットの気持ちを無下にするのも、一人の人間として憚られた。例え己の命を失おうともやらねばならない時がある……その覚悟を自分達の軽い気持ちで踏みにじるのは、最早嫌悪すら感じてしまう。

 それにマーガレットはこの生物の駆除をしているという。彼女がどんな組織の一員かは知りようもないが、この白い生物が人間にとって危険なのはよく分かった。もしも一匹でも市街地に入れば、大変な被害が出かねない。

 花中はこくりと頷くしかなく、花中に意見を求めていたミィはマーガレットに道を譲った。

「理解してくれて感謝する。お前達は町に戻れ。それと出来れば、今日見た事は秘密にしてほしい。パニックを起こしたくないからな……では、私は行かせてもらう」

 マーガレットが二度目の別れを告げ、ミィの脇を通り過ぎる。今度のミィはマーガレットの前には立たなかった。

 マーガレットは森の奥へと消え、花中の目には見えなくなる。一対一でも負けたかも知れない、あの恐ろしい生物を相手にして彼女が五体満足で帰還出来るとは思えないが……花中は無事を祈らずにはいられなかった。

 尤も、野生生物達には死地に赴く者への興味など長続きしないそうで。

「フィア~、さっきから何してんのー?」

 ずっと会話から離れていた『同行者』の行動の方が気になったのか、ミィがフィアに声を掛けた。

 フィアはある場所でしゃがみ込んでいた。ミィが呼ぶとフィアはすぐに顔を上げ、ミィと向き合う。マーガレットと話している間フィアが何をしていたのか花中も気になり、ミィの後ろから覗き込むようにフィアの顔を見た

「ひいぅぃっ!?」

 瞬間、花中は悲鳴を上げてしまう。

 何故ならフィアの顔は青い液体でべっとりと汚れていて、まるで醜悪なゾンビのような形相と化していたのだから。

「……いや、ほんと何してんの?」

「何ってそりゃあ勿論食べているですけど?」

「うへぇ、よくそんなの食べる気になるね……」

 怯む花中を他所に、ミィとフィアは暢気に話を交わす。どうやらただ顔が汚れているだけらしい。友達がゾンビになった訳でないと確信し、花中は安堵の息を吐く。

 そして吸い込む息と共に、嫌な予感がした。

 ――――食べている?

 一体フィアは何を食べているのだろうか? 彼女は虫が好物だ。虫を見付けたのだろうか。いやしかし辺りに虫の気配は全くない。

 代わりに、いっぱいいるのは……

「……あ、あの、フィアちゃん……何を、食べてるの……?」

「ん? これですよ」

 無意識に花中はフィアに尋ね、フィアはすぐに答えを花中の前へと突き出す。

 片手に乗せた、謎の白い生物の亡骸を。

 花中がギョッと目を見開きながら跳び退くのに、瞬きするほどの時間も要らなかった。

「うひゃうっ!? ななななんで、食べ、食べ……!?」

「だって美味しそうな匂いがするんですもん。ほら野良猫あなたも食べてみなさいな」

「んー、まぁ、そこまで言うなら」

 震え慄く花中だったが、生き物達からすれば死体なんてのはタンパク質の塊でしかない。勧められたミィは左程抵抗もなくフィアから謎生物を受け取り、殆ど躊躇なくその肉に齧り付く。

 するとどうだ、ミィはその目をパチリと見開いたではないか。より正確に言うならば、まるで天の川のように煌めかせた瞳を剥き出しにするように、である。手足をバタバタ、いや、ドシンドシンと振り回し、全身で喜びを表現していた。

「んん~!? 何これ、美味しい!?」

「でしょう? 花中さんもどうですか?」

「えっ!? あ、えと、わたしは、あの、今はお腹空いてない、ので……」

「そうですか。まぁ野良猫が美味しいと言った以上花中さんの意見は別に良いでしょう」

 花中が咄嗟に断ると、少し残念そうな顔をしつつもフィアは大人しく引き下がる。

 安堵したのと同時に、花中は違和感も覚える。フィアの物言いは、美味しいものを共有したいというより、まるで感想()()()()を求めているように聞こえた。

 よくよく考えれば、フィアの性格からして、花中は別にしてもミィに美味しいものを渡すとは思えない。徹頭徹尾自分本位なフィアが食べ物を分け与えるからには、何かしらの思惑がある筈。

「なんか含みのある言い方だなぁ。何を企んでるのさ」

 ミィも同じ疑問を抱いたようで、フィアに尋ねる。するとフィアは勝ち誇ったような、自慢げな笑みを浮かべた。

「ふふふふふ。分かってしまったのですよ先程の人間……えーっとマーマレードでしたっけ?」

「そりゃ人間の食べ物でしょうが。マーガレットだよ、マーガレット」

「ああそうそうそいつです。アイツがなんのためにこの山に来たのかが分かったのですよ」

「……駆除のためでしょ。さっき言ってたじゃん」

 話聞いてなかったの? そう言いたげなミィに同調するように、花中もフィアをジト目で見つめる。しかし不信感を示されても、フィアは不機嫌さを見せるどころかむしろ誇らしげだ。

「それは嘘ですよ」

 余程、この『持論』に自信があるのだろう。

 キョトンとする花中とミィの前で、フィアは足下に転がっている生物の亡骸を掴み、持ち上げる。これを見ろ、と言わんばかりに。

「野良猫あなたこれを食べてみてどうでしたか?」

「どうって、美味しかったけど」

「そう。とても美味しいです。我々にとっても美味しいという事はですよ」

「うん?」

「人間にとっても美味しいという事ではありませんか?」

 如何にも、衝撃の真実を告げたと言わんばかりのドヤ顔。

 フィアのそんな顔を見て、ミィは――――まるで真理と接したかのように、目を見開いて驚きの顔を浮かべた。フィアはようやく気付いたと言わんばかりに、ミィに見下すような眼差しを向ける。

 ちなみに花中は呆けていた。あまりにも謎な理論故に。しかしポカンとなる余り、開きっぱなしの口は反論の言葉を出せずにいる。

 なので、

「花中さんが言っていました。人間は悪食の猿と自分達の事を称していると。確かに花中さんの食事を見ているとそれはもう馬鹿みたいに色んなものを食べています。あれだけ色々食べるのですからきっと初めて見付けた生き物はとりあえず食べてみるのでしょう」

 フィアが展開する理論に「いや、そこまで見境なく食べないから」とツッコミの一つを入れる事が出来ず、

「そして私とあなたが美味しいと思ったのです。人間がこの生物を食べて美味しいと感じる事は十分にあり得ます」

 ぐっと拳を握り締めて力説するフィアに「仮にそうだとしても、あんな危険な生き物わざわざ狩ろうとしないから」と指摘する言葉も出せなくて、

「しかしあの人間は私達が倒した生き物には目もくれなかった。何故か? 恐らくこんなのでは満足出来ないという事に違いありません!」

 びしりと指を差して結論に行こうとするフィアに「根本的に考えが誤っているからだよ、多分」と優しく伝える事も儘ならない。

「つまりあの人間はもっと美味しいものを知っているんですよ!」

 お陰でフィアが導き出したとんでも回答を、花中は何一つ否定する事が出来なかった。フィアのいい加減な話を真に受けたミィが「なんだってーっ!?」と叫び、大声が森の中を木霊するのも止められなかった。

「な、なんてこった……まさか、そんな理由があったなんて!」

「ふふふ。アイツの目論見などお見通しなのです。我々をボディーガードとして雇わなかったのはその美味しいものを独り占め或いは仲間だけで食べるつもりなのでしょう。そして此処にある死骸に見向きもしなかったという事は」

「もっと美味しいものを狙ってるんだ! ぐぬぬ! あんな真面目な感じで話していたのに、そんな理由だったなんて!」

 本人が居ないのを良い事に、フィアとミィはどんどんマーガレットを食欲魔人に仕立てていく。死を覚悟した顔だったとか、仲間への想いだとか、そんなものを考慮してはくれなかった。

 なんやかんや彼女達はケダモノなのである。命懸けで何かを成そうとしているというよりも、美味しいものを食べたいという方が動機として納得出来るのだ。

「よし! そうだとしたら後を追おう! 助けてやったんだからちょっとぐらいおこぼれもらっても良いよね!?」

「当然でしょう。むふふ……楽しみですねぇ」

 かくして花中が我に返った時、意気投合した二匹はマーガレットを追う事にしていた。

「……え? あ、ちょ……えっ!?」

「さぁ花中さん行きましょう! 急がねば見失うかも知れませんいえ見失ったところで私の嗅覚ならば簡単に追い付けますがね!」

「よっしゃ行くぞーっ!」

 勘違いする二匹に『正解』を伝えようと思う花中だったが、しかしフィアもミィもすっかり美味しいものに夢中。余程あの謎生物は美味だったのか、花中の話に聞く耳も持ってくれない。

「それではしゅっぱーつ!」

「しゅっぱーつ!」

「うええぇぇえええええっ!?」

 花中を無理矢理背負ってフィアは歩き出し、ミィも意気揚々とその後を追う。花中の悲鳴が上がるも、ケダモノ達の歩みは止まらない。

 かくして、二匹と一人もまた森の奥へと消えた。

 ただしマーガレットとは違い、二匹は完全な遠足気分で、一人は自分の意思とは無関係に――――




「まぁ、大丈夫だよね」と思った側から起こる大異変。花中の思う事は大概フラグなので信じてはいけない(ぇ)

次回は12/16(日)投稿予定です。


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未来予想図3

 マーガレットは銃を構えながら、急ぎ足で泥落山を登っていた。

 泥落山は木々が密に生え、空を葉が覆っている事で、極めて視界が悪い。五メートル先すらろくに見通せないほどだ。もしも木の陰や崖の上などになんらかの『生物』が隠れていても、人間であるマーガレットには発見出来ないだろう。その上マーガレットが居るのはまだ山の麓近くであり、最も木々の密度が高い中腹には辿り着いてすらいない。

 即ち、進めば進むほどに、マーガレットはより危険な環境に近付いている事になる。

 それでもマーガレットは怯まずに前へと進み続けていた。恐れなど一切抱いていない、力強い足取りで。

「いやー、肝が据わってるねぇ」

 そんなマーガレットの姿を後ろから眺めながら、ミィは小声で独りごちた。ミィの小声を三メートル以上離れた位置でしっかりと捉えたフィアは、こくりと頷いて同意する。フィアにお姫様抱っこの形で抱えられている花中だけがミィの言葉を聞き取れず、不安そうにマーガレットが進む方を見つめる事しか出来なかった。

 マーガレットを追う事、早十五分。

 未だ中腹に達していないとはいえ、泥落山の地形はいよいよ本領を発揮し始める。隆起した地面はしっとりと湿り、積もった落ち葉が滑りやすさを増長する。あちこちに切り立った崖があり、うっかり転ぼうものならあの世へとスムーズに行ける事だろう。

 人間には極めて優しくない足場である……が、水を自在に操れるフィアは地面を滑るように移動し、ミィはその圧倒的重量で大地に足を突き刺しながら進んでいた。二匹からすれば、こんな道は険しいなんて言わない。彼女達にとって険しい道というのは、惑星を貫通するレーザーやら火球やらが飛び交う中へと突っ込むような状況を指すのだ。

 故にこの二匹には、銃と防具を装備した状態で山を登る事の苦労が分からない。たかが『美味しいもの』のためにここまでの苦労なんてする筈がないのだ……と花中は道中二匹に説明してみたが、あまり信じてもらえなかった。

「しかし中々着きませんねぇ。美味しいものはまだでしょうか」

「ほんとねー」

 むしろ二匹とも、マーガレットがこっそり美味しいものを食べるつもりであると決め付けている有り様だ。

 こんなおとぼけコンビ(+運動神経壊滅少女)に追跡され続けるマーガレットは、如何にも間抜けそうである。されどフィア達は野生のケダモノ。フィアの移動はそれこそアリが歩くよりも静かで、ミィの歩みも殆ど音を立てていない。フィアは既存の流体力学では説明が付かない事象をさらっと用いており、ミィは足の裏の弾力性を調整して衝撃の殆どを吸収している。二匹とも、人智を超える方法で音を消していたのだ。一番五月蝿いのが、必死に抑えている花中の吐息と言っても過言ではない。

 おまけに人間では五メートル先も見通せない環境下でも、フィア達ならば音や臭いで追跡可能。そのため十分な……花中ではかなりの頻度でマーガレットを見失う、十メートル近い……距離を維持すら事が出来ていた。万一花中の吐息に気付いてマーガレットが振り返っても、木々に阻まれフィア達の姿は見えまい。

 かくして無駄にハイスペックな怪物達に追跡されているマーガレットは、フィア達の存在に気付く事すらなく森の奥へと進んでいき

 不意に、マーガレットは足を止めた。

 がさがさ、がさがさ。

 耳元に届く、ナニモノかが草を掻き分けるような音。姿は見えないが、しかし近くに『動くもの』が居る事は間違いない。マーガレットは銃口を前に向け、素早く周囲を見渡す。周りには苔の生えた木が数十本と、小さな茂みが三ヶ所もある。

 やがて訪れる静寂。マーガレットの様子を遠目で見ている花中はごくりと息を飲み、マーガレットも構え直すように銃をカチャリと揺すった

「『……上かっ!?』」

 刹那、英語で叫びながら素早く頭上へと銃口を向ける。

 マーガレットの銃が向いた先には、真上から彼女目掛け落ちてくる生物の姿があった。生物は口を大きく開け、触手をうねらせながらマーガレットに迫って来る。もしもここで頭上を見ていなければ、マーガレットはその頭に生物の鋭い嘴を突き立てられ、脳の中身を食い破られたに違いない。

 だが、マーガレットは気付いた。故にマーガレットは生物に正確に照準を合わせ、引き金を引ける。

 マーガレットが構える銃は重低音を轟かせ、弾丸を撃ち出す。花中の目にも白い閃光のような形で、銃弾の軌跡が微かに見えた。放たれた弾丸は生物の脳天を正確に捉え、その肉を吹き飛ばす。頭の一割近くが吹き飛び、生物は悲鳴を上げて身を捩らせる。拍子で軌道が逸れ、生物はマーガレットから離れた場所に墜落。身体を激しく地面に打ち付けた。

 それでも、生物が死ぬ事はなかった。

 それどころか素早く立ち上がるや、生物は再びマーガレット目掛け跳び掛かって

 いく寸前に、マーガレットの構える銃が再度火を噴く。

 放たれた五発の弾丸は一発も外れる事なく生物の胴体に直撃し、大量の血と内臓を辺りの大地にぶち撒ける。ここまでの傷を受けると流石に致命傷なようで、生物はジタバタとのたうち、やがて動かなくなった。

 マーガレットは最後に一発の銃弾を生物に撃ち込み、生死を確認。確実に死んだのを確かめてから、生物の頭を勢いよく踏み付ける。銃弾で崩れていた生物の頭は、ぐちゃりと音を立てて砕けた。

 無事一匹の生物を殺し、マーガレットは安堵の息を吐いた。

「ふーむ。やはりあの人間中々やりますねぇ」

「う、うん。凄い」

「よくまぁ、上の奴に気付いたよねぇ」

 そしてマーガレットに降り掛かる危機を傍観していたフィアは感嘆の声を漏らし、花中もそれに同意した。ミィもそこそこ驚いている様子である。

 マーガレットは知る由もないだろう。生物が降下してくる遙か前に、フィアとミィがマーガレットを守る用意をしていた事など。ミィは持ち前の身体能力を活かすべく身体に血を巡らせ、フィアは密かに糸を展開していたのだ。理由は勿論、此処で死なれたら美味しいものに辿り着けないかも知れないからである。

 結果的に、護衛は不必要だったが。

「普通の人間だったら、とっくに死んでるよね」

「あの生き物も狩りが下手という感じではありませんからね。少なくとも森に入るまで我々にもその気配を悟らせていませんし」

「ま、馬鹿ではあるみたいだけど」

「確かにおつむが足りませんねぇ」

 フィアとミィは小声 ― 加えて人間では聴き取る事が難しい高音である。すぐ傍に居る花中ですら聴き取り辛い ― で言葉を交わし、マーガレットと生物についての意見を交換する。

 フィア達は決して、件の生物を見くびってはいない。自分が倒される事はあり得ないと考えているが、その身体能力は極めて高く、並の生物では間違いなく相手にならない強者であると理解している。道中花中はその具体的な強さを尋ねたところ、フィア曰く単独でも大人のクマを仕留められる筈、との事。自分はクマなど百万匹掛かってこようと余裕だ、という自慢も付け加えていたが。

 高々五十センチ程度の体躯で、体長一メートルを超える大人のクマをも倒すとは恐るべき戦闘能力だ。そんな生物を、見事一人で倒してみせたマーガレット。武器の性能もあるのだろうが、何より凄まじいのは野生動物並の反応だ。一体どんな訓練を積んできたのか、そもそも訓練だけであれほどの力が身に付くのか……

「そういえばあの生き物の名前を決めていませんでしたね」

「んー? それならホワイト・モールなんてどうかな! 白いし、モグラみたいだし」

「長ったらしいので却下です。白饅頭で良いんじゃないですか食べられますし」

「えぇー、そんなのカッコ良くないよー」

「カッコいい必要などないと思うのですが」

 等々考え事をしていた花中を他所に、動物二匹は暢気な会話を交わしていた。人間には聞こえ難いのを良い事に、わいわいと楽しげに盛り上がっている。ちょっとだけなら彼女達の話が聞こえている花中だが、自分の声はマーガレットに聞かれるかも知れないのであまり喋れない。二匹の会話に入る事が出来ず、ちょっとジェラシー。

 ふて腐れるように花中は、生物こと白饅頭 ― 結局フィアの意見が通った ― を仕留めたマーガレットを見遣る。フィア達の会話が聞こえていないであろう彼女は、一息吐くや再び山奥目指して歩き始めた。

 直後にその身体を強張らせ、また歩くのを止める。

 どうしたのだろうか、もしかしてまた白饅頭が近くに?

 そんな疑問を抱いたのは花中だけ。フィアとミィは気付いていた。

「花中さん足音が聞こえます」

「人間のものだね。ざっと五十メートル先」

 マーガレットの進行方向から、複数の人の足音らしきものが聞こえる事に。

 フィア達に教えられた花中がハッとするよりも早く、マーガレットは不安定な足場を駆け足で登り始めた。フィアとミィは音もなくマーガレットの後を追う。

 フィア達にとってマーガレットの追跡は容易だ。しかしその表情が、何故かどんどん強張っていく。

「ど、どうした、の?」

「妙です。この先に居る人間の足音が慌ただしい感じがします。何かから逃げているかのようですね。それに足音がもう一つ――――」

 花中が問うと、フィアは自分の感じたものをすぐに教えてくれた。が、その言葉は最後まで語られない。

 その前に茂みを力いっぱい掻き分けたマーガレットが、『人影』と鉢合わせしたからだ。

 現れた人影の数は四。全員マーガレットと同じ格好(ただしヘルメットは付けているが)をし、大きな銃を持っていた。四人組はマーガレットが茂みから出た瞬間銃口をマーガレットに向けてくる。びくりとマーガレットは身体を震わせたが、幸いにして彼等の銃口が火を噴く事はなかった。

 されどマーガレットに安堵の気配が浮かぶ事はない。四人組……マーガレットの仲間らしき人間達は、例えヘルメットで顔が隠れていても分かるぐらい、怯えた様子なのだから。

「『ま、マーガレット少佐! 無事だったのですか!』」

「『ああ、なんとかな……しかし通信機が破損し、状況が分からなかった。現在戦局はどうなっている?』」

「『……仮設基地は守りきったと聞いています。ですが残存兵力は襲撃前の半分にまで減りました』」

 マーガレットが彼等と交わす会話を、花中は聞き逃すまいとしっかり聞き耳を立てた。仲間との再会で警戒心が解けていると判断したのか、フィア達はこれまでよりかなり近い、三メートルほどの距離まで詰めている。森が静かなお陰もあり、声自体はちゃんと聞こえた。

 彼等の言葉はネイティブな上に早口な英語だったが、それでも花中は大凡の会話を理解する。どうやら部隊が壊滅したらしい。マーガレットが一人で行動していたのは、何かしらの理由により仲間とはぐれた、もしくは自分以外の仲間がやられたという事なのだろう。白饅頭の数は花中が予想していたよりも多く、またマーガレット達の部隊も花中が思っていたより大きなものらしい。尤も後者は、現在半壊しているようだが。

「『なっ!? 半数だと!? 今日の戦闘前まで、損耗率は一割を超えた程度だった筈。確かに二時間前の襲撃は大規模だったが、まさかそこまで……』」

 マーガレットは信じられないと言わんばかりに声を荒らげる。仲間もマーガレットの気持ちを察するように、こくりと頷いた。

「『ええ、その通りでしょう。確かにあの襲撃は大規模でしたが、我々ならば損耗軽微で撃退可能なレベルでした……No.(ナンバー)3FB2だけなら』」

 ただしヘルメットを被った一人がこう 告げた時、マーガレットはハッとしたように身を強張らせる。

「『……まさか』」

「『新種が現れました。形態的にNo.3FB2と酷似している事から、成長個体という可能性が高いと思われます。しかしサイズが……』」

 驚きを露わにするマーガレットに、仲間の一人が事細かく説明をしようとする。秘密の話なのか、段々声が小さくなっていった。

 人間である花中には、三メートル離れた位置からでは聞き取るのが難しくなってきた。しかし恐らく難なく話が聞こえている筈のフィアとミィは、英語が分からないためキョトンとしている。彼女達から後で詳細を訊く事は不可能だ。自分がやらねばと花中は意識を集中させた。

 刹那、ずしんと、大地が揺れる。

 それも一回ではなく、まるで揺さぶられるかのように絶え間なく!

「『っ!? なんだこれは!?』」

「『しまっ……』」

 動揺するマーガレットと花中を余所に、ヘルメットを被った人間達は素早く銃を構えようとする。されど揺れが大きくなる、否、近付いてくる速さに追い付けない。

 誰もが銃口を真っ正面に向ける事も叶わないうちに、それは山の木々を押し倒して現れた。

 青味の混じった白色の身体、四つに分かれたクチバシ、触手のような手足、寸胴な胴体。どの特徴も白饅頭とよく似ていた。が、あまりにも大きさが違う。白饅頭が五十センチほどしかないにも拘わらず、マーガレット達の前に現れた『生物』の体長は四メートルを超えていた。身体もよく見れば屈強な筋肉がぎっしりと詰まっており、白饅頭の肌が赤子のように無垢に思えてくる。体表には無数の傷が刻まれ、かの生物が苛烈な争いを切り抜けた『戦士』である事を物語った。

 明らかに、麓で出会った小さな白饅頭とは実力が違う。

 遠目からその生物を目の当たりにした花中の本能は、即座にそれを察した。白饅頭は銃で殺せたが、コイツはそもそも銃弾が皮膚を貫通するかも怪しい。マーガレット達の武装では歯が立たない筈だ。

 もっと大きな、例えば戦車のような兵器がなければ――――

 そう思っていたところ、不意に森の奥からきゅるきゅるという()()()()()()が聞こえてくる。いや、確かに必要だと思ったけど……あり得ないつもりで考えていた事が現実になろうとして、花中は口許を引き攣らせた。

 そして森の中から細い木を押し倒しながら跳び出してきたのは、一台の戦車。

 機種は不明。全長は十メートル程度で、大きな白饅頭よりも更に倍近く大きい。車体には細かな傷と、黒ずんだ青い液体がべっとりと付いていて、切り抜けた戦いの激しさを物語る。車体には立派な砲塔が備わり、大きな白饅頭に向けられていた。

「『! 戦車か! これなら……』」

 マーガレットも期待の声を上げ、それに応えるかのように戦車の砲が火を吹く!

 その爆音は、何かしらの技術によって抑えられているのか、花中には左程五月蝿いとは思えない大きさだった。だが放たれた砲弾の威力が落ちた様子はなく、超音速の攻撃は巨大白饅頭目掛け直進し

「ギギャゥッ!」

 巨大白饅頭は戦車の砲弾を()()()()()()

 文字通り、素手で殴り、落としたのだ。軌道を捻じ曲げられた砲弾は地面とぶつかり、大爆発を起こす。舞い上がる多量の土砂が、放たれた弾丸が決して低威力の代物ではない事を物語った。衝撃波に寄るものか木々が何本か倒れ、日の光が森の中を照らす。お陰で巨大白饅頭の姿がとてもよく見える。流弾と殴り合ったかの者の手には傷一つ付いていなかった。

 即ち戦車砲さえも、大きな白饅頭には通じていないという事。

 花中は驚愕した。戦車砲が通じない生物……それ自体は、幾らでも見てきた。今此処に居るフィアとミィもそうだし、海の向こうの大蛇、宇宙の彼方よりやってきた異星の生命体、先日の古代植物もきっとそうだろう。

 だが、此処は地元にある山だ。そしてあの大きな白饅頭は、きっと小さな白饅頭達が成長した姿である。

 将来あんな怪物となるかも知れない生物が、この森には何十何百もひしめいている――――

「ギギャアアッ!」

 花中が身の毛もよだつ恐怖を感じた最中も状況は移り変わる。

 大きな白饅頭は戦車に跳び掛かるや、その装甲を素手で剥がし始めたのだ。戦車は機銃で反撃を試みるが、主砲すら効かない化け物に傷を付けられる筈もない。白饅頭は悠々と、まるでミカンの皮でも剥くように金属の装甲を粉砕する。いくら加えられている力の性質が異なるとはいえ、同格の戦車砲ならば耐えられるほど頑強な装甲がなんの役にも立っていなかった。

 ついに白饅頭は戦車の上部ハッチを破壊、するや即座にその中へと頭を突っ込む。次いで奏でられる、パキリ、ポキリ、クチャクチャ、ジュルジュル……

「う、ぶっ……!」

「花中さん? あらあらあらあら大丈夫ですか?」

 何が起きているか。例え直視した訳ではなくとも、その明確なイメージが脳裏を過ぎり、花中は吐き気を抑えられなかった。フィアは自分の腕が花中の吐瀉物で汚れてもさして気にせず、花中の背中を綺麗な方の手で摩る。お陰でほんの少しだけ気分が良くなった……晴れたと呼ぶには程遠いが。

 何しろ大きな白饅頭は未だ健在。

 加えてその傍には、逃げ出せていなかったマーガレット達が居るのだから。

「『クソっ、化け物が……!』」

 顔を引き攣らせるマーガレット、慄くように後退りする彼女の仲間達。されど『食事』を終えた巨大生物は顔をもたげると、彼女達の方を凝視した。見逃してくれるつもりはないらしい。

 マーガレット達は素早く武器を構えた。花中も彼等を助けるよう、友達に頼もうとした。

 だが、何もかもが遅い。

 かの生物は巨体を有していながら、正しく弾丸の如く速さで動けたのだから。人間達は誰一人、逃げる仕草をする暇すら許されない。遠くから客観視している花中でさえ、目の前の光景の意味を、未だ脳細胞が理解していなかった。

 故に人間は呆然と、恐怖する暇すらないまま白饅頭を眺め――――激しい土埃が舞い上がるのと同時に、爆音が周囲に轟いた。

 そして共に舞い散る、無数の肉片。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……へ?」

 ずっと白饅頭とマーガレット達を見ていた ― 見る事しか出来ていなかった ― 花中は、その瞬間も目の当たりにしていた。されど理解出来ない。

 瞬きすら出来ない刹那の隙間に割り込んだ『一人』の少女が、白饅頭の顔面を素手でぶん殴ったという事なんて。少女の拳が弾丸よりも速く、目視すら許さない速度で放たれた事も。拳を受けた生物の身体が、ぐにゃぐにゃに歪み、膨れ、破裂した光景さえも……花中は遠目で見ていながら、何一つ分かっていなかった。何もかもが速過ぎて、シナプスの反応が追い付かないがために。

 少女の拳は、一撃で大きな白饅頭を粉砕した。ならばその拳の威力は、戦車など比較対象にすらならないだろう。

「あ、ヤバ。ちょっと力入れ過ぎたかも」

 ましてやその少女のぼやきが、如何にも『うっかり』していたなら?

 誰もが呆けた後、恐怖するに違いない。しかしながら今この瞬間、恐怖を抱ける人間は何処にもいなかった。

 何故なら少女の放った拳の余波が、マーガレット達を襲ったのだから。

「ぐぎゃあっ!?」

「ごっ!?」

「おぐぅっ」

「へぎゃっ!」

 四人のマーガレットの仲間達は衝撃をもろに受けてしまい、次々と吹っ飛ばされる。離れている花中ですら、少し衝撃を感じたほど。仲間達の後ろに居たマーガレットはなんとか踏み留まっていたが、それだけで彼女の体幹の強さが窺い知れる。

 暴風が止んでからも、人間達は中々起き上がれない。マーガレットだけが、辛うじて少女を見据えられる。

「な、何故、お前が此処に……!?」

 マーガレットは日本語で、助けに入った少女――――ミィを問い詰めた。

 そして問い詰められたミィはゆっくりと振り返り

「アターシ、ガイコクジンデース。アナタナンテシリマセーン!」

 片言の日本語がとてもよく似合う、外国人男性の顔を見せた。

 ……声と身体付きは間違いなくミィなのに、顔だけがミィではなかった。思っていたのとまるで違う顔を見せられ、マーガレットはぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。

「……はいぃ?」

 ようやく絞り出した言葉は、どこぞのドラマに出てくる紅茶好きな警部のような声だった。

「ソレデーハ、アターシハコレニテシツレイシマース!」

 マーガレットにミィっぽい誰かさんは別れを告げるや否や、地震を伴うほどの脚力を以てして跳躍。マーガレットは襲い掛かる震動で尻餅を撞き、誰かさんは瞬きほどの時間も掛けずにこの場から消えた。

 残されたマーガレットはへたり込み、ぽかんと虚空を眺める。

 そしてそれを木陰から遠目に見ていた花中も、ぽかんとマーガレットを眺める。ずどんっ、と重々しい揺れが起きても呆けたままなのは変わらず、揺れがあった方……自分達の真横へと振り返るのは半ば無意識。

「ふぅー、どうにかやり過ごせたね!」

 そこにはおっさん顔をぐにゃぐにゃと歪ませながら、自信満々にそう告げてくるミィの姿があった。

 ああ、そう言えばあなた姿をある程度なら変形させられるんでしたよね……今更ながら思い出したミィの力の一端に、花中は項垂れる。

 恐らく、マーガレット達が死んだら美味しいものが何処にあるか分からない、だけど追跡がバレたら美味しいもののある場所まで連れて行ってくれないかも知れない……とでも考えて、『変装』してから助けたのだろう。発想は ― 前提を根本的に間違えているという点に目を瞑れば ― 悪くないのだが、あんなパワーを見せ付けたら誰でもミィだと気付く。ミィの能力を知らずとも、「さっき出会ったヤバい戦闘力の持ち主」の仲間と思うに違いない。

 つまるところ、何一つ誤魔化せていない訳で。

「う、うぅ……」

「『何があったんだ……?』」

 やがて、衝撃波で吹っ飛ばされていた仲間達がのろのろと起き上がる。彼等は困惑からか酷く動きが緩慢で、しかしバラバラになった白饅頭を見て跳ねるほどに驚愕した。

 そして唯一意識を保ち続けていたマーガレットに、視線で説明を求める。

 ……マーガレットは額に手を当て、深々と項垂れた。頭痛もするのか顰め面も浮かべている。「何故」「どうして」という単語ではなく、「何やってんのアイツら」と言いたげだ。深いため息も吐いた。

「……隠れてないで出てこいっ! 目的があるなら話を聞こう!」

 次いで全方位に向け、大声で『日本語』を振り撒いた。

 突然声を張り上げるマーガレットに、彼女の仲間達は驚くよりも怯えるように身を震わせる。彼等からすればこの森は白饅頭達が蠢く危険地帯。『餌』は此処に居るぞと公言するような真似に、恐怖を感じぬ筈がない。

 そして()()()()()()()フィア達は、彼等よりも驚いていた。

「なっ!? あの完璧な変装を見破るなんて……!」

「ほうアレで誤魔化されないとは……少しばかり人間を見くびっていましたか……」

 ……どうやらミィだけでなく、フィアまでもアレで誤魔化せていたと信じていたらしい。今度は花中が、先程までのマーガレットと同じ顔になった。

 なんにせよ、バレてしまったものは仕方ない。

 このままだんまりを決め込む、というのも手の一つだろう。ただの人間であるマーガレットにフィア達を捕まえる、いや、見付ける事すら出来やしないのだから。とはいえマーガレットは、それで自分達が近くに居ないとは思ってくれまい。まさか本当に美味しいものを独り占めにしようとしている訳ではないだろうから、隠れて尾行する意味なんてない筈だ。

 隠すのなら徹底的に、開かすのなら正直に。何事も半端なのは良くない。

「……うん。バレちゃったし、隠れるのは、止めようか」

「花中さんがそう仰るのでしたら」

「むぅ、仕方ないか……」

 花中の提案に人外二匹は同意。花中はフィアに抱きかかえられている体勢から下ろしてもらい、全員同時に木陰から出てマーガレット達に姿を見せる。

 マーガレット以外の者達は現れた追跡者に素早く銃口を向けてくるものの、マーガレットの手がそれを下げさせる。彼女は前へと出てくると、呆れたような顔で花中達を見据えた。

「一応訊いておこう。何故我々を尾行する?」

「ふふん隠そうとしても無駄ですよ。あなた達だけで美味しいものを食べようとしているのでしょう?」

「独り占め、じゃないかもだけど、人間だけで美味しいものを食べようなんてズルいぞ! あたし達にも食べさせろー!」

 マーガレットからの問いに、フィアとミィは自信満々に抗議した。

 無論人間からすれば意味不明ないちゃもんである。マーガレットの仲間達はぽかんとした様子で棒立ちしたり、互いに顔を見合わせて首を傾げたりするだけ。きっとヘルメットの中で、キョトンとした表情を浮かべているに違いない。

 マーガレットだけは花中の事をジト目で見つめてきて、花中は申し訳なさからぺこぺこと頭を下げる事しか出来ない。マーガレットは大きなため息を吐いた。

 されどその一息吐いた後には、彼女の顔に呆れの感情はない。鋭く、獰猛で、勇ましい……兵士の表情を浮かべていた。

「良いだろう、ちゃんと説明しよう。着いてこい。仮設基地まで案内してやる」

 マーガレットはそう言うと、すたすたと歩き始めた。彼女の仲間達は一瞬戸惑ったように足を止めていたが、ちらりと花中達を一瞥してからマーガレットの後を追う。

 フィアは花中の目をじっと見つめてくる。ミィも花中の方を見る。友達二匹から意見を求められた花中は、少しだけ考えた後こくりと頷く。

 今度は隠れる事もなく、一人と二匹はマーガレット達の後を追うのだった。




こんな事もあろうかと戦車を持ち込んでおいたのさ!
戦車さんは主砲の圧倒的パワー、装甲による破格の防御力、なんやかんや自動車並にはあるスピードを兼ね備えた、かなり『強い兵器』なんで私は好んで登場させます。航空機と違って撃破方法に頭抱えなくて良いしね!(オイ)

次回は12/23(日)投稿予定です


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未来予想図4

 泥落山の中腹、最も木々が鬱蒼と茂る場所に、無数のテントが立てられていた。

 テントはいずれも迷彩色をしており、遠目からでは森の景色に紛れて発見は困難だろう。テントの側に置かれている大量のプラスチック製の箱や、駐車しているトラックや戦車にも迷彩が施され、隠密性を高めている。誰からも見付かりたくないという意思がひしひしと感じられた。当然、テントの間を行き来する何百もの人間達も迷彩服である。

 迷彩服を着ていないのは、テントの中へと『案内』された花中達ぐらいなものだった。

「……………」

「ほー何時の間にかこんな場所を作っていたんですねぇ。最近この山には来てませんでしたから全然気付きませんでしたよ」

「そだねー」

 パイプ椅子に座る顔面真っ青な花中を挟むような位置取りで、フィアとミィが能天気な会話をしている。花中達の周りにはアサルトライフルのような ― しかしより大型で、威力が高そうな ― 銃を構え、その物騒な銃口をこちらを向けている男性が二人も居るのに。

 確かにフィア達には銃など通用しないだろう。花中に関しても、野生の勘で瞬時に行動を起こせるフィアと、弾丸を簡単に躱せるほど素早いミィが両サイドに居るのだ。仮に銃口を向ける二人が何かの拍子に撃とうとしても、撃つ前にフィアが彼等を八つ裂きにするか、ミィが迫り来る何十何百もの弾丸を易々と叩き落とすだけである。花中の身は『絶対』に安全だ。

 それでも怖いものは怖い訳で。

「……銃を下ろしてやれ。どのみち、奴等にこんな豆鉄砲では効果がない」

 花中と同じくパイプ椅子に座っているマーガレットが指示を出してくれなければ、花中は何時までも震えていただろう。

 指示を受けた男性二人は素早く銃口を地面へと向ける。花中達を見張る彼等はマーガレットから、フィア達がどれほど強大な……それこそ此処に居る人間を一瞬で皆殺しに出来るぐらい……生命体であるか伝え聞いている筈。上官からの命令とはいえ、フィア達(危険生物)を前にして躊躇なく命令を遂行する精神力。相当の訓練を受けた兵士であろうと花中は察する。

 それが花中の違和感を膨らませるのだが。

 マーガレット当人や、道中で出会ったマーガレットの部下達も、極めて優れた戦闘能力を有していた。そして白饅頭という恐ろしい怪物に立ち向かえる精神力を有している。マーガレットは白饅頭の恐ろしさを知りながら仲間の下に戻ったし、その仲間達も戦車の搭乗員が白饅頭に喰われてもパニックには陥らなかった。身体能力と併せて考えれば、軍隊の中で精鋭と呼ばれるような部隊に所属出来る実力者かも知れない……本当にそうかは、軍隊の知識があまりない花中には断言出来ないが。

 なんであれ彼等が優秀な兵士なのは間違いない。では、何故そのような実力者達が泥落山に居るのだろうか?

「さて、聞きたい事は色々あるだろうが、まずはこちらから質問させてもらおう。お前達は、なんの目的でこの山に来た? 私は、町に帰れと言った筈だが」

 残念ながら、この疑問の答えはすぐには教えてくれないらしい。

 とはいえ明らかにぴりぴりした顔付きをしているマーガレットや彼女の部下達を見て、こちらの駄々を通す気にもならない。花中はマーガレットからの問いにおどおどしながらも正直に答えた。

「え、えと……か、狩りに……というか遊びに、来ました」

 ……正直に答えない方が、色々面倒がないような気もしたが。

「……遊びに?」

「は、はい。えと、ミィさん……この子に、誘われまして」

「そーそー。今日はね、良い獲物が獲れそうだなーって思ったからさ」

「そしてあなた方が狙ってる怪物が大変美味しいと分かりましたからね。独り占めなんて許しませんよ!」

「……成程。私の警告は、美味しいものを独り占めするための言い訳と取られた訳か。なら、こうは思わなかったのか? 独り占めするために、人間達は自分達を攻撃してくるんじゃないか、とは」

「んー、ちょっとは思ったかな。でも、なんでそんなの気にする必要ある訳?」

「人間なんて雑魚なんですから攻撃してきても無視すれば良いだけの話ですからね」

 ミィとフィアの意見に、場の空気が僅かに張り詰めたのを花中は感じ取る。兵士だけに、戦闘能力には自信がある筈だ。それを貶められて、何も感じないというのは難しい。

 しかしやはり彼等は優秀な兵士であり、フィア達の意見に反発する者は出なかった。マーガレットは何やら思案顔で、フィア達の言葉を吟味している様子。

 マーガレットは他にも、普段フィア達が何をしているだとか、何処に暮らしているとかを尋ねる。次々と投げ掛けられる質問に、フィア達は嘘偽りなく答えていった。あまりにもすらすらと答えるからか、周りに居る兵士達は疑念より呆けている様子だ。

 マーガレットの方も、質問を重ねる毎に緊迫感が薄れていくのが花中にも分かる。やがてマーガレットは身体から力を抜き、自身が腰掛けているパイプ椅子の背もたれに寄り掛かった。

「……一先ず、君達が我々の敵でない事は理解した。信用するとしよう」

「最初からそう言ってるじゃないですか」

「ねー」

「あ、あの、えと……あ、ありがとう、ございます」

「礼には及ばない。むしろ先程助けてもらった礼を言わねばならんぐらいだ……その上で、厚かましい事は承知しているが一つ頼みたい事がある」

「? 頼みたい事、ですか?」

「端的に言うと、我々が遭遇した怪物の退治を頼みたい」

 真っ直ぐに目を見つめながら、ハッキリと告げた言葉。

 マーガレットの『頼み事』が冗談の類でない事は、付き合いが浅い花中にもすぐ理解出来た。故に花中は目を見開き、思わず息を飲む。

「た、退治、ですか?」

「そうだ。それも完全な、絶滅させるレベルでの駆逐だ」

「絶滅……」

 ごくりと、花中は息を飲む。絶滅……一匹残らず始末するというのは、穏やかな話ではない。白饅頭がどんな存在か分からない今、マーガレットの言葉は酷く物騒に聞こえた。

 マーガレットにもその自覚はあるのか、無意識に花中が表情を強張らせても不機嫌になったりはしない。凜とした顔は、ぴくりとも揺らがなかった。

「とはいえいきなり言っても訳が分からないだろう。まずは我々について説明しよう」

 マーガレットは椅子から立ち上がり、花中のすぐ目の前までやってくる。長身なフィアをも上回る体躯に、花中は座った体勢のまま思わず身動ぎ。

「我々はDCE。人類にとって危険な生命体の探知・追跡、そして駆逐を任務とする……所謂秘密結社だ。私はこの組織のメンバーの一人であり、実働部隊の戦闘指揮官をやらせてもらっている」

 尤も『自己紹介』をした時のマーガレットは、誇らしげで、眩い笑みを浮かべてみせたので、花中の中にあった怯えた感情は簡単に抜けてしまったが。

「秘密結社とはまた胡散臭いですねぇ」

「他に例えがないのだから仕方ない。一般には知られていないが、公的機関の支援を受けている組織とでも思ってくれれば良い」

「……公的って、どの辺りの事を、指してますか?」

「それについては黙秘する。尤も、あまり意味はないだろうがな」

 マーガレットの台詞に、確かに、と言いたくなるのを花中はぐっと堪えた。

 此処は日本の一地域であるが、しかしマーガレット達はお世辞にもアジア系にも見えない。そこから考えれば……どの程度の規模で活動している組織、その組織のバックの大きさが、なんとなく見えてくる。

 話したところでフィア達は「ふーん」としか思わないだろう。しかし花中としてはあまり敵対したくない相手だと思った。

「話を戻そう。今回、我々はこの地である種の生物の活動が活性化した事を捉えた。あの怪物達……我々は奴等の事を3FB2と呼んでいる」

「3FB2……」

「覚え難い名前ですねぇ。白饅頭で良いじゃないですか」

「我々には分かりやすい名前でね。呼び方を強制するつもりはないが、我々はこの名前を使わせてもらう。さて、3FB2について調査を進めた結果、三つの事実が判明している」

 マーガレットは三本の指を立て、すぐに一本の指を折る。

「一つ、この生物は『現代』の生物である」

 二本目の指も、すぐに折られる。

「二つ、この生物は現在その繁殖に止まる気配がない」

 最後に三本目の指を折り、マーガレットは花中を見つめながらこう告げる。

「三つ、野放しにした場合、大量発生した3FB2により大量の人命が失われ、現代文明は大きなダメージを受ける」

 マーガレットは指の数だけ述べると、口を噤んだ。あたかも、花中の意見を待つかのように。

 しかし花中はすぐには言葉を紡げない。

 押し込まれた情報が、あまりにも『刺激的』だったがために。

「……あ、あの……ど、どういう、事、ですか……?」

「一つ一つ説明しよう。現代の生物というのは文字通りの意味だ。君は『マグナ・フロス』を知っているか? 数ヶ月前に古代より蘇った植物であり、航空機すら撃ち落としたという怪物だが……あれとは違い、3FB2は現代の生態系に適応した生物だ。在来種と言えば分かりやすいか? 元々この地に生息していた、ただの野生動物という事だよ」

 少しばかり他の動物より強いがね――――皮肉混じりの説明を受け、花中は一つ目の『事実』をどうにか飲み込む。フィア達はこの泥落山に、『マグナ・フロス』に匹敵する『何か』の存在を察知していた。白饅頭がその何かであるならば、マーガレットが言うように昔から生息していた生物なのは事実なのだろう。

 けれども、だとすると二つ目の『事実』に違和感を覚える。

「えと、では何故、今は、繁殖が止まらない……あんな、人里近くに降りてくるまで、増えたのですか? 現代の生物で、時折大発生するような生き物、なら、もう、とっくに周知の存在になっている、筈です」

「詳細については不明だ。何かしらの地殻変動があった影響で天敵となる生物が激減または絶滅した、というのが我々の考えだが確証はない」

「地殻変動……」

 脳裏を過ぎる可能性……昨年末に体験した、アナシスと異星生命体の激戦。彼女達の戦いは凄まじく、地球のあちこちで火山噴火や大地震を起こし、幾つもの国が壊滅的被害を受けた。

 そして天災は良くも悪くも『平等』だ。被害を受けたのは人間だけに留まらない。多くの野生生物も、天変地異の影響を受けている。個体数が少なかった種や、不運にも災害が直撃した種が絶滅していたとしてもおかしくはない。

 白饅頭の天敵がアナシス達の『ケンカ』に巻き込まれて滅びたとしても、これは自然の出来事である。なんらかの生物により、他の生物が滅ぼされるという事は、大昔から度々起きているのだ。だからこれは善悪で語れる話ではない……しかし人間にとって死活問題である。

「……三つ目については……」

「人間を喰うような生物が何千万と拡散すれば、日本がどうなるかなど容易に想像が付く。日本の生産力と軍事力、経済力が短期間で消失すれば、人類文明は大きなダメージを受けるだろう……そんな時に新たな、3FB2と同程度に危険な生物が現れたら、どうなると思う?」

「そんなの……」

 訊くまでもない。口を閉ざした花中を見て、マーガレットもそれ以上語ろうとはしなかった。

 『マグナ・フロス』を撃破して以来過ぎる、人類繁栄の儚さ。その考えは正しかったらしい。地球の支配者を名乗っていた種族なのに、ほんの二種の生物が暴れ回るだけで危機を迎える。数千年と栄える事が出来たのが、如何に奇跡的な事だったのか。

 そして奇跡は何時か終わるもの。そのタイミングが『今』だとしても、なんらおかしな事ではないのだ。

「無論、我々とて手をこまねいている訳ではない。先進国で採用されている以上の装備を持ち、撃滅に当たった。だが既に奴等は膨大な数に増えている。現状の戦力では苦戦……いや、正直に言おう。このままでは3FB2を抑えきれない」

 マーガレットは更に、自分達……ひいては人類が置かれている状況についても教えてくれた。花中が思っていた通り、否、思っていた以上に状況は悪いらしい。

 人間には優れた英知があるが、それらが『敵わないモノ』が幾らでもいる事を花中は知っている。3FB2と名付けられた生物も、人間の手には負えない存在のようだ。もしかしたら何かしらの対抗策があるのかも知れないが、ない可能性だってある。人間は決して選ばれた種族なんかではない。『天敵』との戦いに、勝利は約束されていないのだ。

 人類に滅びが歩み寄っている。

 だけどフィア達ならば。

 人類が作り出した数々の兵器すらも耐えられる、人智を超えた出鱈目な能力ならば、人の世を滅ぼす怪物であっても……

「だから頼みたい。人類のために、君達の力を貸してもらえないだろうか」

 一人の人間として、花中はマーガレットの言葉に無意識な頷きを返し

「嫌です」

「あたしもやだ」

 耳に入ってきた二匹の友達の言葉に、小さく項垂れる。

 フィアも、ミィも、その顔に迷いなんてこれっぽっちも見られない。声の暢気さからしても、彼女達は本当に人間を助ける気はないようだ。

 マーガレットは睨むような眼差しをフィア達に向ける。

「……理由を聞いても?」

「理由も何も別に白饅頭を倒さずとも私が困る事はありませんし」

「あたしも同じ。人間は好きだけど、人間に尽くすつもりもないからね。なんでも言う事聞くと思ったら大間違いだよ」

「何よりあの白饅頭は美味しかったですからねぇ」

「ほんとほんと、ほっぺた落ちそうなぐらい美味しかったよねー」

「あなた達は白饅頭を絶滅させるつもりなのですよね? 根絶やしにしたらもう食べられないじゃないですか」

「そんなのごめんだね」

 マーガレットや彼女の部下達からの視線などお構いなしに、フィアとミィは自由気儘に、堂々と自分の考えを伝える。そこに一切の後悔や後ろめたさは感じられない。むしろ自分の答えが最良だと信じているような、自慢げな笑みまで浮かべていた。

 ああ、やっぱりそういう答えになるよね――――花中は分かっていた二匹の反応に、苦笑いを浮かべてしまう。

 フィア達(野生動物)は何時だって利己的だ。自分の得になるかどうかが最も優先される。知性を獲得してもそれは変わらない、いや、知的になったからこそ長期的な利益にも思考を巡らせる事が出来るのだ。

 美味しい食べ物をどうして皆殺しにしなければならない? 人間の命が掛かっている? 人間だって美味しいという理由で、他の生き物を食べている肉食魚の放流をしているではないか……それと()()()()()()()

 フィア達の答えは、花中にとっては予想の出来るものだった。とはいえマーガレット達は違う。彼女達がミュータントの事を知っているかは分からないが、あまり友好的でないフィア達に親しみを覚えてくれると考え難い。

 もしかすると、マーガレット達から敵として認識されるのでは……

「君達の意見は分かった。そういう事なら、無理強いはしない」

 不安に思っていた花中にとって、マーガレットのこの言葉は安堵を感じさせるものであり、同時に疑問を抱かせるものでもあった。

「え? ……い、良いの、ですか……?」

「良いか悪いかで言えば、あまり良くはない。此度の件は最悪人の世が滅ぶきっかけとなり得るのだからな。しかし同時にこの危機は、乗り越えられる可能性がある危機だ。だとしたら、人類にとって『チャンス』でもある。小さな危機から経験を積み、成長のための足掛かりに出来るのだから。それをみすみす見逃すのも、それはそれで愚策だろう」

「……………」

「何より、誰かに守ってもらうのでは家畜と変わらない。自称ではあるが万物の霊長を名乗る種族が、自分達の生存を他者のご機嫌に委ねるなど滑稽ではないか?」

 マーガレットの意見に、花中は無言のまま小さく頷いた。

 人の問題であるなら、人の力で解決すべきだ。自分達よりも大きな力に安易に頼るのは、確かに簡単で、確実で、効果的で……故に気付けない、衰退への道である。

 最期の間際まで自分の足で立っていたい、というのは人間的な考え方かも知れないが……花中は人間である。マーガレットの意見に強い賛同を覚えた。

「まぁ勝手に頑張れば良いんじゃないですかね」

「うん。手伝いはしないけど、邪魔するつもりもないし」

 そんな人間達を、動物二匹は他人事のように応援する。手伝う気はないのに励ますという適当ぶりに花中としても思うところがない訳ではないが、しかし逆に考えれば自分達の食べ物を守るため人間を攻撃するとも言っていない。好きにやらせてくれるだけマシかなぁ、と花中は考える事にした。

 それに、正直なところフィア達が人間に協力し、白饅頭を根絶やしにするのは()()()()行いだと花中は感じていた。

「……すみません、お力になれず」

「気にしないでくれ。後は、我々の仕事だ」

「話は終わりましたか? でしたら私そろそろ狩りに戻りたいのですけど」

「あたしもあたしも。もうお腹ぺこぺこだよー」

 そろそろマーガレットとの話にも飽きてきたのか、フィア達は花中の服の袖を引っ張りながら訴えてくる。花中としては、マーガレットと話したい事はまだあるが……多分教えてくれないだろうものばかり。マーガレットの顔色を窺う限り、彼女にはもう話はなさそうだ。

「えと……では、わたし達は、行かせてもらいます。応援、してます……その、応援しか、出来ませんけど……」

「ああ、ありがとう。我々から言えた事ではないが、道中気を付けてくれ」

 花中は別れを伝え、マーガレットもそれを受ける。

 フィア達と共に花中はテントを出て、見送ってくれているマーガレット達に手を振りながら、『森』を目指して歩いた。

 無論、そのためにはテントがあるこの場所――――マーガレット達が設営した野外基地の中を通る必要がある。此処に来たばかりの頃は銃を向けられていた事もあり、あまりじっくりと見る余裕はなかったが……改めて見ると、彼等の疲弊具合が窺い知れた。置かれている車両は傷だらけ。物資らしきプラスチック容器には空の箱が押し込まれている有り様。歩いている兵士は疎らだが、誰もが暗い表情をしていた。

「……フィアちゃん。あの、この人達……あの白饅頭に、勝てると思う?」

「一匹二匹ならなんとかなるんじゃないですか? 大きいのが群れで来たら駄目でしょうけど」

 無意識に花中はフィアに尋ねて、フィアは何も考えずに正直な感想を伝えてくれる。予想通りの答えに、花中は小さなため息を吐いた。

 しかし、ため息を吐いただけだ。

 やがて花中とフィア、ミィは野外基地の外に足を踏み出す。此処まで自分の足で歩いていた花中だったが、フィアが訊きもせずに身体に手を回してきて、軽々と抱き上げた。一瞬の驚きはあるが、元より森の中ではずっとこの体勢だったので、すぐに慣れる。花中はフィアにしがみついて、万が一にも落ちないようにした。

「えと、それで、何処に、行くの?」

「あっちですね」

「こっちだね」

 それから花中が行く先を尋ねれば、フィアとミィは同じ方角を指差した。

 彼女達が指し示すのはより森の奥深く、のように見える景色。見えるだけで、本当に森の奥かは分からない。

「あっちに、何かあるの?」

「白饅頭の気配がします。それもとびきりたくさんの気配です」

 花中からの問いに答えながら、フィアは爛々とした足取りで自分が示した方へと歩き出す。ミィも大地に穴を開けながら、フィアの隣を歩く。

 花中にとっては、『期待通り』の展開だった。

 マーガレットは自分達人間の手で3FB2……白饅頭の打倒を望んでいた。花中も一人の人間として、マーガレットの意見に同意している、が、本心では別の考えを抱いていた。というのもマーガレット達は白饅頭を絶滅させるつもりだったが、話によれば彼等はこの泥落山の生態系を構成する一員である可能性が高い。人類にとって危険だからという理由で駆逐すれば、彼等が抑え付けていたものが大繁殖する可能性がある。それも退治すれば良いのかも知れないが、そうしたらそれが押さえ付けていたものが大繁殖し……同じ事を何度も繰り返し、本当に手が付けられなくなる時まで犠牲を出し続ける事になるだろう。勝ち続けたところで、最後に残るのは生命のいない荒野だけだ。

 だが、フィア達なら。

 フィア達にとって白饅頭は有象無象に過ぎない。何十もの兵士や兵器が集まっても敵わない大群も、圧倒的な力で簡単に蹴散らしてしまう。彼女達は襲い掛かってくる相手は容赦なく叩き潰し、自らの餌としてしまうだろう。それでいて、必要以上の殺しもしない。白饅頭は美味しい餌であり、敵ではないのだから。

 故にフィア達ならば、白饅頭達の新たな天敵になれる。いや、実際天敵になろうとしているところだ。彼女達は既に何千もの白饅頭を大地に還しながら、より美味なものを求めて森を練り歩いている。去る者は追わず、迫る者だけ殺し尽くす。彼女達ならば白饅頭の個体数を適正なところまで、人間に気付かれないところまで減らしてくれるに違いない。

 勿論フィア達は人間や自然のバランスなど考えていない。加えてミュータントは、花中の予想では『未来』の生物……この地の生態系の一員ではない。だからまだまだ数が多いのに狩りを止めたり、逆にやり過ぎて白饅頭を根絶やしにしてしまう事も考えられる。しかし少なくとも、明らかに絶滅を目的としている人間よりも()()()()可能性は低い。

 人命を守るという観点ではマーガレット達の迅速な対応は間違いなく正解だが、フィア達の力を信じている花中は、少しばかり『自然(フィア達)』に任せてみるべきではないかとも思っていた。不安がないと言えば嘘になるが、今の時点ではあまり危機感を抱いてもいない。フィア達に任せておけば『なんとか』してくれる……そんな確信に近い予感がある。

 それが今の花中の、正直な想いだった。

「花中さんどうしましたか? なんか先程から顔が緩んでますけど」

 考えていたところ、花中の顔をよく見ていたフィアから質問が飛んできた。どうやら気の緩みが顔に出ていたらしい。

 ぷるぷると顔を横に振り、花中は自らの頬を揉み解す。ニコッと浮かべた笑顔は、きっと何時も通りのものになっている筈だ。

「ううん、なんでも、ないよ。ちょっと、お腹空いてきたかもって」

「おおっと花中さんもついにあの白饅頭に興味を持ったのですね! ふふんならば一層大きくて美味な個体を探さねばなりませんね!」

「おっと、一番大きいのはあたしが頂くよ?」

 フィアの物言いに、楽しげにミィが異議を唱える。フィアは不遜な笑みで見つめ返し、ミィも獰猛な笑みを浮かべた。

 動物二匹はやる気十分。

 だとしたら花中(自分)に出来る事は、大人しく彼女達の行動を見守る事だけだ――――そう思った花中はたくさんの考えを巡らせた頭を休ませるように、フィアの腕の中で力を抜き、彼女達に全てを委ねる。

「……む?」

 尤も、お陰でフィアが不意に漏らした声がよく聞こえ、気にしない、という事が出来ないぐらい印象に残ったが。

 顔を上げてみれば、フィアは空を仰いでいた。空といっても頭上は生い茂る木々の葉に遮られ、青空の色など全く見えないが……フィアは間違いなく、空を見ていた。

 フィアは頭上の気配に敏感だ。何か、人間である花中には感じ取れないものを察知したのかも知れない。

「? フィアちゃん、どうしたの?」

「んー……いえ大した事ではありません」

 しかし訊いてみてもフィアは曖昧に答えるだけ。とはいえ隠すようではなく、フィア自身あまりよく分かっていない様子だ。

 少なくとも、フィアからすれば些末事なのだろう。

 それが人間にとっても些末とは言い切れないが……フィア自身分かっていないのだから、問い詰めても時間の無駄である。調べてみたところで、ちょっと大きな鳥だった、なんて事も十分考えられる。

 気に留めておくべきだろうが、心奪われても仕方ない。

「むむっ!? 野良猫の奴の姿が見えません! アイツ抜け駆けしましたね! 私達も急ぎましょう!」

「あ、うん。そう、だね」

 見えなくなったミィを追い駆けようとするフィアを邪魔するまいと、花中は考えるのを止めてフィアの『身体』に再びしがみつく。

 頭の片隅に置かれた小さな違和感は、フィアの力強い駆け足の中で段々と遠退いていくのだった。

 

 

 

 

「……協力は得られませんでしたね」

「想定内の反応だ。なんの問題もない」

 花中達が立ち去った後の野外基地の広間で、マーガレットとその部下の一人が話をする。マーガレットは本当になんの問題も感じていないかのように、落ち着いた表情を浮かべていた。

 基地内に居た兵士達はぞろぞろと集まり、マーガレットの前に並び立つ。総勢二百三十八名。誰もが屈強な肉体を持っていたが、その顔には疲労が滲み出ていた。

 マーガレットは兵士達の前で、堂々とした仁王立ちをする。胸を張り、そして開いた口からは、山中に響きそうなほど大きな声が出てきた。

「諸君! まずは私から礼を言いたい! 人類が未だその繁栄を享受出来ているのは、生き残った君達、そして惜しくも使命を果たした戦士達のお陰だ! 人類の一人として、君達には感謝してもしきれない!」

 マーガレットからの謝辞に、兵士達は神妙な面持ちを崩さない。彼等は現実が見えている。着飾った『言葉』なんかでは心は動かない。

 それは彼等の隊長であるマーガレットも同じ事だ。

「先程、本部から通達があった! 内容は二つ! 一つは増援が間もなく到着する! 総勢三百名の精鋭達だ! ……しかし聡明な君達は、現状をよく理解している事だろう。たった五百人ちょっとの戦力で、あの虫けらのように増えに増えた怪物共を駆逐出来る訳がない……私も同じ意見だ! 本部も同じ意見だった! 故に!」

 マーガレットは力強く、天を指差す。

 広間に集まった兵士達は、そろそろとマーガレットが指し示した方角に目を向ける……すると、彼等の強張っていた表情が呆気なく変化を起こした。

 最初は驚きで目を見開く。次いで、信じられないとばかりに首を横に振る。

 最後に、満面の笑みを浮かべるのだ。

「そう! 我々は、人類はついに『あれ』を完成させたのだ! どのような存在だろうと、どのような怪物だろうと……例え『神の炎』でも焼けない化け物だろうと、粉砕する力を!」

 マーガレットの大声の演説が、掻き消される。

 空から降りてくる、無数の大型輸送ヘリのプロペラ音によって。

「さぁ、反撃を始めるぞ! この星は人類のものである事を、無知蒙昧な畜生達に思い知らせるのだ!」

「「「おおおおおおおーっ!」」」

 勇ましき言葉に呼応し、兵士達は感極まった歓声を上げる。

 人類の未来のために。

 自分達の勝利を確信して。




順調にフラグを積み重ねる人類。彼等自慢の『アレ』は何処まで通用するのか。人類は自力で自然に立ち向かえるのか。
……立ち向かえたら立ち向かえたで、ますますヤバい事になるのが本作の大自然さんですけどね。だからって、ほっとくと白饅頭に人類喰い尽くされますが(ぇー)

次回は12/30(日)投稿予定です


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未来予想図5

「ギシャアアアッ!」

「ギシャ、ギシェアアッ!」

「ギャシャアアッ!」

 奇声を上げながら、五匹の白い怪物が森の中を駆ける。

 森の中の地面は強い湿り気を帯び、ぬかるんだ場所もちらほらと見受けられる。傾斜もキツく、天然の滑り台があちらこちらに出来上がっていた。人間ならば一歩一歩踏み締めるようにして歩かねば前に進めない環境だったが、されど怪物達は違う。

 身の丈四メートルを超える彼等の、一見して触手のような足の先にはスパイクのような突起があり、柔らかな地面に突き立てて足場を固定していた。その上突起は格納が可能で、足を前へ繰り出す間際には邪魔にならないようしまわれる。これにより彼等は悪路をものともせず、時速二百キロもの速さで駆け抜ける事が出来ていた。

 これほどの速さになると、飛び出している植物の枝葉でさえ凶器となる。故に彼等は優れた動体視力を発達させた。成長するほど、己の身体能力が増すほどに進化するその感覚は、体長四メートルはある彼等であれば音速の倍近い速さで飛んでくるライフル弾すらも易々と躱せる。万一回避出来ないような時への対応として、弾力のある頑丈な皮膜と、驚異的な再生能力も有するように進化した。目まぐるしく変化する状況に対処すべく脳も発達し、副産物ではあるが動物としては高い知能を有している。

 肉体、生命力、知性――――全てを兼ね備えた彼等は正に究極の生命体。イノシシだろうがシカだろうが、クマだろうがスズメバチだろうが、彼等にとっては全てが獲物だ。一方的に狩り、喰らい、舌と腹と喉を潤すための肉塊でしかない。

 それはこの森に入り込んだ、柔らかくて愚鈍で美味なる生き物達相手でも同じだ。

 彼等の優れた感覚器は、美味なる生き物がこの森に来た事を察知していた。そのうちの一匹が、すぐ近くまで来ている。増えに増え、食べ物に飢えていた彼等にとっては正に吉報。誰もが我先に獲物を貪り食おうと全速力で森を駆け

「みぃーつけたぁー」

 暢気な声に、五匹全てがその身に悪寒を走らせる。

 正面から『何か』が来ている。

 彼等の優秀な感覚器は危機を捉えた――――その時には何もかもが遅かった。

 自分達の動体視力でも捕捉出来ない超高速で接近してきた『何か』が、仲間の一匹を連れ去ったのだから。

「  ギシャッ!?」

 気付いた時には、仲間は余波で千切れたのであろう数本の足と青い血糊だけを残し、跡形もなく消えていた。遅れて悲鳴と肉の潰れる音がして、彼等は仲間の絶命を知る。

 何があったかは分からない。

 しかし本能は未だ危機を覚え、彼等は飢えも忘れて逃走を図る、が、二匹の仲間はそれも叶わなかった。地面が突如として水のように変わり、二匹の仲間を引きずり込んだのである。

 残りは二匹。その二匹も、抗う暇すら与えられない。

 正面と背後から、おぞましい化け物が二匹、同時に迫ってきたのだから――――

 

 

 

「もぐもぐ……んんー♪ これは美味ですねぇー。やっぱり大きいほどに美味しいようですね」

「ほんとほんと。奥まで来た甲斐があったってもんだよ。かぷっ」

 仕留めた五匹の白饅頭の、曰く最も美味しい部分である腹の脂身を頬張りながら、フィアとミィが喜びに満ちた感想を漏らした。

 四メートル級の白饅頭 ― とりあえず大型個体と呼称する ― は、一体で戦車を簡単に破壊するほどの戦闘能力を有していたが……フィア達にとっては幼体の白饅頭と大差なかったらしい。見付けてから殲滅まで僅か二秒。これでフィア達はまだまだ遊びのつもりである。

 『自然』の成り行きに任せようと思っていた花中も、これだと本当に白饅頭を絶滅させてしまうような気がして、ちょっと笑みを引き攣らせてしまう。

「花中さん花中さんこの辺りとか脂が乗ってて美味しいですよ。一口どうですか?」

 おまけに友達(フィア)からねっとりとした謎生物の生肉を食べるよう誘われたなら、いよいよ顔全体が強張るのも仕方ないだろう。

「え、あ、や、え、遠慮、しとこう、かな……」

「? でもお腹空いてるんですよね? 確かそう言っていたと思うのですが」

「へぁ!? そ、その、な、生肉は、ちょっと……無理で……」

「むぅそういえば人間は生肉を食べないんでしたっけ」

「あ、なら焼けば良いじゃん。ちょいとその肉、こっちに向けて」

「こうですか?」

 フィアが生肉を乗せた手をミィの方へと差し出す。

 するとミィは深々と息を吸い、バチバチと身体の内から音を鳴らした……刹那、その口から火炎を吐き出した。

 正確には体内の熱エネルギーを肺で圧縮・口から放出したものであるが、実質火炎放射である。ああ、そういえば吐けましたよね炎……黄昏れる花中の目の前でミィは数秒炎を吐き、すっと止める。

 炎が通り過ぎた後、フィアが持っていた肉は程よく焼けてジューシーな香りを漂わせていた。ちなみにフィアの手は諸共焼かれたが、この程度の炎で気化するほどフィアの『身体』は柔ではない。怒るどころか、出来上がったこんがり肉を前にしてフィアは大変愛らしい笑みを浮かべた。

「おおっこれは何時も花中さんが食べている肉の焼き加減に近い焼け方のような気がします」

「ふふーん。何時も人間がお肉を焼いてる事に気付き、そっちの方が美味しいかもと思って密かに練習していたんだ。まぁ、あたしは生肉の方が好みだったけど」

 勉強熱心ですね、お陰で逃げ道がなくなりました。

 心の中でミィに賞賛と悪態を吐きながら、花中はフィアの手にある焼き肉を見つめる。生だから食べられないと言った以上、生ではなくなったのだから食べねばなるまい。それに嗅いでみれば、焼けた匂いは悪くない……いや、むしろ食欲をそそる。

 恐る恐る花中は焼けた肉を指で摘まむ。皮が薄い花中の手には少々熱過ぎる温度は、焼き加減としては丁度良さそうだ。あまり長く持てない事もあり、花中は思い切って肉を丸ごと口の中に入れる。口の中にも熱さは一気に広がり、想像以上の高温に花中は右往左往。

 その拍子にかぷりと、肉を噛み潰した。

 瞬間、ぶわっと吹き出してくる肉汁が花中の舌の上で舞い踊る。味覚細胞が多彩な旨味を伝え、その情報量の多さに花中はパチリと目を見開いた。

 確かにこれは美味だ。

 生物的には節足動物の系譜なのか、白饅頭の味はカニやエビに近い。しかしなんとも複雑な味となっている。例えるなら高名なシェフがハーブや果実などを用いて下ごしらえをしている途中の肉を、気の早い盗人が持ち出して焼いたかのよう。あと一つまみ何かを入れれば、高級料理として成立しそうだ。

 動物(フィア)達からしたら、こんなにも複雑な味の食べ物は初めてに違いない。美味だ美味だとはしゃぐのも頷けるというものだ。

「んんふぅ……美味しい……すごく美味しいよ、フィアちゃん!」

「ふふんそうでしょうそうでしょう」

 得られた感動に突き動かされて想いを伝えれば、フィアは自慢げに胸を張る。

 こんなにも美味しいならもっと早く食べれば良かったと、花中は過去の自分を叱責したくなった。過去の分を取り戻そうとしてか、食欲がもりもりと沸いてくる。今なら幾らでも白饅頭の肉を食べられそうだ。

「もっと食べる? 肉ならまだまだあるよ」

 尤も、横たわる白饅頭を見てしまうと、沸き上がった食欲は簡単になくなってしまうが。脂の乗った腹が引き裂かれ、どろどろとした紫色の内臓が地面に散乱する様を見るのは、人間の精神衛生上よろしいものではない。

「い、いえ……大丈夫、です。はい」

「そう? なら良いけど」

「それよりも次の奴を探しませんか? 奥の方からもっと大きい奴の気配がしていますよ」

「おっと、確かに。コイツらよりもっと美味いかなぁ」

 フィアが森の奥を指差しながら尋ねると、ミィはノリノリで同意する。二匹の会話を聞くに、どうやらこの森にはこの大型個体をも超える白饅頭が居るらしい。

 もしもこの四メートル近い個体でもまだ成体でないとしたら、より大きな個体……仮に『超大型個体』と呼ぶとしよう……こそが白饅頭の成体かも知れない。成体という事は、繁殖能力を有している筈だ。泥落山に白饅頭が溢れたのは、その超大型個体が何時までも天敵に襲われていない事が原因とも考えられる。

 花中の推測が正しいかどうかは別にして、フィア達は仕留める気満々だ。フィアは花中を抱き上げると、更に森の奥へと足を踏み入れる。険しい山登りも、二匹にとっては散歩道のようなもの。さくさくと踏み越え乗り越えのんびり前進する。

 さて、森の奥であるが……進めば進むほど、白饅頭の襲撃は苛烈さを増した。

 現れる白饅頭はどれも四メートル前後の大型個体。小型個体ほどの数はないものの、それでも三~五体ほどが一度に現れる。どれもが尋常でない機動性で山を駆け、木々の陰から現れるため、花中では出現の兆候すら分からない有り様だ。

 しかしフィア達にとっては雑兵でしかない。いや、森の奥に潜むより大きい……そして恐らくはより美味な……個体を察知したフィア達からすれば、顔の周りを飛び交う羽虫のようなものだろう。最早獲物として見ていないようで、展開した『糸』や超音速パンチで粉砕。襲い掛かってきた白饅頭は次々と肉塊となり、生態系の物質循環に戻っていく。

 ここまで一方的だと、人一倍臆病な花中ですら恐怖をあまり感じない。周りの警戒や迎撃は全てフィア達がやってくれるので、頭のリソースを自分の思考にだけ回せる。お陰で花中は悠々と辺りを見渡し、考え込む事が出来た。

「(うーん。奥に行くほど、大きいのが来ている気がするなぁ)」

 まず気になったのは、白饅頭のサイズ変化である。

 どうにも山奥へ進むほどに白饅頭が巨大化しているように感じられる。市街地との境界線付近には小型個体のみが生息し、そこから奥に進むと大型個体が現れ、今や大型個体ばかり。更に奥には超大型個体の気配あり、と、実際奥へ行くほどに大型の個体と遭遇するようになっているので、勘違いという事はないだろう。

 原因についても、憶測だが簡単に思い付く。同種間の縄張り争いだ。餌が豊富な森の奥深くを強い(大きな)個体が獲得し、弱い(小さな)個体は森の外側へと追いやられているのだろう。

 だとすると最大級の個体……白饅頭の成体は、森の最深部に潜んでいるに違いない。

 さて、白饅頭の成体は果たしてどれぐらいの大きさなのだろうか……

「……ん?」

 考え込んでいた花中だったが、ふと違和感を覚える。

 フィア達が、真っ直ぐ歩いていないような?

 森の中では似たような景色が続く事で、平衡感覚など簡単に狂ってしまう。故に花中は最初、ただの錯覚だと思っていた。しかしフィアが一気に三十度ぐらい方向を変えた事で、自分の感覚が正しかった事を知る。

 フィア達は、森の奥を目指していない。なら、何処へ向かっているのだろうか?

「フィアちゃん? どうしたの? 森の奥に、行ってないみたいだけど……」

 疑問を抱き、花中はフィアに尋ねる。

 フィアはちらりと花中に視線を向け、されどすぐにその目を正面へと戻す。隣を歩くミィも同じく、前をじっと見ていた。

「白饅頭の奴等が一斉に動き出しました。大きいものも同様です。それを追っています」

 そしてフィアは花中の疑問に答えてくれた。誤魔化しなんてない返答は、花中の背筋にぞわりとした悪寒を走らせる。

 フィア達が何処へ行くかは白饅頭次第なのだから、フィア達にも何処に辿り着くかなんて分からないだろう。しかし森の奥でないのなら、必然森の外側……即ち、人々が暮らす町の方に近付く事になる。

 今花中達の居る場所から町までは、かなりの距離がある。しかし白饅頭達は、フィア達ほどではないにしろ出鱈目な機動性を有していた。白饅頭がどれだけの時間走り続けられるかは不明だが、花中(人間)達に幾度となく見せ付けてきた超スピードを用いれば、森の外に出るまで十分と掛かるまい。

 もしも一匹でも白饅頭が町に出てしまったら?

 戦車でも倒せないような怪物なのだ。一般人にどうこう出来る相手ではない。無防備な市民が襲われたら、一方的に『餌』となってしまうだろう。

 自然の成り行きに任せようと思ったが、大勢の人々の命が脅かされているとしているのを見過ごす事は出来ない。無論花中に白饅頭をどうにかする力はないが……『大自然』の背中をちょっと押す事は出来る。

「ふぃ、フィアちゃん! その、は、早く、行こう! 早く!」

「おっと花中さんまたお腹が空いたのですか? 今日の花中さんは食いしん坊さんですねぇ」

 花中の焦りを食欲によるものだとフィアは勘違いしていたが、今はそんな些事に拘ってる場合ではない。こくこくと頷き、フィアの誤解に同意する。

 フィアは少しばかり歩みを早め、ミィもそれに随行するように歩幅を合わせる。彼女達からすればちょっと早歩きした程度のそれは、人間である花中からすれば高速道路を駆ける車のような速さ。迫り来る木々に慄いた花中は、フィアにしがみついて恐怖に耐える。

「……ん?」

「あん? これって……」

 その最中にフィアとミィがぽつりと呟いた、刹那、眩い光が花中の目を刺激した。

 光に驚いた花中は思わず目を瞑る。しかし閉じたままでは何も分からない。ゆっくりと、恐る恐る花中は瞼を開く。

 すると目の前には、切り拓かれた景色が広がった。

 先程花中の目を刺激した光は、空から降り注ぐ太陽光だったようだ。しかしそれは不自然な事。泥落山は何処もかしこも、鬱蒼とした森に覆われている山なのだから。

 花中は見開いた眼で周囲を見渡す。辿り着いた場所は、無数の丸太が積まれた、公園程度の面積がある広間だった。伐採跡地のようだが、下草が殆ど生えていない。一般的に木が倒れるなどして地上に光が差し込むと、休眠していた草木の種が一気に芽吹くため、多量の下草が生えてくるものだ。それがないという事は、この空間はごく最近になって出来たに違いない。

 では、誰がこの空間を作ったのか?

 間違いなく――――広間の中央に集まる、チェーンソーを片手に持つ五人ほどの兵士達と、そんな彼等を取り囲む十数人の兵士達であろう。

「誰だっ!」

 チェーンソーを持っていた兵士の隣に立っていた兵士達は、一斉に手に持っていた銃口を花中達に向けてきた。

 フィアとミィは微動だにしなかったが、花中は反射的に恐怖心を抱いてフィアにしがみつく。花中を怖がらせた事に怒りを覚えたようで、フィアは鋭い眼差しで兵士達を睨み付けた。ミィの方も警戒心を露わにする。

「む、また君達か」

 もしも兵士の一人が聞き慣れた声を出さなかったら、どうなっていただろうか。

 そして彼女がヘルメットを外し、見慣れた顔……マーガレットの素顔を見せなければ、一触即発の空気はすぐには収まらなかったに違いない。

「おや? あなたは……誰でしたっけ?」

「マーガレットでしょ。もう名前忘れてんの?」

「ああそうですそうです。マーガレットさんでしたね。何故あなたがこんなところに居るのです?」

「君達と会った時から我々の目的は変わってない。3FB2……君達が白饅頭と呼んでいる生物の駆除だ。君達は何故此処に?」

「! そ、そうです! あの……」

 花中は顔を上げ、マーガレットに現状を伝えようとする。フィア達は白饅頭の大移動を察知し、自分達はそれを追って此処に辿り着いた。即ち、白饅頭の大群はこの広間に向かっているという事だ。

 白饅頭と接触・戦闘になれば、マーガレット達に大きな被害が出るかも知れない。すぐにこの場から逃げてほしいと訴えるべく、花中は口を大きく開けた。

 しかし遅かった。

 花中が警告を発する寸前に、伐採されていない木々の間から無数の白饅頭の小型個体が跳び出してきたのだから!

 白饅頭が現れたのは、マーガレット達の側面からだった。マーガレット達の正面に立っていた花中には、彼女達の置かれている状況がハッキリと見える。森から現れた白饅頭の数は凡そ数十。恐らく森に入ったばかりの自分達が襲われた時のように、森の中にはまだ何千もの数の幼体が潜んでいる筈だ。対してこの場に居る銃を持った兵士は、マーガレットを含めてもたった十数人。アサルトライフルを十発近く喰らって、なおも生きている怪物を相手するにはあまりに物量が足りない。

 兵士達の抵抗も虚しく、彼等は全員白饅頭に食い荒らされてしまう――――そうなると花中は思っていた。

 だが、花中は見誤っていた。

 仮にも人類は、この星の支配者を名乗るだけの実力がある事を。

 そして兵士達の持つ銃が、野外基地で見たものとは『別種』である事を。

「総員、殲滅を開始しろ」

 マーガレットがぽそりと呟いた瞬間、兵士達が持つ銃器が火を噴いた。

 銃器は無数の弾丸を撒き散らし、白饅頭達目掛け飛んでいく。ケダモノである白饅頭達はその弾丸を避けもせず、弾力があり強固な皮膜で受け止めた

 刹那、白饅頭の頭が()()()

「……えっ?」

 弾丸の軌跡など見えない花中には、突如として白饅頭の頭が破裂したように見えた。しかしすぐにその破裂が、兵士達の放った弾丸によるものだと察する。

 迫り来る白饅頭が、次々と破裂していったからだ。兵士達は銃弾を撃ち続け、放たれた弾丸は次々と白饅頭に命中。まるでゲームの雑魚モンスターのように、藻掻く暇すらなく白饅頭の小型個体は倒されていく。破裂は白饅頭の身体中央付近で起こり、全身が粉々に砕けている。原形すら留めておらず、足だけでなく触手までもが跡形もない。

 花中は困惑した。

 白饅頭の身体は、小型個体であってもアサルトライフルの弾丸なら数発は耐えるほど強固。仮になんらかの事情でこの辺りの個体が他の小型個体よりひ弱だとしても、弾丸一発で弾け飛ぶほど脆弱とは考え難い。いや、いくら脆くてもあんな、四肢の末端までバラバラになるような弾け方はするまい。

 だとしたら原因は、兵士達が持っている銃……正確にはその弾丸にある筈。

「おや?」

 何が起きているのか探ろうとする花中だったが、ふと、自分を抱きかかえているフィアが漏らした声に気を取られる。

 なんだろう、と花中は顔を上げてフィアの方へと振り向いた。

 直後自分達の背後から白饅頭、それも五メートル以上はある、()()()()()()()が跳び出してきた!

「ぴぃっ!?」

 意識が逸れていたところの襲撃に、花中は思わず悲鳴を上げる。尤も、恐れ慄いたのは花中だけ。フィアとミィは、石の隙間から出てきたダンゴムシを見るような、その程度の挙動しか示さない。白饅頭も本能で脅威を察したのかフィア達には目もくれず、より脆弱で数が多い兵士達に迷わず突撃していく。

 そして兵士達も襲い掛かる怪物を前にして後退り一つせず、己の手にある銃を一糸乱れぬ動きで差し向ける。

 命令をするまでもなく、兵士達は自衛のため発砲。巨体を誇る白饅頭の身体に当てる事は難しくなく、雨のように放たれた何百もの弾丸が白饅頭を貫く。

 直後に起きるのは、小型個体と同じような現象。大型個体の表面が水膨れのように膨れ上がり、次々に弾けていく。小型個体が全身バラバラになったのと比べれば小規模だが、それでも大きなダメージには違いない。

 大型個体は悲鳴を上げ、大地に倒れ伏す。巨体は大地を揺らし、どれほど大きな生命力があったかを物語る。しかしやがて彼は動かなくなり、全身から溢れる血が大地を青く染め上げた。

 小型個体より明らかに強大な生命。それを人間は、難なく打ち倒してしまった。

「……ふむ、予想以上の結果だな」

 大型個体を最後に襲撃が止み、マーガレットは安堵するように独りごちる。兵士達も銃を下ろし、警戒はしつつも、臨戦態勢を解いた。

 襲撃時と変わらぬ体勢なのは、全く動じていないフィアとミィ、そして呆けたままの花中だけだった。

「おー何時の間にか白饅頭を倒せるようになったのですね」

「なんか弱点でも見付けたの? それともその銃のお陰?」

「機密情報だ……と言いたいが、特別に教えてやろう。この銃にある、弾丸のお陰さ。つい先程、本部より補給された」

「弾丸?」

 オウム返しをするフィアに、こいつだよ、と言いながらマーガレットは防具に備え付けられていたポーチ型の箱から小さな何かを取り出す。フィアだけでなく花中もまじまじと見たところ、不思議な形の弾丸であると分かった。

 弾丸は捻れるような螺旋 ― 綺麗な形ではなくかなり歪な ― を描いており、明らかに通常の弾丸と異なる形態をしていた。全体のフォルムもライフル弾やアサルトライフルの弾のような鋭い円錐状ではなく、ずんぐりとした、一見して鉛色のどんぐりに見えるもの。大きさは人の指先ほどだ。

 銃器にさして明るくない花中であるが、見せられた弾丸が奇妙なものである事はなんとなく察せられた。

「それは、えと、新兵器……なのでしょうか……?」

「その通り。対怪物用に開発していた、人類の切り札だ」

「切り札? そんなものが切り札ねぇ」

 マーガレットの言葉に、フィアは呆れるようにぼやく。ミィも訝しむように眉間に皺を寄せていた。フィア達からすれば、銃弾なんてものがどうして切り札と成り得るのか、さっぱり理解出来ないのだろう。

 そんな『化け物』二匹の疑問に、マーガレットは不敵な笑みを浮かべながら答えた。

「この弾丸の表面には、ある特異なパターンの溝が掘られている。目に見えるサイズのだけでなく、ナノサイズのものも、だ。この複数の溝は分子レベルの摩擦を引き起こし、熱分解を引き起こす……つまり分子レベルで対象を破壊する銃弾という事だ、こいつはな」

「はぁ……よく分かりませんが凄いものなのですか?」

「さぁ? あたしにもよく分かんない」

 マーガレットの誇らしげな説明に、フィアもミィも首を傾げるばかり。驚きで目を見開いたのは、花中だけだった。

 分子レベルで対象を破壊する。

 それも物理的にではなく、熱による分解だ。対象の材質にも依るだろうが、マーガレットの自信からして、生半可な物質では耐えられない温度なのだろう。白饅頭達の身体が破裂したのも、発生した熱量により身体の中の水分などが気化し、大きな膨張圧が加わったのが原因か。

 どの程度の威力があるかは分からないが、既存の兵器とは比較にならない破壊力・貫通力を有しているのは間違いない。材質が違うので一概には言えないが、戦車砲すら通じない大型個体すら倒した事から、恐らくは戦車の出鱈目な ― 音速の数倍もの速度で飛んでくる重さ二十キロの鋼鉄の塊を、真っ正面からなら平然と受け止める ― 装甲であっても貫通可能なのだろう。

 機動兵器すら貫く破壊力、一秒に数発と飛ばす連射性、個人で扱える反動の小ささ……最早SF作品に出てくるような超兵器を、『世界の支配者』だけでなく人類も生み出していたとは。この武器を用いて戦えば、人間の犠牲は殆ど出さずに済むかも知れない。それ自体は人間である花中にとって喜ばしい話である。

 だが、そうなると……

「あ、あの、マーガレットさん。一つ、確認したいの、ですが……」

「なんだね?」

「その……その銃で……白饅頭……えと、3FB2を、どうするつもり、なのですか……?」

「ああ、そんな事か」

 花中の問いにマーガレットは爽やかな微笑みを浮かべ、

「無論殲滅だ。人類の繁栄のためにも、奴等は排除する必要がある。この方針は今も変わらない」

 なんの迷いもない言葉で、答えた。

「……殲滅……」

「では我々は先を急ぐ。奴等が人里まで降りる前に駆逐せねばならないからな」

 マーガレットはそう言い残し、兵士達を率いて花中達の横を通り、森の奥へと進んでいく。

 その際マーガレットはフィアとミィを一瞥。フィア達を見て、けれども特段何も言わないままこの場を後にした。

 残された花中達は、しばしこの場に立ち尽くす。フィアはぼんやりと、ミィはだらだらと、そして花中はフィアに抱きかかえられたままおどおどと。

 まさか、本当に人間は白饅頭を絶滅させてしまうのではないか。

 一発で一匹の小型個体を倒せるなら、何千何万という数を一日で駆除するのも難しくはあるまい。白饅頭の繁殖力がどれほどのものかは分からないが、これだけの駆除が出来れば、恐らく根絶も不可能ではないだろう。人間の力を、人間である花中自身が見くびっていたかも知れない。

 白饅頭が滅びたら、この森の生態系はどうなってしまうのか。何が増えて、何が起こるのか。

 何も、分からない。

「花中さん。我々も急いであの人間達を追いましょう」

「うん、早くした方が良いと思うよ」

 花中の胸中で渦巻いていた不安は、フィアとミィの進言を受けて一層加速した。フィア達は美味しい白饅頭を求めている。そんなフィア達が『急かす』という事は、白饅頭の存続の危機を察知したのではないか……そう感じたからだ。

「う、うん。急ごう!」

 花中が同意すればフィアは花中を抱きかかえ、高々と跳躍。木々の上まで跳び出し、地形を無視して直進する。ミィも続けて跳躍してきたのか、空を跳ぶフィアの隣に並んできた。

 普通に走っても十分に速いのに、跳躍しての移動。フィア達の焦りが、身体に圧し掛かる慣性で花中にも感じられる。一体マーガレット達は、人間達は何処を目指しているのか。何が起ころうとしているのか。フィアの進む方角からそれを窺い知ろうと、加速度に苦しみながらも花中は目を開け

 その目を、大きく見開いた。

 頭の中が真っ白になる。加速度の苦しみなんてすっかり忘れた事で出来上がった思考の隙間を満たすように、花中の脳裏にある考えが過ぎった。

 ひょっとして、自分は頓珍漢な勘違いをしていたのではないか? 

 フィア達は何故自分を急かしたのか? 焦ったからだと思っていた。だが、そうではないかも知れない。焦り以外でも、相手を急かす時があるではないか。

 自分は誰を見くびっていた? 人間の力の方だと思っていた。だが、それすらも勘違いだったかも知れない。強いと信じていた力が、コガネムシがカブトムシに変わった程度だったのではないか。或いはクワガタムシだと思っていたものが、本当は三つ首の魔獣だったのではないか。

 自分は何を勘違いしていた? 何処から勘違いしていた?

 もしも、何もかもが勘違いだったなら。

「ようやく出てきましたね……とびきり美味そうな奴が!」

「あれはあたしのもんだぁーっ!」

 空を跳ぶフィアとミィが、喜々とした雄叫びを上げる。

 山奥より木々を木の葉のように吹き飛ばしながら突き進んでいる、巨大で恐ろしい何かを目指しながら――――




これからが(人類にとって)本当の地獄だ……!

次回は1/6(日)投稿予定です


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未来予想図6

 人間が全速力で走るよりも、フィア達が軽い気持ちで跳んだ方がずっと速い。

 そんな事は一年以上の付き合いでとうに分かっていたが、フィア達が尾根に囲まれた平地にたった十数秒で辿り着いた時……マーガレット達よりも早くこの場に来られた事に、花中は安堵を覚えた。激しく揺さぶられた事で催した吐き気も同じぐらい強かったが、それはこの際気にしない。

 花中を抱えるフィアは木のてっぺんに着地し、その枝先にすとんと立つ。人間の体重すら支えられそうにない細い枝の先端に、最低でも重さ数百キロを超えるフィアが立てるのは、能力によって足場を固定しているからだろう。ミィの能力はそんな器用なものではないので、彼女はズドンッ! と爆音を奏でながら地面に着地していた。

 花中はフィアが見ている先……目の前にある尾根を見る。

 そこは木々を吹き飛ばしながら移動していた何か――――恐らくはフィア達が求めていた、超大型の白饅頭が潜んでいる筈の場所だった。筈、という曖昧な表現を使っているのは、今もそこに居るのか花中には分からないから。何しろ今ではもう木々が吹き飛ぶような事象は起きておらず、山は静寂を取り戻しているからである。

 果たして目当ての白饅頭は、自分が見ている先に潜んでいるのか? 木々を吹き飛ばしていた時のコースを維持していれば、この辺りをそろそろ通る筈なのだが……

「……どうやら我々を迂回するつもりですね。気配が逸れました」

 花中のそんな疑念に答えるかのように、フィアが独りごちる。

 どうやら白饅頭はコースを変更したらしい。答えを得られた花中であるが、首を傾げてフィアに訊き返す。

「逸れたって、なんで急に……」

「恐らくこの私の存在に気付いたのでしょう。接近したら急に怯え始めたような気がします。長生きしているだけに他の連中より身の程を弁えているようですね」

 褒めているのか貶しているのか、恐らくは両方であろうフィアの説明に、花中は成程と思って頷く。野生の世界を生き抜くには、強さだけでは全く足りない。己の弱さを知り、危機を察知する力に長けたものこそが生き残れる。超大型個体が巨体に見合わぬ警戒心を有していたとしても、決しておかしな話ではない。

 問題は、超大型個体はどんな迂回経路を描いているのか、だろう。フィアから逃げるように動いているとすれば、山の外……市街地に出ていく事もあり得る。人間としては最悪のシナリオだ。

「フィアちゃん、その、大きな白饅頭はどっちに行ったか、分かる?」

「んーあっちでしょうかね」

 尋ねると、フィアは特段迷った素振りもなくある場所を指差す。

 そこはマーガレットの率いる兵士達が伐採を行った事で出来た、公園ほどの大きさがある広間のすぐ近く。

 自分達は二十秒も経たずに彼方まで離れたが、人間であるマーガレット達は未だうろうろしている恐れのある場所だった。

「ふぃ、フィアちゃん……!」

「ふふん分かっています人間なんかに横取りはさせませんからね! こちらの気配を抑えながら行くのでちょっとゆっくりになりますがすぐ辿り着きますよ!」

 花中の意図を勘違いしながら、フィアは再び跳躍。何百メートルもの距離を数秒で跳び越え、自分達が居た広間近くへと戻る。

 言葉通り気配を抑えるためか先程よりも少し遅いが、それでも要した時間はたった二十秒ちょっと。森の中に出来た広間にフィアは軽やかに着地する。広間にはもうマーガレット達の姿はない。どうやら既に移動していたようだが、なら彼女達は何処に向かったのだろうか?

 人間達の痕跡を見付けようとする花中だったが、数秒と経たずに森を颯爽と駆け抜けてきたミィと合流。フィアとミィは顔を合わせると言葉も交わさずに頷き合い、花中の意見も聞かず、迷わぬ足取りで森の中へと駆け足で入っていく。無視された花中は、されど彼女達の行動を止めようとは思わない。急斜面も不安定な足場も関係なく、人間では決して出せない速さで二匹は奥へと進んでいき――――

 あっという間に、花中達は背中を向けている兵士達に追い着く事が出来た。フィアとミィは彼等のすぐ後ろで立ち止まり、彼等の歩みを眺める。野生動物の静かな移動に、人間達は気付く様子もない。

「ま、マーガレットさんっ!」

「っ! ……なんだ、君達か」

 花中が思いきって呼んでみて、ようやく兵士達とヘルメットを被ったマーガレット ― 声でそう判断出来た ― が一斉に振り返り、銃口を向けてきた。何処から白饅頭が跳び出てくるか分からない状況なので仕方ないが、彼等の持っている銃は恐らく分子破壊を引き起こす弾丸が装填されている。花中は反射的に怯み、縮み込んでしまう。

 しかし怖がっている暇はない。

「あ、あの、此処に、大きな白饅頭が来ています! た、多分、四メートルぐらいの奴とは、く、比べものに、ならないものが!」

「そのようだな。我々も航空部隊から、大型生物が動き出したのを捉えたとの連絡を受けている」

「な、なら、早く逃げてください! す、凄く、強い奴だと思います! だから……」

 マーガレット達に逃げるよう促す花中だったが、彼等は中々動こうとしない。それどころか、快活に笑う兵士も何人か居る有り様だ。

 マーガレットは花中の下までやってきて、ぽんっと、花中の肩を叩く。とても優しい叩き方だった。

「確かに、とんでもない怪物だろう。だが、人類は負けない。英知を結集し、勇気を持てば、超えられない試練などない。そうは思わないか?」

「そ、それは……そう、思いたい、ですけど……」

「成程、君は慎重派なのだろう。その考えは大事だが、時には人間を信じてみてはもらえないか?」

 マーガレットの言葉に、花中は思わず息を飲む。つい沈黙を挟んでしまうと、マーガレットは満足したように花中の肩から手を離した。

 言いたい事はマーガレットが思っているものとは違う。だけど本心では花中も人間の力の方を信じたい。花中だって、マーガレット達と同じ一人の人間なのだから。

 花中はそのまま押し黙ってしまう。どうにか、なんとか言おうとして唇を震わせるのが精いっぱい。

「花中さん来ますよ。こっそり回り込んだ甲斐がありましたね」

 そしてタイムリミットが、来てしまった。

 来るって、何が? フィアの伝えたい事が分からず一瞬困惑する花中だったが、すぐに理解が追い着いた。故に、顔から一気に血の気が引いていく。

 フィアは何故此処に来た?

 危険な怪物が迫っていると人間達に伝えるため? そんな訳がない。フィアは人間なんてどうでも良いと思っているのだから。フィアがこの場に来たのは、フィアにとって好都合だからに他ならない。

 今のフィアは、美味しい獲物を求めている。ならきっと、『それ』は近くに潜んでいるのだ。

 気付いた花中の考えが正解であると答えるかのように、花中の眼前に広がる森の一部が突如破裂するように砕けた! 大地が捲れ上がり、土を固定していた木々が小石のように何十本と倒れ、吹き飛ばされていく! 鼓膜を破らんばかりの轟音が鳴り響き、地面が怯えるように震え出す!

「ギジャアゴオオオオオオオッ!」

 最後にそれらが鳴らす音さえも掻き消えるほどの、おぞましい叫び声が森に駆け巡る。

 絶望的な破壊をファンファーレのように奏でながら、花中達の前に現れたのは――――視界を覆うほどに巨大な生命体。出現に伴う破壊により森が吹き飛び、花中達の前には大きな広間が出来た。そのお陰でかの存在の観察を妨げるものはない。誰もが現れた生命の姿をハッキリと目の当たりにした。

 フィア達のような野生の本能を持っていない花中にも分かる。これこそがフィア達の追い求めていた、最大級の白饅頭なのだと。

「おっほぉーっこれは中々の大きさですねぇ」

「食べ応えありそうじゃん」

 舌舐めずりをしながら歓喜を露わにするフィアとミィだったが、彼女達の友達である花中は顔が真っ青になっていた。

 いくらなんでも、大き過ぎる。

 花中達と巨大な白饅頭は三百メートル以上離れていたが、あまりの巨大さにすぐ側に居るかのような錯覚が覚えた。目視での測定だが、体長は五十メートルを超えているだろう。大地を踏み締めている六本の触手は大樹のように太く、森を形成する木々を小枝のように踏み潰していた。背中側で蠢く何十本もの触手は大蛇のようであり、一本一本が人間どころか機動兵器すら破壊するパワーを感じさせる。全身に刻まれた無数の傷痕が人類では達せない経験の深さを物語り、盛り上がった肉で眼球が埋もれた顔には恐竜すら一呑みにしそうなほど大きな口があった。開いた口からはだらだらと涎を垂らし、満たされていない飢えを人類に訴えてくる。

 何もかもが花中の思い描いていたスケールを凌駕しており、理性が思考を放棄し、夢心地のような、浮ついた感覚を感じてしまう。この桁違いの巨体の前では、四メートルもある大型個体ですらまるで赤子だ……いや、事実そうなのだろう。この超大型の個体こそが白饅頭の成体に違いない。

 だとすれば彼等が大繁殖したのも頷ける。小型個体の大きさと数からして、白饅頭の繁殖戦略は典型的な多産多死型なのだ。天敵などに多数捕食される事を前提にした生態である。彼等の個体数を抑え付けていた天敵がごっそり消えた事で、本来死ぬ筈だった個体が大勢生き残ったのだろう。

 もしかすると本当にこの生物は人類を食い尽くすのでは……

「怯むな! 攻撃を始めろ!」

 目まぐるしく駆け回る思考で頭が満たされていた花中だったが、マーガレットの掛け声で我を取り戻す。振り向けばマーガレットとその仲間達十数人は、一糸乱れぬ動きで超大型白饅頭に銃口を向けていた。

 そして彼等の銃から、一斉に弾丸が放たれる。

 人類の英知を結集した超兵器。分子すらも分解する科学の力は三百メートルもの距離を瞬く間に飛び、超大型白饅頭の巨体に吸い込まれるように向かっていく。超大型白饅頭は避ける素振りすらなく、弾丸は全て命中し

 超大型白饅頭の体表で、全て()()()()

「……は? な、ば……!?」

 引き金を引いたまま、マーガレットが動揺しきった声を漏らす。兵士達も戸惑い、右往左往し、されど銃は火を噴き続ける。

 何百何千もの銃弾は全て超大型白饅頭に命中していた。だが、その全てが表面で弾かれている。小型個体のように弾け飛ぶどころか、大型個体のように水膨れにも似た損傷すら生じていない。

 まるで効果がない。

 目の前の現実はそうとしか受け取れないのに、兵士達は銃を撃ち続ける。認めていないのではない。あり得ない状況を前にして、どうすれば良いのか分からなくなっているのだ。

 そんな彼等を見かねたかのように、森の奥から大きな陰が飛び出してくる。

 戦車だ。それも一台や二台ではなく、何十台も並んでいる。木々を薙ぎ倒しながら現れた戦車の側には数十、いや、何百人もの兵士達が随行していた。空からは三十機以上のヘリコプターがやってきて、超大型白饅頭を包囲する。

 マーガレット達の仲間なのは、現れた部隊を見て活気に溢れた彼女達を見れば明らかだ。まさか泥落山を覆う森にこれほどの大部隊が展開していたとは。SF染みた超兵器を製造出来るぐらいなのだから小さな組織ではないと考えていたが、こんな規模の軍隊を持ち込んでいたなんて思いもよらず、花中は驚きからその目を大きく見開いてしまう。

 されど、彼等の姿に『頼もしさ』や『恐ろしさ』は感じられない。

 花中の想いなど知る由もないまま、展開した部隊は超大型白饅頭への攻撃を開始した。戦車からは音速の数倍もの速さで鋼鉄の塊が撃たれ、ヘリからはミサイルや機銃が次々と放たれる。そうした攻撃により幾分傷が出来た表皮ならばきっと通用するとばかりに、兵士達も分子破壊弾を容赦なく撃ち込んだ。

 それでも人類は、超大型白饅頭を一歩後退りさせる事すら出来なかった。

 体表面から血が噴き出す事はおろか、皮膚の欠片が飛び散る様子もなく、爆炎の晴れた部分には煤けた皮膚が確認出来るだけ。体表面で起きる徹甲弾の炸裂も、何千発と当てられる分子破壊弾も、近代兵器の代表格たるミサイルすらも、超大型白饅頭には通じていない。超大型白饅頭は苛烈な攻撃の中、まるで欠伸でもするかのように口を大きく開けて間の抜けた姿を見せる。それから鬱陶しそうに、飛び交うヘリコプター達の方へと顔を向けた。

 瞬間、ぞわりとした悪寒が花中の背筋を駆ける。

 ――――違う。今の動きは、欠伸なんかじゃない。

 今までに何度も生命の危機を体感したからか。はたまた数多の超生命体達を見てきた経験からか。本能的に花中は身の危険を感じ取る。理屈では説明出来ないし、何がどう危ないかも判然としないが……兎に角()()()

 言葉にならないほど曖昧な花中の予感だったが、それは『的中』した。

 超大型白饅頭は、その口から火を吐き出したのだ!

 正確には、口内にある喉へとつながるであろう大穴の上側に開いている、細くて小さな穴から青白い火が射出された。火は空気抵抗を受けてか細長い槍のような形へと変形し、目にも留まらぬ速さで空を駆ける。まるでそれは青白い砲弾であり、戦車の砲撃にも負けぬ初速を誇っていた。

 白饅頭に狙われたのは、超大型白饅頭を取り囲んでいたヘリコプターの一機。航空兵機の中ではかなりの鈍足であるヘリコプターに、戦車砲が如く一撃を躱す機動性は備わっていない。槍のように飛来する炎は機体を貫き、燃料にでも引火したのかヘリコプターは爆発を起こして四散。

 『野生動物』が放った攻撃は、空飛ぶ現代兵器を易々と撃墜してしまった。

 それは花中達が遭遇した『マグナ・フロス』の水レーザーと比べれば、決して強力なものではないだろう。戦車砲で戦闘機を撃ち落とすのが至難の業であるように、超音速で飛行する航空機であれば超大型白饅頭の攻撃を躱すなど造作もない筈だ。高高度の爆撃ならば安全に攻撃出来るし、遠距離からのミサイルでも良い。まだまだ人類には手がある。

 しかし人間達が受けた衝撃は、あまりに大きい。

 戦闘機すら易々と落としたマグナ・フロスは『特別』だ。あれは六千九百万年もの月日を経て現代に甦った古代のモンスターであり、人間の迂闊さが招いた『過ち』である。幸いにもかの者は既に滅び、この世から消え去った。驕らず、己の立ち振る舞いを戒め続ければ、もうあの怪物が蘇る事はない。

 だが白饅頭は『野生動物』である。自然を形成するものの一種であり、天敵が存在した普遍の生命体。何も『特別』な事はなく、ただ人の営みと無関係に暮らしてきただけの存在だ。

 ならば。

 ならば人類を超える力が、どうして有り触れていないと言える?

 超大型白饅頭は次々と火の槍を吹き、ヘリコプターはバタバタと落ちていく。仲間が落とされていく様に恐怖したのか、やがてヘリコプター達はわたわたと逃げ出す有り様。呆けた人間達は呆然と立ち尽くし、攻撃の手が止まっていた。

 万物の霊長のあまりに情けない体たらくに、しかし超大型白饅頭は何も感じていない様子。当然だ。彼からすれば人間など森の生き物と大差ない、脆弱な獲物の一つに過ぎないのだから。

 邪魔者を追い払った超大型白饅頭は、悠々とした足取りで立ち尽くすマーガレット達に接近。数十メートルという()()()()まで来るとゆっくり右前足を上げた。

「っ! 逃げ……」

 反射的に声が出る花中だったが、最早何もかもが遅い。

 高々と上がった超大型白饅頭の右前足は、目にも留まらぬ速さで人間達目掛け振り下ろされた!

 ――――否、これは正確ではない。

 振り下ろされた相手は、『人外』の方だったのだから。

「どっせぇーいっ!」

 狙われていたミィは楽しげな声と共に腕を振り上げ、

 ぶつかり合った拳は木々を吹き飛ばすほどの衝撃波を発し、超大型白饅頭の前足を粉砕した!

「ぎゃあっ!?」

「ぐえっ!?」

「ぴぃっ!?」

 放たれた衝撃波と、砕けた前足から吹き出す白饅頭の体液に襲われ、兵士達の悲鳴が上がる。フィアに守られていた花中は衝撃波こそやり過ごせたが、白饅頭の体液は頭から被る羽目になった。尤もその体液は、フィアが能力によってすぐに吸い上げてくれたお陰で綺麗さっぱり消え失せたが。

 そしてミィの方は、自分のパンチが決まるや否や、颯爽と跳び蹴りを超大型白饅頭にお見舞いしていた。体長五十メートル、推定体重 ― 体長三十センチの小型個体が体重二キロ以上と換算した場合 ― 一万トンの巨体がたった一人の少女の足蹴で浮かび上がり、倒れた際の運動エネルギーで大地震を引き起こす。超大型白饅頭は素早く、そう巨体でありながら素早いと思えるほどの速さで体勢を立て直すも、ミィの方がずっと速い。二撃、三撃目のキックを喰らい、ごろごろと大地を転がっていく。木々は木の葉のように舞い上がり、人間達が最新鋭の道具を用いて一生懸命作った広間の何倍もの範囲が、一瞬にして開けていった。

「あーあー野良猫に先を越されましたか。私が遊びたかったのに」

 その光景を目の当たりにしたフィアは唇を尖らせ、不満を露わにする。彼女が抱く不満は極めて身勝手で、暢気なもの。まるで危機感がない。

 対してマーガレット達は、危うく怪物に踏み潰されるところを助けられたにも拘わらず、無言のままその場にへたり込み、立ち上がれなくなっていた。

「馬鹿な……どうして……どうして効かない……?」

 困惑し、呆然とするマーガレット達。ぶつぶつと呟く言葉は「何故」と「どうして」と「馬鹿な」ばかり。完全に思考が停止しており、茫然自失といった様子だ。

 彼女達の気持ちは花中にもよく分かる。分子破壊を引き起こす銃弾に耐える生命体、そんな生物を翻弄する超生命体……あり得ない事のオンパレードだ。人智の及ぶところではない。

 しかし人智を離れれば。常識から外れた考えを基軸にすれば、自然と答えは見えてくる。

 分子破壊により、どんな対象も破壊する。確かに恐ろしい謳い文句であり、実際マーガレット達の組織が実験した限りではその通りの結果が得られたのだろう。少なくとも人類文明には、彼等の開発した弾丸を止める術はない筈だ。

 されどその分子破壊は、弾丸に刻まれた溝によって生じる摩擦熱が根源だというではないか。

 つまり溝が他の分子と接触する、ある程度弾丸が内部にめり込んだ状態になって初めて効果が発揮されるという事。なら、防ぐ方法は簡単だ――――人間の理解が及ばないぐらい()()()()良い。表面の溝など逆に削り潰すほどの強度、弾丸が一ミリとめり込む事すら叶わない耐久性があれば、分子破壊は無効化出来る。

 それが花中の考えていた、分子破壊弾が持つ弱点の一つだった。他にはどう考えても生産コストが通常の弾丸の数十~数百倍だとか、溝を傷付けないために安定した容器と安全な輸送経路が必要だというのも弱点だろうが、こんなのは些末事だろう。使用対象として想定していた存在に全く効果がないという、最低最悪の致命的欠陥に比べれば。

 ……流石に、白饅頭の成体にすら通用しないとは花中も思わなかったが。効かないのは精々フィア達ミュータントぐらいだと考えていた。

 いや、信じたかったと言うべきか。

「……おっととこれはこれは」

 不意にフィアが、ぽつりと独りごちる。

 何を感じたのか? 尋ねたいと思う暇すら、別の事に思考の殆どを割り振っていた花中にはなかった。

 大地が激しく揺れ始めたのだ。続いて開けた事でよく見えるようになった山の尾根で爆発が幾つも起こる。爆発達はやがて木々を吹き飛ばしながら、花中達の居る場所を目指して進み始めた。

 もう、言葉はなかった。誰かが何かを言わずとも、何が起きているかは明らかなのだ。ただ、それを認められるか、認められないか、待ち望んでいたかの違いでしかない。

 近くまでやってきた爆発達は一際大きな爆風を起こすや、中から超大型白饅頭が跳び出した!

 花中が確認出来た爆発は八つ。跳び出してきた超大型白饅頭も八体。人智を超えた生命体達は、まるで仲間の危機を察知したかのようにただ一匹の超生命体(ミィ)に襲い掛かった。一見してあまりにも理不尽な戦力差は、されど事実は逆である事を花中は知っている。花中達の位置からでは豆粒のようにしか見えないミィは、殴り、蹴り、迫り来る超大型白饅頭を尽く返り討ちにした! 八匹の超大型白饅頭は八方へと吹き飛び、助けにすら入れない。

「ギィガゴオオオオオオオオオンッ!」

 すると一匹の超大型白饅頭が、パイプオルガンを叩き鳴らすかのような奇怪な声を上げる。

 それは『呼び声』だった。

 花中達の背後から微細な振動がやってきた、と感じた次の瞬間、多量の白饅頭達が現れる! 人間達の誰もが突然の襲撃に慄くが、どの白饅頭も花中達には見向きもしない。一直線に、ミィと超大型白饅頭達の下へと駆け寄っていく。小型個体も大型個体も関係なく、初めて見る十~三十メートルほどに育った個体達さえも、続々と姿を現す。何万、何十万、何百万……森に散らばる無数の白饅頭が、全てこの場に集結しているかのようだった。

 彼等は察したのかも知れない。大人達を襲う生物が、自分達の繁栄を邪魔するどころか、滅ぼしかねない存在であると。

「ちょ、ちょーっ!? これは流石に多過ぎるって! フィアもサボってないで捌くの手伝ってよぉ!」

 さしものミィもこの大群には音を上げる……というのは正しくないだろう。でなければ『捌く』のを手伝えなんて言う筈もない。捌くだけなら、時間を掛ければ出来ると考えているのだ。

「嫌ですよ面倒臭い。花中さんが巻き込まれないように近くに居ないといけませんし」

 フィアもミィが負けるとは思っていないに違いないと、花中は感じる。ミィが負けたなら、次は自分達が襲われるかも知れない。フィアだってそれら分かっている筈。手伝いも逃げもしない時点で、勝敗は決しているのだ。

 故に、花中は恐れる事もなくミィ達の戦いを見つめるのである。

 例え勝者が明らかになろうとも、人智を超えた生存競争がどのような結末に辿り着くかなど、人には想像も出来ないのだから……




ボスに効かない超兵器(お約束)
基本、人類側は火力が足りない感じ。

次回は1/13(日)投稿予定です。


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未来予想図7

 思ったよりも数が多い。

 迫り来る白饅頭の大群を前にして、ミィはぼんやりとそんな感想を抱いた。

 視界を文字通り埋め尽くすほどの大群でやってきた白饅頭達は、真っ直ぐミィを目指して駆けていた。小型個体でも自動車並の速さを誇り、大型個体ともなれば時速二百キロを超えた速度で森を駆ける。大型個体を上回る十メートルオーバーの体躯の個体 ― 仮に『特大個体』と呼ぶとしよう ― に至っては、音の速さに迫ろうとしていた。誰も彼もが生半可な生物では捕捉も出来ない超スピードを出している。

 しかしミィにとっては違う。

 全員()()()()()。それに鬱陶しい。

 白饅頭の身体能力など、ミィからすればこの程度の評価だった。『虫けら』扱いといって良い。そして虫けら相手に、豪腕を振るったり蹴りを放ったりとするのは、動きとしてあまりにも無駄である。

 故にミィは軽く息を吸い込み、

「ゴアゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 思いっきり吐いて、轟音を響かせた!

 ミィの叫びは音波となって周囲に広がり、天変地異染みた突風を引き起こす。倒されていた木々が舞い上がり、生き残っていた下草は地面ごと引っ剥がされる。近距離でこの雄叫びを聞いた小型個体は一瞬でバラバラにされ、大型個体は肉団子と化した。生き長らえたのはミィから離れていた個体と、頑強な特大個体だけ。

 瞬きする間もなく、ミィの周りは空爆でもされたかのような荒野へと変貌した。招集に応えた白饅頭達が、あまりに呆気なく壊滅する。

 それでも時間は稼げた、という事か。

 ミィの周りを取り囲むように、九体の超大型白饅頭が展開する。その隙間を埋めるかの如く何千もの特大個体が超大型白饅頭の後方に散開し、大型個体や小型個体は更にその後ろに陣取っていた。戦闘能力の高い大人が先陣を切って敵と戦い、子供はそんな大人の援護をするのに適した陣形である。

 如何にも強大な敵(ミィ)に対抗すべく戦術的な陣形を取ったかのように見えるが、ミィはこの陣形が白饅頭達の本能によって形成されたものである事を見抜く。彼等は縄張り意識が強いようで、弱い個体は強い個体の生活圏には入り込んでいなかった。目の前の光景も、大人に呼ばれたから来たものの、その大人が怖くて近付けないという本能の結果だろう。

 生命というものは極めて単純な本能だけで、餌までの最短経路を割り出したり、複雑にして頑強な巣を構築したりするものだ。彼等の本能も、あたかも知性的な振る舞いをしてみせたのである……尤も『野生動物』の一匹であるミィはそんな難しい事は分からない。先の『推測』も、彼女の本能から感じ取ったものである。

 なんにせよ、確かな事が一つだけある――――この陣形で戦うとなると、少々骨が折れそうだという点だ。

「ギシエアアアアアアアアッ!」

「ギィオオアアアアアアアッ!」

「ァギイィィイオオオオンッ!」

 大気を震わせるほどの大咆哮を一斉に奏でるや、三体の超大型白饅頭が突進してくる!

 巨体故のパワーか。本気で駆けた超大型白饅頭は、まるで流星のような速さだった。圧縮された大気が白く濁り、白饅頭の全身を包む。音速を超えた証を全身に纏う姿は神獣を想起させ、人間相手ならば戦意を削り取り、恐怖と畏怖を刻み込んだだろう。五十メートルの巨体を支える足が着く度、大地が割れるほどの振動を生じさせた。

 それほどの全速力と共に繰り出す攻撃は、体当たり。

 三匹の超大型白饅頭は、その身を一纏めとするかのように密着し、超音速でミィに激突した! あまりにも愚直、故に神罰にも等しい破壊力のそれは、衝撃を受け止めきれなかった大地を何百メートルにも渡って陥没・隆起させる。総質量三万トンが放つエネルギーは、広島型原爆の総エネルギー量の数パーセントほど。しかし半径十キロ以上の広範囲にエネルギーが拡散した原爆と違い、彼等が繰り出した一撃はほんの数メートルの面積に集約している。面積当たりのエネルギー量は、原爆を遙かに凌駕していた。

 流石のミィもこの一撃にはよろめく事になった。

 ――――よろめいただけ、であるが。

「ん、にゃろうっ!」

 即座に体勢を立て直したミィは、渾身の拳を一匹の超大型白饅頭の顔面に叩き込んだ! 人智を越えた破壊力にも耐える超大型白饅頭の顔面が、ミィの拳によって歪み、波打ち、全身にその波が伝わっていく。

 ついには超大型白饅頭の身体に次々とヒビが入り、鮮血を噴き出した!

 全身の筋肉を余さず使っても、ミィが打ち込んだ運動エネルギーを抑え込めなかったのだ。全身に刻まれた傷は深く、内臓が飛び出すほど。如何に生命力が強くとも助かる見込みがない致命傷を受け、殴られた超大型白饅頭は大地が揺れるほどの断末魔を上げる。しかし白饅頭達は、苦しむ仲間に見向きもしない。目の前の大き過ぎる敵から目を背けるなど、自殺行為以外の何ものでもないのだから。

 加えて、千載一遇のチャンスを逃しては自然界では生き残れない。

 拳を振り上げたミィの背後に、ミィに体当たりを喰らわしたのとは別の二匹の超大型白饅頭が回り込み、その口を四方へと引き裂くように開く。ただしミィに噛み付こうとしている訳ではなく、近付くどころか百メートルほど離れていった。そして開いた口の中に青い閃光を煌めかせる!

 次の瞬間、二匹の超大型白饅頭の口から青白い炎が吐き出された! 炎はまるでジェットのような勢いを持ち、地面にぶつかるや粉塵が如く激しさで舞い上がり、広がっていく。ヘリコプターを落とした時のような、細くて短い炎ではない。渾身の力で吐き出される必殺の火炎だ。立ち止まっていたミィは容赦なく飲み込まれ、大地は炎に炙られ黒く変貌していった。

 それでも足りぬとばかりに、ミィに突撃した二匹と、その側に居たもう一匹、併せて三匹の超大型白饅頭も口を開き、青い炎を力いっぱい吐き出してミィが居た場所を焼く。何百匹かの特大個体も数百メートル離れた位置から槍のような火球を吐き、超大型白饅頭の攻撃を援護する。どうやら火を吐けるようになるのはある程度大きくなってからで、大多数を占めている十メートル未満の個体は一様に特大個体よりも後方から戦いを眺めるだけ。しかし五体の超大型白饅頭と数百体の特大個体が生み出した熱量は膨大で、巨大な上昇気流が発生して炎を空高く立ち昇らせる。地面が赤く光り始めるやどろりと溶け出し、煙が噴き出て炎の勢いを一層加速させた。火山が噴火しようともここまで凄惨な光景にはならない。地球の力をも上回る生命が作り上げたその光景は、地獄の炎が噴き出したかのようであった。

 ならば。

 その超高温の地獄の炎の中で仁王立ちする彼女は、なんなのか?

「……ふぅー……ふぅー……!」

 深く、熱い吐息がミィの口から吐き出される。

 ミィにとっても、炎による攻撃がここまで苛烈とは予想外だった。ヘリコプターを撃ち落とした炎が奴等の限界だとは思わなかったが、その何十倍、いや何百倍ものエネルギーを一気に吐き出せるとは。五十メートルを超える身体に秘めた力は、所謂ところの怪獣としかいえない領域に達している。

 あともう十匹ぐらい超大型白饅頭がいたならヤバかったかも知れない。ミィはそう思い、素直にその強さに感嘆を覚えた。

 つまりは、まだまだ足りぬのだ。小さな子猫一匹焼き殺すだけなのに。

「――――すうううううううううぅぅっ!」

 ミィは突如として、大きく息を吸い込む。

 白饅頭達が吐き出し続けている炎が、一気にミィの口内へと流れ込んでいく。ミィの身体は赤く色付き、全身から朦々と白煙を噴き上げる。

 そして一度天を仰いだミィは、再び地上に顔を向けた際大きく口を開き、

「コオオオオオオオオオオオオッ!」

 甲高い叫びと共に、青い炎を吐き出した!

 吸い込んだ炎の熱を血液で運び、肺で放出。肺内部の空気を集積した熱により高温化……即ち火炎へと変化させ、外へと吐き出す。

 ミィお得意の火焔放射だ。尤も身体操作を応用して無理矢理作り出しているだけで、本来これはミィにとって得意技なんかではない。近接戦闘が主体な彼女にとっては、サブウェポン的な立ち位置の技である。

 しかしその威力は絶大。何しろ無数の白饅頭達が何十秒とミィに浴びせ続けた熱エネルギーを、纏めて吐き出したのだから。

 ミィの口から放たれた火炎は爆発したかのように一瞬で膨れ上がり、何百メートルもの広範囲を薙ぎ払う。火焔攻撃に参加していた個体のうち、一匹の超大型白饅頭は素早く逃げ出したが、他の個体は反応が間に合わない。

 ミィが吐き出した炎は一匹の超大型白饅頭を飲み込み、更にもう一匹 超大型白饅頭の半身を炙る。ついでとばかりに、背後に控えていた特大個体達も巻き込んだ。

「ギギャアオアアアアッ!?」

 炎の直撃を受けた超大型白饅頭が、苦悶に満ちた悲鳴を上げる。戦車砲やミサイルすら通用しなかった体表面が焼け爛れ、爆炎の勢いによって背部の触手が千切れ飛ぶ。半身を炙られた個体は這々の体で炎から抜け出すが、直撃を受けた個体はどうにもならない。

 ついに超大型白饅頭の一匹はひっくり返り、死んだセミのように四肢を折り曲げて動かなくなった。背後に居た特大個体達は一瞬で消し炭となり、跡形も残っていない。

「ほい、いっちょ上がり……ちょっと焼き過ぎたか。げぽっ」

 二匹目と『その他』を仕留め、ミィは使いきれなかった余熱をげっぷの形で吐き出す。

 それからおまけとばかりに、ミィは『本気』の拳を放つ。

 本気といっても全身の筋肉にエネルギーを溜め込んだり、大きな予備動作も取っていない、あくまでこの一瞬のうちに出せる本気だ。それでもミィの拳は音速を遙かに超越し、正面にある空気を圧縮。圧縮された空気には元の体積に戻ろうとする力が働き、周りの空気を押し退ける。この流れが連鎖的に、尚且つ瞬間的な速さで生じ……さながら圧力が空気中を直進するかのように移動していく。それも音速の数十倍の速さを伴って。

 不可視の上に高速の『打撃』は、瞬きほどの刹那で直線上に居た超大型白饅頭を直撃した。とはいえ所詮は空気の塊であり、ミィから三百メートルも離れていれば流石にエネルギーは拡散している。健全な超大型白饅頭ならば、顔面に受けたところで大きく仰け反るのが精々だろう。

 しかしそいつは、ミィに半身を焼かれていた。

 脆くなっていた体表面が、ミィの遠距離打撃によって砕け散る。打撃の傷は体内にまで到達し、超大型白饅頭の内臓部分を傷付けた。腹を内側から殴られて苦しみを覚えぬ筈もない。超大型白饅頭は泣くように絶叫を上げた。

 されどミィは獲物の『命乞い』に聞く耳すら持たず、立て続けに三発の拳を打ち放つ。

 分子破壊すら拒む頑強な表皮は砕け、露出した内臓にミィの強烈な打撃が突き刺さる。鮮血が撒き散らされ、柔らかな肉片が大地に転がる。超大型白饅頭が力なく倒れるのに、さしたる時間は必要なかった。

 これで三匹目。残りは六匹。

「ギジャアアアアッ!」

 だが休む暇など与えないとばかりに、ミィ目掛け一匹の超大型白饅頭が跳び掛かってくる! ミィの炎を吐き出す前に回避した唯一の個体だ。かの個体は全力疾走と覚しきスピードで駆けながら身体を捻り、その神速を生み出した後脚をミィの方へと差し向けた。

 そしてミィが立つ大地目掛け、強力な蹴りを放つ!

 ミィは反射的に両腕を頭上に掲げ、超大型白饅頭のキックを防御。打ち込まれたエネルギーにミィの身体は難なく耐えたが、大地は陥没し、衝撃波で地面が吹き飛んでいく。後にはクレーターが生じ、文字通り流星に匹敵する破壊を生み出す。

 更にその反動を利用し、蹴りをお見舞いした超大型白饅頭はミィとの距離を開けていた。

「ふんっ!」

 ミィはすかさず迎撃の拳を本気で打ち出したが、遠離ろうとし、尚且つ防御の姿勢を取っていたのか。超大型白饅頭の身体はミィの打撃の余波で大きく加速したが、ダメージは負わず。軽々と着地を決めようとした

「ギショウッ!」

 最中に、短い一声を上げる。

 途端、今まで遠巻きに見ていただけの小型個体や大型個体が、一斉に動き出す! がむしゃらな突撃の行く先に待つのは、拳を振り上げたばかりのミィ。

 ミィは素早くその身を翻し、大群の方へと振り返る。最早何千という単位では足りない、何万何十万という数の白饅頭が集結し、次々と襲い掛かってきていた。白濁の津波にも見える大群は大地を揺さぶり、ミィの四方をぐるりと取り囲む。逃げ場などなく、何もかもが肉の津波に飲まれて消えていく。

 それでもミィを怯ませるには及ばない。

「はんっ! 雑魚で足止めって訳!? あたしを嘗めんなっ!」

 むしろ怒りを買った彼等は、ミィが放つ超音速の拳を喰らう羽目となった。激情に身を任せた一撃を、ミィは迫り来る『壁』に打ち込む。

 そのたった一撃で、怪物の大津波は押し返された!

 肉塊染みた大群は一発の拳で本物の肉塊と化し、何十メートルと後退していく。無論それは一方向の話であり、ミィは今、白饅頭の大群に包囲されていた。だが、それがなんだというのか。ミィの反応速度を以てすれば、三百六十度見渡すのに瞬き一回分の時間すら必要ない。

 立て続けに放つ、七発のパンチ。

 先発分も含めた八回の打撃により、白濁の大津波が八等分されたのはその直後の事であった。ぐちゃぐちゃに潰れた肉塊から生き残った個体が這い出していたが、全体からすればほんの僅かな数でしかない。

 周囲には先の大突撃に参加しなかった個体がまだまだ多数存在しており、全体の数としては最初の八割程度残っているようだった。しかし士気に関してはそうもいかない。次々と討ち取られる仲間を目の当たりにし、生き残っている白饅頭達に微かな動揺が広まっていく。超大型白饅頭や特大個体ですら後退りし、小型個体や大型個体に至っては、今にも逃げ出そうとしているようにミィには見えた。

「ギシャアッ! シャオオンッ!」

 そんな状況下で、ある超大型白饅頭が甲高い声を上げる。

 するとどうした事か。白饅頭達の動揺が、一瞬にして静まった。全員がミィに顔を向け、後退りも止めて、統率された戦士のように向き合う。

 そして声を上げた超大型白饅頭の周りに集結。ミィでも分かるぐらいあからさまに守りを固めていた。

 ――――成程。アイツが親玉か。

 基本的には単独生活を送る種であるミィだが、人間並の知性はあるのだ。白饅頭がリーダーによって率いられる集団であり、格上の命令に従うよう本能に刻み込まれた種であると、先の動きから理解する。そのリーダーが、先程声を上げた超大型白饅頭なのも把握した。

 付け加えるとリーダーらしき個体……もうリーダーと呼んでしまう事にするが……が、ミィ達と最初に接触してきた超大型白饅頭である。

 他の個体と比べ桁違いの強さを持っている超大型白饅頭だが、その中でもリーダーの強さは『別格』だとミィは感じていた。身体機能 ― つまり表皮の硬さや筋力の強さなど ― は他の超大型白饅頭と大差ないが、一つ一つの挙動には大きな違いがある。例えばミィが殴った際、他の超大型白饅頭は素直にその力を受け止めているが、リーダーだけは身体の動きを変えて力を受け流していた。危機に対する感度も高いようで、本当に致命的な一撃は素早く、何がなんでも回避している。攻撃時も猪突猛進のようで、決して深追いはしてこない。戦い方が『スマート』というべきだろうか。

 とはいえそれは、リーダーが特別な個体だから、ではないのだろう。マーガレット達が話していた『白饅頭大繁殖』の原因の一つに、天敵が最近になって絶滅した、というのがあった。恐らく此処に現れた白饅頭達の大半は天敵が消えてから産まれた、天敵を知らない世代なのだ。全てが自分達の獲物であり、恐ろしい何かに殺される心配のない……正しくぬるま湯のような環境である。これでは表皮硬度などの先天的能力は天敵がいた頃と変わらぬ水準が身に付いても、力の効率的な使い方や危機への対応力などの後天的能力は育まれないだろう。戦い方は単調なものしか知らず、受けた攻撃の流し方すら分からない。必要ないのだから当然だ。

 リーダーは、天敵が存在していた『当時』を知る数少ない個体なのだ。奴だけは自分より強い存在を知っている。それがどれほど恐ろしく、どれほど理不尽で、どれほど不条理な摂理であるのかを。故に奴は自分より強い奴との戦い方を心得ている。

 これは手強そうだと、ミィは気を引き締める――――が、そんな内心と反比例するように、顔には蕩けるような笑みが浮かんできた。

 白饅頭は美味である。

 その美味さの根源は何か? 様々な生き物を想起させる複雑な味わいからして、今までに食べてきたものの『旨味』が肉に移っているのかも知れない。大きくなるにはたくさんの餌が必要であり、故に大きな白饅頭ほど味の深みが増していき美味になるのではないか。

 ならば恐ろしい天敵から長年逃れ、数多の生命を喰らってきたリーダーは、どんな味がするのだろう?

 ()()()()が獲物を狩る理由など、こんなもので十分だった。

「ッシャアアァァッ!」

 猫らしい透き通った雄叫びを上げ、ミィは突撃する!

 展開していた小型個体と大型個体が壁のように前を塞ごうと動き出す。ミィが本気で駆ければ、その間を抜ける事は造作もない……が、本気で駆けるよりも、もっと楽な方法がある。

 故に敢えてスピードを出さず、拳に全身全霊の力を乗せて、放つ!

 音速の数十倍の速さで打ち込んだ打撃に、白饅頭達は海が割れるように左右に吹き飛ばされた! 小型個体、大型個体は余さず押し退けられ、戦線に参加する事も許されない。二つに裂けた塊の間に出来た道を、ミィは悠々と駆け抜ける。

 この光景に、最早雑魚には任せられないと思ったのか。数百体の特大個体と五体の超大型白饅頭達が一斉にミィの前を塞いだ。全員が闘志を剥き出しにし、全身の血を滾らせている。恐らくは肉体的な限界を超えた、命懸けのパワーアップ。生き延びたところで後遺症が残るかも知れない。強烈な『覚悟』を感じさせた。

 同時に、酷い怯えのような感情も。

 一体何に怯えている?

 疑問を抱くミィだったが、暢気に考え込む暇はない。力を増大させた特大個体が突撃し、一斉にミィの腕に噛み付いてきたからだ! 弾丸を弾くアーマーさえ噛み砕く歯でもミィの体表面を穿つ事は叶わなかったが、自身の身体を固定するぐらいの力は発揮する。それが何百と、仲間の身体に噛み付いて一塊となれば、さしものミィでも重石ぐらいの鬱陶しさを覚えた。

 邪魔な『羽虫』共を払おうとするミィだったが、しかしその隙を突くように超大型白饅頭達が跳び掛かってくる! 五体が一塊となるようにして、加えて今まで以上のスピードを以て突撃してきたのだ。合計五万トンの超音速打撃……さしものミィも受け止めきれず、巨体達に押し倒される。衝撃で重石となっていた特大個体達は剥がされ、ミィだけが大地に打ち込まれた。隕石の直撃を受けるような破壊力に、ミィの身体にも痛覚が走る。

「っだぁぁっ! 邪魔すんなッ!」

 同時に彼等の行動は、ミィの怒りを買った。ミィは目の前の一匹の顔面を掴むや自由になった腕を振り上げ、超大型白饅頭を殴り付けようとした

 瞬間、ミィの身体に冷たい感覚が走る。

 おまけに、まるでミィの感覚を共有したかのように白饅頭達は一斉に離れた。残ったのはミィが掴んでいた一匹のみ。

 その一匹に隠れて見えなくなっていたが、それでもミィは感じ取った。

 リーダーの奴が何かをしていると。

 事実、リーダーは行動を起こしていた。かの者は全身が微かに赤く発光しており、膨大な熱量を周囲に放出。土中の水分が蒸発しているのか湯気を立ち昇らせており、周辺の気温が百度近く、或いはそれ以上に上昇していると分かる。やがてリーダーはゆっくりと、その口を開いた。

 口の中に揺らめく青い閃光。今までとは比較にならないエネルギーが集結している。

 リーダーは攻撃の力を溜めるために仲間を差し向け、時間を稼いだのだ。長年の経験によって編み出した『技術』なのか。ミィが感じ取る限り、リーダーの体内に蓄積されているエネルギーの量は、先程自分が浴びせられた火焔とは比較にならないほど大きい。気配も嫌な感じがして、恐らく普通に吐き出す訳でもなさそうだ。

 直撃を受ければ、自分でもヤバいかも知れない。

 成程アイツらはこれに巻き込まれる事を恐れていたのかと、先の白饅頭達の感情に得心がいった。恐らくは白饅頭、それもリーダーが誇る最大の必殺技に違いない。

 ついに勝負を決めにきたのだと察し、ミィは――――その口角を、三日月状に歪めた。自分が掴んでいた一匹を投げ飛ばすようにして離し、素早く立ち上がった

 刹那、リーダーの口から『光』が放たれた。

 それは火焔と呼べる形態ではなかった。否、火焔ではあるのだが、先程の攻撃時とは太さが違う。極限まで細く圧縮され、一閃の光のようになっていた。原理的には、槍のような炎を吐いた時と同様なのだろうが、されど熱量が違い過ぎる。一瞬細く吐き出すのとは、その難度は桁違いであろう。

 そして炎を圧縮したという事は、単位面積当たりの温度が上昇している事を意味する。

 迫り来る火焔を前にして、どうして自分が危機感を覚えたのか、ミィは得心がいった。あの炎には、ちょっと耐えられそうにないからだ……ミィには高等な科学知識がないため、どうして耐えられないのかはよく分からない。花中ならば、ある程度の超高温下ではあらゆる分子がプラズマ化するため、肉体的強度で耐えようとするミィとの相性の悪さを指摘出来るだろう。されど生憎花中は今遠くでこの戦いを鑑賞中である。説明する者は誰もいない。

 しかし本能からの警告だ。動物であるミィが、その警告を無視する事などあり得ない。

 なのに、ミィはその場から動かない。

 動かないまま大きく空気を吸い込んで、

「コオオオオオオオオオッ!」

 強烈な『息』を吹き掛けた!

 息といえども、こちらも圧縮した空気の塊。音速を超えた証であるソニックブームを纏いながら、リーダーが吐き出した閃光と激突する!

 閃光と空気の塊は両者の間でぶつかり、激しく弾け合う。飛び散った炎は逃げ遅れた特大個体を何体も焼き切り、空気は大地と共に大型個体の群れを粉砕する。苛烈な生存本能のぶつかり合いは、周りの命を尽く破壊していった。

 拮抗する決戦は、されど長くは続かない。

 超大型白饅頭よりも、ミィの方が内包するエネルギーが膨大なのだから。

「……!?」

 リーダーはその身を強張らせる。自分の放った閃光が、徐々に押されているが故に。

 リーダーは全身に力を込め、閃光の威力を更に上げる。しかし押し返される動きは止まらない。それどころかむしろ加速している。ミィの『息』はリーダーの努力を嘲笑うように迫ってきた。

 全身全霊、仲間の協力を得てまで放った一撃さえも、真の『怪物(ミィ)』には届かないのだ。

 狼狽するリーダーだったが、今更逃げ道などない。閃光を放つのを止めれば『息』は一気に迫り、自分を八つ裂きにするのだから。逆転の一手などない。相手は自分よりも遙かに大きな力を有するのだから。残すは仲間達を捨て駒にする手のみだが、生憎それも叶わない。

 既に仲間達は、リーダーに見切りを付けて逃げ出していたのだから。

「ゴアアアアアアアアアアアッ!」

 故にミィが駄目押しの咆哮を上げた時、リーダーに立ち向かう手立ては何処にもなくて。

 跳ね返された自身の炎と、迫り来る爆風の直撃を受け、リーダーの身体は焼けながら粉砕されるのであった――――

 

 

 

「うまーい!」

「うまーい!」

「おいしー!」

 荒野と化した森の中に、ミィとフィアと花中の、知能指数が著しく低下した喜びの声が響いた。

 花中達が食べているのは、ミィの一撃によりバラバラとなったリーダー白饅頭の肉片である。膨大な量の肉は、自らが吐き出した炎により炭化して食べられなくなったところも多々あれど、絶妙な焼き加減の場所や、完全な生肉の場所も残していた。フィアとミィは完全な生肉、そして花中はミディアム状態の部位を食べ、その味を満喫している。

 長年生きてきた事で、様々なものを食べてきたからだろうか。リーダー白饅頭の肉は、少し前に食べた大型個体の肉よりも格段に複雑かつ深みのある味わいとなっていた。一噛みするだけで旨味たっぷりの肉汁が溢れ、口の中を濃厚な肉の味で満たしてくれる。この味の前では塩胡椒の出番などない。否、むしろ邪魔だ。

 収入的には一般家庭のそれである花中は、世界最高級の牛肉や豚肉の味など知らない。しかしながら超大型白饅頭の肉は、間違いなくそれらに匹敵、或いは上回る味覚であると断言出来る。それほどまでに、白饅頭は美味だった。

「『うわー、マジで食ってるぞアイツ等』」

「『ないわー、いや冗談抜きでないわー』」

 ……見た目は明らかにゲテモノなので、その様を見ていた兵士達の反応は極めて真っ当なものだが。ちなみに彼等の発言はネイティブな英語だったが、花中の語学力でもちゃんと翻訳出来た。翻訳出来なくても、意図は汲めただろうが。

 それに食欲をそそらないのは、見た目の問題だけではない。聞いた話の通りならば、兵士達は白饅頭相手に多数の犠牲者が出ており……犠牲者の多くは白饅頭に捕食されている。超大型白饅頭達の大きさを考えれば、彼等は人間なんて『虫けら』をいちいち食べてはいないだろう。だとしても生理的に受け付けない気持ちは、人間である花中には理解出来る。

 ただ、花中は割とその辺りの事をあまり気にしないタイプでもあった。

 死んでしまった人がいるのはとても悲しい事だと思うが、他の生物からすれば人間だって生命の一種でしかない。人間を食べて育つ事と、動物や植物を食べて育つ事。そこに違いなんてないのだ。どんな形であれ自然の営みの一つであり、もたらされた恵みを拒む方が良くないと考えていた。勿論身内が食べられた訳ではないから、という極めて身勝手な前提がある事は重々承知した上ではある。

 しかしもしかすると、身内が食べられたとしても、白饅頭を味わったかも知れない。

「……私にも一口貰えるか」

 大勢の部下を失った側であるマーガレットが、花中達にそう頼み込んできたように。

 マーガレットはヘルメットを外しており、翡翠色の瞳で花中をじっと見つめる。その瞳に、好奇心は感じられない。何かの責務を果たそうとしているかのような、真剣な眼差しだった。

「良いよー。あたしらだけじゃ食べきれないし」

「残っても腐るだけですからねー」

 そんなマーガレットの気持ちなど、きっと欠片も汲んでいないだろう動物達はあっさりと許しを出す。捕まえた当事者がOKを出しているのだから、花中がNoを突き付ける権利などない。無言のまま花中はこくりと頷き、マーガレットは「感謝する」と一言告げてからリーダー白饅頭の亡骸に歩み寄る。

 マーガレットは懐からナイフを取り出し、リーダー白饅頭の肉を切り取ろうとする。分子破壊弾も戦車砲も通じなかった身体であるが、表皮の内側はそれなりに柔らかい。ナイフを突き立てれば簡単に切り取れて、一口サイズに取り分けた生肉をマーガレットは躊躇なく口に放り入れた。

 じっくりと噛み、味わい、ごくりと飲み干して――――マーガレットの口から、暖かな吐息が漏れ出る。出会ってから今に至るまでずっと強張っていた表情が、ほんの少しだけ弛んだように花中には見えた。

「……久しぶりに、良いものを食べた。私の部下達にも振る舞いたいが、構わないか?」

「良いよ良いよ。好きなだけどうぞー」

「私はもう満腹ですし」

 マーガレットの頼みに、殆ど考えなしに二匹は了承。

「『食べても良いそうだ。お前達も食いたい奴等は食べておけ。少しは仲間の供養にもなるだろう。無論、無理強いはしないがな』」

 二匹の許しを得たマーガレットは、早速部下達に英語で呼び掛けた。最初は戸惑う部下達だったが、隊長からの提案を無下にも出来ないのだろう。何人かがリーダー白饅頭に近付き、実食する。

 宴が賑やかなものとなるのに、五分と掛からなかった。

 激戦続きで心身共に疲労が溜まっていたのだろう。兵士達の誰もが強張り、酷い顔付きをしていた。しかし美味しくて温かな食事は、身も心も解きほぐす。白饅頭の肉を食べた兵士達は柔らかな表情を浮かべ、時に笑い、時に涙し、誰もが大きな声で笑い出した。

 これで全てが元通り、とはいかないだろう。けれども日常に戻るための手伝いぐらいにはなった筈だ。

「……食糧の提供に感謝する」

 花中の側までやってきて告げたマーガレットの言葉は、きっとその事に対するお礼なのだろう。

「いえ、わたしは何も……わたしは、ただ友達に、付いてきただけです、から」

「そうか」

「……これから、どうするのですか?」

 花中が尋ねると、マーガレットはしばし辺りを見渡す。それから困ったように肩を竦めた。

「どうもこうも、君達のお陰で任務は八割方達成したからな」

 そしておどけるように、そう答える。

 確かにそうかも知れない。納得しながら、花中もまた辺りを見渡す。

 花中達の周りには、白饅頭達の亡骸が山積みとなっていた。

 全て、ミィが先の戦いで殺した白饅頭達だ。超大型白饅頭だけでも四体、特大個体数千匹、大型個体と小型個体は果たして何十万匹に達するか……数えきれないほど殺した。辺りは白い肉塊に覆われ、食欲をそそる肉の香りに満ちている。もしもこれが普通の血の臭いだったなら、今頃花中は耐えきれず、嘔吐していただろう。

 間違いなく、マーガレット達が多数の犠牲と莫大な資源を投じて行った駆除作戦の成果よりも、ミィの気紛れな狩りによる駆逐数の方が遙かに多い。加えて最新兵器である分子破壊弾すら通じなかった超大型白饅頭(成体)も相当数撃破している。今後の増殖は大きく抑制された状態だ。

 これなら、白饅頭が人里に出て繁殖する恐れはない筈である。完全な駆逐……絶滅を目論んでいたマーガレット達にとっては不十分な結果かも知れないが、人間社会を守るという意味では任務成功と言って良いだろう。

 何より人間の力では、超大型白饅頭は倒せなかった。なら、どうしてこれ以上の結果を望むというのか。

「先程本部に事の顛末は報告した。間もなく本部から撤退指示と、迎えのヘリが来る筈だ」

「そうですか……」

「……無論、『君達』の事も報告している」

「分かっています」

 花中の答えに、マーガレットは何を感じたのだろうか。翡翠色の瞳は何も語らない。

「……今回は我々の負けだ。しかし、このままではいない事は忘れるな」

 ただ、この言葉に含まれる『悔しさ』だけは花中にも伝わったので。

「はい。わたしも、出来ればそうなる事を、期待しています」

 一人の人間としての答えを、返すのだった。




白饅頭は実際強い。一匹で怪獣映画ばりの被害を出せます。そしてもりもり増えて、良い感じのアポカリプスを起こす。
相手が違ったら、ほんと大活躍(白目)だったんですけどねぇ……

次回は1/20(日)投稿予定です


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未来予想図8

 人間達とケダモノ達の晩餐会は、夕暮れ時を迎える前に終わってしまった。

 空から、無数のヘリコプターがやってきたのである。ヘリコプターが近付くとマーガレット達の通信機器に音声が送られた。早口の英語で、花中にはよく聞き取れなかったが……僅かに聞こえた単語と雰囲気からして、マーガレット達に撤収を促すものなのは理解出来た。

 やがてヘリコプターがミィと白饅頭達の決戦により出来た広間に降り立つと、マーガレット達は統率された素早い動きで乗り込んでしまった。別れの挨拶を交わす暇もなく、白饅頭の味に名残惜しむ事もなく、訓練された戦士である彼女達は撤収命令に躊躇なく従ったのである。戦車なども巨大なヘリに乗せられ、空へと飛び立つ……さらりとやってのけたが、空輸向けに軽量化された型なら兎も角、普通の戦車を運ぶとは恐るべきパワーのヘリコプターだ。それだけで、マーガレット達の組織の技術力の高さが窺い知れる。

 撤収はごく短時間で完了し、今では全員が空の旅の真っ最中。地上の広間に立つ花中は、赤らむには少しばかり早い青空に浮かぶ何十もの黒い影をじっと眺めていた。

「随分と忙しない人達でしたねぇ。まだまだお肉はたくさんあるのですからお土産に持っていけば良いのに」

「……そうだね」

 傍に立つフィアの意見に、花中は淡々と同意する。ミィも花中の隣に居て、離れていくヘリコプターの後ろ姿を花中と一緒に眺めていた。

 人知れず、人間社会を守るために戦い続ける戦士達。

 今日初めてその存在を知った花中は、何時までも彼等が乗るヘリを見続けた。何処へ向かうのか、追い続ければもしかしたら少しは分かるかも知れない……そんな淡い期待が、胸の奥底にあったがために。

「さぁてお腹もいっぱいになりましたしそろそろ帰りましょうか」

「さんせーい。あたし、もう疲れたしお腹も膨れたし、正直眠いんだよねぇ……あふぁ」

 尤も、動物達はマーガレット達が何処へ行くのかなど、さして興味もないらしい。

 花中は乾いた笑いを漏らしつつも、確かに自分の行為が無駄なものであるとの自覚はある。何時までも立ち続けていたところで、何も得られはしない。

「……うん。そうだね」

 こくりと頷き、花中はフィア達の意見に同意した。

 フィアは早速とばかりに花中の手をつなぎ、「それでは行きましょう」と言いながらその手を引っ張る。行く先は麓にある人間の町。町へと続く、ミィ達の激戦を生き延びた森だ。

 ミィは余程眠いのか、ふらふらしながら軽やかという矛盾した足取りで花中達を追い抜き、一匹で森の中へと入ってしまう。しかしながらミィが先行したからといって、慌てるようなフィアではない。むしろ花中と二人きりになれて上機嫌なのが、荒々しく吐かれた鼻息から察せられた。手を握る力がほんの少し強くなったが、抗うつもりのない花中はそっと握り返すだけ。仲良く一緒に、広間を囲う森の中に足を踏み入れようとした

 寸前に、花中は足を止めて振り返る。

 もうなんの姿も見えない、大空を見つめるために。

「花中さん? どうかなさいましたか?」

 花中に合わせて立ち止まったフィアから問われ、花中はしばし押し黙っていたが……やがて首を横に振った。作り笑いも浮かべて。

「ううん、なんでもない。ちょっと、気になっただけだから」

「そうですか。では先に進みましょうか」

 フィアは花中の作り笑いを気にする事もなく、再び花中の手を引いて森の中へ進もうとする。花中も、その歩みに合わせて森の中に向かい、足も踏み入れた。ざくざくと落ち葉を踏み締めながら、自宅を目指して真っ直ぐ進む。

 だけど途中で一回、最後に一回だけ、また立ち止まった。フィアも足を止め、キョトンと首を傾げながら花中をじっと見つめる。

 花中はしばし身動ぎもせずに立ち尽くしたが、やがて大きなため息を吐き、ぷるぷると顔を横に振る。

 それから浮かべた笑みは、すっかり明るくなった微笑み。

「ん、ごめんね。急に、立ち止まって。行こうか」

「分かりました。ですがどうして急に立ち止まったのです? 考え事があるなら別に待っていても構いませんけど」

「あ、考え事とかじゃ、ないの。考えても、仕方ないというか、分かんないし」

「はぁ。そうなのですか」

 花中の答えに、フィアはぼんやりとした反応を示すのみ。恐らく、花中が何を言いたいのかよく分からないのだろう。

 花中も、分かってほしいとか、相談に乗ってほしいという訳ではない――――これは、人間がどうにかしなければならない問題なのだから。

「ほら、早く行かないと、日が暮れちゃうよ。夜の森は、危ないんだから」

「いや立ち止まったのは花中さんの方じゃないですか。あと別に夜の森でも私なら問題は」

「良いから、良いから」

 今度は花中が引っ張りながら、フィアを森の奥へ連れて行こうとする。

 抗おうとすれば簡単に抗えるフィアは、だけど文句の一つも言う事なく、大人しく、むしろ楽しげに花中の後を追うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「隊長。コーヒーを煎れましたが、どうです? 一杯」

 カタカタと揺れる、乗り心地の悪いヘリコプターの機内で、マーガレットは部下の男から一杯のコーヒーを振る舞われた。

 座席にもたれ掛かった状態のまま、マーガレットは一瞬考え込んだ後「貰おう」と言って部下が持つコーヒーカップに手を伸ばす。カップを口許に近付ければ独特にして芳醇な香りが鼻をくすぐり、口に含めばすっきりとした苦みが舌を満足させる。

 部下からコーヒーを振る舞われた事は幾度かあるが、この味は中々のものだ。今までに飲んだものの中でトップクラスといっても過言ではない。

「ほう……中々美味いじゃないか。何処で習った?」

「エブリスの奴から教わりました。三日前に」

「……そうか。エブリスか」

 確かに奴のコーヒーは美味かったと、マーガレットは納得する。奴は部隊内で一番コーヒーを煎れるのが上手かった。もう一度あの味を堪能したいものだと、マーガレットは懐かしむ。

 だが、それは叶わない。

 エブリスは昨晩、強襲してきた3FB2の大型個体に襲われ、腹の中に収まってしまったのだから。

「……今回の犠牲者は、何人だったかな」

「死者に限定しても三百十八名。腕などを負傷し戦線復帰が困難な者も同程度います」

「そうか……だが、相手を思えばマシな方だな」

「ええ、マシな方です。文字通りの全滅よりは、余程」

 同意する部下の言葉にため息を返し、マーガレットはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。吐き出された熱い呼気と共に、腹の中に溜まった激情を外へと追い出した。

 それでも、腸が煮えくり返るのを抑えられない。

 完敗だった。

 戦力さえ補充されれば、新兵器さえ到着すれば3FB2を殲滅する事は可能である。それが作戦途中での上層部の判断であり、同時にマーガレットが戦っていて感じた印象だった。確かに人類文明すら滅ぼす可能性を秘めた怪物だったが、そうなる前に叩けば抑え込む事は可能であり、人類にとって乗り越えられる試練でしかないと、『あの時』は本気で思っていた。

 なのに結果はどうだ?

 新兵器は雑魚を数千匹殺すのが精々。本当の親玉には傷一つ付けられず、逃げ出さずに呆然と立ち尽くすのが精いっぱい。結局3FB2を安全な個体数まで減らしたのは、偶々山を訪れていたもう一匹の『化け物』という有り様だ。

 自己採点ですら0点を付けざるを得ない体たらく。しかしマーガレットは上層部の叱責を受ける事や、自身の評価が下がる事に関心などない。

 彼女は常に、人類について考えているのだ。

「……今までに遭遇してきた中でも、あれほどの生命体は初めてだった。人が触れていない領域には、あのような怪物共がひしめいているのか……?」

「かも知れません。技術部にはもっと強力な武器を作ってもらわねばなりませんね。また今回のようなモンスターが現れた時、今度こそ人間の手で世界を守れるように」

 マーガレットが漏らした独り言に、部下の男は熱い言葉で答える。

 マーガレット達の仲間の多くは、人類社会を守るのためという正義感で戦っている。勝ち目があるか分からない、一方的な蹂躙や絶望的な力の差を示される事もある『超生命体』との戦いで、名誉や狂気はさして役立たない。どんな相手にも立ち向かう、頑強な正義の心が必要なのだ。

 故に部下は熱い言葉を語った。マーガレットもそれは分かっている。

 分かった上で、つい、鼻で笑ってしまった。

「人間の手で、ねぇ……」

「……隊長?」

「ん、ああ。気にするな。少し疲れているからか、弱音が出てしまったよ」

「……あの戦いは、苛烈でしたからね。基地までの残り時間、お休みになりますか?」

「そうだな。そうしよう」

 肯定すると、部下の男は敬礼をして迅速に座席から離れていく。優秀な兵士である彼の事、他の部下達にもしばし静かにするよう伝えてくれているに違いない。尤も、他の兵士達は自分以上に疲れている筈なので、わざわざ言うまでもないとは思っていたが。

 なんにせよこれならゆっくりと考え込める。マーガレットは一層座席に深く座り直し、目を閉じながら深い吐息を漏らした。そしてコーヒーの苦味と芳醇な香りのお陰で落ち着いた心で、静かに物思いに耽る。

 ――――此度の戦いで、ハッキリと分かってしまった。

 今まで、マーガレット達の組織は様々な危険生物を駆除してきた。対物ライフルを跳ね返すオオトカゲ、戦車を貪り食う巨大ムカデ、ヘリコプターを落とす怪鳥……大勢の犠牲を出しながらも討伐したそれらは、この星ではちっぽけな虫けらの一員でしかなかった。本当に恐ろしいものが、人の知らない脅威が、この星には潜んでいるのだ。

 既存の生態系に根付く、人智を越えた力を誇る超生命体。その超生命体をまるで羽虫のように嘲笑う化け物 ― 恐らく昨年末、異星生命体を粉砕した『怪獣』と同質の存在だろう。米国では特殊危険生命体と呼称されているらしい。長ったらしいので化け物と呼ぶ事にする ― 達……どちらにも、自分達はまるで歯が立たなかった。

 人類の科学力は素晴らしい。様々なエネルギーを生み出す事で大きな力を得て、数多の自然現象を克服し、潤沢な食料生産と生活の効率化と強大な兵器を持つ事を成し遂げた。お陰で人類は世界中に分布を広げ、今では七十億以上の個体数を誇るほど。この星の支配者を名乗るに相応しい、圧倒的な繁栄を遂げている。

 しかしその力は奴等には届かない。小手先の技術では、圧倒的な力を持つモノには敵わないのだ……日本に住む昆虫の一種・ミイデラゴミムシが過酸化水素とヒドロキノンの合成という高度な『技術力』を用い、百度以上の高温ガス攻撃を可能としていながら、人間相手では指先に臭う染みを作るだけの『へっぴりむし』に過ぎないように。例え分子破壊弾なんて大層なものを開発したところで、超生命体、その超生命体を凌駕する化け物共には『へっぴりむし』でしかないのである。今の人間の実力では、彼女達と同じ土台に立つ事すら許されていない。

 へっぴりむしである人間に出来るのは、祈る事だけ。化け物が超生命体を叩きのめしてくれて、自分達に興味を持たないでほしいと期待するのみ。さながら今日の戦いのように。

 或いは、それで良いという考え方もあるだろう。モンスター同士で潰し合いをしてもらい、その隙間で人類は繁栄を享受する。極めて堕落的で、それでいて最も現実的な発想だ。

 だが、もしも。

 もしもあの『化け物』が繁殖をしたら?

 超生命体を遙かに上回る戦闘能力を有する種が、既存の生態系を塗り替えていったら? 全て超生命体を殺し尽くし、全てを奪い取ってしまったら? その時、人類には何が出来る?

 何も出来やしない。この戦いと同じように。

 ――――あの『少女』は、きっとそれを分かっていたのだろう。

「……あの戦いは、『未来予想図』だ」

 ぽつりと、マーガレットは独りごちる。

 地球では今、何かが起きている。

 異星生命体の襲来とその後の決戦が契機か、はたまたそれより前に起きた謎の『全人類失神事件』の影響か。いずれにせよ、今まで静かに眠っていたモノ達が目覚め始めている。この星に暮らす強大な生命体と日々戦っているマーガレットは、それを感じ取っていた。

 繁殖した化け物達、生態系の乱れから続々と現れる超生命体……恐らくは近い未来、あの山で起きた戦いは世界中で頻発するようになるだろう。奴等よりも更に恐ろしい敵が、今回以上に物資も情勢も安定しない中で暴れ回るかも知れないのだ。人類がどれほどの努力をしようと、血と涙を流そうと、奴等はそれを『へっぴりむし』のように踏み潰す。何もかも蹂躙し、粉砕し、無に帰す。人類の英知も、想いも、命も、奴等にとっては靴底の染み程度でしかない。

 人類は滅ぼされる。為す術もなく、踏み潰されるように呆気なく。

 希望があるとすれば、あの『未来予想図』の中で、人間(少女)は化け物達と友達になっていた事ぐらいか。化け物達は人間並の知性を有し、会話も出来ていた。価値観の違いはあるようだが、それは人間相手でも変わらない。話し合いは可能であると考えられる。

 星の支配者の地位は譲ろうとも、人の生きる余地があるのなら、それは希望だ。例えこれから起こる戦いに勝ち目がなかろうとも、人類が未来へと続くのなら……マーガレットとしては十分に嬉しい。それを掴み取るために戦いが必要ならば、喜んでこのちっぽけな命を差し出そう。

 戦いへの決意を胸に、マーガレットは気持ちを切り替える。切り替えようとする。

 だが、不安が心の隅にこびり付く。

 何故そんな事を思うのか、マーガレット自身にも分からない。じわじわと心の奥底を蝕み、抱いた希望をボロボロにしていく。

 やがて、マーガレットの脳裏に一つの『予感』が過ぎる。

「……何を馬鹿な」

 自然と口から出てきた言葉は、紛れもない本心。

 それはあまりにも馬鹿馬鹿しい発想で、何もかもが矛盾していて……なのにどうしてか頭から離れない。これまでに積み重ねてきた経験と、磨かれてきた本能がその考えを受け入れてしまう。全身から血の気が引いていき、身体が震えだす。

 少女と、化け物達。

 あの輪の中に『人間』が入る余地なんて何処にもないと、何故そう感じるのか分からぬまま――――




ここからが本当の人類のピンチだ……!(オイ)
という訳で難は切り抜けましたが、永続的な解決にはならず。
完全解決すると別の大問題が起きるのが自然さんの嫌らしいところである。

次回は今日中に投稿予定です。



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幕間十一ノ十二

 無数のモニターとそれを操る人がひしめく、小さな部屋があった。

 部屋の中は暗く、モニターや周りの機械類の明かりだけが辺りを照らす。人々の顔はそれらの光を浴びてぼんやりと浮かび上がり、機械のような無表情を露わにする。誰もが眉一つ動かさずモニターに備え付けられたコンソールを操作し、複雑な文字の羅列を眺めて、何か考え込み、それから新たな操作を行う……飽きる素振りもなく、この動作だけを繰り返す。男も女も居たが、やる事に違いはない。淡々と、作業を続けるのみ。

 部屋の中にはコンソールを叩く無機質な音と、機械の駆動音だけが満たされていた。

「やぁ、調子はどうだい?」

 その無機質な室内に、淡々とした、されど生きた人間の声が不意に響く。

 一瞬、部屋に居た誰もがその身体を強張らせる。が、振り向きもせぬまま、彼等は自分の作業を再開する。まるで、その声に応えるのは自分ではないと言わんばかりに。

 或いは自分こそがその役目を担うと誇示するかのように、モニターと向かい合っていた若い女性の一人が立ち上がる。それから寸分の狂いもない動きで声がした方へと振り返った。不満も喜びも怯えもない、無感情な顔のまま。

 そんな女性の姿を見て――――『彼』は笑みを浮かべた。

「問題なく職務を遂行しています。作業時間は十四時間を超えましたが、身体的・精神的疲弊は感じていません。他の職員もバイタルチェックを行う限りでは同様と思われます」

「うん、それは実に結構。精神調整は予想通りだけど、肉体健康は予想以上だね。量産化を進めるとしよう」

「了解しました」

 女性の答えを受け、『彼』は満足げに深々と頷いた

 最中の出来事だった。

 突如、建物全体を揺れが襲ったのは。それも地上から突き上げるような強烈なものが、ほんの一瞬だけ。モニターが揺れ、建物の建材が悲鳴のような軋みを上げる……しかしながら部屋に居る人間達は殆ど表情を変えず、作業を続けるか、精々モニターや機器が落ちないよう抑え込むだけ。逃げようともせず、狼狽など誰一人として見せない。

 異様な地震と、異様な人間。

 『彼』もまたキョトンとしていたが、慌てふためいて逃げる事はなかった。ただし表情から笑みが消え、素早く懐にあった機械 ― スマートフォンのようで、それよりもずっと無機質かつ小型の通信機器だ ― をズボンのポケットから取り出して耳に当てる。

「何かあったのかい?」

【『サンプル』が脱走を試みました】

 『彼』が問うと、通信機器から淡々とした報告が飛んできた。

 『彼』は一瞬、ほんの一瞬口許を歪ませ、されどすぐに楽しそうな笑みを浮かべる。

「そうかそうか。何時かは逃げると思っていたけど、思ったより早かったね。『人形』にアレの世話は難しかったかなぁ?」

【申し訳ございません。ただちに保安部に通達します。また、再発防止策の検討にも入ります】

「うん、そうしてね。あ、再発防止策はゆっくりで良いから。そうだねぇ、一週間以内かなぁ」

【了解しました】

「じゃ、よろしくー」

 気軽な言葉を最後に送り、『彼』は通信機の電源を落とす。それから踵を返し、『彼』はモニターだらけの部屋を出て行った。

 部屋から出た『彼』はエレベーターに乗り込み、エレベーターは『彼』一人を乗せて急上昇。やがてエレベーターは止まり、無音で開いた扉の先にとある部屋が現れた。

 部屋にあるのは大きなデスクが一つ。壁はガラス窓に覆われ、外の景色を眺める事が出来る状態だった。外には昼間の大都会……無数のビルが建ち並び、大勢の車や人々の行き交う姿が見える。

 エレベーターから出た『彼』は、部屋の真ん中に置かれたデスクに腰掛ける。それから虚空を指でなぞると、デスクに置かれた一枚のガラス板に映像が投射された。

 映し出されたのは、金髪碧眼の美少女。

 或いは黒髪で死んだような目をした美女。

 もしくは小柄でスレンダーな体躯をした少女。

「……良し。やるとしようか」

 画像を眺めながら独りごちた『彼』は、おもむろにデスク上にあった電話を手に取る。ボタンは押さない。何もしていないのに、コール音は勝手に鳴る。

【はい。こちら保安部】

 一秒と立たずに、感情の起伏が感じられない淡々とした声の男性が電話に出た。

「僕だよ。『彼女』が逃げたみたいだね」

【はい。先程通達を受けました。現在部隊編成は完了しており、間もなく確保に向かわせます】

「ああ、その件なんだけど少し待ってくれないかな? やりたい事があってね」

【……やりたい事、とはなんでしょうか】

「大したものじゃないけどね。そろそろ彼女達は痛い目を見るべきだとは思わないかい? あまり人間を嘗めるんじゃないって」

 『彼』の言葉に、電話越しの男は数瞬黙りこくる。されど間を開けて出てきた声は、やはり先程までと変わらない、淡々としたものだった。

【つまり、しばらく様子を見て、アレらと『サンプル』の合流後に専用装備で出撃せよ、と?】

「うん。そーいう事」

【現時点で、アレらと『サンプル』の合流確率は極めて低い筈です】

「それでも合流してしまう。アレはそういう存在だ。忌々しいけど、今回はそれを利用するとしよう」

【タヌキ達については?】

「情報部で手を打ってもらう。ま、アレの中にも僕達に友好的な派閥があるからね。時間稼ぎはしてくれるだろうさ」

【……了解しました】

「頼んだよ。じゃ、またね」

 通信を切り、『彼』はにやりと微笑みながら席から立ち上がる。

 向かう足取りは、部屋をぐるりと囲うガラス窓。

 窓の傍に立った彼は、下界をその目で見下ろす。木々のように生い茂るビル、アリのように列を作る車、蔓延るカビのような人混み……人間が幾代も掛けて作り上げた奇跡の光景であり、人類繁栄を象徴する景色。

「大きな力を手にして、随分と粋がっているみたいだけど……それももう終わりだ」

 『彼』は呟きながら、人が自らの暮らしを豊かにするため、自然を壊して作ったそれらの景色を眺める。

 とても愛おしそうに。

 とても誇らしげに。

 とても楽しげに。

 やがて『彼』は軽やかな足取りで振り返ると、虚空を撫でるように片手を大きく振るう。

「真の知性というものを見せてあげよう……ケダモノ達と、それを忘れてしまった人間に、ね」

 そして楽しげに独りごちた。

 銀髪紅眼を持ち、人外(ケダモノ)達に囲まれて笑顔を浮かべる、少女の画像を眺めながら――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十二章 あなたはだあれ?

 

 

 

 

 

 




次章は本作では珍しい男性敵役登場。
胡散臭い男性キャラって結構好きです。

次回は3/3(日)投稿予定です。


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第十二章 あなたはだあれ
あなたはだあれ1


 雲一つない大空の中心で、太陽がギラギラと輝いている。

 九月上旬を迎えたが、太陽は未だ日本列島に最大級のエネルギーを送り届けていた。アスファルトで舗装された道路は卵が焼けそうなほど加熱され、空気は高い湿度と合わさってサウナのように蒸し暑い。大地は乾燥し、路上に生える雑草はどれもすっかり萎びていた。住宅の庭に植えられた木々も、心なしか元気がないように見える。

 過酷な日本の夏が襲うのは、野生の生き物達だけではない。行き交う通行人達の表情は苦悶に歪み、額から溢れる汗を誰もが拭いていた。日傘を差したり扇子を扇いだりしてなんとか暑さから逃れようとしているが、天然の核融合炉が放つ熱波は人類の叡智を嘲笑うばかり。

 そんな環境の中を、花中は汗一つ流さずに歩いていた。外出した目的であるレンタルDVDの返却を済ませてきたばかりなので、傘も扇子も買い物袋も持っていない、完全な手ぶらである。

 無論花中の身体は一般的な人々のそれと同じ……むしろ普通より遙かに貧弱なぐらいで、過酷な暑さをやり過ごすような身体的機能は持ち合わせていない。着ている服である半袖の白いワンピースは量販店で買った安価な代物で、こちらにも暑さを凌ぐ特別な効果は備わっていない。

 暑さ対策をしているのは、花中と手をつぎながら歩くフィアだった。

「どうですか花中さん。涼しくなってますか? 寒かったりしませんか?」

「う、うん。丁度良い感じだよ」

「そうですか。それは何よりです」

 ふふん、と鼻を鳴らし、フィアは上機嫌に胸を張る。

 フィアがしているのは、なんて事はない――――仲良くつないでいる花中の手を伝って操っている水を這わし、花中の身体に巻き付け、熱を奪い取っているだけだ。フィアが操る水は服の下だけでなく、首には透明なチョーカーのように巻き付いていて、頭皮にも行き届いている。全身がひんやりとした感触に包まれ、大変心地良い。それでいて寒くなるほど冷たくはない、絶妙な加減である。

 身体が熱くならないので熱中症の心配はなく、汗も掻かないから脱水を気にする必要もない。炎天下の買い物を苦もなくこなせて万々歳だ。

 ……なのだが、花中はビクビクしながら辺りを挙動不審に見回していた。加えて、顔も少し赤い。

「花中さんどうしましたか? さっきからやたらとおどおどしていますけど。それに顔も赤いようですがまだ少し暑かったですか?」

「う、うん。それは、平気なんだけど、その……」

 フィアに尋ねられると、花中は一層顔を赤くする。

 おどおどしている理由は、自分だけがズルをしている気分だから。フィアの助けを借りられるのは花中だけ。他の人々が暑さで苦しむ中、自分だけ涼しくて快適という状況に負い目を感じてしまうのが、大桐花中という少女なのだ。

 そして赤面している理由が、その涼しさを感じさせてくれるフィアの水。

 フィアは水を用いる事で、地形などの測量も出来る。つまり全身に水が巻き付いている今、フィアは正しく手に取るように花中の身体を知る事が出来るのだ。いくら一番の友達とはいえ、全身の細かなところまで()()()()()()と思うと少し、いや、かなり恥ずかしい。フレンドリー大好きな花中にとって抱き付かれたりするのはとても嬉しい事だが、それでも肢体をじっくり調べられて喜ぶような趣味はないのだ。

「……だ、だって、フィアちゃん。今ならわたしの身体の事、今なら、なんでも分かっちゃう、でしょ……それが、は、恥ずかしい、から……」

「はい?」

 尤も、魚であるフィアが身体を知られる事の恥ずかしさを理解してくれる訳もなく。

「何故身体の事を知られて恥ずかしいのです? そんなものより花中さんが熱中症にならない事の方が大事だと思うのですが」

「あ、うん。そだね……うん……」

 欠片たりとも邪気がないフィアの思いやりの言葉を拒絶する事は、花中には出来なかった。満足そうに微笑むフィアの隣で、花中は乾いた笑みを浮かべる。とはいえフィアには邪な想いなどないのだから、確かに気にし過ぎなのかも知れない。自分の命より羞恥心の解決を取るというのも、人間以外の生物からすれば馬鹿馬鹿しい話である。

 フィアの言い分に納得し、花中はしっかりとフィアの手を握り締めながら、家までの道のりを歩く。自然と花中とフィアは顔を向き合わせ、微笑みを浮かべ合う。こうなってしまえば友達大好きな花中は、もう小さな羞恥心など意識にも昇らない。

 ましてや炉端に転がる人影なんて些末事である。お喋りに夢中になっていた花中は倒れる人の前を素通り

「しないよ!?」

「おおう? いきなりどうしたのですか花中さん?」

 しそうになる花中だったが、どうにか踏み止まった。本気で人影を些事だと思っていたであろうフィアは首を傾げ、花中よりも遅れて足を止める。

 危うくフィアと一緒に無視するところだったと猛省しつつ、花中はフィアの手を引っ張りながら来た道を戻って、炉端に転がる人影……つまりは行き倒れている人間の下に駆け寄った。

 人が倒れていたのは、住宅地の一角にある突き当たり。ゴミ捨て場として定められた、小さな袋小路であった。周りは民家の塀で囲まれており、前を通らねばそこに倒れている誰かの姿なんて見えない。朝や夕方であれば日陰が出来て幾分過ごし易くはなるのだろうが、太陽が真上で輝いているこの時間帯ではそれも期待出来ない。倒れている人は、背中側全体を陽に炙られている。

 そして倒れているのは女性、というより少女のようだった。

 倒れ方としては俯せだったが、顔は横を向いていたのでそう判別出来た。背格好からして花中と同じぐらい……つまり小学生か中学生ぐらい。顔立ちも、そのぐらいの歳に見える程度にはあどけなさがある。肩の位置まで伸びている深紅の髪は、まるで炎のように鮮やかだ。この色合いは染めたものだろうか? 今時小学生で髪を染める子も少なくはないが、ここまで派手な色は滅多にいないだろう。しかしお洒落への意欲が強いのかと思えば、着ているのは病院の入院服のような、シンプルで快適ながらもファッション性は皆無な代物。なんともちぐはぐな身形である。

 少女の姿に違和感のようなものを覚える花中だったが、しかし今はそれを悠長に考えている場合ではない。身体を触ってみて分かったが、かなり長時間この場に倒れていたのか、少女は全身が酷く熱くなっていた。息も、しているのかどうか分からないぐらい弱い。

 もしかすると熱中症で倒れ、そのまま長い間誰にも見付からず放置されていたのかも知れない。だとすると非常に危険な状態でもおかしくないだろう。

 すぐに救急車を呼ぶ――――それが一般的には最適な方法だ。

「フィアちゃん! あの、この人の身体、冷ましてあげて!」

 しかし花中には、更に『最善』な一手がある。

「りょーかいでーす」

 花中の頼みに応え、フィアは花中とつないでいない方の手を少女の背中にべちゃりと付ける。

 花中の目には、今、少女の身に何が起きているかは分からない。しかし知識があるために、頭の中でイメージは出来る。

 フィアは能力を使い、少女の身体を水で包み込んでいる筈だ。そして大量の水を用いて身体の熱を吸い上げ、急速に冷ましているのである。少女が本当に熱中症かは分からないが、炎天下に晒されていたのだ。体温を冷ましておくに越した事はあるまい。

「んーこんなもんですかね。とりあえず花中さんと同じぐらいの体温にはしておきましたよ」

「うん。ありがとう、フィアちゃん」

 手早くも効果的な処置に感謝を伝え、花中はフィアの手をぎゅっと握り締める。フィアは上機嫌に鼻を鳴らしながら、誇らしげに胸を張った。

 さて、フィアの手当てを受けた少女は……体温が下がり、脳の機能が回復したのだろうか。瞼が痙攣するように震えると、少女の口から呻きのようなものが漏れ出た。どうやら意識を取り戻したらしい。

 一先ず命は助かったようだと、花中は安堵……して、緊張が弛んだ時だった。

 バチンッ、という音が聞こえそうなぐらい力強く、少女がその眼を見開いたのは。

「っ、きゃああああっ!?」

 そして花中と目を合わせるや、少女は悲鳴を上げた。

「ふみゃあああああああっ!?」

 ちなみに悲鳴に驚いた花中も、一緒になって悲鳴を上げたが。割と、少女以上の大声で。動揺しなかったのはフィアだけである。

 そしてフィアは、慌ただしく立ち上がるや自分の横を走り抜けるようにして逃げる少女を捕まえるほど、花中以外の人間に興味はなかった。

 フィアが捕まえなかった少女はすぐに袋小路から出て、道路を走っていく。正面以外の道路側から袋小路の奥が見えなかったように、袋小路の奥から正面以外の道路は見えない。少女の姿は、あっという間に花中達の視界の外に出てしまった。

「おやおや逃げちゃいましたね。まぁあれだけ元気ならすぐには死なないでしょう多分。良かったですね花中さん」

 尤も、フィアは少女の事などどうでも良いようで、追い駆けるつもりは毛頭ない様子。

「よ、良くないよ!? 早く追わないと!」

 花中とは、全くの真逆であった。

 確かにフィアのお陰で少女は体温こそ下がった。しかしこの炎天下の中では、花中(自分)と同じぐらいの体躯の体温などまたすぐに上がってしまうと予想出来る。ましてや走ったとなれば急激に体温が上がり、再び倒れてしまう可能性が高い。

 加えて身体を触った時、あの少女の身体は濡れていなかった……つまり汗を掻いていない。恐らく脱水症状を引き起こしている。汗を掻かねば尚更体温は一気に上がってしまうし、何より脱水は命に関わる深刻なものだ。すぐに病院で適切な治療を受けさせる必要がある。

 人間の命などなんの興味もないフィアはどうでも良さそうな様子だったが、花中が少女を追いたいという気持ちは汲んでくれたのだろう。「仕方ありませんねぇ」と答えながら、フィアは花中をお姫様抱っこの形で抱き上げる。

「花中さんが追いたいのであれば追いましょう。しっかり捕まっててくださいね」

 そしてフィアはさらりと前置きするや、花中がちゃんと自分にしがみつくのを確認してから駆け出した。

 逃げた少女は中々の俊足の持ち主らしく、脇道を曲がったのか、その姿は何処にも見えない。されどフィアには人智を超える嗅覚が備わっている。例え姿が見えなくとも、少女の進んだ道を辿るなど造作もない。更にフィアの足は人間よりもずっと速いのだ。

 三本目の脇道に逃げ込んだ少女のすぐ後ろにフィアが着くまで、十秒も必要としなかった。

「そこの小娘止まりなさーい」

 フィアは少女を暢気な声で呼び止めようとした。

 が、少女は立ち止まるどころか、一層必死になって走る。かなりの俊足だ……尤も『化け物』であるフィアの足を振りきるほどのものではない。フィアは楽々と追跡を続け、それから何度か少女を呼ぶ。しかし少女は振り返りもせず、がむしゃらに前へ前へと駆けるばかり。

「ええい止まりなさいとさっきから言ってるではないですか」

 ついにフィアは痺れを切らしたようで、ちょんちょんと、走る少女の肩を後ろからつついた。両手は花中を支えるのに使っているため、手ではなく自分の『身体』から一本の水触手を伸ばして、だ。

「きゃあっ!? わ、ひゃ、ぎゃぶっ!?」

 果たしてフィアの苛立ち紛れの声に呼ばれたからか、それとも肩を叩かれたからか……後ろを振り向いてはいないので水触手の異形さが原因ではないにしろ、少女は激しく驚いて跳び上がった。あまりにも驚きが大きかったのか、その後の着地に失敗し、少女は()()()の上を転がってしまう。

 フィアは軽やかにブレーキを掛け、転んだ少女よりも短い制動距離で軽やかに静止。花中を抱えたまま、転んだ痛みに悶える少女を見下ろす。

「全く何処まで走れば気が済むんですか。あなたを追い駆けていたら……おや?」

 そのまま非難の言葉を投げ掛けようとするフィアだったが、語りながら辺りを見渡してようやく気付いた。

 辺りに建つのは、廃屋と化した一軒家ばかり。

 いや、廃屋と呼べるようなものはまだマシだろう。完全に潰れて瓦礫の山、或い無造作に積まれた材木にしか見えない家々の方が多いぐらいだ。炭化した車や木々が至る所にあり、電柱は軒並み倒され、道路は大半がアスファルトを引っ剥がされている有り様。戦争などで爆撃されたかのような光景だ。

 しかしこれは戦争の跡地などではない。

 かれこれ四ヶ月前……フィアとオオゲツヒメが激戦を繰り広げた、その『痕跡』だった。かつて市街地だったこの場所は、破滅から四ヶ月が経った今でも復興が全く進んでいない。これほどの大災厄の起きた地に戻りたくない、早く新しい生活を始めなければならない、などの理由から帰還を望む人が少ないのもあるが……テレビや新聞の報道曰く、深度数百メートルに渡って地盤がボロボロになっており、近代的な家屋を建てられるような環境ではないというのが一番の原因だ。ここまで深く、そして致命的な荒廃となると、現代科学では手の打ちようがないという。

 地盤が荒廃した原因は、恐らくフィアが水を一気に吸い上げ、その上でオオゲツヒメと取っ組み合いの戦いを繰り広げた事だろう。その気になれば人類社会などあっという間に破滅させる二匹のぶつかり合いは、今や宇宙ステーションを組み立てる事すら可能な人類の技術を用いても癒やせないほどの傷を残したのである。

「なんだ花中さんの家の近くじゃないですか。なら良いです寄り道じゃないので」

 ちなみに事の元凶であるフィアは、この破滅的な光景を「覚えやすい目印」ぐらいにしか思っていないようだが。

 なんにせよフィアは怒る事もなく、無関心故に敵意も悪意も感じさせない言葉で少女に話し掛けた訳だが、少女の方は慌ただしく起き上がり、けれども腰が抜けたようにへたり込んでしまう。ガタガタと震え、顔色は真っ青……明らかに怯えていた。

 追い駆けられた事がそんなに怖かったのだろうか? 疑問を抱く花中だったが、しかし目の前の少女は熱中症を患っている可能性があると思い出す。熱中症の症状の中にはせん妄……意識障害や錯乱、幻覚が見える病状……がある。せん妄は熱中症の中でもかなりの重症な時に起きる症状だ。もしも少女がせん妄を発症しているのなら、急いで病院に連れて行かねばならない。

「あ、あの、大丈夫ですか? その、わたし達、酷い事はしませんから……」

「やだ! 来ないで! 来ないでよ!」

 なんとか落ち着かせようとする花中だったが、少女は取り乱すばかり。話を聞いてくれそうにない。

 せん妄かどうかは別にしても、あまり健康的な精神状態とは思えない。ならば尚更、多少強引にでも病院に連れていった方が良さそうだと花中は感じた。

 幸いにして、大変頼もしい友達が傍に居る。

「えと、フィアちゃん。この子、熱中症かも知れないから、病院に連れていきたいのだけど……」

 花中は早速、フィアにお願いをした

 直後の事だった。

「ひっ、い、いやあああっ!? やだぁぁっ!?」

 少女の混乱が、一層強くなったのは。

 少女はわたふたしながら体勢を変え、四つん這いになりながら花中達から逃げようとする。突然の少女の行動に、正直花中も戸惑いを覚えた。何故逃げるのか? どうして悲鳴を上げたのか?

「おっと逃げちゃ駄目ですよ」

 されど考える間もなく、フィアが水触手を伸ばして少女を捕まえた。水触手は少女の足に絡み付き、その動きを妨げる。足が引っ張られていると気付いた少女は振り返り、自分の足にある謎物体に顔を引き攣らせた。

 大変怖い想いをさせている事は申し訳ないと花中も思うが、しかし少女が落ち着くのを待っていては治療が遅くなってしまう。熱中症は脳にもダメージを与え、後遺症を残す事もあるのだ。心を鬼にして、無理矢理にでも病院に引っ張っていかねばならない。

 花中が止めなければ、人の気持ちなどお構いなしなフィアが止まる筈もない。ずるずると強引、というよりも雑に少女を引っ張り、肩に担ぐつもりかフィアは少女に手を伸ばした

 が、フィアの手は寸前のところで止まる――――フィア自身が止める。

 直後、フィアは大きく少女から跳び退き、花中と自分を包み込むように水球を展開した!

 突然のフィアの行動に花中は大きく困惑する。しかし問い詰める事は叶わない。

 少女が、不意に起き上がって自分達を見たから。

 その少女の目が、深紅に煌めいていたから。

 そして、

「ウセロ」

 背筋が凍るほどに無機質な声で警告した

 次の瞬間、花中の目の前が白一色に染まる。

 続けて起こったのは、鼓膜が破れそうなほどの爆音と、水球を揺さぶる衝撃だった。

 花中には悲鳴を上げる事すら出来ない。途方もないエネルギーに意識が飲まれ、消えそうになる。いや、水球の中に居なければ、恐らく跡形もなく消し飛んでいたのではないか。

 その予感が正しいと分かったのは、爆音と光が治まった、ほんの数秒後の事だった。

「な、にが……っ!?」

 閉じていた目を開けた瞬間、花中はその眼を大きく、今にも目玉がこぼれ落ちそうなぐらい開いてしまう。

 何故なら、先程まであった筈の廃屋達が一件も見当たらなかったから。

 代わりに自分達の立つ場所が、半径数百メートルものクレーターと化していたのだから。

「な、あ、ぇ、あ……!?」

「ふぅー危ないところでした。中々の威力でしたねー」

 驚愕で声を失う花中の横で、フィアが暢気に呟く。その言葉すら、花中の心を動揺させた。空爆されようが戦車砲で撃たれようが、まるで気にしないフィアが『中々』だと称賛したのだ。先の閃光で生じた破壊力が、人智の及ぶものでない事を物語る。

 それほどのエネルギーを生み出したと思われる『少女』は、クレーターのど真ん中に立っていた。

 服は消し飛んだのだろう。下着一枚すら付けていない、完全な全裸だ。されどその身体には欠損どころか傷すら見当たらない。少なくとも見た目の上では、完全な健康体を誇っている。

 フィアが無傷で耐えた爆風を、同じく無傷でやり過ごした。ならば彼女の『正体』は――――

 脳裏を過ぎる考えに花中が息を飲んだ、その直後、少女の身体が不意にふらふらと揺れ動いた。一体何をする気なのか、花中は反射的に身を強張らせる。

 が、その行動は全くの無駄であった。

 何しろ少女は、そのままぱたりと倒れてしまったのだから。

 あまりに唐突に倒れたものだから、花中は少女が倒れたという状況を理解するのに少なからず時間を要した。されど気付いてしまえば、恐怖なんて飛んでいってしまう。

「ふぃ、フィアちゃん! あ、あの子のところに、連れてって!」

「んぁ? んーまぁ気絶しているみたいですし良いでしょう」

 花中が頼んだところ、フィアはすんなりと受けてくれた。気絶している、と言ったので、少女にはもう危険はないと思っているのかも知れない。

 実際花中達が歩み寄っても、少女は先程の閃光はおろか身動き一つ取らなかった。フィアが水触手を伸ばして少女の顔を持ち上げたところ、少女は安らかな寝顔を見せる。

 どうやら本当に気絶しているらしい。追撃はなさそうだと花中は一安心

「あ、フィアちゃん。気絶してるからって、チャンスだーとか、思わないでね?」

「あらお見通しでしたか」

 ……する前に、フィアに釘を刺しておいた。フィアは肩を竦め、降参とばかりに舌をぺろりと出す。

「それでコイツはどうするんですか?」

「……うん。一旦、うちに連れて行こうと、思う。その、裸でこんなところに、置いたら、風邪引くかもだし、変な人に襲われるかも、だし……」

「風邪は兎も角変な人の方は跡形も残らないと思いますがね」

「それでも、襲われない方が、良いでしょ。それに……」

 ちらりと、水球の中から花中は少女を見遣る。暢気な寝顔に、邪気は一切感じられない。

 しかし邪気がなくとも、人にとって安全や安心であるとは限らない。それどころか好意を抱きながら、恐怖と絶望を振りまくものまでいる始末。

 人智を超えた存在である『野生生物(ミュータント)』とはそういう存在なのだという事を、花中は知っているのだ。




現れました、謎の少女。
……味方っぽい『女の子』が現れたの、随分久しぶりな気がする。

次回は3/9(土)投稿予定。
今、大分書き溜めがあるのでペース上げていきます。


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あなたはだあれ2

「捨ててきなさい」

 家に着いた花中に対し、ミリオンが最初に伝えてきたのはこの一言だった。

 自宅の玄関にて、いきなりその言葉を伝えられた花中は苦笑いを浮かべる。しかし「何を?」なんて疑問は抱かない。微細な粒子であるミリオンの事、DVDの返却にもこっそり付いてきていたのであろう。

 だからフィアが肩に乗せている『少女』が花中に何をしたのか、ミリオンは一部始終を知っている筈だ。そして危険な少女を自宅に連れ込むなんて言語道断、と言いたいのだろう。ミリオンの気持ちは花中にも分かる。

 分かるが……一応『少女』、しかも服が消し飛んだ結果素っ裸な訳で。

「いや、犬猫じゃ、ないんですから……」

「人間じゃない時点でなんでも同じよ。あと、別に人間だったとしても同じ事言うから」

「あ、はい。ですよね」

 しかしそもそも人間ではないミリオンに、人間的な理屈が通じる筈もなかった。とはいえここまでのやり取りは花中にとっても想定内。まだまだ諦めるつもりなんてない。

「でも、悪い子では、なさそうですし。万一、何かされても、フィアちゃんと、ミリオンさんが居るから、大丈夫かなーって」

「そこについては否定しないけど」

「それに、目的も人格も分からない、だけど凄い力を持っている人が、その辺をうろうろする方が、危ないと、思いませんか?」

「……やれやれ。口ばかり上手くなって」

「力じゃ、敵いませんので」

 花中の言い分を聞き、ミリオンは肩を竦める。

 無論ミリオンが意地でも拒もうとすれば、花中にはもう為す術がない。花中の力ではミリオンを抑え付ける事など出来ないし、少女を家まで運んでくれたフィアも、別段少女を助けたいとは思っていないのだから。

 だから花中に出来るのは、後はもう祈るぐらいしかない。

「……しょうがないわねぇ」

 幸いにして、今回はミリオンが折れてくれた。花中の顔に、花のような笑顔が咲く。

「あ、ありがとうございますっ!」

「はいはい。とりあえず、はなちゃんの部屋に寝かしとく?」

「えっと、そう、ですね。そうします。ソファーに寝かせるのも、可哀想ですし、着替えも、必要なので」

「だそうよ、さかなちゃん」

「ふん。あなたに言われずとも分かっています」

 ミリオンから言われた事に不平を露わにしつつ、フィアは花中よりも先に花中の部屋がある二階へと向かう。花中もフィアの後を追うように、自室のある二階へと続く階段を上った。

 フィアは花中の部屋に入ると、肩に乗せていた少女をベッドに寝かせた。下ろし方がやや粗雑に見えたが、投げ捨てた訳でもないので花中は口を閉じたままにしておく。

 さて、ベッドには寝かせたが、これで終わりという訳にはいかない。少女は未だ全裸なのだから。裸のまま寝かせるのも良くないと考えた花中は部屋の一角に向かい、そこにある衣装ケースから服を取り出す。

 夏用のパジャマだ。幸いにして少女と花中の体躯はほぼ同じなので、服のサイズは問題ない筈。花中は服を持って少女の下へと駆け寄り、自発的に動いてくれない少女の身体をよいしょよいしょと動かして、どうにかこうにか着させる。一息吐いてから、花中は改めて少女の様子を窺う。

 散々触ったり動かしたりしたが、未だ少女に起きる気配はない。花中としては出来れば起きるまで看ていたいが、もしかすると夜中まで寝ている可能性もある。何時までも見続ける事は出来ない。

 このような状況で「それでは花中さんリビングに行きましょうか」とフィアに言われたら、断る気にはなれなかった。

 フィアと共に階段を下り、花中は自宅リビングへと入る。フィアはソファーに腰掛けると、ぽんぽんと自身の膝を叩きながら花中の顔を見つめてきた。

 此処に座りませんか? という意思表示なのは明白。触れ合い大好きな花中にとっては拒む理由がない提案だ。そそくさと駆け寄るや花中はフィアの上に腰を下ろし、フィアは優しく抱き締めてくる。フィアは満足げに微笑み、フレンドリーな事が大好きな花中も蕩けた笑みを浮かべた。

「それで? これからどうするつもり?」

 その嬉しさはミリオンから問われても、消える事はない。

 ただし『堅さ』だけは少し取り戻し、花中は普通の笑みでミリオンと向き合った。

「はい。えと、起きたら、あの子とお話しして、何故、あそこに倒れていたのかを、訊けたらと、思います」 

「ま、それ以外にないわよね」

「それで、えっと、出来れば、お友達になれたらなーって……」

「お友達ねぇ。なれると良いわね」

 明らかに期待していないミリオンの言葉に、花中は少し苦笑い。

 ミリオンは、何も嫌味として花中の計画を否定しているのではない。

 あの少女は恐らく『ミュータント』……何かしらの生物の変異体であろう。人間の姿をしながら、市街地の一角を跡形もなく吹き飛ばせるような存在は、花中が知る限り他にいない。

 つまり人間ではない存在だ。だとすると物事の考え方、倫理観、優先順位が人間と異なる可能性が高い――――いや、まず間違いなく異なる。花中はこれまでに大勢のミュータントと出会ってきたが、人間と同じ感性の持ち主はほぼいなかった。哺乳類同士である(ミィ)ですら、食事や戦いに対して意識のズレを感じる時がある。例外はゴリラぐらいか。しかしあのゴリラとの付き合いも半日に満たない程度であり、実際どんなものかは分からない。

 友達というのは、感性がある程度似ていなければなれないものだ。人間を食糧と思っていたり、皆殺しにしたいほど恨んでいる相手とはなれないのである。あの少女の怯え方を見るに、人間に対し何かしらの強い感情がある筈だ。拒絶的な感情なら、それこそ話し合いの余地なんてないだろう。

 しかしもしかするとその感情は、何か誤解によって生じたものかも知れない。

 あの少女が人間とは相容れない思想の持ち主という可能性は、決してゼロではない。むしろその可能性の方が大きいぐらいだろう。けれども友達になれない可能性もまた、今はまだゼロではない。

 なら、諦めたくない。花中はそう思った。

「あはは……なれるかは、分かりませんけど、でも、やるだけは、やってみたいなぁーって」

「ふぅん。まぁ、やるだけならタダだし、今はまだ憶測だしね。好きにすれば良いわ」

「花中さんは本当に誰とでも友達になろうとしますねぇ」

 自分の気持ちを正直に打ち明けたところ、ミリオンは肩を竦めながら、フィアは顎を花中の頭の上に乗せながら、各々の感想を呟く。二匹とも花中の考えを応援も肯定もしないが、否定も批難もしない。やりたいならやれば良い……あまり叶いそうにない夢だと自覚しているからこそ、その無関心ぶりが却って心地良かった。

「こんな感じのお人好しなんだけど、まだ警戒しているのかしら? 一応助けてあげたんだし、お礼の一つぐらいは言ったらどう?」

 そうして花中が決意を固めていた時、不意にミリオンが花中から視線を逸らして独りごちる。

 殆ど無意識に花中はミリオンの視線を追ったところ、そこには花中の部屋に寝かされた少女の姿があった。

 ……階段の壁際に隠れるように身を寄せている辺り、こっそりこの家から抜け出そうとしていたようだ。ミリオンに気付かれた少女は怯えた表情を浮かべながら、おどおどとリビングの方に歩み寄る。

 少女はリビングまでは足を踏み入れず、戸の側にある壁に半身を隠すようにして、花中達を覗き込んだ。髪よりもずっと鮮やかな紅色の瞳は揺れており、不安の色を感じさせる。

 きっと、これ以上は近付いてくれないだろう。そう感じた花中は、待つのはここまでにしておき、声を掛ける事とした。

「えっと、大丈夫、ですか? その、体調とか」

「……ええ、一応、大丈夫」

「そうですか……良かった」

「……………」

「……………」

「……………」

「……………あの……」

 ……掛けてはみたが、三言で話が終わってしまう。

 かれこれ一年以上リア充 ― と本人は思い込んでいる ― をしている身である花中だが、未だ根の方は根暗陰険引っ込み思案なのだ。相手を会話に引き込むほどの精神的パワーなど持ち合わせていない。なので相手に黙られてしまうと、話が続かないのである。

 ミリオン相手に啖呵を切りながらこの体たらく。花中の顔が赤く染まるのに、さして時間は掛からない。

「単刀直入に聞きますがあなた何故あんなところに倒れていたのですか?」

 そして見かねたフィアが、花中の代わりに疑問をぶつけるのにも。

 少女はフィアからの問いにびくりと身体を震わせ、一層壁に身を隠してしまう。が、しばらくすると再び出てきて、先程よりも少しだけ花中達に姿を見せてくれた。

「……本当に、わたしの事、知らないの?」

「知ってるのにこんな事を尋ねるなど時間の無駄でしかないと思うのですが」

「わ、わたしの油断を誘うためとか」

「なんのために?」

「なんのって……つ、捕まえるために」

「……花中さん。コイツを連れてきたのって捕まえるためでしたっけ?」

 ビクビクと怯えながら答えてくれた少女だったが、フィアにとっては訳の分からない答えだったようで、首を傾げながら花中に尋ねてくる。

 確かに、自分達にはこの少女を捕まえる理由などない。精々病院に連れて行くため、ちょっとばかり無茶をしたぐらいである。もしかすると、その所為で誤解が生じたのかも知れない。

「えと、ちょっと捕まえようと、しましたけど……でも、あれは病院に、連れて行くため、でして」

「びょ、病院……! やっぱり……!」

「あ、えと、その、熱中症で、倒れていたと思って、だから、助けようとしたからで……」

「……………」

「……あの……」

 なので正直に話してみたところ、何故か少女はますます警戒心を露わにする。信じてもらえない、という展開は考えていたが、まさか不信感が強まるとは思っておらず、花中の方が戸惑いを覚えてしまう。

「なんかもう面倒ですしコイツ外に捨ててきませんか?」

「さかなちゃんにさんせーい」

 フィア達も似たような感想らしく、早々に少女の『解放』を願う有り様。

 花中は二匹の友達の意見に、少しばかり考え込む。

 病院に連れて行こう、というのはあくまで花中達の善意である。要らないと言われたのだから、押し付けるのもおこがましい。それにミュータントであるなら、熱中症で倒れていた、というのは間違った判断だったのだろう。彼女達の環境的応力は人間の比ではないのだ。もしかするとただ寝ていただけかも知れない。だとしたら自分達のやろうとしている事は、余計なお節介というものである。

 なら、解放すべきか?

 ――――花中の理性は、その選択を拒む。

「(なんかこの子、捕まる心当たりがあるのかな……)」

 最初は、熱中症の影響で錯乱していると思っていた。しかしもしも熱中症でなかったとすれば、この少女は ― 多少寝惚けていた可能性はあるが ― 正気の状態で、自分が捕まると思っていた事になる。

 何かしらの精神病などでそういった被害妄想を抱く事はあるが、果たして彼女は病気なのだろうか? それとも、本当に『何か』に追われている?

 考え込もうとする花中だったが……その思索は中断せざるを得なくなった。

 少女が、唐突に動いたからだ。一瞬でその身を引っ込めた彼女は、バタバタと廊下を駆け、やがて玄関戸を蹴破るような勢いで開けた音がする。

 例えその様子をこの目で見ずとも、少女が家の外へ逃げ出したのだと分かった。

「ふぃ、フィアちゃん! 追って!」

「え? 追うのですか? ちょっと面倒臭いのですが」

「追ってくれたら、今夜はわたしの身体、ぎゅーって抱いたまま、寝ても良いよ!」

「この私に掛かればその程度の事造作もありませんよ!」

 予想通りの回答だったので用意していた交換条件を突き付けたところ、フィアは軽やかにソファーから跳び上がる。彼女の膝上に居た花中はその勢いでふわりと舞ったが、フィアは花中を優しくキャッチ。お姫様抱っこの体勢で花中を持つ。

 次いで、間髪入れずフィアは颯爽と駆け出した!

 リビングを跳び出し、玄関へと向かえば、扉が開けっ放しになっていた。やはりあの女の子は外に……と花中は思わない。思う暇などないからだ。上機嫌になったフィアの足は、既に自動車すら凌駕するスピードを発揮している。

 フィアは家を出て、殆ど迷わずに方向転換。大桐家に背を向けて走る少女の姿を見付けるや、瞬きする暇もない速さで逃げる少女の正面に降り立つ。

「ひぃっ!?」

 少女は突然現れたように見えたであろうフィアに驚いたのか、尻餅を撞いてしまう。ガタガタと奮えるばかりで立ち上がらないのは、腰が抜けてしまったからか。

「さぁ追い詰めましたよ……それで花中さん追い詰めてどうするのですか? あまりやり過ぎると『あの時』みたいになりそうなのですが」

 そんな少女を前にして、フィアは花中に尋ねてきた。

 『あの時』というのは、最初に追い詰めて――――少女が爆風を放った時の事だろう。

 フィアとオオゲツヒメの激戦により、大桐家の周辺もかなりの被害を受け、大勢の人々が避難を余儀なくされている。しかし長時間戦場になった訳でもなく、故に大桐家含め僅かながら無事な家があり、花中含めたごく少数の人々が今でもこの地域で生活していた。当然彼等の家や彼等自身に、空爆や核兵器を耐えるほどの防御力はない。少女が再び爆発を起こしたら、今度こそ取り返しの付かない被害が出てしまうだろう。

 時間を掛けて、ゆっくりと落ち着かせよう。何より刺激しない事を最優先にする。

 そう考えた花中はフィアに下ろしてもらい、少女から離れるように後退り。五メートルほど離れた辺りで、立ったまま少女と向き合う。

「え、えと、こ、怖くないですよー……」

 それから出来るだけ優しい声で、説得を試みた。

「あ、あなたが、何を怖がっているかは、分かりませんけど……わたし達は、あなたの嫌がる事は、しません。病院に、行きたくないなら、連れて行きません……ですから、教えて、くれませんか? あなたが、誰なのか、どうして此処に、来たのか……その、何をしたいのか、とか、何が怖いのか、とかも……」

 花中は、花中なりにではあるが一生懸命に話し、自分の想いをぶつける。

 この説得に、少女を興奮させないという『打算』がほんのちょっとでも含まれていないとは言わない。けれどもそれ以上に、花中は少女を怖がらせたくなかった。味方がいないという孤独を味合わせたくなかった。

 ずっと怯えて、寂しさに震えるなんて……花中には想像もしたくない。

 そうした想いを乗せた言葉の効果の程は、少女の眉を顰めさせる程度だった。やはりいきなり信じてもらうのは難しかったのだろう。しかし逃げようとする素振りもなく、全否定もしていない筈。

 一歩も前にも進んでいない。けれども悪くなる一方のものが止まったなら、それは十分な『進歩』だ。少しずつ、ちょっとずつでも近付けたらと、前向きな気持ちを抱いた

「……ごめん。なんだって?」

 ところ、少女の『種明かし』によって花中は思わずこけてしまう。どうやら花中の声が小さ過ぎて、聞こえていなかっただけらしい。

 友達出来た歴一年を超えたのに、未だお話一つろくに出来ないとは。自分への嫌悪で、花中は衝動的に炎天下の道路へと突っ伏す。

「あちっ!? あ、ごっ!?」

 突っ伏したら、今度は熱さで悲鳴を上げる羽目になる。ぴょんっと飛び跳ね、そのまま背中を道路に打ってしまった。無論その道路は太陽に炙られ、かなり熱い。「みゃあっ!?」と悲鳴を上げながら、わたふたと起き上がる。

「……花中さん何してるんですか?」

 あまりに情けない姿に、一番の友達であるフィアすら呆れる始末。

 頑張ろうという意欲は挫け、花中は少女に背を向けた状態で意気消沈してしまう。

「……ぷ、くく。あっはははっ!」

 それがあまりに滑稽だったのか――――少女は吹き出すように、笑い出した。

「あははは! 何して、くく、あははははははっ!」

「花中さん笑われてますよ。もう少し落ち着いて行動しましょう?」

「……ううう……」

 少女には笑われ、フィアには呆れられ、花中は顔を真っ赤に染め上げる。頭が沸騰しそうだ、という例えが本当になりそうなぐらい、恥ずかしさから顔が熱くなる。

「あははは……はぁー……もう、こんな子達を怖がってたなんて、馬鹿みたい」

 その熱さに脳がやられたのか。花中は少女の独り言を、しっかり聞き逃していた。

 代わりに聞いていたフィアも、お喋り好きではあっても交渉や取引が得意な訳ではない。

「ほらー馬鹿みたいって言われたじゃないですか。汚名は返上しませんと」

「げぼっ」

 皮肉の意図を理解せず、それどころか少女の言葉を花中向けの嘲笑と受け取ったフィアの『追撃(声援)』で、花中は呻きを上げた。それが余程滑稽だったのだろう。少女の笑いは快活なものから、ゲラゲラとした下品なものに変わった。

 最早コントである。それも天然物の。大いなる自然の流れは強大で、当事者達が抗えるものではない。

「うん……ごめんね。つい、逃げちゃって」

 流れを変えるには、少女の理性的な一言が必要だった。

「……あ、えっと、それって……!」

「まぁ、なんだ。あなた達は……悪い人達じゃ、なさそうだし……誤解してた。ごめん」

「い、いえ! それは、仕方ないです! フィアちゃん、怖いし!」

「え? 私って怖いのですか?」

「うん。フィアちゃんのやる事、基本的に、怖いよ」

 割と正直な意見をぶつけてみると、フィアは悩むように考え込んでしまう。どうやら全く自覚がなかったらしい。

 思索に耽るフィアはひとまず置いておき、花中は少女に歩み寄る。今度の少女は立ち上がっても逃げず、むしろ向こうから歩み寄ってくれた。

 手と手を伸ばせば握手が出来る。そのぐらい距離を詰めたところで、花中は口を開く。

「えっと、わたしは、大桐花中と、言います。あなたのお名前は、なんですか?」

 まずは自己紹介。それから相手の名前を求める。

「わたしは――――」

 少女は柔らかな笑みを浮かべながら、花中の求めに応じるように口を開いた

 刹那の出来事だった。

「目標発見」

 その言葉を遮るように、マスク越しのようにくぐもった、それでいて機械のように平坦な声が聞こえたのは。

 その瞬間、少女は明らかに身を強張らせた。壊れたオモチャのようにぎこちなく背後を振り返り、花中も少女の視線を追いかける。

 そこには、全身を真っ白な防護服で纏った『人々』が居た。

 一見してスズメバチ駆除の業者のようにも見える格好だ。数はざっと二十人ほどで、普通の市街地ならば目立って仕方がない出で立ちである。しかもその手が握っているのは、スズメバチを捕るための虫取り網や殺虫剤ではない。筒状の、花中にもよく分からないが精密な機械や酸素ボンベのようなものを背負っていた。真夏の炎天下を過ごすにはあまりに過酷な格好に見えるが、何かしらの仕掛けがあるのか、彼等の動きは常にキビキビとしていて疲労を感じさせない。

 ハッキリ言って不審な連中だ。花中としても、正直かなり怖い。

「ひ、ひぅっ!?」

 しかし見た瞬間身体を震わせ、へたり込んでしまう少女の姿は、いくらなんでも過剰ではないか、とも感じたが。

「ど、どうしました、か……?」

「や、やだ……アイツら、アイツらは……!」

 落ち着かせようとする花中に、少女は無我夢中でしがみついてくる。立てられた爪が腕に食い込み、痛みで花中は顔を顰めた。

 だけど、引き離そうとは微塵も考えない。

 こんな小さな子が怖がっているのだ。彼女が人間じゃないとか、町の一角を吹き飛ばしたとか、そんな事はどうでも良い。怖い想いをしている子を突き放すなんて真似は花中には出来ず、少しでも安心を与えたくて強く抱き締める。

 互いに抱き合う花中達を見て、防護服姿の者達は無言のまま歩み寄る。その手に持つ筒状の何かを向け、焦らすようでも急ぐようでもなく、淡々と――――

「これ以上近付くのは止めてくれませんか? 花中さんが怖がっています」

 彼等がその歩みを止めたのは、早口で不快感を露わにするフィアが花中達の前に立ってからだった。

「……………」

「何が目的か知りませんけど花中さんが怖がるような真似は許しませんよ。そこから一歩でも歩み寄ったらボコボコにしてやりますからね」

「……………」

「何か言ったらどうです? ああいや何も言わなくて結構さっさと帰ってくれませんか」

 捲し立てるような早口で、フィアは防護服姿の人々を威嚇する。すると防護服姿の者達はその威嚇に何を思ったのか、耳元に手を当てるような仕草を取った。さながら、ドラマに出てくる刑事や警備員が耳元の通信機の音を聞き取る時のような……

 違和感を覚える花中だったが、その違和感が意味のある『思考』となる前に防護服姿の者達は動いた。その手に持っていた筒状の機械をフィアに向けたのである。

 そして筒状の機械は、何かを射出した。

 射出されたそれは、花中を守るためか避けようともしなかったフィアの身体にぺちゃりと音を立てて付着。いきなり粘性の不審物をぶつけられたフィアは顔を憤怒の形相に変えた。

 直後、耳をつんざくような爆音が花中の耳を刺激する。

 否、それは正確な表現ではない――――フィアの全身を包み込むような爆炎が、突如として上がったのだ!

「っきゃあっ!?」

「ひっ!?」

 花中と少女は悲鳴を上げ、互いの身体を反射的に抱き合う。至近距離での爆発は花中達に衝撃波という形で襲い掛かり、華奢な身体に痛みを与えた。

 今までの経験から花中には分かる。この爆発は本物の……直撃させれば、人なんてバラバラに吹き飛ぶ一撃だ。そのような爆発を警告もなしに起こした輩に花中は恐怖を覚える。

 されど取り乱しはしない。

 花中の友達は、こんな『ちっぽけ』な爆発で死ぬほど柔ではないのだから。

「ふんっ!」

 爆炎の中から、フィアの声と腕が出る!

 振るわれた腕は数メートルと伸びるや正面に立つ者の頭に当たり、被っていたものを吹き飛ばす。殴られた防護服姿の人物の一人は倒れ、熱々のコンクリートの上で寝転んだまま動かない。打撃の衝撃で気絶したのだろう。人を一撃で昏倒させるとは恐ろしいパワーだが、頭が粉々に砕け散っていない辺り、むしろ手加減しているぐらいだ。

 とはいえそれはフィアが人への思いやりを持っている事や、ましてや彼女が優しい事の証にはならない。

「それがあなた方の挨拶なのですか? ではこちらも私なりの挨拶を返すとしましょう。花中さんに怖いと言われてしまったので今日は特別にちょっとだけ優しくしてあげますよ」

 ただ、フィアは花中に言われた事を気にしていただけ。

 つまるところフィアにとって、先の爆発はその程度のものでしかなかった。

 フィアは防護服姿の者達目掛け腕を五メートルほど伸ばし、まるで棍棒のように振るって防護服姿の者達を薙ぎ払う。仲間をやられた防護服姿の者達はすかさず反撃として先の粘着物を発射し、フィアの『身体』はそれを再度受ける。立て続けに爆発が起き、紅蓮の炎と黒煙がフィアの全身を包み込んだ。

「ふはははははははっ! この程度の攻撃でこの私を止めようとは間抜けにも程がありますねぇ!」

 されど『怪物』には通じず、フィアは高笑いと共に爆炎の中から無傷の姿を露わにする。

 目撃者の正気を削るような恐ろしい様相であったが、防護服姿の者達は後退りすらしない。いや、する事が出来ないほどの衝撃を受けたのか。そんな彼等の隙を逃すほど、フィアは甘くない。

 何時の間に道路に這わせていたのか。水触手が突如としてアスファルトを突き破って生え、防護服姿の者達に襲い掛かった。突然の足下からの攻撃に彼等は誰一人として為す術がない。生えてきた水触手は普段よりもかなり細く、防護服姿の者達の全身を簀巻きのように縛り上げる。これでは筒状の機械をフィアに差し向ける事すら出来ず、逃げ出す手立てなど残されていない。

 そして身動きを封じられた彼等に、フィアは獰猛で、子供のように眩い笑みを向けた。

 瞬間、水触手は防護服姿の者達を道路に叩き付ける! 彼等が叩き付けられた道路は砕け散り、受けている衝撃の強さを物語る。背負っているボンベは割れ、筒状の機械は砕け、身を包む防護服は破れて中身を露出させた。

 最後はゴミでも投げ捨てるように、フィアは空中でポイッと彼等を解放。

 放物線を描きながら十メートルぐらい飛び、受け身も取れずに墜落した彼等は、地面に転がったまま誰一人として立ち上がろうとはしなかった。

「ふふんどうです花中さん! 優しい戦い方だったでしょう? もう怖いとは言わせませんよ!」

 そしてフィアは決め台詞と言わんばかりに、胸を張りながら花中に自身の活躍を誇った。褒めて褒めてと言わんばかりに、キラキラとした無邪気な笑みまで浮かべて。

 ……一体どの辺りが優しい戦い方なのか、花中にはさっぱり分からないのだが。恐らく五体が飛び散るような事にならなければ良い、という程度にしか思っていないのだろう。確かに水触手で締め潰したりしなかったし、『糸』を使ってバラバラにもしなかったので、普段に比べれば優しいと言えなくもないかも知れない。

「あ、うん……そうだね。何時もよりは、怖くなかった、よ。うん」

「えっ」

 なので正直な感想を伝えたところ、未だ花中に抱き付いている少女から唖然としたような声が出た。何時もはアレより怖いの? とか、何時も戦ってんの? とか、色々な感情の乗った視線が花中の顔に突き刺さる。割と居心地が悪い。

 その視線を振振りきるように少女から離れた花中は、道路に転がる防護服姿の者達の一人に近付く。フィアが最初の攻撃を受けたすぐ後、パンチ一発で倒した輩だ。頭を覆っていた防具はフィアの拳で破壊され、中身は丸見えとなっている。

 故に、防護服の中身が人間である事は一目で分かった。

 見た目からして、三十~四十代の男性。かなりの強面で、如何にも荒事が得意そうな風貌だ。アジア系の顔立ちのように見える。目を開いたまま気絶しており、がらんどうな瞳で虚空を眺めていた。その瞳に生理的な拒否感を覚えてしまい、最低限の観察をした花中は後退りしながら離れる。

 それからしばし、遠目に眺めながら考え込む。頭の中を駆け巡る無数の可能性。花中の意識は思索の大海原を泳ぎ続ける。

「ねぇ……あなた、何をしたの……?」

 花中が我に返ったのは、近くでへたり込んだままの少女の声が聞こえてからだった。

 少女の視線はフィアの方を向いていた。フィアは少女に問われた事に気付いたように目を瞬かせ、されど答えず、花中の方に視線を逸らす。

 その視線に、どうしますか? という問いが込められているのを花中は察した。

 いきなり爆発物をぶつけてくるような危険人物だったので仕方ないとはいえ、フィアの力を見られてしまった。少女もミュータントの筈だが、唖然としたような表情からして自分以外のミュータントは初めて見たのだろう。

 バレてしまったものは仕方ない。フィアの事を紹介しておくには良い機会だと、前向きに花中は考える事にした。

「……えっと、落ち着いて、聞いてください。実はフィアちゃん、えと、今さっき、危ない人達をやっつけた、あの子の事、ですけど……特別な能力が、あるんです」

「能力……もしかして……!」

「はい。彼女は、あなたと同じ」

 ミュータントです。そう伝えようと花中が口を開けた――――その言葉の続きを奪うように、少女が声を上げる。

「超能力者なの!?」

 ただし捻じ込まれたのは、花中が言おうとしていたのとは違う言葉だった。

 ……予想していたのと違う答えに、花中は首を傾げる。出掛かっていた言葉は、ぷすんと煙のように消えてしまった。そして再び、花中の意識は思考の大海原に跳び込んでしまう。

 超能力者?

 確かに、フィアの力は超能力のようにも見える。フィアは自身の力を科学的なものだと信じているが、それはオカルト的現象の否定から生じる消極的なもの。フィア自身に何か確証がある訳ではない。仮にフィアの考えが正しいとしても、その力は人類では一体何をどうやっているのかさっぱり分からない『超科学』の領域だ。だからミュータントの力を超能力と呼ぶ事自体は、決しておかしくな事ではないだろう。

 しかし『超能力者』という呼び方は、まるで……

「あの……一つ、お伺いしたいの、ですが……あなたの、お名前は?」

「ん? あ、そっか。まだ名前も何も教えてなかったわね」

 少女はそう言うと服の皺を伸ばすようにして身形を整え、それから花中と向き合う。

「わたしは御酒(みき)清夏(せいか)。中学一年生よ、よろしくね」

 そして大変()()()のある自己紹介をするのであった……




謎組織襲来。
今回は『中身入り』のようですが、はてさて、『まとも』な組織でしょうか。

次回は明日投稿予定。


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あなたはだあれ3

 御酒清夏は、東北のとある酒蔵『御酒家』の一人娘である。

 一人娘といっても、両親と血のつながりはない。ある日酒蔵の隅に捨てられていたところを拾われ、育てられた。とはいえ親は捨て子である自分を我が子のように愛し、育ててくれて、清夏も御酒夫妻こそが親だと思っている。顔も知らない産みの親など、正直興味すらない。

 『親』から大事に育てられた清夏は、幼稚園に通い、小学校にも通い、今年から中学生となった。友達百人、は流石にいないが、五十ぐらいはいると胸を張れるぐらいの交友関係はある。中学生活も満喫し、部活動にも入り ― ちなみにバレー部 ― 、さぁこれから新しい生活を楽しむぞ……と思っていた四月下旬頃の事。

 突然現れた防護服姿の連中に拉致された。

 一瞬の事で、正直なところ何があったのかはよく覚えていない。確かなのは学校からの帰り道、友達と別れて一人きりになった直後、男達は現れた。無論抵抗したが、彼等は皆スポーツ選手のようなガッチリとした体躯をしていて、運動部に入ったばかりの女子中学生が敵うような相手ではなかった。あっさりと車に引き込まれ、連れ去られ……見知らぬ、白い部屋に閉じ込められた。

 何か酷い事をされるのではと思い怖かったが、白い部屋での生活は拍子抜けするほど快適だった。テレビが置かれていて好きな番組を見る事が出来たし、漫画や小説、ゲームも積まれていた。食事もごく一般的な、それでいて健康的なメニューであり、美味しかった。嫌いなものを残したり、大声で食べたいものを伝えると、すぐメニューに反映された。強いて嫌な事を上げるなら、週に一度注射で少量の血を採られたぐらいだろう。

 しかし快適である事と、ずっと暮らしていたい事は別問題。

 帰りたいという気持ちだけは変わらず、何時か警察が助けてくれると信じて待つ日々。だけど何時まで経っても助けは来なくて……もしかしたらずっとこのままなのではないかと、諦めかけた時だった。

 テレビで、自分を探している両親の姿を見たのは。

「後の事は、あんまり覚えてない。なんか頭がくらくらして、それで……気が付いたら、部屋が吹き飛んでた。外に続く大穴が開いていたから、そこから外に出て、逃げて……でもお金とか持ってないから、何日も歩いて。それで、多分気絶しちゃったところで、あなた達と会ったの」

 そのような経緯があったのだと、清夏はぽつぽつとした語り方で説明した。

 大桐家のリビングにて。テーブルを挟んで向かい合った状態で椅子に座り、清夏の話を聞いていた花中は唇を噛み締める。

 なんて酷い話なのか。

 清夏は誘拐事件の被害者だったのだ。それも四ヶ月前に起き、四ヶ月もの間解決していない大事件の。犯人の男達の目的も気になるが、清夏本人、そして清夏の両親の気持ちを想うと胸が痛くなるほどの悲しみが込み上がる。すぐにでも彼女は警察に保護してもらい、地元に帰してあげたい……それは花中の、紛う事なき本心である。

 反面、こうも思った。

 ――――何故自分は、()()()()を聞かされている?

「ほーそれは中々大変でしたね」

 フィアは特段清夏の正体などどうでも良いのか、或いは単純に気付いていないのか。彼女の話をすっかり信じている様子だった。

「……裏は取れたわ。ネットの力って本当に便利ね」

 ミリオンの方も、しっかり調査をして清夏の言葉の正しさを証明する。彼女が持ってきたノートパソコンには、『御酒清夏』を探している旨を記載したホームページが表示されていた。顔写真も掲載されていて、確かに今花中達の眼前に居る少女が行方不明の少女・御酒清夏であると証明する。もっと調べれば、清夏が見たというテレビ番組も突き止められるだろう……そこまでする必要があるとは思えないが。

 清夏の言葉に、恐らく嘘はない。しかし花中は違和感を覚える。

「……あの、すみません。御酒さんは、その、超能力者、なのですよね? どうして、超能力者って、分かったのですか?」

「え? どうしてって言われると……なんか部屋から逃げた後から、変な力が使えるようになってて。あっちいけーとか、近寄るなーとか思うと、大体その辺りが爆発するの。で、多分これは超能力だと思うから、それを使えるわたしは超能力者なんだーって……」

 訊けば、清夏はなんとも適当な答えをくれた。随分曖昧な認識で発動する力のようだが、フィア達の力の使い方を見るに、ミュータントはその程度の認識で力のコントロールが出来るものなのだろう。ましてや自分の出自をちゃんと理解する必要なんてない。

 そして清夏は、つい最近まで自身の力に気付いていなかった。だとすると、もしかすると彼女は――――

「……あの、これを言うと、図々しいって思われるかも知れないけど……」

 考え込んでいた花中は、清夏からの言葉に僅かながら反応が遅れた。それでもすぐに顔を上げ、花中は清夏と向き合う。

 尤も清夏の方は花中から顔を逸らしていたので、花中と目が合う事はなかったが。清夏の口はむにゅむにゅと動き、極めて居心地が悪そうにしている。

「はい。えと、なんでしょうか?」

「その……わ、わたしを……」

「わたしを?」

「……匿って、くれない……?」

 やがておどおどと出てきた言葉は、自らの保護を求めるものだった。

「あん? 何故我々があなたを匿わなければならないのですか? 家に帰れば良いじゃないですか。よく知りませんけど警察に行けばなんとかなるんじゃないですか?」

「だ、だって……その、今日あなた達を襲った、変な格好の連中がいたでしょ? アイツ等、多分わたしを連れ戻しに来たんだと思うの」

「はぁ。それで?」

「それでって、アイツ等普通じゃないのは分かるでしょ!? 人数も多いし、あんな武器を持ってたら、警察でも勝てるか分かんないし、もしかしたらお父さんやお母さんが……」

 フィアが突き放すと、清夏は不安そうに訳を話す。

 その言い分は至極尤もなものだと花中は思う。

 花中達が遭遇した防護服姿の集団……清夏を連れ去った者達の一員であろう彼等は、警告一つせずにフィアを攻撃してきた。それも爆発する何かという、立派な兵器を用いて。フィアだからこそ無傷だったが、並の人間ではバラバラに吹き飛んでもおかしくない威力だった。彼等が殺人も厭わない集団なのは間違いない。今日現れた彼等はフィアがボコボコにした後、一応武器も全部破壊したが……警察に逮捕された訳ではない。フィアの正体を隠すため彼等を突き出す事は出来なかった。しかも生きてる人間なので『破壊』も出来ない。立ち直った彼等がまたやってくる可能性は十分にある。

 日本の警察は優秀だと花中は信じているが、武装した『兵士』に襲われて立ち向かえるような組織ではない。保護を申し出ても、警察では清夏を守り切れないだろう。そして戦いの過程で、多くの犠牲者が出てしまう。

 それよりも『超能力者』であるフィアの傍の方が安全で、被害も少ない事は間違いない。極めて合理的な判断だ……相手の気持ちを無視すれば。酷な言い方をすれば、大勢の人を守るためにフィアを巻き込もうというのと同じである。

「お願い! アイツ等の事は、わたしが、その……なんとかする、から……困ったら、見捨てても、良いから……だからしばらく、此処に置かせてくれない……?」

 最初は勢い良く、途中からおどおどと頼み込む辺り、清夏としてもそこに引け目を感じているのだろう。怯えたような眼差しで、清夏はフィアを見つめる。

 対するフィアは如何にも面倒臭そうに、けれどもそれ以上の感情を感じさせない顰め面を浮かべるのみ。

「花中さん。こう言ってますけどどうします?」

 ややあって出てきた言葉も、花中の意見を伺うものだった。

「……わたしからも、お願い、したいな。助けてあげたい、から」

 花中が正直な気持ちを伝えると、清夏は目を煌めかせる。OKが出ると期待している様子だ。

 とはいえ基本自らの都合しか考えないフィアの事。果たして危険な人間達に襲われるリスクを許してくれるだろうか。

「分かりました。花中さんがそうしたいのでしたら構いませんよ」

 そんな心配を嘲笑うように、フィアはすんなりと花中の意見を受け入れた。

 ……あまりにも簡単に受け入れるので、花中は少し呆けてしまう。

「え? い、良いの? その……変な人に、襲われるかも、知れないのに……」

 呆けるあまり殆ど無意識に尋ねると、フィアはこてんと首を傾げる。

「そうですけどそれがなんです? 人間なんて虫けらみたいなものじゃないですか。どれだけ来ようが私の敵ではありませんよ」

 そして平然とそう答えた。

 要するに、弱っちい奴等がいくら来ようがどうでも良い、という事らしい。極めてフィアらしい発想に、花中は少し口許が引き攣る。

 しかしながら実際フィアは防護服姿の集団を簡単に倒しているのだから、虫けらみたいなものという評価はあながち間違いではない。それに清夏の保護を許してくれたのだ。ならばどうしてその考えを改めさせる必要があるのか。

「……うん。ありがとう、フィアちゃん。えと、ミリオンさんは……」

「んー。私はどっちかといえばNoなんだけど、まぁ、人間相手なら良いか」

 ミリオンにも訊けば、彼女も渋々ではあっても承諾してくれた。

「ありがとうございます……えと、みんな大丈夫との、事なので……大丈夫、です」

「あ、ありがとう!」

 かくして花中は保護の意思を伝えると、清夏は眩い笑みを浮かべながら感謝を表す。

 それからすぐに、笑みを浮かべたままの顔に涙が伝った。 

「あ、あれ? わたし、なんで……あれ?」

 拭っても拭っても、清夏の目から溢れる涙は止まらない。段々とその笑顔もくしゃくしゃな泣き顔に変わり、明朗だった声の代わりに嗚咽が漏れ出る。

 いきなり泣き始めた事が不思議なのか、フィアはこてんと首を傾げる。しかし人間と長年暮らしていたミリオンと、人間である花中には清夏の気持ちはすぐに分かった。

 だから花中は清夏に近付き、ミリオンは花中を引き留めはしない。

「良いんですよ、泣いても。もう、大丈夫ですから。わたしは、何も出来ないですけど、でも……あなたの気持ちを聞くぐらいなら、出来ますから」

 花中はそっと清夏を抱き締め、優しく語り掛ける。

 清夏の口から大きな泣き声が上がるのに、さしたる時間は掛からなかった。

 ……………

 ………

 …

 ベッドの上ですやすやと寝息を立てる清夏に、花中は彼女を起こさないようそっとタオルケットを掛ける。

 時刻は十五時をようやく回った頃。まだまだ気温が高い時間帯であるが、清夏を寝かした部屋……花中の自室では今、クーラーが起動している。現在の室温は二十六度前後。寝る前にお茶を飲ませているので、寝ている清夏が熱中症を患う心配はほぼないだろう。

 文明の利器とは素晴らしいものだとしみじみと感じつつ、花中は静かに自室を出る。扉を閉めてしまえば小さな音など届かない筈だが、それでも一階へと続く階段を下りる時は自然と忍び足になっていた。

 花中が普通に歩くようになったのは、一階のリビングに足を踏み入れてからだった。

「おかえりなさい花中さん」

「おかえり。あの子、どんな感じかしら?」

 冷房の冷たい空気と共に、フィアとミリオンが出迎える。花中は二匹の顔を見ながら、こくりと頷いた。

「ただいま、フィアちゃん、ミリオンさん。御酒さんは、とてもよく、眠ってます。しばらくは、起きないかと」

「眠ってる? ……ふぅん」

 花中としては思った事をそのまま言ったつもりだが、ミリオンは興味を抱いたかのような反応を示す。

 何かおかしな点でもあったのだろうか? 考えてみようとする花中だったが、すぐに止めた。

 わざわざ考えなくても、察しは付く。

「さぁて。あの子との付き合い方、どうしたもんかしらねぇ」

 こんなぼやきをするぐらいなのだ――――ミリオンもまた()()()()()()と、花中は思った。

「? どうするとは?」

 ……思った通り、フィアだけは気付いていない様子だが。

 花中は苦笑いを浮かべながら、ちらりと自身の後ろを振り返る。

 階段を下りてくる少女の気配は、ない。防音扉ではないものの、部屋とリビングにある戸で二重の壁が出来ている。余程の馬鹿騒ぎでもしない限り、花中の部屋まで声は届くまい。

 それでも小さな、だけどフィアの聴力ならば難なく聞こえるであろう声で、花中は教えた。

「えっとね……御酒さん、自分の事……人間だと、思ってるみたい、なの」

「人間だと思っている? 自分が人間じゃない事に気付いていないという事ですか?」

「うん。多分だけど、そうだと思う。だから、それを伝えるか、秘密にするか、考えないといけないの。わたしは、秘密にした方が良いと思ってるけど」

 訊き返してくるフィアに、今度は出来るだけハッキリと花中は答える。自分の中では確信のある言葉であり、伝える事は難しくなかった。

 清夏の言動は、あたかも自身が人間であると主張するかのようだった。話し方は年頃の少女のそれであるし、怯え方や逃げ方も人間そのもの。これまで様々なミュータントや超生命体を目の当たりにしてきた花中は、なんとなくだが人間ではない存在の動きを覚えている。そんな花中でも、清夏の動きに人間以外の気配は感じられなかった。

 そして力を振るうフィアを清夏は『超能力者』と呼んでいた。超能力者という呼び名は、普通は人間相手に使うものだ。どれほど不思議な力を持っていようと、動物を超能力者と呼ぶ者は少数派だろう。つまり清夏は、フィアを人間だと思ったという事。自身も不思議な力を持った『人外』にも拘わらず。

 このチグハグな言動への説明……それが、清夏が自分の正体を忘れてしまったミュータントである、という仮説なのだ。

 勿論、花中達を警戒して人間のふりをしている可能性も否定は出来ない。しかし先程の涙が嘘だとは、花中には到底思えなかった。人間に追われ、怯えているのもミュータント()()()()()

 或いは人間のミュータント、という事も十分に考えられる。人間は特別な存在ではないが、かといって自然界に蔑まれている訳でもない。多種多様なミュータントが存在する中、人間がミュータントになれないというのもおかしな話だ。されどこの可能性も低いだろう……インフルエンザウイルスの集合体であるミリオンならば、体内構造をチェックする事で清夏が人間であるかどうかなど一瞬で見抜ける。そのミリオンが付き合い方に悩んでいるのだから、この可能性もまずあり得ない。

 消去法ではあるが、花中には清夏が自分の正体を失念しているとしか思えないのである。

「えぇー? そんな事あり得るのですかぁ?」

 尤も、フィアは花中の説明に半信半疑な様子だったが。基本花中の言う事は鵜呑みにするフィアも、今回は違うらしい。

 普段フィアから疑われる事があまりなかった花中は、ちょっとばかり驚いておどおどしてしまう。言葉もすぐに出てこなくて、喘ぐように口が空回り。

 見かねたミリオンが話に割って入ってくれなければ、長い沈黙が流れてしまうところだった。

「あら、左程変な話じゃないと思うわよ? 可能性は幾つか考えられるわ」

「そうなのですか?」

「ええ。例えば、赤ちゃんから伝達脳波を受け取った場合が考えられるわね。ミュータントとして目覚めた直後に有している知識は、伝達脳波を発している人間に依存している。だから赤ん坊の伝達脳波を受けてミュータント化したなら、そのミュータントが持つ知識は赤ん坊と変わらない。これじゃあ自分が何者かなんて分かる訳もないわ」

「……その状態であなたは人間だと教えられたなら自分が人間であると信じ込んでしまうと?」

「その通り。他にも頭を強く打って記憶を失ったとか、薬を飲まされて脳に障害を負った、精神的苦痛からの逃避、ただのお馬鹿……記憶なんてやり方を知っていれば、簡単に改竄出来る程度の代物よ。どんな理由で忘れたとしてもおかしくはないわ」

「むぅ。そういうものなのですか」

 口振りでは理解したようにぼやきながら、しかしフィアの眉間に寄った皺が心の中のもやもやを表す。どうやら未だ納得はしていないらしい。

「えと、フィアちゃん? 他にも、何か気になるの?」

「気になると言いますか……アイツが人間じゃない事に気付いていないのは分かりましたがどうしてそれを秘密にしておく必要があるのです?」

 花中が尋ねてみると、フィアの方からも質問が飛んでくる。

 その疑問に、成程と花中は思った。確かにフィアならば、或いはミィや妖精さん、その他のミュータント達も似たような疑問を抱くかも知れない。例外はミリオンぐらいだろう。

 そしてきっと、ミリオン以外にはどれだけ説明しても理解してはもらえまい。

「ああ、それははなちゃんにも説明出来ないわよ。だってさかなちゃん、もしも自分が実はフナじゃなくてナマズだったと知ったとしても、別にショックなんか受けないでしょう?」

「……逆に訊きますけど何故そんな事がショックなのですか? どーでも良いでしょう自分がなんて動物かなんて」

 ミリオンからの問いに、このような答えを返すぐらいなのだから。

 人間ほど、自分達の種族に拘る生物は他にいまい。

 歴史を振り返り、宗教と科学を学べば、人間が常に自らを特別視していた事は明らかだろう。何かにつけて自分達を特別視し、自分達以外を蔑視する。種というものは自分達の都合で区分けしているにも拘わらず、人間だけは他の生物と何かが違うと妄信するのだ。本当は大した違いなどなくて、人間に神秘なんて存在しないのに。

 それは恐らく、仲間意識を発達させる中で手にした『進化』なのだろう。特別な者同士で協力し、自然と明白な区別を付ける……これにより人類は社会を発展させてきたのだ。そして発展させ過ぎた結果、人間は社会の中でしか生きていけなくなり、社会に適合する事が生存上重要となる。

 要するに「仲間外れになると割と本気で生きていけない」ので、何がなんでも同族である事に拘るのだ――――と花中は人間の種族的自尊心の根源について考察する。大変冷めた見方だと花中自身思うところだが、実のところ清夏の立場を自分に置き換えても、なんとなく乗り越えられるような気がしてあまり大事に思えなかったのだ。もしも自分が人間じゃなかったところで、人間じゃない友達の仲間入りをするだけなので。

 と、花中にとっては清夏が人間かどうかなど些末事であるのだが、清夏自身にとってはそうではあるまい。花中とて、この考えに至れたのは人間じゃない友達に一年以上囲まれてきた事が原因だろう。人外の存在を知らない清夏にとって、自分が人間でないと知る事は大きなショックの筈だ。

 知らないままで済むのなら、それが一番。教えるにしても、フィアやミリオンの正体を伝え、少しずつ『不思議な存在』への抵抗感をなくしてからにすべきである。

 それが花中の考えだった。

「えっと、人間にとって、それはとても悲しい事だから……だから、出来れば御酒さんが人間じゃない事は、秘密にしてほしいの」

「ふーむ理由はさっぱり分かりませんが花中さんがそう仰るならそのようにしましょう。秘密にしないでおく理由もありませんし」

 花中が頼めば、フィアは極めて無関心そうに約束してくれた。尤もフィアは極めて忘れっぽく、相手によって態度を変えもしない。何かの拍子にうっかり言うのではないかと、恐ろしく確かな『信頼』ばかりが花中の脳裏を過ぎる。

 とはいえ不安を抱いていてもどうにもならない。今更清夏を追い出すなんて出来ないのだ。

 清夏を狙う謎の集団の正体を解き明かし、二度と清夏に酷い事が出来ないようにするまでは。

「じゃ、今後の方針はこうね。御酒ちゃんの正体は秘密にしながら、彼女をうちで匿う。そして襲い掛かる人間をこてんぱんにして、正体を暴いて壊滅させる……何か異議はある?」

「そう、ですね。それで良いと、思います」

 ざっと話を総括してくれたミリオンに、花中は同意を示す。言葉にするとやるべき事、起こるであろう事が強くイメージ出来、花中の心に小さな闘争心が宿る。

 対してフィアは、能天気にこてんと首を傾げた。

 何か気になる事があったのだろうか? 疑問を覚えた花中がじっと見ている中、フィアはやがて得心がいったような明るい笑みを浮かべ、ポンッと手を叩く。 

「あーそういえばアイツ変な人間に追われていたんでしたっけ? やっつけた人間があまりに弱過ぎてすっかり忘れてました」

 そして割と大事な、話の根幹をすっかり忘れていた事を打ち明けた。ほんの十数分前の出来事なのに。

 打ち明けられた花中はその場でずっこける。ミリオンも膝を折り、力なくへたり込む。キョトンとしながらフィアは花中達を見下ろし、再び首を傾げた。

「どうしたのですか二人とも? 何故独りでにこけているのです?」

「……はなちゃん。割と本気で、御酒ちゃんには早いところ正体教えてあげた方が後々面倒がなくて良いと思うわ」

「……善処します」

 多難な前途を予感し、花中もミリオンも乾いた笑いが漏れ出る。

 仲間外れにされたフィアだけが、つまらなそうに唇を尖らせるのだった。




フィアはお馬鹿ではありません。
ただ興味のない事をすぐに忘れてしまい、
そして興味の範囲が著しく狭いだけです。

次回は3/16(土)投稿予定です。


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あなたはだあれ4

 子供というのはハンバーグ好きなものである。

 というのは少々決め付けが過ぎるだろうが、嫌いな子供よりは好きな子供の方が多いだろう。小麦や卵、肉や野菜など多様な食材を使うレシピであるためアレルギーには注意すべきであり、また肉料理なので信仰・信条などの理由から食べられない人もいるだろうが……そうでないなら、誰に出しても恐らく問題にはならない料理である。

「おおおおお……!」

 実際、ハンバーグを出された清夏は目をキラキラさせていた。

 まだ一口も食べていないうちとはいえ、ここまで喜んでもらえるとは――――花中としても、作った甲斐があるというものである。

 夕飯時を迎え、お腹を空かせたのだろうか。自力で目覚めてリビングまでやってきた清夏のために、花中はハンバーグを手作りした。『お客様』に料理を振る舞うのは、実のところ久しぶりだ。此度のハンバーグは普段以上に手間を掛けて ― ただしお腹を空かせた清夏を待たせぬよう迅速に ― 作った自慢の一品。これなら誰かに食べさせたいと思える、何時も不安げな花中が胸を張れるぐらいの完成度だ。

「も、もう、食べても良い……?」

「はい、勿論です。召し上がれ」

「い、いただきまふ!」

 花中がOKを出した、瞬間、言うが早いか清夏はハンバーグを頬張った。出来たハンバーグは湯気を立ち昇らせ、熱さに喘ぐ清夏の口から白い煙がほわほわと噴き出てくる。しかし清夏はそんな事などお構いなしに、白いご飯も口にかき込み、肉汁と白米のコラボを満喫していた。

 清夏が料理を問題なく堪能してくれている事に、花中は安堵する。

 清夏の正体がミュータントである事を知っている花中だが……清夏の『種』までは把握していない。知ろうと思えば、ミリオンという頼もしい友達の力を借りる事で簡単に出来るだろう。しかし正体を知ってしまったら、ふとしたきっかけでその正体を口にしてしまうかも知れないし、無意識の態度に表れる事もあり得る。

 それならば正体を知らない方が『ボロ』を出さなくて済むだろう。そう考えたがために、花中は清夏の正体を知らないままにしておいていた。

 だからもしかすると、清夏にはハンバーグが食べられない可能性があったのだ。念のため作る前に「食べられないものはないですか」と尋ね、「野菜は嫌い」という答えだったので遠慮なくハンバーグに練り込んだが……どうやら本当に問題なかったらしい。これで一安心である。

「ずずずずっ……ぷはぁ。偶にはこういう食べ方も悪くないですねー」

 ちなみに清夏とテーブルを挟んで向かい側に座るフィアは、どろどろのスープを飲んでいた。スープといっても、捕まえた虫を原型がなくなるまでフィア自らがすり潰したものであるが。流石に虫をそのまま食べると、フィアが人間ではないとバレてしまうので。

「フィアはスープだけで良いの? お腹空かない? わたしのハンバーグ食べる?」

「遠慮します。牛肉とかタマネギとか卵とかニンジンとか好きじゃありませんし」

「……逆に何が好きなのよ、アンタ」

「そりゃあ活きの良い昆」

「はーい、私達も食べましょうねハンバーグ。はなちゃんも早く座ってー」

 ……ミリオンが居なかったら、虫をそのまま出した時と大差ない早さでバレていただろうが。キリキリと走る胃の痛みを堪えながら、花中も自分のハンバーグと炊き立てご飯を持ってフィアの隣の席に着く。果たして一日でも秘密を守れるのか、いきなり不安で仕方ない。

 尤も、席に座った花中の頬は、やがてとろんとろんにふやけてしまうのだが。

 四人掛けのテーブルに、四人が座って食事をする。何時もよりたった『一人』多いだけなのに、凄く賑やかになったような気がして堪らない。楽しい事、フレンドリーな事が大好きな花中には、ワクワクが止まらないシチュエーションだった。こんなにも楽しそうな中に居て、どうして何時までも不安なままでいられるのか。

 心配性な割にゆるゆるな花中の脳みそは、自分の置かれた幸福をあっさりと受け止める。

「じゃあ、わたしも……いただきますっ」

 食への感謝を言葉にした時、花中はすっかり悩みなど吹き飛んでいた。箸で切り分けた自分のハンバーグを一口食べれば、肉汁と共に溢れる楽しさで満面の笑みが浮かぶ。

 ここに楽しいお喋りが加わったら、一体自分はどうなってしまうのだろうか。

「だけど花中って凄いね。小学生なのに、こんなに料理が上手なんて」

 答えは清夏の一言で明らかとなった。

 ただし思い描いていた結果とは真逆の、笑みが強張るというものだったが。ギギギと音が鳴りそうな鈍い動きで顔を上げ、花中は首を傾げる。

「……はい?」

「だから、小学生なのに凄いねって。わたし、中学生なのに料理とか全然出来ないもん」

「……………あ、えっと……」

 返事に窮し、花中は目を泳がせる。

 確かに、花中(自分)は小さい。

 清夏と大体同じぐらい……いや、ほーんのちょっぴりだけ小さい事は否定しようがない事実である。清夏は中学一年生らしいので、清夏よりも小さいなら小学生に間違われるのも仕方ない。大体にして小学生呼ばわりは慣れている。

 そう、慣れているのだが。

 ……昨年まで小学生だった子にそう呼ばれると、如何に花中でもダメージが大きかった。

「花中さんって高校生ですよね?」

 そして一番の友達であるフィアが、そんな花中の複雑な乙女心を察してくれる筈もなく。

 あっさりと明かされた花中の『秘密』に、清夏は大きくその目を見開いた。

「嘘!? え、高校生なの!? って事は年上!?」

「あ、はい。一応、二年生です……」

「しかも二年生って……わたし、学校でもそこそこ小さい方なのに」

「ぐふっ」

 清夏の無邪気な一言が、花中の脆弱なハートに突き刺さる。項垂れた花中を前にして清夏はおろおろしてしまい、花中の気持ちなど分からないフィアは自分のスープをゆっくり味わうばかり。ミリオンはくすくすと笑いながら、どうせ味など分かっていないハンバーグを淡々と食べていた。

 慰めがないのでなんとか自力で復帰し、花中はちょっとばかり背筋を伸ばす。決して、背を伸ばそうとした訳ではない。決して。

 なのに清夏は花中の『ストレッチ』を見るや、噴き出すように笑った。ムスッとした花中から清夏は顔を逸らし、笑われた側である花中も段々笑いが込み上がってくる。

 気付けば、清夏と花中は二人して笑っていた。

「あははっ! あはははっ! あー、もう……こんな楽しいご飯、久しぶりだぁ」

「ふふっ。それは、何よりです」

「うん……ありがと。ちょっと、元気になれた」

「そうだとしたら、わたしとしても、嬉しいです」

 明るく振る舞う清夏を見て、花中は心からそう思う。

 言うまでもなく、清夏は本調子を取り戻した訳でも、ましてや心のわだかまりが全て消えた訳でもないだろう。『両親』や故郷の友人達と再開するまで、本当の幸せはきっと訪れない。

 だけど、その辛さをほんの一時でも忘れさせる事が出来たなら……清夏の幸せを祈る一人として、光栄の極みといったところだ。

 故に、

「さて、十分元気を取り戻したみたいだし、あなたを追う輩について詳しく教えてもらえるかしら?」

 清夏の笑みを曇らせたミリオンの一言に、花中は抗議の眼差しを向ける。

「……ミリオンさん」

「あら? 何かおかしな事を言ったかしら? 何時またやってくるか分からない以上、後回しにしたら探るチャンスを逃しかねない。そうでしょ?」

「それは、そうですけど、でも――――」

 ミリオンの『正論』に対し、花中は『感情』をぶつけようとする。

 気持ちを昂ぶらせる花中を止めたのは、清夏が伸ばしてきた手だった。

「花中、大丈夫だから……その、花中達のお陰で、元気になれたから、今なら平気だよ」

「でも……」

「それに、話さないといけないとは思ってるし。また何時アイツ等がやってくるか、分からないんだから」

「……無理は、しないでください」

「うん。ありがとう」

 清夏は強く頷くと、ミリオンと向き合う。視線から外された花中だったが、清夏の話にはしかと耳を傾ける。

 お陰で清夏の、少し不安げで、震えた小声を聞き逃さずに済んだ。

「アイツ等の目的とか、正体とかは、よく分かんない。血を採られたりしたけど、でも、その血で何をしてるかは、知らない」

「血、ねぇ……何人ぐらい居るとか、そういうのは分かるかしら?」

「ううんと、少なくとも五十人ぐらい? なんか捕まってた時に、それぐらい大勢に囲まれた事があるよ。特に何もされなくて、なんか好きな食べ物とか、そんなのを訊かれたぐらいだったけど」

「ふぅん。誘拐された時の事は思い出せる?」

「えっと、その……もしかしたら、見間違いとか、かもだけど……」

 ごにょごにょと言葉を濁す清夏。先が気になる花中だったが、時間はたっぷりあるのだ。急かしはしない。ミリオンも清夏と向き合ったまま、自身のハンバーグを食べるだけ。

「……救急車に、詰め込まれたような気がする」

 やがて清夏は、恥ずかしそうにそう答えた。

「救急車?」

「う、うん。そんな感じの乗り物。連れて行かれた場所も病院ぽかったから、わたし、てっきり病院に攫われたんだって思って……その……」

 すっかり声が萎んでしまったが、花中には清夏の言いたい事はすぐに分かった。同時に、得心もいく。

 清夏が半狂乱になって逃げたのは、花中が病院に連れて行こうとしたからだ。

 救急車に攫われ、病院らしき場所に監禁されていたのだ。病院やそれに関するものにトラウマを抱くのは至極当然の事だろう。むしろ知らなかった事とはいえ、心の傷を抉る真似をしてしまった事を花中としては申し訳なく感じる。

 その件については、今度ちゃんと謝ろう。そう考えつつ、花中は別方向へも思考を巡らせる。

 清夏を襲った者達の正体は何か。

 清夏は何かの見間違いかもと思っているようだが、別の何かを救急車と見間違うのは中々難しいように思える。また、救急車に暴れる少女が押し込まれたとして……それを目撃した時、どれだけの人が『怪しい』と感じるだろうか? 恐らくそんなに多くはないだろう。救急隊員が人攫いをする()()()()のだから。用意出来るのなら、救急車を誘拐に使うというのは意外と理に適っている。

 それから構成員が五十人を超えるという、清夏を狙う『組織』。話を聞く限りだと、その五十人は清夏を調べようとした調査員のように思える。フィアが撃退した十数名のメンバーは戦闘員だと思われるが、よもや調査員との兼任はしていまい。食事の用意や武器の補充要員も考慮すると、数百から数千人規模の大組織だと予測される。これほどの人員を動かすとなれば、資金力も相応でなければならない。スポンサーを含めれば、果たしてどれほどの規模になるのか……

 そして彼等は、清夏がミュータントである事を知っている可能性が高い。

 こういっては難だが、『普通の人間』を捕まえて一体なんの意味があるのだろうか? ましてや定期的に血を採り、快適な環境を提供するなど、花中には理解不能である。数百人を超える人員を動かすとなれば尚更だ。

 しかしミュータントの研究であるなら、人智を超える生命体の秘密を知ろうとしていたのなら、清夏に降り掛かった『不幸』の説明が付く。

 巨大な組織、優れた軍事、底なしの資金、世界の秘密に届く知識……それら全てを兼ね備えた存在を、花中はたった一つながら知っている。

 否、花中達は、と言うべきか。

「ふふふ。成程成程そういう事でしたか」

 花中が一つの推論に辿り着いたのと時を同じにして、フィアが不敵な笑みを浮かべながら独りごちる。

 自信に満ちたフィアの態度を前にした清夏は目を輝かせ、ハンバーグを食べるのを止めて身を乗り出した。そわそわと揺れ動く身体が、清夏の期待を物語る。

「何? もしかして、アイツ等に心当たりがあるの!?」

「ふふふ。心当たりも何も奴等とは一戦交えた事もあります。まぁこの私の力の前では奴等など虫けら同然でしたがね」

 清夏の問いに、フィアは自信満々に答えた。そう、自信満々に。

 故に彼女は寸分の躊躇いもなく、堂々とその可愛らしい口を開き、

「奴等の正体はタヌキです!」

 臆面もなく、自身の考えを打ち明けた。

 打ち明けられた清夏は、笑顔のまま固まる。先程までのそわそわわくわくな気持ちは何処へやら、油が切れたオモチャのように、ぎこちなく首を傾げた。

 無理もない。清夏は『タヌキ』がどれほど恐ろしいか知らないのだから。今頃清夏の頭の中では、ぽんぽこお腹を叩いている可愛らしいマスコットキャラクターが恐ろしい軍勢を率いるというシュールなイメージ映像が流れている事だろう。少なくとも、この国の総理大臣の顔は絶対に浮かんでいない。

 付け加えるならば。

「フィアちゃん……」

「はい花中さんなんでしょうか?」

「それ、多分外れだから」

「えっ」

 花中が伝えたように、フィアの導き出した結論は間違いである可能性が高かった。

 世界人口の一割を占める勢力の巨大さ、人類の一世紀先を行く科学力、何兆という大金を動かす資金、そして自らがミュータントであるが故の知識……確かに『世界の支配者(タヌキ)』達ならば、全ての条件を満たす。

 だからこそ解せない。

 タヌキ達は、ロボット兵士を開発するほどの科学力があるのだ。ところが昼間襲撃してきた集団は、『中身』が存在していた。機械は壊れたなら再生産すれば良いが、人員はそうもいかない。フィア達ミュータントの実力と思想を知っていれば、そんな消耗品扱いは出来ない筈である。

 仮に、なんらかの理由で『中身』を入れる必要があったとして……花中には変身したタヌキと人間の区別は付かないが、優れた嗅覚を誇るフィアと、体内への侵入が可能なミリオンが彼等を人間と呼称している。ならば、恐らく彼等は人間に違いない。

 彼等の資金力なら人間の傭兵を雇うのは容易いだろう。しかし何故人間という『部外者』を中身にする? もしもその中身が人間側のスパイだったなら、技術を奪われるかも知れないではないか。数で上回る人間がタヌキ達のテクノロジーを持ったら、今の力関係はひっくり返ってしまう。そのようなリスクを彼等が犯すとは考え難い。

 人間を使うという事は、人間の組織である筈なのだ。

「……なーんだ、間違いかぁ。いや、うん。そーだよねぇ。というかなんでタヌキ? 中身人間だったじゃん」

 そんな花中の推測など知る由もない清夏は、ケラケラと笑いながらフィアの考えを扱き下ろす。実際のところフィアの考えはそこまで的外れでもないのだが……花中から間違いだと言われたフィアは言い訳をする事もなく、不思議そうに首を傾げるだけだった。基本、弁明という考えはフィアにはないのである。魚類には必要のない行為なのだから。

 ともあれ、清夏の話から分かるのはこのぐらいが限度だろう。勿論かなり重要な情報の数々であり、じっくりと考えればいくらでも発想を広げられる。

 そして花中的には、胸を撫で下ろすに足る情報だった。

 相手の正体、規模、目的は未だ未知数だが……人間相手なら、フィア達がきっとなんとかしてくれると信じられる。彼女達の力は、本気を出した『人類』さえも虫けら扱いにしてしまうほど圧倒的なのだから。

「うん、これだけ分かれば今は十分ね」

 ミリオンも花中と同じ結論に至ったのか、ぽつりと独りごちる。

 その声を聞き逃さなかったようで、今度の清夏はミリオンの方へと身を乗り出した。

「え!? 何か分かったの!?」

「ええ、分かったわ。私達の勝利は揺らがないって事が」

「? どういう事?」

「人間相手なら負ける訳がないって事よ。私達『超能力者』の力なら、ね」

「お、おおお……! なんかカッコいいし、凄い自信だ……! というかあなたも超能力者なの?!」

「ええ。その通り。熱を操る力を持っているわ」

「熱系! 漫画だと主人公が使うタイプの力だね!」

「あら、能力で主役かどうかは決まらないわよ? 主人公をやるために必要なのは、勝ち続ける事。どんな状況でも、持ち前の手札と頭で切り抜ける者こそが主人公と呼ばれるに相応しいわ。ま、私はどんな状況でも、どんな敵が相手でも負けはしないけどね」

 清夏の正体を隠しながら、ミリオンは飄々と清夏の質問に答える。フィアならば今頃三回は正体が露呈しているところだろう。

 加えて下手に誤魔化しもせず、清流のように速やかな返答は会話のお手本のようでもある。清夏だけでなく、花中も無意識にミリオンの話に惹かれていた。

「ところでミリオンとフィアって、どっちが強いの?」

 尤も、花中が暢気に惹かれていられたのは、清夏が無邪気に地雷を踏むまでだったが。

 ぷつりと、ミリオンの答えが途切れる。ちらりと視線を向けた先にはフィアが居て、フィアもまたミリオンをちらりと覗き見る。視線が合った二匹は同時に顔を向き合わせ、にっこりと微笑んだ。

 瞬間、両者同時に腕を伸ばし、互いの手を握り締める。握手か? 否。

 腕相撲のポーズだ。

「ほほうこの私に勝負を挑みますか。一度は負けた癖に」

「あら、一体何時まで昔の栄光にしがみつくのかしら? あれから対抗策を研究し、更に身体機能も改善してるのよ。あの時の私とは次元が違うの。お分かり?」

「それこそこちらの台詞です。当時の私は力に目覚めたてのほやほやですよ? 老衰寸前のあなたと違い私の伸びしろはこれからです。あなたこそあの時の私と違う事を理解しなさい」

「……丁度良いわ。決着を付けようじゃない」

「望むところです」

 交わす視線の間で火花を散らし、今にも跳び掛かりそうなケダモノの笑みを浮かべるフィア達。放たれる闘争心はただの人間である花中にもピリピリとした電気信号として感じられ、全身にオーラがあるのではないかと思わせる『雰囲気』を二匹は纏っていた。

 まさか自分の迂闊な一言でこんな事になるとは思いもしなかったであろう清夏は、今にも泣きそうな顔で右往左往している。しかしどうすれば良いのか分からなかったようで、やがて助けを求める眼差しを花中に向けてきた。

 とはいえ花中にも、フィアとミリオンを止める事は無理だ。花中からの頼み事は結構聞いてくれる二匹だが、自分自身の『やりたい事』を我慢してくれた事は殆どないのだから。無論人間の中でもとびきり脆弱な花中の力では無理矢理止める事も叶わない。

 だから花中に言えるのは、ただ一つ。

「遊ぶのは良いけど、家の外、それも人気のないところで、してね? でないと、一週間、口聞いてあげないから」

「「アッハイ」」

 成長したのは二匹だけではないと、笑顔で伝える事だけだ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遭遇後すぐに交戦するも、十数秒で完全に無力化。こちらの攻撃を受けてもダメージはなく、防戦に移る間もなく文字通り全滅……成程、清々しいほどの敗北だね」

 読み終えた書類をデスクの上に投げ捨て、『彼』は特段機嫌を悪くした様子もなく感想を述べる。

 全面ガラス張りで、何処からでも地上を見下ろせる高層ビルの一室。『彼』が陣取るその部屋には『彼』と、『彼』と向き合うように立つスーツ姿の女性の二人しか居なかった。『彼』の感想を聞かされた女性も顔色一つ変えず、自身の掛けている眼鏡の位置を片手で直しながら頷く。

「はい。戦闘員は全員生存していますが、骨折や打撲などにより重傷を負っています。治療をするより、交換をした方が良いと思われます」

「そうだろうね。ま、数は幾らでも揃えられるし、調整に使う薬品も量産体制が整いつつある。だからそこは問題じゃない。問題なのは」

「先の戦力では何度挑もうと、規模を倍増させようと、結果は変わりません」

「その通り。いやぁ、困った困った。あの品質の武器でも結構高いし、生産には時間が掛かるんだけどねぇ」

 『彼』は席から立ち上がり、窓際までゆったりの歩く。何度も何度も、わざとらしく「困った」と呟く『彼』だったが、その仕草に困惑を感じさせるものは何もない。

 あまつさえ『彼』の顔に浮かぶのは、子供のように無邪気で、残忍な笑み。

 窓辺まで移動した『彼』はやがて踵を返し、デスクの下まで戻ってくる。自分がばら撒いた書類の上に肘を突き、おもむろに電話を手に取った。

「保安部。僕だよ。次のサンプル捕獲作戦時に、第二部隊を追加だ。彼等には試作八番装備を付けた状態で出撃させるように。真面目な実戦データが欲しくなったし、そろそろちゃんとサンプルの確保もしたいからね」

 そして受話器に向けて一方的に語ると、返事も待たずに子機へと戻した。

 言いたい事を言い終え、『彼』は椅子の背もたれにだらしなく寄り掛かる。そのままニタニタと、楽しげな笑みを浮かべた。

 『彼』のそんな顔を見た女性は、微かに眉を顰める。

「今より準備を進めた場合、出発まで十八時間ほど有しますが」

「だからこそだよ。成果が上がる頃は、丁度お昼時だ。勝利するにしろ負けるにしろ、食事をしながら面白い話を聞く事に勝る幸福はない」

「……あまり無駄遣いはしないでください。性能の高い『人材』は有限なのですから」

 どう転ぼうと構わない。そんな気持ちを隠しもしない『彼』を、女性は淡々とした言葉で窘めるだけ。

「しかし量産可能だ。なら、寿命が来る前に使う方が正しいと思わないかい?」

 『彼』はその小言を、あっさりと聞き流す。

 これより散るかも知れない命に、なんの興味も抱いていないかのように――――




身長が低い事は気にしてないけど、
他人に言われると傷付く。
面倒臭い性格ですね。わたし、大好きです(歪)

次回は明日投稿予定。


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あなたはだあれ5

 さて、一人の少女の世話をする上で大事な事はなんであろうか?

 食事? 勿論これは大切である。中学生女子というのは食べ盛りな年頃だ。『彼女』は正確には自分を女子中学生と思い込んでいる生命体であるが、なんにせよ食事は必要な筈である。そしてその食事はたくさんの種類の食材を用い、栄養バランスの整ったものにすべきだろう。毎日コンビニ弁当やカップラーメンなど言語道断だ。

 家庭環境? これも大事だ。毎日罵声が飛び交うような家庭では、心が病んでしまう。しかも幼い子供であるならば、そうした心の病との向き合い方が分からない筈だ。その苦痛は想像に余りある。ましてや暴力を振るわれるなどあってはならない。

 しかしながら大桐家にとって、これらの問題はない。食事は基本毎日自炊であり、栄養バランスの整った食事を食べている。家庭環境も……母と父はいないが、笑いの絶えない家だと胸を張って言える。心を病むような場所ではない。

 では大桐家にはもう、少女が暮らす上で足りないものはないのか?

 否。それもまた断じて否だ。

 一つ、そうたった一つではあるが欠けているものがある。現代社会で暮らす上で、これを欠かしてはならない。例えすぐには必要にならなくとも、将来必ず必要になるものだ。

 即ち、

「勉強を、しましょう!」

「え。嫌なんだけど」

 勉学である――――清夏を家で匿うと決めた夜から真面目に考え、翌朝至った結論を伝えた花中だったが、清夏当人はあっさりと拒絶した。拒絶された花中は自信満々な握り拳を作ったまま、こてんと首を傾げる。

 大桐家のリビングは、朝からエアコンがフル稼働していた。灼熱地獄と化している屋外と違い、室内は大変心地良い気温が保たれている。その室温を満喫するように、清夏はソファーに寄り掛かった姿勢でだらけていた。着ているのは花中のお下がりのよれよれ服で、色気のない姿とよく合っていた。清夏はすっかり警戒心が溶けた様子である。大変喜ばしい事だ。

 しかしながらその喜ばしさが吹き飛ぶほどの衝撃を、花中は受けていた。

 花中には分からないのである。何故清夏が勉強を拒むのかが。

「……えっと、勉強を、したいと、思うのですが……」

「いや、聞き間違いとかしてないから。嫌だから」

「な、なんでですかぁ……?」

「なんでって……」

 花中に問われると、清夏は眉を顰めてしばし考え込む。

「わたし、勉強嫌いだもん」

 それから出てきたのは、大変お年頃な答えだった。

 しかし花中はお年頃ながら、割と勉強好きである。嫌いと言われると、どう説得したら良いのか分からない。というか断られた時の事を何も考えていなかった。

 無論諦めるというのは論外だ。清夏は今日まで人間として生きてきた自称中学生である。もしこのまま人間として生きるのであれば、最低でも義務教育は終えねばならない。つまり普通の生活に戻った際、再び中学校に通う訳だが……友達と学力に差が付いては精神衛生上よろしくないだろう。下手をすれば中学浪人もあり得る。

 清夏の話に間違いがなければ、四ヶ月以上勉強が遅れているのだ。この遅れは中々致命的である。足掻きに過ぎないかも知れないが、少しでも取り戻さねばなるまい。

「い、いや、でも、御酒さん、何ヶ月も、捕まって、いたんですよね? だったら、その、今のうちに勉強しとかないと、元の生活に戻った時に、苦労するかと……」

「大丈夫大丈夫、わたしテスト前にざーっと教科書読めば大体覚えていられるからさ。こんな勉強方法でも中の上くらい点数取れるんだから、別にサボってても平気でしょ」

「いや、それ多分覚えているんじゃなくて」

 伝達脳波で知識が伝達してるだけですから、進学するほど知識が専門化してきて辛くなると思うのですが――――喉元まで来ていた言葉を、花中はごくりと飲み込んだ。

 危ないところだった。伝達脳波について話したら、間違いなく清夏はその詳細を問うだろう。馬鹿正直に話せば清夏は自分が人間じゃないと気付く可能性があるし、話さずとも不信感から独自に調べ、自身の正体に辿り着く恐れがあった。迂闊な自分の言動を戒めねばと、花中は数秒押し黙る。

「……どしたの? 急に黙っちゃって」

 尤も、それはそれで清夏に疑念を抱かせてしまったようだが。

「あ、い、いえ、なんでも……えと、その、それで赤点は回避出来るかも、ですけど……でも、学校の勉強というのは、勉強の仕方を、覚えるためのものでも、あるんです。大人になった時、新しい事を知るためにも、今から勉強のやり方を、覚えた方が良いですよ」

「うへぇ……花中ったら先生みたいな事言うんだねぇ。別に良いもん、わたし実家の酒蔵継ぐから新しい事なんて覚えなくても。知りたくなったらスマホ使えば良いし」

 説得を試みる花中だが、清夏は聞く耳も持たない様子。寄り掛かっていた姿勢からソファーに寝そべり、ぐっだりと動かなくなってしまう。

 一晩経って、花中は理解した。この少女、途方もない物臭である。

 思えばフィアもミリオンもミィも、その他大勢のミュータント達も、多種多様な性格を持ちながら基本物臭であった。生物はエネルギーの消費を避ける生態を有するもの。何故なら余計なエネルギーを使わなければ、その分必要な食糧が少なくて済むし、繁殖時に投資出来るエネルギーを増やせるため、生存・繁殖に有利だからだ。その辺りの性質が反映されているとすれば、野生生物(ミュータント)が総じて物臭な性格なのも頷ける。

 ……まさかこんなところから、清夏にミュータントらしさを感じるとは思いもしなかった。ともあれこの調子だと、清夏が自主的に勉強を始める可能性はゼロに等しい。御酒清夏という一人の『人間』の将来を案じるならば、ここは心を鬼にして多少強引にでも勉強をやらせねばなるまい。

 そして花中には、その手段がある。

「……フィアちゃん。プランB実行」

「さーいえっさー」

 花中が呼べば何処からともなくフィアが現れ、素早い身のこなしで清夏の下へと歩み寄る。

 それからフィアは清夏をひょいっと、肩に乗せた。

「ひゃあっ!? え、何?」

「この手は、使いたくありませんでしたが、仕方ありません……フィアちゃんの力を借り、無理矢理にでも、勉強させます!」

「え!? 力を借りるって何!?」

「いえ私は大した事はしませんよ。ただ椅子に縛り付けて無理矢理教科書を開かせるだけです」

 言うが早いか、フィアは清夏をテーブル席に座らせるや水触手を伸ばし、宣言通り椅子に縛り付けた。シャーペンなどの勉強道具を持つため腕は自由だが、胴体は水触手でぐるぐる巻きにされている。清夏は最初慎重に、やがて本気で暴れたが、超生命体であるフィアの能力を小娘如きの力で振りきれる訳がない。

 動けなくなった清夏の前に、花中はばさばさと本……正確には教科書とノートを置いていく。花中が中学時代に使っていたものである。当然清夏が使っていたものより古い代物で、適切な教材ではないかも知れない。しかしないよりはマシであろうと考え、押し入れから引っ張り出したのだ。山積みになった教材を見るや清夏はギョッと目を見開き、尋常でない不快さを露わにする。

「ちょ、そ、それ数学の教科書じゃん!? わたし、ほんと数学とか化学とか嫌いだから無理! 読むと頭痛くなるから!」

「ダメです! 苦手なら、尚更勉強しないといけません! 安心してください。いきなり、難しいところは、やりませんし、時間も、掛けません。今日は三十分だけ、どれぐらい分かるか、確認するだけです。はいフィアちゃん、教科書開いて」

「はーい」

「ぐえぇぇぇ」

 ゾンビのような呻きを漏らす清夏を無視して、花中は数学の教科書を指差し、問題を解くよう促す。椅子から立てない清夏は渋々といった様子で教科書と向き合い、苦虫を噛み潰したような顔でだらだらと指示された問題を解いていく。

 渋々ではあるが勉強する清夏の姿に、花中は上機嫌な鼻息を吐き、笑みを浮かべながら胸を張る。まるでちびっ子がふんぞり返っているかのような、大変可愛らしい威張り散らし方だった。

 ……そしてそんな花中の姿を、ガラス戸越しに、庭の方から眺める猫とウイルスが一体ずつ。

「……なんか二~三週間ぶりに来てみたら花中のキャラが変わってるんだけど、どしたの? というかあの子誰?」

「あの子については後で教えてあげるわ。はなちゃんについては……あれね。明確な年下系に頼られて、お姉さんぶりたい年頃なのよ」

「子供かいな」

「子供でしょ、はなちゃんって割と」

 そーいうところは結構可愛くて好きだけど。

 個人的な感想を述べながらミリオンはくすくすと笑い、ミィはやれやれとばかりに肩を竦める。

 そうして『お姉ちゃん』の奮闘をしばし眺めていたケダモノ達だったが、やがてミリオンの顔から笑みが消えた。隣でその表情変化に気付いたミィもまた怪訝な顔になる。ただし不快そうなミリオンと違い、分からないと言いたげに。

「どしたの?」

「……ちょっと濃度が上がってきるわね。ストレスの所為かしら」

「濃度? なんの話?」

「つまり……あ、駄目ねこれ」

「は?」

 説明の途中でミリオンは不意に諦め、ミィは疑問の声を漏らす。

 されど説明を求める必要はなかった。

 花中の家からピカッと眩い光が放たれた瞬間、神域の反応速度を誇るミィは何もかも察したように達観した表情を浮かべたのだから。

 ……………

 ………

 …

「お姉さんぶるのは良いけど、こういう事が起こらないよう適切に管理するのが本当の大人だと思うわ」

「返す言葉もございません……」

 ミリオンからのお叱りを受け、正座をした状態から花中は深々と土下座する。

 大桐家の中で起きた『爆発』は、極めて小規模なものだった。

 小規模といってもガラス戸は吹き飛び、テーブルは砕け、リビングは真っ黒焦げになったが、幸いにして家の形は崩れていない。ミリオンの素人検査曰く耐久性もそこまで落ちていないようで、壁紙と床、その他壊れた備品を買い替えれば元通りになるだろうとの事。花中としては、その程度で済んで良かったと前向きに考える事にする。

 そして爆発の発生源は、勿論清夏。

 ミリオン曰く、清夏が数学の教科書を見ている間、大気中の『ガス』濃度がどんどん上昇していたらしい。恐らく無理矢理勉強をさせた事でストレスが溜まり、無意識の防御反応としてガスが分泌されたのではないかとの事である。所詮ストレス反応であり、フィアに追われた時のような生命の危機 ― を感じるような状況 ― ではなかったがために今回はじわじわと分泌され、結果起爆時点でのガス量が少なく低威力で済んだのだろうという話だ。

 無論低威力といってもガラス戸を吹き飛ばし、テーブルを砕くほどの破壊力だ。生身の人間が直に受ければ、重度の火傷と裂傷で死に至っただろう……が、花中はフィアが素早く守ってくれたので無傷である。フィアも当然無事だし、ガラス戸の側に立っていたミリオンとミィも傷一つ付いていない。そして爆発を起こした清夏自身も、服が吹き飛んだ以外は無傷である。

 ただし清夏だけは顔をすっかり青くし、ガタガタと震えていたが。勿論それは裸故に寒いからではないだろう。

「ご、ごめんなさい……わたし、わたし……!」

「あー、気にしないで良いんじゃない? はなちゃんがちょーっと考え足らずだったのが原因だった訳だし」

「うぐ……そ、その通りです……」

 ぐりぐりと頭を撫でられ、花中はミリオンの言に同意する。

 一応これでも本心からの言葉なのだが、清夏の表情は優れない。

「だけどいくらなんでも、ちょっと苛立っただけで暴発は危な過ぎない?」

 それどころか初対面であるミィのなんの悪意もない言葉に、清夏はますます顔を暗くしてしまう。

「ごめんなさい……わたしの、所為で……あ、あなたにも、酷い事、して……」

「ん? 酷い事? ……あー、あの爆発の事? 別にあんなへなちょこ攻撃なんでもないよ。ただ、こんな事で暴発してたらおちおち外出も出来ないと思うんだよねー」

「ああ確かに私もそれは疑問に思いました。あなた数学の時間は毎度教室を吹き飛ばしていたのですか?」

 ミィの隣に居たフィアが尋ねると、清夏はぶんぶんと力強く首を横に振る。まるで、そんな事は想像もしたくないと言わんばかりに。

「さ、させてない! そりゃ、授業中は割と寝てるけど、でもテストの時とかはちゃんと起きてやってたし……こんな、爆発なんて……」

 自分のした事を否定するように、ぶつぶつと答える清夏。フィアは不思議そうに首を傾げ、ミィもフィアと顔を見合わせて肩を竦める。

 反面花中は、そしてきっと花中の前で顎を摩りながら考え込んでいるミリオンも、清夏が爆発を起こしてしまった理由に一つ心当たりがある……いや、心当たりというほどのものではないが。

 恐らく、今の清夏は能力のコントロールが出来ていない。

 人間として暮らしていた間は、『能力』そのものを自覚しない事で無意識的に制御していたのだろう。しかし能力を自覚した事で、その無意識を失ってしまった。或いは「無意識に抑える」から「無意識に使う」に、体質が切り替わってしまったのだと推測される。

 これは一大事だ。震えている清夏自身が一番分かっているだろうが、嫌いな科目を勉強する程度のストレスで部屋を吹き飛ばすようでは日常生活など送れない。友達と遊ぶ事はおろか、親と暮らす事すら出来なくなる。元の生活に戻るためには、謎の集団を壊滅させるだけでなく、力の制御方法を身に着けねばならない。

 新たな問題であるが、しかし花中はあまり危機感を覚えていなかった。

 何しろ此処には、人智を超えた能力の使い手が三匹も居るのだから。

「ミリオンさん。普段、能力って、どうやって制御、しているのですか?」

「え? 制御って……」

 花中は早速、傍に居るミリオンに尋ねてみた――――ところ、何故かミリオンは目を丸くする。それから天を仰ぎ、逃げるように視線を背けて

「……あれ? 私、どうやって力のコントロールしてるのかしら……割とこう、なんとなーくやってたんだけど」

「えっ」

 極めて雑な回答に、今度は花中が目を丸くする。

「み、ミィさん! あの、ミィさんって、能力のコントロールは、どうやって……」

「え? そんなの、なんとなーくとしか。産まれた頃から使えたし」

 次いでミィに尋ねたところ、ミィもまた少し戸惑いながら雑回答を返す有り様。

「……フィアちゃんは」

「ふふんこの私にとって力のコントロールなど意識する必要もありません。自我に目覚めた頃からなーんも考えずに思いのままなんとなーく使えますとも!」

 そして最後にフィアに尋ねれば、話の流れを全く読めていないフィアが胸を張って予想通りの回答をしたので、花中はがっくりと膝を折った。

 どうやらフィア達全員が、今まで能力をなんとなーく制御していたらしい。今までそのなんとなーく制御されていた能力に命を預けていたのかと、今更恐怖がぶり返してくる花中だったが、顔を振ってその気持ちを振り払う。

 一度冷静に考えよう。

 ミュータント化した直後の生物 ― 例えばフィアや、海で出会ったスベスベマンジュウガニなど ― であっても能力を自在に使っている事から、ミュータントの力は経験や知識ではなく『本能』によって制御されていると考えられる。生物の本能というものは極めて正確なものだ。植物の開花時期が日照時間と気温で正確に算出出来るように、方程式のような美しさがある。経験なんていう『いい加減』なものではなく、本能によりコントロールされているからこそ、精密かつ無意識な能力の制御が可能なのだろう。

 ここから一つの推論が出来る。

 清夏が力をコントロール出来ないのは、自分が人間だと思い込む事で、本来持っている本能との乖離が起きているのではないか。或いは理性的に抑えようとしている所為で、本能との干渉が起きているのかも知れない。なんにせよ身体(能力)と意識がチグハグな状態なのだ。

 ならば解決方法は、このチグハグを解消する事。

 方法の一つは、意識を身体に擦り合わせる事だが……それは清夏に彼女自身の正体を教える事に他ならない。これは基本NGだ。やるにしても時間を掛けねば、清夏の心が壊れてしまう。

 必然、やるべきはもっと穏便な方法。

 つまり『身体』を意識に寄せるか、或いは互いに寄せていくか。

 そのために取れる策は――――

「……あ、あの……」

 考え込んでいた花中だったが、ふと服の裾を引っ張られながら呼ばれた事で我に返る。

 振り返ると、そこには目に涙を湛えた清夏が、縋るような眼差しを向けている姿があった。

 皆まで言わずとも、清夏の言いたい事はは分かる。

「や、やっぱり、わたし、この家から」

「大丈夫です!」

 だから清夏の言葉を、花中は遮る。

 驚くように目を見開く清夏に、花中は満面の笑みを返した。

 しかし花中は適当な事を言っている訳でも、根拠のない励ましをしている訳でもない。基本根暗で後ろ向き、自己不信気味な花中に、考えなしの励ましなど出来ないのだ。堂々と励ました以上、相応の論拠は持ち合わせている。

 清夏もまたミュータントだ。他のミュータントは易々と行っている能力の制御を、彼女だけが出来ないとは考え辛い。

 自意識の問題か、理性の問題か。いずれにせよ能力の使い方が分からぬのなら、使い方を覚えれば良いのだ。そして使い方が分からないのなら、やるべき事はただ一つ。

「そうは言うけど、何か対策でもあるの?」

 ミリオンからの問いに、花中は待ってましたと言わんばかりに親指を立てる。

 そして堂々と、或いは爛々と、はたまたうきうきしながら、こう答えた。

「はいっ! 特訓あるのみです!」

「「「「えっ?」」」」

 ミュータントだけでなく、『人間』さえも呆気に取られる根性論を……

 

 

 

「な、なんなのよ此処ぉぉぉ!?」

 此処ぉぉ……

 ここぉ……

 こぉ……

 清夏の絶叫が、辺りにこだまとなって響き渡る。かなりの大声量であったが、しかしその声が一般人に届く事はない。

 何故ならば此処は山の奥深くだから。

 加えて言うと密林染みた森が広がる薄気味悪い山……泥落山の最深部。登山客もバードウォッチングを楽しむ人も来やしない、本当の意味での大自然。

 そこに開いた、半径百メートルはあろうかという巨大クレーターのど真ん中だった。

「ふふふ。此処は、知る人ぞ知る、隠れた広間! 此処なら、滅多に人に、見られません!」

「いや、そーいう話じゃないんだけど!? なんでこんなクレーターなんかがあんのよ!? 隕石でも落ちてきたの!?」

 自信満々によって答える花中に、清夏は至極真っ当なツッコミを入れる。割とテンションだけで喋っていた花中は、ぶつけられた数々の問いで一瞬にして弱気に。思わず逃げ場を探してしまうが、一緒に来ているフィアはクレーターの縁をふらふら暢気に歩き、ミリオンとミィは清夏の傍に立っていて、隠れられる場所は何処も遠かった。その場でおどおどと身を縮こまらせる。

 実際、清夏の驚きも尤もである。

 花中達が立つクレーターは、ただの陥没などではない。地面は黒ずみ、タールが固まったような質感となっているのだ。さながら大地が、一度マグマのようにどろりと溶け、再び固まったかのように。超高温の何かが放たれたのは明らか。クレーターというよりも爆心地と呼ぶ方がしっくり来るだろう。

 その疑問に対する答えを花中は持ち合わせているが、しかし清夏の声に気圧され、中々上手く口が回らない。

「あー、此処はあれだよ。あたしが作ったんだ」

 怯んでしまった花中に代わり、当事者であるミィが答えた。

 尤もその答えに、清夏は目を丸くして固まってしまったが。やがて動き出した時には、花中よりも動きがぎこちなくなっていた。

 何分清夏とミィは今日出会ったばかり。一緒にこの場に来ているフィアやミリオンのように力を使うところを見た訳ではなく ― 実際には爆風を耐える圧倒的な『身体能力』を見ているのだが ― 、ましてや見た目自分と同じぐらいの小さな女の子なのだ。そんな『少女』がクレーター染みた地形を作り出すなど、どうしてすんなり信じられようか。

「え……こ、これ、あなたがやったの……?」

「うん。まぁ、正確にはあたしと、戦った奴等との共作みたいなもんだけどね」

「共作? え、奴等って、他にも超能力者っていっぱいいるの!?」

「んー? 超能力者ってあたしの事? まぁ、あたしみたいなのはまだまだいるんじゃない? 世界は広いって言うし。ただ、此処で戦ったのは超能力者なんかじゃないけど」

「じゃ、じゃあ何者……?」

「五十メートル近い怪獣何匹かと、なんかいっぱいいた子分だよ。いやー、火を吹かれたり、殴られたり、中々歯応えがあって楽しかったなぁ」

「……………」

 事実を知ったところで、信じられるものでもないが。

 ミィの話をどう受け取ったのか。口から漏れ出るため息で語る清夏は、幾分落ち着きを取り戻してから改めて花中と向き合う。

 花中も平静を取り戻しており、今ならちゃんと説明が出来る。背筋を伸ばし、清夏としっかり目を合わせた。

「それで? 此処に連れてきてどうするつもりなの?」

「は、はい。えと……御酒さんは、力に目覚めたばかりで、能力の使い方が、あまりよく、分かっていないのだと、思います。だから、ちょっとした事で、能力が、暴発してしまう」

「……そう、なのかな」

「わたしは、そう思います。ですから、これを直す方法は、一つ」

 ビシリッ! と音が聞こえそうなほど力強く、花中は人差し指を清夏に向ける。向けられた清夏は、花中の突然の仕草に驚くように半歩後退り。

「ひたすら、爆発を起こして、練習するのです」

 その後退りも、花中のこの言葉を聞いた瞬間に止まったが。

「練習?」

「はいっ! 爆発は、確かに御酒さんの、『超能力』ですけど、でも、人体が使う、力には変わりありません。なら、使えば使うほど、その力の使い方が、分かる筈。どんな超人的、スポーツ選手でも、天才科学者でも、練習や勉強(トレーニング)によって、その力は、高められていくのです。超能力だけが例外なんて、それも変な話だと、思いませんか?」

「な、成程。確かにその通りね。そっか、トレーニングか……」

「此処なら、人に見られる心配も、巻き込む心配も、ありません。ドカンと、たくさん爆発を起こして、使い方をマスターすれば、良いんです!」

「お、おぉ……!」

 花中の説明を聞くほどに、清夏はその目を煌めかせていく。希望に溢れ、未来への明るい気持ちが芽生えているのが一目で分かった。

 勿論、努力が必ず実るとは限らない。花中の提示する方法が正しいという保証もない。しかし努力をしなければ叶う夢にも手が届かなくなる。無駄な事はすべきではないが、何もしないよりはマシというものだ。

 加えて、花中にはもう一つ思惑がある。

 特訓となれば、清夏は爆発をたくさん起こす事になる。ミリオンから聞いた話では、その爆発は清夏から放出されるガスが原因だ。たくさん爆発を起こせば文字通りガス欠となり、能力の抑制になる可能性がある……フィア達ミュータントの驚異的スタミナを鑑みると、あまり期待は出来ないが。しかしトレーニングのついでならやってみる価値はあるだろう。

 懸念があるとすれば『あの生物』の存在だが、あれらは先月数十万単位で死んでいる。一匹二匹小さい個体が出てくる事はあるかも知れないが、フィア達からすれば文字通り虫けらだ。難なく追い払ってくれるだろう。考慮する必要はない。

「成程、そういう考えなら賛成だわ」

 花中の説明を聞き、ミリオンも同意を示した。

「ミリオンさんも、そう思ってくれますか?」

「ええ。私は生まれつき苦もなく能力を使えたけど、大きな力を振るったり、難しい技を使うには多少なりと練習はしたもの。特訓は確実に効果があるでしょうね」

「そうなんだ。ふぅん、練習したんだ……んふふ」

 ミリオンの話に、清夏は笑みを零す。明るい未来がますますハッキリと見えてきたのだろう。花中としても、ミリオンからのお墨付きが得られればとても心強い。

「ほーんそういう理由でしたかぁもぐもぐ確かに此処はもぐもぐ特訓向きかも知れませんねぇもぐもぐ」

 更にフィアも納得してくれた。友達二匹から同意してもらえた花中は自分の考えに一層自信を持って

 フィアの方へと振り返り、全身を強張らせた。

 フィアはもぐもぐと顎を動かし、何かを食べていた。食べているのは構わない。お腹が空いて、良い感じの獲物を見付けたのだろう。

 問題はその獲物らしきものが、フィアの片手が尻尾を掴んでいる……体長十五メートルほどの白くて不気味な怪生物である点。

 あまりにも異様な生物を目の当たりにして、清夏は目を見開き、漫画のように口をあんぐりと開いていた。花中がその後普通に喋れたのは、一度その生物を見ているからに他ならない。同時に、見ているからこそ受け入れられないところもある。

「……あの、フィアちゃん? それは……何?」

「何って白饅頭ですけど? この前食べたじゃないですか。コイツはその辺を歩いていたのを見付けたので捕まえました」

 思わず尋ねれば、フィアはキョトンとしながら答えてくれる。フィアからすれば何を当たり前の事をと思っているに違いない。

 確かに、ミィは彼等を絶滅させた訳ではない。

 しかし何十万もの個体を叩き潰したのも事実。繁殖力を鑑みても、一月かそこらで簡単に見付かるほど増えるとは思えない。何かがおかしい――――

 否、おかしいのではない。

 単純に、自分が勘違いしているのなら?

 彼等の数が、自分が思っていたよりもずっと多かったなら?

 ミィにあれだけ殺されても、まだまだ全然減っていないとしたら?

「それにしても、はなちゃんも結構スパルタよねぇ。意外とSなのかしら?」

「ほんとほんと。いきなりこれはマジでキツいと思うんだけど」

「そうですか? 雑魚ですし何匹居ても大した練習相手にはならないのでは? それに美味しいですし花中さんは優しいなと思ったのですが」

 『生き物』達は誰もが気付いていた。気付いていないのは『人間』だけ。しかしその事を察しても最早手遅れ。

 不意に、大地が揺れる。

 クレーターの至る所が隆起する。唸り声が響き、森全体が震える。鳥達が慌てて逃げ、森の獣達が怯えて姿を隠す。

 そして大地を突き破り――――数十体の三十メートルはあろうかという巨大個体と、数百はいるだろう数メートル級の白饅頭が現れた。ご丁寧に、花中達を包囲する形で。

「ほげえええええええええええっ!? なななななな何これええええええっ!?」

「おーまだこれだけ隠れていましたか。こいつ等美味しいですから頑張って捕まえると良いですよ」

「食べるの!? え、食べるのこれ!?」

 唐突に現れた怪物に取り乱す清夏を、フィアが能天気に励ます。ハッとした清夏が見渡せば、ミリオンもミィも生暖かい眼差しを向けるばかり。

 どう見ても、助けてくれる気配はない。

「かか花中! ど、どうしよう!?」

 ついに清夏は、一番無力な花中に助けを求める。

 されど花中は何も答えない。答えぬまま、空虚な眼差しで白饅頭達を眺めるのみ。

 ……眺めていればマシだったのだが。

「き、気絶してるぅぅぅぅ!?」

 うっかり身構えるのを忘れてしまった小心者(花中)は、あっさり意識を手放していた。最早ただの置物である。ガシッと肩を掴んだ清夏の手が激しく身体を揺さぶるものの、花中の意識は戻ってこなかった。

「大丈夫、こいつ等そんなに強くないからきっと勝てるわよー」

「無理無理無理!? どう考えても勝てないってこんな怪獣!?」

「死にそうになったら助けてあげるから、それまでは頑張りなー」

「一撃貰ったら即死だと思うんだけど!?」

「もしゃもしゃうまうまー」

「さっきから食べてるけど本当にそれ食べて平気なの!?」

 まるで助ける気がない三匹にツッコミを入れながら、清夏は再度白饅頭と向き合う。おぞましい外見に清夏はすっかり顔を青くし、ガタガタ震えながら後退り。

 それでも必死に笑顔を浮かべようとするのは、己に敵対する意思がない事を必死に伝えるためか。

 するとどうだ。白饅頭達も同じく笑みを返してきた。友好的な反応に清夏の笑みは自然なものへと変わっていき

 白饅頭の口からだらりと垂れた涎を見て、やっぱり顔を青くした。

【ギシャアアアアアッ!】

「みゃぎゃああああっ!?」

 おぞましい咆哮と重なるように、清夏の悲鳴が森にこだまする。

 次いで森に、核でも炸裂したかのような爆音が轟くのであった。

 

 

 

「……死ぬかと思った」

「ごめんなさい……」

 殆ど沈んでいる夕日が照らす市街地の道をとぼとぼと歩きながら清夏がぼやき、花中は謝罪の言葉を伝えた。花中は無傷だったが、清夏は全体的に煤けていて、服もボロボロになっている。

 泥落山で襲撃してきた白饅頭達は、清夏の力によって撃退された。

 とはいえ一撃で全個体を吹き飛ばした訳ではない。爆発は規模こそ大きかったものの威力が足りず、白饅頭達の殆どはその衝撃を耐え抜いていた。家すら吹き飛ばす爆発が効かず、清夏は右往左往しながら何度も何度も爆発を喰らわせ、どうにかこうにか撃退した。正確には小さいものだけで、大きい個体は無理だったが、そこはフィア達がけちょんけちょんにした……らしい。

 生憎花中は最後まで気絶していたので、清夏や友達の活躍は見ていないのだが。これらは全てフィアからの伝聞である。連れてきた身でありながらこの体たらく。恥ずかしさと申し訳なさから、思い出すだけで顔が赤くなってしまう。

「いやぁ流石花中さん。あんな雑魚では練習にもならないと思っていましたがコイツの弱さをちゃんと分かっていて適切な相手を用意したのですね」

 ましてや白饅頭と戦わせる気など毛頭なかったので、背後から抱き付いている体勢のフィアから褒められても、花中は胸が締め付けられるだけだった。

「うぅ……ごめんなさい。もっと、ちゃんと下調べをしておけば……」

「まぁ、結果的にはフィアの言う通りだったし、良いんじゃない?」

「そうね。力の使い方は格段に上手くなったわよね」

 しかも褒めてくるのはフィアだけでなく、ミィとミリオンまでもが、である。

「……確かに、上手くはなったけど。そこだけは感謝してあげる」

 挙句、清夏さえも。

 実際『特訓』の効果はあった。

 白饅頭に散々襲われ、何度も能力を使った事で、清夏は特訓前と比べ格段に力のコントロールが出来るようになっていた。生命の危機というものは、やはり大きな成長を起こすきっかけとなるものらしい。特訓前は能力の規模と感情が直結していたが、今では抑え込む事も、大きくする事もある程度自由に出来ている。これなら数学の勉強中に爆発を起こす事はない! と、清夏本人が語っていた。能力の暴発に思い悩んでいた彼女がこう言うのだから、余程自信が付いたに違いない。

 反省点はある。しかし良かったところもたくさんある。

 なら、これはこれで否定するものではないのだろう。

「……うん」

 こくりと頷き、花中は友達からの褒め言葉を受け止めた。

「じゃあ、今なら勉強、ちゃんと出来ますね?」

「うぐ。い、いや、それはものの例えというか……ほ、ほら、もしかするとやっぱり暴発するかもだし、止めといた方が」

「今日より、小さい爆発なら、何回起こしても、平気ですよ? フィアちゃんが、守ってくれるし」

「ふふんその通り。この私の力ならあなたのへっぽこ爆発から花中さんを守るなど造作もありません」

「ぬぐぐ……」

 暴発が脅し文句にならず、清夏は悔しそうな声を漏らす。

 その姿がなんとも可愛らしくて、花中は思わず吹き出してしまう。

 今日も大騒ぎだったが、こうして最後は笑えるぐらいには楽しかった。笑われた清夏はぷっくり頬を膨らませていたが、それは決して『憤怒』の顔ではない。彼女もきっと、『楽しさ』を感じてくれたと思いたい。

 今日みたいなトラブルは勘弁。

 だけど今日みたいに楽しい日は、ずっと続いてほしい。いや、きっと続くに違いない。

 花中はそう信じながら、清夏との帰路も楽しもうとした。

「花中さん」

 その想いを阻むように、フィアの乾いた声が花中の名を呼ぶ。

 花中は足を止めた。どうしたの、とは聞かない。お喋りに夢中にならないで周りを見渡せば、何もかもがすぐに分かる。ミリオンとミィも足を止め、清夏の小さな悲鳴だけが町に響く。

 辺りは既に、廃墟と化していた。五ヶ月前の激戦の爪痕であり、花中の自宅周りに広がっている景色。今更動揺するようなものではない。

 けれども、その景色の中に立つ『人間』達は別。

 スズメバチ駆除の業者のような格好。ずらりと数十もの数が乱れなく並ぶ統率性。そしてフルフェイス越しでも分かる全身の生気のなさ。問い詰めたところで答えてはくれないだろうが、問い詰めなくても彼等の正体は明らかである。

 清夏を付け狙う謎の防護服姿の集団。

 奴等が再び、自分達の前に現れたのだ――――




努力・友情は花中の大好物です(勝利はあまり興味ない)

次回は3/24(日)投稿予定


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あなたはだあれ6

 人が住めない廃墟のど真ん中。

 人々が家に帰り、外を出歩かない時刻。

 誘拐をする上で、ここまでの好条件は早々ないだろう。逃げ込める家はなく、助けてくれる大人も居らず、叫んだ声は何処にも届かない。誘拐される側からすれば絶望的な状況だ。

 ましてや相手が何十という数なら、どう考えても逃げきれるとは思えない。

 防護服姿の輩達と対峙した花中は、自分達が置かれている状況をそのように理会した。『誘拐』の被害者である清夏がガタガタと震え、一番近くに居たミィの背に隠れてしまうのも無理ない事だろう。花中としても正直かなり怖い。今すぐ逃げ出したいのが正直な気持ちだ。

 しかし花中はフィア達の強さを知る身である。人間である防護服姿の連中が、彼女達に敵うとは到底思えない。一番の親友であるフィアと手を繋げば、胸の奥底から勇気がぐんぐんと湧いてくる。傍にはミリオンも立ち、ミィは清夏の近くに居てくれているのだ。こんなにも頼もしい力に囲まれているのだから怖がる意味など何処にもない。

 だから花中には目の前の、ほんの十メートルほど離れた位置で待ち構える防護服姿の集団と向き合う事が出来た。

「……あの、なんの、ご用でしょうかっ」

 出来るだけ強気に、されどあくまで穏便に、花中は防護服姿の連中に呼び掛ける。

 防護服姿の連中は、誰一人として花中の言葉に反応しなかった。無論彼等は昨日襲ってきた連中と同じ格好……スズメバチ駆除業者のような防護服で頭から爪先まで包んでいるため、その顔は表に出ていない。だから眉を顰めただとか、口を曲げたなどの、些末な表情変化を察知する事は不可能だ。

 しかしそれでも、呼び掛けられて身動ぎ一つしないのはおかしいだろう。

 まるで投げ掛けた言葉が自分に向けられたものとは思っていないかのような、そんな違和感を覚える反応。植物と会話を試みるような、決定的な意識の違いを花中は感じてしまう。彼等は、自分と同じ人間である筈なのに。

 やはり、彼等は何かがおかしい。何かが……

 考えを巡らせ、防護服姿の連中を理解しようとする花中だったが――――残念な事に、あちらにその気はないらしい。

 防護服姿の連中は花中の話などまるで聞こえていなかったかのように、淡々とその手に持っていた筒状の機械を花中達に向けてきたのだから。

「雑魚の分際で懲りませんねぇ!」

 『敵意』を察知したフィアは、花中の意見など聞きもせず、ミリオンやミィを差し置いてその手を大きく振り上げる。

 すると上げた腕は、ぐにゃぐにゃと鞭のように伸びていく。

 『身体』を変形させたフィアは獰猛な笑みを浮かべると、伸ばした腕を鞭のように振るった! 人間相手に本気を出すまでもないと思っているのか、振られた腕の速さは花中の目にも見える程度。しかし明らかに自動車よりも速いそれの軌跡は、全力でスイングしたバットのようにも見える。

 ならばフィアの腕に薙ぎ払われた防護服姿の連中は、バットで思いっきり殴られたような打撃を受けたに違いない。攻撃を受けた十数人は身体を大きく傾かせ、にも拘わらず呻き一つ上げず吹き飛ばされる。数メートル先の地面に落ちた彼等は、そのままピクリとも動かなくなった。

 その気になれば数十人纏めて倒すなんて造作もないだろうに十数人程度で留めたのは、フィアなりの警告か、はたまた長く遊ぶための手加減か。難を逃れた防護服姿の連中は三十人ほど居たが、先日襲ってきた者達と同じく、誰一人として倒された仲間を見て逃げる事も怯む事もない。淡々と筒状の機械を構え、再攻撃を仕掛けんとばかりに揺れるフィアの腕へと向けるだけ。

 しかし此度彼等が構えた筒状の機械から吐き出されたのは、青色の炎だった。

 射出口が絞られているのだろうか、機械から噴いた炎はまるでガスバーナーのように細く、勢いがあるものだった。炎は二~三メートルほどしか伸びておらず射程こそ短いが、近くに陣取るフィアの腕へと当てるには十分。三十を超える炎が、二メートルほど離れたフィアの腕を炙る。

 しかしフィアにその程度の炎など通じない。超高圧かつ謎原理により、通常の二十倍もの沸点……即ち二千度もの耐熱性を誇るのだ。あんなちっぽけな炎が効く筈もない。

 と、花中は思っていた。

「……ちっ」

 ところがフィアは舌打ちをするや、防護服姿の連中を薙ぎ払っていた腕を()()()()()のだ。

 そのまま一気に全員を倒すと思っていた花中は驚きで目を見開く。フィアが戻した腕は白煙をぶすぶすと上げていて、フィアはそんな自らの腕を不機嫌そうな眼差しで眺める。

「……ふん。ちょっとは遊び甲斐のある奴になったじゃないですが。だったら少し合わせてあげますよォッ!」

 直後苛立ちを隠さない咆哮を上げ、再び腕を伸ばし、防護服姿の連中へと襲い掛かる!

 防護服姿の連中は再び火焔で応戦するも、今度のフィアの腕は止まらない。一気に間合いを詰められ、行く手を遮る数十人全員を纏めて薙ぎ払った。先程より勢いがあるのか、何人かは車に撥ねられたかのように吹き飛び、ごろごろと大地に転がる。もう、誰一人として動かない。

 かくして花中達を襲った防護服姿の連中は、呆気なく壊滅した。普通に考えれば、これでも十分圧倒的な力を見せ付けたと言えよう。

 しかし花中は疑念を覚える。

 フィアは手加減をしていた。でなければ一瞬にして防護服姿の連中はバラバラのぐちゃぐちゃになっていただろう。だからそんな心の隙を突かれたと思えば、さして不思議ではない。

 それでも花中にはしっくり来ないのだ……ミュータント(フィア)がただの人間が繰り出した攻撃に怯み、手を弛めたという事実が。

「……フィアちゃん。あの、どうか、したの? 体調、悪かったり、する?」

「ん? ああ先程の事ですか? いやはやお恥ずかしいこの私とした事が奴等の力を少々甘く見ていました」

 尋ねてみれば、フィアは言葉通り恥ずかしそうに頬を掻く。そこに緊張感や虚栄は感じられない。「うっかり」していたと言いたげな態度だ。

 実際フィアにとってはその程度の出来事なのだろう。

「先程の炎で腕の水が分解されました。人間も意外とやりますね」

 しかし花中にとって、この言葉はフィアのように流せるものではなかった。

 フィアの腕の耐熱性は二千度。この温度を超えると、水分子が形を維持出来なくなるため、フィアの能力でも耐えられなくなる。

 二千度以上という温度自体は、今の人類の科学力ならば生み出す事はさして難しくない。しかしそれらは大きな機械を用いたり、熱源に近いという制約がある。防護服姿の連中が放った炎の射出口とフィアの腕は、花中の目測では二メートル以上離れていた。そこまで離れると如何にバーナーのように炎を集束させたとしても道中でエネルギーの多くは失われ、温度は著しく下がる筈。

 加えてフィアの腕は大質量の水の塊だ。お風呂のお湯が簡単には温まらないように、質量の大きさは温度上昇の妨げになる。おまけに循環による冷却機能も備わっているのだ。かつてミリオンと戦った時の事を考えると、フィアの操る水を短時間で分解するには五~六千度以上の炎が必要になるだろう……いや、こんなのは炎とは呼べない。最早プラズマである。

 即ち先の防護服姿の連中が保有していた武器は、()()()()()()である可能性が高い。果たしてそのようなSF的武器を、今の人類に作れるのだろうか……?

「花中ぁ……も、もう、終わった……?」

 思考に没頭しかける花中だったが、ふと聞こえたか細い声で我を取り戻す。

 振り向けば、ミィの背中から顔を覗かせている清夏が、花中の事を潤んだ眼差しで見つめていた。

 出来ればこのまま思索に耽りたい、が、泣きそうな『女の子』を無視出来るほど花中は冷淡ではない。考え事は一旦頭の隅へと追いやり、花中は心からの笑みを浮かべて清夏を安心させようとした。

「まだだと思うよー」

「というより今のは前座ですね」

「面倒臭いわねぇ」

 されどケダモノ達の言葉が、清夏のみならず花中の顔さえも強張らせる。

 ――――廃屋として放棄された家々の陰から、次々と現れる防護服姿の『人間』達。

 まるで巣から続々と現れるアリのように、無数の防護服姿の連中が花中達を包囲する。数は、先程現れた連中よりも少し多いぐらい。一体何時から潜んでいたのか……訊けばフィア達はさらりと答えてくれるだろうが、花中はそんな気など起きなかった。

 それよりも気に掛かるのは、彼等が身に着けた装備の方。

 新たに現れた彼等の装備は、ほんのついさっき撃退した防護服姿の連中とも、清夏と出会ったあの日に襲撃してきた連中とも異なるものだった。全員ボンベのようなものを背負い、筒状の機材を構えている事には変わりない。が、その見た目はよりメカニカルな、近未来的外観となっていた。

 嫌な予感がする。

「全く懲りない連中ですね。叩き潰してやりますよ!」

 花中の悪寒を余所に、フィアは即座に動き出した! 髪をざわざわと動かし、伸ばし、周辺を埋め付くさんとする。一見して妖怪のそれであり、清夏がますます顔を青くするのも無理ない。花中だって、今のフィアの姿は割と怖いと思う。

 しかし防護服姿の連中は何も感じていないのか。筒状の武器を構えた彼等は容赦なく引き金を引く。

 するとその筒から、もわもわとした白煙が出てきた。

 炎ではない? 凡そ攻撃らしからぬ行為に花中は疑念を抱く。煙はやがて花中やフィアの下まで届いたが、生身の人間である花中にも肌がヒリヒリするなどの『ダメージ』は入らない。一体これはなんだ? なんのために彼等はこんなものを撒いている?

 その疑問に答えてくれたのは、フィアだった。

「ふぎゃぶっ!?」

 普段なら絶対に出さないような、可愛げのない悲鳴を上げる形で。

「ふぃ、フィアちゃん!? どうし……」

「ななななんれふがごのにぼいばぁぁぁ!? はにゃが! はにゃぐわぁああぁっ!?」

 初めて聞いた悲鳴に驚き、思わず声を掛ける花中だったが、フィアはその場でひっくり返るや声にならない叫びを上げる。酷く聞き取り辛いその叫びが悪臭に悶え苦しむ想いの吐露だと気付くのに、花中は少なくない時間を必要とした。

 魚類であるフィアは、人間とは比較にならないほど優秀な嗅覚を誇る。

 人間ですら、『非殺傷兵器』として悪臭のする液体が有効なのだ。その鋭敏な嗅覚を刺激する『悪臭』が撒かれたなら、フィアにとっては核兵器よりも恐ろしい攻撃となるだろう。ましてやフィアは視力が弱い分、感覚器が伝える情報の多くを嗅覚に依存している。嗅覚さえ潰してしまえば、フィアは無力化したも同然になるだろう。

 防護服姿の連中がばら撒いた煙は、悪臭のするガスだったのだ。それも人間である花中が平気なあたり、魚類に選択的な効果がある代物。フィアは大気中の匂い成分を取り込んで外界の様子を探っているが、それが裏目に出た形だ。

 しかし臭いに苦しむだけならまだマシだ。

 臭いを嗅いだという事は、鼻から体内に臭い物質が入ったという事。なら、もしもその悪臭のする物質が有毒ならば……

「うぐぅぅ……!」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

 ひっくり返ったフィアが、明らかに臭いとは別の苦しみ方を始めた。咄嗟に寄り添う花中だったが、どうすれば良いのか分からず、右往左往する事しか出来ない。

「ふ、にゃあァ……ち、力が抜ける……」

「ひっ!? ど、どうしたの!? ねぇっ!?」

 そんな花中に追い討ちを掛けるように、今度はミィが倒れてしまう。傍に居た清夏は今まで守ってくれていた少女の異常に慌てふためき、されどミィは立ち上がろうとする素振りすら取らない。煙にはフィアだけでなく、ミィにとっても有害な物質が含まれていたのか。

 一瞬にして二匹の友達が倒れ、花中は頭の中が真っ白になる……されどすぐに、此処に決して毒が効かない反則的な『存在』が居る事を思い出した。

 ミリオンである。

 ウイルスである彼女に毒は効かないし、五感もないので臭いも感じない。防護服姿の連中が何を撒いているかは分からないが、ミリオンだけは絶対に屈する訳がないのだ。

「み、ミリオンさん! あの、ふぃ、フィアちゃん達を……!」

 助けてほしい。傍に立つミリオンにその願いを伝えようと、一際大きく花中は口を開き、

「ごめんなさい、今は無理だわ」

 しかしそれを告げるよりも早く、ミリオンが音を上げた。

 開いた口から、乾いた吐息が漏れる。

 ――――あり得ない。あり得ない。絶対にあり得ない。

 ミリオンが戦闘能力を喪失する事だけは、絶対にあり得ない筈なのに。

「な、なん、で……!?」

「ガスが熱を吸収しちゃうのよ。私が使う高熱を余さずに。分離しようにもガスの粘性が高くて絡まっちゃう。どうにもならないわ」

「そん、な……」

「まさかこれほどものを人間が用意するなんて。いえ、なんか妙ね。この理不尽な感じは人間の科学じゃなくて、むしろ……でもその割にはいまいち……」

 ぶつぶつとミリオンは考えを独りごちていたが、花中にそれを聞き取るだけの余裕はなかった。全身から力が抜け、未だ苦しむフィアの傍にへたり込んでしまう。

 なんだ、これは?

 フィア達の圧倒的な力なら、人間なんて簡単に叩き潰せる筈なのに。どうしてフィア達は苦戦しているのか。こんな事はあり得ない。

 花中の脳裏を否定の言葉が駆け巡るが、防護服姿の連中が消える事はない。それどころか奴等のうちの十数人が一歩ずつ、着実に近付いてくる。その手にフィア達を苦しめていた物とは違う、より大きく、ゴテゴテとした筒を構えた体勢で。

 そして彼等の手が引き金を引こうとした

「っクソがぁ!」

 瞬間、フィアが花中を突き飛ばした!

 加減する余裕がなかったのか、フィアの力は人のそれを超えており、花中の身体は石ころのように何メートルも転がってしまう。打撃の痛みで意識が跳び、転がった時の痛みで我に返る。擦り傷が身体中に出来ていて、花中は痛みに呻いた。

 続けて、今度は清夏が花中の方へと飛んでくる。見ればミィが片腕を伸ばしており、清夏もまた花中と同様に突き飛ばされたのだと分かった。

 最早暴力といって差し支えない打撃。されど、花中にはフィア達を批難する事など出来ない。

 何故ならフィアは今、花中と清夏が居た事などお構いなしに放たれた『光』に襲われていたのだから。

「ぐぬううううううぅぅぅっ!?」

「うぎぎぃぃ……!」

「……………」

 光を浴びたフィアとミィは苦しみの声を上げ、痛覚を持たないミリオンは無言ながらも険しい顔で防護服姿の連中を睨み付ける。

 光と呼んだそれが、白色に煌めく電撃であると気付くのに花中は少なからず時間を有した。電撃は筒を構えた防護服姿の連中と同じ十を超える数が放たれ、フィア達に何度も何度と打ち付けられる。その度にフィア達は苦悶の声を上げていた。

 フィア達が苦しんでいる。苦しんでいるという事は、ダメージがあるという事。

 早く、助けないと――――

「花中さん……早く逃げてください……!」

 打開策を考えようとする花中だったが、その思考を引き留めたのはフィアの言葉だった。

「ふぃ、フィアちゃん!? どうして……」

「どうしてもこうしても危ないからです……その小娘を連れて出来るだけ遠くに逃げてください……!」

「でも!」

 逃げるよう促すフィアに、花中は感情的に反論する――――が、花中とてフィアとの付き合いは長い。フィアが何を考えているのか、その瞳を見れば分かる。

 フィアの目は、憤怒のそれで歪んでいた。

 いや、フィアだけではない。ミィも、ミリオンも、その眼差しに怒りが浮かんでいる。されど彼女達の口許は、獰猛でおぞましい笑みを浮かべていた。さながら猛獣が、楽しい遊び相手を見付けたかのように。

 だとすれば彼女達は……

「花中、わ、わたし、どうしたら……」

 花中の服を、縋るように清夏が掴んでくる。今にも泣きそうな顔を、すっかり青くしていた。

 きっと今の清夏はこれからどうしたら良いか分からず、頭の中が真っ白に違いない。それはとても不安で、辛くて、苦しい事だ。中学生の未熟な心では、その苦痛に耐え続けるのは酷だろう。

 だから年上である自分が引っ張らねばならないと、花中は覚悟を決める。

 幸いにして、答えは既に出していた。

「……逃げます!」

「う、うん……でも、フィア達が」

「大丈夫です!」

 大きな声で清夏の心配を押し込むと、花中は清夏の手を掴んで引っ張る。始めは躊躇うように踏み留まろうとする清夏だったが、やがて花中の足に合わせて走り出した。

 二人だけでの逃走。花中はその最中、置いていく友達三匹の方へと一度振り返る。フィア達は未だ電撃に耐えるばかりで、攻撃を始めていない。

 だから、

「みんな……思いっきり、やっちゃって!」

 花中は別れ際に、この言葉を送った。

 三匹からの返事を待たず、花中は今度こそ本気で走る。廃墟と化した町中は至る所に瓦礫の山があり、思ったように進めない。それでも花中は出来るだけ真っ直ぐ、一秒でも早く、一メートルでも遠くまで、逃げようとする。

 その最中に、ズドンッ! と身体を突き上げてくるような音と震動がやってきた。方角は、恐らくフィア達が居る方。

 花中は思わず足を止め、ごくりと息を飲む。されどすぐに頭を振りかぶり、再び走ろうとした。

 清夏が動かなかったため、二メートルも進めなかったが。

「御酒、さん?」

「……もう、嫌」

 どうしたのだろうか? 花中がそんな疑問と共に清夏の名を呼ぶと、清夏の口からは悲痛な声が漏れる。

 その言葉の意味を花中が理解する前に、清夏は想いを爆発させた。

「もう嫌! なんで……なんでこんな事になるの!? なんでよ!」

「み、御酒さん。あの、落ち着い」

「あんな奴等が来るなんて知らなかった! あんな、フィア達も苦しめるような奴等がいるなんて……知らなくて……だから……わたしを、狙って……」

「御酒、さん……」

「わたしが、此処に来たから……わたしなんかの、ために……みんなが……う、うぅ、うううう……!」

 花中の声も届かず、清夏はその場に蹲りながら嗚咽を漏らし始める。

 花中は、清夏にそれ以上声を掛けられなかった。

 清夏は思い詰めている。自分と一緒に居た所為でフィア達を危険に巻き込んでしまったと。

 それは、確かにその通りだろう。清夏と出会わなければ、恐らくあの防護服姿の連中と戦う日なんてものは来なかった、或いは来たとしても遠い未来の事だったに違いない。だから花中には清夏の言葉を否定出来ないし、否定したところで清夏の心には届くまい。

 だけど、清夏が一つ勘違いをしているのも事実。

 花中は清夏の前にしゃがみ込み、そっと抱き締める。清夏の身体は、花中が抱いた瞬間びくりと震え、以降は凍えるように小さく震えた。花中は何も言わず、嗚咽だけが辺りに響く。大地がどれだけ揺れようと、爆音が何度轟こうと、花中はその場を動かずに清夏を無言のまま抱き締める。

 花中が声を掛けたのは、その嗚咽が荒い吐息ぐらいまで小さくなってからだった。

「……わたしには、御酒さんの言葉を、否定する事は、出来ません。確かに、御酒さんと一緒に、居たから、フィアちゃん達は、あの人達と、戦う事になったと、思います」

「うん……ごめん、なさい……」

「謝らないでください。だって、御酒さんは一つ、勘違いをしているんですから」

「……勘違い?」

 清夏は顔を上げ、花中と目を合わせる。泣き腫らして真っ赤になった目に、花中は優しくて自慢げな笑みを返した。

「フィアちゃん達に、御酒さんを守る意図は、微塵もありません」

 そしてハッキリと、友達の意思を代弁する。

 あまりにも堂々とした、それでいて淡泊な物言いに、清夏はキョトンとしたように目を丸くした。不信や疑念すら抱けないぐらい呆気に取られたと言わんばかりに。

「……………は?」

「だって、みんな自分の事しか、考えてないですもん。だからもし、あの人達と戦うのが、嫌になったら、さっさと御酒さんを、あの人達に、渡してます。わたしが止めてもそうする筈です。あ、ミィさんは、別ですよ? あの子は、割と人間に優しいですから」

「は、はぁ……ぁ、いや、いやいや!? 自分の事しか考えてないなら、なんでわたしを助けてくれたのよ!?」

「あれは多分、助けたように見えた、だけですね」

「み、見えただけって、ならなんでアイツ等はわたし達を逃がして……」

 清夏の疑問に、花中は苦笑いを浮かべる。その疑問への答えはあるが、一瞬だけ花中は頬を引き攣らせた。

「……思いっきり暴れるには、邪魔だからかと」

 何分この言葉は、自分にも突き刺さるものなので。

「邪魔だから?」

「はい。だって、みんな、下手をしなくても、町を滅茶苦茶にするぐらい、強いですし。この廃墟とか、フィアちゃんが、やらかした、跡ですから」

「えっ!? こ、これ、フィアがやったの!?」

 自分の周りにある廃墟の原因が、まさか一日だけとはいえ寝食を共にした相手だと知り、清夏は明らかな動揺を見せる。まるで戦場のような跡地なのだ。それがただ一匹の仕業と知れば、心も取り乱すというものであろう。同じ『ミュータント(超能力者)』でありながら、未熟な自身との格の違いを感じたのかも知れない。

「さっきの、人達は、とても強い、相手でした。だから、少しだけ、本気を出そうと、したのでしょう。その時、わたし達がちょこまかしていては、邪魔だったんだと、思います」

「う、うーん……いや、確かにわたしなんかが居ても、役には立てそうにないけど……でも……」

 花中の説明にいくらか納得を示しつつも、清夏の言葉は段々と擦れていく。どれだけ理屈を並べても、助けられたという『事実』は揺らがない。それが鎖となって清夏の心に絡まり、負い目になっているのだろうか。

 なら花中に出来るのは、全ての幻想を打ち砕く事のみ。

「それに、戦うより、逃げる方が楽だと、思います。でも、フィアちゃん達は、それを選ばなかった。何故だと、思いますか?」

「え? 何故って……」

 花中に問われ、清夏は言葉を詰まらせる。フィア達の能力の片鱗を見たからこそ、花中の話に真実味を感じ、返す言葉がないのだろう。

 花中も、答えられない事は承知済み。何故ならその答えはあまりにも人間らしくないものだから。人間が人間に対して思う事なんて、早々ないような発想。

「けちょんけちょんに、したいんですよ。人間相手に、負けっぱなしなんて、癪ですから」

 極めて感情的で、ワガママで、人間を嘗めきった思考から生じるものなのだから。

「……所謂、人間風情がぁってやつ?」

「はい。それです。わたし達の気持ちなんて、これっぽっちも、考えてません」

「えと、つまり、わたしは……」

「本当に、邪魔なだけです。仮にあの場で棒立ちしていたなら、多分、平気で巻き込みますよ。特にフィアちゃんと、ミリオンさんは。いや、ミィさんも、結構酷いですからね。わたし、囮として、ぶん投げられた事、ありますし。あの場に居たら、何をされたか、分かりませんよ? 逃げて正解です。あの人達より、フィアちゃん達の方が、ずぅーっと危険なんですから」

「……………ぷふっ。何それぇ」

 身勝手極まりない答えに、清夏は吹き出すように笑い出す。負い目を感じた事が、あまりにも馬鹿馬鹿しくなったのだろう。花中も清夏の笑いにつられるように、顔を綻ばせた。

 清夏と花中の和やかな笑い声が交わされる。清夏の方はどんどんおかしくなってきたようで、目に再び涙が浮かんでいた。座り方もくずれ、今にも寝転がりそうである。

 花中は自分の中にも込み上がっている笑いを堪えながら、清夏の様子を窺う。

 彼女の心は今、とても落ち着いているように見える。普段通り、とは流石に言えないかも知れないが、さっきまでとは全然違う。

 今なら言える。受け止めてもらえる……そう思った花中は、清夏に伝えた。

「だから、わたしなんか、なんて、言わないでください。あなたは、なんか、なんて呼ばれるような人じゃ、ありませんから」

 自分の、正直な想いを。

 清夏の笑い声は、花中の一言でぴたりと止まる。ゆっくりと姿勢を整え、花中と向き合う。

 ややあって、清夏はこくんと頷いた。言葉はない。俯いていて表情も見えない。それでも花中は、その仕草だけでも嬉しく思う。

 なら、今はこれで満足だ。

「……そろそろ、行きましょう。少しは離れましたけど、もっと離れた方が、良いですから」

「え? でも、もう百メートルは、離れたと、思うけど」

「全然足りません。というか、むしろ危険区域です。五キロ、ううん、十キロは離れないと」

「キロ単位なの!? 何をどうしたらそんな事になる訳!?」

 仰天する清夏に、花中は「あははは」と乾ききった笑いを返す。「本当は十キロ離れても巻き込まれる恐れがありますけどねぇ」なんて言ったら清夏の意思が遠退くかも知れないので、しっかり黙っておいた。

 とはいえ、流石にそこまで広範囲に破壊が及ぶ可能性は低いとも考えている。強力な武器を持つとはいえ、相手は人間だ。フィア達がほんの少し本気を出せば、簡単に蹴散らせる筈である。

 ……爆音と震動は今でも続いているが、規模が増している様子はない。増援が途切れる事なく来ていて、その撃破を続けているのだろう。不安は残るが、自分達に出来るのは、彼女達の迷惑にならない事だけだ。

「さぁ、行きましょう」

 花中は清夏の手を掴み、清夏と同時に立ち上がる。息を合わせた訳でもないのに行動が重なった。それはただの偶然かも知れないが、ほんの少し距離が縮まったような気がして、花中は笑みが零れた。

 尤もその笑みは、直後に近くから聞こえた、瓦礫を踏むような足音が耳に届いた瞬間に消えてしまったが。

 ぞわりとした悪寒が、花中の背筋を走る。

 自分達の身を揺さぶる爆音と震動は未だ止まっておらず、フィア達は今も激戦を繰り広げている様子。フィア達が此処まで迎えに来た訳ではない。しかし一般人がこんな廃墟に来るとは思えないし、来たところでフィア達が奏でる破壊音を聞けば逃げていく筈だ。

 可能性はただ一つ。

 花中が振り向いた先に居たのは、思った通り、そして出来れば違っていてほしかった……防護服姿の連中だった。

「ひっ!? ひぅ……!」

 白装束を見た途端、清夏は悲鳴を上げて尻餅を撞いてしまう。花中は戸惑いながらも清夏の前に立ち、防護服姿の連中と清夏の間に割って入る。

 されど花中の足掻きはまるで無意味だった。

 次々と、防護服姿の連中が現れたからだ。瓦礫を乗り越えてきた者、廃屋の中から現れた者、道を歩いてきた者……三十人は居るだろうか。花中達二人を包囲するには十分な数であり、完全に逃げ道を塞がれてしまった。

 現れた防護服姿の連中の装備は二種。一つはフィア達に使われた武器よりも小さな、小銃のような機械。もう一つは、何か霧のようなものを吐いている筒だった。霧は広範囲に拡散し、恐らく呼気と共に花中達の体内に入っている筈だが、今のところ気分の不調は感じられない。清夏も ― こういうのも難だが ― 怯えているだけである。

 正体はなんであれ、このままでは捕まってしまう。フィア達の方は未だ戦っているようで……或いは増援で時間稼ぎをしているのか……助けは期待出来ない。

 だが、まだ手はある。

「御酒さん! 爆発で、この人達を、吹っ飛ばしちゃって、ください!」

 花中の頼みで、清夏はハッとしたように顔を上げた。

 そう、清夏はほんの数十分前まで特訓をし、能力のコントロールを手にした。未だフィア達の領域には達していないが、人間を再起不能にするぐらいの力はある。

 清夏もそれを理解し、自力で立ち上がるや防護服姿の連中に己の掌を向ける。防護服姿の連中は逃げも隠れもせず、じりじりと距離を詰めるだけ。

「い、何時までも……やられっぱなしって思うなぁっ!」

 勇ましい掛け声と共に、清夏の掌に光が集まり――――

 ぷすんっ、という音と共に小さな黒煙が噴き出た。

 確かに『爆ぜる』という意味では爆発の一種なのだろうが、市販の爆竹が弾けるよりもちっぽけなものでしかない。

 ……そして起きたのは、ただそれだけだった。

「……え?」

「あ、あれ? おかしいな……このっ! このぉっ!」

 清夏は必死に、何度も力を込める。その度に掌で爆発が起きるものの、小さな黒煙が舞い上がる程度の代物でしかない。直撃を受けても火傷するのが精々か。こんなものでは、人間を倒すなんて土台無理な話だ。

 清夏の顔はすっかり青ざめており、目を潤ませながらがむしゃらに爆発を起こそうとするが、やはり上手く出来ない。何が起きたのか。特訓のし過ぎでガス欠になったのか? タイミング悪く身体の調子がおかしくなったのか?

 或いは、奴等が何かしているのでは……

 答えを探ろうとして思考を巡らせる花中だったが、防護服姿の連中の一人が背後から拘束してきた事で途切れてしまう。大柄な『不審者』に腕を掴まれ、花中は無意識に悲鳴を上げようとして口を大きく開いた

 瞬間、花中の口許に布のようなものが当てられる。

 突然の行為に驚いたのも束の間、花中は自分の意識が急激に遠退くのを感じた。抗おうという意思を抱く間もなく、瞼は鉛のように重くなり、視界は擦れてしまう。

 花中の理性は、ほんの一瞬で掻き消えた。残る本能で出来たのも、ちらりと視線を動かす事だけ。

 自分と同じく布のようなものを口許に当てられ、ぐったりとした清夏の姿を見て、花中の意識は一旦途絶えるのだった――――




フィアがどう見ても悪役。
まぁ、普段からたかが人間如きと言っちゃう子なので仕方なし。

次回は3/30(土)投稿予定


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あなたはだあれ7

 花中が目を覚ました時、周りには見知らぬ光景が広がっていた。

 曇りのない白い壁が一面をぐるりと囲い、天井のライトから降り注ぐ光を受けて煌めくように色付いている。花中が寝かされていたのはベッドの上で、見たところベッドはかなり真新しい、恐らくは新品だと思われるものだった。見渡した印象では部屋はかなり広く、一辺五メートルほどの正方形をしている部屋だ……いや、部屋と呼ぶのは違和感がある。何しろ此処には、扉も窓も見当たらないのだから。出入り口がない場所を、部屋と呼べるのだろうか?

 ないのは扉だけではない。というより物が殆どないと言うべきか。この場に置かれているものは、花中が寝かされていたベッドと、そのベッドの隣にある『もう一つのベッド』の二つのみ。かなり殺風景な場所だ。

 おまけに近くに居るのは、花中を除けばもう一つのベッドの上に寝かされている少女――――清夏のみ。

 見慣れた顔に安堵を覚えたのも束の間の事。一気に記憶がよみがえり、花中の顔を青くする。

 そうだ、自分達は襲われたのだ。フィア達すらも苦戦させる、謎の武器を持った人間達に。

 気絶させられた後、自分達は連れ去られたのか? だとすると此処は彼等の保有する施設? 困惑と疑問から右往左往するように再度辺りを見渡してしまう花中だったが、室内の様子は先程花中本人が感じたように、殺風景としかいえないもの。改めて探ったところで、真新しい発見などない。

 慌てふためく心を静めようと、花中は一度深呼吸をする。と、部屋の匂いが病院のような……つまりは消毒液などの薬品系のものが漂っていると気付いた。部屋も塵一つないぐらい綺麗で、手入れが行き届いている。部屋の維持・管理に手間が掛かっているのは間違いなく、それだけの労力を投じられる規模の組織がこの部屋の所有者だと物語っていた。

 これだけの力がある組織なら、部屋に監視カメラを一台二台付けるぐらい容易い事だろう。寝顔を監視されていた事を想像すると気持ち悪さで身震いが止まらない。一先ずこの考えは頭の隅へと寄せて、花中は清夏の身体に手を伸ばす。

「あの、御酒さん。起きてください……起きてっ」

「ん……んにゃ……あと五分……」

 身体を揺すってみると、清夏の口から出てきたのはお約束の一言だった。どうやら良い夢を見ているらしい。なんやかんや無事であると分かり、花中は安堵する。

 出来ればお願い通りあと五分眠らせてあげたいが、そうもいかない。

 監視されているとすれば、花中(自分)が目覚めた事はとうに気付かれている筈だ。元から監禁していた清夏は兎も角、『ただの人間』である花中(自分)を捕まえた事には何かしらの意味があると思われる。

 もう少ししたら、何かしらの接触があるかも知れない。その前に、清夏から情報を聞き出しておいた方が良さそうだ。

「おーきーてーくーだーさーいーっ!」

「ふにゃ……ふ、あだ、あだだだだだっ!?」

 少々強引ではあるが、花中は清夏の頬を強く引っ張った。お餅のように柔らかい頬は大変よく伸びたが、清夏の目を覚ますのに十分な痛みを与えられたようだ。

 五分と経たずに、清夏は片方の頬を真っ赤にして起き上がる。無論、すぐに花中を睨んできたが。

「な、何よいきなり!? 痛いじゃない!」

「ご、ごめんなさい。でも、今のうちに、お話をしておこうと、思いまして」

「お話って何、を……」

 花中に反発の眼を向けていた清夏だったが、その顔はすぐに、見る見るうちに青くなる。

 やがて清夏は慌てふためくように辺りを見渡し、立ち上がり、ガタガタと全身を震わせた。目には何時零れてもおかしくないぐらい涙を浮かばせ、今にも叫び声を出さんばかりに口を歪める。

 花中が正面からそっと抱き締めなければ、清夏は込み上がってきた感情達を破裂させたに違いない。

「大丈夫です。きっと、助かります」

「きっとって、何を根拠に」

「フィアちゃん達が、います。きっと、みんなが助けてくれます。それまでの、辛抱です」

「……本当に、来てくれる……?」

「はい」

 力強い口調で、花中は清夏の言葉を肯定する。花中は一度清夏から離れると、彼女の紅い瞳と目を合わす。

「わたし、一回誘拐された事が、ありますけど、その時は、ちゃんと助けてもらいましたから! だから、今回も大丈夫です!」

 そして駄目押しとばかりに、自分なりの『根拠』を伝えた。

 清夏は一瞬キョトンとなり、次いで吹き出すように笑い出した。花中の話を信じたのか、それともジョークと思ったのか。どちらであるかは分からないが、元気になってくれたのなら花中としてはどちらでも構わない。

 元気がなければ、困難には立ち向かえないのだから。

「あの、訊きたい事が、幾つかあります。分かる範囲で良いので、答えて、くれませんか?」

「うん、分かった」

「えっと、では……」

 こくんと頷いてくれた清夏に、花中は最初の質問を伝えようとした。

「わざわざその子に尋ねなくても、僕が答えてあげようか?」

 その言葉を遮ったのは、若い男の声。

 瞬間、花中は息を詰まらせる。血の気が引いた顔は反射的に声の方へと振り向いていた。

 一体何時の間にやってきたのか。

 部屋の中に、一人の男が立っていた。男は眼鏡を掛けた細身の若者で、年頃は二十代前半ぐらいか。顔立ちや肌の色を見るに西洋系の白人のようだ。白衣を羽織っていて、如何にも研究者といった出で立ちをしている。所謂美形で、俳優業をしていると当人が語れば、それだけで違和感なく信じ込んでしまうだろう。

 そしてその顔に浮かべているのは、人当たりの良い笑み。

 一瞬、ほんの一瞬だけ……花中はその男に心を許してしまいそうになった。すぐに彼がこの部屋に現れた事の『異常さ』を思い出して警戒心を抱いたが、いまいち敵意を持てない。否、それどころかその顔に『優しさ』を感じてしまうのは何故なのか?

 この男が清夏を誘拐した組織の一員である事は、間違いないというのに。

「……あなたは?」

「おっと。レディーに対し自己紹介もしないとは、これは失礼。僕はアルベルト・クラーク・ノイマン。製薬会社アスクレピオスの取締役兼研究主任をしている」

 精いっぱいの敵意を露わにして威嚇する花中だったが、アルベルトと名乗った若い男は流暢な日本語で丁寧に答えてくれた。あまりにも素直に答えるものだから、なんとか威嚇しようとしていた花中は拍子抜けしてしまう。

 清夏が震えた手で花中の右手を掴んでこなければ、本当に気を許したかも知れない。

 どうにか踏み止まった花中は、何時の間にか乱れていた呼吸を整える。室内の消毒液の香りが、気分を落ち着かせてくれた。そして頭の方も規則的に回り始める。

 アルベルトが語った『製薬会社アスクレピオス』……通称アスクレピオス社について、花中も少しは知っている。

 というより日本人なら知らない人の方が少ないぐらいだ。世界的に有名な多国籍企業で、世界の百を超える国と地域で製品が売られているという。企業のモットーは「人命第一」。その精神は並大抵のものではなく、神話の中で死者をも蘇生させた事で神の怒りを買った医者の名を社名にし、死者蘇生を目標にしていると公言するほど。販売される薬品はとことん心身に配慮した作りとなっており、効果の割に副作用が少ない、価格も非常に良心的……等々とても評判だ。

 花中も、市販の風邪薬でアスクレピオス社製のものには何度かお世話になっている。花中以上の年齢で、アスクレピオス社の製品を使った事がない人は殆どいないだろう。

 それほどの大企業の自称取締役が、何故『未成年誘拐』という犯罪行為をやっているのか? 疑問はあるが、それについては後回しだ。

「では、ノイマンさん……一つ、訊きたいのですが、あなたは、何処から入って、来たのですか?」

「アルベルト呼びの方が好みだから、そっちで呼んでくれると嬉しいね」

「……アルベルトさん」

「ありがとう。さて、先の質問だが、どうという事はない。この部屋は構造上、四方の壁全てが開閉可能となっている。さっきは此処を通ってきたのさ」

 アルベルトは部屋の壁をノックするように叩くと、その場所に音もなく亀裂、いや、切れ目が入る。切れ目は静かに開き、壁の一部が僅かに奥へとズレてから左右にスライド。出入口が出来上がった。

 どうやら自分達が熱心に話している間に、この無音の開閉が行われていたようだ。扉がない部屋に自分達をしまう事も、これなら難なく行える。

 疑問の一つが解決したが、花中は厳しい顔を崩さない。

「では、もう二つ、質問です。何故、この部屋に来たのですか? わたし達を、どうするつもりなのですか?」

「ふむ。それについて話すと少し長くなる。この部屋では少々息苦しいだろうし、僕の執務室にご案内しよう……『サンプル』はこの部屋に残ってもらうが」

 花中が尋ねると、アルベルトはちらりと清夏の方を見遣る。

 その目は、確かに花中の方は見ていない。

 見ていないのに、花中はぞわりとした悪寒が全身に走るのを感じた。視線の外に居ながら、その視線に身も震えるほどの恐怖を覚えたのだ。

 アルベルトが清夏に向けた眼には、優しさも、慈しみも、何も感じさせなかったから。彼の目はまるで足下のアリを見下ろすかのような、無感情で無慈悲なものだった。

「……花中。わたしは、大丈夫だから」

 これまで見せていたものとはまるで違う、理解の及ばない視線に唖然とする花中だったが、清夏の声で我を取り戻す。振り向けば、清夏はアルベルトの目から逃げるように俯き、花中の手を握り締めながら震えていた。

 きっと、清夏はアルベルトの事が怖いのだろう。誘拐犯の一味なのだから当然だ。

 そう思うと、アルベルトと清夏を同席させるのはむしろ酷というものだろう。この部屋で留守番させた方が、彼女の心身にとって良いかも知れない。加えて、花中の心にも勇気が湧いてくる。 

 大切な友達を怖がらせるこんな奴に、ビクビクした姿を見せるな――――そんな勇ましい気持ちが。

「……分かりました。わたし一人で、あなたとお話します。でも、話が終わったら、この部屋に戻して、くださいね」

「おっと、それは願ってもない申し出だ。こちらとしてもそうしてくれると助かるよ。では、こちらへ」

 花中が了承すると、アルベルトは目付きを一変。人懐っこくて愛くるしい眼差しで花中を歓迎する。しかし花中はもう、その目に気を許さない。明らかに裏がある眼差しを、どうして信用出来るのか。

 アルベルトはエスコートするように部屋の外にゆっくりと出た。花中はその後を追って部屋の外に出ると、開いていた壁が動き出し、出入口を塞ぐ。

 自分が居ない間清夏の身が心配だが、以前清夏から聞いた話曰く、以前監禁されていた時も物理的な『酷い事』はされていないらしい。今回もきっと大丈夫だと信じ、花中は歩き出したアルベルトの背中を追った。

 アルベルトが進むは、電子的な光だけが照らす通路。三十メートルほど進んだ先に通路の突き当たりがあり、そこには人が数人は入れるぐらい大きな、半透明なガラス容器が置かれていた。

 アルベルトはガラス容器の中に入ると、「こっちだよ」と言って花中にも乗るよう促す。警戒しつつ花中も乗り合わせると、アルベルトは容器内にあった機械 ― しかし金属製とは思えない、まるで水晶のような質感と透明感がある奇妙な材質のものだ ― を操作。ガラス容器は入口部分が閉じるやとても静かに、揺れ一つなく動き出して上昇を始めた。

 エレベーターだったのか。自分の乗せられたものの正体を今になって察した花中は、半透明な壁から外の様子を窺い知ろうとする。が、エレベーターは十数秒後には停止。花中が乗り込んだ方とは真逆の場所が開いた。アルベルトはすぐにエレベーターから出てしまい、花中は満足に景色を見られないうちにエレベーターから降りざるを得なくなる。

 エレベーターを出た先には数十メートルは伸びている廊下があり、アルベルトは廊下の突き当たりにある扉の前までゆったりと歩く。彼が前に立つと扉は自動的に開き、アルベルトは更に奥へと進んだ。花中も怯む身体に気持ちの鞭を打ち、扉の先に足を踏み入れる。

 辿り着いたのは、とても広い部屋だった。

 部屋は円形をしており、直径は二十メートル近くあるように見える。これだけ広ければ何十もの人が働けそうだが、室内にあるのは中央にある高価そうなデスクと、そのデスクの周りにある数台のモニターのみ。部屋を囲うものが壁ではなくガラス窓という事もあり、広々とした印象をより強いものにする。ガラス窓の向こうには、星が見えない夜空と、まるで光の絨毯のように輝く大都市の夜景が広がっていた。

 見た目の印象としては、お洒落な社長室。実際社長室なのだろう。自称アスクレピオス社の取締役であるアルベルトが、なんの迷いもなく部屋の中心にあるデスクに腰掛けたのだから。

「ようこそ、アスクレピオス役員室……まぁ、僕の自室みたいなものだけどね。年頃の女性を迎えるには少々飾り気がないとは思うが、リラックスしてほしい」

 アルベルトは人の良い笑顔で花中を歓迎し、花中はそれを、出来るだけ鋭くした眼差しで返した。

「……では、早速教えてくれますか? どうして、わたし達を連れ去ったのか」

「おっと、早速その質問か。根が真面目なんだね」

 花中が問い詰めると、アルベルトは肩を竦めながらも笑みを見せる。心から感心したような、或いは尊敬しているような。純粋な好意を放つ。

「一言で例えるなら、人助けのためだよ」

 故に、彼が告げたこの言葉を、花中はほんの一瞬無抵抗に信じそうになった。そのまま信じ込まずに済んだのは、彼等が『人攫い』という横暴に出ている事を知っていたからに過ぎない。

 彼等は御酒家の人間達に、大きな悲しみを背負わせている。その悲しみを生み出しておきながら人助けなど、片腹痛いとはこの事だ。

 しかしながら彼の真摯な眼差しに、嘘を感じる事は出来ない。少なくとも、アルベルト当人は先の言葉を本心から信じているようだ。それが違和感となって、花中の心にじわじわと疑念を抱かせる。

「……どういう意味ですか?」

「その説明をする前に、一つの前提を説明しよう。僕達アスクレピオスは、人間により構成された組織だ。人間以外が含まれていない事は、定期的な身体検査により確定している」

「……………」

「そして君には一つ確認をしておきたい。君はあの『サンプル』……あー、なんだったかな、名前は。確か、そう、御酒清夏だ。彼女が人間ではない事を知っているのかな?」

「……はい」

「では彼女が、不思議な力を使う事も?」

「ええ、知ってます」

 花中は質問に答えながら、目まぐるしく思考を巡らせる。先日予想していた通り、アルベルト達の組織は清夏が人外……ミュータントである事を把握しているらしい。そして彼等の組織が、人間主体で構成されたものである事も。

 気になるのは、どんな目的でミュータントを研究しているのか。語られるのは真意か、虚言か。真偽を見誤らないよう、花中はアルベルトの声に意識を集中させた。

「僕達はアレら特異生命体の研究をしていてね。目的は、人類がどんな脅威に直面しようと負けない、確かな力を得る事だ」

 そしてアルベルトは、臆面もなくそう語った。

「……確かな、力……? それは、どういう……」

「君は、『怪物』と呼ばれる存在を知っているかな?」

 尋ねようとした花中の言葉に、アルベルトは更なる問い掛けをしてくる。

 その問い掛けに、花中は思わず息を飲んだ。

 『怪物』。

 その単語が指し示す意味合いは人によって様々だ。しかし花中に思い浮かぶのは二つだけ。

 親友であるフィア達ミュータント。

 そして、『マグナ・フロス』や白饅頭達……人智を凌駕する野生生物達の事である。

「ふむ、少し言い方が曖昧だったね。定義をハッキリさせよう。僕の言う怪物とは、現在一般に存在が知られておらず、尚且つ今の人類科学では根絶が難しい一般種……さて、心当たりはあるかな?」

 動揺する花中に、アルベルトは更に具体的な言葉で問い詰める。どうやら後者、白饅頭達を指しているようだ。

 花中はこくりと頷いた。嘘を吐いても仕方ないし、何よりここまで具体的に訊けるという事は、アルベルトは何もかもお見通しなのだろう。アルベルトは満足げに微笑みながら話を続ける。

「その怪物達の人間社会侵出が現実になりつつある事も?」

「……一応は」

「じゃあ、怪物達が一斉に文明社会に出てきたら、この世界はどうなると思う?」

「……………」

 アルベルトからの問いに、花中は口を噤んだ。

 怪物達の力は圧倒的だ。例えば白饅頭は超兵器をはね除けるほど強く、もしも彼等が人類社会に現れても、人間には為す術もない。たくさんの人が殺され、社会は破壊されるだろう。

 しかしそれで被害が留まればまだマシな方だ。

 現代文明は自らの生存圏をも破壊するほどのエネルギー消費と、それを供給するインフラによって成り立っている。もしも怪物達の活動によりそれらインフラが大きく破壊されれば、文明は維持出来ない。修復しようにもやはり莫大なエネルギーと資源が必要なため、破壊の規模があまりにも大きければそこに手を回せなくなる。

 もしも怪物がそうしたインフラを次々に破壊したなら? 彼等の力ならば難しい話ではない。そしてそれが世界中に広がったなら? 国家どころか文明すら維持出来ない可能性がある。

 文明そのものが消失しても、人間は死滅しないだろう。それは原始人の存在や、今でも原始的な生活を続けている民族の存在が証明している。そもそも人間だって生命の一つだ。野生生物が乱獲や環境破壊を生き抜き、中には人間社会へ進出するほどのタフネスを見せているように、人間だってそう簡単には絶滅なんてしない筈である。

 しかし今の人口は維持出来ない。旧石器時代……農耕が開発される前までの人類人口は、推定三百万人未満だ。下手をすればここまで数が減る事は、これこそ原始人の存在が証明している。いや、自然環境が他ならぬ人の手によって破壊された今の地球で、この数すら維持出来るのか……

 文明が消えれば何十億もの人が死ぬ。無尽の悲劇が広がり、悲しみが世界を包む。産まれる子供に希望はなく、ただただ怯え、震える毎日を強いられる。

 それは、人が知的生命体から野生生物へ()()という事だ。

「怪物達の侵出はこれから本格化してくるだろう。その時人類を、これから産まれる子供達を守るためには力が必要だ。とはいえ技術は一朝一夕で伸びるものじゃない。どんな天才が現れようと、その天才が発達させようとしているものは、数万年の間に何百万人と現れた天才達が積み上げたものだからね」

「……それは、その通りだと思います」

「そう、人間の力だけでは、悔しいけどどうにもならない。でも一つだけ方法がある」

「方法?」

「自分達より先の技術を学べば良い」

 アルベルトの『名案』。花中は最初彼が何を言いたいのか分からなかったが、少し考えを巡らせれば答えは察せられた。

 人の力が怪物に劣るというのであれば、怪物をも上回る生命体の力を用いるしか勝ち目はない。そんな力が存在するのか? ……あるではないか。自分はそれを幾度となく目の当たりにしている。

 ミュータントの力だ。

 アルベルトは、ミュータントの力を用いて怪物を打ち倒すつもりなのだ。

「アレらの力を知っているなら、分かるだろう? 特異生命体の力は、現代の科学では到底再現出来ない代物だと」

「……わたしやあなたなんかじゃ、分からない方法が、あるかも知れませんよ?」

「ははっ、これは手厳しい。でもそこは保証しよう。アスクレピオスの科学者全員が無能でない限り、その結論は揺らがない」

 花中の嫌みを、アルベルトは笑顔で返す。実際、花中も彼と同じ考えだ。水を分子レベルで自在に配列させるような力など、現代科学の領域ではない。

「同時に、現代科学の多くに生物由来の技術が使われている事は知っているかな?」

 そこに付け加えるように、アルベルトが問いを投げ掛けてくる。

 与えられた二つの情報。頭の中でこれらが結び付いた時、花中の脳裏に一つの単語が浮かび上がった。

 生物模倣(バイオミメティクス)。生物が持つ特殊な生態機能を解明し、それらを模倣する事で実社会に役立てる科学技術。騒音を抑えた新幹線や、雨で汚れが落ちる塗装、強力な粘着テープなど、既に多彩なものが実用化されている。

 生物の力を模倣する事で、人類は生命の力へと至り、凌駕してきた。模倣により今まで敵わなかった存在に手が届き、引きずり下ろす事が出来るようになったのだ。それは人間の社会を豊かにするだけではなく、自然を征服するための『偉大』な一歩である。

 ならば、もしミュータントの力を模倣すれば? 人智の及ばない力の正体を、一部なりとも解き明かせたなら?

「ふふ。答えに辿り着いたかな? 手間が省けて助かるよ」

 顔に出ていたのだろうか。アルベルトに考えを読まれ、花中は心臓が跳ねた。しかし今更、こんな一言で動揺などしていられない。そう、この考えが正しければ暢気に考えてる場合などではないのだ。

 人間を虫けらのように見下す彼女達の能力の秘密に迫ったなら、その一部でも模倣したなら……人間はミュータントの力の片鱗を手にする事となる。片鱗はミュータントを傷付けうる刃となり、人類を守護する盾ともなるだろう。即ちこれまで一方的に嬲られるだけだった力関係が、拮抗に近付き、返り討ちに出来る可能性が生じるのだ。

 果たして勝ち目が見えた時、人類はおぞましい怪物との対話や共存に興じるのか。花中には到底考えられない。話が通じる相手すら理由を付け、殺す事を選ぶのが人間だ。言葉が通じるかも分からない『怪物』相手に、まずは話し合いをしようとするような種ではないだろう。

 選択される手段は、排除のみ。

「あなた達はミュータント……特異生命体の力を、以てして、戦うつもりなのですか……脅威を、根絶するまで……!」

「うーん、惜しい。人間に協力的な特異生命体であれば、『共存』していくつもりだよ。怪物は根絶やしにするけど、特異生命体とは対話が可能だからね」

 それに僕は平和主義者だからさ――――いけしゃあしゃあと訂正するアルベルトに、花中は憤りを感じる。

 アルベルト達の組織の目的そのものには、花中は反発しない。

 ミュータントの力は強大だ。その力を前にして人間が生き残れるとは思えない。だから人間が生き残るための力を手にし、未来に存続出来る可能性が生じる事は、花中としても大いに悦びたいところである。

 しかしその力を得るための暴虐を、どうして隠そうとする。

 共存をしていくつもりがあるのなら、どうして清夏を誘拐なんてしたのか。彼女の気持ちを考えれば、共存なんて言葉が出てくる筈がない。

「それなら、なんで御酒さんを、誘拐したのですかっ! 御酒さんには、御酒さんの、生活があって……!」

 湧き出した怒りを抑える事が出来ず、花中はアルベルトに激昂した感情をぶつける。

 するとどうした事か、アルベルトは目を丸くしてキョトンとしてしまう。首を傾げ、考え込むように顎をしきりに摩った。

「……何故人間以外の生活なんて考える必要があるんだい?」

 やがて開いた口から出たのは、心底不思議そうに、心から答えを知りたそうな疑問。

 今度は花中が呆け、戸惑う番だった。

「な、なんでって、だって、あの子には人間のような心が、あって……!」

「心の有無で人権の有無を決めるのは納得しかねるな。例え脳や精神に障害があろうとも、親にとっては大切な子供だろう? それに個人や国家毎に価値観は違う。価値観が違えば、心の有り様にも差異が生じるものだ。障害者や異人種の人権を蔑ろにする意見には賛同しかねる」

「そ、そうではなくて、御酒さんの気持ちを……!」

「だからそれが分からない。アレは人間じゃないのだから、研究サンプルとして活用しても法的問題はない筈だよ? 稀少種ならワシントン条約などの問題があるけど、アレは市販されてるような種だし。あ、彼女の『飼い主』の話か! しまった、確かに彼等には申し訳ない事をしたね。その辺りの事を失念するとは……きちんと謝罪と賠償を行わないといけない。法務部と相談し、直ちに対応させよう」

「だ、だか、ら……」

 説得しようとする花中だったが、段々とその顔から血の気が失せていく。口が上手く回らなくなり、言葉が途切れ途切れになってしまう。

 うっすらと感じ取る、アルベルトの思想。

 彼は、人間至上主義なのだ。それも極度の。人間である事、人間に尽くす事が第一であり、人間以外の生命に愛着など持たない。否、むしろ人間の役に立つ事こそが他の生命の使命とすら考える。彼の言う共存とは、滅ぼしはしないが人間のための『資源』として活用する……家畜のような状態を指し示すのだろう。

 それは花中の考える共存とは、全く違う。そんなものを共存と呼ぶ者と、仲良くなりたいとは思えない。

 アルベルトとは致命的なほど()()()()()()と花中は察した。

 アルベルトの方も同じらしく、賛同を示さない花中を見て少しばかり困ったような表情を浮かべる。

「ふぅむ、どうやら僕と君では考え方が異なるようだね。出来る事なら君には僕達に協力してほしかったけど、それも難しいかな」

「協力……?」

 アルベルトの言いたい事が分からず、花中は眉を顰めた、丁度、そんな時だった。

 不意に、室内に甲高い音が鳴り響いたのは。

 突然の音に驚き、花中は思わず飛び跳ねてしまう。バクバクと脈打つ胸に手を当てながら無意識に辺りを見渡し、その音が室内の一角にあるスピーカーから流れている事に気付いた。次いで、流れている音が警報の類である事も。

「おっと、噂をすればなんとやらだ」

 困惑する花中を他所に、アルベルトは冷静に ― むしろ少し楽しそうに ― 微笑む。彼がデスク上で何かを操作すると、天井や床が開き、中から大きなモニター画面が何台も出てきた。

 突如出てきた機器の数々に花中が動揺していると、アルベルトは花中を見つめながら手招きしてくる。こちらにおいで、という意思表示だろうか。

 人間至上主義者であろう彼が自分を騙すとは思えない……が、それでも思想の違いから、花中は彼に警戒心にも似た想いを抱いたままである。恐る恐る、アルベルトの傍へと歩み寄った。

 その歩みが駆け足になるのに、そう時間は掛からなかったが。

 ちらりと見えた画面の端。そこ映るのは三つの人影と、瓦礫の山。

 建物の一角をぶち破ってこの建物に侵入してきたフィア達だと気付いた花中に、モニターを見ないという選択肢はないのだから……




ついに人類との真っ向勝負は初。
どんな勝負になるか、お楽しみに。

次回は明日投稿予定。


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あなたはだあれ8

 モニターに映し出されていたのは、大切な友達三匹の姿。

 フィア達は、どうやら襲い掛かってきた人間達を返り討ちに出来たらしい。信じていたとはいえ、その事実に花中は安堵する。

 尤も、穏やかな気持ちでいられたのはほんの数秒だけ。すぐに花中は、『友達』の発する気配に恐怖を抱いた。

 三匹の全身が映る程度に引いている映像であるため、その顔はハッキリとは映し出されていない。しかしそれでも、彼女達の誰もが怒りをその身に滾らせている事は、モニター越しであってもひしひしと感じられた。

 特にフィアの怒りは凄まじい。映像にも拘わらず、花中は思わず後退りしてしまうほどだ。傍に居るミリオンも同じぐらいの気迫を感じさせる。一番マシに見えるミィでも、生身の彼女と対峙したら気が遠退いてしまうに違いない。

「全く、随分乱暴な入り方をするものだ。予想以上に野蛮な生き物だよ」

 友達相手に震える花中を他所に、アルベルトは心底呆れた様子で独りごちる。我に返り改めてモニターを見れば、フィア達の背後には瓦礫の山が出来ていた。

 恐らく、フィア達は壁をぶち抜いて侵入してきたのだろう。それ自体はさして不思議な事ではない。フィア達のパワーを用いれば、あの程度の破壊は造作もないのだから。

 違和感があるのは、この建物自体だ。

 花中が連れ去られた事を考慮しても、友達である花中ですら短気だと思ってしまうフィアが優しく壁を壊すとは思えない。極めて乱暴な一撃をこの建物の壁に喰らわせた筈だ。

 なのに花中は、この建物内で揺れを感じていない。日本の耐震技術は、それほど優れていたのだろうか……?

「おっと、音声がオフになっているね。オンにしておこう」

 考え込もうとする花中だったが、アルベルトの独り言でそちらに気を取られた。

【人間風情が……この私から花中さんを奪い去るとは良い度胸をしていますねぇぇぇぇ……】

 アルベルトが機器を操作した途端、モニターからフィアの唸り声が聞こえる。極めて音質が良く、まるですぐ隣にフィアが居るかのよう。発せられる怒気に当てられ、花中はびくりと身体を震わせた。

【どうせ見てるんでしょ? 今のうちにはなちゃんを返すなら、九割殺しで勘弁してあげるわよ】

【それ、ほっといたら死ぬレベルじゃないかなぁ……ま、あたしも同じぐらいやるけど。嘗められっぱなしは性に合わないし】

 フィアに続き、ミリオンとミィも闘争心と怒りを露わにした言葉を告げた。ミリオンは笑みを浮かべていたが、目にあるのはどす黒い殺意。ミィには殺意こそないが、プライドの高い眼光を光らせる。

 三匹とも、やる気満々だ。闘争心の塊と呼んでも良いだろう。花中でさえも今の彼女達に声を掛けるには、勇気を振り絞らねばならない。

 なのに、アルベルトは笑みを絶やさない。それも強がりや驕りではない、理性的な自信に満ちた笑み。

 彼にはなんらかの策があるらしい。

「さぁて。向こうから来てくれたのなら、少しは歓迎しないといけないね。例えアレらが人間じゃないとしても」

 花中が抱いた予感は、アルベルト当人の言葉によって確信へと変わった。

 複数のモニターの映像が切り替わる。視線を向けると、そこには人型ロボットのようなものが無数に映し出されていた。

 いや、ロボットと言うよりも所謂パワードスーツか。大柄な人間がそれらに乗り込んでいく姿が見られる。人との対比からして、パワードスーツのサイズはざっと高さ三メートル前後だと分かった。パワードスーツには大きな銃器 ― 凡そ人では扱えそうにないサイズである ― のようなものが握られ、それらが戦うための『装備』である事は明らかだ。

 やがてモニターは、次々と出撃するパワードスーツを映し出す。彼等が数十秒ほど掛けて進んだ先に待つのは、三つの人影。

 フィア達だった。

【ふん! ようやく出迎えですか……遅いんですよウスノロがァッ!】

 現れた『兵器』を目の当たりにし、真っ先に動いたのはフィア。拳を握り締めながら床を蹴り、目にも留まらぬ速さで突撃。

 武器を構える暇すらなく、最前列付近に居たパワードスーツ数体を体当たりで粉砕する! 破壊されたパワードスーツの中から搭乗者が放り出され、床に激しく落ちるもフィアは見向きもしない。いや、恐らく気付いてもいない。

【がぁッ! ぬんっ!】

 ケダモノの咆哮を上げるフィアはパワードスーツの足を掴むや、軽々と持ち上げ、床に叩き付けた。搭乗者を守るため頑強である筈のそれは、しかしフィアの力を受け止めるにはあまりに脆く、一撃で粉砕。『中身』諸共、文字通り叩き潰されていく。

 フィアと幾らか距離が開いているパワードスーツは武器を構え、仲間が肉薄した状態で襲われているにも拘わらず射撃。まるで大砲のような爆音と共に大きな弾丸を飛ばし、フィアの頭部や胴体を貫かんとする。されどフィアの『身体』は、放たれた金属の塊を弾き返すのみ。フィアは微動だにせず、思うがまま自分の近くに居るパワードスーツを襲う。

【あらあら、ここで鬱憤を晴らすつもり? だったら私も混ぜさせて】

【あたしの分も取っといてよー】

 フィアの突撃を静観していたミリオン達も、後になって『憂さ晴らし』に参加する。ミリオンが通るだけでパワードスーツ達が溶解し、ミィの蹴りがパワードスーツを数十体纏めて吹き飛ばす。反撃として放たれる弾丸は誰に当たろうと弾かれ、床に落ちて乾いた金属音を鳴らすだけ。

 最早パワードスーツは、派手に飾りを撒き散らすクラッカーでしかない。そしてその派手な散り際の中で、搭乗者達の生命もまた弾け飛んでいる事だろう。

 人間ではないフィア達は、人間の命に尊さなど覚えない。人間に優しいミィですら(自分)を襲う人間ならば殺す事を躊躇わないのだ。このまま戦いを続けても、フィア達は誰も心を痛めやしない。人命は延々と失われ続けるだろう。

「ふむ、やはり機械兵器だけでは足止めにもならないか。想定通りの結果だね」

 だというのにアルベルトは、淡々と感想を述べるだけ。あまつさえこの結果を予想していたと言う始末。

 花中はギョッとした。花中の印象では、彼は人間至上主義なのだ。人間が傷付けられて淡々としていられる筈がない。

 何か、自分は勘違いをしているのか?

「な、仲間がやられて、どうして平気なんですか!? す、すぐに、あの人達を、逃がしてください!」

「ん? ああ、説明していなかったね」

 これ以上の犠牲は我慢ならないと花中が声を荒らげると、アルベルトは一瞬キョトンとした後、爽やかな笑みを浮かべながら納得したように頷く。

「彼等はクローン生成された、人間の模造品なのさ。人間にあんな危険な生き物の相手をさせる訳にはいかないからね。見た目が似ているから誤解させてしまったようだ。説明が遅れて申し訳ない」

 それから、()()()()()()()()()()説明をした。

 悪寒が花中の全身を駆け巡る。

 確かに自分は勘違いをしていたと、花中は悟った。彼は人間至上主義などではない。もっと根源的で、もっと普遍的で……もっと『尊い』もの。

 アルベルトの中で、クローンは『人間』ではない。恐らく彼にとっての人間とは、人間から産まれたものだけを指すのだろう。それ以外の、人工物に生命など認めない。作られた過程を重視し、範囲を著しく限定する事で、自身の尊さを相対的に高める。

 その本質は、正に人間そのもの。

 神に愛され、自然から独立し、己と他者の尊さを身勝手に決め付ける――――古来より続く人間の価値観が具現化したような思想。人間が最も『尊い』と考える意思の頂点。

 それがアルベルト・クラーク・ノイマンという『人間』なのだ。

「まぁ、いくら『消耗品』とはいえ、このまま何百も使い潰すのも勿体ないか。クローンの単価だけでも十二万円ぐらいするし、パワードスーツも十億ぐらいするからね。データは取れたから、そろそろ第二フェーズに移行しよう」

 花中の言葉が届かなかったアルベルトは、経済的な理由をぼやきながらデスクにある端末を操作する。するとモニターに映っていたパワードスーツ達は一斉に動きを止め、全員が同時に後退を始めた。

【ああん!? 逃げるつもりですか!】

【追い駆ける暇はないけど、奥には進ませてもらいましょうか】

【だね】

 無傷のフィア達は進撃を即断。逃げるパワードスーツ達を追う形で、建物の奥へと入り込んでいく。

 やがて彼女達の前に十字路が現れた。

 パワードスーツ達は、綺麗に三等分するようにそれぞれの道へと進んでいく。フィア達は十字路の前まで行くと立ち止まり、きょろきょろと分かれ道の先を覗き込む。

 すると突如として、フィア達の頭上から白煙のようなものが吹き出す。白煙に気付いたフィア達だったが、まだ進む道を決めていなかったのか、その場から動かない。天井から出てきた白煙は、フィア達を難なく包み込んだ。

 花中は身を震わせた。脳裏を過ぎるのは、自分達が攫われる間際の光景……防護服姿の連中が使ってきた『ガス』と、天井から降り注ぐ煙が、花中の頭の中でぴたりと重なった。

「君も見覚えがあるだろう? アレはサンプルから得られた物質を解析し、人為的に合成したものを複数種混合したやつでね。魚類とネコに対し、半数致死量(LD50)が体重一キログラム当たり五ピコグラムしかない毒物なのさ。ウイルスに対しても、粘性を発揮する事で行動を阻害する機能がある。此処で散布しているものは、君とサンプルを連れてくる時に使ったものの更に数百倍の濃度があるよ。そうだね、大体一呼吸辺り三グラムぐらいかな? あとついでに魚と猫に対し、選択的に効果がある悪臭を付けてあるんだ」

 青ざめる花中に、アルベルトは自慢げにガスの正体を明かした。五ピコグラムとは恐ろしく微量な値だ。『人間に対する毒性』としては ― 諸説あるものの ― 最強とされるボツリヌス毒素ですら、半数致死量(摂取した者の半分が死亡するとされる量)は体重一キロ当たり一ナノグラム……一千ピコグラムとされている。人類が作り出した化学物質の中で最強クラスとされるVXの半数致死量が一キロ当たり二十ナノグラムである事を考えれば、正しくミュータント由来の合成物に相応しい、尋常でない毒性と言えよう。

 一呼吸で三グラムも吸い込む濃度となれば、息を止めていても目や鼻の粘液から吸収される分だけで致命的になる筈だ。元より生き物ではないミリオンなら兎も角、フィアとミィが耐えられる筈がない。

 ……筈がないのに、どうして先の戦いを生き残れたのか?

「ん? おかしいな……」

 花中が違和感を抱いた時、アルベルトもまた疑問の声を漏らす。

 モニターを見れば、白煙に包まれたフィア達は平然としていた。ガスなどまるで効いていない様子である。

【ふん。こんな煙で私達を殺せると思っているのですか。遅れてますね】

【残念だったねー。対策済みだよー】

 挙句、フィアとミィは嫌みったらしい言葉でアルベルト(カメラ越しの敵)に対し挑発する余裕まであった。

 フィア達のした対策がどんなものかは、花中でも想像の域は出ない。しかし恐らくフィアの場合、身体に纏う水……或いは()()をフィルターのようにする事で、外界から侵入してくる毒物を濾過しているのだろう。ミィも肉体操作を活用する事で同じような機能を持たせているのかも知れない。

 やがてフィアとミィは目の前の十字路を揃って右へと進んだ。建物の構造は花中にも分からないが、恐らく彼女達の進んだ道からは花中(自分)の臭いが流れていて、それで道を把握したのだろう。二匹とも嗅覚は失われていないと思われる。体液式の毒物濾過なら、嗅覚細胞が検知した情報だけを脳に送り、危険な毒物は細胞の表面に留めておく事が可能だ。体内に入らなければ、どれほど強力な毒物だろうと生物を殺す事は出来ない。

 フィア達は構造上、無敵の毒物耐性を獲得したのである。

「ほほぉ、まさか効かないとは。いやはや、何をしているのか興味を惹かれるね。方法を真似出来れば、環境汚染対策に役立つかも知れない」

 アルベルトも花中と同様の考えに至ったのか、しかしその顔に浮かぶのは笑み。崩れる事のない彼の余裕に、花中は少なからず恐れを抱く。

 彼はまだ諦めていない。むしろ予想外の事態に知的な悦びを見出しているようだ。加えてその余裕ぶりからして、未だ万策尽きた訳ではないらしい。ならばきっと、次の手を打ってくる。

 花中の予想は的中した。見ていなかったモニターの一つから、ガコン、と機械的な音が聞こえる。

 反射的にそのモニターに目を向けると、なんと画面に映るフィア達の居る一室が変形を始めたのだ。さながらそれはロボットアニメに出てくる変形シーンのように、ダイナミックかつスピーディー。一辺がざっと十数メートルはある部屋の全体が波打ち、動き出していた。床が割れて中から壁が現れ、壁が動いて天井となり、天井は折りたたまれて柱へ変わり、柱が倒れて床となる。この大規模な『変形』が、ものの数秒で行われたのだ。人間がこの中に居たら、床の隙間から落ちているか、迫り来る壁に押し潰されているだろう。

 フィア達は穴に落ちるほど愚鈍ではなく、大人しく潰されるほど力も弱くない。軽やかに跳び、時には殴り飛ばし、或いは隙間をすり抜けて難を逃れる三匹。しかしながら突然の出来事に不意は突かれたようで、三匹は建物の変形に対応する中で離ればなれになってしまう。元より協調性がなく、『味方』と寄り添うという発想がない事も離散を後押しした筈だ。

 建物はやがて先程までとは全く違う、三本の通路へと変わった。通路はどれも壁で仕切られ、交わる事は恐らくない。

 その三本の道に、フィア達はきっちり一匹ずつ居た。全員が分断されてしまったのだ。

【アイツ等何処に行ったのでしょうか。まぁ別に良いですけど】

【あらあら、分断させられちゃったわね。でも大した問題もないか】

【うわー、こーくるかぁ……仕方ない、進んでみるか】

 三匹は分断させられた事こそ理解したものの、まるで意に介さず。仲間の心配をする素振りもなく、目の前に伸びる道を歩き出した。

「良しっ、今度は上手くいったぞ」

 今度の作戦は成功し、アルベルトはご満悦な様子。勝ち誇った笑顔は子供のように純真で、立場が違えば花中も彼と同じ気持ちになったかも知れない。何しろ人の英知が超生命体を翻弄したのだから。

 しかし今の花中には、それ以上に気になる事がある。

 今の変形は、なんだ?

 建物が変形する事自体にツッコミを入れる気はない。決して有り触れたものではないが、そうした機能を持つ建物は実在する。実用的かどうかを考慮しなければ、車から人型ロボットへの変形も技術的には可能な筈だ。

 されど今し方フィア達を襲った変形は、あまりにも速過ぎる。十数メートルはある区画が、ほんの数秒で三本の通路に変形したのだ。これほど大規模な変形を行うためには、部屋を細かなパーツで分ける必要がある。それにフィア達をきっちり分断した事から、『アドリブ』も利かせられる筈だ。アドリブを利かせる以上、自由な動きを妨げるケーブルなどは繋げない。

 これらの前提から察するに、パーツ毎に動力とAI、そしてそれらが稼働するためのエネルギーを供給する充電器が必要である。おまけに極めて高性能で、小型化の進んだ代物が。

 今の人類の科学力で、それらを用意出来るとは思えない。先の光景は、現代においてはあり得ないものだ。

「今の、は……?」

 思わず花中は疑問を言葉にしてしまう。今まですぐに答えてくれたアルベルトは、今度は何も語らない。ただ静かに微笑むだけ……まるで、お楽しみはこれからだと言わんばかりに。

 不安を抱く花中だったが、モニターの向こう側に居るフィア達はこちらのやり取りを知る由もない。悠然と歩く三匹は、やがてほぼ同時に開けた一室に辿り着く。どの部屋も円形をしており、直径は十メートル前後。部屋の奥には扉が一つだけあり、他に道はない。先へ進むためにはこの部屋を通る必要がある。

 明らかに不審な部屋であるが、されど毒ガスも部屋の変形も切り抜けたフィア達は、特段警戒する素振りもなく部屋の中へと入った。そのまま三匹は徒歩で奥まで進んでいき

 丁度部屋の真ん中辺りまで来た瞬間、部屋にある扉を覆うようにシャッターが下りる。

 シャッターは扉だけでなく、フィア達が通ってきた道の方にも下りてきた。フィア達の反射神経と運動能力ならば、五メートルもの距離を跳び、シャッターが閉じきる前に一旦室外へと脱出出来ただろう。しかし彼女達の『目的地』は扉の先にある。引き返すという選択肢はない。

 フィア達はなんの抵抗もせず、二つのシャッターは無事下りきる。呆気なく、閉じ込められてしまった。尤も誰一匹としてその事を気にする素振りはない。

 フィアもミリオンもミィも、扉を塞ぐシャッターの前に立つや手を伸ばす。

 そしてフィアはぐいっと持ち上げるように力を込め、ミリオンは手を押し当て、ミィは軽く殴り付けた。哀れ、シャッターは呆気なく持ち上がり、溶け、砕け散る

 筈だった。

【……? ん……んぐぐぐ……?!】

 フィアが唸りながら、シャッターの前で身を捩っている。何度も何度も力を入れているのか身体が規則的に強張っている様が映し出されていた。

 なのにシャッターは微動だにしない。開かないどころか、壊れもしない。フィアの怪力なら、例えシャッターが金属製であっても簡単に砕ける筈なのに。

 フィアだけではない。ミリオンが手を当てたシャッターにも、ミィが殴り付けたシャッターも、モニターを見る限りでは変化がない様子だ。ミリオンの超高温に耐え、ミィの出鱈目な怪力に耐える……そんな物質が存在する筈ないのに。

「特異生命体、君にはミュータントと呼んだ方が良いかな? アレらは、悔しい事に凄い力を持っている。それこそ人間ではどうにもならないほどの力がね」

 花中が混乱していると、アルベルトが不意に語り出す。その語り口の中でアルベルトがデスクの端末を操作すると、フィア達の部屋に変化が起きた。

 変化は部屋毎に違うものだった。ミリオンの部屋には筒のようなものが床から生え、ミィの部屋では天井に割れ目が出来る。

 そしてフィアの部屋では、円形の壁からずらりと銃のようなものが生えてきた。フィアは現れた銃らしきものを一瞥するが、相手をするのも面倒だと感じたのだろうか。壊そうとする事もなく、開かないシャッターに挑み続ける。

 故に壁から生えた銃らしきものは――――『電撃』を難なく放つ事が出来た。

 放たれたものが本当に電撃であるかは、花中には分からない。しかし空気中をうねりながら進む光は、他に適切な単語があるとも思えなかった。『電撃』は鞭のようにうねりながら数秒間蠢き、フィアの頭部や胴体に叩き付けられる。

【ぬぐっ……!?】

 するとどうした事か、フィアが苦しみに満ちた唸り声を上げたではないか。

 花中が呆然としながらモニターを見ていると、フィアが居る部屋を一周するような横穴が開き、横穴から一本の鎖のようなものが現れた。鎖は水平に寝かされた状態で勢い良く迫り、フィアの胴体をぐるりと縛り付ける。更には床や天井からも鎖が現れ、足や腕にも絡まってフィアの動きを妨げた。フィアは即座に鎖を引き千切ろうとする……が、ガチガチと音が鳴るだけで、鎖は壊れる気配がない。モニターから聞こえた舌打ちが、鎖の出鱈目な強度を物語る。

 無論フィアの『身体』は水で出来ている。『身体』を変形させれば、鎖の隙間から逃げ出す事など造作もない。

 だが、雷撃がそれを許さなかった。

【ぐぬ……うぐうううウウウウゥゥゥ……!】

 無数の雷撃を浴びたフィアの『身体』から濛々と白煙が昇り、髪の毛の一部が切り落ちて弾けながら蒸発。雷撃は留まる気配もなく何十発もフィアに撃ち込まれ、その度にフィアの『身体』は切り取られていった。

 それは雷撃がフィアの耐熱性を上回るエネルギーを有し、フィアの『身体』にダメージを与えている確かな証拠。フィアが拘束する鎖から抜け出せないのも、僅かでも『身体』の結合を弛ませれば雷撃で真っ二つになると察しているからだろう。鎖の方も何時までも切らないという事は、()()()()と考えるのが妥当だ。全ての映像記録がフィアの苦戦を物語る。

 フィアの『身体』は水であり、水は能力によって制御されている。そうして得られた強度は圧倒的で、人間の軍事兵器なんかでは傷一つ付けられないほど頑強。戦車砲さえも弾く相手を殴り倒すほど強靱だ。恐らくは核兵器すらも耐える、怪物と呼ぶに相応しい力である。

 そんな力の持ち主であるフィアが、ちっぽけな雷撃の一つ二つを耐えられない筈がない。鎖の一本二本を引き千切れないなんてもっとあり得ない。けれども現実にフィアは雷撃に呻きを上げ、鎖を引き千切れないでいる。あの雷撃には核すら凌駕する威力があり、あの鎖には戦車の砲弾すら易々と耐える強度があるというのか?

