夜天に輝く二つの光Relight (栢人)
しおりを挟む

第一章 砕けし欠片は再び集い
第一話 再起動


 

 南に面した窓から差し込む朝日が、リビングから続く台所をも明るく照らしている。家に響くのは、一日の始まりを告げる二種類の音だった。熱せられた鍋のふたが、蒸気でコトコトと鳴る音。そして、小気味いいリズムでまな板を叩く包丁の音だ。腕の動きに合わせ、車椅子に座る少女の髪がゆらゆらと揺れていた。

 刻む度にあふれるネギの香りが鼻腔を刺激し、わずかに残っていた眠気が頭から追い出される。約三ヶ月ぶりに行う料理だが、以前と比べて少女の腕が衰えているというようなことはなかった。以前から続けてきた料理は少女の生活スキルとして確立されており、また、三ヶ月の間に台所に立つ機会が一度としてなくとも、その勉強は毎日欠かさず続けてきたためである。その腕前は、少女が十歳になるかならないかの年齢だとは思えないほどだった。

 

「……ん、こんなもんやろ。リインフォース、お願いな」

「はい、お任せを」

 

 ネギを刻み終えて満足そうに頷いた少女――八神はやては、後ろを振り返って笑顔を見せた。

 はやての後ろで車椅子の操縦を預かっているのは、浮世離れした美貌を持つ銀髪の女性――リインフォースだ。紅玉のような目を柔らかく細め、微笑を返してそっと車椅子を押す。ハンドルを握る手は、まるで雪のように白い。歩みに合わせて揺れる一房のくせ毛は、はやての赤とは色違いの黄色い十字の髪留めで束ねられていた。

 鍋の前まで運ばれたはやては、ふたを開けて味噌汁に刻んだネギを加える。これで朝食の準備は完了。あとは、家族が揃うのを待つだけだ。

 今のうちに料理に使った用具を洗っておこうかと思案しつつ、はやてはリインフォースに声をかける。

 

「あとはもう大丈夫やから、シグナム達起こしてきてもらえるか?」

「ご心配には及びません。シグナムもシャマルも、身支度を終えて降りてくるところですよ」

「ほな、ヴィータとザフィーラが帰ってくるの待つだけやね」

「ええ……――噂をすれば、ですね。二人共、帰宅したようです」

 

 リインフォースが頷いた矢先、玄関から、「ただいまー!」と少女の元気な声が上がる。ほどなくしてリビングの扉が開き、朝の散歩に繰り出していた赤毛の少女と蒼い毛並をした大型の狼が姿を見せた。

 赤毛を三つ編みおさげに結わえているのはヴィータ。そのつり目が与える印象のとおり、勝気で活発な少女だ。それでも兎の小物に目がないという少女趣味も持ち合わせており、可愛げも十二分にある。背丈は小柄なはやてよりもなお小さい、八神家の末っ子である。

 整った蒼い毛並の中に真っ白なたてがみを誇っているのはザフィーラ。その堂々とした足取りには余裕があり、ヴィータとは打って変わって落ち着いた雰囲気を漂わせている。獣の範疇(はんちゅう)には収まらない――具体的には人語を解すどころではないほどの――知能を持ち、八神家のセキリュティも預かる大切な家族の一員だった。

 

「ただいま、はやて!」

「ただいま戻りました」

「おかえり、ヴィータ、ザフィーラ。なんや、帰んの遅かったなぁ?」

「じーちゃんばーちゃん達と会ったの久しぶりだったからな、ちょっと喋ってきたんだ。リインフォース、牛乳くれ」

朝餉(あさげ)の前ですが……よろしいのでしょうか?」

「うーん……コップ一杯だけやで」

「わかりました。ヴィータ、先に手洗いうがいを済ませてくるといい。その間に用意をしておこう」

「はいよー」

 

 リインフォースに促され、ヴィータはリビングを出て洗面所へと向かって行く。ザフィーラはリビングのテーブルにあったテレビのリモコンを前足で器用に押し、ニュース番組をつけていた。

 ヴィータがリビングを出て間を置かず、新たに二人の女性が扉を開いた。六人家族の最後の二人、シグナムとシャマルだった。

 

「おはようございます、はやて」

「はやてちゃん、おはよう」

「ん、おはよう。二人共、よう眠れた?」

「ええ。やはり、我が家とはいいものです」

「施設のベッドはちょっと固かったですからね。それに、私達はこのお家が一番落ち着けますし」

 

 桃色の長髪をポニーテールに結わえている凛々しい女性――シグナムは、ザフィーラから新聞を受け取りつつはやての問いに答え、リビングのソファに腰を下ろした。

 一方、金髪でボブヘアーのおっとりとした女性――シャマルは、一度懐かしそうに部屋を見回してから、ダイニングのテーブルに箸や茶碗を並べ始める。

 三ヶ月の時を過ごした施設の環境が悪かったわけではないが、それでも、住み慣れた我が家には敵わないのだろう。かつての日常を思い起こさせる行動をとる二人も、どこか楽しそうにしているように感じられた。

 はやて、リインフォース、シャマルの三人が朝食を盛り付けてテーブルに運んでいると、洗面所からヴィータが戻ってきた。ヴィータは並ぶはやての手料理に目を輝かせつつ、リインフォースから牛乳を受け取る。次いで、リビングにて新聞を広げているシグナムを見つけた。

 

「おい、もうご飯食うんだから、新聞読むのやめろよ」

「お前も朝食の前に牛乳を飲むのはやめたらどうだ? 腹を壊しても知らんぞ」

「あたしゃあそんな軟にできてねーよ。つーか、牛乳も含めて朝ご飯だっつーの」

「屁理屈を語りおって……」

「あん? 屁理屈じゃ――」

「――オホンっ!」

「……すまん」

「…………悪かった」

 

 シグナムとヴィータの応酬が白熱し始めるのを止めたのは、シャマルの咳払いだった。途端、水をかけられたように勢いがなくなる。シグナムは渋々と新聞をたたみ、ヴィータは一瞬悩んでからいそいそと牛乳を飲み干した。ザフィーラがそんな二人の様子を一瞥し、のそりと立ち上がってダイニングへと足を運んでいた。

 ザフィーラの態度にシグナムとヴィータの二人が再び口を開きかけるも、シャマルの視線に気が付いて慌てて閉じる。一連の行動を黙って見守っていたはやてとリインフォースは、顔を見合わせて笑いを堪えていた。

 

「ふふ……さて、今日からはやては学校だ。あまり時間を無駄にさせぬよう。特に、シグナム?」

「ああ、わかっている。付き添いの件だろう? さっきのは挨拶のようなものだ、許せ」

「そうそう、あんくらいは喧嘩の内に入んねーよ」

「まったく、リインフォースは心配性ね」

「シャ、シャマル?」

「こらこら三人共、あんまリインフォースのこと虐めたらアカンよ」

「は、はやて……!」

「リインフォースのこと虐めてええのは私だけなんやから」

「は、はやて……」

 

 からかう対象が次々と変わり、それに合わせて一喜一憂するリインフォース。その表情の変化をはやて達四人が内心で楽しんでいると、一人冷静に時計を見ていたザフィーラの声が上がった。

 

「あまり遊んでいると、本当に遅刻してしまいますよ?」

「ああっ、アカンっ! 皆、はよいただきますするよっ!」

 

 時計に目をやったはやては、そろそろ落としどころと見たのか、慌てた声を作って皆を席に着かせる。皆が椅子に座ると手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。

 それは、かつてと同じような、しかし決定的な違いのある、とある家族の朝の光景だった。

 

 

 

 

 アクセントとなる胸元の赤いリボンを締め、純白のセーラーワンピースに身を包む。はやてが着ているのは、私立聖祥大学付属小学校指定の制服だ。

 これまでは市内にある別の小学校を諸事情から休学していたはやてだったが、復学を機に友人の通う聖祥小学校へと転入する運びとなっていた。前の学校では制服などなかったため、はやては新鮮な気分を味わっていた。

 

「どや、リインフォース? どこもおかしくない?」

「おかしくなどありませんよ。その色合いも相まって、よくお似合いです。ああ、少々、じっとしていてくださいね」

「ん、おおきに」

 

 リインフォースの手が伸びてきて、襟元のずれを直していく。着替えた際に乱れたらしいはやての髪に手櫛を入れると、満足そうに頷いていた。

 はやては礼を言いながらスカートの皺を伸ばし、煉瓦色の鞄を受け取って膝の上に置く。身支度が整うと、リインフォースに車椅子を押されて自室を出た。

 リビングに出ると、はやての着替えを待っていたシグナム達が、制服姿に次々と称賛の声を上げた。これまでシグナム達といる間は、学校に通うことも、もちろん制服に身を包むこともなかった。シグナム達の気持ちはわからないでもないが、嬉しくは思いつつも気恥ずかしさの勝るはやてだった。

 保護者として同行するシグナムが紺色のスカートスーツ姿であったため、はやてはからかう対象を何とかそちらに移そうとするが、話題はなかなかそれてはくれない。五人が裏で結託していることを悟り、小さく頬を膨らませた。

