勝利を刻むべき水平線は (月日星夜(木端妖精))
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なかった
第一話 目覚め


「撃ちます! 当たってぇ!!」

『――――ッ!』

「装備換装急いでっ!!」

『オオ――』

「ぁあああっ!?」

『――――!!』

「っ、こんのぉ、やったわね!!」

 

 

 

 

 怒号と、悲鳴と、怨嗟の声が海上にひしめき合っていた。

 

 

 

 砲火が空を焼き、黒煙が雨のように降り注ぎ、一人、また一人と沈んでいく。

 そこに絶望はなかった。

 そこには希望だけがあった。

 

 深海棲艦との最終決戦。集まったのは全世界の艦娘。

 練度の高低関係なしに戦いに挑み、作戦は等しく「前進あるのみ」。

 

 敵が沈む。

 味方は沈まない。

 

 どれだけ傷つこうと、どれだけ熾烈に攻められようと、近くの艦娘と手を取り合い、協力して敵を打ち倒していく。

 勝利は目前だった。

 

 敵の首領である深海棲艦さえ倒せば、世界に平和が戻る。

 そのはずだったのだ。

 

「――――っ!!」

 

 誰かの悲鳴が響いた。

 直後、声を上げた艦娘とは別の誰かが沈んだ。

 それは希望だった。

 全艦娘の中で最高峰のパワーとスピードを持つ艦娘が敵首領と交戦し、討たれた。

 激震が走る。

 

 この戦いにおいて人類が彼女を心の支えにしていたのと同じように、多くの艦娘が彼女に心を預けていた。

 彼女が沈まない限り私達も沈まない、と。

 

 だが希望は砕けた。

 広がる風に不安は伝播していって、戦線が崩壊した。

 

 不屈の艦娘がいくらいようとも、もう、状況は覆せなかった。

 

 

 

 

 

 

「綺麗な空だなぁ」

 

 半球状の青空を見上げた吹雪は、波に体を揺らされながら呟いた。

 耳朶(じだ)を打つ穏やかな音色にすぅっと息を吸い込めば、肺いっぱいに(しお)の香りが広がった。

 (にわ)かに粘つく、だけど爽やかな空気。この天気にぴったりの味。

 

「……はふー」

 

 あくびをするように大きく息を吐き出した吹雪は、空に向けていた顔を戻して周囲を見回した。

 見渡す限りの青、青、青。太陽光に煌めく白。

 知識が囁く。これは海。走るための道。敵への直結路。

 自らのテリトリーであり、敵のテリトリーでもある生命の泉。

 

「……、……。」

 

 上下や左右に細かく揺さぶられる体に、肩に食い込む厚布。背負った艦橋(かんきょう)はずしりと重く、革の布に吊り下げられてお腹の前で揺れる連装砲は、向ける相手がいないためか、どこか寂しげだった。

 何気なく浮かせた手が冷たい鉄に触れ、指の腹で撫でれば、痺れに似た感覚が指先に残った。

 

「……なんで私、ここにいるんだろう」

 

 ぽつりと呟く。

 風の音がそれに答える。

 今ここに艦娘・吹雪が誕生した事に意味など無い。

 ならば今この時に生まれた吹雪に役割は課されない。

 だから吹雪は自分が何をすればいいのかがわからず、ただこの場に立っていた。そうして波に揺られていた。

 

「……ん」

 

 首の後ろに手を回し、もう片方を天に突き上げてぐぐーっと伸びをした吹雪は、しっかりと艤装(ぎそう)を背負い直し、連装砲を抱え上げて、なんとなく航行を開始した。

 自分がなんのために生まれたのか。自分は何者なのか。それらならば全て、この世に発生した瞬間から吹雪の中に答えがあった。

 かつての艦艇(かんてい)の魂が宿った戦う少女、艦娘。

 人類に(あだ)なす深海棲艦という異形どもを駆逐し、海に平和を、人類に未来をもたらす存在。

 ……だが、どうだろう。

 本能が囁いている。海の上へ浮き上がった瞬間に得た知識が、こう言っている。

 『人類に未来はない』……と。

 それはすなわち、艦娘にも未来はない、という事だ。

 

「……ひなたぼっこしたいなぁ」

 

 夏の空は高く、ぎらぎらと照りつける太陽は容赦なく体から水分を奪う。

 だが艦娘は航行する際に纏う防護フィールドに守られ、温度を保たれている。

 眩い日差しはぽかぽかと陽気で、足下で波立つ海と水煙は涼しい。

 気を抜けば眠ってしまいそうな、そんな感覚。

 だがここは海の上。安全な場所とは限らない。

 にも関わらず吹雪がこんなにも呑気(のんき)なのは、生まれたてで戦いを経験していないから……という理由だけではない。

 この吹雪は……少し、ほんの少し、変だった。

 その理由は、この先で出会った初めての知的生命体から教えられる事になる。

 

 2038年8月1日。

 どこまでも澄んだ静かな空は、水平線の彼方まで続いていた。



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第二話 最初の出会い

「あっち? ……こっち? ……えぇっと……」

 

 緩やかに前進しながら、吹雪は自身の武器である連装砲の表面を眺めてぶつぶつと呟いていた。

 不気味な独り言のように見えるが、そうではない。彼女は連装砲の表面から顔を覗かせる妖精さんと話しているのだ。

 といっても、妖精さんは明確な言葉を持たない。人や艦娘とは意思のみでやり取りし、それは受け取る艦娘によって言葉の内容が変わる。

 さて、ではなぜ今、吹雪が妖精さんと意思を交わしているのかといえば、この広大な海での道しるべを妖精さんに担ってもらっているためだ。

 妖精さんには種類がある。砲の妖精さん、魚雷の妖精さん、バルジの妖精さん、艦載機の妖精さん、猫の妖精さん……それぞれ役割が違う。だが、管轄外の事も多少こなせるというのは、艦娘なら誰もが知っている常識だ。吹雪の傍にいるのは連装砲と魚雷の妖精ではあるが、彼女達もある程度他の役割もこなせるという事である。今は羅針盤の妖精として吹雪に進路を指示している。

 だがそれはあまり正確ではなく、ころころと行くべき道が変わる。だから吹雪は何度も聞き返しながら進路を切り替えていた。

 

 繰り返して、何度目か。

 右に200メートル進んで、左に50メートル進んで、旋回して100メートルほど進んで……。

 あれ? と吹雪は首を傾げた。

 なんだか、さっきから同じ場所をぐるぐると回り続けている気がする。

 海には障害物がなく、指標もないために確信はできなかったが、実は吹雪の感じた事は正しい。

 吹雪は(いびつ)な円を描くように回転し続けていた。

 管轄外であるから能力が下がるとはいえ、だからといってすぐに気付けるようなミスを正さない妖精さんではない。にも関わらず、吹雪が半ば確信するまでの長い時間、妖精さんは同じように指示を出し、吹雪を動かしていた。

 妖精さんに悪意がある訳ではない。そのように妖精さんを狂わせるモノが、すぐそこにまでやってきていたのだ。

 

「……?」

 

 白い壁が迫ってきていた。

 横幅は大きな建物が何個も連なっているようで、縦幅はビルよりも高く伸びている。

 進路上に突然現れた不可思議なものを見上げた吹雪は、徐々に速度を緩めて足を止めると、困惑しながらも後退を始めた。

 なんだかよくわからないが、あれに触れてはいけない気がする……。

 そう思っての行動だったのだが、緩やかに蠢いて見える壁の移動は意外にも素早く、あっという間に追いつかれて飲み込まれてしまった。

 そう、飲まれたのだ。壁に。

 それは冷たい水滴の集合体だった。

 さああっと体を舐めてゆく濃い霧。高密度の水滴の集合体。

 辺りの温度が10℃くらい一気に下がったように感じられて、吹雪は身震いをしながらも砲をしっかりと抱えて警戒した。

 明らかな異常事態だ。戦闘の経験がないとはいえ、さすがに備えくらいはする。

 それに意味があるかどうかは……すぐに判明する事となる。

 

 

 先の見えない霧の中を何時間も進み、妖精さんと会話しようにもうんともすんとも言わず困り果てていた頃に、唐突に霧が晴れた。

 しかしそれは完全にではなく、まるで吹雪を取り囲むアリーナを作るかのように、円状に退いた霧の中にぽっかりとした空間が現れた。

 (にわ)かに空を覆う霧も晴れ、きらきらとした日射しが一筋差し込んでいる。真っ黒な海はそれに照らし出されてなお不気味だった。

 波を割いて前へ進む吹雪の耳に、ふと何かの音が引っ掛かる。

 それは心臓の鼓動のような、いや、人の、小さな女の子の声のようでもあった。

 はたして、それは嗚咽(おえつ)であった。この世のすべての悲しみを凝縮した喘ぎ。

 しゃくりあげ、喉元に空気を押し込めて声を殺し、堪え切れずに声を漏らす。その繰り返し。

 音の発生源を探して顔を(めぐ)らせた吹雪は、しばらくして海面に座り込む一人の少女を発見した。

 

(……艦娘、かな)

 

 海の上に立つ人型の少女。この場合は『座っている』だが、それは艦娘か、深海棲艦のどちらかだ。

 吹雪にはその少女がどっちなのかが判断つかず、砲を持つ手に力を込めて前進し続けた。

 はっきりとした輪郭が浮かび上がってくる。

 闇のような黒髪は海に浸かってばらけるくらいに長く垂れていて、華奢な体は丸められ、小さな肩と細い腕が震えていた。子供の両手は顔に押し当てられ、半分以上を覆っている。スカートから覗く白い膝は吹雪の方を向いていて、だから吹雪は、彼女が女の子座りになって泣いているのだとわかった。

 

 いったいどうしたのだろう。

 

 小首を傾げて疑問に思う。

 こんな場所で、たった一人で泣いている。

 何があったのだろうか。まさか、仲間がみんないなくなってしまったとか?

 それとも自分と同じように発生したてで、されど何をしていいかわからずに泣き出してしまった?

 考えるうちに同情的な気持ちが膨らんできた吹雪は、とりあえず声をかけられる位置まで近寄ってから止まった。一応不用意に近付き過ぎないようにはしているが、これが必要かどうかはよくわからなかった。

 

「あのー」

『…………』

 

 推定艦娘の少女は、吹雪が間近まで来て声をかけても、ただ小刻みに肩を震わせるだけで反応らしいものは見せなかった。

 一度声をかけた以上反転してこの場を去る事ができなくなってしまった吹雪は、眉を八の時にして、前に伸ばしかけた手を宙に彷徨わせながらも少女を観察した。

 見た事のない艦娘だった。

 いや、吹雪は生まれたばかりなのだから、今ならもれなくどの艦娘も見知らぬ艦娘なのだが、そうではなく、なんとなく生まれ持った知識に該当しない者だと感じたのだ。

 だがそんな違和感は些細なもの。波の音と霧が動くごうごうとした風の音に流されていって、吹雪はただ、少女が実は泣いてなどいない事に気付いただけだった。

 

(……なんなんだろう、この子)

 

 この少女、先程から涙を堪えるような声を繰り返している癖に、ただの一滴も涙を零していない。だというのにずっと悲痛な声は続いていて、傍にいる吹雪まで泣きたくなってきてしまうくらいだった。実際、悲しみと苦しさは喉元までせり上がり、穿つようなツンとした痛みが眉間の間にあって、それは徐々に圧力を増している。瞳の表面も潤んできていて、一瞬視界が歪んだ。

 

(んっ……)

 

 胸の内から溢れてくる悲哀をなんとか押し込めて、それから数度大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせた吹雪は、目を(またた)かせてからそーっと少女の(もと)へ移動していった。

 

「大丈夫? どこか怪我してるの?」

 

 砲を()ろし、(かたわ)らで膝を折る。

 小さな子へ話しかけるような優しい声音は、しかし少女を動かすには至らないようで、またも反応は得られなかった。

 だが吹雪はめげない。至近で見ると彼女の手の平から黒い線のようなものが何重にも飛び出ていてるのを見つけてしまって(おぞ)ましさに腰が引けてしまったりもしたけれど、それでも生まれて初めて出会った同胞だ、なんとしてでも意思の疎通がしたくて懸命に話しかけ続けた。

 少女が吹雪の言葉に反応してくれたのは、それからまた何時間もした後だった。

 

 

「……妹さん、探してるの?」

『…………』

 

 空は黒く塗り潰され、満天の星に彩られている。

 星明かりは幻想的に海を照らし出し、この霧の中の空間は光が反射して、まるで大プラネタリウムの真ん中のようだった。

 ここまでの僅かな会話で――吹雪が話しかけ、少女が首を縦か横に振る――得た情報を元に問いかければ、少女はこくりと控え目に頷いた。

 聞いたところによると、この少女にはとても仲の良い姉妹がいたらしいのだけど、どうやらはぐれてしまって悲嘆にくれているらしい。ならば探せば良いじゃないかというと、事はそう単純ではないみたいだ。

 一緒に探そう? と吹雪が促しても少女は首を横に振るばかりで動こうとしない。

 もしかしたらその姉妹はもう水底に沈んでしまっているのかもしれない。そうでなくとも、遠く離れたどこかに行ってしまっているのかもしれない。だからこそここで泣いていたのだろう。考えを巡らせた吹雪は、だけど直接『そうなのか』と問いかける事はできなかった。吹雪とて沈む事は怖い。つい今朝方生まれたばかりなのだから特にそうだ。轟沈の恐怖はずっとずっと先にあるはずのものなのだから、今そんなのを突き付けられても到底許容できずに困ってしまう。無意識下の忌避感が(ゆえ)に妹さんがどうなっているかの正確な話は聞けていないのだ。

 

 少女を慰めるように背中を撫でてあげると、身を震わせた少女が手で顔を覆ったまま吹雪に顔を向けた。

 (くだん)の妹さん……問いかけ続けて得た答えではなぜか『弟』という事になっていたが、吹雪の知識にある艦娘の特徴を挙げた限りでは、その子は黒いうさみみカチューシャをしていて、丈の短い制服を着ていて、『連装砲ちゃん』なる自立稼働兵装を使役していて、おまけにレストランで働いていたらしい。

 最後の働いていた云々は吹雪にはよくわからなかったが、特徴からどの艦娘の事を指しているのかはなんとなく理解できた。艦娘なのだから女の子なのだとも。その名前まではわからなかったが……それでも、会話のきっかけを掴むにはそれで十分だった。

 

『……』

「……?」

 

 ぽそり、ぽそりと少女が話す。

 それは蚊の鳴くような小さな声だった。

 瀕死の人間が今際(いまわ)(きわ)に死力を振り絞って話すかのような活力のない声。

 初めて少女が発した声を聞き逃すまいと耳に意識を集中させた吹雪は、彼女が人の名前を繰り返し呟いていると気づけた。

 おそらくは彼女の弟……妹だと言う艦娘の名前だろう。そちらは聞き覚えがなく、まったく何型かすら予想もできなかったが、しかし吹雪に一つの目的を与えてくれた。

 その名前を持つ艦娘を探そう。そして、この子と会わせてあげよう。

 100%親切心からくるお節介。吹雪にこの少女を放ってあてどもない旅を再開する気は皆無だった。

 何か目的を持たなければそのうち気力を失くして、だだっ広い海の上に立ち尽くして泣いてしまいそうだったからというのもあるが、何をするにしても目的は必要だったから、これは渡りに船だ。

 

「ね、私がその子を探してあげるから……お姉ちゃんと一緒に行こう?」

『…………』

 

 初めて掲げた目標は吹雪に生きる活力と熱意を与えてくれた。胸がぽかぽかするような……両拳を握りしめて、明日に向かって吠えたくなるような、そんな熱。

 強い気持ちを胸に秘め、努めて優しく語りかけた吹雪に対して、少女は首を横に振った。

 

「どうして?」

『…………』

 

 首を振った意味を問いかけても少女は沈黙を貫いて何も語らない。

 どうしてだろうか。泣き疲れて動けなくなってしまったから、動けないのだろうか。

 もしそうなら、手を引いてでも連れて行ってあげよう。こんな場所に一人でいては危ないし、寂しいだろうから。

 そう思って少女の手をそっと握った吹雪は、その手を下ろさせて――

 

「ひっ」

 

 ひゅ、と空気を吸い込むように小さな悲鳴を漏らした。

 

「ぁ、ぁ、な、なに……」

『…………』

 

 ぽとりと少女の膝にもう片方の手も落ちる。そうすると露わになった顔は……全てが全て、黒い線に塗り潰されていた。

 目も、鼻も、口も、全部が闇のような黒色に隠されてしまっている。見る者の不安を掻きたてるような、先程感じた悍ましさがなんでもない事に思えるような生理的な嫌悪を抱いて、吹雪は思い切り背を仰け反らせた。

 握り拳の中にあるネームペンでぐちゃぐちゃに書き乱したかのような乱雑さは空間にまで届いていて、少女が身動ぎすると線は不気味に蠢き、その顔の動きに張り付いていた。きっと彼女が立ち上がろうと、あたかも空間を侵食している黒い線は離れないのだろう。

 心を食い潰されてしまいそうな重圧と、背に冷や汗が流れる凄まじい悪寒。知らず、両手を後ろについて少しでも離れようとしていた吹雪は、自身の呼吸が浅く速いものに変わっているのに気付いた。

 全速力で走った後のような息のし辛さ。それから、全身の骨と筋肉が疲弊してぶるぶると震えている。彼女の傍にいるだけで体力と精神力を吸い取られているようだと錯覚して……吹雪は、ぶんぶんと首を振ってそんな酷い考えをなんとか捨て去った。

 手の位置をちょっとだけ前にずらし、体を戻す。頭の中も身体も恐怖一色だったが、生来の優しさだけでこれを制し、乗り越えた。一人ぼっちで泣いている女の子を傷つけるような振る舞いはしちゃいけない。義務感と責任感と年長者(おねえちゃん)としての自負が吹雪に踏み止まる事を選択させた。

 もしどれか一つでも欠けていれば、きっと吹雪は引き攣った悲鳴を上げてすぐにでも逃げ出していただろう。そして二度とこの場所には戻ってこなかっただろう。

 だがそうはならなかった。

 少女は未だに傍にいる吹雪を不思議そうに――表情はわからないながらも、雰囲気でそう判断できた――見上げていて、吹雪も目をそらさずに真っ黒な顔を見返した。

 

「ぃ、いっしょに、いこ?」

 

 無理矢理笑顔を作って共に行こうと誘う。声は、引き攣っていなかった。ちょっとばかり震えてはいたが、なんとか普通に語りかけられた。

 今度は拒絶されなかった。されど肯定もされなかった。

 首を振る事なく、少女はじっと吹雪に顔を向けている。どこまでも恐ろしく、今にも取り込まれてしまいそうな……。

 

「ぉ、お姉ちゃんが、引っ張っていってあげるから……ね?」

 

 強く目をつぶって弱気の虫を追い出した吹雪は、声を震わせながら言い(つの)った。

 ここにこの子を一人で置いていく訳にはいかない。この子は自分が守らなければ。そういう風に彼女を守るべき対象と考える事で少しずつ平静を取り戻していき、徐々に震えも収まってきた。躊躇いがちに手を差し出せば、少女はそれを目で追うように顔を下へ向けた。

 それから、小さな手を持ち上げて、吹雪の手の平の上に――。

 

『ヤメテオケ』

「っ!?」

 

 突如響いた声にはっとして、すぐさま砲を抱えて立ち上がった。振り返った先には、霧に取り巻かれてこちらに歩いてくる背の低い少女が一人だけいた。

 少女といっても普通ではない。肌は青白く、大きな怪物の尻尾が生えた、膝下の半ばからがない……深海棲艦の女の子だった。

 アフガンストールに似たマフラー。背負ったリュック。黒皮の布服。大きく開かれた胸元と滑らかなお腹。

 

「戦艦……レ級……」

『フム、私モ有名ニナッタモノダナ?』

 

 思わずといった様子で呟いた吹雪に、彼女は特徴的な笑みを深めて――そうすると、より狂気的になった――なんでもない事を呟いた。それさえこの空間の中では不思議に響いて、吹雪の体を強張らせた。

 まさか初めて出遭った敵が戦艦級になるとは思わなかった。それもただの敵ではなく、黄金色のレ級(超進化態)であるのは、不幸なのか幸運なのかわからないくらいだった。

 ただ一つわかる事は……。

 

「ぁ……」

『……』

 

 きっと吹雪は、後ろにいる少女を庇う事も、自分が逃げ延びる事もできないだろうという事実だけだった。



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第三話 予期せぬ遭遇

 背後に座り込む少女をちらりと見やった吹雪は、彼女が武器を所持していない事、力が抜けたようにへたり込んだままな事を改めて確認し、自分が今絶望的な状況に立たされていると認識した。

 迫りくる最上級の力を持った敵。

 対するは、生まれたてで最低の練度の自分(吹雪)と、丸腰で戦う意思を持たない少女だけ……。

 

 回避はできない。後ろに守るべき人がいるから。

 移動もできない。後ろの彼女を危険に晒す訳にはいかないから。

 だから自ずと最後の手段をとるしかなかった。

 それは砲撃。

 吹雪は、両手で強く挟んだ連装砲を持ち直し、グリップをギリリと握り込んで一息にトリガーを押し込んだ。

 

「っ!」

 

 ドウゥン!

 体中に響く砲撃音。二本の細い砲身から炎と光が溢れ、黒い塊が飛んでいく。

 それは放物線を描くまでもなく敵の顔へぶつかって――爆発した。

 

「ぁっ」 

 

 直撃した。そう実感する前に再度の砲撃。手が震え、自然にトリガーを押してしまったのだ。

 跳ね上がる砲にぶつけられるようにして大きく体勢を崩しながらも、吹雪は奇跡的に二発目の砲弾も敵に突き刺さるのを確認した。爆炎が広がり、同時に黒煙も大きく膨らむ。

 生まれて初めての戦果としては上々だ。敵は戦艦なれど、至近距離での直撃ならばダメージは期待できる。

 そう思い込む事で無理矢理自分を奮い立たせていた吹雪は、風が黒煙を運んで晴らしていくと、浮かべかけていた笑みを引っ込め、その顔を絶望に染めた。

 

「そ、んな」

 

 レ級は無傷だった。

 砲弾がぶつかった個所である顔と胸も、体のどこにも火傷の痕どころかかすり傷一つない。焦げ目一つない黒衣はただ揺れるだけ。まったく応えておらず、歩みは止まらない。

 手を伸ばせば届く距離にまで近付いてきている自分とそう変わらない身長の敵を前に、吹雪はもう呆ける事しかできなかった。

 

 ここで終わり。

 

 全身の力が抜けて暗闇に落ちていく。勝手に腕が下がり、砲口が波間を向く。

 はっきりと感じた早すぎる死の予感は、戦いを経験した事がない吹雪の戦意を奪うには十分だった。

 

「ぇ……?」

 

 だから、レ級が何もせず横を通り過ぎた時、間の抜けた声を出してしまった。

 ずるずると引き摺られる尻尾が波に跳ねて海面にぶつかる。跳ねた水が足にかかってようやく吹雪は慌てて振り返った。

 まさか自分ではなく背後の少女を先に……!?

 その考えは間違っていた。レ級はその少女すら素通りし、数歩先に行くと振り返って――座った。

 

『アーア』

 

 尻尾を下敷きにして腰かけたレ級が、ふぅーと息を吐く。気の抜けた声を発しながら空を見上げて、それから、両手を尻尾に当てて体を支え、ぷらぷらと足を揺らした。

 その姿のどこからも敵意などは窺えなかった。

 (艦娘)と出会ったというのに、まるで歯牙にかけられていない。それは喜ぶべき事なのだろうか? 屈辱に思い怒るべきなのだろうか?

 冷や汗を流しつつ、半ば下げかけてしまっていた砲を胸元に抱え直した吹雪は、体を前に倒して緩やかに航行し、座り込む少女を庇う位置に立った。

 両の太ももに備えられた魚雷発射管が独りでに動き、ガコンと倒れる。天を向いていた三つの筒は今や狙いをレ級に定め、しかし装填された魚雷が発射される事はない。

 練度が極低とはいえ、この近距離で撃てば直撃させる事ができるだろう。だがそうなれば吹雪自身も巻き込まれ、庇っている少女諸共粉々になる事請け合いだ。

 だからこれは牽制。変な動きを見せたら撃つぞ。そう脅しているのだ。

 もっともレ級は吹雪の緊張など知らぬとばかりに寛いでいて、たまに尻尾を撫でたりするだけだった。

 暫くの間三人――一人と一個と一匹――の間に沈黙が下りた。無音ではない。風の音は絶えず耳元にあり、レ級が足を揺らして尻尾にぶつけるペチペチという音があり、少女がすんすんと鼻を鳴らす音がある。

 極度の緊張に視界が白んで、首元に滲む汗に頭がくらくらしてきた吹雪は、今自分が何を持っているのか、どういう風に立っているのかもだんだんわからなくなってきていた。

 このままではまずい。まずいけど、何をどうすれば良いのかわからない。

 砲撃しても効かないのはわかっているし、雷撃はできないしで八方塞がりだった。

 ふるふると頭を振ってまともな思考を呼び戻す。生まれて間もないために何か余計な事を考えて逃避する事さえできなかったのが吹雪を助けた。連鎖的な思考ができないなら復帰は早い。

 それで思い出した。先程少女を立ち上がらせようと手を伸ばした時、レ級が自分を止めた事を。

 

「ふ、ぅ……」

 

 それを問おうとして、言葉にならない息しか吐けないのに、吹雪は一度深呼吸をして暴れる心臓を宥めようとした。

 何を怯えている。何を緊張している。目の前の敵は自分を敵とも思っていない。ならば私も相手を敵と思わなければ良い。

 中々無茶な思考だったが、幾分落ち着く事ができた。潮風を肺いっぱいに吸い込んで細く緩く吐き出す。空気中を漂う水気がひゅるると息に巻かれて渦巻いた。目を瞬かせれば、海面に反射する光に照らされて輪郭さえ曖昧になっていたレ級の顔がよく見えるようになった。

 魂の奥底から湧き出る根源的な恐怖は、元々自分が持っていなかったもの。この敵愾心や警戒心は、今は必要ない。

 いっそ背後の少女に対するように優しげに声を開けてみたらどうだろうか。

 

「ね、ねぇ。『やめておけ』ってどういう事かな?」

 

 砲を下げかけ、しかしさすがにそこまではできないとレ級に向け直しながら、できる限り普段と同じ声音で話しかける。

 レ級は不思議そうに吹雪を見た。眉を寄せ、小首を傾げて怪訝な表情を浮かべている。

 

『オ前……』

 

 すっと持ち上がった手が、握った拳から伸びる人差し指が自分に向けられて、吹雪は思わず身を縮こまらせた。

 どうしたって恐怖心は消しきれなかった。無力な少女を守るため、ただそれだけが心の支えとなって吹雪を立たせている。

 

『艦娘ナノカ?』

「え……」

 

 何を言うかと思えば、へんてこな疑問だった。

 艦娘。

 吹雪は艦娘だ。

 それは当然の事で……だというのに、レ級に艦娘なのかと問われると、途端にその認識はぶれて、自分が何者かわからなくなってきた。

 私は艦娘だ。口の中で呟き、キッとレ級を睨む吹雪。

 目を細めたレ級は何が面白いのか口の端を歪めて厭らしい笑みを浮かべた。

 

『ナルホド、最後ノ艦娘カ……』

 

 面白イ。

 

 面白いとはいうが、吹雪にはレ級が何を楽しがっているのかはわからなかった。

 それより最後の艦娘とはどういう事か、それが知りたかった。

 

『最初ノ艦娘ト最後ノ艦娘ノ並ビ立ツ姿ナド早々見ラレルモンデモナイダロウナァ』

 

 疑問に答える事なく言葉を続けるレ級に、吹雪は後ろを窺うようにほんの僅か、顔を動かした。それで背後が確認できる訳でもないが、脳裏に浮かんだ少女の姿に、きっと最初の艦娘とは彼女の事なのだろうと察しがついた。

 

『ソノ子ハオ前ト一緒ニハ行ケナイ』

「な、なんで?」

 

 前から聞こえてきた声に向き直りつつ、吹雪はその理由を聞いた。

 

『ソノ子ガ最初ノ艦娘ダカラダ』

 

 答えは意味がわからなかったが、少なくともレ級がこの少女をここに留めているのではないかと憶測する事はできた。

 武器も取り上げて、姉妹からも離して……それって、とっても酷い事だ。

 めらめらと燃え上がる怒りが一歩を踏み出す勇気を与える。怪物に臆する事なくレ級へ近付いた吹雪は、必ず少女を救ってみせると奮起して……黄金色の瞳に見据えられて、びしりと固まった。

 ただ目と目が合っただけでこれだ。まるで蛇の一睨み。石になってしまったみたいに動けないでいる吹雪に、片目に蒼い焔を灯したレ級はそれを手で覆うと、『無意味ダ』と端的に言った。

 

「む、無意味、って?」

『質問ガ多イゾ。……マァ、減ルモンデモナイシ、良イガナ』

 

 真っ白な腹を見せていた尻尾を伸ばして体を持ち上げ、海面に立ったレ級は、凝りをほぐすように尻尾をくねらせながら吹雪に一歩近づいた。変わらない笑顔は狂気を孕んだまま。気圧されて引こうとする吹雪に、レ級は言った。

 

『オ前達艦娘ニ帰ルベキ地モ帰ル理由モ、モハヤ無イカラダ』

 

 数秒、吹雪は言葉の意味が理解できなかった。

 何秒かしてようやっと言葉の意味を飲み込めても、それだけ。いったい何を言っているのかさっぱりだった。

 それを察したのだろう、笑みを引っ込めて呆れた顔をしたレ級は、やるせなさそうに首を回しながら吹雪の横に立った。

 

『良イカ、ヨク聞ケ。コノ世界ニハモウ――』

 

 風が頬を撫でた。

 さらさらと流れる黒髪が口元にかかって、知らずの内に開けていた口の中に入り込む。

 それを退ける事も忘れてレ級の言葉に耳を傾けていた吹雪は、徐々に目を見開いていって、最後には、ぽつりと声を零した。

 

「……それ、じゃあ……私が生まれた、意味、は」

『知ランナ』

 

 声に震えはなかった。

 なんとなく、それは察していた。

 だけど今にも消え入りそうなくらい弱々しい声は、実際波の音に飲まれて自分にさえ聞こえなかった。

 なのに答えたレ級は、ザァザァと波を割って歩いていくと、座り込む少女の前に立って吹雪へと向き直った。

 もう触れさせない。そう言われた気がして、吹雪は手を伸ばした。その子は今、吹雪にとって最大の希望だった。

 言葉の通じる同胞で、自分に目的を与えてくれる人で、守ろうという気持ちと原動力をくれる女の子。

 レ級が腕を振るう。濃霧がそれぞれの間に割り込み、伸ばした手は霧を掴んだ。近かったはずの気配は遠くに消えて、右も左も真っ白な空間に取り残される。

 声を張り上げても虚空に吸収されて響かない。がむしゃらに腕を振り回しても纏わりつく霧は離れない。

 恐ろしくなって、吹雪は座り込んでしまった。

 足下の波だけが、海の中だけが明確にわかる場所だから、そこだけを見て安心しようとしていた。

 だけど、うっすらと映る歪んだ自分の姿を見つけると、心が抜け落ちてしまったみたいに呆けてしまいそうだった。

 

「……わ、たし」

 

 私は……。

 

 私は、なんのために生まれたのだろう。

 

 疑問が頭の中を埋め尽くす。

 やはり意味などないのだろうか。

 いや、きっとあるはずだ。何か、自分だけの特別な何かが……。

 

 

 ふと気がつけば、吹雪は陸地の傍に立っていた。

 薄汚れて古めかしいクレーンや何かの施設、罅割れた、けれど舗装された道、大きな建物の数々、それから……人の声。

 

「人……」

 

 くすんでいた吹雪の瞳に輝きが宿る。

 人の声がする。ならばそこには人がいる。

 なんだ、やっぱり意味はあったんだ。

 膨れ上がる嬉しさを胸に抱いて、吹雪は駆け出した。目の前の鎮守府に向けて。

 提督に会うために。この地に着任するために。そして人の指示の下、敵と戦うために。

 

 向かう先には希望がある。

 吹雪は、そう信じて疑わなかった。

 

 2038年8月2日。吹雪、名もなき鎮守府に着任。



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第四話 透明な司令官

「ワタシ達は、貴女(アナタ)の着任を歓迎シマース!」

 

 提督の執務室。

 高級な木机の隣に立った金剛が両手を広げ、バァァン! と口での効果音付きで歓迎の意を示した。

 

「は、はいっ。これからよろしくお願いします!」

「おーっと、その挨拶はワタシではなく、テイトクにネ?」

 

 のんのん、と人差し指を振ってお茶目にウィンクする金剛に、吹雪は圧倒されながらも緊張やら何やらを(ほぐ)されている自分を自覚していた。

 この人にはそういう力があるんだ。そう思った。

 明るくて社交的でぐいぐいきて、それでいて下品なんかじゃなくて、こちらを気遣ってくれる……一種理想的な大人の女性。そういうタイプに憧れてしまう吹雪は、尊敬の色を瞳に滲ませて金剛を見上げてから、机と向き合った。

 一片の穢れもない白い制服。同色の軍帽。左胸に幾つも留められたバッチや何やらの光ものは、毎日磨いているのかぴかぴかだ。

 気を引き締めて気を付けの姿勢。右手を持ち上げ、敬礼。模範的な立ち姿は、さすが吹雪と言えるだろう。艦娘生初の敬礼はびっしりと決まっていた。

 

「吹雪型1番艦、吹雪です! どうぞよろしくお願いいたします!」

「ウンウン、元気があってとってもよろしい! えらいハリキリ☆ガールの登場にテイトクも大喜びデース!」

 

 「ネー、テートク~」と抱き付く金剛に、吹雪はそろそろと腕を下ろして、緊張した面持ちで金剛を見守った。

 吹雪が一生かかっても到達し得ないだろう豊満な胸は白い袖に押し付けられ、背を丸めてうりうりと頬を擦りつける様は艦娘というよりよく懐いた猫のようだった。茶色の長髪が電灯の光を流れさせながら揺れ、キィキィと回転椅子が軋んだ音を発した。

 

「ムー、わかってマス。お仕事は真面目にしマス」

 

 吹雪には聞こえなかったのだが、提督が何事か言ったのか、金剛は頬を膨らませて背を伸ばした。机の隣へ移動すると、気を取り直したといった風に満開笑顔を浮かべて、「ではまず過ごす部屋を決めマショウ!」と元気よく言った。

 

「本棟……この建物を出て向かって右側、もしくは左側。いくつも建物が並んだ地区はもう見マシタ?」

「いえ……まだ、です」

「なら案内をつけるデース!」

 

 Come on(カモ~ン)! と扉に手を向けた金剛につられて、吹雪は横の方にある大きな両開きの扉を見つめた。

 ………………。

 しばらく待ってもそこから誰かが入ってきたりはしないし、物音もしない。誰かの入室を促した金剛は伸ばしていた手をそろそろと戻して口元に添えると、オッホンオッホンとわざとらしい咳をして誤魔化した。

 

「ん゛ん゛っ。えー、申し訳ないデスガ、貴女には一人で行ってもらう事になりそーデス」

「いえ、構いません。自分で色々と見て回ってみますね」

「それが良いデショウ。空いてる部屋ならどこを使っても構いまセン。何かわからない事があれば、近くの子に声をかけて下さいネ」

「わかりました。ええと、それじゃあ……」

「ハイ! ではまた後で会いマショウ!」

 

 片手を挙げてふりふりと振る金剛に、両手を前で揃えて頭を下げた吹雪は、小走りで出入り口まで移動すると、机の方にもお辞儀をしてから退出した。

 

 

「ふぅ……」

 

 部屋を出て、扉の前で胸に手を当てて一息ついた吹雪は、顔を上げて窓を見上げた。薄く白んだ窓は透明感に溢れて綺麗だった。少しの間それを眺めた後に、吹雪はここへ来た時の道を辿るように歩き出した。ちょっとばかり広めの廊下は前にも後ろにも長く伸びて、等間隔に並ぶ窓からは優しい光が差し込んでいた。

 建物の中はとても静かで、今出てきた執務室からも他の部屋からも音は聞こえてこない。耳に痛い静けさの中では、心臓の脈打つ音や些細な衣擦れの音が嫌に耳についた。

 制服の裾を引っ張って伸ばし、布に当てられて揺れた砲を抱え直してから、人の気配のない廊下を行く。

 ここは『本棟』と呼ばれる、この鎮守府の最も主要な建物の三階。この上には時計塔しかなく、この階はほとんど丸々提督専用となっている。使用できる艦娘は極々一部。先程の金剛のような秘書艦か、ここに用がある艦娘のみ。

 廊下の両端にある踊り場には、上への階段と下への階段がある。上への階段は机や椅子がバリケードのように積まれて進めなくなっている。表面に貼りつけられた進入禁止の黄色い帯は気味が悪くなるくらい何重にもめぐらされていた。何人の侵入も許さないという雰囲気さえ漂っていた。

 

 階段を下りていく。カツンカツンと鉄の音が反響する。二階の踊り場には艦娘が一人立っていた。

 

「お待たせ、初雪ちゃん」

「ん。……わかった?」

「うん……」

 

 長い黒髪に、切り揃えられた前髪は真一文字。ブラウンの瞳は眠たげな半目に隠されている。吹雪と同じ制服を身に纏った駆逐艦娘、初雪。

 この鎮守府に辿り着いた吹雪が最初に言葉を交わした艦娘が、姉妹艦である彼女だった。やっていた事を中断して案内を申し出てくれた初雪であったが、執務室まではついてこなかった。金剛を見たくないからという理由に最初首を傾げていた吹雪は、先程の元気はつらつといった様子の戦艦(お姉さん)の姿を思い返し、眉を八の字にして控え目に頷いた。たしかに、あれはちょっと、きつかった。

 

「案内、いる?」

「ううん、大丈夫! ……とは、言えないかな。一人じゃ心細いかも」

「じゃあ、一度戻って、それから案内する」

「ありがとね」

 

 吹雪がお礼を言うと、初雪は「ん」とほんの僅か頷いてみせて、先に歩き出した。廊下に出てからは左右に大きく揺れるような動きになって、同じように吹雪もついていく。

 

「……今、ここにいる艦娘って、どれくらいなの?」

「それは……全部合わせて?」

「……全部と、そうじゃないのだとどれくらい?」

 

 並び立って歩く事ができないので、斜め後ろから問いかける吹雪に、初雪は歩調を緩めながら顔だけを振り向かせて答えた。

 

「今いるのは三十人くらい。……それと六人……あなたをいれれば七人」

「そんなに……少ないんだ」

 

 ぽつぽつと、自然に小さな声でのやりとりをしながら、吹雪はその七人に含まれない艦娘達の事を意図的に考えないようにした。胸の内をつぅっと伝い落ちる嫌な汗に全身が冷たくなった気がした。

 二階の真ん中には食堂がある。その食堂に到着した二人は扉を潜って中に入った。

 かなり広々とした空間で、ここだけ横幅もでかい。いくつもの丸や四角のテーブルに椅子が所狭しと並んでいて、入り口付近には食券販売機もあった。最奥の壁の左半分がカウンターとなっていて、厨房が覗いている。

 

「あ、初雪ちゃん。……吹雪、ちゃん……?」

 

 机の合間を縫ってカウンターまで辿り着いた二人を出迎えたのは、エプロン姿の(うしお)だった。少し癖のある黒髪は肩より伸びて、前髪の一部がぴょこんと飛び出てカールしている。共通の制服の上から落ち着いた色の厚布のエプロンをかぶっており、大人しそうな雰囲気と裏腹にエプロンが大きく盛り上がるくらいの胸部装甲を誇っている。カウンター内にいるという事は、彼女が食事作りを担当しているのだろうか。

 

「新人」

「えっ?」

「吹雪です。よろしくね」

 

 困惑顔で吹雪と初雪の顔を交互に見る潮に、吹雪は最初くらいは、とお堅い敬礼をしてから、できる限り親しみを感じさせるように挨拶をした。片手にお玉を持った彼女はそれがぶれるくらい慌てながら「は、はいっ」と頭を下げ、その後に「う、潮です」と名乗った。

 

「別の所から来たんですか? ぁの、お腹空いてませんか?」

「そ、そんな畏まらなくても大丈夫だよ」

 

 控え目に積極的というよくわからない潮に苦笑いを浮かべつつも、親しくなるための一歩を踏み出す吹雪。彼女は気が弱いようだが、この申し出は受けてくれるようだった。とはいえすぐに砕けた態度をとるのは厳しいのだろう、再度「何か作りましょうか」と問いかけてくる潮に首を振って断った。

 

「最初にこの鎮守府を見て回ろうと思ってるんだ。だから、また後でお願いしたいな」

「うん、それじゃあお昼くらいに来てくださいね」

 

 どちらからともなく笑みが漏れて、二人して小さく笑い合う。こんなに普通の会話なのに、むしろ普通に会話できる事がなんだか嬉しかったのだ。

 

「潮」

「あ、ご、ごめんね。すぐに持ってくるね」

 

 初雪がぼそりと囁くように名前を呼べば、彼女は慌てて奥の方に走って行った。

 戻ってきた時には包みを二つ抱えていて、それは初雪に手渡された。

 

「私も後で行くね」

「ん」

 

 小さく手を振る彼女から離れ、食堂を出る。次の目的地は本棟正面の広場だった。

 一階の無人のホールを通り抜け、大きな両開きの扉を押し開けば、強い日差しが降り注ぐ広場に出た。石畳の広がる中央には噴水があり、ずっと向こうに大きなゲートがある。左右には道があって、広場を囲むような塀もあった。塀付近は草が茂り、木々が並んでいる。

 初雪は、左側の道のすぐ近くの壁際へ向かった。当然吹雪もついていく。

 

「……これは」

「司令官」

 

 司令官。

 吹雪は、初雪の視線を追って目の前の物を見下ろした。

 綺麗に整えられた石が二つ並んでいる。初雪はその片方、自身の前にある石を見ながら司令官と口にした。

 それは当然石を指して言っているのではない。石の下に眠る遺骸に対しての言葉だった。

 緑の上に立つ石の板の前にしゃがんだ初雪は、包みを広げて墓石の前に置いた。三色の団子はお供え物。司令官の氏名が刻まれた墓石の隣に立つ石の前にも同じように包みを広げて置いた。

 吹雪は、そちら側の石には艦娘の名前が刻まれているのを見つけ、そっと下へ視線を移した。草の絨毯の上に綺麗な宝石付きの指輪が寂しげに置かれている。きっとそれはその艦娘の持ち物だったのだろう。野晒しにしていても、盗む人間はもはやこの世に存在しない。

 

 手を合わせる初雪に(なら)い、吹雪も黙祷する。顔も知らぬ司令官の冥福を祈る。願わくは天国でもこの艦娘と一緒でありますように。

 

 祈りは、きっと届いた。






ちょっぴり金剛さんの台詞を修正。
……変かなー。


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どこだろう
第五話 乾いた満潮


「……それじゃあ、案内する」

「うん。お願いするね」

「任せて」

 

 立ち上がった初雪が促すのに付いて歩き、左の道路の先へ。

 そこはかつて駐車場だった場所だ。今は車は一つもなく、先程見た石の板が無数に生えている。

 共同墓地。人も艦娘も死んだのならここに入る。そう説明されて、吹雪はなんとも言えない気持ちを顔に表しながら墓を眺めた。いつか自分もこの場所に入る事になるんだろうかと考えると、薄ら寒い気持ちでいっぱいになった。その気持ちを振り払うように黙祷する。たっぷり数分立ち止まって、来た道を戻った。

 

北上(きたかみ)さん?」

 

 広場に戻り、反対の道へ向かおうとした吹雪と初雪に声がかかった。

 本棟の扉の前に大井が立っている。彼女が呼びかけたのだろう。吹雪は彼女の視線を追って背後を振り返った。そこには水のない噴水があるだけで、他には何もない。

 

「うわ」

 

 顔を戻せば大井がすぐ近くまで、それこそ鼻と鼻がぶつかりそうになるくらいまで顔を近付けてきていて、吹雪は思わず背を仰け反らせた。失礼だよ、と自分に注意したが、目つきを鋭くさせて自分を睨む艦娘の姿に、失礼じゃないかもと思い直す。

 首を傾げた大井が踵を返して本棟出入り口前まで歩いていき、さっと振り返って吹雪を見た。険しい顔がみるみるうちに輝かんばかりの笑顔に変わっていく。

 

「北上さん!」

 

 すたたたっと小走りで駆け寄って来た大井は、今度は止まらず吹雪の両手を取って優しく握った。

 なぜか薄目で見つめられて吹雪は困惑しきりである。隣に立つ初雪は『面倒な事になった』と言わんばかりに顔を顰めていた。

 

「ぇ、あの、わた」

「必ず! 帰ってくると信じていました!」

 

 どんどん顔が近付いてくるからどんどん背中が反っていって、そろそろ背骨が悲鳴を上げ始めた頃に大井が体を戻した。ほっと息を吐くのも束の間、今度は手を引かれて本棟へと連れ込まれる。

 

「さあ帰りましょう私達の部屋へ! 大丈夫ですお疲れなら私がマッサージしますからね北上さん!」

「ちょっ違」

「ああそれとも甘味をご所望ですか? ご飯にします? 良いですね!」

「ふぶっ、私吹雪……」

「さあ! さあ!」

 

 訂正しようにもあまりに強く手を引かれるので、つんのめるようでしか歩けない吹雪の声は不安定だ。そうでなくてもこの女性が聞く耳を持ってくれるかは怪しい。後ろについて来ている初雪に助けを求める視線を送るが、返ってきたのは無言だった。これはもう流されるまま歩くしかない。そう観念しようとした時、ガスッと鈍い音がして大井が体勢を崩した。

 

「ひゃ、あっ!?」

 

 腕を掴まれていた吹雪も一緒になって倒れ込む。幸い先に転んでいた大井がクッションとなって然程の衝撃はなかった。大井に両肩を掴まれて優しく退かされた吹雪は目を白黒させながら床に手をついた。立ち上がった大井は肩を打ったのか、左肩を押さえている。憤怒の表情は壁際に向けられていた。

 

「邪魔よ、まったく!」

「…………」

 

 壁に背を預け、足を投げ出してぼうっとしている艦娘……満潮。大井に足を蹴られて歪な体勢になってしまっても、文句を言うでもなく虚空を見つめ続けている。

 

「怪我はありませんか、北上さん!」

「あの、ですから私、『北上さん』では……ないんですけど」

「は?」

 

 立ち上がったところに、一転して笑顔を浮かべた彼女に手を取られ、しかし吹雪は気丈にも訂正した。まともに話せるのなら誰だってそうする。その結果が威圧感たっぷりの「は?」だったのだが、吹雪は満潮の事が気がかりでそっちにばかり気を割けなかったため畏縮する事はなかった。

 

「チッなんて事……。そう、いいわ」

「……」

 

 振り払うように手を離し、舌打ちを一つして歩いて行ってしまう大井の背を見送った吹雪は、特に何を思うでもなく満潮に顔を向けると、彼女の前に屈み込んで捲れ上がっているスカートを直してやった。

 一階の廊下にも二階の廊下にも、左右の壁際にこうして足を投げ出していたり膝を抱えていたりしている艦娘が点在していた。およそ二十四人。その誰もが満潮と同じようにただの置物と化している。見知らぬ吹雪が勝手に触れても反応一つしない。まるで燃料が切れてしばらくした艦娘のようであった。

 実際何人かは燃料が切れているのだろう。この満潮もその一人かどうかは定かではないが、どの道反応はない。同じ言葉を話さないでもあの最初の艦娘だという少女の方がまだマシだった。

 なぜ彼女達がこうなってしまっているのか。なぜ放っておかれているのか。

 それくらいなら、吹雪は聞かずとも予測できた。

 みんな絶望しきっているのだ。

 守るべき者を全て失い、戦友の多くは海の底か地面の下。もはややるべき事は何もない。

 人の(もと)でこそ輝く艦娘だというのに、この世界にはもう人間がいない。

 だからみんな生きる気力を失ってこうなってしまっている。

 

 だがすべての艦娘が希望を見失ってしまったのかといえばそうではない。

 初雪を始めに潮、大井……まだ明日を信じて足掻いている艦娘もいる。ギリギリのところで踏み止まっている艦娘はいるのだ。反対に振り切れて狂気の域に踏み込んでしまっている艦娘もいるが、こうなってしまうよりはマシだろう。

 吹雪はといえば生まれて間もなく、まだそういったものを受け入れる土壌ができていないために絶望するも何もなかった。

 ここに人間がいないと知った時はそれなりに衝撃を受けたが、それよりも夥し(おびただ)い数の墓や糸の切れた人形のように散乱する艦娘、寂れた建物なんかを見てしまい、次から次に入ってくる衝撃的な情報に混乱して、逆にそれが吹雪を保たせている。

 

「……」

 

 吹雪は、満潮の顔を正面から覗き込んだ。物言わぬ(むくろ)の如き少女は、しかしそれでも生きていて微かに息をしている。ベージュ色のお団子ツインテはほつれ、薄黄色の大きくて綺麗であるはずの瞳は乾ききっていて痛々しい。首元のボタンは外れ、緑色のリボンは解けかけで揺れていた。吊りスカートの黒い帯などは片方が肩から外れてしまっている。まるで乱暴されたような乱れ具合だった。傷一つないのに傷だらけに見える。彼女を見ていると吹雪は涙が出そうなくらい悲しくなってきて、同時に、このような艦娘全てに今すぐちゃんと正面から向き合わないと、と思った。

 そっと頬に手を当てれば、瑞々(みずみず)しい肌のすべすべとした感触があった。手の平に吸い付く柔肌は暖かく、そこだけはきちんと生きていた。吹雪はとても安心した。

 

 ここに来た時は案内されているからと廊下にいる艦娘から目を逸らしていたが、それではいけない。この鎮守府の一員となるのならみんなと話しておかなければならない。ならばこの状態になっている彼女達をどうにかしなければならないだろう。

 それを当面の目標にしようと吹雪は考えた。同時進行でうさみみカチューシャの艦娘の情報も集めなければ。

 自分に目標を与える事で気をしっかり持つ事に成功した吹雪は、ふと床に投げ出されている満潮の手の、その指先に触れるくらいにある紙切れに視線を移した。なんとなしに手を伸ばして拾い上げてみれば、それは痛んだ写真であった。

 

「あ……」

 

 目を丸くする。

 端が指の形に歪んだ写真の表側には四人の艦娘が写っていた。

 こことは違う建物の廊下を背景にしてだろうか、左端に茶色い髪を長く伸ばした朝潮型の女の子がいてにこにこ微笑んでいる。右端に立つ満潮は腕を組んでややそっぽを向いていた。真ん中に立つ二人は左右の二人に増して距離が近く、左は黒髪長髪に空色の目をした女の子が控え目にピースサインをして、同じく控え目に笑みを浮かべている。右側の少女はクリーム色の髪を長く伸ばして丈の短い制服を纏っていた。左腕で小さな機械生物を抱え、右手は密着するほど隣に立つ黒髪の少女の肩を抱いている。どこか少年のような笑顔の上では、黒いうさみみカチューシャが躍動感溢れる姿で乗っかっていた。

 

「どうしたの」

「この子……」

 

 吹雪の声に反応してだろう、写真に何かあるのかと初雪が覗き込んでくるのに、吹雪はうさみみカチューシャの少女に指を当てて囁いた。

 吹雪が気になるのはその一点。さっそく手に入ったうさみみカチューシャの艦娘の手掛かりについてだ。

 

「私、この子を探してるんだけど……何か知らない?」

「……ごめんなさい」

 