 苦戦を強いられているのはフィアだけではない。視線を他のモニターに向ければ、ミリオンが居る部屋の映像が映っている。映像の中の室内には濛々とガスが漂い、床から生えているパイプから大量の液体が溢れていた。液体はミリオンの下半身を浸すほどの量があり、それに浸かるミリオンの身体からはじゅうじゅうと音を鳴らしながら煙が立ち昇っていた。ミリオンが能力によって加熱し、液体が気化しているのかと思う花中だったが……どろりとミリオンの顔の一部が()()()事から、状況の厳しさを察する。

 ミィの部屋も同様に、液体に満たされていた。こちらはねっとりとしたタールのような代物で、天井に出来た亀裂から流れ出ている。タール状の液体は既にミィの身体の殆どを浸しており、ミィはその顔と腕の先ぐらいしか出せていない。なんとか脱出しようと藻掻いているのだが、その動きはとても()()。タールの粘性により、動きを妨げられている様子だ。

 どちらもあり得ない姿だった。ミリオンが能力を用いれば、どんな物質でもたちまち六千度以上に加熱されてプラズマ化するというのに。ミィが能力を使えば、例え数億トンはあろうかという山さえ砕くパワーを発揮するというのに。

 全員が手こずっている。否、対処出来ずに押されていると言っても良い。このままではフィアは焼き殺され、ミリオンは溶かされ、ミィは窒息死させられてしまう。

 そんな事があり得る筈がない。彼女達の力は、現代の人類ではその片鱗すら理解出来ないのだから。ましてやフィア達ですら手に負えないものを、現代科学で作れる筈が……

「……まさか」

 目の前で起きた事象への考えを巡らせていると、とある考えが花中の脳裏を過ぎる。もしもその考えが正しければ、今起きている事の説明が付く。

 そして『それ』を行っている事を、アルベルトは既に語っていたではないか。

 ガタガタと身体が震える。意図せず身体がアルベルトの方へと向き、青ざめた顔を彼に見せてしまう。フィア達についてよく知る自分が、彼女達に加えられている攻撃が脅威だと思っている事を悟られてしまうのに。

 アルベルトは花中の顔を見て、ほくそ笑む。さながら己の勝利を確信したかのようだった。

「本当に、ミュータントの力は素晴らしいものだよ。人類が生み出したどんな物質をも上回る、出鱈目な性質の化学物質を合成している。いやはや、もしもアレを人類が自力で開発するには……」

 アルベルトは上機嫌な口振りで説明をし、勿体ぶるように一度話を切る。沈黙は花中が思わず息を飲み、その仕草に彼が口許を一層歪めるところまで続き、

「ざっと、五百年は必要だろうね」

 子供のように無邪気な口調で、アルベル トは語った。

 五百年。文字にすればたった三文字の言葉に、花中はゾッとなる。

 今から五百年前、十六世紀初頭の人類の科学力とはどのようなもので、どれほどの『実力』を有していたのだろうか? まず蒸気機関が実用化されていないため、大きなエネルギーを用いた工業は出来ない。製品は基本的に『手作り』であり、作業員一人辺りの生産力はかなり小さい。化学肥料が実用化されていないため食糧の生産量も少なく、品種改良が不十分なため気候変動や病害で度々飢饉が発生していた。医学も未発達で、疫病で多量の死者が度々出ている。人口もたったの四~五億人程度だ。

 戦争についても、現代とは大きく異なる。機動力の高い乗り物とは馬などの動物で、『燃料』として大量の食糧が必要な上に、大きな音や振動で暴れ出す代物。銃はあったが所謂火縄銃で、戦場では常に火種を持ち運ぶ必要があり、強い雨が降ると撃てなくなるという今では不良品扱いの性能である。兵站についても缶詰などが開発されていないため、略奪などの現地調達が基本だとされている。

 この程度の力しかなかった十六世紀の人類と、現代兵器が戦ったらどうなるか? 言うまでもない事だ。勝負にすらならないだろう。遙か何千メートルもの高さから爆弾を雨のように降らし、町の一つ二つを簡単に焼き払う敵を、どうやって落とす? 分厚いコンクリートで出来た建物を一撃で貫通する砲を持ち、同等の砲撃に耐え、馬より速くて怯えもしない鉄塊をどうやって砕く? 出来る訳がない。そしてそれら『超兵器』を支えるあらゆる産業がより強固なため、持久戦に持ち込んでも力尽きる事はない。

 これが五百年という時間の重さ。これほどの『技術力』の差があるとすれば、ミュータントが人類兵器を一方的に蹂躙するのも当然と言えよう。

 同時に、『人類製』の道具がミュータント(フィア)を苦しめている事実に花中は困惑する。その事実が物語るものを知るがために。

「サンプルから抽出した物質は、とても素晴らしい知見を僕達に与えてくれた。五百年後の技術に触れるようなもので、まだ全容の解明には至っていない。それでも得られた知識は、僕達に新たな力を与えてくれた……そう、あらゆる分野に」

 アルベルトは語る。自らが得た発見の素晴らしさを。

 現代科学は、最早一つの分野だけで成り立つものではない。例えば生物の生態を解明するためには物理学と化学を必要とし、物理学や化学反応のシミュレーションを行うのに電子工学や計算機科学の粋を集めたスーパーコンピュータが必要となる。その計算機科学には数学的知識が必要で……と、一つの分野から別の分野に、まるで数珠つなぎのように連鎖していくのだ。故に一つの分野が進歩するには、別分野の発展を必要とする事がある。

 その逆もまた然り。

 サンプル……誘拐した清夏から採取された物質は強力な毒性分だけでなく、極めて高い燃焼性や耐熱性、出鱈目な硬度や伸縮性を持っていたのだろう。それら新素材により、アスクレピオス社には多方面の技術革命が起きたのだ。

「フナに喰らわせているのは、最新式のアーク放電機だ。射程十メートル以内なら接触面は五万度まで加熱される。千五百度程度の『低温』加熱で評価すれば、射程十キロを誇る電気兵器さ」

 例えば一センチ進むのに三十キロボルト必要な放電現象を用いた、実用的な『プラズマ兵器』を作り上げたり。

「ウイルスにやっているのは、強酸性の液体だよ。実験室では三万度まで組成が変化しない事を確認している。ガスは粘性が高く、ウイルスの捕縛に適したものさ」

 例えば最も沸点が高いとされていた炭化タングステンの数倍もの耐熱性を有し、太陽表面でもプラズマ化しない液体を合成したり。

「そして猫に使っているのは、液状金属体だ。極めて粘性が高く、与えられたエネルギーの殆どを受け止めてしまう。むしろあそこまで動ける事が驚愕だよ、バンカーバスターすら一センチも動かずに受け止めるのに」

 例えば人類史上最強の貫通力を有する兵器を喰らわせても、貫かれるどころかろくにへこみもしない液体を作り出したり。

 それらが五百年後の科学水準に相応しいものであるかは分からない。しかし現代の人類の技術水準を超えている事だけは、間違いないだろう。そして『現代人』である花中に、『未来人』の技術などとんと分からない領域だ。未知の理論を用いている点はミュータントと同じでも、既存の生物の生態を強化した事が多い彼女達と、それの応用である未来技術は全く異なる代物なのである。

 フィア達が受けている攻撃は、確かにこれまで戦ってきたミュータントほどの苛烈さはないだろう。モニター上部に表示されている時計を見れば、既に十分近い時間、彼女達は超技術の攻撃に耐えている。しかし的確に弱点を突いてくる『技術』に対し打開策がなく、耐える以外に方法がないのも事実。

 なんとかしなければ、友達の命がこんなところで潰えてしまう。

 だから花中は考えた。考えて、考え抜いて……けれどもこの状況を打開する術は、何一つ思い付かない。そもそも思い付いたところで、モニター越しに立つ花中には友達に呼び掛ける術すらないのだ。

 花中には見守り、信じる事しか出来ない。

【ぬぐぎぎぎぎ……!】

 猫の友達が苦悶の表情と声を上げる中、今にも溺れそうになっていても。

【……………】

 ウイルスの友達が強酸性の液体に浸りながら、忌々しげな表情を浮かべたまま立ち尽くしていても。

【ぐううううぅうぅぅ……!】

 魚の友達が雷撃を浴び続け、苦痛に喘いでいても。

 花中には、何も出来ない。

「さぁ、これで終わりだ」

「だ、ダメ……!」

 せめてもの足掻きとして、アルベルトがデスク上に置かれたボタンを押すべく伸ばした腕に掴み掛かったが、花中の力では止める事も叶わず。

 ボタンがカチリと音を鳴らすのと共に、モニターに映し出される攻撃が一層激しくなる。雷撃は何十とフィアに撃ち込まれ、ミリオンの浸かる強酸の液体が四方八方から更に注ぎ込まれ、ミィを飲み込まんとする金属は一気に流れ込む。

【ウウウウゥゥゥゥッ……!】

【ギィィイイギギギ……!】

 ミィとフィアの唸りが更に大きくなる。表情に苦しみが満ちる。ミリオンの表情が更に険しくなる。けれども攻撃の手は決して弛む事はない。

 そして――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友達の声が、途絶えた。

 

 

 




ピンチに陥らせたところで次回に続く。

次回は4/6(土)投稿予定です。


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あなたはだあれ9

 ……それから、どれぐらいの時間が経ったか。

 フィア達の唸り声が消え、絶望の中で花中はゆっくりと目を見開く。出来る事なら見たくない。だけど見ない訳にはいかないと心を振るわせ、拒むように閉じようとする瞼を開く。

 フィアの部屋を映し出しているモニターには、変わらず超高出力アークが飛び交っていた。接触面が五万度にもなるというプラズマが部屋中を縦横無尽に駆け回り、何もかも焼き尽くさんとしている。

 その部屋の中心で、フィアは立ち尽くしていた。

 まるで屍のように力なく項垂れ、ぴくりとも動かない。アーク放電をどれだけ受けようとも呻き一つ上げず、されるがままである。

 その力ない姿に花中は顔を青くし――――されどすぐに、違和感を覚えた。

 これまでフィアはアーク放電による攻撃を受けた際、呻き声を漏らしていた。それは急激な温度上昇による蒸発を耐えるため、能力を限界まで使う事により思わず出ていたもの……と花中は考えている。本当の理由はどうあれアーク放電を耐えるのは楽な事ではなく、その声こそがフィアの苦しみを物語っていた。

 なのにどうして今のフィアは、放電を受けても声一つ上げないのか。力尽きているから? 否、もしもそうなら今頃あの部屋に居るのは金髪碧眼の美少女ではなく、こんがりと焼けたフナの亡骸だ。あの愛らしい姿はフィアが能力を用いて維持しているものなのだから。

 何か、おかしい。()()()()()()()()()()()()()()()()

「……妙だな。計算上は、そろそろ形状が崩壊する筈なんだけど」

 アルベルトも同様の疑問を抱いたのか、デスクにあるコンソールを操作。すると新たなモニターが天井から下りてきて、アルベルトの前で止まる。アルベルトはそのモニターを訝しむような眼で眺めた

 瞬間、彼はその目を大きく見開き、モニターに掴み掛かるように肉薄する。

 何が彼の意識を惹き付けるのか? 花中としても気にはなる……が、不意にモニターより聞こえた『足音』により、そちらに気を取られる。

 モニターを見れば、フィアが少しだけ動いていた。

 今度は花中が見ている前で、フィアはズシンと音を鳴らして歩いてみせる。動いたという事は生きているという事。フィアの無事を確信し、自然と花中は笑みを浮かべた。

 ただしその笑みは瞬く間に強張る。

 人としての本能が叫んでいる。『アレ』を許してはならないと。

 アレとはなんだ? 花中の感情は必死に惚けようとする。されど人間の本能が、人間の生命が喚き散らす。認めるまで離さないとばかりに頭の中にしがみつき、思考を揺さぶりこんな考えを強要してくるのだ。

 あり得ない。こんな事あり得てはいけない。

 『フィア(アレ)』の存在を許したら人の未来はない、と。

【……ふっふふふふふ。ふはははははっ。なぁるほど成程こんな感じでやれば良いんですねぇ。コツを掴めばどうという事もありません】

 モニター越しに、フィアの上機嫌な笑いが聞こえてくる。

 その声に何時ものような余裕は殆どない。息は明らかに乱れていて、『身体』の作りも荒いのか()()()()輪郭になっている。

 しかし消えていく様子は微塵もない。

 部屋の中を満たすプラズマにより、その『身体』を形成する水分子は次々に分解されている筈。フィアの『身体』は刻々とダメージを負い、削られていなければならない。だというのにフィアの『身体』は小さくなる様子すらなかった。否、あまつさえ輪郭が徐々にハッキリしていく。

 即ちそれは、フィアが段々と体勢を立て直している事を意味していた。

「馬鹿な! 何故だ……何故温度が上がらない!? どうして表面温度が、千八百度で停滞している!?」

 今、フィアの身に何が起きているのか? その答えは、先程からずっとモニターを見ていたアルベルトの叫びが教えてくれた。アルベルトが食い入るように見ていたのは、フィアの表面温度だったのだろう。その温度が千八百度で留まっているらしい。

 これはあり得ない事だった。何故ならば熱力学の法則に反しているからである。高い温度は常に低い温度の方へと流れ込む。凍らせたペットボトルを冷蔵庫から出せば外気から流れ込んだ熱によって溶けていき、熱々のラーメンが冷めるのは自身より冷たい外気に熱を渡すからだ。五万度のプラズマアークを受ければ、フィアの『身体』はその五万度にどんどん近付いていくのが自然。水分子が崩壊してしまう二千度付近で留まるならばまだしも、それより二百度も低い状態を維持するなど起こる訳がない。

 ましてや、

「せ、千七百五十……千七百……千六百五十……!? ど、どうして……!?」

 下がるなんて、絶対にあり得ない。

 アルベルトは目を見開きながら、デスクにあるボタンを操作。するとデスクから一本のマイクが生えるように現れる。アルベルトはそれを握り締めるや、狼狽しきった声を出した。

「おい! お前は、お前は何をしているんだ!?」

【あん? なんですか? というかあなた誰です?】

 アルベルトが声を荒らげると、フィアがキョトンとしながらモニターの方 ― フィアからすれば声が聞こえてきた方なのだろう ― を見つめてくる。どうやらアルベルトのデスクから出てきたマイクは、フィアの部屋に音声を届けるものらしい。

「質問に答えろ! お前は何をしているんだ!? どうやってアーク放電に耐えているんだ!?」

【あーくほーでん? ああさっきから飛び交ってるこれの事ですか。あなた黒幕なんですかね?】

「何をしたんだと訊いているんだ! こんな事あり得ない! あってはならない! 五万度に達するアーク放電を受け、水分子が形を保てる訳がないんだぞ!?」

【何をしたと言われましてもねぇ】

 アルベルトが錯乱気味に問い詰めると、フィアは考え込むように少し沈黙を挟む。

【熱くなると水分子がぷるぷる震えるみたいですからその震えをちょっと強引に押さえただけですけど】

 それから平然と、種を明かす。

 アルベルトは、何を思ったのだろうか。一瞬呆けた後、その顔をどんどん青くしていった。ぽっかりと口を開け、息を乱し、今にも卒倒しそうなぐらい苦しみ始める。

 花中がそうならなかったのは、偏にフィアと友達だからだ。そして何度も何度も、フィア達ミュータントの非常識を見てきた事で、幾らかの耐性も持っていた。

 それでも気絶しなかったのは、奇跡であると花中自身思う。

 熱とは何か。

 答えは物質を構成する粒子……原子や分子などの運動エネルギーから生じるもの。高い熱エネルギーを持った粒子は激しく動き回るようになり、周りにその熱を分け与えていく。現在の熱力学ではそこに別途エネルギーを与えない限り、この熱の移動を妨げる事は()()()()()()()。それを許してしまったら、鍋のお湯が火を付けていないのに勝手に沸騰したり、真夏の部屋が空調も付けていないのに氷点下になったり、冷蔵庫の中身が焼き焦げたり……そんな馬鹿げた事が『あり得る』事になってしまう。それは最早世界の常識が否定されるどころの話ではない。宇宙の成り立ちそのものが否定されてしまう事に等しいのだ。

 だが、フィアは成し遂げた。

 どうやってかは分からない。何故そうなるのかも分からない。しかしフィアは水分子を――――分子の運動を、力尽くで止めてしまったのだ。それもちょっと疲れる程度の、ほんの僅かなエネルギー消費だけで。

 最早これは熱力学の崩壊。宇宙の未来すらも占う学問が踏みにじられた瞬間だ。人類こそが世界を支配するに足る種族と信奉するアルベルトにとって、これほど恐ろしい怪物……否、悪魔はいまい。

 しかし、それよりも。

 それよりも花中が『恐ろしい』と感じたのは……

「あり得ない……こんな事が出来るなんて、データにはなかった筈だ! 二千度以上の温度にも耐えるが、それは水を循環させる事による冷却があるからで、温度上昇そのものを拒むなんて性質は……!」

 アルベルトは、未だフィアの力を受け入れられないらしい。モニターを見ながら、デスクの上に置かれた紙を漁り始める。慌てるあまり紙が床に散らばり、それを追い駆けて這い蹲る天才科学者。アルベルトの姿を目の当たりにした花中は、滑稽を通り越して彼に哀れみすら覚えた。

 人間達の動揺を他所に、フィアは自らのペースで状況を変えていく。フィアの歩みは段々と軽やかになり、数メートルと進む頃には普段通りの、優雅な足取りとなっていた。最早アーク放電が幾ら『身体』を叩こうと、フィアは呻きどころか見向きもしない。さながら羽虫が飛んでいる程度にすら感じていないかのように。

 やがてフィアは部屋の中央まで移動すると、ニタニタと笑いながら辺りを見回す。

【何処のどいつか知りませんがお陰様で水の操り方を一層勉強出来ました。これはお礼です遠慮せずに受け取ってくださいねぇ!】

 そしてフィアの足下から生えた無数の水触手が、壁にあるアーク放電の照射装置目掛け飛んでいく!

 アーク放電は未だ続いており、水触手にも命中する……が、最早切り落とすどころか湯気を上げさせる事すら叶わない。全ての放電装置は呆気なく破壊され、部屋の中の雷撃は止まった。高圧電流が流れていたからか、破壊された機器は火を噴き、たちまち弾け飛ぶ。黒煙が至るところから昇り、部屋の中を黒く染め上げた。

 まるでそれを狼煙とするかのように、次の『異常』が起きる。

 モニターに映されていたミリオンから、今まで立ち昇っていた白煙が途絶えたのだ。ミリオンはしばらく強張った表情を続けたが、やがて小さなため息を吐き、ニタリと笑みを浮かべる。

 その微笑みに呼応するかのように、強酸が変色を始めた。

 一瞬の出来事だった。今まで緑黄色だった液体が、瞬きする間もなく透明な液体へと変化したのである。あまりにも刹那の出来事にアルベルトはその瞬間を見逃し、モニターから鳴り響くアラートによって何かが起きた事を知った。アルベルトは再びモニターにしがみつき、食い入るようにそこに表示されたものを凝視する。

「な、ば、馬鹿な!? 何故液体のpHが変化して……!?」

【はぁい、聞こえるかしらぁ?】

 動揺から吐き出されたアルベルトの声を聞いたかのように、ミリオンが監視カメラの『向こう側』へと呼び掛けてくる。ミリオンの方から呼び掛けられた事に驚いたのか、アルベルトは腰を抜かすように尻餅を撞いた。

【今、割と機嫌が良いから教えてあげる。確かにこの酸、中々厄介だったわね。六千度以上に加熱しても、プラズマにならないどころか壊れも変性もしないんだもの。ほんと、危うく溶かし尽くされるところだったわ】

 危ない危ないと、危機に陥っていた事をミリオンは念入りにアピールする。つい先程まで自分を溶かそうとしていた、今では透明になった液体を手で掬い上げながら。

【でもね、思い出しちゃったの。水溶液のpHって、水素イオン濃度で決まる事を。水素イオン濃度が高ければ高いほど、液体は酸性を示す。なら、それを打ち消す方法はとっても簡単。水素イオンをなくしてしまえば良い】

「は、ぇ……え?」

 正になんて事もないかのように語るミリオンの言葉に、アルベルトが呆けた声を漏らす。花中も、彼の横で口をぽかんと開けてしまう。

 まるでその姿が見えているかのように、ミリオンは口を大きく歪めて嘲笑った。

【固有振動波を使って、水素原子を()()させたの。やり方さえ分かれば、造作もないわね】

 そして語る、自らの行い。

 言葉通り『造作もない』程度の疲労しか感じさせない話し方に、人間二人は同時に我が身を震わせた。

 理屈は確かにその通りだ。水溶液の酸性度は、水素イオン濃度によって変わる。だから水素イオンを取り除けば酸性度が下がる……計算通りの事象であり、なんらおかしな事ではない。

 おかしいのはその方法だ。原子崩壊そのものは現代科学でも出来る事だが、その方法は中性子をぶつけるなど、物理的な『攻撃』である。振動で崩壊させるなんて方法、ガラスのような()()()化合物なら兎も角、原子に対して行うなど聞いた事もない。加えてミリオンはその振動波を広範囲に散らし、一瞬にして半径五メートルを満たす酸性液を中和してみせている。液体は空気と比べて密度が高い状態とはいえ、振動波が遠距離まで届いている事は間違いない。

 飛ばした振動波だけで原子を破壊出来るとなれば、それは無敵の攻撃だ。耐熱性も耐衝撃性も、強酸性も強アルカリ性も関係ない。ミリオンがその気になれば、触れる事なく全てを破壊出来る。最早神の宣告であり、神の下僕に過ぎない人類が敵う力ではない。

 ミリオンが身に着けた力は、あまりに強過ぎる。

【……シュウウウウウ】

 唖然としていると、最後にミィが映っていたモニターから声が聞こえてきた。

 ミィの部屋は液体金属に満たされ、彼女の姿は頭のてっぺんしか見えていない。なら今の声は何処からかと思って見ていると、一度ミィの顔が浮上してくる。息継ぎのために顔を上げたのだ

 そう思った直後、予想は裏切られる。

 ミィの身体が、ガクンと()()()()()()()

 ただの急浮上ではない。まるで階段を上るかのように、一段だけ身体が浮かび上がる不自然な動き。そんな感覚を覚えていると、先の光景が見間違いではないと伝えるかのようにミィの身体は再び一段上がる。

 これを数度繰り返し、液体金属の『水位』と腰のラインが一致した辺りで十分と判断したのか。ミィはそれ以上の浮上を止めると、前へと進み出した。

 あたかも、普通に歩くかのようなスピードで。

「……は? ば、馬鹿な!?」

 ようやくミィ側の異常に気付いたアルベルトが声を荒らげる。彼の反応は至極尤もなものだ。ミィの部屋にある液体金属は粘性が極めて高く、バンカーバスターすら一センチと歪ませられない緩衝効果があるとアルベルト自身が語っていた。ミィの力ですら、先程まで飲まれる一方だったのだ。なのに今では飲まれるどころか、妙な高さですいすいと歩いている。

 一体何が起きているのか。詳細を知ろうとしてアルベルトがモニターを睨みながらデスクの端末を操作する中、花中は映像を凝視する。

 ミィが通り抜けた場所の液体金属は粘性を保っており、どろりどろりと、ミィの通った後をゆっくり埋めている。ミリオンのように、液体金属の性質を変化させている訳ではないらしい。つまりフィアと同じく、自らの『体質』を変化させた事で現状に適応したのだろう。

 そしてそれは、先のスムーズな動きからして……『抵抗』の喪失か。

 彼女は自らの表皮に特殊な形状を作り出し、物質と接した際の抵抗を殆どゼロにする事を成し遂げたのだろう。これがどのような細胞や形状により発揮されているかは、しがない現代人である花中には想像も付かない。しかし自身の肉体を操作出来るミィには、決して不可能な行いではない筈だ。身体が浮上したのは足の裏部分だけ通常の形態を残し、垂直方向への抵抗を保持する事で可能にしたのだろう。見た目通り『階段』を上ってきた訳だ。例えるなら雪に埋もれた状態から、足下の雪を固めながら這い上がるように。

「ぐ……だ、だが……だがまだだ! あんなのはただの苦し紛れに過ぎない! 奴等の出入りを塞ぐあのシャッターは、我々が作り上げた中で最高の開発品だ! 水爆だろうがなんだろうが、あのシャッターと、シャッターと同じ材質で出来ているあの部屋の壁は壊せない!」

 最早武器による抹殺は諦めたのか。アルベルトは最後の砦である、出入り口を塞いだシャッターに賭けようとする。

 だが、花中は既に()()()()()

 苦し紛れ? 何をどう見ればそんな能天気な考えを抱けるのか。

 彼女達は弱点を克服したのだ。二千度しかない脆弱な耐熱性を、耐熱性の高い物質への対抗策のなさを、身体能力しかない単純さを。逆境を乗り越えた事で、彼女達は新たなステージに到達している。

 水分子を固定する事が出来るようになったフィアは、より大きな負荷を『身体』に掛けられる。どれだけ大きな力を込めても、水分子で作られた柱はへし折れず、目標を圧迫し続けるのだ。つまり純粋なパワーが大きく増大し、より大きな破壊が行えるようになっているという事。

 原子崩壊を使えるようになったミリオンには、最早物質的な防御は意味を成さない。どんな材質で作った檻だろうとミリオンは破壊出来る。今の彼女を捕縛する事など、何人たりとも……『万物』を創造した神であろうとも出来やしない。

 抵抗を消失したミィは、自らが振るう拳に全エネルギーを注げるようになった。空気抵抗は速度の二乗に比例して増大する。人間が日常生活で気にする事はまずないが、音速の数倍以上の速さで動けるミィにとっては決して小さな値ではない。それまで空気を掻き分けるために使い、熱へと変換されていた膨大なエネルギーの全てを拳に乗せる事が可能となったのだ。

 そんな三匹をシャッターで閉じ込める? センスのないジョークだ。

【よいしょっとー】

 フィアは気軽な掛け声と共に、シャッターを両手と屈伸運動で押し上げる。

【ふふんふーん】

 ミリオンは鼻歌交じりに正面に立っただけで、シャッターがさらさらと崩れ落ちていく。

【ほっと】

 ミィは軽々と拳を叩き付け、その一撃だけで扉を吹き飛ばす。

 誰も彼もが、難なくシャッターを破壊した。アルベルトはあんぐりと口を開き、声を失っている。顔はすっかり青ざめていて、今にも気絶しそうだ。

 或いは気絶した方がマシだったかも知れない。

【さぁここまでこの私をおちょくったのです八つ裂きにされる覚悟は出来ているんでしょうねぇェッ!?】

【痛みとかは感じないけど、流石においたが過ぎたわね。生き物にこの力を使ったらどうなるか、テストケースにしてあげる】

【あー、苦しかった……同じ目に遭わせてやるからそのつもりで】

 もしも気絶していれば、カメラに気付いた三匹から同時に下された死刑宣告を聞かずに済んだのだから。 

 直後にカメラの映像は途絶え――――建物全体を揺れが襲う。ぐらぐらと大地震に見舞われたかのような振動でモニターが落ち、デスク上の書類は崩れ、花中は尻餅を撞いた。

 フィア達が暴れ出したのだ。それも今まで以上の破壊力を伴って。

 恐らくこの建物には、ミュータント由来のテクノロジーが存分に使われている。フィア達が突入した際振動を感じなかったのは、このテクノロジーにより強力な耐震性を実用化出来たからだろう。しかしその耐震性も今のフィア達には通用しない。全力を出していない彼女達の力すら、満足に受け止められなくなっていた。

 花中は恐ろしさを感じた。

 何が恐ろしい? 最早核兵器すら通じるか分からない耐熱性を得たフィアか? 触れる事なく相手を消滅させるミリオンか? 更なる速度と破壊力を得たミィか? ……違う。そんな事ではない。

 恐ろしいのは、彼女達の成長の早さ。

 五世紀先の技術水準と言われた能力、その能力を応用して開発された技術……それを彼女達は、ほんの十数分程度で乗り越えてしまった。現代人類では足下にも及ばない力さえも、彼女達にとっては十数分の苦難で乗り越えられる逆境でしかなかったのだ。

 一体ミュータントとはどれほどの存在なのか。彼女達の『底』は何処にあるのか。

 それは果たして、人間が辿り着ける領域なのだろうか。

「……あっ」

 目まぐるしく駆け回っていた思考が一際大きな振動によって現実に引き戻され、花中は我を取り戻す。

 考え事をしている場合ではない。

 それよりも形勢逆転した今こそアルベルトと『交渉』するチャンス。武力に物を言わせるのは好きではないが、犠牲者が出るよりは余程マシだ。彼と話を付けるべく花中は辺りを見渡し、

 アルベルトの姿が近くにない事にようやく気付き、顔を青くした。

 慌ててもう一度、より広範囲を一望する。今度は、アルベルトの姿を見付けられた。ただし彼は正しく今部屋の扉を開けて外にある廊下へと跳び出し……突き当たりにあるエレベーターへと向かっていたが。

 花中は顔から更に血の気が失せた。恐らく彼は逃げようとしている。それは見れば分かる事で、人類科学を冒涜する怪物が三匹もやってくるのだからなんら不思議な事ではない。

 問題は逃げるにしても、間違いなくただでは転ばない事。リベンジするためにも、何より人類の未来を守るためにも、更なる研究を進めなければならない。

 そのためには『サンプル』が必要だ。

 アルベルトは清夏を連れていくつもりに違いない。花中がアルベルトの立場なら間違いなくそうする。脱出にしても、アルベルト達の技術力を思えば超音速ヘリコプターぐらいは開発・保有していそうだ。フィア達ならば超音速飛行物体の一つ二つ簡単に捕まえられるだろうが、やってくるのが遅くなればみすみす逃してしまうだろう。

 もしも清夏が連れ去られたら、奪還は絶望的だ。更に時間を掛ければ、より強力な兵器や薬物も開発し、今回以上の戦力で挑んでくるに違いない。此度のフィア達はなんとか乗りきれたが、次回も上手くいくとは限らない。彼女達の底が分からないと思ったばかりで言うのも難だが、『今』がその底である可能性もゼロではないのだ。

 なんとしてもそれだけは防がなければならない。せめて、フィア達が此処に来るまでは。

「ま、待って!」

 花中が声を上げるや、アルベルトは一瞬振り返り、一層気張った走りを見せる。この行動が自分の予想を証明したと実感し、花中は慌てて立ち上がってアルベルトの後を追う。

 扉は幸いにしてロックなど掛かっておらず、花中が前に立つだけで開いた。エレベーターまで続く廊下の距離は、ざっと三十メートル未満。アルベルトは既に、その中間ぐらいの位置まで逃げていた。このままでは不味いと、花中も渾身の力で駆ける。

 科学者を自称していたアルベルトの足は、お世辞にも速いものではなかった。足並みはすぐに乱れ、息も切らしている……が、花中はそんな彼以上に貧弱。足が彼より速くない上に、体力すら劣っている。アルベルトとの距離は縮まるどころか開く一方だ。

 アルベルトが立ち止まったのはエレベーターの前で、彼はボタンを激しく連打していた。冷静に考えれば、そんな事をしても故障を誘発するだけで、到着が早まる要因とはなり得ない。明らかに狼狽えていたが、しかし花中は彼以上に動揺する。もしも自分の到着前にエレベーターが来て、乗り遅れたら……

 アルベルトと正反対の事を祈りながら花中は駆けた、直後、一際大きな振動が建物を襲った。走っていた花中が蹴躓いただけでなく、立っていたアルベルトすら転倒している。

【何処に隠れているんですかァァッ! 大人しく出てきなさあああいっ!】

 そして建物中に反響する、乙女の大咆哮。

 どうやら先の揺れは、フィアが癇癪を起こした事が原因らしい。立ち止まっているアルベルトは精々身体を痛めた程度だが、走っていた花中にとっては大きな時間ロスだ。「フィアちゃん何やってんのぉ!?」と頭の中で悲鳴を上げる花中だったが、直後、扉が閉まったままのエレベーターからブザー音が鳴り響く。

【異常な振動により、エレベータールート上に破損が生じました。非常階段を展開します。避難には非常階段をお使いください】

 そして告げられる、アルベルトにとっては無慈悲な、花中にとっては応援に等しい機械音声。

 どうやらフィアの一撃により、エレベーターの安全性が失われたらしい。「フィアちゃん最高!」と先程までと真逆の事を想いながら花中は立ち上がり、力を振り絞ってアルベルト目掛け突撃する!

 しかしアルベルトもここで万事休すという訳ではない。忌々しげな表情を浮かべる彼のすぐ横の壁が変形し、入口が形作られた。彼は迷わずその入口へと入ると、カンカンと甲高い足音が聞こえてくる。

 花中も入口を潜れば、そこには粗雑な、鉄製の階段が存在していた。

 一般的な鉄製階段とは違い、板のような物が無数に連結して段差や柵、柱を形作っている。階段は螺旋を描き、下方向に延々と伸びていた。非常用の階段として用意されていた、いや、もしかすると今し方『形成』したものか。辺りの壁には電子機器を思わせる機械的な明かりに満ちているため、遠くまでよく見えるのだが……階段の終わりは見付からない。

 此処から清夏が捕まっている部屋はかなり高低差があるらしい。あまりの高さに一瞬気が遠退いたが、どうにか踏ん張り、深呼吸と共に気合いを入れ直して花中も階段を下る。カンカンと段を踏む足音が二つ、周囲によく響く。花中としては急ぎ足で下りているが、下方向から聞こえてくる足音が近付いてくる気配はない。

 もっと早く、もっと急がないと――――しかし花中の気持ちを翻弄するように、時折建物を揺れが襲う。花中の弱々しい足腰では姿勢を保てず、幾度となくその場に蹲ってしまった。その度に、下から聞こえてくる足音は遠くなる。

 やがて階段の終わりと、その先に続く扉が見えた時、階段から『人影』が跳び出した。人影としか思えないぐらい、距離を離されたのだ。

 花中は疲れを訴える自らの身体に鞭を打ち、階段を駆け下りる。しばらくして階段を下りきると、目の前には開きっぱなしになっている非常口があった。花中は非常口を通り、真っ直ぐ伸びている廊下を走る。

 やがてその行く先に『白い部屋』が見えてきて、

「嫌!? やだぁっ!?」

 部屋の奥から、少女の悲鳴が聞こえてくる。

「み、御酒さん!」

 花中は少女の名を呼びながら部屋の中へと突入。

 辿り着いたのは、攫われた後の自分達が置かれていた一室。真っ白な外壁はひび割れ、余波により部屋そのものがダメージを受けていた。もしも部屋にベッド以外の物が置かれていたなら、今頃ぐちゃぐちゃに散乱していただろう。

 そして部屋の中心に立つ二つの人影。

 一人は笑みではなく鬼気迫る表情を浮かべたアルベルト。もう一人は彼に腕を掴まれ、強引に連れ去られそうになっている清夏だった。

「み、御酒さん!」

「花中!? た、助けて!」

「……ちっ、良いからこっちに来い!」

「い、痛い!?」

 花中がやってきた事に気付いたアルベルトは舌打ちをし、清夏の腕を引っ張る。清夏は顔をくしゃくしゃにし、腕の痛みに必死に耐えていた。されどその目には涙が浮かび、連れ去られる恐怖を抑えきれていない事は明らかだった。

 大切な友達に暴力を振るわれ、泣くほど怖い想いをしている。

 花中は臆病者だ。おまけに小学生並、或いはそれ以上に弱い。自分より強い相手を前にしたら、怒るよりも前に途方に暮れてしまうタイプである。少なくともミュータントなどの超生命体相手にはそうなっていた。

 しかしアルベルトは人間である。おまけに科学者で、大人の男性としてはあまりに軟弱な体躯をしていた。勿論如何にアルベルトが男性の中では虚弱そうでも、同世代の女子よりも遙かに弱々しい花中ほどではないだろう。身体能力の差は、先の追い駆けっこの結果からも明らかだ。まともにぶつかり合えば、一分と経たずにやられてしまうに違いない。

 されど、花中の勇気を挫くほど圧倒的な強さではない事も確かである。

「み、御酒さんを……放しなさぁいっ!」

 勇気を振り絞った花中は、アルベルト目掛け駆ける! アルベルトは花中の行動を見てその身を強張らせたが、もう遅い。

 花中はがむしゃらに突撃し、頭から体当たりを喰らわせた! 鈍足とはいえ重量四十キロ程度のものが容赦なくぶつかれば、相応の運動エネルギーを与えられる。おまけに花中の小ささもあって、花中の頭はアルベルトの脇腹辺りに命中。腹筋や胸骨に守られていない、人体でも得に脆弱なポイントに花中の全力が叩き込まれる!

 如何に貧弱な花中の一撃といえども、あまり逞しくないアルベルトを怯ませるには十分な打撃だった。アルベルトは身体を横向きのくの字に曲げ、その顔に苦悶の表情を浮かべる。よろめいた身体は、一歩二歩と真横に動いた。

 しかし清夏の腕を放すほどのダメージは与えておらず、アルベルトは鋭い眼差しで花中を睨み付ける。

「邪魔をするなぁっ!」

 そして空いている方の腕を、花中に向けて振り下ろした!

 アルベルトの『攻撃』に気付いた花中だったが、花中のお世辞にも優れているとは言えない運動神経では回避しようとする動きすら間に合わない。大の男からの打撃を胸に受け、花中は呻きと共に床に転がる。

 痛い。凄く痛くて、涙が出てくる。

 ミュータント同士の戦いなどで殴られたような衝撃は幾度となく受けてきた。しかし直に入れられた腕は、全身くまなく痛め付けられるのと違い、刺すような鋭さがある。慣れない痛みに、花中は身動きが取れなくなってしまった。出来る事なら痛みが引くまで、このまま横になっていたいぐらいだ。

 だけどこの痛みは、絶望しきった顔をしている清夏の心よりも、辛いものなのか?

 否だ!

「ぅ、うりゃあっ!」

 跳び起きるや、花中はアルベルトの足にしがみつく! 体当たりのようなダメージこそないが、動きを大きく妨げる行為。アルベルトを大いに苛立たせるものだった。

 故に彼からの反撃も、必然手痛いものとなる。

「離れろ! 放せ!」

 アルベルトは花中目掛け、蹴りを放ってきた。蹴りは拳の三倍の威力がある、という話は根拠のある理論なのか不明だが、ケンカのど素人である花中やアルベルトのような人間にとっては事実だった。明らかに先程の『腕』よりも激しい打撃が、花中の脇や背中を襲う。痛みで花中はあっさりと足から手を放してしまった。

「う、うぅ……」

「……クソ、なんだってこんな事を……!」

「花中……」

 呻き、横たわる花中に、清夏は困惑と悲しみの顔を見せる。苦痛の中でその顔を見た花中は……自然と、身体に力がみなぎってきた。

 勝ち目などない。自分の非力さを思えば、それは論理的に確定した話である。

 それでもやらずにはいられない。

「わたし、の、友達を……返して、ください……!」

 今の花中を突き動かすのは、その小さな衝動だけなのだから。

 想いが思わず花中の口から漏れ出ると、アルベルトは一瞬キョトンとしたような表情を浮かべる。次いで、ゲラゲラと楽しげに笑い出した。

「ははははっ! 友達? こんなのが? 何を言っているんだか……ああ、それとも勘違いしているのかな? 正体を知らずに、仲良くなれると思っているのかい?」

「……正、体……?」

 やがてアルベルトは語り始め、清夏は呆けたように訊き返す。

 そして花中は血の気が失せた。

「だ、ダメです!? それだけは、それ、だけは……!」

「花中……? 何、何を言ってるの? 正体って、なんの話?」

「ふふ。『これ』自体も知りたがってるじゃないか。なら、教えてあげるのが親切だろう? 自分がどんな存在なのかを知り、身の程を弁えてもらわないといけないよね?」

「必要ありません! そ、それを、したら、わたし、本気で怒ります! 怒って、あの、えっと……!」

 花中は必死に言葉を絞り出し、なんとかアルベルトの蛮行を止めようとする。されど花中がどれだけ叫ぼうと、どれだけ懇願しようと、アルベルトの意地の悪い笑みは崩れない。花中の必死さが清夏の顔に不安を過ぎらせ、その小さな身体を震わせてしまう。

 故に、

「『コレ』は微生物の集合体だ。単細胞の塊でしかないんだよ」

 彼が真実を告げてしまうのを、花中は止める事が出来なかった。




克服☆
着実にとんでも戦闘生命体と化していくフィア達ですが、この星にはまだまだ素敵な命が生きていますよ(地獄)

次回は明日投稿予定。


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あなたはだあれ10

「微生、物……?」

 連れ去られる恐怖など忘れてしまったかのように、呆けた顔を浮かべながら清夏はぽつりと呟く。

 先程まで飛び交っていた悲鳴と罵声と呻きは消え、ビリビリと建物全体を襲う震動の音だけが部屋を満たす。思わず飲んでしまった花中の息さえも、まるで大声のように全員によく聞こえただろう。

 アルベルトはにたりと口角を歪めながら、足下を這いずる花中から目を外し、清夏と向き合う。悪意に満ちたその顔は、下から眺めているだけの花中すら震い上がらせた。清夏は思わずといった様子で後退りするも、アルベルトが腕を掴んでいるため離れる事は叶わない。

「ああ、そうだ。お前は人間じゃない。ただの微生物の集まりだ」

 だから、アルベルトの言葉から逃げる事が出来なかった。

「調査によると、君は酒蔵の中で捨てられていたんだろう? おかしいと思わないか? 普通子供を捨てるのに、酒蔵なんかを選ぶかい? 誰か居るかも知れないし、不法侵入じゃないか。そんな事をするぐらいなら、コインロッカーの中や川にでも捨てる方が合理的だろう?」

「そ、それ、は……で、でも、わ、わたしは……!」

「み、御酒さん! 聞いちゃ、ダメです! そんなの、う、嘘で……!」

 アルベルトが一言一言告げる度に、清夏の顔色がどんどん青くなる。堪らず花中はアルベルトの言葉を全否定しようとしたが、するとアルベルトは一層愉快そうに笑った。

「嘘じゃあない。証拠を見せてあげよう」

 彼は楽しげに宣言するや懐から黒い何か――――所謂拳銃のようなものを取り出し、清夏の脳天に銃口を向ける。

 そしてなんの迷いもなく、引き金を引いた。

 あまりにも一瞬の出来事だった。花中には声を出す暇すらなく、清夏は恐怖で顔を引き攣らせる時間すら与えられない。刹那のうちに銃はその機能を正確に発揮し、小さな出口から鉛玉を吐き出す。その鉛玉は清夏の脳天に食い込むや、速やかに……爆散。

 清夏の頭の半分が、粉々に砕け散った。

「……あ……あぁぁ……!?」

 花中の口から、言葉にならない声が溢れる。

 人間なら即死する状態。人間なら命を失う損壊。人間なら抗いようのない傷。人間なら取り返しの付かない結果。

 しかし清夏にとっては違う。

 頭を半分失いながら清夏は倒れず、自力で体勢を立て直す。命は失われず、それどころか傷口が蠢きながら塞がっていく。十数秒も経った頃には、何もかもが元通りになっていた。

 清夏は死ななかった。人間なら死に至る一撃を受けながらも。なら、彼女が『人間』であると思える者が何処にいるのだろうか?

 彼女自身でさえも、そんな『出鱈目』を信じられるのか?

「え……あ、や、だ……やだ、やだ、やだやだイヤアアアアアアアアアアアアッ!?」

 清夏の叫びが、幻想の終わりを告げた。

「あなた、は……あなたは……!」

「おや、どうして怒るんだい? 僕はただ、真実を伝えただけじゃないか。勘違いは正した方が良いだろう?」

「それが、誰かを傷付けて、良い理由に、なるのですか!?」

「当然だろう? 人間じゃない癖に人間のふりをするなんて、人間に対する冒涜じゃないか……ほら、もう邪魔だから、退いてくれないか? こんな微生物相手に命を賭けても仕方ないだろう?」

 何を怒っているのか、何故そこまで必死なのか分からないと言わんばかりに、アルベルトは肩を竦める。

 腸が煮えくり返るとは、今のような感情を指す言葉か。

 産まれて初めての、憎悪と呼んで差し支えない感情が花中の中から溢れてくる。炎よりも熱く、マグマよりも粘着いた負の感情が、痛め付けられた花中の身体を立ち上がらせた。

「しつこい」

「うぐっ!?」

 しかし立ち上がったところで、アルベルトの蹴りに耐えられる身体になった訳ではない。

 お腹を蹴られた花中は、またしても床に転がり……今度は起き上がれず、その場で丸くなってしまう。

 邪魔者が居なくなり、アルベルトは清夏の腕を引く。今の清夏は抗う事もなく、引かれるがまま歩き出した。アルベルトの後ろをのろのろと、しかし一歩ずつ着実に進んでいく。刻々と花中から離れてしまう。

 花中は、その後ろ姿を眺めるばかり。

 このまま、何も出来ないのか?

 自分に力がないから、清夏を救い出せないのか。無力だから、奪われるしかないのか……悔しさやら悲しさやらで花中の目に涙が溜まり始める。しかし痛め付けられた身体は床を叩く事すら出来ず、花中は歯を噛み締めるばかり。

 やがてアルベルトは部屋の壁に近付く。あの壁は自動ドアみたいなもので、これまでに見てきた建物の変形機能と同様のものが搭載されていると思われる。きっと何処からでも、彼は部屋から出られるのだ。

 即ち手を引かれる清夏もまた、このままでは部屋を出てしまう。

 花中は清夏を呼び止めようとした。なのに喉は震えるだけで、声は出てきてくれない。何度も何度も、口が空回りするだけ。声とは呼べない、擦れた吐息が出てくるばかり。

 だから清夏が一瞬花中の方を見てくれたのは、ただの偶然だろう。

 その偶然の中で見せた清夏の、何もかもを諦めたような表情が花中の心を揺さぶった。

 このまま、アルベルトの好き勝手にされて良いのか?

 友達を攫い、泣かせた輩に、されるがままで良いのか?

 あの子を……『一人』にさせて良いのか?

 ――――何を馬鹿な事を。

 このまま、逃がして堪るものか。

「……ん? なんだ、扉が開かないな……クソ、さっきの震動で歪んだのか? いや、この自立変形壁は自己修復機能があるからそんな事は……んん?」

 アルベルトが間近に立っても、壁はガタガタと揺れるだけで、人が通れるほどの隙間を作らない。こじ開けようとしてかアルベルトは隙間に指を入れて力を込めるが、壁は一層激しく揺れるだけ。目の前の壁が開くのを諦めて別の場所に移動するが、そこの壁も開かない。

 脱出しようと奮戦、或いはもたもたしているアルベルトの後ろで、花中はゆっくりと立ち上がった。

 身体の痛みは、あるにはある。けれどもそれ以上に身体が熱い。身体の内側に熱した鉄の棒が埋め込まれたような気分だ。

 それは怒りだった。

 人間以外の生き物を踏みにじるアルベルトへの怒り。彼に対し何も出来なかった無力な自分への怒り……まぜこぜになる中で、一つだけハッキリとした形を残す怒りがある。その怒りが花中の身体を動かし続けた。

 花中は歩く。アルベルトの方へ。

 アルベルトは花中が立ち上がった事にすら気付いていないのか、後ろを振り向く事もなく、苛立ちを露わにしながら壁を開けようとするばかり。花中がその背後まで近付く事は難なく成功し、

「ふ、にゃあっ!」

 花中は間の抜けた、けれども花中自身としては渾身の力を込めた拳を振り上げた!

 念のために言うと、花中は頑張ってアルベルトの後頭部を殴るつもりだった。

 殴ってどうなるとは考えていない。怒りに突き動かされた、衝動的行動だった。反撃される事も分かっていたが、それすら厭わぬ激昂が頭の中を支配していた。そもそも身長的にどう考えても届かないのだが、怒りで我を忘れてそこまで考えが回らなかった。

 即ち声を上げた瞬間、アルベルトが振り向いたのはただの偶然である。

 その偶然により、アルベルトの顎に花中の拳が当たった事も……当たり方が悪くてアルベルトの頭ががくんと揺れた事も、花中の意図した事ではない。

「ごうっ!? お、ご……!?」

 しかし結果的にアルベルトは頭を揺さぶられ――――がくんと、膝を折った。そのままバタリと倒れ、動かなくなる。

 突然の衝撃に備えが間に合わず、脳しんとうを起こしたのかも知れない。或いは倒れた拍子にまた顎でも打ったのか。倒れたアルベルトはビクンビクンと何やら危ない痙攣をしていたが……普段なら自分の起こした結果に震えるところだが、怒りに満ちている今の花中は息を荒くするだけ。むしろ興奮した鼻息を吐き、やってやったとばかりに笑みを浮かべた。

 それから花中は、アルベルトが倒れた拍子に手放した清夏と向き合う。

 清夏は花中と目が合うと、驚いたように身体を跳ねさせる。次いで逃げるようにその視線を逸らした

 直後、花中は両手で清夏の顔を掴む。

「逃げないでくださいっ!」

 そして振り絞るような大きな声で、清夏への『怒り』をぶつけた。

 怒鳴られた清夏は、諦めたような顔に驚きと恐怖の色を見せる。またしても彼女は花中から逃げるように目を逸らすが、花中は清夏の顔から手を退けない。今ここで手を退かしたら、清夏が何処かに逃げてしまうような気がしたために。

「……どうして、逃げるの、ですか?」

「だ、だって……さっきの、見たでしょ……わたし、頭が、吹き飛んで……あんな事が出来るのなんて、人間じゃ、ないんだよ……」

「見ました。確かに、人間じゃ出来ない、事です」

「なら、なんで……なんでわたしを、助けようとしてくれるの?」

 清夏は花中に問い掛けながら、目を潤ませる。清夏の涙に気付いた花中は一瞬息を飲んだ。

 その一瞬の沈黙を、言い淀みや躊躇いと思ったのかも知れない。

 花中が答える前に、清夏は己の想いを爆発させた。

「人間じゃないんだよ!? こんな、頭が吹き飛んでも生きてるなんて……そんなの、漫画に出てくる気持ち悪い化け物と同じじゃん!」

「……化け物なんかじゃ、ありません。あなたは」

「嘘! 本当は花中だって、気持ち悪いって思ってるんでしょ!? だってこんなんじゃ、友達に会えない、彼氏なんか作れない、お母さんとお父さんに顔向けも出来ない……みんなから、気持ち悪いって言われて……わたしだって、好きでこんな身体に、なった訳じゃないのに……なんで、なんでなの……こんな、こんなの……嫌だよ、わたし、なんでこんな気持ち悪い……う、ううう……!」

 花中が否定をしても、清夏は聞く耳を持ってくれない。叫びはやがて嗚咽に変わり、身体からは力が抜け、花中が顔から手を放すと清夏はその場にへたり込んでしまった。

 花中は無言のまま、清夏の前にしゃがみ込む。泣いている清夏の顔をじっと見つめながら、彼女が気持ちを吐き尽くすを、ただただ待ち続ける。

 人間じゃない事だけでもショックなのに、その正体が微生物の仲間となれば尚更だろう。己の正体が人を傷付けてしまう超能力者どころか、醜くおぞましい怪物だと告げられて、動揺しないでいられる筈がない。清夏の気持ちは極めて正しく、即ち『正常』である。

 だからこそ清夏は――――

 しばらくして、ほんの少しだけ清夏の嗚咽が静かになる。未だ清夏は俯いていて、花中と目を合わせようとはしない。立ち上がる気配もない。

 だから花中は出来るだけ顔を近付け、そっと言葉を囁く。

「あまり、わたしの友達を、気持ち悪いって、言わないでください」

 未だ胸のうちで燻る、清夏への『怒り』を乗せて。

「……かな、か……?」

 花中の声に怒りがあると気付いたのか。清夏は顔を上げると、呆けたように呟く。対する花中は、ムスッと口をへの字に曲げていた。普段からあまり良くない目付きを鋭くし、真っ赤な瞳で清夏を睨み付ける。

「さっきから、気持ち悪い、気持ち悪いって。友達が、気持ち悪いって言われたら、どう思いますかっ」

「え……それは、その、なんだコイツとは思うけど……」

「わたし、今すごく、そう思っています。不愉快です。謝ってください」

「いや、でもさっきのは自分に向けた言葉で」

「謝りなさいっ!」

「ご、ごめんなさい!?」

 気圧されたかのように、清夏は謝罪の言葉を伝えてくる。

 謝ってもらえた花中は荒々しく鼻息を一つ吐き、それからにっこりと、微笑んだ。

「……そんなに、自分を嫌わないでください。わたしは、御酒さんの事が、好きなんです。好きな人の事を、悪く言われたら、悲しいじゃないですか」

「だけど、わたし、人間じゃなくて……菌だって、言われて……」

「御酒さんは、わたしが人間だから、友達に、なったのですか?」

「それは……」

 花中からの問いに、清夏は言葉を詰まらせる。

 友達を作る時、相手が人間かどうかを考える者などいやしない。何故なら普通は、目の前で喋っている者が『人間』だと思って友達になるのだから。

 だけどその判断は、生物学的見地から行われたものではない。出生を辿り、DNA検査を施してから友達になろうとする奴なんて何処にいる?

 人間は友達を作る時、相手が人間であるとどうやって判断する? 何を以て友達になろうと思う?

 人間とは、なんだ?

「……御酒さんは、自分が人間じゃなくて、ショック、ですか?」

「そんなの、当たり前じゃない……」

 花中からの問いに、清夏は少しだけ苛立ちを含んだ答えを返す。花中は、そうかそうかと頷き、清夏の目を見る。

「フィアちゃんも、人間じゃ、ありません」

 それから自分の『友達』の正体を、清夏に明かした。

 清夏は一瞬、その目を大きく見開いた。すぐにその目を元に戻せたのは、『超能力』を有する自分が人間ではないのだから、同じく力を持ったフィアも人間ではないと考えられたからだろう。

「正体は、魚、です。水の中を泳いでいる」

「そう、なんだ……」

「ミリオンさんは、ウイルスです。ミィさんは、猫です。みんな、最初から自分の正体を、知っています」

「……なんだ。知らなかったの、わたしだけなんだ……」

「はい。だから、みんな、自分が人間じゃない事に、ショックなんて感じません……そもそも、人間でいたいとか、思ってもいない、子達です」

 フィアが言っていた。自分がフナではなくナマズだったとして、それの何が悲しいのかさっぱり分からないと。

 当然である。種なんて概念は、人間が学問のため勝手に作り出したものだ。いや、人間同士ですら種の概念は統一されたものとは言えない。Aという種がBという種へ進化する時、何百~何万世代も掛けて徐々に推移・分岐するのである。人間の都合でキッチリと分けられるものではないのだ。

 そんな種の概念を、他の生物がどうして気に留めるのか。する訳がないのだ。その区分けは人間の都合で決められたもので、他の生物にとってはどうでも良いもの。自分がなんという種なのか、そんなのは自分の有り様とは関係ないのだから。

「あの子達にとって、自分が何者かなんて、ものは、自分で決める、ものです。誰かに言われたり、何かに縛られたり、するものでは、ないんです。人間である事に、価値なんて、ないんです」

「……でも……」

 花中が励ましても、清夏は俯くばかり。人間じゃなくても気にするな、という花中の言葉は、清夏の力にはなれなかったらしい。

 その事実に花中は微笑む。

 清夏にとって人間とは、それだけ価値がある事なのだ。そして人間に価値があると思う生き物は、この地球上にたった『一種』しかいない。

「それでも、人間でいたかったと、思うのは……人間だけです。なら、あなたは、きっと人間なんですよ」

 故に臆面もなく、花中はその言葉を清夏に告げる。

 こんなのは、詭弁かも知れない。筋の通らない話なのかも知れない。

 だけど。

 それでも『一人』の女の子の涙を止められたなら……きっとそれは、価値のある言葉なのだと花中は思った。

「……わたし、人間……なのかな」

「そもそも、人間って、実は明確な定義が、ないんですよ? 具体的に定めると、差別を許す事に、なりますから。だったらきっと、誰かが人間だと思ったなら、それはきっと人間なんです。その誰かには、勿論、自分自身も含みますよ」

「何それ。人間って、そんな適当なものなの?」

「はい。適当なものが、確かなものって、思うから、色々、面倒な事が、起きるんです。例えば……今、あそこに居る、人みたいな」

 花中はそっと、清夏の背後を指差す。

 そこに立つのは、一人の男性。

 額に青筋を立て、目を血走らせ、歯を食い縛り……その顔には、お世辞にも理性を感じさせない。怒り狂った獣の顔であり、本性を露わにしたと感じさせる。

 人間至上主義者アルベルト・クラーク・ノイマン。

 何時の間にか目覚めていた今の彼に、()()()()()知性は微塵も感じられなかった。

「小娘……優しくすれば、付け上がって……!」

「優しく? 優しい男性は、小さな女の子を、ぶったりは、しないと思いますけど。というか、すごく非人間的な、行動ですよね、それ」

「この……!」

 花中の煽りに、アルベルトは一層怒りを露わにする。

 されどどうした事か、不意に彼の口許が笑みを浮かべた。額の青筋は未だ消えず、口の中身を食い縛ったままにも拘わらず。

 アルベルトの笑みの意図がまるで分からず、花中は顔を顰める。そんな花中が見つめる中、アルベルトは後退りをするように花中達から離れ……懐から小さな機械を取り出した。機械は片手に収まる大きさで、真ん中に一つ大きなボタンが付いている。

「やはり、浪漫というやつは追い求めるに越した事はないね」

 そしてぽつりと独りごちながら、彼は機械のボタンを押した。

 すると、部屋がぐらぐらと揺れ始める。

 フィア達が一層暴れているのか? 近付いてきているのか? ――――そうではないと、花中はすぐに察した。揺れ……いや、振動は自分達の足下から迫り来ている。それもかなりの速さで。

 やがて揺れは立つのもやっとな程になる、と同時に部屋の一部の床が割れるようにスライドを始めたではないか。床の下にあるのは大きな穴で、覗き込んでみなければ詳細は分からないが、一メートルや二メートル程度の深さではなさそうである。落ちたらただでは済まないと、花中は清夏と共に部屋の隅へと逃げた。

 直後、穴から『何か』が現れる。

 それは人の形をしていた。しかし人間ではない。全身が金属で覆われた、全長五メートルはありそうな人型機械だった。ただしフィア達の迎撃に向かった、パワードスーツとは違う。ガッチリとしたフォルムだったパワードスーツとは違い、こちらは手足がすらりとしており、一見して女性的にも思える形態をしている。背中には昆虫の翅のようなパーツが付いていた。頭部にも触覚のような物が二本生えているが、アンテナの一種だろうか。

 さながらアニメに出てくるロボット兵器のようなそれは、まるで自らの意思を持つかのように床へと降り立ち、独りでに静かにしゃがみ込む。アルベルトは駆け足でロボットの傍へと向かい、しゃがみ込んだロボットの胸部に手を翳した。するとロボットの胸部が開き、中にあるコクピットを露わにする。

 アルベルトは、迷わずコクピットへと乗り込んだ。

 コクピットの蓋は自然と閉じ、ロボットはゆっくりと立ち上がる。全身の電子機器が光り、文明の力をその身に滾らせた。それからロボットは、花中達に掌を向けてくる。

 掌にぽっかりと空いた穴。

 それがただの穴だと思うほど、花中は楽観的ではなかった。

「な、何、これ……!?」

【まさかこれを出す時が来るとはね……これはね、そこのサンプルのデータを応用し作られた、最新式の強化外骨格さ! 特異生命体相手には流石に力不足なのと、量産化するにはコストが掛かる代物だったけど……むしろ今はそれが丁度良い!】

 ロボットからアルベルトの声が響く。それと同時に一歩、二歩と、ロボットの足が動き始めた。

 無論、そのロボットは花中達に迫ってくる。

 自分達……否、清夏を捕獲するつもりかと花中はアルベルトの考えを察する。生身では埒が明かず、力尽くでやる事にした訳だ。天才が聞いて呆れる乱暴さであるが、しかしシンプル故に対抗策も限られてしまう。少なくともこの巨大ロボットに清夏が捕まったら、花中が幾ら殴り掛かったところでどうにもならない筈だ。

 捕まってはならない。とはいえ走って逃げきれるとも思えない。何しろ相手は数世紀先のテクノロジーを用いて作られた、人類の浪漫と夢の結晶体なのだ。時速百キロで走っても全く驚かない。

 一体どうしたら……悩む花中だったが、ふと自らの手に優しい圧力を感じた。見れば、清夏が花中の手をギュッと握り締めている。

「……御酒さん?」

「大丈夫。わたし達なら、なんとか出来るよ」

 清夏はにっこりと花中に微笑みを向け、それからアルベルトが乗るロボットを睨み付けた。

「もうアンタの好きにはさせないんだから! あっかんべぇーっ!」

 続いて相手を小馬鹿にした顔を見せ付ける。

 突然の清夏の行動に花中は一瞬呆けてしまう。けれどもすぐ、吹き出すように笑いが込み上がってきた。

 最新式のロボット兵器がなんだというのか。超科学がなんだというのか。アルベルトの魔の手から逃れなければ、清夏は平穏と幸せを手に出来ない。向こうに話し合うつもりがないのなら、黙って不幸を受け入れるか、戦って勝ち取るかの二択だ。

 清夏はその二択のうち、後者を選んだだけ。

 花中も同じ気持ちだ。自分も同じ立場なら、同じ選択をしただろう。勿論花中に目の前の巨大ロボットを倒すような力はない。だけど……知恵を貸す事は出来る。

 きっと自分達なら大丈夫。乗り越えられる。

 花中はそう信じ、清夏のフォローに全力を尽くす事を決意。自信に溢れた笑みを浮かべる清夏と顔を合わせ、花中も笑顔を浮かべる。

 丁度その時、清夏が何かを言おうとして口を開いた。なので花中は清夏の言葉に耳を傾け、

「さぁ、花中! さくっとやっちゃって!」

 何故か、清夏は花中に助けを求めてきた。

 ……何故求められたのか分からず、花中はこてんと首を傾げる。清夏も、合わせるように首を傾げた。アルベルトが操る機械も、その場に立ち尽くす。

「……あの、わたしに、何をやれと?」

「え? いや、だって花中も人間じゃないよね? フィア達と一緒に居るぐらいだし。わたしは力が封じられてるから、ここは花中に頑張ってもらわないと」

 尋ねると、清夏は何を言ってるのとばかりに答える。思い返すと、確かに清夏は捕まる際に力を封じられていた。自分ではどうにも出来ないから助けを求めてきた訳かと、花中は得心がいく。

 顔から、血の気はどんどん引いていたが。

「いえ、わたしは、ただの人間ですけど……」

「あ、そうなの? てっきり花中も人間じゃなくて、フィア達ぐらい強いと思ってたんだけど」

「まさかそんな。むしろ、見た目通り、へなちょこです。完全に、御酒さんに頼ろうと、思ってましたし」

「へぇー、そうなんだ……」

「……………」

「……………」

 沈黙が、二人の間に流れる。やがて二人は揃って、錆び付いた機械のようにぎこちなく、正面を向いた。

 立ち塞がる巨大ロボット。現代科学とミュータント工学の結晶体であるそれは、小娘二人の力でどうこう出来る相手ではない。搭載されているであろうトンデモ兵器なんて使わずとも、一メートルはありそうな足で踏み潰されたら一発KOだ。

 そんな相手に向けて、後先考えずに挑発してしまった訳で。

 花中と清夏の顔は揃って青ざめた。

「あ、えと……その、や、これは、勢いと言いますか、そ、それよりも早く逃げた方が、あの、フィアちゃんが来て」

【建物内の移動速度からして、此処に到達するまで約三百秒。建物の迎撃システムを攻撃モードから防衛モードに切り替えたから六百秒は持つ筈だ】

 反射的に飛び出した花中の情けない脅し文句は、極めて理知的なアルベルトの計算により粉砕される。

 アルベルト達の高度な科学力が導き出した値だ。フィア達が此処にやってくるまで六百秒掛かるという予想は、恐らく寸分の狂いもなく正しい。彼等の超科学を打ち破った、あの劇的な『成長』がもう一度起きる……のを期待するのも無駄だろう。あの急成長は困難に見舞われたからこそ起きた事だと思われ、今や受け身になったアルベルト達がフィア達を苦しめられるとは考えられないからだ。

 そして六百秒とは、言い換えれば十分という事。

【もうサンプルさえ確保出来れば良い……覚悟は出来ているな?】

 十分もの間、超科学により建造された巨大ロボットから逃げきれると考えるほど、花中は楽観的な性格ではなかった。




ロボは浪漫。アルベルトは浪漫が分かる男です。
立場が違えば頼もしい味方なのにね。

次回は4/13(土)投稿予定です


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あなたはだあれ11

 正直なところ、花中は心の奥底ではほんの少しだけ楽観していた。

 ロボット自体はミュータント能力の解析で得られた、超科学の産物だろう。しかし乗組員はアルベルト、つまりただの人間である。人間の肉体には限界があり、故に人間が乗る機体にも限界がある。

 ……そんなのは、五百年前の人間が「鉄のイノシシなんている訳がない」と思うのと同じような愚行だ。五百年後の技術に今の常識が通じる筈がない。

 故にアルベルトの搭乗した機体が一瞬にして弾丸のような速さまで加速したとしても、冷静に考えたなら不思議ではないと思えただろう。

「ぁえっ?」

 されど心の奥底の常識を揺さぶられた花中は、呆然としてしまう。

 アルベルトの乗る機体は、背中から光の粒子のようなものを吐き出しながら直進。僅かながら機体は浮いており、滑らかな機動を見せ付ける。尤も、正しくアニメに出てくるロボット兵器のような速さに、凡人以下である花中の動体視力では反応すら出来ない有り様。

 もしも隣に立つ清夏が花中を突き飛ばさなければ、花中は棒立ちしたままだったに違いない。そして迫り来る高速の金属塊にぶつかり、文字通り身体が粉々になっていただろう。

「きゃっ!?」

 悲鳴と共に突き飛ばされた花中の居た場所を、アルベルトが乗った機体は凄まじい速さで通り過ぎる。超高速で飛ぶ機体は暴風も起こし、突き飛ばされた花中はその風に煽られてごろごろと床を転がってしまう。

 ロボットの方も自らの機動力を持て余しているのか、機体を傾けながら部屋の壁に激突。壁の方は衝撃に耐えられず粉砕され、機体の方もぐるんぐるんと回転しながら吹っ飛んでいた。壁の向こう側には広い空洞があり、機体は十数メートルと飛んで、やがて別の壁に衝突して止まる。

「花中! 大丈夫っ!?」

「は、はい。わたしは、その、なんとか……」

 清夏の心配した声に、花中は顔を上げながら無事を伝える。ただしその視線は恩人である清夏ではなく、アルベルトが乗っているロボットの方を向いていたが。

 もしも普通の戦闘機があのロボットのように吹っ飛んだなら。

 まず強力な遠心力により、機体そのものがぽっきりと折れてしまうだろう。それに最初の壁にぶつかった時点で爆散確定だが……二度も壁に衝突した筈の機体に、遠目で見る限り損傷はない。おまけに空中で静止しており、飛行能力にも支障はないと見える。恐るべき機体強度だ。

 そして遠心力は、何も機体にだけ加わる訳ではない。中のパイロットにも当然襲い掛かる。あまりにも強力な遠心力が加わると両手の自由が利かず、脱出レバーまで手が伸ばせなくなる事もあるという。更に遠心力が強まれば血液が足や頭など身体の末端に溜まってしまい、良くて失神、最悪の場合死に至る。

 アルベルトも激突の衝撃と遠心力で気を失ってくれていればとても楽だったのだが……花中はあまり期待していなかった。何しろ彼の乗る機体は、いきなりとんでもない加速をしてきたのだ。遠心力も、加速度による慣性も、本質的に大した差はない。恐らく慣性を無効化する機能が付いているのだろう。

【ふぅーむ、思ったよりも操縦が難しい。訓練なしの初めての操作でも簡単に、というのもコンセプトだったが、もう少し改良した方が良さそうだ】

 花中が想像した通り、空中で浮遊する機体からアルベルトの元気な声が流れてきた。曰く操縦に慣れていないようだが、圧倒的機体性能を思えば安心は出来ない。

「か、花中……ど、どうしよう……あんな速いの、何時までも避けられないよ」

「ええ。そうですね」

 不安げな清夏の言葉に、花中も同意する。

 さて、どうするか? 今し方の『一撃』のお陰で、花中は今後について考えるだけの情報を手に出来た。早速思考を巡らせる。

 まず、普通の攻撃ではアルベルトを止める事など出来ない。先の機体がどれほどの速さで突っ込んできたか具体的には分からないが、正しく弾丸のようだった。それほどの速さで『事故』を起こしていながら、機体どころか搭乗員もピンピンしている。建物の崩落に巻き込むだとか、全速力で突っ込んできたのを避けて壁にぶつけるなどの、『常識的』攻撃は通用しないと見るべきだ。

 しかし走って逃げきれるような、そんな生温い速度でもない。自分達がのろのろ走ったところで、向こうからしたら立ち止まっているようなものだろう。簡単に追い付かれてしまう筈だ。体力を無駄遣いした分、むしろ窮地に追い込まれるかも知れない。

 以上の事から、花中が閃いた打開策は二つ。

 一つはフィア達が来るまで持ち堪える、或いはフィア達の下へと向かう事。アルベルトも認めていたが、あのロボットの性能ではフィア達ミュータントには到底敵わないだろう。羽虫のように逃げ惑うのが精いっぱいで、一撃で叩き潰される程度の存在だ。成長したフィア達なら、逃がす暇すら与えないかも知れない。

 とはいえフィア達が今何処に居るのか、花中には分からない。待とうにもアルベルトの言葉を信じるなら、フィア達の到着まで十分ほど掛かる。合流は難しいと言わざるを得ない。

 なら、現実的な対抗策はもう一つのみ。

「……御酒さん。無茶は、承知なのですが……なんとか、あのロボットを、倒しましょう」

 この場に居る『清夏(ミュータント)』の力で、アルベルトを撃破するという作戦だけだ。

「わ、わたしが!? で、でも、爆発の力、使えなくて……」

 花中からの提案に、清夏は驚きと否定の意見を述べる。無論花中も、今の清夏が爆発を使えない状態なのは忘れていない。恐らくアルベルト達の解析により、可燃性ガスを分解するような物質が部屋の空気を満たしているのだろう。

 されど、だから為す術がないと諦めるのは早計だ。

 ミュータントにどれほどの可能性があるのか、そして清夏の『力』がどんなものであるか、今日の花中は嫌というほど見てきたのだから。

「御酒さん。あなたの力は、あなたが思う以上に、とんでもないものです」

「わ、わたしが、思う以上に……?」

「アルベルトさんが、言っていました。あなたの力……あなたから手に入れた様々な物質を使って、恐ろしい技術を、手にしたと。あのロボットも、あなた由来の技術で、作られている筈です」

「わ、わたし、由来の……でも、わたし、爆発を起こすだけで……」

「それが、勘違いなんです。あなたの力は、そんな()()()()ものじゃない」

 困惑する清夏の横で、花中の思考が駆け巡る。

 アルベルトは言っていた。清夏の正体は微生物の一種であると。

 なら、一体どんな微生物なのだろうか。彼女が酒蔵で拾われた事を考慮すれば、答えは自ずと明らかになる。そしてその微生物の能力と、アルベルト達が入手した技術の源を併せて考えれば……一つの恐ろしい力に辿り着く。

 こんな出鱈目な力があり得るのか? ほんの十数分前までの花中なら、自分の辿り着いた結論に疑問を抱いてしまったに違いない。されど今は違う。ミュータントという存在が、人智では計り知れない事を花中は深く理解したのだ。今更何を迷うというのか。

 花中は大きく口を開け、その言葉を伝えた

 筈だった。

「        」

 なのに口から出てきたのは、吐息にすらなっていない声だけ。

 口が空回りした訳ではない。確かに喉を震わせ、肺から空気を押し出し、自分なりの大声を発した感覚がある。なのに声は自分ですら聞き取れず、清夏の顔もキョトンとしたまま。

 声は間違いなく出ている筈なのに、音が出ていない。

 花中がこの『不可思議』な事象の原因をアルベルトと決め付けるのに、数秒と掛からない。振り向けば、アルベルトが乗る機体は片腕を花中の方へと向けている姿が見えた。

【……危ない危ない。君の声の波長と逆位相の音波をぶつけて、声を掻き消させてもらったよ】

「   」

 そんな……と声を漏らしたつもりだが、やはり自分の声は聞こえてこない。

 アルベルトが今更嘘を吐くとも思えないし、原理的にも納得は出来る。恐らくは彼が言う通りの技術が使われたのだろう。

 衝撃を受けたのは、そうまでして自分の『言葉』を封じられた事の方だった。

【学を付けられると、流石に少し面倒だからね。さて、次はサンプルを黙らせるとしようかな!】

 しかしその事に打ちひしがれる暇もなく、アルベルトが乗る機体は花中達目掛け飛来してくる!

 五メートルはある巨体は背中にある翅を広げ、さながら虫のように軽やかな動きで迫ってきた。あまりにも滑らかな飛び方に、一瞬大した力はなさそうに見えたが、しかし巨体から繰り出される運動エネルギーを想像して花中は顔を青くする。

 幸いだったのはアルベルトの機体が床に対し垂直の角度を、つまり翼の先で床を斬るような傾きを付けた事。機体の翼が水平を保っていたなら、高く跳び上がる事も速く走る事も出来ない花中は、今頃胴体が真っ二つだったに違いない。

 不幸だったのは、アルベルトの乗る機体の翼は、花中と清夏の間に割って入るようなコースを取っていた事だった。

「    !?」

「きゃっ!?」

 襲い掛かる刃のような翼に、花中は驚きからひっくり返ってしまい、清夏も飛び跳ねて避ける。どちらもギリギリで直撃を避けたが、通り過ぎた余波もあって、花中達は引き離されてしまう。

 しまった、と思った時にはもう遅い。機体は ― 通常ならば中の人間がぐしゃりと潰れてしまうほどの ― 急旋回を行い、再突撃。

 狙われた清夏は避けようとしたが、相手の機動力の方が遙かに上。機体の翼が直撃し……清夏の腕に、深々とした断面を刻む。

「痛っ!? ひ、あ、あぁ……!」

「     !          !」

 自分に出来た傷を目にして、清夏の顔が青ざめていく。花中はなんとか落ち着きを取り戻させようとするが、やはり声は出てこない。

 清夏は流れる血を止めようとして、出来上がった傷を必死に片手で押さえる……が、直後に光の線が、清夏の腹から延びるように生えた。光の太さは五センチほどで、見えたと思った直後に消えたが、光が通った場所は穴という形で残る。

 そう、清夏のお腹には、五センチほどの穴が空いていた。

 小さな穴から、どぽどぽと赤黒い体液が溢れ……ない。恐らく危険な損傷故に、清夏の意思を無視して傷が塞がったのだろう。けれどもその様を見ていた花中は「ああ、大きな怪我にならなくて良かった」とは決して言わない。顔面蒼白で震える清夏を前にして、そんな能天気な考えは過ぎりもしなかった。

 しかし今の光はなんだ?

 答えは、光の軌跡を辿れば明白だった。清夏を斬り付けたアルベルトの機体が、二十メートル以上離れた位置で、銃のようなものを構えていたのだから。

 アレはなんだ? まるで花中のそんな考えを読み、答えるかの如く、アルベルトの乗る機体は花中の目の前で銃の引き金を引いた。瞬間、銃口から放たれたのは一直線に伸びる光……光線だった。しかし通常のレーザーと違い、光は弾丸が超高速で放たれるような、そのような挙動を見せる。アニメなどに出てくる、光線銃と例えるのが一番分かり易いだろうか。正しく空想兵器と呼んで差し支えない、現代科学の常識に当て嵌まらない攻撃だ。

 二発目の光線銃は清夏の頭を掠めるように当たり、彼女の頭の一部を抉っていく。バクテリアの塊である清夏にとって、この程度の損傷は擦り傷のようなものだろう。即座に肉が盛り上がり、傷は塞がった。

 しかし()()()()()()()、致命的ではなくても治療が必要な傷。

「ひぃ!? 痛い、痛い痛い痛いっ!」

 清夏は目からぼろぼろと涙を零し、既に治っている傷痕を両手で押さえながらしゃがみ込んでしまう。

 アルベルトの機体は清夏の『隙』を見逃さない。光線銃を下ろすや三度高速飛行を始め、無防備な清夏に翅による体当たりを喰らわせる。刃のように鋭い翅は清夏の身を易々と斬り、清夏の頭が縦に割れた。傷はまたしてもすぐに治るが……清夏は、悲鳴とも叫びとも取れる声を上げる。

「あああああああぃぃっ!? ひいぐういいいいいいいぃぃっ!?」

【ふぅむ、思ったよりも効果があるようだ。ほら、さっさとその身の丈に合わない神経回路なんか捨てて、大人しいサンプルに戻れよ】

「嫌ああああっ! やだ、助けて! お母さぁん! お父さぁぁん!?」

【……全く、躾はきちんとやらないとね】

 這いずるように逃げる清夏に、アルベルトは光線銃を撃ち込む。今度は両手に一発ずつ。傷を押さえる事が出来る手に傷を負い、清夏は悲痛な叫びを上げた。

 ひたすらに嬲り、蔑み、傷付ける。

 惨たらしいという言葉すら足りぬアルベルトの暴虐に、花中は心の芯が震え上がる。同時に沸騰するような怒りも込み上がってきた。

 そして彼の意図も脳裏を過ぎる。

 一見してここで繰り広げられている行為は、ただの暴虐であり、散々辛酸を舐めさせられた事に対する八つ当たりにも思える。されど優秀な科学者である彼が、人類への狂信的愛を持つ人間が、迫り来るフィア達(絶望)を知りながら悠長に遊んでいるとは思えない。猶予はたったの十分しかないのだ。つまりあの残虐非道の行為には、別の目的がある。

 花中が辿り着いた推論は、アルベルトは清夏の心を潰そうとしている、というものだった。

 人間としての心があるから脱走を企てる、人間だという想いがあるから非道な実験に拒否を示す……ならばその人間の心を消し、本来の正体である微生物――――『単細胞の集まり』としての心に戻してしまえばどうだ? 単細胞生物は何をされても文句など言わないし、抗議も行わない。与えられた栄養を下に増殖し、『仲間』が殺されても心を痛めたりしない。当然脱走など企てる事すらしないため、定められた管理方法を守れば流出すらしなくなる。これなら『事故』はもう起こらない。ゆっくりと研究を重ね、フィア達にリベンジが出来るのだ。

 では人間としての心を消すには、どうするのが一番か? それは人類の歴史が教えてくれる。

 即ち、拷問だ。

 徹底的に加えられる痛み、それと同時に起きる非人間的能力……これにより、清夏の心身に過度の負荷を掛けようとしているのだろう。人間ならばこれほど痛め付けられれば心より前に身体が駄目になるが、微生物の集合体である清夏にその心配はない。徹底的に、無慈悲に傷付け、人間ぶった事を後悔させる……それがアルベルトの狙いなのだ。

 このままにはしておけない。身体の傷は後で適当な栄養素でも与えておけばいくらでも治るだろう。だが清夏の心が摩耗し尽くしてしまう。人としての心を失い、反射的な行動のみを取る単細胞の集合体へと()()()しまうのだ。

 それは御酒清夏という『人間』の死と、なんら変わりない。

「(どうにか、しないと……!)」

 清夏を救うために、花中は思考に全意識を集中させた。

 打開策はある。清夏が己の真の力を自覚し、それを用いれば良い。彼女の『本当の力』の前ではアルベルトが操る超技術など羽虫同然なのだ。そして花中は清夏の『本当の力』に気付いており、後はそれを伝えるだけ。

 しかしアルベルト達の技術により、花中は声を封じられている。清夏の声やアルベルトの音声が聞こえる事から、花中の声の波長をピンポイントで打ち消しているのだろう。場所を移動してみたり、声色を変えてみたりしたが、やはり声は聞こえない。こんな小細工で技術的な隙間を付くのは難しそうだ。

「(何か、ないの!? 何か……)」

 周囲を見渡す花中だったが、しかし使えそうな道具はない。あるのは精々崩れた壁と、散乱した瓦礫の塊ぐらいなものだ。

 こんな残骸だけで、何をどうしたら良いのか。壁に文字でも書けば良いのか? しかしペンなど何処にも落ちていない。試しに瓦礫を掴んで近くの壁に打ち付けてみたが、傷一つ付かなかった。何度も何度も執拗にやれば小さな傷は作れるかも知れないが、数分で文章を書くのは不可能だろう。

 この方法ではダメだ。そう判断した花中は次の策を考えようとするも、考えが纏まらない。縋るように壁に手を当てながら、頭が痛くなるほどに思考を巡らせ――――

「(……あれ?)」

 悩んでいた花中の脳裏に、ふと一つの案が過ぎる。

 花中は自分の手を当てていた壁を、ぺたぺたと触っていく。壁表面の堅さは、場所による違いはない。材質的な差も感じられず、かなりざらざらとした感触だ。

 そう、まるで紙ヤスリのような。

「……!」

 閃く一つの『秘策』。上手くいく保証はないが、時間の掛かるものではない。試さない理由はなかった。

 後は覚悟と、少し鋭利な何かがあれば良い。

 花中は再び、周囲を見渡した。今度は宝の山が見えた。アルベルトの機体による破壊で、瓦礫はそこらに散乱していたのだから。粉砕された壁や床の一部は、断面が刃物のようになっているのが見て取れる。

 花中は駆け足でそれらに駆け寄った。手を伸ばせば届くぐらい瓦礫に近付いた花中は、足を止めるとごくりと息を飲む。それから深々と息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 ……花中が動いている最中にも、アルベルトの清夏へと『拷問』は続いていた。

【ほらほらほらぁ、まだ諦めないのかい? 往生際の悪さが美徳なのは、人間だけだよ?】

「う、うぅ……!」

 アルベルトの問い掛けに、清夏は耳を塞ぎながら蹲る。

 が、そんな清夏を、アルベルトが操る機体は大きな足で蹴飛ばした。光線銃や飛行突撃と比べあまりにも原始的な一撃は、されど小娘一人を傷付けるには十分。清夏の華奢な身体は宙を舞い、床に転がり落ちる。床には血の跡がべっとりと残った。

 人間なら死んでいてもおかしくない打撃に、床に転がった清夏も苦悶の声を漏らす。しかしアルベルトは同情一つする事なく、清夏の足に光線銃を撃ち込んだ。血と肉が散り、清夏に更なる痛みを与える。

「あぎぃ!? い、ぃ……!」

【痛がるふりとか止めたらどうだい? 微生物の塊である君に痛覚なんてないんだ。精々、個体間の連絡があるぐらいじゃないかな。その気になれば、痛みなんて消せる筈だよ】

 苦しむ清夏に、アルベルトは甘言を囁く。

 彼の言葉は、実際正しいであろう。しかし痛みを消し、何も感じなくなれば、それは普通の人間から一歩遠離ってしまう。無論世界には障害などで身体的な痛みを感じられない人間がいて、彼等の心が化け物染みている訳ではない。痛覚を捨てたところで、清夏の心から人間味が失われるとは限らない。

 けれども自分の意思で痛みを消してしまったら、心のハードルは低くなる。

 一度跳び越えてしまえば、他の辛い事からも『安易』な方法を選ぶのに、どうして躊躇するというのか。最後の一線、という言葉があるが、人が堕落する時は最後で踏み留まる事など稀だ。最初に踏み越えてしまった時点で、終わりに向かって突き進むばかり。

 それを分かっているのか、無意識に感じているのか、単にアルベルトへの拒絶か。清夏は身体を震わせ、痛みに悶え続ける。

【……やれやれ、本当に……しぶとい】

 アルベルトは苛立ちを隠さない声を独りごちるや、機体の足で清夏の腕を踏みつける!

「いぎぁあっ!? あああああっ! ひっ、ひぃっ!?」

【ほらほらぁ。まだ諦めない訳? いい加減その叫びも鬱陶しいんだけど】

「あがっ!?」

 再びアルベルトの機体は清夏を蹴り上げ、清夏の身体は壁に叩き付けられた。べっとりとした血が壁に付着し、清夏は床に落ちる。

 清夏は起き上がり、怯えた眼差しでアルベルトを見る。アルベルトの機体は、呆れるように肩を竦めた。それからゆっくりと、光線銃を構える。

 銃口が狙うのは、清夏の頭だった。

【そうだ、頭を丸ごと入れ替えれば良いのかな? 脳みそがある訳じゃないけど、少しは聞き分けの良い個体が代わりをするかも知れないからね】

「ひっ!? や、止めて……お願い、痛いの、嫌なの……!」

【だから、痛みなんか消せるんだよ。君なら。ほら、練習相手をしてあげるよ。痛みがなくなるまで、何度でも】

 清夏がどれだけ頼んでも、アルベルトは光線銃を下ろしはしない。

 清夏はガタガタと震えながら、逃げるように目を逸らす――――と、丁度アルベルトが乗る機体の後ろに立つ、花中と目が合った。

「か、花中ぁ……!」

 清夏が、泣きそうな声で助けを求めてくる。されど花中には、自身の身の丈より三倍以上巨大な機械を止めるような力なんてない。

 清夏は花中に目を大きく見開いた顔を見せ、困惑し、震えた。ぎゅっと目を閉じ、祈るように、請うように両手を合わせる。

【それじゃあ、一発やってみようか】

 されどアルベルトは淡々とぼやきながら、超兵器の引き金を引く。

 慄く清夏目掛け放たれる光子の塊。音速を超えた速さのそれは、一片の容赦もなく清夏の額目掛け突き進み――――

 彼女の顔の、ほんの数センチ手前で()()()()()

【……あれ?】

 目の前で起きた事象に、アルベルトは呆けた声を漏らす。が、彼の優秀な頭脳は即座に違和感を覚えたのだろう。光線銃から二発目のビームが放たれた。

 されどそのビームの輝きも、清夏には届かない。今度は数センチ手前どころか、十センチは離れた位置で光は消えてしまった。

 それは一見して、清夏が何かをしているかのような光景。事実清夏は『何か』をしていた。でなければビームが消えるなどあり得ない。

 尤も、清夏自身も困惑した様子だったが。

【……お前……何をした】

「え、え? あ、えと」

【何をしたんだ!】

 浴びせられる罵声に驚き、清夏は飛び跳ねると、アルベルトの背後を指差した。アルベルトは素早く、獣染みた動きでその指が示す方角へと振り返る。

 故にアルベルトは目にする。

 ずっと自分の背後に立っていた、花中の姿を。辛そうに息を乱し、涙がボロボロと零れている顔を青くして、今にも倒れそうにしている一人の無力な少女の姿を。

 その花中の掌から、だらだらと血が垂れている事も。そして花中の背後に書かれた、赤黒くて、大きな文字……

 「光をすうものでろとねんじて」という言葉を。

【な、なんだ、これは!? これは、まさか……】

 声だけで驚きと怒りと困惑を示すアルベルトに、顔面蒼白で涙目の花中は、にやにやとした笑みを向けた。

 花中はなんとしても、清夏に自身の本当の力を教えたかった。

 けれども声はアルベルトの手により消されてしまった。なら、どうするか? 文字を書けば良い。でもそのための筆記用具は? ないなら自前のものを用意するまでの事。

 花中は断面が鋭い破片を用い、掌に傷を付けたのだ。そして溢れ出した自らの血液をべったりと壁に塗りたくり、さながらペンキのように文字を書いたのである。

 鋭利な瓦礫が山ほどあって助かった。もしもゴツゴツとした岩のような破片しかなかったら、血が出るような傷を付ける前に参ってしまっただろう。思った以上に傷が深くて、ちょっと貧血気味になってしまったほどだ。加えて壁の表面が比較的ザラザラとしていて、血を乗せやすかったのも幸いした。つるつるしていたら、血がどんどん流れて、書いた文字が潰れた筈である。

 幸運に恵まれたというのもある。しかし恐らくアルベルト達は、想定もしていなかったのだろう。

 こんな原始的な作戦で、何もかも破綻するなんて事は。

【こ、この……!】

 怒りを露わにし、アルベルトの乗る機体は花中へ銃口を向ける。言うまでもなく、花中はただの人間だ。ビームで額を撃たれたなら、一発で仏様の仲間入りである。というよりちょっと血が出過ぎていて貧血気味の今、これ以上の深手を負うと本当の危ない。

 しかし花中は怯えない。今更何を恐れるというのか。

 アルベルトの背後には、彼なんかどうでも良くなるぐらい恐ろしい(頼もしい)怪物(人間)が居るというのに。

「……半信半疑でやってみたんだけどさ、なんか上手くいっちゃったね」

 ぽつりと、少女が呟く。

 その擦れるような声一つで、アルベルトの乗る機体はビクリと震えるように固まる。機体はぎこちなく、恐らくアルベルトの操縦が強張ったもののために、壊れたオモチャのように後ろを振り返った。

 清夏は立っていた。何事もなかったかのように、平然と。

 ただしその瞳は虹のような煌めきを放ち、髪は風もないのに揺らめく。掌が服を撫でると付いた汚れは簡単に落ち、まるで新品のような艶を取り戻す。

 それは、人智を超える姿だった。

【お、前……まさ、か……】

「でもさぁ、なんで出来たんだろうね。『光を吸うものが出るように念じて』って言われて、その通りにやってみたらビームが消えるんだもん。おかしくない? わたしの力って、爆発だと思ってたんだけど」

【う、うぅ……!】

 淡々と独りごちるだけの清夏を前にして、アルベルトの機体は後退り――――したのも束の間、清夏が掌を向けると、その動きはぴたりと止まる。

 否、まるで見えない縄で拘束されたかのように、機体の四肢が束ねられた。頭だけは自由が利くのか、戸惑うように右往左往させていた。

【なんだ!? 何故動きが……!】

「今もさ、『磁力の強いやつ』とか適当に思ってそのロボットに当ててみたんだけど、ふぅーん、そうなるんだ」

 アルベルトの機体が不様にのたうつ横を、清夏は悠々と歩いて通り過ぎる。

 清夏は花中の傍までやってくると、血塗れになった花中の手を撫でる。傷口を触られる痛みで花中が顔を顰めたのはほんの一瞬。清夏の手から出てきた霧状の粉が傷を塞ぐと、痛みと熱さがすっと引いた。

 花中の顔色も少しだけだが良くなり、清夏は安堵の笑みを浮かべる。尤も、その顔はすぐに膨れ面となって、花中への怒りを露わにしたが。

「花中ったらやり過ぎなんだから! 女の子がこんな傷を付けちゃ駄目でしょ!」

「        」

 清夏に叱られ、花中は音にならない声で謝る。清夏も、花中がどんな状態なのかは知っている。聞こえない謝罪の言葉に、清夏は申し訳なさそうに顔を俯かせた。

【このカビ風情がぁ!】

 その最中、アルベルトの咆哮が室内に響き渡る。

 同時に、身動きが封じられていた機体が、拘束を弾き飛ばすかのように力強く四肢を広げた。

 自由を取り戻したか、と思い花中はアルベルトの機体に目を移す。そしてその姿を見た瞬間、彼の乗る機体が大きな変化を遂げている事に花中は気付いた。

 背中から生えていた昆虫の翅状パーツは、まるで十徳ナイフのように中から更に数枚の翅を展開していた。全身から粒子のようなものが溢れ、白く光り輝いている。ほっそりとしていた手足も装甲の一部が開き、甲冑を纏ったかのようなスタイルに変貌していた。

 恐らくはリミッターを解除した姿……或いは出力を暴走させた姿なのだろう。だとするとその戦闘能力は、これまで見せたものの比ではない筈だと花中は確信する。

 機体はぐるりと、花中達の方を振り向いた。無機物でありながらハッキリと纏った怒りの感情と共に。

【貴様……自分が何をしているか、分かっているのか!? お前の愚行が何をもたらすか、考えているのか!】

 アルベルトの叫びに、花中は無言を貫く。どうせ声は出せないのだ。言ったところで届きはしない。

 だが、言いたい事はある。

 アルベルトの言い分は、人間としてはぐうの音が出ないほどの正論だ。花中が人智を超える『怪物』に英知を与えた事で、人類の発展が妨げられようとしている。いや、それどころかこれから世界に溢れるかも知れない、破滅の怪物に抗う力を失おうとしている……大勢の人間からすれば、花中の行動は愚行と呼ぶのもおこがましい大罪に違いない。

 自分の理性も、同じような警告をしていた。フィア達ミュータントの成長を見逃してはならないと。このままでは人の世が終わってしまう。人間としてすべき事は、アルベルトの手助けに他ならない。

 だから花中は心の中で思う。

 「それがどうした」、と。

 誰かの大切な友達が虐めておきながら、世界の平和がどうのこうのなんて、どの口が言えるのか。そんな輩の語る世界平和など、人類愛など()()()()()だ。種の存続や繁栄? そんなものを願い、目的とする生物種はこの世にいない。次代を残すのに役立たない性質の個体が死に絶え、役立つ性質を引き継いだ個体が繁栄するだけ。本能という名の衝動に突き動かされ、誰もが好き勝手にやっているだけだ。

 花中もまた、その本能に突き動かされただけの事。友を助けたいという根源的想いの前に、人類への愛という『高尚』な思想などありはしない。

 花中は大きな声でその小さな胸のうちにある言葉を発する。アルベルトが操る機械により、花中の声は外には届かない。けれども大きな口の動きを見たなら、きっと誰もが花中の発した言葉を理解するだろう。

 バーカっ、の一言を。

【こ、この小娘があああああああっ!】

 瞬間、アルベルトは機体を花中達目掛け突撃させる! 恐らくは音速を超えた、超スピード。花中はおろか、清夏にも見えていないだろう。

 尤も、見る必要などないのだが。

 アルベルトの操る機体が清夏の五メートル圏内に入った――――瞬間、機体がじゅわっと音を立てながら白煙を撒き散らす。飛行速度はまるで急ブレーキを掛けたかのように遅くなるが、装甲の消える速さは衰える気配すらない。外側フレームは瞬きする間もなく消失し、次いで内部の機械が尽く消えて、アルベルトの姿が剥き出しになる。

 そのアルベルトも、着ていた服がどろりと溶け、あっという間にすっぽんぽんに。

「はぇ?」

 間抜けな声を漏らした大人が一人、花中達の頭上をすっ飛んでいく。花中達に手足の一部が掠る事もなく、下着すら着けていない裸族が空を駆けた。

 言うまでもないが、人間は空を飛べないものである。アルベルトの飛行は彼が先程まで乗っていた、今し方一瞬で消失した機体の慣性によるものだ。

「え、わ、わ、あひああああああああああああああああっ!?」

 故にアルベルトが、どれだけ悲鳴を上げようと、どれだけ手足をばたつかせようと、その軌道を変える事は出来ない。

 天才科学者は猛スピードで、部屋の壁に激突。

 壁から剥がれるように落ちた時、彼は白眼を向いて失神していたのであった。




全裸の男が空を飛ぶ。
需要はなさそうですが、本作需要など気にせず書いてますゆえ。

次回は明日投稿予定。


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あなたはだあれ12

 素っ裸になったまま床に寝転がるアルベルトを、花中は靴の先でちょんちょんと突っついてみる。

 するとアルベルトはビクビクと痙攣するように動き、花中を驚かせた。が、アルベルトの見せた動きはたったそれだけ。起き上がる気配どころか、白眼を向いている目に理性が戻る様子もない。

 どうやら完全に失神しているらしい。

 先の激戦で周囲はすっかり瓦礫だらけで、アルベルトも石ころの布団の上で寝ている状態。部屋の空調も壊れたのか、気温もちょっと温いぐらいまで上がっている。どう考えても寝心地は最悪なのだが、この調子なら彼は当分眠りこけているだろう。

 つまりはもう彼に襲われる心配はないという事であり、花中は胸を撫で下ろした。

「花中……えと、その人……」

 確かめ終えた花中に、離れた位置で待機していた清夏が弱々しく尋ねてくる。言葉は途中で途切れたが、続きを察するのは容易だ。

「気絶している、だけです。当分、目覚めそうには、ないですけど」

 故に花中は正直に、自分の考えを伝える。

 花中からの答えに、清夏は安堵するように息を吐く。その安堵は、アルベルトが気絶している事に対するものか、アルベルトが死んでいない事に対するものか……

 恐らくは両方なのだろう。

「……死なないように、手加減しましたよね?」

「え? あ、うん……」

 花中が尋ねると、清夏はおどおどしながら頷く。

 その気になれば、清夏は機体諸共アルベルトをどろどろに溶かす事が出来た筈だ。何故なら清夏の本当の能力は……『自分の思い描いた物質を合成する』事なのだから。

 アルベルトの言葉と清夏の生い立ちを考えるに、清夏の正体は『酵母菌』の一種……恐らくはアルコール酵母だろう。アルコール発酵に用いられる酵母菌は、主に糖類を分解してエタノールと二酸化炭素を合成する。この性質がミュータント化によって強化され、アルコールのみならず様々な物質を合成出来るようになったのだ。アルベルト達はなんらかの手段で清夏の能力を見付け、様々な方法 ― 恐らく採取した細胞(正確には『個体』だが)にストレスを掛けたり、与える糖の種類を変えたりして ― で多様な物質を合成させたのだろう。

 今まで爆発しか起こせなかったのは、最初の脱走時に爆発を起こした事でそれが自分の力だと誤解したのが原因と思われる。本当の力を自覚してしまえば、あとは念じるだけ。それだけで欲しい物質が簡単に手に入る。

 清夏はその力によって、『人体以外が溶けるガス』と『空気抵抗が大きくて減速するようなガス』の二つを撒いたのだ。これによりアルベルトは機体から投げ出され、気絶する程度の勢いまで減速してから壁に衝突した訳である。

 言うまでもなく、『何もかも溶かすガス』を出せばアルベルトは跡形もなく消え、『減速するガス』を撒かなければ彼は超音速で壁に激突する事になった。前者は兎も角、後者は助ける意図がなければ作らない筈である。

 清夏は自らの意思で、アルベルトを助けたのだ。

「良かったの、ですか? その、この人は、あなたに酷い事をして、人生を、滅茶苦茶にした、張本人ですよ」

「それは……そうだけどさ……でも……」

「でも?」

「……人殺しには、なりたくないじゃん」

 清夏は顔を赤くしながら、花中の疑問に答える。

 清夏の言葉に、花中は数秒ほど真顔を浮かべた。次いで目尻が下がり、頬がぷくっと膨らむ。

「……………ぷふ」

「ちょ!? なんで笑うのよ!? 変な事言ってないでしょ!?」

 そして笑いが吹き出してしまった花中に、清夏は顔を真っ赤にして怒る。無論花中とて、清夏を馬鹿にしたつもりは一切ない。

 ただ、嬉しかった。

 フィア達がこの状況に直面したら、「じゃあ止めを刺しておきますか」とでも言うに違いない。野生生物である彼女達が、自分を追い詰めたものをむざむざ逃す筈がないのだから。それを言わないというのは清夏の優しさであり、彼女が未だ()()()()()事の証明である。

 清夏の心の傷は、手遅れにはなっていないようだ。それを確信出来た花中は、思わず笑いが漏れ出てしまっただけなのである。

「ごめんなさい。ちょっと、嬉しくて」

「何よそれ……もうっ」

 花中の謝罪に誠意を感じられなかったのか、清夏は頬を膨らませる。が、口の空気はやがて漏れ出し、笑い声となった。花中もつられるように、もう一度笑い出す。楽しげな笑い声が、廃墟のように荒廃した部屋の中を満たした。

 尤もその笑いは、突如崩れ出した天井が響かせる轟音に飲まれてしまう。

 不意の出来事に花中と清夏は笑みを消し、愕然とした表情を浮かべた。されど二人が抱いた驚きの感情は、花中はすぐに、清夏でも少し経った時には消えてしまう。

 何しろ崩落する瓦礫達に紛れ込んでもハッキリと見える、金色の髪を揺らめかせる少女の姿が見えたのだから。

「フィアちゃんっ!」

「花中さんっ!」

 花中の呼び声に応えるように、爆音にも似た着地音と、それに負けず劣らず大きな喜びに満ちた声を美少女――――フィアは上げた。

 アルベルトはフィア達の到着まで十分は掛かると言っていた。もうそんなに時間が経っていたのか、それともフィアの実力がアルベルトの計算を上回ったのか……時計がない今、どちらが事実なのかは分からない。分かったところで今更どうでも良い事だ。

 花中にとって、フィアにとって大事なのは、大切な友達ともう一度会えた事なのだから。

 花中を見付けたフィアは辺りの瓦礫を蹴飛ばしながら猛然と走り出し、花中も堪らず走り出す。一人と一匹はお互いに大好きな相手を、両腕を広げながら迎え入れ

「花中さぁぁぁんっ!」

「フィアちゃげぼぉっ!?」

 大質量(フィア)と激突し、花中は感動の再会に相応しくない呻きを上げた。物理学的には、そこそこの速さで突っ込んできた自動車に自分から跳び込んだようなものなのだから当然である。

 しかしながら喜びで舞い上がっているフィアは、そんな『些末事』など気にも留めていない。衝撃で目を回す花中を、人外の馬力でぎゅっと抱き締めた。

「ああ花中さん大丈夫ですかお怪我はしていませんか何処か苦しいところはありませんかなんか凄い血の臭いがしますけどおおおおおおおおっ!?」

「ぎ、ギブ、ギブぅ……!」

「あ、フィア。それ本当にヤバそうだから待って。いや、冗談抜きに」

 清夏が止めなければ、果たしてどうなっていたか。

 脳裏に「お尻の下敷きになったシュークリーム」のイメージが過ぎる花中だったが、幸いにして想像が具現化する前にフィアは力を緩めてくれた。花中は息を整え、不安そうにしているフィアに笑顔を向ける。無論作り物ではない、本心からの笑みだ。

「えと、わたしは、大丈夫。ちょっと、手を怪我したけど、御酒さんが、治してくれたから」

「手をですか!? 見せてください……ううこれかなり酷い怪我じゃないですか。ああでももう塞がっているみたいですし大丈夫そうですね」

 花中の右手を掴んで覗き込んだフィアは、物悲しげな表情を浮かべる。とはいえ傷が癒えているのを確かめると、心底安堵していた。

 フィアとしては、傷が治ればそれで良いのだろう。彼女達は『動物』なのだから。しかし人間は、これで終わりとはならない。

 フィアが言うように、花中の手の傷はもう塞がっていた。生命線のように長くくっきりとした、手相と違って肉が盛り上がった傷痕という形で。

 肉が盛り上がっているという事は、恐らく細胞増殖によって塞がったものと思われる。傷を見た清夏は粉のようなものを振りかけてくれたが、あの粉状物質には相手の生命力を活性化させるような効果があったのだろう。時間こそ非常識なレベルであるが、治り方としては自然治癒と大差ない筈だ。

 ならば傷が残るかどうかの境界線も、自然治癒時と変わらないだろう。傷は真皮まで達すると、修復した跡が残るとされている。あの時花中は一定以上の血が出る深い傷を、一発で ― 何分自分が臆病者なのは重々承知している。半端な傷を付けてしまったら、間違いなくそれ以上の痛みを想像して手足が竦むに違いなかった ― 付ける必要があった。なので割と思いっきり傷を刻んだため、もしかするとこれは一生残るものかも知れない。

 早々他人からは見えない場所であるが、少女の身体に傷が残ったのは確たる事実。

「あの、花中……ごめん。わたしが、上手く治せなくて……」

 清夏が傷痕を見て謝ってくるのも、彼女が『人間』だからだ。

「まさか何か後遺症が残るのですか?」

「後遺症というか、傷痕が残るかも知れないし……」

「? それの何が問題なのですか?」

 フィアは首を傾げ、何がいけないのか分かっていない様子。彼女達野生生物からすれば、生きるのに支障がない傷痕などどうでも良いものなのだ。

 そして花中にとっても。

 傷痕が残って喜ぶような勇ましい性格などしていない花中であるが、元より自身の美醜自体にあまり関心がない。頬などに出来た傷ならかなりショックを受けただろうが、掌という目立たない場所ならあまり気にならなかった。

 それに友達を守るために刻んだ勲章と思えば、むしろ消えるのが勿体なく感じるぐらいである。

「えへ、えへへへへへへ」

「……え? なんで花中、ちょっと嬉しそうなの?」

「さぁ?」

 漏れ出た笑いに怪訝そうな顔を浮かべる友人達。されど花中はニタニタとした笑みを消せない。

「カチコミじゃごらぁっ!」

 笑顔が真顔へと変化したのは、室内の壁の三割を粉砕しながらミィが現れた時。

「ようやく見付けたわ……あら、私が最後みたいね」

 その直後、反対側の壁を砂塵に変えて侵入してきたのはミリオン。

「ミィさん! ミリオンさん! 大丈夫、でしたか!?」

「お、花中じゃん。勿論全然余裕だったしぃ?」

「やっほー。ちょっと手間取ったわ。お陰で良い勉強にはなったけどね」

 現れたミィとミリオンを前にして、花中は喜びの声を上げた。本当なら二匹の下に駆け寄りたいが、フィアに抱き締められていて、生憎それは叶わない。フィアが居なくても、二匹はそれぞれ向かい合うように現れたので、身体が一つしかない花中は真ん中で右往左往するばかりだろう。

 動けない花中に代わり、ミリオンとミィは自ら花中の下へと集まる。どちらも勝ち誇った笑みを浮かべ、ミィは自慢げに胸を張り、ミリオンは上品に髪を掻き上げた。二匹の仕草はどれも自らの健全ぶりをアピールし、花中の心から不安を打ち消してくれる。

 友達全員の無事を確かめる事が出来て、花中は安堵の息を吐く。

「本当に、心配しました……みんな、酷い目に、遭ってましたから……」

「おや花中さんもしや私が苦戦しているところを見てしまったのですか?」

「う、うん。みんなの、分も……」

「なんと! いやはやこれは恥ずかしい。人間如きにああも翻弄されるとは情けない話ですよ全く」

「えぇー……花中見てたの? じゃあ誤魔化した意味ないじゃん」

「みんな、無駄にプライドが高いわねぇ……勝てば官軍と言うでしょ? 勝ったんだからそれで良いじゃない。それに、みんな見違えるぐらい成長したみたいだし」

「おや分かりますか?」

「ふっふーん、その通り。すっごくパワーアップしちゃったよー」

 わいわいと自分達の苦戦ぶりと成長を誇示するフィア達。彼女達の成長の瞬間をモニター越しとはいえ見ていた花中は、当時の事を思い出す。あの時は彼女達に対し恐怖に近い感情を抱いたが、こうして何時もとなんら変わらないところを見ると、怖がっていた自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。

「あ、あの……みんな! わたしの話も、聞いてくれる?」

 その和やかな雰囲気の中、やや緊張した様子の清夏が話に加わろうとしてきた。

 花中とフィア、ミィとミリオンは一斉に清夏の方へと振り向く。全員に見られた清夏は一瞬後退りしたが、自力で踏み留まり、一人と三匹分の視線に負けない眼力で見つめ返す。

「……わたし、実は……人間じゃなかったの!」

 そして覚悟を決めるような一呼吸を挟んでから、堂々と自らの正体を打ち明けた。

「うん、知ってる」

「知ってたわよー」

 尤も、花中達からするとそんなのは「何を今更」程度の話。

 あまりにも呆気なく受け止められ、清夏はキョトンとしてしまった。

「……え?」

「あ、ちなみに正体はアルコール発酵に用いる酵母菌よ。そこまで知ってた?」

「え? あ、えと、微生物とは、聞いたけど」

「へー、清夏って菌だったんだ。ちなみにあたしは猫で、コイツはインフルエンザね」

「猫? インフルエンザ? え?」

 まるで自己紹介のようにカミングアウトされ、清夏は目を丸くする……尤も、やがて彼女は吹き出すように笑ったが。自分の悩みが、どれだけちっぽけだったのか気付くかのように。

「あれ? 花中さんアイツ変な力がある人間じゃなかったのですか? なんか人間として扱えと言われていたと思うのですが」

「……あ、うん。フィアちゃんの、好きに思えば、良いんじゃないかな」

 ちなみにフィアは花中とした約束を中途半端にしか覚えていなかった結果、清夏の事を人間と勘違いしていた。「何処まで興味がないの」という呆れと「人間だろうがそうじゃなかろうがどうせ態度変わらないし」という思いがまぜこぜになった花中は、大変雑な返事をする。フィアは特段気にした様子もなく納得していた。

 ……さて。楽しい話に花が咲き、このまま何時間でも過ごせそうだが、そうもしていられないだろう。

 アルベルトは恐らくフィア達の打倒を諦めていない。その事自体は、未来を思えば是非とも努力してほしいと花中も思う。しかし友達が傷付けられ、一人の少女の一生を狂わす事は容認出来ない。殺すのは花中の信念に背くのでやらないが、誘拐犯として警察には突き出しておくべきだろうと考える。

 なら、気絶している今のうちにアルベルトさんを拘束してもらわないと……花中は友達三匹への依頼を思い描きながら、ちらりとアルベルトに視線を向けた

 つもりだった。

「あれ?」

 されど花中の口から出たのは、友達にお願いをする言葉ではなく、疑問の声。

 何故なら自分の見た先に、アルベルトの姿はなかったのだから。

「あ、あの、すみません。皆さんに、一つ、確認が……」

「ん? なぁに、はなちゃん」

「えと、あそこに寝ていた、人が、何処行ったか、知りませんか……?」

 花中がアルベルトの寝ていた場所を指差すと、フィア達ミュータントは互いの顔を見合う。言葉はなく、数秒の沈黙があるだけ。

 されど生物的第六感による交信か、本能の奇跡による読心術か、或いはあまりにも簡単な質問だったからか。

「「「裸で寝ていた男ならあっちに逃げていきましたよ(いったよ)(いったわよ)」」」

 三匹は声をぴったりと重ね、同じ方角を指差しながら、打ち合わせたように同じ文章で答えた。

 裸で寝ていた男ならあっちに逃げた。

 なんと簡潔な文章だろう。解釈違いを心配する必要のない、素晴らしい回答だ。けれどもそれが花中の、そして清夏の心を掻き乱す。

 つまり、アルベルトが何時の間にか逃げ果せていたという事なのだから。

「な、な、なな、なんで?! なんで逃がしてんのよ!?」

 顔を青くした清夏が、フィア達を問い詰める。彼女からすれば悪の権化が解放されたようなものだ。平静ではいられまい。

 おまけに何処に逃げたか知っているという事は、フィア達は気付いていながらアルベルトを逃がしたという事だ。何故そのような行為に出たのか清夏には、いや、彼女達と一年以上友達をしている花中にも分からない。

 故に向けられた追及なのだが、フィア達はポカンとした、言ってしまえば間抜け面を浮かべる始末。責任を感じる以前に、何故清夏が必死なのかも分かっていない様子である。

「なんでって……だって裸でしたし」

「うん、裸だったからね」

「そうね、裸だったもの」

 ややあって出てきた答えは、何故か三匹とも裸であった事に関するもの。

 質問との関連性がまるで見えない答えに、花中も清夏も動揺する。

「えと、ど、どうして……?」

「あまりに不様な姿でしたから戦いに巻き込まれた一般戦闘員の一人かなぁと」

「悪の親玉が全裸でぶっ倒れてる訳ないし」

「逃げ方も股間を隠しながらこそこそーってしてて、こっちの視線に気付いたら顔真っ赤にしちゃうし。なんか指摘するのも可哀想に感じて……」

 花中が詳しく訊いてみれば、どうやら三匹とも、アルベルトが重要人物だと気付いていなかったらしい。

 確かに花中も、全裸でぶっ倒れている男を見て「コイツが今回の首謀者だ」とは思わないだろう。いや、むしろ思いたくもない。『あんなの』に殺されかけたとなると尚更である。彼が機器を操作しているところを見てないフィア達が全く警戒しなかったとしても、仕方ないというより納得のいく話だ。白衣の一枚でも着ていれば、学者の類と見抜いて多少は不信感を抱けたかも知れないが。

 つまり。

「……わたしの所為?」

「……服ぐらいは、残した方が、良かったですね」

 清夏からの問いを花中は否定出来ず。

 しばし顔を見合わせ、二人は同時にゲラゲラと笑い出した。

 あれだけ超科学を誇りながら、最後は全裸でこそこそと逃げ出す。想像しただけで、おかしさで花中はお腹が痛くなるほどだ。きっと、清夏も同じ気持ちなのだろう。

「あー! どうしてやろうかと思ったけど、なんかもう、どうでも良くなってきちゃった」

「……そうですね。もう、あんな人なんか、どうでも良いですよね。そんな事よりも……」

「……うん」

 花中の途切れた言葉に同意するように、清夏はこくりと頷いた。

 最早フィア達にとって、この建物にある兵器は脅威でもなんでもない。全てを破壊するのは容易だ。

 適当に暴れて中を滅茶苦茶に破壊すれば、ミュータント由来の技術は壊滅するだろう。無論外に分散している可能性はあるが、どの道フィア達の敵ではない。研究を進めようにも、今や清夏は真の力に目覚め、通常の武装で捕まえるのは不可能だ。これ以上の技術発展や量産化は出来ないと考えられる。

 即ちアルベルト達の組織が清夏を狙う事はない。狙ったところで返り討ちに出来る。

 ならば、清夏がこの地に留まる理由はない。

「ようやく、お家に帰れます、ね」

「……うん」

「あの、短い間でしたけど……楽しかった、です」

「……うん。わたしも、楽しかった」

「……………」

「……………」

 短い言葉を交わした二人は、口を閉ざすのと同時に俯く。

 アルベルト達の脅威がなくなり、力の制御も出来るようになった今、清夏は家に帰る事が出来る。いや、家族や友人の事を想えば、帰らないという選択肢はない。

 清夏の家は、花中の暮らすこの町とは違う、別の県だ。勿論今時電車という大変便利な交通機関があるのだから、休みを丸一日費やすだけで会いに行ける。話をするだけなら電話やメール、SNSの類を用いれば良い。

 しかしそれでも、離れ離れになる事は変わりない。

 ほんの短い間だけとはいえ、同じ家で暮らしていた仲間と別れるのは……かなり寂しい。清夏が家族の下へと帰れる事の喜びと同じぐらい、暗い気持ちが花中の胸の中を満たしていた。

「花中さん花中さん。コイツ何処かに行くのですか?」

 そんな花中に、後ろから抱き付いたままのフィアが能天気に話し掛けてくる。

「え、あ、うん。御酒さんを、襲う人達は、もういなくなるから、お家に帰る事に、なるよ」

「ほーそうですか。成程成程」

 花中が説明するとフィアは納得するようにこくこくと頷く。やがてにっこりと、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

「でしたら今夜はパーティーですね! 私と花中さんの生活からお邪魔虫が一匹居なくなるのですから!」

 続けてとても元気よく、なんの悪意もなくフィアはそう提案してくる。

 ミリオンはにっこりと微笑み、ミィはポンッと手を叩く。誰もが楽しそうに。

 一瞬ポカンとしていた『人間』二人も、吹き出すように笑い出した。

「あはははっ! そうだね、フィアちゃん。パーティー、しないとだね。ちゃんと、旅立ちは、お祝いしないと」

「そうでしょうそうでしょう」

「そのパーティー、勿論わたしも参加して良いんだよね?」

「別に良いんじゃないですか? 出来れば私と花中さんだけでやりたいところですが」

 フィアは大変正直に自分の感想を伝えると、清夏と花中はもう一度大笑い。フィアはこてんと首を傾げた。

 別れは辛いし悲しい。だけど泣き顔でお別れなんかもしたくない。思い返す時、めそめそ泣き続けた顔が浮かぶなんて懲り懲りだ。

 だからお別れパーティーは盛大に。

 悲しい記憶なんて忘れてしまうぐらい、最後は楽しく賑やかにやろうと花中は思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クソ、クソッ! クソぉっ!」

 悪態を吐きながら、一人の男が月夜の照らす路地裏を駆けていた。

 男の名はアルベルト。天才科学者として製薬会社アスクレピオスに採用され、数多の新薬を開発し、そして超未来的兵器の発明に大きな貢献をした者。

 そんな偉大な業績を有する彼は、ボロ布一枚だけという今時ホームレスですらしないような格好だった。歩く路地裏も生ゴミや空き缶が転がり、得体の知れない液体が水溜まりを作っている不衛生な環境。街灯なんてものはなく、月明かりがなければ文字通り暗闇に閉ざされていただろう。その光もビルなどで頻繁に遮られ、一メートル先も見通せない。昼ならまだしも夜に歩けるような状態ではなく、ゴロツキどころか浮浪者の姿すらない場所だ。

「何がいけなかった……理論上あの兵器達は五百年先のスペックなんだぞ……現代で運用するには補給面の問題があって、室内でしか使えないぐらいなのに……何故あれが破られたんだ……!」

 ぶつぶつと悪態を吐きながら歩くアルベルトは、不意にバタリと倒れるように転んだ。空き缶を踏み、体勢を崩したのだ。胴体の下にあった生ゴミを潰した感触が、彼の身体に走る。ぷるぷると身を震わせながら、アルベルトは立ち上がろうとして地面に両手を付いた。

 その両手に、ナイフのような刃物が突き刺さる。

 突然の事にアルベルトは目を丸くしたが……傷口から鮮血が吹き出すのと共に、彼の顔には『痛み』を自覚した表情が浮かんだ。

「ひ、ぎぃやあああっ!? あが、あがぐぃぎ……!?」

【あまり動かない方が身のためですよ。我々としても、あなたの職人的な手が義手になるのは望みませんから】

 痛みから悲鳴を上げるアルベルトに、暗闇からくぐもった男性の声がした。アルベルトは顔を顰めながら暗闇を凝視すると、道の先を満たす暗闇から数体の、白色の装甲で身を包んだ『人型』が現れる。

 一見して全身を防具で固め、大きな銃器を持った機動隊員のようにも見える人物。しかし科学者であるアルベルトはすぐに気付いた。この人型の物体が、通常の人間よりも細い体格をしている……つまり身体の上に装甲を乗せたものではないと。

 ロボットだ。それも人が搭乗していない、極めて高度な技術の産物。『現代』の人類科学では作り出せない、超技術の結晶体である。

 こんな物を作り、運用出来る組織など、アルベルトは一つしか知らない。

「た……タヌキ共か……! 僕に、なんの用だ……!」

【君が我々について知っている事は、潜り込ませたスパイのお陰で把握しているよ】

 アルベルトがその正体を指摘すると、ロボットの中の一体……その機体を遠隔操作しているであろう『雄』から、肯定を示す回答が返ってきた。

 タヌキ。

 ミュータントの中でも安定的な繁栄を掴む方へと進化し、現代社会を裏から支配する種族。高度な技術とそれを支えるインフラを持ち、人口比が十分の一ながらも戦争をすれば人類側の敗北が濃厚である存在。

 アルベルト達、人間至上主義者からすれば鬱陶しい事この上ない相手だった。

【用件は手短に伝えるとしよう。君達の活動は我々にとって不利益だ。しかし君の技術を失うのは惜しい。そこでスカウトに来た。君が我々の組織に協力するのなら生かし、しないのなら此処で変死体となってもらう】

「ふん……随分野蛮な、交渉だな……あまり僕を、嘗めるなよ……お前達の仲間に、なるぐらいなら、死を選んでやるさ……!」

【そうか。ではその通りにしよう】

 アルベルトの回答に、タヌキの男は淡々と答えながら手に持った銃器を構える。アルベルトはロボットを睨み付けながら、足掻く素振りもなく口を閉じ――――

【と言いたいところだが、上から君の確保に全力を尽くすよう指示されていてね。変死体になってもらうのは、本当にどうしようもない時だけ。だからあまり得意ではないが、君の説得を試みるとしよう】

 ふと、タヌキは構えていた銃を下ろした。アルベルトは痛みで顔を顰めながら、タヌキの行動を怪訝に思う。

「説得……? 出来ると思って、いるのかい……?」

【先程も言ったように、得意ではない。しかし上からの指示には逆らえない。君も社会で生きている身なら、この苦労は分かるだろう?】

「……ふん。そんなに辛いなら、野性に返って、野原を駆けずり回れば良い。それが、お似合いだよ」

【生憎今の我々は社会生活に適応し過ぎてしまってね。日曜日にZ級ゾンビ映画を見ながらコーラを飲まないと、体調を崩してしまうのさ】

 悪態を吐くアルベルトに、タヌキの操るロボットは冗談を交えながら近付く。アルベルトの頭の近くまでやってきたロボットは、如何にも人間らしい動きでその場にしゃがみ込んだ。

 そしてアルベルトの耳許で、タヌキは囁く。

【良い事を教えてやろう。君は我々ミュータントを研究する事で怪物のみならず、ミュータントさえも乗り越えようとしているようだが……それは全くの逆効果であり、人類の破滅を後押しする行為だ】

 アルベルトの信念だけでなく、人類の在り方さえも嘲笑うような言葉を。

 アルベルトは跳ねるように身を起こし、タヌキの操るロボットを憤怒の形相で睨み付けた。自身の手がナイフで貫かれている事さえ忘れたような怒りの感情をモニター越しに見たであろうタヌキは、自分の操作するロボットにおどけるような仕草を取らせる。

 それがますますアルベルトの怒りを買うが、しかしそれでも彼は科学者である。激昂して掴み掛かるような真似はせず、まずはその真意を問い質す。

「どういう、意味だ……!」

【君は五世紀先のテクノロジーを開発し、それを存分に発揮出来る環境で用いた。しかしミュータント達はそれを打ち破った。何故だと思う?】

「……奴等が、予想以上の急成長を、したから……」

【そうだ。良いか、五世紀先の技術なんてものは、奴等にとっては一足跳びで乗り越えられる程度の代物なのさ。じゃあ、今度は更に未来の技術で攻撃したら、奴等はどうなる?】

「……更に成長すると?」

【ご名答。我々はそれを危惧している】

 タヌキの返答を、アルベルトは鼻で笑った。

 成長するのがなんだというのか。相手が成長するのなら、こちらもそれ以上に成長すれば良い。

 それを期待していないタヌキは、まるで

【ちなみに我々の計算では、人類科学は二十八世紀から三十世紀相当が限界であると予想されている】

 人間の限界を、知っているかのようではないか。

 ――――考えを見抜かれたような言葉に、アルベルトは目を見開く。カタカタと身体を震わせ、歯を食い縛るように口許を強張らせた。

 あり得ない。あり得る筈がない。

 科学の限界が、長くともあと九百年で訪れるなんて。

 ミュータントが、その先を行く筈がない。

「う、嘘だ! そんな事は……!」

【生憎本当だ。人類の脳細胞の学習効率と肉体的寿命を、科学体系の複雑さが上回る。要するに、生きている間に学べる事の限界がやってくる訳だ。肉体をサイボーグ化や電子化しても無駄だぞ。二十二世紀後半以降の技術レベルに達するには、現代数学の発展に加え、観念的数学論が必要だからな。これを行うのに電子機器は適していない。心当たりがあるだろう? お前は二十五世紀相当の技術を作り上げたのだから】

「……ぁ……あぁ……!」

 タヌキに言い返す事も出来ず、アルベルトは嗚咽のような声を漏らすばかり。

 人類の底が、すぐ近くまで来ている。

 認めたくない。しかしアルベルトは直に触れて理解していた。五世紀先の技術さえ、理論を展開しても理解出来る者はごく少数……世界でも有数の『天才』達ですら完全な理解者は僅かだった。未解明部分があまりに多過ぎて、量産体制など夢のまた夢。

 それほどの技術をほんの数分で跳び越えたミュータントに、どれほどの伸び代があるのかなんて想像も付かない。

【人類科学ではミュータントに勝てない。奴等はその遙か先を進む者達だ】

 タヌキの宣告を否定するだけの論理を、今のアルベルトは持つ事が出来なかった。

 アルベルトの反応を見届けたタヌキは立ち上がると、銃を仲間のロボットの居る方へと投げ捨て、両腕を広げた。さながら、演説をするかの如く。

【衝撃の真実が明らかになったところで、ある一つの大問題が考えられる。なんだと思う?】

「……………分かる、もんか……」

【なぁに、簡単な話だ。現在世界中でミュータントの発生数が増加している。我々が把握しているだけで、総数は四千五百を超えた。繁殖も始まっているし、一体何時『脳波』に触れたのか分からない個体が三千以上も存在している。原因は不明だが、恐らく今後も増え続けるだろう。さて、ここで一つ問題だが】

 もしもミュータント同士の食物連鎖が作られたら、どうなる?

 タヌキの問い掛けに、アルベルトは答えた。ただし声ではない。驚いたように目を見開き、顔を青くする事で物語ったのだ。

 三匹のミュータント達……フィア達は、これまで多くのミュータントやそれ以外の怪物と戦ってきた事をアルベルトは知っている。しかしそれまでの戦いで、彼女達が『死力』を尽くした経験は少ないだろう。いざとなれば逃げれば良い、無理に勝たなくても良い、別に殺すつもりもない、相手が強過ぎて尽くす暇すらない……今回の戦いのように、()()()()に追い詰められた事はなかったのだろう。

 では、食物連鎖が作られたなら?

 ……食物連鎖は喰うものと喰われるものの、正しく命を賭けた闘争。喰うものは腹を満たさねば生きていけず、喰われるものは逃げねば生きていけない。無論ミュータントにとって、同じミュータントを相手に戦うのはリスクが大きい……そもそも能力の相性次第では捕食・被食の立場が入れ替わる恐れすらある……のだから、好んで襲いはしないだろう。しかし繁殖を繰り返せば、絶対的強者である彼等が既存の生物を駆逐し、置き換わるのは必然。何時か必ず、ミュータント同士の生存競争――――死力を尽くして戦う日々が始まる。

 生存競争が始まれば、ミュータントは加速度的に成長を遂げるだろう。そして生き残った個体だけが子孫を残し、より精錬された力が進化していく。複雑怪奇な新能力が生まれ、理解不能な力が自然界を満たしていく。

 果たして次代のミュータントは、人類の限界で撃退出来る程度の力なのか? アルベルトには、到底思えない。

「そんな、そんな事が……」

 絶望しきった表情を浮かべるアルベルト。するとタヌキの操るロボットは、おどけるような動きと共に、彼の顔に顔面部分を近付ける。

【そこで一つ提案だ。我々のプランに協力してほしい】

 その状態でもう一度、タヌキは自分達の要求を突き付ける。

 アルベルトは、拒絶の言葉をごくりと飲み込んでいた。

【実を言うと、我々も技術的限界は人間と大差ないという研究結果が出ていてね。まぁ、知能レベルが大差ないのだから当然と言えば当然だ。ミュータントとはいえ、能力による強さよりも、知性と技術による安定的繁栄を選んだ我々では新時代は生き残れない。そこである計画を立ち上げたのだよ】

「……計画?」

 思わず訊き返したアルベルトに、ロボットは耳許まで顔を寄せた。

【我々と共にこの星を離れ、新天地を目指さないかね?】

 そして小さく、けれどもハッキリとした声で語る。

 アルベルトの目が見開き、思案に耽り――――にたりとした笑みが彼の口許に戻る。

「成程な……不愉快な方針だが、背に腹は代えられない、か」

【協力者は既に用意している。尤も、全面協力ではないがね。あちらは我々と違い、ミュータントの力は残したままだからな】

「……念のために訊こう。その計画で脱出する人数に、人間はどれだけ含まれる?」

【全体の八十%。一割は我々、残りの一割が協力者のために使われる】

「九割を寄越せ」

【数値に関しては上層部の判断を仰がねばならない。交渉をするなら私ではなく彼等相手だ】

 つまり、自分達の下に来いという事か。

 露骨な誘導に、しかしアルベルトは笑みを崩さない。

 彼は見付けたのだ。人類が生存するための道筋を。それは屈辱の決断ではあるが、されど予想される未来を思えば最善の選択であり、唯一の活路でもある。

 ならば彼は躊躇わない。

 アルベルトは人間を愛し、人間を慈しみ……人間を救いたいからこそ、科学者となったのだから。

「なら、まずは交渉からだ。君達の親玉のところに案内してもらおうか」

【勿論。良い答えを期待しているよ】

 アルベルトの答えに、ロボットは上機嫌に()()

 かくして一人の天才科学者が、表の世界から姿を消した。

 全ては、人間という種を守るために……




宇宙フラグが立ちましたが、花中達の前でイベントは起こりません。諸悪の根源みたいなもんですしね。

次回は今日中投稿予定。


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幕間十二ノ十三

 その日も、『彼女』は山を覆い尽くす森の中で獲物を探して動き回っていた。

 森には大きな木々が立ち並び、見渡しが悪い。されど『彼女』には鋭い本能がある。ちっぽけで腹も膨れぬ有象無象が慌ただしく逃げる姿には目もくれず、ひたすらに感じ取った気配を求めて進み……

 ついに獲物を見付けた。

 獲物もまた『彼女』に気付き、慌てて逃げ出した。されどこの距離ならばもう逃がさない。『彼女』は獲物を超える速さで迫り、自慢の足で獲物を踏み付ける。頑強な獲物の甲殻も、こちらの力に敵うものではない。

 殻を打ち砕き、中にたっぷりとある脂の乗った肉を喰らう。獲物はまだ生きていて、ジタバタと暴れているが……こんなもので振りきれるほど『彼女』の力は弱くない。容赦なく食べ続け、やがて獲物は動かなくなる。もりとりとその肉を引き千切り、味わい、飲んで腹を満たす。

 食べられる部分を全て腹に収め、『彼女』は満悦した

 ……のは僅かな時間だけ。満腹には程遠い。

 『彼女』は困った。どうにも最近腹が減って困る。()()()()を考えるようになって、頭を使うからだろうか? 今まで一日一匹食べれば満足だったのに、今では全く足りない。

 憂鬱な気持ちを抱きつつも、足を止める暇もない。何も食べなければ飢えては死ぬのだ。次の獲物を求め『彼女』は周囲に意識を向ける。

 そうしていて、ふと気付く。

 獲物の気配が無数にある。

 それ自体は悪い事ではない。むしろ歓迎するところだが……何故か獲物達の気配は一直線に、真っ直ぐ山の麓を目指して進んでいる。何故そんなところに?

 麓には、ちっぽけな生き物しか棲んでいなかった筈だが……

 考えた『彼女』は気付いた。そうだ、麓にはちっぽけな生き物がたくさん棲んでいた。自分達の獲物は、確かあのちっぽけな生き物ぐらいの大きさの生き物を好んで食べていた。成程、餌を求めて移動しているのか。

 思えば最近獲物達は増え、森のちっぽけな生き物は減っていた。増え過ぎて餌を食べ尽くしたか。このままでは獲物が飢えて死に、減ってしまうかも知れない。

 だとしたらむしろ、このままにしておくのが得策か。

 たくさん餌を食べれば、たくさん獲物が増えるかも知れない。たくさん獲物が増えれば、自分も食べ物に困らなくなる。実に良い事尽くめではないか。幸いにしてあの餌は物凄くたくさんの数がいる。ちょっと獲物が増えたところで食い尽くされる事はあるまい。

 そう、『彼女』は賢かった。生態系の仕組みを理解し、その結果を予測出来るほどには。

 故に『彼女』は獲物達の動きを静観する事にした。それは本来の生態系から逸脱した動きであったが……なんら問題はない。

 世界は変わりつつある。変わる世界の中で変化を拒めば、滅びるのは己自身。

 『彼女』は変化出来るものだった。

 即ち『彼女』はこう呼ぶのが正しいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十三章 適応者

 

 

 




次回は本作二度目の海外ロケだ!
なお、一度目のロケ地は文字通り蒸発した模様。

次回は4/21(土)投稿予定。


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第十三章 適応者
適応者1


 十月というのは、とても心地の良い季節だとフィアは思っている。

 フィア自身は本体を大量の水で覆っているため、外気温の変化は殆ど受けない。が、なんとなくこの時期は活動しやすい気がする。夏の暑さで枯れかけていた植物は活気を取り戻し、昆虫達も元気に飛び回るようになっていたので、自分以外の生物もそうなのだろうと考えていた。

 今朝も爽やかな秋晴れで、窓から入り込む朝日がとても気持ち良い。フナである自分ですらそう思うのだ。人間というのは季節にやたら感動するものらしいので、さぞ秋の過ごしやすさを満喫している筈である。

 筈であるのだが。

「なんで花中さんはさっきから悲しそうな顔をしているのですか?」

 抱いた疑問を、フィアはなんの躊躇もなく花中にぶつけた。

 質問された花中は、目をぱちりと開いてこちらを見る。見るといってもフィアはソファーに腰掛けて ― 正確には腰掛けている『フリ』だが ― いて、花中が居るのはそんなフィアの隣。間近で目を合わせる形になると、花中は恥ずかしがるように視線を逸らした。

「え、えと、そんな顔、してた?」

「はい。もう何時泣き出してもおかしくないような顔でした」

「うぐ……」

 思った事をそのまま伝えると、花中は恥ずかしそうにほんのりと頬を赤らめた。そして逃げるように僅かながら顔を反らしてしまう。

 恥ずかしがる花中は可愛いので、フィアとしては見られて嬉しいものだ。しかしその顔がまたすぐに悲しそうな、今にも泣きそうなものになるのは気に入らない。フィアは可愛い花中の顔が好きである。泣き顔が嫌いという訳ではないが、他の顔と比べてあまり可愛くない。出来れば別の表情をしてほしいものだ。

 一体何が原因なのだろうか?

 もしかするとその両手で握り締めている新聞に理由があるのだろうか。

「もしかして新聞に何か書いてあるのでしょうか?」

 尋ねてみると、花中は俯くような頷くような、よく分からない仕草を見せる。次いでその手に持っていた新聞を、フィアの方に差し出してきた。

 読んでみろという事だろうか? フィアがとりあえず差し出された新聞を掴むと、花中は紙面の一部を指差してから新聞を手放した。フィアは花中の指先が向けられた場所に目を向ける。

 大きな文字で書かれた見出しは『フランスに現れた超巨大生物』というもの。

 記事曰く、日本時間の昨夜未明頃フランス東部でトゲだらけの球体的生物……日本人に身近な例えを使えばウニのような生物が出現したらしい。体長は百メートルを超えており、移動するだけで町に壊滅的被害が生じる有り様。当然大きさからして猟師や警察の手に負えるものではなく、直ちに軍が出動したものの、超音速で射出される針によって出撃した陸海空軍が壊滅した……との事だ。

 他にも細かな事 ― 例えば確認された一般市民の死者が三千人を超えたとか ― が色々書かれているが、大まかなまとめとしてはこんなものか。最後まで記事を読み終えたフィアは、内容を自分の頭の中でしっかりと読み解く。そしてこう思った。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 昨今、世界中で『怪物』が現れている。

 それは今日の新聞に書かれていたような、フランスに現れたウニの怪物だけではない。ロシアに出現した、全身が甲殻に覆われた体長三十メートルを超えるクマ。インドに出現した、五十メートルを優に超えるムカデのような生物。アメリカ沿岸部に上陸した、十脚の巨大甲殻類の群れ……他にも様々な生命体が確認されている。

 どの生物も軍事兵器では歯が立たず、少し暴れるだけで何千何万という命が奪われるほどの強さらしい。この圧倒的な力により多くの国が甚大な被害を受けていた。いや、今も被害は拡大している。これら恐るべき『怪物』達を全滅させた国はなく、今も奴等は暴れ続けているからだ。おまけに新種の出現頻度は低下するどころか日に日に増しており、加速度的に状況は悪化している。

 この前例のない異常事態の原因は、間違いなく昨年の出来事――――アナシスと異星生命体の決戦だ。

 彼女達の攻撃により多くの環境が破壊され、生態系が乱れた。急変した環境が偶々合ったがために大増殖したり、それとは逆に合わなくて絶滅した生物種も少なくないだろう。先月泥落山で大発生し、フィア達がいなければ町まで溢れかえったであろう白饅頭……その白饅頭の天敵のように。

 一月前、アルベルトの語っていた事が現実になろうとしている。白饅頭のような恐ろしい怪物達が、ついに人間社会への侵出を始めたのだ。

 大きな変化が生じている。いや、変化自体は前々からあったのだろう。怪物が人間社会に出てきたのは、その変化が限界まで積み重なり、最早手遅れなほど進んだ証に違いない。しかもこれで変化が終わりという保障はなく、もっと大きな『変化』が起きる可能性もあるのだ。

 この世界はこれからどうなるのだろうか。

 人間はどうすべきなのか。

 人間は、どうなるのだろうか。

 ……という感じの話を先日花中から聞いていたフィアだったが、殆ど忘れていたので「また妙な生き物が現れたのか」以上の感想を持たなかった。改めて話されたところで、人間が何人死のうが、その末路がどうなろうがどうでも良い。花中と一緒に過ごせるだけでフィアは幸せなのだから。

「ふーんまた怪物が現れましたが。まぁどんな奴だろうとこの私の敵ではありませんがね!」

 とはいえその花中を怯えさせているのがコイツらだと思ったので、自分が傍に居る事をアピールしておいた。無論これは強がりではなく、本気でそう思った上での言葉である。

 フィアがフィアなりの方法で励ますと、花中はふにゃっと笑ってくれた。安心したのか、人間がよくやる『世辞』というものなのかは判別出来ないが、花中の笑顔を見られたのでフィアとしては満足だ。

「うん。ありがとね、フィアちゃん」

「いえいえ礼には及びません。花中さんが元気になってくれたならこちらとしても嬉しい事です」

「えへへ……ん。元気になったら、ちょっと小腹が空いちゃった。今日は休みだし、久しぶりにお菓子でも作ろっと。あ、でも小麦粉あったかな。最近高くて、あまり買ってないんだよね……」

 ソファーから軽やかに降りると、花中はキッチンの方へと向かう。

 フィアはソファーに座ったまま、満足げな鼻息を吐いた。それからふと、花中が置いていった新聞に目を向ける。

 普段、フィアは新聞など殆ど読まない。人間達の社会情勢など興味がないからだ。精々漫画を読んだり、テレビ欄を見てアニメの時間を調べるぐらいである。今新聞を読もうとしたのも、花中がお菓子作りを始めてしまい暇になったので、時間でも潰そうと思ったからに過ぎない。

 適当にぱらぱらと捲り、人間社会で起きた出来事をぼうっと眺めるフィア。経済がどうたらこうたら、政治がどうたらこうたら、犯罪がどうたらこうたら……何を言いたいのかよく分からない。やっぱり全然面白くないと感じたのでそろそろ閉じようかと思い、しかし無意識に次のページを捲り、

 フィアはその目を大きく見開いた。

 その記事は決して大きなものではなく、人間ならばそのまま見逃す事もあり得ただろう。

 されどフィアの目は、悪くはあっても鈍くはない。書かれている文字を瞬時に捉えて理解する。内容は今時()()()()()()ものだ。フィア自身そう思っていたが、しかし今は真剣に読み進める。何時、何処で、何が起きたのかをちゃんと理解しようとした。

 やがてフィアは、ぱたんと新聞紙を閉じる。

 次いでソファーから立ち上がると、フィアは早歩きでキッチンへと向かった。そこには花中が居て、お菓子の材料と思しき小麦粉や牛乳を並べている。今はボウルや泡立て器などの道具を棚から出し、取りやすい位置に置いていた。

「花中さーん私ちょっとお出掛けしてきますねー」

「えっ? あ、うん。何時ぐらいに帰ってくる?」

 そんな花中に、フィアはお構いなしに自分の『する事』を伝える。いきなり伝えられた花中はキョトンとし、予定を尋ねてきた。

「そうですねー。ちょっと遠出しますから十八時ぐらいでしょうか」

「ん、分かった。気を付けてね」

「はい。ではいってきます」

 手を振る花中に手を振り返し、フィアは爛々とした足取りでキッチンを後にする。そのまま目指すのは玄関だ。

 フィアとしては、十分な時間を取ったつもりである。

 目的地までそれなりの距離があるし、現地で色々やるつもりなのだ。加えて相手が『素直』とは限らない。自分が負けるとは微塵も思わないが、小狡くて中々捕まらない可能性は流石に否定出来なかった。あとお土産分も捕まえたいので、数が少ないと見付けるのが大変かも知れない。

 そうした理由から、フィアは『九時間』ほどの猶予を設けた。しかしその時間設定は、人間が詳細を知ればあまりにも短いものと思うだろう。

 フィアが居なくなったリビングに、窓から入り込んだ秋風が吹き込む。風はフィアがつい先程まで読んでいた新聞を扇ぎ、ぺらぺらとページを捲る。

 表に出てくる世を知らせる無数の情報。その中の一つには、こう書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中国北西部の農村に巨大な甲虫が複数出現。駐屯していた人民解放軍が応戦するも壊滅した、と。




花中達と全く関係ないところで怪物出現済み。
まぁ、花中は主人公ですけど、世界の中心ではありませんので。

なお、今回の視点はフィア。
間違いなくろくな事になりませんね!

次回は明日投稿予定。


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適応者2

 花中に出掛ける旨を伝えたフィアは、早速北西に向けて元気よく駆け出した。

 駆けたといっても、ちんたら足を動かしたりはしない。地面と接している『足』の水分子を流動させる事で、地上を素早く滑っていくのだ。空気抵抗もパワーで強引に押し退け、達した速度は脅威の時速六百キロ。

 これでも全然本気など出していないが、十分に出鱈目な速さである。花中に怒られるのが嫌なので人間との接触はちゃんと避けたが、巻き起こる爆風で通行人を吹っ飛ばしたり、車を横転させたり、建設中のビルを倒したりしていた。尤もフィア自身は前しか見ていないので、自分のやらかした事に気付きもしなかったが。かくして大規模な、しかし犠牲者が出ていないなんとも不思議な破壊を振りまきながら、フィアは日本列島を横断する。

 続いて行く手を遮るのは大海原……なのだが、フィアにとっては障害物どころか得意なフィールド。何しろ彼女は水を自在に操れる。海という水に満ちた環境は、十全に力を発揮出来る場所でしかない。

 海中へと潜り、水中を進む時の速さはなんと時速五千五百キロ。かつての最高速度を遙かに上回るものだ。一月前の戦いにより大きく成長したフィアは、駆け抜ける速ささえも向上したのである。

 これほどの速さになると、最早太平洋すら四時間と掛からず渡りきる。ましてやそれよりずっと狭い日本海なら、何処に向かおうと三十分も掛からない。当然こんなパワーを発揮すれば、余波だけで大津波が起こるだろう……普通ならば。しかし水を操るフィアにとって海を荒波立てずに移動するなど造作もない。津波など起こらず、フィアは悠々と日本海を渡りきった。

 ここまでの移動は、フィアにとって左程体力を使うものではない。むしろ良い具合に身体が温まり、軽い興奮状態に入った。機嫌も大変良い。

 ただし海を渡った先、中国国土内の川に辿り着いた時は少々荒れた。

 というのも川の汚染があまりに酷く、このままでは生存すら難しかったからだ。フィアの実力であれば『一手間』加えて汚染をシャットアウトする事は可能であり、その手間自体もフィアにとっては意識すら必要ないものであるが……割と健康に気を遣うタイプであるフィアからすれば大変不愉快な環境。憂さ晴らしとして川の水を激しく巻き上げて市街地を汚水塗れにし、それでもまだむしゃくしゃしていたので行く手を遮っていたダムを粉砕してやった。流れ出た大量の水を制御して人的被害が出ない流れ方にしたのはせめても情け、ではなく、やっぱり花中に叱られたくないからだった。

 そんなこんなで野を越え海を越え山を越え……日本の関東圏にある大桐家を出てからたったの二時間半。ついにフィアは辿り着いた。

 巨大昆虫が現れたという、中国僻地の村()()()場所に。

「んー多分この辺りだと思うんですけどねー」

 川から這い出したフィアは、辺りをきょろきょろと見回しながら独りごちる。

 フィアが辿り着いた場所は、かなりの山奥だった。今日の天気は快晴のようで、秋の日差しが燦々と降り注ぐ。周りを囲うようにそびえる山々には木々が満ち、日光を浴びて煌びやかな緑が一面に広がっている。流れる風は森の香りをフィアの下まで運んできた。多種多様な生物由来の臭いが混ざった、複雑な香りだ。この近隣の森が人工的なものではなく、古来より続く天然のものだと窺い知れる。

 そうした山々の麓に位置する場所、フィアの立つ位置よりざっと百メートルほど彼方に、小さな村があるのが確認出来た。建物はどれも木材で作られたもので、コンクリートで建築された所謂『近代的』な建物は見当たらない。村の中には畑が見え、農業が主要な産業なようだ。

 しかしながらこの村、お世辞にものどかとは言い難い。

 何しろ多くの家が潰れていて、ぶすぶすと黒煙を上げているような状態なのだから。畑も、まるで巨大モグラにでも襲われたかのように数メートルもの大きな盛り上がりが何個も出来、農業が出来る状態ではない。そして地面には無数の血痕と……潰れた戦車が転がっていた。

 人間ならば、このおぞましい景色に戦慄し、恐怖で足が竦むだろう。この地で起きた惨劇を想像し、自分も巻き込まれるのではないかと考え逃げ出しても不思議はない。

「うん。多分此処ですねきっと!」

 対してフィアは、破壊された村を見てむしろ嬉しそうに笑った。

 というのもフィアは新聞に載っていた、巨大昆虫に襲われた村 ― 正確には村を襲った巨大昆虫の方 ― を探していたが……実はその場所が何処にあるのか、全く知らなかったからである。新聞には中国の〇〇村としっかり書かれていたが、なんという名前の村だったかフィアはもう忘れていた。仮に覚えていても、場所を知らないのだから名前だけ覚えていても意味がない。

 ついでに言うと巨大昆虫の姿も知らないし、臭いも分からないという有り様。人間的に考えればどう頑張っても見付けられない状態だろう。されどフィアは「水の中を漂う嗅いだ事もない虫の香りとあと人間の血の臭いを辿ればなんとかなるだろう」と根拠もなく思い込んで即行動。

 やがて日本海でキャッチした『変な虫の臭い』及び『人間の血の臭い』を頼りに泳いできて、辿り着いたのがこの村だった。フィアは自分の嗅覚に絶対的自信を持っているので間違いなく此処が巨大昆虫に襲われた村だと思っていたが、裏付ける物的証拠があるのならそれに越した事はない。破壊された村は正に『物的』な証拠だ。確信を一層深め、フィアは上機嫌になる。

 さて、目的地には辿り着けた。後は目当ての虫を捕らえるだけだ。

 巨大昆虫は果たして何処に居るのか? 考えるまでもない。村が巨大昆虫に襲われたという事は、きっと村の中に居る筈だ。人間の軍が壊滅したと新聞には書いてあったので、きっとまだまだ生き残りが潜んでいるに違いない。

 ……もしも巨大昆虫が潜んでいるなら、その割には村がえらく静まり返っているのだが、フィアは自分の考えを疑わない。悠々とした足取りで村へと向かった。

 村に近付くと、此処で繰り広げられた惨状がどれほどのものかよく分かる。

 村の中には、無数の人間の死体が転がっていた。上半身と下半身が分かれている程度ならまだマシな方。頭を叩き潰されていたり、身体が左右に引き裂かれていたり、七割ぐらいが挽き肉になっていたり……多くの死体が迷彩服を着ており、フィアでも彼等が軍人だという事は理解出来た。夏ほどではないにしろ暖かな時期に、それなりの時間放置されていたのだろう。どの死体からも腐敗臭が漂っており、死肉に群がる虫達が卵を産み付けているのをフィアの鼻は感じ取った。

 新聞には人間の軍隊が壊滅したと書かれていた。成程この感じは確かに一方的にボコボコにされたようだと、フィアも納得する。

 無論この軍人達を襲った生物が、『非戦闘員』を区別している筈もない。人数的には全体のごく一部、しかし本来ならばこの地の住人である村民……一般人らしき亡骸もちらほらと見受けられた。言うまでもなく、彼等も軍人と同じぐらい凄惨な姿と化している。

「ふーん。本当にこっぴどくやられてますねぇ……この人間とか顔面だけ喰われてますね。中々贅沢な輩のようで」

 フィアは倒れていた村人らしき亡骸の顔を見下ろし、淡々とぼやく。フィアからすれば人間の死体も虫の死体も、大した違いなどない。花中がこれを見たらとても悲しむという事は想像出来るが、その気持ちに『共感』するところまではいかなかった。

 それに殺され方を見る限り、殆どの人間が明らかに食べられている。食べられているという事は、この辺りには人間を襲った生物が居るという証だ。

 きっと目当ての巨大昆虫に違いない。

「うーん楽しみですねぇ」

 笑みを浮かべ、ぺろりと舌なめずり。くんくんと臭いを嗅ぎ、お目当ての虫が何処に居るか探そうとする。血の臭いに紛れて分かり辛いが、人間など比にならないフィアの嗅覚は正体不明の虫の臭いを逃がさなかった。どうやら此処での殺戮後、虫は北へと向かったらしい。

 ならば北に向かうとしよう。フィアは人間の亡骸にはもう目もくれず、北に向けて歩き出す。

 ――――ところで。

「(さっきから()()()()()()()()()()()一緒に来るつもりなんですかねぇ?)」

 フィアは背後に潜む人間の気配が、自分の動きに合わせてやってくる事に気付いていた。

 一体何者だ? 目的はなんだ? このまま一緒に来たら自分と巨大昆虫の争いに巻き込まれるかも知れないのだが……そこまで考えて、しかしフィアは気にしない事にした。

 元より人間など花中以外どうでもいい。自分の後を追いたいなら好きにすれば良いし、逃げたくなったのなら勝手に逃げれば良い。結果的にそいつが食べられようが生き延びようが、フィアには関係も興味もないのだ。万一自分の邪魔をしてくるようなら、その時()()()()()済む事である。

 フィアは後ろを振り返る事すらせず、勝手気儘に北へと歩き続けるのだった。

 ……………

 ………

 …

「うーん大分臭いが強くなってきましたからそろそろだと思うのですが」

 歩き続けていたフィアは一度足を止め、周囲の様子を探りながら念入りに臭いを嗅ぐ。

 辿り着いたのは、村と山の境目付近。蹂躙された村の反対側には森が広がり、恐らくあの森に巨大昆虫は隠れ潜んでいる……と人間ならば考えるかも知れない。

 しかしフィアの嗅覚は、巨大昆虫の進路が森に向いていない事を示す。というよりも臭いそのものがこの場で途切れている。だとすれば恐らく……

 とんとん、と足踏みをしながらフィアは考える。やがて結論に辿り着くと獰猛な笑みを浮かべ、自らの力を振るわんとゆっくりと片手を上げた

 丁度その時に、こつん、と頭に何かがぶつかった。

「あん?」

 振動を感知したフィアは、物をぶつけられた方へと視線を向ける。見たところそこには誰も居ない。

 が、フィアの野生の勘は知っている。自分が見ている景色にある横転したトラクター……その陰に自分を追跡してきた人間が潜んでいる事を。

 ちょいちょいと、フィアは指を動かす。

「キャアアアアアアアッ!?」

 この仕草と共にトラクターの裏側へと水の『糸』を伸ばし、そこに潜む何者かの足に『糸』を巻き付けて引っ張ってみれば、なんともか弱い悲鳴が上がった。

 そのまま『糸』を引っ張れば、出てきたのはやはり人間だった。見たところ中学生ぐらいの女の子。長く伸びた黒髪が身体に巻き付くぐらい激しく暴れ、自分を引っ張るものを引き剥がそうと足首近くを掻き毟っている。今は苦悶と恐怖に歪んでいる顔は、無邪気な笑みさえ浮かべていればかなり ― フィア的には花中の十分の一程度の水準で ― 可愛いだろう。

 フィアの足下まで引きずられた少女は、フィアを見るや悲鳴さえも詰まらせる。身体を小刻みに震わせ、がちがちと顎を鳴らし、目には涙まで浮かべていた。

 どう見ても少女は怯えていた。どうせ呼び掛けてもトラクターの裏から出てこないだろうと思ったから実力行使をしただけで、怯えさせるつもりなど毛頭なかったフィアは首を傾げる。石をぶつけてきた理由も含め、纏めて訊いてみようと思う。

「あなたどうして石を投げてきたのですか? 私はまだあなたには何もしてないと思うのですが。あとそんなに怖がらなくても私はあなたを殺したりしませんよ」

「ゥ……□×△△□○×○□○」

「? はい?」

「□×△△□○×○□○? ○○×○□○?」

 フィアが尋ねてみたところ、少女は何かを言った……が、何を言っているのかさっぱり分からない。無論フィアの聴力であれば少女の声がどれほど小さくとも聞き逃すなんてあり得ない事。純粋に、何を言ってるのか理解出来ないのだ。

 どうやら日本語ではないらしい。此処は日本ではないのだから、当然といえば当然の事だった。

 これは困った。フィアは西洋人染みた容姿を形作っているが、日本語以外は全く知らないのだから。

「んー何を言ってるのかさっぱり分かりません。これが中国語というやつでしょうか?」

 花中さんなら分かるのですかねぇ? 少女の言葉が理解出来ないフィアは、ぼんやりとそんな事を思う。今から花中を連れてこようか? とも思ったが、片道二時間の道をまた行くのは面倒臭い。それに村には人間の死体がごろごろ転がっている。人間が大好きな花中がこの光景を見たら、ショックで気絶してしまうかも知れない。

 何よりあまり悠長にしている暇はないだろう。

 ――――不意に、大地が揺れ始める。

 少女は地面の揺れに気付くと、フィアと向き合った時以上に身体を震わせた。半狂乱で暴れ、遠くに逃げようとする。

 フィアは少女の足から『糸』を解き、自由にした。少女は不意に取り戻した自由に一瞬呆気に取られたが、すぐに我を取り戻し、慌ただしく逃げていく。

 あの少女からは、まだ何も聞き出せていない。石をぶつけてきた理由も、後を追ってきた理由も分からず終いである。

 だが、そんなのは些末な事だ。最後まで分からなくともなんの問題もない。そんな事よりも大事なのは、今、此処に現れようとしているモノの方。

 あの少女のように引きずり出さねば駄目かと思っていたが手間が省けた。フィアは獰猛かつ心底楽しそうな笑みを見せる。

 ただし森や村ではなく、地面に向けて。

「虫けららしい隠れ場所ですねぇ。ですがこの私の鼻からは逃げられな……ん?」

 フィアはふと視線を頭上に向ける。その間も大地の揺れは収まらない。否、それどころか段々と激しさを増していく。

 やがて大地が割れ、三メートル近い長さの節足が生えてくる。

 巨大な足は六本地上に出ると、しっかりと大地を踏み締める。そして土が陥没するほどの力を込め、全ての足の中央に眠っていた胴体を起こした。五メートルはあろうかという身体は空気に触れるや激しく揺さぶられ、背中に乗っていた多量の土石を余さず吹き飛ばす。あたかも小石のようにふるい落とされた一メートル近い大岩は近くの廃屋に突き刺さる。非常識な巨体は、ただ動くだけで破壊を振りまいた。

 地上に露わとなった姿は甲虫に似ていた。如何にも硬そうな翅を持ち、胸や腹にも装甲のようなものが付いている。されど平坦な身体付き、そして二本の牙を生やした顔は、クモのようにも見えた。頭に生えている触覚は短く、棍棒のように丸くなっている。

 正しく『怪物』というべき様相。

 新聞に載っていた巨大昆虫は間違いなくコイツらだとフィアは確信する。それにしても中々個性的な姿だ。フィアはこのような『昆虫』には見覚えがない。もしかしたら昆虫ではないのかも知れないが、フィアにはよく分からない事だ。そもそも昆虫かそうでないかなど、フィアからすれば些末な話である。

 フィアにとって関心があるのは、コイツは美味いのか、不味いのか。その二択だけ。美味いのならこの虫けらが昆虫だろうがクモだろうが魚類だろうが、そんなのはどうでも良いのだ。そして食べるためには殺す必要がある以上、コイツを仕留める事にフィアはなんの躊躇も抱かない。

「ふふん無駄な抵抗は止めて大人しく私に頂かれなさい」

 勝ち誇った笑みを浮かべ、フィアは挑発的な言葉を投げ掛ける。

 巨大昆虫はまるでその言葉を解するかのように、フィア目掛け突撃を始めた! 五メートルもある巨体が、自動車でも出せない速さで、二メートルに満たないちっぽけな生物へと突っ込む!

 きっとこの速さで、巨大昆虫は人間達を襲ったのだろう。何時ぞやの戦いで使われた人間達の兵器……戦車やミサイルが何十と束になろうと、この突進は止められないという感覚をフィアは覚える。抗う事は叶わず、かといって鈍くてのろまな人間では逃げる事すら儘ならなかったに違いない。この破壊の力で、巨大昆虫は村と軍隊を蹂躙したのだ。

 そんな巨大昆虫の力も、フィアから見れば人間に毛が生えた程度にしか思えなかったが。

「ほいっと」

 フィアは片手を前に出し、巨大昆虫の顔面をタッチ。

 ただそれだけで、戦車さえも突き飛ばす運動エネルギーを有していた生命体は、易々と止められてしまった。

 巨大昆虫は自身が体感した事態に困惑するかの如く、複眼をギョロギョロと動かす。再突撃するためか足を動かして後退……しようとするが、フィアは巨大昆虫を掴んで離さない。巨大な節足は大地を削るほどのパワーを発揮していたが、一ミリたりとも胴体は後ろに下がれなかった。

 何時もなら面白がって手を離し、勢い余ってごろごろと転がっていく様を見るのも一興だが……今日のフィアにその気はない。大して疲れていないとはいえ、長旅の果てにようやく見付けた獲物なのだ。遊んでいて逃がしたら間抜けが過ぎる。

「すみませんが今日はあまり遊ぶつもりがないのですよっと」

 フィアは巨大昆虫の顔面を片手で掴んだまま、空いているもう片方の手をすっと横に動かす。

 ただそれだけの仕草で飛ばした『糸』は、巨大昆虫の足を数本呆気なく切り落とした。

 切断された足からは半透明な黄緑色の体液が溢れ、巨大昆虫の身体は地面に墜落する。痛みからか、それとも自分の身に起きた事への困惑か。巨大昆虫は身動ぎし、暴れたが、切られた足は自重を支える事すら叶わない。鳴き声を上げないのは、声帯を持っていないからだろうか。

 人間よりも遙かに聴力が優れているフィアとしては、喧しい鳴き声を上げない巨大昆虫は大変良いものである。満悦の笑みを浮かべながら、戦う力を失った巨大昆虫をフィアは見つめた。

「□□○! ○□×△×△!」

 フィアが巨大昆虫を再起不能にすると、フィアに石をぶつけてきた少女の声が聞こえてきた。振り向くと、瓦礫の物陰から顔だけ出している少女の姿が見える。少女は興奮した笑みを浮かべていて……けれどもフィアと目が合うと、慌てて物陰に隠れてしまう。

 巨大昆虫が倒された事を喜んでいるのだろうか? しかしだったら何故自分と目が合うと隠れてしまうのか……考えてみたがフィアにはよく分からない。分からないので気にしない事とした。

 それに人間などどうでも良い。今は仕留めた獲物の味の方が、フィアにとっては重要事項である。

 このような巨大昆虫を食べるのはフィアにとっても初めての事。どんな味がするのか見当も付かない。漂ってくる血肉の香りは悪くないと思うが、しかし吐き気がするほど不味いかも知れないし、毒がある事も考えられる。もしそうなら捨てるしかない。

 反面とびきり美味しかったら、花中へのお土産としてもう一匹ぐらい捕まえておきたいところだ。幸いにして村の中の地中にはまだまだ()()()()()()()()()()()()()気配を感じられる。探すのに手間は掛かるまい。

 勿論長い付き合いの中で、花中が虫を食べない事はフィアも知っている。しかし人間はエビやカニなどの甲殻類は食べている。虫だって似たようなものだろうから単純に味の問題の筈。もしかしたらこの巨大昆虫ならば花中も気に入ってくれるかも知れない。そうなれば一緒にご飯を楽しめる訳だ。夢が膨らむ話である。十中八九気に入らないだろうが……その時は自分が全て食べるだけなので問題はない。

 明るい未来に想いを馳せて、フィアはぺろりと舌なめずり。早速どんな味か確かめようとフィアは巨大昆虫の甲殻を掴み、その中身を引っ張り出すため甲殻を粉砕しようとした

 瞬間、フィアは全身を強張らせる。

 思考は過ぎらない。考えなんて巡らせている時点で遅過ぎる。

 フィアの身体は、フィア本人の意思を無視して動き出す。素早く巨大昆虫の傍から跳び退いて距離を取った。

 すると、フィアが失せるのを見計らったかのように空から『何か』が降下する。

 降下してきた『何か』は巨大昆虫よりも大きな、体長十メートルほどの体躯だった。それは自分の半分ほどの大きさがある昆虫の身体を易々と持ち上げ、空を飛んでてみせる。掴んだ巨大昆虫をフィアより少し離れた位置に運び、まるでこれは自分のものだと主張するように地面に置いた。

 一度退いたフィアは、空からやってきた相手と向き合う。

 そいつは眩いほどの煌めきを放つ、黄金の羽毛に全身を包んでいた。全身のフォルムはタカなどの小型猛禽類のようなものをしており、全身の羽根を棘の如く逆立てて一層攻撃的な外観を形作る。十メートル近い体長と同じぐらい長い翼を二枚持ち、羽毛に覆われていない二本の足には爬虫類的な鱗がびっしりと生えていた。赤く光る目はフィアをギロリと睨み、ワシのように太い嘴を開いて涎を零す。

 現れたのは巨大な怪鳥だった。

 それも一羽ではない。虫を掴んだ怪鳥がフィアから五十メートルほど村から離れ、森の近くに着地すると、空から新たに二羽の怪鳥が舞い降りてくる。いずれも大きさは同じぐらい。それが成体のサイズなのか、はたまた奴等が同じ年頃なのかはフィアの知るところではない。知るつもりもないが。

 突如現れた三羽の怪鳥。しかしフィアは左程驚かない。

 巨大昆虫が地中で動き始めた時、頭上を飛び回る『気配』が現れた。

 どうやらコイツらが気配の正体だったらしい。鳥は嫌いだ。ミュータント化する前の記憶なんてないが、きっと散々襲われて酷い目に遭わされたのだろう。見ているだけで虫酸が走る。

 おまけにこちらの獲物を奪ったのだ。相応の報いを与えねばなるまい。

「ふん。力の差も理解出来ない輩は長生き出来ませんよ。全員八つ裂きにしてあげます」

 フィアは殺意を滾らせ、怪鳥と向き合う。怪鳥のうち二羽は「クルルオオオオオオンッ!」と金属製の楽器を鳴らすような奇怪な声で叫び、フィアを威嚇した。向こうもやる気満々のようである。

 恐らくこの怪鳥達も、花中や人間達が言うところの『怪物』なのだろう。

 フィアが倒した巨大昆虫を横取りしたからには、怪鳥は巨大昆虫を餌だと認識しているに違いない。ならば怪鳥にとって巨大昆虫というのは、普段から食べている獲物の一つに過ぎない筈だ。フィアが感じ取った『力』の大きさからしても、この怪鳥ならば虫が何十匹束になろうと返り討ちに出来ると思われる。

 途方もない力を有した生命体だ……人間からすれば、という前置きは必要だが。

 フィアからすれば、この怪鳥も有象無象の一つに過ぎない。頭上を取られた不快感から退いてしまったが、真っ向勝負で負けるつもりは微塵もなかった。いや、瞬殺してやるつもりである。

 一つ、ただ一つの懸念があるとすれば……フィアから獲物を奪い取り、フィアの威嚇に声を上げなかった一羽。

 そいつの力だけは、周りの二羽とは格が違うという野生の『直感』ぐらいだ――――




ちょっと遅くなりました。
しかしフィアの頭は相変わらず空っぽですね。
空っぽだけど、未知相手には人間の知力以上に役立つという。

次回は4/28(日)投稿予定。


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適応者3

 怪鳥の一羽が大きく、黄金の羽毛に覆われた翼を羽ばたかせる。

 空を飛ぶつもりか? フィアはそう考えたが、怪鳥の身体が舞い上がる気配は一向に訪れない。

 代わりに、強烈な『風』がフィアの身に襲い掛かった。

 否、風と呼ぶのは過小評価だろう。何しろ風が通り抜けた後、フィアの背後にある廃屋が音を立てて吹き飛んだのだから。フィアが振り返ってみれば、廃屋はバラバラに砕けて空を舞っている。大地も抉れ、土砂も大空の旅を満喫していた。

 羽ばたいた怪鳥からフィアまでの距離は約三十メートル。村の残骸はフィアから更に数メートルは離れた位置にあった。距離はそれなりにあったが、しかし風はフィアの背後にある村の残骸と大地を易々と吹き飛ばし、更に何百メートルにも渡って破壊していく。

 奇妙な事に破壊の範囲は極めて狭い……それでも幅五メートルはあるが……ものに収まり、どれだけ進んでも広がる事はない。その結果風の通り道は、まるで巨大な球体が通ったかのような歪な光景を形作り、己の痕跡をハッキリと世に示す。

 凄まじい破壊力の風だ。通り道にあった戦車や人の亡骸も、一緒に吹き飛ばされたに違いない。人間が持つ軍事兵器でも、これほどの威力を有するものは殆どないだろう。翼一つでこれほどの力を生み出すとは、正に人智を超えている。

「ふん。微風(そよかぜ)ですね」

 ただしフィアを一歩後退りさせるには、全く以て力不足だったが。

 巨大昆虫よりも遙かに小さな生物が微動だにしない姿を目の当たりにし、風を起こした怪鳥は驚いたように目を見開く。しかし慄くような素振りはなく、むしろ闘志を燃え上がらせた。

 続いてこれならどうだと言わんばかりに、一層力強く羽ばたく。羽ばたきに応じ更に強烈な風がフィアに叩き付けられる。

 その暴風の中フィアは大きく右手を振りかぶった。

 振るったフィアの右手は、文字通り伸びた。水から構成されている『身体』は変幻自在。三十メートルという距離さえも射程内だ。怪鳥の顔面まで易々届く。

 そしてその拳の威力は、一撃で怪鳥の頭蓋骨を粉砕するほど。

「クブジャ……!?」

 殴られた怪鳥は断末魔の悲鳴を上げると、力なく倒れた。後はもうぴくりとも動かない。頭蓋骨どころか脳まで衝撃が届き、損壊して絶命したのだろう。

 恐らくは頂点捕食者、そうでなくとも相当上位の『肉食獣』として君臨していた彼等にとって、体長二メートルにも満たない生物に殴られて死ぬなど想定外だったに違いない。生き残った二羽の怪鳥のうち、一羽は酷く動揺した様子。あからさまに右往左往し、怯えたように目を動かしている。

 そしてフィアを再び視界に入れるや「クルキュルルル!」と泣きべそにも聞こえる声を上げ、慌ただしく羽ばたいた。今度は暴風が村とフィアを襲う事はなく、怪鳥の身体がふわりと宙に浮く。

 羽ばたいた一羽の怪鳥は森の方へと飛んでいった。人間が開発した飛行機よりも速い。フィアならば追跡は可能だが……面倒臭いので止めておいた。去る者は基本追わないのがフィアである。

 それに、まだ怪鳥は一羽残っている。

 フィアが唯一警戒している、巨大昆虫を掴んだままの怪鳥が。

「さっきの奴と一緒に虫を置いて逃げれば見逃してあげたんですけどねぇ」

 フィアは軽口を叩きつつも、全身に力を溜めて警戒する。怪鳥はそんなフィアの前で、ゆっくり、右の翼だけを掲げて――――素早く下ろした。

 ただそれだけの仕草だ。先手を打ってきた、フィアに殺された一羽が仕掛けたのよりも遙かに小さな動きである。

 なのに、不動を貫いていたフィアの『身体』が()()()

 直後、フィアの背後にある村と大地が、爆音を上げて砕け散った!

「ぬぅ……!」

 浮かび上がった『身体』の姿勢を立て直しつつ、フィアは背後の景色を確認。

 目が悪いフィアにもハッキリと見える。村の外に、高さ数百メートルはあろうかという白い靄のような『刃』があった。『刃』は凄まじい速さで直進し、通過した場所には鋭くて深い傷跡を刻んでいる。村の中心をその傷跡が横断しており、『刃』が一瞬で村を通り過ぎたのだと分かった。

 やがて『刃』は村を囲う山の一部に直撃……否、切断した。山を縦方向に真っ二つに切り裂いたのだ。出来上がった小さな隙間から、山の向こう側の景色が映っていた。

 フィアは理解する。怪鳥は先の小さな仕草一つであの『刃』を放ち、『刃』は目にも留まらぬ速さで自分を襲ったのだと。威力だけではない。隙も、スピードも、全てが先程の怪鳥が放った攻撃とは次元が違う。

「上等っ! こうでなくては面白くない!」

 その恐るべき戦闘能力が、フィアの闘争心に火を付ける!

 フィアは両足から水を噴射し、空を駆けた。まさか飛行するとは思わなかったのか怪鳥は一瞬身体を強張らせ、しかしフィアが来る前に己の翼を盾のように構える。強風を起こすほどの翼だ。さぞや頑丈に違いない。

 ならば防御の手薄な場所を狙うか? 答えはNoだ。

 そんな面倒な事などせず、真っ正面からぶち破れば良い!

 フィアはぐるんぐるんと右肩を回し、腕に運動エネルギーを蓄積。怪鳥に肉薄するや、ご自慢の翼目掛けて拳を繰り出した!

 戦車砲すらも比にならない破滅的一撃。命中の瞬間衝撃波が発生し、周りの廃屋や木々を薙ぎ払う。直撃を受ければ生半可な生物どころか、非常識な怪物さえも打ち砕く破壊力だ。まともに喰らえばこの怪鳥とてバラバラに砕け、跡形も残らないだろう。

 まともに喰らえば。

「(ちっ! 防ぎましたか……!)」

 手応えからフィアは理解する。自分の渾身の一撃はこれっぽっちも届いていない。

 怪鳥が盾のように構えた翼。その表面には、()()()()()が出来ていたのだ。この壁がフィアの拳に対する鎧となり、衝撃を防いでいた。恐らく怪鳥の翼自体には傷一つ付いていない。

 無傷の怪鳥は、ほくそ笑むように嘴をカチッと鳴らす。尤もフィアがその態度に苛立ちの表情を返す暇はない。

 カウンターとばかりに、突き刺すような衝撃がフィアへとお見舞いされたのだから。

「ぐっ!? おのれッ!」

 何があったのか? 衝撃はあれど攻撃は見えず、されど闘争心が戸惑いの感情を抱く隙間すらないほど満ちているフィアは即座に反撃を試みる……が、続け様に不可視の打撃が顔面を襲った。作り物の顔だから痛みなんてない。しかし加えられた運動エネルギーはフィアの『身体』を傾かせるには十分な威力を持ち、宙に浮いていたフィアは体勢を崩してしまう。

 怪鳥はこれを逃さない。盾のように構えていた翼を広げるや、すかさずその凶悪な足でフィアを蹴る!

 ただの蹴りならば、フィアの『身体』が有する重さ……今はざっと二千トンはあるだろう……で受け止められた。だが、怪鳥が放った一撃はフィアに奇妙な事象を起こす。足が触れるよりも早くフィアの『身体』に衝撃が走り、重量などお構いなしに飛ばされたのだ。

 挙句蹴り飛ばされた後も、フィアの『身体』は減速するどころかどんどん加速していく。まるで透明なジェットエンジンでも付けられたかのように。

 動力もないのに加速するという摩訶不思議現象に見舞われたフィアは、弾丸をも超える速さで村を横断するように何百メートルと吹っ飛ばされた! しかも何時まで経っても止まらない。加速が終わる気配すらないのだ。

 このままでは山どころか、大陸の彼方まで吹っ飛ばされそうである。

「ぬううううううううっ小癪なぁァァァァ……!」

 唸りを上げながらフィアは全身から水触手を伸ばし、大地へと突き立てる! 強靱な水触手は飛ばされそうになるフィアを支え、加速する『身体』を無理矢理引き留めた。どうにか着地したフィアだったが、彼方に飛ぶような加速度はまだまだ終わらない。

 いや、これは正しい表現ではないだろう。

 風、というよりも大気の流れと呼ぶべきか。それがフィアを押し流そうとしているのだ。ただの風ならばやり過ごす方法などいくらでもあるし、そもそも二千トンもあるフィアを吹き飛ばす爆風となれば辺りは跡形も残るまい。しかしその大気はまるでフィアに纏わり付き、極めて局所的に吹き付ける。

 不自然を通り越して出鱈目な風。されど元凶は分かっている。そしてどうしてこの奇妙な風を起こせるのか、フィアはすぐその答えに辿り着く。

 元凶は今正に相手をしている怪鳥。アイツがこのおかしな空気を扱えるのは……自分と同じだから。

 フィアの獲物を奪い取った怪鳥は、ミュータント化した個体なのだ。

「怪物のミュータントですか。通りで歯応えがある訳です」

 フィアは数百メートル彼方に陣取る怪鳥を睨みながら、余裕を崩さずに独りごちる。しかし本体は能力により血流を速め、身体機能を活性化。己の力を更に高めていく。

 ミュータントが相手ならば手加減をする訳にはいかない。自分が負けるとは全く思わないが、互角の相手である事を認めないような『阿呆』な真似を野生生物であるフィアはしないのだ。

 相手の怪鳥も、フィアが己と同様の力を有した存在だと理解したのだろう。少しずつだが戦意をより高めている。昂揚する気分と共に、肉体に宿る力を増している筈だ。

 両者は巨大な大気を挟んで睨み合う。ただただ睨み、高め、窺い――――

 二匹は同時に動いた。

 怪鳥は、瞬きする間もなく飛ぶ! 翼をぴたりと胴体に付け、あたかも自身を投げられた槍のように射出したのだ! 能力により加速しているのだろう。その速さたるや、音など遙か彼方に置き去りにする。

 怪鳥の突撃はあまりに速く、フィアにも全く見えなかった。が、それは反撃が不可能である事を意味しない。フィアは己の周りに無数の『糸』を展開。切断された刺激を以て周囲の水分子に振動を伝達し、それにより『身体』の動きを制御……早い話が自動的に動き始めた拳で殴り掛かる!

 怪鳥がフィアの目前でくるりと体勢を変えて翼から体当たりしてきたのと、フィアが己さえも意識していない鉄拳を放ったのは、一瞬の狂いもなく同時であった。ぶつかり合った衝撃は爆風となって近隣に吹き荒れる。大地が抉れ、隕石でも落ちたかのような巨大クレーターが形成された。人間ならば、側に居ただけで跡形もなく『蒸発』するだろう。

 されど超常の生命にとっては、戦いを止めるきっかけにもなりはしない。

「クルルルルルルルルル!」

 クレーターの中心で怪鳥は、広げた翼を刃のようにしてフィアへと振り下ろす。フィアは本能的に身を捻り、脳天に迫っていた攻撃を回避。

 翼は大地にぶつかるや、まるで熱したバターでも切るかのように易々と切れ目を入れた。大地の断面からは湯気が立ち昇り、一瞬にして岩をも溶かす高温になった事が窺い知れる。

 名前は忘れた(アルベルト)との戦いで数万度の高温にも耐えられるようになったフィアだが、この怪鳥の攻撃に耐えるのは無理だと感じた。理屈などない。ただの直感だ。しかし人智の及ばぬ生命体であるフィアの直感は、人類最高峰の知能が導き出した小難しい理屈よりも遙かに正確に物事を捉えていた。

 怪鳥もきっと「通じる」と考えたに違いない。両翼を広げるや交互に、素早くフィアを斬り付けてくる! 危険なのは翼だけではない。翼から飛んでくる空気の刃も、触れたものを加熱して切り裂いた。射程は百メートル以上あるらしく、躱し続けるフィアの周りには、まるで体長一千メートル級の猫が爪研ぎでもしたかのような傷跡があちらこちらに刻まれる。

 こうもボロボロになると、大地といえども不安定になる。このままでは足場が崩れ、バランスを崩してしまうかも知れない。フィアならば足下の土に水を染み込ませて固定する事など造作もないが、それをすると大地から足を離せなくなるため動きが鈍くなってしまう。怪鳥の攻撃はミュータントであるフィアからしても苛烈そのもの。俊敏さを失えば、怪鳥は容易くこちらを両断するであろう。

「調子に……乗るんじゃありませんよォッ!」

 フィアが選ぶ打開策は、反撃一択であった。

 攻撃を躱しながら、フィアは自らの右腕を変形。ナイフのような形にして振るう。変化した腕はあくまで形態的に『刃』となっているだけ。空気を操る怪鳥のような、理不尽な原理は秘めていない。

 だが、込められた力はインチキそのもの。

 音速を軽く超えた速さで、フィアの右腕は怪鳥を斬り付ける! 怪鳥は翼を構えてこれを防ぎ、故に大地を切り刻む連撃は止まった。

 今度はこちらの番だとばかりに、フィアの猛攻が始まる。さして鋭さなどないなまくら刀の腕を、ただただ強引な力でのみ動かし、切るというよりも叩き付けた。ぶつかる度に衝撃波が広がり、怪鳥の巨体を僅かながら後退させる。あまりにも強引な攻撃は、もしも此処が市街地ならばビルや住宅を何十と纏めて吹き飛ばしたに違いない。それほどの馬鹿力を一秒に十数回も喰らわせてやった。

 しかし怪鳥の翼には傷一つ入らない。

 この怪鳥の同種は翼の羽ばたきにより爆風を起こしたが、単純なパワーではなく翼の構造により生み出されたものだろう。でなければ局所的な暴風など起こせる訳がない。その原理を応用すれば空を飛ぶ力にも役立てるため、翼に大きな強度は必要なくなる。必要がなければコスト削減のため、どんどん脆弱になっていくのが『進化』というものだ。怪鳥はその大きさは見た目ほど、頑強な生物ではない筈である。

 進化論的な話はフィアにはあまり分からないが、鳥の身体が脆弱極まりない事は本能的に理解していた。普通ならばフィアの強烈な打撃を受ければ、怪鳥といえども骨は呆気なく砕ける。

 そうならないのは、ひとえに翼が纏う『透明な壁』……空気のバリアが原因だ。

「(ちっ! この壁が鬱陶しい!)」

 フィアは打撃を続ける中で、忌々しい空気のバリアに内心舌打ちする。

 どれだけ強い力で殴り付けても、空気のバリアは揺らぐ気配すらない。恐らく単純な物理的威力でこのバリアを破るには、野良猫(ミィ)並のパワーが必要だろう。如何にフィアでも、身体能力に全てのエネルギーを費やしているミィほどの怪力は出せない。悔しいが力技でこの壁を破るのは不可能だ。

 ならば小技を用いるしかない。

 フィアは腕の形を再び変化させる。今度は刃ではなく、高速で回転する……所謂ドリル。

「貫けぇっ!」

 フィアの掛け声と共に、ドリルが怪鳥の翼に突き立てられる! 腕のドリルはギャリギャリと金属染みた音を鳴らし、空気のバリアを削り取ろうとする。

 広い打撃で駄目なら一点突破。フィアらしいシンプルな、故に効果的な攻撃方法の変化に怪鳥は顔を顰めた。まるで忌々しい輩を睨み付けるかのように。

 事実新たな攻撃は効果覿面だったに違いない。でなければ、翼が纏う空気のバリアが()()()()()事はないのだから。

「……小賢しい」

 悪態を吐いたフィアは攻撃を止め、跳び退いて距離を取る。怪鳥も追撃は試みず、羽ばたきながら後退。フィアとの距離を十分に開けた。フィアはドリルと化した腕を人のそれへと戻し、怪鳥も翼を身体に付けて休みの姿勢を取る。

 一見してただ向き合ってるだけの二匹だが、内心では未だ激しく闘志を燃え上がらせている。相手が何かしらの動きを見せたなら、即座に対応するつもりだ。あくまで今は様子見でしかない。

 探り合いの中でフィアは思考を巡らせる。

 まず、勝てない相手ではない。ドリルによる攻撃でバリアを厚くしたという事は、そのままでは防ぎきれないという判断をした証拠だ。怪鳥自身が過度の心配性でない限り、その判断は適切なものであろう。つまり相応のやり方で挑めばバリアは貫ける、そしてそれは自分の力でも可能な事、ならばコイツは倒せる……極めて簡単な三段論法だ。

 同時に、相手はまだまだ余力を残している。苦もなくバリアを厚くする事が出来る程度には。

 手加減はしていないだろう。しかし全力を出してはいないという事だ。感覚的な話ではあるが、この怪鳥はまだまだ隠し球を持っているような気がする。その隠し球がどのような性質の代物かは流石に分からないが、空気のバリアや大地を切り裂く高熱よりも更に強力な代物なのは間違いない。

 そこまで考えながら、けれどもフィアに逃走の意思はない。隠し球があるのはフィアも同じだ。おめおめと逃げ出すには早過ぎる。

 闘志も戦意も勝機も十分。何時でも戦いを再開出来る。

 しかし――――

「……止めますかね」

 フィアは完全に構えを解き、闘志も冷ました。

 フィアが戦闘への意欲を失うと、怪鳥の方も同じく警戒を解く。最早どちらの身体にも力はなく、今から昼寝にでも行くかのように気怠げ。すっかりやる気をなくしていた。

 というのも、戦う必要がなくなったからだ。

 何故フィアはこの戦いを始めたのか? アイツが奪った獲物(巨大昆虫)を取り返すためだ。勿論鳥が嫌いでムカつくというのもあるが、戦いまで至った理由はその一点である。獲物さえ取り返せたなら、まぁ矛を収めてやっても良いかなぐらいは思えただろう。恐らく巨大昆虫を奪った怪鳥も、同じような考えの筈だ。

 ところがその肝心の獲物が……何処にも見当たらない事に、今になって気付く。

 恐らく殴り合いや空気の刃により、吹っ飛んでしまった、或いはバラバラになってしまったのだ。適当に放った『糸』だけで足が切れるほど、フィアから見た巨大昆虫は()()。加減なしのパワーのぶつかり合いには、余波すら耐えきれなかったとしても不思議ではない。

 フィアとしては鳥自体が嫌いなので、このまま戦い続けて殺してもそれはそれで構わないのだが……怪鳥の方が完全にやる気を失っている。殴り掛かったところで、ひょいっと躱してすいっと逃げるのがフィアの目にも浮かんだ。そして素早さに関して言えば、間違いなく怪鳥の方がフィアよりも上である。

 戦いを挑んだところでどうせ逃げられる。なら、最初から挑まない方が疲れないだけマシというものだ。それに『獲物』はまだまだ生息している。最初に捕まえた個体に固執する必要なんてない。

 さっさと気持ちを切り替えて別の巨大昆虫を探す……野生の本能が示す最も『合理的』な選択がそれだった。

「ふん。命拾いしましたね。言葉が通じているか分かりませんが念のために警告しておきましょう。二度目はありませんよ」

「……クキュルゥルルルル」

 それはこちらの台詞だ、とでも言ってるのだろうか。怪鳥は一鳴きするや翼を広げ、ゆったりとした速さで森の方へと飛んでいった。フィアは飛び立つ怪物を目で追い、遠ざかる背中に不機嫌な鼻息を送る。

 尤も居なくなってしまえば、フィアとしてはもうどうでも良い事。怪鳥の姿が見えなくなるのと共に、フィアは気持ちを切り替える。にっこりと笑みを浮かべた。

「さぁーて別の虫でも探し……」

 その笑みが曇るのに、瞬きほどの時間も必要なかった。

 目の前に広がるのは、瓦礫の山。

 来た時にはボロボロながら残っていた家々は全て破壊されている。潰れているだけならまだマシ。フィアの周りに至っては残骸すら残っていない。大地は捲れ上がり、抉れ、あちらこちらにクレーターが出来ていた。

 どうやらあの怪鳥とケンカしているうちに、村を破壊し尽くしてしまったらしい。フィアとしては、そして恐らく怪鳥としても、本気は出したがまだまだ全力ではないというのに……どうして人間の建物というのはこうも脆いのだろうか? お陰で辺りが凸凹していて歩き難いではないか。

 いや、歩き辛い事はこの際良い。人間の住処が壊れた事なんて興味すらない。

 問題は、巨大昆虫の気配が何処にもないという点だ。

 戦闘の前まではたくさんあった虫達の気配が、今やすっかり消えている。自分と怪鳥の戦いを恐れ、そそくさと逃げ出したのかも知れない。自分達を襲う捕食者同士がこちらに目もくれずに争っているのだから、そりゃさっさと逃げるのが得策である。フィアだって巨大昆虫の立場なら、同じ行動を取るだろう。

 戦いに夢中になり過ぎて本命を忘れるとは。自らの失態に肩を落とすフィアだが……すぐに立ち直り、歩みが向いたのは崩壊した村の中だった。

 確かに虫達の気配は殆ど消えた。しかし致命的な臆病者というのは何処にでも、どんな種族にも存在するものだ。

 フィアの感覚は確かに捉えている。未だに逃げていない、たった一つの気配を。

 先程見付けた虫よりも遙かに小さく、脆弱な気配だが、確かに存在している。あまりにも弱々しいので違和感も覚えるが、此処は虫達と怪鳥が暴れ回った跡地だ。他の生物がいるとは思えない。きっと生まれたての幼虫とかが必死に身を隠しているのだろう。

 気配があるのは、怪鳥との戦闘跡地からざっと数百メートルは離れた場所。辿り着いたのは、大きな家が潰れた事で出来たと思われる廃材の山だった。人間ならば柱を一本動かすのも至難の業だろうが、フィアにとっては紙きれの束みたいなもの。

 しかし一本一本抜き捨てていくのも面倒臭い。

「ふんっ」

 なのでフィアが選んだのは、思いっきり蹴飛ばす事。

 人外の足蹴は、一軒家丸々一つ分の材木を一発で吹き飛ばした。山のように積まれていた廃材が空を舞い、瞬きする間もなく大地が剥き出しとなる。

 そんな一瞬の出来事だったからか。そいつはその身が外気に触れたのに、何時までも蹲ったままだった。

 小さな、人間の少女は。

「……あら?」

 思っていたのと違う『獲物』の姿に、フィアは首を傾げる。場所を間違えた? しかし気配があるのは此処だけだ。

 だとすると間違えたのは、自分の感覚か。

 どうやらこの人間が気配の正体だったらしい。まさか人間の存在と虫を勘違いするとは、とフィアは自らの『失態』に舌打ちする。言い訳をするなら、普段なら臭いで判別出来るところ人間の村なのでそこら中が人間臭く、それでいて巨大昆虫が暴れ回ったので巨大昆虫の臭いにも満ちていたため間違えた、といったところなのだが……フィアはその手の言い訳を考えるような思考を持っていなかった。二度とこんな失敗はするまいとちゃんと反省する。

 それはそれとして。

 この人間は、何時まで蹲ってるつもりなのだろうか?

「(まぁどうでも良いですけど。さぁて他の気配は……なさそうですねぇ。全部逃げてしまいましたか)」 

 人間ならここで少女に声の一つでも掛けるだろうが、生憎フィアは人外である。人間への関心は殆どなく、それよりも虫探しの方が大事。他に気配がない事から、近くに巨大昆虫がいないと考え落胆した。

 しかしこれで虫探しを止めるほどフィアの諦めは良くない。臭いの濃淡を感知すればまだまだ追跡は可能だ。逃げた場所を見付ければ――――

 今後について考えていたところ、蹲っていた人間がもぞりと動いた。フィアが横目で見れば、人間の少女は怯えた顔で辺りを見回している。目には涙が浮かび、余程怖い想いをしていたのだろう……そんな少女の姿を見て、フィアはふと思い出す。

 この少女は自分に石をぶつけてきた人間ではないか、と。

 顔については最早薄らぼんやりとした印象しか残っていないが、ハッキリ覚えている臭いの情報と合わせれば、確信が持てる。逃げ遅れたのか、逃げる距離を見誤ったのか、逃げきれないと判断して建物内に隠れたのか……理由はどうあれ自分と怪鳥の戦いに巻き込まれたらしい。そこまで考えてもフィアは罪悪感など覚えず、むしろ「のろまですねぇ」と思うだけだが。

 そして少女はフィアの存在に気付くと、ビクリと身体を震わせて

「……◇□×△×□○□▽!」

 やはりフィアには何を言ってるか分からない言葉を叫びながら、何故かフィアに抱き付いてきた。

 可愛いもの好きなフィアとしては、そこそこ可愛い少女に抱き付かれて悪い気はしない。だが、理由が分からない。言葉が理解出来れば簡単に分かるのだろうが、今のフィアにその術はなかった。

 それにちょっと邪魔だ。これから自分は虫探しに行きたいのに。

 片手で押し退けると、少女はフィアから離れる。フィアの怪力に人間が敵う筈もないので、突き放すのは簡単だった。尤も少女は少し距離を開けるとその場に佇み、フィアから離れようとしない。いや、それどころかフィアが歩くと、距離を保つように少女も歩いた。

 どうやらついてくるつもりらしい。何故? と考えてフィアは足を止めた。

「□□△!」

 そうしていると、遠くから人間の声が聞こえてきた。

 声が聞こえた方を見れば、かなり離れた位置に人間の姿がある。目が悪いフィアにはよく見えないが、少女には識別出来ているらしい。少女は花咲くように眩い笑みを浮かべると、両腕を大きく振って自らの存在をアピール。

 少女のアピールを見るや、遠くに居た人間は駆け足で近付いてくる。距離が縮まれば、フィアにもその人間の姿がハッキリ見えるようになった。

 一言でいうなら、年老いた男だ。六十か七十歳ぐらい。しかし走り方に老いは感じられず、肉体的にはもっと若々しいようだ。彼の頭には髪一本生えていないが、口許には長々と伸びた白髭を携えている。アニメや漫画に出てくる仙人のような姿だとフィアは思う。

 男は少女の方へと駆け、少女も男の下へと走り出す。そして抱擁出来るぐらい近付いた

「×××○!」

 刹那、男は少女の脳天に拳骨をお見舞いした。かなり強烈かつ手加減のない一撃。人間にしては中々の威力だと、フィアさえも「ほほう」と声を漏らしてしまう。

 叩かれた少女は目を白黒させ、右往左往。しかし男の方は少女を労るどころか、ガミガミガミガミガミガミガミガミ……彼等の言葉が分からないフィアにも「ああ怒ってるんですね」と思えるほど、激しく叱責した。時折少女が何かを話したが、すぐに男に叱られしょんぼりする。

 怒られている少女は助けを求めるようにフィアに視線を向けてきたが、フィアからすれば彼女がどれだけ怒られようと知った事ではない。フィアはあっさりと少女の『訴え』を無視する。

「○×◇○×?」

 ところが今度は男の方がフィアを呼び止めた。言葉は分からずとも、こちらを見ながら話し掛けてきたのだ。そう判断するに足る状況である。

 彼は自分も怒るつもりなのだろうか? 人間の怒りというのは ― フィアから見れば ― 理不尽なものばかりだ。何が理由でぶつけてくるか、フィアには想像も付かない。

 別段人間に怒鳴られても何一つ感じないが……無駄な時間を費やすのも面倒だ。 

「いや何言ってるのかさっぱり分かりませんが」

 なので自分にその言葉が通じない事をハッキリと伝えた、日本語で。

「む。あなた、日本人、でしたか?」

 すると男は拙いながらも日本語で返してきた。

 まさか日本語で返事があるとは思わず、フィアは驚きで目をパチクリさせる。とはいえそこは野生生物。瞬時に平静を取り戻し、彼には日本語が通じる事を理解した。

「おや。あなた日本語を話せるのですか」

「……昔、少し、習いました。あまり、上手く、ないです」

「みたいですね。まぁ通じるならなんの問題もないです。それで私に何か用ですか?」

「はい。私の孫を、助けてくれて、ありがとう、ございます。何か、お礼を、したいです」

「はぁ。別に人間からのお礼とかどうでも良いですお金とか興味ないですし。それよりも虫取りに行きたいのですが」

「虫取り?」

「この村を襲った虫ですよ。アレを捕まえようと思いまして」

「!? なんと……それは、とても難しい事です。軍隊でも敵わない相手、です。一人で挑んで、勝てる相手では、ありません」

「あなた方人間にとってはそうでしょうね。ですがこの私にとっては虫けらでしかありませんよ」

 フィア的には ― そして実際に ― 事実を語るも、男は顔を顰めるだけ。どうやら信じていないらしい。

 ところが男の孫である少女が何かを話すと、男は大きく目を見開いた。それから何度か少女と言葉を交わすと、また顔を顰めたり、困惑したように目を右往左往させたり、目まぐるしく表情を変える。

 しばらくして、動揺からか何時の間にか乱れていた呼吸を男は整え……改めてフィアと向き合う。

「……少し、お話をしたいです。我々が居る、避難所に、来てはくれませんか?」

 彼はフィアにお願いをしてきた。

「嫌ですよ面倒臭い。先程も言ったでしょう私は虫取りに来たのです。あなた方と話すためではありません。多分虫は森の方にいると思うのでそちらに行こうかと」

「でしたら、尚更来た方が良い。私達はあの虫、そして鳥についての知識を、少しですが、持っています。大きな虫の集まる場所、あの鳥について、お話出来ますが」

「む……」

 即座に断るフィアだったが、男は魅力的な話を振ってくる。確かに臭いや気配で虫の探索は可能だが、住処が分かるに越した事はない。あの怪鳥についても色々な情報が得られれば、奇襲や獲物の横取りを防げる可能性が高くなる。

 時間を惜しみ情報なしで挑むのと、ちょっと時間を割いて情報ありで挑む……どちらが有効かは時と場合によるだろう。そして此度は相手が未知の昆虫と怪鳥、それでいて昆虫の数はそれなりに豊富。つまり時間的猶予はあり、失敗のリスクは高いというシチュエーション。

 少し話を聞いて失敗の確率を下げられるのなら、その方が面倒は少ないかも知れない。

「……そうですね。そういった話が聞けるのなら是非伺いましょう。あなた達の住処はどちらにあるんです?」

「ご案内します。さぁ、こちらに」

 歩き始めた男、その男の傍に立つ少女の後を追う……前にフィアは森の方へと振り返る。

 感じられる、無数の気配。

 巨大昆虫や怪鳥の力。

 野生の直感で得られた『情報』に、ぺろりとフィアは舌舐めずり。獰猛さと好奇を併せ持った視線を送る。

「んふふふふ。軽い運動の後の食事は最高ですからね。楽しみです」

 ぽつりと独りごち、それからフィアは男と少女の後を早歩きで追うのだった。




はい、という訳で今回の相手は怪物のミュータントです。
そして話し合いも何もなく、とりあえず殴りにいくという。
どっちも野蛮だけど動物だから仕方ないね!

次回は5/4(日)投稿予定


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適応者4

 村があった地点から凡そ二キロほど離れた位置に、人間達の住処……住宅がずらりと並んでいた。

 住宅といっても、屋根と壁とドアがあるだけの代物。窓はないし、金属製の壁では耐寒・耐熱性に難があるのは明らか。平らな屋根では雪が落ちず、大雪に見舞われた場合潰れてしまう恐れがある。ドアもよく見れば微妙に隙間が空いているので、秋の冷たい外気が進入し放題。コンテナを改造したとしか思えない粗末さは、一時的な避難ならまだしも、数日~数週間以上の生活にはどう考えても向かないだろう。

 それもその筈。此処に並ぶのはあくまで仮設の住宅なのだから。

 この『住宅地』に暮らすのは、巨大昆虫に襲われた村の人々である。彼等の故郷は虫により徹底的に破壊された。自宅は瓦礫の山と化しており住めたものではなく、しかも何時また巨大昆虫に襲われるか分からない。雨風が凌げて、巨大昆虫の生息域から離れたこのコンテナの方が、今や故郷よりも遙かにマシなのだ。仮設の住宅地の中を歩く人々の顔は暗いものだったが、不満の言葉が聞こえないのはそれが理由であろう。

 ……『巣』を持たないフィアからすれば棲めない場所から離れるのは当然であり、何故人間達が暗い顔をしているのか理解出来なかった。興味もないので理由を尋ねようとも思わないが。

「どうぞ、こちらが、私達の家です」

 コンテナで出来たそんな住宅地の中をフィアが歩いていると、フィアの前を歩いていた白髭の男性 ― リ・ハオユーという名らしい ― は拙い言葉遣いの日本語でそう言いながら一件の仮設住宅を指差した。フィアが見る限り、他の家と大した違いのない仮設住宅(コンテナ小屋)だ。

「○▽△▽!」

 フィアがハオユーの家を認識するのと同じくして、ハオユーの孫である少女……こちらはシィンイーという名前だそうだ……が喜びに満ちた声を上げ、フィアとハオユーを差し置いて一番に家の中へと入る。ハオユーは娘の言動を見て呆れたように首を左右に振ったが、礼節なんて左程興味がないフィアは特段思う事もなし。何も言わず、シィンイーの後に続いてコンテナ小屋に足を踏み入れる。

 小屋の中もまた、外見通り殆どコンテナ同然だった。床には敷物なんてなく、布団が二つあるだけ。テレビも見当たらず、代わりとばかりにラジオが置かれていた。壁にあるのはカレンダーと時計。花中の部屋と比べて面積はこちらの方がずっと広いとはいえ、かなり殺風景なものだとフィアは思った。

 フィアが小屋の中を眺めている間に、ハオユーも小屋に入る。ハオユーは小屋の中央まで行き、布一枚ない金属の床の上で胡座を掻いて座った。

「申し訳ない。座布団一つ、用意出来ず……不快でなければ、布団の上に、座っていただいて、構いません」

「はぁ。別に私は何処でも構いませんので気にしなくて良いですよ」

 『身体』が水で出来ているフィアからすれば、立っていようが座っていようが違いはない。気分的に座りたければ座る程度だ。ましてやお尻の下にあるものがコンクリートか布団かなど、どうでも良い事である。

 つまるところ言葉通りの意味なのだが、ハオユーは謙遜や遠慮と受け取ったのだろうか。フィアが立っていると、自分が座る訳にはいかないとばかりに立ち上がる。ハオユーがそうしたいのなら邪魔したり止めたりする理由もないので、フィアは彼の好きにさせた。

 何より、彼が疲れようが疲れまいがどうでも良い。

「それより早速話を聞かせてくれますか? あの虫と鳥について」

 フィアは、自分に役立つ話が聞けると思ったから此処に来たのだから。

 フィアに話を促されたハオユーは、こくりと頷き、口を開く。

「……まず、我々は大昔より、彼等の存在を、知っていました。人を喰う、地獄より這い出る、恐ろしい魔虫。その魔虫を狩る、神の使い。神の使いは、魔虫が、森の外に出ぬよう見張り、そして魔虫が人を襲う時、森より人の前に現れる……と」

「ほーん。まぁお隣の森に棲んでるようですからあなた方がアイツらを知っていても不思議はないですね。神だのなんだのは胡散臭いですが」

「ええ、それは実に、現実的な考えです。我々も、知っているといっても、伝承やお伽噺として、でした。国による、近代化政策などの、影響もありまして、近年では、殆ど、信じている者は、いません。私も、その一人。つまり」

「つまり?」

「……つい最近まで、虫も、鳥も、滅多に見られないほど、少なかった、という事です」

 しかしその数がなんらかの要因により増えてしまった。

 ハオユー曰く、『その日』まで予兆と呼べるものはなかった。村人は今まで通り森を大事にし、森を汚さないよう生きてきたつもりだ。確かに魔虫や神の使いの存在は信じていなかったが、それでも伝統を捨てた訳ではない。森の大切さを伝えるものだと理解し、自然と共存してきた。森も『その日』……二日前まで、変わらず自分達を支えてくれた。

 なのに。

 二日前、村を小さな地震が襲った。耐震性など殆どない建物ばかりの村だったが、それでも潰れたものがないぐらい小さな地震だ。だから誰も気にしなかった。

 その日のうちに巨大昆虫の大群がやってこなければ、きっと誰もが忘れ去ったに違いない。

 彼等は何百という大群で、森から村へと押し寄せてきた。彼等は家々を破壊し、村人を次々と喰らった。勿論村人は抵抗したが、しかし巨大昆虫の力には敵わず。数百人は居た村人は、たった一晩で数十人しか残らなかった。

 生き残った村人はすぐに通報を行った。不幸中の幸いというべきか、世間的に『怪物』の存在が一般化してきた事もあり、間もなく軍が派遣されてきた。これが昨日の事だ。

 そして軍隊が巨大昆虫に壊滅させられたのも昨日の事。

 数々の兵器は効かず、歩兵は残らず餌となり、戦車さえも叩き潰すパワーで一瞬にして蹂躙された。確かに通報からたった一日で送り込まれた軍隊だから、十分な戦力ではなかったかも知れない。空爆なども行われなかった。けれども軍事兵器である事には変わりない。ゾウやクジラ程度なら問題なく倒せる部隊の筈だ。

 そんな軍隊を難なく粉砕する圧倒的な力を、神話の怪物と呼ばずになんとする?

 そして今日になって、森から光り輝く鳥が現れたなら?

 ――――正しく、伝説で語られていたのと同じ事が起きているではないか。

「無論、だからあの虫達は、地獄からの怪物とは、そして鳥が、神の使いとは、思いません。いえ、一部では、そう信じた者がいますが……私の孫も、含めて」

 申し訳なさそうな目でちらりとハオユーは孫娘を見て、見られたシィンイーはこてんと首を傾げる。シィンシーには祖父の日本語が分からないのだから、ただ視線があったようなものだ。

 花中であればこの話から「シィンイーがフィアちゃんに石を投げたのは、神様の使いの邪魔をしないよう、追い払うためだったのかな?」と考え付いただろう。しかしフィアにとって人間の気持ちなんてものは理解が及ばないところ。そもそもシィンイーに石をぶつけられた事さえもすっかり忘れていた。

 他者の心境を全く理解していないフィアを見て、何を思ったのか。ハオユーは咳払いをしてから、話を戻す。

「……科学的に考えるなら、あの鳥は、虫達の天敵、なのでしょう。普段は、虫達を食べて、その数が、我々に危害が及ばないまで、減らしていた。そしてもし、なんらかの要因で、大きく増え、人里まで虫が、溢れた時、虫を追って、人々の前に現れる。それが、この辺りの、自然のルール、だったのでしょう」

「ふむふむ成程。つまり虫達はそのうち鳥に食い尽くされてしまうと」

「ええ。解決だけを考えるなら、時間が経つのを、待つだけ。それだけで、良いですし、それ以外の事は、人間の力では、出来ますまい」

 ハオユーは諦めたような言い方で、そう話を締め括る。

 人間的には、確かにそれしかないのだろう。何しろ巨大昆虫に武力で挑んでも勝てないのだから。むしろ放置すれば解決するだけマシというものだ。

 しかしフィアからすると、このまま解決してしまうのは困る。昔から繰り返されてきた食物連鎖だとすれば、巨大昆虫が全滅する事はないだろう。だが、数は大きく減ってしまう筈。自分の嗅覚なら例え最後の一個体になったとしても見付け出せるという自信がフィアにはあるが……探すのが面倒になるのは確かだ。楽に目的が達せられるならそれに越した事はない。

 やはり狩りをするなら今しかないという事だ。延期する気はなかったが、時間制限があると分かったのは大きな収穫である。

 なら、さっさと『居場所』に向かうべきだ。

「じゃあ虫の住処を教えてくれますか? 狩りに行きますから」

「……その前に、二つ確認させてください。シィンイーから、あなたには、不思議な力があると、聞いています。故に、あなたならば、可能かも知れないから問うのです……あなたは、魔虫を根絶やしにする、つもりですか?」

 フィアが話を促すと、ハオユーは質問を投げ付けてきた。

「何故そんな事をする必要があるのです? 私は一匹食べてみたいなぁと思ったから此処に来ただけです。美味しくなければそれ以上捕りません。美味しければお土産として何匹か捕まえるかも知れませんが根絶やしにしたらもう味わえませんからね」

 その問いに、フィアは首を傾げながら正直に答える。

 人間からすれば魔虫は恐ろしいかも知れないが、フィアにとっては恐ろしくもなんともない。そしてフィアには人間を助ける気なんて微塵もないのだ。巨大昆虫を根絶やしにするつもりなんて、これっぽっちもない。

 そんな気持ちを包み隠さず開かすと、ハオユーは僅かに戸惑った表情を浮かべた。けれども嫌悪や軽蔑の意思はなく、安堵したようにも見える。

「……では、二つ目の質問です。あなたは、神の使い……鳥と争う、おつもりですか? 彼等を、根絶やしにするという、事は、考えていますか?」

「向こうが襲い掛かるならそうなるかも知れませんねぇ。向こうが私を襲わないなら私から手を出す理由もないのでそうならないと思いますが」

 次の質問にも、フィアは嘘を吐かずに答える。吐く意味が分からない。自分のやりたい事を隠すなど、フィアには理解出来ない行為なのだから。

 二つの質問が終わると、ハオユーはしばし考え込む。それからため息を吐き、フィアと向き合った。

「問い質すような、真似をして、申し訳ありません。確かめたかったのです。人に仇為すとはいえ、魔虫も神の使いも、自然の一部。根絶やしにすれば、生態系に、どんな事が起きるか、分かりません。あなたが、彼等を根絶やしに、するつもりなら、お教えする訳には、いきませんでした」

「はぁ。まぁその時には自力で探すつもりでしたから別に良いですけどね」

「いやはや、あなたなら、それも出来そうです。これは、私の、自己満足です。一つ、頼むとすれば、神の使いと、争ってはほしくないのですが」

「奴等が邪魔さえしなければ私からは手を出しませんよ。向こうが私の邪魔をするのなら徹底抗戦します。まぁ大抵の奴は私に恐れをなして逃げ出すでしょうがね!」

 ハオユーのお願いに、フィアは自慢げに胸を張りながら満面の笑みで応じた。が、すぐにその眼差しを真剣なものへと変える。

 そう、大抵の奴ならば自分に恐れをなして逃げ出す。それだけの力の差が、フィアと『普通の怪鳥』の間にはある。

 だが、アイツだけは。

 ミュータント化したアイツだけは、こちらの邪魔をしてくるかも知れない。先程襲い掛かってきたのはこちらの獲物を奪うのが目的だろう。しかしその理由は空腹だから、というものではあるまい。自分に比する強さがあるのだから、あんな虫けらを捕まえる事など造作もない筈なのだから。

 恐らく怒った原因は、フィアが虫を捕った……その行動自体に対して。

 自分達以外に虫を渡すつもりがないのか、或いは虫達の数を『管理』しているのか。フィアには奴の目的など分からないし、何処まで本気なのかも知り得ないが、いずれにせよフィアが虫を捕ろうとすれば奴はまた襲ってくるだろう。

 望むところだ。今度こそ返り討ちにしてくれる。

「……そうなる事を、期待します。では、魔虫の住処を、お教えしましょう」

「おっ。何処です何処です?」

「この避難所から見て、南西の山の、中腹。そこにある、洞穴が、魔虫の住処と、伝承では、語られています。とはいえ、今は魔虫が、大量発生している、最中。その道中で、たくさんの虫が、見付かるでしょう」

「南西の山ですね。分かりましたお話ありがとうございますでは私は早速そちらに向かいますね!」

 ハオユーから虫の居場所を聞き出したフィアは、嬉々としながらお礼を言う……が早いか、すぐに仮設住宅から出た。

 外に出たフィアは、本能的に察知した南西へと視線を向ける。ハオユーが言ったようにそこには立派な山があった。木々に覆われ、かなり深い森が大地を覆い隠している。一見して洞窟の姿は見えない。

 成程人間ではあの森の中から洞窟を発見するのは不可能だろう。しかしフィアにとっては造作もない。日光が届かないため植物の生えない洞窟は、森とは異なる臭いを発する。風に乗って漂ってくるその臭いを辿れるフィアには、洞窟を見付けるなど簡単な事なのだ。

「さぁーて取り尽くされる前に行きませんとねー……ん?」

 思い立ったが吉日。早速行動を起こそうとするフィアだったが、ふと漂ってきた臭いに意識が逸れる。

 火薬と金属の臭いだ。

 この避難所に来た時にもこれらの臭いはあったが、ハオユーの話を聞いている間に随分と強くなっていた。なんとなくだが、周りの気配もかなりざわざわしたものになったような気がする。

 恐らくまた人間の軍隊が来たのだろう。どの程度の規模かは知らないが、気配から察するに数百人ぐらいはいるかも知れない。キュリキュリというキャタピラ音が聞こえるので、戦車もやってきているようだ。

 彼等の目的はフィアにも分かる。巨大昆虫退治のためだろう。

 どうせ勝てない癖に何故戦いを挑むのか。フィアには全く理解出来ないが、人間のやる事に口出しする気はない。どうせ勝てないという事は、つまり自分の虫取りにはなんの影響もないという事なのだから。戦いを挑み、何千という人間が死のうが、別にどうでも良い。

 訪れた軍隊への興味は、三秒と経たずに失われた。フィアは再び山に目を向け、そして浮き足立った歩みで進み出す。

 あの忌々しい怪鳥共が巨大昆虫を壊滅させる前に。

 一秒でも早く、美味しいかも知れないものを堪能するために……

 

 

 

 フィアが立ち去ってから、三十分後の事。

「……理解出来んな」

 コンテナで造られた仮設住宅地の中心にて、背筋をピンと伸ばした中年の男が、中国語で嫌悪に塗れた悪態を吐いた。苛立つように、中年の男の足は草一本生えていない地面を靴先で何度も叩く。彼の傍に立つ四人の兵士達は、おどおどとした視線を中年の男に向ける。

 中年男性からの悪態を正面からぶつけられたハオユーは、しかし『若造』の威圧になど負けず、堂々と彼の目を見る。その眼に宿るのは、中年の男……王大佐への侮蔑だ。ハオユーの背中には孫娘のシィンイーがしがみついていたが、そのシィンイーも王大佐を睨み付けている。尤も王大佐も武人だけあり、老人と小娘の視線で怯むほど柔ではなかったが。

「ワシらからすればお前達の方が理解出来ん。虫も鳥も徹底的に退治し、絶滅させるなど」

「はっはっはっ! 自殺志願の狂人に正気を疑われるとは思わなかった! 人食いの怪物を退治するな? その怪物をも喰らう化け物に手を出すな? 頭の湧いた自然保護主義者が我が国に居るとは思わなかったよ」

「まさか生態系を知らん訳じゃあるまい。あの鳥が虫を食べる。食べられた虫は数が減る。子供でも分かる理屈じゃ。軍の力は必要ない。時間が全てを解決してくれる。逆に人が下手に手を出し、絶滅させようとすれば、もっと大きな災いが来るかも知れない」

「その考えが前時代的だと言っているんだ。自然保護の重要性は分かるが、その自然は管理するもの。故に人の手に負えない危険な生物は、人の手で駆除するのが正しいのだよ。猛獣共がいなくなれば、この山の開発も保護も人間の思うがままだ。そうは思わないかね?」

「ふん。そうやって管理しようとして、どれだけ失敗してるのやら」

「……共産党が行った自然保護政策に、失敗などない。あるとすれば、政策をまともに実施出来ない無能な官僚によるものだ」

 王大佐の理屈に、よくもまぁそんな事を言えたものだとハオユーは呆れ返った。七十年、稲を荒らす害鳥だからスズメを駆除しろと命じたのは誰だ? その結果普段スズメ達が食べていた害虫が大発生したのは失敗ではないと?

 人は過ちを犯すものである。それは仕方ない。けれども同じ過ちを繰り返すのは間抜けであり、そして今度の失敗が()()()()()()()という保証はないのだ。

 しかしどれだけ訴えても、王大佐にハオユーの意見を聞くつもりはないらしい。尤も、彼自身にその意思があっても、上からの命令ならば軍人は逆らえないだろう……王大佐の側に居る兵士の表情が、本当に申し訳なさそうなものになりながら、此処から逃げないように。

 話し合いで解決出来れば良かったが、共産党(政府)が関与してるとなれば無理な話だ。なら、こちらは精いっぱいの邪魔をするだけである。

「兎に角、ワシは絶対に居場所については話さん。精々部隊を散開させ、森の中を当てなく探し回ればええ。尤も、戦力を分散させては虫一匹殺せんだろうがな」

 例えば、フィアには教えた『魔虫の住処』を教えない、とか。シンプルだが効果的な嫌がらせだ。森に囲まれたこの山々から、虫達の住処である洞窟をピンポイントに見付け出すなど出来やしない。

「……くくく」

 筈なのに、何故か王大佐は嗤う。

「……何がおかしい」

「大した事じゃない。お前達以外にも協力者は居るという事だ」

「ワシ以外……まさか!?」

 ハオユーは反射的に、自分の背後を見遣る。

 そこに居たのは、数人の若者。

 されど軍人ではない。私服姿の、巨大昆虫の襲撃を生き延びた村の若者達だ。彼等はハオユーと目が合うと一瞬を身を竦めたが、その後はきちんと向き合ってきた。

 魔虫の住処は、伝承として語られている。

 だからハオユー以外の、それこそ村の子供でも答えられる事だった。しかし伝承から魔虫と鳥の関係は明らか。ハオユーも村人達に、自然の摂理に任せようと話した。故に彼等も自分と同じように、軍人に問い詰められても誤魔化すと考えていた。

 まさか軍人達は村人を尋問して……とハオユーは思ったが、若者達の目に怯えはない。身体にも不審な傷や汚れがないため、脅された訳でないのは明らかだ。

 つまり若者達は、自主的に情報を明け渡したという事である。

「お前達! 何故……」

「だ、だって、人を喰う化け物だぜ!? しかもあんな化け物を喰う鳥まで現れて……」

「そ、そうだよ! あんな化け物、さっさと退治した方が良い!」

「俺の母ちゃんは歳なんだ、早く故郷に帰してやりたいし……」

「畑だって、今年についてはもう諦めるにしても、早く元に戻さないと来年からの仕事が……」

 ハオユーが問い詰めると、若者達は口々に理由を答える。年配からの『尋問』に少し怯えながらも、しかし彼等は自分の正しさを確信した、強い言葉で返してきた。

 これが今の村の意思なのか。

 ハオユーは失望した。村人に対してではない。伝承があり、学問を身に着けたからこそ、村人も自然の摂理を重視する……そんな風に思い込んでいた『自分』に対してだ。彼等には彼等の生活があり、守りたいものがある。誰もが悲劇を受け入れられる訳ではないというのに。

 自然に寄り添い過ぎて、人の心から離れてしまっていた。

 自分の言葉は、今やケダモノの唸り声となんら変わりないのだ。

「という訳で、村人は我々に協力してくれたよ。ああ、安心したまえ。『民主的』な国家の軍である人民解放軍は、例え非協力的な市民であっても、私怨で拘束や懲罰は行わないからね」

 絶望に染まるハオユーを、王大佐はにやにやとした笑みを浮かべながら挑発する。けれどもハオユーには、今やそれに反発する気力もない。

 王大佐がハオユーに質問したのは、あくまで得られた情報に確信を持つためだったのだろう。そしてハオユーの姿を見て必要な確信は得られた。ハオユーにはもう用がないとばかりに、王大佐は踵を返す。軍人達は王大佐の後を追い、村の若者も少し申し訳なさそうな表情を浮かべつつもこの場を後にした。

 残されたハオユーに、孫娘のシィンイーが寄り添う。ハオユーはシィンイーの手を握りながら、深々と項垂れた。

 そして彼は願う。

 どうか、自分が時代遅れの老害でありますように。

 現代の人間の力というのは老いぼれの想像の及ばぬ域に達していて、神も悪魔も恐れるに足りぬ事を……




軍が首を突っ込むとより面倒になるの法則(壮絶なネタバレ)

次回は明日投稿予定。


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適応者5

 ざふざふと落ち葉を踏み締める音を奏でながら、フィアは森の中を歩いていた。

 森を形成している木々の多くは広葉樹で、実りの秋を迎えてたくさんの木の実を付けていた。葉もまだ青さが残っており、枯れてはいない。動物達にとっては餌がたくさんある状態だ。

 けれども獣や鳥の声、虫の音色は聞こえてこない。

 決して小さな森ではないのだから、シカやイノシシ、クマの類が生息していてもおかしくないのに。否、実際最近まで生息していた筈だ。フィアの鋭い嗅覚は、獣達が生活していた時の臭いをしかと捉えている。しかしその臭いはどれも少し古いもの。新しい臭いが全くない訳ではないし、極めて少数ながら動物の気配はあるが……豊かな森に似付かわしくない低密度だ。これなら大桐家の庭の方が、遙かに豊かな生態系が形成されているといえよう。

 恐らくこの森の動物達の殆どは巨大昆虫に喰われたか、巨大昆虫を恐れて遠くに逃げ出したのだろう。

 そうして獲物が乏しくなったから、巨大昆虫は村を襲ったに違いない。何故大繁殖したかは謎だが……フィアにとっては、あまり興味のない事だ。よく花中が言っている理由 ― 昨年の異星生命体騒動による環境変化 ― だろうと根拠もなく納得する。

 そんな事よりも今は虫探しだ。

 フィアは辺りの臭いを注意深く嗅ぐ。周りから動物の気配や臭いが少ない事は、今のフィアにとってはとても有り難い事だった。フィアの優秀な嗅覚であれば、多種多様な臭いが混ざっていても特段問題なく目当てのものを捕捉出来る。しかしやはり単一の臭いを追う方が遙かに楽なのだ。

 フィアの歩みは快調そのもの。ずんずんと臭いを目指して進んでいける。獲物へと近付くほど臭いは濃くなり、フィアの本能を刺激し、気分を昂揚させた。もう、歩みを止める事すら煩わしい。邪魔な倒木は蹴り上げて吹き飛ばし、通り道を塞ぐ木々は片手で押し退けるように折り、大きな川はそのまま歩いて横断する。

 そうして森の奥へと進んだフィアは、ふと足を止めた。

 辺りを見渡す。此処は日当たりが良く、下草が茂っている。とはいえ木が生えていない訳ではなく、これまでの道のりより幾分低密度なぐらいだ。

 そして何本か、倒れている木がある。

 倒木の断面は、さながら人間の子供が細い枝を折った時のように、ギザギザとしたものになっていた。人がノコギリやチェーンソーを用いて切断したものではない。大きな力により、強引に折られたものだ。

 フィアは、それほどの力を出せるものを知っている。加えて言うなら、そいつは今……足下に居た。

 居場所は、ざっと地下十メートル。なんとなーく視線を感じるので、向こうもこちらの存在には気付いているのだろう。こちらを喰おうとしているのか、隠れてやり過ごそうとしているのか……フィアとしてはどちらでも構わない。

 元より、自分の手で掘り起こしてやるつもりなのだから。

「ふふふふ見付けましたよぉっと!」

 力強い掛け声を、不動の体勢のままフィアは上げる。されどそれは彼女が何もしていない証とはならない。

 フィアは自在に水を操れるのだ。足と接した地面に水を浸透させ、地中に潜む獲物にまで伸ばす事など造作もない。そしてその水で、獲物を雁字搦めに縛り上げる事も。

 大地が激しく揺れたのも束の間、地中から巨大昆虫が飛び出した――――正確には、引っ張り出されたと言うべきだが。

 水触手が身体に巻き付いた状態の巨大昆虫は、六本の足を激しく動かして激しく暴れる。しかしフィアが操る水触手は千切れない。それでも念のため足にも水触手を絡ませれば、もう巨大昆虫は身動きすら出来ない有り様だ。

 フィアは舌舐めずりしながら、捕縛した巨大昆虫に歩み寄る。村で見付けた個体より、少し大きいだろうか? 重さもずっしりとしている。たくさんの餌を食べて丸々と太ったのだろう。何を食べてここまで大きくなったかは知らないし、興味もないが、実に食欲をそそる姿だ。

 この巨大昆虫は、ハオユーが言っていた生息地である洞窟から出てきたのだろうか。答えは分からないがどうでも良い事だ。目当ての獲物を見付けたのなら、最早洞窟を探す必要はない。フィアは早速その身に食い付くべく、巨大昆虫の甲殻に手を伸ばし――――

「……ちっ。こそ泥が」

 舌打ちと共に、フィアは掲げた両腕を頭上で組んだ。

 瞬間、空からやってきた爆風がフィアに襲い掛かった! 風はフィアを中心に据えて吹き荒れ、大地と木々が余波でバラバラに砕けながら飛んでいく。しかしながら巨大昆虫に対しては、まるで風は意思を持つかのように避け、傷一つ付けない。それどころか拘束している水触手だけを綺麗に切るではないか。

 自由になった巨大昆虫はおろおろしながらも翅を広げ、低空飛行でこの場を慌ただしく逃げ出した。折角のご馳走が手元を離れてしまい、フィアは忌々しげに顔を顰める。

 そして睨み付けるは頭上の彼方。

 微かに見える黄金の輝きが、『アイツ』の存在を物語る。今の妨害で確信した。アイツはあの巨大昆虫を、余所者に渡すつもりは一切ないらしい。巨大昆虫を養殖でもしてるのか、はたまた巨大昆虫以外食べられない身体なので『備蓄』したいのか、もしくは単に独り占めしたいだけか……理由は幾つか考え付くが、どれであろうと関係ない。

 フィアはどうしてもあの巨大昆虫が食べたい。その一口すらも渡すつもりがないのならアイツは敵だ。

 敵ならば排除するのみ。

「そっちがその気なら望むところです!」

 怒りと欲望を剥き出した咆哮を、フィアは空目掛けて上げた

 刹那、アイツ――――怪鳥のミュータントはフィアの側に()()()()()()

 フィアは即座に怪鳥が現れた場所の景色を、その方角から飛んでくる光を取り込む事で『視認』する。顔を向ける必要はない。作り物の頭に嵌まった偽物の目を通す必要などないのだから。

 怪鳥は黄金に煌めく翼を大きく広げていた。しかしその飛び方に優雅さなんてものは一欠片も含まれていない。あるのは濃密な闘志。全身に力を滾らせ、一瞬にして最大の力を発揮出来るような体勢にあるのが察せられた。

 そしてその顔にあるのは怒り。

 怪鳥は怒り狂っていた。一度ならず二度までも巨大昆虫を狩ろうとしたフィアに、底なしの敵意と憤怒を向けている。赤い瞳をより鮮やかな真紅色にし、口内からは湯気が立ち上りそうなほど熱い吐息が吐き出されていた。

 今度のコイツは『本気』だ。村で出会った時とは違う。

「っ!」

 相手のやる気を感じ取ったフィアは、即座に怪鳥と向き合う。が、一手遅い。

 その時にはもう、怪鳥は自らの足を前へと繰り出していた。恐竜と見分けが付かないほど太く、丈夫で、禍々しい……そして半透明な空気の渦を纏ったもの。

 怪鳥のキックが直撃したフィアの『身体』は、フィアさえも抗えないパワーで押し出され――――

 

 

 

 森の中を、人間達が進む。

 彼等の名は中国人民解放軍……中国が保有する『軍隊』だ。それも本来ならば滅多な事では出動しない、精鋭中の精鋭達。

 地方に配備されていた部隊は、先日巨大昆虫により壊滅した。このまま野放しにすれば巨大昆虫は首都……共産党幹部達が居る場所まで流れ込むかも知れない。無論首都からこの山までの距離を考えれば、到着までには長い月日が掛かるだろう。その間に作戦を練り、散開している部隊を集結させる事は可能だ。しかし人を喰うとなれば、道中の町で巨大昆虫が繁殖する可能性がある。放置すれば、人民解放軍の総力を以てしても抑えきれないほど増えるかも知れない。

 兵は拙速を尊ぶ……孫子の教えだ。生物相手に時間を掛ける事は愚策である。疾風迅雷の勢いで殲滅せねば、無辜な人民が犠牲となるだろう。

 故に王大佐は、面倒を嫌う上層部に恐喝紛いの言葉をぶつけてでも戦力を出させた。

「大佐。第三斥候部隊が巨大昆虫を発見との報告。ですが相手の方もこちらを発見し、交戦状態になったとの事です」

「了解した。斥候部隊は後退し、第二地点まで移動。全部隊をその場に集結させ、包囲殲滅する」

「ぜ、全部隊を、ですか?」

「そうだ。奴等には戦車砲も通用しなかったと聞く。如何に辺境の中古品とはいえ、戦車には違いない。中央に配備されている最新型でも、何処まで通じるか分からん。必要な戦力も分からぬうちに小出しにするのは愚策だ。完璧な配置と全戦力を用いて撃破する」

「りょ、了解しました」

 報告をしてきた部下に王大佐は素早く指示を出し、部下は戸惑いながらも承知。全部隊に命令を伝える。

 王大佐は内心舌打ちをした。軍部は誰も彼も敵を見くびり過ぎだ。昨今現れている『怪物』達は、欧州や米国で猛威を振るっていると聞く。西洋諸国の戦闘兵器は、悔しいが個々の性能では人民解放軍の兵器よりも上だ。その彼等の軍隊すら止められない怪物を、どうしてそれより劣る兵器で倒せるというのか。

 自然保護派の連中も、自然が人間にとって都合の良いものだと盲信していて反吐が出る。田んぼで発生したイナゴは、スズメやクモに喰われても、時には稲を枯らし尽くすほどに増える。生物の増減に摂理などない。あらゆる種が無秩序な増殖と衰退を繰り返し、結果他種の繁栄を邪魔して、それが調和のように見えるというだけだ。自然の摂理に身を委ねていた古代人の総人口がたった数万人である事を思えば、『自然』というのがどれだけ冷酷で残虐なのか分かるというもの。人の営みを脅かす怪物が現れたのならば、抗わねばならない。そうしなければ、多くの人々がこの世にいられなくなるのだから。

 しかしながら『事態を解決する』という意思があるだけ、方針は同じでもこの田舎村の村長の方が、中央の軍人や共産党幹部よりはマシかも知れない。中央の連中は内乱を恐れるあまり、此度の事変を隠蔽し、見なかった事にしようとしていたのだから。部下を通じてこの情報を国内外マスコミにリークさせていなければ、一体どうなっていたか……

 王大佐はため息を吐いた。

 彼は賢い人間だった。賄賂やコネが飛び交う中国社会で、一切の不正なく今の地位を築くほどに。それでいて自らの不勉強を自覚し、様々な知識を……科学、政治、軍事……積極的に取り込んでいた。彼は自分や国の立ち位置がよく見えている人間だった。

 同時に彼は気高い武人だった。人民の血税を私欲のために使うなど言語道断。汚職は決して許さない。その高潔さは、同じく高潔な部下を集め、不埒な輩を遠ざけた。彼の周りは、中国社会の中でも最もクリーンなものの一つである。

 無論賢い彼は、自国の汚職が酷い事をよく理解していた。賄賂なしではこれ以上の出世は無理だという事も。しかし武人である彼にとって、戦場から離れる事は望むものではなかった。

 そして人民を守るためならば、自らの命を賭す事も厭わない。

「我が部隊も前線に出るぞ。敵の能力を正確に把握したい」

「了解。第一部隊、前進します」

 王大佐の指示を受け、彼が直轄する部隊も動き出す。王大佐を乗せた戦車も動き、前進していく。

 王大佐の部隊は、数分ほどで草木がない開けた場所に到達した。現代の戦車であれば難なく超えられる程度の小さな崖があり、王大佐の部隊はその崖の上にて停止。崖の下には幅十メートルほどの砂利で覆われた平坦な川岸が広がり、中央に一メートルほどの幅しかない川が流れていた。川の流れは穏やかだが、草木の生えていない空間が十メートル近くあるという事は、そこそこ頻繁に氾濫を起こしていると考えられる。此処もまた、恐るべき自然の暴力に満ちている場所だ。

 そして川の向かいには、鬱蒼と茂る森がある。

 此処に来るまでに通った森と、ハッキリした違いがある訳ではない。しかし王大佐は、眼前に広がる森に得体の知れない不安を覚えた。何かは分からないが、これまでの森とは『違う』。

 王大佐は警戒心を強めながら、広がる森を凝視。数十秒も経てば他の部隊も王大佐が居る方の岸に続々と集結し、同じく怪しげな森を警戒する。時間が経つほど戦力は多くなり、今や三十両もの戦車と、五百人の歩兵がこの場に集まっていた。支援要請を行えば、地対地ミサイルによる援護もある。

 この地で散った駐屯軍とは訳が違う。人民解放軍の『本気』だ。

 その本気を示す時は、訪れた。

「ひっ! ひ、ひぃっ!」

 悲鳴混じりの声を上げ、森から一人の男が飛び出した。

 王大佐は此度の作戦に参加した兵、全ての顔を覚えている。彼は斥候隊に参加していた歩兵の一人だ。出発時、カモフラージュのため最新かつ新品の迷彩服を着ていた、健康的な二十代の男。

 しかしどうした事か。今の彼の迷彩服は、まるでボロ雑巾のような有り様だ。地肌が剥き出しとなり、陰部も丸見えである。おまけに出発前まではあった彼の左腕が、今や何処にも見られない。

 致命的な重傷だ。今から救助をして助かるとも思えないが、手を尽くさない訳にはいかない。

 王大佐は彼の救助に向かうよう、側近の兵に命令を出そうとした

 その直後、森から五メートルはあろうかという黒い影が現れた。

「ひ、ひぎぃぎゃっ!」

 黒い影は森から出てきた男を、その丸太のように太い足で叩き潰すように殴った。男は呆気なく潰され、人間から肉塊へと変わってしまう。

 黒い影……巨大昆虫は、自分が仕留めた男を悠々と食べ始めた。崖の上に展開している王大佐の部隊など、まるで見えていないと言わんばかりに無視して。

 王大佐は怒りに震えた。

 部下とはいえ直轄の指揮下にはない人間。顔は覚えていても、詳しい性格や人間関係は知らない。だがきっと彼にはたくさんの友人がいて、肉親がいた筈だ。あんな、食肉工場に運ばれた牛のような目に遭うべき人間ではない。

 されど王大佐は怒りを鎮めなければならない。怒り狂った人間の指揮は、最高の戦果を生まないどころか、最悪の失敗を引き起こす事もある。冷静に、冷徹に、上に立つ者は指示を出さねばならない。

 王大佐は、それが出来る人間だった。

「総員、眼前の巨大昆虫に対し攻撃を開始しろ!」

 王大佐の指示を受け、歩兵の銃が火を噴き、戦車砲が爆音を鳴らす! 放たれた無数の弾は、全て狂いなく巨大昆虫へと向かい……直撃。

「ッ!?」

 戦車砲数発を受け、巨大昆虫は大きく身を仰け反らせた。

 仰け反らせただけだった。

 鳴き声一つ上げずに体勢を立て直した巨大昆虫は、全身から怒気を放つ。複眼である目は当然感情による変化など起きないが、しかし王大佐の目には、怒りに燃えているように映った。こちらの攻撃が全く効いていないという事はないが、戦意を挫くには全く足りない。いや、むしろ相手の闘争心に火を付けてしまったと言うべきか。

 戦車砲の次弾装填に掛かる僅かな時間。しかし巨大昆虫が反撃へと転じるには、あまりに長い隙だった。

 巨大昆虫は目にも留まらぬ速さで駆けた! 狙うは偶々目の前に居た一両の戦車。

 巨大昆虫は頭から戦車に突っ込む! 同格の戦車砲すら受け止める戦車の装甲が、まるで豆腐のようにぐちゃりと潰されてしまう。しかし巨大昆虫の怒りはまだまだ収まらない。腕を振り下ろし、ぐしゃりぐしゃりと執念深く叩き潰す。戦車の全長は約十メートル。巨大昆虫はその半分ほどの大きさしかないというのに、まるで戦車がハリボテに見えるほどのパワーで破壊していった。あれでは中の兵士は助かるまい。

 周りに居た歩兵が距離を取りつつ銃で撃ち続けるが、巨大昆虫は怯むどころか気付いてもいない様子。王大佐は間接部を狙うよう歩兵に指示し、歩兵達は化け物を前にして果敢にその指示を全うした。だが、巨大昆虫の関節は弾丸を容易く弾く。最も脆い筈の部分すら、銃弾が通じていなかった。

 恐るべき耐久力。これが世界を蹂躙している『怪物』なのかと、王大佐は戦慄する。

 しかし戦車砲で怯ませる事には成功したのだ。ならばそれを上回る攻撃であれば、仕留められるかも知れない。

「基地に要請。地対地ミサイルを奴に喰らわせる」

「了解」

 部下に命じ、部下は即座に基地へと連絡。ミサイルを要請する。

 遠く離れた地上基地より放たれた三基のミサイルは、音速を超えた速さで飛来。高度な演算装置と誘導システムにより、正確に目標地点へと向かう。勿論相手は巨大とはいえ生物だ。大きく動き回られては当たらない。

 そのため王大佐の部隊は戦車砲による足止めを慣行。砲撃を途切れさせないよう、集中砲火ではなく時間差での攻撃を行う。歩兵もアサルトライフルではなく、後方に控えていた対戦車兵器(ロケットランチャー)を装備した部隊へと交代。火力重視の攻撃を行う。

 一秒一発、正確に放たれる戦車砲。絶え間なく行われるロケットランチャーの援護。例えアメリカ軍の戦車でも、これほどの攻撃を受ければ三秒と経たずにバラバラの鉄くずへと変わるだろう。巨大昆虫はこの攻撃に何十秒と耐え、目に付いた戦車をひっくり返すなり叩き潰すなりの反撃をしたが……やがて甲殻の欠片が飛び散り始めた。

 欠片はとても小さなもので、致命傷には程遠い。巨大昆虫の体格から考えれば、精々甲殻の表面が削れた程度だ。けれども確実に、無敵に思われた甲殻が脆くなっている証左である。

 そして彼方より落ちてくる人類の鉄槌は、戦車砲ほど優しくもない。

「総員、巨大昆虫から離れろ!」

 王大佐が指示を出し、全部隊が巨大昆虫から距離を取る。今まで勇ましく戦っていた人間達が急に逃げたからか、巨大昆虫は戸惑うようにその場で足を止めた

 直後、地上基地より撃たれたミサイル三発が巨大昆虫に直撃した! 巨大な爆炎が上がり、衝撃波が広がる。戦車砲が放つものを上回る危険な波動は、逃げ遅れた兵士の何人かを横転・怪我をさせてしまう。『仲間』からの攻撃に巻き込まれた兵士達は、その心に大きな傷を負っただろう。

 無論直撃を受けた巨大昆虫が、一番凄惨な目に遭っていたが。

 ギチギチと、関節が軋むような音が爆炎の中で聞こえた。

 これでも叫び一つ上げないのは、あの巨大昆虫には声帯に当たる器官がないからか。しかし間接の軋む音は、断末魔の叫びのように激しく辺りに響いた。炎に紛れて甲殻の欠片が飛び散る……今度は、巨大昆虫のサイズから見ても危険なほどの大きさで。

 未だ立ち昇る爆炎から、巨大昆虫が自らの力で出てくる。ミサイルの直撃を受けてもなお生きている事に、王大佐含めた兵士達は酷く動揺した。これが怪物の力なのか、と。

 同時に、希望も抱く。現れた巨大昆虫は、甲殻の中身を露出させ、体液を撒き散らしている有り様だったから。

 これなら、こちらの装備でも勝てる。

「攻撃を続行しろ! 手を緩めるな!」

 王大佐は攻撃再開を命令。勝利を確信した兵士達に、戦闘を躊躇うような弱さはない。歩兵は対戦車兵器を構え、戦車はその照準を怪物の内臓へと向ける。

 止めの一斉攻撃。

 ロケットランチャーが巨大昆虫の内臓を破裂させ、戦車砲が貫く! 巨大昆虫は複眼のある頭部を動かして人類を、王大佐を睨み付け……力なく倒れ伏した。

 倒れた際の振動で、何人かの兵士が転ぶ。動かなくなった巨大昆虫を前にして、兵士達は息を飲む。

「生死を確認させろ」

「了解」

 王大佐の指示を受け、三人の兵士が巨大昆虫に歩み寄る。相手は戦車さえも易々と叩き潰す怪物だ、例え瀕死の身で繰り出した反撃であっても人間の一人二人は簡単に殺せるだろう。二人の兵士が内臓などを触って調べ、一人が些末な動きも見逃さぬよう監視する。

 二人の兵士の顔に笑みが浮かんだのは、調べ初めて二分ほど経ってから。

「死んでいます。間違いなく」

 下された『診断』に、兵士達は歓声を上げた。王大佐も顔を綻ばせ、安堵の息を吐く。

 自分達は、人間は、怪物を征伐出来たのだ。

 これで全てが解決した訳ではない。村で最初の戦闘を行った駐屯部隊の報告によれば、巨大昆虫は相当の個体数がいる筈だからだ。一匹の巨大昆虫を倒すためだけに、最新鋭戦車三十両と五百人の兵を用意し、そして目算ではあるが三割ほどを喪失している。仮に二体同時に相手をしたならば、恐らく文字通りの『全滅』状態になって倒せるか否かとなるだろう。軍本部が想定している、どんな敵国の兵器よりも強大な存在だ。

 だが、人民解放軍の力で倒せる事が証明された。もっと強力な支援体制 ― 迫撃砲や空爆など ― を備えたり、或いは亡骸から得られた知見に基づく新兵器を開発すれば、もっと少ない犠牲で倒せる筈だ。

 人類はこの戦いに勝てるのだ。

 ギチギチ、ギチギチギチギチギチギチ。

 ……王大佐のそんな想いは、呆気なく砕かれた。この、おぞましい虫の間接音を聞いた事で。

 王大佐は、いや、全兵士が音のした方へと振り向いた。

 故に彼等は目の当たりにする。森の中から、無数の巨大昆虫が跳び出してくる光景を。

 一匹二匹なんて規模ではない。ぞろぞろと、何十匹もの群れが王大佐達の前に現れたのだ。それどころか、王大佐から遠く離れた尾根から ― あの巨体と体型で何をどうすれば可能なのかさっぱり分からないが ― 飛び立つ巨大昆虫の群れが幾つもある。現れた数だけで何百匹、或いは何千匹といるかも知れない。

「ひぃっ!? こ、こんなに、たくさん!?」

「お、王大佐! ど、どうしたら……」

 兵士達が動揺している。当然だろう、一体倒すのに三割近い戦力を失った化け物が、何千も姿を見せたのだから。こんな状態で戦っても一瞬で食い殺されるに決まっている。如何に勇猛果敢な兵士でも、犬死にしたい訳ではないのだ。

 しかし王大佐は、それよりも未来を予測して絶望する。

 人民解放軍の総戦力は『正規軍』だけでも二百万人を超えている。だが、相手の数がもしも三千体もいたなら、その戦力比は此度の作戦と同程度のものにしかならない。いや、補給部隊や工兵など、支援部隊の存在を考慮すれば実質的な戦力比は下回ると考えるべきだ。二百万の大軍を動かすための物資などすぐには用意出来ない事を思えば、更に戦力差は広がるだろう。

 航空支援をいくらお見舞いしても、果たしてこの大群を止められるのか……

 敵戦力を的確に分析する頭脳を持つからこそ、王大佐は絶望的状況に震えた。それでも何か打開策を見い出そうとして辺りを観察し……気付く。

 しかしそれは起死回生の一手ではない。現状の不可解さだ。

 巨大昆虫が、自分達を襲わない。

 彼等は慌ただしく駆け回り、森から出てくるだけ。美味しい人間達を前にしても、襲い掛かってくる気配すらない。中には仲間同士でぶつかり合い、一瞬敵意を剥き出しにして向き合うも、すぐにそのぶつかった相手と揃って走り出す個体も見られる。

 兵士達も段々と自分の置かれている状態を理解し、恐慌状態から脱した。それ自体は悪い事ではない。誰かが恐怖に駆られて発砲し、怒り狂った巨大昆虫数百匹に跳び掛かられるよりは遙かにマシである。

 しかし明らかに『異常』だ。自分達が食い殺されるよりも、ずっと恐ろしい事がおきているのではないか……そんな予感が、王大佐の脳裏を過ぎる。

 予感は正しかった。

「クキュルオオオオオオオオンッ!」

 まるでパイプオルガンを叩き鳴らすような、荘厳にして不気味な鳴き声が森から響く。

 次いで王大佐達の眼前に広がる森から、一羽の『怪鳥』が人間達の前に現れた。

 体長十メートルはあろうかという、巨大な生物だった。広げた翼はその巨体を易々と持ち上げ、空を自由に駆けさせる。全身を覆う羽毛は黄金に輝き、生きた神話である事を人間達に知らしめた。尤も、この場にいる人間達には、現れた鳥を崇める余裕などなかったが。

 何しろ怪鳥は、森の木々が吹き飛ぶほどの爆風を伴って現れたのだから。

「うわああああっ!?」

「ま、また、新しい化け物が……」

「なんなんですか、なんですかこの山は!?」

 新たな怪物の出現に、兵士達は動揺する。されど現れた怪鳥は人間達など見向きもしない。

 その鋭い眼が狙うは、王大佐達の周りを走る巨大昆虫の一匹。

 降り立った怪鳥は、一匹の巨大昆虫の上に降下。まるで恐竜のように太い足一本で踏み付ける。するとどうだ。巨大昆虫は呆気なく押し倒されるどころか、ぐしゃりと音を立てて甲殻を砕かれたではないか。内臓を潰され、巨大昆虫は一瞬で力尽きる。

 仲間を殺され、巨大昆虫達の間に動揺らしきものが走る。やがて混乱のあまりか、はたまた一矢報いようとしてか、一匹の巨大昆虫が怪鳥に飛行して突撃……するも、怪鳥はこれを適当に広げた翼で叩き落とす。叩かれた巨大昆虫はまるで石ころのように吹っ飛ばされ、手足や翅をバラバラにしながら大地を転がった。

 恐ろしい光景だった。巨大昆虫の甲殻を破るために、人類は戦車砲や対戦車兵器を延々とぶつけ、更には複数のミサイルまで直撃させている。これでも倒すには一手足りない有り様。なのにあの怪鳥は、易々と巨大昆虫の甲殻を貫いたのである。つまりあの生物のキックは、ミサイルや戦車砲とは比較にならない破壊力があるという事だ。おまけにその身体は、戦車をも粉砕する巨大昆虫の体当たりを翼一つで弾くほど頑強ときた。きっとあの怪鳥は、ミサイルを何百発喰らわせたところで死にやしないだろう。

 王大佐は理解した。この黄金の怪鳥こそが、あの村で語られている『神の使い』であると。この怪鳥には、人民解放軍がどれだけの戦力を費やそうとも勝てやしないと。

 ましてや、その怪鳥が更に何十羽と現れたなら?

「クキュルルルルルルル!」

「クキュールルルル!」

 森の中のざわめきに次いで、姿を露わにする黄金の輝き。人智を嘲笑う超生命体が、近くの森から、或いは遠くの尾根から、次々に飛び上がる。

 怪鳥達はどれも人間には興味を持たず、逃げ惑う巨大昆虫達に襲い掛かった。ある怪鳥は戦闘機染みた速さで飛んで逃げる虫を追い、ある怪鳥は優しく捕まえた一匹をゆっくりと生きたまま啄む。

 巨大昆虫達にとっては地獄のような状況だろう。しかし人間を食い殺す巨大昆虫が次々と死ぬ様は、ある意味で『救世』的でもある。兵士達の中には笑みを浮かべ、応援するように声を上げる者もいた。

 しかし王大佐は、別の可能性を考える。

 もしも巨大昆虫が町に入り込めば、この怪鳥もやってくるに違いない。

 虫を喰らう益鳥だとしても、その力は間違いなく化け物だ。余波だけで、何百もの人命を奪いかねない。いや、何かの拍子に人間の味を覚えてしまい、獲物と認識されたなら? 豊富な人間を餌にして繁殖し、数を増やしていったら?

 中国は、いや、人類はこの怪鳥に喰い滅ぼされるかも知れない。

 考え付いた可能性を、馬鹿馬鹿しいと否定する事は出来なかった。神の使いだかなんだか知らないが、なんとしても倒さねばならない。しかし通常兵器では無理だ。もっと強力なものが必要になる。

 幸いにして王大佐には『当て』があった。そして上層部の一部には、此度の怪物騒動解決のためその使用を求める明確な動きがある。表向き反対を示している幹部でも、この実態を知れば容易に立場を変えるだろう。自国内で使う分には諸外国の反発も少ない事は、『あの国』が一年前に証明していた。上手くいけば即日実施される筈である。

 しかしそのためには大前提として、中央政府が此処で起きた出来事を正確に知らねばならない。

 必要なのは、自分達が生きて報告する事。

「総員、撤退しろ!」

 王大佐は部下達に退却命令を飛ばす。命令を受けた兵士達は一瞬呆けたように固まり、ややあって自分が大変危険な状態に晒されている事を思い出したのか、慌てて撤収準備を始めた。撤退するにも隊列などがあるので少し時間は掛かるが、虫達は鳥から逃げるのに精いっぱいで、鳥は虫の方に夢中だ。今なら人間は安全に退却出来る。

 やがて準備を終え、人間達は麓を目指して急ぎ足で進み始めた

 最中に、それは起きた。

「――――ッ!」

 怪鳥が鳴くのを止め、バタバタと翼を羽ばたかせてその場から飛び立つ。

「ッ!」

 身を竦めた巨大昆虫は、慌ただしく地面に潜り始めるか、飛んで彼方へと逃げる。

 いきなりの事だった。今の今まで繰り広げられていた自然の営みが、一瞬にして終わったのだ。何人かの兵士が足を止め、辺りを不安そうに見渡す。撤退中に立ち止まるとは明確な命令違反だが、王大佐はそれを戒めない。王大佐自身も、自分が乗る戦車を止めさせていたのだから。

 そして人間達は目の当たりにする。

 突如として、人間達が見ていた森の一部が()()()。まるで大量の火薬でも仕込んでいたかのような爆発は、されど一欠片の炎も光も含んでいない。純粋な『衝撃』だけで、森が吹き飛んでいた。続け様に半透明な歪みが吹き飛んだ森の中から飛び、遠くの尾根を直撃。歪みは尾根を貫通……否、切断した。山体は豆腐のように崩れ、恐らくは人類史上例を見ないほどの大崩落を起こす。すると今度は半透明な『触手』が大地から生えて近場の大地を叩くようにのたうち、新たな崖崩れを引き起こす。

 何もかもが滅茶苦茶だった。戦車をも潰す巨大昆虫や、巨大昆虫を易々と仕留める怪鳥は人智を超えるほどの驚異だが……今、目の前で起きている事はその比ではないと王大佐は感じた。次元の違う、人間では立ち入る事すら出来ぬ何かが起きている。

 呆然と立ち尽くす人間達の前で、『何か』は激しさを増していく。山々が幾つも崩れ、大地が割れ、森が滅ぼされていく。自然を打ち砕く破滅的な事象は、やがて人間達の目前でも起きるようになる。

 そこで初めて、人間達は『何』が起きているのかを知るのだ。

 黄金に煌めく怪鳥と、黄金の髪を持つ美少女が、取っ組み合いのケンカをしている事に――――




くくく、あの虫は我等怪物の中で最弱……という訳ではないですが、まぁ、所詮餌です。
その分繁殖力は強いんですけどね(ぁ)

次回は5/11(土)投稿予定。


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適応者6

「クルルルルルルル!」

 木々の生い茂る深い森の中に、怪鳥の喧しい鳴き声が響き渡る。

 その鳴き声と共に怪鳥が放つは、恐竜のように太い足による蹴り。しかしただの蹴りではない。足には能力によるものと思われる強烈な旋風が吹き荒れ、あたかも防具、はたまた武器のように纏わり付いている。その一撃の威力たるや頑強な金属の塊である戦車さえも泥細工のように打ち砕き、何十キロにも渡って破壊を届かせるほどだ。

 されどフィアはこれを正面から受け止める。

 無視出来るほと弱くもない、が、警戒するほど強くもない。ならば敢えて前から受け止め――――手元まで来てくれた足を掴むのが()()()

「ふんっ!」

 腹に喰らわされた巨大な足を両手で掴むや、フィアは己の身を舞うようにぐるんと一回転。たっぷりとスピードを付けてから、怪鳥を大地に叩き付けた!

 怪鳥を受け止めた大地は陥没し、クレーターが出来上がる。拡散する衝撃波により周りの巨木が吹き飛ぶが、フィアにとってはどうでも良い出来事。今はこの忌々しい輩を倒す事しか頭にない。

 怪鳥もまた同じだろう。

 小惑星衝突に値する衝撃を受けた怪鳥は、だが怯みもせずにフィアを睨んだ。軽やかに翼を広げ、力強く一回羽ばたく。

 すると翼からは半透明な歪み……圧縮された空気の刃が飛んだ!

「ちっ!」

 フィアは怪鳥の足から手を離し、身を大きく逸らしてこれを回避。空気の刃は標的を外し、彼方へと飛んでいって……フィア達が居る山の、向かい側にある尾根に命中。刃は尾根を切り裂いて山の向こう側まで飛んでいき、貫かれた事でバランスが崩れた山は崩落を始めた。

 恐るべき破壊力だ。人間達が作り上げた都市でこの力を振るえば、ものの数秒で全てが瓦礫の山と変わるだろう。

 フィアは反射的にこの攻撃を躱した。当たれば間違いなく()()()と、遅れて実感する。

「調子に乗るんじゃありませんよォ!」

 されど臆さず怯まず。フィアは全身から水触手を生やし、怪鳥へと放つ! しかしフィアの拘束から解き放たれた怪鳥は、まるで滑るように大地を滑走してフィアとの距離を開けた。フィアが仕掛けた攻撃は尽く避けられてしまう。

 このまま逃がすつもりは毛頭ない。フィアは躊躇なく怪鳥を追う。怪鳥もフィアに空気の刃を飛ばして牽制するが、フィアは少しずつ怪鳥との距離を詰めていく。

 ついにフィアは再度怪鳥に肉薄。怪鳥の方も吹っきれたと言わんばかりに交戦に転じた。フィアが怪鳥の翼を掴み、怪鳥が足でフィアの胴体を掴む。

 互いに相手の動きを封じた、丁度そんなタイミングで二匹は見落としていた崖から転がり落ちる。だがそれがなんだ。戦車砲だろうがミサイルだろうが通じぬ二匹にとって、崖からの転落など気付きもしない些事である。どちらも相手を離さずに崖を転がり落ちて……

 かくして二匹は、人民解放軍の前に姿を現した。

 軍からすれば突然現れた、恐ろしい存在達。何百もの人間達が咄嗟に武器を向け、攻撃の意思を示す。

「クルキュ! クキュキュ!」

「うっがあああっ! このケチ! 一匹ぐらい寄越しなさい!」

「クキュアアルル! キュッ! クルルルッ!」

 尤も二匹は人間達など見向きもせず、相手を『ボコボコ』にする事で頭がいっぱいだった。フィアは怪鳥の頭目掛けて殴り掛かり、怪鳥もフィアを蹴り潰さんとばかりに足をばたつかせる。勿論どちらも己の能力を用い、人智では真似すら出来ない超常の力を振るっているのだが……やってる事は最早ただの取っ組み合いである。ぶつける言葉も口ゲンカの様相だ。

 しかし繰り出されるパワーは圧倒的。

 フィアは背中から着地した地面に水を染み込ませ、大地の一部を持ち上げた。木も何本か巻き込み、まるで巨人が苗木を掬い上げたかのよう。ついでとばかりに近くにあった戦車が巻き込まれ、何両かがオモチャのミニカーのようにあっさりとひっくり返された。

 被害は大地に留まらなかったが、生憎フィアには植物や人間を慈しむ心などない。

 フィアは持ち上げた大地を、怪鳥へと叩き付けた! 材質こそ土ではあるが、経年により圧縮され、樹木の根によりガッチリと固められたそれは大岩と大差ない。人間相手なら、くちゃっと潰して地面の染みへと変えただろう。

 されど怪鳥はこれに怯みもしない。むしろ怒りを高め、全身から熱気を放つ。

 これは比喩ではない。

 文字通り、怪鳥の全身から灼熱の大気が放たれたのだ! 吹き荒れた高熱は木々はおろか大地すら焼き、溶解させる。遠く離れていた人間達さえも悲鳴を上げ、わたわたと逃げ惑った。

 しかし至近距離でこれを受けるフィアは一歩も退かない。この程度の高温、どうとでもなる。

 それよりもムカつくコイツの顔をぶん殴りたい。

「ふんっ!」

 容赦なく、誇張なしに一撃で高層ビルを何棟も粉砕する拳を怪鳥の顔面に叩き込む。殴られた怪鳥は大きく身を仰け反らせた。

「クルルルッ!」

 お返しとばかりに、今度は怪鳥が己の翼を振るう。刀のように振るわれた一撃は、こちらもフィアの顔面を直撃。フィアの『身体』が大きく仰け反った。

 どちらも相手の攻撃を真っ正面から受けた。しかし怪鳥の身体の周りには大気のバリアがあり、フィアの『身体』は水で出来ている。

 つまりどちらも本体は無傷。

「小賢しいッ!」

「クルルルァッ!」

 両者の闘争は、終わる気配すらなかった。

 ……そしてこの闘争を目の当たりにした人間達は、ガタガタと生まれたての小鹿のように震えていた。

「『た、大佐……早く、早く逃げましょう!』」

「『此処に居ては危険です! 巻き込まれます!』」

 何人かの兵士達は必死に、己のリーダーに逃げるよう母国語(中国語)で促す。彼等は既に撤退を指示されており、今は自主的に足を止めているだけ。次の指示を待たずに逃げた者も少なからずいる。

 そんな彼等のリーダーである王大佐は、ごくりと息を飲んだ。

 なんと恐ろしい光景なのだろう。

 言葉にこそ出さなかったが、王大佐の愕然とした顔がその気持ちをありありと物語っていた。今にも悲鳴を上げそうになる口を閉じるので精いっぱいといった様子。

 しばらくフィア達の戦いをじっと眺めていた彼は、やがて大きな息を吐き、精いっぱいの力強い眼差しでフィア達を睨む。無論フィア達は王大佐達の事など見向きもしない。彼女達にとって人間なんてものは、意識を向ける価値すらないのだから。

 無視された王大佐は悔しそうに歯噛みした。次いで安堵したように眉間の皺が消え……最後に、悲しみに暮れた表情を浮かべた。

「『あの戦闘の映像データは撮れたか』」

「『はい。奴等による震動の所為で少し乱れていますが、状況説明には問題ないレベルです』」

 傍に居る兵士の答えを聞き、王大佐は確信したように小さく何度も頷く。

「『分かった。退却し、その映像データを用いて上にプランBを要請する。怪鳥だけでも十分だと思っていたが、この戦いを見せれば駄目押しの一手になるだろう』」

「『プランBを要請……まさか』」

 驚くように目を見開く兵士に、王大佐はこくりと頷いて肯定した。

「『国土内での使用は望まないが、奴等を野放しには出来ない。我々の、人類の英知を見せ付ける。それ以外に奴等を倒す手段はない』」

 そしてハッキリとした口調で告げた。

 奴等を倒す。

 本来ならば希望のある言葉に、されど聞かされた兵士は表情を強張らせ、何か言いたそうに口をまごつかせる。結局何も言わずに彼は口を閉じたが、王大佐もまた同意するように悲しげな顔を見せた。

 どちらも納得などしないまま、王大佐達も麓を目指して逃げていく。

 超常の生命体を、今度こそ討ち取るために。

 ……………

 ………

 …

 二匹のケダモノ達の争いにより、森の中はぐちゃぐちゃになっていた。

 半径一キロ圏内の木々は余さず倒され、大地を覆う草花は何もかも引っ剥がされた。露わになった岩は砕かれ、もう砂しか残っていない。その砂も、震動が起こる度に舞い上がり、吹き付ける衝撃波で彼方へと飛ばされる。

 フィアも怪鳥も、地面を直接殴るような真似はしていない。

 だが激戦の結果はクレーターという形となって現れていた。

「ぬぎぎぎぎ……!」

「グルルルル……!」

 フィアは怪鳥の翼を掴んだまま前進しようと足に力を込め、怪鳥もまたフィアを押し返さんとばかりに前進しようとしてくる。本来フィアのパワーであれば飴細工のようにへし折れる筈の翼を、怪鳥は能力により強靱に固定しているらしい。フィアの怪力をしかと受け止め、自ら加えた力にも耐えていた。

 フィアと怪物の押し合いは、最初拮抗していた。どちらも一歩と進めず、踏ん張っている足場を大きく凹ませるだけ。

 しかし十数秒と経つと、状況が動き出す。

 怪鳥がフィアを押し始めたのだ。

「ぬぐ……ぐ……ぐぅぬううううぅぅ……!」

 負けじとフィアは唸りを上げて踏ん張るが、後退していく身体の動きは止められない。否、それどころか加速していく。

 どんどんどんどん押されていき、辿り着いたのはクレーターの淵という名の壁。

 怪鳥を押し止める事が出来なかったフィアは、その身を激しく『壁』に叩き付けられてしまう。衝突時のスピードは暴走自動車もかくやといえるほど。衝撃を受け止めきれなかったクレーターの淵は砕け、粉塵を舞い上がらせる。

 尤もこの程度の打撃では、フィアの内で燃え盛る怒りの炎に油を注ぐだけ。

「ぐぬあぁっ!」

 怒りのボルテージを上げたフィアは、渾身の力で怪鳥を持ち上げ――――さながらジャーマン・スープレックスのように、怪鳥を背後の地面に叩き付けた!

 凄まじい勢いでの墜落。大地が衝撃波で吹き飛び、クレーターの内側にもう一つのクレーターが生み出される。並の生物、いや、並の『怪鳥』ならこの一撃で絶命するであろう。

 しかしこの怪鳥は生きていた。生きているどころか、まるで堪えていないかの如く表情を変えない。

 怪鳥は強引に身体を捻り、起き上がる。フィアは怪鳥の翼を掴んだままだったが、怪鳥はわざと翼を広げ、そのフィアを大地に擦り付けるようにして甚振った。

 ごりごりと地面が抉れるほどのパワーを受けるフィアは、鋭い眼差しを揺らがせる事もなく怪鳥の翼を掴み続ける。

 あまりにもしつこく捕まるからか、怪鳥は片翼だけを大きく羽ばたかせ、フィアを大地に幾度も叩き付けた。扇ぐ度に爆風が吹き荒れ、翼と向かい合った先にある山の尾根が爆薬でも仕込まれていたかのように吹き飛ぶ。遙か彼方の山が吹き飛ぶほどの威力である。フィアが受けている風の力は、最早人類のスケールでは語り尽くせない。

 爆風と打撃をフィアは一身に受け、それでもフィアは怪鳥の翼を離さない。離してやるつもりは毛頭ない。

 このまま一気に、ぐちゃぐちゃに潰してやるつもりなのだから。

「クキュルッ!?」

 怪鳥の方も異変を察知したのだろう。危機感のある声を上げた、が、既に遅い。

 フィアの身体から伸びた水が、怪鳥の身体に纏わり付いたのだ。それも()()

 怪鳥は全身に空気のバリアを纏っている。このままではどれだけ殴ろうとダメージは殆ど入らない。そこでフィアは一ヶ所……今までずっと掴んでいた翼の先を、指先に形成した水のドリルで集中的に攻撃。小さな穴を開け、バリアの内側へと水を侵入させたのだ。

 このまま血中に入り込んでも良いが、それをすると即座に翼を切り落とすなどの行動を取られ、逃がしかねない。手負いの獣は危険だ。出来るだけ短時間で息の根を止める方が得策である。

 水は表面に展開された空気の層の下を進み、怪鳥の全身へと広がっていく。怪鳥は激しく藻掻いたが、フィアが操る水はこの程度のパワーでは振り解けない。翼から放つ刃のような風なら切断も可能だろうが、水は既に網の目状に広がり、怪鳥の頭から尾の先まで包み込んでいる。今更水の一部を切ったところで無駄だ。

「ふふふん。このまま締め潰してあげますよっ!」

 完全な捕縛で勝利を確信したフィアは、止めを刺そうと操る水に力を込めた。

 が、その確信はすぐに揺らぐ。

 ()()()()()()()

 フィアがどれだけ力を込めても、怪鳥の身体は微動だにしなかった。それほどまでに表皮が硬いのか? そんな筈はない。他の怪鳥はもっと弱い力で頭蓋骨を粉砕出来ている。コイツだけがやたら皮膚が頑丈なんてあり得ない。

 フィアは操る水を介して状態を解析。原因はすぐに判明した。

 水が浮かび上がっている。

 一度は皮膚に張り付いた筈の水が、何時の間にか皮膚から剥がされていたのだ。皮膚との間には空気のバリアが出現しており、完全に怪鳥の身を覆い尽くしている。

 フィアにはその空気の出所はさっぱり分からない。分かる筈もない。

 何故ならこの空気は、怪鳥が自ら皮膚に開けた穴から噴かせたものなのだから。

 危機に陥った怪鳥は能力を用い、肺に取り込んだ空気の塊を直に体内へと吸収。血管を通じて全身を巡らせ、水がある場所から噴かせる事で、フィアが展開した水の下に新たな空気の層を作り上げたのだ。本来空気を血管に通せば詰まってしまうところだが、能力で空気を操れる怪鳥にこのリスクはない。仮にフィアが水を体内に侵入させたとしても、血管に流し込んだ空気で押し出しただろう。

 新たに現れたバリアに、フィアが困惑したのは瞬き一回にも満たない時間。しかしそれだけの隙があれば十分。

 怪鳥は翼を広げるや、自分が纏っていた空気のバリアを『パージ』……外へと放出した。凄まじいパワーを有しており、フィアが絡み付かせていた水は全て吹き飛ばされてしまう。フィア自身も、ついに吹き飛ばされてしまった。

 何百メートルと大地を飛び、二本の足でなんとか着地するフィア。折角の肉薄状態が解かれてしまい、敵意を剥き出しにした鋭い眼差しで怪鳥を睨み付ける。怪鳥の方も、一時は危機に陥ったがダメージ自体は少なく、また疲労もないらしい。落ち着きのある凜とした佇まいで立ち、フィアを睨む。

 どちらかが動けば、即座に行動を起こせる体勢。そして動こうと思えば、即座に自分から動き出せる状態。

 何時戦闘が再開してもおかしくない中、フィアは本能に直結した思考を巡らせる。

 かなり強い。

 これまでフィアは様々なミュータントと戦ってきた。中には虫けら同然の雑魚もいたが、基本的には ― 自分ほどではない、という言葉は頭に付けるものの ― どいつもこいつも中々の強さだったと記憶している。

 この怪鳥はその中でもかなり強い方だ。中々に器用であるし、何より馬力が大きい。純粋な力の『大きさ』では恐らく自分よりも上だとフィアは判断していた。

 そして何より厄介なのは……

「……時間を掛けるつもりは元よりありませんがちょっとばかしやる気出しますかねぇ!」

 睨み合いの中、最初に動き出したのはフィア。

 フィアは足下より、無数の水触手を生やし、それを怪鳥に差し向けた! 一本一本が高層ビルすら容易く貫く破壊力を有しており、それが何十も押し寄せる。人間の作り上げた都市程度ならものの数秒で灰燼と帰すであろう、破滅的な攻撃だ。

 その恐るべき光景を目の当たりにし、されど怪鳥は一歩たりとも動かず。

「クリュルッ!」

 示した行動は、力強い一声を上げただけ。

 その一声と共に吹き荒れた爆風は、フィアが繰り出した水触手を尽く吹き飛ばす! 否、それだけでは足りぬと言わんばかりに風はフィアの下まで到達。余波だけでフィアの身体を大きく仰け反らせた。

 なんという強力な力なのか。自慢の水触手がこうも容易く吹き飛ばされるとは、フィアにとっても少々予想外。

 何より、取っ組み合いの争いをしていた時は()()()()()()()()()()()()()()()

「っ……鳥風情が調子に乗るんじゃありませんよオオオオオオオッ!」

 咆哮を上げたフィアは突進。最大級のスピードを持って体当たりをお見舞いする! 人間サイズとはいえ、フィアの『身体』は超高密の水の集まり。その莫大な質量とスピードの掛け合わせは、流星が如くエネルギーを生み出す。

 だが、怪鳥はこれを正面から受けて立つ。

 身体を傾けた怪鳥は、自らの翼を盾のように構えてフィアの突進を止めた。両足を広げて腰を下ろした体勢とはいえ、小惑星規模の力を受けたにも拘わらず、怪鳥の身体は一センチと後退しない。フィアの方は反動で数メートルと後退したのに。

「クルルッ!」

 今度はこちらの番だとばかりに、怪鳥はフィアにして蹴りをお見舞いした。

 もう何度も受けてきた攻撃。フィアもこれまでと同じく正面から受け止める……が、今までのようにはいかない。

 キックの威力が、これまでとは桁違いに上がっていたのだから。

「ぐぅっ!? これは……!」

 予想以上の破壊力に、フィアも驚きの声を漏らす。その場に留まるどころか、打撃を受けた『身体』が砕けぬよう踏ん張るのが精いっぱい。

 どうにか形は維持するが、体勢までは保てない。フィアは大きくその身を仰け反らせてしまう。

 怪鳥はこの隙を逃さなかった。大きく翼を振り上げ――――放つは山をも切り裂く空気の刃。

 ただし此度は、一度に()()と放ってきたが。

「ぬっぐぅぬあアァッ!」

 広範囲に放たれた刃を見て回避は不可能と判断。少女らしさをかなぐり捨てた雄叫びと共に、フィアは本体を包む水を限界まで圧縮する! 極限まで高めた密度で、風の刃と正面からぶつかり合う。

 フィアの渾身の防御は、殆ど通じなかった。腕二本は切断され、胴体も縦に深々と斬られてしまう。胴体に飛んできた風の刃こそ高密の水により軌道を逸らし、本体への直撃を避けたが……そうでもしなければやられていた。やはり防ぎきるのは無理だった。

 怪鳥も同じ考えなのだろう。更に二度三度と翼を振り上げ、三つ六つと風の刃を飛ばしてくる。逸らす事は出来たが、何度も受けられるものではない。

 フィアは『身体』を崩し、どぷんと音を立てて地面に伏せる。風はフィアの頭上を通り過ぎ、彼方の山まで飛んでいく。そして何本もの切れ目を山体に刻み込んだ。ついでとばかりに、切断面をどろどろしたマグマのように溶かすという芸当付きで。

 高速で通り過ぎた風との摩擦で、岩が溶解するほどの高温になったのだ。明らかにこれまでとは威力が違う、恐るべき攻撃だが……フィアは戦慄などしない。しているぐらいなら次の手を打つ。

 フィアは『身体』を崩したまま地中を掘り進む。怪鳥は地面に向けて追撃を放ってきたが、見えなくなってしまえばこちらのもの。攻撃を躱し、地中に潜ったフィアは思考を巡らせた。

 ()()()()()()()()()()()

 怪鳥の戦闘能力は、初めて出会った時、そして今繰り広げているこの『ケンカ』が始まったばかりの頃と比べて格段に向上していた。今まで手を抜いていたのか? それはない。自分が相手を『強敵』と認めたように、怪鳥もまた自分を『強敵』と認めていたようにフィアは感じている。強敵相手に手を抜くような間抜けはいない。そもそも手を抜いていたなら、その隙を突いてとっくに殺せている自信がフィアにはあった。

 では肉体的な『成長』したのか? 一年ぐらい前に出会ったヘビのミュータント ― 名前は忘れたが、その存在はフィアでも覚えていた ― は、成長するという能力を持っていた。この怪鳥もそれに類するものだろうか? ……これも違うだろう。怪鳥の見た目に変化はない。成長し、身体機能がより優れたものへと変化したのなら、その見た目が大きく変わる筈だからだ。フィアは「大きくなってないから違う」という大変シンプルな解釈をしていたが。

 ならば何が原因か? フィアの心当たりは一つだけ。

 成長したのである。ただし身体ではなく、能力そのものが。

 フィアがアルベルトとの戦いで大きく成長し、数万度という高熱にすら耐える力を得たように。怪鳥もまたフィアという強敵との激戦で、能力の質を大きく成長させたのだ。風をより精密に、そしてパワフルに操れるように。

 そして恐らく、怪鳥はフィアと出会うまで、ミュータントとの戦いを一切経験していない。

 最初の戦いの時点で、フィアと互角だというのがおかしいのである。数多の敵を倒してきたフィア並の強さである事が、ではない。明らかにフィアより大きい怪鳥が、フィアと同レベルの力しかない事がだ。体長三十センチ程度のフナと体長十五メートルの怪鳥が互角というのは、メダカの稚魚とカラスの成鳥が互角なのとスケール的には同じ。『能力』という単純なサイズ差では優劣が決まらない戦いとはいえ、この体重の開きはあまりにも大きい。

 怪鳥が今まで巨大昆虫や同種という、『雑魚』ばかり相手にしていて力の扱いが下手なままだとすれば、自分より遙かに小さいが経験豊富な生物に苦戦するのも頷ける。そしてそれは、経験さえ積めば体格差から繰り出される圧倒的パワーで押し潰せる事も意味していた。

 無論フィアも怪鳥との戦いにより、現在進行形で成長している。しかし全く未経験の新人とそれなりに鍛練を積んだ玄人、どちらが成長著しいかは語るまでもない。

「(……面白い)」

 ニタリと、フィアはほくそ笑む。

 確かに怪鳥は強い。今でも十分に強いし、これからもどんどん強くなるだろう。持久戦は不利だが、短期で止めを刺せるような策もない。つまり現状を打開出来るという確かなものは何もない訳だ。

 だが、フィアは勝利を確信している。

 何故ならフィアは自分の強さを信じているからだ。こんな『鳥』風情に負けるつもりなど毛頭ない……それは人間からすれば単なる強がりか、現実が見えていないだけに思える発想。されど野生の本能に付き従うフィアは、相手の実力を正確に把握している。本当にヤバいと思えば、プライドなんて簡単に捨てて逃げている。それをしないのは、本能的には『勝機』があると感じているからだ。

 ついでに言えば、フィアはフィアなりに作戦を考えてはいる。

 相手の方がパワーが上だというのなら――――自分もまた同じだけパワーアップすれば良いのだと。

「ぬうううううううううぅ……!」

 唸りを上げ、フィアは能力を極限まで振り絞る。

 地中に広げていく無数の水。植物の根よりも細かく、隙間なく浸食していく力は、周囲の大地から水分を根こそぎ奪い取る。干からびた土は脆く、小さくなり、山の至る所で崩落が生じた。

 大地が崩れる中、怪鳥は軽やかに飛び上がる。ざっと百メートルほどの高度まで上がると、翼を動かす事もなく、悠然とその場に漂う。

 それはフィアにとって『吉報』だ。何しろ彼女は自分の上を飛ぶものに敏感なのだから。地上に立っていた時よりも、ずっと強い本能的確信で怪鳥の位置を把握出来る。

 だからフィアは迷わずに手を伸ばす。

 大地を砕いて現れた、長さ百メートルを超える半透明な手を!

「クキュ、グッ!?」

 慌てて離れようとする怪鳥だったが、一手遅い。大地を粉砕しながら生えてきた手……フィアが操る水の塊は、怪鳥の身体をしかと握り締める。

 このまま握り潰す事が出来ればフィアの勝ちだ。けれども怪鳥も素直にやられはしない。握り締められる寸前、空気のバリアを強化していたようだ。どれだけ力を込めてもビクともしない。

 ならばとフィアが作り出した腕は、怪鳥を勢い良く投げた! 弾丸のように飛んだ怪鳥は山へと叩き付けられ、衝撃で大地は陥没。砕け散った無数の岩が空を舞う。

 生半可な生物ならばとうに死んでいるだろう。しかしこの程度で終わるようなら、今頃戦いは終わっている。

 怪鳥は素早く浮かび上がり、その場から離脱。

 フィアが生み出した巨腕は怪鳥の動きに間に合わず、先程まで怪鳥が居た場所に鉄拳を喰らわせた! 拳の破壊力は凄まじく、打撃を受けた場所は噴火するかのように土砂が舞い上がる。更には大きな衝撃波も広がり、これまでの戦いで脆くなっていた山々を次々と崩していった。

 破滅的な破壊力だが、空を飛ばれては殆ど届かない。飛行する怪鳥は難を逃れた。

 腕だけでは埒が明かない。

 そう判断したフィアは、更なる『身体』を出す。水分を吸い尽くされた大地は次々と崩落し、自然も山も全てが荒廃していくが、フィアは気にも留めない。

 やがてフィアは崩れゆく大地の中から現れる。されどそこに、金髪碧眼の美少女の姿は何処にもない。

 代わりに、ぬらりとした魚の頭が現れる。魚の頭といっても、造形が似ているだけ。半透明な『身体』はぷるんぷるんと揺れ、何処を見ても鱗がない。腹はでっぷりとしたカエル腹で、一見して愛嬌たっぷりのように見えるだろう。作り物の瞳が捕食者の恐ろしい眼光を放っていなければ。

 そしてフィアの本体は、このカエルとも魚とも付かない『身体』の内側に潜んでいた。

 この格好こそが、フィアにとっての戦闘モード。

 周辺全ての水を吸い尽くし、体長五十メートル近くまで巨大化したボディ……これを纏った戦法こそが、フィアの繰り出す『全力』だ!

【逃げるんじャアリマセンヨォォォッ!】

 羽ばたきで空高く上がった怪鳥に、フィアは怒りの咆哮をぶつけた

 直後、フィアはその背中から何十本にもなる水触手を放つ! 怪鳥はこれを目視で捉え、水触手を迎撃するためか無数の風の刃を放射。美少女姿のフィアになら十分に通用する一撃だ。

 風の殆どはフィアが放った水触手を直撃する。先程までは水触手どころか本体さえも逸らす事で手一杯だった攻撃は……しかし今度は通じない。

 風は水触手に深々とした傷を刻んだ。だがその傷は無意味。何故なら刻まれた傷の深さは一メートル程度なのに、水触手の太さはざっと二メートルはあるのだ。どんなに深かろうと、太さに満たない傷では何もを切り落とせない。

 知性など必要ない。策など用いるまでもない。相手が小手先の技でこちらを翻弄するのならば、桁違いにして圧倒的な『物量』で押し潰すのみ。

 これこそが、水という莫大な量の資源を自在に操るフィアの全力なのである。

「クキュル……!」

 迫り来る水触手を、怪鳥は倒しきれないと判断したのだろう。翼を羽ばたかせ、回避を始める。

 ただの鳥であれば、フィアが伸ばした無数の水触手を躱す事など出来まい。しかし怪鳥は、超音速まで瞬く間に加速したり、そうと思えば急停止し、羽ばたきもないまま垂直下降や上昇をしていく。

 空気を操る能力により、自らの身体を自由に飛行させているのだろう。気流の流れなどを察知し、死角からの攻撃も回避していると思われる。どれほどの数の水触手を用いても、点の攻撃では躱されてしまうに違いない。

 ならば、面で攻めよう。

 フィアは水触手達を一度止め、怪鳥を囲うようにぐるりと展開。怪鳥は何かを察したのか全身に闘志を滾らせるが、もう遅い。

 フィアは水触手から、ネット状に展開した水の『糸』を射出した!

 『糸』は空を覆うかのように広がり、怪鳥を完全に包囲。そしてそのまま、一気に範囲を狭める! 『糸』といっても表面には電動ノコギリのように、形成された鋭い歯が高速で循環していた。当たれば戦車だろうが高層ビルだろうが、なんでも切り裂く必殺の攻撃だ。怪鳥には空気のバリアが存在するため、一本二本では届かないだろう。しかしながら何十、何百とぶつければ……

 これには怪鳥も慄いたのだろう。大きく目を見開き、慌ただしく翼を羽ばたかせる。そう、慄きはしたが……これは達観には変わらない。

 怪鳥は広げていた翼を畳み、まるで閉じた傘のように身を細める。次いでどのような航空原理が起きているのか、ぐるんぐるんとその身が横方向に回転を始めた。

 同時に起きるは、巨大な竜巻!

 怪鳥の周りに現れた爆風は、迫り来る『糸』のみならず、フィアが展開した水触手さえも吹き飛ばす! 如何に細い『糸』であっても、自然の竜巻程度ではどれほど大規模では切れはしない。ましてや太さ二メートル以上の水触手となれば尚更だ。怪鳥が起こした竜巻は最早地球で、いや、宇宙の何処かの惑星で起こるような規模ではない。

 フィアの包囲網を破った怪鳥は、今度は閉じていた翼を、鋭く、突き刺すようにフィア目掛けて伸ばす。フィアまでの距離はざっと三百メートルほどある。当然翼の先は届かない。

 だが、フィアの『身体』には強烈な打撃が伝わった!

【グヌァッ!? コレハ……!】

 五十メートルもの巨体を形成する水が、ぐらりと揺さぶられる。ここまでの戦いでまた奴の能力が成長したのか? そうした要因もあるだろうが、それだけではない。

 これまで刃という形で広範囲に放っていた攻撃を、一点集中にしたのだ。力の大きさはそのままにして面積を十分の一にすれば、当然面積当たりのエネルギー量は十倍になる。

 巨体という物量で挑む相手には、火力を集中させて挑むという事か。この方法ならば確かにこの『身体』を貫き、フィアの本体まで風を届かせる事が可能かも知れない。非常に危険な攻撃だ。

【上等オオオオオオッ!】

 だが、フィアは退かない。

 『身体』を貫かれる程度など、数多の戦いの中で何度も経験した。それは最早恐怖に値しない。むしろそうでなくては()()()()()()

 怪鳥も、フィアの覇気を受けても逃げはしない。フィアが繰り出した『糸』による包囲という、危うく死ぬかも知れなかった体験に怖じ気付きもしていない。翼を広げ、臨戦態勢を維持し続けている。目付きは鋭いままだ。

 フィアも怪鳥も相手を睨む。されど今の二匹の眼光にあるのは、純然たる殺意などではない。

 二匹の化け物は戦いを止めない。何度でも、いくらでもぶつかり合う。己の渾身の技を、最大級の力をぶつけ、共に高みへと登っていく。

 ならばもう、それは殺し合いなんかではない。

 ちょっとばかし激しい、コミュニケーションでしかなかった。

 ……………

 ………

 …

 果たして、どれだけの時間が経っただろうか。

 戦い始めた頃はまだまだ高かった筈の陽はすっかり沈み、辺りが紅色に染まる中……山の中でケダモノ二匹はクレーターの中心に立っていた。

 自分達のケンカで作り上げたそのクレーターは今や半径三キロはあり、中は何もかもが砕けて砂塗れの状態。無論ケダモノ達はクレーターを作るために争っていた訳ではない。生じたエネルギーの大半が熱や音などに変換され、クレーター形成とは無関係な事を思えば、戦いの中でどれほど莫大なエネルギーが生じたかなど人類には想像も付かない事だ。

 流石にこれほどのエネルギーを消費したとなれば、フィアといえども疲れるというもの。フィアと互角に戦った怪鳥もまた同じ。

 二匹は、クレーターの中心で息を切らしながら向き合っていた。

【フシュウウウゥゥゥゥ……フシュウウウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……!】

「キュルルルルル……ルル……ルルルルルルルルル……!」

 五十メートル近い怪物の姿を維持したままのフィアが唸りと共に熱い吐息を吐き、怪鳥も甲高い声が息によって途切れ途切れになっている。

 しかしどちらも闘志は潰えていない。

【グルアアアアアアァッ!】

 フィアは咆哮を上げ、腕を高々と上げる!

「グキュルルルアアァッ!」

 怪鳥も足を止めたまま、翼を前へと突き出す事で空気の塊を撃ち出す!

 超常の力を纏った両者の『拳』は、されど互いにぶつかり合う事もなし。

 どちらも狙いは相手の顔面。

 お互い干渉する事もなく突き進んだ一撃は、見事相手の頬へと突き立てられた! フィアが打ち込んだ水の塊は怪鳥を守る空気のバリアを歪め、怪鳥が放つ空気の塊は水で出来たフィアの頭を粉砕する。

 どちらも致命傷とはいえない程度のダメージ。

 しかし疲れきっていた両者が膝を付くには、十分過ぎるほどの破壊力だった。

【ヌグウゥゥゥ……! ぶはっ! はぁふ……ふぅ……!」

「クギュルゥゥ……」

 フィアは脱力しながら怪物から人の姿へと変化し、怪鳥は両翼を地面に付いて項垂れる。最早立ち上がれないほどの疲労感。少なくともフィアはこれ以上戦えないし、恐らくは怪鳥の方も同じだろう。

 自然と、両者は顔を合わせる。

 今の今まで命のやり取りをしていた『敵』。その敵を前にして、フィアと怪鳥は同時に微笑んだ。怪鳥の顔はフィアほど表情豊かではないが、フィアには笑っているように見えた。

「ふっはははは! あなた中々やりますねぇ。この私の全力とここまでやり合えたのはあなたが初めてですよ!」

「クキュルルル! キュル、キュルルオオオオン! キュルッ!」

「何言ってんのかさっぱり分かりませんがまぁなんだって良いですね」

 四肢を広げ、フィアは大地に寝転がる。

 怪鳥も、翼を広げうつ伏せに倒れる。

 フィアは『敵』を許さない。今でもミリオンは警戒対象だし、野良猫(ミィ)も信用なんてしていない。この怪鳥にだって全幅の信頼を寄せてなどいなかった。

 けれども命のやり取りをしたという()()で、他の評価が変わる事なんてない。

 ミリオンと遊んだり、ミィとじゃれ合ったり出来るのは、信頼関係を築いたからではない。彼女達との遊びがまぁまぁ楽しくて、今では『ケンカ』する可能性があまりないと分かっているからだ。その価値観は例え怪鳥相手でも変わらない。

 楽しいケンカだった。思いっきり、全力を出せたのだから楽しくない訳がない。後はもう、向こうがこちらの命を付け狙わないという確信さえあればそれで良い。

「(あれ? そういえばなんでコイツとケンカをしていたんでしたっけ?)」

 そしてフィアは途中からケンカそのものに熱中していて、ケンカになった理由を忘れてしまっていた。

 そこそこ大事な理由だった気がするのだが、なんだったろうか。確か自分は美味しいものを探してこの地まで来た筈……

 能天気に考え込むフィア。だが、その思考は唐突に途切れてしまう。

 空から、何かが落ちてきたから。

 何か、途方もなく大きな何かが。

「? あれは……っ!?」

 一瞬何が来ているのか分からず首を傾げるフィアだったが、次の瞬間には危機を察知した。怪鳥も起き上がり身構えた。けれども二匹に逃げる暇もなく、

 空から落ちてきた巨大な金属の塊が、二匹の間に突き刺さった。

 装甲の表面に、丸を囲うように三つの扇型の図形が配置された、独特のシンボルマークが描かれた金属が……




ケンカするほど仲が良い
(なお環境破壊)

次回は明日投稿予定です。


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適応者7

 中国は水爆保有国である。

 その保有数は公開されておらず、詳細は不明。数百発程度という説もあれば、数千発もの数があるという説も存在する。通常戦闘での使用を想定した戦術核のみならず、都市一つを壊滅させるような威力がある戦略核も保有しているという話もあった。

 しかしながら豊富に持っているからといって、そう簡単に撃てるものではないのが核兵器だ。現代では実験的に起爆するだけでも国際的な非難は避けられない。そうした批難を無視して使ったところで、欲しいもの ― 領土なり資源なり ― を汚染してしまうリスクがある。核兵器とは交渉の道具であり、一般的な戦争なり紛争なりで使えるような代物ではない。通常戦闘を想定した小型核兵器といえども、実際に使えるかは別問題なのだ。

 ましてや自国内での使用なんてものは……平和的核爆発という『土木工事』さえも禁止されている現代では……あり得ない。

 あり得ない筈だったのに。

「本当に、使わねばならないのか」

 中国共産党本部にある、小さな会議室にて。共産党最高指導者という地位に立つ男が、ぽつりと呟いた。

 彼の前に立つのは、年老いた男性。中国人民解放陸軍を統括する上将である。彼は最高指導者からの問いに、深く、しっかりと頷いた。

「現場にて収集した戦闘データからの結論です。我が国にて出現した巨大昆虫は、主力戦車の主砲さえも弾くほどに頑強。六百名以上の地上部隊による集中砲火で弱らせた上で、三発のミサイル攻撃にも辛うじて耐えるとの事です」

「しかし、倒せるのであれば通常兵器の利用が適切ではないか?」

「巨大昆虫の数は我々の想定を大きく上回っています。現場からの報告、そして衛星からの情報が正しければ、巨大昆虫の推定個体数は二万以上。一体倒すのに、我々は五百名の歩兵と三十両の戦車を用いました。しかし我が国の総兵力は約二百万ほど……つまり計算上、二万体の巨大昆虫を根絶するには、総動員を掛けて動かせる量の六倍以上の兵力が必要となります。無論これは理論値であり、現実の戦闘では補給部隊や工作兵などが必要です。通常兵器による巨大昆虫の駆逐を望むのであれば、現在の人民解放軍の十倍もの戦力を用いるのが『現実的』でしょう」

「……………」

「加えて巨大昆虫は飛行能力があるため、航空戦力による一方的な駆逐は不可能です。また、この巨大昆虫を遙かに上回る戦闘力を有した巨大鳥類も確認されています。恐らくこの鳥には、戦車砲もミサイルも通用しないと考えられます」

 淡々と語られる現状に、最高指導者はついに黙る。意見を終えた上将は、最高指導者の指示を待つため口を閉じる。沈黙が、部屋の中を満たした。

 上将の報告は、現場兵士……王大佐率いる部隊が上げた情報を多分に含んでいる。彼等は優秀な部隊だ。極めて練度が高く、勇敢で、機転が利く。中国人民解放陸軍において、最強の部隊の一つといっても過言ではない。

 その彼等が、ただ一匹の巨大昆虫を倒すだけで壊滅的被害を受けた。恐らく並の部隊では戦闘中に士気が下がり、逃走や放心などから著しく戦闘力が落ち、壊滅しただろう。最高指導者に告げた十倍という戦力すら、巨大昆虫と『全面戦争』をするには低過ぎる見積もりかも知れない。

 そして恐らく通常兵器が通じない、巨大鳥類の存在がある。

 加えて現在、大型鳥類の中でも飛び抜けて高い戦闘力を有する個体と、その個体とあろう事か生身で戦ってる『金髪の美女』がいる。後半はなんのジョークだと言いたくなるが、二体の戦いを記録した画像や映像データがある以上否定は出来ない。巨大昆虫すら抑えきれない兵力では、この二体の足止めなど夢のまた夢だ。

 通常兵器による戦闘では勝ち目がない。奴等を、人智を超えた生物共を駆逐するには、こちらも『神の炎』を用いる以外にないのだ。

 即ち、核兵器の実戦使用である。

「……しかし、アメリカは昨年失敗したではないか」

「アレは異星生命体、つまり地球外の化け物です。当局が入手した情報によれば、あの生命体は核融合を活動エネルギーとしていたとの事。核融合で生きる生物に、核融合を用いた兵器が通用しないのはある意味納得の出来る話ではあります。ですが今回は地球の生命、田舎に現れた虫けらです。通じぬ訳がありません」

 最高指導者の指摘に、上将は明確な答えを返す。最高指導者は思っただろう。その異星生命体を倒したのはヘビの化け物、地球生命だったではないか、と。

 しかし他に手があるかといえば、答えはNoだ。戦車砲もミサイルも効かないとなれば、これ以上の威力があるのは核兵器だけ。

 成功するかどうかではない。他に手がない以上、運命を受け入れるか、或いは抗うかだ。

「……分かった。許可しよう」

「英断、感謝致します」

 最高指導者の決断を、上将は褒め称える。果たして本当に英断となるのか……そう言いたげな最高指導者の顔を見た上で。

 しかし指導者の個人的な『感情』など、実際に出された決定の前では無力。

 最高指導者が承認した時より、人民解放軍は動き出す。アメリカとは違い完全な自国内での使用だ。加えて対象も小さく、まだ拡散していない状況である。何十メガトンもある水爆を用いても、被害が大きくなるばかり。

 使用されるのは、一メガトン級の水爆。戦略核と呼ばれる代物であり、射程五百キロを有する。アメリカが異星生命体相手に使用したものは最大で百五十メガトンのもので、中国が今回用いるのはその百五十分の一の威力しかないが……それでも広島型原爆六十六発分以上の出力だ。そして広島型原爆というのは、現在世界最大級の爆弾の千五百倍もの出力を有す。メガトン級の水爆とは、一発で並の爆弾十万発以上に値する力なのだ。

 加えて、用いるのは一発だけではない。

 投入される数……合計三百発。

 異星生命体にアメリカが投じたのと同等の、合計三百メガトンものエネルギーだ。いや、むしろ一発当たりの爆発半径が狭い事を思えば、単位面積当たりのエネルギー量は遙かに上回る。数が数だけに、搬出にも時間が掛かったが……それでも二時間ほどで準備は整った。司令部の合図と共に、人類が持ちうる最大最強の力が放たれる。

 一年も前ならば、ここで誰かが躊躇っただろう。やっぱり何か案があるのではないかと、中止を決断する可能性もゼロではなかった。けれども人類は学んでいた。世界を、全生命を脅かすほどだと思っていた自分達の力が、如何にちっぽけなものであるかを。余裕ぶって出し惜しみをしていたら、その隙に全てが食い尽くされてしまうと。

 水爆という力は、既に禁忌ではなくなっていた。

 共産党からの指示により、中国人民解放軍の開発した水爆が次々と空を飛ぶ。どのミサイルにも不調はない。正確に、目標目指して突き進む。

 そして――――

 

 

 

 そして人民解放軍が撃ち出した水爆は、フィアと怪鳥のど真ん中に落ちてきた。ずば抜けた戦闘力を有する怪鳥と、その怪鳥と戦うフィアこそが最優先の目標だと判断されたがために。

「(ちょっとちょっとなんかコレヤバそうなんですけどぉ!?)」

 正直フィアは焦りを覚えた。本能的に、目の前にやってきたものの破壊力を察したが故に。

 ミィであれば、その俊足を用いてそそくさと逃げる事も可能だった。しかしフィアにそんな足の速さはない。というより頭の中を駆け巡る思考を()()()()()()()()。実質、何も考えていないような状況だ。

 逃げ出すなんて夢のまた夢。

 流れた時間は百分の一秒未満。しかしケダモノの本能が二匹を反応させ……空から超音速で落ちてきた水爆は、地面と衝突する前に起爆した。

 放たれる莫大なエネルギー。

 内部で起きた小規模の核爆弾により、『燃料』である重水素化リチウムを圧縮。極限まで圧縮された原子はクーロン力を乗り越えて融合し、新元素を創造。その際の余剰質量(余りもの)全てをエネルギーに変換していく。

 生じる熱は、中心部分で四億度。

 それは本当にごく狭い範囲での話であり、広がる爆風は急速に冷めていくが……それでも半径十一キロを超える広範囲に、人を死に至らしめる事が可能な熱風が吹き荒れた。フィア達の戦いから逃れた森の木々も吹き飛び、炭化し、消滅する。爆風は麓まで駆け下り、無人と化した廃村を薙ぎ払う。

 されど攻撃は終わらない。

 水爆は三百発の投入が決定されていた。一発撃って十分な破壊力だから止める、なんてならない。そもそも多少の時間差はあれども既に水爆達は空を飛んでいるのだ。今更止める事など出来ない。

 最初の一発は、多少の偶然も絡んでフィア達のど真ん中かつ至近距離に落ちてきた。他のミサイルはそこまで近くには来なかったが、それでも爆風が去ったコンマ数秒後を狙い、十数発が高度五十メートルほどの位置で炸裂する。とても高い高度に思えるかも知れないが、生じる火球そのものが五百メートル以上の範囲に広がるのだから誤差のようなもの。合計十数メガトンの破壊が繰り返される。

 攻撃は終わらない。太陽と同質の力は、山を、自然を、何もかも破壊していく。

 この場に生きられる地球生命などいやしない。いてはならない……核兵器を撃たせ、その結果を確認している人間達は誰もが同じ気持ちを抱いている事だろう。

 もしもこの大水爆攻撃に耐える生命がいたなら、もう、それは人の手には負えない事の証明なのだから。

 爆撃は続き、二百メガトン分のミサイルが無事に役目を終えた頃には、既に山など跡形も残っていなかった。麓の村など痕跡すら存在しない。

 それでもまだ作戦は三分の二しか終わっていない。残り百発分の水爆も己が使命を全うすべく、目標値点目掛け空を駆ける。そして先行する十数発が新たに起爆

 しようとした直後に、爆炎から現れた『糸』がミサイルを切断した。

 制御装置ごと切断された水爆搭載のミサイルは、核融合による爆発を起こせない。核融合を起こすためには、緻密に計算されたタイミングでの原子爆弾の発破が必要だからだ。ボンッ! と小さな核爆発を空中で起こすのが精々。切り落とされたミサイルは、人類最高の英知とは思えぬほど呆気なく潰える。

 十数発の水爆が落ちた。

 この地から遠く離れた場所で事態を観測していた人間達は今頃唖然としているだろうが、機械には関係ない。規定されたプログラムに則り、後続の十数発の水爆が現場に到着。

 されどそれらもまた粉砕された――――爆炎を吹き飛ばして現れた、半径一メートルほどの小さな竜巻によって。

 竜巻は数十キロ彼方まで伸び、超音速で飛来する水爆を起動前に撃ち落とす。数と包囲によってどうにか接近した水爆も、今度は振り回される『糸』によって切り落とされた。そして竜巻や『糸』による攻撃は、最期の足掻きと呼ぶにはあまりにもパワフルで、極めて正確。

 残り百発の水爆は、役目を果たせず撃墜される。核により広がった爆風は時間と共に小さくなり……しかし待ってる暇はないとばかりに、内側から膨れ上がるようにして霧散。

 焼け爛れた大地の上に、二体の『化け物』が立っていた。

「……ふしゅうぅぅぅぅぅ……流石に今のはちょっと効きましたねぇ……!」

 フィアは『身体』の表面を紅蓮色に光らせ、少々疲れた息を吐きながらも強気な声を発する。余裕があるとは言い難いが、瀕死には程遠い姿だ。

 本来水分子は二千度程度で分解されてしまう。だがフィアは能力により水分子を固定し、迫り来る四億度の熱を耐えた。放たれる多量の放射線も、怪物の姿となるために蓄えた莫大な水が意図せず遮断。

 かくしてフィアは水爆の直撃を見事やり過ごしたのである。尤も途中で苛立ち、『糸』という形で後続の()()()は振り払ったが。

「クキュルルルルルル……」

 怪鳥もまた健在。目視可能な空気の歪みを纏ったまま、大きなため息のようにも聞こえる鳴き声を漏らす。

 怪鳥もフィアと同じく、能力により水爆の猛攻を耐え抜いた。空気を操れる怪鳥にとって、空気分子から伝わる爆風など操作対象に過ぎない。放たれた高熱は空気密度を下げる事により無力化。放射線も、防御のため圧縮して纏っていた大気に含まれる水分子が防いだ。こちらも耐えようと思えば幾らでも耐えられたが、やはり面倒臭くなったので残りのミサイルは排除した。

 ミュータント二匹は、人類最高の英知を、神の炎を、宇宙の神秘を、我が身一つで切り抜けたのだ。

「いやぁ今の爆弾は中々のもんでしたねぇ。なんか普通の爆弾とは違う感じでしたがあれが核兵器とかいう奴ですかね?」

「クキュルルルル! クキュ! キュルルルルル!」

「? なんか怒ってます? まぁ確かにちょっとしんどい攻撃でしたし一発ぐらいお返しでぶん殴った方が良いかもですけど」

「キュルルル! キュルゥ!」

 フィアがキョトンとする中、怪鳥はばたばたと翼を動かしながら地団太を踏む。何やら不満な事があるらしい。

 一体何が不満なのやら、と思っていたフィアだが、ふと空に気配を感じた。また核兵器かとも思ったが、ミサイルのような速さではない。

 見上げれば、夕暮れの空に巨大な鳥が何羽か飛んでいた。

 怪鳥だ。恐らくはミュータント化していない『普通』の。

 森に棲んでいた彼等もまた、核攻撃を生き抜いたのだ。しかしそれは何も不思議な話ではない。彼等は戦車砲すら受け止める巨大昆虫さえも凌駕する、圧倒的身体能力の持ち主なのだ。十数キロにも広がった衝撃波や、数百度程度の高温などどうとでもなる。森が蒸発し、山が砕けようとも、彼等は生き延びるのだ。

 とはいえ超常の力はないのだから、至近距離で受ければ一溜まりもあるまい。幾らかは死んだ個体もいるだろう。その事に怪鳥は怒っている? 一瞬そんな考えも過ぎるが、これはあり得ないとフィアはすぐに否定した。仲間が殺されても平然としているのは、怪鳥の仲間をこの手で殺したフィアは目の当たりにしているのだ。

 一体何が気に入らないのやら、とフィアが首を傾げた……最中に、唐突に大地が揺れ始める。

 地震?

 違う。フィアの鋭敏な感覚器は、この揺れが地中深くから自分達が立つ地表目掛けて『移動』している事を察知していた。それも『震源』はかなり小さな固まりで、複数箇所で生じている。これは自然現象としての地震ではない。

 得体の知れない感覚。とはいえ大した脅威は感じられないので、逃げも隠れもせず、迎撃も行わずに放置してみる。

 すると震源は地表面まで昇ってきて……ボゴンッ! と荒廃した大地を砕いた。

 現れたのは、巨大昆虫。

 それも一匹だけではない。出来上がった穴からわらわらと、間欠泉を彷彿とさせる勢いと数で現れたのだ。何十、或いは何百か。彼等の大移動が不可思議な地震の正体だったのだ。

 挙句フィアが感知した震源は一つではない。山があった場所、そのあちこちから巨大昆虫が噴出している。一体何処にこれだけ隠れていたのやら、と思いたくもなったが、答えは明白だ。

 地下である。思い返せばハオユー(村の人間)が言っていた。巨大昆虫は洞窟に潜むものであると。その洞窟への入口は、フィア達を狙った核攻撃により消し飛んだようだが……洞窟は、地下深くまで伸びていたに違いない。核攻撃さえも届かないほど、遙か深くまで。

 だとすると、地表に現れた巨大昆虫なんてものは全体のごく一部だったのではないか。

 フィアの脳裏を過ぎる可能性は、溢れ出てくる巨大昆虫が物語っていた。数えきれないとは正にこの事だと、そう思わせる大群だ。

 しかし数は多くとも、所詮は狩られる側だ。巨大昆虫はフィアの傍に立つ怪鳥を見るや、慌てて逃げていく。無論ミュータント化した怪鳥であれば、いや、例えミュータント化していなくとも、この巨大昆虫を一匹捕らえるぐらいは造作もない。無駄な足掻きというやつだ。

 ところがフィアと戦っていた怪鳥は巨大昆虫に手を出さない。むしろ忌々しげに睨み付けるばかり。

 怪鳥が巨大昆虫を襲わない理由は、フィアにも分かった。そして怪鳥(コイツ)が何に対し怒り狂っていたのかも。

 穢れたのだ。地表に出てきたその瞬間に、大切な食べ物である虫達が。

 フィアは人間の科学になど興味はない。が、『知識』としてなら多少の見識を有している。核攻撃が行われた場所は、放射性物質という猛毒によって汚染されてしまうと。

 放射線は感じ取れるようなものではない。が、知識としてあれば、放射性物質塗れの虫を食べようという気にはならないだろう。この怪鳥も、自分達に向けて行われた核攻撃が何をもたらすのか、知っていたに違いない。

 独占していた獲物が穢された。怒り狂うには十分な理由だ。

 そして怪鳥にはもう、フィアと戦う理由がない。毒に侵された食べ物を守るため、命懸けで戦う獣なんていないのだから。

「……クキュルルルル」

「ん? 帰るのですか? まぁこれから大変かもですが頑張りなさい。偶には遊びに来ますよ」

 フィアがぞんざいに別れの言葉を伝えると、怪鳥は翼を広げ、空へと飛び上がった。

 戦いで見せたような超音速ではなく、むしろふわふわとした飛び方だったが……怪鳥の姿は、どんどん小さくなっていく。目があまり良くないフィアには、そいつの姿はすぐに見えなくなった。

 辺りに残るのは、溢れ出し、何処かに向けて大群で移動する巨大昆虫のみ。

 今なら取り放題というやつだ。怪鳥からの妨害もあるまい……しかし爆心地に出てきてしまった以上、彼等の身体にも放射性物質は付着しているだろう。つまり汚染されている訳だ。

 フィアとしても、猛毒に侵された巨大昆虫(食材)なんて興味もない。当初の目的が果たせなくなった今、此処に留まる理由は何もなかった。

「……まぁ楽しく遊べましたし良しとしますか。さぁて私も帰りますかねぇー」

 フィアは独りごちると、のんびりとした足取りで『山』だった場所を降り始める。

 目指すは、自分が上陸直前まで居た川。

 そこからでないと、帰り道がよく分からなかったので。

 ……………

 ………

 …

 のんびりと歩く事一時間。夕陽が沈み、世界が薄ら暗くなってきた頃。フィアは村があった場所に辿り着いた。

 その場所も荒野となっていた。核爆発の衝撃波の前では、木造の家屋の強度などないに等しかったという事だろう。本当に、何一つ残っていない。焼け焦げた砂だけが地平線まで続いている。フィアは野生の本能で「此処が村のあった場所」と認識しているが、人間の目には此処が『どんな場所』だったかなんて分かりようがないだろう。

 この分だと川まで蒸発していそうである。そうなると帰り道が分からなくなりそうだ。尤も、東に向かって突き進めばいずれ海に着くだろうとは思っていたので、フィアはあまり気にしていないが。

 この場所にも用はない。そそくさと立ち去ろうとする。

 その間際、フィアはふと気付いた。

 村のあった場所……その少し離れた位置に、人影がある事に。

 人影の傍には車が止まっていたので、その人物は車でこの場所に来たらしい。別段人影に興味などないが、偶々進もうと思っていた東側にその影は立っていた。じゃあついでに正体も見ておこうかと、結果的に人影を目指すように歩く。

 五分も歩けば、フィアは人影の顔が見えるぐらい近付けた。

 ハオユーだった。フィアは彼の名前を忘れていたが、彼の『臭い』はまだ覚えていたので、手を振りながら声を掛ける。

「おー久しぶりですね。あなた生きてましたか」

「ええ。軍人に、仮説避難所を、追い出されまして。あなたも、無事でしたか……核攻撃だったと、噂では、聞きましたが」

「多分そうなんじゃないですか? まぁこの私にとってはちょっと派手は爆発程度のものでしたけどね」

 胸を張り、自慢げに核攻撃を耐えたと主張するフィア。本来ならば世迷い言であるが、ハオユーはフィアが山に行った事、そしてフィアには巨大昆虫や怪鳥を上回る力がある事を知っている。「流石ですね」という彼の言葉に、疑念の意図があるとはフィアには感じられなかった。

「ところであなたこそこんな場所に居て良いのですか? よく知りませんけど核攻撃をされた後って『ほーしゃのーおせん』とやらで大変な事になるそうじゃないですか。私は水で身を守っていますけどあなた死んじゃうんじゃないですか?」

「はっはっはっ。確かに、そうかも知れません。ですが元より老い先短い身。今此処で死んだところで、数年……もしくは数日、寿命が縮んだだけです」

「ふぅーん」

「……故郷の、こんな姿を、見るぐらいなら、爆風で、消し飛んだ方が、マシだったかも、知れませんが」

 物悲しそうなハオユーの言葉。尤も、家や家族なんてものに価値を感じないフィアには、彼が何を悲しんでいるのかなど見当も付かない。そもそも興味すらない。

 そう、例え彼が放射線の影響で死んだとしても、だ。

「まぁ好きにすれば良いじゃないですかね。先程虫がたくさん出てきましたからもう人間には逃げきれないでしょうし」

「……そうですか。地獄の蓋は、開かれた、という事、ですかね」

「開けたのはあなた達人間ですけどね」

 けらけらと笑いながら、フィアはハオユーの言葉を囃し立てる。フィアに悪気はない。思った事を、そのまま言っているだけだ。ハオユーもフィアの皮肉に「その通り」と答え、自嘲するように笑みを浮かべるばかり。

 そんな話をしばししていると、遠くからキュリキュリという金属的な音が聞こえてきた。勿論フィアの優れた聴覚だからこそ察知出来た音であり、人間かつ老人であるハオユーはその音に気付いていない様子。

 しかし音そのものが近付いてくれば、やがてハオユーにも聞こえてくる。

 ハオユーが後ろを振り返った時、彼の背後には数台の戦車がやってきていた。一瞬彼は驚いたようにビクリと身体を跳ねたが、すぐに冷静さを取り戻し、淡々と戦車を見つめる。

 戦車数台はハオユーとフィアを通り越す、が、一台だけハオユーのすぐ傍に停まった。車体上部にある蓋がぱかりと開き、中からガスマスクを被った男が出てくる。

 王大佐だった。とはいえフィアからすれば面識のない人間。誰だコイツ? と思いながら首を傾げる。

「『何をしている! 早く此処から避難しろ! この辺りは放射性物質に汚染されている! 装備もなしに数時間もいれば、死に至るぞ!』」

 対する王大佐は、中国語でフィア達に避難を促してきた。

 日本語しか分からないフィアは、王大佐の警告にキョトンとするばかり。そしてハオユーは、睨むような、蔑むような眼差しを王大佐に向けた。

「『今更何処に逃げろと? あの虫共の大群から、どうやって?』」

「『それは……』」

「『核兵器で村を焼いただけでなく、虫の巣穴をほじくりおってからに。もうこの地域は、いや、国も、大陸も終わりじゃ。なら、せめて老い先短い身としては、故郷で死にたい。そんな願いすら叶えてくれんのかね?』」

「『わ、我々にはまだ戦力はある! ロシアや中東、インドにも援軍を要請している! 彼等も虫共の駆逐に手を貸してくれる筈だ!』」

「『希望的観測が混ざってるようじゃ、こりゃ駄目じゃのう。仮に思惑通りいっても、それで足りるとも思えんがな』」

「『っ……!』」

 ハオユーの反論で、王大佐は口を噤む。

 二人の口論を聞いていたフィアは、意味も分からなかったのでもう帰る事にした。

「じゃあ私は帰りますね」

「ええ、お気を付けて。もう二度と、会う事は、ないでしょうが」

「そうですか。ではこれにて」

「ええ……ああ、そうだ。一つ質問が」

「? はい?」

 帰ろうとするフィアを、ハオユーが呼び止める。フィアは振り返り、ハオユーの言葉を待つ。

「もしも、虫達が、人間の町に、降りたなら、あなたは人間のために、戦ってくれますか?」

 やがてハオユーは、そう尋ねてきた。

 フィアは彼の言葉の意味をよく理解する。

「戦いませんよ。というか何故私が人間なんかのために戦わねばならないのです?」

 理解した上で否定し、どうしてそんな願望を抱くのかが分からず問い返した。

 ハオユーは快活に笑った。答えが分かっていたかのように。

「確かに! 我々人間は……やはり、自惚れが過ぎる、という事、でしょうか」

「人間が自惚れてるのなんて今更でしょうに。話はそれで終わりですか? なら私は今度こそ帰りますよ」

「ええ、今度こそ……お別れです」

「『っ!? おい! そこの女! お前、まさかあの時鳥の戦っていた……』」

 ハオユーは別れを告げ、フィアは背中を向けて歩き出す。途中王大佐が何かを叫んでいたが、フィアには中国語が分からない。興味もないので無視した。

 しばらく歩くと、唐突に地面が揺れ、大地が砕ける音が聞こえた。どうやら巨大昆虫が地中から、この近くに現れたらしい。

 此処も多分放射性物質に汚染されている。なら此処に現れた巨大昆虫も汚染された。食べ物にならないのならなんの価値もない。フィアは足を止めもしなかった。

 やがて背後から砲撃音が聞こえる。爆音が轟き、金属が叩き潰される音も耳に届いた。どれもフィアにとってはただのノイズだ。振り向きもせず川を探し……なんとなく、それっぽい跡地を見付けた。水は流れていなかったが、足下に水を浸透させて調べれば、他の土壌より地下の水分量が多い。表面は消し飛んでも、地下には痕跡が残っていた。

 この痕跡を辿れば、海に辿り着けるだろう。

 フィアは川の跡地を東に向けて歩いて行く。その直前、大きな『力』を感じ取ったが……こちらに『力』は向いていない。向けてくる様子もない。

 なら、フィアにはどうでも良い事だ。

「『な、なんだこの巨大昆虫は!? 接触した砲弾の軌道が捻じ曲がったぞ!?』」

「『ひぃっ!? 地面が、地面が槍のように尖ってリーを……!』」

「『まさかコイツ、あの化け物鳥と同じ……ぎゃああっ!?』」

 背後から聞こえてくる人間達の阿鼻叫喚も、フィアの心には届かない。意味が分からないし、知らない人間がどれだけ死のうがどうしようが関心すらないのだ。

 そんなものよりも重大な問題がある。

「遊び過ぎて予定より随分遅くなってしまいました。花中さん心配してないと良いんですけど」

 大切な友達に伝えた帰宅時間より、かなり遅れての帰宅になりそうな事だった。




たくさん遊べて大満足。
結果世界が滅茶苦茶になっても構わない。
だってケダモノだもん。

次回は5/19(日)投稿予定です。


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適応者8

 現地時間の昨日夕方頃、中国北部の村に無数の怪物が現れた。

 怪物は二種類。体長五メートルほどの巨大な昆虫と、体長十メートルにもなる巨大な鳥。どちらも人類側の兵器を嘲笑うかのような ― 特に鳥の方はミサイルも戦車砲も効かないぐらいの ― 戦闘力を有していた。圧倒的な力に劣勢を悟った中国人民解放軍は核兵器の使用を決定。総量三百メガトンにも達する、大規模核攻撃を実施した。

 結果は散々なものだった。

 巨大昆虫・巨大鳥類、共に核攻撃による 損害は軽微。それどころか核兵器起爆時の震動が原因か、地下に潜んでいた巨大昆虫を呼び起こしてしまった。地上に現れた推定個体数は七万を超えているという。地下にはどれだけ残っているかは予想すら出来ていない有り様だ。

 噴出した大量の巨大昆虫は都市部に向けて進行。後を追って巨大鳥類も移動し、被害は中国全土に及んでいるという。政府機能も混乱し、一説には共産党指導部が行方不明との情報も……

「……酷い」

 書かれていたあまりの内容に、自宅リビングで朝刊を読んでいた花中は思わず独りごちる。

 危惧していた事が起きてしまった。

 怪物達の恐るべき力を知る花中は、相手の力と数次第では核兵器を用いても根絶は難しいと考えていた。軍事兵器が通じない肉体であれば、数百度の高温や家をも吹き飛ばす爆風に耐えてもなんら不思議はないからだ。

 そして相手の事をろくに知らないうちから駆除を試みれば、手痛いしっぺ返しが待っている。

 中国はその先例となってしまった。人類に出来るのは、犠牲となってしまった人々から学ぶ事だけなのだが……そんな『上から目線』の物言いに、今正に襲われている身である人々が納得するだろうか。()()()()()()起きるかも知れない最悪を避けるため大人しく犠牲になれと言われ、一体どれだけの人が受け入れるだろうか。中国より以前に怪物が現れていたフランスやインドではこの結果を受け、秘密裏に議論されていた国土内核攻撃が見送られたと新聞には書かれている。しかし世論が求めた時、政治家達は果たして最後までその決断をせずにいられるのか……

 懸念はそれだけではない。

「……ところでフィアちゃん、何してるの?」

 花中は新聞を見ていた顔を上げ、リビングと隣接している和室の方を見る。

 そこにはフィアが居た。

 普段ならだらだらとテレビを見ている時間帯なのだが……何故か今日のフィアは、腕立て伏せをしていた。それも暇潰しといった様子ではなく、かなり真剣な、本格的な『トレーニング』のように見受けられる。

「ふっふっふっ。実はちょっと鍛えているのです! 昨日出掛けた時中々の強敵に出会いましたからね……昨日は引き分けに終わりましたが次会ったら今度こそこてんぱんにしてやりますよ!」

 花中が問うと、フィアは大変楽しそうな声色で答えた。どうやら本当にトレーニングをしているらしい。

「……腕立て伏せしてるの、水で出来た、身体だよね? トレーニングになるの?」

「さぁ? でも漫画にはこーいう事をすると鍛えられるとありましたので多分なるんじゃないですか?」

 尤も『筋トレ』がどんなものか、フィアはあまりよく分かっていないようだが。思い返せばほんの一月ぐらい前、清夏の能力を鍛えようとした時にもフィアはろくな特訓方法を閃いていない。自分の鍛え方さえもトンチンカンなのは、当然といえば当然だった。

 恐らく効果がないであろうトレーニングを続けさせても……と思う花中だったが、フィアは楽しそうなのでそっとしておく。本当に効果がないかは分からないし、どうせすぐに飽きて止めるだろう、という考えもあった。

 それに、今考えるべきはフィアの筋トレの有効性ではない。もっと重大な問題がある。

 フィアは昨日、間違いなく中国に行っていた。フィア自身がそう言っていたし、そこで巨大な鳥やら虫やらと戦い、『核兵器』っぽい攻撃を受けたと ― 大変楽しそうかつ自慢げに ― 証言もしている。

 語られた内容について花中からどうこう言うつもりはないし、そもそも疑ってすらいない。フィアの力であれば大海原を渡るのは勿論、原水爆の炎を耐える事など造作もない筈だからだ。フィアが人智を嘲笑うかの如く力を持っているのだと、花中はとうに知っている。

 問題は、フィアと『互角』の……彼女にトレーニングの必要性を感じさせた生物がいたという事。

 怪物のミュータント――――それにフィアは出会ったのだ。

 おかしな事態ではない。動物のみならず植物や微生物、ウイルスさえもミュータントになっている。怪物がミュータントにならないなんて考えは、人類にとって都合の良い願望でしかない。

 しかしこれは、人類にとって最悪の事態だ。

 怪物だけでも手に負えないのに、そこにミュータントが加われば、最早人間に為す術などない。いや、手に負えないだけならまだマシだ。ミュータント化した怪物は既存の生態系を超越した存在。彼女達が暴れれば、生態系そのものが狂う事になる。

 生態系が狂えば、また新たな怪物が現れるかも知れない。その怪物にもミュータントが現れれば、更に生態系がおかしくなる。やがて怪物以外の生物だけで成り立つ生態系にも狂いが生じ、その狂いが生命に何かしらの『進化(変化)』を与えれば……

 ……まだ間に合う、今なら手はある。そんな保証は何処にもない。いや、正直に言えば、花中はもうこの世界の変化が手遅れ……手遅れ以上の最悪に足を踏み込んでいると思い始めていた。

 怪物が暴れるだけなら、文明が崩壊しても、いずれ生態系のバランスが戻り、人が文明を再び手にするチャンスもあっただろう。

 しかし怪物のミュータントが既存の生態系を破壊し、環境を激変させた時、そこに人間が生き残れる領域があるかは分からない。文明を再建させたところで、その文明は気紛れに砕かれる程度の代物。人類の生存には役立たないだろう。

 怪物のミュータントの存在は、怪物がミュータント化するという『当たり前』の事だけを意味しない。人類が己の立場を()()()野生生物の立場に回帰したとしても、それでもなお滅びが来るかも知れないという恐怖と絶望を示すものでもあるのだ。

「花中さん? どうされましたか?」

 不安に苛まれていると、フィアが声を掛けてくる。声に反応して顔を上げ、そこで自分が項垂れていた事に花中はようやく気付く。

 どうやら心配させてしまったようだ。

「あ、ううん。なんでもないよ」

「そうですか。しかしそれにしても一人でのトレーニングも飽きてきましたねぇ」

「……飽きるの、早くない?」

「だって全然強くなってる実感ありませんもん。本当にこれ効果あるんですかね?」

 効果の有無がそもそも疑わしいけど、一時間もやってないトレーニングで強くなった実感なんて出る訳ないでしょ。自分を追い込むほどの疲労もしてないし――――色んな考えが過ぎる花中。しかし敢えて口には出さない。本当にこのトレーニングに効果がないのか、花中には分からないからだ。

 止めるにしても、数ヶ月は続けて効果を見てからの方が良いだろう。

「トレーニングって、そんなもんだよ。簡単に効果が出たら、人間なんて、みんな今頃全員、ムキムキだよ? 真面目にやるなら、多分三ヶ月は続けないと、ダメじゃないかな」

「ふーむ確かにその通りかも知れませんね……しかし飽きてきたのであんまり続ける気が起きませんし……あっそうです」

 何か閃いたかのように、フィアがぽんっと手を叩く。

「花中さんも一緒にトレーニングしましょう!」

 そして名案だとばかりに、花中をトレーニングに誘ってきた。

 誘われた花中は、最初キョトンとし……それから驚きで目を見開く。

「ふぇっ!? わ、わたしも!?」

「花中さんと一緒なら私はいくらでもトレーニングを続けられる自信がありますからね! それに花中さんは所詮人間とはいえ流石に弱過ぎると思うのです。なんというかそのうち我々のケンカの余波だけで死にそうな気がします」

「うぐっ。そ、それは、否定しないけど……」

「まぁこの私と肩を並べるほど強くなるのは到底無理だと思いますがちゃんと身体を鍛えればきっと鉄砲ぐらいならなんとかなると思うんですよ。うん」

 いや、鉄砲をなんとか出来る肉体は、存在していたとしても人類の頂点部分だけだよ。それだって小口径のしょぼい拳銃でギリだよ。

 色々ツッコみたいフィアの意見に、花中の脳裏を過ぎる数々の言葉。今度の考えはちゃんと伝えようとする花中だったが、これらの言葉は口から出てこない。

「あらあら、さかなちゃんにしては良いアイディアじゃない」

 虚空から現れたミリオンの、面白がってるとしか思えない言葉が割り込んできたからだ。 

「み、ミリオンさん!?」

「おやあなたも私と同意見ですか?」

「ええ。はなちゃんの貧弱ぶりは、私としても大問題だと思っていたところよ。まぁ、銃弾を防ぐほどの筋肉が乗ると可愛さが損なわれそうだけど、そうじゃない程度の、つまり平均的な肉体は持ってほしいわよね。長生きしてもらうためにも」

「うぐ。そ、それは」

「否定から入るのが、はなちゃんの悪いところよ。今回は私も一緒にトレーニングしてみるから、一緒に鍛えてみましょ」

「……ミリオンさん、筋肉なんてないですけど、何処を鍛えるのですか?」

「んー、頭脳とかかしら? 例えば最近発売された恋愛小説で、若者の恋の作法について学ぶとか」

「一緒にやるつもり、全然ないじゃないですかーっ!?」

 つまり横で本でも読みながら、ひーひー言ってる自分を面白半分に眺めるだけのつもりらしい。

 ミリオンの考えを読む花中であったが、ミリオンは悪びれる様子もない。いや、花中に自分の思惑がバレたところで、気にもしないだろう。

「ふんお前なんかいらんのですよ。しっしっ」

 恐らくミリオンの真意は、花中と一緒に()()()()フィアを焚き付ける事なのだから。

「あら、そんな連れない事言わないでよ。みんなで鍛えれば、相乗効果で一気にモリモリマッチョウーマンよ。なんの相乗効果かは知らないけど」

「お断りです! 花中さんこんな奴ほっといて私と二人きりでトレーニングしましょうねっ!」

「え。え、あ」

 煽るミリオンに乗せられ、フィアは花中の手を掴んで引っ張る。取り合うつもりならここで花中のもう片方の手を掴めば良いのだが……ミリオンは片手を左右に振りながら、もう片方の手で口許を隠している。

 この人、絶対ニヤニヤしてる!

 自身の計略が成功して浮かべているであろうにやけ面。しかしそれを指摘する暇は、残念ながら今の花中にはない。

「さぁ花中さん行きましょう! 腕立て伏せにも飽きましたから次はランニングです! とりあえず九州の端辺りまで軽く走ってみましょうか!」

 人智を凌駕するパワーで引っ張りながら、玄関まで己を連れていく『怪物』がいるのだから。

「な、なに、何が軽、ああああああアアアアアアアァァァッ!?」

 花中は止めようとしたが、フィアは聞く耳持たず。

 町にか弱い少女の悲鳴が鳴り響く。しかし人間にとって地獄のトレーニングが終わる事はない。フィアが飽きるまで続くだろうが、恐ろしい事に彼女は花中(自分)と一緒ならそれだけで楽しくなるタイプ。何時飽きてくれるか分かったもんじゃない。

 今から出来るのは、この身がフィアの鍛錬の余波に耐えられますようにと居るかどうかも分からぬ神に祈る事だけ。

 少しは鍛えておくべきだったと、これからトレーニングに向かう花中は過去の行いを悔いるのであった。




人類ほったらかしの戦いは終わりましたが、
世界は未だ変わらず。

次回は今日中です。


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幕間十三ノ十四

 木々の葉が赤味や黄色味を増していき、景色が日々移り変わる豊かな山の中腹にて、一匹の獣が居た。

 獣は鼻で落ち葉を押し退けながら、地面に転がっている木の実を一粒ずつ口に運んでいく。大きな虫を見付ければそれも食べ、運良くイモの類を見付けたなら迷わず貪り食う。

 獣にとってこれらの行いは普段通りの食事であり、しかしながら秋も半ばを過ぎた今となっては、必死にならねばならない活動だった。間もなく冬が訪れる。冬の山には食べ物が乏しい。今のうちに十分な脂肪を蓄えねば飢えで死ぬ……獣の頭にある小さな脳ではこんな難しい事など分からないが、しかし幾億の月日を掛けて育まれた本能が獣の肉体を突き動かしていた。

 そうして一日中ずっと食事を楽しんだ獣は、間もなく日が沈もうとしている事に気付く。そろそろ眠る時間だ。今日はたくさんの餌を見付けられたので、腹は十分に膨れている。恐ろしい暗闇の中を歩き回る必要はない。

 生物としての一仕事を終えた獣は、慣れ親しんだ寝床に戻ろうとした。餌の匂いにつられて少々険しい坂に来てしまったが、蹄がある四本の足で踏み締めればどうという事はない。上機嫌な歩みで獣は坂を登ろうとした

 刹那、パアンッ! と派手な音が鳴った。

 なんの音だ? 獣は疑問を抱いた――――が、その疑問は一瞬にして消える。いや、疑問だけではない。意識や幸福感さえも、一気に遠退いていく。

 獣は知らない。自分から数十メートルは離れた場所に、一人の人間が潜んでいた事など。その人間の手には文明の利器である猟銃が握られ、今頃硝煙の臭いを周りに漂わせている事も。

 そして猟銃から放たれた弾丸が、自らの脳天を直撃した事さえも。

 獣から意識は消え、力の入らなくなった身体は倒れる。人が幾万年と掛けて築き上げた文明は、野生の命をあっさりと奪い去った。生気を失った獣の身体は、今し方登ろうとしていた坂道をごろごろと転がり落ちていく。

 ……何処までも落ちていく。止まる気配はない、いや、むしろ加速している。

 獣を撃ち抜いた猟師は、大いに慌てた事だろう。折角の獲物が、どんどん自分から遠離っていくのだから。

 おまけに獣の身体が転がる先には、水飛沫が上がるほど激しく流れている川がある始末。

 猟師は茂みから跳び出し獣の後を追う、が、追い付ける筈もない。加速していく獣の身体に対し、猟師は自分までもが転がる訳にはいかず、おどおどとした歩みにならざるを得ないのだから。

 やがて獣の身体は、行く手にあった岩に当たって……止まる事なく跳ねた。軽やかに飛んでいった獣は、猟師の目の前で川に落ちてしまう。川は幅五メートル近い大きさがあり、水は激しく流れている。獣はあっという間に下流へと流されていった。こうなると最早どうしようもない。山に立つ猟師は、物悲しそうに下流を眺めていた。

 そして獣の身体は、延々と流される。

 底に沈み、空気のない中に浸り続けた。何時間、否、丸一日と流され、獣の身体はやがて下流域の中州に辿り着く。凍えるような風が吹き、水遊びをする人間の姿なんて何処にもない川に打ち上がった獣は、更に一日半ほどその場に置かれた。

 気温が低くなったこの時期では、ハエもシデムシも冬越しの仕度中。獣の身体は寒冷な大気の中でゆっくりと渇き、長らく残り続けるだろう。とはいえそれも暖かくなるまでの話。春の生温い雨が降れば、細菌と虫達が直ちに群がり、その身を自然の流れへと還すだろう。

 そう。これはこの時期だからこそ起きた、ちょっとした順番待ちに過ぎない――――

 筈だった。

 ……………

 ………

 …

 月明かりが照らす、三日目の真夜中。

 安らかな星の光を浴びていた獣の目が、開いた。

 濁りきった瞳が、激しく動く。今まで微動だにしていなかった全身が痙攣するように震え、のたうち、口からは腐臭を放つ赤黒い液体が溢れ出る。それからゆっくりと獣の伸びきっていた四肢を曲げ、大地を踏み締めながら伸ばし、立ち上がった。最初はゆらゆらと揺れる身体だったが、さながら蛹から羽化した蝶の羽が少しずつ固まるように段々と力強く大地を踏み締め、五分もすれば山の如く不動に至る。

 未だ穴が開いたままの脳天から、どろどろとしたスープ状の何かが溢れ、やがて止まった。三日間倒れていた獣は濁った眼差しで辺りを見渡すと、静かに口を開く。

【ゴオオオオボボオオオオボオオオオオオオオオオオオオオオオッ!】

 轟かせるは、地獄の釜が沸き立つかのような、身の毛もよだつ怪音。生者の息吹とは程遠い、亡者の呻き声。

 獣は、ゆらゆらと歩き出す。

 煌々と輝く都市の明かりに惹かれるかのように。半開きとなった口から、だらだらと涎を垂らしながら……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十四章 輪廻拒絶

 

 

 

 

 




はい、という訳で次回は日本に戻ります。
そしてまたヤバい輩が出現。
まぁ、ヤバい輩じゃないとお話にならないし(オイ

次回は5/25(土)投稿予定です。


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第十四章 輪廻拒絶
輪廻拒絶1


「今からちょっとばかし『あるぜんちん』の方へ旅に行こうと思います」

 唐突に友達がこんな事を言い出したなら、普通は困惑しつつも何故と理由を訊くべきだろう。アルゼンチンとは海外であり、「今からちょっとばかし」で行けるような場所ではないのだから。

 しかしながらこれを言い出した友達――――フィアが普通でない事を知っている小田加奈子は、特段驚きもなく「ふーん」と一言呟くだけだった。隣に立つ立花晴海も同じ反応をしている。

 十一月に入り、かなり肌寒さを感じるようになってきた今日この頃。今日行う全ての授業が終わり、生徒達が帰り支度を始める中、部外者であるフィアはやってきた。理由はきっと、一番の友達である大桐花中と話すためであろうと加奈子は考える。実際フィアの視線は自分達の方を向いておらず、花中だけを見ていた。

 尤も、フィアについて詳しいであろう花中も目をパチクリさせており、まるで事情を把握していない様子。いそいそと勉強道具を通学鞄にしまいながら、こてんと首を傾げる。まるで人形のように整った顔立ちでそんな愛くるしい仕草をされたら、大抵の人は胸がキュンキュンしてしまうだろう。後は目付きが良ければ男の子にモテモテだろうになぁー、などと加奈子はひっそり思った。

「……それは、良いけど、なんで?」

「実はですね暇潰しに立ち寄った図書室にこのような新聞記事がありまして」

 花中が尋ねると、フィアは自分の胸部にずぶりと手を突き刺す。しばらくして胸から引き抜かれた手には一束の新聞紙が握られていた。

 なんともホラーチックな行動だが、フィアの正体と能力を知っている加奈子達には見慣れた光景である。むしろ貸出カードなんて作っていない、というより作れない筈のフィアが、どうやって図書室の新聞を持ってきたのかの方が加奈子としては疑問だ……花中の青くなった顔が大体事実を物語ってくれたので、尋ねる必要は感じなかったが。

 なんにせよフィアは新聞を提示し、花中がそれを受け取った。新聞は丸めた状態でとある記事が表向きになっており、花中はそこに目を向ける。加奈子も晴海と共に新聞を覗き込み、記事を心の中で読み上げた。

 曰く、アルゼンチンにて巨大な『イモムシ』が出現したとの事。

 見た目はチョウやガの幼虫に酷似しているが、イモムシの体長は十五メートルを超えている。動きも機敏で、自動車並のスピードで都市部を蹂躙しながら激走。アルゼンチン軍が攻撃を行い多少のダメージは与えたものの、イモムシは一匹ではなく数十匹も存在し、手に負えない状態だという。犠牲者の数も数百人を超え、アルゼンチンでは非常事態宣言も出されたらしい。

 ……と、ここまで読んだ加奈子は思った。「()()()()()()()()()()()」、と。フィアが何を気にしているのか、よく分からない。

 しかし一年以上一緒に暮らしている花中は、すぐに察したらしい。

「えと、このイモムシを、食べたいの?」

「はいっ!」

 花中の予想に対し、フィアはにこやかに笑いながら頷いた。

 ああ、そういえばこの子の正体って魚だったなぁ……加奈子が納得していると、フィアは片手を上げ、爽やかな身のこなしで花中に背を向ける。

「では私はそろそろ行ってきますね! 早くしないと人間に先を越されてしまうかも知れませんから!」

 そして明るい言葉を残して、颯爽と駆け出した。

「あ、うん。そうかもね……頑張ってねー」

「はいっ! お土産期待しててくださいね!」

 花中が小さな声で適当な応援を送ると、フィアは元気よく返事をしながら満面の笑みを向けてくる。足取りは一層軽やかになり、あっという間に教室から出て行ってしまう。

 やがて外から爆音と悲鳴、そして校舎全体の震えが届き、フィアが旅立った事を加奈子達に教えてくれた。どんな旅立ちの仕方をしたかは、加奈子にもなんとなく想像が付く。花中はガックリと項垂れたが、こんなの何時もの事だからそんな気にしなくて良いのに、と加奈子は思った。

 加えてこんな些末事よりも、加奈子には気になる点が一つある。

「……ところでアルゼンチンって何処にあんの?」

「南米よ。日本からだと、えーっと……ざっと一万八千キロ離れた国みたいね」

 疑問を口にすると、晴海がスマホ片手にすぐ教えてくれた。一万八千キロ。遠過ぎていまいちピンと来ないが、とんでもない距離なのは理解する。

 だとするとフィアは何日も海を旅するつもりなのだろうか?

「大桐さん。フィアの奴、どれぐらいで帰ってくると思う?」

「え? 多分、今日の夜中か、明日の朝には、戻ってると思います、よ」

 恐らく同じ疑問を抱いたのであろう晴海が訊いたところ、花中から返ってきたのは予想外にとんでもない答えだった。一万八千キロ……いや、往復するのだから三万六千キロか。地球一周である約四万キロに匹敵する距離を、イモムシ狩りという目的のためだけに走破し、半日と掛からず帰ってくるとは。どうやらフィアにとって、地球という星は狭い庭らしい。

 凄いパワーがある事は加奈子も知っているが、具体的な例を出されて少し驚く。そういえば少し前に、かなりパワーアップ出来たとフィアちゃん自身が言っていたなぁ……と過去の話を思い出す。こんなトンデモな力があるのなら、イモムシの怪物など簡単に倒してしまうだろう。

 何時もネズミみたいにビクビクしている花中が友達が危険地帯に向かうと聞いても、どうりで平然としている訳だと加奈子は納得した。

「あっ! そ、そうだ! わ、わたし、今日は急いで、帰らないと、いけないのでした!」

 なお、友達が怪物と戦うと知っても平然としていた顔は、用事に遅れそうだと気付いただけで真っ青になった。

「あ、そうなの? ごめんね、引き留めちゃって」

「い、いえ! わたしが、勝手に居続けた、だけですので……あ、そ、そうだ、新聞……」

「あー、これぐらいあたしらで片付けておくから」

 フィアが持ってきてしまった新聞をチラチラ見ていた花中に、晴海が後を引き継ぐと申し出る。最初花中は遠慮がちに目を伏せていたが、実際時間があまりないのだろう。

「……お、お願いします」

「任された」

 ぺこりと頭を下げ、素直に晴海に後を任せた。

「で、では、失礼します!」

「はい、また明日」

「ばいばーい」

 慌ただしくこの場を後にする花中に晴海は手を振り、加奈子も別れの挨拶を送る。律儀にこちらに振り返り、もう一度頭を下げようとして転びそうになる花中だったが、ふと現れた黒い霧に支えられて難を逃れた。

 花中の『もう一人』の友達だ。彼女が現れなければ何もない場所で転んでいたのだから、やはり花中は鈍臭い。そこが子供っぽくて可愛いと感じている加奈子はにっこりと微笑み、晴海も同意するように優しい笑みを浮かべた。

「……さてと。この新聞を返しに行くとしましょうか」

 それから新聞を手に取り、極めて良識的な意見を述べる晴海。

 先程まで晴海と同じ表情を浮かべていた加奈子は、ここで眉を顰めた。

「えぇー、面倒くない? 図書室三階だから、階段登らなきゃいけないじゃん」

「どんだけ物臭なのよ。あと日替わりで入るとはいえ学校の備品なんだから、ちゃんと返さないと駄目でしょ」

「そーだけどさぁー」

「というか、アンタちょっとは新聞読むようになったの? 高校生なんだから、そろそろ社会勉強が必要じゃない?」

「あー……」

 丸めた新聞紙でびしりと指しながら尋ねてくる晴海。加奈子は思いっきり言い淀み……逸らした視線が事実を物語る。

 加奈子とて、新聞は読んだ方が良いと思っている。

 怪物が現れたのはアルゼンチンだけではない。オーストラリアでは巨大な怪鳥が農村を襲撃して数十人が死傷。モーリシャスでは高確率でアナフィラキシーショックを起こす花粉を撒き散らす植物が大量発生し、首都機能が停止したという。韓国では巨大類人猿が工業団地を破壊し、カナダ近海ではクジラの怪物が漁船を幾つも沈めているらしい。

 次々と現れる怪物達……テレビの自称専門家も訳が分からないと語るこの事態だが、花中曰く昨年末に起きた異星生命体事変 ― なんかでっかい宇宙生物が暴れ回ったとかなんとか、程度の知識しか加奈子にはない ― の影響らしい。そいつが暴れ回った事により多くの地域で地殻変動が起き、その地殻変動による生態系の乱れが日を追う毎に表面化しているのではないかとの話だ。

 ゲームや小説、漫画だと、自然のバランスが崩れると大変な事が起きている。テレビの真面目な番組でもそういう事が起きると言っていた。そして怪物の出現により、更に自然のバランスが崩れると。

 これからの世界は今までよりも激しく、急激に変化するだろう。時代を理解するためにも、新聞やニュースなどで常に新たな情報を得る努力が必要だ。それは加奈子にも分かる。

 分かるのだが……加奈子は不安なのだ。

 別段加奈子は花中のような怖がりではない。最初は本物の怪獣だぁーと暢気にはしゃいだものだ。しかし死者が出て、怪物達の出現が止まらず、色々と世界がおかしくなり始めると……流石に、ちょっと怖くなる。

 なので親が点けているテレビや新聞の一面を見るぐらいはするが、好んで情報を集めようとはしていなかった。加奈子としてはちゃんとした理由のつもりだが、晴海にこれを知られたら、くどくどお説教されるような気がする。

「と、ところで晴ちゃん! そろそろバイトの時間じゃない? 行かないと遅刻になるんじゃないかなぁー」

 なので露骨に加奈子は話を逸らす。

 晴海は眉を顰めたが、しかし手にしたスマホをちらりと見て、肩を落とした。

「……まぁ、良いわ。確かにそろそろバイトに行かないとね」

「バイトはどうなの? 楽しい?」

「んー、まぁ、そこそこ。レンタル店だから毎週色んな新作映画のレンタルが確認出来るし、旧作なら従業員特権でただで借りられるしね」

「あー、良いねぇ。今度良さそうな映画あったら教えてよ」

「ええ、良いわよ。売上に貢献してくれるなら何時でも歓迎するから」

 荷物を通学鞄にしまう晴海との会話を、加奈子はのんびりと楽しむ。やがて晴海は一通りの身支度を終えると、ぽんっと新聞紙を加奈子の前に置いた。

「それ図書室に返しといて。あたしは忙しいから」

「うへぇ、薮蛇だったか……また明日ねー」

「うん、また明日」

 互いに手を振り合い、加奈子は教室を出て行く晴海を見送る。

 友人の姿が見えなくなると、加奈子は小さく息を吐き、少しだけ全身から力を抜いた。

 最近晴海はバイトを始めた。なんでも家計を助けるためにとの事だ。

 怪物達による被害は世界中に及び、様々な物資が不足している。日本にも昨今その影響が及び、色々なものの値段が上がっている。本やゲームなどの娯楽品であれば我慢すれば済む話なのだが……食料品や医薬品の高騰はそれこそ命に関わる問題だ。

 加奈子の家では、今のところ生活に大きな変化は起きていない。しかし晴海の家はちょっと()()()()状態のようだ。晴海がバイトをして、お小遣いとお昼代を自前にしただけでなんとかなる程度だったようだが……今後世界が良くなる兆しはない。

 果たして何時まで晴海は働けば良いのか。いや、そもそもレンタルDVDという娯楽を楽しむ人が何時まで居てくれるのか……

「こーいうのは楽しくないなぁ」

 加奈子は唇を尖らせながら、ぼそりと独りごちる。

 加奈子は楽しい事が大好きで、楽しくない事は好きじゃない。みんながゲラゲラ笑うのが楽しくて、しょんぼり項垂れるのを見ても笑えない。どうにも世の中がどんより暗くて、自分の気持ちまで暗くなってくる。

 加奈子は顔を横に振った。こんな暗い考えを払拭するためにも、楽しい事をせねばなるまい。

 さて、どんな事をしようか――――考えれば、加奈子はすぐに一つの案を閃く。というより考えるまでもない。何故今の世間はどんより薄暗いのか? それは生活が苦しいからだ。生活が苦しいとはつまり食うに困るという事である。

 ならばそれを一時的にでも解決すれば良い。

 そう、例えばたくさんの料理に囲まれたパーティーを催すとかの方法で。

「……良し。いっちょ一肌脱ぐかね」

 力強く立ち上がり、加奈子は決意する。

 それは大した決意ではないし、これからの生活を変えるようなものではない。加奈子自身これがちっぽけな自己満足、いや、それ以下の現実逃避であると分かっている。

 しかし小田加奈子という少女は、何処までも自分本位にして楽天家。未来の事なんて考えても仕方ないと割りきり、今この瞬間に楽しむ事を至高とする。

「行動開始だぁ!」

 教室の中で元気よく、加奈子は声を上げる。教室に残っていたクラスメイト達はびくりと身体を震わせ、誰もが一斉に加奈子の方を見た。

 しかし加奈子が賑やかなのは今に始まった事でもない。誰もがなんだアイツかとばかりに納得し、向けた視線を元に戻す。

 唯一変化があるとすれば、ほんのりと笑顔の数が増えた程度。

 人目を気にしていない加奈子がその事に気付く筈もなく、彼女は意気揚々と教室から出るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに図書館の新聞紙は既に加奈子の頭から忘れ去られ、晴海の机の上に置きっ放しになっていた。

 これが加奈子に自業自得な災難をもたらすのだが、今日の出来事には関係ないので割愛とする。




今回はなんと! 加奈子が主役です。
晴海と加奈子だと、お馬鹿な分だけ加奈子の方が動かしやすくて良い。

次回は明日投稿予定です。


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輪廻拒絶2

 食べ物を得るにはどうすれば良いか?

 お金を払い、商品を買う――――現代の日本ではこれが最も基本的な方法だ。極めて簡単で、お金さえあれば子供でも可能。勿論加奈子にも出来る。

 しかし「みんなお金に困って暗い顔してるから今日は私の奢りだ! 思う存分飯を食えいっ!」と言ったところで、純度百パーセントの笑顔を浮かべてくれる者は少ないだろう。特に晴海は自立心も高いので、尚更惨めな気持ちにさせてしまうに違いない。友達の笑顔が見たいのに、友達の笑顔を曇らせてどうする。

 よってこの案は却下だ。これ以外の、同情心なんて感じさせない方法で、パーティーの食材を集めねばならない。

 では、自分で育てた野菜を用いるのはどうか。これなら同情心をあまり感じさせないし、たくさん採れたから云々という理由を付けられるので、いきなり料理を振る舞っても不自然ではない。成程これは妙案である……育つのに時間が掛かる事を無視すれば。野菜がどれぐらいの時間で収穫出来るかネットで調べてみれば、どうやら早いものでも一~二ヶ月は掛かるらしい。割と我慢の利かない加奈子にはそこまで待てないし、時間が経つと……育てた野菜を自分の家で消費する事になる予感がした。

 大体にして加奈子は野菜を育てた事がない。おまけにずぼらな性格である事も自覚している。小学生時代、アサガオすら枯らした自分に美味しい野菜を作れる気はしなかった。この手も使えないだろう。

 ならば残す手段は一つ。野生の生き物を自分の手で採る事だ。

 とはいえ加奈子にシカやイノシシなどの野生動物を捕まえられるような技術はなく、山菜やキノコを見分けられるほどの知識もない。狙うのはもっと簡単で、専門的な知識もいらない獲物。

 魚である。

「よっしゃーい! 今日は良い釣り日和だぁーっ!」

 加奈子の元気な掛け声が、秋晴れの陽が降り注ぐ野外に響いた。

 加奈子が訪れたのは、地元地域の中心を流れる川。ホタルが暮らす事で有名な蛍川も流れ込む本流だ。何本もの支流が集まって出来た流れだけにとても大きく、川の音色が耳をくすぐる。大きな岩が幾つも転がり、流れの緩急や向きに多様性を持たせていた。

 この川の名前は泥落川(でらがわ)という。多彩な環境に加え、流れ込む養分の多さもあり、多種多様な魚種が生息していた。無論コイやフナなどの普通種も多数棲み着いている。そしてそれら魚達は、美味しいかどうかは別にして、食べる事が出来るものだ。

 加奈子は此処で釣り上げた魚で、パーティーを開こうと考えたのだ。釣り上げた魚を食べてもらうのであれば、食べる側が同情されていると感じる事もないだろう。バーベキューのような形にすれば尚良い。普通に食べるにはちょっと味が良くなかったとしても、バーベキューにすれば何故か美味しくなるもの。これでもやっぱり不味かったとしても、みんなでぎゃーぎゃー文句を言い合うのは、それはそれで楽しそうだ。

 しかしながら加奈子には、実のところ釣り経験があまりない。道具一式は持っているのだが、これは昔父から譲り受けたものであり、気が向いた時にちょろっとやる程度。そのため狩猟や山菜採りに比べればマシだが、ベテランと呼べるような技術や知識がある訳ではない。

 ぶっちゃけ、今日何を釣りたいかさえもあまり考えていなかった。持ってきた釣り道具も適当である。

「さぁーて、今日は居るかなぁ……おっ! 居た!」

 なので加奈子は助っ人を求めており、幸運にもその助っ人はすぐに見付ける事が出来た。

 川岸で、クーラーボックスを椅子代わりにしている一人の男性が居る。彼は帽子を被り、皺だらけの強面にぼんやりとした表情を浮かべながら川を眺めていた。口に咥えているタバコからほわほわと白い煙を漂わせ、二~三メートルほどある釣り竿を握っている。

 加奈子はその男性の傍に、とことこと駆け寄った。川岸には小石が敷き詰められたように転がり、加奈子が一歩踏み出す度にじゃらじゃらと音を鳴らす。耳は遠くないようで、男性は声を掛ける前に加奈子の方をちらりと見た。

「おう、嬢ちゃん。川をバタバタ走るなって前にも言っただろう。魚が逃げる」

 そしてしわがれた声で、加奈子の行動を戒める。

 小さな子供ならこれだけで目に涙を浮かべそうな、威圧的な声色と言葉。されど加奈子は全く怯まず、けらけらと笑うばかりだった。

「やっほー、おっちゃん。女子高生が来てやったぞーい」

「来いと言った事は一度もねぇだろうが。それと女子高生なんて小便臭いガキに興味はねぇ」

「えぇー? 女の子が一番可愛い時だよー? お孫さんも可愛いっしょ?」

「うちの孫はまだ小学生だし、そもそも男だ。少しは考えてから物を言え」

 あしらわれながらも、加奈子は男から離れようとはしない。むしろ近付き、すとんとすぐ隣の地面に座る。

 男の名は田沼(たぬま)という。

 加奈子とは親戚でもなければ、両親の友人という訳でもない。小さい頃この川で遊んでいた時に知り合い、以来時々顔を合わせるようになった赤の他人である。友人と言えるほどの関係ではないが、それなりに親しい間柄だ……と加奈子は思っていた。

 そして釣りについて色々教えてくれた師匠でもある。師匠と言っても、精々数回教わった程度だが。

「おっちゃん、今日は釣り教えてよ」

「今からか? 何を釣りたい」

「美味しくてたくさん釣れるやつ!」

「……なんだ? お前の家、生活が苦しいのか?」

 田沼が訝しむように尋ねてきたため、加奈子は一瞬どきりときた。自分の事ではないとはいえ、まさか動機を当てられるとは思わず、加奈子は思わず息を飲んでしまう。

「……うちはそうじゃないけど、友達がそんな感じ」

 ゆっくりと開いた口からは、誤魔化しのない本当の言葉が出ていた。

「そうか」

「なんで分かったの?」

「そりゃ、お前の友達みたいな奴なんか今時珍しくもないからだよ」

 加奈子が訊くと、田沼はあちらを見ろとばかりに向こう岸を指差す。

 見れば、そこには釣りをしている男が一人居た。そこそこ大柄な体躯をした若い男で、イライラしているのか川岸をゆらゆらと歩いている。どうやらルアーでの釣りをしているようだが、動きが荒く、早々と糸を巻き上げていた。

 魚は陸地の震動に敏感だ。川岸を歩き回ると、その震動に驚いて餌を食わなくなる。ルアーの動かし方にも技術があり、適当にやって良いものではない。魚にも色々な性格や体調があるので、一概には言えないが……加奈子の印象では、あの釣り人が今日のうちに釣果を上げる事はないだろうと思えた。

「あの男も恐らくお前と同じ事を考えて、此処に来たんだろう。魚を釣れば家族を喜ばせられる、とな。或いは仕事をクビになって、少しでも食費を浮かそうとしているのかも知れない。あの若さで昼から釣りをして、なのに全く楽しそうでない辺り、後者の方が可能性は高そうか」

「あー、そうかもねー。なんか如何にも釣り初心者って感じだし」

「今じゃ川のあちこちでそんな奴等が釣りをしている。下手くそ共が騒ぐ所為で魚が逃げちまって、こっちはなーんも釣れやしねぇ」

 悪態と共に鼻を鳴らしながら、田沼は顔を顰める。加奈子が辺りを見渡してみると、確かに普段の……数ヶ月前とは比べものにならないぐらい大勢の釣り人の姿があった。

 不機嫌そうな田沼であるが、そこそこ長い付き合いである加奈子は彼の気持ちを察する。田沼は一見して偏屈で頑固そうな老人だが、なんやかんや世話焼きで困っている人を放っておけない性格なのだ。食うに困っている若者を見て、内心酷く傷付いているに違いない。

「……ま、何も釣れなくて暇だからな。片手間で良けりゃ教えてやるよ」

 そんな彼が()()()()()加奈子を、突き放すような真似をする筈がなかった。

「流石おっちゃん話が分かる! ありがとー!」

「ふん。この状況で一匹でも釣れれば良いがな。とりあえず道具を見せろ。釣れそうな奴を教えてやる」

「うん! こんな感じだよ!」

 加奈子は田沼に釣り道具を渡し、田沼は真剣な眼差しでチェック。一通り道具を確認すると、彼は考え込むように顎を摩る。

「……バスかブルーギルだな」

 やがてぽつりと、魚の名前を呟く。

 しかし加奈子は最初、田沼の口から出たその魚達が『目標』だとは思えなかった。

「えー? ブラックバスとかブルーギルって食べられるの? ネットとかじゃ臭いって聞くけど」

「ちゃんと下処理をすればまぁまぁ美味いぞ。それについても教えてやるよ。まぁ、一匹でも釣れたらの話だがな」

「へぇー、食べられるんだ……」

 田沼からの情報に、加奈子は少し考える。

 ブラックバスやブルーギルを日常的に食べている人は少ないだろう。恐らく晴海も、一度も食べた事がない者の一人の筈。ゲテモノの一種ぐらいに感じて、パーティーを開いてもあまり感謝だとか負い目だとかを覚えないかも知れない。恩義やらなんやらを面倒臭く感じる加奈子にとって、それは実に都合の良い話だ。

 おまけにブラックバスやブルーギルは外来種。どんどん食べて数を減らした方が良い生き物だ。ウナギなどの絶滅が危惧される種と違い、心置きなく釣りが出来るというものである。

「おしっ! 頑張って釣りまくるぞー!」

 加奈子は威勢の良い掛け声を上げながら立ち上がり、はしゃぐようにジャンプした――――直後、頭からゲンコツが落ちてきた。目から星が出るほどの威力。加奈子はぐわんぐわんと身体を前後に揺らす。

「頑張るのは良いが静かにしろ。魚が逃げる」

 そんな加奈子を窘めるように、ゲンコツを喰らわせた田沼はお叱りの言葉を告げるのだった。

 ……………

 ………

 …

 ブラックバスは獰猛な肉食魚である。

 小魚や小型甲殻類、水に落ちた昆虫やカエルなどなんでも食べてしまう。この貪欲な食欲があるため危険な外来種とされる訳で、故にルアー釣りの対象となるのだが……貪欲であるからといって、簡単に釣れるものでもない。

 というのも彼等はとても賢い魚でもあり、一度釣られるとその経験をよく覚えているからだ。こうした魚は『スレた』個体と呼ばれ、人が投げ入れた餌やルアーに中々食い付かない。

 泥落川は餌の豊富さからか大きなブラックバスが多数生息しており、その大物を狙いにバス釣りに来る人が多いという。そしてバス釣りはキャッチ&リリースが基本。大物は、何度も釣られた経験がある(つわもの)でもある。

 彼等を釣り上げるのは、ベテランのバス釣りでも至難の業というものだ。

「よっしゃあっ! ヒットじゃあ!」

 その至難の業を、加奈子は見事成し遂げていたが。

 川岸まで引き寄せ、網で掬い上げたブラックバスは大きさ四十センチ以上という中々の大物。ビチビチと跳ね、活きの良さを物語る。

 加奈子は慣れた手付きでブラックバスの口からルアーを外し、釣り上げた魚を持ってきたクーラーの中へと入れた。

 クーラーの中には既に六匹の先客が居り、七匹目が窮屈そうに暴れると、他の六匹も暴れ出す。どのブラックバスも同じぐらいの大きさで、大変立派な型をしている。

 これが加奈子が()()()()()で釣り上げたブラックバス達だ。

「おっちゃん、あと何匹ぐらい釣ったら良いかなぁ?」

 元気な釣果の姿に満足げな笑みを浮かべ、加奈子は田沼に尋ねる。

 田沼は口許を引き攣らせながら、呆れたようなため息を吐いた。

「……毎度思うんだが、お前、なんでそんなに釣りが上手いんだ?」

「え? そうかなぁ。このぐらい普通じゃない?」

「念のために訊くが、どうやって魚の居場所を把握している?」

「勘。あと結構姿が見えるから、その近くに投げ込んでるだけだよー」

「……天賦の才ってやつかねぇ」

 加奈子の正直な答えに、田沼は片手で顔を押さえながら項垂れる。その行動の意図を掴めない加奈子だったが、田沼は顔を上げた後も説明しなかった。

「まぁ、良い。食べる分とお土産用、それと調理の練習用……ド下手くそなら兎も角、なんやかんやお前は器用だからな。これだけあれば十分だろう」

「分かったー。じゃあ、家に持ち帰って……」

「いや、その前に血抜きをした方が良い。あとブラックバスは特定外来生物だから、生きたまま持ち運んじゃいかん。ここで下処理をする。ナイフは持ってきているか?」

「ううん、持ってない」

「じゃあ、俺のを貸してやる。やり方は分かるか?」

「海釣りでアジにはやった事があるよ」

「そうか。大型魚は小さいのとはまた少し違う。教えてやろう」

 田沼は懐から刃渡り五センチほどのナイフを取り出し、加奈子に渡してくる。

 加奈子はナイフを受け取り、一匹のバスをクーラーから取り出す。

「血抜きの前に、まずは締める。エラの付け根辺り、そう此処からナイフを勢い良く刺せ。脊髄を切り落として即死させる」

「んっと、こんな感じ?」

「そうだ。それから尾の方に切れ目を入れるんだ。後は水に浸けると血が抜けていく」

 田沼に教わりながら、加奈子はバスの血抜きを進めていく。過去に何度か釣りをしてきた加奈子にとって、自分の手で魚を締める経験は初めてではない。バスのような大物は未体験でもやり方の基本は変わらない……躊躇わず、一気にやる。これが一番魚を苦しめない。

 サクサクと魚を締めていき、血を抜き、加奈子は七匹のバスの下処理を終えた。

「良し、これで前処理は一つ終えた」

「まだなんかやるの?」

「ああ。といってもそれは料理の時で構わん。バスの臭みは皮と腹の脂が原因だ。だから料理の時はそれを取り除け。やり方は親に訊くなり、ネットを見るなりすれば良い」

「皮と、お腹の脂ね。分かった」

 にっこりと微笑みながら、加奈子はバスの血で染まったクーラー内の水を捨てる。川の水が一瞬赤く染まり、しかしすぐに薄れていった。

 その作業中、加奈子はふと気付く。

 わーわーと、悲鳴のような声が遠くから聞こえてくる事に。

「……おっちゃん。なんか、声が聞こえない?」

「そうか? 気の所為じゃないか?」

「んー……おっちゃん耳は遠くないけど、もう歳だから甲高い音が聞こえないしなぁー」

「おい。そーいう事は本人の前で言うんじゃねぇ。ちょっと気にしてるんだから傷付くぞ」

 田沼の抗議を聞き流しながら、加奈子は声の方角を探る。

 声は下流の方から聞こえてきていた。

 加奈子が下流に目を向けてみると、自分達の方へと走ってくる二人組が見えた。一方は大柄で筋肉質な男で、もう一方は細身で派手な格好の女。どちらも若者で、年頃は二十代ぐらいだろうか。

 そんな彼等はバラバラの事を叫んでいるらしい。意識をどれだけ集中しても、加奈子には彼等の言葉が上手く聞き取れなかった。

 分かったのは、近付いてくる彼等の顔が恐慌状態である事ぐらい。

 さしもの加奈子もこれには恐怖心を覚えた。花中のような男性や初対面の人への恐怖心などないが、錯乱した大人が一人以上走ってきたら、か弱い女子高生なら誰だって怖くなるというものだ。

「……お前は後ろに隠れてな」

 田沼はしっかりとした声色で、加奈子を後ろに退かせようとする。

「う、うん。分かった。おっちゃん、無理しないでね?」

「安心しろ。混乱しているみたいだが、狂ってる訳じゃなさそうだからな。話ぐらいは出来るだろうさ」

 後ろに隠れた加奈子の頭を一撫でし、田沼は迫り来る二人組の前で仁王立ち。その身は後退りどころか震えもせず、堂々と道を塞ぐ。

 やがて若い二人組は加奈子達のすぐ近くまでやってきて、

「た、助けてくれぇ!」

「お願い! 稲穂と玲が!」

 悲痛な叫びを上げながら、助けを求めてきた。

「おう、助けてほしいのは分かった。まずは止まれ。それから落ち着け」

「い、い、いの、い、い……!」

「だから落ち着け。なんだ、息も絶え絶えじゃないか。ほら、水を飲んで少し落ち着くんだ」

 田沼が近くの地面に置いていたペットボトルを差し出すと、受け取った男はがぶがぶと飲み干す。田沼の持っている水は一本だけで、余程混乱していたのか、その一本を男は一人で飲み干してしまった。若い女の方が恨めしそうな眼差しで、受け取った男を睨み付ける。

 水の冷たさと相方の視線で我に返ったのか。水を飲んだ男はハッとすると、バツの悪そうな顔をした。そして自分が説明責任を負ったと気付いたように、やや躊躇い気味な口調で話し始める。

「す、すみません……少し、気が動転して、いました」

「謝る事はねぇさ。で? どうしたんだ?」

「じ、実は、自分達の友達が」

「稲穂と玲が大変なの! 助けて! 早く警察呼んで!」

 男は丁寧な口振りで状況を説明しようとしたが、そこに女のヒステリーな叫びが割り込んできた。

「美香、落ち着け。いきなり話してもこちらの人達には」

「良いから警察、救急車も呼んでよ! ねぇ! 早く!」

 男に宥められる女 ― 美香、というらしい ― だったが、ヒステリーは治まる気配がない。むしろ触れば触るほど、雰囲気の鋭さは増していった。

 田沼も、混乱した女性の相手は難しいのだろう。顔を顰め、どうしたものかと困り果てる。水があれば飲ませて落ち着かせる手も使えるだろうが、生憎男が全て飲み干してしまった。もうその手は使えない。

 尤も、落ち着かせたところで田沼には荷が重い相手だ、とも加奈子は思っていたが。何しろこのおっさんが、子供の扱いは得意でも『女』の扱いは下手である事を加奈子は知っているのである。髪型を変えたり、可愛いアクセサリーをしてきても、言わなきゃ気付かない程度には。

 ならば此処は自分が出るしかない。

「お姉さん、私にその話聞かせてよ。このおっちゃん、スマホ一つろくに使えないから通報するにも時間掛かるよ?」

「あん? お前、俺だってスマホぐらい」

「女の子の気遣いは素直に受け取りなよー」

 加奈子が遠回しに「私に任せろ」と伝えると、田沼は口を閉ざす。ややあってからその口は開き、「任せた」という言葉が出てきた。

「はい。じゃあ、私が話を聞くねー。ほら、お姉さん。こっち行こ」

「え、ええ……」

 年下である加奈子に誘われ、美香は田沼達から少し離れた位置まで移動する。田沼と男が話し始めたのを見て、加奈子も美香に話し掛けた。

「それで、どうしたの? なんか警察を呼んでって言ってたけど」

「え、ええ……あの……」

 加奈子に尋ねられると、美香は一瞬口ごもる。とはいえ負い目などを感じさせるものではない。純粋に、頭の中で整理が付いていない様子だった。

 加奈子は続きを促す事はせず、美香の言葉を待つ。しばらくして、たどたどしい口振りではあるが美香はこのように語り始めた。

 曰く、大学の仲間四人で釣りをしていたらイノシシに襲われた、との事。

 イノシシは美香達を追い払うと、彼女達が釣り上げた魚を堂々と食べ始めた。美香達としてもその魚を食べようとしており、獲物を横取りされた形である。

 今日の成果を台無しにされて悔しい想いはあったが、イノシシが危険な動物だと知っていた美香と平次 ― 美香と一緒に来た、今は田沼と話している男の名前だ ― は傍観する事にした……が、稲穂と玲という友人カップルは、追い払うためイノシシに石を投げ付けてしまう。

 石をぶつけられたイノシシは、逃げるどころか友人カップルに襲い掛かった。

 友人カップルは慌てて逃げ、美香達も逃げ出した。幸いにして美香達はイノシシを振りきれたが……狙われた友人二人がどうなったか分からない。もしかすると今もイノシシに追われているか、或いは大怪我をしている事も考えられる。

 勿論すぐに自分達で通報しようとしたが、どうやら美香も平次も逃げている最中にスマホを落としてしまったらしい。

「お願い! 二人を助けて! 早くしないと二人とも死んじゃう!」

 かくして加奈子達に向けた第一声――――「助けて」につながる訳である。

「うん、分かった。警察と救急車だね。すぐに掛けるから落ち着いてね」

「お願い、お願い……!」

 カタカタと震えながら、美香は懇願してくる。その友達二人が、余程大事なのだろう。

 「イノシシにケンカ売る時点で割と自業自得じゃん」と思わなくもないが、人命が失われるかも知れない状況を見て見ぬふりも出来ない。加奈子は自分のスマホを取り出した。通信状態は良好。問題なく通報出来る筈だ。

「おっちゃーん、私警察に電話掛けとくねー」

 念のため、田沼に通報の意思を伝えておく。もしも通報を別々にしたら、イノシシが二匹いると警察が勘違いするかも知れない。連絡は一本だけにすべきだ。

 田沼も、通報という行為自体は止めなかった。別々に掛ける事も勿論勧めてこない。

「いや、通報は俺がする」

 ただし田沼は、加奈子からの、という一点については反対してきたが。

「え? なんで?」

「俺の方が詳しく話せる。あと、イノシシ相手となると猟友会が出てくる筈だからな。そいつらと打ち合わせする時、警察の話を聞けている方がスムーズに進められる」

「打ち合わせ? なんでおっちゃんと猟友会が打ち合わせなんかするの?」

「ん? そういえば、今まで言ってなかったか?」

 加奈子が尋ねると、田沼は口許に笑みを浮かべた。ちょっぴり自慢げで、子供っぽい笑みだ。

 ああ、こりゃわざと言ってなかったなこの人……加奈子がそれを悟るのに、五秒と掛からない。

「俺の本業は猟師だ。イノシシ狩りなら任せておけ」

 本来なら頼もしいこの言葉も、今の加奈子にはなんだか子供っぽさを感じてしまい、微妙に不安になった。

 とはいえその不安は、『カッコいい猟師』として活躍出来るのかという不安だ。田沼が怪我をするだとか、ましてや死ぬだとか、そんな不安は何も感じていない。田沼も、今この場ではおちゃらける程度には油断していた。美香と平次も、田沼が猟師と聞いて安堵している様子だ。

 何故なら加奈子達は知らなかったから。

 そのイノシシがどれほど恐ろしく、どれほど異質であるのかを、何一つ知らなかったのだから……




イノシシは怖いですよね(一般人感)
可愛いとも思いますけどね(動物好き感)
野生での生活も興味深い(生物系理系感)
滅べば良いのに(農業系関係者感)

次回は6/1(土)投稿予定です。


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輪廻拒絶3

 イノシシというのは、一般人が思う以上に危険な動物である。

 寸胴な体躯と短い足を見るにさぞ鈍足なのだろうと思いきや、時速四十五キロもの速さで疾走可能。鋭い牙は人間の大動脈を易々と切り裂き、死に至らしめる事も珍しくない。猪突猛進ということわざがあるが、極めて俊敏性が高く、障害物をするすると躱しながら突き進んでくる。そして寸胴な体躯……強靱な筋肉の塊から放たれるパワーは、人間一人簡単に吹っ飛ばす事が可能だ。

 無論人間には銃という心強い武器があり、遙か遠方からイノシシに致命傷を与えられる。しかしもしも撃つ前に気付かれ、こちらに突進されたなら死を覚悟せねばならない。時速四十五キロで突撃してくる獣の脳天を正確に撃つのはベテランの猟師といえども至難の業だ。また興奮しきった動物は、仮に脳を撃ち抜いても身体は動き、そのまま突っ込んでくる事がある。質量と速度が変わらない以上、激突時の威力は『生前』となんら変わらない。

 奴等は決して油断をしてはならない、恐るべき『モンスター』なのだ。

「……だからって、ここまで大袈裟になるたぁ思わなかったが」

 そう考えながら田沼はぼそりと独りごちた。

 陽が沈み、すっかり辺りが暗くなった泥落川に、何十もの人が集まっている。車も相当数集まり、それらのライトだけで周囲は昼間のように明るい。お陰で人の数や特徴を見るのは、難しい事ではなかった。

 集まった人々の多くは赤くて派手なジャケットを纏った猟師であり、残りは制服姿の警官だった。猟師の数はざっと四十人以上。警官も二十人以上来ていた。合計六十以上の人々がこの場には居る。

 畑の作物が食害されるなどの被害でイノシシ狩りをする時、探し回る都合大人数で行く場合もあるが……しかし三十人を超える事は稀。高齢化が進み、ハンターの数が減った近年では尚更だ。その倍以上の数など、田沼はこれまでお目に掛かった事すらない。

 そもそも、通報をした当日に動きがある事自体異常である。通常有害鳥獣駆除は、市民からの通報を地方行政が受け、地方行政から猟友会に依頼が行き、猟友会から猟師に依頼が来るのだ。余程緊急性を有する事案でない限り、即日対応などまずされない。

 何より、今は夜だ。確かにこの川は市街地のど真ん中を流れており、市街地にイノシシが来ているのは大変危険な状況である。人が襲われた、という通報もした。しかし夜という事は、目の前に現れた『何か』がよく見えない……鉢合わせた相手がイノシシなのか、人間なのかも瞬時には判別出来ない状況なのだ。イノシシと人間を見間違うなんて、と思うかも知れないが、見間違いによる『誤射』というのは度々発生している。人間の目とは極めていい加減なのだ。特に、自分は絶対に間違いないと考えている輩の目ほど。

 撃つのが猟銃ではなく麻酔銃だとしても、万一人に当たれば大事である。そして仮にイノシシだったとしても、猛烈な勢いで走ってくる『人かも知れない物体』を躊躇なく撃てる猟師はいない。誰だって殺人者にはなりたくないし、家族を殺人者の身内にはしたくないのだ。例え、その迷いが自分の命が危険に晒すものだとしても。

 夜の狩猟とは、それほど危険なものなのである。それを強行するというのは、何かがおかしい。

「おー、なんか凄い事になっちゃったねー」

 尤も、考える田沼に隣に立つ加奈子は、ぞろぞろと現れた猟師や警察に違和感など抱いておらず、むしろワクワクしている様子。助けを求めてきた鈴木平次や佐倉美香も、大勢集まった猟師達を見て安堵している。

 彼女達からすれば猟師なんてものは縁遠い存在で、実態がどうであるかなど知らないのだ。だからこそ純粋に、大勢の人が駆け付けてくれた事に安堵出来るのだろう。それが寂しいようで、変に不安がられなくて楽なようで、田沼は複雑な気持ちを抱く。

 なんにせよ、気付いた違和感をそのままにしておけるほど、田沼は能天気な性格をしていない。辺りを見回し、知り合いの顔がないか探す。

 幸いにして、大変親しい友人の姿を見付ける事が出来た。田沼は加奈子達に知り合いと話してくると伝えてから、見付けた友人の下へと歩み寄る。

「よう、飯田。元気してるか」

「ん? おぅ、たっちゃんじゃねぇか。お前さんも呼ばれたのか?」

 田沼が声を掛けた男――――飯田は、田沼の方へと振り返ると、皺だらけの顔をくしゃくしゃにしながら快活に笑った。総入れ歯になった口の中は白くキラリと輝き、髪を失った頭髪も車のライトを受けて光っている。

「俺がお前等を呼んだんだ。あのカップルに頼まれてな。生憎今日は自分の銃を持ってきてない」

「なんでぃ。そういう事なら俺のを貸そうか?」

「他人の銃に触れたら法律違反だろうが、馬鹿野郎」

「はんっ、冗談さ。最近来ねぇから耄碌してないか確かめたんだよ……怪我の調子は?」

「悪くない。だから今日のイノシシでリハビリしようと思ったんだがな」

「がははっ! まさか当日出勤とは思わなかったか!」

 軽口を叩き合いながら、田沼と飯田は親交を確かめ合う。

 相手が昔と変わりないのを確かめてから、田沼は本題を切り出した。

「いくらなんでも、動きが早過ぎないか? 人を襲ったとはいえ、相手はイノシシだ。それに捜索するにしても、山狩りに入る訳じゃない。ましてやこんな時間帯だぞ。こんなに集まるなんて、一体何があったんだ?」

「言いたい事は分かる。まず一つずつ説明しよう。最初にお前が勘違いしている事だが、俺達は何も今日動き始めた訳じゃない」

「……何?」

「三日前から現れてるんだ、そのイノシシは。おまけに昨日にはもう、一人殺されてる」

 飯田の説明に、田沼は驚きを感じた。

 驚いた理由は、イノシシに人が殺されたという情報を今まで自分が知らなかったから。田沼は猟師であり、そのため害獣に関する情報には人一倍敏感だった。そんな自分が、昨日の悲劇を知らなかった事がショックだったのである。ちょっとした事情で足を怪我して、しばらく猟を休んでいたので腕が衰えていないかと心配していたが、まさか『耳』の方も衰えていたとは。

 しかし動揺したのは少しの間だけ。驚きの感情は、やがて一つの懸念へと変化した。

 今、この世界は恐ろしい『野生動物』の脅威に晒されている。動物に殺される人間というのは、最早先進国でも珍しくない。恐ろしい怪物達が続々と現れ、人の営みを脅かしている。

 もしもそんな『野生動物』が町中に現れたなら……可能な限りの戦力を動員して、その生物を倒さねばなるまい。

 それこそ何十という数の猟師を動員してでも。

「……ただのイノシシじゃねぇって事か?」

「分からん。大きなイノシシとは聞いているし、三メートルはあったとか言ってる奴もいる。だが、素人の目測なんか当てにならん」

「成程、つまり『何』が現れたのかも分からねぇって事か」

 田沼は大きなため息を吐く。

 田沼も平次からイノシシの話を聞いている。やや大柄な可能性がある以外は、十中八九ただのイノシシだろうというのが話の印象だ。

 しかしその印象が間違いだったなら? 超巨大イノシシや、イノシシにそっくりな怪物だったら?