 

「あーあ、はやて怒っちゃった」

「別に。怒ってなんかあらへんもん」

「そうですよね、はやてちゃんは照れてるだけですもんね?」

「照れてもないっ! もうっ、はよ行くよ、シグナム!」

「ふふ、わかりました。どれ、リインフォース、代わろう」

「ああ、頼む。道中、お気をつけて」

「はやて。何かあれば、すぐに我らをお呼びください」

「ザフィーラは心配しすぎや。学校で危ないことなんてあらへんよ。すずかちゃん達もおるし、大丈夫。……こっそり付いて来たりしたらアカンよ?」

「ええ、迷惑になるようなことはしませんとも」

 

 シグナムがリインフォースから車椅子のハンドルを受け取っている横で、すっかり過保護になってしまったザフィーラが身を案じてくる。はやてはザフィーラの頭を撫でながら、心配ないと言い聞かせた。

 ザフィーラに一言釘を刺し終えると、シグナムが車椅子を押し始める。外に出れば、まだ肌寒い風が吹いてはいるが、春の暖かい日差しを感じられた。

 はやてが後ろを振り返れば、家族全員が玄関先で見送りをしてくれている。はやてが学校に行っている間、昨日のうちに終わらなかった残りの掃除やら買い出しやらを任せることになるが、何も心配は要らないだろう。最初の頃に比べれば、誰もが驚くほどに成長しているのだから。

 

「ほな、いってきます」

 

 懐かしさを感じつつはやてが言うと、手を振りながら、声を揃えて「いってらっしゃい」と返された。はやては手を振り返し、前を向く。随分と久しぶりの登校に、少なからず緊張を覚えた。

 はやては緊張を紛らわすように、ゆっくりと進む景色を眺めた。

 約三ヶ月の間、海鳴市を離れていたわけだが、住宅街である中丘町にはあまり大きな変化は見られない。街に出ればまた変わってくるのだろうが、少なくとも、はやての地元は元のままだった。

 はやてを取り巻く環境は、驚くほど変わってしまったというのに。

 

「これが桜の花ですか。話に聞いていたとおり、風情があって美しい」

「ん、ああ、シグナムらは見るの初めてやったね。春に花咲く、出会いと別れの花なんよ」

 

 公園に八分咲きの花をつける桜を見止めたのか、それとも明るい話題が欲しかったのか、シグナムが話を振ってくる。悪いと思いつつもその心を探ると、後者であることがわかった。

 生活環境のまったく違う間はそうでもなかったが、この街では、どうしても思い出してしまうのだ。

 光り輝いていたあの日々を。

 愛しい人の優しげな笑顔を。

 今朝、誰もが普段よりも明るい振る舞いを装っていたのは、久しぶりの我が家だからだけではなく、その場所が最も記憶を刺激するからだろう。我が家は、最も長い時間を彼と過ごした場所なのだ。

 目を閉じずとも在りし日を思い出し、その姿を幻視できるほどに。

 はやてやシグナムよりも背が高く、細くは見えるが頼り甲斐のある大きな身体。はやてと同じ栗色の髪に、一目でお人好しとわかる顔立ち。優柔不断に見えて、けれども、誰よりも強い意志を内に秘めていた青年。

 はやての従兄にあたる、兄妹も同然に育った人物――八神(やがみ)颯輔(そうすけ)

 シグナム達が現れる前まで、足の不自由なはやては颯輔と二人暮らしだった。颯輔は両親を事故で亡くし、はやての両親に引き取られることとなる。その後間もなくしてはやてが生まれ、そして、物心がついたあたりではやての両親も事故で亡くなってしまう。間に現在の保護者であるギル・グレアムとの短い生活を挟むものの、以降は、颯輔と二人きりだった。最初の頃はヘルパーを雇っていたが、他人が生活圏に入ってくるのをはやてが嫌い、颯輔一人きりではやての面倒を見てきたのだ。

 その環境が変わったのは、去年の6月4日、はやての九回目の誕生日のことだった。インテリアとして飾っていた鎖で厳重に封がされた茶色のハードカバー、闇の書。その封が解け、深紫の光と共にシグナム達が現れたのである。

 『剣の騎士』シグナム。

 『鉄槌の騎士』ヴィータ。

 『湖の騎士』シャマル。

 『盾の守護獣』ザフィーラ。

 主の命令に従順で、命を投げ出すことすらいとわない僕。かつてベルカの世界にその名を轟かせた、無双の戦士。次元の海に広がる世界の魔法と呼ばれる技術で、プログラムが人の形をとった者。それが、シグナム達――守護騎士(ヴォルケンリッター)だった。

 シグナム達によれば、はやてと颯輔の二人共が、彼女達の仕えるべき闇の書の主だという。魔導師と呼ばれる人間の持つ器官――リンカーコアから魔力の蒐集を行い、白紙である闇の書の頁を全て埋めれば、絶大な力を得られるというのだ。

 だが、はやても颯輔も力を望まなかった。望んだのはただ一つ、温かな家族だった。

 それからは、奇妙な構成の家族生活が始まった。はやてと颯輔は戦うことしか知らなかったシグナム達にこの世界の常識を教え、そして何より温もりを与えた。まるで奴隷のように感情を忘れてしまっていたシグナム達も、徐々に人間性を取り戻していった。

 寝食を共にした。

 一緒に街に出た。

 皆で花火を観に行った。

 温泉地へ家族旅行もした。

 それは、これまではやてが生きてきた中で、最も楽しい時間だった。

 しかし、不幸というものは突然襲ってくる。闇の書がはやてと颯輔に与えたのは、温かな家族だけではなかった。幸福の代償を求めたのだ。

 闇の書は、その内に致命的な欠陥を抱えていた。長期間魔力の蒐集がなければ、魔力を求めて主のリンカーコアを侵し始める。それは、放置すれば死に至る病も同然のもの。そして、はやての下肢麻痺の原因でもあった。

 最初に侵食に気が付いたのは、颯輔の方。後にはやても侵食を受けていることが判明し、颯輔達は蒐集を決意した。望まぬ死を回避するため、罪を犯すことを選んだのだ。はやてにだけは、何も告げぬまま。

 罪を犯す者がいれば、裁く者もいる。蒐集を進めるうちに、次元世界の法を守る時空管理局を呼び寄せてしまう。できるだけ交戦は避け、それでも時にぶつかり合い、颯輔達は蒐集を続けた。

 そんな中、闇の書の管制人格である融合騎が起動する。管制人格が颯輔に語ったのは、衝撃の真実だった。

 闇の書が完成しても、その先に未来はないこと。完成した闇の書は主をその内に取り込み、魔力が尽きるまで破壊を続けてしまうとのことだった。そして、魔力が尽きれば新たな主を求めて転生してしまう。未来永劫に渡って破壊と再生を繰り返す、呪いと称すべきもの。シグナム達は知らなかったが、その呪いこそが、闇の書と呼ばれる所以だったのだ。

 真実を知った颯輔達は、足掻いた。闇の書の記憶を暴き、その構造を調べ、呪いの原因と解決方法を探った。そして、一つの答えに至ったのだ。

 呪いの原因は、闇の書の防衛プログラムであるナハトヴァールの暴走。解決方法は、ナハトヴァールを制御して暴走を抑えるというもの。制御できる可能性があるのは、ナハトヴァールに同調するほどに近しい魔力資質を持つ、颯輔ただ一人だった。

 ついに全ての頁が埋まり、管理局と対峙する中、闇の書の封印が完全に解かれる。颯輔がナハトヴァールを制御しようとしたが、しかし、待っていたのは残酷な結末だった。

 颯輔はナハトヴァールの制御に失敗し、生体融合を果たしてしまう。侵食対象が完全に颯輔に移ったことではやては救われたが、颯輔を身代りにしてしまったのだ。

 呪いが解けて本来の姿を取り戻した魔導書――夜天の書を手に、はやてはシグナム達と共に運命に立ち向かった。その隣には、はやての友人であり管理局員でもあった少女達の姿もあった。底の見えない強大な魔力を振るう闇の書の暴走体との戦闘は、熾烈を極めた。

 遂に暴走体の核を発見し、それを砕いたとき、小さな奇跡は起きた。颯輔の意識が戻り、人の姿を取り戻したのだ。五分にも満たない、一時の間だけ。

 颯輔は語った。今は一時的に暴走が停止しているだけにすぎないこと。核の修復が終われば、また暴走を始めてしまうこと。核を破壊しない限り、永遠に暴走を続けてしまうこと。そして、完全に融合を果たしてしまった颯輔と闇の書の核を切り離すことは、不可能であること。

 はやて達と約束を交わし、颯輔は闇の書の呪いを一身に引き受けてこの世から消滅してしまった。それが、去年のクリスマス・イヴの出来事。

 その後、颯輔との約束を果たすため、はやてはシグナム達と共に罪を償うことを選んだ。裁判の結果、事情を鑑みられて重い罪には問われなかったが、それでも、向こう十年は管理局に奉仕活動をすることとなった。