 瞑目して答える初雪に、吹雪は若干気落ちしつつも「気にしないで」と手を振った。直接的に聞かなくても、形として手掛かりが手の内にある。これがあるなら探すのはぐっと楽になろうだろう。

 だがしかしこの写真、実際のところ本当に手掛かりになるのかは少し怪しい。何しろこの世界、人間が全ていなくなってからしばらく経っているのだ。艦娘達が意義を見失い、立ち止まってしまってからも少なくない時間が過ぎている。果たしてこの写真の少女を知る艦娘がどれほどの数正気を保っているのだろうか。

 

「でも、名前はわかる。たしか……島風」

「島風ちゃん、だね?」

 

 初雪が教えてくれたこの艦娘の名前を復唱しつつなんの気なしに写真を裏返した吹雪は、白一面の中に丸っこい文字を見つけた。『2024、姉妹と友人と』。おそらくこれは目の前で呆けている満潮が書いたものだろうと当たりをつける。姉妹とは同じ制服の二人で、友人とはうさみみカチューシャ……島風の事だろう。もし満潮がこうなってしまっていなければ話が聞けたのに。吹雪は残念でならなかった。

 まさか無理矢理起こして話を聞く訳にもいくまい。起こし方など皆目見当もつかなかったが、吹雪は今しばらく満潮や他の艦娘達をこのままにしておく事にした。そもそも何をどうして良いかの判断基準も持ちえていない。移動させて良いのか。起こして良いのか。

 

「他に島風ちゃんの事を知っていそうな人っていないかな」

「……金剛さん」

「……えー、と」

 

 立ち上がり、片手でスカートの後ろ側を払いながら初雪に向き直った吹雪は、他に心当たりがないかと問いかけたのだが、返ってきたのは反応に困る艦娘の名前だった。

 つい数十分前に顔を合わせた彼女は一見気の良いお姉さんで、実際その通りだ。裏表がなく、優しくて明るい。まともに動ける艦娘七名の内の一人に数えられている。

 

「もう一回、会う?」

「ん……、ぅ、ん……」

 

 小首を傾げて問いかけてくる姉妹に曖昧に頷いて見せながらも、だけど、と吹雪は躊躇った。初雪が『見たくない』と言ったのと同じで、吹雪もまたあの金剛の言動を見たくないと思ってしまったのだ。

 輝く笑顔に、全身から迸る幸せオーラ。だけど、それらは全てまやかし。

 ……だからといって自分が嫌だから約束を反故にするなんてつもりはなかった。今はその約束が原動力だ。そのために動くべきなのだ。

 

「ちなみに、どうして金剛さんなの?」

「あの人はこの鎮守府の古参。最後の大戦も経験してる」

「最後の……大戦?」

 

 わからない単語が出てくると、これをオウム返しに呟いて説明を求めた。

 最後の大戦。それは文字通り、人類と艦娘が全てをかけて打って出たとびっきりの最終決戦。

 世界各地の艦娘が集結し大連合艦隊となって敵本拠地に挑み、戦い、そして……その結果が今のこの世界だ。

 

「私達は負けた。……そう聞いた」

 

 初雪は最後にそう締め括って、一息ついた。彼女らしからぬ長々とした語り口はかなり様になっていたから、話が終わると吹雪は耳が寂しくなってしまった。

 

「聞いた? じゃあ、初雪ちゃんって」

「ん。私は大戦の最中に建造された艦娘。物心ついた時には全てが終わっていた」

「そうなんだ……」

 

 てっきり彼女もかなりの古株なのだと思っていた。と、そんな風に考えたところで、吹雪は今がいったい何年なのかわからなかった。

 

「今は、2038年。8月2日」

「にせん……?」

 

 わからないなら確認すれば良いと初雪に聞いたのに、教えてもらってもさっぱりわからず首を傾げた。半目に見つめられて思わず誤魔化し笑いを浮かべる吹雪。慌てて取り繕うように別の話題を振った。

 

「日付、どうやって知ってるの?」

「カレンダーがある。人がいなくなっても、私達は人を保つために、人の文化を保っている」

「そ、そうなんだ」

 

 軽い気持ちで聞いたのに存外重い答えが返ってきて、吹雪は笑みをいっそう深くした。もちろん誤魔化し笑いだ。そういうヘヴィなのは苦手だった。

 気を取り直し、写真を見つめ直す。四人の少女は仲睦まじく、その四角の中の光景が実際にあったものなのだと思うと、とても感慨深かった。自分が生まれるよりずっと前に撮られた写真。そこに写っている少女が足下にいる。裏返せば書いてある年号は、2024年。なるほど、この満潮という艦娘は少なくとも十四年は生きている事になる。大先輩だ。……大戦があった年がわからないために初雪の年もわからなかったが、少なくとも先輩である事はたしか。

 

「案内、続ける」

「あ、うん。お願いするね」

 

 生気のない顔を眺めていても何も始まらない。初雪が促すのに頷いた吹雪は、砲を抱えて歩み始めた。



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第六話 人間のいない鎮守府

『第一話』の冒頭にちょこっと加筆。


「あ、初雪ちゃん、吹雪ちゃん」

 

 本棟の外に出て右側の道へ進んで行こうとした時、吹雪と初雪に声をかける者がいた。

 それは本棟から出てきた潮だった。エプロンを外し、お玉を置いてきて完全に艦娘スタイルに戻っている。隠されていた大量破壊兵器が惜しげもなく披露され、吹雪のちっぽけなプライドを粉砕した。なんとなく抱えている連装砲で胸を隠す。無意識の行動はしかし、気付くとなかなかに惨めな行いであった。視界に入れなければ比較される事もないだろうという浅ましい考え。いや、誰も比較などしないのだが、そこはそれ、吹雪は改めて砲で胸を隠した。いったい何と戦っているのだろうか。きっと自分の中の些細な闇と、なのかもしれない……。

 

「今までずっと提督のところに?」

 

 潮が出てきたのは、先程言っていたお墓参りのためにだろう。先に向かっていたはずの吹雪と初雪が未だにここにいる事からそう判断したようだ。墓石を指して「提督」と呼ぶのは彼女の気質(ゆえ)だろうか。気質といえば、彼女は常日頃からおどおどしている印象があるが、友達に対する時は存外普通だ。()()()であった吹雪ともかなり打ち解け始めている。吹雪の人畜無害なモブフェイスが役に立っているのか、それとも彼女が『吹雪』という艦娘を知っているためにか。

 

「ううん、色々あって……今から案内してもらうんだ」

 

 軽やかな足取りで二人の前にやって来た潮に、初雪に代わって吹雪が答える。

 

「そ、そうなんですか? ……私もご、ご一緒してよろしいでしょうか?」

「大丈夫だよ。人は多い方が私も嬉しいかな」

 

 打ち解け始めているとはいっても、どうにもまだぎこちない。敬語は抜けてないしどもりもある。そこら辺、吹雪はもう気にしない事にした。そのうちきっと普通に話せるようになるよと楽観的。彼女の同行の許可を求めて初雪に顔を向ければ、言葉なしに頷いて返される。

 

「その前に、私も……提督に、ご挨拶してきますね」

 

 一言断ってからぱたぱたと墓石の前まで行った潮がスカートを押さえつつしゃがみ、手を合わせて黙祷した。心の内には提督への言葉が綴られているのだろうか。彼女と司令官の関係に思いを馳せていた吹雪は、数分して潮が戻ってくると考えを中断し、初雪の先導に任せて歩き出した。

 

 カツカツカツ。

 艤装の一部である金属製のブーツは石製の床とぶつかると小気味良い音を鳴らす。それが三人分。リズム良くテンポ良く靴と床のぶつかる音があれば、ちょっとばかり楽しくなったりもする。そんな訳で足下に目を落とした吹雪は、他の二人の足音に合わせて歩調を変え、一つの音楽を奏でていた。

 

「ここ、コンビニエンス妖精」

 

 即席BGMに二人からの反応はなく、ほどなくして一つ目の目的地に着いた。道筋は、本棟正面から右の道を歩き、塀に阻まれた突き当たりを右へ行き、本棟裏面の砂利道に合流して少し左へ歩いた場所がコンビニエンス妖精と呼ばれた四角い建物の前だった。

 ほんの二十年前には百メートルに一件はあった便利な雑貨屋さんと酷似した姿は、だけど吹雪には覚えはなく、新鮮で楽しげな物として映った。店先ののぼりは風にはためいて清々しく、窓に貼られた新商品の告知は古びていても真新しく――それを知らないのだから、当然――見える。『精妖スンエニビンコ』と書かれた看板は罅割れを補修した跡がいくつかあった。

 

「は、入ってみても良いかな?」

「ん。大丈夫」

「そ、それじゃあ……」

 

 興味津々といった様子の吹雪に否とは言えないだろう。三人は吹雪を先頭に店内に踏み込む運びとなった。

 ガラス戸の自動ドアが左右に開けば、ふわっと冷たい風が溢れだす。

 

「わぁー、涼しい!」

 

 両手を広げて外と中との温度差に目を輝かせる吹雪。電化製品といえば冷蔵庫が頭の中に浮かぶが、それ以外の文明の利器はさっぱりで、これがいかなる技術によるものなのかを考えるとわくわくしてたまらなかった。カウンター内にてぼうっとしている(ように見える)妖精さん二匹がはしゃぐ吹雪を暖かい目で見守っていた。

 床や壁や棚はぴかぴか。電灯の明かりも白く眩しい。所狭しと並ぶ日用品や雑貨、おもちゃ、菓子類、ちょっとした食品類、とても古い雑誌……品揃えも豊富で、吹雪にとってここは生まれて初めて訪れる娯楽施設だった。ただ棚の間を歩くだけでも心が賑やかで、色とりどりの商品に目移りしてしまう。

 そんな中でところどころに空きがあるのに気がついて、その数が十を超えると立ち止まって振り返り、すぐ後ろにいた初雪と潮にこの空きは何かと聞いた。

 見たまま空きだ。そこに入っていた商品は賞味期限切れか消費期限切れで廃棄され、以降補充されていない物だと説明された。人類が消えた今、補充の目処がないものが大多数なのだ。それでもこの品揃えなのはおそらく妖精達の技術によるものなのだろう。こういった形で人間がいない事を実感し、吹雪は楽しい気分が吹き飛んでしまった。人間が本当にいないのだという現実に冷や水をかぶせられた気分だった。

 

「ど、どうしました……?」

 

 隣に立った潮が気遣うように問いかけてくるのに、「あ、ううん」と首を振ってなんでもないと示した。人がいないなど自分以外のみんなは嫌というほど知っているだろう。今さらそんな事に衝撃を受けているなんて言えなかった。

 

「そう」

「…………」

 

 二人にとってそのような気遣いは不要だ。なにせ人類が地球上から姿を消してからおよそ10年以上の歳月が流れている。それこそ今さらその話題を出された程度で揺るぎなどしない。……そうと知ったとしても吹雪は気を遣うだろうが。そういう艦娘なのだ、彼女は。

 

 何も買わずに店を出て、一つ隣へ移ればそこは高い塀に囲まれた謎の地であった。塀に設けられた鉄扉の横には関所のような小さな小屋がせり出ていて、殊更小さな窓口には居眠りをしている門番妖精さんがいた。

 

「ここは妖精の(その)

「うちの妖精さん達は、みんなここで過ごしているんです」

「へぇー、そうなんだ」

 

 初雪の説明を潮が引き継ぐ。灰色の壁に囲まれた中はいったいどのような景色を持っているのだろう。好奇心が刺激されて、しかし吹雪は中を見せてとは言わなかった。先程コンビニエンス妖精の中に入らせてもらったばかりだったから遠慮しているのだ。そうとは知らない初雪はさっさと次に移ってしまう。後ろ髪を引かれる思いで、吹雪はその場を後にした。

 

 砂利道を進めば袋小路に辿り着く。ここもまた塀で囲まれた、砂利道の終着点。左には壁がそびえたち、右側には口を大きく開けた工廠がある。薄暗い室内の壁には長いテーブルがコの字型に取りつけられていて、その上に疎らに艤装が乗せてあった。天井からは数本糸が垂れて寂しげに揺れている。

 さて、ここはどういった場所だろう。吹雪は自分でも予想しながら初雪の紹介を待った。しかしいつまで待ってもこの建物の名称が彼女の口から伝えられる事がなく、吹雪は室内に向けていた目を隣に立つ少女へ移した。

 ほっそりとしていた。

 夏の日の光は一人の少女をより孤独に感じさせて、地面に照り返された少女は小さく、寂しげだった。

 初雪は、ただでさえ半分閉じかけている目をさらに細めて、じっと室内の奥の方を眺めていた。視線を追いかけても奥の壁や床に散らばる雑多な備品くらいしか見つけられず、なぜ彼女がそのような顔をしているのかはわからなかった。

 

「ここは……夕張さんの工廠。……元」

「元?」

 

 ようやくつげられたこの建物の名前。

 元、夕張さんの工廠。

 元というくらいなのだから今は違うのだろうが、名前が変わっていないという事は……つまりは、そういう事なのだろう。

 吹雪は共同墓地の墓石の一つにこの建物と同じ名前を流し見た事を思い出した。

 その夕張さんという艦娘がいつ永い眠りについてしまったのかはわからないし、初雪と夕張さんがどのような関係であったかも吹雪にはわからない。

 

「大丈夫」

「……?」

 

 だけど、不安げで寂しそうな妹をそのままにしてはいけないというのはわかる。

 不思議そうに見つめられて、吹雪は相手が安心できるように優しく微笑んだ。

 その手を取って両手で包み込めば、きっとその哀しみの一部分だけでも和らげる事ができるはずだ。そう思って、実際にそうした。初雪の手は温かかった。

 

 気持ちが正しく伝わったかは定かではないが、初雪は笑みを浮かべて吹雪の手に自分の手を重ねた。初雪にとって彼女は姉だが、思えば『後輩』ができたのは初めてだった。自分が生まれたその日こそ人類最後の日へのカウントダウンが始まった日であったために、そして、最も打撃を受けたのがこの鎮守府であったために初雪以降艦娘が建造される事はなく、発生艦が現れる事もまたなかった。

 年下の姉の気遣いはちゃんと伝わってきていた。

 

 生まれてこの方艦娘としての務めを果たす事ができずに終焉を迎え、そこまできてやっと動き出す事ができた初雪だが、多くの仲間が倒れ、頼るべき戦艦(せんぱい)もあの様では不安が募るばかり。思春期で固定された心は日々綱渡りだった。

 今なら……近しい後輩を支える事で、自分も同じように歩んで行けるのではないだろうか。

 失敗したスタートを、吹雪と一緒に切る事ができれば、その先には……。

 

 ……その先に何があるかは、あえて考えない。今を生きられればそれで良い。姉の手で知った温もりを、決して離さぬよう努力するだけで良いのだ。

 

 妹の意思を少しだけ変えてしまったとはつゆ知らず、微笑みかけていた吹雪は自然に手を離すと、再び歩み始めた初雪について歩いた。横に並んだ潮は癖のように胸の合間に腕を押し当てながら、それとなく二人の顔を窺っていた。

 

 

 工廠の先、塀に空いた四角い穴から出た波止場からは近場の島の影が見えた。寄せる波は煌めきを混ぜ、もう慣れた潮風が立ち(のぼ)る。ほとんど崩れた壁が左手から海の半ばまで続いていた。

 元夕張の工廠の裏に回り込めば、海を一望できる一本道に出る。建物の背と海際に挟まれた狭い砂利道。いくらも歩かない内に左側にフェンスが現れ、長く広い敷地が海へ広がっている。

 そこは艦娘の住まう家々が建ち並ぶ場所だ。小さなマンションのような古びた四角い建造物が列になっている。敷地へ踏み入る入口へ立てばわかるその広さは、どれ程の艦娘が在籍していたのかが窺える。……建物のいくつかは半壊、または全壊しているのが幾つかあって、かつての栄えは見る影もないが。

 戦果の爪痕は生々しく、ここに住むとなると吹雪は少し尻込みしてしまった。なにせここにも生気を失った艦娘が何人かいる。端に寄せられた瓦礫にもたれ掛っていたり、うつ伏せで倒れていたりと様々だったが、例外なくピクリとも動かない置物のようだった。それだけでも十分気まずいのだが、初雪どころか潮すら倒れ伏す彼女達をまったく気にしていないので、ますます吹雪は肩身の狭い思いをしていた。

 

 最も奥の最も大きい建物は、しかし被害は軽微で元の姿を保っている。あそこは空母寮だと初雪が言った。現在は軽空母が一人きりで過ごしているらしい。空母寮の後方に位置する修練場もその空母専用となっている事だろう。もっとも、その空母が弓を使うならの話だが。

 

「ここが、私達駆逐艦の過ごす場所」

 

 吹雪が案内された駆逐寮は、さすがに外観は整えられていた。壁の色が違う部分がとても多く、修繕の跡はどこを見ても視界に入るくらいだった。

 

「結構綺麗なんだね」

「住む場所は、重点的に妖精が直してくれるから」

 

 中は木造で、入ってすぐの玄関の先にはカウンターがあった。先を行く初雪が靴を脱がずに上がって行ったために、微かな知識との違いに戸惑いつつも、吹雪も土足で上がった。木板と靴がぶつかる音は石とはまた違っていて、多少の緊張を誤魔化すために吹雪は足から伝わってくる音に耳を傾けた。

 玄関からほとんど真っ直ぐ歩くとある三段程度の段差の先に、折り返しの踊り場。正面の壁には掲示板があって、ガサガサになった紙……かつて広報紙と呼ばれた物が画鋲で留められていた。上部の方は画鋲に少し紙片を残すばかりで、残りは丸まってしまっているのだが、通り過ぎざまに吹雪はその紙に描かれているらしき絵を目にして、足を止めた。

 

「ちょっといい?」

 

 二人に一言断ってから紙を伸ばしてみれば、それは斜めに千切れて半ば以上の面積を失っていて、描かれている絵も半分以上破れてしまっていたが、なんとなく吹雪はそれが満潮の(もと)から持って来てしまっていた写真に写っていた艦娘の内の一人で、自分の探し人なのだと直感した。

 

『最新兵装 情報端末KANDROID(カンドロイド)とは』『"神隠しの霧"の脅威未だ去らず。そもそも霧とは?』

 そんな風に踊る題字の下に細かい文字がびっしりとあって、最も大きなタイトルが――『我らが希望 最強の艦娘』。

 全世界で唯一改二に到達した島風がこの鎮守府に籍を置いていたらしく、趣味や好物が書かれていた。肝心の絵は下半身のみ。『カゼ改二』という文字が絵の横に縦書きで記されていた。

 

「これ……」

「……気にした事なかった」

 

 掲示板を指差して二人に声をかける吹雪に、初雪と潮は大きな反応は示さなかった。初雪はこれがそういった紙だとは知らなかったらしく、潮の方は……懐かしそうに丸まった広報誌を眺めていた。彼女は島風……写真の艦娘について何か知っているのだろうか? 聞きたかったものの、なんとなくタイミングを逃した吹雪は、二人と一緒に階段を上り始めた。

 新しい情報を幾つか仕入れられたものの、島風の居場所はわからずじまい。この鎮守府にいたのは確かだろうけど、今はいないのだろう。もしいるのなら初雪が教えてくれるはずだし、潮だって何かしら言うはずだ。まさか沈んでは……その可能性は捨てておこう。そう思わなければやってられな。

 

「…………とりあえず、あなたの部屋はここ」

「えっ」

 

 ……え?

 二つほど階段を上り、古びた廊下を何歩か。三階の廊下、右側の壁の、右から四番目。一つの扉の前で止まった初雪が扉を指し示して紹介すれば、真っ先に潮が反応した。吹雪としては困惑するばかりである。まさか曰くつきの部屋である……とか……。その可能性の方が高く思えるために、吹雪は秘かに震えた。

 

「で、でも、ここって……」

「ここ、吹雪の部屋」

「そうだけど……」

 

 初雪に身を寄せた潮がぼそぼそと囁けば、彼女は先と変わらない声量で返した。

 吹雪の部屋。

 もちろん、ここは吹雪の部屋ではない。この扉の先に足を踏み入れた事はないし、そもそもこの鎮守府にだって初めて来たのだ。つまり……ここは、『前の』吹雪の部屋、という事になる。

 

「そ、その吹雪って、私の事じゃないんだよね?」

「ん」

「じゃあ悪いよ! それに、自分と同じ顔をした人と過ごすってなると、ちょっと気まずいし……」

「そこは、大丈夫」

 

 もしかすると、この部屋の中にいるのはただ自分と同じ容姿の艦娘というだけでなく、生気を失っているかもしれないのだから、吹雪が気後れするのも無理はなかった。

 が、どちらかというともう一つ頭の中に浮かんだ事の方が可能性は高く、それを裏付けるような事を初雪が言おうとしていた。

 

「ま、待って!」

 

 続く言葉は容易に予想ができてしまって、だから吹雪は手で制した。それ以上先は言わないでほしい。そう素直には言えず、とりあえず場凌ぎの言葉を口にする。

 

「その前に、部屋の中を見ても良い、かな」

「……いちいち聞かなくていい。ここ、貴女の部屋」

「ありがとう」

 

 言ってすぐ金属製のノブに手をかけ、一呼吸の間を置いてから引いて開いた。

 中は……靴を脱ぐスペースから始まって、左右に二段ベッド、正面に窓と棚、部屋の中央に背の低い四脚のテーブルがあるだけの、シンプルな内装だった。敷かれたカーペットに汚れは見当たらず、家具なども傷みは見られない。想像していたよりずっと過ごしやすそうで、何より人形のような自分を見る羽目にならずにすんで吹雪はほっと胸を撫で下ろした。

 

「ベッドは……わかる?」

「んと、あそこだったと思う」

 

 後から入ってきた初雪と潮が部屋だけでなく寝る位置も指示した。潮が躊躇いがちに指差したのは左側のベッドの下段だった。そこに今は布団はなく、黒い骨組みを覗かせているのみである。布団があったなら見えないだろうベッドの下のカーペットも埃など無く、綺麗なものだった。

 

「ひょっとして、この部屋……他に住んでる人、いたりする?」

「……わからない」

「……? わからないって?」

 

 言葉の意味がよく理解できず、吹雪は振り返った。俯きがちになった初雪がぽそぽそと語るところによれば、この部屋に住んでいた艦娘は全て最終決戦に出撃しており、その後に帰ってきたのは二人のみであるらしく、その二人も今は海に出ていて、まだ戻ってきていないのだと言う。

 

「じゃあ、戻ってきたら挨拶しなきゃ……ね」

「…………」

 

 胸元で両手を握って明るく言ってみたものの、消沈している初雪と潮の顔を見ればその二人がいつ海に出て、どれくらいの期間戻ってきていないのかなど容易に想像できた。だから言葉はだんだん覇気を失って尻すぼみに終わり、吹雪が口を閉じると、重苦しい沈黙が三人の間を漂った。

 

「ね、寝る場所は決まったね! それじゃあ次いこっか!」

「……」

 

 その空気を打ち破るために自身を奮い立たせ、強引に案内へと話しを戻す吹雪に、初雪は何も言わないながらも一歩引いて部屋の外に出ると、廊下を歩き始めた。吹雪の顔を窺った潮もそれに続く。

 

「…………うん!」

 

 部屋の中を見回した吹雪は、棚の上の電気ポットや、『吹雪』が使っていたというベッドを眺めてから部屋を出た。寂しげな空気が髪をくすぐった。

 

 

 艦娘寮の敷地を出て左に行けば、そこには体育館があった。ここもまた爆撃に晒されたかのような惨状で、『艦娘の住むところ』でないせいか修理の跡は見当たらず、そのままだった。傍らにある小さな甘味処『間宮』も無残な姿になっていた。豆腐が潰れたような家屋を見て元の姿を想像するなど吹雪にはできない。なのに、かつてあっただろう平穏を幻視して胸を痛めた。

 この鎮守府が正常に稼働していた時から在籍している潮と初雪がなんでもないような顔をして案内しているのに、何も失っていないはずの吹雪だけが四肢を失くし、幻肢痛に苛まれるかのような辛い表情をしている。おそらくそんな表情や感情は無意識に浮かべているのだろう。鋭敏な感覚は生まれたばかりだからこそなのかもしれない。

 

 何を言う訳でもなく、ただ上着の裾を握り締めて言い知れぬ悲しみを胸の中へ抑えつけている吹雪に二人はどう声をかけていいかわからず、悩んだ末に案内を続行した。こういう時にかける言葉を持ち合わせていなかったのだ。

 

 元夕張の工廠の正反対にある明石の工廠。体育館の裏側(明石の工廠の裏に体育館がある)。搬入のためのゲートが塀にあり、真向いに大きな口を開けた建物がある。中は意味のわからないドーナツ状の機械や軽トラック――吹雪には巨大な化け物に見えた――なんかが鎮座していて、床にはネジだとかスパナだとかが転がっている。奥の方からは小さな鉄の部品を複数ぶつけ合うような音が断続的に聞こえてきていた。

 最初、吹雪はそれがなんなのかわからなかった。無理もない。彼女は人工的な音というものにかなり疎いのだ。それが誰かが作業している音なのだと瞬時に察しろというのは無理があった。

 

「艦娘、紹介する」

「えっ……あ、ああ、うん」 

 

 促す初雪にまさか()がいるとは思わず、吹雪は素っ頓狂な声を上げてしまって、慌ててこくこくと頷いた。三人で連れ立って工廠に足を踏み入れれば、狭苦しい室内に歓迎された。建物自体は広いのに中には雑多なものがぎゅうぎゅう詰めなので、三人並んで歩く事も難しい。自然と二列で進む事となった。

 

「ふぅ……かーんせいっ!」

「お疲れ様です。お客様が見えてますよ」

「へ? きゃく?」

 

 床に直接座って作業していたのか、胡坐(あぐら)を掻いて四角い機械を両手に掲げるのは、巫女装束と弓道着のハイブリットのような衣服を纏った軽空母の艦娘、瑞鳳だ。明るい茶髪の一部をポニーテールに纏めていて、赤と白からなる縞模様が入った鉢巻をしている。髪を縛る布も同色だ。下はスカート丈のもんぺである。胸部には黒い胸当てが仰々しくあった。

 オレンジ色の目を丸くして吹雪を見ているのは、純粋に新しい艦娘に出会ったのに驚いているからだろう。隣に立っているクリップボードを腕に抱えている女性は大淀。黒髪は腰まで伸びる長髪で、ヘアバンド代わりに白い鉢巻を巻いている。セーラー服は標準的な物に見えるが、その実改造制服のようにスカートの両側に大きなスリットがある。袖から伸びる腕を手首まで覆う灰色は、夏だというのに中に着込んだ上着か。太ももの半ばまでを覆う黒いソックスに膝下からを包む鉄のブーツ。下縁眼鏡のつるを指で押し上げる姿は知性に溢れていた。

 

「大淀さんと瑞鳳さん。先輩」

「ぁあっあの、吹雪です! よろしくお願いします!」

 

 さっきの発言通りに紹介されて大慌てで頭を下げる吹雪。背負った艤装の重みに体が揺さぶられてぐおんとした浮遊感がお腹を襲った。しばらくしてなんの反応もない事を疑問に思い、顔を上げる。大淀も瑞鳳も「あー……」とでも言うかのように微妙な顔をしていた。

 

「あ、あれ? 何か間違えまし……た?」

「あ、違う違う。ここの子じゃないんだーって思って」

 

 手に機械を持ったままぶんぶんと振って否定してみせる瑞鳳に、吹雪は今日何度目か胸を撫で下ろした。わからない事がたくさんあって、戸惑うばかりだ。緊張が酷い。結構体力を削られていて、もうそろふらつき始めてしまいそうだった。

 

「……そう。ここの吹雪さんではないのですね」

 

 大淀の方はというと、疲れたような溜め息を吐いて、それでもやたらに丁寧な口調は崩さずに暗い顔を覗かせた。この人はきっと前の自分(吹雪)を知ってるんだ、と直感する。が、自分について聞こうとは思わなかった。名前を出せば傷つけてしまうかもしれないという配慮ぐらい、今の吹雪にもできるのだ。

 だけど代わりに島風の事を聞こうと思った。この鎮守府に在籍していたという艦娘の情報なら、今聞いても大丈夫だろう。吹雪は、そう思ってしまった。

 

「あの、いきなりで悪いのですが、この子について何か知りませんか?」

「この子?」

 

 立ち上がる瑞鳳と大淀へ取り出した写真を見せれば、少し背を丸めて覗き込んだ二人の顔が瞬時に難しいものに変わった。目の前にいた吹雪にはその表情の変化は顕著(けんちょ)に伝わって、腰が引けてしまった。

 

「この写真、どこから?」

 

 不味い事をしたかと察する前に、瑞鳳の鋭い声。

 

「あっ、う、た、倒れてる子の手にあったので……」

「そう。で、探してるのって……」

「この、島風って子なんですけど」

 

 幸い勝手に写真を持って来てしまった事は咎められず、質問を許されたので、二人に対して島風を知らないかと問いかけた。

 

「んー、私は他所から来たクチだから……」

 

 瑞鳳の方はあまりわからないようだ。なので表情はそのまま、吹雪は大淀へと顔を向けた。

 

「島風さんですね。…………ええ」

「知ってるんですか? あの、私……」

「いいえ、知りません。あの頃私は新参でしたからね。名前くらいなら憶えているのですが」

 

 すっと背を伸ばして拒絶するように言う大淀に勢いを削がれ、吹雪はまた手掛かりを掴めなかった事に肩を落とした。そんな彼女を慰めるように初雪が肩に手を置いてぽんぽんと叩いて(ねぎら)った。

 

「さて、そろそろ食事としましょうか。せっかくですから、皆でいただきましょう」

 

 おもむろに手を打って注目を集めた大淀が見回しながら言えば、潮が焦った風にこくこく頷いて「準備はできてます」と言った。……ならなぜ慌てているのかといえば、単にそういう性格だからだ。

 

 風を切って歩くように大淀が先を行くと、初雪と潮も後に続いた。食堂に行く流れが出来上がってしまっている。吹雪はやはりなんの情報も得られなかった事に再び落胆し、写真を仕舞い、振り返って瑞鳳を促そうとした。しかし当の彼女は手元の四角い機械を弄っていて動く気配がない。『みんな』の中に彼女は入っていないのだろうかと疑問に思い始めたところで、あっと瑞鳳が声を上げた。

 ブォン。不思議な音をたてて機械から照射された光が薄い板を作り出す。そこには何やら小さな船のような物が描かれていて、それが上下に揺れ動いている。ぷかぷかという擬音が聞こえてきそうなコミカルな絵面だ。

 

「つ、繋がっちゃった……」

 

 呆然として呟く瑞鳳に、吹雪にも何かただ事でない事態が起こってしまったのだと察する事ができた。



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第七話 過去との通信

 繋がった。

 それは瑞鳳の手にある謎の機械が何か得体の知れない怪電波でも拾ったという事なのだろうか。

 

「それは本当ですか!」

 

 声を聞いて飛んで戻って来た大淀が瑞鳳に詰め寄れば、彼女ははっと意識を取り戻して、「これが正常に稼働してるならだけど」と機械に目を落とした。

 

「それ、何?」

 

 てこてこと歩いて戻ってきた初雪が端的に機械について問う。それは吹雪も気になっていた。先程完成したらしいその機械はいったいどういったものなのか。繋がったとは何か。初雪の後ろから小走りで走ってきた潮の胸部の脅威はなんなのか。普通揺れないよ。

 ふぅふぅと息を整えながらも視線に気づいた潮の目から逃れるように、吹雪は改めて機械へ目をやった。近未来的な光の板は未だ浮き沈みを繰り返す白い船のシルエットを映している。

 

「これは最新鋭の情報端末、knowledge absorb navigation……KANDROID(カンドロイド)って言うんだけど、それを再現して作ってみた物なんだけどね」

 

 彼女の説明によれば、この多目的端末は妖精暗号通信――妖精を介して行われる意思のみのやりとり――を用いずノータイムで会話する事も機能の一つに組み込まれており、そしてそれは対となる同じ情報端末との間とのみ行う事ができるらしい。

 

「カンドロイドはかつて世界に二つしか存在しなかった。プロトタイプは壊れたのを再利用して作り直したからないけど、対となる型は……」

「今、通信が繋がってる人の手元にある、という事なんですね」

 

 そう。そしてそれは、必ずしも相手が艦娘であるという確証がないもの。

 妖精さんは素質がなければ見る事も意思を受け取る事も叶わないが、カンドロイドは特殊ではあるがただの機械。艤装と違って人間でも扱える。艦娘の艤装扱いにしなければ九割方機能が制限されてしまうが、それでも通信のみなら可能だ。つまり今繋がっている相手は、ひょっとすれば人類最後の一人かもしれないのだ。

 ここに(つど)った艦娘達は、絶えず酷いノイズを発し、同時に微かに鮮明な音を流す光化学画面を一心に見つめた。

 そこに希望があるかもしれない。そう思うと、全神経を集中させて人間の声を聞き取る体勢に入った。

 

『――ザザッ』

『――? ……――』

 

 一際強いノイズが走る。だが同時に誰かの声もまた強く聞こえてきた。

 

「こちら瑞鳳。聞こえる? 聞こえたなら返事して!」

 

 緊張した面持ちの瑞鳳が片手を耳に当てて声を発する。反応はある。でも明確な声が聞こえてこない。

 それから数分の間は瑞鳳が一方的に語りかけるのみだった。

 だが、やがて――。

 

『――えるわ。こち――ザッ――守府所属、駆逐艦・叢雲』

「叢雲? 叢雲さん? こちら瑞鳳、もう一度お願いするわ!」

 

 通信は良好とは言えないが、冷たく鋭い声が空間に切り込むように響き渡った。思わずぴんと背筋を伸ばしてしまいそうな、というか吹雪は背筋が伸びた。

 

『――所属、叢雲よ。現在地は……ちょっと待って――んっ。駄目ね、使い方がわからない』

「いいわ。口頭で伝えて?」

『ええ。ザザッ――地は、コスタリカ。現在地は、コスタリカよ』

「聞こえたわ。コスタリカ……随分遠いところにいるのね」

 

 話しながら、瑞鳳はそれぞれに目を向けた。聞き逃した者はいないかという目配せに全員が頷く。

 

「カンドロイドを持っているって事は、この鎮守府の所属の子なのよね?」

『なんですって? カン……何?』

「ああ、その機械よ」

『――そうね。ええ、そうなるわね』

 

 彼女がかつてここで過ごしていた艦娘と聞いて、吹雪はすぐにでも島風について聞きたくなった。だが今は明らかにその場面ではない。喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで二人の会話に耳を傾けた。

 

「今までどうしていたの? あなたは一度ここへ戻ってきて、再出撃したのよね?」

『…………』

「……当時、帰還した艦娘の過半数がその後の戦闘の報復のために再出撃しています」

 

 繫がりが悪いのか叢雲の答えはなく、代わりに大淀が話して聞かせた。……報復のための出撃? その後の戦闘? 大戦と呼ばれる最終決戦の後に何かしらあったのだろうか。疑問に思う吹雪に初雪が耳打ちする。

 

「霧が世界を覆った。それで人間は消えた。だからみんなは、その敵討ちに……」

「……そんな事が」

 

 耳元に感じる微かな息遣いに、吹雪はどうしてもその霧のせいで一気に人がいなくなったというのが想像できなかった。まるで現実味がなく、だから理解できない。いまいち反応できなかった。

 

「なら仲間が……あなた以外に、他に艦娘は何人いるの?」

『……ゼロよ』

「え? ごめんなさい、通信が――」

『一人も残っていないわ。みんな沈んだ』

 

 そんな、と誰かが零した。

 口に強く手を押し付けた瑞鳳が瞳を揺らして、首を振った。あり得ない。なぜ。どうして。そういった感情が強く読み取れた。

 

「し、深海棲艦は、いなくなったんじゃ……」

 

 涙目の潮が震えた声で訴えた。

 あの最後の侵攻……人間が全滅したあの戦いの後、深海棲艦はまったく姿を見せなくなった。

 どこに行っても、何をしていても現れる事はなく、だから。

 だから、沈むなんて俄かに信じられない。

 

『……何が起こったのか……聞きたいでしょうけど、それは直接話させて』

「それは……」

「今さら何を急ぐ事もないでしょう。彼女の帰りを待ちましょう」

 

 どうする、と窺う瑞鳳に大淀が一番に答えると、その場の空気はその意見に流れた。

 

『そうしてもらえると助かるわ』

「でも、どれくらいかかるか……」

『最大で20日程ね。早ければ二週間のうちには戻れるわ。……何もトラブルがなければね』

「と、トラブルって?」

 

 最後に小さく囁かれた言葉は不穏な空気を孕んでいて、思わず吹雪はそう問いかけてしまった。

 

『吹雪……? 吹雪なの……?』

 

 帰ってきたのは明確な答えではなく、戸惑う声だった。

 自分の名を呼ばれて、そういえば彼女はここで過ごしていたのだから、ここにいたという吹雪の事も知っているのだろうと気づいたのだけど、自分は違う吹雪だとはすぐに言い出せなかった。気後れもあったが、そう伝える事で彼女を落胆させたくなかったのだ。

 

『いえ……あなたが生きているはずがないわ。あなたはあの時……私を庇って沈んだんだもの』

「え……」

 

 沈んだ。

 死んだ。

 吹雪が。

 それは、私が……?

 彼女の声は当たり前に吹雪を指していて、だから吹雪は自分の事を言われているように錯覚した。得体の知れない感情が体を取り巻きじわりじわりと体の中に入ってくるような不快感。心を抉り取られてしまったように一瞬心神を喪失し、膝から力が抜けてへたり込んでしまった。吹雪ちゃん、と潮と初雪が寄り添って腕を取ってくれたものの、足に力は戻らない。

 遠いはずの死が身近にある。いや、身近どころか、この体の中にある。

 まるで自分自身がその死を経験してしまったように感じらて空恐ろしく、額に脂汗が浮くほどに吹雪は怯えた。視線は浮き沈みする船のシルエットから離せない。

 同型艦の凶報が吹雪に与えた精神的ダメージは計り知れない。

 こういった数多のデメリットがあるから、戦時はどれほど巨大な地でも同じ艦娘は二人いなかった。二人以上の同型艦が肩を並べて戦ったのは後にも先にも最終決戦の時だけだった。

 

『また別の吹雪なのね?』

「ぁ……う、うん」

 

 二人の手を借りてなんとか立ち上がった吹雪は、彼女に無駄な心配をかけさせないために、声ばかりはしっかりとして返事をした。自分の事よりまず相手。ここら辺の性格は他の吹雪と違わない。

 

『できるだけ急いで帰るわ。あなたの顔が見たい。……じゃあね』

「うん、またね、叢雲ちゃん」

『……』

 

 ブツンと物理的な音と共に通信が切れる。同時に照射されていた光も消えた。

 見えないというのに控え目に手を振っていた吹雪は、完全に通信が終わったと判断した後にどっと脱力した。かなり無理をしていたのだ。動揺や恐怖を『姉である自分』という役割(ロール)で律していたからこそ立てていたが、妹が一人減ると体中から力が抜けてしまった。もう一人の妹とその友人が支えてくれている。どうにか持ち直せそうだった。

 

「彼女が無事に戻ってくる事ができれば……快挙ですね」

「そうね。どこの泊地も鎮守府も、敵討ちだと出ていった艦娘は誰一人戻ってないと聞くし――ああ、それが本当だっただなんて――、もし叢雲が帰ってきたなら、それは私達の、ひいては誰かの希望や活力になるかもしれない」

「希望……」

「みんな、元気になるんでしょうか……」

 

 そうだったらどんなに素敵な事だろうか。叢雲の帰還を受けて二十数人の艦娘が立ち上がれば、それだけとれる手段は多くなる。現状一桁台の艦娘だけで回しているこの基地は崖っぷちギリギリだ。敵がいないからやっていけているだけで、近海に深海棲艦の一匹でも現れればもうキャパオーバー。だがたとえそうなるとしても、誰もが心の中で深海棲艦の登場を願っていた。目的を得るため。仕返しをするため。様々な想いが渦を巻き、しかし敵は姿を見せない。

 

「私はもうやる気出てきたかも。向いてないって思ってたけど……やっちゃうわ」

「その意気です。全力でサポートしますね」

「そうね、まずは演習システムの修理を……」

「いいえ、まずは昼食です」

 

 大張り切りで腕まくりをする瑞鳳に、大淀は変わらぬ調子で昼餉にしようと告げた。

 そうして五人は食堂へ移動した。

 

 

 具の少ない冷やし中華を平らげて、吹雪は引き続き案内を受ける事となった。これまでずっと背負っていた艤装と砲は明石の工廠改め瑞鳳の工廠に預けられ、今度は館内の案内だ。

 

 本棟内部の二階資料室や三階娯楽室、外の入渠施設に妖精の楽園内部。

 ミニチュアセットのように妖精サイズの街並みが広がる空間は圧巻で、中央に立てられた妖精像は彼女達の自己顕示欲を端的に表していた。楽園内部の黒い建物、緊急出撃ドックも紹介されるが、ここも使われなくなって久しく、老朽化が進んでいた。

 

 案内はここでおしまい。

 お次は隣の特設海上防衛隊の基地にお邪魔してお仕事開始。

 十四年の歳月をかけて瓦礫の撤去、遺体の埋葬、地面の掃除……整えられたのはここだけではなく、近隣の街もまた同じように艦娘の手が入っていた。

 それはひとえに人間のため。人間が戻ってきた時のため。

 既に綺麗にした地の清潔さを維持し、そしてまだ戦果の爪痕が残った地を(なら)していくのが今の艦娘の仕事だ。

 人がいない以上海に出る意味はなく、深海棲艦がいない以上戦う理由もない。

 吹雪は、その『深海棲艦はもうどこにもいない』という一点について、まだみんなに話せていない事がある。

 あの戦艦レ級の事。それから、囚われている『最初の艦娘』の事。

 言い出すタイミングを逸し続けて早数時間。これはもう、(くだん)の妹が到着するまで待った方が良いんじゃないかと思い始めていた。

 たぶんおそらくきっと、とても重要な話になるだろうし、彼女に聞いてもらうのが一番良い……気がする。

 なんとなくで吹雪はそう判断した。面倒がっていたりしているのではない。今話さない方が良いと判断したのだ。

 

 この日は日が暮れるまで作業に従事した。あちこち墓が立つ中での掃除や何かは吹雪の心を重くしたが、これでもまだマシな方だ。人類絶滅直後は足の踏み場もないほど人の死体で溢れ返っていて、原形を留めていないものが過半数を占めていた。集めて焼いて海に撒くの繰り返しは辛うじて自身を律していた艦娘の心を砕くには十分で、それから数年で多くの艦娘が本棟に座る艦娘達の仲間入りを果たした。

 それを乗り越えて生きているのが初雪達だ。

 彼女達は必ず明るい未来が戻ると信じ、他の鎮守府跡と交流を続けている。

 街を綺麗にしているのは他との協力のためもあるからだ、と吹雪は夕食の席で説明を受けた。

 ここでは生産できない物資を他所(よそ)から貰い、ここでしか生産できない物資を他所へ送る。持ちつ持たれつの関係。お互いおかしくならないための繋がり。

 

「……私、本棟に行ってくるね」

 

 夕食後、初雪と潮と共に駆逐寮へ戻る道すがら、吹雪は立ち止まって二人に告げた。

 

「どうして?」

「……金剛さん、どうしてるのかなって思って」

 

 問う初雪に、吹雪は一瞬悩んでから正直に話した。彼女は金剛に苦手意識を抱いているから、名前を出して良いものか、と思ったのだ。

 

「やめておいた方がいい……」

「でも、ご飯を食べに来ないなんて、心配だよ」

「こ、金剛さんは、いつも少し時間をずらして食べに来るから……」

 

 どこか言い辛そうな潮に、どうしてわざわざ時間をずらすのだろうと首を傾げる吹雪。

 ……まさか、他の子と一緒に食べたくないとか?

 それこそまさかだ。吹雪は金剛とは付き合いが長くない。というか数分しか顔を合わせていない。でも、彼女がそういった感情を持たないだろうとは予想できた。たしかに少し変だけど……、あの人は良い人だ。そう認識していた。

 

「金剛さんは……間食が多いんです」

「かんしょく?」

 

 聞き慣れない言葉に再び首を傾げる吹雪。感触、官職……知識をめぐらせて状況にあった言葉を引っ張り出し、ああ、と納得した。おやつとか、そういうのが多いから夕食の時間がずれるんだ。

 そこまで考えて、あれ、と疑問が浮かぶ。

 

「おやつって……あるの?」

 

 この時代、おやつを含む娯楽品なんてとても贅沢な物なのではないだろうか。

 だって生産する人間はもういない。艦娘が生み出すにしても、人手が足りないのは今日一日見て回ってよくわかっている。妖精さんが作るにしたって、材料がなければ何も作れないだろう。

 

「うん。いつも隣の鎮守府から貰ってる」

「あ、そっちの方だと生産できるんだね」

「そういう事」

 

 茶葉に洋菓子類に食器類。吹雪が今いる場所では手に入らない物も、他所と連携すれば届かない品ではなくなる。

 では代価は何か。

 金剛は娯楽品を貰う代わりに何をしているのか。

 答えは何もしていない、だ。

 彼女は正気である少数の艦娘の中に数えられてはいるものの、半分沈みかけに等しく、ゆえに彼女自身に何かをしてもらう事は早々できない。

 だが幸い彼女は戦艦だ。そこにいるだけで意味がある。

 

「その鎮守府にいる艦娘の種類によって、生産できるものが変わる」

「前の戦いでは、強い人から先にいなくなっちゃったから……」

 

 眉を八の字にして潮が言う。その『いなくなった』人の中には、当然彼女と親しかった人や特別な感情を抱いていた相手もいたのだろう。思い出すだけでも辛いだろうに。特に彼女は気が弱い。吹雪もまた彼女と同じ表情を浮かべた。

 

 戦艦がいる事によってこの地では他とは違うものが作り出される。

 それが代価として支払われているから、金剛自身が何もしなくてもずっと娯楽品を手に入れられ続けているのだ。

 だから誰も触れない。十数年前を生きる彼女をこの時代に引き戻そうとしない。

 吹雪には、それが悲しく感じられた。仲間はずれにしているみたいだから。

 ないものとして扱っている……とは違うけど、彼女を彼女としてでなく、ただそこにいる金剛という艦娘として扱っている。それが無性に悲しかった。

 

「私……」

 

 なぜそんな感情を抱くのか、自分でもわからない。

 生まれたばかりなのだからそんなのは当然だ。ただ、元々あった知識に照らし合わせて色んな事をわかったつもりになっているだけで、何もかもが初体験には変わりない。その中で感じた強い気持ちの処理の仕方を、吹雪は知らなかった。

 

「金剛さんと仲良くなりたいな」

 

 くたびれた椅子に服を着せて話しかける金剛を、この地獄とも言える現実に引き戻すのは酷かもしれない。

 これは『わがまま』だ。生まれて初めての、自分のための(おこな)い。

 友達になりたいから無理矢理目を覚まさせる。それでどうなるか、何が起こるかを考えると不安で仕方なかったけど、彼女をあのままにしておくという選択肢はなかった。

 

「何ができるかわからないけど……とにかく、私、行くね」

 

 初雪と潮は、それ以上何も言わなかった。行くなとも行けとも言わず、遠ざかる吹雪の背を不安げに見つめているだけだった。



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第八話 欠けた金剛

ストックが切れました。


 夕食時を過ぎてまで本棟に足を運ぶ艦娘はいない。

 十数年前であったならトレーニングルームや娯楽室、遠征帰りで報告に来る艦娘や秘書艦、助秘書の艦娘が忙しなく動き回り、賑やかだった事だろう。

 だが今はかつての喧噪は影もない。耳の奥に空気が詰まるような静寂が満ちて、照明は切らしたままなために廊下は薄暗く雰囲気も悪い。気分はお化け屋敷だ。

 窓から入る月明かりだけではマッチを持って夜闇の中を歩くに等しくて、壁際に体を預けている艦娘達を避けるのは難しかった。

 誰かの体に足を引っ掛けないよう注意深く歩みながら、そもそもなぜここにいるみんなはそのままにされているのだろう、と吹雪は思った。

 寮に運んでベッドに寝かせてあげるとか、燃料が切れているなら与えるとか、そういった事をしなければみんな駄目になってしまうのではないだろうか。

 

 ……その心配はもはや意味がないものだった。

 のちに吹雪はこの事を問う機会があって、「立ち上がる意志の無い艦娘に分け与えられる燃料はありません。酷な事ですが」と大淀に告げられている。

 根本的な部分がぽっきり折れてしまっているから補給などに意味はなく、それは資源を圧迫するだけだ。資材は有限なのだ。

 何年もの間この問題に対してきた艦娘達の出した結論が彼女達の放置なのだろう。

 吹雪には世界の情勢もこの地の懐具合もよくわからない。無責任に「こうすれば良いのでは」「ああすれば良いのでは」と考える事はできるけれど、実現は難しい。

 

「ん……」

 

 満潮の前で立ち止まった吹雪は、その場にしゃがんで乾いた瞳と目線を合わせると、そっとその両目に手の平をかぶせ、目を閉じさせた。まだ瑞々しい肌は、それでもどうしてか無機質で、無機物的で……触れていると活力や燃料を吸い取られてしまうかのような不安や恐怖が伝わってくる。それでも吹雪は一瞬手を引きかけた以外は怯まなかった。そういった反応は自分にだって許さない。彼女達を怖がったり、ましてや疎ましがったりするつもりはなく、吹雪は正義感だけを心に、満潮の頬にかかった髪を指で退()けた。

 

 廊下の向こうを眺める。注意深く耳を澄ませれば聞こえてくる微かな息遣い。

 輪郭しか見えない艦娘達に、吹雪は決意する。みんなを元に戻すんだ、と。

 言うだけなら簡単だ。実際に行うのは難しいどころの話ではない。

 複数人の吹雪よりも経験のある艦娘達が何もできないでいるのだ、生まれたばかりの吹雪に何ができると言うのであろうか。

 方法はわからない。何も思いつかない。何も知らない。

 それでも吹雪は彼女達を助けたいと思った。

 その気持ちだけは本物だった。

 

 ひとまずは放置されている彼女達を寮へ運ぶところから始めようか、と考えつつ満潮の肩に手を添えて、流れる血の感覚に、今感じたのは自分の血の流れなのか、それともこの子のものなのかと悩みながら目を細めた。

 触れていてもわからない。でも、生きているのだから彼女にも血が流れているはず。それが判断付かないのは、まだ自分が未熟だからだ。

 そういう風に結論付けた吹雪は、目を伏せて腰を上げた。

 当初の目的を思い出したのだ。本棟に来たのは金剛に会うため。彼女と仲良くなるため。

 ここにいるみんなを運ぶのはその後だ。だから、うっすらと目を開けた吹雪は消え入るような声で謝罪をして、踵を返して階段に向かった。

 

 

 三階の踊り場に金剛はいた。

 階段を上り切った直後に左に現れた気配に思わず声が出そうになって、慌てて吹雪は両手で口を押さえた。

 騒いだからといって何がある訳でもないのだが、こう静かだと大きな声を出すのは躊躇われたのだ。夜でもあるし、できるだけ静かに動きたかった。

 

 黄色いテープで雁字搦めにされたバリケードの前に彼女は立っている。

 向かい側にある窓から差し込む光だけでは金剛の表情は見えない。だけど吹雪は、彼女が朝の時の輝くような笑顔を浮かべてはいないだろうなと直感した。

 手すりにかけていた手に力をこめて自分の体を引っ張り、歩き出す。近付けば近付くほど少しずつ顔が見えてくる。

 果たして、彼女は笑っていなかった。

 平時からずっと笑顔であるという方がおかしな話なので変な事ではないはずなのに、彼女に明るすぎる印象を持っていた吹雪はギャップに戸惑い、すぐには声をかけられなかった。

 細められた目。引き結ばれた唇。影に彩られた顎のライン。

 

「この先には、先生がいたのデス」

 

 ただ見上げている事しかできない吹雪に、先に彼女の方から話しかけてきた。

 先生……?