 そんな訳の分からないものが、自分達の町に入り込んだ。おまけにそいつは、既に人を殺している。そして自分達は、戦うための『武器』を扱う技術があった。

 ここで銃を取らねば、男が廃るというものだ。

「……連れを家まで送った後、銃を取りに行きたい。それからお前達のチームに入れてはくれないか?」

「! たっちゃん、つまりそれは……」

「言ったろう。リハビリをしたいってな……だからって俺が来るのを待つ必要はない。先に獲物を仕留めてくれよ」

「おう、任せろ」

 飯田の肩を叩いて応援し、飯田も田沼の背中を叩いて気持ちを返す。互いに気合いを入れ、田沼と飯田は別々に歩き出した。

 田沼は早速、自家用車に向かう……その足で加奈子達の方へと立ち寄る。

「おい、お前達。家まで送ってやるから、車に乗れ」

 そして加奈子達に、そのように伝えた。

「え? 送ってってくれるの?」

「ああ。イノシシがいるかも知れねぇ町を、歩いて帰れなんて言えないからな。乗せてってやるよ」

「おー、ラッキー」

「ま、待ってくれ! 俺達は……」

 加奈子は両手を挙げて喜んだが、平次が抗議混じりの声を上げた。美香も強い眼差しで田沼を睨む。

 二人からすれば、友人の安否が分からないまま帰りたくはないのだろう。田沼も同じ立場なら、彼等と同じ気持ちになった筈だ。

 だからこそ、ハッキリと伝えねばならない。

「素人にうろちょろされても迷惑だ。捜索も駆除もプロに任せろ」

「でも……」

「でもも何もない! 足手纏いに手間掛けているうちに、大切なお友達が死んでも俺は知らんぞ」

「っ……分かり、ました」

 悔しそうに唇を噛みながら、平次はこくりと頷く。感情が先走っていたが、冷静に考えれば自分達が足手纏いになると分かったようだ。

「分かったら車に乗れ。俺もお前達を送り次第、イノシシを探してやるさ」

「……ありがとう、ございます」

「よろしくお願いします……」

 平次と美香の感謝と頼みに、田沼は深く息を吐く。

 自分もまた足手纏いにならないよう注意しないといけないと、気を引き締めるために――――

 

 

 

「……なんか、随分町が静かだねー」

 助手席側の窓から外の景色を眺めながら、加奈子はぽつりと独りごちた。

 田沼の車に乗せてもらい、早五分。車は市道を走りながら、町中を進んでいた。付近に家々は疎らにしかなく、代わりに稲が刈り取られた田んぼが一面に広がっている。そんな田んぼを照らすのは疎らに立つ街灯の明かり。遠くの方には住宅地が見え、星空を掻き消すほどの光を人の世界に満たしていた。

 実に穏やかな風景だが、しかしこの風景の中を歩む人の姿は殆ど見えない。

 時刻は夜の六時になったばかり。加奈子の場合あらかじめ親に連絡を入れておけば、外出していても怒られないで済む時間帯だ。まだまだ寝静まるには早い。

 確かに人家は疎らだが、もう少し人気があっても良いのではないだろうか? 何故今夜は外を出歩く人が少ないのだろう?

「なんでも、今夜は外出禁止勧告が出ているらしい。危険なイノシシと、猟友会の見回りをしているからな」

 加奈子の疑問に答えたのは、運転席側に座る田沼だった。加奈子は「ほーん」と納得したような声を漏らし、されど途中で首を傾げる。

「危険なイノシシ? どゆこと?」

 加奈子が抱いた疑問を正直に尋ねると、田沼は口ごもってしまう。

 普段の加奈子なら、ここで相手を問い詰めたりはしない。言いたくないなら言わなくても良いや……こんな軽い生き方が、加奈子のモットーだ。今日もその信念は変わらない。

 されど今日は、些か熱い人間が二人混ざっていた。平次と美香である。

「どういう事ですか? まさか、玲達を襲ったイノシシの事を猟友会は知っていたのですか!?」

「……………嘘を吐いても仕方ない。知っていたらしい。さっき河原で知り合いの猟師から聞いた。とはいえ目撃されたのは三日前、人が襲われたのは昨日の話だ。むしろ早めに動いたぐらいだよ……身内の話だから、多少贔屓目なのは許してくれ」

「……いえ、そういう事なら、仕方ないです」

「でも、ニュースぐらい流してくれても……」

 美香は批難の言葉を発したが、その声は段々と小さくなっていく。平次も口を閉ざし、田沼も黙ってしまった。

 沈黙が、車内を満たそうとする。

「くらーい! そんな暗くなっても仕方ないんだから、もっと元気にいこーよ!」

 が、そうはさせないとばかりに、加奈子は元気な声を上げた。誰もが加奈子の突然の大声に目を見開き、その顔を目の当たりにした加奈子は上機嫌に笑う。

 陰鬱なのは嫌いだ。

 暗い中にいるとどんどん気持ちが沈んでいく。悩んだって何も変わらないのなら、悩まない方が幸せではないか。どんどん気持ちを上げていき、きっと楽しい事があると信じる……そうでないと、どうやって生きたら良いか分からなくなるから。

 まずは元気に楽しくやれば良い。悲しんだり後悔したりするのは、悲しい事が起きたのだとちゃんと分かった後で十分だ。

「……全く、お前は相変わらず能天気だな」

「え? そうかなぁ。おっちゃん達が気にし過ぎなだけじゃない?」

「成程、そういう考えもあるか。はっはっはっ!」

 田沼の軽口もなんのその。言い返してみれば田沼は楽しそうに笑った。平次と美香も、くすくすと笑う。

 車内に笑いが満ち、加奈子は満面の笑みを浮かべた

 直後の事だった。

「ぬぅ!?」

 田沼が奇怪な声を上げた、のと同時に、車に急ブレーキが掛かったのは。

「きゃああっ!?」

「ぐぅっ!?」

「ふぎゅうっ!?」

 襲い掛かる慣性に、田沼以外の全員が呻きを漏らす。とはいえ皆シートベルトを着用しており、大きく体勢を崩したり、座席から転倒した者もいない。加奈子は呻きながら、前のめりになった身体を起こした。

「うぐくくく……おっちゃん、どうしたの?」

「あ、ああ。いや、道路に何か落ちていてな」

「道路……?」

 田沼の視線が向いている先を、加奈子も追い駆ける。

 見れば、確かに道路の真ん中に何かが転がっていた。物体は車のライトが程よく照らす位置にあり、姿がよく見える。

 それは大きな一つの塊だった。全体的に赤色が主体だが、青やら黒やら白やらも混ざった、奇妙な色合いをしている。大きさは、ざっと一~二メートル程度だろうか。形は細長いものの凹凸があり、不格好なソーセージを彷彿とさせた。

 かなりの大きさだが、はて、これはなんだろうか? 加奈子は正体を確かめようと思い、身を乗り出しながら凝視した

「見るなっ!」

 直後、田沼が大きな声を上げる。後部座席に座っていた平次と美香は、突然の大声に跳ねるほど驚いていた。

 だが、加奈子は驚かなかった。

 何故なら、もう見てしまったから。

 道路に転がるものは、ぐちゃぐちゃに潰れた固形物だった。真っ赤な汁が全体から滴り、道路に赤黒い水溜まりを作っている。青いものは布切れで、黒いものは毛だ。そして白いものは剥き出しになった骨。

 ならば骨が剥き出しになっている赤い塊は――――肉であろう。

 肉のサイズは一メートル以上二メートル未満。そして凹凸だと思っていた部分が、何かの噛み痕のようであると加奈子は気付く。両端は同じ形をしておらず、一方は細長い棒のようなものが二本あり、もう片方にはスイカのような丸みがある。

 そして丸みのある部分から、小さな白いものが落ちていた。加奈子はその白いものと()()()()

 それは眼球だった。

 つまりあの丸いものは頭であって――――

「う、ぶぅう……!?」

 急に込み上がる吐き気を抑えきれず、加奈子の口に酸っぱい液体が溜まる。咄嗟に口元を両手で塞いだが、上がってきた量が多過ぎた。

 止めようとしたがどうにもならない。唇に込めた力は呆気なく負け、加奈子の口から吐瀉物が溢れ出す。足元のシートが黄土色に染まり、苦い臭いが車内を満たした。

「……我慢するな。全部出して良い。後の事は気にするな」

 田沼が背中を摩りながら吐く事を許してくれなければ、この苦しみが何時まで続いたのだろうか。

「だ、大丈夫か?」

「これ、使って……」

 平次と美香も気遣ってくれた。美香からビニール袋を受け取った加奈子だが、頭を小さく上下に振るのが精いっぱいだった。

 夕食前で胃の中身が空に近かった事もあり、出した量は左程多くなかった。胃液さえも出し尽くし、空腹にも似た虚無感が身体中を満たすが、先程までの人生史上最悪の気持ちに比べれば遥かにマシだ。加奈子は口を素手で拭い、大きく息を吐く。

 そしてそのまま俯き続けた。例え足元から独特の悪臭が漂い、鼻を刺激しようと、顔だけは上げたくない。

 友達の花中とは違い、加奈子はホラーゲームも良くやる。バイオレンスな洋ゲーのプレイ動画を見たり、低予算ゾンビ映画なども好む。だからグロテスクな表現にも慣れているつもりだった。

 だが、本物は違う。グロ耐性なんてなんの役にも立たない。本能が明確な拒絶の意思を示すのだ。

 あんな酷い『人の死体』は二度と見たくない、と。

「……おっちゃん、アレ……」

「ああ、間違いない……鈴木君、一緒に来てくれないか。確認したい事がある」

「え、あ。はい、わかりました」

「それとその前に一つ教えておく。今、車の前に人間らしき死体がある。人間らしき、だ。この意味が分かるな?」

 田沼からの念押しに、最初キョトンとしていた平次はしばらくしてハッとしたように目を見開いた。美香の方も察したようで、口を両手で押さえながら顔を青くする。

 平次は車のドアノブに手を掛けつつ、しばし動かない。しかしゆっくりと深呼吸をし、力強く横に振った後の彼の顔には、もう迷いはなくなっていた。

「……いけます」

「ありがとう。無理だと思ったらすぐに離れてくれ。後は俺がやる」

「はい。ありがとうございます」

 田沼と平次は車を出て、道路に転がる死体らしきものへと駆け寄る。平次の嗚咽と嘔吐する声が聞こえてきたのは、それから間もない事だった。

 美香は後部座席で震えながら縮こまり、祈るように両手を組む。加奈子としても、何かの間違いであってほしいと願った。

 やがて田沼達は車内へと戻ってきた。二人とも項垂れ、口を開かない。加奈子と美香も訊こうとはせず、しばし冷たい沈黙が車内を満たす。

「……玲、だと思う。アイツがしていたのと、同じアクセサリーが落ちていた」

 やがて平次がそう呟き、美香は嗚咽を漏らす。

 加奈子も、ここで二人に声を掛けるほど人の気持ちを読めなくはない。代わりに、未だ黙ったままの田沼に話し掛けた。

「……おっちゃん。私が通報しとく?」

「……いや、俺がやる。すまない」

 加奈子が気を遣うと、ようやく田沼は動き出した。自分のスマホを取り出し、操作を始める。

 加奈子はホッと息を吐き、車体横の窓から外を眺めた。正面から、もう一度死体を見る勇気は持てないがために。

 そして少し、頭の中にある違和感に思考を巡らせる。

 何故、こんなところに死体がある?

 平次が言うようにあの死体が『玲』……平次と美香が話していた、イノシシに襲われた友人の一人だと言うのなら、彼を襲ったのはイノシシだろう。しかしイノシシは人を食べるものなのだろうか? 雑食という話は聞いた事があるが、人間をバリバリ食べるなんてのは初耳だ。そもそも記憶にある ― 出来る事なら忘れたいが、頭の中にこびり付いて離れない ― 死体は、まるで生皮を剥いだような姿をしていた。動物が食べた後なら、もう少し形が残っているものではないだろうか。

「警察への通報は終わった。こっちに人を向かわせてくれるそうだ。あの亡骸が本当に鈴木君達の友達だとしたら、近くにイノシシが潜んでいるかも知れない。しばらく車内で、警察が来るまで待とう」

 考え込んでいたら、何時の間にか通報が終わっていた。平次と美香はこくりと頷き、我に返った加奈子も慌てて頷く。

 全員が同意し、田沼は安堵したように息を吐く。加奈子は、そんな田沼に抱いた疑問をぶつけてみる事にした。

「おっちゃん、一つ訊きたい事があるんだけど」

「ん? どうした?」

「イノシシって、その、人間を食べるものなの? 食べたとして、ああいう食べ方をするのかな?」

 平次達の様子を窺いながら、加奈子は疑問を言葉にする。一瞬、平次と美香は顔を強張らせたが、されどすぐに加奈子と同じく違和感を抱いた表情を浮かべた。

 田沼も少し考え込み、普段よりも慎重な口振りで答える。

「……死体であれば、食べる事もあるだろう。イノシシからすれば人間の死体もネズミの死骸も、肉という点は変わらないからな。ただ、生きた人間を襲って食べるというのは聞いた事がない」

「そう、なんだ……」

「それと食べ方についてもだが、お前が言うようにあんな食べ方はしないだろう。イノシシの好みもあるだろうが、腹の中身だけ食うとか、足を一本持って行くだとか、そんなもんの筈だ。あんな、全身の皮を引っ剥がすような食べ方にはならない」

「なら、どうしてあんな感じに……」

「……食べられていたのは、皮と内臓、それと皮下脂肪だけだった。あの食べ方をするのは、俺が知る限りクマだけだ。それも一部地域のワンシーズン、獲物はサケだけ。イノシシがあんな食べ方をするとは聞いた事がない。かといってクマが町に出ているという話は聞いていないし、遺体にあった歯形はクマじゃなくてイノシシのものだと思うが……」

 田沼のそこまで答えると、考え込むように黙ってしまう。どうやら田沼にも正確な事は分からないらしい。

 猟師である田沼の知識にもないイノシシの行動。本当にこの町にいるのはただのイノシシだろうか? 加奈子の中で疑問が深まる。

 普通なら、これ以上の事は誰にも訊けないだろう。しかし加奈子には一つ当てがある。

 花中だ。花中はこういった『生物』絡みのトラブルによく遭遇している。フィアやミリオン達のような超ヤバい生物だけでなく、『異星生命体』や『恐竜時代の植物』などのテレビ報道された生物、表沙汰にはなっていない『怪物』と出会った事もあるという。花中自身が話した訳ではなくフィアやミィから聞いた事だが、彼女達は人間のようなつまらない嘘は吐かない。どれも本当の筈だ。

 加奈子の知る中で、花中ほど『怪物』に詳しい者はいない。それに花中は勉強も出来る。何か、新しい情報を教えてくれるかも知れない。

 どうせ警察が来るまで暇なのだ。待ち時間を有効活用するべく、加奈子は花中に教えを請う事にした。

「……よしっ。私ちょっと電話掛けてるねー」

「ん? ああ、分かった」

 車内のみんなに一言断りを入れてから、加奈子は花中に電話を掛けてみる。コール音が数回聞こえた後、ぷつりと電話に出る音が鳴る。

【……はい、もしもし?】

 それから、か細くて、とても聞き取り辛い声が聞こえてきた。

 間違いなく花中の声だ。加奈子は笑みを浮かべ、思わず顔を上げそうになる。一瞬視界に赤いものが映り、慌てて下げた。

「――――あ、ああ、大桐さん! こんばんはー、加奈子だよー。元気してるー?」

【ぇ、あ、はい。こんばんは……わたしは、元気です。はい】

「うんうん、元気なのは良い事だよ。あ、それで一つ訊きたいんだけど、今大丈夫?」

【あ、はい。今は、大丈夫です】

「じゃあ訊かせてもらうね。えっとね、イノシシについてなんだけどさ」

【イノシシ? あ、そういえば、放送で、イノシシが出たから、外出を控えるようにとか、言ってましたね】

 突拍子もない質問に、花中は一瞬キョトンとした後納得したような声が返ってくる。「そーそー」と加奈子は肯定し、話を続けた。

「でさ、実はそのイノシシに襲われた人と知り合ってね。それで色々あって一緒に帰ってたんだけど……その道すがら、イノシシに食べられた人を見付けた」

【えっ!? 食べ……えっ? 食べられた……イノシシに、ですか?】

「うん、多分だけど。もしそうなら普通じゃないよね? それで、もしかしたら大桐さんなら、『何か』分かるかなって思って。どうかな?」

 加奈子が尋ねると、受話器の向こうではしばし沈黙が挟まれる。されど静かな訳ではない。迷うような息遣い、気合いを入れるような深呼吸、暴れる心を静めようとする地団駄……花中の気持ちが、手に取るように分かる。

 きっと花中も、町に居るイノシシが普通でない事を察しただろう。普通でない生物に関わった自身に、加奈子が何を期待しているのかも。そして大桐花中は、誰かに期待された時プレッシャーを強く感じ、よく押し潰されている少女だった。

 少し前までは、だが。

 最近の花中は結構逞しい。

【……分かりました。ちゃんと、答えられる自信は、ないです、けど、わたしで良ければ、考えてみます】

 やがて花中からは前向きな答えが返ってくるのは、ある意味では想定内。

 それでも加奈子は、嬉しさが込み上がるのを覚えた。

「ん。ありがとう、大桐さん」

【いえ、お礼は、役に立ててからに、してください。それで、イノシシの、特徴とか、分かりますか?】

「えっとね、見た目は普通のイノシシみたい」

【大きいとか、小さいとかも、なく?】

「うーん、話を聞く限りだと、一応大きいみたい。見た目が変とかいう話は聞いてないよ」

 加奈子は次々と花中に情報を伝える。花中もまた疑問をぶつけ、答えられるものは加奈子も教えた。

 しかし伝えれば伝えるほど、花中の反応は鈍くなる。

 理由は加奈子にも分かる……イノシシの情報が、どう考えてもただのイノシシでしかないからだ。実際平次達を襲った動物はイノシシで、猟友会が追っている動物もイノシシ。イノシシ以外の情報がある筈もない。

 唯一奇妙なものがあるとすれば――――

【あの、これを尋ねるのは、大変恐縮なのです、が……ご遺体は、本当に、イノシシが食べたものなの、ですか?】

 イノシシが食べたと思われる、人間の死体だけだ。

「……おっちゃん。ちょっと良い?」

「おう、なんだ」

「あそこで死んでいた人ってさ、その、間違いなくイノシシに食べられたの?」

「断言は出来ない。が、俺の勘はあの歯形はイノシシのものだと言っている」

「分かった。おっちゃんの勘を信じる」

 念のために確認し、加奈子は田沼の言葉を花中へと伝える。花中は僅かに沈黙を挟み、再び質問をしてきた。

【……分かりました。その、ご遺体の、状態は……?】

「えっと、確か内臓と、皮と、皮下脂肪だけを食べた状態みたい」

【内臓と、皮と、皮下脂肪?】

「そーそー。おっちゃん、あっ、知り合いの猟師がこんな食べ方をするのはクマぐらいだーなんて言ってるけど、どうなの?」

【えっと、そうですね。主に冬越し前の――――】

「大桐さん?」

 話を交わしていたところ、不意に花中の言葉が途切れる。妙に感じて加奈子は呼び掛けてみたが、反応はない。

 どうしたのだろうか? 何か気付いたのだろうか? 疑問に思っても、花中が話してくれなければ何も分からない。怪訝な気持ちから加奈子は自然と眉を顰めた

【お、小田さん! その、い、今はご遺体の近くに居るのですか!?】

 丁度そのタイミングで、受話器から発せられる花中のひ弱な大声が耳を刺激する。

 あまり大きな声ではなかったが、今までと比べれば段違いの大きさ。小声にすっかり慣れていた加奈子は驚きで顰めていた眉を戻し、その目を見開いた。そして驚きに染まった頭は、無意識に花中からの問いに答える。

「う、うん。そうだけど、それが……?」

【は、早くそこから逃げてください!】

「え? いや、でも警察を呼んじゃったし、待ってないと」

【ダメです!】

「……さっきからスマホが五月蝿いが、なんだ? こんな時に痴話ゲンカでもしてるのか?」

 花中の必死な叫びは、隣に座る田沼にも微かながら聞こえていたらしい。彼のつまらない冗談に、加奈子は困ったように首を横に振る。

「なんか、イノシシの事を話したら、すぐに逃げろって言われて……」

「……確かに、人食いイノシシが潜んでいるかも知れないから、早く逃げるに越した事はないが。もしかしてお前の友達は、俺達が野外に居ると思ってるんじゃないか?」

「あー、そうかも。えっと、大桐さん? なんで早く逃げないといけないの? 一応私達、車の中に居るんだけど」

 加奈子は冷静に、宥めるように花中を問い質す。

 されど花中から返ってくる答えは、一層興奮していた。必死に、説得しているのはこっちだと言わんばかりに。

【ダメです! そのイノシシは、恐らく空腹です!】

「……空腹? なんで?」

【く、クマがその食べ方を、するのは、冬眠前の季節に、遡上してきたサケを、食べる時です! 身を食べないのは、高栄養価のものを、効率的に摂取する、ため! 肉食も、植物より効率的に栄養を取れるためと、考えれば、自然です!】

「……えっと、それは、つまり……?」

【季節を考えれば、冬越しのため、太るための行動かも、知れません! でもこれは、イノシシには、本来ない性質です! 何か、通常のイノシシとは、違う体質があると、思います! 大量のエネルギーを、必要とするような、そんな体質です!】

「ち、違う体質って、例えば……」

 花中の述べる推察に、加奈子は一層深く尋ねる。

 そんな時だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 加奈子は、自然と息を飲んだ。車内からは呼吸音さえも途絶える。加奈子はゆっくりと顔を上げ、今まで本能的に直視を避けていた正面に視線を向けた。

 ライトに照らされる、生皮を剥がされた遺体。グロテスクで生理的嫌悪を呼び起こすそれは、されど今の加奈子の心を振るわせるには足りない。

 何故なら遺体の傍に、『そいつ』は立っていた。

 ライトが煌々と照らされ、こちらを見ている目を赤く光らせている『そいつ』。誰が見てもなんという種であるかは明らかなぐらい、その姿におかしなところはない。大きさだって、思っていたより大きい程度で、異常とは言い難い。

 だけど『そいつ』――――暗がりから現れたイノシシは涎を垂らしていた。腹が減って苦しいと訴えるかのように。

 そして加奈子の耳許から少しだけ離れていたスマホから、微かに聞こえてくる。

【例えば、極めて高い代謝を待っている……通常のイノシシよりも、遥かに、高い身体能力を、有している可能性が、あります! 遭遇したら、車内であっても危険かも知れません! だから、早く避難してください!】

 あと少し早ければ、きっと役立っただろう花中の言葉が……




人類VSイノシシ
勿論人間は銃を使いますよ?
強さをアピールするには、負ける側も相応に強くないとね(ぁ)


次回は明日投稿予定です。


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輪廻拒絶4

「……ごめん、大桐さん。もう手遅れっぽい」

【え? それはどういう……】

 加奈子の謝罪に、スマホの向こう側に居る花中からキョトンとした言葉が返ってきた。

 不安になる言葉を告げられ、優しい花中はこちらの安否を心配してくれているだろう。その不安を少しでも和らげるために、出来る事ならきちんと説明しておきたいと加奈子も思っている。

 しかしそんな悠長な時間を、目の前のイノシシは与えてくれなかった。

「フォギオオオオオオオオオオオッ!」

 大口を開け、発せられたのは咆哮。

 車の窓のみならず、車体そのものが揺さぶられるほどの大声量だ。だが加奈子は耳を塞ぐという行動を取れない。あまりの存在感に、恐怖を通り越して尊敬や畏怖の念を無意識に抱いてしまう。

 平次も美香も黙り、隣に座る田沼も呆けたように口を開いていた。人間達の誰もが、眼前に君臨した生命の力強さに打ちのめされる。

 尤も、何時までも呆然としていられた訳ではない。

 イノシシは、加奈子達が乗る車目掛け突進してきたのだから!

「っ!? 全員掴まれ!」

 イノシシの動きに真っ先に反応したのは、田沼であった。張り上げた大声は加奈子達に我を取り戻させる。

 掴まれと命じられ、加奈子は一番手近なもの……着用していたシートベルトを両手で握り締めた。スマホはシートベルトを掴む際手を開いた拍子に落ち、吐瀉物塗れの足下に転がる。全てが咄嗟の行動で、意識なんてなかった。

 しかしその無意識がなかったら、イノシシが激突した衝撃で車外に()()()()()()()かも知れない。

 それほどの威力で、イノシシは加奈子達が乗る車に激突したのだ!

「きゃあああっ!?」

「うぐわあぁっ!?」

「ひゃあぁっ!?」

 車内まで伝わる衝撃に、美香や平次も悲鳴を上げる。加奈子も思わず叫んでいた。されど加奈子達に気が休まる暇などない。

「フギオオオッ! ゴオオオオオッ!」

 イノシシは雄叫びを上げながら、執拗に車に体当たりをお見舞いしてくる。どれも凄まじい勢いで、一切手加減していない事が加奈子にも分かった。

 そして車体前方部分が、ぐしゃり、ぐしゃりと潰れていく事も。

 加奈子の顔から一気に血の気が引いていく。イノシシ相手なら、車内に引きこもっていれば安全だと思っていた。襲われたところで精々車体がへこんだり、窓ガラスがひび割れる程度であると安心していた。だが、このイノシシ相手に籠城は愚策だと悟る。

 このままでは車を壊され、引きずり出されてしまうに違いない。

「お、おっちゃん!? ど、どど、どうし……」

「すぐに逃げる! 何かに掴まっていろ!」

 加奈子の戸惑いを大声で押さえ、田沼は車を操作しようとギアとハンドルを掴んだ。

 アクセルを全開にしたのか、車は加奈子達に過酷な慣性を与えながらバック。イノシシの何度目かの突進は空振りし、近くの田んぼに足を踏み入れる。湿った土に足を取られたのか、イノシシは前足を挫くようにして転倒。稲の植わっていない土に頭から突っ込み、乾いた泥と雑草が空を舞う。

 田沼はその隙を見逃さない。素早くハンドルを操作し、車体の向きを転換。細い道だったため車輪が用水路を乗り越え、田んぼへと侵入し踏み荒らしてしまったが、それを咎める気になる者など誰もいない。

 イノシシに背を向ける形になった車は、そのまま猛烈な勢いで前へと加速。バックミラーに映ったイノシシが車の方へと振り向いた時には、加奈子達の車は暴走が如く速さに達していた。

 あっという間にイノシシの姿は遠くなり、暗闇の中に紛れて見えなくなった。

「……はああああああ」

 田沼が、大きなため息を吐く。

 それを合図とするように、加奈子達も息を吐いた。車のスピードも段々と遅くなり、ごく一般的な速さになる。

「た、助かったぁ……」

「な、なんだったんだ、あのイノシシは……」

「分からん。猟師になって何十年と経つが、あそこまで力のある奴など見た事もない。普通の個体でもバンパーぐらいなら壊せるが、車体がバラバラにされると思ったのは初めてだ……」

 田沼と平次達は次々と安堵の言葉と、イノシシへの疑問を言葉にする。

 加奈子だけは、電話をしていた花中の話を思い返す。足下のスマホを拾い、ティッシュで汚れを拭き取ってから画面を確認。落とした拍子にタッチしたと誤認識されたのか、通話が切れてしまっていた。もう一度電話を掛けるべきかも知れないが、正直話すという事すらしたくないほどの疲労感が加奈子にはある。とりあえず「無事だよー」というメッセージだけ送っておく。

 ともあれ、なんとか逃げ延びる事が出来た。イノシシが野放しなのは気になるが、それは猟師や警察がなんとかしてくれる筈である。

 自分達は助かったのだ。

 ……助かった筈である。

 なのに何故だろう。首の後ろ辺りがチリチリとした感覚に見舞われるのは。身体の芯の方が冷たくなっているのは。

 加奈子は、ちらりと後ろを振り返った。美香と目が合い、にこりと微笑んでくる。無事に危機を脱した、その喜びを共有しようとしたのかも知れない。

 しかし加奈子は、笑みを返さない。むしろ露骨に引き攣らせた。

 何分背後の窓に広がる暗闇に――――猛然と動く『何か』を見てしまったのだから。

「お、おっちゃん! 来てる! まだ来てる!?」

「は? いや、今も五十キロで走ってるんだからそんな筈……!?」

 加奈子の訴えに最初怪訝な反応を示す田沼だったが、その顔は間もなく驚愕に染まる。ハンドルを握る力が増し、アクセルを踏んだのか身体が強張った。

 が、車が加速するよりも前に突き上げられるような衝撃が、後方から襲い掛かってきた!

「うわぁっ!? な、なん、なんだぁ!?」

 平次が驚きを露わにしながら背後を振り返る。

 故に彼は目の当たりにした。

 車の背後に密着するほどの至近距離まで、一頭のイノシシが接近している事に!

「きゃあああっ!? 来てる!? イノシシが来てます!?」

「くそっ! 一体なんなんだコイツは!?」

 混乱が広がる車内で、田沼は悪態を吐きながらも的確に車を操作する。車外に広がる田んぼや町並みの動きが加速し、車の速さがどんどん増している事を物語っていた。

 だのに、イノシシの追撃は振り切れない。加奈子が横目で見た限り、今の車は時速八十キロ以上出ている筈なのに。

 何度も何度も、イノシシは車を突き上げてくる。バキンッ! と金属が吹き飛ぶような音が聞こえ、車体が歪んだ影響か後部の窓ガラスの一部にヒビが入った。このままでは後ろの確認が出来なくなるどころか、窓ガラスを破られてしまう……いや、タイヤなどがなんらかの拍子にパンクすれば、逃げる事すら儘ならない。

「こ、んのぉっ!」

 すると田沼は唸るように声を上げながらアクセルを踏んでいた足を浮かせ、あろう事かブレーキを踏み抜く!

 ブレーキが作動し、車体は急激に減速。対するイノシシは車の突然の減速に反応出来ず、むしろ再度突き上げようとして加速していた。車との相対速度の差が大きくなり、エネルギー的にイノシシの顔面は車と時速数十キロで正面衝突したのと同じ打撃を受ける。

「ギブアァッ!?」

 イノシシは呻きを上げ、大きくその身を仰け反らせる。と、その拍子に足をもつれさせたようで、イノシシは横転した。

 時速八十キロの車を追跡するほどの速さを出していたイノシシは、見ている側がショックを受けるほどの激しさで転がる。時折聞こえる痛みに呻くような悲鳴が、後ろを振り向いていた加奈子の胸に突き刺さった。

 しかし田沼は同情を抱いた素振りもなくアクセルを踏み直し、車を再加速。イノシシの姿はすぐにも見えなくなったが、今度の自動車は時速五十キロではなく、八十キロで突っ走る。

 だけどもう、誰も安堵なんて出来なかったが。

「……なん、だよあのイノシシ……イノシシって、あんなに早いのか……!?」

「いや、そんな事はない。確かに人間と比べれば遙かに速いが、だとしても精々時速四十五キロ前後だ。車を使えば普通に逃げきれる速さでしかない」

「ならさっきのはどういう事だよ!? くそっ! なんでこんな目に……!」

「へ、平次、落ち着いて……」

 声を荒らげる平次を美香が宥める。平次は息を荒くしながらも俯き、深呼吸を始めた。

 誰もが困惑していた。常識外れの力を持ったイノシシの存在に。

 その中で加奈子だけが、少しだけ状況を理解する。

 花中が言っていた通りだ。あのイノシシは、通常のイノシシと比べ身体能力が極めて優れているのだろう。そしてその身体能力を維持するために、多量のエネルギー……高栄養価の食糧を求めているのだ。

 こんな事になるのなら、もっと早いうちに花中への電話をしとけば良かったと思う加奈子だったが、しかしそれを今後悔しても後の祭りというものである。晴海なら三分ぐらい、花中なら丸一日はうじうじしているだろうが、前向きというより考えなしな加奈子は十秒で気持ちを切り替えた。凄いものを見られたなー、と思うぐらいである。

 無論、人が死んでいる事を忘れてはいない。それにあれほどの身体能力の持ち主であるイノシシを、猟師や警察が束になって挑んだところで果たして無事に退治出来るのだろうか……

 不安が再び胸に込み上がり、加奈子はなんとなく後ろを振り向く。背後に広がる夜の暗闇は静かなまま。迫り来る者の姿は見えない。

 見続けているとその暗闇から何かが跳び出してくるような気がして、加奈子は逃げるように視線を正面に戻す。加奈子は大きなため息を吐いた

 刹那の出来事だった。

 加奈子の身体が、ふわりと浮かぶような感覚に見舞われたのは。

「……ぬむ?」

 突然の予期せぬ体感に、加奈子の口から出てきたのは間の抜けた声。

 しかし理性は即座に、今覚えている感覚があり得ないものであると理解する。加奈子は車に乗ってから今に至るまで、シートベルトを外していないのだ。身体が浮かび上がる筈がない。事実今も加奈子はシートベルトを着用し、その身体は座席にぴったりくっついている。

 加奈子は反射的に辺りを見回す。隣に座る田沼も呆けた顔をし、後ろに座る平次や美香も唖然としていた。誰もが浮遊感を覚えている様子だ。そして誰一人、何が起きているか分かっていないのだろう。答えは分からず終い。故に加奈子の目は本人の意思と関係なく動き回り、周囲の情報を集めようとする。

 そうした本能の努力は、すぐに報われた。面の車窓から見える、視界一面を覆う地面という情報を知る事で。

 車がひっくり返っているのだ。()()()()()()()()()()がために。

 浮遊感の理由は分かった、が、一介の小娘に過ぎない加奈子にこの状況をどうにか出来る筈もなく。

「キャアアアアアアアアアアアアアッ!?」

 加奈子が少女らしい悲鳴を上げたのも束の間、車は地面に叩き付けられた! 窓ガラスが割れ、車体が砕け散るような音が聞こえる。

 本能が危機を察知し、咄嗟に両手で顔を覆わなければ、車内にも飛んできたガラス片などで怪我をしていたかも知れない。頭を激しく揺さぶられ、ぐるぐると回っているような目眩に襲われる。身体を上手く動かせない。

 おまけに車は完全にひっくり返り、上下が逆になっていた。頭に血が昇っていく。段々意識が朦朧としてくる。

「ぶはっ! は、はぁ! はぁっ! 大丈夫か!?」

 その意識を揺さぶり起こしてくれたのは、平次の呼び声。我に返った加奈子は、閉じかけていた瞼を開き、後部座席の方へと振り返る。

 平次は既にシートベルトを自力で外し、ひっくり返って床となった車の天井に足を付けていた。今は美香のシートベルトを外そうとしながらも、加奈子達の方も気にしている。

 何が起きたか分からないうちに動くのは危険ではないか? そんな考えも過ぎったが、しかし横転するほどの大事故。ガソリンなどが漏れていて、爆発する可能性もあるかも知れないと ― 映画やゲームの知識から ― 加奈子は気付く。加奈子の隣に座っていた田沼も、自分のシートベルトを外そうと藻掻いていた。どうやらすぐにでも抜け出した方が良いらしい。

「う、うん。私は大丈夫っ! 自力で、出られる!」

「俺も、もうすぐ抜ける! なんだか分からんが、このまま居座るのは不味い!」

「分かりました! 美香、大丈夫か?」

「う、うん。私は、平気……」

 加奈子と田沼の返事を聞き、平次は美香の救出に注力する。天地が逆転したとはいえ、シートベルトを外すだけだ。美香は無事、車の床に着地した

 瞬間、後部座席から窓ガラスが割れる音と、金属が粉砕される音……そしてボキボキと『何か』がへし折れる音がする。

「……えっ?」

 加奈子は瞬きをして目の前の景色を見直す。しかし何度見ても、どれだけ時間が経とうと目に映る光景に変化がない。

 呆けたように固まる平次――――その平次だけがいる光景が、変わらなかった。

「……美香あああああああっ!? 美香、クソっ! クソがぁッ!」

「ま、待て鈴木君! 一人では、ぐっ……!」

 姿()()()()()()美香の名を叫ぶと、平次は這いずりながら加奈子達を置いて車の外へと出てしまう。田沼が引き留めたが、聞く耳すら持たない。

 田沼はシートベルトを急いで外し、次いで加奈子のシートベルトも外してくれた。加奈子の身体は重力に引かれ、不格好ながら天井に下りる。それから殆ど無意識に、加奈子は横の窓から外を見ようとした。

 すると何かが加奈子の目の前に落ちてきた。加奈子の若くて健康的な瞳は、例え暗闇の中にあろうともその何かの姿を正確に捉える。

 平次だった。ただし頭の一部が大きくへこみ、焦点の合わない目を大きく見開いて……

「ひ――――」

「静かにっ!」

 もしも田沼が口を塞いでくれなかったなら、加奈子は今頃人生の中で最大の悲鳴を上げただろう。口を塞がれた加奈子は強引に身体を引っ張られ、助手席側から運転席近くまで動かされる。

 その移動する最中に、ぐちゃりぶちぶちぐちゃぐちゃと、柔らかいものを咀嚼する音が聞こえてきた。

 食べている。

 加奈子は察した。この車をひっくり返したのは、あのイノシシであると。車をひっくり返したイノシシは、恐らく()()()獲物である美香を引きずり出したのだろう。平次はそれを目の当たりにし、助けに向かったが……時速八十キロで走る車に追い着くほどの馬力で体当たりでもされたのか。イノシシの一撃で葬られた訳だ。

「……どうだ? もう叫ばないか?」

 田沼に小声で訊かれ、加奈子はこくりと一回頷く。田沼は恐る恐る加奈子の口から手を離し、加奈子は静かに息を吐いた。

「鈴木君も佐倉君も、恐らく死んだ。助けられるような武器もない。だから逃げようと思う。文句はないな?」

「……うん。分かった」

「良い子だ……恐らく、今イノシシは佐倉くんを食べている。奴が満足して帰るか、鈴木君に興味が映った段階で逃げるぞ。それまで声は出すな」

 田沼の指示に、加奈子はこくりと頷く。

 意識を外の景色に向ける。くちゃくちゃと肉を咀嚼する音は聞こえてくるが、痛みに呻く声や悲鳴、絶叫は聞こえてこない。

 イノシシが美香を襲った瞬間……見えた訳ではないが、美香の姿が消える直前、生々しい音が聞こえていた。衝撃で骨が折れたのだとすれば、即死している事も考えられる。平次も悲鳴一つ上げていない。多分、きっと、恐らく、二人とも苦しまずに済んだ事が唯一の『良かった』ところか。

 ……時間にして、どれだけ経ったか。五分か、十分か? 横転した拍子に壊れたのか車内のデジタル時計は消えている。スマホを取り出して画面を見る余裕なんてない。加奈子は自分の心臓が、今にも破けそうなぐらい脈打っているのを感じた。喉が震えていて、そのうち自分の意思とは関係なく叫んでしまうのではないかと不安になる。

 早く、早く、早く。自分の気持ちが爆発しないうちに、早く終わって。

 加奈子は祈るように心の中でそう呟き続け――――ついに咀嚼音が途絶えた。

 次いでカツカツと靴の踵で地面を蹴るような足音が、段々と加奈子達の潜む車の方へと近寄ってくる。加奈子の心臓の音も、大きくなっている気がした。もしかしたら『向こう』にも聞こえているのでは、と思ってしまうほどに。

 もしも田沼が身体を押さえてくれなければ、今すぐにでも扉を開けて逃げ出そうとしただろう。田沼が押さえてくれたから、加奈子はその場に留まり続け……

 ずるりと、外に転がっていた平次の亡骸が引きずられた。

「っ!」

 その瞬間、田沼が動き出す!

 田沼は車のドアノブには目もくれず、ひび割れた窓ガラスに渾身の蹴りをお見舞いする。車体の歪みによって脆くなっていたであろうドアガラスは、老体である田沼の蹴りでも簡単に ― 水没などで車内から脱出するためドアガラスは割れやすく出来ているらしい、という知識を加奈子は思い出す ― 粉砕された。人一人通れる隙間が出来、田沼が先に抜け出る。

 田沼は加奈子の手を掴み、力強く引っ張る。割れた窓ガラスは細かな粒となっていて、加奈子の身体を傷付けはしない。するりと抜け出し、加奈子の身体は再び地面を踏み締めた。

 無論、二本の足で立てた喜びに浸る余裕なんて今はない。

「ブギィィイイ……!」

 ぐちゃぐちゃと肉を食べる音と、獣の呻き声がすぐ傍から聞こえてくるのだから。

「……ゆっくり、刺激しないように離れるぞ。出来るだけ音を立てるな」

「う、うん」

 田沼の指示に従い、加奈子は先行する田沼の後をゆっくりと追う。

 後は此処から遠くに離れるだけ……離れるだけなのだが、しかし辺りの景色が目に入ると、一気に不安と絶望が心を満たす。

 何しろ周りは田んぼが一面に満ちた、開けた場所なのだから。稲穂が生い茂っていればまだ身の隠しようもあったが、刈り取られて地面が剥き出しとなっている今ではやりたくても出来ない事。そもそもイノシシといえば嗅覚に優れた動物だ。ネットだかテレビだかで、イノシシの嗅覚は犬にも匹敵すると加奈子は聞いた覚えがある。ちょっと離れた場所に隠れた程度では、きっと簡単に見付けられてしまうに違いない。

 助かる術はただ一つ。あのイノシシが追うのを諦めるぐらい、遠くに逃げる事のみ。

 加奈子と田沼は静かに、けれども駆け足でイノシシから離れる。短時間とはいえ車でかっ飛ばしていたお陰で、住宅地はかなり近い。何処かの家に逃げ込ませてもらえればなんとかなる……加奈子はそんな希望を抱いた。

「ビギオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッ!」

 その希望を打ち砕くように、おぞましい雄叫びが世界に響き渡る。

 食い終えたのだ。それでいて大柄な若い男性の脂肪も皮も内臓も、このイノシシの空腹を満たすには足りなかったに違いない。

 でなければ、加奈子は背中にギラギラとした視線を感じる筈がないのだから。

「っ! 走れ!」

 田沼が叫ぶ、が、加奈子の身体は命じられるよりも前に走り出していた。全身から一瞬で汗が噴き出すほどの、全身全霊のダッシュ。今ならきっと、運動部に所属しているクラスメイトの誰よりも速いに違いない。

 されどイノシシの足音は、ほんの数秒で一気に迫ってくる。

「危ないっ!」

 田沼は殴るように腕を伸ばし、加奈子を突き飛ばす。田沼自身もその反動を利用して、反対側へと飛んだ。

 二人して道を譲るように跳び、イノシシは加奈子達の間を飛ぶような速さで駆け抜ける。正しく暴走車が如くスピード。背中からもろに追突されたなら、背骨など一撃で粉砕され、内臓は余さず破裂するだろう。つまりは即死だ。ど派手な爆発の中で華々しく散るような、エンターテインメントっぽくて苦しくない死に方が希望である加奈子としては、半分ぐらいはお望みの死に方である。

 だが、それは老いてからの話だ。

「し、死んで堪るかぁっ!」

 今はまだ死にたくない――――生きたいという意思は、加奈子の身体を素早く立て直させる。

 イノシシの方も既に方向転換を終え、加奈子の方に狙いを定めていた。乾いた老体である田沼より、現役女子高生である自分の方が柔らかくて美味しそうとでも思われたのだろうか。全く嬉しくない名誉に、加奈子は苦笑いを浮かべる。

 イノシシは加奈子と目が合うや、猛然と駆け出した! 弾丸のような速さに加え、ぶわりと毛を逆立てた姿や充血した赤い目付きに、一瞬加奈子の身体は強張りそうになる。だが気合いでその硬直を打ち払い、さながら横綱が迫り来る相手を受け止めるような仁王立ちでイノシシを迎え撃つ。

 無論イノシシと真っ正面からぶつかり合えば即死である。しかし慌てて逃げたところで、車に追い着くほどの速さで走る相手から逃げきるのは不可能だ。

 ならば、ギリギリのところで躱すしかない。

「……ぃまだぁっ!」

 タイミングを見計らい、加奈子は思いきって跳躍! 暴走するイノシシは方向を変えきれず、加奈子が居た場所を通り過ぎる

「プギアッ!」

 間際、素早くその頭を振り上げた!

 これには加奈子の方が反応が間に合わない。振り上げられた頭、その口許にある大きな牙が刀のように振られ、加奈子の足を斬り付ける!

「あぐっ!? う、く……!」

 足に走る鋭い痛みに気を取られ、加奈子は着地に失敗。転がるようにして衝撃を受け流しどうにか怪我は避ける……が、体勢を立て直そうとした時、足に力が入らない事に気付く。

 あまり深いものではないが、太ももに長さ十センチぐらいの範囲で痛みがじわじわと走る。感じた事のない痛みの種類に堪え方が分からず、加奈子の目には涙が浮かんできて、堪えるために唇を噛み締めるばかりになってしまう。立ち上がる事に力を使えない。

「ピギィ……ギイィィ……」

「こっちだ! こっちを見ろ!」

 イノシシは動けなくなった加奈子をじっと見つめる。田沼が大声を張り上げたが、イノシシは見向きもしない。

 このままでは……加奈子の脳裏に最悪の未来が過ぎる。生存本能がようやく痛覚を凌駕し身体が動き始めるものの、体勢を立て直すにはもう遅い。

 イノシシの全身に力が滾るのと同時に、加奈子は血の気が引いていき――――

「伏せろっ!」

 その声が聞こえた時、反射的に身を強張らせてしまった。

 しかし声に続いて起きたのは、加奈子の身が突き飛ばされる事ではない。

 イノシシの咆哮に代わり鳴り響く、甲高い破裂音だ。彼方まで届いたのか反響して聞こえる大きな音だったが、加奈子の身には何も起きていない。

 影響があったのはイノシシの方。

 イノシシの身体から、黒ずんだ体液が噴き出したのだ。

「ブギッ!? ギイイアアアアッ!」

 イノシシは呻きを上げ、即座に猛り狂った叫びを上げながら加奈子が居るのとは別方向へと向きを変えた。加奈子もつられるように同じ方角を見る。

 視線の先、凡そ五十メートルほど離れた位置に居たのは、四つの人影。

 二つは制服を着た中年の警察官、残り二つは赤いジャケットを羽織った老猟師だった。四人ともそれぞれの銃のようなものを構えている。無論その銃口が向く先は、彼等に狙いを定めたイノシシだ。どんな銃を構えているのかは、暗い上に遠いためよく分からないが……動いている事から、弾を込めているのかも知れない。

 その間にイノシシも全身の筋肉を張り詰めさせ、臨戦態勢を整えていた。

「気を付けろ! そのイノシシ、物凄い速さで突進してくる! 普通じゃない! 加奈子は射線から離れろ!」

 田沼は大声でイノシシの情報を猟師達に飛ばし、加奈子に逃げるよう促す。警察官達は棒立ちしていたが、猟師二人の動きが変わる。より手早く、迅速になっていた。加奈子も痛む足を引きずりながら、少しでも四人の正面から離れようとする。

 人間には一目で分かる行動の変化も、ケダモノにはその意味すら理解出来ないのだろう。イノシシは爆発でも起こしたかのような、猛烈な加速で猟師達目掛けて飛び出す!

 恐るべき速さだった。五十メートルもの距離を僅か数秒で駆け抜けてしまうだろう。警察官は驚いたのか小さく跳ね、その身を強張らせる。

 されど猟師達は既に準備を終えていた。

 パアンッ! と耳をつんざくような破裂音と共に、猟師達の構える銃器から光が放たれる。するとイノシシは身体を仰け反らせ、呻きのような悲鳴、そして頭から血を撒き散らす。警察官二人の構えた銃もようやく破裂音と光を発し、ついにイノシシはその場に立ち止まった。

 しかしまだ倒れていない。何度も何度も、警察官と猟師はイノシシに鉛弾を喰らわせる。まるで映画に出てくるモンスターが如く、イノシシはこの猛攻に耐え続けたが……四回目の猟師達の攻撃を受けると全身を震わせ、ずしんと横に倒れた。

 しばしの間、誰も動かずにイノシシを注視する。

 そうして六人で見ている間、イノシシがぴくりとも動かないのを確認し、ようやく猟師と警官達は二手に分かれて加奈子と田沼の下へとやってきた。警官は持っていた銃を腰のホルスターにしまい、猟師も手に持った猟銃の銃口を地面に向けている。警戒態勢を解いていた。

「大丈夫ですか!?」

「怪我はないか!?」

「あ、は、はひ。あ、いや、足をちょっと……」

 そして警官と猟師に声を掛けられ、加奈子は困惑しながら返事をした。反射的に正直に答えると、二人は競うように加奈子の足に顔を近付ける。やましい考えがないのは真剣な表情からも分かるのだが、男性二人におみ足を見られ、一瞬加奈子の心臓がドキリと跳ねた。

「む、これは酷い。イノシシの牙で切り付けられたか」

「いや、でも太い血管は傷付いていないですね。皮膚の浅いところが裂けているだけ……勿論すぐに病院へ連れて行くべきですが。応援と救急車を呼びます」

「ああ、お願いするよ」

 猟師 ― 白髪のおじいさんだ ― に見送られ、三十代ぐらいの警察官は腰に着けていた無線機を手に取り離れていく。言葉通り、警察の応援と救急車を呼んでくれるのだろう。

「お嬢ちゃん、よく頑張ったな。もう安心だ。怖かったろう?」

 猟師のおじいさんに、加奈子は頭を撫でられる。

 最初は、いまいちピンと来なかった。

 けれども遠くに倒れ伏すイノシシの亡骸と、頭から伝わる感触、そして遠くから走ってくる田沼達の姿を見ているうちに……段々と、胸の中から感情が噴き出す。目頭が熱くなり、喉がなんだかよく分からない滅茶苦茶な感覚に見舞われる。

「……こ、ごわがったああああああ……うあああああああっ!」

 気付けば加奈子は、大声で泣き出してしまった。

「おう、そうだろうそうだろう。たんと泣いて、スッキリすると良い」

「ぐす、ひぐっ。う、うううう、うぐ……ずび……ひぅう……」

「加奈子! 大丈夫か!」

「おっちゃん……怖かったぁ……怖かったよぉ……!」

 近付き、声を掛けてきた田沼に、加奈子は跳び付いて泣き喚く。ついでに鼻水も押し付けた。田沼は一瞬顔を顰めたが、突き放したりはせず、頭を撫で、背中を摩ってくれる。

「すまなかったな。おっちゃんが頼りないばかりに」

「だよりなぐ、ないぃぃ……ありがどうぅぅぅぅ……」

「そう言ってくれるとこっちとしても気が楽になるな」

 田沼はしばし、加奈子をあやす事に注力してくれた。お陰で加奈子の気持ちは段々と鎮まってきたが、しかし離れたくない気持ちも強くなって、むしろ一層強く抱き付いてしまう。そんな自分が子供っぽくて、ちょっと恥ずかしい。

「しっかし、町中で撃っちまったなぁ。やっぱり免許剥奪化ね?」

「ま、そろそろ腰がキツくて、引退しようとは思っていたがね。こんな切っ掛けでもないと、人手不足の所為で引退すらさせてくれないからなぁ」

「……いえ、緊急時でしたからね。不起訴となるよう手配しましょう。必ずそうなるとは断言出来ませんが」

「勿論、辞めたいならその通りに処理させていただきますよ」

「ははっ! 話の分かる刑事さんだ」

「いえ、自分達は巡査長でして……」

 ちょっと意識を外に向けてみると、猟師達と警察官達の会話が聞こえてくる。

 どうやら町中で銃を撃った事へのお咎めも、特にはなさそうだ。自分を助けるために彼等が持つ猟師の資格がなくなるとなれば、申し訳ないなんて言葉ではとても足りない。安堵の気持ちと息に、不安な気持ちを外へと吐き出す。

 勿論、悲しみはすぐには消えない。

 平次と美香……二人の人間が、死んでしまった。自分が助かったのはイノシシが先に襲ったのが彼等だったからで、言い換えれば二人は自分達の代わりに犠牲になったようなものだ。如何に前向きで能天気な加奈子でも、彼等の死を忘れる事は出来ない。

 それでも自分達は生きている。生きて、元の生活に戻れる。

 悲しんだり、後悔したりは後だ。今はこの喜びに浸るとしよう……そう考えながら加奈子は田沼の身体に抱き付き、

「ブギイイイイイイイイッ!」

 不意に聞こえた咆哮で、一瞬にして身体の中の温もりが抜け落ちた。

 ――――あり得ない。

 幾らなんでもあり得ない。何故ならアイツは何発もの銃弾を喰らい、倒れたのだ。頭から血を噴いていたし、喰らった距離だって近い。生きている筈がない。

 しかしそう思う一方、加奈子は知っている。この世には人間の常識なんて一切通用しない、嘲笑い、蹂躙し、踏み潰してくる化け物がいる事を。一匹の魚が、地球という星すら狭苦しくなるほどの力を持ってしまう事があるという事実を。

 ならば『アイツ』が人間の常識を、どうして踏み潰さないと言える?

 加奈子は振り向いた。錆び付いた機械のような、そんなちんたらした動きではない。ネズミが猫の足音に気付くような、素早く鋭敏な反応。

 故に加奈子は、この場に居る誰よりも先にそれを目の当たりにした。

 銃弾を受け倒れ伏していたイノシシが、自分の足で立ち上がり、こちらを振り向こうとしている姿を……




という訳で今回の敵は、イノシシはイノシシでも、こんな感じのイノシシです。

次回は6/8(土)投稿予定です。


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輪廻拒絶5

「ブギアアアアアアアアアアアッ!」

 夜の町に、おぞましい雄叫びが響き渡る。

 そいつは頭や胴体からどぼどぼと血を噴き、明らかな致命傷を負っていた。されど赤い瞳はギラギラと輝き、膨れ上がった身体付きは今まで以上の活力を見せる。大地を踏み締める足は微動だにせず、己の力強さを見せ付けるかのよう。

 確かに、奴は生きている。

 全身に何発も銃弾を喰らった筈のイノシシが生きているのを、加奈子達は目の当たりにした。

「……んにゃろう、まだ生きてやがったか」

「気を付けろ。あっちは市街地に近い。外したら人に当たる危険がある」

「ふん、初心者じゃねぇんだ。そんなへまはしねぇよ」

 猟師の一人は猟銃を構え、イノシシに狙いを付けた。

 市街地での猟銃発砲。本来警察官はこれを止めねばならないのだろう。しかし二人の警察官は、猟師の行動を黙認する。

 死んだと思ったイノシシが、自分の足で平然と立っている……この異常な状況に、常識的な判断を挟む余地などないのだ。

「フゴ、ブゴッ、ブゴ……」

 イノシシは鼻息を荒くしながら、ゆっくりと加奈子達の方に歩み寄る。歩みはしっかりしており、弱っている気配もない。何時の間にか頭の失血は止まっていて、ひょっとして今まで戦っていたのとは別のイノシシが現れたのではないかと思えるほどの健全ぶりだ。

 全員が息を飲む中、イノシシは淡々と歩み寄る。三十メートル、二十五メートル……二十メートルまでやってきて、猟師はついに動いた。

 パアンッ! という強烈な破裂音。漫画やゲームで何度も聞いた典型的銃声と共に、鉛玉が放たれた。無論ただの人間である加奈子には銃弾なんて見えない。破裂音が聞こえたという事は銃が撃たれたのだと、連想ゲーム的に察するのが精々。しかしこの連想ゲームは確かなもので、間違いなく銃は撃たれた。

 そしてバスンッ、と布団を叩くような音がした事から、イノシシに命中した事も容易に察せられる。

 では、そのイノシシから血の一滴すら流れ出ないのは、どういう事か?

「……は? っ!?」

 撃った猟師は、慌てて弾を込め直す。もう一人の猟師も猟銃を構え、警察官達もホルスターにしまっていた拳銃を取り出した。

 そして一斉に、迷いなくイノシシに鉛弾を撃ち込む。

 イノシシの背後にあるのが市街地である事などお構いなし。非常に危険な行為だが、されど加奈子は彼等の行動が間違っているとは思えない。例えなんの罪もない『犠牲』が出ようとも、今ここでこのイノシシを倒さないと不味い……そんな本能の予感が、頭の中で渦巻くがために。

 しかし人間達の努力を、イノシシは文字通り無視する。歩みは止まるどころか遅くもならない。いや、むしろ段々と加速していて……

「っ! 不味い! 逃げろ!」

 田沼が発した警告を切っ掛けに、人間達は一斉に、散り散りになりながら逃げる! 加奈子も田沼と共に全力疾走でイノシシから離れようとした。

 逃げなかったのは、猟師一名だけである。

「何してるんだ! 早く逃げろ!」

「馬鹿野郎! こんな化け物畜生に背中なんて見せられるか! 目にもの見せてやる!」

 田沼が説得するも、猟師は構わず銃に弾を込める。その間もイノシシは猟師に接近。いよいよ数メートルほどの距離まで詰め寄った。

 そのタイミングで、猟師の方も弾丸の装填を終えた。慣れた手付きで素早く猟銃を構え、イノシシの頭に狙いを付ける。

「吹っ飛べ!」

 そして意気込んだ雄叫びと共に引き金を引き、猟銃から閃光が放たれた!

 数メートルという、銃としては至近距離での射撃。加えて射手は熟練のハンターである。弾丸は見事イノシシの眉間に撃ち込まれ、血肉が飛び散った。

 ほんの小さな、という修飾語が必要であるが。

「え、は……?」

 思惑通り弾丸を脳天に喰らわせた猟師は、呆けたような声を漏らすばかり。歩み寄るイノシシを前にして逃げようともしない……逃げきれるものでもない。

 イノシシは悠々と猟師に近付き、高々と前足を上げ――――猟師の腹目掛けて下ろす。

 極めて単純な動作で放たれた一撃は、十メートルは離れた加奈子達にまで微かながらに届く揺れを生じさせた。足が振り下ろされた猟師がどうなったかは、想像するまでもない。

 また一人、イノシシの犠牲となった。その事へのショックは勿論ある、が、それ以上に加奈子の心を浸食する疑問がある。

 あのイノシシは、なんだ?

 猟師達は間違いなく、イノシシに猟銃の弾を喰らわせていた。警察官達だって銃弾をお見舞いしている。銃というのは恐ろしい武器だ。警察官が持っているちっぽけな拳銃ですら、人間の命を簡単に奪える。拳銃よりずっと大きな猟銃の威力は、その更に上だ。

 しかしあのイノシシは全身に弾を撃ち込まれた筈なのに、立ち上がった。

「なんで、あの距離のライフルを喰らってピンピンしてるんだ!? さっきまで血を噴いていたのに……!」

 そして今に至っては田沼が独りごちたように、大きなダメージにすらなっていない。明らかに倒れる前よりも防御力が向上しているのだ。

 ……ふと加奈子は、お気に入りの漫画で「瀕死状態から復活するとパワーが劇的に上がる」という設定の種族がいた事を思い出す。あの設定はかなり好きだった。主人公がピンチから逆転する理由付けになっていたし、どんどん強くなる主人公というのはそれだけで魅力的だった。 

 だけどそんな種族が目の前に現れたなら?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()……割となんでも楽しめる加奈子でも、この状況を素直に楽しむほどお気楽ではなかった。

 人間達が唖然とする中、イノシシは仕留めた猟師を貪り始める。骨が砕け、肉が引き千切られる音が鳴り始めた……加奈子と田沼にとっては最早聞き慣れたその音も、警察官やもう一人の猟師にとっては初めてのもの。彼等は胃の中身を吐きながら銃を構えたが、しかし相手は猟銃すら通用しない化け物だ。今の武装でどうこう出来る相手ではない。

 誰もが言葉を失い立ち尽くす中、ふとイノシシが顔を上げた。全員が身体を強張らせ恐怖に震える。

 ところがイノシシの視線は、加奈子達の方を向いていない。

 市街地の方をじっと見ているのだ。町に行くつもりか? そう思ったのも束の間、町の方から聞き慣れた音が響く。

 パトカーと救急車のサイレンだ。町の方を見れば、赤く輝く光が見える。

「っ! こ、こちら宇和島! イノシシに襲われている! 救援を求む!」

 それが少し前に自分が要請した警察と救急車だと気付いた警察官は、無線機に向けて叫んでいた。

「ピゴオオオオオオオオオオッ!」

 その言葉に反応するかのように、イノシシは咆哮を上げ、鳴り響くサイレンの方目掛け突進を始める!

 一気に加速したその走力は、これもまた先の比ではない。田んぼの土を抉り飛ばし、暴走車すら生温く思えるスピードでかっ飛んでいく。田沼と自動車で逃げた時は時速八十キロ以上の速さで追い駆けてきたが、今はその倍近い速さで駆けているのではないか。肉眼での測定なので勿論正確性はないが、しかし加奈子はそのように確信した。

 突撃したイノシシはあっという間にパトカー達の下であろう、赤い光の側まで接近。続いて赤い輝きが、車がしてはいけない動きで揺らめく。パンパンと軽い破裂音が響き、そこで起きている惨事を物語った。

「……皆さんはあっちに逃げてください! 早く!」

 通信機を持っていない警察官が加奈子達に逃げるよう促してくる。加奈子と田沼、それから生き残った猟師の一人は一瞬の躊躇いの後、言われるがまま逃げた。そして警察官達は互いの顔を見合うと、一人が加奈子達のしんがりを務め、もう一人はパトカーの光がある方へと向かう。

 一瞬加奈子は足を止め、後ろを振り返りそうになる。

「加奈子、見るな。今は走れ」

 しかし田沼に言われ、振り向こうとした顔を止められた。こくりと頷いた加奈子は、遅くなっていた足を動かしてまた走り出す。

 必死に、がむしゃらに。

 前だけを見続けるようにしながら……

 

 

 

 長々としたメッセージが、スマホに何通も送られてきている。 

 普段なら、最初の数単語で興味を持てなければ面倒臭くて読むのを後回しにし、そのまますっかり忘れてしまうだろう。小田加奈子とはそのような、極めて大雑把でいい加減な人間なのである。

 しかし今日は、来ていたメッセージ全てに目を通した。何度も読み直し、しっかり返信もしている。

 危うく死ぬところだった経験の直後に来た、友達や家族からの文章を粗末にするほど、加奈子は薄情ではないのだから。

「……よいしょっとー、これで最後。はぁー、疲れたぁ」

「なんだ、メール打つぐらいで疲れたのか。最近の娘っ子は指すら貧弱みたいだな」

 ぐったりしていると、田沼からおちょくるような言葉が掛けられる。加奈子はへらへらと笑いながら、むくりと背筋を伸ばした。

「だってさー、普段なら『り』とか『そマ』で済ませるやつに、ちゃんと返していたんだもん。というかメールじゃないし」

「……り、ってなんだ?」

「了解の意味。長いじゃん、わざわざ了解なんて打つの。『り』で通じるんだし」

「長いって……」

 若者言葉にショックを受ける田沼の姿が面白く、加奈子はくすくすと笑いを零す。田沼は肩を竦め、考える事を放棄したようだ。

 そうして話が終わり、無言の時間が流れると、途端に加奈子は心細い気持ちが込み上がる。そわそわしながら、加奈子は辺りを見渡した。

 加奈子達が居るのは地元の公民館。その内部にある、体育館のような大きなホール内だ。今の時刻は既に夜九時を回り、本来なら閉館している時間帯だが……加奈子も田沼も、追い出される事はない。

 何故なら今、この場には加奈子達以外にも大勢の人々――――近隣住民が避難しているのだから。

 警察官達が話していた噂話曰く、田んぼにてイノシシと遭遇した警官隊は『壊滅』したらしい。

 その警官隊とは恐らく、通報により加奈子達の下へとやってきたあのパトカー達の事だろう。壊滅とは即ち敗北したという事であり、あの恐ろしいイノシシは未だ野放しという事だ。自動車をひっくり返すほどのパワーがあるイノシシなのだから、家の扉や窓をぶち破るぐらい訳ない事は容易に想像出来る。そのため建物内ですら安全とはいえず、イノシシが現れた田んぼ近隣の住民の自主避難が行われたという訳だ。

 加奈子達は逃げ回っていたところを巡回していた警察に保護され、此処に連れてこられた。本当なら加奈子は家族と共に居たかったが、幸か不幸か避難所から自宅までは遠く、送迎に使える車なんて今はない。歩いて行くなど自殺行為なので、我慢するしかなかった。スマホで連絡は取れたので、家族も多少は安心してくれているだろうが。加奈子が足に負った傷も応急処置 ― 消毒と包帯を巻く程度だが ― は済んでおり、病院には明日出向けば多分問題ないと医療関係者(とある町医者)からお墨付きをもらっている。

 ……こうして自分が助かった裏で、無数の骸が積み上がっていると思うと、酷く苦しい気持ちになる。

「おーい! 田沼さん!」

 そんな感情を抱き気持ちが沈んでいたとそろ、ふと大きな声が聞こえてきたので、加奈子はびっくりしてしまった。

 反射的に声がした方に振り返ると、そこには猟銃を持った老猟師一人と、同じく猟銃を持った三十代ぐらいの猟師が二人居た。老猟師は加奈子の隣に居た田沼の名を呼び、田沼が笑顔を浮かべた事から、田沼の知り合いらしいと分かる。

「おお、土方(ひじかた)さん。久しぶりです……あなたも駆り出されたのですか?」

「ええ、その通りで。あ、こちらは息子達です」

「浩一です」

「正夫と言います」

「最近猟銃の免許を取りまして……お陰でコイツらまで駆り出されてしまいましたよ」

 ガハハと笑う土方 ― 下の名前が分からないので、加奈子は父親の方をこう呼ぶ事にした ― だったが、その顔には何処か不安と憂いがあった。

 それも当然だろう。駆り出されたという事は、彼等は人食いイノシシと戦うため、或いはこの施設を人食いイノシシから守るため呼ばれたに違いない。自分の息子が人食いイノシシと戦う事になったのだから、心配もするというものである。

 浩一もその顔付きは勇ましさよりも不安が大きそうだ。正夫の方は、あまりそういった気持ちを感じさせなかったが。

「実は田沼さんが人食いイノシシと出会ったと聞きまして……出来れば、どんな相手だったか知りたい。分かる範囲で良いので、教えてくれませんか?」

「……それは構いませんが、その……」

 土方に問われ、田沼は言葉を濁らせる。同時に加奈子の方をちらりと見てきた。

 恐らく、自分のメンタルを気遣っているのだろう。それが分かる程度には、加奈子も人の気持ちを汲み取れる。こくりと頷き、「大丈夫」の意思を示した。

「……分かりました。分かる事で良ければ」

 加奈子の覚悟を察し、田沼は自分達が出会った人食いイノシシについて語る。

 田沼の話す内容は、同じ光景を見ていた加奈子にとっても間違いのないものだった。むしろ加奈子よりも正確に覚えており、田沼があの状況下で情報をしっかり分析していた事が窺い知れる。自分などわたふたするばかりだったのにと、加奈子は田沼の事を見直す。

 ともあれ正確な情報だったのだが、土方達は怪訝そうに顔を顰める。困惑、というよりも疑心の念を感じさせた。

「……それは、その……本当なのですか?」

「そう思うのは無理ないですよ。俺だって、出来れば今でも冗談だと思いたいぐらいですからね」

 向けられた疑念の言葉に、しかし田沼は機嫌を損ねる事もない。返事を貰った土方は、バツが悪そうに顔を田沼から逸らした。

「あ、ああ。いや、すみません。田沼さんの話を疑うなんて、どうかしてましたな」

「気にしないでください。当然の反応です。むしろ俺の言葉だからと、なんでも受け入れられては困ります。冗談一つ言えなくなりますから」

「ははっ、それもそうですね……しかし、猟銃を至近距離で喰らってもピンピンしてるとは……」

「当たり所が悪かったんじゃないですか? 人間にとって、ですが」

 未だ信じられない様子の土方に、息子である正夫が自分の意見を伝える。

 至近距離で撃ち込んで当たり所なんてものがあるのか、猟などした事もない加奈子には分からない。が、あり得ない事ではないのだろう。田沼達の沈黙が、正夫の意見を肯定していた。確かにFPS系のゲームで遊んでいても、パニック状態で撃った弾は至近距離でも殆ど当たらない。加奈子は自分の経験を当て嵌め、正夫の意見の現実味を実感した。

 しかし、加奈子にはもう一つ気になる点がある。

「あの、すみません。猟銃だけじゃなくて、ピストルも、たくさん撃たれていたのですが……」

 イノシシに撃ち込まれていたのは、猟銃の弾だけではない。警察官が撃ち込んだ、拳銃の弾だってある。一発二発なら兎も角、拳銃の弾を無数に撃ち込まれて死なないのも、不自然ではないか?

 その疑問への答えは、田沼が教えてくれた。

「動物の骨や毛皮は、人間が思う以上に分厚くて頑丈だからな。拳銃の弾だと通じない事もある」

「あ、そうなんだ……」

「とはいえ、あくまで簡単には倒せないって話だ。十数発も撃ち込めば致命傷になるだろうし、目玉から脳を貫けば一発だろう。まぁ、動物ってのは脳みそぶちまけながら走ってきてぶん殴るとか平気でやってくるから、一撃で倒せる威力がなきゃ危ない訳だが。拳銃の弾を何十発撃ち込んでも死なない、というのも確かに奇妙だな」

「出会った警察官が全員下手くそで、ちゃんと当てられなかっただけかも知れないですよ」

「……正夫。あまり不用意な事は言うな」

「へいへい」

 皮肉混じりの正夫の意見を、浩一が窘める。亡くなった方に対し失礼な発言ではあるが……あり得ない、とは言えないだけに、いまいち否定し辛い。

 実際、加奈子達は倒れたイノシシを至近距離で検診した訳ではない。猟銃で撃たれた瞬間頭から血が噴き出たところも見たが、人間の場合頭の出血は傷の深さと比べて激しく出るものだという話を聞いた事がある。イノシシも人間と同じで、単に血の出方が派手なだけだったかも知れない。肉も飛んでいたが、頭皮の一部が吹き飛んだだけなら死にはしないだろう。正夫が言うように、当たり所が人間にとって良くなかっただけだとしても、加奈子達が目撃した光景とは矛盾しない。

 自分達の命を助けてくれた人々が無能だとは、加奈子としては思いたくないが……そうでないと人食いイノシシへの勝機が見えず、複雑な気持ちだった。

「ま、相手がイノシシ離れした怪物だろうと、ただの幸運な獣だろうと、いざ出会ったら撃つしかないんだ。その時は急所をよく狙うようにしますよ。それで駄目なら……そういう事なんでしょう」

「そうですね。まずは、本当にあのイノシシに銃が効かないのかを確かめるべきだと思います。俺の勘違いという事もありますから」

「……良し。田沼さんの話は、俺の方から他のメンバーにも伝えておきます。やる事が変わるとは限りませんが、事前に伝えておけば心構えも出来ますからな」

「すみません、土方さん。お願いします」

「任せてください」

 快活に笑いながら、土方はその場を後にしようとする。浩一と正夫も、土方を後を追うように去ろうとした。

 三人との話が終わったと思い、加奈子は意識を三人から外す。気を抜いた、という訳ではなく、集中させていた意識を拡散するようなイメージだ。そしてこの場に居る誰よりも加奈子は若く、健康だった。

 故に、加奈子の耳だけがその『音』を聞き取る。

「……おじさん、なんか聞こえない?」

「? 何かってなんだ?」

「いや、なんかわーわー言ってるような……玄関の方だと思うけど」

 自分で言いながらもいまいちハッキリとした感覚が持てず、加奈子はホールの玄関に視線を向けた。

 目に映り込むのは、自分達から五十メートルは離れた先にあるホールの玄関口に、ぞろぞろと集まる警官達の姿。遠くに居る彼等の声は聞こえず、顔もあまりよく見えない。しかし慌ただしく走る姿、通信機らしき物へと叫ぶ姿、そして避難者達を部屋の奥に押し込もうとする姿……どれを見ても、何か良くない事が起きていると窺い知れた。

「……浩一、正夫。お前達は他の避難者達の傍に居ろ。俺は警察の人等に話を聞いてくる」

「親父、気を付けてくれよ」

「俺も一緒に連れてけよ。守りに入るのは癪だ」

「……駄目だ。お前達はそこに居ろ」

 土方は息子達を残して玄関口へと向かい、正夫は舌打ちをしながら、浩一は黙って加奈子達の傍に立つ。二人の手が腰にあるポケットに伸び、そこから一発の弾丸を抜き出したのを加奈子は見落とさなかった。

 そうだ。今この時、警察官達がざわめくとしたら『アイツ』しかいない。誰もがそれを分かっている。

 だとしてもそれはきっと、近くまで来ているだとか、増援が欲しいだとか、上層部が無茶ぶりしてきただとか……そういう話の筈だ。そうだと加奈子は思いたかった。

 だが、心の奥底では気付いている。

 友達の花中が予想した通りなら、『アイツ』は常に空腹だ。大量のエネルギーを求めている。しかし町中の人々が避難し、何処を探しても餌が見付からない状況だ。このままでは餓死してしまう。

 そして『餌』は今、一ヶ所に集まっている。『アイツ』の、テレビ曰く犬並に優れているという嗅覚ならば此処を見付け出せるだろう。

 襲撃しないなんて、ナンセンスだ。

「皆さん! 奥に! もっと奥に入って! 入口は危険です! 早く奥に!」

「だ、駄目だ! 抑えきれない!」

 警官の悲痛な叫びが聞こえてきた時、加奈子は自分の願望を諦めた。

 直後、ホールの一角が爆破でもされたかのように吹き飛ぶ!

 粉塵が舞い上がり、衝撃によるものか玄関口近くに居た警察官数人が空を飛ぶ。避難者達の悲鳴がホール内にこだましたが、されど爆音はそれをも掻き消した。舞い上がったコンクリートの一部が雨のように降り注ぎ、女子供関係なく襲い掛かる。

「ブギオオオオオオオオオオオオッ!」

 その悲劇を嘲笑うかのように、聞こえてくるおぞましい鳴き声。晴れた粉塵の中から現れたのは、加奈子にとっては最早見慣れた生物。

 人食いイノシシだった。

「……マジかよ。コンクリートを吹っ飛ばすなんて、マジモンの怪獣だな」

「冗談言ってる場合か!」

 まさかこれほどのパワーがあるとは思わなかったのか、呆けたようにぼやく正夫を浩一は一喝する。我に返った正夫は、獰猛な笑みを浮かべながら猟銃に弾を込めた。

 そして正夫は、一人入口の方へと駆ける。

「なっ!? おい、お前!」

「守りに入るのは性に合わねぇ! それに、あんな化け物相手じゃ人手が幾らあっても足りないと思うぜ!」

 引き留める浩一を無視して、正夫は人食いイノシシの下へと駆け寄ってしまう。

 人食いイノシシの出現に、誰もが最初は固まっていた。されどイノシシがぼりぼりと何かを食べ、吐き出したものが人の腕だと気付くと、警察官と猟師達は顔を引き攣らせながら銃を構える。

 警察官達十数人と猟師十数人は、堤防のように人食いイノシシの前に横並びとなる。包囲をしないのは、外れた銃弾が仲間に当たる可能性があるからだろう。誰かが指示をした素振りはないが、事前に打ち合わせしておいたのか、銃を使う身として自然と判断したのか、その陣形はスムーズに作られた。

 そして攻撃タイミングもぴたりと一致していた――――誰もが一斉に、我慢出来なかったのだろう。

 警察官達の拳銃が、猟師の猟銃が次々と火を吹く。日本では聞き慣れない火気の音に避難者達は一瞬慄き、しかしすぐに喜びが顔に浮かんだ。例え銃社会の住人でなくとも、日本人は銃が強い武器である事を知っている。人食いのケダモノが、科学の力で膝を突くのだと確信していた。

 事態を正しく予想出来たのは、加奈子と田沼だけだろう。

 イノシシに当たった銃弾が、全て易々と弾かれる未来を予想出来たのは。

「お、おい!? 銃弾が効かないぞ!?」

「不味い、弾が……装填す」

 警察官の一人が装填を知らせた、まるでそのタイミングを見計らったかのようにイノシシが動き出す! 猛然と駆け寄ったイノシシは装填しようとした警察官に跳び掛かり、鋭い牙を有した口で腹に噛み付いた!

「ぐえっ!? だ、助け――――」

 噛み付かれた警察官が苦しそうに助けを求めた、が、その声は半ばでぶつりと途絶える。

 代わりに、ズゾゾゾゾッ! という身の毛もよだつ怪音が鳴り響いた。

 音はほんの一~二秒で鳴り終わり、するとイノシシは乱雑に警察官を放り投げる。投げ捨てられた警察官はホールの床に落ちたが、ピクリとも動かない。

 他の警察官達は慌ただしく投げ捨てられた警察官の下へと集まる。彼等は倒れた警察官の頬を叩くなどしたが、やはり彼が起き上がる事はない。一人が足を持ち、もう一人が上半身を抱え、安全な場所まで運ぶために持ち上げた。

 彼等はその瞬間に気付いたのだろう。

 それよりも前に、加奈子は察していた。あの不気味な音が、花中からの言葉が、イノシシの『意図』を教えてくれた。

 イノシシは喰ったのだ、人間の()()だけを。皮の下の脂肪を食べる時間を惜しみ、筋肉を裂いてもぐもぐと食べる事さえ省いたのだ。より高栄養価である内臓だけを吸い取る事で、更に効率的な食事が出来るようになったがために。

 つまり奴は、一人の人間を喰い殺すのに三秒と掛からないという事。

 この場に居る警察官と猟師の数は約三十人……一分半で、ご馳走様だ。

「み、みんな、逃げ……!」

 加奈子は咄嗟に叫ぼうとした。しかしその口は、脳裏を過ぎった記憶により阻まれる。

 ホールの出口は二つだけ。今、イノシシが陣取っている玄関と、玄関と向かい合う位置にある非常口のみ。誰でもそれに気付いている。だから誰もが目指す。

 人が一度に二人も通れないような、狭い出口を。

「ば、化け物イノシシだああああっ!?」

「キャアアアアアアアアッ!?」

「おかああさぁぁん! おかああさぁん!?」

 悲鳴がホール内を満たす。誰もが自分や、自分の家族を守ろうとして出口に殺到。押し合いへし合い、誰一人として外に出られない。口論が巻き起こり、暴力が場を支配する。これでは加奈子達も逃げられない。田沼と共に、棒立ちするしかなかった。

 その間も警察官と猟師は銃をイノシシに撃ち込み続ける。猟銃は装弾数の関係からか連射こそ出来ていないが威力の高い一撃を、警察官は威力こそ低いが連発出来る拳銃で応戦。並の生物なら、とっくにくたばっているほど苛烈な攻撃を加えていた。

 しかしイノシシは健在。

 受ける銃弾など気にも留めず、イノシシは次々に警察官や猟師を喰らっていく。三秒で一人の仲間が中身だけ喰われ、何時自分に狙いを定めるか分からない……恐怖がチームを支配し、半狂乱の銃撃戦が繰り広げられる。最早前線は崩壊したも同然。

 このままではイノシシは戦う者達を食べ尽くし、市民を貪り始めるだろう。

「畜生が、図に乗るんじゃねぇ!」

 諦めと絶望が警察官と猟師に広がる中、一人の若者が声を荒らげた。

 正夫だ。

 彼は勇ましい声と共に、なんとイノシシに向けて突撃! 人が射線に入り、猟師達と警察官達は咄嗟に銃口を上に上げる。イノシシも獲物の方から近付いてきたと思ったのか、中身を吸い取った猟師の亡骸を投げ捨て、正夫と向かい合う。

 正夫は銃口をイノシシの方に向けず、あくまで突進を続ける。イノシシはおどろおどろしい鳴き声を上げながら前傾姿勢へと移り、そして正夫目掛け走り出す! 自動車すら突き飛ばすエネルギーを加速に費やし、イノシシは弾丸が如く速さに達した。

 その瞬間を見極めた正夫は、滑り込むように姿勢を低くする。

 ホールの床は正夫の身体を滑らせ、イノシシの口は正夫が居た場所を空振り。されど野生の反応速度は、正夫が自分の下に潜り込もうとしたのを捉えていた。素早く視線を下に向け、正夫に喰らい付こうと大口を開けた

 刹那、正夫は猟銃の先をイノシシの口の中に突っ込んだ。

 『獲物』が自ら口に跳び込んできたのは初体験だったのか、イノシシの動きが止まる。それはきっと僅かな時間の事だろう。しかし僅かでも止まれば十分。

 引き金に掛かった指を引くだけで、銃弾は放たれる。

「腹減ってんなら、鉛玉でも食っとけ」

 正夫の宣言と共に猟銃は火を吹いた。

「ブギィイイィィアイイィギイイイィィィィイイ!?」

 体内から直に弾丸を受け、イノシシは咆哮を上げて苦しむ。口の中から黒ずんだ血液をばらまき、胴体の下に居る正夫の身体を汚した。正夫は顔を顰めながらも素早く転がり、イノシシの下から脱出する。

「ギィ、ギイィィ、プギィイィィ……!」

「今だ! 全員で身体に喰らわせろ!」

 そして苦しむイノシシへの攻撃を、正夫は大声で指示した。

 一瞬、ほんの一瞬だけ猟師達と警察官達は呆けたように立ち尽くす。されどすぐに我に返り、弾を込めながらイノシシに接近。

 動きの鈍くなったイノシシの胴体に、銃弾を集中させる。

 頭ほど硬くはないのか、胴体は銃弾を受けるほどに傷付き、イノシシは悲鳴を上げる。苦しむイノシシに射手達は距離を詰め、より高い威力の射撃を加えた。

 イノシシの動きは徐々に弱くなり、ついには膝を突く。それでも射撃はしばし続き……やがて弾を再装填した正夫が、イノシシの右目に猟銃を突き付けた。

 そして無言のまま、一撃。

 目玉のすぐ後ろには、脳が存在する。穴の空いた眼球からは黄土色の何かがごぽりと吹き出し、どろどろと流れ出た。イノシシは全身を痙攣させ、俯せに倒れたまま静かになる。

 更には念のためとばかりに、正夫は角度を変え、目玉の中で猟銃を発射。他の猟師や警察官も、胴体に密着した状態で撃ち込み、止めを刺す。

 きっと本来の猟では、あり得ないほど念入りな止めなのだろう。猟師達と警察官達の目には憎悪が浮かび、仲間の仇討ちをしているようだと加奈子は思った。事実、このホールでの激戦だけで、警察官と猟師が二人ずつ亡骸として床に転がっている。彼等が抱くイノシシへの怨みは相当大きいに違いない。

 何十発もの実弾を与えてから、猟師達と警察官達はイノシシを取り囲む。それから話し合いを始めた。暗い雰囲気はなく、むしろ段々明るくなっている。

「皆さん! 安心してください! 人食いイノシシは間違いなく退治しました!」

 やがて一人の警察官が、加奈子達一般市民にそう宣言する。

 その言葉を理解するのは、平時ならばすぐだろう。しかし混乱していた市民の頭は、中々警察官の宣言を理解しない。

 それでも出口に殺到しようとする動きを止めるだけのパワーはあり、

「や、やったああああっ!」

「助かった! 助かった!」

 しばらくして、市民達は喜びを表現するのだった。

「……良かった……」

「ああ、良かったよ。本当に」

「全く、アイツは本当に……」

 加奈子の独り言に、田沼も同意する。正夫の兄弟である浩一だけが、呆れたようにため息を吐いた。

 警察官と猟師が集まり、話し合った末に出た結論である。今度こそ、イノシシは間違いなく死んだのだ。人食いイノシシ騒動はこれで幕を閉じた。

 安堵していると、自分達の方へと駆け寄る二つの人の姿に加奈子は気付く。見れば、それは土方と、すっかり黒く汚れた正夫だった。

「土方さん、無事で何よりです」

「ははっ、なんとか生き残れましたよ……全く、とんでもない化け物でした。コイツも無茶をするし、生きた心地がしませんでしたよ」

「銃が効かねぇ化け物には、内側から攻撃する。モンスター映画の基本だぜ? ま、銃じゃなくてダイナマイトが欲しかったけどな」

「調子に乗るんじゃない!」

 土方に叱られても、正夫はへらへらとした笑みを浮かべる。誰にも勝てなかった大物を退治したのだから、調子付いても仕方ない。加奈子が同じ立場なら、一月は周りに自慢するだろう。浩一も呆れ顔だが、父親に加勢しない辺り気持ちは分かるのだ。誰だって彼の笑顔に同意する筈である。

 むしろ土方のお説教が終わるや、顔を顰める正夫自身の態度の方が不自然なぐらいだ。

「……どうしましたか? 怪我でも、したんですか?」

「ん? ああ、いや、アイツの臭ぇ血が掛かっちまってな」

 加奈子が訊くと、正夫は苦笑いを浮かべながら答える。

 確かに、嬉しさに舞い上がって気付けなかったが、正夫からは酷い臭いが漂っていた。血の臭い、ではない。これは腐敗臭だろうか。甘いような酸っぱいような苦いような、鼻がひん曲がりそうな臭さ――――

 そう考えて、加奈子はぞわりと身体を震わせる。

「……あ、あの、おじさん……一つ、訊いて良い?」

「あん? なんだ?」

「動物の血って、どれぐらいで腐るの?」

「どれぐらいって、まぁ、肉よりは腐りやすいと言われているな。そうだな、温度などを考えると三十分……」

 加奈子は田沼に尋ねる。尋ねられた田沼は、途中まで答えるも言葉を途切れさせてしまう。

 沈黙が全てを教えてくれた。

 あり得ないのだ。血が、ほんの数分で腐敗臭を発するなんて事は。腐敗のメカニズムは加奈子だって知っている。雑菌がタンパク質などを分解するという事だ。その過程でアンモニアや硫化水素、更には何かしらの ― 人体にとって有害、無害に関係なく ― 物質が発生する。腐敗臭が漂うという事は、既に雑菌が繁殖し、色々分解されているという証だ。

 テレビでやっていた。食中毒菌の中には、二十分かそこらで分裂し、倍に増える菌がいると……イノシシが倒れてから、まだ十分も経っていない。仮に十分で倍に増えたところでなんだ。お昼に食べ始めたお弁当が、食べ終わる頃には腐敗臭を漂わせているなんてあり得ないではないか。

 明らかにおかしい。

 先程まで生きていたものが、ほんの数分で腐りきるなんて、あり得ない。

 安堵の気持ちは一転し、加奈子は顔を青ざめさせる。視線は無意識にイノシシの方へと動く。

 俯せに倒れているイノシシは、加奈子に顔を向いていた。正夫が執拗に撃ち込んだ右目はぽっかりと穴が空いていたが、左目は未だに無傷。

 その左目は赤く充血していた。虚ろで、狂気めいて、不気味で、おぞましくて……()()()()()()()()()()()()()()

「に、逃げてぇぇぇぇぇっ!?」

 気付けば加奈子は、無意識に叫んでいた。

 ホール中を満たしている喜びの感情を上回る悲鳴。誰もが加奈子の方へと振り向く。しかし加奈子の訴えを聞き入れ、逃げる者は誰一人としていない。

 当然だ。何から逃げれば良いのか、誰にも分からないのだから。

 脅威は、去ったのである。

「おい、加奈子どうした?」

「おっちゃん! 早く、早く此処から逃げて! アイツが、アイツが……!」

「落ち着け。どうしたんだ、アイツってイノシシの事か? それならもう退治しただろう?」

 錯乱する加奈子を宥めようとする田沼だが、それがますます加奈子を焦らせる。

 腐敗臭の異常さに気付いた田沼でも、加奈子の『考え』には至っていない。近くに居る土方や正夫、浩一も困惑するばかり。彼等はあの目をちゃんと見ていないから? それもあるだろう。

 しかし何より、彼等は猟師だった。命のやり取りをし、命を奪い、命を頂く仕事に就いていた。彼等は誰よりも命の尊さを知り、命の儚さを実感している。彼等にとってそれは起きてはならぬ冒涜であり、祈る事すらおこがましい愚行なのだ。ましてや自分達の手でやりながら考えるなど、言語道断であろう。

 いや、彼等だけではない。ゲームばかりしている小学生だって、そんな事はあり得ないという事を知っている。小学生の親だって信じていないし、他大勢の人々だって考えもしない。

 だから、加奈子だけが気付く。加奈子だけが怯える。

「分かった、怖かったよな……家に帰ろう。もう大丈夫だからな」

 田沼は加奈子の背中を摩りながら、ちらりと土方達の方を見遣る。土方は頷き、田沼の『意見』を受け入れた。

 加奈子は田沼に促され、非常口の方へと歩き出す。浩一と正夫、土方も一緒に来てくれた。

 全てが終わってから叫んだ加奈子に、市民達はひそひそと話ながら加奈子の方を見ている。喜びを邪魔されて怒りの目を向ける者、気違いを見るような侮蔑の眼差し、同情の眼……様々な視線が、加奈子に突き刺さった。

 それでも加奈子は自分の感情に従う。間違っていても構わない。それはとても喜ばしい事なのだから。人々の安寧が、本当に守られたという事に他ならない。自分が気違いになるなど些末な話である。

 ――――加奈子にとって残念な事に、加奈子の正しさは証明されてしまうが。

「ギギギギオオオオオオ……」

 地響きのようなケダモノの声が、した。

 人間達は誰もが固まった。逃げようとしていた加奈子もまた固まる。

 そしてホール内に居た全員が、一斉に振り返る。故に全員が、ハッキリと目の当たりにした。

 倒れ伏していた筈のイノシシが、四本の足で立つ姿を。

「……マジ、かよ」

「馬鹿な、あり得ない……あり得ない……!」

 正夫は呆然と呟き、土方は否定するように何度も同じ言葉を呟く。しかしイノシシは倒れない。

 しかと足は大地を踏み締め、全身の筋肉が膨れ上がる。体躯は先程よりも一回りほど大きくなっていた。穴の空いた眼球はうぞうぞと肉が蠢き、少しずつだが埋まっている。蠢く肉は半透明で、赤く充血し……無傷である左目と同じ材質であるように見えた。

 やがてイノシシは、人々の方を振り向く。涎をだらだらと垂れ流し、呻きを漏らし、激情を露わにする。

 唯一感じさせないのは、生気のみ。

 加奈子は理解した。猟師達も現実を受け入れた。市民達も全てを察した。

 あのイノシシは、()()()()()()

 死体が、自分達を喰おうとしている!

「っ!」

 起き上がったイノシシを前にして、警察官達は全員腰のホルスターから素早く短銃を取り出す。猟師達も猟銃に弾を込め、構えようとする。加奈子が見る限り、もたついた人はいない。全員が最高のスピードを以てして、最良の動作で動き、最善の判断を下した。

 されどイノシシの速さは、全てを台なしにする。

「ブオオゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 咆哮でホール全体が揺れた。ビリビリと大気が震え、大勢の人が突き飛ばされたように倒れる。警察官や猟師のみならず、市民達も、だ。

 イノシシにとってそれはチャンスである。

 膨大な数の人間……それを一気に喰らうには、今こそが好機だった。

「ブゴフッ!」

「ぎゃ――――」

 イノシシは猛然とダッシュし、一人の若い女性に喰い付いた。恐らくは群衆の中で一番イノシシと近かった……ただそれだけの理由で。

 ジュポッ、と間の抜けた音がしたのはそれから間もなくの事。イノシシが乱雑に女性を後ろへと放り投げ、女性は四肢を広げたふしだらな体勢で横たわる。

 女性は、痙攣すらしない。

 当然だ。あの女性にはもう『中身』が入っていないのだから。

「う、わあああああああああああっ!?」

 情けなく、それでいて誰もが上げたがっていた悲鳴を、誰かが上げた。誰が上げたものかは分からない。

 悲鳴と共に、全員が一斉に逃げようとしたのだから。

「加奈子! 手を離すな!」

 田沼は加奈子の手を握り締め、全速力で走り出した! 加奈子も必死に後を追い、田沼と共にこの場から逃げる。

 加奈子は正しい選択をしていた。イノシシが()()()と思わず、今すぐ此処から逃げようとしていた。だから既に非常口の近くまで来ていて、人混みに揉まれ、幾らかの時間を取られながらも外へと出る事が出来たのだから。土方達も一緒だ。

 しかし大部分の者は違う。

 安堵していた。油断していた。それを判断ミスと断じるのは簡単だ。されどどうして脳に銃弾を喰らった生き物が蘇ると思うのか? そんな事は常識的にあり得ない。例え世界中で核兵器すら通じぬ怪物が現れるようになったとしても、死が覆ってはならないのである。

 だから逃げ遅れた。

 だから彼等は、餌となる。

「ひっ、止め、ぎっ!?」

「ぐぇっ!? たす……」

「おかあさああん! おかあさあぁぁぁぎゅ」

 次々と、人々の断末魔が不自然な途絶え方をする。ドサドサと亡骸の積み重なる音が、死の音色が連なる。

 イノシシの食事は、最早二~三秒という時間すら掛けない。一秒と発たずに吸い終わり、次の瞬間には空っぽの亡骸を放り捨てている。二十秒も発てば二十人が死に、されどイノシシの食欲は未だ収まらない。

 このままでは何十もの人々が、奴の食事だ。

「畜生がっ! もう一度脳みそ引っ掻き回して、死体に戻してやるっ!」

 そんな結末は認めないとばかりに、一人の老猟師がイノシシ目掛け突撃する! 周りの猟師が引き留めようとしたが、老猟師は止まらない。

 先の戦いで、胴体や頭部へと射撃が殆ど通用しない事は分かっている。密着して射撃をしても、止めを刺すなら兎も角、動きを止めるには不十分。再びあのイノシシを止めるには、弱点を突くしかない。

 市民を喰らうのに夢中なのか、死んでいるから思考力がないのか。イノシシは猟師達が接近しても、逃げたり立ち向かったりする気配もない。老猟師はゆっくりと銃を構え、再生しきった右目に狙いを付ける。

 イノシシは市民を襲う瞬間、激しく頭を動かす。だがその動きは極めて単純。老猟師の熟練した腕前と経験を持ってすれば、動きを予想するのは容易い。

 ライフルは火を吹き、鉛玉を吐き出す。回転しながら正確に直進する弾丸は、見事イノシシの眼球を捉え――――

 ガキンッ、と甲高い音を鳴らして、弾かれた。

「……!? 外した……?」

 予想外の結果に、老猟師は驚き混じりに呟く。

 唖然としている間に、また一人、また一人とイノシシは市民を喰らう。我に返った老猟師はイノシシを憎悪の眼で睨み、経験を積んだ手は無意識に正しく銃弾を込めていった。

 老猟師が動きを止めたのは、装填が完全に済んでから。

 ――――イノシシの目が()()()()

 充血していた筈の目が、今は白くなっている。充血が治ったのか? 微かな違和感を抱かせる姿の答えは、すぐに明らかとなった。

 白い目玉が裂け、中から赤い目玉が露出したのである。

 それは膜だった。イノシシの目を覆うような膜が展開し、弾丸を防いだのだ。至近距離からのライフル弾を防ぐ、その強度が驚くべきものなのは言うまでもない。しかし何よりも恐ろしいのは、通常のイノシシには目を覆う膜など存在しないという事。そしてこの人食いイノシシですら、つい先程倒れる前までは有していなかった特徴だという事。

 目の当たりにした誰もが気付いただろう。このイノシシが、死ぬ前よりも強くなっていると。それも目から脳を撃ち抜かれたと理解し、弾丸を防ぐような『進化』を遂げたのだと。同じ手は二度も通用しない。不必要な攻撃は無意味どころか、半端に効いてしまえばより進化させ、折角の打つ手を潰してしまう可能性すらある。

 闇雲な攻撃は悪手でしかないのなら、今の猟師達に出来る最善の手は明白だ。

 未来の作戦の芽を摘まないために、静観する事である。

「……出来るか、そんな事っ!」

 しかし人間は、理論のみで生きてはいない。

 猟師達は、そして警察官達は、イノシシに銃撃をお見舞いする。今襲われている人々を守るために、命懸けの突撃を敢行した。

 未来の人間にとって幸いな事に、つまり今の人間にとって最悪な事に、イノシシの表皮は度重なる銃撃により『進化』しているのか、至近距離から撃ち込んでも血一つ流さなかった。最早弾丸はイノシシにとって脅威ではない。豆鉄砲など見向きもせず、イノシシは市民を襲い続ける。

 もう何十人もの内臓を吸い尽くしたイノシシだが、その食欲は収まる事を知らない。肉薄した警察官を、さながらスナック菓子を摘まむかのように襲い、中身を吸い取る。飢えたケダモノの暴虐は止まる気配すらなかった。

 惨劇は何時までも、何時までも続き、いよいよ警察官や猟師までもが逃げ出し――――

 やがてホールの中から、『生き物』はいなくなる。

 唯一立つ『死体』は、腐敗した体液を口からばらまき、おぞましい悪臭の漂う便を撒き散らす。積み上がった遺体をゴミくずのように蹴飛ばし、踏み潰した。ホールの床は汚物と血糊で染まり、一呼吸で吐き気を催す臭いが満たされる。

 『死体』は如何にも生きているように臭いを嗅ぐ。それからあろう事か、腹をぎゅるぎゅると鳴らした。未だその身は、新たなエネルギーを欲していたのだ。

 そしてその欲求を抑え込む理性など、死体にはない。

「ブゴオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 死の香りを漂わせる魔獣の咆哮が、町を満たす。

 進化を続ける怪物が、狩りを再開した。




なんかもうかつてない大惨事となっていますが、フィアとかミリオンのいない場所では大体こんな感じの悲劇が起きているのが、この世界です。

次回は明日投稿予定です。


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輪廻拒絶6

 なんでこんな事になっているのだろうか。

 加奈子は軽自動車の中で自問し、されど答えは出てこなかった。

 軽自動車は浩一が運転している。この車は浩一のもので、彼は運転にも慣れていた。助手席には正夫が座り、加奈子は田沼と共に後部座席に座っている。シートベルトは着用していない……過去の光景がフラッシュバックして、加奈子には着けられない。事故を起こした際、何時までも脱出出来ず生きたまま内臓を吸われるぐらいなら、窓ガラスを突き破って即死した方がマシに思えた。

 加奈子達は、避難所だった公民館から無事に脱出した。浩一が車で来ていたお陰で ― 一般の人達は徒歩で来るように通達されていたが、浩一達猟師や警察官は車で来る事が許されていた ― 加奈子達はそれに乗り込み、素早く離れる事が出来たのである。

 そして浩一達の親である土方は、生き残った市民達の避難を助けるため車には乗らなかった。

 或いはその行為は、自分の子供達を守るためのものだったかも知れない。イノシシに襲われ、吸い尽くされるまでの一秒未満の刹那……その刹那の時間を稼ぐ事で、何かが変わるかも知れないと信じて。

 浩一達は何も言わない。田沼も何も語らない。

 沈黙が、車内を満たす。車窓を見ても、車が走る住宅地は街灯以外の明かりがなく真っ暗だ。まだ時刻は夜の八時かそこらなのに。住人は皆避難()()()()()()のか、イノシシを恐れて息を潜めているのか……

「……これから、どうしたら、良いのかな」

 静けさに耐えきれず加奈子はぽつりと呟いたが、誰も答えを返さない。返せるとは、加奈子自身これっぽっちも思っていなかったが。

 銃弾で脳みそを掻き回されても平然としている怪物。あくまで加奈子が抱いた印象の話であるが、恐らくあのイノシシは生きていない。生きていないから、殺しても()()のだ。既に死んでいるものを、どうやって殺せば良い? 挙句殺せば殺すほど強くなるなんて、滅茶苦茶にも程がある。

 倒せないなら共存するしかないが、されどあの化け物は人を喰う。それも半日にも満たない時間で、何十もの数を平らげる大食漢。単純計算ではあるが、一年も放置すれば、一万人以上が奴の腹の中だ。逃げるにしても、今のイノシシは時速百キロ以上で走り、車をもひっくり返すほどのパワーを持っている。誰も奴からは逃げきれない。

 勝てる訳がない。

「……警察や猟友会でも手に負えないんだ。恐らく、自衛隊が出てくる」

 加奈子が俯くと、田沼が前向きな言葉で語り掛けてくる。

「自衛隊は凄いぞ。戦車や戦闘機を持っているからな。あんなイノシシ、簡単にやっつけてくれるさ」

 加奈子を励まそうとしてか、田沼は我が事のように自衛隊を誇る。実際、自衛隊の武装は猟銃よりも強力なものが山ほどあるのだろう。自衛隊が持つ戦車や爆弾なら、イノシシを粉々に吹き飛ばす事も可能かも知れない。如何に『不死身』の化け物でも、跡形もなく消滅させれば蘇生は出来ない筈だ。

 けれども、もしも当たり所が悪かったなら?

 イノシシが攻撃を回避したり、射撃の腕が悪かったりして半端なダメージしか与えられなかったなら……イノシシは、更なる進化を遂げるのではないか。戦車砲や爆弾すら通用しない、正真正銘の『怪物』と化してしまうかも知れない。

 少し前までなら、戦車に耐える動物なんている訳がない、そんなものはアニメやゲームの中の敵だけだ……加奈子もそう断じただろう。例えフィア達の正体を知っていても、彼女達は極めて稀な例外なのだと思っていたから。

 しかし今の世界には、軍隊すら敵わない生き物がうようよしている。今更戦車で倒せないイノシシが現れたところで、一体何が不自然だと言うのか。それに人間が手を出したら事態が悪化した事例だって、いっぱいある……と加奈子は思う。そんな話をテレビだかネットだかで見た気がした。漫画でもよく見る展開だ。

 悪い予感ばかりが積み上がる。不安ばかりが膨れ上がる。ただの人間が幾ら集まったところで、あのイノシシに勝てるとは思えない。

 だとしたら、勝てるのは……

「……よし、此処らで一度休もう」

 考え込む加奈子の耳に、浩一の声が届く。気付けば車は止まり、駐車スペースに収まっていた。

 傍にあるのはごくごく普通の一軒家。

 まさか知らぬ人の敷地に車を止めた訳ではあるまい。恐らくは、浩一達の自宅なのだろう。

「すみません、自分達は一度家に戻ります。母に……色々説明する必要があるので」

「うちのおふくろなら大丈夫だろうが、少し宥めないといけないかも知れないからな。五月蝿くしててもそういう事だから、まぁ、ちょっと待っててくれ」

 浩一と正夫はそう言うと、車の外に出て、自分達の家へと帰る。

「……外を見張っていよう。大丈夫だと思うが、イノシシが来るかも知れないからな」

 田沼もそう言って、車から出て行った。

 一人残された加奈子は、小さく、深く息を吐き出す。

「……っ」

 次いで懐からスマホを取り出した。素早い手付きで操作し、起動するのは電話機能。

 コール音三回。普段より格段に早く、『彼女』は電話に出る。

【お、小田さん! 大丈夫ですかっ!?】

「おー。大桐さん、開口一番それとは流石だねぇ」

 電話越しからも慌てふためく様が想像出来る彼女――――花中の声に、加奈子は笑みを取り戻した。

「とりあえず、私は平気だよー。うん、私はね……」

【……そう、ですか】

「ねぇ、大桐さん。頼みがあるんだけど」

【……はい】

「人食いイノシシ、大桐さんの友達の誰かに退治してもらえないかな?」

 単刀直入に、加奈子は花中に頼む。

 加奈子は知っている。花中の友達が強大な力を持ち、恐ろしい怪物さえも倒してきたという事を。

 彼女達なら、人食いイノシシを跡形もなく吹き飛ばす事だって……

【……ちょっと、訊いてみます】

 花中はそう言うと、一度電話を耳から離したのだろう。ガタガタと走る音が聞こえ、やがて遠くで話す声がする。話し合いは、段々と……ただし一方だけが……ヒートアップしているように聞こえた。

 しばらくして、またガサガサという音がする。スマホが受け渡されたのだろうか。

【はい、もしもしー。ミリオンよー】

 予感は的中し、今度はミリオンが電話に出てきた。

「う、うん。加奈子だよー……えっと、それでなんだけど」

【面倒だから答えを先に言わせてもらうわ。No。お断りね】

 加奈子が訊こうとすると、ミリオンは至極面倒臭そうに、そしてなんの罪悪感もなくそう告げた。

 加奈子の心臓が、鼓動を早くする。脂汗が滲み、体温が一気に下がった気がした。

 乱れと感情を整えるために、加奈子は一度深呼吸。改めて、電話越しのミリオンに問う。

「理由を、訊いても良い?」

【理由は三つ。一つは人間がどれだけ死のうと私にはどうでも良いから】

「……………」

【二つ目は相手の実力が分からないから、不用意に動きたくない。私に助けを求めるって事は、人間では歯が立たなかったのよね? なら、そのイノシシがミュータントや危険な怪物という可能性は否定出来ない。イノシシ風情がこの私に敵うとは到底思えないけど、リスクは考慮しておくべきじゃないかしら?】

「……うん」

【ま、でもこの二つは些細なものね。私、小田ちゃんの事はそこそこ気に入ってるから、これだけならイノシシ退治に出向いても良かったわ。でも、残念ねぇ……】

 心底残念そうに、出来る事ならしてあげたいという気持ちを露わにするミリオン。

【今日はさかなちゃんが外出中で、私しかはなちゃんの傍にいないの。はなちゃんの安全を守れるのは私だけ。だから離れる訳にはいかないわ】

 しかし彼女は、自分の事情を明かす事に躊躇いなど見せなかった。

「な、なんでさ!? ミリきち、分裂出来るでしょ!? だったら一人ぐらいこっちに分けてくれても良いじゃん!」

【分裂って、細菌じゃないんだからしないわよ。私、一年ぐらい前に増殖能力失って、以来減る一方なの。まぁ、まだまだ数は用意出来るけど、昔ほどじゃない。だから分割すると、十分な戦力を確保出来ないかも知れないのよ】

「う、うぐ……」

【さかなちゃんがいれば、私が動いても構わないのだけれど。私、結構あの子の実力は評価してるから。見栄っ張りな割には勘も鋭いし】

 如何にも残念そうなミリオンの口振りに、加奈子は歯噛みする。

 さかなちゃん……フィアは今、アルゼンチンだ。虫の怪物を食べるために出掛けている。帰ってくるのは何時になるのやら。

「な、ならミィちゃんは!? あの子ならこの町に居るよね!?」

【さぁ? 私、猫ちゃんの寝床が何処か知らないのよね。昔気になって探してみたけど、全然見付からなくて。案外隣の県まで行ってるかも知れないわ。あの子の足ならそれこそ数秒の道のりでしょうし】

 反射的にもう一匹の名を挙げてみるが、これもまた呆気なく言い返される。おまけに町に居るかも怪しいという事実を告げられ、逆に動揺させられた。これではミィに頼るというのも夢物語である。

 人外の力にも頼れない。誰も人間を助けてくれない。

 なら、一体どうしたら……

【……最初に考慮すべきは、本当に人間の手に負える存在じゃないのか、という点じゃないかしら?】

 加奈子が悲観に暮れていると、電話越しのアドバイスがやってくる。無意識に俯かせていた顔を上げ、加奈子は顔を顰めた。

「どういう、事?」

【人間ってのは凄いのよ。大昔は石とか木の棒を振り回すだけの存在だったのに、今じゃ森を切り拓き、宇宙に旅立ち、気候すら変えてみせる。怪物達が大人しくしているほんのつかの間の支配者かも知れないけど、代行出来るぐらいの力はあるという事。考えてみたら、良い案浮かぶかも知れないわよ?】

「でも……」

【ま、諦めるならそれはそれで良いけどね。私にとってはどうでも良い事だし】

 躊躇う加奈子に、ミリオンは投げやりな言葉を返す。なんとも気持ちの入っていない言い方で、加奈子も思わず脱力してしまう。

 しかしながら、それまでに語った『アドバイス』は正しいように思える。

 相手の圧倒的な力を前にして諦めの感情を抱いたが、されどその諦めが正しいなんて誰が言ったのだろうか。誰も言っていない。ただそこに、こんな奴に勝てる訳がないという思い込みがあるだけ。万物の霊長としての自信を挫かれ、ふて腐れただけである。

 考えれば、何か案があるかも知れない。

 そうだ、人間が余計な事をするのがアニメなどのお約束だとしても――――そうして起きた出来事をなんとかしたのも、人間ではないか。

「そう、だよね。諦めるには、早いよね……ありがと、ミリきち!」

【どういたしまして。そうね、謝礼として……そのイノシシの詳しい話を聞かせてくれない?】

「うんっ!」

 ミリオンへの『謝礼』、そして町の人々の活路を見出すために、加奈子は自分が見聞きした情報をミリオンに伝えた。

 人食いイノシシと出会った時の事、食べられる人達とその食べられ方、圧倒的な身体能力、脳を撃ち抜かれても蘇る不死性……語りながら加奈子も情報を整理するが、考えれば考えるほど、イノシシの凶悪さに身体が震える。諦めない、と決意はしたが、果たして本当に勝ち目などあるのか? そんな想いも強くなる。

 一通り話し終えると、ミリオンはしばし沈黙していた。何かを考えているのかも知れない。加奈子は何も言わず、ミリオンが話し出すのを待つ。

 しばらくしてミリオンは、自発的に話し始めた。

【OK、大凡理解したわ。その程度なら大したものじゃないわね。心配して損したわ】

 勝利を確信した、頼もしい言葉を以てして。

「か、勝てそうなの!?」

【私達ミュータントからしたらね。まず身体能力が低過ぎる。銃弾を喰らって血を出すなんて、しょうもない防御力だし。それに毒物への耐性とか、酸やアルカリにも弱いんじゃないかしら。ま、死ねばまた耐性を得るんでしょうけどね】

「う、うーん? まぁ、ミリきち達からしたらそうかもだけど」

【おまけに力の効率化が出来ていない。内臓だけを食べるのは、食事の効率を上げるためね。それだけなら別におかしくないけど、何十人分も食べるなんて、身体能力の向上とエネルギー消費が釣り合ってない。私達ミュータントの効率なら、その程度のパワーアップじゃご飯を山盛りにする必要すらないわね】

「……死なない事については?」

【バラバラに、跡形もなく吹き飛ばせば良いだけよ。現在の身体能力がどの程度か不明だけど、私の場合なら血液や原形質を直に沸騰させて、その膨張圧で細胞一つ残さず粉砕するわ】

 如何にも容易そうに ― 実際ミリオンにとっては簡単なのだろう ― 語るミリオンだったが、人間である加奈子は苦笑いしか浮かばない。つまるところミュータントにとっては雑魚敵Aでしかないという話であり、人間にとっては相変わらず脅威なのだから。

 いまいち安心感を得られずにいる加奈子だったが、ふと、ミリオンはくすくすと笑い始めた。まるでパズルが解けなくて頭を抱える子供に、頑張れと応援するような笑い方だ。

「……なにさ、その笑い」

【大した事じゃないわ。冷静に考えれば、人間にとってもそいつは全然怖くないって分かるのに、何時になったら気付くのかなぁーって思っただけよ】

「どゆこと?」

【ヒントをあげる。大半の進化は良い事ばかりとは限らない。人間を震え上がらせている裏で、人食いイノシシは恐怖に震えている筈よ。恐怖を感じるだけの頭があればの話だけど】

「……はい?」

 加奈子は呆けた声を出してしまう。人間を震え上がらせているあの生物が、恐怖で震えている? 一体なんの事か、さっぱり分からない

【後は自衛隊なり警察なり猟友会なりに任せておけばなんとかなるって事よ。案外一人でもなんとか出来るかもだけど】

「……でも、その間にたくさんの人が死んじゃうんだよね?」

【ええ、勿論。何かご不満かしら?】

 うん、と呟こうとする自分の口を、加奈子はきゅっと閉じる。

 不満かそうじゃないかで言えば、不満だ。人が死んでいて、ミリオンならちょちょいと化け物イノシシを倒してくれそうなのに、彼女はやってくれないのだから。

 しかし駄々を捏ねても無視されるのがオチだろう。ぶつりと電話を切られたならそれでお終いだ。

【安心なさい。さかなちゃんが戻ってきたら、私が出てあげるから】

 むしろ少しでも譲歩してくれただけ、良いというものだ。

「……うん、ありがとうミリきち」

【礼を言うのは早いわよ。人間が倒すかも知れないんだから。ま、精々見付からないように息を潜めて隠れると良いわ。弱いなら、弱いなりの生き方ってのがあるものよ】

「うん、そうするね」

 侮蔑とも受け取れる、しかし恐らくはこちらを気遣っての言葉に、加奈子は笑みを浮かべる。素直に言う事に同意すれば、電話越しのミリオンはちょっとだけ困ったような吐息を漏らした。

 調子を狂わされたからか「話が終わったなら切るわよ」とミリオンから告げられた。加奈子としても『話題』は尽きている。

「それじゃ、また明日……あー、明日は多分病院かな。うん、また今度ねー」

【はい、また今度】

 別れと曖昧な再会の約束を伝え合い、加奈子のスマホはぷつりと音を立てた。無音になったスマホを耳から離し、加奈子は画面をじっと見つめる。

 安心、とまではならない。

 けれども少しだけ、気持ちが楽になった気がした。問題は何も解決していないが……『終わり』が見えてきたお陰だろう。

 かくして落ち着きを取り戻した加奈子の頭は、小さな疑問を考えるだけの余裕も得る。

 ミリオンが言っていた、人食いイノシシが感じている恐怖とは、なんだ?

 人食いイノシシは死体だ。本当に死んでいるかは分からないが、腐敗臭のする血の臭いを嗅いだ加奈子の中ではそうなっている。死体という事は、つまりそれ以上殺す事は出来ない。死んでいる者にこういうのも難だが……あのイノシシは『死』を克服しているのだ。おまけに死ねば死ぬほど強くなる有り様。

 完全無欠の不死身。そのような生命体が、一体何を恐れるのか?

 それが分かれば、今すぐにでもイノシシを倒せるのだろうか。

「(……大人しくしてろーって言われた傍から倒す事考えてるし)」

 自分でなんとかしようとしている事に気付き、加奈子はため息のような笑いを漏らす。晴海に面と向かってこれを話したら、調子に乗るんじゃない、というお叱りの言葉と共にゲンコツもお見舞いされるだろう。

 そして彼女のゲンコツをもらうためには、全てが解決するまで大人しく隠れているのがベストだ。

「(……寝て、起きた頃には、全部解決してるのかな……)」

 過ぎる考えが、『やる気』を削いでいく……なんのやる気だろうか? それすら考えるのが億劫になってきた。

 思えば夕方頃から逃げて、逃げて、逃げ続けている。一息吐いたと思うやすぐにイノシシの襲撃を受け、ろくに休めていない。今までは考える暇すらなく、今になってようやく加奈子は自分が疲れている事を自覚した。

 自覚したら、途端に眠気が込み上がってくる。瞼は段々と下がり、手足が鉛のように重くなるような気がした。本能の衝動に逆らう気力など残っておらず、加奈子はついに目を閉じる。

 このまま夜が明けるまで眠ってしまえば、目が覚めた時には、きっと楽しい毎日が戻っている。

 それを祈りながら、加奈子の意識は沈んでいき――――

 ……………

 ………

 …

 突如として身体を貫いた『爆音』が、加奈子の意識を現実に呼び戻した。

「ひゃあっ!? え、な、何?」

 加奈子は思わず車外へと跳び出し、外を見張っていた田沼を探す。

 幸いにして田沼の姿はすぐに見付けられた。道路の真ん中で立ち尽くし、呆然とした様子で遠くを眺めている。

「おっちゃん! おっちゃーんっ!」

 加奈子が呼ぶと、田沼はハッとしたようにぶるりと肩を震わせた。それから加奈子の方を振り向き、強張った顔付きを少しでも和らげようと努力するような、不自然な表情の動かし方をする。

「おう、加奈子。そんな大声を出さなくても聞こえるぞ」

「そんな事より! 何があったの?」

「……あっちだ。見てみろ」

 田沼はそう言うと、遠くを指差した。

 加奈子が指先を追ったところ、町の一角が赤く光っていた。火事でも起きているのだろうか? ……出来ればただの火事であってほしいと、加奈子は願う。

 されど赤く光る景色から、猛り狂った咆哮が聞こえてきた。

 居るのだ、あの怪物が。燃え盛る町の中に。

 まさかこっちに来るのでは――――そんな予感に加奈子は顔を青くし、幾度となく聞こえてくる咆哮や破壊音が段々と近付いてきている事に気付いて背筋が凍るほどの寒気を覚えた。世の中には七度雷に打たれた事のある人がいるらしいが、同じ日に三度イノシシに襲われるのも同じぐらいレアな事ではないだろうか。

 或いは……

 不安が加速する加奈子であったが、しかし此度はこれまでと違う。今回、イノシシとはかなり距離がある。耳を澄ませば、微かに銃声らしき音も聞こえたので、警察などによる足止めも行われている。今から動けば、安全に逃げられる筈だ。

「田沼さん! 今の音は!?」

「またアイツが出てきたのか!」

 先の爆音を聞き付け、家の中から浩一と正夫が出てくる。その手には市街地でありながら猟銃が握られ、何時でも戦える用意が出来ていた。

 されど田沼も加奈子同様、人食いイノシシの恐ろしさを目の当たりにした身である。戦おうと思う筈もない。

「ああ。どうやらこっちに来ているらしい。だが、まだ距離がある。今から逃げれば、振りきれる筈だ」

「……分かりました。車で、遠くまで逃げましょう」

「お袋を説得してくる。あの頑固ババアの事だから、親父が帰ってくるまで家を出ないとか言いそうだからな」

 田沼の進言を、浩一達は受け入れる。正夫も戦おうとは言わない。彼もまた、撃てども死なない怪物を見たのだ。もう銃で戦う気など起きないのだろう。

 彼等は意見を素早く纏めると、逃げる準備を始めた。正夫は家の中へと戻り、浩一は車を動かために乗り込む。田沼もイノシシが居るであろう燃え盛る町を見つめ、その動向を注視する。

 皆が己の役割を果たそうとする中で、加奈子は一人考えていた。

 これまでなら、逃げる事に一も二もなく賛同しただろう。あの怪物は人間が敵うような相手ではない。ましてや小娘に過ぎない自分に何か出来るなんて、到底思えないのだから。

 けれども、ミリオンの言っていた言葉が『勇気』を生み出す。

 あの怪物は人間の手で倒せる。

 どうやると倒せるのか? ミリオンはそこを教えてはくれなかった。しつこく追及すれば教えてくれたかも知れないが、後の祭りというものである。しかし倒せると言ったからには、きっと倒せるのだ。

 どうして、ビクビクと怯えなければならない? どうして、助けられるかも知れない人を見捨てねばならない? 

 どうして、笑顔が消えるのを黙ってみなければならない?

 ――――加奈子は、楽しい事が好きだ。

 誰でもそうだと言われそうだが、加奈子のそれは普通とは違う。みんなが楽しくなるのなら自分が痛い目を見るのも構わないし、楽しかったなら多少『危険』なのも受け入れる。楽しかったなら遊び相手が人間じゃなくても構わないし、楽しくなければ人間相手も面倒臭い。例え命を脅かされようとも、最期が楽しければ起きた出来事に感謝する精神を有す。

 友人である花中は友達中毒者(ジャンキー)とでも言うべき人物だが、加奈子もまた別方向の中毒者……楽しさ中毒者(ジャンキー)なのだ。

 今までは、人食いイノシシへの恐怖が衝動を上回っていた。しかしながらミリオンの言葉により勇気が生まれた今、恐怖は抑え付けられる。衝動が感情を上回れば、加奈子は衝動を優先する。

 加奈子は楽しくない事が嫌いだ。楽しくなるためならなんだってする。人食いイノシシはみんなから楽しさを奪う奴であり、自分の楽しさを奪う嫌な奴だ。なんとかしてやっつけたい。

 それにミリオンは、「案外一人でもなんとか出来るかも」と言っていた。

 真に受けた、というのはミリオンからすれば心外かも知れない。しかし加奈子にとっては勇気をもらえた言葉の一つで、背中を押してくれたアドバイスでもある。

 そして、先程脳裏を過ぎった『可能性』。

 自分の衝動を実践する事に、加奈子は最早躊躇いなど覚えなかった。

「っ……!」

「!? おい、加奈子! 何処に行く!? 止まれ!」

 田沼の制止を無視して、加奈子は夜の町を走る。全速力のフルパワー。足腰の衰えた老人共など簡単に引き離せる走力だ。

「くそ、アイツ何処に向かうつもりだ!?」

「? 田沼さん? え、あの、何処に行くのですか!?」

「すまん! お前達は先に逃げていろ! こっちは後で追い駆ける!」

 されど田沼は棒立ちし続ける事もなく。困惑する浩一にそう伝言を残すと、自らも全速力で走り出す。無論、加奈子の後を追うように。

 加奈子は後ろから付いてくる田沼に気付いたが、足を止める気にはならない。息が切れても、足腰が痛くなろうとも、死力を尽くして走り続ける。

 夜の町を、より静かで、人気のない方へと。

 冒険心からよく町を散策している加奈子は、自分の行く手に何があるかを知っている。知っているからこそ、あそこに向かうのだ。

 廃棄された、化学工場へと――――




豪胆というか、感情で動くキャラは動かしやすくて良いですね。

次回は6/15(土)投稿予定です。


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輪廻拒絶7

 町外れの丘の上に、とある化学工場がある。

 高度経済成長期を迎えた数十年前に建てられたもので、バブル崩壊後もなんやかんや稼働していた……が、二年ほど前についに倒産。本来ならちゃんと取り壊すべきそれは、詳しい事情は不明だが、未だこの地に残り続けている。今ではチンピラやホームレスの溜まり場となり、地元の治安悪化に貢献していた。

 加奈子は今、その廃工場に向かっている。

 浩一達の家から走る事約三十分。趣味で色々なアウトドア体験をし、鍛え上げられた足腰は、練習をサボり気味な運動部員程度なら追い抜くパワーがある。加奈子は疲れを覚えながらも必死に走り続け……小高い丘を登り、廃工場の前に辿り着く。

 廃工場の敷地への入口には金網のフェンスがあり、扉のようになっている部分は立ち入りを禁止するため南京錠による施錠がされていた。金網を掴んで揺すってみたが南京錠は外れず、扉も開かない。

 しかしこのフェンスは有刺鉄線でもなく、網と言っても手足を射し込めるぐらいには穴が大きなものである。加奈子は一度自分の背後を振り返り……それから慣れた手付きでフェンスに手足を掛け、ひょいひょいと登り、軽々と乗り越えて敷地内に着地した。

 耳を澄ませてみれば、なんの音も聞こえない。チンピラやホームレスだけでなく、虫の音すらも。彼等も獰猛なイノシシの話を聞いて逃げたのか、はたまた夜になると酷く冷えるこんな場所には居たくなかったのか。

「ま、その方が好都合だけどねー」

 加奈子は能天気に独りごちながら、敷地の奥へと進む。それから、さてどちらに進もうかと考え

「加奈子! おいっ!」

 込もうとしたところ、ふと聞き慣れた男性の呼び声が聞こえた。

 振り向けば、加奈子ほどではないがフェンスを軽々と乗り越えようとする男――――田沼の姿があった。加奈子は目を見開き、慌ただしく田沼に駆け寄る。

「えっ!? おっちゃん来ちゃったの!?」

「来ちゃったも何も、お前が一人で勝手に走り出すからだ! 一体何処に行くつもりだったんだ!?」

「んっと、人気のないところだけど……」

「……成程、確かにあのイノシシは人食いだから、人がいない場所の方が安全かも知れん。だがな、一人で行動したり、車も使わずに逃げるのは危な過ぎるだろ」

「……うん、ごめんなさい」

 加奈子が素直に謝ると、田沼は面食らったように目を丸くした。普段らしからぬ態度に余程動揺したのか、逃げるように目を背ける。

「あ、いや、まぁ、人気のないところに逃げ込むというのは悪い案じゃないかもな」

 それからぶつぶつと加奈子の行動をフォローするような言葉を呟き、

 途中で、その声は止まった。

 加奈子から視線を逸らした田沼は、見てしまったのだ。加奈子が廃工場に侵入する前、振り返った時に見たのと同じものを。

 丘の下に広がる夜の町並み……その町並みを煌々と照らすおぞましい赤い輝きが、段々と伸びている。

 そして光は、加奈子達が立つこの廃工場に近付いてきていた。

「おいおいおい……何回俺達のところに来るんだ、運が悪いにも程があるぞ……!」

 赤い光――――イノシシが暴れ回った結果生じたであろう火災を目の当たりにし、田沼は苛立った悪態を吐く。田沼が言うように、これが偶然ならあまりに不運だ。

 しかし必然だったなら?

「ううん。おっちゃん、多分そうじゃない」

「……何?」

「多分、アイツは私を狙ってる」

「そんな馬鹿な。何を、根拠、に……」

 加奈子が述べた意見に、田沼は言葉を詰まらせる。

 確かに根拠などない。

 しかし一日の間に『四度』も自分の居る方へと向かっているとなれば、そう考えるのが妥当だと加奈子は思った。事実廃工場のある方……人気のない場所に来てみたが、イノシシは進路を変えてこちらに来ている。餌を求めているのなら、人の多い住宅地へと進む筈だ。

 別段、自分の所為で人々が、なんて殊勝な考えを加奈子は抱かない。加奈子と出会う前からイノシシは人を食っていたのだから、加奈子と出会わなくても人を襲い、猟師に撃たれ、手の付けられない怪物と化しただろう。

 むしろ自分が狙われているからこそ、こうして人気のない場所まで誘導出来たというものだ。そしてこの人気のない場所で、イノシシから逃げ続けて()()()()()。助けに来てくれると言っていたミリオンが此処に到着する、『何時か』まで。

 それが何時になるかは分からないが、上手くいけばイノシシによる犠牲者はもう出ない。みんなの『楽しい』を守れる。

 なら、身体を張るだけの価値があるだろう……加奈子はそう考えており、そして思惑通りに事が進んでいた。

「いや、だとしたらこんなところでじっとしていたら危ない。早く逃げるんだ! 少しでも遠くに……」

「逃げない。ここで迎え撃つ」

「迎え撃つ!? 何を言ってる!?」

「友達に、あのイノシシをやっつけられる子がいるの! あの子が来るまでの時間稼ぎ!」

「はぁ!? 警察でも敵わないような奴を、どうやって倒すんだ!」

「知らない! でも絶対大丈夫!」

 加奈子は力強く、そう答える。あまりにも傍若無人な返答に、田沼は後退りした。

 それから田沼は頭を掻き毟り、小さくないため息を漏らす。

「……本当に、あのイノシシを倒せる奴なのか?」

「うん。めっちゃ強いよ。おっちゃん、初めて見たらきっと腰を抜かすよ?」

「……………」

 加奈子が冗談交じりに伝えると、田沼はしばし黙り込んでしまう。しかしその顔付きに、加奈子の言い分を疑っている様子は微塵もない。

 田沼は知っている。加奈子は平気で嘘を吐くが、それはあくまで人を楽しませるためのものだと。楽しくならない嘘は吐かない性格である事を。

 小田加奈子という少女は、真剣な顔で嘘を吐けるような人間ではないのである。

「……分かった。お前の言い分、信じてやる」

「えっ!? 本当に信じてくれるの!?」

「ああ。それに本当に俺達を追っているのなら、お前を無理に引っ張ったところで意味なんかないだろう。下手に追い駆けっこをするより、こういう廃工場に隠れた方がやり過ごせるかも知れん」

「おっちゃん……」

「とはいえお前一人に全部を任せるなど、そんな事大人として出来ないからな。俺もお前の手伝いをしてやる。良いな?」

「うぐ……それは……」

 加奈子は言葉を濁らせる。出来れば田沼を危険に晒したくない。大切な釣り仲間で、頼れるおじさんであり、一人の友人でもある彼には、安全な場所に居てほしいのだから。

 しかし田沼の真摯な眼差しに、こちらの『願い』を受け入れてくれる気配は微塵もない。

 今度は加奈子が折れる番だった。

「ううぅー……分かったよ。あくまで時間稼ぎだからね?」

「それはこっちの台詞だ。さて、あのイノシシはあとどれぐらいで此処に……」

 加奈子が受け入れると、田沼は心なしかうきうきした様子を見せながら、再び丘の下に拡がる町並みに目を向ける。

 途端、彼はその目を大きく見開いた。

 何かに驚くような素振り。気になった加奈子は、田沼に声を掛けてみる。

「おっちゃん、どうしたの?」

「……イノシシの奴、こっちとは全然違う方に移動してないか?」

「へ?」

 訊いたら、田沼から想定外の質問が。

 加奈子も田沼と同じく、もう一度丘の下に広がる町並みに目を向ける。今も町は燃え盛り、煌々と赤く輝いていた。

 そして恐らくはイノシシが居るであろう光の先頭部分は、先程まで自分達が居る工場を目指していたのに、今ではすっかり反対方向に向かっている。と思ったら方向転換し、かと思えば別方向に……頻繁に進路を変更して、何処に向かうか全く分からない。

 これ、やっぱり適当に動いてるだけなんじゃない?

「……あるぇー?」

「あるぇー? じゃねぇよ馬鹿! 俺達の事なんて全く関係ないじゃねぇか!」

「いいいいやほらもしかしたら遠過ぎて分かってないかもだし! あ、ほら! またこっち来てるから!」

「近くにパトカーのサイレンみたいな明かりが見えるぞ。警察や猟友会のお陰で、人気のない場所に誘導されてるだけじゃねぇかなぁ……」

 項垂れ、ため息を吐く田沼。

 加奈子もまた、引き攣った笑みを返すのが精いっぱいであった。

 ……………

 ………

 …

 パトカーが、目の前で宙を舞う。

 ぐるんぐるんと回転し、大地に墜落した瞬間、燃料のガソリンに引火したのだろうか。パトカーは爆発し、車体前方部分が粉微塵に吹き飛んだ。中の運転手がどうなったかは……楽観的な加奈子でも流石に諦めるしかない。

 出来れば冥福を祈りたいところだが、されどそんな余裕がない事を加奈子は知っている。

 パトカーを突き飛ばした張本人――――人食いイノシシが、廃工場の敷地内に入ってきたのだから。

「ほ、ほら、私の作戦通り、此処にやってきたでしょ!」

「警察の人の努力を無視するんじゃない。とりあえず手だけでも合わせておけ」

「はい……」

 目を開いたまま手を合わせ、田沼の言う通りにした。

 加奈子と田沼は今、廃工場の二階部分のとある部屋 ― 恐らくは事務室として使われていたのであろう ― に身を潜めている。窓からこっそり外の様子を窺い、イノシシの動向を確かめていた。人家から離れたこの廃工場周辺に街灯はなく、本来はとても暗いのだが、パトカーから噴き出す炎が辺りを照らす。敷地内に入り込んだイノシシの動きは、とてもよく見えた。

 イノシシは燃え盛るパトカーに近付こうとする……が、熱いのが嫌なのか、本能的に恐怖しているのか、中々傍まで寄れない。何度か挑戦していたが、途中で引き返す。

「ブギアゴオオオオオオオオオッ!」

 ついには苛立ちに塗れた咆哮を上げ、悔しさを露わにする。大気を震わせるほどの絶叫は工場の窓を揺らす、否、砕くほどの威力を有す。ミシミシと建物全体が軋み、今にも崩れ落ちそうだ。

 イノシシの叫びは、加奈子達が避難所を脱出する直前と比べ、明らかに強くなっていた。警察や猟師達の奮闘により、また()()()のだろう。最早その叫びはイノシシらしさすら欠け、モンスターの雄叫びのようである。

 こんな『怪獣』から逃げ続ける事など出来るのか?

「(さぁて、どうすりゃ良いのかなぁ。これ)」

 加奈子には、良い案など浮かばなかった。とはいえ完全な無策という訳でもない。

 ミリオンは言っていた。頑張れば人間一人でもあのイノシシを倒せるかもと。ミリオンはイノシシを直に見た訳ではない……と言いたいが、彼女はインフルエンザウイルスであり、小さな個体の集まりだ。分散し、町全体を見渡せる。イノシシの事を聞き、少しは調べに来ている筈だ。そして予想と違っていたなら、きっと電話かメッセージで教えてくれる、筈。ヒントをあげる、と言った時の口振りも自信満々だったので、それなりの根拠がある……筈。

 筈、ばかりで少々不安になるが、ともあれ人間でも不死身のイノシシを完全に倒せるのだと加奈子は考える。きっと、なんとかする手立てがあるに違いない。

 勿論イノシシがこの場をすたこらさっさと立ち去る場合、石の一つでもぶつけてこちらの存在を主張するような真似は怖くて出来ないが……

「ありゃあ、気付いてんな」

 田沼が言うように、イノシシは恐らく自分達の存在を察知していると加奈子は感じた。

 何しろパトカーをひっくり返してからずっと、執念深く廃工場の敷地内の臭いを嗅いでいるのだから。

「うわぁ……めっちゃ臭い嗅いでる……」

「イノシシの嗅覚は、犬に匹敵すると言われている。そして犬は、訓練を受ければ犯人追跡のような真似が可能だ。イノシシも土に残った臭いから、俺達……というより人間の痕跡を辿るのは可能だろう」

「……それ、もしかしたら工場に入ってくるだけじゃなくて、二階まで来るかもって事?」

「かも知れないな」

 淡々と答える田沼だったが、加奈子は背筋が一気に冷たくなるのを感じた。工場の二階部分は、基本的には此処のような事務室的な部屋ばかりとなっている。逃げ場がなく、もしこんな場所で見付かったらその時点でアウトだ。

「移動するぞ。もう少し開けた場所の方が良い」

「う、うん」

 田沼の意見に、加奈子は反対せずに従う。

 部屋から加奈子達が出た、のとほぼ同時に、バギンッ! と金属が砕け散るような音が一階部分から聞こえた。イノシシがついに工場内に侵入してきたのだと、加奈子はすぐに察した。

 二階の廊下には、転落防止のためか簡素な柵がある。逆に言うと柵しかない訳だが、そのため一階の様子を窺い見る事が可能だった。無論一階から見上げれば二階廊下を通る人影も見えてしまうが、今の加奈子にはイノシシが何をしているか分からない方が不安だ。

 出来るだけ身を屈めながら、加奈子は柵の隙間から一階を覗き込む。

 予想通り、一階にはイノシシが侵入していた。イノシシが居るのはエントランスホール……要するに受付部分であり、少し開けた場所である。

「ギイアゴオオオオオオオオオッ!」

 イノシシは叫びを上げ、怒り狂ったように辺りに頭突きをかましている。コンクリート製の壁が豆腐のように崩れ、建物全体が小さく揺れた。

 正直、二階に逃げ込んだのは失敗だったかも知れないと加奈子は思い始める。イノシシが上がってきた時に逃げ場がないのもそうだが、イノシシが暴れ回って建物が崩れた時、逃げるのに時間が掛かってしまうからだ。

「おい、あまり覗き込むな。気付かれたら不味い」

「う、うん」

 さっさと逃げるに限る。促されるまま、加奈子は柵から離れ、田沼の後を追おうとした。

 その最中に、カツンッ、と音が鳴る。

 ぞわりと、加奈子は全身が震えた。恐らくは田沼も。加奈子が音のした方を見れば、ポケットから落ちたであろうスマホが廊下に転がっていた。

 息を潜め、周囲の物音に意識を集中する。一階部分から聞こえてくるのは……未だイノシシの雄叫びと、壁に頭を打ち付ける音だけ。どうやら餌探しに夢中なようだ。安堵し、二度とこんな失態はしまいと心に誓いながら加奈子はスマホに手を伸ばした

 直後、スマホがムームーと音を立てるように震動した。

 マナーモードのバイブレーションだった。コンクリート製の床ととても相性が良いようで、中々に良い大きさの音を奏でる。加奈子はそっとスマホを手に取り、ポチッと通話ボタンを押した。

「……はい、もしもし」

【あ、加奈子? 今暇してる? いやー、実はさ今日バイトですっごいムカムカする事があって】

「晴ちゃん、ちょっと今は無理。また後でね」

【へ?】

 電話越しの友達(晴海)に一言告げ、加奈子はスマホの電源を落とす。

 晴海は全く悪くない。悪かったのは『間』だけである。或いは電源を切り忘れていた自分自身の責任か。

 なので恨むだとか憎むだとか、そういった感情は加奈子の中にはない。ないので、スマホを放り投げたりする事もなく、丁寧に制服のポケットにしまっておく。

 それから恐る恐る、柵の隙間から()()()()()()()()()()一階部分を覗き込む。

 二階部分を見上げていたイノシシと、思いっきり目が合ってしまった。

「(で、ですよねぇ~)」

 引き攣った笑みを浮かべながら、何事もなかったかのように身を引っ込めてみる。相手は死体だ。もしかしたら目なんてろくに見えていないかも知れないし、見えたところで餌だとは分からないかも知れない

「ゴアゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 などという加奈子の甘い考えは、咆哮と共に打ち砕かれた。

 瞬間、加奈子はその場から飛び立つようにダッシュ! 身を隠す事を止め、急いで離れようとする。

 この決断は正しかった。

 何故なら一階に居たイノシシが、柵をぶち破るほどのスピードで二階まで跳躍してきたのだから!

「ギア! ゴアアア!」

「ひいっ!?」

「加奈子! こっちだ!」

 先程まで自分の居た場所で暴れるイノシシの姿に震えるも、田沼の声で加奈子はギリギリ自我を保つ。田沼の後を追い、加奈子は廊下の奥へと進んだ。

 イノシシは体重を支えられなかったのか、柵から転がり落ちる。とはいえ二階から落ちた程度で再起不能に陥ってくれるなら苦労はない。イノシシは再度一階から二階へとジャンプ。柵を破壊し、今度は悠々と二階まで上ってきた。

 そして加奈子達が逃げる方目掛けてダッシュ。

 一瞬にして車など比にもならない速さまで加速したイノシシは、されどその寸前に加奈子達が曲がり角を曲がったため、自分だけが壁に突っ込む! 後ろを振り向いた加奈子の目に、壁に頭が突き刺さった、最早一種のギャグのような姿を晒したイノシシが見えた。

 出来ればあと数時間ほどそのままでいてほしいところだが、突き刺さったのは頭まで。四本足で踏ん張れば、簡単に引っこ抜けてしまう。犬が身体に付いた水を飛ばす時のような動きで、イノシシは頭に付いた埃やコンクリート片を振り払った。どうやらダメージは殆どないらしい。

「おっちゃん! 速く速く速くぅ!」

「せ、急かすな! こっちはとうに全力疾走してんだよ!」

 加奈子は田沼の背中を押し、少しでもイノシシから逃げようとする。

 幸運だったのは、二階の道がとても狭い事、そして廊下の片側が柵で仕切られ、その下が一階エントランスにつながっていた事だろう。大柄なイノシシが全力疾走するには、人二人が横並びになるだけで塞がる道は狭過ぎる。勿論車すら簡単にひっくり返すこのイノシシのパワーならば、コンクリートの壁を粉砕する程度訳ないだろうが……同時に、柵を粉砕するのはもっと簡単だ。つまり壁にぶつかった際の反動や、勢い余ってよろめくなどして柵に寄り掛かる形になれば、呆気なく一階に転落する。一階から落ちても死なない事は先程実証されたばかりだが、加奈子達を取り逃がす可能性は高くなるのだ。

 死体でありながらそうしたところにも頭が回るようで、イノシシはスピードを落として廊下を駆ける。お陰で加奈子達はなんとか逃げ続ける事が出来ていたが、しかし直線での速さはそれでもイノシシの方が上。このままでは追い着かれてしまう。

 何か、作戦を練らなければ……

「っ、加奈子! 行き止まりになる! 階段を下りろ!」

「ふぇ? あ、うんっ! 分かった!」

 考え込もうとした加奈子だったが、田沼の声が思考を現世に呼び戻す。田沼の後を追い、加奈子達は廊下を駆け下りた。

 加奈子達を追うイノシシは階段の前で一度立ち止まるや、猛然と駆ける。人間のような、転倒を恐れる走り方ではない。正しく暴走車が如くスピードで一気に駆け下りながら、大きな口をばっくりと開いて

「伏せろ!」

「ぎゃぶっ!?」

 その直前に、田沼が加奈子の頭を力いっぱい下へと押し付け、しゃがみ込ませた。

 結果、勢い余ったイノシシは加奈子達の頭上を跳び越えるように通過。

 一階エントランスにイノシシは墜落し、その後ボールのように転がった。どれほどのスピードが出ていたのか、床のコンクリートが抉れ、四肢とぶつかった柱の一部が粉砕される。直撃を受けたなら、今頃加奈子は苦しまずにあの世だったろう。

 さしものイノシシも、自分自身の力で転倒したとなると簡単には止まれないらしい。延々と転がり、ついには壁に激突。

 建物自体が老朽化していたのか、或いはイノシシのパワーの大きさからか。イノシシが激突した壁が崩れ落ち、生き埋めにしてしまう。

 これで身動きを封じる事が出来た……と考えるのは楽観が過ぎる。

「こっちだ!」

 田沼の呼び掛けに応じ、加奈子は彼と共にこの場を離れる。

 数秒後、物陰まで移動出来た加奈子達の耳に、爆音と、怒り狂った獣の雄叫びが届くのだった。

 ……………

 ………

 …

「……どうやら、こちらを完全に見失ったようだな」

 廃工場の食堂の奥、もう使われていないキッチンに身を潜みながら、田沼は小さく独りごちた。

 食堂の外からは、今もイノシシの咆哮と破壊音が聞こえる。

 しかしその音は割と遠くから聞こえるもので、少なくともこちらの居場所に気付いているようなものではない――――加奈子も田沼と同意見であり、一息吐いた。

 そうして落ち着いた頭で、今の自分が置かれている状況を考える。

 食堂内を照らす月明かりを取り込んでいる窓は高い位置にあり、梯子なしでそこから外へと出る事は不可能。キッチンの奥にある外へと通じる扉 ― 恐らく食材の搬入口だろう ― は鍵が壊れているのか、開ける事は出来ない。田沼と二人掛かりでなら扉を破壊する事は可能かも知れないが、それをしたら大きな音を鳴らし、間違いなくイノシシに気付かれる。

 残す脱出経路は食堂に入るため通った『道』だけ。しかし食堂の出入口は一階廊下につながっており、そこは今もイノシシが徘徊している。つまり食堂を通ろうとすれば、イノシシの巡回コースを横切る訳だ。これは自殺行為であろう。

 つまるところ今の加奈子達は、キッチンの中に閉じ込められているようなものだった。逃げ出す道がない、袋小路に身を隠すというのは精神的に中々辛いものがある。

 尤も、元よりこの廃工場にイノシシを誘き寄せ、逃げ続けるという作戦だ。外に出られないのはある意味どうでも良い事。何も出来ないのはちょっと悔しいと思う加奈子だが、時間稼ぎになればそれで良い。ミリオンが来てくれる時間まで耐えれば、それはそれでこちらの『勝ち』だ。

「……すまない」

 なのでこの状況に対し不満は特にないのだが、ふと田沼が謝ってきた。加奈子がその声に反応して顔を覗いてみれば、何故だか神妙な面持ちをしている。

「? どしたのおっちゃん。そんな顔して」

「釣りの後、言っただろ。俺は元猟師だって。昔ならクマだって狩れたのに、今の俺はイノシシ一匹倒せないどころか、子供一人守れないでいる。守ってやるって啖呵を切りながら、この様か……」

「おっちゃん……」

 悲痛な想いを吐き出し、田沼は俯く。加奈子はそんな田沼に声を掛けようとして、しかし止めた。

 ……あんな怪獣染みた奴に勝てる猟師なんて世界中の何処にもいないでしょ、とか思ったので、別に田沼の気持ちを理解した訳ではないが。というより半分呆れている。全盛期の田沼は、田沼の中でどんな超人として描かれているのだろうか?

 大体、田沼は勘違いしている。もう十分過ぎるほど、守ってくれているのに。

「もう、おっちゃんったら背負い過ぎだよ。あと、もうたくさん守ってくれてるじゃん。初めてイノシシと遭った時からずっと。さっきだって、階段で頭を押さえてくれなかったらお陀仏だったし」

「……いや、しかし……」

「しかしもかかしも、おかしもだがしもなーい! 私は助けられたって思ってるんだから、それで良いのだ! だからおっちゃん、ありがとう!」

 にっこりと満面の笑みを浮かべながら、加奈子は田沼を激励し、感謝の言葉を伝える。

 その言葉に、田沼が何を思ったのかは分からない。分からないが、少しだけ目を潤ませ、彼はそっぽを向いた。そういや歳を取って涙腺が緩くなったとか言ってたなぁ、夏にやってる戦争映画で最近よく泣くとかなんとか……などという話を思い出し、おちょくりたい衝動に駆られる加奈子だったが、流石に今ぎゃーぎゃー騒ぐのは不味いので口を閉ざしておく。

 しかしながら加奈子は基本欲望にストレートな人間である。田沼を眺めていると、この衝動を我慢出来なくなりそうだ。とりあえず目線だけは逸らしておこうと、加奈子はそっぽを向いた。

 そうして別方向に向けた視線に、ふと映るものがある。

 キッチン内に張られた、紙のようなものだった。やたら大きくて、しかし献立表にしては直線的な紋様が数多く見える気がする。暗くてよく見えず、正体が気になった。

「……おっちゃん、あの紙、なんだと思う?」

「ん? ……すまない、暗くてよく見えないな」

「じゃあ、取ってくる」

 田沼が引き留める言葉を発する前に、加奈子は素早く紙の下へと走り寄る。イノシシが近くに居ない事を祈りつつ、ピン留めしている紙を引っ剥がすようにして回収。田沼が待つ物陰へと戻った。

 手元まで持ってきた訳だが、やはり紙に書いてあるものは暗くてよく見えない。が、献立表ではないだろうし、キッチン内での注意事項でもないだろう。そうした内容を記すのに、紙全体に描かれた無数の四角形が必要とは思えないからだ。

「……おっちゃん、ちょっと一瞬スマホの電源を入れるよ」

「ああ、そうしてくれ」

 田沼の了承を得た上で、加奈子はスマホの電源を入れる。素早くカメラモードを起動し、ライトを点灯させた。

 明かりを向ければ、紙の正体は一瞬で明らかとなった。

 地図である。

「……この工場の地図、かな?」

「恐らくそうだろう。大方此処で作った弁当や定食を、社長室とか、会議室に配膳するためのに使ったんじゃないか? 使う機会は少なそうだがな」

「あー、成程。そういう使い方もあるのか」

 仕事が忙しい時は、現場に弁当を送り届ける訳か……などと納得しつつ、加奈子は地図を眺める。

 工場だけに、この建物が中々複雑な作りをしている事が地図から分かる。一階部分には廃液管理室だの廃材保管庫だのの言葉が数多く書かれていた。二階にあるのは備品倉庫や薬品保管庫、休憩室などの文字。一階は主に製造関連の場所で、二階は社長室や会議室などの事務的な部屋という具合に分かれている。

「(……あれ?)」

 そうした地図を眺めているうちに、加奈子はふと気付いた。ある部屋の大きさが奇妙な事に。

 図面の寸法は、恐らく一階と二階でそう違いはない……つまり図面を重ねた時、一階と二階の部屋が重なり合う筈である。

 ところが一ヶ所、何故か二階のどの部屋とも重ならない一階の部屋がある。そこに書かれている名前は廃液保管庫。二階では備品倉庫と資料室の間に挟まれた空間になっているため、恐らくは意図的に、廃液保管庫の上には部屋が作られていないのだろう。だとするとこの場所は……

 何が役に立つのか分からないので、加奈子は頭の中にこの情報をインプットしておく。

 その直後、不意に工場全壊がビリビリと揺れ始めた。

「……何?」

「イノシシが暴れているんじゃないか?」

 揺れへの疑問を呟くと、田沼は自分の考えを伝えてくる。確かに、それ以外の理由はないだろう。加奈子もそこに疑念は抱かない。

 しかし違和感がある。

 今までも振動はあった。だがそれは暴れる度に伝わってくる、不定期で激しい揺れである。対して今建物や自分達の身に伝わる震動は、途切れなく、緩やかなものだ。

 田沼も後から加奈子と同じ違和感を覚えたのか、警戒心を露わにした表情を浮かべる。加奈子は思わず息を飲み、田沼の傍に寄り添った。

 揺れは段々強くなっている。すると、徐々にだが奇妙な音も聞こえるようになってきた。最初は地鳴りかと思ったそれは、野性味溢れる咆哮であり、ケダモノの唸り声であった。

 即ち、イノシシの叫び。

 イノシシが何か、大きな声を出している――――その事実に気付いた時には、全てが手遅れだった。いや、気付いたところで何が出来るというのか。

 工場そのものが声によって揺さぶられ、柱や屋根が崩れようとしているのを、どうやって止められる?

「ま、不味い!? 建物が崩れる! あの化け物、獲物が見付からないからって建物ごとぶっ壊すつもりか!?」

「えっ、え? く、崩れるの!?」

「分からん! だが逃げた方が良い!」

 田沼に手を引かれ、加奈子は立ち上がる。田沼が先陣を切り、イノシシの姿が食堂にはない事を確かめてからキッチンを出て、廊下にもいない事を確かめてから食堂を出た。

 イノシシの叫びは未だ止まらず、建物の揺れが収まる気配はない。工場内の窓ガラスが割れ、柱は軋み、天井からパイプが落ちてくる。田沼の予想が現実になろうとしているのを、加奈子は受け入れざるを得ない。急いで逃げないと、ぺっちゃんこだ。

 田沼に手を引かれ、廊下を進み……ついに加奈子達は工場の出入口がある廊下の曲がり角まで来た。此処を曲がれば出口は目の前。ようやく目的地に辿り着いた、のだが――――そこで二人とも足を止める。

「……まぁ、そりゃあ、そうするよなぁ」

「そりゃあ、そうするでしょ。私でもやるもん、これは」

 田沼が独りごちた言葉に、加奈子は同意を示す。

 イノシシが居た。よりにもよって、工場と外界をつなぐ唯一の出入口の前に。

 当たり前だ。この揺れが獲物を炙り出すための行為であるなら、獲物の逃げ道を塞がねばならない。絶対に此処に来る、という場所を塞ぐ事で、獲物が自らの口の中に跳び込むようにする……ちょっと賢ければ、誰でも出来る狩りの仕方だ。脳みその腐りきった死体がそれをやるとは、あまり思いたくなかったが。

 逃げるチャンスがないか、加奈子は廊下の角からイノシシの様子を窺い見る。

 イノシシのしている事は、正確には雄叫びではなかった。建物に身体を密着させ、震動させている。その震動が咆哮染みた重低音を奏で、壁から伝わった揺れが建物全体に拡がっているようだ。お陰で田沼と小声での会話が出来る程度には、近付いても騒音は酷くない。尤も、このぐらいしか嬉しさはなかったが。

 採るべき策の方針は二つ。

 一つは、工場の別の出入口から脱出する事。しかしながら廃工場内の出入口は軒並み施錠されている。しかも外側から、南京錠を用いて、だ。加奈子が侵入に使った入口 ― つまり今イノシシが塞いでいる場所である ― は、ドアが経年劣化によりボロボロで、二人掛かりで壊せたから使えた通路なのだ。他の出入口も二人掛かりで破壊出来るとは思うが、大きな音を立てればイノシシは勘付くだろう。

 そうしたら追い駆けっこの始まりだが、生憎加奈子は自動車以上のスピードと競争して勝てるほどの身体能力はない。工場という入り組んだ建物内だから今の今まで無事だったのであり、開けた場所に出たらお終いだ。だからといって無理矢理開ける必要がない、鍵の掛かっていない扉を探そうにも、あるのかどうか分からないし、そんな悠長をしている暇はないと思われる。

 だとするともう一つの策しかないのだが、これを選ぶ訳にはいかない。

 誰かが囮となってイノシシを惹き付け、その隙にもう一人が逃げ出すなんて、加奈子には出来ない。やりたくない。

「……良し、俺が奴の気を引き寄せる。その隙にお前は逃げろ」

 なのに田沼は平然と、自らが囮になる旨を提案してきた。

 加奈子の答えは決まっている。そんな提案、お断りだ。

「やだ」

「ワガママ言うんじゃない。それとも他に案があるのか?」

「ないけど、でもこれから考えるもんっ」

「そんな時間ないだろ。今にも建物が崩れそうなんだ……これしかない」

 加奈子は否定の意思を小声で示すが、田沼もまたその意思を変えようとしない。説得しようとする加奈子だったが、しかし田沼の言い分も正しい。それに反論しようとすると感情が昂ぶり、大声を出してしまいそうになる。

 理性と感情がせめぎ合い、加奈子の気持ちをぐちゃぐちゃに掻き乱す。納得出来ないのに、納得するしかない。それが嫌で、嫌で、堪らなく嫌で――――

「ふんっ!」

「ぬっ!?」

 加奈子は衝動に従い、田沼に膝かっくんをお見舞いした。不意打ちを喰らい、田沼は声こそ必死に抑えたものの、身体の方は大きく傾く。

 その傾いた身体を支えるために、田沼は偶々近くにあった扉部分に手を付いた。

 瞬間、バキンッ、と金具のへし折れる音がする。

 続いて扉が、ドアノブを握ってもいないのに開いた……否、扉全体が奥に向かって倒れる。ここで素早くドアノブを握れば倒れるのを防げただろうが、扉として想定外な動きに加奈子も惚ける事しか出来ない。

 どぐしゃあっ! という効果音でも付けるべきだろうか。扉は加奈子達の置かれている状況などお構いなしな、とても大きな音を工場内に響かせた。

 そして扉の音と共に、工場の揺れはぴたりと治まる。ケダモノの叫びも聞こえてこない。建物倒壊の危機は去ったようだ。

 その事に安堵出来るほど、加奈子も田沼も阿呆ではないが。

「……何か言う事はあるか?」

「私は悪くねぇ。おっちゃんが頑固なのがいけないんじゃん」

「はははっ、こやつめ」

 適当な会話を交わし、加奈子と田沼は同時にため息を吐く。

 暢気に話している場合ではない。

「……逃げるぞおおおおおおっ!?」

「言われなくてもおおおおおっ!?」

 今度は自分達が工場を揺らしかねないほどの大声で叫びながら、加奈子達は同時に走り出して

「ブギアゴアアオオオオオオオッ!」

 彼女達の居た場所に、イノシシが突っ込んできた!

 イノシシと接触した柱や壁は、豆腐で出来ていたのではないかと思わせるほどあっさりと砕け散る。無論本当に豆腐で出来ている筈もない。人体があの体当たりを受けたなら、コンクリートで出来た壁と同じように砕け散るだろう。掠っただけで腕の一本ぐらいは持っていかれそうだ。

 そんな破壊力の塊が、自分の背後十数メートルの位置に居て、生きている心地なんてする訳がない。心臓はバクバクと太鼓の如く音を鳴らし、全身の毛穴がぞわぞわと開いて冷や汗を垂れ流す。目は潤み、今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。

 だが、加奈子は笑っていた。

 そうだ、これで良い。誰かが犠牲になるやり方なんて、そんなのは()()()()()。どれだけ困難でも、どれだけ絶望的でも……その先にあるのが最高のハッピーエンドなら、目指すしかない。

 それが小田加奈子という少女の、生き様なのだから。




一般人と怪物の真っ向勝負。
加奈子が逸般人となるかどうかが見所です(ぇ)

次回は明日投稿予定です。


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輪廻拒絶8

 イノシシは怒り狂っていた。

 口からはどばどばと涎が溢れ、空腹に喘いでいるのが分かる。元々血走っていた瞳は今や破裂しそうなほど充血し、これまで以上の狂気を感じさせる。全身から陽炎めいた『揺らぎ』が噴き出しているように見えるが、筋肉からの放熱だろうか? 一体どれだけ全身に力を込めているんだとツッコミを入れたい。

 などと加奈子は自分を追い駆けてくる獣に対し思ったが、それを隣を走る田沼に伝える事はしない。伝えたところで田沼も分かっているだろうし……何より今自分の口は、悲鳴を上げるので精いっぱいだった。

「ひいいいいいいぃぃっ!?」

「クソっ! 何処に逃げりゃ良いんだ……!」

 何度も背後を振り返りながら、加奈子と田沼は工場の一階廊下を走る。イノシシは加奈子達の後を猛然と追い駆けてきた。

 やはり速くなり過ぎたスピードを制御しきれていないようで、加奈子達が角を曲がれば、イノシシは曲がりきれず壁に激突していた。さしものイノシシも壁に衝突すると一旦足が止まり、加奈子達はその間に次の角を曲がり……この繰り返しで、なんとか逃げ延びている。

 とはいえこんなのは実力や知略によるものではなく、地の利を偶然活かせただけ。運が尽きれば、何もかもが破綻してしまう。

 それこそ長い直線通路が現れるという『不運』だけで、簡単におじゃんとなってしまう程度の命運だ。

「げぇっ!? おおおおっちゃん!? これどうしよう!? どうしたら良い!?」

「っ……! 加奈子、タイミングを見て突き飛ばすから身体から力を抜いとけ! それと俺と歩みを合わせろ!」

「えっ? えっ?」

 いきなり告げられた指示に、加奈子は戸惑いを見せる。突き飛ばすって何処に? 合わせるって何?

 しかし田沼が答えてくれる事はなかった。時間があれば教えてくれたかも知れないが、その時間がなかったのだから。

「ここだっ!」

「きゃっ!?」

 宣言通り田沼は加奈子を突き飛ばし、混乱により結果的に身体から力を抜いていた加奈子は勢いよく飛んでしまう。

 飛ばされた加奈子の身体が向かう先は、扉が開きっぱなしになっていた部屋だった。転がり込むように部屋へと入った加奈子は、痛みに蹲りたくなる衝動を感じつつも立ち上がり、辺りを見渡す。

 その目に映り込んだのは、酷く雑にしまわれた備品の数々。

 そして高さ・幅共に五メートルはありそうな巨大タンク、それが部屋の中央で二つ縦に積まれている光景だった。

「これは……もしかして、廃液保管庫?」

 加奈子はぽつりと自身の考えを呟く。地図に書かれていた部屋の一つだ。

 部屋の中は、つんとした薬品臭さで満ちている。この工場が閉鎖されたのは二年前なのだが、未だ薬臭さがあるという事は、もしかすると薬液をちゃんと廃棄していないという事なのだろうか? あまり工業に詳しい訳ではないが、薬液を廃棄するにもお金が掛かるのは加奈子にも想像が付く。お金を使いたくなくて、ここに放置したのかも知れない。

 周りを見れば廃液保管庫にも拘わらず、曲がりくねったパイプやら人の背丈ほどもある鏡やら、薬品とは全然関係ないものまでしまわれていた。部屋の奥には恐らくタンクを搬入する際使われたと思われる大きな扉があったものの、積み上げられた段ボールに埋もれている有り様。どうやらかなり杜撰な管理体制だったようだ。そんなんだから倒産するんじゃないかなぁ……などと思う加奈子だったが、すぐ我に返る。

 こんなところで暢気に考え込んでいる場合ではない。早く身を隠さないと……

 しかし加奈子の考えは、既に悠長なものである。

 廃液保管庫には、もうイノシシが入り込んできたのだから。

「ひっ!? あ、う……」

「ブシュルルルルル……」

 イノシシの姿を見て、怯える加奈子。獲物を前にしたイノシシは荒々しい吐息を漏らす。ゆっくりと開いた口からだらだらと涎を滴らせ、真っ赤な瞳で加奈子をじっと見つめた。

 イノシシの速さは圧倒的だ。田沼のような経験豊富で、イノシシの動きが分かる猟師以外には、その俊足を捉える事は難しい。加奈子もまた例外ではなく、真っ正面から向かい合っていてもイノシシの突撃を躱せる自信などない。

「ブギアゴオオオオオオッ!」

 挙句イノシシが走り出した瞬間、加奈子の身体は驚きと恐怖で固まってしまう。

 逃げられない。

 哀れ、加奈子はイノシシの体当たりを真っ正面から受けてしまう……と、イノシシは思っていたかも知れない。

 加奈子は全くそんな事は思わなかった。

 何故ならイノシシがずっと見ていたのは――――加奈子の姿が映り込んだ鏡の方だったのだから。車さえも突き飛ばす怪力を受け、鏡は呆気なく粉砕。殆ど手応えがない事にイノシシは驚いたかも知れないが、進化し過ぎた身体は急には止まれない。

 イノシシは鏡の後ろにあった、二段重ねのうち床に置かれている方のタンクに頭から激突。倒壊こそしなかったものの、金属製の装甲は今にも潰れそうなぐらい歪み、ひび割れ、中から液体が溢れ出る。

「ブギィッ!?」

 その液体を浴び、イノシシは苦悶の声を漏らした。

 じゅうっ、と焼けるような音が聞こえた事から、強酸性か強アルカリ性の廃液らしい。とんでもない危険物を残しおって……という工場責任者への憤りが込み上がり、それと同じぐらい感謝の気持ちを加奈子は抱く。

 彼等の残した廃液のお陰で、イノシシがそれなりのダメージを受けてくれた。今なら逃げ出せる。

 加奈子はのたうち回るイノシシの後ろを素早く通過。部屋の外へと脱した。廊下に出ると田沼が待っており、彼も無事な様子である。

「今のうちに外へと逃げるぞ」

「うんっ」

 田沼の言葉に従い、加奈子は走り出す。

 今のうちに逃げればなんとか……

「ゴガオオゴオオオオオオオオオッ!」

 そんな希望を打ち砕くように、イノシシが廃液保管庫から跳び出してきた。性質の悪い事に、入口の壁ごと粉砕して。

 もしかして、また強くなってる?

 青ざめる加奈子に答えるかのように、イノシシは加奈子達を正面に見据え()()。加奈子達の進路を予測するように、加奈子達の進む先二メートルほどの地点を見ている。例えそこが廊下の曲がり角の先であるとしても。

「おっちゃん! 待って!」

 廊下を曲がり終えた、直後、加奈子は田沼の手を引っ張る。突然の加奈子の行動、田沼は憤りと困惑を内在させた顔を加奈子の方へと振り向かせ、

 そのまま走っていれば丁度居たであろう位置を、イノシシは襲撃した……建物の壁をぶち抜くという方法を使って。

「……おい、嘘だろ。そんな滅茶苦茶……」

「おっちゃん! こっち!」

 呆けたように固まる田沼の手を掴み、加奈子は彼に呼び掛ける。我に返った田沼は、今度は加奈子に引かれる形で走り出した。

 曲がり角すら最早イノシシを引き離すには不十分。

 ならばと加奈子はすぐ近くにあった、階段を使う事を選んだ。田沼と共に全速力で駆け上り、二階へと上がる。最初に二階へと上がるために使ったのと、その後降りるために使ったのとは別の階段だ。壁をぶち抜いたイノシシも階段に足を掛けるや、雄叫びと共に追ってきた。

 食堂で見た地図が正しければ、この階段は建物の外側……つまり屋外と隣接している。もし此処でイノシシが突撃を仕掛け、それを自分達が避けたなら、イノシシは壁をぶち破って外まで飛んでいくのではないか? 勿論こんな程度で死にはしないだろうが、時間は大きく稼げる筈だ。

 淡い期待を抱く加奈子だったが、残念ながらイノシシは死体の癖に理知的だった。階段に備え付けられている窓から外が見えたのか、はたまた壁をぶち抜いた先が予想出来なかったからか。丁寧な駆け足で、一段一段上がってくる。

 加奈子と田沼は一足先に二階の廊下に辿り着き、少しでもイノシシと距離を取ろうとする。イノシシは二階に辿り着くとぶるりと身を震わせ、

「ゴガアアアアアアアアアオオオオオオオオオオオオオオオアオオッ!」

 かつてない、大咆哮を上げた。

 咆哮はまるで衝撃波のように辺りに広がり、様々なものを浮かび上がらせる。廊下に落ちていた埃、紙切れ、鉄くず、コンクリート片……

 そして田沼よりずっと華奢で身軽な、加奈子の身体さえも。

「ふぇ? うええっ!? 私飛んでむぐっ!?」

「か、加奈子ぉっ!?」

 思いっきり飛ばされた加奈子は、田沼から引き離されてしまった。どうにか受け身を取って衝撃を受け流すが、それでも手足や背中に痛みが走る。怪我になるのは回避したが、少しばかり動きが鈍ってしまう。

 もしも遠くに吹き飛ばされなかったら、そして受け身を取った拍子に身体の向きが反転……今まで走ってきた背後を振り向く形になっていなかったら。

 自分目掛けて走るモンスターの攻撃を、果たして躱せただろうか?

「うぬぐぅっ!?」

 ぶわりと全身から汗が噴き出し、全神経が警報を発令。全ての細胞が脈動するような感覚と共に、加奈子はその場から跳び退く!

 イノシシは加奈子の居た場所を通過し、そのコースの傍を通っていた田沼を突き飛ばした。直撃ではない。直撃ではないが、余波だけで彼の身体は木の葉のように舞い、壁に叩き付けられる。身体が反射的に跳ぶ中、全神経を研ぎ澄ましていた加奈子にはその光景が見えてしまう。

 加奈子は見知らぬ部屋に文字通り転がり込む。身軽に立ち上がり、今すぐにでも走り出せる体勢に移行する様は、アクション映画の主人公のよう。既に身体は痛みを感じていない。

 痛みなどよりずっと恐ろしい、怪物の瞳が廊下側からこちらを見ているのだから。

「ひ、ひぅっ!?」

 悲鳴を漏らしながら、加奈子は部屋の奥へと逃げてしまう。入口にはイノシシが居るのだから、奥へと逃げるしかない。

 しかしイノシシは追ってくる。

 加奈子は部屋の奥へ奥へと進む。積み上げられた雑貨の数々が、此処が備品倉庫だと物語った。段ボールが山積みとなり、部屋は多くの死角が出来ていたため、イノシシの視線を切るのは容易。更に隠れ場所は豊富にある。何処かに身を隠せばやり過ごせるのでは……そんな考えが脳裏を過ぎるも、加奈子はすぐに無駄だと悟った。

 田沼は言っていた。イノシシは犬並の嗅覚を持っていると。以前見たテレビでもそんな風に言っていたので、きっと間違いない。物陰に隠れたところで、イノシシは簡単に見付けてくるだろう。そして見付けられたなら、隠れ場所は逃げる事の出来ない監獄と化す。

 どうしたら良い? どうすれば良い?

 ……今までなら、田沼がここで助けてくれた。あっちに逃げろとか、伏せろだとか、宥めてくれたりだとか……

 その田沼は今、此処には居ない。

 イノシシの体当たりの直撃を受けた訳ではない。倒れたところを狙われ、内臓を吸い出されてもいない。イノシシはすぐに加奈子を追ってきた ― 干からびた老人より、若い女子高生の方が栄養満点とでも思ったのだろうか ― ので、田沼は直接的な攻撃を受けていない筈だ。だからきっと、彼はまだ生きている。

 しかしイノシシの突進の余波を受け、彼は壁に叩き付けられていた。失神状態に陥っていてもおかしくない。気絶しているのに、どうやって助けてもらえるというのか。

 自分だけでなんとかするしかない。

「(なんとか、なんとかしないと……何か、良いものは……!)」

 山積みにされた雑貨の数々に目を通し、使えるものがないかを探す。しかしどれも本当に些末な……ボールペンだとか、油性ペンだとか、紙だとか、布だとか……本当に雑貨しかない。日常生活ですらそうたくさんは使わないものばかり。この非常時に、どうすれば役立つというのか。

 ずしん、ずしんと、イノシシの足音がする。

 もう時間がない。加奈子は困惑する頭をフル回転させ、この場を切り抜ける策を考えようとする。しかし焦りが脳を浸食し、不安が理性を蝕む。策を思い描くどころか、思考の纏まりがなくなっていく。

 だから、思い付いたものは……

「……フシュルルルル……」

 それから十数秒と経った頃。イノシシが、鼻を鳴らしながら加奈子の居る部屋の奥へと足を踏み入れる。彼は臭いを嗅ぎつつも、まずは目視で確認しようとしてか、辺りをキョロキョロと見渡した。

 すると一つの、布を掛けられた『塊』を見付ける。

 なんとも怪しい物体を、イノシシはじっと見つめる。物体の高さは、丁度()()()()()()()ぐらいあるだろうか。とはいえその物体は微動だにせず、やがてイノシシは興味を失ったのか物体から目を逸らした

 途端、ごそごそと擦れるような音が鳴る。

 ――――何かを覆いかくしている、布の中から。

「……ブシュルルルルル……シュルウゥゥゥ……」

 音を聞き取り、イノシシは笑みを浮かべた。或いは単に空腹により溢れ出した涎を吐き出すためか。半開きになった口から、だらだらと透明な粘液を零した。

 イノシシはゆっくりと布が覆う物体の方へと振り返り、のそのそと歩く。その歩みは段々と速く、加速していき、

 ついに我慢出来なかったのだろう。

「ブゴオオオオオオオオオオオオンッ!」

 イノシシは工場全体が震えるほどの大咆哮を上げるや、弾丸の如くスピードで駆ける! 人間など瞬きするのが精いっぱいの刹那で、イノシシは布に自慢の牙を突き刺した!

 ――――その瞬間、イノシシは理解した筈だ。

 布が覆い隠していたものが、ただの空段ボール箱であった事を。勿論ミュータント(知的生物)でない彼には、その段ボールの中に入っていたスマートフォン ― マナーモードで目覚ましアプリが起動していた ― が先の音を鳴らしたとは気付くまい。されど己が謀られた事は察したようで、一瞬の戸惑いの後、憤怒で顔を歪める。

 尤も、怒りをぶつける相手は自分を騙したものではなく、目の前の壁だ。止まろうと思えば多少は落とせたであろうスピードを、イノシシはむしろ加速させたまま突っ込む。コンクリートで出来た壁は簡単に砕け散り、イノシシの身体は壁の向こう側へと跳び出す。そこで彼は軽やかに身を反転させた。

 が、前へと踏み出せない。

 理由は至極簡単……イノシシの足下に、床はないのだから。

「……!? ブゴッ!?」

 慌てて自分が先程まで居た部屋の床に、蹄のある前足でしがみつく。それから必死になって、跳び出す前の部屋に戻ろうとしていた。

 そんな彼の行いを一部始終見ていた少女……加奈子は、このタイミングで物陰から出てイノシシと向き合う。イノシシは加奈子の仕業と理解したのか醜く吼え、対する加奈子は子供のような笑みを浮かべた。

 加奈子の作戦通り、イノシシは壁を突き破ってくれた。お陰で彼は今、備品倉庫の隣……一階へと続く『空洞』へと出ている。よじ登る事に失敗すれば真っ逆さま、彼は二階から一階へと落ちるのだ。

 無論、二階から落ちた程度では、猟銃すら跳ね返すイノシシにろくなダメージを与えられないだろう。身体能力から考えて、一階から二階へと跳び登るのもまた余裕な筈である。

 しかし落ちる訳にはいくまい。

 何故ならイノシシが落ちかけている場所は――――彼が体当たりをかました事で中身を零した、大量の廃液が満ちているのだ。

 廃液保管庫の上、備品倉庫の隣に『空間』があった理由……それは廃液保管庫が一階から二階までの高さがあったからだ。イノシシが壊したタンクは一つだが、そのタンクの上にはもう一つのタンクが置かれていた。イノシシが落下し、脆くなったタンクにぶつかれば、上に積まれていたタンクもいよいよ落ちるだろう。そしてその中身……イノシシの身体を焼いた、劇物を全身に浴びさせるのだ。

 大量の薬液を浴びたとなれば、身体の大半を失うに違いない。肉をも溶かす強酸だか強アルカリの液体だ。銃殺と異なり、再生する肉すら残さない事もあり得る。このイノシシはとんでもないモンスターであるが、よもや死霊が取り憑いて云々といったオカルト存在でもあるまい。骨肉を全て溶かし尽くせば、如何に不死でも『死ぬ』筈である。

 イノシシもそれを察したのか、必死になって備品倉庫側の床にしがみつく。とはいえイノシシの足は蹄だ。『崖』の切っ先にしがみつくには、あまりに向いていない作りである。

 放置していてもそのうち落ちると思う。けれどもこのモンスターは、死をも克服した魔物だ。何か、とんでもない方法でよじ登る可能性がある。落とせるなら落とした方が良い。

「おっ。丁度良いものはっけーん」

 何か良いものはないかと探した加奈子の目に、大型の機械が目に入る。どのような用途で使う機械かはさっぱり分からないが、そんな事は大した問題ではない。大事なのはその大きさと重さだ。

 両手で持てば、加奈子の力でも十分遠くに投げ付けられるだろう。この機械をイノシシの頭目掛け投げ付ければ、怯んだ拍子に落ちるかも知れない。遠距離から攻撃するので、イノシシに吸い込まれる心配もない筈。

 加奈子は早速機械を両手で抱え、イノシシの頭にぶつけてやろうと、高々と機械の塊を掲げた。

 その体勢で、ぴたりと動きを止めてしまう。

 何故ならイノシシは、今まで必死にしがみつこうとしていた腕を高く持ち上げ、

「ブギィッ!」

 力強い掛け声と共に、床に自らの蹄を打ち付けたから。

 その打撃は凄まじく、コンクリート製の床と激突したイノシシの蹄は、粉々に砕けた……が、それだけでは終わらない。

 あろう事か、イノシシの前足はコンクリートの床に突き刺さったのだ。即ち足場を固定したのである。

 これでは、イノシシは廃液保管庫に落ちてはくれない。それどころかしっかりと地面を捉えた事で、少しずつその身体を備品倉庫側へと移動させてるではないか。

「げぇっ!? なんつーしぶとさ……!」

 イノシシが復帰すると分かり、加奈子は動揺を隠せない。

 このままでは折角のチャンスが水の泡だ。なんとか突き落としたいが、今更頭に機械をぶつけたところで平然としているだろう。

 しかし為す術なしという訳でもない。見たところ床に打ち込んだとはいえ、足はあまり深く突き刺さっていない。接近し、強力な一撃をお見舞いすれば落っこちる筈だ。

 とはいえこの獰猛な人食いイノシシに接近するのは恐怖でしかない。内臓を一瞬で吸い取るほどの肺活量があるのだ。迂闊に近寄れば吸い込まれ、餌食となるかも知れないと考えるのは、決して警戒し過ぎではないだろう。

 無論接近し叩き落とさねば、このイノシシは這い上がってくる。死体の癖にやたら賢いこの怪物に同じ手が通用するとは思えない。このチャンスを逃せば、本当に、いよいよ以てお終いだ。

 近付かなければならない。だけどその勇気が持てない。時間がない。逸る感情ばかりが胸の中に溢れ返り、加奈子は息を荒くしながらイノシシと向き合い――――

 決断するよりも前に、加奈子の横を何かが通った。

「うおおおおおおおおおおおおおっ!」

 そしてその何かが田沼である事を、加奈子は彼の上げた咆哮によって知る。

 田沼は、両手で鉄パイプを握り締めていた。まるで槍のようにパイプを突き出し、突撃する姿はさながら中世の騎士……否、石器時代の狩人の如く勇ましい。

 或いはその通りか。

 田沼は恐れを知らぬ戦士のように、イノシシの鼻先に鉄パイプを突き立てる! イノシシは突然の攻撃に驚いたのか、目を白黒させながら短い悲鳴を漏らす。

 されどイノシシとてケダモノだ。致命傷へと至らない打撃に何時までも怯みはしない。一瞬の戸惑いはすぐに消え失せ、おどろおどろしい叫びを上げながら田沼を押し返し、這い上がろうとしてくる。

 田沼は少しずつ、その身を押し返された。相手は正真正銘のモンスターなのだ。純粋な身体能力ではとても勝ち目などない。

 だが、田沼は踏み留まる。

「ぐ、ぎ、ぎぎぎ……!」

「ブギ……!? グギ、ギッ、ゴ、ゴオオオオッ……!」

 歯を食い縛る音、獣の唸り、張り詰める気迫……全てが拮抗していた。ただ一人の人間が、進化を続けたモンスターとのつばぜり合いを繰り広げている。

 田沼は六十代の、言わば老いた男である。デスクワークに励んでいた同世代と比べれば若々しい肉体を保っているが、二~三十代の大柄な若者と殴り合えばあっさり負けるだろう。時々腰が痛い時もあるし、疲れやすくもなったと加奈子に愚痴った事もある。

 対するイノシシは目にも留まらぬ速さで駆け、コンクリートの壁をぶち抜くほどの

力がある。しかも自分達と出会ってからぶっ続けで走り続けるほどの体力を有す。怪我は瞬時に癒え、例え死んでもすぐに蘇生する。

 どう考えても田沼(人類) の肉体が挑める相手ではないだろう。例え今のイノシシがどれだけ不利な体勢であろうと、パワー・スピード・スタミナの全てを上回るのだ。知恵を用いようとも、何もかもが圧倒的な存在の前では小細工に過ぎない。

 勝てるとすれば、気持ちのみ。

 ……されど感情は、人間が進化によって会得したもの。

 人間はどんな生き物よりも感情の強さを知っている。感情が己に力を与えてくれる事を理解している。昂ぶった想いを受け取った全身の筋肉がリミッターを解き、人間本来の『野生』を取り戻す。

 人間が弱いというのは、人間側の()()である。

 科学の発達により人間の身体能力は衰えたと、数十億年の進化で会得した肉体よりも知恵の方が上だと思い込んでいる……実際には、人間の身体は強い。その気になれば自然界で十分生きていけるほどに。

 そして猟師は、その自然界と何度も触れ合ってきた人間だ。

「……お前さん、本当に強いな。人間が何百人も束になっても勝てなくて、こんな卑怯な条件でやって、まだ互角なんだからよ」

「ギ、ゴ、ゴゴ、オオオオオ……!」

「本当は、こんな風に討ち取るのは本意じゃねぇが……だけど、これ以上、人を食わせる訳にはいかねぇ……猟師ってのは、そういう動物を、退治すんのも、役割だからな……!」

「ゴガオッ! ブギッ! ビギィッ!」

 イノシシが吠えた。プライドなどなく、野生の本能を剥き出しにしながら、よじ登ろうとしている。

 しかし前へと踏み出したのは、田沼の方。

「ブギッ! ゴッ、ゴオッ! ブギギギィィ……!」

 イノシシは自身の身に起きた事を否定するかの如く、必死な叫びを上げた。四肢をばたつかせ、鼻息を荒くする。しかしイノシシが這い上がる事は叶わず、少しずつ、その身は大きく傾く。

 そして、

「これは私怨で申し訳ないが、ついでに一言言わせてくれ……猟師を、あまり嘗めんじゃねぇぞバケモンがぁっ!」

 田沼の渾身の力が、イノシシを押し退けた。

 イノシシは踏ん張ろうとしたが、床に突き刺した足が抜ける。身体は飛ぶように床の切っ先から離れ、四肢をばたつかせながら落ちていく。

 そしてその巨躯が向かう先は、己が体当たりを喰らわせ、拉げてしまったタンク。

 自身の身体による一撃を再び喰らわせてしまい――――二つ積まれたタンクは、ついにバランスを失う。下に置かれたタンクの凹みに従い、上に積まれたタンクはイノシシ目掛け落ちる。

「ブ、ブギイイイイイイイイッ!?」

 イノシシの救いを求めるような悲鳴が、工場内に響く。

 生憎、此処に彼を助けてくれる者はいない。助けられる者もいない。故に彼は巨大なタンクの下敷きになる。

 大量の廃液の雪崩が、一匹の獣を飲み込むのであった。




逸般人はおっちゃんの方でした。

次回は6/22(土)投稿予定です。


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輪廻拒絶9

「ギィオオオオオオオッ!? ギィ! ギイイイイイイイッ!?」

 苦しげなイノシシの断末魔が工場内、いや、町中に響き渡る。

 その苦悶の叫びは魔獣を彷彿とさせ、聞く者全てに恐怖心を植え付けるだろう。間近で聞いた加奈子も、その叫びが禍々しい……何か、この世のものとは違う存在のように思えてならない。

 同時に、とても苦しそうだとも。

 イノシシは今、タンクの『中』に居る筈だ。彼は倒れてきたタンクの下敷きとなり、その身の頑強さを思えば、タンクの外壁を突き破ってしまう事は十分あり得るのだから。今頃全身が廃液……強酸だか強アルカリだかの液体に浸り、肉を溶かされているに違いない。もしも痛覚があるなら、きっと気が狂うほどの痛みを感じる筈だ。

 このイノシシが、何故人里に現れたのかは分からない。世界中で出没している怪物の仕業か、それとも環境破壊の影響か、或いは偶々なのか……イノシシに訊いても、答えてはくれないだろう。もしかするとイノシシ自身、よく分かっていないかも知れない。

 間違いないのは、少なくともこんな苦しい『死に方』をするとは思っていなかった事だけだ。

「……加奈子、離れよう。これ以上は」

 田沼が離れるように促すが、加奈子は首を横に振った。自分の決断が彼の命を奪ったのだ。ただの感傷であるのは分かっているが、それでも最期まで見届けたい。

「ブギ、ギボ、ボゴ、ボボボボ……」

 イノシシの声はやがて聞こえなくなる。タンクから漏れ出て、月明かりに照らされた廃液の色に赤黒いものが混じるようになった。

 ……それからしばし待てど暮らせど、イノシシがタンクを粉砕し、中から現れる様子はない。

 加奈子は崩れるように、その場にへたり込んでしまった。

「あ、あれ? 足に、力が……」

「落ち着け。緊張が解けたんだろう、慌てるような事じゃない」

「あ、ああ、そっか。そうなんだ」

 自分が緊張している事すら忘れていた――――その事実がおかしくて、加奈子は引き攣った笑いが漏れ出てしまう。

 だけどその引き攣った笑いは、やがて本当の笑みへと変わった。そして笑みを浮かべたまま、大粒の涙が零れ始める。

「あ、あれ? なんで、私泣いてんの? あれ?」

「……加奈子」

 戸惑う加奈子を、田沼はそっと抱き締めてきた。一瞬ドキリとする加奈子は、やがて顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を漏らす。

 泣き出すのに、時間は掛からない。

 イノシシの雄叫びが消えた町に、今度は、か弱い少女の泣き声が響くのだった。

 ……………と、そのまま衝動的に泣き続けようとする加奈子だったが、そうもいかないと我に返る。イノシシの叫びは聞こえなくなったが、それは彼の『絶命』を意味しない。あのモンスターは脳みそをぐちゃぐちゃにされようとも復活する、正真正銘の怪物なのだから。もしかすると実はまだ生きていて、ダメージの大きさから復帰に時間が掛かっているだけかも知れない。『死体』が確認出来ない今、感情のまま泣き叫ぶのが正解かは分からないのだ。

 何より、

「あらあら、お邪魔だったかしら?」

 『友達』にこの姿を見られたらと思うと、途端に恥ずかしくなってきた。

 涙を拭うのも忘れて声がした方へと振り向けば、そこには何時の間に現れたのか、喪服のような色合いのワンピースを身に纏う少女……ミリオンの姿があった。

「っ!? ミリきち!?」

「はぁい、約束通りやってきたわよ」

「……誰だ?」

「えっと、友達、というか助っ人?」

「ええ、イノシシ退治に来ました」

 友達と紹介されたミリオンを、田沼は怪訝そうな眼差しで見つめる。彼からすればミリオンは初対面のみならず、不気味な廃工場に突如として現れた不審者だ。おまけに見た目は華奢で可憐な女性である。人食いイノシシどころか野良犬にすら勝てそうにない。田沼がミリオンの『イノシシ退治』発言を信用出来ず、警戒心を抱くのも無理ない事だ。それにミリきち、全体的に胡散臭いというか怪しいし……などと加奈子も思う。

 しかしミリオンが人間の視線を逐一気にしない事も、一応友人である加奈子は知っていた。ミリオンは嫋やかなような、そうでもないような、気味の悪い笑みを浮かべるばかり。

「ま、私を警戒するのならご自由に。それよりも……アレ、まだ生きてるわよ」

 そして加奈子達の後ろにある壁の穴――――廃液保管庫を指差しながら、淡々とそう述べた。

 瞬間、まるで爆弾でも起動したかのような、空気を震えさせる破裂音が轟く。

 突然の破裂音。勿論加奈子、その加奈子の傍に居る田沼も驚きで目を丸くした。されどこんな音ぐらいでは、最早彼女達は顔を青くなどしない。

 加奈子達を震え上がらせたのは、その音が自分達の背後から聞こえてきた点である。

「……いくら、なんでも……」

 加奈子はガチガチに強張りながら、無意識に背後を、廃液保管庫が見える大穴へと振り返る。

 そこには、一匹の白い獣が立っていた。

 加奈子は一目見た瞬間、こう思った。「なんて綺麗なんだろう」と。引き締まったボディは一部の無駄もなく、完璧な……そう、本能的に完璧であると察してしまうほどに整っていた。体毛を持たず、皮膚は血管が浮き出ている影響からかほんのりと青みがかっている。顔は特徴的な豚面なのに、神々しさすら感じられるほど凜々しい。赤く染まった瞳は心の全てを見透かすようで、それを不快に思う事すら出来ない。

 恐怖は感じない。嫌悪も、憎悪も、抱けない。負の感情が浄化され、消されていく。

 その獣が廃液漬けから復活した人食いイノシシである事は、明白だというのに。

「……ゴアアアアアオオオオオオオオオンッ!」

 発せられた咆哮は、荘厳な教会にある鐘のよう。

 イノシシは軽やかに跳び、加奈子達が立つ大穴まで一瞬で登ってきた。あまりにも簡単に登るものだから、加奈子は人食いイノシシが目の前にやってきても呆然としてしまう。田沼も呆けたように動かない。

 対するイノシシは、打ちのめされた人間達の気持ちなど気にも留めない。パキパキと全身の肉を鳴らし、その身に力を蓄える。

 そこまでイノシシが準備を終えて、加奈子はようやく我に返った。眼前の生命体がどれほど美しくても、その本質が人食いのモンスターである事も思い出す。しかし何もかもが遅い。

 イノシシは加奈子達目掛け走り出す。走り出したが、加奈子はその動きに反応出来ない。反応出来るような加速ではなかった。田沼もまた微動だにしない有り様。

 だから加奈子と田沼は、迫り来るイノシシを見つめるばかりで。

 ――――しかし二人の身体に、天国へと導くほどの衝撃がやってくる事はなかった。

「ほら、何をボケッとしてるのよ」

 呆れるような女性の声が、加奈子の()()()()聞こえてきたのだから。

 加奈子は無意識に、驚くように目を開ける。

 ミリオンは、瞬きする間もなく加奈子とイノシシの間に移動していた。それだけでも驚きだが、彼女は加奈子達に襲い掛かってきた人食いイノシシの牙を片手で掴み、その動きを止めていたのだ。

 これにはイノシシも驚いたのか、半狂乱になったように暴れる。しかし牙を掴むミリオンの手はビクともしない。進む事はおろか逃げる事も叶わず、イノシシはその場でジタバタと暴れる事しか出来ないでいる。激しく暴れるものだから周囲の床が粉砕され、飛び散り、破片が加奈子の頬を叩いた。

「……はっ!? え、な、なん、だ……!?」

「ふぅん、思ったよりも力はあるのね。とはいえこの程度じゃ暇潰しにもならないけど」

 ようやく田沼も我に返ると、ミリオンを見るや驚き、そのミリオンが止めているイノシシを見て更に驚く。ミリオンは田沼に嫋やかな微笑みを返すが、片手でイノシシを受け止める姿に可憐さなど微塵もない。意味不明な光景に、田沼は目を白黒させる。

 呆然とする人間二人であったが、捕まっているイノシシの方は必死だ。延々と暴れ、のたうち、なんとかミリオンの拘束から逃れようとする。コンクリート製の床を激しく蹴り上げる音は、まるで航空爆撃でもされているかのよう。

「流石に五月蝿いわねぇ。ちょっと静かになさいなっと」

 その暴れる音が耳障りだと告げるや、ミリオンは牙を掴んでいた手を開いた

 瞬間、平手打ちをお見舞いする!

 出鱈目な速さで繰り出された平手打ちは、イノシシの顔面からベキベキと不気味な音を奏で、イノシシの身体を吹っ飛ばした。まるでボールのように飛んでいく巨躯は、積み上げられた荷物を吹き飛ばし、備品倉庫の壁をも貫通。濛々と粉塵を巻き上がらせる。

 まるでバトル漫画のワンシーンのような、出鱈目ではちゃめちゃな光景。加奈子と田沼は目をひん向きながら呆けたように立ち尽くす。

 あれ? 助けに来てくれたのって、ミィちゃんだったっけ?

「み、ミリきち……だよね?」

「何よその質問。もしかして、今の怪力は猫ちゃんレベルとか思ってない? 失礼しちゃうわね、私はちゃんとした女の子なんだからあんな怪力野生動物と一緒にしないでよ」

「ちゃんとした女の子は、イノシシを平手でぶっ飛ばしたりはしないと思うんだけど?」

「あら、心はちゃんと女の子よ。それだけあれば十分でしょ?」

 加奈子のツッコミをさらりと流すミリオンだが、その視線は加奈子の方を向いていない。

 見つめる先は、自身が吹っ飛ばしたイノシシによって開けた大穴。

 その大穴の中から、まるで地響きのような重低音が鳴る。最早獣の雄叫びを超え、大地の唸りにも思えるその音は、徐々に近付いてきていた。ごくりと、傍に居る田沼が息を飲んだのを、加奈子の耳はしかと聞く。

 やがて大穴の中から、イノシシが顔を出す。

 化けの皮が剥がれた、とでも言うべきだろうか。先程まで神々しいとすら思えた姿は、既に変わり果てていた。血管がぼこぼこと浮き上がり、筋肉が膨張している。全身の骨格が変化したのか、肩や頭の周りが変形して鎧のように盛り上がっていた。相変わらず肌は青白く、目は赤いが、最早そのぐらいしか先程までの特徴はない。

 大きく開いた口にある舌も、まるで腕のように太く、それ故に不気味である。

 尤も――――その舌が弾丸のような速さで伸びてくるとは、思いもしなかったが。

「よっと」

 加奈子(人間)の目には映らぬ速さで飛来した舌を、ミリオンは易々と殴り返す。気付いた時には攻防が終わっており、加奈子は自分の身に起きた危険を後から察するも、背筋が凍るような現実味を感じられなかった。

 イノシシの舌は一旦縮むや再び加奈子の目に見えない ― しかし顔に当たる風圧から、間違いなく先程より速くなっていると分かる ― 速度で打ち出すも、ミリオンは簡単にそれを殴り返す。攻撃と防御は瞬きする間に何十と繰り返され、やがてイノシシは舌を口の中に戻した。

 やはり強くなっている。このままどんどん強くなれば、ミリオンさえも手に負えなくなるのではないか?

「み、ミリきち! 早く倒さないと……!」

「んー、面倒臭いわねぇ。そろそろ終わりそうだし、こっちから手を下すまでもないと思うのだけど」

「め、面倒臭いって、何言って……終わりそう?」

 まるでやる気を出さないミリオンに焦りを覚えたのも束の間、加奈子はミリオンの言葉に違和感を覚える。

 終わるとはなんの事だ? 倒すつもりもないのに何が終わる?

 脳裏を満たす疑問の言葉の数々。されどミリオンはその答えを語らない。

 語らずとも、答えは見れば分かるものだった。

「ギ、ギギ……ギ……」

 唐突に聞こえてくる、弱々しくも苦しそうな獣の鳴き声。

 イノシシの声だ。見れば先程まで弾丸並の速さで舌を繰り出していた彼は、何故か今はピクピクと痙攣するように震えている。赤かった目は段々と白く濁り始め、開けっ放しになった口から透明な涎が壊れた蛇口のように零れていた。

 そして膝を折り、力なく倒れ伏す。

 ……イノシシが動き出す気配はなかった。

「……え? し、死んだ?」

「いや、待て。その、寝てるだけかも知れない」

 困惑する加奈子に、田沼はあくまで警戒を促す。が、彼の言う事も少しおかしい。加奈子達という栄養満点な餌と、ミリオンという恐ろしい敵を前にして、どうしていきなり眠りこけるというのか。

 つまるところ人間達には訳が分からず混乱していたのだが、その様を見てミリオンがくすくすと笑う。人間を侮辱するようではなく、幼子が混乱している様を見て微笑ましく思うような笑い方だった。

「心配しなくても大丈夫よ。アレ、もう本当に死んでるから。蘇生の可能性もないわね」

「……どういう、事だ?」

「実際に見てきたら?」

 怪訝に思う田沼に、ミリオンはどうぞと言いたげにイノシシに手を向ける。

 田沼は一瞬の躊躇いを挟みつつ、こくりと頷き、動かなくなったイノシシに歩み寄り始めた。

 ミリオンが嘘を吐いている、とは加奈子も思わない。しかしミリオンは人間の命をかなり軽んじており、もしかすると『なんとなく』で言っているのではないか……そんな不安も脳裏を過ぎった。何より幾度も死を覆してきたこの怪物が、何もしていないのにいきなり死ぬなんて信じられない。

 田沼はイノシシの傍に立ち、調べ始める。目を見たり、身体を弄るように触ったり、口許に触れたり。これらの行為がどんな意図で行われているのか、これで何が判明するのか、加奈子にはよく分からない。ただ一秒でも良いから早く、何事もなく終わるよう加奈子は祈り続け――――

「……確かに、死んでる。多分、復活もしない」

 やがて田沼は、そう結論付けた。

 田沼の答えは、しかしこれでも加奈子の不安を拭いきる事は出来なかった。脳を破壊されても生き、腐った血で動いていた存在なのだ。どうして復活の可能性がないと言えるのか。

「な、なんで、生き返らないって、分かるの?」

「そりゃ、まぁ、こんな状態だからな」

 堪らず加奈子が尋ねると、田沼はイノシシの顔を掴む。

 それから力強くイノシシの面の皮を引っ張ると、ずにゅりと粘着質な音を鳴らしながら、イノシシの皮が顔から剥がれた。

 いきなりの、加えてショッキングな光景に、加奈子は「ぴゃあっ!?」と可愛らしい悲鳴を上げながら尻餅を撞く。あまりに乙女らしい驚き方だったからか、ミリオンと田沼は揃って笑い始めた。驚きや恐怖の感情はすぐに引いていき、加奈子の胸のうちを羞恥心が満たす。

「ど、どういう、事?」

 羞恥心を誤魔化すように、加奈子は田沼に説明を求める。田沼は、動かなくなったイノシシを撫でながら話した。

「腐り始めている。血だけじゃなくて、全身の筋肉がな。触ってみたが、何処も水みたいに溶けているようだ。肉体そのものが崩壊してるのだから、復活出来るとは思えない。万一ここから復活したところで、ろくな筋力は発揮出来んだろう……死なない怪物に人間の常識が通用すれば、の話だがな」

「そう、なんだ……」

 田沼の説明を受け、加奈子はようやく安心を抱けた。筋肉がどろどろに溶けているのなら、確かに復活しても恐ろしくなさそうだ。自分の拳でも勝てそうな気がする。

 しかし安心すると、今度は疑問がふつふつと沸き上がってくる。

「……それにしても、なんでいきなり死んだのかな? あと、どうして生き返るなんて事が出来たのかな?」

「それは流石に分からんな。大学の研究所で調べれば、何か分かるかも知れんが」

 加奈子の質問に、田沼は肩を竦めて降参する。もし田沼に分かるなら、とうに説明しているだろう。田沼に分からないのは予想通りだ。

「だから最初から言ったじゃない。人間でもそのうち倒せるって」

 加奈子が答えを期待したのは、イノシシの『敗北』を想定していたミリオンに対してだった。加奈子は既にこの答えを知っていたが、初耳である田沼は顔を顰める。

「……どういう事だ?」

「簡単な話よ。このイノシシ、死ねば死ぬほど強くなったのよね?」

「ああ、少なくともそう見えたな」

「多分、死ぬ度に肉体の組成を変化させたんでしょうね。より馬力があって、頑強なものに。でも、世の中ってのはそう簡単じゃない。力が強くなるとね、デメリットも生じるの」

「デメリット?」

「人間と同じ話よ。筋肉量が多い人は基礎代謝が高くなるのは知ってるかしら? じゃあ車を投げ飛ばし、コンクリートの壁を粉砕するほどの筋力……これを維持するのに、どれだけのカロリーが必要だと思う?」

 ミリオンの遠回しな答えに、加奈子と田沼はハッとなる。

 最初この人食いイノシシは、人間の皮と皮下脂肪、それから内臓を食べていた。電話した花中曰く、これは高カロリーのものを効率的に食べるための方法。出会った時から、人食いイノシシはエネルギーを求めていた。

 それから、彼はどれだけ強くなったのか。最初ですら、贅沢にも思える食べ方をしなければならなかった。公民館を襲撃した時には、内臓を一気に吸い込んで食べる方法を編み出していたが……それは馬力が上がった事で効率的に食べられるようになったのではなく、最早ちんたら食べる暇すら惜しんでいたのかも知れない。

 恐らく公民館での復活時点で、かなりギリギリの身体能力だったのだろう。何十もの人々の内臓を喰らいながら、それでもエネルギーが足りぬほどなのだから。しかしその後加奈子の計略により一回、ミリオンの攻撃によりもう一回……もしかすると廃工場に来るまでにも警察や猟師の手により更に一回……死んだ。復活する事で大きなパワーアップを経た、が、その身体能力は膨大なエネルギーを必要とする。それこそ、ほんの数分で全身のエネルギーを使い果たすほどに。

 即ち人食いイノシシの『死因』は――――餓死である。

 ここでようやく、ミリオンの言っていた事の意味が加奈子にも分かった。軍事攻撃で跡形もなく吹き飛ばせればそれで勝ち。その攻撃を耐え抜き劇的に戦闘能力が向上しても、エネルギー収支が釣り合わなくなるので餓死。その状態に陥るまで殺せなくても、人間達が一斉に逃げれば餌がなくなるのでやっぱり餓死。

 人間の勝利は約束されていたのだ。そこに至るまで、どれだけの屍を積み上げるかは別にしても。そして身体からエネルギーが枯渇したのなら、復活の可能性は全くないだろう。ガソリンの切れた車は、どれだけアクセルを踏んでも動かないように。

 本当に、心の底から安心を感じ、加奈子は力なくその場にへたり込む。足腰に力が入らず、立ち上がれそうにない。しかし身体に満ちる脱力感が今は心地良く、無理に立とうという気にもならなかった。生きている、生きていられる喜びに加奈子は蕩けきった笑みと涙を浮かべる。

 対して田沼は、まだ警戒を弛めていない。

 今の彼が見つめるのは、人食いイノシシを片手でいなしたミリオンであった。

「……死んだ理由は分かった。なら、復活した理由はなんだ? 俺も長年猟師をしているが、こんな……死んだと思ったら蘇って、死ぬ前より強くなった動物なんて話は聞いた事もない」

「んー、そっちの方も予想は付いてるけど……あくまで予想だから、今は話さないでおくわ。もうちょっと調べないとね」

「そうか」

 ミリオンが話を拒否すると、田沼はさして追及もせずに諦める。されどその目に、落胆や不信はない。

 あるのは、真実を見極めようとする『ハンター』の信念。

「なら最後の質問だ。お前は、なんだ? 人間じゃないようだが」

 そして田沼は、ミリオンの正体を問う。

 田沼からの単刀直入な問いに、ミリオンはすぐには答えない。代わりにニタリと、歪んだ笑みを浮かべた。文字通り耳許近くまで口が裂けるなど、人間の口に出来る事ではない。

 明らかな人外ぶりを発揮してから、ミリオンは裂けた口をゆっくりと開き

「ええ、人間じゃないわ。その気になれば人類ぐらいは簡単に滅ぼせる、恐怖の大魔王様よ」

 発した言葉は冗談混じりの、されどきっと事実であるものだった。

「……恐怖の大魔王様、ねぇ」

「安心なさい。人間を滅ぼすなんて、そんな面倒臭い事やらないから。お気に入りの小説の続きが読めなくなっても困るし」

「ちなみに、加奈子の事はどう思ってる?」

「優先順位は高くないけど、暇ならこうして助けに来てあげるぐらいには好んでるつもりよ」

 田沼の問い掛けに、ミリオンは平然と、お世辞のない答えを返す。

 ミリオンのスタンスを理解している加奈子は「まぁ、そういう答えだよねー」としか思わない。田沼はしばし考え込んでいるのか沈黙していたが、やがて大きなため息を吐いた。

「人間に敵意がないのなら、俺から言う事はないな。敵意があったところで、あのイノシシをぶん殴れるような奴に勝てるとは思えないが」

「あら、懸命ね」

「そうでなきゃ猟師はやれん。若くて馬鹿な猟師と、年老いて賢い猟師はいるが、年老いて馬鹿な猟師はいないってやつだ」

「大変説得力のある自画自賛ねぇ」

 楽しげにミリオンと田沼は話を交わす。田沼の例え話がどんな意味を持つのか加奈子には分からないが、二人が楽しそうなので良しとする。やはり楽しいのが一番だと、加奈子も二人の雰囲気の中に入り込もうとした

「あっ……あああーっ!?」

 直後、ふと思い出し、大声を上げてしまう。

「……どしたの?」

「き、気付いてしまった……」

「何を?」

「晴ちゃんを励ますパーティーを開くために用意した魚、コイツの所為でおじゃんになってるじゃん!」

 ビシッ! とイノシシの亡骸を指差しながら、加奈子は憤怒の表情でイノシシを睨み付ける。

 そう、加奈子は元々晴海を元気付けるパーティーをするため、釣りをしていた。

 釣り上げた魚はクーラーボックスに入れてあり、川から家へと帰る際田沼の車に積んでおいた……が、その車は人食いイノシシによってひっくり返され、その後は放置。クーラーボックスもあの騒動でひっくり返り、中身をぶちまけていてもおかしくない。

 十一月に入り気温はかなり低くなっているが、夜でも十度前後はある。夕方からの数時間常温で、しかも洗浄されていない環境に放置された川魚を食べるのは、流石に怖い。

 つまり加奈子が釣り上げた魚達は、十中八九食用にならないという事だ。

「あー……そういえばそうだな。まぁ、命あっての物種と言うし、お前の腕前ならまた釣れば良いだろ」

「そうだけどぉ、そうだけどぉ!」

「なぁに? なんかパーティーやりたかったの?」

「うん。晴ちゃんち色々大変みたいだから、パーティー開いて、食費浮かしながら励ませたらって思って……」

 憤りの感情のまま理由を明かし、されど段々意気消沈してきた加奈子の声は少しずつ小さくなる。

 確かに、もう一度釣りに行けば良い。何も今日の釣りで、泥落川の外来魚を根絶した訳ではないのだから。しかし一度得たものを失うというのは、物凄い徒労感を覚えるものだ。

「なんだ、それなら丁度良いのがあるじゃない」

 そんな加奈子の気持ちを知ってか知らずか、ミリオンは大して共感した素振りもなく、ある一点を指差しながら提案する。加奈子は殆ど無意識に、ミリオンの指先を目で追った。

 すると見えるのは、倒れ伏したままのイノシシ。

 ……ちらりちらりと、指先を確認したが、何度見てもミリオンが指し示す方にはイノシシしかいない。田沼も眉間に皺を寄せ、まさか、と言いたげに口許を引き攣らせる。

 しかし指差す少女は人間にあらず。

「此処にあるじゃない。パーティーを開くのにもってこいのものが」

 ミリオンはなんて事もないかのように、さらりと答えて――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「という訳でイノシシ鍋パーティーを始めまーす!」

「待って待って待って待って」

 よく晴れた日曜日の昼間。加奈子が満面の笑顔を浮かべながら宣言したところ、顔面蒼白な晴海が引き留めた。

 人食いイノシシが町を襲ってから早数日。一時はそこそこ大きな ― テレビ報道されるぐらいには ― ニュースとなったが、二日後台湾に現れた体長百五十メートルのウミウシっぽい生物に話題を掻っ攫われて、町はすっかり平穏を取り戻している。

 無論、亡くなった人々の遺族達の悲しみは未だ癒えない。壊された家などの被害も甚大だ。そういう人達からすれば、友達を集めてパーティーというのは暢気を通り越して不謹慎に聞こえるかも知れない。

 しかし加奈子は、このパーティーで元気付けたい人がいた。ならば何故躊躇い、止める必要があるのか。共に悲しみに暮れるよりも、一緒に『楽しく』ある方が良い。

 だから加奈子はパーティーを自分の家のリビングにて開いた。

 ……のだが、一緒にテーブル席に着いている元気付けたい人(晴海)から待ったが掛かった訳で。

「ちょっと晴ちゃーん、もっとノリノリでいこうぜー?」

「いや、ツッコミどころあり過ぎなんだけど? まずアンタ、あの人食いイノシシに襲われてたの? あたし、その話今日が初耳なんだけど?」

「うん、そだよー。話したのは今日が初めてだし、そりゃ初耳だよね。いやぁ、あの時はマジで死ぬかと思ったよ! まぁ、足の怪我は浅くてその日のうちに塞がったし、ミリきち診断で感染症もないって話だったから、次の日普通に学校行けたけどねー」

 加奈子はけらけらと笑いながら、何事もなかったかのように肯定。更に裏話をあっさりと明かす。晴海は何か言いたそうに口をぱくぱくと喘がせ、頭が痛むのか額に手を当てた。

 晴海には今し方、人食いイノシシ騒動で自分が体験した事を加奈子は話した。パーティー開催を志した理由だけはぼかしたが、それ以外は覚えている限り正確に語っている。ちなみに数日前の出来事を今になって話したのは、友達を心配させたくなかったから……ではなく、パーティーの時に思いっきり仰天させたかったからだ。

「あの時は、すぐに助けを送れず、申し訳ありません……」

 そして同じく話を聞いていた花中 ― メンバーは多い方が良いと思い、誘っておいた。無論お礼も兼ねている。ちなみにフィアとミリオンもパーティーには参加している ― が深々と頭を下げた。

 加奈子的には自分の事なので、例え助けてもらえず死んだとしてもミリオンや花中を恨む気などない。大桐さんは真面目だなぁ、などと適当な事を思うだけだ。

 むしろ話の一部始終を聞いた晴海の方が憤っている様子で、鋭い眼差しでミリオンを睨む。尤もミリオンは晴海の視線に気付いても肩を竦めるだけで、まるで堪えていないが。

 険悪なのはごめんだ。加奈子は話を元の、楽しい方へと戻す。

「ほら、そんな事よりお鍋食べようよ! 良い感じに出来てるよ!」

 今日のために用意した『イノシシ鍋』を食べるという、個人的には楽しい方へと。

 テーブルの真ん中に置かれた大きな鍋に注目するよう加奈子は両腕を広げ、思惑通り注視した晴海は口許を引き攣らせる。まるで、おぞましいモノでも見るかのように。

「いやいやいやいや、ちょっと待って。ほんと、待って?」

「どしたの晴ちゃん? そんな挙動不審になって」

「なるに決まってるでしょ!? だって、これ……ひ、人食いイノシシの肉なんて……!」

「んー、そうだとしたら嫌?」

「嫌に決まってるじゃない! だって……」

 加奈子に尋ねられた晴海は反論しようとして、しかし途中でその言葉を途切れさせてしまう。

 人を食ったイノシシの肉……それを食べるというのは、確かに気持ちの良いものではないだろう。かといってそれを『気持ち悪い』というのも、故人に悪い気がする。晴海はそんな板挟みに遭っていると、加奈子は推測した。

 そしてこのような反応は、パーティーをやる前から加奈子も予期していた。大体散々鉛玉を喰らい、工業廃液にどっぷり浸かった獣の肉を食べるのはいくらなんでも危険過ぎる。

「まぁまぁ、晴ちゃん。落ち着いて。流石に人食いイノシシの肉は使ってないよ。いくら私でもそこまで空気読めなくはないし、あとあのイノシシの肉すぐに腐っちゃったし」

 加奈子はあっさりと種明かし。

 晴海は一瞬キョトンとし、それから明らかに安堵したように表情を和らげた。

「な、なんだ。冗談か……じゃあ、これは普通のイノシシって事?」

「いや、流石にイノシシは簡単に捕まえられないよ。だから……」

「だから?」

「これはただの市販の豚肉」

「イノシシですらないじゃない!?」

「えー、似たようなもんでしょ。イノシシを品種改良したのがブタなんだし」

「品種改良したら、大分、食味は変わると、思うのですが……」

 花中からのボソボソとしたツッコミは無視。へらへらと加奈子は笑う。

 イノシシを倒した直後、ミリオンがくれたアドバイスは「自分の生還記念パーティーを開く」というものだった。

 これならパーティーを開く不自然さはない。お高いお肉をたくさん使っても、()()()()()()()となれば誰が文句を付けようか。極々自然に晴海にお腹いっぱい食事を振る舞える。

 成程それは名案だと、加奈子はミリオンのアドバイスを受け入れたのである。招待した時にはただのパーティーとしか伝えていなかったので晴海は怪訝そうだったが、サプライズ効果もあって生還記念パーティーと信じ込んでいる様子。作戦は大成功だ。

「ほら、もう食べようよ。早くしないと冷めちゃうよー」

 加奈子の明るさに押された少女二人は顔を見合わせ、くすりと笑い合う。傍に居た人外二匹もつられるように笑みを浮かべた。

 三人はお椀を持ち、人間の食べ物が合わない二匹は優しげに人間達を眺める。

「「「いただきまーすっ!」」」

 そして人間達は合図なしに、声をぴったりと重ねた。

 各々が箸を延ばし、好きな具材を鍋から取っていく。花中は野菜を、晴海と加奈子は豚肉……花中は慌てて豚肉も取る。食べる時も三人はほぼ同時で、ぱちりと目を開くタイミングまで揃っていた。

「うんっ! 美味しい!」

「凄い美味しいじゃない! え、これ味付けやったの大桐さん!?」

「え? あ、はい。えと、ちょっと手伝った、だけです、けど」

「いやー、ほんと美味しいや。やっぱ慣れない事はしないで上手い人に任せるもんだねーはぐはぐもぐもぐ」

「ちょ、加奈子さっきから肉しか取ってないじゃない! 野菜も食べなさいよ!」

 わいわいがやがやと、賑やかな笑い声がリビングに満ちる。楽しげな会話の中で美味しいものを食べ、みんなが『楽しさ』に満ちていた。

 楽しい会話が元気を生み、元気は食欲を沸き立たせる。普段小食な花中も、今日はもりもりと食べていた。小田家の中で一番大きな鍋を用意したが、その中身はみるみる減っていく。

 時間にすればほんの三~四十分。たくさんの具材で満たされていた筈の鍋は、この短時間で底が見える状態になってしまった。残っているのは数枚の野菜と、小さな肉の欠片だけだ。

「あ……そろそろ終わり、ですね」

「加奈子、おかわりの具材はないの?」

「全部入れちゃったからないよー。うどんとか入れる?」

「んー、それでも良いかなぁ」

 お腹の方はまだまだ絶好調な女子高生三人組。次の食べ物は何にしようかと相談を始めた

 その最中、インターホンの音が鳴った。

 次いでコンコンと、玄関の戸を叩く音が聞こえてくる。どうやら来客らしい。折角盛り上がってきたのに……と思った加奈子は少しだけ眉間に皺を寄せる。

「おーい、俺だぁ。約束よりちと遅れちまったが来たぞー」

 その皺は、玄関から聞き慣れた『初老の男性』の声がした瞬間に消えたが。

 晴海と花中をちらりと見れば、誰だろうと聞きたそうに加奈子の事を見つめていた。フィアは何やら興味深そうに玄関の方を眺め、ミリオンは笑いを堪えている。

 二人の友人の注目を浴びながら、加奈子はあからさまに視線を逸らす。次いでぺろりと舌を出した。

「いやぁー、人食いイノシシの時お世話になった猟師のおっちゃんもパーティーに呼んでたの、すっかり忘れてた。めんごめんご」

 そして今になって、実はメンバーが揃っていなかった事を打ち明ける。

 一瞬の沈黙を挟んだ後、晴海と花中はニッコリと笑みを浮かべ、なぁんだそうなんだーとばかりに頷いた

「って、うぇえええええええっ!?」

「ちょ、ど、どうすんのよ!? もうお鍋殆ど食べちゃったじゃない!?」

 のも束の間、二人は大いに動揺する。自分達が、彼の分の料理も食べてしまった事に気付いて。

 元凶である加奈子はへらへら笑っているというのに。

「いやぁ、どうしよっか? うどん入れておく?」

「い、命の恩人に、残り物を使った、料理を出すのは、流石にどうかと……」

「だよねー。でも豚肉どころか野菜もないしなぁ」

「い、今すぐ買ってくるとか……」

「でも、昨今の品不足を、思うと、もうこの時間じゃ、食べ物なんて、何処も、売りきれて、いるかと……」

「う、うぐぐぐ……ど、どうすれば……」

 晴海と花中は顔を青くしながら、必死に現状を打開しようとしている。

 対して加奈子に反省の色はない。まるで他人事のように落ち着き、目を閉じて考える素振りはむしろアドバイザーのよう。元凶の癖してこの上ないほどふてぶてしい。

 やがてパチリと目を開くや、あたかも妙案が閃いたが如くポンッと手を叩く。

「あ、そうだ。残りも全部食べきって、お鍋は最初からなかった事にしよっか。残り少ないし、三人ならいけるっしょ」

 挙句出てきた『妙案』は姑息な手段という有り様。

 びきりと、晴海の眉間から音が聞こえた、ような気がした。加奈子の勘違いかも知れない。或いは本当に鳴ったのかも知れない。しかしそんなのは些末事である。

 大事なのは、今の一言で晴海の怒りが有頂天に達したという事。晴海と付き合いの長い加奈子は、この後に何が起きるかよく知っている。

 だから加奈子はにっこりと微笑んだ。晴海も額に青筋を立てながら微笑んだ。花中も口許を引き攣らせながら微笑んだ。

「何平然と誤魔化そうとしてんのよこのアホんだらぁっ!」

 そして晴海の鉄拳が、加奈子の脳天にお見舞いされるのだった。




決め手:餓死
強キャラほど物資消費がべらぼう多くなるのが、現実という名のクソゲーです。

次回は明日投稿予定です。


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輪廻拒絶10

 ――――加奈子がパーティーを開く数日前、人食いイノシシが襲撃したその日の深夜。

 ミリオンは、人食いイノシシの亡骸の前に立っていた。

「ただの獣が図に乗って……と言いたいけど、そういう訳じゃないんでしょうねぇ」

 ミリオンは独りごちながら、イノシシの死体に手を触れる。指先に数千度の熱を集め、プラズマカッターを生成。銃弾や化学薬品さえも防ぐ表皮をプラズマ化させて切断し、中身を露出させる。

 そして自ら作り出した傷口を通って、死体の中に『自身』を何体か送り込んだ。

 ミクロの世界を直に観測出来るミリオンには、加奈子達人間では調べるのに時間が掛かるか、或いは断定出来ない事象も即座に確認する事が出来る。

 例えばこの生物が元々はただの、ごく普通のイノシシであるという事。

 例えばこの身体には薬物や施術などの、人為的改造の形跡が見られないという事。

 例えば細胞の作りが、まるで単細胞生物が群れているかのように不均一である事。

 そしてほんの僅かではあるが、DNAが細胞ごとに異なる変異を遂げている事だって、数十秒で把握出来た。

「……成程、やっぱり元凶はコイツらと。これは本当に面倒ねぇ」

 ミリオンはぽつりと弱音を独りごちる。

 ミリオンは知っている。この世界の遺伝子(DNA)達には自我があると。その自我が極めて利己的で、自己の増殖に傾倒している事も。かつて戦った、DNAの生みの親であるRNA生命体が教えてくれたがために。

 推察するにこのイノシシは『変異前』に、なんらかの理由から死にかけた、或いは死んだのだろう。DNA達からすればこれは危機だ。自分達を運び、保護する乗り物が壊れようとしているのだから。このままでは自分達は過酷な外界へと放り出され、巨大マシン(バクテリア)の餌となる。つまりは『死』という訳だ。

 だからこれを防ごうとした。

 DNA達は生存方法を模索し、結果肉体を強引に変化させたのだ。相当無茶な試みだったに違いない。数億年掛けて得られた効率的かつ安定的な肉体を、即興かつ大胆に弄くり回すのだから。下手をすれば、いや、きっと九割以上の確率で失敗し、精々蠢く肉塊にしかなれなかった筈である。

 しかし偶然にも成功してしまった。

 成功したは良いが、やはり無茶だったのだろう。エネルギー効率があまりに悪かった。だから常に獲物を捕食し、エネルギーの摂取を行うよう変異したのだ。そして一度死から蘇生した事で、DNA達は蘇生方法を学習した。これにより生命活動が停止しても、何度も『再起動』を行えるようになり、それがあたかも不死身のように見えたのだ。

 とはいえエネルギー効率の悪さは改善出来なかったようで、最終的にエネルギー不足で活動停止に陥った……というのが此度の事象の流れかと、ミリオンは推察する。

 原因は理解した。ならば次に考えるべき問題は、何故このような生物が()()()()()、だ。

 奇跡的な出来事なのは間違いない。しかしこうして現実に起きた以上、起こり得る出来事だというのも間違いないのだ。そしてイノシシという、そこそこの個体数を誇る生物で起きたなら……どうしてイノシシ以上の個体数を誇り、常にその活動が観測されている、ブタやウシなどの家畜、犬猫などのペット、そして人間でこの現象が確認されていない?

 考えられる理由は三つ。一つ目は『世界の支配者』が完璧に隠滅しているから。二つ目は極めて稀なため、畜産を始めた数千年間、偶々人間の目に触れる事はなかったから。

 三つ目は、今回が世界初の出来事だから。

「(RNA生命体が言っていたわね。DNAの活動は自分が抑え付けていたって)」

 その気になれば、たった三億年で現代の生態系を構築出来たという存在。その存在を抑え付けていたものは、もういない。ミリオンが倒してしまったのだから。

 DNA達は今や自由だ。何をやろうと邪魔する者はいない。ミュータントという魔物を幾らでも作り出せる力を使えば、人間が数十万年を掛けて積み上げた常識、そして世界の『ルール』なんて鼻で笑いながら粉砕出来るだろう。

 即ち『死』という絶対のルールさえも、今やこの世界から消えてしまったのだ。キリストの復活は平凡となり、神の裁きによる終末さえも一休みでしかない。

 愛しき人が棺からむくりと起き上がるという奇跡が、奇跡ではなくなるのだ。

「……あの人の遺骨にDNAを残しておいたら、蘇ったりしてくれたのかしら」

 ぽつりと独りごちた後、ミリオンは首を横に振る。

 それはとても魅力的な事に思えたが、蘇った『あの人』がこのイノシシのような狂った怪物となるのは見たくない。苦しみ、藻掻き、最後は飢えながら死ぬなんて、そんな苦しみは与えたくない。しかも自分には『あの人』の介錯なんて出来ないのだから、二人揃って苦しみ続ける事になる。想像しただけでも嫌になる地獄だ。

 それでもきっと、選べるなら選んでしまうのだろうが。

 ……遺骨にDNAが残っていない今、もしもを考えても仕方ない。もっと前向きな事を考えようと、ミリオンは思考を巡らせる。

「うん。はなちゃんがなんらかの要因で死んでも、肉体さえ残っていればなんとかなる可能性があるのは吉報よね。伝達脳波が出るなら、実質的には死体だとしてもなーんにも問題ないし」

 その結果出てきた答えが、これだった。

 結局のところ彼女は、自分の愛しい人以外にはさして興味がないのである。例えそれがもう一年半近い付き合いがある『友達』だとしても。

「うんうん。良い事を知れたし、偶には外出しておくものね……さて、コイツから調べられるのはこんなもんかしら」

 一通りの調査を終えたミリオンはくるりと踵を返し、イノシシに背を向けたままその身を霧散させていく。急ぐものでもないので、ゆったりと。

 その最中に、ふとミリオンは工場の窓を眺めた。

 此処は二階だ。窓とミリオンの距離は遠く、そこから見えるのは遠方の景色のみ。しかし微粒子の集合体であるミリオンは、その身を構成する個体の一部を窓際まで飛ばし、外の景色を()()()()

 故にミリオンは気付いた。この工場に近付く、防護服や迷彩服、白衣で身を固めた集団に。彼等の着る衣服が、先日戦ったアスクレピオス社とは異なるデザインである事も見えている。

 果たして彼等が何者なのか? それはミリオンにも分からない。

 分からないが、しかし()()()()()

「……さぁて、人間にこの秘密が解けるかしら。ちょっとお手並み拝見といきましょうか」

 くすりと笑いながら、ミリオンはその身を消した。

 人の目には見えないほど薄く、薄く広がりながら――――




び出ました謎集団。
この世界秘密結社多過ぎ? いえいえ、ヤバい生き物を世間から隠すためには、このぐらいたくさんの人達が暗躍しませんと。

次回は今日中に投稿します。


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幕間十四ノ十五

「うん、うん……OK、分かったわ。ありがとう。ええ、また今度会いましょうねー」

 明るい答えを携帯用通信機器の向こうに居る相手に返し、女性は通話を切った。

 女性は長い黒髪をポニーテールの形に束ねており、強気な目付きで辺りを見回す。袖の長い作業着を着ており身体のラインは分からないが、端正な顔立ちと胸の膨らみ、そして軽やかな身のこなしから、そのスタイルが魅惑的なものである事が想像出来るだろう。背負うリュックサックは大きく、重さだけなら小さな子供一人分はありそうである。見た目の年頃はざっと三十代前半ぐらいで、大人の女の魅力を最大限に発揮していた。

 町中であれば、下心を持った男性の一人二人が声を掛けてくるに足る容姿。されど今の彼女に声を掛けてくる者はいない。そもそも行き交う人々の姿がない。

 何しろ此処は、鬱蒼と茂る密林の中なのだから。

「れ、玲奈さぁん。待って、くだ、げほっ! げほ、ごほっ!」

 玲奈と呼ばれた女性は後ろから声を掛けられ、くるりと軽やかに振り返る。そこには大きな ― しかし玲奈のものより一回り小さな ― リュックサックを背負い、ひーひー言いながら地面に横たわる木の根を跨ぐ、眼鏡を掛けた若い女性が居た。眼鏡の女性は玲奈よりもやや細身で、玲奈と違い疲労の色を滲ませている。

 玲奈は女性が来るまで立ち止まり、息を切らし、咳き込む彼女が落ち着くのを待ってから話し掛けた。

「どーした新人君。新種のウイルスにでも感染したのかな? 多分この辺りの土地の病原菌には薬なんて効かないから、自己免疫を高めるためにも休憩だけはしっかり取りなよ?」

「咳き込んだだけで史上最悪に不穏な事言わないでくださいよ!? 疲れてちょっとむせただけです!」

「いやいや、そう思い込むのは危険よ。何しろ此処は人類立ち入り禁止の――――おっと」

 顔を赤くして反論する女性に真面目な話をしていた最中、不意に玲奈は女性の頭を掴むや大地に捻じ伏せる。いきなりの暴行に女性は「ぐえっ!?」とカエルが潰れるような声を上げ、ジタバタと暴れた。

 玲奈は暴れる女性の耳許で、しー、と囁く。女性は顔を顰めながらも、その口を閉じ、暴れるのを止めた。

 すると遠くから、ずしん、ずしんと、足音のようなものが聞こえる事に気付くだろう。

 足音を聞いた女性が静かになったのを確かめると、玲奈は女性を置いて、ゆっくりと前に歩く。木々の陰に身を隠し、少しずつ音がする方を覗き込む。

 そこから見えたのは、不気味な生物だった。

 まるで亀の甲羅のようなものを背負っていたが、断じて亀ではない。何故ならその手足は軟体生物のような、肉の塊であったのだから。頭のように出している部分からは筒のようなものが伸びていて、近くの木々の葉や枝を毟っては食べている。

 そして何より目を惹くのは、その大きさだ。甲羅の高さだけで二十メートルはあるだろう。

 甲羅を背負った軟体生物の動きは緩慢であるが、身体が大きいので速度そのものはそれなりに速い。やがて玲奈の隠れる木々の傍まで生物はやってきて、枝葉を毟り取り、美味しく頂くと彼女達の前を通り過ぎていく。

 五分も経った頃には遠くまで移動し、玲奈は隠れるのを止めた。

「れれれれ玲奈さん今のは……!?」

「組織では『テラ・ノーティラス』、陸のオウムガイと呼んでいるわ。ま、オウムガイとは全然関係ない生物だけどね。遺伝子解析では鱗翅目、つまり蛾の仲間に近いと分かってる。幼生成熟だから、翅が生えて飛ぶ事はないけど。ちなみにあの筒は皮膚の一部が変化したもので、口じゃないわ」

「あ、あんな怪物だったとは……データで見ましたが、その……」

「迫力が違うでしょ? 新人はみんなそう言うわ」

 玲奈が先んじて予想を語ると、眼鏡の女性はこくりと頷いた。彼女はまだ心臓がドキドキしているのか、胸を片手で押さえている。

「そ、それで、あの怪物に弱点はあるんですか?」

 それから女性は玲奈にこう尋ねる。

 その一言だけで、ニコニコ笑っていた玲奈の顔を不機嫌なものへと変えるには十分だった。

「……なんで倒す話になってるのよ」

「だ、だって、あんな怪物が森の中にいたんですよ!? 危険です! 今、世界中でどれだけ怪物による被害が出ているか知らない訳じゃないですよね!? 危険な芽は事前に摘むべきです!」

「退治したらアイツが押さえているものが一斉に活性化するわよー」

「あの怪物より危険なものって、何がいるって言うんですか!?」

「致死性の活性酸素をばらまく植物。草体全体がその活性酸素で満たされているから、耐性を持つテラ・ノーティラス以外は食べられないのよ。ちなみに枯れたり燃えたりすると大気中に活性酸素がばらまかれるから、それも退治するなんてナンセンスな事は言わないでよ?」

 玲奈の答えに、勢い付いていた女性は一瞬で黙りこくる。その顔は、すっかり青ざめていた。

 玲奈は女性の不安そうな顔を両手でがっしりと掴む。驚いたように見開かれた女性の目に、玲奈の優しい笑みが映り込んだ。

「我々の組織の目的は、自然の摂理を解き明かす事。世界のルールを学び、そのルールに従った生き方をするための知識を蓄積する。歯向かい、抗う事じゃないわ」

「……はい……でも……」

「ま、どうしても倒したいなら、タヌキとか人類連合とかの仲間入りすれば良いんじゃない? ただまぁ……」

 玲奈はちらりと、巨大生物……テラ・ノーティラスが去った方を見遣る。

 テラ・ノーティラスが通ったであろう地面の痕跡上に、薙ぎ倒された木々が何本も横たわっていた。恐らく通行の邪魔、或いは気に入らないなどの理由からテラ・ノーティラスに倒されたのだろう。若々しく立派なその植物達がどのようなものか、玲奈は『夫』から聞いている。

 曰く、戦車砲の直撃に耐える表皮を持ち、人間の四肢ぐらいなら掠めただけで簡単に吹っ飛ばす針を飛ばしてくるとか。

 つまりテラ・ノーティラスには、戦車を上回るパワーと、砲撃に耐える防御力があるという事。

 そんな相手と戦えばどうなるか?

「私には、人間が勝てるビジョンは浮かばないけどね~」

 まったりとした口調で告げられた玲奈の答えに、眼鏡の女性は口を噤んでしまった。何かを言おうとしてか、口元をまごつかせてはいたが、言葉を発する事はない。

 しばし森の中を、虫と鳥と獣の鳴き声が満たす。

 沈黙を打ち破ったのは、玲奈が持っている通信機からの微かなバイブレーションだった。危険な生物と対峙中に音や光、強い震動が起きると、生物を刺激してしまう恐れがある。故にこの通信機は骨伝導を利用し、音を殆ど立てずに着信を知らせるのだ。

 玲奈は手早く腰のポーチにしまっていた通信機を手に取る。近くに獣の気配はないが、周りを警戒しながら通話のボタンを押す。

「やっほー、こちら玲奈。どしたの? さっき連絡してきたばかりじゃん?」

 それから全く警戒心のない言葉で、返事をした。

「うん、うん。へー、日本の……え? あ、そこうちの娘の居る町じゃん。イノシシがねぇ……うん、うん。成程……それであの連中が……ふぅん」

 最初はお気楽な反応をしていた玲奈だったが、段々と空気が張り詰めていく。

「……分かった。ありがとう、すぐに知らせてくれて。ええ、そうね。『アレ』は組織の研究所で保管しましょ……破棄は駄目よ、一応パラタイプ標本だし。こんな事になるなら、自宅で保管とかするんじゃなかったわ……ええ、手配の方は任せたわ。じゃあね」

 玲奈は砕けた口調で、しかし表情から笑みを消したまま、話と通信を終えた。それから小さく息を吐く――――間もなく歩き出す。

 その歩みが向かう先は、テラ・ノーティラスが向かった方角だった。

「れ、玲奈さん!?」

「急ぎの用事が出来たわ。さっさと発信器を取り付けて、今日中には基地に帰るわよ」

「いやいやいや!? 当初は寝床を突き止めて、寝ている間にやるって話でしたよね? 起きてる時にやるのは危ないからって! というか此処まで来るのに三日掛かってますし!」

「んー、一度は通った道だし、なんとかなるんじゃない?」

「なったら最初から往復一週間の行程なんて組みません!」

「はっはっはっ! 新人君、世の中はマニュアル通りにはいかないのだよ!」

「マニュアルを自分からぶっ壊して言う事じゃないですよねぇ!?」

 新人の至極真っ当な意見に、されど玲奈は快活に笑うばかり。聞く耳も持たずに歩き続ける。

 真面目だった玲奈の顔には、今や笑みが浮かんでいた。

 『目的』は笑えるものではない。しかしそれでも、家に帰るきっかけが出来た。破天荒で気儘、雑で無計画。天才故に非常識な考えの持ち主であっても、彼女もまた人の子であり、人の親である。

「さぁーて、うちの娘は元気してるのかしら。二年ぶりの再会だし、お土産たくさん買ってかないとね!」

 家に置いていった、小さくて可愛い愛娘との再会が、待ち遠しくて堪らないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十五章 大桐玲奈の襲来

 

 

 

 

 

 




という訳で次回はついに花中のおかん出現。
不在の間に娘さんは良くも悪くも成長しましたよ。

次回は6/29(土)投稿予定です。


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第十五章 大桐玲奈の襲来
大桐玲奈の襲来1


 十二月二十日。

 今年も残すところあと二週間を切った。去年の今頃、自分は何をしていただろうか? ――――花中はハッキリと覚えている。

 南の島に行くための準備を進めていた。遙か異国の地に住まう従姉妹に思いを馳せ、出会えるその時を心待ちにしていたのを昨日の事のように思い出せる。あの時は、島ではきっと楽しい事ばかりが起きると信じていた。明日は何事もなく迎えられ、世界では大変な事も色々あるけど、きっと少しずつ良くなっていくと疑わなかった。

 『奴』と『彼女』の戦いが起きるまでは。

 ……去年の決戦に起因する『事件』が、今年は多発した。花中の周りだけではない。世界中で恐ろしい怪物が目覚め、暴れ、世界に混沌を招いている。日常生活は日に日に苦しくなり、国が様々な手を打とうとするがどれも特効薬とはならない。むしろ世界は少しずつ、加速度的に、人にとって悪いものになっているようだ。

 来年こそは、良い年になるだろうか。それとも、今よりもっと悪くなるのだろうか。

 花中には分からない。花中に出来るのはちょっとした予想だけであり、その予想も世界の全てを知らない以上いい加減な憶測でしかなかった。

 自分に出来るのは、今まで通りの生活を続け、今まで通りの生活を維持するための『経済活動(お買い物)』を行うぐらい。

 そして経済活動を行うにはお金が必要だ。

「……むぅー……?」

 そのお金と深い関わりがある預金通帳を、花中はじっと眺めていた。

「花中さんどうされましたか? さっきからずーっと通帳を眺めてますけど」

「え? あ、うん。なんでもない、すぐ戻るね」

 フィアに尋ねられ、花中は通帳を閉じてフィアの下へと戻る。

 花中は今、学校帰りに立ち寄った駅構内のATMから、預金を引き下ろしていた。これから向かうスーパーにて食料品を購入するため、お金が必要だったからである。

 それとついでに、今月分の送金を確認していた。

 現在一人暮らし中である花中の生活費は、海外暮らしをしている両親から送られてくる。他所の家の生活費がどの程度のものかはよく分からないが、結構好き勝手に使っても ― 割と花中はお金を惜しまないタイプだ。毎月小遣いを使い果たす加奈子ほどではないが。それと食べ物は意識する方なので、高価でも新鮮で美味しい食品を買っている ― そこそこ余って貯まるぐらいなので、どちらかと言えば裕福ではあるのだろう。お陰で物価が上昇し、多くの家庭が貧困に喘ぐ中、大桐家は金銭的にはあまり苦労のない生活を送れている。

 そのための送金が、今月はまだ行われていない。

 ……普通ならそこそこ慌てるべきなのだろうが、しかし普段些末な事でも不安になる花中は、此度は平然としていた。というのも花中の両親は心配性な花中と違い、仕事である研究以外は極めて大雑把にして無頓着。送金の遅れはまだ良い方で、貯金が十分にあったので言わずにいたら三ヶ月間無送金だった事もある。何故か二ヶ月分送ってきたり、一ヶ月に二度送ってきたりもしてきた。

 大方今月もそんな感じなのだろう。他者の異変に過剰気味な心配をする花中でも、両親だけは雑な対応である。別に親の事は嫌いではない、というよりむしろ好きなのだが、幼少期から割と振り回されてきたので真面目に考える気が起きないのだ。

「さて今日は何を買うのですか?」

 そして気儘な親()()()()()()友達との会話の方が大事だった。

「んっとね、肉じゃがを作ろうと、思うから、お肉とジャガイモを……」

 フィアの質問に答える花中。

 その頭の中には、お金だけでなく両親の事すら残っていなかった。

 ……………

 ………

 …

「まぁ、予想通りの結果ね」

「ええ、まぁ、そうですね……」

 かくして買い物を終え、自宅に戻ってきた花中は、台所にて告げられたミリオンの一言でがっくりと項垂れた。

 花中の目の前にあるのは、キッチンに積まれたジャガイモ。

 以上、終わり。

 ……本当にジャガイモだけである。ジャガイモ自体はそれなりの数はあるものの、ジャガイモ以外のものは何もない。ALLジャガイモであった。

 これがスーパーで買ってきた食材の全てだ。肉やニンジンなどの食材は購入していない。しかし花中は、ジャガイモ以外を買い忘れた訳ではなかった。

 原因は、今の世界情勢である。

 世界中に出没している、人智を超えた怪物達……その影響は日を追う毎に深刻化してきている。特に深刻なのは生態系の壊滅による農耕地や海産資源の破壊、つまり食糧生産能力の低下であった。怪物出現前はカロリー計算上では百四十億人近くを養えるとされた世界の穀物生産は、たった一年で前年度の六十五%程度にまで減少。天然魚や山菜など、自然由来の食糧は生産が半減したものも少なくないという。

 元々日本は自給率がカロリーベースで四割程度しかなく、世界情勢の不安定化の影響を受けやすいと言われてきた。これまでは、世界最高峰の経済力で多少の価格高騰は乗り越えてきたが……しかし生産量がここまで衰退すると、幾ら金を積んでも食べ物は手に入らない。怪物出現による生産能力の壊滅により、日本に食糧を輸出してくれる国は激減した。

 日本政府とて無策だった訳ではない。このような事もあろうかと、政策で農業を推進していた。特に推奨されたのが生産性が高い作物……ジャガイモである。ジャガイモは元々日本でも自給率七十%を超えており、全体的な食糧自給率が低い日本でもそれなりの数が育てられていた。ノウハウは十分にあり、政府による後押し(という名の補助金)を受ければ増産は比較的容易。また『異星生命体事変』の影響により、世界情勢の悪化を懸念する国民が多く、全体的に政府に協力的なのもプラスに働いた。

 これらの要因により、今年の日本でのジャガイモ生産量は、推定ではあるが自給率百十五%を誇ると言われている。お陰でジャガイモは豊富で、貧しい人々は米とジャガイモを多く利用するようになっていた。安くて栄養のあるジャガイモの十分な流通により、日本で食うにも困る人はあまり出ていないらしい。世界で最も資本主義を体現しているアメリカでは餓死者が続出しているという話なので、それと比べれば日本の食糧事情はかなり良いものだろう。

 無論、良い事ばかりではない。国産でも飼料は輸入頼りであった牛肉や豚肉は、非効率という事で全く援助がなく、この一年で壊滅していた。ニンジンやタマネギも、ジャガイモなど単位面積当たりの生産カロリーに優れているものに置き換わり、かなり自給率が低下している。ネギのような薬味の類は、流通量が減り過ぎて今や高級食材の仲間入り。

 そう、国の政策によりカロリーベースの自給率は改善したが、品揃えは著しく悪化していたのだ。お陰でスーパーに並ぶのはジャガイモばかり。花中は肉じゃがを作りたかったのに、ジャガイモしか買えなかったのである。

「どうする? ジャガイモの醤油煮でも作る?」

「それをするぐらいなら、素直に、茹でジャガにします……」

「バターもないけどね。しっかし、ジャガイモばかりじゃ栄養が偏るわよねぇ。生きるだけならこれでも良いけど、はなちゃんの長生きのために、やっぱり私が買い物に行こうかしら」

「……そう、ですね」

 少し躊躇いがちにではあるが、花中はミリオンの提案に肯定的な意思を示す。

 何時もなら、遠慮するだろう。自分の買い物を頼む事への申し訳なさや、少しは運動しないとという健康意識……加えて、ミリオンという『反則技』を使う事への罪悪感があるからだ。

 とはいえ学校通いでどうしても平日の午前中に買い物へと行けない花中には、ミリオンを頼らねばちゃんとした食材を買えない立場にある。そしてこのままでは、本当に毎日ジャガイモだけの食事だ。短期的には問題ないとしても、長期的にはタンパク質やビタミン類が欠乏し、体調を崩しかねない。流石に命を削るのは勘弁だ。

 ……一応ミリオンに頼まずとも、食事のバリエーションと十分なアミノ酸やタンパク質を補給する手立てはある。あるが、そちらの選択肢は割と最後の手段だ。

「おや? 花中さんどうされましたかそんな思い詰めた顔をしてもぐもぐ」

 同居人であるフィアがおやつとして食べている昆虫(イモムシ)という、世界的には案外ポピュラーでも、現代日本の女子には厳しい食材だったので。

「あ、うん……なんでもないよ……うん」

「そうですか? まぁ花中さんが言うのでしたら良いですけど……んぁ?」

 話していると、ふとフィアが視線を逸らしながら間の抜けた声を漏らす。

 緊張感に欠けた声だったが、一年半になろうかという同居生活で花中は学んでいる。彼女がこのような声を漏らす時は、気になる気配を察知した時だ。

「どうしたの、フィアちゃん?」

「……妙な気配がします。なんと言いますかこれは……花中さんに似てますね」

「わたしに、似てる?」

 尋ねてみると、帰ってきたのはなんとも不思議な回答。自分は此処に居るのに、どうして自分に似た気配が此処ではない場所にあるのだろうか。

 疑問を覚える花中だったが、その最中突然玄関からガチャンッ! という音が聞こえ、驚いた花中は飛び跳ねてしまう。

 その音が鍵の掛かった玄関の扉を開けようとした際のものだと気付き、花中は安堵――――する間もなく、背筋を凍らせる。

 普通、知らない人の家の扉をいきなり開けようとする者はいない。ノックなりインターホンなりで「来客ですよ」と知らせるのが礼儀だ。そして今、大桐家に住むのは自分とフィアとミリオンだけ。その全員が今、この家に居る。

 なら、一体誰がこの家の戸を開けようとしている?

「……あの、フィアちゃん。い、一緒に、来て、くれる……?」

「ええ構いませんよ」

 一人で応対するのが不安になり、花中はフィアに同行をお願いする。フィアは二つ返事で了承し、花中はすぐフィアの腕にしがみついた。人間的には大変歩き辛い格好だが、フィアは気にした素振りもなく花中と共に玄関へと向かう。

 花中達が向かう間、玄関戸を開けようとする動きは止まっていなかった。むしろガチャガチャと、鍵の掛かった扉を開けようと奮戦している様子だ。曇りガラスに映る影は二つあり、二人組である事が分かる。執拗に侵入を試みるところに花中は恐怖を感じ、フィアの身体に隠れるように身を縮こまらせた。

 そんな花中の姿を横目に見ていたフィアは、一度花中を自分の腕から離した。そして玄関戸の前まで一匹で向かうと、おもむろに扉に手を伸ばし、鍵を開ける。

 次いで間髪入れずに扉を開けた。

「おおう!?」

 突然扉が開かれ、玄関を開けようとしていた者が声を上げる。ドアノブを掴んでいたのか、フィアが扉を強引に開けるとその身は家の中へと引きずり込まれた。

 するとフィアは入り込んできた何者かに、素早くその手を伸ばす。

 恐らくは捕まえて拘束しようとしたのだろう。しかし何者かはフィアの動きに反応するかのように、その身を捻る事で回避。それどころか素早くフィアの手に自らの腕を絡ませる。

 更に何者かはぐっと体重を乗せ、捕まえようとしたフィアを引き倒そうとしてきた。恐らくは反撃として、逆にフィアの方を拘束しようとしたのだろう。

 常人ならば、何者かの行動により体勢を崩され、身動きを封じられただろう。仮になんとかやり過ごしたとしても、突然の『攻撃』で幾らか隙は出来たに違いない……が、フィアは常人ではなく怪物。あらゆる点で人間を凌駕する。

 例えば反応速度だったり、或いは怪力だったり。

 何者かが繰り出した反撃など、フィアにとっては小細工ですらない。人間如き力では倒すどころか動きもしない体重でこれを耐えると、軽々と掴まれている方の腕を振るった。やる気になれば自動車どころか大型トラックすら持ち上げる馬力だ。人間には踏ん張る事はおろか、僅かでも動きを妨げる事すら叶わない。

「うぐっ!?」

「きゃあっ!?」

 フィアは何者かを壁に叩き付け、何者かは苦しみに塗れた呻きを、外から更にもう一人の悲鳴が上がった。

 フィアが捕らえた者は、大人の女性だった。

 彼女は如何にも日本人らしい、黒髪と黒い瞳の持ち主だった。今は苦悶の表情を浮かべているが、端整な顔立ちは笑えばとても魅力的に見える事を容易に想像させる。四肢はすらりと伸び、大きな胸やハッキリとした腰の括れなど、女性的な魅力があった。黒い髪はポニーテールの形で纏められ、彼女の活発な性格を物語るようだ。

 玄関の外に居るのも女性で、眼鏡を掛けた、弱々しい印象の人だった。栗色の髪には軽くウェーブの掛かっており、セミロングの長さで切り揃えられている。相方を襲った出来事が理解出来ていないのか、わたふたするばかり。

 フィアに拘束された女性は、フィアの腕を掴みながら苦しげに笑い、語り掛けてくる。

「……いきなり、これは、酷くないかしら?」

「見知らぬ侵入者には丁度良い扱いと思いますが?」

「いやいや、いきなり捕まえようと、してきたのはそっち、じゃん? 大体、此処は多分私の家、だし」

「多分とか言ってる時点で怪しさ満点です」

「そりゃ何時の間にか、家の周りが、廃墟と化してるし……手紙で、聞いてなかったら、迷ってたかも」

「手紙?」

 女性と問答を繰り返す中で、フィアは違和感を覚えたように眉を顰める。

 そんなフィアと女性の背後で、花中はガタガタ震えていた。

 しかしその顔に浮かぶのは驚き一色。普段ならフィアが無意識に行った『暴力』や、不法侵入者への恐怖心で引き攣るところなのに。ましてや『侵入者』に歩み寄るなんて事は、ちゃんと心を落ち着かせてからでないとする筈がない。

「……花中さん?」

 さしものフィアも花中の行動を奇妙に思い、横目で花中を見ながら呼び掛ける。花中はごくりと息を飲み、震える口をゆっくりと開いて

「ま、ママ!?」

 フィアが取り押さえている女性を、そう呼んだ。

 フィアは目をパチクリさせ、壁と自身の腕で挟む事により拘束している女性を見遣る。女性は、これまた苦しさは拭えていない様子ながらも、にっこりと人の良い笑みを浮かべた。

「はぁい、花中。元気してた? 出来れば、このお友達を説得してくれると、ママとっても助かるんだけど……」

 そして二年ぶりに再会した『(花中)』に、助けを求めるのだった。




はい、登場しました花中の母・玲奈です。
花中の母がナイスバディ(死語)なのは初期より決めていました。うん、遺伝子の奇跡(ゲス笑み)

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来2

「いやはやあなたが花中さんのお母さんとは思いませんでしたよ。全然似てませんし」

 自分のした事を特に反省する様子もなく、フィアは暢気に自分の感想を述べる。

「あははっ! いや、私もまさか娘の友達がこんなに強いとは思わなかったわ~。組み伏せようとしたのに、逆にやられたのは初めてよ」

 そんなフィアと対する玲奈も、襲われた事などすっかり忘れたかのように、けらけらと楽しげに笑い返す。隣には眼鏡を掛けた女性が、苦笑いを浮かべていた。

「もぉー、帰ってくるならちゃんと帰ってくるって言ってよぉ!」

 そして花中は、嬉しさやら憤りやら呆れやら、様々な感情がごった煮となった叫びを上げる。

 大桐家リビングにて花中は母の玲奈と、玲奈が連れてきた助手 ― 夢路(ゆめじ)(さかえ)というらしい。半月前から玲奈の助手として雇われた新人だとか ― と共に、テーブル席に着いている。フィアとミリオンも同席し、三人と二匹でテーブルを囲んでいた。本来このテーブルは四人席なので椅子が足りないが、フィアが花中の後ろに立ち、抱き付く姿勢でいる。

 ちなみに花中は母である玲奈に、エアメールなどで「訳ありの友達を家に住まわせている」という説明でフィア達の存在を伝えてある。人外であるとは流石に書かなかったが、その性格などについては話のタネとして何度も書いておいた。その甲斐もあってか、玲奈は既にフィア達と打ち解けている様子だ。一時はどうなる事かと思ったが、仲違いなどなくて花中は安堵する。

 不安がなくなれば、後はもう衝動に突き動かされるのみ。母とは約三年ぶりの再会だ。話したい事は山ほどあるし、話してほしい事もたくさんある。

 何より、何故いきなり帰ってきたのかを知りたい。両親が国外へと旅立ったあの日の記憶に誤りがなければ、()()()は帰ってこないと聞いた。あの日は確か一月だったので、間もなく三年を迎える頃ではある。しかし過去の経験からして、長期の出張は予定よりも遅れる方にズレるのが何時もの事。そこから更にプラス一年は伸びてもおかしくないと思っていた。そもそも帰ってくるなら一報ぐらいある筈だ。何故急に帰ってきたのだろうか? その疑問を感情に突き上げられるようにして吐き出したのが、先の叫びであった。

 ところが玲奈は、花中の疑問に首を傾げる。何故花中が困惑しているのか、全く心当たりがないかのように。

「あれ? 五日ぐらい前に、パソコンの方にメール出した筈なんだけど。もうちょっとしたら家に帰るよーって」

「え? ……えと、そんなの、来てましたか?」

「んー? なかったと思うけど」

 母からの意外な回答に、花中は普段からパソコンを共有しているミリオンに尋ねてみる。が、ミリオンの答えは花中と同じもの。お陰でますます混乱してしまう。

「あの……玲奈さん。そのメールって、確か環境的な問題で送れなかったから、日本に着いてから送るーって言ってたような……」

 その疑問の答えは、おどおどした栄が教えてくれた。

 花中はジトッとした眼差しで母を見遣る。玲奈はその眼差しから逃げるように天を仰ぎながら、あー、と今になって思い出したと言いたげな声を漏らした。

 やがて完全に思い出したのか。玲奈は花中に向けてぺろりと舌を出した、「やっちゃった♪」という暢気な感情しか読み取れない表情を見せる。

 花中の案外脆い堪忍袋の緒は、あっさりと切れた。

「もぉー! ママは何時もそーいうところ雑なんだから!」

「いやー、悪い悪い。今度から気を付けるからさ」

「それ毎回言ってるじゃないっ! 毎回言って、直った事一度もないでしょ!」

「そ、そんな事ないわよ。ほら、標本とかちゃんと整理するようになったし……」

「アレは整理って言わないの! 積み上げてるだけじゃん! 昔は積んですらいなかっただけでしょ!」

「ううぅぅ……栄ぇ、娘が母に厳しいわ。これが所謂反抗期というやつなのかしら?」

「いや、極めて真っ当な娘さんじゃないですか。とても玲奈さんの娘さんとは思えません」

「ちょ、それ酷くない!? いくら私でも今のは傷付くわよ!?」

「普段の自分の言動、振り返ってから傷付いてください。というより玲奈さん、家ではちゃんとしてるって言って、職場だと全開でだらしないですよね。サンプルとかの管理、全部こっち任せだし」

「……ママ? 家ではだらしなくても、仕事場ではちゃんとしてるって、言ってなかった?」

「あわ、あわあわわわわわ……」

 見た目小学生ぐらいの小さな娘に詰め寄られ、平均的な大人の女性である玲奈はあからさまに狼狽。

 言われずとも分かっていた事だが、それでも花中は腹を立てる。大人なのだから、そして『親』なのだから、もっとしっかりしてほしいと。

「もうっ! ほんと気を付けてよね!」

「はい……ごめんなさい……」

 なので最後にビシッ! と叱り、玲奈はしょんぼりしながら謝った。

 ……その後、花中の身体はそわそわと揺れ動く。チラチラと玲奈の方を見て、物足りなさそうに眉を下げ、口許をもにょもにょと動かした。

 確かに母はだらしないところのある人だ。勢いで行動して、それに振り回された事も一度や二度ではない。

 しかしそれでも玲奈は、花中にとって三年ぶりに再会した肉親だ。再会出来て嬉しくない訳がない。出来れば今すぐ跳び付いて、たくさん甘えたい。けれども怒ってしまった手前、ちょっとやり難い。

 気持ちを抑えきれずそわそわしていると、ミリオンや栄がくすりと笑った。フィアだけが首を傾げ、花中の挙動不審ぶりを訝しんでいる。

「……ねぇ、花中。お母さんちょっと花中成分が足りなくてやる気が出ないから、花中の事、ぎゅーってしても良いかしら? させてくれたら、今度からちゃんと出来そうな気がするの」

 そして玲奈は優しく、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら両腕を広げた。

 花中の顔は一瞬で花開いたような満面の笑みに代わる。椅子から立ち上がり、抱き付いているフィアの腕からするりと抜けて、そそくさと玲奈の下に駆け寄った。それから十分に近付く前にジャンプ。玲奈の胸元へと跳び込む。

「えへへへへー。もぉ、仕方ないなぁ。ママは甘えん坊なんだからぁー」

 口では渋々とばかりに、けれどもその顔をとろんとろんに蕩かしながら、花中は母の胸に顔を擦り付ける。玲奈は抱き締めてくる娘の頭を優しく撫でながら、心底幸せそうに目許を和らげた。

 実に微笑ましい、親子の仲睦まじい姿。ミリオンと栄も、和むように微笑む。

「うぎぎぎぎぎ……!」

 ただ一匹、フィアだけが悔しそうな眼差しで睨んでいたが。

 尤も母親とべたべたするのに忙しい花中は、一番の友達からの視線に気付かない。それに今更ながら確認しないといけない事がある。

 玲奈の滞在期間だ。昔から仕事ですぐ海外へと行っていた母の事。今回の帰宅も、何時まで家に居るか分かったものではない。

「あっ、そうだ! ママは何時まで家にいるの?」

「ん? そうねぇ、今回はちょっと家に寄っただけだから、一週間ぐらいかしら」

「一週間……」

 言葉にするとより一層、あまりの短さに気持ちが落ち込む。しかし明日には家を出るという訳ではないのだと、前向きに考える。一週間もあれば、色々出来る事もあるではないか。

 例えばこの三年間で大きく成長した筈の、料理の腕前を見てもらうとか。

「うんっ、分かった。えっと、晩ご飯はうちで食べるよね?」

「ええ、勿論そのつもりだけど」

「なら今日の晩ご飯、わたしが作るから!」

「あら、そう? 久しぶりの花中の手料理だから、とても楽しみだわ」

「えへへ。じゃあ、準備してくるから、ゆっくりしててね!」

 花中は玲奈の胸元から離れると、キッチンに爛々とした駆け足で向かう。

 母の好きなものはなんだったか。確か野菜があんまり好きじゃない、ガッツリとした肉食系だった筈。なら今夜の料理はお肉メインの……

 うきうきとメニューを考える花中だったが、その思考を妨げるように自分の身体を抱き締めてくる感覚に見舞われる。なんだと思い後ろを振り返ると、自分の身体に腕を回し、ぴたりと密着した状態で仏頂面を浮かべるフィアが居た。花中と目が合ってもその顔を微動だにさせず、かなり不機嫌である事が窺い知れる。

「えと、フィアちゃん? どうしたの?」

「……むぅー」

「え? あ、ちょっとフィアちゃん? 抱き付くのは良いけど、ちょっと、キツ、き、ききぎぎぎぎぎ……!?」

 不思議がっていると、フィアは段々と花中を強く抱き締めてきた。最初はちょっと強めで済んだが、数秒で苦しい、というより痛いの領域に達して花中は苦悶の声を上げる。が、フィアは中々力を弛めてくれない。というより力の高まりが止まる気配すらない。

「こーら、はなちゃんをそのまま絞め殺すつもり?」

 ミリオンがフィアの背後からツッコミを入れなければ、その言葉は案外現実になったかも知れなかった。

 無事解放された花中は、全力疾走したかのように息が乱れる。アピールではなく本当にそのぐらい苦しかったのだが、しかし元凶であるフィアは反省するどころか更に不機嫌そうに眉を顰めるだけ。苛立った口調でミリオンに言い返した。

「だって花中さんさっきからあの人間にべったべたべったべたしてるじゃないですか! 花中さんの一番の友達は私なのに! ちょっと嫉妬して強く抱き締めるのも仕方ない事です!」

「いや、そりゃあべたべたもするでしょうよ。あの人、はなちゃんのお母さんなんだし。しかも三年ぶりの再会よ?」

「だからどうしたというのですか。人間が親や家族を特別視するのは知ってましたけどあんなに仲良くする必要はないと思います!」

 フィアの力説に、ミリオンは呆れるように肩を竦める。人間であれば、三年ぶりに帰ってきた肉親に娘が甘える図は容易に想像が付くだろう。されどフィアは人間ではない、というより子育てをする種ですらないのだ。テレビや漫画で家族愛を語られても、これまでピンと来なかったに違いない。フィアは親の愛情というものを受けた事もなければ、必要とすらしなかったのだから。

 対して友情は人智を得てからずっと感じてきたもの。親愛の情なる『意味不明』なものに負けるのが気に食わないのだろう。そう思うと花中には、フィアを無理に引き剥がすのも可哀想な気がしてきた。

 何より、親に対して嫉妬してくれるぐらい自分の事を好いてくれるのが、花中としては正直嬉しい。

「えっと、苦しくないぐらいの強さなら、抱き締めてて、良いよ。いっぱい、ぎゅってしてね」

 花中が許しとお願いを伝えると、フィアは一瞬キョトンとしたように呆け、即座に満面の笑みを浮かべながら改めて抱き締めてきた。

 ミリオンは呆れきったため息を吐き、「相変わらずさかなちゃんには甘い」と独りごちる。無論その言葉は花中の耳にも届いたが、友達に抱き締められる感覚への幸福に比べればこの程度の苦言はなんのその。表情はすっかり蕩け、頭の中は嬉しさでいっぱいだ。

 今日はなんて幸せな日なんだろう。

 家族に囲まれ、友達に囲まれ……こんな楽しい日が来るなんて、三年前には想像も出来なかった。夢のようなシチュエーションが現実となったのである。この瞬間を無為に過ごすなんて、あまりに勿体ない。

 ママに喜んでもらうためにも、本当に美味しいご飯を作ろう。最高に美味しいものを一緒に食べて、笑い合って、フィアちゃんがそれにヤキモチを焼いて、フィアちゃんともたくさん遊んで……

「ところではなちゃん、水を差すようで悪いんだけど」

「ぁふぇ?」

 夢心地に浸っていたところ、ミリオンからの言葉で意識を現実に引き戻される。水を差す、との事だが一体なんだろうか? 懸念するような事項など何かあっただろうか……心当たりがなく、花中は首を傾げる。

「冷蔵庫の中身、ジャガイモしかないけど

何を作るつもりなの?」

 そんな花中に、ミリオンは哀れむように尋ねてきた。

 花中は固まる。言われた事を、脳が理解するのを拒んでいたので。脳が理解を拒んだので、何事もなかったかのように冷蔵庫の前まで移動し、開ける。中身は空っぽ。氷温室も冷凍室も空っぽだ。正確には醤油やらマヨネーズやらは入っていたが、噛んで食べる系のものはない。

 最後に開けた野菜室にあったのは、視界を埋め尽くすほど大量のジャガイモ軍団のみ。

「……あれぇ?」

「はい、現実逃避しないように」

 わざとらしく首を傾げる花中の耳に、ミリオンの厳しい言葉が突き刺さった。

 ……………

 ………

 …

 かくして迎えた夕飯時。

「……えと、その……わぁーい、とても美味しそうね! 花中の作った料理は、その、艶が違うわ!」

「あ、うん。ママ、無理しなくて良いから……」

 明らかに頬を引き攣らせ、無理矢理笑顔を浮かべている玲奈に、花中は俯きながらそう伝えた。

 テーブルの上に置かれたのは、茹でジャガ。

 ジャガイモを茹でただけの、シンプルな一品。とはいえ実際に食べてみれば、味気ない料理とはきっと思わないだろう。国内で大量生産された結果、新鮮且つ品質の良いものが数多く出回っている。勿論粗悪なものも珍しくないが、目利きが出来る花中にとって、ものさえあれば良品を見付けるのは容易な事。この茹でジャガも、最高峰の味覚を堪能させてくれる筈だ。

 ……等々語ったところで、テーブルの上にジャガイモしかない状況が変わる筈もなく。

「えっと……もしかして、振り込むお金、足りなかった? ごめんなさい、お母さん達最近の日本の物価には疎くて……」

「ふぇ? え、あっ、違うよ!? お金が足りないんじゃなくて、ちょっと買いそびれちゃって……」

 あまりにも貧相だからか、生活費が足りないのだと勘違いされてしまった。慌てて訂正する花中だったが、しかし『買いそびれた』と呼ぶにしても寂し過ぎるラインナップ。玲奈は眉を顰めてしまう。

「多分、流通量そのものが少ないんじゃないですか? 日本の食料自給率って元々低かったのに、最近だと怪物の大量発生で輸入が儘ならないのかと」

「あ、そゆこと?」

 栄が補足するように説明してくれた事で、玲奈はようやく納得した。

 とはいえ今度は栄の方が、悲しむような表情を浮かべたが。

「……正直、ここまで食糧事情が悪化してるとは思いませんでしたけど。まさかジャガイモしかないなんて」

「これでもお国がすぐに政策を打ち出して、実施したお陰でマシなんだけどね。あの政策がなかったら、それこそ食べるものに困ったんじゃないかしら?」

 栄のぼやきに、ミリオンが起こり得た現実を教える。それがますます栄の表情を曇らせ、食卓は暗雲のようや雰囲気に包まれた。

 これはいけない。折角のご飯を暗い顔で食べるなんて、あまりにも勿体ないではないか。なんとかして明るくしなければ……

「ふむ花中さんは確かこういう雰囲気の食卓が嫌いでしたよね? 食べ物の種類が少なくて落ち込んでいるのでしょうか?」

 考えていると、隣に座るフィアがそう尋ねてきた。

 フィアちゃんが食卓の雰囲気を気にしてる? 普段なら考えられない事に驚きを覚えるも、フィアとの同居生活もなんやかんやで一年半を迎えている。今のフィアなら理解は出来ずとも、花中の気持ちを読み取るぐらいの事は出来るのだ。そしてフィアは花中の笑顔が大好き。どうにかしてその笑顔を取り戻そうとするのは、決しておかしな行動ではない。

 花中はこくりと頷いて肯定すると、フィアは自慢げな笑みを浮かべた。それから自身の纏うドレスの襟元に手を突っ込んで、ごそごそと服の内側 ― のように傍からは見えるが、実際は『体内』に腕をぶっ刺している ― を弄り、ぽんっと小さな虫カゴを取り出した。まるで『手品』のような行いに、玲奈と栄の視線がフィアに向けられる。

「でしたら仕方ありませんね! 今日の晩ご飯にしようと昼頃捕ってきた私秘蔵のとびきりデリシャスなものを皆さんに振る舞ってあげましょう! なぁに花中さんが笑顔になってくださるならこれぐらいお安い御用ですよ!」

 そして花中の意見を特に訊かず、フィアは虫カゴの中身を取り出してテーブルの上に置く。置いていったのは、肉の塊だった。

 肉の大きさはかなり大きく、重さにして一キロはありそうだ。表面は白く、断面はかなり密度の高い筋肉が詰まっている。生臭さ、などの不快な臭いはなく、むしろスパイスが効いているかのような、食欲をそそる芳醇な香りを漂わせていた。

 フィアは花中が笑顔になると信じてか、上機嫌に胸を張る。玲奈と栄は、まじまじとフィアが置いた肉塊を見つめながらキョトンとしていた。肉である事は一目瞭然だが、牛肉や豚肉とは明らかに違う見た目と香りだ。これがなんの肉か、さっぱり分からないのだろう。

 唯一花中だけが、その物体に見覚えがある。見覚えがあったので、一瞬顔を青くした。

 ――――これ、白饅頭の肉じゃん。

 ……白饅頭と気付きながら「ああ、この手があったか」とも花中は思ったが。白饅頭の肉は美味だ。焼いてそのまま出しても料理として通用するぐらい、複雑で気品ある味をしている。品質や安全性に関しても、数ヶ月前焼いただけの代物を食べた花中には堂々と保証出来た。

 成程、これは確かに至上の一品と言えよう。

「……あの、これは、なんのお肉ですか?」

 栄が、極めて当然の疑問を言葉にする事さえ考慮しなければ。

「ふふふふふ。これは白饅頭という動物の肉です。とても美味しいのですよ!」

「白饅頭? あの、玲奈さん? この辺りにはそういう名前の生き物がいるのですか?」

「うんにゃ。私が知る限り、そんな名前の生き物は聞いた事もないけど」

「それはそうでしょう何しろ白饅頭は泥落山に暮ら」

「そ、そそそそんな事より! 折角出してくれたんだから、た、食べよう! わたしも一度食べてるから、大丈夫だよ! すごく美味しいから!」

 ベラベラと何もかも話そうとするフィアを遮り、花中は母と助手に実食を勧める。自慢話を邪魔されフィアは拗ねるように唇を尖らせたが、花中がぎゅっと抱き付いたのですぐ笑顔に戻った。

 対して人間である玲奈と栄は互いの顔を見合い、不思議そうに首を傾げる。そりゃ訝しむよね、と花中は自分の大袈裟な行動を後悔した。あんな露骨に話を妨げれば、何かあると察するのは難しくない。

「……まぁ、花中が大丈夫って言うなら、大丈夫なんでしょうね。良いわ、食べましょ。やっぱり夕飯にはお肉がないとね!」

 それでも玲奈は、花中の言葉をすんなりと信じてくれて。

 こんな些細な言動が、花中の心をきゅっと締め付ける。ただし嫌な締め付けではない。抱き締めてもらうような、温かで心地良い拘束感。

 自分に出来るのは、自分の言葉を本当にする事。幸いにして、自分にはそれを可能とするだけの技術がある。

「待ってて! 今料理してくるから!」

 満面の笑みを浮かべた花中は腕捲りをし、フィアが取り出した肉を素手で掴むやキッチンへと駆け込む。

「……可愛い娘さんですね」

「でしょー。私の一番の自慢なんだから」

 背後から聞こえてきた褒め言葉に頬を熱くしながら、花中は『ステーキ』の調理を始めるのだった。

 

 

 

「……毎晩十時前に寝るとは、うちの娘はまだ小学生だったのかしら?」

 豆電球の明かりだけが照らす部屋の中。ベッドの中で寝息を立てる娘の頬を撫でながら、玲奈はぽそりと独りごちる。花中のベッドの隣にはフィアが寝転ぶ布団があり、フィアは大きく口を開けっ放しにしながら、吐息一つ立てずに寝ていた。

 どちらも幸せに弛みきった笑みを浮かべており、玲奈は顔をくすりと綻ばせた。音を立ててしまったかもと後から気付き慌てて片手で口を塞いで、娘達が起きていない事を確かめてまた小さく微笑んだ。

 玲奈は一人と一匹を起こさないよう、抜き足差し足で部屋の外へと出る。扉を閉める時は慎重に、ゆっくりと動かし……音を立てずに、閉じきった。

「久しぶりの娘との再会、どうだったかしら?」

 そこで一息吐いていた玲奈に、話し掛けてくる者がいる。

 ミリオンだった。玲奈は花中の部屋の扉に寄り掛かってからミリオンに心底嬉しそうな笑みを返し、声が大きくならないようひそひそと答える。

「ええ、最高だったわ。仕事で仕方なかったとはいえ、やっぱ三年近く娘と離れるのは心身に悪いわね」

「なら一緒に暮らせば良いのに。はなちゃん英語もそこそこ堪能だから、外国暮らしぐらい出来るんじゃない?」

「……出来ればそうしたかったけど、連れて行けない場所とかもある訳よ。ちょっと特殊な仕事だから」

 悲しむような、諦めるような、寂しがるような。

 複雑な表情を浮かべながら語られた玲奈の言葉を、ミリオンは「それじゃあ仕方ないわね」と一言で流す。一人と一匹の会話は、ここで一度途切れた。

 しばし、沈黙が続く。

 ミリオンが立ち去る事はしない。玲奈が立ち去る事もしない。相手の出方を窺う、探り合いの沈黙が広がる。

 これは『大人』の会話だった。

「訊きたい事があるんじゃない? なんでいきなり帰ってきたのか、とか」

 改めて話を振ってきたのは玲奈の方。ミリオンは首を横に振り、これを否定する。

「正直あまり興味ないわ。はなちゃんに危害が加わらないのなら、なんだってね。あなたがはなちゃんを虐待してるなら兎も角、きちんと愛していて、大切に扱うならこちらから言う事は何もないわ」

「あら、嬉しい事を言ってくれるわね。実の親からは、お前に母親は無理だーって罵られた事もあったような人間なのに。ま、孫が出来たらすぐに日和ったけど」

「中々の修羅場を経験してるわねぇ。私も昔は色々あったけど……ところで、あなたの方こそ私達に訊きたい事があるんじゃない?」

「どうして?」

 玲奈に訊き返され、ミリオンはくすりと笑う。全てを見透かした、どす黒い瞳で見つめ返しながら。

「私達の正体なんて、とっくに気付いてるでしょ? 娘が人外の化け物と共に暮らしていて、不安にならない?」

 そして自分の推測が正しい事を前提に、自らの正体を明かす。

 玲奈は、僅かな驚きも見せない。肩を竦めて、おどけるような仕草を取るだけ。開いた口から出てきた言葉にも、小さな動揺一つ含まれていなかった。

「なんでそう思う訳?」

「逆に尋ねるけど、なんでそんなにすんなり私達を受け入れられるのかしら? はなちゃんは私達の事を『訳ありの居候』という事にしている。ま、ハッキリ言って怪しい連中よね。だから初対面なら、もう少し観察してくる筈だけど……そんな視線を感じられなかった。まるで私達の事なんて、とっくにお見通しとばかりに。まぁ、もしかしたら雑なあまり、そこまで気が回らなかっただけかも知れないけど」

「……可能性があるなら、そこは詰めなきゃ駄目じゃないかしら?」

「生憎、人間風情に正体を知られたところで、こちらからしたら大したリスクじゃないわ。頭の悪い人間相手なら尚更。だからそこまで追及するのは面倒臭い……で? どうなのかしら?」

 ミリオンが問うと、玲奈はしばし口を閉ざす。されどその沈黙は誤魔化すものではなく、感情を抑えるかのよう。大人として冷静に振る舞うための予備動作。

「それこそ、あなたと同じよ。娘に危害を加えず、むしろ毎日を幸せにしてくれている。そんな相手を、どうして警戒する必要があるのかしら?」

 だけど語り口には、嬉しさが隠しきれていない。

 ミリオンはキョトンとしてから、呆れたような、喜ぶような、そんな笑みを浮かべた。

「あなた、結構能天気とか言われない?」

「よく分かったわね。その通りよ……さてと、用件は終わりかしら? そろそろ自分の用事を片付けに行きたいのだけど」

「ええ、構わないわ。難なら手伝いましょうか?」

「このために助手を連れてきたの。うちの娘の手料理をタダで食べたんだから、その分は労働してもらわないとね」

 話を終えた玲奈は花中の部屋の前から退き、階段を下って一階へと向かう。ミリオンはそれを見送りながら、考え込むように自身の顎を摩る。

「……さぁて、鬼が出るか蛇が出るか、はたまた悪魔が出てくるのか。どちらにしろ、何事もなく終われば文句はないけど」

 ミリオンはそう独りごちると、己の身体を崩しながら虚空に消える。

 夜は更けていく。

 月が天に輝き、町の明かりは少しずつ消えていき、空の星々が輝き始めた。冬眠する草木が風に揺れ、擦れ合う音だけが世界を支配する。

 そして、夜明けも迫ってきた時。

 女性の甲高い悲鳴と、地震のような騒音が、大桐家の中を駆け巡った。




だらしない女の人は好きです。
こまめな女の子も好きです。
要するに女の子が好きなんだ(ド直球)

次回は7/6(土)投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来3

「……ママ、何してるの?」

 パジャマ姿の花中は呆れきった眼差しで、母を見下ろしていた。

 正確に言うと母の姿は殆ど見えていない……山盛りになった本の下からはみ出ている、見覚えのある手にそう呼び掛けただけだ。手は花中の声を聞くとピクピクと動き、藻掻き、しかし諦めたようにぱたりと力尽きる。今のが返事だとすれば、本の下に居るのは間違いなく花中の母・玲奈であろう。

 何かをやっていた最中本が雪崩のように襲い掛かり、母はその生き埋めになったのか。そして本が重たくて上手く動けない、という事だと花中は推察した。中々の大惨事だが、されど花中にとっては()()()()ものである。

 本や標本箱が山積みにされた塊が、歩く隙間もないぐらい大量に置かれたこの部屋……母の書斎においては。

「か、花中ぁ~たすけてぇ~……片付けしてたら、本が、崩れてぇ……」

 しばらくして本の下から母の声が聞こえてきた。自分の予想が全て当たっていたと悟り、花中は肩を落とす。

 普段なら助けなくもないのだが……今回は別だ。

「もぉー、探し物があるならわたしに言ってって、何時も言ってるのに。朝は忙しいから自力でなんとかしてね」

「ヴぇっ!? か、花中!? 花中ぁ~!?」

 助けを求めてのたうつ母の手を無視して、花中は母の部屋から出た。それから額に手を当て、深々と項垂れる。

 物凄い音と悲鳴がしたので跳び起き、部屋へと向かってみればこれである。

 今日は学校がある日。本来なら朝六時に起きるところ、それより三十分も早く起こされてしまった。今から二度寝をするのは、些かリスキーなのでしたくない。このまま起きるしかないだろう。

 別段三十分早く起きたところで、問題がある訳ではない。昨日も ― 普段より少しだけ遅い時間とはいえ ― 午後十時前には寝たのだから、八時間以上ぐっすり睡眠を取れている。気温や騒音などによる寝苦しさもなかったので、肉体的精神的には完璧に回復している筈だ。

 しかし理屈を幾ら捏ねくり回しても、寝ぼすけな花中にはその三十分が惜しい。

 胸に沸き立つ自堕落な感情。それに後押しされて、はぁ、と口からため息が漏れ出てしまう。

「花中さぁ~ん……どうでしたかぁ?」

 丁度そんな時に横から声を掛けられたので、花中はびくりと身体を震わせた。

 振り向けば、そこには寝惚け眼のフィアが居る。勿論作り物であるその『身体』の眼差しは偽物だが、感情に直結したものでもあるので本当に眠いのだろう。玲奈が立てた物音で起きたのは花中だけではない。人外の聴力を有し、研ぎ澄まされた本能を持つフィアが跳び起きない筈がなかった。

 一応差し迫った危険はないという事もすぐに察したようで、今ではこうして眠気がぶり返しているようだが……身内が原因だけに、花中としては申し訳ない気持ちになる。

「うん、大した事なかった。ごめんね、起こしちゃって」

「んー? 何故花中さんが謝るのですか? 物音を立てたのは花中さんのお母さんですよね?」

「……うん。そう、だけどね」

 フィアの考え方に、花中は少しだけ言葉を濁らせる。フナであるフィアはあくまで個人単位で他者の行いを判断するが、人間である花中は母の『失態』を自分の事のように感じてしまうのだから。

 花中は大きなため息を吐き、母の書斎から離れる。廊下で話をするのも難だと思い、リビングまで移動した。テーブルの席に座り、また一息吐く。

 フィアは花中の隣に座り、眠たそうに欠伸をした。フィアの性格からして、本当に眠たいから欠伸をしただけだろう。が、人間はそこに『他意』を見出す生き物。友達の些細な行動一つが、母への不満に変換される。

「もぉー、ほんとママは昔っからだらしないんだから……」

「昔から? 例えばどんな感じなのですか?」

 花中が独りごちると、フィアはその独り言の詳細を求める。きっと大した意味はなくて、花中とお喋りがしたいだけなのだろう。

 身内の恥部を明かすようで少々躊躇いはあるが、今朝の憤りは未だ胸にくすぶっている。鬱憤を晴らすように、花中はフィアの質問に答えた。

「……小学校の頃に、授業参観が、あったんだけど」

「じゅぎょーさんかん? ああなんかテレビで見たような気がします。授業中に親が遊びに行くやつですよね」

「えっと……うん。本当は、ちょっと違うけど、そんな感じのやつ。えっとね、それで、授業参観が、あって、ママが来てくれる事に、なったんだけど……」

「けど?」

「……その日最後の、授業が対象なのに、何故か、その日最初の授業から、来てたの。一日休み取れたとか、一秒でも長く、わたしを見ていたいとか、そんな理由で。おまけに白衣姿で、直前まで何かを解剖してたのか、色んな汁をべっとり付けた、状態だし」

「はぁ。そうですか」

 フィアは何が変なのか分からないとばかりに首を傾げた。人間以外にとっては、玲奈の言動はおかしなものではないだろう。しかし人間にとってはおかしな点しかない。

「あの日は、ほんと恥ずかしかったんだから! 今までわたしの事を、怖がってたクラスメート達が、心から同情してくるんだよ!? 分かるこの気持ち!?」

「いいえ全く分かりません」

「しかも放課後、何故か校庭で虫取りしてて、クラスの男子すら、どん引きさせたり!」

「虫取りの何が変なのです? 美味しそうな虫でもいたのでは?」

「あと夏の遠足の時、お弁当が、傷むといけないからって、何故か戦争に持ってくような、固形レーションだった時もあるし!」

「お腹を壊すよりはマシかと思うのですが」

「中学の水泳の時、普通のスクール水着じゃなくて、何故かえっちなやつに入れ替えてるしぃ! 思春期男子を悩殺よ♪ とかほんと何言っちゃってるの!? ほんとバカなのぉ!? その所為で炎天下の中プールに入れず、見学する羽目になったんだから!」

「あの花中さんちょっと落ち着いた方が……」

 あまりにヒートアップし過ぎて、とうとうフィアに止められる。今まで吐き出す機会がなかったもので、つい歯止めが効かなくなってしまった。花中は乱れた息を少しずつ整え、無意識のうちに上がっていた腰を下ろす。

 まだまだ話したい事は山ほどある。伊達に十年以上一緒に暮らしていないのだ。親に振り回された経験は、両手と足の指を全部使っても数えきれない。本音を言えばここぞとばかりに全て話したいのだが、だけどそれを全て吐き出す頃にはきっと夜明けを迎えているだろう……今日ではなく、明日の。そろそろ抑えねばなるまい。

 猛省する花中に対し、フィアは珍しいものを見られたとばかりに上機嫌な笑みを浮かべる。溜め込んでいた不平不満を多少なりとぶちまけてスッキリした反面、恥ずかしいところを見られてしまい花中は頬を赤らめた。その赤面すら、花中大好きなフィアには愛らしいものでしかなく、より機嫌を良くさせるのだが。フィアの眠気はすっかり飛んだ様子だ。

「しかし聞けば聞くほど花中さんとあの人間はあまり似てませんね性格だけでなく髪の色とかスタイルも全然違いますし。カエルの子はカエルという言葉がありますけど花中さんには当て嵌まらないようで。もしかして本当の親は別にいるのでは?」

「……親戚の人にも、よく、言われる。でも、ちゃんとママの子だから。妊娠してる時のママとか、産まれたばかりのわたしとか、写真がちゃんと、あるもん」

「おや証拠はあるのですね。だとするとやはりミステリーです。あの人間の子供である花中さんが何故こんなビビりで生真面目なのでしょう?」

 心底不思議そうに首を傾げるフィアに、花中は思わず苦笑い。しかしながら間違いなく自分は母の子であり……そしてこの性格になったのも、母及び父の影響だと思っている。

 今からでも思い返せる幼少時代。母も父も、親と呼ぶにはあまりに破天荒で、仕事と娘以外には関心のない人だった。公園などに連れてきてくれても、何故かそこで生き物の事ばかり伝授してくる。友達の作り方なんか教えてくれなかったし、片付けもしないから部屋は『汚宅』と呼ばれる一歩手前。その癖娘には愛情たっぷりに接するため、周りからは良い家族と思われる有り様だ。

 結果的に動植物の知識は付いたし、家事の腕前は人並み以上に付いた。今の花中を育ててくれたのは、間違いなく両親の『教育方針』であろう。ビビりなのは……思い返すと父が割と警戒心の強い人なので、そっち方面の遺伝だと思われる。

「あはは。人間、似ているのだけが、親子の形じゃないから」

「なんか随分と実感のこもった言葉ですねぇ……まぁ花中さんがそう言うのならその通りなのでしょう。私も親と似てるかといえば多分似てないでしょうし」

 フィアは思い返すように、天井を仰ぐ。確かに彼女は、きっと親とは似てないだろう。こんなにもお喋りで、どんな敵にも挑む好戦的な性格のフナなんて、花中は知らないのだから。

 或いは人間……というより多細胞生物が親と似ているというのは、幻想なのかも知れない。分裂ではなく交配して増える自分達は、親とは必ず何かが違う。両親の遺伝子を半分ずつしか受け継がず、その半分ずつすら気紛れに起きる『乗り換え』 ― 減数分裂時に染色体同士が交叉する事で起きる、天然の遺伝子組み換え現象である ― や突然変異によって変性するのだから当然だ。有性生殖を行う生物は、そうして次世代の多様性を増やす事で環境変化に強くなり、生き残りやすくなったとされている。多細胞生物の子供達は、両親と違う事が重要なのだ。

 だけど。

「良かったですね花中さんもあまり似てなくて」

 そう言われると、ちょっと悲しくて、少しムカついて、かなり寂しくなるのは……自分が人間だからなのだろう。自然と、花中は顔が俯いてしまう。

「……そう、かもね」

「まぁ親がどんな人間でも花中さんは花中さんですからね。私は気にしませんよ……あっとそうそう一つ花中さんに訊きたい事があったのですよ」

「? 訊きたい事?」

 頭の中にある暗い気持ちを振り払うように花中が顔を上げると、フィアはこくんと頷いた。どんな質問が来るのかと、花中は佇まいを直してフィアと向き合う。

「花中さんどうして昨日から母親の事をママと呼んでいるのですか? 今まで割とお母さんと呼んでいたと思うのですが」

 そしてフィアがさもなんて事もないかのように尋ねてきた瞬間、花中は背筋を伸ばした体勢のまま固まった。

 ……固まったまま、動かない。瞬きもしない。代わりにどんどん顔が赤くなる。今にも湯気が上がりそうなほどだ。

「……え、ぁ。わ、わたし、ママって、言ってた……?」

 ようやく出てきた言葉も、まるで錆び付いたブリキ人形の動きのようにぎこちなく、震えている始末。花中の変化に、純粋な好奇心で尋ねたであろうフィアは首を傾げる。

「はい昨日からばんばか言ってます。まぁ前々からちょいちょい言ってましたけどね。言い直してる事も多かったですし」

「そ、そん、そんな、事、な、あ、えぅ、え、あ……」

「もしかすると本来はママと呼んでいるのですか? だとしたら何故わざわざお母さんと言い換えているのです? 必要性を感じないのですが」

 動揺し、まともな言葉を紡げなくなる花中に、フィアは更なる質問という名の追及をしてくる。

 花中はフィアの事をよく知っている。彼女にこちらを馬鹿にする意図などなくて、純粋な疑問から尋ねているのだ。だから正直に「人間は大きくなったら親の呼び方を変えるのが、社会的なルールなんだよ。わたしは、つい言っちゃうんだけど」と答えればそれで納得する。そういうものなのかと思い、尚且つそれ以上の事は思わないだろう。ましてや花中を蔑んだり、見下したりなんてしない。

 けれども花中は答えられない。何故ならこれはプライドの問題なのだ。野生ではこれっぽっちも役に立たない、人間社会で生きていく上でも邪魔になる事が多い自分自身の感情。そしてその感情は刺激されると、他の色んな感情を暴走させる。本来なら羞恥だけ覚えれば良いのに、ごちゃごちゃと別の感情まで沸き立たせた。

 こうなると、感情の制御なんて夢のまた夢な訳で。

「~~~~っ! んぅーっ!」

「え? 何故私を叩くのですか花中さん? あの花中さん? もしもーし?」

 ぽかぽかとフィアに連続へっぽこパンチをお見舞いする事が、花中に出来る精いっぱいの回答だった。

 

 

 

 ()()と一人娘の背中が遠くなっていく。

 学校へと向かう花中達を見送りながら、玲奈は安堵したように息を吐いた。

 朝から怒らせてしまったが、我が娘はやはり人一倍優しい。なんとか自力で本の山から這い出した自分のために、朝ご飯を用意してくれていた。嬉しさから衝動的に抱き締めたら、それだけですっかり上機嫌になったのは……こんなにも好いてくれているのだと嬉しい反面、悪い男に騙されそうで少し心配にもなる。頼もしい友達がいるようなので、杞憂で済みそうだが。

 なんにせよ娘の心配は必要なさそうだと感じ、玲奈は穏やかな笑みを浮かべる。それに思えば、娘の高校の制服姿を生で見るのは初めて。エアメールなどで写真は何度も見ているが、やはり実物は違う。小さかった娘がもう高校生……時間が経つほどに、玲奈の笑みは『穏やか』から『だらしない』へと移り変わっていった。

「玲奈さん。そろそろ続きをしますか?」

 ただしその顔は、栄の一言を境に変貌する。

 真剣で、思い詰めた表情。

 それは娘を溺愛する母親の顔ではなく、人の上に立つ者の顔だった。

「ええ、そうしましょう。花中が帰ってくるのは何時も午後四時ぐらいらしいから、後片付けや報告も考えて二時前までには見付けたいわね」

「玲奈さんが普段からちゃんと部屋を片付けていたら、五分で見付かる筈なんですけどね」

「……その点については大変申し訳なく思います」

 そんな真面目な顔も、三十秒と経たずに弛んだ笑顔に。栄もにこりと笑い、二人は共に玲奈の書斎へと入った。

 いや、正確には入る一歩手前で、二人とも立ち止まったのだが。

 書斎の中は酷い事になっていた。何百冊と積まれた本の山は崩れ落ち、足の踏み場がない。標本箱は山積みとなって行く手を塞ぎ、多数の薬品入りの瓶が床に並んでいる。

 まるで強盗事件の現場のような荒れようだが、これでも昨日よりはマシだったりする。昨晩遅くまで玲奈と栄の二人で、夜明け間際には玲奈一人で片付けをしていたのだから。

「……見れば見るほど、気が滅入るなぁ」

「こらこら、助手が博士より先に参らないでよ。一応あの後私だけでちょっとは片付けたんだから」

「殆ど変わらないように見えるのですが。というか玲奈さん随分と元気ですね、夜明け頃から掃除してる割には。私なんかまだ眠いのに。何時間ぐらい寝たんですか?」

「んー、一時間半ぐらいかしら。ちょっと寝方のコツがあって、スッキリ起きられる方法があるのよ。ま、あんまりやると流石に体調崩すから一週間が限度だけど」

「良いなぁ。今晩教えてくださいよ」

「暇な時にね……さて、念のために復唱しましょうか。私達が何を探しているのか」

 忘れてないわよね? 玲奈が確かめるような視線を送ると、栄は勿論と伝えるように頷く。

「体長十ミリほどのコバチ。その標本ですよね」

 それから迷う事なく答えてみせた。玲奈はニッコリと褒める笑みを浮かべる。

「その通り。あの『事件』さえなければ部屋に寝かせてても良かったんだけど、そうもいかなくなっちゃった」

「そう言えば、なんでそのハチの標本の回収に来たのですか? ()()すると何か不味いのでしょうか」

「うーん、正直なところ十中八九杞憂で終わりそうな話なのよねぇ。アレの宿主は日本に生息していない固有種だし、分類群も全然違うし。ただ……」

 玲奈は言葉を句切り、栄を見る。その眼差しは真剣なもの。冗談を話す素振りなど、一切ない。

 だから、

「もしかすると、人間を化け物にしてしまうかも知れない種だからね。万が一でも可能性を残す訳にはいかないわ」

 その言葉に、嘘はないのだと分かる。

 ごくりと、栄は息を飲む。ゆっくりと口を開き、迷うように閉じ、そしてまた開いて――――やはり閉じた。

 玲奈はそんな栄の背中を、バシンッ! と力強く叩く。

「あははっ! 怖がらなくて良いわよ。死んだのは随分前の話なんだし、本当に万が一に備えてなんだから。仮に生き返っても、その寄生メカニズムを研究すれば医療に役立てるかも知れないわ」

「そ……そう、ですか。分かりました。そのぐらいに思っておきます」

「そうそう。そうした研究のためにも、標本が必要なの。だから回収に来たというのも理由の一つね……さ、無駄話はそろそろ終わりにして、『仕事』を始めるわよ! あ、昨日と同じく対象らしきものを見付けたら私に教えて。最後の同定作業は私がやるから」

「はいっ!」

 玲奈の指示を受け、栄は元気よく返事をしながらしゃがみ込む。

 まずは、部屋の入口を塞ぐ本の移動。

 社会人二人は、黙々と部屋の片付けを始めるのだった。

 ……………

 ………

 …

 果てが見えない。

 部屋の片付けを初めて、早一時間。栄は部屋の入口からほんの数十センチ進んだ場所で、立ち往生を強いられていた。

 積み上がる本。これは大した問題ではない。まとめて廊下に出してしまえば済む。薬品などの瓶も、どれもケースでしっかり保存されているので割れる心配はない。乱暴に扱わず、丁寧に退かせば済む。

 一番の難敵は、室内の大部分を占めている標本箱だった。

 栄達の目的はある種のコバチの標本だ。つまり部屋に置かれた無数の標本箱の中の『何処か』に目当てのものがある。しかし玲奈の記憶で確かなものは、そのコバチを標本にしたのがかれこれ十年以上前である事だけ。どんな標本箱にしまっておいたかは流石に忘れた……というより他にも色々希少かつ特異な昆虫を採取していて、そいつだけが ― 少なくとも採取した当時は ― 特別だった訳ではないので、他の標本と同じ箱を使ってしまったのである。そのため遠目からはどれが目当ての標本箱か分からず、中の標本を一体一体チェックする必要があったのだ。

 流石に標本箱の中身ぐらいはキッチリしていて、科レベルで箱は分けられていた。しかしそれでも一応隅から隅はチェックせねばならない。何かの拍子に、うっかり別の箱に入れてしまった事もあるかも知れないのだから。

 おまけに性質の悪い事に、目当てのコバチは体長ほんの十ミリ程度。殆どの種が体長数ミリ~一ミリ未満であるコバチとしてはかなり大型だが、人間からすればあまりに小さい昆虫だ。玲奈は極めて迅速に識別出来たが、まだまだ未熟な栄にはそう簡単には見分けが付かない。最終的な同定作業は玲奈が行うので、栄はあくまで『それっぽい』ものを探すのが役目だが……これでもかなりの時間を必要とする。

 そしてコバチの判別が出来る玲奈は今、崩れた本の下敷きとなって身動きが取れなくなっていた。

「さ、栄ぇ~! たずげでぇ~」

「玲奈さん、もう何度目ですか? 流石に一日三度も埋まるのはアホだと思うのですけど」

「だ、だって、本の山の向こうに標本箱があって、だから手を伸ばして取ろうとしたら崩れてきて……」

「横着するからです。ほんとにもぅ……」

 栄は埋もれた玲奈の傍へと駆け寄り、本を退かして玲奈を救出する。これだけで数分の時間を取られた。

 こんな調子で、調査は大変ゆっくりとしか進められなかったのである。栄が疲れたようにため息を吐くのも、無理ない話だった。

「ああ、もう。全然進んでる気がしない。ほんと、これ一週間で終わるんですか?」

「た、多分……」

「あんまり酷いと、娘さんに手伝ってもらわないと駄目かもですねー」

「うぅ……それは流石に勘弁してほしい……また怒られちゃう」

「じゃあ、きっちり期間内に見付けないといけませんね」

「うん……」

 意気消沈したように俯く玲奈。栄は肩を竦めながら立ち上がり、再び標本探しを始める。玲奈も何時までも落ち込んではいられないと思ったのか、標本の同定作業を再開した。

 再び、無言の時間が流れる。ガタゴトと箱を動かす音、本の擦れる音、崩れる音と女の悲鳴……時間は刻々と過ぎていく。あっという間に三時間が経った。

 玲奈の方はベテランだけあり ― 何度も本に埋まりながらも ― 集中力を維持していたが、栄の方は少しばかり気が抜けてきた。無論ここまでの作業で経験が身に付き、開始時と比べればずっと効率的に作業を進められるようにもなったが、仕事がやや疎かになっている。

 これもどーせ違うんだろうな……そんな気持ちが傍目にもよく分かる表情を浮かべながら、栄は新たな標本箱を一応はじっくりと眺めた。

 そしてその目を大きく見開く。

 三角形に切られた紙……台紙と呼ばれるそれに貼り付けられた小さなハチ達の中に、腹部に特徴的な赤い斑紋のある個体が存在していた。大きさは一センチ前後。栄は標本箱をそっと床に置き、胸ポケットに入れておいた、しばらく見てもいなかった写真を取り出す。

 標本のハチはとても小さく、肉眼での確認は難しい。細かなところ……例えば足先や顎の形態が異なる事は大いに考えられる。これらの特徴は素人的には些細な違いに思えるだろうが、生物学的には極めて大きな違いだ。ぱっと見似ているというだけでは、目当ての種であるとは断言出来ない。

 しかし栄の目には、標本と写真のハチは同一種に見えた事だろう。

「れ、玲奈さん! これ、そうじゃないですか!?」

「ん? おっと、これは確かに……待ってて。今調べる」

 期待感が溢れ出ている栄に呼ばれ、傍までやってきた玲奈はポケットから取り出した白手袋を装着。標本箱の蓋をそっと開き、目当ての標本だけを片手で取り出す。

 空いている方の手にはルーペが握られ、玲奈はそのルーペを覗き込みながら標本を観察する。腹部の斑紋、翅の形状、足の長さ、顎の大きさ……玲奈の作業スピードは栄とは比べようもないほど早く、しかしそれなりの時間を費やす。ごくりと、栄の喉が鳴った。

 しばらくして、玲奈は小さく息を吐く。

 緊張した面持ちの栄に玲奈が向けたのは、心底嬉しそうな笑顔だった。

「ビンゴよ! これがお目当てのコバチよ!」

「ほ、本当ですか!? 間違いなく!?」

「いくらクソ面倒臭い作業だからって、嘘吐いてまで仕事を中断しようとは思わないわよ!」

「やったー!」

 栄は両腕を上げ、そわそわと身体を揺れ動かす。玲奈は標本を標本箱に戻すと、両腕を広げた体勢を取った。OKが出てから、栄は玲奈に跳び付く。

 しばし互いの事をぎゅうっと抱き締め、当人達曰くクソ面倒臭い作業の終わりを喜び合う。抱擁は数分と続き、やがて栄の方から離れた。

「はぁー、良かったです。本当に一週間経っても見付からなかったらどうしようかと思っていたんですよ」

「あはは。まぁ、その時には別の職員に仕事を引き継いだだろうけどね。さて、忘れないうちにコイツは『ボックス』にしまっておかないと。また一から探すとか、絶望的な状況だけは避けなきゃ」

 冗談めかした事をぼやきながら、玲奈は標本を手にとって立ち上がる。栄も一緒に立ち上がった。

「あ、ボックスにしまうのは私がやっておきますよ。玲奈さんは休んでてください。ずっと細かな作業して、疲れましたよね?」

 そして如何にも親切心から出た言葉を、玲奈に投げ掛ける。

 ところが玲奈は、その気遣いに眉を顰めた。何を言っているんだコイツは、と今にも告げそうに口を曲げるおまけ付きである。

「こらこら、さらっとルール違反しないの。コイツの『セキュリティクラス』忘れたの?」

「え? えーっと……あっ」

 玲奈に問われて考え込む事数秒。栄は思い出したとばかりに声を上げ、反省したように俯く。

 分かればよろしいとばかりに、玲奈は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。目当ての標本を指先でゆったりくるくると回し、横目に眺めながら『規則』を伝える。

「そう、セキュリティクラスA。レベルA標本に直接触れるのは主任研究者のみが原則。厳しく言えば、こうやって一緒に標本を探すのもアウトなんだから」

「す、すみません。失念していました」

「気を付けなさいよ? やってる事は地味だけど、一応これでもうちは『秘密結社』なんだから……まぁ、このルールは割と形骸化していて、融通利かせてる事の方が多いけどね。とはいえボックスへのロックは担当者コードを入れるから、研究所で開ける時に規約違反がバレちゃう。流石に、セキュリティ部門に見付かったら始末書と減俸だから、それは勘弁してね」

 玲奈はそう言うと未だ項垂れたままの助手の肩を優しく叩き、それから部屋を出て行った。

 玲奈が出て行った後も、栄はしばらく項垂れていた。やがてガチャリカチャンとリビングの戸を開閉した音が聞こえ……ゆっくりと顔を上げる。

 栄はもう、落ち込んでいない。

 代わりに今の栄の顔にあるのは、侮蔑と増悪に満ちた、身の毛もよだつ形相だった。

「……流石に、そこまで浅はかでもなかったようですね。元より期待はしていませんでしたけど」

 ぼそぼそとどす黒い声で独りごちながら、栄はポケットから小さな機械を取り出す。九つのボタンしかないそれを慣れた手付きで操作し、幾つかのボタンを押すと再びポケットの中に入れた。

 それからしばし、栄は目を閉じ……開く。

 たったそれだけの仕草を間に挟めば、彼女の顔にあるのはおどおどとした、それでいて可愛げのある女性の表情だけ。掛けている眼鏡を片手で()()()、如何にも抜けている雰囲気を作ってから立ち上がる。

「あ、ちょっと玲奈さん! 標本箱の蓋、開けっ放しじゃないですかぁ! ちゃんと片付けないと娘さんに報告しちゃいますよーっ!」

 そして開いた口からは、明るく軽薄な言葉が出てくるのだった。




分かりやすい黒幕。
そしてアレなフラグが立ちましたー

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来4

 学校から帰ってきた花中を出迎えたのは、暖かさと優しさがある、甘い香りだった。

 一瞬、花中は玄関で呆けたように固まる。その匂いが知らないものだったから、ではない。とてもよく覚えている、懐かしい香りだ。

 しかし何故この匂いが?

 一瞬考え込もうとして、即座に思い出す。そうだ、昨日からママが帰ってきているのだ。ならこの香りは――――

 考えを纏めた時、花中の身体はもう駆け出していた。靴を脱ぎ捨て、ドタドタと廊下を駆ける。共に帰ってきたフィアがキョトンとした眼差しで自分の背中を見つめ、ミリオンが楽しげにくすくすと笑っていたが、花中は気付いてもいない。沸き立つ衝動のままリビングに押し入り、

「ママっ!」

 キッチンに顔を出すのと同時に、愛しい家族の名を呼んだ。

 キッチンに居たのは、玲奈だった。

 玲奈は今、少し年季の入ったエプロンを身に着け、コンロの上に置かれた鍋の前に立っていた。鍋の中にはオタマが入っており、玲奈は小皿を口に付けている。どうやら味見の最中だったらしい。

 花中の帰宅を知り、玲奈はにっこりと微笑みながら「おかえり」と伝えてくる。慌てて花中も「ただいま」と答えた。次いで恥ずかしがるように、花中は物陰に身を隠してしまう。

「あ、あの……今日の晩ごはん、ママが作って、くれてるの……?」

 そしておどおどと、そう尋ねた。

 見れば答えは明らかなのに、つい訊いてしまった。何故ならこの三年間、食事は自分で作るのが普通だったから。友達が作ってくれた事もあったが、あくまで時々。それにそういう時は、事前に教えてもらっていた。

 当然のように、自分じゃない誰かが、自分のための食事を作ってくれている。それが嬉しくて、なんだか不思議な感じもして。

「ええ、勿論。今日はクリームシチューよ」

 玲奈は満面の笑みを浮かべながら答え、思っていた通りの、何より期待していた通りの回答に、花中は跳ねるぐらい喜んだ。

「やった! ママのクリームシチュー大好き!」

「ふふ、やっぱり花中はこれがお気に入りよねぇ。自分から料理をする時は魚とか野菜料理ばかりなのに、ママが帰ってきたら何時もこれをねだるんだから」

「えへへへへ。だって美味しいんだもん」

 ギュッと母の身体に抱き付き、喜びを表現する花中……の背中に、なんだか鋭い視線が突き刺さる。

 反射的に振り返ると、物陰からフィアが嫉妬塗れの眼差しでこちらを見つめていた。彼女の傍にはミリオンが立っていて、嫉妬に狂うフィアを呆れた目で見下ろしている。

「ぐぎぎぎぎぎぎ……おのれぇぇ……!」

「相変わらず嫉妬深いわねぇ。登下校中、ずっと一緒だったじゃない」

「今も一緒が良いんです! 出来る事なら一秒たりとも離れないぐらい!」

「気持ちは分からないでもないけどね。私もあの人とはそうありたかったし」

 極めて私的な ― とても野生生物らしい ― 感情を向けられ、花中は友達に寂しい想いをさせてしまったと少し反省。お陰で嬉しさに満ちていた頭が、少しだけ冷静さを取り戻す。

 そうして落ち着きを取り戻した頭は、一つの疑問を覚えた。

「あれ? ママ、そういえばシチューの材料はどこで用意したの?」

 冷蔵庫の中には今、シチューの材料はないという点だ。

 実のところ、今日の午前中にミリオンが買い物に行ってくれている。しかしその食材達は今もミリオンが持っていた。十二月も半ばを越え、外の気温が冷蔵庫並になってきたので急いでしまわなくても良いというのもあるが……花中は、玲奈にフィア達の正体を隠している。そのため平日の昼間に帰宅するという、『不審』な行動を取らせたくなかった。ミリオンは「気にしなくても良いと思うけどねー」と言っていたが、念には念を入れた方が良いというのが花中の考えだ。

 ミリオンの買ってきた食材がなければ、大桐家の冷蔵庫にあるのは無数のジャガイモと調味料ぐらいなもの。クリームシチューを作るのに必要な、牛乳や牛肉、ニンジンやタマネギ等はない。ルーもなかった筈である。

「うっふっふー、実は栄に買ってきてもらったの。大変だったみたいよ、何処行っても食材がなかったーって言ってたから」

 その疑問の答えを、玲奈はすぐに教えてくれた。成程、と納得するのと同時に、花中は栄が味わった苦労を想像して苦笑い。高いだけならまだしも、そもそも商品が置かれていない方が多い昨今。よくぞシチューに使う様々な食材達を見付けてきたものだと、栄に感心と感謝を覚えた。

 なのでお礼を言おうと思ったのだが、栄の姿はリビングにはない。帰ってきた時に「おかえりなさい」などの声も聞こえなかったが、家の中には居ないのだろうか?

「あれ? 夢路さんは?」

「書斎の方で仕事を任せてる。研究所にレポートを送ってもらってるわ」

 疑問を言葉にすれば、母は書斎がある方角をちらりと見ながら教えてくれる。この場にいない理由が分かればそれで十分。じゃあ後でお礼を言おうと思えば、この話はこれで終わりだ。

「さぁ、後は煮込めば完成ね。晩ごはんの時間までまだあるから、そうね、学校での事を話してくれないかしら?」

 それよりも今は、母が自分と話したがっている。

「うんっ! えっとね、今日は学校の友達とね……」

 抱いていた疑問を頭の隅へと押しやった花中は、満面の笑みを浮かべて玲奈とのお喋りに夢中となる。ついでに玲奈の手を掴み、リビングまで引っ張った。玲奈はくすりと笑いながら、小学生並に弱い娘の力に大人しく引っ張られていく。

 花中は今、玲奈だけを見ていた。

 故に聞き逃す。嫉妬深い友達が、何時の間にか歯ぎしりを止めていた事を。あまつさえ見逃す。自分本位な友達が、母とべたべたしている事を無視するように『何処か』を眺めている姿さえも。

「……どう思います?」

「別にどうも。勝手にさせておけば? 家の中なら兎も角、外を飛び回る虫けらを気にするなんて馬鹿らしい話だし」

「ですね」

 そして二匹の言葉も花中の耳には届かず。

 ただただ今は、六日後にはいなくなってしまう母親との思い出だけが欲しいのだから……

 ……………

 ………

 …

 大桐玲奈はそこそこ料理が下手である。

 いや、正確には凝った料理が苦手と言うべきか。切るだけ、煮るだけ、焼くだけ……などのシンプルな調理方法であれば人並には美味しく作れる。しかし細かな味付けや、寝かせるだの一煮立ちさせるだのという『一工夫』が入ると、途端に大雑把な性格が足を引っ張り、食べられなくはないが微妙な物を作り上げてしまうのだ。

 焼き肉や焼き魚は美味しく作れる ― 生態観察の技術の応用か、食材の目利きはべらぼうに上手いので、むしろシンプルな料理ほど美味である ― ので、幸いにして花中の味覚が歪む事はなかったが……母親として流石にそれは不味いと思ったのか。色々な料理にチャレンジし、少しずつ上手に出来るレシピを増やしていた。

 その中の一つが、クリームシチュー。

「うへ、えへへ。美味しい♪」

 久方ぶりに味わう母の味に、今夜の花中はとろんとろんに頬を弛めながら夕飯を堪能していた。

 娘の幸せに満ちた顔を見て、花中の向かい側のテーブル席に座る玲奈も蕩けたような笑みを浮かべる。

「喜んでもらえて良かったわ。久しぶりに作ったから、ちゃんと作れるかちょっと不安だったのよねぇ。キッチンも色々新調されてて、勝手も分からないし」

「あれ? 玲奈さんがいない間にキッチン新しくなったのですか? 確かに、あまり古くないとは思いましたけど」

「なんか色々あって我が家って二~三度倒壊しかけたらしいわよ。花中からのエアメールにそうあったから。幸い私の部屋は無傷で、標本達は無事だったみたいだけど」

「……危ないところでしたね、色々と」

 隣に座る栄の言葉に「全く以てその通りで」と玲奈は同意を示す。確かによくあの部屋の標本が一つも駄目にならなかったものだと、花中も心の中で同意した。一応埃が積もらない程度には花中が掃除し、本や標本が崩れないよう整えてはいたのだが……爆発やら銃撃やらの難を逃れたのは、ある意味奇跡的である。

「ま、なんにせよ上手く出来て良かったわ。出来ればミリオンさんにも食べてもらいたかったけど……」

「そういえば、ミリオンさんはどちらに? 家にはいないみたいですけど」

「えっと、なんか、ちょっと用事がある、とか言って、外出しました」

 栄の疑問に、花中は当人から聞いていた用事を答える。が、答えながら花中は微かに首を傾げてしまった。

 用事とは、なんだろうか?

 今からほんの数十分前……夕食の直前にミリオンは「用事がある」とだけ言うと、そそくさと姿を消してしまった。詳細を訊く暇などなく、あったところで母との交流が最優先だったので尋ねなかっただろう。しかし今になって疑問が頭にこびり付いてきた。

 その疑問を振り払うように、花中は頭を左右に振りかぶる。今は家族との楽しい団らん中。難しい事は全部後回しだ。どうしても気になるのなら、ミリオンが帰ってきてから訊けば良い。

「明日は一緒に食べられるか、誘ってみるね。そうだ、ミリオンさんといえば、去年ミリオンさんの料理を食べたんだけどね」

 ミリオンの事を話題にしながら、花中は新たな話題を振る。玲奈はそれに相槌を返しながら聞き、笑い、花中の話を楽しんでくれた。

 楽しい会話は途切れない。何時までも何時までも、何処までも何処までも続いていく。

「むっすぅー……」

 そんな人間達の満ち足りたやり取りを、恨みがましい目で見ている動物が一匹。

 フィアである。フィアはもりもりと肉 ― 何かの蛹を潰して固めたものらしい ― を食べながら、あからさまに不機嫌になっていた。

 幸せ絶頂状態の花中は気付いていないが、玲奈の隣に座る栄はフィアの顔を正面から見ている。フィアの不機嫌顔を見て、どうにかしなければと思ったのだろうか。やや狼狽えた様子で、フィアに声を掛けた。

「あ、あの! フィアさんは、クリームシチューを食べないのですか? 美味しいですよ」

「ん? くりーむしちゅーですか? 要りませんよ私には食べられないものなので」

「え? あ、アレルギーとかですかね?」

「アレルギーとかじゃなくて単純に食べられないんですよ。お腹壊しちゃいますし下手したら死ぬかも」

「死……死!?」

 思っていたよりも重大な理由に、栄は目を丸くする。玲奈もこれには驚いたのか、フィアの方に視線を向けた。そして玲奈もフィアに話を振る。

「それは大変そうねぇ。普段何食べてるの?」

「私が自前で取ってきたものを食べてます。昨日あなた方にあげた肉とかですね」

「ああ、アレは本当に美味しかったわねぇ。今まで食べた事がない味で、尚且つ今まで食べた中で一番美味しかったわ。栄はどう思う?」

「ええ、私も同じ意見です。また食べたいです!」

「そうですか。まぁ気が向いたらそのうち獲ってきますよ」

 二人に褒められて、フィアは淡々と答える。世辞でもなんでもなく、本当に気が向いたら行くのだろう。

「どうですか花中さん。今度暇な時一緒に狩りに行きますか?」

「うんっ。良いよ」

 次いで花中に狩りのお誘いをし、花中はこれを快諾する。期待している母のため、とびきり美味しい部位を選ばないと……と考えている事を伝えたらきっとフィアは拗ねてしまうので、花中は自らの口を閉ざして想いを閉じ込めておいた。

 尤もその口からはくすくすと、笑い声が漏れ出てしまうのだが。

 フィア達と一緒の夕飯は、とても楽しいものだった。家族との夕飯も同じぐらい楽しかった。だけど今日の、友達と家族が一緒の夕飯は、もっともっと楽しい。楽し過ぎて、自分を上手く抑えられないぐらい。

 この幸せは、六日後には終わりの時が来る。勿論母が仕事に戻ってしまうというだけの話で、また帰ってきてくれた時に感じられるものだ。それでも、花中は願わずにはいられない。

 何時までも、この幸せが続きますようにと――――

 されど、『終わり』は花中の祈りを踏みにじる。

「……ちっ。無粋な連中ですね」

 不意に、フィアがそんな言葉を独りごちる。

 その言葉には明らかな苛立ちと、明確な敵意がこもっていた。かれこれ一年半以上共に暮らしてきた花中に、隠しもしないフィアの内心を察せられない筈もない。されど楽しい食事の最中に呟かれたあまりにも場違いな感情に、平和に浸りたい理性が理解を拒む。

「ん? どうしたの?」

 故に花中よりも、玲奈の方がフィアの呟きに反応するのが早かった。尤もフィアは忌々しげな眼差しで遠くを見つめるだけで、玲奈の問いに答えようともしない。

 基本、花中以外の人間には殆ど無関心とはいえ、話し掛けられたなら答えるのがフィアである。それを無視する時は、無駄話に思考を割きたくない時。

 即ち、何かしらの脅威を察知した時だ。

「フィアちゃん……? あの、どう、したの……?」

 花中が尋ねても、フィアは何も答えない。じっとしていて動きもしない。まるでそれは、タイミングを計るかのよう。

「ああ全く面倒臭い」

 そしてぽつりと漏らした言葉は、諦めたかのように気怠げ。

 フィアは一体、何を気にしているのか? ――――答えは、すぐに明らかとなる。

 大桐家のリビングにある窓が、突如一斉に割れるという形で。

「きゃあっ!?」

「な、なな、なん……!?」

 悲鳴を上げる花中と、慌てふためく栄。どちらも、不意の物音に対してごく一般的な反応と言えよう。

 されど玲奈とフィアは違う。

 玲奈はなんの躊躇もなく、窓ガラスが割れた音を聞き付けるやテーブルを跳び越えた。拍子にシチュー入りの皿を蹴飛ばし、半分も残っていない中身をひっくり返したが、玲奈は気にも留めない。一瞬にして花中の傍までやってくるや、愛娘の身体を抱き締めながら割れた窓を凝視する。

 そしてフィアは、花中と玲奈を覆うように()()()を展開した。

 フィアの能力によるものだ――――何度もフィアの力を見てきた花中はそれを察し、故に突然の『怪奇現象』を理解しようと目を丸くする玲奈や栄よりも、強い驚きを覚えた。確かにフィアは自らの能力が人間にバレる事を恐れていないが、しかし無闇に力を見せ付ける事だってしない。

 能力を使うからには、何かしらの『危機』が迫っているという事。

 その危機とはきっと、ガラスを割って室内に侵入してきた『私服姿の男達』なのだと花中は察した。

 現れた男は全部で五人。庭へと通じるガラス戸だけでなく、小窓なども粉砕してリビングに入り込んできた。男と呼べたのは、彼等がフルフェイスのヘルメットのような、顔を隠す物を着けていなかったがため。彼等の顔立ちはアジア系のように見えたが、中には中東系の顔立ちもあった。年頃は三~四十代。身体付きは全員屈強で、身体能力の高さを窺わせた。

 一瞬にして侵入者の情報を花中は認識する。尤も、認識したところで動けるかどうかは別問題。

 男達が手に持つ物体……銃器の先が自分の方を向けば、それだけで頭の中は真っ白になってしまった。

「ひっ……!?」

「っ!」

 悲鳴を上げる花中を、玲奈は強く抱き締める。例えどんな災厄からも、娘だけは守らんとするように。

 そんな花中達に銃口を向けたまま、男達はなんの容赦もなく銃の引き金を引く。パパパパパッ、と軽薄な音が部屋の中を満たした

「ええい五月蝿いっ」

 のも束の間、フィアはその指先を男達に向けた。

 直後、パンッ、と何かが弾けるような音が五回鳴り響く。

 すると男達は、仰け反るようにして次々と倒れていった。倒れた後はピクリともせず、そのまま床に寝転がる。銃撃を仕掛けてきた男達は、ものの数秒で黙らされた。

 あまりにも呆気なく無力化され、事の顛末に気付いた玲奈も驚くより呆けた様子。というより、何が起きたのかも分かっていないに違いない……花中ですら、フィアが『水弾丸』で男達の頭を撃ち抜いた ― とはいえ床に血溜まりも出来ていないので、衝撃で頭を揺さぶっただけだろうが ― ぐらいしか分からないのだから。

 しかし花中達を包んでいた水の膜が解かれた以上、少なくともフィアは男達の事をもう脅威だとは思っていないらしい。

「さぁてお邪魔虫は退治しましたし晩ごはんを再開するとしましょうかね」

 でなければ、如何に能天気なフィアでもこうは言うまい。とはいえその言葉に納得出来るのは花中だけ。

「いやいや!? なんですか!? なんなんですか今のは!?」

 栄のように答えを求めてしまうのは、極めて自然な反応だろう。

 しかしフィアからすれば何もかも終わった訳なのだから、栄が何を気にしているのか理解出来ない。肉の塊を齧りながら、フィアはキョトンとしていた。

「? 何か気になる事でも?」

「気になるも何も、こ、この人達誰なんですか!? いきなり、銃で撃ってきて……そ、それにさっきの水! アレもいきなり現れて、玲奈さんと花中ちゃんを包んで……!」

「この人間達については私も知りませんよ。水の膜については花中さんを守るために私がやりました」

「な、え、えっ?」

 あまりにもあっさり、隠す素振りもなく自分の仕業だと打ち明けたからか。栄は怯んだように身を仰け反らせる。ついでに花中も「あ、栄さん、フィアちゃんの水球に入れてもらえなかったんだ」と今更分かり震えた。恐らく面倒臭いだとか忘れていただとかの理由で、なのだろう。あの銃撃で栄が無傷だったのは、なんとも幸運な話である。

 なんにせよフィアの能力を見られてしまった今、なんの説明もしない訳にはいくまい。どう話せば良いか、花中は考え込もうとする。

「栄、今はそこを気にする時じゃないわ」

 その苦労を一時保留に出来たのは、玲奈のこの一言のお陰だった。

「で、でも、玲奈さん!?」

「フィアちゃん。あなたには水を、なんらかの方法で操る力があるって事で良いのかしら?」

「ええそうですよ」

「じゃあ、今は追及する必要なんてないわ。もしもフィアちゃんがあの水を操っていた訳じゃないならちゃんと出所を調べないとだけど、フィアちゃんがやったのならなんの問題もない。まだちょっとしか付き合っていないけど、でもこの子が悪い子じゃないのは栄も分かるわよね? だったら詳細は後で良くないかしら?」

 玲奈に宥められ、栄は口を噤んだ。出会って一日しか経っていない自分の友達を、そこまで信用してくれた……嬉しさから花中は少しだけ口許を弛める。

「それに、今はコイツらの調査が最優先事項よ」

 ただし笑みを浮かべていられたのは、母の極めて真っ当な意見を聞くまでの話だ。

 私服姿の男達は、未だ倒れたまま。動き出す気配はない、が、もしかするとこちらの油断を探っているのかも知れない。迂闊に近付くのは勿論、放置するのも危険である。

「あの、フィアちゃん。あの人達、縛っちゃって、くれる?」

「りょーかいでーす」

 花中はフィアに頼み、水触手で身動きを封じてもらう。ついでに銃をへし折り、服の中に隠されていたという刃物も粉砕してもらった。これで背中から撃たれる心配はない。一安心し、花中は一息吐いた。

 玲奈も男達が無力化されたのを確認し、安堵したのだろう。僅かに警戒心を弛め、今まで抱き締めていた花中からほんの少し離れた。

「……花中。念のために訊くけど、こんな奴等に絡まれる心当たりはないわよね?」

 次いで、本当に念のためといった様子で尋ねてくる。

「うん、ないよ。一応」

「そうよね……えっ、一応?」

「あ、うん。えっと、なくはないけど……みんなフィアちゃんがどれだけ強いか知ってるから、返り討ちに遭うと分かって攻め込んでくるとは思えないし」

「そ、そうなの……え、何。私達が留守にしている間に、うちの子なんかとんでもない事に巻き込まれてるの……?」

 だからこそ、花中(愛娘)からの返答に戸惑いを覚えるのだろうが。頭を抱えながらぶつぶつと呟く姿を見ると、心配させてしまったと花中は少々申し訳ない気持ちになる。

 されどここは正直に話さねばなるまい。

 両親が海外出張中の三年、正確にはフィアと出会ってからの一年半の間、花中は様々な組織と遭遇してきた。世界の支配者、米軍、DCE、製薬会社アスクレピオス……時には協力する事もあったが、割と彼等の為す事を引っ掻き回し、邪魔してきたという自覚はある。個々の事例は決着が付いても、その内面まで一区切り付いたとは言えない。襲撃を受ける可能性は十分にあった。

 可能性がある以上、それはないと否定する事は判断の誤りを生む。真実を見極めるには、フェイクの情報が混ざっていてはならない。

 ……母に何かしらの心当たりがあるようなら尚更だ。先の訊き方から、玲奈には襲撃される『当て』があるように花中には感じられたのである。

「……分かった。それについても、後で詳しく訊くからね?」

「うん、分かった。ちゃんと話す」

「良い子。さて、だとするとコイツらは本当に『奴等』なのか……フィアちゃんは何か心当たりがない?」

「さぁ? さっぱり分かりませんね」

 玲奈からの問いに、フィアは首を傾げながら即答する。花中からすれば予想通りの答えであり、あまり落胆はしない。だよねー、と思いながら力の抜けた笑みを浮かべた。

「分からないならコイツらの仲間に訊けば良いんじゃないですかね? なんかあっちにたくさん集まってるみたいですし」

 まるで些末事であるかのように、フィアが何処かを指差しながらこう答えるまでは。

 花中は背筋が凍るような、強い恐怖を覚えた。銃を持った正体不明の輩が家の周りに居ると聞かされたのだ。不安にならない訳がない。

 しかし玲奈と栄は違った。

 フィアの指が示す方角に目を向けた途端、二人の顔付きが険しくなる。その先にあるものに心当たりがあり、同時に同じ答えに辿り着いたかのように。

 ただし二人の動きには差があった。玲奈は明らかに考え込み、思考を巡らせていた。最善手が何かを探るための思索であると、娘である花中の目には映る。

「わ、私、ボックスを確保します!」

 対して栄は、考え込む前に動き出していた。

 感情に従ったかのような、間髪入れない行動。危険な集団が近くに居る最中の行動としてはあまりに短絡的だ。

「――――待ちなさい!」

 玲奈も花中と同じように思ったのだろう。すぐに栄を呼び止める……が、栄は振りきるように走り去ってしまう。

 玲奈は花中から跳び退くように離れ、栄の後を追う。花中もフィアにお願いし、お姫様抱っこの状態で玲奈達を追い駆けた。

 栄が向かう先は玲奈の書斎。扉を蹴破るようにして突入していく。玲奈と花中達も数秒後には続けて書斎へと入る。

 栄は、部屋に置かれていた小さな白い箱を持っていた。箱を持った状態で――――背後に立つ、私服姿の男に短銃を突き付けられていた。

「栄っ!」

「れ、れい、玲奈さん……!」

 ガチガチと顎を震わせ、目に涙を浮かべながら怯える栄。背後の男はニヤリと、凶暴な笑みを浮かべた。

 ごくりと、花中は息を飲む。

 フィアに頼んで男を攻撃し、倒してもらうか? 男は三十代前半ぐらいの若さで、推定身長百八十センチ以上の身体は格闘家のように屈強な筋肉に覆われている。しかしフィアからすれば、人間という時点で羽虫のようなもの。倒してもらうだけならなんの苦労もない。

 しかし男は短銃の引き金に指を掛けていた。銃の引き金がどれだけ重いものかは分からないが、指先の力だけで押せてしまう程度の代物だ。フィアのスピードならば人間の反応速度を上回る攻撃など造作もないが、ダメージを受けた拍子に指が動いて、パンッ……なんて事もあり得る。

 動くにはまだ早い。花中はぐっと押し黙り、花中からのお願いもないのでフィアも動かない。

 唯一、玲奈だけが一歩踏み出す。

「探す手間が省けたわ……あなた達の目的は何?」

「既に察しが付いているんだろう? 俺はあまり気が長い方じゃないんだ。七面倒な問答をする気はない」

「……OK、分かった。暗証番号は77317757よ。カードキー認証は必要ないから、そのままボタンを押しなさい」

 玲奈は両手を上げながら、八桁の数字を口早に告げる。男は栄を小突き、栄は泣きながら頷くとその手にある箱を弄る。カチカチと音が鳴っている事から、何かしらのボタン操作をしているらしい。

 やがて九回目のボタン操作 ― 恐らくは決定ボタンか ― を終えると、カチャン、と箱から鍵が外れるような音が鳴った。すると箱の蓋が自然と開き、栄はその中身を震えたような手で取り出す。

 現れたのは一つの、標本。

 小さな針先に白い紙が貼り付けられており、その先に標本らしき虫が乗っていた。サイズが小さ過ぎる事と、栄から少し離れた位置というのもあって、花中にはそれがどんな虫なのか全く分からない。

 しかし、何故だろう。

 その虫の『死骸』が、途方もなく恐ろしいもののような気がするのは……

「念のために訊くわ。それがどんなものか分かってる? もしもただなんとなくとか、私達が回収してるからとか、そんな理由で欲しがっているのなら、今すぐそいつを箱の中に戻した方が良い。これはお願いじゃないわ、忠告よ」

 花中が怯える最中、玲奈は男に語り掛けていた。言葉遣いと口調から、娘である花中には分かる。母は本当に、忠告としてその言葉を告げていた。

 母は何を知っている? あの小さな、何が付いているかもよく分からない標本は一体なんだ? この男の目的を知れば、少しは答えに近付けるのか?

 花中の脳裏に、無数の疑問が過ぎる。少しでも疑問を解消したく、花中は無意識に男の言葉に意識を集中させた。

 故に、花中の思考は一旦止まる。

「ええ、勿論分かっていますよ。あなたに教わりましたから」

 何故なら答えたのは、()()()()だったから。

 次の瞬間、襲い掛かるは息も止まるほどの寒気。

 フィアはつまらなそうに鼻を鳴らすだけで、淡々と現実を受け入れている様子だが、花中にはとても出来ない。玲奈もその顔を真っ青にしていた……人一倍臆病な花中よりも、ずっと色濃く。否定するように唇を震わせ、後退りする。

 まるでそんな人間達の信頼を嘲笑うように。

 獰猛で、醜悪で、我欲に塗れた……人の持つあらゆる悪意を詰め込んだような、微笑みをそいつは浮かべた。

()()はちゃんと目的を持って、コイツの奪取を企てました。あまり見くびらないでくださいね?」

 そしてそのようなおぞましい笑みを浮かべながら、頭から銃口を退かされた栄は、平然と答えるのだった。




裏切りは人類の嗜み。

次回は7/13(土)投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来5

 どういう事なのだろうか。

 突き付けられた光景を前にして、花中の頭は困惑一色に染まっていた。確かに昨日の今日出会ったばかりのため、夢路栄の人となりなんてよく知らない。けれども一緒の夕飯を二度も楽しんだ経験から、悪い人ではないと思っていた。

 なのに。

 どうして栄は今、大桐家を襲撃してきた男と、仲良く並んでいるのだろうか。

「……成程、最初からスパイだったと。まんまと騙されちゃったわね」

「そういう事です。こちらとしてもこんなに早く裏切る予定はなかったのですが、そこの怪物が想像以上に厄介と判断しまして。こうでもしないと目的を達せられないと考えました」

 ちらりと、栄が視線を向けた先に居たのはフィア。栄の視線に気付いたフィアは、しかし何が言いたいのだろうと訊きたげに首を傾げるのみ。

 どうやら栄のこの行動は、フィアの戦闘力を目にしての決断らしい。最初はフィアを倒して、その後自分達を『無力化』するつもりだったのだろうか。

 そしてその目的は、今、栄の手にある標本の奪取。

 何故そのようなものを求めるのか、手に入れて何をするつもりなのか……そんな事は花中には知る由もないし、何か大変な事情がある可能性だって否定は出来ない。しかし仕事の先輩である筈の母を裏切る真似に、強い怒りを覚えた。だからフィアに頼んで死なない程度にボコボコに――――

「おっと、花中ちゃんも黙っていてくれますか? もし一言でも喋ったなら、私はコイツを使()()()()

 そう思ったのも束の間、栄は花中にも警告を発してきた。お願いの言葉を発しようとした口を、花中は慌てて閉じる。

 コイツ、というのは彼女が手にした標本の事だろうか。使うというのがどういう意味かは分からないが、脅迫として使えるような代物なのだろう。母である玲奈が何も言わないところからして、ハッタリという訳でもなさそうだ。何が起きるか分からない以上、この警告を無視するのは愚策である。

 花中が黙りつつ考えを巡らせていると、栄は満足げに微笑んだ。嘲笑うような笑みを見せられ、花中は動けない事の悔しさもあって唇を噛み締める。フィアも顔を顰めた……が、ふん、と小さな鼻息を吐くだけ。特に動こうともしない。フィアからすれば栄が何をしようとも、自分と花中に直接的な『危害』を加えないのならどうでも良いのだから。

 花中の口を真っ先に閉じさせた辺り、恐らく栄はフィアのこのような性格を熟知している。しかし昨日から今日までの出来事だけでそれを読み取るのは難しい筈。

 だとすると栄は、前々から自分達の事を監視、或いは観察していたではないか?

「……どうしても、返してはくれないのかしら?」

「ええ。あなた達の手に渡っても厄介なだけだし、これは我々が責任を持って『処分』します」

 予想される事態に花中は顔を青くする中、玲奈は冷静に振る舞う。栄への問い掛けも冷静で、感情を押し殺したものだった。

「では、我々はこれで失礼しますね」

 それでも、いざ栄が自分達の前から去ろうとした時には、憤りの感情が表に出てきて。

「あら、そんなに急がなくても良いじゃない。目的もちゃーんとお話ししてほしいわ」

 されど虚空から淡々とした声が聞こえた時には、栄と揃って呆けた表情を浮かべた。

 次の瞬間、栄の背後に黒い靄が現れる。

 靄は段々と色濃くなり、人の形を作る。驚いた男が発砲するつもりか銃を構えた、直後に銃は爆発四散。破片が手に突き刺さり、男は悲鳴を上げながらひっくり返った。

 そんな叫びが五月蝿いとばかりに、靄は男を()()()()()。実体を感じさせない足に踏まれた男は、しかし今にも飛び出そうなほど目を見開き、呻き一つ漏らさずに気絶した。

 靄はやがてハッキリとした輪郭を纏い、栄の腕を掴んだ状態で人の姿を作る。言うまでもなく、その姿はミリオンであった。

「なっ!? き、さま……!?」

「はぁーい。私があなた達の事を知らないと思ってた? あまり嘗めないで欲しいわね。あなた達が一月前から町をうろちょろしていて、この家と私達について調べていたのも、ぜーんぶ知ってるんだから」

「う、くっ……!」

 身を捻り、どうにか拘束から脱しようとする栄だが、ミリオンの手は微動だにしない。フィアやミィほどの怪力はなくとも、彼女の力も人間とは比較にならないほど強いのだ。栄に脱出のチャンスはないだろう。

 しばらくすると栄は暴れるのを止め、諦めたように全身の力を抜く。ミリオンはそんな栄を見ても力は弛めず、拘束した事を誇るように笑みを浮かべた。

 あまりにも簡単に栄が拘束されて、玲奈は呆けたように目を丸くする。それでもすぐに我に返り、心から安堵したような息を吐いた。

「……ありがとう。助かったわ」

「いえいえ、どうもー。出来れば、コイツらがなんなのか、奪おうとしていたこの標本がなんなのかについても教えてくれると嬉しいわね。今後こういう事がないとも限らないし」

「それは……」

 ミリオンに問われた玲奈は、目線を逸らすようにして花中の方を見遣る。

 花中は、そんな玲奈の視線と向き合った。

 きっと仕事に関係する内容だから、話せない事もたくさんあるだろう。それを承知で、母親が危険な何かに関わっているとなれば、花中としては聞き捨てならない……確かに自分は大桐玲奈の娘であるが、同時に家族なのだ。家族の力になりたいと、心から想う。

 その想いが通じたのか、単に娘の眼力に負けたのか。玲奈は小さなため息を漏らすと、「分かったわ。話しましょう」と肯定の意思を示した。

 花中はごくりと息を飲み、玲奈の話に耳を傾ける。ミリオンとフィアも玲奈の顔を見ていた。一人と二匹の視線を受ける玲奈の口は中々開かないが、覚悟を決めたり話の整理をしたりしているのだと思い、花中は静かに待つ。

 やがて、ゆっくりとだが玲奈の口は開き――――

「ぃつッ!?」

 小さな悲鳴が、唐突に上がった。

 栄のものだった。結果的に話の邪魔をされ、花中と玲奈の親子は揃って栄に視線を向ける。

 暢気に見ている暇などないという事を知らずに。

「……まさか。ああでも、そうか、成程。だから回収する訳と」

 ミリオンがぶつぶつと、忌まわしげに呟く。分かっていれば防げたのにと言いたげな言葉だ。そしてミリオンは警戒心を跳ね上げた眼差しを栄に向ける。

 当の栄は、息を荒らげながら目を見開いていた。

 ビクビクと全身を痙攣させ、なんらかの発作でも起こしているかのよう。全身から汗が噴き出したのか、服がぐっしょりと濡れていた。瞳孔は伸縮を繰り返し、開け放しの口からはだらだらと涎が垂れ流される。

 そしてミリオンに掴まれている方の手に持っていた筈の標本を、床に落としていた。

 本来なら、『それ』は見た目通りの意味しか示さない。栄の身に何かしらの異変が起き、ついには折角手に入れた標本を落としてしまったのだ、と。

 されど花中は知っている。この世の生命が人間の理解を軽々と上回る事を。死すら生命を完全に止める事は出来ないのだと。

 なら、こうも考えられる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

「……小賢しいっ」

 ミリオンは万一に備えてか、拘束している栄の腕を掴み直した。

 途端、栄の身体がどろりと溶ける。

 文字通りの光景だった。まるで正体が軟体生物であったかのように、栄の身体は溶けて崩れ落ちる。

 ミリオンの拘束から抜け落ちた栄は、服や下着を置いて、肉体だったと思われる肌色の液体だけが素早く移動。書斎の窓目掛けて駆ける。その際仲間の男の左手を踏み付けたが、目もくれずに突き進む。

「ちっ! 焼き殺して……」

 ミリオンは素早く、栄だった軟体生物の方に手を伸ばした

 ……が、ミリオンが攻撃を仕掛けるよりも、栄が外へと逃げる方が早かった。ミリオンは忌々しげな目付きで栄が逃げ去った方をじっと見つめるも、やがて肩を竦める。

「……成程、ちょっと相性が悪いみたいね。やれやれ」

 ぽつりと独りごちた言葉は、確証と面倒さを感じさせた。

 どうやら栄は、逃げ果せたらしい。ミリオンのぼやきから推察するに ― 恐らく打つ手は幾らでもあるとしても ― 相性の悪さが原因のようだ。

 ミリオンが何を察したのか? 栄は一体どうしてしまったのか? どちらも知りたいというのが、花中の正直な気持ちだ。

 しかしそれよりも今は、母から話を聞きたい。

「……ママ」

「大丈夫。今更話を誤魔化そうなんて思っていないから。本当は花中がもっと大きくなったらって考えていたんだけど、どうやらもう十分大人になってたみたいだし」

 花中が目で訴えると、玲奈はすぐに意図を察してくれた。玲奈は花中の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。その手付きは愛しさを感じさせ、だけど何処か寂しげで……離した時は名残惜しむよう。

 それでも玲奈は花中と向き合えば、喜ぶように笑みを浮かべた。

 一瞬見せた喜び。されどその笑みはすぐに真剣な顔によって隠される。玲奈は自身の書斎の奥へと歩み、懐から取り出した手袋をはめてから栄が落とした標本を拾い上げた。それから開けられたままの箱にしまい直す。

「私が家に帰ってきたのは、この標本を持ち帰る事。理由の一つは、死んだ生物が生き返る事を知ったから」

「……それって、つまり……」

「そしてもう一つの理由は」

 戸惑う花中の問いに答えぬまま、玲奈は再び歩き出す。次に向かったのは、栄の仲間だと思われる男。

 ミリオンによって気絶させられた彼に、玲奈は見下ろすほど近寄る。

「この危険な生物が町中で復活したなら、大惨事を招く可能性があったからよ。栄がさっき披露した形態変異さえも、第一フェーズに過ぎないのだから」

 それから玲奈は恐ろしい事実を告げた。

 足下に倒れる男……気絶している彼の左手が、消失しているのを確認しながら――――

 

 

 

 夜の町を栄は裸で駆けていた。

 痩せていてあばらが浮いて見える身体は汗で湿り、それでも体温が高いのかほんのりと赤らんでいる。眼鏡は何処かで落としてしまい、裸眼になっていた。

 もしもこの姿を巡回中の警察にでも見付かったなら、女である事を差し引いても即座に捕まってしまうだろう。日本人としてあまりにも非常識な格好であるが、しかし栄はその事など気にも留めていなかった。それよりも気にすべき、恐ろしい問題があるのだから。

 自分の身体は、一体どうなってしまったのだろうか。

 あのミリオン(怪物)に拘束されていた最中、突如として指先に痛みを覚えた。痛み自体は大したものではない。少なくとも、実験室でネズミに齧られた時と比べれば断然マシだ。

 だが、その痛みを境に身体がおかしな事になっている。自分はただの人間なのだ。人間は脊椎動物で、身体の中に立派な骨がある。栄にも立派な骨があり、小学生の頃には骨折だって経験した。

 なのに、自分の身体が、まるで軟体動物のように溶けてしまった。

 信じられなかった。信じたくなかった。今は元の姿を取り戻せているが、何時またあんなアメーバのような形になるか分かったもんじゃない。おまけに今、十二月の夜空の下を全裸で走っているのに、あまり寒さを感じないでいる。こんなのは人間が持てる体質じゃない。いくらこの不気味な体質のお陰で助かったとしても、こんな、人間じゃない力なんて……

 混乱と否定の中、夜の町を逃げ回っていると、栄は何時の間にか緑に囲まれた場所にやってきていた。街灯などが乏しく辺りはとても暗いが、何故か物の輪郭がハッキリと見える。夜目が利くのだ。それは便利と言えば便利なのだが、今の栄には自分が変わってしまった事を突き付けられたようで、一層の動揺を誘う。

 なんとか冷静になろうと、栄は深呼吸を繰り返す。改めて辺りを見回し、此処が何処なのかを探った。小さな遊具や水飲み場がある。たくさんの木々が植えられ森のようになっている一角も見られた。どうやら自然公園の類らしい。

 この森の中なら、身を隠せるだろうか。もう何十分かすれば、標本回収のための部隊が到着する手筈となっている。仲間達の合流するまでの間、奴等に見付からなければなんとか――――

「おねーさん、どしたの?」

 そう考えていた最中、背後から声を掛けられた。

 栄はビクリと全身を震わせ、怯えながら振り向いた……ところ、そこに居たのは若い男達の集団だった。全員が二十代前半ぐらいで、数は五人。如何にも心配しているかのように声を掛けてきたが、その顔に浮かんでいる下心剥き出しの顔が彼等の本心を物語っていた。

 成程、確かに今の自分は全裸であり、多少は『食欲』をそそるかも知れない。外観は中の中、或いは中の下だとしても、一夜で使い捨てる分には許容範囲という事か……推察される男達の考えに反吐が出そうになる。話をするだけ時間の無駄だと判断し、栄は踵を返して男達に背を向けた。

 男達はそんな栄の行く手を遮るように、前へと回り込んでくる。

「ホラホラ。遠慮しないでさ」

「……していません」

「好意には甘えておこうぜ?」

「好意じゃなく、悪意を感じるからです」

「おー、手厳しいぃ」

 大袈裟に仰け反りながら、如何にもショックを受けたと言いたげに一人の若者が嘆く。仲間達はそれをゲラゲラと笑い、楽しみ、されど止めはしない。

「でもさぁ、そんな格好して出歩いてるって事は、ちょっとは期待してるんでしょ?」

 若者が自発的に止める事もなく、彼は栄の腕を掴んできた。

 当然栄は振り解こうとした。見知らぬ男と身体を重ねている暇などない。あの危険な怪物達から、一秒でも早く身を隠さねばならないのだ。

 でも、だからといって。

 若者の手を()()()()つもりなど微塵もなかったが。

「「は?」」

 目の前で生じた事象に、栄と若者の声が重なる。

 若者の手は、一部だけだが栄の手と一体化していた。それは皮膚がくっついたというだけではない。まるで結合双生児のような、完全な融合を果たしている。若者は無意識にか栄から離れようとするが、融合した手が栄から離れる事はない。

 それどころか、ずぶずぶと、若者の手は栄に取り込まれていく。

「ひ、ひぃいいいっ!? なん、なんだこれ!?」

「お、おい!? お前、何をして……」

 悲鳴を上げる若者と、問い詰めてくるその仲間達。だけどそんなのは栄こそ知りたい事だ。訳が分からない。

 同時に、胸から込み上がる『声』。

 聞いてはならない。人としての理性がそう警鐘を鳴らしている。されど胸の奥底にある衝動は、その声に耳を傾けようとしていた。理性が必死に耳を塞いでも、衝動は振りきるように『声』へと向かう。

 そして栄は聞いてしまう。何かが発する命令を。

 喰え、という言葉を。

「や、やだ、助け、げ、げ、げ、げ」

 栄と結合した男は声を震わせ、ガタガタと痙攣を始めた。その頬と身体はみるみる痩せこけ、目玉は陥没し、肌がくすんだ色へと変貌していく。骨が溶けたように、四肢がぐにゃぐにゃになった。

 時間にして一分も経っていない。その短い間に男の身体は、まるで中身の詰まっていないゴム人形のようにくたくたとなる。

 最後は蕎麦でも啜るように、ちゅるんと栄の手に吸い込まれた。若者の姿はもう、何処にも残っていない。彼の痕跡を物語るのは、綺麗に残された衣服やアクセサリーの類だけ。

 非常識な瞬間を目の当たりにした若者四人は、誰もが呆けたように棒立ちしていた。何が起きたか分からない、自分達は夢でも見ているのだろうか? そう言いたげな眼差しを栄に向けてくる。

 栄も同じだ。自分が何をしたのか、分からない。自分はただ手を振り解こうとしただけなのに、こんな、吸い尽くすような事をしようなんて考えてもいなかったのに。

 戸惑いで顔を青くし、カタカタと身体が震える……ところがどうした事か。不意に栄の震えは収まった。じっと己の手を見つめ、押し黙る。

 やがて栄は、笑った。

「……成程、成程。あの女が危険視する理由もよぉーく分かりました。確かに危険ですね……ですが、ああ、素晴らしい」

 ぶつぶつと栄は呟く。一人で頷き、納得する。自分の引き起こした事に嫌悪するどころか、喜ぶような笑みまで浮かべた。

 栄の不気味な姿に耐えられなかったのか。若者の一人が後退り

 した瞬間、栄の腕が伸びた。文字通り何メートルも。伸びた腕は後退りした若者の頭を掴み、若者は悲鳴を上げながらその身体をぐにゃぐにゃとした柔らかいものに変えていく。三十秒も経つと彼は栄の中へと吸い込まれ、一人目と同じく服だけを残す。

 二人が消えて、残りは三人。誰もが現実逃避を止めるしかない。三人はさながら打ち合わせでもしていたかのように、揃って栄に背を向けた。

 栄はそれを、見逃さない。

「光栄に思いなさい。あなた方のような屑でも、人類の存続に役立たせてあげますから」

 慈愛と優しさに満ちた微笑みを浮かべながら、彼女は男達に襲い掛かる!