 第1管理世界ミッドチルダにある隔離施設で更生プログラムを受講し、それを終えて地球に帰って来たのは、つい先日のこと。はやて達は、ようやく未来への一歩を踏み出したのだ。

 

「なんや、あっという間やったね。あと二ヶ月もしたら、シグナム達と()うて一年かぁ」

「ええ、まったくです。そうしたら、はやての誕生日も祝わなければなりません」

「家族記念日もな。今年はすずかちゃんにアリサちゃん、フェイトちゃんになのはちゃん、それから石田先生も! 皆のこと呼んで、ご馳走作らなアカンね」

「賑やかになりそうですね。……しかし、レティ提督に休暇を出してもらえるでしょうか? 正式に配属されたら、息をつく暇もなくなりそうです。さらには、聖王教会や本局の技術部も訪ねなければなりません」

「うー……そやっ、どうしてもダメやったら、グレアムおじさんにお願いしてみよ?」

「これはまた強引な……。おそらく対応はしてもらえるでしょうが、あまり迷惑をかけてはいけませんよ。あの方も今はお忙しいでしょうし、何より、こちらの心象が余計に悪くなってしまいます。皆でケーキを作ったりは難しいかもしれませんが、食事を共にすることは可能でしょう」

「そやけど……」

「大丈夫ですよ。そう焦らずとも、きっとまだ時間はあるはずです」

「…………うん」

 

 上から降ってくる諭す様な物言いに、はやては力なく言葉を返した。はやてがこれまでに経験した別れは、両親と兄の二度。三度目の別れは、そう遠くない未来にまで迫っているはずだった。

 落とした視線の先には、鞄の上で握られている小さな拳がある。ふと想像してしまったその時に、緩くなった涙腺から涙が零れ落ちそうになった。

 弱気になってはいけない。

 はやては固く目を瞑り、薄らと溜まった涙を外に追い出す。制服の袖で涙を拭うと、努めて明るい笑顔を作った。

 

「うん、そやね。何だったら、別な日にお祝いすればええだけやもんね」

「はい。……それに、もうしばらくはゆっくりとしていられます。正式配属は来週からですから」

「うん……。でも、まだ小学生やのにお仕事かぁ。どっちつかずで家のことも疎かになりそうや」

「私達はともかく、はやてはそこまで心配せずとも大丈夫ですよ。テスタロッサ達も、基本は週末に出勤しているようですから。稀に平日にも急な呼び出しはあるようですが、それでも、大抵は放課後まで待ってもらえるそうです」

「そういやビデオメールでそんなん言うてたなぁ……。はぁ、そやけど、どっちみち忙しくなりそうやね」

「無論、できる限りは私達でカバーしますとも。はやてはリハビリもありますからね」

「嬉しいけど、あんま無理したらアカンよ?」

「できる限り、です。ですから、まずは本日の学業に専念するよう。さぁ、学校が見えてきましたよ」

 

 言われて前を見れば、三階建てでライトイエローの建物が目に付いた。聖祥小学校である。新しく大きな校舎が、スロープを登った先に堂々と構えている。決して古くはなかった前の学校が見劣りしてしまうほど、立派な外観を誇っていた。

 不安と期待が入り混じった心境のはやてを余所に、シグナムはずんずんと車椅子を押して行く。登校時間とは被っていないため、道中に児童の姿は見られなかった。

 児童用の昇降口を通り過ぎ、その奥の職員玄関へ。シグナムに車椅子のタイヤを拭いてもらい、内履きに履き替えると、いよいよ校舎内へと踏み入れた。

 職員玄関のすぐ隣、事務室に控えていた事務員の案内に従い、十分に広い廊下を進む。教室が遠くて喧騒が聞こえないためか、はやては海鳴大学病院の廊下を思い出していた。

 職員室に着くと廊下で待たされ、事務員が教員を呼びに行った。ほどなくして現れたのは、色素の薄い黒髪の女性。声を聞くと、電話口で話したはやての担任となる教員だとわかった。

 シグナムも含めて軽い挨拶を交わし、事前に説明を受けていた諸注意を再度確認する。私立大の付属だけあって設備は整っているのだが、向こうも車椅子利用者を受け入れるのは初めてのことらしい。もっとも、はやての教室や主要な実習室は一階にあり、また、少しだけなら自力で歩き回ることもできるため、はやての方はその辺りに関してそれほど心配していないのだが。

 

「――ええ、はい。では、よろしくお願い致します。はやて、下校の際は連絡を入れるよう」

「ん、了解や。ほんなら、ここまでありがとな、シグナム」

 

 担任との話を終えてこちらに向き直ったシグナムに礼を言う。シグナムは微笑を返し、再度担任に向かって頭を下げると、事務員に付き添われて来た廊下を戻っていった。

 車椅子の押し手を買って出る担任の申し出をやんわりと断り、手元のリモコンを操作して担任に付いて行く。純粋な厚意からとはいえ、慣れない人物にハンドルを任せるのは憚られた。任せてもいいと思える人物は何人かいるのだが、今のところ、はやてが車椅子の押し手を許しているのは、家族とはやての担当医のみである。

 軽い談笑を交わしながら進み、四年A組の教室の前で止まる。担任が先に入っていき、はやては少しだけ廊下で待たされることとなった。

 鼓動が速くなる。教室からは、児童達の歓声が聞こえてきた。

 教室の扉が開き、笑顔の担任に入室を促される。はやては一度深呼吸をすると、意を決してリモコンを前へと倒した。

 教室は水を打ったように静まりかえり、車椅子のモーターの駆動音がはっきりと耳に入ってくる。ちらりと右を見ると、黒板に書かれた『八神はやて』の文字が目に付いた。

 教卓の傍まで行って車椅子を回転させ、向きを変える。おおよそ六十の瞳が、はやてへと向けられていた。

 当たり障りのない笑顔を浮かべ、はやては口を開く。

 

「今日からこのクラスにお世話んなります、八神はやていいます。ちょう変な話し方やったり、車椅子やったりしますけど、どうぞよろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げると、大きな歓声と拍手が巻き起こった。照れ笑いと共に見回した明るい教室の中に、はやては三ヶ月振りの再開を果たす四人の少女達の姿を見つけたのだった。

 

 

 

 

 四時間の授業を終えれば昼休み。授業合間の休憩のほぼ全てを質問攻めで費やされたはやてにとっては、ようやくの真面な休憩時間だ。聖祥小学校の昼食は給食ではなく弁当で、周りを見ると、仲のいいグループで机を寄せ合い集まっている。車椅子故に最後列となったはやての所では、四人の少女が弁当を広げていた。

 

「さすがに、お昼休みにまで取り囲む連中はいないみたいね」

 

 質問攻めをされた本人よりも疲れたように言うのは、色素の濃い金髪の勝気そうな少女。委員長気質というよりかは頼れる姉御分と称した方が正しい気がする、アリサ・バニングスだ。転校生が囲まれる度に助けに入っているらしく、はやても今日は随分と助けられた。

 

「うーん、でも、お弁当食べ終わったらまた来ちゃうかも?」

 

 アリサの物言いに苦笑いで応じたのは、艶のある紫の長髪にヘアバンドが印象的な少女。聖祥小学校では初めての友達である、月村すずかだ。もっとも、はやてとすずかの出会いは転校よりも前のことで、去年の十二月からの付き合いだった。

 

「やっぱり目立っちゃうからかな、いっぱい質問されてたね」

 

 あれは大変だよね、と言いたげに頷いているのは、金の長髪を黒いリボンでツインテールに束ねている少女。はやてよりも先、去年の内にクラスに転校してきた、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンだ。地球ではイタリア人という設定にしているため、当時は車椅子のはやて同様、席を立つこともままならなかったそうだ。

 

「でも、転校生が来たら、誰だってお話聞きたくなっちゃうよ」

 

 クラスメイトのフォローに回っているのは、明るい茶髪を白いリボンでツインテールに束ねている少女。すずか達よりも少しだけ遅れて友達となった、高町なのはだ。直接交わした言葉は少ないが、施設にいる間にフェイトと交換していたビデオメールでは四人揃って映っていたため、今ではもう気兼ねなく話すことができる。

 

「賑やかなのは大歓迎やけど、車椅子いじられるのには困ったなぁ。皆が近くにおってくれてホンマに助かったわ。皆、おおきにな」

「お礼なんていいわよ。それくらい当然のことなんだから」

「にゃはは、アリサちゃん照れ隠ししてるー」

「うっ、うっさいわね、そんなんじゃないわよ! あれもクラス委員の仕事なんだから!」

「そうだよね、アリサちゃんはお仕事しただけなんだもんね」

「何か言いたそうね、すずか……」

「そうだ、あの時はありがとう、アリサ。私も助かったし……うん、嬉しかったよ」

「い、いいい今更何言ってんのよフェイト!」

「アリサちゃんはかわええなぁ」

「あんたらは可愛くないわね!!」

 