 急な話に頭がついていかず、言葉の意味さえよくわからない。

 センセイ……先生とはなんだろう。

 

「強く、優しく、美しく……そんな先生は、もういまセン」

「……!」

 

 いない。

 それは、そうだ。

 先生とはおそらく人間の事だろう。この世界に人間はいない。だからきっと、その先生という人もとうの昔に亡くなってしまっているのだろう。

 

「だから、吹雪。ワタシ達が伝えられた技術は、しっかりと受け継いでいかなければなりまセンヨ」

「ぎ、技術……ですか?」

 

 カチャリと音を立て、金剛が吹雪へと体を向ける。そうすると斜めに光がかかって、かろうじて双眸が見えるようになった。

 うっすらと浮かんだ笑みは元気さとはかけ離れていたが、悲観的であったり痛ましかったりはしない、大人の笑みだった。

 サッと手を差し出されて、思わず吹雪はその手を見た。

 

「どうデス、久しぶりに手合せしまセンカ?」

 

 ……握手でもすれば良いのだろうかと悩んでいれば、そんな言葉。

 手合せ? なんて言葉の意味を考えている暇はない。ぱしっと手を掴まれ、そのまま階下への強制連行が始まった。

 

「わ、わ、こ、金剛さん!?」

「んー、んー、なーにも言わなくてもわかってマース! 疼いてマスネー、ワクワクなんデスネー」

「わ、わくわくっ?」

 

 ぐいぐいと引っ張られ、跳ねるようにしてなんとか階段を下りながらかけた声には変な答えが返ってきて、目を白黒させているうちに外へ出た。夜道は月明かりで薄明るく、歩くのに苦労はしない。ただ、金剛と吹雪では歩幅が違うので、引っ張られたままだと何度もつんのめってしまっていた。

 吹雪が一息つけたのは、ボロボロの体育館についた時だった。

 錆びてたてつけの悪くなっている金属扉を強引に引き剥がし投げ捨てた金剛がずんずんと入っていくのに、流れで後に続く吹雪。彼女にこっそり帰るという選択肢はないらしい。

 

「ありゃ、電気切れてマスネー」

「……あの」

 

 そりゃ、たぶん使われなくなってから十数年経ってるし、そもそも天井はほとんど壊れて星空が覗いているから、電気なんてつく訳がない。

 だというのに入口脇のスイッチをカチカチいわせつつ天を仰ぐ金剛に、吹雪は言い知れぬ悪寒に襲われて自身の肩を抱いた。普通に喋って普通に笑ったりするのに、時折顔を覗かせる狂気的な言動が怖くてたまらない。

 

「まーいーデス。さぁ、吹雪、やりマショウ」

「な、何をですか?」

 

 吹雪の方を向いてそう言った金剛が館内中央に向けて大股で歩いていくのを走って追いながら聞く。

 さっきの手合せの事を言っているのだとはわかっているが、その手合せがなんなのかがわからない。先程話していた先生の技術というのが関係しているのだろうか。

 

「構えて」

「は、はいっ」

 

 思考の海に潜りかけた吹雪を金剛の声がすくい上げる。

 反射的に背を伸ばして返事をした吹雪は、少し距離を開けて自然体で立つ金剛の姿を眺め、首を傾げた。構えろと言われても……何を、どうやって?

 砲がないから砲じゃない。ならまさか、この拳を……?

 握った右の拳を眼前に持っていき、まじまじと見つめる吹雪は、すぐ目の前まで迫ってきていた金剛に気付かなかった。

 

「ふげっ!?」

 

 そして気付いた時には背中から床に叩きつけられ、間の抜けた声を発してしまっていた。

 肺から空気が抜け、背骨がギシギシと痛む。掴まれたままの腕をぐいと引っ張られて無理矢理立たされた吹雪は、涙の滲んだ瞳に金剛を捉えた。

 

「っこんご……ぅ……さ」

「ンー」

 

 眉を寄せて凛々しい表情を浮かべる彼女はどこか怒っているようにも見えて、文句を言おうとしていた吹雪は声を掠れさせて押し黙った。

 

「もう一度デス」

「ぇほっ、えほ、う、も、もう一度……?」

「構えて」

 

 口元を抑えて咳き込みながら顔を上げれば、離れて行った金剛は一定の距離で振り返り、先程と同じ姿勢をとってみせた。

 あ、これは駄目だな、と吹雪は直感した。制止は聞いてくれそうにないし、声が届きそうもない。

 

「こんっ――」

 

 実際、止めようとする前にすーっと幽霊のように近付いてきた金剛に襟元を掴まれ、と思えば床に強かに打ち据えられていた。

 

 立ち上がらされて、「構えて」の声と共に近寄ってきた金剛に投げられる事五度。

 クラクラでフラフラな吹雪を見て、金剛は「フーム」と不思議そうに唸った。

 

「まったく手応えがありまセンネー。……吹雪?」

「は、はひ……」

「サボってマシタネ? 鍛錬」

「へぅ、い、いぇ、えぇ?」

 

 なんだかよくわからないが、金剛から不機嫌オーラが発されている。だから反射的にサボってませんと答えようとして、しかし吹雪は嘘がつけなかった。言葉を止めてしまえば疑問が溢れてきて、弁解どころではなくなってしまう。

 なんでこんな痛い事になっているのだろう。なんで咎められているのだろう。

 わからない事ばっかりで、そろそろ涙腺が決壊しそうであったが、同時に吹雪は「ひょっとして……」とも思っていた。

 このよくわからない喧嘩を凌ぎきれば、友情的なものが芽生えてお友達大作戦は成功を収めるのではないだろーか。

 ドクドクギュンギュンと脈打つ後頭部と鈍痛を発する肩に、吹雪はにへらっと笑みを浮かべててきとーに構えた。

 それなら話は速い。事情が呑み込めたわけではないが、仲良くなれるならとことん付き合うまでだ。

 

 

 そう思った事を吹雪が深く深く後悔したのは、都合十二回目の床との激突の際だった。

 結局その日は夜が明けるまで金剛の相手をする事になった吹雪は、泣き笑いで無謀な戦いに挑み続ける羽目になった。

 

 

「いたたたた……」

「染みマスカ? 鍛錬を怠っていた罰だと思う事デス」

「ううう、だから違うって言ってるのに……」

 

 ザァァァ。

 温かい湯の雨が浴室に煙を蔓延させている。

 重みのある白煙に包まれた吹雪と金剛は、シャワーの前で向かい合って立っていた。

 流れゆく水滴が玉の肌を滑り落ちていく。照明が胸の谷間にはっきりと影をつけていて、吹雪は今日、全敗だった。

 

「でも、やっぱり吹雪は物覚えが良いデス。さすがは那珂ちゃんの一番弟子デース!」

「那珂ちゃん……先輩?」

 

 濡れた髪を梳くように手を這わせられた吹雪は、すぐ近くで笑う金剛の顔を見上げて聞き返した。

 おそらく彼女が話しているのは自分ではない自分(吹雪)の事なのだろうけど、吹雪には何が何やらさっぱりだ。那珂ちゃんと言われてもピンと来ない。たしか、軽巡の艦娘だったような……。

 少しずつ情報が集まりつつはあるのだが、打ち傷に湯が染みてたびたび考え事が中断されてしまう。

 

「ホラ」

「あぅ、す、すみません」

 

 くいっと顎を動かされ、顔を背ける形になる吹雪に、金剛は片手に持った小瓶に指を差し入れ、緑色の液体をどろりと持ち上げると、傷へ塗り込み始めた。

 するとあっという間に傷が消え、痛みも引いていく。これは高速修復剤を薄めたもの。艦娘に対しては効き目抜群だ。貴重なものではない。ただの古臭い、なんの意味もない物品。敵がいない以上、回復薬などあっても意味がない。

 

「ありがとうございます」

「ウン、もう痛む個所はありまセンネー?」

「はい、平気です!」

 

 広い浴室内に吹雪の声が木霊する。

 びしっと敬礼する吹雪に笑みを零した金剛は、デハ、と体を戻し、目の前のでっぱりに小瓶を置いた。

 

「裸の付き合いと洒落込みマショウ! スキンシップは大事デース!」

「え? あぁはい、そうです……ね?」

 

 シャンプーの容器を手に取ってチャッチャッと液を手に溜める金剛に返事をしながら、その言葉と動きに嫌な予感を覚えた。

 

「ハイ、頭出しテー」

「えええっ、い、いいですいいです、自分でやりますから!」

「遠慮しなーい」

 

 手を擦り合わせて薬液を泡立たせつつ迫りくる金剛に対抗する手段を、吹雪は持ち合わせていなかった。両手をぶんぶん振って遠慮するものの、そういった行動がなんの意味もなさない事はさっき散々味わって知っている。だからもう、半ば以上観念してされるがままにする事にした。

 椅子に座らされ、密着するくらいに後ろに座った金剛の手によって髪の毛を泡塗れにされながら、この年になって頭を洗ってもらうなんて、と吹雪は嘆いた。……この年も何も彼女は生後二日であるのだが……艦娘の心は不可思議で、時に不便である。

 大きな鏡には死んだ目でうりうりと頭を揺り動かされている吹雪の姿が映っていた。



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第九話 連装砲ちゃん!

『本日より、君を我が鎮守府の艦娘とし、最高指揮官である私の秘書艦に任命する」

『は、はいっ! 頑張ります!』

 

 どことも知れぬ一室で、吹雪は大きな机についている人間と向かい合っていた。

 逆光に照らされた姿は輪郭さえぼやけさせて、それが男なのか女なのかもわからない。

 声は何重にも重なってぐわんぐわんと響いており、やはり男女どちらなのかは判断付かなかった。

 

 だが、それはどうでも良いのだ。

 重要なのは、吹雪が人間の指揮下に入ったという事。

 人の(もと)で戦えるという事。

 

『辛く厳しく、長い道のりになるだろう。私と共に歩んでくれる事を期待している』

『……! 任せてくださいっ!!』

 

 すでにびしっと決めていた敬礼にもっと力を込め、胸を張るように返答する。

 喜びが体中に満ち溢れていた。

 これこそが艦娘なのだと、実感した。

 

 じわりじわりと手や足や首や胸の節々まで熱いものが染みわたっていく。

 エネルギーとパワーが充足していく。

 

 人類に、未来を。

 

 吹雪は、艦娘の悲願を知った。

 

 

 ぱたたっ、と薄布を打つ水の音がして、吹雪は薄く目を開いた。

 視界の四隅が黒くぼやけ、それが収まっても、見えるものは薄ぼんやりとしたままだった。

 それはまだ日が昇っていない早い時間だからという理由だけではなかった。

 熱い水が肌を伝い、布団に染み込んでいく。

 肩までかけていた毛布をかぶり直した吹雪は、のそりと出した手で口元を覆い、小さく欠伸をしてから目を擦った。

 ぱたたっ。

 また雫が零れ落ちる。

 じん……と痛む鼻と胸にかぶりを振って、息を吐く。

 

 あんなのは、ただの夢だ。

 

 先程見た夢を、吹雪はすぐに忘れようとした。

 人間がいる時代に生まれていたなら、あんな風に人と共に生きられたんだろうな。

 そんな羨望は意味がなく、もしもという仮定に意義はない。

 それでも思わずにはいられない。

 ああ、人間と一緒に戦いたかった、と。

 

 切なさと痛みが混ざった感情に苛まれ、朝から憂鬱になってしまった吹雪は、もう少し寝る時間はあるだろうと考えながら寝返りを打った。

 

 ぐちゃぐちゃの黒が目の前にあった。

 

「――――!!」

 

 思わずあげかけた悲鳴はその滅茶苦茶な顔を持つ艦娘――あのレ級に囚われていた艦娘だ!――の手で塞がれ、息が漏れ出るばかりだった。その行動の理由がわからずますます混乱して、吹雪はなんとかその腕を掴んで外した。

 

「なっ、なな、なん、なんで!?」

『…………』

 

 がばりと身を起こす。ずれ落ちた毛布を気にせず距離をとるように縁まで移動して背を押し当て、ただ疑問を吐き出す。

 彼女は答えなかった。言葉を話せないのだから当然だ。しかし吹雪はこの瞬間だけその事を忘れてしまった。

 最初の艦娘と呼ばれた少女が身を起こす。

 黒線が空間を乱し、不気味に蠢く。吹雪の心も掻き乱されて、また一筋、涙が流れた。

 

『…………』

 

 少女は何も語らない。

 首を傾げるような動作をすれば、長い黒髪が揺れて……それだけ。

 なぜここにいるのか。なぜ布団に潜り込んできていたのか。

 聞きたい事は山ほどあるのに、咄嗟に言葉が出てこない。

 

「……え?」

 

 そうこうしているうちに少女は消えてしまった。

 瞬きをしたその刹那に、忽然と姿を消してしまったのだ。

 

『キュー』

 

 少女がいた場所には大中小の自立稼働兵装、連装砲ちゃんが気持ち良さそうに寝息をたてているのみで、他には何も残っていなかった。

 

「……え?」

 

 混乱を通り越して声を出す機械になった吹雪は、それからしばらくして迎えに来た初雪の手により再起動を果たした。

 斜め四十五度は復活にはもってこいであった。

 

 

 初雪に連れられて本棟前の噴水がある広場にやって来た吹雪は、その場で朝の柔軟体操をする事になった。

 眠気がとれ、体が(ほぐ)れたなら朝食だ。食堂には金剛以外の艦娘が揃っていた。

 初雪に大淀に瑞鳳、憮然とした表情の大井、エプロンを畳んで調理場に置いてきた潮が席につけば、これで全員。吹雪を入れて六名の艦娘が、今鎮守府でまともに動いている者達だ。

 

「いただきます」

 

 全員で手を合わせ、声を合わせる。

 潮が用意してくれた朝食はトーストにコーンスープにゆで卵のみ。

 質素と侮る事なかれ、これでなかなか贅沢をしているのだ。

 特に卵などは家畜を飼う事ができなければ入手できない代物(しろもの)。他所との交流で手に入れたこれは貴重品も同然だった。

 生鮮食品なのでこうして毎回食卓にあがるが、希少なのはたしか。

 そうとは知らず剥き身の玉子をためつすがめつした吹雪は、小皿に盛られている塩にちょんとつけて口に運んだ。

 

「……!」

 

 美味、である。

 これおいしいね、と気持ちを共有しようと顔を上げた吹雪の前には、黙々と食を進める五人の姿があった。

 そこに団欒はなく、笑顔もない。

 なんとも寂しげで、しかし正しい食卓であった。

 

 朝餉を終え、日課の仕事が始まる。

 お墓の手入れ、鎮守府や基地、街の掃除、整備。

 その中で吹雪は、廊下や外に倒れているすべての艦娘を寮に運び込み、空いている部屋のベッドへと寝かせていった。

 それが終わったのが午後三時の少し前。

 

 日の照る外へ一度出て、深呼吸をしてから本棟三階へ向かえば、ちょうどティータイムを楽しんでいる金剛と会う事ができる。

 

「hello、吹雪。今日も手合せしマスカ?」

「い、いえ。今日は遠慮しておきます」

 

 ここに来れば、彼女がすかさずこういった提案をしてくるのはわかっていたのだが、吹雪にはどうしても聞きたい事があったので訪れざるをえなかったのだ。

 

「ノンノン、日々、たゆまぬ鍛錬が大事なのデース。今日だけサボるなんて許されマセン!」

 

 「ち、ち、ち」と人差し指を振った金剛が目をつぶって解説する。

 

「えぇっ、いえあの、私は、自主的に、その」

「……フム、まあ、それもそうデスネ。自分のペースでやるのも大事ネ。その調子で頑張るデス!」

「は、はい! 頑張ります!」

 

 激励するように声をかけられて、思わず吹雪は嬉しくなって返答してしまったが、こんな事をしに来たのではなかったと思い出した。

 ティーカップとソーサーを両手に、白磁に花のような形状のカップを傾けて香りを楽しんでいる金剛の下に歩み寄った吹雪は、一枚の写真を取り出して金剛に見せた。

 

「この『島風』って艦娘を知りませんか?」

「ンー、島風デスネー。よーく知ってマース」

「本当ですか! で、できればお話をお聞きしたいのですが!」

 

 満潮が持っていた写真に写る艦娘達を金剛は知っているようだった。これは初雪の言った通りで、しかし金剛の様子からちゃんと話を聞けるのか不安を抱いていた吹雪は、しっかりとした受け答えに安心してお願いをした。

 

「話すのはやぶさかではないデス」

「じゃあ、お願いします!」

「――デスガ、それになんの意味があるのデショウ? 彼女の事なら、ワタシより吹雪、貴女の方が知っているはずです」

「え……」

 

 小首を傾げ、カップを揺らす金剛に、吹雪は頭の中を疑問符で埋め尽くした。

 私の方が知っている? そんなまさか。

 名前や装備くらいしか知らない艦娘の事をなぜよく知っていると思われたのかが不思議で、その原因に思いを馳せた吹雪は、すぐに理由に思い当たった。

 

「彼女の友人である貴女なら、ワタシの知らない事も知っているのデショウ?」

「あ……」

 

 金剛は過去の時間に生きている。

 人間がいた時代。十四年も前の世界。

 彼女の中ではシマカゼはまだこの鎮守府にいて、そして吹雪は吹雪(前の私)なのだ。

 ……そうなんだ、と内心で頷く。

 吹雪とシマカゼは友達だった。

 だからあの最初の艦娘は、自分にシマカゼの事を話したのかもしれない。

 そういう風に信頼されて、それは重しとなって胸に深く沈む。

 金剛から向けられる親しみや明るい感情は、きっと自分に向けられているものではない。

 そうと気付いてしまうと途端に居心地が悪くなってしまい、吹雪は一礼して、その場を去る事にした。

 とてもではないが、違う自分と友人だったという島風の事を聞く気にはなれなかった。そこから連鎖して自分の知らない自分の話も出てきてしまいそうだったから。

 

 過去の自分が怖いのではない。

 その吹雪が人と共に在ったという事に嫉妬してしまいそうな自分が怖かったのだ。

 生まれたての体に負の感情は毒だ。避けるようにして部屋に戻った吹雪は、ベッドに入り込んですぐ、目をつぶって溜め息を吐いた。

 

『キュー』

 

 連装砲ちゃん達の事をすっかり忘れていたのだ。

 

「……どうしよう、この子達」

 

 今朝はぐっすり眠っていた三匹は、今はお目目をぱっちり開いてとことこと歩き回っている。細い砲身が上下し、小首を傾げて吹雪を見上げる仕草は庇護欲を誘う。

 自然と口角が下がり始めて、吹雪は慌てて頭を振った。

 

 この得体の知れない艤装は、唐突に現れた未知なるもの。

 これが島風の装備だというのは知っている。

 ではなぜこれが現れたのか。……考えを辿って行けば、一つの結論に辿り着く事ができた。

 

「託された、の、かな」

 

 あの少女に。

 きっとこの島風の仲間達は、最初の艦娘の妹らしい、この鎮守府に所属していた島風のものなのだろう。

 彼女がどうやって現れ、そして消えたのかはわからない。

 でも託されたのなら自分がちゃんと守ってあげなければ。

 

「……でも、困ったなぁ」

『キュー?』

 

 天板を見上げる吹雪に、ヘラのような手をぱたぱたやって連装砲ちゃん達が不思議そうに鳴く。

 

「叢雲ちゃんが戻ってくるまであの深海棲艦の話をするのはやめておこうって考えてたのに、この子達がいたら、黙ってるなんて無理だよね……」

 

 はぁーあ、と重苦しい溜め息を吐く吹雪。

 そもそも、叢雲がくるまで黙っていようって考えが間違いだったのかもしれない。

 ほんの短い期間だが、みんなと過ごして、吹雪は感じた。

 『深海棲艦と遭った』といったって、みんな取り乱したりはしないだろう。

 そういう風に信じられるくらいにはなっていた。

 

 この世界の、この場所の異様な雰囲気に不安を抱いていたけど、でも、話さないといけないなら、話した方が良い。

 そう決意しようとした吹雪の膝をくすぐるものがあって、あまりのこしょばゆさに思考が中断されてしまった。

 

「あははっ、な、なぁに? どうしたの?」

『キュー!』

 

 体ごと擦り付けるような動きで、半ばスカートの中に埋もれつつ動いていた小さな連装砲ちゃんが訴えるように鳴く。

 その個体を両手で抱え上げ、他の子は、と見れば……なぜか、二匹とも布団の中に潜り込んでいた。

 

「何、してるの……?」

『キュー!』

 

 もぞもぞとはいずり回り、ひょこっと外へ顔を出した二匹は、動きを揃えて敬礼っぽく手を動かし(届いてない)、きりっとした表情を作った。

 吹雪の手にいた一匹も身体を捻って手から逃れると、布団に潜り込んで反転し、顔を覗かせた。

 

「眠たいの?」

『キュー?』

 

 んーん、と首を振られる。

 ……それじゃあ、ひょっとして。

 

「……隠れててくれるの?」

『キュー!』

 

 今度はうんうんと頷かれた。

 どうやら連装砲ちゃん達は吹雪の意思を汲み、時が来るまで待機していてくれるらしい。

 ならば無理に話す必要はなくなった。

 吹雪は秘かに掻いていた汗を拭い、肩から力を抜いた。

 なんだかんだ言って緊張していたのだ。これはいくら他の艦娘を信頼していようとどうしようもない事。

 

 コンコン、と扉がノックされる。

 「はーい」と吹雪が声を出せば、間を置かず初雪が入ってきた。

 夕食のお誘いだ。

 手元の掛布団を連装砲ちゃん達にそれとなくかぶせながら、吹雪はベッドを降りて初雪に続いた。

 ……ちなみに今朝の段階では初雪にも連装砲ちゃんの存在はばれていない。ちょうど彼女達は今のように布団に潜り込んだ状態に近かったためだ。これはあの最初の艦娘が吹雪の布団に入り込んでいたためだろう。

 

 そんな訳で、二十日後に叢雲が帰ってくるまで、吹雪はゆっくりとした時間を過ごした。



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みぎのみぎのほう?
第十話 叢雲、帰還


 その日は快晴だった。

 入道雲が空を泳ぎ、どこまでも抜ける空の青さは清々しい。夏であるが、日の光は柔らかく、過ごしやすい気温だった。

 KANDROIDの通信によって叢雲が戻って来た事を知った面々は、埠頭(ふとう)に集まった。

 水平線から白い水煙が現れ、一直線に向かってくる。

 それこそがかつてこの鎮守府に所属していた駆逐艦・叢雲だった。

 

 

「駆逐艦叢雲、出撃任務より帰投したわ」

「お帰りなさい。待ってたよ、叢雲ちゃん」

「……吹雪」

 

 吹雪が一番前に立って彼女を迎え入れた。

 これはみんなで相談して決めた事だ。

 ここにいる艦娘は全員が叢雲とほとんど顔を合わせた事のない者で、それなら最も接しやすいだろう吹雪を、となったのだ。

 吹雪としても否はなかった。聞きたい事も伝えたい事もあったから。

 

「みんなも、待っていてくれてありがとう。感謝するわ」

「いいえ……無事の帰還、ですね。心よりお待ちしていました」

「叢雲ちゃん、疲れてない? 入渠(お風呂)にする? あ、それともご飯にする?」

 

 感慨深げに言う彼女に、それぞれが一言ずつ投げかける。それに続いて吹雪は何か一つでも聞いておこうと思ったのだけど、まずは、疲れを色濃く表情に残す彼女を休ませてあげる事が先決だと考え直した。

 夕日色の瞳を吹雪に向けた叢雲は、ふっと相好を崩し、「甘いものが食べたいわ」と囁いた。

 

 

 一行は甘味処「間宮」へ足を運んだ。

 ここもかなり損傷が激しいが、入っても崩れる事はないし、中は片付けられている。

 店内を見回す叢雲を隅の席へ案内した吹雪は、何が食べたいの? と問いかけた。

 

「そうね、じゃあレクイエムサルベーションを」

「え?」

「……ごめんなさい。なんでもないわ」

 

 何やら口走った彼女は、吹雪の素の声にこほんと咳払いし、少し体を傾けてカウンターの方に顔を向けた。頭巾にエプロン姿の潮が待機していて、「何があるの?」と声をかけられるとびくりと肩を跳ねさせた。

 

「な、夏ですし、かき氷とか……いかがでしょうか」

「ふぅん、いいわね。……ええ、甘いのならなんでも良いわ」

 

 人見知りを発動している潮が首をすぼめて提案する。叢雲は首肯した。それが良いというよりは、それ以外に何もないだろうと予測したのだ。

 

「……ずっと食べれなかったの? 甘味」

 

 伏し目がちに、対面に座る吹雪を見た彼女は、小さく頷いた。

 

「お疲れのとこ悪いけど、そこら辺の話、詳しく聞かせてもらえないかしら」

 

 吹雪の隣の椅子を引き(初雪とは反対側だ)、大井が座りながら叢雲に投げかけた。

 傍らに立つ大淀と瑞鳳も、彼女の帰還と同じくらい、あの日彼女が機械越しに語ろうとしていた話を聞きたがっていた。

 

「あの子が戻って来てからにしましょう。……それからで良いわね?」

「うん、問題ないわ」

 

 瑞鳳がそう答えると、他の者も同意するように頷いた。

 十四年越しの帰還を果たした叢雲の言葉には、誰しも否と言えない雰囲気があったのだった。

 

 

「お待たせしました」

 

 ガラス製の皿に薄氷を積もらせて、潮が戻って来た。スプーンと共に机に置かれた皿の横に、緑の液体に満たされたボトルが置かれる。

 叢雲がボトルから潮へ視線を移せば、彼女はさっと目を逸らして、そろそろと視線を戻しつつ僅かに震える声で説明した。

 

「ぇと、使えるシロップは、それしか残ってなかったんです……」

「そう。ありがとう」

 

 ボトルは古めかしく、埃を払った跡がそれとわかるくらいにあった。

 賞味期限は二ヶ月ほど後を指している。ギリギリの物だ。叢雲はなぜかじっとラベルを眺め、不意にボトルを持ち上げてくるくると回転させ、隅々まで眺めた。

 吹雪は、きっとそれは珍しい物を見たからそういう反応をしてるのだと思ったのだが(自分がシロップを初めて見るからそう思ったのだ)、事実は違う。本来賞味期限が二、三年のボトルシロップ、十年持つ物があるのか? と疑っていたのだ。

 結局ラベルの隅に妖精印を見つけて納得した彼女は、栓を抜いて氷にシロップをたっぷりかけた。

 なみなみと注がれた液体に氷の山が背を低くする。白く揺らめく煙が立つと、見ているだけでひんやりとした。

 

「さて、どこから話そうかしら」

「出撃した後に何が起こったのかからお願いします」

 

 どうして深海棲艦のいないはずの海で艦隊が全滅したのか。

 大淀の問いかけに、叢雲はすぐには答えなかった。スプーンを手に取り、鈍い銀に映る伸びた自分の顔に目を落とし、それからシャクリと氷の山に突き刺した。

 

「殺したからよ」

「……え?」

 

 ギシリと空気が固まった。

 ここにいる誰も、その言葉の意味を理解できなかった。

 どこをどうとっても今の言葉は『私が仲間を沈めました』という意味にしか聞こえず、聞き間違いか何かとしか思えなかった。

 すました顔でスプーンに乗った緑色を口に運び、唇の合間から差し込む彼女が仲間を手にかけたとは到底思えない。

 ……だから何か事情があるのだろうなどと察した者は少なかった。

 

「ちょっと、それってどういう意味よ!?」

 

 ダンッと机を叩いて立ち上がった大井が恫喝するように歯を噛みしめた。先の彼女の言葉の意味を測り兼ね、そしてなんの感慨もないといった様子でかき氷を食べる叢雲の姿に苛立ったのだろう。

 しかし彼女の中でも『何かがあったのだ』という予測はあって、だから、勢いはそこで衰え、叢雲が上目で大井を見れば、それ以上は何も言わずに静かに腰を下ろした。

 

「仲間と交戦せざるを得ない状況とはなんです」

「…………」

「……あの霧がまた出たの? それで、前後不覚になって……」

 

 黙りこくる叢雲に、瑞鳳はそうであってほしいと願うような声音で問いかけた。

 

 霧。

 当時の状況を頭の中に描いていた吹雪は、不意に出た単語に、海で出会った奇妙な二人組の事を思い出した。

 黄金の光を揺らめかせるレ級と、真っ黒な線に塗り潰された艦娘。

 その二人と出会った時、濃密な霧が世界を覆っていた。

 

「いいえ。霧は出なかった。深海棲艦も出なかった」

「じゃあ、なぜ……」

 

 一つ一つ逃げ道が潰されていく。それは叢雲を信じたいみんなの想いと、叢雲自身の退路。

 本当に友を倒して帰ってきたのならば、許される事ではない。それが本当の話ならば。

 だが、もしかすると……この超然とした態度は、裁かれる覚悟をすでにしているからでは……。

 

「どう言えば良いのかしら。……そうね、『みんな敵になった。だから一人残らず沈めた』」

「意味が解らないわ。もっと詳しく説明して」

 

 シャクリ。スプーンに氷を乗せ、口に運ぶ叢雲。

 部屋中に重苦しい雰囲気が漂っていた。だから吹雪は身を縮め、隣に座る初雪の様子を窺った。彼女はいつも通りの半目で口を小さく結び、じっと叢雲を見ていた。

 

「……敵になったのよ」

「どういう事です。……艦娘が反旗を翻したとでもいうのですか?」

「いいえ、艦娘は一人も裏切らなかった」

「じゃあなんでなのよ!」

 

 大淀と瑞鳳に一つ一つ答える叢雲だったが、やはりその言葉の意味は伝わってこなかった。

 まるで話が見えてこない。彼女以外の艦娘がなぜ沈まなければならなかったのか。

 しばらくして、叢雲は頭を振り、観念したように真実を話した。

 

「全員深海棲艦になった。だから倒した」

「なっ」

 

 それはあまりにも衝撃的な話だ。「そんな」とか「うそ」という声が零れて、誰もが顔を青褪めさせた。

 

「そ、そんな話があるもんですか。艦娘が深海棲艦になるなんて……」

「見る? この機械にはそれが記録されているみたいよ」

「ちょ、ちょっと待って! ……本当、なの?」

「それはどっちの話?」

「艦娘が深海棲艦になるという話です! ……あまりにも、突拍子がなさすぎる」

 

 混乱の中で三人が叢雲に詰め寄った。吹雪と初雪は、逃げるように傍まで来た潮と共に、どうしてか否定しきれない話を飲み込もうとした。

 吹雪達が理解できずとも話は進んでいく。叢雲は床に置いていた艤装に引っ掛けられているカンドロイドを掴むと、机越しに吹雪に手渡した。

 

「え、なんで私……」

「あいにく、私はそれの操作方法を知らないの。無線だけならボタンを押すだけで繋がるから使えたけど」

「えーっと…………?」

 

 長方形の端末にいくつかついたボタンに指を這わせたり円状のでっぱりに当てたりして操作法を探っていれば、隣の大井の機嫌がだんだん悪くなっていくのに気付く。それで慌てては理解できるものもできないのだが……。

 

「こう、右手で持つのよ」

 

 吹雪の背後に立った瑞鳳が、自身のカンドロイドを手にして、まず持ち方を教えた。

 

「右手で下から持って」

「はい。……こう、ですか?」

「そうそう。親指は、端末右上の立体スティックに。立ち上げるには左側面の一番上のボタンをカチッと音がするまで押し込んで」

「はい。……わっ」

 

 言われた通りにボタンを押せば、ヴォンと音をたてて端末から光が照射され、薄い板のような光化学画面が空中に現れた。

 

「スティックで項目を操作して……そう。記録の項目の映像を選択して」

「はい。……またいくつか項目が出てきました」

「日付があるでしょ? たぶんかなり古い方にあるんじゃないかしら」

 

 スライドして、上下にずれてと画面は忙しなく変わっていく。

 みんなが注目する中で、吹雪は最も古い映像の記録、『2025/01/02』を選択した。

 

 

 映像の再生が終われば、みな一様に俯いて、何一つ喋らなくなった。

 ただ叢雲がスプーンをかき氷に刺すシャクリシャクリという音だけがあって、それが先程の映像の悍ましさと恐ろしさを際立たせた。

 

「……ごちそうさま。……さて、ご理解いただけたかしら」

「…………」

 

 叢雲が問うも、誰も答えない。あんなものを見せられて答えられる訳がない。

 海を行く艦娘が突如黒い影に包まれ、苦しみ……静かになって、同胞に襲い掛かる姿。

 艦種に関係なくその変化はあって、だから海に出た者が誰一人戻ってこなかったのだと理解させられた。

 みんな深海棲艦になった。そして仲間を襲い、倒すか倒されるかした。

 たとえ生き残っていてももはや艦娘でない彼女達は戻ってくる事はない。

 

「……叢雲ちゃんは、どうして平気でいられるの? ……怖く、ないの?」

 

 最後に言葉を投げかけたきり、正面に座る吹雪をじっと見つめるだけになった叢雲に、吹雪は懸命に話しかけた。唇の動く感覚がやけによそよそしくて、自分の体なのに、自分のじゃない体を動かしているみたいだった。

 

「さぁ、ね。忘れたわ。もう十何年も前の事だもの」

 

 瞬きをしながら言う彼女に、しかし吹雪は聞く前から答えがわかっていた。

 彼女も酷く恐れていた。それは映像から生々しく伝わってきた。

 映像を記録しているのはカンドロイドだ。カンドロイドは艤装の一つ。ゆえにそれを持つ叢雲の視点で記録が流れ、なんどもぶれて、恐れるように引いていた。画面越しに殺到する、かつての仲間の面影を残した敵の姿。恐ろしくないはずがない。

 

「っ……!」

 

 潮が耐え切れずといった様子で蹲った。膝に顔を埋め、小刻みに震える体を自分の腕で抱き締めている。

 ごめんなさい、と瑞鳳が掠れた声で呟いた。

 

「ちょっと、一人に……考えさせて。考える時間を……」

「構わないわ。また後ほど集まって話しましょう? これからの事を」

「し、失礼……します」

「…………」

 

 大淀と大井も瑞鳳に続いてそれぞれが動き、外に出ていく。体調が優れないかのような鈍重な動きだった。

 

「……」

 

 ボタンを押して光化学画面を消し去った吹雪も、彼女達と同じように凄まじい悪寒や生理的嫌悪感に襲われていた。

 自分の根源を直接抉り出されて見せつけられているような、そんな感覚。なぜ叢雲が平然としていられるのかが心底理解できない。彼女の言った『忘れた』という言葉は理解できたが、とても受け入れられるものではなかった。

 

 あの映像、艦娘達は突然に……本当に突然に、深海棲艦になってしまった。

 そこにたとえば怪しい人物の介入だとか、あの霧の介入だとかはなく、いきなりに……。

 自分達もいつかああなってしまうのではないか。それは数秒後かもしれない。そういった恐怖ばかりが際限なく湧き上がってくる。

 

「二人を寮へ運ぶわ。吹雪、手伝ってくれる?」

「……うん」

 

 席を立ち、食器とボトルを奥に仕舞ってきた叢雲が艤装を背に装着しながら言うのに、吹雪は力なく頷いた。

 

 

 本棟。

 初雪と潮を彼女達の部屋に運んだ二人は、吹雪の寝室に入った。

 

「ここを寝床にしているの?」

「うん。私ならこの部屋だろうって、初雪ちゃんが」

「そうね。たしかにここは……そのベッドは、吹雪の場所ね」

 

 知ったような口ぶりに、吹雪は彼女もこの部屋で過ごしていたのだと察した。

 柵の無いベッドの縁に腰かけて一息つこうと思った吹雪は、何か硬くて大きな物をお尻で踏んでしまって「きゃっ」と声を上げて飛び退いた。

 見れば、布団がもぞもぞと動いている!

 凄まじい恐怖に襲われて、直後、それが愛らしい連装砲ちゃんなのだと思い出し、はぁーあ、と深く溜め息を吐いた。

 

「……どうしたの? いきなり」

「あっ、ううん!? な、なんでもないよ? なんでも……あはは」

 

 ささっと連装砲ちゃん達がいる位置の前に立って誤魔化し笑いを浮かべる吹雪に、叢雲はしばらく胡乱げな顔を向けた後に、踵を返してベッドにかかる梯子へ足を向けた。

 良かった、誤魔化せた……。ほっと胸を撫で下ろす吹雪だったが、ここで「あれっ」と首を傾げた。

 ……元々彼女が来たらみんなに話そうと思っていた話しと、明かそうと思っていた連装砲ちゃん達の存在。わざわざ誤魔化す意味はあったのだろうか?

 

『キュー!』

「あっ、わっ」

 

 なんて考えている内、窮屈だったのか三匹ともが布団から這い出てきてしまった。そしてそれは、梯子の半ばに足をかけて振り向いた叢雲に目敏く見つけられてしまった。

 

「…………吹雪。それは、なに?」

「えーっとぉ……えー、えぇ……」

 

 なぜかベッドから飛び降りようとする彼女達を手で押さえながら言葉を探す吹雪。だが悲しいかな、この子達の事を吹雪は何も知らない。だから説明しようがないのだ。

 トントンと下りてきた叢雲の方はといえば、懐かしげに目を細めて連装砲ちゃん達に歩み寄り、そっと手を差し伸べた。

 するとどうだろう。まるでよく懐いた猫のように連装砲ちゃん達は叢雲の手に殺到し、わらわらわちゃわちゃと蠢き始めた。

 

「……ひょっとして……連ちゃん、装ちゃん、砲ちゃん……なの?」

『キュー!』

 

 彼女の問いかけを肯定するように三匹が揃って鳴いた。

 

「叢雲ちゃん、この子達の事知ってるの?」

「え? ええ、よく知ってるわ。この子達は島風の……この部屋にいた島風の艤装なの」

「島風ちゃんの……」

 

 やはりこの子達は、そうだったんだ。

 今朝自分の布団の中に現れた少女を思い浮かべながら、吹雪は叢雲に島風の事を聞こうと、そしてあの深海棲艦の事を話そうと決意した。



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第十一話 始まりと終わり

この世界で確認されているレ級は一体のみです。


 浴室。

 壁際にずらっと並ぶシャワーの中央辺りに、吹雪と叢雲は立っていた。

 ザァザァ降りの湯水が肌で弾けて霧を漂わせている。蔓延する白さの中に二つある肌色は、とても明るかった。

 

「む゛ら゛く゛も゛ち゛ゃ゛ん゛~、私、私もうどうしたら良いのかわかんないよぉ~!」

「はいはい。シャンプーが目に入ったのね? じっとしてなさい、今流してあげるから」

 

 わしゃわしゃと乱暴に頭を掻き回して泡を立てていた吹雪が、ぐわっと両腕をガッツポーズでもするみたいに広げて涙を流すのに、叢雲は呆れたようにシャワーのノズルを向けた。

 吹雪は、部屋で叢雲と話してからはずっとこんな調子でぐずついていて、そんな年下の姉に叢雲はたじたじだった。

 まるで子供のように天井を向いてあ゛~っと声をたてて泣く吹雪に思いっきり溜め息を吐いた叢雲は、壁にかけられた垢すりを見て、ひったくるように手に取って素早く薬液を染みこませ、揉み込んで泡立てると、この手間のかかる姉の丸洗いに取り掛かった。

 

 

「島風を探してる?」

「うん。私、頼まれて……はいないんだけど、この子の事、探してて」

 

 古びた写真を渡された叢雲は、それを一瞥して眉を寄せると、そう吹雪に問いかけた。明るくやる気の(たぎ)った顔で返されて、ますます眉を寄せて皺を深くする。

 

「……そもそも、この写真はどこから手に入れたのよ」

「それは、えっと、廊下にいた満潮ちゃん、から」

「…………満潮は生きているの?」

「い、生きてるよ? 息してたし」

「動いてはいないのね……」

 

 ふぅ、と息を吐いた叢雲と一緒に吹雪も息を吐いた。怒られるかもと思ったけど、そんな事はなかったからだ。

 

「では連装砲ちゃん達はどうしてここにいるのかしら。……あなたはどこで彼女達と出会ったの?」

「……布団の中?」

「はぁ?」

 

 はぁ? なんて言われても、事実をそのまま言っただけだから他になんとも言えない。指を突っつき合わせながら吹雪は今朝あった事を話した。

 それから、自分が生まれた日に海で出遭った深海棲艦の事も。

 

「あんの深海棲艦……!!」

「叢雲ちゃん!?」

 

 レ級のレの字が出た時点で叢雲は豹変した。さっと身を翻して出入り口へ取りつき、乱暴に扉を開け放ったのだ。

 尋常でないその様子に慌てて追いすがって艤装を掴んだ吹雪は、成り行き上そのまま引っ張って押し留めた。

 

「ど、どこ行くの、叢雲ちゃん!」

「離しなさい! あの深海棲艦を倒しにに決まってるでしょう!」

「で、でも、どこにいるかなんてわからないよっ!?」

 

 レベル差があるせいか凄まじい力に引っ張られて、踏ん張る足もじょじょにざりざりと床を擦って動き出してしまった時に、叢雲がふっと力を抜いた。

 

「あわっ!?」

 

 当然投げ出された吹雪は、振り返った叢雲の細腕にふわりと抱き止められ、優しく押し戻されてその場に立たされた。

 彼女はやるせなさそうな顔をしていた。自分の無力さを噛みしめるような、敗北と屈辱に濡れた表情。底から吹雪が読み取れたものは少ない。けど、少しばかりの共感があって、吹雪も表情を暗くした。

 

「そう、ね。……あの霧は神出鬼没。どこにでも現れるし、どこにもはいない。……それに、私一人で向かっていっても無駄死にするのがオチね」

「そ、そうなの?」

 

 噛みしめた歯の隙間から苦々しさと共に言葉を吐き出す彼女に、吹雪は胸元に手をやって首を傾げた。

 あの記録映像の中で深海棲艦化し、襲って来た者の中には戦艦級もいた。だけど叢雲は一人で全てを相手取り、これを轟沈させた。

 その彼女がたった一人の戦艦に敵わないと言ったのだ。まるで想像できる戦闘レベルではなくて、吹雪は困惑した。

 

「……知らないのね。当時最強を誇っていた艦娘でさえ、あいつには敵わなかったのよ」

「……そう、なんだ」

 

 最強と言われても吹雪にはピンと来ない。

 だけどレ級がとても強いのはわかるし、それがとんでもレベルで、なのもなんとなくわかってきた。

 

 激情からか広がっていた叢雲の艤装が折りたたまれて背側へ収縮する。頭部両側の艤装が緩やかに倒れ、起き上がると、彼女は壁に手を当てて吹雪と向き合った。

 

「島風を探しているという艦娘はレ級の(もと)にいたのね?」

「うん。あの子、捕まってるみたいだった。武器も艤装も奪われて……それでも諦めず、たった一人の妹さんを探してたんだ」

()()艦娘が突然現れて、連装砲ちゃん達を残して消えた、と」

「うん、うん! そうなの!」

 

 そうなの! ではない。

 あからさまに不審者である少女をただのかわいそうな艦娘と信じて疑わない純真な姉に、叢雲は頭痛を堪える仕草をした。頭が痛くなりそうだった。いや、ズキズキと痛み始めてきた。

 その認識を変えるのは一朝一夕ではなせそうにない。強敵だ。

 

「まあ、今はその話は置いておくわ。問題は、よ」

「問題?」

 

 側頭部を手の付け根でとんとんと叩きながら言えば、吹雪がオウム返しにする。

 何はともあれ、まずはその島風の事を話さなければ始まらない。そう判断した叢雲は、最終決戦での島風の事を語った。

 

「あの時……私は、何もできなかった」

「……?」

 

 『シマカゼっ!』

 一人の艦娘の悲痛な声が海に響く。

 不意を打たれて首を掴まれ、持ち上げられた島風は満身創痍で、だから――抵抗が遅れた。

 かち上げるように振り上げられた拳に打たれ、浮き上がった彼女の体は限界を迎え――。

 その身に秘めた力と共に爆散した。

 激しい風が巻き起こり、波を起こす。それでほとんどの艦娘が、自分達の仲間がやられたのだと知った。

 

「……それ、じゃあ」

「そう。……あなたの探している艦娘は、もういない」

「そ、そんなっ」

 

 吹雪は、二つの目的をいっぺんに失ってしまった。

 島風を探す。そして、あの少女の下に連れて行く。

 もはやどちらもできないと知った吹雪は、悲嘆に暮れた。

 ……でも、だけど。まだ、まだもう一つ、生きる目標がある。

 

「なら、私、満潮ちゃん達を元に戻してあげなきゃ……」

「……それは無理なのよ、吹雪」

 

 俯きかけた顔を上げて絞り出すように言った吹雪に、叢雲は目を伏せて、諭すように返した。

 

「な、なんで? ほとんどの子は燃料がないからああなってるんでしょ?」

「もちろん、それが理由の艦娘もいるにはいるわ。でもほんの少数。他はみんな、自分達の存在する意味を見失って倒れてしまっているの」

「なら、また意味を見つけさせてあげれば……!」

「だから無理なのよ。世界中のどこを探しても人間はいなかった。人間がいない限り、多くの艦娘はもう立ち上がる事はできない」

「そんなぁ……! なんで、そんな……」

 

 叢雲の言葉には真実味がある。

 なにせ十四年もそこかしこへ行っていたのだ。きっと多くのものを見てきたのだろう。感じてきたのだろう。

 だから吹雪は何も言い返せず、じわじわと瞳に涙を溜めて、堪え切れずに泣き出してしまった。

 

「それじゃあ、私、なんのために生まれたの……?」

「吹雪……」

 

 ぼろぼろと涙を零し、服の端をぎゅっと掴んで伸ばす彼女を、叢雲は優しく抱いた。

 そうするほかなかった。その悲しみや失意を慰める事などできなかった。

 『人間がいない』という事実は、覆しようがないのだから。

 

 

 正午過ぎ。

 風呂上がりにリラクゼーションルームに足を運んだ二人は、そこで寛いでいた。

 

「あ゛~゛~゛、き゛く゛~゛~゛」

「……」

 

 背もたれの無い長椅子に腰かけ、冷えた水をちびちび飲みながら、叢雲は蕩け顔の吹雪を眺めていた。

 マッサージチェアに体を預けて全身を解されている彼女は、まるで天国にいるかのような声を出して涎を垂らしている。

 泣き腫らした目もようやっと腫れが引いてきて元通りに近くなってきているのもあり、叢雲はそろそろその形容しがたい表情をやめろと注意しようかと思い始めていた。とてもはしたない。そもそもあんた、生まれたてでどこも凝ってないだろう。

 

 まあ、せっかく持ち直してきたのだ、笑ったカラスをまた泣かせる必要はどこにもない。

 席を立ってもう一つグラスを用意した叢雲は、体を弛緩させている吹雪を叩き起こして、水を勧めた。放っておくと9時間くらいやっていそうだったので強制終了もやむを得まい。

 

「ごめんね、叢雲ちゃん。恥ずかしいところ、見せちゃったね」

 

 横長椅子の方に映った吹雪は、両手でグラスを挟んで持ち、気持ちが落ち着いてくると、先程の事を謝罪した。

 

「別に、良いのよ。泣きたい時に泣くのが一番なの」

「……ありがとう。優しいね、叢雲ちゃんは」

「……それに、さっきの吹雪の方がよっぽど恥ずかしい顔をしてたわ」

「へぇ!? そ、そんなにだった?」

 

 なんだか恥ずかしい事を臆面もなく言ってくる姉に、叢雲は咄嗟に誤魔化した。足をぴんと張って驚く吹雪は、それからおかしそうにくすくすと笑い始めた。

 

「ふふ。ほんとにありがとう。私、まだ頑張れそうだよ」

「頑張ってもらわねば困るわ」

 

 前を見たまま叢雲は言う。

 きっと今、吹雪はとても穏やかな笑みを浮かべているだろう。直視すれば心が溶かされてしまいそうだ。

 それでは駄目なのだ。

 それでは、この時代を生き抜く事はできない。

 あの倒れ伏した艦娘達と同じにならないようにするには、心を強く持つしかない。

 

「吹雪。どれだけ残酷な事実があっても、決して折れては駄目よ」

「…………うん。わかった」

 

 素直に頷く気配がした。

 ……それがとても危うく感じられて、叢雲は秘かに溜め息を吐いた。



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第十二話 掛け違えた吹雪

 食堂にて、一堂に会した艦娘達が叢雲に注目していた。

 その中には金剛もいる。吹雪と叢雲が連れ立って本棟三階の執務室に向かい、そこで金剛の目を覚まさせ、連れて来たのだ。

 詰め寄った叢雲に『現実を見ろ』と言われて、数秒の間金剛は表情が抜け落ちて固まっていた。だがすぐに笑顔を取り戻すと、「参りマシタネー」と後ろ頭を掻いて、観念したようにまぶたを下ろしたのだった。

 過去に囚われていると思われていた彼女の心は、とっくの昔にこの辛い現実へと戻ってきていたのだ。彼女は、ただ少し事実から目を逸らしていただけで。

 

「……みんな、落ち着いたようね」

「ええ。考えてみれば、だから何って話だったし……」

「もうどうなろうと関係ないもの」

 

 艦娘が深海棲艦になると聞いて取り乱していたそれぞれは、かなり後ろ向きにその事実を受け入れた。

 今はまったく落ち着いていて、平常通りだ。さすがは十四年の歳月を耐えてきた艦娘達と言うべきか。

 

「それで、叢雲さん。あなたは今までどこに?」

「……一つ処には留まっていなかったわ。決戦以来あちこちに逃れた艦娘達と会うために各国を渡り歩いていた。アメリカ、イギリス、イタリア、ドイツ、フランス、ロシア……まぁ、色々ね。そしてそのどこにも人間はいなかったし、どこにでも倒れ伏した艦娘はいた」

「……そう、ですか」

 

 この地球上に人がいないなど既知の事実であったが、改めて告げられると、それは重苦しく受け入れがたい現実だった。同時に、多くの同胞が物言わぬ置物と化してしまっている事も。

 

「それで、これからどうするの?」

 

 少しすっきりした表情で吹雪が問う。

 今までと何か違う彼女の様子に、比較的付き合いのある初雪と潮が不思議そうに吹雪を見た。

 

「叢雲さんの帰還を他の鎮守府へ伝えるのが、まずやるべき事、でしょうか」

「それはどうしてですか?」

「……彼女が初めて帰還を果たした艦娘だからであり、他との繫がりを重んじるため、ですね」

「重要な事を黙ってたら、無用な諍いを生むかもしれないからね」

 

 それに、彼女の帰りを知って立ち上がる艦娘がいるかもしれないし。

 そう説明されて、そういえばそれは二週間前にも言ってたような、と吹雪が思い出そうとしていれば、「それよりもっと重要な事がアリマス」と、それまで沈黙を保っていた金剛が口を開いた。

 その重々しい声音と腕を組み、目をつぶるという態度に一抹の不安が漂う。みんな、ほんの少し前まで彼女がおかしかった事を知っているのだ。何を言い出すかと警戒してしまうのも無理はない。

 けど、警戒など不要だ。

 

「それは叢雲の帰還partyネ!」

「あっ、いいですね、それ!」

 

 ぴっと人差し指をたて、笑顔で言い放つ彼女に、一番に言葉を返したのは吹雪だった。……二番目はいなかった。突拍子の無い提案に言葉を失っていた。

 

「十四年越しの帰還を祝い、盛大なpartyを開くのデース! みんなでお祭りワッショイしまショ!」

「賛成です!」

「ちょ、ちょっと吹雪……!」

 