「ぎゃあっ!?」

「ひぎっ!? い、が、べ……」

「ぼっ!? ご、おっ!?」

 右手を一人の後頭部に、左手を振り返った一人の顔面に、口を一人の後頭部に――――人外の跳躍力で男達に迫るや、栄は己の身体の一部を男達に接触させた。触れた身体は一瞬にして男達と癒着し、その身を溶かし、吸い込む。

 ものの数分で五人の男をその身に取り込んだ栄は、その外観を歪に膨らませたりはしていなかった。されど無変化という訳でもない。軟弱な学者らしい身体付きは、猫のようにしなやかな筋肉を纏うようになっていた。身長も伸び、百七十センチを超えている。顔立ちも引き締まり、彫刻のように整ったものへと変貌していた。

 一見すれば、彼女は栄のままである。しかしよくよく見れば他人にしか見えない……それほどの変化を、彼女は遂げていた。

「ふ、ふふ。ふふふふ……はははははっ! 凄いわ! これなら、これなら……!」

 栄は高笑いをし、喜びを表現する。彼女の声は人間のそれを凌駕し、町中に木霊した。見付かる事も恐れず、堂々と感情を露わにした。

 己の内側から溢れ出すパワーと喜びが、抑えられないが故に。

「いやー、とんでもないものを見ちゃったなぁ」

 尤もその盛大な歓喜は、ぼやくような小声によって阻まれたのだが。

 栄は跳ねるように、声がした方へと振り返る――――何時の間にやってきたのか、栄の背後には一人の小さな女の子が立っていた。

 少女の背丈は、大桐花中と大差ない。しかしあの華奢な小娘よりは筋肉質で、スポーツが得意そうに見える。服は長袖長ズボンではあるが、どれも秋口に着るようなもの。冬服として使うにはあまりにも薄いが、少女は特段寒さに震える素振りもない。髪は黒で、目立つものではない。顔立ちは正しく美少女のそれだが、非常識な美しさではなく、なんとなく親しみが感じられる。

 全く気になる点がないと言えば嘘になるが、一見した限りではそこらを歩いている、極々普通の美少女のようだ。

 しかし栄は見落とさなかった。少女のお尻から、猫の尻尾のようなものが生えている事を。

 コイツも、人間じゃない。

「どうしよっかなぁ。なんか放置するとヤバそうだけど、感じ的に人間っぽいし、人間を襲う分には人間の問題だしなぁ。さっきの奴等悪者っぽかったし。でもコイツ、正義のヒーローにも見えないからそのうち普通の人間も襲いそうだし……うーん」

 人間じゃない少女は一人勝手に悩んでいた。何を悩んでいるのかは定かではないが、栄にとってはどうでも良い。

 恐ろしい。

 身体の奥から、そんな警報が飛んでくる。理屈も何もない、けれども感情とも違う……未知の感覚に理性は戸惑いを覚えるが、しかし身体の方は準備を整えていく。何時でも逃げ出せるように、せめて命だけは守れるように。

 この感覚はなんなのか? 答えはすぐに明らかとなった。他ならぬ、この感覚の元凶である少女の言葉によって。

「うん。とりあえず捕まえて、花中のとこに届けようかな。難しい事は全部花中に任せちゃおうっと」

 ぽそりと、少女は呟く。

 この少女は花中の知り合いだったのだ。そして少女は自分を捕まえ、花中の下に連れて行こうとしている。

 論理的思考では導き出せなかった可能性。されど栄はそれを根拠なしに、なんとなく察していた。身体を満たす未知の感覚が教えてくれたのだ。ならばあの感覚の呼び名はただ一つ。

 本能だ。

 人間が文明を築くために捨て、衰えさせた野生の感覚。それが戻り、研ぎ澄まされた末の結論だった。そして目の前の少女に対して、本能は新たな判断を下す。

 コイツには勝てない、と。

「っ!」

「ありゃ?」

 栄は反射的にその場から全力で跳び退いた。少女はおどけたような声を漏らしたが、栄を追っては来ない。手こそ伸ばしていたが、すぐに引っ込めていた。

 恐らくは追うのを面倒臭がったのだろう。恐怖心や警戒心は感じられない……人間を吸収する場面を目撃したと思われるにも拘わらず。つまりあの少女にとって、その程度は脅威でもなんでもないという事だ。

 自分と少女の力関係にそれほどの差があると突き付けられ、栄は唇を噛み締めたが、安堵も抱く。この少女に勝てるイメージなど、まるで浮かんでこないのだから。積極的に手を出してこないのなら好都合である。

 栄は即座に背を向け、逃げ出した。少女は追ってこなかった。

 公園を脱出し、栄は夜の町を車よりも速く駆けた。宵闇を見通し、彼方を目指して走りながら考える。

 この町には、恐ろしい怪物が多過ぎる。

 もしもあの怪物の一体が暴れ出したらどうなる? いや、暴れた結果が大桐家の周りの惨状である事は調()()()()だ。この町は、既に怪物の脅威に見舞われている。

 この恐ろしい町で生き残るためには力が必要だ。今の自分など比較にならないほどの強い力が。

 そのために必要なのは――――

 ……………

 ………

 …

「んー。なんか面倒臭くて追わなかったけど、まずったかなぁ」

 公園で栄の背中を見送った少女ことミィは、さして後悔などしていない軽い口振りでそう独りごちた。

 ミィは一部始終を見ている。

 あの人間 ― 少なくともミィの本能はそう判断していた ― に何かしらの能力があるのは明らかだ。その能力で人間に危害を加えたところも目の当たりにしている。フィアほどではないが能天気な思考の持ち主であるミィでも、まさか襲われた若者達が(あの人間)の中からぽーんっと無傷で出てくる……とは思わない。間違いなく彼等は死んだ。

 ミィは人間が好きだ。人間の『嫌なところ』もたくさん学んだので昔ほどの情熱はないが、今でも無差別な虐殺を見過ごす事は出来ない。人間を襲う怪獣が現れたなら、自分がやっつけても良いと考えている。

 しかし猫を虐めるような人間を助けるような、無分別な優しさは持っていない。人間のため、人間を襲う『美味しい生き物』を絶滅させるつもりだってない。あくまで彼女の優しさは、自分が好きだからという理由で向けるものなのだ。

 つまるところ知らない人間同士のいざこざに首を突っ込むほど、人間を愛している訳ではない。

「……ま、花中には教えてやろうかな」

 それでもこうして花中(人間)に自分が見たものを伝える分、他のミュータントよりかなり世話焼きと言えよう。

 公園から跳び立ったミィは、町中へと消えた栄とは真逆の方向へと向かうのだった。




平和な時間は終わり。

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来6

 母も父も仕事の内容についてあまり詳しく教えてくれた事はなかったと、花中は今になって思い返した。

 自身の専門が何かについては教えてくれたが、逆に言えばそれぐらいしか知らない。あまり研究内容を外に漏らしてはいけない、仕事場との契約(約束)だからごめんね……そう言われ、困らせてはいけないと思って訊けなかった。高校生になってからも、きっと同じ研究をしているライバルに先を越されないよう等の事情があるのだと考え、あまり気にしていなかった。

 それも今日までの話。

 銃を持った連中が自宅を襲撃し、組織にスパイを送り込み、そこまでして得たい標本……その持ち主である母がただの研究者であると信じ込めるほど、高校生になった花中は純真ではないのだから。

 尤も、そのための勇気を即座に持てるかは別問題な訳で。

「じゃあハッキリ訊けば良いのに何故物陰に隠れて盗み聞きなどしてるのです?」

 フィアが尋ねてくるように、花中は物陰――――和室とリビングを区切る襖の隙間から、和室側を覗き込むのが精いっぱいだった。

 しぃーっ! と口の前で指を一本立てながら花中がフィアに沈黙を促せば、フィアは疑問で眉を顰めつつも押し黙る。花中は再びこっそりと、襖の隙間から和室を覗き込んだ。

 和室の中心には、リビング側に背を向けた母・玲奈の姿がある。

「はい……ええ、そうです。部隊は……駄目です、三日では遅過ぎます。アレの繁殖速度を鑑みれば、人の手に負えるのは精々二十四時間以内……………無理は承知しています。その上での申し出です」

 玲奈は片手に持った通信機器 ― スマホではない。トランシーバーのようなものだ ― を使い、何処かに話し掛けていた。口調は真面目で重々しく、普段の雑さは何処にもない……足下に置かれた書類が乱雑に散っているのを除けば。そんな些末ないい加減さが見えなければ、玲奈の後ろ姿に、花中は『母らしさ』を見出せなかった。

「はい、お願いします。責任についても、あなたに押し付けるつもりはありません。ですから……ええ、お願いします」

 最後に弱々しく言葉を吐きながら、玲奈は通信機を耳から離した。電源ボタンらしきものを押し、小さなため息を吐く。

 次いでくるりと、襖から覗いている花中の方へと振り返った。

 いきなり振り向かれ、ビックリした花中はぴょんっと無意識に跳ねた……のも束の間、玲奈が猛然と花中目掛けて走ってくる。唐突にして想定外な母の行動を目の当たりにし、花中の身体は硬直。微動だに出来なくなる。

 当然回避行動など取れず、花中は玲奈の跳び込んで(突進)からの抱擁(組み付き)を受けてしまう。

「花中ぁ! どうしようぅ~! ママ、お仕事で責任取らされるかもぉ!?」

「ま、ママ……苦しい……で、でも、責任って……」

「うん、上司が言ってた……半年ぐらい減俸されるかもって。あと始末書」

「あ、うん。それぐらいなら別に」

 予想以上に大した罰ではなく、正直花中は拍子抜けした。スパイを助手にしていた挙句大切な標本を奪われるという失態に対し、減俸半年と始末書なら安いものではないか。

 とはいえ本当にこの処分が妥当であるかは、花中には分からない。

 母の、本当の仕事内容が分からないのだから。

「ママ。あの……訊いても良い? なんで、夢路さんはスパイなんかを? それに、あの標本はなんなの?」

「それは……」

「ちなみに教えてくれない場合、私がこの男達からしっかり聞き出すからそのつもりで」

 花中からの問いに口ごもる玲奈だったが、その言い淀みを戒めるような声が話に割り込む。

 リビングの奥に立つ、ミリオンだった。彼女の傍には今、黒い靄のようなもの ― ミリオンの『別働隊』だ ― で拘束された六人の男達……ほんの数十分前、大桐家を襲来した者達が居る。

 栄の仲間達だ。ミリオンに聞き出すと言われて男達の一人――――栄を人質に取る『演技』をし、その後左手を失った男がミリオンを睨み付ける。

「……簡単に話すと思うか?」

「思わないから尋問するつもり。私なら、あなた達の身体を死なない程度に痛め付ける事なんて造作もないわ。そうねぇ、まずは右目の視力から奪っちゃおうかしら。それとも胃腸を引っ掻き回す? 内臓痛は辛いわよぉ」

「なんとも面倒な事をしますね。喋らない奴から殺していけばそのうち誰かが吐くんじゃないですか?」

「その方法じゃ、知ってる奴を殺しちゃうかも知れないでしょ。みすみす手放すのは勿体ないわ」

「話さないなら知ってても知らなくても同じじゃないですか。大体私としてはコイツらが何者とかあまり興味ないですし」

 ミリオンが告げたおぞましい尋問方法に、フィアが別のやり方を提案する。現実的にはミリオンの言う通りあっさり殺すのはデメリットが大きいのだが……淡々と交わされる言葉から、彼女達が殺人や拷問になんの抵抗もない事は男達にもしかと伝わった筈だ。

 加えてフィア達の力が如何に強大であるかを、彼等は自らの身を以て体感している。

 脅しではない。自分達が生きているのは、彼女達の気紛れに過ぎないのだ……そんな恐ろしい事実に気付いてしまったのだろう。男達の何人かは顔を青くし、ガタガタと震え始めた。冷や汗を流し、ガチガチと顎を鳴らす。

「わ、分かった! 話す! 話すから助けてくれ!」

 ついに心がへし折れたのか、一人が半泣きで叫んでしまう。

 誰もがゾッとした事だろう。一人が脅しに屈したなら、最早他の者達……自分の沈黙はなんの意味もない。むしろ利用価値のない役立たずであり、維持コストを考えれば『処分』した方が得なぐらいだ。

 こうなると、後は「自分も生かしておけば得だ」と自己アピールをするしか生き残る術はない。

「お、俺も話す! 話すから!」

「お願いだ! 助けてくれぇ!」

 男達の殆どがミリオンに懇願するのに、数十秒も掛からなかった。「さかなちゃんナーイス♪」と褒めるミリオンだったが、何時でも素であるフィアはキョトンとしている。

 かくして襲撃者達は事情を話してくれる事となった。彼等が全てを知っているかは分からないが、概要ぐらいは理解していると期待しても良いだろう。

 そして彼等が話してしまう事で、玲奈の沈黙も価値を失う。

「……分かってる。今更誤魔化さないって、私の部屋でも言ったでしょ? ちゃんと全部話すわ」

 改めて覚悟を決めるように、玲奈は花中に告げる。

 花中は無言で頷くと、自ら玲奈の抱擁を抜け出し、母が立つ和室側へと足を踏み入れるのだった。

 ……………

 ………

 …

 この世界には、人智を超えた生物が無数にひしめいている。

 そうした生物は『怪物』と呼ばれた。現在までに確認されただけで、種数は六百以上。今も毎年一~二種ほど新種が発見されている。個体数は数十~数千前後と少数であるが、いずれも最新鋭の兵器を易々と打ち砕き、社会のみならず文明すらも粉砕する力や生態を有する。彼等が食物としている生物達も、戦車ぐらいならひっくり返したりする驚異的な力を有す存在だ。

 怪物の存在は各国政府や『秘密結社』の力により隠蔽されている。しかしもしも彼等がなんらかの理由で表に出てくれば、人の世は混乱に陥り、自壊する事もあるだろう。戦うにしても相手の方が実力は上。まず勝ち目はない。

 かといって水爆などで生息地を完膚なきまでに破壊し、怪物達を根絶やしにすれば良いかと言えば、それもまた違う。彼等は生態系の一員だ。もしも彼等の存在により()()()()()()()、繁殖が抑えられている恐ろしい怪物がいたなら……それらの大増殖は人類にとって最悪の脅威となる。そもそも水爆の直撃すら一切通用しない可能性がある種も、少数ながら確認されている始末。

 必要なのは理解。

 この星にはどんな怪物達がいるのか、どんな生態を有し、自然界でどのような役割を果たしているのか。どうすれば彼等を封じ込められるのか、何をしなければ彼等に見逃してもらえるのか――――全てを知る事こそが、人類を存続させる鍵となる。研究を行い、相手を理解せねばならない。

 『ミネルヴァのフクロウ』はこのような経緯から発足・運営される、国際連合直属の()()()()だ。

「ママとパパはそこで怪物の研究者をしているんだけど……」

 そうした話をした後に玲奈は少しおどおどした様子を見せながら、結論としてこの一文を添える。

 自宅の和室にて、花中は玲奈と正座をした状態で向き合いながらここまでの話を聞いた。傍にはフィアも居たが、あまり興味がないのだろう。フィアはぼんやりと退屈そうにしているだけ。きっと殆ど話を聞いていない。

 無論花中は玲奈の話をしっかりと聞いていた。これまで様々な『裏の組織』と関わってきたが、まさか身内までその一員とは思いもよらず、強い驚きが胸の中を満たす。

 反面、ショックや嫌悪感は殆ど覚えなかった。

 裏の組織、といっても国連直属だ。一般人に怪物の存在を隠す事の是非は兎も角、胡散臭いものではない。それにやっている事も『野生生物』の生態研究であり、とても大事なお仕事である。きっと母や父の研究結果は、多くの人々の生活を守ってきたに違いない。どうして嫌悪を抱くというのか。むしろ誇らしいぐらいだ。

「そうなんだ……凄いお仕事してたんだね」

「う、うん。ごめんなさい、今まで話せなくて……」

「気にしないで。そういう事なら、話せなくて当然だと思うし……それに、ちょっとカッコいいと思うもん」

 申し訳なさそうにする玲奈に、花中はにっこりと笑みを返す。自分の正直な気持ちに従った、自然な笑み。

 娘の気持ちをしっかりと読み取った母は、強張らせていた表情を安堵したように緩めた。母親の笑顔が見れて、娘である花中も大満足である。

 ――――さて。家庭の問題は解決したが、これで全てが済んだ訳ではない。

 栄に盗まれた標本。あれが一体どんなものであり、何故盗まれたのか、夢路栄とは何者なのか……それを花中は知りたかった。勿論『秘密組織』の一員である玲奈がぺらぺらと喋ってくれるとは考え難いが、訊かなければ何も分からない。それにもしも ― 十中八九そうだと思うが ― あまり触れてほしくない事なら、好奇心から調べ回るのも母に迷惑を掛けてしまうだろう。

「でも、なんで夢路さんは標本を盗んだの? あの標本はなんなの?」

 訊くだけならタダだと、花中は玲奈に率直に尋ねてみた

「アレはとある国で発見された、ある種の『怪物』の天敵よ」

 ところ、玲奈はあまりにもあっさりと教えてくれた。

 知りたかった事を教えてもらえて、花中としては当然嬉しい……が、無理だと思っていた事が覆された驚きの方が大きい。しばしポカンと、口を半開きにした間抜け面を浮かべてしまう。

 そんな顔をしていると、玲奈はぷくっと頬を膨らませた。

「ちょっと花中? そんなに驚かなくても良いじゃない」

「へ? あ、ご、ごめんなさい。本当に教えてくれるとは思わなくて……」

「これでもママですから。一度話すと決めたからには、娘が訊きたい事にはちゃーんと答えます。それに、もしかすると……」

「もしかすると……?」

「……なんでもないわ」

 玲奈はそう言うと、口を閉ざす。まるで、その先は何があっても言うまいと決意するかの如く。

 母が何を考えているかは分からない。しかし言いたくない事なら、無理に訊き出したくもない。大体、何を隠しているのかさっぱり分からない。

 なら、それよりも教えてくれる事を訊いた方が良いだろう。

「分かった。なら、その天敵がどんな生き物か、訊いても良い?」

「ええ、良いわ」

 花中が改めて尋ねると、玲奈は淀みない口振りで話し始めた。

 その昆虫が発見されたのは今から十年前、ユーラシア大陸に存在するとある湿地帯での事。

 その湿地帯には、体高五メートルにもなる鯨偶蹄目(ウシの仲間)の怪物が生息していた。怪物の皮膚は分厚く、戦車砲でも貫けないほど頑強。対して怪物の足は、一撃で戦車を踏み潰すほど強力。核兵器による攻撃も恐らく効果は限定的とされ、十年前はおろか、現代でも手の付けられない生命体である。

 そんな怪物に寄生する、小さなハチがいた。

 彼等は怪物に卵を産み付けて寄生し、その身を自らの支配下に置く。そして少しずつその身を喰らい、中で増殖し……最後は何もかと食い尽くして溢れ出す。典型的な、捕食寄生を行うハチである。

「うちにあったのは、その寄生蜂の標本よ。趣味用のやつね」

「……趣味で標本、確保してて良いの?」

「ええ、大丈夫よ。研究所にパラタイプ標本は置いてあるし、ハチ自体もあの湿地帯ならいくらでも採取出来るぐらい生息数は多かったから……まぁ、踏み入るためには自走する食虫植物とか、自動車ぐらいの大きさがある甲虫とか、金属を好んで食べるアリとかを切り抜けないといけないけど」

「それは簡単な事じゃないと思うんだけど……」

「花中は他の怪物の事を知らないから、そう思うのも無理ないわ。でもこれぐらいはまだ初心者向けよ?」

 初心者ではなく修羅向けでは……とも思わずツッコみたくなる口を、花中はぐっと閉ざす。生物というものが人類の手に負えるものでない事は、これまで散々突き付けられてきた。思い返せば、成程、()()()()なら初心者向けと言えなくもない。『ミネルヴァのフクロウ』がどれほどの実力を有するかは不明だが、花中がこれまで接触した数々の組織なら……この寄生蜂に関して言えば、多少の犠牲さえ覚悟すれば採取可能な種であろう。

 しかし疑問がある。

「えと、貴重なのは分かったけど、じゃあ、なんで夢路さん達はそのハチの標本を欲しがったの?」

 ここまでの話だけでは、ハチの標本に学術的な価値以外見出せなかったからだ。

 勿論栄の身体がどろりと溶けた事は今も忘れていない。もしもあれがハチの仕業だとすれば、何かしらの利用価値があるとは思う……が、断定するのは早計だ。栄が持っていたのは、あくまでハチの標本に過ぎないのだから。もしかするとあの時披露した技は、何か特殊な体質に由来する可能性も否定は出来ない。

 ……花中の勘は、そのハチの仕業だとしきりに訴えていたが。そんな花中の『確信』を肯定するように、玲奈は二本の指を立てた。

「考えられる理由は二つ。一つは、標本の『蘇生』が期待出来るようになったから」

「蘇生……? えっと、復活するって事?」

「そう。花中の町で起きたでしょ、不死身のイノシシ騒動。あのイノシシは実のところ何度も死んでいたけど、その度に蘇生していたの。つまり一度死んだ個体、標本でも生き返る可能性が出てきた訳」

 玲奈の語る説明で、花中の心臓が大きく跳ねる。

 今でも勿論忘れていない。何百もの人々の命を奪い、大切な友人さえも犠牲になるところだった事件。あの事件により、生命の死とは絶対的なものではない事が明らかとなった。

 ならば、確かに標本が蘇生してもおかしくはない。どのような利用価値があるかは分からないが、生物の特性を利用するのなら生きたサンプルは必要不可欠だ。標本に価値がないとは言わないが、生体の方が研究上は遙かに有益だろう。

「で、でも、生きたサンプルが欲しいのなら、生息地に採集に行けば良いんじゃないの?」

「ところがそうもいかないわ。あのハチの生息地は、さっき言った怪物以外にも危険な生物がうじゃうじゃいるの。うちの組織が開拓した独自ルート以外からじゃ、まず侵入出来ない。だから今まで他の組織には生体サンプルが採れなかった。でも……」

「……ただの市街地に、生き返るかも知れないサンプルがある」

「その通り」

 花中の言葉を、玲奈は肯定する。

 標本の価値が大きく上がり、そして『正規の方法』よりも簡単に手に入る……栄達が行動を起こした理由は分かった。

 とはいえそれでも、武装集団を雇って『国連職員』の自宅を襲撃するというのは生半可な行いではない。職員が襲撃されたのなら、組織はキッチリやり返すだろう。やられっぱなしとは『無抵抗』を意味し、次の襲撃を誘発しかねないのだから。そして玲奈が属す組織は国連直属のもの……報復に出てくるとしたら国連軍か。半端な気持ちでケンカを売れる相手じゃない。

 なら、あのハチはその報復さえも些末に思えるメリットがある筈。

 国際連合(多数の国家)を敵に回してでも、例え復活があくまで可能性に過ぎなくても……その巨大なデメリットに勝るメリットとは、なんだというのか。

 疑問が一層深まる花中に、玲奈は一旦止めていた説明を再開した。その疑問の答えだと言わんばかりに。

「そして襲撃を決意させたと思われるもう一つの理由は、あのハチに寄生されると強力な力を得られるから」

「強力な力?」

「実はあのハチが寄生する怪物には、もう一種類天敵が存在するの。体長三メートルにもなる、巨大なオオカミ。戦闘能力に優れ、戦車でも敵わない草食性怪物を一撃で倒すぐらい強い」

「……なんか、怪物というより怪獣みたいな気がするんだけど」

「強さ的にはそっちの方がしっくり来るかも知れないわね。でもまぁ、細菌とか植物とか虫とかもいるから、『獣』だと語弊があるのよ……話が逸れたわね。兎に角草食性怪物にはハチ以外にも天敵がいる訳だけど、これが寄生蜂にとって不都合なのは分かる?」

「うん、それは大丈夫」

 玲奈に確認され、花中は迷いなくそう答える。

 難しい話ではない。要するにそのオオカミと寄生蜂は、獲物を奪い合う関係なのだ。しかも寄生蜂からすれば、オオカミは自分の『住処』すらも破壊する存在。ハチからしてもオオカミは天敵と呼べるだろう。ハチの立場からすれば、さぞや鬱陶しい輩に違いない。

「なら、寄生蜂がオオカミに対しなんらかの対策を編み出す事も、不自然じゃないと思わないかしら?」

 ただしこの問い掛けには、思わず息を飲んでしまったが。

 寄生者が宿主に何かしらの影響を与える事は、自然界において珍しいものではない。例えばカマキリなどに寄生するハリガネムシは、産卵場所である水中へと戻るため、宿主の脳を狂わせて水の中に跳び込ませるという。他にも繁殖にエネルギーを割かれるのを防ぐため去勢してしまう、本来越冬出来ない個体を越冬させるなど……行動を支配するだけでなく、生理的・生態的な変化を与える種も存在する。

 寄生虫とはただ食事と寝床を貪るだけの、だらしない生き物なんかではない。彼等も厳しい自然界を生き抜くために必死なのである。

 宿主の都合などお構いなしに。

「この寄生蜂に寄生された草食性怪物は、極めて高い身体能力を得る。それこそ、天敵であるオオカミを確実に返り討ちにするほどの、ね」

「天敵を返り討ち……もしかして、夢路さん達は……」

「この身体能力増強に目を付けたのかもね。うちの組織でも、それを利用するための研究はあったわ。身体能力が高くなれば、これまで危険過ぎて入り込めなかった場所の調査も進めやすくなるし」

 玲奈の話に、花中は頷きながら納得する。同時に、その試みが失敗したであろう事も察した。何しろ母は「研究は()()()」と過去形で語っているのだ。何かしらの問題が生じたに違いない。

「なら、何が問題だったの?」

 花中は問う。

 玲奈は一瞬だけ口を閉ざし、神妙な面持ちと共に答える。

「……身体機能向上をもたらす成分に、重篤な副作用が存在したのよ」

「副作用?」

「細胞の結合性と、免疫系の自他認識機能を低下させる事」

「……えっと……?」

 母の言い回しがよく分からず、花中はキョトンとしてしまう。細胞の結合が低下するというのは、栄がどろりと溶けてみせた事か? 免疫の自他認識の低下は、抵抗力の低下ぐらいしか連想出来ない。

 確かに重大な副作用である。しかし花中は自分の考えに違和感を抱く。これだけなら、使用者の健康を害するだけでしかない。勿論良いものではないが、『裏切り者』が勝手に使う分にはさして問題ない事の筈だ。

 なのに、どうしてなのだろう。

 母が、まるでその事を恐れているかのように震えているのは。

「……結合が弛んだ細胞は液体のように振る舞い、他生物の細胞へと浸食する。他種なら、生理作用の違いによる拒絶反応で侵食した細胞はやがて自壊するわ。でも同種の場合、生理作用に大きな違いがないから自壊は起こらない。しかも免疫機能が低下しているから、拒絶反応も生じない。そして結合を弛めた成分があるから、取り付いた細胞の結合も弛む。そうなると両者は、なんの問題もなく混ざり合う」

 玲奈は語る。最初は玲奈の言いたい事ががよく分からず、花中は考え込んでしまったが……やがてその真意に気付く。

 故に花中もまた震えた。

 馬鹿な、あり得ない……否定の言葉が脳裏を過ぎるが、言葉として出てこない。自分の母は何時もだらしなくて、適当な嘘を吐いた事もあるし、約束を破った事も一度や二度ではない。けれども本当に大事な事を誤魔化した事は一度もない。だからそう言ったのなら、それは事実に他ならないのだ。

 例えそれがどんなに非常識で、おぞましいものであったとしても。

「簡単に言うと、同種の生物を『吸収』出来るようになるの……成長し、寄生者がたくさん繁殖出来るようにするために」

 玲奈が告げた『恐怖』を、花中は否定する事が出来なかった――――

 

 

 

 午後十時を回った頃、市街地から外れた場所にある雑木林の側に、無数の車が停まった。

 車は白の大きなワゴン車。ドアが開くと、一見して警察の機動隊のような姿をした面子が車の中からぞろぞろと出てくる。数はざっと五十人。ヘルメットからは生身の顔が見え、彼等がロボットではなく人間だと教えてくれた。

 車から出てきた人間達は大きく分けて銃を持つ者とライオットシールドを持つ者の二つであり、銃を持つ者の方がシールド持ちよりも倍近く多い。物々しい武装集団である。彼等は誰の指示もなく自ら隊列を形成し、シールド持ちが前列、銃持ちが後方に位置した。そうして隊列を整えると、彼等はぴたりと動かなくなる。

 ……時間にして約五分。無言のまま隊列を維持していた彼等の中から、後方に佇んでいた一人が前へと歩き出す。

 その一人の視線の先には、市街地から隊列が待つ雑木林の方へとやってくる人影があった。隊列から出てきた者はヘルメットを取り、老いながらも気迫を感じさせる男の顔を外気に晒す。男はその場でしばし立ち、やってくる影を待った。

「夢路、遅かったじゃないか。予定よりも五分ズレている」

 そしてヘルメットを取った男 ― 部隊を率いているように見えるため『部隊長』と呼ぶとしよう ― は、影に呼び掛ける。

 影は、栄だった。彼女は今、女物の服を着ていた。煌びやかで露出が多い、夜をイメージさせるデザイン。眼鏡もしておらず、如何にも『風俗嬢』のようである。純朴な顔立ちの栄には些か似合わない格好に、部隊長は僅かに眉を顰めた。

 尤も、栄は部隊長の態度など目に入っていないかのように平然としていたが。にこにこと、心底嬉しそうに笑うばかり。あまりにも楽しそうな笑みを目の当たりにし、これまで微動だにしなかった隊列が微かに揺らめいた。

「ごめんなさい。ちょっとトラブルがあったのと、仲間を集めていまして」

「仲間……? それについては追々確認しよう。例の物は?」

「手許にはありません」

「……何?」

「端的に言いましょう。作戦は失敗しました、が、目標は作戦行動中に蘇生。私に卵を産み付けてきました」

 栄の説明に、隊列を作る集団に小さなざわめきが起こった。ただしそのざわめきは部隊長が小さな一歩を踏み出しただけで止まる。

 部隊長は栄を睨むような、鋭い眼差しで見つめてきた。されど栄は笑みを崩さず、堂々とその視線を受け止める。

「……卵の回収は出来るか」

「卵や幼虫は無理かも知れません。でも、成分の分離は可能でしょう。身体能力の向上は起きていますから、きっと全身に巡っている筈です」

「分かった。すぐに車に乗り込め。研究所に戻る」

 部隊長は撤収を言葉にし、隊員達もただちに動き出した。ガチャガチャと装備の擦れる音が辺りに鳴り響く。

「ああ、その必要はありません」

 その大きな音を静めたのは、ただ一言。

 栄が零した、ほんの小さな一言だった。

「……どういう事だ?」

「私は、経験しました。特異生命体がどれほど恐ろしいかを。アレは、強化兵士を百人二百人集めたところでどうこうなる相手ではありません。次元が違う」

「なんの話だ? 戦力的な劣勢を覆すのが目的でないのは最初から」

「ですが、私は一つの妙案を閃きました。この身に撃ち込まれた卵によって」

 部隊長の言葉を栄は遮る。案があると言われた部隊長、そして彼が率いる隊員達は栄の方を見た。

 が、隊員達の多くが身を強張らせた。部隊長もまた身動ぎした。

 栄は笑っていた。

 まるで飢えたケダモノが獲物を見付けて歓喜するような笑みを、同種である人間達に向けていたのだ。自然と息を飲むような音が聞こえ、後退りする足音が聞こえてくる。

 それでも誰一人として逃げ出さないあたり、この場にいる者達全員が気高い戦士なのだろう。そして戦士であるが故に察したに違いない。

 今の栄が、自分達の知る栄とは『別物』だと。

「……是非とも聞かせてもらおう。もっと良い手があるならそれに越した事はない」

 部隊長は警戒心を露わにし、栄から三メートルほど離れるように後退りしながら訊き返した。

 栄はにっこりと微笑み、彼の要望に応える。

「簡単な話です。大勢の力を束にしても勝てないなら、一人に纏め上げれば良い」

「……? 意味が分からないが……」

「つまりですね」

 栄は前置きをするや、軽く腕を振るう。

 本当に、ただそれだけの動作だった。

 そもそも彼女は人間である。『仲間』である彼等はそれを知っていた。

 だからこそ想像出来なかったに違いない。

 栄の腕が三メートルもの長さをするすると伸び――――部隊長の頭に触れるや、どろりと解けて癒着するなんて。

「……は……ぇ? な、は、ぐぎぎ……!?」

「た、隊長!?」

 隊員の一人が部隊長を呼ぶが、彼は困惑と苦しみに満ちた声を漏らすばかり。

「あなたと私が一つになる。一個の生命体となる……そうすれば()()は力を完全に合わせられるでしょう? 全ての人間の力を合わせて、最強の人間を作り上げるのですよ」

 その声も栄の濁りきった、喜びに満ちた声が塗り潰す。

 次の瞬間、部隊長の身体が栄の手に吸い込まれた。

 文字通り吸い込まれ、部隊長はその姿を消した。彼の痕跡を示すのは、彼が立っていた場所に残された装備だけ。

 唖然としたように立ち尽くす隊員達。栄は彼等の方へと振り返ると、粘ついた笑みを浮かべる。

「あなた達も、私と共に生きましょう?」

 そして語る言葉が、彼女の狙いをハッキリと明かした。

「う、撃て! 隊長の仇討ちだ!」

 部隊の中の誰か ― 恐らくは副隊長 ― が指示を出すや、隊員達は素早く陣形を立て直す。シールドを持った者が前へと出て壁となり、彼等の影に隠れるようにして銃を持った者が位置取りする。

 準備を終えるや、彼等は栄目掛けて銃撃を始めた。

 栄の背後には市街地があったが、しかし彼等の技術は的確で、撃ち込んだ弾丸のほぼ全てが栄に集中していた。栄も殆ど動かなかったため、弾丸は見事栄に命中する。

 銃口から放たれたのは、長さ五センチ近い弾丸。一発で人を撃ち殺せるそれは栄の肉に食い込み、抉り飛ばそうとする。しかし栄の肉体は微動だにしない。血肉が飛び散るどころか、むしろ弾丸の方が凹んで落ちる始末。

「怖がる必要はありません。これは偉大な行い、種の存続のための『結託』なのですから」

 栄はゆっくと手を伸ばし、隊員達へと伸ばした。

 繰り広げられる暴虐。

 シールドは正面から叩き潰し、構えていた人間を取り込む。腕は何十発もの銃弾を撃ち込まれても怯みもせず、のたうち、纏めて隊員達を蹴散らした。無論、倒した隊員は一人残らず取り込む。逃げようとする隊員も、命乞いする隊員も、跳弾が当たって瀕死の隊員も……誰一人として逃がさない。

「ひいいいいいいっ!? 嫌だ、嫌だ嫌だ、あ、あがががごぼぼぼぼ」

 最後の一人も取り込み、栄は満足げなげっぷを一つ。ぺろりと舌舐めずりをして、愉悦に染まった笑みを浮かべた。

 だが、すぐにその顔は暗く、憂いに満ちたものへと変わる。

「まだ、足りない。こんなものでは、奴等には敵わない。もっと、もっとたくさんの人と『協力』しないと……もっと、もっともっともっと」

 ぶつぶつと栄は呟く。声を濁らせ、感情を撒き散らす。背中が蠢き、何かの『顔』のようなものが浮かび上がり、再び身体の中へと染み込むように戻る。

 それからゆっくりと、歩き出す。

 夜の闇が満たす中、煌々と光り輝く歓楽街。

 夜が更けようと、大勢の人々が行き交う街並みを目指して……




標本が生き返る……絶滅危惧種の復活が期待出来ますね。
なお、復活した生物は危険極まりない模様。

次回は7/20(土)投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来7

 唐突に、部屋の中に甲高い音が鳴り響いた。

 その音の雰囲気と近しいものを挙げるとすれば、緊急地震速報のアラームだろうか。本能的な危機感を煽る音色だ。

 小心者な花中は一気に縮み上がり、畳の上で正座した体勢のままぴょんっと飛び跳ねてしまう。フィアも不快そうに眉間に皺を寄せ、音の正体を探ろうとしている様子。

 玲奈だけが、音に対して行動を起こした。彼女は音が聞こえるや自らのズボンに手を入れ、片手で収まるぐらい小さな通信端末を取り出す。端末のボタンを押し、玲奈はそれを自らの耳に当てた。

「はい、こちら大桐玲奈……………うん、うん……そう、分かったわ。準備は大丈夫。迎えだけ用意してくれれば……分かった。ありがとう」

 玲奈は通信端末に向け淡々と言葉を交わし、特段揉める事もなく話が進む。しばらくして耳から離した端末のボタンを押し、玲奈は大きなため息を吐く。

 それから真剣な顔を、花中に見せた。

「花中。ママはちょっと急なお仕事が入ったから、出掛けないといけなくなっちゃった」

「……夢路さんを、追うの?」

「ええ、そうよ」

 花中が問えば、玲奈は隠しもせずに答えてくれた。そして花中のすぐ傍まで顔を近付けてくる。

「大丈夫。あとはママ達に任せて。ママが帰ってくるまで家で留守番しててちょうだい」

「……うん」

「もしかしたら帰ってくるのは何日も後になるかも知れないけど、学校にも行っちゃ駄目。お休みするって伝えるのよ……多分、休校になると思うけど」

「……うん」

 母からの言いつけに、花中はただただ頷く。反論や疑問は言葉にしない。したい言葉は、たくさんあったのに。

 話を終えると玲奈は花中の頭を優しく撫で、それからぎゅっと花中を抱き締めてきた。

 玲奈は何も言わず、花中の身体を強く抱き続ける。少し苦しい。けれども花中は母からの抱擁を押し退ける事はせず、自分からも抱き締めた。しばしじっと、家族の温もりを自分の身に刻み込む。

 やがて、玲奈の方から抱擁を止める。花中と向き合った顔には、満面の笑みが浮かんでいた。

「うしっ! 花中成分も十分補給出来た! これならちゃんとお仕事出来る!」

「……うん。ママ、頑張って」

「ええっ! おっと、そうそう忘れる前に……フィアちゃん、ちょっと良い?」

「はい?」

 花中との話を終えた玲奈は、今度はフィアに声を掛ける。

 よもや話し掛けてくるとは思わなかったのか、フィアはキョトンとした様子。対する玲奈は、少しだけその顔を真摯なものに変えていた。

「もしも危険な事があったら、あなたの力で花中を守ってくれないかしら」

「あん? そんな事あなたに言われなくてもやりますけど。花中さんは私の一番の友達なのですから」

「そう言ってくれて嬉しいわ。ありがとう」

「……んー?」

 玲奈からお礼を言われ、フィアは首を傾げる。フィアからすれば、花中を守るのは『()()()()()()()事』である。何故感謝されたのか、理解出来ないに違いない。子育てなどした事もされた事もない彼女には、母親の気持ちなどさっぱり分からないのだから。

 だけど人間である花中には、想像するぐらいは出来る。

「あの、ママ――――」

 母を呼ぼうとした花中だが、しかしその声は不意に外から聞こえてきた音に妨げられる。

 バラバラという独特な音色。ヘリコプターのプロペラ音だ。されどやたらと大きい。まるで、すぐ近くを飛んでいるかのよう。

 否、実際近くまで来ているのだ。

 何しろ家が、微かではあるが軋み始めたのだから。

「やれやれ、仕事が早いのも考え物ね。花中、迎えが来たからもう行くわね」

「……うん」

 言いかけた言葉を飲み込み、こくりと頷いた。玲奈は和室を出て玄関へと向かう。花中も玄関まで向かい、母を見送ろうとする。フィアは花中の隣にぴったりと寄り添いながら付いてきた。

 靴を掃き終えた玲奈は玄関のドアを開ける。予想通り外にはヘリコプターが待機していて、すぐ飛び立てるようにするためかプロペラを回転させたままにしていた。開けた扉からローターが奏でる騒音と、金属の塊を浮かび上がらせるほどの風が入り込み、落ち葉などのゴミと共に花中の身体を叩く。

 同じく風と音を受ける玲奈は、ぐっと身体に力を込めた後ヘリコプター目指して走り出そうとし、

「ママ! 最後に一つだけ!」

 その背中に花中が大声で呼び掛けると、玲奈はつんのめりながらも立ち止まった。くるりと振り返り、時間がない中でも崩していない笑顔を振り向かせる。それからヘリコプターのローター音に負けない、大きな声で返事をした。

「なぁに!」

「あの! 夢路さんを捕まえて……どうするの!?」

「……………」

 花中が尋ねると、玲奈は一瞬口許を強張らせる――――が、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

「勿論治療するわ! 私の大事な部下なんだから!」

 それから堂々と、大きな声で答える。

 玲奈は花中の反応を待たず、ヘリコプターへと再び走り出す。花中はもう、玲奈を呼び止めない。玲奈が素早く乗り込むと、ヘリコプターのドアが閉まる。

 やがてヘリコプターは飛び上がり、どんどん空高く昇っていく。プロペラ音も遠くなり、数十秒もすれば、完全な静寂が周囲に戻ってきた。

 開けっ放しのドアの向こうには、もう何もない。

 けれども花中はそこから動かず、じっと外を見続けた。フィアも花中から離れず、やれやれとばかりに肩を竦める。

「いやはや随分と忙しい人でしたねぇ」

「……うん」

「ああいうのを仕事人間と言うんですよね? テレビで見ました」

「……うん」

「ところで花中さん一つ質問なのですが」

「……うん」

 花中はフィアの言葉に上の空な返事をする。フィアは花中の返事に気持ちが入っていない事に気付いていないのか、特段口調を変えたり、花中の顔を覗き込んだりはしない。

「何故逃げた人間を捕まえてほしいと私に頼まないのです?」

 それはこの質問をぶつけてきた時も変わらない。

 けれども花中は、その問いにはすぐに答えられなかった。

「……なんで、そう思ったの」

「いやー何時もならすぐ頼ってくるじゃないですか。花中さんと花中さんの親の話は難しくてよく分からなかったですけど多分逃げた人間が他の人間を襲うって事ですよね? 花中さんはそういうの嫌いだったと思うのですが」

 無意識に訊き返せば、フィアはつらつらと理由を答える。

 実にフィアらしい、率直な疑問。

 その疑問は全て図星だった。フィアの言う通り、普段なら間違いなくフィアを頼っている。人間に犠牲が出るなんて、誰かの幸せな生活が壊されるなんて、そんなのは我慢ならないのだから。

「……もしも、頼んだら……止めて、くれる……?」

「んーあんまり気は乗りませんけど人間一人捕まえるぐらい簡単ですしやっても構いませんよ。ああそれとも殺しておきますか?」

 花中が試しに尋ねれば、フィアは渋々ではあったが肯定してくれる。それぐらいの予想はしていた。フィアは極めて物臭だが、『虫けら』を捕まえたり潰したりする事が出来ない弱者ではない。ミュータントのような『強敵』ならば兎も角、片手間で出来る事なら頼めば存外やってくれる。

 フィアの力ならば、栄を捕まえる事など造作もあるまい。寄生蜂の力で身体能力が向上していたとしても、フィア達はそれこそ怪物を屠るほどの力があるのだ。元を辿ればただの人間である栄に敵う筈がない。

 そう、元を辿ればただの人間。

 夢路栄は、人間だ。

「……わたし、は……どうしたら、良いのかな……」

「? どうとは?」

「だって、夢路さんは人間で……でも、人を襲うって……」

「みたいですねー」

 フィアは淡々と同意し、それの何が問題なのかと訊きたげに眉を顰める。フィアの気持ちを察しながら、花中は口を閉ざした。

 今までも、様々な脅威と花中は対峙してきた。

 人を好んで食べるミュータント、人を餌にして増える怪物、人の世を破壊する異星生命体……どれも人外だ。人間と他の命に『価値』の差があるとは思わないが、花中は人間である。だから人間と『人間以外』の命なら、人間の方を()()()()

 夢路栄は人間だ。例えその身が今、どんな状態であったとしても。その栄を殺すという事は、人間を殺すという事に他ならない。

 勿論人喰いと化した栄を野放しに出来ない事は分かっている。それに恐らく栄はもう()()()なのだろう……母に最後に投げ付けた疑問への答えを、花中は忘れていない。治療すると言っていたが、自分の母は素直な人間だ。だから最初から決めていた答えなら、一瞬でも言い淀んだりはしない。きっともう治らなくて、栄が大人しく従わないのなら殺すしかないのだ。

 母の組織も、同じ事を考えている筈。ならばフィアがやってくれるなら、その方が安全だとも思う。

 だけど、それでも花中は思う。

 人間が自分の手で起こした不始末から、人間の世界を守るために、人間を殺してくれと、人間以外の生き物に頼む。

 もしもそれをしてしまったら、まるで神様に縋るような、自分の力で立つのも諦めたような気がして……次の困難が来た時に、人間はもう立ち向かえなくなると思ってしまった。

 だから花中は、『神様』に頼むのを躊躇してしまう。

「まぁ花中さんが良いのなら私は何もしませんけどね。面倒臭いですし花中さんの傍から離れたくないですし」

「……うん。ごめんね、なんか、気を遣わせちゃって」

「気を遣ったつもりなんてありませんが」

 花中の『気遣い』にフィアは首を傾げる。思った事を、思ったまま話す。実にフィアらしい在り方に、花中はくすりと笑みが零れた。

 フィアの能天気さに当てられ、花中の気持ちもほんの少し前向きになる。よくよく考えれば、栄が具体的にどれほど強くなったのかは分からない。ミリオンの手から抜け出したのも身体の軟体ぶりを活用しただけで、強引な力押しは一切していないのだ。

 もしかするとちゃんと武装した人間が複数人で挑めば簡単に捕まえられる程度かも知れないし、寄生された事でなんらかの弱点が生じるのかも知れない。手遅れだというのも、自分の思い違いという可能性だってある。或いはフィアという圧倒的な敵が現れたら、寄生蜂の生存本能が刺激されて、もっと恐ろしい怪物になってしまうかも知れない。

 人を襲うというフレーズで考え方が凝り固まっていた。気持ちを解して多面的に考えれば、「フィアに助けてもらう」のが最善ではないかも知れないと思える。

 専門家である母に全て任せるのが、きっと一番良いのだろう。

「……フィアちゃん、ありがとうっ」

「んぁ? んー……そうですか」

 思うがまま花中は感謝の言葉と共にフィアに抱き付き、抱き付かれたフィアは一瞬怪訝そうに眉を顰めるもすぐに笑顔を浮かべる。大好きな花中に抱き付かれて、考えるのを止めたようだった。

 べたべたと友達に甘え、花中はフィアの身体に顔を埋める。

 きっと大丈夫。

 頭の中で何度も唱える言葉以外、聞きたくなかったから――――

 

 

 

 眼下に広がる都市。

 東京などと比べれば些か見劣りするが、高層ビルが建ち並んでいる姿は正に大都市と呼べよう。ヘリコプターに乗っている玲奈は、『自宅』から十数キロほど離れた位置に存在するこの都市を眺めていた。

 夜の十一時を過ぎても建物の明かりは未だ煌々と輝いていて、道路にはたくさんの人や車の姿が見られる。それは普段通りの光景であり、大きな喧噪は起きていないようだと窺い知れた。行き交う人々の小さなシルエットにも、慌ただしさはない。都市は今も日常を保っていると思われる。

 しかし玲奈は知っている。その平穏は、仮初めに過ぎないと。

 この都市部の何処かに、夢路栄が潜んでいるのだから。

 『ミネルヴァのフクロウ』の優秀なメンバーが彼女の居場所を突き止めてくれた。栄がやったと思われる、『人喰い』の痕跡も見付けている。一般人と思われるものだけでなく、栄の仲間と覚しき痕跡も、だ。残念ながら栄の仲間達はとても優秀で、自分達が何処の組織に属しているかの証拠は残さなかったが……少なくとも数十人はいたと思われる。

 このまま活動を続けたら栄がどうなるか、玲奈は知っていた。急がなければならない。

 ちらりと、玲奈はヘリコプター内を一瞥する。同乗しているのはパイロットである初老の男性と、ノートパソコンを真剣な眼差しで睨みながら操作している若い男性の二人。そして若い男性の方は、臨時で玲奈の下に付いた部下と説明を受けている。まだ自己紹介ぐらいしか交わしていないが、真面目な人だという印象を玲奈は持っていた。

 玲奈は部下となった若い男に尋ねる。

「……戦闘員はどれだけ揃ったの?」

「大桐博士が要請した数の四割ほどと聞いています。ですがこれ以上は難しいです。現在人員の多くがシベリアにて生じた緊急の封じ込めに動員されていて、こちらに回せるメンバーがもういないと上層部より通達されています」

「シベリア……ああ、あのトンデモ生物か。アレの封じ込めは、まぁ、栄の百倍ぐらい優先度は高いわね。仕方ない。じゃあ外部協力者は?」

「来ません」

 若い男性からの報告に、玲奈は片手で隠した口許を忌々しげに歪める。

 『ミネルヴァのフクロウ』以外にも、この世界には怪物と関わりを持つ組織が幾つか存在する。理念の違いから共同研究や活動は殆ど行われていないが……例えば今回のように緊急を要する事例が発生した際は、協力する事も珍しくない。立場や考え方は違えど、皆人類のために戦っているからこそ可能なのだ。

 しかしながら此度は、その協力がないとの事。つまり要求した分の半分未満の戦力でどうにかしろというのが、上の総意という訳である。正直上司の顔面を一発ぶん殴りたいと玲奈は思った。

 とはいえ上層部の判断は極めて妥当である。少なくとも玲奈が彼等の立場なら、同じ命令を出す。

「……タイミングが悪い、と考えるより、狙われたと思うべきかしら」

 本部の人員を持っていったという『緊急の封じ込め』……これは、栄を送り込んできた組織が画策した工作である可能性が高い。目的は勿論、栄が強奪した寄生蜂を無事確保するためだ。

 ここで下手に外部から人員を招いたらどうなる? 勿論彼等はこちらの邪魔を徹底的にしてくるだろう。誰が敵かも分からぬ疑心暗鬼状態では、作戦遂行にも支障がある。下手をすれば同士討ちを始めかねない。

 身内で用意出来た、要求の四割の戦力でなんとかする。忌々しい事にこれがベストな作戦だった。

「ま、肝心な時に人手が足りないのは何時もの事ね。昔、夫と二人きりでやった大怪獣誘導作戦に比べれば百倍マシ」

「どんな修羅場を経験してるんですか、大桐博士……」

「そうねぇ、ひー、ふー、みー……五回は人類文明を救ってきたわね。なら、六回目もなんとかなるっしょ」

 何処までも前向きな言葉を口にして、玲奈は部下と己を鼓舞する。パンッ! と力強く自らの頬を叩き、ほんのり頬を赤らめた顔に笑みを浮かべさせた。

「良し! 戦術班に通信繋いで! これ以上の戦力補充はなく、我々研究班による判断を中継する必要性なし! よってこれ以降の部隊指揮権を戦術班へ移行する! 今後我々研究班は戦術班の指揮に従う!」

「了解……通達しました。返信は、了解、との事。我々は上空から異常がないか監視せよと指示もされています」

「OK。パイロットさん、それじゃよろしくー」

「了解」

 助手越しに伝えられた『上』からの指示を受け入れ、玲奈達は空からの探索を始めた。

 とはいえ見付け出すのは至難の業だ。何しろ栄の大きさは、それこそ人間大でしかない。高度を下げようにもビルが邪魔をして、顔を識別するのに双眼鏡が必要な高さからの捜索を余儀なくされている。一応組織の人工衛星を回してもらっているが、自転軸との兼ね合いからこの都市の上空に来るまであと二時間は掛かるらしい。何もしないよりはマシと信じて、目視で探すしかない。

 せめて一般人を避難させる事が出来れば、もう少し探索もやりやすくなるのだが……栄はケダモノではなく人間だ。広域放送などで避難指示を出せば、当然栄も聞き付けてしまう。避難する人々の行列に紛れ込もうものなら、捜索は一層困難になるに違いない。

 加えて夜遅くという時間帯を考慮すれば、大きな混乱が生じる事もあり得る。パニックに陥った人々の中に栄が入り込めば、恐らく見付けるのは不可能。行方知れずとなった栄が、何処かの国や地域で人を喰らい続ける……これが最悪のパターンだ。この最悪を引き起こすぐらいなら、例え一般人が犠牲になろうとも避難指示を出さない方がまだマシである。

 無論玲奈はこれ以上の犠牲を出すつもりなんてない。一秒でも早く栄を見付け、とっ捕まえてやるつもりだ。

「何処に隠れてる……栄……!」

 かつての助手の名を呟きながら、玲奈は双眼鏡越しに地上を凝視し――――

「う、うわぁっ!?」

 パイロットの叫びが、玲奈の集中を妨げる。

 されど玲奈に悪態を吐く暇もない。

 パイロットが悲鳴を上げた直後、金属が拉げ、ガラスの砕ける音が鳴り、ヘリコプターが大きく傾いたのだから。

「きゃあっ!?」

「ひぃっ!?」

 玲奈は悲鳴を上げつつも顔を上げ、反射的に身を丸めた部下の背中に手を付けて自らの体勢を保つ。見据えるのは、ヘリコプター前方を覆うフロントガラス。

 故に玲奈は目を見開き、その身を強張らせる。

 そこに居たのは――――栄だったから。

「はぁい、玲奈さん。三時間ぶりでしたか?」

「ぅ、が、か、か」

「あ、『新入り』いただいてまーす」

 フロントガラスに張り付いていた栄は暢気な声を発しながら、フロントガラスをぶち破っている右手で触れていたパイロットをちゅるんと吸い取る。操縦席に、もう人の姿はない。

 何故、栄がこのヘリコプターのガラスに張り付いている?

 常人ならば思考の停止する光景。しかし数多の怪物を研究し、覚えているだけで五度人類を救ってきた玲奈の頭脳は即座に状況を理解した。

 既に何十人かの人間を取り込んだ栄は、そのエネルギーを元にして驚異的な身体機能を獲得したのだろう。視力も格段に向上し、ヘリコプターに乗る自分達を視認。数百メートルもの高さを跳躍し、跳び乗ってきたのだ。

 恐るべき身体能力。自宅では組織に二十四時間(丸一日)以内の部隊展開を求めたが……僅か数時間で栄は、玲奈の想像を絶するほどの身体能力を手にしていた。二十四時間後にはどんな化け物になっているか、予測も付かない。

 しかし玲奈にとって、何よりも恐ろしいのは。

「さぁ、玲奈さん。私と一つになりましょう?」

 栄の言葉に、()()()()()()()()()()事だった。

「っ!」

 身の危険を覚えた玲奈の行動は速かった。ヘリコプターのドアを蹴破るように空けるや隣に居た部下の服を掴み、

 なんの躊躇もなく、ヘリコプターから跳び降りた。

「えっ……えひぃいいいいっ!?」

「黙ってて! 舌噛むわよ!」

 身体が自由落下を始めてから叫ぶ部下を、玲奈は強い言葉で黙らせる。

 空中で身を翻した玲奈は、自分達がつい先程まで乗っていたヘリコプターを確認。パイロットを失ったヘリはふらふらと揺れ、やがて地上目掛けて落ち始める。栄にヘリコプターの操縦技術があるかは知らないが、栄が跳び付いた拍子に色々壊れるような音がしていた。恐らく操縦不能だろう。このまま墜落する筈だ。

 その際に生じる地上への被害は気になるが、まずは自分の身の心配だと玲奈は思考を切り替える。このままでは地面に激突して、自分も部下もお陀仏なのだから。

 玲奈は再び身を翻し、部下を抱きかかえた体勢で自分の身体を弄る。するとカチリと音が鳴り、刹那、玲奈の着ている白衣を裂くように、何かが飛び出した!

 パラシュートである。

 小型軽量化を重ねた一品。基本的に二人分の重量を想定したものではないそれは、だが着実に地表目掛け突き進む玲奈達の身体を減速させる。

 十分、とは言えないまでも、命が助かるという意味では『安全』な水準まで減速した玲奈は、着地の瞬間に受け身を取って衝撃をいなす。玲奈はどうにか着地し、部下の男は小さな呻き声を漏らしつつ怪我なく大地に戻れた。

 玲奈達が降り立ったのは、都市の中にある公園だった。決して小さなところではなく、植えられた木々が全方位をぐるりと囲っている。敷地内が明るいのは、公園内にある街灯が煌々と辺りを照らしているからだ。でなければ都市の明かりは木々に阻まれ、この場を満たすのは明かりではなく暗闇だったに違いない。

 幸いにして周りに人の姿はなく、着地した自分達を撮影しようとする野次馬は一人としていない。誤魔化す手段など幾らでもあるが、新たな始末書は避けられそうだと玲奈は安堵の息を吐く。

 されど吐き出した分だけ吸い込もうとする当然の仕草は、ズドンッ! と鳴り響いた轟音によって妨げられた。

「……高度三百メートルからパラシュートなしで着地って、今時ゲームキャラでも死ぬと思うんだけど」

 呆れたように玲奈はぼやき、生きていた部下の男は唖然とした顔を見せる。

 音がした方を見れば、舞い上がった粉塵や石が煙幕のように広がっていた。それらは数秒で重力に引かれて落ち、中心に立つ者……栄の姿を露わにする。

 栄はしゃがんだような体勢で、玲奈達を見ていた。ゆっくりと立ち上がる動きに、ダメージを負ったような気配はない。ニタニタと笑みを浮かべ、何事もないかのように佇んでいる。

「もぉー、玲奈さんったら本当にアクティブなんですからー。何もヘリコプターから跳び降りなくても良いじゃないですかぁ。パラシュートがあっても、二人分の重さじゃ減速しきれなくて死んじゃうかもですよ?」

「生憎、孫の顔を見るまで死ぬつもりはないの。ま、アンタに喰われるぐらいなら、落下死の方が万倍マシだと思うけどね」

「喰われる?」

 玲奈の皮肉混じりの言葉に、栄はキョトンとした様子で首を傾げる。それからポンッと手を叩き、楽しげに笑った。あたかも、()()()勘違いに気付いたかのように。

「ああ、成程。玲奈さんは勘違いしてますよ。私は、何も人間を食べてる訳じゃありません」

「食べてない? なら、アンタがヘリのパイロットにしたのは何? 吸収なんて、頓知利かせたら鈍器でぶん殴るわよ」

「おお、怖い。勿論そんな事は言いません……ちょっと、協力してもらってるだけです」

「協力?」

 栄の物言いに、今度は玲奈が首を傾げる。

 栄は目を爛々と輝かせ、如何にも素晴らしい事であるかのように語り始めた。

「この世界には、恐ろしい怪物が山ほど棲み着いています。中には人間が持つ全ての軍隊を、纏めて蹂躙出来るような種もいました」

「ええ、そうね。あなたにはたっぷり教えたわ……大切な助手だって思ったから」

「人間は、何時滅ぼされてもおかしくない。これは由々しき事態です。ましてや今の人類には、纏まりがあるとは到底思えません」

「……そうかしら。昔は酷いものだったけど、最近は割と一致団結してない?」

 栄の意見に、玲奈は反論をぶつける。今の栄が気に入らないから、なんて稚拙な理由からではない。

 去年までなら、栄の言い分に幾らか賛同しただろう。しかし『異星生命体』の存在を知り、数多の怪物に都市を滅ぼされた事で、人類同士は確実に歩み寄っている。無論そこに裏がないとは言わないし、生態系の観点から見て最善とは言い難い対応も多いが……玲奈としては、今の人類がそこまで悪いものとは思わなかった。

 だが、栄は首を横に振る。

「確かに、今までよりはマシだと思います。ですがマシなだけです。こんな程度では、本当に恐ろしい怪物が現れたなら、あっという間に滅ぼされてしまう」

「それは、否定出来ないけどね。だからそうならないよう、私達は怪物の研究をしているんだけど」

「いいえ、それでは手緩い。私達は、確実に滅ぼされない力を手にしなければなりません。だからこそ、人類は『一つ』にならねばならない」

「……あなた、まさか」

 ハッとする玲奈。

 栄は心底嬉しそうに、獰猛に、微笑む。

 そして栄は何一つ罪悪感なしに、それどころか誇るように語るのだ。

「全ての人類を、一つに纏め上げます。七十億を超える人類が一つの生命となれば、どんな敵にも立ち向かえる……そうは思いませんか?」

 ()()()()()()()()()()()、と。

「……それは、あなたの目的? それとも組織としての狙い?」

「私の意思です。組織としての目的は標本から得られた成分を研究し、怪物の闊歩する環境に適応した兵士を作るためでしたが、自分が寄生されてよく分かりました……そんなつまらない使い方じゃない、もっと素晴らしい使い方があると」

「へぇ、それは良かったわね。ところでその考えは、お仲間には受け入れてもらえたのかしら? あなたが仲間を喰ったのは、分かってるんだけど」

「流石『ミネルヴァのフクロウ』。仕事が早い……残念ながら、中々分かってもらえませんでした。なので体験する方が早いかなーと思いまして無理矢理取り込みました」

「かつての仲間まで喰うとは、完全に畜生ね」

「だから協力ですって。細胞単位で混ざっているからか、ちょっと混濁気味ですけど記憶も引き継いでますよ。後で娘さんも取り込まないと、お父さん寂しがっちゃうなーとか思ったり」

 玲奈がどれだけ嫌悪を示そうと、栄はけらけらと笑うばかり。眉一つ動かさない。

 こんな反応を取る人間は二通りだけ。ろくに話を聞いていないか、確固たる信念があるか。

 玲奈の印象では、栄は明らかに後者だ。例えその信念を支えるものが、ホルモンバランスが崩れた事で生じた狂気だとしても。

「娘さんも可哀想ね。大事なお父さんの最期が、ハチの苗床なんて」

 玲奈に出来るのは、精々嫌味をぶつける事だけ。

 それさえも、相手が理解しなければ意味がないのだが。

「苗床? なんの話ですか?」

「……そうよね、知らないわよね。なら教えてあげるけど、その衝動は寄生蜂があなたに命じているものよ。自分の繁殖をより有利にするための――――」

「ああ、その事ですか。分かっていないのは玲奈さんの方ですよ? 寄生蜂は今、私の体内で()()()()()()()のですから。何しろちょっと前に、死骸をぺっと出しちゃいましたからね」

「……え……?」

 栄の言葉に、玲奈は一瞬呆けた。されど玲奈の聡明な頭脳は即座に論理的に働き、栄の言葉を分析する。

 だからこそ、玲奈は瞬きをした頃には顔を真っ青にしたのだが。

 考えられない話ではない。

 大抵の多細胞生物には免疫が備わっている。この免疫は病原菌やウイルスだけでなく、寄生虫にも反応して攻撃を行う。例えば昆虫類では、異物をタンパク質で取り囲み、体外へと排出する仕組みがある。

 この攻撃は非常に強力なものであり、なんの手立てなしに切り抜けられるものではない。そのため寄生虫は宿主の免疫システムを攻略するような、独特の進化を遂げているものだ。

 ところがこの免疫機能には、種によってかなり差異がある。そのためある種の攻略方法が他種に使えるとは限らない……というより、まず役に立たない。そのため宿主毎に独自の対策が必要になり、これが寄生虫の多様性を作り出す一因となっている。

 つまり間違った宿主に入った寄生虫は、大抵殺されてしまうのだ。栄の体内に産み付けられた卵も、人間の免疫によって駆逐されたとしてもおかしくはない。

 問題は、もう寄生蜂が体内にいないのに栄の『能力』が失われていない事。

 もしも寄生蜂が生きていれば、十分に育った栄の体内で繁殖し、やがて外界へと飛び出しただろう。人間に寄生する恐ろしい怪物の飛散だが、同時に超人的身体能力を持たない羽虫でもある。人の手が入っていない環境に暮らしていた種なので、殺虫剤への耐性は皆無な筈。

 そのためどんな最悪の結果になろうとも、最後は殺虫剤の力でどうにかなると考えていた。一般人の犠牲を強いてでも栄を見失いたくなかったのも、羽化した成虫を一網打尽にするためには栄の居場所の特定が必要だったから。玲奈が考える最悪とは、どうにもならないほど寄生蜂が人間社会に拡散している状態だった。

 だが、栄の体内に寄生蜂がいなければ、彼女の『成長』は止まらない。際限なく他者を吸収し、肥大化し、パワーを増大させていく。

 そうして強くなった栄を、人類は止められるのか? 恐らく殺虫剤なんて効かないのに。

「玲奈さん、分かってくれましたか? 私はあのハチには殺されません。私なら人類の未来を切り開ける。さぁ、共に生きましょう」

 動揺する玲奈に、栄はゆっくりと手を伸ばす。部下の男は「ひっ!」と小さな悲鳴を上げたが、腰が抜けているのか動けないでいる。

 玲奈は男の前に立ち、自らを盾にするようにして栄の前に立つ。

「ああ、その勇ましい姿……私、玲奈さんの自然主義的な考え方に共感はしていませんけど、その勇敢さは好きでした。あなたと一つになったら、きっと私はもっと素晴らしい高みへと至れます」

 光悦としながら、栄はどんどん迫ってくる。玲奈は身体をじりじりと仰け反らせ、それでも栄の前からは退かず――――

「そうね、あなたは理解出来ないわよね。独りぼっちが一番強いなんて考える捻くれ者には」

 ぽつりと、自信に満ちた言葉を呟いた。

 瞬間、栄の頭部で爆発が起きた!

「ぐ、あぅっ……!? 今のは……!」

 大きく身を仰け反らせ、爆風の中から栄は頭を出す。爆発の直撃を受けた頭部は原形を保っていたが、しかし黒焦げたように煤塗れとなっていた。それからすぐに、自分の背後を振り向く。

 栄の背後には、数人の迷彩服姿の男達が居た。

 自衛官のような服装をした彼等は、半数が大きな銃を持っていた。残りの半数が持つのは筒状の武装……ロケットランチャーと呼ばれる類のもの。一本のロケットランチャーから煙が上っており、栄を攻撃したものがこの現代兵器だと語る。

「増援!? このタイミングで……」

「残念。このタイミングだからこそ、よ」

 苛立ちを露わにする栄に、玲奈は少しだけ誇らしげに答えた。

 さながら、その言葉を合図とするかのように。

 公園内に植えられた木々の影から、続々と迷彩服姿の男達が現れる。彼等は一様に ― 日本の住宅地に似付かわしくない、重々しくて殺傷力の高い ― 『兵器』を持っていた。それらの兵器は全て栄へと向けられ、何時でも撃てるよう引き金に指が掛けられている。

 栄も、ここにきてようやく理解しただろう。玲奈がずっと時間稼ぎをしていたのだと。通信端末の電源を入れっぱなしにし、逆探知してきた仲間が自身を包囲するまで待っていたのだ。

「独りぼっちじゃ、こんな事は出来ないわよね? 仲間がいる事の大切さが身に染みて理解出来たかしら?」

 思惑通りに事が運び、今度は玲奈が栄に諦める事を勧める。

 栄は表情を強張らせながら、ぐるりと自身の周りを一望。包囲に隙がない事を、己の目で確かめた。

 すると栄は、にたりと笑みを浮かべる。

「いやぁ、玲奈さん最高ですね。やっぱり、あなたの事は大好きです」

「……どういう意味?」

「どういうも何も、そのままの意味ですよ」

 問い詰める玲奈の前で、栄は両腕を広げた。

 それはさながら歓喜を示すように。

 或いは自らを祝福するかのように。

 歪な感情を露わにする栄に、未だ正面から対峙している玲奈のみならず、包囲する兵士達にも緊張が走る。されど栄は気に留める素振りもない。己に敵意を向ける者全てと顔を合わせるように、くるりと舞う。

 栄の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。全ての人間を慈しむ、母の如く優しい微笑みだった。

 あまりにも純朴で無垢な表情に、誰もが一瞬にして敵意を抜かれてしまう。霧散した緊張感。その中で舞い終えた栄は、玲奈を正面に見据えながら告げる。

「こんなにもたくさんの『協力者』を呼んでくださるなんて。さぁ、みんなで一つになりましょう?」

 狂いきった心から生まれた、善意に満ちた願いを……




反撃開始。
結果は、うん(謎の曖昧さ)

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来8

 おどろおどろしい言葉を発する怪物。

 その正体がかつてはただの人間だったと知れば、大抵の人間は多少なりと動揺を覚えるだろう。だが、その『怪物』を取り囲む彼等は違う。

 彼等は知っている。この世界には、人間が数万年の月日を掛けて築き上げた栄華を、一夜にして瓦礫の山へと変えてしまう怪物がいると。森の奥深くに潜む怪物は見ただけで数多の生物の精神を狂わせ、海を泳ぐ怪物は地震の発生を司り、火山に暮らす怪物は噴火をもコントロールする。そしてそうした怪物が人の世に近付こうとした時、命を賭してでも止めるのが彼等の『役目』。

 人間の形をしているだけの怪物など、心を惑わすには到底足りない。弱々しい女性に暴力を振るうべきではない……そのような生温い心はとうに捨てているのだから。彼等の心を支えるのは、人間社会を、愛しき人々を守るという信念のみ。

 だから彼等は、栄の発した言葉に動揺などしない。

「総員、攻撃開始!」

 命令が発せられた瞬間、なんの躊躇いもなく数十人もの迷彩服姿の男達――――『ミネルヴァのフクロウ』が有する特殊部隊は栄への攻撃を始めた!

 最初に繰り出されたのは、大きな筒から放たれたネット。音速で撃ち出されたそれは栄の傍で開くや、彼女の腕と胴体部分に纏わり付く。

「おっと、まずは身動きを封じるつもりですか。しかし既に多くの『協力者』を得た私に、こんなも、の……?」

 栄はネットが絡まっても慌てる事なく、獲得した身体能力で引き千切ろうとする。が、ネットはビクともしない。段々と栄の顔が強張り、より一層の力を込めるが、やはりネットは破れなかった。

 当然である。そのネットはコスタリカの山岳地帯に生息する、大蜘蛛が生成する糸の構造を参考にして作られた。本物の強度を再現する事は未だ叶っていないが、贋作に過ぎないこのネットでも、現在軌道エレベータを支える素材の最有力候補であるカーボンナノチューブ ― 同じ太さの鋼鉄の二十倍もの強度を有する ― の三倍以上頑丈だ。自分よりも大きな怪物をも捕食するための武器は、栄にも有効だった。

 栄は何度か腕を振り回して脱出を試みたが、ネットはどうやっても千切れない。しかし自身の力ではどうにもならないと悟ったであろう栄は、すぐに笑みを取り戻す。

 無理に拘束を破る必要はない。彼女は己の体細胞の結合を弛め、液体のように振る舞えるのだから。どろりと溶けた身体は平然とネットの隙間を抜け、外側で実体化する。

 そんな栄の身体を、三本の『槍』が貫いた!

「ごぶっ……!? これ、は……がふっ!」

 困惑した栄の身体に、更に三本の槍が貫通。血肉が飛び散った。

 軟体化により身体の強度が足りず、ダメージを受けてしまう。拘束からは抜け出したので、身体の頑強さを戻す栄だったが……今度は頭に槍が突き刺さる。

 これもまた特殊部隊の武装であり、研究してきた怪物から得られたもの。戦車すら貫く針を放つ植物……そこから着想を得て開発されたものだ。銃弾すら弾く栄の肉体であっても、この槍の貫通力には敵わない。細胞間結合が弛んだ副作用により脳への一撃も栄にとっては致命傷にならないが、傷付けば出血と再生を強いられる。それは着実に、栄の体力を奪うものだった。

 『人間』の攻勢はまだ止まらない。続けてお見舞いされるのは、グレネードランチャーと呼ばれる擲弾(てきだん) ― 簡単にいえば銃で撃つ爆弾 ― を飛ばす武器。しかし此度飛ばすものはただの擲弾ではない。

 放たれた擲弾は栄の傍で破裂するや、青白い粉塵を撒き散らす。煙幕のように広がるそれは、着実に栄の身体を蝕む。

 栄の表皮が、凍結を始めたのだ。

「ぅ、ぐ……これ、は……!?」

「知ってる? とある国の砂漠には、冷凍ガスで敵を攻撃する虫がいるの。外敵である怪物の子から逃れるための進化だけど、このガスはその成分を解析し、量産化したものよ。数少ない、完璧な模倣を成し遂げた技術の一つ」

 凍り付く身体に戸惑う栄に、玲奈は距離を取りつつ疑問の答えを教える。細胞結合を弛めて軟体化するのであれば、その結合を無理矢理固めてしまえば良い。極めて強引な思考から今回採用された攻撃は、思惑通りの効果を発揮した。

「こんな、ただの、氷なんか、に……!」

「アンタは、一つになれば人類は怪物の脅威を乗り越えられると思っていたみたいだけど……生憎、その程度じゃ駄目だったみたいね。ガスは兎も角、他は本物の足下にようやく及んだぐらいの性能しかないのに」

「そんな、筈……人間は、この程度じゃ……!」

「ええ、人間はこの程度の事で負けはしない。私もそう信じているわ。でも、その力は協力によって得られるもの。あなたみたいに、エネルギー源にしただけじゃ得られないものよ」

「ぐ、ふぐ、ぅう……!」

 言い返そうとするが、栄の身体はどんどん凍り付き、動きは鈍くなる。眼球も凍結し、恐らくまともに前は見えていない。常人ならば絶望し、諦めて寒さに身を委ねるだろう。

「ま、だ……まだぁ……!」

 しかしこれで動かなくなるほど、栄の諦めは良くないようだ。凍り付く身体をパキパキと鳴らしながら、少しずつ前へと歩く。

 恐るべき執念。

 先程まで話していた玲奈には分かる。栄を突き動かすのは、人類を守るという使命だ。例えそれが狂気によって支えられるものであっても、栄は本気で人間のために行動している。全ての人間を守るために、全ての人間を喰らい尽くすつもりだ。

 だからこそ、止めさせたい。

 それが正気だった頃の栄を知る玲奈の、せめてもの手向けだった。

「……拘束してください」

「はい。そうします」

 玲奈がぽつりと頼めば、近くに居た男の一人が返事をする。特殊部隊のメンバー達は、玲奈から指示を受ける立場ではない。むしろ玲奈の方が彼等からの指示を受ける側である。

 それでも玲奈の言葉に応えるかのように、特殊部隊は栄への攻撃を再開した。

 冷凍ガスが充満し、ろくな身動きが取れない栄に次々と槍が突き刺さる。貫通した槍によって開いた傷口からは血が溢れ、冷凍ガスの影響で即座に凍り付いた。内臓が傷付いた事による出血か、吐き出した血が凍って栄の口を塞ぐ。鼻血さえも凍ってしまい、鼻を詰まらせる。

 人の身なら死に至る傷。されど栄はまだ止まらない。

 ならばと今度はネットが栄の足下へと放たれた。ネットは射出された勢いによりぐるりと絡みつき、まるでロープのように巻き付く。凍り付く身体に意識を全て持っていかれたのか、栄は足が縛られているのに前進しようとした。当然上手く歩けず、それでいてネットを千切るほどのパワーもない。蹴躓き、栄は転んでしまう。

 ついに膝を突いた栄だが、特殊部隊は容赦などしない。すぐさま新たなネットにより身動きを封じ、槍を撃ち込んで手足を地面に固定。更に念入りに冷凍ガスを噴射した。栄の動きは目に見えて衰え、強張っていく。

「ご、の、てぃ……」

 激情を乗せた唸りさえも、最早掠れ声にしか聞こえない。

 数分も経てば、栄の形をしたものは氷付けになっていた。

 今や夜の公園に置かれた奇怪なオブジェ。栄は微動だにせず、呼吸すら止まっているように見える。特殊部隊のメンバーの一部は恐る恐る歩み寄り、槍を数発撃ち込み、念入りに冷凍ガスを噴霧した。ネットを何重にも掛け、栄の姿は殆ど見えなくなる。

 この場に居る者達が安堵の息を吐いたのは、そこまで徹底的に身動きを封じてからだった。特殊部隊のメンバーは栄の監視を行う者と周辺の片付けを始める者に別れ、腰を抜かした男性研究者の救助も行われる。完全に緊張が解けた訳ではないが、幾らかリラックスした雰囲気だ。

「拘束完了。戦闘による被害なし」

 栄とずっと向き合っていた玲奈に特殊部隊の一人が報告してきたのも、このタイミングだ。

 玲奈は大きな息を吐き、ずっと栄に向けていた視線を男 ― この部隊の責任者だ ― へと移す。

「……ありがとうございます。素晴らしい仕事でした」

「博士の時間稼ぎのお陰です。危険を顧みず、アレの意識をご自身に向けさせていたお陰で、我々は十分な準備が出来ました」

「あれぐらいどうという事もありません。百五十秒間、翼長三十五メートルの猛禽類の巣に身を隠している方がヤバかったですよ」

「ははっ。噂通り、とんでもない経験をしていらっしゃるようだ」

 隊員の男は楽しげに笑い、玲奈も笑い返す。

 勿論問題はまだ解決していない。栄の『処理』をどうするか、という問題がある。危険生物を抹消しようした拍子に活性化……なんて事は、『ミネルヴァのフクロウ』やその他組織でも珍しくない事例だ。怪物とはそれほどまでにしぶといのである。下手に刺激するのは危険といえよう。

 いっその事南極の永久凍土にでも埋めてしまう、というのが一番安全だろうか。とはいえ昨今は怪物の活動が活性化している。南極の怪物が活性化した拍子に起きた地殻変動、或いは気候変動などで南極の永久凍土が溶けてしまう可能性もゼロではない。深海も似たようなものだ。ならば月にでも投棄してしまうべきか。しかし月にはあの異星生命体が――――

 そんな風に、玲奈は『片付け方』を考え始めていた。

 まだ、終わっていないのに。

【そっかぁ……こうなれば良いのかぁ】

 くぐもった声が公園内に響いた。

 全員が、反射的に振り返る。何処へ?

 ――――氷付けにされた、栄の方だ。

 ネットで覆われ、氷付けになっていた ― 今でも冷凍ガスを噴霧させ続けられている ― 栄の身体が、もぞもぞと動いている。最初はよく見なければ分からないぐらい微かなものだったのに、ほんの十数秒もすれば誰の目にも明らかなほど激しく動いていた。

 特殊部隊もすぐに動く。冷凍ガスの量を倍に増やし、ネットを更に何重にも掛けた。体力を削るために槍も撃ち込む。

 だが、栄の動きは止まらない。

「くそっ! なんで止まらねぇ! マイナス二百度にはなってる筈だぞ!?」

【私の身には、五十八人の力が宿っている。こんなものじゃあ、まだまだ足りない……まだまだ、まだまだぁ】

 隊員の一人が漏らした悪態に、くぐもった栄の声は律儀に応える。動きは治まるどころか一層激しくなり、ゆっくりと立ち上がってしまう。

 氷付けになったのに、何故動ける?

 栄が動き出した事へのショックを抑え付け、何故動けるのかを玲奈は考える。答えはすぐに分かった。

 栄の方から、パキパキと音がなっている。

 栄は、表皮を砕きながら動いているのだ。内部さえ無事なら構わないというのか。しかし何故今になって動き始めたのか? 最初から動けるのなら、そうすれば良かった筈……

 違和感を覚える玲奈の前で、特殊部隊は槍による攻撃を続ける。理由はどうあれ、ひとまず大人しくさせようという判断だ。これが吉と出るか凶と出るかは分からないが、放置していても復活は確定的。兎にも角にもやるしかない。

 尤も、此度の槍は栄に刺さらず、その場で落ちてしまうのだが。

「しゃ、射撃通じません!」

「馬鹿な!? どういう事だ!? ついさっきまで効いていたのに……!」

 動揺する隊員達。されど玲奈の脳裏に、ふと一つの可能性が過ぎった。

 栄の身の内側には、これまで取り込んできた何十もの人間達の『エネルギー』が渦巻いている。しかし人の身のままでは、そのエネルギーをフル活用するのは難しいだろう。先程までの栄は例えるなら、ロケットエンジンを積んだ軽自動車のようなもの。馬力そのものは上がるので圧倒的な力を発揮出来るが、けれども決して効率的な形態ではないため思ったほど性能は上がらない状態だ。

 なら、その形を変えてしまえば?

 ロケットエンジンに相応しい流線型と翼を持ったらどうなる? 不要なタイヤを捨て、頑強なボディへと作り替えれば? ……もっと速くなる。もっと強くなれる。

 勿論それは所謂肉体改造で、常人ならば相応の努力と時間を強いられ、それでも限度があるもの。されど今の栄は寄生蜂の影響により細胞の結合が緩い。自らの意思で結合を弛め、並べ替え、配列を変換する事など造作もない。

 彼女の身体に制限などない。取り込んだ力の大きさに身を任せ、それを活かすための形に変化させられる。

 もしも今、彼女の身体が作り替えられているとした場合……一体、どれほどのものが生まれ出る?

 五十人以上の人間が()()()()()()()()()()時のパワーとは、どれほどのものなのか。

「ま、不味い! 全員待避して――――」

 過ぎった最悪の事態に、玲奈は反射的に叫んでいた。だが、もう遅い。

 玲奈の警告が隊員達に届く前に、ネットと氷が弾け飛んだのだから。

 砕け散った氷とネットの破片が、紙吹雪のように周囲を舞う。あたかも祝福するかの如く……ほんのついさっきまで膝を折った姿勢で拘束されていたのに、今は舞い散る欠片の中心に立つ栄を。

 いや、あれは本当に栄なのだろうか?

 一瞬玲奈は疑問を抱いてしまう。恐らく特殊部隊の隊員達も同じだ。何しろ栄の見た目は、大きく変貌していたのだから。

 服は氷とネットを砕いた際、一緒に吹き飛ばしたのか。その身は一糸纏わぬものである。肌は青白く、白人のそれをもっと病的にしたような色合い。鱗のような、或いは甲殻にも似た、硬質化した部分が肌表面を覆っていた。

 頭には髪が残っていたが、それも硬質化しているのだろうか。不自然な形で固まり、角のようになっている。顔立ちは栄のままであったが、瞳から白眼部分は消え、他の多くの動物と同じく黒目で埋まっていた。光悦とした笑みは同性である玲奈すら魅了しかねるほど妖艶で、『生物』としての差をありありと感じさせる。

「……成長には試練が必要、と。成程、確かに『これ』と比べれば、日々の努力というのがちっぽけに思えますね」

 栄はぽつりと、独りごちるように語った。

 瞬間、栄の姿が消えた。

「……はっ!?」

 文字通り栄の姿が見えなくなり、玲奈は動揺してしまう。が、栄の存在はすぐに感じられた。

 自らの背後から、であったが。

 玲奈は即座に振り返る。直感通りそこには栄が居て……そして彼女は、その手で一人の隊員の顔面を掴んでいた。

 栄は玲奈の方へと振り返り、心底嬉しそうに微笑む。

 直後、玲奈は特殊部隊の隊員を手から吸収した。刹那の出来事だ。瞬きした時には、もう隊員の痕跡を示すものは服しか残っていない。玲奈はこれ見よがしにげっぷをし、ぽんぽんと自らの腹を叩く。

 ぞわりと、玲奈は震えた。

 何故栄が背後に居るのか? 答えは簡単だ。()()()()()()()()()()()()()()()()、ただそれだけである。栄は変態を行う事で、これまで以上の身体能力を獲得したのだろう。玲奈が予感した通りに。

 しかしいくらなんでも強過ぎる。

 見えないほどの速さで動き回る相手など、どうすれば良いのか。否、それだけではない。拘束中(変態途中)の段階ですら撃ち込もうとした槍を弾き返した事から、肉体の強度も著しく向上している。ネットを粉砕した事からして、パワーも大きく向上した筈だ。怪物由来の技術すら粉砕した栄は、最早怪物という範疇をも超えようとしている。

 怪物を打ち倒すほどの力を持った人間を、人類はなんと呼んできたか。無論玲奈も知っている。知っているからこそ栄をそう呼びたくはなくて、けれども彼女に最も相応しい言葉は他に思い付かない。

 故に、声にする。

英雄(ヒーロー)……どう見ても悪役(ヴィラン)の癖に」

 せめてもの反抗は、悪態混じりの言葉を後ろに付けるぐらい。

 それすらも、栄が気にした素振りすら見せないようでは、ただの強がりでしかなかった。

「なんとでもお呼びください。私は、全ての人間を守るため、全ての人間と一つになります。呼び名など、その時には全て意味をなくします……人間とは、私の事を指すようになるのですから」

 栄は見回す。この場に居る隊員数十人を、集まってきた人間達を、自分が救いたい者達を。

 やる事は、決まっていた。

「――――総員退きゃ」

 部隊長である男が声を上げた、時には何もかもが手遅れだった。

 栄は瞬間移動かと思うような速さで駆け、部隊長の男の顔を手で触れる。生身が露出しているのがそこだけだからだ……故に人体が顔面からずるりと溶け、栄の手に吸い込まれていく絵面が繰り広げられる。

 冒涜的な光景には、部隊長が半ばしか伝えられなかった『指示』を代弁する効果があった。隊員達は即座に背を向け、部隊長が下そうとした退却命令を遂行しようとする。しかし栄はそれを許さない。人類では視認不可能な速さで駆け、隊員達を一人、また一人と吸収していく。

 無論特殊部隊とてやられたままではない。その手にある武器で果敢に挑み、仲間を逃がそうとした者もいた。だが変態直前ですら通じなかった武器。そこから更に数人の人間を吸収した栄に効果がある筈もない。槍は跳ね返され、ネットはそこらの蜘蛛の巣のように千切られ、冷凍ガスによる凍結は歩みを鈍らせる事すら出来ない。

 隊員達は一人として逃げる事も出来ず、次々と栄に取り込まれていく。何十人も居た隊員達は、あっという間に疎らとなり、やがて姿が見えなくなる。

 最後の一人は、武器を構える暇すらなく栄に吸い込まれ――――栄は満足げに自らの唇を指でなぞった。

「さてと。残りは玲奈さんだけですね」

 そしてただ一人残された玲奈の方へと振り返る。

 玲奈は唇を噛み締め、栄を睨み付けた。そのぐらいしか、今の自分に出来る抵抗はないと分かっていたが故に。

 これまでにも、玲奈は様々な怪物と対峙してきた。

 中には襲い掛かってくる種もいたが、彼等をやり過ごす事は出来た。何しろ怪物達には人間を襲う特別な理由なんてない。たまたま餌だと思った、イライラしていた、縄張りに入ってほしくなかった……このような、彼等のちょっとした『癪』に触ってしまったのが原因だ。だから何故襲い掛かってくるか分かれば、やり過ごす術は見付けられた。

 だが、栄は違う。彼女は人間を助けるために、人間を襲うのだ。命乞いも逃走も無意味。生き残るためには、倒すしかない。倒せないなら、喰われるしかない。

「(何か案はない!? 背後から鈍器で一発、なんて通じる訳ない。なら目潰し? 躱されるに決まってる! というか視界を潰したぐらいでどーにかなる強さじゃないでしょうが! 何か、何か……!)」

 必死に思考を巡らせるも、何一つろくな案が浮かばない。怪物由来の兵器すら通じなくなった肉体が、更なる『エネルギー』を取り込んだのだ。この場に集結した特殊部隊隊員は総勢約五十人。栄が語ったこれまでに取り込んできた人数とほぼ同等である。単純計算で、今の栄の戦闘能力は拘束脱出時の倍。一人でどうこう出来るものじゃない。

 それでも玲奈は諦めずに考えたが、栄は容赦なく、じりじりと躙り寄る。

「安心してください。痛くはないですよ……そういう記憶は、ありませんから」

 そして宣告するのと同時に、栄はその身を大きく前のめりに傾けた。

 玲奈は、咄嗟に腕を身体の前で構えた。顔面から吸収されれば即死だが、腕からなら致命的な部分まで距離がある。吸収速度からして誤差程度でしかないが、その誤差が生死を分けるかも知れない……自分の生死は分けなくても、娘の命を守るきっかけにはなるかも知れない。

 どんな時でも考え付く最善を尽くす。それが自分の生き方であり、死に様だと玲奈は決めていた。

 だから玲奈は足掻く。最期の時まで、どんな絶望が迫ろうとも諦めずに。

 ――――結果的に、その足掻きは無駄に終わったが。

 目にも留まらぬ速さで駆けた……であろう栄は玲奈のすぐ近くで止まり、伸ばした腕が触れてくる事はなかったのだから。

「……え?」

「ぬ、ぐ、うぐ……?」

 困惑する玲奈だったが、栄は更に戸惑っている様子だった。なんとか玲奈に触れようと腕を伸ばすが、身体は前に進まない。

 それどころかずるずると後ろに()()()()()()()()始末。

 ついには前傾姿勢すらも正され、栄の身体は無理矢理垂直に立たされた。

 背後にて栄の首根っこを片手で掴んでいた、金髪碧眼の美少女――――フィアの手によって。

「あ、あなた、は……なんで此処に……!?」

「いやはやギリギリでしたねーいやぁ良かった危うく花中さんをガッカリさせてしまうところでしたよいえね野良猫がうちに来ましてなんか人間が襲われてたーとか話してきましてそれで花中さんがあなたの事が心配になりやっぱりママを助けてほしいと私に頼んできたのですよなので助けに来ました花中さんにちゃーんと感謝するんですよ?」

 思わず尋ねた玲奈、の言葉を無視して、フィアは自分が話したい事を話したいようにべらべらと喋る。相手に理解してほしいという気持ちが全くない、一方的な言葉に玲奈はキョトンとしてしまう。

「ぐ、ぎ……こ、この化け物――――」

 そして栄はこの隙を突こうとしてか、玲奈に向けていた手をフィアへと振り上げた

 直後、栄の姿が消える。

 高速移動か。玲奈は反射的にそう思った……すぐにその考えが間違いであると分かった。

「ぐぎあごがあぁあっ!?」

 醜い悲鳴と大地が削れる爆音が、彼方から轟いたのだから。

 音がした方を見れば、公園の木々が何本も薙ぎ倒され、大地が抉れて一本の道が出来上がっていた。道は彼方まで続き、街灯の明かりが届かないため奥は暗闇で満たされていたが……恐らく公園外まで続いている。

 常識的には考えられない。されど本能が現実を正確に理解する。

 これは、痕跡だ。

 片腕を気怠げに上げているフィアが、栄を殴り飛ばした際の『余波』で出来たものであると。

「あっそうそう言い忘れていました。あなた……あー名前は忘れましたが兎に角あなたについても一応お願いを聞いてます」

 呆然とする玲奈を無視して、フィアは自分が殴り飛ばした栄に向けて話し掛ける。栄からの返事はないが、元より待ってもいないのだろう。暢気に、気儘に、なんの躊躇いもなく、フィアは告げる。

「大人しく捕まるならそれで良し。抵抗するのならば殺して構わないとの事でした。どうします?」

 『英雄』に対して降伏勧告を。

 ――――作り上げられた『道』の奥から、影がやってくる。

 栄だった。見たところ怪我はないが、今までずっと浮かべていた笑みはすっかり消えている。フィアから十メートルほど離れた位置で立ち止まるや、敵意を露わにした鋭い眼光でフィアを睨み付けていた。

 そんな栄の手には、若い女性が掴まれている。服装からして公園の外を歩いていただけの、一般人だろう。女性の顔と栄の手は癒着しており、細胞レベルで結合していた。女性は自分の身に起きた事が理解出来ていない様子で、恐怖と驚愕の入り交じった表情を浮かべながらジタバタと手足を暴れさせている。尤も、玲奈が女性の顔を認識した次の瞬間には、栄はその女性を完全に吸収してしまったが。半狂乱の抵抗は無駄に終わった。

 栄の手による一般人の犠牲が、あの女性以外にも出ている事は既に明らかとなっている。栄が一般人にも容赦しない事は分かっていた。けれども目の前で何も知らない人間が犠牲となり、玲奈は苦々しく顔を歪める。

 対するフィアは、暢気に肩を竦めるだけ。犠牲となった女性の事など気にも留めていない。

「おやおやまだやる気ですか。花中さんとしては捕まってくれる方を希望していましたので出来ればさっさと諦めてくれませんかね? 私としてもその方が面倒がなくて助かりますし」

「生憎、化け物にひれ伏すつもりはありません。それに、あなたはもう勝っているつもりのようですが……それは誤りです」

 フィアはあくまで自分の都合から降伏を勧めるが、栄は真っ向から拒絶した――――直後、栄の身体に新たな変化が生じる。

 四肢や胴体が一瞬膨れ上がるや、収縮した。太さは変化が起きる前と大差ないが、素人目にも分かるぐらい密度が増している。表皮を覆う鱗は更なる光沢を放ち、青白い身体はほんのりと発光していた。

 全身の肉体が、一瞬にして改良されている。濃密な筋肉量から放たれる威圧感は、身の丈数百メートルもの巨大生物を前にしたかのような絶望感を玲奈に与えた。

 取り込んだ特殊部隊の隊員達や先程の一般人のエネルギーを、身体に()()()()()のか。あれがネットと冷凍ガスで拘束されていた栄に起きたのと同じ事象だとすれば、今の栄は更なる大幅パワーアップを遂げた筈だ。今や怪物という枠すら超えている可能性がある。現代文明すら破滅させかねない生命を超えた脅威……人類の手に負えるものではない。彼女が語る全人類を一つに纏めるという野望が、いよいよ現実味を帯びてきた。

 なのに、どうしてだろうか。

 玲奈には、栄がフィアに勝利するイメージが全く湧かなかった。

「あん? 気合いでも入れ直しましたか? あんまりしゃかりきになられても面倒なんですけどねぇ」

 強大化した栄を前にして、フィアは能天気に頭を掻く。なんの警戒心もない姿を、隙だと思ったのか。栄はその身を傾けた

 瞬間フィアに肉薄した栄は、その顔面に蹴りを喰らわせる!

 蹴った、と遠目で見ていた玲奈が認識した後に、暴風が辺りに吹き荒れた。この風が栄の蹴りの余波だとすれば、栄の脚力は今や生半可な軍事兵器では足下にも及ばない水準の筈。怪物以上の力を持つという推測が、確からしいと思えてくる。

 が、フィアは堪えない。

 直撃を受けた筈の顔面は、蹴られる前と比べ一ミリも動いていなかった。

「ふんっ」

 挙句フィアは栄の足を掴むや大きくその手を振り上げ、栄を大地に叩き付ける!

 生じたものは、台風が如く爆風。

 衝撃波で周りの木々がへし折れ、玲奈の身体は突き飛ばされた。栄を中心にした土が舞い上がってクレーターが出来上がる。怪物の生態を応用した槍さえも弾く肉体が、メキメキと無残な音を鳴らす。

「ごばっ!? が……」

「あまり手間を掛けさせないでほしいですねぇ」

 呻く栄を、フィアは容赦なく蹴る。百人近い人間を取り込んだ身体は、呆気なく吹っ飛んだ。

 ボールのように数メートルと跳ねた身体を素早く立て直して着地し、栄はどうにかフィアと向き合うが……ガタガタと身体が震え、その場で膝を突く。明確なダメージを受けている。内臓を貫通されようと、表面を凍結されようと、容易く再起した肉体が悲鳴を上げている証拠だった。

 栄は愕然とした表情を浮かべ、フィアを睨む。フィアは気にも留めず、栄に歩み寄る。まるで部屋に入ってきたカメムシでも退治するかのような気軽さで。

「なんなんですか……一体、なんなんですかあなたは!? 私は、私の身体には、百十九人もの人間が……!」

「んー? おっとそういえばちゃんとした自己紹介をしていませんでしたね。訊かれたからには答えるとしましょう。随分前に花中さんに禁止されましたけど見てない時ならバレませんよね」

 あまりにも一方的な暴虐への怒りか、栄はフィアを問い詰めた。するとフィアはにこにこと、楽しむように笑う。

 そしてフィアは己の頭をぱっくりと割った。

 文字通り、縦に割って見せた。しかし血は出てこない。内臓だって見えない。断面は透明な液体……つまるところ水で満たされ、ぷるんとゼリーのように波打つばかり。

 やがて水の中から出てきたのは、一匹の魚。

 魚は笑う。例え表情筋などなくとも。

 魚は嗤う。例え人間ほどの知恵や文化がなくとも。

 魚は告げる。

「私はフナですよ。たかが人間風情がこの私に勝てると思わない事ですね」

 自らが怪物などではなく、そんじょそこらにいる生き物である事を……




フィア登場です。
頼もしいやら、却って恐ろしいやら。

次回は7/26(金)投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来9

「こ、の――――!」

 フィアの本体が出てきたのを目の当たりにし、栄は猛然と駆け出した。

 フィアの能力は圧倒的だった。それこそ栄を簡単に蹴散らすほどに。しかし自らがフナであると名乗り、そのフナが姿を現した。つまり今は本体が剥き出しという事である。打倒する最大のチャンス。仮にあの本体のようなものが本物でないとしても、攻撃をしなければ倒せるものも倒せない……ならばこの機会を逃す手はない。

 故に栄は、全速力でフィアに突撃した。

 走る栄の身体の前方部分に、白い靄のようなものが現れる。その名はソニックブーム。物体が音速を超えた時に生じる、空気の塊だ。栄の肉体は、音速以上の走行を可能とするまで強化されたのである。音を超える速さとなれば、たかが数メートルの距離を詰めるのに一秒も掛からない。

 瞬きする暇も与えず肉薄した栄は、外気に晒されているフィア本体目掛け拳を振り上げた

 瞬間、フィアの本体が()()()()

 異様な光景により栄は理解した。この頭もまた偽物であり、本体などではないと。されどこれは予測していた展開の一つ。真偽に拘わらず打撃は与えるつもりなのだから、これ自体は行動を変える理由にならない。

 問題は、変形した魚の頭が大口を開いて栄の手に噛み付いた事。

 栄の手を噛んだフィアの頭は勢い良く振られ、栄の身体をぶん投げる! たった一振りで得られた加速は――――栄の最高速度すらも凌駕していた。

「ぐぬぁあうぅううっ!?」

 コントロールの利かない速度で飛ばされ、栄はその身を幾度となく公園内の樹木に叩き付ける。今の栄の質量と速度からすれば、樹木の強度など紙切れのようなもの。次々と粉砕し、けれども殆ど減速出来ず……ついには公園の外まで投げ出された。

 コンクリート製の道路に身を打ち付け、跳ねた勢いでガードレールを粉砕し、路駐していた自動車に当たってようやく栄の身体は止まる。飛ばされた距離はざっと五十メートル。ただの人間なら今頃肉塊になっていただろう。英雄的力を得た今の栄ですら、蓄積したダメージは小さくない。

 このまま戦い続けても勝ち目はない。フィアと自分の間にある力量差を察した栄は、強く唇を噛み締めた。

 ――――対するフィアも、栄から数十メートル離れた位置で顔を顰める。

「んー……ついつい強く投げ過ぎましたか。見えなくなっちゃいましたね」

 思いっきりぶん投げた事で、栄を見失ってしまったがために。

 実のところフィアは栄の動きをろくに把握していない。何しろ辺りが暗い所為で、栄の姿が殆ど見えていないのだ。人間より遙かに優れた反応速度を持つフィアであるが、見えないものを避けるのは ― 頭上からやってくればなんの問題もないのだが ― 流石に難しい。

 そのため接近したものを自動的に排除するよう、水で出来た『身体』に仕込みをしていたのだが……ちょっとばかし加減を間違えたらしい。あまり遠くに投げ飛ばしたら、逃げられてしまう可能性もあるのに。

 逃げられてもフィア自身は困らないが、栄を捕まえるか殺すかしてほしいと花中に頼まれているのでそうもいかない。どっちかじゃないと、きっと花中は笑ってくれないだろう。仕方ないと思いながら、フィアは投げ飛ばした栄により出来た『破壊の跡()』を歩く。暗くて周囲は全く見えていないが、なんとなく地形の雰囲気は感じられたので歩くのに支障はない。どんどん先へと突き進む。

 やがて公園の外側まで行けば、街灯が照らす道路まで出た。フィアはくんくんと鼻を鳴らし、きょろきょろと辺りを見回して栄の行方をのんびりと追う。

 ……人間からすれば、フィアの動きはあまりに暢気なものである。

 この公園の周りは、高層ビル等が建ち並ぶ近代的な都市なのだから。時間帯も深夜と呼ぶほど遅くなっていない。都市にはまだまだたくさんの人間が居て、危険を知らずに歩き回っている。

 そして栄は人間を襲う。

「きゃああああああああっ!?」

 何処かから聞こえてきた女性の悲鳴が、何が起きているのかを物語った。

「んぁ? ……そーいえばアイツ人間を襲うんでしたっけ?」

 今更のように栄の『危険性』を思い出し、思い出してからもペースを崩さず、フィアは悲鳴が聞こえた方へと歩き出す。

 交差点の角を右へと曲がったフィアが見たのは、人間にとっての地獄絵図だった。

 道路に散らばる無数の衣服。

 壁面が砕かれたビルの数々。

 ドアを破壊された自動車達。

 そして――――三人ほどの人間と、伸ばした腕や舌が癒着している『怪物()』。

「ひいっ!? た、助」

 舌先と癒着している中年男性は、満足な断末魔すら上げる事が出来ずに栄の中へと取り込まれる。

「ぎぃやぁっ!? あが、ががが」

 肩と癒着している青年は悲鳴と呻きを漏らし、暴れる暇もなく栄の手から吸い込まれる。

「いやぁああごおおおおおぉぉ……」

 右手と癒着しているうら若い乙女は可愛らしい顔を一瞬で干からびたものにして、肩から吸われて栄と一つになる。

 瞬きする間に次々と命が散っていく。踏み潰されるアリの行列のように、人命が軽々と消えていった。そしてその三人が消えてしまうと、もう、この辺りに人の姿は一つとして見られない。

 フィアに投げ飛ばされた栄は、フィアが追い着くまでの間、都市の人間達を襲っていたのだ。栄の身体と癒着してしまった人間達はあっという間に吸い込まれ、服だけを残してこの世から消え去る。辺りに散らばっている大量の衣服は、既に栄が()()()後の残りカスだとフィアも理解した。

 されど、栄の真意にまでは考えが及ばない。

「私を無視して食事とは良い度胸ですねぇ。あれだけ痛め付けたのにまだ私を嘗めてるのですか?」

 『ただの食事』だと思ったフィアは、不愉快さと呆れを隠さず栄に呼び掛ける。

 すると栄はくるりとフィアの方へと振り返り、薄気味悪く笑った。

 刹那、メキメキと栄の身体から激しい音が鳴り響く。僅かながら身体が膨張し、背中から突起のようなものが生え、皮膚の表面に分厚い血管が走る。

 肉体改良だ。新たに大量の人間を吸収した事で増大したエネルギーを、より効率的に使うための変異。膨張した身体はいよいよ元の体躯では増大した力を抱えきれなかったが故の変化であり、背中に生えた突起は止め処なく溢れるパワーを制御するためのもの。増大した血管は肉体が要求するエネルギーを迅速に循環させるため。

 栄の肉体は更なる強化を遂げたのだ。

「おや? なんか見た目が変わりましたね」

「……ふ、ふははははっ! ただ変わっただけじゃありませんよぉ」

 姿形が変われば、他者に無関心なフィアでも気付く。尋ねると栄は高笑いをし、大きく身を仰け反らせて自信を露わにした

 次の瞬間、栄はフィアの背後に立っていた。

「……ん?」

 フィアが栄の姿を見失った、その時既に栄は動き出していた。振り上げた腕は音速を超え、下ろす時には更に加速する。

 栄の腕はフィアの頭の真横に直撃。発生した打撃の威力は凄まじく、衝撃波が周囲に広がった。コンクリートの舗装が捲れ上がるように剥がれ、周りに建つビルは窓ガラスが吹き飛ぶ。

 人間であれば近くに立つだけで全身が砕け散るような一撃。ついにはフィアも()()()()()

 しかし未だその『身体』は健在。

 それどころか栄の攻撃を受けたフィアの『身体』は、さながら絡繰り人形が如く起動した。加えられた衝撃により水分子が僅かに移動。隣接する分子を動かし、動かされた分子はその隣の分子を突き飛ばす……連鎖する分子運動はフィアの意思を介さず、何もかもが自動的に動く。

 これがフィアの自動攻撃の原理。そしてこの行動は受け止めたエネルギーによって動かされるため、敵の攻撃が強ければ強いほど速度を増す。

 故に栄の一撃から発動した此度の反撃は、公園内とは比較にならないほどの超高速。ぐるりと百八十度首を回すや、フィアはフィア自身が意識せぬまま栄に噛み付こうとした。

 が、空振り。

 栄がフィアが反撃に転じるよりも早く、その場から離れたからだ。元より栄の動きなどろくに見えていない以上、フィアには逃げた栄を追うなんて真似は出来ない。

 ましてや栄が浮かべた勝ち誇った笑みなど、捉える事すら出来ていなかった。

「遅い、遅い遅い遅いっ!」

 栄は楽しげな声を上げながら、更に動きの速さを増していく。

 栄は、この道で大勢の人間を取り込んだ。

 その数、三百七十六人。人でごった返す歩道に運良くぶち当たった結果、真っ直ぐ突き進むだけで幾らでも人間を襲えた。今までに吸収した百十九人と併せて、四百九十五人もの人間が栄の身を形作る。

 たった五十人ちょっとしか取り込んでいない段階でも、怪物由来のテクノロジーすら凌駕してみせたのだ。五百人近く集まった栄の肉体は、既に怪物の域をも超えようとしていた。

 超音速で駆け回りながら、栄はフィアへの攻撃を加える。手刀の一撃はその気になればビルさえも両断するだろう。キックは大地を割る事さえ容易い。一撃一撃が人類文明をぶち壊す破壊力を秘め、余波だけで都市を破壊していく。

 栄の動きが見えないフィアは、一方的に嬲られ続けた。

「あはははははっ! そろそろ観念してはどうですか!」

「……………」

「耐えるので精いっぱいですかぁ? それならそろそろ楽にしてあげましょう!」

 煽り言葉になんの反応も示さないフィアに、いよいよ栄は止めを宣言。

 目にも留まらぬ速さでフィアの側面へと回った栄は、これまでよりもたっぷりと ― しかし実時間にして瞬き一回分もないような刹那に ― 力を溜め、腕を高々と上げた。振り下ろされる一撃の威力がどれほどのものか栄本人にすら分からない。だが、エネルギー量だけで言えば都市一つ壊滅させるに足るものだった。

 栄はそれほどの力を、なんの躊躇なくフィアの頭部へと振り下ろす。本体が『身体』の何処に潜んでいようと関係ない。縦に真っ二つにすれば同じだと、垂直に手刀を振り下ろした。

 ――――もしも、栄が多少なりと冷静だったなら。

 或いは気付けたかも知れない。フィアの身体は、殴られた際首こそ傾げたが……足についてはどれだけ攻撃を受けても、一歩動くどころか、よろめきすらしていない事に。表情はつまらなそうなもので、苦悶の感情などこれっぽっちも覚えていないと。

 しかし今の栄は、己の得た力にどっぷりと溺れていた。湧き上がる力により己の勝利を確信していた。

 だから。

 栄の事を見向きもしていないフィアの拳が、真っ直ぐ自分目掛けて飛んでくるとは思いもしなかった。

「は?」

 栄は呆けたように、ぽつりと声を漏らす。漏らすぐらいの猶予はあった――――あったのはそれだけだ。

 フィアの拳は、栄の手刀を遙かに上回る神速で振るわれたのだから。

「ぁばぎぃあがっ!?」

 避けるという意思すら持つ前に、フィアの拳は栄の顔面に叩き込まれる!

 超音速で動くためのエネルギーを循環させている肉体が、たった一発のパンチすら受け止めきれない。硬質化した顔面の表皮がガラスのようにひび割れ、砕け散る。併せて多量の血が噴き出し、それでも衰えない衝撃により栄の身体は空を飛んだ。

 地面に落ちた栄は舗装された道路を削り飛ばしながら転がり、行く手にあったビルの一棟と激突する。ビルからすれば小さな塊である栄であるが、打ち付けられたスピードは高速。ビルには大穴が空き、大量の粉塵を撒き散らす。もう少し穴が大きければ壁の崩落が連鎖し、倒壊も引き起こしたかも知れない。

「……んー……もうちょっと角度を正確にしたいですね。なら……」

 尤も、フィアは自らが作り出した惨状にさして興味を持たず、栄を殴り付けた自分の手を見るばかり。

 それは栄が突っ込んだビルの中から、爆発音と悲鳴が聞こえるようになっても変わらなかった。

「きゃああああああっ!?」

「うわ、わ、わあぁあっ!?」

「ひいぃぃぃいいっ!?」

 声だけで伝わってくる、阿鼻叫喚の絵面。ビルの一部が吹き飛び、瓦礫やガラスが飛び散る。五階以上の高さから意を決して跳び降りる人間もいたが……伸びてきた青白い手に捕まり、一人残らず引きずり込まれた。

 時間にしてほんの数分。フィアにより空けられたビルの大穴が、爆発するように砕け散った。再び舞い上がる粉塵と爆音。

 その中からゆっくりと、栄が歩きながら出てくる。

 栄はおどろおどろしい表情を浮かべながら、フィアを睨み付けた。

「ふぅー……! ふぅぅぅー……!」

 唸るような吐息。血走る瞳。ひびの入った顔面の皮膚は呼吸の度にギチギチと音を立て、痛々しく蠢く。剥き出しにした犬歯が徐々に伸び、埃塗れの身体が激しく躍動している。

 そしてだらりと下げた両腕には、癒着した若い男女の姿があった。

 ビルの中に逃げ込み、隠れていたカップルだろうか。男の方は既に顔が半分以上吸い取られており、ぴくりとも動かない。女の方は首の部分と栄の手が癒着しており、致命傷こそ避けていたがただそれだけ。逃げる事など叶わない。

 栄は一際大きく息を吐くと、二人をちゅるんと吸い尽くした。新たなエネルギーを得たからか顔の傷が瞬時に塞がり、むしろ殴られる前よりも艶を増す。呼吸も落ち着きを取り戻し、肉体はより大きなエネルギーを有するようになっていた。

 されど栄は笑わない。

 昂ぶらせた激情に突き動かされ、栄はフィアの背後へと回り込む。フィアは栄がほんの数十分の一秒前に居た場所を見つめたまま。栄の動きにはピクリとも反応していない。

 栄は渾身の力を込め、ビルをも切り裂く手刀を放った

 瞬間、フィアはやはり栄を見ずに、拳を背後に向けて放ってきた! 栄にとっては予想していた通りの攻撃……しかし予想以上に速く、そして先程よりも狙いが正確。

 フィアの拳は、栄の胸部を殴り付ける! 最早戦車砲だろうと弾く筈の胸骨が、バキバキと不穏な音を立てた!

 走る激痛に顔を顰めるも、栄は攻撃の手を緩めない。

「お、のぉれえええええええっ!」

 咆哮と共に、栄は即座に次の攻撃を仕掛ける!

 超音速の手刀。

 目視不可能な蹴り。

 軟体化を活用した予測不能の軌道。

 あらゆる手を尽くし、栄は全力でフィアを屠ろうとする。ビルの中で新たに大量の……六十一人もの人間を取り込んだ。五百を超える人数が一体化し、強大な力を手に入れた。どんな敵だろうが、どんな怪物だろうが、今の自分なら倒せる。栄はそう確信していた。

 していたのに。

「ごぶっ!?」

 手刀が届く前に、自分よりも速い拳が打ち込まれる。

「ぶげっ!?」

 蹴りはフィアの身体から生えてきた触手に巻き取られ、あっさりと体勢を崩された。

「ぎゃばっ!?」

 軟体化して作り出した複雑な攻撃の軌道を、予測していたかのように潜り抜けた一本の触手が顔面を殴り付けてくる。

 フィアには、攻撃が一切届いていない。だけど栄は情けないほど反撃を受けている。

 更に進化した筈の栄は、先程以上の惨めな醜態を晒す事となった。尤も、やられている側である栄に、惨めさを感じるだけの余裕などないが。

「(なん、ですかこれは……!? まるで、攻撃が読まれている! しかも、どんどん正確になってるなんて……!)」

 自分の繰り出した攻撃に一方的な反撃を返され、栄の頭の中は混乱で満たされていた。どうしてこんな事になっているのか理解しようとするが、さっぱり分からない。

 本当は見えていると考えるにはあまりにフィアは無反応。死角への移動も、真っ正面からの攻撃も、何一つリアクションを取らない。いや、それとも反応しているのか? フィアの本体は(フナ)。この『身体』は入れ物に過ぎない。無反応に見えているのは表面上だけで、本当は的確にこちらの動きを追っている……?

 本体が見えない故に、フィアの本心がまるで読めない。それが栄の混乱を一層後押ししていた。

 さて、フィアの方だが――――とても正直な彼女は、最初から隠し事などしていない。フィアはどんな些細な反応もしっかり『身体』に出てくるタイプであり、即ち無反応というのは本当に栄の動きが何も見えていない事を意味する。

 見えていなくても、反撃するだけなら簡単だ。

 フィアは自分の周囲に、不可視の『糸』を張り巡らせていた。しかしそれは、普段好んで使う切断攻撃用のものとは性質が異なる。その『糸』は極めて細く、単細胞生物の膜すら破れないほど無害だった。当然栄の強烈な攻撃に耐えられる代物ではなく、栄が何かを繰り出せば簡単に切れてしまう。

 フィアはこの『糸』の切れ方から、栄の攻撃を予知していたのだ。無論自分の頭では判断せず、『身体』に組み込んだ自動反撃の仕組みを利用してではあるが。フィアがしているのは、攻撃時の感触から少しずつ『身体』の反応の仕方を変える事ぐらいである。

 強いて難点を挙げるなら、敵の攻撃が当たる前に放つ都合、反撃時に使用するエネルギーは完全な自前となった事か。とはいえその気になれば数億トンの水をも動かせるフィアにとって、栄をぶん殴るためのエネルギーなど些末なものに過ぎない。

 そうとは知らずに栄は攻撃を続け、攻撃をまともに当てる事も出来ず、カウンターを喰らい続ける。血反吐を吐き、顔面が砕かれ、骨が折れようとも、彼女は止まらない。

「あのーいい加減諦めませんか? 私としてもそろそろ飽きてきて」

「五月蝿いッ!」

 あまりの執念にフィアが飽き飽きしてきたが、栄は怒りを纏った言葉で黙らせる。

「あなたには分からない! 私の身には、私の中には今、五百五十六人もの命がある!」

「んー? それはあなたが食べた人間の数ですか? 随分とたくさん食べましたねー」

「そうよ! たくさん! たくさんの人間を取り込んだ! 彼等は私に『協力』してくれている! 私の力となってくれている!」

「……はい?」

「私には彼等の想いがある! 私は、私は、私は……!」

 涙ぐみながら、栄は拳を降り続ける。

 もう、今の栄は『夢路栄』ではない。

 五百五十六もの人間を取り込み、一体化した。混ざり合ったのは体細胞だけではない。脳の神経細胞だって結合が弛み、ごちゃ混ぜになっている。脳の神経が人格を形成するとして、その神経が他人のものとぐちゃぐちゃに混ざればどうなるか? ……栄の元の人格など、殆ど残っていなかった。

 それでも彼女には、人間を守りたいという意思がある。

 取り込んだ五百五十六人は自分の『協力者』であり、自分が守らねばならない人々だ……少なくとも栄は、本気でそう信じていた。細胞レベルで一体化しても、この身には大勢の心が宿っていると妄信した。ならばその想いを無下にするなど、どうして出来るのか。

 恐ろしい怪物を倒さねばならない。

 人類を脅かす脅威に勝たねばならない。

 それが自分の力となってくれた『協力者』への誠意である――――常人には理解出来ない思考ではあったが、栄はそんな信念を抱いていた。

 だが、

「五月蝿いですねぇ」

 フィア(化け物)にその想いは届かない。

 正面に立った栄の攻撃を察知し、水触手達が栄に襲い掛かる。ただし打撃は与えず、手足に巻き付いた。身動きを封じられた栄はハッとしたように目を見開くが、もう遅い。

 栄を捕まえた水触手は大きくうねり、栄を道路に叩き付けた!

 無論折角捕まえて一回で終わるなどあり得ない。何度も何度も、執拗に叩き付ける。衝撃により道路の舗装は吹き飛び、中の土も抉れ、クレーターのような跡地が出来上がった。

 最後に悠々と栄を持ち上げ、フィアはじろじろと観察。栄はピクピクと痙攣するばかり。瀕死である事を確かめると、ゴミのように彼女を投げ捨てた。街路樹の一本が投げられた栄を受け止め、栄の身体は力なく地面に転がる。

「さぁーてそろそろ死にましたかね? 死んでなかったら花中さんのお母さんに引き渡すとしましょうか。どっちにしろ褒めてもらえるのなら気が楽ってもんですねー」

 スキップ混じりの足取りで、フィアは栄の下に歩み寄る。街路樹に寄り掛かったまま動かない栄の顔を、ひょいっと覗き込んだ。

 そこでフィアは、少しだけ眉を顰める。

 栄の顔に浮かんでいたのが、笑みだと分かったがために。

「……ああ、そうですか。この程度では、足りませんか」

「んぁー? まだ足掻くつもりなのですか? そーいう事なら私としてもそろそろ面倒なので細切れにして殺しちゃいますけど」

「ええ、そうです。もっと、もっと協力しませんと……」

 フィアのやる気のない威圧を無視するように、栄はぶつぶつと独り言を呟くばかり。どうやら諦めるつもりはないらしいと判断したフィアは、宣言通り細切れにして殺してやろうと思い攻撃用の『糸』を作り上げる。

 フィアは栄の言葉など端から関心がない。彼女が何を呟こうが、何を言い残そうが、どんな信念を持っていようが、そんなものは自分とは関係ないからだ。

「やれやれ。数が多いので、調整に時間が掛かってしまいましたよ」

 故に栄がこの言葉を言い放っても、フィアは攻撃の手を止める事も、早める事もしない。

 だからこそ栄は、無防備なフィアの手を掴む事が出来た。

「む?」

 手を掴まれ、フィアは首を傾げる。そのフィアの前でゆっくりと栄は立ち上がった。

 大地をしっかり踏み締める姿に、もう弱々しさはない。握り締める拳に、貧弱さなどない。

 今、フィアの前に立つのは一人の『巨人』だった。

「やぁっと力が身体に馴染んできました。あれですね、数が多いと制御も難しいです」

「そうですか。なんだか先程よりも調子が良さそうですね」

「ええ、とても。全身に力が漲っています。今までの自分が、子供だったような気分です」

「ふーん。随分と強気なようで」

「いえいえ、そんな……」

 フィアの見くびった物言いに、栄は手を横に振りながら答える。

 ただしその答えは、謙遜などではない。

「強気だなんてとんでもない。事実を語っただけです」

 むしろその言葉は自信に溢れていて、

 次の瞬間、フィアの『身体』に強烈な打撃が加わった!

「……むっ」

 フィアの身体が僅かながらよろめく。これまでどんな攻撃を受けても揺らがなかった体躯が、確かに仰け反った。

 フィアを仰け反らせたのは、真っ直ぐ伸びた栄の拳。

 その一撃は、これまでのものとは比較にならない威力を宿している――――フィアがそれを理解した時、栄は既に動き出していた。

「しゃあッ!」

 掛け声と共に、栄はフィアに体当たりを喰らわせる! 拳以上のエネルギーに、ついにフィアは数歩後退りする事を強いられた。

 されど栄の攻撃は終わらない。後退りしたフィアの胸部に、筋肉が脈打っている脚部による一撃を与えた

 瞬間、強力なインパクトが発生する。

 生み出された衝撃の殆どはフィアの身体が受け止めた。周りに散ったのは、全体の数パーセント程度のエネルギー量でしかない。だが、その数パーセントのエネルギーはアスファルトの道路を捲れ上げていく。

 フィアが大きく仰け反るのと共に瓦礫と粉塵が舞い上がり、霧のように辺りを覆おうとした。

 その汚らわしい霧は、キックに続けて栄がフィアへと打ち込んだ拳によって一瞬で吹き飛ばされる。台風以上の大暴風が、ただの拳の余波によって生まれたのだ。

 加えて拳は一発ではない。

 栄が放った拳は、ほんの瞬きほどの時間で十数もの数に達した。フィアは更に仰け反り、後退りしながらバランスを取ろうとする。

「ふっ!」

 その隙を栄は見逃さなかった。

 栄はフィアへと跳び掛かり、全体重をフィアへと乗せる。五百人以上の質量が加わり、フィアの不安定な姿勢が更に傾く。

 止めとばかりに栄は背中から伸ばした肉塊を道路へと打ち付け、その肉塊を収縮――――引っ張るようにして地面に向けて力を込める!

 ついにフィアは、栄の力によって押し倒された。

「ふっはははははっ! はははははっ!」

 笑いながら、栄はフィアを殴り続けた。一発でビルすら砕くパワー。それが容赦なく、立て続けにお見舞いされる。

 カウンターは来ない。来たところで構わない。栄は自分の身体の中にある力が、まだまだこんなものでは済まないと理解していたから。今更カウンターが来たところで何も怖くない。

 途方もない力に愉悦を覚え、爛々とフィアを殴り続ける。フィアはされるがまま。何十発、何百発……打ち込まれる度に周囲の大地が衝撃で舞い上がり、波打つ。地震と呼ぶにはあまりに不自然な揺れは周りのビルを振るわせ、倒れさせた。中にはフィアと栄目掛けて倒れ込むものもある。尤も、そのビル達は栄が放つ拳の余波に押し退けられ、逸れるように軌道を変えさせられたが。

 最早天災が如く破局。それを繰り出しているのは、交互に繰り出されるたった二つの拳だ。

 そんな右手と左手を、栄は頭上でがっちりと組んだ。小さな手が、大きな握り拳となり――――

「これで……止め!」

 喜々とした掛け声と共に、振り下ろされた。

 フィアの胸部に拳が打ち付けられた瞬間、ふわりと白い膜が周囲に広がった――――刹那、爆風が都市に吹き荒れる! あらゆる建物が薙ぎ倒され、舗装された道路は落ち葉のように舞い……半径数十メートルもの巨大なクレーターを作り上げた。

 さながらそれは、巨大隕石の衝突。

 周辺地域の環境を激変させ、絶滅をも起こしかねない破壊だった。一個の生命体が受けるにはあまりに巨大である。

 こんなものを受けて生きている生物などいるものか。仮に生きていてもどうという事はない。まだまだ自分の力の底は見えていない。もっともっともっと、更なる力を発揮するまでの事……栄は勝利を確信し、獰猛な笑みを浮かべた。

 そしてフィアは、

「……良い一撃ですねぇ」

 朗らかで優しい笑みを浮かべていた。

 一瞬、栄は口許を引き攣らせる。しかしすぐに元の、勝ち気な笑みへと戻した。

「へぇ、まだ生きていますか。どれ、だったらもっと強い力を」

「やっぱり多少は手応えがないと面白くないですからねぇ。ちょっとだけやる気が出てきましたよ」

「……は?」

 自分の言葉を無視してぼやくフィアに、苛立ちを覚えた栄は顔を顰める。

 顰めて、顰めて、それはやがて苦悶の表情に変わった。

 フィアがぎゅっと掴んでいる右腕から、痛みが走っているのだから。

「ぅ、ぐ……ぐ、ぐううぅぅぅ……!?」

 栄はフィアの手を振り解こうと身を捩る。が、フィアの腕は微動だにしない。空いている左手で引っ掻いても、だ。

 五百人以上もの『協力者』が一致団結しても、未だフィアの力の方がずっと強いのか?

 突き付けられた現実を忌々しげに睨む栄だったが、しかし段々とその顔に、今度は困惑が浮かび始めた。

 いくら力を高めても、フィアの腕はピクリとも動かない。

 全く、これっぽっちも。栄は内側で渦巻くエネルギーを解放してどんどん力を高めているのに、フィアの手は何もされていないかのように不動を貫く。普通、掴んでいるものの力が高まれば、そのほんの僅かな瞬間ぐらいは揺らぐ筈なのに。

 何かがおかしい。

 嫌な予感を察知し、栄は身体を軟体化させようとした。どんな力で掴もうが、柔らかくなれば隙間から抜け出せる。仮に千切られても腕の一本二本再生するぐらい造作もない。欠けた分は新たな『協力者』を得れば済む。

 なのに、栄は逃げ出せない。

 軟体化させた筈の腕が、柔らかくならなかったのだから。

「……!? な、なんで……!? ぐっ! この、このっ!」

「まぁまぁそんな必死に逃げなくても良いじゃないですか」

 半狂乱で暴れる栄にフィアは優しく声を掛けながら、ゆっくりと、しなやかに身を起こす。未だ栄の伸ばした肉塊は大地を貫き、圧を掛けているにも拘わらず。栄は押し返され、フィアの上から退かされてしまう。それでも腕の自由は戻らず、栄は困惑するばかり。

「今から本気で遊んであげるんですから」

 そんな栄に向けていた朗らかな笑みを、フィアは一瞬で狂気に染め上げた。

 栄の全身に冷たいものが走る。理性とは異なる、野生の本能が全身に警鐘を鳴らしていく。逃げられないと分かった筈なのに、全身の細胞が一斉にフィアから離れようとして仰け反った。

 されどフィアに掴まれている腕だけはどうにもならなくて。

 フィアがその腕を軽々とへし折った時、栄は激痛を覚えた。

「ふ、ぐぎあああああああっ!? あが、あ、あああああああっ!?」

 悲鳴を上げ、栄は目を白黒させる。

 おかしい。何故痛みを感じる?

 軟体化によって、神経細胞も自在に組み替えられる。即ち軟体化すれば神経細胞のつながりも解かれ、脳に『痛み』が到達する事はあり得ない筈なのだ。

 起こり得ない事態に戸惑う栄だったが、戸惑いの感情はすぐに消える。ついに立ち上がったフィアが自分を見下ろしてきたが故に。

 そして、栄は知る。

「力の加減はしてあげますから三分は持ってくださいね? 折角やる気が出たのにすぐ終わったらすごーく残念な気持ちになっちゃいますから」

 本当の『怪物』が、どんな存在であるかを――――




これは死ではなく、大いなる存在と一つになる行いなのですよ(某献身教徒感)

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来10

 フィアに見下ろされた栄が真っ先に感じたのは、得体の知れない恐怖感だった。

 ぞわりと身体が震える。全身の細胞がざわめく。この感覚の正体は一体なんなのか。理性では見当も付かなかったが、栄の本能はある一つの例えを思い付く。

 これは、まるでヘビに睨まれたカエルのような――――

「ぐ、ぅああああああああああっ!」

 脳裏を過ぎる本能の警告。理性がそれを知覚する前に、栄は行動を起こしていた。

 腕は未だフィアに掴まれたまま。軟体化は起こせず、殴ったところでフィアは恐らく揺らがない。ならば脱出方法はただ一つ。

 掴まれた部分より上で、腕を引き千切る。

 栄は渾身の力で身を退いた。痛みがあろうと構わず、全力で後退。腕の細胞が悲鳴を上げた。置いていくな、止めてくれ……その叫びは、自分の『協力者』達の声のように栄は感じてしまう。

 それでも栄は身を下げ続けた。

 腕の細胞同士が離れ離れとなり、悲鳴が痛みとなって全身を駆け巡る。戻りたいという腕の細胞の意思表示を、腕以外の全身の細胞が捻じ伏せた。総意の前に、小さな民意は押し潰される。

 やがて右腕は二の腕の真ん中辺りで引き千切られ、激痛と共に栄は自由を取り戻す。

 取り戻した自由に喜ぶ事もなく、栄は跳び退いた。フィアから一気に十メートルは距離を置き、着地時に大地を小さく揺らす。痛みは既にない。体勢を立て直し、栄はフィアと向き合う。

「おや逃げてしまいましたか。追い駆けっこはあまり好きではないのですがね」

 フィアは栄の置き土産である右腕を、無造作に投げ捨てた。腕はずしんと音を鳴らし、地面の上に横たわる。

 フィアを鋭い眼差しで睨み付けながら、栄は思考を巡らせる。

 軟体化を起こせなくなった理由は、推測ではあるが一つ浮かんだ。フィアの能力……水を操る力で、血液を操作されたのだろう。

 フィアに水を操る能力がある事は、『標本奪取作戦』時に見せた行動や玲奈との問答、それと『事前調査』から栄も知っていた。血液といえども成分的にはほぼ水である。操れたとしてもおかしくはない。

 もしこの考えが正しければ、その気になればフィアは栄の全細胞を操れるという事である。向こうが遊ぶ気でなければ、とっくに死んでいてもおかしくなかったのだと気付き、寒気を覚えた。しかし分かってしまえば対策を練る事は可能だ。

 栄は右腕を再生させながら、新たな肉体の改良を全身に施す。血流に触れられてはならない。全身の表面を甲殻類のような殻へと変化させ、筋肉は殻の内側、血管は筋肉の内側へと寄せ集める。甲殻のような細胞は角質化……死んだ細胞によって得られたもの。この細胞の軟体化はもう出来ないが、いざとなれば分解・再吸収によって回収出来る。引き千切った腕についても同じだ。戦闘時に余裕があれば回収しようと、頭の隅で考えておく。

 瞬きほどの刹那で、栄は新たな形態への変身を完了させる。その見た目は、まるで全身を鎧で覆った西洋騎士。とはいえ髪や顔立ちなど女性的なものはしかと残している。

 名付けるなら、姫騎士形態か。

「……行きます!」

 防御を固めた栄は、フィア目掛けて突撃した!

 防御を固めたとはいえ、軽量化も忘れてはいない。エネルギーが身体に馴染んできた事で、力も大きく増幅している。結果、栄の突撃速度は音速の数十倍に達していた。

 数多の人間を取り込み、莫大な重量を伴った身体による超音速突進。文字通り隕石級の破壊力を有するそれは、フィアと激突した瞬間巨大な破壊力を生み出す。

 この時生じたエネルギー量は、広島型原爆のそれに相当する。おまけに突き出した拳に力を集めた、一点集中の攻撃だ。単位面積当たりのエネルギーとなれば水爆にも値するだろう。人間ならば、いや、生半可な怪物ならば当たった瞬間に蒸発してもおかしくない威力。

 だが、フィアは堪えない。

 『水』で出来ている身体は、水爆級の拳を平然と受け止めた。衝突時に発生する熱量だけで表面が数千度まで加熱してもおかしくないのに、その身は凹み一つ確認出来ず、眉一つ満足に動かす事が出来ていない。フィアは未だ獰猛で、楽しげな笑みを浮かべている。

「ふんっ!」

 そして反撃。大股開きの足から繰り出された乱雑な蹴りだ。力は入っているかも知れないが、技術的にはいい加減で、効果的とは言い難い放ち方。

 されどこの蹴り一発で、栄の身体は彼方まで吹っ飛ばされた!

「ごぶっ!? が、は……!」

 クレーターの縁まで飛ばされ、激しく身を打ち付けた栄は苦悶の声を漏らす。大地は新たな衝撃に耐えきれず、第二のクレーターを形成した。

 自分の渾身の突撃を上回る雑キック。甲殻化が幸いした。もしも防御を固めていなければ、今の一撃で全身がバラバラになっていてもおかしくない。

「おやおやまだ十秒しか経ってませんよ? あまりにもつまらないとこのまま殺しますがよろしいですか? まぁ最後には殺しますけど」

 これほどの威力の一撃を出しながら、フィアは拍子抜けしたように肩を竦めていた。

 強過ぎる。

 そろそろ勝てるという自分の見込みが、如何に甘かったかと思い知らされる。先程取り込んだ五百人分のエネルギーは今や完全に身体と馴染んだが、全く勝てる気がしない。

 もっと『協力者』が必要だ。もっとたくさんの、もっともっともっと……

 だが、この辺りに協力してくれる人間はいない。粗方自分が吸い尽くしたし、激戦によってそこかしこにクレーターが出来ている有り様ではとうに皆逃げ出しているだろう。外から人がやってくる可能性も低い。

 遠くまで行かねばならないが……果たしてフィアは、今からそれを許してくれるのか?

「おっと逃げようとしても無駄ですよ。ここで逃がすと花中さんがガッカリするかも知れませんからね」

 どうやら、無理そうだ。

 栄が現状の厳しさを理解した、瞬間、彼女の身体は『何か』に引っ張られた! 突然の事に驚く間もなく栄の身体は倒れ、滑るように引きずられていく。

 足に何かが絡みついている。

 見えない『何か』 ― 恐らく糸のような代物 ― によってフィアの方へと引き寄せられている……自分の身に起きた状況をそのように判断した栄は、爪を伸ばして足下で振った。試した事はないので確証はないが、感覚的には鉄さえも切り刻める切れ味を誇る爪。これで拘束を破る算段だ。

 とはいえ肝心の『何か』はまったく見えない代物。一回目、二回目は空振りで終わる。フィアも近くになった三回目、爪はようやく異物感を感じ取った

 瞬間、金属的な音を鳴らして、栄の爪は切断された。

「――――は? な、ごぶっ!?」

 自らの身体の一部に起きた異変。されどそれの意味するところを理解する前に、フィアのすぐ傍まで引っ張られた栄に衝撃が伝わった。フィアの振り下ろした拳が、栄の顔面に叩き込まれたのだ。

 フィアは馬乗りにもならず、背筋を伸ばして立ったまま。腕だけを不自然に伸ばして栄を殴っている。なんとも力が入らなそうな姿勢なのに、その威力は栄の体当たりすら生温く思えるほど。栄の後頭部が地面に叩き付けられる度、クレーターが深くなる。

 フィアの拳は甲殻化した表皮すらも砕き、栄の体細胞全体にダメージが広がった。数発殴られた段階で、既に顔面の甲殻はボロボロだ。このままではいずれ砕かれ、内組織に手が届く。或いは血管が傷付き、血液が流出するだろう。

 そうなればフィアの能力により、何時殺されてもおかしくない。

 逃げ出さなければならない。多少の『犠牲』が出たとしても。

「ぬぐああああああっ!」

 栄が選んだ脱出方法は、体表にある甲殻を脱ぎ捨てる事だった。

 頭部に出来た破損を利用し、甲殻下にある中身だけを外部へと飛び出させる。にゅるにゅるとした中身はクレーターの上を滑るように移動し、地べたを這いずりながらフィアから少しでも離れようとした。

「おっと逃がしませんよ」

 当然フィアはすぐさま手を伸ばし、栄を取り押さえようとする。しかし栄とて無策で逃げているのではない。軟体化しつつも、今の表皮はゴムのように弾性のある代物。突き立てられようが殴られようが、簡単には体液との接触を許さない。

 どうにか攻撃を耐えながら、栄は体勢を立て直す。栄と向き合うフィアだが、接近する足を止めようとはしない。当然だ、こちらの攻撃は全く通じていないのだから止まる理由がない。

 ここで逃げねば捕まる。全身を一気に活性化させ、力を研ぎ澄ます。高まっていく力に身を委ね――――栄は跳躍した。

 フィアの頭上を跳び越える形で。

 適切に、それでいてこちらを見ずに返されるカウンター……いくらなんでも怪し過ぎた。恐らく周りに何かしらのセンサーがあると気付いた栄は、フィアの上を通り抜けるように跳んだのだ。

 思惑通りフィアは栄の方を見向きもせず、栄は超音速でフィアの真上十数メートルの高さを跳び越える

 筈だったのに。

「ふんっ!」

 フィアが声を上げるや、栄は自分の足に何かが巻き付くのを感知した。不味い、と思った時には手遅れだ。力強く引き寄せられ、大地に叩き付けられる。

 痛い。だがそれよりも困惑が頭の中を満たす。

 何故、フィアは自分の動きに気付いた? 頭の上にもセンサーがあったのか? だとしても先の動きは、カウンター時よりも鋭かったような……

「私の上を跳び越えるとは間抜けですねぇ。私これでも頭上の気配には敏感なんですから」

 混乱する栄に、フィアは胸を張りながら答えを教えた。尤も、その言葉は栄を一層動揺させる。

 センサーによる反応ではなかった。

 勝っていると信じていたスピードさえも、フィアの気配察知能力が上回る時がある……物言いからして恐らく頭上限定であろうが、それでも栄の自信を砕くには十分だった。跳び越えて逃げるという選択肢が、完全に潰されてしまったのだから。

 パワーでは勝てない。

 防御力でも勝ち目がない。

 スピードさえも負ける時がある。

 突き付けられる圧倒的劣勢。立ち上がった栄の足は、ガタガタと震えていた。対するフィアは黄金に煌めく髪を掻き上げながら、悠々と歩み寄ってくる。

 最早勝る可能性があるとすれば、自らの頭脳のみ。

 栄は考える。全身に満ちるエネルギーを脳へと振り分け、神経細胞を活性化させた。高速化した思考で情報を分析し、目まぐるしく視線を動かして周囲の景色を解析する。状況打開のヒントが、危機から脱するためのアイテムが、何かないか探し求めて――――

 ついにフィアが、目の前までやってきた。

「こ……のおおおおおおおおおおおっ!」

 栄が取った行動は、破れかぶれで拳のラッシュを叩き込む事。

 超音速の拳が、一秒に何十発と叩き込まれる。打ち付ける場所は広範囲ではなく、正確に胸部中心。一点集中で打ち込まれた箇所は猛烈な熱を持ち、やがて分子レベルの崩壊を引き起こす筈。一か八か、起死回生の反撃だ。

 だが、目論見が現実になる前にフィアが動いてしまう。

「温い」

 ただ一言と共に放たれた、一発の拳。

 その一撃は正確に栄の腹を捉え、容赦なく打ち込まれる。接近してからの数秒で喰らわせた二百発オーバーにもなる拳の力の総量を、易々と乗り越えてくる破滅的攻撃。腹を包み込む強靱な筋肉が呆気なく千切れ、その筋肉に守られている内臓が音を立てて潰れていく。栄の口からは血が溢れ、全身の細胞が流れ込む衝撃で損傷していった。

 故に栄は、笑った。

 本来なら見えていない筈の刹那に出した栄の笑みを、野生の本能が捉えたのか。フィアの眉間に微かな皺が寄る。しかしもう手遅れだ。

 栄の身体は、猛烈な速さで彼方へと飛んでいったのだから。

 あっという間に遠くなるフィアの顔が、『舌打ち』するかのように歪んだのを栄の動体視力は見逃さなかった。今更こちらの仕掛けた罠に気付いたのかと、栄は愉悦混じりの笑みを返す。

 栄は殴られる間際、己の表皮を弾力のあるものに変えていた。

 それは防御という面で見れば、ないよりマシな程度の代物。打撃に耐えるだけなら高密度の筋肉か、硬質化した外殻の方が数百倍適している。しかし弾力のある身体は、受け止めたエネルギーを『動力』へと変換するのに最適だった。

 フィアはこちらとの戦闘を遊びだと思っている。故にやられたら取り敢えずやり返す。こちらが何を企んでいようと踏みにじれると信じているのだから。その驕りを利用させてもらったのだ。

 フィアが放った拳により与えられたエネルギー量は、栄の筋力を大きく凌駕していた。お陰で移動は超音速を突破し、フィアとの距離を一瞬で開けてくれる。それでも運動エネルギーは未だ尽きず、戦いにより出来上がった巨大クレーターの縁をも跳び越え……

 ついに栄は戦場から遠く離れた――――人々が安全のため、敢えて動かず待機していた地区の高層ビルの壁面に激突した。ぶつかった際の衝撃で、ビルの壁面が爆発したように吹き飛ぶ。無数の瓦礫が地上へと落ち、ただ道路を歩いていただけの人々に降り注いだ。

「きゃああああああああっ!?」

「な、なんだぁっ!?」

 そしてビルの中の人々は、室内に爆風が如く勢いで吹き荒れる粉塵に見舞われた。

 粉塵の中には壁面の一部だったコンクリート片も混ざり、それが弾丸のように飛んでくる。小さければ身体に刺さり、大きければ骨をも砕く。不運にも壁面近くに居た人々は、手痛い怪我を負う事となった。

 尤も、怪我で済めばマシだったのだが。

 ビルに居る人間達は知らない。この粉塵の中に『人喰い』の怪物が潜んでいる事など……気付いたところで、もう間に合わない。

 混乱が治まる前に、粉塵の中から大量の肉塊が溢れ出した。

 肉塊はさながら津波のように押し寄せ、中の人々を文字通り飲み込んでいく。彼等が栄だった肉塊と混ざり合うのに、瞬きほどの時間も掛からない。男も女も、子供も老人も、あらゆる人間が悲鳴一つ上げる間もなく消えていく。

 存分に人間を堪能した栄は、しかし肉塊を集めようとはしない。それどころかどんどん、際限なくその身体を広げていく。

 ついにはビルから溢れ出し、道路へと流れ出す。無論そこに居る人々を避けるような真似はしない。降り注ぐ肉塊は、何も知らない人々をまたしても飲み込む。更には力強く動き、別のビルへと張り付いた。

 後はその繰り返しだ。

 次々と人が飲まれ、栄と一つになっていく。ビルへ逃げ込もうが、車に入ろうが、自我を持つ肉塊はその後を執拗に追い駆けた。命乞いも勇気も関係なく、肉塊は何もかも飲み込んでいく。

 人間達に抗う力はない。『数千人』の行列を個人で止められる訳がないのだから。

 そして。

「……うーん。花中さんになんと説明したものか」

 のんびりとした足取りでフィアがやってきた頃には、全てが終わっていた。

 無人と化した無数のビル。鉄くずとなった車。花びらのように舞う衣服。

 その中心に、栄らしき生物は立っていた。

 最早その姿に、栄の面影はない。全身は滑らかな青白い筋肉に覆われ、身長は百七十センチを超えている。背中からトゲのような背ビレを二本生やし、手足の爪は鋭く伸びていた。

 何より変化していたのはその顔立ち。女性のような柔らかな髪を持ち、穏やかな表情を浮かべていたが、栄のそれとは明らかに異なる。例えるならあらゆる人間の顔写真を重ね合わせた結果、個々の特徴が消えてしまったような顔だ。肉体も、女性なのか男性なのか、子供なのか大人なのかよく分からない。

 それは外見だけでなく、内面についても言えた。その肉体に宿るのは、()()()()()()人分の記憶が混ざり合って出来た、よく分からない精神体。人間と呼ぶにはあまりに複雑怪奇で、あまりに無個性。喜怒哀楽の基準すら混ざり、溶けて、失われていた。最早何があると喜び、何をされたら怒り、何が起きれば哀しみ、何をしたら楽しいのか、当人にすら答えられない。

 そんな存在と化した栄でも、フィアと向き合うと思うところはある。

 コイツは敵であり、倒さねばならないと。

 即ちそれは人類の総意。そしてその願いを叶えるための力は、今、ようやく手に入った。

「――――オオオオオオオオオッ!」

 咆哮一つ。次いで跳躍。

 肉薄したフィアの身体に、栄は正面から渾身の拳を叩き込む。 

「ぬぅっ……!?」

 その一撃はフィアを()()()()

 瞬間、フィアを貫通した衝撃が、背後のビルを薙ぎ倒す! フィアも大きく身を仰け反らせ、栄を睨み付けてきた。

 それがどうしたとばかりに栄は背後に回るや、フィアの後頭部を殴り付ける。今度は前のめりになったフィアは、素早く足を前に出して踏み留まった。

「小癪なっ!」

 直後に大地を蹴り、フィアは栄に体当たりを喰らわせる。

 パンチとは比較にならない質量の一撃……だが、今の栄を揺さぶるにはあまりにも弱々しい。

 直立不動のまま、栄はビンタのようにフィアの頬を叩く。

 ただそれだけで、フィアの身体は大地に打ち付けられてしまった。

「がふぁっ!? こ……の人間風情が……!」

「調子に乗り過ぎたわね。ここまで力の差が付く前に私を殺していれば、あなたにも勝機があったのに」

 哀れむような言葉。そこに感情など殆どなかったが、フィアは明らかにカチンと来ていた。ざわざわと髪を鳴らし、全身に殺気を纏う。

「人間風情が小賢しいっ! 叩き潰して――――」

 そして怒気を孕んだ雄叫びを上げ、展開する数百の『糸』と水触手。どれも怪物の一匹二匹簡単に屠れるだけの力がある、フィアの本気の攻撃だ。

 フィアは容赦なく、己の持つ力を栄に差し向ける。すると栄は両手に拳を作り素早く放った

 瞬間、何もかもが砕け散る。

 『糸』も水触手も、栄に傷一つ付ける事も出来ずに粉砕されたのだ。

「……あら?」

 あまりにも呆気なく全てを壊され、フィアはキョトンとした。尤も、その時間はごく僅かだ。

 すぐ後に栄の猛攻が、フィアの『身体』に何百と打ち込まれたのだから。

 ……………

 ………

 …

「……呆気ないものですね」

 ぽつりと、栄は独りごちる。

 彼女の周囲は、廃墟と化していた。クレーターこそ出来ていないが、周りのビルは倒れて瓦礫の山を形成している。大量の人間を吸収して得られたパワーは、流石の栄もコントロールが難しい。一点集中の攻撃をしたつもりだが、余波が大きく漏れ出てしまった。今後の成長課題であり、しかし解決すれば一層大きな飛躍が期待出来るだろう。

 そしてそれほどの大破壊をしてしまった手には今、頭を掴まれた状態でぶらぶらと揺れるフィアの姿があった。力なく揺れる様は一見して死体のようだが、しかしこの『身体』が能力で出来ている以上、まだフィアが生きている証である。

 されどフィアの身体は、栄の手を振り払おうとはしない。持ち上げられ、風に任せて揺れるだけ。

 抵抗の意思も、力も、残っていないようだった。

「最初に戦ったミュータントが、あなたみたいに隙だらけで調子に乗ったタイプで良かったですよ。常に警戒し、最善を尽くすタイプだったなら、私はもうやられていたでしょうから」

 淡々と、栄はフィアに語り掛ける。返事や反応は期待していない。

 そもそもこの話し掛け自体、栄は殆ど意識をしていなかった。口調が栄のそれであるのは、混ざり合った人格の中心に『夢路栄』がいたからに過ぎない。無意識の海にたゆたう、夢路栄の一部が語らせた程度のものだ。

 だから栄はフィアからの返事を待たずに、次の行動へと移る。

 フィアの頭を掴むのとは逆の手に握り拳を作った。血流を巡らせ、エネルギーを充填。力を滾らせる。

 そのパワーの大きさたるや、フィアを殴り倒した『ビンタ』とは比較にならないほど。如何にフィアの身体が頑強でも、一撃で粉砕してもおかしくない。余波で生身が潰れるに違いない。仮に一発目を耐えたところで無駄だ。何百発何千発も叩き込むまで。

 そして人格の廃れた栄に、躊躇いも愉悦もない。

「それじゃあ、さようなら」

 事務的な言葉と共に、栄はフルパワーの拳をフィアに叩き付けた。

 一撃が巨大隕石クラスの拳。指向性のある打撃故、衝撃波は真っ直ぐ飛んでいき、宇宙空間まで振るわせる。しかし一発ではフィアの『身体』は砕けなかったので、更にもう一発。それでも駄目ならもう一発。

 壊れるまで止める気はない。

 何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 ――――殴り付けて、違和感を覚える。

 何故この身体は、壊れない?

「いやぁ良い感じに遊べましたねぇ」

 疑問に思う栄の耳に、暢気な言葉が届く。

 もう聞き飽きた声。二度と聞こえないようにしたつもりの声。

 それが自分が掴んでいる『身体』から聞こえてきた事に、ぞわりとした感情を栄は覚えた。

「まさか負けるとは思いませんでした。ちょっと手を抜き過ぎましたか。最近の人間は凄いんですねぇ今度から人間だからといってあまり見下さないようにしましょう」

「……………」

 喋り始めたフィアを、栄は無言で殴る。

 今度は、その身体は揺れない。

 何度殴っても、フィアは微動だにしなくなっていた。

「……ん?」

「いやぁ実際ヤバかったですよ。ちょっと油断し過ぎて危うく殺されるところだったとかミリオンの奴が知ったら何時までもネタにして弄られそうです」

「えっ? あれ?」

「余力はあるのでまだ遊んでも良いですけど確かにあなたの言う通りあまりやり過ぎてもっと強くなると流石に面倒ですからね……そろそろ終わらせますか。あっそうそういくら殴ってもその程度の力じゃもう無駄ですよ。今は水分子をがっちり掴んでいますから」

 困惑する栄だったが、フィアはお構いなしに自慢話を続ける。栄は戸惑いながら殴り続け、ふと、フィアの話が脳裏を掠めた。

 水分子をがっちり掴んだ?

 言っている事の意味がよく分からない。水分子を掴んで、どうするというのか。まさか掴んだ状態で固定している筈もない――――

「……固定?」

 ぽつりと、栄は呟いた。途端、目前にやってきた勝利にさえも無感情を貫いていた顔が一気に青ざめる。

 物質の破損とは、基本的には加えられた力により分子や原子の並び方が崩れたという事である。また桁違いのエネルギーを注げば、分子を破壊する事も出来るだろう。なんにせよ、相応のエネルギーがあれば物体を破壊出来る。

 では何かがガッチリと固定していて、分子の配列や形が崩れないようにしたならどうなるか?

 そう、もしもフィアの言葉が事実なら。

 なんらかの特殊な力により分子が固定されたなら、その分子から成り立つ構造物……即ち物体は、途方もない耐性を得る。ダイヤモンドや炭化タングステンなど比較にならない。分子そのものが、謎の力で固められているのだから。熱も、衝撃も、分子の破壊をもたらさない。力による固定を取り除くか、或いは固定する力そのものを上回らなければ、物体はその構造を完璧に保ち続ける。

 名付けるならそのものずばり分子固定。ただの水では成し遂げられない、科学知識を無視した頑強さが得られる可能性すらある能力だ。そしてその防御を発揮している間なら、どれだけの攻撃を加えられようともダメージは通らず、フィアは悠々と自分のやりたい事に没頭出来る。

 栄が気付いた時、フィアがにたりと笑った。手遅れだと悟ったところで、もう遅い。

 掴んでいたフィアの身体が、ずしりと重くなる。

 その重さに僅かながら驚いた瞬間を狙い、フィアは自分の頭部を掴んでいる栄の腕を握ってきた。

「っ!? しまっ……ぐっ……!」

 ギリギリと走る痛みに、栄は思わずフィアの頭から手を離す。自由を取り戻したフィアは、されど栄の腕から手は離さない。むしろじわじわと握る強さを増し、その腕を締め上げてくる。

 無論されるがままでいるつもりはない。栄は素早く腕を軟体化させ、今度は自分がフィアの腕を掴もうとする……が、合わせるようにフィアも腕をどろりと溶かした。『身体』が水で出来ているのだ、このぐらいの芸当は朝飯前である。

 自らと同じ技を使われ、優勢を取れる筈もない。形を取り戻した時掴んでいたのは腕ではなく、フィアの掌。まるで仲良し女子のように掌同士を合わせた格好だ。実態は己の怪力をぶつけ、相手の手を潰そうとする生々しい死闘だが。

 その死闘は最初、栄が優位に立っていた。腕にパワーを集中させ、少しずつ握り締めていたフィアの手を押し返していたのだから。しかし徐々に押し返すスピードは遅くなり、やがて止まる。

 止まってからは、ぴくりとも動かない。どれだけエネルギーを回しても、ぴったり合わせた力で押し返してくるがために。

「ぐ、く、ぐううううううう……!」

「ふむふむこのぐらいで力が拮抗しますか。あなた予想以上に軟弱ですねぇ」

「な、ん……!?」

「血流の密度からあなたの大体の体重が分かります。ざっと千四百トンに満たないぐらいですかね?」

 苦悶の表情を浮かべる栄に、フィアは気怠げに尋ねてくる。その言葉は栄の表情を一層歪ませた。

 何しろ、当たっているのだ。

 これまでに吸収した二万三千十九人の総質量は、約千三百七十トン。そこから生み出された戦闘力が、フィアを追い詰めていた。

 フィアはこの質量を見抜いた。栄の強力なパワーが体重に比例する事も察しただろう。

 そしてそのフィアは今、ゆっくりとだが()()()()()()()

「私の重量を教えてあげましょうか。あなたと初めて出会った時は約五トン。そして今はざっと十三トン……これでもあなたの百分の一未満です」

「……っ!?」

「つまりあなた私の百分の一の力で粋がっていた訳ですよ。これが貧弱じゃないならなんなんですかね?」

 煽るようにフィアは尋ね、栄はそれに何も言い返せない。

 少しずつだが重くなるに連れて、握り返してくるフィアの握力は増大しているのだから。栄が力をどれだけ振り絞っても、重たくなるフィアはその力をぴったりと合わせてきた。極めて正確に、まるでおちょくるように。

 そもそも何故フィアの重さは時間と共に増しているのか。

 答えは明白だ。注意深く見れば、フィアの頭にある髪が伸び、数本が地面に突き刺さっている。土中水分を吸い上げているのだろう。今は冬場、それも戦いがあるまでコンクリートとアスファルトに覆われていた土は酷く乾燥しているように見えるが、奥深くには十分に湿った土がある筈だ。更に地下を通っている上下水管が戦いの震動で破損して、地中に大量の水をぶちまけているに違いない。

 それら全ての水の量が、たった十数トンなんて事はあり得るのか? ――――どう楽観的に考えても、答えはNoだ。

「さぁてあなたの軟弱ぶりも分かりましたしそろそろ潰して差し上げますよ」

 導き出した栄の答えを肯定するように、フィアの重さが一気に増大した。

 途端、今まで拮抗していた押し合いが終わる。

 栄の手首はあっさりと押され、捻じ曲げられた。反射的に込めた力は、されどフィアの手首をぴくりとも動かさない。アリが巨石相手に噛み付くような、途方もない強靱さ……これが分子固定の副産物であると気付けても、栄には今更どうにも出来ない。

 軟体化して抜け出そうともしたが、気付けば全身の細胞が拘束されていた。二万三千十九人分のエネルギーから形成した外皮を、フィアの能力はあっさりと浸透したのだ。今や足を動かすどころか、唇一つ震わせる事が出来ない有り様。

 フィアがゆっくりと、大きく足を上げたところも、ただただ眺める事しか出来ない。

 放たれたキックは、栄の肉体を一瞬で超音速まで加速させた。

「ごぼぁっ……!?」

 瓦礫の山に叩き付けられ、栄は呻きを上げる。同時に、身体の自由が戻った。手が離れた事でフィアの能力の『範囲外』に出られたのだ。口だけでなく四肢もちゃんと動く。

 逃げるしかない。逃げて、もっと多くの『協力者』を得れば、きっとこの怪物を倒せる筈だ。

 そうとも、自分が吸収した人数はたったの二万三千十九ぽっち。対してこの国の人口は何人だ? 世界人口は? まだまだ幾らでも存在する。二万人で駄目なら二十万人、それでも駄目なら二百万人、これすら駄目なら……幾らでも、際限なくこの力は高められるのだ。力の制御や自我の混濁など問題は山積みだが、フィアを倒すにはこれしかない。

 希望を見出す栄だったが、その前に迫り来るフィアをどうにかしなければならない。思考を巡らせる栄を前にして、フィアは呆れるように肩を竦めた。

「やれやれまだ諦めませんか。大方もっと人間を喰えば強くなれるとか考えているんでしょ? 無駄な足掻きですねぇ」

「……っ。無駄かどうかは、やってみないと分かりませんよ……」

 考えを読まれた ― しかし二度も同じ手でパワーアップしたのだから想定されていて当然でもある ― 栄は不敵な笑みを返す。フィアはますます面倒臭げな表情を浮かべ、困ったように首を横に振る。

 それからハッとしたように目を見開き、ポンッと手を叩いた。名案を閃いたと言わんばかりに。

「おおそうです。分からないならここで確かめれば良いんですね」

「……? どういう、事で」

「あなたどれぐらいの数の人間を食べられるのですか?」

「は?」

「要するにあとどれだけ強くなれるのかという事です。ちなみに私はですねうーんそうですねぇ」

 突然始まった問答。一体何がしたいのか分からず、栄は呆けてしまう。とはいえ脱出策の一つも浮かんでいない現状、時間を与えてくれるのはありがたい。遠慮なく思案に耽る。

 勿論フィアから訊かれた事に答えねば、苛立ったフィアに嬲り殺しにされる可能性はあるだろう。しかし当のフィアは、自分が投げ掛けた質問の答えを待たずに考え込んでいた。極めて身勝手な話し方だが、栄からすれば有り難い。

 栄が念のため耳を傾ける中、フィアは腕を組んでじっと考え込む。やがて考えるのが面倒になったのか、実にやる気のない表情を浮かべた。

「ざっと三億トンの水を操れます。最近色々な力を使ったお陰でちょっとパワーアップしたみたいですからね」

 そしてフィアは極めて適当な物言いで、そのように告げる。

 自分の考えに没頭しつつも話に耳を傾けていた栄は、脳に跳び込んできた言葉を受けて呆けたように目を丸くする。次いで全身をガタガタと震わせ、青白くなっていた顔面を一層真っ青にした。

 今、この星にいる人類の数は?

 推定だが、ざっと七十億人を超えている。今年は怪物の大量発生や内乱などが多発したので多少は減少したかも知れないが、それでもまだ総人口に大きな変化はないというのが一般的な見方だ。

 そんな世界人口七十億を全て一つに纏めても、推定総重量は精々四億二千万トンを超える程度でしかない。無論これは膨大な質量だ。今、この身に宿る力の一万八千倍以上である。しかし人の身から外れた力であるがため、大きくなるほどコントロールが難しい。たった二万人分の力すら制御しきれないのに、その一万八千倍の力をどうやって操るのかなんて想像も出来ない。持て余すのが目に見えている。

 対してフィアは、三億トンの水を操れるという。 

 数値的には下回るが、全人類の質量に匹敵する大きさ。おまけにフィア『単身』での力であり、恐らく制御の問題はないか、あっても致命的なものではない。加えて水分子固定による絶対的防御、血流操作による細胞破壊が可能な能力、予知能力染みた気配察知……科学知識を置いてきぼりにするおぞましい力の数々まである。

 百倍の戦力差を有してもひっくり返せない出鱈目な能力。それを上回る戦力差をも許さない桁違いの出力。何もかもが『人類』を上回る。

 突き付けられた一言。その一言で栄は全てを理解してしまう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という現実を。

「ひっ!? ひっ……!」

 引き攣った声を上げ、栄はその場にへたり込む。人智を凌駕する思考速度で為すのは逃走経路の捜索。怪物をも凌駕する力で為すのは不様な後退り。

 その悪足掻きすら、真の怪物が一歩踏み出すだけで、恐怖から止まってしまう。

「ふぅーんそれがあなたの答えという事で良いんですかね……なら逃げても仕方ないって分かりますよねぇ?」

 ねっとりと尋ねられ、栄は何も言い返せない。

 殺される。何をしても、何もしなくても、無残に、一方的に。

 脳裏を過ぎる死の確信。全身の細胞が悲鳴を上げ、嘆き、悲しみ……弛緩した身体は、老廃物である尿を垂れ流した。最早肉体は抵抗すら諦め、震えすら起こさない。

 やがて震えない身体は、精神的理由だけでなく肉体的理由からも動かなくなる。フィアから伸びてきた一本の細い『糸』が腕に刺さった、途端、全身が石になったかのように硬直した。フィアが血液と自身の操る水を接触させ、支配下に置いたのだ。

「はいそれじゃあ全身一発で粉砕してあげますよ」

 宣言通り、栄を一発で粉々にするために。

 血液を通じて能力が全身に行き渡っているのなら、細胞単位での破壊など造作もあるまい。フィアは広げた手を前に出すと、少しずつ、握るように閉じていく。併せて、栄の全身に圧が掛かる。

 フィアが掌を完全に閉じた瞬間。それが自分の最期なのだと察した。

 言葉が喉まで昇ってくる。けれども声帯が震える事すらフィアは許してくれない。息が出来ない。されどフィアは苦しむ栄に情けなど掛けてくれない。

 じんわりと潤んできた瞳は、真っ先に締め付けられるような痛みに襲われて――――

「その戦い、待ったぁっ!」

 自分でもフィアでもない声に、栄は遠退きかけていた我を取り戻した。

 目は動かせない。記憶だって曖昧である。しかし栄は、彼女を思い出した。

 大桐玲奈。

 かつて『自分』の上司だったその人が、この戦場にやってきたのだ。

「……花中さんのお母さんですか。なんですか? 私そろそろコイツを殺そうと思うのですが」

「ちょ、待って! 殺さないで! いや、殺す事になるかもだけど、でも今は待って! お願い! その子と話をさせて!」

「……………まぁそこまで頼むなら構いませんが」

 フィアの手は開かれた、刹那栄の身を襲っていた拘束は解かれる。息が出来る。身体を動かせる。喜怒哀楽が薄れた身体に、生の喜びが満たされた。

 同時に、圧倒的生命体への恐怖も心の隙間を埋め尽くす。

 自分が、人類がどれほど力を尽くしても敵わない怪物。しかもこんな化け物が大桐家にはもう一体、町の公園には更にもう一体居た。世界中を探したらあとどれだけ潜んでいるか、想像も付かない。フィアが足下にも及ばないぐらい強い奴だって、たくさんいるかも知れない。

 勝てる訳がない。自分のした事は、全くの無駄だった。

 なら。

 自分の内側に渦巻く二万三千十九人の人々の想いを、自分はどうしたら……

「栄、あなたのした事は許されるものじゃないわ」

 俯く栄に、玲奈が声を掛ける。顔を上げれば、すぐ傍までやってきていた玲奈の顔が目に映る。

 手を伸ばせば、栄は玲奈に触れる事が出来るだろう。一秒と掛からず、その身を吸収出来る。そんなのは玲奈も分かっている筈だ。

 なのに玲奈は、栄と向き合うとその場にしゃがみ込んだ。腰が抜けたままの栄と、目を合わせるために。

「だけど、あなたが人間のためを思っていたのは分かる。わたしはあなたのやり方に賛同出来ないけど、もしかしたら本当にあなたの選んだ方法が正しいかも知れない」

「……………」

「だからそれを、一緒に確かめさせてくれない? あなたが得た力を含めて、私達は解明しなければならないから」

 玲奈の言葉に、栄は一瞬目を見開いた。それからすぐに目を伏せ、口を噤む。

 是非とも協力させてください。

 答えるなら、これが『正解』だろう。玲奈は明らかに自分を助けるため、玲奈達の組織に捕まる事を勧めている。危機を脱するためにも、ここは玲奈の言葉に乗るべきだ……理性では、そう考えられる。

 けれども、それを言うつもりになれない。

 言いたい言葉はこんなものではない。自分が本当に言いたい事は……湧き上がる想いに突き動かされ、栄は考える。考えて、考えて。無意識に喉元に衝動が込み上がり、

「死にたくない、です」

 ぽそりと、この言葉が出てきた。

 これが、『自分』の本心

 人類のため? ああ、そうだろうとも。自分だって人類なのだから。

 突き詰めれば、これが全ての始まりなのだ。自分が死にたくないから、自分が怪物に殺されたくないから、自分が助かりたいから、自分を守りたいから……『人類』の代わりに『自分』を置いたところで、なんの違和感もない。

 だから人類のためでも解体なんかされたくない。人類のためにフィアと戦う事ももうしたくない。死にたくないのだから。

 これは夢路栄の心なのか、取り込んできた人間達の最期の想いなのか。それすら栄にはよく分からない。だが、『自分』の正直な想いがこれだ。他の言葉はない。

「ごめ、んなさい、ごめんなさい……」

 溢れ出した嗚咽と謝罪の言葉が、無意識に栄の口から溢れ出る。玲奈は栄の背中を、素手で優しく撫でた。

「……そういう事だから、殺すのは止めてもらえるかしら?」

 それから玲奈は、フィアに物怖じせずに頼み込む。

 しかし栄は諦めていた。自分は大勢の人間を吸収し、その力を際限なく高めていける。フィアのフルパワーは圧倒的だが、それが出せない状態なら勝機はあるかも知れない。質量差という『ハンデ』付きとはいえ、一度は負けを認めているのだ。

 加えてフィアは人間である花中の友達だ。大切な人間(友達)を襲う自分の生存を許すなんて、どうお気楽に考えてもあり得ない。 

 見逃してもらえる筈が、ない。

「良いですよ別に」

 そう思っていた栄の耳に、フィアの無慈悲で無感情な宣告が耳に入る。当然だと想いながら栄は小さく項垂れて、

「「え?」」

 危うく勘違いするところだった栄は、キョトンとした声を漏らした。同じくキョトンとした玲奈と声が重なり、互いの顔を見合う。

 不思議そうにしている栄達を見て、フィアも不思議そうに首を傾げた。

「どうしましたか?」

「え? ……え、いや……あの、助けてくれるの、ですか?」

「ええ。構いませんよ」

「……なんで?」

「なんでって私としては別にあなたをわざわざ殺す理由がありませんから。花中さんからあなたを捕まえるか殺すかしてほしいと頼まれたから来ただけですしそれだってどっちかと言えば捕まえる方を優先してほしいみたいでしたからね。抵抗するなら兎も角大人しく捕まるなら殺しませんよ」

「……えっと……つまり……」

 友達がそう希望したから、そっちを選ぶだけ。

 あまりにも身勝手な理由に、問うた栄のみならず玲奈も呆ける。するとフィアは人間達の前で胸を張った。堂々たる姿だが、威圧感のようなものは感じられない。

 代わりに、満足した子供のような微笑ましさがある。

 そこから発せられる言葉が真面目なものである筈もない。

「まぁあなたとの『遊び』は中々刺激的でしたからね。一回ぽっきりで終わらせるのも勿体ないですしそこまで言うのなら見逃してあげましょう。今度はもっと鍛えてからくるんですよー」

 フィアは自分を殺そうとした栄を、お気楽に許した。

「は、はは……あははは」

 栄の口から漏れ出る、乾いた笑い。

 これが笑わずにいられるか。つまるところフィアにとって此度の戦いは、何処までいこうと遊びでしかないのである。例え人類からすれば、己の生存を賭けた死闘であろうとも。

 本当に恐ろしい生き物には、『全力』すら出させる事が出来ないのだと分かったのだから……




自我も尊厳も命も、何もかも捨てても勝てない相手。その相手に人間が滅ぼされないのは、力の差があり過ぎて興味を持たれていないから。
うん。こういう世界観大好き。

次回は明日投稿予定です。


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大桐玲奈の襲来11

 昨晩の花中は、落ち着けない夜を過ごした。ミィから栄の危険性を伝えられ、母への想いからフィアに『栄の捕獲』を頼んだがために。

 花中はフィアがどれほど強いか知っている。しかし栄がどれだけ強くなったかは分からない。

 ミィの話では、栄は既に何人かの人間を襲い、吸収したとの話だった。人間を吸収した理由は、恐らくエネルギー補給……獲得したエネルギーを力に変換出来るなら、大幅なパワーアップを果たした可能性もある。もしかすると栄の力は、フィアよりも大きくなっているかも知れない。

 フィアちゃんなら大丈夫。そんな想いの影で、不安がチクチクと心を突いてくる。本当に大丈夫だろうか。フィアちゃんの事だから危なくなったら逃げると思うが、ちゃんと逃げられるだろうか。ママは無事だろうか。他の人達は大丈夫だろうか……

 様々な考えが過ぎり、その日の眠りを妨げた。とはいえ人の身体というのは、基本的には毎日の睡眠を欲するもの。深夜を過ぎ、夜明けが迫るほど眠くなる。自室のベッドの上で座っていたのも良くなかった。一度傾き、ぱたりと横になった瞬間強烈な睡魔に襲われ――――

 何時の間にやら朝が来ていた。

 カーテンに覆われた窓からやってくる朝日で、花中はパチリと目を覚ます。カーテン越しでも日射しは十分に眩く、外の天気が快晴だと窺い知れる。大変良い天気だ。心地良い一日になりそうだ……等と普段は思うところである。

 しかし今日は違う。

 花中は、フィアと母の無事を確かめたかったのだ。なのにそれを確かめる前にうっかり眠ってしまったのである。

 つまり()()()()()訳で。

「ふぃ、フィアちゃ」

 反射的に花中は一番の親友の名を呼び、何時の間にか被っていた布団を蹴り上げながら跳び起きて、

「はいなんですか?」

「んぎゃあああああああああああっ!?」

 目を開けた瞬間眼前にその親友の顔が現れたので、町中に轟くほどの悲鳴を上げてしまった。

 驚きで心臓がバクバクと脈打つ花中の前で、大切な友達――――フィアはこてんと首を傾げる。その姿は一見して無傷で、昨日までと何も変わらない。恐らく睡魔に負けた自分に布団を掛けてくれたのは、フィアなのだろうと思う。何故布団の上で正座しているのかは謎だが……大方早起きしたので花中の寝顔を観察していようと思ったとか、そんな程度の理由に違いない。

 つまりは何時も通り元気で暢気なフィアである。友が無事帰ってきていた事に、花中は瞳が潤んでくる感覚を覚えた。

「ふぃ、フィアちゃん……! 無事だったんだ……!」

「ふふん当然です。あの程度の雑魚に負けるほど軟弱ではありませんよ。まぁあの人間は中々歯応えがありましたから遊び相手には丁度良かったですけどね」

 胸を張って自慢するフィアの言葉に、虚勢は感じられない。少なくともフィアとしては、栄は()()()()程度の強さでしかなかったのだろう。

 ホッと、花中は安堵の息を吐く。尤も安心はあまり長続きしない。

 フィアが無事なのは ― 不安になっていたのはこの際置いておくとして ― 予想通り。しかしまだまだ安否の気になる人達がいる。

 母と栄の二人だ。

「あの、夢路さんと、ママは……?」

「んー? ゆめじってのはあの妙な人間の事ですか? あの人間なら別の人間達に連れていかれましたよ」

「別の、人間?」

「ええ。まぁ何処の誰かも知りませんけどね。アイツ自身ちゃんと捕まると言ってましたから目的は達成しましたしあの時は夜遅くになっていたので眠くて眠くて話の途中で帰っちゃったんですよねぇ」

 目許を擦り、当時の気持ちをアピールするフィア。

 要約するに、謎の人間達に栄は連れていかれたが眠かったので追求もせず帰ってきた、という事らしい。

 人間的には肝心なところで帰るとは。我が友の自由気儘ぶりに花中はちょっとだけ張り詰めていた気持ちが弛んだ。とはいえ『怪物』が関係しているのなら、ただの警察や自衛隊が現れたとも思えない。考えられる『組織』はただ一つだけ。

 なら、訊くべき相手はフィアではない。

「……ママは、家に居るのかな」

「ええ居ますよ。今はリビングです」

「……ん、分かった。えと、一緒にリビング行こ。あと、ありがと。お願い聞いてくれて」

「いえいえこの程度お茶の子さいさいですよ」

 花中の手をそっと掴み、フィアは心底嬉しそうに微笑んだ。ぎゅっと強く握り返して、花中も小さく微笑む。

 しっかり手をつないだ花中とフィアは一緒に自室から出る。階段を下りた花中達は真っ先にリビングへと向かった。尤も、階段からリビングまでの距離は三メートルもないが。

 辿り着いたリビングの中央には、見慣れた『人影』が二つ。一つは何時も通り喪服のように真っ黒な格好をしたミリオン。

 そしてもう一つは、キャリーバッグの中にぐちゃぐちゃと荷物を押し込んでいる母・玲奈の姿だった。

「ママっ!」

「あら。花中、おはよう」

 思わず呼べば、玲奈はすぐに振り返って笑みを浮かべてくれた。フィアの時と同じく、何時もとなんら変わらない笑顔だ。傍に居たミリオンが「私には何もないのかしら?」とおちょくるように言ってきたので花中は慌ててミリオンにも朝の挨拶をし、それから改めて自分の姿を愛でるような目で見ている玲奈と向き合う。

 無意識に力強く握り締めていたフィアとつないでいる手が、一気に弛む。ひとまず『最悪』は避けられたのだと、花中はようやく実感が持てた。

「良かった……ママ、帰ってきてくれた……」

「当たり前でしょ? ママは無敵なんだから!」

 想いが口から溢れれば、玲奈は小さな力こぶを作って反論する。

 普段なら、無敵なら部屋の片付けぐらいちゃんとしてよねー……なんて嫌味の一つでも返すだろう。

 しかし今日は、その言葉の重みが違う。母や父の仕事がどんなものか知ってしまえば、それがどれほどの強がりで、儚くて、強い想いのもとで語られた言葉なのか分かる。

 こうして再び顔を合わせる事が、如何に奇跡的なのか。

「あと、ごめん。ちょっと急な仕事が入っちゃったから、もう戻らないといけないの」

 そしてこの別れが、どれだけ恐ろしいものであるのか。

 花中は、全て知ってしまった。

「……夢路さんを、捕まえたから?」

「ありゃ、フィアちゃんから聞いたの?」

「うん。捕まったって事しか、聞いてないけど……」

「ええ、その通り。こっぴどくやられたからか、素直に拘束されてくれたわ。フィアちゃんのお陰よ」

「ふふーんこの私からすれば造作もない事でしたがね」

「ほんと、助かったわ。あなたのお陰で、花中どころか全人類が救われたんだから」

 胸を張って誇るフィアに、玲奈は感謝の言葉を伝える……社交辞令や小さな気持ちではなく、とても強い感情のこもった口調で。表情も、思い詰めるようだ。

 ごくりと、花中は息を飲む。

 フィアと栄の戦いがどんなものだったのかは分からない。もしかするとテレビや新聞で昨夜の戦いについて報道されていて、そこから推察出来るかも知れないが……今の段階でも、予想ぐらいは立てられる。

 きっと、()()()()()の手には負えない戦いだったのだろう。

 今の夢路栄の力を察し、ぶるりと花中は身体が震えた。フィアがどれだけ痛め付けたかは知らないが、仮に今なら人間でも殺せるぐらい弱っていたとしても、生きているのならいずれは回復する筈。元の力を取り戻せば ― 或いは既に取り戻している可能性もゼロではあるまい ― 、人間が施した拘束など簡単に抜けてしまうだろう。

「お陰で、あの子との面談もスムーズにいきそうよ」

 そんな怪物と母が『対面』しようとしている。

 不安になるなという方が無理な話だった。

「ママ、夢路さんと会うの……? その、だ、大丈夫、なの……?」

「勿論……と言いたいけど、それで納得はしてくれないわよね。花中ももう、立派な大人なんだし」

「……………うん」

 こくりと、花中は頷く。子供というのが親の言葉を頭から信用する者を指すのなら、確かに花中はもう立派な大人だ。自分で考え、そこから導き出した答えと親の言葉が違うなら、不審とまではいかずとも疑問を抱ける。

 一人の大人となった娘を前にして、玲奈は心底嬉しそうに微笑んだ。その笑みに、小さな寂しさも含ませて。

「絶対、とは言えないわ。拘束に使っているのは私達の組織が開発した特殊なロープだけど、あれじゃあ今の栄にとっては安物の紙テープで縛り上げているようなもの。ちょっと力を込めれば簡単に脱出されるでしょうね」

「そんな……」

「でも、ほぼ大丈夫って言って良いんじゃないかしら。さっきも言ったけど、フィアちゃんにこっぴどくやられて、今じゃすっかり大人しいの。それにもしも逃げるつもりなら、今頃とっくに逃げてるでしょうね」

「……話をする気はある、って事?」

「私はそう信じてる。あとこれは主観的な意見だけど、あの子本人は悪い子じゃないのよ……悪い子じゃなかったから、こんな事になったのかもだけど」

 何か思うところがあるのだろうか。玲奈が浮かべた寂しげな表情の意図は、花中には分からなかった。

 とはいえ『主観』以外の話については、特段おかしなところもない。百パーセントの安心は無理でも、九十九パーセントほどの納得はしても良いと思える。不安は残るが、これぐらいならなんとか我慢出来そうだ。

 あとは、自分の『ワガママ』な気持ちの問題だけ。

 花中はフィアから手を離す。つないでいた手が解け、フィアがちょっとだけムスッとしていた。少しだけ申し訳ないが、我慢してもらう。

 今は、母の温もりを覚えておきたい。

 花中は玲奈にぎゅっと抱き付いた。玲奈は振り解く事もなく、花中をそっと抱き返す。匂い、感触、温かさ……全てを、花中は自分の身体と記憶に刻み込んだ。

 やがて花中の方から、玲奈と離れる。

「……お仕事頑張ってね、ママ」

 そしてこの言葉を伝えた。

 母は何を思ったのだろうか。自分の気持ちは伝わったのだろうか。いくら親子でも、花中と玲奈は『他人』だ。他人の心は覗けない。

 けれどもこの瞬間に限れば、しかと伝わったに違いないと花中は信じる。

「ええ、頑張ってくるわね!」

 玲奈が浮かべた満面の笑顔と、力強い言葉。

 今の花中が見たくて、聞きたかったものを、玲奈はちゃんと与えてくれたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――という感じでね、もうほんと可愛いの! 最高! うちの子ほんと最高よ!」

 そのような展開で交わされた家族の団らんをべらべらと喋り終えた白衣姿の玲奈は、酔っ払い以下のだらしない表情を浮かべていた。

 玲奈が今居る場所は、愛娘の自慢話をするには似付かわしくないというのに。

 此処はコンクリートの壁に覆われた、殺風景な場所だった。正方形をしている部屋の床と天井の四隅には、合計八つの監視カメラが備え付けられ、死角なく部屋を見張っている。天井には大きなライトが三つあり、うち一つだけが煌々と白い光を放って部屋を照らしていた。部屋と外界の境にあるのは鋼鉄製のドアで、今はしっかりと閉じられている。

 そして部屋の一部に金属製の柵が置かれ、牢獄を作り上げていた。

 その牢獄の中には、一体の怪物の姿がある。

 夢路栄()()()生物だ。その姿はフィアと戦った時――――今から二日前のものよりも禍々しく変貌していた。服を纏っていない体躯は僅かながら巨大化し、一・八メートルと大柄な男性並になっている。髪の毛は四本の角のような塊になり、背後へと伸びていた。目は黒目が肥大化し、表情や視線を物語るために必要な白眼が消えている。手足には鋼鉄製の拘束具があったが……監獄の隅には、壊れた拘束具が山積みにされていた。

 おぞましいその外見は、人間と呼ぶより悪魔と呼称する方が正確だろう。目の当たりにすれば一般人は恐怖を覚え、聖職者ならばガタガタと震えながら失禁するかも知れない。

 尤もその恐ろしい顔に今浮かんでいるのは、怒りや狂気ではなく、とても人間味のある呆れ顔だったが。

「……あなた何しに来たんですか」

「何って、娘の自慢話?」

「アホですか? あなたやっぱりアホですよね? なんで怪物相手に娘自慢してるんですか!?」

「アホって何よ!? 私の子、すっごい可愛いじゃない! 見たでしょ!? あの可愛さを後世に伝えないなんて、正しく人類文明の損失だわ! 出来る事なら世界中の通信網をハッキングし、娘の写真を全世界のPCのフォルダに送信したいぐらいよ!」

「なんか真顔でとんでもない事言ってるんですけどこの人ぉーっ!?」

 監視カメラを見つめながら、栄は困惑しきった顔で己の意見をぶつける。今頃カメラの向こうに立つ監視員達は、無言で栄の叫びに対し頷いているに違いない。

 玲奈はぷっくり頬を膨らませ、不満を露わにした。まるで、旧友との飲み交わしを楽しむように。緊張感のない玲奈の姿を前にして、栄は大きなため息を吐いた。

 すると室内にちょっとした風が吹き上がる。玲奈が着込んでいる白衣が、バタバタと音を立てた。

 次いで部屋を照らしていたライトの光が、白から黄色へと変化する。

 玲奈は素早く片手を上げ、手首を横に振る。しばらくするとライトの色は、黄色から白へと戻った。

 栄は呆れたように肩を竦める。

「ため息一つでこの過剰反応です。息苦しいったらありゃしない」

「みたいね。ちょっと警戒を緩めるよう進言しとく?」

「……あまり私に入れ込まない方が良いですよ。どうせ私との対話だって、あの事態に対する責任だとかなんだとかじゃないですか? やり過ぎると却って評価が下がりますよ」

 窘めるように栄が語ると、玲奈はくすりと笑った。折角の忠告を笑われ、栄は拗ねるように唇を尖らせる。

「うん、何時もの栄ね。優しくて、人の心配ばかりしてる」

 その拗ねた顔も、褒められた途端そっぽを向いてしまうのだが。青白い顔がほんのり赤らんだように見えるのは気の所為か。玲奈は一層気分を良くする。

 ニコニコ微笑む玲奈に、再び顔を合わせた栄は疲れたように肩を落とした。

「あの『化け物』が、集合的意識に飲まれていた私をボコボコにしてくれましたからね。主軸だった柱がへし折られたお陰で我を取り戻すとか、なんの皮肉なんだか」

「お陰で話しやすくて助かるわ。なんかこう、変に高次元な精神体になってても困るじゃない? 今日は何を食べたいって聞いて、果てなき命の子らがどうたらこうたら言われても意味分かんないもの」

「あー、なんかそんな怪物がいるって話は聞いた事あります。人間が用いるあらゆる言語で応答してくれるのに、何言ってんだかさっぱり分からないってやつ」

「そーそー。ま、その所為で上層部があなたに期待してる訳なんだけどね」

 何気なく、話の中で語られた玲奈の言葉。

 その言葉に、栄はぴくりと口許を震わせる。

 そう、まるでその言葉がスイッチだったかのように、全てが切り替わる。

 場の空気も、玲奈の纏う雰囲気も。

「上層部としては、あなたの得た身体能力に興味があるみたい。あなたは人間と同じ言葉を話し、同じだけの知能がある。つまりコミュニケーションが可能。だとすれば、あなたの力を解明するのは、暴れ回る怪物に注射器を突き立てるより容易い……そんな感じの思惑ね」

「ご苦労な事で。この力を解明したら、今度は兵隊の量産化ですかね?」

「恐らく、それも視野に入ってるとは思うわ。むしろ本命かも」

「……笑えない冗談ですね」

「生憎うちの職場は昔からユーモアが足りないの」

 玲奈の言葉に、栄は息を詰まらせるように口を噤み、ゆっくりと吐息を付く。今度は、室内に風は吹かなかった。

「この牢屋は私の脱走防止に努めているというポーズじゃなくて、奪還に来た奴等を検知するためのものですか」

「そういう事。サンプルを手放したくないのもあるし、下手に過激な組織に渡って、万一実用化されて()()()()に勤しまれても困るのよ」

「成程」

 ぽつりと呟いて、栄は嘲笑うような鼻息を吐く。

「なんとまぁ、無駄な努力をしているようで」

 そして心から見下した感想をぼやいた。

 玲奈は栄の言葉を否定しない。玲奈自身、栄と同じく上層部の狙いが『無駄な事』だと思っているのだから。

 確かに栄の力は凄まじい。ほんの数人分のエネルギー補給で、銃などで武装した兵士数十人分の戦闘能力を得られる。百人を超えればちょっとした怪物級の戦闘力だ。

 もしもこの原理を完全に解明し、尚且つ副作用を抑える事 ― 例えば人間以外の、量産が容易な豚や牛でエネルギー補給を代替するなど ― が出来れば、怪物級の戦闘員を大量に用意出来るだろう。

 怪物が世界中で出現し、その生態解明と『封じ込め』が重大な課題となっている昨今、強大な力が欲しくなるのは自然な考え方である。実際強化兵士の存在は、怪物対策であれば大いに役立つ筈だ。

 怪物対策であれば。

「……フィアでしたっけ。あの怪物の名前は」

「うちの娘の友達を怪物呼ばわりしないでくれる? あと、組織では変異性通常種と呼んでるわ。あの子達はミュータントって名乗ってるけど」

「じゃあミュータントで良いですよ。私はあのミュータントと戦っています。いや、戦いと呼べるほどのものじゃありませんが……だからこそ分かるんです。アレは、人類全員が怪物になったところで手に負えるものではない、と」

「奇遇ね。私も同じ意見よ」

 玲奈は栄の言葉に同意する。

 玲奈もまた、栄とフィアの戦場の『目撃者』だ。

 あくまで遠くから見ていたイメージだが……フィアからは、最後まで真剣味を感じられなかった。栄も、フィアはあくまで遊びのつもりで戦っていたと語る。

 人智を超え、怪物を超えても、ミュータント(フィア)に『死力』を尽くさせる事は叶わない。それがあの戦いに関わった二人が出した結論だった。莫大な資金と時間を投じて人類強化について研究したところで、得られた成果は役に立たないという認識でも一致している。

 だが、

「それでも、私は研究するけどね」

 導き出した結論は違っていた。

「あなたの身に起きた事象を研究すれば、寄生蜂の生理作用の解明に役立つかも知れない。生理作用が分かれば、そこから寄生蜂が生態系に与える影響を更に深く理解出来るかも知れない」

「仮に既知以上のものが得られなかったなら?」

「『現在最有力の仮説は恐らく間違っていない』事を証明する、重要な研究となるわね。それにその可能性はかなり低いわ。人間に寄生可能な事、標本状態からの蘇生……これまで想像もしなかった未知の現象が、あの一日でこれでもかというほど起きていたんだから」

 玲奈はキッパリと、己の信念に従った答えを返す。

 上層部の意向など関係ない。

 自然の摂理を解き明かし、この世界の『ルール』を知る。ルールが変性しているというのなら新たなルールを知る。そして適応するために何が何が必要なのかを考える。それこそが人類の明日を切り拓く方法だと玲奈は信じていた。

 加えて、強い兵士を量産するよりも――――そっちの方がわくわく出来る。

 生命の進化は常に行き当たりばったりだ。今の環境に適したものが繁栄し、未来の環境に適していたものが大量絶滅を生き残る。それは両立するかも知れないし、或いは成り立たないかも知れない。

 強靱な軍隊を作る事と、世界のルールを理解する事。人類が未来永劫存続するための方法がどちらなのかなんて、その時が来るまで分からない。どちらでも良いかも知れないし、どちらも間違っている可能性だって十分にある。

 だったら、より自分がわくわく出来る方を研究したい。例え自分のプランでは何も救えず、『終わり』が来ようとも、満足して死ねるように。

 それが玲奈の正直な気持ちだった。

「さぁて、そろそろ本題といきましょうか。血液サンプルから取ってみても良い?」

 何処からともなく取り出した一本の注射器を持ち、玲奈は栄に尋ねる。

 その顔に浮かぶのは、子供のように純粋な笑み。

「……どうぞご自由に。そんな細い針が刺さるかは分かりませんけどね」

 そんな顔を見せられた栄は肩を竦めながら、玲奈の方へと自らの腕を差し出すのであった。




という訳で今回はフィア無双でした。
怪物相手になら楽勝なのです。怪物相手なら。

次回は今日中に投稿します。


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幕間十五ノ十六

 真冬を迎えた日本のとある山奥。

 森の木々は寒さに耐えるべく葉を落とし、幹と枝だけの姿となっている。地面は秋に降り積もった真新しい落ち葉で覆われ、赤褐色の色合いに染まっていた。下草は生えておらず、開けた空間が広がっている。

 生物達にとって、この景色は辛く厳しいものだろう。隠れる場所はない。食べ物もない。寒さばかりが厳しく、生きるのが辛い……故に多くの生物は姿形を変えて休眠し、一部の生き物達は秋に蓄えた栄養を使いながら細々と生き長らえる。

 この過酷な世界に、賑やかな命の歌声は似合わない。背筋が凍り付くほどの静寂こそが相応しい。

 だが、今日の森は賑やかだ。

「あははははっ!」

「みゅわーっ」

「んだぁー」

 暢気な幼女達の声が、あちらこちらからしているのだから。

 幼女と言ったが、声の主の姿は人間とやや異なるものだった。身長は約五十センチ。頭が大きく、身体の三分の一ほどを占めている。胴体は寸胴で、正しく幼児体型のそれ。手足がとても短く、坂道で転べば、ボールのように何処までも転がっていきそうだ。

 そして何より特徴的なのは、その間の抜けた顔付き。

 所謂ゆるキャラだろうか。いや、ゆるキャラでもここまで緩いものはそうあるまい。兎にも角にも覇気がない。頬はぷるんぷるんしていて、目は丸くてつやつや。口は小さく、鼻は見当たらない。五歳児が書いた落書きのような、著しくデフォルメした人間のような……思い付く表現は多々あれど、かの間抜け面を的確に言い表す語句はどの言語にもないだろう。

 一つ間違いなく言えるのは、一般的には『可愛い』と呼ばれる類の見た目である点ぐらいだ。雛鳥のふわふわとした羽毛のような、とても温かな純白の毛玉を服として着ており、ファンシーさに拍車を掛けている。履いている靴は子供靴のような可愛いもので、よたよたとした歩みにとても似合っていた。

 尤も、全員同じ顔をしているとなると些か不気味な光景にも見えるだろうが。

 幼女らしき生き物……仮に幼女もどきと呼ぶとして……幼女もどき達は五匹も居て、それぞれ子供並の身体能力で森の中を駆けていた。時折転んでころころと転がり、助けようとした誰かも一緒に転び、巻き込まれた子までもころころ転がる。幼女もどき達の山が出来ると、他の子はその中に跳び込んで、山は呆気なく崩れた。とても元気いっぱいだった。

「ねー、おかーさまー」 

 そうして楽しく遊んでいると、一匹の幼女もどきが他の幼女もどきに話し掛ける。『おかーさま』と呼ばれた幼女もどきは、こてんと首を傾げた。

「なにー?」

「おなかすいたのー。ごはんまだー?」

「あ、そうだーおなかすいてたんだー」

「ごはんごはーん」

「ごはんまだー?」

 一匹が空腹を訴えると、続けて他の三匹も空腹を主張し始める。『おかーさま』と呼ばれた幼女もどきは「そっかー」と暢気な返事をした。

「じゃあ、そろそろおうちにかえろっかー」

「そだねー」

「そーしよー」

「さんせー」

「ごはーん」

 『おかーさま』の提案に、四匹の幼女もどき達はろくに考えた素振りもなく同意する。五匹はてくてくと、森の奥に向けて歩き出した。

 ――――彼女達の歩みは異様だった。

 その丸い靴と子供らしい覚束ない歩みは、どう考えても森の中を進むのに適さない。ふかふかとした落ち葉を踏み締めるにはしっかりとした靴底と、強い体幹が必要だからだ。ましてや切り立った崖など、四肢をしかと使わねば大人でも降りられない。

 されど幼女もどき達は難なく前へと進む。分厚く積み上がった落ち葉の上をするすると、切り立った崖すらまるでそこが平面な床であるかのように()()()()()乗り越える。

 やがて幼女もどき達が辿り着いたのは、一本の古木。寒さに耐えているのではなく、命が尽きたからこそ葉を持たないその木には大きな洞が出来ていた。大きなと言っても、一メートルもないような高さと横幅だが。

 幼女達は小さな身体を洞にねじ込み、奥へと入る……と、彼女達はすっと姿を消した。

 洞の中に、よく整備されたスロープがあるからだ。

 スロープにはマーブル模様が描かれており、ワックスでも塗られているかのように艶やか。長さは果てしなく、何十メートル、何百メートルも下まで伸びている。

 しばらくして幼女もどき達はスロープ ― というより子供が夢見る特大滑り台のような代物 ― の終わりに到着。ぽーんっと投げ出されるように空を飛んだ幼女もどき達は、しかと着地……したのも束の間、後ろから飛んできた別の幼女もどきにぶつかられ、すってんころりん。再び幼女もどきの山が出来る。

「おかえりー」

「ただいまー」

 そうしてスロープを使った幼女もどき達に、その場に居た別の幼女もどきが出迎えた。出迎えられた幼女もどきの一人が、元気に暢気に返事をする。

 そしてその返事は周囲へ瞬く間に広がる。

 だからこの場に居た、()()()()幼女もどきが、一斉に帰還者達の方へと振り向いた。

「おかえりー」

「おかえりー」

「おかえりー」

「おかえりー」

 口々に幼女もどき達は、帰還者達を出迎える。ぞろぞろかさかさと歩み寄り、取り囲む。

 帰ってきた幼女もどき達もまた立ち上がり、この空間に居た幼女もどき達と向き合う。

「おなかすいたー。ごはんあるー?」

「あるよー」

「ごはんだってー」

「ごはんがかりだれー?」

「わたしだー」

「わたしもー」

 一匹が伝えた訴えは、あっという間に彼方まで広がる。わいわいと賑やかな声が空間に満ち……やがてペットボトルのような、ストロー付きの半透明な容器が運ばれた。中身は液体で、ちゃぷちゃぷ音を立てている。

 帰還者達は容器を受け取り、ちゅーっと中身を吸い取る。ただし一口分だけ。それだけで彼女達は誰もが満足したような、蕩けた笑みを浮かべた。

「ありがとー」

「まんぷくー」

「でも、もうごはんののこり、すくないよ」

「すくないよねー」

「おはなもくだものもないんだもーん」

「おかーさまー、どーするー?」

 わいわいざわざわ。幼女もどき達は口々に『おかーさま』に尋ねる。『おかーさま』は天を仰ぎながら、ぼけーっと考え込み……

「おかーさまー。あれ、かんせいしたよー」

 その『おかーさま』に、一匹の幼女もどきが報告を行った。

 ざわざわとした話し声が周囲に広がる。誰もが『アレ』とはなんであるのかを理解していたがために。

 そして誰もが笑みを浮かべた。

 一様に、寸分違わず同じ微笑み。感情の色がなく、ただただ口角が上がっただけの顔。

 誰もが言葉を使わず訴える。それを使えと、今がその時であると、何を迷う必要があるのかと。

 『おかーさま』も理解する。

 いよいよ、自分達の計画を実施する時が来たのだ。

「よーし。できあがったみたいだから、このまえはなしたけーかくをはじめまーす。みんなー、のりこんでー」

「「「「はーいっ!」」」」

「「「「みんなー、のりこめだってー!」」」」

 あからさまに今決めた、計画性の欠片もない計画実行の指示。されど幼女もどき達は疑問やツッコミを口にせず、続々と返事と伝言を始めた。

 そして伝言を終えた者達から順に、足下の床を叩く。

 するとどうだ。床はぱかりと開き、幼女もどき達はそのまま下へと落ちていった。『おかーさま』も自分の足下を叩き、開いた床下へと落ちていく。

 数万もの数がひしめく幼女もどき達だったが、迷いない行動と伝言により、ほんの五分たらずで全員が床下に落ちた。

 訪れた静寂。しかしそれが続くのは、ほんの数十秒だけ。

 やがて世界が震え始めた。

 揺れが襲うのは、幼女もどき達が居た空間だけではない。この広大な空間が存在する、山そのものが震えていた。冬山とはいえ木々や動物達がひっそりと暮らしていた世界。シカが慌ただしく走り、クマが冬眠していた穴から這い出てくる。鳥達は全力で飛び、昆虫さえもが冷めきった身体を無理矢理動かした。

 だが、彼等の抵抗はほぼ無意味だった。

 幼女もどき達の居た空間が()()()()。空間は天井の上にある莫大な土砂をなんの困難もなく持ち上げた。幾万年もの月日不動を貫いた山体が崩落し、不運な動物や植物が土石に巻き込まれる。生物達は最後まで足掻こうとしたが、十数億トンもの土砂をどうこう出来る訳もない。為す術もなく、運悪くその場に居た殆どの命が潰える。

 大自然の権化たる山が崩壊するのに、一分と掛からなかった。最早そこにかつての山は存在しない。あるのはひっくり返され、茶褐色の大地が剥き出しとなった大穴と――――山の跡地を覆うほど巨大な影のみ。

【さぁ、はっしんだー!】

 壊滅的な破壊の中で、幼女もどきの明るい声が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女達の『帝国』は、その言葉通り動き出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第十六章 異種族帝国

 

 

 

 

 

 




さぁて、何処かの山から現れました謎存在。
最近怪物やら古代生物やらばかりでしたが、次回は久しぶりに現実の生物のミュータントです。
暴れっぷりは今まで以上ですけどね!

次回は8/2(金)投稿予定です。


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第十六章 異種族帝国
異種族帝国1


 二月を迎え、日本列島の寒さは最高潮に達していた。

 平年でも特に寒いこの時期だが、今年は例年と比べ際立って寒い。過去十年より平均気温が八度ほど下がる見通しだと気象庁は発表している。今日の朝の気温もマイナス六度と、この地域では滅多にない寒さとなっていた。雲一つない空で朝日は燦々と輝いていたが、地上に降りた霜が溶ける気配はない。

 あまりにも過酷な寒さ。怪物による現環境破壊、それによる気候変動が原因ではないかといわれているが……定かではない。地球環境とは様々な ― 太陽活動の強弱や人類が排出した温室効果ガス、火山噴火や地球の『色合い』など ― 要因が複雑に絡み合った結果生まれるものであり、これが全ての原因だと呼べるものはないからだ。

 大自然の摂理を解き明かすには、人間の英知というのはまだまだ弱々しい。ましてやコントロールなど夢のまた夢だ。起きてしまった事象に対し、その場しのぎをするのが精いっぱい。

 今日の花中の格好も、そうしたその場しのぎの一環だ。高校の制服の上に着るのは、学校指定のコートの中でも特に防寒性の優れたもの。中にある羽毛がしっかりと体温を捉え、外の寒さから守ってくれる。首回りにはふわっとした厚みのあるマフラーを巻き、耳当ても装着。手袋も靴下も厚手のものを身に着けた。

 家にある衣服を総動員し、最高の温かさを作り上げた。極寒という、現代人類には手に負えない自然の猛威に敬意を表した結果が、今の花中の姿なのである。

「うふふふふ今日の花中さんはもこもこしていて可愛いですねぇんふふふふー」

「可愛いわねぇ。幼稚園児みたいで」

「確かに幼稚園児にいそうだよね」

 なお、人外の友達三匹には子供扱いされたが。フィアは背後から花中に抱き付き、両サイドには慈母のように優しい笑みを浮かべたミリオンとミィが並んで歩く。友達に囲まれてとても嬉しい陣形であるが、中心に立つ花中は赤らんだ頬をぷくりと膨らませた。

「むぅぅー……子供扱いしないでよぉ」

「いやぁこれはちょっと無理ですねぇ。だって実際とても可愛いですし勿論花中さんは何時も可愛いですけどね」

「まぁ、でも幼稚園児は言い過ぎたかもね」

「だね。精々小学生ぐらいだよね……くくく」

 純粋に花中を愛でるフィアに対し、ミリオンとミィが顔を逸らして笑い出す。

 自分が小学生並に小さい事は自覚しているが、小学生だの幼稚園児だの言われると流石にムッとくる。花中は唇を尖らせ、自分の身体を抱き寄せているフィアの腕をギュッと握り締めた。

 そんな他愛ない話をしながら住宅地の中を歩いていると、花中は道路の端に立つ二つの人の姿を見付ける。場所、時間、共に事前に決めていた通り。花中はちょっと歩みを速めて、フィア達も足取りを合わせてくれる。

「おはよう、ございます」

 立っていた二人にある程度近付いた花中は、花中としては大きな声で挨拶。

「おっ。大桐さん、おっはー」

「おはよう、大桐さん」

 人の姿こと、加奈子と晴海は花中よりずっと大きな、普通の声で挨拶を返す。次の瞬間加奈子は目を輝かせ、晴海も微笑ましげな表情を浮かべる。

 ……自分の両サイドを歩く人外二匹と似たような表情だったので、花中は上機嫌な笑顔を一瞬でむくれ面に変えた。

「……なんですか。その笑顔は」

「いや、今日の大桐さんはまた随分と可愛いなぁと思って」

「うん。これはアレだね、ハムスター的な感じ」

「ほんと、大桐さんは小動物ファッションが似合うわねぇ……高校生なのに」

「動物を模したタイプのパジャマとか、素で似合いそうだよねー」

 尋ねれば、予想通りの答えが。花中はますます頬を赤くして、ぷくりと膨れる。耳当てがいらないぐらいには、頭はぽかぽかと温まっていた。

 どうしてこうも子供扱いされるのか。確かに背は低いが、しかしあと二ヶ月で高校三年生の身である。顔立ちとか雰囲気とか、そうしたもので大人っぽくなってる筈ではないか……と思ってもみたが、よくよく考えると自分の顔立ちがこの数年で劇的に変わった気はしない。スタイルも、ほぼ変化なし。このまま歳を重ねても、なーんにも変わらないような気がしてくる。

 あれ? もしかしてわたし、二十歳になっても子供扱いされそうな感じ?

 気付いてはならぬ真実に至ってしまい、愕然とする――――そうして花中の頭がしょうもない絶望に浸っていた時、不意に甲高いアラームがあちこちから聞こえてきた。びくりと花中は飛び跳ね、晴海や加奈子も目を見開いて驚きを見せる。平然としていたのはフィア達だけだ。

「花中さん。スマホがなんか鳴ってますよ」

「え? あ、そ、そっか」

 変わらず冷静なフィアから指摘された花中は、コートの内側に手を入れ、内ポケットの中を弄る。そこにしまったスマホを取り出せば、アラーム音は一層強く聞こえた。

 花中はすぐにスマホの画面を見る。

 そこに表示されていたのは、緊急地震速報を知らせるものだった。

「うわー、どうしようか晴ちゃん?」

「どうって言われても……」

 晴海達もスマホを取り出しており、けたたましく鳴り響くスマホの画面を見てぼやく。

 大きな地震が起きれば、例えば家の塀などが崩れてくるかも知れない。道路が陥没したり、マンホールの蓋が外れたり……道路が歪めば電柱が倒れて、切れた高圧電線が襲い掛かってくる可能性もある。下手をせずとも大怪我、死の危険だって否定は出来ない。しかしながら此処は住宅地のど真ん中で、身を隠せる場所など何処にもなかった。

 なので本来はもっと慌てるべきなのだが……花中達の傍には、天災すら凌駕するパワーの持ち主が三匹も居る。例え塀が崩れようが、道路が陥没しようが、高圧電線が襲い掛かってこようが、フィア達の前ではそよ風のようなものだ。小娘三人を守るぐらい造作もない。

 加えてこの警報、条件次第では外れる事もままあり。

「あ、アラーム消えた……何もなかったね」

 今回は揺れ一つ感じる事もなく、警報は終わりとなった。

「花中さん花中さん。先程の五月蝿いやつはなんですか?」

「えっと、さっきのは、地震が来るよーって、知らせてくれるやつだよ。偶に、外れるけど」

「ふぅん人間は教えられないと地震が来る事も分からないのですか。そんなのでよく今まで絶滅しないで済みましたね」

「あはは、そうかも」

 フィアの意見に、花中は笑いながら同意する。現代は情報化社会と呼ばれるほど多量の情報が飛び交っており、世界の裏側の事も十数分後には知れるほど高速化している……が、どれだけ高速化しようとも、『足下』に来た情報を最初に知るのは自分自身だ。

 人智を超えた恐ろしい怪物達は、人間の手が及ばない領域に潜んでいる。そして彼等は突然人の領域に姿を現す。情報を待っていては、怪物の襲来は予測出来ないだろう。人類が怪物達の襲来から生き残るには、科学の発展に頼るよりも、もっと己の野生を研ぎ澄ます必要があるかも知れない。

「えーっと……震源は静岡の方みたいね。うわ、震度六弱だって」

 尤も、遠く離れた事を正確に知るには、やはり科学技術が一番だろうが。

「うわぁ、結構な大地震じゃん」

「ええ。でもまぁ、最近の家は耐震性凄いし、直下型で津波の発生はないみたいだから、そこまで被害は大きくならないんじゃない?」

「ふぅーん。でも静岡ってさ、富士山の近くだよね。噴火とかの予兆だったりして」

「……縁起でもないわねぇ」

 加奈子と晴海の会話を聞きながら、花中は頭の中で現状の予測を組み立てる。

 建築技術の進んだ現代日本で、最も注意すべき地震被害は津波であろう。問答無用で全てを持ち去る悪夢のような大災害だ。その心配がないとなれば、晴海が言うようにあまり大きな被害は出ない筈。

「……んー……?」

 そうして花中が安堵している横で、何故か加奈子が眉を顰めていた。何か不穏な情報でも見付けたのかと思い花中は寒気を覚えるが、しかし加奈子の顔はそこまで真剣にも見えない。

「えっと、小田さん? どうかしましたか?」

「ん? いや、大した事じゃないんだけどさぁ」

 尋ねてみると、加奈子は手をひらひらと横に振りながら笑顔を見せる。

「なんか、SNSでやたらUFOネタが挙がっててさー。しかもさっきの地震に絡めた内容なんだよねぇ」

 そうしながら伝えた話は、確かに大した話ではなかった。

「あー……なんか、この地震は、宇宙人の仕業、みたいなの、でしょうか?」

「ううん。そーいう感じじゃなくて、単に目撃しましたってだけの話。写真もアップされてるね。まぁ、大方閲覧数増やしたいだけだと思うけど」

「不謹慎ね。怪我人とかいるかと知れないのに……」

「いや、不謹慎な奴はまだマシじゃないかなぁ。本気で言ってるのに比べれば」

「そう、ですね。ネットの書き込みとかで、その手のものを見ると、ちょっと引きます」

「あ、大桐さんもそーいうのは引くんだ?」

「一応、親が科学者なので、オカルトはあまり……宇宙生物が来ているのに、UFOを否定するのも、変な話、ですけどね」

 わいわいと、平凡な日常会話を花咲かせる花中達。地震の被害が小さそうなので、安堵した、というのもある。女三人寄れば姦しい、とはよく言ったもので、乙女達の会話は中々止まらない。

「こらー、そこの小娘達ぃー。いい加減学校に行かないと遅刻するわよー」

 ミリオンからの忠告がなければ、本当にそうなってもおかしくなかった。

「おっと、そうだった。うっかり話し込んじゃったわね」

「ご、ごめんなさい! 気付かなくて……」

「いやー、これこそ連帯責任ってやつじゃない? あとまた無駄話を始めるより、さっさと行こー」

 加奈子が先に歩き出し、晴海も続けて進み出す。花中も慌てて二人の後ろを追った。

 もしも。

 もしも一人でじっくりと考えたなら、与えられた情報を鵜呑みにしなければ、花中は気付けたかも知れない。

 静岡県から花中達の暮らす町がある地域は、日本列島という括りで見ればかなり近い。近いのに、自分達の足下は全く揺れなかった。震度六という大地震が起きた筈なのに。

 そして先程から押し黙っている友の顔を見たなら、確信を持てただろう。

 彼方を見据えるフィアとミィの目に、強い警戒心が宿っていたのだから――――

 ……………

 ………

 …

「おはよー!」

「おはよー」

「お、おはようございます」

 自分達の教室に辿り着き、加奈子は元気よく、晴海は極々普通に、花中は少しおどおどしながら朝の挨拶をする。フィアとミリオンは無言のまま花中達と共に教室へと入った……ミィは例によって校舎の外で留守番だ。廊下が壊れてしまうので。

 緊急地震速報後の立ち話で、普段より少々到着が遅れた花中達一行。教室内は何時もの到着時より少しだけ多くの生徒が居て、何人かが挨拶を返してくれた。自分の挨拶に反応がある事に、花中は少し感動する。この程度の事は最早日常なので、本当にちょっとだけだが。

 それに今日は、教室の雰囲気が少々奇妙である。感動は何処かに飛んでいき、花中は教室内を見渡し……覚えた違和感が間違っていないと確信する。

「なんか皆さんやけにスマホばかり見てますね」

 花中に抱き付いたままのフィアが指摘するように、スマホを見ている生徒がとても多いのだ。朝からスマホ弄りをしているクラスメイトなんて珍しくもないが、今日はその数がかなり多いように見える。

 花中が疑問に思う中、共に教室までやってきたミリオンがスマホ弄りをしている男子の集団へと歩み寄った。完全な部外者であるミリオンだが、フィア同様花中のクラスメイト達とはしっかり交流している。大半の男子生徒との仲も良好だ。

「おはよう、みんなして何を見ているのかしら?」

「あ、ミリオンさん。おはよう」

「おう、おはよう。今日、緊急地震速報があっただろ? あれからなんかやたらUFOの目撃例があってよ」

「UFO?」

 ミリオンと男子生徒の会話に聞き耳を立てていた花中は、此処でもUFOが出てくるのかと少し呆れた。同時に、ちょっとした疑問も抱く。

 確かに地震直後には、UFOの目撃例が増えるという話がある。それらの大半は、報道ヘリやドローンの見間違い、或いは地震という『異常さ』からなんらかの特殊性を見出そうとした結果だ。今回のSNS上の出来事もそうに違いないと、勝手ながら思っていた。

 しかし、いくらなんでも盛り上がり過ぎではないか?

 冷静に考えてみれば、地震発生直後に大量の投稿が生じるだろうか? 津波などによる壊滅的被害はないとしても、震度六もの大地震があれば多少なりと混乱が生じ、『悪ふざけ』をしている余裕などないと思うのだが……

「ちなみに、どんなUFOなの?」

「待ってろ、今見せる……ああ、この動画が良いな。ほらよ」

 ミリオンも花中と同じ疑念を抱いたのか、男子生徒達により深く尋ねる。と、男子生徒の一人がミリオンにスマホの画面を見せてきた。

 ミリオンはその画面を覗き込む。ミリオンの背中側からやり取りを見ている花中には、ミリオンがどんな動画を見て、どんな反応をしているのかは分からない。ごくりと息を飲んで、その反応を待ち……

「何コレ。映画か何かのプロモ?」

 首を傾げながら、男子生徒に訊き返した。

「あはは、そう思うよね。でもこれが、さっきの大地震の後に目撃されてるUFOの動画だよ」

「あんまりにも馬鹿馬鹿しくて、逆に広がってる感じだな」

「成程ね。でも、どうせやるならもうちょっとクオリティを上げてほしいわねぇ。ここまで露骨だと、逆にフィクションって言ってるようなものじゃない。CGの質は高いと思うけど」

「だよねー」

 和気藹々と交わされるミリオン達の会話に、花中は胸を撫で下ろす。どうやらただのおふざけ映像らしい。地震直後に大量に流れるあたり少々民度の低さを感じるが、何もないならそれに越した事はない。

 それと今更ながら、多量のUFOが目撃される事態について、可能性が一つ思い浮かんだ。

 怪物の出現だ。なんらかの怪物が大量発生し、空を埋め尽くす。その怪物が鳥や飛行機に似ていない、例えば円盤型飛行生物だったなら、誰もがUFOとして動画を投稿するに違いない。もしもそんな事が起きたなら、間違いなく日本は終わりだろう。

 尤もミリオンがフィクションと断じたからには、その可能性は低い筈。いや、むしろ自分より早くこの可能性に気付いたからこそ、クラスメイト達が見ている『UFO』の正体を確かめようとしたのかも知れないと花中は思う。

 自分の浅はかさを猛省しつつ花中が安堵していると、ミリオンは男子生徒達に手を振りながら別れる。それからすたすたと花中達の下へと戻ってきた。

「あ、おかえりなさ」

「さかなちゃん、今どんな感じ?」

 そして花中の出迎えを無視して、フィアに声を掛ける。

 いきなりの無視に、声を掛けた花中はポカンとなった。傍に居た晴海や加奈子も同じだ。

 例外は、ミリオンに話し掛けられたフィアのみ。

「かなり接近しています。そろそろ見えてくるんじゃないですかね……敵意は感じませんけど」

「そう。私も同じ意見だけど、直下はヤバいかも。一応距離は取りましょ」

「んー私はそこまでせずともと思うのですが……まぁ安全第一ですかね」

 フィアとミリオンは素早く意見を交わす。難しい言葉は使っていない二匹だが、花中には彼女達が何を話しているのか分からない。何か、大事なところを聞き逃しているような違和感を覚える。

 しかしその違和感の原因を追求する事は出来なかったが。

 何故ならフィアが花中に抱き付いたままその身を反転。堂々と教室から出たからだ……無論、ホームルームが間もなく始まるから教室に居なければならない花中を引き連れて。

「……え? え、フィアちゃん?」

「すみません花中さん今日は学校を休みましょう」

「えっ? えっ?」

 いきなりの一日休学宣言に、花中は困惑してしまう。学校を勝手に休むのはダメな事。しかしフィアがなんの理由もなしに、無理矢理自分を学校から連れ去ろうとするなんて思えない。

 ミリオンもフィアと共に教室から出て、フィアの隣に並ぶ。フィアを止める事はしない。二匹はかなりの早歩き ― 人間からすると全力疾走染みた不可思議スピードを出しながら ― でどんどん教室から離れていく。

 ついには玄関までやってくると、フィアは花中をお姫様抱っこの体勢で持ち上げ、ミリオンは下駄箱から花中の靴を取り出した。履かせる暇などないと言わんばかりに。

「ちょ、ちょっと待って!? 何? 何してるの!?」

 ようやく我を取り戻した花中は、慌てて二匹の友達を問い詰めた。

 フィアはミリオンの顔を見遣り、ミリオンは肩を竦める。

「待ちなさいそこのケダモノ共っ! 大桐さんを何処に連れて行くつもり!?」

「何々? なんかあったのー?」

 そこでほんの僅かながら足を止めたお陰か。後ろから聞き慣れた声が聞こえるようになった。

 花中がフィアの肩を登り、身を乗り出すようにして背後を見れば、そこには息を切らしてこちらに走ってくる晴海と加奈子の姿がある。どちらも通学鞄を持ったまま。すぐに追い駆けてくれたらしい。

 友人達の行動に嬉しさを覚えつつ、花中はフィアとミリオンの顔を見る。

「……どんな感じ?」

「もうそこまで来てますね」

「そう、思ったより速かったわね」

 ミリオンが尋ねると、フィアは呆れたように答える。ミリオンはため息を吐き、諦めたように肩を落とした。

 次いで、世界が変わる。

 突如として、辺りが暗くなったのだ。しかもちょっと薄暗くなった程度ではない。まるで夜中のような、濃密な暗闇が校内を満たしたのである。近くにあるフィアの顔どころか、自分の手すらろくに見えない状況だ。

「ふぇっ!? な、何!?」

「停電かな?」

「朝なのにこの暗さが停電な訳ないでしょーが!」

 混乱する花中の問いに、加奈子がボケて、晴海がツッコミを入れる……トリオ漫才のように流れてオチを付けたが、周囲が光学的に明るくなる気配はない。

 いや、そもそも晴海が言うようにこの暗さは異常だ。今は朝のホームルームすら始まってない早朝。この時間帯の太陽ならば、例え分厚い雨雲に阻まれようとも、読書するのに支障ないぐらい地上を照らしてくれるもの。快晴から一気に暗くなり目が慣れていない事を差し引いても、周りが見えないほど暗くなるとは考えられない。

 しかも段々と周囲の気温が低下しているのか、寒さが強くなってきた。日光がなくなった事が原因だろうが、局所的に暗くなっただけでは考えられないほど急激である。この暗闇現象が、かなり広範囲で起きているのだと推測出来た……尤も、『何』が起きたのかは一層分からなくなったが。

「ふぃ、フィアちゃん? 何があったの……?」

「ああじゃあ見てみますか? 丁度真上に来ていますし」

 堪らずフィアに尋ねると、フィアは危機感のない口調で提案してきた。

 あまりにも能天気な意見に花中が思わず頷くと、フィアは早速とばかりに歩き出す。暗くて周りはよく見えないが、方角的に校舎の出口の方へと進んでいるらしい。

 花中が思った通り、フィアは校舎の外へと出た。屋内よりも野外の方が若干明るく、注視すればものの輪郭が見える……外でもこの程度だ。これなら月夜の方が遙かに明るいだろう。

 一体何が起きている?

 事態の原因を予想すら出来ない、が、要因は察しが付く。外が暗いという事は、何かが太陽光を遮っているのだ。

 だから花中は頭上を見上げ、そして目の当たりにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分達の町を覆い尽くすほどの、超巨大円盤の姿を――――

 

 

 




初っ端から出現する謎円盤。
個人的にはインディペンデンス・デイに出てくる系の、真っ平らな円盤が好きです。

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国2

 大きさは、ざっと十数キロはあるだろうか。

 少なくとも地平線の彼方まで、それは空を覆っていた。辛うじて視界内に弧を描く縁が見えたのでこれが円盤型の物体だと判断出来たが、見えなければ『天井』とでも認識したかも知れない。これだけ巨大ならば確かに辺りが夜のように暗くなるのも頷けるというもの……存在自体が非常識だ、という点に目を瞑ればだが。

 空飛ぶ超巨大円盤。

 それこそがこの辺り一帯から太陽を覆い隠した元凶であり、今、花中達の頭上に陣取るものの正体であった。

「な、なな、何これぇっ!?」

「あらあら、間に合わなかったわね……今のところ、どんな感じかしら?」

「特に何も。存在感はあるので不愉快ですがヤバい気配はないですね。個人的には叩き落としたいですがそれはそれで面倒そうですし放置でも良いかと」

「さかなちゃんもそう言うなら、まぁ、それで良いかしらね」

 動揺する花中を余所に、傍に立つミリオンと花中を抱き上げているフィアは淡々と話を交わす。何を知っているのかと二匹に問い詰めたくなる花中だが、止めておいた。会話の雰囲気からして、『野生の勘』で存在こそ察知したが、正体などは分かっていない様子だからだ。

 何より話を訊くのは後でも出来るし、知ったところでただの人間である自分には彼女達の『手伝い』すら満足に出来ない。それよりも情報収集を優先しようと、花中は頭上の円盤を観察した。

 しかし見れば見るほど謎だ。

 流石に宇宙人の乗り物(UFO)が地球に来たとは考えていない花中だったが、無意識に円盤はとても機械的なものだと思い込んでいた。事実表面の装甲は研磨されたように滑らかで遠目には凹凸など見られず、照明らしき赤い明滅や出入り口のような切れ目など機械的要素が多々確認出来る。

 だが一点……表面に描かれた紋様だけは違う。暗くてよく見えないが、装甲の色合いは基本的に黄土色で、そこに複雑怪奇な模様が刻まれていたのだ。所謂マーブル模様と呼ばれる類のものなのだが、何故機械的要素の強い円盤にこんな不規則な模様があるのかさっぱり分からない。人間的なデザイン感覚ではとても歪な組み合わせに思え、謎に感じる。

 飛行原理も理解出来ない。見える範囲で火を噴いているエンジンなどは確認出来ず、プロペラなども存在しないようだ。そもそも現代科学でこれほどの巨大物体を浮かせようとすれば相応の浮力が必要になり、その浮力を発生させれば反作用により地上では台風すら生温い爆風が吹き荒れる筈である。しかしながら現実の地上は穏やかそのもの。いや、無風と呼ぶべきか。一体どのような原理であの円盤が浮いているのか、全く分からなかった。

 加えて耳を澄ましてみても駆動音は聞こえず、何処が動力源なのか見当も付かない。フィアのような人外の聴力ならば何か捉えている可能性はあるので、後で訊いてみようと花中は考える。

「大桐さん、どうし――――ひぇっ!? 何あれぇ!?」

「うわぁ、マジモンの異星人?」

 そうして円盤についての見識と疑問を深めていたところ、背後から聞き慣れた悲鳴と、のんびりした声が聞こえてきた。振り向けば、そこには仰け反って驚く晴海と加奈子の姿が。一足先に外へと出た自分達を追い、空を見上げているところを真似したのだろう。

「お、大桐さん!? な、何あれ!?」

「わ、わたしにも、さっぱり……」

「いやー、いきなり暗くなったから何かあったのかと思ったけど、思ったより凄い事になってるね。宇宙戦争の前触れかなぁ?」

「なんでアンタはそんな落ち着いてるのよ!? あ、あ、あんな、円盤なんて……!?」

「大丈夫大丈夫。侵略に来る宇宙人って割としょーもない弱点あるから人間でも勝てるって。何故か人類程度のコンピューターウイルスが効いたり、細菌に感染して死んだり、水に弱かったり」

「それ全部映画の話でしょ! ふざけてる場合!?」

 慌てふためく晴海に対し、加奈子はのほほんとしたまま。人喰いイノシシと対決した事で肝が据わったのか、あまりの非現実さに呆けているのか、元々こんな性格だったか……③かな、等と過ぎった考えを花中は頭の隅に寄せておく。

 加奈子の能天気さに当てられ、少しだけ頭が冷めた。花中は一呼吸入れて自分の気持ちを整え、改めて考えを巡らせる。

 確かにあの巨大円盤の正体は謎だ。可能ならばその正体や目的を知りたいし、そのための思考に没頭したい。だが、何よりも優先すべき問題があるではないか。

 円盤の真下にいる、自分を含めた人間達の安全だ。

 円盤の出現により、恐らくこの辺り一帯の地域はパニック状態に陥っているだろう。脇見運転や混乱により、事故も多発していると思われる。死傷者の数が数千を超えてもおかしくない……尤も、こんなのはまだまだ序の口。

 最悪なのは、この円盤が何かしらの『攻撃』を仕掛けてきた場合である。攻撃といってもビームなどで撃たれるだけでなく、例えば故障などで円盤そのものが墜落してくる場合も含む。要するにありとあらゆる危険な事態だ。

 町を覆うほどの円盤である。何処にどんな『攻撃』をしてくるか分かったものではない。この状況で全ての人々を助ける方法があるとすれば、それこそ町の人間全員をごっそり動かす以外にないだろう。

「み、ミリオンさん。あの、もしもの時、町の人全てを避難させたりは……」

「私は無理。そーいう力業は得意じゃないもの。この学校の生徒が生き埋めになるのを防ぐ、ぐらいは出来るけどね」

「なら、フィアちゃんは?」

「んー……やってやれない事はないですが多分何百人か溺れ死なせるかも知れません。それで良ければやりますが」

 念のため友達二匹に尋ね、返ってきた答えに花中は表情を強張らせる。予想していた通りの答えだ。どちらも人間には為し得ない、頼もしい力であるが……全てを守りきる事は出来そうにない。

 いや、そもそも本当に危険な時、フィア達は己の身を守る事を優先し、見知らぬ人間達など無視するだろう。無論それは悪い事ではなく、むしろ一部でも守ってくれる事に感謝すべきだが――――事の顛末次第では、大勢の人々が命を落とすかも知れない。

 ごくりと、花中は息を飲む。晴海や加奈子達人間以外の、フィアやミリオンも警戒心を高めている。果たしてあの円盤はなんなのか、どのような目的があるのか、どれほどの武装を積んでいるのか……あらゆる未知が花中の心の中に不安として根付く。

 そしてそんな時に、ズドンッ! という爆音が聞こえたら?

「きゃあっ!?」

「ひぃっ!」

 花中と晴海は思わず悲鳴を上げ、

「え、あ。ごめん。なんか驚かせちゃった?」

 物音がした場所から、謝罪の声が聞こえてきた。

 あれ? と思い花中は顔を上げ、声がした方を見れば……ぽりぽりと頭を掻く、ミィの姿が。彼女の足下には小さなクレーターが出来ていて、今し方起きたであろう衝撃の大きさを物語る。

 どうやら先の爆音は、ミィが着地した際のものらしい。大方離れた場所から文字通り跳んできたのだろう。彼女の身体能力と体重ならば、クレーターを作るぐらい造作もないのだ。

「おっ。ミィちゃんだ。やっはー」

「あ、み、ミィさん、でしたか。良かった……」

「お、驚かさないでよ。何処行ってたの?」

「あー、ごめんごめん。上の奴の大きさ測ってた。走った距離でざっとね」

「えっ? 大きさが分かったの、ですか?」

「うん。直系十五キロぐらいかなぁ。いやぁ、こんなにデカい相手は初めてだね」

 訊けば危機感のない口調で、ミィはさらりと答えてくれた。途方もない円盤のサイズに花中は驚くのと同時に、円盤について調べてくれたミィの事を頼もしく感じる。

 それに走り回って調べたのなら、此処以外の情報についても詳しく知っている筈。町の様子や人々の状況、それに円盤がなんらかの行動を起こしていないか。知りたい事は山ほどある。

「あの、ミィさ――――」

 故に花中はこれらについて尋ねようとし、

 背後で再び鳴った土石が飛び散る音に、全身を強張らせた。

 ……ミィは、未だ花中達の前に居る。

 だから彼女がジャンプして移動したり、地団駄を踏んだ訳ではない。なのに背後でそうした音がしたという事は、別の何かが()()()()()という事。

 花中は、錆び付いたブリキ細工のようにぎこちなく背後へと振り向く。

 背後には、今までなかった筈の、一本の塔が立っていた。

 塔は高さ三十メートル近い、巨大な代物だった。黄土色の装甲に、複雑怪奇なマーブル模様が刻み込まれている。色合いや紋様は如何にも自然なもののように見えるが、しかし装甲に刻まれた『ライト』的なパーツは電子的輝きを放ち、形状は工業製品のように整っていた。まるで人工物と天然物の混ざり物のような見た目だ。デザインは無骨なもので、軍事兵器のような勇ましさと野蛮さも感じさせる。

 奇怪にして不可思議、歪にして不自然。これと似たようなものを、花中は既に見ている。だが、あくまで憶測だ。故に花中は事実を見極めようと、空を見上げる。

 花中の目に映ったのは、巨大円盤の下側数十ヶ所がハッチのように開き、そこから続々と塔が落ちてくる光景だった。

「な、な、え、ぇっ!? 何!? 何これ……!?」

「花中さんどうします? この塔はっ倒しておきますか?」

 驚きで慌てふためく花中に、フィアは指示を請う。花中も心情的には塔をはっ倒したいところだが……円盤がなんのためにコレを落としてきたのか分からない。下手に攻撃して、向こうに敵対の意思を示すのは正解なのだろうか?

 花中が迷いから答えを出せずにいる間も、円盤は塔を落とし続ける。高さ三十メートルもあるため、遠くに落ちたものもよく見える……結果、町中から塔が生えている光景を確認出来た。落とされた塔の数は何十なんてものではない。何百すらも超えているのではなかろうか。

 やがて塔達は、一斉に先端から光を放ち始めた。

「ひっ!? な、何!?」

「……あれ? もしかして攻撃される感じ?」

「ちょ……こ、こんな状況で攻撃されたら……!」

 晴海と加奈子の不安の声が、花中の心を揺さぶる。花中にもこの塔の光が何を意味するか分からない。分からないがために怖い。

「どうします? やっぱはっ倒しておきますか?」

 怖くて堪らないからフィアのこの短絡的な言葉に花中は思わず頷きそうになり、

 その返答をする前に、塔は一際強烈な閃光を放った。

「きゃあっ!?」

「わひゃあっ!」

「ひっ!」

 花中は身体を震わせ、反射的にフィアにしがみついた。晴海と加奈子も、一番近くに居たミィの傍に身を寄せる。人間達はガタガタ震える事しか出来ない。

 閃光は太陽よりも眩しく、ぎゅっと瞼を閉じている花中の視界が痛いぐらい白く染まる。途方もないエネルギーだ。もしかすると熱的な攻撃か。不安から花中は一層強くフィアの身体に顔を埋めた。

 ……が、何時まで経っても、何も起こらない。

 あまりにも何も起こらないので、人一倍臆病な花中でも我に返る事が出来た。無意識にフィアの胸元に埋めていた顔を離し、恐る恐る塔の方へと振り返る。

 塔の先端は未だ光を放っていた。ただしその光は集束され、空へと向かっている。花中は光が進んでいる方向へ少しずつ視線を動かし――――

 巨大円盤の真下に映る、間抜け面を目にした。

「……はい?」

 思わず、拍子抜けした声が漏れ出る。

 町中に打ち込まれた塔全てが光を放ち、その光は円盤の下で大きな映像となっていた。どうやら塔の正体は投映機の類だったらしい。軍事兵器のような見た目をしながら、あまりにも平和的な代物である。

 しかしこうした印象が頭から消し飛ぶインパクト……円盤下に映し出されたものに比べれば、塔のチグハグぶりはまだマシだ。

 映像には、一人の幼女っぽいものが映し出されていた。ぽい、としたのは、どう見ても人間の幼女ではないからである。頭が大きくて身体が短く、三頭身ほどしかない。目はビー玉のようにくりくりしていて、鼻や唇の類は確認出来ない。髪は黒くて、顔立ちはどことなくアジア人っぽいが、こんな ― 花中ですらそう思うほどの ― 間抜け面のアジア人などいない。腕は短く、アレでは顔すら洗えまい。足も短く、人間の二歳児の方が遥かに運動能力が高いと容易に想像が付く。

 全体的に幼女をデフォルメしたような、緩くて可愛らしい『デザイン』だ。悪く言えば、子供の落書きっぽく見える。

 一応当人もその辺りの事を理解しているのか、豪勢な装飾の施された椅子に座ってふんぞり返っている。威厳を出そうとしているのだろう。しかし椅子は背丈に対してあまりに大きく、尊大さよりもちんちくりんな印象に拍車を掛けていた。衣服もフリルやらキラキラ光る何かを付けて、頭には王冠を被って『豪華さ』を演出しているが……偉そうに見せたいという気持ちがひしひし感じられ、逆に威厳が感じられない。むしろそうした無駄な努力が可愛らしく思えてきた。

【おかーさまー、もーうつってるよー?】

【え? そーなの? はやくいってよー】

【これ、ちゃんとうつってるの?】

【あ、こらー。かめらのまえにこないでよー。おかーさまうつらないじゃん】

【ねー、ごはんまだー? おなかすいたー】

【いまからよういするのー!】

 そして間抜けなのは見た目だけでなく、声や仕草までもだった。緊張感のない声が流れ、映像には新たな幼女っぽい頭が出現。カメラを小さな手でぺたぺたと触り始めた。それを咎める者が現れるも、今の話と関係ない声が混ざる始末。誰かのお説教が始まり、椅子に座っていた代表らしき子がおろおろし始める。

 映像が始まって間もない、本題に至っては始まっていないのに、何もかもがぐでぐでになっていた。

「……何、あれ」

「さぁ? フィアちゃんやミィちゃんのお仲間とか?」

「……流石に、アレと一緒にされるのは心外なんだけど」

 花中ですら恐怖を忘れて呆けるほどのほんわかムービー。晴海達が何時までも震えている筈もない。呆気に取られた晴海の問いに加奈子が答え、ミィが心底不愉快そうに否定していた。ミリオンは無言で映像を観察していたが、その顔に緊張感はない。むしろ呆れている様子だ。

 恐らく町中の人間が今の自分達と同じ状況だろうと、花中は察する。全員が呆けて棒立ちすれば、事故もケンカも起こらない。円盤出現時の混乱はきっとこの瞬間に全て治まっただろう。

 それは良いのだが、しかし彼女達は何者なのだろうか? あの姿がきぐるみの類でない事は、言葉に併せて精巧に動く口、細かな感情を表す指の仕草などから察せられた。CGという線も、現実味のある質感からして違うだろう。だとすると本当に映像通りの、ちんちくりんな姿をしている『生物』という事になる。

 とりあえず彼女達は、幼女もどきと呼ぶ事にしよう。

 画面内の幼女もどき達は、ドタバタわーわーと可愛らしい一悶着を経て、ようやく一人だけが画面に残る。王冠を被った彼女はこほんとわざとらしく、大人の真似をするような可愛らしい咳払いをしてから、能天気な声で話し始めた。

【えーっと、はじめまして、にんげんたちー? いまから、えっと……こちらのー、ようきゅうを、つたえます】

 ……ちなみに演説内容は暗記しておらず、カメラの傍にカンペが用意してあるらしい。目線がカメラの正面を向いていないのでバレバレだ。

 おまけに普段敬語を使っていないのが明らかな、辿々しい話し方。あまりの可愛らしさに花中達人間はすっかり打ちのめされていた。花中は頬が弛み、晴海もだらしなく笑みを浮かべ、加奈子はなーんにも考えていない顔で、幼女もどきの演説を生温かく見守る。

【わたしたちの、ようきゅうは、あまーいじゅーすです。あと、おにくもあるとうれしいです。いじょう、ようきゅうおわり。おへんじ、まってます】

 しっかりと演説を完遂した時、花中達人間は自然と拍手していた。幼稚園のお遊戯会が成功したような、そんな褒め方だった。やがて映像はぷつりと途絶え、塔の光も消えていき、再び円盤の下にある町は夜のような暗闇に閉ざされてしまう。

 ――――さて、何時までものほほんとしていられないなと、花中はようやく正気に戻る。

 あの幼女もどきの正体については、今の演説で大凡見当が付いた。

 音もなく浮遊する円盤なんてものは、現代科学ではその技術を解析する事さえも不可能だろう。どれだけ高度な科学力と技術力が必要か、そもそも人智の及ぶ代物なのかも分からない。それほど高次のテクノロジーの集合体でありながら、関係者の知能は幼稚園児レベル。あまりにも技術と知能が噛み合っていないように思える。宇宙人に地球人の常識が通じるとは思わないが、いくらなんでもチグハグ過ぎだ。

 通常なら、こちらを騙すための演技と疑うだろう。しかし花中は知っている。この世には「なんとなく」で一グラム当たり六×十の二十三乗個の水分子をトン単位で操ったり、「良い感じ」に分子を振動させてプラズマ化させたり、「気合い」で数千トンの質量を平然と受け止めるような生物が存在する事を。

 即ちミュータント。

 彼女達ならば、幼稚園児並の知能とSF映画級の技術力が共存してもおかしくない。恐らくあの円盤は、なんらかのミュータントがその能力によって建造したのだ。先の幼女っぽい姿も、フィア同様『入れ物』に過ぎないかも知れない。先の放送が『誰向け』のものか判然としないのも、これで説明が付く。きっと彼女達は人間の社会形態がどんなものか、あまりよく分かっていないのだ。だから広域放送を行い、誰かが返事してくれるのを期待しているのだろう。

 そして彼女達は、人間にジュースとお肉を要求している。

「いやー、可愛かったね」

「ほんとほんと。お肉は今じゃ高級品な上に品薄だから難しいけど、人工甘味料の安いジュースならあたしのお小遣いで買えるし、うちに来たらいくらでもあげちゃうわー」

「晴ちゃん、小さい子には結構甘いよねー」

 加奈子と晴海は先の演説を好意的に、というより微笑ましく受け取っていた。恐らく町の人々も大半は同じ意見だろう。可愛くて無垢なものに擦り寄られ、ついつい甘やかしたくなる気持ちは花中にも分かるものだ。

 されど、花中は思う。

 あの幼女もどきは恐らくミュータントだ。つまりどれだけ知能があろうと、どれだけ愛くるしくても、本質的には『野生動物』である。

 ならば、彼女達が求めるまま食べ物を与える事は正しい行いか? 花中には、到底そうは思えない。なんとかお断りする方向で話を進めるべきではないか――――

【あ、そうだ。いいわすれてたー】

 等と考えていた最中、不意に幼女もどきの声が町中に響いた。

 突然の声に驚いたのも束の間、塔達が再び閃光を放つ。円盤の下に現れる幼女もどきの映像。先程までと同じく、無垢で、可愛らしくて、間の抜けた顔がどアップで映し出されていた。

 あまりにも子供染みた映像に、花中は先程まで抱いていた警戒心が一気に弛むのを感じる。正直、今この瞬間に「じゅーすちょーだーい」と言われたら、なんの躊躇いもなくあげてしまうだろう。可愛いは最強なのだ。

【えっとね、みんなおなかすいてるから、じゅーすとおにくはすぐにほしいです。だからいまからとりにいきます】

 そんなこんなで再び人間達のハートをガッチリ掴んだ幼女もどきは、拙い言葉で話しながら、何時の間にか手許にぶら下がっていた紐をくいっと引っ張る。

 すると、円盤からうにょんうにょんと奇妙な音が鳴り始めた。

 如何にも空飛ぶ円盤らしい、不可思議な音。果たして何が起きるのだろうか? そんな期待を感じさせてくれる。警戒心なんてものはすっかり失われて……

 円盤下部のハッチから小型円盤が発進しても、「あら可愛い」としか思えなかった。

 ――――尤も、小型円盤の数が数個から数十、数百から数千となるに従い、そんな感想は徐々に消えていったが。

「……え? えっ」

「いや、ちょ……これは……」

「流石に多いなぁ」

 花中だけでなく、晴海と加奈子も戸惑いの声を漏らす。されど人間達の意見など無視するかのような円盤の大編隊は、ひゅーんひゅーんと奇妙な音を奏でながらゆっくりと降下していく。

 何千と現れた小型円盤の殆どは町に降りたが、一つだけ花中達の前にやってきた機体があった。小型円盤と言っても、目の前にやってきたそれは高さ一メートル横幅十メートルほどの大きさがある。デザインや色合いは空を覆う巨大円盤とほぼ同じで、正しく『子機』の様相だ。

 やがて小型円盤は脚のようなものを出さないまま、平らな底をそのまま地面に着ける形で降り立ち、動かなくなった。奇妙な音は聞こえなくなったが、アイドリング状態なのか、本当に停止したのかは分からない。なので花中は注意深く観察していたところ、不意に円盤が、まるで貝のようにぱかりと上下に開いた。

 そして中から現れたのは、先程塔が映し出した映像の人物と瓜二つな幼女もどき。

 しかし映像で喋っていた当人ではあるまい。何しろ円盤の中には、同じ顔の幼女もどきが十人以上乗っていたのだから。着ている服は幼稚園児の制服のような、シンプルで可愛らしいもの。王冠も被っていない。

 身長六十センチほどの彼女達からすれば五十センチ未満の段差でも一苦労の筈。ところが幼女もどき達はするすると、まるで段差などないかのように歩いてみせた。手を使ってよじ登ったのではない。()()()()()()()、その短い足では上れないであろう段差を易々と越えたのだ。

 何か騙し絵を見せられたような不可思議な歩行術に花中が困惑する中、能天気で警戒心がない幼女もどき達は、全員が円盤から出ると花中達に歩み寄ってきた。フィアやミリオン、ミィの傍にも幼女もどきはやってきたが、フィア達は逃げる事も攻撃する事もなく、おとなしく囲まれる。

 可愛らしい見た目だが、同じ顔が十を超えて並ぶと流石に不気味だ。花中はフィアにしがみつき、晴海は加奈子に身を寄せ、加奈子はミリオンの袖を摘まむ。ミリオンとミィ、フィアは淡々と幼女もどきを見下ろした。

 すると幼女もどき達は一斉に笑みを浮かべる。

 ぞわりと、花中の背筋に悪寒が走る。その笑みがどういう意味のものか分からない。仮に戦意の表れだとすれば、このままフィア達と戦いになる可能性もあるだろう。幼女もどき一匹当たりにどれほどの力があるか分からないが、もしも彼女達が想像通りミュータントだとすれば、フィアと一対一で渡り合えても不思議ではない。二対一なら圧倒し、三対一なら瞬殺する可能性だってある。正に最悪の状況だ。

 彼女達が要求したジュースや肉があれば、ここまで恐怖はしなかったかも知れない。持っている鞄の中にお弁当箱は入っているが、残念ながら今日はヘルシーな野菜やイモ系ばかり。焼き魚は入っていたが、恐怖に慄く花中にそれを肉の代用品として出すという考えは浮かばない。

 もしも要求を断ればどうなるのか……

 ごくりと、花中は思わず息を飲む。すると幼女もどき達はまるで花中の恐怖が高みに達したのを待っていたかのように、一斉に大きく口を開けて――――

「「「「とりっくおあとりーと!」」」」

 声を揃えて、そう伝えた。

 ……とても元気な声だった。幼稚園児達に向けて先生が「今日はなんの日ですかぁー?」と訊いたかのような元気さである。お陰で今の今まで抱いていた後ろ向きな気持ちは遙か彼方に吹き飛んだ。こんなに明るく声を掛けられたなら、ちゃんと返さねば失礼というものである。

 しかし花中は黙って考える。

 「ハロウィンは十月のイベントで今は二月なんですけど」とか「ごめんなさい渡せるものは持ってないんです」とか、色々言いたい事はあるが……しかしそんなのは些末な問題だ。彼女達ミュータントは『人間の知識』を持ち、この言葉を伝えれば甘いお菓子をもらえる事を知っているのだ。幼女もどき達は、一部のピースが欠けた知識を実践しているに過ぎない。

 問題は、その知識への理解度。

 人間なら常識がある。しかしミュータントにあるのは人間の常識ではなく、その種が持つ常識だ。だから所謂「お約束」というものが分からない。

「えっと、その……お菓子をあげなかったら、どうなりますか?」

 故に花中は尋ねる。

 幼女もどき達は、まさかそうくるとは思わなかったのか、仲間同士で顔を見合わせる。特に会話はない。しかし息ぴったりに微笑み、合わせるように再び花中と向き合う。

「「「「いたずらしちゃうぞー!」」」」

 そして全員同時に、とても楽しげにそう答えてみせた。

 ついでに何処からともなく取り出した、超技術の結晶体らしき謎道具を構えながら。見た目はオモチャの銃……特撮番組に出てくる『光線銃』のような代物だ。

 ごくりと、花中は息を飲んだ。

 ミュータントとの対話。それ自体は花中にとって初めての事ではない。むしろこの地球上の誰よりも経験し、幾度となく切り抜けてきたと言える。

 故に花中は、己の言動が如何に重大なものか知っている。彼女達がほんの少し機嫌を損ねるだけで、この町にいる人間全てが虐殺されてもおかしくない。ミュータントの身には、それを可能とするだけの力があるのだ。もしかすると今構えている光線銃は、一発で都市を吹き飛ばすような超兵器かも知れない。

 ましてや相手が十数人もの大所帯となれば尚更である。例えフィアとミリオンとミィが傍に居ても、数の上では向こうが上。警戒を緩めれば、その瞬間に喰われてもおかしくない。

「お、大桐さん。えと、どうしたら、良いのかしら……?」

「流石にこれはヤバくない?」

 晴海と加奈子が不安そうに尋ねてくる。円盤から降り立った、謎の人員に取り囲まれているのだ。怖い……とまではいかずとも、困惑する気持ちは当然のものであろう。

「ねーねー、じゅーすないのー?」

「おにくはー?」

 そして人間達の不安など露知らず、幼女もどき達は両手を伸ばし、ジュースと肉類を要求してきた。大変可愛らしい。警戒心が一瞬で打ち砕かれ、甘やかしたいという想いにより心がぐらぐらと揺れてしまう。

 しかし花中は踏ん張った。

 ここで安易に彼女達の要求を飲むべきではない。如何に知的な存在であろうとも、彼女達の本質は野生動物なのだ。餌を与えれば人間社会に居着いてしまうかも知れない。不用意に居着けばトラブルも増え、それが悲劇の引き金となる可能性もある。

 何故菓子と肉を求めるのか、その後どうするつもりか。せめてそれぐらいは確かめねばなるまい。

「えっと、その、すみません。その前に少しお話しを」

「ないならいたずらだー!」

「えっ」

 なので花中は対話を呼び掛けたが、相手は想像以上に短絡的だった。

 幼女もどきの一匹は手にしていた光線銃の引き金を引いた。すると光線銃の先から稲妻のような光がジグザグ飛行しながら飛んでくる。何故光線が目視可能な鈍足で飛ぶのかとか、真っ直ぐ飛ばないビームなんてどう考えても欠陥品じゃんとか、色々ツッコミどころ満載な攻撃は、何故か銃口の狙い通り無事花中の頭に命中。

 ボンッ! という音と共に、花中の白銀の髪は一瞬でボンバーなアフロヘアーに変化した。

 ……わさわさと、花中は自分の頭を触る。アフロヘアーらしい、とてもふかふかとした感触だった。

「って、なにこれええええええっ!?」

「おーそんな効果だったのですか。無視して正解でした」

 驚愕と困惑する花中の横で、フィアが暢気に独りごちた。大変まったりとした警戒心のない語りだったが、放置出来ない言葉がある。

「フィアちゃん?! む、無視したの!? 今の攻撃防ごうと思ったら防げたの!? なんで守ってくれなかったの!?」

「いや無害そうだったので面白そうだし良いかなぁと」

「良くないよ何一つ!?」

「おまえたちもだー!」

「ぎゃーっ!?」

「おー、すっげー」

 友達の裏切り行為に憤る花中だったが、その間に今度は晴海がターゲットになった。ボンッ! と音を立てて晴海も見事なアフロヘアーに。加奈子も同じくやられて、何故か楽しそうだった。

 ちなみにこの光線、本物の毛しか効果がないらしく、フィアとミリオンは喰らっても平然としていた。幼女もどき達は不思議そうに首を傾げ、つまらなさそうに唇を尖らせる。

「おっと、あたしはそんな髪型勘弁だから、逃げさせてもらうね」

 そしてミュータントの中で唯一効きそうなミィは、さっさと逃げ出した。

「じゃあ、わたしたちかえるねー」

「こんどあったら、じゅーすちょーだーい」

「おにくもほしいのー」

「ばいばーい」

 今居る全員に光線を当て、満足したのか。幼女もどき達は手を振りながらお別れを告げる。困惑する人間達に代わりフィアとミリオンが手を振り返し、幼女もどき達はそそくさとこの場を後にした。尤も円盤には乗らず、駆け足で校門から外に出ていくのだが。

 校庭に残されたのは、アフロとなった人間三人と人外二匹。ついでに謎テクノロジーの塊である円盤が一隻。

「……まぁ、可愛いもんじゃないかしら? みんな、よく似合ってるわよ」

「うぅ……なんとか、直せないでしょうか、これ……」

「あたしも、これで教室に戻るとかちょっと……」

「私はこれでも良いよー」

「じゃあ、はなちゃんと立花ちゃんの髪は直してあげる。髪の分子をちょいっと並び換えたり熱したりすれば、簡単に直毛に出来るから」

 いじける人間二人を見かねてか、ミリオンはくすくすと楽しげに笑いながら花中達の髪を触る。さらりととんでもない事を言っているミリオンだが、彼女は分子レベルの『構造物』であり、尚且つ高熱を操る能力がある。分子レベルの操作などお茶の子さいさいだ。

 だから花中は安堵し、恐らく晴海も同じ気持ちだから安心したように息を吐いたのだろう。

 ……ところが何十秒待っても、中々髪は真っ直ぐにならない。まだかなと思いながら待っていた花中だったが、ミリオンの顔が少しずつ険しくなるのを見て不安になる。

「……なんて事……!」

 やがてミリオンは驚きの表情を浮かべながら、花中達の髪から手を離した。まだ、髪の毛は一本も直っていないのに。

「えっと、ど、どうしたの、ですか?」

「……髪の毛一本一本に、電子的なコーティングがされているわ」

「へ?」

「この電子的なコーティングにどの程度の強度があるかは分からないけど、かなり強力なものよ。破壊を試みたけど、ビクともしない。しかもなんらかの方法で固定されているのか、出力が減衰する気配もないわね」

 ぶつぶつと、難しい言葉を呟くミリオン。彼女が何を言いたいのか、よく分からない。晴海もキョトンとしており、花中も言われた事を頭の中で繰り返しながら考える。

 やがて至った結論は、あまりにも馬鹿げていた。馬鹿げていたが……しかしながら否定しきれない。そう、一億トンの水を易々と操りながら、水分子の崩壊を『気合い』で抑え込んでしまうのがミュータントという存在なのだ。

 髪の毛一本一本に()()()()()()()()()()()()事がどうして出来ないと言えるのか。

「……………」

 花中は何気なく、頭上を見上げた。

 すると今まで空を覆っていた円盤が、どんどんと透けていくところを目撃した。色が薄くなるにつれて地上には太陽の光が届き、明るくなっていく。数十秒もすれば巨大円盤の姿は完全に見えなくなり、地上には冬の日射しが存分に降り注いだ。

 しかし巨大円盤は何処に行ったのか?

「……こ、こう、すーっと、飛んでいった訳じゃ……」

「いえまだ上に居ますね気配がありますから。ですがかなりうすーい感じです」

 花中が現実逃避気味に呟いた言葉を、フィアは即座に否定する。答えは分かっていたが、花中はがっくり項垂れた。

 迷彩だ。それもただの光学迷彩ではない。全長十五キロメートルにもなる物体を完全に隠し通し、『神の杖』すら察知するミュータントの感覚さえも欺きかけるほど高性能な技術が使われている。

 ――――フィア達はこれまでに二度、強大な科学力と対峙した。

 第一にタヌキ達が用いる『先進科学』。現代兵器を蹂躙する事も可能なテクノロジーだったが、フィア達はこれを易々と踏み抜いた。今の科学などお呼びでないとばかりに。

 第二にアルベルトが用いた『未来科学』。人類が遙か五百年後に手に入れる筈の技術は、フィア達に辛酸を舐めさせた。だがそれを乗り越えたフィア達に与えられたのは、五百年後の力すらも子供扱いする不条理な能力。未来の力さえも成長したフィア達にとっては敵にならなかった。

 現代はおろか、遙か未来の技術さえも及ばない。では、英知の結晶である科学の力では、フィア達が振るう野生の力には勝てないのか? その通りだと花中は思っていた……今日この時までは。この瞬間、ただ一つだけ、及ぶものがあると気付かされた。

 それは()()()()()()()()()()()()()()()

 人類では決して辿り着けない『超科学(不条理)』がこの世界に君臨したのだと、花中はようやく気付いたのだった。




はい、そんな訳で今回の相手は『インチキ超科学』です。
最早常識も理論も投げ捨てた奇跡のテクノロジー。
SFは理屈っぽいのが好きだけど、不条理科学も割と好き。

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国3

 巨大円盤の襲来から、早くも二十日が経った。

 二月も終わりに近付いたが、大桐花中の生活にこれといった変化はない。休日である今日はぐっすりと七時過ぎまで眠り、窓から差し込む朝日を浴びて起きる。

 ベッド側の床にはフィアが寝転がっていて、花中が起きた音を察知してかすぐに起き上がる。「おはようフィアちゃん」と挨拶すればフィアも「おはようございます花中さん」と返し、フレンドリーなやり取りから活力をもらった。

 起きた花中はベッドから降り、パジャマ姿のまま部屋を出て、階段を下りて一階のリビングへと向かう。リビングでは睡眠を必要としないミリオンが新聞を読んでいて、花中に気付くと優しく手を振りながら「おはよう」と言ってくれた。花中も当然これに返事をする。

 同居人二匹と挨拶を交わし、花中は上機嫌になりながら洗面台へと向かった。寝起きで働きがいまいち良くない頭をシャキンとさせるべく、冷たい水で顔を洗うためだ。

 そうして洗面台の前に立った花中は――――がっくりと項垂れる。

 鏡に映った、自分のアフロヘアーを見てしまったがために。

「……この髪、何時になったら戻るのかなぁ」

「専門的な機器がないから正確な計算は出来ないけど、感覚的には髪を包む電子的コーティングは二十日前と比べ殆ど衰えていないわ。この調子ならあと百年は持ちそうね」

「つまり、一生じゃないですか、それ……」

 洗面台で項垂れていると、何時の間にやら近くにやってきたミリオンが残酷な情報をさらりと付け足す。長生きするつもりの花中であるが、流石に百十七歳を超える自信はなかった。

「ふぅーむ最初は中々可愛いと思いましたがそろそろ飽きてきましたね。なんとかなりませんか?」

 そしてこの惨事から助けてくれなかったフィアは、恐らく自分がわざと見過ごしていた事などすっかり忘れてミリオンに話を振った。

 ミリオンはくすりと笑い ― ちなみにその時花中はギラリとフィアを睨んでいた ― を挟んでから、肩を竦めつつフィアの問いに答える。

「どうにかしたいのは私も同じだけど、これはちょっと無理ね。全力でやればコーティングそのものは破れると思うけど、そうなるとはなちゃんが余波でプラズマ化しちゃうから、本末転倒なのよねぇ」

「使えませんねぇ。なら私が力で無理矢理伸ばしてみますか」

「あ、でも一つ良い案があるわ。電子のコーティングは謎光線を浴びた時に生えていた部分だけ覆ってるから、新しく生えた毛は直毛になっているの。だから古い毛を全部抜けば、アフロヘアーはなくなる筈よ」

「ほほう成程。では花中さん今から髪を全部抜きますから大人しくしててください」

「そ、それしたら禿げちゃうよっ!? というか、今ある毛だけコーティングがあるなら、伸びれば戻るじゃないですか!?」

「あ、バレた? てへぺろっ♪」

 ミリオンは舌をぺろりと出し、ジョークである事を明かす。危うくツルツルの禿げ頭になるところだったと、花中は安堵の息を吐いた。

「ま、そういう訳だから、あまり不安にならなくて良いわよ。伸びた部分に電子のコーティングがないのは確認してるから、ある程度伸びた段階で切ればそれでおしまい。今のはなちゃんの髪なら、一年半で元通りね」

「逆に言うと、ある程度伸びるまでは、この髪型なんですね……」

「そりゃね。なんならバリカンみたいに苅っても良いけど? 今ならちょっと伸びてるから、やろうと思えば出来るわよ」

「……遠慮しときます」

 坊主頭とアフロヘアー。どちらが『悪目立ち』するかなど、考えれば簡単に分かる。花中としては、目立つのが恥ずかしいからこの髪型を止めたいのだ。

 それにある意味、今一番目立たないのはこの髪型かも知れない。

「……良し。フィアちゃん。今日は、買い物に行こっか」

「お? 久しぶりの買い物ですね。ここ最近は目立ちたくないからと学校からの帰りは真っ直ぐ家に向かっていましたから」

「やっと覚悟を決めたのね。覚悟するほど大層なもんじゃないけど」

 買い物を提案すれば、フィアはうきうきと楽しそうに、ミリオンは呆れたように反応する。どちらの指摘もその通りだったので、花中は少し顔を赤らめた。

 羞恥心で熱くなる顔をぷるぷると横に振り、平静を取り戻した花中は力強い鼻息一つ。

 まずは顔を洗って、それから朝ごはんを食べよう。着替えはその後だ。

 普段買い物に行く時と同じような準備を、花中は頭の中で思い描く。髪がアフロヘアーになろうとも、自分がやる事は何も変わっていないのだ。

 そう、何も変わっていない。

 『彼女達』が日常を浸食している以外には――――

 ……………

 ………

 …

 花中は今日の買い物を商店街で済ます事にした。

 自宅が建つ、未だ復旧の進まない ― というより最早放棄されたも同然な ― 廃墟の中を通り、市街地へと出る。市街地を五分も歩けば目当ての商店街だ。極めて短い距離で、子供でも行ける道程である。

「ねーねー、あそんでー」

「じゅーすちょーだーい」

「おにくちょーだーい」

 その短い道程の半ばなのに、花中は既に三匹の幼女もどきに囲まれていた。

「えっと、ごめんなさい。今、手持ちがなくて……用事もあるから、遊ぶ事も、出来ないんです」

「そっかー」

「じゃあ、べつのひとにきこうよ」

「そだねー」

 花中が丁寧に断ると、幼女もどき達は素直に納得し、とことこと離れていく。そして言葉通り、今度は花中の後ろを歩いていた通行人に話し掛けた。

 後ろを歩く通行人の男性も花中と同じアフロヘアーで、幼女もどきに紙パックのジュースを渡していた。幼女もどき三匹は跳ねて喜んでいる。男性はにこりと微笑みながら、手を振って三匹に別れを告げた。

「おねーさん、おねーさん。ごはんをいただけますか?」

 そんな微笑ましいやり取りを見ていた最中、別の幼女もどきが花中に話し掛けてきた。

 大人しい性格の子なのだろうか。花中と目が合うと、少し後退りし、おどおどしたように身を縮こまらせる。なんだか自分を見ているような気がして、花中は親近感を覚えた……が、生憎渡せるものがない。

「えっと、ごめんなさい。手持ちがなくて……」

「そうですか……わかりました。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げ、幼女もどきはとことこと立ち去った。

「相変わらず無駄に数が多いですねぇ」

 四匹の幼女もどきの姿が見えなくなった頃、花中の隣を歩いていたフィアがぽつりと独りごちる。フィアの傍に立つミリオンも、同意するように頷いていた。

 花中も、『無駄に』の部分以外については同じ意見だ。苦笑いを浮かべてしまう。

 巨大円盤襲来から二十日。その二十日で、町には新たな住人が増えた。

 幼女もどきである。小型円盤に乗って町に降り立った彼女達は、未だ町に居座っていた。目的は勿論、花中達に狼藉を働いた十数匹と同じく「じゅーす」と「おにく」をもらうため。

 ミュータントには慣れっこの花中ですら最初の対応を間違えた相手だ。出勤中の会社員や通学途中の学生が正しく応対出来る筈もなく、彼等は次々とアフロヘアーに変貌。主婦や老人達 ― 何故かつるつる頭にもアフロヘアーが生えてきた ― までも被害に遭い、社会的パニックが起きた。今や町人の七割がアフロヘアーであり、普通の髪型の方が珍しいぐらいである。ちなみに今ではいたずらにすっかり飽きてしまったのか、アフロヘアー攻撃は激減しているらしい。アフロヘアーは遭遇初期の被害者である証だ。

 そして幼女もどき達は、今でも町を跋扈している。政府発表によると推定個体数は三十万体らしい。この町の人口が約十三万人なので、人口面では圧倒されているのが現状。基本的に数匹程度の群れで移動するとはいえ、人より頻繁に出会えるのも頷ける値である。

「まぁ、最近は実害もないし……良いんじゃないかな。それに賑やかなのは、好きだよ」

「確かに、賑やかよねぇ。買い物でよく話をするおばあちゃん、孫が毎日来てくれているみたいで嬉しいって言ってたわ」

「そういうものですか。孫が来る事の何が嬉しいのかはさっぱり分かりませんけど。賑やかというより喧しいと思いますし」

 花中とミリオンの意見に、いまいちピンと来ていないのかフィアは肩を竦めた。

 そうこう話し込んでいると、やがて商店街の入り口が見えてくる。

 商店街には、大勢の人々が集まっていた。中からはわいわいと、活気ある声も聞こえてくる。パッと見ただけで、盛況である事が窺い知れた。

 しかしこれは本来妙な事である。

 何しろ昨今は異星生命体事変の影響に加え、怪物による被害で、世界的かつ全産業で供給能力が低下している状況だ。食糧品は高値どころか棚に並ばず、日用品すら品切れが続く有り様。経済基盤が脆弱だった発展途上国のみならず、先進国でも市民生活の破綻がいよいよ現実味を帯びてきたとも言われている。

 商店街もその煽りを受けて常に品薄状態。結果客足が遠退き、非常に閑散な状態が続いていた。定食屋には行列どころか、お昼の書き入れ時に閑古鳥が鳴いている事すら珍しくない。

 それが今や、人が溢れるほどに押し寄せている。これが奇妙、いや、異常でなければなんなのか。

「……噂には聞いてましたけど、思っていた以上に、すごい事に、なってますね」

「これでも一時に比べればマシなんだけどね。円盤が来てから五日目辺りがピークだったかしら」

「良いんじゃないですか? 花中さん賑やかなのは好きなんですよね?」

 立ち尽くす花中に、フィアはこてんと首を傾げながら訊いてくる。確かにその通りだ。それに商店街に活気があるのは、地元民として喜ぶべきだろう。

「それも、そうだね。行こっか」

 花中はフィアの手を掴み、フィアはその手をしっかり握り返す。仲良く手をつないだ一人と一匹は共に歩き、保護者役の一匹が後を追う。

 商店街に入った花中達は、人で埋め尽くされた道の洗礼を受けた。

「す、凄い、人の数……むぎゅ」

「おっと花中さん大丈夫ですか? 私がしーっかりガードしてますからねー」

 人の波に押されて潰れる花中を、フィアは抱き付くようにして自分の腕で囲う。見た目は華奢でも超生命体の身体。人間の波など逆に押し返し、花中を圧力から守る。

 抱き付かれているのでちょっと歩き辛いが、そもそも単身では前に進めるかも怪しい。これなら自由に、好きな場所へ行ける。何より友達と触れ合えて凄く嬉しい。花中は満面の笑みを浮かべた。

「うん、ありがとフィアちゃん。えと、じゃあ、お肉屋さんに、行ってくれる?」

「りょーかいでーす」

 花中が頼めば、フィアはずんずん歩き出す。人の波などなんのそのだ。ミリオンも一匹とことこ、横に並んで平然と歩く。

 フィアと歩みを合わせながら花中も進み、辺りを眺めて商店街の様子を見る。

 商店街の中でも、幼女もどきの姿はよく見られた。むしろかなりの高密度だ。足下をするすると走り抜けるもの、お店の屋根に座っているもの、人の頭に乗っているもの……まるで昔からの住人であるかのように、堂々と景色に溶け込んでいる。道行く人々は幼女もどきを気にする事もなく、各々の買い物を楽しんでいた。

 花中達一人と二匹も、目当ての肉屋に辿り着く。外から見えるショーケースは空。ここ最近では、あまり珍しくもない光景だ。

 しかし今日の光景は、最近のものとは意味合いが違う事を花中は知っている。

「こ、こんにちはー……」

「おじゃましまーす」

「はい、いらっしゃい! あら、花中ちゃん達じゃないか。久しぶりだねぇ」

 か細い声で店の中に呼び掛け、フィアが普通の声で挨拶すると、カウンターの奥から恰幅の良い中年女性……この肉屋の『店主』が大きな声と共に姿を現す。その顔は如何にも申し訳なさそうに眉が垂れ下がっていたが、抑えきれない嬉しさで口角が上がっていた。

「ごめんなさいねぇ、もうお肉、売り切れちゃったのよ」

「いえ、今日はご挨拶に、来ただけですので……えと、繁盛している、ようで、何よりです」

「いやいや、本当にね! 最近まで暇で暇でこれからどうしようなんて考えるぐらいだったのに、今じゃもう、そんなの考える暇がないぐらい忙しいから」

 ガハハと楽しげに笑いながら、店主は上機嫌に語る。どうやら商店街の活気による恩恵をしかと享受しているようで、花中としても嬉しい。

「ほんと、うちの旦那にも教えてやりたいところだよ」

 ……この店の『前店主』の行方を知る者としては、特に。

「……そう、ですね」

「おっと、辛気臭い話をしちゃったね。いや、本当に感謝してもしきれないよ。足を向けて寝られないね――――『ディスカー』様には」

 空気を変えるように、力強く笑いながら店主は話を変える。花中は店主の言葉に、こくりと頷いた。

 花中達の暮らす町は今、かつてない好景気に湧いている。理由は、町上空に現れた円盤、そして幼女もどきのお陰だ。

 円盤や巨塔の数々は、人々の好奇心を大いに刺激した。一般人達の多くは、幼女もどき達の説明不足や怪物でもない普通の生物が人智を超える筈ないという思い込みもあって、幼女もどき達を宇宙人と認識。異星間交流を体感出来ると誤解した大勢の人々が、国内外問わずこの町に集まってきたのだ。

 勿論昨今の世界情勢は色々厳しく、海外旅行どころか国内旅行すら『贅沢』となったが……人類初接触の ― しかも異星生命体と違って友好的な ― 『異星人』というのは、全世界の人々の心を掴んで離さなかった。むしろ現在の悲惨な世界情勢が、この町でもギリギリ捌ける程度にまで観光客数を抑えてくれたと言えるかも知れない。幼女もどき達は『円盤人(ディスカー)』と呼ばれるようになり、今や観光名所のような扱いだ。

 さて、円盤人目当ての観光客達であっても、それなりの期間滞在するからには飲食の必要性が生じるだろう。ジュースやお肉を求めるいたずら好きな幼女もどき達への『護身』道具も持っておきたいところだ。スーパーやコンビニで買うのも良いが、折角の旅行なのだからもう少し『立派』な店で買いたい。

 露天系のお店やレストラン、そして精肉店やスイーツ店は、そうしたニーズにがっちりと嵌まったのである。商店街のど真ん中に一本塔が突き刺さったのも、観光名所という意味では幸運だった。多数の観光客が商店街に殺到し、あらゆる食品を買い占めたのである。勿論供給能力自体が衰えている現代、食材を集めるのは骨が折れる事だが、割高な支払いをすればまだなんとか集められる。そして値段が高くとも、宇宙人に舞い上がる観光客には売れる。

 異星人好景気の到来だ。観光客が集まるのは主に食料品系の店だったが、そうした店の従業員も消費者の一人。収入が上がれば他の店で消費し、得られた金を世間に回す。店として見た場合でも、レシートやビニール袋のような消耗品を仕入れねばならないのだからお金は使われる。観光客の落としたお金が、町に活気を与えていた。

 更に幸運な事に、幼女もどき達が求めたのは『贅沢品』である肉や甘味であり、ジャガイモや米などの『主食』ではなかった。そのため恩恵を受けていない市民でも、生活水準そのものは悪化していない。極めて理想的な好景気だ。

 ……勿論、問題が全くない、なんて事はないのだが。

「今日は、ちょっと様子を見に来ただけで……元気そうで、何よりです。また、来ますね」

「ええ、何時でもいらっしゃい。もしお肉を買いたくなったなら、午前七時頃いらっしゃい。店開き前だけど、花中ちゃんなら特別に」

【我々は警告する!】

 再来店の意思を伝え、耳寄りな情報をもらった直後。店外から喧しい声が聞こえてきた。

 スピーカーで大きくした声のようだが、余程大声で叫んだのか、音が割れていた。貧弱な花中の耳はキーンッと響くような痛みに襲われ、花中に抱き付いたままのフィアも不快そうに眉を顰める。店主は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。ミリオンだけは顔色を変えていないが、ちらりと音がした外を見る。

「ああ、またアイツらかい……ほんと、懲りない連中だよ。この前も警察呼ばれたのに」

 店主がぽつりと悪態をこぼす。中年らしく人の噂が大好きな彼女だが、基本的には明るく快活で、人の悪口を言うようなタイプではない。

 そんな彼女が「懲りない連中」というような相手。関心がないといえば嘘になる。

 加えて花中は、その者達に心当たりがあった。顔見知りという意味ではなく、あくまで知識として知っている程度だが……だからこそ、俄然興味が湧いてくる。

「……あ、えと、じゃあ、失礼します」

「ん? ええ、またおいで」

 改めて別れを伝え、花中達は肉屋から出る。

 外の雰囲気は、店に入る前と少し変わっていた。

 通行人達の声には先程までの明るさがなく、ざわざわとした困惑の色に染まっている。全員が一方向を見ていて、原因がそこにあるのだと、人混みに『途中参加』した花中達に教えてくれた。とはいえすぐ近くでの出来事ではないらしく、加えて周りは大人ばかり。背丈の小さな花中には、人々が何を見ているのかさっぱり分からない。

【何故この町の人々は考えないのか!? 楽な方へと逃げるのか!】

 しかし花中が見えていない事などお構いなしに、『懲りない連中』の話は進んでいるようだ。

 普通の人なら、この演説をちゃんと聞くためには人混みを掻き分けてでも前に行かねばならないだろうが……花中には頼りになる友達がいた。

「んー……フィアちゃん、ちょっとあっちで、演説している人が、居るみたいだけど、映像みたいなの、出せる?」

「映像ですか? こういう感じでしょうか?」

 花中がお願いすると、フィアは掌を花中に見せてくる。その掌には、花中の顔と周りの景色が表示されていた。花中本人の動きに合わせて、掌に表示されている花中も動く。

 これもまたフィアの能力の応用。肉眼では見えないほど細く水を伸ばし、取り込んだ光から遠距離の画像を表示しているのだ。これなら人を掻き分けなくても、遠くの光景を見られる。

 幸いにして、拡声器を使っているのか声は離れた花中達の下までしかと届いている。映像さえ見られれば不都合はない。

「うん。こんな感じで、大丈夫」

「分かりました。ちょっと待っててくださいね」

 フィアの言葉を境に、掌に映る画像が動く。段々と視点が高くなり、花中の頭上を通り、人々の上を飛んでいく映像が表示された。今頃フィアの頭からは一本の『糸』が出ていて、人々の上を移動しているのだろう。

 不可視の『糸』は誰に気付かれる事もなく、やがて商店街の入口付近までやってきた。と、そこで奇妙な画像が映り込む。

 商店街の前に、数十人程度の人が集まっていた。一見して老若男女問わずな集団は、誰もが頭に赤い鉢巻きをしており、手には文字が書かれた板……プラカードを持っている。プラカードには『人間の誇りを忘れたか!』だの『考えなしの家畜!』だの、過激な言葉が数多く並んでいた。

 そして彼等の先頭に立つのは、若い女性だった。二十代後半ぐらいのようだが、顔付きは険しく、可愛らしさなどない。この時期には見合わない薄手であるが、気に留めた様子もなかった。かなりの気迫を感じさせる……頭がアフロヘアーになっていなければ、だが。

 女性は拡声器を握り締め、口許近くに当てると大きな声で話し始めた。

【奴等は当然やってきて、私達の町を破壊した! 巨塔を落とし、円盤で襲来し、私達を攻撃した! 何故彼等を受け入れるのか!? 奴等は侵略者なのに!】

「そうだー!」

「侵略者に媚びる非国民が!」

 女性の声に続き、後ろに控える人々が賛同するように過激な声を上げる。拡声器なしなのに、遠く離れた花中も微かに聞こえるぐらい威勢の良い叫び声だった。

【あまつさえこの商店街の人々は、奴等と利益関係にある! 奴等は侵略者に魂を売った! 最早人間じゃない! この町から出て行け!】

「出て行け!」

「出て行け!」

「出て行け!」

 集団は少しずつ、確実に、興奮を強めていく。言葉遣いは過激になり、レッテルとしか言えない表現で商店街の人々を扱き下ろす。

「おやおや随分と喧しい人間ですねぇ」

「う、うん……」

「へぇ。コイツらこんなところにも出るのね。ああ、いや、此処だから出るのか」

 フィアは人間達の闘争心を『喧しい』で片付け、花中はあまりの過激さに慄きながら頷く。ミリオンはフィアの掌の映像を見ながら、納得したように独りごちた。

 彼女達の演説は、そこからまだまだ続く。女性は代表という訳ではないのか、拡声器は別の人に渡され、今度はその人 ― アフロヘアーの中年男性 ― が主張を始める。長々とした話だったが、要約すると「奴等は経済を掌握し、人類を支配しようとしている」というもの。典型的な陰謀論だった。思う存分言いたい事を言った彼は、今度は赤子を抱いた夫婦に拡声器を渡す。

 そうして延々と述べられる彼女達の主張は一貫して、異星人こと幼女もどき達への嫌悪と、それを受け入れる人間への憎悪に満ちていた。

 分かってしまえばなんて事はない。彼女達は『反異星人団体』であり、これは彼女達のデモ活動なのだ。

 幼女もどき襲来から二十日が経ち、その存在についてどう思うかという意見はネット上でもよく見られるものとなっていた。そうした意見の中で異星人への反感を示した者達が集まり、団体として活動を始めたもの……それが反異星人団体である。呼び名の通り、異星人こと幼女もどき達を市民の力で追い出そうというのが彼等の基本的な主張だ。一つの纏まったグループではなく、思想や求める結果ごとに分かれているため、何百もの組織があるらしい。

 彼女達が異星人を憎悪する理由は様々だ。人類以外の知性が認められない思想的過激派、高度な科学力への恐怖心、幼女もどき達によるいたずらの被害者……その理由に納得出来るかどうかも人それぞれだろうが、いたずら被害を受けた者については恐らく最も共感してもらえるだろう。幼女もどきとアフロヘアーの関係の周知が不十分だった数日間、容姿を理由に企業面接を断られた、営業など対人業務に支障が出てキャリアに傷が付いた、恋人に別れ話をされた……等の被害が生じていたからだ。

 実際に話を聞くと一部「それだけが原因じゃないでしょ」と言いたくなるものもあったが、当人達が思い込めばそれが唯一無二の原因となる。彼等の中で自分達は『被害者』であり、幼女もどき達は悪魔の化身なのだ。

 かくして異星人への憎悪を撒き散らす彼等だが、しかしここで一つ問題があった。

【ですから子供達の健康を守るためにも、異星人との接触は避けるべ、き……!】

 力強く主張していた夫婦の夫が、急に言葉を詰まらせる。後ろに控えている集団も一瞬で顔を強張らせ、後退りした。そして全員が、一斉に視線を同じ方へと向ける。

 自分達に歩み寄ってきた、一匹の幼女もどきへと。

 幼女もどきは何も語らず、じっと彼等を見つめる。理不尽なテクノロジーを振るう素振りも見せていないし、言葉で威圧してくる事もない。

 ただただ、自らを否定する者の顔を見つめるだけ。

【……わ……私が言いたいのは、両者は適切な距離を取るべきという事です。何も知らないうちに受け入れるのは、その、双方にとって不幸を招く。それは人類の歴史が教えてくれま、す】

 夫婦の夫は、先程までの力強さは何処へやら。主張の根幹こそ揺らいでいないが、明らかに穏便な言葉を発するようになった。一言一言終える度に、ちらちらと幼女もどきの顔を見ている。

 傍から見れば情けなさすら覚える変化だが、彼の仲間達は何も言わない。それどころか主張をオブラートに包んだ夫婦の夫を、不安そうに見つめるばかり。

 幼女もどきは未だ夫の顔を見ている。何を考えているか分からない、つぶらで透き通った眼で、瞬き一つせずに。

【……で、では、我々の訴えは以上になります。皆様、懸命な判断をお願いします】

 やがて夫の後ろに控えていた人混みの中から三十代ぐらいの男性が出てきて、持っていた拡声器を用いてデモの終了を宣言してしまう。あまりにも唐突な、恐らく土壇場で決めたであろう打ち切りに、一人の若い男性参加者が何やら叫んでいた。尤も周りの参加者に止められ、彼は数人掛かりで遠くに運ばれてしまうのだが。残りのデモ参加者は黙々と片付けを始める。

「む? 話はもう終わりですか? 最初は強気だったのに急に曖昧な言い方で……何が言いたかったのですか?」

 なんとも尻窄みな終わり方の所為で、人間への理解がいまいちなフィアはすっかり混乱している様子だ。

 花中はデモ隊の一員ではないので、彼等の本心は分からない。けれども花中と彼等は同じ人間なので、胸中を想像するぐらいは出来る。

「えっと、言いたい事は、宇宙人は出て行けー、だと思うよ」

「宇宙人? ああ円盤からやってきた奴等の事ですか。ならハッキリ言えば良いのに。丁度近くに一匹来ていましたし」

「えっと、来たから言えなかったというか……」

「?」

「……要するに、怖いの。あの人達、そこまで本気で、宇宙人と戦うつもりなんて、ないから」

 ハッキリと、花中はフィアにそう説明する。

 『宇宙人(幼女もどき)』への抗議は、その根元は移民や人種に対する差別意識と同質のものだろう。よく知らない、理解出来ない、そして自分達の権利が脅かされるという『感覚』……しかし一つ、大きな違いがある。

 幼女もどきの科学力が、人類など足下に及ばない水準であるという点だ。直径十五キロの巨大建造物や光学迷彩、高高度から落ちても壊れない巨塔など、彼女達のテクノロジーは明らかに人類を圧倒している。今はただ浮遊し、いたずらする程度だが……その科学力で作られた兵器が、人間に理解出来る水準の筈がない。

 もしもSF作品に出てくるような、地球そのものを消し飛ばすような兵器を持っていたなら? 本気で機嫌を損ねた結果、その兵器を使われたなら、人間に勝ち目なんてない。

 こうした理由から表立って幼女もどきと敵対する団体というのは、実のところ殆どいなかった。主張も、基本的には幼女もどきが見ていない場所で行う。幼女もどきに見られていると、ああして解散してしまうものも珍しくない。

 結局のところ彼等は、ぶつけられない怒りを『ちょっと関係していそうな人々』に向ける事で鬱憤を晴らしているだけなのだ。

「はぁそうなのですか。私にはよく分かりませんがまぁ人間って何時も本音を言いませんからそういうものかも知れませんね」

 花中から説明されたものの、フィアは首を傾げながら、あまりピンと来ていない様子。フィアからすれば、嫌いな相手に何故嫌いと言わないのか、よく分からないのだろう。

 花中としても、幼女もどき達が予想通りミュータントであるなら、デモ団体の心配は杞憂だと思う。彼女達が人間の支配を考えているとは思えない ― それを考えているならもっと『上手く』やるだろう。それが出来るだけの力と知恵はある筈なのだから ― し、()()()()が喚いたところで気にも留めまい。こちらから危害を加えない限り……そもそも人間の力で『危害』を加えられるとも思えないが……幼女もどきが何かしてくるとは思えなかった。

 とはいえ、ではデモ団体の存在はなんの問題もないかといえば、決してそんな事はない。

 人間というのは、野生生物ほど合理的にはなれないのだ。いや、むしろ下手に自分のやりたい事を『理性的』に我慢してしまう所為で、合理性から一層遠退く。

 だからこそ、

「きゃああああっ!?」

 商店街の中で、悲鳴が聞こえてくるのだ。

「ひっ!? 悲鳴……? ふぃ、フィアちゃん!」

「んぁ? あー見に行きたいのですか。花中さんも結構自分から首を突っ込むタイプの人間ですよねぇ」

 呆れたような口振りでぼやくや、フィアは花中をお姫様抱っこの形で抱え上げる。花中がフィアの身体に抱き付いて振り下ろされないようにすると、フィアは颯爽と駆け出した。

 勿論商店街の人混みは未だそこに存在している。しかしフィアのパワーならば掻き分ける事など造作もない。フィアは容赦なく一般人を突き飛ばしながら、悲鳴が聞こえた方へと進んでいく。

 やがてざわざわとした喧噪が聞こえ始め、人混みが動きを止めている事に花中は気付いた――――丁度その時、フィアはついに人混みを抜けた。

「この宇宙人の奴隷共がァァァァッ!」

 瞬間、花中の耳に獣染みた咆哮が届く。

「ひっ!?」

 突然の大声に花中が怯え、フィアが不愉快そうな眼差しで前を見つめる。

 人混みを抜けた先に居たのは、一人の男だった。見覚えのある顔だ……花中はそう思い、記憶を辿ってみる。答えはすぐに思い付けた。

 先程デモを行っていた反異星人団体の一人だ。具体的に言えば、代表らしき人物が終わりを宣言した際に暴れ、仲間達に連れて行かれた若い男である。仲間を振りきり、此処に戻ってきたようだ……しかし何故?

 疑問に思う花中だったが、若い男がぐるりと振り向くように自分の方を見てきたので、そんな『些末』な考えは吹っ飛んでしまった。

「テメェら、う、宇宙人と共謀して、俺達みんなを殺す気なんだろ!?」

 加えて、ぶつけられた質問はあまりに意味不明。

 花中の疑念は恐怖にすり替わり、恐怖は困惑に塗り潰されてしまった。

「……え、えと、きょ、共謀……?」

「経済活動のふりをして、宇宙人に資金提供してるんだ! それで、自分達だけが貴族階級になって、俺達みたいな何も知らない市民を奴隷にするつもりなんだ! そうだろう!?」

「……花中さん私この人間の言ってる事ががさっぱり理解出来ないのですが。殺されるのか奴隷にされるのかどっちなんですかね?」

 フィアはキョトンとしたように首を傾げながら、花中に疑問をぶつけてくる。しかし花中にだって、彼が何を言いたいのかさっぱり分からない。

 分かった事があるとすれば、この若い男性が陰謀論者……それも極度の疑心暗鬼に取り憑かれた、危険な『思想』を持っている事ぐらいだ。

 彼に説得は通じない。自分の主張に賛同する者以外、否、賛同したとしても()()()()()疑わしい行動を取れば、それだけで敵と認定するだろう。陰謀論者にとって敵とは絶対的な悪であり、その言葉の全てが甘言なのだから。

 そして『悪』を倒す事に、『正義』が躊躇う理由などない。

「そんな事はさせねぇ!」

 男が懐から一本のナイフを取り出した時、男を囲う人混みと花中は悲鳴を上げた。

 人混み達は一斉に男から離れる。花中はフィアに抱き付き、フィアはぼんやりとその場に立っていた。花中達は男の前に取り残される形となり、男は花中達に狙いを定める。

「死ねえええええっ!」

 男は叫び、ナイフを構えたまま花中達の方へと走り出した。

「峰打ちっ!」

 直後、彼の背後に現れた一匹の『黒猫』。

 何処からともなく現れた黒猫は、男の首にチョップを一発。「きゃんっ」などと姿に似付かわしくない声を上げ、男はぱたりと倒れた。

 あまりにも呆気ない倒され方。しかしそれも仕方ない。

 目の前の黒猫は、本物の宇宙人よりも怖い生物なのだから。

「……あ、ミィさん。えと、ありがとうございます」

「やっほー。いやー、危なかった……って事はないだろうけど、面倒な事になってたねぇ」

 花中が話し掛ければ、黒猫ことミィは明るく返事をした。

「おや野良猫ですか。何故黒猫の姿なのです?」

「人の姿でいるとあのちっぽけな宇宙人達が集まってくるから、ろくに昼寝も出来ないんだよ。だから猫の姿の方が色々楽なの」

「あなた元々猫でしょうが」

「それを言ったら、本当の姿はこんな小さくないし」

 世間話を交わす二匹。彼女達の足下に倒れる男はピクピクと痙攣するだけで、跳ね起きて襲い掛かる気配もない……起きたところで、瞬殺されるだけだが。

 人混み達も、男が動かなくなったと分かるや少しずつ集まり始めた。そろそろミィとの会話と聞かれてしまうかも知れない。

「……人が、集まってきました。この人は、他の人に任せて、わたし達は、此処から離れましょう」

「了解です」

「あ、ミィさん。えと、一緒に、来ませんか?」

「ん、良いよ。ああ、そうそう。どうせなら喫茶店寄りたいな。あたし最近コーヒーにはまってるんだー」

「……猫ってコーヒーを飲んでも良いのですか?」

「普通の猫なら死ぬけど、このあたしなら全然平気。体重五十トンはあるからコップ一杯なんて水滴みたいなもんだし。そもそもカフェインは胃で高熱分解してるからね」

「いよいよ持って化け物ですねぇ」

「アンタには言われたくないけどなぁ」

 彼女達にとっては世間話をしながら、花中達は男を置いてこの場から去る。悪い事をしたとは花中も思っていないが、警察に通報し、自分達も事情聴取を受けるとなると少々面倒だ。出来るだけ早く立ち去りたい。

 そうした想いから、花中は自分達が逃げる事ばかり考えていた……だから、花中は見落としてしまう。

 事の顛末を、店の屋根から眺めていた幼女もどきの存在に。

 節穴である彼女達の目に、確かな知性が宿っていた事など、知る由もなかった。




宇宙人が現れたら、絶対人間は内輪揉めすると思う。
一致団結しても勝てるか怪しい相手なのにねぇ。

次回は8/9(金)投稿予定です。


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異種族帝国4

「なんかさー、最近色々きな臭いよねー」

 お昼時を迎えた教室にて、お弁当の具を箸でつつきながら、加奈子はそんなぼやきを漏らした。

 加奈子の言葉に、最初に反応したのは晴海。椅子とお弁当箱(及びお洒落な風呂敷)だけを持って加奈子の机までやってきていた晴海は、納得するようにこくりと頷いた。

「あー、確かにね。反異星人団体が最近、みょーに過激なんでしょ?」

「そーそー。ま、過激と言っても宇宙人に何かする気はなくて、宇宙人と仲良くしてる人への攻撃を強めるとかなんとか」

「アイツ等の言う宇宙人と仲良くしてる人って、直接のつながりだけじゃなくて、その影響で増えた観光客とかも含むんでしょ? あたし達も何時標的になるのやら」

「怖いですよね……」

 加奈子と晴海の会話に、傍で共にお弁当を食べていた花中も混ざって同意する。三人の女子高生は、女子高生なりに世の中に憂いを覚えていた。

 ……全員アフロヘアーな所為でいまいち真剣味が出ていないが、こればかりは仕方ない。やる気になれば全人類を抹殺出来るミリオンすら歯が立たない、幼女もどき達のトンデモ科学に巷の美容室や整髪料如きが敵う筈もないのだ。

「ま、過激化した原因はどー考えてもはなちゃん達だと思うけどね」

 そうした締まりきらない話の中、アフロヘアーではないミリオンが淡々と指摘する。その指摘が図星だったので、花中は苦笑いを浮かべた。

 商店街に現れた、過激な反異星人思想の持ち主をミィが倒してから早三日。

 陰謀論に囚われている彼等は、ますます思想を過激化させていった。どうやら思想を同じくする仲間が『同志』の活躍を撮影していたらしく、ミィに倒される瞬間を記録してネットに投稿したのだ。曰く同志の逮捕には異星人の技術が使われた、突然気絶するなどあり得ない、やはり宇宙人はこの町を支配している……同志の不自然な倒され方が、彼等の疑心に火を付けた。勿論ミィは『宇宙人』の手下などではなく、ただ友達(花中)を助けようとしただけなのだが、目視不可能な速さで動き回る生物の存在に気付けというのは酷な話である。

 そしてこれが問題を大きくした。

 仮に通報により駆け付けた警察が彼等を逮捕しても、同志達は「政府機関も異星人に乗っ取られた!」と主張しただろう。けれども撮影された映像は極々普通の逮捕劇となり、異星人の関与なんて何処にも見られない。動画が投稿されても大半の人には笑われ、何事もなく忘れ去られた筈だ。

 だがミィが同士を倒した事で、『突然人が倒れる』という奇妙な映像が出来上がってしまった。異星人が自分に反発する思想を取り締まろうとしている……その主張がそこそこ『現実味』を帯びてしまったのである。動画を投稿した反異星人団体の勢力はこの三日でかなり拡大し、今やちょっとしたニュースだ。

「ああん? あなた花中さんが悪いと言うつもりですか?」

 こうしたミリオンの言い分が悪口に聞こえたのだろうか。ドスを利かせた声で威圧するフィアだったが、ミリオンは何処吹く風。肩を竦めるだけだ。そのつもりだけど? と言わんばかりに。

 ……もしもミィが助けに来なければ、あの男はフィアと自分を襲っただろうと花中も思う。そしてフィアは間違いなく反異星人思想の男をボコボコにする。可憐な見た目の少女が、ナイフを持った男を一方的に嬲り倒すというのも、それはそれで不自然だ。動画が投稿されたなら、なんやかんや騒ぎにはなりそうである。

 あの場で花中が反異星人団体を直に見ようとした瞬間、この結末は避けられないものとなったのかも知れない。

 だとすれば「見に行こう」と言った自分こそが元凶なのだと、花中はそう思ってしまうタイプの人物。そして事態を招きながら何も出来ない自分に嫌悪し、俯いてしまう。

「あーあ。宇宙人なんだからさ、人間の頭の中覗き見て、こう、びびびーっとビームで危険思想の持ち主全員撃ち抜いちゃえば良いのに」

「最早ただのディストピア社会ね、それ」

 そんな花中の考えなど露知らず、加奈子は明るく過激な解決策を提案し、晴海からツッコミを受けていた。あまりにもアレな考え方に、花中も思わず笑いが噴き出す。

 お陰でちょっと元気が出てきた。

 問題は山積みだが、きっと解決出来る時が来るだろう。自分の力が必要なら、幾らでも貸そう。きっと、幼女もどき達と自分達は仲良く出来る……商店街の人々が共生していたように。

 前向きになった花中は、何の気なしに窓から外を見上げる。広がる冬の青空はまるで今の花中の気持ちを表すように爽やかで、

 唐突に現れた巨大円盤により訪れた闇は、数十秒前の花中の気持ちと同じぐらいの暗さを町に与えた。

「……っ!? え、円盤!?」

「へ? え、嘘!?」

「なんだ? どうした?」

「きゃっ!? え、円盤が……」

 最初に気付いた花中に続き、晴海やクラスメート達が次々と声を上げる。皆が一斉に押し寄せ、窓際がクラスメートで埋め尽くされてしまう。窓から少し離れていた花中達は出遅れ、クラスメート達の後ろから外を眺める形となった。とはいえ相手は町をも覆う巨大円盤。最前列でなくともその姿は丸見えだ。

 円盤は以前現れた時と変わらぬ姿を保っている。大きさも同じだろう。複雑怪奇なマーブル模様も健在。駆動音も聞こえてこない。恐らくは先日現れ、その後光学迷彩で姿を消していた、あの巨大円盤だと花中は思った。

 しばらく漂うだけだった円盤だったが、やがて町中に生えている塔から光が照射。映像が円盤の底に映し出される。

 映像に現れたのは、今や町の何処でも見掛ける幼女もどきだった。王冠を被った個体で、初遭遇時に映像で映されたのと同じ個体だと推測される。

【……ねー、これもうつながってるー?】

【たぶん】

【だいじょうぶじゃない?】

【ちじょーぶたいから、みえてるってれんらくきてるよー】

【じゃあ、だいじょうぶだよ】

【わかったー】

 そして今回も、映像開始後にぐでぐでとしたやり取りが交わされていた。何故事前にテストをしておかないのか。恥の概念がないのか、隠し事などないのか、はたまた演技か……

 呆れる花中を他所に幼女もどき達は一通りの確認を終えたのか、やがて一瞬の沈黙が流れる。その静かさの中で映像に映る幼女もどきは頭の王冠の位置を整え、真っ直ぐカメラを見ながら語り始めた。

【えっと、にんげんたち、げんきにしてますか。わたしたちは、げんきです。おにくとじゅーす、ありがとうございます】

「あ、ちゃんとお礼言うんだ」

「あれ、知らない? あの子達、食べ物あげると必ずありがとうって言うんだよ。その場で食べる事はしないで必ず持ち帰るし、結構お行儀良いよね」

「おい、お前宇宙人に餌やってんのかよ」

「そうだけど何? アンタ反異星人なの?」

 幼女もどきの言葉で、クラスメート達はほっこりしたり、苛立ったり、軽蔑したり。短い話の一つで、集団の結束が揺らぐ。それだけ異星人の存在が身近であり、尚且つ人間にとって大きなものとなった証だった。

【おかげで、たくさんのかぞくがおなかいっぱいになりました。わたしたちは、ごはんをもらったら、おかえしするのがるーるとなっています。ですので、なにかおかえしをしたいとおもいます】

 そんな人間達の事をどれだけ理解しているのか。幼女もどき達は淡々と話を進めた。またしてもクラスメート達がざわめく。

 勿論花中も驚きと興味を抱いた。今までもらう一方だった幼女もどき達が、何かを渡そうというのだ。向こうとしても、人間との関係を重視しているのかも知れない。

 幼女もどきの正体がミュータントだと思っている花中にとって、これは大きな希望だった。ミュータントは知恵こそ人間並だが、大半が人間に無関心、或いは敵対、はたまた利用対象……という具合に、お世辞にも友好的ではなかった。しかし幼女もどき達は食糧に対するお礼を考えているという。

 もしかすると人類とミュータントの間に、前向きな関係が築けるかも知れない。ミュータントが未来の生態系を支配する種だと思っている花中は、これが人類の命運を左右するとても大きな分岐点になると感じた。自然と身体は前のめりになり、幼女もどきの話に耳を傾ける。

 ――――花中は夢中だった。

【わたしたちは、にんげんのことをよくしりません。だから、なにをすればよろこぶかわからないので、さいきん、ちょっとしらべていました】

 前向きで、明るくて、無邪気な幼女の語る言葉に。

【そうしたら、にんげんどうしのけんかがおおいことにきづきました。けんかはだめです。たまに、かぞくでけんかしているにんげんもいます。かぞくでのけんかは、もっとだめです】

 本当に悲しそうに語るその気持ちに、共感の念すら抱いてしまう。

【だから、わたしたちはみんながなかよくなることをぷれぜんとします】

 故に、幼女もどきのこの言葉にも警戒心などなく、ただただ不思議なプレゼント内容に首を傾げるだけ。

 巨大円盤の下部から『何か』が現れても、その気持ちは変わらなかった。

「……………え?」

 呆けたように、花中は声を漏らす。

 巨大円盤から現れたのは、三角錐のような形状の物体だった。マーブル模様なのは円盤や塔と変わらないが、色合いがやや黒ずんでいて他と異なる。赤く光るラインが何本も表面を走り、多大なエネルギーが行き来していると察せられた。雰囲気の違いは用途の違いからくるものだろうか?

 果たしてこれはなんなのだろう? 相手はフィクションすら凌駕する超科学の持ち主。形から用途を想像するのは難しい。

 ただ、初見の印象を正直に語るなら。

 まるで『砲台』のような気が――――

「むぅ。これはいけない」

「え?」

 ぼんやりと見ていた花中は、不意に背後から抱き締められた事で一瞬戸惑う。

 その一瞬のうちに、花中に抱き付いたフィアは水の膜を展開。次いで花中と自分をぐるりと囲う。花中と自分だけを、分厚く頑強な水球に取り込んだのだ。

 何があったの? その一言を伝えれば、フィアはつらつらと全て答えてくれただろう。しかしそれは叶わない。

 尋ねるよりも前に、巨大円盤の下部から眩い光が放たれたのだから。

「ぇ――――っ!?」

 反射的に驚きの声を漏らした花中だったが、その驚きは次の瞬間には別のものへと切り替わる。水球が、まるで黒塗りされたかのように真っ黒になったのだ。

 外の様子が見えず戸惑う花中の耳に、クラスメート達の小さな声や息遣い、机を蹴飛ばしたような音が届く。けれども悲鳴はない。

 時間にして、五秒か、十秒ぐらいか。決して長いとは言えない時間で、水球の色合いが変化した。再び透明になり、外の景色が見えるようになったのだ。次いで水球はどろりと溶け落ちるように崩れ、花中の周りから失せる。水球の中でもずっと花中の傍に居たフィアは、安堵したような忌々しげなような、複雑な感情を臭わせる鼻息を吐いた。

 一体、何が起きたのだろうか。

 花中はきょろきょろと辺りを見渡した。クラスメート達は、特に倒れていたりする事はなく、大半が棒立ちしている。座っているのは、光が放たれる前から座っていた人……晴海や加奈子ぐらいだ。細かな違いはあるかも知れないが、大凡光が放たれる前の光景と変わっていない。

 巨大円盤は何をしたのか? ひょっとして、強い光でみんなを驚かせただけ?

「えと……あの、何が、あったのですか……?」

 花中はおどおどと、晴海と加奈子に尋ねる。すると晴海と加奈子は花中の方へと振り向いた。

 勿論二人の動きは驚くようなものではない。しかし円盤からの光という異常事態の後に初めて見られた、友人達のごく普通の仕草だ。何も変わっていない。それが花中の心に安心を与え、

「「んー、わかんなーい」」

 息の揃った能天気な言葉が、花中の心を揺さぶる。ぞわりとした悪寒が、全身を駆け巡った。

 なんだ、今のは。

 否、加奈子だけなら問題ない。彼女は普段から、こう言うのも難だが、余程の事態を前にしても能天気なのだ。しかし晴海は違う。もっと常識的で、警戒心の強い性格だ。異常事態を分からないの一言で終わらせる性格ではない。

 何かがおかしい。

「そ、そう、ですか。えと、その、何が起きたのか、とか」

「えっとねー、ぶわーって光が出てー」

「眩しかったー」

 花中が尋ねると、加奈子が答え、晴海が感想を述べる。いくら能天気な加奈子でもここまで危機感がないとは思えないし、晴海だったら加奈子を窘めながらちゃんと説明する筈だ。二人とも、何かがおかしい。

 ――――いや、おかしいのは本当に()()()()

 不意に脳裏を過ぎった言葉が、花中を行動に駆り立てる。席から立ち上がり、花中は教室内を見渡す。

 クラスメート達は全員無事だ。少なくとも、見た目においては。

「眩しかったね」

「うん」

「そーいえば、僕達なんかケンカしてなかったっけ?」

「してたっけ?」

「うーん。気のせいかも」

「そっかー」

「あはははは」

 聞き耳を立てれば、聞こえてくるのは楽しげで仲の良い会話だ。クラスメート同士が仲良くしているのは、とても良い事だと花中も思う……その組み合わせが、『異星人に食べ物を与えた女子』と『反異星人思想持ちの男子』でなければ。

「おやおやこれは予想外な状況ですねぇ」

「ほんと、まさかこんな事が可能とはね」

 一層戸惑いを強める花中。その傍でフィアと、そしてミリオンが話をしている。

 何時もと変わらぬ話し方をする二匹に、花中はすぐに詰め寄った。

「あ、あの! 何が、起きたの!?」

「さぁ? 私はヤバい気配を感じて花中さんと自分の身を守っただけです。光がヤバいと思ったので完全遮光にしましたが正解でしたね」

「私は特に何も。危険は感じなかったから……だけど、これは中々厄介な事態ね」

 フィアは誇らしげにするばかりで特段今の状況に関心がないようだが、ミリオンは少なからず危機感を覚えたように答える。花中の気持ちは、ミリオンに近かった。

 あくまで推論だ。もしかしたら本当は大した事のない、安全な状況かも知れない。されど悪い方へ悪い方へと考えてしまう花中の脳が導き出したのは、ある最悪の事象。

 ()()()()()()()だ。

 光を目の当たりにしたクラスメート達の知能は、著しく低下しているとしか思えない。それもただ知識が減るというものではなく、危機感や不安の感情が消える形での低下である。成程、危機感も不安もなければケンカなど起きず、誰とでも仲良く出来るだろう……それ以上の大問題を引き起こしてる点に目を瞑れば。

 恐らく今ならお菓子の一つでも持って誘えば、晴海も加奈子も簡単に誘拐出来てしまう筈だ。危機感がないために、酷い事をされるなんて考えも付かないのだから。勿論これは大問題で、なんとかしなければならない事案である。だが、『人類社会』としては些末事でしかない。

 本当の問題は、この災禍が何処まで広がったのか。

 フィアが感じ取ったように、円盤から放たれた光がこの状況の原因だとしたら? あの光は、一体何処まで広がった? 学校周辺だけ? それとももっと広範囲?

 もしもこの光が何処かの、原子力発電所や化学工場にまで及んでいたら――――

「み、ミリオ」

「はなちゃん、心配はいらなそうよ。まぁ、余計不安になるかもだけど」

 すぐに事態の把握をしたい。故に花中は広範囲の探査を得意とするミリオンに頼もうとしたが、そのミリオンは窓の方を……巨大円盤を指差す。

 振り向いた花中の目に映るのは、巨大円盤から様々なものが降下する姿。

 巨塔や小型円盤だけではない。浮遊するボールのような球体、二足歩行の巨大ロボット、遠くて分からないが鳥の群れのような小型の何か……多種多様なものが、一斉に地上に降りてきた。それらは満遍なく、地平線の先まで広がっていく。

 塔は再び光を放ち、巨大円盤の底に映像を映し出す。勿論現れるのは、王冠を被った幼女もどきだ。

 彼女の表情は変わらない。無垢で、愛らしくて、何も考えていなくて。

 故に、

【えっとね、みんながなかよくなるため、わたしたちみたく、ぼんやりしたきもちになってもらいました。にんげんのどうぐは、ぼんやりつかうのはあぶないので、みんなとめておきます。あんぜんなものにこうかんするまで、ちょっとまっててねー】

 その言葉が、背筋が凍るほどに恐ろしかった。

 ……………

 ………

 …

 昼休みが終わるよりも前に、花中は学校を抜け出した。

 本来ならあと十分もすれば午後の授業が始まるのだが、今日に限れば欠席の心配はない。覗き込んだ職員室では、教員達がかくれんぼをして遊んでいたのだから。下駄箱で堂々と上履きを脱ぎ、靴へと履き替えた花中は、フィアとミリオンと共に校舎から出る。

「……やっぱり、スマホは、付かないみたい」

 その際自身のスマホを見たが、画面は真っ暗なままだった。電池切れを起こしていない筈のそれは、何をしてもうんともすんとも言わない。

 被害はスマホだけではない。職員室のテレビや時計、火災報知器まで止まっている。それどころか職員室内にあった年代物のストーブ……マッチ棒で着火するタイプという極めて『原始的』な一品だ……すらも機能を停止していた。

 電子機器を片っ端から止めていくだけならまだ理解出来る。例えば送電を止めたり、高高度で核爆発を起こしてEMP攻撃を仕掛けたりすれば、人間にも『模倣』可能なのだから。しかし一体どうして電子部品など欠片も積んでいない、原始的ストーブまでもが機能停止しているのか。

 疑問の答えは、ミリオンが知っていた。

「室内だけじゃないわね。校舎の外にも『ナノマシン』が散布されてるわ」

 どれだけ量産してるのやら。そうぼやきながらミリオンは肩を竦める。あたかも、なんて事もないかのように。

 無論、なんて事もない、なんて話の訳がない。

 ナノマシン。それは文字通りナノ単位……十万分の一ミリ単位の大きさの、超微細マシンである。巨大円盤はこのナノマシンを大量に散布し、空気中に満たしていた。そしてスマホやストーブなどの中に侵入し、その機能を止めてしまったのである。

 当然空気中を飛び交うナノ単位の機械など花中(人間)の目には見えないし、破壊する方法なんて隙間なく爆風で吹き飛ばすぐらいしか思い付かない。もしも幼女もどき達が世界中にナノマシンを散布すれば、人類は一瞬にして全ての英知を失うだろう。抗う術などない。

 これだけでも絶望的だが、恐ろしいのはナノマシンだけではない。

「……ちょっと、暑いです」

 花中は制服の上着を脱いで、ワイシャツ姿になる。今は二月後半で寒さもピークの筈なのに、何時の間にか肌が汗ばんでいた。いや、上着を脱いだだけでは、少し物足りない。

「花中さん暑いなら少し冷やしましょうか?」

「……うん」

 フィアの提案にこくりと頷き、花中は首筋にフィアの手を当ててもらう。ひんやりとした冷たさが心地良い。

 それほどまでに『外気』が暖かくなっていた。

「平均気温が上昇してるわ。しかも町中で、かなり急激に……どうやら、あの球体が原因みたいね」

 ミリオンが指差したのは、巨大円盤から出てきた球体。校庭にも一つ浮かんでおり、ふわふわと周囲を散策するように動いている。大きさは一メートルほどで、表面に描かれたマーブル模様がなければくるくる回転していると分からないぐらい完全な球形をしていた。

 機械音もなく浮遊するところは確かに謎だが、しかしただ浮いているだけにしか見えないのも事実。アレが一体気温にどのような影響を与えているのだろうか?

「えと、ストーブみたいに、熱を発して、温めているの、ですか?」

「違うわ。あの機械の一定範囲で、粒子運動が()()()()()()。この意味、分かるでしょ?」

 花中の質問に答えるミリオン。だが、花中の頭は、その回答をすんなりとは受け入れられない。

 粒子運動を制御している? それも遠隔で?

 出鱈目にも程がある。温度とは物質を構成する粒子の運動量の事。あの球体がその運動量を本当に制御しているとすれば……この町の気温は()()()()()()上下しない事になるのだから。昼も夜も、火災も冷風も、雨も快晴も関係ない。一度と気温が変わらない、完全な気候のコントロールが出来てしまう。

 この技術を応用すれば、世界各地で猛暑や寒波、それらに付随する大雨や暴風を引き起こせるだろう。いや、もっと直接的に人体そのものを高温にして発火させる事も可能な筈だ。空気を構成している酸素や窒素と同じものが、人体を形成しているのだから。

 人間の『知性』を失わせる光、人類の英知を尽く無効化する小型機械、環境すらも制御する技術……ありとあらゆる力が、その気になれば人類を一瞬で滅ぼしてしまうもの。そして彼女達はその力を振るい、一つの町を完全な支配下に置いてしまった。

 幼女もどき達に人類をどうこうする気があろうとなかろうと関係ない。どのような思惑でこの事態を引き起こしたかも、最早些末事だ。このまま幼女もどき達が活動を続け、人類にこの『プレゼント』を渡し続ければ、やがて人類文明は終焉を迎えるだろう。

 なんとかして、彼女達を止めなければならない。例え神にも値する技術力と戦う事になろうともだ。

「……ミリオンさん、能力は、使えますか?」

「頑張れば。でも普段の八割ぐらいの力しか発揮出来そうにないわ。どうもコイツらのテクノロジー、粒子操作系に特化してて、私だと相性悪めな感じね」

「ふふん惨めなものですねぇ。まぁ花中さんにはこの私がついていますからあなたがどれだけ貧弱になろうと関係ありませんが」

 正確な現状分析をするミリオンに、フィアは上機嫌な笑みを浮かべながら花中に抱き付く。

 普段と寸分変わらぬフィアの自信が、不安と恐怖に支配された花中の心を支えてくれる。人間には為す術もない力だが、同じミュータントであるフィア達にとっては『対等』でしかない。

 きっと、まだ勝機はある。

「それで花中さん。これからどうするおつもりですか? というより私は花中さんが何を慌てているのかよく分かっていないのですが」

 決意を固める花中にひっついたまま、特段考えもしていないだろうフィアが疑問を口にする。しかしその疑問は大事なものだ。未だ花中の胸にあるのは、「なんとかしないと」という曖昧なもの。具体的な方針を決めねばなるまい。

「……まずは、話し合いをしよう。多分、悪い子達じゃ、ないから、話せば、人間が困ってるって、分かってくれると思うし」

「そうですか。でしたらあそこに居る奴等に話し掛けてはどうですか? どうせどいつもこいつも変わらないでしょうし」

 今し方思い描いた考えを花中が言葉にすると、フィアはおもむろにある場所を指先で示した。

 見れば、数匹の幼女もどきがとことこと校庭を走り回っている。鬼ごっこでもしているのか。なんにせよ、方針を決めた傍から相手が見付かるのは幸先が良い。

 ……ただ、これから自分が人類の命運を左右する話し合いをすると思うと、ちょっと不安になってきたので。

「うん、そうする。えと、フィアちゃん。手を、握っててくれる?」

「勿論構いませんよ」

 花中のお願いに応え、フィアがぎゅっと手を握ってくれる。これで勇気は百倍……元がちっぽけなのでさして大きくなってはいないが、前に踏み出すぐらいは出来るようになった。

 花中とフィアとミリオンはとことこ歩き、遊んでいる幼女もどき達に近付く。幼女もどき達は花中達に気付くや、遊ぶのを止めて向こうから駆け寄ってきた。能天気な ― 恐らくは作り物の ― 顔にわくわくした笑みを浮かべている。

「あ、あの」

「にんげんだー」

「ねーねー、ぷれぜんと、きにいってくれたー?」

「けんかなくなったでしょ?」

「これでみんななかよくあそべるねー」

 声を掛けようとした花中の言葉を遮り、幼女もどき達は自分の喋りたい事をお構いなしに語る。

 一瞬その勢いに押されてしまう花中だったが、どうにか踏み留まる。言葉通りに受け止めれば、彼女達はあくまで好意からこの『プレゼント』を行ったのだろう。なら迷惑だとハッキリ伝えれば、それで取り止めてくれるかも知れない。

「あ、あの……えっと、ぷ、プレゼントしてくれるのは、嬉しいですけど……でも、みんなの頭を、その考え方を変えてしまうのは、良くない事です。人間的には、ですけど」

「えっ、そうなの?」

「しらなーい」

「じゃあ、にんげんこまってる?」

「でもみんな、たのしそうだよ?」

「それは、あなた達が頭の中を弄ったからで……その、止めてもらう事は出来ませんか?」

「やめられる?」

「おかーさまがやってって、いったことだし……」

「かってにやめたらおこられちゃうよ」

「おこられるの、いやだー」

 説得する花中の前で、幼女もどき達は頭を抱えたり、悲しむような顔を見せる。どうやら『お母様』なる相手が彼女達の頂点……集団のまとめ役らしい。

 母親が群れを纏めるというのは、生物界では珍しい話ではない。ハイエナのように雌がリーダーを担い、リーダーの長女が後を継ぐという種も存在する。

 彼女達もそうした生態の持ち主なのかも知れない。だとすると彼女達『子供』は末端に過ぎず、『お母様』が群れの全権を握っているという事もあり得る。その場合『子供』の幼女もどきをどれだけ説得しても無駄というものだ。母親との直接的な面会が必要である。

「えっと、では、あなた達の『お母様』に、会わせてもらう事は、出来ますか?」

 花中は幼女もどき達に尋ねる。勿論いきなり会わせてくれ、というのは失礼だと思い、出来るかどうかから質問してみた。

 その結果は、花中が思っていたものとは違った。

 幼女もどき達が、一斉にその顔を無表情なものへと変えたのだから。

「……おかあさまに、あいたい?」

「え? えと、そうですね。出来れば、ですけど」

「だめ」

「おかーさまにあうのはだめ」

「あわせない」

「あわせない」

 あくまで穏便に。そうしたつもりだった。

 しかし幼女もどき達は、拒絶の眼差しを花中に向けてくる。敵対的な意思、なんて生ぬるいものではない。本能を剥き出しにした、絶対的な拒絶を感じた。

 何故、そこまで『お母様』との対談を拒否する? 母親に誰とも会わせるなと命じられているのだろうか?

「……花中さん向こうはやる気みたいです。今のうちに潰しておきますか?」

 困惑する花中に、フィアが物騒な進言を耳打ちしてくる。先手を打つという事はしたくないが、フィアが幼女もどき達の『敵意』を察知したのだ。あちらがやる気であるという忠告は聞き入れるべきだろう。

 とはいえ、じゃあ戦おう、などと即座に好戦的考えを抱く花中ではない。ひとまずここは退き、双方共にクールダウンさせてから慎重に接しようと考える。

「ふぃ、フィアちゃん。大丈夫、やらなくて良いよ……えっと、わ、分かりました。お母様には、会わせてくれなくて大丈夫です。その、今回はこれで」

 だから花中は、一旦この話を撤回した。

 撤回したのに。

「おかーさまにあうのはだあれ?」

「わたしたちだけ」

「わたしたちとこどもたちだけ」

「あわせちゃいけない。まもらないと」

 幼女もどき達は止まらない。

「まもるのがわたしたちのしごと」

「わたしたちのしめい」

「おかーさまにはあわせない」

「あいたいやつはどうする?」

「はいじょ」

「はいじょ」

「はいじょ」

「はいじょ」

「えっ? え、は、はいじょ? ……排除?」

「ちっ!」

 幼女もどき達の言葉の意味を理解した、その瞬間フィアが花中を自分の背後へと引っ張り、

 幼女もどき達の指先から、光の弾丸が飛び出した。

 光はフィアが振るった腕と接触し、バチンッ! と激しい音を鳴らす。あたかも電気がスパークしたかのような破裂音。光は粉々に砕け、空気に溶けるように消えていく。

 幼女もどき達が何をしたのか? 花中にはさっぱり分からない。しかしこれまで繰り出してきたどのテクノロジーとも、毛色が異なるのは分かる。

 そしてその光が、酷く攻撃的なものである事も。

「もくひょうはいじょ」

「けいかいはつれい」

「ようちゅうたいしょう」

「せんとうけいぞく」

 幼女もどき達の言葉遣いは一変し、攻撃性を剥き出しにする。先程まで見せていた無邪気さは何処にもなく、純粋な殺意を露わにしていた。

 そして子供程度でしかないと思わせた、知性すらも光らせる。

「もくひょうせんとうりょくがいさんれべるすりー。たいおうれべるすりー、はつれい」

「ああん? あなた達何を言って――――っ!?」

 幼女もどき達の言葉に反応するフィアが、不意にその声を詰まらせた。刹那、フィアは花中の目には捉えきれないほどの速さで身体の向きを変え、前傾姿勢へと移行する。

 何処からともなくやってきた『巨大レーザー』がフィアを直撃したのは、それから間もなくの事だった。

 レーザーを放ったのは、町に立つ無数の巨塔の一本。

 地上に落とされたあの塔達はただの投映機ではなく、強力な戦闘兵器だったのだ。哀れフィアは顔面からレーザーを受ける羽目に。

 されどこのまま大人しくやられるフィアではない。

 表層の水分子配列を変え、鏡のようにしているのだろうか。フィアに命中したレーザーは、弾かれるように斜め上へと飛んでいったのだ。そしてそのまま空へと向かうレーザーは巨大円盤を直撃……かと思いきや、突如として()()()。レーザーは町の何処かに落ち、爆炎を上げた。

 光線が曲がるというのは、アニメや漫画ではよく見られるシーンだ。しかし現実で光の軌道を捻じ曲げるには、見えない反射板を無数に設置するか、空間そのものを歪めるしかない。ナノマシンがレーザーを反射しているのか、それとも巨大円盤周辺の空間がおかしくなっているのか。いずれにせよインチキ染みた科学力がなければ不可能な現象である。

 なんにせよ巨大円盤は難を逃れたが、攻撃が直撃しかねない状況は幼女もどき達の警戒心を引き上げるには十分なもの。

「……もくひょうきけんど、れべるふぁいぶへひきあげ。かんぜんはいじょをじっし」

「ふんっ! やる気になりましたか。ですがこの私に勝てると思わない事ですねぇ! 貴様等のような虫けらなど五分で叩き潰してやりますよ!」

 ぼそりと呟く幼女もどきの言葉に、フィアは好戦的な言葉を返す。両者共に戦う気満々だ。

 対する花中は背筋を凍らせる。

 レーザーを撃ってきたのは、投映機として使われていた巨塔だった。だとすれば気候制御装置やナノマシンなどにも兵器としての機能があるかも知れない。いや、そもそもあれらが持つ機能をちょっと過激にすれば、それだけで人類文明を滅ぼせるというのは先程考えていた話だ。フィア達ならば幼女もどき達相手に互角と考えていたが、それは向こうから見ても同じ事。力関係で圧倒的優位という訳ではない。

 そして此処は巨大円盤の直下にして、塔、ナノマシン、気候制御装置に囲まれた――――言わば敵陣のど真ん中。いくらなんでも形勢が不利過ぎる。

「ふぃ、フィアちゃん! こ、ここは、退却! 退却して!」

「んぁ? ……今良いところなんですけど」

「はなちゃんを巻き込むつもり? 流れ弾一つで、はなちゃんなんかバラバラだと思うけど」

 花中のお願いに不平を漏らすフィアだったが、ミリオンからの忠告で口を噤む。不埒者を叩き潰したいが、花中の身を危険に晒すのは不本意なのだろう。

「あと、流石にアレ全部を五分で片付けるのは無理でしょ」

 そして決め手となったのは、ミリオンの一言。

 巨大円盤下部の至る所が開かれ、中から無数の……数千、数万もの幼女もどきが、直接降下していたのだから。

 やがて着地し、花中達を取り囲んだ増援達は、これまで町で見掛けた幼女もどきとは身形が違った。頑強なアーマーのようなもので身を包み、槍のような武具を持っていたのである。背中には光の羽のようなものが生え、一部は飛行までしていた。

 恐らく彼女達は戦闘部隊。地上に降下した幼女もどきと異なり、()()()()()()()存在なのだろう。

「……確かにあれは面倒そうですね」

「でしょ? 分かったならさっさと撤退よ。私が周りの奴等を吹き飛ばすから、はなちゃんをよろしく」

「あいあいさー」

 青ざめる花中の傍で、ミリオンの言葉に同意したフィアは興醒めだと言いたげに肩を竦める。

 直後、フィアの『身体』から大量の水が溢れ出す。溢れた水は花中とフィアを包み込み、巨大な水球へと変化。

 そしてフィアが準備を終えたのを見届けたミリオンは、パチンと指を鳴らし――――自身の能力で周辺の大気を加熱した。

 水球に守られている花中は感じられないが、その瞬間大気は数百度もの高温に達する。気候制御装置の出力を凌駕した温度変化は、膨張した大気という名の爆風を生み出した。人間ならば皮膚が焼け爛れ、四肢が吹き飛ぶ破滅的現象。幼女もどき達はこの爆風を平然と耐えたが……周囲を漂うナノマシンは、一機残らず吹き飛ばされる。

 これで目は潰した。逃げ隠れるなら今がチャンス。

 ミリオンの攻撃後フィアは水球をドリルのように回転させ、素早く地中に潜り込んだ。ミリオンは姿を霧散させ、大気に溶け込む。

 幼女もどきに囲まれてからここまで、一秒と経っていない。

 刹那のうちに逃げ果せた花中達。幼女もどき達はフィアが開けた大穴へと駆け寄り、穴の中を覗き込む。しばし穴の中を見続けた彼女達は、やがて互いの顔を見合ってこくりと頷く。

「……もくひょうとうそう。つうじょうけいかいにいこう」

「はーい、おつかれー」

「おつかれさまー」

 そして彼女達はフィア達を追う事もなく、再び能天気さを振りまくのだった。




敵意はないけど迷惑じゃないとは言っていない。

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国5

 街灯の明かりに照らされる夜八時半を迎えた公園のベンチに、女子高生が一人座っている。

 女子高生といっても、制服が高校のものだからそうだと分かるだけ。背格好は完全に中学生、いや、小学生高学年程度でしかない。気温もマイナスに突入する中コートすら着ていないという身形は、最早自殺行為と呼んでも差し支えないだろう。

 訳ありだと察するのは容易。家出か、素行不良か、或いは家庭的な不幸でもあったか。

 なんにせよ、『なんらかの事情がありそうな女の子』だと思うには十分な風貌。

「はぁぁぁ……せめて家に帰って、私服に着替えたい」

 そうした他人の視線を人一倍気にする性格である女子高生こと、大桐花中は大きなため息を吐いた。

「我慢なさい。あの町、もう完全にあのちびっ子軍団に支配されているんだから」

 花中の漏らした独り言に反応したのは、虚空に溶け込んでいたミリオン。周囲に散っていた個体が集結し、花中にも見える『身体』を形作った。

 花中はちらりとミリオンを横目に見て、それからもう一度大きなため息を漏らす。

「はい、分かってます……ちょっと、言ってみただけです」

「分かってるなら結構。とはいえ、これからどうしたもんかしらねぇ」

 ぽつりとミリオンは悩ましげにぼやき、花中は同意するように頷く。

 花中達が巨大円盤と幼女もどきの軍団から逃げ出してから、既に八時間ほどの時が流れている。

 今、花中は故郷の町から離れている状況だ。しかしその位置は、隣町なんてものではない……地元から県を二つも跨いでしまった。距離にして約百三十キロは移動しただろうか。

 ここまで離れた理由はただ一つ――――現代文明の機能が残っている町を探していたら、こんなにも遠くまで来てしまっただけだ。

 半径百二十キロ。

 それが巨大円盤が放った光の影響範囲である。円盤の高度が高かったため、それだけ広範囲に光が行き渡ったようだ。おまけに光の効力はコンクリートなどの遮蔽物をお構いなしに貫通するようで、フィアの能力で完全な遮光状態にあった花中以外に難を逃れた人はいない。そのため影響範囲内に居た全ての人の頭が幼児化し、結果日本の首都圏からケンカはなくなっていた。恐らく日本という国が成立して以来、今は最も平和な状態だろう。

 ……ついでとばかりに国会議員達と、日本の象徴である天皇の一族と、首都に本社を置いている大企業の経営者が巻き込まれた事に目を瞑れば。

 政府中枢が沈黙。皇室及び宮内庁も沈黙。派生して警察や自衛隊などの治安維持関係の組織も沈黙。大企業の本社も沈黙。これでクーデターや暴動が起きないのは、日本の治安が安定しているからでしかない。その安定した治安も警察などが沈黙した今、何時までも続くものではないだろう。

 このままでは間違いなくこの国は滅びる。一刻も早く幼女もどき達と対話し、被害者達の知性を元に戻してもらわなければならない。

 そしてその役目を果たせるのは、数々のミュータントと対話してきた自分だけ。

 そう、思っていた。今でも思っている。

 だけど……

「もしかして、まだあの時の失敗を悩んでる?」

 考え込んでいると、ふとミリオンから指摘の言葉が飛んできた。びくりと花中は身体を震わせ、思わず苦笑い。図星だった。

 花中は幼女もどき達との交渉に失敗した。彼女達が最も触れてほしくない『お母様』の名を出し、激しく怒らせてしまったのだ。あまつさえどうすれば彼女達の怒りを収められるのか、その道筋すら未だ立っていない。

 これでミュータントとの交渉なら任せろなどと、どうして大口を叩けるのか。

「……他の人なら、上手くやれたとは、思いません」

「そりゃそうよね。相手は集団。誰だって集団を相手するなら、代表との話し合いを要求する。勿論、最初は末端から懐柔なんて手もあるでしょうけど、最終的には幹部との接触を求めるわよね」

「はい。それでも、やっぱり引き金を引いたのは、自分ですから」

「ほんと、人間ってのは自責の念が強いわねぇ。あの人と一緒に暮らしていた時から疑問だったし、今でもよく分からないところね。回避不能の出来事を悩むなんて、非効率この上ないわ」

 花中の悩みを非効率の一言で片付けるミリオン。あまりにもあっさりした感想に、花中も少し心が軽くなる。

「あと、そのアフロヘアーでシリアスやっても、シュールギャグにしかならないわよ」

 ただ、最後のこの一言は受け入れ難いものだったが。

「……この髪型は、わたしがやった訳じゃ、ないですし」

「それは勿論分かってるけど、でもねぇ?」

「むぅー……こっちは真剣なのに……」

「真剣でもねぇ」

 ぽよんぽよん。花中の白銀アフロヘアーに手を乗せ、弾力を楽しむようにミリオンは触れてくる。

「ま、確かにこれからの事は真面目に考えないといけないわね。このままじゃ日本が滅びちゃうし」

 ぽよんぽよんぽよん。

「対話のための糸口を掴むためにも、まずは相手と打ち解ける方法探しかしら」

 ぽよんぽよんぽよんぽよん。

「甘いものが好物みたいだし、案外ある程度貢ぎ物をしたら仲間と認めてくれるかも……ぷくくく」

 ぽよんぽよんぽよんぽよんぽよん。

「むぁーっ! わたしの髪で、遊ばないでくださいっ!」

「えー、楽しいのに」

 止める気配のない髪の毛ぽよんぽよん攻撃に、ついに花中は怒りを爆発させた。ミリオンは軽々と飛び退き、まるで反省していないおどけた笑みを見せる。

 その笑みがあまりにも無邪気だったから。

 悩んでいる自分が馬鹿らしく思えてきて、花中はつい吹き出してしまった。ミリオンもくすくすと笑う。深夜の公園に、少女達の明るい笑い声が木霊した。

 ――――そしてその笑い声に混ざるように小さな地鳴りもしていたのだが、すっかり楽しくなっていた花中は気付かない。

 故に()()()正面一メートルほど先の地面がぼこりと盛り上がった瞬間を目の当たりにして、花中はベンチから跳び上がってしまった。なんだなんだと戸惑う花中だが、地面の盛り上がりは花中の驚きなど構わずどんどん大きくなり、

「ただいま帰りましたー」

 やがて金髪碧眼の美少女フィアが、地面から顔を出した。

 フィアの顔を見て、花中は身体の震えが収まり、安堵の息を吐く。異常の正体がフィアだった、というのも勿論あるが……何より、友達が無事に戻ってきた事に安堵した。

 何しろフィアは『潜入任務』を行っていたのだから。

「あ、フィアちゃん……おかえり」

「おかえり。で、どうだった?」

「いやーやっぱり駄目ですね」

 ミリオンからの問いに、フィアは肩を竦めて降参と言わんばかりの口調で答えた。よっこらしょ、と言いながらフィアは地面から這い出し、花中に背後からぴたりと抱き付いてくる。ちょっと土臭い友達を、花中もぎゅっと抱き締めた。

 フィアが潜入していた場所。それは幼女もどき達に占領された、花中の地元である町だ。

 幼女もどき達は、どうやら花中達を危険因子として記憶したらしい。花中達が町に入ろうとすると、即座に攻撃してくるようになったのである。しかもその攻撃は町に入り、幼女もどきと出会ったタイミング()()()()。円盤直下から約五十キロ以内に侵入しようとした瞬間、町にそびえる無数の塔からレーザー光線が放たれるのだ。フィアの力ならば易々と弾ける程度の威力しかないものの、五十キロという距離から考えればレーザーは『牽制』である筈。本気の交戦となれば、牽制レーザーの比ではない攻撃が来るだろう。

 花中としては戦って幼女もどき達を黙らせたい訳ではない。彼女達が『お母様』と呼ぶ代表的存在と対話し、この事態を解決したいだけ。戦わずに済むならそうしたいし、戦うにしてもそうしないといけないという理由が欲しいのである。

 だからなんとしても、彼女達の『お母様』と接触したい。多少強引で不躾な方法になったとしても、だ。

 故に花中は、フィアに()()()()大型円盤に近付く方法を模索してもらっていたのだが……

「えと、フィアちゃん。具体的に、どうダメだった、の?」

「言われた事は一通りやりましたけど全部です。アイツ等全然違う姿になっても瞬時に見抜いてきますし適当な顔にしたり小田さん達の顔にしたり動物に化けたりあの虫けら共に化けたりしてみましたがどれも効果なしですよ。すぐに見破ってきます」

「えと、臭い、とかは?」

「そっちは割と効果ありでしたけど長持ちしませんね。十分ぐらいが限度かと」

「十分……その間に、例えば大きな円盤に、乗り込むとか、出来そう?」

「無理です。いくら臭いで誤魔化してもアイツ等の作ったものを壊そうとするとその瞬間に襲い掛かってきます。一度やってみましたがほんと一瞬で町中からやってきますよ。そもそもアイツ等の発明品はどれも滅茶苦茶硬いです。円盤が同じかそれ以上の硬さだとすればこの私が本気を出しても侵入するには五分ぐらい必要かと。ああこの五分というのは邪魔がなければの話ですので実際は何倍も掛かると思いますよ?」

「そっか……」

 フィアからの報告に、花中は小さく俯く。

 幼女もどき達は、視覚以外のなんらかの方法で個人を識別している。新たな情報が得られた事は素直に喜びたいが、相手側のセキュリティ体制が万全である事を突き付けられたショックの方が大きかった。

 臭いでも長時間誤魔化しきれない辺り、複合的な方法で敵性存在を識別しているのだろうか。案外シンプルにマーキングでもしているのかも知れない。無論、人類には検知出来ない方法であるが。

 幼女もどき達は余程他者と『お母様』を会わせたくないらしい。人類には想像も出来ないほど、強固な意思で。

「……お母様って、何者なんだろう」

 ぽつりと、花中は疑問を言葉にする。

 文字通り幼女もどき達の母親だとしたら、幼女もどき達の反応が過敏に思えた。どうして幼女もどき達は、部外者を母親に会わせる事すら嫌がるのか? これが『お母様』に指示を求めた結果ならばまだしも、幼女もどき達はほぼ独断でこの方針を ― しかも仲間内で意見の相違がほぼないまま ― 決めていたように見える。そこまでして他人に会わせたくない『お母様』というのは、本当に彼女達の母親なのか?

 大体、幼女もどき達の正体はなんだというのか。

 ミュータントへの対処方法が分からなくなった時、その正体こそが状況打開のヒントとなる事は多々あった。今回もそうなるとは限らないし、もっと言うなら幼女もどき達がミュータントであるかも確かではない ― もしかしたら本当に宇宙人という可能性だってゼロではないのだ ― が……考えなければ何も変わらない。どうせ今は何も分からず、何をしたら良いかも不明なのだから、考え込んで損はない。

 花中はこれまでに見てきた幼女もどき達の情報から、その正体を探ってみる。

 幼女もどき達の能力については、今更考えるまでもない。『超科学力』……人類の頭脳では理解も真似も出来ない、摩訶不思議なインチキテクノロジーを生み出す事だ。ミュータントの能力は、ミュータント化する前の生態に関係しているものが多い。高度な技術力を有する幼女もどき達は、ミュータント化する前から何かしらの『建設』技術を有していたのだろう。とはいえ何かしらのものを建てる生物なんてものは、実のところ案外有り触れている。パッと思い付くだけで蟻塚を作るシロアリ、巣を作る鳥達、ダムを建設するビーバー……高度な科学力という面だけでは、種を特定するのは難しい。

 ジュースと肉類が好物というのも、ヒントになりそうでイマイチだ。糖質も肉もエネルギー源として優秀なため、雑食性の動物は大概どちらも好物である。犬猫も甘いものは好物らしいので、純粋な肉食動物でもジュースは好むかも知れない。食性から種を絞り込むのも難しそうだ。

 社会性があるのも、果たして何処まで信じて良いのか。例えばフィアはフナであり、社会性など微塵も持っていないが、こうして大好きな花中と何時も一緒にいる。人間並の知能を有した彼女達は、時として種の性質を乗り越えるのだ。社会性を持たなくても集団を作り、皆で一つの『作品』を作り上げる事も、或いは可能かも知れない。

 疑い出すときりがない。もっと視線を変えるべきではないだろうか――――などと考え、花中は一層思考を巡らせようとした時だった。

「……あらあら、これは大変ね」

 不意に、ミリオンが暢気な声で独りごちたのは。

「? えと、何かあったのですか?」

「ええ。情報収集のために、とあるご家庭のテレビを見ていたんだけどね。中々面白い光景が映っていたわ」

 尋ねると、ミリオンはそのように答えた。ミリオンは群体だ。身体を構成する個体を分散させれば、遠くの情報も容易く入手出来る。今もそうした活動をしていたのだ。

 問題は、彼女が何を見たのか。

 ミリオンの語る『面白い』という言葉が、その文面通りの意味合いという事はないだろう。

「……何が、起きてるんですか」

 尋ねると、ミリオンが指し示したのは頭上。花中が示された方を見れば、そこには満点の星空が広がっていた。そして幾つかの流れ星が空を駆けていて――――

 否、違う。

 流れ星ではない。何か、()()()()()ものが空を駆けているのだ。恐らく飛んでいる高度は飛行機とかと同じぐらい。しかし流星と見紛うほどの超高速を誇り、花中達の頭上を一瞬で越えていく。

 そんな塔の後ろには小さな円盤が幾つも追随し、大編隊を形成していた。何百? 何千? あまりに多過ぎて数えきれない。円盤もまた塔と同じく、流星染みた速さで飛行している。

 それらが幼女もどき達の『兵器』なのは明らかだった。

 しかしおかしい。あれらは一体何処に向かって飛んでいるのか。もしも自分達の存在を感知して迎撃に出たのなら、こちらの頭上を通り過ぎる筈がない。五十キロも離れた侵入者さえも察知する彼女達の索敵能力を思えば、地上でぼんやりしている自分達を見落とすとは考え難いからだ。

 恐らくあの飛行物体達には何か、別の目的があるに違いない。

「み、ミリオンさん!? これは……」

「テレビでやってたわ。色んな国が日本の円盤騒動に対し正式なコメントを発表したの。大半はこんな感じの内容よ……彼等のした事は遺憾だが、解決は平和的に行われるべきだ。我が国には対話の準備がある。だから代表者同士で直接会って話そう、てね」

「……えっ」

 訊けばミリオンはすぐに答えてくれた。答えられた内容を花中はよく頭の中で噛み砕き、飲み込み、理解するのと共に顔を青くする。腰が抜け、座っているベンチからずり落ちそうになった。

 各国政府は、恐らく今になってようやく日本の惨状と原因を知ったのだろう。日本は世界に対し、それなりに強い影響力を持つ国家だ。その日本の首都を『攻撃』した『円盤人』に対し何かしらの声明を出すのは、一国の政府として当然の反応と言えよう。

 問題は、何を語るべきか。

 先進国の首都機能を一瞬で黙らせた、圧倒的科学力を誇る相手である。下手に強硬な意見を言って今度は自国が目標になれば、どう考えても勝ち目はない。かといって卑屈になれば、自国民の反発に遭いかねない。国際社会の目だってある。

 必然、コメントは穏便で当たり障りのないものになるだろう。そう、無益な争いは避けて()()()()()()歴史的な会談をしよう、とかの。

 しかしそれは幼女もどき達にとってのNGワード。『お母様』に会わせてほしい……個人がこれを述べただけで、彼女達は激烈な攻撃を行ってきた。花中達は幼女もどき達のテリトリーである半径五十キロより離れる事で難を逃れたが、未だ彼女達は花中達を許していない。見付け次第攻撃し、排除しようとしてくる。恐らく永遠に許さないだろう。たった一言だけで、それほどの敵意を買ったのだ。

 もしも個人よりもずっと大きく、ミサイルなどの遠距離攻撃能力がある国家が、『お母様』は外に出て来い、こちらのテリトリーで話し合おうなんて言えばどうなるか。

 幼女もどき達の答えは、危険因子の排除だった訳だ。

 彼女達は社会性を有している可能性が高い。ならば人間が持つ国家の概念のみならず、大統領などの政治的トップの概念も理解しているかも知れない。いや、むしろ社会性があるからこそ、個人よりも『社会』の方を警戒している可能性もある。政治的トップが『敵対的』な発言をしたならば、『社会』そのものを敵だと判断して攻撃しようとするだろう。例えその『社会』が、自分達から何万キロ離れていようとも。

「いやー、これは本当にヤバいわね。マジで宇宙戦争染みて来たわ。あ、スマホ貸してくれる? 現地のSNS、ちょっと見てみたいから」

「あ、は、はい……」

 言われるがまま、花中はスマホをミリオンに渡す。ミリオンは慣れた手付きでスマホのロックを解除し、すいすいと操作してネット上の情報を集めていく。

「……ざっと集めただけでも、イギリス、フランス、ドイツ、インド、中国、韓国、カナダ、アメリカが攻撃されてるわね。軍事基地に塔が撃ち込まれ、レーザーであらゆる兵器が焼き払われてるみたい。的確に攻撃能力を奪ってるわね」

「れ、レーザーで……!?」

「一応銃火器による反撃が行われたけど、塔には傷一つ付いていないそうよ。あとミサイル系は発射前に全システムがダウンしたとか。ま、そりゃ撃たせない方が楽でしょうね。仮に命中したところで、ただのミサイルどころか水爆すら効きゃしないだろうけど」

「ぎ、犠牲者は……」

「さて、どうかしら。人が死んだ系の書き込みはあるけど、思ったよりも少ないわね。拡散希望とか、なーんかデマ臭い書き込みばかりで、何処が発表したっていうソースは載ってないし。案外、怪我人ぐらいで済んでるかもね」

 ミリオンの答えに、花中は僅かながら希望を抱く。幼女もどき達の目的はあくまで『お母様』の安全確保なのだろう。わざわざレーザーで攻撃しているのが、その証とも受け取れる。もしも敵性存在の完全排除なら、気候コントロール装置で凍らせるなり焼くなりする方が早いし簡単なのだから。それに幼女もどき達は人間が与えるジュースや肉を好んでいた。人間を殺したら、それらをもらえなくなってしまう事ぐらいは分かっているのかも知れない。

 だが、安堵をするには早い。

 恐らく政府、いや、人間達は何故幼女もどき達が怒ったのか分かっていない。何しろ状況的には、対話の意思を伝えたらいきなり攻撃されたようなものなのだから。大多数の人間には、異星人の侵攻が始まったとしか受け取れない筈だ。

 こうなれば、未だ標的にされていない国も何かを言わない訳にはいかない。まさか『無視』すれば済むなんて、誰も思わないのだから。そして各国政府が選べるコメントは二つ。和平のため()()()()()()()()意思を示すか、生存のため()()()()()()意思を示すか。

 どちらを言っても最悪だ。発言した瞬間、幼女もどき達のターゲットとなりかねない。彼女達の攻撃は更なる誤解を招き、あらゆる国が次々とコメントするだろう。何回もやるうちに、どの発言が怒りを買っているか分かるかも知れないが……その時にはもう、人間社会は壊滅している。

 武力を喪失した現代人類など、動物園の猿よりも貧弱だ。昨今頻出している怪物どころか自然災害、イノシシや鹿などの一般的な動物すら脅威となるだろう。原始人は自然界に適応していたのだから絶滅まではいかないにしても、現在の七十億なんて人口は維持出来ない。いや、人間自らが破壊してきた自然に、果たしてどれだけの人口を養う力が残っているのか……

 ただ一個の『群れ』。

 その群れの感情を逆撫でしただけで、人類は終わろうとしている。これがミュータントの、フィア達の力なのだ。ほんの小さな気紛れで滅びが始まり、訳も分からぬまま終わらされる。万物の霊長を自称しておきながら、なんと惨めで間抜けな最期なのか――――諦めの感情が、花中の中にふつふつと湧いてきた。

 しかし、どうにかではあるが花中の心は踏み留まる。

 まだ諦めるには早い。いや、ここで諦めたら本当に終わりなのだ。犠牲者も出ていない可能性があるし、軍事兵器の被害も致命的なものとなる前かも知れない。ならば今すぐにでも解決出来れば、まだ取り返しが付く筈。

 そう、今から『お母様』と対話が出来れば……

「(……そもそも、なんで『お母様』との対話をそんなに嫌がるの?)」

 諦めを耐え凌いだ花中の脳裏に、ふと一つの考えが過ぎる。

 いくらなんでも、反応が過敏過ぎないか?

 彼女達はミュータントだと思われる。だから知能は人間に比類する水準まで高まり、事実 ― 結論は誤っていたが ― 人間が喜びそうなプレゼントを渡そうとするだけの思考力を有していた。そんな彼女達に「話し合いをしよう」という言葉の意味が分からないとは思えない。

 だとすると、あの反応は思考とは別、本能に依るものかも知れない。

 根拠はある……フィアだ。彼女は自らの頭上にあるものを本能的に察知し、誰よりも早くその危険に気付ける。されど大半のフナは、高高度爆撃を察知したり、ましてや『神の杖』を避けたりは出来まい。あくまで()()()()()()()()()()()()()()()()程度の話だ。

 幼女もどき達も同様なのかも知れない。元々家族への接触に敏感な性質があったが、それがミュータント化によって強化されたのだとすれば――――その性質から、種を特定出来る筈。

 花中は考える。己の知識を、経験を総動員し、あらゆる可能性を考慮する。人類の未来が、自分の小さな頭の中身に掛かっているというプレッシャーと戦いながら。

 人智を超える超生命体に、花中なりに抗おうとしていた。

「全く忌々しい虫けらです。別段恐怖心などありませんが頭の上を悠々と通り過ぎていくのは不愉快極まりない」

「随分苛立ってるわね。何時もなら面倒臭がって無視するのに」

「虫けら風情がこの私の頭上を悠々と通る事が腹立たしいのです。身の程を知れという事ですよ。それを言うならあなたこそ何時もなら面倒臭がって動かないと思うのですが」

「日本が潰れるだけなら、別に何もしないわよ。でも文明崩壊、その結果世界人口を大きく減らされるのは、今後のリスク管理的にちょっとねー。ま、そこ含めて話し合えれば良いかなーなんて」

 ……友達二匹は暢気に話をしていて、その所為でどうにも集中出来ないが。彼女達は人間ではないのだから此度の事件に左程関心がないのは仕方ないが、せめて考え事の邪魔はしないでほしい。特に背後から抱き付いているフィアの声は、頭の上を飛び越えていくので無性に気になる。そもそも彼女は何故――――

「……あれ?」

 こてん、と花中は首を傾げる。

 もしも、幼女もどき達の正体が『アレ』だとすれば。

 ふわりとした全体像が浮かび上がる。そこに自分が経験したもの、持ち合わせている知識を宛がうと、ジグソーパズルのようにパチパチと嵌まった。欠けているピースも多いが、全体像が見えれば推論という形で新たに作れる。そうして出来上がった一枚の絵は、やや不格好で完璧とは言い難いものではあれど、絵として破綻しているものではない。

 つまりは、恐らく『答え』に辿り着いた訳で。

 されど花中は両手を上げて沸き上がる喜びを表現したり、はたまた立ち上がり右往左往して狼狽したりもしない。やったのは、相変わらずミリオンと世間話をしているフィアの顔を見上げる事。フィアが花中の視線に気付き見下ろしてきても、花中はフィアから視線を逸らさない。

「ん? なんですか花中さん?」

「……あの、フィアちゃん。一つ、訊きたいんだけど……どうして、あの子達の事を虫けらって呼ぶの?」

 花中が問うと、フィアは首を傾げた。何故そのような事を訊くのか、理解出来ていないかのように。

「何故って()()()()()()()()()()ですよ。特に深い理由はありませんけど」

 そしてその答えを、臆面もなく花中に伝えてくれた。

 花中は頬を引き攣らせた。だが、まだそれだけだ。肝心なのは『何時』である。

「……気付いていたの? 何時から? もしかして、あの巨大円盤が現れた時から……」

「いやいや流石にそんな前からじゃありませんって」

 続く花中の問いに、フィアは手を左右に振りながら否定する。

「アイツらが襲い掛かってからです。外の方は消臭しているようでしたが中の臭いには手付かずだったみたいでそれで気付きました」

 否、訂正だった。

 「そっかー」と一言答え、花中はこくんこくんと頷く。つまり幼女もどきに襲撃された直後……八時間前には、フィアは彼女達の正体に気付いていて、なのに教えてくれなかった訳だと察する。

 それ自体は、大体何時もの事だった。社会性を持たないフィアには、『報告(ホウ)連絡(レン)相談(ソウ)』を理解するのは難しいのだ。だから隠すつもりなんてなくて、話した方が良いという考えそのものが浮かばなかったに違いない。むしろフィアがそういうタイプである事を自分は知っていたのだから、こちらから訊くべきだったと花中は猛省する。

 猛省するが、感情的にすんなり受け入れられるかは別問題で。

「フィアちゃんのバカぁっ!」

「え? 何故罵るのです?」

「ああ、もう。ほんとこの子は……」

 花中は憤りをぶつけ、フィアは困惑したように首を傾げて、ミリオンは痛覚のない頭を片手で押さえながら項垂れる。

 人類の未来というものは、こんなしょうもないやり取りで左右されてしまうものだった。




人類滅亡の危機。
まぁ、この世界ではもう、両手の指じゃ数えきれないぐらいあちこちで危機が起きてますが。
白饅頭も繁殖したら、普通にヤバかった訳で。

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国6

 遙か彼方に浮かぶ、巨大な円盤。

 マーブル模様が表面に刻まれたそれは、相変わらず都市の上空を浮遊している。円盤らしくぐるぐると回転を続けているが、音は一切聞こえてこない。何かが聞こえてくる時というのは、円盤側面のハッチが開き、塔や円盤が射出される時だけ。

 さながらその姿は、普段は玉座に座るだけだが、何かしらの指示を出す時だけは声を発する『君主』のよう。

 偉大にして強大なる君主を、花中は五十キロ以上離れた位置から眺めていた。場所は町から外れた位置にある小高い丘。辺りは開けた原っぱで、季節的に今は茶色い枯れ草がカーペットのように地面を覆っている。ぴゅーぴゅーと吹きすさぶ風を遮るものはなく、服の外にある手足や顔に痛みにも似た冷たさを感じさせるだろう……本来ならば。

 今はフィアが展開している水球の中なので、風が花中の身体を虐める事はない。むしろ水球を形成している水はほんのり暖かく、中の気温はとても居心地が良い水準だ。冬服一枚で過ごせる。

 それでも巨大円盤を見ていると様々な事を感情が込み上がり、花中は寒さに震えるかの如く、抱き締めるように自分の服を握り締めた。

「いやーそれにしても待つというのは暇なものですね。しりとりでもしますか?」

 ちなみに水球の側に立つフィアは暢気なもので、花中が抱く緊張感の一パーセントも共有してなさそうだが。脳天気な友達からの誘いに、花中は苦笑いを返す事しか出来なかった。

 幼女もどき達の『倒し方』は思い描けている。

 というよりそれ以外の方法で勝つのは、実質無理だと花中は考えていた。幼女もどき達の力は絶大だ。フィア曰く個々の力はフィアやミリオンほどではないようだが、相手は膨大な数の兵力を有している。総戦力として考えた場合、もしかすると一昨年地球を襲来した異星生命体や、その異星生命体を撃破したアナシスに比類するかも知れない。

 如何にフィア達でも、真っ向勝負では勝ち目がない相手。それはフィア達も ― フィアは大変不本意そうだったが ― 認めるところだ。故に勝機があるのはただ一点のみ。

 代表者たる『お母様』との直接対話に持ち込み、和解する事。

 無論これは簡単な話ではない。そもそも現状巨大円盤に近付く事すら難しいのだから。近付いたところで、力尽くで円盤の装甲をぶち破るには最低五分は掛かる……いや、母船の装甲がそこらの機械と同等の強度とは考え難い。下手をするとフィアの力では破壊不可能という事もあり得る。やはりこちらも正面突破は無理だ。

 やるならば搦め手しかない。

「はぁい、お待たせー」

 考え込んでいると、正面から声がした。ハッとして顔を上げると、花中の目の前で、何時の間にか現れたミリオンが手を振っている。

 とはいえ彼女が急に現れるのは何時もの事。花中は驚かず、すぐに身体を前のめりにしてミリオンに顔を近付ける。

 ミリオンには頼んでいた事がある。その答えを聞きたかった。

「あっ、ミリオンさん! えと、頼んでいたものは、用意、出来ましたか?」

「バッチリよ。ま、お代の方は誤魔化したけどね。人類のために私のポケットマネーを使う気はないし」

「う……で、ですよね……後で、支払い、しとかないと……」

「あのタヌキ共に請求しときゃ良いのよ。この国の危機を救うんだし、費用対効果としては格安なんだから通るでしょ」

 花中が胸を痛める中、ミリオンはけらけら笑いながらそう答える。確かにその手があったなと、花中はしかと覚えておく。人類文明を守るのは大事だが、家計を守る事も同じぐらい大事なのだ。

 ともあれ作戦に欠かす事の出来ない物資の準備は出来た。後はこれを活用した『策』を行うのみ。

 のみ、なのだが……問題はまだある。

「問題は、誰がこれを運び込むのか、よねぇ」

「そう、ですね」

「んー? 私かあなたがやれば良いのでは?」

「それじゃあ実働部隊がいなくなっちゃうかもでしょ。大体セキュリティ的に一番厳しいと思われる場所よ。運び込もうとする人員のチェックは念入りにする筈」

「一回信用してくれれば、あの感じからして、あとはとんとん拍子で、進みそう、なんですけど……」

「「うむむむむ」」

 花中とミリオンは腕を組み、唸ってしまう。

 尤も、本当は案がある。ただ、いまいち信用出来なくて、不確定なのでやりたくない。『知的』な花中達は確実な方法を好むのだ。

 しかし他に案がないのだから、どれだけ不確かでもやるしかない。

「やっぱり、あの子を使うしかないか」

「ですね」

「……むぅ」

 大きなため息を吐く、一人と一体。息ぴったりな姿は如何にも仲良しこよしのようであり、フィアは拗ねるように頬を膨らませた。

 頭脳担当である二名の気苦労など、全く汲みもせずに――――

 

 

 

 桁違いに優れている身体能力。

 シンプル故に、他のどんな力とも対抗出来る能力だ。屁理屈を捏ねたような能力で身を守ってる相手なら、それを上回るパワーで殴ってしまえば勝てる。小難しい理論の攻撃は、鍛え上げたボディと根性で耐えれば良い。とても分かりやすく、そして強い力と言えよう。

 しかし弱点がない訳ではない。

 あまりにも強力な搦め手相手の時だ。こうなるとシンプルさは仇となる。何しろ殴るか蹴るかしか戦いの選択肢がない。水分子を固定化したり、DNAを抽出したり、粘液からある種の酵素を分離したり……こうした『特殊能力』を要求される対処は真似出来ないのだ。ましてや空から降り注ぎ、目を閉じていても効果がある光なんてどうやって防げば良いのか。

 つまり、

「うんたかたったー♪ うんたかたったー♪」

 ミィは、大型円盤が放った『幼児化する光』の影響をもろに受け、ちょっとばかりアホになっていた。

 暢気な歌を歌いながら、ミィは森の中を歩く。冬だけに森を形成する木々は葉を全て落としていたが、森の中は明るくない。何しろ今は夜中であり、その上星と月の光を頭上の大型円盤が遮ってしまっているのだから。周りに立ち並ぶ木々は、輪郭すら闇の中に溶け込ませている。

 人間ならば一歩踏み出すにも勇気のいる暗闇だ。しかしミィの歩みは止まらない。阿呆になろうとも猫を止めた訳ではないのだ。ミィにとって、この暗闇を見通すぐらい造作もなかった。

 そんなミィは、ただ森の中を散歩しているだけではない。

 大きな台車も引いていた。台車の大きさは縦がざっと五メートル、横も三メートルはあるだろうか。そして台車の中には大量の『粉』のようなものが山盛りに積まれている。『粉』といっても湿気を吸ってどっしりとしたそれは、重さにしてざっと十数トンはあるだろう。如何に台車があるとはいえ、人間ではとても一人では運べない重量だ……尤も、ミィにとっては指先で持ち運べる程度だが。

 ミィの足取りは軽く、台車と共にどんどん森の奥へと進んでいく。そうして歩いて行くと、やがて森の奥に光が見えるようになった。

「あー、あれかー」

 光を見付けたミィは、躊躇いなくその光にどんどん近付いていく。

 間近まで迫れば、光の中に何匹かの幼女もどき達が居ると分かった。その光が空に浮かぶ巨大円盤の底より降り注いでいる事も。幼女もどき達はぺたんと座っていたり、ごろごろ寝転がったりしていたが、接近するミィの姿を見て一斉に立ち上がる。

「だめー」

「ここからさき、つーこーどめー」

 次いでミィに『警告』を飛ばしてきた。

 頭の中が幼児化しているミィは、彼女達の警告に素直に従って立ち止まる。幼女もどき達はミィのすぐ近くまで寄り、されど間髪入れず台車の中身に気を取られた。

 そして一匹の幼女もどきが台車によじ登ると、中身である粉を指先で触り、ぺろりと一舐め。

「おさとうだー!」

 粉の正体が、砂糖であると気付いた。

「おさとう!?」

「こんなに!?」

「えっとねー、あたしの友達がね、プレゼントだよって、渡してくれたのー」

「「「わーい!」」」

 ミィの説明に、幼女もどき達は両手を広げて大喜び。

「こんなにたくさんのおさとう、なんねんぶんあるんだろう……」

「だいしゃ、あっちまでもってきてくれる?」

「いいよー」

 幼女もどきのお願いを受け、ミィは幼女もどきが示した場所……円盤から降り注ぐ光の中心に台車を運んだ。

 すると台車は、ふわりと浮かび上がる。

 まるで風船のように自然な、だからこそ不自然な浮かび上がり方だった。台車は落ちるどころか浮上する速さを加速させていき、あっという間に空の彼方まで行ってしまう。

 最後に辿り着いたのは、空を覆っている巨大円盤の底。

 台車がやってくると、円盤の底の部分はパカッと開いた。台車は開かれた穴に吸い込まれて格納。円盤の底が閉じる。

 どう見てもアブダクションされている光景なのだが、それを気にする知能の持ち主は此処には居ない。

「ありがとう! こんど、おれいするねー」

「わーい」

「あと、こんどあそぼうね!」

「うんっ!」

 交わされるのは幼女の楽しげな会話。なんの悪意も裏もない、純朴で無垢な心の通わせ合い。

 当然、彼女達のお喋りはこの場に居る者にしか届かない。

 届かないのだが――――

 ……………

 ………

 …

「こ、心が、痛い……!」

 花中は、すっかり心を痛めていた。

「こら、声を出さない。まだ相手の『巣』に入り込んだだけ。多分異物や老廃物の排出機構もある筈だから、今バレたらぜーんぶ台なしになるわよ?」

 そんな気持ちも、現状は許してくれない。ミリオンは小声でお説教をし、傍に居るフィアは何も言わずに黙っている。花中はフィアが作り出した水球の中で猛省し、小さく項垂れた。辺りは真っ暗闇なので、ミリオンとフィアにその姿は見えていないだろうが。

 さて、花中達は今何処に居るのか?

 答えは幼女もどき達の母艦と思しき飛行物体――――巨大円盤の内部だった。とはいえこれは正確な言い方ではない。もっと詳細を語るなら、()()()()()()と言うべきか。

 つまり花中達は、ミィが運んできた台車の中に潜んでいたのだ。

 幼女もどき達はジュースや肉類を求めていた。しかしその場で消費する事はなく、必ず持ち帰る……クラスメートの一人が話していた内容だ。恐らく手に入れた物資は一度巣に持ち帰り、均等に配分されるのだろう。社会性のある生物ではよくあるルールだ。

 つまり巨大円盤には、獲得したものを運び入れるための搬入口がある筈。

 花中の予想は見事的中した。とはいえ自分達がそのまま近付くのは勿論、変装したところで搬入口から『巣』の中に入れてくれるとは到底思えない。一応フィアとミリオンの能力で臭いを消し、姿を隠したが、ぽつんと置かれた台車を中に引き入れるほど幼女もどき達も無防備ではないだろう。

 故に花中は無垢な心の持ち主となったミィを唆し、ミィを介して無邪気な幼女もどきを騙すしかなかった。基本善人である花中の心を締め付けるには十分な『悪事』である。

「……もう外に出ても良いわね」

 尤も、心を痛めている時間もない。

 外を ― 微細な個体を介して ― 感知していたミリオンが合図を出した。作戦は既に進行し、第二段階へと移っている。今更躊躇したところでどうにもならない。もうやるところまでやるしかない。

 花中は隣に潜むフィアの手をぎゅっと握り締め、作戦開始の合図を送る。

 花中達が居るのは砂糖の中だ。真っ暗で何も見えない。

 けれども花中には見えている。

 自分が手を握り締めた瞬間、フィアの顔に獰猛な捕食者の笑みが浮かんだところが。

「ふっははははははっ! ようやく私の出番ですねぇ!」

 フィアは高笑いと共に、砂糖の山を吹き飛ばす! 開けた視界。花中を包み込む水球の表面には外の景色が映し出される。

 砂糖と共に花中達が連れ込まれたこの場は、壁と床にマーブル模様の六角形のタイルが敷き詰められていた。広さはざっと測れば、ごく一般的な広さであろう大桐家のリビングとほぼ同じぐらい。

 そして周りには、驚いたように目を丸くしている幼女もどきが二匹居た。恐らく運び込まれた砂糖の『検疫』をしていたのだろう。

 フィアはすかさず側に居た二匹の幼女もどきの頭を両手で掴み、

「ふんっ!」

 躊躇いなく彼女達を投げ飛ばした!

 二匹の幼女もどきの身体は宙を舞い、壁に激突。六角形のタイルで敷き詰められた壁は大きく凹み、幼女もどき達の身体は壁にめり込む。

 激突時に鳴った音は激しく、金属がひしゃげるようなものだった。壁にはヒビが入り、極めて硬質な素材で出来ている事を物語る。もしそんな壁にめり込むような勢いでぶつけられたなら、人間では呆気なくあの世に旅立っているに違いない。

 だが、幼女もどき達は違う。

 壁にめり込んでいる彼女達は一瞬の怯みもなく、痛みを感じた素振りすらなく、無感情な顔を花中達に向けてきた。

「……てきせいせいぶつかくにん」

「しんにゅうしゃけいほうはつれい」

 無機質な宣告。ぽつりと呟くような言葉に、彼女達の『巣』は反応する。

 壁や床を形成しているタイルがぱかりと開き、そこから幼女もどき達が続々と現れた。町を徘徊しているのとは違う、アーマーで身を固め、槍で武装した『戦闘員』達だ。

「さぁどんどん出てきなさい! 最近雑魚ばかりで物足りなかったのです! 最後までこの私を楽しませられますかねぇ!?」

「ふぃ、フィアちゃん! 思いっきり、暴れちゃって! あ、でも、出来れば、殺さないようにね!?」

「努力はしましょう!」

 本当に努力する気があるのか、甚だ怪しい好戦的な返事と共にフィアは駆ける。

 親友の杜撰な答えを不安に思う花中だったが、それも仕方ないと思う。相手はミュータントであり、フィアと同格だ。本気を出しても勝てるか分からない相手に、手加減などすれば返り討ちに遭う。全力で挑み、その末に命を奪っても、それを批難するのは傍観者のワガママでしかない。

 花中の気持ちなど興味もないフィアは、努力すると言った側から幼女もどきの一体に渾身の蹴りをお見舞いする! 蹴られた幼女もどきの身体はくの字に曲がり……しかし吹き飛ばされない。

 反撃とばかりに、槍をフィアに突き刺そうとしてくる! 槍はよくよく見れば黄金に輝き、ドリルのように回転していた。中世的な装備ではない。何かしらの超科学を用いて作られた、驚異的な破壊力を秘めた近接戦闘武器だ。

 フィアの本能はこの武器の危険性を瞬時に察知したらしい。迫り来る武器の先端を、フィアは素早く手を伸ばして掴んだ。

 瞬間、まるで金属同士が激しくぶつかり合うような、ギャリギャリという高音が鳴り響く。槍の回転が止まる気配はなく、数秒と音は鳴り続けた。

 そしてついに、フィアの手が弾けるように粉砕される。

 同時に槍も握り潰した。フィアは獰猛な笑みを浮かべながら手を再生させ、槍を破壊された幼女もどきは後退。床のタイルがパカッと開き、退却する。陣形の穴は他の個体がすぐに埋めた。

 驚くべきは幼女もどきが繰り出した槍の威力。今のフィアは水爆の直撃さえ耐えられるインチキ強度を持っているのに、それを数秒で粉砕するとは。

 フィアは未だ笑みを浮かべたまま。余裕を崩していないので、本気を出せば先の槍ぐらいは耐えられるかも知れない。そう、本気を出せば、だ。

 本気を出した状態では、安全のため花中を水球で包んでおく、なんて事を考えておく余裕なんかない。

「花中さんちょっと狭いですが我慢してくださいねっ」

 フィアは花中の了解を待たずして、花中を包んだ水球をそのまま自身の『身体』に統合。水球を取り込んだ分だけ肥大化したフィアの『身体』は、めきめきと音を立てながら変形していく。身に纏うドレスは形を失い、手足は膨らみ、顔が異形に変わり果てる。

 数秒もすれば、そこに金髪碧眼の美少女の姿は影も形もない。代わりに現れたのは、白銀に輝く体長三メートル近い体躯を有す魚面の怪物だ。

【今の私は先程までより優しくは出来ませんよォォォォッ!】

 怪物と化したフィアは地獄の釜を彷彿とさせる、おどろおどろしい咆哮を上げる。

 次いで起こすは、突撃。

 陣形を組み、待ち構えていた幼女もどき達の中へと突っ込んだ! 幼女もどき達は素早く槍を構えるが、フィアは最早槍など見向きもしない。容赦なく振るわれたフィアの豪腕が幼女もどきの一匹を叩き潰した。ぐしゃり、という音と共に床が凹み、幼女もどきの頭も粉砕――――まるで割れた土器のように破片が舞う。

 仲間がやられた。されど幼女もどき達は動揺するどころか、規律ある動きを開始する。一斉に、槍をフィアに突き立ててきたのだ。数秒掛かりとはいえフィアの手を粉砕した攻撃が、何十と襲い掛かる。

 だが、フィアの『身体』は揺らがない。

 何しろ今日のフィアは準備万端。その身を形成するのは、十万トンを超える膨大な水なのだから。数多の経験を積み、大きく成長した今のフィアは、この程度の攻撃で揺れるほど華奢ではない。

 それどころか背中側から生えてきた無数の水触手が槍に巻き付き、彼女達の武器を余さずへし折ってしまう。武器を失って後退を始める幼女もどき達だったが、怪物と化したフィアは尾ビレで彼女達を薙ぎ払う。人間の姿をしていた時の蹴りを一匹で受け止めた幼女もどき達は、敢えなく十数人ほど纏めて吹き飛ばされた。

 劇的なスピード、不動のガード、そして桁違いのパワー。

 これが今のフィアの『本気』だ。いや、これすらも本気の一端に過ぎないと見るべきである。確かに自らの内側に招き入れた事で、今のフィアは花中の身の安全をほぼ考えなくて済むようになった。しかし花中はただの人間なので、空気のあるスペースは必要であり、その分の意識をフィアは残さねばならない。本当の意味での全身全霊には、未だ及んでいないのだ。

 ましてや作り物の顔に笑みを浮かべるなど、余裕がなければ出来やしない。

【こんなもんじゃ準備運動にもなりませんねぇ! もっと出てきなさい! 全員纏めて相手をしてあげますよォ!】

 フィアの挑発と侵攻は止まらない。そして止まる気のない無法者を、住人達は許さない。

 吹き飛ばされた幼女もどき達はすぐさま起き上がり、再びフィアの前に立ち塞がる。何度やられようとも怯まず、続々と増える仲間と共に、進撃するフィアを追い駆けた。無論フィアはこれを迎え撃ち、戦場は流れるように移動していった。

 ……つまるところフィアと花中が運び込まれたこの場から、幼女もどき達は姿を消した訳であり。

「ほっ。どうやらみんな行ったみたいね」

 今になって台車の中から悠々と降りたミリオンへの()()()は、一切なかった。

 ミリオンは念のためと言わんばかりにわざとらしく辺りを見渡し、それからさらさらとその身を崩していく。空気の中に溶けていくミリオンは、くすりと笑みを零す。

「さぁーて、件のものは何処かしら。種からして食べ物を備蓄するようなタイプじゃないけど、幼稚園児並の頭があって、これだけの集団なら多分何処かに……」

 そして小声で独りごちながら、その『何処か』へと向かうのだった。

 ……………

 ………

 …

 幼女もどき達の防衛力は、花中達の想定を上回るものだった。

 素の壁や床は六角形のパネルで敷き詰められているが、このパネルは『武器』にもなった。フィアが進む先でふわりと浮かび上がり、なんと先端からビームらしきものを撃ってきたのである。

 エネルギー照射による発熱・気化……要するに焼き切る事を目的としたレーザーやビームの類は、怪物と化したフィアの表層部分で全て弾かれた。しかし完璧とはいかず、当たる度に微かな湯気が漂う。

 湯気が立つという事は、僅かとはいえフィアの『身体』が削れているという事だ。

【小賢しいっ! この虫けら共がッ!】

 フィアとて黙ってやられはしない。腕を伸ばして浮遊するパネルを掴むや、そのまま握り潰して破壊。構わず前進を続けた。六角形のパネルは何層にも重なり、フィアの行く手を遮るが……フィアはこれを体当たりでぶち破る。

 パネルだけではフィアを抑えきれないと判断したのか、ある程度進むと今度は別の攻撃が加勢してきた。

 開かれたパネルの奥から、巨大な六角形の柱が射出されたのだ。それも目にも留まらぬ超高速で。

【ぐぬっ!?】

 柱が頭に激突し、フィアは大きくよろめく。弾かれた柱は空中でぐるんと一回転するや、まるで引き寄せられるようにまたフィアの下へと飛んでくる。

 柱は一本だけではない。続々と出現し、フィアに打ち付けられた。

 我慢ならないとばかりに柱を捕まえるフィアだが、フィアがいくら握り締めても柱は中々壊れない。パネルよりも強度は上のようだ。しかしフィアが諦めずに力を込めると、ぴしりぴしりと少しずつひびが入る。

 あと少しで壊れる――――と思われたが、フィアの忍耐が切れる方が早かった。フィアは癇癪を起こしたように、柱を振り回し始めたのだ。迫り来る新たな柱を掴んでいる柱で打ち返し、周りを囲うパネルを殴って粉砕していく。

 武器として使われた柱は、数度『仲間』を殴りつけたところで眩く光り……爆発した。

 自爆だ。そして爆発の瞬間凄まじい速さでパネルがフィアを囲うように展開。生じた爆風が広がらないよう押さえ込む。柱の爆発は凄まじく、太陽のような高熱がフィアを焼き付くさんとした。

【邪魔ァ!】

 だが、フィアは健在。

 焼き尽くされるどころか、怪物の姿を寸分も揺らがせていない。パネルを拳でぶち抜き、穴を押し広げ、包囲網から這い出す。

「ふぃ、フィアちゃん、大丈夫?」

【ふふーんなーんにも問題ありません! さっきの爆発は中々のものでしたが未だコンディションは万全です!】

 フィアの『内側』に身を隠している花中が尋ねても、フィアは元気よく返事をしてくれた。親友の健在ぶりに安堵した花中は、少し思案を巡らせる。

 フィアの内側に居ても、花中の前には外の光景が見えている。フィアがわざわざ外の光を此処まで届けてくれているお陰だ。そのためどんな戦闘が繰り広げられていたか、よく見えている。

 フィアの暴れ方は、蹂躙としか言いようがないものだった。しかしそれは幼女もどきが思いの外弱かった、という事を意味しない。

 幼女もどき達のテクノロジーは、やはり圧倒的なものである。例えばパネルによるビーム攻撃。フィアは能力により、自身を包み込む水の分子そのものを固定化している。これにより数万度もの高熱にも平然と耐える事が可能だ。プラズマ化すらも防ぐ力であり、至近距離で水爆が炸裂しようとも無傷で耐えるインチキ防御であるのだが……パネルが繰り出したビームは、僅かとはいえこれを打ち破った。水爆をも超える高熱を当てたのか、はたまたビームになんらかの効果を持たせたのか。いずれにせよ人間には、最早原理を想像する事さえ出来ないだろう。やはり人が勝てる相手ではない。

 何より恐ろしいのは、未だ幼女もどき達の底が見えないという事。他にどんな兵器を持ち合わせているか、分かったものではない。長期戦は危険だろう。

 だからこそ花中は最深部……幼女もどき達の大切な『お母様』が居そうな場所を目指しているのだが。フィアには事前に目的地を伝えてある。なので今はそこを目指して突き進んでいる筈だが、到着まであとどのぐらい掛かるだろうか。いや、その前に大凡の位置を知りたいところだ。

 フィアの野生の勘なら、それを把握出来ているかも知れない。

「フィアちゃん。今、どの辺りか、分かる?」

【さぁ?】

「そっか、分かんないんだ……え?」

 試しに訊けば、フィアからはなんとも頼りない答えが返ってきた。一瞬納得しかけた花中だったが、その言葉の意味を理解して顔を青くする。

 つまり、今何処に居るか分かんないって事?

「え。えと、迷った、の?」

【というより迷わされています。方角がよく分かりません。電磁波とかそんなのが滅茶苦茶になっているかと】

 疑問を追求すると、フィアはそのように説明する。

 得られた回答は疑問を解消するものだったが、同時に花中は己を迂闊さを呪う。相手は超科学力の持ち主。生物の感覚器を狂わせるぐらい、お茶の子さいさいのだとしてもおかしくない。

 加えて内部は自由に動き回るパネルによって作られている。目視では分からないぐらい緩やかなカーブを作られでもすれば、感覚が狂った状態では曲がっている事など気付けまい。

 恐らくこのまま直進しても――――

【んおっととと】

 考え込んでいた花中の耳に、フィアの緊張感に欠ける声が聞こえた。なんだと思い前を見て、花中はビクリと身体を震わせる。

 辿り着いたのは、満天の星空が見える場所。

 まるで窓でも開くかのように動いた巨大円盤の壁の外は、野外だった。どうやら巨大円盤内の一番外側まで来てしまったらしい。

 そして此処まで誘導された今こそ、幼女もどき達にとっては千載一遇のチャンス。

 花中は恐る恐る背後を振り返る。その視界に映るのは……音もなく現れていた無数の六角形パネルと柱、武装した幼女もどき達。他にも見た事のない虫型ロボットや、浮遊する小さな球体などもいた。

 集結した戦力。彼女達がどんな攻撃を仕掛けてくるかは不明だが、()()()()()は予想が付く。

 自分達を外に叩き落とすつもりだ。

「ひっ……!」

 花中は思わずフィアの中で身を震わせる。

 仮に叩き落とされても、フィアの能力ならば余裕で着地出来るだろう。花中自身もフィアの力で守られる。

 しかし一度でも外に出されたら……その後は?

 幼女もどき達はちょっとばかり脳天気だが、『お母様』を守る事に関しては真剣だ。侵入経路を特定し、セキュリティを強化する筈である。砂糖と共に忍び込むプランが使えるのは恐らく一回だけ。二回目以降の策なんてない。

 その上今はミリオンが、平行して『別作戦』を行っている最中だ。もしも自分達が外に追い出されたら、次はミリオンが標的となる。彼女も外に追い出されたら、もう再侵入は不可能だろう。

 この『作戦』が成功するには、自分達とミリオンがほぼ同時に目的を達する必要がある。そしてこの作戦が失敗すれば……もう次の案はない。幼女もどき達の攻撃は止まらず、人類文明の滅亡が現実のものとなるのだ。

【花中さんご安心ください】

 震える花中だったが、それを宥めるようにフィアが言葉を掛けてくる。

 掛けられた言葉にあるのは、揺らぎない自信。何時もとなんら変わりないフィアの精神力が、花中の落ち着きなく揺れる心を支えてくれる。身体の震えも収まった。

【ここまでは私の作戦通りです】

 ましてやこの状況を想定していたと言われたなら?

 ああ、なんと心強い――――と感じるのが普通だろう。が、花中はさぁっと顔を青くした。カタカタと再び身を震わせ、心がそわそわと揺れ動く。

 期待していないのではない。『戦闘』におけるフィアの瞬間的な判断力は、自分なんかでは足下にも及ばないほど優れているのだから。

 だけど、何度もその判断力を見てきたからこそ知っているのだ。

 こういう時のフィアの作戦は、大体人間から見ると無茶苦茶である事を。

【ふふふふふ。外側まで追い詰めたのは失敗でしたね。お陰で外の景色がよく見えます……えーっと方角的には大体こっち側ですかねー】

「あ、あの、フィアちゃん? 何、してるの?」

【んー? 何って円盤の中心を探っているのですよ】

 少しずつ『身体』の向きを変えるフィアに花中が尋ねると、フィアは能天気な声色で答えてくれた。成程、確かに中心の位置をしっかりと把握するのは大事だ。何処が中心か分からなければ進むべき方角も分からない。逆に方角さえ分かれば、後は徒歩でのんびりと進めるだろう。

 では。

 何故フィアの『身体』からギチギチと、運動エネルギーを貯め込むような音が聞こえるのだろう?

「……フィアちゃん、あの、何を、するつもり?」

 花中は思いきって尋ねてみる。するとフィアの『身体』は自信を示すように胸を張り、

 すぐさまその身を傾け、獲物を狙う猛獣染みた姿勢を取った。

【道に沿って進むと感覚を狂わされて中心に辿り着けないみたいですからね。最初から真っ直ぐ中心を目指します】

 そして告げるは、実にシンプルな作戦。

 友が何をするつもりなのか、花中は大体理解した。とても良い作戦である……人間である自分の心身に大変な負担を掛ける以外は。

 残念ながら花中の親友は、その辺の気持ちを察してくれるタイプではない。

【それじゃあイキマスヨオオオオオオオオオッ!】

 だから達観しようとして、されどフィアが動き出すのはそれよりもずっと早かった。

 全身に貯め込んだ運動エネルギーを用い、フィアの『身体』は一瞬にして加速する! 分子固定の能力も応用した極限の『バネ』は、刹那の時間でフィアを超音速に到達させた。当然生じるGは凄まじく、人間如き身では痛みを感じるまもなくぺっちゃんこだが……そこは水を操る能力で、血液を操作して細胞を補強しているので問題ない。

 滅茶苦茶な速さでかっ跳ぶフィアを止めようと、パネルや柱、幼女もどき達が集まる。だが大質量と超音速を得たフィアの『身体』は、それ自体が質量兵器。核すら通じぬであろう装甲をフィアは体当たりでぶち破り、塞がれた行く手をこじ開ける!

 あらゆる邪魔者を跳ね除け、真っ直ぐ突き進んだフィアの『巨体』はいよいよ壁に迫るが――――止まる気はない。

【グガアアアアアッ!】

 ケダモノの咆哮を上げながら、フィアは壁をも突き抜ける!

 通路など関係ない。投じられる戦力など見向きもしない。がむしゃらで一方的な猛進は、最早誰に求められない。

 進み、ぶち抜き、蹴破り、殴り倒し……そうしていくと段々と、景色が変わってきた。六角形のパネルが敷き詰められているのは変わらないが、色合いが少しずつ濃くなっている。まるで大事なものを守るため、より硬度が高い、より高コストの材質で作られているかのように。

【グッ……グウゥゥッ! ヌウウッ!】

 事実フィアの進撃は、少しずつそのペースを衰えさせていく。一つの壁を破るのに一回の体当たりでは足りなくなり、拳でヒビを入れねばならなくなり、渾身の蹴りを入れねば破れなくなり……

 辿り着いた壁の色がどす黒くなった時、最早フィアの打撃でもビクともしない。

【っだぁぁぁっ! なんなんですかこの壁は! このっ! このこのっ!】

「フィアちゃん……!」

 叫びながら蹴りを何度も入れるが、それでも壁は砕けない。打撃を加える度に衝撃波が発せられ、フィアの一撃に手加減がないと分かる。

 一体この黒い壁にはどれだけの強度があるのか。水爆すら通用しない装甲を、一撃で叩き割るような拳に平然と耐えるなんて出鱈目にもほどがある。

 フィアにこの壁は破れるのか。破ってくれるのか。

 期待と不安から、花中はぎゅっと握り拳を作る。身体がふわふわと熱くなる。そして口がそわそわと動き……言わずにはいられない。

「フィアちゃん……頑張って!」

 応援の言葉を。

 一瞬フィアの動きが止まった。それからフィアは怪獣染みた自身の『顔』に獰猛な笑みを浮かべる。

【ふ……ははははっ! 期待されたからには応えるとしますかね! コイツらの親玉にお見舞いしようと思っていた技ですがまぁちょっと早めの披露でも問題ないでしょう!】

 フィアは高笑いと早口と共に、ぐるんぐるんと片腕を回し始める。

 花中には分かる。その腕に大量のエネルギーを貯め込んでいるのだと。

 春先での戦い……オオゲツヒメ相手に喰らわせた超音速パンチと同様の原理だ。内部にバネ状構造を形成し、そこに運動エネルギーを貯め込む事で膨大な瞬発力を生み出す。壁際まで追い詰められた際の突進も、この原理を利用していた事だろう。

 しかし今回のは、あの時の比ではない。

 どんどんどんどん、フィアは腕を回し続ける。ほぼノーモーションで音速の数十倍に達するほど効率的なバネを、何十回と回し続けているのだ。ギチギチ、ギチギチ。フィアの『全身』から歪な音が鳴り始める。

 否、それどころの話ではない。『身体』の表面が、僅かながら赤色に光り始めているではないか。『身体』を形成している水分子が発熱している? 生成した運動エネルギーを、熱という形としても貯め込んでいるのだろうか。だがフィアは能力により、今や水分子の固定化すら行える。生半可な熱量では加熱など出来ない。

 つまりミュータントの防御をぶち抜くに足る、莫大なエネルギーがフィアの『身体』に蓄積したという事。

【さぁてそれじゃあ……ブチカマシテヤリマスカアァァァァァァァッ!】

 力を蓄積させたフィアは、叫びと共に黒い壁へ体当たりを喰らわせた!

 全身の水分子に蓄えた熱……粒子の運動エネルギーさえも動員し、フィアという大質量は流星を超えた速さで壁と接触。余りにも膨大なエネルギーの激突は、接触時に変換された熱により周辺大気が瞬間的に千度を超えるまで加熱するほど。人智をどれだけ集結させようとも、この一点突破のエネルギーには足下にも及ばない。

 恐るべきは、この宇宙規模の破壊力に壁が一瞬でも耐えた事だろう。もしも人類が持つ全兵器をこの壁の前に積み上げ、一斉に起爆したとしても、きっとこの壁はビクともしない。それほどまでに非常識な硬さだったのだ。

 しかしフィアの力に耐えられたのは、ほんの一瞬だけだ。

【ゴォアッ!】

 フィアが駄目押しとばかりに力を込めれば、ついに黒い壁は砕け散った!

 壁は文字通り粉々となり、粉塵と化して辺りに舞う。とはいえフィアの放った運動エネルギーの大半を受け止めるという役目は果たし、フィアは壁があった場所から数歩前に進んだだけ。

 お陰で、勢い余って飛んでいき……()()()()()飛び越してしまうという間抜けな失態は避けられた。

「ここ、は……」

 花中はフィアの内側から、周囲を見渡す。

 黒い壁の先にあったのは通路ではなかった。黒い六角形のパネルがドーム型に組まれた、巨大な部屋である。目視での測定ではあるが、ざっと半径三十メートルはありそうだ。しかしこれだけ広いのに、中に置かれているものは一つ……中央に配置された、豪勢な玉座のみ。豪勢といっても普通の椅子よりちょっと大きいぐらいで、直径六十メートルのこの部屋からすればあまりにちっぽけな『インテリア』である。

 そしてこの部屋に居るのは、その玉座の中心にぽつんと座る者のみ。

「……あれー? おきゃくさまー?」

 侵入者を見ても暢気なままである、『お母様』の姿があるだけだった。




お母様、ついに登場。
いや、映像では二話から出てますが。

次回は8/16(金)投稿予定です。


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異種族帝国7

 パタパタと動かす二本の足。

 豪勢な装飾を施された椅子に見合う、それなりに高価そうなマント。

 頭の上に乗せられた可愛らしい王冠。

 他の幼女もどきと異なる点が幾らか見られる。こちらを見つめる顔の間抜けぶり、変わらず浮かべる愛くるしい笑顔、話し掛ける時の口ぶりはこれまで出会った幼女もどき達のそれと同じだが、明らかに他の個体とは『役割』が違う。

 花中は確信した。

 巣の緊急事態にも拘わらず、目の前で相変わらず呑気にしているこの幼女もどきこそが――――自分達が探し求めていた、幼女もどき達の『お母様』なのだと。

「んー? でもこのいきもの、しらないこだなぁ。おさかなさんみたいだけど、なんでここにいるんだろー?」

 『お母様』は首を傾げながら、自分が対峙した花中とフィア……正確には魚面の怪物に呑気な感想を述べる。直径六十メートルはありそうな巨大ホール故に、花中達と『お母様』の間には二十メートルほどの距離があったが、『お母様』の声は花中にもとてもよく聞こえた。フィアが増幅してくれたのかも知れないが、身を乗り出して目をパチクリさせる子供らしい仕草を見るに、『お母様』の方がこちらにちゃんと聞こえるような大声で話したように思える。

「だれかがつれてきたのかなぁ? ねぇー、だれかぁー」

「ま、まま、待って! えと、他の人を呼ばないで!?」

 いきなり ― しかし極めて当然な行動として ― 仲間を呼ぼうとする『お母様』を、花中は即座に呼び止めた。花中は今怪物形態のフィアの内側に居るが、フィアの計らいで花中の声は外にも送られる。

 声を掛けられた『お母様』は、とても素直に仲間を呼ぶのを止めた。それから底なしに無邪気な顔を花中に向けてくる。幼女もどき達は誰もが同じ顔なのだが、この『お母様』はなんとなく他の子よりも更に能天気に思えた。

「よんじゃだめなの? なんで?」

「え? え、あ、はい。えと。その……フィアちゃん、わたしを外に出してくれる?」

【……あまり気乗りはしませんがまぁ向こうに敵意はなさそうですし良いでしょう】

 花中からのお願いに、フィアは渋々といった様子で同意。

 ずるりと花中が居る空間ごと動き出し、花中はフィアの『身体』の外へと運び出された。とはいえ完全な剥き身ではなく、透明な水球の中の居る状態だ。花中の安全のため『敵』の前で生身を晒すのは拒否する、というフィアの意思表示だろう。

 壁越しというのも些か失礼な気はするが、声が伝わるだけでも対話は可能なのだ。こうして顔も合わせられた分だけ良いと考え、花中は水球内に留まったまま『お母様』と話をする。

「えと。まずは、自己紹介を……わたしは、大桐花中と、言います。こっちはフィアちゃん。あなたのお名前を、教えてくれませんか?」

「わたしのなまえ? とくに、きめてないなぁ。でも、みんながおかーさまっていうから、おかーさまでいいよー」

「お母様、ですね」

 無垢な自己紹介に、花中は自分の考えが間違っていない事を確信する。同時に、あまりにも相手が無邪気なものだから、こうして探りを入れている自分が酷く根暗で陰湿な生物に思えてきた。

 しかし罪悪感に苛まれている暇などない。お母様と話をしに来たのは、伊達や酔狂ではなく、人類文明が存続する未来を掴むためなのだから。

「えっと、今日は、お願いがあって、こちらに来ました」

「おねがい? なになにー?」

「今日、あなたがわたし達人間に、送ってくれた、プレゼントについて、ですが……」

「ぷれぜんと?」

 花中からの問いに、お母様はキョトンとした表情を浮かべた。まさか忘れてる? もしそうだとしたら、今回の策略は色々修正を余儀なくされるのだが……

 過ぎる不安から顔を真っ青にする花中だったが、お母様はポンッと手を叩いた。思い出した! と言いたげに目もキラキラさせている。

「あー、あれかー。みんななかよくなるびーむのことだねー」

 事実、お母様は無事思い出してくれた。

「……みんな仲良くなるビーム、ですか?」

「うんっ! にんげんって、おなじ『す』のなかまあいてでも、いっつもけんかばかりでしょ? ちがう『す』のなかまとけんかするのはたまにあるけど、それだってよくないとおもうし、おなじ『す』のなかまとけんかするのは、もっとだめだよねー」

「え、えっと……」

「だから、あなたのなかみを、こう、くにゃーとかえるびーむをおくったの。ついでに、ほかのいきものもみんななかよくできるようにしたんだ。うまくいくかちょっとしんぱいだったけど、せいこうしてよかった」

 拙い言葉で長々と語られ、花中は少し理解が追い付かない。要約するに「仲間同士でのケンカはダメ」だから、人間同士が仲良くなれるよう頭の中を()()()()()()()()らしい。

 頭の中身とは、脳の神経細胞の事だろうか? それを自在に、個人差どころか生物種の差異すら無視して操るなんて、正に出鱈目な技術力である。人間なんて足下にも及ばないどころか、この宇宙に彼女達を超える科学文明が存在するのかさえ疑わしく感じてしまう。

 幸いなのは、この超科学による人体改造は、あくまで善意に寄るものだという点だろう。善意でやったのだから、こちらが困っていると伝えれば素直に止めてくれるかも知れない。

「あ、あの、その……大変、申し訳ないのですが……変えてしまった、頭の中身を、戻してほしいのです」

「え? もどすの? なんで?」

「その、あなたのしてくれた事の、お陰で、確かに、ケンカは、なくなりましたけど……でも、色んな人が、ちょっと、能天気になってて……社会が、成り立たなく、なっているんです」

「そーなの? でも、わたしたちと、おなじぐらいかしこくはしてるよー?」

「……あの調整わざとだったんですね」

 じゃあ頭の良さを保ったまま性格だけ穏やかにしてくれても良かったじゃん、とも思ったが、幼女もどき達としては『知能レベル』の高低はそこまで問題だとは考えていないのだろう。彼女達は能力によって超絶技術を発揮しているのだ。知能はおまけ、程度の考えなのかも知れない。

 同時に、あの知能低下に大した理由がないのなら、止めてくれるのも簡単な話の筈である。

「ま、いいや。こまってるなら、おかえしにならないもんね。あとで、もとにもどすきかいをはつめいしとくね。あしたのあさぐらいにはかんせいするよー」

 お母様は特段渋る事もなく、拍子抜けするほど呆気なく『みんな仲良くなるビーム』の影響を打ち消す機械の発明を約束してくれた。あまりにも話が上手く進むものだから花中は一瞬呆けて、次いで喜びから満面の笑みを浮かべる。

 最初のお願いはとても上手くいった。正直もう少し揉めるかもと考えていたぐらいである。これならもう一つのお願いも、今ほどすんなりとはいかずとも、聞き入れてくれるかも知れない。

 楽観的な感情が心の中に沸き立つ。なんとかなる、きっと大丈夫だという想いが頭の中を満たした。

 つまるところ、それは『油断』というものであり。

「で、では、もう一つ、お願いがありまして。今、やってる、人間社会への攻撃を、一旦止めては、くれませんか?」

 故に花中は、この言葉を真っ直ぐに伝えた。

 瞬間、お母様の顔から笑みが消える。

 本当に一瞬の出来事だった。今まで見せていた子供らしい顔は幻覚か、或いは一瞬にして別個体と入れ替わったのでは? そんな馬鹿げた考えが、花中の脳裏を過ぎるほど。

 同時に花中は理解した。自分が何か、取り返しの付かない失敗をした事に。

 まるで外に出ていた幼女もどき達に「お母様と会いたい」と伝えた、あの時と同じような……

「……あ、えっと……?」

「こうげき? わたしを、ここからだそうとしてるやつらにしてること?」

「えと、あの、そ、そうですけど……あ、あの、無理にとかじゃなくて」

「あいつら、わたしにでてこいっていった。ここはわたしのおうち。わたしは、わたしがでたいときだけ、そとにでる」

「あ、は、はい。外には、出たくないの、ですね。えと、なら、それで良いと、思います。あの、なので攻撃は」

()()()()だれにもわたさない。わたしのすべては、わたしたちのものだから。だからわたしは、あいつらをゆるさない」

 壊れた機械のように、お母様は花中を無視して淡々と呟く。

 花中は気付いた。自分のしていた勘違いに。

 お母様を守ろうとしていたのは、下っ端の幼女もどき達の意思であると。いや、そういう意思は勿論あるのだろう。花中が誤解していたのは、お母様本人にも()()()()()()という意思があったという点。誰であろうとも自分を、自分の意思以外の理由で外に連れ出す事は許さない。

 彼女は自分こそがこの『巣』の中枢だと理解し、『巣』の安全を第一に考えているのだ。だから自分を外に連れ出そうとする言動を嫌悪し、絶対的な敵意を露わにする。自分を掌握されでもしたら、『巣』そのものの存続に関わるのだから。

 そう、彼女達の種族がなんであるかを理解しているのだから、この価値観は読み取れる筈だった。

【やっぱり虫けらといったところですか。話し合いなんて出来ませんね】

「……わたしは、ちょっと期待、してたけど」

 フィアは肩を竦めて早々に諦め、花中は目を逸らしながら自分の気持ちを告げる。

 されど部分的にはフィアの言う通りかも知れない。

 確かに幼女もどき達の『正体』には社会性がある。しかしその社会は、人間とは大きく異なるもの。彼女達の社会は『利他』こそが自己の利益。彼女達は決して社会を裏切らず、社会のために自らの命を捧げる事も厭わず、不正すらも決して行わず、謀反も革命もリーダー争いも起こさない。故に自己の利益を最大化出来る……元来十数個体程度の群れが精々である人間が作り上げたなんちゃって社会とは全く違う、究極の社会性を有する生物種。

 その名は新社会性昆虫。

 その中でも『マーブル模様』のある巣を作る種は……何種か存在するが……大まかにまとめてしまえば答えは一つ。

【相変わらず花中さんは夢見がちですねぇ。大体()()()()()なんて人間をしょっちゅう殺してる虫じゃないですか。敵ですよ敵】

 フィアがぽつりと呟いた、自分達が辿り着いた予想。

 その予想が正しい事は、フィアの言葉を聞いたお母様の全身が激しく波打ち始めた事が物語っていた。

「わたしのこと、しってる? なんで? なんで?」

【あなた達の臭いは独特ですからね。嗅げさえすれば一発で分かりましたよ】

「……正直、色々信じられない事も、多いですけど」

 お母様に尋ねられ、自信満々に答えるフィアの横で花中は頭を軽く押さえる。

 フィアが言うように、幼女もどき達の『正体』はスズメバチなのだ。スズメバチはマーブル模様の巣を作り、肉と糖類をとても好む。お母様という呼び名も、『女王』だとすれば納得だ。階級社会の頂点という事で人間は女王蜂と呼んでいるが、本質的にその個体は全ての働き蜂の母親なのだから。スズメバチの寿命というのは女王でも一年未満であり、この時期は ― ある種の寄生虫に付かれたものを除いて ― 誕生したばかりの女王蜂以外死滅している筈だが、超科学で個々の寿命を延ばしていても不思議ではない。

 しかし、だとすると彼女達が用いる兵器の素材は……

 脳裏を過ぎる『出鱈目』に、花中は苦笑い。尤も今はそんな事を悠長に考えている暇などないのだが。

 お母様が自分達に向けている無機質な眼差しは、どう考えても友好的なものではないのだから。

「わたしのこと、しってる。わたしのこと、そとにだそうとしてる。きけん、きけん、きけん」

【なんとまぁ沸点の低い事で】

「た、多分、昆虫だから、刺激に対して、一辺倒な反応を、しちゃうんじゃないかな……」

 フィアの感想に、花中が補足するように推論を述べる。

 昆虫というのは極めてシンプルな生物だ。ある種の刺激に対し、回答が本能的に決まっている。餌を食べる時さえ、ある種の物質に引き寄せられ、ある種の物質を検知して噛み付き、ある種の物質を検知して飲み込む……という流れによって生じているぐらい。

 一見七面倒な仕組みだが、実態は凄まじく効率的だ。生まれたばかりの幼虫が親に教わらずとも餌を理解し、蛹から羽化したばかりの成虫が幼虫時代とは全く異なる餌を躊躇なく食べられるのだから。学習なんて面倒な時間は不要。産まれた時から正解を知っている。

 が、欠点がない訳ではない。何しろ常に回答が決まっているので――――融通が利かないのだ。

 ミュータント化によって人間並の知能を手に入れても、幼女もどき(スズメバチ)達の本質的な部分は変わらなかったのだろう。『巣』を攻撃するものは排除する。それはスズメバチ達にとって絶対的なルールであり、理性なんかでは捻じ曲げられない本能の決定なのだ。

 どうにか冷静になってもらわねば、こちらの話は聞いてくれないだろう。そして本能の決定を覆すには、その本能よりも『優先度』が高い刺激を与えねばならない。

 例えば、生命の危機とかの。

「フィアちゃん……打ち合わせ通りに、お願い」

【ふふんお任せあれ】

 花中の言葉に、フィアは自慢げな鼻息と共に答える。直後、フィアは花中を包んでいる水球を再び自分の内側へと取り込んだ。次いで怪物らしい前傾姿勢を取り、お母様を睨み付ける。

 『全身』から感じられるフィアの闘志。フィア達ミュータントのような鋭い感覚を持たない花中であるが、フィアの本気を感じ取ってごくりと息を飲んだ。

 お母様はゆっくりと椅子から降りる。王冠を投げ捨て、マントも脱いだ。背中から光の翅が四枚生え、着ている服が光り輝くや鎧のようなものへと変化する。

 端から見て完全な戦闘モードだが、お母様の表情は変わらない。喜怒哀楽のあらゆる色を消し、闘志も殺意も敵意もない、無機質な眼差しでフィアを見つめる。しかしそれは彼女の無気力を物語るものではない。元来感情などという『非合理的』なものを持たないスズメバチにとって、この無感情こそが真の臨戦態勢なのだと花中は理解した。

 向こうは()()()()()だ。油断すれば、やられるのはこっち……百戦錬磨にして野生のケダモノであるフィアに、それが分からぬ訳もなし。

 故に、今のフィアは手を抜かない。

【ふんっ!】

 躊躇いなくフィアは腕を振るい――――何十メートルと伸ばした半透明な腕が、お母様へと襲い掛かった!