 真っ赤になってしまったアリサは、黙々と箸を動かし始める。少々からかいすぎたか、とも思ったが、他の三人の様子を見るとそうでもないらしかった。

 すずかとなのはは微笑ましく見守っており、フェイトだけはきょとんと首を傾げている。仲良し四人組の輪に入れたことが嬉しくもあり、また、少しだけ申し訳なく思うはやてだった。

 今のはやては、まだ誰かの介助を必要としなければならない。家ならばまだ家族がいるが、学校ではそうではない。四人共が思いやりのある心の持ち主とはいえ、そこまで迷惑はかけられないだろう。今現在にしても、いつもは屋上で摂るらしい昼食の場所を教室にしてもらっているのだ。五年生になる頃には自力で走ることも可能となるらしいが、なるべくその時期を早めたかった。

 

「そういえば、はやてちゃん、髪伸ばしてる? ビデオだとよくわからなかったけど、去年よりも長くなってるよね?」

「ん、ちょう伸びたかな。後ろの方、しばらく伸ばそうかと思っとるんよ」

「えー、ショートも可愛いかったのに」

「なんか、大人っぽくなったね。でも、どうして伸ばそうと思ったの?」

「んー、皆伸ばしてるし、それに、願掛けっちゅうか、なんちゅうか……」

「お願い事?」

「うん。でも、ごめんな、内容は誰にも秘密なんよ」

 

 フェイトの問いに、はやては襟足を撫でつけながら答えた。

 古来より、長い髪には神秘的な力――魔力や霊力が宿るという。もちろんそれは地球のオカルトで、科学の一系統でいう魔法から見れば、何の意味も成さない。

 もう一つだけ心掛けている、魔力の節約ならば大きな意味を持つのだろうが。

 はやてがベルカ式魔法の真骨頂――魔力による身体強化を日常生活では使わず、未だに車椅子に頼っているのも、その願い事の成就のためだった。

 何かを察してくれたのか、あっさりと退いてくれたフェイト達に感謝しながら、はやてもおかずの卵焼きを口に運ぶ。すると、今まで黙々と食事に集中していたアリサが箸を置き、咳払いをしてから宣言するように言った。

 

「あー、おほん。今週末、お花見を開催したいと思います。はやて、あんたはまだお仕事始まってないんでしょ? なのはにフェイトんとこも空いてるらしいから、はやてにシグナムさん達も呼んで、大勢で集まろうって話してたんだけど……」

「五家族揃って賑やかに楽しみたいなって。土曜日がいいなって思ってるんだけど、都合つくかな?」

「ホンマにっ? あー、うー……うん、大丈夫! 細々とした用事は日曜日に後回しや!」

「ひょっとして忙しかったかな……? ごめんね、翠屋のお休み、土曜日にしちゃってたから……」

「うちも、来週から配属される新人さんの研修準備で日曜は忙しいらしくて……」

「ああ、心配せんでもええよ。元々、土日のどっちか顔出せばええって話やったから」

 

 申し訳なさそうに眉根を寄せるなのはとフェイトの二人に、問題ないと告げる。聖王教会や管理局の技術部に所用があったが、どちらもこちらの都合のつく時に訪ねてくれればいいとのことだった。花見をしたことのないシグナム達も楽しめるだろうし、はやてに断る理由などなかった。

 何気なく仕事の話をしたが、四人共が、はやて達の事情を知ってはいた。すずかとアリサは一般人だが、なのはとフェイトに至ってははやて達の先輩である。二人共が時空管理局に所属する魔導師で、去年の『闇の書事件』にも立ち会っていた。

 地球は魔法文化のない管理外世界。そのため管理局の存在も科学としての魔法も知られていないはずだが、すずかとアリサの二人になのはの家族、それからはやての担当医にだけは、その存在を明かしていた。

 

「よし。じゃあ、詳しい内容は夜にでも連絡するから……あ、携帯はもう使えるのよね?」

「うん、昨日のうちにお店行ってきたから、大丈夫やで」

「ビデオメールだと直接お話しできなかったもんね……」

「外出もできひんかったし……ここだけの話、ちょう退屈やったかも。向こういる言うても、フェイトちゃんにもなのはちゃんにも会えへんし」

「さすがに施設までは連れて行ってもらえなかったんだ……ごめんね、はやて」

「ええよええよ、リインフォース達もおったし、それに、やらなアカンことはいっぱいあったから」

「魔法の勉強とかしてたんだよね? どんなことしてたか、聞いても大丈夫?」

「うーんと、最初は向こうの法律とかで――」

 

 弁当を食べ進めながら、施設で体験した話せる限りのことを話していく。登校初日の昼休みは、緩やかに過ぎていった。

 

 

 

 

 学校を終えて帰宅し、家族との夕食の時間を楽しんだはやては、リインフォースと共に一階にある自室にいた。ベッドの上に向かい合って座り、リインフォースと両手を繋いでいる。二人の足元には、白銀の光を放つ中央に剣十字を配した三角形――ベルカ式の魔法陣が展開されていた。

 はやては一日を通して蓄えていた魔力を、夜天の書の融合騎(ユニゾンデバイス)であるリインフォースへと供給する。胸の奥にあるリンカーコアが静かに脈打ち、魔力がはやての腕を伝っていった。

 しかし、流れ込んだ魔力はリインフォースのリンカーコアへと貯蓄されつつも、その大半を供給の過程で損失してしまっていた。はやての技術不足ではない。リインフォースのリンカーコアがすでに満たされているわけでもない。それは、リインフォースの負っている致命的なダメージによるものだった。

 リインフォースは夜天の書の管制人格であり、魔導書そのものと言ってもいい存在だ。致命的なダメージとは、魔導書の構造的欠陥のことだった。

 闇の書事件の際、リインフォースは暴走を始めるナハトヴァールを自身から切り離した。ナハトヴァールは夜天の書の防衛プログラム。ナハトヴァールを切り離すことは、半身を裂くにも等しい行為だった。

 しかし、それだけならば、新たな防衛プログラムを作り出せばいいだけのこと。それができないでいるのは、切り離す際、ナハトヴァールに夜天の書の動力部を奪われてしまったためだ。

 動力部を失えば、夜天の書が消滅するのも時間の問題だ。リインフォースが未だにその躯体を保っていられるのは、はやてが魔力を供給しているためだった。

 しかし、それでも徐々に限界は近づいてきている。リインフォースが貯蓄できる魔力は、時が経つにつれて少なくなっていった。今のリインフォースには魔法の力などほとんど皆無で、主であるはやてと融合(ユニゾン)することはおろか、初歩の初歩である思念通話すらもできない。躯体を維持することだけが、リインフォースに許された精一杯のことだった。

 

「…………っ」

「あっ、ごめん、リインフォース! 大丈夫やったっ!?」

「ええ、大丈夫ですよ。少々、痛みを感じてしまっただけです」

 

 魔法陣が消失する。底の抜けた桶を満たそうとするかのような感覚に焦れてしまったらしい。一度に流す魔力量を増やしすぎて、リインフォースの身体が耐えられなかったようだった。

 はやての貯蓄できる総魔力量は、管理局員の中でも最上位に食い込むほどだ。しかし、それほどの魔力を持っていても、主となって手に入れた夜天の書の膨大な知識を持ってしても、リインフォースの消滅を覆すことはできない。

 夜天の書は、失われた技術で造り出された古代遺失物(ロストロギア)。動力部の構造はリインフォースすら把握できていなかった完全なブラックボックスであり、代替を探すことさえできなかった。

 

「ごめんな、リインフォース……ほんまに、ごめんな……」

「いいえ、お気になさらず。はやての温かい心は、十分に伝わっていますから」

 

 頬を伝い落ちた涙が、繋いだ手を濡らす。そこから離れたリインフォースの手が、はやてをそっと引き寄せた。はやてはそれに従い、リインフォースの背中へと腕を回す。リインフォースの胸からは、静かに刻まれる鼓動が聞こえた。

 リインフォースの細い指先が手櫛となり、はやての髪を梳かしていく。その手つきは、今はもう感じることのできない颯輔の手櫛によく似ていた。

 兄の温もりが恋しくて、何もできない自分が情けなくて、はやては唇を強く噛み締め、声を押し殺して涙を流した。

 以前は体を杭で打たれるような痛みにも耐えることができたのに、笑顔の仮面を被り続けることができたのに、今のはやてにはそれができない。はやてのすすり泣く声が、夜の静寂に響いていた。

 

「大丈夫ですよ。はやてには、シグナム達がいます。心を許せる友人もできたではありませんか」

「リインフォースもおらんといやや……」

「ええ、いつでもお傍に控えておりますとも。躯体が消えても、私のリンカーコアは貴女に融けてゆくのですから」

「いやや……!」

「困りましたね……。空が泣いては、雲が黒く染まってしまいます。そうなっては、せっかくの美しい夜天が台無しですよ」

「そんなんちゃう、わたしは……!」

 