 いつも通りにテンションが高い金剛に、いやに乗り気な吹雪。叢雲の制止の声は届かず、勝手に盛り上がっていく二人を見て、大淀が眼鏡のつるを押さえて息を吐いた。

 

「そういう事なら、そう贅沢な物は用意できませんが、ええ。パーティは開けると思います」

「ちょっと、本気なの? そんな事してる場合じゃないでしょ?」

 

 これに否を唱えたのは大井だ。机こそ叩かなかったが、立ち上がって大淀を睨みつけると、そのまま金剛と吹雪の方へ視線を移した。

 射殺すような目を向けられて静かになった吹雪は、しかし恐れも竦みもせずに答えた。

 

「でも、楽しい事って必要だと思うんです」

「だから、楽しんでる場合じゃないって言ってるのよ。あんた状況を理解してるの?」

「はい。もう人間はいないんですよね。深海棲艦もいなくって、だから私達、生きてる意味なんてなくて。存在している理由も、その必要もなくて」

 

 手を合わせ、にこにこと笑って言う吹雪だったが、その言葉には不穏なものが含まれていた。

 なんて事はないと言わんばかりに自分達の現状を語っているが、その実、裏には深い悲しみや絶望が隠されているのは誰の目から見ても明らかだった。

 特に彼女は生まれたばかりの艦娘。この時代にさえ生まれなければ。そういった気持ちに苛まれているのだろうか。あるいはそれは、縋るべき人間を失った艦娘達の十四年に及ぶ虚無に匹敵するほどの絶望かもしれない。

 それでも笑顔で友の、姉妹の帰還を祝う余裕はあるようで――むしろ、そういう風に楽しい事でもしないと、自分を保てなくなると予感しているのだろう。

 

「……わかったわ。パーティでもなんでもやれば良いじゃないの」

「ありがとうございます!」

 

 折れたのは大井だった。

 『そんな事をしている場合じゃない』とは自分の言葉だったが、吹雪の顔を見て、声を聞いていると、ではその『そんな事』をできる場合とはいつくるのか……そう考えてしまったのだ。

 ……永遠に来ない。くるはずがない。なにせ人類は絶滅した。艦娘が再び立ち上がる事はなく、敵がいないなら戦う事もない。……たとえいても、戦う理由がない。

 

「それじゃあみんなで頑張りましょう!」

 

 吹雪が音頭を取り、全員でパーティの準備を行う運びとなった。

 会場の設営は日が暮れる頃に終わった。

 

 

「では、叢雲ちゃんの帰還を祝いまして……乾杯!」

「かんぱーい!」

 

 八つのグラスが天井へ向けて掲げられる。

 揺れる液体が眩い電灯の白い光を乱反射させて、部屋中を跳ねかえった。

 場所は変わらず食堂だが、部屋の中はみんなの力で作った物で飾り立てられていた。

 前部の壁、厨房の横には『!いさなりえかお』の文字が書かれた横長の板がかけられ、折り紙を切って輪っかにし、それを連ねた物が四方に伸び、天井を蔦のように覆っていた。

 出入り口にはアーチ状の飾りつけがなされ、この集まりに協力してくれた妖精さん達が入口脇にたむろしていた。それぞれ手に小さなコップやらワイングラスやら猫やらを持って、吹雪達に続いてそれぞれを掲げた。

 数匹がすたたたっと走り出てきて、手にしたクラッカーの紐を体全体で引き抜き、「スパパパンッ」と盛大に鳴らした。

 続いて壁際に作られた小さなドックから艦載機が引っ張られてきて、プロペラを回転させて発進した。機首が持ち上がり、何機も天井付近へ飛んでいく。後部から伸びてひらひらと揺れる紙には、お帰りだとかおめでとうだとか、叢雲を歓迎する言葉が書かれていた。

 

「わぁ、すごーい!」

「……なんか、楽しくなってきた、かも」

 

 目の前を通る艦載機に、その中で手を振る妖精さんに手を振り返しながら吹雪が歓声を上げれば、初雪は俄かに興奮した様子で、同意した。二人共が、こういった催しや、「楽しむ」という事は初めてだった

 

「飲み物、たくさんありますから……よ、よかったら、どうぞ」

 

 カートを引いて料理と飲料を運んできた潮が、言うが早いかさっと身を屈めて逃れるように吹雪の方へ走ってきた。注目されたりするのは苦手らしい。

 

「ごめんね、潮ちゃん。最後までやらせちゃって」

「う、ううん。これが私のお仕事、だから」

 

 労う吹雪に、彼女はぎこちない笑みを浮かべて、それでも嬉しそうにそう言った。

 

「吹雪」

「叢雲ちゃん。どう? 楽しめそう?」

 

 大淀達との会話が一段落付いたのか、叢雲がやってきた。「楽しんでるわよ、とっても」と言いつつグラスを傾け、その手をカートの方に向けた。

 

「さ、せっかく潮が作ってくれたんだから食べましょ」

「うん! 行こ、二人共」

「ん」

「は、はい」

 

 カートには、ちょうど大淀達も集まって来ているところだった。

 重ねられた丸皿をそれぞれ手にしながら、まず何を食べるか話していて、吹雪達が寄って行くと、大淀と瑞鳳がはにかむように笑いかけてきた。

 

「どうですか。楽しい、ですか?」

「はい。思っていた以上に心が浮ついています」

「なんかもう、楽しみ方を忘れちゃってて変な気分だけどね」

 

 二人はこの催しをしっかりと楽しんでいるみたいだった。

 それに満足した吹雪は、今度は大井に顔を向けた。彼女は澄ました顔でトングを手にし、サラダパスタをお皿に移している。

 

「大井さんはどうですか?」

「…………つまらなくはないわ」

「それは良かったです!」

 

 彼女も悪くは思っていないようだ。

 だけど、薄く目を開いて吹雪を見た大井には、どこか楽しみ切れてない節があった。

 

「楽しいって気持ちは胸中に広がったわ。ああ、こんな感情もあったっけって思い出して……でもね、そうすると昔を思い出してしまったの」

 

 ここにもう一人いれば。

 吹雪がどうしてかと問えば、彼女は流暢に、柔らかな口調で、それでいて寂しそうに語った。

 

「今日は大盤振る舞いデース! ケーキもクッキーもマカロンも食べ放題! ホラホラ、お腹いっぱい食べなきゃネ?」

「ちょっと、まだデザートは……!」

 

 ひょこっと顔を出した金剛が左手で支えた大皿から大井の皿へとひょいひょい洋菓子を移していく。拒否など無意味。サラダパスタは端に追いやられ、甘味の王国ができあがっていた。

 

「しかもこんな糖分糖分糖分……! 太っちゃうじゃない!」

「もー、そんな心配必要アリマセーン!」

「気にします!」

 

 滅多に手に入らなくなった甘味に手を伸ばしていた瑞鳳は、大井の叫びにはっと気を取り直し、自分のお腹に手を這わせた。ぶに。摘まむと肉が出る。そういえば、十四年の間全然運動してない…………。

 

「だ、ダイエットが必要かしら」

 

 瑞鳳は微かな溜め息とともに呟いた。

 

「あはは」

 

 軽い声で笑ったのは大淀だった。

 彼女は口元を押さえて、目をつぶっておかしそうにしている。あんまりそういう風に笑う人ではないと思っていたから、吹雪は珍しい気持ちで彼女を見上げた。

 

「どうしたの、大淀」

 

 それは他の仲間達も同じようで、一転して心配そうに大淀に声をかけた。

 

「ふふ、太る心配だとか、ダイエットだとか……そんな事を言ったり考えたりしたのはいつぶりでしょうか」

「……そうね。考えてみれば、そうよね。十四年もずーっと難しい顔してこれからどうするかってばっかり考えてたんだから」

「笑ったり、楽しんだりしていなければ鬱憤も溜まるものよね」

 

 瑞鳳と大井もあははと声を上げて笑った。今この瞬間を楽しもうという気持ちのこもった笑い声だった。

 三人を眺めていた吹雪の袖を、初雪がくいくいと引いた。

 

「あなたが提案してくれなければ私は楽しいという感情を知らずにいた……かも」

 

 早口で、一息にそれだけ言い切ると、彼女はふぅと熱い息を吐いて、グラスに口をつけてぐいっと(あお)った。

 

「どのような状況であれ、息抜きは必要という事ね」

 

 叢雲は、ずっと笑みを浮かべている。穏やかというより少々好戦的な感じだが、角は取れているような感じがした。

 

「かくいう私も、ずっと忘れていたわ……楽しいって気持ちも、楽しく思える事をしようなんて考えも、自分がそんな感情を抱けるって事も」

「叢雲ちゃん……」

「吹雪」

 

 少し首を傾けて自分の名を呼ぶ妹に、吹雪は改めて彼女に向き直り、なに? と聞き返した。

 

「最高よ、あなた」

 

 吹雪へ指を突き付けた叢雲は、にっと笑みを深めてそう言った。

 

「むぅ~、最初に提案したワタシの存在が蔑ろにされてるデス」

「あっ、金剛さん」

 

 褒められて照れに照れた吹雪の背後に音もなく金剛が立ち、両腕を抱いて吹雪の肩に顎を置いた。膨れた頬が自身の頬に触れるのをくすぐったがりながら、すみません、と吹雪が謝る。

 なぜか場の雰囲気は『音頭を取っていた吹雪こそがこのパーティを提案し、みんなに楽しさを思い出させた』という形になっていたが、そうなると面白くないのは金剛だ。ワタシ、ワタシと両手の人差し指で自分を指差し、猛然とアピールをしている。

 

「デモ、陰の立役者というのも格好良いデスネー。……フッフッフ、良いデス! 今回の手柄は吹雪! youに譲りマショウ!」

「わっ」

 

 シカァシ、と体を離し、吹雪の体を回転させて強制的に向き直させた金剛は、不敵な笑みを浮かべて流し目を送った。

 

「次は負けまセン!」

「あ、あはは……」

 

 それはなんの勝負でだろう、と疑問に思ったが、空気を読んで言わないでおく吹雪だった。

 

 

「さ、楽しい時間はおしまいよ。みんな、そのまま聞いてちょうだい」

 

 カウンター脇に立って手を叩き、注目を集めた叢雲がそれぞれを見回しながら言った。

 

「ここからはこれからの話をするわよ。情報の共有、それに対しての行動なんかをね」

「そうですね。片付けは……後で良いでしょう」

 

 口の端についたクリームを指ですくってぺろりと舐めた大淀がそう答えた事で、場の雰囲気はお祭り気分を脱却し、平時に近付いた。

 

「半数以上には話したけど、話していない事もある。一つ、重要な情報があるわ」

 

 それは、吹雪が叢雲に伝えた『戦艦レ級』と『神隠しの霧』、そしてこの鎮守府にかつて所属していた島風を探す『名もなき艦娘』の事。

 

 まだ深海棲艦がいる。いや、再び深海棲艦が現れた。

 そう聞いても、誰も、特に反応は示さなかった。そうなんだ、といった風に流した。艦娘が深海棲艦になるという話のインパクトが高かったのもあるが、楽しむ事を思い出し、余裕を取り戻した彼女達には、それくらいなら動じずに受け入れられたのだ。

 それでも敵討ちをしたいと思うかもしれないが、現存する艦娘全てを集めても勝てる見込みはない。

 なにせレ級には深海棲艦の『現代兵器が効かない』能力の他に『艦娘の兵器が効かない』能力、その上『神隠しの霧を操る』能力まである。

 霧に包まれれば百人で挑もうが千人で挑もうが一人単位で分断され、一対一で沈められるだけだろう。

 レ級と単体で戦える艦娘は驚くほど少なく、そんなパワーがある者はとうの昔にいなくなっている。

 

「この事を他に話すのか。それを決めましょう」

「凄く重要な事だけど……同時に、とても危うい案件でもあるわね」

 

 なんでも情報共有すべきだと瑞鳳は考えていたみたいだが、こればかりは慎重に扱わなければ、と判断したらしい。

 復讐心に駆られて海に出れば、そのまま戻ってこない可能性の方が高い。そして無事の帰還を果たした叢雲がいる以上、その誰かは簡単に海へ踏み出してしまうと容易に予想できる。

 

 隠すか、明かすか。

 話し合いは潮がカートに食器を集めて厨房に引っ込み、追った吹雪と初雪が協力して皿洗いに励み、全てを拭いて棚に戻した頃に結論が出た。

 

「やはり話すべきですね」

「そうね。何はどうあれ、それは進む事に繋がるから」

「とはいえ、それでどうなる訳でもないでしょうけど」

 

 人がいない以上、艦娘がどう動こうと意味はない。

 結局は全てそれに収束する。

 ならば場当たり的な対応をとるのが妥当だろう。

 

「それじゃあ、片付けも終わったみたいだし……良い時間だし、ここらでお開きに」

「あ、待って、叢雲ちゃん」

 

 手を打って解散を宣言しようとした叢雲に、吹雪は手を上げながら小走りで走り寄った。

 彼女の隣に並び、みんなへ向けて自分『これからしたい事』を言う。

 

「私、倒れちゃってるみんなを元に戻したいんです」

「……気持ちはわかりますが、手段がありません」

「どうしてですか?」

 

 大淀は、前にも言いましたが、と前置きして説明した。

 

「彼女達に分け与える資源はないのです。……前に一度、全ての艦娘を呼び覚まそうとしましたが、各々が元の場所に戻り、動かなくなってしまったのです」

「そもそも私達には人間がいないと駄目なのよ」

 

 艦娘は……艦娘の元となったかつての艦艇は、人の手によって造られた。人と共に戦い、人と共に守り、人にために沈む。全ては人間ありき。艦娘も、同じだ。

 

「でも、それだけじゃないの。……そこには私達の生まれた理由が深く関係してる」

「私達の……生まれた、理由?」

「そう。最後の決戦で、あのレ級が語った私達の真実」

 

 艦娘とは、この海に飽和する人や船の遺志が生み出した強い念の塊。

 その本質は闘争。戦いたいという願いで生まれ、戦いたいという想いによって動いている。

 だから深海棲艦は生み出された。戦う相手が必要だったから。艦娘は、人と共に戦う。守るという理由を作り、戦場に飛び込んでいく。

 深海棲艦が人を襲い、艦娘が守るという形ができ、人間は艦娘を受け入れた。

 終わりなき泥沼の戦争が幕を開けた。

 艦娘は減らない。深海棲艦は減らない。

 艦娘が減れば深海棲艦が艦娘となって現れ、深海棲艦が減れば艦娘が深海棲艦となって敵に回る。

 強くなりすぎた者が現れれば、間引くようにレ級が消していった。

 永遠に続く戦いは、しかし人の手で終止符が打たれる事となる。

 

「当時の私達は知らなかったけど……人間は真実に近付いていたのよ」

 

 艦娘や深海棲艦はどこからきて、なぜ戦うのか。

 長く戦っていればだんだんと見えてくるものがある。その情報を頼りに、人は真実を手繰ろうとしていた。

 それを阻止するための深海棲艦の動きと、戦うために動く艦娘がぶつかり合い、そして――。

 

「艦娘は負け、戦争は終わった。ある意味それは人間の悲願だったでしょうね。だけど人間がいなくなった今、戦う理由はなくなった」

 

 だから深海棲艦は姿を消し、艦娘はそのほとんどが活動を停止した。

 

「だから、彼女達を起こしたいなら、人間を連れてくるぐらいしなきゃいけないのよ」

「……人間がいれば、みんなは元に戻るの?」

「そうね。できれば私達を指揮してくれる人間であればなお良いわ。でもそれは不可能――」

「じゃあ私、人間になる」

「――は?」

 

 叢雲は、我が耳を疑った。こいつ、今なんて言った?

 どう思い返しても人間になる、とか言っていたような気がするが、しかしその表情は先程となんら変わらず重要な事を言うだとか、大きな決意を秘めているだとか、そういうものを感じさせない顔だった。

 

「私が人間に……司令官になれば、みんなを元に戻せるよね?」

「ちょっとあんた、何言ってるのよ」

 

 ね、と首を傾げられても、艦娘が人間になれるものかとしか返しようがない。

 

「人間……」

「また人と一緒に戦えるの……?」

「戦う……私、戦いたい」

「深海棲艦がいても関係ないって思ってたけど、人間がいるっていうなら……」

 

 しかしなぜかみんなその気になっていて、吹雪はうんうんと頷いている。

 『人間』という言葉にはそれ程の魅力があった。

 

「私自身、人間と一緒に戦えたらなって思ってたから……私が司令官になれば、またみんなは戦えるようになるし、みんな、また立ち上がれるようになるよね」

「ええ、きっとなります」

 

 吹雪の謎理論に大淀が即答した。至極真面目な顔だった。だが、その目は僅かに濡れ、揺れている。

 

「いや、そもそも艦娘が、人……に、は」

 

 様子のおかしいみんなに口を挟もうとした叢雲は、自身の体の内で膨れ上がる凄まじい熱を感じて、だんだんと言葉を失っていった。

 それは歓喜だった。

 人と共に戦う。それこそ艦娘。

 

(また、あなた(司令官)と戦えるの……?)

 

 胸に強く手を押し当てた叢雲は、手をきつく握り締めながら、誰ともわからない人間へ問いかけた。

 

「大丈夫だよ、叢雲ちゃん。私が人間になれば……ね?」

 

 安心させるように、ゆっくりと吹雪が言う。

 じーん、と体中が震えた。涙が瞳に溜まって視界がぼやけ、それさえ嬉しくて。

 

「……ええ、そうね」

 

 それだけ絞り出すのがやっとだった。

 吹雪は、にっこり笑って、それからみんなに向き直ると、「私、頑張ります!」と意気込みを見せた。

 

 

 衣擦れの音が響く。

 真っ白な制服の袖にズバッと腕を通し、開いた前を両手で掴んで引っ張って体に合わせ、一つ一つ、金のボタンを合わせていく。

 純白の長ズボンに上着。きゅっと帽子が頭に収まり、垂れたたお下げが揺れた。

 重厚な両開きの扉に向き直った吹雪は、深呼吸を一つして、両手で扉を押し開き、背筋を伸ばして提督の執務室へと足を踏み入れた。扉脇に立っていた大淀が吹雪に代わって扉を閉める。

 部屋の右側に高級感のある大きな机があり、正面は窓で、左には壁際に五人の艦娘が並んでいる。窓は外の光で白み、部屋の中は僅かにぼやけるくらい光で満ちていた。

 

「提督が鎮守府に着任しました! これより、艦隊の指揮を執ります!」

 

 大淀が声を張り上げれば、瑞鳳が、大井が、初雪が、潮が、叢雲がそれぞれ敬礼した。

 その前を通り、机の裏に回って、自分の体がすっぽりと収まるだろう黒い椅子へ腰を沈めた吹雪は、腕を組んで机に肘をつくと、口を開いた。

 

「今から……私が最高指揮官だ。よろしく」

 

 誰も異を唱えなかった。

 そうして吹雪は、艦娘でありながら人間……司令官となった。



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暁が眠る、素晴らしき物語の果て
第十三話 司令艦娘吹雪


 

 

「そういう訳で司令官になってみたんだけど」

「……そうね」

 

 組んでいた手を解いて机へ乗せた吹雪が、キリッと整えていた表情を崩し、照れ笑いを浮かべながら言った。

 真面目な顔も良く似合っているが、こういう風に素朴な表情も彼女には良く似合っている。

 

「どう、かな。司令官の制服、似合ってるかな」

「見たままを言えば、着ているというより着られている、ね」

「あう。やっぱりそう見えるよね……」

 

 袖口を弄りながら問いかけた吹雪は、ばっさり切り捨てられて項垂れた。大きな机と大きな椅子に挟まれているのも相まって、彼女はとても小さく見えた。

 頼りない司令官の姿に、叢雲が肩を竦める。

 

「……それでどうするのよ、()()さん?」

 

 腕を下げた大井が姿勢を崩し、腰に手を当てて問いかけた。若干苛立たしげなのは、場に流された羞恥やらが綯交ぜになっているのだろう。

 

「ぁ、はい! えっと、先程も言った通り、まずはみんなを起こそうかなって考えてます」

「んんっ。……なんか、すっごく嬉しくなって思わず受け入れちゃったけど、結局はあなたが人間だって名乗ってるだけだし、意味ないんじゃないかしら」

 

 こほんと咳払いをした瑞鳳が指摘する。それは、その通りだ。

 人がいない状態でみんなを起こしても、また動かなくなってしまうのは実証済み。

 今度だってそうなってしまうのではないか、むしろそうなるだろうと危惧するのは当たり前の事だった。

 

 ところで、彼女は今言ったようにただ熱に押されて吹雪を司令官と認めた、という訳ではないだろう。

 人間宣言から一夜が明けて、現在時刻は朝の九時。考える時間は十分にあった。

 ゆえに吹雪が正式にこうして執務室の机についている時点で、全員が吹雪の人間化(?)、及び司令官としての着任を認めた事になる。

 認めたからと言って吹雪が本物の人間になれる訳ではないが、全員のコンディションは最高値以上に振り切れていた。本物の人間が現れれば、黄金色の炎を噴き出してしまいかねない勢いだった。

 

「吹雪さん。いえ、提督。あなたの指示に従うのはやぶさかではありませんが、同胞の目覚めを促すにあたって一つ、問題があります」

「問題、ですか? 瑞鳳さんが言ったのとは別の、でしょうか」

「ええ。前にも私は言いましたね。倒れた艦娘に分け与える資源はない……あれは驚かしや嘘ではないのです」

「あっ……あ、ええはい、そ、そうですよね」

 

 一歩前に出た大淀がまた別の問題を指摘する。

 資源がない。彼女達を起こそうにも、与えるべき燃料が足りないのだ。吹雪はその事をすっかり忘れていて、恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「一人分ならなんとか捻出できます。たった一人だけに絞って、で良いのならば、ですが……」

「まずは一人、試してみるのがいいんじゃない?」

「そうよね。全員起こして駄目でした、では、言ってはなんだけど、資源の無駄ですもの」

 

 瑞鳳の言葉に大井が同意する。それはそうだ。事を急ぐ必要はない。時間的猶予は、それこそ地球が滅びるまである。問題なのは自分達が生きていくだけの至言を確保できるか、その一点だけだ。

 仕切り直すように眼鏡のつるを押し上げた大淀が、吹雪に問いかける。

 

「では提督、どの艦娘を呼び覚ましますか?」

「そうだなぁ……」

 

 顎に指を当てて思案する吹雪だったが、まず誰を、と聞かれて一番に思い浮かぶのは一人だけだ。

 

「お決まりですか? では、参りましょう」

 

 先導する大淀に、司令艦娘吹雪以下艦娘と妖精達がぞろぞろとついていった。

 吹雪は、(妖精さんいたんだ……)と秘かに思った。

 

 

 湯呑みサイズのドラム缶を手に、吹雪は艦娘寮、駆逐寮二階の満潮を寝かせた部屋へ足を運んだ。

 今回吹雪が選んだ艦娘は、写真を拝借した相手、満潮だったのだ。

 あの古びた写真はすでに彼女の手に戻っているが、勝手に借りていた事は事実。なのでまず彼女を起こし、その事を謝罪しようと思っていた。

 二段ベッドの下側に寝そべる彼女の隣へ膝立ちになった吹雪は、安らかでも険しくもない顔をしばらく眺めてから、行動に移った。

 

「ん……」

 

 唇を割るようにドラム缶の縁を差し込み、頭を支えて燃料ドリンクを飲ませる。ゆっくり、ゆっくり、むせたりしないように。

 口の端からつぅっと半透明の液が流れる。反応は、ない。

 やっぱり、飲んでくれないのかな。

 吹雪の脳裏に諦めがよぎった時、こくりと満潮の喉が動いた。

 それがきっかけで、少しずつ少しずつ彼女は燃料を飲み下し、ついには腕を持ち上げ、吹雪の腕をがっしりと掴んで、自らの意思でドラム缶を傾け始めた。

 

「…………」

 

 そっと目を開いた彼女に、その口からドラム缶を離す。光の糸が引いたのは唾液が分泌されている証。彼女が活動し始めているという証明。

 

「おはよう、満潮ちゃん」

「…………?」

 

 光の無い瞳を吹雪に向けた満潮は、直後、カッと目を見開いた。

 

「しれい……! …………ふ、ぶき?」

 

 がばりと身を起こした満潮が言葉の途中で息を呑む。少し目を細めると、確認するように名前を呟いた。

 

「うん。私は吹雪だけど、司令官でもあるよ」

「……。……? …………?」

 

 ここからが正念場だ。

 今部屋の外で待っている大淀達の話によれば、燃料を与えれば一時は意識を取り戻す艦娘は、現状を正しく認識すると一時間と持たず呆然自失状態になってしまう。

 満潮を現在(いま)へ連れ帰るには、繋ぎ止めるものが必要だ。

 まさにそれとなれるよう、吹雪は人間に、司令官になった。

 目を白黒させる彼女を労わるように手を握って持ち上げ、感覚を共有する。彼女の視線は吹雪から外れて、自身の手に向かった。

 繋ぎ止める。こうして、物理的にでも。

 

「深海棲艦がいるんだ。私、満潮ちゃんと一緒に戦いたいな」

「た、たかう……? …………? ……まだ、おわって、ない?」

「終わってないよ。……まだ、終わってない。ここに人類最後の一人がいる」

「……にんげん?」

 

 そんなの嘘っぱちだ。

 人間なんてどこにもいない。

 人間を自称する艦娘が一人ばかりいるだけで……でも、満潮が意思を取り戻すには、それで十分だった。

 

「ん、んっ!」

 

 彼女は吹雪の手をきつく握り締めると、全身に力を入れて起き上がった。埃っぽい服から、古い匂いが立ち(のぼ)った。

 

「……感謝するわ。私を起こしてくれた事」

「ううん。……私がやりたいと思った事をしただけだから」

「なんでもいい。私は、戦わなければならないの」

 

 綺麗な薄黄色の大きな目を力強く瞬かせて、彼女は過去に思いを馳せるように俯いた。

 力いっぱい握り締められた拳からギシリギシリと圧力の音がする。

 

「この手で……あいつはこの手で、こっぱみじんにしてやりたいと思っていた……!!」

 

 『あいつ』が誰を指すのかは、吹雪にはわからない。でもそれは、一緒に過ごしていればきっとその内わかるだろう。

 今は彼女の再起を喜ぼう。

 

「じゃあ、一緒に行こっか」

「……ええ。……体が凝って仕方ないわ」

 

 こうして、吹雪の艦隊に新たに満潮が加わった。

 

 

「どうやらあなたは正真正銘の提督のようですね」

「コングラッチェーション! 吹雪~、素晴らしい働きデース! 感動シマシタ!」

 

 食堂に集まった面々は、満潮がシャワーを浴びている間、話を詰める事にした。

 真に艦娘を呼び覚ました吹雪は、すなわち満潮にも提督であると認められたという事。

 きっと吹雪は、艦娘でありながらも提督に成り得る資質を持っていたのだろう。

 もしかしたら、それは割とポピュラーな性質だったのかもしれない。

 過去、提督になれるかどうかの検査を艦娘に行ったという記録はないが……そもそも艦娘は提督となる資質を多く備えている。妖精が見え、意思を交わせて、他の艦娘と絆を結べる。

 だからなろうと思えば、誰もが提督になれたのかもしれない。

 しかし提督とは人間だ。艦娘は人間ではない。

 であるなら、司令官となった吹雪は人間か艦娘か、どちらなのだろうか?

 

「じゃあ、みんなを起こしても大丈夫ですよね! ……燃料さえあれば、ですけど」

「こういう時こそ横の繫がりよね。お隣の鎮守府に燃料を分けてもらいに行きましょ」

 

 満潮が風呂から上がるまでに準備を整え、全員で本棟前へ向かう。一足先に出ていた大淀が玄関前に車を回して待っていた。

 

「どこに行くのよ」

「移動しながら説明するね。……初雪ちゃんが」

「ん」

 

 しっとりと髪を濡らし、制服も洗濯・乾燥させて生まれ変わった満潮は、事情を知らないために説明を求めていた。自ら話そうと思った吹雪だったが、初雪の獲物を見つけるような目を見て彼女に任せる事にした。……案外、説明とかそういうのが好きなのかもしれない。

 

 助手席の扉を開け、運転席に座る大淀に「失礼します」と一言投げかけた吹雪が座席に背を預けてすぐ、その膝に連装砲ちゃん達が飛び乗ってきた。

 

『キュー』

「あはは。あっ、こら、危ないよ」

『キュ?』

 

 大きいの、中くらいの、小さいのの順番でぴょーん、ぽーんと膝の上に乗ってくるものだから、そんなに大きくない太ももの上はすぐに満員。弾き出された小さいの……叢雲が砲ちゃんと呼ぶ子が足下に落ち、目を回した。

 

「よこしなさい」

 

 開けっ放しのドアからさっと腕が伸びてきて、装ちゃん(中くらいの)と砲ちゃん(小さいの)を掻っ攫っていった。

 

「じゃ、吹雪。また後でね」

「うん、じゃあね」

 

 銀髪を翻してスタイリッシュに去って行った彼女は、隣に止まっているもう一台の車に乗り込んだ。そちらは瑞鳳が運転するもので、叢雲の他に金剛と大井が乗っている。他には、お隣に届けるための日用雑貨や何かがダンボールに詰め込まれて積まれていた。それはこちらの車も同じ。

 

「シートベルトをしっかりかけてくださいね」

 

 扉を閉めた吹雪は、大淀の注意に従ってきっちりシートベルトをかけた。バックミラーに目を向ければ、満潮が初雪と潮に挟まれてちょこんと座っている。じぃっと吹雪の後頭部を見つめているようだった。吹雪の提督衣装が気になって仕方ないのだろう。

 

「それでは出発します」

 

 ギアが入り、車が発進する。

 吹雪はなんとなくカンドロイドを取り出して、光化学画面を出した。地図機能が正常に働き、自身の現在地が△で表され、点と線でできた鎮守府から抜けていく。

 見慣れぬ機械の出現にか、満潮が反応した。

 

「……それは、あんたの?」

「これ? ううん、私のじゃないよ」

「いいえ、提督。それはあなたの物です」

 

 成り行きでずっと自分が持っているだけで、自分の所有物ではないと言った吹雪に、大淀が訂正した。

 

「叢雲さんはそれをあなたに譲渡する気のようです。少なくとも、自分の持っているものではない、と」

「え、でも、叢雲ちゃん、そんな事言ってませんでしたよ?」

「つい先ほど聞いたばかりですからね。しかし……」

 

 大淀の視線がミラー越しに満潮に向けられる。

 

「もしかすると、あなたより彼女の方が持ち主に相応しいかもしれません」

「……満潮ちゃんが?」

 

 その視線を追って振り向いた吹雪に、満潮は腕を組んで座席に背を押し付けた。

 

「いらないわ、あいつの持ち物なんて」

「あいつって誰か、聞いても良い?」

 

 少し機嫌を損ねたように吐き捨てる彼女に、吹雪は物怖じせず問いかけた。気になる事が多くて、躊躇っている暇など無いのだ。

 

「……島風よ」

「……島風ちゃん、か」

 

 またその名前だ。

 この鎮守府に所属していて、最も強かったというなら、交友範囲もよっぽど広かったのだろう。

 しかし満潮は、どちらかというとその島風の事を嫌っていると吹雪には思えた。

 あまり踏み込んで良い問題ではないだろう。そこら辺の事情も、付き合っているうちにわかってくるはずだ。

 

 

 ハイウェイを通り、件のお隣さんまで向かう事一時間半。

 街中はどこもかしこも倒壊しており、形を保っているものは多くなかった。

 ハイウェイだって穴開きで、しかも横転した車や、三つ四つ一緒くたに団子になっている車なんかもあるが、大淀は慣れた様子で運転していた。もう何度も往復しているのだ、このくらい大した事ではない。

 

 二台の車が、鎮守府に辿り着く。カンドロイドのMAP画面では『名もなき鎮守府』となっていて、きっと人間がいなければ全部同じ表示になってしまうのだろうと吹雪は思った。それから、自分達の鎮守府に名前を付けるべきかとも考えて――今の司令官である吹雪ならいけるだろう――、やめる。今名前を付けてもしょうがない。それよりやらなくちゃならない事は他にたくさんある。

 

 外観も内部も吹雪達の鎮守府とそう変わりない場所。

 本棟前に車を並べて停め、全員が下りた頃に、本棟の玄関から小柄な影が飛び出して来た。

 

「待ってたわ! 入り用なものがたっくさんあるの。さ、はいっ――人間?」

 

 紺色のロングストレートは腰まで届く長髪で、髪と同色の戦闘帽形略帽がぷっかり嵌まっている。服装は暁型共有の制服。

 駆逐艦・暁だ。

 彼女は面々を見回しながら歩み寄ってきて、吹雪を見つけると、目を見開いて立ち止まった。

 

「はい。このたび我が鎮守府に着任しました、吹雪です。よろしくお願いします」

「って、艦娘じゃない! びっくりさせないでよ、もう」

 

 もー、とぷりぷり怒りながらも、暁の視線は吹雪に釘付けだ。用も忘れて彼女に走り寄り、その手を取って引っ張り始めた。

 

「で、でも、そうね、新顔ならおもてなししなきゃ、レディーの矜持に反するわ!」

「えーっと……どうしましょう?」

「あなたの紹介も兼ねてますから、彼女について行って、そこでこの鎮守府の艦娘と顔合わせを行ってください」

「ちなみにその暁はこの鎮守府のトップよ」

「そうよ、ここは暁の鎮守府よ! えっへん!」

 

 瑞鳳の紹介に、彼女は足を止めて自慢げに胸を張った。

 自分より頭一つ小さい少女のえばりっぷりになんだかこそばゆい物を覚えながら、吹雪はトテトテと後ろから走ってきた連ちゃんを抱え上げ、両腕でよいしょと抱いた。

 

「それじゃあ、案内するわ。ついてらっしゃい!」

「…………」

 

 軽快な動きで本棟へと走って行く暁の後姿に目を細め、吹雪は両隣りに来た初雪と潮に、「すっごく元気な艦娘もいるんだね」、と小声で話しかけた。

 暁は、まるきり彼女に僅かにある知識通りの様子だった。レディーを自称し背伸びするのも、幼さが丸見えなのも、愛らしい動きも。

 だけど彼女は大戦を切り抜け、生きて帰り、人類絶滅を受けて倒れず、十四年の歳月を耐え抜いた艦娘。吹雪よりずっと長く生きて、辛い経験をいっぱいしてきたはずだ。

 

「……よしっ、私も頑張らなきゃ」

 

 それでも健気に動く暁に元気を貰った吹雪は、軽く気合いを入れて歩き出した。



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第十四話 お隣さんとの交流

 

「どーぞ。特製の珈琲(コーヒー)よ。夏場だからアイスで良いわよね。ミルクやお砂糖が必要なら、テーブルにあるのを使ってね。……まあ? 暁には? ミルクやお砂糖なんて必要ないんだけどね??」

 

 暁自らが吹雪達の前にカップを置いて、対面に腰かけた。得意気に声を伸ばして、手に持つカップを揺らして見せる。彼女のコーヒーも吹雪達のコーヒーも全てブラックだ。無糖。無牛乳。

 鼻先を掠める芳醇な香りに、吹雪はごくりと喉を鳴らした。

 

「……苦そう……だね、叢雲ちゃん」

「そう?」

 

 こそっと隣に座る叢雲に耳打ちするも、彼女は平気な様子でコーヒーに口をつけていた。苦いのもいける口らしい。反対に座る瑞鳳も何も加えずにそのまま飲んでいる。

 吹雪は自身の前に置かれたカップを見下ろした。黒々とした液体はコンビニエンス妖精で見た駄菓子、シュガータールの姉妹品、ココアタールの黒さによく似ていた。

 

「んくっんくっ、ぷは。どうしたの? 飲まないのかしら?」

「え? あ、いえ、飲みます飲みます!」

 

 ゴクゴクとカップの中身を半分以上一気に飲んだ暁が、ぺろりと唇を舐め、片眉を上げて問いかけてくるのに、吹雪は慌ててカップを手にして口をつけた。

 ――!

 まだ口の中に含んですらいないのに苦い。唇が侵食されているかのようだ。

 反射的にむっと口を縫い合わせて、なのに数滴ほどがするりと滑り込んだ。

 凄まじい痺れが舌先を襲う!

 これは……苦いなんてものではない……! これは暴力だ! 刺激の暴動だ!

 苦すぎるんですよ……苦すぎるんですよ奴は!!

 とてもではないがこのままでは飲めなくて、吹雪は周りがブラックを嗜む中、一人ミルクとお砂糖に手を伸ばした。

 

「ふふん。まだまだお子様ね」

「……うう」

 

 勝ち誇ったように暁が笑う。よくわからない敗北感に襲われて、吹雪は項垂れた。生まれた日がどうこうとか年齢だとかは関係ない。自称レディーの暁に負けるのは、こう、なんというか、許されざるべき事なのでは、なんて思ってしまったりしたのだ。

 吹雪は知らなかった。

 暁がズルをしているなんて。

 

「それで? その格好はどういう事なの?」

 

 シュワシュワと微かな炭酸の音を発する()()()()を片手に、暁が問う。

 

「見たままよ。こちら、本日我が鎮守府に着任した提督・吹雪さんです。……本人もそう名乗っていたでしょ?」

 

 ここにいない大淀に代わって瑞鳳が説明役を買って出た。

 ちなみに、今ここにいない面々は車からダンボールを運び込む役を担当している。この地に来た目的の半分は物々交換だ。もう半分は情報の共有、そして司令官のお披露目。

 

「……また人間に会えるなんて、夢にも思わなかった」

 

 暁は、夢見心地な瞳をして、うっとりと吹雪を見つめた。彼女も胸の高鳴りを感じているのだろう。人間と接する事で思い出される艦娘としての役割。本能が刺激され、なすべき事が強く脳に刻まれる。

 深海棲艦がいるという話と合わせれば、彼女の興奮は一層高まった。

 

「今すぐすべての艦娘に伝えるべきね! 蜂起だわ! 決戦よ! 全部の戦力を集めて、その深海棲艦をやっつけるのよ!」

「それは不可能よ。わかってるでしょう? レ級には何人束になっても敵わない」

「関係ないわ! だってこっちには人間がいるのよ!? 人間の下で戦って沈めるなら、最高じゃない!?」

 

 椅子を倒す勢いで立ち上がった彼女が、一言一言を机を叩くと共に発する。大きく見開かれた薄紫色の目が吹雪を捕らえて離さない。

 人間、という言葉は、やはり今の艦娘達にとっては刺激が強い。

 暁の豹変を受けて困惑する吹雪は、自身の存在が他にどう影響を与えるのか、それをまざまざと見せつけられた。

 ただ人間だ、と名乗っているだけの自分の指示で戦えるなら死んでも良いと言うのだ。それが十四年、人がいない世界で過ごした艦娘の……共通認識。

 瑞鳳も叢雲も、果ては初雪や潮だって、司令官の肩書を持った吹雪が『どこまでゆくのか』と問えばこう答える。『海の底まで』、と。

 

 元々戦うために生まれた艦娘だ。彼女達は飢えている。十数年飢餓に晒されてきた。

 ここにきて人間と深海棲艦が一緒くたに甦ったなら、とるべき行動は一つだけ。

 戦い続ける。その身が朽ち果てるまで。

 きっと未来はその先にある。水平線に勝利を刻めば、きっと未来は救われる。

 誰もがそう感じていた。純真な少女のように、信じて疑わなかった。

 吹雪も例外ではない。……いや、生まれたての吹雪こそ、そう思っている。だから人間になる、というのは飛躍しすぎているが。

 

 暁が落ち着いたのは、吹雪がコーヒーの正体がコーラである事に気付いた直後だった。

 

 

「暁の鎮守府の仲間を紹介するわ。まずはうちの料理担当、漣」

「どーも」

「開発の担当、摩耶(まや)

「よっす、よろしく」

「生活指導担当と妖精指揮の専門家、不知火(しらぬい)

「よろしく」

「そして最後はこの私! レディ担当の暁さまよ!」

 

 以上よ、と締め括れらて、吹雪は本棟前に停められた車の前に並んだ三人の艦娘の顔を順繰りに見た。ピンク髪にツインテールの漣に、茶髪の重巡摩耶、桃がかった髪色にクールな表情の不知火。

 

「三人だけなんだ……」

「あたしら以外はみんな寝てるぜ、提督さんよ」

「これが標準なのね。むしろ多い方だと思うよ、ご主人様?」

「司令の鎮守府が特別なだけです。一つ処に一人二人だけというのは珍しくありません」

 

 思わず呟いた吹雪の言葉に、三人がそれぞれ言葉を返した。……一言目から吹雪を司令官と認めている。しかもこの地の司令官に対するような口振りだ。

 少々の違和感を放り捨ててそれを受け入れた吹雪は、このまま話を進める事にした。……突っ込んだら、何か恐ろしい事になりそうな気がしたのだ。

 

「お隣さんは秋津洲(あきつしま)さん一人だけだし」

「……それ、大丈夫なの?」

 

 吹雪の疑問は、無論『一人で大丈夫なのか』という意味だ。

 

「人数が少ない方が資源のやりくりは楽だろうな」

「秋津洲先輩はハングリー精神旺盛だから心配ご無用、そんな事よりご主人様っ、漣達の欲しいものドンピシャで持って来てくれるなんて最高ですぞ!」

「相応の対価が必要ですね」

 

 じーっと三人に見つめられて、吹雪は首を傾げた。物々交換の話は聞いているし、その内容も金剛の喜びようからだいたい予測がついていたが、はて、彼女達が殊更喜ぶものなんて持って来ていたのだろうか。

 

「こらっ、駄目よみんな! 彼女をうちの司令官にするなんてできっこないわ!」

「えっ、な、なに? どういう事?」

 

 たたたっと走ってきた暁が吹雪と三人の間に割り込み、視線を一手に引き受けた。……うちの司令官に、とはどういう意味かと困惑する吹雪だったが、さっきの物々交換の話と口振りを思い出し、ようやく合点がいった。

 彼女達は対価を支払い、見返りに自分(司令官)を要求していたのだ。

 

「いーじゃねーかちょっとぐらい。なんなら半分でもいいからさぁ」

「え、半分って……?」

「名案キタコレ! 均等に分ければみんな幸せ!」

「え? え?」

「不知火にお任せを。妖精さんから包丁とバーナーを借りてきます」

「ええーっ!?」

 

 雲行きが怪しい。というか直球だった。

 このままではケーキよろしく半分こにされてしまうっと戦慄する吹雪の前で、もー! と暁が怒りだした。

 

「どうして暁の言う事が聞けないの!? みんな、無理を言い過ぎよ! おかしいわ!」

「暁ちゃん……」

 

 ああ、小さな彼女が一番正気を保ってくれている。

 この頼もしいレディに、吹雪はかなり安心して、ほっと息を吐いた。

 

「みんながっつきすぎよ! そんなのレディの振る舞いじゃないわ!」

「……ん?」

「ちょっとずつちょっとずつ気を引いて、自分から来てもらえるようにすれば良いのよ!」

「……あれっ?」

 

 何かおかしい。

 彼女は三人を止めているのではなかったのか。吹雪の耳には、むしろ暁は三人を焚きつけているように聞こえた。

 

「じゃあうちで作れるケーキやクッキーで胃袋を掴むのね!」

「パーティと称すれば断れないでしょう」

「甘いのは苦手なんだけどなぁ……」

「うんうん、さすが暁ね。この作戦なら必ず司令官が手に入るわ」

 

 目の前で繰り広げられる作戦会議に、もうどうしたら良いのかわからなくなってしまって、吹雪はとりあえず空を見上げる事にした。

 綺麗な空だ……。あの薄く澄み渡る青色の中に溶けていけたら、きっと気持ち良いだろうなぁ……。

 

「ケーキ食べ放題と聞いては黙ってられまセンネ!」

「うおっ、なんだ!?」

 

 にょきっと摩耶の背後に現れた金剛が、にっこり笑顔で摩耶の肩に手を置いた。いつの間にそこに。あいにく吹雪は空を見ていたから気が付かなかった。

 

「漣ちゃん、しっかり」

「んっ。どしたの、潮」

 

 漣に寄り添った潮がその手を引けば、先程までの興奮が嘘のように静まって、不思議そうに問い返している。

 

「……不知火に何か?」

「何もかかしもないわ」

 

 どこかへ行こうとしていた不知火は、前から歩いてきた叢雲に足を止め、静かに問いかけた。

 荷物を運び終えて吹雪に報告しに来ただけの彼女には、不知火に特に用はない。が、そのやりとりで不知火も正気に戻ったらしい。それ以上何を言うでもなく、叢雲の歩みに合わせて吹雪の前へ戻って来た。

 

「吹雪。とりあえず物々交換は終わったわ。どうする?」

「できればすぐお(いとま)したいかな……」

 

 今のやりとりを聞いていれば、身の危険を感じずにはいられない。吹雪としてはさっさと自分の拠点に逃げ帰りたかったのだが、戻って来た大淀は「そうですか? 少し交流を、と思っていたのですが……」と難を示した。

 もう顔合わせは済んだんだからいいんじゃないかな、帰っても。そう吹雪は思ったが、「partyしないデスカ!? ケーキ食べたいデース!」と非常に乗り気な金剛に阻まれ(ちょっと悪い言い方をすれば、駄々を捏ねられた、とも言える)テイトク~、ネ? ネ? と腕に取りつかれて上目遣いでお願いビームを当てられては、とてもではないが否とは言えない。

 

(さっきみんなが変な風になってたのは、一時的なものだよね)

 

 だからきっと、大丈夫。

 自分を誤魔化した吹雪は、暁達の案内で食堂へ向かう事にした。

 

 

「はぁ~ん、美味しかったねー」

「……まぁ、そうね」

 

 アクシデントは起こらず、吹雪はたんまりケーキを胃に収めてご満悦。幸せそうにお腹を擦りながら叢雲に同意を求めた。連装砲ちゃん達の口元を布巾で拭ってやっていた彼女は静かに頷いた。澄ました顔をしているが、この中で最も多くの甘味を口にしたのは叢雲だったりする。

 食べ放題だ、とはしゃいでいた金剛は紅茶を飲みながらだったので、食べた量自体はそれほどでもなかった。

 

「でも、不思議だねー。どうしてうちでは日用雑貨が開発できて、ここではお菓子が開発できるんだろう

?」

「さぁね。あたしがいる事が条件らしいんだけど」

 

 金剛と同じテーブルについている摩耶が、ティーカップに指を引っ掛けて危なげに揺らしながら答えた。

 妖精さん達の説明には不明瞭な点が多く、ゆえに謎は解明されていないが、考えるだけ無駄である。作れるから作れる。それでいいのだ。

 

 お腹が満たされて眠くなってきてしまった吹雪は、いけないいけないと頭を振り、帽子をかぶり直した。まだ口の中にクリームと生地の甘みが残っている。唇を舐めればより鮮明にそれが感じられるだろう。

 

「ケーキウマー」

「ふふっ」

 

 仲睦まじげに食べさせっこをしている潮と漣。

 

「…………」

「…………」

 

 黙々と目の前のケーキをやっつけている不知火と初雪。

 

「ではやはり、沈んだのね」

「多くの証人がいますから、確実に……」

「実際に私も見たし……」

 

 奥の方で満潮と大淀と瑞鳳が小声で話している。

 

「もうケーキは良いの? お代わりは?」

「ううん、私はもう大丈夫。叢雲ちゃんは?」

「貰っておくわ」

 

 お皿やカップを手に忙しなく働いていた暁が吹雪達の下に来て、叢雲にチョコレートケーキを渡して走り去って行った。

 キューキューと催促する連装砲ちゃん達に半分切り取ったケーキを三分割して分け与える叢雲を眺めながら、平和だなぁ、と吹雪は思った。何もなくて、意味もない日々は嫌だけど、こういう穏やかさなら大歓迎だ。

 穏やかな交流会は、港に『神隠しの霧』を引き連れた秋津洲が現れるまで続いた。



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第十五話 深海神姫

タイトルの通り、オリ敵出ます。


「たたた、大変かもっ! 一大事かもっ!」

 

 不穏な気配を察した面々が外へ飛び出れば、きらきらと輝く海の上を一人の艦娘が疾走してきていた。

 銀髪のサイドテールは細長く風にたなびいて、反対側には錨と長いリボン。緑と白からなる服はここからでも確認できる迷彩色。腕に抱えている水上機は二式大艇ちゃんだ。

 その背後には、水平線を隠してしまうくらい広範囲に蔓延る濃霧が、生き物のように蠢いて追いかけてきている。

 

「『神隠しの霧』……」

 

 満潮が呟く。声は震えていて、ギュウ、と拳を握りしめる音も聞こえてきた。

 ……あれが。

 レ級が操り、人も艦娘も深海棲艦も関係なく浚い、消し去ってしまう異常現象。

 生臭い鉄の匂いを含んだ風が海の方から漂ってきて、吹雪は、あの霧はあんなにも嫌な気持ちを抱かせるものだったかと疑問に思った。

 初日に呑み込まれた霧はもっと白くて、綺麗で――。

 

「とにかく彼女を助けるわよ!」

 

 急な危機の襲来にいち早く反応したのは叢雲だ。艤装も何もなしに海の上へ滑り出て、すぐさま秋津洲を迎えると、重度の疲労状態にある彼女を支えて戻って来た。

 

「はひ、はひ、感謝、圧倒的感謝かもっ……!」

 

 数歩、叢雲の手を離れて吹雪へと歩んだ彼女は、目をつぶったまま膝をつき、両手で持った二式大艇ちゃんを掲げてみせた。

 それきり肩を大きく上下させるだけで動こうとしない。彼女の艤装からは黒煙が立ち上り、破れて焼け焦げた服は、激しい戦闘の跡を窺わせた。露わになった肌が熱と汗で赤らんでいる。細い疵痕が幾つも浮き出ていた。艦娘を守る生体フィールドを抜けて、彼女自身にダメージが出てしまっている。

 

「損傷が激しいわね……潮、水を! 初雪、妖精さんを呼んで来てちょうだい!」

「わかっ、わかりましたっ!」

「ん。すぐ戻る」

 

 てきぱきと指示を飛ばす叢雲に、この鎮守府で活動する艦娘も黙ってはいない。暁が案内をするために潮を追いかけ、妖精とよく接する不知火が初雪について行った。

 

「はふ、はひ、ふぅ、ふぅ」

「話ができる状態ではないわね……」

「……あっ、戦闘準備か? 戦うのか、なぁ!?」

 

 摩耶の声に、誰も答えなかった。みんな戸惑っているのだ。なにせ十数年戦いから離れていた。そのせいで、急に戦えと……いや、『戦え』とすら言われていない状況でどう動けば良いかなど、即座には判断できなかった。

 

「霧が……止まっています」

「どうしよう、装備なんて持って来てないわよ……?」

 

 大淀が指さす先では、たしかに一定の距離を保ち、霧が進んでこなくなっている。だが安心はできない。左右へ伸びる霧は明らかにこちらを囲もうとしている。その速度を考えれば、あの島風でなければ逃れる事はできないだろうと予測できた。

 だが戦うにしても、武器がない。吹雪達は丸腰でこの地に来ている。……いや、強いて言うならば吹雪には連装砲ちゃん達がついているが、それだけだ。

 

『キュー』

 

 吹雪の周りを取り囲んだ連装砲ちゃんが彼女を見上げ、まるで共に戦おうとでも言っているかのように鳴いた。うん、と吹雪が頷く。今は自分が司令官だ。まずは指示を出さなくちゃ。

 

「総員戦闘準備! 脅威に備えてください!」

「武器ならうちにたんまりあるわ! ……妖精さん達と不知火達に伝えたから、すぐに持ってきてくれるわ」

「ありがたい事デス。しかしワタシは、この身一つでも戦えマス! テイトク、さらなる指示を!」

「ええっと、それじゃあ……私と金剛さんで偵察に向かいます。他の方達はこの……秋津洲さんの様子を見ていてください」

「提督! その指示は受けられません!」

 