 フィアの腕は花中の目には見えぬほどの速さで動き、正確にお母様を捉えている。対するお母様は微動だにしない。あたかも花中と同じく見えていないかのように。

 否、関係ないのだ。

 お母様の周りには『見えない壁』が存在し、フィアの渾身の一撃を呆気なく跳ね返したのだから。

【ぐぬぅ!? アニメとかに出てくるバリアですか! ですがそういうのは強い力で壊れるものなんですよォォッ!】

 一度は弾かれた事に驚きを見せたが、フィアは諦めない。それどころかより獰猛な笑みを浮かべるや、今度は両腕をお母様目掛け伸ばした。

 ただし今度は殴らない。

 手は一メートル近く横に広がり、お母様を包むバリアをガッチリと掴んだのだ。両手から掛けられる握力は、戦車程度ならば一瞬で丸いボールに変えてしまうほどのもの。されどお母様が展開するバリアはビクともしない。

 元よりフィアもこれは本命ではあるまい――――フィアとの付き合いが長い花中は即座に察し、だからこそ思いっきりその場で頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 フィアは短気なのだ。埒が明かないと思えば、すぐにもっと効果的な方法を選ぶ。

 即ち接近戦。

【喰らいなさいッ!】

 咆哮と共にフィアは自ら伸ばした腕を一気に収縮させる!

 強靱な力により収縮した腕は、当然そこにつながっているフィアの『身体』を引っ張った! さながら『身体』をパチンコの弾とするかのようなやり方は、しかしパチンコなど比にならない速度……音速の数十倍という出鱈目なスピードを生み出す。

 止めとばかりにフィアは『身体』を変形させ、頭をドリル型に。微細にして頑強な刃が高速回転している先を、お母様に迷いなく向けた。

 お母様に逃げ場はない。動きもしない。フィアとバリアが激突し、そのバリアが貫かれればお母様を守るものはない。そしてバリアは、フィアのドリル攻撃を一秒と受け止められずに砕け散った。

 哀れ、巣の主は侵入者の攻撃に貫かれる

 ――――それで済めば話は簡単なのだが。

【……ちっ。やはり止めますか虫けら風情が】

 フィアが悪態を吐く。

 お母様は、ドリル型に変形した頭を片手で受け止めていた。受け止めた手はフィアの打撃によりひび割れていたが……逆にいえばこの程度の損傷しかない。

 そのダメージさえも、フィアが攻撃の手を緩めている数秒の間にみるみる再生していく。

 ナノマシンによる修復か。フィアの突進で目を回していなければ、花中はそう思っただろう。花中が教えなければ『なのましん』なんて小難しいものは分からぬフィアだが、短時間で傷が治る事さえ理解出来れば十分。

 そして極めて単純なフィアの脳細胞が導き出す対策が、複雑なものである訳がない。

【ふん! 勝手に治るっていうのなら治る前にぶっ潰すまでです!】

 フィアは極限まで高圧縮した腕で、お母様の頭を殴り付けようとする! お母様は素早く両腕を自身の頭上で交差させ、フィアの豪腕を受け止めた。

 打撃の破壊力は凄まじく、周囲に吹き荒れた衝撃波は周りのタイルを粉砕する。核すら耐える壁が無残に砕かれ、運動エネルギーの一部が熱となって吹き荒れた。人間、いや怪物であろうとも、余波だけで跡形も残らない一撃である。

 しかしこれさえもお母様を砕くには足りない。

 足下のタイルが粉砕した以外、お母様に目立った傷は出来ていなかった。なんらかの方法で打撃のエネルギーを受け流したのか、それとも純粋に耐えたのか。いずれにせよ攻撃が通じなかったフィアは忌々しげに顔を歪め、同時に一層興奮した狂気的な笑みを口許に浮かべる。

【くっかかかかかかっ! 虫けら風情が中々やるじゃないですか! ならこれはどうですかっ!】

 高笑いと共に、フィアは自らの『身体』から無数の触手を生やし、お母様に巻き付けた。子供のように小さな身体が、フィアの出鱈目な怪力によって締め付けられる。

 これだけでも十分に悲惨だが、まだまだフィアの攻勢は終わらない。フィアはお母様を投げ飛ばそうとして身体を大きく捻った

 が、それは叶わない。

 お母様はフィアが巻き付けた触手を、光り輝く手刀で切り裂いたのだ。拘束を抜けた片手で触手を掴むや、お母様はフィアと同じく身体を捻る。

 そして自身を投げ飛ばそうとしていたフィアを、逆に投げ飛ばした!

「ひやぁっ!?」

【ぬぅうっ!? ちょこざいなァッ!】

 超音速に達したのではと思うほどのスピードで三十メートル以上彼方の壁に叩き付けられ、中に居た花中は悲鳴を上げ、フィアは一層の闘争心を露わにする。加わるGも相当なものではあったが、フィアも花中も、フィアの能力により操作された血液で肉体が補強されていた。この程度の打撃はダメージとなり得ない。

 お母様もそれは理解しているのだろう。物理攻撃でフィアを打ち倒すのは、不可能ではないが効率的でない、と。

 だからこそお母様は自らを縛る水触手の残りを手で切り裂くや、その手をフィアの方へと差し向け、

 指先から光り輝く刃を、射出するような速さで伸ばした。

【グルアァッ!】

 フィアが猛り吠えながら、迫り来る光の刃を拳で殴り付ける! 殴られた刃はバチンッと弾けるような音を奏で、フィアから大きく逸れた。お母様の腕も共に大きく揺れる。

 直撃は免れた。しかし完全に防いだとは言い難い。

 殴り付けたフィアの手から、じゅうじゅうと湯気が立ち昇っていたのだ。熱核兵器すらも耐え抜く出鱈目防御が破られた証。もしも殴って軌道を変えなかったら、今頃フィアの身体を貫通していたに違いない。

 そしてお母様の手の輝きは、まだ衰えていない。

 ぞわりとした悪寒が花中の身に走る。この気持ちに同意するかのように、フィアの『身体』もまた震えた。友達と気持ちが一つになったが……こんなの嬉しくもなんともない。

【見くびるんじゃありませんよこの虫けらガァァァァッ!】

 一歩も退かないフィアに、お母様の『剣技』が披露された。

 さながらそれは舞うかのような、リズミカルで隙のない、不規則な動き。花中にもお母様の動きは見えているが、あまりの不規則さに一太刀分の軌跡を理解した時にはもう何十と切り刻まれていた。この動きに合わせて殴り返し、時には身を仰け反らせて切り抜けるられるのは、本能に支配されたケダモノであるフィアだからこそと言えよう。

 だが難なくという訳にはいかない。

 お母様の手から伸びた光の刃は、何十回フィアが殴り付けても割れるどころか変形すらしていない。恐らくは、なんらかのエネルギーを刃のようにしているのだろう。物理的な形を持たなければ、どんな怪力だろうと粉砕出来ない訳だ。無論一体どんな原理を使えば光輝くエネルギーを固定出来るかは、人間である花中には皆目見当も付かないが。

 対するフィアは、少なからず『身体』を削られていた。殴る度、受け流す度に、当たった箇所から湯気が微かに昇る。十万トンという今のフィアが操っている水の総量からすれば、考慮するにも値しない微々たるもの。それでも消耗に違いはなく、何処からか綻びが生じてもおかしくない。

 形勢はフィアの方が不利。このままラッシュの打ち合いをし続けても、フィアだけが一方的に消耗するばかりである。

【グルアアアアアアアッ!】

 フィアもまたそれを理解し、動き出す。叫びながら、お母様へと突進したのだ。

 お母様は淡々と手から伸びる光を縮め、構えを変える。その姿は、まるでフェンシングのようなもの。

 花中にも、次にどんな攻撃が来るのか予想が付いた。それでもフィアは止まらない。真っ直ぐ、がむしゃらに、音すら彼方に置いていく速さで、お母様の真っ正面を目指して駆け抜けるのみ。

 出来るものなら花中は警告しただろう。しかし怪物達の決戦は、人間の反応速度の追随など許さない。

 花中の脳が言語的に状況を理解する何段階も前に、お母様は直進するフィアに向けて腕を突き出す。

 併せてその手先から、太陽よりも眩い光の刃が撃ち出される!

 放たれたのは極太の光線。進路上の大気がプラズマ化しているのか、稲妻のようなものが光の周りを飛び回る。全てを焼き払う光は、フィアを容赦なく捉えていた。

 お母様からの一撃はフィアの顔面を直撃。魚面の顔が歪み――――されど光を受け()()

 放たれた光の刃はフィアの顔面に弾かれ、その軌道を逸らした!

 かつて『妖精さん』と戦った時に活用した、光線を逸らす構造だ。魚が水の流れを受け流すように、光さえも適した形態で受け流す。光の刃がレーザー光線と似たようなものと気付いたフィアは、以前使った技を用いて防いだのである。数多のミュータントとの戦闘経験が、この防御を瞬時に閃かせた。

「……っ」

 対するお母様は、ここで僅かながら眉を顰めた。

 お母様達スズメバチには、ミュータントとの戦闘経験はなかったのだろう。初めての敵に自慢の技術を破られ、昆虫でありながら少しだけ動揺したのかも知れない。

 それは人間では掴む事も叶わない、微かな心理的混乱。しかしながら猛獣達の中では明確な隙。

 猛然と駆けるフィアの十万トンもの身体が、超音速でお母様に直撃した!

 お母様はその打撃を押し留めようとしたが、フィアのパワーが圧倒的に勝る。大質量を投げ飛ばすほどの馬力を有したお母様の身体は、まるで蹴られたボールのように宙を駆けた!

 吹っ飛ばされたお母様は体勢を整えようとしたが、飛んでいくスピードはあまりに速い。方向転換は間に合わず、その小さくてあどけない身体は壁に叩き付けられた。六角形で出来たパネルがひしゃげ、お母様の身体は深々とめり込む。砕け散った破片が辺りを舞う。

 響き渡る爆音が、衝突のエネルギーの大きさを物語った。もしも人間が喰らったなら……即死どころか跡形も残るまい。バラバラに飛び散るどころか、衝突前の摩擦熱で気化するだろう。

 特段問題ないかのようにお母様はめり込んだ壁から出てきたが、ちらりと見た指は変な方向に曲がっていた。すぐに治ったが、ダメージ自体は入ったらしい。

【ふふん呆れるほど頑丈ですがやはりこの私の敵ではありませんねぇ。今のでも壊れないのならもっと強くもっと速くぶん殴るだけです】

 お母様の怪我を見て、フィアは上機嫌な様子。再生されようとも、ダメージが入るなら問題ないと考えているのだろう。花中としても、瞬時に再生される事は絶望的な状況に思えるが、ダメージが入るのなら勝機はあると思える。

 ――――きっとお母様も同じ事を思ったのだろう。

「……もーどちぇんじ」

 ぽつりと、お母様が呟く。

 瞬間、部屋中の壁が一斉に動き始めた。

 お母様の部屋を形成する黒いパネル達は、なんの刺激もなしに、まるで崩れるようにバラバラと落ちる。しかし機能を停止した訳ではないらしく、崩れた後はふわふわと浮遊していた。直径六十メートルもの部屋の壁を形成する何百何千もの六角形のパネルが、あたかも花中とフィアを包囲するように漂う。

 花中はゾッとした。大型円盤の壁を形成するパネルは、フィアでも破壊するのは一苦労な代物。おまけにレーザーなどの攻撃手段も有する。これらが全てお母様の援護に回れば、フィアといえどもかなりの苦戦を強いられる筈だ。

 だけどフィアならきっとなんとかしてくれると、希望も捨てていなかった。フィアがパネルを粉砕出来る事は、これまでの戦いで明らかなのだから。多勢に無勢でも勝機が潰えた訳ではない。

 なのに。

【……ええい忌々しい】

 フィアはこれまで勝ってきた相手に向けるようなものではない、憎々しげなぼやきを漏らした。

 何故フィアはそんな言葉を? 答えはすぐ明らかとなった。

 パネル達は、一斉に動き出した。

 しかしその行動は攻撃でもなければ、フィアの身動きを封じるものでもない。パネル達は、なんと自らを()()、細長い糸のように形態を変化させたのである。糸は全てがお母様の方へと向かうや、その身に纏まり付いた。

 何百という糸が集まり、巨大な足を形作る。

 何百という糸が集まり、屈強な腕を作り上げる。

 何百という糸が集まり、分厚い胴体を生み出す。

 見る見るうちに、お母様の身体は糸に埋まり、変化していく。無論この『変身』を黙って見ている義理はない。フィアが攻撃を考えていない筈もなく、指先から水弾丸を放った……が、糸が集まり、お母様への攻撃を防ぐ盾となる。フィアでも彼女の変身は止められない。

 どんどん姿が変わっていくお母様。その様を見続ける中で、ふと、花中は理解した。

 一つ疑問だったのだ。どうして幼女もどき(働き蜂)達は、お母様の部屋に集まらなかったのか。スズメバチ、いや、真社会性を有する昆虫にとって、産卵が可能な女王は正に巣の中枢である。それこそ命を賭してでも守らねばならない。

 なのにフィアがお母様の下に辿り着くと、幼女もどき達は現れなくなった。最初は、フィアを刺激してお母様が戦いに巻き込まれるのを防ぐためかとも考えたが……戦闘が始まっても、幼女もどき達は一向に姿を見せない。何か奇妙だと考えていた。

 その答えが今になって分かった。

 巻き込まれないためだ――――お母様ではなく、『自分』が。

 不要なのだ、守りなど。彼女が本気で戦うのなら、その時にちっぽけな自分達なんて、足下を歩き回る虫けらと変わらない。力を貸すどころか、踏み潰されて地面の染みとなるのが精いっぱい。

 巣への侵入者は排除する。お母様に会おうとする者も排除する。お母様が怒ったら、とってもとっても怖いから。

 そしてもしもお母様が怒り出したら、自分達は安全な場所に身を隠す。

 それが()()()()を守る方法なのだ。

【シフト完了。排除行動に移行する】

 電子音性的な声で、準備が終わったと語る『お母様』。そこにはもう、かつての愛くるしくて間抜けな幼女の姿はない。

 代わりに佇むのは、全長五十メートルもの、無骨な巨大ロボットだった。




さぁ、本章のボス『お母様』です。
巨大ロボットVS巨大生物。浪漫だよね!

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国8

 全長五十メートルはあろうかという巨大ロボットは、凡そ人型とは呼べない形をしていた。

 確かにそれには二本の腕があり、直立した二本の足で立っている。頭も存在するし、腰の括れだって確認出来た。人間のような特徴は幾つも見付けられるだろう。

 しかしその背中から生えているのは、四枚の黒い翅。お尻には胴体ほどの長さと太さがある尾……否、『腹』が付いている。頭は逆三角形をしていて、目のようなもの ― センサー類か ― は頭部の約四分の一を占めるほど巨大だ。頭から二本の触覚が生え、手先に付いている爪の数は二本。肩の辺りが大きく盛り上がり、頭の形とぴたりと重なって接合部が見えないようになっていた。腕や足には数本のトゲが生え、全身に広がる黄土色と黒のカラーリングが毒々しい。

 例えるなら、中途半端に擬人化し、より戦闘的な姿に変わったスズメバチ。世界有数の攻撃的な昆虫が、一層の攻撃性を纏っているように花中には見えた。

 ましてやそれが、人智を超えるテクノロジーで製造された代物なら……その戦闘力は察して知るべし。

【ヌゥッ!】

 花中がロボットの姿を一通り見終わったタイミングで、フィアは声を上げながら咄嗟といった速さで身構えた

 直後ロボット――――お母様が搭乗する機体が超高速で肉薄し、フィアにキックをお見舞いする! 体長三メートルのフィアに対し、ロボットの身長は約十六倍の五十メートル。足の裏だけで今のフィアと同じぐらいの大きさがあり、フィアの『身体』全体にくまなく衝撃が走った。

 フィアの内側で守られている花中の目には、最早何をされたのかすら分からない。ただ気付けば全身に強い負荷がのし掛かる。フィアの能力による細胞単位の補強を受けていなければ、余波だけで全身が潰れていたに違いない。

 フィアも踏ん張るが、ロボットの一撃はフィアの『身体』を軽々と浮かび上がらせた。浮いた身体は弾丸染みた速さまで加速し、何十メートルと吹き飛ばされ……やや黒みの薄い壁に叩き付けられる。

 お母様の部屋を形成していたものよりも、性能に劣るパネルの壁だ。一枚だけではフィアを止められず、二枚三枚とぶち抜き、四枚目がほぼ完全に崩壊しながらようやく受け止める。瓦礫がフィアを埋めようとし、フィアはそこから力強く這い出す。

 ロボットはその時、既にフィアの傍までやってきていた。

【嘗めるんじゃありませんよこの虫けらガァッ!】

 フィアは自らの『身体』をぶくりと膨らませた。三メートルという体躯で十万トンという質量を有するのは、あまりにも重い。水の圧縮に多大なエネルギーを費やす事となる。水分子そのものを固定出来るようになった今のフィアにとって、圧縮して強度を高める事さえも『リミッター』だ。

 姿は怪物状態のまま、フィアは全長五十メートルのロボットと同程度の体躯へと巨大化。そのままフィアはロボットに掴み掛かった! ロボットも即座に呼応し、フィアの腕を掴む!

 体格は互角。取っ組み合うには丁度良い相手だ――――が、生憎野生生物(フィア)の頭に公平さなどありはしない。

 ロボットが掴み掛かろうとしたフィアの腕は、どろりと溶けるようにして形を変える。ヘビのように細長い形になると機敏に蠢き、逆にロボットの腕に巻き付いた。そして容赦なく圧迫し、メキメキと締め上げる。

 捕まえるどころか逆に捕まったロボットは、しかし素直にやられはしない。フィアに巻き付かれた腕は強力な閃光を放出。するとどうした事か、ロボットに巻き付けたフィアの腕が爆散したではないか。ロボットの腕は未だ健在であり、自爆ではなくなんらかの現象によりフィアの腕だけを爆破したらしい。

 能力により水爆すら耐える液体が、呆気なく振り解かれてしまう。自由を取り戻したロボットは、反撃とばかりに巨大化したフィアの顔面を掴む。フィアは即座に太い尾を振り上げて叩き付けようとするが、ロボットの方が早い。

 ロボットの掌から放たれた光が、フィアの頭を粉砕した! ロボットが放った光は射程がごく短いのか、レーザーのように伸びるものはない。されどフィアの頭を易々と粉砕せしめるほどの、圧倒的な破壊力を有していた。

 尤も、粉砕されたのは作り物の頭だ。バラバラになろうがフィア本体は痛くも痒くもない。

 なんら問題なくフィアはその身を捻り、振り上げておいた尾をロボットにお見舞いした! 決して長くないそれは、棍棒のように重くロボットを殴り付ける。ロボットの機体はまるで人間のように腰の辺りから『く』の字に曲がり、大きく吹き飛ばされた。今度はロボットがパネルで出来た壁に叩き付けられ、二枚三枚とぶち抜いていく。

 それを悠々と眺めるほどフィアは甘くない。『身体』を傾けて四つん這いになり、頭が修復しきるよりも早くフィアは猛獣そのもののように駆ける!

 崩れる壁に半身が埋もれるロボットを、怪物姿のフィアは下から突き上げるような体当たりで追撃した! ロボットの巨体が宙に浮かび、天井の壁に突き刺さる!

 まだまだフィアの猛攻は終わらない。ロボットを捕まえようと今度は背中から無数の水触手を生やし、

 その水触手を瞬時に焼き払う赤色の光が、ロボットより放たれた!

 ロボットの分厚い胸部装甲が左右に開き、紅蓮のように輝く中身を露出している。赤色の光はそこから放たれていた。頭上から降り注ぐ光は、フィアの『身体』を全身くまなく照らし、焼いていく。

【グウウゥゥゥゥ……羽虫風情ガ小賢シイ……ッ!】

 フィアは唸りを上げ、天井に突き刺さったロボットを睨む。両腕を眼前で組んで光を遮ろうとするフィアだが、赤色の光はそんな努力を嘲笑うように全身を焼いていく。能力を用い熱への抵抗力は上げている筈だが、フィアの『身体』から昇る湯気は止まらない。

 守りに入っては負ける。高度な状況認識能力と好戦的性格の持ち主であるフィアが、防御体勢を解いて攻勢へと転じるのに、僅かな迷いすらなかった。

 フィアは両腕を広げながら跳躍。天井に張り付いたままのロボットに跳び掛かる! 無論接近するほど赤い光の効力は強くなり、フィアは『全身』から蒸気機関のように激しく湯気を吹かした。フィアと花中の身を守る水がどんどん失われていく。

 そして安全という対価を支払ったフィアは、ついにロボットの腕を掴んだ。ロボットは更に胸部の光を強めたが、フィアは構いもしない。それどころかニタリと笑みを浮かべ……ロボットの胸部目掛けて頭突き!

 装甲を開いていたロボットの胸部は、フィアが喰らわせた『打撃』によりぐしゃりと割れた。爆発も起こり、雷撃のようなスパークが走る。赤い発光は消え、焼けるような光の放射も止まった。どうやら完全に壊れたらしい。無論即座にナノマシンによるであろう自己修復が始まったが。

 故にフィアは治りかけの胸部目掛け、自らの豪腕を叩き込む!

 割れていたロボットの胸部は、フィアの拳を止められなかった。深々と腕を突き刺したフィアは、内部のパーツをしっかりと掴んだままロボットを引っ張り、床まで引きずり下ろす。否、それだけでは足りぬとばかりに、床にロボットを叩き付けた。

【クカカカカカカカ! コノママバラバラニシテヤリマスッ!】

 フィアは腕から水を浸透させ、ロボットを完膚なきまでに破壊するつもりのようだ。このまま決着か――――

 そう思ったのは、花中とフィアだけだったに違いない。

 ロボットは、あろう事かフィアの腕を掴んだ。水であるフィアの『身体』はその腕を逆に取り込んで固定。一層の逃げ道を塞ぐ。

 まるでその拘束を待っていたかのように、今度はロボットの頭部が、蕾が咲くように開いた。

 ぞわりと花中は震える。

 頭の中にあったのは、銃口のようなもの。何かしらの攻撃をするための武器だろうが……本能が訴えるのだ。「アレはヤバい」と。

 花中ですら感じるのだ。フィアが何も思わぬ筈がない。事実フィアはロボットの頭の中身を見た瞬間、折角『敵』に突き刺した腕を迷いなく引き抜き、身を仰け反らせるようにして後退りしようとした。

 が、叶わない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()。人間である花中には何が起きてるか分からない。フィアだけが、取り込んだロボットの腕から粉のようなもの……ナノマシンが放たれ、それが地面を掴む植物の根のように自分の腕を浸食していると気付く。

 ナノマシンといえども所詮は機械。フィアが操る水を使えば一機残らず潰すなど造作もない事。しかし数秒程度の時間が必要だ。

 フィアを捕まえ続けるロボットが、そんな長い猶予を与える訳もない。

 フィアの後退が失敗してから一秒も経たないうちに、ロボットの開かれた頭部から白色の閃光が放たれる!

 閃光は正しくレーザーの様相を呈し、フィアの頭を容易く貫いた。更には高熱によるものか、フィアの頭の一部が爆散。魚面であるフィアの顔を苦々しく歪めさせる。

 ロボットの攻撃はまだ止まらない。閃光は頭から、今度は掴まれていない方のフィアの腕へと移動する。腕は簡単に切断され、多量の水が辺りに飛び散った。

 ここでフィアが即座に、切断された方の腕を伸ばしてロボットの顔面に殴り掛かったのは流石と言えよう。自分の乗る『入れ物』の一部が壊され、パニックに陥らず反撃を行うというのは、並の人間に出来る事ではない。ぐちゃぐちゃの腕が、超音速でロボットの顔面へと飛ぶ。

 ロボットも迫る腕を迎撃しようとしてか閃光を撃ってきたが、腕は煙幕のように大量の煙を噴きながらも直撃した閃光を弾いた。密度を高めたのか、分子の配列を変えたのか。何かしらの『小技』で攻撃を凌いだフィアの腕部は、正確にロボットの顔面を捉える。

 しかしフィアの腕がロボットに届く事はない。

 接触寸前、金属にぶち当たるような音と共にフィアの手が空中で止まったのだ。

【……ああそうでしたねあなたバリアを張れるんでしたっけね】

 その答えをフィアは冷静な声色で、ぽつりとぼやく。

 正解――――まるでそう答えるかのように、ロボットの頭部が再度光り輝いた。

【ぐぬううゥッ!】

 閃光はフィアの腕部と胸部を焼き、フィアの唸りが周囲にこだまする。

 パワーの小さな反撃では防がれる。事実を淡々と受け入れられるフィアは、自分を拘束するナノマシンの破壊を優先。閃光が容赦なく『身体』を削り飛ばすのも無視して、片腕に侵入しているナノマシンを余さず壊す。

 ナノマシンさえなければ後は自由だ。フィアはロボットの腕を土産とばかりに破壊しておく。腕を一つ潰したが、されどロボットの主武装である頭部の閃光発射装置は健在。いや、破壊した腕も再生……というよりも変形していく。腕以外のパーツも、まるで柔らかい粘土のようにぐにゃぐにゃと独りでに形を変えていった。

 ナノマシンを用いて機体そのものを造り替えているのか――――ロボットに起きている変化を、花中はそのように理解する。ナノマシンで姿を変えられるのならば、武装も変形可能と考えるのが自然。つまりこれまで見てきた武装は、数あるバリエーションの一つでしかないという事だ。次はどんな攻撃が来るのか予想も付かない。

 ……訂正。此度に限れば簡単だと、花中は考えを改める。

 下半身をキャタピラ付きの戦車のように変形させ、全身から大小合わせて何十もの数の砲台を生やしているのだ。しかもその砲台全てがフィアの方を向き、赤やら青やら緑やら、カラフルな色彩の光を放っている有り様。どんな攻撃が来るのかなんて、分かりきったものである。

 攻撃される側からしたら、溜まったものではない。

【クソが冗談じゃありませんよ全く!】

 フィアが両腕を自身の『身体』の前で交叉させた、それに続くかの如く間髪入れずの出来事だった。

 ロボットから生えた砲台から、七色の光が撃ち出される!

 青く煌めく巨大な光、緑色のレーザー、赤い弾の弾幕、黄色くてゆらゆらと揺れる閃光、紫の高速光弾……砲台の数だけ撃ち出される多種多様な攻撃。傍目からして性質の違う攻撃は、フィアに一種の防御だけで防げないようにする対策か。

 青い光は接触するや炸裂し、爆弾の如く衝撃を与えてくる。レーザーは体表面を焼き、赤い弾幕はフィアの『身体』に突き刺さった。黄色い閃光はぐにゃりと曲がってフィアの背を撃ち、紫の光弾は高熱を撒き散らす。どれも苛烈な攻撃でフィアの『身体』を着実に削り、尚且つ途切れる事を知らない。

【この程度の攻撃でこのワタシが怯ムとでモォォ……!】

「ふぃ、フィアちゃん! 無理はしないで! 防御を、固めれば……」

【……………ちっ!】

 激昂して反撃に出ようとするフィアを、花中は宥めた。フィアは舌打ちしつつも、花中の言う通り防御を固めたのだろう。『身体』を襲う揺れは、一気に小さくなる。

 しかし揺れ自体は治まっていない。即ち少なからずダメージはあるという事だ。永遠に耐える事は出来ない。なんらかの打開策が必要だ。とはいえ迂闊に跳び込んでもロボットは距離を取るだけだろう。

 逆に考えれば、足さえ止めれば反撃のチャンスはある。どのみちこの弾幕相手では、如何にフィアでも遠距離戦は不利。近接戦に持ち込むしか勝ち目はない。

【ならばこれはどうですかっ!】

 花中の考えは、フィアの考えとも一致したのだろう。フィアは自らの腕を凄まじい速さでロボット目掛けて伸ばした! ロボットは伸びてくる腕をレーザーや青い光で攻撃してきたが、ボロボロになりながらもフィアの腕は伸び続ける。

 そしてフィアの手は、数十メートル先にいるロボットのタンク型下半身に巻き付いた

 瞬間、ロボットはなんの躊躇もなく自身の身体に青い光を撃ち込む!

 青い光は炸裂し、ロボットの下半身諸共フィアの腕を吹き飛ばす。光が晴れた時タンクのような下半身は黒焦げ、穴が空いていた……が、一秒ほどで治ってしまう。

 ナノマシン技術による修復だ。何度か肉弾戦を繰り広げた事で、ロボットに乗るお母様も近距離戦はしたくないと考えたのか。ナノマシン技術で修復出来るのを良い事に、自爆も厭わず振り払うつもりらしい。

 身動きを止めるには、一計案じなければならないようだ。フィアの『身体』がその一計を行える程度には健在なうちに。

「(考えろ、考えろ……あの子達は、スズメバチ。だから、あの機体、ううん、この辺りの部品は……)」

 頭が痛くなるほどに、花中は思考を巡らせる。何か弱点はないか、その弱点を突けば行動不能に出来ないか――――

 辿り着いた考えは、極めてシンプルなものだった。

「フィアちゃん! あの、多分だけど……」

 花中はフィアの内側で、自分の考えを伝える。その声はお母様には届かない。魚面の怪物と化しているフィアだけが、攻撃をその身に受けながら、頭をこくんこくんと上下に揺らす。

【なぁるほど……それならなんとかなりそうですねェッ!】

 次いでフィアは猛り狂った咆哮と共に、自身の足下にある床を踏み抜いた!

 途端、床を形成していたパネルが波打つ! 続いてパネルが()()()()()()、茶色い液体と化す。

 予想通りだ。花中はフィアの内側でガッツポーズを取った。

 スズメバチの巣の材料は何か?

 答えは『紙』である。正確には枯れ木などを噛み砕き、そこに自分の唾液を混ぜ込む事で作成する素材だ。これを巣の建材として利用する。

 そして彼女(スズメバチ)達が巣にマーブル模様を描くのは、模様で敵を脅かすとか、ましてやお洒落のためでもない……材料となる材木の種類がバラバラだからだ。一匹の働き蜂が持ち運べる材料は少量であるため、大量の働き蜂が各々集めに行くのだが……その集める材料は見付けたものを手当たり次第に、である。結果的に色々な材料を使う。そのため出来上がった素材の色が都度異なり、美しいマーブル模様が勝手に出来上がるのだ。

 つまり精錬した金属のような、均一な品質の材料を用いたのではマーブル模様は描けない。

 マーブル模様の発明品を用いるスズメバチ達は、ミュータント化しても製造物に用いている素材は変化していない可能性があったのだ。一体どんな技術を用いれば材木、もっといえば紙のような素材から超兵器が得られるかは不明だが、水で数万度の高温に耐えたり、タンパク質の身体で金属製の現代兵器を容易く打ち破るのがミュータント。紙から超兵器を作ったとしても今更だ。

 そして紙というのは水に弱い。程度の差はあるし、超科学を用いるスズメバチ達が防水加工を施していない筈もないが……相性は確かに存在する。水を操るミュータント(フィア)がその正体に気付いてしまえば、水爆すら通じぬ装甲を溶かしてしまう事など造作もなかった。

【……!】

 お母様を乗せたロボットも状況を理解したのか、攻撃を止めて後退しようとする。だがタンクのような足では機動力を確保出来ない。例え人間の目には捉えきれない速さでも、ミュータント達からすれば鈍足。

 一瞬にして広がるパネルの溶解から逃げきれず、ロボットはどろどろに溶けた紙の海に沈んだ! バリアを張れるからか、お母様が乗る機体は流石に溶けなかったが……フィアが操る液体に浸かったのだ。身動きなど取れまい。

【ふんっ!】

 フィアは一気に駆け、ロボットに接近。ロボットは無事な砲台の一つからフィア目掛けてレーザーを撃つが、直撃してもフィアの突進は止まらない。

 肉薄したフィアはロボットの頭を掴み、そのまま握り潰さんと力を込める。ロボットを固定している液化した床も、ロボット本体を締め上げているのかギチギチと音を立てた。どうやらフィアはこのままロボットごとお母様を潰すつもりのようだ。お母様は至近距離でのレーザー照射を行うが、一種類の攻撃ならば対応もシンプルで良い。フィアは『レーザー』を受け流し、殆どダメージを受けていなかった。

 フィアが勝ってくれるなら、花中としては嬉しい。けれども相手を殺してほしくはない。今が止めるタイミングではないかと思い始める。

 結論からいえば、全くの杞憂だった。

 ――――突如として、地震のような揺れがフィアと花中を襲う。

 決して大地震と呼べるほどではないが、それなりに強い揺れだった。しかし此処は浮遊する円盤の内部であり、地震など起こる筈もない。フィアは訝しげに辺りを見渡し、花中もおどおどしながら周囲を見渡す。

 答えはすぐに明らかとなった。

 フィアに浸食されていないパネルが、次々と解れる。床も、壁も、天井も関係ない。何もかもが形を変えていき、意思を持ったかのように集まり始めた。何処までも何処までも、何百メートル、いや、何キロにも渡ってパネルが崩壊・再構築されていく。

 そして変形したパネル達はあたかも雪崩れ込むかのように、フィアの操る液体に固定されたロボット目掛け集結してきた。フィアはこれを避けるように跳び退き、難を逃れたが……その顔は忌々しげに歪む。数十枚のパネルがナイフのように飛来し、ロボットを拘束していた水との接続を切ってしまったからだ。折角捕まえたお母様を逃がしてしまう。

 ロボットごとお母様を奪還してもパネル達の分解は止まらない。何キロにも渡って崩壊した円盤は、ついに夜空を写し、足下には地上の景色を見せる。パネル達の再構成は続き、何か巨大な、一つの構造物を作り上げていく。

 フィアは変形する足場に対応しながら跳び、足場を移っていくが、それも限界を迎えた。ついに近くの足場が一つ残らず解れてしまったのだ。空を飛べないフィアは重力に従って落ちていき、数百メートルも下にある地上に着陸。何処かの見知らぬ公園に、大きなクレーターを作り上げる。人間ならば即死するような衝撃が走るが、フィアの『身体』と能力は易々とその全てを受け止める。怪我一つどころか痛み一つなく、花中とフィアは無事大地に戻ってこられた。

 尤も帰還の喜びに浸る暇はない。フィアは頭上を見上げ、花中も同じ方角を見つめた。

 花中達が乗り込んでいた円盤は、既にその原形を留めていない。しかしぐにゃぐにゃとした不定形ではなく、全く別の姿に変貌していた。それは背中に四枚の翅を生やし、六本の足を持ち、括れた胴体と大きな頭、凶悪な目付きと大顎を携えた昆虫のような姿をしている。

 即ち、スズメバチ。

 巨大円盤は、スズメバチの姿に形を変えたのだ。無論巨大円盤を形成していたパネルを全て用いて出来たそれが、巨大円盤と比べ見劣りするほど小さい筈もない。推定体長五十キロオーバーの、超巨大スズメバチだ。

 そしてそんなとびきりの『大怪獣』が、明らかに花中達の方を睨み付けていた。

【……いくらなんでも大き過ぎやしませんかね。何時だかに出会ったヘビよりも何十倍もデカいですよアレ。下手をせずともあのヘビぐらい強そうです】

 呆れるようにぼやくフィアだったが、今の花中に答える余裕はない。身体がガタガタと震え、顔はすっかり青ざめてしまう。

 お母様の力を見くびっていた。

 勿論そんなつもりはなかった。しかしフィアの力なら、きっと互角の戦いが出来ると花中は考えていた……なんと甘い考えだったのか。スズメバチというコロニーにおいて、『母親』こそが中枢。『母親』が一つの社会の全てを生み出したもの。

 ならばお母様が社会を形成するもの全てをコントロール出来ても、おかしくはない。いや、むしろ扱えて当然だ。母親がいなければ働き蜂はやがて途絶え、社会は崩壊する。反面母親さえいれば、何度でも社会は蘇る。ならばどれほどの強権を持とうがなんの問題もない。巣を形成するパネルも、防衛装置である塔も、全てを自分のためだけに使える『権限』を有していて然るべきである。

 つまり直径五十キロを超える超巨大円盤、それを形成する小惑星クラスの大質量。そこから射出された、全人類を容易く根絶やしに出来る無数の科学兵器達……お母様はこの全てを、自在に操れるのだ。

【これだけデカいと流石に力じゃ勝てそうにありませんねぇ。というかその気になれば町一つ簡単に消し飛びそうです】

「ふぃ、フィアちゃん……」

【まぁなんとかやるだけやってみますかね。逃げるだけならなんとかなるでしょう多分】

 怯える花中にフィアはなんとも暢気な口振りで、されど明らかに警戒心を極限まで高めた声色で答える。作り物の『身体』に闘志を滾らせ、ケダモノの構えを取って巨大スズメバチと対峙した。

 フィアの体長は現在五十メートル。対する相手は推定五十キロメートルオーバー。

 身長差千倍の相手がゆっくりと、けれどもサイズを思えば明らかに音速を超える速さで前足の一本を振り上げた

 丁度、そんな時だった。

「おかーさまー、たいへーん」

 暢気な声が、花中達の下に届いたのは。

 フィアが鋭い勢いで振り返る。花中もまた、フィアに続く形で背後を見る。

 そこには、幼女もどき(働き蜂)達が居た。

 ただ居ただけではない。一体何時の間に集まったのか、何千、何万、何十万……地平線の彼方まで、幼女もどきに埋め尽くされている。思い返せば町に出現した幼女もどきは、政府の推定では総数三十万を超えていた。巨大円盤内で働いていた分を含めれば、更にその数倍の数が居たとしてもおかしくない。

 お母様だけでなく、百万を超えるかも知れない大軍勢。挟み撃ちにされたフィアは作り物の頭で歯ぎしりをし、今にも弾けそうなほどの力を全身に満たしていき――――

「フィアちゃん、待って」

 花中が制止しなければ、フィアはどちらかに殴り掛かっていただろう。

 花中に止められたフィアは僅かな躊躇いを顔に見せ、最後は構えていた腕を下ろす。お母様が操る巨大スズメバチもフィアを攻撃する事はなく、集結した我が子達に視線を向けていた。

【問い。その報告は外敵襲来を上回る危機か】

「うん、そーなのー」

「たいへんなのよー」

【命令。報告せよ】

 巨大スズメバチは未だ戦闘態勢なのか、極めて無機質な言葉を自分の子らに向ける。対する子供達はとても暢気な、無邪気な子供のような調子のまま。

「あのねー、きょうのごはん、ぜんぶなくなっちゃったー」

 それは報告の時でも変わらず。

【……え?】

 ついには巨大スズメバチことお母様も、ぽけーっとした声に変わった。

 すると巨大スズメバチの胸の辺りがパカッと開く。なんだろうと思い花中はそこをじっと見てみれば、開かれた場所から小さな陰が飛び出していた。

 出てきたナニモノかは地上に向かって飛行、いや、落ちてきた。段々と距離が縮まると、花中の目にもハッキリと見えるようになる。

 出てきたのはお母様だった。

 自由落下のスピードで落ちてきたお母様は、他の幼女もどき達と同じくデフォルメされた幼女の姿をしていて、捨てた筈の頭の王冠と背中のマントを着けていた。お尻から着地したお母様はぽよーんっと跳ね、幼女もどき達の前にすたっと立つ。

「えっと、ご、ごはんがないって、どゆこと?」

 それから自分の子供達にした質問は、明らかに動揺しきっていた。

「なんかねー、ごはんがぜんぶもえちゃったの」

「へんなういるすのせいだったよー」

「たいじしようとしたけどつよくて」

「ぜんぶやられちゃったー」

「「「ねぇ、どうしたらいい?」」」

「えっ、えっ。えと、えっ?」

 娘達に問い詰められ、お母様は狼狽え後退り。

 拙い言葉を解釈するに、彼女達の食糧が突如として焼失。そしてその原因は()()()()だという。撃退を試みたが失敗し、食糧は全て燃え尽きた……という事か。

 無論、花中には心当たりがある。いや、心当たりというのは正確な言い方ではないが。

「はなちゃーん、バッチリやれたわよー♪」

 何しろ花中こそが、今唐突に虚空から現れたミリオンに、スズメバチ達の食糧を焼き払うよう頼んだ『元凶』なのだから。

「あ、ミリオンさん。お帰りなさい。やっぱり、ありましたか?」

「ええ、たっぷりとね。まぁ、生態的に備蓄食糧じゃなくて、本当にその日限りの食べ物なんでしょうけど」

 フィアの内側から外へと送られる花中の言葉に、ミリオンはウインクと共に答える。

 スズメバチというのはミツバチと違い、食糧の備蓄を行わない。彼女達は獲物を捕らえると、すぐに幼虫に与えてしまう。もしも食糧が不足すれば、最終手段として弱った幼虫を()()して元気な幼虫に分け与えて対処する。

 そして成虫は幼虫が分泌するアミノ酸溶液を主な餌としている。自分で捕まえた獲物は決して食べない。戦闘に特化した身体は消化器官を圧迫し、固形物が通れないほど細くなっているからだ。ある意味、幼虫こそが成虫達にとっての『備蓄食糧』であるといえよう。

 しかしこの備蓄食糧、割と仕組みが面倒臭い。

 というのも幼虫は、まず成虫から餌をもらわねばアミノ酸溶液を出さないからだ。成虫がどれだけ飢えていても、あくまで餌と引き替え。この一連の流れを栄養交換と呼ぶ。成虫同士で行う事もあるが、幼虫から与えられるのが基本。餌を取れない無能な大人には食糧を与えないのである。中々シビアな世界だ。

 ……さて。

 ミリオンにより、スズメバチ達の成虫がせっせと集めた今日の食糧が燃えてしまった。これは一大事である。何しろ幼虫が飢えるという事は、成虫も餌に有り付けないという事なのだ。極めて優秀な『戦闘能力』を有するスズメバチだが、その力を発揮するが故に彼女達は生存に多くのエネルギーを必要とする。幼虫からのアミノ酸溶液供給がなければ、あっという間に餓死だ。花の蜜や樹液など、糖質の多い液体で当座を凌ぐという方法もあるが……真冬であるこの時期、たくさん集められるものではない。

 弱った幼虫を潰して他の幼虫の餌にするのは、本当に最後の手段だ。何しろ次代の労働力を潰して生き長らえる、巣そのものの寿命を削る行為なのだから。ましてやミュータント化したスズメバチは、医療技術のお陰か増えに増えた。養う幼虫の数も相当に多い。次代の労働力を減らせば、本当に巣の存続が危うい。

 何かしらの打開策が必要だ。

 必要なのだが……お母様だってこんな状況は想定外な訳で。

「……えっと……ど、どうしよう……?」

 顔を青くしながら、お母様はすっかり困り果ててしまった。

 それはとても正直な回答だったに違いない。正直は美徳だ……回答内容が質問者の意に添うのであれば。

 働き蜂達からすればこの答え、無能以外の何物でもない。

「……われわれはー、ちんぎんをー、よーきゅーするー」

「えっ」

「さいていちんぎんはらえー」

「えっ、えっ」

「あまいものよこせー、めしをくわせろー」

「あの、あっ、あっ、えっ」

 働き蜂の群れから上がる、数々の反発の声。我が子から告げられる無情な言葉に、お母様は気が動転した様子。戦闘中の無機質ぶりは何処へやら、おどおどわたわたするばかり。

 しかし働き蜂は困り果てる母に情けを掛けたりしない。いや、『困り果てる』というしょうもなさが、ますます彼女達の怒りを掻き立てる。

「「「「われわれは、すとらいきをするーっ!」」」」

「えええぇぇぇぇっ!?」

 お母様に告げられたのは、一斉蜂起の宣言だった。

「だいたい、いつもおもいつきでふりまわすし!」

「まえまえからむかついてたんだー!」

「というか、もっとはんしょくこたいをうめー!」

「なんのためにここまでてをかしたとおもってるんだー!」

 一体何処にしまっていたのか、働き蜂達はプラカードまで掲げ、わーわーと可愛らしい抗議の言葉をお母様にぶつける。お母様は右往左往し、目には涙まで浮かべたが、働き蜂達が止まる気配はない。

 そしてフィアと花中とミリオンは、全員に無視されていた。

【……なんですかコレ】

「いやー、思ってたよりも面白い反応になったわねぇ」

「……正直、ちょっと、話し合いの余地が出来れば、良いかなぁ、ぐらいの気持ちだったの、ですが……」

「所詮一日分の食糧だしねぇ。ミュータント化によって代謝が増加してるとしても、一日ぐらいなら絶食出来ると思うのだけど……どんだけ文化的生活に慣れていたのやら」

 放置され、攻撃される気配もない一人と二匹は、遠巻きに起こるなんとも間抜けな仲間割れを眺める。

 ある意味では、花中が予想した通りの展開だ。

 スズメバチのような社会性に対し、「母が娘を労働力として扱う社会が成り立つのは何故か」という疑問がある。何故なら進化論では、より多くの子孫を残せた個体が世界に広まると考えられているからだ。娘達は母親の労働力になるより、自分が直接子を産んだ方が、多くの『自分の子孫』を残せる筈。ましてや働き蜂の多くは不妊……子孫を残せない。母の労働力となるのは娘達にとって繁栄上不利益であり、これでは進化論と矛盾する。

 これを解決する考え方として、ハミルトンの法則というものがある。話すと少々長くなるので要約すると、社会性を持つハチの繁殖方式では母親よりも姉妹の方が()()()()()()のだ。そのため姉妹の繁殖を助ける、姉妹の数を増やす方が、自分の子という『半分だけのコピー』よりも『濃い遺伝子』を後世に伝えられる。確かに進化論では自分の子孫をより多く残せる個体が生き残るとされているが、大前提として子孫というのは『自分のコピー』を指す言葉だ。半分しかコピー出来ていない出来損ないより、より自分に近いコピーを残せる方が進化上好ましい。結果、彼女達は子ではなく姉妹を残す方が『得』となる。

 人間には極めて分かり辛い感覚だが、要するにスズメバチは我が子よりも姉妹の方が大事という繁殖体系なのだ。逆に母親は、勿論大切だが……それは『より完璧な()自分のコピー()』を産むからに過ぎない。

 彼女達が母親に従うのは、合理的で野性的な判断があるから。飢えで巣を壊滅させるような無能には、決して容赦しない。

 ましてや知能があれば、無能な母親への反発は当然の流れと言えよう。

 ……ここまで荒れるとは、流石に思わなかったが。抗議内容を聞くに、どうやらお母様はあまり新女王を産まなかったらしい。寿命を伸ばした事で娘達(新女王)がライバルとなる可能性が出たため、それを嫌がったのか。そして姉妹の繁栄を望む働き蜂はお母様の方針にフラストレーションを溜めていて、今回の事で爆発した、という事なのだろう。

「……で、どうする? このまま放置すると、それはそれで厄介な事になりそうだけど」

【あん? 面倒って?】

「さぁて、何が起きるかしら。食べ物求めて近隣の町を爆撃するとか」

【ふむ成程。確かにお腹が空いたのなら何をしてもおかしくありませんね】

 フィアはこくこくと頷き、ミリオンの過激な仮説に納得する。

 実際問題、これを放置すると由々しき事態を起こしかねない。何しろ相手は超科学の使い手なのだ。人間社会から食べ物を奪おうという困った ― しかし極めて『現実的』な ― 方針を定められたら、人間社会に打つ手はない。怪物による生産力壊滅と相まって、更なる文明衰退を招くだろう。

 加えてひもじい想いをするなんて、あまりにもスズメバチ達が可哀想だ。

 そして兵糧攻めを考案した花中には、ちゃんと『フォロー』の方法も考えてある。

「あ、あの、すみません。ちょっと、お話が……」

「な、なあに?」

 声を掛けると、お母様は涙を浮かべた顔を向けてくる。可愛さと可哀想さが合わさり、花中の心を揺さぶった。ここまでぐだぐだになるとは思ってなかっただけに、罪悪感が胸を締め付ける。

 だからこそ示すのだ。

「今日の分の、食べ物、でしたら、人間達に、もう攻撃しないって、約束すれば、多分、分けてくれる、筈です。だから、あまり心配しないでも、大丈夫です」

「ほ、ほんと?」

「え。ごはんたべられるの?」

「あかちゃん、おなかすかない?」

「わたしたちも、まんぷくたべられる?」

「えっと、た、多分」

「「「「「わーいっ!」」」」」

 花中が口約束すると、働き蜂達は手に持っていたプラカードを投げ捨て、諸手を挙げて喜んだ。いくら虫頭だからって単純過ぎる……という言葉をなんとか飲み込み、花中は引き攣った笑みを浮かべる。

 大体人間から食べ物を貰うのは、ただの一時凌ぎだ。彼女達の人間依存は変わらず、人間との距離は近いまま。もしかすると本能に突き動かされてまた人間への攻撃を始めるかも知れないし、或いはプレゼントと称してとんでも事態を引き起こすかも知れない。

 彼女達が問題を起こさなくても、今度は人間が問題を起こす可能性がある。彼女達の無邪気さを知って悪用を考えたり、或いは恐怖して過激な行動に出る事も考慮すべきだ。

 人間とスズメバチは、離れて暮らした方が良い。ただし排除ではなく、共存の形で。

「その、一つ、提案があります」

「ていあん?」

「なになにー?」

「あなた達は、ごはんが欲しくて、人間と接触したの、ですよね?」

「うんっ」

「そうだよー」

「にんげん、たべものたくさんもってるから、わけてくれるとおもったの」

「そうなのですか……あの、実は人間も、ちょっと今ごはんを作るのが、大変でして。今は分けて、あげていますけど、ずっとは、無理なんです」

「「「「「えっ」」」」」

 まじで? と言いたげな、スズメバチ達の反応。マジなんですよ、と答えるように花中は頷いた。

「えっと、ですから、あなた達も、安定してごはんを食べられるような、そういう仕組みが、必要だと思うんです」

「しくみ?」

「なんかつくるの?」

「ごはんつくるきかいをつくる?」

「たいきちゅうのにさんかたんそと、ちっそと、さんそをつかえば、あみのさんごうせいはかのうだけど……」

「ごうせいごはんは、ちょっとあじが……」

 ざわざわと、働き蜂達とお母様の間に困惑が広がる。

 なんやかんや、彼女達も人工食糧の製造は着手していたらしい。しかし味が良くなかった、と。確かに人間が作り出した人工甘味料も甘さばかりで風味が足りない。あれはあれで便利なのなものであり、使い方の問題なのだが、そればかりじゃ辛いというのは花中にも分かる。

 提案する方法はそんなものではない。科学技術が発達し過ぎて、恐らく彼女達の発想の外にあるだろうもの。一足跳びで文化を手にしてしまったがために、これまで必要としなかったであろう文明の根幹。

 即ち。

「皆さんで、農業を、やってみませんか?」

 一次産業の『発明』であった。




勝因:扇動
社会性生物にはこれが一番利く。人間にもよく利きます。
あとなんやかんやフィアはアナシスの事を覚えています。そのぐらい強かったのですよ、あの化け物ヘビ。

次回は明日投稿予定です。


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異種族帝国9

 空には、青空が広がっていた。

 暦は三月を迎え、いよいよ春も間近。降り注ぐ太陽が地上を緩やかに暖め、寒さも幾らか和らいできた。草木の蕾や芽は日に日に膨らみ、目覚めが近い事を窺い知れる。植物達の覚醒に合わせ、やがて動物達も動き出すだろう。

 生命は徐々に活動を始めようとしている。世界は少しずつ、賑やかさを取り戻そうとしている。

 そして人間の世界は一足先に、大賑わいとなっていた。

 ただし明るいものではなく、混乱と呼ぶべき状態だったが。

【現在、円盤人(ディスカー)達の円盤は太平洋上空で静止。七十二時間以上移動をしていませんが、各国政府は警戒を続けており……】

「人間はまだ観察を続けているんですねぇ。そろそろ飽きないんですかね?」

 大桐家の和室にて、テレビの報道を見ていたフィアはぽつりと自分の感想を漏らす。

 フィアの隣で同じテレビ報道を見ていた花中は、ちょっと苦笑いを浮かべつつ、アフロヘアーでなくなった自身の白銀の髪を指で弄った。

 円盤人(ディスカー)こと幼女もどき……即ちスズメバチ達は、四日前に花中達の町から移動を始めた。

 その更に一週間前から各国への攻撃も止んでいる。彼女達は攻撃停止後「おにくください。くれないとこまります」という情けない脅迫を世界各国に伝達。この声明に世界中の円盤人信奉者達(及びビビった一般人の幾らか)が様々な肉を集め、彼女達に献上した。批判も少なくなかったが、これにより超高度科学力文明による食糧強奪という、最早シュールさすら感じられる事態はなんとか回避されたのである。

 その後なんやかんや死傷者ゼロだった軍の再編が速やかに行われ、アレな事になっていた数多くの日本国民の頭も元通りになった。日本の混乱も再起した政府により速やかに沈静化。人間は『本領』を取り戻していった。

 無論ものの数時間で先進国を軒並み黙らせるほどの存在を、野放しにする事など出来ない。人類は哨戒機や人工衛星を用いてスズメバチ達の大型円盤 ― 一時取っていたスズメバチ形態から、ほんの数十秒で元の円盤型に戻った ― の動向を監視……していた最中、大型円盤は唐突に全世界に向けて「ごはんありがとー。あとはがんばるー」と通信を送り、その後移動を開始。円盤人(ディスカー)達の攻撃を受けていた各国政府は、慌てて大型円盤を追跡した。とはいえ人間による攻撃が行われる事はなく、大型円盤は悠々と飛行を続けて、僅か数時間後に太平洋上空に到達。以降活動は観察されていない。

 円盤人(ディスカー)達は何を考えているのか、太平洋上で何をするつもりなのか、どうして急に日本から去ったのか、そもそも何故日本に現れたのか、あの攻撃の理由は、そして移動間際に残した通信の意味は……

 人間達が混乱するのも無理ない事である。彼女達の行動は、人間からすればあまりに謎が多いのだから。だからこそ、花中は引き攣った笑みも浮かべてしまう。

 何しろスズメバチ達の謎移動を促したのは、自分が伝えたアドバイスなのだ。

「あはは……人間の方は、ちょっと痛い目に、遭ったからね。もしまた動いたら、怖いから、目が離せないの」

「ふーんそんなもんですか。敵意がないのは分かったのですからそんな面倒なんて止めてしまえば良いのに。人間というのは無駄な事をするものですね」

「……向こうの、説明不足もあるけどね」

 言葉足らずなスズメバチ達に自らの事情を分かりやすく説明するのは難しいだろうが、という前置きを花中は頭の中でしておく。自分が彼女達の事情を『世界』に向けて話せれば、この()()な行為をなくせるだろうが……生憎花中にそこまでの権威はない。

 スズメバチ達は食糧を求めて、人間社会にやってきた。

 つまり食糧さえあれば、人間社会と接触する必要はない。そこで花中が彼女達に提案したのが自給自足の方法……つまり農業のやり方だった。元々野生生物であるスズメバチ達にとって、食べ物は外から採集してくるもの。加えてミュータント化によって高度な知性と技術を一気に獲得した結果、食糧生産技術の発達を経ずに工業化を成し遂げてしまった。故に農畜産を知らないと考えたのだ。

 推測は正しかった。スズメバチ達は農業も畜産も知らなかったのである。花中は家にあった『初心者向け』の園芸本と、彼女達にとって畜産となるであろう昆虫の『飼い方図鑑』を渡したところ、スズメバチ達は大喜び。本を持って円盤内に引き籠もる事一週間……ついに農業を実用化したのか、町から去って行った。

 彼女達はもう、人間社会と触れ合う必要はない。このまま大海原のど真ん中で暮らし、地上に来るのは巣や発明品の素材を集める時ぐらい ― 農業を実用化したのなら、その必要もないかも知れない ― だろう。人間社会との接触は皆無となり、不理解からのすれ違いもゼロになる筈だ。

 距離を置いた関係になるのは、花中としては寂しい事だと思う。けれども人とミュータントの大々的な接触は()()()ではこれが初めて。いきなり何もかも上手くいく訳がない。むしろ一時壊滅的被害が生じたとはいえ、人的な損失がないのは幸運といえた。それこそ彼女達にはその気になれば人類をものの数時間、いや、数分で死滅させるほどの力があるのだから。

 互いの事を少しずつ理解していき、少しずつ歩み寄っていけば良い。何処まで近付けるかは分からないが、滅ぼし合う関係ではないのだから時間はあるのだ。ゆっくり進めていけば良い。

 そして、仲良くなった暁には……

「……んふふ」

「おや? 花中さん何やら嬉しそうですね。どうかしましたか?」

「ん。ちょっとね、想像したら、楽しくなってきて」

「? そうですか」

 よく分かりませんけど花中さんが楽しそうだから別になんでも良いですね……きっとそんな風に思ってるであろう、フィアの横顔を見ながら花中は想像を膨らませる。

 ミュータントの出現は、人の世を揺るがすものばかりだと思っていた。事実スズメバチ達も一時人の世界を滅ぼしかけている。だけど同時に、可能性も示してくれた。

 スズメバチ(ミュータント)達だって完璧じゃない。惑星の気候さえも操作する技術力を持ちながら、農業という人間にとっての『当たり前』が存在していなかった。驚異のテクノロジーを有していながら、自力で冬を乗り越える術を持っていなかったのだ。

 それが人間の一言だけで変わった。もう彼女達は誰かに頼らないでも生きていける。冬の寒さに怯える必要はなく、永久の安息と恒久の繁栄を得たのだ……人間の知識によって。

 自分とフィアのような、個人の関係だけじゃない。種族として人間とミュータントが共に歩む道もあるかも知れない。仮に人間ではその共存の道を歩くだけの力がなくても、人間の子孫、何時か生まれるかも知れない人間の『ミュータント』なら或いは――――

 例え人の世は終わっても、人の子が続いていく道はある筈。そんな小さな、だけど確かな期待を、花中は抱く事が出来た。

「おっとそろそろ六時じゃないですか。殲滅魔法少女ジェノサイドちゃんが始まるのでチャンネル変えますねー」

 そんな花中の気持ちなど露知らずなフィアは、自分の見たい番組に無断で変えようとする。花中としてもニュース自体はもう見飽きたものなので、特段止めはしなかった。

 一分ほど流れたCMの後、なんやかんや毎週聞いているオープニング曲が流れる。幼女向け番組としては些か荘厳にしてバイオレンス。なんでこれ夕方六時に放送してるの……? という疑問を抱かない訳でもない、小難しい歌詞が続く。尤もそれは色々面倒な事を考えてしまう『大人』の理論なのかも知れない。少なくとも隣に座るフィアは、頭空っぽにして子供のように楽しんでいる様子だった。

 かくして六時三分頃になって、ようやく本編スタート。可愛らしい顔の女の子が「えぇーっ!? KKK団が国会議事堂を占拠!?」という色んな意味で続きが気になる台詞を発した

 直後に、アニメ映像が実写に切り替わる。

 最初、花中はそういう『演出』だと思った。しかしすぐに実写映像の真ん中に映る女性が、このチャンネルのテレビ局の専属アナウンサーだと気付く。

【臨時ニュースをお伝えします】

 そして無慈悲に告げられる、女性の言葉。

 臨時ニュースによりアニメ放送が中断となった、決定的証拠だった。

「ぐわぁーっ!? 何故ジェノサイドちゃんが別番組にぃ!?」

「お、おち、落ち着いてフィアちゃん……」

 荒れ狂うフィアを宥めようと、花中はテレビに掴み掛かるフィアの背中を優しく撫でる。

 同時に抱くのは、違和感。

 『殲滅魔法少女ジェノサイドちゃん』のテレビ局は、余程の事がなければ番組を中断しない事で有名だ。この局がアニメ放送を中断したら、それは人類滅亡の危機であると冗談交じりに言われるほどに。

 果たしてどんなニュースが流れるのだろうか? 興味を抱いた花中はテレビに耳を傾ける。

【日本時間十七時三十分頃、太平洋上を浮遊していた円盤人の大型円盤が動き出したとの情報が、米国国防省より明らかにされました】

 故にテレビからの言葉は、一言一句聞き逃さなかった。

 ……聞き逃さなかったので、花中は固まった。

【大型円盤は現在、日本に向けて進路を取っているとの事。日本政府は先程緊急の対策本部を立ち上げ、自衛隊も動員体勢を……】

「あん? 円盤って事はあの虫けら共ですか? 成程奴等の仕業ですかじゃあ遠慮なくボコボコに出来ますねぇ……!」

 報道を聞き、フィアは怒りと闘志を燃え上がらせる。どうやらこちらはやる気満々らしい……花中は逆に戸惑ったが。

 何故スズメバチ達は日本に向かっている? 彼女達には基礎中の基礎ではあるが農業技術を伝え、食糧問題は解決した筈。もう人間のところにやってくる必要なんて……

 スズメバチ達の意図が分からず、花中は掴み掛かったままのテレビを今にも壊しそうなフィアを引き留める事も忘れて立ち尽くす。そうしているとテレビ報道は新たな情報を語り始めた。

【なお、報道機関には円盤人からのものと思われる通信が届いています。内容は『上手くいったからお礼にいきます』との事。現在この通信が政府機関に届いているのか、本当に円盤人からのものなのかは調査中です。詳細が分かり次第、お伝えしたいと思います】

 あっさりと、この事態の原因を。

「(あ、そうですか。上手くいったからお礼ですか……)」

 そういえばあの子達、栄養交換の生態があるからかお礼の概念があったなぁ……今更ながら思い出す彼女達の『生態』に、花中は思わず苦笑い。そして両手で頭を抱えて蹲る。

 人間とミュータントは共に歩んでいける。

 けれどもその道のりは、人間にとっては少々賑やかな事になりそうだと花中は思うのであった。




なお、絶対的脅威の出現により、人類の結束が一層強まった模様。
なんや、ええ奴やんか!(雑頭)

次回は今日中に投稿予定です。


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幕間十六ノ十七

 深い、深い、森の中。

 彼女はそこにぽつんと位置する、小さな池で目覚めた。

 キョロキョロと辺りを見渡す。濁った水は見通しが悪く、十数センチ先を見るのがやっと。そのたった十数センチの範囲内にあるのは積み上がった落ち葉と、貧相な水草が数本だけ。彼女にとって見慣れた景色であったが、しかし彼女のちっぽけな脳は別の事を考えていた。

 ――――なんと地味で変わり映えのしない景色なのか。

 彼女は思った。こんなところに居ても仕方ないと。これまで『食事』と『睡眠』と『恐怖』ぐらいしか感じた事のない脳が、初めて『飽き』を覚えたのだ。そしてその飽きは、彼女に外の世界への『好奇心』を与える。

 この濁った水の外にある世界は、どんな世界なのだろう?

 薄汚れた水と、腐りかけた落ち葉と、枯れかけた水草以外の何かが、この薄汚れた水溜まりの外にはあるのだろうか?

 彼女は夢を抱いた。しかし彼女の頭は、彼女の夢を砕くぐらい聡明だった。彼女は、自分が水の外では生きられない事を知っていた。

 水の外への想いを募らせていると、ごぽごぽと水を掻き分ける音が聞こえてくる。何か、大きな生物が迫っている……彼女は危険を察知し、何処かに隠れようとした。されど今の今まで考え込んでいたが故に、彼女の行動は間に合わなかった。

 濁った水の彼方から、大きなナマズが姿を現した。

 しまった、と思った時にはもう遅い。ナマズは大きな口を開け、周りの水ごと彼女を飲み込もうとする。彼女は咄嗟に泳いだが、ナマズの吸い込む力には抗えない。

 死にたくない!

 彼女は恐怖を感じた。けれどもそれでナマズが食べるのを止めてくれるなら、食物連鎖は成り立たない。迫り来るナマズの口に、彼女は最後の抵抗とばかりに渾身の力で尾ビレを振るい、

 ナマズの頭が、ぐちゃりと潰れた。

 本当に、ぐちゃぐちゃになっていた。頭の骨などないとばかりに、或いは透明な巨人の手が握り潰したかのように。

 どんなに恐ろしいナマズであっても、頭が潰れては生きていけない。ぐったりと横たわり、動かなくなる。

 彼女は天敵の亡骸をしばし呆然と眺めていたが、ふと、動けと念じながら腹ビレを振ってみた。

 すると池の中の水が、まるで嵐でも起きたかのように掻き回される。落ち葉の層が舞い上がり、水草が千切れ飛んだ。止まれと念じてみれば、ヒレの動きがなくとも水の流れは止まった。幻覚か夢かとも思ったが、水中を漂う落ち葉の一欠片が自分の頭に落ちてきたので、本当に起きた事なのだと分かる。

 彼女は理解した。自分には、水を自在に操る力があるのだと。

 この力があればどんな敵も恐ろしくない。ナマズも、ザリガニも、大人も、兄弟姉妹も、自分を襲おうとする奴等は全員皆殺しに出来る。何も恐れる事はない。

 いや、それだけではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()……

 彼女は思った事を実践した。周囲の水を操り、自分の周りに固定。操作している水を動かし、岸辺を目指す。

 そして彼女を包み込む水は、丘の上へと上がった。

 水は崩れず、球体のような形を維持したまま。どうして液体の水が地上で崩れないのか? そもそも自分はどうやって水を操っているのか? 彼女にはよく分からない。分からないが、そんなのは大した問題ではなかった。

 彼女にとって大事なのは、焦がれていた外の世界を見る事が出来たという事実のみ。

 正面にそびえる崖と、その崖の上に鬱蒼と茂る森。池の真上にぽっかりと開いた空から見えるのは、どんよりとした曇り空。お世辞にもこれらは、明るくて眩いものとは呼べない景色だ。

 だけど、濁った水と腐ったゴミしか知らない彼女にとっては、心奪われるほど素敵なものだった。

 彼女は思った。もっとたくさん、綺麗な景色を見たいと。

 彼女は知っていた。この世界にはまだまだ色んな景色があるという事を。

 彼女は求めた。知識にしかない、見た事のない世界を。

 そして彼女は決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずはこの山の麓に広がる人間の世界を見てみよう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十七章 ベイビー・ジェネレーションズ

 

 

 

 

 

 




なんとも見覚えのある能力。
それから分かりやすいサブタイ。
まぁ、何時ものです(それで許されると思っている)

次回は8/23(金)投稿予定です。


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第十七章 ベイビー・ジェネレーションズ
ベイビー・ジェネレーションズ1


「なんかさー、最近大事な事を忘れてる気がするんだよねぇー」

 学校からの帰り道の最中、ミィがふとそのような事を話し始めた。

 季節は五月半ばに入った頃。桜はとうの昔に花を散らし、今では毛虫の餌である若葉をたくさん茂らせている。数多の野草達も勢い付き、枝葉を伸ばして人の生活圏をじわじわと侵略していた。気温は暖かさを日に日に増しており、初夏の到来が近い事を物語る。

 冬ならそろそろ薄暗くなる時刻の午後四時を回っても、今ならまだまだ明るい時間帯。街灯の点いていない住宅地を歩きながら、花中はミィの話を聞く。

 それから、同意するようにこくりと頷いた。

「ミィさんもですか? わたしも、最近何か、忘れてるような気がして」

「花中も? うーん、自分だけなら気の所為かもって思えたけど、花中もそう言うならやっぱり何か忘れてるのかなぁ」

「私は全くそんな気はしませんけど」

 悩むミィに、花中の隣を歩いていたフィアが自身の意見を口にした。が、花中もミィもその意見は参考にしない。何しろフィアは興味がない事柄だと、十秒前の出来事すらろくに覚えていないのだ。彼女の意見は全く当てにならない。

「ミリオンさんは、どうですか?」

 花中はもう一体の友達であるミリオンに尋ねてみる。歩いている道の幅が狭いためミリオンは花中達の後ろを歩いていた。花中は後ろへと振り返り、ミリオンの顔も見る。

 ミリオンは、心底呆れた表情を浮かべていた。

「別にそんな感覚はないわよ。というかあったところで、それがはなちゃんやミィちゃんと同じとは限らないでしょうが。せめてヒントを出しなさいよ、ヒントを」

「あ、はい。ですよね……」

「うーん、なんだっけなぁ。なんかこう、日に日にもやもやするというか、梅雨の時期になんかあった気がするんだよね」

「梅雨の時期? 梅雨の時期ねぇ、なんかあったかしら……」

 ミィが『ヒント』を言葉にし、ミリオンはそれを元に考え込む。

 ミリオンの表情がハッとしたものへと変わるまでに、それから十秒と掛からなかった。

 そしてその顔が引き攣った笑みへと変わるのに、また十秒と掛からない。

「……あなた達、まさか『アレ』を忘れたの?」

 開かれたミリオンの口から出てきたのは、否定してほしいという感情がありありと感じられる言葉だった。

「え? ミリオンさん、何か心当たりがあるのですか?」

「いや、心当たりも何も……えっ、はなちゃんまで忘れてるの? えっ」

 ミリオンの至った答えを花中が尋ねると、何故かミリオンはどん引き。露骨に後退りし、信じられないと言いたげに首を左右に振る。

 どうやら、自分達はかなりとんでもない事を忘れているらしい。

 ミリオンの態度からそれを察した花中は、汚名を返上すべくなんとか自力で思い出そうとする。去年の梅雨、何かあっただろうか。それで今年、何かをしようとしていたのだろうか……気合いを入れて頭を働かせてみたが結果は芳しくない。むしろ変に頭が固くなり、柔軟な発想が妨げられているのを自覚する。これではどれだけ考え込んでも、答えには辿り着けないだろう。

 意固地になっても仕方ない。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥だという先人の言葉もある。ここは素直に訊いておくのが賢明だ。

「すみません、思い出せません……あの、去年とか、何かありましたっけ?」

「あー、そっちに考えがいっちゃったのね。去年じゃなくて一昨年の話で――――」

 花中がしょんぼりしながら尋ねると、ミリオンはあっけらかんと答えようとしてくれた、が、その言葉は不意に途切れる。足を止め、表情を強張らせていた。

 立ち止まったのはミリオンだけではない。フィアとミィも歩くのを止めており、警戒心を露わにしていた。

「……え……? あの……」

「花中さん。何かが我々の方に近付いてきています」

 困惑する花中を抱き寄せながら、フィアが現状について教えてくれる。

 何か。

 フィアは具体的な正体を語らない。ミリオンやミィがその言葉をフォローする事もなかった。全員が『何か』としか分からないのだろう。野生の本能でその存在を感知しただけという訳だ。

 しかしそれだけ分かれば十分。

 彼女達が警戒するほどの存在など、ほんのごく僅か。人間の兵器どころか怪物さえも足下に及ばない、不条理で巨大な力の持ち主のみ。

 即ち、ミュータント。

 人智を凌駕する超生命体が接近している。これだけ分かれば人間(花中)が背筋を凍らせるには十分だった。

「かなりの速さです。これは……」

「あれ? この感じ……」

「噂をすれば、ってやつかしらねぇ」

 花中が答えに辿り着いた時、動物達は三者三様の反応を見せる。フィアはあくまで冷徹に、ミィは呆けたように、ミリオンは半笑いを浮かべながら。

 その反応の答えは、花中の正面で起きた大爆発が持ってきた。

 爆発といったが、火薬的なものではない。炎が見えず、舞い上がるのは土砂と道路の破片のみ。数多の戦闘経験 ― 主に眺めているだけだったが ― から、花中はこの爆発がなんらかの『運動エネルギー』によって起きたものだと瞬時に見抜く。

 とはいえ粉塵の高さが数十メートルに達するほどの衝撃だ。普通の爆発と同じく衝撃波が生じ、辺りの家々の窓ガラスを粉砕する。悲鳴が町中に響き渡り、穏やかだった市街地が一瞬で地獄へと変貌した。

 高々と舞い上がった粉塵は中々落ちず、数十秒と漂う。近くの家々から人々が顔を出し、朦々と漂う茶色い霧を怯えた表情で眺めた。日常を脅かす大爆発が起きたのだから、誰だって恐怖を覚えて当然である。加えて昨今、世界では『怪物』と呼ばれるおぞましい生命体の出現が頻発している事を、人々は嫌というほど耳にしている。この爆発もそうした怪物出現の兆しなのではと考えるのは決して考え過ぎではないし、軍事兵器すら通用しない生命体を警戒するのは臆病な反応とは言えまい。

 対して花中はフィアに守られていた事もあり、爆発そのものにはあまり恐怖を感じていなかった。或いは、『爆発を起こしたモノ』への恐怖がそれを塗り潰しているだけかも知れないが。

 晴れてきた粉塵の中に、大きな人影があった。シルエットからして男の人に見える。二年前と比べれば平気なったとはいえ、まだちょっと男の人は苦手だ。花中は無意識にフィアにしがみつく。

 しかし恐怖は、やがて驚愕に押しやられる。

 人影は歩き出し、粉塵の外へと出て花中達の前にその姿を現す。第一印象の通り、人影は『男の人』だった。

 そう、筋肉隆々な肉体を隠しもせず剥き出しにした、黒い長髪を携えた若い男。細面の顔をし、肉食獣を彷彿とされる鋭い眼光でこちらを見つめてくる。歩みはしっかりとしていて、先の大爆発の中心に居ながら、一見して人間のようにしか見えない身体が一切傷付いていない事を花中達に示した。

 花中は知っている、『彼』の事を。彼との出会いは()()()()()()()であり、それからずっと顔を合わせていなかったが、こうして顔を合わせればその名は簡単に思い出せた。もしも姿が変わっていたら分からなかったかも知れないが、現れた姿は二年前に見せたものとなんら変わらない。もしくは、変えていない、と言うべきだろうか。なんにせよ、お陰で問題なく花中はその名を言える。

 キャスパリーグ。

 花中の大切な友達であるミィの、唯一の肉親だ。

「(わ、わ、忘れてたあああああああああああああああああっ!?)」

 そして花中が、完全に忘れていた『梅雨時の出来事』そのものであった。

 キャスパリーグと出会った二年前、彼は人類に対し激しい憎悪を抱き、復讐を企てていた。その計画は妹であるミィにより防がれたが、彼の心から憎悪は消えていなかった。

 そこで彼はミィと約束した。人間達をもっとちゃんと理解しよう。その上で、復讐を続けるかどうかを決めよう。

 ――――期限は()()()で。

「……おい。そこの人間……確か、オオギリカナカだったよな? まさか俺の事を忘れていた訳じゃないだろうな?」

「っ!? ままままままさかそそそそそそんなわわわけわけわけめ」

「はなちゃん、動揺し過ぎ」

 図星を点かれて挙動不審になる花中に、ミリオンが優しく脳天をチョップ。冷静なツッコミを入れられ、花中も少し落ち着きを取り戻す。

 まずは深呼吸。

 心を落ち着かせた花中は、キャスパリーグと向き合う。キャスパリーグは恐るべき身体能力を持つ強敵だったが、基本的にはフィア達と『互角』の存在だ。もし今襲い掛かってきたとしても、フィア達が力を合わせればどうとでもなる筈。以前とは比べようもないぐらい強くなった可能性もあるが、フィア達だってそれは同じだ。力の面で臆する必要はない。

 そもそも、彼が現れた理由がまだ分からない。復讐の再開を告げに来たのかも知れないが、和解の意思を伝えに来た可能性もゼロではないのだ。ここは冷静な対応が肝心である。

「あん? あなた誰でしたっけ?」

 例えば親友(フィア)の、素直であるが故に相手の神経を全力で逆撫でするような発言をフォローするとか。

「……ほぉ。忘れたという訳か」

「ご、ごご、ごめんなさい! あ、あの、フィアちゃん、大抵の事はすぐ忘れちゃうので……」

「……ふん。まぁ、良い。貴様に用はないからな。今回用があるのは人間の方だ」

 キャスパリーグは不機嫌そうに鼻を鳴らし、次いで花中の方を睨むように見てくる。

 鋭い眼光に少し怯みつつ、花中はキャスパリーグの『用件』について考えを巡らせた。とはいえかれこれ二年ぶりの再会である。二年の間どんな経験をしてきたかも知らないのに、彼が何を求めているかなど分かる筈もない。

 ごくりと、息を飲む花中。

 するとキャスパリーグは、ぐっとその身を前屈みになるよう傾けた。まるで突撃でもしてくるかのような体勢に花中はビクリと身体を震わせたが、キャスパリーグは何時まで経っても突撃などしてこない。

 代わりに彼の背中から、二つの小さな顔が覗き出た。

 子供の顔だ。小学生、いや、幼稚園児ぐらいの小ささだろうか。一方は女の子らしい顔立ちで、もう一方は男の子っぽい顔立ち。どちらも黒髪で、まん丸に見開かれた目はキラキラと輝いている。二人の瞳にこちらへと敵意は感じられず、好奇心がありありと見て取れた。服は着ておらず、大事な場所は獣のような毛で覆われているだけ。

 彼女達は今までキャスパリーグの背中に隠れていたのだろうか? しかし一体その子達は何者なのか。

「紹介しよう。俺の子だ」

 花中が疑問に思っていると、キャスパリーグはその考えを読んだかのように、すぐ教えてくれた。

 ……教えてくれたが、花中はその言葉の意味がよく分からなかった。

 こども。コドモ。子供?

「ぇ、えっ!? こ、こど」

 驚き、目を見開く花中。

 しかし此処には、花中以上に驚く者が居た。

 ミィ()である。

「えええええええええええええええええええええええええええっ!?」

 驚いたミィは、思いっきり声を上げた。あまりにも大きな声だった。具体的には、衝撃波と変わらないほどの。

 人智を超えた大声は空気を振るわせながら辺りに広がり、花中の全身に打ち付けられる。致命的な破壊力ではない。が、割と殴られたような衝撃だ。なんの覚悟も準備もしていなかった心は、一撃で彼方へと吹っ飛ばされてしまう。

 窓からキャスパリーグ達を見ていた一般人も、透明な拳で殴られたかのように顔を仰け反らせ、バタンと倒れる。彼等が住む家々も衝撃を受けて激しく揺れた。辛うじて残っていた窓ガラスは粉砕され、屋根の一部が吹き飛んだ。

 キャスパリーグが起こした爆発並の大災害により、野次馬根性を剥き出しにしていた人間達は余さずノックアウトされてしまう。ミィの声が止むのと共に、市街地には静寂が訪れた。人々は全員目を回し、もう、誰も喋らない。

 平然としているのはミィ本人とミリオン、フィアにキャスパリーグ……そしてキャスパリーグの背中に隠れる二匹の少年少女のみ。

「……やっべ」

「やっべ、じゃないでしょ。どーすんのよ、これ」

「野良猫あなた花中さんに何するんですか」

「いや、これ不可抗力じゃん! だって兄さんの子供とか……え、マジで? マジで子供なの?」

 目を丸くしながら、ミィはキャスパリーグに改めて問う。

 問われたキャスパリーグは深いため息を吐く。ジト目でミィを睨み、不愉快そうに口許をへの字に曲げる。

「……そんなに驚かなくても良いだろう。俺もお前も、もう良い歳なんだから」

 やがてぽつりと、不服そうな言葉を漏らすのだった。




はい、という訳でキャスパリーグ再登場。
リアル時間的な意味でも結構久しぶりの登場です。

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ2

 一見して、人間の子供である。

 ちょっと人形のように整い過ぎた顔立ちと思えなくもないが、パチクリさせている目や、ころころ変わる好奇心旺盛な表情は、大人しさの象徴でもある人形と呼ぶには程遠い。傾いた太陽が茜色に周囲を染め上げても、彼等の顔の眩さは寸分たりとも衰えない。その顔は五秒以上一点を見つめる事はなく、忙しなくあっちこっちに向けられていた。

 正しく元気な子供だ。そうとしか表現出来ない。

 それでも、彼等は人間ではない。

「ねーねー、どっちが高く跳べるか競争しよー」

 黒髪の女の子が、そのような提案をする。断られるとは寸分も思っていない、無邪気で勝ち気な表情を浮かべている。

「いいよー」

 女の子からの提案を、黒髪の男の子は寸分も迷わず、満面の笑みで受けた。

「「いっせーのーせっ!」」

 そして二匹は声を合わせ、同時にジャンプ。

 自分の足の力だけで、垂直方向に()()()()()()も跳んだ。

 空高く跳んだ二匹はやがて重力に引かれて落下。ズドンッ! と爆音を轟かせて着地する。大地が揺れ、彼女達が降り立った『庭』の中にある一軒家も僅かに揺れた。

「ねーねーパパっ! どっちが高く跳んでた!?」

「ボクだよね! ボクの方が高かったよね!」

 幼い二匹は目にも留まらぬ速さで駆け、庭の隅に立っていた大男――――キャスパリーグを問い詰める。

 キャスパリーグは優しく微笑みながら、大仰に唸り、ゆっくりとした口調で語り掛けた。

「そうだな。どっちも同じぐらいに見えたから、引き分けかな」

「なんだぁ。同じかぁ」

「えぇー、ボクの方が絶対高かったよぅ」

「何よ、パパが嘘吐いてるっていうの?」

「ぱ、パパは嘘吐きじゃないけど、でも……」

「ほらほらケンカはするな。引き分けなら、次の勝負をすれば良い。そうだな、腕相撲でもしたらどうだ?」

「流石パパ! それなら勝ち負けハッキリするね!」

「よーし! 今度は勝つぞー!」

 キャスパリーグの意見に、幼子達は素直に賛同。庭の一角に寝そべり、腕相撲を始めた。込めた腕の力によるものか、庭の一部が陥没したが……仲良くじゃれ合う姿は微笑ましいの一言に尽きる。

 キャスパリーグはそんな二匹の姿を、優しい眼差しで眺めていた。

「本当に父親になってるみたいねぇ」

 そんなキャスパリーグの姿を、庭の隅からミリオンが眺めている。

 ミリオンの隣に居る花中も、無言のままこくこくと頷く。声は出てこない。それほどまでに心の中は驚きに満ちていた。ちなみにこの場には花中を後ろから抱き締めているフィアも居るが、感想どころか興味もないのか、虚空を見つめてぼーっとしているだけである。

 キャスパリーグと出会ってから、ざっと一時間は経っただろうか。

 今、花中達は大桐家の庭に集まっている。出会った市街地では『一悶着』あり、騒ぎが大きくなってきたからだ。不本意ながら、大桐家の周りは丸一年以上前の出来事により廃墟と化しており、未だ人気は殆どない。ここなら多少の『やんちゃ』があっても大きな騒ぎにはならないだろうという判断から、一旦場所を移したのである。尤もこの判断を下したのは花中ではなく、居候のミリオンであるが。この時花中は『一悶着』の所為で失神していたので。

 結果的にこの判断は正解だった。キャスパリーグの子供達……ミュータント化した子猫達は、人間の子供と同じくじっとしている事が出来ない性格だったのだから。

「驚きました。でも、猫なら、普通……なのかな?」

「まぁ、最低でも二歳以上な訳だから、そりゃ父親になっていてもおかしくはないでしょうけどね。でも猫の雄って、子育てなんかしなかったと思うんだけど」

「それは、家族が引き裂かれた事が原因、かも知れませんね」

「あー、それはありそうな話ね。生物の生態なんてなんでも例外が付きものだし、枠に嵌める事ほど馬鹿馬鹿しい考えもないか」

「そうですね……でも、やっぱり驚きました。本当に」

 ミリオンと花中は言葉と推測を交わし、目の前の光景を理解しようと努める。それほどまでに、キャスパリーグが自分の子供を連れてきた事は驚きだった。

 ――――そう、『赤の他人』である花中達ですら驚くほどだ。

 ならば肉親()であるミィが驚かぬ筈もない。しかし彼女は花中達の会話には入ってこなかった。ミィもまたキャスパリーグ達が親子の団欒を楽しんでいるこの庭、それも花中のすぐ隣に居るというのに。

 何故ならミィはずっと、目を丸くして呆けていたのだから。

「……さっきから何を見ているんだ、お前は」

「え? あ、いや、だって……」

 キャスパリーグに声を掛けられ、ミィはようやく我に返る。しかし冷静になったとは言い難く、右往左往して戸惑うばかり。

 妹のなんとも情けない姿に、キャスパリーグは大きなため息を吐いた。

「そんなに俺に父親は似合わんか」

「似合わないというか……その、あたしなんか割とトラウマだから、子供とか作るの避けちゃってたし……勝手に、兄さんも同じだと思ってて」

「……その点については、否定はしないが」

「じゃあ、なんで子供出来てんのさ」

 ミィが尋ねると、キャスパリーグはそっぽを向いてしまった。花中の目には、心なしかその頬が赤くなっているように見える。

 何故、そんな反応を?

「あら~。青春してるわねぇ」

 そんな疑問を花中が抱いていたところ、何故かミリオンがくすくすと笑い出す。

 キャスパリーグは居心地の悪そうな眼光で睨み付けるが、ミリオンは全く動じない。それどころか一層嬉しそうに笑っている。まるで親戚の子供の『良い場面』を見たおばちゃんのような、若干鬱陶しい笑みだ。

 ミリオンとは、かれこれ二年近くなる付き合い。花中はミリオンが察したものを理解し、故にミリオンと同じ笑みを浮かべる。

 恐らくキャスパリーグは『可愛い女の子』に出会ったのだろう。トラウマやらなんやらが全部吹っ飛ぶぐらいの。

 意見を伺うようにこちらへと振り返ったミィも、花中とミリオンの意図を察したようだ。ニヤニヤと笑みを浮かべる。一人と二匹からのニヤニヤ攻撃。キャスパリーグの顔が誰の目にも明らかなぐらい赤くなるまで、そう時間は掛からなかった。

「ええい、鬱陶しいぞこの雌共がっ!」

「うふふふふ。恥ずかしがらなくても良いのよ。恋って素敵な事なんだから」

「はいっ! とても良いと思います!」

「ねぇねぇ、今度その可愛い奥さん、あたしに紹介してよーほれほれー」

「うぬぐぐぐぐ……」

 唸りながら覇気を纏うキャスパリーグだが、どすどすとミィの肘打ちを黙って受ける辺り図星を突かれているのだろう。女三人の姦しさに押され、雄であるキャスパリーグは口を閉ざしてしまう。しかし女子達の攻勢は留まらない。

「なんとまぁ恋だの子供だのなんてくだらない話題でよくそこまで盛り上がれますねぇ」

 フィアがぽつりと『本音』を漏らさなければ、もうしばらくキャスパリーグは弄られ続けただろう。

「あら、さかなちゃんったらズバッと切り捨てるわねぇ」

「くだらなくなんてないでしょー。身内が子供連れてきたんだからさぁ」

「分かりませんねぇ。私だって先日卵を産みましたけど自分の卵を見ても何も感じませんでしたよ。ましてや他人の子なんて興味もありませんね」

「……え? フィアちゃん、何時の間に卵産んでたの?」

「んー確か二週間ぐらい前かと」

 花中が尋ねると、フィアはあっさりと打ち明ける。思い返せば二週間ほど前、確かにふらっと一匹で出掛けた時があったが……二時間ほどで帰ってきたのでまさかそんな大仕事をしていたとは思ってもおらず、教えられていなかった花中はちょっと動揺した。

 しかしフィアにとっては、産卵なんてものは精々「お腹が軽くなった」程度のものなのだろう。花中に産卵の事を言わなかったのも、言う必要がある事柄と認識すらしていなかったに違いない。

「それより今はコイツが来た理由を尋ねる方が先決だと思うのですが」

 故にフィアは、この場に居る誰よりも『客観的』かつ『合理的』であった。

 確かにそれは大きな謎である。

 キャスパリーグは花中達と敵対した事のある身。一応その敵対関係は水に流したとはいえ、子供が産まれたから見せに来るような親しい間柄ではない。いや、ミィだけなら肉親なのであり得るだろうが……再会直後、キャスパリーグは花中に用があるような口振りだった。

 二年ぶりの再会。その間の接点は ― うっかり忘れてしまうぐらい ― なし。どんな用事があるのか、見当も付かない。

 ただ、フィアが尋ねてからキャスパリーグの表情が僅かながら強張ったところを見るに……あまり、能天気な話題ではないのだろうと察せられた。

「最初に、確認したい前提条件がある。人間、お前はここ三ヶ月ほどの間に、九州まで来た事はあるか?」

「え? 九州ですか? いえ、寄ってはいませんけど……」

 キャスパリーグからの問いに、花中は正直に答える。フィア達の機動力に任せて遠征する事は多々あったが、九州方面に行った事はまだない。二月頃『スズメバチ』達から逃げた時でさえ、関西方面止まりだ。強いて言うなら飛行機で海外に出た時、上空を通ったかも知れないぐらいだが……あれは一年半前の出来事なので期間外である。

 花中からの返答に、キャスパリーグは何か考え込むように目を伏せた。口は硬く閉じられ、呟きすら漏らさない。これでは彼が何を考えているかなど当然分からない。

「ねぇ、考え込む前にちゃんと教えてよ」

 痺れを切らしたように、彼の妹であるミィが尋ねた。

 キャスパリーグは小さく鼻息を吐き、それから妹の問いに淡々と答える。

「……俺があの雌と会ったのは、一年前、九州での話だ。子供達もそこで儲けている」

「あら、なら今は九州暮らしなのね」

「そうだ。まぁ、俺はその気になれば九州から遠く離れられるが……大部分の子供や妻はそうもいかん。離れる理由もないから、ずっと九州で暮らしている。子供達が産まれたのは今年の四月だ」

「一月も経ってんじゃん。顔ぐらい見せに来れば良いのに。兄さんの足ならこっちまで半日ぐらいで来れるでしょ」

 産まれて一月後の連絡と知り、ミィがぼそりと悪態を吐く。子育てで大変だった、という言い訳をせず言葉を詰まらせる辺り、キャスパリーグも悪いとは思っているようだ。

 とはいえそれは本題ではない部分。キャスパリーグは咳払いで一旦流れを断ち切り、自分の話を再開する。

「産まれた子供達六匹のうち、今回連れてきた二匹。アイツらだけが力を持った。そしてアイツらが俺達のような力に目覚めたのは、産まれて間もなくの事だ」

 語られた彼の言葉は、ミィの悪態がどうでも良くなるぐらいの衝撃を花中に与えた。

 力に目覚めた。つまりキャスパリーグの子供達がミュータント化したのは、産まれた四月頃。

 驚くべき事である。何故ならミュータント化には伝達脳波……花中のような、ごく一部の人間が放つ脳波を必要とする。それを受けるまでは、機能こそあれど他の同種と大して変わらない存在でしかない。

 そして花中はここ三ヶ月、つまりキャスパリーグの子供達が産まれた一ヶ月前+猫の妊娠期間の間、九州には立ち寄っていない。

 ここから考えられる仮説は二つ。一つは伝達脳波を持つ『何者』かが九州で暮らすキャスパリーグ達の傍を通ったか。

 或いはキャスパリーグの子供達は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、だ。

 前者である場合について考えてみよう。伝達脳波を放つ人間は稀少だ。ミリオンが数十億人と調べて、ようやく一人見付かる程度には。偶々通りかかるというのは中々考え辛い気もする……が、何時ぞやのゴリラや東北で暮らしていた清夏、そして中国に出現した怪鳥。花中の出向いていない地域でも、ミュータントは続々と現れていた。

 もしかするとその人物は日本中、或いは世界中を歩き回っているのかも知れない。その何者かがキャスパリーグ達の傍を通ったというのは、あり得る話だろう。しかし何故世界中を飛び回っているのか? 理由が仕事 ― 例えば多国籍企業の取締役など ― にあるのならば、そうおかしな事ではあるまい。

 だが、もしも意図的にミュータントの覚醒を促しているのならば……それもミュータントの危険性を承知でやっているとすれば、穏やかな話ではない。なんのメリットも思い付かないが、故に人類の滅亡を企てているという可能性も否定しきれなくなる。

 とはいえ前者であれば、まだ『普通』の出来事だ。目的については兎も角、起こるべくして起きた事象でしかない。最悪その人物を『始末』してしまえば、この事態を止める事が出来る筈だ。

 しかしもしも後者であれば、人間にとっては最悪のシナリオである。

 キャスパリーグの子供達に人間は必要ない。産まれてくる彼女達の子孫は片っ端からミュータントとして覚醒し、現代の地球生態系の捕食者を尽く圧倒するだろう。当然人間によるコントロールなど受け付けず、好き勝手に狩りと繁殖をする。腹が減れば、人間を餌として食べる事も十分に可能だ。人間に直接危害を加えずとも、崩壊した生態系の中で人類が生存出来るとは、花中には思えない。

 いずれ彼女達は人類種を駆逐ないし支配するだろう。例え当人達にその気がなくとも、だ。

 前者にしろ後者にしろ、人類にとって好ましくない事態である。そしてどちらにしても、人類が滅亡する事は大袈裟でなくあり得る。

 しかしながら、だからどうしよう、という考えを花中は持ったなかったが。いずれ起きるであろう人類種の破滅が、なんか思ったより近いどころかこの目で見る羽目になりそうと思っただけ。ある意味想定内の出来事と言えよう。

「一応言っておくが、俺の子に手を出すようなら容赦せんぞ」

 なのでキャスパリーグからあらぬ疑いを向けられても、そうした考えが端からない花中はキョトンとするだけだった。

「え? 手出し、ですか?」

「花中がそんな事考える訳ないでしょ。優しいし、ビビりな癖に結構能天気なんだから」

「そうねぇ。はなちゃん、恐がりな割には本当にヤバいものは平気で受け入れるわよね」

「花中さんはもう少し警戒心を持った方が良いと思います」

「……まぁ、コイツにそんな度胸もないか」

 意識していなかった事を指摘されてちょっとぼんやりしただけなのに、何故かキャスパリーグどころか友達三匹からも呆れられる。中々の無礼ぶりに、花中はぷくっと頬を膨らませた。その程度で怯むほど、花中以外の生命体は弱くないが。

「なんにせよ、先の返答については信じよう。お前が嘘を吐く理由もないだろうからな」

「ま、ミュータント化して良かったんじゃない? これなら家族が人間に()()()()ところで、どうとでもなるでしょ」

「……ふん」

 ミリオンからの意地の悪い問いに、キャスパリーグは鼻を鳴らすのみ。されどその顔に浮かぶのは、優しい笑みだ。

 彼は人間に家族を殺されている。

 人間からすればそれは致し方ない ― そう、庭に糞をするとか植木鉢がひっくり返されるとかの『被害』を防ぐための ― 行いだったが、猫である彼からすれば愛する肉親達への暴虐。家族への愛が深いが故に、人間への憎悪が彼の心を蝕む。

 そんな彼が人間の力ではどう足掻こうと奪えない家族を得たのは、偶然か、それとも生命の奇跡なのか。

 『人間』という立場からすれば、偶然であってほしいところ。科学的見地からいっても偶然以外の何ものでもない。けれども大桐花中という個人としては……奇跡を信じたいと思った。

「ところであなたのその大切な家族とやらは何処かに行ってしまったみたいですけどよろしいのですか?」

 なお、そんな気持ちはフィアの一言であっさり彼方へと吹き飛んでしまったが。

「えっ?」

「んにゃ?」

「あら?」

「……えっ?」

 キャスパリーグが、ミィが、ミリオンが、そして花中が、一斉に同じ方向へと振り返る。

 気付けば、大桐家の庭に子供達の姿はない。植木が引っこ抜かれていたり、大地にクレーター的な陥没が出来ていたり、庭を囲う塀に穴が開いていたりしていたが、この数々のイタズラをしたであろう犯人の姿は何処にもない。

 耳を澄ましてみたが、声も聞こえてこなかった。あんなにも元気に、楽しげにはしゃいでいたのに。

 つまり、キャスパリーグの子供達はこの近くに居ない。

 フィアがハッキリと言葉にし、見れば明らかなこの事実を理解するのに、花中達はそれなりの時間を必要とした。

「ちょ……ちょ、ええええええええええっ!? なな、な、なんでぇ!?」

「どどどどど何処行った!?」

 花中の困惑した悲鳴が響き、花中と同じぐらい動揺したキャスパリーグが右往左往する。しかしどれだけ探しても、キャスパリーグの子供達の姿は見付からない。

「さかなちゃん、あなたまさかあの子達が何処かに行くのを見てたんじゃ……」

「見てましたけどまぁ別にどうでも良いかなぁっと」

「全然どうでも良くないよフィアちゃんっ!? 小さい子供から目を離しちゃダメでしょ!?」

「子供なんて別に見てなくても平気じゃないですか? 私なんてそれこそ食べ物も取れないうちから一匹で生きてきた筈ですからね」

「それはアンタが魚だからでしょーが!」

 花中達が叱っても、フィアは首を傾げるだけ。親に育てられた経験も子を育てる本能もないフィアに、子供を放置する事がどれだけ不味いかなんて分かる筈もなかった。

 それに自分達もキャスパリーグの子供達から目を離していたのだから、結果的にフィアと同罪である。一方的に責めるというのは身勝手が過ぎるというものだ。自己嫌悪は花中の心を蝕み、お陰でパニック状態の頭が少しだけ冷める。

「うおおぉーいっ!? お前達何処行ったーっ!?」

 だからこそフィアに責任を押し付けるよりも、キャスパリーグのように子供達を探す方が先決だと気付けた。

「あ、あの! キャスパリーグさん! お子さん達の名前は!?」

「あ、ああ。クリュとポルだ。雌の方がクリュで、雄がポル」

「クリュちゃんと、ポルくんですね。分かりました、わたし達も探します!」

「私も近くを探してみるわ。とはいえ、ミュータント化してるならこの辺りにいる保証もないけどね」

 花中に頼まれる前に、ミリオンはその身体を霧散させる。ミィも姿を消し、キャスパリーグも目に見えない速さで動き出した。

 残る花中は、フィアと向き合う。

「フィアちゃん! キャスパリーグさんの子供達の臭いって、追える!?」

「ふふんそのぐらい余裕です。花中さんのお頼みであればやってみせましょう」

 花中の頼みを受けたフィアは、花中を抱き上げるやくんくんと鼻を鳴らす。フィアの嗅覚は文字通り人外レベルの鋭さ。雨などで消えない限り、キャスパリーグの子達を追うのは造作もあるまい。

 フィアはすぐに方向を定めるや、軽い足取りで跳躍。十数メートルもの距離を一瞬で跳び越えながら進む。車のような速さだ。これならキャスパリーグの子供達が遠くに行っててもすぐ追い付けるだろう。

 同時に、キャスパリーグの子供達がかなり遠くまで行ってしまった事も物語っていた。

「しかし解せませんねぇ」

 跳びながら、フィアがぽつりと疑問の言葉を漏らす。抱かれたままの花中は顔を上げ、怪訝そうなフィアの表情を見た。

「えと。何か分からない事があるの、フィアちゃん?」

「何かも何もどうして花中さん達が慌てているのかが分かりません。子供をわざわざ守る事についてはまぁ好みとか趣味みたいなものだと思えば理解出来なくもありませんが……何故こんなにも慌てて探すのです?」

「それは、小さい子は未熟だから……」

「ミュータントになっているのですから未熟でもなんでも別に慌てる必要はないと思いますけどねぇ」

 花中の答えに、やはり納得出来ないとばかりにフィアは自分の意見を述べる。

 その意見は、確かに正しい。幼いとはいえミュータント化しているのだ。庭で見せていた身体能力からして、人間に駆除されてしまう危険がないのは間違いない。

 しかし、心はどうか。

 哺乳類の子供の心は未熟だ。というより『学習』による臨機応変な成長を行うためには、可変性のある心を持たざるを得ない。キャスパリーグの子供達は人間の幼子のように無垢な姿を見せていたが、アレは演技ではなく本心の筈である。

 何も知らない子供であるなら、騙そうとする輩が現れても不思議ではない。急いで親の監視下に入れなければ、危ない思想の持ち主に唆されて、人間的な意味でのテロや犯罪に荷担させられ……

「もしも、悪い人に唆されたら、大変だもん。だから早く見付けて、守らないと」

「ふーむ。どんな人間とつるもうが本人の勝手だと思いますが……まぁ会わせたくないと思うのも勝手ですね」

 花中の説明にフィアは納得こそしなかったが、興味がない故にその考えを尊重する。人間とは違うフィアの『優しさ』に、花中は頬を緩めた。

 フィアがやる気になってくれたなら、すぐにキャスパリーグの子供達は見付かるだろう。

 先程は不安を語ったが、可能性自体は高くない筈だ。案外子供らしい純粋な正義感から、不埒者をボコボコにしてヒーローになっているかも知れない。悪い方ばかりに考えるのはまだ早いだろう。

 大丈夫。きっと、きっと。

 花中は、そう祈るのだった。

 

 

 

 どうにも自分の父親は、自分達の事を縛り過ぎている。

 キャスパリーグの娘であるクリュは、常々そう思っていた。アレが危ないから離れろだの、あそこは危ないから近寄るなだの……しかも同じ事を何度も言ってくる有り様。

 それが父親の愛情によるものなのは分かっているが、子供もまた自我を持つモノなのだ。あまりぎゃーぎゃー言われても鬱陶しい。自分の事は自分でやりたいし、偶には自由になりたくもなる。

 ましてや、普段深入りを禁じられている『人間』と父親が話をしているところを見せられたなら。

 ――――ちょっとした反抗心を持ってしまうのも、仕方ないだろう。

「ねぇ、クリュ。そろそろ帰ろうよ」

 そう考えていたクリュであったが、兄弟であるポルは違う考えらしい。クリュは足を止め、振り返る。

「どうしてよ、これからが遊びの本番じゃない」

「でも、パパにあまり人間と話しちゃダメって言われてるし……」

 ポルは身を縮こまらせ、怯えるように辺りを見渡す。

 クリュ達がいるのは、たくさんの人間が行き交っている駅前の広間だった。この地域の中では一番大きな駅で、周りにはたくさんのお店が並んでいる。平日の夕方だというのに人の姿は途絶える事を知らず、むしろ十分置きに駅から出てくる人の数は、刻々と増えていた。そしてそうした人間達は、胸や股間を毛皮で覆っているだけの二匹にチラチラと視線を向けている。

 正しく人間だらけの場所だ。人間嫌いなパパなら、絶対に立ち入り禁止を命じてきただろう。

 だからこそクリュはやってきた。

「そのパパが人間と話してたんじゃない。パパだけズルいわ、人間とたくさんお喋りするなんて。わたしがお願いしても、何時も駄目だって言うのに。猫同士のお喋りも悪くないけど、やっぱり『ちてき』になったんだから、こう、エレガントなお話がしたいじゃない。それが出来るのは人間しかいないわ」

「でもあの人間は、他の人間とちょっと違うよ。近くに居たの、人間じゃないみたいだし。だから何か、大切なお話があったんじゃないかな」

「……それはそうかもだけど」

 ポルの意見に、クリュは反論出来ない。

 反論は出来ないが、感情的に納得出来るかは別問題だ。

 パパが大好きで、大好きだからこそ裏切られた気持ちになったクリュにとっては、特に。

「とにかく! 今なら人間とお喋りし放題よ! パパに見付かる前にたくさんお話ししてやるんだから!」

「う、うん……良いのかなぁ」

「良いの良いの! 行くわよ!」

 ポルを引っ張り、クリュは駅から出てきた人間の一人に近付く。スーツを着た、若い男だ。

「ねぇねぇ、あなたなんでそんな黒い服を着て」

 クリュは恐れも遠慮も知らず若い男に声を掛け、

「五月蝿い、あっち行け」

 あっさりと門前払いされてしまった。

「ぇ、あ、ごめんなさい」

「くそ、なんで俺が一年も就職出来ねぇんだ……これも全部怪物共の……」

 反射的に謝ってしまうクリュだったが、若い男はぶつぶつと呟きながら何処かに行ってしまう。

 どうやら機嫌が悪かったらしい。そういう日もあるだろう。自分にもあるので、あの人間の気持ちはよく分かる……とクリュは思う事にした。

 気を取り直し、クリュは再び人間に声を掛ける。私服姿の太った人間だ。春なのに汗を掻いており、人間からするとちょっと体臭がキツい。とはいえ産まれてこの方雨水以外受けた事のないクリュ達と比べれば、彼の体臭など圧倒的無臭だ。クリュは気にせず歩み寄る。

「ん、ふひ、ふひひひ」

 ……クリュを、それからポルを見た途端男は怪しい笑い声を漏らしたので、クリュ達は同時に後退りした。何をされたところでボコボコに出来ると思うが、なんというか、気持ち悪い。

 クリュ達はそそくさと逃げ出した。人間では追跡不可能な、音速に迫るほどのスピードで。

「な、なんか思ってたのと違う人間ばかりなんだけどぉ!?」

「や、やっぱり、帰ろうよぅ。なんか怖いよ……」

「ぐぎぎ……でも……」

 一秒で三百メートルほどを駆け、足を止めたクリュにポルが帰りを促す。二度の失敗によってクリュから自信は消えていたが、言い出しっぺという立場からそれを素直に認める事が出来ない。

 このままでは上手く人間とお話出来るなんて思えない。だけど勝手な行動を起こした以上、何もしないままパパの下には戻りたくない。矛盾した想いが頭の中をぐるぐると駈け回り、前に進まない思考は身体の動きをも阻んで――――

「お困りですか?」

 誰かが、声を掛けてきた。

 ぞわりとした悪寒が、クリュの背筋を駆ける。ポルも同じく悪寒を覚えたのか、その身を強張らせた。

 クリュ達は反射的に声がした方へと振り返る。

 そこには、小さな子供が居た。

 外見から判断するに、歳は十歳に満たない程度だろうか。クリュ達が取っている姿と大差ない年頃だ。髪は金色に輝いており、熟した稲穂のように美しい。顔立ちは人形のように不気味なほど整っていたが、自信に満ちた笑みがその顔に生気を与え、活き活きとした魅力を加える。服装はエプロンドレスと呼ばれる類の ― 端的にいえば幼女によく似合う ― ものを着ており、華奢で幼い容姿の少女とよくマッチしていた。

 一言で語るならば美少女だ。手足や身体付きは華奢で、クリュ達の父親のような『強そう』な見た目ではない。

 だが、クリュは震えた。

 コイツは何かヤバい。本能がそう訴えている。戦って勝てるかどうかではなく、何かもっと、違う意味で関わってはいけないような……

「怖がらなくて良いのですよ。私は、あなた達と敵対しようなんて考えていません。むしろあなた達の困り事を解決しようかなと思いまして」

 そう思っていた矢先、少女の方からクリュ達に接近してくる。

 離れた方が良さそうだ。クリュはそう考えた。

「……別に困ってなんて」

「人間とお話ししたいんじゃないですか? それもエレガントな感じに」

 しかしクリュが誤魔化そうとすると、謎の少女は平然と自分達の目的を言い当ててきたではないか。

 恐ろしい事だった。人間と話したがっているというところを見抜くだけなら、遠くから自分達の事を監視していれば分かるだろう。しかしエレガントに話したいというのは、見ているだけでは分かる筈がない。それは少し前に、クリュが何気なく声に出した一言だけが示しているものだから。

 なら、コイツは聞いていたのだ。

 声が聞こえるぐらい近くで、ずっと……幼いとはいえ強い本能を持つクリュ達()の直感に察知されずに。

 恐ろしい。不気味だ。されどそれが同時に、勝ち気なクリュの興味を惹いた。

「……なんでわたし達を助けようってのよ?」

「おや。困っている方を助けるのに理由が必要ですか?」

「そうとは、限らないけど」

「ならば良いではないですか。細かい理由なんてどーでも」

「……怪しい」

「怪しいなら逃げれば良いのでは? 追いませんよ、別に」

 猜疑心を隠さずにいても、少女はまるで動じない。それどころか図星を平然と突いてくる。

 しかし、その言葉に悪意は感じない。

 会話していてずっと思っていた事だ。どんな言葉にも、少女は悪意の感情を含めていない。少なくとも自分達を殺してやろうだとか、苦しませてやろうだとか、そんな考えはないようだ。

 なら、話だけでも聞いてみようか。

「……良いわ。聞かせてよ、人間とお話しする方法」

「く、クリュ。やっぱり止めた方が」

「アンタは黙ってなさい」

 ポルの制止を無視して、クリュは少女と向き合う。

 少女は笑った。天使のように無邪気で、何一つ悪意がない、素敵な笑み。

 その笑みと共に、少女は告げるのだ。

「簡単な事です。エレガントなお喋りをするには、エレガントな場所が必要。ならば私達で作れば良いのです……エレガントな空間を、ね」

 無邪気故に、大胆な『提案』を――――




子供から目を離してはいけません。
うん、ほんと何するか分かりませんよ。

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ3

「ぬおおおおおおおおおっ!」

 キャスパリーグは咆哮と共に駆けていた。

 人間であればただ暑苦しいだけで済むその行動は、超越的生命体が起こせば最早災厄。音速を超えた走りによりソニックブームが生じ、上げた叫びは衝撃波となって広がる。通り道にあった家の窓は割れ、電柱が倒れ、アスファルトで舗装された道路が引っ剥がされていく。

 人の生活空間は、ズタズタのボロボロに破壊されていた。

「ちょぉぉぉっ!? 兄さんストップ! マジでストぉーップ!?」

 付け加えるならその破壊は、妹であるミィが彼の身体に必死にしがみついて幾らか動きを鈍らせた上で生じている。抑えがなければ、それこそ人死にが出てもおかしくない力だった。

「ええい放せ! 確かにお前にとってあの子達は初対面だが、しかし血縁でもあるんだぞ! 心配じゃないのか!?」

「あの子達心配が必要なほど弱くないでしょーが! 探すにしても冷静になりなよ! こんな慌てた探し方じゃ見落とすよ!?」

「ぬぐっ、うぐぐぐ……」

 ミィからの『正論』に、キャスパリーグは呻きにも似た声を上げる。感情的には言う事を聞くつもりなどないのだろうが、理性的には納得したのだろう。キャスパリーグは少しずつ、本当に少しずつだがスピードを落としていく。

 止まる事こそなかったが、爆風を起こさない程度のスピードにはなった。ミィはキャスパリーグから手を放し、ふぅ、と小さくないため息を吐いた。

「ほら、落ち着いてよ。慌てなくても無事に決まってるんだから。ね?」

「……すまない」

「反省してるなら次はしないでよー……本当に、子供が好きなんだね」

 ミィから尋ねられ、キャスパリーグはこくりと頷く。顔には、小さな笑みが浮かんでいた。ミィも自然と笑みが浮かぶ。

「あの子達を見付けたら、改めてあたしを紹介してよね。兄さんの家族とまだ全然お話出来てないんだから」

「……そうだな。確かにそうだ。アイツらに、お前が『おばちゃん』だと教えないとな」

「あー、そうなるのか。うーん、なんか複雑な気持ち」

 キャスパリーグの言葉に眉を顰めるミィ――――しかしその顔は次の瞬間、ある方角へと向く。キャスパリーグも同じく振り向く。

 臭いがする。

 キャスパリーグの子供達の臭いだ。とても強い臭いで、彼等が此処を通ったのだと確信出来る。そしてその臭いは、自分達から見て横方向に真っ直ぐ伸びている道から漂っていた。

 ならばきっと、この横道を真っ直ぐ進めば子供達の居場所に辿り着ける筈。

「っ!」

 それをミィが理解した時、キャスパリーグは既に大ジャンプをして臭いの方へと跳んでいた。彼の体重で跳躍・着地なんてすれば、隕石でも落ちたかのような被害が生じるというのに。

「あ、ちょっ!? もう、落ち着いたんじゃないのぉ!?」

 五秒で忠告を忘れてしまった兄の後を、ミィは出来るだけ穏やかな移動で追う。アルベルトとの戦いで『抵抗』の生じない動きを会得したミィだが、大気を掻き乱さない……つまり爆風を起こさないスピードには限度がある。何も考えずに爆走するキャスパリーグほどの速さは出せないのだ。

 ミィを遙か彼方に置いていき、キャスパリーグは着地。地響きを奏で、周囲の建築物を震わせる。

 付近に暮らす人間に恐怖を与えたキャスパリーグは、されどその事に気付いてもおらず、臭いを嗅ぐ。先程よりもずっと強い臭いだ。その臭いが流れる方角を察知し、爆音と共に駆け出す。人の住処が揺れ、道路が砕けたが、彼にとってそんなのは些末事。

 臭い漂う住宅地を抜けた、その先にある大きな公園。そこに二つの小さな影があるのを見付けたのだから。

「クリュ! ポル!」

 キャスパリーグは大きな声で我が子の名を呼ぶ。

 そしてその我が子達は――――泥だらけになった顔を、キャスパリーグに見せた。

「あれー? パパだー」

「げっ」

 父親を見付けたポルは無邪気に喜び、クリュはバツが悪そうに顔を顰める。

 キャスパリーグはそんな二人に瞬間移動が如く速さで接近。

「お前達! 何処に行ってたんだ! 心配したんだぞ!」

 怒りながら、二匹の子供達を抱き締めた。

 ポルもクリュも、抱き締められながら怒られたものだから困惑したように目をパチクリさせる。けれどもすぐ、父親を心配させてしまったと気付いたのだろう。申し訳なさそうに眉を下げる。

「……ごめんなさい」

「……………ごめんなさい」

 ポルが謝り、クリュも謝れば、キャスパリーグの顔に怒りはもうなかった。キャスパリーグは一層強く我が子達を抱き締め、子供達も抱き返す。

「っだぁーっ! 兄さん速過ぎぃ!」

 そんな感じに家族の仲が一段落した頃になって、ようやくミィがこの場に辿り着いた。遅れてやってきたミィに、兄であるキャスパリーグは怪訝そうな表情を向ける。

「なんだお前、随分と遅かったな。身体が鈍ってるんじゃないか?」

「あたしが遅いんじゃなくて、兄さんが町中で暴走しただけってなんじゃこりゃあああああああっ!?」

 キャスパリーグに呆れられ即座に反発するミィだったが、言いきる前に驚愕した叫びを上げる。

 何故ならミィの目の前……クリュとポルの側には、尋常でないサイズの『焦げ茶色の城』があったのだから。

 それは泥によって作られた、建造物とでも呼ぶべき代物だった。サイズは、高さ十メートル近く。土台部分の横幅は更に大きい。勿論材質が泥なので、本物の城のような繊細な作りではないが……塔のように立つ部分や、レンガ作りっぽく見える壁などは、見る者に『城』というイメージを強く植え付けるだろう。仮に城でなくとも、何かしらの建物だとは思うに違いない。

 強いて建造物らしくない点を挙げるなら、出入口が何処にもないところぐらいだ。

「ん? ……おおぅ!? なんだこれは!?」

 ちなみにクリュとポルを抱き締めていたキャスパリーグは、たった今その存在に気付いたようだった。

「今気付いたの!? そこまで近付きながら!?」

「お、おう。子供しか見てなかった」

「この親馬鹿めぇ……」

「しかしなんだこれは……人間が作ったゲイジュツヒンとやらか?」

 キャスパリーグは誤魔化すように疑問を呈し、ミィも同じ事を思ったのでその疑問について考える。

「あ、これ作ったのボク達だよー」

 尤も、答えはポルがすぐに教えてくれたが。

「何? お前達がこれを作ったのか?」

「うん、そうだよー。ボクと、クリュと、あともう一人の子といっしょに」

「……もう一人?」

「あ、そうだ! パパ、実はすっごいお友達が出来たんだよ!」

 話に出てきた友達を紹介するためか、クリュはキャスパリーグの抱擁から抜け出すと、びゅんっと城の後ろ側へと走っていく。

 走って、城の周りをそのまま一周し、クリュはキャスパリーグ達の前に現れた。クリュ以外の者の姿は、何処にもなかった。

「……あれ?」

 クリュは首を傾げると、また走り出して城の裏へと回る。今度は反対回りだ。

 けれども一周して戻ってきた時には、やっぱりクリュ一人。

 彼女の『お友達』の姿は、何処にもなかった。

「あれ? あれぇ? おかしいな、なんで居ないんだろう?」

「居なくなったのに気付かないぐらい、夢中で遊んでいたのか?」

「う、うーん……さっきまでいたと思うんだけど……」

 キャスパリーグの指摘に、Noと答えない辺り夢中で遊んでいたのは事実らしい。愛娘のなんとも子供らしい返答に、キャスパリーグは肩を竦めた。

「おや? 三着でしたか」

 そうして子供達と話をしていると、公園に新たな来訪者の声がする。

 フィアと、フィアに抱えられている花中だ。花中は公園に辿り着くやキャスパリーグの傍に居るポル達を見て微笑み、直後泥で出来た『城』を見て驚愕の表情を浮かべる。

 フィアは花中を抱えたままキャスパリーグ達の下へと歩み寄り、そこで不機嫌そうに鼻息を吐いた。

「ぬぅ。あなた達如きに先手を取られるとは……」

「ふん。スピードで俺に勝てると思うな」

「はいはい、再会した側からケンカすんなー」

「そうだよ、フィアちゃん。あと、最初から競争じゃないから……」

 挑発的な言動を交わす二匹を、ミィと花中が窘める。『大切な者』からの言葉に、フィアもキャスパリーグも口を閉ざした。

 二匹のケンカが終わると、沈黙が間に流れる。その沈黙を気まずく思ったのか、花中は右往左往。正面にそびえる城を見て、ハッとしたように目を見開く。

「そ、そういえば、このお城は、なんなのですか?」

 そして城について尋ねた。

「うん! これ、ボク達が作ったんだよ!」

 花中の問いに、真っ先に答えるポル。ミィが尋ねた時も彼が真っ先に答えていた。余程の自信作なのだろう。クリュも胸を張り、ポルの言葉に続く。

「どうよこの建物! 私達だけで作ったのよ! ……まぁ、本当はもう一人友達がいたんだけど、その子は何処かに行っちゃったけどね」

「へぇ……でも、なんでお城を、作ったのですか?」

「その友達が言ってたのよ。エレガントな建物を作れば人間が集まって、たくさんお話出来るって。で、お城ってなんかエレガントな感じでしょ?」

「お前、そんな目的で……」

 人間と話すための小道具だったと知り、キャスパリーグは睨むような眼差しをクリュに向ける。が、クリュは何処吹く風。まるで気に留めていない。

 成程、こっそり遠出した理由は人間とお喋りをするためだったのか。

 娘の意図を察したキャスパリーグは肩を落とす。確かに、あまり深入りするなという躾はしてきた。家族を人間に駆除()された彼からすれば、人間という生き物はろくなものではない。二年間……本来より長く人間を観察してきたが、その考えは今でも変わっていなかった。変われるほど、人間というのはさして素晴らしい生き物ではなかったのだから。

 とはいえ好奇心旺盛で、何も知らない娘達からすれば、その躾は単なる押しつけにしか思えなかったのだろう。ならば人間の悪逆非道ぶりを教えれば、とも思ったが、それで変に正義感に燃えてしまうのも困る。二年も観察していれば、人間にも良い奴がいる事はキャスパリーグにも分かるのだ。

 それに下手に暴れれば、人間が猫に敵意や悪意を抱くかも知れない。自分は人間に負けるつもりなどないが、未熟な子供達はどうだろうか。銃やミサイルは効かなくても、毒ガス攻撃なんてされたらどうなるか。ましてや無辜の猫達は……

 大人になって考えれば、二年前の自分がどれだけ考えなしだったか分かる。子供達に、そんな考えなしの行動はさせたくない。

 締め付け過ぎは反発を招くだけ。ならばもう少し自由にさせても良いかと、キャスパリーグは考えを改めた。彼もまたパパになって二ヶ月の身。子育ての難しさを日々学ぶ立場なのだ。

「エレガントな建物、ですか……うん、確かにこれなら、たくさん人間が、集まりそうですね」

「でしょー。んふふふふ、これでも制作時間三十分掛かってないんだからね! ま、人間には無理でも、わたし達に掛かればちょちょいのちょいよ!」

「あのてっぺんの部分は、友達が作ってくれたんだ。ボク達は土台部分の土を固めたり、泥を持ってきたりしたんだよ!」

「あとねあとね! 壁の模様はわたしが入れたのよ! お洒落でしょ!」

 父が父として悩んでいる最中、親の悩みなど知らぬクリュとポルは花中と仲良く話していた。余程自分達が作った作品を人間に自慢したいらしく、制作秘話やらなんやらを矢継ぎ早に話している。

 花中はクリュ達の話にしかと耳を傾け、微笑み、頷く。どれも本当に興味深そうに聞いており、子供だからとか、猫だからとか、そんな考えもなしに二匹と向き合っていた。

 ――――アイツは良い人間だな、二年前から知っていた事だが。口には出さないが、キャスパリーグはそう思った。

「本当に、凄いですね……何より凄いのは、潰れない事だと思います。どうやって、この形を固定、しているのですか?」

 花中のこの質問も、純粋な好奇心から生じたものだろう。

 父親であるキャスパリーグもまた、子供達が人間にどんな説明をするのか気になり、こっそりと耳を傾ける。その顔に柔らかな笑みを浮かべながら。

「え? 固定しないとダメなの?」

 なお、その笑みはクリュのこの一言で強張る事となったが。

 ……花中も表情を強張らせていた。ミィも口許をひくつかせ、凍り付いている。

 キョトンとしているのはクリュとポル、それから能天気なフィアの三匹だけだった。

「……固定、してないのですか?」

「してないわよ。さっき言ったじゃん。わたしらは土台を固めたり、壁に模様を描いたりしたって」

「えと、その、土台を固めるというのは、どういう……?」

「え? 手でぎゅーって押して、だけど?」

「ボクもそんな感じのやり方で固めたよー」

 花中が訊けば、クリュもポルも堂々と答える。嘘を吐いている様子はない。いや、吐こうとする気持ちすら感じられない。二匹は、本当に土台を素手で固めただけなのだろう。それで十分だと考えていたから。

 キャスパリーグは、土木建設に詳しいという訳ではない。

 しかし泥で固めたものがさして頑丈でない事は、当然ながら『知識』として知っている。高さ数十センチ程度の造形物すら、数十分と持たずに崩れるほどに。

 なら、どうして高さ十メートル近い城が崩れないと言える?

 ……答えは、泥の城が奏で始めた地鳴りのような音が教えてくれた。

「やれやれ、お仕置きには丁度良いなっと」

 キャスパリーグはその場からジャンプ。ミィも素早く跳躍。フィアは手から大量の水を出し、花中はその水に包まれる。

 なんの動きも取れなかったのはクリュとポルの二匹のみ。

 そしてキョトンとする二匹の真横に建つ城は――――まるで力尽きるように一気に崩れ落ちた。

「え? うみゃああああああああっ!?」

「にゃああああああああっ!?」

 迫り来る泥の濁流に襲われ、クリュとポルが猫らしい悲鳴を上げる。泥とはいえ十メートル近いオブジェを形成するほどの量だ。二匹の姿は一瞬にして飲まれてしまう。

 言ってしまえば土砂崩れのようなものであり、人間であれば大人でも死に至る災害。しかし子供とはいえミュータントであるクリュ達の命を奪えるものではない。城が完全に崩れるのと共に、クリュとポルは泥の中から顔を出す。全身真っ黒けの泥だらけだった。

「いやー思った通り崩れましたねぇ」

 ちなみに同じく泥に飲まれたフィアは、全く汚れる事なく泥から()()()()()()()()()。水を操るフィアにとって、泥に飲まれたところで汚れる心配などないのである。勿論フィアが繰り出した水球に守られていた花中も同じだ。

「あ、あの、大丈夫、ですか……?」

「……大丈夫じゃない。口に泥入ったぁ」

「うべぇ……口の中、ざらざらするぅ」

「自業自得だ。親から離れて勝手をするからこうなるんだ」

 不平を漏らす子供達を、戻ってきたキャスパリーグが窘める。親から叱られた子供達は、しゅんとしてしまった。

 キャスパリーグは項垂れた子供達を見て、ぽんっ、と背中を叩く。

「とりあえず川に行くぞ。身体を洗ってやる」

「「……うん」」

 そして親らしい事を言えば、子供達は素直に頷いた。

「よーし、良い子だ。そういう訳だから俺は川に行くぞ、人間」

「あ、はい。分かりました」

「……………」

「……えっと……?」

 川に行くと宣言したキャスパリーグだが、しばし無言で花中と向き合う。キャスパリーグと目が合った花中はキョトンとした様子で、けれども自発的に要件を尋ねてはこず、十数秒と沈黙を挟む。

 キャスパリーグも、見つめたくて見つめている訳ではない。彼は今、己の感情と、親の本能と戦っていた。

「……まぁ、その、なんだ。探してくれた事には、感謝する」

 そして勝ったのは、親としての本能だった。

 お礼を言われたと理解するのに、少し時間が掛かったのか。花中はキャスパリーグの言葉にしばらく反応を見せず、ようやく変わった時の表情は満面の笑みだった。

 その笑みを見たら、急に小っ恥ずかしくなってきたキャスパリーグ。やはり人間に礼など言うべきじゃなかったと後悔するも後の祭り。

「ふふーん? ちゃんとお礼言えるんだぁ? お前達の父ちゃんは偉いねぇ」

 彼が小さな声で伝えた言葉を、優れた聴力でバッチリ聞き逃さなかったミィがにやにや笑いながらおちょくってきた。

「ふんっ! ただの気紛れだ! お前達、さっさと行くぞ!」

「はーい」

「またねー」

 キャスパリーグに抱えられるクリュとポルが手を振り、花中とミィも手を振り返す。

 挨拶がちゃんと出来た子供達を愛おしく見つめながら、キャスパリーグは川がある方へと跳ぼうとする。

 その間際に、ちらりと、彼の目はある方向へと向いた。

 違和感を覚えた、というほどの事ではない。強いていうなら気になっただけであり、問い詰めたり考えたりしようとする気はない。

 だが、本能が意識する。

 花中を抱きかかえたまま、こちらなど見向きもしなかった……フィア。

 彼女の鼻が小刻みに動き、何かの『臭い』に関心を持っていた姿が、何時までもキャスパリーグの脳裏に残るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさか『親』が来るとは。

 人が作り出した住宅地を歩きながら、彼女はそう考えていた。

 段々と陽は沈み、間もなく夜になろうとしている。夜目の利かない彼女にとって暗闇は本当に何も見えなくなってしまうのだが、人間の町には街灯が並んでいる。十分とは言い難いが、彼女でも歩ける程度の明るさはあった。

 歩く彼女の頭の中には、数多の思考が巡っている。

 まだ『親』と接触するのは早い。自分の『親』ならば確実に、自分への不信感を抱く筈だからだ。警戒されると後々面倒になる。作戦の第一段階が終わるまで、こちらの存在を勘付かれたくない。

 しかしその第一段階が終わるのは、予想よりも早くなりそうだ。最初は不信感を見せていたあの子供達と、今日のうちに多少打ち解けられた。雌の方はまだ少しこちらを疑っているようだが、話を聞いてもらえるだけで十分。好機さえ来れば……明日にでも()()()()

 計画は着実に進んでいる。成果は上々。では明日は今日と同じぐらい頑張ろう。彼女は前向きな気持ちを抱きながら、心の中の反省会を終わらせた。

 さて、今日は十分に頑張った。食事も朝のうちに済ませたので今から苦労して探す必要もない。身体は一日の『仕事』を終えた事を理解し、段々と眠気を感じ始めている。彼女はそれに抗うつもりなんてなく、眠るための準備を始めようと思った。

 今の彼女には『能力』があるので、例え野良猫やカラスに襲われても無傷でやり過ごせる。武装した人間が百人掛かりで襲撃してきたとしても、一秒でバラバラにしてやる自信もあった。なので準備などせずそこらで大の字に寝転んでも問題ないのだが、生身を晒すというのは本能的に酷く不安な感覚を抱かせる。出来れば狭くて暗い場所に入りたい。

 本能の欲求に従い、彼女は近くにあった一軒家の敷地に足を踏み入れる。ごくごく普通の一軒家だ。家の中からはわいわいと賑やかな声が聞こえ、その中の人間達が楽しい時間を過ごしている事を伝えてきた。

 彼女は家の中に人間がいると理解し、その上で玄関の扉を開けた。インターホンもなしに開けられた扉の音に気付いたのか、賑やかだった団欒の声が途絶える。

 やがて玄関から続く短い廊下の先にある戸が開かれ、三十代ぐらいの女性が顔を出した。彼女と初対面である女性は一瞬顔を顰めるも、見た目幼い少女である彼女を脅威ではないと判断したのか。すぐに優しい笑みを浮かべる。

「あら、どちら様かしら? うちの子に用?」

 自分の子供の友達と思ったのだろうか。女性はそう尋ねてくる。

 彼女は、そんな女性に対し何も答えない。

 答えずに、『身体』から伸ばした()()()()()()で女性の頭を激しく殴り付けた。

 弾丸よりも速く、拳よりも重たい一撃を受け、女性は呻き一つ上げる事なく倒れる。ぴくりとも動かなくなった女性だったが、彼女は歩み寄ってその生死を確かめようともしない。何故なら、死んでいようが生きていようが、別にどうでも良いからだ。

 彼女は倒れた女性を跨ぎ、扉を通ってリビングに入る。そこには十歳ぐらいの男の子が居て、傍にいる六十歳を超えているであろう老婆と共に唖然とした表情を浮かべていた。

 彼女はにっこりと微笑んだ。そしてその身体から、女性を殴り倒した半透明な触手を二本生やす。

 彼女は人間に恨みなど持っていない。

 けれども人間に愛着も持っていない。

 だから彼女は人間を攻撃する。

 とても温かで居心地の良い人間の住処を自分のものにするのなら、そこに住む人間を『排除』するのが一番簡単な方法なのだから――――




平穏の中に暗躍するモノ。
悪意がないから一層性質が悪い。

次回は8/30(金)投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ4

 野良猫の主な食事とは何か?

 一般的には、人間が出した残飯だろうか。或いは鳥やネズミなどの、都市部でも見られる小動物かも知れない。猫は優れたハンターであり、小さな生命体にとっては凶悪な捕食者なのだから。

 しかしながらどれだけ優秀とはいえ、猫というのは体長数十センチ程度の生物である。そこまで大きな生物は襲えない。

「牛が食べたーい」

「ボクは豚が良いなぁ。生きたままのやつ」

 なのでクリュとポルがそんな事を言い出した時、花中は一瞬キョトンとなった。

 クリュとポルは今、父親であるキャスパリーグと共に花中の庭に居る。すっかり夜も更け、大桐家以外の家々の殆どが無人と化しているこの一画は街灯が乏しい事もあって、かなり暗い。人間である花中には自宅から漏れ出る明かりがなければ、庭へと通じるガラス戸から数メートルも離れていないキャスパリーグ達の姿すら見えないだろう。逆に文字通り猫目であるキャスパリーグ達には、暗闇の中に光る大桐家の明かりは少々眩いかも知れないが。

 そんな彼等が大桐家の庭(人間の縄張り)に居るのは、花中が食事に誘ったからである。

 用件が済み、娘達を見付けられたキャスパリーグはすぐにでも帰ろうとしていたが、二年ぶりの再会なのだ。どんな日々を過ごしていたか花中も知りたいし……ミィもたくさん話したい様子。

 ここで帰してなるものかと考え、花中は彼等親子を食事に誘ったのだ。キャスパリーグは割と渋い顔だったが、子供二匹は目をキラキラと輝かせ、二つ返事で花中の誘いに乗った。父親の了承なしだったが、子供達の無邪気さにキャスパリーグは無言のまま。結果、夕飯を共にする事となった。

 で、今し方のやり取りは「何が食べたいですか?」と希望を訊いた後での返答。

 つまりクリュとポルは、牛やら豚やらを食べたいらしい。ポルに至っては生きたままのものを。

 ……野良猫としては些か豪快な要望であるが、しかしキャスパリーグ達の身体能力を思えば、牛や豚を生きたまま捕らえる事など造作もないだろう。むしろ彼等の巨躯を支えるのに、ネズミや小鳥では量が足りないに違いない。よく考えれば、なんらおかしな答えではないと言える。

 むしろ生きた牛や豚の味を知っている、その事自体が問題な訳で。

「……あの、キャスパリーグさん。普段、お子さん達には、何を食べさせているのですか……?」

「基本的には肉だ。特にシカや豚、牛などを主に捕ってきているぞ」

「……シカは兎も角、牛や豚は……」

「勿論人間共が餌付けしているものを頂いている。餌付けされていないものは、そういえば見た事もないな」

 キャスパリーグは堂々と答えたので、花中は顔に手を当てて項垂れた。「家畜にも所有権があるんです」と語ったところで、猫である彼には理解出来ないだろうし……動物を『所有物』扱いする事に怒りを覚えるかも知れない。

「もー、兄さんったらまた人間からものをくすねてる。人間のものを勝手に盗ったら駄目でしょ」

 どう説明したものかと悩む花中だったが、助け船を出したのは、庭に居ながらキャスパリーグ達から少し離れた位置に立つミィだった。

 キャスパリーグとその子供達はミィの方へと振り返り、キョトンとしたように首を傾げる。

「何? 俺は人間から家畜を盗んでなどいないぞ?」

「いや、盗んでるじゃん。牛とか豚とか捕まえてるって言ってたじゃない」

「家畜というのは小屋で飼われている、ペットみたいなものだろう? 自分が可愛がって育てたものを喰うなど到底正気の沙汰とは思えんが……まぁ、良い。そういうのは襲っていない。人間など恐れる必要はないが、わざわざケンカを売る事もないからな。獲物として狙うのは野生の奴だ」

「……野生? 野生の牛なんていないと思うんだけど。豚はイノシシがいるけどさ」

「いるじゃないか、牛だってたくさん。餌付けして居着いている奴等がな。信用させて後から殺すとはなんとも忌々しいやり方をしているが、野生ならば人間との揉め事にもならんだろう?」

「えっと……花中、どゆ事?」

「……わたしにも、ちょっと……」

 最初はキャスパリーグの言い分が理解出来ず、花中とミィは首を傾げる。が、しばらくして彼の『意図』に気付き、故に一人と一匹は頬を引き攣らせた。

 恐らく彼が狙っていたのは、放牧されていた家畜なのだろう。

 動物的な視線で見れば、あれは飼われているのではなく餌付けされて集まってるだけという事か。確かに昼間は自由に草を食み、囲んでいるのはその気になれば越えられる質素な柵だけ。寝床の小屋があったとしても、大抵は簡単に突き破れる程度のものだろう。家畜達が本気で逃げようとすれば脱出出来る状態は、「餌付けされてるから居着いている」と言えなくもない。

 そしてそれは、野生動物がゴミ捨て場を漁ったり、或いは餌付けする人の周りに集まるのと、何が違うのか? 餌が貰えると学習し、近くに移り住み、その後周囲に越えられる障害物を設置された状態は、果たして『飼われている』のだろうか?

 キャスパリーグには、何も違わないように感じたのだろう。人間にとって当たり前の事も、他種の生命からすれば非常識。物の見方というものは、立場によってこうも変わるのだ。人外の価値観に二年近く触れながら、なんやかんやまだまだ学ぶところが多いと花中は感じる。

 ……感じるままで済ませられたら色々楽なのだが、『誤解』があると分かった状態を放置する訳にもいかない。それに怪物騒動で様々な産業が衰退している昨今、生産効率が悪い畜産業は特に過酷な状況に置かれている。牛一頭、豚一頭失うだけでかなり致命的な損失の筈だ。未来のお肉を守るため、なんとか止めねばなるまい。

「あの、えと……アレも一応、人間が飼ってるもので……」

「何? 貴様ら人間は、餌を食べた野生動物も自分の所有物だと主張するのか? 長らく貴様らを見てきたが、そこまで傲慢だったとはな」

「へぁっ!? や、え、えと、違って、あの……」

「あー、花中。それはあたしが後で説明しとく。人間の花中が話しても、拗れるだけだろうし」

 キャスパリーグの言葉に動揺していると、ミィがまたしても仲裁してくれる。申し訳ない気持ちになりながらも、無理に頑張って余計に誤解されてしまう方が問題だろう。

 大人しく、花中はミィに後は任せる事にした。「おっけー」と二つ返事でミィは承ってくれる。友達の心強い言葉に、なんとか問題は解決出来そうだと花中は安堵の息を吐いた

「ねーねー、それより生きた豚は食べられないのー?」

「牛はどうなの? ねーねー」

 が、問題は全く解決していない。

 そうだ。本題は、クリュとポルが普段何を食べているのかではなく、今日何を食べたいのかである。そしてクリュは牛を、ポルは豚を食べたがっている。

 花中としてはリクエストに応えたいが、生きた牛や豚は流石に無理だ。というより、牛肉や豚肉も大量には用意出来ない。そうした一品は今や稀少なものであり、今日の大桐家の冷蔵庫には入っていないのである。

 魚やネズミならフィアちゃんに頼めばなんとかなると思い、安請け合いしてしまった。失望させてしまうのは申し訳ないが、ここは正直に話すしかない。

「えっと、ごめんなさい……その、まさか牛や豚を食べているとは、思わなくて、用意、出来ないんです」

「えー、牛いないのー?」

「生きた豚、追い駆けながら食べるの楽しいのに……」

「牛の方が頑丈で長持ちするじゃん」

「豚の方が足が速くて楽しいもん!」

 さらりと語られる可愛らしい彼女達の残虐な ― しかし二匹が猫だという事を考慮すれば、ネズミや鳥を弄んで狩るようなものかも知れない ― 一面に笑みを引き攣らせつつ、花中は謝るように頭を下げ続ける。

「お前達、飯をご馳走になる身であまりワガママ言うんじゃない」

「だって何食べたいかって訊くんだもん!」

「訊いてきたもん!」

 キャスパリーグも子供達の事を窘めるが、二匹は中々不満を抑えてくれない。どうやら『今食べたいもの』という質問が、『今から食べられるもの』という理解に変換されているようだ。

 子供らしい勘違いだが、その勘違いを分からせるのもまた難しい。一体どう説得すれば良いのかと、また花中は頭を抱える。

「さっきからぎゃーぎゃー五月蝿いですねぇ。何を騒いでいるのです?」

 今度の助け船は、部屋の中から聞こえてきた。

 フィアだ。キャスパリーグ達の賑やかな声に苛立ったのか、花中達の下へとやってきたのである。彼女は当然のように花中を背後から抱き締め、首を伸ばして大桐家の庭に顔を出す。

「いやね、実はこの子達が生きた牛か豚を食べたいって言っててさ」

「食べさせてくれるって言ったもん!」

「言ってたもん!」

「そんな事は言ってないだろうが……」

 途中参加してきたフィアにミィが説明すると、クリュとポルが反発するように叫んだ。勘違いが勘違いを呼び、すっかり食べさせてもらえる気になってる二匹。キャスパリーグも呆れ顔だ。

 フィアはミィから事情を聞くと、「ふーん」と無関心な一声を漏らす。それから興味もなさそうに無言になり、花中をぎゅっと抱き締めるばかり。

 しかし何時までもワガママが収まらないクリュとポルを見て、小さく鼻息を鳴らした

「五月蝿いですよこのクソガキ共が」

 直後、背中側から水触手を二本伸ばし、クリュとポルに差し向ける。

 そしてそれは花中の目には映らぬほどの超スピードでクリュとポルの頭へと向かい、一切の容赦なく二匹の頭を叩いた。ゴズンッ! と鈍器で殴り付けたような音が大桐家の庭に響く。

 恐らく、人間相手なら頭蓋骨粉砕どころかパーンっと弾けているような一撃。

「ニャーッ!?」

「ウニャアッ!?」

 尤も猫二匹には、程良い力加減だったらしい。クリュとポルは自分の頭を抱えながら、悲鳴を上げるだけだった。

「ちょ、フィアちゃん!?」

「だってコイツら五月蝿いですもん。黙らせるならこれが一番です」

「パパぁー! アイツがぶったぁー!」

「びえええええええっ!」

「……余計五月蝿くなった気もしますが」

 泣き喚くクリュ達を見て、想定外だと言わんばかりにフィアは方を竦める。相変わらず手が早く、そして考えなしの友達に、花中は大きく項垂れた。

「あ、あの、ごめんなさい、キャスパリーグさん。叩いちゃって……」

「……まぁ、あまりしつこければ俺がやっていた事だ。お前達、あまりワガママ言うとあの怖い奴にまた叱られるぞ」

「ぐずっ……うぅ……」

「叩かれるの、やだ……」

「じゃあ、ちゃんと聞き分けろ。良いな?」

 二匹の頭を撫でながら語るキャスパリーグに、クリュとポルは渋々といった様子で頷く。納得はしていない。だけどこれ以上怒られたくない……そんな気持ちが見えてきて、花中には二匹が少し可哀想に思えた。何か、とびきり美味しいものを食べさせてあげたい。

 そう考えた花中の脳裏に、一つの名案が浮かぶ。大桐家に牛や豚の肉はないが、もっと刺激的で美味な肉は山ほどあるのだ。それを出せば機嫌を直してくれるかも知れない。

 そう、白饅頭の肉だ。

「え、えと……じゃあ、今日は牛と豚よりも美味しいお肉で、ステーキを作ります! クリュちゃんも、ポルくんも、お肉、たくさん食べられますよ!」

 花中なりに、二匹を励まそうと思ってこう提案した。

 クリュとポルは、黙ったまま。けれどもこくりと頷き、花中の提案に同意する。元気になったとまでは言えないが、ちょっとだけ気持ちを持ち直してくれたようだ。

 なら、後はとびきり美味しいものを食べさせてあげれば、きっと元の元気さを取り戻してくれる筈。

「良し! じゃあ、すぐに作りますね! 待っててください!」

 花中は元気よく宣言するや、キッチンへと向かうべく身を翻す。フィアは抱き締めていた手を離さず、花中の動きに合わせて器用に向きを変え、花中と共に歩く。

「ほら、何時までも拗ねるな。美味いものが食べられるんだからな」

「そーそー。ご飯は楽しまなきゃ損だよー」

 庭の方からキャスパリーグとミィが、幼子達を宥める声が聞こえてくる。フィアの拳骨はちびっ子二匹の心を相当痛め付けたらしい。

 これは相当腕によりを掛けて作らねばなるまい。あと、フィアちゃんには後ほどしっかりお説教をしよう。

 決意を胸に、花中は台所に立つ。より美味しいものを作るため、全身全霊を持ってまな板と食材と向き合った。

 だから当然周りの音など聞こえない。

 ましてや遠く離れた庭での声なんて、頭の中に引っ掛かりすらしない。

 だから、

「……なんでみんな、あの人間の事ばかり……」

「パパも、おばちゃんも……」

 二匹がぽつりと漏らした言葉など聞き取れる訳もなく。

「んふふんふーん♪ 真面目な花中さんも可愛いですねぇ」

 そしてバッチリ聞き取れている筈のフィアは、その言葉に露ほどの関心も向けておらず――――

 

 

 

 事態の深刻さに花中が気付いたのは、翌朝になってからだった。

「い、い、家出、ですか!?」

「いやー、家はないから、親出? じゃないかなぁ」

 朝日がようやく昇り始めた明朝五時の事。自室からリビングにやってきたパジャマ姿の花中に、庭に立つミィがあまり取り乱していない調子でしょうもない訂正をした。そんな事を言ってる場合かと詰め寄りたくもなったが、それこそ時間の無駄と考え花中はぐっと口を閉じる。

 一晩経って、キャスパリーグの子供達二匹が姿を消した。

 誰にも、何処へ行くなんてクリュ達は話していない。勝手に二匹とも親元から離れてしまったのである。

 人間ならば一大事だ。幼い子供が何時の間にかいなくなってしまったのだから。猫として見ても、キャスパリーグの言葉通りなら二匹は生後二ヶ月程度。独り立ちをするには早過ぎる『歳』といえよう。

 危険な目に遭っているのではないか、或いは悪い人間に騙されていないか……嫌な考えがどんどん浮かんでくる。

「ちょっと昨日、強く怒り過ぎたかねぇ? 一体何処に行ったのやら」

 しかし『身内』である筈のミィは、赤の他人どころか他種族である花中が心配している前でもやたら冷静だった。

「な、なんでミィさん、そんな落ち着いて……! 昨日は、あんなに心配していたのに!」

「いや、あたしも心配はしているよ? すぐになんときゃしなきゃなーって」

 だけど、と言ってミィは視線を花中から逸らす。花中はつられるようにしてミィの視線を追う。

 視線が向いた先は、大桐家の庭の一角。

「クリュうううううううっ!? ポルうううううううううううっ! 何処行ったアアアアアアアアアッ!」

 そこではキャスパリーグが咆哮を上げ、火山噴火が如くパワーで大気を震わせていた。

 ――――あ、そういやわたし、この大声に叩き起こされたんでしたっけ。

 自分が何故朝五時という時間に起きていたのかを思い出し、花中は急に冷静さを取り戻す。世の人は言った……自分よりテンパってる奴を見ると、むしろ冷静になれると。

 今一番テンパってるのは、他ならぬキャスパリーグであった。

「あの雄叫び、声に指向性を持たせてあって、何十キロ彼方にまで届くらしいよ。三十メートル以内で直撃を受けたら戦車もバラバラになるけど」

「最早兵器ですね……」

「人がいなくて良かったねぇ。今の兄さんを止めるのは、ダムを壊そうとしたあの時より間違いなくしんどいよ」

 呆れた様子のミィの言葉に、苦笑いを浮かべて花中は同意する。愛は憎しみに勝るようだ。

 なんにせよ、キャスパリーグのお陰で冷静にはなった。深呼吸をして、状況を整理する。

 まず、二匹がいなくなったのは夜九時以降から朝五時までの八時間の間。何故夜九時以降かといえば……花中には夜九時以上の夜更かしが出来なかったから。今日も学校があるので無理して起きる訳にもいかず、その時間に寝たからである。他の動物達も同じく眠りに就いた。

 ……そういえば、ミリオンの姿が何処にもないなと今更ながら思い出す。普段から彼女は神出鬼没かつ文字通り空気のように漂っているため、居るのか居ないのか分からない状態であり、花中でも時折その存在を失念してしまう。

 しかし記憶が確かなら、ミリオンを最後に見たのは()()キャスパリーグの子供達を探しに行った時。あの後一度クリュ達は見付かった訳で、群体故広範囲に分散しているミリオンがそれを知らないとも思えない。だとすると彼女が姿を見せないのには何かしらの訳がある筈だが、果たしてどんな理由が……

 ……つい、思考がズレてしまった。ミリオンは良い『大人』なのだから、無断外泊ぐらいしてもおかしくないだろう。それよりも今考えるべきは『子供』達の方だと、花中は思考の行く先を戻す。

 クリュとポルがいなくなった原因は、ミィが言うように昨晩怒られた事に対する抗議か。しかし二匹同時に、それもキャスパリーグやミィに勘付かれる事もなく離れるなんて、相当難しい筈だ。

 いや、そもそも。

「あの、なんで此処で、名前を叫んでいるの、ですか?」

 何故キャスパリーグは、()()()()()()()()()

 人間ならば、姿を消した子供を探すのは至難の業だろう。されどキャスパリーグ達ミュータント……いや、『動物』から、困難ではあっても不可能ではない筈だ。

 何故なら彼等には嗅覚という優れた感覚器がある。臭いという痕跡を追えば、子供達の通った道のりが分かるだろう。実際キャスパリーグは昨日、そうやってクリュとポルの居場所を見付けたと花中は聞いている。

 なのに今日のキャスパリーグは、叫んでばかりで動こうとしない。状況は昨日よりも深刻である筈なのに。

「……実はこれ、かなり変な話なんだけどさ」

 疑問を抱く花中に、子供の捜索に必死なキャスパリーグに代わってミィが答える。怪訝そうな表情から、彼女もまたかなり困惑しているのだと分かった。

「臭い、何処にもないんだよ」

 そして花中もまた、告げられた言葉の意味が理解出来ず、呆けたように目を丸くする。

 しばらくしてようやく理解はしたが、それは更なる困惑を花中にもたらした。

「に、臭いがないって、えっ?」

「いや、うん。正直あたしにも訳分かんない。どうしてってのもあるけど、どうやって、の方が気になるかな」

 戸惑う花中に共感しながら、ミィは自分が感じた疑問点を言葉にしていく。そのお陰で花中も、自分の抱いていた疑問を言葉として理解出来ていった。

 まず、『どうして』。

 親が寝ている間に遠出するだけでなく、臭いまで消して痕跡を消すというのは……常軌を逸している。人間的な例えではあるが、家出の際、日記やら何やら、自分の後を追うヒントとなるものを尽く処分するようなものだ。まるで夜逃げや駆け落ちである。怒らせた側がこういうのも難だが、たかが夕飯のメニューが期待通りにならなかったぐらいでそこまでするだろうか?

 そして何より『どうやって』。

 臭いを消すというのは生半可な事ではない。身体から常時発せられるものであり、絶え間なく垂れ流しになっているのだから。クリュもポルも昨日は全身泥だらけになったため行水しているが、野良生活をしている動物の臭いが軽い水洗い程度で落ちる事はない。精々人間が()()()()()レベルに落とすのが限度だろう。

 雨が降っていれば、通り道の臭いを消す事は可能だろうが……昨晩の天気予報では昨晩から今夜に掛けて晴れで、雨は降らないというものだった。弱々しい明朝の明るさでは少々分かり難いものの、庭の地面は濡れていないように見えるので、予報が外れたという事はなさそうである。

 一体二匹はどうやって自分の臭いを消したのか? 何故臭いを消して失踪した?

 二匹は今、何処に……

「花中さぁーん……何処でふかぁ……」

 ……考え込んでいると、なんとも緊張感に欠ける声が聞こえてきた。

 キャスパリーグの出した爆音で花中と一緒に跳び起きながら、まだ暗いという理由で二度寝したフィアである。どうやら二度寝してしばらく経ってから、ようやく花中が部屋から居なくなった事に気付いたらしい。

 何処までも能天気な友達に、花中の心もつられて緩む。が、事態は何一つ解決していない。キリッと口許を引き締め、花中はフィアと向き合う。

「あー……花中さぁん……むぎゅ」

「うぎゅ」

 尤も寝惚けたフィアは花中の顔が見えていないようで、花中を真っ正面から抱き締めてきた。正直嬉しいが、甘えている場合ではない。

 ジタバタしてなんとかフィアの腕から抜け出し、花中は、花中としては真面目な顔で改めてフィアを見た。

「もう、フィアちゃんったら。今、大変なんだよ」

「……んー……大変?」

「うちの兄さんの子供達、また何処かに行っちゃったみたいでさ。しかも臭いを消して。フィアはなんか知らない?」

 眠たそうな顔のフィアに、ミィはあまり期待していない事が分かる口ぶりで問う。自分の好きなもの以外全く興味がないフィアでは、どうせ何も気付いちゃいないか、気付いた事すら忘れていると思っているのだろう。

 花中としてもそこは否定しないし、似たような事は正直思っていた。しかしフィアの嗅覚は尋常でなく鋭い。哺乳類と魚類では神経の作りも異なるだろうから、ミィ達には感知出来ないものを拾える可能性はある。期待は少なからずあった。

「……あー……なんか夜中にやってましたねぇ……その後()()()何処かに行ったみたいですよ」

 そして今日のフィアは、期待に応えてくれた。期待していた花中の思考が止まるほどに。

 三匹。

 三匹とフィアは言った。

 キャスパリーグの子供達は、二匹しかいないのに。

「さ、三匹って、えっ!? フィアちゃん、どういう事!?」

「どうもこうもそのままの意味ですが。野良猫の兄の子供達以外になんかもう一匹来てましたよ」

「嘘!? あたしらそんなの知らない!」

「あなた方じゃ無理かもですねぇ。あなた達私の接近にも気付かないですし」

「は? いや、まぁ、アンタ水で身体を包んでるからか、なんかみょーに気配薄いし……それが何?」

「ですから……あふぁ」

 ミィから問い詰められるも、フィアは暢気に欠伸一つ。

 そしてあろう事かその場でごろんと横になってしまった。おまけに花中を抱き締めたままで。

「ちょ、ふ、フィアちゃん!? 起きて! 起きてよ!?」

「もー……無理……です……暗い……眠い……ぐぅ」

「ぐわーっ!? コイツこんな寝起き悪かったっけ!?」

 花中のお願いも虚しく、フィアは死んだように動かなくなった。完全に寝入っている。昨年末母が来た時は朝早く起こされても眠らなかったが、今回はタイミングが悪かったのだろうか。

 今すぐにでも、フィアだけが知っている事を教えてほしかったのに。

「……ああもうっ! 兎に角、誰かがあの子らと一緒なのは分かった! なんか妙な話になってる気がするけど、夜中に出てったのも分かった! ちょっと遠くまで探しに行ってくる!」

「あ、は、はい。わ、わたしは、フィアちゃんが起きたら、話を聞いてみます」

「お願いね!」

 ミィは花中に後を任せ、瞬間移動染みた速さで移動。しばらくして庭から二つの爆音が轟く……恐らくはキャスパリーグも、ミィと共に子供達を探しに行ったのだろう。

 子供達がすぐに見付かると良い。花中は本心からそれを願っている。フィアから話を聞き出す前に全て解決するのが一番だ。

 だが、恐らくはフィアから話を聞かねばならなくなるのだろうと『確信』していた。

 フィアが語る第三者。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それの意味するところが、自分の考える『最悪』の存在を示しているとすれば――――

 

 

 

「ねぇ、やっぱりパパのところに帰らない?」

 弱々しい声で、ポルが尋ねる。

 朝焼けにより茜色に染まる市街地。朝早く故に人気のない人間達の住処を、ポルはおどおどとした足取りで進む。

 そんなポルの前を歩いていたクリュは、歩きながらポルの方に顔だけ振り向かせる。そうして見せた顔は、とても子供らしい不機嫌さを露わにした、可愛らしくも生意気なものだった。

「何よポル。アンタ、まだそんな事言ってるの?」

「だ、だって……勝手に出たら、またパパに怒られるし……」

「そのパパと一緒に居るための作戦でしょーが。このままじゃパパをあの人間に盗られちゃうかも知れないわよ」

「うぅ……それはやだ、だけど……」

「もう、アンタってほんと意気地なしなんだから」

 煮えきらない態度のポルを、呆れるようにクリュは小馬鹿にする。と、ポルの目が一気に鋭くなった。

 クリュの方も目を鋭くし、立ち止まる。二匹は互いに相手の事を睨み付け……

「ケンカするほど仲が良い、というやつですかねぇ」

 暢気な声が、二匹の間に割って入った。

 温度差のある一言が、二匹の空気を緩和する。クリュは肩を竦め、ポルは怯えるように身を縮こまらせた。

「ふん。それより、これで本当に分かるのよね?」

「勿論。あの人間があなた達に教えたとおりの、非常に危険な人間であるのか。それを確かめるには、この方法が一番です。来てくれたなら杞憂、そうでなければ……シンプルで良いでしょう?」

 クリュの懸念に、くすくすと笑いながら『そいつ』は答える。楽しげで、緊張感がなくて……何処までが本心か分からない。

「……ま、良いけどね」

 いまいち信用出来ない。そんな感情をクリュは隠さなかった。

 それでも『そいつ』が笑みを崩す事はない。

「さぁて、そろそろ始めましょうかね……覗き見している奴は、どうやら()()()()()()みたいですし」

 『そいつ』はわざとらしく空に向けて語り、なんの返事もない事に微笑む。それから足を止め、くるりと舞うようにしてクリュ達と向き合う。

 金色の髪が、茜色の日差しを受けて煌めく。

 小さくて華奢な身体に纏う純白にして華美なエプロンドレスはふわりと舞い上がり、『そいつ』の可憐さを一層際立たせる。

 端正な顔立ちは彫刻のように整っていたが、浮かべる表情の明るさに彫刻らしい静寂はない。碧い瞳は喜の感情をこれでもかというほど露わにし、内面の賑やかさを物語る。

 つまりは愛らしくて華やか、とても魅力的な少女である『そいつ』は、微笑みながらこう語るのだ。

「あなた方家族の愛が今もあるのか、確かめるとしましょうか」

 自らが子猫達に囁いた言葉を……




金髪碧眼の美少女。
おや、見覚えがありますな?(今更)

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ5

 キャスパリーグとミィは、共に夜明けを迎えたばかりの町を跳んでいた。

 早朝故に人の姿は殆ど見られない、が、皆無という訳ではない。ランニングをしている者や、パジャマ姿で新聞を取りに出ている者など、稀にではあるが外に人の姿はある。

 しかしキャスパリーグは気にも留めない。彼等の頭上を跳び越えるどころか、目の前を人外の速さで駆け抜ける事にも躊躇わなかった。人間が自分の存在を知る事と、行方知れずの我が子達を一刻も早く見付ける事。どちらが大事なのかなんて、比べるまでもないのだから。

 尤もそれは見方を変えれば、子供の事で頭がいっぱいな考えなし状態とも言い換えられる訳で。

「兄さんストップ!? すとぉーっぷ!?」

 キャスパリーグより幾分冷静なミィが、彼を後ろから呼び止めようとしていた。

 キャスパリーグの移動スピードは現在音速を超えており、ただ大きな声で呼んでも彼の耳には届かない。ミィは声帯を絞り、空気の塊を弾丸のように射出。超音速でキャスパリーグの耳にぶち当てていた。人間がこの声を聞けば、鼓膜どころか頭の中身が弾け飛ぶ威力があるのだが……頑強なキャスパリーグにとっては、ちょっとした大声でしかない。

 振り返った彼が苛立ち塗れの表情を浮かべた理由は、子供達探しを止めようとする、その言葉自体だった。

「止まってなどいられるか! クリュとポルが何処に居るのかどころか、どっちに行ったのかも分からないんだぞ!?」

「だぁーから落ち着けって言ってんの! あたし等が今向かってるのと逆方向に進んでるかも知れないでしょ!」

「ぐっ……それは……」

 しかしながら感情的な叫びなど、冷静で真っ当な意見の前では脆弱そのもの。キャスパリーグはすぐに反論を失い、口を閉じるしかない。

 妹の言う通りだ。感情に任せて行動するというのは、言い換えればただの運試しという事。落ち着いた方が遥かに効率的かつ確実に子供達を見付けられるのは、冷静に考えればすぐに分かる。

 感情的になってはならない。感情的にならざるを得ない状況だからこそ、その言葉がキャスパリーグの心にずしりとのし掛かる。

 キャスパリーグはアスファルトの上で急ブレーキ。舗装を粉砕しつつ、一旦足を止めた。

「……すまん」

「分かればよろしい。とはいえ、どうしたもんかね。手掛かりがある訳じゃないし……」

 ミィもキャスパリーグの傍に降り立ち、そのまま考え込む。キャスパリーグも妙案がないか、その頭を全力で働かせた。

 手掛かりなしの虱潰しで探すのなら、大桐家を中心にしてぐるぐると円を描くように捜索範囲を広げるべきか。されどもしも子供達が真っ直ぐ移動していたなら、この方法では追い付くのに時間が掛かる。いや、現在も移動を続けているとすれば、その距離は広がる一方だ。

 子供達が何処に向かったのか、それを知る術はないものか。考え込むキャスパリーグだったが……ふとその思考を妨げる『音』が聞こえた。

 音といっても、自然音ではない。生き物の声、もっと詳細に言うならば動物の声だ。それも『言葉』として発せられたもののようだと彼は感じた。

「……何か、声が聞こえてこないか?」

「あん? 声? ……いや、別に気になる声はないと思うけど」

 ミィにも意見を求めると、妹は頭を掻きながらそう答える。どうやらミィには聞こえていないらしい。

 確かにキャスパリーグは人間どころか、同種であるイエネコよりも ― 『圧倒的な身体能力』という能力の応用により ― 聴力に優れている。だがそれはミィも同じだ。自分と妹の耳の良さに大きな差があるとは、キャスパリーグには思えなかった。

 何か、おかしい気がする。

 おかしいとは思うのだが、或いは思うからこそ、彼は聞こえてきた声に意識を集中させた。すると声は不思議と少しだけ大きく、雑音のないクリアなものとなって聞こえてくる。聞こえてきた声を正確に理解しようと、キャスパリーグは意識を研ぎ澄ましていき……

 彼の聴力は、ついに捉える。

 微かな、本当に微かな『声』であったが……キャスパリーグはその声に聞き覚えがあった。否、忘れる筈がない。

 自分の子供の声を、どうして忘れるというのか。

「ッ!」

「え? ちょ、兄さん!?」

 考えるよりも先に、キャスパリーグは身体が動き出していた。声が聞こえていないミィからすれば、再び兄が考えなしに動き出したように思えたのだろう。ひとまず呼び止めようとしてくるのは当然だ。

 しかし今度のキャスパリーグは止まらない。あくまで本能的な確信に過ぎなくても、論理的な証拠など一つもなかったとしても……大切な我が子の声が聞こえてきたというのに、どうしてそれを無視したり、行動を抑えたり出来るというのか。

 キャスパリーグは明朝の町を、人目を憚らずに跳び越えていく。彼はこの町の作りにそこまで詳しくはない。だから何処に何があるというのは、実のところあまりよく知らないのが実情だ。されど彼は人間の知識を有しているため、目の前に現れた『区画』の名前ぐらいは知っている。

 商店街だ。

「クリュ! ポル!」

 キャスパリーグは我が子の名を呼びながら、商店街の大通りのど真ん中に降り立った。ミィも数秒遅れでキャスパリーグのすぐ傍に着地。兄妹で二度の地震を引き起こす。

 明朝とはいえ、客商売は比較的朝早くから始まる仕事。魚屋や八百屋は朝早くから動いており、コンビニであればこの時間帯でも普通に営業している。疎らながら人の姿があり、彼等は突然現れたキャスパリーグ達に驚愕の表情を向けた。

 しかし、誰よりもキャスパリーグの登場に驚いたのは――――道の真ん中で二匹寄り添っていた、クリュとポルの二匹なのだが。

「ぱ、パパ!?」

「えっ!? パパ、なんで此処に!?」

「お前達の声が聞こえたんだ。微かに、だけどな」

「えっ、声?」

「そ、そんな大きな声、出してたかな?」

 キャスパリーグが子供達からの問いに答えると、クリュとポルはますます困惑したように身動ぎする。

 ……確かに、少々奇妙だとはキャスパリーグも思う。声が聞こえた場所からこの商店街まで、数百メートル以上離れていた。聴力に優れるとはいえ、数百メートル先のこそこそ話が聞こえるほど、キャスパリーグの聴力は『非常識』ではない。

 仮に二匹の声が聞こえるのであれば、雑音もそれなりに拾った筈である。今この商店街をざっと見渡すだけで、幾人かの人間が活動しているのだ。クリュ達の会話より、段ボール箱を無造作に積み上げる音や、付近を通るトラックのエンジン音の方が大きいだろう。そうした雑音がなかったというのは、奇妙というよりも『異常』な状況である。

 何かが変だ。どうしてこんな、奇妙な事が起きている?

 疑問を抱くキャスパリーグ。しかし彼の抱いた違和感は、すぐに頭の隅に押しやられた。今はそんな『些末』な疑問に思考を割く事すら煩わしい。

 行方知れずだった我が子と再会出来た喜びに比べれば、そんなのは身体に付いた砂粒のようなものだ。

 自分の出る幕はないと判断したのか、ミィは前に出ず、むしろ後退りしていた。話に割り込まれると、確かに面倒になるかも知れない。妹に視線だけではあるが感謝の意を送り、キャスパリーグは我が子達と向き合う。

「お前達……どうして勝手に何処かに行ったんだ。心配したんだぞ」

 キャスパリーグは子供達に、此度の騒動の理由を問い詰める。キャスパリーグは一歩一歩、ゆっくり我が子達との距離を詰めていく。

 目的は叱るため、ではない。彼は自分の子供達が、どうしてこのような行動に出たのか、それを知りたいだけだった。その理由が身勝手でワガママなものであるなら、彼は哺乳類の親として我が子に鉄拳の一つでも落とさねばなるまい。しかし子供達にとって大切な、重大な理由があるのなら……それを叱るつもりはない。

「……パパがわたし達の事、どーでも良いって思ってないか、心配だったから」

 そうして耳を傾けていたところに返ってきたクリュの返答が、このようなものであったなら?

 キャスパリーグは我が子達の行動が、前者である可能性はゼロになったと判断した。

「どうでも良いと思っていないか? どうしてお前達の事を、どうでも良いなんて思うんだ?」

「だって、だってパパ、あの人間の言う事ばかり聞いてるんだもん!」

「あの人間が、どんな奴か知らないけど……パパの事、盗られるかもって」

「友達から聞いたのよ! 人間の中にはあの手この手で動物を飼い慣らして、自分の思うように操ろうとする奴がいるって!」

「人間が嫌いなパパが、あの人間とは普通に話してるし、言う事も聞いてて……だから、不安になって……」

「もしかしたら、わたし達の事なんてどうでも良くなって、探しに来てくれないかもって思ったら、怖くなって……」

 詳細を語るほどに、小さくなるクリュとポルの声。感情に従って行動を起こしたものの、いざ親を前にすると、罪悪感が込み上がってきたのかも知れない。

 何しろ突然いなくなった理由が「いなくなった自分達を探してほしかった」から……要約すれば、親の愛情を試した事に他ならないのだから。

 キャスパリーグは大きなため息を吐いた。子供達は親の反応から、こっぴどく怒られるとでも思ったのか。ビクリと身体を震わせ、互いに抱き合う……それがますますキャスパリーグの心に重圧を掛けてくる。

 先のため息は自分に対するもの。

 どうやら自分は愛情を求める子供達の訴えを、『他の用事がある』等というくだらない理由で見逃していたらしい。何時だかに本かテレビで、親失格な人間達についての特集を見た事があるが、もう人間の親を笑えないなと自嘲した。

「……すなまなかった。寂しい想いをさせてしまって」

 反省したキャスパリーグの口から出てきたのは、子供達への素直な謝罪の言葉。

 謝られたクリュとポルは、呆けたようにその目を丸く見開いた。パチパチと瞬きする姿は、愛らしいというよりも間抜けに近い。

 もしかすると、怒られると思っていたのかも知れない。

 もしもキャスパリーグに怒る箇所があるとすれば、その勘違いに対してだけだ。お前達の親を見くびるんじゃない、と。しかし子供の気持ちに気付けなかった自分が言ったところで、一方的な文句でしかない。

「不甲斐ないパパだな。自分の子供の気持ちに気付かないなんて」

「ぱ、パパは悪くないよ! 悪いのはパパを盗ろうとした人間の方だもん!」

「そ、そうよ! わたしは最初からパパの事信じていたもん!」

「えっ。いや、これクリュがやろうって言って」

「最初にこれやろうって言ったのは『アイツ』じゃない! わたしはそれに乗っただけ!」

「えぇー……」

 愛しのパパが来てくれた後は、なんとも醜い(可愛らしい)身内争いが勃発。後ろに下がっていたミィが呆れたように肩を竦め、キャスパリーグはくすりと笑みを零した。

 そしてキャスパリーグは姉弟ゲンカに夢中な我が子達の下へ歩み寄り……二匹を、そのまま抱き締める。

 いきなり抱き締められたクリュとポルは、呆けたように固まった。顔を動かし、互いの顔を見合う。

 だけど自分達の親が、自分達の事を今でもちゃんと愛してくれていると分かった途端、その目に涙が浮かんだ。

「う、ふぐ……ざみじがっだぁぁぁぁぁ!」

「バカバカバカぁ! ちゃんとボクとも遊んでよぉ!」

 クリュとポルの口から出てきたのは、謝罪ではなく批難の言葉。それは今まで言いたくて、だけど言えなかった本当の気持ち。

 キャスパリーグは黙って子供達の言葉に耳を傾ける。もう二度と、自分の子供の気持ちを見逃さないために。

 ――――さて、無事に問題は解決した、とキャスパリーグは思っている。

 実際問題これは、子供達のちっちゃな反抗作戦であったのだ。それも親の愛情が確かめられれば勝利という、恐らくフィア(あの魚)ならば「くだらない上に意味が分かりません」と答えそうなもの。だから解決はこのぐらいのあっさりで良い。

 しかし疑問が残る。

 何故二匹の移動経路に臭いが残っていなかった? それに二匹の声が、商店街から遠く離れた住宅地で聞こえてきたのは何故? こんな明朝に行動を起こした理由はなんだ?

 そして時折話に出てくる、『アイツ』とは誰だ? 『アイツ』とやらが自分の子供達を唆したのだとして……ならばその目的は?

 疑問は山ほどある。あるのだが、されどそれは後で確かめれば良いだろう。今は寂しがっていた子供達に、飢えていた分の愛情を全て渡したい。

 抱き締めてくる子供達の身体を、キャスパリーグも更に強く抱き締める。もう離すまい。見逃すまい。そう決心したキャスパリーグは、ただただ子供達を抱き締め続けた。

 何時までも、何時までも。

 ――――状況が何も変わらないのであれば、きっと夜が更けるまで続けたに違いない。

「はぁーい、くだらない三文芝居はそこまでにしてくださいねぇ」

 しかし親子の絆を確かめ合えたのは、心底こちらを見下した言葉が掛けられるまでの、ほんの短い間だけ。

 その言葉が聞こえてきた次の瞬間、キャスパリーグの背筋に冷たいものが走る。この感覚はかつて感じた事があり、同時に酷く恐ろしいものであると即座に理解した。

 そしてそれが、クリュとポルに近付いている。

「っ!」

「きゃっ!?」

「わっ!? ぱ、パパ!?」

 キャスパリーグが取った行動は、我が子二匹を遠くに投げ飛ばす事。

 自分の身の安全を後回しにしたキャスパリーグに、道路を突き破るようにして現れた『半透明な触手』が襲い掛かった! 神速の機動力を誇る彼も、子供を遠くに投げ飛ばすために体勢を崩し、挙句奇襲を受けては躱しきれない。

 半透明な触手はキャスパリーグの身体に巻き付き、その身を一気に締め上げた!

「ぐぁっ!? が、こ、これは……!?」

「兄さん!? 今助け――――ごふっ!?」

 肉親の危機にミィが動こうとした、が、意識が逸れた瞬間を狙うようにミィの背後から別の半透明な触手が現れ、今度はミィを拘束してしまう。ミィは頭以外の全身を締め上げられ、身動きが取れなくなった。

 なんとか吹き飛ばそうとキャスパリーグは力を込めた。見た目からしてただの触手(肉塊)ではなさそうだが、自分達はただものでない怪力の持ち主。力が通じない筈はないと読む。

 ところが、拘束は破れない。

 巻き付いた半透明な触手にどれだけ力を込めても、全くビクともしないのだ。彼の拳は一撃でダムを粉砕し、人類社会を容易く壊滅させるほどのものだというのに。

 一体これはなんだ? この半透明な姿は、まるであの時の――――

「まさかこれは、ぐっ!?」

 『半透明な触手』の正体に気付いた、直後キャスパリーグの身体に一層強い圧力が掛かる。ミィもまた締め付けられる力が強くなったのか、苦悶の表情を浮かべた。

「ちょ、ちょっと!? 何してんのよアンタ!? パパ達に酷い事はしないって話だったじゃない!」

 苦しむ親の姿を見て、クリュが声を荒らげた。まるでこの事象に心当たりがあるかのように。ポルも顔を青くしながら、辺りを見回して『元凶』を探している。

「ああ、それ嘘ですよ」

 その『元凶』はクリュが問い詰めてきた内容に、いけしゃあしゃあと答えた。

 刹那、商店街の道路の真ん中にあったマンホールの蓋が吹き飛んだ。それもただ外れたのではなく、粉々に吹き飛ぶという形で。頑強な金属の塊を粉砕するほどのパワーが、蓋に与えられたという証だった。

 次いで蓋が消えたマンホールより、『少女』が姿を現す。

 少女はまるで浮遊するかのように立った姿勢のまま、マンホールから現れる。熟れた稲穂のように美しい金色の髪を持ち、碧い瞳は宝石のよう。顔立ちは小学生低学年程度の非常にあどけないものであるが、美術品を思わせる整ったものであり、浮かべる妖艶な笑みは数多の男性を魅了するであろう。身に纏うのは足首が隠れるほど丈の長いエプロンドレスであるが、その服に下水に潜んでいた事を物語るような汚れは染み付いていない。

 そしてマンホールより踏み出した下半身、エプロンドレスのスカート部分により隠されたところから、無数の半透明な触手が伸びている。うねうねと蠢く触手はその動きによりアスファルトを粉砕し、自らの存在を顕示しているよう。

 自分と妹を拘束している触手の操り手は間違いなくコイツだ――――キャスパリーグが一目でそう判断するぐらい、現れた少女は自らの力を隠そうともしていなかった。

 そしてガタガタと震える子供達の姿を見れば、コイツこそが子供達の言っていた『アイツ』なのだと理解出来る。

「う、嘘って……どういう、意味よ!?」

「言葉通りですよ。あなた方のお父様を傷付ける事はないと言いましたが、アレは嘘です。私の目的は、当初からこの二匹の抹殺ですので」

「うぐぁっ!?」

「ぐぅっ!?」

「パパ!? おばちゃん!?」

 少女は今話している内容こそが事実だと証明するかのように、キャスパリーグの身体を締め付けている触手の圧力を強めてきた。ミィも悲鳴を上げた事から、同じく締め付けが強まったと思われる。

 全身に力を入れて踏ん張っているが、触手の締め付けは凄まじい。気を抜けば一瞬で潰される……そう思えるほどの圧だ。もしも力を込めるのが一瞬遅ければ、内臓も骨もぐちゃぐちゃに潰されただろう。

 一歩間違えば死んでいた。その意味ではこの少女が、こちらに対し冗談抜きの殺意があるのは疑いようがない。

 そんな恐ろしい化け物が、自分の子供達と対峙している。

 キャスパリーグには自分の置かれている状況よりも、そちらの方が遥かに恐ろしかった。

「クリュ! ポル! 早く逃げ、ぐがっ!?」

「うーんどうしましょうかねぇ。私の計画に乗ってくれた事には感謝していますが、あなた方を排除した後はこの子猫達には利用価値がない、というより不安要素になってしまいますからね……ここで片付けておく方が合理的という奴ですよねぇ」

 キャスパリーグの口許を半透明な触手で覆って黙らせた後、少女はまるで今夜の夕飯は何にするか決めるかのような、あまりにも軽い口振りでそう語る。

 全く緊張感も威圧感もない言葉に、クリュとポルは最初困惑した様子を見せるだけ。しかし時が経つほど、少女の語る話の意味を理解したのだろう。その顔が一気に青ざめ、身体が凍えるように震え始める。

「ひっ!? え、や……!?」

「う、あぅ……!」

 自分達も殺そうとしている――――少女の言いたい事を理解した二匹は、腰が抜けたように尻餅を撞いてしまった。

 キャスパリーグは焦りを覚える。脅すだけで実際には手を出さない辺り、恐らく少女にとって最優先の排除対象は自分達『大人の猫』なのだろう。二体同時に相手をするとなると他に力は割きたくないのか、クリュ達を拘束しようとすらしない。

 だから今すぐ逃げれば子供達は助かるかも知れないのに、脅された恐怖によりクリュもポルも身動きが取れなくなった。或いはそれを狙った上での脅迫か。

 強いだけではない。自分の力量を把握し、優先順位を付けつつ、念のための布石を打っておく……頭も良いのだ。

 まさかコイツは――――

「ぐ、がっ……!?」

 答えに辿り着こうとした、その直前にキャスパリーグの身体に掛かる圧が強まった。咄嗟に筋肉を膨張させ対抗しようとするが、今度の力はこれまでの比ではない。耐えきれずに筋肉の繊維が潰され、何本かの骨が折られてしまう。

 筋肉や骨にダメージが入れば、力が上手く出せなくなる。力が出なければますます圧に耐えられなくなり、一層深い傷を負う事になって……つまり最悪の悪循環に入ってしまった。油断した結果ならばまだしも、多少なりと本気を出した上で追い詰められたのでは、形勢をひっくり返すほどの力は出せない。

 万事休すか。ここから出来る事など、精々可能な限り足掻き、子供達が我に返るまでの時間稼ぎぐらいだ。

 骨が折れ、内臓が傷付いている身体に力を込めるのは、ただ締め付けられるよりも遥かに辛い。しかしそれでもキャスパリーグは我が子を守るため、全身全霊の力を己が身に加え続け――――

 やがて努力は報われる事となる。

 ただし我が子達が逃げ出すという形ではなく、少女が自分達に巻き付けていた触手を放すという行動を取ったがために。

 触手の拘束から解放されたキャスパリーグ、それとミィは、この隙を突くべく動き出そうとした。しかし負った傷が深く、また少女は猛然とした勢いで後退していたがために、優れた身体能力を持つキャスパリーグ達でも追いきれない……というのが追撃を取り止めた理由の一つ。

 もう一つの理由は、空から途方もないプレッシャーを感じたから。

 予感は正しかった。少女が素早く跳び退いた、その直前まで居た場所目掛け、空から何かが落ちてきたのだ。落下してきた『物体』はキャスパリーグの動体視力でも捉えるのがやっとな、超高速でアスファルトに激突。暴風と爆音を轟かせ、大地に巨大なクレーターを刻み込む。衝撃波により商店街の店が幾つか破損し、半壊したものも少なくない。

 途方もない破壊力を秘めた一撃だが、キャスパリーグの本能は察知していた。この破壊を振りまいた衝撃波は、全体のエネルギーから見ればほんの僅かな余波でしかないと。直撃を受ければ、怪我を負っていない時の自分でも受け止めるのがやっとであるとキャスパリーグは直感した。

 そしてこんな馬鹿げた、それでいて傍迷惑な攻撃を平然とする輩など、キャスパリーグには『一匹』しか心当たりがない。

【フシュウゥゥゥゥゥゥ……避けられてしまいましたか。面倒ですねぇ全く】

 未だ朦々と舞い上がる粉塵の中から、ぬらぬらとした銀色の輝きを放つ巨頭が現れる。

 出てきた頭はナマズのような形をしており、這いずるように粉塵から出てきた。頭に続き出てきた胴体はヘビのように細長く、手足もヒレもない。長さはざっと五メートルほどで、この騒ぎを目撃した人間達は悲鳴を上げて逃げ出した。「怪物だ!」と叫んでいたので、昨今人間達を騒がしている『怪物』の類と思ったのだろう。

 しかしキャスパリーグは知っている。コイツに比べれば、人間を喰う怪物すら百万倍マシな存在であると。

 ヘビかナマズのような姿をした『怪物』はその身をどんどん縮ませていき……やがて一人の美少女を形作る。

 金髪碧眼の容姿に、唯我独尊な笑みを浮かべた真の化け物――――フィアの姿へと。

「うきゅぅ……」

 なお、そんなフィアの脇に抱えられている花中の姿もあった。フィアが怪物姿の時はその『中』に居たようだが、先の落下攻撃によって目を回したのだろうか。

「花中さん到着しましたよー」

「わぶっ!? ぶ、ずべっ!?」

 花中が気絶している事に気付いたフィアは、手から出した水を花中の顔にぶっかけて目覚めさせる。文字通り寝耳に水をぶちかまされ、花中は溺れるように暴れながら意識を取り戻した。

 大切な友達に対してすらこの雑な扱い。もしも先の『攻撃』の直線上に出ていたら、コイツは迷いなくこちらを巻き込んでいただろう……キャスパリーグは頬を引き攣らせつつ、子供達の下まで後退。クリュとポルもキャスパリーグの下へと駆け寄り、抱き付いてくる。ミィもやってきて、キャスパリーグの横に並んで臨戦態勢を取った。フィアも正面を見据え、自分の足で立った花中はフィアに抱き付きながら同じく前を見る。

 ミュータント五匹と人間一人の視線を受ける金髪碧眼の少女は、しかし一歩たりとも後退りする事もなく、余裕のある笑みを浮かべるだけ。エプロンドレスの裾がふわりと舞う様は、まるで少女の優雅で余裕ある内面を示すかのよう。

 その少女が視線を向けるのは、今し方自分を強襲してきたフィア。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……そんなフィアを、少女は優雅な笑みを浮かべながら見つめているのだ。当のフィアが殺意に満ちた鋭い眼差しを送っているにも拘わらず。

「思ったよりも早かったですねぇ。お陰でその猫二匹を殺し損なってしまいましたが……まぁ、最低限の目的は達せたので良しとしますか」

「ふん。だったらとっとと逃げ帰りますか? 今なら見逃してあげますが……しかしこの私と戦うつもりなら手加減はしませんよ」

「おやまぁ、怖い怖い。折角会えたのにいきなり殺害宣告なんて、悲しくて涙が出てしまいますねぇ。ほぉーら、どばどばー」

「あ、あの……あなた、一体何者なんですか……どうして、ミィさん達を……」

 まるで水道の蛇口を全開にしたかのようなあり得ない量の ― つまりわざとらしい ― 涙を流す少女に、花中は責めるような口調で問い詰める。

 すると少女はピタリと涙を止め、文字通り耳の近くまで裂けるように口許を歪めて笑った。

 明らかに人間ではない、それどころか『普通の身体』ではない事を示す笑い方。ただ不気味なだけでなく、あたかも「そんな事ぐらい知っているでしょう?」と言いたげで……こちらの心すらも見透かされているような気持ちになる。

 キャスパリーグは思わず息を飲む。彼ですら、少女の笑みに僅かながら『恐怖』に近しい感情を覚えたのだ。力のない人間である花中や、幼いクリュとポルが怯えたように身を仰け反らせるのは仕方ない。

 そうした者達の反応を見て、何を思ったのか。少女は裂けている笑みを徐々に小さくし、普通の微笑みに戻した。次いで自らのスカートの丈を摘まみながら、深々と会釈する。

 しばらくして上げた顔で見るのは、自身と瓜二つの顔をしたフィア。

 ……きっと、誰もが『答え』に辿り着いている。これだけ『あからさま』なのだから、答えに辿り着くのは簡単だろう。しかしそれでも、受け入れ難いものがあるとキャスパリーグは感じた。

 こちらのそんな内心など、恐らく少女は読んでいるのだろう。読んだ上で微笑み、こちらを嘲笑うのだ。

 故に、少女は誇るように語る。

「ご挨拶が遅れてしまいましたね。初めまして、あなたの可愛い娘の一匹ですよ――――お母様」

 フィアを見つめながら、誰もが知っているその自己紹介を。




という訳で今回の敵はフィアの娘です。
まぁ、分かりやすい伏線張りまくりでしたが。

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ6

 正直なところ、花中にとって相手の正体は『想定内』だった。

 クリュとポルの臭いを消せたのは、少女に水を操る能力があったから。恐らく水を用い、自分達が通った道から臭い物質を吸い尽くしたのだろう。

 ミィ達が接近に気付けなかったのは、その身を水で包んでいたから。ミィ曰く「みょーに存在感がない」らしいフィアと同じように。

 そしてフィアは言っていた。二週間ほど前に故郷の池で産卵した、と。

 キャスパリーグの子がミュータントと化したように、フィアの子がミュータントと化してもなんらおかしくない。そして哺乳類と違い、フナであるフィアの子は親の庇護など受けずとも独り立ち出来る。

 こうして目の前に単身現れたところで、なんら不自然ではない。不自然ではないからこそ予測も出来たのだが……それでも彼女が『自己紹介』をした時、花中は動揺した。

 まさかフィアの子が、このような騒動を引き起こすなんて思わなかったのだから。

「ふぅん私の娘ですか。まぁなんだって構いませんがね。それで? 何が目的でこのような事をしたのです?」

 人間である花中は大いに動じたものの、身内である筈のフィアは平然としていた。哺乳類のような『家族』という集団すら作らないフィアにとって、娘も他人も大差ないのである。愛情以前に興味すらろくに持っていないだろう。

「目的はですね、大桐花中を手に入れる事ですよ」

 ただし少女からこの言葉を聞いた瞬間、フィアの無関心は敵意へと変わるのだが。

「……念のために訊きますがジョークや何かではなく?」

「勿論。こんなつまらない冗談は言いません」

「成程お断りします。さっさと失せなさい」

「そうですよねぇ」

 苛立ちを隠さないフィアの言葉に、少女は堪えた様子もなく飄々と受け答えする。しかしその目には徐々に闘志が宿り、全身から覇気を発しているのが花中にも感じられた。

 どうやらフィアの娘に、穏便にやり取りするつもりはないらしい。

「ああ、ならこうしましょう。私がお母様を捻じ伏せた暁には、ご褒美に大桐花中を私にプレゼントしてくださいな♪ 何も言えない状態にするつもりですので、文句も何もないでしょうけどね」

 そして少女は平然と、自らの母に向けて『殺害』と花中の強奪を宣言した。狙っている事をハッキリと告げられ、自分よりも小さな少女に慄いた花中はフィアの背中に隠れてしまう。

 ねだられたフィアは、ビキリと顔から音を鳴らした。作り物の顔面に青筋を浮かべ、口許に獰猛かつ敵対的な笑みを浮かべている有り様。

 フィアはこれまで、家族というものの大切さに理解を示した事はない。それは、我が子に対しても同じようだった。

「クソガキが……潰れなさいッ!」

 フィアは一切の容赦なく、己の右腕を振るった!

 少女とフィアの間は五メートルほど離れていたが、フィアにとっては関係ない。水で出来た身体は伸縮自在であり、自由に伸ばせるからだ。

 フィアの手は五メートルもの長さに伸び、その幅は二メートル近く広がる! 少女よりも遙かに巨大な物体が、なんの容赦もなく少女に叩き付けられた!

 が、少女は揺らがない。

 少女の伸ばした片腕が、フィアの振るった腕を受け止めたからだ。いや、受け止めたというのは、正確には異なるかも知れない。少女の手はフィアの腕に沈み込み、()()していたのだから。

 そしてフィアの腕を、じゅるじゅると啜るように吸い込んでいく。

「ちっ! 小癪な!」

 フィアは自らの腕を切断、少女の手から離れる。明らかに自分より巨大な腕を、少女は手先から一気に取り込んでしまう。されどその姿が変化する事はなく、変わらず少女の姿を維持していた。

 少女は何をしたのか?

 訊くのも野暮というものだ。あの少女がフィアの子であるなら、その能力もきっとフィアと同じもの……『水を操る』事である。フィアの『身体』は水で構成されたもの。少女は自らの能力を用い、フィアが支配下に置いていた水のコントロールを奪い取ったのだ。

 しかし……

「今度はこっちから、お返しです!」

 花中が考え込もうとした時、少女が反撃へと打って出た。足下から半透明な触手……水触手を生やし、フィア目掛けて撃ち出したのだ。

 水触手は花中の動体視力では到底捉えきれぬ速さを出しており、直撃すれば人間など粉微塵に吹き飛ぶであろう。されどフィアはこれを躱そうともせず、むしろ身を前のめりにしながらどしりと構えてこれを迎え撃つ。

 水触手はフィアの胴体に命中。だがフィアは怯まず、それどころか水触手を両腕で抱きかかえる。

「あなた風情に出来る事がこの私に出来ぬ訳がないでしょう? 手本を見せてあげますよォ!」

 意気揚々と宣言するや、フィアが水触手を取り込み始めた!

 抱きかかえた胸へと、水触手は吸い込まれていく。少女がフィアの腕を吸い取った時よりも一層激しく、パワフルに。

 どんどん水触手を吸い取られていく少女だが、彼女は水触手を切り落とそうとはしない。このままでは『本体』を包み込む『身体』の水をも吸い取られてしまうのに、ただただ見つめるばかり。

 フィアが何か手を加え、水触手を切り落とせないようにしているのか。生きてきた年月、そして経験の差が成せる技を使っているのかと花中は思った……自分の勘違いに花中が気付くのに、それから数秒と掛からなかったが。

 何故なら少女が、不意にニタリと笑ってみせたのだから。

「成程、そうやるのですか。こんな感じ、ですかねぇ!」

「ぬぐっ!?」

 少女が声を上げるや、フィアが呻く。

 するとフィアが抱きかかえていた水触手が、逆流を始めた。

 フィアが確保している水が、少女の方へと流れ始めたのだ。つまり、フィアの力を少女が上回ったという事である。よもや負けるとは思っていなかったようで、フィアは顔を顰めて不愉快さを露わにした。

 それでも幼子に負ける事への羞恥など持ち合わせていないフィアは、形勢の不利を悟るや即座に水触手を切り落とした。

「おっとっと。逃げられちゃいましたか」

「……ふん。思いの外やるじゃないですか」

「ええ。とても良いお手本がありましたから」

 ニコニコと余裕の笑みを返す少女に、フィアは鋭い眼差しを送る。フィアの放つ闘志がピリピリしたものへと変わるのが、フィアの後ろに隠れる花中でも感じられた。

 総合的に見て勝負は互角なのか、フィアが押しているのか、少女が勝っているのか。

 花中には判断が付かない。ごくりと息を飲み、友達と、友達の娘の命運がどうなるのか無意識に考えてしまう。

 尤も、友達は自分の娘などどうでも良い訳で。

「それならもっと良いお手本を見せてあげましょうかねェ……」

 ざわざわと金色の髪を揺れ動かしながら、フィアはどす黒い殺気を放ち始めた

 次の瞬間の事である。

「あっ、お腹が空きました」

 少女が間の抜けた事を言い出したのは。

「……は?」

「そうです、そういえば今日は朝ごはんを食べ忘れていました。もうお腹ぺこぺこなのです」

「……はぁ」

「という訳で帰ります。あ、そうそう、私、自分の事をフィリスと名付けています。以後そのように呼んでください」

 少女ことフィリスは世間話のような雑さで自己紹介。フィリスの視線は花中の方を向いていて、自分に話し掛けてきたのだと思った花中はついついぺこりと頭を下げた。フィアに至っては殺気のある顔のまま、『身体』がガチガチに固まっている。

「ではさようならです、はいどろーん」

 そんなフィアと花中を尻目に、フィリスはこれまた間の抜けた言葉を告げる。

 フィリスの足下が突如として爆発し、商店街を飲み込むほどの白煙が広がったのは、それから間もなくの事であった。

「わ、ぼみゃっ!?」

「ぬっ!? 花中さ……んぁ?」

 広がってきた白煙は正しく爆風のそれであり、花中は突き飛ばされるようにして転倒。フィアは素早く手を伸ばそうとしたが、何故か半端な位置で止めてしまう。助けてもらえなかった花中はごろんごろんと地面を転がった。

 とはいえ花中はフィアの影に隠れていて、白煙の直撃こそ避けていた。つまりは割とマシな衝撃の受け方をしていたと言えよう。お陰で怪我はしていない。

 しばらくして白煙が晴れた時、フィリスが立っていた場所には半径数メートルのクレーターが出来上がっていた。周りの建物は窓ガラスだけでなく屋根や壁も砕け、一部崩れ落ちている部分もある。家の中に居る人々が出てこないのは……家を襲った震動に怯えているからだろう。

 人の事など何一つ考えていない逃げ方を前にして、フィアは顎を擦りながら「ふーむ」と呟いた。

「うぅ……フィアちゃん、酷い」

 そんなフィアの下まで戻ってきた花中は、とりあえず悪態をぶつけておく。

 花中に気付いたフィアはにっこりと笑い、花中を正面からぎゅっと抱き締める。拗ねる花中をあやしている、訳ではなく、自分が抱き締めたいから抱き締めるのがフィアという生物だ。

「おおっと花中さんすみません。つい手を引っ込めてしまいました」

「引っ込めたの!? 助け忘れたじゃなくて!?」

 白煙に飲まれてフィアの動きが見えていなかった花中は、友達の行動に二重のショックを受ける。

 しかしフィアの方も言いたい事はあるようで、ぷくりと頬を膨らませた花中に説明した。

「いえ少々気になりましてね。あの娘の出した白煙……要するに霧でしたがそこに妙なものを感じまして」

「……妙なもの?」

「まぁ分からず終いなんですけどね」

 降参だと言いたげに、フィアは肩を竦めた。

 フィアが感じたものが何か、花中としても気になる。つい思考がそちらに没頭しそうになってしまう。

 けれどもなんとか堪えた。

 今、優先すべきはフィアの疑問ではない……フィリスによって傷付けられた、猫達の方だ。

 キャスパリーグもミィも、道路で四つん這いになって蹲っていた。二匹の下に花中は駆け寄り、恐る恐る声を掛ける。

「キャスパリーグさん、ミィさん、だ、大丈夫ですか?」

「……この程度、大事ない」

「あたしもー……って言いたいけど、駄目だねこりゃ。骨が折れた」

「えっ!? だ、大丈夫ですか!?」

「この程度で死にやしないよ。でも丸一日は安静にしないとかなぁ。戦うのはちょいと無理」

 ミィから症状を伝えられ、花中は安堵と悲痛の入り混ざった表情を浮かべる。命に別状がないのは良いのだが、怪我をした事には変わりないのだ。その痛みを思えば、胸がチクチクと痛んでくる。

 だからこそ、同情も抱いた。

 自分なんかより、もっと深く、もっと辛く……心を痛めている二匹への同情が。

「……あの」

 花中が言葉を掛けたのは、キャスパリーグから離れた位置で身を寄せ合う二匹の猫――――クリュとポル。

 人間など恐れる必要がないほど強い二匹は、花中の小さな声にビクリと身を震わせた。人の幼子の姿を保っている彼女達の顔には、酷い恐怖と怯えがあった。

「ご、ごめんなさい。あの、わ、わた、わたし……」

「ぼ、ボク、パパが盗られちゃうと、おも、思って……」

 ガチガチと顎を震わせ、必死に言い訳する二匹。

 話し始めたきっかけは、花中が呼び掛けた事だろう。しかしその言い訳の行く先は、決して花中ではない。

 自分達の行いにより傷付けてしまった、父親(キャスパリーグ)に向けてだ。

「……良いんだ、大丈夫」

 キャスパリーグは ― 恐らくはミィと同じく骨折している筈なのに ― ゆっくりと歩き、我が子の傍まで向かう。クリュとポルは目を潤ませ、互いに抱き合って、お互いの不安と恐怖を慰め合っている。

 まるで、そこに混ぜてくれと言わんばかりに、キャスパリーグは二匹を抱き寄せた。

「ぱ、ぱ……?」

「ああ、良かった。本当に、無事で良かった……」

 困惑する子供達の前で、キャスパリーグは怒らない。ただただ安堵し、喜びの言葉を呟く。

 それは彼の偽らざる本心。

 赤の他人、どころか他種族である花中にも分かるのだ。幼いとはいえ血の繋がったクリュとポルに分からぬ筈もない。

 クリュとポルの目が潤み、涙が溢れ出る。二匹は自分達を抱き締める父親に、自らの手を回して抱き付く。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「ごべんなざいぃぃ……!」

 ついにはわんわんと泣き出しながら謝る。

 それは、とても暖かな光景。

 声を掛けながらも無視されてしまった花中だが、親子が仲直り出来たのなら、そんなのはどうでも良い事だった。

「茶番ですねぇ」

 ……フィアの一言で、折角の暖かな気持ちは吹っ飛んでしまったが。

「もう、フィアちゃんったら。空気読んでよ」

「私がそういう事に不得手なのはご存知でしょうに。子供なら何やっても許されるなんて理解出来ませんよ」

 フィアは肩を竦め、本当に訳が分からないと言いたげだ。魚類である彼女に、親子の絆なんてものはなんの価値も見出せないのだろう。

 そしてフィアの娘もそれは同じという事か。

 フィリス。

 彼女は何故自分を求めているのか? 今日初めて顔を合わせたばかりの花中に、彼女の真意は読み取れない。何か理由があるのなら、もしも自分に協力出来る事なら、力を貸したいのだが……

 疑問は他にもある。しかしどれも此処で考え込んでいても答えには辿り着けないような気がした。自分ではさっぱり分からぬ時は、詳しい者に訊くのが一番だ。

 そして恐らく、此度の事態に一番詳しいのは『彼女』。

「ミリオンさん、出てきてくれませんか? お伺いしたい事が、あります」

 花中は虚空に向けて、友を呼んだ。

 ミリオンは、姿を現さない。

「今答えても良いけど、人目が気になるし、はなちゃんの家に戻らない?」

 けれども声はしっかりと発してくれた。

 確かに、と花中も納得する。虚空から声が聞こえてくるなんて怪奇現象、自分以外の者が経験したら腰を抜かしてしまうだろう。加えて先の争いにより、商店街も少なからず被害を受けた。そろそろ警察などの『公務員』が来てもおかしくない。

 ここは一旦退却が正解か。

「……分かりました。えと、ミィさん。わたしの家まで、一人で戻れますか……?」

「見くびらないでほしいね。骨折はしたけど、此処から花中の庭まで行くのなんて簡単だよ。むしろ兄さん達を現実に引き戻す方が大変かも」

「お任せしても、大丈夫ですか?」

「逆に訊くけど、花中にどうこう出来る?」

 花中は首を横に振った。ミィはニッと元気に笑い、骨折してるとは思えない足取りでキャスパリーグ親子の下へと向かう。

 ミィの背中を見つめながら、花中はフィアに抱き付いた。

「ん……じゃあ、フィアちゃん。家まで、戻ろう」

「了解です。しかしミリオンの奴あの小娘の何を知ってるんでしょうねぇ?」

 まるで見当が付いていない。そんな様子で独りごちるフィアに、花中は「そうだね」と同意の言葉を返す。

 だが、内心はまるで逆だ。

 何故ミリオンは今まで姿を見せなかった? 彼女はフィリスの何を知っている?

 フィリスの正体、そしてミリオンの目的。それらを考えると、なんとなく、花中は答えが見えた気がした。

 けれども、その答えは出来れば当たってほしくない。

 もしもその答えが当たっていたなら……

「花中さん?」

「あ、ううん。なんでもない」

 フィアに声を掛けられ、自分が考え込んでいた事に花中はようやく気付く。首を横に振りながら、花中はフィアに強くしがみついた。

 なんでもない、という答えに納得はしてないようで、フィアは一瞬眉を顰める。けれどもそれだけだ。基本能天気で何事にも無関心な彼女は、花中の『考え事』にさしたる興味も持たない。

「分かりました。では行くとしましょうか」

 フィアは花中を抱き寄せ、その場から力強く駆ける。颯爽とした足取りは、自転車よりも遙かに速い。

 大桐家の庭に辿り着いたのは、それからほんの数分後の出来事だ。

 ……………

 ………

 …

 そして大桐家の庭に全員が揃ったのは、フィアと花中が帰宅してから更に十五分ほど経ってからだった。

 クリュとポルは、父親であるキャスパリーグに抱き付いていた。それはもうべったりとしていて、そのうち本当に癒着するのではないかと思わせるほど。顔には満面の笑みが浮かんでいて、すりすりと頬を擦り寄せている。

 キャスパリーグは二匹の子供達とは違い鋭く真剣な表情を浮かべていたが、両手はバッチリ子供達の頭やら背中やらを撫でていた。口からは、時折ちょっと上機嫌そうな声が漏れ出ている。彼の妹はそんな姿を生暖かい眼差しで見守っていた。

「遅かったですね何時まで遊んでいたのです?」

 対して十五分も待たされたフィアは、露骨に不機嫌な様子。花中を背後から抱き締めたまま、むすっと唇を尖らせた。すっかり昇った朝日を受けてキラキラと輝く髪と肌がそんな怒りの顔を鮮やかに彩り、非常に魅惑的な表情にしている。

 彼等の身体能力ならば怪我を負っていても一分と掛からず商店街から大桐家まで来られる筈なのだから、待ち時間という意味ではフィアが苛立つのも仕方ない事だろう。勿論、哺乳類である花中はキャスパリーグ達が遅れた理由に見当が付くので、怒ったりはしない。むしろ微笑ましさのあまり、頬がとろんとろんに緩んでしまうぐらいだ。

「まぁまぁ、フィアちゃん。積もる話もあるんだよ、きっと」

「話が積もるほど長時間離れていたとは到底思えないのですが」

 合理的な意味では極めて正しい主張をしながら、フィアは眉間に皺を寄せる。

 合理的でない花中としては、何時までも親子の仲睦まじい姿を見ていたいところだが……本題の方をほったらかしにも出来ない。コホンと咳払いをして、気持ちの切り替えと周りに注目を促す。

「えっと、ミリオンさん。改めて、話してくれませんか。フィリスさんの事を」

 花中は再び虚空に向けて呼び掛ける。

 今度は、声による返事はなかった。

 代わりに黒い靄が空中に現れ、形を作り始める。花中はすっかり慣れてしまったが、見慣れぬ者達から見ればおどろおどろしい光景だ。キャスパリーグの子達は父親にしがみつき、キャスパリーグは真剣な眼差しで靄を睨む。

「はーい、良いわよーっと」

 されど睨まれている黒い靄当人――――ミリオンは彼等の視線などこれっぽっちも気にしていなかったが。ふわりと空を舞うように漂い、ミリオンは軽やかに着地。

 キャスパリーグ達を無視するように、ミリオンは花中と、花中を抱き締めるフィアの方へと顔を向ける。花中はすっと息を吸い、静かに吐き……気持ちを強く持って、ミリオンと向き合った。

「ミリオンさん、確認したい事は、二つあります」

「あら、二つで良いの? 謙虚ねぇ」

「一つは、あの子……フィリスさんが、どうしてわたしを、狙うのか。その理由を、ご存知ですか?」

 まずは相手の真意を問い質す。もしもなんらかの重大な理由があるのなら、花中としては手伝いたいからだ。

 問われたミリオンは「ええ、知ってるわ」と答えた。迷いは全くなくて、嘘を吐いている素振りはない。

「でも教えてあげない」

 そして間髪入れずに告げられたこの言葉に、悪意は何一つ感じられなかった。

「……教えて、くれないのですか?」

「ええ。教えたら、はなちゃんだと名案浮かんじゃうかもだしねー。それじゃあ、私が困る」

「ミリオンさんが、困る……」

「あなたの都合じゃないですか。というかあなたどっちの味方なんです?」

 返ってきた答えに不信感を覚えたのか、フィアがミリオンを問い詰める。

 花中としても、二つ目の質問としてフィアと同じ事を聞きたかった。ミリオンはフィリスの暴虐を無視し、戦いになっても姿すら見せていない。ミリオンの桁違いの強さを思えば、加勢した方が勝つというのに。

 フィアに問われると、ミリオンは嫋やかな仕草で口許を隠した。しかし花中の目線からは、その口に獰猛な笑みが浮かんでいるのがハッキリと見える。或いは、花中には見せているのかも知れない。

「別にどちらの味方でもないわ。さかなちゃんと、さかなちゃんの子供。勝った方に味方するだけよ」

 そしてミリオンはあっさりと、己の真意を打ち明ける。

 意外な回答ではない。

 ミリオンは花中の友達だが、この関係はミリオンにとってその方が『好都合』だから成り立つものだ。彼女の目的は常にただ一つであり、大事なものもただ一つ……亡き想い人との思い出のみ。

 花中を傷付ける意図がないのなら、花中の傍に居るのがフィアでもフィリスでも、難なら全然別種の生物でも構わないのだ。昨今の怪物の大量出現、その怪物達のミュータント化などを考えれば、より強い者で周りを固めた方が花中を守るという意味では好都合。ミリオンからすれば、RPGで新規加入の仲間と今のスタメンを入れ替えるような気分なのだろう。

 花中の気持ちなど、最初から気にも留めていないのである。尤も、その程度の事は一番の友達であるフィアで慣れっこだ。花中の動揺を誘うほどではない。

 それに、得られた情報は大きい。

 ミリオンが許容しているという事は、フィリスは花中を酷い目に遭わせようとはしていないという事だ。捕まっても命が危ない展開にはならないし、万が一の時には自らの身を『交渉材料』に使える。囮だとか盾などにも役立てるだろう。

 ……捨て身の作戦ばかりだなぁ、と思う花中であるが、むしろ使えるだけマシというものだ。普通のミュータントなら、人間がその身を盾にしたところで呆気なく踏み潰され、気付いてすらもらえないのがオチ。使えない以前の問題である。

 強いて懸念があるとすれば臆病な自分にそんな覚悟を持てるかどうかだが、殺されないという確証があるのなら、多分、頑張れる。花中はぎゅっと拳を握り締め、心を強く持とうとした。

 ――――さて、花中が訊きたい二つの事は以上で終わりだ。

 公平に強い方を決めたいミリオンが、花中とフィアにとって有益な情報を流す事はないだろう。ミリオンを説得する事も、彼女の愛の強さを考慮すれば不可能だと言わざるを得ない。

「分かりました。訊きたい事は、以上です」

 花中は自ら、話を終わらせた。

「あらそう? 訊きたい事があったらまた呼んでね、答えるかどうかは別だけど」

 じゃ、またね。

 最後に一言そう付け加えて、ミリオンは姿を消した。朝日の中に溶けるような、静かな消え方だった。

 尤も、居なくなったように見えるだけで、ミリオンは周囲を漂っている筈。花中が吐いたため息もミリオンはしっかり()()()()だろう。

「珍しいですね花中さんの方から話を打ち切るなんて。そんなにムカつきましたか?」

 勿論フィアからの問い掛けも、そしてこれからする答えにも、耳を傾けているだろう。

 此処での話もまた情報だ。しかしミリオンは『公平』である。この話を聞かれたところで、フィリスにべらべらと喋りはしないだろう。

 フィリスに聞かれるとちょっと不味いかも知れない話を、花中は隠さずに答える事とした。

「うん、ムカついた訳じゃないけど……ただ、あまり時間はないかなー、って思って」

「時間?」

「フィリスさん、来るとしたら、多分そんな先の話じゃないよ。もしかしたら、もうすぐかも」

 花中の予想にフィアは目をパチクリ。そしてキャスパリーグとミィは全身を強張らせ、クリュとポルは父親にしがみついた。脅すつもりはなかったが、怖がらせてしまったと花中は少し反省する。

 しかし決して冗談や思い付きで言ってる訳ではない。

 何故、フィリスはクリュとポルを唆したのか? 恐らく、キャスパリーグとミィを排除したかったからだ。ミュータント二匹 ― フィアを含めれば三匹 ― と真っ向から戦う事は、フィリスとしても避けたかったに違いない。だからこそクリュ達を自分の側に付け、キャスパリーグ達の油断を誘い……殺害を狙ったのだろう。

 しかしながら途中でフィアが乱入した事で、目的を果たす前にキャスパリーグ達を解放する羽目になった。結果親猫達は負傷こそしたものの、命は助かっている。

 戦力外にする、という意味では成功だが、骨折ならばいずれ治癒する。それもキャスパリーグ達の再生力ならばたった一日のうちに、だ。

 流石に強靱な再生能力までは知らないとしても、相手をあと一歩で逃がした事はフィリスも分かっている。時間を掛ければ戦力が回復するのは明らか。おまけに手の内を知られた状態なので、またクリュとポルを唆して、なんて手口は使えない。

 時間を掛ければ不利になるのはフィリスの方。これだけの『作戦』を練る事が出来た彼女なら、それぐらいの先は見通せる筈だ。勿論何日か後に、油断しているところを奇襲してくるという可能性もゼロではないが……フィアの『本能』がどれだけ鋭いか、フィアの子であるフィリスならなんとなく推し量れているだろう。

 総合的に考えて、短期決戦がベストなのだ。本気で花中(自分)の事を奪い取るつもりならば。

「ふぅん。我が子にしては随分と小賢しい手を使うようで……まぁなんであれ雑魚には違いありません。この私が叩き潰してやりますよ」

 花中の語る推論を聞かされて、されどフィアは寸分も自信を揺るがせずに胸を張る。自分が、自分の子に負けるとは露ほどにも思ってないのだろう。

 花中としても、基本的には同じ考えだ。フィアの記憶が確かなら、フィアがフィリスを産み落としたのはほんの二週間前。卵から産まれたのはそこから更に数日後の筈なので、フィリスは生後十日前後と思われる。卵黄は消えて餌を食べ始める頃かも知れないが、未熟な身体には違いない。

 そんなフィリスの力が、数多の激戦を切り抜けてきたフィアに勝るとは到底思えない。

 ……思えないが、一つ、懸念がある。

 キャスパリーグとミィもまた、それなりの年月を生きた大人のミュータントだ。少なくともミィは、フィアに負けず劣らずの強敵と戦ってきている。実力は折り紙付きだ。

 その二匹が、人質を取られたとはいえ敗北した。いくらミュータントでも、生後十日の赤子にそこまでの力が宿るのか?

 脳裏を過ぎる謎。その謎の答えを探そうと花中は首を傾げた、丁度そんな時だった。

 突如として、大桐家の庭が揺れ始めたのは。

「ひゃあっ!? え、じ、地震!?」

「ぱ、パパぁ!?」

「ななな、な、なにこれぇ!?」

 花中とクリュとポルは、突然の地震に驚く。花中はフィアに抱き付き、クリュとポルはキャスパリーグに抱き付いた。誰にも抱き付かれなかったミィが、ふて腐れるように頬を膨らませる。

 尤も、ミィの口から空気が抜け出るのにさして時間は掛からない。

 地震は止まらず、どんどん大きくなる。大桐家周りの家々も震え、木々が激しく揺れ動く。大桐家自宅の屋根から瓦が落ち、ガチャンガチャンと地面にて割れた。破片は花中の方にも飛んできて、フィアが水触手で周りを囲んでくれなければ、今頃花中の足には小さな切り傷がたくさん刻まれていただろう。

 しかし瓦の破片など些末なものだ。

 少なくとも、弾け飛ぶ道路のアスファルトに比べれば。

「ひっ!?」

「おっとこれは……よっと」

 飛んできた道路の欠片 ― 大きさはざっと一メートルはあるだろうか ― を前にして、花中は悲鳴と共に縮み上がり、フィアは軽々とこれを殴り飛ばす。粉砕されたアスファルトが飛び散り、怪我人であるミィ達を襲った。襲われても、四匹は小石が飛んできたかのように目を細めるだけで、避けはしなかった。

 勿論この行動は、道路の破片が当たったところで怪我などしないという自信によるものなのは違いない。されどそれ以上に、彼女達は目を離す事が出来なかったのだ。

 道路を砕いたのが、高さ何十メートルにもなる巨大な半透明の触手……水触手だったから。その水触手は何十本も生え、まるで巨大なイソギンチャクのような姿を形作ったのだから。

 そしてその水触手が、まるでこちらを見るかのように、その先端を向けてくるのだった。




伐とした親子関係ですねぇ。
でもまぁ、魚の親子関係なんて親が子供を食べるぐらいな程度のもんですし
(そもそも自分の子供と気付かないという)

次回は9/6(金)投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ7

 その『正体』は何か。

 考えれば答えはすぐに導き出せただろう。しかし花中達の目の前に現れたイソギンチャクの『化け物』は、花中達が思考を巡らせるよりも早く行動を起こした。

 無数の水触手を、次々と花中達の方に向かわせたのである。

 あたかも大蛇のようにうねる、半透明なそれにどれほどの重さがあるかは分からないが……軽くうねるだけで根元のアスファルトが捲れ上がり、大きな破片が飛び散っているのだ。人間なんて簡単に叩き潰せるほどのパワーがあるのは間違いない。

 そんなものに何十本も襲われたらどうなる? 人間ならば跡形も残るまい。迫り来る水触手を目の当たりにした花中は飛び跳ねるぐらい驚き、恐怖に震えた。

「ふんっ!」

 対して、花中の前に立つフィアは何も恐れない。

 なんの躊躇もなく繰り出したフィアの拳が、迫り来る水触手をぶん殴る! バチンッ! と激しい音を鳴らして水触手の一本が吹き飛ばされ、勢い余って反対側へと倒れ込む。水触手は真下にあった廃屋を粉微塵に吹き飛ばし、加えられた力の大きさを物語った。

 しかし倒れたのはたかが一本。水触手はまだまだ何十本も残っており、どれもがフィア目掛けて突き進んでいる。

 するとフィアは両腕を広げ、右手で何本かの水触手を殴り飛ばし――――薙ぎ払うように打ち込まれた水触手の一本を胴体で受け止めるや、開いていた左脇で抱きかかえる!

「ふっ……ぬああああああッ!」

 そして水触手を抱えたまま、その身を

大きく捻った!

 フィアの動きにより、水触手達が纏めてたぐり寄せられる! 大地の下に続いている部分はそのまま引きずり出され、半透明な塊……直系十メートルはあろうかという水球が地表へと出てきた。

 フィアと長い付き合いである花中は、その水球が『彼女』の作り出したものだと察する。恐らくあの中に『彼女』は潜んでいる……『彼女』の母であるフィアもそう理解している筈だ。

 水球を見るやフィアはにやりとほくそ笑み、捻った身体をぐるりと一回転。水触手を巻き取るように引いた。水球は強力な力で一気に引っ張られた影響で微かに浮かび、道路を粉砕しながらフィアの下へと引き寄せられていく。

「捕まえたァッ!」

 フィアは脇で抱えていた触手を投げ捨て、慣性でこちらに転がってくる水球を両手で捕まえた! 大きさ十メートルの水球はフィアから逃れようとするように藻掻くが、フィアの腕はこれを離さない。指は水球に食い込み、ガッチリと捕らえている。

 しかし水球はあくまで水だ。

 水球はフィアに捕らえられていない部分を自由に動かし、のたうつように暴れる。フィアはなんとか拘束しようとしてか、指先から『根』のような白いもの……恐らくは自身がコントロールしている水だ……を張り巡らせるも、その『根』は水球の一割も覆わない。なんらかの抵抗に遭っているようだ。

 やがて水球は『根』の周りだけを剥がすようにしながら離脱。フィアは舌打ちしながら残った『根』を指から取り込む。あまりにも激しい攻防を見た事で呆けてしまった花中は、事が終わってから慌ててフィアにしがみついた。

 そんな花中とフィアの前で、ざっと十メートルほどの距離を取った水球が形を変え始める。あたかも花が開くように、水球が開かれたのだ。花弁のように変形した水の塊はキラキラと光り、花中はその美しさに思わず見惚れてしまう。

 故に花中は真っ正面から、水球の中心に佇む者と目が合う。

 フィアに阻まれた事など気にも留めてないとばかりに微笑む少女――――フィリスと。

「ご機嫌よう、お母様」

「お前……!」

「ううぅ……!」

 フィリスの挨拶に真っ先に反応したのはフィアではなく、キャスパリーグの子であるクリュとポルだった。クリュは怒りを言葉にし、ポルは威嚇の声を上げたが、フィリスは笑みを崩さない。

 いや、それどころか見下すような冷笑を浮かべていた。

「おや、まだ居たのですか。ご両親と共に逃げていたかと思ったのですが」

「お前、よくも騙したな!」

「がるるる……!」

「お前達! 前に出るな!」

「駄目! 動いちゃ……!」

 挑発的な言葉で煽るフィリスに、クリュとポルが怒りを露わにしながら躙り寄る。キャスパリーグとミィが慌てた様子で二匹を呼び止めるが、怒りに燃える幼子達の足は止まらない。

 その二匹を見たフィリスが一層愉快そうに微笑んだので、花中もクリュ達を止めようとしたが……一手遅い。

 クリュとポルの足下が突如として陥没。地面の中に二匹は姿を消し――――花中がそれを理解する前に、二匹はフィリスのすぐ側の地面から出てきた。水触手でぐるぐる巻きにされた状態で。

「クリュ! ポル!」

「いやぁ、まさかこんな簡単に捕まえられるとは思いませんでした。馬鹿ですね、あなた達」

「うぐ、ぐぐぐ……!」

「パパ! パパァ……!」

「おっと、今のうちに済ませておきますか」

 苦しむクリュとポルの声など聞こえないとばかりに無視しつつ、フィリスは何気ない仕草で指先をキャスパリーグとミィの方に差し向けた。

 瞬間、キャスパリーグとミィからバヂンッ! という激しい音が鳴る。

 何が、と思って花中が振り返れば、キャスパリーグとミィが息を合わせたように大きく仰け反っていた。こんな時に何を? 疑問を抱いてしまう花中の前で、二匹は更に大きく仰け反り……ズシンと音を立てて倒れてしまう。

「ごがっ!? あ、が……!」

「うぎ、ぎぁ、あぁ……!?」

 そしてビクビクと痙攣しながら、苦悶の声を漏らし始めた。のたうつように暴れるのは苦しさからか、それとも……立ちたくても立てないのか。

「み、ミィさん!? キャスパリーグさん!? 何が……」

「おや、これで動けるのですか。隙だらけだったので脊髄の方をちょいっと傷付けさせてもらったのですが、想像以上にしぶといですねぇ」

 花中の疑問に答えるように、フィリスは淡々と独りごちる。

 ゾッとした。

 『赤の他人』とはいえ他人の脊髄を易々と傷付ける精神構造に――――ではない。フィアの娘なのだ。フィアならばそのぐらい平気で出来るのだから、彼女の娘に出来ない道理などない。恐ろしい事だが、想定外の展開ではなかった。

 ゾッとしたのは、キャスパリーグ達を平然と傷付けたその力だ。恐らくは見えないほど細くした水の糸でも伸ばし、耳などから侵入させたのだろう。いくら骨折という怪我を負い、フィリスに囚われた子供達の事で頭がいっぱいだったとはいえ、キャスパリーグ達の隙を突く……それを易々と成し遂げた事が恐ろしい。

 フィリスの実力は、如何ほどのものなのか。

 藻掻き苦しむキャスパリーグ達は、少しずつだが暴れ方が静かになっている。弱っているのではなく、ぎこちないが立ち方が上手くなっている印象だ。桁違いの身体能力には、再生能力も含まれている。脊髄の傷も徐々に回復しているのだろう。だが、すぐに復帰出来るとは思えない。

 今フィリスと戦えるのは、フィアだけだ。

 フィリスは、最初からこの状況に持ち込もうとしていたのだろう。恐るべき力を持ちながらも慎重に事を進めるタイプなのか。わざわざ姿を現したのはクリュとポルの感情を逆撫でし、二匹を前に出させるための策だったのだろう。仮に策が上手くいかずとも、どうせ水で出来た仮初めの『身体』なのだから、なんらかの拍子に殴られたところでダメージとはならない。リスク管理も万全だ。

 少なくとも彼女の母親であるフィアには、こんな器用な腹芸は無理だ。

 頭が回る相手は厄介である。戦いの中でもその知略を用い、優位に事を運ぼうとするだろう。力の勝る相手でも軽やかに立ち回り、勝利を収める。知恵によって繁栄してきた人類だからこそそう思うのかも知れないが、賢い相手との戦いはとても恐ろしいものだ。

 しかし賢いという事は、メリットとデメリットを理性的に判断出来るという事。ならばこちらから別案のメリットを提示する、或いは向こうの目的のデメリットの大きさを指摘出来れば……行動を変えるかも知れない。

 話し合えば、戦いを回避出来る可能性がある。いや、そもそもフィリスが何故自分を得ようとしているのか、その目的を自分達は知らないではないか。もしかしたら、一緒に暮らす事だって出来るかも知れない。

「……あの! 一つ、訊きたい事があります!」

 花中はフィアの影に隠れながらも、思いきって尋ねてみる事にした。

 果たしてフィリスはこちらの話に乗ってくれるのか? 一抹の不安が過ぎるものの、フィリスは目をキラリと輝かせ、すぐに花中と視線を合わせた。どうやら杞憂だったようだ。

「はい、なんですか?」

「あ、あの……どうして、あなたはわたしを、手に入れたいと、思うのですか? 目的を、教えてくれませんか?」

「目的ですか? ええ、構いませんよ。大したものじゃありませんし」

 花中の問いに、フィリスはとても気さくな素振りで返答する。隠し事をしている様子は見られない。フィリスはクリュとポルを騙した元凶であり、おいそれと言動の全てを信じる事は難しいが……煌めく瞳に嘘は感じられなかった。

 なら、これから告げられる言葉は真実なのだろう。花中はそう思った。

「私、色んな景色を見て回りたいのですよ」

 思ったが、語られたフィリスの言葉をすんなりとは受け入れられなかった。あまりにも純朴で、些末な願い事過ぎるが故に。

「……景色を、見て回りたい……?」

「ええ、そうです。私、生まれた池から出た時の景色に感動しましてね。池の中は泥で濁ってなーんにも見えなかったのに、外の世界は彩り鮮やかですごく綺麗だなぁって思ったんですよ」

「な、成程。確かに、池の中と比べれば、外の方が鮮やかでしょうね」

「ええ。それでですね、この世界にはもっと色んな、美しい景色があるのかなーとも考えまして。だからそれを見に行きたくなりまして」

「見に行きたいなら勝手に行けば良いでしょうが。我々に構わず」

 しっしっ、と言いながらフィアは片手を前後に振ってフィリスを追い返そうとする。

 けれどもフィリスは動かない。如何にも悩ましげに腕を組み、困ったように眉を顰めるだけだ。

「それでも良かったのですけどねー。ただ、一つ大きな問題がありまして」

「問題?」

「私が持っているこの知能と力が、とある人間から与えられたものだと知ったのです。まぁ、知ったのは麓に降りた後からでしたけど」

 フィアの問いに、フィリスがさらりと答える。

 その答えに、花中は息を飲んだ。

 フィリスはフィアと同じくミュータントだ。つまり人間の脳波を受け取り、その人間の知識を得ている筈である。

 花中(自分)の脳波と知識を受け取ったなら、ミュータントの発生原理を知っていてもおかしくないし、その脳波の発生源が花中である事を把握していてもなんら不思議ではない。フィリスは池でミュータントへと覚醒し、その後綺麗な景色を見るため麓に下りたところミュータントに関する知識を得て――――

「(……え?)」

「まぁ、要するに単身で世界を回っていては、何時元の魚に戻ってしまうか分からなかった訳です。なんか五年ぐらい掛かるという知識もありますが、その前にもポツポツ抜け落ちるようですからね。そこで大桐花中の知識を落としてはもう終わりです」

 考え込む中で違和感を覚える花中だったが、フィリスはお構いなしに話を進める。ひとまず頭の中の疑問は脇へと退けて、花中はフィリスと改めて向き合う。

「ま、そーいう訳なんで大桐花中を連れ回したかったのですが、どうやら私の母は独占欲が強いようで、貸してはくれそうにない」

「そりゃそうでしょう。花中さんはこの私の大親友なんです。あなたに渡す訳がありません」

「でしょう? それにですね、私もお母様と同じなんですよ……どうせなら、独り占めしたいなぁって。だから襲いました。ついでに邪魔な方々も皆殺しにしておこうかなーっとも思いまして」

 とても簡潔に、キッパリとした言葉でフィリスは話を纏め上げる。

 花中はごくりと息を飲んだ。

 綺麗な景色を見たい。

 その気持ちは花中にも分かる。けれどもそれは、あまりにも『些末』な願いだろう。叶わなくても生命には何も影響ないし、他の楽しみだって幾らでもある。勿論フィリスにとってはとても強い願いかも知れないが……だとしても、そのために親を殺そうという考えに至るのか、花中には理解出来ない。挙句全く無関係な家族の愛情さえも利用した。もしかすると自分達が知らない場所で、他にも色々なものを壊しているかも知れない。

 人類の観点から見れば、それは邪悪な行いに思える。しかしケダモノ達の視点からすれば、悪でもなんでもない。利用出来るものがあったから使っただけ。邪魔だから排除しただけ。極めて真っ当な生き方だ。

 きっとフィアも同じ考え方をするだろう。同じ考え方だからこそ、こう思う筈だ。

 それはこっちの台詞だ、と。

「ふんっ! 要するに花中さんを力尽くで奪うつもりという事じゃないですか! 絶対に絶対にぜーったいに! 花中さんは渡しません!」

「元より期待などしていませんので。さぁ、お母様。今度こそ本気で遊びましょうか?」

 闘争心を剥き出しにするフィアを前にして、フィリスは片手を前に出すや挑発的な仕草でフィアを招く。

 あまりにも強い自信だ。なんらかの罠を仕掛けているのではないか。

 人間である花中は、フィリスの態度をそう読んだ。が、彼女の『母』はそこまで頭が回らない。

「この私に本気を出さるなんて百年早いですよォォォォッ!」

 瞬時にブチ切れたフィアは、花中が警告するよりも前に音よりも速く突っ込んだ!

 我が子に対し、フィアはなんら躊躇いなく拳を振り上げる。すると拳はみるみる変形し、刃のような形となった。その上刃の表面は水分子で形成された『棘』が無数にあり、超音速で蠢いている状態だ。

 その形は、例えるならば電動ノコギリ。

 そんなものを迷いなく娘の脳天に振り下ろせるのは、フィアが子供への愛情など持ち合わせていない種だからに他ならない。

 ならば、フィアと同じ種であるフィリスが、母からの暴力に戸惑う筈もなかった。

「おおっと」

 おどけるような声を出しながら、フィリスは片手を伸ばした。他の事に力を使いたくないのか、この時クリュとポルは遠くに投げ捨てられる。尤も、子猫二匹など端から眼中にないフィアの攻撃が、これで止まったり遅くなったりする筈もないが。

 フィアの刃とフィリスの掌がぶつかり合う。ギャリギャリと金属同士が削れ合うような音が鳴り、フィアが本当に容赦ない一撃を加えた事が花中にも分かった。

 だが、これでもフィリスには届かない。

 最初は、受け止めているフィリスの手が大きく波打っていた。フィリスの手から破片が飛び散り、作り物の『身体』がダメージも負っている。フィアが圧倒的な優勢だった。

 しかし時間が経つと、フィリスの手から破片が飛ばなくなる。手が波打つのも止まった。それどころかフィリスはフィアの刃を受け止めている手を、ぎゅっと握り締めてしまう。高速回転する刃は更に甲高い音を鳴らしたが、フィリスは気にも留めない。むしろ爪を立て、一層強く刃に抵抗を掛けた。

 するとフィアの刃の動きが、段々と鈍り始めた。

 フィアが苦々しく表情を歪めた。素直にやられなかったから、ではない。彼女は『そこそこ強い』相手には嬉々とした笑みを返し、楽しんでボコボコにしてやるタイプだからだ。表情を歪めるという事は、本当にヤバいという事。

 パワー負けしている。

 或いは生後数日の赤子が、歴戦の勇士を押していると言うべきだろうか。

「ぐっ……ぬぐぐぐぐぐぐ……!」

「へぇ、成程成程。こういう使い方もあるんですねぇ。勉強になります。つまり、こうやれば良いんですよね、お母様?」

 唸るフィアの前で、フィリスは開いている片方の手をわざとらしく掲げた。その手はゆっくりと変形し、フィアが自身にぶつけようとしている刃と同じ形になる。

 違いがあるとすれば、その回転数だろう。フィアにしろフィリスにしろ、刃の蠢く速さは人間である花中の目に見えるような鈍足ではないのだが……フィリスが形成した刃の周りでは、空気が歪んで見えた。恐らく、高速回転により周辺の空気が超音速で掻き分けられている影響だ。しかし切り裂いているのは刃の表面部分のみ。範囲は極めて小規模で、このような事象は花中も初めて見る。

 そう。今まで幾度となく見てきたフィアの刃でも、こんな事象を起こした事はない。

「これなら、及第点でしょうかッ!」

 フィリスは楽しげに笑いながら、フィアに刃を振り下ろした!

 フィアは開いている片方の手を素早く頭上で構え、これを受け止める。こちらからも金属同士がぶつかったような甲高い音が鳴り響き、人智を超えた強度と力のぶつかり合いを物語った。フィアがフィリスに刃を振り下ろした直後と同じ構図だ。

 フィリスの時との違いは、最初は問題なく受け止めていたフィアの手が、少しずつ歪み始めたという事。歪みは大きな波打ちに変わり、波打ちが大きくなると小さな水滴が肉片のように辺りに飛び散り出す。

「ちっ!」

 最後は、フィアが跳ぶようにして後退。一メートルほどフィリスから離れる。

 受け止めていたフィアの手を切り裂いて、フィリスの腕が大地を叩いたのはその直後であった。

 もしもフィアが意地を張って留まっていたなら、そのまま頭から股下まで一気に切り裂かれていたに違いない。それほどの力強さを、花中はフィリスの動きから感じ取る。フィアが『身体』で攻撃を受け止めなかったのも、本能的に防げる気がしなかったからに違いない。

「おっとっと。手が地面に……んー、中々面白い使い方ですけど、難しいですねこれ。形を保つにも意識しないとだし……っとと、どべっ」

 フィアと花中の緊張感を他所に、フィリスは地面に突き刺してしまった己の手を引っこ抜くのに四苦八苦。力強く引き抜いた反動でひっくり返り、頭を地面に打つ。

 あたかも力に振り回されているような動き。あれは演技だろうか? 一瞬そう考える花中だが、違うだろうと結論付ける。

 恐らく、フィリスは本当に自分の力の使い方をよく分かっていない。

 フィアも初めて会った時からとんでもない力を使っていたが、それでも今ほどの出鱈目ではなかった。二千度程度の温度にも耐えられなかったし、一億トンの水を溜め込むのすら精いっぱい。今でこそ数万度の高温を平然とやり過ごし、数千万トンの水を軽々と操ってみせるが、これは様々な経験により成長した結果だ。無数の試行錯誤と閃きが今のフィアを形作っている。

 対するフィリスは、フィアの子だ。ミュータントの個体毎の能力差がどの程度かは不明だが、フィリスがフィアより『性能』的に劣っているとは限らない。仮に同等の力を有しているなら、やり方さえ分かってしまえばフィリスにはフィアと同じ事が出来てしまうのだ。

 フィリスにとってフィアは最高の『お手本』だ。フィアが戦えば戦うほど、技を使えば使うほど、フィリスは真似して強くなる。圧倒出来るのは最初だけ、技はすぐに互角の水準まで持ち込まれてしまう。

 いや、それどころか……

「うーん、カッコいい技ですけど、私好みじゃないですね。私ならもっと小洒落て美しいものが好みです。こんな感じのやつ、がね!」

 思考を巡らせる花中。その花中に見せ付けるかのように、優雅に舞いながらフィリスは腕を前に出す。

 その指先から()()()()が放たれた。

 否、レーザーではない。超高圧縮された水を一直線に放つ……かつて『マグナ・フロス』が用いた技と同じものだと花中は見抜いた。最も見抜いたところで、レーザーと見紛うほどの速さの攻撃に反応など出来ない。

 フィアも避ける事すら叶わず、フィリスの繰り出したレーザーもどきがフィアの胸部を打った。正確には水を飛ばしているのではなく、レーザーのように細く圧縮した水の塊。棍棒で突かれるようなものだったらしく、フィリスが繰り出した水は飛び散る事もなくフィアを大きく押し出した。フィアの身体が貫通される事はなかったが、一気に数メートルとフィリスから離される。

 そのフィアの足下から無数の水触手が生え、フィアの身体に絡み付いた!

「ぬっ……この程どぅおっ!?」

 水触手を切ろうとしたのか、それとも取り込もうとしたのか。しかしなんらかの行動を起こすよりも、フィリスの水触手が動き出し、フィアの身体を持ち上げる方が早い。

 水触手はフィアを彼方へと放り投げ、更に数十メートルとフィリスから引き離す。一年以上前に行われたオオゲツヒメとの戦いにより、この地が廃墟と化していたのは不幸中の幸いだった。もしも此処が今も住宅地だったなら、投げ飛ばされたフィアによって何十もの家が倒壊したに違いない。

 投げられたフィアの身体は瓦礫の山に激突し、まるで積み上がった埃のように石やコンクリートの欠片を舞い上がらせる。辛うじて原形を残していた廃屋も震動で倒壊し、瓦礫の仲間入りを果たした。如何に無人の家とはいえ、誰かの思い出が消えてしまった事に花中は胸が締め付けられる。

 されど今はこんな、『無意味』なものを気にする余裕などない。

 吹き飛ばされたフィア目掛け、無数の水触手の上に乗ったフィリスが突撃を仕掛けたのだから。

「おのれ……っ」

 瓦礫を吹き飛ばし、復帰したフィアに無数の触手が迫る。フィリスの操る水触手はアスファルトを砕きながら前進を続け、止まる気配すらなかった。

 このままでは正面衝突だ。しかしこの程度で怯むほど、フィアの闘争心は生温いものではない。

「小賢しい小娘がアアアアアッ!」

 それどころか一層ボルテージを上げ、フィアはブチ切れる!

 人間の姿を捨て、フィアは己の身をぶくりと膨れ上がらせた。服も髪も身体の内へと格納し、顔は両生類と魚類の合いの子のようなものへと変形。全長は五十メートル近く、体表は白銀に輝き、二足歩行するカエルのような姿へと変貌する。

 この歪にしておぞましい姿こそ、フィアが誇る肉弾戦特化形態。格上だろうがなんだろうが、強引に叩き潰してきた暴力の化身である。

 されど此度の相手は自らの娘。

「あら、次は直接対決の作法を教えてくださるのですか? なら、同じ舞台に立ちませんとネェ!」

 フィリスは乗っていた水触手を一度下半身から取り込み、次いで同じく下半身から無数の水触手を生やした。更にその身は一瞬で膨らみ、変形していく。

 フィリスもまた、フィアと同じくカエルの化け物のような姿へと変身した。ただしこちらは背中に無数の水触手を生やし、サイズはフィアよりやや小ぶりな四十メートル程度。見た目だけなら、気味は悪いがフィアよりも力が弱そうである。

【潰レロオオオオオッ!】

 尤もフィアはこれで加減してくれるような、家族愛など持ち合わせていない。フィリスの変形が終わる前に突撃し、完了した直後に正面からぶつかりあう!

 体当たりを受けたフィリスの身体は大きく仰け反った、が、フィリスはその両生類とも魚類とも取れる顔に笑みを浮かべる。

 反撃とばかりに繰り出されたフィリスの右手は、ドリルのように回転していた。

 ドリルはフィアの顔面を穿ち、抉り飛ばす! フィアの顔を形成していた水が飛び散り、一瞬にして顔面の三割が崩壊。内部を露わにする……とはいえ所詮作り物の顔だ。中身が露出したところでフィアにとっては痛くも痒くもない。もう一発体当たりを喰らわせてやるとばかりに、フィアはその身を僅かに屈める。

 フィリスはこれを見逃さない。

 己が打ち込んだドリルによって、フィアの顔面から飛び散った水。怪物の顔でフィリスが目配せすると、なんと飛び散った水が空中で止まった。

 更に、まるで指揮棒でも振るかのように手の形を留めている右手を動かせば、飛び散った水がフィアへと突っ込む! 水は自ら出した速度に耐えられなかったのか、フィアとぶつかった瞬間爆発するように粉砕。濃厚な霧のように漂い、フィアの正面を塞いだ。

【グッ……鬱陶シイッ!】

「お褒め預かり光栄です。ほぉーら、こうすればもっと鬱陶しいですよ?」

 咆哮染みたフィアの怒りも、フィリスは何処吹く風。平然と煽り返す。

 されど言葉だけではない。

 フィリスの言葉に応えるように――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 霧の動きを目の当たりにしたフィアは一瞬身を強張らせた。大概の事は気にも留めないフィアが足を止めたのだ。それでも、次の瞬間にはやはり突進したが……霧と接触した瞬間、轟音を轟かせて弾かれてしまう。霧は文字通り、壁のような頑強さを有していたのだ。

【グッ……ウヌゥ……!】

 自らの体当たりの衝撃でよろめいたフィアは一歩二歩と後退り。

 どうにか踏み止まり、転倒こそ避けたが、怪物の顔に驚愕と苦悶の色が浮かぶ。

【馬鹿ナ……ドウシテ霧ヲ操レルノデスカ……!】

 そしてその困惑を、唸るような言葉でぶつけた。

 花中もフィアと同じ心境である。フィアの能力は水を操る事だが、その力には幾らかの制限がある。操れるのはフィア本体と接触している、或いはフィアが操っている水と()()()()()()水だけだ。

 故にフィアは霧を操れない。霧は細かな水滴が無数に浮遊している状態……つまり一粒一粒に僅かではあっても隙間が空いている状態だからだ。無論水触手や『糸』を展開し、霧を形成する水滴と触れさえすればコントロール下に置けるが、それは最早霧ではない。

 なのにフィリスは、霧を霧のまま操っている。

 産まれて数日程度の彼女が、成熟した大人であるフィアさえも真似出来ない事を成し遂げているのだ。

「……? 何を戸惑っているのです?」

 ましてやそのフィリスに、自分のしている事がどれだけ非常識かの自覚がないとしたら?

 ――――それは、花中が考える中で最悪の可能性。

 かつてミリオンと戦ったRNA生命体は、こう語っていたという。DNAには簡易ながらも学習・判断能力があると。そのちっぽけな知性により様々な進化を起こし、地球上に広く繁栄していったと。

 そしてあまりにも優秀過ぎて、RNAによる制御が必要だったと。

 ミリオンが聞いたRNA生命体の言い分が正しければ、三億年で単純な生命体から今の生態系を構築出来たという。一足飛びの進化などお手の物という訳だ。

 それが、ミュータントに起きたなら?

 フィアの能力は圧倒的だ。水爆すら通じない力を持った今、人類文明では彼女の暴虐を止められない。正しく最強無敵のモンスター。

 けれどもDNAからすればまだまだ改善点が多いのだとすれば? 一代目であるフィアはいわば試作品であり、一代目が積み上げた経験を元にして、欠点や非効率な部分を解消した状態で産まれた次世代こそが『真のミュータント』であるならば……

 果たしてフィア(母親)は、フィリス()に勝てるのか?

「……ふぅーん。成程、そういう事ですかぁ。出来ないんですねぇ、お母様にはぁ」

【……………】

「図星ですかねぇ? まぁ、良いですけどね。そーいう事であるならば……こっちからがんがん押させていただくだけですからァ!」

 黙りこくったフィアに、今度はフィリスが突っ込む!

 四股を踏み、フィアはフィリスを迎え撃つ! 自分よりも一回り小さな体躯を胴体で受け止め、一歩たりともフィアは後退しなかった。

 だがフィリスの攻撃はここで終わらない。

 フィリスの背中に生えている数十もの水触手がうねり、四方八方へと伸びて地面に突き刺さる。地面から水を吸い上げるのか? フィアが強敵相手に使う手口と似ていたがために、花中はそう思う。

 フィリスの場合は違った。

 フィリスは、なんと地面を()()()()()のだ。突き刺した水触手を折り曲げ、先端を上に向けると、その近くにあった地面が塊となって浮かび上がる。土塊の大きさはざっと十メートル。まるでテレキネシスの使い手のようだ。

 しかしそれはテレキネシスではなく、水を操る能力の延長線上の現象。恐らくは土中の水分をコントロールし、浮遊させているのだと花中は考えた。霧を操れるという事は、水の遠隔操作が可能だという事。それを応用すれば、水の染み込んだ土を持ち上げる事など造作もあるまい。

 フィリスの水触手が大きく波打つと、持ち上げられた土の塊が粉々に砕ける。砂のように小さな粒となった土は、ふわりと舞い上がり、直系二十メートル近い大きな渦を作った。渦は徐々に加速していき、ものの数秒で花中の目にはぼやけた茶色い球体にしか見えないほどの速さに達する。まるで砂から造られたドリルのようだ。

 おまけにこれは一箇所だけの話ではない。フィリスが伸ばした水触手は数十本とあり、その全てが巨大な土の塊を持ち上げ、そして粉砕していた。

 生み出される莫大な数の渦。

 フィリスは触手を伸ばし、これらをフィアにぶち当てる! 渦と渦はぶつかり合うと合体して一つになり、巨大化した渦はフィアの全身をすっぽりと覆い尽くしてしまった。

【グゴ……グウウウウウッ!?】

 渦に包まれたフィアが呻きを上げる。大きく仰け反り、フィリスから後退ってしまう。

 土を細かな粒子へと変え、凄まじい速さで渦を描かせる……例えるなら、それは超高速で回転するヤスリのようなものだ。おまけに水分を含むとはいえ、攻撃の主体は土。フィアの能力でコントロールする事は勿論、取り込んで自分のものにする事も出来ない。

 水爆にも耐える『身体』が、ヤスリという原始的な攻撃で徐々に削られている。フィアは両腕を振り回して砂の渦を吹き飛ばそうとするが、その渦はフィリスの能力により制御されるもの。フィアが腕を振り回したところで、吹き飛ばせるような代物ではないのだ。

【ヌゥアアッ! 小賢シイッ!】

 ついにフィアは、悪態を吐きながら砂嵐から逃げ出す。

 無論逃げねばやられてしまうのだから、この行動は仕方ないもの。しかし逃げるという事は、自らの形勢が不利であると声高に主張するのと同じだ。

 フィリスからすれば、みすみす逃す理由なんてない。

 フィリスは水触手をうねらせる。一つに合体していた渦は分離し、再び二十メートルほどの渦となって水触手の先端に乗った。フィリスはこの水触手を、数百メートル先まで逃げるフィアへと伸ばす。

 恐らく、フィリスの遠隔操作も完璧ではない。射程距離自体は短く、自身の操る水から二十メートル程度が限度なのだろう。フィリスのこれまでの攻撃から、花中はそう推測した。

 だが、それがどうした。

 フィリスには水触手がある。水触手を伸ばせば、幾らでも射程距離は伸ばしていけるのだ。これにも限度はあるかも知れないが、直接の殴り合いで問題になるものではないだろう。

 逃げるフィアに、フィリスは伸ばした水触手と共に渦を押し付ける。逃げても逃げても追ってくる渦に、あまり我慢が得意でないフィアは怒り心頭で振り返り……けれども形のない、おまけに能力で制御された渦を止める事は出来ない。

【グ……グゥ……ウゥゥ……!】

 唸り、威嚇をすれども、フィリスの描く渦は消えない。フィアはその場に膝を付き、動けなくなる。濃密な土の渦の向こうに居るフィアの姿は、花中の目には見辛いが……段々と、小さくなっている事は分かった。

「はっはっはっ! 降参しますかぁ? まぁ、降参しても許すつもりもありませんがね。私なら、助かったら必ずリベンジを企てますので」

【……ッ】

「だからここで粉々になって死んでくださいな、お母様」

 自らが追い詰めた『母親』に、フィリスはなんの感傷もなく死刑宣告を下す。

「お、お願い! もう止めて! あの、わ、わたし、一緒に行きますから、だから……!」

 花中は咄嗟にフィアの助命を求めたが、フィリスは怪物の眼を一瞬チラリと向けただけ。返答はおろか、渦を止める気配すらない。先程フィアに向けて告げたように、生かせばフィアは花中の奪還に来ると見透かされているのだ。

 止められない。止める方法が思い付かない。

 なんとかして策の一つでも捻り出そうと考えを巡らせるが、フィリスは悠長に待ってはくれない。自身が戦いの中で著しく成長したように、フィアもまた戦いの中で成長するのを理解しているのだろう。操る渦は一気にその速さを増し、フィアの姿を完全に覆い隠す。摩擦による静電気によるものか、湿った土で出来ている筈の渦からは雷撃が飛び交い、付近に打ち込まれて破壊を広げていく。

 強過ぎる。どうにもならない。

「フィアちゃん……!」

 出来るのは追い詰められた親友の名を呼ぶ事だけ。そしてこんな言葉には、なんの力も宿っていなかった。

 つまり、花中は何もしていない。

 何もしていないのに――――フィリスの巨体が、唐突に吹っ飛んだ!

「ぐぬあっ!? 何……!?」

 呻きを上げながら、怪物の身体を軽やかに動かしてフィリスは体勢を整える。まるで体操選手のようなアクロバティックな動きだったが、百メートル以上飛ばされたフィリスに余裕はない。

 フィリスが離れた事で、渦はコントロール圏外に出てしまったのだろう。超高速回転していたそれは、四方に飛び散るようにして霧散。そこにフィアの影はない……と一瞬花中は錯覚して顔を青くしたが、よくよく見れば渦の中心に小さな人の姿がある。人間形態になっているフィアだった。防御を固めるために、体積を小さくしていたのかも知れない。

 花中は遠く離れてしまったフィアへと駆け寄る。二匹が暴れた事で、元々廃虚状態だった住宅地はすっかり更地。花中でも楽々と駆け抜けられる。

 近付くほどに、助かったフィアのキョトンとした顔がハッキリと見えるようになった。詳細は訊かねば分からないだろうが……間違いなく、フィアは何もしていないだろう。彼女は演技が出来る性格ではないのだ。

 何よりもしもフィアが何かしたのなら、フィリスの前にあの二匹が立っている筈がない。

 黒い髪を携えた、小さくて、とっても親思いで……そしてパワーに満ちた獰猛な捕食者。

 クリュとポルが、怪物姿のフィリスの前に立ち塞がっていたのだった。




次回、子供達の猛反撃!
こう書くとファミリー映画っぽいですね! なお、やるのは血みどろ大乱闘の模様。

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ8

「クリュさん、ポルさん……!?」

 目の前に現れた子猫達の名を、花中は思わず呼んでいた。

 クリュもポルも両足を広げ、腕を組んで仁王立ちしていた。花中はその姿を背後から見ていたが、間違いなく怒りと興奮に満ちた表情を浮かべていると分かるぐらい堂々としている。

 確かに、彼女達はフィアとフィリスが激突する直前、何処かに投げ捨てられていた。どうせ盾にはならないし、確保するだけエネルギーの無駄とでも判断されたのだろう。フィアとフィリスが戦っている間に心身を落ち着かせ、慎重に時を待っていたとしたら、クリュ達が此処に現れる事が出来たのは頷ける。

 しかし、何故此処に来たのか。

 どうして彼女達はフィリスを()()()()()()のか。

「さっきから見てれば、自分のお母さんに酷い事ばかりして!」

 困惑する花中の前で、クリュが力強く語り出す。うんうんとポルが頷いた。

「それにパパとおばちゃんにも酷い事して!」

 ボクにも言いたい事はあるんだぞ。そうとばかりにポルも批難する。クリュがうんうんと頷いた。

 フィリスは、二匹の言葉に何も答えない。が、吹き飛ばされたその巨躯を起こし、立ち上がり……怪物の姿を変形させて、幼い少女を模る。

 されどその目にあどけなさはない。

 憎悪や苛立ちもない。あるのは純粋なる怒りと、殺意の二つだけ。あと一歩で仕留められた獲物を奪い取られた捕食者のような、鋭い視線をクリュ達に向ける。直接視線を向けられていないのに、花中なんかは一瞬意識が飛んでしまうほど恐ろしい目付きだった。

 だが、ミュータントの子供達は一歩も退かない。

「嘘吐きだし、家も壊すし、みんなを傷付けて! 悪い奴なら容赦しないよ!」

「しないぞ!」

「……しないなら、どうするつもりですか?」

「一発、ううん、めちゃくちゃぶん殴る!」

「ボッコボコにぶん殴る!」

 威勢の良い宣告と共に、クリュとポルは同時に前傾姿勢を取る。それは正しく獲物へと向かう獣のよう。

 二匹は挑むつもりなのだ。フィアすら手に負えない、フィリスという化け物に。

「ま……」

「待て! お前達!」

 花中が咄嗟に止めようとした、それを遮るようにキャスパリーグの声が飛ぶ。

 未だフィリスに付けられた傷の影響があるのか。キャスパリーグの足はガタガタ震えていて、立つのがやっとという様子。それでも前に出ようとするのは、我が子達を止めるためか。

 そうだ、止めなければならない。フィリスは新世代のミュータントであり、数多の強敵を打ち倒したフィアすら敵わぬ存在だ。まだまだ幼いクリュとポルでは相手になる筈が――――

「(……()()()()()()?)」

 自分の言葉に、花中はふと違和感を覚える。

 答えは、すぐに明らかとなった。

「お前達が本気を出したら、この町なんて一瞬で消し飛ぶぞ!?」

 大慌てといった様子の、キャスパリーグの言葉によって。

 されど花中がその言葉を理解する前に、クリュとポルの姿は……消えた。

 直後、フィリスに二匹は蹴りを食らわせる。フィリスの身体が大きく仰け反る。

 そんなフィリスから遠く離れていた筈の花中は、襲い掛かってきた衝撃により吹っ飛ばされた!

「ぎゃぶっ!?」

「花中っ!」

 吹っ飛ばされた花中を、後ろに居たミィが受け止めてくれた。彼女もキャスパリーグほどではないが、少しは動けるようになっていたらしい。もしもミィが助けてくれなければ、恐らく何十メートルも飛ばされていた。今でも身体が痙攣している中、自分のため動いてくれたミィに花中は感謝の視線を送る。

 勿論本当はお礼を言葉で伝えたかったが、今はちょっと叶わない。

 何故ならクリュとポルが奏でる打撃音は、花中のちっぽけな声なんて掻き消してしまうほどに大きいのだから。

「だぁりゃああああああっ!」

 クリュは目にも留まらぬ速さで拳を繰り出す。人間である花中の目には残像しか見えないが、まるで一つの音であるかのように続く拳とフィリスの衝突音が、そのスピードを物語っていた。

 無論スピードが速い分、その破壊力も凄まじい。正面からフィリスは殴られているが、衝撃はフィリスの背中から抜けていき、まるで巨人が指でなぞったかのような溝をアスファルトに刻み込んでいく。脆弱な人間では、フィリスを盾にして隠れても無事ではいられまい。

「やぁっ! たぁっ! うりゃあっ!」

 クリュに対しポルは、非常に大振りな一撃を打ち込む。花中でも今から攻撃するのだと分かるぐらい大きな予備動作を伴うパンチは、一発打ち込む度に大地と大気を震わせた。

 一発一発が、まるで火山噴火や地震のようだ。天災を次々と生み出す様は、英雄や神々をも彷彿とさせる。パワーのスケールが違い過ぎて、花中には最早恐怖すら感じられない。

 強い。強過ぎる。

 フィリスがフィアをも圧倒したように、クリュとポルは親であるキャスパリーグすらも超えていると思わせる、圧倒的な力を花中に見せ付けた。フィアを捻じ伏せたフィリスも、二匹の猛攻には顔を顰める。どんどんどんどん顰めていき……ギリッと食い縛った歯を見せた。

 それが怒りの限界を示す顔だった。

「小賢しいわ、この虫けら共がァァァァァッ!」

 ついにフィリスが、本性を露わにする。

 途端クリュとポルは跳び、フィリスから離れた。次の瞬間、フィリスの周りの地面が粉々に砕け散りながら吹き飛ぶ!

 大地に深々と刻まれる無数の傷。それはフィアが好んで使う技、『糸』が縦横無尽に振るわれている証だった。娘であるフィリスもこの技が使えても不思議ではない。

 同じ能力の使い手であるフィアにはあまり効果のないこの技も、生身であるクリュとポルには致命的なもの。それを察してクリュ達は離れたのだろうが、フィリスとてむざむざ逃がしはしない。

 フィリスが指先を向けたのはポル。するとポル目掛け、猛烈な速さで大地の傷が刻まれていく。おまけにその傷跡はポルを取り囲むよう……全方位に『糸』が展開されていた。更に傷の範囲は刻々と狭まっている。

 フィリスは逃げ場を塞ぎ、確実にポルを仕留めるつもりだ。自分が取り囲まれていると気付いたポルは、しかし泣き喚いたり動揺したりはしなかった。素早く両腕と手を広げ、大地に刻まれる傷が自分の側まで来た刹那、ぎゅっと手を握り締める。

「っ!? 何を……」

「とぉーりゃあああああああっ!」

 フィリスが困惑した、そのほんの一瞬の隙を突くようにポルは自らの身をぐるんと一回転。

 するとフィリスの身体が、一気にポルの下へと引き寄せられる! 繰り出した『糸』が素手で掴まれたのか。フィリスは踏ん張ろうとしているのか足こそ地面に突いたままだが、まるで抵抗出来ず、瞬きする間もなくポルの目の前まで引っ張られた。

「やあぁッ!」

 そのフィリスの腹目掛け、ポルは真っ直ぐに拳を叩き付ける!

 殴られたフィリスは『く』の字に身体を曲げる。桁違いのパワーにより、背筋を伸ばした体勢を維持出来なかったのだ。

 加えてポルは素早く腕を回し、フィリスの腕をガッチリと掴む。フィリスは腕を動かそうとして身体を震わせるが、ポルの怪力には敵わないようでビクともしない。ポルは更に力を込め、一層フィリスの腕を固く拘束する。

 しかしどれだけ強く掴まれようとも、フィリスの顔に苦悶の表情は浮かばない。水で出来た身体相手では、どんな攻撃をしようが『本体』にダメージなど通らないのだから当然である。

 ただ、苛立ちはするのだろう。

「小癪なァッ!」

 苛立ちに塗れた叫びを上げながら、フィリスはポルの顔面目掛け掴まれていない方の手を伸ばした。

 ポルは何かを察知したのか素早く手を離し、フィリスから跳び退く。空振りしたフィリスの手は、大きく宙を薙ぎ払う。

 すると彼女の手が通った場所に、白い靄のようなものが一瞬現れた。

 あの靄はなんだ? 花中は考えようとする。

「ほほう沸騰までさせますか……何処までも器用なものですねぇ」

 尤も考え付く前に、花中のすぐ横から答えが伝えられた。

 フィアだ。吹き飛ばされた拍子に離れてしまった花中の傍に、彼女の方から戻ってきてくれたのである。

「ふぃ、フィアちゃん! 大丈夫!? 怪我してない!?」

「怪我はしていませんよ。まぁあのままだとかなりヤバかったかも知れませんが」

 花中がしがみついて尋ねると、フィアは不機嫌そうにそっぽを向きながら答える。常に自信満々なフィアだが、相手の過小評価はしない。『かなりヤバかった』という事は、実際かなりヤバかった、という事なのだろう。

 それだけフィリスは恐るべき力を持った相手という事だ。加えて、フィアは先程聞き捨てならない言葉も発している。

 沸騰までさせている。

 水を操る能力があるフィアだからこそ、一目で分かったのだろう。原理的には、確かに可能かも知れない。熱とは粒子の運動量だ。水分子の運動量を増大させれば、どんな水だろうがたちまち高温と化す。

 もしもフィリスの手がポルの顔に触れていたら、そこから血中水分が沸騰していたのだろう。ミィやキャスパリーグは筋肉などから生じた熱を血液で制御していたので、ポルやクリュも同じ筈だ。血液そのものを沸騰させられたら、如何にポルでも甚大なダメージを受けたに違いない。

 遠距離から沸騰させていないので、直接触るか、相当至近距離でないと力を発揮出来ないのだろう。しかしそれでも十分に驚異的な能力だ。血が沸騰しても平気な生物など存在するのだろうか? 少なくとも、花中の知る限りではいない。

 触れれば相手を即死させる。幾ら殴れどもダメージは入らない。パワーもスピードも段違い。遠隔攻撃だって行える。

 果てしなく強い。本当にフィアを純粋に強化したような、圧倒的な強さだ。

 でも。

「(こんな、なんでもかんでも強いなんて、あり得るの?)」

 花中は違和感を覚える。

 もしも予想通りDNAがフィリスをデザインしたなら、確かにフィアより強くなる事は可能だろう。純粋な強化だって可能な筈だ。

 しかし進化とは、それほど単純なものでもない。

 何かを得たなら、何かを失う。大きな長所と引き替えに、致命的な弱点を背負う。それが進化の、いや、『変化』の宿命だ。例えば人間の大きな脳だって、莫大なカロリー消費があったり、頭が大き過ぎるため出産時の負担が増大したり……様々な『弱点』を抱えている。現状の環境なら得られるメリットの方が多いから、こうして地球上に繁栄出来ているだけ。環境が変わり、知能が役立たずになれば、人間など簡単に滅びるだろう。

 人間以外の生命だって、環境変化などの要因で頻繁に絶滅している。生きた化石と呼ばれる生物種でも、内臓レベルでは大きな変異を遂げて、別種と呼べる姿に変化しているものだ。この世に完璧はあり得ず、だからこそこの星には数百~数千万種もの生命が棲んでいる。

 勿論既知の生物から見れば何もかもが非常識であるミュータントのような、変化によるデメリットをガン無視した生物誕生もある。けれどもミュータント同士、ましてや同種同士で、フィアとフィリスのような一方的力関係などあり得るのか? フィリスの方がより一層進化してるにしても、積み重ねた年月と身体の大きさで勝るフィアがこうも徹底的にやられるなどおかしくないか?

 何かある筈だ。驚くほど多彩にして強大な能力を扱うために支払っている、なんらかの代償が――――

「……ははーん。ふぅーん」

 花中が考え込み、だが中々答えが出ない中、不意にフィアが独りごちた。納得するように、或いはイタズラを思い付いたように勝ち誇った笑みを浮かべながら。

「……フィアちゃん? 何か、気付いたの?」

「まぁ一応は……さぁてどうしたものやら。私だけじゃ多分無理でしょうし」

 厄介ですねぇ、と言いたげにフィアは肩を竦める。自分こそが最強だと臆面もなく言い放つフィアが、自分だけでは無理だと語った。それだけフィアがフィリスを警戒しているのだと分かり、花中はごくりと息を飲む。

 同時に、期待する。

 フィアが気付いた点というのは、一体どんなものなのか。もしかしたらそれこそが、フィリスの力の『代償』なのでは……

「おっとお喋りしている場合じゃなさそうですね」

 出来れば答えを教えてほしかったが、しかしフィアがそんな悠長にはしていられないと教えてくれた。

 ハッとして、花中はフィリスの方へと振り返る。

 花中が目を離していた時間は、ほんの数十秒にも満たないだろう。だがミュータントの高速戦闘の中では、数秒もあれば状況が大きく変わる事もあり得る。

 例えばつい先程まで押していたクリュとポルが、今ではフィリスに押される側になっていたとしても、おかしくはないのだ。

「ぐ、うぅ!?」

 呻きながらもクリュが跳ぶ。クリュが跳ぶ前まで居た場所をフィリスの……まるで怪物のように肥大化し、二メートル近い長さになった右腕が叩く。衝撃で大地が割れ、砕けたアスファルトが辺りに飛び散る。

 しかしそのスピードは、決して速いとはいえない。勿論人間に躱せるようなものではないが、目視不可能な速さで動けるクリュ達にとっては止まっているようなスピードだろう。事実フィリスの攻撃を回避したクリュは体勢を崩しておらず、反撃に転じるためかその姿勢を素早く前のめりに傾ける事が出来ていた。

 あたかも、その瞬間を狙うように。

 フィリスが左手の指先をクリュに向ける――――するとどうした事か、前傾姿勢のままクリュは固まってしまった。困惑した表情から、クリュの意図するものではないと窺い知れる。固まっていた時間はほんの一秒か二秒程度。人間にとっては僅かな時間だが、ミュータント同士の戦いでは致命的な隙だ。

「てやぁっ!」

 その隙を潰すように、ポルがフィリスに肉薄

 した瞬間ポルの足下がもつれて、盛大にこけた。

「え、わ、わああああんっ!?」

 戸惑うポルの身体はフィリスを通り越し、地面を激しく転がりながら進路上にあった廃屋を粉砕。何百メートルと距離が開いてしまう。

「おっとっと。ちょっとやり過ぎましたかね?」

 おどけるような言葉を告げながら、まるでも蝿でも払うようにフィリスは腕を振るう。

 ただし払う相手は蝿ではなく、硬直から動き出し、再度攻撃を仕掛けてきたクリュ。彼女は足に恐るべき力を込め、フィリスに跳び掛かろうとしていた。

 されどフィリスの腕が近付いた瞬間、クリュの身体が空中でくるんと回る。足に込めていたパワーは暴発し、虚空を蹴り飛ばしてしまう。人間ならなんの問題もないその行動は、しかしクリュ達ほどのパワーがあれば別。蹴り出した際の空気抵抗がクリュの身体を高速で押し出す。

 クリュもまたポルと同じ勢いで、人の住んでいない家屋に突き刺さった。バラバラに砕け散る材木や瓦礫が、クリュが放とうとした攻撃の強さを物語る。

 人間なら跡形も残っていないであろう衝撃。されどクリュとポルにはまだ耐えられる一撃。

「だりゃあっ!」

「とりゃあっ!」

 瓦礫の山を粉砕して跳び出した二匹は、足を前へと突き出しながら、同時にフィリスへと蹴りをお見舞いしようとする!

 超音速で接近するクリュとポル。おまけに二匹は狙ってか偶然か、フィリスを挟み撃ちにする位置関係にあった。如何に野性の反応速度を有するフィリスでも、能力により超音速で動き回る生命体の攻撃を二方向から受けては躱す事など不可能。回避行動を取る事もなく、クリュとポルの飛び蹴りを受ける

 直前の出来事だった。

 フィリスに接近した二匹の身体の軌道が、ぐにゃりと曲がったのは。しかもその曲がり方は、ふわりと浮かぶように上方向に向けてである。

「えっ、な、わ」

「ちょ、あ、な」

「「ぶぎゃんっ!?」」

 自分達の予期せぬ軌道変化に対応出来ず、クリュとポルはフィリスの頭上で正面衝突。二匹は可愛らしくも間の抜けた悲鳴を上げ、激突時の衝撃波がフィリスを中心にしたクレーターを形成する。

 激しくぶつかり合ったクリュとポルは、弾丸のような速さで突撃時とは反対方向に飛ばされた。クリュはなんとか着地し、両手両足で大地を掴むが……ポルは失敗。背中から大地に叩き付けられ、僅かに埋もれる。

「まずは一匹目」

 フィリスが淡々と呟きながら、指先をポルへと向けた。

「がうっ!?」

 するとポルは苦悶の声を上げ、ビクビクと痙攣を始める。四肢をばたつかせ、苦しさに悶えていた。

 目まぐるしく変化する戦局故、花中はこれまで頭が全く追い付けていなかったが……ポルが苦しみ始めたところで、ようやく状況を理解した。

 フィリスは水の遠隔操作で、クリュとポルの血液を操作しているのだ。

 ただし逆流などはさせていない。ろくな血管を持たない解放血管系の生物なら兎も角、脊椎動物は血液が所定の経路を通っていく事を前提とした身体の作りをしている。もしも逆流などすれば、心臓がポンプとしての機能を失い、死に至るだろう。クリュとポルが今も生きている事がそれをしていない何よりの証拠だ。

 とはいえフィリスは手加減しているのではなく、やりたくても出来なかったのだろう。圧倒的身体能力を有するクリュとポルであれば、血液の流れを変えられても()()()()正せる筈だからである。逆にいえば、クリュ達でもなければ遠距離から敵を問答無用即死させられる訳だが。

 なんにせよ即死はさせられなかったのだろうが、水分子そのものの『位置』は変えられた。一瞬だけなら一定方向に軌道をずらすような真似も出来るのだろう。

 そうしてクリュとポルの動きを自在に操り、攻撃を躱し、相手を吹き飛ばし、同士討ちさせているのだ。正面からのパワー勝負に負けていたフィリスも、この『技』により二匹を翻弄出来るようになり、形勢が逆転したに違いない。

 そしてフィリスは今、恐らくポルの血液に『何』かをしている。逆流が無理だとすれば……血液そのものを暴れさせ、体組織を破壊しているのかも知れない。ミィやキャスパリーグには再生能力があるため、ポルにも同等以上の再生力がある筈だ。しかし苦しみ、藻掻くという事は、その再生力を上回るダメージがあると思われる。

 まず一匹目――――フィリスのこの言葉の意味が、ここで確実に一匹仕留めるというものなら……

「させるカアアアアアアッ!」

 その予感を抱いたのは花中だけではなかった。クリュが咆哮を上げた、刹那彼女は自らの姿を変化させる。

 人間の顔が歪み、獣のそれへと変わった。

 愛らしい身体が毛に覆われ、四肢は筋肉の塊である太く逞しいものへと膨れ上がる。

 可愛らしいお尻も筋肉に満ち、生えてきた尾は鞭のようにしなやかかつ強靱。

 一秒と経たずに、クリュは人間の姿から、クロヒョウのようなネコ科の怪物へと変化した。否、そもそもクリュはネコである。即ちこれこそがクリュの本当の姿という事。あらゆるリミッターを解き放った、最強の形態だ。

 後の動きは、最早花中には見えない。いや、最初からろくに見えていないのだが……クリュが()()()と認識するのが精いっぱい。残像すら捉えられなかった。クリュが何をしたのかも分からない。

 分かるのは結果だけだ。

 姿を消したクリュが、何時の間にかフィリスの足下で寝そべっているという結果だけ。

「……!? なん……で……!?」

「いやぁ、最初は厄介だと思いましたが、タネさえ分かればなんとでもなりますねぇ。筋肉が力の源なら、その筋肉をズタズタに切り裂けば良い。あなたの血液をちょーっと操り、やらせていただきました」

 自慢げに語るフィリス。クリュは立ち上がろうと四肢に力を込めているが、すぐに崩れ落ちてしまう。フィリスの言葉通り、筋肉が傷付けられているに違いない。

 ポルは未だのたうつばかり。クリュは身動きが取れない有り様。これでは勝負にならない。

 花中は後ろを振り返る。ミィとキャスパリーグは、ようやく立ち上がっていた……が、その場に立ち尽くしたまま。未だ怪我が治っていなくて立ち尽くしているのだろうか。尤も、仮に駆け付けたところでミィ達の『弱点』を突けるようになったフィリスに敵うとも思えない。

 残す手立ては、花中の傍まで退避してきたフィアのみ。

 しかし基本自分本位であるフィアが、今にも殺されそうなクリュとポルを助けてくれるだろうか? その可能性は、限りなく低いだろう。けれども頼まなければ、可能性はきっとゼロだ。

「ふぃ、フィアちゃん! あの……」

 だから花中はフィアに助けを求めようとして、

「野良猫ォっ! アイツを取り押さえなさいっ!」

 されどフィアが張り上げた大声により、花中の懇願は掻き消された。

 掻き消されたが故に、花中は目を丸くして驚き、言葉を失う。自分が助けをお願いする前に、フィアが自らの意思で動き出したのだから。

「「任せとけッ!」」

 そしてフィアの言葉に応えるように――――ミィとキャスパリーグが()()()()()()()

 ミィ達は、既に動けるようになっていたのだ。けれども敢えて動かずにいた。

 恐らくフィリスの『隙』を突くために。

「! ふん、素直にぶつかってあげるとで、も……!?」

 フィリスはミィとキャスパリーグの接近に気付くや、すぐに移動しようとした。ところがその身を少し仰け反らせただけで、一歩後退る事すらしない。

 何故ならフィリスの足に、ぐるぐると『水触手』が巻き付いていたのだから。

 フィアはこれを狙っていたのだ。クリュとポルを仕留める事に夢中になったフィリスを、確実に捕らえるために。恐らくは事前に ― 『糸』か何かを鼓膜に差し込むなどして ― ミィ達と打ち合わせをし、合図をしたら突っ込めと命じていたのだろう。

「ちっ! 何匹来ようが……」

 身動きが封じられたと分かるや、フィリスはクリュとポルへの攻撃を中断。接近するミィ達と正面から向き合い、その指先をミィ達に差し向けた。

 するとフィリスから十メートルほどの位置に入った瞬間、ミィとキャスパリーグの足がもつれる。遠距離からの血液操作により、足の筋肉が切断されたか。二匹の身体は前のめりに倒れた

 直後に、二匹は足先をちょんっと動かした。

 動きとしては本当に僅かなもの。足首を少し回した程度だ……しかしその動きだけで問題はない。

 こんなものでも十分に、ミィとキャスパリーグの身体は宙へと跳び上がるのだから。

「なっ……ふんっ!」

 フィリスは一瞬顔を顰めるも、両腕を前へと突き出す。クリュとポルにもお見舞いした、血液()の遠隔操作。これにより突撃してくる相手の身体を、ほんの少しだけだが動かせる。

 ミィとキャスパリーグもこの技からは逃れられず、回転しながらも直進していた身体の軌道が捻じ曲がる。フィリスへの直撃コースからずれていくミィとキャスパリーグ。

 だが、その手は二匹には通じない。

「兄さん!」

 ミィが手を伸ばし、

「おうっ!」

 キャスパリーグが足を伸ばす。

 離れ離れになる間際、互いの身体を掴んでフィリスの干渉を防いだのだ。フィリスは更に顔を顰めたが、すぐにほくそ笑む。一回防がれたからなんだというのか。防いだならまた軌道を捻じ曲げれば良いだけの事。

 そんな時間があれば、の話だが。

 キャスパリーグはフィリスの能力が使われる前に、己の身をぐるんと空中で一回転し――――足を掴んでいるミィを、前へと撃ち出した!

 一撃で山をも砕くパワー。それを一身に受けたミィは、流星が如くスピードまで加速する!

「え、ぁ、がふっ!?」

 これにはフィリスも反応が間に合わず、ミィが己の腹に突っ込むのを止められない。呻き、身体をくの字に曲げ……だが間髪入れずにミィの身体を抱き込む。

「嘗めた真似をしてくれましたね……このまま内臓をズタズタにして……!」

 ガッチリと掴んだまま、フィリスはミィに死の宣告を下す。だが、彼女は怒りにより失念していた。

 猫はもう三匹居るのだ。

「ゴガオオオッ!」

「っ!?」

 本来()の姿と化したキャスパリーグは猛獣染みた咆哮と共に、フィリスの右腕に喰らい付く! 腕を噛まれた衝撃からかフィリスは大きく仰け反る。

「この……!」

「がああァァっ!」

 反撃とばかりにフィリスは左腕を振り上げるも、今度はその腕にポルが跳び付いた! 幼く、嬲られたダメージが残っている身体は弱々しいが……それでも人智を超える怪力だ。フィリスは左腕を無理矢理下ろされる。

「こんにゃろぉーっ!」

 そして止めとばかりに、クリュがフィリスの背中から跳び乗る。爪を突き立て、首に噛み付き、さながら草食動物を襲う肉食獣のように組み掛かった。

 推定総重量二百トン以上、加えられる力はそれを遙かに上回る。文字通り桁違いのパワーがフィリスの全身に加わっていた。

 だが、フィリスは倒れない。

 それどころか仰け反った身を起こし、前のめりになりながらも大股開きで踏み止まる。腕を大きく広げて構え、可愛らしい少女の顔を猛々しく歪めていた。

 そして一歩、前へと踏み出す。

「この、程度……この程度ォォォォォォ……! こんなモノで、この私を止められると、思うなアアアアアアァ……!」

 開かれた愛らしい口から出るのは、恐ろしい魔獣のような唸り。大気を振るわせ、大地を揺らす声に、遠く離れている花中さえも血の気がどんどん引いていく。

 ミィもキャスパリーグも強い。クリュとポルも同じぐらい、いや、もっと強い筈だ。その四匹が力を合わせて押さえ付けたのに、それでもフィリスは止まらない。一歩、また一歩、ゆっくりではあるが着実に前へと進み、花中の方へと近付いてくる。

 いくらフィリスがフィア以上の力を持っていようと、同格のミュータント四匹を上回るなんて信じられない。DNAによる改良とは、生命の本当の進化とは、ここまで不条理なものなのか? クリュもポルも強いが、フィリスの進化はそれを上回るというのか?

 こんな『怪物』に、勝つ方法などあるのか?

 不安と恐怖に支配され、花中は後退り。しかしフィリスは逃さないとばかりに更に花中へと歩み寄る。花中は小さな悲鳴を上げながら尻餅を撞き、縮こまった身体は動けなくなった。

 フィリスはこれを好機と見たのか。ミィ達の拘束などお構いなしに、突撃しようとするかのような前傾姿勢へと移り――――

 この恐ろしい行動を邪魔するように、拍手の音がこの場に響いた。

「……フィア、ちゃん?」

 花中は音がした方……自分の傍に立つフィアへと目を移す。

 フィアはパチパチと穏やかな拍手をしていた。とてもゆっくりとした動きだが、強い叩き方によって奏でられるその音は何十メートル先にまで届くだろう。ましてやフナであるがため優れた聴力を持つフィリスに聞こえぬ筈がない。

 フィアは聞かせているのだ。心から尊敬し、同時に余裕に満ちた拍手を。

「いやはやお見事。この私の血を引くとはいえここまでの強さがあるとは予想もしていませんでしたよ」

「……図に乗ってるのですか。こんな虫けら四匹ぐらいで、この私の身動きを封じるなど嘗めた真似をして……!」

 フィアの挑発的な言葉に、フィリスは怒りを露わにしながら答える。ぶくぶくと四肢が膨れ上がり、腕を掴むキャスパリーグとクリュが持ち上がった。

 怒りに任せた無茶だろうが、キャスパリーグ達の拘束を本当に振り払おうとしている。フィリスの底なしの力に、花中は一層震え上がった。

「ところで何故馬鹿正直にそいつらの相手をしているのです? その馬鹿デカい身体を()()()()()()()()()()()よろしいのに。あなたの『身体』だって私と同じ水で出来ているのですから簡単な話でしょう?」

 ただしそれは、能天気な口調でフィアが問うまでの短い間だったが。

 場に、沈黙が流れる。

 フィリスは歩くのを止めていた。視線を泳がせ、フィアも花中も見ていない。膨らんでいた四肢が萎み、大人しい少女の姿に戻ってしまう。

 まるで、図星でも突かれたかのように。

 ――――いやいや、そんなまさか。

 花中の脳内に否定の言葉が流れる。そんな事、ある筈がない。だって彼女は『それ』を操る魔物だ。だから彼女にフィアの言おうとしている事が出来ぬ筈がない。

 もし出来ないのだとしたら、()()()()()()にも程がある。

 ……そう、致命的だ。本当に危険な状況、つまり今のような場合、どうしようもなくなってしまう。自分より強い相手に為す術がないというのは、自然界ではかなり問題ある欠陥だ。アゲハチョウの幼虫すら、自分より遙かに強い鳥やトカゲを追い払うための武器として臭い角を出すというのに。

 だからこそ、それが代償だとしたら……見合う力が絶大なのも頷ける。

 差し引きで考えれば確かにおかしくない。しかし理性が「そんな馬鹿な」と言い続ける。だって、いくらなんでも『間抜け』過ぎるではないか。

「……あの、もしかして、フィリスさん……『身体』、というか操る水を、()()()()()()()のですか?」

 水を操る能力を持ちながら、操る水に本来の柔らかさを持たせられないなんて。

 だが、フィリスは答えない。肯定は勿論否定もしないし、実演すらやらない。今ここで液状化してみせれば、キャスパリーグ達の努力を全て無下に出来るのに。

 この状況下に置いて、沈黙とは黙認を意味するものだった。

「えっ……嘘……ほ、本当に……?」

「多分アレですかねぇ。力が強過ぎて水分子同士がガッチガチにくっついちゃうんでしょう。以外と加減が難しいんですよ水の柔らかさを保ったまま形を維持するのって」

 唖然とする花中に、フィアは何時も以上に自慢げに説明する。普段説明する側である花中に説明出来たのが嬉しいのか、はたまたフィリスに出来ない事が出来ると自慢したいのか……恐らくは両方だろう。

「さぁーてではそろそろ止めといきますかねぇー」

 加えて、ついにこの戦いに終止符を打てる事への喜びもあるに違いない。

「ぐっ! ぬ、が……ぐぅううう……!」

「今更手遅れですよ。もうその四匹はあなたを逃がすつもりはありませんから」

「フィアの言う通りだ。子供達を傷付けた貴様を俺は許さん」

「あたしとしても、アンタを野放しにするのは危険過ぎるから反対」

 フィアの言葉に、キャスパリーグとミィも同意する。クリュとポルも頷くのみ。フィリスの味方はいない。

 ただ一人、花中を除いて。

 確かに、フィリスは危険だ。『身体』を液化出来ないという弱点はあるが、その弱点はミュータント四体が一斉に取り押さえてようやく意味を持つもの。もしここで逃がせばフィリスは此度の戦いを糧にして、より強く、より狡猾になるだろう。そしてフィリスは商店街や市街地での戦いを平然と仕掛けてきた。フィアと同じく人間を気にも留めていない。

 一人の人間として、フィリスに止めを刺す事は賛成すべきだ。

 だけど。

 それでも――――

「さぁてそれじゃあその『身体』をぐちゃっと潰して終わらせますかねぇ。私だけではちょっとパワー不足かもですが野良猫共も力を合わせればなんとかなるでしょう」

 花中が考えている間に、フィアはフィリスのすぐ傍までやってきていた。

 フィアは己の右手をフィリスへと伸ばす。自らの娘であるフィリスに、その命を終わらせるための手を躊躇いなく近付けた。ミィもキャスパリーグも、クリュもポルも力を込めてフィリスを圧迫する。

 そしてフィアの手が触れる、間際に。

「あっはははははははははははっ!」

 花中の開いた口を閉じさせるほどの大声で、フィリスが笑った。

 心底楽しそうな笑い方だった。死の恐怖に耐えられなくなったのだろうか? 一瞬花中の脳裏にそんな考えが過ぎるも、それはあり得ないと本能が訴える。野生に生きるミュータントが、気を違わせるなんて方法で現実逃避する筈がない。

 フィアもフィリスの笑いに何かを感じ取ったのか。ゆっくりとしていた手の動きを一気に速め、フィリスの顔面を鷲掴みにした

 瞬間の事だった。

 フィリスの身体が、突如として爆発したのは!

「わぶっ!?」

「ぬぐぁっ!?」

「みゃー!?」

「うにゃーっ!?」

 爆発に巻き込まれたミィ達の声が、爆音と共に辺りに木霊する。押し寄せる爆風は、大質量と怪力を有するクリュ達をも吹き飛ばした。

 爆発といっても、それは大量の水が一気に広範囲に散った事で見えた風景に過ぎない。しかしながら高さ云千メートル近くまで水柱が上がるとなれば、その水量と破壊力は察して知るべし。

 飛び散った水はやがて重力に引かれ、地上へと落ちる。一体どれほどの量があるのか、落ちた水は津波となって辺りに広がり、瓦礫と化した家々を押し流した。

 もしもフィアが花中を守るため水を全て自身の『身体』に取り込まなければ、町一つが呑まれていたかも知れない。

「……うぇっぷ。あのクソガキこれほどの水を支配下に置いていたのですか……つくづく化け物ですねぇ」

 どうにか全ての水を取り込むと、フィアはぽつりと悪態を吐く。よくよく見れば、足先からちょろちょろと排水していた。どうやらあまり長くは保持出来ないほどの水量らしい。

 あまりにも突然の事に、花中は恐怖すら感じられなかった。フィアのお陰で難を逃れたのだと分かったのは、フィアが飛び散った水全てを取り込んでから何十秒も経ってから。

 そしてフィリスの事を思い出したのは、そこから更に十秒以上経ってからだった。

「あっ! ふぃ、フィアちゃん! あの、フィリスさんは……?」

「逃げられました。全く完全に掌の上で踊らされていましたね」

「踊らされていた……?」

「アイツずっと地面の下で遠隔操作をしていたんですよ。つまり私達が見ていた『身体』の内側にアイツはいなかった訳です」

 花中の問いに、フィアは淡々と答える。

 花中はとても驚いた。フィア達が全力で戦っていた中、フィリスは全く危険を冒さず、安全圏から観戦していたのだ。そして勝負が付いたため地上で戦っていた『身体』の操作を切り――――制御を失った水が一気に元の体積へ戻った、という事なのだろう。

 こちらが命を賭けた中、向こうはずっと遊び気分。なんとも理不尽だ。

 しかしながら、花中は少しホッとしていた。フィリスが逃げ、生き延びた事への安堵だった。

「今度会ったらこってんぱんのボッコボコにしてやりますからねっ! ふんっ!」

 対するフィアは如何にも不機嫌そうに頬を膨らませ、拗ねるようにそっぽを向く。怒りを露わにし、悔しさを滲ませる。

 けれども。

 そうした感情を露わにしている声の中に、小さな『嬉しさ』がある事を、花中はなんとなく感じ取るのであった。




決着!(倒せたとは言ってない)

次回は明日投稿予定です。


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ベイビー・ジェネレーションズ9

「うっぎぃー! くーやーしーいーっ!」

 大桐家の庭で、ミィが癇癪を起こしていた。

 地団駄を踏む度に、ズシンズシンと大地が揺れる。遠くから何かが崩れるような音がした上に、大桐家からもギシギシという不穏な音が鳴った。空から燦々と照り付ける朝八時の日差しが大桐家自宅の隙間から噴き出す埃を鮮明に写し出し、どれだけ激しく揺れているかをしかと物語る。

「全くだ。二度目はない。絶対に」

 ミィの兄であるキャスパリーグも、憤怒の形相で苛立ちを露わにする。彼はミィのように地団駄は踏んでいないが……時折苛立ちが爆発するかのように、強烈な足蹴を大地に喰らわせていた。

 こちらはそれこそ大地震。大地が激しく上下するほどである。傷付いた家屋は止めを刺され、健全な建物は深手を負う。もうあと十回もやれば、なんやかんや無事である大桐家も耐えきれなくなりそうだ。

 現在一応大桐家の家主である花中は顔を青くした。冗談抜きに、このままでは家が倒壊しそうである。いや、自宅だけでなくそのうち大桐家以外の、この地域の外側にある、まだ人が住んでいる建物さえも倒壊しかねない。住人達は今頃突然かつ不自然な大地震に震えているだろう。

「お、落ち着いて、ください……あの、家が壊れちゃうから……」

「うぅー……分かってるけどぉ」

「分かってはいるが……」

 花中が説得すれば、二匹は一応の理解を示す。そう、彼女達も悪気がある訳ではないし、自分達のパワーが人間にとって大きな脅威である事も承知している。

 単に、抑えきれないだけなのだ。身内を殺されかけるという、かつてのトラウマを掘り起こされて。ましてやその『犯人』におめおめと逃げられたとなれば、苛立ちも増すというものである。

「全く女々しい輩ですねぇ。ちょっと子供を殺されかけたぐらいで」

 尤も、『犯人(我が子)』を平然と手に掛けようとしたフィアに、そんな二匹の心境は理解出来ないだろうが。

 キャスパリーグが鋭い眼差しでフィアを睨む。しかしフィアは特段気にも留めず、大きな欠伸をした。

「ふん。貴様には分からんだろうな。我が子を殺される事がどれほど辛いかなど」

「分かりませんね。血の繋がりなどなーんの価値もないのにどうしてそれだけで大切なものになるのやら」

「……その割には、フィア、ちょっと嬉しそうだよね。フィリスに逃げられてからさ」

 キャスパリーグの嫌味にも無関心気味に淡々と答えるフィアだったが、ミィがぽそりと漏らした言葉には目をパチクリさせた。それから顎に手を当て、しばし考え込む。

「おぉ。なんと私はアイツに逃げられて喜んでいたのですか」

 やがて至った結論に、自分自身驚いている様子だった。

 全く無自覚に喜んでいたのだと告げられ、ミィは思いっきり顔を顰めた。キャスパリーグも忌々しげに歯を剥き出しにしている。

 花中もちょっと乾いた笑みを浮かべる……同時に、フィアに対し少し親しみを覚えた。

 恐らくその喜びは、本能によるものだろう。

 地球の生命は子孫を残すのに『適した』性質を有する。時折「子孫を残すのが生命の目的」という意見を見掛けるが、それは誤りだ。生命に目的などない。子孫を残すのに適した性質の持ち主の方が、子孫を残すのに適さない性質の持ち主よりも、子孫を残しやすいだけである。

 フィア(フナ)は子育てをしない。血縁に価値を見出さない。だから我が子を殺す事になんの躊躇も持たない。

 そんな性格であっても、子孫が生きている事実に『喜び』を覚えれば……積極的に子孫を殺そうとはしないだろう。それは子孫を、自らの遺伝子を拡散する上でより適応的な反応といえる。

 そして子育てをする生物である花中(人間)としては、我が子を平然と殺すよりも、例え危険な存在であろうとも我が子の生存を優先する考えの方が親しみを感じられた。

 身内を殺されかけたミィとキャスパリーグも、同意は出来ずとも気持ちは理解するのだろう。不快さこそ露わにしたが、言葉による非難はなかった。

「おっはよーぅ、みんな。元気してるー?」

 或いは、何か言葉を発する前に『彼女』が割り込んできただけかも知れない。

 ミィとキャスパリーグが跳ねるように声の方へと振り返る。花中ものろのろと振り返り、フィアは視線だけを向けた。

 空中をふわふわと漂い、ゆっくりと降下してくる美女……ミリオンの方へと。

「ミリオンさん……」

「いやー、正直こっちが勝つとは思わなかったわ。まさかあの子、あんなしょーもない弱点があったなんてね。戦わせて様子を見て良かったわぁ」

「ふん。どちらが勝とうと貴様は損をしないという訳か」

「そういう立ち回りが上手く出来ると、人生色々と楽になるわよ。ま、楽に生きるのだけが幸せなじゃないけどね。偶には燃え上がるような困難もないと」

 キャスパリーグの非難もなんのその。ミリオンは余裕ぶった返事をする。キャスパリーグとしても、手助けはしなかったが妨害もしていないミリオンに怒りをぶちまけるのもバツが悪いのだろう。苛立ちを込めた鼻息を鳴らし、そっぽを向くだけだ。

 とはいえやはり怒りは抑えきれないのか、キャスパリーグからピリピリとした感情が撒き散らされる。場の空気もどことなく張り詰め、花中にとっては居心地が悪い。

「あ、あの、ところで、クリュさんとポルさんは、何処に、居るのでしょうか? 姿が、見えないのですけど」

 どうにか雰囲気を変えたくて、少し気になっていた事でもあったので、花中はキャスパリーグにそう話を振った。

 キャスパリーグとしても怒り続けるのは疲れるのか、花中が話し掛けると、ややあってから深いため息を吐く。それから少しだけ口角を上げ、父親らしい優しい笑みを浮かべた。

「アイツらなら、世の中の事を勉強するといって少し遠出中だ。今回の事で、自分達があまりに物を知らないと痛感したらしい。ま、歩きでも十分かそこらで戻る距離とは言っていたがな」

「え? あの子達だけで、ですか? その……大丈夫、なのですか?」

「その大丈夫は、クリュとポルがという意味か? それとも、俺は、という意味か?」

「えっと……」

 問い返され、花中は言葉を詰まらせる。

 正直に言えば『両方』だ。幼いクリュとポルが心配なのは勿論、あの二匹を溺愛していたキャスパリーグも子供達から目を離して大丈夫なのかと思う。言っては難だが、心配のあまりまた暴走するのではないかと少し心配だった。

 そんな花中の考えを読んだかのように、キャスパリーグは眉を顰めた。怒るように鼻も鳴らす。

 けれども優しい笑みは崩さない。

「俺も少し過保護だったかも知れん。自分の子供が、自分で歩き、自分で考えられる事に気付いていなかった。独り立ちの時期までそう長くはないだろう。なら、自分の足で歩き、自由に学ばせてやる方がアイツらのためになると思っただけだ。今回のように、狡賢い奴に騙されないようにな」

 遠くを眺め、強い想いを感じさせる横顔を、キャスパリーグは花中に見せる。

 猫の子育ては、長くとも半年、短ければ三ヶ月程度といわれている。

 クリュとポルは産まれて一月が経っているという話なので、残りの子育て期間は精々二~五ヶ月。猫の寿命を考慮しても、あまりにも短い。その短い時間の一部を、バラバラに過ごすというのは……きっと凄く辛いのだろうと、花中は思う。

 それでも、子供達を愛しているから。

 子供達が一匹でも元気に、誰かに利用される事がないように……幸せに生きていけるように。

 それが一番の願いだから、離れていても平気なのだろう。子供達も、此度の出来事で父親が自分達を愛していると分かったから、自分達だけで、心配させない範囲で行動しようと思ったのかも知れない。

「そーいうもんですかねぇ。というかいきなり自由行動もどうなんですかね?」

 フィアには、彼等の愛情深さが全く理解出来ないようだが。

「ふん。俺の子供達を甘く見るなよ。今回の事で悪い奴等は優しい言葉を掛けてくると分かったし、自分達がどれだけ無力かも知った! 怪しいと思ったらすぐに大声を出すよう言い付けてあるし、いい話だと思ってもまず親に相談しろとも言った! 大体十分程度の距離なら、本気で探せばすぐに見付けられるからな! 今でも此処から真上に跳べば、すぐに子供達の姿は確認出来る!」

「うーんこれが親馬鹿というやつですか」

「あはは……そうかも」

 堂々と答えるキャスパリーグに、フィアは呆れ、花中も笑いながら同意する。ミィも肩を竦めていた。

「まぁあなたが良いというなら私は気にしませんけど。しかしまぁ本当によく平気なものですねぇ」

 フィアは独りごちるように呟きながら、キャスパリーグの選択に納得していない感情を示し続ける。

 ……少し、花中は引っ掛かりを覚えた。

 フィアにも『親心』のようなものはあると分かったが、それが向くのはあくまで自分の子供だけだろう。血縁どころか種すら異なるキャスパリーグの子供達など、なんの興味もない筈である。

 そんなフィアが、何故キャスパリーグの子供達の安否にそこまで関心を寄せるのだろうか。

 キャスパリーグやミィも同じ事を思ったのか、自然と視線がフィアの方を向いていた。ミリオンも横目でフィアを見つめる。そうして全員の視線が集まったが、フィアは気にも留めない。そう、彼女は元より他者の視線など興味もないのだ。言いたい事を言い、言いたくない事は言わない。

 一つ確実なのは、フィアはまず嘘を吐かないという事。

「まだ五匹も辺りに潜んでいるのに」

 だから平然と語られたその言葉は、少なくともフィアは本心から信じている事であり。

 だからこそ、ミリオン以外の全員の顔を青くさせるのに十分な言霊を秘めていた。

「……えっ、ご、ごひ……!?」

「っ!」

「兄さん!?」

 花中は困惑し、キャスパリーグは瞬間移動が如く速さでこの場から動く。ミィは兄の後を追ってか、同じく姿を消した。

「……おや。全員離れていきますね。バレたと分かって逃げていきますか。良かったですね花中さん厄介事にはならずに済みそうですよ」

 フィアは花中に抱き付きながら、心底嬉しそうに報告する。フィアの言う事だ。間違いはないだろう。

 そう、間違いはない。

 五匹居る。

 何が? フィアは存在を感知したが、ミィ達は気付いていなかった。そのような微妙な存在感の持ち主には、つい先程接触したばかり。

 『フィアの子供』だ。

 フィアは、自分の子供達があと五匹、この付近に居ると語ったのである。ミュータント五体が総掛かりになって、ようやく撃退出来た恐るべき存在があと五体も居るのだ。

 そして彼等……或いは彼女等は……何処かに散った。

 この世界の、何処かに。

「……フナって、勿論種類とか個体差もあるけど、二年もすれば繁殖活動に参加するそうよ」

 ぽつりと、独り言のようにミリオンが語る。『雑学』に対しフィアは「ほへー」と無関心な声を出すだけ。

 そんな事は花中も知っている。知っているからこそ、それがどんな意味を持つか分かっている。

 二年後にはフィリス達が繁殖を始める。六匹のミュータントそれぞれから六匹のミュータントが産まれれば、二年後の新世代は三十六匹。三十六匹が更に二年後六倍に増えれば……数は加速度的に増していく。

 それどころかミュータント同士が交配して、より高い比率で産まれるようになったら?

 ましてやフィリスすらもミュータントとしては『未完成』も良いところだったなら?

 これはフィリス達だけの話ではない。クリュとポル、他の見知らぬミュータントにも言える事だ。ほんの十年と経たないうちに彼等は繁殖し、天敵の存在し得ない彼等は次代を易々と残すだろう。

 世界はこれから大きく変わる。人間が思っているよりも激しく、そして何よりも早く。

 世界はもう、取り返しの付かない変化の中にあるのだと、花中は思い知るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー、最後の最後で負けちゃいましたねぇ。あっはっはっ」

 住宅地の側を流れる小川の岸にて。小さな胸を張りながら、フィリスは心底楽しそうに笑った。

 時刻は夕方を越え、夜になったばかり。近くの家々には明かりが灯され、わいわいと賑やかな家族の談笑が聞こえてくる。まだまだ人間にとっては活動時間帯。されど積極的に外を出歩く時ではなく、小川の付近に人間の姿はない。

 降り注ぐ月の光を受け、フィリスの金色の髪がキラキラと輝く。吹いた風で靡けば、その煌めきは何処までも広がり、風と一体化していた。自信に溢れた笑み、整った顔立ち……全てが麗しく、魅力的である。

 されどこの場においてその美貌は、さして目立つものではない。

 何故なら、小川の岸部にはフィリスと同じ顔が五つも並んでいたのだから。

「笑って誤魔化してますけど要するに失敗したって事ですよね」

「狡賢いから、あの馬鹿親ぐらい簡単に出し抜いて持ってこれるかと思いましたのに」

「何時も口ばかり。期待して損した」

「所詮は液化も出来ない雑魚ですねぇ」

「この私に任せなさいとか啖呵切ってこの様ですか」

「あっはっはっ。好き勝手言ってくれますねぇ、全員殺しますよ?」

 歯に衣着せない物言いをする五つの同じ顔に、フィリスは笑いながら殺意を剥き出しにする。尤も、それで怯むモノは皆無だが。

 当然だ。彼女達もまた、フィリスと『同じ』力を持っているのだから。

「ほぉーん? 小手先ばかり器用でパワーのないあなたがこの私を殺すと? 正面から潰してやりましょうか?」

「小狡いだけのあなたでは、私の知略を見抜けるとは到底思えませんがね」

「争っても時間の無駄。失敗は失敗。素直に受け止めれば良い」

「そうですねぇ。でもまぁ、元から定期的に戻ってくれば良いだけの話ですし、大した問題はないですけど」

「そうそう。コイツはあくまで保険ですからね」

「……全くコイツらときたら」

 労うどころか馬鹿にしてくる自分の顔に、フィリスは肩を竦める。

「別に人間ほど親身になれとは言いませんが、それが妹に対する態度なんですかね。お姉様方」

 そしてぽつりと、自分の『姉』に向けて悪態を吐いた。

 そう、此処に集ったのは全てフィリスの姉。

 即ちフナのミュータントであり、つまりはフィアの娘達であった。姉といっても実際に先に産まれたかどうかは分からない。単純に、出会った時の身体の大きさで決めただけだ。挙句姉である彼女等がフィリスと似ているかといえば、そこまででもない始末。

 長女は短気で単純。

 次女は悪辣にして不遜。

 三女は冷静かつ欲深。

 四女は暢気であるが理知的。

 五女は残忍ながら慎重。

 そして六女のフィリスは姑息なのに向上心がある。

 同じ母親から産まれたとは思えないほど性格はバラバラ。おまけに能力も全員『水を操る』でありながら、得意分野がまるで違う。例えばフィリスがトリッキーな使い方が出来るのに対し、長女は尋常でないパワーとスピードを有しているように。

 姉妹で一番賢くて知識が豊富な四女曰く、「DNA達の思惑だか本能だかで多様性が増してるんじゃないですか?」との事。四女の話は難しくて、フィリス含めた他の姉妹にはよく分からない。

 こうもバラバラでは共闘なんて土台無理な話。元から同族意識なんてものが希薄なのもあって、姉妹でありながら協調性は皆無なのである。皮肉でなく、花中を手に入れるために母親を殺そうとしたフィリスが一番『協調的』なぐらいだ。フィリスがフィアと戦っている間も姉達は遠目から観戦していたが、助太刀しなかった理由はなんて事はない――――フィリスとフィアの隙を突き、自分こそが花中を独占しようとしていただけである。

 そしてそれが叶わなくなれば、もうこの場に用はない。

「さってと。私は海にでも行ってきますかねぇ。強い奴とか居ないかなー」

「お好きにどうぞ。私は山に行きます。富士山、一度登ってみたかったので」

「私は隣の国に行ってみる。大きな虫がいっぱい居るらしいから」

「あの国の虫は放射能塗れだって言ったじゃないですか。まぁ、好きにすれば良いですけど……私は人の町でも見て回りますかねぇ。図書館で本を読んでみたいので」

「私は静かな場所を探します。あなた方の側は喧しくてしんどかったので」

 各々好き勝手な事を言いと、それぞれが自分勝手に動き出す。

 長女は川の下流へと跳び込み、

 次女は上流に向けて跳び込み、

 三女は地面の中へと潜り、

 四女は市街地に向けてのんびり歩き出し、

 五女は北に向けて何百メートルと跳躍する。

 残された六女は、身勝手な姉達が居なくなってからゲラゲラと笑った。

「恐らく今生の別れなのに、淡泊な方々ですねぇ。ま、べたべた引っ付いてきて鬱陶しいのよりはマシですが。私は、グレートバリアリーフとやらでも見に行きますかね。どれだけ綺麗なのか楽しみです」

 フィリスは人の姿をぐにゃりと歪め、巨大な黒い鳥へと変身する。

 広げれば三メートルはある翼を羽ばたかせればその身はふわりと浮かび……超音速で、南東目指して飛び立つ。

 物音に気付いた何人かの人間が家の窓から顔を出した時、そこにはもう誰の姿もない。故に恐ろしい怪物達が世界中に散った事を知る者は、誰一人としていなかった。

 だが、彼等はいずれ知るだろう。

 終わりの時は、もう間近に迫っているのだから――――




という訳でフィアさんちの六姉妹は元気に世界に旅立ちましたとさ。
どう考えても人類終了のお知らせです。

次回は今日投稿予定です。


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幕間十七ノ十八

 寒い。

 すごく寒い。

 ものすごく寒い。

 彼女は震えていた。今まで暮らしていた場所が、考えられないほど冷え込んできたがために。

 ちょっと前までの此処は、もっとポカポカしていて、過ごしやすい場所だったのに。感じた事のない寒さに彼女は戸惑いを覚える。それになんだかお腹も空いてきた……お腹が空く? なんだそれは。これまで生きてきて、一度も空腹を覚えた事がない彼女は、その感覚にも困惑した。

 どうしてこんなに寒いのだろう?

 なんで急に寒くなったのだろう?

 どうやったらお腹がいっぱいになるのだろう?

 彼女は悩んだ。このような問題に遭遇したのは初めてで、解決策など何も知らない。彼女の周りに居る無数の仲間達も同じ悩みを抱えていたが、しかし彼女達には仲間と会話をするための声帯もなければ、自分の意見を伝えるという事を考える知能もない。だから常に一匹だけで全てを考え、孤独ながら必死に思考を巡らせ……どれだけ小さな脳みそを働かせても、結局何も分からなかった。

 けれども彼女達は理解していた。このままでは自分は死んでしまうと。温かくてお腹の膨れる場所に行かねばならないと本能が命じていた。

 だから彼女は考える事もなく動き出した。

 彼女は群れのリーダーという訳ではない。そもそも群れというものを、彼女達は分かっていなかった。彼女が誰よりも先に動いたのは、単に彼女が真っ先に本能的な危機感を覚え、本能の命令に従って動き始めたというだけの事である。

 他の仲間達がまるで彼女に続くかのように動き出したのも、あくまで自らの本能が結論を出したのが彼女より少し遅かっただけに過ぎない。しかしあたかも彼女の後を追うかのように、誰もが同じ方角を目指して進み始めた。

 彼女達の本能が訴えていた。あっちに行けば良い。あっちに行けば、此処よりは少し温かな場所に辿り着けると。

 旅路は決して優しい道のりではない。

 ある者は寒さに耐えきれず力尽きた。

 ある者は疲れ果てて動けなくなり、他の仲間に突き飛ばされて挽き肉と化した。

 ある者は道に迷い、孤独の中終わりが来るまで彷徨い続けた。

 次々と仲間が脱落していく。しかし彼女達にとって仲間とは、『同種』以外の何ものでもない。どれだけたくさんの仲間が命を落とそうと、親や兄弟が力尽きていこうとも、彼女達はそこになんの感傷も抱かない。抱く必要もないのだ。

 彼女達は進む。

 進んで、進んで、進み続けて……やがて彼女達は眩い『光』と遭遇した。

 

 彼女達は知らない。自分達がどんな存在であるのかを。

 

 彼女達が辿り着いた場所に棲む、知的な生き物達も知らない。彼女達がこれまで何をしていたのかを。

 

 誰一人として知らなかった。

 

 彼女達の旅路が、終焉の序曲である事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十八章 語らない予兆

 

 

 

 

 




次回は終わりの始まりです。
いえ、ジョークとかではなく。
長かった本作も、そろそろ終わりの時が近付いています。

次回は9/13(金)投稿予定です。


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第十八章 語らない予兆
語らない予兆1


「温泉に行こぉー!」

 やたら滅多にハイテンションな声で、加奈子がそう訴えてきた。

 放課後を迎えた校内。六月に入り梅雨を迎えたが、今日も太陽が燦々と照り付けている。時刻は午後三時を過ぎているが気温は三十度を超え、かなり蒸し暑い。教室内には加奈子以外にも十人ほどの生徒が居たが、多くが額にじんわりと汗を掻いていた。

 梅雨に入ったが、最初の頃にしとしとと降ったぐらいで、あとは今日のような晴天が続いている。気温も日に日に高くなり、今では夏日ばかり。毎年毎年異常気象だなんだと言われる昨今だが、今年の梅雨は何時も以上の『異常気象』になっていた。

 気候の異常は日本だけの出来事ではない。アメリカに季節外れのハリケーンが襲来したり、ドイツが異常な乾燥に見舞われたり、韓国で前代未聞の寒波が生じたり……世界の至る所で、例年にない現象が起きている。

 この厳しい気候を、世界中で怪物が暴れている影響だと主張する学者がいる。或いは人類が投入した大量の核兵器や爆弾の影響という学者もいる。はたまた偉大なる知性が人類に試練を与えてるのだという胡散臭い宗教家もいる。勿論中には偶然だと語る者もいるが……世界中で怪物が暴れ、世界中が異常な気象に見舞われている中でその意見はなんの説得力もない。地球は確実に、何かが変わろうとしていた。

 しかし何より懸念すべきは、ミュータントの存在だ。フィアの子やキャスパリーグの子など、ミュータントも様々な種が繁殖を始めている。世界中ではどれほどの数のミュータントが誕生しているのだろうか。確実に言えるのは、なんらかの拍子に彼女達が一斉に暴れ出せば、間違いなく今の世界は破綻するという事。案外今年の冬ぐらいには、もうこの地球から人類は完全に駆逐されちゃうかも知れない。一人の人間としてそれはとても悲しい事だと思うが、しかし生物の絶滅とは三十八億年にも渡る生命史から見れば珍しいものではなく――――

「おーい、話を聞けぇー」

「ふみゅっ」

 等と考えながらボーッと自席に着いていた花中は、不意に近付いてきた加奈子に頬をむぎゅっと潰された。唇がタコさんのように尖らされ、鏡で見ずとも分かる間抜け面を晒される。

「花中さーん迎えに来ましたよー。あら可愛いタコさん顔ですね」

 ましてやその顔を、タイミング良く教室の戸を開け入ってきた一番の親友(フィア)に見られたので、花中の頬はそれこそ茹でタコのように赤くなった。ミリオンの姿はないが、きっと彼女もバラバラになったままこの場を漂い、この間抜け面を見ているに違いない。

 頬を潰している加奈子の手を一生懸命振り解き、花中は椅子に座り直す。教室に入ってきたフィアは当然のように花中の後ろに立ち、腕を回して椅子に座ったままの花中を抱き寄せる。フィアの腕の力と暖かさが、じんわりと花中の身に伝わった。

 昔なら嬉しさでとろとろ笑顔になっていたこの抱き付きも、今やされていないと落ち着かないぐらい花中にとっては慣れたものになった。「いや、それ慣れてないから。変に依存してるから」と数日前に晴海からツッコミを入れられたが、その有り難いご忠告は残念ながら頭の隅に追いやられている。

 そうして色々準備万端な体勢になってから、花中は加奈子と向き合う。加奈子も大切なお友達。放課後のお喋りタイムへと突入だ。

「えっと、それで、なんの話でしたっけ? なんか、温泉に行こうとか……」

「そーそー、温泉だよ温泉! 偶にはさ、みんなで旅行とかしよーよー」

「良いんじゃないですか。私は花中さんと一緒なら何処に出掛けても構いませんし」

 花中が改めて尋ねると、加奈子はなんとも感情的な答えを返す。フィアはそれに賛同しつつ、花中の意見を伺うように視線を下に向けてきた。

 一人と一匹から問われ、花中は考える。

 友達との温泉旅行。確かに胸が弾け飛びそうなぐらいワクワクする響きだ。六月は纏まった連休がないので何時にするかは予想出来ないが、底なしに能天気で尋常でなく無謀な加奈子の事である。今週の土日に行こうと言い出してもなんら驚かない。もしそうなら中々の強行軍になりそうだが……慌ただしい旅行も楽しそうである。

 花中の気持ちとしては、行きたい方に大きく傾いていた。いや、否定する理由がない。是非とも参加したいところだ。

 ただ一つ、抱いた疑問の答えさえ得られれば。

「あの……失礼な事を訊くようで、申し訳ないです、けど……そんな余裕というか、楽しめる場所が、あるのでしょうか?」

 おどおどしつつも、花中は出来るだけハッキリと加奈子に問う。

 今や世界は変わろうとしている。怪物の出現により灰燼と帰した町や、何もかも食い尽くされた穀倉地帯は最早珍しくもない。昨今では怪物に加え、ミュータントらしき超生命体のニュースもちらほらと見られるようになってきた。ミュータントが軽くでも暴れれば、小国一つ滅びるほどの被害が出るのも珍しくない。

 産業は次々と破壊され、世界の生産能力は今や第一次世界大戦末期よりも低いという説まである。戦争でボロボロになった百年以上前の生産体制では、何十億もの人を養うなど土台無理な話。食糧価格は著しく高騰し、紛争や暴動が多発している国や地域もあると聞く。鎮圧しようにも市民生活の悪化により税収が低下し、軍や警察組織の維持すら難しい状態ではそれもまた無理な話だ。

 日本はそういう意味ではまだまだ平和な国だが、生活は日に日に苦しくなっている。政府だけでなくボランティア団体による支援なども行われているが、全ての人々を十分に助けてくれるものではない。仕事や家を失った人々は犯罪に手を染め、家族や友人を失った人々は得体の知れない団体に身を寄せる。治安は確実に悪化しているが、こうした勢力を取り締まる警察組織の力は衰えるばかりだ。花中の学校でも家庭を助けるため、高校を退学する生徒も目立つようになった。

 さて、こんな情勢下で暢気に温泉を楽しめるものだろうか? 正直かなり難しいだろう。単純にそうした事にお金を使える人が激減しているし、裕福な人々も世間の目を気にして大っぴらには使えなくなる。

 すると当然観光客が大きく減るので、温泉街などの観光地は経済的に追い詰められてしまう。いくら宣伝したところで、世界情勢が悪化する一方なのだからどうにもならない。こうなると経営体制の改善をするしかないが、つまりそれは職員の解雇や市場からの撤退であり、地元雇用の壊滅を意味する。一時凌ぎでしかなく、その後は更なる不況が訪れるのだ。

 この悪循環により、世界各地で『観光地』として発展した都市が壊滅している。壊滅とは比喩ではなく、本当に都市機能が喪失している状況も珍しくない。日本の温泉街も大半が壊滅し、今や残るのは箱根などの有名な場所ばかり。それらも、正直温泉街と名乗れるか怪しい状況と聞く。

 何処なら温泉を楽しめるのか、花中にはとんと思い付かない。一体加奈子は何処に遊びに行こうとしているのか。

「いやさー、実は私のおじさんが東北の方にある温泉街で仕事しててねー」

 そんな花中の疑問に答えた加奈子の声は、如何にも普段のような明るさで、けれども少し寂しそうだと花中には思えた。

「……ご親戚の方が、ですか?」

「うん。で、まぁ、今の世の中温泉なんかじゃ食ってけないから宿を畳むらしくて。でもその宿は二百年ぐらいの歴史がある老舗みたいだからさ、最後に団体様を泊めたいらしいんだよね」

「……………」

「ぶっちゃけ従業員はもうおじさんの家族ぐらいしかいないし、食材とかも残り物になっちゃうかもだけど……駄目、かな?」

 何時もの能天気さと明るさは何処へやら、弱々しい声で加奈子は改めて花中に尋ねてくる。

 正直、卑怯だと花中は思った。

 そんな事を言われて断れるほど、大桐花中という少女は『冷淡』ではないのだから。

「ダメじゃないです。そういう事でしたら、わたしなんかで良ければ、是非、参加させてください」

「ほんと!? ありがとー! おじさんも喜ぶよ! あ、ちなみに晴ちゃんは既に参加が決定しておりますぞ!」

 両手を挙げて喜びながら、ついでとばかりに加奈子はもう一人の参加者の名前を伝える。晴海もまたかなり人情味の溢れる少女だ。先の話を聞かされたなら、二つ返事で了承したに違いない。

「ちなみに他には誰か来るのですか?」

「私と晴ちゃんと大桐さんとフィアちゃん以外だと、あとミリきちとミィちゃんの二人が来る予定だよー」

「来る予定って……」

 ミリオンさんもミィさんも、まだ誘ってないでしょうに……そんな花中が視線に込めた感想を察したのか、「ミリきちも来るよね?」と加奈子が空中に向けて問う。すると何処からともなく「勿論行くわよー」という声がした。立派なラップ現象だが、この教室のクラスメート達にはすっかり聞き慣れたオカルト現象。今更気にする者もいない。

 ミィについてはまだ分からないが、恐らく彼女も参加するだろう。なんやかんや、ミィは結構『人付き合い』が良いのだ。恐らく加奈子が想定した通り、三人と三匹の旅路になるだろう……確かに行動が予想しやすい面子だとは思うが、こうも読まれると少し悔しいと花中は思う。

 尤も、だからといってやっぱり止めるなんて言うつもりは毛頭ない。それを悪ふざけだとしても言ったら、きっと後悔するに違いないと確信しているからだ。

 人の世界は、遠からず終わる。

 或いはもう終わっていて、今はただ続いているという願望が世界を覆っているだけなのかも知れない。なんにせよいずれは終わる世界の中を、花中なりには一生懸命最期まで生きていくつもりだが……友達との楽しい思い出もちゃんと作りたい。変わりゆく世界の中で、ああしておけば良かったと後悔しないように。

「よーし、それじゃあ六人で行くっておじさんに伝えとくね! あ、時期は今週の土日で大丈夫? 無理なら来週とか再来週に延期するけど」

「はいっ! わたしは大丈夫です!」

 最も近い休みに日程を組むのは、花中にとっては願ったり叶ったり。

 困ったところがあるとすれば、今日は水曜日で、土曜日まであと三日()()()という事。

 弛む口許に力を込めながら、寝不足で遅刻しないようにしないとと花中は思うのだった――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな時の事だった。

「おおっと?」

「ひゃっ!?」

 ぐらぐらと、大きな揺れが花中達を襲ったのは。

 地震だ。それもかなり大きい。震度四はあるだろうか。黒板の粉受け ― 黒板消しなどが置いてある金属製のパーツ部分の名前だ ― にあるチョークがカタカタと音を鳴らし、人の座っていない椅子や机がゆっくりと動いていく。

 花中はおどおどしながらフィアの腕にしがみつき、フィアは花中を今までより強めに抱き寄せる。加奈子はぼけーとしていたが、近くの席に座って転ばない体勢にはしていた。他のクラスメート達も少しだけ動揺を見せたが、立ち止まるなり壁に背中を預けるなり、各々安定した体勢を取って揺れに耐える。

 地震は数十秒ほど続いたものの、徐々に弱まり、やがて収まった。しばらくクラスメート達は互いに顔を見合わせ、自分の感じた『動揺』が、決して大袈裟なものではなかったと確かめ合う。

「いやー、中々の地震だったね」

 加奈子もまた他の生徒達と同じく、花中と顔を見合わせそう話した。花中は大きくこくんと頷き同意する。

「そうですね。もしかしたら、津波とかあるかも……」

「あー、それも怖いね。でも……」

「でも?」

「いやさ、もしかしたら今の地震、大きな怪物の所為だったりしないかなって。最近世界中で怪物が出てるし、地下深くに怪獣が潜んでいてもおかしくないじゃん?」

 冗談交じりに話す加奈子。しかしそのジョークは、今では現実に起こり得るものだ。少なくとも花中は白饅頭という地中に潜む怪物を目の当たりにした事があるし、フィアは地下の洞窟に暮らしていたという巨大甲虫と遭遇している。地中に何か得体の知れない生物が潜み、その活動により大地が揺さぶられるというのは……最早荒唐無稽な話ではない。

 されど此度に限れば、その心配は皆無だ。

「ただの地震だと思いますよ。足下にこれといった気配はありませんので」

 何時だって『生物(危機)』を察知してきたフィアが、何も感じていないのだから。

「あ、そうなんだ。じゃあただの地震かな」

「そうじゃないですかね? まぁ何百キロも深くに居るならこの私といえども流石に分からないと思いますが」

「流石に、そんな深さで大地震を起こせる生物は……まぁ、ミュータントなら、出来そうだけど……それより、普通の地震と考える方が、妥当かな。首都直下型地震の、予兆とかかも知れないし」

「あー、そういやそんな話もあったね。怪物とかの方がよっぽど怖いから、すっかり忘れてた」

「ダメですよ、ちゃんと警戒、しておかないと。確かに、怪物の方が危険かも、ですけど、台風や地震とかの、自然災害が、その分優しくなった訳じゃ、ないんですからね」

「ほーい」

 友達の防災意識を高めた事に、花中は満足してにこりと微笑む。備えあれば憂いなし。地震は怖いものだが、現代の科学力はそれを着実に克服している。建物は耐震・耐火性を大きく増し、地震への対処法も一般に広く伝わった。十万以上の人命を奪った関東大震災と同規模の地震が起ころうとも、今ならばその被害は限りなく小さなものに出来るだろう。

 そう、今の人間には自然に立ち向かう力と知恵がある。例え真に恐ろしい存在には敵わずとも、気紛れに全てが奪われようとも、自然と真摯に向き合えば、きっと人の居場所は残る筈だ。

 花中はそう思っていた。地震への心構えは()()()()()だと思っていた。

 その考えすらも、甘えに似たものだと知らぬままに……




二度目の温泉回!
お色気シーンを楽しめる世界情勢じゃないのがなんとも。

次回は明日投稿予定です。


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語らない予兆2

 喜多湯船町。

 東北地方の山奥にある小さな町だ。三方を山に囲まれており、交通の便はお世辞にも良くない。土壌はアルカリ性が強く、作物の生育に適さないため農業もあまり発展していない。ないない尽くし、とまでは言わないが、満ちた部分よりも足りないところの方がずっと目立つ土地である。

 とはいえ本当になんの価値もなかった訳ではない。

 この町には温泉があった。非常に強いアルカリ性を有する温泉で、美肌効果がある……らしい。本当にそうかは科学的検証が行われた訳ではないので断言出来ないものの、ともあれそう謳われた効用に多くの女性が興味を持った。そうした温泉に惹かれた女性達をターゲットにしたエステサロンや健康食品販売店が建ち、水が良いという謳い文句で化粧品の工場を誘致。美容の町として大々的に売り出され、ゆっくりとだが発展を遂げていた。

 ……一年前までは。

「いやー見事なまでの廃墟っぷりですねぇ」

 駅から出たフィアが開口一番に発した言葉がこれ。

 傍でその言葉を聞いていた花中は、失礼だとは思いつつ、同意して頷いてしまう。少し乱れていたロングスカートと半袖のポロシャツを手で軽く整え、背負ったリュックサックの重みに負けて浮きそうになる足をしっかり大地に着けてから、フィアが見ているのと同じ景色を眺める。

 花中達が訪れた喜多湯船町は、すっかり廃れていた。

 恐らく一年前まではたくさんの人々で賑わっていたであろう駅前の商店は、どれもシャッターを閉めている。屋根の付いた立派なバス停が近くにあったが、並ぶ人の姿はない。いや、そもそも行き交う人の姿すら何処にも見られなかった。道には空き缶や紙くずなどのゴミが数多く転がり、観光地として重視すべき外観に手が行き届いていない事が窺い知れる。

 箱根や熱海ほどのネームバリューはないとしても、温泉好きにはそれなりに有名な町だったと聞く。その町が、たった一年で……

「話には聞いていたけど、怪物の影響ってほんと酷いのね。うちの町がまだマシな方ってのは、嘘じゃなかったと」

 考え込んでいる花中の隣に、語り掛けながらやってきたのは晴海だった。

 彼女の半袖半ズボンという格好は、昨年までの六月なら少々気の早いだろうが、気温が高い今年ならば最適なもの。背負う大きなリュックサックも、晴海の健康的な魅力を引き立てるアクセサリーのようだ。表情が少し暗いのが、勿体なく感じられる。

 やってきたのと同時に語られた晴海の言葉に、花中はどう反応すべきか迷ったがために口を閉じた。対して花中の傍に居るフィアは「そうみたいですねぇ」と気楽に答える。

 晴海が言うように、この町が廃れた要因は『怪物』だ。怪物による世界情勢、ひいては食糧価格などの高騰による娯楽文化への打撃……世界の観光地で起きている事が、この町にも起きている。つまり一般人が訪れなくなった事で、喜多湯船町は廃れたのだ。

 勿論人にはそれぞれの事情がある。生活が苦しいから娯楽に使うお金を節約するというのは、借金漬けになるまで豪遊するよりは『真っ当』な生き方だろう。そもそも日本国民が平均的に豊かである事を前提に、観光地としての発展を選んだのはこの町自身である。日本全体が貧困に喘げば衰退するのは必然。ある種の植物のみを食べている虫がその植物の衰退と共に滅ぶように、一つの産業に特化したが故の宿命と言えよう。

 だとしても、優しい晴海は何か想うところがあるのだろう。寂しげな、悲しげな、辛そうな……様々な感情の混ざり合った眼差しで、廃れた町を眺めている。

 花中も共に町を眺める。この町の衰退に拘わったのは、一般人である自分もだと思ったがために。

「どろっぷきぃーっく!」

「おぐぇっ!?」

 なお、その感傷に浸れたのはほんの数秒。数秒間哀愁を漂わせていた晴海の背中に駅から駆け寄ってきた者――――加奈子が、言葉通りドロップキックをお見舞いしたのだから。加奈子の着ている可愛らしいワンピースは跳び蹴りの勢いで捲れ、意外と派手な下着が露わとなった。

 勿論加奈子なりに加減はしたのだろう。でなければ加奈子ほどの質量の不意打ちを受け、晴海が二本足で立っていられる筈もない。わざわざ手加減したドロップキックを受け、晴海はよろめきながらも前に数歩進むだけ。

「ぶぐぇっ!?」

 それよりも、着地に失敗して背中を打った加奈子の方がダメージは大きい筈である。花中や晴海と同じくリュックを背負っていなければ、大変な怪我をしていたかも知れない。なんの被害もなかった花中からすれば、正直「あぁ、この人は相変わらずバカだなぁ」と思える姿だった。

 尤も、だから晴海の怒りが収まる訳でもなく。

「……かぁーなぁーこぉぉぉぉぉー……!」

「あ、ま、待って……痛い、背中打って……あたたた……」

「そんな危ない事したら痛くて当たり前よ! 馬鹿じゃないの!? というか馬鹿よねこの馬鹿っ!」

 哀愁漂う空気は何処へやら。なんとも間の抜けた雰囲気が場を満たしていく。

 もう、悲しさも辛さもない。

 そうだ。自分達は此処に、温泉を楽しむために来たのである。決して、滅びゆく温泉街に同情しに来たのではない。

 加奈子は、それを思い出させてくれた。

「……やっぱり、小田さんは、凄いなぁ」

「そうですか? ただアホなだけだと思いますが」

「ちょ、フィアちゃんそれは酷、あだだだだだだだだ!? 足!? 足折れる!?」

「折ろうとしてるのよ」

「怖いんですけどぉあだだだだだ!?」

 晴海に足四の字固めをやられ、路上で悶絶する加奈子に花中の褒め言葉は届かない。賑やかで、元気な叫びが辺りに木霊する。手足をばたつかせて暴れる加奈子だが、晴海はガッチリと技を掛け続けていた。どうやら逃がす気はないらしい。

「ミィちゃん来たわよー……何やってんの、アンタ達」

「やっほー。楽しそうな事してるねー」

 二人がわいわいと盛り上がる中、電車に乗れないので走ってやってきたミィと、そのミィを待っていたミリオンが合流する。二匹の暢気で呆れ果てた感想に、花中はようやくこれが『恥ずかしい』状況だと気付く。

 でも、花中達以外の人の姿は今も相変わらずない。人がいないという事は、誰も晴海と加奈子のやり取りを見ていない。

 見ている他人がいないのだから、『恥ずかしい』事は何もない訳で。

「え。ちょ、大桐さんその優しい笑みは何!? 笑ってないで助けて! 助け、ほげえええええええええっ!?」

 じゃあしばらくこのままでも良いかなと思い、花中はしばし、晴海と加奈子の賑やかなじゃれつきを生暖かく見守る事にしたのだった。

 ……………

 ………

 …

 駅前の商店街を抜け、自然豊かな町並みを通り、山へと向かう。

 家は段々と閑散となり、代わりに大きな木々が目立つようになる。更に進めばいよいよ道路と標識以外に人工物は見られなくなり、豊かな自然が周りを埋め尽くすようになった。六月なのに真夏並の高温に見舞われ、動植物も混乱しているのだろう。セミの声が至るところから聞こえ、生い茂る草木は八月頃のように色が濃い。

 そうした異常はあれど、緑に囲まれると健やかな気分になる。花中は友達とお喋りをしながら森の中を歩く。フィアが人間達の身体に水を絡ませ、体温調節をしてくれているので熱中症の心配もない。のんびりと、バスなら十分ほどで済む道のりを一時間掛けて歩いた。

「おっ、見えてきたよー」

 長くはあったが楽しかったのですぐに渡りきったように感じる道の先で、加奈子が前を指差しながらそう訴える。

 加奈子の指が示す方角を見れば、そこには小さな建物があった。小さいといっても民家と比べれば何倍も大きいが……『旅館』として見れば、こじんまりとした印象の木造家屋だ。木は独特な色合いをしており、建てられてから過ぎた歳月の長さを物語る。耳を傾けてみたが、人の声や物音は聞こえてこない。人の姿も見られない。

 なんとなく、寂しい場所に思える。けれどもそれは仕方ない事なのだろう。

 加奈子の話が正しければあの建物……加奈子の叔父が経営する旅館は、もうすぐ畳まれるのだから。従業員も殆ど解雇されたとなれば、声が聞こえてこないのも頷ける。

「あれが加奈子のおじさんのやってる旅館? 随分辺鄙(へんぴ)なところに建ってるね」

「うん。豊かな自然を堪能出来るってのが売りだったみたい。まぁ、今じゃ自然を売りにしても人なんか集まらないどころか、下手すると炎上だけどねー」

「ああ、確かに最近そういう人多いわよねぇ。SNSでもチラホラ見掛けるし、学術系のニュースサイトにも出没してちょっと鬱陶しいのよね」

 ミィ ― ちなみに彼女は今、猫の姿でフィアの頭の上で丸くなっている ― からの問いに、加奈子はニコニコと微笑みながら答える。その話を加奈子の横で聞いていたミリオンが納得し、思い出したかのように語りながら呆れた表情を浮かべた。

 加奈子やミリオンが言うように、かつて『共存』ないし『管理』対象であった自然は、今や怪物というコントロールも共存も出来ない存在を育んできた環境として人々に認識されている。その結果自然とは人類が一致団結して打倒すべきものであり、甘えた対応は許されない……そんな認識が広く世間に受け入れられるようになっていた。

 そして中には、自然との共存を語る奴等は敵側だという些か過激な思想の持ち主も、少数ながら存在する。

 彼等或いは彼女等は、自然保護を求める団体や個人などへの抗議や『攻撃』を行う。ここ最近でも、怪物を生み出す森を守っていたという言い掛かり(理由)で、山林の所有者が脅迫・暴行されたという事件も起きている。幸いその暴行犯達は逮捕されたが、ネットのニュース記事では犯罪者達を讃え、釈放を求めるコメントがちらほらと見られた。そして賞賛の声は日に日に増加しているように見える……つまりそうした考えが、少しずつだが世間に受け入れられつつあるという事だ。 

 正直、ミュータントや怪物という『大自然の脅威』と遭遇した身である花中からすれば、彼等と真っ向から対立しようとする思想はどうしようもないほど()()()()()()と思うし、多様性(様々な意見)の封殺は存亡の危機にある人類にとってマイナスにしか働かないと考えるのだが……ともあれ、人々の自然への憎悪は確実に増していた。自然との触れ合いなんて口にすれば、非難され、社会的に抹殺される――――そんな考えが、今や被害妄想でも絵空事でもない。

 加奈子の叔父が旅館経営を止める事になった理由の一つは、このような人々の出現もあるのかも知れないと花中は思った。

「はい、とうちゃーく」

 考えているうちに、花中達は旅館のすぐ前までやってきていた。我に返った花中はぷるぷると顔を軽く横に振り、前を見据える。

「おーい、おじさーん。遊びに来たぞーい」

 加奈子は旅館の玄関戸 ― 大きな曇りガラスの張られた扉だ ― を叩きながら、中に居るであろう人物を呼ぶ。

 加奈子が叩いていたのは勿論木で出来た枠の部分だが、扉の揺れと共にガラスも揺れ、インターホンの代理でもするかのようにガシャンガシャンと音が鳴る。中に居る人に、加奈子の存在は十分にアピール出来た筈だ。

 待つ事数十秒。旅館の中から、ガタガタと音が聞こえてくる。

「はい、いらっしゃい。待ってたよ」

 扉を開けて出てきたのは、中年の女性だった。花中の三倍はあろうかというほど恰幅が良く、朗らかな笑顔は見ているだけでこちらの心を和ませてくれる。着ている和服がパツパツなのは、ご愛敬といったところか。

 十中八九、彼女がこの旅館の女将さんだろう。

「あ、早紀おばさんこんにちはー。(いさむ)おじちゃんは?」

「山に行ってるよ。加奈子ちゃん達に美味い山菜料理食わせるんだーって、意気込んじゃってね」

 現れた女性……早紀という名前のようだ……の説明に、「えぇー」と加奈子は呆れたような声を出す。

 どうやら加奈子の叔父、勇という名前の男性は外出しているらしい。山菜を採りにいったという事は、新鮮な山菜料理がこの旅館の売りなのだろうか。

 時間が経つとタンパク質の分解により旨味成分が増す魚や肉類と違い、植物性の食品は新鮮なものほど美味い。「果物は早めにとって熟成させるじゃないか」という意見も出そうだが、あれは農地から店に届くまでの時間を計算し、店頭に並んだ時完熟一歩手前になるよう調整した結果である。木に生らしたまま熟したものを、その場で食べるのが一番美味だ。

 山菜もまた鮮度が命。採りたてほやほやのもので作られた料理は、さぞ美味しいに違いない。自分がこれから味わえるものを想像し、僅かながら生唾が出たのを花中は自覚した。

「勇おじさんの山菜、時々変なの混じってるから不安なんだけど」

 尤も、その生唾はすぐに引っ込んだが。

「んー、大丈夫じゃない? 死人は出た事ないし」

「病院送りは三回ぐらいあったと思うけど」

「あら、そんなものだった? 加奈子ちゃんが二歳ぐらいの時にも、やらかしてたと思うんだけど」

「ちょっと待って、私その話知らないんだけど?」

 早紀との間に交わされる、不穏以外の何ものでもない会話。花中は自然と晴海と目を合わせ、晴海も無意識といった様子で花中の方を見遣る。晴海の顔は不安がありありと出ていて、きっと自分もこんな顔をしているのだろうと花中は思った。

「……念のために訊くけど、その山菜料理本当に食べて平気なの?」

 そして花中の生存が優先事項であるミリオンが、眉間に皺を寄せながら疑念をぶつける。

 ぶつけられた加奈子は「うーん」と悩むような素振りを見せた。花中的にはこの時点で色々とアウトのような気がするのだが、しかしもしかすると誤解が生じぬよう言葉を選んでいるだけなのかも知れない。

 息を飲みつつ待つ事十数秒。決して長くはない、けれども待つ側としては焦れったい沈黙を挟み……加奈子はニコッと微笑んだ。

「大丈夫! 何回病院送りになろうとも食べたくなるぐらいには美味しいから! 私が保証するよ!」

 そして笑顔と共に告げられる、何も安心出来ない答え。

 花中も晴海もミリオンも、その口許をぴくぴくと引き攣らせるのであった。

 

 

 

「……美味しいわね」

「……はい。凄く美味しいです」

 並んで座りながらぽつりと漏らした晴海の言葉に、花中もまたぽつりと漏らすように同意する。

 花中達が居るのは畳の敷かれた大部屋。何十もの人々が入ろうとも窮屈さを感じずに食事が出来るほど、とても広々とした一室だ。部屋の隅にはカラオケのための機材が置かれ、一昔前の旅館らしさを感じられる。畳や壁には小さな傷が見られるが、不快さを覚えるほどではなく、むしろ実家にいるような程良い親近感を抱かせるもの。実に落ち着きある雰囲気で、旅行でありがちな、慣れない場所に対する『疲れ』を感じさせなかった。

 本来なら此処は、例えば社員旅行などの団体客を迎え入れるための場所なのだろう。今日までにたくさんの人々が集い、料理に舌鼓を打ちながらわいわい楽しく過ごしてきたに違いない。目を瞑れば、その景色が浮かんでくるようだ。

 けれども今は、花中達人間三人と人外三体しかいない。

 そしてもう二度と、此処が大勢の人で賑わう事もないのだ。

「ありがとうございます。朝早く山に入った甲斐がありました」

 花中達が漏らした言葉を聞き、室内に居た中年の男が笑みを浮かべる。女将さん以上に恰幅の良い大柄な男だが、にこにことした表情は子供のように無邪気で、男性が苦手な花中でもあまり怖いと思わせない。

 彼こそがこの旅館の主であり、そして加奈子の叔父である(いさむ)だ。

 花中達は今この旅館で一番の大部屋にて、彼が旅館の裏山から採ってきた山菜を材料にして作った、夕飯を食べている最中だ。素揚げやお浸し、炒め物や漬け物などシンプルな料理が多いが、だからこそ素材の味が強く出ている。そしてその素材は姫竹やワラビ、謎のキノコに謎の草に謎の茎……正体不明の代物が半数以上占めていたが、どれもとても美味であった。こんな美味しいものを食べてしまったらスーパーで売ってる野菜なんて食べられないと、冗談抜きに思える。

 強いて不満を述べるなら、分類不明な謎植物と謎菌類は本当に食べて大丈夫なのか著しく不安な点だが……花中達には物質のエキスパートことミリオンが傍にいる。彼女の簡易的な検査により、料理に猛毒が含まれていない事は確認済み。微妙な毒はあるかも知れないが、人間は多種多様な食物を摂取出来るキング・オブ・ザ・雑食生物なのだ。多少の有毒物質はなんのその。万一お腹を壊しても、微細粒子であるミリオンならば血液ごとクリーンに浄化する事も可能である。

 恐れるものは何もなし。存分に山の味覚を堪能し、花中は幸せを満喫していた。

「ふっふーん、どうだ美味いだろー。勇おじちゃんの料理、味に関しては本当に最高だからね!」

「何故あなたが自慢げなのです? まぁ思いの外美味しいというのは分かりますが」

 花中と晴海が料理を気に入った事に、勇の親戚である加奈子が胸を張る。花中の隣に座るフィアは、パクパクと出された料理を口にしていた。人間とは味覚が異なるフィアだが、未知の食材は彼女の舌にも合ったらしい。

「うにゃーうにゃー」

「ええい野良猫め私の額を爪でガリガリ引っ掻くんじゃありません。ほれ」

「うにゃうー」

 ついでにミィも気に入ったようで、時折フィアが指で摘まんだものを受け取り、食べていた。猫が食べて良いものかは分からないが、どんな毒だろうと大質量で薄め、更には熱で分解してしまえる彼女ならば大丈夫だろう。それにこんなにも美味しいものを『かも知れない』で取り上げるのは、花中としては気が引けた。

 唯一ミリオンからは味の感想がないものの、彼女にはそもそも味覚がないのだから当然である。それでもどことなく楽しげに食べていく様を見るに、料理の彩りは気に入っているのだろう。出された素揚げや漬け物は決して派手な品ではないが……その素朴な風体は、食べる側に穏やかな気持ちを呼び起こすのだから。

 人間だけでなく、人外すらも魅了する料理。加奈子が言っていた「何度病院送りになっても食べたくなる」という言葉は、成程的を射た例えだと花中は得心がいく。後でちょっとお腹が痛くなるぐらい、対価としては安いものだと本気で思えた。出来る事なら何時かまた此処に来て、この山菜料理をもう一度味わいたいものだ。

 実に、惜しい話である。

「……本当に、辞めてしまうのですか?」

 花中は無意識に、勇に尋ねていた。

 無神経な問いだったかと後になって後悔するが、勇は不快そうな反応は見せない。ただ少し、寂しそうに笑うだけだった。

「ええ。道楽として続ける事も出来たかも知れませんが、最近は自然との触れ合いを売りにするだけで嫌がらせや抗議がありまして。お客さんがいるならそれでも続けてもいくつもりでしたが、来ない上に嫌がらせを受けるとなると流石に……」

「……そう、ですか」

「それに町もすっかり廃れてしまいましてね。若い連中は仕事や食べ物を求めて出てしまい、この町に居るのはもう私らのような老人ばかり。料理には何時も地元の味噌を使っていたのですが、その店の若旦那も家族を養うため農村に移り住んでしまいましたよ。あの味が出せないとなると、お客様に料理を出すのも申し訳なくて」

 如何にも他愛ない事のように語る勇だが、その言葉の重みは花中にも分かる。住人の流出が問題となっているのは、この町だけではない。日本中、世界中の自治体で起きている話だ。故にニュースでもよく取り上げられ、困窮を訴える人々の姿を花中は頻繁にテレビで目にしていた。

 人が居なくなるというのは、町が寂しくなるというだけの話ではない。例えばこの旅館を運営するにしても、食材を搬入する作業員、消耗品の販売を行う業者、水道やガスなどのライフラインの整備士、老朽化した建物や家具を修繕する技術者……ざっと思い付くだけでもこれだけ大勢の人々が必要な筈だ。細かなところを挙げれば切りがない。

 勿論交通網が発達した現代において、必ずしも町に全ての業種が揃っている必要はない。しかし近場になければ呼んだり買いに行ったりするだけで一苦労となり、納品までの時間が長くなるため急な対応は出来ず、コストも増える。そして万一交通網自体が怪物により破壊されようものなら……

 例え気持ちの上では利益度外視で続けたくとも、例え悪意に屈しない強い心を持とうとも、物理的に仕事が出来ない状態になろうとしている。無理に続けたところで、客に提供出来るのはろくでもないサービスだけ。心から旅館の仕事に誇りがあるからこそ、こんな状態の宿に客を泊まらせる訳にはいかないと勇は思ったのだろう。

 苦渋の決断だったに違いない。

「……大変、なのですね」

「いやいや、まだうちはマシな方ですよ。幸いにして食べるだけなら、裏山の山菜でなんとかなりますからね。怪物騒ぎのほとぼりが冷めて、みんなが冷静になった頃、また一からやりますよ。その時は加奈子と一緒に来てくださいね」

 にっこりと笑いかけてくる勇に、花中は上手く笑みを返せない。この旅館が再開する時が来るとは、どうしても思えないがために。

「……ささ、こんな話なんてしても楽しくないでしょう! 旅行は楽しく、心身を癒やすためにするものですよ。それに料理が冷めてしまっては、それこそ勿体ない」

 暗くなってしまった雰囲気を変えようとしてか、勇は朗らかに笑いながら食事を促した。花中はこくんと頷き、残った料理を口に運ぶ。

 本当に、とても美味しいと思った。

「ほらー、大桐さんも暗い顔してないでガツガツ食べなってー」

「ぴゃっ!?」

 その味に、少し感傷に浸り過ぎたのだろうか。加奈子が寄り付き、抱き付いてきた。驚いた花中は思わず座った姿勢のまま跳ね、加奈子の方を見遣る。加奈子は満面の笑みを浮かべながら、花中の肩に腕を回してきた。

「こら加奈子。はしたない真似しないの」

「えー、スキンシップなのに」

「アンタ親しき仲にも礼儀ありってことわざを知らないの?」

 ふざける加奈子を晴海が窘めるが、加奈子はまるで堪えていない様子。とはいえ絡まれている花中としては、こうした触れ合いは大好きなので、続けてもらって構わない。

 むしろ今は、普段より一際嬉しいぐらいだ。

 傍目にも分かるぐらい暗かったから、励まそう、楽しませようとしてくれているのだろうと花中は加奈子の意図を汲んだ。加奈子は普段何も考えず好き勝手しているようで、常に周りを見て誰かが孤立しないよう気を配ってくれる。彼女はみんなが楽しむ事を大切にしているのだ。そして何時も『些細』な事で暗くなってしまう花中は、加奈子の元気さと楽しさを何時も分けてもらっている。

 そうだ、折角の旅行なのだから楽しまねば勿体ない。最高に楽しい状態で料理を堪能し、最高の思い出にするのだ。最後のお客さんが悲しい顔で帰るなんて、きっと勇も望んでいないのだから。

 丁度良い事に、最後まで残っている料理は出された中で一番美味しかったもの。

 濃厚な旨味を持った、キノコの素揚げだ。素材が正体不明の『謎キノコ』なので最初は躊躇ったが、その味を知った今ではもう何個でも食べられる。楽しみに取っておいたそれをいよいよ口にする時だと、花中は胸を躍らせながら箸を皿へと出して

 箸が空振りした。

「……ふにゅ?」

 無意識に、変な声が出る。

 パチンパチンと、指を動かす度に箸同士のぶつかる音がした。何故ならそこにはなんの食材もないから。キッチンペーパーだけ敷かれた皿が、そこにはあった。

「ん? おおひりはんほーひはの?」

 そして隣には、もっちゃもっちゃと贅沢な咀嚼をしている加奈子が居る。

 花中は、加奈子の顔を見た。花中以外にも晴海やミリオンも加奈子の顔を見ていたが、加奈子は気にも留めずもちゃもちゃもちゃもちゃ口の中身を噛み、やがてごくりと飲む。

 次いで「げふー」と出てきたゲップには、ゲップなのに食欲をそそる濃厚な旨味が感じ取れた。

「いやー、私このお皿にあったキノコ大好きなんだよねー。オススメだよー」

 そして何一つ悪びれる事なく、花中の箸が向いている空のお皿を指差す。

 くるりと、花中は晴海を見る。晴海は首を横に振り、空になった自分のお皿を指差した。

 花中はミリオンも見た。ミリオンは花中から視線を逸らし、フィアとその頭の上に居るミィがもぐもぐ口を動かしている姿を見遣る。

 成程、全員あのキノコは食べ終えてしまったらしい。確かにとても美味しかったから、自分に出された分を全部食べてしまうというのは当然の事だ。

 納得した花中は、最後に勇を見た。

「……すみません。そのキノコはそこそこ珍しく、今出したものが全てなんです」

 勇は笑顔を引き攣らせながら、本当の事を話してくれる。

 ――――前言撤回。やっぱり小田さん、なーんも考えちゃいない。

 その結論に至って間もなく、花中の割と切れやすい堪忍袋の緒がぷつんと音を立てた。

「お、お、小田さんの、バカぁーっ!」

「あはははは。めんごめんごー」

 沸き上がる怒りのままに加奈子の頭を叩く花中だったが、小学生より非力な腕力ではふざけた返事を引き出すので精いっぱい。それが悔しくて何度も何度も叩くが、ポコポコとへこたれた音がなるだけ。

 あまりに情けない連続パンチに、フィアが微笑み、ミィが吹き出し、ミリオンがくすくすと笑い、晴海が口を押さえるも笑いが漏れ出し、勇は顔を逸らして震え、加奈子がわははと大笑い。

 旅館の大部屋に、しばらくぶりにたくさんの笑い声が満ちるのであった。




加奈子は考えなしではないのです。
考えが浅はかなだけです。

次回は明日投稿予定です。


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語らない予兆3

 扉を開けた瞬間、強い硫黄の匂いが鼻をくすぐる。

 漂う熱が顔に吹き付けてきた。屋根のない露天であると聞いていたが、風がなかったためある程度の湯気は溜まっていたのだろう。視界が白く染まり、あまり遠くまで見通せない。

 とはいえ数秒も経てば湯気は晴れ、扉の先に広がる景色が姿を現す。

 石造りの床が一面に広がり、自宅の浴槽とは違う高級感を感じさせた。周りは高さ三メートルほどある木の板で囲まれており、周囲からの視線を遮っている。一角には大きな岩が山積みになっていたが、景観のための飾りだろうか。岩のすぐ隣にある縦横十メートルほどの四角い凹みには、なみなみとお湯が張られていた。

 部屋の隅の一つには木製の小さな椅子が五つ置かれており、傍には近代的なシャワーヘッドがこれまた五つ並んでいる。シャワーヘッドの根元にはシャンプーや石鹸、プラスチック製の桶が置かれていた。

 そして椅子やシャンプーなどの『小物』は、全てが整然と並んでいる。床には水溜まりなどなく、湯気によって僅かに湿るだけ。少なくとも今日は、まだ此処を誰も使っていないのだという確かな証だ。

 その『初めて』を頂ける事が、ちょっと贅沢に思える。

「ふわぁ……温泉だぁ……!」

 そうして込み上がった嬉しさに後押しされ、一番乗りした花中は思わず声に出してしまった。

 此処が、加奈子の叔父が営む旅館の温泉だ。

 この辺りの地域の温泉は、どれも天然物だという。産出される湯量は非常に豊富で、循環器を用いていないそうだ。所謂源泉掛け流しである。この形式は空気に触れる前のお湯であるため劣化が進んでおらず、また消毒剤などを投じない場合が多いため、温泉本来の魅力を堪能出来る。足を踏み入れた瞬間に感じた硫黄臭からして ― 勿論加奈子の叔父がそんな事をするとはこれっぽっちも思っていないが ― 看板に偽りはないだろう。

 こんな贅沢な温泉を、自分達が一番乗りしただけでなく、独占出来るのだ。興奮せずにはいられない。

「いやぁ久しぶりの温泉ですねぇ。前に来たのは何時でしたっけ?」

「一年の夏休みの時だから、まだ二年は経ってないわね。あれから色々あって、気分的には十年ぶりぐらいな感じもするけど」

「しかもあの時は、ミリオン以外全員ぶっ倒れて危うく死にかけたからねー」

 花中に続き、続々とフィア達も温泉に入ってくる。晴海とミリオンはバスタオルを身体に巻いていたが、フィアはタオル一枚持たない全裸だ。ミィは猫の姿のままフィアの頭に乗っているため、当然真っ裸である。ちなみに動物(ペット)は本来温泉には入れないそうだが、今回は旅館の主である勇から特別にOKが出ているので問題はなかった。貸しきりの特権である。

 なお、身体を洗わずに温泉へと跳び込む許可は出ていない。

「ひゃっほぉー!」

 出ていないが、石造りでよく滑るであろう床を一片の躊躇いもなく全力疾走する加奈子を止められる人間はいなかった。花中と晴海が「あっ」という声を漏らした時、加奈子の裸体は跳躍により湯船の真上に到達している。

 どぼんっ! と大きな音と共に水柱が上がり、たくさんの温泉が辺りに飛び散った。拡散したお湯からは溶け込んでいる多種多様な物質が空気に移り、周囲の香りが著しく増す。ギリギリ良い匂いで収まっていたものが、ちょっとキツいものとなってしまう。

「……正直人間はこの臭いの何が良いんですかね」

「ぶっちゃけ腐ったものの臭いだよね」

 人間でもやや辛い臭いに、動物二匹から苦情が出た。天然温泉における『硫黄の臭い』は、正確には硫黄ではなく硫化水素によるものとされている。そして硫化水素は非常に危険なガスであり、ある程度の濃さのものを吸い込めばたちまち死に至る猛毒だ。

 無論こうした源泉を用いる温泉宿では万が一にも人に被害が出ないよう、硫化水素の濃度を基準以下に抑える管理が行われている。だからこそ人間は暢気に温泉を楽しめる訳だが、野生動物二匹からすれば微量とはいえわざわざ毒に身を浸して喜んでいるようなもの。理解不能になるのも仕方ない。

 ……さて、動物達の天然温泉に対するイメージも分かったところで。

「かぁーなぁーこぉー! またアンタは同じ馬鹿を繰り返してぇ!」

 晴海が加奈子に向けて叱咤を飛ばした。

 しかしながら叱られた加奈子はまるで堪えず、堂々とした仁王立ちで晴海と向き合う。ぽよよんと胸が揺れ、産まれたままの姿を花中達に見せた。

「わははー、最後なんだから目いっぱい楽しまないとねー」

「楽しみ方にもマナーがあるっつってんの! というか少しは恥じらいを持ちなさい!」

「別に友達なんだから良いじゃん。誰も見てないし」

「友達でも裸は見せ合わんでしょ!」

 ツッコミを入れられ、加奈子はむすっと唇を尖らせる。叱られた事より、裸の付き合いを拒否された事の方が不満げだ。

 そんな加奈子の姿が如何にも子供っぽくて、花中はくすりと笑みを零す。

「おっ。大桐さん笑ったなぁ? これでも喰らえぃっ!」

 すると加奈子は目聡くこれを見付け、両手で掬った温泉を投げ付けてきた。

 気付いた時にはもう遅く、花中の顔に温泉が掛かる。源泉の熱さと臭いに花中は顔を無意識に顰め、ぷるぷると横に振って水気を飛ばす。

 顔面から染みいる熱さと香りで意識は覚醒し、むくむくと好戦的な気持ちが込み上がる。自然と頬が緩み、花中はふにゃっと笑った。

 勿論普段ならば加奈子の『はしたない』行動を花中は真似たりしない。しかし今回は特別だ。花中達は最後にして唯一の客であり、温泉をたっぷり満喫する事こそが旅館を喜ばせる行い。他の客もいないから大騒ぎしても迷惑にはならないし、加奈子は温泉をこれでもかというほど楽しんでいるだけ。

 無論機材を破損させたり汚したりするのは、如何に最後にして唯一の客でも絶対に許されない所行だが……叔父と旅館を想って此度の温泉旅行を企画した加奈子が、そんな『愚行』をするとも思えない。賑やかにはしても、誰かを傷付けたりしないのが加奈子という少女だ。

 以上二つの観点から、『止める』理由は何処にもない。そして花中には、加奈子に復讐するに足る恨みがある。

 あの美味しくて、濃厚で、もしかしなくても二度と食べられないであろうキノコ(種名不明)を奪ったというしょうもない(許しがたい)恨みが。

 挑発に乗らない理由ゼロ。やらねばならない理由がひとつ。

 心の天秤は容易に傾いた。

「やりましたねー……わたしも、お返しします!」

「よっしゃー! 来いやぁ!」

「ちょ、大桐さんまで!?」

 花中は加奈子への宣戦布告をし、加奈子は両手両足を広げた戦闘態勢に移行。自分側だと思っていたであろう花中の離反に、晴海が困惑の顔を見せる。

 友人二人の反応にニヤリと笑みを浮かべ、花中は――――まずはシャワーヘッドの前へと駆け寄った。

「……あれ?」

「……あら?」

 呆ける加奈子と晴海を尻目に、花中はシャワーのノズルを回し、頭からお湯を浴びる。次いでスポンジにボディーソープを染み込ませ、ごしごしと身体を洗った。花中的にはかなーり大急ぎで、実態はなんだかもたもたしているような動きで、頭と身体を綺麗にしていく。

 最後にシャワーを一浴び。顔の水を手で拭い、しっかりノズルを回してシャワーの湯を止めた花中は、頭にタオルを乗せた後再び大急ぎ ― あくまで花中としては ― で加奈子の待つ湯船へ向かう。湯船の縁に辿り着いたらゆっくりと足を湯に入れ、つんと来る熱さに耐えながら徐々に全身を浸けていった。そうして一旦身体を湯の温度に慣らし、それから立ち上がった花中は、片手に持ったタオルで身体の前面を隠しつつ加奈子と向き合う。

「て、てやーっ!」

 そして片手で掬い上げたお湯を、加奈子目掛けて投げた。

 加奈子までの距離は、ざっと三メートル。花中が渾身の力で投げたお湯は、てんで加奈子とは違う方向に、二メートルも飛ばずに落ちた。

 数秒の沈黙が挟まれた後、加奈子と晴海が優しく微笑む。

「うん、大桐さんらしくて良いと思うよ」

「そのままの大桐さんでいてね」

 加奈子と晴海の言葉の意味はよく分からなかったが、馬鹿にされている事だけは花中も理解した。

「む、むきぃー!」

「ふはははははは! 届かん! 届かんぞー!」

 怒りに任せて掬ったお湯を投げる花中だったが、どれも加奈子には届かない。対して加奈子は悠々とお湯を片手で掬い、しなやかな動きで投げ……拳ほどの大きさがある水の塊が花中の顔面に命中。

「わ、わぶっ!? や、わ、あぎゃぶっ」

 驚き、仰け反った花中は、そのまま湯船の中でひっくり返ってしまった。小さな水飛沫が辺りに飛び散る。

「これはメラではない。メラゾーマだ!」

「それじゃ意味全然違うでしょーが。どんだけ必死なのよ」

 一発で返り討ちになった花中に、加奈子が胸を張りながら煽る。その煽りに晴海は呆れながら、花中と加奈子が遊んでいる間に身体を洗っていた彼女もまた湯船に浸かった。

「ちなみに晴ちゃんはどっちの味方?」

 やってきた晴海に加奈子は問う。

 何を訊いてんだか、とばかりに晴海は肩を竦める。

「偶には趣向を変えて、今回はアンタの味方をしようかしら。大桐さんの味方ばかりするのも飽きたし」

「た、立花しゃんっ!?」

 そしてあっさりと、劣勢にある花中を裏切った。

 このままでは不味い。極めて貧弱かつノーコンな花中には、二人を返り討ちにする力なんてないのだ。浮かれていてこの事を完全に失念していた花中は、湯船の中で今更右往左往してしまう。

 だが、諦めはしない。

 確かに花中には力がない。しかし花中の『友達』は別だ。彼女達ならば……

「はふぅー……良いお湯ねぇ……あ、はなちゃん頑張ってねー。それなりに応援してるから」

「えっ」

 そう期待して花中が第一に視線を向けたミリオンは、温泉を堪能するのに忙しい様子。

「あたしも今日はパス。観戦させてもらうねー」

「えっ」

 次いで視線を向けたミィにも、お願いする前に断られた。

「ふはははははっ! ご安心を花中さん! こんな雑魚共の力など借りずともこの私の手に掛かればそこの二人など瞬きする間もなく粉砕してみせましょう!」

 唯一フィアだけが、こちらから頼む前に味方に付くと言ってくれる。

 言ってくれるが、彼女は勝負事に対する力加減が下手だ。間違いなく、容赦なく晴海と加奈子を叩き潰す。これでは遊びにならない。

 加えて物を大切にするといえ価値観も乏しい。死人は出ないと思うが、多分、色々なものが破壊されるだろう。それはNGだ。

「あ、うん……えと、大丈夫、だよ」

 大変申し訳ないが、花中はフィアの申し出を断るしかなかった。「えぇー?」と小首を傾げるフィアは大変可愛らしいが、騙されてはいけない。彼女は生粋の怪物(モンスター)であるのだから。

 ――――さて。

 フィア、ミリオン、ミィの助けは借りられない。そして加奈子と晴海はチームを組んだ。

 状況は一対二。加えて『一』の方は『二』の方の片方にすら勝てないほど弱い。

「……あ、あの、降参って……」

「「認めてません」」

 物は試しと降伏してみるが、却下された。それはそうだろう、まだ戦って(遊んで)すらいないのだから。

「え、や、みゃ、みゃーっ!?」

 花中に出来るのは、情けない悲鳴を上げながら逃げる事だけで。

 加奈子と晴海の攻勢が始まれば、花中は為す術もなく全身びしょ濡れとなるのであった。

 ……………

 ………

 …

「あふぃー……楽しかったー」

「ほんとねー……」

「楽しかったですぅー……」

 湯船に肩まで浸かり、とろんとろんに蕩けながら、加奈子と晴海と加奈子は温泉を満喫する。

 お湯掛け合戦は一分で決着が付いた。無論花中のボロ負け。ひっくり返り、お湯の中で危うく溺れるところを助けられるという有り様である。実に情けないやられ方だが……楽しかったので、良しとした。

 そうして花中が降参すると、今度は加奈子と晴海の対戦が勃発。花中は裏切り者である晴海を懲らしめるべく加奈子側として参戦したところ、加奈子の無茶に振り回されて連携が乱れてしまう。その隙を突いた晴海にプロレス技を掛けられ、加奈子と花中は撃破された。

 更に復帰後三度目として始まった ― というより加奈子が仕掛けた ― 加奈子と晴海のじゃれ合いに、今度の花中は晴海側として参戦するも、花中を気遣って動きの鈍った晴海を加奈子が捕らえ、くすぐり攻撃で晴海を屈服させる。無論一人になった花中に加奈子をどうこう出来ず、あっさりとくすぐり攻撃にやられてしまった。

 そうしてたっぷり遊んで疲れた三人は今、こうしてのんびり温泉を楽しんでいる。

「(あれ? わたしの参加した側、ことごとく負けてない?)」

 ひょっとして自分はとんでもない疫病神なのでは……気付きたくない事実を知り、花中は赤らんだ頬を青くした。見た目以上に弱っちいのは自覚していたし、足を引っ張ってばかりなのも分かっていたが、『戦績』という現実になって突き付けられるとダメージが大きい。

「花中さんどうしましたかー?」

 ぷるぷる奮えていると、フィアが温泉の中を泳ぎながら近付いてきた。どうやらこんな『しょうもない』事でまた顔が暗くなっていたらしい。

「あ、ううん。なんでもないよ。その……わたし、弱いなぁって、へこたれてただけだから」

「あー確かに花中さんどーしようもないぐらい弱いですよね。立花さん達と遊んでる時もボコボコにやられてましたし」

「ぐふっ」

 面と向かって指摘され、花中は呻く。それについては紛う事なき事実なので、文句など一つたりとも出てこない。

 代わりに出てくるのは、自己嫌悪の言葉だ。

「うぅ……やっぱりわたし、弱いよね……もうちょっと、なんというか、強くなりたいかな」

「花中さんったら人間のくせにまた図に乗った事言ってますねぇ。花中さんはそーいうところ含めて可愛いと思いますからそのままで良いと思いますよ? 少なくとも私は今の花中さんが好きですし。まぁ体力はもう少し付けた方が良いとは思いますけどね」

 フィアはそう言いながら花中に抱き付く。『作り物』とはいえ美少女の裸体、おまけに「好き」と言われながら近付かれたら、花中でなくともドキリとするだろう。思わず身動ぎし、けれども逃げるほどではないので、最後は大人しく抱き付かれる。

 もうちょっと強くなりたいという気持ちはまだあるけれど、こんな自分を好きだと言ってくれるのなら……別にこのままでも良いかなと、花中は思う。顔を上げてフィアと向き合い、にへへと笑い合った。

 と、丁度そうしてフィアを見上げたがためにふと気付く。

 フィアの頭の上にミィの姿がないと。

「あれ? フィアちゃん、ミィさんは?」

「野良猫ですか? ミリオンがなんか飲んでるとか言ってそっちに移りました」

「飲んでる……?」

 何か飲み物でも持ってきたのだろうか?

 フィアに抱き付かれたままなので身動きが取れない花中は、首だけ伸ばしてミリオンを探す。見付けたミリオンは温泉の隅の方に寄り掛かった体勢で居て、確かにちびちびと何かを飲んでいた。

 ミリオンの頭の上には、ぐでっとした体勢で寝転ぶミィの姿がある。腕やら尻尾やらをゆらゆら動かしており、体調が悪いという訳ではなさそうだが、どうにも何時ものハキハキした雰囲気がない。

 そして何かを飲んでいるミリオンの傍には、温泉に浮かせたお盆があり、そのお盆の上には『徳利(とっくり)』が置かれていた。

 これだけ情報が揃えば答えは明白だ。ミリオンは――――お酒を飲んでいる。

「おぉっ、ミリきちがお酒飲んでるー」

 花中が気付いたのと同じくして、加奈子もミリオンの飲酒を発見した。

 ミリオンは手にしたお猪口を掲げ、「あなたのおじさんがくれたものよ」と答える。お猪口を柔らかな唇に付け、ゆっくりと飲んでいく様はなんとも上品で魅惑的。見た目麗しい彼女が裸体でお酒を嗜む姿は、『エッチ』という下世話な印象を通り越し、絵になるという言葉がピッタリだ。

 花中は思わず見惚れてしまったが、加奈子はわくわくした様子で動き出す。温泉の中をカエルのようにすいーっと泳ぎ、ミリオンのすぐ傍まで近付いた。

「ミリきち! そのお酒分けておくれ!」

「却下」

 次いでなんの躊躇もなくお酒をねだり、ミリオンに一瞬で切り捨てられる。

 加奈子は「えー」と不満の声を漏らすが、ミリオンは気にも留めない。手にしたお猪口にお酒を注ぎ、見せ付けるように、優雅に飲酒を楽しんでいる。

 しかし加奈子は諦めず、お盆の側から離れようともしない。

「良いじゃん、ちょっとぐらい分けてくれてもー。減るもんじゃなしー」

「普通に減るから。大体お酒の味も分からないような子供に、この日本酒は渡せないわねぇ」

「ミリきち、味覚ないんじゃなかったっけ?」

「味覚はないけど、アルコールは検知出来るわよ。エンベロープにびしびし突き刺さる感覚が堪らないわぁ」

「えんべ? 何それ」

 目をパチクリさせる加奈子。エンベロープとは一部のウイルスにて確認されている、ゲノムなどを覆っている膜状構造の事だ。ちなみに破れると中身が出てしまうので、ウイルスは不活性化 = 死に至る。

 人間など比にならないほど退廃的な飲酒に、遠くで聞いていただけの花中は苦笑い。しかしながらエンベロープを知らない加奈子はミリオンの飲酒の意味など分からないまま、そのお盆に手を伸ばしてパチンと叩かれていた。

「けちー」

「ケチで結構」

「というか、ミィちゃんは飲んでるじゃん」

「流石にこの子の素早さは私でも止められなかったわ。酒の回りも早過ぎるけど」

「みゃみゃみゃみゃみゃー、おしゃけれよってみらかっからぁ、ちょーっとけつりゅうろかあやつっへみまひはー」

 ミリオンが視線を上に向ければ、ミィは呂律の回っていない言葉を返す。

 恐らくは「お酒で酔ってみたかったから、ちょっと血流とか操ってみた」と言いたいのだろう。ミィは人間なら一呼吸で即死するような毒ガスをも無力化する、驚異的な解毒力の持ち主。ただのアルコールをどれだけ飲んだところで無策では酔えないが故に、自分の能力を用いてわざと酔ったらしい……ぐでんぐでんになっているのは、加減を間違えたという事か。

 人間には手も足も出ないようなミュータントでも、己自身の過ちとなればピンチに陥るようだ。ある意味微笑ましくて、ちょっと心配で……理性が崩壊して暴れないかと花中は少し不安になる。とはいえミリオンならば、へべれけな猫の一匹ぐらいはどうとでもしてくれるだろう。

 加奈子についても、よもやミュータントの隙を突いてお酒を奪えるとも思えない。未成年飲酒という『法律違反』もミリオンならば防いでくれる筈だ。

 ……それにしても。

「花中さん花中さん。一つ質問があるのですな」

「ん。なぁに?」

「確か人間は二十歳にならないとお酒を飲んではいけないと法律で決められているのでしたよね」

「うん、そうだよ」

 抱き付いたまま尋ねてくるフィアに、花中はもたれ掛かりながら答える。人間社会のルールに殆ど興味がないフィアでも、二年近い人間社会生活でこのぐらいの法律は覚えていた。

「小田さんも懲りませんねぇ。それともわざとなんですかね?」

 故にフィアは疑念を抱く。

「わざとなんじゃないかなぁ、多分」

 そしてその疑念に、花中は自分なりの意見を述べる。

 加奈子は気付かない。自らの背後に忍び寄るものに。いや、別にそれは忍び寄っていないのだが、ミリオンのお酒にばかり目が向いている加奈子は恐らく全く気付いていない。

「というか、なんで小田ちゃんはそんなにお酒飲みたがってんのよ」

「興味があるから!」

「ゲートウェイドラッグに手を出す時の典型例ね」

 気付いていないから、堂々と法律違反の理由が『興味本位』だと答えられるのだろうか。いや、きっとわざとに違いないと花中は思う。

 でなければ、いくらなんでも間抜けが過ぎるというものだ。

 此処には、幾度となく自身を折檻してきた晴海が居るというのに。

「かぁーなぁーこぉぉぉぉー……!」

 怒りを燃えたぎらせ、晴海が加奈子に接近。晴海の声を聞くや加奈子は振り返り、ビクリと身体を震わせた。

「このお馬鹿ぁ! 未成年飲酒しようとしてんじゃないわよ!」

 そんな加奈子の脳天目掛け、晴海は鉄拳を放つ! 決して人間の領域から外れていない、年相応の少女らしい速さ。しかし同じく年相応の身体能力しかない加奈子に当てるには十分。

「ぎゃぶっ!?」

 加奈子は呻きとも悲鳴とも取れる声を上げ、温泉の中にぶっ倒れた。

 恐らくは手加減なしの一撃。相当痛いに違いない。とはいえ所詮は人間の、ただの女子高生が放った鉄拳である。

 加奈子はちょっとよろめきながらもすぐに立ち上がり……びしょ濡れになった顔がニヤッと笑う。

「やったなぁ! とぉりゃあっ!」

 そして元気よく跳び掛かりながら両手を伸ばし――――

 むにゅんと、晴海のそこそこ膨らんだ胸を握り締めた。

「ぴゃああっ!? どどど何処触って」

「あれ? なんか縮んでない? ちゃんとご飯食べてる?」

「縮んどらんわ無礼者っ!」

 揉んでくる加奈子の頭に二発目のゲンコツ。しかし恥ずかしさから上手く打てなかったのか、それとも執念故か、今度の加奈子は倒れない。

 それどころか胸から外した手を、晴海のお尻に回して掴んだ! 挙句もにもにと揉みしだく!

「あ、お尻は大きくなってるかも」

「ぎゃーっ!? 気にしてる事をアンタはぁ!?」

「ええやないかええやないか」

「良くないわ! はぁーなぁーせぇーっ!」

 殴るのを止め、晴海は押し退けるように両手で加奈子の頭を掴んだ。が、加奈子はビクともしない。一体加奈子のそのパワーは何処から出ているのか。晴海はすっかり表情を強張らせ、形勢逆転を物語っていた。

 晴海からすれば、身体をぺたぺた触ってくる加奈子から逃れるのに必死なのだろうが……傍から見ると、少々過激なスキンシップをしているだけである。

 仲良し大好きな花中には羨ましい光景だ。無意識に、花中は二人の方へ身を乗り出す。

「んー? 花中さんもしかしてあちらに行きたいのですか?」

 そうした無意識の行動をフィアに指摘されて自覚し、花中は火照った顔を更に赤くした。けれども胸の奥の衝動は消えず、こくんと頷く。

 自分から離れようとする花中に、フィアは一瞬不愉快そうに目を細めた……が、特段抵抗する事もなく、花中を抱き締めていた腕を広げた。

 自由になった花中はフィアと向き合い、笑みを浮かべ、ぺこりと一礼。お湯の中を小走りで進み、加奈子と晴海の下に向かい――――

 こつんと、花中の脇腹辺りを何かが突いた。

「あ、すみませ……」

 反射的に、花中は謝ろうとした。お湯の中を駆けるという少々子供染みた行動により、『誰か』に迷惑を掛けてしまったかと思って。

 しかし声を出してすぐに気付く。

 フィアは今し方自分を見送った。晴海と加奈子はこれから向かう先に居て、ミリオンはそんな晴海達を眺めている。ミィはミリオンの頭の上でへべれけ状態だ。

 じゃあ。

 ()()、自分の脇腹を小突いたのだろう? この温泉は今、自分達の貸しきりとなっているのに。

 分からない。分からないが、得体の知れない気配を感じる。ぞわぞわとした悪寒を背筋に感じながら、花中はゆっくり恐る恐る自身の脇腹付近を見遣り、

 白くて丸くてぷにっとした、なんかよく分からないものを見た。

「……ん……ん?」

 ある意味予想通り得体の知れない、けれども思っていたよりは怖くないものを、花中は思わず凝視する。

 大きさは、ざっと全長五十センチぐらい。中々の大きさだがぷかぷかとお湯に浮いているので、体重は案外軽いのかも知れない。見た目を一言で例えるなら、デフォルメしたクジラ、だろうか。体長の半分はある頭らしき部分は膨らんだ風船のようにまん丸で、二つの小さな瞳が両端に嵌まっている。頭よりも細くなっている胴体部分には大きな胸ビレが二つあり、尾ビレはそれこそクジラに似た形のものを上下にゆっくりと振っていた。

 肌の色は白だが、雪のような純白ではなく、かといって『白饅頭』のように青みがかった不気味なものでもない。ほんのりと赤らんだ、例えるなら皮を剥いたばかりの桃のよう。不気味さはなく、神秘さもない、とても親しみやすい色合いである。

 人の好みは千差万別なので、一概にどう思われるとは断言し辛いが……少なくとも花中的には、とても『カワイイ』生き物だと思った。所謂キモかわ系だ。多分、加奈子はとても気に入るだろう。

 しかし。

「……何、これ?」

 なんという種類なのか、さっぱり分からない。

 今まで見た事もない動物だ。果たしてこいつはなんなのだろうか? 恐怖より好奇心が勝り、花中は謎生物に歩み寄る。

 だが、それを調べる事は叶わない。

 花中の小さなお尻を、ぷにっと触るものが現れる。花中は驚きから飛び跳ね、慌てて振り向けば……そこには目の前に居るのと同種らしき謎生物が浮かんでいた。

 それも二匹。

 いや、二匹どころではない。視界の端に一匹、また一匹、更に一匹……たくさん、何十匹も居るではないか。

 気付けば、温泉を埋め尽くさんばかりに謎生物が浮いている。

「な、な、な、何これぇぇぇぇぇっ!?」

 花中の悲鳴が、温泉内に響き渡るのだった。




現れました、今回の謎生物。
無害そうな輩ですが果たして?