 家族も救えない力などいらない。

 家族も救えない者には、他者を救う資格すらない。

 足りないのだ。

 夜天の王の魔力では。

 夜天の王の知識では。

 弱いはやてが望むのは、王をも超える魔力と知識。

 大切なものを護り抜くことのできる、運命さえも覆すことのできる力。

 幼き王の渇望が、世界と世界を繋いだとき――

 

「――っ!?」

 

 リインフォースの、驚愕に息を飲む音が聞こえた。

 しかし、はやては何もしていない。

 はやても同様に、その光景に目を奪われているのだから。

 

「この魔力は……!」

 

 部屋の床に描かれているのは、ベルカ式の魔法陣――漆黒の光を放つ、転移魔法陣。

 それは、在りし日に見た光景。

 王と騎士とが出逢った、はやてが掛け替えのない家族を得た、あの日の光景(デジャヴ)

 波打つ金の長髪に、西洋人形のように整った、しかし幼い顔立ち。純白の装束に、揺らめく炎のような紋様の入った馬乗袴。

 八神颯輔と同じ魔力光を放つ魔法陣と共に、その少女は現れた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 願いの欠片

 

 魔法を行使する魔導師や騎士は、相手の発する魔力波長によってその存在を認識することができる。聴覚が音を感知するように、リンカーコアによって魔力を感じ取るのだ。この魔力波長は個々によって異なり、それが完全に一致することはない。

一卵性双生児の容姿が似通うように、魔力波長が似通っているというケースは過去にも報告されてはいる。しかし、例え一卵性双生児であろうとも、どれほど精巧なクローンを生み出したとしても、指紋や声紋のように、それが完全に一致することなどあり得ない。

 だが、似通った魔力波長を持つ者達が存在することもまた事実。そういった場合、魔力波長を由来とする魔力光も似通った色となる。魔力波長が近ければ近いほど、魔力光も同色に近づくのである。

 例えば、ギル・グレアムの使い魔であるリーゼロッテとリーゼアリアの双子の姉妹。彼女達の魔力光はほとんど遜色のない青色同士で、目視によってその差を見分けることは不可能だった。

 当然、容姿の似通った赤の他人が存在するように、まったくの別人でも魔力光が似通うケースはある。シャマルにリンディ・ハラオウン、そしてユーノ・スクライアと、同系統の魔力光を持つ者が三人も集うという非常に稀有な出来事もあった。

 これまでの体験から考えれば、似通った魔力光を持つ者と出会うことなどさして珍しいことではないのかもしれない。しかし、それはあくまでも魔力光が似通っているというだけの話だ。デバイスなどの機器によって分析をすれば、その差異は明確な数値となって現れる。

 目視ではどれほど同じ色に視えても、魔力波長の違いを誤魔化すことなどできない。永きに渡って魔法の収集を続けてきた夜天の書の記録にも、完全に同一の魔力波長を持つ存在は確認されなかった。

 だが、リインフォースとはやての目の前に現れた少女はどうだ。

 リインフォースの視覚が捉えるのは、忘れる事などあろうはずもない漆黒の魔力光。

 そして、壊れたリンカーコアが告げる事実がもう一つ。

 例え躯体を保つことが精一杯でも、それだけは間違えることはない。

 なぜならその魔力波長は、かつてリインフォースと共にあったはずのものなのだから。

 

「はやてっ! リインフォースっ!」

「何事だっ!」

 

 部屋の扉が勢いよく開かれ、騎士甲冑を展開したヴィータとシグナムの二人が飛び込んできた。しかし、デバイスを構える二人は、部屋の状況に険しかった顔を困惑のものへと変える。突然の来訪者には、敵意どころか意識すらなかったためだ。

 転移魔法陣が消失した途端、少女の身体がぐらりと傾いた。シグナムが飛び出し、咄嗟にその小さな体を支える。シグナムの腕の中でぐったりとしている少女は、死んだように眠っていた。

 混迷する状況の中、リインフォースは腕の中に微かな震えを感じた。見れば、はやてが少女に視線をやったまま、リインフォースの服を握った拳を小さく震わせていた。

 

「いったい何があった?」

「転移してきたのはその子? いったいどうやって……」

 

 人間形態となって騎士甲冑を展開したザフィーラと、同じく騎士甲冑を展開したシャマルが顔を出す。敷地内を覆い隠すように常時発動型の防御結界を張っているシャマルは、特に険しい顔をしていた。

 はやて達の情報は特秘事項として扱われているが、闇の書に恨みを持つ者達の襲撃を警戒し、自宅を守る防御結界だけは張り直している。それを壊さずに抜いて転移できるのは、結界に設定された暗証コードを知っているはやて達のみ。そのはずが、少女は難なく屋内へ――それも、結界の深奥であるはやての部屋まで――転移してきたのだ。意識を失っているとはいえ、警戒を解けるはずがない。

 

「はやてから魔力供給を受けていたとき、突然その少女が転移してきたのだ。見てのとおり、私達は無事だが……」

「どっかの誰かが仇討ちに来たってわけでもねーみてーだな」

「後続はなく、この子も意識を失ったままだ。その可能性は低いだろう」

「だが、どうやってシャマルの結界を抜いた? ギル・グレアムや聖王教会の者であろうとも、破壊せずに直接転移することは不可能なはずだ」

「暗証コードは管理局にも伝えていないし……。それに、その子の魔力波長は……」

「ああ、間違いない。これは、ナハトの……闇の書そのものの魔力波長だ」

 

 そう。少女から感じる魔力波長は、もうこの世には存在しないはずのナハトヴァールのもの――正確には、ナハトヴァールが取り込んだ夜天の書の動力部が供給する魔力の波長と同一のものだったのだ。

 シグナム達が息を飲み、はやてが身を固くする。

 それものそのはず。夜天の書の動力部を取り込んで暴走したナハトヴァールは、颯輔と共に対艦反応消滅砲――アルカンシェルによって蒸発したはずなのだから。その後一月に渡って消滅地点および周辺世界を警戒したが、暴走体の再生は確認されず、二次災害なしに事件は終息したはずだった。

 そのはずが、これだ。

 今になって現れた少女の存在が新しい生活を始める自分達を否定し、それによって足場が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 

「リインフォース……」

「はい」

 

 名を呼ばれ、リインフォースははやてを見る。そこにあったのは、リインフォースのよく知る目だった。

 内に悩みを抱えながら、心に迷いを秘めながら、それでも前へと進もうとする目。優柔不断で弱さを孕んだ、しかし、強い決意を宿した目だ。

 漆黒の魔力光。

 それがはやてに連想させるのは、たった一人の人物だ。未だに心から求めて止まないその人物のためならば、はやてはきっと、どんなことでもしてみせるだろう。

 だが、はやてが下そうとしている決断は、きっと今のリインフォースにとっては負担となってしまうこと。はやてから十分な魔力供給が受けられなくなれば、それはイコールで死に繋がってしまうのだから。

 それ故の、迷い。

 その弱さと優しさは、やはり、よく似ている。

 はやての机の上に目を向けてみれば、そこには、はやてとリインフォース達に多大な影響を与えた人物の写真があった。ナハトヴァールに適合する魔力資質を持っていた人物――八神颯輔。はやてとリインフォース達を救った、そして、はやてとリインフォース達が救うことのできなかった、もう一人の(家族)

 

「あんな……」

「……はやて。私はまだ大丈夫です。貴女に授かった命が、この胸に宿っていますから」

 

 はやてに供給された魔力は、その大半を霧散させながらも、確かにリインフォースのリンカーコアに蓄えられている。もしも限界が訪れたとしても、ただ黙って消滅するつもりなど、リインフォースにはさらさらなかった。

 二人の主によって与えられた自由を、一秒でも長く生きていたい。

 

「はやて。私はもう貴女の翼となることは叶いませんが、夜天に吹く風は、そして、夜天を揺蕩(たゆた)う雲は、常に貴女と共にあります。貴女の信ずる道ならば、我らに迷いなどありません。もしも貴女が道を違えたそのときは、我らが正してみせましょう。ですから貴女は、貴女の心の赴くままにお進みください」

 

 しかし、足枷にだけはなりたくない。自身の存在によってはやてが歩みを止めるなど、あってはならないのだ。

 はやての人生は、まだまだ始まったばかり。その先には、無限の可能性が広がっているのだから。

 

「……おおきにな、リインフォース」

 

 リインフォースの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じたはやて。そして、開いたその目には、強い光が灯っていた。

 はやてが服の下、胸元から取り出したのは、チェーンの取り付けられた黄金の剣十字。夜天の書(リインフォース)の代わりとなってその歩みを支える、蒼天の書(新たなるデバイス)だ。

 

「蒼天の書、起動」

《Anfang.》

 

 はやての姿が白銀の魔力光に包まれる。光が解けた中には、騎士甲冑に身を包んだ凛々しい姿があった。はやて達が考えたシグナム達の騎士甲冑を基に、リインフォースが意匠を施したものだ。その手には、夜天の書が収集した魔法をコピーした、新たな魔導書があった。