 大淀が悲鳴染みた否定の声を上げた。なぜ、と問う間もなく、全員の視線が吹雪に突き刺さる。

 

「あなたを危険に晒す訳にはいきません」

 

 吹雪は司令官だ。艦娘を導く存在だ。せっかく手に入れた人間をみすみす失うような真似をするものか。

 言葉から読み取れる執念のようなものに、吹雪はたじろいだ。自身を勘定に入れた彼女の指示は、誰の心にも暗い影を落としてしまったらしい。

 

「私が行くわ。連装砲ちゃん達、ついてきてくれる?」

 

 叢雲が海際へ歩み寄って連装砲ちゃんに声をかけた。しかし彼女達は吹雪の傍から動こうとしない。体ごと左右に頭を振ってイヤイヤと拒絶している。

 連装砲ちゃんは自立稼働兵装。島風の装備だが、島風のみが扱えるという事はない。だというのに彼女達は力を貸そうとはしてくれないらしい。叢雲は眉を寄せ、海の方へ顔を向けて遠くにある霧を睨みつけた。

 

「なら……待ちます」

「待つ? 武器が届くのを? ……たしかに、向こうに動きは見えないし、そこの彼女から事情を聞いた方が対策もたてられる」

「では、そうしましょう。ちょうど水も来たみたいですし」

「待たせたわね!」

 

 本棟から潮と暁が出てきた。水差しと氷の入ったコップをそれぞれ持っている。秋津洲の傍に駆け寄った二人は、彼女の手から二式大艇ちゃんを預かると、代わりにコップを握らせた。白く冷えたコップに、彼女の息が僅かに落ち着く。

 水が注がれれば、すぐさま口をつけ、空を仰ぐようにしてごくごくと飲み始めた。

 

「ゆっくり飲んでくださいね……?」

「んぐっ、んぐっ、ぷはっ!」

 

 潮の注意は耳に届いていない様子。呼吸を挟まず全てを飲み切った彼女は、乱暴に口元を拭うと、ようやっと目を開いて周囲を見回した。

 そこに白い制服姿の少女を見つけて目を見開く。

 

「てっ、て、ててっ提督!?」

「司令官・吹雪です。何があったのか、詳しくお聞かせ願いますか」

「はいっ、ぇとっ、ええと、霧、霧に……!」

 

 人を見た。その錯覚と衝撃は大きく、彼女はまたすぐに話せない状態に陥ってしまった。

 そうこうしているうちに武器が運ばれてくる。数台の台車にそれぞれの艦種の艤装。初雪と不知火の他に、妖精さん達もわらわらと走ってきていた。

 

「それぞれ自分のペースで装備を整えておいてください。いつ何が起こるかもわかりませんから」

「司令、これを」

 

 不知火が吹雪型に共通する艤装を持って歩み寄ってきた。

 

「ありがとうございます、不知火さん」

「不知火に敬語は不要です。呼び捨てで構いません。それは自衛の手段として……ご自愛を」

「う、うん。ぇと、不知火ちゃん」

「……」

 

 装備は渡すがくれぐれも戦うような事はするな、と釘を刺され、なんだか不思議な気分になりながら、吹雪は手早く艤装を身につけ、連装砲を首から下げた。

 

『アタラシイ シレイデ アリマスナ。シジチョーライ』

『ワァイ、テイトク、ヨウセイサン テイトク ダァイスキー』

『ショセンハ カキュウセンシ ブザマナモンダ』

 

 わらわらと(つど)って来た妖精さん達が次々と意思を飛ばしてくる。この妖精暗号通信による意思のやりとりは、受け手によって聞こえ方が違う。吹雪には彼女達の真面目な声が届いていた。

 

「みんな、よろしくね」

『ユウジョウノシルシ ヤロウゼ』

 

 小さなお手てで握手をせがむ一匹の妖精さんに、吹雪はしゃがんで人差し指を出した。指と手でのシェイクハンド。

 

「ぅぅっ、反省かもっ。取り乱してごめんなさい。霧には敵がいっぱいいるかもっ」

「秋津洲さん。……それで、その敵とは何級なんですか?」

 

 立ち直った秋津洲がよたよたと吹雪の前に出て、疲れた様子の敬礼をしながら報告を始めた。

 

「秋津洲流戦闘航海術がまったく通用しなかったかもっ。強敵かも!」

「それは……それで、敵は?」

「敵は! ……敵、は、その……霧が濃くて、正確には……」

 

 自信がないのか、尻すぼみに口を閉ざしていく彼女に、今は少しでも情報が欲しいから、と吹雪は催促した。どんな些細な特徴でも良い。そこから敵の正体が割り出せるかもしれない。

 

「イ級だったような気がしたし、ハ級だったような、ああでも、ロ級だったかもっ。ううん、人型……姫級かも? ……あっ、すっごく大きかったかも! 大きな口で叫んで、うるさかったかも!」

「要領を得ませんね……いかがなさいますか、提督」

 

 ふむ、と頷いて吹雪に問いかけた大淀の手には水差しが握られていた。蓋に手が添えられている。今にもそれを外して中の水を秋津洲にひっ被せでもしそうだった。

 彼女の話からは敵の姿がまったく見えてこない。情報が少ないのではなく多すぎるとは思わなかった。

 質問を変えよう。

 

「では、敵は何体いましたか?」

「んん、一体……いや、たぶん、三体くらいかも。……でっかいのと、中くらいのと、でっかいの……」

「三体、もしくはそれ以上ですね。みんな、聞いた? 各自武装の点検を終えたら、隊列を組んで、海に出ます」

 

 了解、と複数の声が重なる。

 マア待テ、と制止の声も被った。

 

態々(ワザワザ)霧ノ中ニ入ル必要モアルマイ』

「え? なんでですか?」

『ナンデッテ、私ガココニイルンダシ』

「……? ……あっ!」

 

 はっとして振り返れば、本棟前に背の低い少女が立っているのを見つけた。

 黒衣に青白い肌。それにその特徴的な笑顔は、間違いない、戦艦レ級。

 

「貴様!」

 

 満潮が飛び出した。砲を掲げ、誰が止めるより速く。その顔は憎しみに染まっていた。

 ――ずっと倒れていた彼女の時間も、きっと十四年前で止まっているのだ。吹雪にはそう思えた。現に彼女は生々しい感情を発し、レ級に向かって……腕の一振りで消し飛んだ。

 

「えっ」

 

 目を見開く。

 今そこに、確かに存在していた満潮が……消えた。

 他ならぬレ級の手によって。

 

「み、みち……え? え、今……どう、」

「落ち着きなさい、吹雪。満潮は霧によって飛ばされただけよ。どこかにね」

 

 取り乱しかける吹雪の隣へ立った叢雲が強い口調で話しかければ、吹雪は緩やかに自分を取り戻す事ができた。

 霧……そうか、神隠しの霧で。

 たしかに先程レ級が腕を振った時、濃霧が巻き起こっていた気がする。

 

「いくらあいつが強いと言っても、人一人の体を粉微塵にするほどのパワーはないわ」

『マァ、ソウダナ。私ニソコマデノ(チカラ)ハナイ。……バラバラニスルグライナラ容易イガ、ナ』

 

 さっと腕を広げ、歩みながらレ級が言う。どこか芝居がかった仕草は、狂気的な笑みと相まって現実味を薄れさせていた。

 

『安心シロ。オ前達モスグニ同ジ場所ヘ送ッテヤルサ』

 

 緩やかに腕を振るレ級に誰も攻撃しなかったのは……知っていたからだ。

 奴に艦娘の兵器は効かない。何をしても無意味。

 だからといって無抵抗でやられようとはしなかったが、何をするよりも霧が視界を覆う方が遥かに速かった。

 

 なすすべなく霧に呑まれた先は、海の上だった。

 

「くそっ、どうなってやがる!」

「て、提督……!」

 

 苛立つ摩耶に、怯える潮。

 

「う、くっ……!」

 

 ここへ飛ばされてきていたのか、少し離れたところで満潮が海に手をついて身を起こしていた。

 

 戦える者と戦えない者が入り乱れている。

 吹雪自身も経験が浅すぎて、どちらかというと戦えない者の方に入る。

 

「みんな、集まって!」

 

 それでもやれる事をやるだけだと奮起し、すぐさま指示を出した。

 吹雪を守るようにそれぞれが囲み、周囲に砲を向けて警戒する。

 戦いの雰囲気は久々だったが、体には当時の動きが染みついていた。鈍った勘も二、三隻敵を倒せば戻るだろう。

 そう思う経験者に反して、吹雪や初雪といった未経験者には、この緊張感や先の見えなさは中々にきついものがあった。

 どう動けば良いのかは知識にある。でも、いつ動いたら良いのかはわからない。

 指示が欲しい。吹雪は指示を送る側だ。自分でそうなった。少しその判断を後悔した。

 

『ナンダ……人間ガイルッテ聞イテ来テ見レバ……タダノ艦娘ジャナイ』

「っ!」

 

 霧の向こうから聞こえてきた声の方へ一斉に砲身が向けられる。

 

『ダガソノ艦娘ガ人間トナッタノダ。……コノ海ニ眠ル遺志ガ活性化シテイル。マタ戦争ガ始マル』

 

 声とは反対の方からレ級が現れ、吹雪を囲む艦娘達の半分が即座に振り返り、歩み出てきたレ級へと構えた。飛び出そうとした満潮が隣に立つ金剛の腕で止められる。この場で一人突出するのは自殺行為だ。

 ギリリと歯を噛みしめる音が鳴った。

 

『ソレハソレハ……』

『非常ニ喜バシイ事ダロ?』

『実ニ嘆カワシイ事ネ』

 

 吹雪達を挟んで、レ級が何者かと会話している。それが不気味で、左右に目を走らせながら、吹雪は額に滲む汗を無視して砲を抱え、腕に力を込めた。

 足下に佇む連装砲ちゃん達が足に擦り寄る。鉄の硬さと冷たさに少し安心した。

 

『人間ハ消ス。モウ戦争ハ起コサナイ』

 

 霧が蠢く。正体不明の少女の声の下へ続くように左右に分かれた霧の向こう側。

 底に佇む少女は、小さかった。

 だけど、力強い存在感を放っていた。

 長い金髪――金に似た、クリーム色の長髪は足下まで伸びていて、前髪の両脇が龍の牙のように鋭く固まって曲がっている。黒く縁どられた目は暗く、だけど確かな色があった。黄色の双眸は見ようによっては金に輝いているようにも見えた。

 

 目の真下、真ん中ほどから切れ込みのような赤い線が青白い肌の上を走り、顎まで伸びている。頭頂部には肌と同化した真っ黒な布が乗っかり、余った布が肩の後ろへ長く伸ばされていた。

 駆逐艦サイズの小柄な身を包む衣はイ級の皮を剥いで作ったような雑なもので、丈も短く、二の腕から指の先や、お腹周りや太ももから足先までが露わになっている。

 

「あなたは……」

『名前ナドナイ。コノ海ニ消エタ』

『深海神姫(シンキ)トデモ呼ンデオケ』

 

 ただ立っているだけのはずなのに、レ級が深海神姫と呼称した――おそらく姫級の個体は、威圧感を振り撒いていて近寄りがたい。

 それは吹雪が感じた事だ。もしかすれば金剛や叢雲のような歴戦の戦士なら、この程度どうって事ないと感じるのかもしれないが……指揮官の役割を持った吹雪が怯えてしまっては元も子もない。

 寄り添う連装砲ちゃん達に幾ばくかの勇気を貰いながら、吹雪は帽子のツバの下から深海神姫の様子を窺った。

 

「気を付けて……! あいつらだけじゃないかも! でっかいのもいっぱいいるかもっ!」

「でっかいの……?」

 

 秋津洲が注意を呼びかける。だけど、そのでっかいのとやらは姿も気配も見当たらない。霧の向こうにいるとしても、足下に広がる黒錆びた海は静かなままで、何か巨大な物が動くような感覚は伝わってこなかった。

 

「吹雪さん、カンドロイドのMAP画面を開いてください」

「はい、わかりましたっ」

 

 大淀に促され、吹雪はすぐさま左腕に括りつけたカンドロイドのスイッチを押し込み、光化学画面を出した。

 MAP画面では自分と味方を示す矢印が密集し、挟むように一隻ずつ赤い光点があった。

 だけど、それだけだ。他に敵の姿は見当たらない。

 

『無駄ダ。霧ノ中デハ何モカモガ神出鬼没。ソノ機械ニ頼リキリデハ不意ヲ突カレルゾ』

「っ……カンドロイドが、意味ない……!?」

「仕方ないわ、ならいっそ使わないって方が良いかもね」

 

 この便利な機械が通じないと知って戦慄する吹雪に、瑞鳳が軽い調子で声をかけた。

 そんな物がなくとも私達は大丈夫。そう勇気づけられているように感じて、吹雪は熱い息を吐き出し、ぐるぐると回る思考をなんとか一纏めにしようとしながら、光化学画面を消し去った。

 

『……ソレハ』

 

 深海神姫が微かな声を発した。

 風に乗ってそこかしこに響く不思議な声。

 幼くもあり、大人びていて、でもノイズが走っているような不快感も少しある。

 

『……イヤ、イイ。貴様ラヲ殲滅スレバ全テ終ワリダ』

 

 深海神姫が腕を上げた。

 何かに号令を下すように。始動を促すように。

 海が荒れる。

 足下がぐらつき、小さな悲鳴が重なった。

 お互い近い位置にいたために支え合い、一人としてバランスを崩す事はなかったが、代わりに誰一人事態に対処する事はできなかった。

 

『オオ――』

 

 敵が増えた。

 それは、巨大な影だった。

 二階建ての建物より大きいくらいの体を持ったイ級……そう称するほかない怪魚が体をくねらせ、波を跳ね上げて深海神姫の周囲を取り巻く。どれほど海がうねろうと、彼女は決して姿勢を崩さなかった。

 

『―――――――――!!』

「きゃあ!」

「っ!」

「なに!?」

 

 今度は咆哮だ。

 馬鹿でかい口を開け、大音声が放たれる。思わず耳を押さえてしまうほどの音の暴力に、たまらず誰もが顔を歪めた。

 同時に驚愕する。

 艤装や装備に青白い電が走り、バチバチと音をたて、黒煙を昇らせ始めた。

 

「これは……!?」

「ぎ、艤装が使用不可能になってます!」

「あ、あいつかも! 二式大艇ちゃんをこんなにしちゃった化け物!」

 

 秋津洲が抱えている飛行艇を労わりながら、新たに現れた怪魚こそ脅威だとみんなに伝えた。

 吹雪も自らの兵装が全て使い物にならなくなっているのを確認し、一周回って冷静になってきていた。

 そろそろ戦いがどんなものなのかわかってきた気がするのだ。

 

『コレデ貴様ラハタダノ標的ダ』

「ちっ! 悔しいけど、奴の言う通りね!」

「どっ、どうするのよ! このままじゃ暁達やられちゃうわ!」

「みんな、大丈夫だから、落ち着いて」

 

 狼狽える仲間達に吹雪が声をかければ、一転して静まり返った。

 誰もが息を潜め、吹雪に視線を移す。何が大丈夫と言うのだろうか。

 

「どうしてか、連装砲ちゃん達は大丈夫みたい」

 

 怪魚の動きに合わせて波が起こり、大きく体が上下する中で、吹雪は言う。

 その足下で連ちゃん、装ちゃん、砲ちゃんの三匹がヘラのような手を上げ、『キュー』と鳴いた。

 

「だから――」

「いけません。行かせませんよ……むしろあなたこそ逃げるべきです」

 

 吹雪の考えを読み取った大淀が被せるように言う。

 有無を言わさぬ口調に、吹雪は口を閉ざさざるをえなかった。

 

「司令。不知火達が囮になります」

「ご主人様は人類最後の一人っ、私達の最後の希望!」

「司令官。初雪達に命令して。誰を残し、誰と共に行くのか」

 

 決断を求められている。

 誰を残し、誰と共に。

 それはつまり、誰を殺し、誰を生かすか、という事。

 

 吹雪は知らなかった。

 

 人になるという事が……司令官になると言う事が、こんなに辛くて、恐ろしい事だったなんて。

 誰一人切り捨てたくない。みんなを助けたい。そのためなら自分の身を犠牲にしたっていい。

 きっとその考えは艦娘的で、人間の指揮官としては落第点も良いところだろう。

 それでも吹雪には、その考えしか浮かばなかった。

 

『人トナル事ヲ選ンダ最後ノ艦娘ヨ、サッサト決断シタ方ガ身ノ為ダ。敵ハ待ッチャクレナイヨ』

 

 レ級すら吹雪を急かした。

 その言葉の通り、怪魚は体の向きを変え、こちらへと進路を取ろうとしている。

 深海神姫も、今にも動き出しそうな気配を見せていた。

 

「ぅ、わ、私……」

「提督……!」

「司令官……!」

「吹雪!」

「わ、私、は……!」

 

 時間がない。

 深海神姫が動いた。

 腕を広げ、ザブザブと波を蹴りつけて歩んで来ている。

 

『サァ、来イ!』

 

 轟く少女の声の中で、吹雪は涙で滲んだ視界の先に手を伸ばした。



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第十六話 神の力

 

「まどろっこしいわね! 行くわよ!」

 

 敵を目前にして決断できない吹雪に業を煮やしたか、それとも吹雪にそんな決断をさせないためか、大井が両隣の暁と瑞鳳の腕を掴んで滑り出した。彼女が身に着ける艤装の表面が弾け、黒煙が上がる。未だすべての兵装が使用不可の状態だった。

 

「あっ、だ、駄目です!」

「駄目も何もないのよ!」

 

 左腕、両の太もも、そして両足に備えられた魚雷発射管から紫電を散らしながら大井が叫ぶ。

 制止の声は届かない。だけどそれは、決して吹雪を軽んじているからではない。むしろ、その逆。

 助けたいから動いた。それだけだった。

 

「時間切れね。いいわ、人の(もと)で沈めるなら悔いはない!」

「そ、そうねっ! 暁も覚悟を決めたわ! 突撃するからね!」

 

 弓を手に、矢をつがえて弓を引き絞る瑞鳳が右へ航行しながら空へと狙いを定めた。

 左に動く暁も砲を握り締め、表情を引き締めて腰を落とした。

 玉砕覚悟。

 あまりにも重い決断に、吹雪の頭は凍りついてしまった。

 

「不知火も出ます。司令、ご無事で」

「し、ぁっ、不知火ちゃん駄目だよ!」

「さぁ、敵は向こうだけではありまセン! テイトクを逃がすにはレ級を倒す必要がありマス!」

「言われなくても! 満潮、出るわ!」

「満潮ちゃんっ!」

 

 吹雪が指示を出さなくとも、彼女達はそれぞれ勝手に動き出してしまう。

 それはひとえに希望を守りたいからだ。未来へ繋がるかもしれない、人間を名乗る艦娘を守りたいから。

 たくさんの気持ちが溢れて、吹雪は溺れてしまいそうだった。感情の波が高く押し寄せる。どうしたらいいのかわからない。どうすれば、誰も傷つかずに済むのだろう。いったい、どうすれば……。

 

「たしかあいつには物理攻撃が最も有効だったはずよ」

「ならワタシと相性抜群デース!」

「……よしっ、艤装が使えるようになった! 摩耶様も行くぜ!」

 

 水飛沫が天へ跳ねる。金剛が駆け出し、摩耶が滑り出した。先に向かっていた満潮は背後の声が聞こえていたのだろう、砲を構え、足を止めないまま砲撃した。

 飛び出した弾がレ級の体に突き刺さり、爆発する。避ける素振りも見せないのは攻撃が効かないゆえの余裕の表れか。

 

「酸素魚雷、二十発、発射!」

「さあ、攻撃隊、発艦!」

 

 深海神姫との戦闘も同時進行だ。こちらは敵の強さは未知数で、どのような攻撃をしてくるのかどころか、相手がどの艦種なのかさえわからない。艤装らしきものは身につけていないし、何かを従えている訳でもない。強いて言うならば巨大なイ級に見える怪魚を呼び出したが、それだけだ。彼女自身に攻撃手段があるようには見えない。

 実際、深海神姫は腕を広げて悠々と歩むだけで、自らに迫る脅威へ何かしようという様子はなかった。

 

 

 艤装の機能が回復したのを機に攻勢に出た艦娘達。

 かつての戦争の時のように俊敏に動き、各自の役割が自然と割り振られていく。勢いはどんどん増していっていた。

 だがそれも、再び怪魚が咆哮するまでの事だった。

 

『――――――――!!』

「っ、また!」

「艦娘の攻撃が通用しない深海棲艦というだけでも異常なのにっ、艦娘の兵装を無効にするだなんて!」

 

 雄叫びの中で大淀が吐き捨てた言葉は、この大音量のために誰の耳にも届かなかった。

 長引く耳鳴りに進んでいた者の勢いが弱まる。艦娘は身一つで海の上を走る事ができるが、艤装があれば元となった船本来の速度で動けるようになる。すなわち艤装が使用不可になれば、速度はずっと落ちてしまうのだ。

 

『マァソウ慌テルナヨ』

「っ!」

「ひっ」

 

 その上敵の片方は瞬間移動染みた芸当まで披露してくる。神隠しの霧による移動。吹雪の眼前に現れたレ級に、潮が後退った。庇うために前に出た叢雲が両手で持ったアンテナを突き込む。それは棒の半ばを掴んで止められた。……パワーが段違いだ。それは駆逐艦と戦艦だからというだけではないだろう。

 このレ級は、どの艦娘もどの深海棲艦も越える力を持っている。

 

『キュー』

 

 連装砲ちゃん達が吹雪に離れるよう急かす。この距離で砲撃すれば、衝撃が吹雪にまで及んでしまう。これでは牽制すらできない。

 未だ頭が『どう決断するか』にあった吹雪は、レ級を見て、ようやっと現状に頭が追い付いた。

 同時に思い至った。どこに逃げても同じだ、と。

 たとえ半数を犠牲にして暁の鎮守府に戻ったとしても、こうやって霧を使って一瞬で追いつかれてしまうのは明白。

 ならば時間稼ぎや囮に意味はなく、今この場で全てを終わらせなければ未来はない。

 結局吹雪は戦わなければならないのだ。提督を意味する帽子と制服を身に纏いながらも、やるべき事は艦娘と変わらない。

 

「駆逐艦吹雪、いきます!」

『オオット』

 

 前蹴りを繰り出してすぐに反転する。お腹を引っ込めて避けたレ級は、少し困った風に笑みを深めて、叢雲に顔を向けた。

 アンテナの柄を握り締めた叢雲が目を鋭く細めた。

 

「ここで遭ったが二十年目ね。あんたに三度も奪わせない」

『ソウ熱クナルナヨ……仲良クシヨウヤ』

「誰が、お前、なんかと!」

 

 柄を手放しての回し蹴りは、すぐさま掲げられたアンテナによって防がれてしまう。防御に使われた自身の艤装が放り捨てられるのを見届けながら初雪と潮の前まで下がった叢雲は、二人を守るように立った。

 二人共、決して接近戦がこなせるような子ではない。かくいう叢雲もあまり得意ではない。だから、近接格闘を得意とする金剛が戻るまで時間稼ぎに徹さなければ、レ級を倒す事はできないだろうと踏んでいた。

 

 

「提督!」

「今はただの吹雪です!」

「そのような……!」

「提督が戦うなんて前代未聞かも! 無理無茶無謀!」

 

 一方で、深海神姫へ向かっていく吹雪には大淀と秋津洲がついて来ていた。無茶苦茶を言う吹雪に大淀は困惑顔だ。それではこちらが困ってしまうと、つかず離れずの位置を走っている。傷ついた秋津洲も並走している。彼女が置いて行かれていないのは、全員艤装が使えず速度が落ちているからだろう。

 

「無理でも無茶でも、やらなきゃなんない時はやるんです!」

「……、……。……何をどう言おうと、その意思を曲げる事はできそうにありませんね。良いでしょう、提督。この大淀、地獄の果てまであなたについて行くと決めました」

「あっあっ、なら秋津洲も一緒に行くかも! 二人っきりはすっごく寂しいかも!」

 

 縋るような声で秋津洲が提案する。彼女は一人で……いや、彼女が腕に抱く二式大艇ちゃんと二人で一つの鎮守府にいたと聞いている。他と合流しなかった理由はわからないが、何かしら理由があって二人っきりでいて、それはとても寂しく辛い事だったのだろう。

 今ここで吹雪が否といえば、きっと彼女は動けなくなる。

 長い年月を耐えてきた心も、一度人間という甘い餌を目の前にぶら下げられれば容易く崩れる。吹雪は艦娘に希望を与えると同時に、絶望さえ与えられる存在になってしまったのだ。

 ……絶望などさせるつもりは微塵もない。みんなをもう一度立ち上がらせたい。誰かを笑顔にしたい。そう信じているからこそ吹雪は司令官になったのだから。

 

「はい、みんなで頑張りましょう!」

 

 元気づけるための返事に、左右の二人は大きく頷いた。

 

 

『ドケ。私ノ目的ハ人間ダケダ』

「くぅっ!」

「うあっ!」

 

 深海神姫が突き出した手に暁が跳ね飛ばされ、次には瑞鳳が弾かれていた。

 遅れて波が割れ、水飛沫が雨のように降り注ぐ。

 視認できないスピードで動く深海神姫の武器は、どうやらその体のようだった。

 

「冗談じゃないわよ! これでどうやって戦えっていうの!?」

『戦ウ必要ハナイ。大人シク……沈メ!』

「そこまでよ!」

 

 水を跳ね散らして大井の前へ現れた深海神姫へ、吹雪は手を差し向けた。指示に従って連装砲ちゃん達が一斉に砲撃する。怪魚の咆哮の影響を受けない連装砲ちゃん達の攻撃は、しかし奴には届かなかった。

 

「っ!」

「あれは、いったい……」

 

 一定の距離を保って減速する三人へ深海神姫が向き直る。離脱する大井には目もくれず、口元を歪めて吹雪を見つめてきている。

 先程の砲撃、確かに直撃コースだったはずだ。だがその顔や体に当たる直前、空間が光の線を走らせ、六角形の集合体を浮かび上がらせた。それが砲弾を防ぎ……ボロボロと崩れさせて、爆発すらしなかった。

 

「あいつにも艦娘の攻撃は効かないって事!?」

 

 損傷の激しい服を手で押さえながら立ち上がった瑞鳳が叫ぶ。全ての兵装が封じられ、そうでなくとも攻撃は通用しない。艦娘よ、絶滅しろという神の意思でも感じてしまいそうな状況だった。

 

『人間ヨ。オ前サエ倒セバ、全テハ終ワル』

「っ、お、終わらせません!」

 

 いつあの高速移動を見せてくるのかと警戒しながら、吹雪は果敢にも言い返した。ここまで圧倒的な能力差を見せつけられても心は折れていない。

 無知だからなのか、わかっていてそうなのか。吹雪自身、自分がどっちなのかよくわからないまま敵と対峙している。

 

「しかし、このままでは……」

「まずいかもっまずいかもっ。早く艤装が使えるようになれば、あんな奴やっつけちゃうのに!」

 

 怪魚は遠くで悠々と佇んでいる。だが、こちらが艤装の回復を見て使用し始めれば、すかさず雄叫びを上げるだろう。皿どうしを擦り合わせるような不快な音は神経を削る。できれば三度も聞きたくないな、と吹雪は思った。

 

『ソロソロ終ワリニシヨウ』

 

 一方的な宣言。

 深海神姫の瞳が妖しく輝く。黄色い光は危険信号。艤装の中で騒めく妖精さん達が、逃げろと警告を発していた。

 そうもいかない。

 吹雪にはみんなを守るという意思がある。誰一人欠けさせないためには、今自分が何ができるのかを良く知る必要がある。

 砲は使えない。艤装も使えず、速く走れない。

 左腕に括りつけられたカンドロイドは……使用できるものの、用途は通信と地図を見る以外わからない。まさかこの場で色々試すなどできはしないだろう。

 ならば、連装砲ちゃん達の力を借り、やり合い続けるしかない。活路が開かれるまで、永遠に。

 

 観察する。

 深海神姫を、観察する。

 彼女の秘密を少しでも知ろうと、瞬きを忘れてその姿を見つめた。

 虚ろな目の奥にはどんな思いがあるのだろうか。その小さな体は、どんな世界を歩んできたのだろうか。

 なぜ人を襲うのか。それは話に聞いた、戦争を止めるという深海棲艦の役割(ロール)に則ってか、それとも……。

 

 …………。

 

 …………?

 

 振動する海に、小刻みに波が起こり、体が揺れる。

 深海神姫の背後の海が盛り上がり、ザバァと水を流して何かが現れた。

 黒い塊。鉄と、石片と、艦艇や何かの集合体。それが継ぎ接ぎになり、何型ともつかない船の形をして、浮上してきていた。

 滝のように流れゆく水を振り返って見上げた深海神姫が、軽い調子で跳躍し、船の上へ飛び乗る。そうするともう彼女の姿は見えなくなって、なのに、気配はいっそ恐ろしいほどに肥大した。

 この船は、彼女そのものだ。吹雪は……ここにいる者は、肌でそれを感じた。

 

『神タル我ノ(チカラ)ヲ見ヨ』

 

 絶えず黒煙を噴き上げる船の上から、彼女の声が聞こえてくる。

 船体に幾筋もの光の線が伸びた。血管のように赤い、どこまでも赤い光。

 先端へ光が収束していく。

 あれは、いったいなんなのだろう。

 吹雪には理解できなかった。艦娘の常識を超える光景に、動く事もできなかった。

 

 赤い光球が船の前へ浮かび上がり、暴風と光を撒き散らしている。海は嵐のただなかのように荒れ、滅茶苦茶な風が髪や服をぐしゃぐしゃにした。

 キュー、とか細い声が耳に届く。

 吹雪は、ぼうっとした目のまま足下の連装砲ちゃん達を見下ろした。

 彼女達は吹雪の足をてしてしと叩き、必死に何かを訴えてきている。

 

「……使え?」

 

 風と光と音の暴力の中、吹雪の声はやけに響いた。

 連装砲ちゃん達は、まるで『自分を使え』と訴えてきているようだった。

 だけど、ならばどう使えば良いのか。ただ撃つだけでは駄目なのは理解している。彼女達の言う『使え』とは、もっと別の方法……それこそ、艦娘の常識では計れないような使い方をしろと言っている、ような……。

 

『ソノ基地ゴト消エテ無クナレ』

 

 臨界点を超えたエネルギーの球が一瞬収縮し、次には肥大した。

 たぶんあれが放たれるのだろう。瞳いっぱいに光を映し、ぼんやりと考える吹雪の前へ、防御体勢の大淀と秋津洲が出た。

 

「させません!」

「こっちかも!」

 

 その防御に、果たして意味はあるのか。

 海も空も霧も塗り潰す赤い光は、抗う事のできない神の力そのものだった。

 

『ヤラセナイヨ』

 

 一陣の風と共に霧が流れ、吹雪達の前にレ級が姿を現す。

 ただ彼女はこちらを向いておらず、深海神姫の乗る船へ両腕を翳し、まるで庇うように立っていた。

 

 直後、光が放たれる。

 海面を削り、海水を蒸発させ、光の奔流がレ級を飲み込んだ。

 小柄な彼女だけでは到底庇い切れるものではなく、障害物を越えた波が再び一つになるように、合流したエネルギーが大淀と秋津洲を襲った。

 悲鳴が風に呑み込まれる。二人の体は消し飛んだりはしなかったが、代わりに勢いに押されて後退してきた。

 咄嗟に両手で二人の背中を支える吹雪だったが、それは雪崩を手の平で受け止め、全体を止めようとするのに等しい行為だった。

 それ以上できる事など何もなく、吹雪の視界は真っ赤に塗り潰されていった。

 

 

 

 

 霧が晴れる。

 海上には巨大な船と怪魚しか残っておらず、艦娘も、レ級の姿ももう、どこにもなかった。



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第十七話 あれは島風?

本日二回目の更新です。


「はぁ、はぁ、はぁ」

「ふー、ふー」

 

 荒い息遣いが狭く暗い建物の中に響く。

 地面に倒れ、手をつき膝をつく十三人の艦娘と一人の人間。

 吹雪と、吹雪の鎮守府の艦娘と、暁の鎮守府の艦娘達。

 

「わ、私達、どうなったの……?」

「ここは、いったい……」

 

 困惑の声が息の合間に会った。

 あの光に呑み込まれ、どうして自分達が五体満足でいられているのかがわからない。

 特に大淀と秋津洲はそうだ。腕が焼け、鋭い痛みが脳を刺し続けているものの、指が欠けていたり艤装が融解し肌とくっついてしまっている、なんて事もない。

 

「どうやら……全員無事のようね」

『ソノヨウダ』

「!?」

 

 身を起こし、辺りを見回した叢雲が呟くのと、壁際の暗がりからレ級が姿を現すのは同時だった。

 素早く立ち上がった叢雲が背負った砲を全て向ける。レ級は、おかしそうに笑うだけで攻撃してきたりはしなかった。

 

「貴様ぁ……!」

 

 膝に手をついて立ち上がった満潮が怨嗟の声を漏らす。

 彼女に取ってレ級こそ仇。かつての戦争で友を、仲間達を沈めたのは他でもない、奴だ。

 それは叢雲にとっても同じ。生まれた地での幸せを一日で奪われ、別の場所でやっと得た幸福もまた奪われて。そして今、再びその魔の手を伸ばしてきているのだ。

 

「ここがどこだなんて考える必要はねぇな……!」

「深海棲艦がいるなら、ワタシ達艦娘がやるべき事はただ一つ!」

「徹底的にやっちまうのね!」

 

 気炎を吐く艦娘達の士気は、熱気を伴ってぐんぐん上昇している。

 自分達も提督も無事。ならば次にやる事は危険の排除。

 

「ま、待って、みんな」

「吹雪……?」

 

 だがそれに待ったをかけたのは、他でもない、吹雪(提督)だった。

 初雪と潮に支えられて立ち上がった吹雪は、二人に目を向けて手を離して貰い、よろけながらも自分の足で立つと、誰よりも前に出てレ級と向き直った。

 

「あなたが、私達を助けてくれたんだよね?」

「ちょっと提督、何言ってるの!?」

 

 心底理解できないといった様子で瑞鳳が詰め寄る。そのさなかに足をもつれさせ、倒れかけたのを大井が支えた。その彼女も『ふざけた事を言うな』とでも言いたげな視線を吹雪に送ってきた。

 

「たしかに、そんなのありえないって思うかもしれないけど……じゃあ、私達はどうやってみんな無事に帰って来れたのかな」

「それは……」

「……そんなの! ……知らないわよ、そんなの」

 

 否定か、沈黙か。質問への答えはそれだけだったが、それぞれの視線は壁の前に立つレ級に向けられた。

 レ級は何を言うでもなく、尻尾を地面に垂らし、いつもの笑みを浮かべて立っているだけだ。やろうと思えばいつでも攻撃できるのに、そうはしてこない。そうしない事情があるのだ、と考える事は簡単だった。

 

「改めて聞くね。『神隠しの霧』を使って私達をこの場所に移動させたのは、あなただよね?」

『ンー、ソウト言エバソウダナ』

「うそ……」

 

 吹雪の問いかけに、レ級は頷いて返した。暁が口を手で覆って愕然とする。そんな事があり得るのか。なぜ。疑問が渦を巻いていた。

 

「チッ、深海棲艦に助けられたなんて恥晒しもいいとこだぜ、クソが!」

「ひゅ、ひょっとしてこっ、ここは、深海棲艦の本拠地……わ、私達食べられちゃうんじゃ……」

 

 不機嫌極まりない摩耶に、顔面蒼白の潮。

 状況の把握もままならず、不安や不満が伝播して空気が淀む。

 悪い感じだ、と吹雪は思った。

 

「回りをよく見て。ここ、たぶん緊急出撃ドックだよ」

「……? あ、たしかにそうかも! ……でも、秋津洲の鎮守府のドックじゃないかも……」

「暁の鎮守府のでもないわ。うちのは出撃用のスタートスロットが五つあるもの。ここには四つしかないわ」

「壁際に並んだ艤装は……先日瑞鳳さんが妖精さん達に渡した物ですよね?」

「う、うん。私じゃちょっと修理できそうにないから、相談しに行ったら『任せて』って言われて……じゃあ、ここは」

 

 うん、と吹雪は頷いた。

 ここは吹雪の鎮守府だ。妖精の園の奥にある黒い建物、緊急出撃ドックに他ならない。

 

「ムムム、ホントにワタシ達を助けてくれた、と言うのデショウカ」

「まさか……信じらない」

「……司令官」

 

 困惑。この一言に尽きた。

 なぜ自分達を助けたのか。敵同士なのに。いったいなぜ。

 初雪に呼びかけられた吹雪は、僅かに振り返って頷き、レ級に向き直った。

 

「ありがとう、は立場上……というか、みんなの気持ちを考えると言えないけど、助かりました」

『礼ハイランヨ。……本当ニオ前、艦娘デハナインダナ』

「えっと……はい。人間です。司令官です」

 

 それは嘘……では、ないらしい。

 どうやら吹雪は深海棲艦にすら人間として見られる稀有な存在のようだ。

 吹雪も司令官として振る舞い始めてからの短い時間で、急速に人間としての自覚を持ち始めている。人は慣れる生き物だ。人になった吹雪が慣れるのは道理だ。

 

「なぜ、私達を助けたんですか? あの霧を使えば一人ででも逃げられたはずなのに……それに、同じ深海棲艦から私達を庇ってくれてましたよね?」

『質問ガ多イナァ。……答エルケドネ』

 

 相変わらず不気味な笑みを浮かべてはいるが、彼女の口調は至って友好的だった。ただ、深海棲艦特有のどこか寒気がする声音と、僅かに走るノイズのような物だけが不快感を煽った。

 

『ナゼ私ガ存在シテイルノカ、ソノ理由ハ知ッテイルカナ』

「はい。ちょっと前に聞きました……かつての戦争で、戦いを永遠のものにする為に強い者を隠す、そういった役割を持つ深海棲艦だと」

『合ッテルヨ。私ハ戦争ヲ続ケサセル役割ヲ持ッテイル』

 

 だからこそお前達を助けた、とレ級が言った。

 

『戦争スルニハ人ガ必要不可欠ダロ? ソレヲアノ深海棲艦ハ、全部消シテシマッタノダカラ、堪ッタモンジャナイ』

「だから、新しく生まれた人間を守った?」

『ソーイウ事』

「ちょっと、何普通に会話してんのよ! そいつは深海棲艦なのよ!?」

 

 静かに言葉を交わす吹雪とレ級に苛立ったのだろう、満潮が吹雪に詰め寄り、会話を打ち切らせた。

 

「奴を、一度助けてもらったくらいで、この……! 私はっ!」

「おち、ふぎゅ、落ち着いてみちっ、うっ」

 

 襟首を掴まれて締め上げられると、話し辛くて敵わない。俄かに足が浮き始めれば、これはさすがに周りが止めに入った。

 

「気持ちはわかるわ。でも今は、吹雪の判断に任せましょう」

「あんた……くっ!」

 

 同じ境遇である叢雲に窘められれば、満潮も少し冷静になれた。今だ煮え滾る怒りは収まりが尽きそうにないが、この場で勝手に突貫して戦闘にでもなれば、誰も無事では済まないだろう。それでは目の前のレ級と変わらない。誰かに大切な人を奪われるか、自ら仲間を失うか。その違いしかない。

 だから満潮は肩を震わせながらも一歩下がった。他の者も、そんな彼女の様子を見て、砲を下ろした。

 一番攻撃したいものが我慢したのだから、逸る気持ちに押されて攻撃などできない。

 

「では、お前はなぜここにいるの? ……その説明をする為だけではないでしょうね」

『ウン』

 

 叢雲が問えば、彼女は素直に頷いた。

 

『アノ深海棲艦………深海神姫ヲ倒サナイ事ニハ、オ前達ニ未来ハナイ。何モ知ラズ戦イ続ケルノナラバ、ソレモマタ未来ニハ繋ガラナイガ……今ノオ前達ナラ、頑張レバドウニカナルダロウ』

「なぜそこまでする。人間を守るためとはいえ、出過ぎじゃないかしら」

『……』

 

 追求する叢雲に、レ級は口を噤んだ。そうしてなお笑顔なのだから不気味な事この上なく、ふむ、と彼女が声を出して腕を組む動作をしなければ、誰かの不安が爆発しそうでさえあった。

 

『希望、ダナ』

「希望?」

 

 オウム返しの声に、ソウソウ、とレ級が頷く。

 

『人間ガ生マレタトハイエ、タッタ一人デハ何モデキナイ……カモシレナイシ、(アル)イハ何カ出来ルカモシレナイ』

 

 だから少し、期待してみる事にした、と彼女は締め括った。

 

「そのために、私達に協力してくれるの?」

「は?」

『ソウダ』

「はぁ!?」

 

 吹雪が突拍子もない事を言ったかと思えば、レ級は肯定してしまった。

 なんと言う事だ。吹雪が拒まない限り、人間と深海棲艦が、艦娘と深海棲艦が共に戦う未来が目前に迫ってしまう。

 そんなの御免だ。というのがここにいる大多数の想いだった。多くの同胞を奪った敵と肩を並べて戦うなんて嫌だ。たとえ敵がどれほど強くとも、たとえ、レ級が味方になればどれ程心強くとも。

 

『ソレデ良イヨ。私トオ前達ハ相容レル事ハナイ。私ハ私ノ目的ノ為ニ貴様ラヲ利用スル。オ前達モソウスリャ良イダケノ話サ』

「下らない御託を……司令、今ここでレ級を討てば、今後の戦いが楽になります。指示を」

 

 手を広げて提案するレ級に、不知火は舌打ちでもしそな顔で吹雪に指示を仰いだ。『GO』以外の命令は受け付けない、と顔に書いてある。

 吹雪は困ってしまった。たしかにレ級は敵だし、みんなの仇だというのも知っている。でもどうしてだろう、吹雪にはそこまでレ級が酷い奴だとは思えなかった。……こんなにも自分は薄情だっただろうか。それとも人情に疎かった?

 悩みながらも、吹雪はとりあえず強引に話を進めてみる事にした。

 

「あの深海神姫って子、島風ちゃんだよね?」

『ハ?』

「え?」

「……何言ってるのよ、吹雪」

 

 素朴な疑問を投げかけた吹雪に返ってきたのは異口同音の疑問符と、正気を疑う声だった。

 

「何を……あいつがあんあ化け物な訳ないじゃない!」

 

 声を荒げて否定するのは満潮だ。彼女は島風の友達だったな、と思い返しつつ、吹雪は「だって」と言葉を続けた。

 

「艦娘は深海棲艦になるんだよね」

『ソウダガ……ドウシテ奴ヲアノ艦娘ダト思ッタ?』

「写真の子と似てるなって思って。……あ、他にもあるよ。連装砲ちゃんに反応してた」

 

 平然とおかしな事を話す吹雪に奇異の視線が集まる。レ級ですら呆れた風に頭を振った。

 

『オ前ハ自分ガ何ヲ言ッテイルノカ解ッテイルノカ?』

「……?」

『……解ッテ無インダナ』

 

 深海神姫を島風だというのは、かつての友を大量殺人鬼と言っているのと同義で、この上ない敵だと仲間に教えているのと同じだ。それがみんなにどのような影響を及ぼすのか、吹雪にはいまいちわからないらしい。

 

「…………たしかに奴は変だったけど……それだけで島風だと認める訳にはいかないわ」

 

 俯きがちになった叢雲がぽつりぽつりと呟くように言った。

 目の前で艦娘が深海棲艦になるのを見、その上で撃沈している彼女には何か思うところがあるのかもしれない。

 

「き、聞いてみるのが一番ではないでしょうか……そこに、彼女のお友達がいるのですから」

 

 腕の火傷を庇いながら大淀が言えば、今度はレ級へ視線が集まった。

 

『別ニ友達デハ無インダケドナァ』

「で、どうなんデス?」

「知ってるんでしょ。キリキリ吐きなさいよ」

「あれは島風?」

 

 ンー、と人差し指で額をトントンと叩き、難しい顔をしたレ級は、しばらくして、観念したように溜め息を吐いた。

 

『確カニ深海神姫ハ島風ト呼バレタ艦娘ガ変異シタモノダ』

「やっぱり……」

「でも、だったら、あいつは……」

 

 島風が、人類を絶滅させた?