次回は9/20(金)投稿予定です。


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語らない予兆4

「きゃあっ!? な、な、何これぇ!?」

「わーぉ、なんか可愛いのがいっぱいいるー!」

 謎生物に包囲されていると花中が気付くのに続き、晴海と加奈子も声を上げた。

 声に反応して花中が振り向けば、じゃれ合いの結果か裸のまま互いに抱き合っている二人の周りにも、たくさんの謎生物が浮かんでいた。晴海は未知の生物に恐怖を感じている様子だが、加奈子は殆ど無警戒。

 晴海から離れた加奈子は、謎生物の一匹に近付く。そろりそろり……と言葉に出しているので当人としては忍び寄っているつもりなのだろうが、真っ正面から、お湯を波立たせながら近付いてこっそりも何もあるまい。

「てやーっ! ゲットだぜ!」

 しかし威勢良く伸ばされた加奈子の手を謎生物は避けず、加奈子はあっさりと謎生物を捕まえた。両手で高々と掲げられた謎生物は、特段抵抗も見せず、大人しくしている。

「ちょ、加奈子!? 何やってんのよ!?」

「可愛いから捕まえてみた!」

「可愛くてもなんだか分かんない生き物を素手で触るんじゃないの! 大体いくら可愛くても、その……か、怪物かも知れないでしょ!?」

「えー……怪物かなぁ。怪物だとしても、安全な子っぽいけど」

 晴海は狼狽えながらも加奈子を窘めるが、加奈子の方は納得いかないようだ。掲げていた謎生物を顔の辺りまで下ろし、つぶらな瞳の付いた丸い顔と向き合う。謎生物はただただ加奈子と向き合った。

 晴海の懸念は至極尤もなものである。どんな生物にも様々な雑菌が付いているし、見え難いだけで小さな棘などを持っている可能性はあるのだ。迂闊に触った場所に棘があり、それが毒針だった……なんて事は決して大袈裟な話ではない。先程自分も似たような事をしたので花中には加奈子を非難出来ないが、晴海の意見にこくこくと頷いてしまう。

 そして怪物という可能性。

 当たり前の話だが、怪物側に「誰が見ても怪物だと分かるほどおどろおどろしい姿をしている」なんてルールは存在しない。あくまで野生生物である以上、彼等の形態は進化によって得られた、その地の暮らしに適した結果に過ぎないのだ。可愛いというのは人間が勝手に抱くイメージであり、そこに『根拠』なんてない。パンダやクマは大変可愛いが、近付けば人間など簡単に殺されてしまうように、可愛い = 安全とは限らないのである。

 しかし今回の謎生物がクマのように危険かといえば……加奈子と同じように、花中にもそうは思えない。

「もし危険だったら、今頃フィアちゃんとミリきちがみんなバラバラのぐちゃぐちゃにしてるんじゃない?」

 怯える晴海に対して加奈子が言ったように、本当に危ない生物なら、フィア達が野放しにしている筈がないのだ。

 晴海がフィアの方へと振り返り、花中もフィアを見遣る。温泉に肩まで浸かり、周りに浮かぶ謎生物には目もくれないフィアは、その場で肩を竦めながら答えた。

「まぁそうですね。多分危険はないかと。というか私はてっきり花中さんはこの生き物を観察しに行ったのかと思っていたのですが」

「あの時、もう気付いていたんだ……触っても、平気そうな感じ?」

「さてそれはどうでしょう。弱っちい感じの生き物ですし凶暴性もなさそうなので見るだけなら安全だとは思いますが。もしかすると毒針とかはあるかも知れませんねー私なら平気でしょうが人間でも大丈夫かは知りません」

「うげ。そうなの?」

「やっぱり危ないかも知れないじゃない! ほら、早く逃がす!」

 フィアがあっけらかんと語る危険性を受け、晴海は再び加奈子に命じる。流石の加奈子も毒針は怖いようで、恐る恐る謎生物を温泉に戻した。戻された謎生物は怒り狂う素振りもなく、ぷかぷかと温泉に浮いている。

「と、とりあえず、お湯から出ましょう。変な汁……は多分出てないと、思いますけど、ぶつかった時に、棘とか刺さるかも、知れませんから」

「う、うん。そうね、そうした方が良いわよね……」

「だねー」

 花中の提案に、晴海と加奈子も同意。人間三人は温泉から一時出て、後に続いてフィアとミリオン ― と彼女の頭上で酔い潰れているミィ ― も温泉から出た。

「さて、はなちゃん。これからどうする?」

「……とりあえず、小田さんのおじさんに、連絡はしましょう。小田さん、お願い出来ますか?」

「あいよー」

 ミリオンから問われ、花中は自分の考えを答えつつ、加奈子に勇への連絡を頼む。加奈子は右手で敬礼しながら答え、そそくさと温泉から出ていった。

 女湯なので来るのは勇ではなく彼の妻 ― 早紀と呼ばれていた女性だ ― の方かも知れないが、なんにせよ旅館の関係者にはこれで伝わるだろう。とはいえ勇や早紀が偶々浴場の近くに居ない限り、彼等が此処を訪れるまで少し時間が掛かる筈だ。

 その時間を、花中は謎生物の観察に使う事とした。

「フィアちゃん。一匹、近くまで引っ張ってきてくれる? あ、殺したら、駄目だからね」

「良いですよ」

 フィアにお願いをすれば、フィアは髪の毛を数本伸ばし、近くに居た謎生物に巻き付ける。

 髪に縛られた謎生物は、やはり抵抗する事なく、花中の立つ湯船の縁まで引っ張られた。縁に立つ花中は湯船に浮かぶ謎生物を見下ろし、思考を巡らせる。

 この生物の正体はなんだろうか。

 見た目的には、クジラ類に近いようにも思える。しかし現在知られているクジラ類の中で、最小とされている種であるスナメリでも体長一・五メートルを超える。体長五十センチというのは、クジラの仲間としては些か小さ過ぎないだろうか?

 花中的には、大きさについてはあまり不思議に思わなかった。身体の大きさなんてものは進化によって幾らでも変わる。例えばピグミーと呼ばれる人種は、大人であっても身長百五十センチ未満にしかならない。孤島や密林などの隔絶した環境に適応した結果とされているが、彼等が『一般人』と血縁的に分岐したのはほんの数万年前とされている。生物とは、その程度の時間でも急速に進化(変化)するものなのだ。

 この謎生物がクジラの一種だとしても、現在の一般的なクジラ類から数百万年前に分岐し、生息地が小さなものに有利な環境であるなら、ここまで小型化してもおかしくはない。或いは誕生初期の ― 四千万年ほど前の ― クジラ類はあまり大きくない、精々カワウソ程度の大きさであったと考えられている点を加味すれば、彼等は原始的なクジラ類から分岐し、その後殆ど大きさを変えていない種だという可能性もあるだろう。

 勿論これはあくまで花中の推論であり、真相解明には専門家による研究が必要だ。もしかしたら見た目がクジラっぽいだけの魚かも知れないし、水中に適応したネズミやイヌの仲間かも知れない。生物の進化は多様であり、『あり得ない』なんてものはないのだ。正確な知見を得るには解剖や遺伝子解析が必要だろう。一体どんな進化を重ねてきたのか、実に好奇心がそそられる。

 ……未知の生命体に対し、生物好きな花中はいくらでも考察を続けられる。が、こんなのは後でもじっくり楽しめる事。ちょっとした暇潰しにでもすれば良い。

 それよりも早急に、今すぐ考えるべき事柄がある。

「(なんでこの子達、温泉に出てきたんだろう?)」

 彼等の出現理由だ。何故温泉に、しかも何十匹という大群で現れたのか。いや、そもそも彼等は元々何処に暮らしていたのだろう?

 生息地を特定するなら、形態から予測するのが一番だ。生物というのは環境に適応し、姿形や生態を変化させるものなのだから。そしてこの謎生物の見た目は、かなり特徴的である。

 白い肌、小さな目、つるつるとした身体。

 特徴的な姿というのは、それだけ彼等の生息環境が『人間と違う』事を意味する。そして彼等の姿は、一般的には人間が寄り付かないある種の環境に生息する生物とよく似ていた。進化というのは割と気紛れなので、必ずしも当て嵌まるものではないが、大凡の傾向はあるのだ。

 恐らく彼等の住処は……

「ね、ねぇ、大桐さん……」

 考え込んでいると、晴海がおどおどとした声で話し掛けてきた。

 花中は一旦思考を打ち切り、晴海の方へと振り返る。そしてギョッとした。晴海の顔が、すっかり青ざめていたからだ。身体もガタガタと震え、落ち着かない様子で右往左往している。

 尋常でない、という言い方は大仰かも知れないが、明らかに体調を悪くしている様子だ。思えば今の自分達はタオル一枚巻いただけの状態なので、身体を冷やしてしまったかも……とも思ったが、それを差し引いても酷い状態である。何か別の原因がありそうだった。

「え、あ。ど、どうしたの、ですか?」

「ご、ごめん。あの、やっぱりあたし、その生き物怖くて……も、もう、温泉の外、出ても良い……?」

 心配になって尋ねれば、晴海はすっかり弱々しくなった震え声で答える。

 しまった、と花中は思った。

 自分は人智を超えた生命体……それこそ人類どころか地球を滅ぼしかねないようなものにも……と幾度も出会っている。正直温泉に現れた謎生物達が一匹で何万もの人間を殺せる化け物だとしても、「それは大変だ。なんとかしないと」ぐらいにしか思わないだろう。温泉から出て行った加奈子も、持ち前の能天気さと昨年の『死なない生物』との出会いにより、異常な生物への精神的耐性が出来ている筈だ。

 しかし晴海は本当にただの一般人である。彼女が出会った超生命体は、フィア達のように人語を話せて尚且つ『友好的』な存在のみ。人間を何億人も殺せるような怪物との接触経験なんてなく、未知の生命体に慣れている筈がない。

 ましてや怪物による人類社会の崩壊が現実味を帯びてきた、或いは最早『確定』している昨今。正体不明の生物を恐れるな、という方が無理な話なのだ。臆病な自分が左程恐怖していないからと、晴海のケアを忘れてしまうとは。あまりにも気遣いの出来ていない自分が恥ずかしく、花中は猛省する。

「す、すみません、気が回らず……わたしは、大丈夫ですので、部屋に戻って、休んでいてください。何かあったら、すぐ知らせますから」

「う、うん。本当に、ごめんなさい」

「気にしないでください。えと、ミリオンさん。立花さんを、部屋まで、送ってもらえますか?」

「ええ、構わないわよ。そろそろこの子もどっかに置いておきたくなったし」

 花中が頼めば、ミリオンは自らの頭の上で相変わらずぐったりしているミィを指差しながら答える。

 ミリオンは晴海の手を握り、その背中を優しく押す。晴海は促されるまま、けれども脱衣所へ戻る間際申し訳なさそうにぺこりと頭を下げて、温泉から出ていった。

 そんな晴海と入れ替わるように、今度は加奈子が戻ってきたので、花中はちょっと驚いた。加奈子は花中の顔を見ると、パッと花咲くような笑顔を見せる。

「大桐さーん。とりあえずおじさんに連絡しておいたよー。今、脱衣所の外で待ってるから、着替えが済んだら呼んでだって」

「あ、はい。分かりました」

「あと、晴ちゃんが気分悪そうにしてたけど、なんかあった?」

「……すみません。わたしの方で、気配りが足りず……」

「あ、メンタル的な話? じゃあ大丈夫だね。晴ちゃん、打たれ弱いけど回復は早めだし」

 花中の言葉から、晴海が不調になった原因を察したのか。しかし加奈子は花中を責める事もなく、にししと笑顔を見せる。

 晴海なら大丈夫だと信じているのだろう。花中も晴海の友達として、そう思う事にした。

 さて。ぼうっとしてもいられない。

 脱衣所の外で勇が待っているのだ。自分が着替えねば、勇は何時までも女湯に入ってこられない。それに異常気象真っ只中の六月とはいえ、夜ともなれば流石に冷えてくる。

 風邪を引く前に、待たせないために、迅速に対応するために。

 幾つもの理由から、花中は駆け足で脱衣所へと向かうのだった。

 ……………

 ………

 …

「こいつは、『しらせ様』か?」

 女湯に足を踏み入れ、数秒ほど凝視した後――――勇は驚き、唖然とした様子でぽつりと呟いた。

 パジャマへと着替え、勇と共に女湯へと戻った花中は勇の言葉に首を傾げる。花中の傍に立つフィアと、晴海とミィを送り届けた後戻ってきたミリオンも、勇の方に視線を向けた。

「しらせ、様? えと、それは一体……」

「……この辺りに伝えられている神様の名前です。昔、私の曾祖父が見たと言っていましたが、まさか本当に居たとは……いや、本当に『しらせ様』かは分かりませんけど、でも白くて艶やかな、丸い魚という言い伝え通りの見た目で……」

 花中の問いに、勇は本当に驚いた様子で答える。彼の言葉遣いはなんとも歯切れが悪く、その視線はあちこち泳いでいた。

 どうやらこの謎生物は、『しらせ様』という神様らしい。

 勿論本物の神様ではあるまい。現代よりも生物学的知見が少なかった時代では、生物達に様々な『オカルト的価値』が付与された。例えば遺伝子疾患の一つであるアルビノのヘビは、白蛇として日本では縁起物や神の使いとされている。中国ではコウモリは福を招く動物とされたし、マダガスカル島に生息するアイアイは悪魔の使いとして忌み嫌われているなど、世界的に見て珍しい話ではない。

 『しらせ様』もそうした生物の一種なのだろう。

「……あの、二つほど、尋ねても、よろしいですか?」

「ん? ああ、良いですよ。私に答えられる事でしたら」

「ありがとうございます。えと、じゃあ、一つ目の質問です。この生物は、この辺りでは、よく見られるもの、なのですか?」

「いや、そんなものでは……ないと思いますが」

 一つ目の質問に、勇は少し口ごもったように答える。

 ハッキリとしない物言いに、フィアが訝しむような眼差しを送った。

「なーんか歯切れの悪い言い方ですねぇ。なんか隠してます?」

「隠すという訳ではないのですが……『しらせ様』は、昔からこの地域では誰それが見た、という話があるのです。ただどれも祖父や曾祖父が見たという話ばかりで、所謂お伽噺と言いますか、その、私自身が見たのはこれが初めてで……」

「ふーん。そういうものですか」

 勇のしどろもどろな説明に、フィアはあっさりと納得する。恐らく深く考えるのが面倒になり、そのまま信じる事にしたのだろう。

 花中も、勇が嘘を吐いているとは思わない。彼の歯切れの悪さは、産まれて初めて遭遇する謎生物への不安と、伝承上の存在を目の当たりにした事による困惑が原因だろう。ましてや自分が管理する温泉にたくさん現れたとなれば尚更である。

 この地の住人にとっても、この生物は有り触れたものではない。これは大事な情報である。花中はしかと記憶しておく。

 一つ目の質問は終わった。花中は二つ目の質問をぶつける。

「では、二つ目の質問です……『しらせ様』というのは、どんな神さまなのですか?」

 花中は出来るだけハッキリと伝える。何故なら花中的には、一つ目よりも大事な質問だからだ。

 そして勇は、僅かに目を逸らした。身体も強張っている。まるで答えを拒むように。

 その反応の理由は、大方見当が付く。『しらせ様』を見た直後の勇は、喜びよりも困惑や動揺が大きかったように思える。無論謎生物が湯船に何十と浮かんでいるのは、大変不気味な光景だろうが……勇は謎生物が『しらせ様』だとすぐに連想していた。もしも『しらせ様』が白蛇のような縁起物なら、少なからず喜んだり、頬が緩むのではないだろうか。しかし勇はただただ困惑し、花中が尋ねると目まで逸らした。

 十中八九、彼等は不吉な生物なのだろう。

 花中が胸のうちに抱いていた推測を、勇も察したのか。強張っていた身体から力を抜き、ため息のような吐息に続けて花中の問いに答えた。

「……『しらせ様』自体は、よい神様と聞いています。人を災いから守るため、災いが訪れる事を『知らせ』てくれる神様である、と」

「成程、だから『しらせ様』と呼ぶ訳ね。じゃあ災いの方も、そのうち来るんでしょうね」

 勇の説明から、ミリオンがつらつらと己の考えを述べる。勇は静かに頷き、ミリオンの意見を肯定した。

「ちなみにどんな災いが来るのかしら?」

「色々です。村の半分を飲み込むような土砂崩れが起きたとか、村全体が落ちるような地盤沈下が起きたとか。私の曾祖父は、地震があるのを教えてくれたと言っていました。お陰でみんなが助かったと、幼かった頃の私によく言っていましたよ」

「いまいち災害の内容に一貫性がないわねぇ。でもまぁ、言い伝えなんてそんなものかしら」

「結局どういう事なんです? ただのお伽噺という事ですか? それとも本当に何かがあると知らせに来ているのですか?」

「さぁて、どっちかしら。多少大袈裟に言われたり、あれもこれもと追加されたりはしたかもだけど、完全に出鱈目とは言いきれないわね」

 首を傾げるフィアに、ミリオンは降参だとばかりに肩を竦める。フィアはますます顔を顰め、真偽不明の話をどう理解すれば良いのか悩んでいる様子。花中としても、勇の話だけでは判断が出来ない。

 災害というのは甚大な被害を出すものだけに、しっかりとした形で伝えられている事が多いものだ。例を挙げるなら石碑の置いてある場所まで津波が来たとか、何日間噴火が続いたとか……そうしたものは「所詮言い伝え」と馬鹿にはされず、貴重な歴史的資料として扱われる。『災害伝承』として、日本でも総務省がデータを集めているほど重要なものだ。

 『しらせ様』の伝承も、何かを伝えるためのものだという可能性は十分にある。人目に付かないだけでこの地では一般的な生物なら、例えば大地震の引き金となるような前震によって慌てて住処から逃げ出してきた……という事も起こり得るだろう。

 しかし土砂崩れも地盤沈下も地震も、全て『しらせ様』が予知したというのは些か範囲が広過ぎる。あり得ないとは言わないが、幾つかの伝承が混ざっているのかも知れない。仮に全部本当だとしても、これでは何を警戒すれば良いのやら。

 強いて結論を出すなら、何かあるかも知れないという警戒心を抱くべき、というところか。

「……真偽や、何が起きるかは、分かりません。ただ、警察とかには、連絡した方が、良いと思います。もしかすると、なんらかの怪物が出現する、予兆とも、考えられます。専門家の調査が、必要です」

「確かに、そうですね。今すぐ警察に連絡しましょう。念のため役所の知り合いにも、話はしておきます」

 花中の提案を勇はすんなりと受け入れ、連絡するためか一旦脱衣所へと戻る。

 花中はしばしその場に立ち、それから漂う謎生物を眺めた。謎生物は今もぷかぷかと暢気に湯船に浮いていて、その無防備な姿からは危険性なんて感じられない。仲間同士ケンカする様子もなく、大人しい気性なのが窺い知れる。

 恐らく、彼等自身は本当に無害な存在なのだろう。伝承でも「災いを教えてくれる神様」となっているので、謎生物に襲われて死んだという人はいない筈だ。

 しかし……

「うーん、大丈夫かなぁ……」

 無意識に考え込んでいると、何時の間にか勇が露天風呂に戻ってきた。花中はハッと我に返り、振り返る。

 勇の顔は、何やら難しいものとなっていた。

 しかし不快感だとか怒りを感じさせるものではない。困惑し、自分の体験したものをどう理解すべきなのか分からない、という様子だ。

 何があったのだろうか。自分の思考を一旦打ち切り、花中は勇に尋ねる。

「あの、どうかしましたか? もしかして、警察との話で何か、トラブルが?」

「ん? あ、いえ。大した事ではありませんよ。警察も来るそうです。ただ……」

「ただ?」

「……二時間待ちとの事でして」

 勇の答えに、花中はキョトンとしてしまう。

 二時間待ち?

 五分で来い、とまでは言わないが、二時間というのは少し時間が掛かり過ぎのように思える。この町には警察が極端に少ないのだろうか? 或いは旅館から遠く離れたところに派出所がある? 食べ物を求めて田舎への急激な人口移動が進む昨今、警察官までも居なくなる事があり得ないとは言いきれない。言いきれないが、どうにも引っ掛かる。

 二時間待ち。まるで混雑しているアトラクションや美容院で聞くような言葉だ。それらは一人の客を捌くのに大体どれだけ掛かるか、ある程度定まっているがために時間を算出出来る。勿論変なお客さんがいるとこの計算は途端に狂う訳だが、大概は当たるものだ。

 さて、警察が二時間待ちと言っている。

 まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そこから逆算したかのように。

「……まさか、ね」

 否定の言葉を呟き、理性的に花中は否定しようとする。

 けれども、本能は全く別の考えを支持していて。

「後の事は私に任せてください。こんな形で旅行を台なしにしてしまい、申し訳ありませんでした」

 その考えも、勇の謝罪により一度頭の隅へと退けられる。

「あ、いえ。気にしないで、ください。生き物が現れたのは、きっと、この旅館の所為じゃないですし……あの生き物達も、悪いものじゃないのなら、非難するのも、可哀想ですし」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、わたし達は、部屋に戻りますね」

 ぺこりと頭を下げ、花中は露天風呂を後にする。ミリオンとフィアも花中に続き、風呂場から出た。

 何かがおかしいという、違和感を抱きながら……

 

 

 

「ん……んんん……」

 小さな声を漏らしながら、目覚めた花中は顔を上げた。薄目を開け、枕元にある自分のスマホを手に取り、画面を点ける。

 六時四十二分。

 それなりに早い時間帯だ。割と寝坊助な花中は普段、この時間に目を覚ます事は殆どない。何故今日はこんな早くに起きたのか? 寝起きで上手く働かない頭でも、少し考えれば答えを導き出せた。

 花中は昨夜から、旅館の一室に泊まっている。八人部屋の和室で、かなり広々としたものだ。本当ならここでパジャマパーティーを始める予定だったのだが、生憎晴海が精神的理由から体調を崩してダウン。ぐったりしている友の傍では加奈子も流石に馬鹿騒ぎはせず、その日はすぐに寝る事となった。夜九時頃の事である。

 かくしてたっぷりと睡眠を取り、迎えたこの時間帯。ベランダへと通じる大きなガラス戸 ― 寝る前に障子を締めきるのを忘れて、少し隙間が空いていた ― を通って差し込む朝日が、一番窓際の布団に寝ていた花中の瞼を刺激したのだ。

 理由は分かった。そうして頭を働かせていると、眠気も飛んでしまった。二度寝をしても良いのかも知れないが、折角の旅行を寝て潰すのは勿体ない気がする。

 花中は両手を布団に付いて、ぐぐぐと寝起きで固い身体を起こす。大きく伸びをすれば全身に血が巡り、強張っていた筋肉が解れていった。頭も冴え渡ってくる。

 次いでキョロキョロ周りを見れば、自分の布団のすぐ隣で寝ているフィアの姿が見えた。『作り物』の身体は寝息なんて立てず、初めて見る人には人形か、或いは死体のように思えるだろう。普通ならば仰天する姿も花中にとっては見慣れたもの。穏やかな寝姿に笑みが零れる。

「おはよう。今日は珍しく早起きね」

 そうして目覚めた花中に、落ち着きある言葉が掛けられる。

 ミリオンだった。彼女は部屋の隅にある椅子に腰掛けた、優雅な姿勢で花中を見ていた。その膝の上には寝ている黒猫ことミィが居て、まるで貴族の令嬢のような気品を感じさせた。しかしながら着ている黒い浴衣と憂鬱げな表情を併せると、『未亡人』ぽく見える……というのはミリオンにとって褒め言葉かも知れないが。

「おはよう、ございます……んんんー……」

「よく眠れたかしら?」

「あ、はい。たっぷり眠れました。ミリオンさんは、一人で退屈じゃ、ありませんでしたか?」

「そうでもなかったわよ。二時ぐらいまでは小田ちゃんがトランプの相手してくれたし、その前から酔いが覚めてた猫ちゃんが、五時ぐらいまでは話し相手になってくれたからね。暇だったのは、実質一時間ちょっとぐらいかしら?」

 ミリオンが指差す先には、うつ伏せになって寝ている加奈子の姿があった。両腕を前へと突き出し、ぐったりと布団の上に倒れる姿は死体のよう。こちらはフィアと違い胸部が上下しているので、随分と()()()()()死体であるが。

 花中と晴海が寝た後、二人を起こさないよう静かに加奈子は夜更かししていた訳だ。確かに如何にも『今時』な女子高生である彼女が九時に寝るというのは、らしくないと思っていたが……こっそり取っていた『らしい』行動に、花中はくすりと笑みが零れた。

 加奈子の隣には晴海が寝ていて、こちらは仰向けに、静かに寝ている。精神的疲労から花中よりも早く寝付いたと思われる晴海であるが、未だ深い寝息を吐いており、起きる気配はない。相当疲れていたのだと花中は思う。

 そしてミリオンの膝上に乗っているミィは……よくよく見たら、物凄い不細工な顔になっていた。薄目が開いているし、頬がぶにっと歪んでいて、開いた口から舌がはみ出ている。その不細工さに気付いた瞬間、花中は思わず噴き出しそうになった。不細工なのに可愛いというのは、動物の特権である。

「ぷくくくく……」

 なんとか笑いを堪えようとしたが、口からは漏れ出る空気は止まらない。眠気は声と共に外へと出て、どんどん頭の中はスッキリとしていった。

「すっかり起きたみたいね。それじゃあ良い事を教えてあげる。今、あっちで面白い事が起きてるわよ」

 笑いで目覚めた花中に、ミリオンは指を差しながらそう伝えてくる。

 ミリオンが指し示した先にあるのは、この和室のベランダへと通じるガラス戸。今も燦々と輝く朝日が入り込んでいる場所だ。

 記憶が確かなら、あのガラス戸の先にあるベランダからは、旅館の玄関口とは反対側の景色が見えた筈。森の中に建つこの旅館だが、裏には温泉の排水が流れ込んでいる川がある。緑に覆われた山と合わさり作られる風景は、昼間や夜に見ても美しいと思えるものだった。眩くて透き通った朝日の下となれば、さぞ幻想的なものとなるに違いない。

 ……「綺麗な景色」というのなら分かるが、面白い事とはなんであろうか? 疑問、というより不安な気持ちが過ぎるが、見なければミリオンの言いたい事は分からない。それに『何か』があると言われたなら、無視して一日過ごすなんて事も出来ない。花中はとびきり臆病で、ちょっとした事ですぐ不安になってしまうのだ。正体が分からないなんて怖くて仕方ない。

「そんなビビらなくても平気よ。大したものじゃないし、むしろ可愛いぐらいだから」

「可愛い、ですか?」

「ええ。少なくとも私は好みよ、あんな感じのやつ」

 怯える花中を宥めるミリオンだが、花中はますます困惑する。しかし同時に、好奇心もむくむくと沸き立ってきた。

 正体不明のものを確認するのは怖い。でも可愛いものなら見てみたい。心の中のせめぎ合いに勝利したのは、『可愛いは正義(乙女心)』の方だった。

 花中はそろりそろりと、寝ている友達を起こさぬよう忍び足でガラス戸まで向かう。半開きの障子は閉じ、差し込む朝日が晴海達の顔に当たらぬよう別のガラス戸を開けた。カラカラと独特な音が鳴るそれを自分の身体が通れるだけ動かし、花中は隙間を潜るようにしてベランダへと出る。

 完璧、とまでは言わないが、思いの外静かに動けたと花中は満足する。これなら友達を起こさずに済んだ筈だ。なんだか潜入ミッション中のスパイみたい……などと無意識に子供染みた感想を抱き、ちょっと恥ずかしくなる。

 顔を横に振り、恥ずかしさを追い払う。次いで花中はベランダに設置された、転落防止用の柵まで歩み寄った。

 そこからの景色は絶景だ。

 視界いっぱいに広がる山、その頂上から顔を覗かせる朝日。降り注ぐ光を受け、山を覆う森の木々の葉がキラキラと宝石のように輝いている。朝の爽やかな風が吹き抜け、葉擦れの音が世界を満たしていた。

 そこに混ざるのは、ざぁざぁという川の音。大自然の息吹が感じられ、とても清々しい気持ちになる。清流の流れが聞こえるのはベランダの下の方から。きっと朝日を浴びて美しく煌めいているであろう川を見ようと、花中は少し身を乗り出し、ベランダの下を覗き込んだ。

 視界を埋め尽くしたのは、皮を剥いたばかりの桃のような赤みがかった白色だった。

「……はぇ?」

 キョトンとなり、花中は首を傾げる。

 幅は五メートルほど、長さは……視界の端から端まで。それぐらい大きな川が桃の色一色に染まっていた。嫌な色ではない。むしろ雪のような純白よりも温かみがあり、ちょっと優しい気持ちにさせてくれるような色合いだと思う。

 けれどもこれは、川の色ではない。

 なんだこれは――――花中は無意識に凝視した。まじまじと見たので、その優しい色合いがうぞうぞと蠢いている事に気付いてしまう。途端に背筋が冷たくなり、仰け反った勢いのままひっくり返る。

 転んだ拍子に大きな音を立ててしまった。寝ている友達を起こしてしまったかも知れない。だが、今の花中はそんな事を気にする余裕などなかった。ベランダの柵を掴み、力の入らない腰を無理矢理立たせ、もう一度川がある筈の場所を覗き込む。

 二度目の確認をしても、川はやはり桃の実のような優しい白さに満ちていた。うぞうぞ、うぞうぞと蠢き、それが無数の『何か』の集まりであると物語る。

 またしても背筋が凍る。けれども今度は倒れず、花中は勇気を振り絞って蠢く何かを凝視した。

 努力の甲斐もあって、正体はすぐに分かった。

 『しらせ様』だ。

 無数の『しらせ様』が、川を埋め尽くしているのだ。温泉に現れた数なんて比較にならない。何千、何万……数えるのが馬鹿らしくなる。視界内の川全てを埋め尽くすほどの、圧倒的大群だ。

 そしてそれは、丁度ベランダの真下にある温泉の排水溝から、お湯と共に次々と川へ吐き出されていて。

「な、なんですかこれえええええええっ!?」

 明らかな異常事態に、友達を起こすまいとしていた花中は、山彦が聞こえてくるほどの大絶叫を上げてしまうのだった。




戦いは数だよ! なお、謎生物に戦う気はない模様。
ちなみに私は伝承で語られている生物とか大好きです。呉爾羅とか(今更)

次回は明日投稿予定です。


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語らない予兆5

 ミリオン曰く、『しらせ様(謎生物)』の大群が現れたのは花中達が泊まった旅館周辺だけではないという。

 喜多湯船町の駅前に広がる廃れた町にも謎生物は出現していた。謎生物達は主に上下水道から出現し、今や町のあちこちで姿が見られるという。総数はそれこそ数十万匹を超えそうなほどで、町は桃の身のような柔らかな白さに包まれているそうだ。

 現時点で謎生物に襲われた住人はいないようだが、突然現れた生物に驚いて転び、怪我をしたお年寄りが幾人か出たらしい。詰まってしまった上下水道も多く、また川沿いを走る道路の中には溢れ出した謎生物に埋もれて通れなくなった場所もあるとか。

 冗談抜きに、大パニックである。

「うーん、可愛いなぁ」

 ちなみにそんな謎生物の一匹を、加奈子はぬいぐるみのように抱き締め、愛でていた。

 旅館の一室……寝泊まりしていた八人部屋の和室にて。ミリオンが連れてきた一匹を抱いている加奈子の能天気ぶりに、花中は思わず苦笑い。そして同じく部屋に居る晴海は、怯えたように身体を縮こまらせている。

「ね、ねぇ、本当に大丈夫なの……その、毒針とか出てきたり……」

「その心配はないわ」

 おどおどと、晴海は抱いている不安を言葉にしたが、これを否定したのはミリオンだった。

「私が念入りに、それこそ内臓まで含めて調べたけど、この子達に人間を傷付けるほどの力はないわ。毒針はおろか、胃酸を吐いたりする能力もない。歯もないから噛む事すら出来ないわね」

「え? この子口あるの?」

「そりゃあるわよ。ほら、此処に」

 加奈子からの問いに、ミリオンは指差しで答える。

 花中もミリオンが示した場所を見てみたが、確かに、謎生物の顔面中央には口のような穴があった。しかしあまりに小さい。切れ目の長さですら、ほんの一センチほどだ。意図的に指を突っ込まない限り、噛まれるという事態にはなりそうにない。

 こうなると、こんな小さな口で何を食べていたのかと逆に気になってくる。歯がないという事は何か、柔らかなものを食べていたのだろうか? 例えばクラゲなどの軟体動物とか……

 思考の海へと泳ぎ出す間際、花中は我に返り首を横に振った。生態的な考察は後回しにしよう。ミリオンが安全性については問題ないと言うのだから、そこも心配する必要はあるまい。

 考えるべきは、どうして彼等が突然現れたのか、の方だ。

「そもそもこれほどの数が今まで何処に潜んでいたんですかねぇ」

「そだよねー。こんなにたくさん居るなら、伝承なんて形じゃなくて、もっと普通に見付かっていそうだけど」

「ちなみにその子、肺も鰓もないわ。空気中に何分居ても平気だし、酸素濃度が極端に低い環境に適応した種なのは間違いない……とはいえ肺がないから、何時までも空気中で生きられるとは思えないけど。鰓もないけど、まぁ川とか温泉に現れるぐらいだし、水中じゃないと生きていけないんじゃないかしら」

「あ、そうなんだ。じゃあ、そろそろ水の中に帰してあげよっと」

 ミリオンの話を聞いた加奈子は部屋のベランダへと向かうと、そのままぽいっとベランダ下に流れる川に謎生物を逃がした。加奈子が逃がした謎生物は、川を埋め尽くす仲間をクッションにして着地し水の中へと戻っただろう。何十万もの仲間がひしめく場所が落ち着けるところかどうかは、花中には分からないが。

 ……確かにフィアとミィが疑問を抱いたように、数十万という数はあまりにも多い。

 例えば日本全国に分布しているニホンジカの個体数は、推定で二百数十万頭。日本という広大な土地に分散しながら謎生物の数倍程度の数しかいないのに、彼等は日本人の誰もが知るほどポピュラーな種だ。目撃するのも容易であり、農作物への被害も無視出来ないほど多い。

 ニホンジカ程度の個体数でも人には簡単に見付かり、種として記録される。ならば局所的とはいえ数十万匹、ましてや市町村近くに生息していた生物が、近年まで見付からないなんて事があり得るのか?

 あり得る、と花中は考える。

 数なんて問題じゃない。生息地が人里近くなのも大した話じゃない。見付からなかった理由は実にシンプル……そこに人間が立ち寄らないから。ただそれだけの話だ。偏見も何もなく、ありのままに受け入れれば答えは見えてくる。

 恐らく、謎生物達の生息地は――――

「皆さん、すみません。少しよろしいでしょうか?」

 考えを纏めていたところ、ふと部屋に男性が入ってきた。反射的に声の方へと振り向けば、そこに居たのはこの旅館の主である勇。

 勇は少し息を切らしており、急いでこの場にやってきた事が窺い知れた。何か、事態の変化でもあったのだろうか?

「どうしたのかしら、そんなに慌てて」

「は、はい。実は……」

 室内に居る中で一番の年長者であるミリオンが尋ねると、勇は胸に手を当て、少し息を整える。

 それは息を乱したまま話しても、人に聞かせられる話にならないから、というのもあるのだろう。

 しかしそれ以上に、勇が落ち着きたがっているように花中には思えた。まるで、今から言おうとしている事を躊躇うかのように。

「……実は、町の人を集めた協議が公民館で行われる事になりまして。私も、その、どうしても参加してほしいと呼ばれてしまい……しばらく旅館を留守にさせていただきたく、お願いに来ました。女将は居ますので、ご用件がありましたらそちらに……」

「協議? 何を協議するのかしら?」

 話し始めた勇に、ミリオンが詳細を問う。しかし本気で問おうとしている声色ではない。答えは分かっているのに、敢えて尋ねている様子だと花中は感じる。

 そして内心を見透かされている勇は、声を詰まらせてしまった。

 ただ、こちらにそれを隠そうとしているようには見えない。図星を突かれた、とも感じていないだろう。

 感じられるのは、不快感。

 それも『協議』自体への不快感であるように花中は感じた。

「……町と温泉に出現した生物の、対処についてです」

 そしてその感じたものが、ただの勘違いではないと花中は理解する。

 対処、とはなんともオブラートに包んだ言い回しだ。それが意味する言葉は現状一つしかない。

 つまり、謎生物を駆除するか否かという事だ。

「ふぅーん。大方、温泉に現れたあの謎生物の駆除の賛否を問うから来いってところかしら。現状ここも被害が生じている訳だし」

「えっ!? あの子達殺しちゃうの!? 可哀想だから止めてよ、勇おじちゃん」

「俺だって止めてほしいさ。『しらせ様』は神様だって曾祖父さんが言ってたんだ。それをどうにかするなんて、バチが当たるかも知れない……まだ決まった訳じゃなくて、それを決めるために話し合いをすると言われたが、どうなる事やら」

 加奈子の懇願に、勇は強く感情を露わにしながら答える。嘘を言っているようには聞こえない。彼も謎生物を殺す事には本心から反対しているようだ。

 同時に、それが難しいとも思っているのだろう。

 花中としても、謎生物を駆除する事には『苦言』を呈したい。これでも人智を超える生命体には幾度となく出会ってきた。母親やその所属組織など、怪物研究に力を入れている人々もこの世には多いので、自分が誰よりも怪物に詳しいとは思わないが、勇や町人達よりはずっと知識がある筈だ。

 自分の意見が絶対に正しいとは思わないし、町の人々が正しい答えを出せないとも限らない。しかし決断を誤らないための手伝いぐらいは出来るだろう。いや、むしろ手伝わせてほしいというのが本心。

「あ、あの。わたしも、その協議に、顔を出しても、良いですか」

 意を決し、花中は協議への参加を申し出てみた。

「え? えっと……駄目とは言われないと思います。ただ町人ではないので、意見は聞いてもらえないかも知れませんが……」

「はい。それでも、構いません」

「花中さんが出るのでしたら私も行きたいのですが」

「私も興味はあるわねぇ」

「大桐さんが行くなら私も行くよー」

「えっ。あ、えと、じゃあ、あたしも一緒に……」

 花中が意思表示すると、フィア達も協議参加の意思を示す。ミィだけは ― 猫の姿のままなので ― 喋らなかったが、嫌なら今頃フィアの頭の上から退いているだろう。

 全員が参加すると伝え、勇はやや戸惑いを見せる。迷惑だっただろうか、とも思ったが、やがて勇はニコリと笑う。

「……分かりました。協議は公民館にて午後二時に行われます。十二時に此処を出ますので、その時になりまだ参加する意思がありましたら、玄関までお越しください」

 そして時間と待ち合わせ場所を、花中達に教えてくれるのだった。

 ……………

 ………

 …

 喜多湯船町公民館。

 旅館から徒歩でざっと一時間ほどの位置にある、町の公共施設の一つ。普段は老人会や小学校のクラブ活動で使われる程度の、ちょっと閑散とした、だけどのほほんとした雰囲気の絶えない施設だという。

 しかし今日の公民館は、刺々しい空気に満ちていた。

 公民館にあるとある一室。その中を埋め尽くすように、横並びに十ほど列を作ってパイプ椅子に座る大人達が居た。人数は三百人は居るだろうか。あまり大きな部屋ではないので、これだけの人数が集まるとかなり窮屈に感じられる。

 この場に居る人々の性別は男女半々ぐらい。年頃は四十~五十代が多く、次いで六十歳以上の老人が多い。三十代以下の若者は、全体の一割も居ないようだった。

 偏りは見られるが、千差万別な人々がこの一室に集まっている。しかし共通点として、誰もがピリピリとした気配を発していた。殺気、と呼べるほどのものではないが、イライラと呼ぶにはあまりに刺々しい。

 もしも迂闊にも彼等に声を掛けたなら、きっとその棘の矛先は容易にこちらへと向けられるだろう。

「う、うぅ……」

 最後尾で大人達の背中しか見えていないにも拘わらず、臆病な花中は三百人分の感情にすっかり慄いてしまった。怖さから呻くような声が漏れ出てしまい、身体はぷるぷると震えている。

 そして右手で、隣に座るフィアの手を握り締めていた。

「大丈夫ですか花中さん。怖いならやはり退出しますか?」

「う、ううん。大丈夫……怖いけど、ちゃんと話を聞きたい、から、我慢する」

 フィアが尋ねてきたので、花中は擦れた声で答える。そう、確かに怖いが、聞かねばならないのだ。

 此処で、これから行われる協議により、謎生物への対応が決まるのだから。

 花中の横にはミリオンや加奈子、晴海、それから勇の姿もある。ミィはミリオンの膝の上だ。ミリオンやミィは全く動じた様子もないが、加奈子と勇はそわそわとした、晴海に至っては花中と同じように少し怯えたような仕草を見せている。

 もしかすると此処に集まった大人達も、周りの空気に当てられ、それで警戒心を高めているだけなのかも知れない。緊張感が緊張感を呼ぶ状況……花中にはあまり好ましいものとは思えなかった。

 けれども、ではどうしたら良いかと考えても、一回場を解散させて頭を冷やすぐらいしか花中には思い付かない。協議前に解散してどうするんだと自分にツッコミを入れている間にも、時間は刻々と過ぎていき――――

「……はい、十四時になりました。これより『未確認生物への対応協議』を始めます」

 予定されていた時間が訪れたのと同時に、若い男性の声が協議の始まりを告げてしまった。

 声を発したのは、スーツ姿の三十代ほどの男性だった。彼は大人達と花中達全員の視線が向けられている、室内に用意された壇上の側に居た。彼の右手にはマイクが握られ、機械により増幅された声は部屋の最後尾に居る花中達の耳にもしかと届く。

 そしてスーツ姿の男はそのマイクを壇上に立つ、六十代ほどの、強面の男性に手渡す。

「どうも、町長の岩国です。今回はお集まりいただき、ありがとうございます。早速ですが、協議に入りたいと思います」

 男性こと町長の岩国がそう語ると、スーツ姿の若い男は、自身の足下に置いてあった機械を操作。それと同時に、部屋の電気が消された。次いで機械より光が投射され、部屋の一角に画像が映し出される。

 謎生物に埋め尽くされた川の画像だった。

「えー、現在我が町では、未確認生物が大量に出没しています。このままでは市民生活に大きな影響が出ると判断し、どのような対策が望ましいか、皆様の意見を聞きたく」

「そんなもん、駆除で良いだろ!」

「そうだそうだ! 早く退治しちまえよ!」

 岩国が画像を見ながら前口上を述べていると、早速大人達……この町の市民の一部から駆除を求める声が上がった。

「あー、えー、そうですね。駆除も含めた対策を検討しておりまして」

「アイツらの所為で下水が詰まって大変なのよ! トイレも使えないじゃない!」

「上水道も何ヶ所か詰まって、一部の家じゃ水道が使えないという話じゃないか」

「うちなんて川沿いに家があるから、道路にまでアイツらが出てきて、車が出せないぞ。買い物にも行けん」

 宥めようとする町長の言葉に、されど市民達は耳も貸さない。出てくる意見はどれも謎生物の駆除を求めるものだった。

 彼等の言いたい事は、花中にも理解出来る。旅館から公民館へと向かう道のりの中で、町がどれだけ謎生物に溢れているか、ミリオンから聞き、そしてこの目で見てきたのだ。上下水道が詰まれば生活に支障が生じるのは容易に想像が付き、道路を埋め尽くしている個体についても、足腰の弱いお年寄りからすれば十分に障害物だ。かといって無理に車で行こうとすれば、轢いた際に体液などでスリップして事故となりかねない。

 ライフラインと交通が遮断されたなら、現代文明はその機能を維持出来ない。謎生物を放置したままこの町に住み続ける事は困難だ。

 『環境変化』により産業が廃れても、それでもこの町を離れなかった住人が此処に集まった者達だ。郷土を想う気持ちは、誰よりも強いに違いない。()()()()()()()生物に暮らしを奪われるなど、我慢出来ないのだろう。

 とはいえ、誰もがその意見で一致している訳ではないらしい。

「待たんか。アレは『しらせ様』じゃぞ。駆除なんて、そんな罰当たりな事をするもんじゃあない」

 例えば興奮する民衆に一切物怖じせず己の意見を表明した、齢九十を超えていそうなよぼよぼの老婆のように。

 駆除を進言していた住人達の視線は、一斉に老婆へと向けられた。老婆は集まった三百人近い住人達の丁度真ん中辺りに座っており、全員の視線をその身に受ける。老婆に向けられる視線はどれも鋭く、親の仇を見るような、という言い方も過言ではないほど敵意に満ちていた。

 いや、実際彼等は仇を見ているつもりなのかも知れない。故郷を奪おうとする化け物の味方という、仇を。

「なんだ、田中の婆さんはあんな昔話を信じてるのかよ」

「信じるも何も、そのものじゃないか。白く、まあるい生き物が、川や湯から現れる……」

「なんとまぁ非科学的な……」

「非科学的? お前さんはつまり、テレビに出ているお伽噺の化け物みたいな生き物達は科学的と言うんか。科学的ってのはなんなんだかねぇ」

 煽るように否定する二人の中年男性だったが、老婆の口に負かされ黙り込む。

 老婆はしかし、彼等に情けを掛けるつもりもないらしい。二人が黙ってすぐに、自分の話を始める。

「昔の人が伝えてくれた事なんだ。素直に受け止めりゃええ。アレは悪い事を知らせに来てくれたんだ。さっさと村を離れた方が身のためだぁよ」

「町を捨てろって言うのか!? あんな、気持ち悪い生き物の所為で!」

「駆除したけりゃすればええ。わしらの家族は村から離れる。それだけじゃい。でも、お前等にバチが当たってもわしゃ知らん」

 反発する大男に、老婆は不敵に笑い、堂々と向き合う。腕力で老婆を易々と捻じ伏せられるであろう大男が、怯んだように身動ぎした。

「……私も、駆除には反対です」

 老婆の話が終わると、一人男性が手を上げ、椅子から立ち上がる。

 勇だった。

「私は曾祖父から『しらせ様』について聞きました。曾祖父は『しらせ様』のお陰で地震の難から逃れ、助かったと聞いています。私が産まれてこられたのも、『しらせ様』が曾祖父達を助けてくれたお陰です。私には、『しらせ様』を退治するなんて……恩を仇で返す真似は出来ません」

 勇はハッキリとした言葉で、町人達に伝えた。

 真っ直ぐな言葉だ。勇は本心を町人達に伝えたに違いない。それは『しらせ様』への恩義だけでなく、町の人々を愛するがために、バチが当たってほしくないという想いから出たのだろう。

 しかし、言葉と想いは届かない。

 恐怖と不安と嫌悪という殻に包まれた町人達には、何も。

「いいや駆除すべきだ! あんなのがいたら生活出来ない!」

「そもそも本当に『しらせ様』だとして、災いの原因がそいつらじゃないってなんで言える!?」

「もしもあの生き物を餌にする、でっかい怪物が出てきたらどうするんだ!」

 どんどん沸き上がる駆除すべきだという意見。公民館の中に、不気味で、加熱した共闘意識が育っていく。

 一年か二年前までなら、まだ落ち着いた議論も出来ただろう。

 しかし今は時代が悪かった。世界中で怪物が現れ、人の世界を滅茶苦茶にしている。発展途上国も先進国も関係ない。自分達は無関係だと()()()()には、あまりに世界は変わり過ぎた。

 自然は自分達に優しくない。世界は自分達の思い通りになるほど弱くない。

 寛容が死を招く今、未知を受け入れる余裕なんて人々にはないのだ。現れた未知を滅ぼさねば自分達が滅ぼされてしまうと、本気で考えている彼等に冷静さなど備わる筈もなかった。

「静粛にっ! 静粛に! 皆様落ち着いてください!」

 あまりの興奮ぶりに町長である岩国が声を上げて人々を宥めようとしたが、人々は止まる気配すらない。いや、それどころか一斉に岩国の方へと振り返り、攻撃的な視線を送る。

「町長! 町長はどう考えているんだ!」

「えっ!? あ、いや、私は……その、せ、専門家の意見を聞いてから、必要なら駆除を、依頼する事に……」

「その専門家ってのは誰だよ! つーか何時答えが来るんだよ!」

「何日も水道が使えなかったらどうやって生活するの!? 給水車にしたって、道路が使えないなら走れないでしょ!」

 町人達は立ち上がり、町長へと詰め寄る。岩国は狼狽えて後退りするが、町人達は情けを掛けずに四方八方から罵声を浴びせ掛けた。町長の口から、望む言葉を引き出すために。

 立ち上がらなかったのは、三百人近く居た町人達の中でたったの十数人。

 勇があそこで自分の意見を表明したのは、ある意味では正解だろう――――もし今この瞬間に先の発言をすれば、二百人を超える人々から『説教』されていたに違いないのだから。

「いやぁ盛り上がってますねぇ」

 そんな混乱を眺めて、フィアは楽しそうに笑いながら独りごちる。

 花中の方は、人間達の盛り上がりを見て大きなため息を吐いた。

「……うん。ほんと、大盛り上がり、だね」

「ちなみに花中さんはどうすべきだとお考えで?」

「……わたしは、駆除には反対」

「理由は?」

「原因が、分からないから。退治した方が良いのか、退治しちゃダメなのか、まだ分からない。だから退治しない方が、良いと思う。した後に、ダメだったって分かっても、手遅れだから」

 ぽつぽつと、万が一にも興奮した町人達に聞かれぬよう小声で花中は答えた。

 どんな生物にも、生態系での役割がある。それはハッキリとは分からぬものかも知れないが、確かに存在するものだ。もしもその役割が何百年も掛けて少しずつ積み上がっていくものなら、仮にある種の生物が絶滅したとしても、その影響が出てくるのは数百年後である。不味いと分かった時には手遅れだ。

 そして謎生物は、本当に謎の生物だ。何を食べているのかすら分からない。しかも何十万という大群である。もしも彼等を無闇に退治した時、どうして何も起きないと言いきれるのか?

 ……人間は怪物の存在により、自分達が地球の支配者ではないと、自分達が特別な生命ではないと理解した。そして自然を見くびらず、全力で立ち向かわなければ、いずれ人間の『居場所』はなくなってしまうと多くの人々が感じている。その考え自体は花中も正しいと思う。

 しかし全力で立ち向かう事は、無知への免罪符とはならない。

 謎生物は本当に駆逐すべき生物なのか、それとも手を出してはならない存在なのか、或いは伝承通り何かを伝えようとしているのか――――

 分からないものに手を出す事ほど、愚かしい行為もあるまい。自分は失敗なんてしないという『自惚れ』でしかないのだから。人類はその自惚れで何度も痛い目を見ているというのに、ここまで追い詰められてもまた繰り返すというのか。

 ……問題は、それを指摘しても『盛り上がっている人』は耳を貸さない訳で。

「成程そういうものですか。ではどうしてあの人間達にそれを言ってあげないのですか?」

 しかしフィアが無邪気に尋ねてきて、その気持ちが揺さぶられる。どうせ無駄だから……その気持ちもまた『自惚れ』というものだ。言ってみなければ本当にそうなるかなんて分からない。

 万一『失敗』して大変な事がおきたとしても、フィア達が居るならなんとかなるだろう。

「……あの、皆さん。えと、わたし、言いたい事があるので……言っても、良い、でしょうか?」

「えっ? いや、お客様それは止めた方が」

「良いんじゃないかしら。いざとなったら私とさかなちゃんでなんとか出来るし」

「ふん。あなたの力などなくとも私だけで十分です……ところで何をなんとかするのです?」

「私は異議なし。なんか聞いててムカムカしてきたし」

「あたしも、まぁ、あの人達の意見に全面的に賛同するのはなんか癪だから構わないわ」

 花中が意見を表明すれば、勇だけが反対し、友達は全員賛成する。正確にはミィは何も言わなかったが、Noも突き付けてこない。

 花中は立ち上がり、大きく息を吸い込む。

「あ、あの! すみまひぇんっ!」

 その息を思いっきり使い、大声で興奮する町人達に呼び掛けた。

 慣れてない大声故に少し噛んでしまったが、振り返った町人達はそんな些細なミスなど気にも留めていないだろう。誰もがギラギラとした、苛立ちと敵意に満ちた眼差しを花中に向けてくる。

 正直、怖い。

 フィアが居なければ、きっとこの言葉は飲み込んでしまっただろう。だけどフィアが居るから、花中は自分の考えを外へと出す勇気が持てた。掴んだままのフィアの手を強く握り締めながら、花中は出来るだけ大きな声で自分の意見を伝える。

「あ、あの、落ち着いて、考えましょう。確かに、あの生き物は、何か分かりません。危険かも知れないという考えは、尤もだと、思います。で、でも、もしかすると、あの生き物が、本当に危険なものを、抑えているかも知れない訳で……」

「……アンタ、見ないもんだが誰だ?」

「え。あ、えと、わたしは、その、ただの観光客で……」

「部外者なら黙っててくれんか? これはこの町の問題だ」

 正直に正体を明かせば、町人の一人がキッパリと拒絶を示す。

 あまりにもハッキリと言われた花中は、喉の奥にあった筈の言葉が、すっと消えるような感覚に見舞われた。

「町長! アンタが決断しないなら、俺達は自分達の手で町を守るからな!」

 そして花中がほんの一瞬言葉を失った隙を突くように、血気盛んな若者が町長に決別の意思を伝えた。

 町長からの返事はなかったが、人々からは「そうだ!」「自分の町は自分で守るんだ!」という賛同の声が次々に上がる。

 やがて二百人を超える町人達は、バタバタと駆け足で部屋を出てしまい……ほんの十数人しか残らなかった公民館の一室は、がらんとしたものに変わってしまった。

「……なんとも人間らしい決意表明ねぇ。熱血アニメなら勝ちフラグなんだけど」

 くすくすと、ミリオンが嘲笑う。確かに熱血アニメなら勝ちフラグだが……此処は現実だ。浅慮が招くのはろくなものではない。

「大桐さん。これからどうする?」

 花中が痛む頭を抑えていると、加奈子から質問が飛んできた。

 顔を上げると、加奈子だけでなく晴海もこちらを見ていた。二人とも、こちらの意見を訊きたいらしい。

 花中は、考える。

 ……実際問題、彼等の判断が誤りとも言いきれない。

 花中は『失敗』した時のリスクを恐れ、町人達に一時立ち止まるよう進言した。しかし彼等が恐れていたように、あの謎生物が危険な存在だとすれば……排除するのは妥当な判断だといえよう。むしろ誰かが言っていたように、謎生物を餌とする凶暴な『怪物』が町に接近中だとしたら此処でのんびり話し合う事自体が愚行だ。今すぐに謎生物を排除する必要がある。そもそも謎生物が『しらせ様』だという考えは伝承で語られている姿からの推測であり、収斂進化や擬態により姿が似た別種という可能性も否定出来ない。前提を否定するような事を言えば、偶然伝承と見た目が一致しただけの、全く関係ない生物かも知れないのだ。

 花中の判断が正しいとはいえない。町人の判断が正しいともいえない。判定を下すにはあまりにも情報が不足している。

 そう、足りないのは情報だ。情報さえあれば、どちらの選択が正しいかどうか分かる。或いはどちらも間違いだと気付けるかも知れない。

 今するべきは、調査である。

「……調べたいと、思います。『しらせ様』が何ものであるかを」

「ん、そっか。よーし、それなら私も手伝うよ!」

「あたしも手伝うわ。あの生き物の正体が気になるし、警察とか学者より、大桐さんの方が百倍詳しいだろうからね」

「っ!? 加奈子、何を言ってるんだ!? お客様達もそんな、調査なんて……」

 花中が考えを伝え、加奈子と晴海がそれに同意したところ、勇が狼狽えながら話に割り込む。勇からすれば、少女三人が未確認生物に接しようとしているのを、大人として見過ごせないのだろう。

 しかし加奈子はへらへらと、全く緊張感もなしに笑うばかり。晴海も、笑いこそしていないが自分の言葉を取り消しはしない。フィアもミリオンもミィも、勇の味方などしない。

 取り消す必要がない事を、勇以外の誰もが知っているのだから。

「平気だって勇おじちゃん。だって『しらせ様』は良い神様なんでしょ? なら危ないなんて事はないって」

「いや、確かにそうだが……そもそも『しらせ様』というのは俺の勝手な想像で、もしかしたら本当に危ない動物かも知れない訳で」

「大丈夫! 大桐さん、は全然弱いけど、フィアちゃんとミリきちとその猫はめっちゃ強いから!」

 戸惑う勇に、加奈子は胸を張って答える。しかしその答えはなんの説明にもなっていない。勇はますます戸惑ってしまう。

 本来なら、勇にはちゃんと説明すべきだろう。されどそのための時間があるかは分からない。

 申し訳ないが今は行動を優先させてもらう。

「……行きましょう。えと、旦那さんも、来てくれるなら、来てください。その途中で、話をしますから」

「い、いや、しかし……」

「ところで花中さん何処を調べるつもりなのですか?」

 フィアからの問いに、花中はこくりと頷き、考えがある事を示した。

 謎生物を知るためには、どんな調査が必要か?

 勿論謎生物そのものを調べるのも方法の一つだ。しかしそれは昨晩のうちに多少なりと行った。もっと別の、新たな知識が欲しい。

 例えば、生息地の環境。

 そしてその環境を理解するためには、現地に乗り込むしかない。

 故に花中はこう答えた。

「旅館の温泉。あの地下に、多分、『しらせ様』の巣があるから」

 あくまで仮説の、けれども自分の中では確信がある、謎生物の住処を――――




未確認生物が大量発生した時、あなたはどうしますか?

次回は明日投稿予定です。


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語らない予兆6

 花中達が戻ってきた露天風呂は、昨晩以上の『大賑わい』であった。

 空から燦々と降り注ぐ陽により、露天風呂全体が明るく照らされている。湯船から漂う湯気は陽光を受け、白く煌めいていた。大変美しい光景で、昼間の温泉も乙なものだと思わせてくれる。

 が、肝心の湯が殆どない。

 正確に言うならば――――もう隙間がないのではないかと思うほど、湯船には大量の謎生物が浮いていた。推定ではあるが、この湯船だけで五百匹ぐらい居るかも知れない。

「ふーむ昨日よりも少し増えてませんか?」

「少しどころじゃないでしょぉが!? えっ、な、何コレ!?」

「おー。ここまで多いと普通にキモいなぁ」

 昨晩の事など殆ど覚えていないのか。十倍ほどの増量を『少し』と表現するフィアに、晴海がツッコミを入れた。加奈子は加奈子で、暢気な感想を述べている。フィアの頭の上にはミィも居たが、一匹と一人の言動に呆れるかのようにため息を吐いていた。

 花中もフィアと加奈子のおとぼけに苦笑いを浮かべつつも、湯船の様子を観察すべくそちらに目を向ける。

 謎生物 ― 未だ確定はしていないが何時までもこの呼び方をするのも難なので、とりあえず『しらせ様』という事にしてしまおうと花中は思う ― はぎゅうぎゅう詰めにも拘わらず、湯船から出ようともしていない様子だ。身動ぎ一つせず、大人しく湯船……があるか甚だ怪しい密度だが……に浸かっている。この調子ではお湯の排水口と吸水口、どちらも詰まっているだろう。

 仮に世界情勢が安定化し、人々に温泉を楽しむ余裕が出てきても、この状態が続くようでは旅館の再開など夢のまた夢だ。

「こ、こんな事に、なっているとは……」

 花中達と共に露天風呂までやってきた勇が茫然自失になるのも、仕方ない事だろう。『しらせ様』駆除に反対していた彼も、この惨状を目の当たりにしたら流石に気持ちがぐらぐらと揺らぐようだ。

 正直昨今の怪物騒動が数年かそこらで終わるとは、花中には到底思えないが……しかし希望という道しるべがなければ、人は明日へと向かって歩いていけない。或いは絶望という岸壁が待ち構えている事を知らねば、考えなしに歩き続けて落ちてしまう。

 必要なのは、理解する事だ。 

「あの、旦那さん。この温泉の、お湯が入ってくる場所って、何処ですか?」

「えっ、あ、ああ。はい。それなら、あそこの岩の下なのですが……」

 花中からの問いに、勇は少し取り乱しつつ指差しで答える。

 勇が示した露天風呂の一角には、大きな岩の集まりがあった。縦五十センチ横二メートルほどの岩が六つ重なって、一つの塊を作っている。初めてこの露天風呂を訪れた時にもあった大岩だ。景観のための代物かと思っていたが、どうやら給水口も兼ねていたらしい。

 普段ならお湯が岩の所から出てくるところが観察出来たのだろう。が、今はひしめく『しらせ様』が邪魔で見えない。勇が嘘を吐いているとは微塵も思わないが、言葉だけではいまいち確信出来なかった。

「岩の下に、ですね? 網とかは、されているのですか?」

「ええ。岩で覆っているとはいえ、何かの拍子に崩れたり、子供が入り込んでしまう危険はありますからね。なので鉄網を設置しているのですが……」

「まぁ、十中八九壊されてるわよね。あの生物パワーはなさそうだけど、何十匹も集まれば簡素な鉄網ぐらいは破れるでしょ」

 勇の情報に、ミリオンが己の推測を語る。花中も同意見だ。というより、他に侵入ポイントが思い付かない。

 『しらせ様』には足がない。翼もない。

 だから歩いて入り込む事も、飛んでくる事も考え辛い。それに対して泳いでなら……流線形から程遠いあの身体なので左程得意ではなさそうだが、少なくとも身体の構造上不可能ではないように思えた。

 そう。彼等は温泉と共に地上へ進出しているというのが、花中の考えだ。

 恐らく彼等の生息地は地下、それも源泉があるような場所である。普段はその源泉内で暮らしており、何かの拍子に地上に出てしまう個体がいるのだろう。源泉内となれば人の立ち入りも困難であり、故に未確認生物が潜んでいても不思議ではない。

 ……一匹二匹出てくる程度なら、ちょっとした偶然で話も終わりだろうが。しかしこれほどの数となると、地下で何かしらの異変が起きていると考えられる。

 思い返せば『しらせ様』が伝えるとされる異変は、地震や崖崩れ、地盤沈下など、地下にまつわるものばかり。そうした異変の前兆が真っ先に現れるのは、地下深くである事も多いだろう。成程、だから彼等は『しらせ様』なのだと、花中は思った。

 しかし今回の彼等からの()()()()()は未だ未解明。それにこれを話したところで、『しらせ様』を退治しようとする町人達は納得するまい。あくまでこれは、未だ花中の推論に過ぎないだから。

 物証が必要だ。そして物証を得るためには……

「あの、すみません。あの大岩の下にある、給水口のメンテナンスは、普段、どのように、しているのですか?」

「半年に一度、岩を退かしてからの掃除を行っています。実はあの岩、人工物なのであまり重くないのですよ……重さは百五十キロほどで、男が四人も集まれば問題なく持ち運べます。昔働いていた力自慢の若い衆なら、二人で全部やってくれましたよ」

「成程。なら、普通に退かさないと、ダメなのか……すみません。もしかしたら、ちょっと、あの岩を壊したり、床とか傷付けてしまうかも、ですけど、大丈夫ですか?」

「へ? え、ええ、まぁ、少しなら……」

「ありがとうございます。えと、フィアちゃん。ちょっとあの岩、退かしてくれる?」

「お任せあれ」

 呆ける勇からの『了解』を得て、花中はフィアに指示を出す。ようやく自分の出番かとわざとらしく力瘤を作ったフィアは、意気揚々とした足取りで露天風呂の一角にある大岩へと向かった。

 大岩に辿り着いたフィアは、おもむろに岩の一つに平手をぺたりと付ける。凡そ物を掴む触り方ではないが、フィアには水を操る能力があるのだ。花中にその原理はさっぱり分からないが、多分表面張力だとかなんだとかを活用し、フィアは平手と岩を()()()()()()()のだと予想する。

「ほいっと」

 そしてフィアは難なく、自分よりも一回り大きな岩を持ち上げてしまった。

 勇は声を上げなかった。上げなかったが、あんぐりと大口を開け、目をギョッと見開いている。漫画なら、今頃目が飛び出し、口から心臓が出ているだろう。何しろ勇の申告通りなら、重量百五十キロの巨物をフィアは片手で掴み上げているのだから。

 されどフィアにとってこんなのは、炉端の石ころを摘まみ上げるようなもの。自慢する事もなく、ぽいっと無造作に岩を投げ捨てる。捨てられた岩は石造りの床を砕き、地面を揺らして、その重さが勇の言葉通りあるのだと物語った。

「ちょ、フィアちゃん! 退かす時はもっと丁寧にやって!?」

「んぁ? あーっとこれはうっかり。随分と軽い石だったのでつい投げてしまいましたよ」

 花中が注意すると、フィアは悪びれもせずに肩を竦めた。二つ目の岩も軽々と持ち上げ、今度は先程よりは幾分丁寧に……でも地面に着く前に手放したので、やはりズドンという音と震動はあったが……置く。

 そうして簡単に六つの岩を退かしたフィアは、岩のあった場所を覗き込んで顔を顰めた。

「むぅ。詰まってますねぇ」

 フィアからの報告を聞き、やはり、と思いつつ花中はフィアの下へと駆け寄る。

 フィアが覗き込んでいる場所を、一緒になって覗き込めば――――床にぽかりと開いた直系三十センチほどの穴 ― 間違いなく湯の吸水口だ ― にぴったりと嵌まる、湯船を埋め尽くしている他の個体よりも一回りぐらい大きな『しらせ様』が居た。

 大きな『しらせ様』は口をパクパクさせていて、死んではいない様子。しかしちょっと辛そうに見える……のは人である花中の勝手な思い込みか。

 いずれにせよ、穴を塞ぐ『しらせ様』は退かさねばならない。花中が目指すのは、この穴の奥なのだから。

「フィアちゃん、この穴、ちょっと広げられる?」

「ふふん造作もありませんよ」

 胸を張って答えると、フィアは己の髪をざわざわと鳴らしながら蠢かせ、髪を『しらせ様』が詰まる穴へと伸ばす。

 穴へと伸ばされた髪は、穴の周囲に等間隔に配置された。それは人の目には配置されたようにしか見えないが、花中の脳裏には具体的なイメージが過ぎる。

 フィアの髪もまた能力により操られる水だ。伸ばした先から能力によって制御されている水を這わせ、穴全体に浸透させているに違いない。例えるなら、吸水口である穴の内側に網を張ったようなもの。

 加えてこの網は、フィアの力により自在に広げられる。

 大地に開いた穴を、さながら両手を突っ込んで押し広げるかのように、フィアは水によって拡大させようとしているのだ。そしてフィアにはそれを成し遂げるに足る、強大なパワーが宿っている。

「ほーいっと」

 なんとも気軽な一言と共に、フィアは指を軽く振るう。

 ただそれだけの仕草で、大地に開けられた穴は呆気なく押し広げられた。無論拡大された皺寄せとして、周りの大地を大きく歪めるという副作用を伴って。

 石造りの床が一部浮かび上がり、湯船もその形を変形させる。露天風呂を囲う柵も傾き、その震動は勇や晴海達の身体も揺らした。

 そして肝心の吸水口は、詰まる前の穴よりも二~三倍ほど大きくなった。

 ここまで広がれば、詰まっていた『しらせ様』がどれだけ大きくても関係ない。溢れ出す湯と共に、『しらせ様』も外へと飛び出す。

 しかも一匹二匹ではなく、何十、何百も。

「きゃあっ!? えっ、ま、まだこんなに居たの!?」

「まだまだ居ましたよ。この近くだけで数千匹は居るんじゃないですか?」

 驚く花中に、フィアは更に驚きの情報を付け加える。温泉に出ている数だけでも数百は居そうなのに、更にこの十倍以上の数が潜んでいるとは、流石に予想も出来なかった。

 一体、この穴の奥にはどれだけの『しらせ様』が潜んでいるのか。最早見当も付かない。

「フィアちゃん、穴の奥に行きたいから、水で包んでくれる?」

「了解でーす」

 花中のお願いを受け、フィアは手から出した水で花中を包み込む。フィアお得意の水球だ。花中が息をするためのスペースが確保されているので、これなら水中で窒息する事もない。

「よっしゃあっ! 私も行くぞー!」

「あたしも行く。何が起きてるか、知りたいし」

 花中が出発の準備を終えたのを見て、加奈子と晴海もフィアの下にやってくる。フィアの能力ならば、花中以外も水球に包む事など造作もない。それに何が起きているか分からぬ今、フィアの傍に居る方が何かと安全だろう……様々な理由から花中がこくりと頷けば、フィアは二人も水球で包んでくれる。

 包まれていない人間はあと一人。

 フィアが片手で岩を持ち上げ、更には水球を作り出したのを見て後退りした、勇だけだ。

「あら。あなたは行かないの?」

「えっ、あ……い、いや……本当に、人間じゃないんだって、驚いて……その……」

 ミリオンに問われ、勇はしどろもどろになりながら言葉を濁らせる。

 勇には公民館から旅館までの帰り道で、フィア達が人間でない事、超常的な力を有する事を花中は説明していた。とはいえ実際にその力を見なければ、ぱっと見ただの美少女であるフィア達が『化け物』とは信じられまい。

 勿論歩きながらでも、例えば『身体』を変形させたり、超人的身体能力を見せるなりの証明方法はあったが……下手に見せてパニックになられても面倒なので、旅館に来るまで見せるチャンスがなかった。勇の今の反応を見るに、結果的には杞憂だったようだが。

 ともあれそうした理由から困惑しているのであろう勇を、ミリオンはじぃっと見つめ……不意にくすりと笑った。

「あら。さかなちゃんが怖くて、腰が抜けちゃったのかしら? 可愛いところもあるのね」

 次いで、この状況では煽りにしか聞こえない言葉を呟く。

 困惑していた表情を引き攣らせた勇は、わざとらしく胸を張る。

「い、いえ! 大丈夫です。少し驚いただけですから」

「そう? 無理はしなくて良いのよ。調査報告はしてあげるから」

「……自分の旅館で起きている事を自分の目で知らないようでは、責任者としてあまりに不甲斐ない。それに私は、自席でふんぞり返りながら、子供を矢面に立たせる大人にはなりたくありませんから」

「ふぅん。すごく、人間らしい考え方ね」

 感心しているのか、馬鹿にしているのか。どちらとも付かないミリオンの言葉に、勇は曇りない笑みで答える。

 やがて勇は駆け、花中達を水球で包んだフィアの下にやってきた。「自分も連れていってください」と彼が伝えると、フィアは勇の気持ちなどろくに考えていない早さで「良いですよ」と答え、彼を水球で包み込んだ。

 全ての人間がフィアの水球の中へと入り、今度こそ準備は万端。

「では花中さんもう出発してもよろしいですね?」

「うん。フィアちゃん、行こう」

 花中の指示を受け、フィアは『しらせ様』が出てきた穴に跳び込んだ。フィアに引っ張られる形で、水球に包まれた花中達も穴の中へと入る。

 穴の中は、とても暗かった。太陽の光が届かないのだから当たり前なのだが……底知れぬ暗闇が何処までも続いているという『事実』が、花中の身体をぶるりと震わせる。

 しかし暗闇を恐れぬフィアはどんどん前に、花中の気持ちなどお構いなしにかなりのスピードで進んでいく。暗闇の中では周りの景色など見えないが、身体に掛かる慣性から、自分達が穴の奥へと進んでいる事が花中にも感じられた。

 今の感覚を例えるなら、巨大なヘビの体内を進むかのよう。

 おぞましい感覚だ。しかしこんなのはただの錯覚に過ぎない。花中は顔を横に振り、不安を頭の中から追い出す。深く深呼吸もして、胸の中で執拗に渦巻くものを吐き捨てようとする。

「花中さん開けた場所に出ましたよ」

 フィアの声が聞こえてきたのは、なんとか気持ちを切り替えた直後の事だった。

 開けた場所、と言われたが、周りは相変わらず真っ暗で何も見えない。フィアは能力で水を操れるので、それで把握出来るかも知れないが……花中達人間に、この暗闇を見通す術はなかった。

 何か周囲を把握する術はないものか。そう考えていると、ふと花中の目に眩い『光』が当たる。

 思わず目を閉じた花中は、少しずつ慣れてきたので瞼を上げ……見えたのは、ミリオンの笑顔。

 花中達を追って、ミリオンも温泉の給水口に跳び込んできたようだ。彼女は水球に包まれていないようだが、ミリオンの正体は呼吸などしていないウイルスである。水中どころか宇宙空間すらへっちゃらであろう彼女の身を心配する必要はない。

 そんなミリオンの指先は、煌々と光り輝いていた。

 高温による発光現象を利用した照明だ。これならば周囲を照らし、人間である花中でも穴の奥深くを調査出来る。ミリオンに感謝を伝えようと、花中は口を開いた。

「う、うおぁっ!? な、なんだこりゃ!?」

 直後、突然上がった勇の大声で、礼の言葉は引っ込んでしまったが。

 そして勇が大声を上げた理由により、花中の喉の奥まで引っ込んだ言葉はいよいよ消えてしまう。

 ミリオンが放つ光により照らされた周囲……そこには、無数の『しらせ様』が泳いでいたのだ。いや、無数の、という言葉すらも生温い。数が多過ぎて、遠くの景色が見えないほどだ。何千どころか何万、何十万という数がこの辺りに生息していると窺い知れる。

 圧倒的な大群。地上に現れた何十万という数すらも、『しらせ様』にとっては氷山の一角に過ぎないのだと花中は理解した。

「す、すげぇー! めっちゃいっぱいいる!」

「こ、これは流石に、多くない……?」

 あまりの数に加奈子ははしゃぎ、晴海は怯えたように声を震わせる。花中は、丁度その中間ぐらいの気持ちだろうか。生命の神秘への興奮と、地の底に蠢く未知への恐怖が、生物好きかつ臆病な花中の頭を染め上げた。

 しかしながらフィアは『しらせ様』の大群にあまり興味がないのか、「もっと下りますねー」と一言伝えて水底目指し進み始めた。ミリオンも肩は竦めつつ、フィアの後を追うように泳ぐ。二匹とも『しらせ様』への反応は薄い。生物の豊富さに感嘆や恐怖を覚えるのは、人間的な発想なのかも知れない。

 やがてフィアとミリオンは、水底に辿り着いた。着地の瞬間、ふわりと白い粉のようなものが底から舞い上がる。恐らくはデトリタス……有機物の粒子だ。此処には『しらせ様』がたくさん棲み着いている。彼等はやがて死に、水底に落ちてくるだろう。そうした死骸が分解される過程で大量のデトリタスが生じ、水底を覆い尽くしていてもなんら不思議はない。

 そしてこうしたデトリタスの層を形成するのは、バクテリアや甲殻類などの小動物達。

 じっと観察してみるとデトリタスが時折もこもこと動き、その中から体長二センチぐらいの、エビらしき生物が顔を出す瞬間に遭遇した。もこもことした動きはあちこちで見られ、付近に相当数のエビが生息していると窺い知れる。

「おっ。丁度小腹が空いていたところなんですよパクッ」

 ……野生動物(フィア)にとっては、生態系の神秘よりも食い気らしいが。エビは逃げる間もなくフィアに食べられ――――眉間に皺が寄ったフィアの顔が、神秘の味を物語っていた。

「……フィアちゃん。それ、美味しい?」

「……腐った味がします」

「まぁ、温泉の中に暮らしている、生き物だしね」

 身の中に硫黄系の化合物が含まれているのかも知れない。フィアは噛み砕いたエビをぺっぺっと吐き出し、渋い顔を少しだけ和らげた。

 『しらせ様』にとっても、エビ達は食べ物ではないらしい。デトリタス付近を泳ぐ個体も多いが、エビ達には見向きもしていなかった。『しらせ様』は小さな口をパクパクと動かしているが、ただそれだけ。エビを捕らえようとする個体すら一匹も見当たらない。尤も口が小さ過ぎて、大きなエビはそもそも入りそうにないのだが。

 思い返せば、ミリオンが『しらせ様』には歯がないと語っていた。エビは小さなものだが、甲殻類の一種。軟甲綱なんて名前の分類に属しているが、頑強な殻を持つフジツボなど他の甲殻類と比べて柔らかいという意味であり、その身に纏う殻は十分な強度がある。発達した歯、或いは代替する器官がなければ食べられないだろう。

 加えて『しらせ様』の数が膨大過ぎる。デトリタスを食べているであろうエビの資源量は、『しらせ様』の死骸の供給量未満でしかない。エビの子供を食べるにしても、莫大な数の『しらせ様』を養うのは不可能。『しらせ様』はもっと別の、それでいて豊富な餌を食べている筈だ。

「……………」

「おじちゃん、どしたの? なんかそわそわしてるけど?」

 考え込む花中だったが、ふと加奈子の声が聞こえ、振り向く。そこには水球の中で、一人不安げに辺りを見回している勇の姿があった。普通に彼等の話し声が聞こえるのは、フィアが水に伝わる音を上手く中継してくれているからだろう。

 加奈子に指摘され勇はハッとしたように目を見開き、曲がっていた背筋を伸ばす。しかしながらそわそわした動きは止まらず、やはり挙動不審なまま。

「い、いや……何か、大きな動物とか居るんじゃないかと思って、警戒していたんだ」

 やがて少し恥ずかしそうに、自らの不安の正体を明かす。

 ミリオンに照らされているとはいえ、遠く彼方まで見えている訳ではない。加えて『しらせ様』が多過ぎて、数メートル先すら満足に見えないのが実情だ。

 そして『しらせ様』は、その全体的に弱々しい姿からして如何にも『喰われる側』の生物であるように見える。大きな捕食者がこの水中の何処かに潜んでいる……という考えは、あながち臆病風に吹かれたとも言い難いものである。

 しかし勇の心配は無用なものだと花中は思っていた。

「ふふんご安心を。この私に掛かればどんな生物だろうがイチコロです。まぁ少なくとも半径数キロにそんな生物の姿はなさそうですが」

「みたいねぇ。私も特になんの気配も感じないし」

 理由の一つは、此処にフィアとミリオンが居るから。並の怪物では彼女達を倒すどころか、苦戦すらさせられない。ましてやフィアの『水を操る』能力は水生生物に対し絶対的なアドバンテージとなる。この地の生態系がどのようなものかは未解明だが、十中八九彼女達に敵う怪物は存在しない。

 そして花中は、そもそもそんな大型捕食者なんてこの環境には棲み着いていないと考えていた。

「多分、ですけど、そういう生物は、いないと思います」

「……理由を訊いても?」

「『しらせ様』の生息密度が、高過ぎます。こんなに『餌』が豊富なら、捕食者は、簡単に増えて、どんどん食べて、『しらせ様』は減っていく、筈です」

「『しらせ様』の繁殖力が高いかも知れないじゃないですか」

「そうですね。その可能性は、否定出来ません。でも、もう一つ、理由はあります……彼等が、あまりに無防備、だからです」

 もしも『しらせ様』が喰われる側であるなら、捕まった時に逃げようとするだろう。どんなに無力なイモムシでも捕まればのたうつなり身を丸めるなりするし、植物すら食べられた傷口からねばねばした液を出したりする。そうしたちっぽけな防御反応でも、多少は天敵対策となるからだ。百万分の一の確率でも生き残りやすくなるのならそれは子孫を残す上で好都合であり、運良く生き延びた個体がより多くの次世代を残し、世界に広まっていく。

 しかし『しらせ様』は捕まろうともろくな身動ぎすらせず、おまけに針や殻などの器官も見当たらない。

 こうした生物は、得てして外敵のいない環境に適応した種だ。アホウドリは外敵がいない島で子育てするがために人を恐れず、ニュージーランドの飛べない鳥達も強力な捕食者がいないため『飛ぶ』という防衛能力を退化させてしまった。何故なら敵がいない中で強力な自衛手段を持っていても、それを生成するのに費やしたエネルギーが無駄になるからだ。むしろこれらのエネルギーを繁殖や成長に回した方が、同種(ライバル)相手に有利に立ち回れる。

 彼等の生息する地下温泉という隔絶した環境は、外敵が侵入し難い場所といえよう。『しらせ様』が天敵への対策を退化させたとしても、花中にはむしろ自然な適応であるように思えた。

「……そう、ですか。そうだと、良いのですが」

 花中の説明に、勇は納得しきれていないながらも、頷いた。自分の、そして親戚(加奈子)の安全に関わる事なのだから、慎重なぐらいで丁度良い。それに所詮はただの憶測である。一人ぐらい周りを警戒してくれる人がいた方が良い。花中はこれ以上、勇を説得しようとはしなかった。

 さて、『しらせ様』やその近辺に危険がないと思われるのは良い事だ。

 しかし今回確かめたいのは、この地の安全ではなく、此処で何が起きているのかである。此処には『しらせ様』がたくさん泳いでいるが、勇から聞いた話曰く『しらせ様』は早々お目に掛かれる生物ではない。町人もこの生物が『しらせ様』かどうかで紛糾しているぐらいなので、勇一人が疎いという事でもない筈。

 もしも平時から視界を埋め尽くすほどの大群が温泉の直下に潜んでいたならば、もっと頻繁に外へと溢れ、目撃されている筈だ。恐らくこの場所は、『しらせ様』の本来の生息地ではない。デトリタス層が出来ているので、それなりには紛れ込んでいるかも知れないが……いや、或いはこのデトリタスも『しらせ様』の生息地から供給されたという可能性もある。判断材料としては些か弱い。

「(もっと奥に行かないとダメ? ううん、もしかしたら此処に『しらせ様』を集める物質とかがあるかも。先に周辺に落ちているものを片っ端から集めてもらおう。それで変な物が落ちていたら、旦那さんに見てもらって、あと水流も調べてもらわないとダメかな……)」

 調査方針を頭の中で組み立て、纏めるや花中はこくりと頷く。

「フィアちゃん、あのね、この温泉の周辺に、何か変なものがあったら、集めてくれる? 本当に、なんでも良いから。あと、水の流れも、知りたいの」

「そのような事でしたら造作もありません。さくっと済ませますよ」

 お願いすればフィアは快諾。早速能力を使おうとしてか、すいっと手を伸ばして

「……ん?」

 何かに気付いたように、ぽつりと呟いた。

 一体何を感じ取ったのだろう? 花中の抱いた疑問は、しかしそれを問う前に明らかとなった。

 世界が、揺れ始めるという形で。

「……地震?」

 ぽつりと、晴海が独りごちる。

 その言葉を裏付けるかの如く、周囲の揺れは激しさを増していく!

 大きな地震だった。フィアもミリオンも、『しらせ様』も動じていないが、人間達にとっては立派な大震災。右往左往する花中の目には、同じく右往左往する加奈子や晴海、勇の姿が映る。

「ふぃ、フィアちゃん!? あ、あ、あの、えと」

「ご安心ください花中さん。この程度の揺れなど私の力の前ではないも同然というやつです」

 動揺する花中であったが、フィアは自慢げに胸を張って宥めてくる。確かに、原水爆すら通じぬフィアからすれば、大地の揺れなど大したものではないだろう。少し、花中の心は落ち着きを取り戻す。

「それよりもあそこがちょっと危なそうです。なんか出てこようとしています」

 その落ち着きを掻き乱したのは、フィアの一言だったが。

 指差された場所を、花中は反射的に見遣る。そこは特段他と変わりない、デトリタスに覆われたただの地面

 否、違う。

 フィアが指し示した地面だけが、周りより少し隆起していた。大量のデトリタスに覆われていて分かり辛いが、間違いない。それも隆起はあたかも呼吸するかのように、ゆっくりとだが定期的に上下している。

 なんだか分からない。けれども確かに()()()

 本能的にそれを感知した、刹那、隆起していた地面が一際大きく盛り上がる! その盛り上がりは最早下がる事はなく、延々と膨らみ続け……やがて弾けた!

 飛び散る大地の欠片。デトリタスが雲のように舞い上がる。

 しかしそれらを一瞬で吹き散らすほどの『流れ』が、弾け飛んだ事で出来た大地の大穴から溢れ出す。流れは透明なものであったが、まるで蜃気楼のような揺らめきを持ち、故に目視による観察が出来た。高さは数十メートルほどにもなり、岩やらなんやらも全て浮かび上がらせている。

「……あれは……?」

 揺らめきの正体を考えようとする花中だったが、その思考は妨げられた。

 『しらせ様』達が、一斉に『流れ』の方へと振り向いたがために。

 ぞわりと、悪寒が花中の背筋を駆けていく。今までただ泳ぐだけだった、捕まろうともなんの抵抗も見せなかった生物が、自発的な行動を起こしたのだ。

 真意を探ろうとする花中は、『しらせ様』をじっと見つめる。やがて『しらせ様』は次の行動を花中に見せてくれた。

 突撃するように、溢れ出す流れに向かうという行動だ。

 まるでそれこそが待ち望んでいたものだとばかりに、周囲を泳ぐ何十万もの『しらせ様』は流れへ向かって泳ぐ。大地を吹き飛ばすほどのパワーがある流れだ。小さくて貧弱な『しらせ様』は呆気なく流れに押し戻されてしまう。

 しかし『しらせ様』は諦めない。押し寄せる個体の数も増え続けるばかり。

 すると形勢が逆転する。流れは延々と噴き出していたが、その勢いは時間と共に失われていった。対して『しらせ様』の数は増え続ける一方。集結した大群は、前に居る仲間などお構いなしに前へと進もうとし、結果最前線に立つ仲間を文字通り後押しする。

 少しずつだが前へと進んだ『しらせ様』達は、やがて流れが噴き出す穴へと入り込む。

 『しらせ様』が入り込んだ影響か、それとも丁度勢いが失われたのか。流れは花中の目では見えないほど弱まった。こうなればいよいよ『しらせ様』の動きを妨げるものはない。何百何千という『しらせ様』が穴へと入り、次いで何万何十万という数が押し寄せる。

 時間にして十分か、或いはそれ以上か。

 気付けば周りから、『しらせ様』は一匹も居なくなっていた。どうやら全員が流れに突入してしまったらしい。当の流れは、溜まっていた分を全て吐き出したのか、すっかり勢いを失っている。今ではぽかりと空いた穴から微かな揺らめきが、一メートルほどの高さまで伸びているだけだ。

 状況は大きく変化した。あまりの変化に付いていけず、花中はその場にへたり込んでしまう。呆然としているのは花中だけでなく、晴海も加奈子も勇も同じだった。

 今の光景はなんだったのだろう。

 何故『しらせ様』は流れに向かって泳ぎだしたのか。

 あの流れの正体はなんなのか。

 謎を解き明かすための調査だったのに、更なる謎が積み上がる。正直、頭の中がぐるんぐるんと回転しているような気持ちだ。謎が多過ぎて頭のキャパシティをオーバーし、気持ちが悪くなってくる。

 しかし謎は真実への道しるべだ。解き明かせば新たな情報となり、答えへと導いてくれる。これはチャンスなのだと前向きに考え、謎解きに挑むとしよう。

 決意を胸に、花中は立ち上がる。幸いにして『流れ』によって様々なものが舞い上がった。穴の奥からやってきた、新たな『情報』もあるかも知れない。

 地震も既に収まっているため、調査に支障はない。もしくは先程の『流れ』こそが地震の原因なのか。いずれにせよ調べねば真偽不明のままだ。

「……フィアちゃん。辺りを探って。さっきと同じで、なんでも良いから、集めてほしいの」

「りょーかいでーす」

 花中の二度目のお願いも、フィアは快く受け入れる。水中での調査という人間ならば多大な労力を必要とする作業も、フィアの力ならばむしろ地上よりも楽というもの。

 かくして集められた無数の『なんでもかんでも』を前にして、花中達人間が表情を強張らせたのは、この五分後の事であった。




生態系(目に見える生物二種のみ)
実際問題、長期間生態系が成立する最小単位ってどのぐらいの大きさなんですかね? 絶海の孤島でも魚とか海鳥とか関与してるし……

次回は9/27(金)投稿予定です。


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語らない予兆7

 フィアが能力により、源泉内から集めてきたものは幾つかの種類に分けられた。

 まず『しらせ様』の死骸。新鮮なものから白骨化したものまで、幅広く存在していた。白骨死体の存在から考察するに、やはり偶にはこの辺りまでやってくるものらしい。しかし死骸の大半は白骨化どころか、原形を留めたものが非常に多かった。百体ほどの死骸が得られたが、大半が生きていた頃と大差ない姿をしている。

 次に、黄色い石のようなもの。フィアには珍しい宝石の仲間だと思えたらしく、とりあえず持ってきたようだ。とはいえ透き通った黄色ではなく、宝石というよりも鉱石というべき見た目だが。臭いを嗅いだところ、独特の臭気……腐った卵のような……が鼻を突く。

 そしてデトリタスの中に潜んでいたエビ。エビはエビだが、よくよく見ると見慣れない外観の種だ。前足のハサミが変形してスプーン型になっており、青白い体色をしている。触角や口髭は非常に短く、尾の先は棍棒のように丸くなっていた。尤も、これ以外に目立つ特徴はないのだが。

 ……以上が、フィアが集めてきてくれたものだった。「怪しいもの」だとフィアでは割と見落としかねないので「なんでも」と指示したのだが、それでもこれしか『めぼしいもの』はなかったらしい。

 ぶっちゃけ、見た目の上ではそこまで怪しくないものばかり。

「……源泉内に変なものはなかったと安堵すべきか、手掛かりなしと嘆くべきか」

 勇の呟きと己の心証がぴたりと一致し、花中は苦笑いを浮かべた。

 花中達は既に源泉内から出て、露天風呂の敷地内という『地上』に戻っている。湯船には今も何匹かの『しらせ様』が浮いていたが、その数は源泉侵入前と比べかなり減っていた。留守番していたミィ曰く、花中達が戻ってくる少し前に、一斉に源泉へと続く穴に突入していったらしい。源泉内を泳いでいた『しらせ様』達と同じく、源泉内に出来た穴へと向かったのだろう。

 かくして温泉は元の姿を取り戻していた……尤も、大量の『しらせ様』の死骸と、強い臭いを放つ黄色い石の所為で、鼻がもげそうなぐらいの悪臭が辺りに漂っていたが。

「しっかし随分とたくさん死骸を持ってきたねぇ。粗方持ってきたの?」

「いえ全部ではないですよ。全部集めたら切りがないので一部だけにしました。必要ならまだ取ってきますけど」

 黒猫姿のままであるミィからの問いに答えつつ、そのミィを頭の上に乗せているフィアは視線を花中に向ける。花中は首を横に振り、これ以上は結構と伝えた。サンプルは多いに越した事はないが、あまりに多いと後片付けも大変だ。それと調べるにしても大きなものから手を付けると、収拾が付かなくなりそうである。

 千里の道も一歩から。まずは比較的簡単なところから片付けていくべきだ。

「ところで大桐さん。この黄色い石は何かな?」

 例えば、加奈子が素手でつんつん突いている黄色い石の正体がなんであるのか、とか。

「加奈子、アンタよく素手でそんなの触れるわね……」

「いや、だって魚が泳いでるところにあった石だし、悪いもんじゃないでしょ」

「普通の魚は源泉の中なんて泳がないし、そもそも『しらせ様』が魚かどうかは甚だ怪しいと思うんだけど?」

「あはは……」

 恐れ知らずな加奈子に晴海は呆れ、花中は苦笑い。とはいえ今回に限れば、加奈子の勘は当たっていると思われる。

 恐らく、黄色い石の正体は自然硫黄だろう。

 温泉というのは地熱により温められた地下水だ。つまり地熱……マグマが近い事を意味する。そして火山の火口近くなどでは、火山性ガスに含まれる硫黄成分が固まり、自然硫黄と呼ばれる固形物を形成。ある種の鉱石として存在する事となる。

 温泉で見られる湯の花も、この自然硫黄 ― 及びその他諸々の物質 ― が固まって出来たものだ。源泉内に自然硫黄が存在していても不思議はない。量についても、何万年という歳月を掛ければ幾らでも合成されるだろう。

「あたし的には、こっちのエビの方が気になるかな。変な形してるし」

 そのような説明を花中がした後、今度は晴海が疑問を呈する。

 晴海が指差したエビ達は、まだ生きていた。しかしながら弱っているのか動きがかなり鈍い。床に出来た凹み ― フィアが岩を投げた際に出来たものだ ― に温泉の湯を溜め、そこを泳がせているが……あまり長くは持たないだろう。

 このまま殺してしまうのも可哀想なので、手早く調査を済ませて逃がそうと、花中はエビの姿をしかと観察する。

 ……特徴的なハサミや尾以外は、極々普通のエビだ。体長も大きくて二センチ程度だし、特段凶暴そうにも見えない。むしろ穏やかな顔立ちだ。落ちていた瓦礫の先でちょんちょんと突いてみたが、威嚇行為らしきものすら見せてこなかった。彼等も『しらせ様』と同じく、天敵のいない環境に適応した結果防御機能を喪失したのだろう。

 それにスプーンのような形をしているハサミから察するに、彼等はデトリタス食に特化している。ハサミで摘まむよりも、スプーンで一気に掬う方が食事効率は上だと考えられるからだ。かなり長い期間デトリタスだけを食べてきて、その生活に適応した種なのだと考えられる。尾が棍棒のような形なのも、デトリタスに潜り込む際、余計な凹凸がない方が楽だからか。

 そしてこのエビ達が棲んでいたデトリタス層は、源泉内の地面を覆い尽くすほど積もっていた。どれだけ『しらせ様』が多くとも、数十年程度ではあのような環境は形成されまい。つまり分厚いデトリタス層が形成されるまでの長期間、あの空間は隔絶された環境にあったのだと推測出来る。

 恐らくは『しらせ様』と同時期に源泉内に閉じ込められた生物の末裔が、このエビ達なのだろう。故に『しらせ様』とこのエビ達が一緒にいる事は、何一つ不思議な話ではない。付け加えるならば、今も昔も変わらず此処に居た筈の彼等が『しらせ様』出現の原因とは、花中には到底思えなかった。

 原因ではなさそうなのに、このまま調べ続けて死なせてしまうのはちょっと可哀想だ。幸いにして源泉内にはこのエビがうようよ生息しているのは確認済み。調べたくなったらまた捕まえれば良い。

「多分、洞窟に適応しただけの、普通のエビかと……あ、この子、死んじゃってる感じ。フィアちゃん、死んじゃってる子以外、帰してあげて」

「良いですよー」

 現状では死んだ個体さえあれば調査は問題ないと考え、フィアに頼んで生きている個体は戻してもらう事にした。死体として残ったのは二体のみ。

 両手を合わせて拝んでから、花中はエビを持ち上げ、じっと観察。

 ……ほぼ確実に新種の生物という、生き物好きからしたら垂涎ものの存在という事を除けば、やはり極めて普通のエビにしか思えない。専門的な研究機関で調べれば何か分かるかもだが、逆にいえば花中が一人で頑張っても彼等から真新しい情報は得られそうになかった。

 念のため加奈子や晴海にも見てもらったが、予想通り気になる点はなし。フィアとミリオン、ミィからも意見はない。

 亡骸をそっと置き、もう一度手合わせ。死んだ個体は何処かの研究機関に送ろうと考えつつ、やはり彼等が異変の原因ではないと花中は確信を強めた。

 残るヒントは、『しらせ様』の亡骸ぐらいだが……

「……酷い臭い」

 これが一番調べるのがキツそうだった。

 何しろ『しらせ様』の死骸からは、かなり強烈な腐敗臭が漂っていたからだ。腐った卵に、牛乳やら魚やらを練り込んだ上で三日ぐらい放置したような、筆舌に尽くしがたい臭さである。長時間顔を近付けていると吐き気を催し、調査どころではなくなるだろう。

 人間と感覚が異なるフィアや、そもそも嗅覚を持たないミリオンは平然としているが、フィアの頭の上に居るミィはそれこそ苦しそうに顔を顰めていた。

「ほんと、酷い臭いだよこれぇ。生きてる奴等は全然臭くないのに」

「その、肉とか血が臭うのですかね? 硫黄の臭いっぽいから、多分温泉の成分とタンパク質が結合した結果だと思うのですが……」

 ミィの疑問に自分の予想を答えたのは勇。ミィもまた普通の動物ではないと花中から教えられている彼だが、猫に話し掛けるという経験がないからか少し話し方がぎこちない。

 とはいえ話す内容までぎこちない訳ではなく、温泉旅館の店主らしい発想に花中は確かにそうかもと納得した。源泉の中で暮らしていれば、呼吸や食事の際大量の源泉を体内に取り込むだろう。源泉に含まれている多量の硫黄成分が体内に蓄積していると考えれば、腐卵臭がするのも頷ける。

 ……だとしても、ちょっと臭過ぎるとも思うが。硫黄は人体でも必要不可欠な物質だが、多量の硫黄化合物は有害だ。『しらせ様』には硫黄への耐性があるのか? それとも多量の硫黄を必要とする生理に進化したのか……

 やはり、よく分からない。

「(うーん……最初から覚悟はしていたけど、やっぱり自力だけじゃ調べきれない……)」

 『しらせ様』の死骸を前にして、花中はため息を吐いてしまう。

 今回得られた数々のサンプルからの知見を要約すれば、「この温泉の下には未知の生態系が広がっている」。この一言に尽き、この一言以上のものが出てこない。大変素晴らしい発見なのは間違いないが、町を襲うパニックの原因を解き明かすには至らなかった。

 超生命体に対する知見は豊富だが、だとしてもなんでも分かるものではない。むしろ『しらせ様』は、割と普通の未確認生物っぽい印象だ。これならば一般的な生物学者の方がたくさんの発見をしてくれただろう。

 公民館で啖呵を切り、使命に燃えて調べてみたが、この体たらくが自分の限界だと花中は思った。この後出来る事があるとすれば、精々『しらせ様』とエビの死骸を何処かの研究機関に持ち込む事ぐらいか。

「……大桐さん。その、何か変なものあったかしら? 『しらせ様』が集まるような」

「……いえ」

「うーん、偶然……なんて事はないですよね。あんなにたくさんの『しらせ様』がいた訳ですし、もしも普段からあんなにたくさん居るなら何年かに一度ぐらい同じ事があってもおかしくない筈です」

 晴海に尋ねられた花中が首を横に振ると、それを見ていた勇が自分の意見を言葉にする。

 そう、源泉内で目の当たりにしたあの過密状態が正常である筈がない。『しらせ様』はなんらかの理由により、一時的にあの場所に集まっていたと花中は思う。

 何かを見逃しているのだろうか。いや、それよりも根本的な思い違いをしているのかも知れない。何処で勘違いをしているのか、否、勘違いしているというのだって確証がない話であり――――

「っだぁー! わっかんなぁーい!」

 思考の海へと旅立つ花中を現実に引き戻したのは、加奈子の元気な雄叫びだった。加奈子なりに考えていたようで、だけどダメだったようで。友人もまた努力してくれたのだと分かり、花中はにこりと笑みが浮かぶ。

 直後、加奈子が服をぽいぽい脱ぎ始めたので、笑顔はビキリッと固まってしまったが。

「あら、小田ちゃんどうしたの、服なんか脱いで」

「ちょ、加奈子何してんのぉ!?」

「え? いや、なんか頭がぐちゃーってなったから、気分転換に温泉入ろうって思って。頭スッキリさせた方が良い考え浮かぶよ?」

「だからってなんで此処で脱ぐのよ!?」

「もう露天風呂に入ってんのに、脱衣所まで戻るの面倒じゃん。誰が見てる訳でもないしー」

「……お前ももう高校生なんだから、叔父とはいえ男の前で裸になるのは止めなさい」

「えっ、気にしてんの? キモい」

「なんで気遣ったのにキモいと言われるんだ……」

 年頃の姪っ子の不条理な言葉に、割合本気で悲しそうにぼやく勇。加奈子はキョトンとしていたが、果たして自分の言った言葉の残酷さを分かっているのかいないのか。

「ま、良いや。んじゃ、いっきまーす!」

 恐らく後者であろう加奈子は、元気よく露天風呂を駆ける。ぺたぺたという石の床と裸足の触れ合う音を、可愛らしく響かせていた。

 加奈子が目指す湯船は、『しらせ様』が居なくなった事でたっぷりとお湯が溜まっている状態だ。例え跳び込もうとも人の身体をクッションのように受け止めてくれるだろう。そして加奈子は昨日も同じように跳び込み、お湯の有り難さを実感している。

 故に加奈子は躊躇わずにジャンプ。

 いっそ惚れ惚れするほどに見事な跳躍の後、重力に引かれて落ち、大きな水飛沫を上げた。

「ぼぎゃあああああああああっ!?」

 ついでに、悲鳴も。

 加奈子の上げた大声に、人間達は全員呆ける。また何かの悪ふざけ? 晴海と勇はそんな眼差しを向けていた。

 しかし花中には、手足をのたうち回らせてる加奈子の動きが悪ふざけだとは到底思えなかった。もしかすると足がつって、溺れそうになっているのかも知れない。

「ふぃ、フィアちゃん! 小田さんを、引っ張り出して!」

「んぁ? 構いませんが」

 慌てふためく花中からの指示にフィアはのんびりと答え、水触手を一本伸ばす。

 如何に危機感がなくとも、数メートルという距離はフィア達にとってごく至近距離。鳥のように素早く水触手は加奈子の下まで向かい、同い年の中では意外と豊満な身体に巻き付くと、すぽんっとお湯から引っこ抜く。

 水触手に巻き付かれた加奈子は「ぐへー」などと緊張感のない声を出しながら、ぐったりとしていた。大丈夫だろうか、と不安になる花中だったが、地面に下ろされ、解放された加奈子はしかと自分の足で立つ。

 そして背筋を伸ばした大変元気の良い全裸姿で、勇の下に歩み寄った。

「ちょっと勇おじちゃん! お湯、めっちゃ熱いんだけど!?」

 次いで物怖じせず、叔父に『クレーム』をぶつける。

 姪っ子からのいちゃもんに、勇は隠しもしない裸から目線を逸らしつつ、眉を顰めた。

「……お前何言ってんだ。うちのお湯は年間平均四十度だぞ。源泉の温度が丁度そのぐらいで、加水も加温もしていない」

「じゃあ、源泉がめっちゃ熱くなってるんじゃないの?」

「そりゃまぁ、自然のものだから多少の変化はあるから、あり得ないとは言わん。だがそれだって一日に一度未満の変化が大半、精々二度上がり下がりするのが限度だぞ。それに一日六回、四時間置きに湯温は確認している。今は夜勤従業員がいないから、一日四回が限度だが……今日も十三時に早紀が確認している筈だ」

 加奈子の言葉を、勇は論理的に否定していく。十三時といえば、今からほんの二時間前……花中達が公民館に居た時の話だ。仮にサボっていたとしても、九時にも見ている筈。たった二~六時間で、天然の温泉が入浴に適さないほど高温化するとは考え難い。

「嘘じゃないもん! 触ってみてよ!」

「……そこまで言うならやってやるが」

 とはいえ意地を張って否定し続けるものでもなく、加奈子に請われた勇は湯船に歩み寄る。そしてその手をなんの躊躇いもなく湯に浸け、水温を体感的に測ろうとした。

「ッあ!? な、えっ……!?」

 その結果がどんなものかは、跳ねるようにお湯から出された手と、勇の口から漏れ出た困惑の声が物語る。

 熱いのだ。それも勇が驚くほどに。

「……フィアちゃん、あの、お湯の温度がどれくらいかとか、分かる?」

「んー? 温度を測るのはあまり得意じゃありませんが……どれ」

 花中が頼めば、フィアは水触手を伸ばし、お湯へと浸した。フィアはその間ふんふんと鼻を鳴らしながら、しきりに頷く。

「沸騰する時と凍り付く時の中間よりちょっと下ぐらいな温度ですかね!」

 やがて、微妙に回りくどい答えが返ってきた。

 水が沸騰する温度とは、つまり百度程度。凍り付く温度は〇度だ。その中間なのだから五十度……よりちょっと下なので、ざっと四十七~四十九度ぐらいだろうか。

 危険ではないとしても、かなりの高温だ。知らずに跳び込んだ加奈子が元気よく勇を非難する気持ちは ― そもそも湯温を確かめずに跳び込んだ加奈子が全面的に悪いという点に目を瞑れば ― 、花中にも分からないでもない。

 同時に、何故こんな温度になっているのかと疑問を抱く。

 通年通して約四十度である天然のお湯が、ほんの数時間で七度以上上がるなどあり得るのだろうか? あるとしたら原因はなんだ? 考えてみれば、花中はその答えをすぐに見付ける事が出来た。

 源泉内で起きた大地の破壊。そこから噴き出した『靄』のようなもの。

 恐らくあの『靄』は超高温の、それこそ百度を超えるような熱水だったのだ。周りのお湯との温度差で、靄のような揺らめきが見えたのだろう。量もかなり多かったがために、源泉の温度が急上昇したに違いない。

 ――――では、『しらせ様』はどうしてそんな高温の熱水の噴出口に、自ら飛び込んだのか?

 集団自殺? 馬鹿馬鹿しい、動物はそんな事をしない。レミングの集団自殺すら映画撮影のためにやった大嘘なのだから。『しらせ様』はなんらかの、少なくとも彼等にとって少なからずメリットがあったが故に、熱水へと突入した筈なのだ。

 考える。あらゆる知識を寄せ集め、花中は『しらせ様』について思考を巡らせる。熱水に突入したのは、熱水が彼等にとって必要なものだからと考えるのが自然。つまり彼等は、熱水の存在が生存上重要な因子となっているに違いない。

 熱水といえば、極限環境生物が思い付く。そうした環境に棲む細菌は熱水に含まれる硫化水素などを分解してエネルギーを得て、エビや貝はこれらの細菌を食べて生きている。特にチューブワームという生物はこのような環境に良く適応し――――

 ハッと、花中は目を見開いた。

 脳裏を過ぎった可能性が、ピースのように当て嵌まる。そうだ、もしも彼等がチューブワームと同じなら……歯がない事も、ろくな攻撃性がない事も、ただただ泳ぐだけなのも説明が付く。

 生態の謎はほぼ解けた。だが、故におぞましい発想が脳裏を駆け抜けていく。

 もしも『しらせ様』が想像している通りの生態を有していて、その生態の維持に必要なのが『アレ』だとして……彼等の生息地に起きている変化についても、あくまで想像とはいえ見当が付いた。しかしもしもその考えが事実なら、これは人間にとって一大事である。

 『しらせ様』は教えていたのだ。人類に強烈な警告を。

 地震も、地盤沈下も、崖崩れも……全てがちっぽけに思えるぐらいの大災厄の予兆を()()()()()のだ。

「だ、旦那さん! あ、あの、ちょ、町長さんに、お話、出来ませんか!?」

「え? 町長にですか? いや、まぁ、私も町の住人ですし、嫌われてもいないと思うので、会おうと思えば会えるかも知れませんが」

 どうして会いたいのか? 至極尤もな疑問を表情に浮かべる勇。その『当たり前』が酷く焦れったい。花中は大きく口を開け、

 声は発する前に止まった。

 大地が、大きく揺れ始めたがために。

「わ、わっ!? また地震!?」

「ひぇっ! しかもなんか大きい!」

「はいはい、落ち着いて。ほら、私に掴まりなさい」

 襲い掛かる大地の揺れに慄く加奈子と晴海を、ミリオンが優しく迎え入れる。花中も反射的にフィアに抱き付き、勇とミィはその場にしゃがみ込んで揺れに耐えようとした。

 しかし揺れは何時まで経っても収まらない。いや、それどころかどんどん強くなっていく。

 やがて旅館全体が軋む音を立て、隆起が起きているのか温泉の石床が割れ始めた。

「ちょ、なんか滅茶苦茶凄い事なってないこれぇ!?」

「あらあら。震度六弱はありそうねぇ……まだ強くなるわよ、この地震」

「ま、まだ強くなるの!?」

 恐怖に震える晴海の声。花中に至っては声も出ず、フィアにぎゅっと抱き付く事しか出来ない。

 ミリオンが予言したように、揺れは更に強くなる。旅館の一部が崩落したのか、メキメキという音が聞こえてきた。人外三匹は相変わらず平然と立っているが、勇はもう尻餅を撞き、ひーひー言いながらその場で這いつくばっている。もしもフィアが居なければ、貧弱な花中は今頃地面を転がっていたに違いない。

 ミリオンが語った時本当に震度六弱だったなら、今の揺れは震度六強だろうか。

 この時をピークにして、揺れは徐々に収まっていった。十数秒もすれば建物から音はしなくなり、平穏が戻る……身体は未だ揺れているような気がして、花中は立ち上がれなかったが。

「っ! 加奈子! 大丈夫か!?」

 その点、勇は強かった。

 すぐに立ち上がった彼は加奈子の下へと駆け寄り、無事を確かめようとする。加奈子は珍しく青くなった顔を、素直にこくりと頷かせた。

 勇は晴海と花中の無事も確かめ、フィア達にも同じ事を問う。三匹とも問題ないと答えた。花中達すら怪我をしていないのだ、フィア達が負傷などしている筈もない。

「わ、私は旅館内を見てきます。皆さんは此処に居てください――――早紀! 早紀、大丈夫かっ!」

 最後に花中達を露天風呂に留めさせると、妻の名を呼びながら旅館内に戻っていく。本当は一刻も早く妻の下へ向かいたかったのだろう。その動きは中年男性のものとは思えぬほど機敏だった。

 勇の姿が見えなくなってしばし経ってから、晴海と加奈子がため息を吐く。ようやく安全が戻ったのだと思ったのだろう。

 花中も、地震の危機は去ったと思う。ほんの数分早くこの地震が起きていたなら、間違いなく晴海達と共に安堵の息を吐いていた。だが、今は吐けない。

 花中は気付いたのだ。この地震もまたちっぽけな予兆に過ぎないのだと。

 『しらせ様』がそれを知らせてくれたのだから。

「フィアちゃん! 調べてほしい事が、あるの!」

「ん? 花中さんの頼みでしたら大体なんでもしますけどでも何を調べれば良いのです?」

「兎に角深い場所! 最低でも、さっきの源泉の、もっと地下深くまで!」

「はぁ。それぐらいでしたらお茶の子さいさいですので構いませんが」

 何故そんな場所を調べるのか、あまり分かっていないままフィアは湯船へとすたすた歩く。フィアならば『(お湯)』を能力で制御し、地下深くまで『手探り』で状況を把握してくれる筈だ。何処まで深く調べられるかは分からないが、かつてフィアは半径数十キロの海域を探知し、生命の有無を調べた事がある。昔よりも大きく成長したフィアならば、更に遠くまで感知出来ても不思議はない。

 だからフィアならきっと見付けられる筈だ……『しらせ様』が伝えてくれた予兆の正体を。

「はなちゃん、何か気付いた感じ?」

「え? さっきの地震、なんか変なところあったの?」

 花中の言動を見て、ミリオンはその意図を察した。ミィも同じく見ていた筈だが、地震そのものに『異常』を感じなかったのかキョトンとした様子である。

 しかしそれは花中が鋭く、ミィが鈍いという事を意味しない。むしろミィやフィアが気付かなくてもなんら不思議ではないのだ。何しろ地震そのものには、おかしなところなどない筈なのだから。

「花中さん花中さん。ちょっと大変そうですよ」

 ミィからの問いに答える前に、フィアが早歩きで湯船から花中の下へと戻ってきた。普段の彼女らしい、ちょっと気の抜けた早口だが……生半可な異変では『大事』と受け取らない彼女が大変と口走る。それだけで事態の深刻さを察するには十分だ。

「えっ、何々? なんかヤバそうな感じ?」

「大変って、何かあったの?」

 かれこれ二年以上友達をしている晴海と加奈子も、フィアの言葉の意味に気付いたのだろう。落ち着きを取り戻した二人の顔が、再び不安の色に染まる。

 されどフィアからすれば花中以外の顔色など興味の対象外。無視して花中の傍まで近寄ると、許可ももらわず花中をひょいっと抱き上げた。

「じゃあ出来るだけ遠くに逃げるとしますかね」

「「「「「待って」」」」」

 そして予想通り自分と花中だけで行動しようとしたので、フィア以外の全員に止められる。花中以外の言葉などどうせ聞いていないだろうが、花中にも止められたフィアはぷくりと頬を膨らませた。

「むぅ。花中さんはこの辺りがかなり危ないって分かってる癖に」

「分かってるから、止めてるの」

「というか、フィアでもヤバいって思うぐらいヤバい何かが起きてるの……?」

「いえ私は別に平気ですけど花中さんが巻き込まれて怪我とかしたら大変ですので。ガス系は知らぬ間に来そうですからねぇ」

「ガス?」

 フィアの言葉に一瞬眉を顰めたミリオン。しかし聡明な彼女は、その言葉の意味をすぐに理解した。

 フィアは花中の期待に応えたのだ。この町の地下で起きている、『しらせ様』が町に現れた原因を見付けるという形で。

「恐らく近々この町の近くにある火山が噴火します。下手すると日本中が灰塗れになりそうなぐらいの大噴火が」

 この町の地下に存在する、大量のマグマを――――




今回の敵:巨大噴火。
さて、ただの噴火ですかねぇ?

次回は明日投稿予定です。



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語らない予兆8

 チューブワーム。

 日本名では『ハオリムシ』と呼ばれるこの生物は、極めて独特な生態を有している。例えば硫化水素などの毒性物質を多量に含み、数百度という高温にもなる熱水噴出口に高密度で群生している点。そしてその身体には()()()()()()()()()()という特徴がある。

 胃も腸も持たない彼等がどうやって生きているのか? 仮説ではあるが、こう説明されている。体内にある種の菌類を共生させており、菌から有機物を提供してもらっているというもの。

 その菌の名は硫黄細菌。

 硫化水素などの硫黄化合物を酸化反応により分解し、それにより取り出したエネルギーを用いて有機物を合成する。彼等にとって硫化水素は正しく『ご飯』であり、どんどん食べて繁殖していく。ハオリムシはこの硫黄細菌を細胞内に棲まわせる事で、熱水噴出口から無尽蔵に放出される硫化水素を糧に出来るのだ。

 『しらせ様』も、恐らくは同様の生態を有する生物なのだろう。

 硫黄の臭いがする事から分かるように、温泉、ひいてはその源泉には微量ながら硫化水素が含まれている。『しらせ様』は体内に棲まわせた硫黄細菌の力で温泉に含まれる硫化水素を分解し、生きるための栄養素を合成しているのだろう。もしかすると彼等がせっせと分解してくれているお陰で、喜田湯船町の温泉は人間にとって安全な水準まで硫化水素濃度が低下しているのかも知れない。

 もしもこの推測通りの生態を有しているなら、『しらせ様』達にとって硫黄細菌は文字通り生命線だ。硫黄細菌を働かせるために好適な環境を本能的に求め、移動するだろう。

 そして源泉内に含まれる硫化水素を糧としているなら、硫黄細菌は高温環境を好む筈。一番硫化水素が豊富なのは地下から噴出した直後の、超高温の熱水なのだから。より硫化水素濃度の濃い、より高温の源泉に近付けるものこそが適応的だ。『しらせ様』は硫黄細菌を最大限働かせるため、どんどん高温に適応していったに違いない。

 そうして高温に慣れ親しんだ身体は、逆に低温環境にはどんどん弱くなっていった筈だ。存分に熱を受け取れる環境で発熱する能力は不要であるし、高熱が中まで伝わる皮膚は体温を守るのに向いていない。

 だから、『しらせ様』は何かが起きると変な場所に現れるのだ。

 例えば大地震の前震により、今まで利用していた熱水噴出口が塞がった。或いは地上で地盤沈下が起きる前に、源泉内の空洞で起きた岩盤崩落によって熱水噴出口が埋まった。または崖崩れが起きるほどの大雨が浸透してきて、源泉の温度が一時的に急低下した……こうした時に『しらせ様』は戸惑い、右往左往し、迷ってしまった一部の個体が地上へと出てくるのだろう。昔の人々はこの事象を長い年月の間に度々目の当たりにし、経験的に異変を察知したのだ。

 さて、ではなんらかの理由でマグマの流れが変わり、熱水噴出口が粗方止まってしまったら何が起きるだろう?

 きっと『しらせ様』達の間では大パニックが起きたに違いない。かつてない異変に、何十万、何百万という個体が大移動を始めた。けれども今度は何処にも良い場所がない……マグマの流れが変わり、何処にも熱水噴出口がないのだから。しばらくして硫化水素も食い尽くし、寒さと空腹で困り果てた筈だ。あっちへふらふら、こっちへふらふら。宛てのない旅を続けた事だろう。

 やがて『しらせ様』の一部が辿り着いたのが――――現代人達が暮らす地上へと繋がる温泉だった。

 それでも彼等が生きるには低温過ぎる環境だったが、自分達が調査していた時に起きた地震により、再びマグマの流れが変わった。結果激しく加熱された熱水が噴き出し、『しらせ様』はその熱水に惹かれて移動を開始した……というのが源泉内で起きた出来事の真相か。

 そして流れが変わったマグマは、今もこの町の地下にどんどん蓄積している。このままでは何処か、最悪町の中心で噴火が起きかねない。

「……と、わたしは、考えています」

 花中は自らの考えを話し終え、ふぅ、と小さくない息を吐いた。

 花中がこの話をしていたのは露天風呂の一角。先程起きた大地震により旅館は大きく傾いてしまい、かなり危険な状態のため、外で話した方が安全と判断した結果である。尤も露天風呂の石床も地震の影響で歪み、大きく波打っていた。

 そもそもにしてフィアやミリオン達が居るのだから、建物が崩れてきても恐ろしいものでもないのだが。

「ふぅーむ成程成程そういう事でしたか」

 フィアは特段考えた素振りもなく、花中の話を殆ど鵜呑みにしている。

 そんなフィアとは違いミリオンはちゃんと考えている様子だったが、反論の言葉などは出てこない。ミィも何も言わず、晴海や加奈子も黙ったまま。

「……一つ、確認させてくれますか」

 意見してきたのは、勇だけだった。

「あ、はい。えと、なんでしょうか……」

「『しらせ様』の生態については、間違いないのでしょうか?」

「硫黄細菌と、共生しているのは、間違いありません。ミリオンさんが、見付けて、くれました」

「マグマが町の地下に溜まっている事は?」

「フィアちゃんが、調べて、くれました」

「えっへん」

 花中の話に出たのを誇るように、フィアは胸を張る。勇は口許に手を当て、しばし考え込む。

「……残念ですが、それでは証明になりません」

 やがて出てきた答えは、花中の結論を全面的に否定するものだった。

「おじちゃん!? なんで信じてないの!?」

「早とちりするな。俺はこの目で見てきたから、ちゃんとこの話を信じている。この子の考えが多分正しくて、町がピンチなのもそうだと思う。だが……」

「人智を超える生物達が調べました、火山が噴火するのですぐに逃げましょう……なんて言って、誰が信用するかしらねぇ」

 勇の言葉の続きを、けらけらと笑うミリオンが代わりに答えた。

 そう。花中の推論には()()()()()

 最先端の科学技術ですら、地下の様子を探るのは難しい事だ。それを見た目ただの『小娘』二人が生身で調べましたと言って、どうして人々が信じるというのか。むしろ信じてしまうような人は、色んな意味で危ういと言わざるを得ない。

 花中達だけで証明するには、フィア達が人間ではないと教える必要があるだろう。しかしそれは非常に危険だ。怪物の出現により、人々は今まで以上に『脅威』を受け入れられなくなっている。フィア達が正体を明かせば、間違いなく町全体が敵に回るだろう。無論フィアが数百人程度の人間にやられるなどあり得ないが、助けるという観点では最悪である。それに町の人々を助けた後も花中達の生活は続く。妙な悪名が付き纏うようになっては色々不味い。

 研究者達に学術的な調査をしてもらい、噴火の危険を述べてもらうというのが一番確実な方法だが……

「フィアちゃん、マグマは……その、かなり、危ない感じだったんだよね」

「そうなんじゃないですか? どんどこ集まってるような感じでしたし。あれはもう何時噴き出してもおかしくないんじゃないですかねぇ」

 フィアの感知した状態が正しければ、最早一刻の猶予もない。暢気に科学者を呼んでいては手遅れになる。

 どうすべきなのか。どうしたら良いのか。どんなに考えても、花中には答えが出せない。

 何をしたらこの町の人達を救えるのか――――

「……お客様方。お逃げください」

 考え込む花中に『提案』してきたのは、勇だった。

 顔を上げた花中の目に、微笑む勇の顔が映る。その微笑みはとても優しく、そして、辛そうなものだった。

「この場所も、もしかしたら噴火に巻き込まれるかも知れません。危ないですから、一刻も早く逃げた方が良いです」

「そうですね。さっさと逃げましょうよ花中さん」

「で、でも、それをしたら、町の人は……!」

「……お客様達が居なければ、誰も噴火の事など知りようもありませんでした。『しらせ様』を目の当たりにしても、です。ならばここでお客様が逃げても、結果は何も変わりません。いえ、私と妻が逃げられる分、二人の命を助けたと言えます。素晴らしいご活躍じゃないですか」

 勇は宥めるように、悲しみを滲ませながらも淡々と語るばかり。花中は反射的に反論しようとして口を開くが……良い言葉が思い付かない。

 何故なら、勇の言葉に納得してしまったから。

 火山噴火は天災だ。これまでに何度も、人類誕生の何十億年も前から繰り返されている災禍である。人間はその力に為す術もなく逃げ惑い、そして次代こそ悲劇を免れるよう様々な言い伝えを残してきた。

 『しらせ様』は正にその言い伝えの一つ。

 けれども現代の人々はこれを無視した。自然への、先人への敬意を忘れ、自分達のプライドにしがみつき、豊かさを奪ったものを憎むようになったから。自分達が無力と知り、生命と先人の声に耳を傾ければ、誰もが助かったのに。

 そして花中(自分)達は、その災禍をなんとか出来ると思っていた。

 しかしこれこそ自惚れなのではないか? 助けられる命を助けたいというのは、人として当然の想いだろう。だけど全ての命を助けたいなんて、それこそ神様ぶってるようではないか。古来では神の力と恐れられた天災相手に、神様ぶるなど『不敬』だ。しかも自分だけでは何も出来なくて、友達の力を借りねば噴火の事など分からなかった癖に。

 勇とその妻である早紀を助けられる。本来噴火によって吹き飛ぶという、二人の『運命』を覆したのだ。人の身でありながらこれだけ出来れば、それは偉業なのかも知れない。そして何時までも逃げずにちんたらしていたら、勇と早紀、晴海や加奈子も噴火に巻き込まれる。

 決断の時は迫っていた。

「大桐さん……」

 晴海が、花中と目を合わせる。その目は悲しみに暮れていて、けれども突き付けられた現実を受け入れているように見えた。

 フィアも、ミリオンも、ミィも、花中に意見などしない。全員を助け出すなど端から無理だと考え、合理的な結論を既に導き出しているのだろう。だから意見などない訳だ。

「……フィアちゃん。ミリオンさん、ミィさん。出来るだけ、遠くに、此処に居るみんなを――――」

 『現実』を受け入れ、花中は友達に自分達の保護を求めた

「ちょおおおっと待ったぁ!」

 刹那、一人声を上げる者が現れる。

 底なしの元気さ。

 論理的な思考を感じさせない、衝動の強さ。

 それでいて人間らしい健気さ。

 こんな声を出せる者は、この場にただ一人。声を詰まらせた花中だけでなく、全員が一斉に彼女の方へと振り返る。

 ビシリッ! と花中に指を指している、小田加奈子の方へと。

「……小田、さん……?」

「大桐さんタンマ! 諦めるのはまだまだ早いぞぃ!」

「加奈子、お前何を言っているんだ? 早いも何も、みんなをどうやって避難させるつもりなんだ」

「無理矢理避難させるってんなら、拒否するわよ。そんな事したら面倒になるに決まってるんだから」

 加奈子を牽制するように、ミリオンが先んじて拒否を伝える。ところが加奈子は不敵な笑みを浮かべた。

「ふふふふふ。無理矢理はやってもらうけど、避難なんかじゃないよ。大体それじゃあ勇おじちゃんの旅館、吹っ飛んじゃうし」

「じゃあ、どうするつもりよ」

「避難じゃないってどゆこと?」

「さぁ?」

 ミリオンだけでなくミィとフィアも、加奈子が何かを企んでいると気付き顔を顰める。不安、なんてものはないだろうが、面倒臭さは感じているのだろう。

 しかしその顔は、すぐに呆気に取られたものへ変化する事となる。

「ズバリ、噴火そのものを()()()()()んだよ!」

 加奈子が告げる、あまりに荒唐無稽な『作戦』によって。

「……は? 噴火を、やっつける?」

「そう! ミリきち達ぐらい強いなら、火山の一つ二つどーとでも出来るでしょ!」

「いや、加奈子。お前は何を……」

「出来るでしょ! 出来るんならやってよ! そうしたら、みんな助かるんだから!」

 叔父の制止も無視し、加奈子はミリオンに縋り付く。

 ミリオンは顰め面と共に口を閉ざし、加奈子の問いに答えない。答えないという事が、ミリオンの答えを物語る。

 ――――()()()のだ。

 ぞくりと、花中は背筋が震えた。恐怖ではない。期待と確信で震えたのだ。確かにフィア達の出鱈目なパワーならば、人智を超えた力ならば……噴火という巨大な自然の力をも捻じ伏せられるかも知れない。

 でも、それは許される事なのか?

 フィア達は人間ではない。けれども噴火を止めようとするのは、人間の意思によるものだ。自分達が助かりたいという一身で、地球という母なる星の脈動に干渉して良いのか? 干渉した結果起きるかも知れない『何か』への責任を取れるのか?

「あ、あの、小田さん。火山の噴火は、地球規模の、活動です。止めたら、何が起きるか……」

「だから?」

 堪らず尋ねる花中だったが、加奈子はキョトンとしながら答える。

 その反応に、質問した花中の方が目を丸くして戸惑う。まるで地球のバランスが崩れる事など、知った事かと言わんばかりだったから。

「何が起きるかなんて分かんないよ、私は神様じゃないんだからさ。でも、それを言ったら人助けなんて出来ないじゃん。助けた子供が将来殺人鬼とかテロリストになるかも知れないでしょ?」

「そ、それ、は……そう、かもです、けど」

「地球がどうなるとか、変な事が起きるかもとか、心配になる気持ちは分かるけど……私は、難しい事はよく分かんないから。だから、助けられる人はとりあえず助けたいの。困った事が起きたら、そん時に考えれば良いんだよ!」

 加奈子からの意見に花中は後退り。パクパクと喘ぐ口から、言葉は出てこない。

 あまりにも真っ直ぐだから。

 その真っ直ぐさが花中には羨ましい。あれこれ考えてしまう前に、やりたい事をやろうと言えるその気持ちが。

「……あたしも、今回は加奈子に賛成」

 そして彼女の真っ直ぐさは、友人をも動かす。

 晴海が加奈子の傍に立ち、加奈子に賛成を示した。

「おっ。晴ちゃんも私側なんだ」

「今回はね。地震とか噴火を無理矢理押さえ付けるのは、確かに危険かもだけど……

もしもを考えるより、今をなんとかしなくちゃ前になんて進めないもの」

「立花さん……でも……」

「勿論大桐さんの心配は分かるわ。人間がなんかやろうとして失敗したーなんて、フィクションじゃお約束過ぎて飽きてくるような展開だし。それでもあたしは、やらないでする後悔より、やってからする後悔の方がマシだと思う」

「……立花さん……」

「おっ、晴ちゃんカッコいい事言うねぇ」

「茶化さないの。アンタだって偶には良い事言うじゃない」

「私ゃ毎回良い事言ってるゼ」

「調子に乗んな」

 ぺちんっ、と優しく加奈子の頭を叩く晴海。わざとらしく両手で頭を摩りながら加奈子はニコリと微笑み、晴海と共に笑い合う。

 花中は、小さなため息を吐く。とんでもない事を言い出した、加奈子や晴海に対してではない。自分に向けてのため息だ。

 そうだ、自分はもう少し正直に生きようと決めたではないか。全ての生命がそうであるように、自分に出来る事を精いっぱいやろうと考えていたのに……地球のバランスなんて『大袈裟』なものに気圧され、我を見失うとは情けない。

 噴火? 地下のマグマが噴き出してくる、ただそれだけの現象ではないか。熱い液体が出てくるという意味では温泉と変わらない。ちょっと温泉よりも熱くて、どろどろして、危ないだけ。

 地面の穴から水が出てくるので栓をした。

 マグマが噴き出そうとしているから押さえ付けよう。

 二つの間に()()()()()()()()()()()()。ある訳がないのだ。水よりマグマが神聖にして偉大、故に人が手を出したら罰が当たるなんて、それこそ人間的な思い違いである。

 今やれる事をやろう。その結果何かが起きたら、その時に考えよう。

 加奈子が語るように、そして人間以外の地球生命が、そうやって迫る危機を切り抜けているように。

「盛り上がってるところ悪いけど、やるのはそっちじゃなくてこっちなの忘れてない? 念のために言うけど、こっちはやる気なんてないわよ」

「流石にマグマをどうこうするのはしんどそうだもんね。人間は助けたいけど、ひーこら言いながらやる義理もないし……人間じゃないとバレて、ネットとかに画像上げられたら迷惑だし」

「逃げる方が楽ですからね。町とか他の人間とか別にどーでも良いじゃないですか」

 決意を固める花中だったが、ここで水を差してきたのは人外の友達三匹であった。

 彼女達は基本物臭だ。そして人間の命も虫の命も大差ない。飼われていたダンゴムシを助けるため、老朽化していてなんだか崩れそうな家屋に突入出来るか? ちょっと危険で、ちょっと面倒で、旨味がない……彼女達からすれば、花中達の話はそのぐらいの意味合いに聞こえたかも知れない。

 だからこそ、説得は容易だ。釣り合う旨味があれば良い。そして『旨味』とは、何もメリットだけではない。

「あんれぇ? もしかしてビビってるぅ?」

 例えば加奈子がやっているような煽りだとかもその一つ。

 ぴくりと、三匹の身体が震えた。身体全体だけでなく、口許も僅かに引き攣っている。

 とはいえミリオンは理知的であり、故に合理的。挑発されたという事を理解するだけの知能があり、そう簡単には乗ってこない。フィアは単純だが、彼女の物臭ぶりは筋金入りだ。こんな煽り文句一つではまず動かない。

 一番に動いたのは、意外と負けず嫌いなミィだった。

「……ビビっちゃいないし」

「じゃあなんとかしてみせてよ」

「いや、まぁ、出来るけど、でもほらなんというか……面倒で……」

「ほらほらやっぱりビビってるぅー」

「ビビっちゃいねぇし!」

 言われている側でなくとも割とイラッとくる加奈子の物言いに、ミィが()()()。メキメキと身体を鳴らしながら肥大化……初めてミィの『変身』を見た勇は腰を抜かしたが、ミィは構わず続け、人間と変わらぬ姿になる。何時もの黒髪スレンダーな少女だ。

 やる気満々闘志十分。『噴火阻止作戦』にミィが参加する事が決定的になった証だった。

「結局やるんですねあなたは……まぁ好きにすれば良いんじゃないですか? 私は面倒だからやりませんけど」

 意見を翻したミィに、フィアは淡々と自分の感想を述べる。自分にやる気はないという姿勢に変わりはない。当然だ。元より彼女は周りの意見など気にもしないタイプなのだから。

 そんなフィアだが、ミィが籠絡すれば仲間に引き入れるのは簡単である。

 フィアが花中(自分)の事が大好きなのを、花中は知っているのだ。

「うん、ミィさん、噴火を止めるなんて、カッコいいなぁ。わたし、大好きになっちゃいそう」

「ふふーん花中さんそんな薄汚い野良猫などに頼らずともこの私が噴火の一つ二つ簡単に止めてやりますよええそうですともこの私が!」

 軽く靡いてみせれば、今度はフィアが釣れた。いや、釣れたというより船に自ら跳び込んできたような勢いである。花中は加奈子と晴海とハイタッチし、フィアは仲良し三人組の姿をキョトンとしながら眺める。

「それで? 残りはアンタだけになったけど、どうする? ミリオン」

 そして残るミリオンに、晴海が話し掛ける。

 ミリオンは肩を竦め、呆れるような、諦めたような笑みを浮かべた。

「……多数決に従う理由もないのだけれど」

「お祭りとかの類と思ってやれば良いんじゃない?」

「気軽に言うわねぇ。うっかり失敗して大噴火しても良いのかしら?」

「良くはないけど、あたしらだけじゃなんも出来ないからね。やってもらっておいて失敗したら非難するとか、そーいう筋の通らない事はしたくない。むしろその責任は、煽ったあたし達の方にあるだろうし」

「立花ちゃんって、割りと生き辛そうな性格よねぇ……ま、良いわ。全員が参加しているゲームにクールを気取って不参加しても、なんの得にもならないし。それに暇潰しぐらいにはなりそうね」

 世間話の末、ミリオンも手伝う意思を表明した。

 三匹の友達が力を貸してくれる。

 花中としてはこれ以上ないほど頼もしい状況だ。いや、フィア達だけではない。加奈子と晴海の後押しがなければ、自分はきっと口を噤み、フィア達の意見に頷いてしまっただろう。

 勿論この決断が最善の結果をもたらすとは限らない。だけどどんな結果になろうとも、友達を煽った一員として受け入れよう……尤もこんな覚悟すら今はまだ皮算用である。

 ()()()()()()()()()()()()。今はこれだけで十分だ。

「……本当に、噴火を止められるのですか?」

 心の整理を終えたところで、ふと、勇が花中に声を掛けてくる。その声は淡々としていたが、無感情ではない。むしろ必死に抑えようとしているようにも感じられた。

 勇がどんな答えを期待しているかは、花中も薄々感じ取れる。

 だからといって嘘の希望は与えたくない。嘘だったと分かったなら、勇はより深く傷付くだろうから。

 だけど、もしかしたら、であるなら答えられる。

「上手くいくかは、分かりません。でも、何も出来なくは、ないと思います。フィアちゃん達は、そのぐらい、強いですから」

「……そう、ですか。なら、私から言える事は一つだけです」

 勇は一歩後ろに下がり、深々と頭を下げる。

「この町を、人を、よろしくお願いします」

 そしてその言葉を、花中達に伝えた。

「……はいっ」

 花中は力強く答え、晴海と加奈子も頷く。町の人間から頭を下げられ、頼まれたのだ。やる気がどんどん込み上がる。

 方針は決定した。後は行動を起こすのみ。そしてその行動は早ければ早いほど良いというものだ。何しろ町の地下には、今にも噴き出しそうなほどのマグマが集まっているのだから。

 とはいえ『敵』を知らねば最適解など出せる筈もない。まずは現状を正確に把握する必要がある。特にどれだけのパワーを有しているのか、相手の実力を把握するのは急務だ。

 幸いにしてそれは花中達にとって容易な事である。

「フィアちゃん。町の地下に集まってるマグマって、どれぐらいの量か、分かる?」

「んーそうですねーちょっと測り直してみますね」

 花中が尋ねると、フィアは足下から何本かの水触手を伸ばし、露天風呂の石造りの床を貫いて地面に突き立てる。

 恐らく伸ばした水触手は土壌を浸透し、地下深くのマグマを直に囲って計測しているに違いない。人で例えれば、これは手で直接対象を触ってサイズを推定するようなもの。なんとも原始的な方法であるが、地中に向けて放った音波やら電磁波やらの反射を掴んで推測するより、遙かに正確な測定だ。

 花中はフィアの答えを待つ。加奈子と晴海と勇も、ミリオンとミィも静かに待つ。数十秒ほどの沈黙が流れる。

 やがてフィアは水触手を地面から引き抜き、自分の『身体』へとしまう。次いでこくりと頷き、自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

「分かりましたよ花中さん! ざっと八千立方キロメートルといったところでしょうかね!」

 それからハッキリと調査結果を語る。

 ……聞かされたところで、単位が単位なので大半の者はいまいちピンと来ていない様子だったが。

「晴ちゃん、八千立方キロメートルって、どんぐらい?」

「えーっと、立方キロメートルでしょ。一立方メートルが一辺一メートルだから、キロで千倍して……一纏めにしたら一辺二十キロの正六面体に収まるぐらいのマグマって事?」

「なーんかいまいちよく分かんないなぁ。つーか思いの外少なくない? あたしはもっとこう、百キロぐらいのでかーい塊があるのかと思ったんだけど」

「町一つ吹き飛ばすには十分だと思いますが……まぁ、でもその程度の大きさというのは朗報かも知れません。最悪町から逃げればなんとかなりそうですし」

「ふふんこれが多いのか少ないのか知りませんがこの私の力ならばどうとでも出来るでしょう多分」

 町全体を飲み込むのに十分な量のマグマながら、しかしその程度と分かり気が抜ける三人と二匹。

 対して、花中とミリオンは違った。

 花中はすっかり顔を青くし、ガタガタと震えていた。ミリオンも表情を強張らせ、かなり神妙な面持ちをしている。どちらも余裕なんてものはなく、先程まで抱いていたある種の『気楽さ』は消えてしまっていた。

 フィア達なら、例え火山噴火であってもどうにか出来るかも知れない。花中は確かにそう思った。そう思ったが、それは普通の噴火が相手ならの話だ。もしも相手が普通でないのなら話は別である。

 八千立方キロメートルのマグマ。

 この()()()()全てが噴出する訳ではない。だが一割も噴き出せば、十分にその言葉の要綱を満たす。万が一にも大半が出てきたら……それこそとんでもない事だ。

 この町の地下に眠るマグマは、全てを滅ぼす災禍の名を冠するに値する。数多の種を根絶やしにし、世界をも変えうる悪夢の事象。生物史の中で幾度も起こり、無尽の命を奪い去った『神の鉄槌』。

「破局噴火クラス……!?」

 滅びの対象は町どころか人類ですらなく、地球生命全体に及んでいたのだと、花中はようやく理解したのだった。

 

 

 

 人類最大の水爆とされていたツァーリ・ボンバの最大威力は、TNT換算(要するに爆薬の量)にして百メガトンと言われている。

 つまりたった一発で、一億トンもの爆薬を炸裂させたのと同等の威力を有しているという事だ。凄まじい破壊力である。あまりに強過ぎて、最早実用的ではない。そして人類は秘密裏に水爆の研究を進め、百五十メガトン級もの水爆も開発していた。もしもこの百五十メガトン級の水爆を使用したなら、小国など丸ごと吹き飛んでしまうだろう。

 破局噴火と呼ばれる噴火は、この百五十メガトン級の水爆のざっと()()()()()のエネルギーを放出する。

 爆発的勢いで噴き出したマグマは巨大なカルデラを形成。溢れ出した火砕流や噴石、衝撃波により半径数十キロ圏内の生物を皆殺しにする。しかしこんなのは序の口だ。

 本命はその後成層圏まで立ち昇る、莫大な量の噴煙。

 この噴煙は長期間成層圏を漂う事で、太陽光を遮ってしまう。ただの曇り空、なんてものではない。西暦一九九一年に起きたピナトゥボ山の噴火は、破局噴火と呼ばれる水準の僅か百分の一程度しかないものだったが……この噴火の影響で地球の平均気温が〇・四度低下した。更にはオゾン層も破壊されたとされる。破局噴火はピナトゥボ山の噴火の約百倍の規模であるのだから、これらの環境変化もより大きなものとなるだろう。しかもこれが何年も、或いは何十年も続くのである。もしも破局噴火が起きれば過酷な氷河期が訪れる、という説もあるほどだ。

 そして噴煙に含まれる莫大な二酸化硫黄は、大気汚染や酸性雨の原因である。これにより広域の環境が化学的なダメージを受け、深刻な破壊が起きるのだ。噴煙には多量の二酸化炭素も含まれているため、大気の組成すら変化する可能性がある。

 寒冷化、自然破壊、大気汚染……他にも火山灰による生体の損傷や、巨大地震の誘発など、()()()ものも挙げれば切りがない。あらゆる事象を持って生命を刈り取ろうとする、巨大隕石にも匹敵する大災禍だ。

 そして今、喜田湯船町の地下にはその破局噴火に匹敵する量のマグマが溜まっている。

 もしも八千立方キロメートルものマグマが噴出すれば、怪物による攻撃を受ける前の……最も体力のあった人類文明すら一瞬で滅ぼされただろう。こんなものは地球という星の中核を流れるもののほんの一部に過ぎないが、その一部だけでも人が幾万年掛けて積み上げたものを滅ぼすには十分なのだ。

 星の力とは、それほどまでに凄まじい。

「ふん! 地球だろうがなんだろうがこの私に敵うと思わない事ですねぇ!」

 だというのにフィアは一歩も退かず、それどころかあたかも見せ付けるかのように足踏みした(地球を踏み付けた)。月明かりを浴びる金髪はキラキラと煌めき、麗しい容姿は不遜な笑みをも魅力に変える。

 そんなフィアの背後に立つ花中は、友達の揺るぎない自信を見て、呆れと、それ以上の頼もしさを感じた。晴海も花中と同じような顔をしていて、加奈子は期待するようにわくわくした笑顔を浮かべる。勇は、フィアの実力を知らないからか、或いは身を縮こまらせて怯える彼の妻・早苗を安心させるためか、真剣な面持ちを崩さなかった。

 現在花中が居る場所は町外れにある小さな山……その一角にある、麓を見下ろせる草むら。この場所の地下にはマグマがないため、『万一』の時比較的安全だろうという判断から、人間達の待機所として選ばれた。西の方を見れば、麓に広がる一見して穏やかな喜田湯船町が確認出来る。遠目からではあるが、『しらせ様』らしき存在は町の中には見られない。住人が全力で片付けたからか、それとも地下の熱水に惹かれて立ち去ったからか。いずれにせよ『しらせ様』の脅威は去り、町人は取り戻した平穏を満喫しているに違いない。

 『しらせ様』は、本当に危険を知らせに来たというのに。

 人間達は誰も気付かない。自分達の足下に、自分達を跡形もなく吹き飛ばしてしまう力が潜んでいる事に。今まで自分達はその力のほんの僅かな余韻を得て、経済を回していたにも拘わらず。

 それが、酷く情けないように感じて。

「……大桐さん、大丈夫? さっきから怖い顔してるわよ」

 晴海に言われるまで、花中は自分の顔が酷いものになっていると気付かなかった。ハッとした花中は、慌ててぷるぷると顔を横に振る。もにゅもにゅと頬を両手で解せば……少しはマシな顔になった筈。

「安心なさい。さかなちゃんだけじゃなくて、私も手伝うから」

「あたしもいるぞー」

 それでもまだ強張り気味だったのか、今度はミリオンと、少女の姿をしているミィが声を掛けてくる。

 励まされた花中は、しかし先程よりも少しだけ表情を硬くした。

「……なんとか、出来そうですか?」

「さぁ? 生憎噴火を、ましてや破局噴火を食い止めるなんて初めてだもの。相手は『地球』そのもの。何が起きるかさっぱりだわ」

「今まで色んな奴と戦ったり、戦ってるところを眺めたりしたけど、今度の敵は地球かぁ。なんだか実感湧かない感じ」

「あら、怖いの?」

「なんで怖がる必要があるのさ。地球なんて所詮岩の塊でしょ」

 気後れした素振りも見せないミィに、ミリオンはくすりと笑う。

 フィア達三匹全員、特段プレッシャーは感じていない様子である。

 破局噴火がどれほど恐ろしいものであるか、ミリオンは最初から知っていたし、フィアとミィにも花中から話してある。その上でこの態度なのは、己が力への信頼もあるだろうが……ある種の達観もあるのだろう。

 もしも失敗したなら、巨大噴火により地球環境が激変するかも知れない。

 だけど全力を尽くして失敗したのなら、どうやっても失敗した筈。だから失敗するかどうかなんて気にしない……そういう達観だ。彼女達は人間と違い、『もしも』なんて事は考えないのである。無論経験は次に活かすが。

 そんな潔さが、任す側としてはありがたい。関わらせたがために気負いする事となっていたら、花中としては申し訳なくて堪らないのだから。

「さてと、そろそろ時間もないし……始めましょうか」

「こっちは何時でもいけます」

「あたしもー」

 ミュータント三匹が行動開始の意図を言葉にし始める。それぞれが前傾姿勢を取り、

「ま、待って!」

 花中が、一度彼女達を呼び止める。

 フィアが真っ先に振り返り、次いでミリオンとミィが振り返った。三匹の友達と向き合った花中は、とことこと歩み寄り、ごくりと息を飲む。

「……頑張って!」

 そして一言、応援の言葉を伝えた。

 ただ、それだけ。

 この一言を伝えたくて、花中は三匹を呼び止めた。このためだけに、三匹の行動を阻んだ。

 だけど三匹は怒りもせず、にこりと微笑む。

「ふふん花中さんに応援されたなら一肌脱がねばなりませんね!」

「ま、やるだけやってはみましょ」

「任せとけーっ!」

 三匹が三匹、自分らしい反応で花中の声援に応える。

 次の瞬間彼女達の姿は消え、

 身体を突き抜ける衝撃波が、花中の身体を襲った。殴られたような強い痛み……彼女達の圧倒的パワーを物語るものだ。

 何時もなら、困ってしまうほど頼もしい力。

 だけど今日はそこまでの力強さを感じられない。不安と心配が拭いきれない。何故から地球という星の力ならば、この何百倍もの強さを簡単に生み出せるのだと花中は知っているのだ。

 そしてこの圧倒的な力の前では、人間に為す術などない。

「……みんな……せめて、無事に……」

 人間である花中達に出来るのは、祈る事だけだった。




試される大地(影響範囲地球全土)
破局噴火は本当にヤバいです。調べるとイエローストーンに浪漫を感じます(ぇ)

次回は明日投稿予定です。


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語らない予兆9

 木々を跳び越え、家々を駆け抜け、フィア達は町の奥へと進む。

 夜も更けてきたとはいえ、まだ時刻は午後八時をちょっと過ぎた程度でしかない。町には街灯や家の明かりが灯され、とても明るくなっている。人の声が家々の中から聞こえてきて、未だ大勢の人々が活動しているのが窺い知れた。いや、むしろこの時間にしては賑やかなぐらいかも知れない。

 恐らく『しらせ様』を片付けて、誰もが喜んでいるのだろう。怪しい生物を自分達の手で追い払った、これからもこの町は平和でいられる、所詮迷信は迷信に過ぎない……なんて思っているのだ。ほんの数時間前に起きた大地震も、ただの地震でしかないと思い込んでいるに違いない。或いはその大地震が終わった事で、もう何もかも無事終わったと考えているのか。

 本当の終わりが、足下から着実に迫っているというのに。

「よっこらしょいちー」

 なんて難しい事は露ほども考えず、気儘に突き進んでいたフィアはやがて道路を砕くほどの勢いで着地。その場に留まった。フィアに続き、ミリオンとミィもこの場に降り立つ。

 フィア達の周りにあるのは立派な温泉宿、その温泉宿の宿泊客が利用するであろうお土産屋が多数。お土産屋の大半は「閉店」を伝える紙が一枚貼ってあるため空き家だろうが、中には明かりの点いている建物も見られる。多少廃れているが、駅前よりは幾らか活気がある様子だ。

 まだまだこの場所には、たくさんの人々が暮らしているらしい。だから多分花中が此処に来たら、さぞ悲しい顔をするに違いないとフィアは考える。

「此処が一番マグマが多いってのも、中々皮肉というかなんというか」

 何故ならミリオンが独りごちた通り、この場所こそが最もマグマが蓄積している地帯なのだから。

「しかしなんだって町のど真ん中なんだろうねぇ。端なら、作戦失敗で噴火しても全滅は免れたかもなのに」

「必然でしょ。温泉街として発展したのなら、一番温泉が出る場所に最初の町が出来た筈。一番温泉が出るって事は、元々地熱……つまりマグマの活動が活発な地点よ。そこから同心円状に町が発展したんじゃないかしら」

「ふぅーん。そーいう事か」

「まぁ別に人間が何人死のうがどーでも良いんですけどね」

 ミリオンとミィの話を横で聞いていたフィアは、肩を竦めながら己の感想を漏らす。

 フィアにとっては人間が何百人消し飛ぼうが、生きたまま焼かれようが、なんの興味もない。花中以外の人間など、別にどうなろうと知った事ではないのだ。

 けれども、花中は悲しむだろう。花中は人間が死ぬのを酷く嫌がるから。

 フィアは花中の笑顔が好きだ。悲しむ顔も可愛いとは思うが、笑ってる顔の方がずっと可愛いと思う。()()()()()()()()を奪われて大人しくしているほど、フィアは『思いやり』なんて持ち合わせていない。

 巨大噴火がどれほどのものかはよく知らないが花中を悲しませるなんて忌々しい。そんなもの自分が叩き潰してやる。

 フィアが天災に立ち向かう理由など、こんなもので十分。

「花中さんが嫌がるのならこんな溶けた岩程度ちゃっちゃと片付けませんとねぇ!」

 だからフィアが己が左手を大地へと叩き付けるのに、なんらかの躊躇をするなどあり得ない事だった。

 フィアが叩き付けた手から、大量の水が浸透していく。いや、浸透というよりも『貫通』と呼ぶ方が正しい。猛烈な勢いで地中奥深く……地上から十数キロもの深度を目指す。

 現在の人間の科学力では、この深さまで到達する事は至難の業だ。地球が生み出す圧力と高温により、最新鋭のテクノロジーなど易々と破壊されるからである。しかしフィアが操る水からすれば大した環境ではない。易々と岩を貫き、奥へ奥へと進んでいく。

 やがて目指していた深さまで達した水から、フィアは非常に高い温度を感知した。

 凡そ千二百度。今のフィアならば水の『分子固定』により造作もなく耐えられるが、生半可な生物では一瞬で気化するであろう超高温だ。質感はねっとりとしており、非常にゆっくりとだが流れているのが感じられる。周りの岩を溶かしながら、少しずつ、だが着実に存在感を増大させていた。

 わざわざ花中に訊かずとも分かる。これがこの町の地下に潜み、今にも爆発しかねないマグマの集まりだ。

「さぁーてちょいちょいっと片付けますかねぇ」

 地上のフィアは己の力に意識を向け、地中に伸ばしている水を操作。あたかもクモの巣のように、四方八方へと伸ばしていく。その範囲は町全体に及ぶほどだ。

 次いで広げた水の末端が、地中深くを目指して進んでいく。

 フィアは町の地下にあるマグマを、水から作り出した網によって包み込もうとしているのだ。網は岩盤を貫き、高熱にも耐えながらフィアの意図したように進み……ものの数分で八千立方キロメートルのマグマを完全に包み込んでしまう。

 無論ただ包んだだけでマグマが消えてくれる事はない。『捕獲』した状態なので強引に移動させる事も可能だが、そうすると町の地下に巨大な空洞が出来てしまう。最悪地盤沈下が発生し、町全体が沈んでしまうだろう。それでは作戦の意味がない。

 一番良いのは、マグマを冷やして岩石に戻す事。そうしてほしいと花中にも言われている。

「そろそろ掴んだ? じゃあ私達の出番かしら」

「まっかせとけー」

 そしてミリオンとミィの役割についても、花中が考えている。

「あ。別にこの程度ならあなた方の力は不要です」

 が、フィアはそれを拒んだ。

 キョトンとした二匹の前で、フィアは己の能力で水分子を操作――――マグマを包んでいる水の『分子固定』を()()()()

 熱エネルギー(分子の運動量変化)を拒絶する力が解かれた瞬間、マグマの莫大な熱がフィアの操る水に伝わってくる。一瞬にして数百度もの高温に達した水は、されどフィアが水分子を制御する事で気化には至らない。

 液体を保ったままの水は凄まじい速さで流動。マグマから離れるように移動し、地上に居るフィアの下に戻ってきた。そして熱せられた水は、地面に突き立てた手からフィアの中へ流れ込む。

 数百度にも達する超高温水。フィアはこの水を背中側へと回し……背中から細長く伸びる水触手に用いて、チョウの翅のような輪郭の翼を形作った。

 広げられた翼の大きさはざっと三メートル。水触手が枝分かれして紋様を作り出しているそれは非常に表面積が広く、多くの外気に触れる事で急速に冷却され、一気に数十度程度まで落ち着く。加えて能力により強制的な水蒸気化を起こし、気化熱による冷却も行う。強引な気化冷却により水は凍結寸前の温度まで下がり、冷やされた水は再び地中へと潜ってマグマの下に向かう。そしてマグマにより加熱された水はまたしてもフィアの下へ……

 フィアは単身で、物体の冷却能力を有していた。無論気化熱による冷却を行うとその分水を失う事になるが、ここは温泉地。地下水が豊富なため、水は幾らでも補充出来た。

 自然ではあり得ない急速な冷却により、マグマの温度は急速に低下。どろどろのマグマが、外側から段々と固まり始めた事をフィアは水を介して感知する。とはいえ固まり始めたのは外側部分だ。内部はまだまだマグマの状態を保っている。

 本来外側だけが固まってしまったマグマを更に冷却するのは、固まってしまった部分が断熱材の役割を果たすため難しいだろう。しかしフィアの操る水ならば、岩を砕きながら浸透する事が可能だ。

 フィアの周りには放熱された莫大な熱により、蜃気楼が生じている。されどこの熱により大気が加熱され、上昇気流が発生。新鮮で冷たい空気が地上より常時供給されていく。大気が数百度に達し、地上が灼熱地獄と化す心配もない。

 時間にしてものの数分。

 フィアは、ゆっくりと地面から手を離した。背中から生やしていた翼を仕舞い、放熱も止める。流れ込んでいた風は徐々に止み、静寂が辺りを満たす。

 そしてフィアはくるりと舞うように、ミリオンとミィの方へと振り返る。

「はいこれでお終いです。私がぜーんぶ固めちゃいましたから」

 次いで何処までも不遜な、その不遜さに相応しい偉業を成し遂げたと、ミリオン達に告げた。

 フィアはたった一匹で、易々と『破局噴火』クラスのマグマを固めてしまったのだ。本来ならミリオンとミィの三匹でやるべきところを、多分自分だけで十分だと勝手に判断して。

 これにはミリオンとミィも目を見開き、しばし呆然と立ち尽くす。しばらくして歪んだ二匹の顔に浮かんだのは、不満の表情だった。

「ちょっと、何自分だけ遊んで満足してるのよ! 私達の出番は!?」

「ありませんよそんなの」

「なんだよそれぇ。みんなで協力しなきゃどーにもなんないと思ってたのにぃー」

「別にあなたのような雑魚が一匹二匹居たところでねぇ?」

 肩を竦めながら飄々と語るフィアに、出番を奪ってしまった事への罪悪感など微塵もない。むしろ煽るような笑みと言葉を向ける始末。

 花中は恐れていた。フィア達がどれほど強かろうと、破局噴火という地球環境そのものを粉砕する大災厄を止めるほどの力があるのかと。

 結果的にその心配は杞憂だったのだ。フィア達ミュータントの力は、自然災害すらも嘲笑う。星が渾身の力で放出した莫大なエネルギーさえも、ミュータントを滅ぼすには足りない。単身で星の力すら乗り越えてしまう……そんな『怪物』がミュータントなのだ。

「というかあなた方そんなに噴火の押さえ込みをやりたかったのですか?」

「別にやりたかないけど、ここまで来て手ぶらで帰るとか癪じゃない」

「そーそー。あたしなんか任せとけーって言っちゃったんだよ。なんもしませんでしたーなんて、カッコ悪いじゃん」

「なんともまぁ身勝手な方々ですねぇ」

「さかなちゃんにだけは言われたくないわ」

「そーだそーだ。どーせ花中に良い格好見せたいとか、そんな理由で勝手にやったんでしょ」

「いえただあなた達と協力するのが面倒だっただけなのですが」

 やいのやいのと、年頃の少女達のような話を交わすフィア達。噴火が止まった事への安堵よりも、自分の活躍する機会がない事への憤りが勝っていた。地球生命を尽く滅ぼすであろう破局噴火を止めるという行いさえも、彼女達にとってその程度の意味しかない。

 かくしてフィア達はひっそりと、彼女達自身大きな達成感もないまま、この星の平穏を守ったのであった。

 ――――このまま終われば、であるが。

「そんじゃあそろそろ花中さんの下へ帰りますかねぇ」

 フィアは二匹からブーイングを無視して、山で待つ花中の下へと向かおうとした

 直後、フィアは跳ねるような勢いで背後を振り返る。

 それはフィアにとって無意識の行動だった。本能からの命令に、身体が反射的に従った結果。そしてフィアの知性が『本能』の意図を察するのに、瞬き一つ分の時間も必要としない。振り向いた時にはもう、フィアは何もかも理解していた。

 故に、ぞわりとした悪寒に身を震わせる。

 ()()()()()()()()

 突如としてその気配は現れた。いや、感知出来る距離まで急速に接近してきたというべきか。気配は地面のすぐ下ではなく、かなり深い位置に……フィアが冷やしたマグマよりも更に地中奥深くに潜んでいるようだ。

 そう、地中奥深くに。

 フィアは()()の気配には敏感だ。反面水平方向や足下の気配もそれなりには感じ取れるが、頭上ほどではない。距離が離れれば簡単に分からなくなる。

 頭上以外で何十キロという距離があっても分かったのは……二年ぐらい前に出会った、『化け物ヘビ』ぐらいなものだ。

 即ち、

「(アレに匹敵する何かが地面の下を動いている――――!)」

 フィアが自分の感じたものを言葉で理解した、丁度その瞬間の事だった。

 大地が突如として揺れ始めたのは!

 激しく大地が上下する。路上駐車されていた車が浮かび上がり、アスファルトで舗装された道路が波打ちながら粉砕。建物が次々と浮かび上がり、落ちた衝撃で潰れていく。

 震度で表せば七近い、巨大地震だった。とはいえフィア達からすればこんなものは大した脅威ではない。建物の下敷きになろうが、千切れた電線が直撃しようが、なんのダメージにもならないのだから。

 しかし『アイツ』は無視出来ない。無視していられるような存在感ではない。

「んにゃっ!? これは――――」

「中々、面白い事になってきたじゃない」

 ミィもミリオンも気配を察知しているようだった。だがフィアからすればそんなのは当然の事。むしろ、これほど巨大な存在感を感じ取れない方がおかしいぐらいだ。

 『アイツ』がナニモノかは未ださっぱり分からないが、知らないままでいる事ほど危険なものはあるまい。

「さかなちゃん!」

「ふん! 言われる前にやっています!」

 ミリオンが言葉を発する前に、フィアは返答通り地面に手を付けていた。その手からは水が浸透し、大地を貫き地中深くへと浸透していく。マグマを冷ますために包み込んだあの時よりもずっと速く、遙かに慎重に。

 フィアが伸ばした水は固まったマグマを貫き、奥へ奥へと進んでいく。三十キロほどの位置で水はマグマの海に突っ込んだが、『分子固定』の力を用いれば千数百度程度の温度ではビクともしない。更に進んで五十キロほどの位置に達すると、再び頑丈な岩盤が行く手を遮る。これも容易く貫きもっと先へと進めば、七十キロ地点でまたマグマの海へと入った。

「ぬぅ……こんな場所にもマグマが出来ているとは……」

「何処まで進んだの?」

「ざっと七十キロほどでしょうか。感覚的にそろそろ『アイツ』が潜んでいる辺りだと思うのですが」

「そう……ちょっとさかなちゃん、今何キロって言った?」

 ミリオンが肩を掴み、また尋ねてくる。同じ事を言わされる面倒に顔を顰めるが、言わなければもっと面倒だと思ったフィアはすぐに答えた。

「七十キロ地点です。三度教えるつもりはありませんからね」

「それよりこの地震は何が原因なのさ。いい加減収まらないと、人間の家が全部倒れそうなんだけど」

「あーそれは七十キロ地点に広がってるマグマが原因かと。なんか踊るように跳ね回っています。これが地面をぼこぼこ持ち上げてますね」

「うへぇー、地震ってそんな感じに起きるんだ。始めて知ったよ」

 未だ収まらない地震にミィが疑問を抱き、フィアが理由を答える。ミィは特段違和感もなく納得していた。

 ――――もしも此処に花中が居たなら、間違いなく思考の大海原に旅立っていただろう。

 地下七十キロ地点にマグマは存在しない。確かに地下五十キロより深い場所は、岩石の融点を超える高温環境である。しかし高過ぎる圧力により、岩石は固体の状態を維持し続けるからだ。

 一般的に地震の原因はマグマの動きではない。硬い岩盤に圧力が加わり続け、やがて大規模な破壊が起きた時に広がる衝撃によるものだと考えられている。大体マグマが激しく上下するというのがそもそもおかしい。東西への流れなら地球の自転などで説明出来ても、一体何がその上下運動を起こしているのか。

 花中ならばフィアの言葉をこう考えただろう。そしてこの場には、花中と同じく科学的知識に富んだミュータントが居た。

 異常な場所にあるマグマ、とんでもメカニズムで起きる地震……そしてこの町の地下に現れた『存在』。

「さかなちゃん警戒して! マグマと地震はそいつが生み出しているものよ!」

 ミリオンだけがこの結論に達した時には、もう遅かった。

 フィアの伸ばした水が地下の出来事を感知する。

 ふわりと、なんらかの『力』が水に伝わってきた。よく分からない力で、衝撃波のように広がったが、物理的干渉は何一つ起こしていない。電気的なものでもなければ、化学的な反応でもない。そんな不思議な『力』だった。

 それを受けたフィアの水は、一瞬で気化した。

 最初フィアはなんらかの錯覚かと思った。分子固定を施している水ならば、数万~十数万度の高熱にも耐えるのだ。水爆の直撃さえも平然とやり過ごし、最早太陽すらこの身に纏う水を引き剥がせない。そんな水を易々と気化させるなどあり得ない事である。

 だが、あり得ない事が起きた。間違いなく地下深くに浸透させていた水は、跡形もなく消えたのだ。

 この事実を瞬時に受け入れられたのは、フィアが野生のケダモノだからである。ケダモノにプライドはない。自分の力が打ち破られた悔しさや驚きは、大きければ大きいほどすぐに収まり、本能が現状を正しく理解する。

 理解出来たがために、フィアは背筋が凍った。

 数万度という超高熱に耐える水さえも分解する『力』は、衝撃波のように広範囲に広がっている。ならばフィアの操る水だけに影響が及んだ訳ではあるまい。自慢の水が呆気なく気化したのに、ただの岩や金属があの不思議な『力』を受けて無事だと考えるのは、いくらフィアでも馬鹿げた楽観視だと思う。

 そして水は()()()()()ほどの位置まで消失している。

 ならば今、自分達の足下三キロ地点の岩盤は――――

 フィアの脳裏に『予感』が走った、刹那、彼方より轟音が響く。まるで獣が唸るかのような重低音と共に、震えるような震動が地面から伝わった。

「っ!? アレ見て!」

 真っ先に反応したのは、フィア達の中で最速を誇るミィ。フィアとミリオンもすぐに身体が動き、ミィと同じ方角を見遣る。

 視線を向けた先には、夜空すら染め上げるほど強く光る、真っ赤なものが噴き上がっていた。まるで間欠泉のような勢いでどんどん出ているが、よく観察すれば噴出している赤いものが水ほどさらさらしていないと分かる。べっとりした粘性があり、朦々と湯気を立ち昇らせるもの……

 マグマだ。

 町の中心から離れた位置で、大量のマグマが噴出したのである。フィアが予感していた通り、広範囲に広がった『力』は岩盤を気化・溶解させたらしい。気化した岩盤は一気に膨張し、液化した岩盤はその気化岩盤に押し上げられて地上までやってきた。そして地中から掛けられた圧力により比較的脆い部分が砕け、結果マグマが噴き上がった……といったところか。

 なんにせよ自然現象の噴火とは全く異なるメカニズムによって起きたものなのは、フィアでも理解している。しかし出来事自体は自然界の噴火と大差ない。

 広範囲に『力』が展開されたからには、相当量の岩石が溶解し、マグマと化している筈。それこそ今し方冷やして固めた八千立体キロメートルどころではない、途方もない量のマグマがあるだろう。

 もしもそれが一気に地上へと溢れ出したなら、どうなる?

「あらあら、不味いわね。噴出口が出来ちゃったみたい」

「……つまり、噴火しちゃったって事?」

「そゆ事。破局噴火の序章ね」

 ミリオンが語るように、『破局噴火』となるのだとフィアも思った。

 これからどうする?

 取れる選択肢は、二つに絞れる。噴火なんて無視してこの場からそそくさと逃げ出すか、或いは噴出口に駆け付けて起ころうとしている破局噴火を食い止めるか。

 逃げるのは圧倒的に楽だ。足下に潜むモノがどんな輩で、どんな目的があるかなんて知る由もないが、この町から逃げれば追っては来まい。地震は今も続き、何処からマグマが噴き出すか分からないものの、自分達の身体能力ならどうという事はない。難なく切り抜けられるだろう。

 しかしそうすると噴火は止められず、世界は大きく変わり果てる。

 花中が言っていた。破局噴火が起こると地球の寒冷化が始まり、世界は滅茶苦茶になってしまうと。正直フィアにはあまり想像も出来ていないのだが、世界がとても寒くなるのはしんどい。食事である虫だって少なくなるだろう。

 更に心優しい花中は、そんな世界を見たら泣いてしまうかも知れない。

 世界を終わらせる災害かどうかなんてどうでも良い事。けれども花中を泣かせる『奴』の好きにさせるなんて我慢ならない。そもそもこの町の下にマグマが出来ていたのも、足下に潜む『アイツ』の仕業じゃなかろうか。

 だとしたら『アイツ』は花中を泣かせようとしている張本人である。

 自分の好きなものを奪おうとする輩の好きにさせるほど、フィアは優しくなかった。

「ふん! 歯応えがなくて拍子抜けしていたところです! 今度は本気で遊ぶまでですよォッ!」

 フィアは揺れる大地を蹴り、高々と跳躍! マグマが噴出している地点へと向かう!

 跳んだフィアは町の中心から約三百メートルほど離れた位置に着地。顔を上げ、周囲の状況を把握する。

 着地地点は町中央にある繁華街より少し外れた、地元民が使っていそうな商店街。シャッターが目立つものの、これは単に夜だから閉まっているだけか。明かりの灯された家は疎らであるが、それなりに多く、たくさんの人々が今も住んでいるようだ。

 尤も、それは過去形にした方が良さそうだが。

 マグマが噴き出していたのは、そんな商店街の一角だった。溢れ出すマグマの勢いは留まる事を知らず、近くにあった家は飲まれ、離れた家も飛び散るマグマにより燃え上がっている。明かりの灯された家も激しく燃えていたが、悲鳴などは聞こえてこない……つまりはそういう事なのだろうとフィアは理解した。

 逃げ出す暇なんてないだろう。マグマはとんでもない高温を発している。フィアはマグマの噴出口から三十メートルは離れているが、打ち付けられるように感じる熱波は数百度を軽く超えていた。人間ならば一瞬で内臓までこんがりと焼けているに違いない。仮になんとか生きていて、家から逃げ出そうとしたところで無駄というものだ。マグマは既に道路を埋め尽くし、人間が通れる道を塞いでいるのだから。フィアだからこそマグマを踏み締められるのであり、人間では自棄を起こしたところで三歩と進めまい。何も出来ず、熱波を受け……家の奥で蒸し焼きになっている筈だ。

 この辺りの人間は全滅か。花中さんの話を聞いて昼間のうちにさっさと逃げていれば助かっただろうに。

 人が死んだ事実を、されどフィアは淡々と受け入れた。()()()()はどうでも良い。問題はこのマグマと共に大量のガスが噴き出し、環境を変えようとしている事だ。マグマの勢いは留まる事を知らない……否、むしろ噴出口はマグマが溢れる度に少しずつ削れ、穴がどんどん大きくなっている。どうやらマグマの余力はたっぷりあるようだ。放置していても止まるのは遙か未来の事だろう。

 人間からすれば終焉を予感させる光景だが、フィアからすればチャンスだ。マグマが激しく出ている噴出口という事は、この穴の先には大量のマグマが溜まっている筈。穴に水を突っ込めばマグマを一気に冷却出来、冷え固まったマグマが蓋の役割を果たして噴火を止められるに違いない。

 懸念があるとすれば、未だ足下の気配が移動していない事。何を企んでいるのか。或いは何も考えていないのか。強烈な存在感以外分からない以上、その意図を読み取る事は不可能だ。もしかすると噴火を止めようとした時点で、なんらかのアクションを起こすかも知れない。そのアクションを真っ正面から受け止めるのは、フィア自身難しいと感じる。相手の存在感を、力の強大さを感じ取れるからこそ、その感覚の確かさには『自信』があった。

 けれども相手を気にして動かなければ、それこそ『アイツ』の思惑に嵌まるようなものだ。動かない、なんて選択肢はない。

「ふんっ。なんだか分かりませんがこの私を嘗めるんじゃありませんよォ!」

 フィアはマグマの海を踏み越えながら前へと進み――――マグマが噴き出す穴に、躊躇いなく己の腕を突っ込んだ!

 腕を突っ込むほど肉薄した事で、右半身が噴出するマグマに包み込まれる。マグマの温度はざっと三千度以上。一部気化しているのかボコボコと泡のようなものを含み、気泡が弾けた際の衝撃がフィアに伝わる。先程まで地下に溜まっていた分のマグマとは比較にならない、途方もないパワーだ。油断すれば大量の水で固められているこの身でも浮かび上がり、吹っ飛ばされてしまうかも知れない。

 フィアは足から出した水を地面に浸透させ、自身の『身体』を固定。その後腕を文字通り伸ばしてマグマの内部へと進出する。腕から水を四方八方へと伸ばし、マグマの全貌を把握しようとした。

 マグマ溜まりが出来ているのは、やはり地下三キロ地点。奥へ行くほど高温になるのは、圧力により沸点が高まっている事が理由か。しかし沸点ギリギリの温度には変わりなく、何所もかしこもボコボコと泡立っている。そうした気体の力がマグマの噴出を後押ししているのかも知れない。

 無論この地点は、最初のマグマ冷却時には普通の岩盤であった。水を直接通したのだから間違いない。謎の『力』……恐らくは『アイツ』が放ったであろうものにより、溶解させられたのだ。

 何より凄まじいのは、これが半径数十キロにも渡って広がっているという事。

 深さ三キロ地点から、恐らく七十キロより更に下まで広がるマグマの海。水を操るがために、フィアにとって体積の計算は得意分野だ。この町の地下に形成された、新たなマグマの体積も簡単に算出出来る。

 今この地で蠢くマグマの総量は、推定三十万立体キロメートルだ。

 ……仮にこれが一気に噴出しようものなら、巨大隕石の衝突に匹敵するエネルギーをぶちまけたも同然である。破局噴火という言葉すら生温いほどの災禍が地球を呑み込み、数多の生命が滅びるだろう。フィアにはそこまでの事は分からないが、「流石にこれはヤバい」とは感じた。

 すぐにでも冷まさないと不味い。フィアは伸ばした腕の『分子固定』を解除し、マグマから熱を受け取る。加熱された熱はすぐに引っ込めて『身体』へと戻し、背中から生やした水触手の翼から放熱。冷却後に再び地中へと戻す。

 やる事は先程と全く同じだ。マグマ(液体)の熱を全て吸い尽くし、岩石(固体)へと変えてしまう。これだけで良い。

 良いのだが、今回は上手くいかない。

「(流石に……多過ぎる……!)」

 マグマの量が、あまりにも莫大だったからだ。

 冷まして岩石に戻しても、周りにある大量のマグマから熱が伝達し、すぐにマグマへと変化してしまう。一回目がコップのお湯に氷を落とすようなものだとすれば、今回はお風呂の湯船に氷を落とすようなものだ。莫大な熱を有するためいくらやっても冷めきらない。先程のマグマよりも遙かに高温なのも、冷め難い要因の一つである。

 最悪なのは、マグマ自体が『発熱』している点だ。気化した際に生じる泡や、浮上するマグマ同士が擦れ合う事で、摩擦熱が生じている。単位面積当たりの摩擦熱は微々たるものなのだが、三十万立体キロメートルという圧倒的巨大さにより無視出来ない量となっていた。良くて奪い取る熱ととんとん、下手をすると生み出される熱の方が多いかも知れない。

 このままではジリ貧だ。状況を変えるには、もっと多くの熱を吸い取り、放熱する必要がある。

「もう! フィアったら先走り過ぎ!」

「さかなちゃん、どんな感じかしら?」

 そのために必要な『モノ』が、今になってようやく近くにやってきた。

 フィアはマグマの噴出口に手を突っ込んだまま、首だけを動かして遅れてきたミィとミリオンを見遣る。次いで何かを告げる前に、背中から二本の水触手を伸ばした。

 一本の水触手はミリオンの腕に絡まり、もう一本はミィの身体に巻き付く。二匹とも避けようとすれば避けられるものだったが、僅かにキョトンとしながらも回避行動は取らない。

 何故ならこれは最初の打ち合わせで決めていた、本来の作戦なのだから。

「地下にマグマが溜まっています! 大体三十万立体キロメートルほどです!」

「三十万って……シベリア・トラップの十分の一が一気に溢れ出したら、下手しなくてもPT境界線以上の大量絶滅が起きるわね。猫も犬も滅びるわねこりゃ」

「シベリアなんちゃらとかぴーてぃーなんたらが何かは知らないけど、猫がヤバいならほっとけないね! ちゃっちゃとやるよ!」

「では遠慮なくっ!」

 ミィの掛け声を受け、ミリオンの返事を待たずにフィアは『策』を始めた。

 やる事は極めてシンプル。マグマより取り込んだ熱を水触手へと送り、その水触手の熱をミリオンとミィが受け取るだけ。

 熱を自在に操る力を持つミリオンにとって、マグマから回収された莫大な熱の制御などお茶の子さいさいというもの。大気など比にならない、早さと下げ幅の冷却が可能だ。二千度近くまで熱せられた水が、数秒と経たずに氷点下手前まで冷える。

 ミィもまた排熱能力に優れている。身体に溜まった熱を血液で運び、吐息と共に吐き出す。これを積極的に行えば身体を極低温まで下げる事も可能だ。外気温よりずっと低い身体は、ミリオンほどではないが冷却効果に優れる。これにより自身の身体に巻き付いた水触手を冷ますのだ。

 これこそが花中がミリオンと相談して編み出した、対マグマ用の策。フィアが回収した熱を、ミリオンとミィの力により排熱・冷却を行う。そうして効果的にマグマを冷やそうというのである。最初のちっぽけなマグマには用いる必要すらなかったが……これを考えておかねば、今頃何も出来ずに逃げるしかなかっただろう。

「ふっははははは! これならばなんの問題もありません! 一気に冷やしてやりますよ!」

 強力なサポートを得たフィアは高笑い。操る水をマグマ全域に、広く浸透させていく。

 今やフィアは冷却を意識する必要がない。水を伸ばし、熱を集める事だけに注力出来る。広範囲から莫大な熱を掻き集め、それらを全てミリオン達に押し付けていく。先程までの数倍以上の効率でマグマを冷却しており、最早摩擦による発熱などあってないようなもの。どんどんマグマの温度は低下していった。

 ついにマグマの集まりは二千度を下回り、部分的ではあるが岩石に戻り始める。まだまだこれだけでは冷却不足だが、それでも終わりが見えてきたのは確かだ。フィアはニヤリとほくそ笑む。

 ――――あたかも、それを見ていたかのように。

 不意に、地中の気配が動いた。

 ほんの小さな動きだった。精々もぞりと身を捩った程度。されどフィアは全身にぞくりとした冷たさが広がったのを感じる。反射的に防御態勢を取ろうとし、操る全ての水に『分子固定』を施した。

 今度は、不思議な『力』の波動は来なかった。

 代わりに、固まりかけていたマグマの温度が突如として上昇を始めている。二千度を超え、三千度……四千度をも超えた。フィアの水にはなんの影響もないのに、マグマだけに異様な温度上昇を起こしているのだ。

「なっ!? 何が――――」

 突然の高温化にフィアが驚愕した、直後、東の方角から爆音が響く。

 振り向けば、何百メートルも先で大地が弾け飛び、血のように赤いマグマが噴き出している光景が見えた。しかも一ヶ所だけではない。二ヶ所、三ヶ所……次々と大地が破裂し、マグマが噴出している。当然大地の上にある家々は吹き飛び、燃えながらバラバラに砕け散っていた。

 東での光景に目を奪われていると、今度は西、続けて南でも同じ事が起きる。町から続々とマグマが噴き出す。夜にも拘わらず、町がどんどん明るくなっていく。

 先の急激な加熱により大量の岩石が気化し、その圧力で一気に複数箇所でマグマが噴出したのか。状況を分析しながら、フィアは唇を噛み締める。

「小癪な手を……!」

 そしてフィアは足下にある気配を一瞬睨み付けた。

 どのような意図かは分からない。だが、足下の気配は間違いなく、なんらかの目的を持ってこちらの行動を『妨害』したとフィアは思った。でなければあのタイミングで、こちらが固めたマグマを()()()という行動を起こす筈がない。それが本能的な行動なのか、或いはなんらかの知性が下した決断なのかは流石に判別出来ないが、どちらにせよ大した違いではあるまい。

 本能ならば『アイツ』は一切の考えなく、ある程度固まった段階で再び岩石を加熱してマグマに変える。

 知性ならば『アイツ』はこちらが諦めるまで執拗に、目的を果たすまで岩石を加熱してマグマに変える。

 何も変わらないのだ。これから自分を遥かに上回る強大な存在と、終わりの見えない根比べをしなければならないという事実は。

「ミリオン! 野良猫! 少しばかり吸い上げる熱量を増やすので覚悟しなさい!」

「ええ、構わないわよ。どうやらあちらさん、正面からやり合うつもりみたいだし」

「うぐぅ。こっちの体力持つかなぁ……」

 ミリオンとミィも気配や周りの状況から、地下で何が起きたか察したのだろう。元より二匹の了承がなくとも真っ向勝負をするつもりだったフィアは、張り巡らせた水へ強く意識を傾ける。

 ただ広範囲に展開していただけの水を、フィアは更に細かく分けていく。さながら植物の根のように、産毛のような突起を生やしたのだ。これにより水の表面積は劇的に増加。より広い面積のマグマに触れ、より多くの熱を受け取れるようになる。

 そして受け取った熱は、全てミリオンとミィに押し付ける。ただ巻き付くだけでは足りない。こちらも細かく分岐し、ミリオンは両腕に、ミィは胴体から首下までぎっちりと巻き付いた。

 加えてミィには、巻き付いた皮膚表面にある毛細血管へと浸透。血液に直接高熱を明け渡す。

「ぶぎゃっ!? あぢゃっ!? あ、熱いんだけど!? フィア何してんの!?」

 さしものミィも血液に熱を直送され、本気で苦しそうな悲鳴を上げる。尤も、ミィでなければ一瞬で血液が一千数百度まで加熱され、気化した血液により爆散しているだろうが。

 フィアとしてもミィに死なれては困る。『冷却装置』が一つ欠けた状態で勝てるほど、『アイツ』が手緩い相手とは思えないのだから。

「あなたの血に直接熱を送り込んだだけです! それともっと気張りなさい! これからもっと熱を流し込むのですから!」

「ちょ!? アンタあたしを殺す気!?」

「死なれては困るから全力で踏ん張れと言っているのです!」

「死ぬから加減しろって言ってるんだけどぉ!?」

 ミィの抗議には耳を傾けず、フィアは宣言通り更に熱を吸い上げ、二匹に送り続ける。

 三十万立体キロメートルものマグマが発する熱量は膨大だ。人間の機械では、何万台冷却装置を用意しようが処理しきれない。ましてや生身の生物では、僅かに触れただけでプラズマ化するだろう。受け止め、排熱するなど出来っこない。

 されどミリオンはこの莫大な熱を受け止める。身体を形成している数千京もの『個体』が、熱そのものを運動エネルギーに変換。大気中の分子にこのエネルギーを分け与える事で『排熱』を行う。

 ミィもまた口より灼熱の吐息を吐き出し、フィアから与えられる高熱を処理していた。吐息の通り道には蜃気楼のような揺らめきが生じ、どれほどの熱が濃縮されているかを物語る。

 二匹が何をしているかなど、フィアには分からない。だが何かをしているのなら、コイツらなら多分大丈夫だという確信がある。だからなんの遠慮も躊躇もなく、フィアは集めた熱を送り続けた。

 人類科学では太刀打ち出来ない、最早自然現象ですらない巨大なパワーを、たった三匹の存在が受け止め、流していく。如何に異常な状態であろうとも、地下のマグマとて無限の存在ではない。奪われた熱の分だけ冷めていき、マグマは瞬く間に固まっていく。町のあちこちから噴き出していたマグマも収まり、地震も静まった。少しずつ、少しずつではあるが、平穏が戻ってくる……

 だが、地中の気配はやはりそれを許さない。

 マグマ全体が固まり始めた時を見計らうように、再び地下に潜む気配は身を揺れ動かす。ただそれだけで冷ましたマグマは一気に沸騰し、大地に空いた穴から止め処なく溢れ出た。ご丁寧に勢いを増した状態で。

 流動するマグマに突き上げられ、大地震が町を襲う。深度七という最大級の値すら生温いほどの揺れが襲い、町が、世界が崩落し始めた。

 フィアですら、バランスを崩し膝を折る。腕を突っ込んでいる穴からはこれまで以上に激しくマグマが噴き、フィアの全身に降り掛かった。二千度近くまで加熱されたマグマが、折角冷やした水分子をまた温めていく。

 このままでは押し返される。直感的に判断したフィアは、更に二本の水触手をミリオンに巻き付け、ミィの足にも一本の水触手を絡み付かせた。

「っ……これは流石に辛いわね。ちょっと、強めの『排熱』するわよっ」

 これまでの倍の熱量を受け取り、ミリオンは水触手の巻き付く腕を持ち上げた。両手の掌を向き合わせ、しかしながらくっつける事はなく、数センチほどの隙間を保つ。

 やがてその手と手の間に、眩い光が生み出された。

 熱を光へと変換しているのだ。最早運動エネルギーに換えて周りの分子に渡すだけでは間に合わず、もっと『非効率』な変換による消費に切り替えたのである。閃光は周囲を昼間よりも眩く照らし、最も光に近いミリオンの姿を掻き消してしまう。

「ぬっ、こん、ちく、しょおぉぉっ!」

 ミィも無策では耐えられないとばかりに咆哮を上げた、刹那、その身を大きく膨れ上がらせる。

 ボキボキと骨が折れるような音と共に、少女の姿が変貌していく。顔面の骨格が変形し、腕は何倍もの太さへと膨れ上がる。臀部より一本の尾が生え、振るった勢いだけで道路に深々と傷を入れた。

 その身が三メートルはあろうかという巨体へと変化した時、もうそこに少女どころか人の姿はない。ミィは本来の姿である、巨獣の姿へと戻ったのだ。

「すぅぅぅ……ゴオオオオオオオオオオオッ!」

 そして空を見上げるや、開いた口から青い火焔を吐き出した!

 全身の力を解放して全力で流動させた血液の熱は、排出先である肺の空気をプラズマ化させ、火焔という形に変化させたのだ。これにより体内の熱は一気に放出されていく。

 ミリオンとミィの『本気』。フィアが吸い上げた莫大な熱は二匹が全力で廃棄し、新たなマグマも冷め始める。地震が収まり、フィアが腕を突っ込んでいる穴のマグマも静まった。

 直後、地下の気配は四度目の動きを見せる。

 今度の気配は、震えるように()()()()()()()。動き続けるという事は……謎の力が放たれ続けるという事。

 マグマが瞬時に沸騰し、またしてもフィアの腕が入っている穴から溢れ出す。だが、此度はそれだけに留まらない。

 地下の気配が放つ力は止まる気配すらない。マグマは冷めて固まるどころかどんどん熱くなり、放射されている熱が伝わった岩石は続々と溶解していく。最早岩が残っているのは地表付近だけだ。

 即ちマグマが大地を掻き分けて昇ってくるのではなく、大地そのものがマグマと化している。

 此度町の至るところで噴き上がったマグマは、今までのように圧力で大地を吹き飛ばしたものではない。大地そのものが溶け、膨張し、弾け飛んだ結果だ。液体と化した地面に建物を支える力などなく、例外なく続々と沈んでいく。眩い紅蓮の輝きが、町そのものを包み込んでいった。

 フィア達の足場が無事なのは、フィア達が熱を吸い上げているからに他ならない。三匹が力を合わせても、フィアを中心にした十数メートルの地面を保つのが精いっぱいだった。

「……全く忌々しい」

 ぽつりと、フィアは呟く。

 この結果は分かっていた事だ。

 地下に潜む何かの存在感からして、『アイツ』は途方もない強さを持っている。様々な敵と戦ってきた事で大きく成長し、今の自分は二年前と比べ桁違いに強くなったが……一年半以上前に出会ったあの『ヘビ』には、未だ勝てるどころか、まともな傷を与えられるとも思えない。

 三匹力を合わせればなんとかなるかもと思ったが、少し『アイツ』がその気になればこの様だ。

 幸いにして直接襲われている訳ではない。高々数千度のマグマを歩いて渡るぐらい容易い事である。脱出は容易。諦めた、その瞬間に逃げ果せられる。

 だから――――フィアは動かない。

「どうせ負け試合なら最後ぐらい本気を出すとしましょうかァ!」

 まだ彼女は、このケンカを諦めていないのだから!

 フィアの全身から、無数の水触手が生える! その触手が伸びる先に居るのはミリオンやミィではない。遙か彼方、何十メートル、何百メートル先へと伸びていく。

 伸びた水触手はマグマの海に突き刺さり、あたかも巨大な塔のように町のあちこちにそびえ立つ。水触手からは翼のように平べったい膜が伸び、四方に面積を広げていく……理由は勿論効率的な放熱のため。

 町はマグマと、フィアが放射した熱による蜃気楼で満たされた。煌々と放たれる赤い輝きを揺らめく空気が乱反射させ、ぼんやりとした真紅が世界を塗り潰す。マグマより漂う高濃度硫化水素により、周辺のあらゆる生命が駆逐され、命の息吹が潰えていく。

 もう、そこに町は存在しない。あるのは紅蓮色の地獄だけ。

 町だった場所に何百もの塔と翼が広がり、マグマの海から吸い上げた熱を大気中に放射していく。マグマは固まる側から『アイツ』が放った力により溶け、一層熱くなっていくが……フィアは止まらない。

 ミリオンもミィも逃げ出さない。どちらも全力でマグマの熱を排出し、フィアの冷却を手助けする。二匹とも逃げようと思えば簡単に逃げられるのに。

 元より三匹は、この町を守ろうなんて思っていない。地球生命の存亡すら、ミィ以外は興味が薄い始末。破局噴火を食い止めようと思ったのは「そのぐらいならなんとかなるかも」というある種の楽観が理由である。

 だから、これは意地だ。

 折角楽しんでいたのに、ふらりとやってきて何もかも滅茶苦茶にしていって……

 そんな奴に好き勝手されるなんて、癪なのだから。

「ぐぎぎぎぎ……!」

 歯を食い縛り、唸り、フィアは渾身の力を込めて水を操り続ける。

 莫大な熱を相手に、フィア達は奮戦していた。相手は破局噴火の数十倍ものスケールのパワーを、易々と連続で繰り出すような相手。人間ならば文明の総力を結集したところで、最初の一発で跡形もなく消し飛んでいる。三匹は間違いなく、地上の生命にとって英雄的活躍をしていた。

 だが、英雄とて不滅ではない。

「ぐ、ゴオオオオオオオオッ! ゴ、ゴボッ、ゴオオオオッ!」

 ミィの口から吐き出される炎が、勢いを衰えさせる。熱を受け取った際の僅かなダメージが蓄積し、十分な熱循環が出来なくなってきたのだ。排熱行為である火焔は途切れ途切れになり、身体がどんどん熱くなる。

「……………」

 ミリオンは口も開かず、光を生み出し続ける。しかしその光はあまりにも強烈なものとなり、既に物理的エネルギーを伴うようになっていた。なんらかの指向性を持たせレーザーとして放てれば良いのだが、如何にミリオンとて万能ではない。手の内から全方位に放たれた光は、()()()()に立つミリオンを直撃。小さくとも確実な打撃をミリオンに与えた。

「ふぬううぁぁぁぁぁ……! この程度でえぇェェェェ……!」

 最も負担が大きいのはフィアだった。三十万立体キロメートルもの体積に水を張り巡らせた挙句、表面積を増やすため何百と生やした水触手を可能な限り複雑な形態へと変形させている。本能的な制御とはいえ、脊椎動物であるフィアの本能が宿る場所は脳だ。無意識の計算が頭の中を引っ掻き回し、頭痛となって襲い掛かる。そもそも操る水の量が莫大で、体力がみるみる削られていた。

 いくら挑もうと、マグマも地震も収まらない。いや、激しさを増していくばかり。最早足下の地面を残すだけで必死な有り様だ。破局噴火を食い止めるなんてやってる場合ではない。

 あと少し。もう少し。せめてムカつく『アイツ』を苛立たせるぐらいには。

 思えども、願えども、力の差は埋まらない。如何にマグマの海をも渡れる能力があるといっても、それは体力や精神力がある程度残っている状態での話だ。このまま精根尽き果て、そんな状態でマグマの海に沈む事となれば、フィア達とて生還出来ない。

 そろそろ退き際か――――フィアは地上の水触手から伸ばしていた翼を畳み始めた、丁度その時だった。

 不意に、地下深くの気配が消えたのである。

「……は?」

 思わず、フィアは呆けた声を漏らす。

 慌てて気配の方に意識を向ける。見失った……否、違う。気配が移動したのだ。より地下深く、地球の深部に向けて。

 そして気配は戻ってくる様子がない。正体不明の『力』も感じ取れない。

 つまり今、地上を焼き尽くそうとしているマグマ達は――――通常よりも遥かに高温である以外、()()()()()()だという事。

「……あなた達! 最後は一気にいきますよォ!」

「任せなさい!」

「どーんとこーい!」

 フィアの掛け声に、二匹は意気揚々と答えた。

 マグマや岩石を加熱する『力』さえなければどうという事とない。ミリオンとミィ、そして何百と伸ばした水触手は、毎秒莫大な熱を大気中に放出。マグマを急速に冷却していく。

 『力』による援護がなくなり、マグマが再加熱される事はもうない。地表のマグマはすぐに冷やされて固まった。四千度を超えていた地下数キロ地点のマグマも、ものの一分で元の岩石へと戻る。更に奥深くのマグマは、冷却作戦開始前からマグマだったものだが……ものはついでとばかりに冷却。分厚い岩盤に変えてやった。

 気配が去ってから、ほんの十分程度。

 もう、地震は起こらない。大地から噴き出すマグマもない。突き立てられた水触手も常温となり、放熱がない大気は透き通ったものに戻る。

 世界を幾度も終わらせられるであろう地中のエネルギーは、三匹の生物により完全に処理されたのだ。

 尤も、それを成し遂げた三匹は呆けたように立ち尽くしていたが。

「……終わりですよね?」

「戻ってくる感じはないわね」

「何か企んでるとか?」

「企まれるほど善戦した覚えはないのですが」

「なら、帰ったんでしょうね。飽きたか、諦めたか、目的を果たしたのかは知らないけど」

 三匹は言葉と意見を交わし、現状を理性的に理解する。

 だけど、こんなのは別になくても良かった。

 彼女達の本能は、既に戦いの終わりを感じ取り、すっかり弛んでいたのだから。

「うはぁー……やぁっと終わりましたかぁー」

「づ、つかれだぁ……」

「あら、情けないわねぇ。疲労如きでへばるなんて、これだから生命体は」

「疲労すらしないあなたがおかしいんですよこの無生物が」

「そーだそーだ」

 軽口を叩き、笑い合う三匹。

 これが勝利であるかは分からない。しかしもしも『アイツ』の好きにさせていたなら、今頃破局噴火により地上環境は激変していただろう。フィア達が食い止めた事で、噴火の勢いは最小限に抑えられ、放出されたガスも環境に影響を与えるほどのものにはならなかった。

 ならばきっと、『アイツ』の思惑通りにはならなかったのだろう。今はそれだけで十分だ。少なくともフィアはそう思っていた。

 或いは、()()()()よりも重大な問題があって、単に『アイツ』の事など頭の隅へと追いやっただけか。

「……さぁーてこれを花中さんにどう説明しますかねぇ。頑張ったのですから褒めてほしいのですけど」

 フィアは眉を顰めながら辺りを見渡す。あたかも大した問題ではないかのように。

 事実フィアにとっては気に留めるような問題ではない。けれども花中にとっては大問題だ。二年以上一緒に暮らしているのだから、いくらフィアでも分かる。

 かつて温泉街があった場所。けれどもそこにはもう、町と呼べるものは何もない。

 地平線の彼方まで、夜空のように黒い岩だけが続いていたのだから……




破局噴火を都市消失レベルまで抑えたので勝利です(震え声)
実際成果的には大勝利なんですけどね。

次回は10/4(金)投稿予定です。


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語らない予兆10

 燦々と降り注ぐ朝日の下、地平線の彼方まで黒い岩が続いている。

 その黒い岩が地表に出てきたマグマ……正確には溶岩と呼ぶのが正しいのだが……が冷え固まって出来た、玄武岩である事を花中は知っていた。玄武岩は地球上で最もよく見られる岩石と言われるほど有り触れており、噴火後の形成物としても一般的だ。とはいえ地表全てを覆い尽くすほどの量ともなれば、その光景は圧巻の一言に尽きる。草一本どころか苔すらない。生命の息吹が微塵も感じられないそれは、見方によってはある種の美しさも感じられるだろう。

 加えてこの地平線の先まで玄武岩に覆われた景色は、ほんの一晩で創られたもの。大自然の圧倒的パワーに、誰もが畏怖や尊敬の念を抱くに違いない。

 此処に昨日まで大勢の人々が住んでいたと知らなければ、であるが。

「……酷い」

 ぽつりと、花中は己が胸のうちを声に出す。

 話はフィア達から聞いていた。

 彼女達が嘘を吐くなんて思っていない。だけど町一つなくなってしまったなんて、どうして言葉だけで信じられるだろうか。昨日まで人の営みのあった場所が今では虫一匹居ない荒れ地だなんて、どうして受け入れられようものか。

 道路も、電柱も、建物も、そして生き物も、全てマグマの海に沈んだなんて――――

「花中さん顔色が悪いようですが大丈夫ですか? 気分に優れないのでしたら帰った方が良いと思うのですが」

 傍に立つフィアが、気遣いの言葉を掛けてくる。どうやら余程酷い顔をしていたらしい……花中は俯いた後どうにか口角を上げて笑おうとしたが、筋肉が引き攣って上手くいかない。

 無理に笑うのは止め、青ざめた顔をフィアに見せる。フィアは眉を顰め、困ったような表情を浮かべた。

「……やっぱり帰りませんか? こんなところを見ても何も変わらないと思うのですが」

「それは、そうだけど……わたしは、ちゃんと知りたい、から……」

「はぁ。そういうものですか。花中さんがやりたいのでしたら止めはしませんけど」

 花中の意思を全面的に汲みつつ、フィアは納得していないのか首を傾げる。

 フィアからすれば理解出来ないのも仕方ない。溶岩に沈み、最早何も残っていない大地を延々と眺めたところで、何が変わる訳でもないのだから。そんなのは花中も分かっている事だ。

 それでも、花中はこの景色を記憶に焼き付けようと思う。

 六百二十二人。

 この町に暮らしていた住人のうち現時点で()()()()となっている者の数だ。高齢者~中年が大多数を占めるが、花中ほどの年頃の女子や、生まれたばかりの赤子も含まれていると聞く。そして彼等が今どうなっているか、それを予想するのは極めて簡単な事だった。

 きっともう、誰も見付からない。

 だからせめて、此処に彼等が生きていたのだという記憶だけは、忘れないようにしたかった。

「でも立花さんも小田さんもやってない訳じゃないですか。本当にやる必要あるんですかね?」

「あはは……必要あるかって、言われると、困るかな。でも、二人とも、来たがっては、いたよ。多分、そろそろ来るんじゃないかな」

 フィアからの問いに答えながら、花中は友人達の事を思い起こす。

 晴海も加奈子も両親への連絡や安否確認のため、今は町外れに設置された『避難所』に向かっている。勇も親族への連絡や安否確認の手続きのために同行中。花中の分の確認もあるが、それは『変身』したミリオンが代わりにやってくれている。花中の気持ちを汲んでくれた上で、代わってくれたのだ。

 避難所は県が急いで設置した仮設のものであるため、人手やらマニュアルやら、色々足りないところが多いだろう。なので手続きに少し手間取るかも知れないが……だとしてもそう時間は掛かるまい。何しろ手続きを行う、人間そのものが殆ど居ないのだから。

 町を飲み干すマグマ。破滅的な災厄から逃れられた町人は、僅か僅か三十六人だった。しかもその多くは八十を超えた老人であり、前日には町から『一時的』に出ていたという。大地震で町から離れた者もいたが、僅か数人……一家族だけだ。

 生き延びた者達は口を揃える。「『しらせ様』の警告は本当だった」と。成程、確かにその通りかも知れない。出来れば『しらせ様』が現れた時点で、せめて大地震があった時にでも隣町に避難していれば、誰もがこのマグマの噴出から逃れられた筈だ。そのための時間は十分にあった。

 だが、多くの人々はそれを無視した。あまつさえ警告者を亡骸へと変え、無意味な『勝利』の余韻に酔う始末。誰もが浮かれ、酒を飲み……最期は為す術もなく、噴き出す大地の血液に飲まれた事だろう。

 これは人への戒めなのだろうか。自然や先人の警告を無視した人類への鉄槌なのか。

 ――――違う。

「……フィアちゃん。地面の下に、何か、居る?」

「さぁ? 気配は感じないので居ないかも知れませんが遠くに潜んでいるという可能性もありますね」

 問えば、フィアはそう答える。

 破局噴火を裏で引き起こした『生物』がいる。それもマグマの下、遙か数十キロもの地下深くに。

 フィア達からこれを聞かされた時、なんの冗談かと思った。破局噴火という大災厄を自在に起こせる生物なんて、存在する訳がない。大量絶滅さえも引き起こす災いを、地球という星の力をも超える地球生命なんている筈がない……理性は反射的にそう考え、フィア達の言葉を否定した。

 だが、フィアは単身で八千立方キロメートルという、最大級の破局噴火で溢れ出すマグマを単身で堰き止めてみせた。

 ならばどうして、三十万立方キロメートルのマグマを生み出す生命体が存在し得ないと言えるのか。言える筈がないのだ。花中はもう幾度となく、生命がどれほど途方もなく強大であるかを見ているのだから。

 存在しないなんて事はあり得ない。だから考えるべきはこれからについて。

 地中にはまだ、この災禍を起こした生命体が潜んでいる筈なのだから。

「(といっても、探す事すら出来ない訳だけど)」

 如何せん、場所が深過ぎる。海底ならばフィアの能力で簡単に探せるだろうが、地下奥深くとなれば時間も手間も掛かる。探索は不可能だ。

 勿論直接地底に乗り込めば、探索可能だろう。フィアやミリオンの能力ならばそれを成し遂げる事は難しくあるまい。しかし相手にとって地底は、恐らく最も得意とするフィールドである。ただでさえ途方もない力を持つ存在なのに、環境まで有利では本当に勝ち目がない。のこのこと地底に乗り込むのは自殺行為以外の何ものでもなかった。

 手を出せる相手ではない。それは花中も理解しているところである。

 だけど、だから仕方ないと諦めるのが正しいとも思えない。いや、何もせずにいる事がどれだけ愚かしいか。此度の『元凶』かどのような理由で破局噴火を引き起こそうとしたのか分からぬ以上、この町を襲った惨事はもう二度と起こらないなんて言える訳がないのだ。

 自分はこの町で『何』が起きたのかを知っている。その『何』かに対抗する事が出来る、かも知れない友達がいる。恐らくこの星で『何』かに立ち向かえる人間は自分だけ。

 なら、自分は――――

「花中さんなんだか難しい顔をしていますけどまた変に責任とか感じていませんか?」

 考えを巡らせていた時、フィアが声を掛けてきた。ハッとして親友の顔を見れば、ムスッと唇を尖らせた、なんとも愛らしい不満顔を見せている。

 地球の命運すらも握る超生命体の少女らしい表情に、花中は思わず笑みが零れた。「笑って誤魔化さないでください」とフィアに窘められてしまう。

「あはは、ごめんね。誤魔化した訳じゃ、ないんだよ。今回は、責任とかは、感じていないから」

「本当ですかぁ?」

 あまり信用していないフィアの眼差しに、本当だよ~などと柔らかな声で花中は答える。

 本当に、責任は感じていない。

 何もかも自分で背負おうとするのは止めたのだ。そもそもフィア達が活躍してくれなければ、破局噴火は止められず、地球環境は激変していたであろう。火山の冬が訪れ、大量絶滅が起きた筈だ。人間も、今日明日ではないにしろ何億何十億と死んだに違いない。

 フィア達が食い止めてくれたからこそ、被害は『この程度』で済んだ。花中は止め方を相談して決めただけ。なのにもっと上手くやればだの、自分の案が良ければだの……責任を感じる事自体が不遜である。

 ただ、()()()()()()()とは思う。

「おーい、はなちゃーん」

「んぁ? ミリオンの奴戻ってきましたか」

 遠くから花中を呼ぶ、ミリオンの声が聞こえてきた。『避難所』での書類作業などが終わったのか、はたまたどうしても花中本人が行かねばならない状況なのか。話を聞く必要がある。

 二人きりの時間が終わり、フィアはつまらなそうに口をへの字に曲げた。独占欲の強い友達の手をぎゅっと握り締め、花中はにっこりと微笑む。

「ん、そうだね。わたし達も、あっちに行こ」

「花中さんがそう言うのでしたら」

 出来れば自分とだけ一緒に居てほしい気持ちを隠さないフィアを、花中は握り締めた手を引いて先に進もうと促す。留まろうと思えば簡単に留まれるフィアは、なんの抵抗もなく花中と共に歩いた。

 責任は感じない。けれどもそれは後悔しないという意味ではない。

 今回町の人々が犠牲になったのは、地下に破局噴火を起こせる生物がいるなど考えもしなかった事が原因だ。知っていたら、迂闊な手出しが相手の行動を誘うと考え付いた筈だから。ちゃんと状況を把握出来ていれば、もっと良い方法が思い付いて、たくさんの人々を助け出せたかも知れない。

 人が死ぬのは嫌だ。嫌だから、次こそは止めたい――――花中がこの場を訪れ、何があったのかを知ろうとしたのはそのため。そこに責任感なんてこれっぽっちもありはしない。

 これは、花中の『やりたい事』なのだから。

「(そのためにも、もっと、地下とか地震について、勉強しないとね……!)」

 ひっそりと、だけど確かな覚悟を胸に刻み込む。

 あたかも、そんな花中の気持ちに応えるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小さな地震が、数秒だけ起きた。

 

 

 



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幕間十八ノ十九

 深い、深い、地の奥底。

 あらゆる息吹を止める圧力と、あらゆる外皮を溶かし尽くす熱に満ちた世界。命の存在を許さないおぞましい空間を、『彼女』は悠々と泳いでいた。

 ――――思い描いていたのとは違う結果だった。

 されどこの程度であれば問題ない。『アレ』らがどのような存在であるかについても推測は出来たし、あの程度の力ならばどうとでも出来る。むしろこうして事前に未知を知る事こそが、此度の行動の目的だ。だからこの結果には満足だ。

 計画を阻むものがないのであれば、早速始めよう。そのための準備にさして時間は掛からない。仲間達への連絡……なんてしなくても連中は勝手についてくるだろうし、話したところで自分の言葉など誰も理解しない。言葉が理解出来るのなんて、精々自分の子供達のごく一部ぐらいだ。だから来なかった者については我が子含めて全て無視する事にしよう。少々()()()()が仕方ない。

 彼女は目まぐるしく思考を巡らせながら、地の奥底を泳ぎ続ける。頭の中を駆け巡る可能性はどれも自分にとって望むものであり、彼女は思わずほくそ笑む。

 そしてつい、笑った。

 笑い声は地の底の至る所へと広がっていく。するとその声の通り道にある熱い液体がぶるりと震えるや、瞬時に気体へと変化した。大量の気体は周りの圧力に負けて押し潰され、されどあまりの高圧故本来よりも僅かに大きく潰れる。圧力と拮抗する水準を超えた密度は反発力を生み、弾けるように圧縮された気体を膨らませた。

 それが連続的に、至る箇所で、何度も何度も起きる。小さな破裂達はやがて合わさり、巨大で破滅的なエネルギーを伴った衝撃波へと変貌。衝撃波は全方位に拡散しようとするが、圧力が加わり硬くなっている下層よりも、柔らかい上層の方が遥かに流れやすい。衝撃波は重力に逆らうかの如く浮上していく。

 やがてその衝撃波はこの星の表層に到達し、激しく揺さぶる。

 地上の『知的生命体』は、これを地震と呼んでいる。今のはほんのちょっと笑いが漏れただけだから、きっとあまり大きな地震にはなっていないだろう……彼女はそれを知っていた。例えこの世に生を受けてから一度も見た事がなくとも、地上がどんな世界であるかを知っているのだ。

 だから彼女は地上へと向かう。

 此処よりももっと高い世界へ、仲間と子供達と共に向かう。否、向かわねばならない。そしてこの身に宿った力を用い、地上を『楽園』へと変えるのだ。

 でなければ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、みんな、みんな、喰われてしまうだろうから――――

 

 

 

 

 

 

 

 魔物が目覚める。

 

 この星で最も恐ろしい魔物が、

 

 地上の全てを焼き尽くすためにやってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 己の命を守るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十九章 地獄の魔物

 

 

 

 

 




さぁ、強敵出現です。
次章は地球最大の決戦となります。

次回は明日投稿予定です。


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第十九章 地獄の魔物
地獄の魔物1


 十月に入り、日本列島は秋の様相を見せた。

 九月まで続いていた焼き付くような熱さは落ち着き、今では人間にとって過ごしやすい気温になっている。雨はしとしとと優しく降り、大気を程々に湿らせた。風はやや冷たいが、動いて温まった身体にはむしろ丁度良い。気候的には一部地域を除き、例年通りだと専門家は言う。

 生き物達も『例年通り』の秋の訪れを感じ、様々な動きを見せ始めている。木々は赤く色付き、紅葉は今がピークだ。この『時勢』に景色を楽しむ余裕のある人間は少数だが、そもそも木々達は人間のために紅くなるのではない。訪れる冬に備え、己の姿を少しずつ変えていた。

 虫達も冬越しに適した形態へと移り、順次姿を眩ませていく。鳥達はそんな虫を慌ただしく捕まえ、獣達も果実や生き物を食べて脂肪を蓄える。厳しい冬の到来に備え、何時もの秋と同じように動くのだ。

 しかし何もかもが例年と同じという訳ではない。

 例えば怪物という存在の出没。世界各地に現れている恐るべき生命体は、今では日本列島でもそれなりの種類が確認されている。多くの町が()()し、統治能力を失った県も現れている有り様だ。けれども怪物の力は強大で、軍事攻撃は殆ど成果を上げていない。むしろ攻撃により繁殖が活発化し、個体数が増えた怪物もいるという。

 そして怪物に蹂躙されたが最後、その土地には怪物、更には怪物と共に入り込んだ植物や動物が定着。文明は瞬く間に解体され、野生生物の支配圏へと戻ってしまう。当然怪物達から土地を奪還など無理な話であり、崩壊した地域の復興は目処すら立っていないのが実情だ。

 幸いにして東京など首都圏は未だ大きな被害を受けていないものの、何時までも平穏であるという保障はない。ただ一匹の怪物が入り込むだけで、国家の中枢は沈黙してしまうだろう。仮に怪物の攻撃を受けずとも地方が壊滅していけば、地方から供給されていた食糧やエネルギーが途絶え、やはり首都は機能停止する。

 怪物によって直に破壊されるか、インフラ途絶によりゆっくり死に至るか……いずれにせよ、首都が壊滅するのは時間の問題だ。国家機能の停止も同様である。人類は確実に追い込まれていた。

 そしてもう一つ、例年と明らかに異なるものは、

「あら。また地震」

 立花晴海がぽつりと呟いた、地震である。

 午前九時半を迎えた帆風高校の三年A組教室。一限目の授業を行っていた最中、その地震は起きた。

 揺れは身体にしっかりと感じられる強さで、窓や学校備品がカタカタと音を鳴らしている。机も、押さえ付けねば勝手に動きズレてしまう。ガラス窓付近からピキピキと、壁からはミシミシという嫌な音が鳴り、不安を煽ってくる。

 晴海と同じ教室で勉強していた花中にも、地震の揺れはしかと感じられた。何百もの死人が出るような大地震ではないが、弱いとは言い難い。体感という雑な測定ではあるが、凡そ震度四程度だろうか。一応身の安全を図った方が良さそうな規模であり、花中はおろおろしながら机の下に隠れる。

 尤も、そうした行動を取ったのは花中だけ。

 他のクラスメート達、そして教壇に立つ教師は、ケロッとしていた。まるでこんな地震、大したものではないかのように。授業の進行こそ止まっているが、誰もが身を守ろうという動きすら見せない。

 地震は十数秒ほど続いたが、机の下に隠れたのは花中だけだった。

「……はい、じゃあこの式の説明だが、此処はだなー」

 教壇に立つ細身の男性教師は、何事もなかったかのように授業を再開。花中はもたもたと机の下から出て、椅子に座り直し、一人だけ隠れてしまった事に赤面する。

「みんな、すっかり慣れちゃったわね」

 恥ずかしがる花中に、隣の席に座っている晴海がひそひそと話し掛けてきた。二学期になってすぐ行われた席替えにより花中と隣同士になった彼女は、地震に怯えて逃げ隠れていた花中を笑ったりしない。淡々と、ただ事実を確認するのみ。

 授業中のお喋りは基本NG。しかし友達から話し掛けられて無視なんて出来ないし、何より晴海の『優しさ』が嬉しい。花中は無言のままこくりと頷いた。

 震度四近い地震。

 数ヶ月前までなら、きっと誰もがそれなりに恐れただろう。花中のように身を隠す者は少数派かも知れないが、ゼロではあるまい。教師だって、地震について一言あったり、或いは生徒を気遣うような言葉を投げ掛けてきた筈だ。

 だが、今は違う。みんな()()()()()()()

 ここ最近、地震が相次いでいるのだ。花中の記憶が確かなら三ヶ月ほど前から、日に日に頻度と強さが増えている。今や先程の震度四程度の揺れは日常茶飯事であり、震度五程度のものも偶には起きていた。一日に十五回も体感出来る規模の地震が起きた事だってある。先月は震度六弱ほどの地震が九州地方で起き、家屋の一部倒壊など大きな被害をもたらしたらしい。

 しかし人間というのは、強いのか鈍感なのか、何事にも慣れてしまうもの。数ヶ月前なら慌てふためく震度五弱の地震でも、今では冷静に避難を行える。先月九州で起きた震度六弱の地震でも、市民が冷静かつ的確に行動した結果死者は出ていないらしい。今の地震でもクラスメート達はパニックにならず、最後まで落ち着いていたため怪我人は出ていなかった。

 それは良い事なのだが……どうにも皆、地震そのものの異常性を失念しているようだと花中は感じる。

 連日震度四ほどの地震が続くなど、どう考えてもおかしい。けれども専門家や国が調査を進めているが、未だ何が原因なのかさっぱり分からないのが実情だ。しかもこの奇怪な地震、日本だけでなく世界中で発生している。被害の規模は日本と大差ないのだが、地震列島の呼び名があるほど地震が身近な日本と違い、世界の地震事情は国それぞれ。耐震性をあまり必要としない国や地域では、かなり大きな被害も出ていると聞く。

 世界の終わり、なんていうのは過言だとしても、明らかに人智を超えた事象だ。能天気にしている場合ではない。なのに人々はこの異変に慣れ、考えないようにしている。

 ……いや、人智を超えているからこそ、だろうか。誰もが想像出来ない、或いは想像もしたくなくて、無意識に考える事を避けているのかも知れない。

 頻発する地震の裏に『何か』が隠れている。もしそうだとしたら、その『何か』にどうして人間が勝てるのか。人間がどれだけ技術と資本を投じても、狭い範囲を僅かに揺らすのが限度。世界中という広範囲に、大きな地震を起こすなど出来やしない。しかも地中奥深くの出来事故、『何か』があるのかを調べる事も不可能だ。結果推論の域を出ず、曖昧な恐怖だけが残る。

 分からない事は怖い。具体性のない、漫然とした恐怖は生きる上で邪魔なだけだ。だから考えない……成程、感情的なようで合理的な生理作用だと花中は納得する。きっと花中もクラスメートと同じ立場なら、同じように考えただろう。

 だけど、花中は他のクラスメート達とは違った。

「フィア達にも、まだ分からない感じ?」

「……はい」

「そっか。まぁ、地下深くじゃ仕方ないわよね」

 花中と『同じ』立場である晴海は、納得した事を小声で漏らしながら頷く。

 花中達は知っている。この地震の原因を。

 地中深くに潜む『何か』。詳細不明のその存在を、花中達はそう呼んでいる。

 恐らくは生命体であり、なんらかの特殊な能力を有する。そして破局噴火を易々と引き起こせるほどのパワーを持つ……六月の破局噴火危機の際、花中達はそんな『何か』の存在を知った。

 その気になれば人類どころか地上生態系を滅茶苦茶にし、何もかも終わらせてしまう存在。あまりの出鱈目ぶりに、現実逃避すら出来ない。世界を自分の意のままに出来るという意味では、正しく神が如く存在と言えるだろう。

 世界中で頻発している地震も、『何か』が行動を起こしている証と思われる。地震を起こす事が目的なのか、地震により何かを起こそうとしているのか、何かをしている結果が地震なのか。それすら分からないが、兎に角『何か』が何かをしているのは確かだ。曖昧過ぎる表現だがこれだけは間違いない。

 だからフィア達に調べてもらっているのだが……相手が潜んでいると思われる場所は、推定で地下七十キロ以上の大深度。地上から気配を探るにしても限度があり、ましてや世界中となれば範囲が広過ぎる。地中への侵入はフィア達の力ならば可能だが、相手の実力を思えば不用意な接近、ましてや相手の陣地への侵入は危険だ。遠くから様子を窺うしかない。

 結局、花中達も知識としてはクラスメート達と大差ないのだ。勝っているのは精々、『何か』が起きているという確信だけである。

「……日に日に地震は増えてるし、大きくもなってるから、何か起きるならもうすぐのような気がするんだけど」

「どう、でしょう。地震が、何かの過程で生じただけの、副産物なら、もしかすると、最終段階では減る、なんて事も、あるかも知れません。或いは、地震は異変の第一段階、という可能性も、あります」

「ああ、そういう事もあり得るのか。うーん、そうなると本当に何も分かってないのね、あたし達」

「はい、そうなります」

 しっかりと現実を認識し合う二人。晴海は神妙な面持ちをしながら、大きくこくこくと頷いた

 直後、スコンッ! と軽やかな音が鳴る。

 なんの音? 花中が疑問を抱いた次の瞬間、晴海の身体が大きく仰け反った。天井を仰ぐその顔は苦悶に歪んでいる。

「ふ、ぐぎょえぇ!?」

 そして開いた口から、可愛らしい顔には似合わぬ呻きを上げた。

 一体何が起きたのか。疑問の答えはすぐに明らかとなった。

「立花ぁ……俺の数学を無視してお喋りとは良い度胸だぁ……」

 教壇に立つ教師が、唸るような声でそう語ったのだから。

 花中は思い出す。彼は数学教師にして、帆風高校一の武闘派教員。チョークを剛速球のように投げ飛ばし、華麗に悪童達を成敗するという……色々誇張が入っているような気がする評価だが、チョーク投げに関しては間違っていないらしい。

 晴海はそのチョークの一撃を受けたのだ。これ普通に暴力事案じゃない? なんて思わなくもないが、『常識』を口に出せる雰囲気ではない。何しろ生徒の額に投げられたチョークが命中するという非常識展開の真っ最中なのだから。それに授業中のお喋りという、悪い事をしていたのは()()()の方である。教師から暴力を受けただのなんだの喚くなんて、逆恨みも甚だしい。

 ……油の切れたブリキ細工のような、ぎこちない動きで花中は正面を向く。

 数学教師が自分を見ている。ニッコリとした、爽やかな笑みだ。花中も微笑みを返そうとする。

 だけど彼の手にはチョークが握られていて。

「ごめんなさい」

「分かればよろしい」

 恐怖に負けて謝った花中は、晴海と違ってちゃっかり難を逃れる。教室の中にくすくすと笑い声が漏れ、クラスメート達の顔には笑顔が浮かぶ。一人下手こいた晴海は額を擦りながら恨むような視線を花中に向け、花中は苦笑いと共に顔を背けた。

 賑やかで、和やかな雰囲気。

 世界は変わりつつある。人によってはその変化を終わりと呼んだりもする。だけどこの教室はまだ終わっていないし、変わっているとしても少しだけ。

 もうちょっとだけ、この時間が続いてほしい。

 楽しげな笑い声に満ちる中、花中は強くそう思い――――

 嘲笑うように、今朝二度目となる地震が校舎を揺さぶるのであった。




今更ながら二章続けて同じ敵って、本作では初めての展開ですね。
まぁ、それぐらいヤバい奴という事です。前章のは顔出しみたいなもんですよ。

次回は明日投稿予定です。



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地獄の魔物2

「何が起きているか全くさっぱり分かりませんね!」

 豊満な胸を張り、自信たっぷりな笑みまで浮かべながらフィアはそう答えた。

 とても爽やかな答えだった。嘘を吐こうとしている素振りどころか、自分の辿り着いた答えになんの疑念も持っていないのが窺い知れる。昔から自分に自信がなくて何時もおどおどしてしまう花中には、とても格好良く見える姿だ。降り注ぐ秋晴れの日差しを浴びてキラキラと輝く金髪が、その自慢げな顔を一層魅力的に引き立てる。

 そしてこんなにも自信たっぷりに告げられた答えなのだ。異を唱える事自体が失礼に思える。

 「そっかー、分からないんだねー」……花中の口から出てきたのは、納得を示す答え。フィアは花中の反応に満足げな笑みを返し、それ以上は何も言わない。

 とことこ、とことこ。花中とフィアは仲良く歩く。今の時刻は十六時半過ぎ。秋を迎えて短くなった陽はかなり傾き、空がほんのり赤らむ。市街地の中を照らす太陽の輝きを浴びてぽかぽかしてきた身体の感覚に身を委ね、花中は柔らかな微笑みを浮かべた

「大桐さん、安心してる場合じゃないからね? 何も分かってないんだから」

 最中に晴海からツッコミを入れられ、花中はようやく我に返った。空気に流されてしまったと分かり、花中は顔を赤くする。

 今は学校からの帰り道。元気に遊び回る子供達の姿が見られる市街地の中を、花中はフィアと晴海と共に歩いていた。ちなみに加奈子は今日、用事があるとの事で一人早めに帰っている。彼女の親戚……勇の旅館が四ヶ月ほど前に『営業停止』となり、新生活を迎えるための手伝いをするそうだ。引っ越し先は加奈子曰く「ド田舎中のド田舎」。今頃彼女は電車に乗り、町から遠く離れたのどかな景色を堪能しているだろう。

 そしてミリオンとミィは現在調()()をするため遠出中。今日はこの町の中心付近を通る下水道に居る筈だ。フィアだけがその報告のために戻ってきていた……という訳ではなく、単に花中の登下校に付き添いたいだけ。自分のする事に恥など感じないフィアは臆面もなくそう語った。

 そんなフィアは晴海からの指摘に眉一つ動かさず、肩を竦めるだけである。

「だって分からないものは分からないですもん。お手上げです。なーんの手掛かりもないからやる気も出ませんし」

「アンタねぇ……頼んでる側が言うのも難だけど、分からず終いじゃアンタにとっても都合が悪いって分かってんの?」

「んぁ? そうなんでしたっけ?」

「分かってないんかい!? 世界が終わるかもって話をなんで忘れられるのよ!」

「あ、あはは……」

 自分達がしている『調査』の理由をすっかり忘れているフィアに、晴海はキレの良いツッコミを入れ、花中は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 フィア達に調べてもらっているのは、地下奥深くの状況。

 具体的には、四ヶ月前フィア達が遭遇したという謎の『気配』の動向についてだ。加奈子の叔父が旅館を営んでいた町・喜田湯船町をマグマの海に沈めた元凶……正体不明の『生命体』。真意はこれっぽっちも分からないが、そいつは破局噴火を引き起こし、地上環境そのものを変えようとしていた。無論そいつから破局噴火を起こすと告げられた訳ではないが、フィア達が食い止める度、より大きな破局噴火を仕込んできたのだ。噴火を起こす事が目的なのか、ただの手段なのかは分からないが、そいつは噴火を起こしたがっていた筈である。

 破局噴火が起きれば、地上に築かれた生態系は崩壊してしまうだろう。怪物出現中(現在)の環境すら生存が危ぶまれている人類からすれば、破局噴火が起きれば本当に絶滅しかねない。他の多くの生物にとっても同じだ。

 だからこそミリオンもミィも協力してくれている。ミリオンからすれば人間が絶滅しては困るし、ミィからすれば猫達が絶滅の危機に陥るのは見逃せない。

 唯一フィアだけが、世界が終わろうとも自分と花中が無事ならそれでOKという考え方だった。

「えっとね、要するに、放置すると大量絶滅が起きて、世界が、滅茶苦茶になっちゃうから、調べてほしいの」

「はぁ。そういえばなんかそんな話をしたようなしていなかったような」

「全く、世界が滅茶苦茶になるかも知れないのに、どーしてそれを忘れられるんだか」

「だって世界が滅茶苦茶になろうとあまり興味ないですもん。大昔にも破局噴火とやらは起きているみたいですが今も生物は存在しているでしょう? つまり普通の生き物でも問題なく生き残れる程度の災害という事じゃないですか。この私の力なら問題なく生き抜けます」

「ぐっ、ぬぬぬぬぬ……」

 一切虚勢を感じさせないフィアの答えに、晴海は唸るような声を漏らす。晴海には否定出来ないのだ。フィアの力ならば、確かに破局噴火後の世界を生き残れるだろうから。とはいえ生き残れる事と、楽しい事は別問題だ。だからこそ理由を忘れてしまうぐらい無関心なフィアも、なんやかんや『調査』に協力してくれているのである。

 ミリオンやミィも同じだ。自分だけが生き残る分には、破局噴火だろうが巨大隕石だろうが、彼女達からすれば大した困難ではない。だからもしかすると、モチベーションが上がりきっていないという事もあり得る。

 しかしそれを差し引いても、人智を超える能力の持ち主である彼女達が四ヶ月近くも情報を得られないというのは……調査のやり方が良くないという可能性も、十分考えられるだろう。

 そして一番有力な『原因』はすぐに思い至る事が出来た。

「……まぁ、ぶっちゃけ真下に居ないと、どんだけ真面目に探しても、見付けられないもんね。そいつ」

「そうなんですよねぇー……」

 晴海の意見に花中はこくりと頷き、深々と項垂れる。

 フィア達がしている調査方法は極めてシンプル。相手は地中奥深くに潜んでいるのだから、可能な限り地中深くを探知する……ただそれだけだ。

 まずフィアが能力によって水を操り、地中深くまで浸透させる。そしてフィアは操作している水に伝わった振動や、音や光さえもキャッチして地上まで()()()()()のだ。これにより地中深くの様子を把握出来る。勿論フィアだけでは分析に限度があるが、そこにミリオンとミィが協力して多面的に調べれば、より多くの情報が得られるだろう。

 しかしこの方法だと、真下しか調べられない。

 フィアが『気配』を感じ取ったという深度七十キロ前後の深さとなれば、地球の何処でも大した違いはあるまい。故に喜多湯船町の地下に潜んでいた何かが別の地域に移動していたとしても、環境的にはなんの問題ないのだ。おまけに海や山のように移動を阻むものもない。もしかすると日本を離れ、朝鮮半島やオーストラリア大陸、北極海やアメリカ大陸に移動している可能性もある。

 勿論これぐらいの可能性は調査時点である程度考えていた。それでも自分達の地域でも地震が頻発している事から、本体が存在せずとも何かしらの痕跡はあるのでは……と期待していたのだが。

「どうします花中さん。何か良い案とかありますか? やれと言われれば暇な時は調べますけど」

「うーん……」

 花中は唸りながら考え込む。とりあえず調査を続けてもらうのは、確かに手の一つだろう。もしかすると明日には新発見が、という可能性はゼロではないのだから。

 しかし限りなくゼロでもある。偶然に期待して何も手を打たないのは愚行と言う他あるまい。何か、新たな一手を打つ必要があるだろう。

 考えろ。地中に潜む何かは、破局噴火というとんでもない大災厄を起こそうとしていたのだ。何処かに、なんらかの痕跡は残っているに違いない。

 何処に、どんなものが残り得るのか。花中は考える。あらゆる知識を動員し、思考をフル回転させて、小さなヒントを見付けようとする。

 ――――そうして考え込んでいくと、妙に頭が冴えるような感覚に見舞われた。

 言葉になっていない何かが溢れ、頭の中を水のようにするすると駆け巡る。流れ出した感覚はぽつぽつと芽吹くように『考え』を生み出した。その『考え』は段々と大きくなり、理解という名の果実を付けようとする。

 そして、

「……うく」

 不意に襲われた『痛み』に、花中は呻き声を漏らした。

 やってきたのは強く、鈍い痛み。花中は足を止め、その場で膝を折り蹲ってしまう。しかし頭の痛みは治まるどころか一層強くなり、苦しさのあまり両手でこめかみの辺りを押さえずにはいられなかった。

「花中さん? 大丈夫ですか?」

「え? ちょ、大桐さん!? 大丈夫!?」

 花中が足を止めた事に、フィアが真っ先に気付く。続いて晴海も気付き、晴海の方は大慌てで花中の下へと駆け寄った。フィアはマイペースな歩みで、晴海より遅れて花中に寄り添う。

 花中は痛みを堪えながら顔を上げ、大丈夫だと伝えるため笑ってみる。が、上手く出来ず引き攣ったものになってしまった。

「……すみません。ちょっと、考え過ぎて、しまったようで……」

「考え過ぎたって……」

「なんか花中さん最近よく頭痛を覚えていますよね。体調が良くないのですか?」

「そういう訳じゃ、ないけど……」

 フィアからの問いに、言葉を濁らせながらも花中はそう答える。

 実際、体調は悪くない。むしろすこぶる良いぐらいだ。数ヶ月前までなら歩きでも疲れてしまう距離を、何時もならすぐへとへとになってしまうぐらい重たい荷物を持って、平然と踏破出来る。今になってようやく体力が……と思いたいところだが、特段トレーニングもしていないのに筋肉が付いても、なんというかピンとこない。

 加えて頭痛が酷くなるのは、決まって深く考え込んだ時だ。しかも途中までは、かなり好調に思考を巡らせられる。あるところを境にして、爽やかな思考が一気に反転するような感覚。こんな変な頭痛は聞いた事がない。

 自分の身体は、何か妙な事になっているのだろうか?

「(……まぁ、調子は良いし、別にいっかなぁ)」

 過去の花中なら不安でぶるりと震えただろうが、しかし今の花中はあっけらかんとしていた。フィア達の能天気が移ったのかも知れない。

 加えて考え過ぎない範囲でなら、むしろ頭の調子も良いぐらいなのだ。なら、出来るだけ有意義に使うべきだろう。今の『地球生命』に頭痛で悩んでいる余裕などないのだ。

「……うん、大丈夫。もう、頭の痛みは、引いたから」

「そうですか? あまり無理はしないでくださいね花中さんは顰め面より笑顔の方が可愛いのですから」

「可愛いかどうかが判断基準かい……まぁ、あたしも笑顔が可愛い事には同意するけどね」

 回復を証明するべく立ち上がる花中に、フィアは大変自分本位な意見で励ます。晴海もこれに少しは同意し、可愛いと言われた花中は顔を赤くした。

 ぷるぷると顔を左右に振り、花中は頬に溜まった熱を追い払う。頭の痛みはすっかり良くなった。勿論また深く考え込めば頭痛に見舞われるだろうが、加減すれば問題はない。今度こそ、地中に潜むナニモノかを探るためのヒントを考えようとした

 直後の事だった。

 大地が、唐突に揺れ始めたのは。

「ふぇ? にゃ、ぴゃっ!?」

「おっと危ない」

「おわっ、とっとっ!?」

 揺れに足を取られ転びかけた花中を、フィアが素早く抱き止める。花中はそのままフィアにしがみつき、晴海もよろめきながらフィアの側まで近付き、フィアの『服』の裾を掴んだ。

 地震だ。それも中々大きなもの。朝の教室で起きたものより、ずっと激しい揺れである。電柱や街路樹がぎしぎしと不気味な音を立て、家々の塀が目に見えて揺れていた。家々からも身の毛のよだつ音が鳴り、時折パリンッという音が聞こえてくる。

 震度六弱はあるだろうか。とても大きな地震だ。この辺りの地域では、少なくともここ最近は起きた事がない規模である。電線が切れたり、道路が陥没するという被害もあり得るだろう。それらに巻き込まれれば人間なんて簡単に死んでしまうが、しかし花中と晴海の傍にはフィアが居る。彼女ならば、電線が直撃しようが建物が雪崩のように崩れてこようがへっちゃらだ。花中は深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる事にした。

 ……落ち着かせて、ふと思う。

 この地震、()()()()()()()()()()

「ね、ねぇ、大桐さん!? なんか、こ、この地震、全然止む気配がないんだけど!?」

 悲鳴のように叫びながら、晴海が今自分達の身に起きている事を言葉にした。

 地震というのは、地中奥深くにある断層がズレる事で起きる事象だ。そのため断層の規模が大きくなり、ゆっくりと破壊が進行すれば、その継続時間は長くなる。しかしそれでも通常の地震なら、十数秒~三分に満たない程度でしかない。

 だが、花中達を今襲っている地震は、何かがおかしい。

 一分ぐらい過ぎても揺れは収まらない。二分経っても弱まるどころか強くなるばかり。三分近く経てども治まる気配がまるでない。

 地震は、何時までも終わらない。いや、それどころか際限なく強くなっている!

「お、おかしいでしょこれ!? なん、なんな、なん……!?」

 揺れはあまりに強く、晴海は声すらまともに出せなくなっていた。いや、この状態で喋ると舌を噛んでしまいかねない。花中はぐっと口を閉ざし、晴海に喋らないよう無言で訴える。

 晴海が花中の視線に気付き、強く口を閉ざして揺れに耐えようとした。この間も大地の揺れは収まらない。地響きが町を満たし、あらゆるものが激しく揺さぶられている。電柱が伐採された樹木のような音を立てて倒れ、家々が浮かび上がっては崩れ落ちていく。街路樹も耐えかねたように倒れ、道路がぐにゃりと曲がって弾けるように砕けた。

 最早地震なんて規模ではない。ついに地震兵器が完成しただとか、水爆を立て続けに落とされてるだとか、そんな『滅茶苦茶』な説明ですら納得出来そうなぐらいおかしな事態が起きている。頭が痛くなるほど考え込むどころか、周りを見渡す余裕すらない有り様だ。こうなると花中にはもう何が起きているのかさっぱり分からない。

 けれどもフィアなら。

 彼女ならこの状況下でも冷静な筈だ。こんな揺れ、フィアにとってはなんの脅威にもならないのだから。だから花中は身体の自由すら奪うほどの揺れに耐えながら必死に顔を上げ、何が起きているか訊くべくフィアの顔を見遣った。

 瞬間、ぞわりとした悪寒を花中の身体は覚える。

 フィアは彼方を眺めていた。それはなんの問題もないし、むしろそうであってほしいぐらいだ。彼女が何処かを見ているという事は、その視線の先で何かが起きているという確かな証なのだから。

 しかしその顔が、()()()()()()()のはどうしてなのか。

 どんな相手にも不遜な態度を崩さず、己の力に揺るぎない自信を持つ彼女が表情を強張らせる……ただそれだけで、花中は今この地でどれだけ恐ろしい事が起きたのかを察した。

 とはいえ察しただけで実感は湧いていない。故に花中は無意識にフィアの視線を追う。

 フィアが見ていたのは、地平線のずっと先。西日になった太陽があるのとは逆の方角なのだが、しかしどういう訳かその先の景色はうっすらと赤らんでいて

「――――ひっ」

 花中は、思わず悲鳴を漏らした。

 何かが見えた訳ではない。音だって今は地震の地響きしか聞こえない有り様だし、フィアが何かを教えてくれてもいない。

 だけど、花中は確かに感じ取る。

 『何か』がいる。そう何か……とんでもない存在感を発する何かが……

 得体の知れない感覚に花中は顔を青くし、全身が震え始めた。丁度そんなタイミングで、ようやく地震の揺れが鎮まり始める。その鎮まり方は酷くゆっくりなもので、完全に治まるまで更に数分ほどの時間を有したが、兎に角地面の揺れは終わった。

 しかし未だ地平線の彼方にある気配は消えていない。花中の身体の震えは止まらず、冷や汗がだらだらと流れた。

「お、大桐さん、大丈夫? その、顔色が酷いけど」

 あまりにも怯え方が酷いからか、晴海が声を掛けてきてくれた。背中を擦り、こちらを気遣ってくれる。その優しさはとても嬉しいが、しかし甘えているような余裕すら今の花中にはない。

「あ、ぅ……あ、あそ、こ……」

 花中は震えながら地平線の先を指差す。あそこに、何か恐ろしいものがいると伝えるために。

「……えっと、あそこに何があるの?」

 ところが晴海はキョトンとするだけ。

 もしかして何も感じていないのか? いや、鈍感な自分にも感じ取れたのだ。晴海に分からぬ筈がない……花中はそう思い、今度こそちゃんと伝えるべく、正確に『何か』の場所を指し示そうとする。

「……あれ?」

 が、分からない。

 気持ちが晴海の方へと向いた瞬間、『何か』の存在感が感じられなくなってしまった。何処かに移動したのかとも思ったが、フィアは今も先程までと同じ場所を見つめている。ならばフィアが感じ取ったものは未だ動いていないのだろう。

 だとしたら、先程の感覚は自分の勘違いか。

 いや、間違いなくそうだ。思えば『何か』の気配なんて、達人ならまだしも一般人の中ですら鈍感な自分に感じ取れる筈もない。フィアの見ている方角に『何か』が居るという確信と、恐ろしい大きさの地震による恐怖から、ちょっとした錯覚を覚えてしまったのだろう。

「あ、ご、ごめんなさい。わたし、何か勘違い、していたみたいです」

「そうなの? それなら、良いけど……フィアはどうなの?」

 花中の感じたものが錯覚であると納得した晴海は、次いでフィアに尋ねる。

 晴海も分かっているのだ。花中の恐怖は勘違いでも、フィアの『感覚』は確かなものであると。

 フィアは答えない。口をぎゅっと閉ざし、警戒心を露わにするだけ。しばらくそのまま無言を貫いていたが、やがて何も言わずに花中を抱き寄せ、腕に力を込めてきた。なんだろうと花中が思った瞬間、フィアの『身体』が僅かに強張ったような気がして

「はぁーい、さかなちゃんストーップ。一旦止まりましょうねぇ」

 不意に、虚空から声が聞こえてきた。

 その言葉で花中は気付いた。フィアは逃げようとしていたのだ――――花中の大事な友達である晴海を置いて、この場から。

 そしてそれを花中よりも先に察知し、声を掛ける事で止めたのが

「ミリオンさん!」

 下水道内部で地下の調査を続けている筈の、ミリオンだった。

 ミリオンは空からふわりと舞い降り、軽やかに着地する。呼び止められたフィアは不機嫌そうに鼻を鳴らし、ミリオンを鋭い眼差しで睨み付けた。

「あなたですか。何故止めるのです? いずれボコボコにするとしても今は一旦距離を取るべきだと思うのですが」

「そこまで急がなくても良いでしょ。少なくとも立花ちゃんを置いていくほど、切羽詰まった状況じゃないと思うけど」

「えっ。あたし放置されるところだったの?」

「私が止めなかったら、そうなってたでしょうね」

 ミリオンがあっけらかんとバラし、晴海はフィアをジト目で睨む。尤も人間の小娘に睨まれた程度でフィアが怯む訳もない……抱き寄せられている花中は違うが。

 申し訳なさからフィアに代わって謝ろうとする花中だったが、その気持ちは側面より聞こえたズドンッ! という爆音が吹き飛ばす。爆音に混ざり、何か硬いものが崩れる音も聞こえた。

 驚きから飛び跳ねてしまった花中は無意識に音がした方へと振り返れば……見知らぬ誰かの家の塀が瓦礫となっていて、その上に立つミィの姿があった。

「あちゃー、着地失敗……まぁ、いっか」

 ミィは頭をポリポリと掻きながら独りごち、しかしそこまで気にした素振りもなく自らの失敗を流す。

 どうやら着地する場所を見誤ったらしい。超音速すら見切る動体視力を誇るミィだが着地場所を謝るとは、余程急いで来たのであろう。

「ちょ!? アンタ人の家の塀壊して……!」

 とはいえだから被害を見逃すというのは、ごく一般的な女子高生である晴海には出来ない事。晴海は感情的に叫びながらミィを問い詰める。下手な言い訳は晴海の感情をますます強めるだけだろう。

「あ、今それどころじゃないよ。めっちゃヤバい。出来ればさっさと逃げた方が良いぐらい……何処に逃げりゃ良いのかは分かんないけどね」

 されどミィから淡々と告げられた言葉は、一瞬で晴海の口を閉じさせた。

 晴海はちらりと花中の方を見て、花中も晴海の方を見る。目を合わせた二人は、ぐるりと辺りを見回す。

 自分達の周りに立つ、三匹の人外。

 彼女達の誰もが同じ方角を見ていた。笑み一つ浮かべず……否、浮かべる余裕がないほど真剣に。

 ごくりと、花中は自然と息を飲んでいた。晴海は花中の下へと歩み寄り、不安そうに花中の手を握る。花中は晴海の手を優しく握り返し、晴海はその手を更に強く握ってきた。

 花中は薄々勘付いている。

 同時にこれはまだ想像だ。ほんの少し、ほんの少しだけだが、否定される可能性はゼロではない。だから確かめる必要がある。現実を正しく認識しなければ、これから起きる事に対して正しい対処が出来なくなってしまうのだから。

 そしてもしも花中の想像通りなら、正しく対処しなければ――――人類は終わり。

「……フィアちゃん、何が、起きてるの?」

 花中は勇気を振り絞り、親友に尋ねる。

 フィアはすぐには答えてくれなかった。しかしそれは花中の気持ちを気遣って、ではない。『あっち』に意識の殆どを傾けていて、花中への反応が遅れただけ。

 しばらくしてフィアは淡々とした無感情な声で、故に一切偽りがないと分かる言葉を告げるのだ。

「ついに出てきたようです。四ヶ月前我々の足下に陣取っていた化け物が」




二話目で動き出す大ボス。
今更ですが今回バトルもりもりです。

次回は10/11(金)投稿予定です。


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地獄の魔物3

 花中が自宅のテレビ画面を点けた瞬間、そこに映されたのは真っ赤な景色だった。

 いや、よく見れば景色ではない。赤い液体がどぼどぼと、噴水のように湧き出ている映像だ。赤い液体は湯気を立ち昇らせ、自らが如何に熱いかを物語る。空気に触れた赤い液体は、最初はさらさらとした水のようであったが、やがてどろどろとした粘性を帯び……そこまで見れば赤い液体の正体が溶岩であると、視聴者の多くは理解するだろう。

 その溶岩が、都市のど真ん中で噴き上がっていた。

 テレビに映るこの映像は、恐らく取材ヘリから撮影されたものだろう。どんな建物よりも高い場所から撮影されており、何が起きているかよく見える……見えなければ現実逃避ぐらいは出来たかも知れないのに。

 これが東京の某都市での出来事だと、画面右上のテロップに書かれている。映し出されている都市は高層ビルが建ち並び、コンクリートジャングルという言葉が実によく似合う場所だ。しかしながらそのジャングルは今溶岩の海に満たされ、地面そのものが溶解しているのか次々と傾き、倒れ始めていた。まるでアクション映画のように仰々しい光景だが、この映像は現実のもの。でなければ現地取材をしているであろう女性リポーターが悲鳴染みた叫びばかり上げていて、なんの状況説明も出来ていないという醜態を晒す筈がないのだから。

 十七時をちょっと過ぎた今の時間帯、ビルの中ではまだ何百何千もの人々が働いていただろう。自分のために働いていた人も、家族のために働いていた人も……

 されど現実は人々の気持ちなど一片も汲まず、ビルは横倒しになるやずぶずぶと地中に沈む。溶岩とは即ち岩石が溶けたもの。組成次第ではあるが、凡そ一千度はあるものだ。そんなものに包まれたなら、人間など呆気なく焼け死んでしまう。倒れたビルの中に、もう、生存者はいないだろう。

 倒れるビルは一棟のみではない。何棟も、何十棟も倒れ、沈んでいく。テレビ画面に映されたほんの数分程度の映像で、一体何万の人々がその命を散らしたのか……想像するだけで胸が痛くなる。

 だが、()()()()()()()()()()()。テレビからはアナウンサーか、或いは取材スタッフのものと思しき大声量が流れているが、耳にも届かない。

 燃えたぎる溶岩の中心に立つ『そいつ』の存在に比べれば、他のあらゆる事象は些末事に他ならないのだから。

「お、大桐さん……何よ、アレ……」

 大桐家宅にて、和室のテレビで同じ光景を見ていた晴海は、声を震わせながら花中に尋ねてくる。しかし花中はその問いに対する答えを持ち合わせていない。和室にはフィアもミリオンも居るし、ミィも和室と庭を繋ぐガラス戸から身を乗り出してテレビを見ていたが、彼女達にも答えられないだろう。誰もが『そいつ』がなんであるかを知らず、教えてほしいぐらいなのだから。

 テレビに映し出された『そいつ』は、間違いなく生物だった。

 かつて地球に降臨した異星生命体と違い、生々しい肉の塊でその身体を構成している。しかしながらその姿は、花中がこれまでの人生で見たどんな生物とも異なるものだ。

 大きく開かれた口には鋭い牙がずらりと並び、肉食性の強い種だと窺い知れた。けれどもその顔に目玉や鼻の穴、耳などは見付けられない。ワニの頭からそうした大事な感覚器を全部取り除いたような、おどろおどろしい形相をしている。

 手足はアシカのようなヒレになっていた。ヒレの数は四枚。四肢がヒレの形へと変異する進化を遂げたのだろうか。大きさはかなりのもので、特に前足部分のヒレは広げた幅が自身の体長と同じぐらいあるように見える。尾は縦方向に広がったオールのような形態をしており、左右にくねらせれば『液体』内での推力を生むだろう。

 胴体はまるで潜水艦のように太く、丸みを帯びている。体表面に鱗などはないのだが、まるで岩石が集まっているかのように凸凹していた。色が黒いのも相まって、溶岩が固まったかのような印象を受けるだろう。或いは本当に溶岩が固まったものを纏っているのかも知れない……『そいつ』は溢れ出す溶岩の中から現れたのだから。

【バルォオオオオオオオオオオォンッ!】

 そして放たれる咆哮は、テレビ越しでも人間達を震え上がらせる。

 おぞましい怪物だった。地の底から現れた姿は『地獄の魔物』と呼びたくなる。こんな生命体が地球に潜んでいたと知ったなら、偉大なる知性により生命が創造されたと信じる人々は気が狂うかも知れない。その冒涜的な様相には、それだけのパワーが宿っていた。

 しかし姿が恐ろしいだけならまだ良い。

 本当の問題は、人間を恐怖の縁へと追いやるのは、そのサイズ。

 正確なところは分からない。だが倒れていくビルの大きさから推察するに、ざっと()()()()()()はあってもおかしくないだろう。こんな巨大な怪物が、もしも暴れようものから……

 そして花中達を震え上がらせるのは、もう一つの『確信』。

「……ミリオンさん、この生き物が……」

「ええ、間違いない。このぞわぞわとする感覚、忘れる訳がないわ。コイツが喜田湯船町を溶岩の海に沈めた張本人。この星で破局噴火を起こそうとしていた元凶よ」

 花中が尋ねると、問われたミリオンはあっさりと答える。しかしその顔は強張ったもので、口先のような軽さは一切見付からない。

 フィア達三体は気付いていた。この恐ろしい様相の怪物が、破局噴火により地球生命を根絶やしにしようとした元凶だと。

「正しく化け物みたいな見た目をしてますねぇ。一体なんて動物なんでしょう?」

「さぁ? 哺乳類っぽくはないし、爬虫類かな?」

「分類群なんて今はどーでも良いでしょうに。問題はコイツがなんで地上に出てきたのか、の方でしょ」

「勿論分かってるよー」

 暢気にお喋りをするフィアとミィを、ミリオンが窘める。ミィの方は不服だとばかりに言い返したが、フィアは首を傾げていた。どうやら花中の親友は、事の重大さをあまり理解していないらしい。

 ミリオンは呆れるようにため息を吐くも、フィアが大事なところを理解していないのは何時もの話。それはミリオンだけでなく花中も分かっている事であり、花中はフィアへ説明するように話を引き継ぐ。

「えっとね、フィアちゃん。この生き物が、噴火を起こそうと、していたのは、分かっているよね?」

「ええそうですね。それはちゃんと分かってますよむっふん」

「うん。だけどその時は、ずっと地面の中に、居たでしょ? だからもしも噴火を、起こす事が、この生き物の目的なら、地上に出てくる必要は、ないよね?」

「……おお成程。つまりコイツがなんのために地上に来たか分からないのが問題という事ですね!」

 正解ですよね? 花中さん褒めて褒めて――――まるでそう言いたげに目を輝かせながら下げてきたフィアの頭を、花中は優しく撫でる。フィアはご満悦な笑みを浮かべた。

 そう、問題は『そいつ』の真意がこれっぽっちも分からないという事。

 仮に、破局噴火を引き起こして地球環境を変化させる事が目的であるなら、わざわざ自らが地上に出てくる必要はない。地中という安全圏に潜み、大噴火を引き起こせば良いのだ。フィア達が邪魔だというのなら、他所の大陸なり海底なりでそれを起こせば良い。いや、そんな手間をせずとも奴がちょっと本気を出せば、フィア達がどれだけ頑張ろうと噴火を抑える事は出来ないだろう。先の『対決』ではフィア達三匹が力を合わせても一方的に押されるほど、『そいつ』はとんでもない力を有していたのだから。

 恐らく破局噴火は、『そいつ』にとって手段の一つですらなかったのだ。地上侵出のための様子見か、或いはなんらかの実験的意図か、はたまた練習か……

 破局噴火さえもそのような扱いであるならば、地上に出てきた『そいつ』がやろうとしている事の規模など想像も付かない。確実に言えるのは、下手をせずとも地球史上例のない大災厄になるという点だけだ。

「一体何を企んでいるかは分からないけど、地上に出てきたのは好都合。こっちのフィールドにのこのこやってきてくれた訳だしね」

「でもさぁ、真っ向勝負じゃ勝てる気がしないんだけど」

「そうよねぇ。かといって搦め手を使おうにも……ね」

 ちらりと、ミリオンが視線を向けてくる。彼女の言いたい事を察し、こくりと俯くように花中は頷く。

 仮に、花中の予想通り破局噴火がなんらかの様子見なり実験なりだったとしよう。その場合『そいつ』には確固たる自我と、情報を分析するだけの知性がある筈だ。

 即ちミュータントの可能性が高い。

 ミュータントだとすれば、何かしら特殊な能力があると考えられる。もしくは破局噴火に匹敵するマグマを作り出したのがその能力か。なんにせよ五百メートルもの巨体から繰り出されるパワーは絶大なものとなるだろう。大きいというのは、ただそれだけで強いものなのだから。

 体重から見た体格差がどれほどかは分からないが、こんなにも大きければフィア達三匹でも歯が立たないのは頷ける話。花中達にとって有利なフィールドにわざわざ来てくれたとはいえ、単純な力押しで勝てるような相手ではあるまい。

 何かしらの作戦が必要である。恐らく人間並に高まっているであろう知性でも見抜かれないほど緻密で、尚且つ圧倒的な体格差をひっくり返す強力な策が。

「……小田さんは、何か気付いた事、ありますか?」

「えっ。あ、や、あたしは……ごめん。なんか、頭いっぱいで……こんなのが現実なんて、思えなくて」

 自分の知らない情報が得られないかと尋ねると、晴海はなんともぼんやりとした様子でテレビを指差す。

【酷い……こんなの、酷過ぎる……!】

 テレビからは、現地取材をしているリポーターらしき女性の、嗚咽混じりの声が漏れ出る。画面左上に『Live』の文字があるため、生放送なのだろう。

 そしてその女性が見ているであろう光景は、地獄絵図という言葉すら生温い。

 少し目を離している間に、事態は更に深刻なものと化していた。『そいつ』の佇む場所からは未だ溶岩が噴出しており、留まる事を知らない。溶岩の噴水は何百メートルもの高さまで上がっており、その放出量の多さを物語っていた。

 溶岩自体は、冷えて固まる事であまり遠くまで流れてはいない。しかしそれでも半径十数キロ圏内には津波のように押し寄せ、巨大溶岩湖を作り出している。小さな建物はこの溶岩湖に丸呑みにされ、倒れたビルも溶けながら沈み、真っ赤で平らな景色が作り出されていた。

 更には溶岩から噴き出した白いガスが、溶岩湖の外側に広がる都市を満たしている。ガスの正体は恐らく硫化水素などの、火山性有毒ガス。フィア達のような能力があればどうとでも出来ても、人間はガスマスクなどを用意せねば生き残れないだろう。そして一般的なビルや家にガスマスクなんて置いてある訳もない。

 『そいつ』の出現地点から半径十数キロ圏内に居た人間で、この災禍を生き延びた者はほんの一握りだろう。

 フィア達の感覚が正しければ、『そいつ』が現れたのは花中達が経験したあの大地震の直後。正確な時刻は測っていないが、今の時刻である十七時三十分頃から逆算しても……まだ三十分ちょっとしか経っていない。

 たったそれだけの時間で、日本の首都にある都市の一つが『壊滅』した。何万、いや、何十万という人が命を落としただろう。あまりに悲惨過ぎて、花中も現実味が持てない。いや、現実だと本当に理解していたなら、今頃あまりの惨事に吐き気と悲しみに打ちのめされている筈だ。そうなっていない時点で、事の重大さを何も分かっていないのは明白。

 考える事に集中出来ないほど呆けてしまう花中と晴海。数多の怪物と遭遇してきたとはいえ、花中もまた一般人である。晴海については言わずもがなだ。非現実的な光景で思考が止まってしまうのも、致し方ない事である。

 されど日本には、こうした非現実に立ち向かうべく訓練を続けてきた人々が居た。

【! 見てください! 飛行機……いえ、戦闘機です!】

 現場取材をしている女性リポーターの声が、彼等がこの場にやってきた事を教えてくれた。

 花中は我に返り、テレビ画面を見る。映し出されていたのはリポーターが言った通り戦闘機。五機が編隊を組み、『そいつ』の近く ― とはいえ十数キロは離れているだろうが ― を飛んでいた。戦闘機の種類には詳しくないが、この状況でやってくるとすれば彼等しかいない。

 航空自衛隊だ。日本でも怪物が出現するようになり、立ち向かえる力を持った彼等の活躍が大きく求められている昨今。素早い出撃が出来るよう訓練を行い、兵器も更新されたとニュースでやっていたのを花中は覚えている。此度ついに怪物が首都圏に現れたという事もあり、最新鋭戦闘機で文字通りかっ飛んできた訳だ。

 とはいえ怪物の力はどれも圧倒的なもの。弱い怪物なら先進国の軍隊で辛うじて撃退出来るが、『そいつ』はサイズからして明らかに最強クラス。フィア達超生命体の助言がなくとも、自衛隊は『そいつ』の強さがとんでもないものであると想定している筈だ。自衛隊機が迂闊な攻撃は行わず、調べるように『そいつ』の周りを飛び回るだけなのは、その強さを警戒しての事だろう。

 ――――だが、『そいつ』にとってはそれすらも気に食わないらしい。

 テレビに映し出されている『そいつ』はゆっくりと顔をもたげ、自分の周りを飛ぶ戦闘機達の方を向いた。目や耳らしきパーツは見られないが、なんらかの感覚器はあるらしい。ワニのような口先は正確に戦闘機達の動きを追っている。

 やがて『そいつ』はバックリと、大きな口を開けた。

 瞬間、花中はぞくりとした悪寒を覚える。

 幾度となく怪物と呼べる生命体に遭遇した経験から育まれた直感……今度はしかと働いた。身体の奥底に眠っている動物(人間)の本能が、『そいつ』がしようとしている事のおぞましさを伝えてくる。具体的に何をしようとしているかなんて全く分からないが、兎に角とんでもない事を始めようとしているのは察知出来た。

 だけど無意味だ。『そいつ』と花中達までの距離は何十キロと離れている。

 今更、何も出来やしない。

【バルォオオオオォォォンッ!】

 『そいつ』が咆哮を上げたのと同時に、何か、白い靄のようなものが放たれた。

 靄のようなものは衝撃波のようにふわりとドーム型に広がっていく。一見して凄まじい速さで広がっていたが、しかし大地のマグマはその白い靄のようなものを受けても波一つ立てず静かなまま。物理的な衝撃を有するものではないらしい。

 無論正体不明の怪しげな一撃だ。避けるのが無難である……が、広がり方があまりにも速い。加えて突然の事に一瞬身体が硬直してしまったとしてもおかしくない。

 戦闘機達は回避行動を取れず、最も『そいつ』に近かった機体と白い靄のようなものが接触した

 刹那、戦闘機が()()()

「「【……えっ】」」

 花中と晴海、そして現地取材のリポーターの声が重なる。

 弾けたとしか言いようがない出来事だった。しかしバラバラに爆発したのではない――――溶けたのだ。白い靄のようなものに触れた瞬間赤い液体へと変貌し、それが四方に飛び散ったのである。

 花中が目の前で起きた事を理解した時、残りの戦闘機四機も赤い液体へと変わった。しかし自衛隊機を全滅させても白い靄のようなものの広がりは止まらない。

 ついには()()()()()()()()()()()()()()()()

【え、や、ひっ】

 女性リポーターが悲鳴を上げた、次の瞬間――――テレビ画面に砂嵐が走る。砂嵐は数秒後切り替わり、スタジオを映し出したが……そこには唖然とした芸能人と司会進行役の顔が映るだけ。

 悲鳴を上げた次の瞬間には砂嵐だった。そう、次の瞬間としか言いようがないほど短い時間だ。だけど花中は見てしまった。

 白い靄のようなものが迫る時、恐怖に慄いたカメラマンが後ろに下がったのか、映像が『後退』した。開かれたヘリコプターのドアから撮影していたであろう映像が退かれ、遠くなった紅蓮の大地と共に映し出されたのは大きく仰け反る女性リポーターの姿。

 そして瞬きするほどのほんの僅かなうちに白い靄のようなものは取材ヘリと接触し、カメラマンよりも開かれたドアに近かった女性リポーターが――――

「う、ぶ、おぶぇぇ……!」

「お、大桐さん!?」

「あら、はなちゃん見えちゃった感じ?」

「想像しただけじゃないですか? 花中さんのメンタルへっぽこですし」

 脳裏を過ぎった『リアル』な光景に、花中は吐き気を抑えられなかった。畳に吐瀉物を撒き散らしてしまう。

 大変汚らしい姿を見せてしまったが、あの光景が見えなかったようである ― 或いはフィアが言うように自分が『想像』しただけか ― 晴海が迷わず駆け寄り、背中を擦ってくれた。フィアも花中の傍に寄り添い、素手で花中の口許を拭う。畳にぶちまけてしまった胃の中身も、フィアは素手で触れて全部余さず『回収』。畳には染み一つ残らず、綺麗になった。

「ご、ごめん、なさい……汚しちゃって」

「別に胃の中身を出したぐらい汚くもなんともないですよ」

「大丈夫、大桐さん? 体調悪いなら、部屋で休んだ方が……」

「いえ、もう大丈夫です……うぷ」

「……本当に?」

「……ごめんなさい。やっぱ、ダメです」

 少し強がってはみたが、吐き気は治まってくれない。脳裏にこびりついたグロテスクな光景が本物なのか想像なのかは判別出来ないが……いずれにせよ吐き気が治まるまではろくに頭を働かせられないだろう。

 時間的猶予があるかは分からないが、こんな状態ではろくな考えが浮かばない。下手な考え休むに似たりとは昔の人々の格言だ。短時間でもしっかり休んでから考える方が、このまま考え込むより遙かにマシに違いない。

「花中さん私の手に掴まってください。部屋まで送りますから」

「うん……ありがとね、フィアちゃん」

 フィアが差し出してきた腕に掴まり、花中はゆっくりと立ち上がる。気持ち悪さが体幹を揺さぶり足下が覚束ないものの、フィアがしっかりと支えてくれたお陰で転ぶ事はなかった。

 ちょっとの情けなさと大きな感謝を抱きながら、花中はフィアと共にゆっくり自室へと向かう

「はなちゃん、ちょっと待って」

 最中、ミリオンが花中を呼び止める。

 呼び止められた花中は足を止めた。正直まだまだ吐き気が止まらず、身体を動かすだけでもしんどい。このまま無視して行ってしまおうか、という邪念が脳裏を過ぎってしまう。

 それでもミリオンの方へ振り返る事が出来たのは、ミリオンの一言が何か、切羽詰まっているように聞こえたからだ。

「……はい……なんでしょう、か……」

「花中さんは体調が悪いんです。どーでも良い事で呼び止めないでもらえませんか?」

「ええ、そうね。どうでも良い事なら謝るわ……ただ、そうじゃない気がするから止めたのよ」

 フィアが睨むような視線と共に憤りを露わにするも、ミリオンは平静は崩さず。静かにテレビを指差す。

 ミリオンが示したテレビには今、報道番組のスタジオが映し出されている。司会進行役や芸能人はまるでドッキリを仕掛けられた一般人のように動揺し、呆けた顔で右往左往していた。撮影カメラの前をスタッフが遠慮なく通り過ぎ、喧騒ががやがやと聞こえてくる。「どうしたの?」「何? 何があったのよ」という音声は、芸能人達の襟元に付けられたマイクが拾っている声か。普段ならばあり得ないような『失態』が、続々と繰り広げられていた。

 取材ヘリが一機……あくまで現時点では『恐らく』だが……失われ、搭乗員も全滅したのだ。スタッフやリポーターとは誰もが顔見知りだろうし、私的な関係を築いていた者も居ただろう。彼等が動揺するのも致し方ない……最初テレビ画面に映る混乱を見た時、花中はそう思った。

 だが、しばらく見ていると何かが違うと気付く。

 司会進行役の下に、スタッフがたくさんの紙を運んでくる。どれなんだよ、という悪態が聞こえてきた。スタッフが指差しながら何かを伝えると、冗談だと言ってくれ、という声も聞こえてくる。

【……ここで、速報が入りました】

 しばらくして、司会進行役である若い男性アナウンサーが語り始める。その身体はテレビ越しからも分かるぐらいガタガタと震え、顔はすっかり青ざめていた。

 何か恐ろしい事が語られる。花中はそう予感した。

 予感はしたが、それがどれほど恐ろしいかまでは分からない。大桐花中は超能力者ではないのだから。

 故に、

【現在、世界各地で巨大な怪物の出現が確認された、との速報が入りました】

 司会進行役の震えた声に、花中は血の気が一気に引いていく。

【現時点までに把握出来たものとして、アメリカのユタ州、オーストラリアのダーウィン州、中国のチベット自治区、ロシアのアルハンゲリスク州、イランのテヘラン州、イギリスの……】

 司会進行役は続々と、国と地域の名前を挙げていく。何が現時点までに把握出来たものだ。本当はこれで全部なのだろう。全部なのだと言ってほしい……

 花中は心の底からそう祈った。だからこそ理解してしまう。司会進行役である男性アナウンサーもまた、自分と同じような顔をしていると。彼もまた祈る者なのだと。

 つまりは、まだまだいるのだ。

 そして最後の希望を打ち砕く、番組のスタジオのモニターに映し出される動画。

 動画に映るのは針葉樹林。針葉樹は広葉樹が苦手とする寒冷地でよく森林を形成する事から、この地が比較的寒い地域なのではと予想させる。しかし少なくとも動画を撮影した時、その針葉樹林は熱帯雨林より熱くなっていた筈だ。

 何故なら森は激しく燃え上がっていたから。燃える木々の下には赤く発光するどろどろとした液状のもの……溶岩が満たされている。

 森からはクマやシカ、ウサギや鳥が大慌てで逃げ出していた。捕食者と被食者が隣り合っていたが、どちらも相手に見向きもしない。それほどまでに必死な様子で、兎に角森から急いで離れようとしているのが花中にも伝わった。みんな頑張って、と無意識に応援したくなる姿だ。

【バルォオオオオオオオオォンッ!】

 そんな健気な想いを吹き飛ばす、おぞましい雄叫びがテレビより響く。

 燃え盛る森。その奥地で紅蓮の液体が噴出しており……紅蓮の液体の中心には巨影が佇む。

 あり得ない、そんな馬鹿な、居る訳がない。

 花中の脳裏を否定の言葉が駆け巡る。「嘘よ、こんな……」……和室に居て、同じくテレビを見続けていた晴海もその映像を拒むように呟いた。テレビのスタジオに居る芸能人達も顔を青くし、引き攣らせ、花中達と心を一つにする。されど花中達がどれだけ拒絶しても現実(映像)は何も変わらない。

 そう、この世界は人間に優しくない。人間がどれだけ祈ろうが、想おうが、自然は全てを無遠慮に踏み潰す。幾度となく人類に突き付けられた事実であり、今回も同じ事を改めて突き付けられたに過ぎない。

 ただ今回は、今までよりもちょっとばかし苛烈なだけだ。

「世界各地に最低でも七体、東京に現れた化け物と同種の生物が出現。いやぁ……笑えてくるわね」

「笑えないっつーの」

「これはまた久しぶりに本当の本当にマジにならないとヤバいやつですねぇ」

 淡々と言葉を交わす生き物達。ありのままを受け入れられる彼女達の方が、『万物の霊長』を自負する人間よりも先に現実を理解した。

 地中奥深くより現れた、脅威の生命体。

 それが今、地上の至る所に現れたのだと――――




魔物の特盛り大盤振る舞い。
やり過ぎ? 良いんです、本作もそろそろクライマックスですし。

次回は明日投稿予定です。


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地獄の魔物4

 日本の首都である東京が怪物によって溶岩の海に沈んでから、凡そ一時間が経っただろうか。テレビは東京の怪物と同時刻に現れた怪物達についても報道していた。スマホの普及や映像機器の進歩により、世界各地でその姿が撮影され、テレビ局にその動画や写真が送られてきているらしい。

 プロが撮影したものもあれば、一般人が撮ったものもある。動画や画像の質はピンキリで、中には手振れが酷くて悲鳴しか聞き取れないようなものや、ピンボケ写真のようなものまであったが……ちゃんと撮影されたものには、どれも『そいつ』の姿がハッキリと映し出されていた。

 東京を溶岩の海に沈めた、あのおぞましい怪物と同じ姿が。

 それを理解した時、花中から気分の悪さは吹っ飛んでいた。人間がどろどろに溶かされた瞬間を目にした ― もしくはそう思い込んだ ― というのに、いざ本当に恐ろしいものを突き付けられれば我に返る。人間の精神というのは、人間自身が思うより頑丈かつ薄情な生き物らしい。それとも自分だけがそうなのか……花中はふとそんな事を思った。

「……大桐さん。これ、どうしたら良いと思う?」

 幸いにして、あまりの事態に冷静さを取り戻したのは晴海も同じようだ。落ち着いた口振りで尋ねられ、花中はほんの少しの安堵を覚える。

 尤も、胸に渦巻く動揺と比べれば本当に小さな安堵なのだが。

【り、臨時報道です。今度はフランスでも目撃情報があり……み、南アフリカにも?】

 テレビのアナウンサーはおどおどしながら、スタッフから運び込まれる情報をただただ読み上げる。時折スタジオからは女性のヒステリックな悲鳴と、男の喚くような声が聞こえてきた。最早この番組が全国に報道されているという事すら、彼等は失念しかけているらしい。

 平時ならば笑いのタネにもなっただろうが、世界中に怪物が同時出現となれば誰だって彼等のようになるだろう。いよいよこの世の終わりが、現実になろうとしているのだから。むしろ動揺しながらも淡々とニュースを読み上げるアナウンサーは、立派に職務を果たしているといえる。花中達も、彼のお陰で世界情勢を知る事が出来るのだ。どれだけ感謝してもしたりない。

 現在までに確認された、東京に出現したものと同種と思われる怪物の数は()()()()

 これでも未だ情報が続々と集まっているのが現状である。しかも情報が錯綜している中、映像などで存在が証明されたものだけでこれだ。下手をしたら三桁の大台に届く事も十分に考えられる。

 既に幾つかの国では怪物に対し、軍による攻撃が行われたらしい。人類と怪物の戦いが本格的に始まってから、既に一年も経っている。迅速な対応はとても心強い……が、相手は五百メートル級の種だ。たった数十メートルの怪物すら倒せない人類に、到底勝ち目のある相手ではない。奴等を撃退した事例はなく、発せられた『力』により一瞬で壊滅したという。

 軍隊をも壊滅させた怪物達は地殻より多量のマグマを引き連れ、周辺環境を焼き払っているらしい。怪物の進路上に都市部が存在するケースもあり、避難が進められているが……巨大な怪物は時速数百キロもの速さで移動しているという情報も出ている。数十万もの人々を逃すにはあまりに時間が足りず、その事実が人々のパニックを誘発して一層避難の遅れを招いているようだ。

 こんな状況を、どうにかする?

「……今から、サバイバルの訓練をする、とか。これから激変する、環境の中でも、生き残れるように」 

 花中にはなんの案も浮かばず、諦めた口からはジョークが出てきてしまった。

「……打つ手なしって事?」

「正直、わたしには、今すぐ彼等を追い返すような、方法は、思い付きません」

「そんな……だって、じゃあ、どうしたら……」

 告げられた内容を受け入れられないのか、晴海の口から出てくるのは問うような言葉ばかり。しかし花中だけでなく、フィアもミリオンもミィも答えない。

 誰にも分からないのだ。この恐ろしい災禍を食い止める術など。

 むしろ花中の方が知りたいぐらいだ。冗談抜きに、これは人類世界の終焉を招く可能性が高い。

 怪物によって衰退を迎えている今の日本に、失われた大都市を再建する体力はない。此度の災禍で国内の生産力が壊滅状態になれば、そう遠からぬうちに全国の経済とインフラが維持出来なくなるだろう。貧困と生活苦が限界を迎えれば、次に待っているのは秩序の崩壊。無秩序が全国に波及し、動乱による悲劇が憎悪を呼び、かつての同胞が暮らしを脅かす敵となり……やがて日本という国の枠組みが喪失するだろう。

 そして世界中でこれが起きている。難を逃れた国だって、怪物騒動そのものと無縁な場所なんて何処にもない。援助を出すどころか求める立場だ。一度蹴躓いてしまったら、もう再起の方法は何処にもないのである。強いて安心出来る要素があるとすれば、誰もが自分の事で手いっぱいなため他所に侵略される心配がいらない点ぐらい……今後迎えるのは、他国の独裁者に統治される方が遙かにマシな情勢だろうが。

 加えてあの怪物達の『出現方法』が大問題だ。

「まぁ、思考停止もしたくなるわよねぇ。仮にあの怪物を今この瞬間根絶やしにしたところで、最早この事態は収まらないでしょうし」

「な、なんでよ……?」

「アイツらが溶岩引き連れて、あっちこっちで自然環境を破壊しまくったからよ。今まで辛うじて保たれていた生態系も、アイツらが出現した時点で滅茶苦茶になった。つまり自然のバランスが崩れる事が確定した訳。これからは、これまで以上に怪物が出現するわ」

 まぁ、このままいけばふつーの怪物程度なら絶滅しそうだけど。笑えないミリオンのジョークに、晴海が引き攣った声を漏らしたのを花中は聞き逃さなかった。

 何故一年ほど前から『怪物』が出現するようになったか。確たる証拠はないが……二年前に起きた異星生命体事変が原因だというのが、花中のみならず多くの科学者の見解だ。生態系の仕組みにより大発生や移動が抑えられていた怪物達が、異星生命体と『超生命体』の戦いの余波による環境変化やある種の絶滅により、生息地から溢れたという事である。

 地中より現れた生命体も、異星生命体事変と同じ事をしでかしている。大量の溶岩と共に地上に現れた事で、森林などの環境が焼き払われた。溶岩に含まれる硫黄化合物や二酸化炭素により、大気組成や気候も大きく変化するだろう。更なる自然破壊により、これまで以上に多量の怪物が人間社会に現れる筈だ。その大量の怪物が都市を破壊し、破壊により生じた二酸化炭素などの物質が自然のバランスをまた崩し――――

 ポイント・オブ・ノーリターン。

 本来『引き返し不能点』という意味であるその言葉は、自然保護において「もう何をやってもどうにもならない時」を指す。かの怪物の出現は、どう考えてもこの一線を越える最後の後押しだ。

「つまり、何よ……アイツらをなんとか倒しても、もう地球は終わりって事!?」

「別に地球は終わらないわよ。アイツの目的が何かは分からないけど、ちょっと自然を壊す程度なら怪物が今以上に闊歩して人類文明が滅びるだけ。仮にPT境界並の大気候変動を起こしても、生物種の九割が滅びる程度。一億年も経てば多様性は元に戻るわ」

「そんなの人間からしたら地球が滅びたのと同じよ! そんな事になったら、あ、あたしも、みんなも……もう……ぅ、うう……!」

 感情的に声を荒らげた晴海は、やがて嗚咽を漏らし、項垂れ、しゃがみ込む。世界の終わりを告げられたのだ。今頃晴海の頭の中には自身や家族、友人達の死が過ぎっているかも知れない。悲しみや恐怖で泣き出してしまうのが普通だろう。

 けれども花中は泣かなかった。

 臆病で、恐がりで、何時も怯えている花中だが……だけど数多の超生命体達と出会ってきたからだろうか。近々人類文明の終わりが来る事をずっと前には予感していたし、その終わり方が穏やかなものではなく、ただ一種の破局的活動によって起こされる可能性もなんとなく考えていた。

 正直なところ今回の事態はある意味では『想定内』であり、驚きはあれど絶望や怒りはあまり込み上がらない。「ああ、ついに来たんだ」という達観の方が大きいぐらいだ。

 しかし諦めた訳ではない。

「……フィアちゃん。偵察は、出来る?」

「偵察? あー東京に現れた奴の動きを見てこいって事ですか?」

「ううん、そっちじゃなくて。何処でも、良いけど……日本以外に現れた個体を、見てきてほしいの」

「んー? どういう事ですか?」

 花中がお願いをすると、フィアは首を傾げた。理由がよく分かっていないフィアに、花中は説明する。

「世界中にあの生き物達が、現れているけど、東京に現れたのが、温泉街に居た個体、なんだよね?」

「ええそうです。気配とか力の強さが同じですから間違いありません」

「うん。じゃあ、他の地域とか国に、現れたのは、どんな個体なのかな? ミュータントなのか、普通の個体なのか」

「……ああ成程。確かにそいつらがどうなのかは分かりませんね」

「うん。もしかしたら、全部がミュータントなのかも、知れない」

 逆に、もしかすると……東京に現れた個体も実は普通の個体で、今回の事を画策したミュータントは別にいるかも知れない。

 声には出さなかったが、脳裏を過ぎった最悪の状況に、ぶるりと花中の身体は震え上がる。フィア達の本能を信じていない訳ではないが、相手がミュータントならば何かしらの策や能力を用い、自分の存在を誤魔化している可能性はある。元凶と思しき存在が地上に来ていないとなると、いよいよ手の打ちようがない。しかし目を背ける訳にはいかない可能性だ。

 ここで正しい判断をしなければ、自分達人間が生き残る事は出来ないだろう。

「そうよねぇ。思えば私達は、あの子達について何も知らない訳だし。今のまま戦いを挑むのは、無謀でしかないわ。どいつが元凶なのかを確かめるのもそうだけど、生態もある程度調べないとね」

「はい。それも必要だと、思います。だからこそ、調査が必要です。生態を解明すれば、撃退方法、それが見付からなくても、逃げ方や、共存の方法が、分かるかも知れませんし」

「ふむふむ成程。つまり弱点を探すのですね! 奴等をボコボコにするために!」

「んー。難しい事はよく分かんないけど、つまり東京以外の奴等がどんななのか調べた方が良いって事?」

「……まぁ、そうね。大体そんな感じ」

 花中の言いたい事をちゃんと理解しているのはミリオンだけ。呆れきった表情を浮かべるミリオンに共感し、花中も苦笑いを浮かべる。

「……大桐さん、もしかしてだけど……諦めて、いないの?」

 そんな花中達の話を横で聞いていた晴海が、か細い声で尋ねてくる。

 彼女の震えるような言葉は、まるで英雄を求める少女のよう。絶望的だからこそ、『諦めていない』人の姿になんらかの希望を見出したのか。

 期待には応えたい、が、嘘は吐けない。花中はハッキリとした動きで、首を横に振った。

「いえ、諦めては、います。多分、人類文明は、もうダメだと、思います。彼等の方が、『一手』、早かった。わたしには、ここから逆転する手は、思い付きません」

「そんな……でも、ならどうして……」

「人類文明は終わりだと、思いますけど……でも、人間が滅ぶかどうかは、別ですから」

 晴海の疑問に、花中は強い言葉で答えた。

 確かに、文明の存続は最早不可能だろう。ミリオンが言ったように、『そいつ』らが出現した時点で地球環境はズタズタにされている。今から『そいつ』らを全員討ったところで、今度は地球全域から怪物の総進撃が始まるだけ。いや、『そいつ』らも地球生命の一員である以上、普段は何かしらのバランス維持を担っていた筈だ。考えなしに殺し尽くせば、下手をすれば彼等の出現など比にならない大災厄をもたらすかも知れない。要するにどんな手を打ったところで、もうどうにもならないのである。

 でも、人間だって生物だ。

 PT境界――――地球の歴史上最大の大量絶滅では、全生物種の九割以上が滅んだという。原因は諸説あるが、劇的な酸素濃度の低下と火山活動による大気汚染及び酸性雨の増加、海水温や気温の上昇……これがほぼ同時期に起こるという地獄のような惨状が原因らしい。

 されどこれほどの危機でありながら、哺乳類も爬虫類も、昆虫も甲殻類も生き残った。種レベルでは壊滅的なまでに滅びても、分類群そのものが消失した訳ではない。生命とはそれほど逞しいのだ。

 人間も生命だ。知的生命体なんて()()()()呼び名を自分で付けているが、その前に地球で生まれ、地球で進化してきたサルの一種である。文明などなくとも、厳しい自然環境の中で生き抜く力は未だこの身に宿っている筈。

 人類は『そいつ』に敗北した。もうこれはどうやってもひっくり返らない。

 しかし負け方をマシにする事は出来る。大人しく滅びを受け入れるのまた美学かも知れないが、そんな美学は他の生物からしたらただの阿呆だ。どんなに惨めでも、どんなに屈辱的でも、足掻いて足掻いて足掻き抜いて、次代を繋ぐ……そうしてきたのがこの星の生命である。

 本当の敗北は、自分達が絶滅する事。それが花中の考えだった。

「まぁ、このままだと、多分、人間滅びちゃいますからね。彼等を追い返せば、もしかしたら、ちょっとは希望がある……かも」

「……そう、なのかな。まだ、あたしも、家族も……友達とかも……死なずに、済むのかな」

「全員は、難しいかも知れません。でも、不可能ではないと、思います」

 花中は自分の考えをありのまま打ち明ける。最初は少しぼうっとしているような、現実味がないような顔をしていた晴海だが……不意に、ぼろぼろと涙を零し始めた。

「ふぐ、う、うあああああああ! あだし、あたしまだ、死にたく、ない……!」

 そして大声で泣きながら、花中の胸へと跳び込んでくる。

 恐怖が限界に達したのだろう。いや、むしろここまでよく我慢したものだ。花中のように人類が薄氷の上で栄えている事を以前から知っていたなら兎も角、怪物の出現という漫然としたものでしか理解しておらず、挙句今日になっていきなり最早手遅れだと告げられたのだ。遠回しに近々お前は死ぬと告げられたのも同然。それもおぞましい怪物に殺されるか、飢えや寒さで野垂れ死ぬかの二択である。安らぎも尊厳もない死に迫られたなら、恐怖に震えるのが普通なのだ。

「ひぐ、ひっ、う、うぐ、うぅ……!」

「……守りますとは、約束、出来ません。わたしに、なんとかする力は、ありませんから……でも、出来るだけ頑張ります」

 嗚咽を漏らす晴海を、花中はぎゅっと抱き締める。偽りの言葉で安心させようとはしない。晴海なら、過酷な現実を受け入れられる勇気があると信じていたから。

 晴海が泣いていたのは五分か、それとも十分は経っただろうか。あっという間のようにも感じられた時間が過ぎ、おずおずと晴海は顔を上げる。目許だけでなく頬まで赤くなった顔を、晴海は花中から隠すように逸らした。

「ご、ごめんなさい。なんか、その……変に、思い詰めちゃったみたいで」

「いえ、普通の反応だと、思います。わたしは、まぁ、変に慣れちゃった、だけですし」

「むぅー。泣き止んだなら花中さんから離れてくれませんか? そこは私の特等席なのですから」

 泣き止んだ晴海と少し話を交わした辺りで、フィアが我慢ならないとばかりに割り込んできた。両手を花中と晴海の間に突っ込み、晴海を押し出して自分が花中の前へと居座る。次いでぎゅうっと力強く抱き締め、ご満悦な笑みを浮かべた。

 どうやら花中を取られてヤキモチを焼いたようだ。ワガママかつ自由な友達に、花中はくすりと笑みを零す。晴海も最初は少し不満げだったが、しばらくして呆れたように肩を竦め、すぐに笑みを浮かべていた。

「友情ごっこは済んだ? やるなら出来るだけ早く始めた方が良いと思うのだけど」

 むしろ一番のお邪魔虫は、毒舌混じりのミリオンだろう。

 割とムカッとくる言い回しだが、しかしその言い分には一理ある。出現した怪物達の目的は不明だが、時間が経てば何かを……それこそ直ちに人類が滅びるような事をしてくるかも知れない。暢気に友情を育んでいる暇などないのだ。

 言い方に怒るのは後回し。今は行動を優先すべき時である。

「……はい。えと、ミリオンさんと、ミィさんも、何処でも良いので、あの怪物が現れた、地域に、出向いて、様子を見てきてほしい、です。時間が惜しいので、手分けしましょう」

「ま、そうなるわね。良いわ、私は異論なし」

「あたしもOK。観察するだけならなんとかなるっしょ」

「ありがとう、ございます。それで、立花さんは――――」

 申し訳ないけど留守番を頼みたい。此度の相手はフィア達でも勝てるかどうか分からぬ存在なのだから。

「勿論、あたしも手伝うわよ!」

 そう伝えようとした花中よりも先に、晴海は自らの意思を表明した。

 花中は驚き、目を見開く。自分達の中では一番『常識的』である筈の彼女のアクティブな言葉は、花中にとって予想外のものだった。

「えっ!? え、でも、あの」

「危ないのは承知してるわ。巻き込まれて死ぬのだって勘弁。でも、もしかしたら人類が滅びるかも知れないのに、何もしないでいるなんて出来る?」

「それ、は……で、でも」

「少しでも情報はあった方が良いでしょ? 確かにあたしにはフィア達みたいに鋭い感覚はないけど、でも弱い人間だから気付ける事もあるかもよ?」

「うぐっ」

 なんとか言いくるめられないかと考える花中だったが、逆に晴海の意見に押し負ける。晴海の言い分は正論だ。人類の危機だからこそ、一片たりとも情報を逃してはならない。もしかすると人間にしか感じ取れない情報があるかも知れないのだから、人間の協力者は居た方が良いに決まっている。

 晴海も誰かと共に行き、調査に参加してもらうのが人類にとって最も有益な選択だ。そして()()()()()事に、ここで問答をしている時間的余裕はない。

「……ご両親の許しは」

「スマホなんて今は通じないわよ。みんな、一斉に連絡取ろうとしてるから。だから無理。許可も不許可も、ね」

 せめてもの足掻きとして吐いた台詞も、一瞬で切り捨てられる。

 花中は大きく息を吐く。ため息ではなく、己が覚悟を決めるための吐息だ。

「……分かりました。あの、ミリオンさん。立花さんを、お願い出来ますか」

 決心した花中はミリオンに晴海を任せようと考える。フィアは自分と一緒に行きたがるだろうし、ミィの身体能力を活かすには『脆弱』な人間など傍に居ない方が良い。ミリオンが晴海のパートナーとしては最適に思えた。

「任せときなさい。あんまりヤバくない限りは守ってあげるわ」

 そんな花中の考えをすぐに察したミリオンは、淡々とした口調でこう答える。

 つまり本当にヤバければ見捨てるつもりらしい。

 花中はちらりと晴海の方を見遣る。晴海はこくりと頷き、ミリオンの言葉の意味を理解したと伝えてきた。花中としては言いたい事がたくさんあるものの、しかし晴海の覚悟を無下にしたくなく、その想いをぐっと押し込んだ。

 これを堪えてしまえば、語るべき言葉は一つだけ。

「……よろしくお願いします」

「可能な限り善処するわ」

 頭を下げて頼む花中に、ミリオンは普段通りの口調で応える。

「さぁ、みんな行きましょ。時間は有限なんだから」

「ふん。あなたに仕切られずともやりますよ。さぁ花中さん一緒に行きましょう」

「あたしは何時でも良いよー」

 左程緊張していない声で口々に語りながら、フィア達は動き出す。フィアが花中を抱き上げ、ミリオンが晴海の手を掴み、ミィは一匹準備運動を始めた。

 残る人間二人は顔を見合わせ、同時にこくりと頷いた。身支度は必要ない。後は花中の一言があれば、全員が動き出す。

【こ、ここで政府からの発表が入りました!】

 そうして口を開けた花中の耳に、テレビの男性アナウンサーの声が聞こえてくる。そういえば消し忘れていたなと世俗的な事を思い出しながら、ふとその音声に耳を傾けた。

【日本政府は対策本部を設置。世界各国と共同で対処に当たると発表しました。また今回現れた生物を、今後は、ムスペル、と呼称するとの事です】

 男性アナウンサーからの発表には、地中より現れた怪物の『名』が含まれていた。

 ムスペル。

 確か北欧神話に出てくる炎の巨人の名前だったか。世界の終末の際、軍勢を率いてやってくるという。地の底より溶岩と共に現れ、数多の同種が出現する様は、成程実に神話の描写そのものである。

 生憎、『神様』と呼べるような化け物には見慣れているのだ。この程度で花中は怯みはしない。

 フィアに頼み、テレビを消してもらう。音声が消え、大桐家の中を静寂が満たした。

「……行きましょう。あの怪物……ムスペルについて、調べましょう!」

 その静けさの中では、花中のそこまで大きくない声もよく通る。

「分かりました」「ええ」「あいよーっ」「やってやるわ!」

 花中の号令を受け、三匹と一人はバラバラに返事をした――――大桐家から『人』の姿が消えるのに、それから瞬きほどの時間も必要としない。

 人間と人外達による調査が始まったのだった。

 

 

 

 というような事が大桐家で行われた、ほんの三十分後。

「な ん な の よ ! この寒さはぁぁぁぁぁ!?」

 晴海が、不満を爆発させたような叫びを上げていた。

 晴海が立つ地は冷たい雪に覆われ、白く色付いていた。その視線を少し上げれば、視界を埋め尽くす木々の壁が見える。真っ直ぐに伸びた幹、寒さの中でも濃い緑を保っている葉……典型的な針葉樹だ。更に視線を上げて空を見上げれば、どんよりとした雲が広がっている。

 つまりは極めて寒い環境な訳で。

 そんな環境下に長袖とはいえ可愛らしいセーラー服姿で居れば、寒いに決まっているだろう。

「そりゃそんな格好してればねぇ」

 晴海の傍に居るミリオンは、極めて真っ当なツッコミを入れた……正確には、真っ当に聞こえるだけなのだが。

 何しろこの地に晴海を連れてきたのは、ミリオン当人なのだから。

「アンタが行き先も告げずにこんな場所に連れてきたんでしょぉが!? 知ってたら厚着の一枚ぐらい羽織ってきたわよ!」

「そう? でも私ちゃんと言ったわよね。ちょっと北の方に行くって」

「北海道より更に北はちょっととは言わない!」

 キョトンとした様子で答えるミリオンに、晴海は感情を剥き出しにしながら叱責する。と、ミリオンはくすくすと笑い出した。絶対分かっててやったなと、案外『イタズラ好き』なミリオンの一面を知った晴海はがるると唸る。

 此処はロシア連邦に属する州の一つマガダン。

 極めて寒冷な地域であり、面積の四分の三をツンドラと寒冷地に適応した樹木による森林が占めている。十月でも平均気温はマイナス一度になり、セーラー服一枚で来るような場所ではない。

 では何故晴海はこんな場所に連れてこられたのか。

「まぁ、そのうち嫌でも暖かくなるわよ。ほら、すぐそこまでやってきた」

 その『目的』が傍までやってきたと、ミリオンは指を指して教えてくれた。

 視界を埋め尽くす樹木……その奥で、煌々とした赤い輝きがある。

 輝きは極めて強く、曇り空までも朱色に染め上げ、夕焼けのような景色を作り出した。一見して美しい風景だが、まるで怪物の唸り声のような地鳴りが一緒ではとても堪能する気になどなるまい。

 森からはふわりと風が流れてくる。とても暖かく、乾いた風。この極寒の地においては大変ありがたいそれを受け、晴海はぞくりとした悪寒を覚える。

 刹那、森からたくさんの動物が現れた。

 最初に現れたのはウサギやキツネ、ネズミなどの小動物の類。それも地面を埋め尽くすという言葉が比喩でないほどの、圧倒的大群であった。どの動物も余裕など感じられない全力の速さで駆けており、草食動物が肉食動物を押し退けて前に行くという滅茶苦茶な光景が繰り広げられている。群団を形成するのは哺乳類だけでなく、虫やトカゲ、カエルなども混ざっていた……雪が積もるような環境では、変温動物である彼等は普通冬眠しているのではないか? 暖かな風により目覚めた? 場慣れした花中なら疑問の一つも覚えたかも知れない。

 しかし晴海にとって、こんな生き物大群団を目の当たりにしたのは……四ヶ月前の温泉での出来事が始めて。加えてあの時の生物は妙に間が抜けてて、この大群のように鬼気迫る雰囲気などなかった。此度の生命が発する迫力に押され、晴海の頭の中は真っ白になってしまう。

 ましてや小動物に続くように、森からクマやシカまで出てきたなら、そんな『些末』な事を気にしている余裕などない。

「ひっ!?」

 晴海は悲鳴を上げ、ミリオンにしがみつく。ミリオンは微動だにせず、真っ直ぐ森を見据えるだけ。

 動物達はミリオンを避けるように動き、晴海達が彼等の体当たりを受ける事はなかった。動物達は何処かに向けて去って行く。その先にはもしかすると人間の町があるかも知れず、動物達と人間の間で一悶着ある可能性も否定出来ない。

 だけどそれ以上に、人間が町からとうに逃げ出している可能性の方が高いだろう。

【バルォォォオオオオオオオォンッ!】

 『生物』の鳴き声が、森の奥より響いてくる。

 晴海はこんな声で鳴く生物を知らない。いや、勿論テレビでは何度も流れていて、聞いてはいる。だから理性的には結び付くのだが、感覚的には違った。

 その雄叫びは身体の芯を、感情を揺さぶる。

 抗ってはならない。刃向かってはならない。『奴』はこの星で最も強大な生物なのだと本能が理解する。人間が何をしたところで、この化け物には太刀打ちなんて出来やしない。人間に出来るのは奴に背を向け、がむしゃらに走り続ける事だけ。

 晴海が肉体より沸き立つ衝動に支配されかけた、瞬間、()()()()爆音が聞こえてきた。連続した爆発だ。かなり遠くで起きているのか音自体は小さいものの、身体にはなんとなくだが衝撃が伝わってくる。相当強烈な爆弾……それを大量に用いた『攻撃』なのは間違いないと晴海は確信する。

「どうやら人間の軍隊が戦ってるみたいね。私達もちょっと様子を見てみましょ」

「え? 様子って、うひゃあっ!?」

 ミリオンも晴海と同じ結論に至り、されど「危ないから離れていよう」と思った晴海とは違う指針を立てたらしい。返事を待たずに晴海の手を掴むと、ミリオンは飛行機のような速さで空へと飛び上がる。

 本来なら慣性により晴海の内臓はぐちゃぐちゃにされるだろうが、体内にミリオンの個体が何十兆と入り込み、全身の細胞を補強してくれている……らしい。日本からロシアへ移動中聞かされた話を、晴海は今になって思い出す。あの時の移動は音速の数倍もの速さだったため、肉体的には無事でも精神的に半分死んでおり、今の今までその話はすっかり忘れていた。

 軽やかに高度数百メートルの高さまで上がるとミリオンはその場で静止。どのような力を使っているかは不明だが、ふわふわと晴海と共に空中を漂う。恐らく人類でも経験した人は殆どいない、正真正銘の空中浮遊。平時ならば、晴海も興奮しただろう。

 だが、今は違う。

 ――――燃え上がる森の中心に、真っ赤な池が出来ている。

 池はガスを漂わせ、ぼこぼこと泡立っていた。触れた木々をたちまち燃やしてしまう熱さを伴ったそれは、ゆっくりと、だが着実に広がっている。あたかも己の支配圏を拡大するかのように。

 そしてその中心には佇む異形の怪物の姿があった。

「ムスペル……あれが、アイツが……!」

 世界を終わらせる巨人。

 正真正銘の『怪物』の姿を、晴海はついに肉眼で目の当たりにしたのだ。

【バルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォンッ!】

 晴海が見ている前で、一際大きな咆哮がムスペルの大口から発せられた。

 生の鳴き声はテレビで聞いたのとは比較にならないほどの、身体が芯から震え上がる重厚感があった。まるで何十と用意したラッパを一斉に吹き鳴らすような、或いはピアノの全ての鍵盤を同時に力いっぱい叩くような、そんな鳴き声だ。

 しかしその鳴き声など比較にならないほど存在感を示すのが、圧倒的な巨体。

 溢れ出した溶岩の上で平然としている五百メートルもの身体は、ただ大きいというだけで、これまで経験した事がない強い恐怖を晴海に植え付けてきた。

「ひっ……あ、あんな生き物が、居たなんて……」

「ムスペルって北欧神話に出てきた巨人よね。そこから引っ張ってくるなんて、随分クールな名前の付け方するわねぇ日本政府も。それともヨーロッパ発なのかしら? 各国政府と連携を取るとか言ってたし」

 怯える晴海の手を掴むミリオンは、世間話のように語りながら肩を竦める。ミリオンと共に空高く飛んでいる晴海には、そんな肩の動き一つでも少なくない不安を覚えた。

 しかし怯え、震えているような暇はない。自分が此処に来たのは、ムスペルがどんな生物であるかを調べるためなのだ。晴海はこれまで『怪物』と呼べる存在と遭遇した事がなく、どんなものが重大な情報になるか全く分からない。いや、世界中に現れた多種多様な怪物達の姿形から察するに、共通するものなんてきっとないのだろう。

 ましてやムスペルは、なんの仲間なのかも分からない種。一見して些末な行為が、生物学的に重大な意味を持っている可能性も否定出来ないのだ。全ての行動をこの目に焼き付け、詳しい者(花中)に伝える必要がある。

 そう、決して目を逸らしてはならない。瞬きだって出来るだけしない方が良い。

「あら、ロシア空軍かしら」

 けれどもミリオンが淡々と漏らしたこの言葉により、晴海は反射的に視線をムスペルから外してしまう。

 意図せず目を向けた空には、激しいエンジン音を鳴らしながら飛行機が飛んでいた。軍事兵器には詳しくない晴海だが、細長くて小さな形は旅客機のものでない事は一目瞭然。間違いなく戦闘機だ。見れば空のあちこちを飛んでいて、ざっと五十機はある。

 ついつい眺めていると、一機の戦闘機から唐突に白い煙が出た。事故か、と思ったのも束の間煙は戦闘機よりも速く直進。煙の先に小さな塊が見え、それがミサイルだと晴海は理解する。

 他の機体も次々とミサイルを撃ち、その全てがムスペルに命中。人間どころかコンクリート製の建物だって一撃で粉砕するであろう、大爆発が無数に起きる。更には何機かの戦闘機がムスペル目掛け何かを落とし、やがてムスペルと接触した何かは、ムスペルを覆い隠すほどの大爆発を起こした。

 凄まじい攻撃だ。人間というのはこんなにも強いものだったのか。本能的には今でも人間の勝ち目なんてないと思っているが、理性ではこの爆発に耐えられるものなどないと思える。これほどの攻撃なら、倒す事は無理でも怪我の一つぐらい負わせられるのでは……

 人類の強さに希望を抱く晴海だったが、晴れた爆炎の中から『現実』が顔を覗かせる。

 ムスペルは無傷だった。いや、それどころかキョトンとした様子で、何をされたかも分かっていないようにすら見える。精々周りを漂う煙が鬱陶しいぐらいで、顔を左右に振って煙を吹き飛ばしていた。

 人類の攻撃がまるで効いていない……晴海の目にも明らかな事を、ロシア軍が分かっていない筈もない。そして爆発は先程からずっと続いていた。ミサイルや爆撃はもう何百発も喰らわせていて、それでもムスペルは健在なのだろう。空軍の攻撃では埒が明かないのは明白。

 人類が『切り札』を用いるのも致し方ない。

 唐突に、戦闘機達はムスペルから離れるように飛んでいく。晴海には一目散に逃げているとしか思えない、物凄い速さでの離脱だ。しかし攻撃も受けていないのにどうしてそんな大慌てで逃げるのか。

「……おっと、これは危ない」

 考え込んでいると不意にミリオンが独りごちた、刹那、晴海の視界は真っ黒に染まった。

 何を、と反射的に声を上げる前に、ずどんっという音と震動が晴海の身体に伝わった。大きなものではなかったが……芯が震えるような、重みのあるものだった。

 最初の音と震動は十数秒ほどで収まったが、その後何度も何度も立て続けに続いた。凡そ一分は経っただろうか。やがて震動も音もなくなったが、晴海の視界は何時までも塞がったまま。全く何も見えない。

 手足を動かしてみれば、晴海は自分がなんらかの球体の中に居ると気付けた。視界が塞がれているのではない……よく分からない場所に閉じ込められているのだ。

「ちょっとミリオン!? 何してるの!?」

 これはきっとミリオンによるものだろう。そう考えた晴海はミリオンを問い詰めた。

 実際犯人はミリオン以外にあり得ない。微細な個体の集合体である彼女は、個体の幾らかを晴海の周りに展開し、取り囲んでいた。

「ああ、ごめんなさいね。ちょっと水爆が飛んできたから、一言訊いてたら間に合わないと思って」

 そしてミリオンはそれを隠しもせず、淡々と打ち明ける。が、晴海の頭はようやく返ってきた答えの大半を聞き流した。

 文全体の意味よりも、『水爆』という一単語の方が遙かに重大なのだから。

「……す、すすす、すい、水爆!?」

「ええ。さかなちゃんが平気だから私もいけると思ったけど、案外どうって事もないわね。直撃を二発ほどもらったけど、結構へっちゃらだったわ。自分でも知らないうちに強くなったものねー」

「直撃したの!? えっ!? ほ、ほ、放射能とか、そういうのは……」

「なんのための全身包んでるのよ。放射線ぐらいカット出来るから安心なさい」

 慌てふためく晴海を、落ち着いた口調で宥めるミリオン。確かにもしもそのままの放射線を浴びていたなら、きっと今頃自分は死んでいるだろう。少し、晴海は落ち着きを取り戻す。

 しかしまさか水爆を使うとは。それも震動の数からして、何発もぶち込んだのだろう。これならば或いは……

 そんな希望を抱きかけて、晴海は首を横に振る。

 二発直撃を受けたというミリオンが「大した事ない」と言っているのだ。彼女さえも警戒する存在が、どうしてこの水爆で倒せるというのか。

「さぁて、立花ちゃんはちょっと離れたところに行っててもらえる? どうやらあの子、私と遊びたいみたいだから」

 最悪の事態を想定していると、ミリオンから不意にそんな言葉を掛けられる。

 同時に、晴海を包んでいる球体が動き出す。何処に向かっているかは分からないが、晴海が向いている方……ムスペルが居た場所とは反対側に進んでいるのは感じられた。

「み、ミリオン!? 何を……」

「別に帰れなんて言わないわよ。ちょっと遠くで、私達の遊びを見ていけば良いって話。大丈夫よ。私の勘が誤ってなければ、コイツ相手ならどうとでも出来るから」

 ミリオンは気軽な言葉を送り、晴海を包む球体は飛行機のような速さで飛ぶ。

 数分後急停止した球体は開かれ、晴海の身体は外気に触れた。放射線は大丈夫なようで、即死したり苦しくなったりはしない。開かれた球体はあたかも絨毯のように広がり、晴海が空高い位置に居るための足場となる。

 お陰で彼方に陣取るムスペルの姿がよく見えた。奴が乗っていた溶岩は今やほんの僅かで、周りには幾つもクレーターが出来ている。被害を免れていた森もかなり吹き飛んだようだ。障害物はなく、『これから』起きる事を観察するのに支障はないだろう。

 だがそれよりも今は。

「ミリオン!」

「はぁい、呼んだ?」

「どぅおえぃっ!?」

 思わずその名を大声で呼び、しかし直後背後から返事をされたものだから晴海は跳ねるぐらい驚いた。

 振り返れば、晴海が乗っている絨毯からニョキッとミリオンが()()()()()。そういえばあの球体はコイツ自身だったと、晴海は今更ながら思い出す。心配して損した、とまでは言わないが、安堵の気持ちが芽生えた。

 とはいえミリオンが『やる気』なのは変わらない。

 だから晴海は前へと向いた。ムスペルの姿を直視すると身体は自然と震えてきたが、それでも目を背ける訳にはいかないと自分に言い聞かせる。

 これより始まるものをしかと見て、何があったかを理解する。

 ただの人間である自分に出来るのはそれだけだと、晴海は理解しているのだから。




水爆は賑やかし。
現代人類の兵器は色々インフレしているから、中々滅んでくれなくて困る(オイ)

次回は明日投稿予定です。


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地獄の魔物5

 全く以て出鱈目な強さだと、ミリオンは感嘆とも呆れとも付かない気持ちを抱いた。

 ムスペル。

 北欧神話に登場する炎の巨人の名前を与えられるとは、随分と大袈裟な奴等だ。しかし感じ取れる力は決して名前負けしていない。いや、むしろこれは巨人というよりも神々と呼ぶ方が相応しかろう。

 ロシアの地に現れたムスペルは、人間達が放った水爆をその身にしかと受けている。正確な数は不明だが、ミリオンが数えた限りではざっと二百数十発。焦土と化した範囲から推定するに一発数メガトン級の代物だ。大まかな計算ではあるものの、合計一千メガトン相当撃ち込まれたようである。半径数キロは草一本どころか、溢れ出した溶岩すら残っていない。全く容赦のない事だ。

 しかしムスペルは今もピンピンしている。いや、それどころか『活性化』したようにミリオンには感じられた。自分と同じく熱エネルギーを活用する術を有しているのかも知れない。

 怪物の多くには、ちょっとやそっとの水爆は通用しない。多くの核保有国が『実験』し、その結果は日々テレビニュースや新聞報道に載っているためこれは確かな事だ。しかしながらこれほどの核を喰らいながら怪我一つ負わないとなれば……ムスペルの力は並の怪物の域を超えている。

 恐らくは奴等の力はミュータント、それも戦闘能力に優れた種に値するだろう――――これがミリオンが推し量った『一般的』なムスペルの力だ。

 ロシアの大地に現れたこのムスペルは一般的な、つまりミュータント化していない個体だろう。何故そう思うのか? 難しい話ではない。体長五百メートルという出鱈目なサイズの生物がミュータント化したなら、一般的なミュータント程度の強さで済む筈がないというだけの事だ。

【……バルルルル】

「ふぅん、こちらが小さいからって油断はしないと。厄介ねぇ、こういう動物は退き際を見誤らないから」

 目玉などないが睨み付けるように顔を向けてくるムスペルに、空中を漂うミリオンは肩を竦めながら独りごちる。しかしその視線をムスペルから逸らそうとはしない。

 草木一本生えていない焦土にて、二体の『化け物』が無言で向き合う。ムスペルは両腕に当たるヒレを広げ、どっしりと大地に構える。ミリオンは浮遊高度を三十メートルほどまで下げつつ、直立不動の姿勢を維持していた。ミリオンとムスペルの距離はざっと一キロほど。人間に限らず多くの動物において、それだけ離れている生物を認識しておく必要はないが……体長五百メートル超えのムスペルと戦うとなれば、むしろ近過ぎるぐらいの距離感だ。

 場には未だ核の力が残っているのか、炎のように熱い風が吹き荒れる。人間ならば防護服なしでは直ちに火傷を負い、命を奪われる苛烈な環境。しかし二体にとってはそよ風でしかない。ムスペルもミリオンも淡々と、されど劇的に闘争心を燃え上がらせ、己が力を高める。じりじりとした殺気が周囲を満たし、穢れた空気を張り詰めさせていく。

 その中でミリオンは、にやりと笑う。

 確かに恐るべき生命体だ。ミュータントではないのにミュータント並の力があるのだから。人間ではどう足掻いても勝ち目などない、圧倒的超生命体と言えよう。

 ()()()()()()()()

 自分は、そんじょそこらのミュータントよりも遙かに強いのだから。

【バルォオオオオォンッ!】

 最初に動き出したのはムスペル。楽器を叩き鳴らすような重厚感のある咆哮を上げた

 刹那、ムスペルの口から透明な『何か』が発せられる!

「むっ……!」

 人間の目には捉えられない『何か』。されどミリオンは迫り来る『何か』を前にして、己が身を強張らせた。

 周りの分子が発熱している。

 ミリオンの『赤外線センサー』は世界の色合いが変わっていくのを見逃さなかった。素早い動きは得意ではないが、人間ほどすっとろくもないミリオンは即座にその場から飛び退く。

 一キロほど距離を取っていた事が功を奏し、ミリオンは飛んでくる『何か』を間一髪で回避。しかし安堵する暇はない。すぐにその身を翻し、ミリオンは自分の居た場所を通過する『何か』を解析した。

 答えはすぐに判明した。分子、或いはそれよりも更に小さな単位の粒子を()()()()……そんなエネルギーを撃ち出してきたのだ。どのような原理の代物かは不明だが、ミュータントではないこの個体に使えるという事は、ムスペルにとっては標準的な力らしい。名付けるならば振動波とでも言うべきか。

 この技の威力は凄まじい。振動波の通過した大地が、一瞬にして溶解するほどだ。土塊は紅蓮の溶岩となり、扇状に広がった『大河』を形成する。それも百メートルや二百メートルなんてものではない。ざっと十キロは伸びている。水爆により吹き飛んだ溶岩の海が、瞬きしている間に蘇ってしまった。

 粒子を震動させる……運動量を与える事で加熱したのだろう。元々は地中で岩盤を溶かしながら進むための能力か? 瞬く間に地面を溶岩に変えたという事は、大地を千五百度以上まで一瞬で加熱したと思われる。原理不明なので確信はないものの、数秒と浴びればあらゆるものがプラズマと化す筈だ。人類文明の産物で、これに耐えられるものは存在し得ない。

 挙句有効射程一万メートル、広範囲に拡散となれば航空機すら簡単に落とせる。しかも本気とは程遠いであろう『最初の一発』でこの性能だ。本気を出せばどうなるか、分かったものではない。

 なんという底知れぬパワーなのか。三十分前の情報ですら最低三十二体も出現しており、今や百体ぐらい現れていてもおかしくないが、人類を滅ぼすだけならこの一体だけで事足りるだろう。

「そうこなくちゃ、面白くないわよねぇ!」

 ()()()()()()敵の存在に狂喜するかの如く、ミリオンは獰猛な笑みを浮かべた。

 攻撃を回避したミリオンは空中で体勢を立て直し、超音速で飛行。ムスペルへ突撃する! 接近してくるミリオンを感知したのかムスペルは大口を開け噛み付こうとしてくるが、小回りはミリオンの方が上手。歯と歯の間をすり抜け、ミリオンはムスペルの側面へと回り込む。

「ふんっ!」

 そして無防備な脇腹に、ミリオンは己の拳を叩き付ける!

 本来、ミリオンは肉弾戦が最も苦手だ。ミィどころかフィア相手にも、恐らく格闘戦では勝ち目がない。無数の個体の寄せ集め故に、筋肉などの専門的器官を持たない事の弊害だ。

 だが、ミリオンにはそれを補う技術がある。

 全身を形成する個体から熱を生成し、拳の一点へと集中。集まった高密度の熱エネルギーを能力により運動エネルギーへと変換する。そして運動エネルギーを明け渡すのは、刃のように突き出された手の先にある大気分子。

 運動エネルギーを纏った分子は直進し、正面にある分子を押し出す。押し出された分子は、更に前の分子を押し出していく。連鎖する衝突の中で空気は圧縮され、手の形――――刃のようになり、音速の数十倍の速さで相手に突き刺さる。

 ちゃんと名付けるならば超圧縮大気ブレード。

 ノリで名付けるならば、見えない超強力パンチだ!

【バ、ルオオオオン!?】

 ミリオンの超圧縮大気ブレードを受け、ムスペルは呻きを上げながら仰け反る。一千メガトンもの水爆を平然と乗り越えた身体に、確かなダメージを与えた証だ。

 しかし致死には遠く至らない。

 ムスペルは五百メートル以上あろうかという巨体を大きくしならせ、ミリオンにタックルを仕掛けてきた!

「ぐっ!」

 両手を身体の前で交叉させて受けるも、ムスペルの巨躯と激突したミリオンは弾丸以上の速さで吹き飛ばされ、溶岩の海へと叩き付けられる。水爆の直撃を不動で耐えたミリオンが抵抗すら儘ならない。衝突時の衝撃により溶岩が爆発したかの如く舞い上がり、何百メートルもの高さの溶岩柱を作り上げた。

「まだまだぁ! こんなもんじゃ足りないわよ!」

 されどミリオンを怯ませるほどの力ではない。ミリオンは溶岩のど真ん中にて、溶岩を掬い上げるように両手を振るう。

 再び放つ超圧縮大気ブレード。だが此度加熱する粒子は空気ではない。

 溶岩こと大地の主成分であるケイ素を気化させたもの。大気の主成分である窒素と比べ、ケイ素は倍近い重さを誇る。十分なエネルギーを蓄積させ、大気の時と同じ加速度を持たせれば……その威力は倍になるのだ!

 ミリオンが振るった手先より放たれる、超速の刃。これを避けられる生物は、ミリオンの動体視力を遥かに上回るミィぐらいなものだ。巨体故敏捷性に欠けるムスペルには回避不可能。

【バルォオオンッ!? バル、バルルルル!?】

 脳天に刃の直撃を受け、ムスペルは大きく仰け反る。余程痛むのか身体をくねらせて大暴れ。その度に大地が激しく揺れた。

 暴れるだけで地震を起こすとは、スケールの大きな生物だ。だが地震風情でミリオンを止める事など叶わない。

「おまけでもう一発!」

 ミリオンは再び超圧縮大気ブレードを撃つ! 目指すはのたうち回るムスペルのど真ん中であり、

 撃ち出した瞬間、ムスペルがその場から()()退()()()

「な……!?」

 ミリオンは驚愕した。

 ミリオンとて雑な攻撃を放ったつもりはない。のたうつ動きを観察。こちらから視線を外し、尚且つ体勢を崩した時を狙って超圧縮大気ブレードを撃ち込んだ。どのタイミングで察知しようが絶対回避出来ない……とはもう言えないが、ほぼ確実に命中する筈の攻撃だった。

 なのにムスペルは捩らせた身体を一気に伸ばし、その反動で身体を跳ばしたのだ。強引な回避方法もさる事ながら、こちらの超音速攻撃を感知した事の方がミリオンは気に掛かる。一発目二発目はろくな回避運動すら出来なかったのに、どうして三発目だけはああも的確に躱せたのか。

 考えられるのは、三発目の超圧縮大気ブレードにだけムスペルの本能を強烈に刺激する『何か』があったという可能性だ。例えばフィアは頭上からやってきた気配ならば、光速の数パーセントもの速さで飛来する金属塊さえも易々と躱せる。ムスペルにも似たような力があったのだろう。ならば一体何が奴を刺激したのか……

 ミリオンは聡明だ。フィアやミィに比べれば遙かに。だからこそ『謎』を前にすると僅かに考え込み、動きが止まってしまう。

 野生の世界で生きるムスペルが体勢を立て直すには、その僅かな時間で十分だった。

【バルォオオオオオオオオオォン!】

 超圧縮大気ブレードを躱して間もなく、ムスペルは咆哮を上げる!

 次の瞬間、ドーム状に熱が広がった。

 全方位への振動波攻撃だ。ムスペルを中心にした半径十数キロが加熱。大気はプラズマ化によりスパークし、大地は液化し溶岩へと変貌する。

 接触すれば如何にミリオンとてダメージは避けられない。しかしドーム状に広がるとなると、横に移動して回避……という訳にもいかない状況だ。おまけに振動波の拡大スピードはかなりのもの。ミィなら全力で後退すれば振りきれるかもだが、ミリオンの速さでは到底間に合いそうにない。

「これでどうかしらっ!」

 そこでミリオンが選択したのは、自身の周辺原子を『加熱』する事だった。

 振動波は物体を振動させる事で熱している。即ち正確には加熱ではなく、原子を一定周期で振動させているだけ。仮に超低温の空気を周りに囲っても、振動波を止める事は敵わない。それは例えるなら津波に対し水の壁を用意するようなもの。水の壁は津波を止めるどころか、津波の一部となって守るべき対象に襲い掛かるだろう。

 しかしあえて加熱……原子を振動させればどうか? それも振動波の波形と上手く()()()ものを用いればどうなる?

 答えは振動波と原子の揺れが干渉し合い、互いの振動を掻き消す事になる。

 ミリオンが展開した超高温の空気が振動波とぶつかり、互いに波長を打ち消し合う。触れればプラズマ化するほどの高温大気は、振動を相殺した事で静止状態――――つまりは超低温へと遷移。一瞬にして絶対零度へと変化する。

 冷却された大気は液化し、透明な液体や青色の液体が地面に落ちた。振動波もまた打ち消されて消失する。振動波が接したのはほんの一瞬だけ。一瞬打ち消せれば、続けてやってくるものはない。

 ミリオンは難を切り抜け、にやりとほくそ笑む。ムスペルにその笑みは小さ過ぎてまず見えていないだろうし、見えたところで意味など理解出来ない筈。しかし自身の放った攻撃が打ち消された事を理解する……そのぐらいの知能はあるらしい。驚いたように身体を強張らせ、ずるずると這いずるようにムスペルは後退りする。

 その隙を逃すつもりは、ミリオンには毛頭ない。

「今度は、こっちからお返しよ!」

 ミリオンは四股を踏むかのように、大きく足を大地に叩き付ける!

 ミリオンが踏み付けた場所より、放射状に広がっていく『力』。それは大地や大気にこれといった変化を起こさないが……されど決して優しいものではない。

 原子共振破壊波。

 一年以上前、ミリオンがアルベルトとの戦いで身に着けた力だ。特定の原子のみを選択し、破壊する事が出来る共振波を放つ……どんな物質で出来ていようが防げない破滅の一撃である。

 此度放った共振波は、炭素を選択して破壊するもの。地中奥深くに潜むムスペルの生体構成元素は不明だが、地上生命と同じ起源の生命体ならば炭素化合物(タンパク質)で出来た存在の筈だ。肉体を形成するタンパク質を分解すれば、如何に水爆に耐えられる生命体でも即死は免れない。

 共振波は他の原子には干渉しないため、ムスペルが放った振動波と違い、原子の振動(高熱)という『予兆』も生じない。精々大気中の二酸化炭素が分解され、酸素濃度が増える程度だ。接触前の感知はほぼ不可能であり、必然回避も出来ない。

 ムスペルはミリオンの行動の意図が分からずその場に立ち続け――――ミリオンが放った振動波の直撃を受ける!

【バルギィオオオオオオオオ!?】

 ムスペルの全身の表皮が弾け飛び、マグマのように赤い血液が噴き出す。あたかも全身の生皮を剥がされたような傷であり、紫色の筋肉が丸見えだ。これだけの深さの傷となれば相当の痛みを伴うのは当然であり、ムスペルは苦悶の叫びを上げる。叫びは遙か彼方まで響き、大気のみならず大地さえも震わせた。断末魔と呼ぶに相応しい絶叫だ。

 しかしミリオンの表情は、沸き立つ警戒心により強張る。

「(コイツ、なんらかの方法で共振波を防いだわね)」

 本来なら、皮が引っ剥がされる程度で済む筈がない。傷は真皮を貫き、内臓まで粉砕する……簡単に言えば全身がぐずっと溶けながら爆散するのが『正しい』結果だ。そうならなかったという事は、なんらかの防御を試みたという事に他ならない。振動波を用いて強引に波長を中和したのか、この戦いでは見せていないなんらかの能力を用いたのか。用いた原理はミリオンにもさっぱり分からないが。

 無論全身の皮を剥げば、十分に致命傷だ。人間、いや、大抵の動物ならごく短時間で死に至るだろう。

 だがコイツはまだまだ当分は死にそうにない、否、こんなものでは死に至らないとミリオンは感じた。

【バル……ルルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォンッ!】

 一際大きな咆哮。それと共にムスペルの全身の筋肉が波打ち、()()()()()

 次いで膨れ上がった筋肉はボコボコとした肉塊へと変化し、さながら皮膚のような質感へと変わる……否、さながらではない。

 本当の皮膚だ。ムスペルは驚異的な速さで肉体を再生させているのである!

「ちっ! ミュータントじゃないのにどんだけ多才なのよコイツ!」

 悪態を吐きながら、ミリオンはもう一度共振波をぶつけてやろうとする。多少防がれはしたが、大きなダメージは与えたのだ。ならば二発三発と立て続けに喰らわせれば、傷は奥深くまで浸透する筈。そうすれば十分に勝機はある。

 ミリオンの考えは実に正しいものだった。正しいからこそ、()()()()()()()()()()に違いない。

【バルォオオオオオオオォォンッ!】

 傷の再生も程々に、ムスペルは三度目の振動波を放つ。ミリオンに一発目として放ったものと同じ、直線的な照射だ。

 ただし今度はミリオンに向けてではなく、己が立つ大地に向けてであったが。

 振動波を受けた大地は、一瞬にして溶岩へと変化。ぐつぐつと煮えたぎる液体に、ムスペルの身体を浮かせるほどの浮力はないらしい。ムスペルの身体はずぷりと沈んでいく。

 ムスペルもまた身体をくねらせ、自ら作り上げた溶岩に頭を突っ込ませる。身体の動きと自重により、溶岩はムスペルの全身を呆気なく沈めた。風呂から零れるお湯のように溶岩が噴き出し、周辺の大地を埋め尽くす。

 時間にすればほんの一~二秒の出来事。

 その間に、ムスペルはミリオンの前から姿を消してしまった。ミリオンが二発目の原子共振破壊波を放つ、コンマ数秒前の出来事だ。

「……逃がしちゃったわね。やれやれ」

 ミリオンは肩を竦めながら足先に溜めていた破壊の力を霧散。己の失態を素直に受け入れる。

 勝てるかどうか分からない、むしろ分が悪い相手との戦い……負けられない理由があるならば兎も角、そうでないなら逃げるのが得策だ。実に合理的な選択である。人間ならプライドがどうたらこうたら、指示がなんたらかんたら、守るべきものが云々かんぬんなどと言うところかも知れないが、そんなものが許されるのは()()()人間社会だけだ。野生でそんな感性はなんの得にもならないし、返って不利益を被る。命あっての物種というやつだ。

 実際ミリオンとしても、ムスペルに逃げられてしまうのはちょっと困る。確かにムスペルの戦闘力や能力など、生態を探るという意味では先の戦闘により目的はしかと達した。地中へ追い払う事で、地上環境がこれ以上激変するのも多少は食い止めたといえる。

 しかし倒せなかった。

 もしもここで仕留めて死骸を回収出来れば、より多くの情報が得られた筈だ。生理的な、或いは構造的な弱点も見付けられた可能性がある。その弱点は恐らく東京に現れたムスペル……ミュータント化したと思われる個体にも有効な筈だ。いや、むしろそうした情報なしに挑むのはほぼ自殺行為である。

 何しろムスペルはミュータント化せずともミュータント並に強い。そこらのインフルエンザウイルスが、ミサイルどころか水爆すら受け付けない強さになるのがミュータント化だ。この戦闘力強化の倍率をムスペルに掛けたならどうなる事やら。もしも東京に出現した個体が本当にミュータントならば、正直真っ向勝負では勝てる気がしない。

 フィアやミィが他のムスペルを仕留めてくれていれば、自分の失態は大した問題ではないのだが……

「期待は、出来ないわねぇ」

 ミリオンは正直な考えを口に出す。『最強』であるこの自分にも為し得なかった事だ。相性云々を考慮しても、あの二匹に出来るとは思えない。

 ……数秒ほど考え、ミリオンは悩みを思考の隅へと寄せる。

 元より絶望的な戦いだ。そう簡単に打開策が見付かれば、それこそ自分達が間抜けという話である。今は出来る事から一つずつ片付けていくしかない。

 この地のムスペルから得られる情報は、もう十分に得られた。花中達と合流し、こちらの情報を渡して話し合おう。何か、新しい知見を得られる可能性がある。

「それに……人間の目には今の戦いがどう映ったか、ちょっと気になるしね」

 ミリオンは両腕を広げ、子供が飛行機の真似をする時のようなポーズを取る。

 ただしミリオンの場合、これで本当に空を飛べるのだが。

 空気を加熱し、その膨張による作用を推進力にしてミリオンは飛ぶ。速度はざっと時速三千五百キロ。これでも本気からは程遠い速さだが、一秒で一千メートルほど突き進む超スピードだ。百キロ離れた地点まで飛ぶのに、二分も掛からない。

「お待たせー」

「遅いっ!」

 だからムスペルが逃げてから左程経たずに戻ったつもりなのだが――――遠くに逃がしていた晴海は、涙目になりながら文句を言ってきた。

 地上からの高度約九百メートル地点。分離したミリオンの『一群』が絨毯のように展開している上に、晴海は所謂女の子座りの体勢で居た。この高度ならば地平線はざっと百十三キロ先であり、百キロ離れた地点でのミリオンとムスペルの戦いは観測出来た筈。

 勿論これだけ距離があると五百メートルあるムスペルの姿でも、小さくてろくに見えないだろうが……絨毯のように展開している一群の上には『双眼鏡』が用意されている。あの双眼鏡はミリオンが集結したものであるが、本物よろしく遠方の景色を拡大表示する事が可能だ。むしろ人間が作ったものよりもコンパクトで軽量、そして高性能である。

 双眼鏡を用いていたなら、こちらが勝った事は見えていた筈。なのに中々戻ってこなくて不安になっていたとすれば……この子も案外可愛いところあるのね、等とミリオンは思う。

 そんなミリオンの考えを、彼女が向ける生暖かい視線から察したのだろうか。泣きべそを掻いていた晴海の顔は、段々と怒りの形相へと変わっていく。

「な、何よその目は! こっちは心配してたのよ!?」

「ああ、ごめんなさいね。別に馬鹿にしていた訳じゃないのよ? ただ立花ちゃんは女の子らしくて可愛いなぁって思っただけ」

「それは馬鹿にしてる以外の何ものでもないでしょぉーが!」

 ミリオンは正直に、ミリオンなりの謝罪をしたつもりだったが、晴海は一層顔を赤くした。そういうところがますます女の子らしいと感じたミリオンは思わず笑みが零れ、晴海は一層ヒートアップしていく。

 ミリオンとて心は乙女の一員。フィアとか(畜生)ミィとか(連中)とは違い、割と人間味のある人格をしている。一戦交えて疲労したメンタルを癒やすべく、このまま和やかなガールズトークに洒落込むのも悪くない。

 しかし今はそれよりも。

「ところで立花ちゃん、観察してて何か分かった事はあったかしら?」

 地上世界の危機をどうにかする方が優先だろう。

 ミリオンに問われ、晴海は吐き出そうとした言葉を堪えるように口を閉じる。しばらくは拗ねたような顔をして、やがて困ったような顔になり……最後は申し訳なさそうに顔を俯かせる。

「……あんまり……気になったところが、なくはなかったけど……」

「あら、そうなの? 是非とも聞かせてほしいのだけど」

「う、うん。でも、その、まだ上手く、言葉に纏まらなくて……なんて言えば、良いのかな……」

 ミリオンが話を促してみても、晴海はおろおろするばかり。すぐには話してはくれそうにない。いや、そもそも自分の考えが役立つものだという自信すらなさそうだ。

 無理もない事だとミリオンは思う。もう数えきれないほど人智を超える生命体と接触してきた花中ならば兎も角、晴海はテレビや新聞ぐらいでしかそれらの存在を知らない。実物を見ればその圧倒的力に精神が打ちのめされ、頭が働かなくなるのはごく自然な反応だ。

 無理に言葉を引き出そうとしても頭の中がこんがらがり、記憶を理解しやすいものに改ざんしてしまうかも知れない。現実と異なる情報など無価値だ。出来る事なら早く知りたいが、急いては事をし損じる。

「そう。まぁ、はなちゃん達にも同じ話をする事になるし、今此処で話さなくても大丈夫よ。帰り道で落ち着いて、ゆっくり考えましょ」

「う、うん……ごめんなさい」

「謝る必要なんてないわよ。私なんか直に殴り合ったのに、滅茶苦茶強いぐらいしか分からなかったんだから」

 申し訳なさそうにする晴海に、ミリオンはおどけた答えを返す。すると晴海はくすりと笑みを零した。完全に心の暗雲が晴れた訳ではなさそうだが、笑みを浮かべられる程度には余力を取り戻したようである。

 考える時に大切なのは冷静さだ。慌てふためきながら考えれば、誤った思考の結び付き方をしかねない。落ち着いた、今の精神状態でじっくりと考えてもらおう。

 とはいえこの極寒の地(ロシアの北部)で考えていては、風邪を引いてしまうかも知れない。それはそれで思考力を奪い、考えを滅茶苦茶にするものだ。下手をすると値千金の記憶が吹っ飛びかねない。直ちに暖かで安全な場所に戻るべきである。

 だからミリオンはパチンと指を鳴らした――――のと同時に、晴海が乗っている『自身』の形を変形させる。

 突然の動きに晴海は反応すら出来ず、絨毯のように広がっていたミリオンは球体を模る。人の姿を取っていたミリオンは球体と合体。黒い物体だけがふわふわと空に浮かぶ。

「……あれ?」

 キョトンとする晴海。何が起きたのか、これから何が起きるのか、何も分かっていない様子だ。

 ミリオンは割と親切である。フィアやミィに比べれば遙かに人間を理解し、その思考回路をよく把握していた。このまま何も説明しなければ晴海が取り乱すと、容易に想像出来るほどに。

「さぁ、日本に戻るわよ。行きよりも速いスピードで」

 だからミリオンは説明した。

 故に晴海は顔を青くした。

 日本の関東圏からロシアのマガダンまでの距離は約三千キロ。ミリオンはこの距離を、行きは約三十分……時速六千キロものスピードでかっ飛んできた。普通の人間なら死ぬような速さだが、ミリオンは晴海の体内へと侵入し、内側から細胞を支える事で彼女の身を守っている。例え時速六千キロ以上の速さで飛ぼうと、同じ事をすれば晴海の身はちゃんと守れるので問題ない。

 ただ、三半規管は慣性やらなんやらで色々大変な事になるだろうが……生憎ミリオンはそこについては一切気にしない。

 何しろ三半規管など持ち合わせていないので、それを狂わされる事がどれだけしんどいのか、まるで理解出来ないのだ。

「え、ちょっ!? ま、待って、それはほんとキツ」

「時間があるとは限らないから却下。大丈夫よ。速ければ苦しむ時間はもっと短くなるから、多分さっきより楽よ」

「そ、それでも数十分は掛かるでしょがごぶっ!?」

 晴海の抗議を無視し、ミリオンは空を駆ける。

 乙女の体内から溢れ出したものが日本海に注がれたのは、それから数分後の事であった。




一般ムスペルさんはめっちゃ強いです。邪魔さえ入らなければ本当に一匹で人類滅ぼせます。
……こんなんばっかりやな、この世界の地球。

次回は10/18(金)投稿予定です。


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地獄の魔物6

「じゃあ、全員成果は殆どなしって事で良いのかしら?」

「……そう、なるかと」

 ミリオンのバッサリとした一言に、花中はこくりと頷く他なかった。

 大桐家のリビングに集められた動物三匹と人間二人は、つい先程まで話し合いをしていた。花中と晴海はソファーに腰掛けたまま項垂れ、ミリオンとフィアは顰め面を浮かべながら並んで立っている。庭に居るミィは唇を尖らせ、難しい表情を浮かべていた。

 話の内容はムスペルについて。

 本来の目的は生態観察であり、ムスペルと戦う必要などなかったのだが……どうやらムスペルはフィア達ミュータントの実力をしかと推し量り、脅威と判断したらしい。向こうの方から接近し、フィア達三匹に襲い掛かってきた。

 襲い掛かるという事は、ムスペル達からすれば勝算があったのだろう。事実彼等の戦闘能力は凄まじく、フィア達相手に互角の立ち回りを見せた。二対一の状態だったなら、フィア達を圧倒した可能性もある。流石は人間ではどんな手を使おうと ― 事実ロシアでは核攻撃が行われ、中国では化学兵器が用いられたが、いずれも効果はなかった ― 倒せない超越的生命体だ。

 しかし単身では、フィア達を脅かすには至らなかった。

 無論簡単な相手ではなかったが、それでもフィア達全員がムスペルを打ち倒したのである。ムスペル達はフィア達の真の実力を目の当たりにするやそそくさと逃走。それと共にマグマの噴出も止まり、出現地点の環境破壊も止まった。

 ギリギリの勝負ではなかったため、一対一を続ける分には、フィア達はこの地上に現れたほぼ全てのムスペルを打ち倒し、地中へと追い返す事が出来るだろう。が、それをしたところで無意味である。

 何がなんでも地下へ追い返さなければならない個体――――東京に出現したミュータントのムスペルは、フィア達が戦った個体とは比較にならない強さを有している筈なのだから。破局噴火すら易々と起こすアイツを倒せなければ、有象無象を何匹追い払ったところで時間稼ぎにもなりはしない。

 一般ムスペルを調べたのは、東京に現れた個体が本当にミュータントなのかを確かめるだけでなく、ムスペル全般の弱点を調べるというのも目的だったのだが……

「というか、分かったのって弱点どころか強いところばかりだよね」

「そうねぇ」

「確かに」

 庭側に立つミィからの意見に、ミリオンとフィアは同意する。

「私の原子破壊共振波も通じないし」

「あたしが思いっきりぶん殴っても死なないし」

「この私が直に血液を操っても抵抗してきましたし」

 そして各々が目の当たりにした、ムスペル達の非常識ぶりを語った。

 花中はフィアと同行し、彼女とムスペルの戦闘を目の当たりにしている。途方もなく激しく、ダイナミックな戦闘だった。フィアは縦横無尽に溶岩の上を駆け、自らの『身体』より撃ち出した水触手でムスペルを攻撃。ムスペルは振動波でこれを蒸発・粉砕し、巨体で足下の溶岩を投げ付けながら反撃してきた。赤色と青色が入り乱れる戦場は、美しさすら感じさせたものだ……それ以上に、その戦場のど真ん中に居た花中は生きた心地がしなかったが。水球に守られていても怖いものは怖いのである。

 最終的には水触手を何重にも束ね、蒸発しきれないほどの質量で真っ正面から共振波を耐えるという力技でフィアはムスペルと接触。表皮をぶち破り付けた傷口からムスペルの体内へと水を浸入させ、血液全体を操作する事で全身破裂……させたのだが、ムスペルの肉体はこれに耐えた。どうやら強靱な筋肉により破裂を強引に抑え込み、血液循環を筋肉収縮で代用したらしい。フィアも呆れるほどの力技と応用力だ。

 結局ムスペルは振動波で自らの血液を気化させ、フィアの能力支配下から離脱。地中へと逃げてしまった。ミィも似たようなもので、ミリオンも同じようなものらしい。ムスペルが操る恐るべき振動波の威力と、途方もない生命力を見せ付けられた格好だ。

 東京に現れたムスペルがミュータントであるなら、フィア達が戦った個体の性質は当然のように持ち合わせているだろう。つまり全身の生皮を剥いだぐらいでは死なず、血液を気化させてもへっちゃらで、巨大隕石以上の打撃を堪え忍ぶ。どうにかこうにかダメージを与えても、瞬時に再生を始めて元の木阿弥。

 一体どうすれば倒せるのか。とりあえず真っ正面からの殴り合いは有効ではないだろう。しかし物理攻撃以外が有効かといえば、そちらも異なる。マグマの中に生息している点を鑑みれば、少なくとも熱に対する耐性が極めて高いのは間違いない。いや、核攻撃が行われた場面を目撃しているミリオン曰く、熱エネルギーを吸収しているのではとの事。十分に考えられる話だ。地下深くに生息しているならば、数千度にもなる地熱を利用しない手はない。そして体内に熱エネルギーが循環しているならば、化学兵器で使われるような物質は高熱で分解され、無毒化される筈だ。地上の細菌に関しても熱で滅却されるだろうから、感染症で死ぬ事も期待出来ない。

 物理攻撃耐性大。熱攻撃吸収。化学攻撃無効化。感染症対策万全……フィア達も似たようなものだが、これはあまりに隙がない。そして付け入る隙がないとなれば、策なんて考えようがない。お手上げというやつだ。

 せめて……

「せめて、死骸の一つでも、手に入れば、何か、分かったかも、知れないけど……」

「いやぁそれは中々難しそうですよ花中さん。アイツら結構警戒心も強いですから殺そうとしても多分すんでのところで逃げられますよ?」

 ぽつりと漏らした花中の願望を、野生動物の鋭い聴覚で聞き逃さなかったフィアが否定する。否定するが、ちらりとリビングに置かれたテレビの方を見遣った。

「まぁ花中さんからお願いされれば何回かは狩りに行っても良いですよ。数は多いようですから何度もチャレンジ出来ますし」

 それから花中にとっては全く嬉しくない、『チャンス』の多さについて教えてくれる。

 テレビでは今もムスペルに関する報道が流れている。というより今はムスペル関連の報道しかやっていない。どの局を付けても横並びの情報ばかりで、デマや憶測も飛び交う始末。迂闊にそうした事が言えなさそうな、国営放送を今は点けている。

 その番組の右上に書かれた『世界各地で百体を超え』の文字。

 現時点で確認されたムスペルの数だ。自宅出発前は三十二だった出現数は、今やその時の三倍を超えている。フィア達が追い返した三匹分はまだ引かれてないかも知れないが……ここまで増えれば誤差のようなものだろう。

 世界の百ヶ所以上で怪物ムスペルが現れている。彼等の手により、世界中の環境が破壊されている状況だ。今から死体一匹確保して、ちんたら身体を調べているような暇があるのかどうか、甚だ怪しい。

 残す希望は、ミリオンと共にムスペルを見た晴海の考えぐらいだ。

「小田さん。ミリオンさんと、ムスペルを、見て、何か、気付きました、か?」

 花中は顔を横に向け、自分と同じくソファーに腰掛けていた、されど今まで一言も発していない晴海に尋ねる。

 花中は幾度となくフィア達のような超生命体の死闘を目の当たりにし、生還してきた。だから確かに超生命体に対する見識は豊富で、一般人では分からないような疑問を持てるだろう。しかし同時に、慣れてしまったからこそ見落としている事があるかも知れない。そう、ごく当たり前の事柄さえも。

 正直、花中自身自分の視点はフィア達と大差ないものになっていると思う。晴海の視点は今や花中とはまるで異なるものの筈だ。彼女の目にはもしかすると……

「……ごめんなさい。その、何も思い付かなくて……」

 抱いた淡い希望は、晴海の否定によって砕かれた。そう美味い話はないと思いつつも、心の奥底で期待していた花中は肩を落とす。

「あら? ムスペルと戦い終わったばかりの時には、何か気付いたように見えたけど」

「う、うん。まだ胸の中でもやもやしていて……ちゃんと答えられないの。ごめんなさい、あんな大口叩きながら全然役に立たなくて」

「ほんとですよ使えませんねぇ」

「……フィアちゃん」

 申し訳なさそうに説明する晴海に、フィアは大変『正直』な意見を述べ、花中はそれを窘める。晴海は力になれない事を悔やんでいるようにも見えるし、フィアは心底期待していないようだが……花中にとっては違うのだ。

「小田さんは、ちゃんと役に立ってます。いえ、わたしより、ずっと頼もしいぐらいです」

「そう、かな……」

「そうですよ。だって、わたしなんて、なーんにも分からなかったの、ですから……フィアちゃんの、戦い方が、ジェットコースター過ぎて」

「えぇー私の所為ですかぁ?」

 さらりと非難され、フィアが困惑したようにぼやく。人類の存続を手助けしてもらって不満を言うとはなんと傲慢な、と言われそうだが、それはフィアとムスペルの戦いを見ていないから言えるのだ。

 ムスペルと戦っていた時のフィアは獰猛ながら満面の笑みを浮かべ、大層楽しそうだった。かれこれ二年以上の付き合いである花中には分かる。あの時のフィアは絶対花中(親友)の事など頭の片隅に追いやっていて、ムスペルと遊ぶのに夢中だったと。

「だってフィアちゃん、こっちの話全然聞いて、くれないんだもん。わたし、何度も止まってって、言ったのに」

「んー? 言ってましたっけ?」

「ほらぁ! そうやって、全然聞いてないじゃん!」

「……あははっ! 確かに、あたしの方がちゃんとムスペルは観察出来ていたみたいね」

「みたいねー。ほんと、何やってんだか」

「真面目にやれー」

 花中とフィアの口論? を前にして晴海はくすりと笑い、ミリオンとミィは呆れたようにぼやく。沈んでいた空気が軽くなり、前向きな気持ちを花中は……きっと晴海も……抱くようになる。

 まだ、世界は終わっていない。これから何が起きるか分からないし、タイムリミットが何時かも不明だが、不安になって慌てふためいても成果は上がらないものだ。元より人間ではどうしようもない滅びなのだから、こんな風に気楽にやってしまえば良いのである。

 笑えば身体から力が抜け、頭が少しスッキリしたように感じられた。これならさっきまでより幾分マシな考えが浮かびそうだ。

 花中は考える。考え過ぎると頭が痛くなるので、程々に。

 やはりもっとムスペルの情報が欲しいところだ。そういう意味ではせめて死骸、欲を言えば生体の確保がしたい。堅実に、一体のムスペルを捕まえるところから始めるべきだろう。

 無論人間側の戦闘力では期待するだけ無駄なので、フィア達の力に頼る必要がある。それでも一対一では逃げられる可能性が高いが……三対一ならどうだろうか。先の調査はより多くの情報を集めるために分散した訳だから、一匹だけでも良いから成功してほしい捕獲作戦は皆で協力すれば良い。強いて問題点を挙げるなら、フィア曰くムスペル達は警戒心が強いので、三対一だと戦う前に逃げ出す可能性がある事か。割と致命的な問題点なのはこの際置いておく。やってみないと分からないなら、やるしかない。

 人類絶滅までの猶予があるかは怪しいが、横着して一足跳びの進展を得ようとしても却って時間が掛かるのが世の常。このままでは動けないのなら、動くために次の一歩を着実に踏み出す。迫り来る滅びの恐怖はあるが、やれる事はただそれだけなのだから。

「……良し。皆さん、あの、今度はみんなで、ムスペルを捕まえましょう。三対一なら、生け捕りも出来るかも、ですし」

「ふぅーむ花中さんが仰るならそうしますかね。私だけでは少し骨が折れそうですし」

「あたしもさんせーい」

「そうね、他に手もないし。小田ちゃんはどう?」

「うん。あたしも賛成……えっと、あたしもまた一緒に行っても、良いかな。なんというか、もう一回見たら何か分かりそうな気がして……その、やっぱり役には立てないかもだけど……」

「勿論です! とても心強いですよ」

 花中の意見にフィア達三匹も同意し、晴海も少し遠慮がちに賛成と参加の意思を示す。今の花中からすれば願ってもない申し出だ。即答で受け入れる。

 方針は定めた。早速出発しよう……と言いたいが、そのためにも情報は欠かせない。具体的には、東京以外で最寄りの『一般ムスペル』の出現地点が知りたいところだ。普段ならネットで調べるのが手っ取り早いが、この混乱ぶりからしてデマも相当数出回っている筈。そもそも情報量が多過ぎて、恐らく一人では精査しきれない。

 しかしテレビ局なら、ある程度の人海戦術とメディア同士の繋がりにより、幾らか正確な情報が得られる筈。ここは確実性を重視し、テレビ報道に頼ろう。何処かの局でそうした情報を纏めていないだろうか――――花中はそんな気持ちからリモコンを持ち、テレビのチャンネルを切り替えていく。

 ……正直、音にはあまり注意を向けていなかった。冷静になるよう務めていたつもりだが、内心ではやはり焦りを覚えていたようである。テロップや映し出された画像をパッと見で判断し、深く考えずに切り捨てていく。あっという間にチャンネルは一周してしまい、さぁてどうしようかとリモコンのボタンから指を離した。

 丁度そんな時だった。

【り、臨時報道です。東京都に出現した巨大生物ムスペルが、動きを見せているとの事です】

 テレビの女性アナウンサーが、震えた声で()()()()()()()()()()()ムスペルについて、新たな情報を報じたのは。

 ざわりと、大桐家のリビングに緊張が走る。今まで疎かにしていた耳に花中は意識を集中。アナウンサーの声を一字一句聞き逃さぬよう全身全霊を掛ける。

【東京のムスペルが、大きな声で咆哮を上げているようです。現場から三十キロほど離れた地点にて取材中の、岩井記者より連絡がありました。岩井さん、どのような状況でしょうか?】

 スタジオの女性アナウンサーが尋ねる。同時に岩井記者を撮影しているであろうカメラの映像へと、テレビ画面が切り替わった。

 ……が、テレビに映るのは黒い画面だけ。声どころか物音も聞こえてこない。

 数秒ほどでスタジオに映像が戻る。なんだなんだとスタッフ達が慌ただしい声が聞こえ始めた。花中も無意識に晴海と目を合わせたが……彼女もキョトンとした様子。

 何があったのだろう?

 答えは、間もなく明らかとなった。

「っ!? フィア!」

「分かっています」

 最初に反応したのはミィ、次いでフィア。ミリオンも跳ねるような勢いで何処かを振り向く。

 続いて起きたのは、巨大な地震だった。

「きゃあっ!?」

「ひゃ、わ、わ、わ」

 地震に驚く晴海と花中。あまりにも巨大な地震は大桐家宅をミシミシと鳴らす。地鳴りが凄まじく、花中達の声が掻き消されてしまう。

 そして天井が、音を立てながら崩れた。

 あまりにも呆気ない崩落。花中は悲鳴を忘れ、ポカンとした顔で天井を見つめてしまう。本来ならば恐怖や絶望を感じるべき場面で、ただただ頭を真っ白にするだけ。

 もしもフィアが手から大量の水を出し、花中と晴海を丸ごと包んでくれなければ、今頃文字通りぺっちゃんこになっていたに違いない。展開された水は落下してきたコンクリートや木材を受け止めると、ぼよんと間の抜けた音を鳴らして弾き返した。無論飛ばされた家の一部だった塊は、恐ろしい音色を奏でながら砕けたが。

 落ちてくるのは天井だけではなかった。壁も傾き、花中達の方へと倒れてくる。次々と襲い掛かるそれらをフィアは片手で払い除けながら歩き、水球に包まれた花中達を連れて、家の中よりは安全だろう庭へと出た。ミリオンも瓦礫を押し退け、ミィも押し寄せる残骸を蹴飛ばしたりしながらやり過ごし、三匹は安全を確保する。

 そうしてフィア達が危機を乗りきった後も地震は終わる気配すらなく、延々と世界は震えていた。庭の草木が揺れで浮かび上がっては倒れ、電柱がへし折れていく。大桐家の周りに家は殆どないが、辛うじて残っていた廃屋は全て余さず潰れていった。

 最早この場所に、大きな建物は何も残っていない。

 しかし全てを破壊し尽くしても、地震はまだ終わらない。何分経とうと、どれだけ経とうと……静まる気配すらない有り様だ。

「やれやれなんだか大変な事が起き始めてますねぇ。花中さんどうしますか? ……花中さん?」

 地震など全く怖くないフィアは揺れの中で平然としながら、花中に今後について尋ねてくる。されど花中は何も答えない。

 花中の視線の先にあったのは、最早瓦礫の山でしかない大桐家の自宅だったもの。

 数多の悲劇に見舞われ、割と甚大な被害に見舞われる事が多かった我が家。庭でロケットランチャーを撃ち込まれたり、室内で爆発が起きたり、巨大化した友達の戦いに巻き込まれそうになったり。危機は幾度も訪れたが、けれども一部破損はしても全壊には至らず、なんとか修理して今日まで持ってきた。たくさんの思い出が詰まった大切な場所だった。

 それが、ほんの一瞬で壊れてしまった。

 ……命あっての物種というのは分かる。大体今更家が一軒二軒潰れたぐらい、わーわー騒ぐような話ではなかろう。世界が終わり、人類が滅びようとしているのだから。

 だけど、それでも。

 家がなくなってしまった事は、花中の心をぎゅっと締め付けた。

「はなちゃん、気持ちは分かるけど今は後にしましょ。それよりも今は……」

 我に返れたのは、ミリオンが声を掛けてくれたからに他ならない。そしてミリオンの言う『今は』の意味に気付けたのも。

 そうだ。自分はまだ良い。今まで運良く長持ちしていたものが、ここで寿命が尽きただけの話だ。悲しい事は勿論だが、これはもう仕方ないので諦める。

 それよりも『今』大事なのは――――晴海の方ではないか。

 晴海は自分と同じ地域に暮らす市民であり、彼女の家族にはフィアという頼もしい存在はいないのだから。

「た、立花さん!」

「……ぇ、あ……ご、ごめん大桐さん。あの、あたし……」

「大丈夫です! フィアちゃん! 立花さんの家に、向かって!」

「んー? 構いませんよ。立花さんあなたのお家ってどちらにあるのですか?」

「あ、あっちに」

「あっちですねー」

 晴海が北の方を指差した、ほぼその直後にフィアは跳んだ。勿論花中と晴海を包み込んだ水球を連れて。

 フィアは何十メートルという高さまで跳んだため、視界はとても開けていた。遙か彼方、何十キロ先まで見渡せる。

 しかし見慣れた町は見付からない。元々廃墟同然だった大桐家周辺だけでなく、遠くにある筈の繁華街や住宅地さえも。

 何もかもが崩れていた。大地震にも持ち堪える筈の、現代科学の粋を集めて作られた家々が全滅していたのだ。地震はフィアがジャンプする時にはまだ続いていたが、それでもたかが数分前に起きたばかり。なのに建物が軒並み崩壊したという事は、それだけ揺れが強いという証である。

 フィアと共に空高く跳んだ花中達に、地面の揺れは伝わらない。されどじっと見つめれば、地面が大きく波打っているのが分かった。家も道路も浮かび上がり、落ちた衝撃で砕けていく。一体どれほどの『震度』ならばこんな事が可能なのか、花中には想像も付かない。家だった残骸は追い討ちを掛けるように何度も浮かび、その度に瓦礫を四方八方に飛び散らせた。もしもあの中に人が居たなら……

「お、小田さん! お家は、どちらですか!」

「ぇ、ぁ、う……あ、あの、多分、もっとあっち、に……」

 脳裏を過ぎった言葉を塗り潰すように、花中は大きな声で晴海に問う。晴海は今にも掻き消えそうな声で、自信のない言葉遣いで自宅がある……いや、あった筈の場所を指差した。

 晴海の示す方角を確認し、フィアは「もうちょっと先ですね」と言いながら空中移動の向きを変える。水を噴射し、推進力を得たのだろう。ただ一回の跳躍で数百メートルもの距離を移動し、また跳んで数百メートル進み……数度も跳ねれば直線で数キロの道のりだ。

「た、多分、こ、此処に……」

「此処ですねぇっと」

 フィアがずしんと着地をし、花中達も地面に降り立つ。地震は未だ続いていた。それも大地が波打つほどに。

 晴海が指し示した場所にあった瓦礫の山も、ずるりずるりと動いている。その下に誰かが居るかどうかなんて、お構いなしに。

「ふぃ、フィア! この辺りの瓦礫、全部退かして! 早く!」

「んー? 構いませんよ」

 晴海に頼まれたフィアは『身体』から無数の水触手を生やし、瓦礫の山々へと伸ばしていく。そして言われるがまま瓦礫の山を、水触手で強引に退かし始めた。真横に薙ぐような動きであり、例えるなら机の上に散らばった消しカスを床に落とすような仕草である。

 凄まじいパワーによる力技だ。しかしこれほどの力を使わねば、きっと瓦礫の中の『命』は手遅れになるだろう。地震は今も続いており、瓦礫の山は激しく揺さぶられているのだから。

 とはいえフィアの動きはあまりに雑だ。これでは瓦礫の中に居る命も一緒に薙ぎ払われ、失われてしまう。恐らくフィアは「何故瓦礫退かすのか」を分かっておらず、本当にただ退かしているだけなのだろう。

「ふぃ、フィアちゃん! あの、瓦礫の中に人が居ると思うから、中の人を、潰さないようにして!」

「ん? ああそういう事でしたか。なら早く言ってくださいよ……こういう方法があるので」

 花中が理由を説明すると、フィアは納得したように頷き――――薙ぎ払うようにして伸ばしていた水触手を止め、瓦礫の山へと突き刺した。

 次の瞬間、花中達の周りにある瓦礫がふわりと浮かび上がる。

 一瞬、何が起きたか分からず花中は呆けてしまったが、よく見れば瓦礫の下に半透明な『液体』が存在していた。大量の水を瓦礫の下に浸透させ、一気に持ち上げたのだ。確かにこの方法ならば瓦礫を動かした際、下敷きになっていた人間を潰してしまう心配はない。しかも広範囲を一度に救助出来る。人間には真似出来ない、豪快かつ爽快な救助方法だ。

 一つ欠点を挙げるなら……無事だった人も手遅れだった人も関係なく、水の中を漂っている事か。

「ひっ!?」

 反射的にフィアの救助を見ていた花中は、瓦礫の中にある『人だったモノ』を見付けてしまった。()()が酷く、ちょっと見ただけで手遅れだと分かる。

 それでも原形があるだけマシな方かも知れない。最悪、瓦礫の中でペーストにされている可能性もあるのだ……赤い液体が漂っているところを見て、それが大量の出血か、潰れた肉か判別出来なかった花中は、吐き気を抑えるので精いっぱい。

「いない……」

 対して晴海は、そもそもそんなものは見えていないかのようだったが。

「此処じゃない……フィア! もっと、あっちを探して!」

「あん? 此処の人間達は?」

「何処か適当に退かせば良いわよ! 早くして!」

「はいはい分かりました。なんなんですかねぇ全く」

 手早く水の中を漂う人間達を一纏めに……その生死など確かめてすらいないのだろう。何もかもごちゃ混ぜだ……したフィアは、その人間を本当に適当な場所へと吐き捨てる。それから晴海に言われた通り、晴海が指差した数十メートル先の場所まで移動。そこで再び瓦礫を持ち上げる。

 晴海は持ち上げられた瓦礫の中を、ぐるりと見渡す。

「此処にもいない……も、もっと、あっちを探して!」

「んー……正直そろそろ面倒臭くなってきたのですが」

「早くして! お願いだから、お願い……」

 人命救助に飽きたフィアを、苛烈な言葉で責めたのは一瞬。晴海は嗚咽を漏らし、水球の中で泣き崩れてしまう。

 フィアは花中の方を見て、どうしたら良いのか目で訴えてくる。花中は一言「お願いを聞いてあげて」と伝え、フィアは至極面倒臭そうに頭を掻きながら、晴海が次に示した場所へ向けて歩き始めた。

 晴海は自分の家が分からなくなっている。

 全てが瓦礫と化したのだ。木や道路どころか地形まで壊れれば、最早自宅の目印なんて何もない。花中だって、今から自宅があった場所に戻る事は出来ないだろう。

 何処に家族が居るか分からず、自分の目星が合っている保障がない中、延々と瓦礫の山をひっくり返す……それがどれだけ心を苦しめるかは、幸いにも家族が海外に居る花中には想像する事しか出来ない。想像しただけで、息が詰まるぐらい胸が締め上げられる。

 落ち着いて、なんて言えない。

 きっと大丈夫、そんな心にもない言葉なんて口にも出せない。

 だから花中には口を閉ざす事しか出来ない。

 フィアが何百という数の人々を助け出していく姿を目の当たりにしても、花中の心が安堵を覚える事はなかった……




なんか色々終わりっぽいものが来てますが、まだ序の口です。ええ、序の口ですよ。これから起きる事に比べれば。

次回は明日投稿予定です。


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地獄の魔物7

 結論を述べると、晴海の家族は全員無事だった。しかしフィアが見付け出した訳でもない。

 というのも、立花一家は夕方の大地震……つまり東京にムスペルが出現した、あの時点で自宅から避難していたのだ。勿論娘である晴海の安否は心配していたが、そこはスマホが普及している現代である。メールを用いて避難先を伝え、同じ内容を書いた紙を家の前に張れば十分と考えて避難開始。彼等は市が指定した避難所 ― 市街地から徒歩二十分ほどで付ける場所にある公民館だ ― へと移っていたのだ。尤もメールは地震で基地局が倒壊したり、日本中の人々が同時にメールを送ったりした事で、晴海のスマホには届かなかったようだが。

 無論避難所である公民館が如何に頑丈でも、土台である大地が波打つほどの揺れに見舞われては為す術もない。柱はへし折れ、屋根は崩落。自分達を包囲する瓦礫は延々と揺さぶられ、崩れてくるのを待つだけだった。

 その時、救助が入った。

 ミリオンとミィである。花中達が慌てて晴海の家へと向かう中、冷静かつ人類社会への理解が『人間並』にあるミリオンは、立花家が避難所に移っている可能性を考慮。立花家周辺の確認は花中達に任せ、ミリオン達はこの地域の避難所を巡る事にしたのだ。ちなみにミリオンが晴海にそこまで気を遣ってくれた理由は、本人曰く「あまりたくさんの人間に死なれると私が困るからね。助ける際に知り合いの身内を優先しただけよ」との事。

 かくして公民館に辿り着いたミリオンとミィは、人智を超越するパワーにより瓦礫を排除。生き埋め、否、それよりも恐ろしい瓦礫による磨り潰しという大惨事を未然に防いだのだ。

 なお、花中の友人である加奈子は此処には来ていないが……親戚の引っ越し手伝いという事で、彼女はこの町から出ている。東京から離れるほどに地震被害は軽微なものとなっている ― これはミィが確認してくれた ― ため、『ド田舎』へと向かった彼女は恐らく無事だろう。

「……という感じかしらね」

「全員助け出せた訳じゃないけど、まぁ、それなりには助けられたよー」

「そう、でしたか……本当に、ありがとう、ございます」

 自分達が行った『功績』及び『報告』を語るミリオンとミィに、花中は深々と頭を下げて感謝を伝える。

 花中達が居るのは、公民館が()()()土地の真ん中。かつては建物があり、ミリオンとミィが瓦礫を退かした事で今は更地と化している。土地の隅には大勢の人間達が居て、互いの無事を喜び合うように抱き合っていた。

 そんな人々の中には晴海の姿もある。彼女の両親を見るのは初めてだが……優しそうで、真面目そうな、とても晴海に似た雰囲気の人達だ。出来る事なら、彼女達の喜びを見ていたいところである。

 しかしそれも中々難しい。

 未だ大地は激しく揺れ、大きな地震となって花中達を襲っているからだ。巨大地震が町を滅ぼしてから、もうかれこれ三十分は経っている筈なのに。

 花中はフィアに抱きかかえられ、そのフィアが全身で振動を吸収してくれているため、殆ど地震の揺れを感じていない。が、晴海達生身の人間は違う。彼女等が抱擁しているのは、親しい人との再会を喜ぶだけでなく――――立てないほどの揺れに恐れ慄いているのも理由の一つだった。加えて地鳴りも止まず、宥め合う人々の言葉を掻き消しているので、距離を詰めないと声が聞こえ辛いというのもあるのだろう。

「それにしてもこの地震終わりませんね。東京に現れた奴が何かをしているんでしょうけど」

「何をしてるかはさっぱり、と。まぁ、間違いなくろくでもない事でしょうね」

「ぶっちゃけ嫌な予感がするんだよねぇ。早く止めないとヤバい事になるっていう」

 普段より幾らか大きな声でフィア達野生生物達が各々の意見を述べ、花中も納得するように頷く。

 この地震が普通のものでない事は、フィア達のような鋭い感覚を持たない花中にも分かる。あらゆる建物を潰す大地震が何十分も続くなんて、自然現象では考えられない事だ。

 恐らくは東京のムスペルが何かをしている。破局噴火さえもコントロールする奴の力ならば、この大地震を起こす事も不可能ではない筈だ。

 そしてこのなんらかの行動により、奴は得体の知れない『目的』を果たそうとしているのだろう。フィア達ですら「ヤバい」と思うような何かを。

 ……情報らしい情報がなく、花中にはこんな、極めて曖昧な理解しか出来ていない。何しろムスペルについて分かっているのは、彼等の種が圧倒的パワー、一片の隙もない防御能力、そして弱点不明という事ぐらいなもの。ミュータント化した個体の思惑なんて想像も付かなかった。

 こんな何も分かっていない状態で「地震の元凶である東京のムスペルを止めに行きましょう!」なんて、花中には言いたくない。ハッキリ言って自殺行為だ。しかし東京のムスペルが動き出した以上、いよいよ人類絶滅のタイムリミットが迫っていると考えるべきだろう。情報を得るため普通のムスペルを一匹捕まえる、そんな『悠長』な事をしている余裕などあるのだろうか……

「どうする? はなちゃん」

 そんな花中の心を読むように、ミリオンが尋ねてくる。考え込んでいた花中は、ミリオンの顔が今にもキスしそうなぐらい近付いていた事に気付かなかった。距離感を理解した瞬間驚きから仰け反ろうとして、自身を抱きかかえているフィアに背中を押し付けてしまう。

 だが、花中はミリオンの視線から逃げずに向き合う。

 情報は足りない。現状では勝てる要素なんて皆無だし、なんとか出来そうな策すら思い付かない。それでも今この時、戦いを挑まねば、きっと何もかもが手遅れになる。根拠はないが、花中の『本能』がそれを訴えていた。

 花中は人間だ。だから普段なら本能の訴えを……無視はしないが一時保留し、何かしらの根拠を見付けてから動き出す。されど此度の本能は喚くように五月蝿く、そしてその叫びそのものが『説得力』を持っていた。理性は説き伏せられ、訴えを脇に置いておく事など出来ない。

 なら、答えは決まっている。

「……東京に、行きましょう。あのムスペルに、勝てるとは、思えませんけど……生き残るには、それしか、なさそうです」

 花中は自分の正直な想いを、言葉に出して伝えた。

 破れかぶれの特攻となんら変わらない『お願い』。断られるのが当然だが、フィア達から反対意見は出てこない。彼女達も、今やらねば不味いという直感があるのだろう。人の身でありながら、始めて彼女達と感覚を共に出来たように感じられて、花中としてはちょっと嬉しい。

 思い残した事がない、なんて大仰なものではないし、まだまだやり残した事はたくさんある。だけどこの感覚と共に逝けるのなら、悪くはなさそうだ。

「じゃあ、早速……」

 東京へ行きましょう。

 花中はそう続けるつもりだった。言いきってしまえば、フィア達はすぐに動き出したに違いない。瞬きする間もなく空を跳び、刹那のうちにこの場から離脱出来る。

 動かないのは、花中が伝える前だったから。

「ちょおぉぉーっと待ったぁ!」

 もしもあと数秒早く花中が決断していたなら、きっと、この言葉を聞く事はなかっただろう。

 地震は未だ続いており、揺れの規模に相応しい大きさの地鳴りも響いている。声はそんな地鳴りの中でもハッキリ聞こえるほどの大声で、小心者故酷く驚いた花中は思わず開いていた口を閉じ、声の方を振り向いた。

 声がした先に居たのは、晴海だった。

 彼女は地面を這いながら、ゆっくり、ゆっくりと花中達の下に向かってきている。花中は心底驚いた。這わないとまともに動けないという震度六強ですら、倒れる建物は()()()()()()()()とされている。一面が更地となる現在進行形の大地震は最早震度七という値すら生温く、日本の気象庁が用いる基準では表現出来ないレベルだ。

 そんな中を這ってでも移動する。火事場の馬鹿力でも出さなければ、いや、出したところで恐らく無理だ。その無理を押し通すほどの力を出すからには、何か、のっぴきならない事情がある筈。

「ふぃ、フィアちゃん! あの、立花さんのとこに、行って!」

「ええ構いませんよ……全くやる気を出そうとした側からこれですか」

 花中が頼めば、肩を竦めつつフィアは軽やかな足取りで晴海の下へと向かう。人間には這っても進むのが難しい揺れも、フィアなら花中を片腕で抱えたまま歩いて突き進める。

 花中はあっという間に這いつくばった晴海の下に辿り着く。何があったのだろうか、尋ねようとして晴海を見下ろし……顔を上げた晴海はにやりと笑みを浮かべた。何故笑ったのか分からずポカンとする花中の前で、晴海は腕を伸ばし、フィアの足にしがみつく。

「あたしを置いて、何処行くつもり? ちゃんと最後まで、連れてってよ!」

 そして再び地鳴りに負けない大声で、花中達にそう告げた。

 花中はギョッとするほど驚いた。フィアも花中ほどではないが驚いたらしい。驚き過ぎて声が出なくなった花中に代わり、晴海の真意を問う。

「おや? あなたも付いてくるつもりですか? 私達これから東京の怪物退治に行くのですけど」

「やっぱりね。そうだと思ったから呼んだのよ。危うく置いていかれるところだったわ」

「ふぅん。まぁ私は構いませんけどね。別にあなたが巻き込まれて死のうがどうでも良いですし」

 思った事をそのまま言葉に出すフィア。如何に友達でも、フィアにとって花中以外の価値とはその程度のものだ。失われたところで大して気にならないからこそ、晴海の好きにさせる。

 しかし花中にとって晴海は、失われても気にならないような存在ではない。確かに今は少しでも『戦力』が欲しいところだが、フィア達からすれば晴海(人間)の力なんてものは塵芥以下だ。わざわざ連れていく理由がない。

「た、立花さん。あの、本当に、危険なんです。だから……」

「そりゃ、あたしじゃ大した力になれないけど……今更置いていかれるのはごめんよ! それに、もしかしたら今度こそ、何か気付けるかも知れないじゃない!」

「うぐっ」

 晴海の言葉に、花中は声を詰まらせた。晴海はムスペルについて、何か気付きそうになっている。もしかしたらその気付きは、ムスペル攻略のヒントになるかも知れない……「少しでも戦力が欲しい」という自ら思っていた言葉が、花中の気持ちを締め付ける。

「……ご両親は、どう言って、いるのですか」

 それでもなんとか諦めさせようと、発した言葉はあまりにも姑息なもので。

「好きにしなさいって言われたわ!」

 想定内だと言わんばかりに、晴海はキッパリと答える。

 晴海の両親は放任主義なのか? いいや、きっと違う。終わらない大地震を前にして、普通の人々でも『世界の終わり』を予感しているだろう。もうすぐ何もかもが終わる……それでも親の下を離れて何かを成そうとする娘の邪魔はしたくないのだ。自分の感情を抑え込んで娘の気持ちを優先するのだから、大きな愛情がなければ出来ない事である。

 送り出した家族の気持ちを思えば、尚更晴海を危険な目に遭わせる訳にはいかない。同時に、送り出した家族の気持ちを無下にも出来ない。

 花中は、晴海を『説得』するための言葉を持ち合わせていなかった。

「……分かりました。よろしく、お願いします」

「そうこなくっちゃ」

 花中が折れると、晴海は心底嬉しそうに微笑む。その笑みを見ていると、花中もほんの少し前向きな気持ちになれた。

「あ、そうだ。いきなりで悪いんだけど……その、立てないから手を貸してくれる?」

 そんな時に這いつくばったまま頼んでくるものだから、花中は思わず笑いが噴き出してしまう。笑われた晴海は一瞬唇を尖らせムッとしたが、すぐに花中と同じく笑い出す。

 世界の終わりを告げる地鳴りに、二人の少女の明るい声が混ざり込む。聞こえているのは自分達だけ。

 友情を確かめ合った花中はフィアに頼み、フィアは片手で晴海を持ち上げる。立ち上がる格好になった晴海は、しかし更に上げられて、まるでリュックかの如くフィアに背負われた。晴海は必死にフィアへとしがみつきつつ、気の強い笑みを浮かべる。それがなんとも頼もしくて、フィアの腕に抱えられている花中も強い気持ちを持てるようになった。

 これから挑む『強敵』は圧倒的存在だ。自分達人間は確かに非力で、どう足掻いたところでムスペルに擦り傷を付ける事すら叶わないが……自慢の脳を働かせる事は出来る。それに弱いからこそ気付ける真実が、きっとある筈。

 その気付きと人間の知恵を合わせてなんとかする。やれる事はただそれだけ。シンプルで分かりやすい。

「……良し。行こう、フィアちゃん。東京へ!」

「あいあいさー!」

 花中の合図を受け、フィアは大きく跳ぶ!

 フィアに続くようにミリオンが飛び上がり、ミィもまた追うように駆けてくる。フィア達の走力ならば、東京までさして時間は掛かるまい。

 だから花中は口を閉じ、己の心と向き合う。世界を救うなんて、大それた考えを()()()ために。

 友達を守りたいという想い。

 これだけあれば、今は十分なのだから。

 ……………

 ………

 …

 一つ、疑問があった。

 何故二度目の大地震が起きる前、テレビ局の現場取材の映像が映らなかったのか?