 夜天を淡く照らし出す、清廉な白。その身に宿した強大な魔力が、はやてを地に縛る鎖を解いていく。リインフォースの腕から抜け出すと、はやてはゆっくりと立ち上がった。

 はやてが蒼天の書を開き、探知魔法を発動させる。少女の転移魔法の痕跡から、転移元の世界を割り出しているようだった。少女が話をできる状態にない以上、危険を伴いはしてもそうすることでしか情報は得られない。

 

「シャマルはリンディさんに連絡して、その子は一旦アースラに預けよか。それまでは、私のベッドに寝かしといてええからな」

「わかりました」

「シグナムはシャマルと一緒にその子に付いとってな。目覚ましたときにもし暴れても、怪我だけはさせんように無力化すること」

「はい」

「ヴィータとザフィーラは、私と一緒。その子の転移元割り出して、様子見に行くよ。あんまいいことちゃうけど、緊急事態っちゅうことにしよか」

「うん」

「心得ました」

 

 はやての出す指示に、シャマル達が頷き了承を示していく。その年齢にそぐわぬ姿は、夜天の書が与えた知識によるものだ。

 主たる姿を見られるのが嬉しく、同時に、主たる姿をさせてしまうのが心苦しくもある。はやてを見守るリインフォースの心境は、複雑なものだった。

 もしも自分達の存在がなければ、はやては年齢どおりの子供のままでいられたはずで――

 

「リインフォース」

「――はい」

「リインフォースは一応、シグナムにシャマルと一緒に行動してな。一人でここにおったら、何かあったとき危ないから」

「はい。シグナム達と共に、はやて達の帰りを待っていましょう。どうか、お気をつけて」

「ん。ヴィータとザフィーラおるし、それに、あんま危ないことはせんから、そんな心配あらへんよ」

「そうそう、あたしらが付いてっから大丈夫だって」

「ヴィータ、はやての傍から離れるなよ。ザフィーラ、何かあったときは……」

「わかっている。手に負えんようならば、すぐに離脱させよう」

「こっちも事情を説明し終えたら、武装隊を出してもらえるようお願いしてみますね」

「ん。悪いけど、それまで先に怒られといてな」

 

 違う。そうではない。

 過去の改変など、どのような魔法を使ったところで起こり得ない。

 

「……解析完了、と。転移元の座標は――」

 

 だから、過去(これまで)にも勝る未来(これから)を求めるのだ。

 

「――第76無人世界……エルトリア」

 

 それにあたって、まずは過去の清算が必要なようだった。

 

 

 

 

 転移魔法陣が消失する。視界に広がっているのは、荒れ果てた大地と暗い空。吹きつける風が身体を叩き、乾いた空気が喉を干上がらせる。ここは、終わってしまった世界――エルトリア。

 以前にこの場を訪れたのは、去年のクリスマス・イヴのこと。闇の書の暴走体との決戦によって崩れてしまった地形は、無人世界故にそのままにされていた。

 思い起こすのは、初めて見た涙を流す兄の顔。そのときの光景が、はやての心を絞めつけ苦しめた。

 

「はやて、大丈夫……?」

「ん、何でもないよ」

 

 気遣い顔を覗き込んできたヴィータに笑顔を見せ、帽子の上から頭を撫でつける。辛いのはヴィータもザフィーラも同じこと。この選択をしたはやてが迷っていては、示しがつかない。

 ヴィータを撫でつけることで心を落ち着かせたはやては、黄金の杖(シュベルトクロイツ)を展開してから蒼天の書を開いた。

 

「ほな、ちゃちゃっと調べてみよか。ヴィータ、ザフィーラ、警戒お願いな?」

「うん!」

「お任せを」

 

 二人が構えるのを見てから、はやては広域探査魔法を発動させる。その探査領域に合わせたかのように、足元に白銀の大規模魔法陣が展開された。

 はやての部屋に突然現れた少女は、颯輔と同じ漆黒の魔力光を持っていた。同色の魔力光を持つ者はいるにはいるらしいが、シャマルの結界を抜いて現れたのだから、十中八九、闇の書事件に関係する者だろう。その魔力波長にまで覚えがあれば、尚更だ。

 もしかしたら。

 その可能性を未だに捨て切れずにいるはやては、心が求めるがままに探査領域を広げていく。

 少女の転移元の座標は間違いなくこの場所で、実際に同一魔力の残滓もあった。ならば、何か必ず手がかりとなるものが見つかるはずだ。人間どころか魔法生物すら存在しないこの世界ならば、それを見逃すことはないだろう。

 数キロ、数十キロと、何も見えない暗がりに感覚の手を伸ばす。魔力を制限するリミッターを課せられているためか、本調子ではない広がりの遅さがもどかしかった。

 五感を閉じて極限までリンカーコアを研ぎ澄ませ、やがて、それを見つけた。

 

「下……?」

 

 魔力反応が一つ、まるで転移でもしてきたかのように、地中深くに突然現れた。

 探査魔法が示す限りでは、その場所に開けた空間などないはずだ。だが、始めは小さかったその反応は、次第に大きくなっていく。

 はやてが疑問を口に出したとき、静まり返っていた大地が急激に暴れ出した。立ってなどいられないほどの揺れが、はやて達を襲う。

 突如発生した大地震の中、褐色の肌の逞しい腕に持ち上げられ、はやての体がふわりと宙に浮いた。

 

「おおきに、ザフィーラ」

「いえ。それよりも、飛行魔法を発動して警戒を。何か、来ます」

「うん。……スレイプニール、羽ばたいて」

 

 はやては三対六枚の純白の翼を展開し、人間形態となったザフィーラの腕から飛び立った。

 眼下の大地がひび割れ、所々が隆起していく。その下から感じる魔力反応は、それほど大きくはない。一般の武装局員を多少上回る程度で、はやて達には遠く及ばないだろう。

 だが、はやては警戒を緩めない。一騎当千の騎士であるヴィータとザフィーラが傍にいようと、いくら大きな魔力を持っていようと、所詮はやては素人。隔離施設で魔法を学び、少しだけ訓練を積んだとはいえ、実戦の経験など一度しかないのだ。

 それに今は、はやてを支えるリインフォースがいない。つまるところ、はやてにとってはこれが初の実戦になると言ってもよかった。

 微かに震える掌で、シュベルトクロイツを握り直す。大丈夫、ヴィータとザフィーラがいる、と自分に言い聞かせた。

 そして、はやての見つめる先、岩盤を押しのけて、それは現れた。

 

「何だ、こいつ……?」 

 

 大きな棘の生えた、赤銅の鱗。その胴体は大型バスどころかビルのように太く、地中にも隠れているだろう全長は、もはや計り知れない。蛇のようにのたうつ体の所々から、先端に鋭い爪を伴った触手が伸びていた。

 

「随分と大きな個体だな……」

 

 地中に潜む竜種の魔法生物――赤竜。

 間接的にだが、はやてもその存在は知っていた。なぜなら、ヴィータ達がリンカーコアを蒐集していた魔法生物の一種だからだ。

 だが、赤竜は砂漠地帯に生息する生物だ。このような固い地層には、ましてや汚染されたエルトリアになど生息しているはずがない。そして、はやて達が目にしているような巨体にまで成長するなど、夜天の書の記録には載っていなかった。

 転移するように現れたことといい、存在しないはずの場所に存在することといい、異常な巨体といい、何かがあることに間違いはない。言葉の通じる相手ならば良かったが、意思疎通の図れない生物から情報を得ることは、なかなかに骨が折れそうだった。

 そして、どうやら相手方にも、はやて達を逃がす気はないようだった。鎌首をもたげ、その濁った目ではやて達の姿を捉えている。てらてらとした粘液に濡れたその咢からは、生々しい湯気が上がっていた。

 

「ちょう大変かもしれへんけど、何とか拘束して解析かけるで。二人とも、行くよ!」

「わかった! あたしが撹乱すっから、はやてとザフィーラで捕まえて!」

《Explosion.》

 

 炸裂音が響いて空の薬莢が吐き出されると、ハンマーフォルムだったヴィータのグラーフアイゼンが変形を始めた。衝角が迫り出し、三つの噴射口からなる推進ユニットが形成される。煌々と燃える噴射口から、紅の魔力光が漏れ出していた。

 

「任せておけ――鋼の軛ッ!」

 

 炎の尾を引いて、ロケットのように飛び出すヴィータ。それと同時にザフィーラが咆哮を上げると、中空に圧縮魔力のスパイクが現れる。対象が大型であるほど静止と無力化に効果を発揮する、ザフィーラの拘束魔法だ。

 赤竜の周囲を飛び交って撹乱するヴィータの姿を視界の端に捉えながら、はやても行動に移っていた。シュベルトクロイツで大まかな目標を指し示しつつ、蒼天の書の頁を捲る。選択したのは、ミッドチルダ式のスタンダードな拘束魔法をベルカ式へと変換したものだ。

 

「チェーンバインド!」

 