 俄かには信じがたいレ級の言葉に、室内は静まり返った。

 

『マ、アイツガ誰デアロウト、今ハモウ関係ナイダロ』

 

 その沈黙を破ったのもまたレ級だ。

 「大有りよ!」と満潮が噛みつく。

 人間を攻撃したのが島風だというなら、いったいなぜ。どうしてそんな事を。

 

「深海棲艦になってしまったら、理性も何もかも失われるというの? だとしても、私……!」

「許せない。……そうね、許せないわね。どんな姿に変わろうと」

「約束を破った上にあんな事までしでかすだなんて……!」

 

 満潮と叢雲が慟哭するように言葉を吐き出した。かつての友の変わりように怒りと悲しみが綯交ぜになって、心の中がぐちゃぐちゃになっていた。特に満潮はそれが酷く、崩れるように座り込んでしまった。

 

「元に戻してあげる事はできないの……?」

 

 そんな彼女達の様子を見て、痛む胸に手を押し当てながら、吹雪はレ級に問いかけた。どうにかできないのか、と。

 

『無理ダロウナ。倒シテモ何モ無シカ、ナンカ艦娘ガ生マレルダケダロウ』

「じゃあ、決まりだね」

 

 吹雪は、レ級に背を向けて、全員を見渡した。誰もが緊張した面持ちでいた。この吹雪が何を言い出すか、予想できなかったのだ。

 

「深海神姫を倒して、島風ちゃんを助けだそう」

「……そんな事、できる訳ないじゃない……」

 

 暁の呟きは、あの深海神姫を倒せる訳がないという意味か、それとも島風が再び甦る訳がないという意味か。

 

「ううん、きっと助け出せる。そう考えた方が良いよ。……そう考えた方が」

「……吹雪、あなた」

「んんっ。あはは、ちょっと疲れちゃってるかな」

 

 暗い顔をして同じ事を呟いた吹雪は、明らかに普通ではなかった。元々少々おかしな艦娘ではあったが、ここまでではなかった。

 ……ひょっとすれば度重なる事態の急変の連続でおかしくなってしまっているのかもしれない。休息が必要だ。誰もがそう感じた。

 

「あの子を倒さなきゃ何も始まらない。そうだよね、みんな」

「それは……そうだけど」

 

 弱々しく返事をしたのは漣だ。吹雪の言葉は正しいが、素直には頷けなかった。

 現状の戦力であれを倒す事はできない。新たな戦力(レ級)を迎えるのは心情的に嫌。でも未来を望むなら、今の苦痛を我慢しなきゃいけない事もわかっている。

 前に立つ吹雪からは、それぞれの顔が良く見えた。嫌悪、憎悪、敵意に悪意。それが吹雪越しにレ級に向かっている。

 あんな奴と一緒に戦うくらいなら……! そういった気持ちはまざまざと伝わってきていて、だからこそ、吹雪は言わなければならなかった。

 

「私は、この手で未来を掴みたい。そのためには……みんなに嫌な思いをさせちゃうけど」

「……もういいわよ」

 

 吹雪の言葉を大井が遮った。

 険しい表情は、まるで自分を責めているみたいで、吹雪は気圧されて口を噤んだ。

 

「もう、いいわ。あんたが言わなくとも、私は言うわよ。力を貸してくださいって」

「大井さん……」

 

 沈んでも嫌だ、という顔をしながらも、レ級と組む事を受け入れると言った大井に、吹雪は僅かに目を見開いて彼女の名前を呟いた。

 

「……私達は、あなたを司令官と認めた、から」

 

 初雪も、囁くように小さい声で続く。肯定の意思がこもった声。

 

「確かに、不知火はあなたを司令と認めました。その指示に従うと。……あなたが決めるのなら、不知火はやり遂げます。必ず」

 

 射殺すようにレ級を睨みつけながらも、不知火が淡々と語る。

 彼女達は自分の意思で吹雪を指揮官だと認めたのだ。今さら否とは言わない……そういう事なのだろう。

 

「うう、あたしはなんにも言えないかも。ただ、早くお風呂入りたいかも……」

「私も、そろそろ痛みで泣きそうです」

 

 言外に指示に従うという秋津洲に、柄にもない事を言う大淀。

 

『……中々慕ワレテイルヨウダナ? テイトク』

「そう、なのかな……。そうだと嬉しいな」

 

 彼女達が嫌々ながらもレ級と手を組むと言ってくれるのは、少なからず吹雪を信頼しているからだ。

 彼女が唯一人間……人間を名乗る艦娘だから、ではない。吹雪だからこそ、辛うじて受け入れてくれるのだ。

 

『マ、ソウイウ訳ダ。テイトク、コンゴトモヨロシク』

「う、うん。よろしくね」

 

 こうして、吹雪の鎮守府に新たに暁の鎮守府のメンバーと秋津洲、そしてレ級が加わったのだった。



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第十八話 十四年前の艦娘

本日三回目の更新です。


 

 怪我をしている艦娘を入渠させている間、吹雪達はレ級に話を聞くためと、今後の相談をするために食堂へ移った。

 

『サテ、何カラ聞キタイ?』

 

 尻尾を邪魔そうにしながら椅子に腰かけたレ級が、対面に座る吹雪、暁、叢雲、秋津洲をそれぞれ見回した。

 叢雲以外はそれぞれ自分の鎮守府を持つ者だ。代表として席を用意された。暁は緊張した面持ちで、叢雲は険しい顔つきで、秋津洲は青褪めて震えていて、吹雪はいつも通りの表情だった。

 

「どうして人は戦争に負けたの?」

「吹雪」

 

 際どい質問をする吹雪に、すかさず叢雲が厳しめの声をかけて止めた。

 この吹雪が時折見せる突拍子の無さや大胆さは良い方向に働く事もあれば、悪い方向に働く事もある。

 艦娘の前でかつての戦争の話はあまりするべきではないし、今聞くべきでもない。

 レ級は空気を読んでか、吹雪の質問をなかった事にしたようだ。何が聞きたい、と再度問いかけた。

 

「……どうして、人は戦争に」

「っ、吹雪!」

 

 まさか同じ質問をするとは思わず、叢雲は椅子を倒す勢いで立ち上がって怒鳴りつけた。肩を跳ねさせた吹雪は、恐る恐るといった様子で叢雲を見上げた。

 

「どうしてそんな質問をするの。必要ないでしょう」

「……でも、どうしてかを知らなきゃ、また負けちゃうかも……」

 

 叢雲は、はっと息を呑んだ。

 司令と仰ぎながら同じ艦娘として接していたせいで気付かなかったが、彼女は今、人間なのだ。艦娘にはない、人間ゆえの不安などもあるのだろう。

 司令官として、みんなを勝利に導くのが彼女の役目だ。それが果たせないかもしれないと思えば、不安にもなるだろう。

 だけどトップがそう弱気では、それを見た艦娘達にどんな影響が出るか……。

 ちらりと見やった暁と秋津洲は、会話が聞こえているのかいないのか、最初と同じ顔で座ってぴくりとも動いていなかった。視線はレ級に釘付けだ。

 ……吹雪の弱気な姿は、二人には見えていないようだ。

 

「……人は、欲望に負けたのよ」

「欲……?」

 

 観念して椅子を起こした叢雲は、それに腰かけながら語り始めた。

 かつての戦争で人間が犯した最後で最大の過ちを。

 

「最強の艦娘が生まれ、何度も脅威が払われて、人間は安心しきったの」

『私モ一回倒サレタシナァ』

 

 肘をついて頬を支えたレ級が懐かしげに呟く。やられたと言う割には悔しげでもなんでもなかった。

 懸念されていた大きな敵も打ち払い、もはや人類に敵なし。

 残る敵は霧のみ。それさえ打ち払えば、人類の勝利だ。

 

「だから、欲を出してしまったのね。それはたとえば強大な深海棲艦の鹵獲であったり、人には使えない兵器の試験だったり」

 

 要するに、深海棲艦を少しでも残すか、残っているうちにやりたい事をやろう、と、そうした訳だ。

 結果、少しでも手を抜いてはいけない最終決戦で手心を加える事を命じられていた艦娘達が押され、それは全体に伝播し、最強艦隊は勝てるはずの戦いで押し返されていった。その負担の多くは最強の艦娘、つまりは島風に行き、そうして疲労した彼女は、目の前のレ級に勝てなかった。

 

 頂点が討たれれば後は早い。みんな散り散りになっていく中で数を減らし、少数が帰り着いた時には、人類は戦争に負けていた。

 

 吹雪は、自分を見つめているレ級へと目を向けた。

 この人があの深海神姫の元となった島風を倒してしまった人。

 ……ふと思い出す。そういえばこの人の傍に、島風を探している艦娘がいた、と。

 

『ソシテ深海棲艦トナッタアイツハ各国ニ手先ヲ送リ込ミ、一人残ラズ消シ去ッタ、ト。理由ハシランガ』

「……お前はその時、何をしていたの?」

『深海神姫ト殴リ合ッテタ』

「…………」

 

 それはまるで、人類抹殺計画を止めようと立ち向かっていたとでも言うように聞こえて、叢雲は顔を顰めた。

 だが、実際レ級はそのために深海神姫と戦っていたのだ。人を殺させないため。人を残すために。

 人がいなければ戦争は起こらない。それはレ級の役目に反する。

 一度島風にレ級が倒され、霧の情報とそこに潜む者の正体を持ち帰られてからは狂いっぱなしで、結局最後の戦いでは勝っても負けても戦争は終わってしまっていたから、そんな事をしても無意味だとわかっていたのだが……。

 

『私ニハ私ノ譲レナイモノガアルノサ』

「……ふん、どうでもいいわ、そんなもの」

 

 ばっさりと切り捨てられても、レ級は笑みを崩さない。

 そんな彼女に吹雪は質問をつける事にした。

 

「そういえば、あの子は……」

『…………』

 

 まずはあの艦娘の話。

 

『……後デ切リ出ソウト思ッテイタンダガ』

「吹雪、『あの子』って?」

「レ級ちゃんの所にいた艦娘だよ」

『レキュ……』

 

 ずるりと頬を滑らせたレ級が、目を丸くして吹雪を見た。

 叢雲も一瞬びっくりして、それから呆れた表情で吹雪を(たしな)める。

 

「……吹雪、その呼び方はやめなさい」

「え、どうして? かわいいと思うんだけど」

 

 本気で言ってるのだろうか、こいつは。

 協力体制に入ったとはいえ、敵をちゃん付けで呼ぶ司令官がどこにいるというのだ。

 鈍い痛みを頭に感じながら、叢雲はなおも言い募った。

 

「いいから。そういう呼び方をする相手じゃないでしょ」

「んー、でも、かわいいと思うんだけどなぁ」

「そういう問題じゃないでしょ。こいつは敵なの。またいつ敵対するとも限らないのに――」

「叢雲ちゃんもかわいいって思わない?」

「だ、か、ら! そういう問題じゃないって言ってるでしょーが! あんた人の話ちゃんと聞いてる!?」

「……かわいくないのかな」

「…………はぁー。……もう勝手になさい」

「かわいくないんだ……」

 

 余程ちゃん付けが気に入っていたのだろうか、肩を落とす吹雪からは、本気で落ち込んでるのが窺えた。

 

『……変ナ奴ダネェ』

「あんたも大概だけどね」

 

 『変な奴』が二人に増えた、と、叢雲は深く深く溜め息を吐いた。

 

『最初ニ言ッテオク。アノ子ノ前デ島風ノ話ハスルナ』

「それは……あの子が島風ちゃんを探していた事と関係あるの?」

『ソウダ。アノ子ハ最初ノ艦娘デ……島風ハアノ子ニ呼バレタ艦娘ダ』

「呼ばれた、とはどういう意味よ」

『一カラ丁寧ニ説明スルノハ時間ガ掛カル。端的ニ言エバ、奴ハ艦娘デハナカッタトイウ事ダ』

「……艦娘ではない?」

『後ハ自分デ想像シロ』

 

 投げやりなレ級の言葉に何か言いたげにした叢雲は、言葉を飲み込んで、顎に指を当てて考え始めた。

 だが、やがて目をつぶって首を振ると、もはやどうでも良い事ね、と考える事を放棄した。

 

『サ、紹介スルヨ。コノ子ガ最初ノ艦娘ダ』

 

 レ級の背後に霧の壁が現れ、そしてそれが晴れた時には、一人の艦娘が床に座り込んで泣いていた。

 

「……本当にどこにでも移動できるのね」

『便利ダロ?』

「忌々しい程にね」

 

 席を立った吹雪が机を回り、少女の前へ屈んだ。

 大丈夫? と声をかければ、彼女は小さく頷いた。

 

「うちで保護すれば良いんだね?」

『アア。絶対ニ()()()()ニハ会ワセルナ』

「……わかったよ、レ級ちゃん」

『………………』

 

 ちゃん付けで呼ばれ、レ級は少し嫌そうな顔をした。

 

 そうして質疑応答が終わるまで、暁と秋津洲は一言も発さずに固まっていた。

 

 

「あの見えない壁は生体フィールドと同じようなもので、だから攻撃が効かない訳じゃないみたい」

 

 深海神姫の事をレ級から聞き、今はそれをみんなに話している。

 ちなみにレ級は目の届くところにいないと不安だと訴えられた事により、吹雪の指示で少し離れた所で椅子に括りつけられている。この待遇に少し不満気な顔をしていた。

 

 名もなき艦娘(吹雪は名前を付けようとしたが、叢雲に阻止された)の方は、寮の一室で休んでもらっている。彼女を深海神姫と会わせると何がどうなるのかはわからないが、あまり良い予感はしない。

 

 それから、躊躇いなくみんなに少女を紹介した吹雪だったが、これも叢雲に止められた。

 明らかに怪しいし、吹雪は感じないかもしれないが、そのぐちゃぐちゃに塗り潰された顔は生理的嫌悪感を催す程だ。ここは知らせるより隠した方が良い、と叢雲は説得した。

 

「船はこの海に蔓延る遺志と亡骸と怨嗟の集合体で、つまりあれも深海棲艦、あるいは艤装なんだって」

「一見彼女が丸腰なのは、さすがにあの船を身に着ける事ができないからでしょうね」

 

 話をノートに纏めていた大淀が推測を口にする。

 だからって肉弾戦するかなぁとみんなは思ったが、その正体が島風である事を考えれば、納得もした。

 ……割と島風の奇行は有名だったのだ。

 というのも、(くだん)の島風は最強になった代償か、色々と言動が残念な部分があったらしい。

 叢雲が前知識として語った島風像は、普通の島風とは少しばかり離れていて、戦い方ともなると完全に艦娘から離れていた。

 曰く、砲撃の命中率は一割を切る。曰く、得意技はジャンプキック。曰く、とある艦娘に懸想していた。

 まあ、結構多くの話があったのだ。

 深海神姫も肉弾戦を仕掛けてきた。そしてあの素早さ……なるほど彼女は島風だったのだろう、と誰もが納得した。

 

「駆逐ン級の咆哮は、制海権がとられている区域で発生していた、通信を阻害する妨害電波と似ているらしく、これから対抗できる兵器を開発する事になってます」

 

 駆逐ン級とは、あの怪魚の事だ。見た目はイ級だが、あれを駆逐と呼んでいいのかは甚だ疑問だが……誰もその呼称に異は唱えなかった。

 兵器の開発はつい先ほど決められたばかりの事だ。

 せっかくこうして艦娘達が一つ処に集ったのだから、全員で力を合わせ、開発できるものを増やしていこう、となった。

 そして、今までは人間がいないためにそれぞれの鎮守府で過ごしていた者は、司令官・吹雪の登場により、この鎮守府で過ごす事となった。

 

「それまでは資材集めに演習で訓練デスネ」

「練度を上げる事は非常に大事です。特に実戦に出る事のできない提督の経験を積むにはもってこいでしょう」

「島風のデータも残っているから、戦い方のヒントや癖も見つかるかもね」

 

 話が纏まり、今日はこのままお休みとする運びになった。

 明日からは本格的な活動が始まる。

 

「艦隊を編成し、各鎮守府に資材を取りに行く者と、開発する者、訓練する者にわかれる事になります。暁ちゃん、秋津洲さん、本当に行きだけでいいんですか?」

 

 それぞれの鎮守府へ向かう艦隊の旗艦である二人は、吹雪の問いにこくこくと頷いた。

 行きだけ、とは『神隠しの霧で移動するのは行きだけで良いのか』という意味だ。

 レ級の技を使えば、わざわざ深海神姫や怪魚と出会う危険を犯さずに移動できる。

 だが吹雪以外の艦娘としては、レ級と一緒に海に出るだなんてしたくない。

 だから霧だけ出して貰って、レ級の同行なしに各鎮守府へ移動してもらい、帰りは各自の足で、という事に話が纏まったのだ。

 正直その『行き』もかなり不安だ。見知らぬ場所や敵がわんさかいる場所に送られたらそれでおしまいなのだから。

 しかし海に出る時間を伸ばして、万が一敵に出遭ってしまえば、霧無しでは今度こそ逃げられないだろう。

 どちらの方が安全なのかは非常に悩むところだったが、それぞれは吹雪に言われて、行きだけ霧を使う事を承諾した。

 資源が手に入ればそれだけ開発の試行回数が増やせるし、燃料が増えれば仲間を呼び覚ます事もできる。ここは我慢の時だ。

 

「各自、しっかりと体を休めてくださいね。それじゃあ、解散」

 

 吹雪の言葉に、席を立った面々が一言ずつ挨拶をして退出していく。

 残ったのは、吹雪監視員の叢雲とレ級、そして潮だった。

 

「どうかしたの、潮ちゃん」

「は、はい……」

 

 もじもじと言い辛そうにしながら吹雪へ近寄って来た潮は、耳打ちするためか吹雪の肩に手を置いて、口を寄せた。

 

「……頼みたい事?」

 

 こくこくと頷いた潮は、吹雪の手を引いて歩き始めた。余程気持ちが逸っているのだろう、足早に進む姿からは強い想いが読み取れた。

 

「私も行くわ」

 

 今の吹雪を放っておくと何をしでかすかわからない、と叢雲が後を追う。

 三人が縮瞳を出ていくと、一人椅子に括りつけられたままのレ級がにんまりとした笑みを浮かべた。

 

『アア、コウイウ役回リネ……』

 

 自嘲だった。

 

 

 潮に連れられてやってきたのは、艦娘寮最奥の修練場だった。

 その名の通り、弓を持つ空母が矢を放つ訓練をする施設。

 中庭と言うべきか、中心部は長方形の部屋の真ん中が半ばから草と土に変わり、奥の方に的があった。天窓から差し込む光はそのまま日差しとなって降り注ぎ、部屋の中は明るい。

 その中心に置かれた椅子に腰かける女性がいた。

 ダルグレーの長い髪は頭の後ろで纏められ、前髪は七三分けに整えられている。

 薄紅色の和服に袖を縛るタスキ、紺色の袴。

 

「……鳳翔さんを、起こして欲しいんです」

 

 潮の頼みとは、彼女の覚醒を促す事。

 両手を膝の上で揃え、まぶたを下ろして腰かける姿は、日の光が差し込んでいるのも相まって、ただ少し休んでいるだけに見えた。

 しかし近付けばわかる、まったく身動きを取っていないがゆえの不自然さ。

 精巧な人形のようだと吹雪は感じた。

 

「わかったよ、潮ちゃん。明日はきっと、一番最初にこの人の目を覚ましてあげるからね」

「お願いします! 鳳翔さんは……私の、おかあ……」

「……?」

 

 ……ぁ、いえ、なんでもないです、と顔を逸らして手を振った潮は、すぐに外へと向かって駆けて行ってしまった。

 扉の向こうに飛び出していった彼女の背を見送った吹雪は、改めて鳳翔に向き直り、顔を覗き込んだ。

 

「……どうかしたの?」

 

 叢雲に問いかけられ、吹雪は姿勢を戻して首を振った。

 

「ううん。ただ、ちょっと、この人の顔を見てるとほっとするなって思って」

「……変な子ね」

「えっ、そ、そうかな。変、かな」

 

 思いがけず変人呼ばわりされて狼狽える吹雪に、なんだかおかしくなって叢雲は笑ってしまった。

 

「ふふ、さ、明日から忙しくなるんだから、今日はもう休むわよ」

「う、うん。…………変かなぁ」

 

 笑みを残したまま促す叢雲に、吹雪はなおも言われた言葉を気にしていた。

 今さら言葉に出すまでもない。彼女は十分に変である。

 自覚はまだない。

 たぶん、一生自覚しないだろう。



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第十九話 激突! 演習大作戦

本日四話目の更新です。


 翌日。

 昨日の内にたてた計画通り、暁率いる資源回収隊と秋津洲率いる資源回収隊が霧に飛び込んで行った。

 ついていった艦娘は暁の方に摩耶、大井、潮、満潮で、秋津洲の方には金剛、不知火、叢雲、漣という構成だ。

 互いの鎮守府のものを混成させて、遠征ついでに仲を深めようという魂胆もあった。

 叢雲は吹雪の傍を離れて大丈夫かと心配していたが、代わりがいないため渋々出ていった。

 

 大淀と瑞鳳は早速妖精さん達と開発に勤しんでいる。

 なんとか艤装使用不可の咆哮を打ち消す装備か、その中でも使える装備を作り出さなければならない。

 吹雪は演習だ。だが本来の演習と違ってデータから艦娘を呼び出し、戦い合う形式ではなく、港から程近い位置をぐるぐる航行するのみだった。あの毒電波の中で唯一稼働していた連装砲ちゃんがヒントにならないかと調べ回されているために、彼女達を用いた訓練もできないのだ。

 

 レ級は部屋の奥で待機……要するに閉じ込められていたのだが、霧を用いて抜け出してきて、コンクリートに直接座り込んで吹雪の訓練風景を退屈そうに眺めていた。

 

 

 艦隊帰投。

 昼を回ったくらいに無事、二つの艦隊が戻って来た。

 報告では敵と遭遇する事もなく、ただただ神経を削るのみだったらしい。

 

 燃料が手に入ったので幾人か艦娘を呼び起こす事になって、そこで困った事になった。

 立ち会った妖精さん達が艦娘を一人運んでくるたびに頭の上でマルやバツを作るので、気になった吹雪が聞いた結果、目を覚ます艦娘とそうでない艦娘を判断していたという。

 ここにいる子達は全て起こす事ができると信じていた吹雪には、これは大変ショックな情報だった。

 実際、駄目と言われた艦娘に燃料を与えても動き出す気配はなく、工廠内に重い雰囲気が漂った。

 

 午後はまず、起こす事の出来なかった艦娘達の埋葬から始まった。

 手ずから土を掘り、今にも動き出しそうな少女達を埋めていく。

 吹雪は悲しくて堪らなくて、涙で滲む視界に、泥だらけの腕で目元を擦った。

 

 悲しみは乗り越えなければならない。起こす事の出来た艦娘もいる。それにより笑顔になった子もいるのだ。

 

「提督……このたびの事、お悔やみ申し上げます」

「……はい」

 

 執務室には、新たに加わった艦娘が全て集められている。

 大きな椅子に腰かけた吹雪は、目元に影を落としながらも、鳳翔の言葉に頷いた。

 一対一。

 三十数名いた艦娘の中で呼び戻せた人数は……。

 

「それから、私を救って頂いて……感謝しています」

「潮ちゃんにお願いされましたから……」

「あの子が……」

 

 口元に手をやった鳳翔は、感慨深げに呟いた。

 彼女と潮の間にどのような経緯があるのか、今の吹雪に気にする余裕はない。

 救えると思った命が救えなかった。

 理不尽な結末に、何を言う事もできなかった。

 

「……では、失礼しますね」

「はい。詳しい話は……潮ちゃんから聞いていただければ」

「わかりました」

 

 一礼して退出した鳳翔と入れ替わりに叢雲がやって来た。

 落ち込んでいる吹雪に一瞬躊躇うも、足早に歩み寄って腕を掴み、無理矢理立ち上がらせた。

 

「吹雪、言ったはずよ。今日は忙しくなる。こんなところで腐っている場合ではないのよ」

「叢雲ちゃん……。でも、私、こんな事になるなんて思ってなくて……」

「死などそんなもんよ。くるとわかっていてくるもんじゃない。……でも、失う事を恐れる気持ちは捨てない事ね」

「恐れる……?」

 

 辛辣な言葉の次には気遣うように背を撫でる叢雲に、吹雪は彼女の顔を見て聞き返した。

 

「そう、恐れよ。敵を恐れ、仲間を失う事を恐れ、自身の驕りを恐れる。『大丈夫』と自分を信じ切るのは良いけど、あなたの即決即断は行き過ぎると汚点にもなるわ」

「……ちゃんと考えてるよ?」

「どうかしら。さ、恐怖の演習タイムよ。痛い思いをすると思うけど、我慢してね」

「え、痛いって……えっえっ、そんな話聞いてない……」

 

 困惑する間もなく、吹雪は演習海域へと連行された。

 

 

 吹雪型の制服に身を包み、艤装を身に着けて海の上。

 かつてA海域と呼ばれた演習用の場所に、吹雪と数人が立っていた。

 戦闘経験の少ない初雪、サポート役の叢雲、島風を一発殴りたい満潮が吹雪の後ろに並んでいる。

 吹雪の足元では、連装砲ちゃん達が永劫終わらない追いかけっこを楽しんでいた。

 

『アイテノ チームノ トウジョウダ』

 

 ぴりぴりと肌を刺す特殊な電磁波を感じながら、吹雪は直接頭に届いた妖精さんの意思に頷いて返した。

 ……ちなみに『今から相手が出てくるから、準備をしてください』が吹雪に聞こえた言葉の内容だったりする。

 

『駆逐艦吹雪改二』

『私がきっと、やっつけちゃうんだから』

 

 数メートル先に現れた吹雪の到達点が虚ろな目をこちらに向ける。

 ぱくぱくと口を開閉するのに合わせて、妖精さんの意思が飛んできた。抑揚も何もなく、少々不気味であった。

 その隣へ出現したのは、髪の両側が跳ねた白露型の艦娘。

 

『駆逐艦夕立改二』

『夕立、突撃するっぽい』

 

 そして最後に真ん中へ現れたのが、吹雪の探し求めていた艦娘。

 

『駆逐艦島風改』

『ひとっ走り付き合えよ』

 

 あれ、と吹雪は首を傾げた。

 彼女は唯一改二に到達した島風だと聞いていたのに、今届いた意思では改止まりになっていた。

 別の記録を呼び出してしまったのだろうかと疑問に思っていれば、三人が消え、カウントダウンに入る。

 

「いい? 吹雪。事前に注意した通り、島風はあなた以上に突拍子もない行動を繰り返すわ。『あれは何をしてるんだろう』と疑問に思ったら、すぐに回避行動に移りなさい」

「う、うん。……『私以上』って……」

「さ、来るわよ!」

 

 どういう意味、と問おうとして、カウントがゼロになるのに前を向く。

 ここからは油断できない戦闘時間だ。演習ゆえに怪我はしないが、説明では初めて演習する子は特殊な電磁波の影響を普通より強く受けて、本当にダメージを負ってしまったと錯覚する事もあるらしい。

 

「じゃあみんな、単縦陣で――」

 

 指示を出すために振り返った吹雪の目に、三人の中に立つ島風の後姿が映った。

 

「うあっ」

「ちっ、ぐ!」

「くっ、この大馬鹿!」

 

 驚いて身を引いた初雪が掌底を胸に受けて吹き飛び、叢雲が突き出したアンテナごと回し蹴りで弾き飛ばされ、殴りかかった満潮は島風が屈んだために拳を空振り、足払いを受けて海面を三回転ほどして止まった。

 

「行こ……う?」

 

 振り返った島風の、ハイライトの無い目と目が合う。

 そう思った時には既に目と鼻の先まで接近されていた。

 

「はや――」

 

 ドッと胸を打たれ、重い艤装ごと体が浮き上がる。

 吹き飛ぶ中で後転し、足から海面へ着水した吹雪は、リアルな胸の痛みに思わず手を押し当てて息を吐いた。

 前を見れば、倒れている三人の中を、島風が悠々と歩いてきている。

 あのスピード……まさしく深海神姫と同一のもの。やはり彼女は改二に到達した島風なのだろう。おそらく先程の『改』は聞き間違えか何かだったのだと思った。

 

 追いついてきた連装砲ちゃん達を一瞥した吹雪は、あのスピードを突破しない限りには深海神姫に勝つ事はできないだろうと予測した。

 それは正しい。

 速度で勝るか、対策をしなければ、先程のように四人一気にやられてしまうだろう。この中で最も練度の高い叢雲ですら一蹴されるほどのスピードは厄介極まりない。

 

「このっ!」

 

 立ち直った満潮が島風を羽交い絞めにする。

 そうだ、いくら早くてもああやって止めてしまえばなんの問題もない。そう考えた瞬間、両腕を跳ね上げられて拘束を外された満潮が、振り返った島風の拳を腹に受けて再び海面を転がっていった。同じ駆逐艦のパワーでは駄目なのか、それとも力も段違いに強いというのか。

 アンテナを前に出して警戒する叢雲に、どうしたら良いのかわからない様子で砲を構える初雪。その二人を無視して、島風は再び吹雪の方へ向かって来た。

 

 あんなに速く動けるのに、今はゆっくりと歩いている。それがまるで恐怖を煽っているように感じられて、吹雪は目を細めた。

 恐怖など感じない。吹雪は、無敵だ。

 

「……?」

 

 腰を落として砲を抱え、いつでも放てるようにした吹雪の前、数メートル先で島風が足を止めた。

 かと思えばその周囲に待機していた彼女の連装砲ちゃん達が猛然と円を描くように動き始め、それは波立つほどの激しさと速度になっていった。

 島風を囲むように、半径七、八メートルの距離で連装砲ちゃんが回転する。大中小の影がぶれて重なり、左右に激しく動いているように錯覚して見えた。

 島風が踵を返す。その場で反転して吹雪に背を向け、力を溜めるように徐々に腰を落とした。

 

 あれは、何をしているんだろう。

 

「っ!」

 

 そう疑問に思い、瞬間、左に身を投げ出していた。

 空気を穿つ鋭い音がした。波間を転がった吹雪には見えた。吹雪改二が、今吹雪がいた場所を蹴り抜いているのが。

 

 音もなく、島風が跳躍する。それは前方への低く鋭い飛び蹴りだった。が、その方向には誰もいない……いや、回転し続ける連装砲ちゃんがいる。

 連ちゃんを足場に再度跳躍して即座に反転した島風は、まるでピンボールのように凄まじい速度で吹雪の方へ突っ込んできた。

 

「っ、うわ!」

 

 身を起こしていた吹雪は、再び倒れる事でなんとかそれを避けた。穿たれた風が引き込まれるように収束していく。た、たしかに突拍子もないな、と吹雪は冷や汗を流した。

 

「吹雪!」

「え、ひゃあっ!?」

 

 名前を呼ばれて反応した吹雪は、思い切り腕を引かれて無理矢理立たされるのに目を白黒させた。

 見れば、自分の腕を掴んでいる自分(吹雪改二)がいる。

 ――吹雪改二は技術派で、金剛と同じ技術を高い精度で習得し、砲撃より雷撃より接近戦が大得意。

 掴んだ腕を肩に担ぐようにして反転した吹雪に引き込まれ、迫る海面を見つめながら、吹雪は叢雲に教えられた彼女の説明を思い出していた。

 

「ふぎゅっ!」

 

 バシャァン、と激しい水音が鳴り響く。

 顔面から叩きつけられた吹雪は、そこが水ゆえに『痛い』で済んだものの、白く弾けた視界はどしようもなく倒れ伏した。

 だがそのままではいない。即座に横へ転がり――背負った艤装が海の中へぬるりと入る重い感触がした――追撃のストンピングを避ける事に成功した。

 

「う゛っ!?」

 

 寝転がっていては格好の的だと立ち上がれば、横腹に突き刺さる冷たい鉄の感触に声を漏らす。

 くの字、とまではいかないが、折れ曲がる体に足が浮き、細まった視界で敵の姿を捉えれば、無表情の夕立改二を確認できた。

 ――夕立改二は突撃馬鹿。三度の飯より突撃大好き。とにかく敵に接近し、自身へのダメージも厭わないワイルドな戦いが大好物。

 叢雲が事前にしてくれた説明を脳裏に過らせながら、なんでこの人(艦娘)達、砲撃しないんだろうと思った。

 その思考を読み取った訳ではないだろうが、夕立改二が持つ砲が火を噴いた。ゼロ距離砲撃。

 横っ腹に熱い痛いを感じる前に錐揉み回転して海に激突する。自ら転がって勢いを殺しきり、立ち上がりはしたものの、驚愕と痛みの連続で少しふらついた。

 

「……あんた、案外頑丈ね」

「ぇほ……え? そうかな」

 

 傍に寄って来た叢雲に訝しむような目を向けられて、吹雪は夕立達を見たまま首を傾げた。

 まともな戦いは初めてだから、自分がどんなものかわからないのだ。

 ……少なくとも練度(レベル)一桁の艦娘が吹き飛ばされた状態から綺麗に着地はしないし、叩きつけられた際に自然に転がって勢いを殺したりはしない。

 これは吹雪が少しなかり変わった艦娘なのも関係しているが、きっと前に金剛とみっちり一夜訓練したおかげでもあるのだろう。たった一夜で全てを吸収する辺り普通ではないが、その実この吹雪の技術の習得速度は目の前の吹雪改二に負けていたりする。……吹雪は普通の艦娘だった。

 

「! はっ!」

 

 不意に吹雪が背後に砲を向け、見もせずに砲撃した。

 その先にいた島風に砲弾が直撃する。彼女も予測していなかったのだろう、自慢のスピードで避ける素振りもなかった。

 どうして島風の接近を吹雪が感知できたのか。

 

(なんとなく撃ったら当たっちゃったみたい)

 

 たぶん理由なんてない。強いて言うなら勘だろう。

 反転して数度砲撃を繰り返せば、突如として黒煙が吹き飛んだ。何事かと目を見張る吹雪の前で、島風の体から突風が放たれる。

 それは改造完了の合図。

 連装砲ちゃんを素材として改造した姿、それこそが島風改二だった。

 驚きながらも新たな姿を現した島風に砲撃を繰り返す吹雪。両腕を広げ、今まさに構えたばかりだった島風には当然全弾命中した。無表情だからわかり辛いが、驚きたじろいだように吹雪には見えた。

 

 もくもくと煙が巻き起こる。

 

 背後から聞こえる叢雲のかけ声と初雪の息遣いに、二人が夕立改二と吹雪改二と交戦しているのを把握しつつ、前だけを警戒する。

 

「……あれ?」

 

 風が吹き、それが煙を運んでいけば、そこには何もなかった。

 島風ちゃんは? と視線を左右に巡らせる吹雪の耳に、ジャブジャブと波が砕ける水音が届いた。

 はっとして振り返れば、視界の右から左へ、何やら大きな(イカリ)を引き()って歩く島風の姿があった。

 吹雪の直線状で止まった彼女が顔だけをこちらに向ける。かと思えば、錨を引き摺ったままこちらへと歩き出してきた。

 なんのつもりだろう、とは思わなかった。さすがに戦闘経験の少ない吹雪でも、叢雲がアンテナを持つようにして錨の柄を掴み、接近してくる島風を見て意図を察せないほど鈍くはない。

 

『――!』

「ひぇっ、あっ、わっ!」

 

 目前まで来た島風がすくい上げるように振り上げるのをさっと退いて避け、続く振り下ろしも大慌てて後退って避ける。だけど突きはどうしようもない。半円状の丸みを帯びた方をお腹に突き立てられて、吹雪はたまらず肺の空気を吐き出した。

 

「げほっげほ、ふ、ひゃああ!?」

 

 咳き込む暇も与えちゃくれない島風は、あろう事か錨に吹雪の体を引っ掛け、ぐいっと持ち上げてしまったのだ。

 そのまま放り投げられて、悲鳴が遠くまで伸びていく。

 今度も上手く受け身を取って海面を転がった吹雪は、こんな事を繰り返していれば艦橋が壊れちゃうよ、と艤装の心配をしだした。

 

(……それで、島風ちゃんは何してるんだろ)

 

 錨を海に突き立て、左腕を、手の甲をこちらに見せるように持ち上げた島風は、その腕にゴムバンドで括りつけられた情報端末、カンドロイドを起動して光化学画面を出した。

 吹雪も試しで使った事のある羅針盤機能が呼び出され、四人の羅針盤妖精さんと東西南北を示す

 回転を始める羅針盤に、もうそろ吹雪は理解し始めてきていた。なるほど、これが島風ちゃんの奇怪な行動。みんなが変だ変だと言う訳だ。

 どういう訳か羅針盤機能を使用して、魔法使いの格好をした妖精さんが矢印付きのステッキを盤面に叩きつけ、南を意味するSの英字で止まれば、その文字が中心に大きく表示されたのちに光化学画面が消えた。

 島風が動き出す。

 錨を持ち上げ、バットのように持って――フルスイングするとともに放り投げてきた!

 

「う、わっ、と!」

 

 予め警戒していた吹雪はなんとか避けられたものの、その後の砲撃までは予想してなかった。

 彼女の両肩に備えられた連装砲が火を噴けば、思わず目をつぶり腕で顔を庇ってしまう。まさかまともな攻撃をしてくるだなんて予想もしていなかった!

 

「…………?」

 

 海面を貫く激しい音がして、体が揺さぶられるのに身を硬くしていた吹雪は、いつまで経っても衝撃どころか痛みさえ襲ってこない事に、恐る恐る腕を下ろした。

 ……彼女の連装砲からはたしかに煙が上がっている。砲撃は確実に実行された。だというのに自分には掠りすらしていない。

 回避直後の無防備な体を、あの至近距離で狙って、当たらなかった……。

 

「ひょっとして……」

 

 島風ちゃんって、ノーコンなのでは……?

 その思考を読み取ったのか――そんな訳はないだろうが――怒ったように島風が再び砲撃してきた。

 

「わぁ!」

 

 と自身を庇う動作をするものの、今度はすぐにやめた。……やっぱり砲弾は直撃どころか掠りもせず、左右の海面へ突き刺さって水柱を上げていた。

 揺らめく波間で立ち上がる。

 当たらないのならば怖くない。……いや、やっぱり少し怖いかもしれない。

 けど、大丈夫。

 自分を勇気づけた吹雪は、背後から聞こえてくる砲撃音にも注意しつつ、島風の動向に注目した。

 『なんだろう』と思ったらすぐ避ける。繰り返し頭の中で反復して、砲を構えた。

 

(あ、あれなん……ああ、避けなくちゃ)

 

 さっと腕を交差させて顔を伏せる島風に疑問を抱いた吹雪は、すぐさま回避行動に移った。だけど、周囲が急に暗くなっていくのを不思議に思い、足を止めてしまった。

 

「……夜?」

 

 日が落ちていく。

 月が昇る。

 お昼を過ぎたばかりの夏の空は、星の海が煌めく夜空へと変わってしまっていた。

 知識が囁く。これは一部の深海棲艦が使用してくる『夜にする』不思議な咆哮。たぶん、それと同じ……。

 などと考察していた吹雪は、はっとして島風の方を見た。

 彼女はちょうど顔を上げたところで、夜闇に輝く瞳を捉えたと思った時には、彼女は跳躍していた。

 島風の背のユニットから羽のような光が噴き出し、加速する。突き出した両足での急降下キックに、反応が遅れた吹雪が避ける術はなかった。

 

 一瞬視界が暗転し……それで、終わりだった。

 

 

「だから言ったじゃないの。島風は突拍子もない事をしてくる、って」

「ううー、あんなのわかりっこないよ……」

 

 コンクリートの上で目覚めた吹雪は、まず叢雲に文句を言った。

 体を見下ろせば傷は一つもなく、生体フィールドによって守られた服や艤装はちっとも濡れていない。

 空も真っ青で、時間はお昼過ぎに戻っていた。それがかなり不思議に思えて、吹雪は首を傾げた。

 

「あの子もあのくらい変なのかなぁ」

「……深海神姫?」

「うん」

 

 立ち上がり、お尻側のスカートをはたきながら疑問を口にした吹雪に、叢雲は「さぁ?」と肩を竦めた。

 

「初雪ちゃん、満潮ちゃん、大丈夫?」

「ん」

「…………」

 

 振り返れば二人が立っていて、初雪は少し落ち込んでいるみたいだった。

 満潮の方は、自分の拳に目を落とし、ぐっぱぐっぱと手を開閉させている。凄まじいしかめっ面からは、島風を一発も殴れなかったのが余程悔しいように見えた。

 

『ソンナンジャアットイウ間ニヤラレルゾ』

 

 カツカツと鉄の足音を鳴らしてレ級がやってきた。ギッと満潮が睨みつけ、叢雲もあまり良い顔をしない。二人が自分を好いてないとわかっていても姿を見せるのだから、レ級も中々図太い深海棲艦だった。

 

「駄目だよ、出てきちゃ。鳳翔さんが見たらびっくりするよ」

『……人ヲペットカ何カミタイニ扱ウノヤメテクンナイ?』

「……?」

『エ、何ソノ心底理解出来ナイミタイナ顔ハ』

「とにかくほら、お部屋に戻って」

「ふん。ハウスよ、ハウス」

 

 微妙な顔をするレ級に満潮が追撃をかけた。しっしと手を振られて、レ級はぐぬぬと唸ってから霧に呑まれ、姿を消した。

 

「あら、今ここにもう一人いませんでした……?」

「あ、鳳翔さん」

 

 間一髪、きょろきょろと辺りを見回しながら鳳翔がやってきた。抱えたお盆には人数分の甘味が用意されている。

 

「疲れた体に甘いものはいかがですか? 私と潮ちゃんで白玉団子を作ってみたんです」

「いただくわ」

「叢雲ちゃん、速い」

 

 甘い匂いを嗅ぎつけて瞬時に鳳翔の前へ移動した叢雲が、さっそく小皿を受け取って楊枝に手を伸ばす。

 吹雪達も順次お皿を受け取り、手作り白玉に舌鼓を打ちながら、鳳翔と会話をした。

 

「わざわざありがとうございます、鳳翔さん」

「……美味しいわ」

「ん。甘さ控えめ」

「うふふ。喜んでもらえたようで何よりです。……元気そうで、良かったです」

「……あ。……ありがとう、ございます」

 

 これはきっと、落ち込んでいた吹雪を励ますための物でもあったのだろう。鳳翔の口振りからそれに気づいた吹雪は、恥ずかしげにお礼を言った。鳳翔はただ軽く会釈を返すだけで、何も言わなかった。

 

 もぐもぐぱくぱく、あっという間に平らげる三人を見ながら自分も楊枝を摘まんだ吹雪は、ふと隣に立つ叢雲に気付いた。

 

「……半分食べる?」

「………………いいえ吹雪、それはあなたのものよ」

「じゃあ食べちゃうけど」

「…………」

「叢雲ちゃん、本当に甘いものが好きなんだね」

「えっ? え、どうしてそう思うのかしら??」

「……あはは」

 

 叢雲の甘味好きは無自覚なのだろうか。

 それとも誰にもばれてないと思っているのだろうか。

 何はともあれ、吹雪は白玉の半数を叢雲に押し付け、仲良く二人で食べる事に成功した。

 

 友達と一緒に食べる甘いものは、吹雪の短い人生の中で、一番美味しい物だと感じられた。




おまけ

妖精さんの意思による夕立達の台詞を直訳すると

吹雪改二
『カンプ ナキマデニ タタキノメス』

夕立改二
『イノチゴイダケハ スルナ ジカンノ ムダダ』

島風改
『ヨロコベ ゼツメツ タイムダ』

となります。


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第二十話 月日、流れて

 

 戦艦レ級と吹雪が手を組んでからおよそ二ヶ月の時が経った。

 その間に様々な事があった。

 まず鳳翔さんにレ級の存在がばれて大変驚かれ、次に名もなき艦娘の存在がばれて、こちらは歓迎された。

 吹雪の人間としての意識は完全に形成され、鎮守府の仲間達との絆も深まっている。

 早い段階で開発された、巨大深海棲艦の咆哮を打ち消す音撃弾によって比較的安全に海に出る事ができ、資材集めが捗った。

 幾度か海に出没する怪魚達との戦闘でデータも集まっているし、演習システムのおかげで各艦娘のブランクもなくなっている。

 

 そして、吹雪も……。

 

 

「たっ!」

 

 吹雪改二に掴まれた腕を突き返す事で手放させ、逆にその腕を取って力の流れを利用して投げる。

 海面を転がる吹雪改二を飛び越えて降ってくる夕立改二は素直に回避し、着水の隙を狙って砲撃する。相手も隙を潰すために即座に転がったりして避けるが、数発撃てば一発は当たる。そして当たれば動きは止められる。

 このまま撃ち続けて夕立改二を戦闘不能にしたいところだが――。

 

「んっ!」

 

 周囲が急激に暗くなり、追撃を断念せざるを得なくなる。

 立ち直って向かってくる吹雪改二の後ろ側、島風改二が腕を交差させ、腰を落として必殺の一撃を放つ前動作に入っている。

 その隙を突く事は難しい。三人のコンビネーションは抜群で、誰かが倒れれば誰かが支える。吹雪改二と技術の競い合いをしていれば、復活した夕立改二が襲い掛かってくるのを自ら姿勢を崩して倒れる事で回避し、ついでに吹雪改二の足を引っ張って倒れさせる。即座に顔下へ砲を翳せば、倒れ行く中で砲撃した吹雪改二の攻撃を防ぐ事ができた。

 かなりの衝撃にダメージが入るが、これくらいなら安いもの。

 この二ヶ月みっちり演習漬けになって、司令官・吹雪はすでに改二に到達していた。装備もお供も変わってないが、性能は段違い。耐久力も倍以上。

 

 水柱を上げて飛び上がった島風改二が宙で回転し、背のブースターユニットを用いた高速突撃から放ってくるパンチを吹雪改二と組み合い、場所を入れ替える事で回避する。ついでに敵も吹っ飛ばしてもらって一石二鳥。

 

『キュー』

 

 サァァっと滑って近付いてきた連装砲ちゃん達は、名もなき艦娘から託されたものだ。

 この二ヶ月で、吹雪は新しい技を身に着けた。……正確に言うならば連装砲ちゃんが新しい力を、になるのだが、使用できるのが吹雪のみなので吹雪の技と言って差し支えはないだろう。

 大中小とくっついただけの連装砲ちゃんを持ち上げ、体の大きな連ちゃんを支えて、大砲さながらに突き出せば、これで準備は完了。

 

「はっ!」

『キュ~』

 

 腰を落とし、衝撃に備えて連装砲ちゃん達に意思による指令を下せば、先端の砲ちゃんがちょこんと突き出した両手の先にエネルギーが集まり、光球となって膨らんでいく。

 

『……』

『…………』

『……』

 

 ちょうど目の前には三人が集まっていた。グッドタイミング。

 ザバッと海面を削って足を出し、直後、視界いっぱいに光が溢れた。

 

 一直線に伸びる光の奔流が三人を飲み込み、水平線まで伸びていく。海が割れる程の衝撃と威力。

 これぞ吹雪改二の奥の手、『燃料砲』である。ちなみにこれは素敵な名前を付けようとした吹雪を止めた叢雲の命名である。

 

「はひ……」

 

 くらくらっと視界が明滅し、意識が飛び飛びになって思わず膝をついてしまう。ばらばらに離れた連装砲ちゃん達が心配そうに吹雪を囲んだ。

 この技は、名前の通り燃料を使用して放つ必殺技だ。使えば危険域まで燃料が減ってしまってふらついてしまう。

 その分強力だが、燃料は艦娘にとって生命線だ。尽きればどうなるかは嫌というほど見てきただろう。ゆえにこの技は奥の手。最後の最後にとどめを刺す時か、のっぴきならない事態にでも陥らなければ、使用は許されない。

 

「お疲れ様。三対一でも安定して勝てるようになったわね」

「あ、叢雲ちゃん。ありがと」

 

 港に戻れば、叢雲がタオルと経口補水液を用意して待っていた。

 ふかふかのタオルに顔を埋めて僅かに掻いていた汗を拭い、経口補水液で失った水分と燃料を補給する。

 ぷは、と息を吐き出す、この瞬間の疲労が弾ける感覚がたまらない。

 

「でも、あの三人に勝てるのは毎日戦って癖を知ってるからで、深海神姫(あの子)に勝てるかどうかは……」

「良いのよ、そんな心配しなくても。戦うのはあんたじゃなくて私達なんだから。金剛さんや私、他のみんなも島風と戦ってスピードとパワーに慣れてきてる。あんまり慣れすぎるのも駄目だけど、これほど訓練を重ねれば、そう遅れはとらないでしょう」

「ン級は……」

「でかくて硬いだけの雑魚ね。咆哮さえ音撃弾で潰してしまえば、駆逐艦でも倒せるわ」

 

 それよりも問題は敵の種類ね、と叢雲が言う。

 

「あいつ……レ級は、人間が現れた事によって海が活性化し、十四年前と同じ状態に戻ろうとしているって言ってたわよね」

「うん。……それが、最近報告にのぼってる……」

「そう。他の雑多な深海棲艦の復活よ」

 

 この海には、ほんの二ヶ月前までは深海神姫とレ級、そしてン級しかいなかった。

 だけど時間が経てば経つほど敵の種類が増え、最近では軽空母まで出始めたという。

 このまま資材集めと開発と訓練に明け暮れていれば、気がついた時には世界が深海棲艦で溢れている、なんて事になりかねない。

 

「準備は整って来たわ。それに、悔しけど、レ級とみんなの溝もかなり縮まってきてる……」

「もうそろそろ、って事だね」

「ええ。決戦よ」

 

 カツカツと靴音を鳴らして隣に立った叢雲につられ、吹雪も海の方に体を向けた。

 海はどこまでも穏やかで、青と白に煌めいていて、水平線は未来への無限の可能性を魅せてくれていた。

 

 

「ななちゃん」

 

 かたり。そっと扉を開け、木造の部屋に身を滑り込ませた吹雪は、薄暗い部屋の中を見渡して目当ての少女の姿を探した。

 

「いたいた、今日はそんなところにいるんだね」

『…………』

 

 開けた扉の裏側。壁に背を預け、抱えた膝に顔を埋めて小刻みに肩を跳ねさせる少女は、名もなき艦娘。吹雪はこっそりと『ななちゃん』と呼んでいる。名無し→なな。単純な発想だ。

 トテトテとついてきた連装砲ちゃん達が三匹で協力して扉を閉め、名もなき艦娘……ななちゃんに寄り添った。

 

「甘い物欲しくない? べっこう飴あるよ。鳳翔さんが作ってくれたんだよ」

『…………』

 

 顔を上げた彼女の顔には、やはり空間を乱す程の黒い線がひしめき合い、不気味に蠢いている。吹雪は既に慣れきってしまったが、最初に彼女の顔を見たみんなの反応は一様にして『一歩引き、仰け反る』だった事を思い出して、くすりと笑みを零した。

 そんな吹雪を、ななちゃんは不思議そうに――そういう雰囲気を感じる――見つめる彼女の手を取って、ラップで包まれたべっこう飴を握らせた吹雪は、そのまま立ち上がった。

 

「もう少しで、島風ちゃんに会えるかも」

『…………』

 

 さらり、と長い黒髪が揺れる。ななちゃんは微かに首を傾けて、吹雪を見上げていた。

 レ級に釘を刺されたのに、吹雪が彼女の前で島風の名前を出しているのは、ひとえにちょっと前のミスのためである。

 毎日の演習で連日島風の顔を見ているから、ななちゃんといる時にふと零してしまったのだ。迂闊だった。常ならば大きな反応を示さないななちゃんも、この時ばかりは吹雪の両肩を掴んで、彼女の言う『妹』の名前を何度も発した。

 ――『島風』とは離れた名前。知らない艦娘の名前。

 どう聞いても容姿は島風で、だけど彼女は弟だという誰かの名前を繰り返し伝えてくる。

 二ヶ月の間に深海神姫に関する情報が少しずつ集まってきているのに、こっちの情報はさっぱりだった。

 

「また後でね」

『…………』

「うん、ばいばい」

 

 控え目に手を上げてふりふりと左右に振る少女に、吹雪も手を振り返して、連装砲ちゃん達を伴って部屋を後にした。

 

 

「はーつゆーきちゃんっ」

「……司令官」

 

 白い制服に袖を通し、帽子をきゅっと被ったら、司令官吹雪の再誕だ。

 本棟裏手の砂利道を行き、波止場の縁に座る初雪の下へ駆けて来た吹雪は、釣り竿を手にぼうっと糸を垂らしていた彼女の傍に、跳ねるようにして屈んだ。

 

「釣れてる?」

「オケラ……」

「そっか。隣にいていい?」

「ん。どうぞ」

 

 近くに置かれた高速修復剤の中身は水だけで、どうやら今日は一匹も釣れていないらしい。

 隣に腰を下ろし、縁から足を投げ出して後ろに手をついた吹雪は、はふー、と息を吐いて肩の力を抜いた。そのままだるだると溶けていってしまいそうな脱力っぷりだ。初雪は気にした様子もなく釣り竿の先をぴくぴく動かしている。吹雪のこんな姿は、彼女にとって珍しいものではないのだろう。

 

 空を見上げてぼーっとする吹雪と、海を見つめてぼーっとする初雪。

 毎日この時間はのんびりタイムだ。

 

「ごっ、ご主人様~! どこー!?」

「んぇ、漣ちゃんだ」

 

 だけど休憩時間はこれでおしまいみたいだ。切羽詰った漣の声が本棟の方から聞こえてきて、吹雪は口元を手の甲で拭いながら立ち上がり、おぉい、と大きな声で呼びかけた。

 しばらくして、漣が全力走りで波止場へとやってきた。

 

「ぜぇー、ぜぇー、こ、こんなところにぃ……」

「……大丈夫? どうしたの、漣ちゃん。そんなに慌てて……緊急事態?」

「えっと、えっと、それが、あの子がご主人様を探してて……」

「あの子? ……ななちゃん?」

 

 膝に手を置いて苦しげに息を吐く漣が、そのままの体勢で後ろを指差すのを目で追えば、音もなく歩いてくるななちゃん事名もなき艦娘の姿があった。

 初雪が身を硬くするのを感じて、吹雪は努めて明るい笑顔を浮かべた。

 みんなが彼女を苦手に思っているのは知っているから、せめて少しでもその感情を和らげられるように。

 

『……』

「なぁに、ななちゃん」

 

 吹雪の前まで来た彼女は、何も言わず吹雪を見上げてきた。連装砲ちゃんを模した人形を抱いている。それは確か叢雲の所有物だったはずなのだが……。

 

『……』

「……?」

 

 ふと、風の音が耳に届いて、吹雪は目を細めて怪訝な顔をした。

 今何か……少女が何かを言った気がしたのだ。

 その認識は正しかった。

 

『……もう一度』

「え?」

 

 ぽそぽそとか細い声で、小さく口を開閉させる少女に、吹雪は彼女が名前以外の言葉を話すのに驚きながらも耳を傾けた。

 

『もう一度、ゼロ(最初から)、に』

 

 しんと静まり返った空間に、少女の声だけが響いた。

 

 

「そういう訳で、私達は未来を掴みます」

「ちょ、待て待て! 提督、そりゃどーいう訳だ?」

 

 食堂へ(つど)ったこの鎮守府の艦娘達に、司令官・吹雪はまず最初にそう語った。

 最初、である。なんの説明もなくそんな事を言い出した吹雪に、誰もが困惑していた。叢雲は頭が痛そうにしている。

 

「深海神姫を倒して、そのエネルギーで過去に向かい、運命を変えて私達の未来を掴み取るんです」

「提督、説明不足過ぎない!?」

「もう少し詳しい説明をお願いします」

 

 エネルギーだの過去に戻るだのと急に言われても、いったいなんの事だかさっぱりだ。

 

「……ううー、頭痛がしてキマシタ……」

「たしかに深海神姫には、無尽蔵の力が眠っているのではないかと推測されていますが」

 

 深海神姫の謎の光線が燃料砲と同じく燃料を用いるものなら、あの規模を支える大量の資源があると推察されている。それはきっと、あの船の中にか、もしくはあの小柄な体の中に。

 

 不知火の言葉にうんと頷いた吹雪は、「それを利用して過去に飛ぼう」、と、まるでちょっと難しい任務を言い渡しでもするような調子で言った。

 

『ソノ話ノ出所ハドコダ。夢デ見タトデモ言イ出ス訳デハアルマイ』

 

 艦娘達の中に一人混じった青白い肌の深海棲艦が、とりあえずといった風に言葉を投げかけた。

 

「うん。ななちゃんから話を聞いてね。もしかしたら、深海神姫を倒すだけじゃなくって、その先で何かできるかもしれないなって思って」

「……あの、その『ななちゃん』という方は……?」

 

 鳳翔が手を挙げて疑問を口にすれば、吹雪は間を置かず答えた。

 

「みんなが名もなき艦娘って呼んでる子です」

『オイ』

「ちょっと」

 

 ガタリと音をたててレ級と叢雲が立ち上がった。レ級はしれっと約束を破られている事に、叢雲は本当に突拍子もない事を元にみんなの前でおかしな事を言い出している吹雪に物申すため。

 

「私一人じゃよくわからない事も多いから、瑞鳳さんや大淀さんの意見も聞きたいな。それからみんなで話を纏めていこう?」

「う、うーん、無茶苦茶かも。……でも提督の言う事だし、信じたいかも……」

「今さら何がどうなろうと、暁は動じないわ。……過去に戻れるのが本当なら、またみんなに会いたいし……」

『……ハァ。アノ子ガソレヲ望ンダト言ウノナラ、否ハ無イ』

 

 疲れたように溜め息を吐いたレ級に、吹雪は何かわかる事がある? と聞いた。

 きっと彼女はまだ隠し事をしている。それも、たくさん。

 本来敵同士なのだからそれは当たり前のことなのだけど、二ヶ月間寝食を共にしてきた今なら、レ級はみんなに秘密を教えてくれると信じていた。

 

『アノ子ガ願イヲ叶エル』

「……ななちゃんに、そんな力が?」

 

 願い。

 途方もない話に、しかし吹雪は一欠けらも疑わなかった。

 

『アノ子ハ最初ノ艦娘ダ。オ前達ヲ生ミ出シタノモアノ子ナノダ』

「げぇっ、ここにきて新情報!? あの子が漣達のお母さん!?」

「嘘や冗談じゃないでしょうね」

『嘘ヲ言ッテモ仕方ナイダロ。……ソウ、最初ノ艦娘デアルアノ子ニ願エバ、オ前達ハオ前達ノ望ム"人ト共ニ戦イ続ケル"世界ヲ取リ戻セル』

「し、深海神姫と、戦う事もない……?」

 

 本当に名もなき艦娘にそんな力があるのなら、わざわざ深海神姫を倒し、あるかどうかも、利用できるかどうかもわからないエネルギーを求める必要はない。

 潮の独白に近い言葉は、もしそうならどれほど良いかという気持ちからのものだろう。

 

 ダガ、とレ級が続ける。

 

『オ前達ノ未来ノ為ニ、再ビ人類ヲ地獄ニ引キズリ込ムノカ?』

「……それ、は」

『永劫争イノ無イ安ラカナ眠リニツカセ続ケタ方ガ良イノデハナイノカ?』

 

 運命を変える、と一口で言えば、それはまるで輝かしい未来を取り戻すための正義の戦いのように聞こえるが、実際はどうなのだろう。

 人類が滅びるという形ではあるが、戦争は終わっている。……あの戦いの日々に再び人間を(いざな)うのか。……本当に?