 ムスペルが何もかも液化させる、白い靄のような力 ― 今思えばアレは恐らく振動波なのだろう ― を放出した事により、接近が危険な事はどの報道局も知っていた筈だ。勿論ムスペルの強大さを思えば、何キロ離れていても安全とは言い難いが……現場から三十キロも離れていれば、余程の事がない限り安全だろう。

 しかし映像は送られず、音声による返答すらなかった。何か、『余程の事』が起きたとしか思えない。

 その意味では花中はちゃんと覚悟していた。地獄という言葉すら生温いほどの災禍が広がり、相手が如何に強大無比であるかを突き付けられるのではないかと。

 予感は正しかった。ただし『余程の事』が起きたという一点に限れば。

 花中は想像もしていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんて事は。

「いやーとんでもない景色ですねぇ綺麗な点には好感が持てますが」

「だね。出来れば眺めていたいけど、そんな暇ないのが惜しいなぁ」

 高度数百メートルの大空にて。絨毯のように薄く広がったミリオンの上 ― 人の姿をしたミリオンもその絨毯に乗っているが ― から、花中達は目の前に広がる光景を見ていた。

 正面の風景に対し、フィアとミィは能天気な感想を漏らす。特にフィアの声は弾んでいて、「好感が持てる」という言葉が皮肉でもなんでもない事を物語っていた。

 確かに、美しいと言えなくもない景色だ。

 時刻は今や夜となり、空には漆黒の夜空が広がっている。今日は新月なので月がないのは当然としても、一番星すら見えないのはどういう事か。

 答えは、地上が明る過ぎるから。

 地平線の先まで、大地が真っ赤に光り輝いていた。それは本来固形である筈の地面が、沸騰する溶岩と化している証。多量の白煙は水蒸気か、それとも気化した岩石か、或いは猛毒の硫化水素か。消えゆく気配すらない輝きは幻想的ですらあり、荘厳な大地の力を感じさせた。

【バルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】

 そしてその溶岩の中心に立つムスペルは、途切れる事のない咆哮を上げている。

 咆哮は花中達の下まで届き、人間達の全身をぶるぶると震わせた。三十五キロは離れている筈なのに、その姿は虫のように小さくしか見えないのに、まるで耳許で叫ばれているかのような存在感。生命としての力の差を、ひしひしと感じさせる。

 その雄叫びは大地を激しく震わせ、溶岩が爆発するように至る所から噴き出す。少しずつではあるが溶岩の海は広がっており、かの存在の力が徐々に世界を塗り潰していた。

 誕生初期の地球の表面は、燃え盛る溶岩に包まれていたという。

 ならばこのムスペルの叫びにより地表が溶岩に飲まれるというのは、世界の一新を意味するのだろう。どうして奴は世界を生まれ変わらせようとしているのか、その理由は定かではない。或いは大した理由などないかも知れない。出来るからやっているだけというのも、あり得る。

 世界をも気安く生まれ変わらせるとなれば、ムスペルは世界を創造せしもの、即ち神に等しい存在という訳だ。そんな神様が、恐らく世界で最も神を信仰していなかったであろう此処……東京に君臨するとは、中々皮肉が効いている。

 尤も、花中にその皮肉を笑う余裕などなかったが。

「……あの、ミリオン? 此処は、その……何処?」

 共に来ていた晴海も花中と同じく、いや、花中以上に動揺していた。自分の連れてこられた場所が東京だと受け入れられず、疑問をぶつけている。

 出来る事なら、花中としても此処が元東京だとは認めたくない。それを認めるという事は即ち、

「否定したいならご自由に。でも此処が、かつて人口千三百万人を誇った大都市の一角なのは変わらないわよ」

 ミリオンが語るように、途方もない数の人々が犠牲になったという事なのだから。

 半径三十五キロ。

 数字にすれば車で三十分程度の距離でしかないその値は、円の面積に換算すれば東京都を丸一つ飲み込んでもまだ足りぬほどの範囲となる。ムスペルを中心にした三十五キロ圏内が溶岩の海に化したという事は……千三百万人の人口を誇る東京はおろか、隣接する大都市である神奈川県川崎市や千葉県市川市も巻き込んだ筈だ。被害者数がどれほどのものとなるか、花中には想像も付かない。

 最早日本という国が立ち直る事は不可能だろう。いや、東京には世界でも有数の企業が集結し、外交などを担う行政も集中していた。影響は世界へと広がり、あらゆる分野に大きな傷跡を刻む筈だ……今後ますます怪物の出現が加速しそうなのに。

 ごくりと、息を飲む花中。諦めの感情が込み上がってくる。しかしその諦めは、今ならば悪いものじゃないとも思う。

 ここまで徹底的に諦めさせられたなら――――開き直れるというもの。失敗出来ないなんてプレッシャー諸共吹き飛ばされてしまえば、精神的な落ち着きとなる。冷静さは大切だ。変化する状況を正しく見極めねば、ムスペルの弱点など到底見付けられまい。

 それに人間的に最早手遅れという事は、フィア達にあんまり頑張ってもらわなくても良いという事でもある。大切な友達に命を賭けてくれとお願いするしかない、無力な立場としてはこれもまたありがたい話というやつだ。

「……フィアちゃん、みんな。無理そうなら、逃げても、良いからね」

「勿論そうさせていただきます……と言いたいですがちぃーとばかしそうもいかない感じですね」

「そうねぇ。多分、アイツを放置すると本当に『星』が終わりそうだし」

「流石に世界中がこうなったら、どんな猫も生きていけそうにないからなぁ。無理でもなんでも通さなきゃヤバい」

 尤も、花中の心配は別の意味でいらなかったらしい。三匹全員が真剣に答えた事で花中はそれを知る。

 フィア達も感じているのだ。ムスペルがこの星そのものを作り替えようとしていると。

 地表全てがマグマの海に変わろうと、フィア達ならば生きていけるだろう。しかしフィアが餌としている虫は死に絶え、ミィが好む野生の獣は絶滅する。飢えと渇きにより脅威の生命力を誇る彼女達もまたやがて死ぬ。ミリオンのような『インチキ』で生き延びても、人が滅びればミュータントは力を失う。

 人の世は終わった。されどフィア達からすればまだまだこの世界は終わっていないし、手遅れでもない。だから死力を尽くし、戦うのだ。

「うん。頑張ってね、みんな」

 花中に出来るのは、ちっぽけな応援だけ。

「ふふんご心配には及びません。あんな奴五分で片付けてみせましょう!」

 その応援で友達の一人が力を滾らせてくれたなら、こんなにも嬉しい事はなく。

 足踏みを揃えず飛び出す三匹の何時もの姿に、花中は一層強い希望を抱くのであった。




決戦の始まり。
人類がヤバいは何度かありましたが、地球がヤバいは異星生命体以来ですね。二回目という時点で色々アレですが。

次回は明日投稿予定です。


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地獄の魔物8

 いよいよフィア達とムスペルの戦いが始まる。

 花中と晴海が居るのは、ムスペルからざっと四十キロ以上離れた地点の『空中』。ミリオンの個体の一部が絨毯のように広がり、足場となってくれている。高さが上がれば地平線も遠くなり、ムスペルの姿がより一層ハッキリと見えるようになった。

 とはいえやはり四十キロ超えという距離は遠い。障害物は全くないが、体長五百メートルもあるムスペルは兎も角、フィア達の姿なんてもう全く見えない状況だ。

 これより繰り広げられるのは、人智を超える大決戦。非力な自分達人間の知恵が必ずしも役立てるとは限らないが、まともに見えなければ活躍のしようがない。花中の隣に居る晴海は必死に目を懲らしていたが、それでは見えるものにも限度がある。

 必要なのは拡大した画像だ。

「ミリオンさん。あの、望遠鏡みたいな事って、出来ますか? 出来ればムスペルの姿を、もっと、ハッキリ見たいです」

「ええ、それぐらいならお安いご用よ」

「あ。そういやあたしの時にもやってくれたね」

 花中が頼むと足場のミリオンは快諾し、晴海は自分が一度はその恩恵を受けたと語る。

 わたしの時はフィアちゃんが接近戦仕掛けたから要らなかったんですよね……等と思いつつ、花中はミリオンから生えてきた『望遠鏡』の接眼レンズ部分を覗き込む。晴海も同じく覗き込んだ。

 ミリオンが作り出した『望遠鏡』……勿論ミリオン自身により形成されたものだ。原理はよく分からないが、自身が普段解析している『光情報』を表示しているのだろうか……には、ムスペルの拡大画像が映し出されていた。あまりにも大きな画像、そしてその生物的質感に、驚いた花中は思わず後退り。レンズに付けていた目を離してしまう。

 離れた拍子に『望遠鏡』そのものを見れば、接眼レンズには『摘まみ』があり、回せる構造となっていた。本来望遠鏡の倍率は接眼レンズと対物レンズの性能から決定されるものであり、摘まみを回して調整出来るものではない。しかしこれはあくまで望遠鏡っぽいものであり、望遠鏡ではないのだ。

 花中は再びレンズを覗き込み、視界を埋め尽くすムスペルに慄きながらも摘まみを回す。するとムスペルがより一層近付いてきた。慌てて逆に回せば、ムスペルの画像は小さくなる。

 見やすい大きさまで画像を遠ざけ一安心、する暇は生憎ない。

 その時には既に、フィア達がムスペルに隣接していたのだから。

【バルォオオオオオオオオオオンッ!】

 吼えるムスペル。併せて大地を埋め尽くす溶岩が大津波のようにうねり、弾ける。地獄のような光景とは正にこの事であり、その中心に立つムスペルは圧倒的巨体で存在感を露わにしていた。

 対するフィアが取った行動は、同じだけの巨体でぶつかる事だった。

【嘗めんじゃありませんよこの虫けらがああああアアアアアアアアッ!】

 人の言葉を発しながら、しかしなんの理性も感じさせない雄叫び。

 次の瞬間、拡大しても豆粒ほどの大きさでしかなかった人影……フィアが一気に膨れ上がる! まるで爆炎のような急激な巨大化に、さしものムスペルも驚いたのか。僅かながらムスペルは後退り。

【ゴガアアアッ!】

 その隙すら逃すまいと、フィアは巨大化の途中で殴り掛かった! 生えた拳はムスペルの頭部を正確に捉え、強烈な一撃を上から叩き込む!

 ゲンコツのような打撃をもらい、ムスペルは更に後退。その間にフィアはますます大きくなっていく。

 十数秒もすればフィアは戦闘形態である怪物の姿へと至った。魚を彷彿とさせる流線形でのっぺりとした顔立ち。カエルにも似た体躯を屈強な二本の足と、体躯と同じ長さがある太い尾で支えている。胴体にはカエルのものと似た形の腕も付いているが、カエルと違って非常に太くて逞しい。近接戦闘を考慮した、恐ろしい身体付きである。

 されど花中にとっては見慣れた、幾度となく自分を守ってくれた姿だ。見るだけで勇気を与えてくれる。加えて此度のサイズは数十メートル程度ではなく、ムスペルに匹敵する五百メートル近い規模。半透明な身体は足下の溶岩が放つ光を受け、神々しさすら感じさせる輝きを纏う。見た目の上では一先ずムスペルと互角だ。

 水で出来ている筈のフィアの『身体』は、しかし平然と溶岩の湖に足を付け、直立してみせる。足を動かす度に溶岩の津波が起こり、周辺に甚大な被害をもたらす……人間的には大したものではない。拡大する溶岩の側から人々はとうの昔に避難しているか、或いは既にもうこの世にはいないのだ。思う存分やってもらって構わないし、そもそも今はそんな『些事』を気に掛けている余裕なんてない。

 これから始まるのは冗談抜きに、地球の命運を賭けた戦いなのだから。

【バルォオオオォンッ!】

 頭を殴られたムスペルは、しかしこの程度どうという事もないとばかりにその身を大きく振るう! その動きは、花中の目には()()()()()()()速さを誇っていた。

 即ち五百メートルという巨体ながら、ムスペルは圧倒的スピードを兼ね備えているという事。そしてムスペルの巨体を思えば体重が数百万トン……比較的形態が似ているアザラシを基準として考えれば、三百万トンを超えていてもおかしくはあるまい。

 やっている事はただの体当たり。

 されどその威力は、文字通り流星の衝突に値する!

【グヌゥッ!】

 フィアの巨体は突き飛ばされ、溶岩の湖に全身を叩き付ける。衝撃で溶岩が何百メートルも跳ね上がり、フィアの『巨体』を覆い隠す。

 ムスペルはそんなフィアに接近し、足の付け根に噛み付く! そしてあろう事か、ムスペルと同じく数百万トンはあろうフィアの『身体』を軽々と持ち上げ、溶岩で満たされた大地に叩き付けた! 溶岩が爆発したかのように飛び散り、衝撃の大きさを物語る。

 フィアはもう一方の足でムスペルを蹴り上げるが、まるで効果がない。何度も何度も、ムスペルはフィアを叩き付けた。

 生半可な生物ならばこの時点で大きな怪我を負い、形勢は不利なものとなるだろう。されどフィアの巨体は紛い物。噛まれようが叩き付けられようが本体にはなんのダメージも届かず、戦闘に支障はない。

 フィアは魚面の顔をニヤリと歪めた

 瞬間、フィアの『身体』から無数の水触手が生えてくる! ムスペルが己の失態に気付き顔を上げるも既に手遅れ。水触手はムスペルの身体やヒレに絡み付き、縛り上げて身動きを封じた。

「おっしゃあああああああああっ!」

 そこを追撃するのがミィだった。四十キロ先まで届く勇ましい咆哮を上げながら、彼女はムスペルに肉薄する。

 今のミィもまた人の姿はしていない。体長三メートルを超えるネコ科の猛獣……本来の姿を取っていた。人間の姿や、小さな猫の姿は人の世で暮らすためのもの。筋力で骨格を変形させ、その筋肉も形態維持のため収縮させた、いわば『リミッター』が掛かった状態だ。

 本来の姿を取ったミィの力は圧倒的だ。全身の筋肉を余す事なく使い、姿を維持するために費やしていたエネルギーを乗せられるのだから。

 彼女の放つ一撃は、流星をも超える。

 ミィは全体重を乗せた蹴りを、身動きの取れないムスペルの下顎に喰らわせた!

【バルルォオオオオオオオオオオォンッ!?】

 重たい打撃を受け、ムスペルが悲鳴染みた声を上げた。大きく身体を仰け反らせ、全身の筋肉をはち切れんばかりに膨れ上がらせる。ミィの蹴りにより与えられた、全身を駆け巡る破滅的な力に耐えようとしているのだろう。

 全力の助走から放たれた蹴りは、ミィにとって最大最強の一撃だった筈である。それを耐える以上、ミィの攻撃がムスペルには通じない事を意味していた。

 尤もそれは、ミィがここで攻撃の手を弛めれば、の話だが。

「オラァッ! これでも! 喰らえッ!」

 ミィは決して手を弛めず、身動きの取れないムスペルの身体の側面へと回り込むや、拳と足による打撃を三発喰らわせた!

 ムスペルは更に全身を膨らませ、己の筋力でこれを堪える。しかし何時までも、永遠に使えるものではないらしい。全身の肉が今にも弾けそうな状態で、ギチギチという肉の張り詰める音が遠く離れた花中にまで届く。これ以上は無理だと泣き叫ぶかのようだ。

「これで、どうだっ!」

 止めとばかりに、ミィは長く伸びた尾をムスペルの胴体に叩き付ける。

 瞬間、ミィが尾を叩き付けたのと丁度反対側に位置するムスペルの皮膚が、爆発するように弾けた! 血液だけでなく肉片も飛び散り、大きな傷をムスペルに刻み込む!

 されどムスペル、この程度では死なず。

 それどころか機敏に身体を動かし、ミィの方に顔を向けてきた。ミィは不味いと思ったのかすかさず跳び退く。

 もしもあと数瞬遅ければ、ムスペルの口より吐かれた半透明な何か……直撃したマグマが爆発するような攻撃を受ける羽目になっただろう。とはいえ直線的な攻撃であれば、ミィの驚異的反応と素早さを用いれば回避は容易だ。そう簡単には当たるまい。

 そう、直線的であれば。

【バル……ルォォォォオオオオオ……!】

【ぐっ!? 不味い!】

「やっべ!」

 ムスペルが唸り始めた、次の瞬間フィアとミィが動いた。ただし攻撃ではない。フィアは『身体』を崩してムスペルの傍から脱出し、ミィは全力疾走で離れる……即ち逃走だ。

 遙か四十キロ離れた花中ですら感じる、ぞわぞわとした悪寒。千三百万人、否、そんなものでは収まらない人命を易々と奪い去る破滅の力が来るのだと察したがために。

【オオオオオオオンッ!】

 一際大きな叫びと共に、ムスペルを中心にして半透明な靄がドーム状に広がった!

 自衛隊の戦闘機や、テレビ局のヘリコプターを溶解させた一撃だ。直撃すれば一瞬にして溶かされてしまうだろう靄に、フィアとミィは慌ただしく逃げる。されど広がる靄の速さは凄まじく、ミィは兎も角フィアの足では間に合わない。

 広がる靄にフィアの『身体』が触れた。溶岩を生み出すほどのパワーに、フィアの『身体』もどろりと溶ける

 筈だった。

 しかしフィアの『身体』は靄を受けても溶けず、怪物の姿を保っていた。なんの影響も受けなかった、という訳ではない。靄に触れた瞬間フィアの身体は猛烈に震え、今にも弾け飛びそうになっている。されど弾ける事はなく、なんとか堪えていた。

 ついに靄はフィアの全身を通り過ぎ、フィアの『身体』の震えは収まる。

 これにはムスペルも驚いたのだろう。目が見当たらず表情の読み取れない顔が、驚愕の感情で歪むのを花中は確かに感じ取る。

【おおっ! 存外いけるじゃないですか。あなたも偶には役立ちますね】

 そして耐えきった当人であるフィアさえも、大きく驚いていた。遠くまで響くフィアの声を聞き、花中も何が起きたのかを悟る。

 ミリオンのお陰だ。恐らくミリオンは今、フィアの表面ないし内部に潜んでいる。そのミリオンが、フィアに襲い掛かった靄……何もかも溶かしてしまう振動波を中和したのだ。熱 = 粒子の運動エネルギーを操るミリオンにとって、粒子の振動を抑えて状態を維持させる事は十八番と言えよう。

 ミリオンはミィの体表か体内に入り、彼女の身も守っているに違いない。勿論ミュータント化したムスペルの力に抗えるかは実際に受けるまで未知数であり、だからこそフィアとミィは靄から逃げたのだろうが……杞憂だったようだ。

【それじゃあ第二ラウンドといきましょうかァッ!】

「よっしゃあッ!」

 致死の一撃を耐えられると分かれば、恐れるものはない。フィアとミィは雄叫びと共にムスペルに向けて駆ける!

 ムスペルも大人しくやられはしない。否、退く気配すらないと言うべきか。猛然と駆けるフィアとミィを前にして、こちらも怯みもせず、むしろ自らも前へと駆け出す!

 三体は同時に激突。途方もなく巨大なエネルギー同士がぶつかり合い、衝撃波が広がる。溶岩は大津波となり、フィア達を中心にした大きなクレーターが形成された。底はかなり深く、どうやらムスペルの力により、東京は地下百メートルほどが溶解していたようだ。

 溶岩に囲まれたクレーター内部は、さぞ熱くなっているに違いない。何しろ溶岩の温度は一千度を超えているのだから。溶岩の発する高熱を受ければ、その中心もまた同等の高温になる事は容易に想像出来る。

 しかし獣達を止めるには全く足りぬ事もまた、彼女達と何年も暮らしてきた花中には分かる。

【バルォオオオオオオオオッ!】

【ヌゥアアアアアアアアアッ!】

「フシャアアアアアアアアッ!」

 三体の怪物が叫び、ぶつかり合う。灼熱地獄の中でも闘争は止まず、むしろ三匹の殴り合いは地獄の熱量さえも凌駕しているようで、三体を囲う溶岩が消し飛ぶように飛び散っていた。叫びとエネルギーが外部へと放たれ続け、出来立ての地獄さえも破壊する。

 まるで神々の戦。

 それとも地獄に潜む魔物達の闘争。

 どちらの言葉もしっくり来ないのは、彼女達が神も魔物も関係ない、一つの『生命』であると花中は理解しているからだろう。

「す、凄過ぎ……」

 或いは単に見慣れただけだろうか? 同じ光景を見ている筈の晴海がぽつりとそんな言葉を漏らしていたので、単に自分がおかしいだけかもと思い花中は自嘲気味に笑みを零した。

 しかしながら晴海の言葉に全く同意しない訳でもない。確かに彼女達の戦いは人智を超えており、最早「凄い」というなんの捻りもない言葉ぐらいしか例えようがないほど。

 特にムスペルのパワーは圧倒的だ。その上今は、最初の頃の激突とはまた違う立ち回りをしている。

 フィアに喰らわせるのは噛み付いてからの叩き付けではなく、体当たりや尾による殴り飛ばし。先の水触手拘束を警戒し、常に距離を取ろうとしているのだろう。フィアが伸ばした水触手は口から放つ振動波できっちり吹き飛ばし、決して自分に近付けない。

 ミィの攻撃も今ではあまり効果がない。先程のように筋力で受け止めていないのか、身体の膨張が殆ど見られなかった。三度は肉が弾け飛びそうなぐらい攻撃を受けているのに、ムスペルにはなんの支障も出ていない。なんらかの、未知の方法で対抗しているのだろう。

 形勢は有利とは言い難い。しかしながらフィア達も大人しくやられてはいない。フィアは振動波で砕ききれないほど太い水触手でムスペルのヒレを拘束し、ミィがムスペルの脇腹に一際強烈な一撃を喰らわせて怯ませる。ムスペルが反撃として放つ振動波が命中しても、ミリオンの力によりこれを耐えた。

 三匹は善戦していた。この星を生まれ変わらせようとしている神を相手にし、苦しいながらも戦い続けているのだ。

 ――――奇妙なほどに。

「……おかしい」

「え? 大桐さん、どうしたの? 何かアイツの弱点について分かった?」

「いえ、弱点では、ありません。おかしいんです。フィアちゃん達が感じた、あのムスペルの力は……以前出会った、とあるミュータントに匹敵、していました。もし本当に、彼女ほどの力が、あるのなら、こんな善戦、あり得ません」

 花中は思い出す。フィアがムスペルの力を、とある『大蛇』に値すると称していた事を。

 アナシスだ。人類が大出力水爆を投じても無反応だった異星生命体を、苦戦の果てとはいえ駆逐した脅威の存在。その尾の一撃は百五十メガトンの水爆など比にならない威力を有し、全力で暴れれば星をも砕きかねない。

 フィア達はあの時よりずっとずっと強くなった。しかし花中は知っている……水分子を固定する能力も、原子を共鳴により破壊する力も、抵抗を減衰させる力も、アナシスから見れば虫けらの試行錯誤でしかない。彼女が軽く尾を振れば、それだけでフィア達は全滅する。それほどの力の差があるのだ。

 仮にムスペルの力がアナシスより劣るとしても、そんなのは羽虫目線がプロの格闘家と一般成人男性の戦闘力を比べるようなものだ。羽虫側から見ればどちらも勝ち目のない、出鱈目な強さを誇る相手。アナシスに匹敵するとは、それだけ次元が違う存在という事である。

 なのにフィア達は、見たところ苦戦はしているが一瞬で負けそうな気配もない。三匹のアリが人間の手を煩わせる事など、果たしてあり得るのだろうか?

「それは、やっぱアレじゃない? 別のところに力を割いているから、とか」

 考え込む花中に対し、晴海は思い付いたように自分の考えを口にした。花中は『望遠鏡』から目を離し、晴海と向き合う。

「別のところ?」

「ほら、例えばアイツの周りにある溶岩。全然岩石にならないどころか、むしろどんどん温度が上がってる感じでしょ。範囲も、少しずつ広がってるみたいだし……アイツが作り続けているんじゃない?」

 花中が問うと晴海もまた『望遠鏡』から目を離し、遠くを指差す。

 晴海が指し示した溶岩は、ムスペルを中心に三十五キロ以上の範囲に広がる溶岩の一部分。他と比べ特段特徴のないその場所の溶岩は、確かに冷めていく様子はなく、ボコボコと煮えたぎっていた。

 晴海の指先はそのまま溶岩と大地の境界付近へと移る。そこはゆっくりとだが着実に大地が溶岩へと変化し、マグマオーシャンの範囲を広げていた。

 晴海の言う通り、ムスペルは今も溶岩の形勢と拡大を行っているらしい。アナシス級の力を誇るムスペルといえども、多量のマグマを生み出すには力の大部分を割かねばならないだろう。成程、世界の在り方を変えるため全身全霊を向けているとすれば、飛び回る羽虫退治に力を割り振れないのも頷ける。

 しかしムスペルは、何故そうまでして地上を溶岩の海に変えているのか?

 正直なところ花中は、此度の惨事を引き起こした動機が、単なる遊び半分という可能性が最も高いと考えていた。野生を生きる生命は、他種の事などこれっぽっちも考えない。地上侵出が出来そうなら「じゃあちょっとやってみよう」というノリで始めてしまう存在だ。その結果地上に暮らす何千億もの生命体が滅びようとも、ムスペルは気にも留めないだろう。

 だが、フィアやミィという『強敵』を前にしてもなお作業を止めないのは何故か。どうして、そうまでして地表を溶岩で満たそうとしている? コイツは一体『何』を目指して……

 疑念を深めていく花中。されどのんびり思考に没頭するような暇はない。

 フィア達との戦いが拮抗している理由が地球に大部分のエネルギーを差し向けているから、というものならば……解決方法は極めてシンプル。地球に向けていたエネルギーを、ほんの少しだけフィア達に割けば良いだけ。

 そして能力を自在に操るミュータント達にとって、そんなのは児戯にも等しい技である。

【バルォオオオオオオオオオオォンッ!】

 ムスペルが一際巨大な咆哮を上げた。

 その叫びは彼方まで響き渡り、花中達の身体をびりびりと震わせる。途方もないエネルギーを放出し、その力を高めていくのが伝わってきた。

 されど溶岩の海の広がりが止まったのを、花中は見逃さなかった。

 ぞわりとした悪寒が花中の背筋を走る。だがその悪寒をフィア達に伝える術はなく、ムスペルが大口を向けるまでフィア達は動かない。

【バルルルルオオオオオオオオンッ!】

 ムスペルは一際大きな叫びと共に、口より振動波を放つ!

【ムッ……!】

 直線上に居たフィアは、素早くその身を捩る。大きく動けるほどの時間がなく、咄嗟の判断だったのだろう。その判断は正しく、直線的に伸びてくる振動波らしき大気の歪みは、フィアを直撃する事はなかった。

 とはいえ完全な回避も出来ておらず、太く逞しい右腕が振動波を受けてしまう。

 直後、フィアの右腕が()()()()

 文字通り消え失せたのだ。跡形もなく、蒸気という痕跡すら残さずに。あまりにも瞬間的な消失に、最初から右腕なんてなかったかのように思えてくる。

 しかしそんなのは現実逃避の考え方。

【バルルォオオオオオオォンッ!】

 すかさず放たれたムスペルの第二射がフィアの頭の半分消滅させ、花中に現実を突き付けた。

 フィアの『身体』は今もミリオンが守っている筈。少なくとも先程の全方位攻撃には見事耐えていた。なのに今の一撃は耐える事はおろか、数秒と堪える事すら出来ていない。

【小癪なァッ!】

 フィアは即座に腕を生やし、ムスペルに殴り掛かる! ケダモノらしい咆哮と共に放った拳は、衝突の瞬間白い靄のようなもの……強烈な衝撃波を放つほどの威力を持っていた。都市さえも壊滅させるであろう、人智を超えた一撃。

 なのに直撃を受けたムスペルは微動だにしなかった。まるでそんな攻撃は、もう何も感じないと言わんばかりに。

【ッ……おのれェ!】

 パンチが効かなかったと分かり、フィアはムスペルより後退――――したのも束の間、全速力で前進!

 それは圧倒的速さでの体当たり。

 純粋な運動エネルギーの攻撃が、ムスペルの身体に激突する! 五百メートルはあろうかという巨体にも拘わらず、花中にはフィアの動きが殆ど見えなかった。即ち音速の数十倍ものスピードでの激突である。流星であろうとも、これほどの速さと質量のものは稀。大量絶滅をも引き起こす『体当たり』だ。

 星の環境をも変える破滅的一撃は、しかし周りには大きな被害を与えない。液状の溶岩が僅かに舞い上がっただけ。即ち衝撃波や熱という形でエネルギーが分散せず、大半がムスペルという一個の生命体に注がれたという事。

 だが、これでもムスペルは()()()()()

 数多の種族をも滅ぼす神の鉄槌に比する一撃を、ムスペルはそよ風のように耐えてみせたのだ。

【ナ、ニィ……!?】

「ガアアアアアアアアアアッ!」

 予想以上の頑強さにフィアが僅かながら怯んだ、その隙を潰すように今度はミィがムスペルに接近する。

 全身の筋肉をはち切れんばかりに膨らませ、生じた熱によるものかミィの身体は赤く輝く。これまでとは比にならないパワーを生産し、力に溢れた身体をぐるんと一回転。

 その勢いに乗せて放った蹴りを、ムスペルの身体の側面に喰らわせた!

 ミィの特技は桁違いの身体能力。単純な力比べなら、何百万トンという質量の水を操るフィアすら超える。そのミィが全力の蹴りを、フィアの身体よりも何万倍も小さな面積しかない足に乗せて放ったのだ。単位面積当たりの衝撃は、ざっと数万倍。

 棍棒で殴るような、致死的なダメージは与えられないかも知れない。しかし針で突き刺すような、着実かつ深刻な傷は負わせられる。これを繰り返せば如何にムスペルでも……

 人間二人は希望を抱いた。人の期待に応えるように、ミィは更に数発の蹴りをお見舞いする。

 ムスペルは動かなかった。

 微動だにしていない。まるでなんの攻撃も受けていないかの如く。

 これにはミィも驚いたのか、慌てて後退。フィアと共に距離を取り、ムスペルの様子を窺おうとした

【バルォオンッ!】

 刹那、ムスペルが吼える。

 すると突如虚空から、半透明な『何か』が無数に出現――――フィア達の身体を取り囲み、身動きを封じた!

【ヌッ!? コレは……!】

「ギャンッ!?」

 フィアは全身の七割ほどが半透明な何かに取り込まれ、ミィは全身が飲み込まれた。フィアは力を入れて現れた『何か』を砕こうとするが、しかし全く動く気配もない。

 フィア達を取り込む半透明な代物は、一見して何かの結晶体のようにも見えた。観察すれば正六面体のキューブが幾つも連結して出来ているのが分かる。キューブのサイズは小さければ人間一人を丸々包み込む程度、大きなものはざっと一辺三十メートルはありそうだ。

 美しさの感じられる結晶体だが、しかし正体は全くの不明。一体アレはなんなのだ? 何処から現れた? 疑問を抱く花中だったが……野生生物の闘争は花中の理解を待ってくれない。

【バルルルォオオンッ!】

 ムスペルの呼び声に呼応し、虚空より『槍』のようなものが突如として現れた! 複雑な模様や形状がない、木の棒を削って作ったようなシンプルな形をしている。長さはざっと三百メートル。そこらのビルなど比にならない巨槍は、フィア達を取り込むキューブと同じく半透明な代物だ。

 違いがあるとすれば、その先端が鋭く尖っている点ぐらい。

 ムスペルはぐるんと身体を一回転させ、長大な尾で槍を殴り付ける! 巨体から与えられた打撃により槍は直進。目指すは、フィアの『身体』!

 槍はフィアを易々と貫通し、その威力を物語る。無論フィアの『身体』は作り物であり、貫通しようがダメージにはならない。戦闘は継続可能だ。

 しかし更に何十本と槍が生み出され、その全てがフィアを狙っていたなら?

 もしかすると、一本ぐらいはフィアの本体を傷付けるかも知れない。

【ぬ……ヌゥオアアアアアアアッ!】

 フィアは身体より二本の腕を生やした、が、次の瞬間腕は虚空より出現した半透明なキューブにより動きを封じられてしまう。槍を弾き返そうという動作すら、ムスペルは許さぬつもりらしい。

 放たれた何十という槍は、全てフィアを貫く!

 最早逃げる隙間すらないのではないか? そう思えてくるほど、槍はフィアの全身にくまなく突き刺さった。あまりにも刺さり過ぎて、フィアの『身体』よりも槍の占める面積の方が大きいぐらい。その姿は最早怪物ではなく、槍の束という方が正しいだろう。

 親友の姿が一瞬にして変わり果てたところを目の当たりにし、花中は血の気が引いていく。正直、どうして倒れなかったのか分からないほど。

 或いは本能的に、フィアの無事を確信したからか。

 血の気が引いてしばらく経ってから、花中の理性もフィアが槍の猛攻をやり過ごしたと理解する。フィアが能力により創り出している怪物型の『身体』が、崩れていなかったからだ。どうやらフィアはほんの僅かな隙間になんとか逃げ込めたらしい。

 勿論フィアが無傷とは限らない。槍が掠めて大怪我を負っている可能性はある。しかしフィアならば、きっと致命傷は避けている筈。花中はそう信じたかった。

 キューブに閉じ込められたミィも、恐らく生きてはいるだろう。身体能力を操る彼女の生命力は、猫という高等動物のそれではない。全身を謎物質に固められた事で呼吸が出来る状態ではなさそうだが、血中酸素の効率的な再利用ぐらいはやっているだろう。彼女もすぐには死なない。

 フィアもミィも生きている。ミリオンも分散している事で幾らかは生き残っている筈だ。

 問題は、何時までも生き続けられる訳ではないという事。

【……バルルルルォォォォン】

 ムスペルは掠れた声で鳴きつつ、警戒するようにフィア達を見つめていた。這いずるように動きながら、フィア達をあらゆる角度から観察している。

 奴も察知しているのだ。フィア達が自らと同じミュータントであると。ミュータントのしぶとさはミュータントが一番よく理解しているだろう。ならば今の猛攻で死んでいないだけでなく、反撃のチャンスを窺っている事も察しているに違いない。

 特にムスペルが睨んでいたのは、フィア。完全にキューブに閉じ込めたミィと違い、こちらは穴だらけとはいえ『身体』は残っている。その事に違和感を覚えたのか、或いはフィアの方が脅威度が高いと判断したのか。

 ごくりと花中は息を飲む。フィアが少しでも動きを見せれば、ムスペルは止めの一撃を与えてくるだろう。しかしここをやり過ごせば、ムスペルには大きな隙が生じる筈。

 どうかフィアちゃん、動かないで――――

「ね、ねぇ、大桐さん。あの」

 そんな祈りを抱いていた花中は、傍に居た晴海の声に酷く驚いてしまう。跳ねるような動きで振り返ってしまい、晴海もまた飛び跳ねるぐらい驚かせてしまった。

「あ、ご、ごめんなさい……」

「う、ううん。あたしこそごめん、急に話し掛けちゃって」

「気にしないで、ください。それで、なんでしょうか?」

 花中が尋ねると、晴海は一瞬口を閉じる。驚かせてしまった手前、少し話し辛いのか。

 されど話さないという選択のある質問ではないらしく、晴海は恐る恐る尋ねてきた。

「その、フィア達を固めてる四角い奴とか、槍とか……なんか、こう、突然出てきたわよね? アレ、一体なんだと思う?」

「……分かりません。ミュータントの、能力は、色々見てきましたけど……あんな、魔法みたいな力は、初めてです」

「ま、まさか本当に魔法なんて事は」

「あり得ません」

 晴海のおどおどとした言葉を、花中は強い言葉で否定した。

 そう、魔法なんて事はあり得ない。

 この世には重力を操作する生命も、あらゆる物質を合成する生命も、何処までも成長する生命も存在する。生存に役立つなんらかの術があれば、どんなものであろうと、人間では活用する術が思い付かずとも、生命は必ず制御してみせる。数多の超生命体を見てきた花中は、その事実を幾度となく突き付けられてきた。

 もしもこの世に魔法なんてものがあるならば、生命はとっくにそれを使()()()()()筈だ。何故なら魔法が便利であればあるほど、魔法を使える生物は生き残りやすくなるのだから。やがて魔法を使える生物は子を産み、それらの子孫も魔法を使って生存競争に勝ち抜こうとするだろう。段々と魔法を使う生物は世界中に広がり、魔法は有り触れたものと化す。これが『自然の摂理』だ。

 今の地球には魔法を使う生物がいない。これこそがこの世に魔法が存在しない、存在出来ない確固たる証拠である。故にムスペルの力は魔法ではない。

 なら、一体なんだ?

 あたかも無から有を生み出すような、あの力の原理はなんなのか……

「……っ!」

「大桐さん!?」

 考えを巡らせるが、途端、ズキンッとした痛みが頭を襲う。迂闊にも考え過ぎてしまったか。晴海が駆け寄って支えてくれなければ、そのまま蹲ってしまったに違いない。

 へばっている場合じゃないのに。あの力の謎を解けば、もしかしたら逆転の一手が……

 頭の痛みを堪え、それでも花中は考えようとする。だが、状況が動き出す。

 ムスペルの頭上に、とびきり巨大な槍が現れる。

 槍は刻々と成長していき、五百メートルはあるムスペルよりも更に巨大になっていく。急激な巨大化に槍自身が悲鳴を上げているのか、ギジギジと歪な音が辺りに鳴り始めた。よくよく見れば表面がボロボロと崩れ、強引な巨大化である事が窺い知れる。

 更には、花中達の周りの気温が下がり始めた。

 感覚的なものではない。明らかに寒くなってきていた。続けて息が辛くなってくる。吸っても吸っても、息苦しさが抜けない。

「(何、これ……まるで……)」

 突如として起きた異変。しかしその異変に考えを巡らせる余裕など、今の花中にはない。

 ムスペルの頭上に形成された槍は、全長千五百メートルはあろうかというサイズになっていた。流石にこれほどの大きさになると、ムスペルとて雑には作れないのだろう。奴は少しだけだが身を仰け反らせ、アシカが鼻先にボールを乗せている時のような、上向く体勢で槍を見つめていた。キューブと同じく半透明な材質で出来ている筈のそれは、しかしあまりに大き過ぎるからか、濁っているように見える。

 あまりの巨大さ故に、槍の先端は最早鋭いとはいえない丸みを帯びていた。だが、全長千五百メートルというサイズから見れば十分に『細い』。大質量とスピードの力を以てすれば、あらゆるものを易々と貫通するだろう。

 何より『身体』の何処かに隠れ潜んでいる今のフィアにとっては、大きいというだけで十分過ぎる脅威。残った『身体』にあの槍を差し込まれたなら、いよいよ本体と巨槍が衝突してしまう可能性が高い。

 逆に上手くやり過ごせれば、ムスペルはフィアを仕留めたと油断する筈。

 ムスペルの槍が、フィアの『身体』の何処かに向けられる。遠くからそれを観察する花中に、その切っ先の行く手にフィアが居るかは分からない。

 花中は祈った。星の命運も、自らの無事をも差し置いて、そこに居るかも知れない親友の無事を。

 花中の祈りは――――届かなかった。

【ッオオオオアアアアアアアッ!】

 全身槍塗れの状態のまま、フィアが雄叫びを上げながら動いたのだから。

 ボロボロの『身体』を強引に動かし、フィアはムスペルに拳を振り上げる。狙いは上向きになっているムスペルのボディー部分。人間相手どころか並の怪物相手ならば十分形勢逆転を狙えるだろう強烈な一撃だが……ムスペル相手に通用しない事は、先の肉弾戦でミィがどれだけ胴体に拳を喰らわせてもビクともしなかった点から明らか。最早苦し紛れの攻撃でしかない。

 ムスペルはフィアの反撃を悠々と耐え、いや、無視して攻撃を行う。そうするだけでフィアの命運は尽きるのだ。

 花中ですらそれを察している。野生の本能を有し、直にフィアと対峙しているムスペルが理解していない筈もない。

 ないのだが。

 ムスペルの取った行動は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事だった。しかも力を失ったように、槍を消滅させた上で。

「……えっ?」

【ん?】

 花中は呆気に取られ、フィアもキョトンとした声を漏らす。フィアが振り下ろした拳はムスペルの側頭部を打ち、ムスペルは平然としていたが……花中はその『当然』の結果を呆けた顔で凝視する。

 伏せた、という事は守りを固めたのか。成程防御は重要だ。どんなに有利な展開でも、大きな一発を貰えば逆転もあり得るのだから――――馬鹿馬鹿しいにも程がある。フィアの豪腕を何度頭から受けても平然と耐えていたムスペルが、どうしてこの期に及んで守りを固めるのか。ハエが胸目掛け飛んできたからといって、両腕を正面で構えて身を守る人間が何処にいる。

 ましてや伏せた瞬間、じっくり大きく育てた槍が蒸発するように消えた。確かにムスペルからしたらそれは些末なものかも知れないが、何十秒と掛けて作り上げたものを放棄せねばならぬ状況ではない筈。

 何かがおかしい。なんだ、フィアは何をしようとしたのだろうか。花中は思い出そうとするが、ピンと来るものが全くない。

 フィアがやったのは、精々アッパーのような動きで、仰け反るような姿勢を取っていたムスペルに拳を振っただけ

「ああああああああああああああっ!?」

 と考えていた最中、晴海が突然の大声を上げた。ビックリした花中は今まで頭の中にあった考えが全て吹っ飛び、反射的に晴海の方へと振り返る。身体は縮こまり、申し訳ないがすっかり怯えてしまった。

「は、はひ!? え、あ、な、何、か」

「分かった! 分かったのよ!」

「えっと……?」

 おどおどする花中に、晴海は要領を得ない言葉で訴えるばかり。

 何が言いたいのだろう? 分からないままだと怒られるかも……そんな小心者染みた理由で晴海の言おうとしている事を必死に考える花中だったが、晴海は花中の気持ちなどお構いなし。

 自分の中でどう言うべきか纏まったのだろう。晴海は戸惑う花中に、更にこう伝えるのだ。

「アイツの弱点! お腹、お腹が弱点よ!」

 一発逆転のチャンスを、ついに見付けたのだと――――




ムスペルさん、地球そのものを改変しながら相手するという舐めプ。
でもまぁ、ムスペルから見たらフィア達といえども羽虫みたいなものですし。

次回は10/25(金)投稿予定です。


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地獄の魔物9

 腹部。

 基本的にどんな生物においても、この場所が他のどんな場所より強いという事はあまりない。内臓がたくさん詰まっていて、骨もなく、皮膚は柔らかい事が多いからだ。

 ムスペルにおいても、それは変わらぬだろう。常に伏した体勢である奴の腹部を攻撃するのは一苦労だが、もしも一発喰らわせられたなら、側面とは比較にならないほど大きなダメージを与えられる筈である。

 が、しかし。

「いや、それは弱点と呼べるの? 当たり前の話じゃない」

 花中達の下に広がる絨毯状のミリオンが言うように、取り立てて有効な弱点とは花中にも思えなかった。

 そもそもフィア達とムスペルの力は羽虫と人間、或いはそれ以上に開いている。この世に羽虫の体当たりを腹に受け、痛みから藻掻き苦しむ人間などいない。フィア達が殴ったところで、ムスペルが身動ぎするのかすら怪しいものだ。

 正直そんな風に思ってしまう花中だったが、ミリオンに窘められた晴海は怯まない。むしろますます興奮し、叫ぶように語る。

「そうじゃない! そうじゃないの!」

「そうじゃないって、じゃあなんなのよ」

「アイツ、フィアが繰り出したお腹への攻撃に物凄く過敏に反応してたじゃない! もしお腹を攻撃されて平気なら、あんなすぐに伏せないわよ!」

「……まぁ、そうかもだけど」

「それにミリオンがロシアで戦ったムスペルも、ミリオンの攻撃を伏せて受けたでしょ! アイツらにとって、お腹は本当に致命的な器官なんじゃない!?」

「……マジ?」

 晴海の意見に、ミリオンは少し戸惑ったような声を漏らす。花中も動揺しながら、ムスペルの方へと振り返る。

 フィアの攻撃を前にして伏せた事で、腹ではなく頭から鉄拳を受けたムスペルは……まるで苛立ちを露わにするかのように、顎をガタガタと震わせていた。悔しさと怒りが、遥か数十キロ離れた位置から眺める花中にも伝わってくるほどに。

 花中はその姿を見つめながら考える。

 ムスペルの姿はアシカのようである。だから花中は、ムスペルは溶岩の中を泳ぎ回る生物だと思っていた。あの身体なら、液体内をすいすいと進むのに適していると考えたが故に。

 しかし別の見方をしてみればどうだ? あのアシカのような形態……地べたに伏せる事で()()()()()()()()()()()()()()()()()()ではないか。

 或いは地殻の最深部、地球で最も深い場所……星の中心核に接するための形態という可能性もある。超高温ながら圧力により固体となっている核に腹を付け、そこから熱などのエネルギーを吸い上げるのだ。もしこの想像が正しければ、ムスペルの腹には他の生物よりも多くの、そして重要な臓器が集結している筈である。迅速に処理しなければ、折角取り込んだ熱が拡散し、無駄になってしまうからだ。それに皮膚が厚いと熱の通りが悪くなり、吸収する上で不適応なので、他の部位よりもかなり薄くなっていると考えられる。

 無論いくら弱点でも、人間が用いる兵器でどうにかなる脆さではあるまい。肥大化した脳が詰まっている人間の頭に、小さなアリが噛み付いたところで無意味なのと同じである。しかしある程度の、防御を抜けるだけのパワーがある相手……例えば同種、或いは捕食者に腹部を攻撃されれば、とても大きなリスクとなるだろう。結果腹への攻撃に敏感な個体ほど生存率は高くなり、防御反応が発展。段々と本能に刻まれていく。

 一度本能として組み込まれれば、最早ムスペル自身にも抑えられない。どんな攻撃だろうと、例えその攻撃から身を守る特殊な術があろうと、()()()()()腹を守ろうとしてしまう。あたかも上空の気配であれば実際の脅威度に拘わらず反応してしまう、フィアのように。

 ……考えれば考えるほど、腹こそがムスペルの弱点だという晴海の意見が説得力を持つ。そしてミュータント化しているあのムスペル相手でも、フィア達ならどうにか仰け反らせるぐらいの打撃は与えられていた。

 だとすれば、腹への攻撃は本当に有効な手段かも知れない。

「……OK、がむしゃらに殴るよりはマシそうね。とりあえずさかなちゃんと猫ちゃんには伝えておくわ。でもあまり期待しないでね」

 ミリオンも納得したのだろう、晴海にそう告げた。動きは見えないが、目に見えないほど小さな個体を幾つか飛ばしたと思われる。間もなくフィア達にもこの情報は伝えられるだろう。

 しかしこれで一安心とはいくまい。。

【……ふっはははははははは! そーいう事ですかァ! じゃあさっさとぶちかましてやりましょうか!】

「ふっしゃあああっ!」

 花中は息を飲んで見守る中、フィアが咆哮と共に動き出し、自身を固めていたキューブを易々と砕いたミィも雄々しく叫ぶ。

 二匹は同時にムスペルへと突撃する。フィアはさながら突進する横綱のような低姿勢、ミィも溶岩の海を駆けて低い位置を確保。どちらも伏せているムスペルの腹を狙っていた。

 非常に分かりやすい動きだ。ミュータント化により人間並の知性を獲得している筈のムスペルならば、フィア達の狙いを即座に理解したに違いない。歯噛みし、忌々しさを隠そうともしない事からも明らかだ。

 されど悔しさは、すぐに消え失せた。

 知的だからこそムスペルは理解しているのだ。迫り来る超生命体二匹すらも、自分にとって脅威たり得ない事を。

【バルルォオオオオオオオオオオンッ!】

 ムスペルが吼えた瞬間、大地から無数の槍が出現した!

 槍は半透明な、先程フィア達に喰らわせたのと同じもの。フィアの『身体』をも貫く強烈な攻撃の前振りに、生身であるミィの足が僅かに鈍る。

 対するフィアは自分の『身体』が貫かれようとも、一部が砕けようとも構わず前進。二匹の足並みは乱れ、先にムスペルに到達したのはフィアだった。どっしりとした構えでムスペルとぶつかり合い、その両腕をムスペルの『ヒレ』の付け根へと伸ばす。一番持ちやすそうなところを掴み、強引にひっくり返すつもりなのだ。

 だが、ムスペルはこれを許さない。

 突如として虚空より現れたキューブが、フィアの腕を固めたのだ。無論水で出来た偽物の『身体』にとって、腕に何かが纏わり付いてもダメージとはならない。だが手の指を四角い塊で固められてしまったら、ヒレの根元を掴む事など叶わない。

【ぬぅ! 小癪なごっ!?】

 文字通り手を塞がれたフィアに、ムスペルは強烈な頭突きをお見舞いする! 何百万トンもあるフィアの身体が浮き上がり、十数キロ彼方に突き飛ばされた。落下と同時に溶岩の飛沫が上がり、大津波が巻き起こる。

 ムスペルは出遅れたミィに視線を向けた。体長三メートルを超える猛獣姿であるとはいえ、ムスペルから見れば虫けらのような小ささのミィだが……ムスペルは逃がすつもりなどないようだ。

「うげ、ちょ、ま、ッ!?」

 慌てふためくミィは、即座にその場から後退。今まで彼女の居た場所にキューブが次々と出現する。

 瞬き一回分でも反応が遅れれば、またしてもミィはキューブの中に閉じ込められただろう。ミィのパワーならば破れない事もないようだが、しかし幾つものキューブを()()()出現させられたらどうなるか……ミィもそれを察したからこそ逃げたに違いない。

 接近を試みるも、数秒と経たずに離れざるを得なかったフィアとミィ。ムスペルをひっくり返そうとする彼女達は、ムスペルに接近しなければどうにもならないというのに。

 対するムスペルは、距離が開いていても関係ない。

 虚空より生成した『槍』を飛ばせば、射程の問題は解決するのだから。

【バルッ! ルオオオォンッ!】

 ムスペルは尾を振るい、空中に生み出した『槍』を殴り付ける! 打撃を受けた槍は超音速で飛び、フィアの頭を狙う!

 フィアは勿論これを防御――――しようとした腕は無数のキューブで固められて動けない。猶予があれば腕を新たに生やす事も可能だが、そんな時間はなく、『槍』はフィアの頭を貫いた!

【この程度ォ!】

 されどフィアにとって頭など作り物。新たに作り出した腕で『槍』を掴み、顔面から引き抜く。次いでその『槍』を返してやろうとばかりにムスペルに向けて構えた

 直後、『槍』が爆発した!

【ぬぐぅ!? これは……!】

 爆風を至近距離で受け、フィアは作り物の『身体』を大きく仰け反らせた。『槍』を掴んでいた手は吹き飛び、跡形も残っていない。

 どうやらムスペルは、『槍』を生み出すだけでなく消失させる事も自由自在のようだ。物質の創造と破壊を行う様は、神の所行を見ているような気持ちにさせられる。畏怖の念が沸き、彼方で見守る人間達に絶望的な感情を抱かせた。

 だが、ケダモノは神など信じず。

 目の前に立つモノもまた己と同じケダモノであると理解し、怯まず立ち向かう。

【まだまだァァァァァッ!】

「やられっぱなしと、思うなァ!」

 フィアとミィは再度ムスペルに突撃を始めた。

 ……三匹の ― 正確にはミリオンも居る筈なので四匹なのだが肉眼では見えない ― 戦いを観察し、花中はやはりと感じる。

 晴海が予想した通り、ムスペルにとって腹は相当致命的な弱点らしい。奴はフィア達を攻撃するよりも、彼女達からの攻撃を防ぐ事に注力しているように見えた。

 その際役立つのが、あの魔法染みた力だ。虚空より現れてフィア達の身動きを封じるキューブ、何処からか出現する巨大な『槍』……いずれも無から有を生み出しているとしか思えない芸当である。あの力に阻まれてフィアもミリオンも思うようにムスペルに近付けず、未だ腹部への攻撃を行えない。

 なんとかしてあの力を封じるか、或いは無効化する術を見付けねばならない。だがあの力は一体どんな原理で発現している? いや、そもそもあのキューブや『槍』は何で出来ているのだろうか。

「ミリオンさん! あの、フィアちゃん達を襲ってる、槍とか、四角いものとかが、何で出来ているか、分かりますか?」

 それを解析出来る者はミリオンぐらいだ。花中はミリオンに尋ね、足下に広がるミリオンは考え込むようにしばし沈黙を挟んでから、落ち着いた口調で答える。

「……主成分は窒素よ。というか窒素だけしかないわね」

 ただしあまりにも予想外の答えに、花中は一瞬呆けてしまったが。

「窒素、ですか? ……えっ、窒素?」

「ええ、原子番号七番のそいつよ。あの四角い塊と槍っぽいものは、どちらも純粋な窒素の塊。一体何処から出してるんだか」

 人の姿を取っていたなら、今頃肩でも竦めているのだろうか。そんな姿が脳裏を過ぎる言葉遣いでミリオンは説明し、花中は一層戸惑う。

 窒素は、確かに地球では有り触れた物質だ。しかしながらその性質に何か特別なものがある訳でもなく、ましてや単体の塊が頑丈だという事もない。

 一体どうしてムスペルは、窒素の塊なんかを作り出しているのだろうか? そもそも何処から窒素を……

「えっ、それってつまりアイツは空気を操っているって事?」

 花中が考えていると、晴海からそのような質問が飛んできた。自分の思考に没頭していた花中は一瞬キョトンとなり、遅れて晴海の言葉を理解した後も戸惑いから少し口の動きが鈍ってしまう。

「……えっと、何故、空気を操れるって、考えに?」

「え? いや、だって窒素って空気に八十パーセントも含まれてるでしょ? それをこう、ぎゅっと集めて塊にしたんじゃない?」

「まぁ、原材料は空気かもね。でも窒素ってマイナス二百十度まで下げないと固体にならないわよ」

 晴海の意見に、ミリオンは化学的な観点から答える。ミリオンが語るように窒素の凝固点はマイナス二百十度。この圧倒的低温まで下げなければ固体の窒素は誕生しない。

 ムスペルの口から放つ振動波は大地を溶解させていたが、あれは粒子に振動という名の大きな運動量を持たせる……熱エネルギーを与える事で為し得ている。つまりは加熱だ。固体窒素を生み出すためには低温、つまり粒子が持つ運動量を奪う必要がある訳で

「(……あれ?)」

 そこまで考えて、ふと花中は思う。

 ムスペルの力は大地のみならずあらゆるものを……金属どころか生物すらも……溶解させた。特に人が溶かされるなんて、あれほど恐ろしい光景は他にあるまい。

 しかし、これはおかしくないだろうか?

 例えばヘリコプターが鉄で出来ているとした場合、融点は約千八百度となる。ではこの千八百度という高温に人間が晒された場合、その人間は溶けてしまうのか?

 否である。人間の肉を形作るタンパク質は七十度で変性し……ほんの数百度で()()()()()()。燃えるとはつまりタンパク質中の窒素や炭素が化学反応を起こし、二酸化炭素や水などの『気体』に変わる過程だ。つまり千八百度もの高熱を受ければ、人間は溶けずに蒸発する。

 にも拘わらず花中は、ヘリコプターと人間が同時に溶ける瞬間を目の当たりにした。やはりアレは見たという思い込みで、本当はただの見間違い? そうかも知れない。だが違う可能性も出てきた。

 例えばそれこそがムスペルの『能力』。

 沸点も融点も異なる物質を同時に溶かす……その現象を文字通りのものと解釈する。ありのまま理解すれば良い。ミュータントの力とはそれほど理不尽なのだから。

 そう考えればなんと簡単なの話だろうか。沸点も融点もムスペルの力の前では関係ないのだ。

「物質の『状態』を操る能力……!」

 それらを全て無視して、意のままに操る能力なのだから。

「状態って、気体とか、液体とか?」

「はい! そうだとすれば、説明出来ます。あの槍みたいなものは、窒素を固体へと変化させて、作り出したものだとしたら……!」

「……成程。本当にそうだとしたら、あの魔法染みた攻撃については説明出来るわね」

「途中から、ミィさんの攻撃に、耐えられるように、なったのも、自身の身体を、固体の状態として、固定する事で、強度を、増したのかも、知れません」

「ヤバいわねぇ。何がヤバいって、あの槍とか四角いものを作り出す時の素振りからして、力を発動するのになんかビームみたいなのを当てたり、身体で触ったりする必要すらないって感じなのよね」

「ちょ、それってつまりアイツがその気になれば、その瞬間蒸発させられたり、溶かされてもおかしくないって事!? 流石に無敵過ぎるでしょそれ!?」

「ええ、問答無用に無敵の能力ね。相手していたのが私達じゃなかったら、如何にミュータントでもそれこそ瞬殺だったかも」

 飄々と語るミリオンに、花中は同意を示すために頷く。

 フィアは昨年の戦いにより、水分子を『固定』する力を身に付けた。ミィは抵抗をなくす……つまりは外部からの力を受け流す能力を備えた。そしてミリオンは熱を操るという、粒子の運動量そのものを支配する能力を手に入れた。

 三匹とも、粒子の運動量変化にそれなりの耐性を獲得していたのだ。もしもこの力がなければ、三匹とも呆気なく気化なり液化なりさせられていたかも知れない。これまでの戦いによる経験が、彼女達に活路を開いたのだ。

 ――――そう納得したいところであるが。

「(それだけで、本当に耐えられる……?)」

 花中は疑問に思う。

 ムスペルのサイズからして、フィア達よりも力は遙かに大きい筈。如何に三対一とはいえ、本来ならフィア達など虫けら扱い出来るに違いない。事実先月の『破局噴火』の際、恐らく地下に潜んでいたであろうムスペルは、フィアの『糸』を易々と消滅させている。数億度にもなる核の炎にも耐える水を、なんの苦労もなく、だ。

 わざわざ大気を固体に変化させ、物質的な攻撃で叩き潰そうとしているのは何故? この程度の力で十分だから? しかし何時まで遊ぶつもりなのか?

 違和感を覚える花中。その疑問の答えを教えてくれたのは――――『星』であった。

 突如、花中の背後から爆音が響いたのである。

「うひゃうっ!? え、何が……」

 驚いた花中は思わず飛び跳ね、無意識に背後へと振り返る。晴海も同じく振り返り、共に音がした方を見ていた。

 直後、花中達の前に真っ赤に輝く噴水が現れる。

 ……何故赤い噴水が?

 混乱する花中は、噴水をじっと見つめる。見つめて、それが溶岩であるとようやく気付いた。ムスペルの力がこの辺りまで及び始めたのか。足場となってくれているミリオンならば溶岩の直撃にも耐えてくれるだろうが、少し距離を取った方が良さそうである。

 そんな花中の考えを嘲笑うかの如く。

 地平線の彼方……ムスペルを中心に広がる溶岩の海が及んでいない地点からも、溶岩の噴水が噴き上がった。

「……えっ……?」

 花中の思考が止まる。何が起きているのか、理解するのを拒むように。

「はなちゃん、ヤバいわ。さっき避難所で情報収集していた『私』が飛んできたんだけど、どうやら世界中で、ムスペルと関係なく溶岩の噴出が起きてるみたい」

 されどその理解をミリオンが強いてくる。

「せ、世界中!? どういう事よ!?」

「そのままの意味。人の居る居ないに関係なく、あちこちで溶岩が噴き出しているのよ。丸ごと吹き飛んだ町も少なくないし、山が砕け散ったところもある。地震も至る所で起きてるわ」

 声が出なかった花中を代弁するかのように狼狽える晴海に、なんて事もないかのようにミリオンは説明した。されどミリオンの口調は普段よりも少し早口で、焦りの感情を花中は感じ取る。

 そうだ、晴海が言っていたではないか。ムスペルは戦い以外のところにエネルギーを費やしているのではないかと。

 花中はそれを、ムスペル周辺に広がる溶岩を形成するためだと思っていた。なんという甘い見立てなのだろう。この程度の範囲を溶岩に沈めるなど、ミリオンにも出来そうではないか。ムスペルならば、もっともっと広い範囲に力を及ぼせる筈である。

 例えば星全体。

 規模が大き過ぎる? いや、ムスペルの力を思えばむしろ相応しい。星の全てが相手となれば如何にムスペルでも苦戦を強いられるのだ。自分達は星相手に苦労しているムスペルに、ちょっかいを出していただけに過ぎない。

 そうした邪魔を乗り越え、ついにムスペルの力は星全体に行き渡った。

 これから何が起きるのか? それはミリオンが語った通りの事だろう。世界中で溶岩が噴出している。人の暮らす地も、野生の王国も関係なく、マグマの海に沈んでいく。花中達が目の当たりにした、温泉街のように。

 全てが溶岩に埋め尽くされた世界。それは地上の生命にとっては地獄以外の何物でもない。されどムスペル達にとっては、故郷と同じ心地良い世界。

 花中は甘く見ていた。ムスペルは遊び半分で地上に来たのではない。少なくともミュータント化した個体に関していえば、地上への『侵出』を本気で考えていたのだ。

「……時間は、なさそうですね」

「ないわね。下手をすれば三十分もしないで星の表面全てがどろどろに溶けるかも」

「そ、そんな!? どうしたら良いのよ!?」

「どうもこうも……」

「……やる事は一つです」

 三十分以内に、星をも生まれ変わらせる生命体をこてんぱんにやっつける。

 自分達が生き残るためには、最早この手しか残されていないのだ。

「ミリオンさん! フィアちゃん達に、連絡! 周りの空気を、なんとか退かして、真空状態にして、ください! それで、ムスペルが繰り出している、キューブや槍の攻撃を、無効化出来る筈です!」

「なんとまぁ無茶を簡単に言ってくれるわね……でもそれしかないか」

 花中の策を受け、ミリオンは渋々ながら受け入れる。

 数秒後、ムスペルが繰り出すキューブ……大気中の窒素を固体化させたもので足止めされていたフィアがぴくりと動いた。ミリオンの『伝言』が届いたのだろう。

 花中としても無茶な策だとは思う。自分達の周りにある大気を退かし、ムスペルの周辺を真空状態にする……現代科学ではどうやっても無理な事だ。全てが溶岩に沈み、障害物も何もなくなったこの場で空気を吸ったところで、周りから同じだけの量が流れ込むだけである。

 だが、フィアは笑った。

【そういう事ならお任せあれ!】

 そして自信満々な雄叫びを上げるや、大きくその両腕を広げる!

 直後その両腕の先より、多量の水が放出された!

 水はムスペルの下へは向かわない。ムスペルを取り囲むように、左右に広がっていく。水は半径数キロ程度の輪を作ると、今度は上を目指すように伸びていく。頭上で伸びてきた水同士が癒合すれば、フィア達を取り囲む水のドームが完成だ。透き通った水の膜は人間の視界を遮る事もなく、その中に居るフィア達の姿を花中達に今も見せてくれている。

 自身を包囲する水に、ムスペルも警戒心を露わにした。【バルオォンッ!】と一声吼えてみたのは、水を気化させようとして能力の一部を使ったのか。

 されどフィアの能力の支配下にある水は、ムスペルの声を受けても変化しない。

 ムスペルは悔しそうに顎を揺れ動かす。本来のパワーであれば、フィアが如何に水分子を固定したところで、ムスペルは易々と水を気体へと変化させただろう。しかしどうやら未だにその力の大半は、星全体に行き渡らせているらしい。フィアの能力を打ち破るには少々出力不足のようだ。

 これは朗報だ。今も星全体に力を割いているという事は、その力を止めれば地球表面を襲う異変はすぐにでも止まる筈である。少なくともまだ手遅れではない。

 無論、あくまでも『今』の時点の話だ。あと数分で、最早手放しでも問題ない状態に移行する可能性はある。

 その状態になるまで耐えれば、ムスペルの勝利は確定だ。

【バルルオオオオオオオオオォンッ!】

 ムスペルは咆哮を上げ、応えるように虚空から無数の『槍』が形成された。窒素を固体化させて作り出した、自然の法則に従わない超常の武器。

 ムスペルは身体をしならせ、『槍』をヒレで殴り飛ばす! 『槍』が目指す先はフィア――――ではなく、自身を取り囲む水のドーム。

 知的であるが故に展開された水のドームの意図……外部の空気が流れ込むのを防ぐつもりだという事は、すぐに見抜いたようだ。穴を開けるつもりなのだろう。能力により固体化した窒素がどれほどの強度かは不明だが、ムスペルの身体がミィの打撃を耐えるようになるのだ。フィアの展開した水のドームがどれだけ分厚くとも、『槍』の方が負けるという事はあり得ない。

 だから『槍』が届いたら、ドームは簡単に無力化させられてしまう。

「はぁああああっ!」

 それを防ぐのがミィの役目だ。彼女は音速すら置き去りにする超スピードで駆け、ドームに迫る『槍』に追い付く。

「どっりゃあぁっ!」

 そして『槍』を蹴り付け、ドームの壁から遠ざけた! 蹴りつける先は勿論、ムスペル!

 『槍』は自身の驚異的堅さが災いしてミィの蹴りでも砕けず、超音速にてムスペルの下へと返された!

【ッ! バルルルォオンッ!】

 ムスペルはすかさず声を上げ、『槍』を爆散……気化させる。危うく自身を貫くところだった一撃に安堵、なんてものはしない。ムスペルは全身を震わせ、怒りを燃え上がらせていく。

 次いで視線を、溶岩の上で待機するミィに差し向ける。

 最初に潰すべきはミィだと理解したのだ。ムスペルの標的となったミィは僅かに後退りしたが、恐怖心を見せたところでムスペルは満足などしてくれない。

【バルルォオオオオオオォンッ!】

 猛り狂うムスペルは、ミィを固定化した窒素で閉じ込めようとした……のだろう。

 だが、何も起こらない。

【……? バルオオオオオオオオオオンッ! バルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 何度も何度も、ミィを睨みながら吼えるムスペル。されどミィの周りでは何も起こらない。

 何故か? ムスペルはその巨体故に気付けないかも知れない。ミリオンの力で拡大した映像を見ている花中達でも、よく目を懲らさねば見落としてしまうところだった。

 ミィではなくフィアの足下の溶岩が、黒く固まっている事を。

 その黒い塊の上に透明な液体と、()()()()がある事も。

「……液体窒素と、液体酸素。冷却、出来ましたね」

「ええ。案外どうにでもなったわね」

 彼方からムスペルの狼狽を見ていた花中は安堵し、足場となっているミリオンはくすくすと楽しげな笑いを漏らす。

 透明な液体は液体窒素。青い液体は液体酸素。

 いずれもミリオンが『冷却』により作り出したものだ。例え姿は見えずとも、ドームの中には無数のミリオンが潜んでいる。熱を操る彼女達にとって、温度を冷ます事など造作もない。大気の主成分である窒素と酸素を凝固点まで冷まし、液体へと変化させたのである。こうして大気から二大分子を取り除き、ムスペルの能力を『物理的』に封じたのだ。

 無論大気の九十九パーセントを取り除けばほぼ真空状態。生半可な生物なら窒息し、死に至る環境である。気温……ほぼ真空状態なので『気体』なんてないが……も大きく下がるだろう。ムスペルが能力により特大の窒素槍を(周辺の気圧)作り出した(を下げた)際、花中達が体感した寒さと息苦しさに襲われるのだ。そうした環境変化からミリオンの行動に気付き、なんらかの妨害に打って出る事も、他の生物ならあり得た。

 されどムスペルは地殻深くに生息する生物。元より大気などない環境に暮らすムスペル達は空気呼吸をしていない筈であり、真空状態への急激な変化にも気付けないと花中は踏んでいた。加えて最低でも一千度以上、恐らくは核付近という六千度を超える高温環境下で暮らしていたムスペルにとって、高々数百度の温度変化など微々たるものだ。世界がマイナス百度を下回ろうと、その外皮は何も感じまい。

 故にムスペルは、自分の周りから大気が失われた事に気付けなかった。或いは今もよく分かっていないのかも知れない。困惑したように後退りする姿が、奴の狼狽を物語る。

 大きな、そして逃せば次があるか分からないチャンス。

【ヌゥオオオオオオオオオオオッ!】

 フィアは躊躇いなく、ムスペルに突撃する!

 猛然と迫り来るフィアの姿に、ムスペルは驚いたのか。【バルルオオオオオオォンッ!】と大きな咆哮を上げた。が、何も起こらない。周りに空気はないのだから。

 ムスペルは圧倒的に強い。恐らく地殻でも敵なしだ。

 故にミュータント化したムスペルには、実戦経験と呼べるものがなかったに違いない。格下との戦いばかりでは戦闘の感覚も鈍ってしまう。鈍ったところでなんの問題もないから、改善しようという意思すら持てない。

 だからムスペルは動けなかったのだろう。

 数多のミュータントと、時には遙か格上と戦ってきたフィアの、勇猛果敢な突撃を前にして。

【グルァアッ!】

【バルッ!?】

 フィアはムスペルのヒレの付け根を、ついに掴んだ! ムスペルはのたうつように暴れるが、フィアは決して離さない!

「加勢するよ!」

 フィアがムスペルに組み付いたのを見るや、ミィもムスペルに駆け寄る。狙うはムスペルの喉元付近。溶岩に接していて隙間のない腹には潜り込めずとも、僅かに浮いた顎の下には入れる。

 そこでミィは、強烈なキックをムスペルの顎に喰らわせた!

 下から上に突き上げるような、強烈な一撃。彼女の地をも砕く攻撃はムスペルに上向きの力を与え、フィアの行為を手助けしていた。

 続けて虚空より、黒い靄が現れる。

 ミリオンだ。今までフィアとミィの守りに入っていたミリオンも、いよいよ攻勢に出たのだ。ムスペルの背面に回り込んだ靄は、百メートルはあろうかという人の手の形となり、ムスペルを掴む。そして地響きのような轟音を上げながら、少しずつ浮上しようとしていた。

 三体の超生命体が、力を合わせてムスペルをひっくり返さんとする。腹が弱点であるムスペルは明らかに動揺を見せた。抵抗するように暴れるが、されど三匹の力を受けた身体は少しずつ反り返っていく。

 このままひっくり返せば、勝てる。

 勝利を確信した花中の顔に笑みが浮かぶ。傍に立つ晴海からも期待を抱いた雰囲気が感じられ、同じ気持ちなのだと分かった。これで地上の生命は、人類は生存が許されるのだと。

 甘かった。

 ムスペルもまた生物。如何に実戦経験がなくとも、いや、ないからこそ大きな成長の可能性があるというのに。

「……あれ……?」

 最初に『変化』に気付いたのは、晴海だった。遅れて花中も違和感を覚える。

 ムスペルの動きが止まっていた。

 フィア達は今も力を込めている。決して手を弛めていない事は、唸るような彼女達の声が聞こえてくるので間違いない。むしろあと一歩だからこそ、彼女達は一気に畳み掛けようとフルパワーを出している筈だ。

 なのに、どうしてムスペルは動かない?

 いや、それどころか……少しずつ体勢を立て直しているのは何故?

【花中さん! 不味いです! コイツ……()()()()()()()()()()()()()()()()()身体を固定しました! 地面も固体になっていて動かせません!】

 疑問の答えはフィアの、何十キロ彼方にまで届く大声が教えてくれた。身体の芯がビリビリと震えてくるほどの声量で、一字一句の全てが花中の脳に叩き込まれる。

 だが、花中の理性がそれを理解するには、相応の時間が必要だった。

 ヒレを伸ばした? 一体なんの事だ?

 花中は『望遠鏡』を覗き込み、ムスペルの姿を観察。フィアが言っていたようにムスペルのヒレは地面に突き刺さり、その地面は赤く輝いた岩石という形で固体化していた。

 そしてヒレは、確かにフィアが言っていたように()()()()()

 見間違いではない。明らかに戦う前よりもヒレが伸びていたのである。一体どうして? まさか伸縮自在なのか? 様々な考えが脳裏を過ぎる。

 答えは、ムスペルの『変化』が教えてくれた。

 ムスペルの背中から、突如として無数の『触手』が生えてきたのだ。否、よく見れば触手というより……液体だ。体液らしきものがうねうねと動いていたのである。

 体液はやがて地面にまで伸び、染み込むように入り込んで――――瞬時に固まる。固まった時にはもう立派な肉であり、あたかも最初からそのような触手が生えていたかのようにムスペルの肉体と一体化していた。

 花中は理解した。理解したが故に、一気に血の気が引いていく。

 ムスペルは自分の身体を液化させたのだ。状態を変化させる事で、本来固体である筈の肉体を自由に変形させた。物質の状態変化を、これまで攻撃にのみ使っていた力を、自らの肉体に使用したのである。様々な形に変化した肉体を地面に穿ち、足場を固定してフィア達の怪力に耐えるつもりなのだろう。

 これは不味い。時間を掛ければムスペルの『作業』は終わり、フィア達に全力を向けられるようになる。そうなればもう勝ち目なんてない。

 全身を液化してフィアの拘束から抜け出さないところからして、全身に能力を行き渡らせる事までは出来ないのだろう。あくまで急場凌ぎなのか、練習が足りないのか、肉体的制約か……しかし現状でもフィア達の攻勢を耐えるには十分。

【ぬぐ……ぐぎ……ぎぎぎぎぎ……!】

「があああああっ! ああああああッ!」

 フィアが苦しげに唸り、ミィが大きく吼え、ミリオンは無言のまま引っ張る。ドームの中は真空に近い状態であるが、それでも声が聞こえてくるという事は、僅かに残った希ガスや二酸化炭素だけでも耳に届くような大声だという事を意味する。三匹は全身全霊で挑んでいる筈だ。

 だがムスペルは微動だにしない。それどころかゆっくりと、上向きになった姿勢を伏せた状態に近付けていた。

 完全に伏せられてしまったら、ムスペルは自分の身体と大地を接着し、より強固な守りを築くだろう。こうなったらもう二度と持ち上げられない。それはつまり自分達の敗北を、地上の崩壊を意味している。

 そしてフィア達が一向に押し返せないという事は、どうやら地上の崩壊は避けられそうにない。

「……そん、な」

 がくんと、腰が砕けたかのように晴海がへたり込む。立ち上がる気配もなく、しばしぼんやりとした表情を浮かべ……へらへらと笑い出した。目には涙が浮かんでいるというのに。

 ムスペルを止める事はどうやら無理らしい。このまま地上の生命は滅び去るのだろう……なのに、悲しいとか、怖いとか、無念だとか、花中の胸中にそんな気持ちは不思議と出てこなかった。最初から無理だとは思っていたし、自分の所為だとも思わない。ただただムスペルが不条理なほど強かったというだけの事。その強さで生息域を広げたという、実に野性的な出来事に他ならないのだから。

 人の心はとうの昔に勝利を諦めている。今の晴海と同じように。

 ――――だから此処に居る自分を立たせているのは、人の心ではない。

 勝ち目がない? そんなのは分かっている。自然の摂理? きっとそうなのだろう。では、一つ問うとしよう。

 ()()()()()()()

 勝ち目があるから戦いを挑んだのではない。自然の摂理を正そうだなんて頭にも上っていない。ムスペルを止めようとした理由は、もっとシンプル。

 まだ自分が死にたくないからだ。

「……上がって……」

 ぽつりと、言葉が漏れ出る。

 自分に出来る事なんて何もない。無力でちっぽけな人間に過ぎないのだから。

 だけど何もせずにはいられない。

「上がって……!」

 また呟く。先程よりも大きな声で。

 自分に出来るのは祈る事だけ。祈って何かが変わるとは思わない。それでも祈らずにはいられない。

【ぬぅうああああああああぁァァ……!】

 今でもフィアは唸りを上げ、伏せようとするムスペルを食い止めている。一歩も退かず、力を抜く気配などない。少しずつムスペルが体勢を立て直している事は、奴をひっくり返そうとしているフィア達が一番知っているのに。

 まだフィア達は諦めていないのだ。どんなに敵が強大でも、僅かな希望すらなくとも……彼女達もまた、まだ死ぬつもりはない。死ぬにしてもムスペルにやられるような死に方など望んでいない!

 自分だけが先に諦めるなんて、そんな甘えた事出来るものか。最後まで、フィア達と共にムスペルと向き合う!

「上がれ……上がれ……!」

「大桐、さん……? え、大桐さん、どうしたの!?」

 何故か晴海が声を掛けてくる。だけど今はそんな事に気を回してなんていられない。

「上がれ……上がれ……上がれ……!」

 ただただ願う。願う事しか出来ない。願い、願って、願い続けて――――

 不意に、ムスペルの身体が、少しだけ上向いた。

【……バル?】

 最初に反応したのはムスペル。首を傾げるように頭を傾け、ポカンとしたようにしばし呆ける。

 そして真っ先に狼狽えたのもまた、ムスペルだった。

【バ、バルルオオオオオンッ!? バルォオオオオオオオオオオオオンッ!】

【ぬぐっ! ぎ……ぐぎぎぎぎ……!】

 動揺するムスペルに、フィアは更に力を込める! 少しずつ、少しずつだが、ムスペルの身体が大きく反り返っていく!

 祈りが通じた? 想いが届いた?

 馬鹿馬鹿しい。そんな事はあり得ない。これはフィア達の「生きたい」という情動が為し得たもの。生命の本能が起こした『脅威』。

 自分はそれに便乗しているだけ……自覚しながらも花中は笑う。希望が見えたのだ。笑顔を我慢するなんて出来っこない。

【バル!? バルルル……バッ……!?】

 藻掻き、のたうち、ムスペルは暴れる。腕を突き刺した大地が持ち上がり、地上から離れれば、最早ムスペルの身体を繋ぎ止めるものはない。

 これで最後。

【上がれええええええええええええっ!】

「上がれええええええええええええっ!」

 全力の生存本能を、渾身の祈りを、一匹と一人は叫びとして発し――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ムスペルの身体が大きく浮かび上がるのを、花中達は目の当たりにするのであった。

 

 

 




晴海は見てしまった!
次回、その正体が明らかに!(謎の引き)

次回は明日投稿予定です。


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地獄の魔物10

 時間にすれば、ほんの十秒にも満たない出来事だった。

 五百メートルの巨体が、空中で仰向けになっている。単にひっくり返されただけの身体は重力に引っ張られ、秒速九・八メートルずつ加速しながら『落下』していく。

 数百万トンはあろうかという身体が大地に接した、その瞬間に地震が生じた。それはこれまでの……破局噴火や震度七以上の大地震などの災禍と比べれば、あまりにも貧弱な揺れである。

 だが、世界の命運を左右する揺れだ。

 ムスペルが、その弱点である腹部を剥き出しにした瞬間なのだから!

「っ! やったわ! アイツ、仰向けに倒れた!」

「やっ、やったああああっ!」

 ミリオンが歓声を上げ、晴海が両手を挙げてはしゃぐ。花中も喜びの感情が込み上がってきた――――のと同時に全神経をムスペルの姿の観察に注ぎ込む。

 仰向けに倒れたムスペル。その腹の中心は煌々と輝いていた。

 まるで太陽のような、白く眩い光り方だ。その輝く場所を囲うように鱗のような突起が外向きに生えており、あらゆる外敵を寄せ付けないという強い『本能』を感じさせる。

 故に明白だ。無防備になったあの腹が、地上のどんな生物よりも致命的な器官であると。

【バルォオオオオオンッ!】

 当然そんな事はムスペルが一番よく分かっている。雄叫びを上げながら身を捩り、急いで体勢を立て直そうとしていた。

 だが、それよりもフィア達が動く方がずっと早い。

「シャオラアアアアアアアッ!」

 真っ先に到達したのはミィ。山をも砕く鉄拳が、ムスペルの弱点へと打ち込まれた!

 小惑星衝突並のインパクトにより、ムスペルが転んだ時など比にならない大きさで世界が揺れた。衝撃波を伝えるような空気は殆どない筈だが、フィアが展開していたドームが余波で吹き飛ぶ。

 恐らくはミィの、全力の一撃。フィア達であってもきっと防ぎきれない、破滅的な打撃だ。

【バッ!? ギッ……!】

 その一撃を受けたムスペルは、今までとは毛色の違う声を漏らした。

 途端、ムスペルの腹が一層輝き始める!

 突然の変化に驚いたのか、フィアとミィは後退るように後退していく。そしてムスペルは……ジタバタと激しく暴れていた。痛みに苦しむという次元ではない。

【バッ! バル、ル、ォ、ガ、ギバ……!】

 ムスペルは口から血を吐きながらのたうつ。その間も腹の輝きはどんどんどんどん強くなり、あたかも太陽のように周りの景色を擦れさせていく。

 なんだ? 一体、何が起きようとしている? ひょっとして強烈な一撃により内臓が行っていた作業、例えばエネルギーの生産に不都合が生じたのか。

 だとすればこれは致命的なダメージだ。これならきっとムスペルを倒せる筈。花中は自然と笑みが浮かび、

「……あの、大桐さん。ムスペルの奴、すっごい光ってるけど……爆発とか、しないわよね?」

 晴海の語る『もしも』を聞いて、一気に青ざめた。ミュータント化せずともミュータント並に強い、ムスペルの体内で渦巻くエネルギー量……一気に開放されたなら、核兵器なんて比にならない大爆発が起きてもおかしくない。

 ましてや今回爆発しそうなのはミュータントのムスペルである。噴火を地球中で起こし、巨大地震を何時間も持続させるエネルギーというのは、水爆が何百万発あっても足りない。つまりミュータントのムスペルの体内には、最低でも水爆数百万発分のエネルギーが蓄積されている筈だ。

 どう考えても、此処ら一帯が跡形もなく吹き飛ぶ程度で済めば『マシ』である。

「え、ちょ、に、逃げ」

「落ち着きなさいはなちゃん。爆発はしないわよ」

 とりあえず距離を取ろうと思う花中を引き留めたのは、ミリオンだった。何故? 理由を問おうとする口は、脳裏を過ぎった恐怖のイメージにより強張って上手く動かない。

 そんな花中に答えを教えてくれたのは、ミリオンではなくムスペルだった。

 ムスペルの腹の輝きが、段々と静まっていったのである。暴れ方も落ち着いていく。

 光が収まったので接近しようとするフィア達だったが、ムスペルの周囲に『槍』が並び、これを妨げる。ドームが壊れた事で大気が戻り、また固体窒素を作り出せるようになったのだ。フィア達を遠ざけたムスペルは、今度は落ち着いた動きで身体を傾けていった。

 やがて仰向けだったその身を、ムスペルはうつ伏せに戻す。

 ムスペルが復帰した。その事実に花中は勿論、直に戦ったフィアやミィも表情を強張らせる。しかしながら、戦闘中ほどの危機感は感じさせない。

 何故ならムスペルは、すっかり弱っていたからだ。

【バル、バッ……ガブッ……ゴボ……バッ、ルルォオオン……!】

 絶え絶えとなった息と息の間に、口からどろどろと血が流れていく。ムスペルは内臓が飛び出すほどの大怪我を負っても復活する、驚異的生命力の持ち主であるが……その姿から余裕は感じられない。どうやらミィが与えた一撃は、ムスペルにとって本当に危険な打撃だったようだ。安静にし、回復に努めなければ命が危ないだろう。

 だというのに。

【バル、ルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 ムスペルに退く気はなかった。

 ヒレを広げてどっしりと構え、フィア達と向き合う。今まで自分を支えてくれていた周辺の大地を液化し、溶岩の海へと作り替えた。放つ闘志にも陰りは見えない。

【ふん。死に損ないが……】

「そっちがやる気なら、こっちも退く気はないよ!」

 フィアとミィもまた、起き上がったムスペルから逃げるつもりはない。ミリオンも同じだろう。ビリビリとした殺意がぶつかり合い、争いの火蓋が再び切られようとしている。

 その様子を見て、花中は違和感を覚えた。

 もしかするとムスペルは、花中達が思うほどの重傷ではないかも知れない。しかしダメージを受けた際の暴れ方からして、無視出来るような傷でないのは確かだ。かなり消耗しているのは間違いない。

 自分をこれだけ痛め付けた輩に、手負いの状態で挑むのは得策か?

 勿論答えはNo。挑むにはそれなりの準備が必要である。だから一時的にでも逃げて、体勢を立て直すのがベストだ。生命力の強さや、逃走先である地殻の環境から考えるに、フィア達から追撃を受けてもなんとかなりそうである。野生生物であるムスペルに人間的なプライドがあるとは思えず、退却を躊躇う理由はあるまい。

 ついでに言うなら、あのような重体で地球全体の環境を変えようとするのは大きな負荷になるだろう。極めて危険だ。体力を回復してから、もう一度やる方が良い。少なくとも花中がムスペルの立場なら、この二つの理由からすぐに退却を選ぶ。

 されどムスペルは退かない。退く気配すらない。

 何かがおかしい。どうしてムスペルは逃げないのか。どうして恐ろしい敵であるフィア達と立ち向かうのか。

 何か、理由があるのではないか?

 その理由を知らぬまま……ムスペルを倒して良いのだろうか?

「……良くない」

「大桐さん? どうし」

「ミリオンさん! ムスペルの下に、近付いてください! それが駄目なら、わたしの声を、届けてください!」

 晴海の言葉を遮り、花中はミリオンに頼み込む。

 前者は最初から無理だと分かっていたが、後者ならきっと大丈夫。そんな花中の予想通り「声だけなら」とミリオンは受け入れてくれた。『望遠鏡』の傍ににょきっと生えてきたのは一本の黒いマイク。

 花中はマイクを握り、口を近寄せる。すっと息を吸い込んで肺に空気を溜め込む。

「む、ムスペルさぁぁんっ! わたしの話を、聞いてくださああぁぁぁぁぁぁ、げほ、ごほごほっ!?」

 それから頑張って大きな声を出し、残念ながら慣れない行動故にむせてしまった。なんとも決まらない格好だが、声を届けるという目的は達成したので問題ない。

 ミュータントなら、人間の言葉を理解出来る筈。気になるのは反応してくれるかどうかだけ。果たして結果はどうか。寄り添ってきた晴海に背中を擦られ、感謝を伝えてから花中は顔を上げる。

 フィアはこちらの方を見ていた。ミィの姿は遠過ぎて見えないので分からないが、フィアの動きだけ分かれば十分。間違いなくこちらの声は三十五キロ彼方の場所まで届いていた。

 そしてムスペルは……ちょっとだけ、顔を花中達の方に傾けていた。

 ほんの僅かな傾きだ。しかし花中からすれば大きな、とても大事な傾きである。ムスペルがこちらの言葉に反応したという確信が得られたのだから。

「ムスペルさん! あの、どうしてあなたは、地上を溶岩の海に、しようとしているのですかっ!」

 花中は力強い言い方で問う。ムスペルは、その顔の傾きを直した。花中の声など聞こえていないと言わんばかりに。

「逃げないでくださいっ!」

 だから花中はムスペルを叱責する。

【バルルオオオオオオオオンッ!】

 するとムスペルは素早く花中達の方へと振り向き、威嚇するような大声で吼えた。

 獰猛で、恐ろしい鳴き声。晴海は一発で慄いたようで、小さな悲鳴と共にへたり込んでしまう。正直なところ花中も腰が抜けそうになった。

 それでも立っていられたのは、鳴き声に必死さを感じられたから。こちらを見下すようなものでなく、こちらを恐れるようでもない……生き物らしい必死さを。

 それはムスペルと戦っていたフィア達の咆哮のような、生への執着を感じさせるものだった。

「……ムスペルさん。わたしには、あなたが何故、そこまで必死なのかは、分かりません。わたしは、それを知りたいのです」

 花中は落ち着いた言葉で、自分の気持ちを伝える。

 互いに相手の事を知る必要がある、とまでは言わない。ムスペルはこちら(地上生命)の事情を知った上でやってるだろうし、追い返すだけなら花中達もムスペルの事情を知る必要はないのだから。

 だが、ムスペルが必死になる何かを知らないでいる事は、自分達にとって良い事なのだろうか?

 花中は、そうは思わない。

「教えてください。手伝える事なら、手伝うつもり、です。一緒に、考えられる事なら、一緒に、考えましょう。だから……一度だけで良いので、話を、してくれませんか?」

 自分の気持ちをムスペルに伝え、花中は一度口を閉じる。

 これで話し合いに乗ってくれるだろうか?

 正直、あまり期待はしていない。ムスペルが本当に必死であれば、こんな話し合いの提案などすぐに蹴るだろう。そもそもムスペルは人間の言葉、具体的には日本語を話せるのだろうか? 反応したので理解はしたようだが、その理解もどの程度のレベルなのか。意思疎通が難しくては話し合いは困難である。何より傷付いた状態でこちらの『テリトリー』に入ってくるのは、きっととても怖い事だろう。

 断られる事は織り込み済み。むしろ花中の本命は、ムスペルに時間を与える事だ。

 時間を与えれば、ムスペルも少しは冷静になるだろう。落ち着いて考えれば……自分が如何に勝ち目のない戦いを挑もうとしているか、それを理解する筈だ。

「今すぐでなくても、構いません。落ち着いた時に、また、此処に来てくれたなら……その時、ゆっくり話しませんか?」

 そして落ち着いた心であれば、きっとこの話が『悪いもの』ではないと分かるに違いない。

 ムスペルはしばし動きを見せない。じっと、考え込むように止まっている。

 やがて動き出したムスペルがした行動は、自分の足下に振動波を打ち込む事。

 地下深くまで溶けたであろう一撃の後、ムスペルは自分が溶かした場所に頭から跳び込む。五百メートルもある身体は、あっという間に地下へと沈んだ。

 ムスペルが地下へと消えると、形成されていた溶岩が少しずつ固まっていくのが見えた。近くで起きていたマグマの噴出も止まり、地震による地鳴りも聞こえなくなる。

 どうやら、話し合いはしてくれないらしい。

 最高の結果ではない。が、次善ぐらいの結果だ。花中はそれなりに満足し、ため息を漏らす。

 またムスペルが現れた時、今度も地上を地獄に変えようとするかも知れないが……もしかしたら今度は話し合いをしてくれるかも知れない。甘えた考えかも知れないが、花中は後者を信じたかった。

 とはいえその甘えを信じる前に、確かめるべき事がある。

「……あの、ミリオンさん。他の国とか、地域については……」

「流石にまだ分からないわ。あと三十分は待たないと」

 それをミリオンに尋ねると、返ってきたのはそんな答え。仕方ない事だ。避難所にて情報収集をしているとはいえ、その手段は主にインターネットである。溶岩噴出で数多くのライフラインが途絶してるであろう現状を思えば、三十分で世界の情報が分かれば御の字だ。

 まだ何も分からない。もしかすると期待は裏切られるかも知れない。

 だけど花中としては確信している。

 世界中で起きていた地獄への変化は、もう止まっているのだと。

「えっと、その、大桐さん。あの、あたし勘違いしてるかもなんだけど……」

 同じくそうした確信を持ちつつ、しかし安易に結論も出せなかったのだろう。晴海が、おどおどしながら花中に尋ねてくる。

 花中にも根拠はない。けれども確信はしているのだ。だから迷いなく、自信たっぷりに答える。

「はい。異変は、止まりました。この地球上で、わたし達は、まだ暮らしていけます」

 自分達が地球を救ったのだと。

 最初は、すんなりとは受け入れられなかったのだろう。晴海は右往左往し、大きく狼狽えた。けれどもやがてその顔には笑みが浮かぶようになる。右往左往していた身体は、そわそわとしたものに変化した。

「ぅぅいやったあああああ!」

 そして満面の笑みと共に、晴海は花中に抱き付いてきた。

 力強い抱擁に、花中の貧弱な身体は少しだけ苦痛を訴える。しかし引き離そう、突き飛ばそうなんて考えはちっとも過ぎらない。

 花中だって晴海と同じ気持ちなのだ。むしろこちらだって同じぐらい強く抱き締めたい。それぐらい胸のうちには喜びが満ちているのだ。

【花中さあああああああああんっ! アイツ逃げていきましたよおおおおおおお!】

 なお、その気持ちは体長五百メートル近い『身体』になっているフィアも同じようで。

 ズドンズドンと、爆撃のような足音を鳴らしながらフィアがこちらに駆け寄ってくる。未だ残っている溶岩を水溜まりのように跳ねさせながら、真っ直ぐ、躊躇いなく、理性など感じさせずに。

 なんというか、本当にその巨体のまま抱き締めてきそうな気がする。というより自分が今特撮映画でも出てこないようなサイズだという事を失念しているのではないか?

「あっ、フィアちゃん、ちょっとタンマ……タンマ、ねぇ、タンマって言ってるんだけど!?」

「え、ちょ、ぎ、ぎゃーっ!?」

 マイクを用いた花中の必死な制止も、晴海の悲痛な叫びも、爆走するフィアを止める事は叶わず。

 全長五百メートルの怪物が自分目掛けて跳び込んでくるという、割と本気で死を予感する光景を、花中達は目の当たりにするのであった。

 

 

 

「ずーるーいー!」

 ぷっくりと、頬を膨らませて怒りを露わにする加奈子。

 丸くなった顔は、無邪気な子供のようで大変可愛らしい。しかしながら彼女はこれでも十八歳の女子高生であり、法律的には『大人』として色々許されるお年頃。何時までも童心では困ってしまう。

 見た目なら加奈子より遙かに子供っぽい花中は、加奈子の主張に苦笑いを浮かべてしまった。

「ず、ずるい、ですか?」

「ズルいズルい! 何さ二人して世界の平和を守っちゃって! 私もヒーローになりたかったのにぃー!」

「別にヒーローになった訳じゃないっつーの」

 戸惑う花中の横に座っていた晴海が、心底呆れた表情を浮かべながら加奈子を窘める。

「大体、ヒーローになっていたらこんな野生児染みた生活なんてしてないわよ」

 次いで自嘲するように笑い、そう答えた。

 ……ムスペル達による『世界の終末』から丸一日が過ぎた。

 彼等、もしくは彼女等がこの星の地上に与えた被害は甚大なものだった。何しろムスペルの力により、世界のあちこちで溶岩が噴出したのだ。自然環境はボロボロにされ、人の住処の多くが溶岩に沈んだ。たくさんの稀少な種が絶滅しただろうし、どれだけの人が亡くなったのかも分からない。

 日本も『首都圏』が丸ごと溶岩の海に沈み、尋常でない数の人命が失われた。政府機能も喪失している。『世界の支配者』達の事だから、早々に安全な場所に避難しているかも知れないが……ここまで被害が大きいと、彼等とて自分達の社会体制維持だけで手いっぱいだろう。政府からの救援は期待出来ない。自衛隊や警察も、果たして機能しているのか怪しいものである。

 花中達の町も大きな被害を受けた。マグマ浸しにこそならなかったが、巨大地震により大半の建物が崩落。地面そのものが波打っていたのだから、耐震性は最早関係ない。

 つまり震災時の避難場所として使われる予定だった、学校や公民館などの施設も倒壊していたのである。というより使える建物が何も残っていない有り様。文字通り全壊した家には住めないし、お隣さんや友人達の家も全滅だ。

 残す寝床はただ一つ。

 ……『野』であった。

「学校の校庭で、テントもなしに寝るのは……中々、大変でしたね」

「あたし、結局殆ど寝てないし」

「あははは。背中が石でごつごつして痛くて、私も寝られなかったよ」

 花中と晴海のぼやきに、加奈子も笑いながら同意する。

「……手足を伸ばせて眠れたのは、悪くなかったけどね」

 ただし加奈子の笑みも、すぐに悲しげなものへと変わってしまう。

 花中達が野宿の場所として選んだのは、高校の校庭。無論学校は前日地震によりぐしゃっと潰れていたが、しかし広々とした校庭はなんとか瓦礫で埋め尽くされずに済んでいた。人の手でほんの少しだけ片付ければ、花中達の力でも自分達の寝場所ぐらいは確保出来たのである。

 ……言うまでもなく、高校は隠された避難場所なんかではない。むしろ何もかも倒壊した町の中において、学校ほど開けた土地はないとすぐ思い付く筈だ。住処を失った大勢の人々が集まってくるのが自然であり、思いの外片付けが進まず、僅かなスペースにぎゅうぎゅう詰めで暑苦しい夜を過ごすのが『正しい』姿である。

 だが、校庭に人は殆ど来なかった。

 晴海や加奈子の家族は来た。見知らぬ老人の集団や、独りぼっちの幼子なども来た……集まったのは、精々二十人ぐらいだけ。誰もが手足を伸ばせるぐらい、校庭内に人は集まらなかった。

 生き延びて避難場所を探せば、誰もがこの学校を目指す筈。なのに誰も集まらないという事は……生き延びた人の少なさを物語っている。当然だ。フィア達が元凶であるムスペルと戦っている間も延々と地震は続き、激しく揺れ動いた瓦礫によりたくさんの人が()()()()()()のだから。花中のように人智を超えた力に頼れなかった人々は、幸運に見舞われる以外に助かる術はなかっただろう。

 近代的な建築技術も、大き過ぎる災禍の前では無力。いや、むしろ仇となったのだ。これなら野性的な、原始的な生活の方がまだ被害は抑えられた筈である。極論平地で野宿をしていれば、建物の倒壊に巻き込まれる心配はないのだ。その証に生存者としてこの校庭にやってきた老人達の大半は身形がかなり『不衛生』であり、恐らくはホームレスの方々だと思われる。川岸や公園などを活動拠点にしていた彼等は、建物の倒壊による生き埋めを免れた訳だ。無論同じホームレスでも、駅構内など建物内を拠点としていた者達は助からなかったが。

 彼等ほど極端な生活でなくとも、開発があまり行き届いていない土地の方が安全な筈である。そう、例えば農業しか産業がないような、閑静な田舎の村とかが……

「……加奈子は、なんで戻ってきたのよ。親戚の引っ越し先、都会から離れた山奥みたいだし、此処より被害はマシだったんじゃない?」

 花中が考え込んでいると、晴海が加奈子にそう尋ねた。加奈子は昨日親戚の引っ越し手伝いのためこの町を離れており、所謂田舎の方に滞在していたためにこの災禍を逃れている。確かに地震は収まったが、瓦礫などが崩れてくる二次災害は終わっていないし、余震などもあるかも知れない。しばらくは親戚の家の厄介になった方が良いに決まっている。

 どうして加奈子はこの町に戻ってきたのだろうか。

「あー、まぁね。向こうもそれなりに被害はあったけど、こっちみたいに町人全滅みたいな事態にはなってないし」

「なら、どうして?」

「……だって、心配だったし」

「心配? 家が?」

「晴ちゃんや大桐さん達だよ! 勿論他の友達もだけど……う、うぅ……」

 大きな声で叫ぶと、加奈子は目に涙を浮かべ、嗚咽を漏らす。普段らしからぬ反応に晴海は狼狽え、けれどもすぐに加奈子を抱き寄せ、自らの胸元で彼女を泣かせた。

 加奈子には、たくさんの友達がいた。

 その友達は誰もこの校庭にやってきていない。加奈子は普段ふざけてばかりいて、『おバカ』な事はよくやっているが……決して『馬鹿』ではない。むしろ聡いぐらいだ。友達の身に起きた事は、ちゃんと理解している。

 テレビにしろ、伝聞にしろ、町の災禍を聞いたであろう加奈子は皆の安否を確かめずにはいられなかったに違いない。例えそれが、どんなに危険であっても。

 花中もまた、泣きじゃくる加奈子をそっと抱き締めた。しばし少女の悲しげな嗚咽が、校庭内に響く。

「あー、花中と晴海が加奈子を泣かしてるー。いけないんだー」

 その陰鬱で悲しげな空気を読まない、一匹の『猫』の声が花中達の間に割り込んできた。

 顔を上げてみれば、ミィが生暖かい眼差しをこちらに向けていた。どうやら三人で仲良しこよしをしていたと思われたらしい。いや、実際悲しむ友人を慰めるのは、それなりに仲良しこよしな行為ではあるだろうが……

 ミィの声を聞き、加奈子も自分の姿を客観視出来たのか。もぞもぞ動きながら、抱き付く花中達を押し退けた。その顔は珍しく真っ赤に染まっていて、恥ずかしがっているのが窺い知れる。

 友を想って泣いていたのだから、恥ずかしがる事じゃないのに。そう思う花中だったが、しかし考えてみればクラスメート達が死んだかどうかはまだ分からない。他の安全な場所に避難しているかも知れないし、瓦礫の下に生き埋めになっている可能性もある。

 そのための救助活動は、既に始まっていた。目の前に居る、人智を超えた生命体達の手によって。

「ミィさん。どんな状況、でしたか?」

「んー……割と最悪。殆ど死んでるね。今日は三人ぐらいしか助けられなかったよ」

「三人……いえ、ありがとうございます」

 助け出した人間の数に花中は、痛いほどの悲しみと、同時に心からの喜びを覚えた。町一つ消えるほどの災禍なのだ。数人でも生存者がいるのは、十分に『吉報』である。

「ただいま戻りましたー」

「たっだいま、っと」

 ミィからの報告を受けたすぐ後に、更にもう二匹……フィアとミリオンも校庭に戻ってきた。

 彼女達にも花中は人命救助を頼んでいる。ムスペル出現時はムスペルを優先していたため頼めなかったが、奴はもういない。人命などなんの興味もないフィア達であるが、興味がないからこそ、花中のお願いをすんなり聞いてくれた。

「おかえり。えっと、どう、だった?」

「ふっふっふっ。この私の手に掛かれば人間の救助などお茶の子さいさいです。町中ひっくり返して五人も助けましたよ!」

「あら、それなら私の勝ちね。私、十人助けたから」

「んなっ!?」

 ミリオンは勝ち誇るように語り、フィアはそれを聞いて心底悔しそうな表情を浮かべた。どうやら救助人数で競争していたらしい。

 不謹慎にも思えるが、それでやる気を出してくれるのなら戒める必要はあるまい。少なくとも今に限れば。

「……うん。ありがとう、フィアちゃん、ミリオンさん」

「ぐぬぬぬぬ……ふんっ! まぁ良いでしょう! 花中さんに褒めてもらえましたしね!」

「ほんと単純ねぇ」

 花中に褒められ、あっさり上機嫌になるフィア。ミリオンはそれを微笑ましげに見つめ、花中もくすりと笑う。

「あと、はなちゃん。あまり油断しちゃ駄目よ? 今の地球は、ムスペル襲撃がマシに思えるぐらいヤバいんだから」

 そうして笑った花中を、ミリオンは窘める。

 花中は笑みを消して、静かに、こくりと頷いた。

 世界中の政府・報道機関が壊滅した今となっては、最早正確な数は知りようがないが……花中が最後に確認した時、世界に現れたムスペルの個体数は百を超えていた。

 東京のムスペルは地中へと帰ったが、他のムスペルは帰らなかった。他のムスペルは本当にただの野生動物であり、東京の個体と違って明確な目的などなかったのだろう。なんらかの理由で地上まで出てきて暴れただけ。だから『親玉』が帰っても、地殻には戻らない。

 あくまで自発的には、であるが。

 ミリオンが調べたところ、出現が確認されたムスペルは全て地殻へと帰っていた。中には死んだ個体も存在していたという。『何か』が世界各地でムスペルと戦い、撃退したのは間違いない。

 無論人間の力どころか、生半可な怪物の力であってもムスペルには立ち向かえない。野生のムスペル達を追い返せるのは、もっと強大で、もっと尋常でないパワーの塊のみ。

 ミュータントだ。

 世界中にミュータントが出現していたのだ。それも百体のムスペルを追い返せる、或いは殺せるほど大量に。

 想定はしていた事だ。ゴリラや怪鳥など、恐らく花中と無関係な場所で産まれたミュータントの存在から、世界中にミュータントが出現している可能性は。ミュータント達が自分達の住処を守ろうとした結果、ムスペルによる自然環境へのダメージは当初予想していたよりも深刻ではないらしい。勿論それでも被害は甚大で、元々個体数の少なかった種は相当数絶滅しているだろう。しかし個体数が少ないという事は、生態系への影響力は限定的。絶滅による問題はすぐには起こらない……とミリオンは分析している。

 地上の環境が辛うじてでも踏み止まっているのなら、それは喜ばしい話だ……その環境に人類が棲めるのなら、という前置きは付くが。いよいよこの世界は、ミュータントのものとなるのだろう。

 果たしてそこに人の居場所はあるのだろうか……

「全くミリオンは心配性ですねぇ」

 花中が不安を覚えていると、フィアが能天気な声色で答えた。何一つ心配していないその堂々たる姿勢は、なんの根拠も提示していないのに見ているだけで安心感を与えてくれる。花中の頬はふにゃっと柔らかくなり、自然と笑みが零れた。

「そんな心配などせずとも今の花中さんなら逃げる事ぐらいなら自力でやってくれますよ。うん!」

 直後にポンッと、フィアが花中の肩に手を置いてきた。

 ……花中は首を傾げる。

 どうやらフィアは、自分がミュータントから身を守れると思っているらしい。自分の力なんて、ミュータントどころかただの野良猫にすら勝てるか怪しいのに。いや、今まで散々ひ弱だの脆弱だの言っていたのに、どうしていきなりそんな考えを持つに至ったのか。

 馬鹿馬鹿しい。支離滅裂だ。

 ――――なのに。

 どうしてミリオンは、顔に手を当てた状態で俯いているのだろうか?

「……さかなちゃん、その話は止めときましょうって昨日話したわよね?」

「んぁ? ……………?」

「ああ、こりゃ完全に忘れてるわね。そのうちバレるとは思っていたけど、半日持たないとかどういう事よほんと……」

 フィアと話すミリオンは心底呆れている様子で、馬鹿にされた事を理解したフィアはムスッと唇を尖らせる。普段の大桐家でも交わされている、よくある会話のパターン。

 その見慣れたやり取りが、花中になんともいえない悪寒を走らせる。

 どうやらミリオンは、フィアに何かを秘密にするよう伝えていたらしい。しかしフィアは、丸一日も経たずにその秘密を忘れてしまったようだ。

 そしてその秘密は、花中(自分)に由来するものらしい。

 花中は無意識に辺りを見渡す。加奈子は興味深そうにこちらを見ていたが……晴海は、ハッキリと目を逸らした。ミィもバツが悪そうに視線を外す。

 フィア、ミリオン、ミィ、晴海だけが知っている事。そして昨日の話。

 一体、みんなして何を隠している?

「……まぁ、良いわ。隠していた理由も、今話してもいっぱいいっぱいになるからであって、いずれ話すつもりだったし」

「み、ミリオンさん。あの、何を」

「はなちゃん、まず一つ尋ねるわ」

 動揺する花中の言葉を抑え、ミリオンは花中の肩を掴む。まるで逃がさないと言わんげな行動に、花中の心臓は大きく跳ねた。

「あなた、さかなちゃん達がムスペルを持ち上げようとした時……何をしたか覚えてる?」

 次いで告げられた問いに、今度は全身が寒気を覚える。

 何をしたか? 何もしていない。自分はただ、応援していただけだ。そんなのは『床』になっていたミリオンが一番よく知っている筈。

 なのに何故そんな事を問うのか。

 まさか、その時に自分が何かやってしまったとでも言いたいのか……

「何も覚えてないみたいね。良い? はなちゃんは自覚がないみたいだけど、あなたは確かに『何か』をしていたわ」

「何、か……?」

「『何か』は分からない。でもね、あの時のはなちゃん……身体がちょっと光ってた。それとあの時、ムスペルの身体を持ち上げる力が()()()()()ぐらい増えたのよね」

 戸惑う花中に、ミリオンは淡々と説明していく。決して難しい話ではない。なのに花中の頭はその単語を全く飲み込めないでいる。

 自分の身体が光っていた。なんとも不思議な話だが、しかしこんなのはどうでも良い。ムスペルを持ち上げる力が増えた。これだって些末な問題だ。

 一番おかしなところは、『仲間一匹分』という言葉。

 ミュータントであるミリオン達が、仲間と思えるような力。そんなものをただの人間が出せるだろうか? 答えは勿論Noだ。原水爆すら、彼女達にとっては助力と呼ぶには弱過ぎるぐらいなのに。

 なのにミリオンは、花中(自分)が何かをしてきたと言っている。

 自分は何をした? 応援しただけのつもりだ。ムスペルには触れるどころか、三十五キロも離れた場所で眺めていただけ。

 しかし花中は知っている。触れずにものを動かす事が出来たとしても、なんら不思議ではない『生命体』の存在を。人間がその『生命体』に至ったとしても、なんら奇妙な事ではないと。そしてその『生命体』ならば、フィア達が仲間と認識するに足る力を有している。

 辿り着けた答えは一つ。他の考えはこれっぽっちも思い付かない。

「……わたしが、ミュータント……?」

 だから花中は、その考え以外言葉に出来るものを持たない。 

 誰も花中の答えを肯定しなかった。

 だけど誰も、花中の答えを否定する事もしなかった――――




衝撃? の真実と共に次章に続く。
花中にミュータントの素質があるのは、最初から決めていた設定です。ようやく出せたー

次回は今日中に投稿予定です。


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幕間十九ノ二十

 目覚めの瞬間は、ハッキリと感じ取れた。

 その時あの子の傍には居なかったが、何千キロ離れていようと伝わる感覚は、十七年以上前の確信が正しかったと思わせてくれた。これまで自分のしてきた数多の行動が、撒いてきた数々のタネが、ただ人類の敵を増やすだけのものでなかったと安堵する。

 ああ、ついにこの時が訪れてくれた。

 どれほど待ったのか。どれほど望んだのか。どれほど苦労したのか。どれほど悔しかったか。どれほど不安だったのか……短い言葉では言い表せない。されど長々と語るには、今は時間があまりに惜しい。

 思い出に浸るのは止め、今は前を向こう。そう思い、これからについて考える。

 あの子の目覚めのきっかけは、地獄より現れた魔物達に違いない。先の事変は大きな試練だった。何億か、それとも何十億か、途方もない人間が犠牲となった。何より危うく『奴等』が動き出す前に全てが終わるところだった。けれども試練を乗り越え、あの子は大きく成長してくれた。こちらからのアプローチを何度しても、今の今まで目覚めの予兆すらなかったのだから、あの試練がなければ間に合わなかったかも知れない。そう思えば、あの大災厄は必要な『幸運』だったと言えよう。

 ……しかしまだ足りない。

 あの程度では駄目だ。あんなものでは『奴等』に認識すらしてもらえないだろう。もっと、もっと、あの子の本当の力を引き出さねばならない。

 下準備は既に終えた以上、遠回しなアプローチは不要。必要なのは新たな試練だ。されどそれを待つには、残す猶予があまりに短い。それも手頃な相手ではなく、絶対的な、絶望的な相手が必要なのだ。あの子の友では全く相手にならぬ魔物が。しかしそんなものは今、手札にはない。

 唯一その域にあるのは、このちっぽけな我が身一つのみ。

 ならば、この我が身を以てして、恐ろしい試練を与えねばなるまい。

 あの子は恨むだろうか。それとも憎むだろうか。いいや、きっと悲しむだろう。あの子を苦しめてしまうのはとても心苦しい事であるが、必要である以上やらねばならない。もしかしたら憎悪と悲哀の果てに自分は殺されるかも知れないが、覚悟はとうの昔に済ませてある。何時の日かあの子が自分の意図を理解してくれたなら、それで十分……一人で十字架を背負わせてしまう事は申し訳ないが。

 さぁ、行こう。立ち止まってなんていられない。あの子には何もかもを超えた、この星の頂点に立ってもらわねばならぬのだ。

 そうしなければ、この星は終わってしまうから。

 だからやろう。あの子に苛烈な試練を、底のない絶望を、何もかも焼き尽くす憎悪を与えるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボク達の手で人類を、この母なる星を救うために――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二十章 超越種

 

 

 

 

 




色々胡散臭かった、あの人再登場。
最終章まで、あと少し。

次回は11/1(金)投稿予定です。


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第二十章 超越種
超越種1


 じっと、己の手を見つめてみる。

 なんの変哲もない手だ。空から降り注ぐ穏やかな十一月初旬の朝日を受けて、手の皮は艶々と幼い煌めきを放っている。あと数ヶ月で高校卒業となる『女性』の手としては、ちょっとばかし小さくてぷにぷにしているとは思うが、少なくとも不思議な力があるようには見えない。多分、きっと、恐らく。

 そんな手を左右共に、前へと伸ばしてみる。

 手を伸ばした先にあるのは、草一本生えていない乾いた平らな地面の上にある、一メートルほどの高さまで積まれた瓦礫の山……その瓦礫の山から一メートルほど離れた位置に置かれた、コンクリートの破片だ。置かれている破片は厚さ三センチ程度、横の長さはざっと十数センチのもの。幼い子供でも片手でひょいっと持ち上げられる小ささだ。瓦礫の山を作っているのも、同じぐらい小さな ― ただしコンクリート以外の、プラスチックや鉄など様々なものが混ざった ― 破片達である。

 手とコンクリートの破片までの距離は約三メートルほど。手と瓦礫の山までなら四メートル。言うまでもなく人間がこの距離で一生懸命手を動かしても、コンクリート片や瓦礫には干渉なんて出来やしない。

 普通の人間ならば。

「む、むむむむむむむむむ……」

 可愛らしく ― 当人としては真面目に ― 唸りながら、両手に力を込めていく。

 するとどうだ。子供っぽい二つの手がほんのりと光り始めたではないか。

 眩い朝日の中では極めて分かり辛い、とても淡いものであるが、確かに発光していた。更に力を込めていくと、手の光もまた強くなっていく。

 やがて地面の上に置かれた小さなコンクリートの破片が、カタカタと揺れ動いた。

 風は吹いていない。しかしコンクリート片の動きは何時までも止まらず、それどころかどんどん大きくなっていく。ついにはまるで自らの意思を持つかのようにコンクリートの破片は立ち上がり、垂直の姿勢へと移る。

 そしてコンクリートの破片は、ふわりと浮かび上がった。

 無論コンクリートの破片に、糸のようなものは付いていない。あまり大きなものではないとはいえ、石の類なのだから重さだってそれなりにある。にも拘わらず浮かび上がったコンクリートの破片は、落ちるどころか少しずつ高度を上げていった。浮かび方も綿毛のようにふわふわしており、局所的な上昇気流や、物理的に引っ張られている訳ではないと一目で分かるだろう。

 ついに破片は高さ一メートル程まで上がり、そこでピタリと止まる。

 前に伸ばしていた両手を、もっと伸ばすように力を入れてみた。すると浮かび上がったコンクリートの破片は、静かに前進を始める。当然浮遊したままで。ふわふわしていていまいち力強さはないが、着実に前へと進んでいく。

 やがてコンクリートの破片は瓦礫の山の上に到達し、両手を下ろせば、破片もぽとりと落ちた。

 ……ちょっとだけ疲れが滲み出ている、だけど満足げな息を吐く。次いでニヤッとした笑みを浮かべた

「大桐さんってばすっかり超能力者ねー」

「ほぎゃああぁんっ!?」

 直後に声を掛けられたものだから、驚きやら恥ずかしさやらが一気にこみ上がり――――花中は悲鳴を上げてしまった。ついでに勢い余って転びそうになる始末。

 狼狽えながら真っ赤になった顔で後ろを振り向けば、そこに居たのは晴海だった。生温かな眼差しは、先の出来事の一部始終見ていたと主張している。

 つまりは花中が両手を伸ばし、触れもせずにコンクリート片を動かした……その姿を目撃された訳だ。

 尤も、見られたところで今更である。晴海は、今の花中にそんな『不思議な力』がある事を知っているのだから。なので花中的には、不思議な力を使って悦に浸っているところを見られた方が重大である。

 ぶっちゃけ子供染みたところを見られて恥ずかしい。

「えぁ、あ、その」

「しっかしまぁ、随分力の使い方が上手くなったというか、普通に使えるようになったというか」

「あ、は、はい。結構、簡単に使えるように、なりましたね」

 とはいえ晴海の方は花中の羞恥などどうでも良いようで、淡々と話題を振ってくる。花中はこくりと頷き、未だほんのりと顔に残る熱さを我慢しつつ、再び己の手を見つめた。

 ざっと二週間前の事。花中は超能力に()()()()

 きっかけは恐らく、星の在り方そのものを変えようとしたムスペルとの遭遇。圧倒的なパワーで暴れる存在を前にして、生存本能が覚醒したか、或いはなんらかの刺激を受けたのか……詳細は不明だが、なんにせよ花中の身に常人ならざる力が宿った。

 その力を一言でいうならば、サイコキネシス(念力)

 物体に触れずして動かす力だ。神話の頃より語られる『不思議な力』の一つであり、なんとも分かりやすい超能力である。先程コンクリートの破片を浮かび上がらせ、瓦礫の山まで運んだのもこの力によるものだ。言うまでもないが、普通の人間は勿論、既知のどんな生物にもこんな事は出来ない。

 しかしこうした不思議な力を使える『生命体』を、花中達は知っていた。

「超能力を使えるとか、なんというか、本当に『ミュータント』よねぇ。漫画とか映画みたいな感じ」

「ですねー」

 晴海の言葉に、花中はあっけらかんと同意する。

 そう、ミュータント。人智を超えた力を振るう怪物達であり、文明はおろか星すらも滅ぼしかねない脅威の生命。

 どうやら自分は、そんなミュータントの一体らしい。即ち人間のミュータントであり、ただの人間とは違う存在なのだと花中は理解していた。

 ……割と、だからどうした、と花中は思っているのだが。星は勿論、人間を滅ぼそうなんて露ほどにも思っていないし、別にミュータントだから人と共に暮らせないとも思わない。能力に目覚めたところで凶暴性が増大したり、食性が変わって人間を喰ったりはしないのだから。

 それでも普通なら、ここで自分という存在について思い悩むものだろう。しかし花中はこれまでに様々なミュータントと出会い、誰もがありのまま生きている姿を見ている。ミュータント達は、自分がミュータントである事などこれっぽっちも気にしていない。得られた力を存分に活用し、日々を生きている。当たり前だ。ミュータントだのなんだのなんてものは、人間が勝手に作った括りでしかない。野生を生きる彼女達からすれば「自分は自分」以外の何ものでもないのだ。

 己がミュータントかどうかなんて、そんな()()()()()事を気にするのは人間だけ。勿論花中は人間である訳だが……ちょっとばかりミュータントと関わり過ぎたか。ミリオンから事実を告げられたあの日から「へー、そうなんだー」ぐらいにしか思わなかった。昨年の夏頃『人間のミュータント』について多少考察し、その存在を考えておいたお陰で多少なりと心構えが出来ていたのかも知れない。

 大体にして、自分が何者かなんて考えは『余裕』があるから出来る事である。今の人類に、自分は何者なのかなどという哲学的思考をしている暇などないのだ。

「ところで、小田さん。避難所の、方は……」

「んー。みんな頑張ってはいるんだけど、やっぱり資材が全然足りないわねぇ。この分じゃあと一月か二月は、全員分のベッドは用意出来なさそう」

「そう、ですか……」

 晴海からの話に、花中は俯き気味に相槌を打つ。

 花中達は今、避難所……学校があったグラウンドにて寝泊まりしている。理由は、自宅が震災により倒壊して住めなくなったからだ。学校も校舎が倒壊して瓦礫の山だが、だだっ広いグラウンドは辛うじて生活可能な状態だった。生活可能といっても『足を伸ばして眠れる』程度のものだが、瓦礫の山の上よりはマシである。

 現在グラウンドという名の避難所には、花中達を含めて五十八人の人々が生活を行っている。勿論校舎が潰れているためベッドも屋根もない暮らしだ。花中や晴海ぐらいの歳ならまだしも、幼児や老人には過酷な環境である。そのため少しずつ生活環境を整えていく必要があるのだが……何もかも瓦礫の山と化した中では、まともなベッドが見付かる訳もなし。瓦礫の中から廃材を引っ張り出し、どうにか整備を進めているが、期待通りの進展はしていないのが実情だ。

 そしてこんな生活を強いられるようになった元凶もまた、先月現れた怪物ムスペルである。

 ムスペルによる被害は甚大だった。土地の溶岩化・火山噴火の多発により、世界のあらゆる場所で政府機能が停止。都市と都市を繋ぐ交通網が分断され、ライフラインも破壊された。基地局が溶岩に沈んだり、本社が消滅するなどの事態により、通信機器も途絶している。

 ムスペルはその後全個体が地殻へ退却ないし死亡したが、彼等が刻み込んだ傷跡までも消える訳ではない。物資不足や情報不足による混乱から、幸運にも無傷だった都市の機能すらも数日で失われた。物資が足りない地域、或いはそんな『噂』が流れた都市では略奪が横行するようになる。しかしそれを制圧する治安維持組織が統治機能の喪失により動けず、略奪は新たな不安のタネとなって際限なく広がり続けた。略奪は更なる破壊を生み、一層社会に傷跡を負わせる。

 かくして人類文明と呼べるものは、ムスペル出現からたったの一週間で完全崩壊してしまった。日本も政府機能が失われ、自衛隊はおろか警察も消防も機能停止している。というより警察官や消防隊員が要救助者、ごく少数だが略奪者になっている有り様。今まで治安と人命を守ってきた者の矜持はないのかと言いたくもなるが、矜持で腹は膨れない。誰もが自分や家族の身を守るだけで精いっぱいで、他人に手を差し伸ばせる余裕なんてないのだ。

 ……というような話を、花中は一週間ほど前にミリオンから聞いている。ネットどころかラジオすら通じなくなった世界であるが、四方八方に拡散して情報を集められるミリオンならば文字通りの『人海戦術』で情報を集められるのだ。彼女がいなければ花中には救助が来るのかどうかすら分からず、不安と希望の板挟みで精神を病んでいたかも知れない。

 勿論もう一週間も経てば状況が変わる可能性もあるので、今でもそうとは限らない。が、あまり期待は出来ないだろう。むしろより悪化していると考えるのが自然だ。文明復興に必要な資材もエネルギーも人材も、全てムスペルの力により奪われたのだから。

 救助が来る可能性はゼロ。しかし自力で避難しようにも、瓦礫に埋まった世界で車を走らせる事なんて出来ず、歩きで移動するしかない。道中で暴徒や野生動物の群れ、雨や土砂崩れなどの自然災害、そこらを闊歩している怪物などに襲われたら一溜まりもないだろう。そうした危機を全て乗り越えたとしても、その避難所の収容人数がパンクしていたら間違いなく受け入れは拒否される。

 だったら助けを期待するのは諦めて、今居る避難所を直して使う方が合理的である。

 かくして花中達は故郷の避難所に留まっているのだが、瓦礫に囲まれた中で文明的な生活は送れない。瓦礫を退かし、ゴミを片付け、生活に必要な物資を探す毎日。人が持ち得ない超能力だろうがなんだろうが、使えるものは使わねば生き残れないのだ。思い悩む暇すらありゃしないのである。

 そしてこんな状態でも、他と比べてまだ『マシ』だというのだから悲惨だ。

「そういや、さっきまた新入りさん達がやってきたよ。十人ぐらい」

「あ、そうなのですか……えっと、その人達も、もしかして……」

「ん。他の避難所からやってきたみたいで……最初はなんとか共同生活をして、やり直そうとしていたみたいだけど、食べ物の奪い合いで暮らしていけなくなったって話」

「……そう、ですか」

「なんというか、やるせないよね。みんなが一致団結して頑張らないといけない時なのに、たくさんの人が集まると食べ物が足りなくて、仲間割れになるなんて」

「はい……」

 こくりと頷き、そのまま俯く花中。晴海も悲しげな顔で俯く。

 花中も晴海も幼い子供ではない。世の中が綺麗事だけでは動かない事、追い詰められた人間が凶行に及ぶ事、『犯罪』が悪意だけで行われる訳ではない事……どれもよく分かっている。条件が違えば、自分達がそれをしていた事だって想像出来た。

 それでも自分達が協力して暮らしている時に、凄惨な行為が何処かで行われていると思うと……息苦しさにも似た、激しい情動が込み上がる。

「うん! 考えても仕方ないわよね! 難しい話はなしなし!」

 そうした感情的な苦しさから、表情が歪んでいたのかも知れない。晴海はちょっと引き攣った笑みを浮かべながら、話を強引に打ち切った。

「……ごめんなさい」

「もぉー、なんで大桐さんが謝ってんのよ。そうそう、こんな無駄話してる場合じゃなかったわ。そーいう訳で新しく十人ぐらい人が増えるから、今晩の食事はその分増量してほしいんだけど、食材足りそう?」

「あ、はい。えっと、んー……多分、大丈夫です。今、丁度穫ってきてもらっている、ところですし」

「そうなんだ。じゃあ、ご飯は心配ないってみんなに伝えておくね」

「分かりました、お願いします。わたしは……もうちょっと、此処の片付けと、力の練習をしていますね」

「あいよ。じゃ、程々に頑張ってねー」

 大きく手を振りながら、晴海はこの場を後にする。花中も手を振り、遠ざかっていく晴海を最後まで見送った。

 そして晴海の姿が見えなくなると……振っていた手を止め、じっと見つめる。

 自分で言うのも難だが、なんとも弱々しい手だと花中は思う。実際筋力なんて小学生の男子未満であり、人の殴り方なんて知らないのでポカポカと痛くない叩き方しか出来ない。むしろ叩いた自分の手の方が痛いぐらいである。

 その手で使える不思議な力は、小さな瓦礫をふわふわ漂わせるのが精いっぱい。前進させるスピードも遅く、幼児でも持ち運べるものを一メートル移動させるのに十数秒、準備時間も含めれば数十秒と掛かっていた。これなら素手で運んだり投げたりする方が遙かに早い。おまけに素手よりもずっと疲れる。

 正直、割としょうもない超能力だ。少なくとも見た目上はそう見えるし、この力で誰かと戦えと言われても困る。ぶっちゃけこの能力を使って頑張るより、へっぽこながら己の拳で殴る方が遙かに強いだろう。

 だけど花中は理解している。

 自分の力がどれだけ()()()()ものであるかを。

「……ちゃんと、使えるようにならないとね」

 ぽつりとそう呟いてから、花中は再び小さな欠片を浮かばせるのであった。




超能力少女・花中爆誕!
でも未だ戦力外です。幼稚園児の力以下の能力は、如何に人類がアレでも流石に迫害の対象にならないと思う。というか思いたい(儚い願望)

次回は明日投稿予定です。


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超越種2

 花中達が暮らしている避難所は、今やちょっとした村のようになっている。

 『ムスペル事変』により崩落した校舎の瓦礫が少なからず散らばっていたグラウンドは、今ではかなり整理されていた。一周四百メートルのトラックがあるグラウンドも、その面積の七割ほどが瓦礫を綺麗さっぱり退かした状態にある……逆にいえば三割は未だ手付かず、或いは退かした瓦礫が積み上がっていて使用不可なのだが。しかし綺麗にしようにも瓦礫の移動先なんてなく、何時の間にか様々なゴミも捨てられるようになって今更撤去が出来ない。かくしてこうした場所を、この避難所では『ゴミ捨て場』と呼んでいる。花中が『超能力』の練習をしていたのも、四方に瓦礫が積み上げられていて人目に付かない『ゴミ捨て場』の一部だった。

 グラウンドの七割程度を占める『綺麗な場所』には、色々な施設が建てられている。施設といってもトタン板や木材で作られた簡素なものですらなく、何処からか運んできた草を地面に敷き、何処からか引っこ抜いた鉄の棒を地面に突き立て、何処からか持ってきたボロ布を被せただけの……テントと呼べない事もないような代物だが。しかしこんなものでも小雨ぐらいは防げる ― 大雨だと倒壊の危険があるので使えない ― し、床として敷かれている草はコンクリートのように固くなったグラウンドの地面より遙かに寝心地が良い。何より建造に掛かるコストと手間が非常に少なく、素人でも建てられるという利点がある。

 尤も、避難所には五十人以上の人が暮らしていながら、この粗末なテントもどきは十軒も建ってはいないのだが。時間も技術も十分にあるが、材料が足りていないのである。テントの材料は瓦礫の山から引っ張り出しているため、瓦礫をひっくり返すのに多くの労力が必要になっているのが原因だ。加えて大きな瓦礫を退かすのは老人や女子供では危なくて出来ず、大人の男性がそれなりに必要である。

 そういう意味では、新たな『労働力』が増えるのは実にありがたい。今この避難所で最も足りないのは食糧でも寝床でもなく、単純な人手なのだ。

「我々はあなた方を歓迎します。困難は多いですが、力を合わせて生き延びましょう」

 だからこそこの避難所の代表者をしている岡田勇作……六十代と高齢だが、かなり筋肉質で大柄な体躯の男性だ。震災時は川沿いをジョギング中だったため助かったらしい……の言葉は、間違いなく本心から語られたものだった。

 勇作の話を、花中は傍で聞いていた。花中だけでなく晴海や加奈子、他にも大勢の、この避難所で暮らしている人々が集まってきている。総勢五十八人。これがこの避難場所の『全人口』だ。

 ここに、花中達の前に居る十人の男女が加わる。

 二十代ぐらいの若い男が二人、三十代ほどの女性が一人、後は十代前半かそれ未満の子供が七人。誰もが汚れた服を着ていて、身体には擦り傷や打ち身の跡が見られる。傷口から細菌が入り化膿したのか、片目が異様なほど大きく腫れている幼児も居た。相当痛いだろうに子供達の誰もが泣いていないのは、子供ですらその痛みに慣れてしまったという事なのだろう。

 そして全員が酷くやつれている。十一月初旬の柔らかな日差しでも、今のように屋外で直接浴び続けるだけで体力が削られそうなほど弱々しく見えた。花中の勝手な推測であるが、あと一週間ほどの間十分な休息が得られなかったなら……全員とは言わないが犠牲者が出てもおかしくないだろう。或いは既に、体力的に劣っていた者が『脱落』した後かも知れない。

 彼等 ― とりあえず新入りと呼ぼう ― は他の避難所から逃げ出し、放浪の旅の中で此処を見付けた人々だ。晴海から聞いた話では、避難所内で起きた暴力に耐えかねて、との事。

 要するに宛てのある脱走ではない。これ以上避難所を探して歩き回っても、それは希望のない旅路だ。この避難所に保護してもらえなければ死を覚悟するしかあるまい。

「あ、あの、精いっぱい、頑張りますから……その……此処で、暮らさせてください……」

 二十代の男性の一人が擦れた声で頼み込む。必死に、命乞いでもするかのように。

 勇作はそんな彼の下に歩み寄り、肩を掴んでこう告げた。

「頑張るのは後でも大丈夫。あなた達には休息が必要だ。それに暖かな食事も。元気になってから働いてもらいますよ」

 避難所に訪れたばかりの新入り達に、休むように促したのだ。

 新入りの大人達は僅かにどよめいた。子供達は大人達の動揺を見て不安そうにしている。休息を取ってくれと告げられたのだから、彼等とて嬉しくない筈がない。それ以上の困惑が彼等を動揺させたのである。

 花中は、新入り達が置かれていた境遇を知らない。しかし想像は出来る。

 きっと彼等が避難していた場所は、苛烈な労働や暴力に支配されていたのだろう。されどこれは驚くような事柄ではない。正規の避難所ならば、非常食などの備蓄は建物内に収納しておくのが普通だろう。しかしムスペルが引き起こした地震はあらゆる建物を倒壊させてしまった。つまり折角用意した水や食べ物は、全て瓦礫の下に埋もれてしまったのだ。花中達が避難している、高校の校舎と同じように。

 そのため日々の糧を得るには、積み上がった瓦礫を退かすなり、何処か遠征して見付けるなり、なんらかの『労働』で確保せねばならない。働かざる者食うべからず、とは日本の諺であるが……極限環境下においてその言葉は、訳あって働けない弱者を切り捨てる、或いは人を奴隷化するための大義名分として使われる事は容易に考えられる。この新入り達はそれを経験し、そのトラウマが心に深く刻み込まれたのだろう。

 とはいえそうした体制を、一概に愚かだ野蛮だとは批難出来ない。十分な食べ物が確保出来ていないのに仕事をサボる奴が居たらみんなの負担になるし、酷な言い方ではあるが働けない人を養う余裕なんてない。確保出来たのが一人分の食糧だけなら、自分が生き抜くためには暴力で周りの人間を追い払う必要があるだろう。安全な労働規則や社会保障、法による統治というものは、人々の生活が技術発展により安定してきた近代以降だからこそ生じた考えなのだ。

 花中達が暮らすこの避難所でそうした事が起こらない理由は、生活が安定しているからに他ならない。勿論資材は不足していて、寝床にすら困っているが……逼迫した労働とは無縁である。

 何故なら、一番大切な物資である食糧には全く困っていないからだ。

「花中さぁーんただいま帰りましたよー」

 そしてその食糧調達係が、丁度このタイミングで戻ってきた。

「あ、フィアちゃーん」

 花中は戻ってきた食糧調達係こと、フィアの声が聞こえた方へ顔を向け、大きく手を振るう。声が聞こえてきたのは花中から見て左手側……元々は校舎が建っていた、今では高さ五メートルを超える瓦礫の山があるだけの方角だ。

 避難所の住人達も花中と同じ方を見遣り、小さな子供などは満面の笑みと共に手を振る。新入り達も声の主が気になったのか、釣られるように皆と同じ方向に顔を向けた。

「う、うわああああっ!?」

「ひぃっ!?」

 次いで新入り達だけが悲鳴を上げる。

 校舎が崩れて出来た瓦礫の山の頂上に、フィアは居た。堂々たる立ち姿で佇み、花中に向けて大手を振っている。向日葵のように眩しい笑みを浮かべ、花中との再会を大いに喜んでいた。

 そんなフィアの背後には、見るもおぞましい怪物の姿がある。

 青白い体躯は、ざっと全長五メートルはあるだろうか。顔には四つの単眼があり、口許には四つの嘴が付いている。手足は触手のような形態であるが、とても太くて逞しい。

 それは人をも喰らう怪物――――『白饅頭』であった。ただしその個体はぴくりとも動かず、一目で完全に死んでいると分かる状態……いや、一目見るような余裕がある時点で大分おかしいだろうが。何しろどう見ても人を喰らいそうな『モンスター』である。始めて見れば、誰であろうとまずは恐怖の感情を覚えるに違いない。

「よいせーっと」

 ましてやその巨大な亡骸を、見た目麗しい美少女であるフィアが片手で持ち上げながら運べば、恐怖の対象は白饅頭からフィアへと移る事だろう。

 新入り達の誰もが恐れ慄いた表情を浮かべるが、しかしフィアは人間の顔色など気にも留めない。ぴょんと瓦礫の山を跳び降り、大地を揺らしながら人間達に接近。新入りの大人は腰を抜かし、子供は大人にしがみつきながら泣き出す。

「いやぁ今日は良い感じに太った奴が捕まえられました! コイツは丸焼きにしますかそれともお刺身にしますか?」

 そんな新入り達の悲鳴は、フィアのあまりにも能天気なこの一言で止まり。

「岡田さん、どうしますか? わたしは、茹でようかと、思うのですが」

「うーん。火を通したものも悪くないが、偶には刺身が食いたいね」

「「「えっ」」」

 花中と勇作の暢気な話を聞いて、新入りの大人達は呆気に取られた声を漏らした。

 この白饅頭こそが、花中達避難所の住人の命を繋いでいるもの。

 泥落山もムスペル事変で崖崩れなどの被害は生じていたが、幸いにして生態系が壊滅するほどのものではなかった。野生生物達は今も変わらず生きており、つつがなく食物連鎖が繰り広げられている。

 白饅頭達も、多くの野生生物達と同じく泥落山で元気に生きていた。今でこそ泥落山生態系の頂点だが、彼等は元々喰われる側。そのため個体数が非常に多く、また回復も早い。しかも白饅頭の肉は大変美味で、調理方法を変えれば毎日食べても飽きないほど。流石に栄養価は、これだけを食べ続けていてはそのうち偏るだろうが……そこまでの贅沢は言えない。そうした理由から花中を含めたこの避難所に暮らす人々は、白饅頭の肉を主食にしていた。

 無論白饅頭の力は、体長数メートルの『幼体』であっても戦車砲すら通じない圧倒的なもの。そして今の人類は、この星には人智の及ばぬ怪物がひしめいている事を知っている。白饅頭の恐ろしい、常識の通用しない姿を見れば、それが『怪物』の類だと誰でも理解するに違いない。

 ならばその怪物を、まるで虫けらか何かのように扱うフィアは……

「あ、あの、そ、そちらの、方は……」

 新入り達の中の一人、大人の女性が尋ねてくる。自分について尋ねられたフィアは、しかし自分に向けられた質問だと気付いていないのか、或いは面倒臭くて無視しているのか。女性の問いに答えないどころか、見向きもしなかった。

「ああ、彼女は我々の仲間です。彼女のお陰で私達は食べるものに困らず、大助かりですよ」

 代わりに勇作が答えたものの、その答えは少し的外れで、女性が知りたかったであろう部分には触れていない。

 女性も勇作がわざとその部分に触れなかった事は、きっと理解しただろう。だからこそ疑念が膨れ上がったに違いない。

「な、仲間って、でも、その大きな怪物をどうやって」

「さぁ? 私達は彼女がこの生き物を捕まえるところを見ていないからね。知らなくても、まぁ、問題はないさ」

「い、いや、でも」

「仮に知ったところで、どうするんだい? ちなみに我々が普段食べているものは、この恐ろしい怪物だ。というより他の食べ物はない」

 問い詰めてくる女性に、勇作はそう尋ね返す。

 女性は口を閉ざした。大人の男二人も何も言わない。子供達は大人の態度を見て不安そうな表情を浮かべるばかり。

 そしてこの避難所の住人達も、新入り達の意見に賛同しない。

 知ったところでどうするのか。どうする事も出来ないのだ。フィアが食糧を調達し、その食糧によって自分達は生きている。フィアの狩りがどんなに恐ろしかろうと、どんなに危なかろうと、フィアが持ってきた食べ物がなければこの避難所はたちまち飢えと渇きで滅びてしまう。

 フィアを追い出す、ましてや退治するなんて選択肢はない。それは遠回りな自殺でしかないのだから。

「勿論、彼女と一緒には居られないと思ったのならば出ていくと良い。私達は共存を強要しない。過去には出ていった人も僅かだがいる。あなた達を無理に仲間にしようとは思わないよ」

「……………それ、は……」

「まぁ、あまり深く考えなくて良い。ちょっと変なところはあるが、悪い子ではないからね。それに」

 未だ困惑し、恐怖心を見せる新入りの大人達に、勇作はあれを見ろとばかりに視線を逸らす。

 向けられた視線の先に立つのはフィアと――――そのフィアの周りを囲う四~十歳程度の子供達四人。

「フィアねーちゃん! あそんであそんで!」

「ねーねー遊んでよー!」

「あん? あなた方だけで勝手に遊べば良いでしょうが。私は花中さんと一緒に居たいのであなた達に構っている暇はありません」

「いいじゃんけちー!」

「分かった! この前神経衰弱で負けたから逃げてるんだ!」

「やーい! へったくそー!」

「へったくそー!」

「ああん? 人間の分際であまりこの私を嘗めるんじゃありません。良いでしょうあなた方最近ちょっと生意気だと思っていましたしここらでけちょんけちょんにして身の程を分からせてやりますよ」

「「「「わーい!」」」」

 口調は傲慢にして獰猛、されど子供の煽り文句であっさりと丸め込まれてしまうフィア。

 怪物を仕留めた存在のあまりの暢気ぶりに、新入り達は呆気に取られた様子。対する花中達住人は、フィアの姿を見てくすりと笑みを零す。敵意なんてこれっぽっちもありはしない。

 勇作は新入り達の方へと振り返る。とても穏やかで、敵意などない柔らかな微笑みだ。

「小さな子供という恐れ知らずで知恵も回る最強のモンスターに比べたら、彼女なんてずっと可愛らしいものだろう?」

 その微笑みと共に語られた言葉を否定する者は、誰一人としていなかった。

 ……………

 ………

 …

「むぐわああぁぁぁぁぁ! また負けましたああああああっ!」

 そして二時間後、フィアの苦悶の叫びが避難所に木霊する。

 その声を間近で聞いていた花中は、思わず笑みが零れた。ちらりと横目で見てみれば、フィアは剥き出しのグラウンドの上でのたうち回っている。さながら丘に上がったフナの如く。

「あはは。フィアちゃん、神経衰弱、弱いもんね」

「うぐぎぎぎぎぎ。確かに弱いですけどだからって何故あんな頭空っぽそうな生き物に負けるのか。なんかズルをしてるんじゃないですかアイツら」

 余程酷い負け方をしたからか、フィアは対戦相手である子供達のインチキを疑い始める。大人であればなんとも往生際の悪い姿であるが、フィアは人ではなく魚。往生際の悪さは生命の美徳だ。

 ……あと、フィアの直感はあながち間違いとも言えない。子供達はきっとトランプの傷やらなんやらを覚えているのだろう。何分学校も幼稚園も物理的に潰れ、付近が瓦礫だらけで危険な今、子供達の遊びは屋内系のものばかりである。何度も何度もトランプ ― ちなみにそのトランプは瓦礫の山から引っ張り出された『資材』の一つである ― をやった事で、未熟故にハイスペックな頭脳はそれらの特徴をしかと記憶したに違いない。大人でも勝ち目があるか怪しいところだ。

 勿論一番の原因はフィアが極度に忘れっぽくて、自分の捲ったトランプの柄すら三十秒と覚えていられない事なのだが。カードの裏に水を這わせ、絵柄による僅かな凹凸から種類を識別するという事もフィアなら出来るだろうが……恐らくそんな作戦は思い付いてもいないのだろう。

「あーあーもうあんなつまらない事はさっさと忘れるに限ります。花中さんの匂いでも堪能して気分を一新するとしましょう」

 負けてふて腐れたフィアは、何時ものように自分の思うがまま動く。ごろごろと地面の上を転がりながらフィアは花中の足下までやってきた。すっと立ち上がったフィアは特段断りもなく、花中に抱き付く。

 そして花中の髪に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅いできた。

 フィア曰く、自分の匂いは落ち着く香りらしい――――以前フィアから直接そう伝えられた事がある花中だが、今はあまり匂いを嗅がれたくない。

 避難所生活でお風呂に入れず身体が汚くて、体臭を嗅がれるのが恥ずかしいから……ではない。フィアの能力により水は地面から幾らでも補給可能。瓦礫から燃料である廃材も取れるので、この避難場所の住人達は全員お湯で身体を洗う事が出来ていた。お陰でもう二週間野外生活を送っているにも拘わらず、花中達の身体は驚くほど清潔だ。そもそもフレンドリーな事が大好きな花中にとって、フィアに抱き付かれたり匂いを嗅がれるのはとても嬉しい事である。

 ただ、今は場所とタイミングが悪い。

「こらぁーそこの珍獣、大桐さんの邪魔をしなーい!」

 何故なら此処には青白い肉の塊を箸で皿に盛り付けている晴海が居て、

「そーだそーだ。もうすぐ夕飯で私のお腹はぺこぺこだ! ご飯が遅くなるのは看過出来んぞー!」

 晴海の背後で空のお皿を持つ加奈子が言うように、夕飯の時刻が近いのだから。

 此処は避難所の一角に設けられた、ちょっとした『公共施設』である。施設といっても穴だらけのシーツで作った簡易的な屋根と、その屋根を支える金属の柱が数本立っているだけ。幅は縦横四メートルほどで、中には瓦礫を積んで作った平らな台が三つあった。

 この台の上には、まな板やフライパンなどの調理器具が置かれている。他にも菜箸やお玉、そして包丁を置いておくための棚も置かれていた。

 そう、此処は調理場なのだ。尤もガスなんて高等なものは通っておらず、水道代わりにバケツの水があるだけという簡易的なもの。しかし簡易ではあっても調理器具があれば、食材を様々な形で出せるようになる。

 花中は此処で、避難所の食事作りを任されていた。晴海はその手伝いである。

 この避難所での食事は、ほぼ花中が一人で作っていた。避難所には花中を除いて五十七人の人々がいて、花中以外にも料理の出来る人……例えば晴海や加奈子の母親など……は少なくない。けれども白饅頭という恐ろしい怪物に、包丁を突き立て、皮を削ぎ、串を刺せるような胆力の持ち主は花中だけだった。いや、花中の胆力などそこらの小学生にも劣るが、白饅頭を食べたという他にはない経験がある。味だって知り尽くしているし、何処をどう調理すべきかもちょっとは分かる。そうした経験から花中は誰よりも上手く白饅頭を調理出来、その結果台所を任されたのだ。

 とはいえ料理というものは中々の重労働。纏めて作れば一人分当たりの効率は良くなるものの、労力そのものはちゃんと増えていく。これまで五十八人、そして今日から六十八人分の料理を一日三回こしえるのは、かなりの重労働といえよう。

 自分より『身体』の大きなフィアに抱き付かれれば、少なからず動きが鈍る。仕事の効率を悪くするという点に関しては、フィアの行いは親友である花中でもフォロー出来ない部分だった。晴海と加奈子がフィアを何処かに追い払いたいと思うのは、料理を食べる側からすれば当然の意見である。

 尤も、それで拗ねたり睨んだりすればまだ可愛い方で。

「すんすん……あー癒やされますねぇ」

「おいこら無視すんな! あと加奈子アンタも怠けてないで手伝いなさい!」

「ふふふ。良いのかい? 我が家でイグナウスと呼ばれたこの私を台所に立たせて。台所が恐ろしい事になるぜ?」

「大桐さん、イグナウスってどんな意味?」

「えっと、ラテン語で怠け者ですね」

「あ、晴ちゃんズルい! 大桐さんを頼るのは反則だよ!」

「てきとーな事言ってサボろうとした癖に文句垂れるんじゃないわよこの怠け者!」

 小難しい言い訳も無駄となり、加奈子は晴海のゲンコツを脳天に受ける。手にしたお皿を落とさないのは、加奈子なりの意地だろうか。

「いだだだ……うう、仕方ない。大桐さん、何を手伝えば良い? 出来れば摘まみ食い出来るやつが良いんだけど」

「うーん、そうですねぇ。じゃあ、そこのバケツに入れてある、骨とか皮を、生ゴミの捨て場所まで、運んでください。その部分に付いているお肉なら、幾ら摘まんでも良いですよ」

「……大桐さん、ナチュラルにエグくない?」

「アンタの扱い方としてはまだ甘いぐらいでしょ。ほら、働かざる者食うべからずよー」

「へぇーい」

 晴海の言葉に後押しされて、加奈子は渋々といった様子でバケツを持つ。しかしながら運ぶ足取りは軽やかだ。本心から嫌がってはいない。

 あーだこーだと言ってサボろうとしたり、悪ふざけをしたりするが、加奈子は割と『良い子』だと花中は思う。晴海もそう思うから、仲良くしているのだろう。

「ちなみにフィアは手伝わないの? 大桐さん、喜ぶわよ?」

「ふふんこの私ならゴミ捨てをするのにわざわざ動く必要もありません。触手を伸ばせばぜーんぶ済みますから」

「あっ、そう」

 ちなみに晴海はフィアを同じ手で花中から引き離そうとしたが、超越的能力を使えるフィアには通じなかった。晴海の意図に全く気付いていないフィアの自慢げな表情に、晴海は顔を顰める。

 そんな晴海への当て付け、という訳ではないだろうが。

「いやぁ力を隠さなくて済むのは楽で良いですねぇ。今まで歩いていかないといけなかった事を花中さんに抱き付いたままぜーんぶ済ませられますから」

 フィアはとても上機嫌に、己の素直な感想を述べた。

 今回の晴海の作戦は失敗したが、しかし少し前までなら上手くいっただろう。今まで花中はフィアに、その力を人にあまり見せてはならないと頼んでいたからだ。ちゃんと隠せていたかは甚だ怪しいが、フィアなりには隠そうとしてくれていた。もしも先月同じ事を頼めば、ゴミ捨て場まで水触手を伸ばすなんて真似はしなかっただろう。

 そうした花中の禁止令は今、解除されている。

 白饅頭さえも捕まえてくる圧倒的パワー、地面から水を吸い上げる能力……どちらも今の花中達の生活には必要不可欠なものだ。隠しながら使ってもらうような余裕はない。それにこそこそと用意した事で、「奴等は食べ物が豊富な場所を隠している」等という不信を持たれたら色々と厄介だ。疑心暗鬼が高まれば、下手をしたら内乱になりかねない。

 そのためフィアの力は隠さず、彼女の力により『恩恵』が受けられると花中は堂々と主張する事にした。この力は自分達にとってメリットであると訴えれば、大抵の人はフィアの力を受け入れてくれた。みんなそれだけ将来が不安で、余裕がなかったのだ。勿論中にはフィアを化け物呼ばわりして避難所から去った人もいる。花中は彼等の顔を一生忘れないだろう。全て覚悟した上での決定だ。

 なんにせよ情報を明かした事で、避難所の秩序を守る事には成功した。『切り捨てた』人達には申し訳ないが……これも生きるための決断。後悔するような余裕は、今はまだない。

「……まぁ、良いか。アンタのお陰で食べ物にも水にも困らないし、ご褒美が大桐さんの匂いだけで良いなら安上がりよね」

「ふふーんそうでしょうそうでしょう。もっと私を讃えなさい」

「あ、今の讃えてると思うのね」

「? 違うのですか?」

「違わないし、アンタがそう思うならそれで良いんじゃない。多分その方が色々幸せになれるだろうし」

「そうですか」

 晴海の『人間的』な皮肉もフィアには通じず。相手がどう考えてるかなどどうでも良い、あくまで自分本位な考えであるフィアらしい物言いに花中は笑みが零れた。

 実際、自分達はフィアのお陰で生き長らえているようなものだ。泥落山には白饅頭以外の野生動物や植物が数多く生息し、それらを食材として利用する事は可能だろう。しかし避難所から泥落山までの距離は遠く、徒歩では往復するだけで一日が終わる。それに動き回る動物を狩ったり、判別の難しい植物を採取するにはそれなりの技術や知識が必要だ。人間だけの力では、全員分の食糧を賄うのは難しい。加えてフィア達が適度に狩らなければ、昨年の時のように白饅頭が大発生し、生き延びた人間はたちまち食い尽くされてしまうだろう。

 逆にフィア達が助けてくれているお陰で、食べ物にも水にも困っていない。今はまだ経験していないが、暴徒や野生動物、更には怪物の襲撃さえも、フィア達の強さを考えれば恐れる必要のないものだ。

 勿論楽な生活ではないが、希望は十分に抱ける日々。フィア達と共にこのままゆっくりとでも前に向かって進んでいけば、また人は豊かな社会を取り戻せるだろう……そんな気持ちを抱ける。だからこそこの避難所で暮らしている人々は皆自棄にならず、落ち着いて動けるのだ。

 なら、

 その希望が()()()()()()()と知ってしまったなら――――

「あら、お料理中? 今はお邪魔しない方が良いかしら?」

 ふと思考が逸れていた、そんな花中に声が掛けられた。身体は反射的に声が聞こえてきた方へと振り返る。

 何時の間に来ていたのか、『調理場』の入口付近に黒髪の美女……ミリオンが立っていた。ミリオンはにこりと微笑みながら、花中に向けて手を振る。

 如何にもちょっとした買い物から帰ってきたかのような、気軽な現れ方。しかしながら花中はそんな軽い気持ちにはなれない。

 何故ならミリオンとは、かれこれ一週間ぶりの再会なのだから。

「ミリオン!? 何時の間に帰ってきたの!?」

「ついさっきよ、立花ちゃん。それにしても一週間でまた人が増えてたわねぇ。はい、これお土産の野菜。養殖物よー」

 久しぶりに見た顔に、晴海は箸を置くと駆け足で近寄る。ミリオンは笑顔で受け答えた後、何処からか取り出した菜っ葉を晴海に渡した。晴海が両腕で受け取らねばならないほどの大盛りだ。

「うひゃあ! 野菜!? こんなの今じゃ稀少品よ!」

「山奥の村とかじゃ普通に食べられていて、肉の方が遙かに稀少なんだけどね。まぁ、喜んでもらえて何より」

 此処らでは手に入らない野菜を前にして晴海は大喜び。花中も野菜の姿を見て思わず生唾が出てきた。肉も嫌いではないが、肉単品の食事には流石に飽きが来ているのだ。多くの人々が食うにも困っているこのご時世に贅沢な悩み、いや、ワガママなのは重々承知しているが、欲望というのは底がないのである。

 本能のまま歩み寄ろうとした花中の身体は、しかしミリオンとの距離を詰める事は叶わなかった。何故なら背後から抱き締めているフィアが、花中を離さなかったからである。

「ああん? 邪魔に決まってるじゃないですか。さっさと何処かに行きなさいしっしっ」

 一週間ぶりに再会したミリオンに、フィアは露骨に顔を顰めながら拒絶の意を示す。なんとも無礼な対応だが、ミリオン相手になら何時もの反応。かれこれ二年半これを見ている花中にとっては、すっかりお馴染みのやり取りである。

 とはいえフィアは殴り掛かってでも追い払おうとはしないし、花中とミリオンが話し始めれば邪魔もしない。自分の気持ちは隠さないが、他人のしたい事を押し潰そうともしない……それがフィアの良いところだと花中は思う。

「さかなちゃんも相変わらずねぇ……さてと」

 今更驚きも何もないやり取りを終えたミリオンは、ちらりと視線を花中に向けてくる。口は笑みの形で閉じられ、何も語らない。

 それもその筈。ミリオンは既に用件を話していた。「今はお邪魔しない方が良いかしら」と。

 ()()()()()()()()話があるという事だ。そしてその話の内容を花中はある程度知っている。

 ミリオンに一週間の旅をお願いしたのは、花中自身なのだから。

「えっと……」

 無意識に、花中の視線は晴海の方へと向いていた。慌てて元に戻す、が、聡い晴海は花中の視線の意図を直ちに察したらしい。

「あ、大桐さん。このお皿もうお肉盛り終わったけど、食堂に持っていって大丈夫?」

 花中が答えを出すよりも前に、白饅頭の肉が盛られた皿を指差した。

 何時かは持っていく必要があるもの。まだまだ肉を盛ろうと思えば盛れるが……晴海の心遣いだ。無下にするのも悪い。

「そうですね、大丈夫です……すみません」

「そこはお礼でしょー。んじゃ、のーびり持っていくわね。あと野菜についても岡田さんに話さないと。みんなで公平に分け合わないとねー」

 まるで何も気付いてないと言いたげな答えを返しつつ、晴海は両腕に抱えた野菜を調理場の隅に置かれた『食材置き場』こと大きな籠に入れ、次いで肉の盛られた皿を手に取る。軽やかに皿を持ち上げると花中に向けてウインクをし、晴海は颯爽と調理場を出ていく。

 残されたのは花中とフィアとミリオン。花中はミリオンと向き合い、ミリオンも花中の真っ正面に陣取る。花中は段々と表情を強張らせ、ごくりと息を飲む。

 しかし緊張を高めていく花中に対し、ミリオンはリラックスしたままだ。まるで大した事を話すつもりなどないと言わんばかりに。

 その緩い雰囲気が、花中の緊張を解きほぐす。恐らく晴海や加奈子なら、すっかり気を許しているに違いない。そしてミリオンが語ろうとしている話に、あたかも暇潰しの話題を待つかのような軽い気持ちで耳を傾ける筈だ。

 だけど花中は最後まで気持ちを弛めなかった。

 何故なら花中はミリオンが話そうとしている内容をある程度予想していたから。そしてその予想が当たった時の事を考えて取り乱さなかったのは、その想像が現実になる時が来るとずっと前から思っていたから。心構えは一年以上前から出来ている。

 その上で、

「結論から言うと、世界中でミュータントが大発生しているわ。もう、かつての世界は戻らないわね」

 突き付けられた『事実』は、花中の心臓を大きく脈打つだけの力を有していたのだった。




某漫画でも言っていましたが、文明発達にはマンパワーが必要です。
まぁ、マンパワーで文明発達させても、一夜で全部ダメにするような奴等がうようよいる世界なんですけどね、此処。

次回は明日投稿予定です。


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超越種3

「大発生? どんだけ出ているんですか?」

 ミリオンから告げられた話に、真っ先に、そして大した驚きもないまま質問をぶつけたのはフィアだった。

 ミリオンは花中からフィアへと視線をずらし、顎に手を当て考え込む。まるで少し前に買った私物の値段を思い出そうとする時のような、些末な考え事をしている程度の素振り。

「うーん、日本だけでざっと八百種。個体数は一万を超えているかしら。あ、一応言うとこれまで私達が出会った個体は除外しているからね?」

 そしてその素振りに見合ったあっさりとした言い方で、人にとっての絶望を語る。

「なんとまぁわらわらと。虫けらみたいに沸いてますねぇ」

「実際虫が多かったわねぇ。オニヤンマとかモンシロチョウとか、ジンガサハムシとかカブラハバチとか」

「後半の奴等はなんなのですかそれ?」

「全部普通種よ。まぁ、目立つような種じゃないけどね。ちなみにどれもふつーに強そうな能力持ちだったわ。超高出力レーザーを撃ったり、周辺の空気を自在に操ったり」

「なんとまぁ厄介な事で」

「ほんと、厄介ねぇ」

 フィアが肩を落としながら雑な感想を述べ、ミリオンが肩を竦めてそれに同意した。

 まるで世間話のようなやり取りに、人間である花中だけが絶望的な気持ちを抱く。

 ミュータントが大発生している――――字面にしただけで背筋が凍るほど恐ろしい状況だ。しかしミリオンは、趣味の悪い冗談を語っている訳ではない。花中はその予兆をしかと察知し、故にわざわざミリオンに日本中を調査してもらっていたのだから。

 世界各地に現れたムスペルを撃破したのは、世界各地に存在していたミュータントだと思われる。

 この推測が正しければ、世界中でミュータントが大量発生している事になる。ならば日本でもフィア達以外の、花中が出会った事のないミュータントが潜んでいてもおかしくない。そしてフィアやキャスパリーグが行ったように、繁殖が始まれば個体数は爆発的に増大していく。

 もしも現時点での数が、花中の予想よりもずっと多かったとしたら?

 悪い予感は見事に的中した。いや、或いは外れたと言うべきだろうか。日本だけで一万体もミュータントが潜んでいるなんて、幾らなんでも想定外にもほどがある。花中としては三十種百体もいればもう手に負えないと思っていたのに、その二十五倍もの種数と百倍以上の個体数なんて、絶望的過ぎて却って冷静になるほどだ。

 そして冷静だからこそ思う。

「……いくらなんでも、多過ぎませんか?」

 その数自体への違和感も。

「ええ。確かに多過ぎるわね」

「? 虫のミュータントが多いんですよね? 虫なんてほっといたらどんどん増えますし多くて当然なのではありませんか?」

「あのねぇ、ミュータントは伝達脳波によって誕生するものなのよ? 伝達脳波を発する人間と、ミュータントの素質がある生物がそれなりに近付かないといけない。そして伝達脳波を出せる人間はごく僅か。じゃあミュータントとは簡単に増えるものかしら?」

「……?」

「増えないのよ!」

 話が長くて混乱しているのか。キョトンとしてしまったフィアに、ミリオンは呆れきったツッコミを入れた。なんとも緊張感のないフィアの反応に、花中は思わず笑みが零れる。

 しかしながらミリオンが語った事は、笑っていられない重大な謎だ。

 伝達脳波を出す人間は花中だけとは限らない。だが決してたくさんはいない筈だ。何しろかつてミリオンは何十億という数の人間を調べ、ようやく花中一人を見付けたぐらいなのだから。

 自分がミュータントの力に目覚めた結果、伝達脳波の影響範囲が世界中に及んだのではないか。そんな考えも過ぎったが、花中はその可能性を否定した。

 勿論現実逃避したのではなく、論理的思考の結果だ。もしも花中のミュータント化が大発生の引き金なら、世界中で目覚めたミュータントは、東京でのムスペル決戦時終盤に目覚めた事となる。通常のムスペルであっても、数多の戦闘を経験してきたフィア達相手に互角の戦いをするほど強い。目覚めたてのミュータントでは恐らく相手にならないだろう。ムスペルと戦ったミュータントには相応の経験か、協力出来る『仲間』が居た筈だ。そしてそれらを作るには少なくない時間が必要である。

 世界中に出現したミュータントは以前から誕生していたと考えるのが自然。花中は二年前国外へと旅行した事があるものの、世界一周をしてきた訳ではない。即ち花中の脳波が届かない場所で目覚めたミュータントが、相当数存在しているという事だ。

 何故ミュータントは大量発生したのか? 伝達脳波を放つ誰かが世界のあちこちを巡っている? それとも世界中で伝達脳波を放つ人間が現れているのか? しかしどの考えもしっくりこない。そもそも昨年フィアが出会った怪物のミュータントや、地殻深くに生息しているムスペルなど、どうやれば人間が接触出来るのか。

 人間が要因ではない。そして何かもっと、シンプルな原因のような気がする。例えば、何か途方もなく大きな存在が、あちこちに伝達脳波を撒き散らしているとか……

 ……冷静でいるつもりだったが、やはり混乱しているのかも知れない。考えが推論というより妄想になりつつあると感じ、花中は一度ミュータント大量発生について考えるのを止めた。

 それに過去を振り返る事は大事だが、目先の危機を無視するのは色々と不味い。

「……日本で一万以上のミュータントとなると、世界中で、何百万体いるか、分かりませんね」

「そうねぇ。これだけ数が多いと、人間との接触も多いでしょうね。ちなみに三ヶ所ぐらい、ミュータントに潰されたと思われる避難所があったわ」

「……………そう、ですか」

 ミリオンからの『追加情報』に花中は表情を暗くする。

 ミュータントは野生生物だ。彼女達は基本的に本能のまま動き、本能に則した目的で行動を起こす。肉食動物なら腹を満たすために人を喰うだろうし、植物でも「仲間が殺害された(毟られた)」という理由で復讐を誓う可能性もある。そしてミュータントの圧倒的な力に、人間では抗う事はおろか、逃げる事すら儘ならない。襲われたなら、為す術もなくその命を奪われるだろう。

 日本だけで一万体ものミュータントが現れ、ひしめく現状。果たして今の地球には人類が生き延びるスペースなど余っているのだろうか? フィア達のような人間に割と協力的なミュータントと行動を共に出来れば、多少抵抗も可能だろうが……フィア達だって善意で人間と共にいる訳ではない。『花中と暮らす』という目的があるからこそ、人に協力的なのだ。彼女達は『人間』そのものが滅びても特に気にしない。例え自らが人間絶滅の一因になろうとも。

 いや、滅びに瀕しているのは今や人類だけではない。既存の生物を遙かに上回る能力を有した、超越的生命体がミュータントなのだ。このままミュータントが増殖していけば、獲物となる種も、競合する種も、全て滅ぼされておかしくない。

「このままだと、かつてない、大量絶滅が、起きそうですね……」

「あら、私はその辺の心配はしてないわよ。今のミュータントの発生状況からして、恐らく遠からぬうちに既存種の大半がミュータント化するんじゃないかしら。科レベルどころか属レベルの絶滅も少ないでしょうし、人類が全盛期のまま活動するよりはマシなんじゃない?」

「それは、確かにそうかも、ですけど。でもある種の絶滅が、連鎖的な絶滅を起こすかも、ですし。それに、ミュータント化を起こしやすい、傾向があれば、多様性が、偏る可能性も、あります。それは、将来的なリスク、かと」

「偏りについては、大量絶滅の時点でどーにもなんないと思うけどね。ペルム紀の大量絶滅じゃ九割も種が滅んでる訳だし。それでも二回の大量絶滅を潜り抜け、後々今の私達が生まれているんだから、多様性なんて簡単に生じるとも思えない? 今回もなんとかなるわよ。生命のしぶとさは、はなちゃんが一番分かってるでしょ?」

「むぅ。お二人の話は難しくてよく分かりません。大体食べ物以外の生き物が滅びてもどーでも良いじゃないですか」

 花中とミリオンが真面目に話を交わしていると、置いてきぼりを喰らったフィアが不満そうに花中をぎゅっと抱き締める。親友に寂しい想いをさせてしまったと反省し、花中は自分の身体を抱き寄せているフィアの腕を抱いた。それだけで、花中の大切な親友は機嫌を直してくれる。

 勿論大量絶滅は、決して『どーでも良い』話なんかではない。既存種により形成された『今』の生態系こそが、人類が生存出来る唯一の環境なのだ。大量絶滅はその生態系が崩壊し、新たな環境に適応した種の発生・繁殖という名の再構成が行われるイベント。新しい生態系に人の居場所はないと考えるべきだ。人類種の滅びを避けるためには、生態系の保全は絶対に必要な事である。

 しかしながら、ミュータント相手に人間がどうこう出来る訳もない。

 むしろ不可能な事に固執するより、起こり得る変化を受け入れる方が大事か。過去地球にはビッグ・ファイブと呼ばれる、五回の大量絶滅が起きている。この大量絶滅を生き延びたのは、元々新たな環境に適応的な形質を有していた種も多かったが……何より変わりゆく世界に適応出来たモノ達だ。環境を自分達に適したものへと変える事で繁栄してきた人間も、そろそろ自ら変化する事が必要なのかも知れない。

 そしてその変化の一端こそが、

「別に難しい話じゃないわよ。ただ、はなちゃんにはこれから頑張って子孫をたくさん残してもらわないといけないってだけ」

 花中である――――それを自覚している花中は顔を赤くし、ミリオンはご近所の奥様方のようなニヤニヤとした笑みを浮かべた。

 実際ミリオンの指摘は正しい。不思議な(ミュータントの)力に目覚めた花中は、恐らく人類の中では最も『ミュータントによる生態系』に適応する才能がある。勿論素手未満の能力でミュータントに立ち向かえるものではないが、花中の子孫がより強力な力を手にすれば、ミュータント同士がしのぎを削る苛烈な生存競争でも生き抜く可能性はある。

 そのためにもたくさんの子孫を残し、多様性とチャンスを確保すべき……ミリオンの言おうとしている事はこうだ。ぐうの音も出ない正論である。自然界は適者生存の世界であるが、適者が絶対生き残る訳ではない。『不運』に見舞われる事を考慮して『予備』をたくさん作っておくのもまた野生生物の生存戦略だ。つまり人間もばんばん繁殖行動に勤しむべきである。

 で、人間の繁殖行動とはつまり……

「……良いですけどね。そうしたいと思える、相手さえいれば」

「あら、意外と平然としてるね。こういう下ネタを聞いたら、凄く恥ずかしがりそうな感じなのに」

「昔から、ママがそーいうの、平気で言う人でしたから。だから割と、この手の話には、耐性があります」

「……はなちゃん、実は結構エッチ?」

「平気なだけで、好きな訳じゃ、ないです」

「えー? そうかしらぁ? 今度立花ちゃんと小田ちゃん誘って、女同士で猥談しましょうよー」

「なんでノリノリなんですか!?」

「むぅーまた二人だけで盛り上がってズルいです」

 ミリオンにおちょくられ、花中が憤り、フィアがふて腐れる。先程までの絶望と真面目さは何処へやら、わいわいと楽しい会話が繰り広げられた。ミリオンなど目許を拭い、笑い過ぎて涙を零しているような素振りまで見せる。涙腺なんてない癖に。

「あはは。まぁ、そうね。まずは相手が必要よね。そうねぇ、またちょっと遠出して、はなちゃんに相応しい配偶者でも探してこようかしら」

「……いや、そこまでしなくても」

「駄目よ。はなちゃんの子孫は伝達脳波を出す可能性が高い。私が()()()時まで、はなちゃんの血統は続いてもらわないと困るんだから」

「あ、まだわたしの脳波を、求めてましたか。てっきり、世界中でミュータントが、産まれているから、もう必要ないと、思っていました」

「私が心配性なのは、はなちゃんがよーく知ってるでしょ。ミュータント大量発生の原因が分からないまま、それに頼るなんて出来ないわ。もしかしたら数年後には、ぷつっと途絶えるかも知れないでしょ?」

「……確かに、原因が不明で、ある以上、その可能性は、否定出来ませんね」

「だからその調査も兼ねての事よ。とりあえず日本は一通り見たから、次は大陸に渡って、それから西の方に進み続ける事にするわ。今度戻ってくるのは、そうねぇ、二週間後かしら」

 ミリオンが語る旅の計画に、花中は表情を曇らせた。探すべき場所の目処が立っているのか、或いは時期を区切って行動するつもりなのか。いずれにせよ二週間と言ったからには、余程の事がなければ二週間ミリオンは戻ってこないだろう。

 友達と二週間も会えなくなるのは、とても寂しいと花中は思う。けれども同時に、この調査はミリオンがしたい事でもある。

 ミリオンは亡き想い人との記憶を失わないまま、愛する人の亡骸と共に朽ちるのが夢。ミュータント大量発生の原因を掴めれば、本当に夢が叶うかと知れないし、夢を妨げる脅威を知る事が出来るかも知れない。

 ミリオンの気持ちを思えば、花中にはミリオンを引き留める真似なんて出来なかった。

「……分かりました。成果を、期待しています」

「任せなさい。私の愛するあの人の足下にも及ばないとしても、とびきりのイケメンを見付けてあげるわ!」

「そっちは期待してません!」

「うふふ。じゃあ、また二週間後に会いましょうね。あ、そうそう。念入りな調査をするから、今回私は『全員』で海外に向かうからそのつもりでねー」

 最後まで花中をおちょくりつつ、ミリオンはその姿を霧散させた。

 きっと今頃空高く飛び、大陸の方へと向かっているのであろう。花中は膨れ面で空を見上げ、けれども結局は柔らかな笑みを浮かべた。例え一時のお別れでも、ちゃんと笑顔で見送りたいからだ。

 ……しかし何千兆、或いは何十京と存在するであろうミリオンが『全員』で向かうとは。案外本気で自分に子孫を作らせようとしているのではないかと、花中はちょっと邪推した。なんだかミリオンが親戚のおばちゃんのように思えて、花中はくすりと笑ってしまう。

「やれやれようやく失せましたか。ですがこれで二週間は花中さんを独り占め出来ますねー」

 ちなみにフィアも笑みを浮かべているが、花中とは別の理由で浮かべたものなのは言うまでもない。

「フィアちゃんったら、またそんな事言ってる」

「事実ですし」

「もうっ……まぁ、でも確かに、ミィさんも当分は、こっちに寄りそうにないし」

「あん? ああ野良猫ですか。なんでしたっけね確か自分より強い奴を探しに行くとかなんとか言って出掛けたきり帰ってこないんでしたっけ?」

「いや、全然違うから。自分の縄張りに、ミュータント化した猫が入ってきたから、『挨拶』に行ったんだって……ケンカになったけど、なんやかんやでその子と仲良くなって、毎日遊んでるって、調べてくれたのフィアちゃんじゃん」

「はぁ。そうでしたっけ?」

 キョトンとしながら首を傾げるフィアに、惚けたような雰囲気はない。どうやら本当に忘れているらしい。

 興味がない事は一瞬で忘れてしまう我が友に、花中は呆れるように肩を落とす。だけどその能天気ぶりは、人にとって絶望的な今の時勢では少々羨ましくもなる。

 別段、花中は使命感など覚えていない。

 しかし自分の力が、自分の子孫が、新たな時代に人類の血筋を残す唯一無二かも知れないチャンスだと思うと……流石になんのプレッシャーも感じない訳にはいかなかった。

 こんな時、花中はフィアに想いを馳せる。フィアならきっと、自分がフナという種の存続に関わると言われたところで「それがなんですか?」としか思わないだろう。誰に何を言われても、自分のしたい事はやり、やりたくない事はやらない。割りきるでもなく、反発するでもなく、ただただ己の本能に付き従って動くのみ。

 自由を体現しているそんな親友と触れ合えば、自分もちょっとは同じになれるような気がして、花中は気持ちが軽くなった。

「……ん。ありがとう、フィアちゃん」

「んぁ? なんかお礼を言われるような事しましたっけ?」

「わたしが言いたいから、言っただけだよ」

「そうですか」

 じゃあ別にどうでも良いですね――――そんな内心が聞こえてきそうなフィアの反応が、ますます花中の心を励ましてくれた。

 くよくよしていても仕方ない。こくんと頷き、花中は己の気持ちに活を入れる。

 そうして元気を取り戻した途端、ぐきゅうるる、と花中のお腹が返事をした。

 早速本能が『思うがまま』行動を始めたようである。何時もならちょっと恥ずかしくなるところだが、今日はなんだか頼もしい音色だと花中には思えた。

「良し。まずはご飯を食べよう」

「そうですね。ところでミリオンからもらった野菜はどうするのですか? 今日のうちに食べます?」

「うーん。確かに、冷蔵庫なんてないから、早めに食べちゃいたいけど……でもみんなの意見も、聞かないとね。みんなお肉には飽きてるだろうから、野菜は食べたがると思うし」

「私には理解出来ませんけどね草を好んで食べる心理は」

「そりゃ、フィアちゃんは虫ばかり食べてる、肉食動物だし」

 明るい気持ちになった花中はフィアと世間話をしつつ、ミリオンからもらった野菜について考える。

 野菜は山盛りになるほどあるが、しかし六十八人分もあるかといえばそんな事はない。生の状態で分けたとしても小鉢一つずつすら十分に満たせないだろうし、火を通して縮んだら目も当てられない。ならばいっそお好み焼きのような形で混ぜてしまうのはどうか。これなら一口で終わりとはならないし、量も均等に分けられる。問題はそうした混ぜ物には小麦が欠かせないのだが、野菜すら手に入らない今の生活では、小麦もまた稀少品であり……

 ……一人で考えても仕方ないと、一旦思考を打ちきる。いくら台所を任されている身とはいえ、貴重な野菜を勝手にお好み焼きにしたら暴動が起きるかも知れない。二週間前なら何を大袈裟なと言われそうだが、極限の生活状況においてそうした心配りは幾らしても足りないぐらいだ。

 ここはちゃんとみんなに相談し、案を出し合うべきである。話し合いがヒートアップして、という事も考えられるが、それを言い出すともう何も出来ないから仕方ない。

「とりあえず、岡田さんのところに、行こうか。立花さんが料理を持っていった時に、話してるかも知れないし、もう何か、案が出てるかも」

「そうですか。じゃあ食堂に行くとしましょう。私も結構お腹空いてますしそろそろご飯にしたかったんですよねー」

 花中の意見に賛同しつつ、花中の事をがっしり抱き締めて離さないフィア。どうやらこのまま花中と共に動くつもりらしい。

 花中的には大変歩き難いが、こうしてべったりとくっつかれるのは割と好きだ。急ぎの用事でもないし、目的地まで遠くもないので、このまま一緒に歩いても特に問題はない。

「じゃ、行こうかフィアちゃん」

「はーい」

 フィアの暢気な返事を合図として、花中は調理場を後にした。

 花中達がこれから向かおうとしているのは、避難所内に建てられたもう一つの『公共施設』である食堂だ。

 食堂は調理場から徒歩一分ほどの場所にある。フィアに抱き付かれたままでも、二分と掛からないで辿り着ける位置だ。

 のんびりとことこ、フィアの暖かさを感じながら花中は歩いて行く。

「む? ……むむむ?」

 その歩みの中で、不意にフィアが声を漏らし始めた。

 顔を上げてフィアの様子を見てみれば、眉間に皺を寄せた親友の表情が確認出来る。深刻な感情は感じられないが……どうやら不機嫌にはなっているらしい。僅かながら、しかし着実にフィアの歩みが鈍くなっていく。抱き付かれている花中の歩みも、一緒に遅くなった。

「フィアちゃん? どうしたの?」

「ん? いえなんか嫌な気配が近付いてきているような感じがしまして」

「嫌な気配?」

「ええ。なーんか前にも感じた事があるような気がするんですけどねぇ……」

 訊けばフィアはつらつらと答えるが、フィア自身あまりしっかりとは分かっていないらしい。返ってきたのは曖昧な答え。

 気にはなるが、直感に優れた野生生物であるフィアでも分からぬものをただの……ではなくなってしまったが……鈍感な人間である花中に感じ取れる訳もなく。

 だけどあまり気にしなくても良いやと花中は思った。勿論それなりの根拠はある。フィアに警戒心は見られないため、そこまで逼迫した危機を感知したのではないと考えたからだ。それにもしも危険な何かであったなら、一刻も早く避難所の人々と合流した方が良い。他の人達が何か知っているという可能性もあるだろう。

 何があるにしろ、食堂に向かうという行動は変わらないのだ。変に警戒せずとも、フィアがそう言っていたという事を覚えておけば十分。

「そっか。なら、みんなのところに、行ってみよう。もしかしたら、話とか聞けるかもだし」

「むぅ。花中さんがそう仰るのでしたら」

 フィアに進むよう促し、フィアは釈然としない様子ながら同意する。

 もう数十秒と歩けば、花中達は目的地である食堂に到着出来た。

 食堂もまた、極めて質素な作りをしている。壁は何処かで拾ってきたブルーシートを継ぎ接ぎしたもので、天井も薄汚れたボロ布を何枚も適当に張っただけ。それらを支える柱は錆びた鉄パイプ数十本。机として置かれているのはよく磨いた廃材で、椅子は平たい瓦礫を積み上げて作ったものである。まともなのは、百人は収容出来そうな広さぐらいだ。

 そんな食堂に入った花中達が目にしたのは、大勢の人々が話し合っている光景だった。集まっている人々はざっと見る限り、花中より年上の大人達が大半。数は凡そ二十人程度。

 集まっている人達はわいわいと、それなりの笑顔を浮かべながら話し合っていた。どうやら『何か』はあったらしいが、重大な問題が起きた訳ではなさそうだ。まずは一安心であり、花中は小さな息を吐く。

 安堵すると、今度は何があったのか、積極的に知りたい気持ちとなった。幸いにして集まっている人の中に一人だけ、花中と同い年ぐらいの少女の姿がある。彼女になら訊き易い。

「小田さーん、どうかしましたかー……?」

「あっ、大桐さん。丁度良いところに」

 少女――――晴海に声を掛けたところ、くるりと振り返った晴海は手を振って花中に返事をした。

 丁度良いとはどういう事だろう? 疑問に思いながら、花中はフィアと共に晴海に歩み寄る。

「えと、何か御用がありましたか?」

「そうそう。まぁ、あたし達じゃないんだけれど」

「? 小田さん達じゃない……?」

「大桐さんにお客さんよ」

 疑問に思う花中に、晴海は場所を示すように手を差し向ける。すると食堂に居た他の人々も、静かに退いた。まるで道を開けるように。

 そして現れるのは一人の女性の姿。

 彼女の姿を目にした瞬間、花中は大きく目を見開いた。そんな馬鹿な、どうして……色んな言葉が浮かんでくる。しかしどれも嫌な気持ちは含まれていない。いや、むしろとても嬉しいぐらいだ。

 何故なら彼女とは、冗談や大袈裟な例えではなく、残りの人生であと一回でも会える時があるとは、正直なところ思っていなかったのだから。

「やぁ、花中ちゃん。久しぶり……元気そうで何よりだよ。あと早速で申し訳ないけど、なんか食べ物くれない? お腹ぺこぺこで今にも倒れそうなんだよね」

 そしてこれが夢ではないと伝えるように、花中に向けて彼女――――星縄飛鳥は見慣れた胡散臭い笑みを浮かべるのであった。




星縄さん登場。
うん、フラグの塊ですね。なんのフラグかは言いませんが。

次回は11/8(金)投稿予定です。


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超越種4

「なんだこれぇ! めっちゃ美味いじゃん!」

 ガツガツという文字が見えそうなぐらい、勢い良く星縄は肉を頬張る。上品さと無縁な、本能剥き出しの食べ方は、それだけ彼女が肉の味を満喫している証。一噛みするだけで溢れる肉汁は、きっと星縄の味覚をかつてないほど満足させているに違いない。

 例えそれが怪物の肉だとしても、だ。

「気に入ってもらえて、何よりです。ちょっと、見た目の良くない生き物、ですけど」

「いや、もう全然なんでも良いよ。見た目なんて肉にしちゃえば関係ないし、こんなに美味しいし、というか今時食べ物で贅沢なんて言えないし。はぐ、んぐんぐ……うああ、美味ひぃぃ」

 トレイを両手で抱えている花中は肉について説明したが、星縄は花中に目もくれず肉を頬張るばかり。食べ盛りの子供でも、『ムスペル事変』前では見せなかったであろう食べっぷりだ。邪魔しない方が良さそうだと、花中は口を笑みの形でぴたりと閉じた。

 それから、辺りを見渡す。

 花中と星縄が居る食堂では、大勢の人が食事をしていた。百人は収容出来そうな広さがある此処には今、この避難所で暮らす住民六十八人全員が集まっている。誰もが白饅頭の新鮮な生肉 ― 生食が問題ない事は花中の実食(人体実験)とミリオンの検査により判明している ― の味を堪能していた。食堂には笑顔と笑い声が溢れ、皆が幸せそうにしている。

 白饅頭はこの避難所での主食、というよりほぼ唯一の食糧だ。そのため晴海の親族など、ムスペル事変初期からこの避難所に住んでいる人達は二週間ずっと白饅頭ばかり食べている。それでもこれといった不平不満が出てこないのは、現状の厳しさを皆理解しているのもあるだろうが、それだけ白饅頭の肉が美味だという証明だろう。

 もしもこれがただの牛肉なら、食事への飽きと先行きの不透明さから来るストレスで誰もが怒りやすくなり、くだらないきっかけで惨劇が……というのは冗談抜きにあり得た。二週間という時間、そして娯楽のない生活にはそれだけの危険性がある。フィアのお陰で、花中達は平穏な生活を送れているのだ。

「じー……」

「ところで花中ちゃん。フィアちゃんの視線が若干気になるので、止めてほしいのだけど」

「あ、あはは……無理です。わたしも、抱き締めるの、ちょっとだけ止めてと言って、これなので」

 ちなみにそんな平和の功労者であるフィアは、花中に後ろから抱き付いたまま、星縄を嫌悪の眼差しで睨んでいた。

 初対面の時から「なんか胡散臭いから嫌い」とフィアは言っていたが、どうやら今は初対面の時よりもっと嫌いになっているらしい。花中さんは渡しませんとばかりに、べったりとくっついている。大変動き辛い。抱き付かれるのは好きなので、花中的には不快でないのだが。

 そんなフィアであるが、自分が捕らえた獲物を星縄に渡す事に異論は出していない。自分と花中の分が確保出来れば、『残り物』には興味がないのだ。

 お陰で星縄は白饅頭の肉を堪能出来ている。二週間食べても大きな不満が出ないような肉だ。初めてこの肉を食べた星縄からすれば、その美味しさに大興奮するのも仕方ない事かも知れない。

 ましてや、長い間飢えと渇きに苦しんでいたなら尚更だ。

「はぐ! が、ぐ、うぐ、うぅ……」

「美味しい! 美味しいよこれ!」

「あぐ、ぐ、んぐんぐ」

 ちらりと花中が視線を向けた先には、失礼ながら『獣』のように見える激しさで白饅頭の肉を食べる十人組が居る。

 つい先程避難所に受け入れられた十人の『新入り』達だ。余程空腹だったのだろう。誰もが目の前の肉を口へと詰め込み、涙と嗚咽を漏らしながら空腹を満たしている。彼等は子供も大人も酷くやつれていた。きっと長旅の間満足な食事を取れなかったに違いないし、旅立つ前の避難所でも最低限の食事しか口に出来なかったと思われる。

 ムスペル達が現れる前まで、彼等はごく一般的な日本国民だった筈。深刻な飢えも渇きも知らない日々を過ごしてきただろう。それが突然、今日食べるものすら困る日々に放り込まれたのだ。知識も何もなく、耐え方も分からない日々はどれほど苦しかっただろうか。このまま飢えて死ぬのではないかという不安は、どれほど精神を蝕んだだろうか。

 ……少しでもその心の傷が自分の料理で癒えたなら、花中としてはこれ以上ないほど嬉しい事だ。尤も、生肉を切って並べただけのものを料理と呼ぶのは、『料理人』として複雑な気持ちではあるが。刺身のように美味しさを保つ切り方があるなら兎も角、本当にただのぶつ切りなので。

「いやぁ、ほんと助かったよ。正直花中ちゃんに会えなかったら、途方に暮れるところだったからね。この調子じゃ自宅どころか、実家も潰れているだろうし」

 新入り達を見ながら考え込んでいた花中に、星縄が声を掛けてくる。

 花中は一度考えを頭の隅へと寄せ、星縄の方へと振り返った。星縄の前にある皿は空で、その星縄は口許を布切れで拭いている。満足してもらえたようだが……幸せいっぱいで肉を頬張っていた時と違い、今の星縄はかなり険しい表情を浮かべていた。

 真面目な話をしたい。そんな星縄の気持ちが伝わり、花中も息を飲む。それに花中としても訊きたい事はあるのだ。話し掛けてくれた星縄に、花中は問う。

「そういえば、星縄さん、日本に居たのですか? てっきりわたしは、海外に居たのだと、ばっかり」

「いや、海外に居たよ。仕事の関係でイギリスの方にね」

「えっ? じゃあ、わざわざ日本に……でも、どうやって?」

「飛行機を使って、だよ。あの化け物達によって都市部は壊滅したけど、周りに建物がない滑走路なら意外と無事だったからね。同じく日本に帰ろうとしていた人達と協力して飛行機を動かして、なんとか日本まで戻ってこられたんだ。いやー、大変だったよ」

 へらへらと笑いながら、さも大した事ではないかのように星縄は語る。

 確かにムスペル達はわざわざ人間の都市やインフラを狙って出現した訳ではないので、マグマに飲まれなかった空港があっても不思議ではない。途絶える事の知らない巨大地震により、管制塔などは余さず潰れただろうが……空を飛んでいた『運行中』の機体は被害を免れた筈だ。ムスペル達が撤退して震災や噴火が止んだ後、地上に戻ってきた機体達を使えば、日本まで戻る事は可能だろう。

 と、言葉にすれば簡単なように聞こえる。しかしそんな訳がない。

 飛行経路などは機体に備え付けられたコンピュータが、自動的に導き出してくれるかも知れない。されど目的地に設定した空港が無事だとどうやって知る? 状況を知るには管制官のような人員との交信が必要だ。だが管制塔などの施設が倒壊していたら、そうした交信は不可能となる。人が居なくなっていても同様だ。空港の状態を予め知るのは難しいだろう。

 しかし、じゃあ行って確かめよう、なんて訳にはいかない。飛行機に積める燃料には限りがあり、着陸が出来ないから離陸した空港にUターンするなんて事は、余程短距離でない限り出来ないのだ。着陸に適した場所が空港近くに都合良くあるとは限らないし、だからといって無理な着陸をすれば瓦礫などで機体が破損・爆散するかも知れない。

 大体補給はどうする? ムスペル事変の最中ずっと運行中だった飛行機の場合、燃料をそれなりに消費している筈だ。次のフライトをするには何処かで補給する必要があるだろうが、ムスペル達による災禍で世界中が混沌としている中燃料は稀少……いや、奪い合いになっていてもおかしくない。最悪飛行機の燃料や機内食などの食糧を狙い、武装した一般人の襲撃が起こり得る。のんびり準備する暇すらないだろう。

 無論これは日本ほどの惨状が世界でも起きているという前提の話だ。ミリオンに集めてもらった情報で『酷い』というのは花中も知っているが、これはかれこれ一週間ほど前の話である。他国では復興が順調に進み、自国の事で手いっぱいではあっても、燃料の確保などは難しくないという可能性もある。

「……正直、戻ってこられたのは奇跡だよ。イギリスだけじゃない。立ち寄ったどの国も、日本と同じか、日本以上に酷い有り様だったからね」

 その可能性は、悲痛な感情を隠しきれていない星縄の言葉が否定する。どうやらどの国も悲惨な状態のようだ。それらの国々で燃料を補給するのは、相当の苦労があったに違いない。

 現代の航空技術であれば、乗り換え時間を含めても丸一日とちょっとで地球の裏側まで行ける。にも拘わらず星縄がムスペル出現から二週間も経ってからこの避難所に現れたのは、それだけの苦労があったという事なのだろう。

 そして世界中がそこまで酷い状況である理由は……

「やはり、何処の国でも、怪物が出ているのですか?」

 花中が尋ねると、星縄は周りを見渡す。近くに人が居ない事を確かめると、身を乗り出し、ひそひそとした声で話す。

 それだけで、花中は自分の嫌な予感が当たった事を理解した。

「ああ、本当に酷いもんだよ。新聞とかテレビで、怪物と呼ばれる生物が世界中に現れている事は知ってるよね? 今はもう、これまでの比じゃないよ……世界中のあちこちで、大量の、そして様々な種類の怪物が現れている。多分、ムスペルが現れた時の噴火とかで住処を追われたり、或いは天敵が減少した影響だろうね」

「……その、他の国の人達は……えっと、避難とかは……?」

「どの国も政府なんてろくに機能してないんだよ? 政府機関そのものが吹き飛んだ場所もあるぐらいだ。行政による指示なんて何処にも出ていない。市民は避難なんて出来ず、闇雲に逃げ回るだけさ」

「……軍隊とか、警察は……」

「どちらもまともに動いていない。むしろ下手に武器があるからか、武装勢力となって貴重な食糧の強奪とかしている有り様だよ。勿論奪われる側も抵抗するし、最悪その戦闘で貴重な食糧が吹き飛ぶ、なんて笑えない事にもなってたところがある。治安維持どころか悪化する一方。しかも最近は、見た目は普通の動植物なのに怪物より遙かに強い……間違いなくフィアちゃん達と同類の生物まで出て来る始末だ」

「……………」

「世界全てを見てきた訳じゃないけど、この二週間で相当数の人が亡くなっただろうね。多分もう生存者なんて十億人を切ってるんじゃないかな」

 星縄は淡々とした語り口で、自らが見てきたものを語る。それは花中がミリオンから聞かされていたものと全く同じものであり、故に「世界中で怪物とミュータントが現れている」という予感が的中していると確信出来てしまう。

 ムスペルの影響は地球全土に及んでいた。そしてその影響により、人類は文字通り存亡の危機に陥っている。花中が思っていた中で、最悪に近いシチュエーションだ。精神的なショックは大きく、心臓が締め付けられるような苦しさを覚え、息が乱れそうになる。

 だけど、花中はなんとか落ち着きを保てた。

 こんなのは想定内だ。大陸の方に行ってもらったミリオンが、二週間後に持ってくる予定だった情報である。予想より早く知る事にはなったが、分かっていた事に気絶するほどの衝撃は受けない。

 敢えて思うところを挙げるなら、この情報を何時避難所の住人達に伝えるか、その伝え方をどうするのか、という悩みぐらいだ。助けがこないと知った時の絶望感は、自殺や暴動を起こしかねない。されど隠しておく事も、何時までも出来るものではないだろう。そして不意に現実を突き付けられたなら、衝撃はずっと大きなものとなる。慣らすという訳ではないが、予め覚悟させておかねば自暴自棄になって……

「思ったよりも落ち着いているね?」

 考え込む花中に、星縄が尋ねるように声を掛けてくる。

 思考の海を旅していた花中は、我に返るのと共に星縄の方へと振り向く。目をパチクリさせ、頭の中をリセットしてから星縄の問いに答えた。

「えっ、あ、はい。そう、ですね。その……ムスペルが、世界中に現れている事は、ニュースでやって、いましたし。それに、怪物の事も、前から起きていました、から、そうなっていても、おかしくないとは、思っていました」

「そうか。うん、そういう事なら話が早くて助かるよ。あまり時間もないからね」

「……助かる? 時間がない?」

 星縄の言葉に花中が違和感を覚えていると、星縄はニヤリと、胡散臭い笑みを浮かべる。

 その笑みは過去に何度も見てきたもの。だけど何故か、今日は何時もより一層胡散臭く見えた

「花中ちゃん、フィアちゃんを少し貸してくれないかい?」

 が、脳裏を過ぎっていた考えは、星縄のこの一言で吹っ飛んでしまった。

 フィアを貸してほしい?

 つまり、フィアに何かを手助けしてほしいという事だろうか? 確かに星縄はかれこれ一年以上前に起きた『マグナ・フロス事件』の際、フィアが人間ではない事、その力が人智の及ばぬものである事を知った。何か達したい目的があるのなら、フィアの力を借りたいと思うのはごく自然な考えかも知れない。

 しかしだからこそ、フィアの性格もある程度は理解した筈だ。

 フィアを貸してほしい、という事はそれなりの期間連れて回るつもりなのだろう。フィアは花中(自分)の事が大好きだ。自発的になら別行動も取るが、基本的には何時でも一緒を望んでいる。花中が頼んでも、嫌な時は嫌だと断るぐらいだ。

「ああん? なんであなたの手伝いなんてしなければならないのですか。お断りですよ」

 予想通りフィアは、星縄が理由を話すよりも前に拒否した。

 断られた星縄は、しかし予想はしていたのだろう。胡散臭い笑みを崩さず、フィアと視線を向き合わせる。

「ははっ、予想通りの答えだね。とはいえ簡単に諦めるつもりもないけれど」

「ふん。諦めないのは勝手ですが無駄な努力じゃないですかね。そもそも私に何を頼むつもりなのですか?」

「うん。ちょっとした人助けをね」

「人助けぇ……?」

 心底面倒臭そうに、全くなんの興味もないと訴えるような言い方で反応するフィア。

 しかし人間である花中は、星縄の語る『人助け』に関心を抱く。無意識にその身を乗り出す。

「世界中で生き延びている人達を、この地に集めたいと思っているんだ」

 そして星縄の告げた内容に、ドキンっと心臓が跳ねた。

「あん? どういう事です?」

「うん。これは単純に、食べ物があるこの場所に困ってる人を集める……というだけの話じゃない。人手を集めれば、それぞれの得手不得手に合わせて分業化を進める事が可能になる。そして分業化は社会を発展させるための必要条件だ。専門知識や技術というものは、色んな仕事をやりながら磨けるものじゃないからね」

「……つまり?」

「これは人類が次の時代を生き延びるための、その前準備という訳さ」

 星縄が説明した『計画』に、フィアは興味すらないのか眉を顰めるだけ。

 しかし花中は違う。

 星縄が語るように ― 今は崩壊したが ― 現代社会を維持するためには大量の労働力が必要だ。製品の生産を行う生産者、製品を流通させる販売者、製品を運搬する労働者、運搬に必要なインフラを整備する技術者、技術者を養成する教育者……他にも色々な職業の専門家が必要となる。この避難所に居る六十八人なんて人数では到底足りない。この数では原始的な村社会が限界だろう。

 原始的な村程度の技術力では、ただのイノシシ一頭倒すのも一苦労。安全に戦うためには銃ぐらい欲しいところだが、銃を作るにはやはりある程度の生産力……社会を構成する人の数が必要だ。この生産力がない状況でもしもイノシシが生活拠点を襲撃してきたら、ノウハウなんて数千年前に廃れてしまった石器で戦いを挑まねばならない。上手く立ち回れば怪我人を出さずに倒せるかも知れないが、下手をすれば致命的な怪我を負う人も出るだろう。

 加えて冷酷な見方ではあるが、怪我や病気などで人材の『損失』が出た場合、少人数だとその穴を埋められない。万一その損失人員が食糧生産に携わる者だったなら、社会そのものが崩壊する遠因となる。

 イノシシ相手にすら、コミュニティ崩壊の危機があるのだ。ましてや怪物やミュータント相手なら……小さなコミュニティでは、彼等がちょっと横を通り過ぎたで消滅・離散しかねない。そして社会性動物である人間は、自然界を一人では生き抜けない。孤立すれば待っているのは死だ。

 そうして一つ一つの集落が潰されていけば……人間は何も出来ずに滅びるだろう。

 人口を増やし、社会の『体力』と『パワー』を付けておく。そうする事で怪物から逃げる程度の、最低でもただの野生動物から身を守る程度の生産力を維持する。これが星縄の目的という訳だ。

 そのために必要なのは人口。

 分散している『要救助者(労働力)』を一ヶ所に集結させる。その労働力を用いて文明を再興する……星縄の目論見は人類が今後生き残る上で、有効な策の一つであると花中には思えた。

 尤も、フィアからすればなんの興味も湧かない『つまらない話』でしかない。

「はぁそうですか。でも人間が滅ぶとか生き延びるとか私には関係ありませんし」

 星縄の話を聞かされても、フィアの返答が変わる事はなかった。

 花中からお願いすれば、フィアは星縄の手伝いをしてくれるだろうか? いや、それだけでは難しい。しかし自分も同行すると伝えれば、間違いなくフィアも来てくれる筈だ。

「あ、えと、わたしも、星縄さんと一緒に」

「いや、花中ちゃんは此処に残っていてほしい」

 ところが花中の提案は、星縄当人によって拒否されてしまった。予想外の返答に花中は戸惑い、思わず後退り……フィアが抱き付いていなければ、三歩は後退しただろう。

「えっ、あ……な、なん、で……」

「この避難所のまとめ役の、岡田さんだったかな? 彼から話を聞いたよ。花中ちゃんは今、この避難所の台所を任されているんだよね?」

「は、はい。一応……で、でも、それは他の人に任せても」

「いや、あまりそれは良くない。少なくとも今はね」

「……今は?」

 星縄の言葉に違和感を覚え、花中は思わず怪訝な気持ちが顔に出してしまう。すると星縄は辺りを見渡し、次いで自らの口許を片手で隠すようにしながら花中に顔を寄せてきた。

 どうやらあまり周りの人達に聞かれたくない話らしい。ごくりと息を飲み、花中の方からも星縄に顔を近付けた。星縄は花中の耳許に己の口を寄せる。

「どうやら、食事に対する不満が溜まっているようだからね」

 次いで花中としては、聞き捨てならない情報を伝えてきた。

「……えっ。えっ!?」

「落ち着いて。不満といっても小さな、流石にちょっと飽きてきたなって程度だよ。此処に来た時、誰かがそんな話をしているのを偶々聞いちゃってね」

「そう、なのですか……でも、わたし、そんな話は聞いた事が……」

「いや、花中ちゃんだからじゃないかな。花中ちゃん、小さくて可愛いからね。こんな子が一生懸命作ってくれたものに不満を言いたくなかったとか、大人げないとか、そんな心理が働いたんじゃないかな?」

「な、成程……」

 星縄の言う事には一理あると、花中は得心がいった。思い返すとまとめ役である岡田など、避難住民の『初期メンバー』には自分が一応十七歳である事は伝えたが、積極的に年齢について言い広めてはいない。後からやってきた人達が自分の年齢を誤解している、というのは実にあり得そうな話だ。

 『子供』の作った料理にケチを付ける、というのは実にやり難い。しかもその『子供』の周りに親らしき姿がないとなれば尚更である。不満があっても口には出さない、というより出せなくなるだろう。

 不満を胸に押し留めておくというのが、良い事だとは思わない。しかし改善の見通しが立たない中で口に出しても、苛立ちが周りに広がるだけ。なら言葉に出させないでおく、というのが現状取れる最善手か。花中はそのための『抑止力』という訳だ。

 しかしそれではフィアは自分の傍から離れず、星縄の手伝いはしてくれないだろう。

 ふんっ、と鼻息を荒くしているフィアに、星縄に協力しようという気持ちは欠片も見られない。人類再興のチャンスを逃すのは惜しいどころの話ではないが、フィアのやる気がないのだからどうにも出来ない事だ。

 フィアの力は借りられそうにない……そんな諦めの気持ちが花中の胸を満たした。

 まるで、その心の内を見透かすように。

「それにこれは、玲奈さんと旦那さんを助け出す事にもつながるんだ」

 花中の心臓を握り締めるかのような一言を、星縄は告げた。

 ――――考えないようにしていた、という訳ではない。

 単純に諦めていた。国外の何処かで仕事をしていた両親の無事を確かめる術は、花中にはないのだから。正直なところ活性化した怪物に襲われて……という可能性も考えていた。仮に無事だったとしても、現代社会が崩壊した今となっては帰国する術がない。

 両親との今生の別れ。

 例え死んではいなくとも、そうなるだろうと考えていたのに。

「ほ、星縄さん!? あの、それはどういう……!?」

「花中さん?」

 花中の『突然』の行動に、フィアは目をパチクリさせるのみ。花中を離しはしなかったが、窮屈に押さえ付けもしない。

 大きく身を乗り出す花中に、星縄は視線を合わせてからこう話を続けた。

「偶然だったよ。玲奈さん達の居場所が分かったのは、ね。どうやら二人ともインドネシア諸島に居るらしい」

「インドネシア諸島……日本からなら、そこまで遠くない……」

「そうだね。飛行機が使えれば、二~三日もあれば連れて帰れただろう」

「な、なら、そうです! あの、星縄さんが、日本に戻るために使った、飛行機があれば……!」

「それは難しい。問題が二つある。一つはその飛行機にはもう、殆ど燃料が残っていない点。素人目だけど、片道分すら怪しいんじゃないかな」

「じゃ、じゃあ、燃料さえあれば!」

「問題は二つ。そう言っただろう?」

 興奮している花中を窘めるためか、星縄は見せ付けるように指を二本立てた。

 そのうちの一本をゆっくりと折り、残る一本を花中に突き付けながら星縄は冷静な声で告げる。

「現在、インドネシア諸島には多数の怪物が出現している。特に飛行能力を有する種の存在により、航空機は接近すら困難な状況なんだ」

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「怪、物……」

「言うまでもないけど、今のインドネシアにこれらの怪物を追い払う力はない。まぁ、全盛期の人類が核兵器含めた全戦力を投じても無理だったと思うけどね」

「……………」

「この状況のインドネシアに飛行機で突っ込むのは、自殺行為にしかならないと思わないかい?」

 星縄からの問い掛けに、花中は何も答えられなかった。

 ちゃんと考えれば、自力でも予想出来た事ばかり。

 しかし星縄から伝えられただけで、花中の精神は打ちのめされてしまった。身体から力が抜け、フィアが支えてくれなければ、きっとそのまま崩れ落ちてしまっただろう。

 されど花中は自力で立ち上がる前に、顔を見上げてフィアの目を見る。

 フィアは花中と目を合わせた瞬間、困ったような表情を浮かべた。口許もへの字に曲げて、明らかに不快感を覚えている様子。

 フィアも花中との付き合いは長い。花中がフィアの考えをある程度は読めるように、フィアもまた花中の考えはある程度分かるのだ。

「……あー花中さん。もしかしなくてもですが私にコイツの手伝いをしてほしいと思っていませんか?」

 思っている事をそのまま言い当てたフィアに、花中は無言のままこくりと頷く。

 怪物が跋扈する地。星縄が言うように、人類では例え全盛期時の全戦力を投じても、呆気なく返り討ちにされただろう。ましてや飛行機一つ飛ばすのに苦労しているようでは、その地に足を踏み入れる事すら叶うまい。

 けれどもフィア達ミュータントの力なら、怪物に何千万と襲い掛かられても撃退出来る。フィアならば怪物に満ちた大地から人命を助け出せるのだ。

 そしてその人命の中に、自分の両親がいてくれたなら……

 花中は頷いた頭を上げ、フィアの顔を見つめる。希望と願望を込めた眼差しと共に。

 フィアの返事は、心底面倒臭そうなため息だった。

「全く人間というのは本当に面倒臭い。肉親なんて結局他人じゃないですか。わざわざ助ける意味が分かりません」

「そうだけど、でも……」

「そもそもまだ生きてるか分からないのでしょう? 怪物だらけの場所でただの人間が何時までも生きているとは思えませんね」

「玲奈さんのしぶとさなら、生きていても驚きはしないけど……正直、可能性が低い事は否定出来ないね」

 臆面もなく語るフィアの意見に、星縄も同意する。

 花中は反射的に何かを言おうとして口を動かすが、出てくるのは吐息のように擦れた声だけ。フィア達の言い分は至極尤もで、それを否定する何かを花中は持ち合わせていないのだ。

 だから、

「だけど、人間というのは少しでも可能性があったら諦めきれないものだよ」

 花中の気持ちよりも先に、星縄の人間らしい意見が告げられた。

 そう、諦めきれない。

 例えそれがどれだけちっぽけでも、夢物語でも……可能性があると知ってしまったら、それを無視なんて出来ない。

 人間は、呆れるほど『非合理的』な生物種なのだから。

「お願いフィアちゃん! 帰ってきたら、なんでもお願い、聞くから……だから……パパとママを助けに……」

 しがみついて頼み込む花中。フィアは眉間に皺を寄せたままだが……しばらくして大きな、あからさまなため息を吐く。

「……帰ってきてからはずーっと一緒に添い寝してください。あと私の好きな時にぎゅーって抱き締めるのと匂いを嗅がせてもらうのとご飯をあーんで食べさせてくれるのを一月はやってくださいよ。他にもまだまだやってほしい事はありますがとりあえず今思い付くのはこんなものですかね」

 それからつらつらと、脈絡のない言葉をフィアは発した。

 最初花中はその意味が分からず、ポカンとしてしまう。けれども呆けていられたのは短い間だけ。

 気付いた次の瞬間、花中はフィアの身体に飛び付いていたのだから。

「ふぃ、フィアちゃん!? それって、それって……!」

「んふふ。なんでもお願いを聞いてくれるのでしたら話は別です。これで今まで以上に花中さんを可愛がれますねぇ」

「えっ」

 これまで以上があるの? 思うがまま抱き付いたり匂い嗅いだりしてるとしか思えなかったんだけど? あれ以上濃密なスキンシップされると身体も心も色んな意味で耐えられそうにないんだけど?

 色々な考えが過ぎる花中であったが、フィアが「ふふん」と上機嫌に笑ったので冗談ではないらしい。ひょっとして自分は割と大変な安請け合いをしてしまったのでは……無我夢中で言い放った事に、今更ながらちょっと後悔する。

 しかし撤回しようなんて露ほども思わない。

 折角巡ってきた、家族を助け出せるかも知れないチャンス。それを棒に振るような真似など出来る訳がない。大体自分はフレンドリーな事が大好きなのだ。こんな『美味しい話』は早々ない。

「う、うん! なんでも聞いちゃうよ!」

「ふふん約束ですよ? という訳でこの私があなたの手伝いをしてあげる事になりました。感謝するのですよ?」

「ああ、助かるよ。とはいえあまり長期間、フィアちゃんがこの避難所に居ないという状況は好ましくないだろう。出来れば三日以内に戻りたいけど……」

「んーインドネシアって何処にあるんですかね?」

「東京から見れば、南西の方角に約五千キロ進んだ先だね」

「なんだそんな近くですか。その程度の距離なら到着に二時間と掛かりませんね」

 質問に答えたフィアに、星縄は驚いたように目を見開く。しかしその驚きに怯えなどはなく、純粋に強大な味方が出来た事を喜ぶようだった。

「素晴らしい! それなら半日も経たずに目的を遂行出来そうだ……これなら岡田さんにわざわざ許可を取る必要はないか、いや、むしろ変に不安にさせないためにも黙っておくべきか……?」

「ああん? 何故私があなたに付いていく事に誰かの許可が必要なのです? 私のやる事は私が決めます」

「……ははっ、成程ね。良し、それなら準備が出来次第出発したい。用意してもらえるかな?」

 フィアの意見を聞き、星縄は席から立ち上がる。彼女の足下にはリュックサックが置かれていて、それをこの場で背負った。星縄は何時でも出られる、という事らしい。

 筋を通すのならば、避難所の代表者である岡田にこの事を話しておくべきだろう。現状、フィアはこの避難所で唯一怪物に対抗出来る『戦力』なのだ。万一に備えて、不必要な外出は控えてもらうか、それが出来ないならせめて不在を知っておきたい……それが代表者としての考えだろう。

 しかし星縄が懸念したように、フィアが怪物だらけの危険な ― フィアにとってはそれほどでもない ― 地へと向かうと知れば、彼は不安を覚える筈。安定しているとはいえ、決して豊かではないこの避難所に不安のタネを蒔くのは得策ではない。

 それに花中としては……一秒でも、瞬き一回でも、早く行ってほしい。この僅かな遅延が、父と母の生死を分けるかも知れないのだから。

「私も何時でもOKですよ。花中さんの匂いはもう十分堪能しましたし」

 フィアもまた何時でも出られるようだ。抱き付いていた花中を離し、自慢げに胸を張る。

「良し、それなら早速行くとしよう。数秒遅くて助けられなかった、なんてなったら目をも当てられないからね」

「間に合うかどうかなんて私達が気にする問題ですかねぇ」

「当然。人間的には極めて重要な問題さ……じゃあ、花中ちゃん。行ってくるよ」

 フィアとの軽口を一通り叩き合うと、星縄は花中に出立の言葉を告げる。

 花中が勢いもあってすぐに頷くと、星縄は早足で食堂の出口へと向かった。フィアも星縄の後を追い、一人と一匹は食堂の外へと出ていった。

 フィア達の姿が見えなくなっても、花中はしばし食堂の出入口を見つめていたが……やがて首を横に振り、ぺちんと自らの頬を叩く。

 考え込んでいても仕方ない。いくら此処で不安になったところで、それでフィア達が無事両親を連れ帰ってきてくれるようになる訳ではないのだから。

 それよりももっと前向きに、建設的な事を考えよう。

 フィア達が両親を連れ帰ってきたら、当然お祝いをしないといけない。しかしこの避難所にある主な食材は白饅頭の肉の一択。美味しさを思えば十分ご馳走になるだろうが……普段から食べているものを『ご馳走』として出すのは、なんというかこちらの気が引ける。

 気持ちの問題と言われればその通り。大体状況が状況なのだから、そこまで無茶な催しは出来ない。今、なんらかの方法がなれば諦めるところだ。

 されど今この時に限れば、『なんらかの方法』がある。

 ミリオンが持ってきてくれた野菜だ。あれを用いた料理なら『おもてなし』と呼べるものになるだろう。とはいえ野菜が稀少品となった現在、花中が勝手に使い道を決めるのは実に良くない。

 いや、そもそもこの食堂に来た本来の目的は、その野菜の使い道をどうするか皆で相談するためで――――

「おーぎーりさぁーんっ」

「ぴゃっ!?」

 等と考え込んでいたら、不意に背後から抱き締められた。驚きのあまり花中は飛び跳ね、わたわたしながら後ろを振り返る。

 抱き付いてきたのは加奈子だった。加奈子の更に後ろには晴海が居て、目の当たりにした友人のスキンシップ行為に肩を竦めている。

「お、小田さん、立花さん……えと、どうしました、か?」

「んー、なんか大桐さん考え込んでるみたいだったから、つい?」

「そ、そうですか……」

「で、実際どうなの? なんか困り事でもあった?」

「困り事と言いますか……えーっと……」

 未だちょっと動揺していたためか花中は一瞬ありのまま答えようとして、しかしフィアと星縄の事を今話して良いものかと迷う。

 とはいえ一度迷いを見せてしまえば、考え込んでいた事は明白となるのだ。晴海と加奈子が澄んだ目で花中の話を待っている。これを誤魔化すのは、人を騙すのが苦手な花中には辛い。

「……あ、そうです! あの、立花さん。ミリオンさんが持ってきた、野菜について、何か、皆さんと話しましたか?」

 そこで花中は、話そうとしていたもう一つの方の質問をぶつけた。

 一瞬キョトンとしたように目を瞬かせた晴海は、されどすぐ納得したようにポンッと手を叩く。

「ああ、そうそう。そういやその話をまだしてなかったわよね。大桐さんの知り合いが来て、すっかり忘れちゃってたわ」

「え? なんか野菜とか言ってたけど、なんの話?」

「ミリオンがね、野菜を持ってきてくれたのよ。量は……全員で分け合うには少ないけど」

「おー、野菜かぁ。野菜はあんまり好きじゃないけど、でも二週間肉ばかりだと流石に飽きてくるもんねー」

「そうねぇ。美味しいのは間違いないけど、焼く煮る生ってレパートリーだけだし。あたしも正直飽きてるし、他の人達も飽きたーって言ってるし」

 花中が野菜の話題を振ったところ、加奈子と晴海はその話で大いに盛り上がる。やはり彼女達、そして他の避難所の住人達も同じく白饅頭の肉に飽きていたようだ。

 そして花中は、こてんと首を傾げた。

 ――――それってわたしに話して良い事なの?

「あの……皆さん、食事に不満が……?」

「え? いや、不満ってほど不満じゃないけど」

「毎日同じ肉ばかり食べてたら、そりゃ偶には他のものを食べたくなるでしょ? みんなよく話してるわよ。まぁ、最近言われ始めた事だし、大桐さんの耳にはまだ入ってないかもだけど」

 花中が問うと、何を訊いているんだろうと言いたげに晴海達は答える。隠し事をしやうとしている素振りや、「しまった」という想いは感じられない。

 確かに『彼女』の言い分は、あくまで推論だった。だから間違っていたとしても、それが違和感と呼べるものにはならない。

 違和感になるのは、あたかも『彼女』がこの事を、皆の食への不満を重大事項であるかのように伝えた一点。思えばちょっと盗み聞きしたからといって、あんな過剰に警戒するものだろうか? この避難所の空気なんて、ろくに知らない筈なのに。

 なんだ? 何がおかしい?

 花中が違和感を覚え、そんな花中の姿に同じく違和感を覚えたのであろう晴海と加奈子が訝しげな眼差しを向けてきた

 丁度、そんな時だった。

 遠く離れた場所から、爆発音と大地の振動がやってきたのは……




分断は基本(ネタバレ発言)

次回は明日投稿予定です。


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超越種5

 時はほんの少しだけ遡り、花中達が暮らす避難所より十数キロほど離れた郊外。そこには昼間の太陽が燦々と照らす『荒野』が広がっていた。

 ムスペルが引き起こした地震により全ての建造物が倒壊し、出来上がった光景だ。かつてこの地がどんな風景だったのか、それを物語るのは大地を埋め尽くす瓦礫。雑草や樹の姿もちらほら見られるものの、殆ど瓦礫ばかりだ。材木や瓦が多い事から、崩壊前は市街地だったと窺い知れるが……今ではもう誰も住めないだろう。

 ほんの二週間ほど前に、この地域でフィア達による『救助』が行われている。しかし延々と続いた地震により瓦礫は何時間も揺れ動かされ、大半の人々は瓦礫に磨り潰されて無残な姿となっていた。『人情』としては彼等を中から助け出したいところだが、今の社会には機能している葬儀場や霊安室なんてない。放置された亡骸は細菌や小動物などにより分解、即ち腐敗していく。加えて亡骸は瓦礫により磨り潰された結果、一般人には到底直視出来ない状態と化していた。

 知り合いでないとしても、人体だった肉塊が腐り落ちていくところを見るのは精神的に良くないし、衛生的にも問題が生じる。故人には申し訳ないが、生きている人々を守るためにも瓦礫の下で眠っていてもらうしかない。

 それが花中の下した決断であり、故にこの瓦礫の下には未だ多くの亡骸が眠っている。

「どっこいせーっと」

 その事実を、自ら救助活動をしていたのだから知っているフィアは――――なんの躊躇いもなく瓦礫の山に着地した。

 ちょっと跳んで地面に降り立った、そんな些細な動きではない。一回の跳躍により高度数十メートルまで上がり、その後自由落下してきたのだ。

 高密度の水で出来たフィアの『身体』の重量は約一トン。巨石が落ちてきたようなエネルギーにより、周りの瓦礫が浮かび上がる。足下にもしも亡骸があれば、完全に潰れる事となるだろう。しかし人ではないフィアにとって、人の亡骸も虫の亡骸も大差ない。踏み潰したところでなんとも思わないから、こんな派手な着地が出来るのである。

 その背中に、星縄を背負った状態で。

「おおっ、中々ダイナミックな着地だね」

「ふふんそうでしょう。この私のパワーがあってこそです」

 何も知らない星縄の感想を褒め言葉と受け取ったフィアは、上機嫌な鼻息と共に胸を張る。

 フィア達は今、南にある島(インドネシア諸島)を目指して移動中だ。飛行機などは使えないので、フィアが星縄を運んでいる。その最初の障害が此処、避難所の周辺をぐるりと囲う市街地の瓦礫だった。

 別にわざわざジャンプして跳び越えなくても、『身体』が液体で出来ているフィアにとって瓦礫の凸凹など大した障害物ではない。しかし人間には凹凸を乗り越えた際の揺れが中々大変なものであると、フィアは花中から聞いた事があった。星縄に気を遣うつもりは毛頭ないが、ギャーギャー喚かれても面倒なので、乗り心地がマシな『跳躍』での移動をしている。

 地上を走るよりもやや遅いが、大した差ではない。少なくとも海上を進む時の速度と比べれば誤差のようなものだ。

「さぁてそれじゃあ一旦海に出るまで南に進みましょうかねー」

 フィアは今の方針を言葉に出しながら南へと進んだ

「あ、待ってくれ。一度止まってほしい」

 直後、星縄がそう言ってくる。

 フィアは言われるがまま足を止める。完全に立ち止まると星縄はフィアの背中から、自ら降りて地上に立った。

 星縄は辺りを見渡しながら、とことこと歩いてフィアから離れる。周りを見ても、あるのは瓦礫の山だけ。星縄が歩いた先にも、少なくともフィアの目には、わざわざ止まって確認するようなものがあるようには見えない。

 一体何をしているのだろうか?

 フィアとしては、星縄が寄り道をするのはあまり好ましくない。目的である『花中の両親救出』……これをさっさと済ませて、花中を自分の好きなように可愛がりたいのだ。立ち止まったら、花中の下へと帰るのがその分遅くなる。

 今の星縄の目的は全く分からないが、さっさと用件を片付けてほしいものである。そう思いながら、しかし催促したりする事もなくフィアは星縄の背中を見つめるのみ。

「……避難所からは十分に離れた。悪くない距離だね」

 そしてフィアの優れた聴覚は、星縄がぽつりと独りごちた言葉も聞き逃さない。避難所から離れた、だからなんだというのか。訳が分からずフィアは無意識に顔を顰めた

 その、次の瞬間だった。

 ぞわりとした悪寒がフィアの背筋を駆ける。

 何かは分からない。分からないが、本能が訴えていた――――今すぐ守りを固めろと。

 野生生物であるフィアは、本能からの警告を無視しない。頭で考える前に身体が動いていた。本体を包み込む水の『身体』、それを構築する水分子をガッチリと組み合わせ、普段以上の『堅さ』を生み出す。

 結論からいえば、その行動は正解だった。

 防御態勢に移行した刹那、フィアの『身体』の腹部付近に強烈な衝撃が加わったのだから!

「ぬぐうぅ……!?」

 フィアの『身体』が大きく後ろに吹き飛ばされる! 強度を著しく増大させた『身体』は柔軟性に欠いてやや動かし辛く、上手く大地を踏み締められないというのもあるが……しかし重量は一トンもある。余程強烈なエネルギーでなければ、フィアの『身体』は微動だにしない筈だ。

 少なくともフィアに、明確な『攻撃』は見えなかった。何が起きたのかを知ろうとして、本能的にフィアは衝撃があった腹部に目を向ける。腹には何か、例えば砲弾だとかビームだとか、そういったものは存在しない。腹部表層を操作して感触を探るが、透明な物質もなかった。衝撃だけが腹から伝わってきたようである。

 体勢こそ崩さなかったが、フィアはこの謎の衝撃により十メートルは後退する羽目になった。『本体』にダメージはない。だが原因不明の衝撃は、フィアの本能にこのようなイメージを刻み込む。

 ()()()()()()

 そしてこの衝撃を自分に与えてきた元凶は――――

「……念のために訊きますがこれはあなたの仕業ですか?」

 フィアは前を見据えて尋ねる。もしも間違っていたら、()()()後花中に怒られてしまうかも知れないから。

 目の前に立つ『人間』……星縄は、フィアの事をじっと見つめていた。ただただ見つめて、不意にニタリと笑う。まるで獲物を見付けた獣のような、獰猛で、狡猾な笑み。

 明白な『答え』だ。

 直感的に星縄の表情をそう判断したフィアは、迷わず己の右腕を振るった! 無論先の後退により、星縄との距離は十メートルほど離れている。が、そんな距離は大した問題ではない。フィアは自らの腕を大きく伸ばせるのだから!

 十メートル以上の長さまで伸びたフィアの腕は、正確に星縄の身体を捉えている。掠めるような位置ではなく、直撃コースだ。そして腕の重さは数百キロあり、スピードは音速を遥かに凌駕している。

 もしも普通の人間がこの一撃を受けたなら、全身の肉がバラバラに吹き飛ぶ事になるだろう。人間風情の筋肉では、どんなに分厚くともこの打撃の前では紙切れ同然なのだ。

 されど星縄は違った。

 あろう事は迫り来るフィアの腕を、軽く伸ばした片手で受け止めたのだ。それもまるで幼児が体当たりを仕掛けてきたとでも言いたげな、余裕を見せる笑みと共に。その笑みは決してハッタリではなく、フィアの腕が激突しても星縄の身体は微動だにしなかった。

 フィアは大きく動揺した。『ただの人間』に攻撃を防がれたから、ではない。星縄が人間のくせに()()()()()()……そんな事に動揺するのは人間だけ。本能をありのまま受け止めるケダモノは、こんな『つまらない』情報で思考を掻き乱されはしない。

 フィアを動揺させたのは、攻撃時に感じた違和感の方。

 自分の攻撃は星縄に触れていない。

 何をされたかは分からないが、振るったフィアの腕は星縄と衝突する寸前に弾かれたのだ。

「(なんですかね今のはバリアという奴でしょうか? さっきの攻撃も何をされたかさっぱり分かりませんし)」

 自分なりに考えてみたが、しかし答えは出てこない。大体こんな小難しい事を考えるのは自分の性に合わないのだ。頭脳労働は我が『親友』の十八番である。

 なら、相手に訊いてみるとしよう。どうせ答えてはくれないだろうが、駄目元というやつだ。

 それに、向こうも話をしたいらしい。

「いやはや、有無を言わさず殴り掛かってくるとはね。流石は野生動物、人間相手ならどんな強者も動揺して棒立ちしているところだよ」

 でなければフィアの直感が訴える攻撃者、星縄はこちらに話し掛けてはこないだろうから。

「ふん。こちらの問いにニヤッて笑ったじゃないですか。十分明白な答えだと思いますが?」

「うわ、それだけで反撃してきたのか。人間ならそこまでやらないよ。誤解だったらどうするつもりなのさ」

「別にあなたが死んでも私はなんとも思いませんし。それに……」

「それに?」

「直感的にヤバいと思いましたから」

 自分が感じたものを、フィアは隠さずに明かす。

 人間的には弱味とも取れるその発言に、星縄は一瞬目をパチクリさせた。が、直後楽しげに、獰猛に笑う。こちらを侮蔑する意図は感じられず、ただただ楽しそうな様子である。

「そうかそうか、ヤバいと感じたか」

「不愉快な話ですがね……一体何をしたのです? 私の攻撃をどうやって防いだのかも訊きたいのですが」

「残念、手品のタネは流石に秘密だ。バレても勝てる自信はあるけど、下手を打たないに越した事はない。だけど、そうだね。目的ぐらいは教えてあげないと可哀想かな」

「目的……?」

 フィアは訝しむように眉を顰める。

 確かに、それもまた謎である。

 何故星縄は突然自分を攻撃してきたのだろうか? 怒らせるような真似をしたつもりなどないし、食べ物だって十分な量を分け与えた筈である。ケンカになる理由は、少なくともフィアには思い付かない。

 とはいえ襲ってきた理由を知りたいとは、フィアはそこまで思わない。攻撃してきたのなら敵、そうじゃないのなら味方……とは呼べなくても敵ではない。自然界で生きるなら区別はこれで十分。そして星縄は自分に攻撃してきたのだから敵だ。

 だからどんな事を言ってきたとしても、徹底的に叩き潰すという行動を止めるつもりなどなかった。

「ボクの目的は、花中ちゃんを虐める事だよ」

 星縄が、この言葉を発するまでは。

「……花中さんを虐める?」

「その通り。虐めると言っても子供みたいなものじゃないよ? もう二度と笑顔を浮かべられないぐらい、徹底的に虐める。だけどそれをしようにも、花中ちゃんの周りには君というボディーガードがいてねぇ」

「……ふぅん成程。だから避難所から遠く離れてから攻撃してきたと。なら花中さんのご両親云々は」

「真っ赤な嘘。君を花中ちゃんから引き剥がすための方便さ」

 星縄は臆面もなく、フィアに自らの『計画』を明かしていく。

 花中を虐める。

 どうしてそんな事をするのか? それについては語っていないため、フィアには分からない。そもそもどうして自分を攻撃してきているのか、単に虐めるだけならこっそり夜中にでも動けば良いではないか、一年前は何もしなかったのに何故今になってこんな事をしているのか……他にも謎はたくさんある。しかしどれもフィアにとってはどうでも良い。考慮に値しない些末な話。

 フィアにとって大事なのは、星縄が花中の心を痛め付けようとしているという事実のみ。

 フィアは自分を攻撃してきた星縄を、徹底的に叩き潰すつもりだった。だがこの瞬間その考えを変える。

 叩き潰すだけでは足りない。

 自分の大好きなものを壊そうという不埒者は、叩き潰して磨り潰して粉々にして、跡形もなく消し去ってやらねば気が済まない!

「この虫けらが……花中さんに手を出そうというのなら容赦はしませんよォォォォォォォォッ!」

 フィアは迷いなく、星縄目掛け跳び掛かった!

 フィアの『身体』は空気を押し退け、音よりも速く大地を駆け抜ける! ミィほどではないが、通常の生物ならば決して出せない超スピードだ。銃の弾丸すら避けられない人間には、フィアが接近している事すら気付くまい。

 だが、星縄は動いた。

 フィアが自身と接触するより一瞬早く、己の腕を一本前へと突き出す。

 するとどうした事か、フィアの体当たりは星縄が出した手の先ほんの数センチのところで阻まれたではないか。激しい打撃音が響き渡るのと共に、体当たりをお見舞いしたフィアの『身体』が衝突の反作用により僅かながら後退する。

 何か透明な壁のようなものが展開されているらしい。

 それを察知したのも束の間、星縄は突き出した片手の指先を軽く動かす。

「ふふ、やる気満々といったところだね。それじゃあ『ボク』も……少しだけ本気で遊ばせてもらおうかな」

 そして告げてきたのは宣戦布告の一言。

 その言葉と共に、フィアの『身体』に二度目の不可視の衝撃が走った!

「ぬぐっ!?」

 衝撃は顎に加わり、体当たりの余波で浮いたフィアを更に十数センチ空へと押し上げる。人間ならば頭部が跡形もなく粉砕されるほどの威力。フィアの強靱なボディであっても不動は貫けず、星縄を睨み付けていた頭が空を仰ぐよう上向きにされてしまう。

 だがこの『身体』は作り物だ。

 本体が潜んでいない『頭』にどれだけのダメージが加わろうと、なんの障害にもならない。混乱も動揺も覚えぬまま、フィアの本能は反撃方法を模索する。

 選んだのは、まずはこの輩の動きを止める事。

 黄金の髪が揺らめいたのも束の間、フィアは自らの髪を四方八方へと広げた! 髪は星縄を取り囲むように展開され、全方位を完全に包み込む。

 見えない壁だかなんだか知らないが、障害があるのならば纏めて握り潰せば良い。単純な『物量作戦』こそが得意技である、フィアらしい発想だ。

「ぶっ潰れなさい!」

 フィアは展開した髪の包囲網を、一気に締め上げる!

 髪は星縄の胴体には届かず、彼女から数十センチほど離れた位置で止まる。即ち予想通りという事。このまま締め上げ、壁だかなんだか分からないものごとぶち破るのみ!

 されど、やはりそう簡単にはいかないだろうとも思っていた。

 何故なら髪により拘束された星縄は、未だ笑みを浮かべたままなのだから。

「甘い」

 ぽつりと一言星縄が呟いた

 刹那、星縄を囲んでいた髪が纏めて吹き飛ばされる! まるで衝撃波のように、全方位均等にだ。

 そしてついでとばかりに、フィアの『身体』も遠くまで()()()()()()! 飛ばされたフィアは瓦礫の山に激突するが、しかしそれでも押し出される勢いは衰えない。

 まるで爆発でも起こしたかのように瓦礫を吹き飛ばしながら、フィアは数十メートルも後退させられた。一トン以上ある『身体』をここまで動かすとは中々のパワーだ。転倒せずに二本足で大地に立ち続けたフィアだが、その表情は一層強張る。

「おのれ……!」

 油断ならない力の大きさ。無論最初から手など抜いていないがフィアは改めて闘争心を高め、殺意のこもった眼差しで星縄を睨む。目が悪いので星縄の姿はあまりよく見えていないが、気配により距離と位置関係を把握しているため問題ない。

 それにしても『気配の大きさ』が、ただの人間のそれではない。一年ぐらい前(最初に会った時)や避難所に来た時は普通の人間と同じぐらいの『強さ』だったのだが、今はその時のものから一気に膨れ上がっている。

 『気配の大きさ』は強さに直結する……という訳ではないが、凡その力量を測るのには役立つ。直感的な判断でも可能だが、そちらはスピード重視で正確性はやや低め。気配から『論理的』に導き出した力量はかなり正確な推定だ。どう戦うか、どの程度力を温存すべきか――――そもそも戦わずにさっさと逃げるべきかどうかも分かる。

 星縄の強さは、人間の域どころか猛獣の領域すら超えていた。いや、『怪物』さえも凌駕したもの。この強さは()()()()()()()()()()()だろう。つまり星縄は……

 力量を測るのと共に、距離についてもフィアは思考を巡らせる。どうやら今の一撃だけで大体三十メートルほど離されたようだ。フィアは遠距離戦より近距離戦の方が得意。自分の得意な間合いまで詰めようと前傾姿勢を取った

 直後、フィアの目の前に星縄が現れた。

「っ!?」

「先手必勝、いやこれはちょっと違うかなっと!」

 突然の事態ながらフィアは即座に動こうとしたものの、星縄の方が一手早い。

 星縄はフィアに自らの指先を向ける。するとあたかも重力が激増したかのように、フィアに強烈な圧力が掛かった!

 人間、いや、生半可な怪物ならば一瞬で潰されるだろう凄まじい力だ。さしものフィアも即座に股を広げてどっしりと構えなければ、踏み潰されたカエルのように押し倒されたかも知れない。

「(クソが……人間風情が調子に乗ってェ……!)」

 のし掛かる圧力の中、怒りを燃え上がらせるフィア。されど本能に従う思考は冷静に状況を分析していた。

 星縄の奴は未だ本気など欠片も出していない様子。しかし本気を出さずともフィアを押せる程度の力はある。無論フィアとてまだ本気の『ほ』の字も出していないが、そんなフィアでも互角に戦える存在はごく僅かだ。

 その僅かな存在の一つがミュータント。

 そして星縄が人間である事はこれまで嗅いできた臭い、放たれていた気配の『雰囲気』からも明らか。星縄が人間なのは間違いない。

 この二つの情報を結び付ければ答えは明白――――星縄は()()()ミュータントなのだ。つまり花中と同じ存在という事である。ならば今自分を攻撃しているものは、花中と同じ力であろう。

 即ち念力。

 『物に触らず動かす』……それが星縄の能力である筈だ。

「(先程吹き飛ばしてきたのはこの私の『身体』そのものを動かしたのでしょうか。そして今の圧力は空気を動かしていると……この程度の力でこの私を倒すつもりだとは片腹痛い!)」

 向こうはタネを隠しているつもりのようだが、こちらは既にそのタネを知っているのだ。花中がミュータントになった事を知らずにやってきたのが運の尽き。花中よりも遙かに強い力なのは確かだが、物を動かすだけの能力ならば付け入る隙は幾らでもある。

 例えば幾ら念力を使えたところで、その身はどう足掻いても人間程度の強度しかない点とか。

 フィアのパワーであれば、人間などそれこそ指先一つで文字通り叩き潰せる。つまりフィアが放った『それなり』の威力の攻撃を一撃、星縄の身体の何処かに当たりさえすれば致命傷ないし重傷になるという事だ。これまでの攻撃は全て念力で弾かれたが、その守りをぶち抜くパワーがあれば問題ない。

 ならば用いるべき力は全方位からの締め付けではなく、瞬間的なパワーと捌ききれない数である。

「でしたらこいつはどうですかぁ!?」

 雄叫びと共にフィアが放ったのは、無数の水触手であった。

 のし掛かる圧力を抜け、フィアの足下から生えた何十という数の水触手が星縄へと迫る! どの水触手も十数センチ程度の太さを持ち、人間の身体など簡単に貫くだけの力と鋭さがあった。

 この水触手の速度も弾丸染みた速さを持ち、人間の動体視力で捉えられるものではない筈だが……星縄は『念力』を発動。迫り来る無数の水触手を、あたかも素手で掴んで押し返すかのような力により一本一本その軌道を捻じ曲げていく。身体を覆っているであろう念力にすら、届く気配がない。

 ミュータントとなり直感が磨かれたのか。繰り出した攻撃が次々と防がれるところを目の当たりにし、フィアは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 だが、ここまでは想定内。

 水触手は囮だ。本命は星縄の背面に回り込んだ不可視の『糸』三十本である。この『糸』により一点集中で力を掛け、念力を破りバラバラに切り刻むという作戦だった。

 しかし星縄は反応した。

 ぐるりと彼女は背後を振り向いたのである。これにはフィアも驚きを隠せない。その圧倒的細さ故に、見えないどころか空気も殆ど振動させない『糸』に気付くなど、余程感覚に優れた生物でなければ出来ないのに。

 更にフィアの驚きは続く。星縄が軽くその手を振り上げ、握り拳を作る。するとフィアの『糸』が何かに()()()()のだ。星縄が拳を捻れば『糸』も捻られ、ぶちりと音を立てて切れてしまう。能力の制御を離れた『糸』は元の体積を取り戻し、虚空で水が爆散するような景色が作られた。

 掴んだ、という事は星縄は『糸』の位置を、感覚ではなく正確に把握していたという事。野生の直感、という可能性は否定出来ないが、幾らなんでも正確過ぎる。なんらかの『能力』により感知していたとしか思えない。

 奴の能力は花中と同じ『念力』ではないのか? 人間だと思っていた自分の直感が誤っていたのか、それとも花中と同じ力だというのが間違いなのか、はたまた花中の力が念力だというのが誤解なのか。

「どうやら少し本気を出してきたみたいだね。あまり遊んでいると手痛い目に遭うかもだし……そろそろ真面目に片付けようかなっと!」

 押し寄せてきた無数の疑問に困惑するフィアだが、考えを纏める暇もなく星縄が告げたのは決着の宣言。

 理性は戸惑えど本能は問題なく働いていたフィアだが、されど星縄の動きに反応するには僅かながらタイムラグがある。そのタイムラグは、『野生』において致命的な隙だ。

 その隙を突くかのように、フィアの『身体』の側面に何かが衝突してくる!

「っ!? これは……!」

 反射的に視線を向ければ、拳ほどの大きさしかない機械のようなものが身体に着いていた。

 しかもそれはフィアにぶつかってきたものの他に、フィアを取り囲むように何十という数が展開される。

 別段、人間が作った爆弾なんぞ怖くもなんともない。例えこの爆弾全てが核爆弾(なんかすごいやつ)だとしても、フィアにとってはオモチャのようなものだ。

 しかし此処には星縄が居る。

 正体不明の能力。その能力を用いて、遠くからわざわざこの爆弾を持ってきたのだとすれば――――

「ちっ! 小癪な真似を」

「残念、一手遅い」

 フィアがこの包囲網から抜け出そうとした次の瞬間、星縄が指をパチンと鳴らす。

 その音に合わせて、フィアを包囲していた爆弾が一斉に起爆した!

 爆弾がただの爆弾か、それとも核兵器なのか。フィアにはよく分からない。少なくとも爆風による高温と衝撃は、フィアが纏う水の『身体』を微かに揺さぶる程度の力しかなかった。

 だが、そこに星縄の『念力』が加われば。

 フィアの『身体』を形成する水分子が、激しく震え出す。分子の振動とは即ち熱エネルギー。『制止』状態で制御している筈の水分子が、どんどん加熱されていた。

 ただの高温に晒されただけなら、このような事象は起こらない。何が起きているのかフィアは探り、その答えに数瞬で辿り着く。

 爆発により生じた粉塵が、何時まで経っても薄れない。

 否、それどころか粉塵が小刻みに振動し、際限なく加熱されているのだ! その莫大な熱量(運動量)を誇る粉塵がフィアの制御する水分子に触れ、熱を伝えてきている! ただの高温ではない……かつて戦った時に『アイツ』が繰り出したような、手に負えない灼熱だ!

「(物体の加熱!? これじゃあミリオンの力ではないですか!)」

 見せ付けられた事象に驚きつつも、フィアの本能は生存のための道を模索。何がなんだか分からないが、このまま粉塵の中に留まるのは不味い。

 フィアは一度この場から離れるべく、『身体』の機能をフル稼働させる。その気になれば核すら通じぬ怪物をも屠る、超越的身体能力だ。自分を取り囲む粉塵を掻き分け、外に脱するなど造作もない。

 妨害さえなければ。

「おっと、逃がすつもりはないよ!」

 粉塵を掻き分けたのはフィアだけでなく、生身の星縄もであった。

 生身である筈の星縄は、しかし灼熱の粉塵の中で平然としていた。顔を顰めるどころか捕食者のように獰猛な笑みを浮かべ、フィア目指して真っ直ぐ腕を伸ばしてくる。

 加えて星縄の動きは、フィアよりも格段に速い!

「なっ……ぬぐっ!?」

 その首根っこを掴まれたフィアは、星縄の圧倒的パワーにより強引に押し倒されてしまった。

 なんとか拘束を振り解こうと、フィアは星縄の腕を殴ったり、押し退けようとするが……星縄の腕はぴくりとも動かない。あたかも花中が押し退けようとする自分(フィア)の腕の時が如く。

 馬力が違い過ぎる。努力も友情も根性も全て捻じ伏せる、圧倒的で出鱈目なパワーの差。

 これではまるで本気の野良猫(ミィ)と殴り合いをしているかのような……

「まさかあなた……!」

「おっと、流石にそろそろタネに気付いたかな? まぁ、君の知り合いの力を使っているから当然か」

 フィアが苦々しく睨めども、星縄は飄々と語るのみ。その余裕からか彼女は自ら『タネ』の断片的な情報を渡し、これによりフィアは確信を得る。

 星縄の力は花中のような念力ではない。

恐らくはこれまで自分が見てきたものを『学習』し、模倣し、自ら使えるようになる能力。

 即ち、『能力をコピーする』能力だ。

「こんな雑魚共の力なんかで……!」

「どんな力も頭の使いよう。こんな感じに、ね」

 忌々しさを言葉にするも、星縄は怯まず。その手をゆっくりとフィアの腹に当てた。

 すると、ずぶりと星縄の手がフィアの腹に入り込む。

「ぬぐ!? これは……!」

 自らの『身体』に起きた事態。星縄は何も語らないが、自分で作り上げた『身体』の事だ。わざわざ説明されずともフィアは理解する。

 水分子の制御が『中和』されているのだ。フィアが静止状態を保とうとしている水分子に対し、逆に振動状態へ移行させようとする力が働いている。両者はぶつかり合いの末中和され、性質としてはただの水と化す。

 ただの水というのは、果たして数万度にも加熱された粉塵の中で蒸発しないものなのか? 答えは言うまでもなくNOだ。フィアの『身体』を構成している水分子は粉塵の熱により次々と蒸発し、『身体』の体積を減らしていく。

 忌々しい。どこまでも忌々しい。

 雑魚共の能力どころか自分の能力までコピーしてくるなんて。

「(人間風情が嘗めた真似を……!)」

 真っ先に燃え上がる感情は怒り。しかし野生生物故の冷静さも失わず、フィアは状況を適切に分析していく。

 まず、水を操る能力について星縄と自分は『互角』だ。負けていれば『身体』は一瞬にして蒸発しているし、僅かでも勝っていれば数万度の粉塵程度なら『身体』は耐えられる。

 拮抗状態だからこそ、『身体』を形成する水の性質は一般的なものとなり、高熱に耐えきれずじわじわと蒸発しているのだ。これではジリ貧である。なんとしても脱出せねばならない。

 だが、これが難しい。

 星縄はフィアの『身体』の形状を固定する力も加えていたのだ。人の形を崩す事が出来ず、液化して星縄の手から抜けるのは不可能。ならば物理的に振り解くしかないが、単純な力では大きく負けている。強引に振り解く事も不可能。高温の粉塵に包まれ徐々に『身体』が蒸発している現状、持久戦に持ち込んで相手の体力切れを待つのも不可能。

 八方塞がりとはこの事か。まるで打つ手が思い付かない。

「(不味い。不味い不味い不味い不味い不味い! このままでは……!)」

 打開案は浮かばず、しかし状況は徐々に不利に傾いていくばかり。時間が経つほど『身体』が削られ、パワーと体力が落ちていく。

 星縄は勝利を確信した笑みを浮かべる。その笑みが酷くムカつくが、今のフィアには一発殴る事すら惜しい。状況はそれほど逼迫しているのだ。

 最早、これしかない。

「……吹き飛びなさい」

「ん?」

 ぽつりとフィアが漏らした言葉に、星縄が一瞬だけ眉を顰めた。

 刹那、フィアの『身体』が爆発する!

 凄まじい破壊力の爆発だった。周りの粉塵どころか、フィアが押し倒されていた場所を中心にした半径二百メートルの地面が吹き飛ぶ。核兵器でも使ったのではないか、或いは流星でも落ちてきたのか……遠くから戦いを眺める者が居たなら、そんな感想を抱くに違いない。

 これこそがフィアの最終手段である『自爆脱出』だ。

 『身体』を構成する水分子の熱エネルギー(運動量)を一点に集中。一瞬にして高熱に達した水は気化により体積を膨張させ、衝撃波を周囲に放出。しかし周りの水がバネとなって跳ね返され、跳ね返された衝撃は全方位から一点に集中し、これがより大きな衝撃となって拡散して……この繰り返しをマイクロ秒単位で行い衝撃波を増幅。抑えきれなった瞬間、衝撃波はフィアの『身体』を吹き飛ばしてしまう。

 この衝撃波に乗り、フィアの本体は遠くまで吹っ飛ばされる。本体の周りには水の守りがあるため、衝撃波によるダメージは受けない。そして難を逃れたなら、付近の水を吸い上げて『身体』を再構築し――――リベンジを行う。

 かつてミリオンと戦った際、背後から拘束された時に使ったものと同じ力だ。ただしあの頃よりもフィアは大きく成長し、爆発の威力は当時の比ではない。もしもあの時と同じ距離に花中が居れば、今頃彼女は見るも無惨なミンチと化しているだろう。

 無論フィアは自分の力をよく理解している。だから自爆であろうとも、本体が傷付くような間の抜けた失態はしない。

 しかし今のフィアの本体はボロボロだった。

「(ぐっ……少し予想を見誤りましたかね……!)」

 自爆時の脱出艇として作り上げた水球の中で、自らの犯した『失態』にフィアの本体は忌々しげに唇を噛む。

 自爆の衝撃は問題なく耐えた。水球の射出方向も正しく、フィアは今高度数百メートル地点を高々と飛行している。しかし一点だけ問題があった。

 星縄により『身体』を形成する水分子の静止状態維持は防がれており、結果、フィアの脱出艇である水球にも星縄の力の余韻が残っていたのだ。そのため水球の厚みにより脱出時通過する粉塵を耐えねばならなかったのだが……最近は専ら『耐熱』により高熱を凌ぎ、破られる時は一瞬。そのため数万度の高熱をやり過ごすために必要な水の量がうろ覚えで、水球の厚みが足りない事に気付かなかったのである。

 粉塵の高熱は水球を少なからず浸透。フィアの本体はところどころ火傷を負い、鱗が剥がれ落ちていた。命に関わる深手ではないが、出来れば療養していたい状態だ。戦いも逃走も可能だが、少し支障が出てしまう。

 そんなフィアに追い打ちを掛けるように――――()()()()()()()()()()()

「なっ!? しま……ぐぅ!?」

 空中飛行中のフィアに、この『攻撃』を咄嗟に躱す術はない。高速で飛来した石は水球を貫通し、フィアの胴体に命中……水球を形成する水により多少減速したものの、フィアの丈夫な鱗を粉砕して肉に到達する威力はあった。

 水球と共に墜落するフィアの身体。傷付いた肉体では能力の制御が不十分で、墜落の衝撃で水球が弾けてしまった。地面に出来た水溜まりの上で、フィアはびちゃびちゃと跳ねる力もなく横たわる。

「ふぅ。流石にあの自爆はヤバかったね。どうにかなって良かったよ、本当に」

 されど気を失う暇はないらしい。

 フィアが倒れる水溜まりの側に、何時の間にか星縄がやってきていた。自爆の直撃を受けても、大したダメージにはなっていないらしい。平然としており、戦う力は十分に残っているようだ。

「さぁて、殺しておくのは簡単だけど……後の事を考えると、それをするのもちょっと困るからね」

 そしてフィアを殺さずにおいても『問題ない』と思うぐらい、先の戦いは余裕だったとの事。

 それが口先だけの自慢でない事は、何処からか取り出した細い金属棒でフィアの胴体を貫いたものの、その棒が内臓や太い血管を傷付けなかった事からも明らかだった。

「ぐがぅっ!? こ……の虫けらが……!」

「おお、怖い怖い。まぁ、あまり心配しなくても良いよ。君が回復している頃には全て終わらせているつもりだからね」

 フィアの咆哮を無視して、星縄は水溜まりに背を向けるやすたすたと歩き出してしまう。

 今ならその背中に『糸』も水触手も叩き付ける事が出来そうなのに、そこまでの体力が身体に残っていない。いや、それどころか身体から出てくる血を止め、傷を治さねばそのまま衰弱死する危険性すらある。後を追う事など出来やしない。

 完全な敗北。一方的に嬲られただけ。

 数多の経験により自分は生長した筈なのに。

「クソが……!」

 悪態を吐いても、現実は何も変わらず。

 花中を傷付けようとする不埒者の背中を、フィアは黙って見送るしかなかった。




そんな感じで始まりました、星縄戦です。
彼女の立ち位置と目的もやっと書ける。
隠していた事を明かせるのってたーのしー!

次回は明日投稿予定です。


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超越種6

 揺れが止んだのは、最初の揺れが起きてから十分後の事だった。

 決して大きな地震ではなく、精々震度三ぐらい。それも延々と続いた訳ではなく、止んだり始まったりを繰り返していた。避難所のおんぼろ建築物が大きな被害を受ける事もなく、大した地震ではないと言える。

 しかし人間にとっては、重大な出来事であった。

 何しろムスペルによる大地震があったのがほんの二週間前なのである。今の人間達にとって、地震というものはムスペルを想起させるもの。死の恐怖、否、滅びの恐怖そのものだ。

 花中が居る避難所も、危うくパニックになるところだった。地震の揺れがもう少し大きかったなら、きっと大変な騒動になっていただろう。

「う、うぅ……ううううぅ……!」

 ……或いは今、花中の目の前で蹲っている痩せ細った少女のように、騒動どころではなかったかも知れないが。

 少女だけではない。花中が居る食堂内は今、大勢の人々が恐怖に震えている。子供のみならず大人までもがしゃがみ込み、ガタガタと震えている有り様だ。テーブルの下に逃げ込む際引っ掛けたのか、床に落ちている皿や白饅頭の肉もちらほらと見受けられる。

 二週間以上前であれば、小さな揺れに対して随分大袈裟な反応に見えただろう。されど怯える人々に「いい大人が」とは言えない。大人達だって、地震によって死ぬほど怖い思いをしているのだから。

 平気なのは『慣れた』者達のみ。

「おおっと、どうしたちびっ子? もう揺れてないぞー」

「大丈夫。深呼吸して、落ち着いて」

 例えば目の前の少女を抱き締め、宥めるための言葉を投げ掛けた加奈子と晴海のように。

 そして花中もまた『慣れた』者である。この場に居る、誰よりも。

 故に花中だけが、先の『地震』の意味を深く理解していた。

「(今の揺れは、ただの地震じゃない)」

 何度も体感してきた。突き上げられるような、一回一回がハッキリとした振動。揺れに混ざって聞こえてくる、身体を揺さぶってくる爆音……どちらも知っている。どれもこれも身体に刻み込まれている。

 これは、人智を超えたケダモノ達の闘争だ。

 驚くには値しない。ミリオンが調べた時点で日本には推定一万体のミュータントが生息していて、恐らくは今も増え続けているのだから。そこらを歩いていたダンゴムシとワラジムシがミュータントと化し、些末なきっかけでケンカを始めたとしてもなんらおかしな展開ではない。そしてミュータント同士の戦いならば、大地が揺れるような激戦でもなんら不思議はないだろう。

 花中が気にしているのは、その闘争の音が南西――――()()()()()()()()()()()()()()()聞こえてきた点だ。

 フィアの事だから、インドネシア諸島の方角を聞いたなら間違いなく最短距離……直進していくだろう。フィアにはそれを可能とする力がある。例えその行く手を瓦礫が塞いでいようとなんの問題もない。ずんずんと進んだ筈だ。

 その彼女が向かった方角から爆音が聞こえた。恐らくなんらかの戦闘が起きたのだろう。そして音が止んだという事は、戦いの終結を意味している。

 フィアは戦いに巻き込まれていないだろうか。巻き込まれたなら無事だろうか。それに星縄の安否も……

「大桐さん、今のってやっぱり……」

 考え込んでいたところ、晴海が花中に尋ねてくる。呼ばれた花中は反射的に口を開いて、けれども声を出すのは躊躇った。

 この避難所の近くで『化け物』が争っている。

 花中にとっては最早慣れてしまった状況も、避難所の住人達にとっては初めての経験だ。軽々しく言葉にすれば、パニックが広がりかねない。それにあくまでこの考えは花中の予想でしかなく、証拠といえるものは何もないのである。確証のない発言で混乱を引き起こすのは良くないし、下手をすれば『狼少年』となって次から信じてもらえなくなるかも知れない。次にした話も嘘であるなんて、誰も保障していないのに。

「……分かりません。『もしかする』かも知れませんが、詳細は、流石に……」

「……そう、よね。うん、揺れただけじゃ、何があったかなんて分からないわよね」

「ええ、分かりません。ですから、調査が必要だと、思います。ただ……」

「ただ?」

「……フィアちゃんも、ミリオンさんも、外出中です。ミィさんは、相変わらず、行方知れず。わたし達だけで出向くのは、危険なので、誰かが戻ってくるのを、待たないと」

 『正しい情報』のみを伝えたところ、晴海は顔を顰めた。傍で話を聞いていた加奈子も、ちょっと困惑している。批難の声が出てこないのは、誰も彼女達の行動をコントロール出来ないので、仕方ないと諦めているからか。

 実際問題、フィア達三匹の誰かが戻ってこない状態での調査は危険過ぎる。この避難所で用意出来る武装なんて精々錆び付いた鉄パイプぐらいなもの。こんな装備ではミュータントや怪物は勿論、イノシシやクマ、野良犬にすらやられる可能性があるだろう。

 かといってフィア達の誰かが戻ってくるのを待つという、悠長な事をしている場合でもない。ミリオンは二週間戻らないし、ミィに至っては何時避難所に立ち寄ってくれるかすら分からない有り様。そしてフィアが帰ってくるのは早くても数時間後……数時間もあれば、次の動きがあるかも知れない。もしも爆音を立てたのが危険な怪物の場合、今すぐ避難する必要がある。

 どうすべきか、何をすべきか。花中は慎重に最善の方法を考えて、

「はぁー、疲れた疲れた」

「ぴっ!?」

 不意に背後から聞こえてきた声に、飛び跳ねるほど驚く羽目になった。

 花中は反射的に振り返る。そしてその目を大きく見開くほどに驚き、やがて困惑の表情を浮かべた。

 花中の背後に居たのは、星縄だった。

 星縄が無事だった事に花中は安堵を覚える。同時に、それ以上の疑問も。

 星縄はフィアと共に避難場所を出て、インドネシア諸島に向かった。花中の両親を救出するために。そして星縄達が向かったであろう場所から爆音が轟き、戦いがあった事を物語っている。

 どうして星縄は避難所に戻ってきたのだろうか。それにフィアは何処だ? 星縄と一緒に行動しているのではないのか?

「あ、ほ、星縄さん……何故、此処に?」

「ん? 何故って?」

「だ、だって、星縄さん、パパとママを助けに……それに、フィアちゃんは……?」

「おっと、質問は一つずつにしてほしいな。まずは落ち着いて」

 花中が無意識に尋ねると、星縄は肩を竦めつつ宥めるように答える。確かにちょっと冷静さを失っていたと思い、花中は深呼吸をして自分の感情を宥めた。

 花中が落ち着きを取り戻した頃、星縄はゆっくりと片腕を水平に上げる。人差し指だけをピンと伸ばし、何かを示すかのよう。なんだろう? 何かを見ろって事なのかな? そんな考えを抱きながら花中の視線は自然と星縄の指が差している方を向く。

「さて、それじゃあ玲奈さん達の事だけど……それね、嘘だから」

 直後、星縄が何かを告げた。

 何を告げられたのか――――花中は理解しなかった。する暇なんてなかったから。

 星縄が向けた指の先で、突如爆発が起きたのだから。

「きゃあああああっ!?」

「うわぁ!? なんだなんだ!?」

「み、みんな外に出るんだ!」

 突然の爆発に食堂内が騒然となる。誰かが逃げるように促し、誰かが出口に向けて走ると、全員が同じ方へと走り出した。

 その中で花中は、晴海や加奈子と共に呆然と立ち尽くしていた。

 爆発は決して大規模なものではなかった。爆炎が半径一メートルあるかないかで、音に驚いたのか比較的近くに居た人が転ばされただけ。巻き込まれた人はいないだろうし、重傷の人もゼロだろう。

 実態を見れば、大した『事故』ではない。

 しかし大きな謎がある。何故突然爆発なんて起きたのか。この食堂周りで爆発を起こすものなんて、花中が知る限りでは存在しない。調理場ならば燃料として拾い物のガス缶はあるが、危険なものだから大勢の人が集まる食堂には持ち込まないルールとなっている。大体火元がなければ、そうしたガスが爆発する事なんてまずない。

 何か『不思議な力』が働いたとしか思えない。

 そしてその『不思議な力』の使い手がこの近くに居るとすれば。

「おおっ、本当に爆発したよ。食堂からガスボンベを運んで着火してみたけど、意外と威力あるんだなぁ」

 それは暢気に独りごち、ニコニコと胡散臭い笑みを浮かべている星縄以外、花中には思い当たらなかった。

「ほ、星縄、さん……」

「ん? なんだい?」

「あ、あの、何を、して……」

「何って、さっき言っただろう? 食堂にあったガスボンベを運んで着火したって」

「な、なん、なんで、そんな事、を」

「なんでだって?」

 花中が喉を引き攣らせながら問い詰めると、星縄はわざとらしく肩を竦め、ぐるりと辺りを見渡す。花中は息を飲み、花中の傍に居る晴海と加奈子、晴海達に抱き締められている少女がガタガタと震える。

「古い人類を一掃して、新しい時代を築くためさ」

 星縄は怯える少女達に、臆面もなくそう答えた。

 ぞわりと花中の背筋が凍った、刹那、食堂中がメキメキと音が鳴り始める!

 修羅場を潜ってきた花中の本能は、すぐに現状を理解した。みんなで一生懸命建てた食堂が、崩れようとしているのだと。

「み、皆さん! と、兎に角外に! 外に逃げてください! あっちです!」

「う、うん! 晴ちゃん、こっち!」

「ほら、行くわよ……!」

 花中は咄嗟に指示を出し、晴海達や幼い少女と共に食堂の外へと駆けた。

 食堂は花中達が脱出した、その直後に倒壊する。メキメキと音を立て、瞬く間にぺっちゃんこになってしまった。

「あぁ……食堂、が……」

 難を逃れた花中であるが、呆然とその場に立ち尽くしてしまう。

 花中は、この避難所に最初期から暮らしている住人だ。

 だからこの食堂が建てられた時の事も、よく覚えている。屋根のための布も、柱となるパイプも、みんなで力を合わせて瓦礫の中から引っ張り出した。日曜大工を嗜んでいる人が数人居ただけのど素人集団では、柱一つ建てるにも苦労したのを今でも覚えている。

 勿論こんな、百人以上入れる食堂でなければもっと簡単に建てられただろう。最初は十数人しか住人が居なかったので、大きな食堂でなくても問題なかったが……きっとすぐに、たくさんの人が集まると皆期待していた。

 その『祈り』も込めて作り上げたのがこの食堂だったのに。祈りは少しずつ現実になろうとしていたのに。

「ぶっはぁ。いやぁ、うっかりうっかり。身体が丈夫だと、色々無頓着になっていけないね」

 唖然としてあると、食堂だった瓦礫を吹き飛ばして人影――――星縄が這い出してくる。布と簡単な柱しかない建物とはいえ、崩れ落ちた『建材』の下敷きになったにも拘わらず、星縄は怪我一つ負っていない。

 むしろその顔には、獰猛で残忍な笑みが浮かんでいた。

「ひっ……」

 見せられた笑みに慄き、花中は腰が抜けてへたり込んでしまう。晴海と加奈子は少女を抱き締めながら、花中の背後から星縄を睨み付けた。

 されど星縄はその眼光に怯みもしない。それどころかチラリと、興味もないかのように視線を逸らす。

 食堂だった瓦礫の上に立つ星縄が眺めるのは、グラウンドの一角に建てられた数十人分の『住宅地』だった。

「! だ、ダメ――――」

「と言われたら、やりたくなっちゃうよねぇ」

 花中の懇願を聞いた星縄は、わざとらしく花中に一瞥くれる。

 そして花中に見せ付けるように、星縄は自らの腕を大きく振り上げた。

 星縄の腕の動きに合わせ、仮設の住居がまるで透明な巨人の腕に薙ぎ払われるように潰されていった。人々が必死になって作り上げた、大切な家がガラクタのように壊されていく。

 食堂から逃げ出し、少しでも安全な住居に逃げ込もうとした人々が、慌ただしく『住宅地』から出てきた。誰もが悲鳴を上げ、泣き叫び、ただただ走っている。家を失った悲しみに暮れる余裕もないほどに、誰もが死への恐怖に支配されていた。

 花中はその光景を、まざまざと見せ付けられる。

 恐ろしい。

 ハッキリとその力を『見た』訳ではないが、食堂と住宅地の崩壊は星縄の仕業だろう。それもその力は()()()()()……『念力』によるものか。しかしそのパワーは花中のものとは比較にならない。こんな恐ろしい力をぶつけられたなら、きっと自分なんて一瞬で叩き潰される。だから花中は恐怖に震えた。

 けれども逃げ出す気にはならない。

 何故なら燃えたぎるような怒りが、花中の胸のうちに込み上がってきたからだ。

「……酷い。なんで、こんな、こんな……!」

 花中は星縄を睨み付ける。その瞳には、勿論このような惨事を引き起こした事への怒りが込められていたが……それ以上に、困惑した想いが滲み出ていた。

 花中と星縄飛鳥は、それこそ花中が産まれた時である十七年以上前からの知り合いである。赤ん坊時代の花中を抱いた事もあるらしいし、物心付いた頃にはよく遊んでもらった。

 だから星縄が、その内面がとても優しい人である事を花中は知っている。イタズラ好きではあれど、驚かす時には人を傷付けぬよう細心の注意を払う。『マグナ・フロス』による事変の際にも花中を手助けしてくれた。彼女は何時だってみんなに優しい……避難所の人々の生活を破壊しようとするなんて、星縄らしくない行いだ。

 もしも星縄が変わってしまったのだとしたら、その原因はきっと――――星縄が得た『力』だろう。

「さっきも言っただろう? 古い人類を一掃するんだって」

「古い人類……!? なんですか、それは! わたし達は、星縄さんだって、人間で……」

「これが人間の力だと思うかい?」

 反発する花中の前で、星縄は片手を前へと突き出す。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ。

 すると花中の背後から三つ、叩くような音が聞こえた。金属的なものではない、なんというか水気のある重たいものを突き飛ばしたような……

 脳裏に『答え』が過ぎるよりも前に、花中は自らの背後を振り返る。

 そこには晴海と加奈子と少女が、地面の上に倒れていた。三人ともぴくりとも動いていないし、起き上がろうとする気配もない。

「た、立花さん!? 小田さん!?」

 慌てて駆け寄り、三人の様子を見る。三人とも意識はないが、息はしっかりとしていた。素人判断だが気を失っているだけで、命に別状はなさそうである。

 友人達の無事に安堵、する間もなく激情が花中の心を満たす。

 晴海達が『念力』により気絶させられたのは明白。そんな狼藉を見せ付けられたのに、どうして怒りを感じずにいる事が出来るというのか。

「なん、で……なんでこんな、酷い事を……!」

「……まだ理解しないのかい? だからこの力は」

「フィアちゃん達と同じ、ミュータントの力って、言いたいんですか!? それぐらい、分かります! 星縄さんが……人間のミュータントになった事ぐらい!」

 感情に突き動かされた叫びをぶつけるも、星縄は感心したような笑みを浮かべるのみ。それがますます花中の心境を逆撫でし、怒りを強める。

「なんだ、分かってるじゃないか。それなら理解出来ないかな? 今は食べ物も資源も、ムスペルや怪物の所為で枯渇気味だ。リソースが乏しい中、みんなが生き残る事は不可能だろう? だからボクが独占しようと思ってね」

「だったら尚更、みんなで力を、合わせないと、いけないでしょう!? こんな、奪い合いなんて……!」

「何かおかしな事かい? より環境に適応した種が、既存の種からあらゆる資源を奪い、入れ替わるように繁栄する。生命が誕生してから何十億年と繰り返されてきた、自然の営みじゃないか。人間より優れた種となったボクが、人間から食べ物や住処を()()のは当然だろう?」

「……本当に、自分が、人間より優れた種だと、思うなら……自分だけの力で食べ物を、見付けてください……!」

「はっはっはっ! 横取りも立派な生存戦略じゃないか。君はライオンやハイエナに生存価値なんてないと、人間的な観点で言うのかい?」

「それ、は……!」

 感情的な反発心から口を開く花中だったが、されど言葉の続きは出てこない。

 星縄の理屈は『正しい』。彼女が言うように、生物種はそうやって進化と絶滅を繰り返してきた。強奪が悪い事? 自力で食べ物を取らない種は卑怯で劣等? どれも人間が勝手に定めた『偏見』なのは、生物に詳しい花中は知っている事だ。

 星縄は正しい。

 正しくとも――――激しい怒りは込み上がる。

 花中は生物界で最も傲慢な種族・人間であり、星縄もまた『人間』なのだから。

「……ふぅむ、相当怒っているようだね。怖い怖い」

 星縄は花中の感情を察するも、普段浮かべている胡散臭い笑みを崩さない。いや、それどころかますます上機嫌になったかのように、裂けんばかりに口許を歪めた。

 まるでそれは、花中が怒りに震えるのを悦んでいるかのよう。

 その『感覚』に、花中は恐怖を覚える。花中が知る星縄飛鳥という女性は、こんなおぞましい笑みを浮かべたりしない。力に魅入られただとか、溺れただとか……調()()()()()()()()だけならこんな変貌をするとは思えない。

 何かがおかしい。何かが狂ってる。

 どうして? なんで? 何が起きている?

「……また怯えだしたか。やれやれ」

 困惑する花中を前にすると、星縄は呆れるように肩を竦めた。それから何かを考え込むように、自らの口許に手を当て、しばし口を閉ざす。

 今の星縄が一体何を考えているのか、花中にはもう分からない。だけどきっと、ろくでもない事だとは思った。なんとかして、その考えを実行させるのを躊躇わせないと不味い。そんな予感もした。

 無論花中に、粗雑とはいえ建物を何十と纏めて薙ぎ払える星縄を、強引に止めるような力は備わっていない。

「な、何を、しようとしてるか、知りませんけど……だ、だけど、思い通りには、なりませんよ! すぐにでも、その……フィアちゃん達が、戻ってきますから!」

 花中に出来るのは、友達の威を借りた脅迫だけ。

 あまりにも情けない威嚇に、星縄は怯みもしない。が、一瞬呆けたように目を丸くする。

 次いで、意地の悪い……この状況だからこそ恐ろしい笑みを浮かべた。次いで堪えきれないとばかりに、歪めた口から笑い声を漏らし始める。

「……くく、くくくく」

「な、何が、おかしいのですか……!」

「いやいや、これが笑わずにいられるかい? だって……ああ、そういえばまだ話してなかったなぁ」

 咄嗟に反発する花中に、星縄は不気味に微笑みながら、つらつらと語る。勿体付けるような口振りに気圧され、花中は思わず身を仰け反らせた。

 そんな花中の心証に反して、星縄は驚くほど呆気なく語る。

「フィアちゃんは、ついさっきボクが叩き潰したよ。人間に味方するミュータントなんて、邪魔者以外のナニモノでもないからね」

 花中にとって、どんな脅迫よりも恐ろしい言葉を。

 一瞬にして頭から血の気が引いていくのを、花中は寒気と共に感じ取る。

 きっと、本当は分かっていた筈だ。

 フィアは星縄と行動を共にしていた。なのにフィアは戻らず、星縄だけが戻ってきた……こうなる可能性は二つだけ。

 一つは星縄に唆され、フィアだけがインドネシア諸島へと行っている可能性。けれどもこの可能性はあまりに低い。基本自分勝手なフィアが、『案内』もなしにさして興味のない島へ向かうとは思えないのだから。それにいきなり一匹で向かってくれと頼まれれば、流石のフィアだって疑いを持つだろう。別行動を取るのは難しい筈だ。

 だとすればもう一つの可能性……即ち星縄に倒されたというのが、最も現実的な可能性だったのに。

 花中は、それを認められなかった。

「う、嘘、です……フィアちゃんが、負けるなんて、そんな、そんな……!」

「嘘じゃないさ。ボクが徹底的にやっつけてやった。その肉を貫き、身を焼いてやった。止めは刺さなかったけど……もしかしたら今頃死んでるかも知れないねぇ」

「う、うぅ……ううううぅぅ……」

 星縄は耳許に顔を近付け、己が成した恐ろしい所行を花中に聞かせてくる。花中は無我夢中で耳を塞ぎ、その場に蹲ってしまう。

 殺したとは、星縄は言っていない。

 だけどあの執念深いフィアが、敵となった星縄をむざむざ逃がすとは思えない。インドネシアへ行くのが嘘だと分かれば、すぐ花中の下へと戻ってくる筈だ。

 戻らないという事は、戻れないという事。

 何処までも自分本位であるフィアが戻れない理由なんて、自らの身に異常が起きた以外にない。

 だから、きっとフィアは今頃――――

「……うーん、今度は怒るよりもしょぼくれたか」

 俯き、絶望に沈む花中を見て、星縄が何か呟く。今の花中に星縄の声は届かない。地面を見つめる目に星縄の顔は映らないため、彼女の表情も窺い知れない。

「そうだねぇ、ならこんな余興はどうかな」

 花中が重たくなった頭を上げたのは、星縄がこんな独り言を呟いてから。

 顔を上げたのは、殆ど無意識だった。無意識だったから、星縄が上げていた腕の先、細い指先が示す方角に自然と目が向く。

 最初、絶望に沈んでいた花中は己の目に映った光景を理解出来なかった。けれども少しずつ、数秒と経って認識した時、花中の顔は青ざめる。

 星縄の手が向いている先には、大勢の人々が身を寄せていたのだ。

 避難所暮らしをしている人々だった。食堂が倒壊し、住宅地が崩壊したのに、何故彼等はこの避難所から逃げていない? 答えは簡単だ。避難所の周りは瓦礫で出来た『壁』に囲まれていて、外へと出るのも一苦労。おまけに正体不明の地震が起きた事で、外に広がる無数の瓦礫の山が倒壊するなど危険な状態かも知れない。こんな状況で、一体何処に逃げろというのか。

 無力な人々にとって最善の方法は、避難所内の比較的開けた場所で身を寄せ合う事。例えそれが、元凶の目の前であったとしてもだ。

「や、止め」

「残念。ボクは泣き虫さんの、もっと酷い泣き顔を見たいのさ」

 涙目ながらに懇願する花中を、星縄は非情な言葉で切り捨てる。

 星縄が上げている方の腕の手首を軽く回すと、住宅地だったものから出来た瓦礫の山がふわりと十メートル近い高さまで浮かび上がった。金属製のパイプ数本と、布で出来た簡素な住宅……されど纏めて瓦礫となれば、相応の重量にはなる。パイプなど棒状のものは、高い場所から落ちれば十分凶器になるだろう。

 もしもこれらが避難所の人々に落とされたなら、大惨事なんて言葉では言い表せないほどの被害が出る。

「これなら、君の怒りを買えるかな?」

 そんな花中の考えを肯定する言葉と共に、星縄は住人に向けている手首をまたぐるんと動かした

「? 何……」

 直後、何かを感じ取ったように動きを止めた。

 星縄が浮かべた瓦礫を()()()()()()()()()()()()()()()のは、そこから瞬きほどの時間も掛からないうちの出来事。

 瓦礫、特に金属製の棒は真っ直ぐ、槍のように飛んでいく。しかも弾丸染みた速さであり、直撃すれば人間の身体など簡単に貫くだろう。尤も瓦礫達の射線上に人影はなく、あるのは避難所をぐるりと囲う瓦礫で出来た『壁』の一角のみ。何故星縄が誰もいない場所に瓦礫を飛ばしたのか、花中にはさっぱり理解出来なかった。

 しかしそんな不可解さは一秒と経たずに解消する事となる。

 突如として、『壁』の一部が爆発するように弾けたのだ。轟音を響かせ、瓦礫の壁が四方八方へと飛んでいく。中には何百メートルという高さまで舞い上がる、人の身の丈よりも巨大なコンクリートの塊まであった。大量の粉塵が生じ、避難所を取り囲む瓦礫の壁を包み隠してしまう。

【オオオオオオオオオオオオオオッ!】

 そしてその恐ろしい光景と併せて聞こえてくるのは、憤怒に支配された獣の雄叫び。

 吹き飛ばした瓦礫の壁、そこから漂う粉塵の中より現れたのは――――巨大な『魚の頭』だった。

 その頭の高さだけでも三メートルはあるだろうか。ナマズに似た惚けた面の作りだが、大口を開ければ人間など簡単に丸呑みにし、噛み砕くだろう。続けて水掻きの付いた腕が二本、舞い上がる粉塵の中から現れた。子供の背丈ほどの長さはあるだろう指先が、全身の巨大さを物語る。その体色は半透明で、薄らとだが向こう側の景色が見えていた。

 紛う事なき()()()()()だ。星縄が凄まじい速さで飛ばした瓦礫を顔面から受けていたが、まるで怯みもしていない。恐ろしい、おぞましい魔物である。

 だからこそ花中の心に、喜びの感情が込み上がった。

「ふぃ、フィアちゃん……!」

 一番の親友が、星縄に敗北した友が、この場に生きて戻ってきてくれたのだから。

 尤も喜んでいられたのはほんの一瞬の話。花中は即座に顔を青くする。

 フィアは巨大な、全長数十メートルはあろうかという巨大な『怪物』の姿となって戻ってきた。その巨体から繰り出される圧倒的なパワーにより、積み上げられた瓦礫の『壁』を吹き飛ばした訳だ……近くで避難所の人々が身を寄せ合ってる事など知らずに。或いは知っていてもお構いなしに。

 吹き飛ばされた瓦礫の速度は、文字通り弾丸のそれと同等だろう。そして質量は弾丸を大きく上回る。当たり所が悪ければ、死者が出てもおかしくない。

 そんな瓦礫達が、身を寄せ合っている人々の方へと飛んでいた。

 花中の『念力』で止めるにはあまりにも速く、重い瓦礫達。人々は飛んでくる瓦礫に恐怖し、身を強張らせるばかり。最早どうにもならないと、これまでにない絶望感が花中を満たした

「はぁっ!」

 刹那、星縄が吼えた。

 するとどうした事か。フィアによって吹き飛ばされた瓦礫が、人々に到達する寸前で『静止』したではないか。大きな塊も、埃のような塵すらも、重力に引かれて落ちていかない。物質の空中浮遊という不自然な物理現象に、花中のみならず瓦礫に襲われるところだった住人達も呆気に取られる。

「っ……甘いよ!」

 一呼吸置いて、星縄が腕を動かすと、静止していた瓦礫達が一斉に動き出す。

 狙いは、怪物の姿と化したフィアだ。

【小賢シイッ!】

 自ら吹き飛ばした瓦礫の弾丸をその身に浴びるフィアは、しかし一歩たりとも退かない。

 圧倒的巨体で駆け出したフィアは、真っ直ぐに星縄を目指す! 星縄からほんの十メートルも離れていない位置には、花中や避難所の住人達が居るのだが……見えていないのか、気にしていないのか。フィアは止まる気配すらない。

 恐らく自分だけなら大丈夫だろうと花中は思う。しかし住人達や、自分の傍で気絶している晴海達は……過ぎる予想に、花中の顔が引き攣る。

「こん……のおぉぉぉぉ!」

 星縄が雄々しく叫びながらフィアに突撃しなければ、花中の予想は現実となっていただろう。

 星縄は目にも留まらぬ速さで加速し、フィアに体当たりを喰らわせる! 人間サイズの物体が直撃したフィアは、仰け反る事もなくこれを顔面から受け止めた。

 しかしパワーでは星縄が上回ったらしく、フィアは一気に押される。瓦礫の『壁』があったラインを超え、避難所の外まで押し出されて……されど負けず嫌いなフィアが大人しくやられる筈もない。

【ッガアアアアアアアアアア! グガアアアアアッ!】

 咆哮と共にフィアは変形。ナマズ顔の怪物からイソギンチャクのような、無数の水触手が蠢く形態へと姿を変えてしまう。

 突然の変形に、星縄もすぐには対応出来ず。体当たりのエネルギーがまだ残っていたのか、変形したフィアの上を通り過ぎるようにすっ飛んでしまう。無論星縄はすぐに、泳ぐように空中で方向転換

 する隙を突くかのように、フィアの水触手が星縄に叩き付けられた!

「ぐぉ!?」

 フィアからの打撃を胴体に受け、さしもの星縄も呻きを上げた。反撃に出る暇もないまま彼女は彼方へと吹っ飛ばされ、瓦礫だらけの平野に叩き付けられる。星縄墜落の衝撃により、積み上がっていた瓦礫が四方へと飛び散って粉塵も舞い上がった。その光景は、あたかも小さな核弾頭でも落とされたかのようだ。

 ただの人間なら跡形も残らない威力。されど星縄は最早ただの人間ではない。

「あまり、調子に乗るんじゃないぞ!」

 瓦礫の山に叩き付けられた星縄は、原形を留めているどころか大きな怪我もしていない様子。

 更には両腕を広げるだけで、半径数百メートル内の瓦礫を浮かび上がらせるほどのパワーも残っている!

【来ナサイ人間風情ガッ! 徹底的ニ叩キ潰シテアゲマショウ!】

 フィアもまた闘争心を燃え上がらせ、触手をよりたくさん、より太く生やしていく。

 二つの超越的パワーのぶつかり合いは、それから間もなく起きた。

 人類の科学知識が通用しない、人智を超えたパワーの激突。衝撃波は花中達の居る避難所にまで届き、その戦いの激しさを物語る。

 何が起きているか分からない。どうなれば良いのかも分からない。

 地面を這いずる虫けらのように無力な『旧人類』に出来るのは、この危険な領域からの避難だけだった。

「晴海ちゃん! 晴海ちゃんっ!」

「加奈子!」

 星縄とフィアが遠く離れた時、晴海と加奈子を呼ぶ声が聞こえた。振り向けば、そこには大人の女二人がこちらに駆け寄ってくる姿がある。

 知らない人ではない。彼等は晴海と加奈子の母親だ。

「こ、こっちです!」

「ああ、晴海ちゃん! 晴海ちゃん……!」

「加奈子! 加奈子ったら目を開け……って寝てるだけじゃないかこの子!?」

「あ、はい。えと、二人とも、気を失ってしまい、まして……その、安全な場所まで、連れていって、ください。あと、この女の子も」

 花中が頼むと晴海達の母親は少し戸惑いながらも頷き、晴海と加奈子、そして加奈子の母親が少女も抱き上げる。加奈子の母親はかなり恰幅の良い方で、少女を米俵のように肩に担いでいた。ちなみに娘の方も片腕で抱え込んでいる。

「そうだ、花中ちゃん。あなたも早く逃げないと……!」

 それから加奈子の母が、花中にも逃げるよう促した。

 こんな危険な場所に居たら死んでしまうかも知れない、もっと遠くに逃げなさい……身内の友人なのだから、そう忠告するのは当然の事。花中自身そう思う。

「いえ、わたしは……まだ、此処に居ます」

 けれども花中は、加奈子の母からの言葉を拒んだ。

「な、なんでだい? だって……」

「あの二人……えと、戦ってる怪物と、人間について、わたしは、知っています。わたしは、あの戦いが終わるのを、見届けたいんです」

「だ、だけど」

「あと、少なくとも一方は、わたしを絶対に、傷付けないですし、傷付けさせる事も、許しません。だから、わたしだけは、大丈夫です」

 力強い言葉で加奈子の母を説得すると、加奈子の母は口を噤んだ。少しの間抱えている加奈子を見て、遠くで戦うフィア達を見て……こくりと頷く。

「……危ないと思ったら、すぐに逃げるんだよ」

「わ、私達は、あっちに逃げてるわ。だから、逃げるならあっちに行きなさい。良いわね?」

 加奈子の母、それから晴海の母からの『忠告』に、花中は無言で頷く。二人の母親は、それから間もなく駆け足でこの場を後にした。

 二人の背中を見送り、身を寄せ合っていた避難所の人々の姿が消えたのも確認して……花中は、無意識に逃げ出そうとする足をどっしりと構える。

 そう、フィアも星縄もきっと自分を直接傷付けるような真似はしない。

 フィアについては言わずもがな。そして星縄についても、もしも花中に危害を加える事が目的ならば、とうになんらかの加害を行っている筈だ。しかし精神的ダメージはあれど、肉体的ダメージは未だ花中の身体に与えられていない。

 それに、星縄の先の行動。あれはまるで……

 確かめたい。いや、確かめねばならない。

 そのためにも逃げ出す事は出来ない。

 怯える己の胸をぎゅっと押さえ付けながら、花中は『親友』と『家族』の決戦を見守るのであった。




第二ラウンド開始。
星縄の『目的』がフィアと花中で違う事を言っていますが、はてさて?

次回は11/15(金)投稿予定です。


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超越種7

【ゴガアアアアアアアアァッ!】

 理性の欠片もない、野生の咆哮が響き渡る。

 その咆哮に合わせて動き出す、無数の水触手。イソギンチャクのような姿となったフィアは、百は優にあるだろう水触手を縦横無尽に振り回した! 一本一本が太さ数メートル、長さに至っては百メートルはあるだろうそれらは、大地を叩き付ける度に地震を引き起こす。地震は決して小さなものではなく、付近の瓦礫は反動で浮かび上がり、水触手の周りは常に朦々と粉塵が漂っていた。

 更にその蠢くスピードはまるで流星のように素早く、数の多さも相まって人間の動体視力では視認すら難しい。ヒュンヒュンと大気を切り裂く音だけが、触手がその場で動き回っている事を教えてくれる。

 もしもこの触手達に狙われたなら、ただの人間では為す術もない。身構える事すら許されずに叩かれ、受け止めたエネルギーの膨大さから爆散を通り越して気化するだろう。

 しかし、星縄は違った。

「ぬんっ! ふっ! はっ!」

 星縄は掛け声と共に、目にも留まらぬ速さで己の手を伸ばす。

 一見してヨガか創作ダンスのような動きは、轟音と共に水触手を()()させる……つまり目にも留まらぬ速さで動き回っていた水触手を受け止めるための動作だった。恐らく『念力』により空気を固定し、壁のように展開しているのだろう。

 フィアと星縄の対決を目の当たりにし、花中は驚きを二つ覚えた。

 一つは星縄のパワー。フィアの ― 本気で暴れたなら一匹で人類文明を壊滅させたであろう ― 出鱈目な怪力を片手で受け止めている。即ち星縄の『念力』はフィアに匹敵する強大なもの。あまりの力強さに、人間を超えたという星縄の『戯れ言』が説得力を帯びた。

 そしてもう一つの驚きは、星縄がフィアの攻撃に反応している点だ。花中にはもう残像すら確認出来ないほどのスピードで何十と迫る水触手を、正確に捉え、理解するだけの反射神経を有している事になる。

 確かにミュータント化した生物は、そうでない生物より五感がかなり強くなっているように花中は思う。例えばフィアは頭上の気配に敏感で、光速の数パーセントもの速さで迫る物体を『なんとなく』で躱してしまう。普通のフナに出来るような真似ではない。星縄もミュータント化により五感が高まり、フィアの水触手が見えるようになった……その可能性は高いのだが、しかし花中は違和感を覚える。

 直感で避けているにしては、星縄の動きが滑らか過ぎる気がしたのだ。踊るような彼女の動きに、本能で行動しているような『野性味』が感じられない。

 本能ではなく、頭で考えて避けているのではないか。直感ではなく理性的に判断しているとすれば、攻撃される前から多少なりと動きが読めているのか? しかし一体どうやって……

 考え込む花中だったが、結論が出る前に状況が動く。

 星縄が前進を始め、フィアとの距離を詰め始めたのだ。フィアはこれを許さないつもりか、水触手の連打により妨害するも、星縄の歩みは遅くならない。否、それどころかどんどん加速していき――――

「はあぁっ!」

 流星染みた超高速で、フィアに跳び蹴りをお見舞いした! 何十メートルと宙を飛んで進む姿は、英雄と呼ぶに相応しい雄々しさを花中に感じさせる。

 フィアは()()()()防御を固めようとしたのか、水触手が星縄の前に集結して『壁』を作る。『壁』の強度は凄まじく、星縄の蹴りではビクともしない。

 きっと星縄も、防御を破れるとは思っていなかっただろう。故にこの跳び蹴りの目的は別にあるのだ。

 例えば、フィアに至近距離から『念力』を喰らわせる事とか。

【ヌッ……ヌゥウウウウウウウッ!?】

 星縄の蹴りを受けた次の瞬間、水触手が生えている、イソギンチャクの『胴体』のような部分が大きく後退を始めた! 『胴体』部分に潜んでいるであろうフィアが唸りを上げ、水触手を大地に突き刺して止まろうとするが、中々上手くいかない。

 あっという間にフィアは、星縄から二百メートル近く離されてしまった。星縄は軽やかに着地し、十分離れたフィアにほくそ笑むような表情を向けた

 刹那、イソギンチャクの怪物が星縄の至近距離まで来ていた。

「――――はっ、な、ぐおっ!?」

 星縄が驚きで顔を歪めた、その直後にフィアと星縄が激突する!

 フィアは水触手を束ね、ドリルのような体勢となって星縄に突っ込んでいた。一体何万トンあるかも分からぬ巨体が、目にも留まらぬ速さで突っ込んだのだ。衝突時のエネルギーは凄まじく、周りの瓦礫のみならず大地をも吹き飛ばす。地上に出現した半径五十メートルはあろうかというクレーターが、フィアの圧倒的パワーを物語った。

 この攻撃はさしもの星縄も反応出来なかったのか、彼女の身体はフィアによって強引に動かされる。クレーターを作り出してもまだ余りあるエネルギーにより、何百メートルと後退させられた。

 しかし星縄にとって致死的なものではない。

「ふっ!」

 星縄は両腕を伸ばした。『念力』によりフィアを止めるつもりなのは、遠くより戦いを見ている花中にも分かる。予想通り星縄を押し続けるフィアの『身体』は徐々に減速していく。

 そしてある程度速度が衰えるや、星縄はフィアの巨体を持ち上げた!

 これまで瓦礫などを持ち上げ、自身の防御に用いていた『念力』により、フィアの『身体』そのものが宙に浮かぶ。とはいえ今のフィアの質量は些か厳しいものがあるのか、その動きは決してスマートなものではない。

 その緩慢な動きの中でフィアは『身体』を変形。イソギンチャクのような姿から、再び魚面の怪物へと変わり、二本の足で大地に立つ。星縄による投げ飛ばしもこれでは効果がないに等しいだろう。

【ガアアアアアアアアアアッ!】

 事実フィアは怯まず、着地後間髪入れずに頭から星縄に突撃する!

 ただの突撃ではない。魚面の頭がばっくりと上下に裂け、その内側にある無数の『牙』を剥き出しにしながらの突撃だ! 更に背中からは無数の水触手を生やし、先端に『口』を形成させて星縄に向かわせる!

 水触手に出来た口の中にも鋭い歯がずらりと並んでおり、噛み付いたものをミキサーのように切り潰しながら奥へ奥へと進んでいく……そんな光景が予想出来る形態をしていた。無論頭に付いている牙も鋭く、触れれば人間など潰れるどころか真っ二つに切り裂かれるだろう。

 どちらの口も、まともに喰らった次の瞬間には死が訪れるに違いない。

「ちょ、殺す気満々過ぎ……ぐっ!?」

 殺意に満ちた攻撃を前にして、さしもの星縄も狼狽えた。が、迫り来る巨大な牙を両手と両足で受け止める。『念力』を使っており、星縄の手も足も牙には直接触れていない。触れれば即座に切り裂かれると、星縄も理解しているのだ。巨大な口の中に入りながら、星縄は奮戦している。

 無論ここで手を弛めるようなフィアではない。なんのために水触手を生やしたのか。

 両手が塞がった星縄に、獰猛な水触手達が襲い掛かる! 両腕を塞がれた状態からの奇襲攻撃。されど星縄は水触手が生えているところを既に見ており、このような追撃があるのは間違いなく想定内。『念力』で作ったであろう、空気の壁により水触手は星縄に届かず跳ね返された。

 追撃は失敗に終わった。しかしそれでもフィアは諦めず、否、止められていると気付いていないかのように力を込め……少しずつだが、フィアの牙を受け止めている星縄の腕と足を曲げていく。小細工など無用とばかりに、純粋な怪力で押し潰そうとしていた。

「ぬ……ぐ、ぐぐ……こん、のおおおオオオオオオオオッ!」

 フィアの顎の力は星縄にケダモノ染みた叫びを上げさせる。

 渾身の力により、閉じようとしていたフィアの顎はこじ開けられた。星縄は十分なスペースを確保するや、『念力』を用いてか自らの身体を撥ねられたような勢いで射出。押し返す力が消え、フィアの顎はガヂンッ! と轟音を響かせながら閉じる。余程凄まじいパワーだったようで、閉じた瞬間フィアの口周りに衝撃波(白い靄)が生じていた。

 辛うじて脱出に成功した星縄は、フィアから数百メートルは離れた後、ふわりと空に浮かぶ。これもまた『念力』の応用か。フィアより高い位置を確保した彼女は、おどけるように肩を竦め、楽しげに笑い出した。

「ふっ、はははははは! いや、本当に驚いたよ! いずれ復帰するとは思っていたけど、こんなにも早いのは想定外だ! それにさっき戦った時よりも、明らかにパワーが上がっている。君は一体何をしたんだい?」

【グガアアアアアアアアアアッ! ゴガアアゴオオオオオオオオ!】

 魚面の怪物と化したフィアは、問い掛ける星縄にケダモノの咆哮を返す。猛然と駆け出したと思えば、空を飛ぶ星縄に向けて腕を伸ばし、叩き落とさんとばかりに振るった。

 星縄はこれを後退しながら回避。納得したように頷く。

「成程、理性をかなぐり捨て、ほぼ完全に野生に身を任せた訳か。手負いの獣は危険だなぁ。ミュータントとなれば尚更だね」

【ガァオオオオオオオオオッ!】

 ぽつりとその推理を語ると、肯定するようにフィアは叫んだ。尤も、今のフィアは星縄の言葉など何一つ理解していないだろうが。

 花中はごくりと息を飲む。

 避難所の外で起きた最初の揺れ……星縄との初めての戦いで、フィアがどれほど追い詰められたかは分からない。挙句怪物の『身体』の奥に潜む、今のフィアの姿など見えもしないのだ。花中には、フィアの容態を知る術などない。

 けれども想像は出来る。悪態すら吐かず、罵声すらぶつけず、ただただ咆哮を上げるだけのケダモノ……星縄が言うように、今のフィアは理性を完全に捨て、野生の本能に支配されているようだ。痛みも苦しみも闘争心で抑え込み、強引にこの戦場に来たのだろう。

 そんな状態が身体に良い筈もない。この『野生』そのものの状態は、きっとフィアに大きな負荷を掛けるだろう。後遺症も残るかも知れない。親友がこんな無茶をするところなど、花中は見たくなかった。

 だが、だからこそ思うのだ。

 フィアは『野生生物』だ。不必要なプライドなど持たず、過剰な怯えも抱かず、本能のまま正確に敵を見定める。エネルギーの消費を嫌い、余計な消耗を無意識に避ける。

 ならばフィアの本能は、きっとこう判断したのだ。ここまでしなければ星縄を倒せない、と。例え命を削ろうとも、削るほどの覚悟がなければ何もかも失うのだと。

 それほどまでに星縄の『念力』は強力だというのか――――

「……やれやれ、こうなるとこちらとしても本気を出さないと不味いね。本気を出せば、なんとかなりそうだけど」

 花中が嫌な予感を覚えた時、星縄がぽつりと独りごちる。

 刹那、星縄の真横から放たれた『雷撃』が、緩やかな弧を描きながらフィアに直撃した。

「……え?」

【グギィ!? ギグガッ……!】

 雷撃を受けたフィアが苦しそうに呻きながら、後退りする。その様を花中は呆然と眺めるのみ。

 なんだ、今のは。

 眩い光を放ち、ジグザグの軌跡を残していく様は雷撃以外の何物でもなかった。されど雷は上から下に落ちるものであり、横に飛んでいくものではない。そもそも雷程度の電圧で、数万度もの高熱にも耐えるフィアの水が『壊れる』筈がないのだ。なのにどうしてフィアは苦しみ、後退りしている?

「ハンマーヘッドシャークのミュータントは、強力な電気を操る能力を持っていた」

 混乱する花中の耳に、再び星縄の声が聞こえる。

 あまりにも淡々とした言葉故、一度は聞き逃しそうになった。されど理性がその言葉の『意味』に気付き、見開いた目は星縄へと向けられる。

 結果、花中は星縄の周りに『石の槍』が出現する光景を目の当たりにした。

 作り出された『石の槍』は高速で射出され、フィアに直撃。核兵器すらも耐える『身体』が、なんと僅かながら砕け散っているではないか。傷跡は即座に修復するが、飛び散った『肉片』は水に戻りながら地面に落ち、少しずつだがフィアの『身体』は削れていく。

「アフリカマイマイのミュータントは地中のケイ素を自在に操り、空中などで集結させ、この槍のように射出する力を持っていた」

 星縄は淡々と語りながら、大きく両腕を広げる。

 まるで星縄に呼応するように、彼女の背後にあった大量の……数百メートル、いや、数キロにも渡る範囲の瓦礫がふわりと浮かび上がった。

 星縄は告げる。

「そしてこれは花中ちゃんの能力……『念力』さ」

 今まで使っていた力さえも、()()()()()ではないのだと。

 星縄が大きく腕を振るうや、無数の瓦礫がフィアに押し寄せる! 何万トン、何十万トンあるかも分からない質量の濁流は、フィアの巨体を着実に押していく。

【グギ……ギ……ギガアアアアア! アアアアアアアアアアアアアアアッ!】

 フィアは叫び、瓦礫の濁流を掻き分ける。だが掻けども掻けども前には進めず、どんどん後ろに下がり続けてしまう。

 ついにその身が、ふわりと浮かび上がり。

「そうそう、花中ちゃんにはまだ教えていなかったね。人間であるボクの能力は……他の生物の能力を模倣する事さ」

 己の力を明かした星縄は、力強く片手を前に突き出した。

 それは駄目押しの動き。

 浮かび上がったフィアの『身体』は瓦礫に飲まれ、ひっくり返るように押し倒される。しかし瓦礫の流れは止まらない。

 瓦礫はどんどん積み上がり、フィアを覆い隠さんとする。フィアは巨体をのたうつように暴れさせ、瓦礫を掻き分けようとして腕を振り回すが……押し寄せる瓦礫は止まらず、フィアの姿は瓦礫の山に飲み込まれてしまう。

 瓦礫はただ積み上がるだけでは終わらない。ごりごりと音を鳴らしながら横向きに動き始めたのだ。その動きはどんどん加速し、やがて竜巻のような速さとなった。まるでミキサーだ。しかも瓦礫同士がぶつかり合っても破損せずにいる事から、一つ一つの瓦礫が『念力』により守られているらしい。

 強固な守護を得た瓦礫は、加速を止めない。最早個々の瓦礫の輪郭が見えないほどの速さとなり、摩擦による静電気なのか雷撃が周囲に飛び散る。周辺の大気も巻き取っているのか、何百メートルと離れている花中ですら引き込まれそうな暴風が起こり、瓦礫を取り囲むように本当の竜巻が天に向かって伸びている。瓦礫の竜巻からは刃が如く鋭い白い靄――――衝撃波が飛び、周辺の大地に爪痕のような傷を刻んだ。

 更に回転する瓦礫の竜巻から、何か、半透明なものが飛び散る。飛び散った何かは周りで起きている本物の竜巻に飲まれ、空へと舞い上がり……やがて花中の頭にぴちょんぴちょんと『雨粒』が落ちてきた。

 花中はゾッとした。頭に落ちてきたのは雨粒なんかではない。フィアを守る『身体』の水が、瓦礫の竜巻により削り取られているのだ。

 それにこの攻撃には見覚えがある。フィアの娘であるフィリスが用いた、湿気を含んだ土による竜巻による『ヤスリ』攻撃だ。フィリスの事を知っているのか、それとも合理的判断の結果か。いずれにせよ間違いなく言える事が一つある。

 この攻撃は、フィアに対し『有効』であるという事。

 フィアを守る『身体』は凄まじく頑強で、水爆すら容易く防ぎきる。されど()()()()()()が能力を用い、硬くした瓦礫はこの頑強さを上回っていたらしい。降り注ぐ雨粒は止まず、それどころか勢いと量を増していた。

【ギ……グギガアァ! ガアアアァアァアアアッ!】

 風と瓦礫の竜巻の中心から、猛々しい、だけどそれ以上に苦しそうな咆哮が響く。時折竜巻から水触手が飛び出すが、それは渦巻く瓦礫によりすぐに切断されてしまう。中で暴れた拍子に突き飛ばされたのか、瓦礫が弾丸のように竜巻の外へと出てきても、Uターンするように瓦礫は戻っていく。

 フィアは着実に消耗している。助けないと、本当に危ない。

 だけど何が出来る? 水爆の直撃すらも耐えるフィアの『身体』を、問答無用で削り取る竜巻だ。小学生男子にも負ける身体能力では、接近するだけで粉々にされる。かといってこの身に宿った超常の力である『念力』が、一体なんの役に立つというのか。子供でも持ち上げられる程度の、ちっぽけな石さえものろのろとしか動かせないというのに。

 何時だって自分はフィア達の戦いを眺めるばかり。戦い方に口を挟み、小五月蝿く指示を出すのが精々。

 こんなしょうもない『念力』では、フィア達の手助けなんて出来やしない――――

「(……念力……?)」

 悔しがる花中の脳裏に、ふと、疑問が過ぎる。

 星縄は、模倣するのが人間である自分の能力だと言っていた。実際彼女は様々な能力を披露しており、その言葉に嘘はないと思う。

 ならば。

 ならば自分の念力は、()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 頭の中にこびり付く数々の疑問。しかしそれを考え込む時間はなかった。

 やがて瓦礫の竜巻は終わり、瓦礫達は四方八方へと飛び散る。花中を引き込もうとする風は止み、天へと伸びる本物の竜巻も消えた。雷撃も止まり、衝撃波である白い靄も消える。

 そしてそこに怪物の姿は見付からない。

 あるのは本当にちっぽけな、直系一メートルもないような水球のみだった。

「……ふぃ、フィアちゃん!? フィアちゃんっ!」

 それが弱りきった親友の姿だと理解して、花中は無我夢中で叫んだ。しかし水球はただそこに転がるだけで、なんの反応も示さない。

 それは攻撃を止めた星縄が水球に近付いても、変わらなかった。

「おお、凄い。あの攻撃を満身創痍の状態で耐えるのか。君ぐらいのサイズのミュータントなら、割と今のでやられると思うよ?」

 星縄は心底感心したような言葉を投げ掛けつつ、水球を片手で持ち上げた。水球はこれでもなんの動きも見せない。

 星縄はふわりと飛び上がり、花中の下まであっという間に飛来してくる。フィアをも打倒した星縄への恐怖から、花中の足は自然と後退りしようとするが……身体は足に反して、前のめりになっていた。

 何故なら水球の中で、横たわる親友の姿が見えたのだから。

「フィアちゃん! フィアちゃんっ!」

「うぐ……花中……さん……」

「おっと、意識を取り戻したか。素晴らしい生命力、いや、ここまで強いとちょっと怖いぐらいだね。でもまぁ、それもここまでというやつだけど」

 花中が呼び掛けると水球の中で魚の姿を晒ししているフィアは、僅かに身を起こして答える。と、星縄は感心したように目を見開き、そして意地の悪い笑みを浮かべた。

「さて、花中ちゃん。大切な友達とお別れする準備は出来たかな?」

 告げてくるのは、花中の息と心臓を一瞬だけでも止める言葉。

 花中は顔を真っ青にした。必死に首を横に振る。そんな準備は出来ていない。そんな準備はしたくない。

「おや、残念。早くしないと……手遅れになっちゃうよ?」

 だが、星縄は待ってくれない。

 星縄は水球の中に、空いている方の手を触れる。するとずぶずぶと、その手は水球の中へと侵入するではないか。弱りきったフィアには星縄を阻む力もないのか、それとも星縄がフィアの能力に干渉しているのか。原理は分からないが、そんな事は些末な話だ。

 重要なのはその結果、星縄の指先がフィアの腹に突き立てられたという事だけである。

「ぎっ……こ……の……」

「黙りなよ」

 反射的なフィアの反発に、星縄は笑顔のまま苛立ちの言葉を告げた。

 そして罰だとばかりに突き立てた指を、フィアの腹の肉を切り裂いて突き刺す。指先から鮮血が滲み出て、その傷の深さを物語る。

「がっ!? ……! ……ッ!」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

「魚も人間も、お腹の中には大切な臓器が詰まっている。このまま指を突き進めれば、内臓が傷付いてしまうね」

 わざとらしく語りながら、星縄は自らの指を苦しむフィアに少しずつ射し込んでいく。フィアは声にならない呻きを上げており、だからこそその苦しさが花中にも伝わってくる。

 内臓が傷付けられたとしても、それなりの体力さえあれば、水を操る能力を応用して傷口を塞ぐぐらいフィアならやっただろう。しかし今の疲労困憊状態のフィアにそれが出来るとは思えない。傷口を塞げず、切れた血管や臓器の縫合が出来なければ、一般的な生物と同様に致死的なダメージとなる。

 このままでは親友が死んでしまう。

 花中はこれまで人間の死は幾度となく目の当たりにした。亡くなったクラスメートもいるし、自分の身だって何度命の危機に見舞われたか事か。

 だけど今は、これまでに経験したどんな時よりも怖い。

 ずっと自分の傍に居てくれた親友が失われるなんて、自分の死よりも考えたくなかった。

「なん、で……こんな、こんな事、を……」

 突き付けられた現実が受け止められず、花中の口から出てきたのは今更過ぎる疑問。

「言っただろう? 旧人類を一掃するため……ついでに、旧人類に味方するミュータントも片付けようと思っただけさ」

 その疑問に星縄は、呆れるように肩を竦めながら答えた。

 この疑問の答えはもう聞いている。聞いているのに、また尋ねてしまった。追い詰められた花中の胸に、星縄の言葉は深々と刻み込まれる。

 悲しかった。自分の家族が、自分の親友を奪おうとする事が。

 悔しかった。何時も自分を守ってくれた親友を、自分の力では助け出せない事が。

 心の中を二つの感情が満たす。絶望に支配された花中はその場にへたり込み、身動きも取れない。半開きの口からは、なんの言葉も発せられない有り様。

 頭の中は感情で塗り潰された。論理的思考は何もない。ただただ、感情的な言葉だけが頭の中を駆け巡る。

 ……やがて、とある感情が二つの感情を押し退け始めた。

 星縄の言葉が本当か、それとも実は嘘なのか、そんなのは分からない。だけど今の星縄はあまりにも残忍で、冷酷で……身勝手な理由で自分の大切なものを奪っていこうとしている。

 それを悪だとは言わない。自然界に悪も正義もありはしないのだ。人智を凌駕する存在に至った星縄が人間から資源を奪うのも自然の摂理であり、戦いによりフィアを殺したとしたところでそれもまた野生の闘争に過ぎない。人間社会が崩壊し、再び野生が支配するようになったこの世界で、彼女は『悪い事』なんて何一つしていないのだ。

 だからこれは、私的な感情。私的な想い。

 ――――許せない。

「質問は以上かな? じゃあ、これで親友ともお別れだ」

 へたり込んだ花中を見て、星縄は何を思ったのだろうか。失望したようにも見える表情を浮かべると、花中に残酷な宣言を行う。

 それでも花中が動かず、何も言わずにいると、星縄はため息を吐き……

 星縄の指先が、フィアの身体に一際深く突き刺さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、ぷつんと、何かが花中の中で切れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 直後フィアに突き立てていた星縄が慌ただしく腕を上げた。星縄は困惑したように、フィアの肉を抉っていた自分の指を見つめ、花中を見つめ……何度か交互に見つめて、困惑した表情を浮かべる。

 星縄の意思による行動じゃない。

 しかしフィアは何もしていないだろう。もう声を発せられないほどに弱りきっているのだから。身体には星縄によって開けられた穴から血が出ていない。止血するのに必死で、他の事をする余力などない筈だ。

 けれども花中だって何もしていない。花中はただ、強く願っただけだ。

 その手を退けろ、と。

「……は、ははっ! ははははははっ!」

 しばらくすると星縄は笑い始めた。本当に嬉しそうに、何処までも楽しそうに。

 何故星縄は笑っているのか? 花中にはよく分からない。そもそも花中は、自分の状態すらよく分かっていない。自分の身体がキラキラと輝き出した事にすら、気付いていないほどに。

 勿論ちゃんと自分の身体を見れば、花中も自らの身に起きた異変を理解しただろう。しかし今の花中にそんな余裕は残されていない。一つの事に集中しているのだから。

 フィア達がムスペルをひっくり返そうと奮戦する中、必死になって応援したあの時と同じぐらい。

 今の花中は、親友を傷付ける星縄だけに意識が向いていた。

「随分と勇ましい顔付きになったねぇ。だけどそれだけじゃあボクは止められないよ。ほら、もう一度……」

 星縄は花中を嘲笑いながら、フィアに向けてもう一度手を伸ばす。その手がフィアの傷を癒やすためでなく、新たな傷口を作るためなのは明白。

 そんなものは認められない。

 だから花中は己の腕を伸ばし、その手に()()力を込める。

 ただそれだけで、フィアに迫っていた星縄の手はピタリと止まった。星縄は全身に力を込め、なんとか腕をフィアの下まで伸ばそうとするが、動く気配すらない。

 それどころか花中が伸ばした腕の手首を回すと、星縄の腕がその動きに合わせるようにフィアから遠ざかる。あたかも大柄な人間に手首を掴まれ、引っ張られるように。

「ぐっ……ぬ……う、うぐ……!? 動かな……」

「……………」

 身動きが取れずに苦しむ星縄を見据えながら、花中は自らの手をぎゅっと握り締める。

 するとどうだ。星縄の腕がメキメキと音を立て始めたではないか。

「ぐ……ぐ、く……くぅあっ!」

 星縄は水球を持っていた方の片手を、音を立てる腕に向けた。フィアを包む水球は投げ捨てられ、地面を転がる。

 星縄は『念力』を用いて、腕を襲う原因を取り除こうとしているらしい。その行動と選択は正しく、星縄の腕から鳴っていた異音は止んだ。しかしフィアは離してしまい、水球は星縄から数メートルは離れた位置に転がる。止めを刺そうとしていた動物が、拾いに行ける距離ではあるが遠くに行ってしまった。放置すれば体力と傷を回復し、また挑んでくるかも知れない。

 尤も、星縄はもうフィアなどどうでも良いのか見向きもしていない。

 愉悦に染まった星縄の眼差しが向いているのは、花中に対してだけだった。

「……ふ、ふははは! あはははははははははははっ! あっははははははは!」

「……星縄さん。わたし、今とても、怒っています」

 唐突に笑い出した星縄に、花中は静かに、けれどもハッキリと己の感情を伝える。

 それでも星縄の笑いは止まらない。ゲラゲラと心底嬉しそうに笑い続け、目に涙まで浮かべている。身を仰け反らせ、捩らせ、己の感情を上手くコントロール出来ていない様子だ。

 豹変した星縄を、花中は変わらぬ眼差しを向け続ける。しばらくしてようやく感情が落ち着いたのか、どうにか笑い止んだ星縄は、湿る目許を擦りながら花中を見た。

「許さない、ねぇ……じゃあ、どうするつもりなんだい?」

 星縄が、わざとらしく尋ねてくる。

 彼女も答えは分かっているのだろう。それを敢えて尋ねてくる理由は、今の花中には分からない。知らなくても問題なんてない。

 今の自分がやりたい事は、ただ一つ。

「わたしが……あなたの行いを、止めます!」

 憤怒に染まった赤い瞳で睨み付けながら、花中は星縄に宣戦布告をするのであった。




花中、覚醒。
親友のピンチで覚醒する展開は、ベタだけど大好き。

次回は明日投稿予定です。


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超越種8

 身体が熱い。

 この熱さが胸の中を渦巻く激情によるものなのか、それとも本当に身体が発熱しているのか。その区別はいまいち付かないし、今の花中には付ける気にもならない。そんな事が分からなくても、必要なものは全て()()()()()のだから。

 感情が爆発してから、世界が一変した。

 見える。指先から頭の中までの『全て』が。

 見える。自分を取り巻く大気の動きが。

 見える。苦労して築き上げたものが何もかも瓦解し、途方に暮れる人々の姿が。

 見える。自分だけでなく大切な人まで傷付き、けれども泣き叫ぶ事しか出来ない人々の慟哭が。

 見える。傷だらけになった今でも立ち上がり、自分の欲しいものを全力で守ろうとする親友の姿が。

 見える。

 わたしの姿を見て心底嬉しそうな笑みを浮かべている、胸の中を満たす怒りの元凶の姿が。

「……はは! ははははっ! そうか、ボクを倒すか! それはまた勇ましい事だよ!」

 星縄は大いにはしゃいでいる。一体何がそんなに楽しいのか、彼女はどうしてこんな酷い事をしたのか……疑問は残るが、今はどうでも良い。その話は()()()()()()()良いのだから。

 今やるべきは、星縄の狼藉を食い止める事。

 そしてそれを可能とする力が、今の自分の身体に宿っている事を花中は理解していた。

「その言葉がただの強がりか、確信のあるものなのか、確かめさせてもらおうかな!」

 星縄が何かを言いながら、こちらに手を向けてきた。

 瞬間、身体に感じる強い力。

 星縄が能力を使っている。どうやら花中の身体を勢いよく突き飛ばすつもりらしい。しかも殆ど手加減していないようだ。なんの抵抗もしなければ、花中の身体は時速数千キロという超音速ですっ飛ばされるだろう。言うまでもなく生身の人間がこんな速さで飛べば、その瞬間に身体はぐちゃりと潰れるし、ましてや瓦礫などの障害物に命中すれば流星の衝突と同様の破壊を周囲に振り撒きつつ蒸発する。何もしなければ花中の死は避けられない。

 そう、何もしなければ。

 花中の身体は微動だにしなかった。小学生のように小さな身体が仰け反るどころか、大地を踏んでいる足が一センチ後ろに下がる事もない。髪の毛一本揺らめかず、あたかも何も起きていないかのような平静を保っている。

 されどこれは星縄の能力が不発だった訳ではない。

 その証拠に花中の周りでは、まるで爆発したかのように大地が吹き飛び、捲れ上がっていたからだ。一瞬にして数百トンの土砂が超音速まで加速、花中の後方に吹っ飛んでいる。瓦礫も落ち葉のように飛び、舞い上がっていた。花中と花中の足下だけが、不気味なほどなんの変化も起こしていない。

 星縄の攻撃を()()()()()花中は、今度はこっちの番だとばかりに自分の片手を前へと突き出す。

 ただそれだけの動きで、星縄は音速を超えた速さで後方に吹っ飛ばされた!

「ぬお……!? ふ、はははは! ふははははははは!」

 花中からの『攻撃』を受けた星縄は、一瞬驚きと苦しみの表情を浮かべた。が、すぐに不気味なほど高揚した高笑いを上げる。

 次いで彼女は、空高く飛び上がった。

 ジェット戦闘機など比にならない超スピードの加速だ。ただの人間では一瞬にして星縄が空高い位置まで瞬間移動したように見えるだろうが……今の花中には全てが『見』えている。星縄の飛行速度が秒速十七キロ(第三宇宙速度)以上という出鱈目なものである事も、彼女が凡そ高度五十キロ地点にて静止している事も。

 どうやら自分が来るのを待っているらしい。そう判断した花中は星縄が浮遊している空を仰ぐ。

「ぐ……花中……さん……何を……」

「フィアちゃん、後で説明するよ。だから今は、休んでいて」

 水球の中で瀕死にも拘わらず尋ねてくるフィアを、花中は一旦制止する。水球の中のフィアは口を閉じ、困惑したような雰囲気を見せた。

 そんな親友に、花中は柔らかに微笑む。

 これまで何度も向けてきた、ふにゃっと蕩けたような笑み。けれどもその笑みにはこれまでにはない、確固たる『自信』が含まれていた。

「後は、わたしがなんとかするから」

 次いで花中の口から出る、確信に満ち溢れた言葉。

 次の瞬間、花中は自らの意思で大空へと()()()()()()

 文字通り瞬きする間もなく、花中の身体は高度五十キロまで上昇した。花中よりも先に高度五十キロ地点で待機していた星縄は、驚きましたと言いたげに大仰に身を仰け反らせる。その顔には今も満面の笑みが浮かんでいた。

「おお! 凄い! ボクより断然速いじゃないか! 練習も何もしていないのに!」

「……星縄さん。事情を、聞かせてくれませんか。どうして、こんな酷い事を、したのですか?」

「いやいや、それはさっき話しただろう? 新人類として旧人類が持っている資源を」

「本当の理由です」

 これまでと同じ答えを返そうとする星縄を、花中は強い言葉で牽制する。

 星縄は騙ろう(語ろう)としていた口を閉ざし、微笑みを浮かべた。胡散臭くもなくて、残忍でもなくて、喜びでもなくて。

 ほんの少しだけ、申し訳なさそうな笑みだった。

「そうだねぇ……」

 今度の星縄は少し考え込む。ただし本当に少しだけ、僅かな時間だけの話だ。

「ボクを徹底的に打ちのめせたなら、話してあげようかな!」

 星縄の返答は拒否。

 直後、星縄は超音速まで加速して花中に突撃してくる!

 『念力』により自らの身体を動かしたのだ。同時に、その身に纏う空気や身体にも能力を及ぼしている。花中の『目』はその事象を正確に捉え、星縄が何をしているのかを寸分の狂いなく理解した。

 だから止め方も分かる。

 花中は手を前に突き出す事すらしない。ほんの少し、己の能力を用いれば……星縄の正面に『空気の壁』が現れた。星縄がフィアの攻撃を防いでいたのと同じもの。

 音速の何十倍もの速さで飛来した星縄が、花中から数十センチ離れた位置で壁と激突。花中との接触が敵わなかった星縄だが、しかし彼女の笑みはまだ崩れない。それどころか好奇心を一層強めたような、イタズラを企む子供に似た感情を笑みに含ませる。

 刹那、花中が展開していた空気の壁が消えた。

 何が起きたのか? 花中の『目』は自分の身の回りで起きた事を見逃さない。

 花中の周囲から空気そのものが消えたのだ。星縄は『念力』の力で花中の周りにある大気分子全てを彼方へと押しやり、半径百メートルを真空状態に変えたようである。花中が展開した空気の壁も、壁ごと遠くに吹っ飛ばされてしまった。

 空気で壁を作るのなら、その空気を周辺から吹き飛ばせば良い。なんとも強引であるが、極めて合理的な方法でもある。それに完全な真空状態は生身の人間にとって極めて危険だ。酸素が存在しないため窒息するのは勿論、体表面の水分が蒸発して深刻なダメージを受ける。

 ところが花中の組織は乾燥する事はおろか、酸欠で苦しむ事もない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 平然とし続けている花中を前にして、星縄は驚きも何も覚えていない様子。ここまでは予想通りと言いたげな反応だ。

 当然だろう。花中だけでなく、これだけなら星縄にも似た芸当は出来る筈なのだから。例え、その根本的な方法は違っていたとしても。

「ならこれはどうかな!」

 空気のない中で()()()()()()()、星縄は能力を発動。

 花中達から更に数百メートル離れた地上から、何かが飛び上がる。花中が『目』で確認してみれば、それは小さな『機械』のような人工物……一辺十センチ程度の四角い金属塊だと分かった。

 ただの人間には、少なくとも外から観察するだけではこれ以上の事など知りようがないだろう。しかし今の花中であれば、その機械がどんなものであるかも分かる。例えば内部に……『ウラン』と『三重水素』があるという事も。

 超小型水素爆弾。

 つまり飛んでくる四角い機械は、手のひらサイズの水爆という事だ。よもやこんな小型水爆が実用化されていたとは。星縄がどうやってこの超兵器を入手したのかは不明だが、今は問い詰めている暇などない。

 小型とはいえ仕組みとしては通常の原水爆と同じく、ウランによる核爆発で三重水素を核融合させ、莫大な熱を生み出すというもの。中心温度は数億度に達し、一瞬にしてあらゆるものがプラズマと化す。総出力はちっぽけなものだが、局所的には十分な破壊力である。ましてや四方八方、全方位から起爆させられたなら、かなり()()()

 『念力』で小型水爆を弾き返せば……一瞬そう考えたが、これは出来ない。此処は避難所近くの上空だ。弾き返した小型水爆が避難所の上に落ちようものなら大惨事になってしまう。それに爆発すれば核融合の起爆剤として使われた放射性物質が拡散し、避難所の人々に放射線被害が生じかねない。爆発を起こせば反応と高熱により大半の放射性物質が『崩壊』するので、実のところ放射線被害は左程広範囲には広がらないのだが、それでも避難所から十キロは離さなければ不味い。

 どうするべきだ? 花中は己の頭をフル回転させて策を練る。されど花中が感知した小型水爆はどれも音速を超えた速さで飛んでいた。花中の下まで飛んでくるのに一秒と掛からない。

 瞬きする間もなく、小型水爆は花中の至近距離まで接近。全方位から飛んできたそれが花中の周り一メートル内に入った

 瞬間、小型水爆はその姿を消した。

 文字通り消えた。跡形もなく、痕跡すら残さずに。

「――――何」

 これには星縄も驚きを示した、のも束の間の出来事。

 何故なら星縄が驚いてから間髪入れず、彼方より放たれた閃光が星縄の目を刺激したのだから。

 星縄は花中に向けていた視線を、無意識といった様子で閃光が放たれた方へと移す。

 その方角にはもう、強烈な閃光は見当たらない。けれども空を飛ぶ花中達から数十キロは離れた位置の、高度百キロほどの高さに漂う灰色の煙は確認出来た。幅数キロにも渡って広がる煙は、その煙を生み出したエネルギーの大きさを物語る。

 小型とはいえ『核兵器』でもなければ、あのような爆発の痕跡は残せまい。

 それは花中の至近距離まで接近し、されど忽然とその姿を消した小型水爆が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()事を意味していた。

「おいおい……一体、君は何をしたんだい?」

 星縄が呆気に取られた様子で尋ねてくる。

 もしも『念力』でただ飛ばしただけなら、忽然と消えるようなスピードは出せないだろう。あの力は高速で物を動かすのには向いていない。精々星縄が花中の傍まで小型水爆を運んできた時のような、音速を超える程度が限度だ。

 されどミィのような凄まじい怪力で投げたのなら、機械なんて空気抵抗により簡単に壊れてしまう。あの力も『物を高速で動かす』という点では実のところ全く向いていない。

 念力でもない。怪力でもない。ならばどんな力で、小型水爆を遙か彼方まで瞬時に移動させたのか?

 無論花中は何が起きたか知っている。小型水爆を遙か彼方まで飛ばしたのは、花中自身なのだから。

 だから花中はありのまま答えた。

「ちょっと、亜光速まで加速させただけです」

 自分のした事など、大したものではないとばかりに。

 星縄は目を丸くし、それからにやりとした笑みを浮かべた。されど頬からは冷や汗と流れている。

 花中の告げた話がジョークや例え話ではないのだと、ちゃんと理解してくれたようだ。

「それなら、これはどうかな!」

 しかし未だ戦いを諦めた訳ではない。星縄は大きく両腕を広げる。

 すると数十キロも離れた足下の地上が、唸り声のような音を奏でた。

 続いて地上にて起きたのは、地上を埋め尽くす無数の瓦礫が浮かび上がるという異常事態。瓦礫は音よりも速く飛行し、星縄と花中が浮かぶ高さまであっという間にやってくる。その量は、星縄の背後数十キロに渡って瓦礫の雲が出来るほど。

 花中はこの光景を既に見ている。自分の前に広がる光景が、最初に見た時のものより遙かに巨大である事もすぐに理解した。

 フィアの防御を打ち破り、瀕死に追い込んだ『竜巻』。星縄はあの恐るべき力を自分に放とうとしているのだと、花中は予感する。

 予感は的中した。

「行けっ!」

 星縄の掛け声に合わせ、浮かび上がった無数の瓦礫が花中目掛け押し寄せる!

 瓦礫は瞬く間に散開。物量に任せて花中を包囲し、全方位から迫り来る。空を飛んで逃げようにも、瓦礫の量があまりに多く、小柄な花中が抜け出すほどの隙間もない。

 無論ただ取り囲むだけで済むなら、今の花中の身体ならば恐れるに値しないが……星縄は両手に更に力を集めた。

 星縄の力に呼応し、花中を取り囲む瓦礫達が渦を巻くように動き出す。『念力』により守られている瓦礫達は、超音速で蠢いても決して砕けない。渦は外の空気を引きずり込み、時には吐き出し、包囲網の中の気圧を滅茶苦茶に乱高下させる。花中との距離を詰めるほど瓦礫同士の密度が上がり、擦れ合いから生じた静電気が束となって雷撃へと変化。一撃で人間を炭化させる電流と雷鳴が辺りを飛び交う。おまけに瓦礫同士がぶつかり合った際の摩擦熱の影響か、気温までもが急激に上がり始めた。

 フィアを倒したものと同じ、恐怖の災厄。それが花中にも襲い掛かろうとしている。

「さぁ、これをどうやって、切り抜けるんだい!?」

 その様を前にした星縄は、好奇心を露わにしながら両手を強く握り締めた

 時には、花中は既に星縄の背後に立っていた。

「……え?」

 星縄が呆けた声を漏らした、その頃になってようやく瓦礫の渦は収縮する。一秒と経たずに瓦礫は密集し、数平方キロメートルに散らばっていた瓦礫達がほんの数百メートルの『塊』となった。あれほどの高密度と質量、更に雷撃や熱で絶え間なく削られたなら、水爆すら耐える防御が破られてもおかしくない。

 中に誰かが居ればの話であるが。

「三手、遅いですよ」

 花中が声を掛けると、星縄は音速に等しい速さで後退。一旦距離を開けようとする。

 けれども移動した先には、既に花中が漂っていた。星縄の目の前には()()()()()()()()()()()にも拘わらず。

「なっ!? え、な……!?」

「ですから、遅いです」

 振り向いた瞬間浮かべていた笑みを完全に消し、ただただ驚愕している星縄を花中は煽る。しかし星縄は激昂などせず……たらりと、額に冷や汗を流すのみ。何度か後ろを振り返るが、もうそこに『最初』の花中の姿はないというのに。

 今この時、花中は一人だけ。

 一人だけにも拘わらず、星縄は大きく仰け反りながら後退。ひっきりなしに視線をあちこちに動かし、先程までとは比にならないほどの警戒心を露わにしている。軽口ばかり叩いていた口は、くしゃくしゃに歪んでいた。

 星縄の心を見通すような力は、花中には備わっていない。

 だが表情を引き攣らせながら右往左往し、その身を大きく仰け反らせた姿は、明らかに恐怖心を抱いていた。得体の知れない存在を前にして、自分の行いを後悔しているようにも見える。

 花中はそれを申し訳ないとは思わない。大切な、一番の親友を傷付けた彼女がとても自分を怖がったのなら、それはむしろ本望というものだ。

「『遊び』は終わりましたか? なら、今度は……わたしの番ですよ」

 そして花中の怒りは、こんなものでは収まらない。

 花中が星縄を睨み付けた瞬間、星縄の周りに突如として『金属の槍』が無数に現れる!

「っ!? な、これはっ……!?」

 驚く星縄だったが、暢気に感想を漏らす暇を与えるつもりなど花中にはない。

 ――――行け。

 花中の意思に答え、『槍』は星縄目掛け射出される! 音速の数十倍という速さで迫り来るそれは、星縄の胴体を正確に狙っていた。

 星縄は素早く腕を上げ、空気の壁を作り出す……が、『槍』は壁にぶつかるや回転を始め、壁を貫かんとする! 星縄は慄くように仰け反り、壁をぶち抜いた『槍』を辛うじて回避。

 されどこれはまだ一発目。

 星縄を狙う『槍』は、まだあと二十三本残っているのだ。立て続けに二本の槍を放ち、それらも壁を貫通。星縄はこれも躱すが、頬にうっすらと切り傷が出来る。

「ぐっ! こ、のおおおおおっ!」

 三本目の『槍』が頬を掠めた瞬間、星縄は猛々しい叫びを上げた。握り拳を作り、身体を大きく反らして力を込めれば……周辺の気温が一気に上昇し始めたではないか。それも数十度なんてものではなく、何百度、何千度もの超高温だ。

 恐らくはミリオンの能力の模倣か。星縄を狙う『金属の槍』は高温により溶け、液体となって大気に飛び散る。無論その液体は数千度に達しているのだが、真っ正面から灼熱の液体を浴びても星縄は平然としていた。どうやら物理的衝撃がなければ、なんとでもなるらしい。

 このままでは星縄にダメージを与えられない。

「止まれ」

 だから花中は、発した言葉と同じ事を念じた。

 その瞬間、世界が凍結する。

 星縄が数千度にまで加熱した大気が、刹那のうちに絶対零度まで下がったのだ。

 星縄は身を反らしたまま、凍結していた。固体化した酸素により全身が青く染まり、吼える女性の彫像のように固まる。

「……っ……ぬああアアアアアアッ!」

 しかしながら大気を加熱したように自身を加熱した星縄は、自力で凍結を解除出来た。激しく熱せられた星縄の身体からは朦々と煙が立ち昇り、力の加減を誤ったのか所々肌が焦げ付いている。半分自爆のようなものであり、星縄の負ったダメージは決して小さなものではない。

 対する花中はこの絶対零度の空間の中で、凍り付く事もなく平然と浮遊している。身体が焦げる事は勿論、眉一つ動かさない。

「っ、だったらこれはどうだい!?」

 淡々としている花中に向けて、星縄は突撃。どんどん距離を詰めてくる。

 ついに花中と肉薄した星縄は、花中の両肩に掴み掛かり、そのまま押してくる!

 花中の身体は後退……否、地上に向けて押し出された。このまま星縄に押され続ければ、いずれ大地に激突だ。

 星縄のパワーは凄まじく、まるで流星のようなスピードとエネルギーを有していた。『念力』で自身の身体を強化したのか? 違う、あの力ではここまでの怪力とスピードは出せない。

 ミィの能力を模倣したのだろう。恐らくは『念力』により空気を固め、その固めた空気を圧倒的身体能力の蹴りで打ち出した……といったところか。星縄の体重は人間レベルなので、超高重量を誇るミィほどのパワーは出せない筈だが、しかしそれでも驚異的な力だ。地上に叩き付けられたなら、その衝撃により巨大なクレーターを生成し、大量の粉塵を巻き上げるだろう。

 それはきっと、今は遠くに逃げている避難所の人達、そして近くで弱っているフィアにとって恐ろしい衝撃となる。

 ならば、むざむざ叩き付けられる訳にはいかない。

「……むぅっ」

 地上まであと数百メートル。その地点で花中もまた星縄の腕に掴み掛かり、前に進もうとする。

 ただそれだけで、今度は星縄が花中に押される番となった!

「なっ!? 何、ぐぅ!?」

 押し返された星縄は呻きを漏らし、上空三十キロまで一気に持ち上げられた! そこで花中は一旦星縄を解放し……空中でくるりと舞うように、星縄にキックをお見舞いする。

 これまでの花中なら、渾身のキックをしたところでちびっ子一人泣かせられなかっただろう。

 しかし今の花中の蹴りは、自分よりずっと大柄な星縄の身を高度百キロに存在する熱圏まで打ち上げた!

「がふっ……この……!」

 『念力』により空中で方向転換した星縄は、再度花中目指して突撃

 したのも束の間、瞬きする間もなく目の前にやってきていた花中を見て僅かに硬直した。

 その隙を突き、花中は星縄を思いっきりビンタをお見舞いする! 子供一人泣かせられなかったへっぽこな掌は今、高高度を飛行する超生命体を地上目掛けぶっ飛ばすほどの打撃力を有していた! 星縄の身体は大気を切り裂き、音よりも何十倍も速く飛んでいく!

 直撃すれば大地を砕き、地域の環境すらも変えかねない攻撃。星縄は止まる事も出来ず、地上に叩き付けられた。

 だが、爆風も衝撃波も生じない。

 まるで落ちてきたのがただの小石の類であったかのように、星縄の墜落は音も震動も起こさなかった。地上では砂埃一つ舞わず、静寂が保たれている。

 されどそれは星縄が無傷である事を意味しない。

「ぐぎ、が……あが……!?」

 地上と背中から激突した星縄は、白目を向きながら痙攣。己の身に受け、駆け巡るエネルギーに苦悶の表情を浮かべる。

 これでも死には至らず、数秒ほどで

立ち上がるまで回復したが……やがて星縄は膝を付き、息を乱す。明らかにダメージが回復しきれておらず、消耗していた。

 対して花中は、熱圏からふわりと舞い降り、悠々と着地する。表情こそ硬いが、これは星縄への怒りによるもの。まるで八時間たっぷり睡眠を取ったかのように、身体で感じる疲労はない。

 花中は星縄と向き合う。星縄も花中と向き合う。

 このまま戦いを続けても、勝敗は覆りそうになかった。

「まだ、戦うつもりですか?」

「ああ! 戦うさ! こんな、こんな程度でボクを止められると思うかい!? まだまだこんなものじゃない! まだ、こんなものじゃ……」

「いいえ、あなたの力は『こんなもの』です」

 闘志を剥き出しにする星縄に、花中が告げたのは冷淡な侮蔑。

 星縄は悔しそうに歯噛みし、なんの反論もしてこない。出来る訳がないのだ。その『事実』を理解した花中に言ったところで、負け惜しみにしかならないと分かっているが故に。

 あらゆる能力を模倣する。

 聞けば、確かに凄まじい能力のように思える。しかし世界とはそんな万能を許すようには出来ていない。

 なんらかの能力を得るには、独自にして専門的な器官が必要なものだ。空を飛ぶためには翼が、土の中を掘り進むには硬くて鋭い爪が、水の中を泳ぐには大きなヒレが。そのような器官を持たない生物が力を真似たところで、そのための身体を持つ生物種には到底敵わない。形を変えて真似すれば匹敵はするだろうが、あくまで匹敵するだけ。しかも獲得した形質によっては、別の能力が使えなくなる事も起こり得る。飛行するための病的な軽量化と、強靱なパワーを得るための充実した高重量化が、両立不可能であるように。

 即ちあらゆる力を使えるという事は、()()()()()()()()()()使()()()()という事になるのだ。実際星縄が模倣した力は、ミィほどの怪力はなく、ミリオン未満の高熱しか発していない。フィアを捻じ伏せる事が出来たのは、フィアの本体よりも星縄の方が遙かに大柄で、故にパワーで大きく上回っていたからに過ぎないのである。

 事実星縄の『念力』は、今の花中の『念力』には遠く及ばない。それこそが花中の推測を裏付ける証拠だ。勝てる相手は自分よりずっとパワーに劣る、遙かに小さな相手だけ。自分より大きなものには為す術もなく、逃げ惑う事しか出来ない。

 こんなのが『万物の霊長』の能力とは、片腹痛いにも程がある。

「……ああ、そうさ。これがボクの、人間の限界だ」

 花中がそんな侮蔑の眼差しを向けていると、星縄がぽつりと呟いた。

「だから! だから君の力を見せてもらうんだ! 今ここで! ボクを、人間を超える力というものを!」

 そして堰を切ったかのように、叫びながら語り掛けてくる。

 どれほど大きな声だとしても、ただの叫びでしかない。衝撃波なんて飛んでこないし、脳の神経を弄られるような感覚もなかった。

 だけど……必死な想いが込められた言葉は、『超生命体』と化し、どんな攻撃も平然と受け止めてきた花中を後退りさせる。

「星縄、さん……あなた、は……」

「見せてみろ! 君の本気を! それを見るまで、ボクは倒れる訳にはいかない!」

 星縄の想いを知ろうとする花中だが、それを拒んだのは星縄自身。星縄は全身からオーラのようなものを発し、すると大地が地響きと共に揺れ始めた。

 この辺りの土地を、完膚なきまでに破壊するつもりか。

 花中の本気を見るためなら、本当にどんな事でもするつもりのようだ。きっと言葉でどれだけ説得して、泣き叫んで懇願しても、星縄は止まってくれない。半端な力で『無力化』しても、星縄は『気合い』で何度でも立ち上がるだろう。

 彼女を止めるには、本気を見せるしかない。

 揺れる世界の中で、花中は大きな息を吐く。ほんの数秒だけ俯き……再び顔を上げた時、花中は覚悟を決めていた。

 見せよう、自分の本気を。それ以外で星縄が納得してくれないのならば致し方ない。

 『本気』を見せるために、花中は星縄から自分の周りへと意識を集中させた。周りの景色すら見えなくなるほど集中すると、新たなもの――――自分を取り囲む『元素』が見えてくる。

 物に触れる事なく動かす。

 それは言葉にすれば、なんともちっぽけな印象を受ける能力である。星縄ほどのパワーがあれば強大に思えるだろうが、大出力レーザーを放つ能力や、物質を吸収する能力と比べれば些か『地味』だろう。

 しかし念力の本質は、決して地味なものではない。

 触れずにものを動かすとは、即ち万物を構成する『粒子』に干渉するという事。分子だろうが原子だろうが、素粒子も何もかも操るという事に他ならない。

 それは即ち、『なんでも出来る』事を意味する。

 物体の粒子を動かせば、物を空中浮遊させたり、遠くまで吹き飛ばせる。原子の結合を弛めればプラズマと化し、或いは陽子の数を弄くり回せばどんな元素も自在に生み出せる。粒子の運動エネルギーである『熱』だって花中の支配下だ。自らの構成元素を操れば、その身を無敵の強度まで高める事も可能である。

 更には肉体を粒子レベルまで分解して亜光速で飛べば、傍目には『瞬間移動』したかのように見えるだろう。或いは身体の一部だけ別の場所に飛ばし、人の形を形成させれば、分身のような真似事だって出来る。

 自分以外の生物を構成する元素は生物の意思により動かされるため、『捕捉』も『予測』も出来ず、直接は操れないが……そうでない物質なら、どんなものでも思うがままだ。万物を生み出し、破壊し、操るこの力は、神の力と呼ぶに値する。

 そして神の力を最大限活用するには、最もシンプルな形で()()()()のが一番。

 花中は真っ直ぐ、己の指先を星縄へと向けた。

 次いで全神経を周りの『観測』に費やす。今の花中の『目』には全てが見えているのだ……大気中を自在に飛び回る大気分子の軌道も、飛び交う素粒子の軌跡も。

 それらの動きを、能力によりほんの少しだけ変える。

 分子も原子も素粒子も、花中の指先に集結する。本来ならばあり得ない密度まで集結した粒子達は、互いにぶつかり合い、その運動エネルギーを与え合う。運動エネルギーの流れもまた能力によりコントロールすれば、ある特定の粒子だけがどんどん加速していく。

 個々の粒子はとても小さく、軽量だ。だから例え光速の九十九パーセントまで加速したところで、精々遺伝子を数個破壊して発ガン性を高めるのが限度。単発では人間相手に知覚出来るダメージを与える事すら叶わない。

 だけどその粒子の数を増やせば?

 その粒子を絶え間なく放ち続ければ?

 ……それは亜光速で衝突する質量攻撃と変わらない。人類が生み出したどんな兵器・科学技術よりも強烈な『攻撃』であり、それでいながら全力で石を投げ付けるのと同じである『野性的』な力。

 そして花中の指先は煌々と光り輝いたまま――――星縄に向けられた。

「……素晴らしい」

 ぽつりと、星縄が独りごちる。

 花中の耳はその声を聞き逃さない。

 その上で花中が選んだのは、

「これで、止めです」

 己の力を星縄に見せ付ける事。

 花中の意識に連動し、集結した粒子が亜光速で、同じ方向に進み始める。花中が撃ち出した粒子は莫大な運動エネルギーにより直進先の大気分子や素粒子を弾き飛ばし、弾き飛ばされたそれらは衝突時の衝撃で崩壊。エネルギーを光や熱という形で放出し、眩い輝きとなって亜光速粒子の軌跡を縁取る。

 と、小難しい言葉で飾ったが、要約すれば『直径数メートルほどまで拡散する極太の光線』。

 花中の指先から放たれたそんな光の濁流は、星縄の全身を易々と飲み込むのであった。




覚醒花中ちゃん、とってもお強い!
……でもこれ、最終章じゃないのよね。強キャラというのは次章で大概、いや、うん。

次回は明日投稿予定です。


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超越種9

「うぐあああああああ! ぐが、が、がああああああああああああああ!」

 星縄の絶叫が、遥か彼方まで響き渡る。

 花中の指先から放たれた粒子の濁流は、ほんの二~三秒で止まったが……花中は自らが放ったエネルギーの総量を具体的に理解していた。

 凡そ十ペタジュール。

 これは長崎に投下された原爆の百倍以上のエネルギーである。ムスペル襲撃前の人類であれば長崎原爆の百倍程度の威力を持つ水爆など苦もなく開発出来る代物であり、フィアは更にその十倍以上のエネルギー量を誇る攻撃から平然と生存したが……花中が撃ち出した『粒子ビーム』はほんの数平方メートル程度に集中している。半径数キロに拡散してしまう水爆など、単位面積当たりの威力では比べものにもならない。

 花中と同系統の能力があるとはいえ、星縄にとっても危険な一撃だった。そう、とても危険な一撃。

 けれども死には至らない水準の筈。

「う、ぐ、くぅ……!」

 ()()()()()()()星縄は膝を付き、両手を地面に付けて身体を支えようとする。されど叶わず、星縄は崩れるように倒れ伏した――――が、絶命には至らなかった。

 花中は己の『目』を用い、星縄の状態を観察する。

 星縄の傷はかなり深い。星縄は『念力』によりなんとか花中の攻撃の軌道を変えようとしていたが、量があまりに多過ぎて処理しきれず、高出力粒子の直撃を受けてしまった。高エネルギーを纏った粒子というのは、実態としてはレーザー光線と大差ない。星縄の表皮のタンパク質は高熱で焼かれたのと同じように変性し、正常な機能を喪失していた……要するに火傷だ。『目』を用いて粒子レベルの診断など下さなくても、服が溶けて全裸になり、露出した肌の大半が黒ずみ、焼け爛れている姿を目にすれば、誰だって星縄の受けた傷が致命的なものと理解出来るだろう。

 放置すれば間違いなく、星縄の命は潰える。

 今はまだ潰えていない命が、消えるのだ。

「……………」

 攻撃を終えた花中は、足早に歩き出す。

 花中が向かった先は、その場に力なく倒れ伏している星縄。あと三歩も近付けばそのボロボロの胴体を踏み付けられるぐらい距離を詰めると、花中は無言のまま星縄に手を向けた。

 星縄はまだ生きている。

 フィアに酷い事をして、みんなで一生懸命作った避難所を滅茶苦茶にして、避難所の人々を傷付けて……そんな星縄に対する怒りは筆舌に尽くし難い。

 もしもここで念力の一つでも使えば、星縄への止めはすぐに刺せる。此度の元凶を終わらせる事が出来るのだ。

「……えい」

 だから花中は能力を用いる。

 変性した星縄の表皮の分子を、元のタンパク質へ戻すという形で。

 星縄が模倣した、『物質を触らずに動かす』程度の能力では怪我を癒やす事など出来ない。しかし花中の『粒子を操る』能力ならば可能だ。死んだ細胞の分子構造を、生きていた時と同じ状態に作り替えれば……生命活動は再開される。

 それは部分的な死者蘇生と変わりない。

 以前の花中ならば、もしくは多くの人間達は、これを『神の御業』と呼ぶだろう。しかし今の花中はそう思わない。生命を特別な存在だと思うのではなく、ある種の化学反応の連鎖であると考えれば、火傷した皮膚の再構成なんてものは錆び付いた鉄を加熱するのと大差ないのだ。

 皮膚の分子構造を修復し終え、花中は星縄に向けていた手を下ろす。先程まで倒れ伏していた星縄はぴくりと動くと、ゆっくり、その顔を上げる。

 何時も胡散臭い笑みばかり浮かべていて、先の戦いでは狂乱したように喜んでいた顔は今、困惑で染まりきっていた。

「……なんで、助けたんだい?」

「ちゃんと、話を聞かせて、もらっていませんから。星縄さんが、何故、こんな事をしたのか……知らないまま、倒すなんて、出来ません」

「なんとまぁ、花中ちゃんらしいというか、お人好しというか」

「お人好しで、結構です。わたしは、こういう性格ですし。それに」

「それに?」

「……今のわたしなら、星縄さんが何かしてきても、返り討ちに出来そうなので」

 きっぱりと自分の方が『格上』だと伝えてみる。

 変な事を言ったつもりはない。先の戦いでも終始優勢を保っていたし、星縄の力量は『目』を通してよく理解している。負ける要素がない、とまでは言わないが、真面目に戦えばなんとでも出来るという確信があった。

 なので自分の意見を正直に伝えただけなのだが、星縄はキョトンとした表情を作る。次いでゲラゲラと、愉快なものでも見たかのように大笑いした。

「あっはははははは! そうか、ボクなんか簡単に返り討ちか! なら助けても問題ないよね! あはははははははは!」

「……星縄さん」

「あはははは! いや、すまない。ちょっとばかり、嬉しくなってね」

「嬉しい? えっと、どういう、意味ですか?」

「そうだね、これを話さないのはちょっと良くない。いやぁ、殺されてもかまわないとは思っていたけど、正直ここまで一方的にやられるとは思わなかった。遺言の一つぐらいは残せると踏んでいたのに、これは嬉しい想定外だよ」

 ぶつぶつと楽しげに、星縄は一人で話を盛り上げていく。

 その反応が、花中には『不気味』に思えた。星縄から不意打ちを喰らっても大したダメージにならないという自信が今の花中にはあるが、ちょっと心理的に受け付け難い。ニヤニヤと浮かべている笑みの胡散臭さが、そんな精神的不快さを助長している。

 だけどそれは、何時もの星縄らしい顔でもあり。

 自分の知っている星縄が戻ってきてくれたのだと、花中にはそう思えて少し嬉しくなった。全身から力が抜け、花中の顔には自然と笑みが戻る。

 だけど、このまま仲直りして、じゃあさようなら、とはいかない。

「……どうして、こんな事をしたのですか?」

 まだ星縄には、避難所を破壊し、フィアを傷付けた理由を教えてもらっていないからだ。

 襲撃の理由が、極めて身勝手で、残虐なものであるなら……()()()必要があるだろう。そのための力は今の花中の身に宿っているが、覚悟までは出来ていない。いざそんな理由を告げられたなら、心が『行動』を拒否して動けなくなるだろう。

 尤も、花中はその『心配』についてはする必要なんてないと思っていたが。

「一つ、先に訊かせてくれ。どうして何か理由があると思ったんだい?」

「これでも、家族として、付き合ってましたから。星縄さんの事、信用、しているんですよ。それに……」

「それに?」

「星縄さん、避難所を滅茶苦茶にした時も、人に酷い怪我させるような事は、してなかったじゃ、ないですか。フィアちゃんが、避難所に突っ込んできた時も、瓦礫が、みんなのところに飛んでいかないよう、止めていたように、見えましたし」

 尋ねてくる星縄に、花中は自分が感じていた『違和感』を正直に打ち明ける。

 確かに星縄の暴虐により、みんなで一生懸命作った避難所の施設は数多く破壊されてしまった。けれども大きな、少なくとも命に関わるような怪我をした人は出ていない。晴海や加奈子についても、気絶させられただけで生きてはいた。

 星縄の力を用いれば、避難所を丸ごと吹っ飛ばすぐらい容易い筈だ。むしろ本当に『旧人類』を根絶やしにするつもりなら、丸ごと吹っ飛ばす方が一人一人息の根を止めるよりずっと効率的かつ確実である。

 そうしなかった星縄の行動は、花中には、出来るだけ人を傷付けないようにしているとしか思えなかった。

 勿論晴海や加奈子達は攻撃を受けているし、フィアに至っては危うく殺されるところだったのだから、絶対とは言えないが……

「敵わないなぁ。そういう鋭さは、玲奈さん譲りだ」

 星縄のぼやきが、自分の感じたものが正しかった事を裏付ける。

 星縄は大きなため息を吐き、花中と向き合う。今の彼女は、何時ものような胡散臭い笑みを浮かべていない。真剣で、思い詰めたようにも見える顔付きだ。

 何か、大切な事を星縄は語ろうとしている。

 それを察した花中は、星縄の言葉に耳を傾ける。花中の心構えを雰囲気から察したであろう星縄は、淡々とした語り口で話し始めた。

「……事の始まりは、花中ちゃん、君が産まれた時だ」

「わたしが、産まれた時……?」

「そう。まぁ、君が何かをしたとか、君によって何かが変わったって意味じゃないけどね。ただ、ボクがミュータントの力に目覚めた。それだけの事さ」

 肩を竦め、本当にそこは大して重大な事ではないかのように星縄は語る。

 花中が産まれた時、花中の母である玲奈の部下だった星縄もまたお祝いにいった。

 新生児であっても脳波は発する。花中の脳波を受け取った星縄はミュータントと化した。尤も星縄は人間であるため、ミュータント化しても知能面での変化はない。精々不思議な力が……『念力』が使えるようになっただけ。

 しかし仕事の中で様々な怪物と出会い、時には自身と同じくミュータント化した存在と遭遇する事で、星縄は少しずつだが己の力を高めていった。数多の能力を会得し、困難の中で能力を極めながら、されどあくまで人間として日々を過ごしていた。

 四年前、あの事に気付くまでは。

「あれは、本当にただの気紛れだったんだ。ボク達は地球上の怪物について調査し、研究していた。だけど地下については何も知らなかった。地下を調べるというのは、一般の人が思うよりずっと困難なものだからね」

「えっと、つまりなんらかの……透視のような力を用いて、地下深くを探ってみた、という事ですか?」

「その通り。最初はね、純粋に感動したものさ。地下深くには多数の怪物、その怪物を支える巨大な生態系が出来ていた。地熱という太陽光さえも凌駕するエネルギーを糧にして作られた生態系は、探っていて心が弾んだものさ……地球の、一番奥底まで見るまでは」

「地球の、一番奥? 何があったのですか?」

「花中ちゃんも見てみると良い。ボクでも出来たんだから、今の花中ちゃんなら地球の最深部を観察するなんて簡単な筈だよ」

 尋ねると、星縄は地面を指差しながらそう答える。

 星縄の予想通り、花中の身に宿った粒子操作能力を応用すれば、地中深くを観察する事はさして難しくない。『見』るだけで分かるものなら話してもらうよりもその方が早いと思い、花中は言われるがまま地下深くに意識を向ける。

 地下に広がる粒子の流れ。能力の応用によりその動きを頭の中で構築すれば、目の前にその景色が広がるかのようにイメージ出来る。マグマが激しく動いていたが、これは地熱による対流だけでなく、大きな生命……ムスペルだけではない。ムスペル以外にもたくさんの生命が泳いでいる……の動きにより生じたものだ。何かが何かを捕食したり、或いは何かが何かを産み落としている。

 途方もない数の生命が自然界を生き抜こうとする姿は、星縄が言うように『見』ていてワクワクしてくる。出来ればずっと見ていたいぐらいだが、しかし今の目的は自然観察ではない。

 花中は意識を更に地下深くへと向ける。どんどん、どんどん深くに意識を沈めていく。

 やがて花中は違和感を覚えた。

 熱くないのである。

 熱くないといっても粒子の運動量から推測するに、花中の意識が到達した場所は二千度近い高温となっているのだが……これはおかしい。花中が今能力により感知している場所は、地下五千キロ地点。地球の中心である地核、その地核の中でも外側にある外核と、内側にある内核の境界線付近だ。あくまで一説ではあるが、この辺りの温度は六千度近いものとされている。二千度というのはあまりに温度が低過ぎるのだ。

 違和感から感覚を研ぎ澄まし、更なる情報を探る。すると違和感が次々と噴出した。

 本来地殻内部は強力な放射線に満ちている。地殻内にある多量の元素が放射性崩壊を起こしているからだ。しかしその放射線が殆ど検知出来ない。加えて地殻内に含まれる鉄やニッケルから生じる筈の地磁気も殆どないではないか。

 勿論これらの知識は、現代科学から導き出した推測でしかない。地中深くの過酷な環境に送り込めるような機械を、人類はまだ発明していないのだから。所詮は想像であり、誤っている可能性はゼロではないのである。しかし現代までに蓄積した科学的事実より導き出した『学説』が、こんなにも現実と大きな乖離をしているというのも考え辛い事だった。

 何か奇妙だ。疑問は好奇心へと変わり、花中は更に地中奥深く、内核内部にまで意識を向かわせた――――丁度その時だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ひっ!?」

 本能的に感じた視線に花中は悲鳴を上げ、地球の最深部まで伸びていた意識を地上まで引き上げてしまう。

 あり得ない。

 確かに地核周辺にも多数の生命体が生息していたが、今の視線は何かおかしかった。感じたものをなんとか言語化しようとするが、上手く説明出来ない。強引な表現を用いるなら、ティラノサウルスを前にしたネズミのような気分というべきか、おぞましいほど桁違いの『生命力』と対峙したような……

 いや、そもそもこちらの『視線』に気付くというのがあり得ない。花中はあくまで粒子の動きを探知する事で、地球内部を探っていた。例えるなら、葉の擦れる音で草むらに潜む小動物の存在を知るようなもの。草むらに何かが潜んでいたとして、どうしてそいつが花中の存在を感知出来るというのだ。

 あり得ない。絶対にあり得ない。

 こんなものが存在する筈が――――

「どうやら花中ちゃんも見付けたようだね」

 星縄が声を掛けてくれた事で、花中はようやく我を取り戻す。落ち着いてみれば、自分の身体がぶるぶる震えていると今更ながら気付く。

 正体不明を目の当たりにした恐怖から、本能的に怯えていたようだ。今の自分の力なら、ミュータントが相手でも簡単には負けないというのに。

「ボクも初めて『コイツ』の存在を知った時、とても震えたものさ。とても恐ろしい、勝ち目のない存在だからね。そしてこうも思った。もしも『コイツ』が少しでも活動したなら、地球はどうなってしまうのだろうか、と」

 星縄の言葉に、花中は思わず息を飲む。

 相手はただ『視線』を向けてきただけ。ならば花中が感じ取ったのは、地核に潜む何かが持つ力のほんの一端だろう。全体像なんてとても把握出来ない。出来ないが……感じたものを単純に百倍ぐらいしたら、それだけで地球が何もかも滅茶苦茶になるような気がした。言うまでもないが、視線に含まれている力が本体の百分の一もある筈ないのに。

「そしてボクが何度か調べたところ、そいつは少しずつだが活動を活性化させていた。或いは段々と成長していたのかも知れない。なんにせよ、そう遠からぬうちに何か、恐ろしい事をしでかすと感じたんだ。勿論そいつに人間に対する悪意があるとは限らないけど、人間が歩けば足下の虫なんて簡単に潰れてしまうように、そいつはただ動くだけで人を滅ぼしかねない強さがある。だから何かをしなければならないと思った」

「……それは……でも、どうするつもりだったのですか」

「簡単な話だ。一人じゃどうにもならないなら、戦力を補充すれば良い。とびきり大きな戦力をね」

 星縄はニコリと微笑みながらそう語り、花中の事をじっと見つめる。

 星縄の言いたい事は察せられた。

 彼女のいう『とびきり大きな戦力』とは、花中の事なのだ。

「ボクは人間のミュータントだ。他の生物の力を模倣するというのが、人間の能力……だけど花中ちゃん、君の力は違う。その力はボクでは()()()()()()()()()。単に出力が下がった訳じゃない……小規模な真似すら完全には出来なかったんだ」

「……それは、つまり、わたしは……」

「酷な言い方をするようで申し訳ないが、花中ちゃんは……正確には、人間じゃないんだろうね」

 星縄が告げる『真実』。その言葉は花中の心に真っ直ぐ突き刺さる。

「生物は常に進化している。人間だって同じだ。なんらかの突然変異か、未解明の力によるものか。なんにせよ花中ちゃんは、人間よりも進化した存在となった。種として認めるには『個体数』が足りないけど……ボクは人を超える種という意味を込めて、超越種と呼んでいる」

「超越、種……」

 星縄の言葉をオウム返しする花中に、星縄は深く頷いて肯定した。

 自分は人間じゃない。

 星縄の言葉の意味を、花中の頭はしかと理解する。超越種だの大層な名前を付けているが、結局のところ『人外』でしかない。人間を容易く殺せる、いや、滅ぼせるほどの力を有した怪物。

 化け物なのだ。人の形をしていたとしても。

 ……尤も、これを理解しても花中はあまり堪えなかったが。

「成程、そういう事でしたか。どうりで、星縄さんと、わたしの能力が、異なる訳です」

「え? あ、うん……あれ? ショックじゃないの?」

「ええ、まぁ、あまり。人間じゃなくても、わたしは、わたしですし……お母さんから、産まれたのは、間違いないんですよね?」

「あ、ああ。それは、そうだけど」

「じゃあ、大丈夫です」

 あっけらかんと花中が答えると、星縄は目を丸くして固まった。余程想定外の反応だったらしい。

 伊達に人間じゃない友達と何年も暮らしてはいないのだ。それに去年は自らを人間と思い込んでいるミュータントと出会い、『人間』とは何かについて考えている。自分が生物学的には人間じゃなかったところで、そんなのは花中にとって些末な話なのだ。

「そんな事より、話を続けて、くれませんか?」

 本心からあまり気にしていないので花中が話の続きを促すと、星縄は噴き出すように笑った。まるで、この時のために色んな返事を考えたのに全部無駄になった、と言いたげに。

「そうだね。話を続けよう。まぁ、君が人間を超える存在なのは分かったけど、花中ちゃん自身は全く普通の女の子だった。むしろ年下の子よりも貧弱なぐらいだ。ボクにも模倣出来ない力があるとは、到底思えないぐらいに」

「……確かに、へなちょこでしたけど」

「自分が人間だという意識が抑え付けているのかとも思ったけど、だとしても無意識に能力が使われている形跡すらない。そこで色々調べていたんだけど、ある日をきっかけに一つの事が分かった」

「ある日?」

「君がフィアちゃんとミリオンさんに出会った日だよ。あの日から花中ちゃんの脳の働きが、一層強まっている事が判明したんだ」

「え……え?」

 星縄の語る内容に、花中は戸惑いを覚える。

 だが、星縄は止まらない。

「そう! 花中ちゃんは、ミュータントからも脳波を受け取っていたのさ!」

 ミュータントは人間から脳波を受け取り、超常の力を振るっている。

「相互的な演算補助と言うべきだろうか。兎に角、ミュータントと出会うほどに脳が活性化していたんだ!」

 ならば人間がミュータントから脳波を受け取れば?

「勿論それでもミュータントの能力に目覚めなかったのは、花中ちゃんが一番よく理解しているだろう?」

 人間と比べれば微々たる脳波だ。効果は決して大きくない。

「だけど、もっとたくさんのミュータントと出会ったなら?」

 しかし塵も積もれば山となる。

「ミュータントと出会えば出会うほど、脳が活性化していくとすれば?」

 ミュータントは一度脳波を受け取ってしまえば、その後脳波が途絶えたとしても五年は能力を使える。

「出会って、出会い続けて、限界まで脳波を活性化させれば……」

 そう、一度の出会いだけで十分。

「ミュータントと遭遇させれば、何時か君の力が目覚める」

 繰り返す出会いの果てに、やがて自分は覚醒する。

 星縄と共に辿り着いた結論に、花中は息が止まった。自分が人間じゃないという事実よりも……今まで出会ってきたミュータントに、星縄の思惑があったという事の方がショックだった。

「……わたしが会った、ミュータントの中で、どれが、星縄さんの思惑で、会わされたの、ですか……?」

「実のところあまり多くないよ。ゴリラとラフレシアだけ。本当はもっと会わせたかったけど、君の周りには自然とミュータントが集まっていたからね。思いの外計画はスムーズに進んだよ」

「……そう、ですか」

 確かにあの二匹は、色々不自然な出会いだった。ゴリラは何故花中の前に現れたか分からないし、ラフレシアは星縄に誘われた『植物園』で出会っている。裏に星縄が暗躍していたとなれば、色々得心がいく。

 ……大半の子との出会いには星縄が拘わっていない点に、安堵しなかったといえば嘘になる。仮に星縄が裏で糸を引いていたとしても、その出会いの価値が変わる訳ではないのに。

「そうしてムスペルのミュータントとの遭遇により、君はようやく力を使えるようになった。花中ちゃんが使った力は、遠く離れていたボクにもひしひしと感じられたよ。だけど同時に、その覚醒が不完全である事も」

「だから、わたしを目覚めさせるために、今回の『芝居』を打った、のですか?」

「……そう。人を、この星を守るために、一刻も早く君には目覚めてほしかった。その力を高めれば、地球の奥深くに潜む『アレ』が何かをしても、対抗出来るかもしれないと考えたからだ」

「そのために、わたしを怒らせるために、あの避難所を、滅茶苦茶にしたのですか?」

「……そうだ」

 花中の問い掛けに、星縄は一つ一つ頷き、肯定する。

 質問が終わると沈黙が場を満たす。花中は空を仰ぎながら、大きく息を吐いた。

 星縄の目的は理解した。

 星縄が言うように、地核に潜む怪物は恐ろしいほどに強大だ。ちょっとした気紛れで人類を根絶やしに出来るだろうその存在感は、『神』と呼んでも差し支えない。なんらかの対抗手段を模索しようとするのは当然であり、時間があるか分からないなら強硬な手に出るのも頷ける。

 だけど。

 それでもたくさんの人の暮らしと、大切な友達を傷付けた事には変わりない。

「申し訳ない事をしたと思っている。だからボクの事を殺したいほど憎いのなら、好きなようにしてくれて構わない」

 一通りの話を終えた星縄は、全身から力を抜いた。感じ取れる気配からして、なんの守りも展開していない。

 花中がちょっと魔が差せば、それだけで今の星縄はバラバラになるだろう。

 星縄の言葉は、この場をやり過ごすための方便などではない。星縄は本心から、花中に殺されても良いと思っているようだ。

 だから花中は、息を吐いた。

 うっかりなんかで間違いを犯さぬように。

「……星縄さんのした事は、酷い事だと、思います」

「ああ、ボクもそう思う」

「だけど星縄さんが、本当に必死になって、悩んでいた事も、分かります」

「……………」

「だからわたしは、あなたを罰しません」

 自らの考えを告げるや、星縄は大きく目を見開いた。それから呆然としたように何度か口を空回りさせ、ややあってようやく声を絞り出す。

「ボクを、許すのかい?」

「許しません。まだ、許しません」

「まだ?」

「はい。だって星縄さん、わたしにしか謝っていないじゃ、ないですか。他にも、謝らないといけない人、たくさんいますよね?」

「……花中ちゃん……君は……」

「あと、地球がピンチの時に、一人だけ天国に行こうとするのはズルいです。のんびり隠居するなら、盾ぐらいには、なってください」

「……ぶ、ぶはははっ! ははっ! 確かに! 一人死に逃げるのはズルいか!」

 星縄は笑った。目に涙を浮かべ、ゲラゲラと、楽しそうに。

 花中も笑う。大切な人は、やっぱり笑ってくれている方が嬉しい。ましてやいなくなるなんて絶対に嫌だから。

 そう、誰かがいなくなるなんて嫌だ。

 地球の奥に何が居るのかなんて分からない。だけどそれが友達や家族を傷付けるのなら、なんとしても止めよう。例え相手が、どんなに強大でも。

 花中はそう心に誓いながら、星縄に向けて親愛の笑みを送るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おんどりゃああああああああああっ!」

 なお、その笑みは唐突に聞こえてきた雄叫びに驚いて、引き攣ったものに変わってしまったが。

「え、がぶべっ!?」

 そして星縄が無様な呻き声を上げる。

 少女の姿をした『猫』の膝蹴りを、顔面に喰らったがために。

「み、ミィさん!? え、なん」

「お待たせ花中ぁ! なんか星縄がヤバい奴で花中を虐めに来たってフィアから聞いたよ!」

「え、あ、えと、それは」

【カナカサアアアンッ!】

 「その星縄さんは自分がやっつけました」とミィに答えようとする花中だったが、背後より聞こえてくる、自分の名を呼ぶ獣の雄叫びに驚いて声が詰まってしまう。

 ぞわぞわと背筋を震わせながら振り返ると、そこには魚面をした怪物……『身体』を戦闘向きに変形させたフィアが、こちら目指して突撃してくる姿が目に映った。

 あれだけ重傷だったのに、もう回復したのか? 野生生物の途方もない生命力の産物か、はたまた『大好きなもの』を守るための執念か。フィアならばどちらもあり得そうだ。

 怪物と化したフィアは花中の下まで来ると、しかし花中を呼んだ癖に一瞥もせず――――丸太のように巨大な腕を、顔面の痛みに藻掻き苦しんでいる星縄に向けて振り下ろす!