 浮かび上がった白銀のベルカ式魔法陣から、十二本の鎖が伸びる。ザフィーラが形成したスパイクも、後を追うようにしてヴィータを狙う赤竜へと降り注いだ。

 鎖が胴に巻きついて赤竜を締め上げ、その動きを制限する。ダメ押しとばかりにスパイクが突き刺さり、赤竜を地面に縫い止め拘束した。

 赤竜にはやて達の魔法から抜け出すほどの力はない。特に抵抗されることもなく、拘束はあっけなく成功した。あとは解析にかけ、何かしらの情報を得るだけ。

 それだけのはずだった。

 

「そんな……!」

 

 突如として捕えていた赤竜の体が霞み、鎖は解けてスパイクからはするりと抜け出される。まるで、実体を持たない幽霊やホログラムのようだ。

 赤流の淀んだ瞳が、真っ直ぐにはやてを捉えた。

 難なく拘束から逃れた赤竜が、今度はこちらの番と蠢く。その巨体からは想像もつかない俊敏な動きを見せて一度地中へと潜り、そして、地表を割って飛び出してきた。

 

「ちっ――このッ!」

 

 真っ直ぐにはやてを狙う赤竜の眼前に躍り出たヴィータが、瞬時にギガントフォルムへ変形させたグラーフアイゼンをその横っ面に叩き込む。赤銅の鱗が砕けて宙を舞い、その進路を変更させることには成功した。

 しかし、それでも勢いを殺すことはできなかった。弾かれた赤竜はすぐさま軌道を修正し、触手も伸ばして執拗にはやてを狙ってくる。その前に立ち塞がったのは、大きな背中を見せるザフィーラだった。

 

「通さんッ!」

 

 両手を大きく広げたザフィーラが、群青色の防壁を展開する。構わず突き進んできた赤竜が激突するも、ザフィーラはほんの少しだけ後退しただけで、その巨体を防壁で受け止めて見せた。遅れて伸びてきた触手が防壁を叩くも、砕ける様子は微塵もない。

 進撃の止まった赤竜に、グラーフアイゼンを大きく振りかぶったヴィータが迫る。轟と風を斬って振るわれた戦鎚が、今度こそ赤竜を地表へと叩き落した。

 非殺傷設定とはいえ、ギガントフォルムのグラーフアイゼンを二度も頭部に受けたのだ。異常な巨体を誇る赤竜であろうとも、一溜まりもないだろう。現に赤竜はその巨体を地に横たえ、びくびくと痙攣していた。

 ところが、またしても異常が現れた。

 大気に満ちる魔力素が赤竜に集中し、砕けたはずの鱗が再生されていく。地に横たわっていた巨体が、ゆっくりと持ち上げられた。

 

「何なんだよあいつっ!?」

「拘束を抜けたときといい、どうやら突然変異というわけでもないようだな」

「あんな高速再生、生き物かすら怪しいじゃねーか!」

「魔力によって構成された肉体、か……」

 

 ヴィータとザフィーラの言葉によってはやてが思い出すのは、初めての戦いだ。闇の書の暴走体も、生体部分が破壊されても瞬時に再生させていた。再生速度は暴走体の方が遥かに速かったが、その特徴には通じるところがある。

 あのとき暴走体に通った攻撃は、魔力ダメージによるものだった。闇の書が関係しているのならば、あるいは、今回もそうかもしれない。

 明確な証拠などない。だが、はやては確信を持って蒼天の書の頁を捲った。

 

「今度は、私がやるよ」

 

 すっと腕を伸ばし、はやてはシュベルトクロイツ(砲身)を再びこちらに狙いを定めている赤竜へと向ける。展開された魔法陣が輝き、圧縮された大魔力が砲弾を成した。

 長い戦乱の歴史を経て、ベルカの魔法は近接戦闘へと特化していった。だが、夜天の書が造り出されたのはベルカ史における最初期のことだ。加えて、別世界の魔法技術をも収集していた夜天の書には、古今東西のあらゆる魔法が記録されている。

 すなわち、夜天の王たるはやての力とは、幾星霜と積み重ねられてきた魔法史そのものに他ならない。

 一度体を縮ませた赤竜が、伸び上がって牙を剥く。それに向けて、はやては白銀の砲弾を解き放った。

 

「クラウ・ソラス!」

 

 白銀の魔力粒子を振り撒きながら、赤竜へと砲弾が迫る。砲弾は赤竜の頭部へと激突し、圧縮させていた魔力を炸裂させた。

 大規模魔力爆発により、視界が白銀に染まる。発生した魔力風にはやての髪が揺れ、スカートがバタバタと鳴った。

 ようやく光が薄れて赤竜が姿を現すが、しかし、そこにはあるはずの頭部がなかった。

 頭部を失い動きの止まった赤竜の体が、漆黒の魔力粒子となって解けていく。首、胴、尾と消失していき、撒き散らした魔力粒子が魔力素へと還元されると、そこには何も残っていなかった。まるで、最初から何も存在してなどいなかったかのように。

 

「むぅ……」

「はやて……その、もうちょっと、手加減とかした方が……」

「え? いや、あの、手加減っちゅうか、ちゃんと非殺傷設定にはしてたはずなんやけど……」 

 

 腕組みをして唸るザフィーラと、傷つけないようにとやんわり進言してくるヴィータ。尻すぼみで返したはやてにも、何が原因でこのような結果となったのかはわからなかった。

 掘り返された大地を、乾いた風が翔けていく。巻き上げられた砂埃と変化した地形だけが、消え去った赤竜の存在を物語っていた。

 

 

 

 

 白銀の転移魔法陣が輝き、はやて達と、そして、管理局の武装隊員達の姿が消え去る。後に残ったのは、赤竜の出現によってさらに荒れてしまった大地だけだった。

 ところが、不意に空中の景色がぐにゃりと歪み、小さな緋色の球体が現れる。球体は状況を観察するように周囲を一度だけ旋回すると、離れた位置にある岩場の影へと真っ直ぐに飛んで行った。

 その場所にいたのは、一人の少女。闇色のバリアジャケットを着込んだ少女が、影のように佇んでいた。

 

「どうやら、夜天の王達は無事に帰還したようですね……」

 

 少女を周りを一回りした緋色の球体が崩れ、魔力素へと還元される。それは、少女の放った探索魔法の端末(サーチャー)。少女は岩場の影に潜み、最初からはやて達の様子を観察していたのだ。

 はやての探査魔法によって、その存在を感知されることもなく。

 本来ならば、探査魔法から逃れる術はない。探査防壁などを展開していれば話は変わってくるが、しかし、はやての探査魔法はそれさえも見透かし、隠れた存在を感知してしまうのだ。

 だが、少女は例外だ。

 なぜなら、元来より()()()()からは存在を感知されないように造り出されているのだから。

 はやてのデバイスは夜天の書の劣化品。ならば、尚更見つかる道理などない。

 

『――――』

「はい、シュテルです。どうかなさいましたか?」

 

 不意に、少女――シュテルに思念通話が入る。相手の声音には焦燥が窺えるが、一方のシュテルに動揺した様子は見られない。波立つことのない静かな水面のような、一切の感情が込められていない淡々とした声音だった。

 

『――――』

「ええ、はい。夜天の王達に怪我はありませんでしたよ。大した個体ではなかったとはいえ、夜天の王達の手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 魔力が制限され、融合(ユニゾン)することもできなくなってしまったためか、はやての魔法と戦術にはまだまだ改善すべきところがあった。だが、その程度の実力でも、闇の書の残滓である赤竜では相手にすらならない。傍らに守護騎士が控えているのならば、夜天の王の力は万軍にも匹敵するのだ。

 事実、はやて達は負傷もなく、余裕を持って赤竜を消滅させた。はやて達を墜としたいのならば、それこそ万の軍勢を用意するか、それに匹敵する強力な個体が必要だっただろう。

 

『――――』

「いえ、落ち度は私にあります。ユーリを守りきれませんでしたから」

『――――』

「そうですね……。おそらくは、本能的に分かっていたのでしょう。どこに向かえば安全であるのかを。それに、あそこには夜天の書がありますからね」

 

 夜天の王と守護騎士の住む場所。そこは危険を伴う場所でありながら、ある意味では次元世界の中で最も安全な場所である。そして何より、そこには夜天の書(リインフォース)がいる。別たれたとしても、深層に残った帰巣本能が、その場所を選んだのだと予想できた。

 

『――――』

「はい。可能な限り、接触は避けたかったのですが……――!」

 

 眉一つ動かさずに念話を続けていたシュテルの目が、不意に鋭くなった。

 スカートの下、細い脚の踝の辺りから緋色の翼が伸び、宙を叩いて火の粉を飛ばす。ふわりと空に舞い上がったシュテルは、その手に持った魔導の杖(ルシフェリオン)を構えた。

 

『――――』

「ええ、どうやら嗅ぎつけられてしまったようです」

 

 シュテルの眼下、干乾びた風の運ぶ魔力素が集束し、結合を始める。その集束点は、一、五、十、二十と、急激に数を増やしていた。

 漆黒の魔力が形を成す。

 現れたのは、多種多様な魔法生物の形を模したモノ。

 離反者を追う、闇の軍勢。

 