 ……そう問われると、吹雪はすぐには答えられなかった。

 

「惑わされないで。死んでるより、生きて生きて、生き抜いた方がマシに決まってんでしょ」

 

 叢雲が激を飛ばす。

 ……その通りだろう。

 人は愚かな選択により破滅の道を歩んでしまったが、誰も絶滅などしたくなかったはずだ。

 だから、過去に戻り、未来を変える行為は、きっと正義なのだ。その原動力が、自分達の幸せのためなのだとしても。

 

「駄目だと言われてもワタシはやりマス! ワタシがやりたいからやるのデース!」

「引きこもってたいけど……一度くらい、煩わしいの経験してみたい」

「全滅しちゃった仲間達にまた会えるなら、是非はないわ!」

「許されるなら、今度はみんなともっと仲良くなりたいです。だから……」

「わ、私も、みんなに会いたい。提督に会いたいです……!」

 

 口々に艦娘達が自分の想いを話した。過去、共に生きた人達と、また……。そうなるなら……!

 今の司令官は吹雪だ。だからみんな、吹雪に訴えている。吹雪に決断を促している。

 

『……ト、言ッテルガ? 吹雪、貴様ハドウナンダ?』

 

 深海神姫を倒してそのままあてどもない海を行くか、過去に戻り、未来を変えるか。

 そんなの、最初に言った通りだ。

 誰がなんと言おうと吹雪はやる。やらなきゃならない。

 

「……私も、できるなら『みんな』と一緒に戦いたい」

 

 結局吹雪も艦娘なのだ。

 司令官になり、人間となってみんなを導いてきたが、できるなら一人の艦娘として、司令官の下で戦いたかった。その想いは生まれた当初から持っていて、でも、今は心の奥底に封じ込めている欲求。

 

『ソレハ艦娘ラシイ意見ダ。艦娘ハミナ戦イヲ――』

「違う。戦うためじゃない。平和を勝ち取るために。私が生まれた理由を果たすために。だから私……ごめんなさい。深海棲艦(あなたたち)を倒します」

 

 艦娘の生まれた理由……戦う事。それは関係ない。

 吹雪は、きっとこの未来をなくすために生まれたのだ。

 終わってしまった世界を始まらせるために。

 そして過去に戻れば、また戦いの日々が始まるだろう。

 そうすればレ級の仲間をたくさん倒す事になる。ひょっとすれば、過去のレ級だって敵になるかもしれない。

 

『アァ、構ワン構ワン。出来ルナラノ話ダガナ。マ、様子グライハ見テイテヤルサ』

 

 軽い口調でそう言ったレ級は、椅子の背もたれに背を預けると、わざとらしい動作で足を組んで、『話ヲ戻スケド』と前置きした。

 

『願イヲ叶エルニハ対価ガ必要ダ』

「……その内容は?」

『ソウ緊張スルナ。オ前達ノ内誰カ一人ヲ生贄ニ、ナドトハ言ワンサ』

 

 エネルギーが必要なのだ、とレ級は言った。

 それはつまり、やはり深海神姫を倒し、内に秘められたエネルギーをどうやってかして回収しなければならないという事。

 

「それじゃあみんあ、その方法を考えよっか」

 

 吹雪の口調はいっそ清々しいほどに軽かった。

 自分達の進退を決める決戦を控えて、ほとんど気負ってさえいなかった。

 不安げに自分を見つめる艦娘達に、吹雪は穏やかな笑みを浮かべた。

 

「大丈夫。私達なら、やれるよ」

 

 根拠のない励ましの言葉。

 なのに、その言葉はとても力強くて。

 『大丈夫』という一言が、みんなを勇気づけた。

 

 

 

 打倒深海神姫の作戦会議が始まる。

 

 季節は秋。

 10月10日。

 

 決戦の日は、近い。



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第二十一話 決戦! 深海神姫!!

やっつけ。


 

 夕食は豪華だった。

 潮と鳳翔さんが腕によりをかけ、全ての食材を使い切る勢いで料理し、長テーブルの上には所狭しとお皿が並べられている。

 立食形式の夕食時間は半ばを過ぎ、今は各々が雑談に興じていた。大量に用意された食事は熱い物から順次完食されていって、残すはデザートばかりにだった。

 

「満潮~、呑んでマスカ~?」

「飲まないわよ……ええい、鬱陶しいわね……!」

 

 これが最後の夕餉という事もあり、数少ないお酒も出ている。飲める艦娘は限られるが、その極一部には大好評だった。

 コップ片手に満潮に絡む金剛は僅かに顔が赤らんでいるものの、実際にはコップの中身は少量しか減っておらず、少し居心地が悪そうにしていた満潮を気遣って積極的に絡んで行ったのだろう。口では嫌々言っている満潮も肩に腕を回されて満更ではなさそうだ。

 吹雪はまずその二人に近付いて行った。

 

「美味しかったね」

「……」

 

 当たり障りのない言葉に、満潮は眉を寄せて吹雪を見やった。

 一見すると歓迎されてないように見えるが、この表情が満潮のデフォルトだ。

 このご時世、笑えと言われてもそう簡単には笑えないだろう、特に、彼女は。

 

「hi、テイトク~。久々に大満足デシタ!」

 

 反して金剛は楽しげだ。陰りの無い笑顔は吹雪にも元気を与えてくれる。まるで太陽のような存在。

 ムードメーカーでもある彼女には、レ級が艦隊に馴染むのを随分と助けられた。

 

「不安デスカ?」

 

 吹雪の心情を察したのか、満潮の肩に腕を回したまま金剛が問いかけた。差し向けられたカップの中身が揺れる。

 明日が不安か。その問いかけ。

 

「……いえ、私はあまり。みんなはどうなのかなって思って」

「ワタシは見ての通りデース! テイトクと一緒ならinvincible(無敵)ネ、誰にも負けマセン!」

「……何よ。私にも不安かどうかなんて聞きたいの?」

 

 片方の腕で力こぶを作ってみせる金剛に自然な笑みを浮かべた吹雪は、次に満潮の顔を窺った。

 彼女は依然としてつまらなさそうな顔をしている。

 

「……不安は……あるわ」

「やっぱり……そうだよね」

 

 だけど素直に心を打ち明けてくれた満潮に、吹雪は嬉しくなって、同時に悲しくもあった。

 自分が不甲斐ないばかりに不安を抱かせてしまう。どれほど頑張ろうと不安は拭えないものだとわかってはいるのだが、それでもみんなの心からそういった不安や何かを払拭してやりたかった。

 みんなを笑顔にしたい。それが、司令官になってから何度も感じる吹雪の願い。まだ叶うには程遠い。

 

「そんなしけた顔しないでよね。……『大丈夫』、なんでしょ?」

 

 満潮は、手にしていたコップを目の前のテーブルに置くと、吹雪の方へ顔を向けた。

 視線が合えば、気持ちが伝わってくる。気怠げな瞳には確かな信頼の色があった。

 

「あんたを信じるわ。吹雪」

「満潮ちゃん……ありがとう」

「ふん」

 

 朱に染まった顔を背けた満潮は、ぐいっと金剛に引き寄せられ、うりうりと頭を撫でられて猛反抗し始めた。とても恥ずかしそうで、ちらちらと吹雪の様子を窺ってくるのは、きっとこういうのをあまり他人に見られたくないからなのだろう。

 仲が良いな、と微笑ましく思いながら、吹雪は移動を始めた。

 

 後ろの方に立って全体を見ていた大淀は、吹雪が近付くと会釈をした。

 どうして一人でいるのかを聞けば、こんな風にみんなと一緒に食事をするのが……というよりも、その一部となっているのが感慨深くて、ぼうっと眺めていたらしい。

 両手で挟まれたコップは僅かに白く曇って、人肌に温まっていた。

 

「私は、嫌な奴でしたから」

「……? 大淀さんはとっても良い人ですよ?」

「みんながそうならせてくれたんですよ、提督」

 

 ふふ、と笑う大淀の言葉の正確なところは吹雪にはわからない。

 でも今の彼女は、さっき言った通り良い人だと感じている。それが全てて、それだけで良かった。

 これからも、『いいひと』でいさせてくださいね、と彼女は笑った。

 

 

 摩耶と初雪が向かい合ってコップを向け合っていた。

 何してるのかな、と近付いて行けば、俊敏に振り返った摩耶が弾かれたように初雪から距離をとった。

 

「お、おうっ提督。べ、べつになんにもしてないぜ?」

「……そうそう」

 

 妙に慌てている摩耶に、こくこくと同意する初雪。

 二人の手にはコップがあって、それはなんらおかしい事ではないのだけど、どうしてか吹雪は気になってしまった。

 摩耶のコップを見る。半透明の飲み物が半ばくらいまで入っている。

 初雪のコップを見る。底の方に薄く液体が張っていて、縁から側面に一筋、水の流れた跡があった。

 

「…………?」

「ははは。いやー酒が美味いなー提督さまさまだー」

「ん。さまさま」

「……?」

 

 ぽやんとした様子の初雪はいつも通りとも言えるし、そうでないともいえて、吹雪はコップの中身を呷る摩耶を見上げた。

 飲み干して一息ついた彼女は、吹雪が自分を見ているのに気付くと、さっと目を逸らしてそのままどこかへ行ってしまった。

 彼女にも不安があるかどうかを聞きたかったのだが、あの様子では大丈夫そうだ。

 では初雪はどうだろうと見てみれば、少し眠そうに目を擦っていた。リラックスしているようだ。そこに不安は見られない。

 

「眠くなっちゃったら後ろで休憩してね」

「ん、大丈夫」

 

 キリッと眉を上げて見せる初雪に苦笑して、吹雪は別の場所へ移った。

 

『悪イナァ、私マデ頂イチャッテ』

 

 遠慮がちな言葉とは裏腹に、レ級は腰かけた椅子を傾けてふらつかせ、非常に寛いだ姿を見せていた。

 手にはケーキの乗った皿。ご機嫌にフォークを揺らしながら吹雪を見る。

 

「ううん、遠慮しないで? 明日の作戦には、レ級ちゃんの力が必要なんだから」

『アア、任セテオケ。モグモグ』

 

 カットサイズのケーキを一口で平らげたレ級の言葉に、吹雪は頼もしさを覚えた。

 神隠しの霧があれば、海を行かずとも深海神姫の懐に潜り込める。その分消耗せず決戦に挑めるのだから、レ級の役目は重要だ。

 

『…………』

「ななちゃんも、明日はお願いね」

 

 ちょこんと椅子に腰かけて、何をするでもなくぼうっとしている名もなき艦娘にも声をかける。

 彼女は吹雪の声に反応して僅かに身動ぎをすると、少し間を置いてこくりと頷いた。

 重要といえば彼女もそうだ。少しでも未来への可能性を高めるために、今作戦には彼女も同行する。

 だけど、吹雪はできるなら、彼女には自分と一緒にこの地に残って欲しかった。

 

『…………』

 

 ふりふりと手を振る彼女に手を振り返し、次へと移る。

 

 潮と鳳翔さんは時折お皿を重ねてカウンターの奥に持っていって、それ以外は端っこの方に二人で寄って談笑していた。

 潮の言葉にはつかえや淀みがなく、二人の仲が相当深い事が窺える。

 吹雪が寄って行くと、二人は話をやめて、彼女を迎え入れた。

 

「提督。如何なさいましたか」

「食べたいものとか、あ、あるのでしょうか……?」

「ううん。大丈夫だよ、潮ちゃん」

 

 一転して覇気のない声をかけられて、吹雪は残念に思いながら返事をした。……あんまりに残念だったので言葉選びを間違えて、潮に不思議がられてしまった。

 

「あの……お二人は……」

「……?」

 

 不安があるかどうかを問おうとして、どうしてか吹雪は言葉に詰まった。

 理由はわからないが、言い出し辛かったのだ。この二人に面と向かって聞く事ができなかった。

 だけど鳳翔は察してくれた。吹雪が何を聞きたいのか。どうしてそんな困った顔をしているのか。

 

「明日の事、聞きたいのね?」

「あっ……、そ、そうです」

 

 ずばり言い当てられて、吹雪は何度も頷いて肯定した。

 そうすると鳳翔はくすくすと上品に笑って、つられたように潮も笑い始めた。

 

「そう……とても大きな事を言う人だと思っていたけど、提督も言葉に詰まる事があるのですね」

「そ、それは、はい。……でも、そんなに笑わなくたって……」

 

 静かで小さな笑いではあるが、二人の笑みは中々収まらない。

 それが少し不満で、吹雪は控え目に文句を言った。

 

「あら、ごめんなさい。何もおかしい事はなかったですね。ね、潮ちゃん」

「はい。えへへ……提督、頑張りましょうね」

「……! うん! うん、頑張ろうね、潮ちゃん、鳳翔さん!」

 

 自然な笑顔を向けてくれた潮に嬉しくなって、吹雪は大袈裟に頷いた。

 この二人も不安は持っていないみたい。

 どころか、吹雪の不安まで吹き飛ばしてくれた。

 みんながちゃんと自分について来てくれるのかとか、明日の作戦が上手くいくのかとか、たくさんの不安。

 

 一人一人と話していくうちに不安はやる気に変換されていって、叢雲の気合い十分な声を聞いた後は、吹雪はそれ以上に気力に満ちていた。

 

「さ、吹雪。明日に挑む私達に、何か言葉をくれないかしら」

 

 気がつけばみんなが吹雪に注目していた。

 こうやって不安かどうかを聞いて回っていれば、目が集まるのは当然の事。

 だって吹雪は司令官で、人間だ。いつもみんなが気にかけている。

 どこかに行かないよう、消えてしまわないよう、二十四時間いつでも誰かが傍にいる。

 

「私達の未来は、ここにはない」

 

 みんなの前へ出て、帽子や制服の位置や皺を正した吹雪は、意識して硬い声を出した。

 この世界にはもう、未来はない。

 

「勝利を刻むべき水平線は――」

 

 人がいなくなっちゃう未来も、友達がたくさん沈んで行ってしまう未来も、全部嘘。

 私達が向かうのは、いつだって綺麗に輝いてる。

 

「――暁が眠る、素晴らしき物語の果て」

 

 暁の水平線に勝利を刻め。

 それははたして誰の言葉だっただろうか。

 吹雪の……いや、全ての艦娘の胸にその言葉はあって、それはきっと、この世に誕生したその瞬間に聞こえた台詞。

 みんなが渇望している。

 勝利を。

 戦う本能を越えた先にある平和を。

 人の未来を勝ち取る事を。

 

「仲間達を守り抜く事も」

 

 叢雲が頷く。

 

「親しい仲間と一緒に戦う事も」

 

 大井が頷く。

 

「想いを貫き通す事も」

 

 不知火と摩耶が頷く。

 

「みんなと仲良くする事も」

 

 大淀が頷く。

 

「みんなと同じ時間を歩む事も」

 

 初雪が頷く。

 

「一人きりにならないようにする事も」

 

 秋津洲が頷く。

 

「ほんとのご主人様に会う事も」

 

 漣が頷く。

 

「また姉妹と会う事も」

 

 暁と満潮が頷く。

 

「自分にあった事をするのも」

 

 瑞鳳が頷く。

 

「たくさんの人を笑顔にする事も」

 

 鳳翔が頷く。

 

「会いたい人に会うのも、役割を果たすのも」

 

 レ級と名もなき艦娘が頷く。

 

「大丈夫」

 

 できるよ。みんなでなら。

 

「私達で見つけよう? 私達の未来を、私達の力で」

 

 司令官という立場でありながら、その目線は艦娘達とまったく一緒。

 だからこそ、吹雪の言葉はみんなに届いた。

 

「勝利を刻むべき水平線は――」

 

 暁が眠る、素晴らしき物語の果て!

 

 みんなの声が重なった。

 みんなの気持ちが一つになった。

 そう。こんな未来(バッドエンド)はうそっぱち。

 私達には、幸せな未来(ハッピーエンド)が待ってるんだから。

 

 十四年待ったんだから、今度はこっちから動き出す番。

 まずは私達の勝利をもぎ取ろう。

 

 僅かに熱のこもる中で、最後の晩餐は終わった。

 

 

 涼しげな風が吹いた。

 もう夏も終わろうとしている。葉の色を変えた木々が揺れて、葉っぱ同士が擦れて騒めいた。

 空には今にも満ちようとしている月が浮かんでいる。優しい光は遮るものなく地上に降り注いで、吹雪の姿を照らしていた。

 

「……必ず、未来を掴み取ってみせます」

 

 吹雪は、一人で本棟前の広場に出ていた。

 明日、全てが上手くいけば、自分達はこの世界を去る。

 だから最後に、かつてこの地にいた司令官に挨拶をしようと思ったのだ。

 ……よくよく考えてみれば、過去に戻れば生きている頃の司令官と会えるのでは、と思い至ったが、まあ、とりあえず手を合わせておいた。

 

「風邪をひくわよ」

「……叢雲ちゃん」

 

 カツカツと静かな鉄音が近付いてくるのに、吹雪は腰を上げて振り返った。

 予想通りの艦娘がいて、どうやら彼女は吹雪を心配して出てきたみたいだった。

 

「ねぇ、叢雲ちゃん」

「なにかしら」

 

 墓の前に並んで立って、石に目を落として言葉を交わす。

 

「明日の作戦、上手くいくと思う……?」

「ええ、もちろんよ」

「どうして?」

 

 夜の闇の中に出て、弱気の虫が入り込みでもしたのか、吹雪は僅かに瞳を濡らして叢雲に問いかけた。

 答えは明瞭だった。

 

「吹雪」

 

 叢雲が吹雪を呼ぶ。

 顔を合わせ、一歩寄り添って、確かな言葉を届ける。

 

「私達は一つよ」

「……ひとつ」

 

 恐れる事はないわ。

 あなたには私達がいる。

 私達にはあなたがいる。

 

「……頑張ろうね」

「大船に乗った気でいなさい」

 

 おどけて言った叢雲と笑い合って、吹雪は空を見上げた。

 優しい光を放つ月が、世界を見下ろしていた。

 

 

 10月11日。

 

 この日は快晴だった。海は、昨晩から明朝までかけて雨が降ったために少し波が高いが、作戦に影響はない。

 

「もう一度確認するね」

 

 本棟前の広場に集まった面々の前にびしりと背を伸ばして立つ吹雪が言えば、後ろの方で追いかけっこをして遊んでいた連装砲ちゃん達が足元まで駆けて来た。

 

「霧によって移動した先で深海神姫と接触、燃料砲からエネルギーを回収するか、これを倒してエネルギーを回収し、可能なら発生艦を探して、ここに戻ってきて」

 

 それは非常にシンプルな作戦だった。

 もう少し詳しく言えば、『深海神姫が船を出す前に倒す』だったり、対話を試みるだったりあるのだが、今吹雪が纏めたのが全てでもある。

 

「こちらの端末にエネルギーを貯める事ができます。これを守る形で展開していく事になるでしょう」

 

 大淀が持つカンドロイドをみんなに見せる。

 エネルギーを貯める機能というとなんだか凄そうに聞こえるが、要は燃料を回収できるようになっているだけだ。

 この容量を増やすために大量の資材をつぎ込み、端末の改修を繰り返してきた。

 

「私は後方でみんなのサポートに徹するから……必ず、全員で帰って来てね」

「任せてクダサイネ!」

「気を付けるかも!」

 

 しゅびっと親指を立てる金剛に、後ろ向きなのか前向きなのか判断に困る事を言う秋津洲。

 

『準備ハ良イカ?』

「いつでも」

 

 レ級の言葉に満潮が刺々しく返す。みんなが彼女へと集まって行くと、レ級はいつも通りの笑みを浮かべたまま吹雪を見た。投げやりな敬礼に、吹雪も敬礼を返す。

 

『デハ行クゾ』

 

 風が吹く。

 紙や服がはためき、霧が巻き起こった。

 目の前すら見えなくなるほどの濃霧に包まれて、世界から音が消えていく。

 代わりにサァァと水音。

 腰につけていたカンドロイドを取ろうとした吹雪は、不意に足下が不安定にぐらぐら揺れ出すのに「わっ」と声を漏らしてバランスを取った。

 

 霧が晴れていく。

 

「……あれ?」

 

 吹雪を含む全員が大海原の上に立っていた。……そこは、密集する深海棲艦たちのど真ん中だった。

 

「どういう事よ……ちょっと、あんた!」

 

 ン級だけでなく、かつて海に蔓延っていた駆逐イ級や軽巡ツ級、重巡リ級に戦艦ル級と数多の敵がひしめき合い、例外なく艦娘に狙いを定めている。

 まるで用意されていた包囲に連れてこられたような状況に満潮が吠えた。こんな事をするのはレ級以外にいない。彼女しか霧を操れないのだから、彼女が裏切ったのだと考えるのが自然だ。

 

『……マズッタ』

「はぁ!?」

『霧ノ制御ヲ奪ワレテル……』

「奪われる……? 私達の動きが深海神姫に筒抜けだったっていうの!?」

 

 耳をつんざくような雄叫びが四方八方から襲い掛かってくる。

 怨敵を目にした深海棲艦は目を光らせ体を光らせ、徐々に包囲を縮めてきている。

 レ級は何度か腕を振ってから独り言ちた。その言葉の意味を知る前に、叢雲が吹雪を見つける。

 

「吹雪! 私達の中心へ来なさい!」

「う、うん!」

 

 鎮守府で待機し、指示を送るはずだった彼女までここに来てしまっている。

 彼女(人間)を失う訳にはいかない。守ろうとする動きは迅速だった。

 あれよあれよという間に艦娘の壁に囲まれた吹雪は、一瞬指示をするのも忘れて隣に立つレ級と名もなき艦娘を見た。

 レ級は忌々しげに歯を噛み合わせ、獰猛な表情になっている。名もなき艦娘の方はいつも通り黒線に塗り潰された顔のせいで表情がわからず、何を考えているのかもわからなかった。

 

『後ロハ任セロ』

 

 他の艦娘の手によって引き摺られるように輪の外に出されながら、レ級は吹雪に一声かけて反転した。

 疑いの眼差しを刺されながらも手を伸ばし、敵の方――味方(深海棲艦)の方へ指を突き付ける。

 

『消エロ』

 

 ビッと横一線に腕が振られれば、半円の範囲の深海棲艦が上下にわかれてドシャドシャと海に落ちた。

 かつての決戦でレ級が使用した水圧カッターは今も健在だ。これを真正面から打ち破れるのは島風しかいない。

 

『霧ガ私ノモノデナイノヲ忘レテタヨ』

 

 ぽつりと呟いた彼女の言葉は、誰もすぐに理解できなかった。

 あれほど自在に操っていた霧が彼女のものではない?

 それぞれは浮かんだ疑問をすぐさま振り払い、まだまだ大勢いる敵へ向かって攻撃を始めた。

 

『コレハ私ノ落チ度ダナ。コッチハ私ガヤル。オ前達ハ向コウヲ殲滅シロ』

「……信用しきれません。不知火もこちらで戦います」

「付き合うぜ! 提督は後ろに隠れてな!」

 

 一度崩れかけた信用は簡単に回復しない。レ級自身の意思とは関係なく敵と味方にわかれてしまいそうになって、しかしなんとかそうなる前に多少の信頼を回復する事ができた。

 敵は包囲を縮めてくるばかりで砲撃も、艦載機を飛ばしてくる事もない。だから未だに誰にも被害はなく、数の差をものともせず戦えていた。

 唯一ン級だけはこちらの妨害のために咆哮を上げてくる。

 タイミングを合わせ、音撃弾を発射する。特殊な砲弾はン級の目前で爆発し、音と衝撃を撒き散らした。

 それにより声を打ち消し、妨害電波の発生を抑制する。艤装は問題なく使えるままだ。

 だがン級は複数存在する。一体を封じてももう一体が咆哮する。そいつを封じてもまた別の一体が。

 まるで鼬ごっこだ。砲弾には限りがあるため、いずれ終わりはくる。その前に状況を打開しなけば。

 

『ソノ霧ガオ前ダケノモノダト思ッテイタノ?』

 

 不思議な声が空間中に響く。

 姿は見せていないが、間違いない、深海神姫のものだ。

 

「じょ、冗談じゃないわ……! こんな身動きのとれない場所で燃料砲なんて撃たれたら、みんなやられちゃうじゃない!」

「突撃です。穴を開けて、そこから離脱しましょう」

 

 焦る暁に、不知火が冷静に提案する。こっちには無双染みた戦果を上げるレ級がいるものの、この物量はどうしようもなく、屍の山を築き上げるばかりである。

 なんとかして切り抜けなければ、彼方から燃料砲で薙ぎ払われて全員終わりだ。

 

「あんた、あの霧は使えないの!?」

『ンン……制御ガ効カン。……トイウカ、ドウ動カシテタカ忘レタ!』

「呆れた!」

 

 いつも考えなしに操っていたらしく、意識して制御を取り戻そうとするとかなり手間取るらしい。

 いまや霧の力は敵の手にあるとみていい。

 そうすると、密集していても一人ずつ浚われて各個撃破される可能性が高い。そうせずとも捻り潰せる力が相手にはあるから、やってくるかは微妙だが……。

 

「こうなれば……短期決戦ですね」

「幸い……ななちゃんも連れてきてるし、ならさっさと深海神姫を見つけ出してやっつけちゃって、そのエネルギーで即座にななちゃんに願いを叶えてもらいましょ!」

 

 やむを得ない、といった口調で大淀が言えば、瑞鳳が続ける。敵を見つけるには航空機が要だ。だがそれを放つためにはもう少し広くて落ち着ける場所が好ましい。

 

「エネルギー回収……ね」

「一回こっきりなのが辛いかも」

 

 秋津洲の呟きに、試行回数を増やしたいなら奴の船を出させて燃料砲を放たせれば良いのよ、と大井が無茶を言った。

 一応それも作戦を考える段階では勘定に入っているが、実際は危険など(おか)したくないのが本音で、だから船なんか出される前に倒してしまおうと誰もが思っていた。……の、だが、深海神姫がこちらを補足している以上、彼女が油断や慢心をしていない限り、確実に船とも戦う事になるだろう。

 

(あんな危険な攻撃、防げるのはレ級ちゃんか私だけだよね……)

 

 一緒に来ていた連装砲ちゃん達が自分を守るように展開しているのを見ながら、吹雪は一つ覚悟をした。

 あの大きな光に対抗できるのは、同じ技が使える自分だけのはずだ。だからいざとなったら……。

 

「言っておくけど吹雪、燃料砲のぶつけ合いを考えているのならやめておきなさい」

「う!? う、うん!」

 

 図星を突かれて一瞬慌てる。

 アンテナを振り払うようにして背の艤装から砲弾を吐き出した叢雲は、衝撃に揺れる体をそのままに吹雪に鋭い視線を投げつけた。釘を刺しているのだ。決して無茶はしないようにと、そう言っている。

 

「摩耶、大淀、大井、合わせてクダサイ! ……撃ちます! fire!」

「よっしゃ、やるぞ! 撃てぇ!」

「主砲も伊達じゃないのよ!」

「てーっ!」

 

 一点集中。

 並んだ四人の艦娘が同じ位置へ狙いを定めて一斉に砲撃した。

 高く水柱がたち、複数の真っ黒な鉄の残骸が八方に吹き飛んでいく。

 

「道が開いたわ!」

「ほんならば……突撃っしょ!」

『ヨシ。モウ少シ切リ開イテヤル』

 

 ザァッと旋回してみんなの前へ出たレ級が、尻尾の異形の鎌首をもたげ、前へと向けた。

 二度の砲撃。

 三角形にできていた包囲の穴が円状にまで広がった。

 

『―――――――!!』

『――――!!』

『――――――!!!』

 

 怨嗟の声が木霊する。

 なぜ裏切るのか。なぜ敵の味方をするのか。

 まるでそう訴えているように聞こえて、吹雪は身震いした。

 

「司令、不知火に続いてください」

「うん。ななちゃん、行くよ」

『……』

「後ろは任せて」

 

 手を取って引けば、名もなき艦娘も航行を始める。素足が波を割って進むと、その後ろに初雪がぴったり張り付いた。抱えた砲を外へ向け、背後の敵を警戒している。

 

「攻撃隊、発艦!」

「航空部隊、発艦!」

 

 密集した敵を切り抜ければ、即座に鳳翔と瑞鳳が声を合わせて艦載機を放った。空気を裂いて飛んでいく矢が艦載機へ変わり、空へと舞い上がる。

 半分が取って返して敵の方へ、もう半分が深海神姫の捜索に乗り出す。

 霧はレ級を中心に円状に広がり、壁のように漂っている。本来ならそんな場所を飛ばせるのは自殺行為なのだが、今は急を要する。深海神姫に一方的に攻撃されるのだけはなんとしてでも避けなければならない。

 無理を承知で矢を放った二人に、艦載機乗りの妖精さん達がコックピットの中で敬礼をした。

 

 

 敵の追撃は振り切れない。

 ここにきて敵も攻撃してくるようになり、応戦せざるをえなくなったからだ。

 霧は艦隊の異動に合わせて蠢き、どうしてもある程度の距離から先は確認できず、そこから飛んでくる砲弾や艦載機は驚異の一言に尽きた。

 だがこちらは精鋭揃いだ。パワーバランスを破壊するレ級の存在もある。いくら敵機が空を埋め尽くそうと(ことごと)く撃墜し、迫りくる敵もレ級と協力すれば物の数ではなかった。

 負傷者なし。被弾なし。今のところかなり好調だ。飛び交う砲弾に神経は削られるが、体力にもまだまだ余裕がある。

 

「レ級ちゃん、空を! 金剛さん、二時の方向!」

『オウ』

「了解デス!」

 

 司令官である吹雪が指示を飛ばせば、そのたびに士気が上がり、攻撃も防御もキレが増してきている。集中力は極限まで高まっていると感じられた。

 

「! 見えた!」

 

 耳に手を当てていた瑞鳳が声を上げる。

 妖精暗号通信より、深海神姫及び船を発見せり。

 この報を受け、艦隊は進路を変更。深海神姫の待つ船へ向かった。

 こちらから出向き、一気に叩く。それですべてを終わらせる。

 作戦とも言えない作戦だが、誰もが成功を確信していた。みんな、それぞれの力を信じていたからだ。

 

 黒煙を上げる真っ黒な船が霧の向こうに見えてくれば、濃霧が退いて道が開ける。

 深海棲艦どもとの距離も随分あいて、これならしばらくは船に集中できそうだった。

 残骸の集合体である船に備えられた四基の単装砲が火を噴き、傍の海面が弾けた。

 警告か、それとも当てようとして当たらなかったか……。

 あの船さえ深海神姫の一部ならば、彼女の命中率の低さがそのまま表れてしまっているとも考えられる。

 

「どの道砲撃を意識しなくて良いってのは楽よね」

 

 誰かが呟けば、それで気が楽になるものもいた。

 だからといって完全に脱力できるわけではない。敵には燃料砲という奥の手がある。しかもそれは、吹雪が使うものとは段違いの威力なのだ。

 前回はその一撃により暁の鎮守府が半分蒸発している。

 

「みんな、行きますよ!」

 

 激励の言葉を口にした吹雪は、ゴオ、と耳元で唸った風に目を細め……次には見開いた。

 そこは、船の上だったのだ。

 

『ヨウコソ、私ノ船ヘ』

 

 甲板の上に腰かけていた深海神姫が立ち上がり、吹雪を歓迎した。

 

「……霧」

 

 先程のは霧による移動……。

 少し遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてきて、吹雪は返事をしたい気持ちをぐっと押さえながらも、足下にいる連装砲ちゃんを確認し、そして自分の連装砲を抱えた。

 

『愚カナ艦娘共メ。何ヲシヨウト、人間デアル貴様ヲ殺セバ全テ終ワリダ』

「……!」

 

 やはり狙われてしまったか。

 汗が浮かぶのを感じつつも、吹雪は腰を落とし、いつでも対応できるように構えた。

 

『コレデ、終ワリダ。終ワリニシテヤル……』

 

 手に汗が滲む。

 吹雪は、たった一人でこの怪物と戦わなければならないようだった。



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第二十二話 繋がる絆、艦娘の力

 

 船の上は広く、デッキ上は歪な鉄塊が詰め込まれていて一見足場が不安定のようだったが、吹雪は自分がバランスを崩さずにいられた事を不思議に思って少し動いてみて、見た目とは裏腹にかなり平坦な感覚が足に返ってくるのを確認した。

 連装砲ちゃん達が動くのにも問題はない。船はただ、不気味な黒い光を陽炎のように揺らめかせているだけだった。

 

『……随分ト余裕ネ』

 

 深海神姫が訝しげに吹雪を睨みつける。

 それもそのはず、この強大な敵を前にして吹雪が身構えたのは、霧によってこの場へ強制移動させられた最初だけ……しかも今の様子を見るに、それも単に転ばないように気を付けていただけのようで、吹雪は平時となんら変わりない自然体を保っていた。

 

『ナンダ、ソノ顔ハ』

「……変、かな?」

 

 あまつさえ吹雪は笑っていたのだ。

 一対一で敵う相手ではないのは正しく理解しているし、自分が絶体絶命の状況に置かれているのも理解している。

 だけどそれに勝る喜びが、吹雪の中にはあった。

 

「手間が省けたな、って思って」

『ナンダト……!?』

 

 手間。

 深海神姫には吹雪の考えが読めなかった。今この場所で笑いながら「手間が省けた」などと言うのは、まさか本気で自分を倒せると思っているからなのか……?

 その疑問は半分当たっていて、半分外れていた。

 

「あなたは私を……人間を狙っていたから、こういう事になるんじゃないかなって考えてたんだ。それで私、あなたとお話したいって思ってたの」

『話、ダト? ……私ニオ前ト話ス事ナド何モ無イ』

「私にはあるよ」

 

 一歩、吹雪が前に出た。

 恐れのない足取りに深海神姫が顔を歪める。どうしてそんな態度でいられるのかが心底理解できないのだろう。

 

「あなたって、元は島風ちゃんだよね?」

『……知ラナイネ』

 

 平然と深海棲艦に元となった艦娘の話題を切り出す吹雪に、深海神姫は面食らったように目を開いて、しかしすぐに逸らした。島風の記憶は、おそらく彼女の中にある。その反応からそう予測した吹雪は、今度はがらりと言葉を変えた。

 

「私ね、みんなと一緒に十四年前に行こうと思ってるんだ」

『ジュウ……? 何ヲ、言ッテイル。……正気ナノカ?』

「うん。大きなエネルギーがあれば、それができる艦娘がいるんだ」

 

 フ、と深海神姫は嘲るように笑った。

 そんな馬鹿な話があるか。きっと。こいつは既に正気を失っているのだ。

 

『誰ガ言イ出シタカ知ラナイケド、ソンナノ貴女達ヲ騙ス為ノ嘘ニ決マッテルンジャナイノ?』

「嘘じゃないよ」

 

 憐れな艦娘に真実だろう事を告げてやれば、事もなげに否定された。

 ……根拠のない強がりを。

 

『何故ソウ言イ切レルノ。マサカ、モウ成功サセデモシタノ?』

 

 それはないはずだ。

 さっき吹雪が言ったように、大きなエネルギー……燃料がなければ、過去には跳べない。

 ならばそれは実証されておらず、ただの夢物語に過ぎない。

 

「あなたを倒せばエネルギーが得られるって、みんなここに戦いに来たんだけど」

 

 意図的にか無意識にか、吹雪はまた話の方向を変えた。

 

『ナラ戦エバ良イ。ソレデ終ワリヨ。オ前ガ消エテ、終ワリ』

「島風ちゃんも一緒に行かない? ……そう聞きたかった」

『…………』

 

 戦う。

 単純明快な言葉を聞いて余裕を取り戻した深海神姫は、しかし吹雪の不可解な言葉に眉を寄せ、口を噤んだ。

 知らないと言ったのに自分を島風と呼び、敵同士なのに誘いをかけてくるなんて、本気で理解できない。

 何を考えているのだろう……。思考を読もうと目を覗き込んでも、吹雪の瞳は緑色に輝いているばかりで、ただ、綺麗だという印象しか抱けなかった。

 曇りも穢れもない目。

 逆に言えば、焦りや不安など含まれていない、一種狂気的な目。

 

「……?」

 

 空が暗くなった。

 誰かが夜を呼んだのだ。

 不思議なほど遠くに聞こえる異形の咆哮と艦娘達の雄叫び。

 耳を傾けた深海神姫は、愉悦に歪む口を隠しもせず、吹雪を見た。

 ここでもたもたと会話をしていれば、その内に仲間は皆沈むだろう。

 さあ、焦れ。恐れろ。醜態を晒すが良い。

 

「燃料砲を優しく撃ってくれたら、それでエネルギー問題は解決できるんだけど、どうかな」

『ッ!?』

 

 吹雪は、動じていなかった。

 声は聞こえてきていたはずだ。今が戦いの最中にあるとわかっているはずだ。仲間が危険に晒されていると、理解しているはず……。

 そのはずなのに、吹雪は穏やかな笑みを浮かべたまま、普段と変わりのない調子で深海神姫に話しかけてきた。

 

 悍ましい。

 

 昏い水底を覗き込んでしまったかのような不穏なものが胸の内に生まれて、無意識に僅かに仰け反っていた。

 こんな奴を生かしておけば、この世は理解できない無茶苦茶なものになってしまうだろう。

 そうでなくても人間である彼女が存在する限り、海は眠れないし戦争はなくならない。

 そうだ、殺そう。

 話す必要などない。今ここで倒せば、全てが終わるのだ。

 

「だから――」

 

 パァン、と肉を打つ音がして吹雪が吹き飛んだ。

 ウェルデッキの段差に弾かれて宙に舞った小柄な体は、少々の滞空時間を経て床に落ちた。

 瞬間移動とも思える速度で動いた深海神姫が彼女を殴り飛ばしたのだ。

 左腕を戻した深海神姫は、うつ伏せに倒れる吹雪を見下ろした。

 不意の一撃に、彼女はまったく対応できていなかった。

 艤装からは煙が上がり始め、服も僅かに損傷している。相当なダメージに、もしかすれば昏倒してしまったのかもしれない。

 

『キュー!』

『! ……フン』

 

 三匹の連装砲ちゃんがそれぞれ砲撃してくるのを、生体フィールドを可視化するほどに高めて防いだ深海神姫は、矮小な装備達に目を移し、だけど何もしなかった。

 取るに足らない相手だと判断した。攻撃するまでもない、放っておけば良い、と。

 

「う……いたた」

『!』

 

 ぐぐ、と吹雪が身を起こした。

 加減なしの攻撃を受けて、まだ立ち上がるか。

 連装砲ちゃんに囲まれて膝をついた吹雪が自身を見上げるのを観察しながら、深海神姫はその打たれ強さに感心しようとして――息を呑んだ。

 吹雪は、まだ笑っていた。

 目の端に涙が滲んでいたり、服の端やズボンに切れ込みが入るくらいのダメージを受けているのに、それでもまだ笑っていた。

 なんだ、こいつは……。

 

『貴様、何故マダ笑ッテイル……!』

「えへへ……連装砲ちゃん達を攻撃しないのって、やっぱりあなたが島風ちゃんだから、だよね」

『……違ウ。ソンナ奴ハ知ラナイ』

「人をみんななくしちゃったのは……朝潮って子がいなくなっちゃったから?」

『黙レ!』

 

 神速の踏み込みと打撃。

 くの字に折れた吹雪が段差に叩きつけられ、艤装は完全に壊れた。

 布で吊り下げられていた連装砲も千切れて落ち、そして彼女も崩れ落ちた。

 

『フーッ、フーッ』

 

 掘り起こされたくない記憶に触れられたせいか、深海神姫は激しい疲労と眩暈に襲われ、目元を抑えた。

 酷い頭痛と吐き気がする。胸を掻き毟りたくなるような喪失感がある。

 常に身を苛む怒りや憎しみがこの時ばかりはなりを潜め、天を仰いで泣きたくなる衝動が代わりに襲い掛かってきた。

 それらを無理矢理に押さえつけるのには少々の時間を要し、その間に吹雪が動いていた。

 

「けほっ……やるしか、ないかな」

 

 そのまま気絶でもしてくれればいいものを、頑丈なのか打ち所が良かったのか、吹雪は再び立ち上がった。ふらついていたのは一秒かからないくらいで、目をつぶって息を吸い、合わせて胸元に手を這わせた彼女は、そこに自身の武器が無いと知るや、腰を落としてどっしりと構えた。体の中心を見せない半身の構え。体で覚えた技術の発露。もうどこもぶれていない。多少の攻撃では突き崩せそうにない。

 

(…………。)

 

 深海神姫は、表に出そうになった動揺をなんとか内側に抑え込んだ。

 ……知っている。

 そういう風に構える『吹雪』を、彼女は知っていた。

 十四年前の記憶だ。まだ世界が海色でなかった頃の。

 ……この郷愁に似た感情は邪魔だ。

 今さらそんなものを抱いたところで意味はない。

 全ては終わった事だ。

 そして今、再び世界は終わりを告げる。

 この吹雪を、人間を倒す事で、全て。

 

 深海神姫は緩やかに頭を振ると、長い髪に腕を通して後ろにやって、それから、明確な構えをとった。

 

『サァ、ヤロウカ』

「うん。残念だけど」

 

 まずは深海神姫から仕掛けた。

 床を蹴りつけ、こちらに腕を伸ばしてくる吹雪へと拳を振るう。

 それを捌いた彼女は、僅かに目を細めて深海神姫の腕を取り――力技で跳ね返さ柄て後退った。

 互いに引かない。互いに譲らない。

 片やかつて世界最強の艦娘だった深海棲艦。片や自らを人間と名乗るただの艦娘。

 勝敗は明らかなのに、勝負など見えているのに、二人は全力でぶつかりあった。

 

 長い戦いの幕開けだった。

 

 

 戦いは一方的、とは言わないまでも、力の上下ははっきりしていて、始終深海神姫が優勢だった。

 演習で戦った島風改二と同等かそれ以上のスピードは、いくら戦い慣れているからといってついて行ける訳もなく、されど吹雪は未だ負けてはいなかった。

 

「しっ!」

 

 鋭い呼気と共に、右手で支えた左腕で拳を捌く。ジッと摩擦音がして、少しダメージが入った。

 風を裂くほどの拳の乱打。青白い色が風景に混じって何重にも見え、とてもではないが目では追えない。

 だから吹雪は、勘と感覚と気合で立ち向かっていた。

 三度に一度は攻撃を受けてしまう。だけど極限まで研ぎ澄ませた神経の下で完成した動きは、大きなダメージを決して与えられる事なく戦闘を持続する事を可能としていた。

 打ち合った深海神姫の腕にシールドが可視化される。何度も何度も瞬くように彼女の防壁が姿を見せる。

 たとえこの猛攻を掻い潜って打撃を見舞ったところで、今も見た不思議な防御に守られた彼女にダメージを与える事はできないだろう。

 

『ズアッ!』

「うぐ!」

 

 すくい上げるような膝蹴りを腹に受け――直前に両掌で押し留めるようにしてガードした吹雪は、勢いに負けて放り投げられてしまった。

 その隙を潰すように連装砲ちゃん達が砲撃する。顔を狙って容赦なくなされた攻撃は、しかし光の膜によって防がれる。

 その一瞬で充分だった。

 空中で態勢を整えた吹雪が着地し、深海神姫の懐に潜り込む。投げようと伸ばした手を打ち返され、再び防戦一方となる。その繰り返し。

 

『シツコイッ!』

「ん!」

 

 焦れた彼女の単調な、されどそれゆえに凄まじい速度の貫手を上へ捌き、腰を落とす流れで肘を打ち出す。腹に突き立つはずだった肘打ちはやはり防壁に阻まれて届かない。

 肩を押されて跳ね返され、追撃に腹を打たれて吹き飛ばされる。

 数度床を跳ね、そのさなかに身を捻って体勢を整え、足と手で着地して勢いを殺す。

 艤装の一部が爆ぜて身が揺れた。立ち上る黒煙に頬が煤汚れになって、制服は至るところがボロボロだ。帽子はとっくにどこかへ落ちて行ってしまった。

 生体フィールドは正しく活動し、未だ体には傷はない。だけど、このまま戦いが続けば生体フィールドの許容量を超え、肉体に影響が出始めるだろう。そうなれば中破や大破どころではない。吹雪はまさしく、人間のように海以外で死ぬ事になる。

 

『……ドウシテ』

「……、ぅ、く」

『ドウシテ立チ上ガルノ……?』

 

 何度転ばされても、どれだけダメージが積もっても、吹雪が折れる気配はない。

 心が折れなければ勝機はあるとでも言うのか。力の差は歴然なのに。

 

「……みんな、期待してるから」

 

 ふらふらと立ち上がり、揺れる体に一歩引いてなんとかバランスを保つ彼女は、傷だらけでいながら明瞭な声で答えた。

 期待。

 その一身に、今世界に生きる全ての艦娘……彼女の鎮守府に集った艦娘達の想いが乗っているから……だから、立ち上がるのか。

 だから、そんな顔をしていられるのか。

 足下から立ち上る黒い光に侵食でもされているかのように、吹雪は冷や汗を流し続けている。疲労もダメージも蓄積し、構えを取るのがやっとだ。

 だが、深海神姫には見えていた。……彼女を殴り飛ばしたとして、きっとまた、薄く笑いながら立ち上がるだろう。

 仲間がいる限り。その願いを叶えるために。

 だって彼女は人間だから。

 人間には無限の可能性が眠っているから。

 

『……ナラバ』

 

 かつては、可能性の中で最も悪い道筋を自ら選んだ人間達を、この手で絶滅させた。

 ならば次は、たった一人の人間を残し、艦娘を全滅させるのみ。

 

「――っ!」

 

 ドッと肉を打つ音が重く響く。

 もう何度目か、段差に背をぶつけて悲鳴を上げた吹雪は、息を吸う事もままならないまま地に伏した。

 痙攣する指先が数秒の内に力を取り戻し、床を擦って握り込まれる。

 彼女は、立つだろう。

 だから、その前に。

 

『ソコデ見テイルガ良イ。オ前ノ仲間達ガ沈ンデユク様ヲ』

「!? な……に、を」

『オ前ノ相手ハ飽キタト、ソウ言ッタノヨ』

 

 船首に跳んだ深海神姫が振り返って言う。

 何かを言おううとした吹雪は、立てた膝を滑らせて倒れた。……だいぶんダメージが蓄積していたのだろう。むしろどうしてまだ動けるのかが不思議なくらいだ。

 

『フフ……』

 

 船から海を見下ろせば、まるでビルの上からのような視界が広がる。

 海上では深海棲艦と艦娘達が入り乱れて戦っていた。吹雪とやり合っている間に深海神姫は霧を操り、各個分断したのだ。そのため地力に乏しい駆逐艦などは満身創痍で、窮地に立たされている。

 ン級と名付けられた怪魚の咆哮を防ぐ手立てもなくなったのだろう、艤装はもはや鈍器の役割しか持たず、今、駆逐艦が一人イ級に腕を食われた。

 ……が、そいつは自ら転がる事によって無理矢理イ級を離し、蹴りつけて離脱した。腕も無事だ。

 危機を脱して一息ついているところに悪いけど、と、深海神姫は思ってもいない事を呟きながら腕を伸ばした。

 船が呼応する。

 海に蔓延る遺志の集合体が軋み、嘆きの叫びを上げる。

 船首付近が蠢き、開き、内部を露わにする。捻出されたエネルギーが先端へと集まり、巨大な光球を作り上げていく。

 

『散レ、艦娘ドモ』

 

 サッと横に振った腕の動きに合わせ、燃料砲が放たれた。

 紫の光の奔流が海を薙ぎ払い、底を露出させる。海底すら削りゆく膨大な力に、艦娘も、深海棲艦もなすすべなく消し飛んでいく。

 

『……チッ』

 

 ……いや。

 消し飛んだのはレ級以外の深海棲艦のみだ。

 艦娘はその身を守る生体フィールドのおかげで五体満足。しかし遮断しきれないダメージは肉体にまで及び、黒い海に紅色が混じり始めていた。

 

『ハハハ』

 

 もう一振り。

 二度目の燃料砲で全員倒れた。

 艦種に関係なく吹き飛び、流れる海に呑み込まれ、それでも浮き上がってくる。

 だがもう、足が沈みかけているようなサマでは何もできまい。

 そして深海棲艦ならば幾らでもよみがえらせる事ができる。

 少し遺志を集めれば、海がざわめき、波と共に浮上する黒い影。

 それが艦娘達を取り囲んだ。

 状況は絶望的だった。

 

 振り返れば、吹雪が立ち上がっているところだった。

 伸びきらない膝を震わせ、顔を上げた彼女が構えを取る。

 

「じゃ……続き、やろっか」

『……!?』

 

 今度こそ理解の範疇を越えた。

 何を……今何が起こっているのかわからないのか!?

 

『オ前、悲鳴ガ聞コエナカッタノ!? 仲間達ノ声ガ届カナカッタトデモ言ウノ!?』

「届いたよ。……早く終わらせなきゃね」

『不可能ダ! ……無理ダト、ワカッテルデショウ?』

「無理じゃないよ」

『ッ! ダカラ! 根拠ノ無イ強ガリヲ言ウノハヤメロ! 狂ッテルノカ、オ前ハ!?』

 

 光と、熱と、轟音と、暴風。

 あれほどの攻撃を二度仲間に当ててなお、調子を崩さない吹雪に苛立つ。

 ……この感情。これは恐怖だ。理解できない相手に対する恐怖。

 

『終ワリ、ナノヨ……? 皆、沈ムノヨ……? ナンデ笑エルノ……オ前ハ、彼女達ノ仲間デハナカッタノ?』

「仲間、だよ。……だから、こうして笑っていられるんだよ」

『意味ガ解ラナイ。……意味ガ、解ラナイヨ……!』

「じゃあ、見てみて。みんな、こんなのじゃ折れないから。……みんな、また立ち上がってるから」

 

 私みたいに。

 

『ッ!』

 

 そう言われて、深海神姫はありもしないはずの事態を幻視した。

 どれ程の攻撃を受けようが、どれ程の絶望を叩きつけようが、何度でも立ち上がる目の前の人間と、その仲間の艦娘達の姿が重なった。

 

『マ、マサカ……』

 

 そんなはずはない。

 奴らはみなボロボロだ。

 レ級ですら大破は免れていない。

 なのに、なのに立ち上がるなど……!