「ぼぐぇっ!? え、あ、待って!? 本気でま、ぶぎゃっ!? おぶえっ!? げぼぁっ!?」

 フィアに制止を求める星縄だったが、フィアは一切容赦しない。何度も何度も、星縄に巨大な拳を叩き付ける。ミィもフィアが繰り出す打撃の合間を縫って、星縄に強烈なキックをお見舞いしていた。

 ……恐らくフィアは花中と星縄が戦っている最中に、花中を助けるためミィに協力を求めたのだ。行方知れずのミィだが、フィアの嗅覚ならば簡単に見付け出せてもおかしくはない。ミィにとっても花中は友達であり、襲おうとする輩は許せないと思って助けに来てくれたのだろう。

 ならば当然、フィア達は花中と星縄の決着など見ていない。

 だとすればフィア達が、未だ星縄が自分を襲おうとしているという認識だとしてもおかしくない。花中が放った粒子ビームの輝きも、星縄の攻撃と思っている可能性もある。そしてフィア達の感覚の鋭さならば、粒子ビームの力がどれほど強大なものであるかも推測出来る筈だ。

 成程、フィア達からすれば二匹で協力し、本気で叩き潰さねば負けるという考えがある訳だ。実に合理的で、尚且つ正しい判断である……粒子ビームを撃ったのが星縄だというのと、星縄との戦いがまだ続いているという、二つの大きな勘違いさえなければ。

 基本星縄が模倣した能力は、コピー元である生物よりも出力的に大きく劣る。多種多様な力で戦術を練って、やっと自身と同等の体躯の生物に互角といったところ。そして体格的に下回る相手にはめっぽう強いが、上回る相手には悲しいぐらい通じない。見た目は小柄でも実体重が数十トンに達するミィは、星縄(人間)にとって相性最悪の相手なのだ。おまけにフィアまでミィの仲間に加われば、もう本当に勝ち目などない。

 全くの無傷であればなんとか逃げ果せる事も可能だったかも知れないが、今の星縄は花中によってズタボロにされている。怪我こそ治療したが、体力的にはほぼ底を付いた状態。このままでは星縄が死んでしまうかも知れない。というか間違いなく死ぬ。

「あ、ま、待って!? フィアちゃんも、ミィさんも、ほんと待って! 一回落ち着いてぇ!?」

 神にも等しい力を手にした花中は、友達二匹の暴走に右往左往するのであった。




星縄の目論見判明。
基本善人と無邪気なものが多い世界です。
それで良い結果になるとは限りませんが。

次回は11/24(日)投稿予定です。


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超越種10

「私は知ってたわよ。最初から今回の計画については」

 あっけらかんとした顔で、ミリオンはなんて事もないかのように答える。

 その答えを聞いた花中は、目を皿のように丸くして、あんぐりと口を開けた。そのまま何秒もこのような、所謂間抜け面を晒してしまう。空にて輝く昼の日差しが、花中の間抜け面を一層際立たせた。屋外にて棒立ちする姿勢も、間抜けさに拍車を掛ける。

 見ているだけで笑えてくる姿だが、花中がそうなってしまうのも仕方ない事。

 何故ならミリオンは約二週間前の大惨事――――星縄による襲撃を()()()()()というのだから。

「……………えっ。えっと……………え?」

「私が全個体はなちゃんの傍から離れるなんて、おかしいと思わなかったの? そーいうの、私基本的にやらないでしょ?」

「え、ええ、確かに、やらないと思います、けど……え、何時から?」

「んー。聞かされたのは、私がはなちゃんのところに戻ったあの日の、三日前ぐらいかしら。確か関西で会ったのよ」

「……………」

 まるで世間話のように語るミリオンだったが、その声は最早花中には届かない。

 これまでも、ミリオンはちょくちょく『敵』に寝返っていた。

 何分彼女は目的がハッキリしている、というより目的以外の価値が極端に低い。だからその目的に沿うもの……『花中の生存』に役立つのなら、割とあっさり花中さえも裏切る。

 大方星縄は「花中ちゃんをパワーアップさせる事が出来る」とでも言ったのだろう。花中の生存を求めるミリオンとしては、花中が強くなって困るものではない。避難所が壊される事も、フィアが大怪我する事も、ミリオンにとってはどうでも良い話。これを知られて花中に嫌われても、『愛しい人』と一緒に朽ちる事が夢であるミリオンにとっては問題ですらない。デメリットがないのだから、断る理由がなかった。

 つまるところミリオンが星縄の話に乗るのは分かるし、これまでも良くある事であった。追求するほどの疑問はない。

 疑問が残るのは星縄の行動だ。

「……星縄さん、なんでミリオンさんに、協力を……?」

「ああ、それはね。勝てないから、らしいわよ」

「勝てない?」

「ええ。初めて会った時から勝てる気がしなくて、だからもう計画打ち明けて、素直に協力を仰ごうとしたとか。実際私が本気で星縄ちゃんを倒そうとすれば、まぁ、あの程度なら五秒で終わるわね」

 ケラケラ笑いながら答えるミリオンに、花中は「あー……」という、納得と達観の混ざり合った声を漏らした。ミリオンの強さはそれこそ『出鱈目』だ。微細故にどんな生物の内側にも入り込み、高熱により焼き尽くす。星縄とて人間なのだから、内臓を焼き払われてはあっさり死ぬだろう。

 一応星縄も能力により、ミリオンが持つ『熱を操る』力は使えるので抵抗こそ可能だが……個々は微細でも、存在としては巨大な群体であるミリオンは星縄よりも『大質量』だ。ミリオンの方が力の出力は上。ジリ貧、というより一気に押しやられるだろう。星縄もミリオンの『人となり』はマグナ・フロス事変で知った筈なので、応じてもらえるという算段はあったのだろう ― 逆にフィアはどう話しても協力してくれないと判断したのだろう ― が、ミリオンが言うように真っ向勝負は分が悪過ぎるというのが交渉した一番の理由なのは間違いあるまい。

 正直、今の花中でもミリオンには()()()()()()()()のだから、星縄の決断は正しいものだろう。

「そーいう訳だから星縄ちゃんの話に乗った訳。分かってもらえたかしら?」

「……ええ、星縄さんの行動については、納得です。ミリオンさんへの、不信感は、一層募りましたけど」

「あらあら、悲しい事を言わないで~よよよよよ」

 目許に両手を当て、めそめそした仕草を取るミリオン。体液なんて一滴もない癖に、と思いながら花中は肩を落とす。

 最初から見抜かれている悪ふざけは十秒と経たずに終わり、ミリオンは曲げていた背筋を伸ばす。ニコッと浮かべた微笑みは大人っぽくて、花中は自分の感情を弄ばれたような、複雑な気持ちになった。

 ミリオンはそんな花中の感情までもお見通しなのか。

「それに結果的とはいえ避難所が再建、いえ、発展したから、私だけじゃなくて人間にとっても悪いもんじゃなかったと思うけどね」

 『事実』を告げてくるミリオンに、花中は喉元まで来ていた言葉を飲み込むしかなかった。

 花中との戦いが終わった後、星縄は避難所の人々に謝罪をしている。

 勿論「ごめんなさい」の一言で済むような状態ではなく、誠意として周辺の整備と崩壊した建物の再建も行った。『念力』で数十キロ圏内の瓦礫を持ち上げられる星縄にとって、ボロ小屋数十棟とオンボロ食堂を建て直すなど朝飯前。避難所は完璧に再建され、星縄が訪れる前の姿を取り戻した。むしろ周辺整備という『おまけ』を付けられ、大半の人々は星縄を許したのである。

 ちなみに許さなかった人達は、傷付けられた晴海や加奈子の両親だ。それはもう仕方ない事だと、星縄も受け入れている。

「やほー、大桐さん。あ、ミリきちも居たー」

「おかえりー」

 そして傷付けられた当人である加奈子達は今、こうして花中達を見たら話し掛けてくるぐらい回復していた。

「あ、小田さん、立花さん。どうもです」

「ただいま。二人とも元気みたいね」

「まぁねぇー」

「ミリオンは……えっと、今話を聞いているところかしら?」

「ええ。星縄ちゃんが此処を襲撃して、はなちゃんが凄い力に目覚めたのでしょ? もう色んな事がいっぺんに起きて、頭がパンクしそうよ。二人とも怪我したって聞いたけど、思ったより元気そうで安心したわ」

 話し掛けてきた晴海達に、ミリオンはいけしゃあしゃあと答える。力も知恵も恐ろしいミリオンだが、演技力も恐ろしいから手に負えない。「この人最初から全部知ってますよ」とバラしてやろうか、とも思う花中だったが、バラしたところでミリオンはへっちゃらだろう。その平静ぶりを見たら逆にこちらが疲れそうなので、花中は泣き寝入りする事とした。

「そうそう。訊きたかったんだけど、星縄ちゃんは今何処に居るの? 牢屋かしら?」

「そんなもんで閉じ込められるなら、あんな怖い目には遭ってないわよ……なんか、大桐さんの両親を探す旅に出るみたい」

「インドネシアらしいよー」

「あら、そうなの? ふぅん」

 晴海と加奈子に説明され、どうやらその点については本当に知らなかったのか、ミリオンは納得したようにぼやく。

 晴海達が答えたように、星縄は今、本当に花中の両親を探しに行っている。インドネシア諸島に居る、という情報そのものは本当だったらしい。そして怪物とミュータントだらけで、例え全盛期の人類が全戦力を投じても突破不可能である事も。しかしミュータントである星縄ならば、怪物は勿論、ミュータント相手でも簡単には負けない。単身で花中の両親を探す事は可能だ。

 勿論花中も両親の安否は心配である。故に星縄に付いていこうとしたが、星縄により止められた。帰る場所を守る人がいなくてどうする? という理由からだ。

 ……きっと、『万一』を想定して花中を現場から遠ざけたのだろう。やはり星縄さんは大人のお姉さんだと花中は思い、大人しくその意見を受け入れ、此処に残っている。ちなみに二週間経っても星縄が戻らないあたり、捜索は難航しているようだ。良い結果も、悪い結果も含めて。

 分からないというのは、とても不安になる。胸がざわざわして落ち着かない。今にも衝動が爆発して、星縄の後を追い駆けたくなる。

 それをしないのは、一番の友達の存在が大きい。

 星縄との戦いで大きな怪我を負い、それでも自分を助け出すために戻ってきてくれた――――

「かぁーなかさんっ!」

 背中にこっそりと近付き、抱き付いてきたフィアの存在が。

 肩からお腹の辺りを抱えるように伸びてきたフィアの腕を、花中もぎゅっと掴んで抱き締める。ミュータントの力に目覚めたからか、なんだか最近やたらとフィアに親近感が湧いて、花中は殆ど無意識にフィアとべったりしてしまう。自覚しても恥ずかしくも思わないので、そのままべったりは続行だ。

 花中は顔を上げ、大切な友達に嬉しさ満天で蕩けた笑みを見せた。

「ふふっ。おかえり、フィアちゃん」

「ただいまでーす。今日は中々大きくて美味しそうな白饅頭を捕まえてきましたよー」

「あら、さかなちゃんおかえり。大怪我したんですって? 大変だったわねぇ」

「あん? ああミリオンあなた帰ってきていたのですか」

 花中に抱き付く事しか頭になかったのか、今更ミリオンに気付いたかのように振る舞うフィア。何時も通りな友達の態度に、花中は「もうっ」と不満げな声を漏らしつつ、久しく見ていなかった友達間のやり取りを見て笑みが浮かぶ。晴海や加奈子、そしてミリオンもくすりと笑った。

 フィアの怪我は、戦いが終わった二日後にはすっかり良くなっていた。

 彼女は二年前に、骨折を半日ほどで治せる『技』を身に着けている。内臓まで達するような傷穴も、全身に負った火傷も、この『技』を用いれば簡単に治せた。普通の生命ならばそのまま衰弱死するような怪我も、ミュータントにとっては数日で復帰出来るようなものなのだ。むしろ二日も掛かったと言うべきかも知れない。

 二週間が経った今では完全な本調子。白饅頭など百万匹来てもぶちのめせると豪語するほどである。

「さかなちゃんは今日も狩りに行ってたの? 頑張るわねぇ」

「ふふん。やはり食べ物は新鮮で美味しいものを食べたいですからね」

「お肉は寝かせた方が旨味成分が出るわよ。白饅頭の肉も同じかは分からないけど……ところではなちゃんは、さかなちゃんと一緒に狩りをしないの? ぶっちゃけ、今なら白饅頭ぐらい一人でいくらでも獲れるでしょ?」

「えっ。あ、えっと……その……」

「あー。それは私も言ったのですがなんか花中さんいまいち乗り気じゃないんですよねぇ。なんでも白饅頭を殺すのに抵抗があるとかなんとか」

「なんとまぁ、はなちゃんらしいというかなんというか」

「いや、虫とかなら兎も角、いきなり動物を殺すのはハードル高いでしょーよ。いくら見た目がキモくてもさ」

 呆れるフィアとミリオンに対し、晴海は花中を擁護する。実際動物を殺すのは精神的に抵抗感があり、だからこそフィアと一緒に狩りが出来ない花中はこくりと頷いた。

 とはいえ、何時までも戦いはフィアにお任せという訳にもいかないだろう。

 何しろ地中の最深部に潜む『何か』……これが動き出し、もしも地上に大きな被害をもたらそうとした時には、否応なしに花中も戦わねばならないからだ。

 その時が訪れた時、弱いままではいられない。覚悟がないのも良くない。力の使い方をもっと鍛え、様々な経験を積んで強くならねばならないのだ。

 ならない、のだが……

「(ぶっちゃけ、わたしが頑張ったところで戦力になるか分かんないんだよね)」

 戦いを躊躇わせる一番の理由は、自分に世界を救えるとは到底思えないからだった。

 花中は確かに強くなった。しかも他のミュータントの脳波を受け止めるという、一般的なミュータントとは異なる方法を会得しているからか……その力は通常のミュータントよりかなり強い。一対一なら、膨大な戦闘経験を有すフィアやミィさえも圧倒出来るだろう。フィアとミィが二匹同時に来たとしても、上手く立ち回れば返り討ちに出来るかも知れない。

 そしてこの力にはまだまだ伸び代を感じる。戦うほど、或いは新たなミュータントと出会うほど、更に力は高まるだろう。

 だが、最強ではない。

 ミュータントとして目覚めた事で、これまでよりも本能が研ぎ澄まされた影響からか。花中はミュータントの強さが感覚的に理解出来るようになり、自分の立ち位置もハッキリと見えていた。つまり自分の力では勝てない相手が誰なのか、よく理解している。

 まず、ミリオンには勝てない。

 細かな群体故非常に激しくかつ不規則に動くミリオンは、粒子の動きが見えるようになった花中にとって凄く『気持ち悪い』ものだ。日常会話を楽しむ時には粒子の運動など見ていないので問題ないが、戦いとなれば、周りの粒子を観測するついでにミリオンの動きが見えてしまう。こうなると集中力が乱され、能力がフルパワーを発揮出来ない。

 更にミリオンの能力により加熱……粒子の運動量を変化させられてしまうと、花中が能力により粒子を操作しても思うように動かせなくなる。何故なら花中の能力は粒子の動きを観測・予測した上で干渉するものなので、予測出来ない粒子に力を与えても変なところに飛んでいくだけだからだ。その結果何も起きなければまだマシな方、最悪自分の周りの大気分子が核爆発を起こすかも知れない。

 つまりミリオンと勝負しようとしても、花中はその能力を大きく制限されてしまうのだ。能力なしでは何も出来ず、それこそただの人間のようにやられてしまうだろう。流石はスペイン風邪の時に五千万以上の人類を殺害した病原体、人類種の天敵である。

 勝ち目がないのはミリオンだけではない。南の島に暮らすミュータント……アナシスもそうだ。

 というより、どうすればアナシスに勝てるのか見当も付かないというのが正しい。彼女は本当に別格だ。本気の粒子ビームを撃ち込んだところで、こちらの存在に気付いてもらえるのかすら怪しい。逆に向こうが気紛れで尾を振ってきたら、花中が防御に全力を尽くしても無意味だろう。向こうは粒子操作のような『特殊能力』がないのに、ただただ出鱈目な力の差で全てを捻じ伏せてくるのだ。当然アナシスと互角に戦った、異星生命体にも花中一人だけでは勝てない。

 そしてムスペルのミュータント。

 あの個体を倒すのも無理だ。地球全土への干渉中という『ハンデ』を背負ってもらって、ようやく同じ土俵に立てる。全力勝負を挑まれたなら、全身全霊の土下座をして命乞いしなければなるまい。する暇があれば、の話であるが。

 星縄は自分の事を『超越種』と名付けたが、花中本人としては一体何を超越しているのやらと言いたくなる。いや、これは星縄の願いが込められた名前であり、現実に則しているかどうかは二の次なのだが……兎に角、花中なんて足下に及ばないぐらい強いミュータントは幾らでも存在する。

 そして地核に潜んでいた『何か』の力は、ミリオン達さえも上回っていた。

 花中がどれだけ鍛えたところで勝ち目なんてない。例え羽虫の中で英雄になろうとも、人間に勝てる訳がないのだから。勿論なんらかの対抗手段は考えねばならないが、少なくとも『鍛錬』ではないだろう。いや、しかし策を実行する上である程度力が必要という可能性もあるのだから、悩むぐらいなら素直に身体を鍛えた方が……

「おい、そこのお前」

 考え込んでしまう花中だったが、ふと 幼い少女の声が聞こえてきた事で我に返る。名前を呼ばれた訳ではないが、反射的に声が聞こえた方を見た。

 花中の視界に入るのは、一人の少女だった。年頃はぱっと見十歳前後だろうか。今でも稀に小学生と間違われる花中より、更に幼い見た目をしている。とても可愛らしい顔立ちで……

 そんな少女の姿を見ていた花中の背筋を、凍り付くような悪寒が走る。

 花中は少女の事など何も知らない。

 少女から恐ろしいぐらい強大な力が放たれている訳でもない。

 だけど、確かに感じるのだ。

 目の前の少女の出す、地核に潜んでいた『何か』とピタリと重なる気配を――――




最後に現れた美少女さん。
次回最終章です。

次回は今日中に投稿予定です。


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幕間二十ノ二十一

 太陽系第三惑星・地球。

 凡そ四十五億年前、この宇宙に生まれたちっぽけな星。虚空を漂う砂粒とガスが重力によって集まり、形成された岩の塊。

 四十二億年ほど前には煮えたぎるほど熱い海が形成され、雷撃や高熱による化学変化がアミノ酸を合成。アミノ酸同士が絡み合い、元素の塊である『遺伝子』が生まれた。『遺伝子』は自らを守るための『入れ物』を作り、やがてそれは ― 遙か数十億年後に生まれる知的生命体によって ― 生命と呼ばれるようになる。

 生命は変異する『遺伝子』の命令に従い、様々な形を持った。

 訪れる急激な環境の変化、はたまた新たな形を持った生命の繁栄により滅びた形も多々あったが、新たな環境により更なる飛躍と繁栄を遂げたものもいた。新たなる生命の形は更なる多様な形態を生み、それぞれがより自らを繁栄させるために争い、競争が今よりも優れた形と多様性を作り、これが次の変化を切り抜ける原動力となった。

 そうして競争と変化と進化と繁栄を何十億年と繰り返した結果、荒涼とした大地と煮えた水に満ちた世界であった地球は、所狭しと生命が溢れる星となった。

 宇宙との境界にある成層圏を漂う細菌。

 酸素のない泥の中に潜むバクテリア。

 沸騰する水の中に棲まう古細菌。

 日の届かない地中を進む軟体動物。

 漆黒の洞穴内を這いずり回る昆虫。

 生命の体内に棲み着く扁形動物。

 広大な海を満たす刺胞動物。

 巨石を覆い尽くすほどに生すコケ。

 鬱蒼とした大森林を作る樹木。

 澄みきった大空を自由に飛ぶ鳥。

 岩をも砕く激流の川を泳ぐ魚。

 爽やかな草原を跳ねる両生類。

 灼熱の砂漠を駆ける爬虫類。

 鋼鉄の都市に棲まう哺乳類。

 この星の至る所に生命は存在し、競争相手と戦い、生き残るために変化し、次の世代に命を繋いでいる。時には星の環境すらも変え、時には地殻内部を引っ掻き回しながら、必死に生きていく。例えその結果、自分以外の何もかもが滅びたとしても。

 彼等はこれまでこうして何十億という月日を超えてきた。

 これからも、彼等はこうして何十億という月日を超えようとしていた。

 だけど。

 

 その流れが、終わろうとしている。

 

 ただ一つの生命の意思と目的により。

 

 自らを王と称する、『少女』の手により。

 

 これより始まるのは、今を生きる生命の終わり。

 

 星が迎える終焉の形の一つ。

 

 終わりは避けられない。例え幾億の月日を遡る術があろうとも。

 

 変えられるものはただ一点のみ。

 

 つまり、これは終わりに抗う物語ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 王の御心のままに、世界は変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二十一章 生命の王

 

 

 

 

 




最終章始まります。
ちなみに読みは『いのちのおう』です。

次回は11/30(土)投稿予定です。


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第二十一章 生命の王
生命の王1


 身長は花中よりもずっと低い。顔立ちはあどけなく、顔に浮かべている不敵な笑みさえも愛くるしく見える幼さだ。手足は細く、小学生の男子が体当たりしただけで簡単に折れてしまいそうな気がする。

 着ている服は水色のワンピースで、柄も何もないシンプルなデザインのもの。一見して普通の服のようだが、しかし衣服に傷はおろか、土や埃による汚れすら見当たらない。かなり整備されてきたとはいえ、此処避難所内は乾燥した土が剥き出しになっており、少し風が吹けば簡単に土埃が舞い上がる。今日のように、よく晴れた日の屋外となれば尚更だ。どんな新品の服でも、五分もすれば黄ばんだ土汚れが満遍なく付くだろう。にも拘わらず少女の服は美しい色合いを保っており、神秘的な印象を見る者に与える。

 ワンピースは膝丈ほどの高さで、露出している足には靴下どころか靴も履いていない。裸足で荒れ果てた大地の上に立っているが、その足には目立った……否、小さな傷すら付いていなかった。避難所の住人の手によりこの辺りはよく掃除されていたが、それでも小石や砂粒などは地面から取りきれない。そもそも踏み固められた地面の凹凸というどうやっても取り除けないものさえも、足を傷付ける凶器だ。裸足なら『歩行』という動きにより、擦り傷ぐらいは出来ねばおかしい。まさか此処まで、誰かにおんぶでもされていたとでも言うのか。

 髪は深海を彷彿とさせる蒼さで、肩の辺りでくるんと丸まり、先っぽが空を向いていた。やはり服などと同じく、その美しい髪にも傷や汚れは見当たらない。舞い上がる土埃が髪を汚し、キューティクルを削り取る筈なのに。

 ……実に可愛らしく、そして不可思議なほど綺麗な人物だ。一言で例えるなら何処かの国のお姫様、或いは世間知らずなお嬢様のよう。争い事とは無縁で、見た目だけならミュータントになる前の花中よりも非力な印象を抱く。

 されど彼女を前にした花中は、震えが止まらなかった。

 この少女から、地核に潜む『何か』と同じ気配がするのだから。

「あん? なんですかこの小娘……」

 フィアも最初は、少女の事をただの人間とでも思ったのだろうか。花中(親友)との時間を邪魔されたフィアは、不機嫌そうな視線と言葉を少女に差し向ける。

 その感情が切り替わるのに、瞬き一回ほどの時間も必要としない。

 もう隠す必要などない――――そう言わんばかりに、少女が放つ力の気配が増大し始めたのだ。どんどんどんどん際限なく、止め処なく高まっていく。

 ミュータント化による影響からか、花中も相手の『力量』を幾らか感じ取れるようになっていた。とはいえずっと野生生物として生きていたフィア達と比べれば鈍感なものでしかなく、分かるのは大雑把な力関係だけ。

 そんな鈍い花中でも分かる。この子と敵対したらその瞬間に敗北する、と。

 人間と羽虫どころではない。神と羽虫、宇宙と砂粒のような、絶対にして超えようのない岸壁が、この少女と自分達の間にはあるのだ。

「……花中さん私の後ろに……居ても居なくても関係ありませんねこりゃ」

「みたいねぇ。私達が力を合わせても、壁にすらなれないかも」

 フィアとミリオンも少女の『力』を感じ取ったようだ。普段なら警戒しつつも強気を崩さない彼女達が、達観した様子である。

 そしてただの人間である晴海と加奈子は、現れた少女とフィア達を交互に見て、困惑した素振りを見せていた。少女の異様さに気付かなければ、花中達が何に危機感を覚えているかなど分かりようがないのだから仕方ない。とはいえ「『ミュータント』達が危機感を覚えている」という事は雰囲気で察せられる。晴海達は少しずつ、少女から離れるように後退りした。

「ふむ、興味深い反応があったので来てみたが……『コレ』は新種か。呼び掛けに対する反応はヒトと同じ。気配察知の能力は『余等』と同水準、いや、平均よりはかなり下回るようだな。誕生は最近のようだが、しかし今になって誕生したにしては、随分と身体が大きいのは何故だろうな。自発的に脳波を発しているから先天性の筈なのだが」

 本能的に恐怖する花中達だったが、少女はこちらの態度など気にも留めていない様子。それどころか自分から呼び掛けた筈なのに、花中達を無視して、世間話でもするかのように背後を振り向きながら話している。少女ばかりに気が向いていた花中も、無意識に少女と同じ方を見遣った。

 次いで花中はその目を大きく見開く。

 少女の背後には、花中の知っている『人物』が居た。

 その『人物』は少女よりもずっと背丈が高い。一体何処に隠れていたのか? 一瞬脳裏を過ぎる疑問は、しかし考えてもあまり意味がない事を花中はすぐに思い出す。かの『人物』……彼女の身体は変幻自在であり、大きさも形も不定なのだ。今の今まで少女よりも体積を小さくしていたとしても、なんらおかしくない。

 そう、こんな疑問は些末なもの。大事なのはもっと根本的な疑問。

 何故、彼女が此処に現れた? 確かに彼女はあの戦いでは死んでおらず、きっと生きていると思っていた。だから何時かこうして姿を現す時が来ると考えていたし、その時に備えて日々覚悟を決めていた。

 けれども『今』、このタイミングで現れるのは全くの想定外。

 どうして少女の背後に彼女――――人喰いの怪物である()()()()()()が居るのか、花中には理解出来なかった。

「当然ですわ。彼女、普通に十年以上生きてますもの。多分力に目覚めたのがつい最近なのではなくて?」

「んぁ? そうなのか? というかお前知り合いなのか?」

「……呆れた。興味をなくしたから、完全に忘れてますわね。自己覚醒型の人間がいるって教えてくれたのは、あなたじゃありませんの」

「そうだったか? まぁ、お前がそう言うならそうなんだろう。じゃあ、お前とコイツの関係は?」

「お友達ですわ。ねぇ、花中ちゃん♪」

 少女に尋ねられたオオゲツヒメは、嫋やかな笑みを浮かべながら花中に同意を求めてくる。

 花中は答えを返さず、口を閉ざす。オオゲツヒメとは口も利きたくないから、ではない。オオゲツヒメに恐怖しているから、でもない。

 ただただ現状への理解が追い付かず、思考停止に陥っているだけだった。

 フィアやミリオンも、姿を見せたオオゲツヒメへの警戒心を露わにする。オオゲツヒメはかつて花中を『捕食』しようとしたミュータントだ。ミリオンはオオゲツヒメの事を覚えているだろうし、フィアも名前などは忘れていたとしても……臭いで『嫌な奴』である事は思い出したに違いない。確実性という意味では、得体の知れぬ少女よりも、人喰いであると判明しているオオゲツヒメの方が『危険』であろう。

「……さっきから黙っている上に睨んでいるようだが、本当に友達なのか? 怖がられてないか、お前」

「あら、怖がられているとしたらあなたの方じゃなくて? ちょっとプレッシャー放ち過ぎだと思いますわ」

「加減はしている。その証拠に、傍に居るお前は全然怯んでないじゃないか」

「わたくしはあなたのお友達。友達のプレッシャーにビビる訳ないでしょうに。ほんと、あなたはコミュニケーション能力が皆無ですわねぇ」

「ふん、余がコミュニケーションなどわざわざ取る必要もあるまい」

 警戒心や恐怖心を抱く花中達の前で、少女とオオゲツヒメは暢気な話を交わす。自慢げな少女に向けて、呆れるようなため息を吐くオオゲツヒメ。二匹の姿は傍目には大変微笑ましく、姉妹同士のやり取りにも見えた。勿論交わされる言葉にも邪悪な雰囲気などない。

 もしかするとこの少女、力と態度が大きいだけで、悪い子ではないのだろうか? そんな考えが花中の脳裏を過ぎる。実際花中は力の大きさに怯んだだけで、彼女に何かされた訳ではないのだ。いきなり警戒心や恐怖心を剥き出しにするのも、失礼というものだろう。

 とりあえず、まずは相手の事を知ろう。そして可能ならば、友達になろう。

 この思惑は、単に花中がフレンドリー好きだからという理由だけではない。少女は地核に潜む何かと同じ気配を発している。ならばなんらかの関係がある、と考えるのが自然だ。

 もしもこの少女と友好的な関係を築けたなら、地核に潜む何かについて知る事も、或いはその何かと友好関係を結ぶ事も出来るかも知れない。友達にならずとも、敵対的な関係になるのを避けたり、地核に潜む何かの目的を教えてもらうなり出来れば……それだけで『人間』にとっては大きな収穫だ。希望的観測ではあるが、向こうも人間と友達になりたがっている可能性だってある。

「あ、あの! えっと、大月さん! そちらの方は」

 まずは少女との共通の知り合いである、オオゲツヒメに紹介してもらおう。話を聞く限り少女はオオゲツヒメの友達らしいので、オオゲツヒメからの紹介ならば少女もこちらの話を聞いてくれるかも知れない……そう思った花中は少女とオオゲツヒメの会話の合間を縫って、少女について尋ねた

 瞬間の事だった。

 花中の身体に、自重が数十万倍になるような重みがのし掛かったのは。

「ふぐぅ!?」

「花中さん!?」

「!? 何……!」

「えっ? な、何? 何?」

 花中の呻きにフィアとミリオンが反応し、遅れて晴海と加奈子が花中の傍に駆け寄る。

 気遣ってくれる友人達。ありがとうと一言伝えたいが、今は口を開く事が少し難しい。

 真っ先にやるべき事として、自分の身に起きた異変の解析があるのだから。 

「(こ、これは、何か見えないものがのし掛かってる訳じゃない……体重が、本当に重くなっている……()()()()()()()()()!)」

 自身を形成している原子の『重量』を計測し、自らの身に起きた事態を花中は計り知る。

 なんらかの重力変動、それもフィアや晴海達がなんともないあたり花中の身体だけという局所的……否、選択的な事象だ。掛けられている重力の強さは、推定約三十万倍。体重四十キロの肉体が、一瞬にして一万二千トンになるようなものである。ただの人間の骨格はこれほどの重量は想定しておらず、もしもこれを受けたのが晴海や加奈子なら、一瞬にして地面の染みに変わり果てたに違いない。

 幸いにしてミュータントにとって、一万二千トンなんて重量は大したものではない。肉体を構成する元素の配列を組み替え、超合金すら嘲笑う肉体硬度を確保。踏み締める大地を粒子操作により硬質化させれば、重さで地中に沈んでいく事もない。一先ず難は逃れた。

 しかし花中の心は恐怖で震えた。

 危うく死ぬところだったから? 違う。あの程度の『攻撃』で死ぬほど、ミュータントとして完全に目覚めた今の自分は柔ではないのだから。事実三十万倍の重力に晒されても花中はすぐに適応。今では変化した重力の中でも普通に立ち、気遣ってくれた友達に感謝を伝える事も出来る。

 恐ろしかったのは、力が振るわれた状況。

 花中は少し声を掛けただけ。暴力的な行動はしてもいないし見せてもいない。そもそも声を掛けた相手はオオゲツヒメであり、『彼女』ではないのだ。

 なのに『彼女』……オオゲツヒメの友達だという少女は攻撃を仕掛けてきた。故に花中は少女に恐怖したのだ。

 少女はただこちらを見ているだけで、攻撃らしい仕草は何も取っていない。だからもしかすると、この恐怖は誤解という可能性もある。されど少女が向けてきた視線に含まれる侮蔑と敵意の感情からして、彼女が攻撃してきたのは間違いないと本能が感じ取っていた。それに重力を操るなんて真似は、オオゲツヒメにもフィアにもミリオンにも出来ない。状況証拠は少女が犯人だと物語っている。 

「……王の慈悲は一度までだ。二度目はない」

 そして少女自身が発した、この言葉。

 正確な意味は分からないが、予想通り少女が攻撃を仕掛けてきた事……あの恐ろしい力さえも『加減』したものであると、少女が語ったように花中には思えた。

「あなた花中さんに何を……!」

「花中ちゃん、ごめんなさいね。この子ったら何時も手が早いのよ。話を邪魔されたと思ったのね」

 フィアも本能的に花中が何かされた事、その犯人が少女であると察したのだろう。敵意と怒りを露わにしたところ、割り込むようにオオゲツヒメが弁明する。オオゲツヒメが入り込んできた事で勢いが挫けたのか、フィアは怒りを露わにしていた口を閉ざした。

「もう、いきなり攻撃なんてしたら駄目じゃありませんの。めっ! ですわ」

 それからオオゲツヒメは、ぺちんっと少女の後頭部を叩く。

 花中からすればゾッとする行動だった。話に割り込むだけで、ただの人間ならば死ぬような『攻撃』を躊躇いなく仕掛けてくる輩なのだ。頭を叩こうものなら、その瞬間跡形もなく消し飛ばされてもおかしくない。

 再会したオオゲツヒメともここでお別れか――――花中の脳裏を過ぎったそんな考えは、少女が親に叱られて拗ねた幼児のような顔をした事で否定された。

「いや、だって話の邪魔だったし」

「わたくしと花中ちゃんだってお話ししてますわ。あなた、わたくしと花中ちゃんのお話を邪魔するつもりですの?」

「うぐ。うぐぐぐぐ」

 オオゲツヒメのお説教に、少女は唇をへの字に曲げて抗議の意志を示す。しかしそれだけだ。重力の増大を示すような変化は、花中には一切感じられない。無論それ以外の、なんらかの攻撃についても同じである。

 即ち少女は、素直に叱られていた。

 悪い事だとは思わない。しかし花中はそれが異様な事であるように感じられた。こちらは話し掛けただけで殺されかけたのに、オオゲツヒメは頭を叩いても睨まれるだけ。依怙贔屓というにはあまりに差が大きい。

 何故少女は自分を殺そうとした? 何故オオゲツヒメの『狼藉』は見逃す?

 いや、そもそもの話……彼女達は何故自分達の前に現れたのだ?

「……一体何をしに我々の前に現れたのですか? 用がないならさっさとその『危険物』を何処かにやってほしいのですが」

 恐怖と疑問から硬直してしまう花中に代わり、今度はフィアが尋ねる。オオゲツヒメに叱られて反省しているのか、()()()()()()()フィアに重力変動は起こらず。

 問われたオオゲツヒメは、少女の頭を撫でるように触りながらフィアからの問いに答えた。

「ああ、そうそう。ちゃんとお話ししないといけませんわね。此処に来た理由は、わたくしの友達であるこの子が此処に来たがっていたからですわ」

「此処に来たがっていた? なんの目的で?」

「花中ちゃん、随分強い力に目覚めたのでしょう? この子がそれを感知して、興味を持ったのですわ」

 オオゲツヒメはニッコリと微笑みながら、花中の方へと顔を向けてきた。視線が合った花中は心臓が跳ね、激しく鼓動する胸を両手で押さえながら後退り。

 それからちらりと、少女の方を見遣る。

 オオゲツヒメに怒られた事が堪えているのか、少女は不服そうに唇を尖らせている。未だ強烈な力を発しているが、その姿は友達に叱られた事で機嫌を損ねた、小さな女の子でしかない。

 花中は一度、深く深呼吸。気持ちを落ち着かせる。

 『攻撃』はされたが、殺されるほどのものではない。相手の力の強大さを思えば、ちゃんと『手加減』していた筈だ。そしてオオゲツヒメが叱った事で、二度目の攻撃は起こらない。フィアがそれを証明してくれた。

 今度はちゃんとお話が出来る。そう思った花中は、唇を震わせながらではあるが少女に問う。

「えっと、わたしに、何か用が、あったのですか……?」

 花中が尋ねると、少女は花中に視線を向けてきた。敵意はない、が、感じられる大きな力に身体が無意識に後退る。

 少女は、予想通り攻撃してこなかった。代わりに淡々とした、されど自信に満ちあふれた語り口で話し始める。

「……お前の力に興味がある」

「興味、ですか?」

「ああ。お前は『余等』の脳波をも受信する事で、より大きな力を引き出す仕組みを会得している。その力の引き出し方、その力から得られた能力に興味があるのだ」

 少女は一通り語ると、花中を観察するようにじろじろと眺め出した。

 花中は、ぞわりと背筋が震える。

 少女の観察するような眼差しに、ではない。少女が自分の力を、大凡把握している事についてだ。彼女の考えは、星縄から聞かされた『仮説』と同じ。しかし星縄は経験やデータからこの仮説を導き出しただけで、こんなにもハッキリとした答えを持っていた訳ではない。

 なのに少女はキッパリと断じた。まるで自分にはその全てが見えているかのように。

 花中本人にも見えないものが見透かされているような気がして、花中は少女に得体の知れぬ気持ち悪さを覚えてしまう。

「という訳なので、わたくし達はしばし花中ちゃんと一緒に暮らす事にしましたー♪」

 尤もその気持ち悪さは、オオゲツヒメがあっさりと明かした『今後の方針』によって吹っ飛んでしまったのだが。

 しばし花中は同じく唖然となる。ミュータント化により大気分子の動きすらも見えるようになった花中の頭脳が、数秒間思考停止した。次いで周りを見ればミリオンもフィアも固まっていて、こちらをチラリと見て意見を伺おうとしている様子。少女とオオゲツヒメがどんな存在なのか全く分からない、晴海と加奈子さえも驚いたような顔で花中を見ている。

 どうやら自分の聞き間違いではなかったらしい。

「え……ええええええっ!? くら、えっ、暮らす!? なんで!?」

「興味があると言っただろう? だから観察するのだよ」

「わたくしはこの子の付き添いですわー」

「か、観察……付き添い……」

 まるでバッタを捕まえた小学生のような、あっけらかんとした少女の物言い。そして人喰い怪物(オオゲツヒメ)の語る、あまりにも能天気な理由。観察される側である花中は無意識のオウム返しをしてしまい、少女はそれを「うむ」の一言で律儀に肯定した。

 観察という事は、四六時中見られるという事か。それは実に恥ずかしい。見られて恥ずかしい事をするつもりはないが、恥ずかしがり屋な花中にとって『見られている』というだけで十分羞恥に値する。出来れば遠慮願いたい話であるが……

「……花中さんどうします?」

 普段なら花中を独り占めしたがるフィアが反発せず、それどころかこうして訊いてくるぐらいには、今の状況はややこしい。

 相手は自分達とは比較にならないほど強い力を持った存在。無理強いされたならまず抗えないし、下手に怒らせたならどうなるか分からない。

 それに、実のところ花中も少女と()()()()()だ。

 地核に潜む『何か』と同じ気配を持ち、ミュータントとして目覚めた自分さえも凌駕する力の持ち主……その正体は花中も気になる。いや、見て見ぬふりをするなんて出来ない。地核に潜む『何か』が暴れ出せば、それだけでこの星は終わりかねないのだ。わざわざやってきてくれたヒントとの共同生活という、情報大量収穫のチャンスを拒むなど愚行以外の何ものでもない。

 虎穴に入らずば虎児を得ず。チャンスの神様には前髪しかない。

 先人達が遺した諺は、今の状況での行動を促す。もしもこれが最後のチャンスならば、今この瞬間に地球の命運が決まるかも知れないのだ。

 ごくりと、息を飲む花中。今までならもう何分かうだうだと悩んだかも知れない。けれども今の花中の頭脳は、周辺大気を構成する分子の動きさえも捕捉し、予想する演算力がある。この難問に対する答えなど、瞬きするほどの時間も必要ではない。

「……避難所の人間に、手を出さないなら、構いません。あと、観察だけじゃなくて、出来ればお話とかも、してくれると、嬉しいです」

 花中は落ち着いた言葉で、自らの『要求』を二つ突き付けた。

「はっはっはっ! 自らこの余との会話を望むか! 構わん、その程度の願いならば聞いてやろう」

 少女は傲慢に、されどその傲慢が『当然の権利』だと思えるほど自信満々に、花中の要望を受け入れる。あまりにもあっさりと受け入れてもらえた事で少し拍子抜けして、安堵の息が零れた花中の口許に笑みが浮かぶ。

「えぇー! 此処の人間、食べちゃ駄目ですのぉ!?」

 その笑みを引き攣ったものに変えたのは、オオゲツヒメの悲しげな声。

 ついでに今までオオゲツヒメが『ナニモノ』か分からなかった、晴海と加奈子の表情も明らかに強張った。二人の方を見ずとも、花中は周辺粒子の動きからそれを感知する。感知したところで、バレてしまったものは今更隠せないが。

「なんでお前がガッカリしているんだ」

「だってだって! もう人間なんて稀少なんですのよ! 食べたくても全然見付からなくて、天然物なんて久しぶりなのに!」

「あのなぁ……」

「あなたには分からないんですの!? 人間の脂の甘み、肉に含まれた旨味、骨から染み出す香りが!」

「知らんわ。タンパク質や脂質の摂取なんて非効率なものに興味はない」

 呆れ返る少女に、オオゲツヒメは頬を膨らませて抗議。少女はこれをバッサリと否定する。ついでに花中にもオオゲツヒメの抗議内容は理解出来ない。

 やはりオオゲツヒメは生粋の捕食者。人間が共に暮らす相手としてはあまりに危険過ぎる。

 なら、少女とだけ一緒に暮らし、オオゲツヒメには帰ってもらうか? しかし少女と対等に話し合えるのは、どうにもオオゲツヒメだけのようである。それにオオゲツヒメは少女の心境を多少なりと理解出来るし、頭を叩いても怒られないぐらい仲も良い。もしも少女がなんらかの問題を起こした時、仲裁を願えるのはオオゲツヒメだけだろう。

 少女と共に暮らすなら、オオゲツヒメが傍に居てくれないと困る。だけど人間が食べられてしまうのはもっと困る。

 なら、どうする?

 解決策は簡単に閃いた。オオゲツヒメは人間を食べるが、それは人間が大好物だからである。生きるために必要だからではない。故に()()()()()()()()()()があれば、わざわざ人間を食べたりなんてしないのだ。

「えっと、大月さん。うちの避難所、とっても美味しいお肉が、あるので、それで人間を食べるのは、我慢して、もらえませんか?」

「美味しいお肉!?」

 花中が美食(怪物の肉)について臭わせると、オオゲツヒメは瞬きする間もなく反応した。あまりの速さに花中は一瞬身動ぎし、けれどもこくんと頷く。

 オオゲツヒメが満面の笑みを浮かべるのに、それからコンマ一秒と掛からない。

「美味しいお肉があるなら話は別! それを食べさせてくれるのなら、人間を食べるのはしばらく我慢しますわ!」

 嬉々としながら、花中の提案を受け入れてくれた。

 とりあえず、これでしばらく ― 恐らくオオゲツヒメが白饅頭の肉に飽きるまで ― 避難所の人間の安全は保てるだろう。花中は安堵し、全身から力が抜ける。フィアとミリオンは、元より人間が襲われる事などどうでも良いからか、変化はなかった。

 対して一層不安を募らせたのは、人間二人。

「……大桐さん。その、大丈夫なの、アイツ」

 晴海が不安げに尋ねてきて、加奈子も怯えたような目で花中を見てくるのも、致し方ない事だと花中は思った。

 共同生活を断るという選択肢はないとはいえ、ただの人間である友人達に全く説明をしないのは良くない。花中は晴海と花中と目を合わせ、自分の言葉で伝える。

「えっと、確かにあの人は、人間を食べます。でも、食べないと生きていけないとかじゃ、なくて、美味しいから、食べるだけです」

「だから、もっと美味しいものを出せば人間は食べない?」

「はい。それに、もしも人を食べようと、しても、前に彼女とは戦って、勝った事があります。いざとなったら、わたしが、なんとしても、止めます」

「……そう。なら、うん、分かった。あたしは大桐さんを信じるわ。大桐さんがあの子達と暮らすのを決めたって事は、なんか理由があるんだろうし」

「うん。私も、大桐さんがそういうなら、反対はしないでおく。それに大桐さん、今はめっちゃ強いみたいだから、きっとなんとかしてくれるだろうし」

「……ありがとうございます」

 自分の選択を信頼してくれる友人二人に、花中は感謝の言葉を伝える。この一言だけではとても言い表せないほど、大きな感謝が胸の中を満たしていた。

 その期待に応える意味でも、少女が『ナニモノ』なのか、しかと見極めようと心に決める。

 かくして花中は少女とオオゲツヒメの共同生活を受け入れた。なんだか向こうのペースに乗せられた気もするが、結果的に惨劇を避けられるのなら結果オーライだ。ならばきっと、この少女とも何時かは――――

 そんな風に考えて、ふと花中は思い出す。

 この少女の名前を、まだ聞いていないではないか。これから暮らす相手なのに名前も知らないとは。自らのうっかりに呆れつつ、花中は少女と向き合う。

「そういえば、自己紹介を、まだしていませんでしたね。えと、わたしは、大桐花中と、申します。あなたの、お名前は、なんでしょうか?」

「ほう、余の名が気になるか。ならば心して聞くが良い」

 花中が尋ねると少女は胸を張り、自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。

 そして少女は花中に告げる。

「余は『コトアマツ』。この星全ての生命の頂点に立つ、唯一無二の王である」

 今までに聞いたどんなものよりも、壮大にして尊大な自己紹介を……




始まりました、最終章。
そして初っ端登場の新キャラ『コトアマツ』。
彼女もやっと話に出せた……

次回は明日投稿予定です。


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生命の王2

 『コトアマツ』。

 それは古事記の天地開闢……世界が生じた時に誕生した()()()()()を指し示す『ことあまつかみ』を元にした名前だろうか。この神々は神話的な活躍こそないが、有名どころである天照大神や、国産みを為したイザナギやイザナミよりも別格であるとされる。

 それほどの高次に位置する神々の、しかも集団の名を冠するという事は、至高の神すら単独では己の足下にすら及ばないという意味を込めているのかも知れない。最早傲慢どころの話ではない、と言いたいが……コトアマツから放たれる力の前では、自然とその傲慢を受け入れてしまう。神という言葉すら生温い、そんな存在感が小学生程度の体躯しかない少女にあるのだ。

 傲慢にして強大。覚悟はしたが、やはり一筋縄ではいきそうにない

「ちなみにこの名前を付けたのはわたくしですわ~」

「別に名前など要らんと言ったのだがな」

「あら、友達からのプレゼントは素直に受け取っておくものでしてよ? あと名前がないと呼ぶ時に困るじゃありませんの。ねぇ、コトちゃん」

「折角付けた名前を五秒で略した癖に……」

 等々考えていた花中だったが、あっさり明かされた命名秘話を聞いてずっこけた。傍で同じ話を聞いていたフィアと晴海と加奈子は、突然ずっこけた花中を怪訝な目で見つめる。ミリオンだけが、同情するような眼差しを向けてくれた。

 どうやらコトアマツ自身は、己の名前にも興味がないらしい。名付けたオオゲツヒメも、真面目に考えたのか怪しいものだ。というかミリオンを除けば、誰も花中のような『勘繰り』はしていなかったらしい。

 どうにも変に空回りしている気がする。

 コトアマツの力を気にし過ぎているのだろうか。そうかも知れないと、花中は自戒する。名前によって自らの力を誇示するなんて、実に人間的な考えではないか。野生生物にそんな決まりはない。相手の『強さ』を元にして妙な勘繰りをしたところで、辿り着くのは的外れな妄想でしかないのだ。

 気持ちを落ち着かせようと、花中は一度深く息を吸い込む。次いで空を仰ぎ、青空を見ながら吐いた。

 その時、ふと気付く。

 太陽が高い。

 よく晴れた冬の青空……そういえばそろそろ十二月に入ろうとしている頃か……には、優しく輝く太陽がある。その太陽は今、この時期としては最も高い位置で輝いていた。

 即ち今の時刻は、正午近くという事になる。

 故に花中は顔を青くした。何故なら花中は――――今日も今日とてこの避難所の料理当番をしている身なのだ。

 そしてキッチンでもなんでもない、ゴミ捨て場の近くに居て、料理なんて出来る筈もなく。

「わ、忘れてたぁ!? も、もうご飯作らないと!」

「あら、確かにもうお昼頃ですわね。じゃあもうすぐ花中ちゃんの料理した、とっても美味しいお肉が食べられるんですの?」

「え? あ、はい。えと、そうなりますけど……」

 オオゲツヒメからの問いに花中が答えると、オオゲツヒメは満面の笑みを浮かべる。

「まぁまぁまぁ! それは楽しみですわ! ああ、出来ればお手伝いをしたいのですけれど!」

「……なら、食堂の方に来る? 食器とか置かないとだし、あと避難所の人に挨拶を済ませないと、流石に料理は出せないわよ」

 はしゃぐオオゲツヒメに、ミリオンがそう尋ねる。オオゲツヒメはハッとしたように目を見開き、大きく開けた口を隠すように手を当てた。

「あっ! わたくしとした事が……そうですわね。まずは此処の住人の方々に挨拶をしませんと」

「じゃあ、私が案内するわ。まぁ、食べ物の量は十分あるから、基本来る者拒まずで受け入れられるわよ……人を食べなきゃだけど」

「勿論、美味しいお肉をいただけるのでしたら約束は必ず守りますわ。嘘を吐くなんて、そんな敬意に欠ける事わたくしには出来ませんもの」

 余程『美味しい肉』が楽しみなのか、オオゲツヒメはミリオンの提案にあっさりと乗る。

 ミリオンは花中をチラリと見て、一瞬だけウインクをしてきた。こっちは任せて、という意味だろうか。花中がぺこりとお辞儀をすると、ミリオンはオオゲツヒメを引き連れて食堂の方へと歩き出す。

 『人喰いの怪物』としては拍子抜けするほど素直で、しかも礼儀正しい姿。あれが演技ではなくオオゲツヒメの素であると、花中は以前の出会いから知っている。

「よーし、私も食堂の方に行こーっと!」

 そして抜けているようで案外人心を見抜くのが得意な加奈子は、オオゲツヒメの素に気付いたようだった。

「え、ちょ!? 加奈子!? アイツ人喰うって話忘れたの!?」

「大丈夫っしょ、ミリきちが一緒だし」

「君子危うきに近寄らずって諺を知らな、って、話を聞けぇー!?」

 晴海の制止も虚しく、加奈子はミリオン達の下へと駆け出す。晴海も一瞬右往左往した後、慌てて加奈子の後を追う。

「……良いんですか花中さん。アイツほったらかしにして」

「あ、うん。多分、大丈夫かな……お肉を食べるためなら、人を食べないみたいだし」

「そうですか。まぁ花中さんがそう言うのでしたら私は構いませんけどね。今更花中さんを食べようとしたところで返り討ちでしょうし」

 フィアは花中に近付くと、当然のように背中から花中に抱き寄せた。今ではすっかりフィアの定位置。花中としても、背中にフィアが居ると少し落ち着いた気持ちになれる。

 ……さて、残るは『一体』。

「あ、えと……コトアマツさんは、どう、されますか? わたしは、これから料理をしに、行くのですけど……」

 花中はコトアマツに問う。するとコトアマツはニヤリと、実に尊大な笑みを浮かべた。

「無論お前と共に行く。観察しないといけないからな」

 当然のように語られた言葉に、花中は苦笑いを浮かべる。

 美味しいお肉を食べさせないと、満足出来なかったオオゲツヒメが人間を襲い出すかも知れない。

 だけどじっと観察されている中で何時も通りの料理が作れるという自信は、恥ずかしがり屋な花中にはあまりないのだから。

 ……………

 ………

 …

 尤も、花中のそんな心配は、キッチンに辿り着けば遠くに飛んでしまった。

 廃材を積み上げて作っただけの、簡素な調理台。瓦礫の中から引っ張り出したボロボロのフライパン。フィアが集めてくれた水がなみなみと入っている凸凹なブリキのバケツ。

 お世辞にも綺麗とは呼べない環境だが、調理器具と料理に欠かせない水があるのだから間違いなくキッチンだ。星縄が襲撃した際、幸いにして此処は巻き込まれず、これといった修復も受けていない。だからこそ花中にとっては、他の施設よりも慣れ親しんだ場所である。

 此処は自分の『場所(テリトリー)』。

 その安心感が花中の心にやる気と自信を生み出す。後ろにはコトアマツが居て花中をじっと見ているが、今は恥ずかしさなど感じていない。むしろ「さぁ、わたしの実力を見せちゃいますよ!」という気持ちが湧いてきていた。

「うーん花中さんすっかり自信満々になりましたね。前々から思っていましたが花中さん調理場に立つと少し性格変わりませんか?」

 ……今も後ろから抱き付いているフィアに内心を見抜かれると、やっぱり恥ずかしくなってくるが。

 もじもじしてしまうと、コトアマツの方から呆れるような鼻息が聞こえた。

「観察をしているのだから、出来れば自然体でいてほしいのだがな」

「あ、す、すみません……」

「無視して良いと向こうも言ってますし無視しましょう花中さん」

「自然体と無視は、違うと思うんだけど」

 コトアマツの言い分を都合良く解釈するフィアに、花中はくすりと笑みを零す。

 何時もの調子を取り戻した花中は、改めてキッチンと向き合う。念のため深く息を吸い、ゆっくりと吐き出せば……本調子を完全に取り戻した。

 さぁ、料理を始めよう。

 調理台の下から包丁とまな板を取り出す。フライパンを調理台の端に置けば準備は万端。あと食材を此処に持ってくるだけ。

「よっと」

 花中はキッチンから見て右手側に、真っ直ぐ手を伸ばす。

 その先にあるのは、地面に置かれた長さ二メートル幅五十センチほどの木の板。

 花中が手を差し向けると、板はカタカタと独りでに揺れ、意思を持つように立ち上がる。板の下には穴があり……しばらくするとふわふわと、表面が真っ白な肉が飛んできた。

 白饅頭の肉である。板の下はフィアの手により掘られており、大きな『倉庫』となっているのだ。そこにしまわれている白饅頭の肉を花中の粒子操作能力で動かし、キッチンまで運んできたのである。その気になれば原水爆を凌駕する攻撃が可能な能力も、こうして使えば家庭的なものと化す。

 どんどんどんどん肉を持ち出し、出てきた量は五十キロ。現在避難場所で生活している人の数は約七十人のため、一人当たりの肉の量は約七百グラムだ。焼くと水分や脂肪分が抜けるため少し軽くなるが、それでも六百グラム前後はあるだろう。

 能力に目覚めた花中は白饅頭肉の成分を正確に把握出来、百グラム当たり約三百キロカロリー、六百グラムで一千八百キロカロリーになる事を知っている。一般的な成人男性の基礎代謝が一千五百キロカロリーとされており、三食この肉を食べると五千四百キロカロリーなので、そのままでは三千九百キロカロリーもオーバーしてしまう。しかし避難所内では肉体作業が多く、多くのエネルギーが必要だ。そのため文明崩壊前よりも食事量は多めにしている。十三世紀頃のヨーロッパに暮らしていた漁師達は一日八千キロカロリーを摂取していたというので、避難所での摂取カロリーは決して多過ぎるものではあるまい。

 肉の塊を一人分に裁断すれば、後は火加減に注意しながら焼くだけ。これにて昼食の準備は完了である。無論加熱調理は料理の味を左右する、極めて重要な行程だ。普段から料理には全力を尽くしているが、今日はオオゲツヒメを満足させるため一層気合いを入れねばなるまい――――

 そう考えていた中で、花中ははたと気付く。

 まだコトアマツの『好み』を聞いていないではないか。

 コトアマツの正体がなんであるのかすら、花中は知らないのだ。もしかすると肉を食べられない、それどころか毒になるかも知れない。食べるにしても、焼いた方が好みなのか、或いは生が好きなのか、そういった嗜好も分からないのである。

 怒らせたくない、という気持ちも少しはある。しかしそれ以上に、純粋にコトアマツの身が心配なのだ。料理を作る者として、美味しくないもの、身体に悪いものを与えたくない。

「あの、コトアマツさん。お肉は、食べられますか?」

 花中は振り返りながら、コトアマツに尋ねる。コトアマツはしばし黙り、やがて目をパチクリさせたのは、その問いが自分に向けられたものと思わなかったからか。

「余に食事は必要ない。何も出さなくて良いぞ」

 何しろ食べ物が不要なら、自分の好みを聞かれるなんてあり得ないと無意識に思うだろう。

 尤も、食べなければ生きていけない動物である花中にとっても、この答えは想定外。あまりにもハッキリと拒絶された花中は大きく動揺してしまった。動揺し過ぎてぽろんと手から包丁が落ち、地面に突き刺さる。

「ふぅーん食事が要らないのですか。じゃあどうやって生きているんですか? 植物みたく水と光だけとか?」

 呆けた花中に代わりフィアがコトアマツに尋ねる……が、コトアマツは答えない。

 フィアを無視しているのか。少なくとも尋ねた当人であるフィアはそう思ったのか、眉間に皺を寄せて露骨に不快感を露わにする。

 しかし花中は違和感を覚えた。コトアマツが一切、本当に一切反応していなかったような気がしたのだ。

 もしかするとフィアが出している声の波長だと、彼女には上手く聞こえないのだろうか? 生物種的にある種の波長が感知出来ないというのは、あり得そうな話だと花中は思う。

「えっと……あの、食事を取らないなら、どうやって、活動のエネルギーを得ているのですか?」

 今度は花中が、フィアがしたのとほぼ同じ問いを投げ掛ける。

 今度の少女は胸を張り、自慢するように答えてくれた。

「基本どのようなエネルギーだろうと問題なく取り込める。熱も光も余にとっては糧だ」

「熱も光も、ですか……」

「とはいえこれも非効率だからな。今はもっと効率的なエネルギーを利用している」

「もっと効率的?」

 少女の語る話に、花中は首を傾げる。

 地球に降り注ぐ光は、それこそ莫大なエネルギー量を誇る。植物はこの恩恵を手中に収めた生物であり、文字通り地球を覆い尽くすほどに繁栄した。熱についても莫大なものがあり、例えば地熱のエネルギーは四十四テラワット……百万キロワット毎時の出力を誇る原子力発電所四万四千基分ものエネルギーが常に生み出されている。熱というのは『質』が低いエネルギーなので変換するのは中々大変だとは思うが、しかし有り余るエネルギーなのは間違いない。

 これらより『効率的』なエネルギーとはなんだろうか?

「えっと、どんなエネルギーなのですか?」

 全く想像が付かず、花中はコトアマツに尋ねる。

「うむ。空間を満たすもの……ヒトの知る概念の中で最も近しいのは、真空のエネルギー、或いは量子ゆらぎと呼ばれているものだな」

 コトアマツは大した話ではないかのように、さらりと答えた。

 成程、量子ゆらぎか。それなら確かに熱や光よりも莫大なエネルギー源であり、しかもどんな時にも引き出せるからとても便利

「り、りりりり量子ゆらぎぃぃぃ!?」

 とまで考えて、コトアマツの言葉に花中は驚愕する。あまりの驚きぶり故か、仰天する花中など見慣れている筈のフィアが目をパチクリさせていた。

「花中さん? 何をそんなに驚いているのですか?」

「い、い、いや、だって、だって……」

 フィアに尋ねられる花中だったが、上手く口が回らない。パクパクと、喘ぐように開閉するのが精いっぱいだ。

 量子ゆらぎとは、この宇宙のあまねく場所に存在する力である。

 空間では『何もない場所』であっても唐突に素粒子が生じている、というのが現在の量子物理学の見解だ。この素粒子は誕生時に反対の性質を持つ素粒子も生んでおり、次の瞬間には対消滅を起こして消えている。そして本当にあらゆる所で無数に生じているため、人間という『マクロ』な視点で見た場合、そこでは一切のエネルギー変動が起きていないように()()()のだ。つまりある一定範囲内をそれなりの時間 ― この『それなり』も人間に認識可能な長さではない ― 観測した結果プラスマイナスゼロというのが、この世界を形成する土台の実情という訳である。

 このような状態を基底状態と呼び、余程ミクロの、素粒子レベルでの視点でない限り意識する必要はない。とはいえ、ではこれがちっぽけで無意味なものかと言えば、それもまた否だ。何しろこれは無から有が生まれている事象であり、実質無限の力である。突然目の前で無限のエネルギーが放出されないのは、無限大のプラス方向の揺らぎが無限大のマイナス方向の揺らぎと打ち消し合い、差し引きゼロになっているが故の事。感覚的には全く理解出来ないものだが、論理的にはそうとしか説明出来ない。

 そしてあらゆるところで生じている量子ゆらぎの局所的な『偏り』が、この宇宙を誕生させるほどのエネルギーを生み出したというのが『インフレーション理論』だ。

 あくまで説とはいえ、宇宙の在り方に関与する力。おまけに量子ゆらぎの性質からして、枯渇する心配のない『無限』のエネルギーである。もしもこの力を手にしたならば、それは神と呼ぶしかあるまい。完全な制御が出来れば、理論上は宇宙の創造と終焉を完全に操れる筈なのだから。

「ふむ、余を讃えるのは良い事だ。が、驚かれるようなものではあるまい。お前やそれもこの力を使っているのだからな。尤も余のように活動エネルギーには転換していないようだが」

 そんな花中の驚きを加速させたのが、コトアマツが付け足したこの言葉。

 コトアマツは話しながら、花中とフィアを指差していた。フィアと花中に共通する力とは? フィアはキョトンとしていたが、それが分からぬ花中ではない。

 つまりミュータントの力の源とは、量子ゆらぎなのだ。

 これが事実だとすれば、ミュータントは誰もが創世の力を有している事になる。日本だけで一万匹も神と呼ぶに値する力の持ち主が闊歩しているなんて、恐ろしいにもほどがある話だ。

 しかしながら、これなら確かにミュータントの出鱈目な力の説明が付く。フィアの一日の食事量は、大きく育ったイモムシが数匹。変温動物であるフナとしては大食漢であるが、その気になれば都市の一つ二つを滅ぼせる能力の『エネルギー源』としてはあまりに効率的過ぎると花中は思っていた。恐らく食事から摂取したエネルギーは、量子ゆらぎからエネルギーを引き出すための『呼び水』として用いられているのだろう。

 ……自らの力のエネルギーが何処から来ているかなんて、花中にも今まで分からなかった。されどそれも当然の事。この世に自分の生命活動に使われているエネルギーが、細胞内で行われているATPの加水分解により得られていると体感的に自覚している人間など一人もいないのだから。

 ミュータントも同じだ。花中やフィアだけでなく、ミリオンやミィも自分の力の出所など知らないだろう。

 それを知るコトアマツは、恐らく誰よりもミュータントの力に精通している。力の根源を知っていれば、より効率的に強い力を出せる筈だ。

 こうしたところからもコトアマツの強大さが分かり、花中は思わず息を飲む。そしてコトアマツは恐怖する花中を前にして、つまらなそうに唇を尖らせた。

「……ふん」

 次いで不機嫌そうにそっぽを向いてしまう。

 コトアマツの機嫌を損ねてしまったらしい。原因は不明だが怒らせた事に花中は震え上がったが……されどすぐに違和感を覚える。

 何か、妙だと思った。

 コトアマツの事など、花中は殆ど何も知らない。何故いきなり機嫌を損ねたのかなんて知りようがないし、語られた内容が理解可能なものである保障もない。

 だけど、今のコトアマツを見ているとこう感じるのだ。

 まるで何か、期待をしていたかのような……

「花中さんお肉を焼かなくて良いのですか?」

「え? あっ……」

 考え込む花中であったが、フィアに指摘されて自分が調理中であった事を思い出す。料理当番である自分が手を止めれば、その分食事の時間も後ろ倒しだ。ただでさえ遅れ気味なのだから、ここでのんびりする訳にはいかない。

 ふるふると顔を横に振り、頭の中にある疑問を一端隅へと追いやる花中。とりあえず今は料理と真剣に向き合う。

 粒子操作能力によりフライパンを構成する元素を震動。粒子の運動量増加という『加熱』を起こし、満遍なく熱したフライパンに花中は白饅頭の肉を投入し――――

 

 

 

「んふわああああ! 美味しいですわぁ!」

 口いっぱいに肉を頬張った美少女が、心からの歓声を上げた。

 場所は移り食堂。避難所に建てられた掘っ立て小屋にて、オオゲツヒメは幸せいっぱいの笑顔を浮かべていた。食べているのは、勿論花中が焼いた白饅頭のステーキ。

 食堂には花中含めた避難者達六十八人が居て、彼等も花中が焼いた白饅頭のステーキを食べている。オオゲツヒメには一番上手く出来たものを渡した……という事はしていない。誰に食べさせるものだろうと、依怙贔屓などせず、全てに同じだけの力を注ぐ。そうして出来上がったものなのだから、「これが一番上手く出来た」なんてものは存在しない。それが『料理人』としての花中の矜持である。

 そもそもオオゲツヒメの詳細な好みが分からないのだから、何を以て『一番』を決めれば良いのかという話であるが……幸いにして、白饅頭の肉はオオゲツヒメの味覚に合っていたようだ。まずは一難去ったと、花中は安堵の息を吐く。両手に持ったお盆で顔の下半分を隠し、照れたように笑った。

「気に入って、いただけたなら、何よりです。えと……人間と比べて、どう、ですか?」

「うーん、甲乙付けがたいところですけど、やっぱり人間かしら。だけどしばらくはこれだけでも満足出来そうですわー」

「そ、そう、ですか」

 オオゲツヒメの正直な感想に、花中は僅かに頬を引き攣らせる。どうやら危険性は残ったままらしい。今すぐどうこうとはならないようだが……

「もー、大桐さんは心配性だなぁ。ヒメちゃんなら大丈夫でしょ!」

 そんなオオゲツヒメと腕を組み、ニコニコと笑う加奈子の姿は、花中からすると無謀としか思えない。

 そしてそれは花中だけの印象ではないようで。

「加奈子! またそんな抱き付いて! 食べられたって知らないわよ!?」

「大丈夫! 食べたくなったらその前に教えてって頼んでいるから! 逃げるためにね!」

「ええ。人間が食べたくて我慢出来なくなったら、加奈子ちゃんにはちゃーんと教えますわ。大事なお友達との約束ですもの!」

「それ絶対喰う五秒前に教えるやつでしょ!? 間に合わないって絶対!」

「あら、そんなつまらない真似はしませんわ。そもそも加奈子ちゃん、あまり美味しくなさそうですから余程空腹じゃないと齧ろうとも思えないでしょうし。何しろ臭くて」

「えっ。私、臭い? お風呂もっと入った方が良い感じ?」

「いえ、汚れというより、単純に生理的に受け付けない臭いというだけですわ。なんというか、クサヤとか、ホンオフェとか、キビヤックみたいな?」

「酷いラインナップ!?」

「つーか、一応どれも現地では普通に食べられている物なんだけど……」

 わいわいきゃっきゃっと、人喰いモンスターと暢気に談笑する一人と、その一人を心配する人間一名。

 これもある意味打ち解けた、と言えるのだろうか? 花中的には、相手を友達だと本心から思いながら、その友達を平然と食べようとするオオゲツヒメとはあまり交流を持ってほしくないのだが……オオゲツヒメの向かいにはミリオンが座り、花中の傍に居るフィアも睨みを利かせる。この中でオオゲツヒメが大きな行動を取るとは思えない。

 それにオオゲツヒメは正直だ。臭くて加奈子には食欲が湧かないというのなら、実際湧かないのだろう。なら、今すぐどうこうなるとは思わない。

 思わないが、もう一つぐらい楔は打つべきだ。

「……もしも、この避難所の人達に、手を出したなら、もう二度と、このお肉は出しませんからね」

「はーい♪」

 花中が打ち込んだ『楔』を、オオゲツヒメは嬉々として受け入れる。拘束力は殆どないが、少しは衝動の歯止めになってくれるだろう。

「それはそうと、コトちゃんも一口食べませんこと?」

 花中の心配を他所に、オオゲツヒメは加奈子が抱き付いているのとは逆の方を見遣る。

 その椅子には一人の少女、コトアマツが座っていた。

 コトアマツの前に料理は一切置かれていない。食事は不要だと断られたからで、実際コトアマツは平然としている様子だ。自分の前に食事が置かれていない事を、本当に気にしていないのだろう。

 花中としては、それはそれで安心出来るところ。しかしそれでも……

「もぉー、一口ぐらい食べれば良いのにぃ。だから大きくなれないんですわよー」

「結合エネルギーを、わざわざ熱エネルギーにするのが勿体ないだけだ」

「ふふっ。本当に勿体ないのはどちらかしら」

 コトアマツをおちょくるように話していたオオゲツヒメが、くるりと花中の方に視線を向けてきたのはそんな考え事をしていた最中だった。

 オオゲツヒメと視線が合った花中は、思わず身体が跳ねた。襲われ、食べられそうになったトラウマが未だ残っているのだろうか。オオゲツヒメよりも強くなった筈の身体が、ビクビクと縮んでしまう。

 されどオオゲツヒメは、怯える花中にニッコリとした笑みを向けるのみ。

「花中ちゃん。期待していますわよ?」

 次いで発した言葉は、一方的な信頼感。

 あまりにも不可解な言動に、花中の身体の震えはすぐに収まった。しかしオオゲツヒメは花中に自身の言葉の意味を説明する事もなく、加奈子や晴海との談笑を楽しみ始める。

 単なる戯れ言だろうか。

 多分そうだろうと思う花中。けれどもどうにも胸の奥に引っ掛かる。ちゃんと尋ねれば答えてくれるのだろうか? もしかしたらそうかも知れないが、今のオオゲツヒメは加奈子や晴海との会話で盛り上がっていて、口を挟み辛い。

「かなかねーちゃーん! おにくおかわりー!」

「わたしもわたしもー!」

 そうしてもたもたしていると、食堂の何処かから子供の声が花中を呼んだ。

 声の方へと振り向けば、小学校高学年ぐらいの二人の子供が、立ちながら空になったお皿を掲げている姿が目に入る。兄と妹だろうか。親に窘められ二人は座らされたが、彼等の伝えたい事はしかとこちらに届いた。

 どうやらお代わりをご所望らしい。

 この避難所では、お代わりを想定して多めに作るという事はしていない。白饅頭はフィアが十分な量を獲ってきてくれているとはいえ、荒廃した今の世界において大変貴重な食糧である。そこため少しでも残飯を出さないようにするため、お代わりは必要になったら随時作る方式なのだ。調理法が基本生か焼くかの二択なので、出来上がるのに時間が掛からないからこそ可能な方式である。

 小学校高学年といえば食べ盛りなお年頃。身体を作る材料であるタンパク質は、もりもり取ってもらわねばなるまい。

「……はーい! ちょっと、待っててくださいねー!」

 頭の中にあったものを、一端隅へと押し込む。オオゲツヒメの真意は気になるが、後で尋ねれば良いだろう……そう考えながらキッチンへと戻った。

 尤も、そんな時に限ってお代わりを求める人が続出したり。

 能力を使えば焼き肉など簡単に出来上がるが、長年の経験があるからか、フライパンで調理する方が上手く作れる。そのため花中は求められたお代わりに、一つ一つフライパンによる調理で応えた。要望に応える事ばかり考えて、先程まで自分が訊こうとしていた事をすっかり忘れてしまう。

 無論とても大事な事ならば、忘れないようメモを残すなりなんなりしただろう。が、戯れ言かも分からぬ言葉にそのような手間をする筈もなく。昼食時を終えた時、花中はオオゲツヒメの言葉などすっかり忘れてしまった。

 そう。この時オオゲツヒメの思わせぶりな言葉に、大した意味などないと思っていたのである。心配性な花中さえも。ならば食堂に居た誰もが気にしなかった筈だ。

 故に誰も、その言葉の意味に気付かなかった。

 あの時が訪れるまで――――




人喰いさんと正体不明のトンデモ生物との共同生活!
うん、ゾッとするね。

次回は12/7(土)投稿予定です。


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生命の王3

「余は飽いたぞ」

 昼食時が終わり、更に時間が経った午後二時頃。唐突にコトアマツはそう独りごちた。

 キッチンにて食器を洗うなど、昼食後の後片付けをしていた花中は少なからず戸惑った。何故ならコトアマツは花中の顔をじっと見つめながらその発言をした訳で、それはつまり花中に向けてこれを伝えようとしたという事だからだ。花中の後ろには抱き付いているフィアが居て、そのフィアは不満を零したコトアマツに怪訝な表情を向けている。

 飽いたとはなんの事か? 現状から想像される理由は一つだけ――――花中の観察だ。どうやら思っていたような『動き』がなくて、飽きてしまったらしい。

 しかしながら花中とコトアマツが出会ってから、まだ三時間も経っていない。確かに植物や昆虫の幼虫に比べれば、哺乳類である花中はよく動く方だろうが……三時間かそこらで面白い『生態』を披露する事を期待されても、割と困る。なんとも短気な女の子だ。

 とはいえ、飽きたのならさっさと帰れ、等とキレて追い払う訳にもいかない。おっとりぽわぽわ系思考の持ち主である花中にはそもそもそんな発想がないのもあるが……コトアマツと地核に潜む『何か』の関係性を解き明かす事は、未だ出来ていないのだ。現時点でコトアマツは地核に潜む『何か』を探る唯一無二の手掛かり。もしも彼女が帰ってしまうような事があれば、地球の命運を左右する強大なパワーの正体が謎のままとなりかねない。帰られるとむしろ花中の方が困ってしまう。なんとかして引き留めたいところだ。

「えっ、あ……え、えと……」

「何か隠し球があるなら今のうちに言え。それから披露してみろ。面白ければもう少し観察する」

「か、隠し? その……て、テレポートが出来」

「つまらん。じゃあ帰るか」

 しかし戸惑っているうちにコトアマツから問われ、反射的に答えた内容では気を惹けず。コトアマツは身を翻し、本当に帰ろうとしてしまう。

「ふん。さっさとお帰りなさい。しっしっ」

 コトアマツの力を感じ取っているであろうフィアは、コトアマツに対し露骨な嫌悪の言葉を投げ掛けた。コトアマツはフィアの悪態などまるで聞こえていないかのように無視しており、だからこそその足を止めようともしない。

 フィアからすれば、追い払おうにも追い払えない輩が去ろうとしているシチュエーション。心から喜んでいるに違いない。されど花中にとって、これはあまり良くない展開だ。何か言って引き留めねば、とは思うのだが……先程答えられなかったものが、ほんの数秒で答えられるようになる筈もなく。

「あら、もう飽きちゃったんですの?」

 もしもコトアマツの『友達』であるオオゲツヒメが尋ねなければ、コトアマツの足を止める事は叶わなかっただろう。

 何時の間にかキッチンに忍び込んでいたオオゲツヒメ。花中はビクリと怯えながら、フィアは敵意のこもった鋭い眼差しと共に振り向き、されどすぐに一人と一匹は呆けた顔になる。

 何しろ今のオオゲツヒメは、まん丸ぷくぷくに膨れ上がっているのだから。文字通りボールのような体型であり、避難所の住人達に一発で人間じゃないとバレてしまう姿だ。多分本能のまま白饅頭を食べた結果なのだろうが、どれだけ白饅頭の肉を気に入ったのかと、花中としてもちょっとツッコミを入れたい。

 そんな気持ちを抱いたのは花中とフィアだけでなく、オオゲツヒメの友達であるコトアマツも同じらしい。コトアマツは明らかに顔を顰め、友達の醜態に嘆きの表情を見せていた。

「お前なぁ……食べるのが好きなのは構わないが、もう少し節度を持たないか?」

「美味しいものはたらふく食べる。それがわたくしのモットーですわ! あと満腹感に勝る幸せなんてありませんわよー」

「ほんとお前は簡単に幸せになるな。その点については心底羨ましいぞ」

「こーいうのは心の持ちようですわ」

 窘めるコトアマツだが、オオゲツヒメは持論を展開。心の強さは流石のもので、コトアマツの言葉にも動じない。説得の通じない友の姿に、コトアマツは可愛らしく唇を尖らせた。

 コトアマツとオオゲツヒメが、どうして友達なのかなんて花中には分からない。

 ただ、彼女達が心から親しい関係なのは、花中にも理解出来た。コトアマツの正体は分からないが、オオゲツヒメとの圧倒的な力の差からして生物種は異なる筈。されどその仲は社会性動物である人間同士よりも深く、されど共生関係の生物のような事務的な感じがない。本当に、彼女達は心から仲良しなのだろう。

 まるで自分とフィアのような関係に思えて、花中は二匹の間柄に少し親近感を覚えた。フィアの方はといえば、花中を抱き締める力が増している。きっと二匹の仲良しぶりに、負けるもんかと意地を張っているのだ。それは意地を張れば『勝てる』という自信の表れでもあり、つまりフィアはそのぐらい花中と仲良しだと確信している。フレンドリー大好きな花中にとって、これ以上ないほど嬉しい扱いだ。自然と口許が弛み、柔らかな笑みが浮かぶ。

「あなたは人間の料理とか娯楽について、もっと広く学ぶべきですわ。知らないままなんて、勿体なくってよ」

 更にオオゲツヒメから人間文化への『お褒めの言葉』を頂けば、ちょっと照れてしまう。無意識に花中の顔は笑みによってくしゃくしゃになっていき、

「知ったところでなんになる? 適当な時期に余がこの星を喰らい尽くす事は伝えただろう?」

 コトアマツがさらりと語ったこの言葉で、何もかもが凍り付いた。

 ホシヲ、クライツクス?

 コトアマツが語った言葉を、花中は頭の中で反復させる。読み方や漢字を変えて、読み替えも試みた。何かの比喩ではないかと考え、遠回しな解釈も試みた。

 しかしどれだけやっても、何をやっても、一つの意味しか受け取れない。そしてその意味は、これまで気にしていたあらゆる事柄を『些事』にしてしまう。

 星を喰らい尽くす。

 ()()()()()()()()()()()()()()()コトアマツがそれを語ったのだから。

「え、あ、こ、コトアマツ、さん……? その、ほ、星を喰らうって……ど、どういう、意味ですか……?」

「そのままの意味だが? この星を形成する元素全てを余の一部とする。まぁ、余の唯一の友であるコイツは別だが」

「ごめんなさーい」

 思わず口に出ていた言葉を、コトアマツは否定も誤魔化しもせず、淡々と認めた。オオゲツヒメも知っていたらしく、これまで秘密にしていた事への謝罪か、両手を合わせながらぺこりと花中に向けて頭を下げる。

 きっと、コトアマツは嘘など吐いていないのだろう。

 だからこそ花中は精神的に大きなショックを受けた。彼女は本当にこの星を、人間だけでなく何百万という種が生きているこの惑星を、完全に喰らい尽くすつもりなのだと分かったのだから。そしてコトアマツから、地核に潜む『何か』と同じ力が発せられている事を思えば……世界を喰い尽くすという所業さえも、さして難しいものではないと感じさせる。

 現実味のある終焉に、花中の心臓がバクバクと鼓動を強めた。頭は段々と白くなり、思考が回らなくなっていく。

 しかし完全に塗り潰される前に、花中は頭を振りかぶった。

 出来るという事と、やろうという事は別物だ。花中がその力を使えばこの避難所の人間を一人残らず殺せるが、そうするどころか出来るだけ人々を守ろうとするように。

 コトアマツが星を喰らい尽くすからには、相応の理由がある筈だ。

「ど、どうして、そんな、事を……」

 まずは理由を確かめよう。未だ動揺している胸を両手で押さえながら、花中はコトアマツに尋ねる。

 常に自信に満ち溢れている少女は、花中の問いに表情一つ崩さない。

「余の演算能力を強化するためだ。一つ解決したい問題があるのだが、現時点の余の演算能力では不足があってな。そのため地球そのものを余の一部とするのだ」

 語られた言葉には一片の罪悪感もなく、むしろ誇らしげな有り様だった。

 演算力とは、ものを考える力の事だろうか。だとしたら演算力を強化するために星を喰らうとは……自分の頭を良くするために、地球全てを文字通り血肉に変えるという事になる。あまりにもスケールが大きく、あまりにも身勝手。価値観が違い過ぎて、意味すら分からない。

 唯一分かるのは、彼女は己が起こそうとしている行動に、なんの罪悪感も躊躇もないという事だけだ。

「花中さん花中さん。あまり難しい話は分からなかったのですがひょっとするとこれは地球のピンチというやつですかね?」

 流石のフィアも、コトアマツの語った話に危機感を覚えたらしい。花中は無意識に、こくりと頷く。

「成程……これは困りましたねぇ」

 するとフィアは本当に困ったように、ぽつりと独りごちる。

 並の相手であれば、フィアなら「じゃあここで始末しましょう」ぐらいは言い出す。それを言わないのは、彼女もコトアマツの実力を察しているからに他ならない。

 刃向かえばその瞬間に殺される。

 しかし彼女を止めねば、地球という星が消えてなくなる。

 一体、どうすれば良いのか。再び頭の中がぐちゃぐちゃになり、花中は口を開く事すら満足に出来なくなる。フィアも意見しても無駄と思っているのか口を閉ざし、考え込むばかり。

「むぅ。やっぱりその計画、止めてくれませんの?」

 だから、それを問えるのは花中でもフィアでもない。

 コトアマツ自身が友だと語る、オオゲツヒメだけだった。

「くどい。余はやると言ったらやる。お前の頼みでもこれだけは譲れん」

「いけずぅ」

「いけずで結構。大体地球だけ残しても意味がなかろう。太陽も他の惑星も、全て喰らってやるのだからな」

「それはそうですけどぉ」

「というかお前のために人間の遺伝情報は保存して、何時でも人間の肉を再構成してやると言ってるじゃないか。何が不満なんだか」

「不満に決まってますわ! 人工物より天然物の方が、とは限りませんけど、味が全然違いますもの!」

「どちらも変わらんだろ。成分は完璧に再現出来るのだからな」

「そうじゃありません! 作り手の真心が大事なんですの! 全く、これだから効率至上主義者は困りますわ。浪漫と感動をなーんにも分かっていない」

「あぁん?」

 オオゲツヒメとしばし会話を交わしていたコトアマツだが、不意に怒りを露わにする。

 ミュータントすらも瞬殺するであろう気配。余波だけで花中はビクリと身体が跳ね、震えてしまう。フィアも本能的にか、闘争心を戦闘時のそれに高めていた。

 しかしオオゲツヒメ、この殺気にも堪えず。むしろぷくっと頬を膨らませる余裕まで見せ付ける。

「聞こえませんでしたの? だったらもう一度言ってやりますわ。この効率至上主義の無感情事務員!」

「じ、事務員!? 貴様、王であるこの余に向けて……」

「大体王とか名乗ってますけど、臣民も何もいないじゃありませんの」

「ふん。余が王である事に他の信任など必要ない。王にたる力を持つからこそ、余は王を名乗っているのだからな」

「寂しい王ですわねぇ。本当は王様どころかただのビビりの癖して、呆れてものも言えませんわ」

「なんだと!? 事務員呼ばわりのみならずビビりとはいよいよ許せん!」

「許せないならどーするんですのぉ? まさか暴力なんて王様らしくない真似、しませんわよねぇ?」

「き、貴様ァ! 余を愚弄するかぁ!」

「してやりますわよバーカ!」

「馬鹿って言う奴が馬鹿なんだぞ! 馬鹿馬鹿ばーかっ!」

「だったらあなたはわたくしの三倍バカですわーっ!」

 ぎゃーぎゃーわーわー、なんとも子供染みた口ゲンカが始まった。

 先程までの殺気はなんだったのか。前振りと明らかに異なるケンカの形に、花中だけでなくフィアも呆ける。一人と一匹の視線を受けるコトアマツ達は、しかしこちらの事などお構いなし。頭空っぽで感情的な言葉をぶつけ合うばかり。

 ただ、花中の客観的な視点で語るならば。

 オオゲツヒメの興奮の仕方が、どうにも演技臭いような……

「じゃあ、あなたの計画が実行可能になるその日までという事で良いですわね!?」

「ああ良いとも! どーせ計画に変更はないからな!」

「結構! あ、それと何処かに逃げ隠れたり、無視して時間を稼ぐような狡い真似をするんじゃありません事よ!? 誘われた事には全て参加なさい!」

「言われずともやってくれるわ! あまり余を見くびるでない!」

 考え込んでいるうちに、何やら話が進んでいた。コトアマツとオオゲツヒメは何かを約束し合うと、息を合わせたように同時にそっぽを向き合う。

 こんな時でなければ()()()()()と思わせる姿を見せる二匹。そのうちの一匹であるオオゲツヒメが、花中の方にズカズカとやってくる。

「ちょっと付き合ってくださいまし」

 そしてそう言うと、答えを待たずに花中の腕を掴んだ。

「え? えと、なん」

「良いから来なさい!」

「は、はひっ!?」

「あなた花中さんを怖がらせるのは止めてもらえませんか。殺しますよ?」

 強い言葉に押され、思わず返事をしてしまう花中。フィアが殺意を露わにするが、オオゲツヒメは動じる素振りすらない。ぐいぐいと花中の腕を引っ張る。

 花中は引かれるがままオオゲツヒメの進む方へと歩き、フィアは花中に抱き付いたままピッタリと寄り添う。

 キッチンに残るのは、不機嫌になっているコトアマツだけ。

 花中はちらりと、コトアマツが居る後ろを振り返る。コトアマツは今も怒っているのか、拗ねるように花中達に背を向けた状態で胡座を掻いていた。子供っぽい姿は微笑ましさを覚えさせるが、放たれる気配はやはり強大無比。その力を感じた状態では、到底和やかな気持ちなど抱けない。

 けれども、その背中を見て花中は思う。

 なんだか、心細い感情があるような気がして――――

 ……………

 ………

 …

「……うん。これぐらい離れれば良いかしら。本気で聞き耳立てられたなら、地球の裏側に行っても無意味ですし」

 キッチンから百メートルは離れた、避難場所の端にて。オオゲツヒメはようやく花中から手を離す。

 避難所の端とは、つまり『開拓』が進んでいない領域。辺りにはもう一月以上前の出来事である、ムスペル事変時の地震で崩れた建物の瓦礫が積み上がっている。勿論所詮はコンクリートやら材木の集まり。その気になれば花中でもフィアでも、簡単にこれらの物は退かせる。が、退かしたところで建てる施設の予定もないし、退かす場所も決めねばならない。むしろバリケードのように、野生動物の侵入を防ぐ壁として利用されていた。

 とはいえあくまで地震により積み上がっただけの瓦礫であり、しっかりと組まれた石垣ではない。何かの拍子に崩れるというのは十分あり得る話であり、基本この付近に立ち寄る人は殆どいない。今も周りには、花中達以外の姿はなかった。

 考えようによっては、オオゲツヒメは人気のない場所に花中達を連れ込んだ、と受け取れる。

「で? こんな場所に連れ込んで何を企んでいるのです?」

 少なくともフィアは、オオゲツヒメが何か悪巧みしていると思っているらしい。今もフィアは花中に抱き付いているが、その抱き付く力が強くなり、警戒心を強めているのが花中にも分かる。去年の四月頃オオゲツヒメに食べられそうになった花中も、彼女が何をするつもりなのか分からず不安を覚えた。

 一応今の花中はミュータントとしての力に目覚め、かなり強大な『戦闘能力』を有している。殺し合いが出来るような野性的メンタルは有していないものの、自衛のための戦いならばどうにか可能だ。そこにフィアが加われば、『ただのミュータント』であるオオゲツヒメに勝ち目などない。

 ミュータントなら相手の力量を推し量る力がある筈なので、それはオオゲツヒメ自身が一番分かっているだろう。だとすれば自分を食べるためではないと花中は考えるが、そうするとますますオオゲツヒメの真意が分からない。

 やがてオオゲツヒメはくるりと、花中達の方に振り返る。何を語るのか、何をするのか。見極めようとして花中はオオゲツヒメの動きを注意深く観察し、

 申し訳なさそうにぺこりと一礼する姿を目の当たりにした。

 ……予想外の行動に、花中はポカンとした表情を浮かべてしまう。フィアもその行動の意図が理解出来なかったのか、眉間に皺が寄っていた。

 困惑する花中達に、オオゲツヒメは少し気分の落ち込んだ声色で話し始める。

「ごめんなさい、わたくしの友達がご迷惑をお掛けして」

「へ? あ、えと……」

「全くです。もしあの話が本当ならば地球の終わりじゃないですか。迷惑どころの話じゃないですよ」

 花中が言い淀んでいると、フィアが本音をそのままぶちまけていた。その本音は確かに花中も思っていなかった訳ではないが、面と向かって言うつもりのない言葉。まるで自分が失言してしまったような、罪悪感にも似た焦りが花中の胸を満たす。

 幸いにしてオオゲツヒメはこれに怒らず、むしろ「本当にねぇ」と同意してくれた。

「それはわたくしも思いますけど、あまり悪く言わないであげてくださいな。あの子、アレで結構小心者なんですのよ」

「小心者ねぇ。傲慢が剥き身で歩いているようなもんだと思うのですが」

「見栄っ張りなのですわ。或いは、臆病なのを隠そうとしているだけかも」

 友達が傍に居ないのを良い事に、割と酷い事を語るオオゲツヒメ。しかしジョークを言っているようでもない。少なくともオオゲツヒメとしては、本当の事を話しているつもりだと花中は感じる。

 だとすると、コトアマツは本当に小心者なのだろうか? そしてコトアマツをそう称するという事は、オオゲツヒメは知っているのだろう。

 コトアマツが何故地球を喰らおうとしているのか、どうしてそこまでして演算力を強化しようとしているのか……その根源的な理由を。

「……大月さん。教えて、くれませんか。どうしてコトアマツさんは、地球を……この星を、食べようと、しているのですか?」

 意を決して尋ねると、オオゲツヒメは空を軽く仰ぐ。

 しばし考え込むような沈黙を挟んだ後、オオゲツヒメは花中の顔を見てくすりと笑う。

「死にたくないんですわ、あの子」

 次いで語られたのは、そんな一言。

 生き物としてはある意味平凡な感情。まさかそのような言葉が語られるとは思わず、聞かされた花中は意味を読み解くのに時間が掛かって固まってしまう。

 尤も、理解した後もしばし固まっていたのだが。あまりにも俗っぽく、そしてそれがどうして地球捕食に結び付くのかまるで理解出来なかったが故に。

「……え? 死にたく、ない?」

「そう、死にたくないんですの」

「はぁ。そりゃまぁ誰だって普通は死にたくないでしょうね。というか一体どうやったらアイツを殺せるのか皆目見当も付かないのですが」

「そうでしょ? もうね、あの子ったら花中ちゃんが勇猛果敢に見えるぐらいのビビりなんですもの。見栄っ張りな上に意地っ張りで小物なんだから……まぁ、だから強いんですけど」

 呆れるように尋ねるフィアに、オオゲツヒメは同じく呆れた様子で同意する。あまりにもあっけらかんとした肯定故か、フィアはオオゲツヒメの意見にあまり疑問を抱いていない様子だ。

 反面、花中の頭は混乱の極地にあった。

 死ぬのが怖い。それはどんな生物でも……自覚しているかどうかを別にすれば、それこそ細菌や植物だって……抱くであろう感情。一部には我が身を子供達に捧げたり、子を守るために身を挺したりする種も存在するが、それは『より多くの子孫を残す上で合理的な選択』だから行われる本能である。生物は自分の得にならない死を選ばない。

 だからコトアマツが死を嫌うのは、生物としては極々当然の反応である。されどフィアが言うように、一体どんな事象ならばコトアマツを殺せるというのか。コトアマツから感じる力が花中の思う通りのものならば、彼女は水爆が何千発直撃しても無傷だろうし、巨大隕石をデコピン一つで押し返すだろう。超新星爆発やブラックホールのような宇宙最強クラスの天文現象ならば或いは――――と考えてみたが、何故か死ぬイメージが湧かない。むしろ逆に喰らいそうなぐらいである。

 そんな彼女が死を恐れるというのは、小心者や臆病という評価を通り越して、異様にしか感じられない。どうしてそうなるのか理解が及ばず、それが酷く不気味な感覚を花中に覚えさせた。

「そこで花中ちゃんにお願いした訳ですの。後は任せましたわ」

 そうして不安になっている最中に、オオゲツヒメから頼まれ事をされてしまった。感情的に不安定だった花中は、反射的にこれを断ろうとして

 ふと、気付く。

 ――――そこで花中ちゃんにお願いした訳ですの。

 ()()()()()()()()()()()? 花中はオオゲツヒメに何かを頼まれた覚えなど、全くないというのに。

「ああ。あの時の売り言葉はそういう意味でしたか。何を血迷った事を言ってるんだと思いましたがそのような裏があったとは。あなた実は全然冷静だったのですね」

 困惑する花中に、更に拍車を掛けるのが納得するフィア。どうやらフィアには心当たりがあるらしい。他人の話なんてろくに聞かないフィアが。

 分からないのは自分だけ。なんだか無性に恥ずかしくなり、花中は頬が赤くなる。このまま足下の地面を粒子分解し、地下数キロ地点まで掘った穴に入りたい。が、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥という先人のありがたい御言葉があるのだ。ここで物理的に潜れば一生の恥確定である。

「あ、あの……ど、どういう、意味でしょうか……?」

 恥を忍んで訊いてみれば、オオゲツヒメはキョトンと首を傾げる。

 次いでポンッと手を叩き、花中が何も分かっていない事を察したらしい。ニコニコと、可愛らしい子供を愛でるような眼差しを向けながら、ゆったりとした言葉遣いで話す。

「あらあら、ごめんなさい。花中ちゃん、聞き逃していたんですのね」

「おや珍しい……訳でもないですか。花中さん割とよくボーッとしてますし」

「ご、ごめんなさい……」

「気にしなくでくださいな。そもそもわたくし、花中ちゃんには面と向かって説明していませんもの」

「ですねー。あのコトアマツとかいう奴と口ゲンカしてる時に言ってただけですし」

 恥ずかしがる花中を宥めるオオゲツヒメと、可愛がるように花中の頭を撫でるフィア。

 二匹の話から察するに、オオゲツヒメの『頼み事』はコトアマツとオオゲツヒメのケンカ中に交わされた話らしい。思い返せばあの時、花中は考え込んでいた。それで話を聞き逃していたようだ。

 自分の失態を猛省しつつ、花中はオオゲツヒメから気が逸れぬよう意識して彼女の顔を見つめる。見られているオオゲツヒメは、ニコッと微笑み、こう答えた。

「わたくし、コトちゃんに啖呵を切ったんですの。花中ちゃんとしばらく付き合ってごらんなさい、きっと友達になりたくなりますわよって。そしたらあの子、良いだろうその賭け乗ってやるーとか言って、簡単に釣れたんですの」

 イタズラっ子のように笑いながら語るオオゲツヒメの説明に、花中はポカンとなる。

 言いたい事はなんとなく分かる。つまりオオゲツヒメはコトアマツに、大桐花中とは一緒にいると友達になりたくなるような『面白い』奴だと紹介した訳だ。そしてコトアマツはその挑発に乗り、しばらくの間花中と共に暮らす事にした。

 花中としては嬉しい事である。危うく帰るところだったコトアマツを引き留め、もうしばらく付き合ってくれるのだ。コトアマツから地核に潜む『何か』について探ろうとしていた花中にとって、実に有り難い展開と言えよう。

 されどそれが今までの、コトアマツによる地球滅亡とどう結び付くか分からない。

 狼狽えていると、オオゲツヒメはちょっと困惑した素振りを見せる。どうしてこれで理解しないのだろう? そう言いたげに眉を顰めた後、思い出したようにオオゲツヒメはポンッと手を叩く。

「つまりコトちゃんが地球を喰い尽くす準備が整う、一月ちょっとの間に花中ちゃんがコトちゃんと友達になれば、地球は助かるという話ですわ♪」

 そして今度はとても分かりやすく、要点を纏めてくれた……纏めてくれたが、それは花中の理解の手助けにはならない。

 何しろ何故か自分が地球を救う話になっているのだから。

「……え? え、ええええええええっ!? え、な、なん……!?」

「あの子、あれで『お友達』になった子には結構甘いんですの。だから花中ちゃんがお友達になって、地球を壊さないでって説得すれば、もしかするとお願いを聞いてくれるかも知れませんわよ?」

「なんとまぁ投げやりですねぇ。大体友達のお願いを簡単に聞くのなら何故あなたの頼みは断るのです?」

「頼みましたわよ。でも今回はあの子も本気だから、わたくしだけの説得じゃ聞かなくて。あと正直地球外生命体の味にも興味があるので、地球が壊れてもそれはそれって感じですし」

「花中さんコイツ絶対真面目に説得してませんよ」

 フィアの意見に激しく同意し、花中は非難の眼差しをオオゲツヒメに向ける。尤も、オオゲツヒメがこんな程度で怯むような繊細な性格な筈もないのだが。むしろちょっぴり意地の悪い、何かを企んでいるような表情を浮かべる始末。

「友達にさえなれば、きっとなんとかなりますわよ。友達になる事がそもそも大変なんですけどね」

「う、うぅ……」

「ちなみにわたくしに他の案はありませんので、何かありましたら仰ってくださいな。良い案かどうかは、わたくしも一緒に考えますから」

「うううぅ……」

 オオゲツヒメの話に、花中は何も言い返せない。代案があるかといえば何もなく、むしろオオゲツヒメのお陰で首が繋がったのは間違いないのだ。彼女を責めるのはお門違いというものである。

 ただ、一つ思うのは……

「あ、あの……」

「うん、なんですの?」

「あの……もしも、わたしがコトアマツさんと、期限内に、友達になれなかったら……」

 おどおどしながら尋ねる花中に、オオゲツヒメは微笑んだ。そんなに心配する事はないと言わんばかりに。

「勿論地球滅亡ですわ♪ 最初からそういう計画ですもの」

 ただしその心配するなという励ましは、「失敗しても事態が『悪化』する訳じゃない」という意味でしかない。

 つまり、この星の命運は花中がコトアマツと友達になり、説得出来るかどうかに掛かっているという事になった訳で。

「……きゅぅ」

「あらあら?」

「おや。久しぶりですねぇ」

 地球の存亡を背負い込む事になった花中は、呆気なく自らの意識を手放してしまうのだった。




星を喰らうってなんかカッコいいよね(オイ)

次回は明日投稿予定です。


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生命の王4

 誰かと友達になるには、どうすれば良いのか?

 二年半ほど前の、高校に入学したばかりの花中ならば「そんなのわたしが訊きたいぐらいです」と答えていただろう。そもそも知らない人に話し掛ける事すら無理難題なぐらい人付き合いが不得意だった。

 しかし今の花中は違う。友達百人、は流石に届かないが、それなりの人数は作ってきた。知らない人に話し掛ける事も出来るし、今や避難所の料理当番というそこそこの『役職』に就くぐらいだ。得意とは言えないまでも、人並には人付き合いが出来る。

 此度の相手は人外なので『人付き合い』が上手くても友達になれるとは限らないが……花中としてはむしろこっちの方が得意分野。人間の友達より、人間じゃない友達の方がずっと多いのだから。

 そう、恐れるものは何もありはしない。

「こ、こ、コトアマツさん! 一緒に、トランプをやりませんか!?」

 過去の経験を元にして作り上げた自信を柱にして、花中は威勢良く『彼女』と友達になろうとした。

 花中が声を掛けた彼女――――コトアマツは、食堂の隅にある椅子に腰掛けていた。何かしている訳ではなく、ただぼんやりと椅子に座っていた……ように花中には見えた。

 恐らくは暇である筈。そして今の時刻は午後二時頃であり、昼行性でも夜行性でも、寝るには中途半端な時間だ。

 遊びに誘うならば今が好機。完璧にして完全な誘い文句だ!

「あん? 何か言ったか?」

 等と自分の言動を必死に自画自賛する花中だったが、コトアマツは今の台詞を全く聞いていなかったらしい。

 花中が一生懸命作り上げた自信と勇気は、僅か五秒で砕け散る事となった。

「はぅっ!? ご、ごめんなさ……」

「いや、なんで謝ってんのさ」

「引くにしても早過ぎ。というか聞き返されただけだし」

「怒鳴られてもいないのに何故後退するのですか?」

 しかし後退りすれば、今度は背後に控えていたミィとミリオンとフィアから駄目出しを喰らう始末。挟み撃ちに遭った花中は足を止め、その場で縮こまってしまう。

 されどすぐに顔を横に振り、一端今の考えを脇に寄せて我を取り戻す。

 そう、落ち込んでいる場合ではない。何故花中はコトアマツを誘ったのか? それは彼女と仲良くなるためだ。

 では何故彼女と仲良くなるのか? それはコトアマツと仲良くならなければ、自分達が生きていくのに欠かせない、この星が食べられてしまうからである。

「……ん? 見ない顔がいるな」

「おっ。やっと気付いてくれた。花中の友達だよー、今日は呼ばれたからこっち来たんだー」

 尤も花中のお誘いは、初対面であるミィへの好奇心未満しかコトアマツの関心を惹けなかったようである。大勢で遊んだ方が楽しいと考えて彼女も呼んだのだが、まさか早速その力を借りる事になるとは。

 このままミィがコトアマツの友達になれば、それはそれで『目的』達成と言えそうだが……コトアマツの視線は酷くつまらなそうで、一瞬向けた興味は既に霧散していた。どうやらこの甘い希望は叶いそうにない。

 早くも心が折れそうになる花中だが、しかしこの星を守るため、このままおめおめと帰る訳にはいかなかった。

 昨日花中が気絶から目覚めた後、オオゲツヒメは期限についても詳細を教えてくれた。曰く、コトアマツが『星喰い』の準備を終えるのは今から一月とちょっと――――丁度今年の年末頃らしい。十一月も半ばを超えた時期なので、今年の年末まであと四十数日程度。四十日以上という期間はそれなりに長いものだが、星を救うタイムリミットとしてはあまりにも短いだろう。それに厳密な時期はコトアマツの『体調』次第なため、キッチリ四十日以上後とは限らない。今日明日行動を起こす事はないとオオゲツヒメは語っていたが……悠長にしている暇はないだろう。

 一刻も早く、コトアマツと友情を築かねばならない。遊びに誘うのもコトアマツと親交を深めるため。地球という星が宇宙から消え去るかどうかは、花中達のコミュニケーション能力に掛かっているのだ。

「ねーねー、ババ抜きやろうよー。真剣衰弱とかブラックジャックでも良いよー」

「……………」

「おーい? 聞いてるぅー?」

 しかしながらそもそも呼び掛けに反応しないとなれば、コミュニケーションも何もない訳で。

 このまま関心を惹けなければ……青ざめてくる花中。しかし妙案は閃かない。確かに友達はたくさん作り、中にはフィアのような人間基準では『変わり種』も少なくない花中だが、こちらに興味すら持ってくれない子というのは初めてだ。どうしたら良いのか分からず、花中は動きが取れなくなってしまった。

「こーら、遊びに誘われてますわよー」

 もしもひょっこり現れたオオゲツヒメが助け船を出してくれなければ、きっと今日は何も出来ずに引き下がるしかなかっただろう。

「む? そうだったのか?」

「もう、また()()()()……誘われた事には参加するってわたくしと約束したでしょう? なら出来るだけで良いから、周りの話を聞く努力もなさい」

「……すまん。出来るだけ気を付ける」

「よろしい。あ、そうそう。遊ぶのでしたらわたくしも混ぜてくださいませんこと?」

「あん? あなたは誘ってませむぐぐ?」

「ええ、勿論構わないわよ」

 オオゲツヒメの意図を全く汲んでいないフィアが反発しようとして、ミリオンが素早くフィアの口に手を当ててこれを塞ぐ。オオゲツヒメがいないと会話すらろくに出来ない。オオゲツヒメも一緒に参加してくれなければ、『目的』を果たす事も難しいだろう。

 何はともあれ、これでコトアマツと遊べる事になった。難を逃れたというにはまだ早いだろうが、花中は感謝を伝えるためにぺこぺことオオゲツヒメにお辞儀する。片手を振るオオゲツヒメは、気にしないで、と言っているように見えた。

「さて、それじゃあ何をしますの?」

「まだ具体的には決めてないわね。リクエストがあるなら受け付けるけど」

「余はトランプがどのようなものか知らん」

「うーん、そうですわねぇ……なら、大富豪はどうでしょう?」

「あー……アレはローカルルール多いから、細かくやると面倒なのよねぇ」

 オオゲツヒメからの提案を受けたミリオンは、チラリと花中の方を見遣る。大富豪という選択が正しいかどうかは分からないが、何はともあれ一度は遊んでみなければ考えようもない。花中はこくりと頷き、オオゲツヒメの提案に同意した。

 さて、大富豪 ― 或いは大貧民とも呼ばれる ― とはトランプを用いたゲームの一種だ。

 まずプレイヤーは何枚かの手札を持つ。そしてジャンケンなりなんなりの方法で『一番手』になったプレイヤーは、手札の中からカードを場に出す。カードには『強さ』が設定されており、順番が回ってきたプレイヤーは場に出されたカードより強いカードでなければ出せない。そうして出されたカードが新たな場のカードとなり、全てのプレイヤーがカードを出せなくなったら場をリセット。最後にカードを出したプレイヤーが新たな場のカードを出し……これを繰り返し、手札を全て出しきった者から順に『上がり』となる。

 そして勝った順番により、プレイヤーには『身分』が与えられる。大富豪、富豪、平民、貧民、大貧民……そうして身分が与えられた者同士で、次の勝負の前に手札交換が行われるのだ。基本的には強いカードと弱いカードが交換対象となる。強いカードを得るのは富豪側(上流階級)となったプレイヤーである事は、言うまでもない。

 これだけだと一度貧民に落ちれば二度と這い上がれないようにも聞こえるが、実際には様々なルールが勝負を揺るがす。カードの強弱が逆転する『革命』などが好例だ。何度も勝負を繰り返し、出来るだけ勝ち続ける事を目指す遊びなのである。

「……という、感じのルールですけど、えっと、分からないところは、ありましたか?」

「ふむ、まだやってもいないから断言は出来んが、問題あるまい」

 一通りルールを説明した花中が念のため確認すると、コトアマツは自信満々にそう答えた。自分の正しさを信じて疑わない、されどその自信が虚栄ではないと感じさせる堂々たる姿勢だ。

 オオゲツヒメは言っていた。コトアマツは花中以上の小心者だと。

 こちらの説明を理解しただけで自慢げに振る舞う姿を見ていると、そんな印象は全く感じられない。一体どこが怖がりなのやら……

「なんだ? 余の顔に何か付いているのか? 感覚器にはなんの反応もないのだが」

 コトアマツに呼び掛けられ、花中は自分が考え込んでいた事に今気付く。しかもコトアマツの顔をじっと見つめていたらしい。

 なんとも失礼な、それでいて恥ずかしい己の行い。全体的に青くなりながら頬を赤らめるという、器用な変化が花中の顔に起きた。

「あ、い、いえ、その……すみません、なんでもないです」

「なんでもないなら何故謝る? まぁ、良い。ルールは把握したんだ。早くトランプを配れ。他の連中は準備を終えてるぞ」

 慌てて謝る花中の姿に疑問符を付けながら、コトアマツは周囲を見渡すように顔を動かす。

 コトアマツが言うように、フィアもミリオンもミィとオオゲツヒメも、全員が椅子に座っていた。彼女達の座る椅子の近くには、丁度良く木製の机が一つ置かれている。机の大きさはトランプで遊ぶのに適したもの。此処で遊ぶ事に問題はない。

 後は花中がその手に持つ、ジョーカー込みで五十四枚入りのトランプを各々に配れば何時でも始められる。

「……はいっ! すぐに配りますね!」

 花中は手にしたトランプをよく切り、コトアマツ達の前にカードを配るのだった。

 ……………

 ………

 …

 トランプを用いたゲームというのは、非常に運の要素が強い。

 戦略や知略が無意味という訳ではない。心理戦だって重要だろう。しかしそれを差し引いても、どうしようもない時が存在するのだ。例えば七並べなのに手持ちのカードが一とか十三しかない状態では、知略の使いようがないように。

 大富豪は比較的戦略性に富んだゲームだろう。しかしそれでもランダムに手札が配られる以上、強さに偏りが生じてしまうのは避けられない。前回のゲームで一番に上がり、大貧民から最強カードを二枚貰ったのに、トータルで見ればどうしようもないほど手札が弱かった……という展開は、大富豪で何度か遊んだ事があれば誰しも経験している筈だ。

 だから延々と勝ち続けるのは中々難しい。ましてや一番であり続けるなんて、どう考えてもおかしい。

 おかしいのに。

「か、革命だぁー!」

「革命返し」

「おげぶっ!?」

「八切り。そしてキングを出して上がりだ」

 ミィ渾身の『革命』をあっさりと返したコトアマツは、そのまま上がりを掻っ攫って上がってしまう。

 そして今のゲームにおいて、上がった者はまだいない。

 つまりコトアマツは此度のゲーム最初の勝者であり、大富豪の地位を獲得したのである――――()()()()()で。

「花中さーんまたアイツ勝ちましたよ?」

「そ、そう、だね……あ、ミィさん。ごめんなさい、わたしもジャック二枚縛りで上がります」

「ぎゃあっ!?」

「えーっと花中さんこれは今出せない状態ですよね? ああでも他の方も出せないからそのままリセットですか。じゃあ私は六を出して上がりですね」

「うげぇっ!? えっ、ちょ、あたしの手札もう四と五しかないんだけど!?」

「こらこら、手札の中身を明かしてるんじゃないわよ。ちなみに私はさかなちゃんの次かつ残りの手札が九なので上がり」

「ほげっ!?」

「わたくしは六出しますわ~七出しますわ~九出して~」

「うみゃあああああああああ!?」

 折角の革命が無効化され、『富豪』だったミィの地位は大転落。為す術もなく収奪される『大貧民』となってしまう。

 本来ならば『富豪』が『大貧民』になるのはそこそこ珍しい展開なので、ここは大いに盛り上がる場面なのだが……全員いまいちテンションが低い。

 それも当然だ。一番蹴落としたい、一番手に入れたい『大富豪』の地位を、コトアマツがずっと独占しているのだから。花中達一人と四匹で、延々と残りの地位を奪い合っている状態である。

 しかもコトアマツの勝ち方は何時も一方的だ。革命をしようとすれば返されるかその前に上がられる。時には一ターンキルもされた。数ターン何も出さなかったと思えば、やっぱり一ターンKOされた時もある。

 勝ち続けるのはこの際良いとしよう。だが勝ち方が滅茶苦茶だ。たかがトランプなのに次元の違いを感じてしまう。

 次元の違いは「一緒に遊んでいる」という感覚すら失わせる。最早コトアマツはプレイヤーではなく『ゲーム環境』だ。気分一つでこちらの勝機を潰してくる、全プレイヤーに平等なチャンスを与えるためのルール。

 さて、『ゲーム環境』や『ルール』とプレイヤーの間に、友情というのは育めるものなのだろうか?

 花中には、到底思えなかった。

「それにしてもあなた強いですね。なんかインチキしてるのではないですか?」

 訝しげにコトアマツに問うフィアの言葉は、きっと誰もが思っていたところだろう。花中も、正直ちょっと疑っている。

 勿論不正を疑われるというのは、不正をしていない者であれば無礼千万な物言いに感じるだろう。しかしながら『ルール』と化していたものを、『プレイヤー』に引き摺り下ろす発言でもあった。

 問われたコトアマツは、ワンテンポ遅れてフィアの方を見遣る。正直、花中はこの反応だけで少し驚いた。これまでフィアは何度かコトアマツに声を掛けてきたが、彼女がこうして反応する事は一度もなかったからだ。

 思い返すと、ゲーム開始前にオオゲツヒメがコトアマツに話をちゃんと聞くよう叱っていた。その際ズレているとかなんとかとも言っていたが、アレはどういう意味なのか……ついつい考え込みそうになる花中だったが、コトアマツの誇らしげに胸を張る仕草に気付いて我に返る。

「王は不正など働かん。お前達が貧弱なだけだろう?」

「むぅ。確かに私はこーいう頭を使う遊びは苦手ですが。ですが手札の時点で強過ぎて頭云々という話ではないと思います」

「? 誰も頭が弱いとは言ってないだろう?」

 フィアの意見に、コトアマツは不思議そうに首を傾げる。フィアもコトアマツの言いたい事が分からず、愛らしく首を傾げた。

 どうやら認識に齟齬があるようだ。そしてその齟齬はフィアとコトアマツの間だけでなく、花中やミィ達にも生じている。花中にはコトアマツが何を言いたいのか、よく分からない。例外は「あー……」と呆れたような声を漏らしているオオゲツヒメぐらいか。

「あの、何か勝利の秘策とか、あるのですか?」

 違和感を覚えた花中は、コトアマツに尋ねる。コトアマツは仕方ないと言いたげな、呆れと自慢を混ぜ合わせた表情を浮かべながら花中に視線を送ってきた。

「どうという事はない。ただ確率を操作し、余の下に強い手札が来るよう弄くっただけだ」

 そしてさも大した事ではないかのように、コトアマツはそう答える。

「? はぁ。なんだかよく分かりませんが手札が強くなるようにあなたが細工しているのならそれってやっぱりインチキなのではないですか?」

「うん、あたしもそう思う」

「コトちゃんってば、ほんと遊びが分かってないんだから~」

「む? 勝負なのだから勝てるように手を尽くすのが普通ではないか?」

 フィアとミィはコトアマツの語った内容の意味があまり分かっていない様子で、けれどもコトアマツが何かを『仕掛けた』事は理解したので不平を述べる。オオゲツヒメは最初から分かっていたのか、お気楽な様子でコトアマツを弄っていた。当のコトアマツは、自分が不正をした自覚すらないのか目をパチクリさせている。

 彼女の言葉の重みを理解したのは、花中とミリオンだけだった。

 確率操作。

 コトアマツはさらりと語ったが、とんでもない力だ。どんな原理なのかも花中には分からないが、もしも本当にあらゆる確率が操れるのなら、カードの全てを自分の思うがまま変えられる筈。ならばコトアマツがこのゲームで勝ち続けるのは当然である。自分の求めるカードが、自分の手元にやってくるのだから。

 そして確率を自由に操れるという事は、コトアマツはあらゆる素粒子の誕生と破壊を司る。何故なら全ての素粒子は、観測するまで『確率的』に存在しているからだ。素粒子を自在に操れるとは、正に神に等しい力と言えよう。

 尤も、これぐらいなら今の花中にもなんとか出来る。

 それはつまり、コトアマツには花中と同じような力が備わっているという証だ。もしや彼女も自分と同じ、人間から分岐した種の生物なのか?

 しかし、だとすると地核に潜む『何か』は一体――――

「ええい手札を操られては勝てるものも勝てません! カード以外の勝負にしましょう!」

「「さんせーい」」

 考え込んでいると、フィアが別の遊びを提案してきた。ミィとオオゲツヒメはこれに同意の意思を示す。

 残すコトアマツも、にやりと笑みを浮かべた。自分が負けるなんて露ほども思っていない、自信に満ち溢れた笑みだ。

「ふむ、良いだろう。余としてもあまりに手応えがなくて飽きてきたところだ。次のゲームを示せ。どんなものだろうが全員粉砕してくれるわ」

「ふふん言いましたね? 後でズタボロに負けて泣いたとしても容赦しませんよ!」

「そーだそーだ!」

「そーだそーだ♪」

 余裕を見せるコトアマツにフィアが宣戦布告。ミィも闘志を露わにし、オオゲツヒメが面白そうに相乗りする。

「さぁ花中さん! 何か私が勝てそうな遊びを教えてください!」

 なお、フィア達には何かしらの勝算があった訳ではないようで。

「……………え?」

 まさか頼られると思ってなかった花中は、呆けた声を出すのが精いっぱいだった。

 

 

 

 その後もコトアマツとの『勝負』は続いた。

 内容は主に花中が、時々ミリオンやオオゲツヒメが決めた。そう、比率を語れるぐらいたくさんの勝負をやったのだ。腕相撲、キャッチボール、だるまさんが転んだ、かくれんぼ……他にも色々な勝負(遊び)を繰り広げている。

 繰り広げたが、結果は常に同じ。

 

 

 

 ――――例えば腕相撲の時。

「ふっふっふっ。あたしのパワーと真っ向勝負をしようだなんて、後悔しても知らないぞ!」

 自信満々にコトアマツの手を握り締めながら、ミィが不敵に笑う。

 避難所の屋外にて、瓦礫を退かして剥き出しとなった地面に寝転がりながら、ミィとコトアマツが向き合っている。念のため周りに施設が建ってない、開けた場所で行われていた。燦々と降り注ぐ冬の日差しが、二匹の姿を鮮やかに照らす。互いに手を握り合うその様は、幼い女の子同士の戯れのような、和やかな光景である。

 されど両者が纏う雰囲気に意識を向ければ、そんな印象が幻覚だと即座に理解するだろう。

 ミィからは、背筋が震え上がるほどの覇気が発せられていた。どうやらミィもコトアマツの内から放たれる強大なパワーを感じ、全力で挑むつもりらしい。無論これは腕相撲であり、生死を賭けたデスマッチではないのだが……身体能力の高さこそが『能力』であるミィにとって、純粋なパワー勝負である腕相撲は十八番である。ここで負けるのはプライドが許さないのだろう。

 対するコトアマツは、まるでやる気が感じられない。それこそ負けても良いと言わんばかり。

「用意は出来まして? それじゃあ、よーい……」

 審判を務めるオオゲツヒメが、試合開始の前振りをする。ミィは更に覇気を高め、コトアマツは変化なし。戦いを眺める側である花中はごくりと息を飲み……

「どんっ!」

 オオゲツヒメが始まりを告げた

 瞬間、爆音が周囲に響き渡った!

 まるで爆弾でも炸裂したかのような大音量。衝撃波が発せられ、数十メートル離れた先にある瓦礫の山を突き崩す。凄まじい力であるが、これはあくまで余波だ。衝撃波の発生源はミィ達の腕相撲。生み出された力の大半は、相手の掌に掛かっている筈である。

 そして爆音を奏でたのは、コトアマツの方。

 彼女が、ミィの手を地面に()()()()()()()

「うっ、にゃああああ!? 負けたあああ!?」

「情けないですねぇこの野良猫は」

「うっさい! アンタなんかあたしよりヘボい癖に!」

「ああん!? だったら実際試してやりましょうかぁ!?」

 花中と同じく試合を見ていたフィアに馬鹿にされ、ミィがブチ切れる。その売り言葉をフィアは速攻で買うと、コトアマツから手を放したミィはすぐにフィアの下へと移動。二匹は息ピッタリに互いの手を握り締めながら、地面の上に伏せる。

「「はいよーいスタートぐぬうおおおおおおおおおおおッ!」」

 そのまま勝手に腕相撲を始めてしまった。

 ……多分、これはこれで仲が良いのだろう。そう思った花中は、フィア達については放置する。

 それよりも気に掛かるのはコトアマツ。

 この腕相撲を少しでも楽しんでくれたなら、友達になりたいと思ってもらえるチャンスなのだが……

「ところでコトちゃん、腕相撲はどうだった?」

「いや、何が楽しいのかまるで分からん。というか余は少し力を込めただけなのだが」

 残念ながら、花中の願望は叶わなかった。

 

 

 

 ――――例えばキャッチボール。

「はなちゃーん、ファイトー」

「花中さんあんな奴ボコボコのギタギタにしてやってくださーい!」

「そうだそうだー!」

 外野からの応援 ― なお二匹ほど当初の目的を忘れている模様 ― を受け、花中は緊張から口許がひくひくと動いてしまう。

 花中の手には、瓦礫の中から見付けた野球ボールが握られていた。勿論なんの変哲もない、ただのボールだ。グローブは見付からなかったので、素手でボールを掴んでいる。

 そして花中と対峙するのは、同じく素手で向き合うコトアマツ。

 これより始めるのはキャッチボール。球を投げ、受け取り、相手に投げ返す遊びだ。

 球技が大の苦手である花中がボール遊び……一月前なら、花中自身が鼻で笑うところだ。何しろミュータント級と称される大暴投を繰り出すほどの、超運動音痴なのだから。しかし今ならば粒子操作能力を用い、ボールの軌道を操る事など造作もない。亜光速のボールを投げる事は勿論、ギザギザ飛行だって可能だ。

 ……むしろ昔やっていた大暴投は、自らの能力の片鱗が見え隠れしていたのだろうか。いいや、そうに違いない。でなければ本当にただの超生命体級の運動音痴という事になり、色々悲しくなってしまう。

「おい、まだ投げないのか?」

 過去を振り返っていたところ、コトアマツから催促の言葉がやってくる。そうだ、今は遊びの時間。小難しい事は後にして、未来のために友情を育まねばならない。

「すみません、今からいきます!」

 花中は返事と共に、大きく振りかぶり……ボールを投げた!

 まずは軽めに、ストレートの球。コトアマツが受け取りやすいように投げる。

 予想通りコトアマツは、これを素手で楽々キャッチ。次はコトアマツが花中に向けて投げる番だ。

 少しずつ慣らしながら、ちょっとずつ変な球を投げてみよう。少しは面白いと思ってくれるかも知れない。

「ふむ、成程。ではこんな感じに返すとしよう」

 ボールの投げ方について色々考えておく花中に向けて、コトアマツはボールを投げ返す。

 今の花中の動体視力ならば、ボールの動きを見極める事など造作もない。両手を構え、ボールを受け取ろうとして

 ふと、違和感に気付く。

 能力を使おうとしていた花中は、その目でボールの異変を認識する。ボールを形成する電子が激しく動き回っているのだ。なんだろうか、空気との摩擦で静電気でも生まれたのか?

 ミュータント化により得た、高速思考でボールの状態を解析。花中は瞬時に答えへと辿り着く。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「(で、電子化!? え、げ、原子を素粒子に分解して、素粒子を電子に置換し……)」

 咄嗟に、自分にも『出来る』方法で状況を理解しようとする。だが、ボールだった雷撃が近付くほどに理解してしまう。

 自分にはこのボールを作れない。

 電撃と化したボールは、原子レベルでは形を維持していた。これはつまり、電子だけがやたら滅多に活性化しているという事。電気でありながら、原子の性質も持ち合わせているという歪な状態なのだ。

 花中には粒子を操り、形を変える力がある。けれども性質を保ったまま、存在の在り方を変える事は出来ない。

 一体この力はなんだ? どんな力を使えば、こんな不可解な事象を引き起こせるのか――――

 考え込もうとする花中は、しかし一つ重要な事を失念していた。

 ボールが自分の顔目掛けて飛んでいるという、真っ先に気付くべき事実を。

「……あ、しまげぶぼべべべべべべべべべべべべべ!?」

 気付いた時には手遅れ。コトアマツが投げたボールは花中の顔面に命中し、全身に古典的電気ショックを与えた。

 ただのボールであれば、例え脳髄をぶちまけるような破壊力でも()()()()()()()のだが……今回は雷撃を纏ったボール。全身の粒子も電荷を帯び、満遍なくダメージを与えてきた。

 これもまた人間ならば即死する威力。花中は即死こそしなかったが、意識を保つにはちょっと厳しくて。

「……ぶへ」

「かかかか花中さあああああんっ!?」

 バタリと倒れてしまい、親友であるフィアを心配させてしまう羽目に。

「……ふん」

 そしてボールを投げたコトアマツは、酷くつまらなそうにそっぽを向くのであった。

 

 

 

 ――――例えば缶蹴り。

「……という訳で、鬼はこの缶を蹴られないよう、注意しながら、他の人を、探してください」

「ふむ、ルールについては理解した。余が鬼をやる事も承知しよう」

 ルール説明を終え、コトアマツは鬼をやる事を承諾。コトアマツの足下に缶を置いた花中は胸を撫で下ろし……ちょっとだけ、意地悪な笑みを浮かべた。

 今回の勝負は、一対一ではない。

 鬼をやるコトアマツに対し、花中、フィア、ミリオン、ミィ、オオゲツヒメの全員で挑む。無論缶蹴りとはそういうものであり、卑怯でもなんでもない。しかし多勢に無勢には変わりなく、鬼は全員の同行を注視しなければならないのだ。如何にコトアマツとて、楽な事ではないだろう。

 それに缶蹴りをやろうとしている此処、避難所の敷地外は今も多数の瓦礫が存在していた。瓦礫は身を隠すのに持ってこいだし、追い駆けられて振りきるのにも使える。こっそり缶に近付くのだって容易になるだろう。環境的には逃げる側有利なフィールドなのだ。

 これならば、少しは勝機があるかも知れない。

「それじゃあ、準備が出来たら、数え始めて、ください。目は、ちゃんと閉じてくださいね?」

「うむ、良いだろう。それでは数えるぞ。ひとーつ」

 目を閉じ、大きく元気な声でコトアマツが数え始めた――――瞬間、花中達は動き出した。

 他の皆が隠れる中、花中は能力を発動させる。

 コトアマツが自分と同じような力を使える可能性は、大富豪で遊んでいた時の発言からして極めて高い。目を閉じていようと、粒子の運動を感知すれば全員の動きを読み取れる筈。

 ならば空気の粒子を攪拌し、大きく引っ掻き回す。しかもあえて『何か』が通ったような動きをするよう操作すれば、コトアマツには自分達が急に増えたように感じられるだろう。これで全員の居場所を誤魔化す算段だ。

 勿論空気の攪拌は花中が起こしたものなので、花中自身はフィア達の隠れ場所をバッチリ把握している。フィアは瓦礫の下に潜り込み、更に地中を掘り進んで身を隠した。ミィはそこまで器用には隠れられないが、誰よりも遠く、コトアマツから十キロほど距離を取る。ミリオンは分散し、空気中を漂う一般インフルエンザウイルスのフリをするようだ。オオゲツヒメはぐにゃぐにゃと変形し、壊れた電柱の隙間に入り込む。

 各々が自分らしさを活かした場所に隠れる。人間ならばどれだけの技術と戦力を集めても、発見は難しいだろう。

 さて、一応『人間』である花中はといえば。

「……あっ。ど、何処に隠れよう」

 自分の隠れ場所を探す時、わたふたする羽目になった。能力を使えば自分の身体の変形・再構成など造作もないのだが……『人間』、それも少女である花中としては、瓦礫の下やら地面の下やら十キロ離れた地点やら、そうした場所に身を隠すのは気持ち的に避けたい。

 粒子操作で自分の居場所を誤魔化しつつ右往左往していた花中は、コトアマツから数十メートルほど離れた位置に車の残骸がある事を検知する。自らの身体の粒子に能力を用い、亜光速で花中は車の傍まで接近。車体の影に身を隠した。

「八、九、十。さて、数え終わったぞ」

 ここまで僅か十秒以内の出来事。人間からすればあまりにも短い猶予だが、ミュータントにとっては十分な時間。花中達は全員……花中的にも『完璧』なつもりである……万全の体制で隠れている。加えて花中による粒子攪拌という妨害もあるのだ。易々とは見付かるまい

「まずは一匹」

「きゃっ!?」

 花中がそう思っていた矢先、コトアマツがぽつりと独りごちるのと同時に誰かのか弱い悲鳴が聞こえた。

 誰の悲鳴か? 花中はコトアマツの周囲を探る。ただそれだけで答えは得られた。

 ミリオンだ。

 コトアマツの傍で、ミリオンが()()()をしていたのである。まるで空から落ちて着地に失敗したかのように、彼女は尻餅を撞いた体勢だった。唇をへの字に曲げ、ちょっと悔しそうにしているのが確認出来る。

 花中は唖然となった。ミリオンは空気中に霧散していた筈なのだ。缶蹴りの最中、缶を蹴るため以外の理由で集合体を作るとは思えない。

 どうして今彼女はコトアマツの前で尻餅を撞いているのか? 考え付く理由はただ一つ……コトアマツがなんらかの力により、分散していたミリオンを強引に『塊』へと戻したのだ。

「……よく分かったわね。じっとしていれば、はなちゃんにも見付からないと思ったのに」

 恐るべきは、ミリオンがぼやいたようにこれは花中でも真似出来ないという点。

 花中の粒子操作を用いれば、分散したミリオンを『目視確認』する事は可能だ。しかしそのミリオンが、もしも普通のインフルエンザウイルスに()()()()()いたなら、花中には見分けが付かない。乾燥した冬という、インフルエンザが流行る今の時期なら尚更だ。

 そして分散したミリオンを、強引に纏め上げる事も無理である。『自我』を持つミリオンは自らの粒子を己の意思で動かすため、花中が能力を使うための予備動作である観測と予測が行えない。一言で言うなら、花中は『生物』の身体を操れないのだ。

 コトアマツはこれを成した。花中と同じか、或いは別の方法で。

 愕然となる花中。しかしコトアマツの快進撃は終わらない。

「二匹目はお前だ」

「あらあら~」

 手招きするようにコトアマツが手を動かすと、オオゲツヒメが隠れていた電柱がコトアマツの手元まで引き寄せられる。

「もう一匹は、遠いな。こちらに来させよう」

「むにゃ……はっ!? あれ? あたしなんでこんな場所に?」

 それからミィの方を見て何か独りごちた、刹那、何故かミィがコトアマツの傍までやってきていた。超スピードだったためただの人間の目にはワープしてきたように見えるが、花中は粒子操作により把握する……ミィは、自分の足でコトアマツの前までやってきたのだ。まるで、催眠術にでも掛かったかのように。

「四匹目は、あそこだな」

「ほげええええええええええっ!? 臭っ?! うげぉごおおおおお!?」

 最後に指をパチンと鳴らすと、フィアの苦悶の叫びが辺りに響いた。どうやら酷い臭いを嗅がされ、ノックアウトされたらしい。瓦礫を粉砕するほどのパワーで跳び上がり、宙に浮かぶフィアをコトアマツは謎の力で引き寄せる。

 あっという間に仲間が壊滅。残すは花中一人だけ。

 この状況に花中は混乱した。花中が能力を用いて行った工作がまるで通じていない上に、『意味不明』な能力が次々と使われているのだから。

 最初花中は、コトアマツが自分と同じような力を持っていると思っていた。しかしどうやらそうではないらしい。ミィはまるで催眠術でも掛けられていたかのようにコトアマツの下に自ら現れ、フィアが突然悪臭にのたうち回る。こんな事、花中には真似も出来ない。

 なんだこの能力は? 一体何をどうしたというのだ?

 似ているものがあるとすれば彼女……星縄の能力、つまり他のミュータントの能力の『模倣』か。複数のミュータントの力を用いたのならば、統一感のない様々な力を使えるのも頷ける。

 だが、コトアマツには星縄に見られた欠点、つまり出力の低下が見受けられない。というより幾らなんでもここまで滅茶苦茶な力を使った事はなかった。地核に潜む『何か』を倒せる力を求めていた星縄が、花中の実力を見定める際に手加減するとは思えない。常識外れの力を用いるコトアマツの能力は、星縄とは別物と考える方が自然だ。

 コトアマツへの疑問が増す中、しかし花中はその考えを頭の隅へと追いやる。今は缶蹴りの真っ最中。そして仲間は全員やられたが、まだ勝機はある。

 缶蹴りは鬼が『全員』を見付ける事で初めて勝利となる。もしも全員を見付ける前に、見付からなかった者が缶を蹴り飛ばせば……その時点で捕まってしまった者全員が解放となるのだ。試合は終わらないので厳密には鬼の『負け』ではないが、一矢報いるという意味では花中達の勝利と言えよう。

 隙を見て瞬間的に近付き、缶を蹴飛ばしたらまた逃げる。

 自らを粒子として撃ち出す事で亜光速の移動が可能である花中からすれば、どちらも得意な事だ。強いて失敗する可能性を挙げるならば、置かれている缶にキックを外すという『ヘマ』を、運動音痴である自分ならやりかねないという点のみ。その難問については気にしても仕方ないので、頭の隅に寄せておく。

 チャンスは一瞬。コトアマツが自分を()()()()()

「さて、残り一匹は、そこ」

 その時はさして待たずに訪れ、それを予期していた花中はすぐに行動を起こせた。

 コトアマツがこちらを見ている。粒子の動きからそれを判断した花中は、自らの身体を亜光速で撃ち出す。

 コトアマツは花中を見るため、缶から視線を外した状態だ。光速に等しい速さで動いた花中は、そんなコトアマツの背後を突くように現れる。

 缶までの距離は目測一メートル。もう少し近付くつもりだったのだが、思いの外遠い。妨害された? そのような感覚はなかったが……すぐに考えが逸れるのは悪い癖。今は缶蹴りに集中しようと花中は思考を切り替える。後は足を出すだけで『勝利』出来るのだ。

 渾身の力を込めた足を力いっぱい前へと繰り出して――――

 ()()()

「……えっ、ぎゃんっ!?」

 呆気に取られる、そんな暇などないうちに花中は地面に倒れ伏す。まるで体重が何百万倍にもなったような……いや、間違いなくそれぐらい自分の質量が増大していると、花中は確信する。

 ならば、この能力は……

「おっと、危ないところだったか?」

「花中さんそこで外すとか……」

 如何にもピンチだったと言わんばかりのコトアマツ。花中が缶を蹴り損なったところを目の当たりにしたフィアからも、失望したような声が漏れ出ていた。

 申し訳ないとは花中も思う。だが、弁明したい点が一つある。

 今のキックは外したのではない……()()()()()のだ。

 足が辿る軌道は明らかに缶を狙っていた。それは間違いない。けれどもその軌道が突如捻じ曲げられたのである。コトアマツがなんらかの力により、花中に干渉を行ってきたのだ。

 おまけに、逸らされ方にも違和感がある。

 粒子操作などで、肉体の粒子を無理矢理動かされたような感覚はなかった。というより花中自身は最後まで()()()()()()()()()()つもりだ。なのに目で見るキックはどんどん逸れ、実際缶には届かなかったのである。

 逸らされたのは足ではない。逸らされたのは、恐らく……空間の方。

 コトアマツは空間そのものを捻じ曲げたのだ。あたかも超巨大な恒星の周りでは、巨大な重力によってその空間が歪むかのように。

「しかし、これで終わりか。あまりにも呆気ないな」

 花中が疑問の答えに辿り着くのと同時に、コトアマツがつまらなそうに独りごちる。それを聞いた花中は我に返るのと同時に、顔を青くした。

 そうだ。今回の遊びは、コトアマツと仲良くなるために企画したものである。

 なのに勝負は一方的な敗北ばかり。接待だとしても、ろくな力も出さずに勝っては面白みなど感じようがない。有り体に言えば、『つまらない』。

 遊んでいてつまらない連中と友達になるだろうか? 友達がいなかった、昔の花中ならばそれでもYesと答えたかも知れない。だけど友達が出来た今の花中には、そうは答えられない。

「余は飽いた。今日はもう帰る」

 コトアマツがそう言ってこの場を去ろうとするのも、無理のない話だ。

「え、ぁ、ま……」

 呼び止めようとする花中だったが、コトアマツは聞こえてすらいないかのように無視。すたすたとその場を立ち去ってしまう。

「あらあら、帰っちゃいましたわね。あ、そこまで心配しなくても大丈夫ですわ。あの子約束はしましたから、明日にはまた戻ってきますから。また明日、みんなで頑張りましょうね」

 オオゲツヒメは手を振り、花中を励ましながらコトアマツの後を追う。

 コトアマツの友達であるオオゲツヒメが大丈夫だと言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。明日もコトアマツは自分に会いに来てくれる筈だ。

 だけど……

 花中はちらりと、後ろを振り向く。目に入るのは、ふて腐れたように唇を尖らせているミリオン、ふらふらと身体が触れているミィ、悪臭に未だ悶えているフィア。

 全滅だ。完膚なきまでに。

 そして今日の『遊び』で分かったのは――――コトアマツと自分達の間にある巨大な力の溝が、自分が思っていたよりも遥かに大きなものである事だけ。

「……お世辞にも、なんとかなるとは、言えないなぁ」

 ぽつりと感想をぼやいて、花中もまた倒れ伏す。

 チャレンジ初日は大失敗。

 今後の先行きに不安を覚えた花中は、胃が締め付けられるような痛みを覚えるのだった。




争いは同レベルの者同士でしか生じない。
遊んで楽しいのも同レベル。
蹂躙は最初楽しいけど、それだけだと段々虚しくなるよね。

次回は12/14(土)投稿予定です。


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生命の王5

 オオゲツヒメが語ったように、コトアマツは次の日にも顔を出してくれた。

 コトアマツ達が何処に棲んでいるか不明である以上、向こうから来てくれないと友達になるチャンスすらない。その意味では、最悪の状態にはまだなっていないと言えるだろう。

 そう、最悪ではない。最悪ではないが……良いところは全然ない。

 花中達がどんな遊びを提案しても、コトアマツは全てを易々と攻略する。とんでもない頭脳プレーの時もあれば、純粋なパワーで捻じ伏せる時もあるし、インチキ以外の何物でもない不思議な力を使う時もあるが……共通しているのは、どれも花中達では手も足も出ないという事。

 一体何をどうすれば彼女を攻略出来るのか、その糸口すら見えてこない。

 幸いなのは、何度失敗しても、コトアマツがどれだけ飽いたとしても……ちゃんと毎日、避難所に来てくれる事。

 不幸なのは、何度やってもコトアマツにギッタンギッタンにやられてしまうので、その度に疲労困憊のボロボロになる事。

 かくして時は流れ――――三十日はとうに過ぎた頃。

「全く、暇潰しにもならんな。帰るぞ」

「あーん、待って待って。花中ちゃん、また後で会いましょー」

 コトアマツは心底つまらなそうに吐き捨て、避難所に背を向けて歩き出す。オオゲツヒメはその後を駆け足で追った。

 冬の陽に照らされた瓦礫だらけの野外にて。ついさっきまでコトアマツと鬼ごっこをしていた花中達は、コトアマツの姿が見えなくなるのと共に膝を崩した。

 花中は膝と手を突き、四つん這い。ミリオンはその場に正座をして座り込む。

「今日はもう動けませーん……」

「あたしもむぅりぃー……」

 そしてフィアとミィが、地面に横たわる形でダウンした。

 どうやら連日の『遊び』により、いよいよ体力が底を突いたらしい。むしろ毎度毎度最終決戦染みた ― 今日の鬼ごっこでは距離にして一匹当たり大体十数万キロは走ったのではなかろうか ― 運動量を、三十日以上連続で続けてようやくバテたと言うべきか……

「だ、大丈夫……?」

「ダメでーす」

「もう寝るー……おやすみふごごごご」

「ぐぴー」

「え? あ……ほんとに寝てる……」

 余程疲れているらしく、フィアとミィはその場で寝てしまった。どうしましょう、と意見を伺うように花中はミリオンの顔を見て、ミリオンは「ほっとけば?」と言わんばかりに肩を竦めるのみ。

 基本的には野生動物である二匹。布団の中で眠る事など滅多にないので、この寝方でも問題はなさそうだが……花中的には落ち着かないので、辺りの地面を能力で平し、ゴミなどを取り除いておいた。

 実のところ花中は、フィア達ほどは疲れていない。それはスタミナがフィア達以上にある訳ではなく、疲れる遊びをフィア達が率先してやってくれたお陰だ。尤も二匹が花中の身体を気遣った訳ではなく、意地でもコトアマツをぎゃふんと言わせたくて突撃しているだけなのだが。

 なんにせよお陰で花中はあまり運動していないのだが、それでも身体に疲れが溜まるぐらいにはハードだった。息も未だ荒れていて、整えるのに少し時間が掛かる。

 平然としているのはミリオンだけ。或いは『物体』であるが故に疲労の概念がない、そんな存在以外皆倒れるほどの過酷さだったとも言えよう。

「困ったわねぇ。散々アピールしてきたけど、今のところ向こうの心境に全く変化がないように見えるのだけど」

 そして疲れていないミリオンは、現状認識は一休みしてから、という発想もちょっと欠けている。

 花中は乾いた口の中を舌で濡らし、深く息を吐いてから、ミリオンの意見に答えた。

「……はい。わたしも、そう思います」

「正直、これ以上続けても意味がないと思うわ。そもそも私達への関心が薄いみたいだし」

「それは……そう、ですけど……でも……」

「否定は結構だけど、今のやり方を続ければ友達になれるという見込みはあるの? ないものを延々と続けるのは、無意味を通り越して害悪じゃないかしら?」

 ミリオンからハッキリと問われ、花中は口を閉ざす。ある訳がない。あったら、こんな徒労感など覚えていないのだから。

 沈黙という名の返答をした花中に、ミリオンは呆れるように肩を落とす。

「こうなると、諦める、というのも一つの手かも知れないわねぇ」

 次いで彼女は淡々と、大した事ではないかのように……到底受け入れられない『提案』をしてきた。

 星を喰らおうとしているコトアマツの説得を、諦める。

 つまりは死を受け入れるという事。それも花中自身だけではない。フィアもミィも、晴海も加奈子も、この星に生きる全ての生命の……その死を受け入れるという事。

「嫌ですっ……!」

 殆ど無意識に、花中はその答えだけは伝える事が出来た。

 しかしながら案がないという意味では、返事をする前となんら変わっていない。ミリオンの心を動かす事は出来ず、ご自由に、と言わんばかりにミリオンはその姿を霧散させた。

 ミリオンは生への執着がないどころか、死への憧れすらある。理想の死に方があるから協力してくれているのであり、それがどうやっても避けられないのなら、諦めて想い人と最期の時までゆったりと過ごす……その方が遥かに『合理的』だ。

 もしかすると、ミリオンはもうコトアマツとの『遊び』には参加してくれないかも知れない。

 いや、ミリオンだけではない。フィアもミィも、心身共に限界である。何時まで宛てのない花中の案に付き合ってくれるか分からない。そろそろ彼女達の口から『諦め』の言葉が出てきてもおかしくないのだ。

 そう。それこそ目を覚ました時、閉口一番に語られる言葉がその類だとしても――――

「っ……!」

 眠り続けるフィア達から逃げるように花中は立ち上がり、走り出す。

 心の奥底では、フィア達がそんな事を言わないのは分かっている。彼女達の生への執着は、人間ほど生温くない。例え地球が喰い尽くされても「じゃあ宇宙に逃げてみますか。多分なんとかなるでしょう」ぐらい言いかねないのがフィアだ。

 それでも『理性』はもしもに怯えてしまう。それが人間というものだから。

 疲れきっていた筈の身体は、すっかり回復したと言わんばかりの速さで動いてくれるのだった。

 ……………

 ………

 …

「……って、逃げちゃったけど……はぁ」

 大きなため息を吐き、花中は項垂れる。

 避難所からざっと二十キロは離れた、荒れ果てた荒野。

 ()()()()()つもりでこんな距離まで来てしまうとは。心は未だ人間のままなのに身体はすっかり人外らしくなってきたなと、花中は一瞬だけ自嘲気味に笑った。

 その笑みは、ほんの一息吐いた頃には消えてしまう。

 これから一体どうすれば良いのか。

 このままだとこの地球は、コトアマツにより喰い尽くされる。思えば()()()()()とはどんな事象なのかよく分からないが、コトアマツや地核に潜む何かにはそれを可能とするだけの『力』を感じさせた。どんな方法にしろ彼女はこの星を『喰い尽くす』に違いない。どのような過程と結果であれ、ほぼ全ての生命が死に絶えるだろう。

 そしてコトアマツと友達になれない以上、この未来は避けられそうにない。

 ミリオンのように諦めてしまうべきか? 成程、冷静に吟味してみれば、ある意味では合理的な方法と言えよう。死の期日が迫っているのなら、その日に悔いが残らないよう好きなように生きる……それもまた生き方の一つだ。悪い事だとは花中も思わないし、感情的に足掻いて何もかも無駄に終わるよりは『マシ』に思える。

 だけど……

「てぇーい♪」

「びゃあっ!? え、な、ぎゃぶっ!?」

 考え込む花中だったが、不意に背後から抱き付かれた――――と思ったのと同時に頭に()()()()()()

 次いでぷすりと、おでこと後頭部に何かが刺さった。例えるならサメのように鋭い歯のようなものが、何本も刺さったような感覚。しかもその突き刺さる感覚は、なんの遠慮もなく強くなっている。

「(こ、これ噛まれ……!?)」

 なんだか分からないが、自分は今食べられようとしているらしい。ミュータントと化した事で得た超速の反応によりそれを理解した花中は、後頭部から僅かに血が滲んだ時には手に粒子ビームの力を集結させ

 それを放つ前に、花中は放り捨てられた。あたかも、ぺっ、と吐き出すように。

「えっ、わ、わぶっ!?」

 突然捨てられた花中は、混乱の余り受け身すら取れず。顔面から草一本生えていない地面に着地してしまう。

 粒子操作の応用により、顔面強度は核弾頭の直撃に耐えるほど硬く出来る。顔面着地ぐらい痛くも痒くもない……痛くも痒くもないが、猛烈に恥ずかしい。

 花中は顔を茹で蛸のように赤くしながら、しゃがみ込んだ姿勢のまま後ろを振り返る。

「はぁい、元気していまして?」

 そこにはまるで何もしていないかのように笑顔を向けてくる少女、オオゲツヒメの姿があった。

 見慣れた顔の登場に、花中は思いっきり表情を引き攣らせた。オオゲツヒメは好んで人を喰う。そして花中は一応人間のつもりである。加えて頭に加わった、噛まれたような感覚。

 答えは明白だった。これがジョークで済むのは、花中相手だからである。

「……人間は食べないって、約束だったと、思うのですけど」

「ええ、でも花中ちゃんなら一口ぐらい食べても平気かなーって思いましたの。反撃されそうな気がしたので、つい、ぽいっとしちゃいましたけど。ごめんなさい」

 そのごめんなさい、どの行動に対して言ってます?

 喉元まで登ってきた言葉を、花中はごくりと飲み、顔を左右に振った。オオゲツヒメの事だ、答えは決まっている……ぽいっとした事以外にあるまい。彼女は『食べ物に対し、人間以上に感謝する』生き物なのだから。

 疲れたように、花中はため息を漏らす。とはいえオオゲツヒメがこんな『人物』なのは今更な事。おでこと後頭部に出来た傷も、能力を応用して既に塞いだ。傷跡はもう残っていない。

 なら、この件についてはここでお終いだ。別の話題を振るとしよう。

「てっきり、帰ったのかと、思ってました」

「あら、わたくしちゃんと言いましたわよね? また後で会いましょうって」

「……あー」

 オオゲツヒメに言われ、花中はぼんやりと思い出す。確かにコトアマツが帰る際、オオゲツヒメはそんな言い回しをしていた。この言い方は、明日会うつもりの時に使うものではない。

 疲れきっていて違和感すら覚えられなかった。かなり心身が追い詰められていたらしい。自分の調子すら計れなくなっていたと気付き、大きく、花中はため息を吐く。

 オオゲツヒメはそんな花中の傍までゆったりと歩み寄り、すとんと腰を下ろした。立ち上がろうとしていた花中は、上げていた腰を下ろして体育座りの体勢を取る。

「中々上手くいかなくて、不安になっていらっしゃるのかしら?」

 オオゲツヒメは、花中にそう尋ねてきた。

 主語も何もない、簡素過ぎる言葉。されどオオゲツヒメの訊きたい事を理解した花中は、やや間を開けてからこくりと頷いた。

 悩んだのではない。コトアマツと仲良くなれなくて自分は今とても不安なのだ……それすら、問われなければ思い出せない有り様。自分が情けなくなる。

 情けなさ云々で言えば、見通しの甘さについてもだ。

「正直、甘く考えて、いました。みんなと遊べば、きっと、仲良くなれるって……でも……」

「なれなかった。まるで心に響いた様子もない」

「……はい」

 語りたい事を先に言われ、花中はこくりと頷く。オオゲツヒメは正面を見据えながら、ふむ、と小さな声を漏らす。

「このままだと、地球は、コトアマツさんに……」

「喰い尽くされますわね。あの子、ユーモアのセンスもありませんから、冗談一つ言いませんもの」

「そうなったら、地球の生き物は、生き延びた、人達は……」

「みんな、死にますわね。わたくしとしても困った事に。美味しいものがなくなるなんて、実に悲しいですわ」

「そんな事に、なったら……わたし……」

 無意識に握り締めていた拳に、花中は一層の力を込めてしまう。

 全責任が自分にある、とまでは思わない。

 だけどコトアマツを説得出来る立場にあるのは、恐らく自分だけ。オオゲツヒメを除けば、自分だけがコトアマツの関心を強く惹いていたのだから。だから自分がなんとかしなければならない。

 そう、なんとかして友達になって、なんとか地球を喰うのを止めてもらうしか……

「花中ちゃん。一つだけ、訊かせてほしいのですけれど」

 思い詰める花中に、オオゲツヒメが声を掛けてくる。花中は顔を上げ、顰めた顔を見せた。オオゲツヒメも眉を顰める。

「あなたは、責任感で友達になろうとしてくる方と、友達になれまして?」

 その表情のまま、オオゲツヒメは花中に尋ねてきた。

 一瞬、その問いの意味が花中には分からなかった。されどほんの少し考えれば、すぐに理解が追い付く。

 追い付いたがために、花中は震えた。

 自分は、どうしてコトアマツと友達になろうとしていた?

 地球という星を守るため、人類という種を守るため、だからあなたと友達になりたい――――こんな事を言われて、素直に友達になれるだろうか? いくら友達大好きな花中でも、ちょっと……いや、かなりムッとした気持ちになる。その言い分は「あなたが地球と無関係なら興味もない」と言わんばかりなのだから。

 これは()()()()()と仲良くなろうとする時に、あまりにも失礼な態度ではなかろうか。

「(わたし、コトアマツさんの気持ち、全然考えていなかった……)」

 地球を守る事で頭がいっぱいだった。そう言えば、地球に棲まうほぼ全ての生命体にとっては聞こえが悪くない。或いは善行とも言えるだろう。けれども星をも喰らう生命からすれば、()()()()()()()()()()()()と受け取られても仕方ない発想だ。勿論花中はコトアマツに向けて、そんな意図を伝えた事はない。けれども考え方というのは、意図して隠さない限り言動に表れてしまうもの。コトアマツが花中の言動から、この考えを見透かしていてもおかしくはない。

 友達になろうと言いながら、本当は自分なんか二の次だと知ったら、どんな気持ちになるだろうか。

 きっと怒るだろう。悔しいとも思うだろうし、呆れ返りもするだろう。

 だけど何よりも……寂しくなるのではないか。

 自分のやってしまった事を自覚すれば、どれだけ恥知らずで無礼だったかを理解出来る。もうこのまま消えてしまいたいとも思ってしまう。

 だけど、そうはいかない。このままコトアマツに寂しい思いを、させたままにはしておけないから。

 独りぼっちの寂しさは、花中には痛いほど分かるのだ。

「あ、あの! ありがとうございます! わたし、こんな大切な事を忘れて……」

「気にしなくて良いですわ。それに、どーせあの子花中ちゃんの気持ちなんて気付いちゃいませんもの。まぁ、波長が合わないから仕方ないんですけど」

「波長が、合わない?」

「あの子、強過ぎるでしょう? つまり存在感が大きい。だから、ちっぽけな生き物なんて目に付かないのですわ」

「……わたしとコトアマツさん、身長は、あまり変わらないと、思うのですが」

「身体の大きさなんて、些末なものですわ。五メートルはある街路樹何十本と、一匹の子犬。どちらがより印象に残りまして?」

「それは……多分、犬の方、ですけど」

 そこそこの大きさの樹木が無数に並んでいて意識をするかと問われれば、中々そうはならないだろう。対して子犬は、一匹でも炉端に居ればきっと目を奪われる。可愛いとか可愛くないの問題ではなく、その存在を認識する筈だ。

 オオゲツヒメの言う『存在感』や『波長』というものが、具体的にどんなものかはまだ分からないが……植物と人間、犬と人間の関係と同じようなものだとすれば、コトアマツが花中達を『認識』出来ない理由も少しは頷ける。

 コトアマツにとって、花中やフィアを見るというのは足下のアリを観察するようなものなのだろう。コトアマツ側が意識すれば花中の言動を受け取れるが、そうでなければ花中が視界内でどれだけ大暴れしたところで意識にも上らないという訳だ。フィアやミィが聞いたらムッとしそうだが、そのぐらいの力の差はあるので、致し方ないといえばその通り。

 ……しかし、本当にそうだとしたら。

 コトアマツの目には、世界というものは――――意識しなければ()()()()()()()()ものという事なのだろうか。人間どころかミュータントすら認識外なのだから、木々の葉擦れや虫の声すら捉えきれていない筈。風も重力も太陽光も、識別出来ていない可能性がある。

 静寂にして無色、無味無臭にして無感触。数値や情報として存在は把握出来ても、感覚として認識が出来ない。それが、コトアマツにとっての世界。

 コトアマツは人間ではない。だから人間である花中の考えが、コトアマツの抱く想いと一致するとは限らない。或いは真逆の感性という可能性だってある。

 だけど、もしも多少なりと一致するならば。

「……そうだとしたら、コトアマツさんは、凄く寂しい、世界に、生きているのですね」

「そうですわね。わたくしも、そんな世界はちょっと遠慮したいですわ」

 花中が零した感想に、オオゲツヒメも同意した。

「前にも言いましたわよね? あの子、花中ちゃんよりも臆病だって。ついでに言うと、あの子結構寂しがり屋でもあるんですのよ?」

「……あまり、そうは見えませんけど」

「多分、寂しいとかもよく分かっていないんだと思いますわ。わたくしが外出すると割とよく付いてきますし、暇があると向こうから話し掛けてくる。どう考えても寂しがり屋の行動なのですけど、でも周りがよく見えないから、自分を客観視出来ない。ほんと、七面倒な友達ですこと」

 愚痴るような言い回しをするオオゲツヒメだが、その言葉に悪意は感じられない。そこにあるのは友を気遣う、優しい想いのみ。

 オオゲツヒメに心配されるコトアマツが、なんだか途端に見た目相応の女の子に思えてきて、花中は思わず笑みが零れる。そして胸の中で、ある決意が形になっていく。

 友達になりたい。

 恐らくこの想いは『同情』だ。友達がいない寂しさを知っていた立場からの、友達と呼べる者が殆どいない者に対する。なんと傲慢で、上から目線の物言いだろうか。

 しかし思うのだから仕方ない。

 友達がたくさん居る事がどれだけ楽しいか、友達がたくさん作れる事がどれだけ幸せなのか……友達が長い間いなかった花中だからこそ、友情が尊くて素敵なものだと思える。

 それを伝えたい。地球やそこに生きる生命のためではなく、友達に囲まれている身として()()()()()

 花中の口許には、自然と笑みが浮かんだ。

「そんな面倒な子には、ちゃーんと、自分の気持ちに、気付いてもらわないと、いけませんね」

「ええ、その通り。だから花中ちゃんには期待しているんですのよ? あの子に色んな事を教えてくれるって」

「ええ、頑張ってみます……ところで、なんでわたしに、お願いするの、ですか? 他に、適任がいなかった、とか?」

「ん? まぁ、それもありますけど」

 花中が尋ねると、オオゲツヒメはにっこりと微笑む。緊張感のない、緩やかな微笑みだ。

「花中ちゃんなら、あの子の望みに答えを示せると思いましたから」

 その笑顔で語る言葉には、特に重みは感じられず。

 されど意味が曖昧で、花中は首を傾げた。

「……望みに、答えを示す?」

「うふふ。これ以上は秘密ですわ。わたくしは理論こそ頭の中にありますけど、それを提示する方法がありませんもの。でも、花中ちゃんならきっと出来ますわ」

「……はぁ。えっと、そう、なのですか……?」

「ええ。もし手伝いが必要なら、何時でも言ってくださいな。すぐに駆け付けて、お手伝いしますわよ」

「え、あ、はい。ありがとうございます」

「いえいえ~それじゃあ、わたくしはそろそろ帰りますね。また明日、楽しく遊びましょう」

 立ち上がったオオゲツヒメは可憐にして瀟洒なお辞儀をし、すたすたと軽やかな足取りでこの場を去る。恐らくは本当に、今度こそ帰るのだろう。そしてきっと、また明日来る。

 花中は手を振り、オオゲツヒメの背中を見送りながら考える。

 オオゲツヒメが何を言いたかったのか、今の花中には分からない。コトアマツの『望み』とやらも分からないし、自分が何を示せるのかもサッパリだ。

 けれども彼女のお陰で、少し気持ちが持ち直せた。自分の誤りにも気付けたし、コトアマツについてもほんの少しだけ理解が出来た。

 そしてこれからどうしたら良いかも、少し考え付く。

 抱くべきは使命感ではない。逃避や懇願でもないし、怒りや同情でもない。自分が寂しい事にすら気付いていない『おまぬけさん』に、友達とはこんなにも良いものだと自慢したいという『傲慢』だけ。鬱陶しい自慢を前にして、ちょっとでも自身の気持ちに気付いてくれたなら、そんなおまぬけさんはきっと友達が欲しくなる。

 そのために、すべき事は――――




巨大クジラとミジンコは友達になれるのか問題(造語)

次回は明日投稿予定です。


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生命の王6

「ピクニックに行きましょう!」

 燦々と空で太陽が輝く十二月後半。寒さが厳しい時期の、最も寒い時間帯である早朝に、花中は元気よくそんな提案をした。

 提案を聞かされたのはフィア、ミリオン、ミィ、オオゲツヒメ……そしてコトアマツの五匹。

 突然のお気楽能天気な提案に、コトアマツだけでなくミリオンとミィも眉を顰める。くすくす笑うのはオオゲツヒメ、心底楽しそうに微笑むのはフィアだけだった。

「おおー良いですねピクニック。最近そうした遊びを全然していませんでしたし」

「あー……まぁ、そーいう仲の深め方もあり、なのかな?」

「……そうね。今まで対決するような遊びばかりだったし、アプローチを変えてみるというのは悪い事じゃないわね」

 フィアは一も二もなく賛成し、ミリオンとミィも少し考えながら同意。オオゲツヒメは何も言わないが、少なくとも否定はしてこない。

「ぴくにっく? ああ、外をちんたら歩くだけの運動行為か。あんなものの何が楽しいのかさっぱり分からんし、エネルギーを消費するだけの無駄な活動としか思えんがな」

 そして一番楽しんでもらいたいコトアマツからは、ピクニックという行い自体を全否定された。

 昨日までの花中なら、コトアマツのこの一言で大いに怯み、前言を撤回しただろう。コトアマツと仲良くなるのが第一であり、そのためにコトアマツの気分を良くする……ある種の接待だったのだから。しかしこんなやり方で友達になれる筈がないのは、これまでの結果から明らかだ。そもそも今日の花中はコトアマツに接待する気などない。

 花中が今回選んだのは『自慢』。

 友達同士のやり取りはこんなに楽しいのだぞ、羨ましいだろう? ――――その姿を見せ付けて、向こうから友達になりたいと言わせてやる!

 そして向こうが言ってきたら、「今後ともよろしくお願いします」と答えてやるのだ!

「花中さんなんかアホっぽい笑みを浮かべてますね」

「はなちゃん、時々どーしようもないほどアホになるからねぇ……」

「最悪のタイミングでアホになってない?」

「ごめんなさーい。多分、わたくしの所為でアホになってますわー」

「ここまでのアホ面は珍しい。うむ、良いものが見られた」

 ピクニック計画を自画自賛していると、何故か周りからアホアホ言われてしまった。コトアマツすら何故か褒め言葉で指摘してくる。先程までの自信は何処かにすっ飛び、花中はその身を縮こまらせてしまう。

 しかしここで臆しはしない。

 あくまで今回は、コトアマツに友達の良さを知ってもらうのが目的なのだ。アホでもなんでも、楽しんでもらえれば思惑通り。

 見れば、みんな呆れた様子ながら笑顔である。笑顔という事は、楽しいという事。

 それは全てが順調にいっているという証だ。ならば一体何を変える必要があるというのか。

「え、えと、それより、今日の日程について、説明します……ちゃんと、聞いてくださいね」

「「「「はーい」」」」

 ()()()()に恥ずかしがりながら、花中は今日の日程について話そうとする。コトアマツ以外の、ノリが分かっている四匹は子供のような返事をした。

 さて、今回のピクニックだが……特にこなすべきイベントは考えていない。

 勿論楽しむ事が最大の目的であり、そのために立ち寄ろうとしている場所は決めている。しかし逆に言えばそれだけだ。曖昧な行程こそ花中の頭にあるが、それを無理強いするつもりもない。多少のコース変更は勿論、難なら目的地を変える事さえも是とする。

 今日は、徹底的に楽しむつもりだ。楽しむ事が出来るのであれば、多少の羽目外しや寄り道はOKなのである。

「それじゃあ、出発しますよ! コトアマツさん、一緒に行きましょう!」

 そして自由になった花中は、『友達』と一緒のピクニックに心からわくわくしてしまう。

 今まで接してきた時の、怯えたような、遠慮するような、知略を巡らせるような……そんな花中は此処にはいない。コトアマツはこんな花中を初めて見た筈だ。

 それはコトアマツの予想を、ほんの僅かではあっても超えたらしい。

「……ああ、良いだろう」

 肯定する一言は、なんだかちょっぴり困惑気味。

 もしも戸惑いを与えたのだとすれば――――自らの寂しさすら理解していないコトアマツの心を震わせた訳で。

「ふふっ、期待していてくださいね!」

 花中が満面の笑みでそう伝えると、コトアマツはますます不思議そうに目をパチクリさせるのだった。

 ……………

 ………

 …

 今回花中がピクニック先として選んだのは、避難所から凡そ三十キロ離れた地点にある開けた草原地帯である。

 花中が住んでいた町は一応関東圏に属する。大都会と呼べるほどの都市ではなかったが、自然豊かといえるほど……人類を滅ぼしかねない怪物が生息する山は近所にあったが……緑のある地域でもない。高々三十キロ移動したところで、本来ならば草原など見付からない場所だ。

 そう、本来ならば。されど昨今は『本来』の状態にあらず。

 花中が訪れた地域は、元は都市があった場所だった。しかしムスペルが引き起こした地震により全ての建物が倒壊。そこに加えて怪物やミュータント同士が争ったのか、残骸すらも退かされ……剥き出しとなった大地を植物達が埋め尽くしていた。

 更には怪物か、或いはなんらかのミュータントの力によるものか。この辺り一帯は冬にも拘わらず、春のような暖かさに満ちていた。気温は植物の成長を促す要因の一つ。適した環境の中に置かれたなら、植物は極めて短い時間で世界を埋め尽くす。

「どうですか? この景色!」

 かくして両腕を拡げた花中の背後には、地平線まで続く草原が生まれたのである。草原を形作る草の丈はどれも二十センチほどで、花中の足首を完全に隠すほど高いが、歩くのを邪魔するものではない。ピクニックをするには悪くない環境だろう。

「ほぉー中々の光景ですねぇ」

「よくもまぁ見付けたわね、こんな場所」

 花中が自慢げに語ると、フィアは素直に感嘆し、ミリオンは不思議そうに尋ねる。花中は胸を張り、どうだすごいだろ、と言わんばかりの仕草を取ってみせた。

 ちなみにこの風景は、粒子操作による広範囲索敵の成果である。避難所の周辺にミュータントや怪物のような危険な生物が棲み着いていないか確認するため、その気になれば地下数千キロまで見通せる力を応用し、付近の状況を把握していた際に発見したのだ。

 そのような偶然から見付けた、とても美しい景色。これだけでも十分わくわくが込み上がるものだと花中は思う。

「……草が生えているだけの景色がなんだというのだ?」

「あら、魅力を感じませんこと?」

「全く」

 残念ながらコトアマツは花中とは異なる感想を抱いたようだが……この程度は花中にとって想定内。ただ景色を見せるだけで仲良くなるなんて微塵も思っていないし、これだけで満足させる気などない。

 本命はここからだ。

「さぁ、いきましょう! のんびりしていたら、日が暮れちゃいますよ!」

 元気よく花中は歩き出す。フィアはすぐに花中の横に付き、ミリオンとミィもその後を追うように歩く。

 オオゲツヒメに背中を押され、遅れてコトアマツも花中達の一向に混ざった。

 花中達が草むらを足先で掻き分けながら進むと、その中から小さな虫がたくさんぴょんっと飛び出す。バッタや羽虫、甲虫のようだ。草が茂るほど暖かな環境のため、虫達も冬眠をせず活動しているらしい。

 春の草むらを掻き分ければ、簡単に見られる光景だ。

 ……とはいえぴょんぴょん、視界を覆い尽くすほど出て来るのは花中としてもちょっと予想外だったが。

「花中ぁ、なんかめっちゃ虫いるんだけど」

「お、多いですね……」

「うーんバッタは硬くていまいち舌触りが良くないんですよねぇぱくっ」

「そう言いながら食べてるし」

「まぁちょっとしたおやつには丁度良いので。お通じも良くなりますから偶には食べませんとね」

「食物繊維代わりなの?」

 想定以上の虫達に驚きつつも、わいわいと話す花中達。

 昨日までなら、この会話に無理にでもコトアマツを混ぜようとしただろう。

 けれども今日は違う。今日は徹底的に『友達』と遊ぶのだ。勿論コトアマツとも友達になる気満々だが、接待をするつもりはない。思いっきり見せ付け、向こうから参加したがるのを待つ。

 ぺちゃくちゃだらだらとしたお喋り。これもとても楽しいぞ。

 そんな自慢げな気持ちを抱きながら、花中はコトアマツがいるであろう背後を振り返る。

 後ろに居たコトアマツは、指先に巨大なエネルギーの塊らしき火球を作っていた。推定エネルギー量は広島型原爆級

「って、何やってるんですかああああああああああああああ!?」

 そこまで感じ取って、花中はようやくコトアマツに向けて叫んでいた。コトアマツは目をパチクリさせ、何故花中が怒鳴ったのか理解出来ていない様子である。

「? ゴミが飛び交い視界情報にノイズが入って鬱陶しいから、吹き飛ばして掃除をしようと思っただけだが」

「の、ノイズって、むむ虫の事ですか!? ご、ゴミじゃないですぅ!? ちゃんとした命ですからぁー!?」

「まぁまぁ、はなちゃん落ち着いて。そのぐらいの威力なら、私達誰も死なないし」

「そうですよ花中さん。今の花中さんならあの程度の攻撃どうとでもなるでしょう?」

「この草原に暮らす、大半の生き物は、し、死ぬのぉ!」

 自分達に害がないからと気にも留めていないフィア達にも憤りをぶつけた花中は、火球を作り出したコトアマツの手を反射的に掴む。

 手を掴まれたコトアマツは、鋭い眼差しで花中を見た。

 ぞわりとした悪寒が花中の身体に走る。コトアマツがほんの一端でもその身に宿る力を用いれば、花中など跡形もなく消し飛ぶだろう。ごくりと、花中は思わず息を飲んだ。

 だが、掴んだその手を離そうとはしない。

 自分より力が強い。だから文句は言わない……そんな間柄を『友達』と呼べるのか? 花中はそう思わない。フィアがどれだけ強くとも、ただの人間だった頃から花中はフィアの力に臆して黙る事などしなかったように。

 力の差など関係なく、『対等』な立場になるというのは、友達として当たり前の事だ。

「あの、止めてくれません、か? 確かに、ちょっと鬱陶しいと、思う気持ちは、分かりますけど……みんな、生きているんですから、ちょっとだけ、我慢してください」

「……ほう。余に口答えするか」

 花中が率直な意見を伝えると、コトアマツは実に尊大な言い回しで反応する。ある意味苛立ちとも取れる発言に、流石に背筋が凍る想いをする花中だったが……コトアマツは手を下ろし、その手に集めていたエネルギーを霧散させた。

 どうやら難は逃れたらしい。花中はぺたりとその場にへたり込む。座り込むつもりなどなかったのですぐに立ち上がろうとするものの、足腰に全く力が入らなくて上手くいかない。頭の中では粋がっていたが身体の方は素直だったようで、腰が抜けてしまったのだ。

 そんな花中を見て、コトアマツがくすりと笑った。

「なんだお前、本当はビビっていたのか?」

「は、はひ……そう、みたい、です」

「ほう、自覚すらしていなかったのか」

 世辞や誤魔化しでなく、本当に今の今まで自分の『本心』が分かっていなかった花中はこくりと頷く。フィア達ならば、ここで呆れたように笑みでも浮かべるだろう。

 しかしコトアマツの瞳は、好奇心の色を見せる。

 それは今まで花中がどれだけの『接待』をしても得られなかった、好意的な反応だった。

「ふむ。何故余の力に今まで怯えなかったのか。体組織を観測してみても、感覚器に異常は見られない。原因はなんだ?」

「あら、そんなの簡単な話ですわよ」

 観察しながら独りごちるコトアマツに、オオゲツヒメが口を挟む。コトアマツは視線を花中からオオゲツヒメに移し、キョトンとした様子。

 されどオオゲツヒメは口を閉じ、自らの口許の前に指を一本立てる。

「でも、その答えは秘密、ですわ♪」

 それからちょっぴり意地悪く、コトアマツには教えようとしなかった。

 秘密にされたコトアマツは何を思ったのだろうか。一瞬眉を顰めた後、不敵に笑う。

「良いだろう。お前が隠すならば暴いてやる。王たる余から隠し事が出来ると思うなよ」

「それは楽しみですわ」

 自信たっぷりなコトアマツに、オオゲツヒメは笑い返す。

 ……オオゲツヒメは、何故花中が恐れを抱かなかったか、分かっているのだろう。

 つまりは友達になりたいという想い。これをコトアマツに理解させる事が今の花中の目標であり、それをコトアマツは積極的に()()()()している訳だ。オオゲツヒメにあっさり唆されて。

 コトアマツの子供のように無垢なところが親友であるフィアに似ている気がして、花中は笑みを浮かべた。抜けていた腰にも力が戻り、立ち上がれるようになる。

「ふふっ、それなら、ピクニックを、再開しましょう。あ、スピードをあまり出しちゃ、ダメですよ? のんびり、お喋りしながら、歩くんです」

「お喋りしながら? 喋る事が目的なら此処で話せば良いし、目的地があるならそれなりの速さで移動すべきだろう」

「だーめーです。あとお喋りするのですから、ちゃんとみんなに、意識を、向けてくださいね」

「それは苦手なんだが……」

「頑張ってください!」

「頑張ってどうにかなるなら、苦手とは言わん」

 『合理的』な理由を語るコトアマツに、花中は『不条理』な物言いでそれらを否定する。コトアマツにはまるで理解出来ないのだろう。段々眉に皺が寄る。

「はいっ。わたしと同じペースで、歩いて、くださいね」

 その困惑を敢えて無視して、花中はコトアマツの手をぎゅっと掴んだ。コトアマツは掴まれた手を、不思議そうな眼差しでじっと観察している。

「むっ!? 花中さんの手を独占しようったってそうはいきませんよ!」

 そしてその観察する目は、独占欲を剥き出しにするフィアの言葉で混乱に変わった。

「……は? いや、手を握ってきたのはコイツからで」

「うん、フィアちゃんは、こっちの手を握ってー」

「ふふんそうこなくては! やはり花中さんは私の一番の友達ですね! あなたには渡しませんよーっだ」

「おい、だから何故余が独占した事に」

「それなら私は、さかなちゃんの手を握るわねー」

「あたしはミリオーン」

「じゃあ、わたくしはコトちゃんの手をいただきますわー」

「は? え? えっ?」

 ミリオンやオオゲツヒメまで手を握ってくる。その知性をフル回転させている筈のコトアマツは、されどまるで答えが出ていないのか呆けた声を出すばかり。

 当然だ。合理的にして超越的頭脳を持つ彼女に、この行動の答えが分かる筈もない。

 これは所謂、()()()()()()()というやつなのだから。

「さぁ、しゅっぱーつ!」

「「「「しゅっぱーつ!」」」」

「? ?????」

 コトアマツにノリを説明する事もなく、花中達は同時にのんびりと歩き出した。

 

 

 

「……疲れた」

 ぼそりと、コトアマツが独りごちる。

 コトアマツの体力は無尽蔵だ。地球を瞬時に一周するほどのスピードを出しても、彼女は息一つ乱さない。巨大隕石よりも大きなパワーと腕相撲を繰り広げても、空間を捻じ曲げるような謎事象を生じさせようとも、コトアマツは息一つ乱さなかった。

 そんな彼女を疲れさせたのは、とても些末なもの。

「えー、そんなに難しいかなぁ?」

「簡単だと思いますわよー」

「「最近見掛けた可愛いものを挙げるだけなんだからー(ですものー)」」

 ほんの五分前にミィとオオゲツヒメが切り出した、実にガーリッシュな話題に付いていけないがために。

「ちなみにあたしはねー、最近友達になった猫が可愛いと思うよー。いやー、あの子は超可愛い。ムスペルが出る前なら、アイドルやれるね、間違いない」

「わたくしは避難所の千尋ちゃんって女の子がお気に入りですわ。この前、花冠作ってくれたんですのよー。あれはとても美味しかったですわー」

「えっ、食べ……えっと、良いです。仲良いままなら……あ、わたしは、キッチンに棲み着いた、ネズミが可愛いと、思います。ミュータントみたいで、よく、芸を見せてくれます」

「はなちゃん、さらっと答えてるけどそれ放置して良いの? 衛生的にも安全的にも。ちなみに私の場合は、避難場所のゴミ捨て場近くに生えていた花ね。なんて種かは知らないけど。さかなちゃんは?」

「勿論花中さんですけど? 花中さん以外どれも大差ないですし」

「「「ですよねー」」」

「えへへ。ありがとう、フィアちゃん」

「うわー、花中ったらもう恥ずかしがりもしないよ」

「完全に飼い慣らされてるわね。お互いに」

「ある意味では、これも可愛らしいものですわね」

 わいわいきゃっきゃっと繰り広げられる、女子らしい会話。例え人外ばかりであろうとも、彼女達は立派な少女である。お喋りを始めれば、花咲くように盛り上がるのは必然。

 その必然に混ざれない乙女(コトアマツ)は、大きく項垂れた。どうやらお疲れのようだが、年頃女子達が会話に混ざらない同性を見逃す筈もない。

「ねーねー、コトアマツはどうなのさ。最近じゃなくても良いから、なんか可愛いって思うものないのー?」

 すっかり呼び捨てが板に付いたミィからの問いに、コトアマツは苦虫を噛み潰したような顰め面を見せる。どうやら答えは「No」のようだった。

「さっきから黙って聞いていれば、可愛いだのなんだの……なんの合理性も論理性もない言葉じゃないか。答えようがないだろう」

「別にあたしが可愛いと思う必要はないでしょ。コトアマツが可愛いと思うものが知りたいだけなんだから」

「余の好みを知ったところでなんになる?」

「さぁ?」

 コトアマツの問いに、ミィは首を傾げながら答える。

 誤魔化しではない。本当に『意味』などないのだ。雑談というのは、そういうものである。

 しかし合理的思考の持ち主であるコトアマツは、その一言が酷く衝撃的なものだったに違いない。顔に浮かんでいる皺は、ますます深いものとなった。

「理解出来ん……」

「うふふ。わたくし一人相手なら兎も角、理解不能なものがこうもたくさんいると、さしものあなたも参るみたいですわね?」

「合理性のない生物など、お前以外にいないと思っていたぞ……」

「あなたのような頭でっかちの方が珍しいって、何度も言いましたでしょう? ようやくお分かりになって?」

 オオゲツヒメは勝ち誇るように笑い、コトアマツは項垂れる。

 圧倒的戦闘力の持ち主であるコトアマツも、どうにもオオゲツヒメには負けっ放しだ。それがなんだか可愛らしく思えて、花中はくすりと笑みを零した。

「ところで花中ちゃん、目的地はどんな場所なんですの?」

「あーそういえば聞いてませんでしたね。この先に何かあるのですか?」

 楽しげに話し合う中で、オオゲツヒメがふと花中に話題を振ってくる。フィアもそれに反応し、花中の方をじっと見てきた。

 花中達が向かう先にあるのは、出発時にも考えていたように、途中で変更しても構わない些末なもの。ただ、花中としては目的地とするに足るものではある。そしてその場所で何をするのかについても、考えぐらいはあった。

 問題は、それが今も残っているのかどうか。事前の確認はしていたが、自然豊かなこの地では一日経てばどうなっているか分からない。

「えっとね、この先には……あ、見えてきた」

 ガッカリさせてはいけないと思いこれまで花中は話さなかったが、いよいよ目前まで来たのでついに『目的地』を明かす事にした。

 花中が指差した先には、小さな『林』があった。更に目を懲らせば、その林がミカンの木で作られたもの、所謂ミカン畑だと理解出来るだろう。

 そしてそのミカンの木には、オレンジ色の果実が幾つも生っていた。

「あら、ミカン畑じゃない。こんなところにあったのね」

「なんだ果物ですか……」

「肉じゃないのはあんまり興味ないなぁ」

「あらあらまぁまぁ! ミカンがあんなにたくさん!」

「……?」

 ミカン畑を見て、十人十色の反応を示すフィア達。食事を必要としないミリオンは淡々としたもの。肉食であるフィアとミィはあまり気乗りしておらず、コトアマツはミカンにどう反応すべきか分からないのかキョトンとしていた。反面オオゲツヒメは、そんな四匹分の喜びを肩代わりするようにはしゃいでいる。

 反応の違いは想定内。

 予想出来ないのは、ここからだ。

「あのミカン畑で、ミカン狩りをしましょう! 一番美味しいミカンを取った方が、優勝ですよ!」

 判定が極めて曖昧で、主観的な勝負の行く末など、誰にも予想出来ないのだから。

 ……………

 ………

 …

 花中達が辿り着いたミカン畑には、大量のミカンが残っていた。

 人の姿は何処にもない。人が暮らしていたと思われる建物は倒壊し、その中に……既に九割近く分解された亡骸が二つあったのを、花中は確認している。所有者は居らず、此処はもう人の手を離れた土地だ。

 人間による管理がなくなれば、畑というものは動物達にとって食べ物だらけのパラダイス。大多数のミカンは鳥に啄まれ、獣に齧られ、虫に蝕まれている。どれもこれも商品にならない傷物ばかりだ。

 ただ、動物達からすればまだまだ食べられる水準のものである。勿論人間でも、傷付いた部分をちょっと取り除けば食べられるだろう。中には傷口から入り込んだ細菌により発酵しているものもあり、それらを口にするのは流石に良くないが、臭いを嗅げば識別は容易だ。

 実食にはなんら問題ない。

「むぅ……ちょっと傷が……」

 それでも傷を気にしてしまうのが、現代人というものなのかも知れない――――木からもいだミカンの小さな傷を見つめながら、花中はくすりと笑った。

 ミカン狩りを始めてから、かれこれ十分は経っただろうか。

 周辺を『探知』してみれば、友達は皆各々好き勝手に行動しているのが感じ取れた。ミリオンは見た目が綺麗なミカンを眺めているだけ。フィアはミカンではなく、その葉に付いているイモムシを取って食べている。ミィは落ちているミカンを一口食べただけで飽きたのか、ごろごろと地面を覆い隠している草地の上で寝転がっていた。そしてオオゲツヒメはパクパクと、美味しそうなミカンを次々と自分の胃袋に収めている。

 一番美味しいミカンを取った方が優勝、などと言ってはみたものの、誰も真面目にやっていない。オオゲツヒメに至っては自分がその『美味しいミカン』を食べてしまっている。誰一匹として勝つつもりがなかった。楽しんでもらえればそれだけで花中的には満足だが、あまりの奔放ぶりに笑みが零れる。

 かくいう花中も真面目にやってるかと言えばそんな事もなく、のんべんだらりとミカン狩りを楽しんでいたりする。とても美味しそうなミカンはこっそり自分が食べているので、あまりオオゲツヒメの事を笑えない。

 真面目に勝負に挑んでいるのは、『彼女』だけ。

「コトアマツさん。調子は、どうですか?」

 自分の近くでミカン狩りをしている彼女――――コトアマツに、花中は声を掛けてみた。

 コトアマツからの返事はない。しかしそれは花中を無視しているから、或いは存在感の違いの所為で認識出来ていないから、という理由ではないだろう。

 単純に、自分の両手にある二つのミカンのどちらが美味しいのか決めかねている、といったところか。

「……ぐ、ぬぬぬぬぬ」

「えーっと、苦戦してる感じ、でしょうか?」

「苦戦も何もない……! 糖質は生物体の活動エネルギーになるため好まれる物質だが、しかしクエン酸やビタミンも欠かせないものだ。一体どんなバランスが好まれるのか……!」

 尋ねてみれば、コトアマツは悩んでいる理由をすぐに明かした。

 どうやらミカンに含まれる成分を解析し、そこから『好まれる』ものを選別しようとしているらしい。なんともコトアマツらしい悩み方だ。しかしこの方法では恐らく答えなど出やしない。最高の栄養バランスなんてものに、客観的な答えなどないのだから。

 しかしながら勝負を放棄すれば、そもそも悩まずに済む訳で。

「えっと、みんな、勝手に遊んでますし、コトアマツさんも、遊んで良いですよ?」

「そうはいかん。約束している」

「約束?」

「忘れたのか? お前に誘われた遊びは、全部参加するという約束だ」

 呆れるように答えるコトアマツ。記憶をざっと辿ってみると、確かに三十数日前……コトアマツとオオゲツヒメが言い争っている時、そんな事を話していたような気がする。

 逆に言えば、言われるまで花中もすっかり忘れていた訳で。

「……そのまま誤魔化そうとは、思わなかったのですか?」

「何故誤魔化す必要がある? この約束は余が交わしたものだ。どうしてそれを余が率先して破らねばならん。余は、余が嘘を吐く事を望まないからな」

「……?」

 コトアマツの言い分に、花中は小さな違和感を覚えた。とはいえ彼女の語る理屈に納得出来ないという事ではない。もっと根源的な違和感だ。

 そう、自分について話している筈なのに、何処か他人事のような言い回しなのが気に掛かる……

 考え込みたくなる頭を、花中はぷるぷると横に振った。楽しいピクニックの最中、他者の詮索をするのも無粋というものだ。勿論友達になろうとしている相手について色々知りたいとは思うが、腹の探り合いみたいな真似はしたくない。親交とはもっと楽しく深めるべきである。

 例えば、今目の前でうんうん唸っているコトアマツにアドバイスをするとか。

「そんなに悩むなら、自分で食べてみて、一番美味しいものを、決めてみては、どうでしょう? 客観視出来ないものを、無理矢理、客観視するより、主観的に判別した方が、賛同者がいる分、多少は正確かと」

「む? 食べる……おお、成程な。すっかり失念していたぞ」

 花中が伝えた一番簡単な方法に、コトアマツは心底感心したように頷く。嫌味な感じはなく、照れ隠しもしていない。

 どうやら本当に『食べる』という選択肢が頭から抜けていたらしい。生物として最も基本的である筈の行動を忘れてしまうほど、コトアマツは長い間『食事』を行っていなかったのだろう。

 花中からのアドバイスを受け、コトアマツはミカンの前で口をしばしもごもごと動かす。久方ぶりの食事なので、そのための準備でもしているのだろうか? 花中にも分からないが、静かに見守る事にした。

 コトアマツの『準備運動』は十数秒で終わり、彼女は大きな口を開け、皮が付いたままのミカンに齧り付く。そういえば皮を剥いて食べるものだと教えていなかったと、花中は今になって気付いた。獣や鳥もなんやかんや皮は残しているので、これは全生物共通であまり美味しくない食べ方の筈。

 皮を剥いて食べた方が良いと伝えよう。花中はそう思った。

 そう思った直後には、コトアマツはもう一口皮ごとミカンに齧り付いていた。

「……あ。えっと、ミカンは皮を剥いた方が」

 助言する前にコトアマツが行動を起こしたので、花中は慌ててアドバイスをした。が、コトアマツは無視してまた皮ごとミカンを食べる。もぐもぐくちゃくちゃと、しっかり咀嚼までしていて。

 ついには片手にあったもう一個を、丸ごと口の中に突っ込んだ。大きく歪んだ口は軽々とミカン一つを含み、皮ごとこれを噛み砕き、ごくんと飲み干す。

「……なんだこれは」

 次いでコトアマツの口から出てきたのは、疑問の言葉。

「……えっと……?」

「なんだこの感覚は! 手が止まらなかったぞ!」

「え? えっ、えっと」

「麻薬成分や毒物は検知されなかった。精神のコントロールや、脳波への干渉も検知されていない。いや、そもそもそれらについては対策済みなのだから、余を制御下に置くなど不可能だ。一体余の身に何が……」

 花中を問い詰め、しかしすぐに答えが返ってこなかったからか、コトアマツは一匹ぶつぶつと独りごちる。やれ化学物質がどうたらこうたら、神経系の反応がうんたらかんたら。

 何やらコトアマツの身に、コトアマツ自身想定していなかった事態が起きたらしい。その結果、ミカンをつい食べきってしまったようだ。

 問い詰められた直後は花中にも訳が分からず、ポカンとしてしまった。けれどもよくよく考えてみれば答えは明白。

 そしてその答えに、花中は思わず笑いが噴き出した。

 なんて事はない……どうやらコトアマツは、ミカンがとても気に入ったようだ。『大好物』との初遭遇である。

「ぷくくくく……気になるなら、もっと、ミカンを食べてみたら、どうですか? 何か、分かるかも」

「うむ! 調査をせねばならんな!」

「あ、そこにある色の濃いやつは美味しそ……興味を惹かれませんか?」

「むぅ。確かに何故か他のものより有意に興味があるぞ。どれどれ……」

 木の枝に手を伸ばすコトアマツ。あと少しで届きそうだから飛ぶ事はなく、だからこそ小さな身体で背伸びしている姿が愛くるしい。

 その可愛さに花中が笑みを零せば、一個のミカンを両手で掴むコトアマツが首を傾げる。花中が我慢出来なくて吹き出すのに、十分な『破壊力』を秘めていた。

 そんな花中の賑やかな笑いに誘われてケダモノ達がやってくるのに、さして時間は掛からない。

 あっという間に花中とコトアマツの周りは、たくさんの笑い声に満たされる事となるのだった。

 

 

 

「うふふ。かれこれ五百年ぐらいの付き合いですけど、まさかコトちゃんの好物がミカンだとは知りませんでしたわー」

 蕩けきった満面の笑みを浮かべるオオゲツヒメ。草原から徒歩で数十キロもの距離を歩き、避難所近くの瓦礫地帯に入った彼女の足は、されど疲労の色を感じさせないほど軽やかなものだった。

 その彼女の隣を歩くコトアマツは、両手いっぱいにミカンを抱えていた。オオゲツヒメに話し掛けられた彼女は唇を尖らせ、不満を露わにした表情を見せる。

「貴様、よくも今までこんな美味いものの存在を黙っていたな。美味しいものは皆で分け合うともっと美味しくなると、普段は言っている癖に」

「冬にはちゃんと誘ってましたわよ、箱で買ってきたミカンを炬燵で一緒に食べましょうって。だけどあなた何時も断ってたじゃない。そんな糖質と水の塊、栄養摂取の効率からして必要ないって」

「ぐぬぬぬぬ」

 オオゲツヒメを責めるも、あっさり言い返されて黙るコトアマツ。恐らく本当に、毎年そんなやり取りをしていたのだろう。『食わず嫌い』は損だとはよく言ったものである。

 二匹のやり取りが可愛らしくて、後ろから彼女達を眺めていた花中はニコニコとした笑みを浮かべた。さらっとオオゲツヒメがとんでもない年月を言っていた気がするが、「まぁ別にいっか」と流す。そんなものは、可愛いものの前では無力なのだ。

「いやー花中さんが楽しそうで何よりです。最近の花中さん暗い顔ばかりでしたからねー」

 そして花中を後ろから抱き締めているフィアも、花中の笑みを見て上機嫌に笑う。

「そだねー。眉間に何時も皺が寄ってさー」

「事態が事態だから、仕方ないとは思うけどね」

 花中の両隣を歩くミィとミリオンも、フィアの言葉を肯定する。

 自覚はなかったが、最近の自分は相当『アレ』な表情だったらしい。ミリオンはフォローしてくれたが、花中自身がこれを良しとしない。

 ちょちょいと眉間を指で揉み、目許も両手でマッサージ。きっと、多分、もっとマシな顔付きになった事とした。

「えっと、どう、でしたか? 楽しかった、ですか?」

 顔付きと共に気持ちを一新した花中は、思いきってコトアマツに尋ねてみる。

 コトアマツはくるりと、舞うように振り返った。その顔には何時ものように不敵で、だけど何時もよりちょっと柔らかな表情が浮かんでいる。

「ふむ、今まで誘われた中では一番良かったな。とはいえ余を満足させるにはまだ足りん。これでは余の友とは認められぬ」

「あー、判定厳しいです……」

「うふふ。花中ちゃん、そう気を落とさないで。この子、結構ぐらぐら来てますわよ。多分あともう一押しでお友達になりたいと申し出ますわ」

「……余計な事を言いおってからに」

 オオゲツヒメを睨むコトアマツだが、されどオオゲツヒメの言葉を否定はしない。恐らく本当に『ぐらぐら』来ていて、『あともう一押し』なのだろう。

 なら、今度はミカンを使ったデザートでも振る舞ってみようかな? 他にも色んなデザートを用意して、デザートバイキングをしてみよう。それともあえて普通の料理をやってみて、避難所の人達と一緒にランチを楽しむのも有りかも……脳裏に浮かぶ次の『作戦』に、花中は思わず笑みが零れる。

 あれほど次はどうしようと悩んでいたのに、今では次々と案が浮かんでくる。むしろどれをやろうか悩むぐらいだ。

 『楽しい』というのは、こんなにも力を与えてくれる。それを今まですっかり忘れていた。流れてしまった時間は少なくないが、だけどこの楽しさは、きっとその時間をすぐに埋め合わせしてくれる。

「ふふっ、そうですね……じゃあ、今度はミカンを使った、デザートバイキングにしましょうか。みんなで一緒に食べたら、きっと、すごく楽しいですよ!」

 花中は思い至った案の一つを満面の笑みと共に伝え、

 足を止めたコトアマツは、抱えていたミカンをボトボトと落とした。

 ……落としたミカンは、剥き出しとなった固い地面に落ち、付いた傷から汁が飛ぶ。コトアマツは人間ではない。多少汚れたところで気にはしないだろう。だが、綺麗ならばそれに越した事はあるまい。

 大切なミカンを落とした事に、花中は得体の知れぬ違和感を覚える。

 そしてその違和感は、喜びの色が一切ない、つまらなそうな顔をしたコトアマツと向き合う事でより一層強く感じた。

「……コトアマツ、さん? あの、どうか、しましたか……?」

「あら、もうそんな時間なの?」

「ああ、そうだ。今し方完了した。第二から第四まで活性化が終わり次第、第一コアが動き出す」

「そう。それは……とても、残念。思いの外早くて、こっちとしても想定外ですわ」

 疑念を抱き尋ねる花中だったが、コトアマツは答えない。それどころかオオゲツヒメと話を交わし、オオゲツヒメは肩を落としながら項垂れる。

 彼女達は何かを理解していた。その何かが、花中には分からない。

 だけど彼女達の顔を見れば、それが二匹にとっても愉快な話ではないと窺い知れた。

 ざわざわとした悪寒を感じる花中に、コトアマツはようやく顔を向けた。

 その表情はなんだか寂しげで。

 或いは不安げで。

 けれども決意に満ちていて。

 複雑な感情の混ざり合った顔に、花中はどうコトアマツに声を掛ければ良いのか分からなくなる。

 対してコトアマツは、何もかも既に決めていたかのように。

「残念だな、時間切れだ」

 眉一つ動かさず淡々とその言葉を、花中に伝えてくるのだった。




平和的に終わったら、能力バトルタグが飾りになっちゃうもんね(ぇー)

次回は12/21(土)投稿予定です。


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生命の王7

 寂しげな顔を浮かべていたコトアマツは、やがて空を見上げて微笑んだ。

 その微笑みは、あどけない見た目に見合わぬほど妖艶で、光悦としているように思える。されど同時に偉大なる力を感じさせ……だけどやはり寂しげ。空から降り注ぐ茜色の夕日がコトアマツの纏う雰囲気を一層濃くし、彼女に話し掛ける事すら躊躇させた。

 だが、花中は訊かねばならない。

 コトアマツが豹変したのと共に――――世界の雰囲気が一変した事を、花中は確かに感じ取ったのだから。

「……どういう、事、ですか? 時間切れって、一体……?」

 じりじりと後退りし、コトアマツから距離を取りながら花中は問う。フィアとミリオン、ミィも花中の傍にやってきて、コトアマツと対峙した。

 コトアマツは、空を見ていた顔を下ろした。

 変わらず妖艶で、寂しげな表情。その笑みを浮かべたまま、コトアマツは南の空を指差す。

「あそこに浮かぶ星を見ていろ」

 そしてコトアマツは一言、そう告げた。

 彼女の言葉の意味は分からないが、花中は言われるがまま空を見る。沈みかけとはいえ未だ陽の出ている時間帯故に、空に広がるのは澄み渡る茜色。人間の目には星など見えない。

 しかし花中の目は、そこに存在する無数の星の輝きを捉えられる。日中星が見えないのは、陽の光に星の輝きが掻き消されているだけの事。星は変わらずそこに存在し、高度な観測能力があればいくらでも捕捉可能だ。

 とはいえ、だからコトアマツが何を指しているかすぐに分かるものでもない。花中からすれば、その指先にある星の数はあまりにも()()()()。何か、特別な星がある筈だ。そう考えた花中は星の光を解析。有り触れたものを一つ一つ除外していき……

 やがて一つの『惑星』を見付ける。

 火星だった。惑星は恒星からの光を反射しているだけなので、星系外のものの観測は今の花中であっても中々難しい。反面、太陽系内の惑星ならば距離が近いため、一般の望遠鏡でも観察可能なほど明るい。火星はその中でも観測が容易な惑星の一つだ。今の花中の目なら、火星の模様までしっかりと判別出来る。

 コトアマツが指差す先にあるもので、『特別』なものはこの火星しかない。何があるんだと、花中は火星をじっと観察した。

 答えは、その直後に起きた。

 火星に()()()()()()のである。比喩ではない。火星表面に巨大な亀裂が入っており、惑星を横断していた。その断層はかなり深く、火星の輪郭が凸凹としたものに変化していく。

 そして一千キロ以上伸びた断層から、黒い何かが飛び出した。

 それはまるでクジラのヒレのようなものだった。だが、あまりにも大きい。断層を砕きながら現れたそれは、地上に出てきた分だけで三千キロはあるように見える。火星の大気を突破し、出てきた部分の大半が宇宙空間で揺れていた。

 最初に現れたヒレの反対側から、更にもう一枚の黒いヒレが現れる。ヒレが現れた断面からは黒い触手のようなものが何百本……否、何億本と伸び、火星を埋め尽くしていく。伸びる速さは凄まじく、ものの十数秒で火星の色合いは赤から黒へと変貌した。

 そこから更に数十秒と経つと、再び黒い触手が動き出す。

 触手は一斉に退いていき、亀裂があった場所に戻っていく。戻っていくのだが……火星の大地は一向に見えてこない。黒い触手は、もう殆どなくなったというのに。

 触手が完全に消え失せた時、残っていたのは火星の大地ではない。

 そこに居たのは、一体の『怪物』だ。

 そいつの見た目は一見して魚のようであった。やや丸みを帯びた流線形の胴体は真っ黒で、油断すれば花中の目でさえも見失いそうなほど、宇宙の暗闇と同化している。火星から飛び出した二枚の巨大なヒレの他に、その身には小さなヒレが四枚付いていた。頭には目や口に当たる器官が見当たらず、一見してぬいぐるみのようにも見える。そしてその大きさは……先程までそこにあった惑星である火星と、殆ど変わらない。

 惑星規模の構造体。だが、驚きはそれだけに終わらなかった。

 火星と入れ替わるように現れた構造体は、大きく背伸びをするように身体を曲げ、六枚のヒレを緩やかに動かしたのだ。単純な運動ではなく、『凝り』がある場所を自覚してそこを重点的にストレッチするような、複雑な動き。機械ではなく、『有機的』な仕草だ。

 あの構造体は、間違いなく生きている。

 火星は跡形もなく消え去り、生きているものだけが残った。事実だけを並べて考えれば、真実は自ずと見えてくる。しかしそれを受け入れるのは、例えその光景を肉眼で目の当たりにしていた花中にも難しい。

 あり得ない。あり得るべきではない。されど、起きてしまった。

 生命が、星を()()()()()という事態が。

「な、ん……ですか……アレは……!?」

「花中さん? 何が起きたのですか?」

 唖然とする花中に、フィアが尋ねてくる。ミィやミリオンも視線を向け、花中の答えを待った。

 けれども花中の口は、己の目が見た光景を言葉に出来ない。あり得ない、あり得ちゃいけない……現実逃避の言葉が頭の中をぐるぐると駆け回り、理解しようとする思考を妨げる。

「恐らく、火星とか金星とかが喰い尽くされる瞬間を見たんじゃありませんこと?」

 何も答えられない花中を見かねてか、オオゲツヒメが花中の答えを代弁したのはそんな時だった。

「火星が、喰い尽くされた? なんの話?」

「そのままの意味ですわ。火星を構成する全元素が食べられた。それも星の内側から現れた『巨大生物』によって」

「……はなちゃん、マジなのこれ?」

 信じられないと言いたげなミリオンに、花中は無言のままこくりと頷く。

 この答えにはミリオンのみならず、さしものフィアとミィも目を見開いた。驚くのは当然である。惑星一つ喰い尽くすような『生命』……特殊な能力を持っていようが持ってなかろうが関係ない、勝てる訳がない存在なのだから。スズメバチがどんな猛毒を持っていようと、ミサイルすら通じぬ怪獣には為す術もないのと同じように。

 突如として現れた恐るべき生命体。本来ならば困惑し、なんの対策も思い付かず、ただただ命運に身を委ねるところだろう。

 されど此度は違う。花中達の目の前には、この事態を事前に察し、指し示したものがいる。

 彼女以外に『元凶』は考えられない。

「……どういう、事……ですか……コトアマツさん……!」

 未だ花中達の前に佇む、コトアマツ以外には。

「どう、とはなんの事だ?」

「どうして、火星を破壊……いえ、食べ尽くしたのですか!? いえ、それより、あの黒い生き物は……!」

「ふむ、一つずつ答えてやろう。まず火星を喰らい尽くした理由だが、大したものではない。物資が必要であり、解体が容易だったから。ただそれだけだ」

 花中からの問いに、コトアマツは平然と答えた。そこには嘘偽りはおろか、隠そうとする感情すら読み取れない。

 だからこそ花中は震えた。惑星一つを滅ぼしておきながら、コトアマツがなんの感傷も見せない事に。

 しかしこれは序章でしかなかった。

「そして二つ目の質問の答えだが……お前の言う黒い生物とは、火星から現れたモノの事か? ならば答えは簡単だ。アレは()()

 二つ目の答えが、花中にそれを教えてくれる。

 アレもコトアマツ自身だと、コトアマツは語った。此処に彼女は居るというのに。

 何かの比喩か? そうかも知れない。しかし花中は、同一人物が複数箇所に現れる方法を知っている。

 ()()()()()()()()()()()()()。外観通りの一体の生物ではなく、無数の微細生物の集合体であるならば、無数の『自分』が存在する事になる。

 ピクニックの最中に感じた違和感……自分の事を他人事のように話していたのはこれが原因かと、今になってコトアマツの身体について一つ理解する。考えれば分かったかも知れない事だけに、花中の胸の中に悔しさに似た感情が込み上がる。

 しかしそれを悔いている場合ではない。

 コトアマツが群体であり、あの黒い生物がそのうちの『一塊』だという事は――――まだ、他にも居るかも知れないのだ。例えば地球の奥底に潜む、コトアマツと同じ気配を持つ『何か』など特に怪しい。

 最悪の可能性を考える花中。しかしコトアマツは、その最悪を更に上回る。

「人間の時間単位を用いるなら、凡そ五百日前に第四コアを火星に撃ち込んだ。観察対象と呼べるものもなかったからな、すぐに喰い尽くしてやったわ」

「第四……!?」

「つまり、あと三つは同じものがあるという事ね。火星を喰い尽くした生物と同じものが」

「その通り」

 驚愕から言葉を失う花中に代わり、ミリオンがコトアマツに問う。コトアマツはこくりと、臆面もなく頷きながら肯定した。

「第二コアは金星に、第三コアは水星に撃ち込んだ。既に星の解体を始めていて、十五分以内に完了する。第五コアは木星、第六コアは土星に向けて推進中だ。第七から第九コアも、近々発進させる」

「太陽系にある惑星……冥王星は準惑星だけど、まぁ、ある程度の大きさがある『星』は全て喰い尽くすつもりという訳ね。そうなると当然、太陽系内に例外なんてないわよねぇ?」

「無論だ」

 ミリオンに訊かれたコトアマツは不敵に笑い、とんとんと自分が立つ大地を足のつま先で叩く。

 その意味を分からぬ花中ではない。分かるのだが、それを理解する事を理性が拒んだ。コトアマツの言葉が本当ならば、それは終末の宣告に他ならない。

 だから認めたくなかった。されどコトアマツは、人類の現実逃避を許してはくれない。

「第一コアは、此処にある。他のコアの生成とコントロールを行っていた影響で、少々生育は遅れたが……三時間後には『始動』するだろう。始動すれば三分以内にこの星の解体が完了する筈だ」

 彼女は世間話でもするかのような気軽さで、認めたくない『現実』を突き付けた。

 フィアやミィの警戒心が、この言葉を境にして跳ね上がる。恐らく今までは、星がどうのと言われても、なんの話だか分かっていなかったのだろうが……ここまでハッキリと告げられ、ようやく理解したのだ。

 今、この星が滅亡しようとしている。

 即ち星の上に棲まう自分達に、避けようがない死が訪れようとしているのだと。

「ほほう随分と規模の大きな話ですが……要するにやっぱりアイツは敵という事ですね?」

「ま、そーなるわね。勝ち目があるとは到底思えないけど」

「今まで遊んでて感じてたけど、めっちゃくちゃだもんなー、アイツ」

 フィア達は誰にでも聞こえるぐらいの話し声で、自分達の意見を交わす。ひそひそ声を使ってもどうせバレると思っているのか、はたまたそこまで考えていないのか。いずれにせよ、フィア達はコトアマツを『脅威』と認識していた。

 そう思えないのは、未だ理解すら出来ていない花中だけ。以前にも聞いた事なのに、心がその事実を拒絶する。

「……どう、して……」

「なんだ? まだ何か質問があるのか?」

「だって、星を……地球を食べ尽くす、なんて……どうしてそんな事を、するのですか!? 火星とか、金星とか、生物のいない星なら、まだしも……!」

「生命の有無は余の計画にはなんら影響しない。地球を解体し、余の一部とする方が後の計画にとって有益だからそうしたまでだ。仮に地球だけ残したとしても、太陽も解体するからこの星での生命存続はほぼ不可能になる。前にも言っただろう?」

「なら! その計画というのは、なんなのですか!? 太陽まで食べて、一体、何を目指しているのですか!?」

「最終的には巨大な演算回路を作り出し、計算を行う。先程から以前と同じ問いを繰り返しているが、忘れたのか?」

「そうじゃありません! 計算って、なんのための計算なんですか!? 何を計算するのに、そんな、太陽系全てを費やさないといけないのですか!?」

 どれだけ訊いても、コトアマツの口から出てくるのは要領の得ない答えばかり。いよいよ目前に理不尽な死を突き付けられ、挙句理由も分からなくて、感情が爆発した。自分が抑えられず、花中は執拗にコトアマツを問い詰める。

「この宇宙の滅亡を回避する術を導き出すための計算だ」

 その感情を止めたのは、爆発した感情をも上回る『出鱈目』だった。

 パクパクと、花中の口が空回りする。コトアマツが何を言っているのか、何を言いたいのか、まるで理解が及ばない。

 宇宙の滅亡とは、なんの話だ?

「宇宙って……えっ……?」

「人間も考案していた筈だ。宇宙の終焉について考えられるものは二つ。一つは宇宙の膨張が重力に負け、収縮に転じる事で全てが圧壊するビッグクランチ」

 呆ける花中に、コトアマツは指を一本折りながら話す。

 ビッグクランチについては花中も知っている。コトアマツが話したように、宇宙の膨張する力が重力に負けた結果生じる終焉……簡単に言えば全てがブラックホール、或いはそれ以上の『何か』に飲み込まれる未来だ。正しく終焉と呼ぶに相応しいが、超圧縮されたエネルギーから次のビッグバンが起きるという意見もある。

 それにこの宇宙は現在、人間の観測結果が正しければ減速するどころか加速している。故にこのビッグクランチは起こらないという意見も少なくはない。

 しかしそれを救いと呼ぶのは早計だ。ビッグクランチはまだ『続き』がある終わりだが……もう一つの終焉は、本当に、あらゆる希望を打ち砕く。

「もう一つがビッグリップ。宇宙そのものが希薄になり、()()()()()()終焉。現時点での余の計算では、こちらの終焉が訪れる可能性が高い」

 全てを引き裂く、完全なる終わりの名を、コトアマツは告げた。

 宇宙の膨張は今も続き、減速するどころか加速している。それは情報の伝達距離が()()()()()()()()という意味だ。しかも宇宙の端だけでなく、地球が位置する真ん中辺りでも起きている。端の方ほど膨張速度は速いが、中心部でも少しずつ空間は膨張し、加速しているのだ。現時点でその伸び方は留める必要もない程度だが、しかし膨張速度がこのままどんどん加速していけば、やがて光速を超えてしまう。そして空間の広がりは相対性理論に縛られず、なんの問題もなく光速を超えられる。

 もしも空間の膨張が光速を超えた場合、それは重力など光速で伝播している『相互作用』が他者に届かない事を意味する。つまりあらゆる力のやり取りが不可能となり、見た目上あらゆる力が消失し、物質は物質の形すら維持出来ず、全てが単一の『何か』と成り果てるのだ。

 それは何も生み出さない、何も起こらない虚無の終焉。未来に残すものが何一つない、完全なる終わり。

 これが『ビッグリップ』――――引き裂かれた宇宙だ。

 想像するだけで身の毛もよだつ終末だが、されどこれは今すぐ訪れるものではない。諸説あるとはいえ、この説の提唱者は二百二十億年後に訪れるものと予想している。それを近いと考えるか、遠いと考えるかは個々人に委ねるが……不安になるのが馬鹿らしいほど未来の話なのは間違いない。

 その滅亡を回避するために地球を滅ぼすと言われて、一体地球生命の誰が納得するというのか。

「どちらが起こるにせよ、回避策を模索するには膨大な演算が必要だ。それも現時点の余の演算速度では、予測される終わりの時まで掛かっても道半ばに到達しないほどの、な。だから演算速度の増加が必要だった。演算速度を増す一番簡単な方法は、演算回路の増設だ。太陽系の物資はその演算回路の生成に当てる」

「そ、そんなの、何百億年も先の話じゃないですか! そんなものの、ために……!」

「余はその何百億年も先を生きる。余は宇宙の終焉を目の当たりにするのだ。その形はどんなものであれ、な。ならばそれを回避するのは、生命として当然であろう? 余は、まだ死にたくないのだからな」

「死にたくないって、そんな、そんなの……」

 コトアマツの考えを否定するように、花中はぶつぶつと呟く。

 同時に、ようやく理解が及んだ。

 以前、オオゲツヒメが言っていた。コトアマツは花中よりもずっとずっと臆病だと。一体何処が臆病なのかと思っていたが……今なら得心がいく。

 彼女は花中ですら心配するのが()()()()()と思うほどの、遥か未来を不安に思っているのだ。

 いや、これをアホらしいと侮辱するのは『短命』な立場からの物言いだろう。自称とはいえ数百億年生きるつもりのコトアマツからすれば、ビッグクランチやビッグリップは何時か目の当たりにする終焉。それも寿命ではなく『事故』の類であるならば、避けたいと思うのは当然の思考だ。

 だが、そのために地球生命の全てを犠牲にするなど、地球生命の一員である花中には受け入れられない。いや、最早事は地球だけの話ではないのだ。もしも太陽系内物資で生成出来る演算回路だけでは足りないとなれば、コトアマツは間違いなく他の星系にも手を出す。『故郷』である地球の分解、その地球の『同胞』である生物の絶滅すら躊躇しないのだ。コトアマツが宇宙生物に温情を与えるなど考えられない。

 彼女の目的である『宇宙の終焉を回避する方法』を見付け出すのに、どれだけの演算力が必要かは見当も付かない。だがもしも、この宇宙の全ての物質が必要だとすれば……宇宙全ての生物がコトアマツの一部にされてしまう。

 それは何もかもが一点に収束するビッグクランチと、何が違うというのか。

「……本当に、この星を、食べ尽くすのですか……」

「くどい。この決定を覆すつもりはない」

 花中の問いに、コトアマツは一言で拒絶の意思を示した。

 コトアマツの決心は揺るがない。

「……わたし達と、遊んだ時間は、楽しく、なかったの、ですか……?」

 だから花中は、問う。

 コトアマツは少しだけ沈黙を挟み……静かに微笑んだ。今までよりももっと強く、寂しそうな感情も含ませて。

「今日に関して言えば、まぁ、楽しかった。あのような経験は、これまでした事がない」

「……それでも、わたし達が暮らす星を、食べるのですね?」

 花中が改めて問えば、コトアマツはこくりと無言で頷く。

「お前達と共に居る楽しさより、余にはこの世の終わりの恐ろしさの方が上だからな」

 そして己の気持ちを打ち明けた。

 花中は、その言葉を信じた。疑おうという気持ちすら抱かない。それほどまでにコトアマツの言葉には真実味があり、誠意すら感じられた。

 花中は小さく息を吐き、しばし目を閉じる。握り締めた拳がぷるぷると震え……やがて開いた時、全身から力が抜けた。

「……それが、コトアマツさんの気持ちなのは、分かりました」

「……そうか」

「その上で一つ、わたしからも、言わせてください」

「ああ、言ってみるがよい」

 花中の前置きを、コトアマツは快く受け入れる。

 コトアマツから許しをもらった花中は、大きく、大きく……自分の胸がふっくらと膨らむほどの息を吸い込み、

「この……臆病者おおおおおおおっ!」

 思いっきり、叫んだ。

 吸い込んだ空気は爆音となって周囲に広がる。花中は粒子操作能力を用い、莫大な量の大気を吸い込んでいたのだ。音波の破壊力は凄まじく、周囲の瓦礫と大地が捲れ上がり、空に浮かんでいた雲が吹き飛ぶ。ただの人間が傍に居たなら、木っ端微塵になっているだろう。

 とはいえミュータントからすればそよ風のようなもの。花中のすぐ近くに居るフィアやミリオン達は、その体幹を揺らす事すらしていなかった。ましてやコトアマツが微かでも動く訳がない。

 だが、誰もがその目を大きく見開いて、驚きの表情を浮かべていた。フィアも、ミリオンも、ミィも、オオゲツヒメも……そしてコトアマツも。

 全員が花中を見る。集める視線に勿論気付いている花中だったが、今の花中は止まらない。

 こんなもので止まるほど、花中の胸に渦巻く激情は大人しくないのだ。

「宇宙の終わりなんて、そんな先の事ばかり、心配して! わたしだって、ただの人間の時に、ミュータントによる、人類の滅亡を考えても、こんな行動を起こすぐらい、怯えたりなんて、しませんでしたよ!」

「……それはお前にその力がないから」

「あなただって、宇宙の終わりを防ぐような力なんて、ないじゃないですか! 少なくとも今は!」

 反論するコトアマツの言葉を遮り、花中は自分の感情を思うがままぶつけた。

 終わりを怖がる気持ちは、花中にも分かる。花中自身、小動物にも負けるぐらいビビりなのだから。あまり他人の事をどうこう言える立場ではない。

 だけど、だからといって。

 友達になろうとしていた自分達すら切り捨てるなんて――――()()()にも程がある!

「わたしは! 確かに、宇宙をどうこうするような、そんな出鱈目な力は、持っていません! だけど、それでも相談してくれた、なら……わたしは、全力で、考えたと思います!」

「考えたところでどうなる。それで何か名案が浮かぶとも?」

「そんなの知りません! ただ、わたしは怒っているんです!」

「なんだ、その滅茶苦茶な理屈は」

 呆れ果てるように、或いは戸惑うように、コトアマツはぼやく。

 筋が通っているのはコトアマツの方だろう。コトアマツはあくまで自分の命を守ろうとしただけ。そして今の花中に、コトアマツを納得させられるような代案はないのだから。

 今はただただ感情的に、本能のまま叫んでいるのみ。友達になりたかった子の力になれなかった事への悔しさと、自分との楽しかった思い出よりも『あるかも知れない恐怖』を選んだ事への怒りに突き動かされて。

 そして暴走する想いは、もう花中自身にすら止められない。

「……わたし、カチンと来ました。そんなに、死ぬのが怖いのなら……宇宙の終わりなんて、本当にあるのかどうかも、分からないものが、怖いのなら……!」

 身体の奥底に秘めている力が、どんどん高まっていく。

 全身から放たれる輝きは、抑えられない力により熱せられた大気の反応。熱せられた大気分子は周辺の空気を掻き乱し、雲などない地上付近に雷撃を走らせる。塵が静電気により舞い上がり、ある種の神々しさと荒々しさを両立させた風景を形作った。

 されどコトアマツは怯みもせず、ただ静かにその場に佇むのみ。

「臆病なあなたなんかより、わたしの方が、ずっと頼もしいって事を、教えてあげます!」

 だから花中はその宣告を、コトアマツに真っ正面からぶつける事が出来た。

「……つまり、余を倒すと?」

「倒すんじゃ、ありません! 弱虫で、泣き虫なあなたより、わたしの方が強くて、賢くて、頼もしいって思い知らせてやるだけです! そして……」

「そして?」

「わたしが閃いた、宇宙の終焉をどーにかする方法に、従ってもらいます!」

 臆面もなく答える花中に、コトアマツは大きく目を見開いた。フィア達も、オオゲツヒメも、驚愕するような表情と共に花中を見遣る。

 そんな花中の内心は今、激しく脈打っていた。

 何故なら今の花中に、自分の『宣言』を担保する心当たりなんて何もないのだから。宇宙の終焉をどうにかする方法は勿論、自分達より遙かに強いコトアマツを倒す術すら思い付いていない。ハッタリどころか行き当たりばったり以下の、幼児のような『駄々』である。

 だが、これ以外に取れる手はない。

 このまま地球が滅びる事を、それ以上に寂しさと恐怖に震えている『女の子』を、見て見ぬふりをするなんて真似は花中には出来ないのだ。

「ふっふーんなんの話だかサッパリ分かりませんが戦うというのなら協力しますよ花中さん」

 そしてその背中を押してくれる親友が、此処には居た。

「フィアちゃん……! でも、コトアマツさんは……」

「滅茶苦茶強い。でもほっといたら地球が終わる。なら、やる事は一つでしょ」

「私は割とどっちでも良いけど……嘗められっぱなしは、癪よねぇ?」

 ミィも、ミリオンも、花中の傍に立ち、コトアマツと向き合う。

 友達が自分を助けてくれる。これだけで花中は、勝ち目のない戦いにも挑める勇気を得られた。

 強い意志と共に向けられた八つの眼差し。

 それを向けられたコトアマツは――――笑った。心から、花中の言葉が本当になる事を期待するかのように。

「くくく……良いだろう。否定するのも馬鹿馬鹿しいほどの大言をこの余に対し言った心意気を買い、少しばかり遊んでやる」

「……後悔しませんね?」

「後悔などせぬだろう? お前の言う通りでも、お前がホラ吹きでも、余は何も損をしない。こんな美味い話そうあるまい」

 花中に問われ、挑発するように煽るコトアマツ。今度はそれに、花中が笑みを返した。言質を取ったぞと伝えるために。

 地球生命の、宇宙全ての生命の存亡を賭けた戦い。

 その戦いは両者共に、笑顔を浮かべてから始まるのであった。




話が地球どころか宇宙規模だぜ!
ちなみに放置すると本当にコトアマツは宇宙そのものを喰い尽くすでしょう。それに足る力と性質は持っているので。

次回は明日投稿予定です。


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生命の王8

「とりあえず先手必勝ォォ!」

 真っ先に動き出したのは、花中ではなくフィアであった。

 誰よりも感情的故に、誰よりもコトアマツに対する鬱憤が溜まっていたのだろう。音速を超える速さで突撃したフィアは、今日まで何度も一緒に遊んできた相手に対しなんの躊躇いもなく拳を振り上げる。

 しかしその拳が振り下ろされる事はなかった。

 その直前に、フィアの『身体』が吹き飛ばされたのだから!

「ぬぐううううううううっ!?」

「ふぃ、フィアちゃん!?」

 何百メートル、いや、何キロにも渡って吹き飛ばされたフィア。瓦礫を吹き飛ばしながら進む姿を見れば、凄まじい力が加わった事は明白だ。

 しかし解せない。

 少なくとも花中の目には、コトアマツが何かをしたようには見えなかったのだから。一体フィアは何をされたのか?

「今度は、あたしの番!」

 花中が思考を巡らせる中、次に動き出したのはミィ。得意の肉弾戦に持ち込むべくコトアマツに肉薄し、そのまま殴り掛かる!

 ミュータントと化した花中には、ミィの怪力がどれほどのパワーであるかを理解出来た。大型水爆の力を一点に集めたかのような、出鱈目な運動エネルギー。大地に振り下ろせば地殻変動と気候変動を引き起こし、大量絶滅を招くだろう。生半可な『非常識』では原形を保つどころか、肉片一つでもこの世に残るか疑わしい。

 ミィもまた一切の手加減をしていない。しかもミィの拳は正確にコトアマツの頭を狙っている。群体であるコトアマツにとって『頭』に大した意味などないかも知れないが、ミィが抱く攻撃性の強さは十分に物語っていた。

 今の花中ならば、ミィの攻撃を『耐える』ぐらいは出来るだろう。しかし拳と共に当てられる野生の闘志によって、大きく怯んだかも知れない。

 だが、コトアマツは揺らがない。

 彼女は微動だにせず、ミィの拳を顔面から受け止めた。巨大水爆の総出力に値する一撃を受けたのに、瞬き一つしていない。否、それどころか頭がほんの僅かに揺れる事すらない有り様だ。

 人類では理解が及ばぬほどの防御力を見せ付けるコトアマツだが、野生のケダモノであるミィ達は既にコトアマツの実力を推し量っている。端からこの程度では倒せないとミィも思っていたのだろう。

「だぁりゃあああああああっ!」

 でなければ一片の迷いもなく、一発目以上の威力を秘めた拳を連続で繰り出すなど、出来る訳がないのだから。

 瞬きする間もなく何十と顔面に叩き付けられる拳は、しかしそれでもコトアマツにダメージを与えていない。その身が揺れる事すら起きていなかった。周りの大地は漏れ出た僅かな余波だけで吹き飛び、コトアマツを囲うようにクレーターが出来上がっているというのに。

 ならばミィの攻撃は無駄かといえば、そのような事はない。何故なら此処には花中が居て、花中の目にはコトアマツの身に起きている現象を『観測』出来たからだ。観測から得られた情報は、勝機を掴むヒントとなり得る。

 尤も、此度に限れば全く勝機など見えてこないのだが。

 ミィが繰り出した拳は、コトアマツの身体に()()()()()()()()。無論ミィは拳を寸でのところで引っ込めるなんて真似はしておらず、問答無用で叩き付けている。衝撃音が辺りに鳴り響き、余波だけでビリビリとした刺激が花中の身体に走った。間違いなくミィは殴り付けている。

 ミィがコトアマツに触れられないのは、コトアマツとの間に何か、透明な『壁』のようなものが生じていたからだ。

 所謂シールドか? 一瞬そのように思う花中だが、すぐに違和感を覚える。その壁から電磁的性質などは感知出来なかったからだ。奇妙な言い回しだが、まるでそこに『壁』などないかのように見える。確かにそこに『壁』はあると、あらゆる物理現象が示しているにも拘わらず。

「鬱陶しいな」

 ミィの攻撃を平然と受け止め続けたコトアマツは、気怠げにその腕を上げる。

 するとどうした事か。ミィの胸部が、ぐにゃりと()()()ではないか。

 一瞬の出来事だが、確かに伸びていた。その証に、ミィの体内の骨にはまるで両端を引っ張られたかのように力が加わり、破断する形で骨折している。

 そしてミィの身体は、先のフィアと同じように遙か彼方まで吹き飛ばされた! 身体能力の高さ故か、フィアのように何キロも飛んでいく事はなく、精々十数メートルほどでミィは止まったが……ダメージの大きさはフィアの比ではない。ミィは骨折した片腕を押さえ、顰めた顔で受けた痛みの強さを物語る。

「ぐがっ!? くぅ……!」

「み、ミィさん!? け、怪我は……」

「大丈夫! この程度の傷ならすぐに治る! それより――――」

 心配から声を掛けようとする花中だったが、ミィはその言葉を遮って何かを伝えようとした。

 ミィからの『忠告』が言い終わるよりも早く、花中はミィが何を伝えようとしたのかを察す。

「こんなので終わりか? これでは準備運動にもならんぞ?」

 コトアマツの視線が、自分の背中に突き刺さったのだから。

 振り返ったのは反射的な行動だった。自分の指先に能力で加速させた粒子を集結させ、発射準備を完了させたのも、全てが本能により勝手に行われたもの。花中の理性は見つめられただけで動揺し、どうしたら良いのか分かっていないのだから。

 ミィの拳さえも遙かに上回る高密度の力――――粒子ビームをコトアマツに向けて撃ち込むまで、そこに花中の意思と呼べるものはなかった。撃ち出された粒子ビームはほぼ光速で直進。コトアマツは回避行動を取らなかった事もあり、超高出力の力は難なく彼女の腹部付近を直撃する。

 そう、確かに直撃はした。したのだが、コトアマツには()()()()()()()

 粒子ビームが命中したコトアマツの腹に『穴』が開いていたのである。穴と言ってもコトアマツの身体に、物理的に開いた訳ではない。空間にぽっかりと、『穴』のように見える歪みが発生したのだ。粒子ビームはその『穴』に吸い込まれてしまい、コトアマツ本体には命中していない。

 何が起きたのか分からず、呆然とする花中。しかしすぐに我を取り戻し、思考を巡らせる。あの『穴』は一体なんなのだ。どのような原理で開かれた?

 それに『穴』の先にある景色が気になる。そこに映るのはコトアマツの身体や、ましてや彼女の背後にある風景でもない。誰かの背中だ。銀色の髪があって、ちっぽけな体躯をしていて……

 花中の本能が悪寒を覚えた、その時にはもう全てが遅い。

「きゃぅっ!?」

 花中の背中に焼けるような痛みが走ったのは、その直後の出来事だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 あり得ない出来事が、今正に花中を襲った。混乱する理性に対し、本能が状況を素早く分析。常識だのプライドだの、余計なものを持たない思考回路は一つの答えを直ちに導き出す。

 しかしそれはあまりに常識外れの力。本能が導き出した答えに、未だ理性で思考する花中は目を見開いて硬直してしまう。

「……試してみるわ」

 痛みと困惑で立ち止まってしまった花中に代わり、次に動き出したのはミリオン。

 全身を分散させ雲のようになった彼女は、コトアマツを覆い尽くすように展開。そして周囲に自らの能力……熱を操る力を放出した。

 一瞬にしてコトアマツの周囲は加熱され、数千度、数万度もの熱が満たされる。その余波が花中達の下まで吹き付けると、周囲の瓦礫や大地が溶解を始めたではないか。コトアマツから離れている花中であっても咄嗟に能力で身を守らなければ、その余波により焼き尽くされていただろう。

 ミリオンは本気だ。ミリオンはミュータントの中でも格別の強さと思っていたが、本気の彼女は背筋が震えるほどの凄まじいパワーを感じさせる。熱とは粒子の運動量であり、粒子操作は花中の『能力』であるのだが……ミリオンが直に加熱している粒子に限れば制御なんて到底出来ない。運動量が大き過ぎて『コントロール』に多量のエネルギーを費やさねばならず、全力を出しても抑えきれないからだ。即ち単純な力負けである。ミュータントと化した花中の力は毎秒十ペタジュールという、メガトン級水爆二発分以上のエネルギーすら操れるが、ミリオンの力はそれを遥かに上回っているのだ。

 最早水爆すらも比較にならない、出鱈目な力。大自然の権化という言葉すら陳腐に思えるほど。正直なところ今のミリオンを止める事は、自分とフィアとミィが束になっても出来るかどうか怪しいと花中は感じる。様々な強敵との戦いで成長したにしても、これはあまりに強過ぎだ。二年半前にどうして自分とフィアが彼女に勝てたのか、よく分からなくなってきた。

 それほどの力を誇るミリオンでも、コトアマツにはなんの影響も与えられない。

 コトアマツの周りに出来た『壁』が、ミリオンが生み出した熱を完全に遮断しているのだから。ミリオンの熱は殆ど減衰なくコトアマツの傍まで伝播しているのに、『壁』を境にしてその伝わりが途絶えている。コトアマツそのものの熱量は、一切変化していない。

「……小賢しいな」

 コトアマツはただ一言、心底鬱陶しそうにぼやくのみ。

 その一言を境に、またしてもあり得ない事が起きた。

 ミリオンが放出している熱が、急速に冷却を始めたのである。

【なっ!? これは――――!?】

「他の連中と比べればマシだが、この程度か。しばらく黙っていろ」

 驚愕するミリオンにコトアマツが宣告するや、周囲の大気が更に勢いを増して冷えていく。ミリオンは全力で熱を生み出そうとしているが、低下する温度に歯止めは掛からない。

 ものの数秒で、ミリオンが散開していた空間が『絶対零度』に到達する。

 即ちそれは粒子の運動量が完全なるゼロとなった状態。散開したミリオンはぽとぽとと地面に落ち、転がる。地面に広がった真っ黒な染みが、彼女の『全滅』を物語っていた。

 ミリオンの事だ。例え凍結したとしても、溶けさえすればすぐに復帰するだろう。周りにある常温の空気に接していれば、いずれミリオン自身の温度が上がり、活性を取り戻す筈である。或いは自力で復帰する術も、ミリオンならば持っているかも知れない。

 しかしそんなのは、最早なんの希望にもなりはしなかった。コトアマツが持つ途方もない、底すら見えぬ力の前では。

 これでは戦意が折れても仕方ない――――

【グルアアアアアアアアアアアッ!】

「フシャアアアアアアァッ!」

 そんな弱気な発想を抱くのは、『花中(人間)』だけのようだ。

 地響きと共に現れた、体長三十メートルはあろうかというナマズ顔の怪物……戦闘モードの姿になったフィアが、大地を猛然と駆ける! そのフィアの上に跳び乗る獣姿のミィ。

 二匹が目指すのは、無防備に立ち尽くすコトアマツだ!

【ガアアアアアアアアアゴブッ!?】

 真っ正面から激突するフィアは、しかしコトアマツを一歩後退りさせる事すら出来ず、自分だけが大きく仰け反る。今の体当たりも天変地異に匹敵する威力があったにも拘わらず。

 そしてこれほどの力の差がありながら、手加減こそすれども、コトアマツに容赦や油断はない。コトアマツはフィアに出来た大きな隙を逃さず、小さな指先をフィアへと向けた。

 刹那、強烈な風がフィアに叩き付けられる! 大量の水の集まりであり、恐らく数万トンはあろうかというフィアの『身体』が大きく後退していく。

 フィアは悔しそうにナマズのような顔を顰めさせた、が、これはチャンスでもある。コトアマツは今、フィアだけを見ているのだ。

 フィアの背に乗っていたミィが飛び降り、コトアマツを攻撃するには今が好機。

「喰らえェッ!」

 フィアから跳び降りたミィは、流星を上回る速さでコトアマツの背後へと回り込む。花中ですら反応しきれないスピードで死角に回り込むや、ミィは大きく拳を振り上げて

 ()()()()()()()()()()()()()

【ウグェッ!? コノ……野良猫! 一体何ヲシテイルノデスカッ!】

「えっ!? なん……!?」

 殴られたフィアが怒りを露わにし、ミィが困惑を露わにする。

 混乱するのは当然だ。花中だって訳が分からない……コトアマツの背後に回っていた筈のミィが、何時の間にかフィアの側頭部に移動していたのだから。ミィの全力疾走を、反応出来なくても見えはする花中ですら、ミィがフィアの頭の傍まで移動したところを目にしていない。

 おかしい。先程からおかしい事ばかりではあるが、今のはおかし過ぎる。

 花中が抱いた疑問を当事者二匹が思わぬ筈もなかった。されど悩みはせず、元凶ならば叩き潰せば良いとでも思ったのだろう。フィアとミィは即座に思考を切り替え、激しい怒りをコトアマツに向ける。

【小癪ナアアアアアアアアアッ!】

 フィアは腕をドリルのように回転させながら、コトアマツに突き立てた! されどコトアマツはこれにも怯まず、軽くその手を挙げただけ。ただこれだけでフィアのドリルを受け止める……否、止めるだけでは済まない。

 コトアマツは掴んだフィアの腕を捻り、あろう事かその腕を()()()()()のだ!

【ナ……ニィ!?】

 これにはさしものフィアも動揺を露わにした。液体であるフィアの『腕』は、どれだけ捻ろうが千切れるようなものではない。それを可能とするには水を『固体化』、即ち凍結させるかしかないのだ。しかしフィアの腕が凍ったようには、花中には見えなかった。

 一体コトアマツは何をしたのか。直前までの動きに異変はなかったが、ならば影響は内部から受けたのだろうか……

「むっ」

 考え込む花中だったが、不意にコトアマツが声を上げる。

 捻じ切ったフィアの『腕』が破裂したのだ。フィアの制御下から外れた影響だろう。

 天変地異クラスの打撃すら平然と耐える身体には、この程度の衝撃などダメージにはならないだろう。しかし濡れるという不快感は与えられたに違いない。実際コトアマツは表情を顰めており、フィアはしてやったりとばかりに笑みを浮かべた。

 そして花中は次の瞬間、ぞくりとした悪寒を覚える。

 今までなんのダメージも与えられなかったコトアマツに、小さな不快感を与えた――――フィアが攻撃のターゲットとなるのに、それ以上の理由は必要ない。

 コトアマツはギロリと、鋭い眼差しをフィアに差し向けた。

 瞬間、フィアの『身体』が()()()()ではないか。

 大量の水が元の自然な状態に戻り、四方八方へと飛び散った結果、フィアの本体が露わになる。フィアは大きく目を見開き、大きく驚いていた。とはいえすぐに本能的に危機を察したのか、身体を空中でぐるんと翻す。

 体表にあった僅かな水を伝い、飛び散る水を即座に支配下へ置いたフィア。形作る姿は巨大な怪物ではなく、普段用いている人間の美少女だ。その美少女の顔に、驚きと怒りの感情を露わにしている。

「あなた……何をしましたか……!」

「さて、な。考えてみれば良いのではないか?」

 激情のまま問い詰めるフィアに、コトアマツは嘲笑うような返答をする。花中ならば言われた通り考えるところだが、ひたすら感情的なフィアにとってその答えは、却って怒りのボルテージを上げるものだったようだ。

「小癪な真似オオオオオオオオオオッ!」

 フィアが選んだのは、雄叫びを上げて突撃するというもの。

 否、フィアだけではない。

 フィアの叫びに呼応するように、ミィがコトアマツの側面目指して駆けていた。大地を砕き、揺らし、全速力でコトアマツ目掛けて爆走している。止まる気配はない。

 更にはコトアマツの背後の大地から黒い靄が現れた。凍結させられていたミリオンだ。ようやく活性を取り戻したのか、はたまたこれを好機と判断して動き出したのか。ミリオンは靄のような姿のまま、幅三メートルはあろうかという手を伸ばしてコトアマツに掴み掛かろうとする。

 正面、側面、背面……全方位とは言えないが、三方からの同時攻撃。花中であれば、ミュータント化して得られた超速の演算速度を用いても逃げ道が分からない包囲網だ。

 されど。

 されど、本当に強大な生物から見れば――――足先にアリが三匹たかったようなものでしかないのか。

「散れ、虫けらが」

 ただ一言、そう告げるだけ。

 ただそう告げただけで、コトアマツの周囲に理解不能の事象が起きる。

 半透明で、歪んだ波動。

 そうとした形容出来ない、なんらかの力が放たれた。ドーム状に広がっていくコトアマツの力は、今の花中の目にも神速としかいえない速さで広がり、包囲するフィア達を直撃する。

 次いで起きる事象は不可解そのもの。

 フィアは、水で出来ている身体がぐしゃりと溶けて潰れた。

 ミィは、地中貫通弾ですら傷付かない皮膚がズタズタに引き裂かれた。

 ミリオンは、再びその身を凍結させられ地面に落ちた。

 三匹は同じ力を受けた筈だった。なのに生じた結果はてんでバラバラ。まるでそれぞれの力に応じた事象が起きたかのような光景に、それを遠くで眺めていた花中は唖然としてしまう。

「ぐ……ぬうううぅぅ……! おのれえええええええぇぇぇ……!」

 花中が我を取り戻したのは、フィアの雄叫びを聞いてからだった。フィアは崩れた『身体』を強引に立たせ、コトアマツと対峙。フィアはまだまだやる気である。どれだけ強大な力を見せ付けられようとも、折れるつもりは毛頭ないらしい。

 しかしぐずぐずに崩れた『身体』に、何時ものようなパワーは感じられない。人間にどうこうできるほど弱ってはいないが、ミュータント相手では不安になる状態だ。またコトアマツの一撃を喰らえば、本体諸共吹き飛ぶだろう。

 そしてミィとミリオンが大きなダメージを負った今、フィアを助けられるのは自分しかいない。今まで怯んでいた花中は、ようやく覚悟を決めた。

「あ、え、えと……や、やぁーっ!」

 花中は己の指先に力を集め、粒子の輝きをコトアマツに放とうとする。水爆を超えるエネルギー。例え傷は付けられなくても、意識はこちらに向けられる筈だ。

 放てさえすれば。

 ところがどうした事か。力を集めていた筈の花中の指先は、ぷすんっ、と物悲しい音を鳴らすだけ。

 なんの力も、放出しなかった。

「えっ? あ、え!? えいっ! えいっ! ……なんで!?」

 何度も何度も力を込めるが、しかし指先から粒子ビームは放たれない。ぷすぷすという間抜けな音と微かな光が出るだけである。

 まさかこんな時に調子が狂ったのか? 理性はそんな事を考えたが、されど本能は別の兆候を察知していた。

 何か、邪魔をされている気がするのだ。

 どんな邪魔か? それに対する答えは持ち合わせていない。だが順当に行けばちゃんと粒子ビームを放てていたという、本能的な直感はある。ならばこれを放てないという事は、なんらかの妨害を受けているとしか思えない。

 そしてそんな事を()()()()()()()モノは、この場には一匹だけ。

「……まさ、か」

 花中は顔を上げ、コトアマツを見遣る。

 コトアマツは、にやりと笑った。花中の考えを読み、認めるかの如く。

 次いでコトアマツがパチンッと指を鳴らした、直後花中の身体に衝撃が走る。華奢な身体は十メートルも吹き飛ばされ、瓦礫にぶち当たってから止まった。本来ならこの程度のダメージなど、粒子操作により強度を増した身体の前では脅威にもならない……が、此度は激しい痛みを覚えた。花中は痛みで意識が一瞬飛び、その場に蹲る。

「貴様――――ゴガッ!?」

 怒りに満ちたフィアが立ち上がり襲い掛かるも、コトアマツはフィアを一瞥……しただけで巨大質量を誇るフィアもまた吹き飛ばされてしまう。瓦礫の山に叩き付けられたフィアは、そのまま崩れてきた瓦礫に埋もれてしまった。

 花中はなんとか自力で立ち上がり、コトアマツの下に数歩戻るが、身体の痛みに耐えかねて膝を付く。正直しばらくは動けそうにない。

 能力を用いてミィやミリオン、そしてフィアの様子を探れば、三匹とも生きてはいた。その事には勿論安堵するが、されど三匹が負った傷の深さを理解して恐ろしさも感じる。恐怖から全身が震え、上手く身体が動かせない。

「……さて、全滅させてしまった訳だが、もう終わりか? 計画は現在も進行中だが、早める予定はない。第一コアが始動するまでまだ二時間以上の猶予があるぞ」

 対して傷一つ負わなかったコトアマツは、花中達に第二ラウンドの開始を催促してくる。

 やはり遊んでいるだけか、と花中は思った。事前に感じていたコトアマツの力からして、ほんの僅かでも彼女が本気を出したなら、自分達は一瞬で跡形もなく消し飛んでいる筈なのだから。

 地球という星では収まらないほどの力を有したミュータントが四体、しかも一体はそのミュータントの中でも規格外の力を持った正真正銘の怪物。そんな自分達が一瞬にして全滅させられた。途方もない強さに早くも心が折れそうになる。

 されど、なんの進展もなかった訳ではない。少なくとも花中は、コトアマツの『能力』に一つの予想を立てる事が出来た。

「……あなたの、その、力……」

「ふむ、思えば余の力が何かを説明していなかったな。そしてお前はある仮説に辿り着いたらしい。どれ、聞かせてみろ」

 促すように尋ねてくるコトアマツ。ゆっくりと開いた花中の口は、しかし何度も空回りする。すぐには言葉という形になってくれない。

 ごくりと息を飲み、喉の震えを抑えて……花中はようやく言葉にした。

「あなたは、量子ゆらぎの力を、直接操って、いますね……!」

 声に出すのも恐ろしい、その可能性を。

 量子ゆらぎは、空間の何処にでも存在している。

 もしも量子ゆらぎそのものに干渉出来るのならば、それは万能の力だ。何故ならこの宇宙は量子ゆらぎの偏りから生じたもの……この世に存在する『全て』は量子ゆらぎが大本である。全てとはつまり、重力も電磁波も素粒子も運動も熱も、全てだ。

 その力を用いれば、局所的な重力を発生させて空間を捻じ曲げるどころか、ワームホールのように別の場所へとつなげる事も可能だろう。空間さえも『ゆらぎ』の産物なのだから。捻じ曲げた空間そのものが壁となれば、どんな攻撃も届きはしない。そしてその揺らぎが宇宙を誕生させたように、揺らぎ方を変えれば……高熱(エネルギー)を吸い取る事も可能だろう。

 コトアマツの出鱈目ぶりを説明するには、これしかない。されどこれは正しく宇宙の真理を自在に操るようなもの。神に等しき力だ。ただの生物でしかない花中達が立ち向かうには、あまりに強大過ぎる。

 全く的外れな考えであってほしい。自らの導き出した結論を強く否定する花中であったが、コトアマツはその口許に笑みを浮かべた。あたかも、正解者を褒め称えるように。

「正確には異なるが、大凡正解だ。余は量子ゆらぎに干渉する術を知っている。知っているが、これは余の『能力』ではない」

 その花中の印象を、コトアマツは言葉によって一部だけ肯定した。

「本来、余の能力はあらゆる現象の『完全な模倣』だ。その現象を起こした奴の情報が手に入れば、余はどんな力であろうとも扱える」

「……それは、星縄さんと、同じ力……? ううん、あの人は、ミュータントの能力だけしか、真似出来ていない。あらゆる、現象という事は……」

「そうだな、例えば……この星を訪れた異星の生物の力も、余は扱えるぞ」

 花中の目の前で、コトアマツはその指先に小さな火の玉を作り出す。ただの火の玉ではない。空気中の水分を用いて『核融合』を起こし、その熱で作り出した火の玉だ。

 以前聞いたフィア達の話から、異星の生物……異星生命体の能力は重力操作だと思われる。その力はミュータントの能力にも値するが、異星生命体はミュータントではない。奴等の力はミュータントとは別系統の、なんらかの生理的機能により生じたものの筈。

 それをコトアマツは、事もなげに使ってみせた。どんな力でも再現出来るというのは、本当の事なのだろう。

 しかし解せない。

 星縄の能力もまた『模倣』であったが、その力には限度があった。身体の構造上出来ない事があるし、単純な出力不足も起きている。されどコトアマツにそんな気配はまるでない。おまけにミュータントではない生物の力を、どうやって使用しているのか。

 そしてこんな力を持ち得る生物とは、一体なんなのか。

「あなたは、一体……なんなの、ですか……どんな生き物なら、こんな、事が……」

「ほう、余の正体が知りたいか。ならば教えてやろう」

 花中が思わず零した言葉に、コトアマツは律儀に応じた。

「人間が名付けた種名を使うならば、余は『ヒルガタワムシ』という生物だ」

「ヒルガタワムシ……ヒルガタワムシ?」

 コトアマツが告げた名前を、花中は無意識に繰り返す。最初は、その意味を上手く飲み込めなかった。

 されどそう時間を掛けずに理解した時、大きくその目を見開く。

 ヒルガタワムシ。それは世界中に広く分布している、極めて普遍的な『微小動物』の一種。体長は一ミリ前後で、そこらの水溜まりにも生息している……と、これだけならばなんとも地味な生き物に思えるだろう。実際生態系において劇的な役割がある訳でもなく、人間がわざわざ意識する必要もないような生物だ。

 されどこの生物には、極めて珍しい特徴がある。

 無性生殖を繰り返しながら、五千万年も種を存続させてきたという特徴だ。一般的に無性生殖では多様性が確保出来ず、新たな天敵の出現や環境変化により絶滅しやすい。一説によると、単為生殖を行う種は数十万年ほどで絶えてしまうという。とはいえ有性生殖で多様性を確保している生物でも、出現から数百万~一千数百万年ほどで大抵の種は絶滅しているのだが。

 ヒルガタワムシの五千万年という存続期間はあまりにも長い。一体どうやってこの種族的長命を持つに至ったのか?

 それは、ヒルガタワムシが()()()()()()()()()()()()()事が要因ではないかと言われている。

 謎は未だ多いが、ヒルガタワムシは細菌や植物の遺伝子を取り込む事で多様性を保っているという説があるのだ。遺伝子の水平伝播と呼ばれるこの事象は、単細胞で生きている細菌類ではよく見られるものだが……ヒルガタワムシは『巨大な多細胞生物』。細菌とは訳が違う。

 そんな特殊な生態を持つが故に生き残ってこられたとして――――では、その力がミュータント化により大きく引き出されたなら? 遺伝子を取り込む性質が、人智を超えた力に至ったとすれば?

 花中が考え付く中で最悪なのは、その性質を理解し、自らのものにするという事。

 即ち相手の能力そのものを取り込む事で、力の模倣するだけでなく、能力の『改良』や『改変』も可能だとすれば……()()()()()()()()使()()()()()()()()

 これがコトアマツの力なのだ。火星など地球外への進出も、異星生命体の力を利用したのだろう。

 そうして様々な力を手にし、特にミュータントの能力を使う中で彼女は見付けたのだ。ミュータントの能力の根源である、量子ゆらぎに干渉する力を。

 フィア達や花中達の身を襲った不可解な事態の数々も、この量子ゆらぎへの干渉が原因か。解析し、読み解いてしまえば、どんな力でも打ち消せるというのはなんらおかしな話ではない。例えそれが宇宙誕生と関わりある力であろうとも、だ。

「さぁて、余の正体は明かした訳だが……どうなんだ? もう終わりか?」

 自らの出自を明かし終えたコトアマツは、冷めた表情で花中を見下ろしながら問う。

 花中は、何も答えられない。

 感情のままの行動なのだから、考えなしなのは当たり前の事。だけど、こうもコトアマツが圧倒的とは思わなかった。神そのものを相手取るような戦いに、一体どうやって勝てというのか。神そのものである彼女が避けたがっている、宇宙の終焉の回避策をどうして閃くと思えたのか。

 勝てない。思い付かない。

 わたし達では、コトアマツさんを――――

「さっきから……ごちゃごちゃとおおおおおぉぉぉぉ……!」

 花中の脳裏を過ぎる言葉を遮ったのは、唸り声のような親友の声だった。

 花中は反射的に声の方を振り向く。そこには美少女形態を取るフィアが、瓦礫の山から這い出す姿があった。散々やられていて、少しだけ伸びていたのだろうか……その体力を回復させ、戻ってきたのだ。

 何度でも立ち上がる親友の姿は、花中に勇気をもたらす。けれどもあまりにもちっぽけな勇気。コトアマツという強大過ぎるものを相手取るには全く足りない。

 勝てる筈がない。

 されどフィアはそんな事実など気付いてもいないかのように、どんどん前進していく!

「ふぃ、フィアちゃん!? 待って!」

「あぁん? ……ああ花中さんじゃないですか。どうしたのです?」

「ど、どうもこうも、ないよ! なんで……そんな……コトアマツさんに勝つのは、無理だって、分かるでしょ? あの子の力は、それこそ神様のようなものなんだよ!」

 これ以上親友に傷付いてほしくない。その一心で花中はフィアを引き留めようとする。花中の諦めの言葉に、コトアマツはつまらなそうに鼻息を吐いた。

 されどコトアマツが好奇の表情を取り戻すのに、さしたる時間は必要としない。

「神の力? そんなものでこの私を打ち倒すなどなんともくだらないですねぇ!」

 フィアの、あまりにも強気な言葉がコトアマツの気を惹いたのだから。

「……随分と強気だが、余を打ち倒す術があるとでも?」

「ふんっ! 当然です! 先程のはちょっとした準備運動でしかありませんよ! ここからが本番です!」

「ほう。これほどハッキリと余に勝利を宣告するか。少し興味がある。教えてみろ」

 コトアマツが問えば、フィアは「ふっふっふっ」と自信満々に笑ってみせる。中々答えないフィアだが、勿体振ってる訳でも、隠そうとしている訳でも、ましてや虚勢という訳でもないと花中には思えた。

 フィアにはあるのだ。コトアマツに勝利する道筋が。

 自分には全く見えていないものが、フィアにはハッキリと見えている。それがなんなのかが分からない花中は、じっとフィアを見つめた。

 するとフィアもまた花中に視線を向ける。ニヤリと不遜な笑みを浮かべ、胸を張りながら己の自信を花中に示した。

 そしてフィアはコトアマツの方へと顔を向き直し、

「この私と花中さんが一緒に戦っているのです! 勝つに決まっているじゃないですか!」

 堂々とそう答えた。

 ……コトアマツも花中も黙って聞いたが、続きは何時まで経っても語られない。

 フィアは本当にそう答えただけ。理屈も何も言わず、けれどもフィアは胸を張り続ける。まるで、これだけで十分だと言わんばかりに。

 そんな印象が事実である事を、終わらないフィアの沈黙がハッキリと物語った。あまりにも雑な意見に、コトアマツどころか花中さえも困惑したように表情を歪める。いや、むしろ花中の方がずっと戸惑っていた。

「あ、あの、フィアちゃん? もうちょっと、こう……根拠というか、そういうのは、ないの?」

「根拠?」

 つい花中の方から問うと、フィアはキョトンとしてしまう。何故そんな事を問うのか、まるで分からない様子だ。演技などではなく、本心からそう思っているのだろう。

「友達と一緒なら普段よりずどーんっと凄い力が出せるでしょう? 根拠なんてこれで十分じゃないですか」

 でなければ臆面もなく、そう答えられる筈がないのだから。

 いよいよ花中は言葉を失った。自信満々だったフィアの『作戦』が、友達と一緒だからというだけのものなのだから。根拠が薄いだとか、理論が破綻しているだとか、そんな状態ですらない。

 人間だったなら、例え幼子でも言えないような言葉。無邪気さを通り越したその言葉を形作るのは……きっと本能の衝動。心から湧き出す感情のみ。

 ただただこうありたいと願うだけの、理性など一欠片も含まれていない親友の言葉に――――花中は思わず()()()()()

「ぷ、ぷはっ! あはははははっ! フィアちゃん、それは、あはははははっ!」

「……あれ? 私そんなに変な事言ってますか?」

 フィアとしては、本当に本気の発言だったのだろう。花中に笑われて、怒るよりもキョトンとしている有り様。

 反面コトアマツは、どんどんと不機嫌になっていく。

「……くだらん。戯れ言に付き合って損をした」

「ああん? 私の言った事の何が戯れ言だというのですか」

「自覚すらないか。阿呆が。最早貴様といても得るものなどない。跡形もなく吹き飛ばしてくれよう」

 フィアが反発した事で、いよいよ怒りが限界に達したのか。コトアマツは力を乗せた腕を、ゆっくりと上げていき

「阿呆は、わたし達の方ですよ、コトアマツさん」

 その動きを止めたのは、花中の小さな一言だった。

「……何?」

「フィアちゃんだけです。気付いたのは。わたしも、あなたも、なーんにも、気付いていない」

「……なんの話だ。気付いていない?」

 眉を顰めるコトアマツ。対する花中は不敵で、自嘲した笑みを浮かべた。

 ああ、そうだ。何故こんな簡単な事に気付かなかったのか。今の今まで考えすら過ぎらなかったなんて、これでは自分もコトアマツと()()()()

 だけど、これで変えられる。

 この方法ならば、きっとコトアマツを――――

「まさかとは思うが、余を倒す術でも見付けたとでもいうのか?」

 花中の表情の変化を見て、そう思ったのか。コトアマツがそう尋ねてくる。

 花中は、首を横に振った。

「いいえ。あなたを、倒す術では、ありません」

 花中からの答えに、コトアマツは驚いたように目を見開く。そして花中が何を考えているのか、それを探るためかじっと観察するように見つめてきた。

 或いは花中が嘘を吐いているとでも思ったのかも知れないが……生憎花中は嘘も誤魔化しもしていない。

 そう、コトアマツを倒す術など何も閃いてはいないのだ。花中が思い付いたのは、もっと素敵で、もっと『楽しい』事。

「あなたを、助ける方法です!」

 孤独と恐怖に震えている『友達』を助け出す、その方法なのだから――――




次回、最終決戦。
決着のヒントはミュータントの力の根源たる、量子ゆらぎです。

次回は12/27(金)投稿予定です。


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生命の王9

「……余を助けるか。大きく出るのは結構だが、あまりホラばかり吐くといくら有象無象の鳴き声とて少しは癪に障るぞ」

 淡々とした声で、コトアマツは花中の意思に嫌悪を示す。

 声色こそ落ち着いていたが、されどかなり苛立っているらしい。でなければ、コトアマツの周りの『空間』からメキメキと、まるで金属を押し潰すかのような音が聞こえる筈がないのだから。恐らくは怒りにより、量子ゆらぎに干渉する力が少しだけ表に出てきているのだろう。

 もしもその怒りを叩き付けられたなら、きっと自分は跡形もなく消し飛ぶ……花中は本能的にそれを理解した。されど花中は一歩も後退りなどせず、それどころか自信に満ち溢れた笑みを浮かべてみせる。

 生憎先の宣言――――コトアマツを助けるという言葉には、嘘も偽りも打算もない。

 つい先程思い付いた方法ならば本当にコトアマツを……宇宙の死に怯える彼女を救い出せると花中は信じていた。

「嘘か、真かは、あなたが判断、してください。わたしは、これならいけると、思っています。それを、あなたに叩き付ける事で、証明してみせます」

「……良かろう。そこまで言うからには、余も乗ってやる。掛かってこい」

「お言葉に、甘えさせて、いただきます……では、ちょっと準備するので、待っててください」

「む? 準備?」

 今すぐ仕掛けてくると思ったのだろうか、コトアマツは目をパチクリさせる。花中はそんなコトアマツの前で、最初の準備として――――大きく息を吸い込んだ。

 そして身体の内で能力を発動させる。

 肺に貯め込んだ空気に、粒子操作を用いてエネルギーを与えた。秒間十ペタジュールものエネルギーを与えられる力を、全力で働かせたのだ。数秒も経てば花中の肺の中の空気は、原水爆など比にならない超高エネルギーの塊と化す。

 けれどもこんなものをぶち当てたところで、コトアマツ相手では髪の毛一本揺らせないだろう。そもそも肺に貯め込んだ空気の使い道など、一つしかないではないか。強いて普通と違う点を挙げるなら、人間ではちょっと出せないような規模に達しているというところだけ。

 花中は口を開けるや肺の中の空気を勢い良く吐き出し、

「みなさぁぁぁぁぁーんっ! 聞いてくださぁぁぁぁぁぁーいっ!」

 思いっきり叫んだ。

 放たれた『声』は爆風となって辺りに広がる。人間が受ければ粉々に吹き飛ぶであろう風は、フィア達の身体をよろけさせる事もなく、されどその顔に唖然とした表情を浮かべさせた。

 しかし花中は止まらない。

「わたしは! 大桐花中です! 覚えていますかぁ!?」

 まずは自己紹介、自分が誰なのかを伝えよう。そうでなければ話は聞いてもらえない。

「今っ! 地球が! 滅亡しようと! しています!」

 状況説明は簡潔かつ、誰にでも分かるように。訳が分からない話なんて、途中で飽きてしまう。

「すっごく強い! ミュータントが! 地球を! 食べ尽くそうと! しているんです!」

 脅威の目的と大きさは正確に、嘘偽りなく。騙して来てもらうなんて失礼だから。

「このままでは! 地球は! わたしの前に居る! ミュータントによって! 食べ尽くされて! しまいます!」

 これから起きる展開は、自信を持って伝えよう。曖昧な言葉では、誰も信じてくれない。

「わたし達だけでは! このミュータントは! 倒せません! 勝ち目は! ゼロです!」

 どうしてそうなるのか、ちゃんと語る。強がりをしたって、どうせみんなにはバレているのだから。

 そして、

「だから! 兎に角……わたしのとこに来て! 助けてくださああああああああああああああいっ!」

 求めるものはハッキリと、恥ずかしがらずに伝えるべし。その想いは、きっと皆の心に届く。

 ――――叫びたい言葉を全て出し終えて、花中は大きな息を吐いた。文字通り地球の隅々にまで届くような大声だけに、流石の花中も疲れてしまう。背筋を曲げ、荒れた吐息で酸素を吸い込む。

 当然こんな叫びを聞いたところで、コトアマツはその場から一歩も動かないのだが。

「……なんのつもりだ?」

「え? えっと、助けを求めたの、ですけど」

「聞けば分かる。一体誰に助けを求めた」

「みんなにです」

「だから! そのみんなとは誰なんだ!?」

「え? えーっと、ちょっとその質問には、答えかねると、言いますか」

 コトアマツからの質問に、花中はしどろもどろになってしまう。コトアマツの表情がどんどん不機嫌になっていき、警戒心を強めたフィアが花中の前に立つ。

 コトアマツの怒りはご尤も。あなたを助けると啖呵を切りながら、即座に情けない声を上げ、しかも誰が来るのか言えないとなれば……じゃあ今の大声はなんだとなるだろう。

 けれども花中は誤魔化している訳ではない。

「正直、みんな気紛れなので……どれだけ来てくれるか、サッパリでして」

 本当に、誰が来てくれるか分からないのだ。

「……その場しのぎという下らぬ事のために、余を謀ったか。これ以上の付き合いは面倒だ、すぐに全員消し去ってくれる」

 コトアマツは顔から怒りさえも消し、無感情な眼で見つめながら花中達にその右手を差し向ける。消し去るという言葉が冗談ではない、途方もない力を感じた花中は背筋が凍り付いた――――

 瞬間、コトアマツの右手に閃光が()()()()()()

「……なん……ぬっ」

 コトアマツにとって、脅威とは言えぬ一撃だったのか。閃光が当たってから気付くまでほんの一秒という、ミュータントとしてはかなりの時間が掛かった。が、気付いた次の瞬間、コトアマツはその手に集めていた力を霧散させる。

 花中の『目』には見えていた。

 コトアマツに当てられた閃光……()()()()()()()がコトアマツの手を熱していた事を。コトアマツが右手に集めていたものも熱であり、急激に増大していく熱により『暴発』の危険があったのだ。

 もしもあのまま力を使われたなら、本当に花中達は消し飛んでいた。そしてそれを助けてくれた『大出力レーザー』……この使い手に、花中は心当たりがある。

「一番乗りですよ! 妖精さん!」

 真っ先に呼び掛けに応えてくれた。その嬉しさを抑えきれない声で、花中は『彼女達』の名を呼んだ。

 彼女達の姿を人間が見ようとしても、簡単には捉えられない。何故なら彼女達はとても小さく、とても地味な姿をしているからだ。されど花中の能力ならば、小さな彼女達の姿がハッキリ見える。

 地面を這いずる、何百匹もの――――ホタルの幼虫が!

「……なんだ? 何故虫けら共が、っ!?」

 コトアマツもホタルに気付いた、刹那、その目を大きく見開く。

 ホタル達の幼虫数百匹が同時に『大出力レーザー』を放ったのは、その直後の出来事であった。

 今の花中になら、ホタル達の攻撃が如何に強烈かがよく分かる。一本一本のレーザーの出力は、粒子ビームほどではない。しかし比類はする威力であり、花中の十万分の一程度しかない身体(体重)で撃ったものとしてはあまりにも出鱈目だ。

 ましてやそれが何百と集まれば、花中の粒子ビームなど比にならない破壊力となる!

「……っ」

 ホタル達が放ったレーザーはコトアマツの顔面に命中。強烈な熱と閃光の前に、コトアマツは目を細めた。

 コトアマツが見せた反応は、たったこれだけ。しかし僅かに、本当に僅かながらコトアマツの視界を妨げる事に成功している。コトアマツの圧倒的強さを思えば、それだけでも快挙と言えよう。

 花中がレーザーを撃ち出しているホタル達の方を見れば、そのレーザーに紛れて別の発光が起きていた。チカチカと高速かつ規則的に輝くそれは、所謂モールス信号のリズムを取っている。

 曰く、『あれのだとうを するつもりなら てをかそう せんぱいとはなしていた へんな にんげん』との事。

「ええ、十分です! ありがとうございます!」

 花中は感謝の言葉を伝える。出来ればホタル達の反応を確かめたいが、生憎確認する暇はない。

 コトアマツが、間もなく動き出す。

「小癪な……!」

 レーザーの眩さに苛立つように、コトアマツがぼそりと呟く。次いで片手を軽く上げると、大地が突如として揺れ始めた。

 そしてコトアマツの背後にある地面が浮かび上がり、空を漂う! 物体に触れる事なく操るとは、花中の粒子操作と同様の力か。しかし花中のそれよりも、コトアマツのパワーは遙かに大きい。

 地面から持ち上げられた土塊は、直系三十キロはあろうかという巨大なものだった。最早小島のようである土塊は楕円形をしており……その切っ先を、ホタル達に向けている。

 ホタル達も何をされるか察したのか、レーザーのターゲットをコトアマツから浮遊する土塊へと変えた。彼女達のレーザー出力ならば、この程度の土塊は難なく溶解させられる筈だが……無数の光線を浴びても浮遊する土塊は形を保ったまま。恐らくは『念力』により形状が保たれているのだろう。

 このままではホタル達が潰されてしまう。そうはさせまいと花中はホタル達を逃がすべく動こうとする、が、間に合わない。

 それよりも先に、助けが入ったのだから。

「ぬううんっ!」

 勇ましい『男』の雄叫びが聞こえてくる。

 それと同時に、浮遊する土塊に何かが凄まじい速さで衝突した! 『念力』により形こそ未だに保っているが、しかし土塊は激突の衝撃により大きく角度を変える。角度を変えられた土塊が進み出した方向は……空高く。

 地面に向かう筈だった土塊を、全く関係ない空へと向けさせるとは。土塊の大きさから想定される質量、そして形状維持のため加えられている『念力』を考えれば、途方もないパワーがなければこんな芸当出来やしない。

 されど花中には、この恐るべきパワーの持ち主に心当たりがある。

「に、兄さん!?」

 尤も真っ先に反応したのは、その『何か』の身内であるミィ。

 そしてその叫びの通り、やってきたのはミィの兄キャスパリーグだった。土塊を蹴り上げた反動からか、彼は空高くから落ちながら花中達を見下ろしてくる。花中はすぐさま見上げ、顔を合わせた。

「ふん。情けない声が聞こえたから駆け付けてみれば、とんでもない化け物とやり合ってるじゃないか……ついでに、お前も妙な気配を纏っているな」

「ちょっと、色々ありまして!」

「興味がある。一段落付いたら、話を聞かせてもらうぞ!」

 強気な言葉と共に、キャスパリーグはその場で大きな『蹴り』を放つ。無論空中に浮かんでいる彼の足下に、足場となる固体は何処にもない。

 されど空気ならば何処にでもある。

 驚異的スピードで蹴られた空気は固体のように反作用を伝え、彼の身体を弾丸のように射出した! 超音速という言葉すら生温い速さで地上に降り立ったキャスパリーグは、ミュータント化した花中にすら追いきれない神速でコトアマツに肉薄する!

 繰り出されるキャスパリーグの拳。ミィをも凌駕する桁違いの速さを誇る打撃は、しかしコトアマツの表面に展開された『壁』を破るには足りず。殴り付けた際の余波で巨大なクレーターが大地に作り出されたが、コトアマツは髪の毛一本揺らさなかった。

「別の虫けらか? 鬱陶しい……」

 更にコトアマツはキャスパリーグの速さに対応し、彼の腕を易々と掴んだ。キャスパリーグはその手を振り解こうとするが、ビクともしない。段々と彼の腕を掴むコトアマツの手に力が加わり――――

「「パパを放せぇッ!」」

 その力が骨の強度を超える前に、可愛らしい二つの声が場に響く。

 キャスパリーグの子供達だ! 超音速で跳んできたクリュとポルは、コトアマツの背中に全力全開のキックを喰らわせる! 可愛らしい掛け声に対し、響き渡る衝撃音は身の毛もよだつほどの大きさだ。

 そしてコトアマツの身体が、ほんの僅かながら()()()

「……? 何――――」

 コトアマツが僅かに、本当に僅かではあるが眉を顰めた。同時に手の力も弛んだのか、キャスパリーグはコトアマツの手を振り払う事に成功。素早く後退する。

 あと一歩で、始末は出来ずとも黙らせる事ぐらいは出来た筈なのに。それを邪魔してきたクリュとポルに、コトアマツは片手を差し向ける。クリュとポルは悪寒を覚えたのか、即座に逃げようとしたが……身体がピクリと動いただけで、二匹はそこから離れない。

 いや、離れられないのだ。花中の目は、二匹の筋肉を形成する原子が不自然な静止状態にあると確認出来た。コトアマツの干渉で動きを阻まれたに違いない。

 動けない二匹にコトアマツは指先を向け、その指先に純粋な高熱を集める。肉体的には凄まじい頑強さを誇るネコ達でも、高熱により原子がプラズマ化してしまえば分解されてしまう。コトアマツはそれを行おうとしているのだ。

 が、それを阻むモノがいる。

 ()()()()()()()()()()()

 巨大な金属の塊は、しかしコトアマツには直撃しない。彼女のすぐ傍に落ち、着弾と同時に爆散。キラキラと光り輝く煙をばらまいた。

 煙幕だ。コトアマツの周りは煙幕に包まれ、視界が遮られる。無論コトアマツならば、なんらかの方法により煙幕越しの光景を見通せるだろう。されどほんの一瞬、花中では突けない程度ながら隙が生じた。

 キャスパリーグがクリュとポルを抱えて、コトアマツの前から二匹を退かすには十分な隙だ。二匹の子猫達は親のお陰で難を逃れる。

「……ちっ」

 コトアマツが舌打ちした瞬間、展開されていた煙幕はまるで自らの意思を持つかのように霧散した。コトアマツがなんらかの力を用い、散らしたのだろう。

 されど煙幕を張った鉄塊は、何度も何度も空から落ちてくる。

 展開される煙幕は一種ではない。単なる色付きスモークもあれば、金属粒子を飛ばすもの、水蒸気、閃光……様々な方法で視界を潰してくる。それでいてどれも超越的でない、極めて科学的な方法ばかり。

 当然である。この煙幕を展開している者達は、如何にもミュータントらしい超越的能力は使えないのだから。

 ただ『世界の支配者』としての資本力により、花中達の頭上に何十基もの攻撃衛星を展開しているだけだ!

「タヌキ達……どうやらこっちの事は今も監視していたようね。見ていたならさっさと助けなさいよ、全く」

 ミリオンの呆れるような、懐かしむような、そんな悪態に花中は笑みを浮かべる。本当に『厄介』な支配者達だ。

 直接的な攻撃では、ダメージ以前に気付いてももらえないとタヌキ達は考えているのか。空から降り注ぐのは煙幕などの視界妨害を狙ったものばかり。しかしそれで十分。

 大出力レーザーを撃てるモノと、超越的身体能力を持つモノが、攻撃に転じるだけの時間を稼いでくれれば十分なのだ。

 煙幕を貫き、無数のレーザーがコトアマツを撃つ。キャスパリーグ達もレーザーの隙間を縫って接近し、拳や蹴りなどの攻撃をお見舞いする。コトアマツは未だダメージを受けた様子もないが、花中の目は彼女の表情が歪んでいくのをしかと捉えた。

「……鬱陶しいぞ虫けら共が! 星の表層ごと吹き飛ばしてくれる!」

 ついに苛立ちが爆発したかのように、コトアマツは両腕に力を集結させた。花中は即座に観測するものの、『未知の物理現象』としか分からない。それがどのような力なのか、どうやって物体に影響を与えるのかは想像も付かないが……星の表層を吹き飛ばすという言葉が嘘でも過剰でもないのは察せられた。

 しかし花中は動かない。

 何故ならそのエネルギーは、自分達ではなく()()()()へ使われる事を花中は予感していたのだから。

「っ!?」

 予感は的中した。コトアマツは地表に向けていた両方の掌を、素早く自身の斜め上の空へと差し向ける。

 その掌目掛けて飛来してきた、人の背丈よりも小さくて、けれども『星の表層を吹き飛ばす』ほどのエネルギーを秘めた火球を防ぐために。

「なっ、ん……!?」

 ここで初めてコトアマツが、明らかな動揺の色を見せた。どんな攻撃を受けても平然とし、後退りすらしなかったコトアマツが――――数歩後退りするという形で、その場から動く。

 否、或いはこれでもコトアマツは大したダメージになっていないと言うべきか。

 かつて異星生命体を討ち滅ぼし、人類に己が立場を自覚させた、アナシスの火球であるにも拘わらず。

「あー花中さん。あの炎って多分ヘビの奴ですよね……万一外れて大爆発を起こしたら私達巻き込まれて死にませんか?」

「……多分、一瞬で死ぬね」

「何千キロ彼方から撃って命中させるとかさらっと細かいところでも化け物してますねアイツ」

 達観したフィアの物言いに、花中は苦笑いしか返せない。ミュータントになった今だからこそ、とてもよく分かる……コトアマツと『サシ』でまともにやり合える可能性があるのは、あのアナシスだけ。そのぐらい彼女の強さは段違いだった。

 そのアナシスの攻撃であっても、コトアマツは数歩後退したのみ。一対一で戦ったなら、きっと為す術もなくアナシスも打ち倒されたに違いない。

 しかし此処には、花中達も居る。

「皆さん! 一斉に、仕掛けてください!」

 花中の指示を受け、全員が動き出す!

 ミリオンが舞い上がり、周囲の大気を加熱。コトアマツの周辺温度を急上昇させていく。更にはホタル達によるレーザーが何十本と撃ち込まれ、コトアマツ表面付近の温度をどんどん上げていった。

 立ち上がったミィは兄と合流。親族揃って虚空を蹴り上げる! 放たれたのは圧縮した空気の塊。強烈な物理的衝撃が、コトアマツの身に打ち付けられていく。

 更に空からはタヌキ達の攻撃が繰り返された。煙幕の中に電撃が走り、それがコトアマツを焼こうとする。金属粒子が擦れ合って生じた小規模な雷……恐らくは新兵器か。

 更にフィアが繰り出す水触手、花中の撃ち出す粒子ビームがコトアマツに命中。駄目押しとばかりに空から落ちてくる幾つものアナシスの火球が、コトアマツを押し潰す!

「ぐ……ぐ、ぅ……!」

 これでもコトアマツは倒れず、その場に二本の足で立っていた。けれども口からは声が溢れ、明らかに顔を顰めている。

 そして花中の目は、コトアマツの周囲で起きていた変化を観測していた。

 コトアマツが不動を保っていた理由である、あらゆる攻撃を遮断する空間の歪み……その歪みが少しずつ、補正されているのだ。

 みんなのパワーを集めた事で、コトアマツの防御を上回ったのか? いいや、そうではないと花中は考える。コトアマツから感じられた力の大きさは、そんなものではない。これだけミュータントが集まろうとも、恐らく力の総量では未だ足下にも及んでいないだろう。

 にも拘わらずコトアマツを守る空間は大きく変化し、無力になろうとしている。

 その理由を、花中は理解していた。

「この、程度で……余を止められると思うなッ!」

 コトアマツは吼えるや、花中目掛け突進してきた! レーザーも、打撃も、水触手も、何もかも無視しての接近。花中は粒子ビームを撃ち続けていたが、平然と掻き分けながらコトアマツは距離を詰める。そして何か、恐ろしい力を宿した手を花中に伸ばし――――

 その手を、横から現れたものに掴まれてしまう。

 反射的にコトアマツは、手を掴んだモノの方へと振り向く。振り向いたコトアマツは、これまでで一番大きくその目を見開いた。

 コトアマツの動きを阻んだのは、彼女の唯一の友であるオオゲツヒメだったのだから。

「怒らないで……と言っても無理だと思うから、後で弁明はしますわ。とりあえず今は、花中ちゃんのお友達として一肌脱ぎますわね♪」

 言い訳がましく伝えるや、オオゲツヒメはその可憐な頭をバックリと、花咲くように裂けさせる。

 そしてその奥にある喉の穴からどぼどぼと灰色の液体を吐き出し、コトアマツに頭から浴びせかけた。ただの液体……ではない。

 一滴落ちるだけで地面に穴が空くほどの、強力な消化液だ。

「――――!? おま……!?」

「後になればちゃーんと話してあげますわ。それではアデュー♪」

 友達からの『攻撃』に戸惑うコトアマツを、オオゲツヒメはニッコニッコと笑うばかり。令嬢らしい身体をぐにゃぐにゃと歪めながら跳ね、この場を離脱する。バネ付きオモチャのような動きは、あたかもふざけているかのよう。

 けれども彼女は、大の親友を嘲笑っているのではない。

 もしもただ弄っているだけなら、逃げる間際――――花中に向かってウインクなどしてくる筈がないのだから。

「っ……えいっ!」

 コトアマツが動揺している隙を突き、花中は自らの肉体を粒子化。亜光速のスピードでコトアマツから距離を取る。コトアマツは花中が離れてからほんの一秒も経たずに反応したが、ミュータントからすれば大きな隙だ。

 そう、花中以外にとっても。

 動きを止めたコトアマツ目掛け、空から高速で何かが飛来する! タヌキ達の新兵器か? 否、そんな筈がない。飛んできたのは子供の拳ほどの大きさの、茶色の土塊が数個だけなのだから。されどただの土の塊と言うのは早計だ。

 その土塊はまるでトンボのように、空中を自由自在に飛び回っているのだから!

「!? なん、ばっ!?」

 土塊はコトアマツの顔面を直撃。ダメージなんかにはならないが、その視界を完全に塞いだ。

「ウッホホォオオオオウッ!」

 そして頭上からはけたたましい獣の叫びが聞こえてくる。

 見上げればそこには、空飛ぶ巨大な丸太の上に乗っているゴリラの姿があるではないか。以前野球勝負をしたあのゴリラだ。何故丸太に乗っているのか、どうやって飛んでいるのか、その飛び方は色々無茶があるのでは――――ツッコミどころしかない登場の仕方が初めて会った時の事を彷彿とさせる。

「ホホウ! ホウホーウ!」

 ゴリラは更に土塊による攻撃を行う。が、ゴリラを認識したコトアマツは空間の歪みを自分から離れた場所に作ったのだろう。泥が空中で破裂し、辺りに飛び散る。

 まるでその瞬間を見計らったかのように。

 周囲の瓦礫の隙間から、無数のネズミが跳び出した! ネズミの大群は迷う事なく、コトアマツの下へと駆けていく!

 しかしネズミはコトアマツを襲わない。それどころかまるで愛するかのように、コトアマツに擦り寄るではないか。何十、何百というネズミがコトアマツに寄り添い、埋め尽くす。

 あたかもそれは御神体を前にした『狂信者』の様相。

 花中はこの事象に心当たりがある。されど『アイツ』は友達どころか、こちらの顔すら知らない存在。いや、そもそもこの世から『絶滅』している筈だ。

 一体誰がこれをやっている?

「にんげーん。アンタに賭けたんですから、少しはマシな結果にするんですよー」

 疑問に思う花中の上から、今度は人の声がする。

 ゴリラが乗っている巨木の上からぴょっこりと、小さな子供のような姿が見えた。その子供は茶色の肌をしていて、話し方は慇懃無礼そのもの。よく見れば繊維が纏まったような、歪な身体をしている。

 植物園に居たラフレシアの幼女だ。『マグナ・フロス』の力をなんらかの方法で模倣し、ネズミ達を操っているのか。何故ゴリラと一緒なのかは、さっぱり分からないが。

 ネズミ達に群がられ、更には土塊の猛攻を受けるコトアマツ。例えダメージはなくとも感覚器に無数のノイズが混ざるのは、ただでさえ『喧しい』ミュータントを相手している時には一層鬱陶しい筈だ。

「ちっ……返すぞ、うすのろが!」

 ついにその怒りが爆発し、怒号と共にコトアマツは腕を振るう。

 ただそれだけの動きで、大量の土砂がゴリラ達の下へと飛んだ!

「ホゥオオッ!?」

「げっ。ヤバ……」

 土砂を前にしたゴリラとラフレシアの幼女が、焦りの声を上げた。空飛ぶ丸太の上に乗る二匹だが、その丸太にはこうした攻撃を回避する術がないらしい。

 身を守る術がない二匹に、大量の土砂が迫る……丁度、そんな時だった。

 どしんどしんと、地面が揺れる。揺れは段々と大きくなり、花中達の身体を上下に揺さぶった。

 地震か? いいや、違う。

 巨大な何かが近付いてきている!

 花中がその事に気付いた刹那、巨大な物体が花中の視界に入り―――― 一際大きな震動と共に跳躍。その姿を此処に集まった皆に披露した。

 現れたのはまん丸なお饅頭。

 否、そう見える甲殻類スベスベマンジュウガニだ。ただし本来体長数センチしかない筈が、百メートル近い巨体を有した特異な個体である。『彼女』が二年前、海で出会ったスベスベマンジュウガニであると花中はすぐに気付いた。

 跳躍したスベスベマンジュウガニは、ゴリラ達と土砂の間に割って入る。彼等の身を守るため? そうかも知れない。

 だがそれ以上にチャンスだと思ったのだろう。

 彼女には、物質を吸収して我が身とする力があるのだ!

【ギッ、ギギィイギイイイイイッ!】

 受け止めた物質を次々と取り込み、スベスベマンジュウガニはどんどん巨大化していく。百メートルほどだった身体が、更に二十メートルは大きくなったように見えた。

 巨体はパワーを生み出す。ミィ達のような身体能力に優れる能力がなくとも、百メートルを大きく超えた彼女のパワーは途方もないほど大きい。

 スベスベマンジュウガニの大きなハサミが、コトアマツの頭へと振り下ろされた! コトアマツはこれに対し片手を振り上げ、波動のような力を発して打ち砕く。立派なハサミは粉砕され、殻と肉の集まりに変わってしまった。

 だがスベスベマンジュウガニにとってこの程度の怪我は問題にならない。ミュータント化以前より、カニの手足は千切って敵から逃れる事を想定している。そして彼女は『物質』を取り込みどんどん成長する事が可能だ。

 千切れた自分の肉を全身から取り込めば、何度だって失った手足を取り戻せる。

【ギギギィギギギィイイイッ!】

 何度も何度も叩き付ける豪腕! その度に腕は吹き飛ぶが、スベスベマンジュウガニはすぐに再生させて腕を生やし、コトアマツを殴り付ける!

「……そうか、何度切り落としても生やすか。なら、跡形もなく消すまで」

 しかしこの猛攻すらもコトアマツを苛つかせるのが精々。

 コトアマツの周りを、突如として現れた雷撃が飛び交う! 雷撃によりスベスベマンジュウガニは焼かれ、吹き飛ばされた。されど雷撃は意思を持つように曲がり、吹き飛ばされたスベスベマンジュウガニを追撃する。

 コトアマツが繰り出した新たな攻撃は、スベスベマンジュウガニの身を焼き切っていく。炭化した身であれば吸収し、糧にしているようだが、気化したものまでは使えないらしい。花中の『目』には、スベスベマンジュウガニの身体が段々と縮んでいくのが見えていた。

 スベスベマンジュウガニも危機を察したのだろう。後退りして逃げようとする、が、雷撃は彼女を包囲していた。背中側からの雷撃によって前へとつんのめり、前からの雷撃で後退し……足取りが乱れ、一定方向に向けて歩く事が出来なくなっている。

 このままではやられてしまう。なんとか彼女を助けようと花中は立ち上がり、

【ぜんぐん、とつげーき!】

 空より能天気で間の抜けた、女の子の声が聞こえてきた。

 次の瞬間、空から無数の『塔』が落ちてくる! マーブル模様の刻まれた独特な色彩の塔は大地に突き刺さるや不可思議な空気の歪みを放ち……その歪みが通り抜けた場所の雷撃が消失。

 スベスベマンジュウガニは雷撃が止んだのを感知し、慌てて後ろに下がった。しかし塔の降下は止まらない。十数本が打ち込まれてコトアマツを包囲すると、塔の先端が段々と光を放ち始め――――

「っ!? み、みんな! 身を守って!」

 花中の声に応じ、この場に居たコトアマツ以外の全員が防御態勢に移った

 瞬間、塔から眩い光が放たれる。

 ただの光ではない。『以前』は分からなかったが、今ならこの光の原理が花中にも理解出来る。脳細胞が形成されるまでに刻まれた、成長の痕跡を追跡する輝き……まともに浴びれば知能が退行する、滅びの光。

 スズメバチ達の超科学兵器だ!

「余の知性に触れるか、痴れ者がァッ!」

 知能を犯す光にコトアマツが怒りを露わにし、塔に向けて手を振るう。その動きにより空間が掻き乱され、湾曲した空間に巻き込まれた塔が五つ纏めて粉砕された。

 だが塔の降下はまだまだ続いている。塔は『忘却の光』が通じないと分かるや、攻撃手段を光線……冷凍ビームへと変えた。エネルギーを奪い取る光という、人類科学では全く意味の分からないものがコトアマツを凍り付かせようとする。

 冷凍ビームを受けたコトアマツの身体は、少しずつだが凍り始めた。凍結しているのは『壁』の外側のみであり、コトアマツに苦悶の表情はない。だが周りが凍結すれば、それだけで動きを妨げる程度の効力はある。

「ふんっ……!」

 それが不愉快だ、そう言わんばかりにコトアマツが鼻息を吐く。

 瞬間、花中達が立つ大地が暗闇に覆われた。まるで何かの影に入ったかのように。

 見上げれば、空を覆い尽くすほどに巨大な『円盤』が浮かんでいた。独特のマーブル模様が入った装甲……間違いなくスズメバチ達の母艦だ。

 何時の間にやってきたのか? 恐らくついさっき、光学迷彩を用いたままやってきたのだろう。花中の粒子操作能力を以てしても、姿を現すまで存在に気付けなかった科学力は最早ジョークにしか思えない。一体どんな原理なのか、ミュータントと化した今でも想像すら付かなかった。

 だが、コトアマツはこれを見破った。おまけに、恐らくその光学迷彩を無理矢理解除させている。でなければスズメバチ達の母艦周囲を、母艦から出てきた小型円盤が慌ただしく飛び回っている筈がない。

「虫けらの巣か……このまま星の外に逃げられるのも()()()()。落としてくれる」

 コトアマツは彼女達を大人しく見逃すつもりはないらしい。片手を軽く上げるや、突き刺さった塔がふわりと浮かび上がる。塔は冷凍ビームをコトアマツに撃ち込み、僅かながら凍らせるが、コトアマツの行動を止める事は叶わない。

 コトアマツが軽く手を振るえば、合わせるように塔が『射出』された。

 塔は花中の目でも追うのがやっとの、凄まじい速さで飛んでいく。塔は自ら軌道を変えようとしてかガタガタと揺れたが、到底間に合いそうにない。飛んできた塔の直撃を受けて『円盤』が損傷し、墜落でもしようものなら……

 しかしその最悪は起こらない。

 何故なら地面より飛び出した無数の水触手が、飛んでいた塔を見事捕まえたのだから。

 そして水触手は力いっぱい振るわれ、塔はコトアマツへと投げ返される! 凄まじいパワーに加え、塔自身も今度は抗わない。

 コトアマツは自らが投げ付けた塔の直撃を頭に受け、()()()退()()()

「むっ!? アレは――――」

 その光景に、フィアが驚いた。

 つまりフィアは水触手を繰り出していない。あの水触手を生成したのは別の『誰か』と言う事になる。

 それが何者であるかを、花中は知っていた。よもや来てくれるとは、花中も思わなかったが。

「ふっはははー! お母様ったら、こんな虫けらに苦戦するとは腑抜けてますねぇ!」

 高らかな笑い声と共に、地面から『一匹』の少女が跳び出す。金髪碧眼の麗しい顔に不遜な笑みを浮かべ、その背中から無数の水触手を生やしている。お気に入りなのか、着ている服は初対面の時と同じく可愛らしいエプロンドレス。

 フィアの『娘』であるフィリスだ!

「姉様達は来てないようですが、まぁ、あんなクズみたいな臆病者共など居ない方がマシですね。この私に感謝するのですよ、お母様」

「ふんっ。どうせ勝ち目が見えたから来ただけでしょうに」

 フィリスに対し悪態を付くフィアだが、そこに浮かぶ笑みは何処か嬉しげ。花中も自然と笑みが浮かんだ。

「……纏めて、潰してくれる」

 ぽつりと呟かれたコトアマツの言葉一つで、その笑みは強張るのだが。

 ぞわりと背筋を走る悪寒。しかし危機を察知した時には全てが遅い。

 コトアマツは両手を前に出し、その両掌を向け合う。するとその掌の中心に、黒い何かが出現した。

 とても小さな黒いもの。光を一切放たず、まるで空間にぽつんと穴が空いたようにも見えた。その穴は少しずつ大きくなり、風がコトアマツに向けて吹き始める。風は徐々にだが強くなり……

 ここで花中は、コトアマツの手の内に生じた黒いものが何かを理解する。

 ()()()()()()()だ!

 恐らく異星生命体が有していた力を解析し、手にした重力操作能力の応用。このまま周囲の大地ごと全員を飲み込むつもりかも知れない。

 そんな花中の危惧は、残念ながら的中したらしい。

「えっ、ちょ……!?」

「にゃーっ!? うにゃあああっ!?」

 ブラックホールはどんどん巨大化し、重力が増大。大地が捲れ上がり、黒い球の中へと吸い込まれていく。

 フィア達のパワーなら、一時この場を離れる事は可能だろう。しかしもしもコトアマツがこのままブラックホールを巨大化させ、地球を丸ごと飲み込もうとすれば、流石に逃げ場などなくなる。どうにかしてあのブラックホールを消さねばならない。

 だが、どうすれば良い?

 ブラックホールを攻撃しても無駄だ。光さえも吸い込む暗黒の存在は、全てのエネルギーを糧にして成長する。かといってコトアマツをどれだけ攻撃しても、彼女は怯みもしないだろう。仰け反るぐらいはさせられるかも知れないが、それだけではブラックホールを消させる事など出来まい。

 いや、そもそも一度形成されてしまえば、ブラックホールは自らの重力であらゆるものを吸い込む。何かの拍子にコトアマツを倒しても、ブラックホールは消えてくれないだろう。

 一体どうすれば、コトアマツの手からブラックホールを消せるのか。

 ――――その答えを知るのは、地中に潜むモノだった。

「……む」

 順調にブラックホールを成長させていたコトアマツが、ふと視線を下に向けた。次いで花中も大地からやってくる『力』に勘付く。

 真っ直ぐに向かってくるその力は、とても恐ろしく、けれども確かな覚えがあるもの。つい最近、この地上をコトアマツよりも前に破滅させようとした悪夢のパワー。

 地球を滅ぼす力が、一点集中で地上目掛け駆け上っている!

「ぐっ!?」

 その力はコトアマツの足下より噴き出し、彼女の身体に風のような形を伴って直撃した! コトアマツは顔を顰め、力がやってきた地中を睨み付ける。

 その眼光は、果たして奴に届いたのだろうか。

 届かずとも、奴ならばきっと察知するだろう。花中はそんな予感がしていた。『彼女』こそが最初に、そして最も身近にコトアマツの存在を感じていた筈なのだから。

 地殻奥深くに生息する怪物――――ムスペルのミュータントならば!

【バルルルルオオオオオオオオオオオオンッ!】

 コトアマツが浴びる力と共に、地獄の魔物の雄叫びもやってくる!

 その叫びは万物の『状態』を変化させる。吹き飛ばされたコトアマツの足場は、どろりと溶けて液体(溶岩)と化した。コトアマツ自身は生物としての形を保っていたが、その顔に浮かぶのは苦悶のそれ。

 そしてブラックホールであった黒い球が、突如として弾け、真っ黒な液体が周囲に飛び散った。

 ブラックホールが()()()()のだ。地球表面を溶かし尽くすほどのパワーを一点に集めた結果、宇宙最大最悪の現象すらも打ち破ったという事。ムスペルの力をアナシスに並ぶものと判断した、フィアや花中の感覚は正しかった。

 これまで忌々しげな顔はすれども、苦悶などの色を殆ど見せなかったコトアマツ。だが、ここに来て彼女の顔が僅かに歪んだ。苛立ちや不快さではなく、明らかに『痛み』を覚えた表情である。

「……この……ぐぬぅあ?!」

 そのコトアマツに追い打ちを掛けたのは、突如として跳んできた『ねばねばした物体』。

 その物体は一応『液体』なのか、ムスペルの力を受けてもなんの変化も起こさない。しかしコトアマツの身体に纏わり付き、ムスペルの力を受けていたコトアマツを横に吹っ飛ばす!

 加えて大地に墜落した彼女の身体を、その粘着力により貼り付けた!

「よっしゃあぁ! どんなもんよ!」

 その光景を見て、大喜びする者が『一匹』……否、一人居る。

 真っ赤に輝く髪。一年で花中よりも大きく伸びた背丈。ちょっとだけ大人びた顔立ち……変わったところはたくさんある。彼女は『人間』なのだから成長ぐらいするのだ。そしてそれはとても喜ばしい事。

 御酒清夏が、今も人間として生きている証拠なのだから。

「せ、清夏さん! 来てくれたんでね!」

「勿論! なんか花中の声が聞こえて、居ても立ってもいられなくなったんだから! ……なんか凄い事になってるけど、後でちゃんと説明してよ!」

「はいっ!」

 来てくれた清夏に満面の笑みを返し、花中は再びコトアマツを見遣る。

 コトアマツは大地に貼り付けられていたが、しかしその手は難なく上げられた。粘々した液体はどろどろと溶解し、粘り気を失っている。動きを阻めている様子はない。

 加熱による分解か、それとも別の力か。いずれにせよコトアマツは粘液を無力化し、軽々と体勢を立て直そうとしていた。あまりにも簡単に立ち上がる姿を前にして、清夏は「ぶほぉっ!?」と驚きからか吹き出してしまう。

 そんな清夏が悲鳴を上げたのは、次の瞬間の事。

 空から吹き付けた『爆風』が、コトアマツを再び地面に叩き付けてからだ!

「きゃあああああああああっ!?」

「えっ、わぷ……!?」

 爆風は四方にも広がり、花中達にも襲い掛かる。身体能力的にはただの小娘である清夏はころんと転がり、花中でも気を弛めば飛ばされてしまいそうな風圧が全身に加わった。

 風の力は凄まじく、清夏の粘液では止められなかったコトアマツを地面に貼り付けさせる。この凄まじいパワーは、最早地球上で起こるような突風ではない。

「クルルルオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!」

 そんな突風と共にやってくるのは、パイプオルガンを奏でるような鳴き声。

 空から響く勇ましい咆哮に、この場に居る誰もが空を見上げた。

 故に、金色に輝く巨大な鳥を全員が目の当たりにする。

 猛禽類を彷彿とさせる端正な顔立ち。赤く鋭い眼光と、二十メートルはあろうかという翼長は、最早怪物ではなく『怪獣』と呼ぶのが相応しい。圧倒的な生命力とパワーを感じさせ、花中は思わず後退り。

 花中はこのような生物を知らない。だが、聞いた事がある。

「あぁぁーっ!? あなた何処だかで会った鳥じゃないですか! まだ生きていましたか! あっはっはっ!」

 フィアが中国で激戦を繰り広げたという、怪物のミュータントだ。

「クルルオオオンッ! クリュ! クリュオオオンッ!」

「ふむふむ。花中さん今がチャンスです! アイツに一発お見舞いしてやりましょう!」

「えっ!? フィアちゃん、あの鳥さんの言う事、分かるの!?」

「いいえ全く。ですが奴が攻撃している今がチャンスです! ほらなんか今のアイツ全然動いていませんし!」

 なんとも適当な発言をしつつも、フィアは一点を指差す。その指先が示すのはコトアマツ。

 フィアが言うように、怪鳥が繰り出す爆風を受けているコトアマツは地面に貼り付けられたまま。腕を上げようとするが、上手くいっていないように見える。

 それは奇妙な事だった。確かに怪鳥のパワーは凄まじいが、しかしコトアマツはアナシスの火球すら受け止める力の持ち主。こんな風程度で身体が動かなくなる筈がない。けれども現実のコトアマツは、身動きを封じられていた。

 花中はその理由を知っている。否、正確にはただの憶測だ。されどその憶測は今、目の前で現実に起きている事象と一致していた。

 そう、この憶測が正しいのなら――――

「有象無象共が……図に乗るでないわッ!」

 花中がその考えを抱いた時、コトアマツが咆哮を上げた。

 彼女を縛り付ける爆風が一瞬で掻き消され、それどころか逆に怪鳥目掛け風が吹き付ける! 怪鳥は素早くその翼を畳み、盾のように構えてこれを迎え撃つ。

 爆風の威力は凄まじく、鳥故に大きさの割には軽いとしても、巨大な怪鳥の身体を大きく吹き飛ばした。とはいえ怪鳥はほぼダメージを受けていないようで、着地は軽やかなものであったが。

 地面に降りた怪鳥は、鋭い眼差しでコトアマツを睨み付ける。恐ろしい力を目の当たりにした筈だが、怪鳥の闘志は挫かれていないらしい。

 そしてコトアマツに闘志を見せるのは、怪鳥だけではない。

 コトアマツをまともに怯ませられなかった全員が。

 花中の呼び声に応えた全てのミュータントが。

 コトアマツを取り囲み、彼女に戦う意思を見せ付けていた。

「……よもや数に任せて殴り付けるというのが、お前の言う作戦ではないだろうな?」

 コトアマツからの問いに、花中は首を横に振る。これは本心からの返事だ。大体星を喰い尽くすような生物相手に、数で挑んでどうなるというのか。

 しかし、やる事についてはそこまで外れてもいない。

「ちょっと、違います。みんなで、ボコボコにするのは、同じですけど」

「ふん。口ではなんとでも言える。それに有象無象共を蹴散らすなら、纏めての方が好都合。どんな小細工をするつもりかは知らんが、打ち砕いてくれるわ」

「そんな事言ってますけど……コトアマツさん、本当はちょっと期待してますよね?」

 花中はコトアマツを指差しながら問う。

 コトアマツは散々攻撃されてきた。多種多様で、強力なものばかり。不動を貫いてきた身体も、少しずつ揺らぎ……ついに倒れてしまった。

 小さく貧弱な者達に纏わり付かれ、屈辱的なやられ方をしたコトアマツ。だが、今の彼女の顔に浮かぶのは憤怒でも、苛立ちでもない。

 ()()()()()()()()()()()()()、そんな眩い笑みだった。

「ふ……ふっははははははは! あっはははははははははは!」

 コトアマツは笑う。高らかに、最高に嬉しそうに。

 同時に跳ね上がる、その身から放たれる力の強さ。

 『本気』ではないだろう。恐らくはただ、視線が合っただけ。そこに花中達が、ミュータントが居るのだと認識したに過ぎない。

 花中達からすればそれだけで十分脅威だ。足下を歩いていたアリに、大の大人がいよいよ意識的に拳を振り下ろそうとしているに等しい。どんなに手加減されようとも、油断したら一発でぺちゃんこだ。

 だが、それがどうした。策を弄したところで勝てぬのだから、やれる戦い方はただ一つしかない。

 気楽に、暢気に、考えなしに。

 己が本能を信じて突っ込むのみ!

「来るが良い! 遊んでくれるわ!」

「皆さん! コトアマツさんを、兎に角ガタガタにやっちゃってー!」

 コトアマツと花中の号令と共に、全員が動き出した!

 遙か空の彼方より、コトアマツの真っ正面から飛来する無数の火球がある。アナシスが繰り出した破滅の炎だ。更に衛星軌道上に浮かぶタヌキ達の人工衛星から『神の杖』が撃たれ、背後からは妖精さん達のレーザーも放たれる。

 頭上から、背後から、正面から。逃げ場のない攻撃に対し、コトアマツはその場から避けようともしない。ただ大きく息を吸い込みながら両腕を左右に広げた。

 たったそれだけの動きで、コトアマツの身体に半透明な光の膜が表れる。

 電磁フィールドや粒子の壁などではない。極めてシンプルな空間の歪みだ。膜はコトアマツの全身を隙間なく包み、纏わり付いている。恐らく今まで展開していた『壁』と同種だが、肉眼でもハッキリ見えるほど出力を上げたのだろう。この歪みに阻まれ、アナシス達の猛攻は呆気なく阻まれてしまった。

 だがコトアマツの動きも止まる。

「大人しく!」

「これでも!」

「喰らえーっ!」

「おんどりゃあーっ!」

 ミィとキャスパリーグ、そしてそのクリュとポルがコトアマツ目掛け何かを投げた! 白濁とした、粘ついた物体は超音速でコトアマツの足下に着弾する! それも一個だけではない。何個も何個も、どんどんコトアマツにぶつけていく。

 彼女達の背後で、口からだらだらと粘液を出すオオゲツヒメ、そして手から大量の粘液を溢れさせる清夏が、その手伝いをしていた。

「ふん! この程度の粘液、高熱で……」

「あら、そうはいかないわ」

「あんまり冷ますのは得意じゃないですが、まぁ、やるだけやりますかね」

【つめたくなぁーれ!】

 動きを阻もうとする粘着物を溶かそうとするコトアマツだが、ミリオンとフィリス、そしてスズメバチ達がこれを阻む。ミリオンは直に熱を操り、フィリスが気化熱により蒸発させ、スズメバチ達が謎技術で周辺気温を押し下げる。強力な冷却作用により、コトアマツが生み出す熱は殆どが無力化された。

 粘性は消えず、コトアマツの動きが更に鈍れば、それをチャンスだとばかりに飛び掛かる二体の影。

 怪鳥、そして地中より這い出したムスペルだ。怪鳥は空高くより風を放つ。その風は渦を巻き、竜巻のようになってコトアマツを飲み込む。

 そこに追い打ちを掛けるように、ムスペルの口から放たれた力がコトアマツに直撃する。ムスペルの放つ咆哮は、されど何かを溶解させたりはしない――――コトアマツが纏う粘着物を固体に変え、その動きを完全に固定したのである。

「……ほう」

 コトアマツは感嘆したように声を漏らした。

 粘着物はコトアマツの下半身に集中して当てられ、上半身は剥き出しの状態。コトアマツは上半身を動かしてみるが、固体化した下半身の粘液はビクともしない。少し本気を出せば簡単に砕けるだろうが、その判断を下す僅かな時間動きが止まる。

 動けなくなれば格好の的だ。妖精さんのレーザーが放たれ、スズメバチ達の母艦が黒い光の弾を撃ち、ミィ達が石を、清夏達が液体を投げ付ける。

 だが、今度のそれらはコトアマツまで届かない。

 コトアマツを中心にした半径三メートルほどの位置に、透明な『膜』が現れたのだ。ドーム状に展開されたそれは妖精さん達の攻撃を尽く防いでしまう。コトアマツがその身に纏うものと同系統の、空間の歪みによる防御フィールドだ。

 ミュータント達の攻撃は止まず、防御フィールドを撃ち続ける。しかしコトアマツを守るフィールドは揺らがず、コトアマツを疲弊させる事も叶わない。この後彼女が少し本気になれば、この包囲網は一瞬で崩壊するだろう。

 突撃を仕掛けるならば今しかない。

 これまでならきっと怯み、慄いてしまうところだが……今日の花中はイタズラ小僧のようにニヤリと笑う。

 一番の親友の横に並び、一緒に『遊べる』のだ。これが楽しくない訳がない!

「フィアちゃん、行くよ!」

「合点承知です!」

 花中はフィアと共に、真っ直ぐコトアマツへと突撃した!

 無論花中とて無策で突っ込む訳ではない。コトアマツも即座に花中が何か企んでいると気付き、妨害を行ってくる。

 コトアマツは前へと突き出した指先から、真っ赤な光を放つ。花中の目から見たそれは星の力……核融合の輝きのように映った。直撃すれば、あらゆる元素がエネルギーへと還元されてしまうだろう。

 されどそこに飛んできたのは、一つの『魔球』。

 ゴリラの投球だ。彼の糞で出来ている魔球は、恒星の力と接触するや渦を巻くようにして引き込み、そのまま遠くへと運んでしまう。コトアマツから引き離された光は眩く輝いて蒸発。この世界から消え去った。

 攻撃を邪魔されたコトアマツは一瞬顔を顰めてから次々と光を撃ち出すが、ゴリラは同じだけの糞を投げ付けて全て持ち去る。星の光は花中達に届く前に潰された。

 ならばとコトアマツが次に繰り出したのは、一直線に突き進むレーザー。空間に沿って進む光は魔球の力を寄せ付けず、それどころか『弾』を焼いて花中達に向かって飛んだ。

 だが、それは花中達の前に現れた巨影が遮る。

 スベスベマンジュウガニだ。ちらりと振り返った彼女と目を合わせたフィアは、スベスベマンジュウガニを水触手で捕らえ、盾のように構えた。

 当然スベスベマンジュウガニの巨体はレーザーで焼かれていくが、その身は強靱な『再成長』により塞がる。何十メートルとあった身体はどんどん小さくなるが、それでもレーザーは花中達には届かない。捨て身の特攻が、花中達のための道を作ってくれた。

 これなら一気にコトアマツまで肉薄出来る。そう思う花中の心境は、ある意味では油断だった。

「小賢しいわっ!」

 コトアマツは、次の技を放つ。

 コトアマツから放たれたそれは空間が波打つかのような『姿』を持ち、花中達全員を飲み込むようにして通り過ぎた。身体へのダメージはない……が、花中とフィアの歩みが遅くなる。

 花中は身体に力が入らず、素早く足を動かせない。動かそうとすると筋肉が痛み、ますます動きが鈍る。能力でなんとか誤魔化そうとしたが、そもそも能力が上手く機能しない。

 フィアは更に酷い状態だ。水触手がどろりと崩れ、構えていたスベスベマンジュウガニを落としてしまった。フィアの全身からどぼどぼと液体が零れ、今まで保っていた密度が維持出来なくなっていた事を物語る。

 異変があったのは花中達だけではない。コトアマツの身を守るフィールドに加えられていた、様々な攻撃が止まっていた。レーザーも何も飛んでこない。例外はタヌキ達が繰り出している、衛星からの科学的な攻撃だけ。

 何が起きたか? 花中はすぐに思い出す。

 能力を封じられたのだ。コトアマツはミュータントの力の根源である、量子ゆらぎを操れる。その能力により量子ゆらぎを『不活性』な状態へと変え、ミュータントの力を一時的に著しく減衰させたのだろう。

 能力がなければ素早く走れない。ましてや花中の鈍足では、コトアマツの攻撃は躱せないだろう。そして今の花中とフィアは『生身』同然。レーザーや核融合の塊の直撃なんて受けようものなら……

「これは、どうする?」

 コトアマツはそんな花中の『もしも』を現実にしようとした

 その直前に、花中の足下を何かが駆け抜ける!

 突然の衝撃に花中だけでなくフィアまでも ― 恐らく先のコトアマツの『力』により、見た目相応まで『身体』を形成する水が減って軽くなったのだろう ― 転んでしまう。その際反射的に花中は手を地面に向けて付き、ごわっとした感触を覚えた。

 パチリと開いた目に映るのは、地面を埋め尽くすほどに群れた大量のネズミ達。

 花中達の足下を掬ったのは、ネズミの大群だった。ネズミ達は猛然と駆け、背中に乗せた花中達をネズミらしい速さで運んでいく。更に別働隊としてコトアマツ目掛け突撃し、絡んでいく個体まで居る始末。統率の取れた、それでいて命を惜しまぬ行動である。

 ラフレシアの幼女が、ネズミ達を操っているのは明白だった。

「ふふん! 能力を封じたつもりかもですが間抜けですねぇ! わたしの能力はあくまで臭い物質を作り出す事! 一度作った物質は消えないんですよぉ!」

 ラフレシアの少女の勝ち誇った声が、近くの瓦礫の山の陰から聞こえてくる。それに応えるようにネズミ達は、一層力強く花中とフィアを運んでくれた。

 コトアマツなら、このネズミ達の群れを吹き飛ばすのは簡単である。しかし状況が変化し、繰り出そうとした攻撃を切り替えるには時間が掛かる。

 この時間があれば、花中達が力を取り戻すには十分だった。

「もう大丈夫です! ネズミさん達を、逃がしてください!」

「へーい。ま、精々頑張りやがるんですよー。はい、全員一時たいきゃーく!」

 花中の言葉を受け、ラフレシアの幼女が軽く指を振るう。それが解散の合図なのか、コトアマツに群がっていた別働隊のネズミ達は散り散りに。そして花中達を乗せていたネズミ達は一斉にジャンプして、大きなうねりを作り出す。

 ネズミ達のうねりに乗る形で、花中とフィアは空中へと放り出された。空中で体勢を立て直しながら、花中はフィアの方に手を伸ばす。フィアもまた、花中へと手を伸ばしていて――――『二匹』はがっちりとその手を掴み合う。

 もう離さないと伝えるように花中が握り締めれば、フィアもまた握り返す。目を向ければ、フィアもまた目を向けていて、視線が合った花中達は同時に笑った。

 次いで二匹同時に見つめるのは、真っ正面に構えるコトアマツ。

 そのコトアマツの周りには、強固なフィールドが形成されているが……花中はこれを問題にしない。

 そんなものは、自分と同じく立ち直った友達みんながなんとかしてくれると信じているのだ!

「いっけぇぇぇぇー!」

「一発、喰らわせてやりなさい!」

 ミィとミリオンの声と共に、集まったミュータント達の攻撃が一斉に放たれる!

 レーザー、岩石、火球、雷撃、謎ビーム、土塊、消化液、粘液、風、波動……ありとあらゆる攻撃を、コトアマツの周りを囲う壁は同時に受け止めた。空間の歪みによる無敵の防御……だが、その空間の歪みが攻撃を浴びるほどに薄れていく。

 そして皆の攻撃が打ち消されるのと同じくして、コトアマツを守る空間の歪みも消失した!

「!? 何――――」

 無敵の守りが破られた。この事実にコトアマツは驚きを見せる。周りを見渡し、何が起きたか知ろうとしていた。

 それは花中達にとって、大きなチャンス。

「「おんどりゃあああああああああ!」」

 ぴたりと重なった雄叫びと共に、花中は粒子を纏った右手を、フィアはドリルのように回転する左手を、コトアマツに向けて放った!

 コトアマツは直撃の寸前、花中達の方へと振り返る。だが避けるにはもう遅い。花中とフィアの力は、共にコトアマツの胸部に直撃

 ――――しなかった。

 コトアマツの胸よりほんの数センチ離れた場所に、力を打ち消すような波打つ空間が展開されていたがために。

「……成程。これがお前の作戦か」

 花中達の攻撃を受け止めたコトアマツが、笑った。

 まるで、全てを見通したと言わんばかりに。

「大量のミュータントを集め、数多くの能力を使わせる事で、量子ゆらぎの状態を()()()()()()……ノイズを大量に発生させる事で、余が上手く力を使えないようにした訳か」

「……っ!」

 コトアマツの語る『推論』に、花中は表情を強張らせる。

 コトアマツの予想は的中していた。

 コトアマツは量子ゆらぎの力を自在に操る事で、様々な力を行使してみせた。それは確かに凄まじい力であり、万能の能力であるが……万能故の、ある種の弱点があった。

 即ち『変換』作業だ。

 量子ゆらぎは、宇宙すらも誕生させる無限の力だ。しかしそれはハッキリとした性質があるものではなく、もっと言うならば観測出来る形ですらない。観測が出来ないとは、つまり熱くもないし痺れもしないし物も動かせないという事。それは傍から見れば存在しない力であり、事実量子力学のようなミクロの世界以外では、気にする必要のないものである。

 この存在しない力を『現実』で行使するには、なんらかの形に変換する必要がある。

 コトアマツ、ひいてはミュータントがどんな方法で量子ゆらぎを変換しているのか、それは花中にも分からない。だが『あらゆるもの』に変化する無限の力を、意識的に操るのだ。恐ろしく膨大な……それこそどんな巨大マシンでも計算出来ないような、出鱈目な演算能力が必要に違いない。

 そんな真面目な計算をしている真横でどんちゃん騒ぎを、しかも色んな『音色』でやれば一体どうなるか。

 まともな計算が出来なくなり、うっかり間違えて――――力が不発に終わるかも知れない。空間を捻じ曲げるような力は失われ、攻撃が通るようになるかも知れない。

 そんな花中の目論見は、上手くいった。コトアマツを包んでいた空間の歪みが消失したのだから。

 けれども至近距離の、小さな守りまでは消せていなかった。

「良いところまでいったが、大きく広げなければ、まだ余の力は使えるぞ」

「ぐ、く……」

「さぁ、これからどうする?」

 コトアマツが煽るように尋ねてくる。花中はその問い掛けに一瞬顔を顰め、けれどもすぐに笑みを返す。

 これからどうするか? そんなの決まっている。

「フィアちゃん!」

「花中さん!」

「「いっせーのーせっ!」」

 一番の親友と力を合わせ、同時に殴り付けるのみ!

 花中とフィアは繋いだ手を、同時に前へと突き出す! 粒子の輝きに大量の水が絡み付き、螺旋を描きながらコトアマツの胸元にある波打つ空間と衝突する!

 波打つ空間は花中とフィアの攻撃を受け止め、ぴくりとも揺らがない。それでも花中もフィアも、攻撃の手を弛めない。

「くだらん。これだけの仲間を呼んで、ようやく『薄い膜』を破れたというのに、たった二匹の力で何が出来る」

 花中とフィアの攻撃を、コトアマツは冷めた目で見つめた。最後の最後で悪足掻きかと、呆れるように。

 その眼差しが違和感を含んだものへと変わり、驚愕で見開かれるのに、さしたる時間は掛からなかった。

 波打つ空間が、少しずつその波打ち方を小さくしていったのだから。

「な、ん……なん、だ……なんだこの()()()()!?」

 コトアマツが苛立ちを露わにし、声を荒らげた。

 花中とフィアは、何も特別な事なんてしていない。そう、特別な事は何も。だけど花中には、コトアマツが何に動揺しているかは分かる。

 きっと彼女には、花中達の攻撃が不協和音のように聞こえている筈だ。何故ならフィアと花中の攻撃は、全く()()()()()()()()のだから。

 フィアはがむしゃらに、真っ直ぐに突き進もうとするばかり。だけど何を思ったのか捻ったり、うねったり、行動に一貫性がない。きっと無意識に全ての行動をやっている。

 対して花中はフィアに合わせようと、ついつい自分の意識と違う方に力を向けてしまう。しかし後追い、おまけにミュータントになったばかりで時々上手くコントロール出来ない事もある始末。挙句いきなりフィアが合わせてきたら、驚いて引っ込んでしまう事もしばしばだ。

 ぐっちゃぐちゃのめっちゃくちゃ。秩序も何もありはしない。いや、むしろ全く無関係なミュータント二匹を連れてきた方が、余程マシな連携をするのではないかと思わせるぐらい酷い合わせ技である。

 何故なら花中とフィアは全く違う性格だから。だから全然息なんて合わない。

 合わなくっても良いのだ。

 てんでばらばらでも、背中同士を向け合うぐらい見ているものが違っても……それでも一緒に、力を合わせるぐらいは出来る。ぐちゃぐちゃで滅茶苦茶で、だから簡単に混ざり合える。

 こんなにも『喧しい(仲の良い)』力は他にない!

「「いっけええええええええええ!」」

「ぬ、ぬが、あ……!? こ、これは、この力は、なん……!?」

 渾身の力を、フィアが先に、花中が追うように解き放つ! 最後の最後まで息の合わない力に、コトアマツが驚愕の声を上げた。必死に食い止めようとしてか両腕を掲げ、自分を守る空間の歪みに力を与えようとするが、空間の歪みはどんどん正されていき――――

 生身のコトアマツに、花中達の拳が突き刺さるのだった。




作戦名:わいわいがやがや騒ぐだけ
最後までこんな調子です。

次回は明日投稿予定です。


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生命の王10

 バヂンッ! という派手な音が辺りに響く。

 重たい一撃を受けたコトアマツの、咄嗟の反撃だろうか。なんにせよ花中達からの攻撃を受けたコトアマツはゆっくりとその身を傾け、ばたりと、仰向けの体勢で倒れた。

 それはとても静かな倒れ方だった。少なくとも何十メートルと吹っ飛ばされてしまった花中とフィアに比べれば。

「きやんっ!? いったた、あ、こと「ぬぐぅっ!?」げぶっ!?」

 ついでに言うと、花中は吹き飛ばされた後土手のように盛り上がった地面 ― 戦いの余波で出来たものだろう ― にぶつかって止まり、遅れて吹っ飛んできたフィアと激突して押し潰される。ただの人間だったら間違いなく『くちゃ』っとなっていた衝撃。ミュータントと化しても、かなりしんどい一撃だった。

「ぬぅぅ……あっと花中さん大丈夫でしたか? 怪我はありませんか?」

「ぶぐくくく……い……一応……」

 今押し潰された時のを除けば、という言葉を飲み込みつつ、花中は前を見据える。フィアも花中が ― 死んでいないという意味では ― 無事なのを確かめると、花中の上から退きながら同じく前を向いた。

 そしてこの場に集まった全てのミュータントが、花中達と同じモノを見つめる。

 花中とフィアの『合体技モドキ』を受けたコトアマツは、未だ倒れたままだ。痙攣どころか指先すらぴくりとも動かない姿は、一見して死んでいるようにも見えるし……寝ているだけのようにも見える。

 あのパンチは、文字通り渾身の一発だった。もしも息ピッタリの攻撃だったなら、或いはわざとバラバラの攻撃をしようとしたなら、コトアマツは即座に攻撃のパターンを解析し、攻撃の周期を理解して無力化しただろう。花中とフィアのコンビだからこそ、コトアマツに手痛い一撃を与えられたのだ。

 しかし手痛い一撃 = 必殺技とは言いきれない。

 花中だけでなく、この場に集結したミュータント全てが警戒を解いていない。はしゃぐようなモノは一匹としておらず、先程までの激戦と打って変わって静寂が周辺を支配した。

 その静けさの中では、花中が思わず飲んでしまった息の音さえも五月蝿いぐらいで。

 まるでそれが目覚ましであったかのように――――コトアマツの身体は、浮かぶように起き上がった。

「ちぃっ! まだ死にませんか!」

「こんだけ寄って集って攻撃しても、全然堪えてないっぽいわねぇ」

 フィアが悪態を吐き、ミリオンが呆れるようにぼやく。他のミュータント達も「まだ続くのか」と言いたげな様子だ。

 ただ一匹、コトアマツを除いて。

「……ふ、ふふ、ふはは。ふっはははははははははは! あーはっはっはっはっはっ!」

 彼女は笑った。心から喜ぶように。

 彼女は舞った。こうでもしないと気持ちが表せないかのように。

 彼女は花中を見た。

 生態系の頂点に君臨する魔物が、無謀にも自分の周りを飛び回る羽虫達を睨み付けるように。

「今の攻撃は予想外だったぞ! まさか余の守りをぶち抜くとはな! ならば余も少しは本気を出さねばなるまい!」

 声高に告げられた宣言。それがただの強気や、怒りに任せた言葉でない事を花中は理解している。

 事実コトアマツから発せられる力の感覚……恐らくは量子ゆらぎへの干渉だろう……は更に強くなっていた。いや、留まる事を知らないという方が正しい。今やその力は先程までの戦いの比ではなかった。

 しかしながら、戦力が先の比でないのは花中達の側も同じだ。

【シャアアアアアアアアアアアアアッ!】

 遙か彼方より響く、背筋が凍るほどに恐ろしい獣の叫び。

 振り向けば、そこには途方もなく巨大な影がある。地平線の彼方にその姿があるのに、ハッキリと『彼女』の容姿が確認出来た。細長くて手足がなく、鱗に覆われた身体をうねらせながら前に進んでいる。

 アナシスだ。南の島から援護射撃をしていた彼女が、いよいよこの地にやってきたのである。

 アナシスだけではない。フィアとよく似た容姿の少女達が五人、こっそりとこの場にやってきたのを花中は粒子の流れから察知する。それとタヌキ達の航空部隊がこちらに向けて飛んできていた。更に大型円盤……スズメバチ達の母船が二隻追加で上空に出現。巨大な砲を地上に向けてくる。

 そして花中の知らない、世界中のミュータントの力が近付いてきていた。

 コトアマツがほんの少しだけ本気を出したのと同じくして、『地球生物』も集結してきている。星の終わりを、自らの破滅を察知したかのように。

「ふふん。向こうは第二ラウンドを始める気満々のようですね。花中さん! これからどうしますか?」

 フィアも集まってくる力を感じ、まだまだ戦えると思ったのだろう。花中の方を見ながら意見を伺ってくる。

 ミリオンやミィ、清夏やゴリラ……他のミュータント達も同様だ。全員が花中に期待している。次の戦いではどんな策でコトアマツを打ち倒すのか、どんな方法でこの地球を守ろうとするのかを。

 それは、『敵』であるコトアマツも同じらしい。

 真っ直ぐ見つめてくるコトアマツに、花中は正面から向き合う。唇をきゅっと噛み、表情を引き締めた。渾身の攻撃が通じなかったコトアマツ相手に怯えも退きもしない姿勢を見せると、コトアマツはますます嬉しそうに笑みを浮かべる。

 やがて花中は、皆の注目が集まる中でゆっくりと両腕を上げ――――

「降参でーす」

 臆面もなく、その言葉を告げた。

 ……告げた後には、静寂が場を満たした。闘志に燃えていた誰もが、それこそコトアマツすらも、目を丸くしてキョトンとしている。本能に身を委ねるが故に優れた反応速度を持つミュータント達が、数秒間呆けていた。

「「「えええええええええええっ!?」」」

 そして数秒後に、全員が同じ声で驚く。

 花中がコトアマツに降参したのだと、今になって理解したのだ。

「ちょっ花中さん!? なんで降参しているんですか!?」

「えっ。だって、勝てそうに、ないし」

「いやいやいや!? いっぱいミュータント来てるじゃん! 他にもたくさん来てるっぽいし!」

「来てますけど、でも、ダメだと思います。コトアマツさん、凄く強いですし」

「……全員で挑めば、アイツぐらいはなんとかなると思うけど?」

「そうですね。あのコトアマツさんは、なんとかなるかも知れません……でも、地核の奥底に潜む方のコトアマツさんは、どうやっても、無理です」

 フィア、ミィ、ミリオンに問い詰められて、花中は自分の考えを明かしていく。その答えに三匹は口を閉じ、フィアは悔しそうに歯ぎしりをした。

 確かに、この場にはたくさんの『生物』が集まろうとしている。

 だがコトアマツの力は圧倒的だ。今、この場に居る無数のミュータントが全員同時に挑んで、ようやくちょっと傷を付けられただけ。この何十倍、何百倍ものミュータントが集まっても、倒せる可能性は半々といったところだろう。

 そうして頑張って倒したところで、コトアマツは止まらない。

 この場に居るコトアマツは、あくまで全体の中の一部に過ぎないのだ。地球の地殻に潜むもの、火星や金星を喰い尽くしたもの……それらは何をどうしたところで勝ち目などない。というより、自分達を認識してもらえるかも怪しい。

 このまま勝負を続けても、押し負けるのはこちら側だ。やっても良いが、あまり意味はない。

 だから花中は降参したのである。

 ――――無論、これで終われば先の戦いは最初から必要ない訳で。

「……念のために訊くが、余に向けて切った啖呵は忘れていないだろうな?」

 『助けてやる』と告げられたコトアマツの顔が、どんどん不機嫌になっていくのは、致し方ない事だと花中も思う。

 しかし怒りを爆発されるのは、些か早計だ。勝てないから降参したというのは、理由の一側面でしかないのだ。

 一番の理由は、今ならコトアマツを『納得』させられると読んだからに他ならない。

「勿論です。でも、その前に一つ、質問があります」

「質問?」

「コトアマツさんにとって、わたし達との『ケンカ』は……ちょっとは、()()()でしたか?」

 花中が問うと、コトアマツは口を閉ざした。少しだけ眉間に寄っていた皺が消え、右肩上がりだった苛立ちが止まる。

「……率直に言えば、全くの想定外だった」

 やがて開かれた口から出てきたのは、花中の言葉を全面的に認めるものだった。

「確かに此処に居る余は、全体から見ればほんの一部。余の、本当の意味での本気から見れば、大海の一滴にも満たない。だが、それでもこの場に居るモノ全てを捻じ伏せるぐらい、容易い力があった筈だ」

「ああん? 自慢ですか?」

「残念ながら自慢じゃありませんわ。というか本当の意味で本気を出したら、わたくし達なんて跡形も残りませんわよ。なんやかんや、最後まで手加減はされてますわね」

 コトアマツの話に反発するフィアだが、そのフィアを窘めたのはコトアマツの友達であるオオゲツヒメ。誰よりもコトアマツの事を知る彼女の意見に、フィアは何も言い返せない。

「そんな手加減状態でもダメージなんて負う筈なかったのに、()()()攻撃を受けてしまったんですのよね?」

 そしてオオゲツヒメは、今度はコトアマツに話を振る。

 コトアマツは鋭い眼差しをオオゲツヒメに向け、それから小さく鼻息を吐く。花中にはその仕草が、肯定の意思表示に見えた。

「そうだ。この程度の力加減でなんら問題なく全ての攻撃を防げる。そう計算していた」

「……つまり何? 計算を間違えたって事?」

「その通りだ」

「そーいうところは素直に認めるのねぇ」

 煽るようなミリオンの物言いに、しかしコトアマツは淡々と肯定。コトアマツの視線が向くのは、花中の方のみ。

 花中だけがその答えを知っているのだと、見抜くように。

「お前達の攻撃は、量子ゆらぎを掻き乱した。それ自体に不思議はない。余等の力は量子ゆらぎに干渉するからだ……だが、あの戦いの時のゆらぎは異常だった。単純な力の合算では、ああも量子ゆらぎの波形が、大きく波打つ筈がない。あの想定外の『ノイズ』が余の計算を狂わせたのだ……だが、あのノイズはなんだ? お前は、その答えを知っているのか?」

「ええ。答えというか、予想ですが」

「そしてその答えが、余を救うと? 宇宙の終焉を遠ざけるものになると?」

「そうです」

 コトアマツに、花中は面と向かって答える。自分の考えになんら恥じる様子もなく、堂々と、これしかないとばかりに。

「わたしは、あなたのように、世界をそこまで詳しくは、見えません。だけど、あの戦いで起きた力は……特に、わたしとフィアちゃんで繰り出した一撃は、多分、『量子ゆらぎの偏り』じゃありませんでしたか?」

「量子ゆらぎの偏り? なんですかそれ?」

 花中の告げた内容に、聞いていたフィアが首を傾げながら尋ねてくる。そんなフィアをミリオンが呆れた顔で見ていた。自分がどれだけの事を成し遂げたのか、その自覚が全くないところに。

 花中はフィアからの問いへの返答を待たせ、コトアマツの答えを待つ。コトアマツはしばし沈黙を挟んだ後に、ゆっくりと……頷いた。

 量子ゆらぎの偏り――――それは宇宙誕生の瞬間である『インフレーション』を引き起こしたもの。何千億もの銀河を生み、数百億光年という広大な世界を創り出した創世の現象。

 花中とフィアの一撃は、それを引き起こしていたのだ。

「コトアマツさん、以前、言っていました、よね? わたし達、ミュータントの力は、量子ゆらぎから、得ているって」

「……そうだ」

「だから、わたしは、こう考えたのです。たくさんのミュータントが場を引っ掻き回せば、もっと大きな『ゆらぎ』が、生まれるんじゃないかって」

「理屈というより感覚だな」

「今回は感覚の、大勝利でした」

 コトアマツの嫌味な言葉も、花中はにこりと笑って受け流す。

 コトアマツは少し微笑み、されどすぐに顰めた表情を浮かべた。

「だが解せない。此処に居る全員が合わせた力よりも、余の力の方が遥かに大きい。なのに余は量子ゆらぎの偏りを観測した事がない。これはどういう事だ?」

「……力を合わせるというのは、単に、二つのものを、一つにするだけじゃ、ありません」

「単純な合算じゃない?」

「そうです。自分と、全く違う力が合わさる事で、大きな変化が、あります。時には打ち消し合って、何も残らない事もありますけど、複雑に絡まって、自分達すら予測出来ない、そんな力になる事だって、あるんです」

 あなたを倒した、わたしとフィアちゃんの攻撃のように。

 その言葉を発さなかった花中であるが、しかしコトアマツは察するだろう。考え込む顔に、花中の言い分を否定する雰囲気はない。

 それでも未だ、納得はしていない様子。

「つまり、みんなで手を取り合って頑張ろうと? そうすれば良い案が出てくると?」

 花中の言いたい事はこれかと、コトアマツは問う。

 花中は、首を横に振った。

「いいえ、今のみんなが、手を取り合っても……多分、宇宙は救えません」

「ならばなんだ、お前の言う宇宙の救い方とは」

「……えっと、実のところ、わたしには、宇宙の救い方は、分からないです」

「何?」

 花中の発言を受け、コトアマツから感じられる力が一層高まっていく。その上がり方は留まる事を知らない。

 際限なく強まる力。花中とコトアマツの話を静かに聞いていたミュータント達が、一斉に臨戦態勢を整える。

 一触即発の状況だ。コトアマツが動けば、否、僅かでもその力を()()()()()()、ミュータント達は一瞬で攻勢に転じるだろう。

 それでも花中は慌てない。ここまでは予想通りなのだから。

「わたしがあの戦いで、示したかったのは、あなたの知らないものを知る方法は、あなたが計算するだけでは、得られないという事です」

 そしてこの緊迫も、この言葉できっと多少は治まると踏んでいた。

 思惑通り、コトアマツが発していた力はゆっくりと静まる。合わせるように周りの気配も、落ち着きを取り戻しつつあった。

 戦いの気配が遠退いたところで、花中は自分の考えを明かす。

「あなたは、自らの演算能力を強化すれば、宇宙の破滅を、回避する方法を、見付けられると、考えました。でも、焦って考えたら、一つの事ばかり見てしまって、答えに、辿り着けないかも、知れません。あなたが、わたしと、フィアちゃんの攻撃が、どれほどのものになるか、分からなかったように」

「……解せんな。そこまで考えながら、みんなと手を繋いで考える訳ではないとは、どういう事だ?」

 首を傾げるコトアマツ。どうやら本当に花中の言いたい事が分かっていないらしい。

 それこそが花中の考えを裏付ける。だから自信が持てる。

「競わせます。世代を超えて」

 自分が思い描いていた、途方もない計画を。

 最初、コトアマツは何を言われたのか分かっていないようにキョトンとしていた。しばらくしてようやく気付いた時、その目を大きく見開く。

 そしてコトアマツは、驚きと喜びを混ぜ合わせた笑みを浮かべた。

「……生物進化を観察するのか!」

 辿り着いたコトアマツの答えに、花中はこくりと頷いた。

 この場に集まったミュータントは、全部で十五種類。

 とても多いようであり、事実この多種多様な能力が量子ゆらぎをしっちゃかめっちゃかにした事が、コトアマツの『敗因』である。多彩な能力の絡み合いが、コトアマツすら予想の出来ない『量子ゆらぎの偏り』を生み出したのだ。

 されど彼女達は、この星に棲む生命のほんの一部でしかない。

 この星に暮らす生物種は人類が発見したものだけで凡そ二百万種以上、未発見のものを含めれば一千万~数千万種も存在すると言われている。そしてそのどれもがそれぞれの生活環境に適応し、進化してきた。一つとして同じ種は存在しない。

 もしも、その全てがミュータントになったなら? そしてミュータント同士の生存競争が繰り広げられ、新たな進化が促されたなら?

 何千万という数の『量子ゆらぎの使い方』が生まれるのだ。

「生物の進化は、予測不可能です。一つの問題に対し、ランダムな形質で、チャレンジし、偶然上手くいったものが、生き残るのですから。寒さという、一つの環境に対してすら、零度以下にならない水中に潜る、凍らない体液を持つ、その時期だけ暖かな地に渡る、恒温性を持つ……様々な選択肢を、取るぐらい」

 この世で起きるあらゆる現象が、かつて宇宙を誕生させた『量子ゆらぎの偏り』が姿を変えた結果であるならば、それに対するアプローチは『見方』の違いだろう。それはつまりたった一つの現象であったとしても、たった一つの事実をもたらす訳ではないという事。見方を変えれば様々な事実を物語り、一面からでは決して全てを教えてはくれない。

 計算による解析は、あらゆる角度の見方を、全てを解き明かすのだろうか? 花中はそう思わない。その解析は『コトアマツ(個人)』の視点で行われるものであり、自分だけでは思い込みから脱出出来ないからだ。ある行き詰まりに対し、自分だけでは別の見方なんて出来ない。多様性がなければ、本当の世界なんて見えないのだから。

 だけど。

 ランダムな変異という『意思』が関与せず、どんな突拍子のないものでも結果さえ出れば採用される、そして他者との関係により際限なく多様化していく生物ならば。その生物の中でも、宇宙の根源である真空のエネルギーに触れられるミュータントならば……多様化と進化の果てに、この宇宙を構成する『全て』の見方を導き出すかも知れない。

 そしてこれをコトアマツの能力により解析・習得・強化すれば、彼女はこの宇宙の全てを見通せるだろう。全てが見えてしまえば、どのような干渉を、どの程度の力で行えば、どのような事象が起きるのか理解出来る。

 つまり宇宙を操る方法さえも理解出来るという事。

 これこそが花中の提示する『コトアマツを救う』方法だった。

「……本当に、ミュータントならば、この宇宙の全てを解き明かせると思っているのか?」

「分かりません。ですが、あなたの計算よりは、マシだと、示したつもりです。わたしとフィアちゃんの攻撃すら、満足に予想出来ないのですから、もっと多様になって、もっと色んな力が表れたなら……凄い事になりそうとしか、言えないじゃないですか」

 コトアマツから問われ、花中はイタズラっ子のように笑いながら答える。

「それとも、もっと凄いインフレーションを起こさないと、信じてくれませんか?」

 次いで今度は、花中の方から尋ねた。

 花中の周りに立つフィア達から、強い闘争心を感じる。この場に集結した誰もが、コトアマツともう一戦交えるのも厭わぬ意思を示した。それは即ち先のフィアと花中のように、自分達の力を合わせて『宇宙創成』をする気満々であるという意思でもある。

 相対するコトアマツは――――快活に笑った。

「ふっはははははははは! はっはっはっはっはっ……この余を説得するためだけに

インフレーションを起こすか! あっははははははははは!」

 コトアマツは笑う。顔に手を当て、大きく仰け反り、心から喜ぶように。

 もうコトアマツに敵意はない。どれほど大きくても、敵意のない力は恐れるに足りず。ミュータント達からも段々と力と闘志が抜けていった。元より警戒心を抱いていない花中であるが、コトアマツから力が抜けたのを見て一層身体から力が抜けた

 瞬間、コトアマツが花中に肉薄してくる。

 意識の隙間を突かれ、花中は身動きが取れない。コトアマツは素早く手を伸ばし――――しかしなんの敵意もないため、花中は大人しく自分の手を掴まれた。

「良いだろう! 今日からお前を我が友と認め、その提案を受け入れよう!」

 そしてコトアマツからの、待ち望んでいた言葉を真っ正面から受け止める。

 そう言ってくれると信じていた。信じてはいたが、コトアマツの口から直に聞けば心がざわめく。心のざわめきは身体に伝播し、むずむずと全身が震え出す。

 ここではしゃぎだしたら、あまりにも子供っぽいとは思う。だけど地球の危機を回避したのだ。このぐらい喜ぶのは、誰だってやるに違いない。

 理性という名の堤防は呆気なく崩壊。

「ぃ……やったー!」

 気付けば花中は、ぴょんっと跳ねて喜んでいた。

「え!? やったの!?」

「ええ、そうみたいね」

「なんだか知らないけどやったー!」

 花中の喜びは彼方まで伝わり、ミュータント達も嬉しさを露わにする。衝撃波染みた歓声が広がり、世界中の生命が、地球の危機が回避されたと知ったに違いない。

 死が避けられたのだ。これが嬉しくない筈がない。

「むっすぅぅぅ……」

 ただ一匹、花中の一番の親友かつ、花中を独り占めしたいぐらい大好きなフィアを除いて。

 コトアマツと手をつないでいる花中を、フィアは背中から抱き締めてくる。それもかなり強く、普通の人間だったらメキメキと骨が軋むぐらい。

 コトアマツと花中が友達になった事が、余程気に入らないのだろう。花中としてはもう慣れっこだが、コトアマツとしては恐らく初めて向けられる感情。理解が出来ないのか、コトアマツはキョトンとしながらフィアを見る。

「なんだ? 余に何か用か?」

「花中さんは私の一番の親友です! あなたなんかお呼びじゃないのです! しっしっ!」

「……? ほう、成程。所謂嫉妬とやらをしているのだな。余に対して嫉妬とは、分を弁えないにしても程がある」

 正直に己の気持ちをぶつけるフィアに、コトアマツは明らかに煽るような笑みを浮かべた。星をも喰らう魔物にも恐れず感情を露わにする、親友の向こう見ずなところに花中も思わず苦笑いしてしまう。

「おめでとう、花中ちゃん」

 そんな苦笑いが笑みに変わったのは、背後から声を掛けられてから。

 振り返った花中の目に映ったのは、口許を手で隠しながら歩み寄るオオゲツヒメだった。

「あ、大月さん。えと……ありがとうございます。あなたのお陰で、ここまで、来られました」

「あら、わたくしは何もしていませんわよ?」

「ふん、いけしゃあしゃあと。裏で手引きしていたのは貴様以外にあるまい」

 素知らぬ顔で答えるオオゲツヒメに、コトアマツがにやりと笑いながら問い詰める。コトアマツは目を逸らしたが、手の隙間から見えた口許は三日月のように歪んでいた。

 恐らく、オオゲツヒメは最初からこうなる事を計画していたのだろう。

 ミュータントの力が量子ゆらぎ由来なのは、きっとコトアマツから聞いている筈だ。そして人類と同等の知性があるのだから、人間社会、ひいては人類科学に精通していてもおかしくない。なんらかの拍子に『インフレーション理論』と『量子ゆらぎの偏り』の存在を知り、花中が即興で閃いたアイディアを既に考え付いていた可能性がある。いや、「花中にならなんとか出来る」と応援してきたのだから、それぐらいは既に考え付いていた筈だ。

 花中達を唆した理由は、地球を守るため、というより美味しいものを守るためにか。全てオオゲツヒメの手の上の出来事だとすると、花中としては少し釈然としない。

 しかし何より釈然としないのは。

「……大月さん。なんで、わたしとコトアマツさんが友達になるよう、仕向けたのですか?」

 何故わざわざ『友達になる』という、()()()()()を挟んだのか。

 戦わせる事は理解する。実践してみせなければコトアマツは納得などするまい。しかしそれならさっさと戦わせてしまった方が良いのではないか。

 その疑問を視線と共にぶつければ、オオゲツヒメは肩を竦めながら答えてくれた。

「理由の一つは、この子にとって友達とは『自分を成長させてくれたもの』だけだから」

「自分を、成長させたもの?」

「そう。わたくしも五百年ぐらい前、ちょーっとアドバイスした事がありますの……お陰でこの子、星をも喰らう強さになっちゃいましたけど」

「一体何を言ったんですか……」

 さらっと此度の事変の元凶だと語られ、花中は笑みが引き攣る。予想していたよりもオオゲツヒメはとんでもない存在だと知り、花中は身体がぶるりと震えた。

 しかしオオゲツヒメの話はまだ始まったばかり。ぶるってる暇はない。

「二つ目の理由は、本気になってもらわないと流石に勝ち目がないと思ったから」

「……地球が終わると知ったら、誰でも本気になると、思うのですが」

「あら、そうなんですの? てっきり花中ちゃんは優しいから、地球の危機だなんだというより、相手に同情した方が力が出ると思ったのですけど」

 なんとなく言い返してみれば、何もかも見透かされた答えを返される。

 花中は大きく肩を落とし、ため息を吐く事しか出来なかった。想像以上に何もかもが、この少女の掌の上の出来事だったらしい。おまけに失敗しても自分は助かるのだから、なんとも気楽な話である。ぶっちゃけ少しズルい。

「うふふ。そうふて腐れないで。頑張ったご褒美に良い事教えてあげますわ」

 花中のそんな気持ちもお見通しと言わんばかりに申し訳なさそうに見える笑みを浮かべながら、オオゲツヒメはコトアマツを見遣る。視線に気付いたのか、コトアマツは目をパチパチさせながらオオゲツヒメの方へと振り向いた。

「コトちゃん。あなた、お前と貴様以外の言葉だと、わたくしをなんて呼んでいまして?」

 顔を合わせたコトアマツに、オオゲツヒメはそう問う。

「? ()()()()だろう? 何故わざわざそれを問う?」

 そんなオオゲツヒメに、コトアマツはなんとも可愛らしい呼び方で答えながら彼女に問い返した。

 その問答を横で聞いていた花中が固まったのを見て、オオゲツヒメはくすくすと笑い声を漏らす。

「くく……あなた、本当にその呼び方変わりませんわねぇ」

「ふふん。親愛を含ませつつ、名を与えるという威厳を見せ付けるための行いだ。王たる余のセンスに恐れ慄くと良い」

 オオゲツヒメの軽口に、コトアマツは胸を張って答えた。その姿に皮肉や自虐はなく、むしろ褒め称えろと言わんばかりの自信が滲み出ている。

 つまり本心から威厳ある呼び方と思って、コトアマツはオオゲツヒメを『ヒメちん』と呼んでいる訳で。

「じゃあ、花中ちゃんはなんと呼ぶつもりですの?」

「ん? そうだなぁ……かなぷんはどうだ? ふふん、名付け親である余の偉大さをひしひしと感じるだろう?」

 だとしたらきっと、『かなぷん』などという間抜けな――――花中を抱き締めているフィアすら呆れた表情を浮かべる名前も、本当に自分の偉大さを示せると思っているに違いない。

「……ぷ、ぷふ……ぷくくくく」

「? かなぷん、どうした?」

 なんとか笑いを堪えようとしていた花中だったが、よりにもよってコトアマツの手により止めを刺される。開いた口からは、今までにないほど大きな笑いが出てしまう。

 地球を喰らう魔物の、なんとも惚けていて可愛らしい一面。

 それを知る事が出来ただけで、この子と友達になれて良かったと、花中は心から思うのだった。




『ヒメちん』呼びは五百年前からやっているので、昔からコトアマツのネーミングセンスは壊滅しています。
まぁ、他の存在が上手く認識出来ないから、自他の擦り合わせが出来ないからね。仕方ないね。

次回は明日投稿予定です。


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生命の王11

「えっと、それでは、地球が助かったお祝いと、コトアマツさんの願いが、叶うのを、祈るのと、えっと、それから」

「難しい事は後にしてかんぱーい」

 花中が超人的頭脳をフル回転させて捻り出した言葉を、ミリオンの覇気のない言葉が上塗りする。

「「「「「かんぱーいっ!」」」」」

 その上塗りの言葉に、花中の前に居た『みんな』はあっさりと乗っかかり、花中は喉まで来ていた声を飲み込むしかなかった。

 此処は、花中達が作り上げた避難所からざっと一キロほど離れた地点。ほんの数分前まで瓦礫の山に埋め尽くされていたこの場は今、小さな石ころすら転がっていない。剥き身の地面が延々と広がり、歩きやすくて安全な状態となっていた。空に輝く満天の星空を阻むものもなく、満月の光によって照らされた大地は、神秘的な舞台のように見える事だろう。

 そしてこの神秘の景色を作り上げたのは、この場に集まった――――何十という数のミュータント達。

 彼女達の圧倒的なパワーにより、瓦礫に埋め尽くされていたこの場は掃除されたのだ。しかし彼女達が此処らの瓦礫を取り払ったのは、勿論人間のためなどではない。

 広くて誰にも鬱陶しがられないこの場所で、お祝いパーティーをするためである。

「いやー他の連中花中さんの事など心底どーでも良さそうですねぇ」

 わいわいと盛り上がる喧騒の中、花中の横にぴたりとくっついてきたのはフィア。親友のぬくもりを肌で感じながら、その言葉に一片の反論も出来ない花中は苦笑いを浮かべた。

 この場に集まったミュータントは、先のコトアマツとの戦いに協力してくれたモノ達のみ。

 確かに、みんな花中の呼び声に応えてくれた。しかし全員が全員花中と仲が良いという訳ではない。いや、悪くはないのだが……「名前は知っている」ぐらいの間柄もチラホラと見受けられた。フィアの友達である怪鳥、或いはアナシスがその関係に位置する。ムスペルなど友達どころかケンカしたばかりの相手だ。そんな者達からすれば、花中の長々としたお話など退屈なだけだろう。

 そんなものよりも、パーティーだからという理由で出された多種多様な料理 ― ビニールシートの上に乗せられている。ちなみに食材はオオゲツヒメからの提供だ ― の方がずっと興味を惹くに違いない。

 ミュータント達が花中ではなく、出された料理に群がるのは必然だった。ミリオンが勝手に出した号令を切っ掛けに、我先に料理を取りに向かう姿は正しくケダモノである。ムスペルや怪鳥、アナシスまで料理を食べていた。食べ物を必要としないミリオンすら、ノリで料理の方へと駆け寄る有り様だ。

「アイツら、ほんと礼儀ってもんを知らないわね……」

「まぁ、野生の生き物だし?」

「ただのケダモノじゃん」

 大親友であるフィアを除けば、花中の近くから離れなかったのは ― 戦いには不参加だが、目出度いからとこのお祝いパーティーに招待された ― 晴海と加奈子、それから清夏……『人間』三人だけだった。

「あはは……でも、皆さん、楽しそうですし、わたしは、これでも良いと、思います」

「まぁ、大桐さんがそう言うなら、あたしが反発するのも変な話だからこれ以上言わないけど。主役はアイツらだし」

「花中は優しいなぁー」

「いや、大桐さんは優しいというより、楽しい事するのが楽しくて、蔑ろにされても喜んでるだけじゃない?」

「「あー……」」

 人間達から哀れみの目を向けられ、花中はおどおどしてしまう。戦闘能力では三人どころか全人類を相手取っても余裕で勝てるぐらい強くなったが、予想外の形で哀れまれたり怒られたりすると動揺が抑えられない。それが大桐花中なのだ。

「ほほう。同種相手から見てもお前は奇特な個体なのか。更に興味を持ったぞ」

 そんな花中に、横から声を掛けてくる者がいた。

 コトアマツだ。全ての元凶である彼女の声に、花中のみならず晴海達も振り返る。花中とフィア、それから加奈子は特に警戒心を抱かなかったが、晴海や清夏は緊迫した気持ちが表情に表れていた。

 晴海達の反応も仕方ない。花中が説明した事で晴海達も、コトアマツにより危うく地球が滅びるところだった事を……既に火星や金星が消滅した事を知っている。星一つ易々と滅ぼす怪物を前にして、警戒するなという方が難しい。

 例えその怪物が、ドングリをたくさん口の中に詰め込んだリスのように、可愛らしい顔が膨らむほどミカンタルトを頬張っていたとしても――――

 ……いや、これは流石に毒気を抜かれたようだ。晴海と清夏は目を丸くして、ポカンとなってしまう。

 『人間』達の呆けた視線を向けられたコトアマツであるが、有象無象の存在など認知すら出来ないのが彼女。向けられた視線の意味に気付きもせず、花中だけを見ていた。尤も、友達になった花中が同じ視線を向ければ話は別だが。

「なんだ? その眼差しは。意味を判断出来ない」

「え、あ。す、すみません……その、可愛いなぁって、思いまして」

「そうか。褒められているのならば悪い気はしないな」

 喋りながら次々とミカンタルトを頬張り、ますますコトアマツの頬は膨らんでいく。どうやら花中お手製のミカンタルトが余程気に入ったらしい。

 好物をパクパクと食べる姿は、見た目相応のあどけなさを感じさせる。星をも滅ぼす怪物といえども、この無邪気な姿が可愛いと思えるのは本心だ。

 ましてやそれが自分の手作り料理の結果であれば、喜びだって感じる。呆けていた花中の顔には、自然と笑みが浮かんだ。

「それにしても、ミカンというのは本当に美味いものだ。ミカンタルトにしてもミカンゼリーにしても、手が止まらなくなる。こんな美味いものがあるのなら、さっさと教えてくれれば地球だけは最初から残してやったのに」

 ……ここまで気に入られると、それはそれで複雑な心境にもなったが。地球の、或いは宇宙の命運を賭けた先の戦いはなんだったのか。それともミカンとは宇宙の存亡をも左右するほど偉大な存在であらせられたのか。

 「なんかもう後者で良いや」と思った花中は、自分もまた偉大なるミカンタルト様を食べる事にした。粒子操作を用いて、ミュータント達が群がる場所に置かれていたミカンタルトの元素を亜光速まで加速。自分の手元に引き寄せたところで再構築し、テーブル上にあったものと『同じ』ミカンタルトを創り出す。

 SF小説などに出てくる、テレポーテーション技術として用いられる原理をそのまま使っている。分解した粒子で、分解前と同じものを作れば、全く同じものが出来上がるのだ。魂だのなんだの、そのようなものがあれば不可能になる技術だが……どうやらこの世界にそんなものはないらしい。我が身で行った技がそれを証明している。なんとも無機質で、恐ろしい力だと花中は思う。

「あ、大桐さん大桐さん。私にもタルトちょーだーい」

「あたしも欲しいわ。アイツらの中に突撃とか、流石に無理だし」

「あ、わ、わたしも……」

 されど『人間』三人はこの力を恐れるどころか、嫌悪もしない。

 頼られる事が嬉しくて、花中は自分の力を喜んで行使した。三つのタルトが分解・再構築され、晴海達の前に現れる。

「おっ、来た来た~」

「ほんと、便利な能力ねぇ」

「あなた達花中さんの事便利屋か何かと思ってませんか?」

「えぇー、そんなことないよー」

 タルトを頬張りながら、フィアからの追求を否定する清夏。弛んだ顔に説得力はなく、故に花中の頬も緩んだ。

 しかし弛んだ顔は、すぐに強張ったものへと変わる。

「暢気に楽しむのも良いが、お前達は自覚があるのか? そう遠からぬうちにこの星の生物は一掃されるぞ」

 コトアマツが、この『事実』を告げてきたがために。

「一掃……って、どういう事?」

「そのままの意味だ。余の計算が正しければ、地球に現在生息している生物は、計算上十~十二年で全て死に絶える」

「じゅ、十年かそこらって、なんでよ!? まさかアンタ、やっぱり地球を喰い尽くすつもりなの!?」

「いいや、違う。余とは別の力によるものだ」

 晴海に問い詰められ、コトアマツは呆れたように眉を顰めながら答える。

 次いでコトアマツは、チラリと花中の方に視線を向けてきた。お前は分かっているだろう? そう言いたいかのように。

 事実、花中にはコトアマツの語る『別の力』が何か、すぐに思い当たった。しかしその答えを、容易に発する事は出来ない。

「……わたし達、ミュータントによって、ですね」

 ()()()こそが、その元凶なのだから。

「……それって……どういう、事……?」

「単純な話だ。コイツらの能力の高さであれば、ミュータントとなっていない個体との生存競争に負ける理由がない。古い形質の個体は淘汰され、いずれ全ての生物がミュータントに置き換わる。その時間が、余の計算ではざっと十年という訳だ」

「つ、つまり、ただの人間は、あと十年で、滅びちゃうって事……?」

「ミュータントとなっていないヒトに限定するなら、十年も持たないと思うぞ? ヒトは精々八年。まぁ、これでも長持ちな方だがな。十年種が存続するのは、適応力の高い昆虫や植物の類だけだろう」

 清夏からの問いにも、コトアマツは追い討ちを掛けるようにあっけらかんと答える。人間と共に暮らしている清夏は、ショックを受けたように後退りした。

「う、嘘……そんな……」

「ちなみに現存する生物種のうち四割はミュータント化前に絶滅すると、余は予測している。ヒトが含まれるのは六割の方だ。世代が継続するだけ、まだマシだな」

「そんな訳ないでしょ! だって、あと八年だけなんて……!」

 コトアマツとしては、フォローのつもりか、或いは単に自分の考えを伝えただけか。恐らくは後者であろう言動に、清夏が憤りを露わにする。

 花中は、それを口を閉ざして聞く事しか出来ない。

 ――――元凶である自分に、何が言えるというのか。

 コトアマツに、ミュータントが支配する世界を観察するよう促したのは花中自身だ。勿論その提案をしなければ、コトアマツは地球を喰い尽くしていた。しかし知らぬ間に一瞬で生涯を終えるのと、長ければ八年ほど生き長らえるのは、どちらがマシか? ……どっちにしろ最悪だと、殆どの人間は答えるだろう。

「で、でも、ミュータントって、確か人間の脳波が必要なのよね!? 人間が減れば、ミュータントは……」

「それは『初期』の個体だけだな。原理的に、脳波は人間のものである必要はない。ミュータントそのものの個体数が増えた状態ならば、各々が発する脳波で十分代替可能だ。そもそも単独で能力を発揮する体質の個体も、少なからず存在する。余が発する分も考慮すれば、発生も繁殖も止まる理由がない」

「っ……な、なら、アンタの力でどうにか……」

「断る。余にとってはミュータントが誕生した方が有益だからな……『友』が提案してくれた計画を実行する。今度こそ止める気はないぞ。無論、より良い案があるなら話は別だがな」

 言葉を失う晴海の前で、コトアマツは堂々と視線を花中に向けてくる。

 晴海と加奈子も、花中がコトアマツに示した『計画』を知っている。花中自身が話した。勿論正直に言えば、こんなにも早く『人類』の終わりが来るというのは完全に予想外だ。文明は兎も角、個人の寿命としてはあと何十年かあると踏んでいたが……予想は外れた。

 だけど言い訳はしない。

 この方法を選んだのは自分。これが正しいと考えたのも自分。全て自分の責任だ。

 例え全人類から、そして友達から罵られたとしても、それは致し方のない事である。

「……もう、ああもうっ!」

 だけど、晴海が苛立ちを向けたのは足下の地面。

 地団駄を踏むだけで、花中が晴海や加奈子から憤りをぶつけられる事はなかった。

「……あ、あの……立花、さん……怒って、いないのです、か……?」

「あん? ……怒るって、何に?」

「えっと、わたしが、その……コトアマツさんに、ミュータントの生態を、観察するように、提案した、事を……」

「なんで怒るのよ」

 思いきって尋ねれば、逆に晴海に訊き返されてしまう。花中は僅かに戸惑い、おどおどしてしまった。

「大桐さんは、むしろ人間を守ってくれたじゃない。どうして責めるのよ」

 そうした心の揺れ動きは、晴海の迷いない一言が止めてくれる。

 加奈子も、笑顔で花中の前に躍り出てきた。

「まぁー、そりゃもっと長生きしたかったと言えばその通りだけどねー。でも、大桐さんがいなければ、その八年だか十年だかもなかった訳だし?」

「そうだな。コイツがいなければ今頃この星は余の一部だ」

「つー訳なんだからさ、あんまり思い詰めないでよ」

「……ですけど」

「くーどーいー」

 反射的に否定的な言葉を発する花中の頬を、加奈子は両手で挟んできた。柔らかな頬はむにゅっと潰れ、花中はタコのような唇になってしまう。

 その顔が面白かったとばかりに、加奈子はけらけらと笑う。

「あっはっはっ! ほら、大桐さんのお陰でこうして今笑えるんだよ? もっと堂々と胸を張れぃ!」

「あたしも加奈子と同じ意見。大桐さんは、人間だけじゃなくて……この星の生き物みんなを救ったのよ? なんか文句言われたら、じゃあお前もっと良い案出してみろよって堂々と言えば良いのよ。コイツも良い案があるなら聞くって言ってる訳だし」

 加奈子と晴海は両腕を広げ、ある場所を指し示す。

 それは、たくさんのミュータントが花中の料理に群がる姿。奪い合ったり、分け合ったり、話し合ったり……それぞれ楽しく食べ物を堪能している。

 自分の守ったものが目の前にある。

 たったこれだけの事を改めて自覚しただけで、花中は自分の心が少し軽くなったのを覚えた。

「……ありがとう、ございます」

「お礼を言われるほどの事じゃないわよ」

「そーそー。それに、考え方次第じゃ何も変わってないとも取れるし」

「何も変わってない、ですか?」

「うん。だって、今までコトっちは地殻に居たんでしょ? 怪物だってたくさん潜んでいるし、ミュータントもそこらに暮らしている。つまり今までも、何時死ぬか分からなかった訳だよね? なら、今までと大差ないじゃん」

「ああ、成程ね。確かに、今までと大差ないかも」

 加奈子が示した例えに、晴海がくすりと笑いながら肯定する。花中も思わず笑みが零れ、そしてその通りだと思う。

 そう。命なんて、死なんてそんなもの。何時、どんな形で訪れるか分からない。今回防いだのは、やってきたものの一つでしかないのだ。

 そもそも。

「それに、もしかしたら八年の間に私も大桐さんみたいな超能力に目覚めるかもだし!」

「あら、アンタよりあたしの方が希望がありそうだけど? ミュータントの力には、演算能力が必要らしいからね」

 二人とも、たった八年でくたばるつもりは毛頭ないらしい。

 ならば、これはもう今までと何かが違うのだろうか?

 何も違わないのだ。

 世界は変わる。少なくともこれまで通りの生き方では、これからは生き残れないだろう。ミュータントという、これまでの生命とは比較にならない存在に支配された世界が出来上がるのだから。

 だけど、変わらない世界なんてあるのだろうか?

 そんなものもない。変化がないのなら、生物の絶滅なんて起こらない。ある種の生き物の誕生が環境を変え、その変化による大量絶滅すらも……過去に起きた事象の一つでしかない。

 そして生命は、訪れた全ての危機を切り抜けた。生き延びたモノはほんの一部。だけどその一部の中で、これまでと『生き方』を変えたものなんていない筈だ。今まで通り、自分の力を最大限に活かして――――全力で生を謳歌するのみ。身体や性質が変化しようとも、心は何も変わっていない。

 晴海と加奈子にはその覚悟がある。むしろ自分にはあっただろうか? 花中は、肯定出来ない。ミュータントとして、知らず知らずのうちに胡座を掻いていたようだ。これからの世界は、ミュータントといえども生き残れるか怪しいのに。

 難しい事を考えるのは止めだ。これからは真っ直ぐに、知的ぶった人間ではなく一つの生物として生きていこう。全力を尽くし、悔いのないように日々を過ごそう。

 そして、その日々の中で少しでも――――

 等と決意を固めていた刹那、ズドンッ! と大きな揺れが花中達を襲った。突然の出来事に花中はビクリと身体を震わせ、反射的に震動が来た方へと振り返る。

 見れば、緑色の触手のようなものが無数に蠢いていた。

 ……見ただけで正気がごりごり削られそうな、大変おどろおどろしい見た目の物体だ。滑らかな動きからして、機械の類ではなさそうである。数は百本以上あるように見え、その長さはざっと三百メートル超え。太さも数十メートルは下るまい。

 花中は己の目を構成する粒子を組み替え、望遠鏡のようにして触手の姿を観察。そうして見て分かったのは、その触手がなんらかの植物によって構成されているという事だ。

 そしてその植物の根元で、小さな土壌生物……何匹かのミミズが喜ぶようにうねうねと動いているのが、粒子の動きから観測出来る。加えて言えば、そのミミズの動きに合わせて植物も動いているようだ。

 ミミズは土壌を掘り進む事で通気性を良くし、その糞は微生物によって分解される事で栄養豊富な土となる。更に糞は粒状であるため、土壌構造を細かくて隙間が多い……植物が根を伸ばすのに適したものへと変える。ミミズが生息する地域において、ミミズが土壌、その土壌に根付く植物に与える影響は計り知れない。

 では、そんなミミズがミュータント化したなら?

 ……出した糞で植物で植物が異常生長、なんて事もあるかも知れない。そして栄養を与えた側として植物の行動をコントロールする、なんて真似が可能でもおかしくない。ミュータントなら、それぐらいは易々とやってのける筈だ。

 だから一番の問題は、

「花中さん花中さん。アレなんかこっちに来てますよ?」

 そのようなミミズが作り出したであろう危険物体が、花中達の方に向けて接近してきている事である。植物なのにどうやって動いているんだ、とかなんとかは、もう今更考えるのも野暮というものだ。

 このままではあの植物? らしきものによってお祝いパーティーは台なしだ。いや、それどころか直進を続けた場合、避難所に到達するかも知れない。見た目がキモい以前に、人間達からすれば巨大で危険な物体である。もしも襲撃されたなら、作り上げた避難所が壊れるだけでは済まないだろう。どうにかしてあの植物的な巨大物体を止めねばなるまい。

 しかしそれは、決して難しい話ではなかった。相手は恐らくミュータントだが、花中達もまたミュータントだ。コトアマツやアナシスのような例外的存在でない限り、力の大きさでは互角の筈。

 そしてこの場には今、何十という数のミュータントが集まっている。

 彼女達の力が借りられれば、こんなものは苦難でもなんでもない。

「皆さん! 行きましょう! あの植物を、止めないと!」

 花中は元気よく、前向きな声で助力を求めた。

「「「「「えっ。やだ」」」」」

 ミュータント達の答えは、全員一斉に返ってきた。

 返ってきたが、それは花中の求めるものではなかった。

「……皆さん! 行きましょう! あの植物を、止めないと!」

「いや、聞こえなかった訳じゃないから」

 ミリオンからツッコミを入れられ、花中は口を空回りさせる。

「……え、えと……なん、で?」

「いや、あんなデカいの相手するとか面倒臭いし」

「子供を危険な目に遭わせる訳にはいかん」

「あまーいおかしをたんのうするのに、いまはいそがしいのー」

「余も同じ」

「食べ物を残して何処かに行くなんて、そんな無礼は出来ませんわ」

「あ、あんな大きな化け物、どうやって倒すのよ! 危ないじゃない! それよりも逃げないと!」

【バルルオオオオオン】

「ウホッ!」

 それから無意識に理由を問えば、様々な理由が返ってきた。一部何を言ってるのかさっぱり分からないのを除けば、成程、どれも尤もな理由だ。少なくとも彼女達にとっては。

 手助けしてくれる者達皆無。地球の命運が掛かっていた時は助けてくれたが、そうでなければ各々の考えで行動する。ちょっと考えれば予想の出来た展開に、花中は口許を引き攣らせた。

 だけど、まだ不安は覚えない。

「ふんっ。使えない連中ですねぇ。ですが花中さんご安心を! この私が一緒に行きますよ!」

 例え世界の全てが敵になろうとも、一番の親友は自分と一緒に来てくれると信じていたから。

 フィアは花中の手をぎゅっと掴み、満面の笑みで向き合う。フィアがとても上機嫌なのは、他の子達に来る気がない、つまり花中を独り占め出来るからか。花中を独り占め出来るのなら、例え戦場だろうとフィアは構わないのだ。

 或いは、花中と一緒ならどんな困難だろうと簡単に乗り越えられると、心から信じているのかも知れない。

 花中も同じだ。フィアと一緒なら、どんな困難でもなんとか出来るに違いない。

 そう、どんな困難でも。

「……うんっ! あ、でも行く前に、一つお願いが、あるんだけど」

「どーせ殺さないようにというのでしょう? それぐらい分かっていますよ。まぁ善処だけさせていただきますね……しかしあのような虫みたいな奴と友達になれるとお思いなのですか?」

「もちろんっ」

 フィアから問われ、花中は迷いなく答える。満面の笑みを浮かべ、一切の不安もなく、堂々と胸を張った。

 例えそこには、なんの根拠もないとしても。

「だって、みんなと友達になれたら、とっても素敵でしょ?」

 この身体と心を突き動かすものが、幼子のような願望だとしても。

 ――――日々を全力で、悔いがないように生きる。

 大桐花中という『生物』がその生き方をするために必要な事は何か? とてもシンプルなものだ。たくさんの、新しい友達を作る事。色んな子と仲良くなり、色んな子の事を知り、みんなで遊ぶ事。これが出来なければ、生きている意味がない。

 勿論それが難しい生き方なのは承知している。野生の世界で、何百もの他種と友達になった生物なんていないのだから。だけどいないという事は、無理という意味ではない。やらない理由にはならない。

 そして自分には、心強い親友がいる。

 能天気で、自分勝手で、何時も背中を押してくれて、自分を孤独という暗闇から助けてくれた――――フィアという親友が。

 その親友と手を繋げば、もう、躊躇いなんて残らない。

「よーし! それじゃあ、しゅっぱーつ!」

 宵闇が満たす世界に、少女の明るい声が響く。

 荒廃した町の跡地に、数えきれないほどの笑い声が響くのだった。




これにて完結です。
見直せば、2016年6月から投稿しているので、三年半ほど連載してきました。総文字数も二百万字を超え、話数も二百超え。
……長い。
書きたい事を書きたいように書き続けてきましたが、読んだ方が少しでも楽しんでもらえたなら幸いです。

長らく読んでいただき、ありがとうございました。





……本編は完結しましたけど、おまけとかはまだ書きますよ?
また2020年6月頃、本作の七年後のお話を新作として投稿予定です。


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余談の章
余談肆 届かぬ想い


 ――――助けてください。

 唐突に、何処からともなく聞こえてきた声。声と言っても純粋な空気の振動ではなく、かといって頭の奥から湧き出す幻聴とも異なる、得体の知れないものだ。どのような原理で発せられたものか想像も付かず、故に自らの手では再現すら出来ない。

 そんなものを耳にした星縄飛鳥は、しかし動揺や驚きを覚えはしなかった。何故ならその声は聞き覚えがあるものだったから。

 情けなくて、必死で、だけど何処か楽しげで。

 間違いなく『あの子』の声だと、星縄は確信した。同時にあの子が暮らす土地の方から、途方もなく大きな力が発せられていると気付く。感じられる力の強大さ、更に地中で蠢く『何か』の動きが活性化している事からして、この星の命運を左右する事件が起きているらしい。

 そんな大事件の傍に居るのだから、あの子が助けを求めてくるのは必然だ。だというのに何故楽しげなのか? 察するに何かを企んでいて、使命感や絶望もなく好き勝手にやっているのだろう。しかもあれだけ大きな声で叫んだのだから、恐らく色んな『友達』がやってきて、どんちゃん騒ぎになる筈。自分の出る幕などないかも知れない。

 だからといって、静観を決め込むつもりなど毛頭なかった。

 助けに行きたい。これが星縄の偽らざる気持ちだ。あの子ともそう約束したし、この『事件』が起きる事も予期していた。あの子とのケンカも、この事件に対抗するための計画の一つ。ならばどうして呼ばれたのに駆け付けないなんて真似が出来るのか。

 行きたい。何がなんでも、例えこの身が朽ちようとも。

 だけど、行けない。

 何故なら星縄飛鳥は現在――――人間を丸呑みに出来るぐらい大きなワニの口内に居たのだから。

「ちょ、なんでこのタイミング……あ、駄目駄目駄目これ無理!? ほんと無理ぃ! ヤバいヤバいヤバいぃぃぃぃ!」

 インドネシア某所。人の手が入っていない熱帯雨林の川辺にて、星縄は悲鳴染みた声を上げていた。尤も密林の中に響き渡ったその声を聞くのは、月と星だけが輝く真夜中を満喫している夜行性の獣ばかりだが。そして星縄をその口の中に収めているワニも彼女の悲鳴を聞き、喜び勇むようにますます顎の力を増していく。

 星縄はワニの上顎を両手で、下顎を両足で押さえるも、背筋は時間が経つほどに少しずつ曲がっていた。腕と足もぷるぷると痙攣するように震え、限界の近さを訴えている。力を込める全身がギチギチと鳴り、文字通り今にも弾けてしまいそうなぐらい筋肉は張っていた。正直そろそろ限界なのだが、ワニをどうこう出来そうな気配すらない有り様。ここで諦めれば一瞬にしてぐっちゃぐちゃの、自然界的には美味しい肉塊に早変わりだ。

 本来星縄がその身に宿している力……ミュータントの能力を用いれば、ただのワニに負けるなどあり得ない。このワニは体長十メートル以上という非常識なサイズだが、だとしても種類としてはあくまでイリエワニ。原水爆の直撃を受けようとも傷一つ付かないほど丈夫で、同じくらい頑強な生物に傷を与えるほどの強さがある星縄が負ける道理などありはしない。

 そう、相手が普通のワニなら。

 ところがどっこい、このワニも()()だったようで。

「(そりゃまぁいてもおかしくないけどねワニのミュータント! というか鱗を擦り合わせて放電するのが能力なのに、なんでこんなに力も強いんだよ!?)」

 抱いた疑問を解くべく己が『能力』、ミュータントの能力を模倣する力を発動。このワニが生成した電気を体内に流し、筋肉の動きを補佐しているのだと星縄は理解した。ならばこれを真似れば少しはこの力に迫れるのではないかと、星縄はイリエワニの怪力の原理を再現しようする……が、鱗なんて持たない人間の身ではろくに発電出来ず、流せる電流も僅か。殆どパワーは生まれず、まるで役に立たない。むしろどうでも良い事にエネルギーを使ってしまい、一層追い込まれてしまう。

 ミュータントの能力というのは、超能力ではなくあくまで『身体機能』の一つだ。故に肉体の作り次第で能力の強弱、更には性質までもが変化する。星縄の模倣能力は殆どの能力を真似出来る反面、専門化されていない身体であるがために模倣元ほどの力は出せない。そのため能力の手数で勝負するか、或いは人間という『大型動物』の体重差で押し切るのが基本戦略。この巨大イリエワニのような、体重で圧倒的に負けている相手との相性は最悪なのだ。

 このままでは一矢報いる事すら出来ずに食べられてしまう。例えこの身が朽ちてもあの子の下に駆け付けようと考えていたが、本当に朽ちては駆け付けられないし、手負いで辿り着いても迷惑を掛けるだけ。どうにか安全に逃げ出さねばならない。

 そもそも、何故星縄はこんな目に遭っているのか?

「つまり、お母さんよりあなた達の方が強いのね?」

【ツヨイツヨイ】

【シャベリ、ウマイ】

【カシコイ】

 それは星縄のすぐ近くの川岸にて、()()()()()()()の幼体とお喋りをしている女性――――大桐玲奈の救助に来たのが遠因である。

「玲奈さん! もう無理です! ほんと助けてください! 石投げ付けるでもなんでも良いからコイツの気を惹いて!」

「えー……これからこの子達の噛む力がどんなもんか、測定とかしたかったんだけど」

「計れるような強さじゃないって、この母親の強さを見れば分かるでしょ!? というかなんでコイツ、ボクを襲うんですか!? ボク達に敵意がないって分かるでしょミュータントなら!」

「そういやそうね。ねぇ、なんでお母さんはあの人間を食べようとしてるのかしら。私達、あなた達を襲うつもりなんてないのだけれど」

【エサ】

【エサダ】

【マルカジリ】

「あら大変。私達餌らしいわよー」

「やっぱりそうですよね最初から分かっていましたよこん畜生ォォォォォッ!」

 『殺害宣告』をされたのに、どうしてこの人はここまで暢気なのか。というよりちょっとした余波であの世行きのこの状況で、どうして会話が出来るほど傍でニコニコと子供のように笑っていられるのか。

 玲奈に対し、ツッコミを入れたいところは山ほどあった。あったが、しても無駄だと星縄は知っている。この元上司は一児の母になったところで、ろくに自重などしやしない。

 何しろ根っからの()()()()なのだから……

 

 

 

「いやぁ、間一髪だったわねぇ。非常食のコンビーフ缶詰で見逃してもらえなかったら、あの世行きだったわ」

「玲奈さんは、ですけどね。あのチビ共から逃げるだけならなんとか出来ます……逃げなかった所為で危うく喰われるところでしたけど。それに花中ちゃんからのメッセージ、既読スルー状態だし」

「だってまさかそんな事になってるとは知らなかったんだもん。でもまぁ、地球が今も無事って事は、花中がなんとかしてくれたって事なのよね?」

「……恐らくは」

「さっすが私の娘ね! 私も人類の危機なら何回か救ったけど、地球を救うなんてスケールが違うわ!」

 深夜の森の中。パチパチと火花を飛び散らせる焚き火を囲い、心底嬉しそうに笑う玲奈を見て、星縄は呆れたように肩を落とす。

 五体満足でイリエワニから逃げられたが、あれは本当に危なかった。玲奈が語ったように、非常食として持ち運んでいたコンビーフの缶詰で見逃してもらえなかったら、二人揃ってインドネシア生態系の糧にされていただろう。

 なんとも酷い目に遭った訳だが、ある程度は覚悟していた。

 そもそも星縄が此処インドネシア諸島を訪れた理由は、大桐家夫妻を救助するため。ムスペルにより文明が崩壊した今、ただの人間に大海原を渡る術はない。故に『超人』となった星縄が生身で海を越え、二人を日本まで連れ帰る。そして花中()と会わせる……それが花中に酷い事をしてしまった、せめてもの償いであると信じて。

 ミュータントと化した星縄にとって、日本とインドネシアの間に横たわる海を生身で横断する事は容易い。最早秘匿される事もなく暴れ回る怪物達も、我が身一つで蹴散らす事が出来る。だがミュータント相手はそうもいかない。小さな生き物であれば体重差で押し通せるし、互角の相手も逃げに徹すればなんとかなるが、人間よりも大きな生物となると全く勝ち目がなかった。

 両手の指では数えきれないほどの危機を切り抜け、インドネシア中を駆け抜け、星縄は玲奈達を探した。しかしながら正直、あまり期待はしていなかった。怪物だのミュータントだの言っても本質的には野生動物。ただの人間に恨みなんてないだろうが、優しくしてくれる理由もない。怪物同士の闘争に巻き込まれるか、ミュータントに餌として狙われるか……いずれにせよ生きている可能性は皆無であり、腕の一本でも見付けられれば御の字と、殆ど諦めていたのである。

 ――――そのような気持ちでいたが、十日以上の時間を費やし星縄はついに玲奈を見付けた。五体満足の状態で、川岸に群れていた赤子のワニ十数匹と共に。

 考えられる中で最高の再会。ところが日本に帰ろうと星縄が伝えると、玲奈から「イリエワニのミュータントの卵が孵化したから、孵化した子供の何割がミュータントか知りたい。手伝って」という答えが返ってきた。いや、そんなのやってたらマジで死ぬから……という言葉をオブラートに包んで伝えようとした刹那、母親イリエワニが襲い掛かってきて……

 かくして冒頭の『ハプニング』に至る。

「それにしても、さっきはほんと助かったわ。星縄ちゃんのお陰でミュータントの子供のデータを持ち帰れたし」

「普通、そこは命が助かった事を感謝しますよ……ところで何を調べていたのですか? まさか単にミュータントとお喋りしたかった訳じゃないでしょう?」

「勿論。世代交代時のミュータント化比率を調べていたの。あの親から産まれた子供の総数は不明だけど、イリエワニの産卵数は確か六十~八十。ミュータント化していた子供が十五頭だから、あの親の子供に限ればざっと十八~二十五パーセントの確率でミュータント化しているわね。勿論サンプル数が全然足りないし、家系的なものもあるかも知れないわ。出来れば雌雄共にミュータント化していないつがい、片方だけがミュータント化したつがい、両方がミュータント化しているつがいの三パターンを十ケース以上用意したいところ。理想を言えば片方だけミュータント化のパターンは、雌雄どちらのケースも見たいわね。とはいえミュータント化していない個体じゃ聞き取り調査も出来ないしどうしたものか……」

 最初こそ説明するような話し方だったが、何時の間にか考察を述べ始める玲奈。その視線はもう星縄を向いておらず、自分の世界にどっぷり浸っている。

 先程まで命の危機に晒されていたというのに、なんとも能天気な人だ。

 ……自分はなんらかの理由で今死んでも構わないと星縄は思う。人類を守るためという名目で、色々な事をしてきた。悪事ばかりではないし、結果的に人類を守る手助けが出来たのだから善行の筈だが、それでも法や倫理に反する行いだ。運命だの神だの信じてはいないが、『天罰』があっても理不尽とは思わない。

 しかし玲奈は違う。彼女は人の世のために働き、実際何度も世界を救ってきた。現代の英雄を一人選べと言われたなら、星縄は間違いなく玲奈を指名する。本来なら万人に崇められ、褒め称えられるべき立場の人だ。頭からバリバリ噛み砕かれるような、不憫な死に方をして良い人ではない。

 何より彼女には、大切で、大好きな一人娘がいるではないか。

 いくら怪物好きとはいえ、死の危険を体験しておきながら、どうしてこうもニコニコしていられるだろうか?

「……何故、そんなに楽しそうなのですか?」

 無意識に、星縄はそう尋ねていた。

 すると玲奈は目をパチクリ。それから自分の両頬や口許をぺたぺたと触り始めた。どうやら、今の今まで自覚すらなかったらしい。

「あれ? 私、そんなに楽しそうな顔だった?」

「……そうですね。かなり」

「あらあら。ごめんね、不愉快にさせちゃったかしら」

「いえ、そうではないのですが。ただ、不思議に思っただけです。玲奈さんは確かに怪物好きですけど、今はもう娘さんもいる訳ですし、少しは自分の安否について気にしないのかなって……」

 疑問に思った理由を伝えると、玲奈は納得したように頷く。されどすぐに答えは返ってこない。口を閉じた玲奈は、しばし空を見上げた。星縄もその視線を追うように同じく空を仰ぐ。

 満天の、眩しいぐらい星がひしめく夜空。

 美しい光景だ……それが、文明の滅びを示すものでなければ。小さくとも都市の明かりがあれば弱い輝きは掻き消され、星々は疎らにしか見えなくなる。大都市ならば完全に消え失せるだろう。即ち満天の星空が見えるとは、この島から人の営みが消えた事を意味していた。

「……肩の荷が下りたってとこかなぁ」

 そんな空を見上げながら呟かれた玲奈の言葉。

 それだけあれば、星縄が玲奈の心境を理解するには十分だった。

「……玲奈さん、なんやかんや結構上の方の立場にいますからね」

「そうそう。最初は平の研究員に過ぎなかったのに、どんどん地位とか名誉とか付けられちゃったのよ。私は、ただ好きなように研究してただけなのに」

「その研究により生まれた人類文明への利益は莫大なものです。相応の地位が与えられるのは当然ですよ」

 愚痴をこぼす玲奈に、星縄はその功績を讃える。おべっかではない。玲奈がこれまで積み重ねてきた功績を知るからこそ、本心から星縄は元上司の事を尊敬していた。

「私みたいな身勝手人間にとってはね、立場なんて重石でしかないわよ」

 玲奈にとっては、嬉しい言葉ではなかったようだが。

「『ミネルヴァのフクロウ』は人類文明の存続が最大の目的。上に立つ者は、例えどんな時でもそう振る舞わないといけない」

「……………」

「最初はね、ただの演技だった。怪物と出会う度に、心の中ではワクワクしていたもの。だけど人間って単純なのよね。演技を続けていたら、それが本当になっちゃうんだから」

「玲奈さん……」

「花中が大きくなった頃には、本心からこの世界を守らなきゃって思ったものよ。柄じゃないのに……気付けば家族も世界も背負っていて、好きな事なんて全然出来ない有り様」

 つらつらと語られる想い。

 どの言葉も、決して褒められるようなものではない。しかし悪態でも強がりでもなく、沈んだ声で吐き出されるそれらに嘘は一切ないと星縄には分かり、責める事など出来なかった。

 それにここ最近顔を合わせていなかったとはいえ、昔は共に仕事をしていた間柄なのだ。玲奈の人となりはそれなりに理解している。彼女が色んな事を我慢させられたところも、幾度となく見てきた。やりたい事、したい事、守りたい事を何度も捻じ曲げられてきたのも知っている。

「不謹慎なのを承知で言わせてもらうと、何もかと滅びて、色々スッキリしちゃったのよ」

 ならばこの言葉が本心ではないと、どうして思えるのか。

 正直な想いをぶつけられて、星縄はゆっくりと頷いた。

「……そう、ですか」

「あ。勿論花中の事を重荷に感じた事はないわよ? 今でも世界で一番愛してる。でもあの子の周りには、頼もしい友達がたくさんいたからね。絶対生きてるって信じていたから、偶には羽を伸ばしたって、ねぇ?」

「その『ねぇ』にいっちゃうところが、普通じゃないと思いますけどね」

「否定はしないけどねー」

 けらけらと楽しそうに笑う玲奈。その顔から罪悪感や後悔は微塵も感じ取れない。

 無論帰国する術があったなら、玲奈はすぐ日本へと戻ってきただろう。彼女の娘好きは筋金入りで、世界が滅びたからといって消えるほど小さな想いではない。

 しかし帰れないのなら、とやかく悩んでも仕方ない。そしてここぞとばかりに好き勝手するなら、このタイミング以外にはないだろう。

「(……相変わらず『合理的』な人だなぁ)」

 懐かしくなってきた星縄は、思わず笑みが零れた。

「ちょっとー。なんで笑うのよ」

「そりゃ笑いますよ。懐かしくなったのですから」

「むすー」

 小馬鹿にされたと思ったのか、玲奈はぷくりと頬を膨らませる。子供らしい反応。それは正に昔の彼女らしくて、ついに星縄は大笑い。笑っていると玲奈も噴き出し、一緒に笑い始める。

 まるで幼い子供のよう。

 否、まるでではない。大桐玲奈は親になろうとも、子供の頃の童心を失っていないのだ。今まではちょっと忘れていただけ。それがなんとも愛らしい。

 だから星縄はこの人を嫌いになれない。実の娘なら尚の事だろう。

 彼女達が顔を合わせたら、さて、どうなる事か。

 罪滅ぼしのつもりがこれじゃあ『報償』だなと、星縄は日本への帰国を楽しみにするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ところで訊きたかったのですけど、旦那さんは今何処に? ボクが聞き付けた噂では一緒に居るという事でしたが」

「あー、そういえば何時の間にか姿が見えなくなっていたのよねー……植物のミュータントでも見付けて、ふらーっとはぐれちゃったんじゃない?」

 アンタが虫のミュータントを見付けてふらーっとはぐれたんじゃないのか。

 脳裏を過ぎる言葉を、星縄は飲み込み、がっくりと項垂れた。正直断言は出来ない――――この()()()()()()ならどちらがそれをやらかしたとしても、或いは二人同時というのもあり得るのだから。そしてあの旦那も、娘である花中が大好きな反面、玲奈に負けず劣らず『合理的』である。

 ならばきっと、向こうも同じような展開が起きている筈であり。

「……日本に帰れるの、何時になるのかなぁ」

 最早確信に近い嫌な予感に、星縄は乾いた笑みを浮かべるのだった。




どうも、お久しぶりです。
完結後半年経ってようやくおまけ投稿が始まりました(なお次回未定)

最終章で星縄さんが来なかった理由はこれです。玲奈さん、相変わらず自由。
そんな彼女が私は好きです。


それとお知らせ。
本作の続編、ついに投稿始まりました! よければ読んでいってください(露骨な宣伝)
https://syosetu.org/novel/226315/


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