 

 

「何、やってんの! 立ちなさいっ!!」

 

 自身も体中傷だらけで、半ばから折れたアンテナを手に腕を振り払い、叢雲が叫ぶ。

 呼応して大淀が立ち上がった。スカートも制服も布切れと化し、熱で赤くなった肌が露わになっている。

 

「ここで終わりだなんてないでしょう!」

 

 口の端に垂れる血が震えた。

 その声を始めに、深海棲艦が蠢く海の上で、輝く艦娘達が次々と立ち上がっていく。

 

「リ、バァァァス! こっから本気デース!」

 

 巨大な艤装は根元を残して粉々に砕けた。

 それでも彼女には培ってきた技術がある。艤装がなくても戦える。

 

「なめるなっ!」

 

 すぐ傍で満潮が立ち上がり、片方が解けた長い髪を振り乱して叫んだ。

 

「――ぬるいのよ!」

 

 どれだけの苦境も、どれだけの苦痛も、もはやこの体には無意味。

 十四年前、愛する姉妹を、仲間を失ってから、彼女は空っぽになっていた。

 だけど、今は違う。外はぐちゃぐちゃになってしまったけれど、今は、もう、倒れたりしない。

 

「も、もう……もう怒ったわ!」

 

 魚雷発射管は全てがひしゃげ、折れ曲がり、焼けて溶けた。

 もはや魚雷の一発も撃てはしないだろうに、大井は奮起した。

 全ては過去を取り戻すため。大好きな人とまた会うために。

 

 三人が一つ処に集う。お互い背を預け、周囲の深海棲艦に相対する。

 

「ワタシ達の力、見せてやりマス!!」

 

 金剛が発破をかければ、二人が強く頷いた。

 そして彼女達は、一丸となって滑り出した。

 

 

「き、たぁーっ!」

 

 ザバァ、と波が打ち上がる。

 思い切り両腕を振り上げた漣は、二の腕が千切れてしまいそうな痛みも、お腹に溜まった疲れも全てを宇宙へ投げ飛ばし、元気いっぱいに声を上げる。

 

「徹底的にやっちまうのね!」

 

 ぱっと開かれた瞳は力強い光に輝いていた。

 闘志、未だ衰えず。小さくても艦娘。彼女は戦士、人類の守護者なのだ。

 

「不知火を怒らせたわね……!」

 

 ゆらりと立ち上がった不知火は、乱暴に口元を拭うとギラリと周囲を睨みつけた。

 それだけで何隻も沈めてしまえそうな視線に異形がたじろぐ。

 恐れをなした怪魚が咆哮を上げるも、それは空気を震わせるだけに終わった。

 彼女達にもはや無事な艤装はない。ゆえに、艤装を封じる咆哮など無意味。

 満足そうに、不知火は口の端を吊り上げた。

 

「ふっざけるなぁ!」

 

 海面を叩いて跳ね起きた摩耶が自身に喝を入れる。

 腕を振り回し、足裏で海面を擦って構えた彼女にも、負けの二文字は見えてない。

 傍にある小さく力強い生命を守るのは自分の役目。二人が立って、敵と向き合っているのに、自分だけ倒れているだなんてありえない。

 

「摩耶様の本気は、まだまだこんなもんじゃないぜ!」

 

 怒りに染まった表情は次第に笑みに塗り替わり、まるで彼女達こそ優勢かのようだった。

 

「ここからが、漣達の本気なのです!」

 

 両腕を広げた漣は、そのまま腕を二つとも前へ回し、ヒーローのように構えた。

 三人が背中合わせになる。合わさった闘志が燃え盛る。

 全員の視線は、深海棲艦の僅かにいない場所へ向かった。

 

 

「大丈夫ね」

 

 火傷を負った肩を押さえ、熱い吐息を漏らして、鳳翔は皆に呼びかけた。

 ぶら下げた手に持つ弓は弦が切れ、矢も弓も使い物にならない。

 頼れる妖精達はみな海に沈んだ。空母である彼女には、もう何もできないはずだ。

 ……いいや、彼女にだってできる事はまだある。

 戦場に張る、凛としていて、優しい声に、二人が立ち上がった。

 

「潮、まだ戦えます!」

 

 額までずり落ちた鉢巻を締め直し、融解した砲から出てきた妖精を肩に乗せ、潮は涙に濡れた目で鳳翔を見つめた。

 彼女の声が意識を繋ぎとめてくれた。彼女の声が、勇気をくれた。

 まだ、大丈夫。

 そう、私達はまだやれる。

 

「そう簡単にやられないんだから!」

 

 閉じた左目に体を傾けながらも、瑞鳳が叫ぶ。

 戦う手段がなくたって、彼女は戦う。そのために生まれた艦娘だから。

 

「やる時は、やるのです!」

 

 キッと前方を睨みつけた鳳翔の下に二人が集まり、前を向く。

 決して倒れたりなどしない。深海棲艦には屈しない。

 彼女達は、まだ沈んでなどいないのだから。

 

 

「くぅっ……!」

 

 いくら訓練を積んだからって、いくら装備を整えたからって、やはり秋津洲には、この戦いは荷が勝ちすぎている。

 艶やかな服は目を覆う様相を呈し、二式大艇ちゃんも真っ二つ。

 口から煙が出ているし、腕も足も背中もくたくただ。

 ――でも。

 

「このまま終わりなんてまっぴらかも……!」

 

 けれど彼女は立ち上がる。

 これは意地だ。そして、約束だ。

 人が自分に託してくれた願いは力に、皆の信頼が立ち上がる気力に、未来にある過去への希望が、戦うための活力になる。

 物語の果てを見る。それがみんなとの約束。

 勝手なリタイアは、自分にだって許さない。

 

「私だって、やろうと思えば……!」

 

 頬にかかり、口の端についた髪を指に引っ掛けて退けた初雪は、いつもの半目をもっと細めて、ぐっと口を引き結んだ。

 体中に力を張って、気力頼りに背を伸ばす。

 これはかつての大戦と同じ。

 最終決戦と同じ状況。

 過去のみんなは破れてしまった。

 初雪はその戦いを見る事すらできず、一方的に負けを告げられた。

 だけど今は、初雪自身が戦いの舞台にいる。

 ここは蚊帳の外じゃない。こここそ、彼女の戦場。

 ならばここで踏ん張らないでいつ踏ん張るというのだ。

 今勝たなければ、勝利は永遠にやってこない。

 

「へっちゃらだし!」

 

 余裕の笑みを浮かべて、その実余裕なんてまったくなくて。

 レディ。その言葉にいつも縋って生きてきた。

 そうあれば、絶望に呑み込まれずにいられるだろうと思っていたから。

 でもそれは間違いだった。暁はいつだって絶望のただなかにいた。

 倒れなかったのは、みんなが自分をレディだと認めてくれていたから。

 口でなんと言おうと、正気を保つ彼女を、皆が心の底から認めてくれていた。

 一国の主じゃあないけれど、一鎮守府のレディーであるなら、ここで沈むも倒れるもありえない。

 なんたって暁は立派なレディー。一人前は、弱音を吐かない。

 

「運命になんか負けたくないかもー!」

 

 うわんわうんと彼方まで響く大声に、初雪と暁が秋津洲の下へ集う。

 負けの運命も滅びの運命も、そんなの絶対認めない。

 このまま終わり。それが運命なら、私達がぶっ壊してやる。

 

 

『私ノ役割(ロール)ハ、調律……』

 

 戦争を永遠のものとする為に、強くなりすぎた艦娘を倒し、行き過ぎた進化をした深海棲艦を倒す。

 十四年前の世界では、その役割を果たせなかった。

 異常な強さを持つ島風に負け、そして最後は勝った。

 今ならば言える。その勝利は、敗北だった。

 あそこで負けるべきは島風ではなく、レ級だったのだ。

 役割に固執し、されど自主性はなく、ただ海の遺志のままに動いていた。

 それが招いた人類の終焉は、言わば必然。

 覆されるというのなら、覆させるのがレ級の役目だ。

 

『コンナ世界ニ用ハ無イ。サッサト未来ヲ切リ開ク』

 

 そして再び、過去で役割を果たそう。

 永遠の戦争を続けさせるために。

 今度は全力でやる。

 それで負けたのなら、もう良い。

 負けるのなら、きっとそれが一番なのだから。

 

 

 艦娘が集っていく。

 深海棲艦の合間を縫い、パワーがある者は吹き飛ばし……いったいどこから、あれほどの力が。

 なぜただの艦娘に、あれほどの力が。

 数で押し潰される事もなく、砲弾を打ち払い、避け、防ぎ、突き進む。

 あり得ない。

 常識で考えてみろ。

 深海棲艦の数は百を超え、対する艦娘の数は二十もいない。

 なのに彼女達は誰一人沈んでいない。誰一人、行動不能に陥っていない。

 そして誰一人、勝利を諦めていない。

 

「遅かったじゃないの」

 

 船を前にして立つ叢雲の後ろへ、吹雪の鎮守府の艦娘が全員揃った。

 誰もが口を噤み、叢雲を見ている。

 

「さ、みんな。やるわよ」

 

 それは気合いの言葉。

 力なんて入ってないけど、声も掠れて頼りないけど、みんなは笑って頷いて、叢雲の左右へずらっと並んだ。

 パシ、パシと手を繋ぎ、手を取り合って一繋ぎになる。

 そうすればほら、彼女達に力が滾り、全てを凌駕する能力が宿った。

 

『……ナンダ……何ガ起コッテイルノ……アノ、(チカラ)ハ……』

「知ってるよね。近代化改修。みんな、今、繋がり合って、くっつきあって、みんなの力をみんなに与えてるんだよ」

 

 眼下で起こる不可思議な現象に慄く深海神姫へ、吹雪が歩み寄りながら言った。

 近代化改修。それは一人の艦娘に、複数の艦娘を吸収させる事で多少の能力アップを図る妖精の技術。

 専門の妖精はここにはいない。だけど妖精は、ある程度他の妖精の仕事もこなせる。

 ここには連装砲や電探、魚雷、それぞれたくさんの妖精がいて、みんな自分達の仕事を失っていた。

 最後の一仕事には熱心に取り組んでくれたようだ。おかげでみんな、まるで黄金の光を放つレ級のように、キラキラと輝いている。

 

『ダ、ケド……ソレハ、チ、チカラヲ与エタ艦娘ノ消滅ヲ意味スル……』

「消えないよ? だって、みんながみんなに力を与え合ってるんだもん」

『ドウイウ……ッ、ドウイウ事ダ! フザケルナァ!』

「繫がりが、絆が私達に力を与えてくれる。それだけだよ」

 

 戦いが再開された。

 みな、誰かと手を繋いだまま、異形達に突っ込んでいく。

 手を取り合い、協力して敵を打ち倒していく。

 その拳で、その足で。その力で、その強さで。

 ……ありえない。

 

『コ、コンナ事ガアッテ堪ルカ……! コンナ、ア、アリ得ナイ事ガ……!!』

「艦娘の存在は不思議がいっぱいだからね。あり得ないと思った事は、もしかしたらあり得るかも、なんだよ」

『ナン――ゥアッ!?』

 

 振り返ろうとした深海神姫は、不意に腕を引かれるのにぎょっとして――頭から甲板に叩きつけられて悶絶した。

 打った頭を押さえながら転がって距離をとり、片膝をつく。見上げれば、自身を投げた体勢のままの吹雪が、落ち着いた表情で静かに告げた。

 

「私達の勝利、誰にも手出しはさせない」

 

 彼女も。

 ……彼女も、いや、むしろ彼女こそ、凄まじいパワーアップを遂げていた。

 立ち上がって打ち掛かった深海神姫は、次には腕を取られ、転ばされていた。

 一瞬呆けて、すぐに立ち直る。足払いを仕掛ければ、その足を踏みつけられ、取られたままの腕を捻り上げられた。

 ゴキリと嫌な音が鳴る。

 

『オ前……! マサカ、オ前ガ一番……』

 

 先程までと変わらない静かな、それでいて輝く緑の目は、まっすぐに深海神姫に向かっている。

 

「うん。私が一番強くなってるよ」

『何故ダ……オ前ハ、』

「人間だよ。人間で、司令官で、艦娘だよ。だから私、艦娘との結びつきがとっても強くて、司令官との結びつきもとっても強いんだ」

 

 きっと練度(レベル)の上限も上がっちゃって、200とか300になってるかな、なんて言いながら、彼女は左腕に備えた壊れた端末、カンドロイドを撫でつけた。

 

『馬鹿ナ!』

 

 手を弾き、立ち上がる。

 自慢のスピードで背後に回り込み、貫手を放つ。

 ふとブレた吹雪の腕と腹の間に腕は囚われ、次には関節を外されていた。

 振り返った彼女の掌底に踏鞴を踏めば、飛び膝蹴りで吹き飛ばされる。

 

『コ……コノ私ガ……タダノ、吹雪ニ……!』

「連装砲ちゃん!」

『キュー!』

 

 吹雪を援護するように立ち回っていた連装砲ちゃん達が飛び上がって前ならえで連結し、吹雪の手元へ落ちる。

 彼女は躊躇いなくそれを構えた。そして何を言うでもなく燃料砲を撃った。

 

『――――ッ!!』

 

 光の奔流が深海神姫を貫く。

 バチバチと電気が生まれ、体の中や外が爆ぜ、無視できないダメージが積もっていく。

 そしてついに、深海神姫も膝をついた。

 同時に吹雪も倒れそうになる。燃料を使い切り、疲弊した状態になったのだ。

 

「私の、んっ、……勝ち、だね」

『マ……マダ、ダ……!』

 

 まだとは言うが、深海神姫は腹に穴が開き、絶えずオイルを流している状態で、もはや立ち上がる事さえままならない。

 勝敗は決した。

 艦娘との絆を得た司令官・吹雪が勝ったのだ。

 後はトドメを刺し、彼女を倒してエネルギーを得るだけ。

 

「……ごめんね」

『フ……フフ……』

 

 震える足を叱咤し、連装砲ちゃん達に励まされながら歩む吹雪に、深海神姫は笑ってみせた。

 頬に流れる汗をそのままに、口の端を歪めて、心底愉快そうに。

 

『コノママ、私ガ何モシナイママ終ワルト思ウ?』

「何もできないよね。……残念だけど」

『ドウカナ。オ前ノ言ウ、私ノ中ニアル大キナエネルギー……ソレヲ私ガドウ使ウカハ勝手デショ?』

「……何をするつもりなの」

 

 なに。ちょっと爆発するだけだよ。この星ごとね。

 軽い調子で言い放った深海神姫は、しんどそうに立ち上がると、腰を落として力み始めた。

 まるでそうすれば、そのエネルギーを自在に使い、自爆できるとでも言うように。

 ……実際そうだった。

 吹雪の中に警報が鳴り響く。それは妖精さん達からの警告で、自身の本能が鳴らす警鐘だった。

 肌が罅割れ、光が漏れだす。

 急激にパワーが高まっている。

 その上昇具合や何かは吹雪にはわからなかったが、今にも彼女が、まるで星のように大規模の爆発を巻き起こそうとしているのが手に取るように分かった。

 もう止められそうにない。

 迂闊だった……自分で言ったじゃないか。

 艦娘にはあり得ない事はない。それは、深海棲艦だって同じだし、元艦娘の深海神姫だって同じなのだ。

 だけどそれが、まさか全てを巻き込んで自爆する事だなどとは思いもしなかった。

 

『……ナンノ、ツモリダ?』

「ぅ……! ……せめて」

 

 風が吹き荒れ、連装砲ちゃん達がころころと転がされて行く中を、吹雪は身を低くして進み、深海神姫に抱き付いた。

 彼女はてこでも動こうとしなかったが、吹雪の狙いとしては、それが一番良かった。

 

「せめて、皆の下には行かせない……!」

『……オ前ハ助カラナイヨ』

「皆なら、大丈夫。……みんなだけなら……きっと、未来を……。過去へ、向かえる」

 

 星ごと、とはいったが、いったいどれほどの規模の爆発になるかはわからない。

 だから、もし今彼女が仲間に通信し、逃げるように呼びかけたとしたら……ひょっとしたら、誰かが生き残ってしまう。

 だが、艦娘が何人生き残ろうと関係ない。

 人間さえ消し去ってしまえば、それで終わりだ。

 

『心中スルツモリカ』

「…………」

 

 吹雪は、答えなかった。

 この風と、徐々に強まりゆく風の中では、口を開く余裕もないのかもしれない。

 深海神姫はそう思っていたのだが……実際は、違った。

 

「ねえ、島風ちゃん」

 

 彼女は、この局面で、一つ打ち明け話をしようとしていたのだ。

 少し話し辛い事だから、悩んでいただけ。本当にそれだけの話。

 

『……ナンダ』

「あなたを探している艦娘がいる」

『!?』

 

 話すべきか話すまいか、悩んでいるうちにそうこう言っていられなくなってしまっていたけど、この際だ、話してしまおう。

 僅かに目を見開く深海神姫に、吹雪はその胸に押し当てていた顔を上げて、下から彼女を見上げた。

 

「ななちゃん……名前の無い艦娘」

『……』

 

 朝潮ではない。

 深海神姫は、落胆した心に、はたと動きを止めた。

 ……そんなものは最初から望みがなかったと知っている。今さら落胆も何もない。

 

「顔が黒い線でぐちゃぐちゃに塗り潰されてる……私の胸くらいまでの身長の子」

『…………』

 

 吹雪の語る名もなき艦娘とやらに、深海神姫はまったく心当たりがなかった。

 探している、と言われても、そんな奴に今まで出会った事もない。深海棲艦になる前も、艦娘になる前も。

 

「あなたの事、弟だって言ってた」

『エ?』

 

 高まりゆく力に意識を溶かそうとして、深海神姫は……島風は、吹雪へと視線を戻した。

 彼女は回した腕できつく島風を拘束しながらも、静かに話していた。

 

「あなたの事を、『ショーイチ』って呼んでた」

『……ショウ、イチ……』

 

 その名前は。

 その名前は、知っている。

 深海棲艦になる前の、艦娘になる前のそのまた前。

 まだ彼女が人間だった頃。

 まだ、この世界にはいなかった頃。

 

『……姉サン?』

「知ってたんだ。……やっぱり、あなただったんだね」

 

 姉と二人で暮らしていた、ただの人間だった時に、よく呼ばれていた名前。

 あの日……瀕死の島風として孤島で目覚めた時以来、呼ばれなくなった名前。

 どうして今さらそんな名前が出てくるんだろう。

 なぜ、今になって……。

 

『ズット、ズット、探シテタ……』

 

 みんなは死んだと言っていたけど、それでも。

 

『ズット、帰リヲ待ッテタ……』

 

 艦娘になって、別の世界へやってきてしまったけど。

 

『ココニイタンダ……』

 

 彼女の姉も、この世界にやってきていた。

 …………。

 

『……ダカラ』

「……?」

『ダカラ、ナンダト言ウンダ!』

「っ、きゃあ!?」

 

 押し退けるように両肩を押されて突き放された吹雪は、尻もちをつきながらも深海神姫を見上げた。

 肩で息をする彼女は、体の至る個所に亀裂を走らせ、眩い光を放ちながら、恨みがましい目を吹雪に向けていた。

 

『今サラナンダト言ウノヨ。……私ハ、人ヲ滅ボシタ』

「…………」

『モウ、遅イ。モハヤ後戻リナドデキナイ』

「……そうだね。きっともう、あなたは」

『ダカラ、最後ニ言ットク』

「……何、かな」

 

 すぅ、と息を吸う声が、どうしてか鮮明に聞こえて、吹雪は目をつぶった。

 それは彼女の声をよく聞くためだったかもしれないし、来るべき爆発に備えるためだったのかもしれない。

 

 その事を伝えてくれてありがとう。

 

 どちらにせよ、これで終わりだった。

 彼女が言葉を言い終わるか終わらないかくらいに、吹雪は光に呑まれた。



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最終話 未来の吹雪に捧げる、私達の約束。

 

 光と音が世界に満ちた時、吹雪の鎮守府の艦娘は一塊りになっていた。

 

 破竹の勢いで敵を倒し続ける彼女達の前に、次々と深海棲艦が湧き出て、自然と一か所に追い詰められ……その時だった。

 深海神姫の操る船の上から激しい光が放たれ、また強力な攻撃が来るかと身構えれば、名もなき艦娘が共鳴でもするかのように発光し……世界は騒がしさに包まれた。

 

 

 気配、気配、気配。

 

 艦娘と深海棲艦と妖精の気配。生者の気配。生きているものの息遣い。

 空に瞬く赤い光は、霧と夜闇の中を飛ぶ艦載機達の断末魔。

 気合いの声が交差する。檄を飛ばす誰かの声が、途中で途切れた。

 

 

 久しく感じていなかったものに、誰もが困惑した。

 

「お姉さま? お姉さま、どうしました!?」

「what……? ……比叡?」

 

 肩を揺さぶられてはっとした金剛は、自分に声をかけてきたのが妹であるという事を理解できず、素っ頓狂な声を出してしまった。

 数瞬視界がぶれ、妹の顔が認識できない。

 

「金剛お姉さま、気を確かに!」

「まだ敵は多くいます!」

 

 隣でどこかへ砲撃した榛名が必死に呼びかけ、霧島が腕を取って揺さぶる。

 それで焦点があった。これが夢ではないと理解した。

 

「い、妹達……! そ、そうデシタネ! ワタシとした事が、ぼうっとシテマシタ!」

「私はまた、敵の攻撃か何かかと思いましたよ……」

「不意打ちと流れ弾にお気を付けくださいね」

「さあ、ガンガンいくわよー!」

 

 それぞれ声をかけた彼女達が三方に向かうのを見て、金剛は目頭が熱くなるのを感じた。同時に喜びが全身を駆け巡り、思わず比叡に抱き付いてしまった。

 

「戻ったのデスネ、この時間に!」

「おお、お姉さま!? ううう、嬉しいですけれど、今は戦闘中……!」

「どうなさったのですか……?」

「先程からぼうっとしている姿をお見受けしていましたが……どこかに被弾を?」

 

 顔を赤くした比叡に窘められて、金剛はようやっと落ち着きを取り戻した。

 そして、しっかりと思い出した。自分がどこにいて、何をしていて、何が起こって今、ここにいるのか。

 

「fire!!」

 

 自分の体を認識すると同時、迫ってきていた黒い異形へと砲撃する。

 寸分違わず砲弾は敵の頭を砕き、沈黙させた。

 

 体の状態……服に傷や汚れはあるものの小破未満。砲も艤装も無傷に近い。この時代の自分の体だ。

 

「お姉さま、素晴らしい力です!」

「スピード、パワー、記憶……全て引き継がれてマスネ……なら」

 

 顔を上げた金剛は、今なお見えないモノで繋がっている艦娘達の方へ目を向けた。

 

「仲間の下に行かねばなりマセン。妹達、follow me! ワタシと共に行きマスヨ!」

「はい! お姉さまと一緒なら、どこまででも!」

「榛名、頑張ります!」

「移動ですね、わかりました! 衝突に気を付けて参りましょう!」

 

 霧の蔓延る戦場の中、姉妹と出会えた金剛は、一路司令官(吹雪)の下へ向かった。

 

 

 強風が海を舐めた。

 怒号が風に運ばれて飛んでいく。

 砲撃音が反響しあい、砲火が天を焼いた。

 蔓延する霧は常に流動して艦娘も深海棲艦もお構いなしに浚い、無秩序な位置へ移動させる。

 敵も味方もごちゃごちゃで、同士討ちがいくつもあった。

 まるで地獄絵図。

 その戦いを終わらせるため、黄金の光を纏うレ級に相対する艦娘がいた。

 それが島風。島風、改二。

 連装砲ちゃんと一つになって、艦娘の域を超えたパワーアップを成し遂げた、最高峰の少女。

 

 遠い前方で紅いエネルギー体に押し込まれているレ級に、それを放った島風は苦々しい表情をして、手にしていた大型の青い大砲を放り投げた。腰を沈め、すぐさまトップスピードで滑り出す。その横に彼女の友、朝潮が並ぶ。

 

 ぐんぐんレ級へ迫っていく中で吹雪も加わり、お互いの間合いに入った瞬間、レ級がエネルギー体をかち上げて粉砕した。

 それが致命的な隙となった。

 三人が跳躍する。島風が、朝潮が、吹雪が、それぞれ勢いを保ったまま空中で急降下キックの体勢に入り、矢のようにレ級へ突き刺さっていく。

 

『――――!!』

 

 三位一体の蹴りを受けて、レ級は海面をバウンドして霧の向こうへ消えていった。

 着水した三人は少々の距離を滑って止まり、辛そうに肩で息をして、レ級の撃破を確認しあった。

 

 それで、終わり。

 本来なら、そこで終わりのはずだった。

 だがそうはならなかった。

 

 濃霧が巻き起こり、その中から青白い腕が伸びてくる。それは正確に島風の首を捉えた。

 

「っ、シマカゼっ!」

 

 朝潮の悲鳴染みた声が響く。二人の反応は遅く、ゆえに救援は間に合わない。

 一瞬声に気を取られた島風は、霧の中から伸びてくる腕に反応しきれていなかった。

 ぬぅっとレ級が姿を現す。

 黒煙を纏い、ぬらぬらと輝くオイルを黄金の光で照らして笑っている。

 

「っ!」

 

 決して気を抜いていた訳ではない。けれど、レ級の動きには追いつけなかった。

 そもそもここまでの戦いで酷く損耗していたのだ。

 敵は多い。ただその一言に尽きる。そして、多くが姫級や鬼級といった化け物揃いだった。

 連戦に次ぐ連戦。体も精神もとうに限界を迎えている。

 それでも彼女は止まらなかった。

 止まらず、走り続けていた。

 誰より速く……なんでもいいから、この戦争の元凶であろうレ級を倒す。

 人類に未来を。世界に平和を。愛する人に安らぎを。

 その想いで頑張ってきた。

 ……頑張って、きたのに。

 

「ぐ、くっ……!」

『終ワリダ』

 

 握られた首からギチリと音が鳴った。

 

 不意に、放られる。

 体が空中に投げ出され――レ級の拳が迫った。

 こんな無防備な状態で、こんな損耗した状態で怪物の一撃を受ければ、ただでは済まない。

 そうわかっていても、彼女にはもう、どうしようもなかった。

 そう、『彼女には』、だ。

 

「島風ぇーっ!」

「おおお!!」

『ウォッ!?』

 

 張り裂けんばかりの気合いの声が迫り、と思えば、島風は海へ落ちていた。

 攻撃はされてない。ただ、喉が痛んで息がし辛いばかりで、それも喉を擦っていれば収まった。

 すかさず傍へ寄った朝潮が肩を貸して立ち上がらせてくれる。

 細めてしまっていた視界を無理矢理に開いて状況を確認すれば、少し離れた場所で立ち上がるレ級と、自分達を守るように立つ叢雲と満潮の姿があった。

 まさか、二人がレ級を吹き飛ばしてくれたのだろうか。だとしたら、危ないところを救われた。

 

「けほっ……あ、ありがと、叢雲、満潮……」

 

 二人は、ちらっとこちらを見るだけで何も言わなかった。

 ――違和感。

 島風は、よくわからない違和感に襲われて眉をひそめた。

 今自分を見た二人の眼差しが、いつもと違って見えたのだ。

 とはいえ今は戦闘時、違うのは当たり前とも言えるのだけど……たとえば満潮の、あの恨みがましい目はいつもと同じだが、なのにまるで十数年来の仇でも見るかのように積もりに積もった感情が窺えた。

 

『何者ダ……貴様ラ、艦娘カ』

「……どうやらお前は、私の知るお前ではないようね」

「そうね。共に来る事はできなかった……それはあいつ自身が予測をたてていた」

 

 叢雲の言葉に、満潮が頷いた。

 深海棲艦のようで、そうでない存在。輪から外れ、何度でも甦るレ級は、あの時代から移って来る事はできなかったようだ。

 未来にいたレ級は、だからこそ言っていた。今は味方だが、過去に戻れた時も私が味方とは限らない、と。

 おそらくは、名もなき艦娘も……。

 

「満潮……?」

「叢雲ちゃん……?」

 

 サァァッと水を割いて二人の艦娘が寄って来た。

 彼女達の様子を訝しむ朝潮と吹雪だ。朝潮に腕を引かれた島風も、しんどそうについてきている。

 

「っ!」

「っとわ、なになに!?」

 

 振り返りざまに島風の胸ぐらを掴み上げた満潮は、目を白黒させる彼女をお構いなしに腕を振り上げ、即座に振り抜いた。

 けどそれは、朝潮に腕を掴まれて止められた。

 当然だ。今のはとても看過(かんか)できるものではなかった。

 

「満潮、どういうつもり?」

「離しなさい! 一発ぶん殴らないと、気が収まらないのよ!」

「ど、どうしたの、本当に」

 

 獰猛な犬のようにわんわんと喚く満潮は、どうみても本気で島風を殴ろうとしている。この戦いが始まるまではそんな気配はなかったから、朝潮は一瞬呆けてしまって――するりと掴んでいた腕が抜けていくのに「あっ」と声を漏らした。

 

「おらぁ!」

「いったぁー!?」

 

 ガイン、と鉄を殴ったかのような硬い音が響き、さっと腕を引いた満潮は、赤くなった拳を手で包んで胸元に寄せながら、涙が滲み始めた目でギッと島風を睨みつけた。

 

「な、なな、なに? なんで殴られたの私っ!?」

「満潮!!」

 

 頬を押さえて困惑する島風を見て溜飲を下げた満潮は、口うるさい姉に「ふん」と腕を組んでそっぽを向いた。

 

 

 

「吹雪……」

 

 レ級を眺めていた叢雲は、ほうっと安堵の息を吐いて振り返った。優しげに笑うその顔は今までで一番穏やかな表情で……戦時に見せるような顔では、決してなかった。

 

「成功したのね。……あなたのおかげよ」

「……私の、おかげ?」

「そう。みんな、あなたを信じていたから、こうやって戻って来られた」

「……?」

 

 緑色の瞳が叢雲を映す。

 僅かに口を開けたまま静かに呼吸する吹雪は、何も言わず、ただ声に耳を傾けていた。

 

「叢雲!」

「叢雲さん!」

「満潮ちゃん!」

 

 瑞鳳が、秋津洲が、潮が。

 ザアザアと波と風をたて、仲間を引き連れてやって来た。

 未来での仲間達が集結していく。

 確かな絆がさらに強まり、艦娘の力を引き出していく。

 暁が、鳳翔が、不知火が。

 霧を掻き分けてこの場所へ。

 集いし絆が新たな力を呼び覚ます。

 

「っとぉ? 遅れてシマイマシタ?」

「いいえ、まだ全員揃ってないわ。初雪と……大淀さんは?」

 

 最後に金剛達がやってくると、以降、周囲は霧が蠢くばかりで、誰かが近付いてくる気配はなかった。

 

 叢雲を中心に輪になったそれぞれは、自分と繋がる絆を辿って、ここにいない艦娘の行方を追った。

 

 ――遠い?

 

 繫がりは、ある。半ば溶け合った強固な糸は絶対に断ち切れず、だからこそ、その距離が気になった。

 ずっとずっと遠くにいる。

 初雪も、大淀も、そして――。

 

「んぁ」

 

 ピリリリッと機械的な音声が鳴り響く。間の抜けた声を発した島風が左腕に備えられた端末を起動し、通信画面を表示させた。空中に投射された光化学画面にはぷかぷか浮かぶ船の姿。

 

『聞こえますか。こちら大淀です』

「大淀さん? ……どうやってこの端末に連絡を……?」

 

 ありえない通信に、島風が疑問を投げかけた。

 この機械への通信はもう一つの端末からしかできない。そしてその端末は今、この海にいる夕張が持っているはずだ。決して鎮守府で後方支援に徹している大淀が持っていられるものではない。

 

『近くに叢雲さんはいますか?』

「ええ、ここに」

 

 大淀は問いに答えず、叢雲の名前を出した。彼女が返事をすれば、一呼吸の間を置いて、

 

『初雪さんはこちらにいます』

「……遠いと思ったら、二人共鎮守府にいたのね」

『そうです。……さ、初雪さん』

 

 カチャリと鉄の音がした。おそらく大淀から初雪へ端末が渡されたのだろう。

 

『……ん。さっき工廠で目が覚めた。建造されたばかり』

「……建造?」

 

 彼女の言葉に、不穏な空気が漂った。

 私達は、あの深海神姫を倒して、そのエネルギーで過去へと跳んだのではなかったのか。

 なぜ、建造などという単語が……?

 

『……ただ時間を移動し、跳んだにしては、私達は些か綺麗すぎると思いませんか?』

「たしかに、艤装も砲も無事デスネ」

 

 金剛が腕を広げて自身の体を見せれば、それぞれは改めて自分の状態を確認した。

 深海神姫との戦いであられもない姿になっていたというのに、ほぼすべての傷が綺麗さっぱり治っている。金剛の言う通り、砲も艤装もまったくの無事だ。

 では、と鳳翔が言った。

 

「……未来にいた私達自身がこの時代に来たのではなく、意識や……霊魂だけがこの時代へと戻って来たと、そう考えれば良いのでしょうか」

「そのようですね」

 

 予測を肯定したのは不知火だ。

 彼女はその説を事実と確信しているらしい。

 

 根拠はある。それは先程の通信で初雪が言った、建造されたばかり、という言葉。

 未来から体ごと飛んできたはずなら、みな同じ海に来なければおかしい。そうでなくとも傷ついていなければおかしいのだ。

 

 思い返してみれば、まるで時間だけが巻き戻ったかのように、みんなは十四年前の戦いの場に……記憶の中と同じように立っていた。

 

「……吹雪?」

 

 はたと、気付く。

 先程繫がりを意識した時、もう一人、とても遠い場所にいる者がいた気がした。

 

「な、なぁに? 叢雲ちゃん」

 

 困惑した様子で近付いてくる吹雪は、叢雲達と同じようにこの時代に合った格好……艦娘・吹雪の制服を身に纏っている。

 ……だけど、違う。

 それはおかしい。

 だって彼女はこの時代には生まれていない。

 生まれていないのに、ここに存在する訳がないのだ。

 

「あなたは……司令官、なの?」

「え……? ……ぇと、あの、よ、よくわかんないんだけど」

 

 二十を超える視線を向けられてたじろいだ吹雪は、胸元で手を合わせて縮こまってしまった。

 それは明らかに彼女らの知る人間、吹雪の反応ではなかった。

 

「目の前にいるから無意識に除外していたけど……そう、そうだったわね。……過去にはもう一人、吹雪がいたわね」

「えぅ、む、叢雲ちゃん……言ってる意味がよく……わからないん、だけど」

「いいのよ。……気にしないで」

 

 気にしないで、とは言うものの、叢雲の顔は先程と打って変わって暗い。

 他のみんなもそうだ。

 吹雪が見かけた事のない他の鎮守府の艦娘も集まってきていて、みな沈痛な面持ちになっている。ついさっきまでは戦場とは思えないほどの明るさだったというのに、今は、まるで、敗戦後……。

 なんと声をかけたものかと右往左往しても、何も思い浮かばなかった。

 

『サァ、甦レ!』

 

 彼女達の気持ちがどうであろうと戦いは続く。

 霧に向こうで回復をはかっていたレ級が腕を振り上げ、再び仲間を呼び出した。

 海面が盛り上がり、巨大な影が飛び出す。

 巨腕の異形に抱かれて余裕綽々に見下ろす戦艦棲姫。黄金の光を纏う軽巡棲鬼。特徴的な棘付き帽子を失くした駆逐棲姫。そして、大きな船に乗った深海神姫。

 

『――ン? ……ナンダ、コイツハ』

 

 船を見上げたレ級が独り言ちた。

 

「そんなの、こっちが聞きたいよ」

 

 前へ出た島風がレ級へ話しかけた。彼女も少々の休憩を経て、多少疲労がとれたのだろう。顔色も良くなり、動きも鋭くなってきていた。

 頭を振ったレ級は、問いには答えずに笑みを浮かべた。

 

『……海ニ遺志ガ飽和シテイル……何故ダカ知ランガ、マダマダ戦争ハ続キソウダ』

「何言ってんの? 戦争は終わりだよ。お前を倒して、はい、おしまい」

 

 ぐっと腰を落とし、戦闘態勢に入った島風が挑発する。レ級は乗らなかった。代わりに深海神姫が船を動かし、血脈のような光を走らせて――。

 

「離脱しなさいっ!」

 

 溢れ出す光に気を取り戻した叢雲が叫んだ。

 反応した島風が瞬時に行動に移る。海面を裂くほどのスピードで前方へ飛び出し、波を蹴って飛び上がり、船の上に立つ深海神姫へと飛び蹴りをかました。

 ガァン!! 硬い物同士が衝突した音が鳴り響いた。

 

「っと! ……見た事ない奴だな」

『…………』

 

 腕を伸ばして指示を下していた彼女に避ける術はなく、もろに蹴りを受けた深海神姫は甲板を擦って後退し、しかし倒れる事無く止まった。

 

 新種の敵に注意深く観察する島風。敵の口は引き結ばれたまま開く気配はなく、虚ろな瞳は自分を映しているかさえ怪しい。

 彼女に意思はあるのだろうか。語るべき言葉を持っているのだろうか。

 ……というか、なんか、どこかで見た事あるような気がする。……お風呂場の、大きな姿見の……。

 ……なんにせよ、立ちはだかる敵は倒すだけだ。今まで通りに、最高速度で。

 キュッと甲板が鳴った。消えた深海神姫に島風は目を見開き――迫りくる拳を掴んで止めた。どうっ風が広がる。踏み締めた足のその下、甲板に罅が入り、広がった。

 速い……! ここまでパワーアップした島風でも、一瞬見失ってしまう程のスピード!

 

「……遅いね」

『…………』

 

 

 思った事と反対の言葉を口にしつつ、不敵な笑みを浮かべて、島風は冷や汗を垂らした。

 まさか自分に匹敵する速さで動く敵が出てくるなど予想もしていなかった。レ級の反応からすると、こいつの出現自体は予定になかったようだし……。

 だが、まあ、関係ない。

 

「誰であろうとやっつけるだけ。もうスピードは落とさないぞ」

『…………』

 

 二人の姿が船の上から消えた。

 そこかしこで波が弾け、水柱が立ち上がるのを見れば、高速での戦闘に入ったとすぐに理解できるだろう。

 

「アタシらは船の解体と洒落込もうぜ」

「またあんなのを撃たれたらたまんないわ!」

「周りの奴らは任せてほしいかもっ!」

 

 あの船を放っておけば、甚大な被害を(こうむ)る事になるだろう。

 島風が深海神姫を引きつけているうちに、そして仲間達が他の姫級鬼級を相手しているうちに、速やかに破壊しなければならない。

 

「なに、大丈夫よ。私達には私達の力がある」

「あんなでっかい的なら、みんなで魚雷撃てば一撃っしょ!」

「やります! 頑張ります!」

 

 船の前へ、雷撃能力を有した艦娘が集い、それ以外が他の対応に当たる。

 この時間の吹雪や、霧から吐き出されて転がってきた夕立改二も軽巡棲鬼や駆逐棲姫に向かって行ってくれた。

 時間は充分。そしてこの距離ならば。絶対に外しはしない!

 

「せー、」

「のっ!」

 

 誰かの声に、誰かが合わせた。

 発射タイミングは完璧で、次々と海へ潜った魚雷達が船へ突き刺さり、爆発していく。

 

 

「……未来に、いるのね」

 

 天高く、霧を吹き飛ばして立ち上がる巨大な水柱を前に、海水の飛沫を浴びながら、叢雲は呟いた。

 

 吹雪は、十四年後の世界にいる。

 

 ……いや、まだいない。

 初雪と同じように、時が来れば生まれるのだろう。この海のどこかに。

 大丈夫、場所ならば、繋がった自分達でならすぐに探し出せる。

 後はその時までに……。

 

「行くわよ、この戦いを終わらせに」

「何年だって付き合うわ」

「できれば、提督と……吹雪ちゃんとまた会う前に……戦争を終わらせられたらいいなって、思います」

 

 船が沈んでいく。

 高い波が円状に広がり、どこまでも波紋を送っていった。

 

「だぁーっ!!」

『――――!』

 

 遠く、空の上に放り出された深海神姫が島風に貫かれ、光と熱と風に変わった。最期の最期まで声はなく、虚ろな顔は爆炎に呑み込まれて消えた。

 

 下り立った島風は、一段と損傷を深くしながらも、滑り寄って来た朝潮と顔を合わせて頷き合うと、叢雲達の方を見た。

 

「みんなの加勢に行くよ。ついてきて」

「了解」

 

 彼女が促すのに合わせ、それぞれが別の敵へ視線を向けた。

 

「……あー、もう」

 

 それを遮るように霧の壁が蠢く。

 立ち込める濃霧の中から一つの影がせり出してきた。

 

『ヤァ』

「止まって、みんな……下がってて」

 

 レ級だった。

 さっと腕を横へ伸ばした島風が止まれば、僅かに体を斜めへ向けていたレ級は島風に向き合うと、にぃっと笑みを濃くした。

 

『誰ノオ陰カハ知ラナイガ、例エ人間ガ真実ニ辿リ着コウト、コノ戦争ハ終ワラナサソウダ』

「……どうかな。もう終わりかけかもよ」

『イイヤ。終ワラナイサ……人ガイル限リハ』

 

 そもそも、我々が生まれた理由は人が過ちを犯したからだ。

 誰に語るようでもなく、ただ一人で呟くような声量でレ級は言う。

 

『人ノ過チノ具現ガ我々ナノダ。……解ルカ』

 

 広げた腕を狭め、手を組んで、レ級はここにいる艦娘一人一人に目配せをした。

 きっと、それに意味はない。そして、意図も読み取れない。

 このレ級は、未来に生きた艦娘達の知るレ級ではないのだから。

 

『人ガ滅ビナイ限リ、海ハ嘆キ、アノ子ハ涙ヲ流ス。我々ハ消エナイ。永遠ニ甦ル』

「『あの子』……? ……訳わかんないんだけど……戦争を終わらせたきゃ、人間を滅ぼせとでも言うつもり?」

『ソウシタケレバソウスルガ良イ。モットモ、オ前ニソレガ出来ルノナラバ、ダガナ』

「じょーだん。人のために戦ってるのに、人を傷つける訳ないでしょ」

 

 ぐだぐだ言ってないでさー。

 

 音もなく構えた島風が、息を静めてレ級に言う。

 

「さっさとやろうよ」

『…………』

 

 レ級は、目をつぶると、肩を竦めて首を振った。

 呆れているのか、それともそれが今の島風の言葉への答えか。

 

『今ハマダ、オ前ヲ倒スノハヤメテオコウ。コレカラドンドン増エルゾ。艦娘モ、深海棲艦モ』

「だから、どういう意味――」

『マタ会オウ。――サラバダ』

「ちょっと、まだ話は! ……ちっ、逃げた!」

 

 一歩引いたレ級が霧に呑み込まれれば、冷たい空気が通り抜けて、気がつけば霧は晴れていた。

 

 異形の断末魔が轟く。近くで戦艦棲姫が沈んでいく。

 次々と敵が倒れ、この戦いが終わっていく。

 

 何者かがもたらしていた夜は明けて、水平線には陽が覗いていた。

 

 海の表面の、ほんの数センチに光がいきわたり、きらきらと輝いている。

 暗い海と明け方の空は、夜と朝の境界線。

 あそこが、暁の水平線。

 急速に冷めていく興奮と、萎んでいく戦場の空気。

 収縮する雰囲気に息を吐いた叢雲は、輝く陽を横目で見やった。

 

「"勝利を刻むべき水平線は――"」

 

 ……あなたがいなければ、きっと現れはしないのだろう。

 みんなで見つけようと誓った未来。もっとも重要な人間が欠けては意味がない。

 

「そうね。まずは――」

 

 ふっと笑った叢雲は、背後に立つ仲間達と、その後ろに広がる艦娘達の勝鬨を背に、昇りゆく陽を指出した。

 仲間への檄。自分への誓い。

 それは、始まりを告げる言葉。

 

「"暁の水平線に、勝利を刻みなさい"っ!」

 

 

 オオーッ!!

 

 

 思い思いの姿勢で賛同の声を上げる吹雪の鎮守府の艦娘達に、なんだどうしたと他の艦娘達が集まってくる。

 

 勝利を喜び合いながら、勝って兜の緒を締めよ、と互いを戒め合いながら、生きる喜びを噛みしめながら――。

 

 未来で救えなかった艦娘達も、ここでは元気に動く姿を見せている。

 この決戦を越えたなら、きっともう、大丈夫。

 

 まだまだ戦争は続くけど、みんなの未来には幸福な結末(ハッピー・エンド)が待っているだろう。

 

 空が青くなった。

 雲一つない綺麗な空は、艦娘達の勝利を祝福していた。

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗な空だなぁ」

 

 

 半球状の青空を見上げた吹雪は、波に体を揺らされながら呟いた。

 耳朶(じだ)を打つ穏やかな音色にすぅっと息を吸い込めば、肺いっぱいに(しお)の香りが広がった。

 故郷の海の匂いは、自然と胸を突いて、不思議な感情を溢れさせた。

 ふぅー、と吐き出すと、喉に、感覚。

 (にわか)に粘つく、だけど爽やかな空気。この天気にぴったりの味。

 

 

「……はふー」

 

 

 もいちど空気を吸い込んで、あくびをするように大きく息を吐き出した吹雪は、空に向けていた顔を戻して周囲を見回した。

 見渡す限りの青、青、青。太陽光に煌めく白。

 知識が囁く。これは海。走るための道。敵への直結路。

 自らのテリトリーであり、敵のテリトリーでもある生命の泉。

 そして、いつかどこかで仲間達と戦った場所。

 

「……、……。」

 

 

 上下や左右に細かく揺さぶられる体に、肩に食い込む厚布。背負った艦橋(かんきょう)はずしりと重く、革の布に吊り下げられてお腹の前で揺れる連装砲は、今か今かと使われる時を待っている。

 何気なく浮かせた手が冷たい鉄に触れ、指の腹で撫でれば、痺れに似た感覚が指先に残った。

 

『キュー』

 

 可愛らしい鳴き声が耳をくすぐった。

 砲をどけて足下に目を落とせば、連装砲ちゃん達が三匹並んで見上げてきている。

 吹雪と目が合うと、揃ってびしっと敬礼した。……ヘラのような手は短く、全然頭に届いていなかった。

 

「あはは」

 

 それがおかしくて、自然に笑いが零れてしまった。

 清々しい。

 とっても、とっても、気分が良かった。

 

 できなかった事、やれなかった事。ずっと昔か、ずっと未来か。

 いつかはわからないけど、心の底から望んでいた事が、そろそろ実現しそうだった。

 

 サァッと鉄の靴が海を撫でる。

 そろりと足を前に出せば、連装砲ちゃん達はさっと退いて、吹雪の左右へ広がった。

 目をつぶり、前へ行く。

 一歩一歩、海面の滑らかな感触を足や体いっぱいに受け止めて、地球の上を歩いて行く。

 

 司令官と出会ったら、まずはしっかり挨拶しなくちゃ。

 他の艦娘と出会ったら、ちゃんと自分の名前を言わなくちゃ。

 

 考えるだけでわくわくした。

 

 嬉しさが爆発しそうになって、ぎゅっと胸を押さえると、ドキドキが手に伝わってきて、体中が震えて、なおさら嬉しくなってしまった。

 

 人と、戦える。

 人の(もと)で、戦える。

 きっとここはそういう世界。

 

「……?」

 

 ピリリと端末が鳴った。

 左腕に括りつけられた情報端末、カンドロイドが無線の受信を知らせている。

 慣れた手つきでボタンを押せば、光化学画面が浮かび上がり、ぷかぷか丸のシルエットが泳ぎ出した。

 

「……ふふっ」

 

 画面の向こうから、何人もの艦娘達の声が聞こえた。

 それは生まれたばかりの吹雪には馴染みがなくて、だけど、ずっと一緒にいたから、よく知っている懐かしい声。

 

 霧が世界を覆う。

 海がざわめき、暗闇のとばりが下りてきて、吹雪は笑顔で先の見えない海上を歩いた。

 

 その先に、名もなき艦娘がいた。

 探し人には未だ出会えず、長い間、ずっと涙を流している。落ちた雫は海面に染み渡ると、深海棲艦となってどこかへ向かっていった。

 

 吹雪が歩んで行けば、濃霧の壁が進行を妨げる。

 ぬるりと出てきたのは、黒衣のコートを纏った戦艦レ級。

 狂気的な笑みを浮かべ、名もなき艦娘を守るように、もしくはとらえているかのように、吹雪の前に立ちはだかった。

 

 異形の尻尾が鎌首をもたげる。

 大きな口を開閉させて、ギザギザの歯を凶悪に光らせ、ガチガチと開閉して白い息を吐いた。

 

 異形の頭の両側にある砲身が吹雪に狙いを定めた。

 吹雪は、ただそれをじぃっと見つめていた。

 

 

「こんのっ大馬鹿ぁ!」

 

 

 ぼふんと霧を抜けて叢雲が飛び込んできた。

 着水間際に砲撃してレ級の攻撃を中断させると、足を前に出して海面を擦って急停止。吹雪に向き直ると、般若の如き怒り顔で詰め寄った。

 

 

「どうして敵の方へ向かっていくのよ、あんたは!!」

「相変わらず、突拍子もないったら!!」

 

 霧を抜けて満潮が滑り出てきた。抱えた連装砲で狙いを定め、こちらへと指を向けてきていたレ級へと正確に砲撃した。余裕の表情で砲弾を受け入れたレ級の表面だけが爆発する。

 

 水飛沫が上がった。

 次々と霧を抜けて、旧知の艦娘達が姿を現す。

 

「まだ、寝ぼけてる?」

「ふ、吹雪ちゃん、しっかり!」

 

 垢抜けて、垢抜けきれない初雪と、少し威勢の良くなった潮が吹雪の両脇を固めた。

 

『…………』

「どうやらあいつ、魚雷が欲しいらしいわよ?」

「海に還してやりましょう」

「レディーの情けよ! 一撃よ、一撃!」

 

 勇ましく、威勢が良く、頼もしい。

 大井に不知火に暁と、そんな仲間達が吹雪の下に再び(つど)った。

 

「主砲で片、つけるのもいいんじゃねーか?」

「36.5cm連装砲が火を噴きマスヨ!」

 

 火力自慢の摩耶と金剛が主砲をレ級へ向ければ、レ級は腕を振り上げて仲間を呼び出した。

 

 霧が割れ、船が進んでくる。

 言わずと知れた深海神姫が、船の先端に足をかけ、光の無い瞳で見下ろしてきていた。

 

「今度は手心なんて加えませんから」

「距離をとって、アウトレンジ、決めます!」

 

 鳳翔と瑞鳳は、弓を手にして下がり始めた。

 予想通りの増援に、こちらはばっちりと対策済み。

 光線なんか撃たれる前に、船はズタボロ確定だ。

 あわよくば深海神姫も撃破したいところ。

 だけどそこまでは望まない。

 

「こっちには秘密兵器がいるんだぜ!」

「かもーん、かもっ!」

 

 囃し立てながら漣と秋津洲が道を開ければ、霧の中を小柄な影が歩んできた。

 島風改二。それから、彼女の強力なサポーター、朝潮。

 

「……ここで会ったが! ……何年目だっけ」

「……十四年目です、シマカゼ」

「そそ、じゅーよねんめだ、覚悟しろ!」

 

 吹雪の傍までやってきた島風は、朝潮と漫才を繰り広げながらレ級に指を突き付けた。本人的にはばっちり決まった登場だ。格好良いと思ってるのは吹雪と朝潮だけだった。

 

『海域、封鎖完了いたしました。他の邪魔は入りませんよ』

『島風……みんな、頼んだぞ!』

 

 未だ繋がった通信からは、大淀の声が流れてくる。その後に続いた男性の声は……。

 吹雪にはすぐにわかった。きっと彼が、自分の司令官になる人だ!

 

「みんな!」

 

 思わず声を上げてしまえば、呼びかけた先の全員の視線が集まった。

 

「準備は()ーい?」

 

 吹雪は、視線程度には臆しない。

 強大な敵にだって怯まない。

 やっと欲しかった未来が手に入ったのだから。

 

「抜錨よ!」

 

 彼女が号令をかければ、ここがどこであろうと誰もが声を返した。

 

 今はもう、彼女は人間ではないけど。

 司令官を求める、普通の艦娘に戻ってしまったけれど。

 それでも彼女はみんなを率いる事ができる。

 だって彼女は、素晴らしい旗艦でもあったから。

 

『……サァ、来イ!』

 

 どこか諦め混じりで叫んだレ級の声が、不気味な響きを伴って木霊する。

 吹雪達を追い越して行った艦載機が深海神姫の操る船へと向かっていき、吹雪達もまた、艤装を駆動させ、前へ前へと進みだした。

 

 

 

 2038年8月1日。

 どこまでも晴れた賑やかな空は、目前の水平線へと続いていた。



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