『――――』

「いえ、この程度、我が炎で焼き尽くして御覧に入れましょう。それよりも、私の心配をしている余裕があるのならば、少しでも早くリンカーコアを修復させてください。今後どう動くにしても、話はまずそれからです」

 

 素っ気なく言い放ち、シュテルは杖で宙を斬った。

 輝くは、緋色のミッドチルダ式魔法陣。

 燃え盛る炎が形を成し、十二の魔弾となる。

 それは、シュテルに従う忠実な兵士達だ。

 炎熱の魔力を渦巻かせ、号令が下りるのを今か今かと待ち構えている。

 周囲を取り囲む敵軍を貫き、内部から焼滅させるために。

 

『――――』

「……ええ、お任せを」

 

 素っ気ない態度を気にも留めず、その声の主はシュテルの身を案じてくる。それに短く返したシュテルの口角が、ほんの少しだけ持ち上がった。

 

 

 

 

「君はっ! 今の自分の立場をっ! 正確に理解しているのかっ!?」

 

 時空管理局が所有する次元航行船、巡航L級8番艦『アースラ』。そのブリッジに、甲高い少年の声が響き渡った。

 声の主は、クロノ・ハラオウン執務官。第97管理外世界『地球』で立て続けに起こったジュエルシード事件と闇の書事件の解決に貢献した、若き管理局員である。

 

「や、その、緊急事態やったし……」

 

 腕を組んだクロノの前で身を小さくしているのは、エルトリアでの調査を終え、アースラへと乗り込んだはやてである。はやての後ろに控えるヴィータは辟易した様子で溜息をついており、その隣のザフィーラは狼形態に戻ってお座りをしていた。

 コッコッコッと床が鳴る。苛立つクロノが床を踏み鳴らしていた。それもそのはず。クロノは隔離施設で、はやて達の指導官だったのだ。

 三ヶ月の間、はやて達は特に問題行動を起こすこともなかった。だが、更生プログラムを終えた翌日にこの有様だ。上の判断を扇がず、現場での独断行動。信じて送り出したクロノからすれば、裏切られたような気分だった。

 

「しばらくの間、君たちの行動は逐一報告を上げることになっている。それは何度も何度も説明したはずだ。……あまりこういったことは言いたくないが、君達の評判は決してよくはないんだ。そこに今回のようなことが重なれば、どうなるかは想像がつくだろう。裁判の時に散々言われたことを忘れたのか?」

「すみません……」

 

 闇の書と管理局の因縁は深い。闇の書の暴走は、十年単位でもたらされる天災のようなものだったのだ。事件の担当となった友を亡くした局員、また、その家族は少なくない。

 はやて達の管理局入りを聞き、抗議の声を上げた者は多かった。歳を重ねた局員の多い高官など、特にだ。

 また暴走するのではないか。

 守護騎士など信用できるはずがない。

 局へ刃向うに決まっている。

 法廷の場に立ったはやてへと放たれた言葉の数々は、鋭い矢となって心に突き刺さった。その痛みを忘れることなど、できるはずがない。

 リインフォース達は、はやてにとって誰よりも信頼できる家族だ。だが、管理局にとっては憎むべき外敵であり、そこに信頼などあるはずがない。信頼を得て良好な関係を築くには、多くの時間とそれ相応の行動が必要となるだろう。

 

「そもそも――」

「――まあまあクロノ執務官、怪我もなく無事に帰って来たことだし、はやてさん達も反省しているようだし、そろそろ許してあげてもいいのではないかしら?」

「艦長っ!」

 

 なおも続くクロノの声を止めたのは、アースラの指揮を預かるリンディ・ハラオウン提督だ。リンディの発言にクロノが声を大きくし、その横で、はやてが俯き拳を握った。

 闇の書事件の際、アルカンシェルを発射したのはリンディだった。つまり、止む得なかったとはいえ、颯輔の命を奪った相手。闇の書の主だったはやてにもよくしてくれてはいるが、しかし、心を許すことはできなかった。

 何より、その笑顔が自分によく似ていたから。

 

「あの、リンディさん。勝手に行動してもうて、すみませんでした」

「はい、次からは気を付けるようにね。それより、エルトリアで何があったのか、詳しく聞かせてもらえるかしら?」

「それはもちろんええですけど……」

「ああ、リインフォースさん達なら、あなた達が保護した子と一緒にいるわ。まだ目を覚ましてはいないのだけれど、魔法も使えるようだし、念のために付いていてもらっているの」

「そうですか……」

 

 はやてがこの場にはいないリインフォース達の所在をそれとなく視線で訪ねてみると、その意図を汲み取ったリンディが、望む答えを返してきた。

 はやて達の保護者であるグレアムは、闇の書事件を解決に導いた管理局の将官である。以前にグレアムの部下であったのがリンディ、そして、はやて達の所属する部隊の指揮官であるレティ・ロウランだ。

 本来ならば今回の案件も直属の上司となるレティに上げなければならないのだが、隊の稼働、そして、はやて達の正式な所属は翌週からとなる。それまでの間、はやて達はリンディに預けられているのだ。こういった非常時における行動を指示できるだけの権限が、リンディにはあった。

 先立って肩身の狭い思いをしていただろうリインフォース達にはもう一度謝らなければと心に決め、はやてはヴィータとザフィーラを交えてエルトリアで起こった一部始終を語った。

 少女の転移反応を辿り、エルトリアへと向かったこと。

 広域探査の最中に、突然赤竜が現れたこと。

 赤竜は通常では考えられないほどの巨体を誇っており、そして、異常な特性を備えていたこと。

 魔力ダメージを与えたら、最初から存在などしていなかったかのように霧散してしまったことを。

 

「実体を持たない魔法生命体の話は聞いたことがあるが……」

「赤竜のような魔法生物と同一の存在とは、ちょっと、考え難いわね……。はやてさん、それに、ヴィータさんにザフィーラ。何か心当たりはないかしら?」

「んー……」

「普通の生き物じゃねーってことくらいしかわかんねーです」

「……思い過ごしかもしれませんが、はやてを狙っていたようだったのが気になりました」

「はやてさんを?」

「そう言われると、そうだったような……?」

「そんなの、はやての魔力がでかかったからじゃねーのか?」

「故に、思い過ごしかもしれぬと言ったのだ。俺にも確証はない。だが、あれがナハトに……闇の書に関係しているのならば、話は変わってくる」

 

 ザフィーラの言葉に、はやては深く考え込んだ。

 赤竜は、はやて達がエルトリアに着いてからほどなくして現れた。そしてそこは、件の少女が転移してきた場所だ。

 ナハトヴァールと同一の魔力波長、すなわち、闇の書と同一の魔力波長を持つ少女。元々はその少女が狙われていたのならば、夜天の王であるはやてが狙われたことも頷ける。

 闇の書の最たる特徴は、防衛プログラムであるナハトヴァールが組み上げた無限転生機能だ。あの赤竜もそれに近い再生能力を持っており、そして、その体を構成する魔力粒子は、ナハトヴァールの魔力光と同じ漆黒だった。

 暴走したナハトヴァールは、闇の書の動力部と共に確かに消滅したはずだ。

 だが、もしもあのとき、停止していたはずの無限転生機能が生きていたのだとしたら。

 それはつまり、あのとき消滅したはずの全てが再生されるということで――

 

「――闇の、欠片……」

 

 はやては拳を固く握り締める。

 速くなる心臓の鼓動が、やけにうるさかった。

 

 

 

 

 アースラの医務室に満ちるのは、ミントグリーンの魔力光。目を閉じたシャマルの指輪(クラールヴィント)から伸びた魔力紐(ワイヤー)が、ベッドに横たわる少女を覆うように円を描いていた。

 シャマルの後方、壁に背を預けて腕を組んでいるのはシグナムだ。面倒を持ち込んだ手前、未だ眠り続ける少女の監視を買って出たのである。アースラの乗組員では有事に対応できないであろうことも、シグナムが控えている理由の一つだった。

 日付が変わってしまったほどの夜更け、アースラに残っているのは、シグナムとシャマルのみ。エルトリアから戻ったはやて達とリインフォースにはしばらく前に帰ってもらい、先に休んでもらっていた。

 静かだった医務室に音が生じる。扉が開き、現在の指揮を任されているクロノが入ってきた。

 視線を向けてくるクロノに、シグナムは黙って首を横に振る。少しだけ肩を落としたクロノはそのまま進み、奥の椅子に腰かけた。

 やがて、床に描かれていたベルカ式魔法陣が消失し、照らされていた部屋の光量が元に戻る。シャマルの解析が終わったようだった。

 

「どうだ?」

「その、何て言ったらいいのか……」

 

 シグナムの問いに、シャマルは言葉を濁して答える。思い詰めたように眉根を寄せるその表情から、少女が何か問題を抱えているだろうことは容易に想像ができた。

 

「やはり、君達に関係していたのか?」

「はい……」

 

 肩を狭めてクロノに返したシャマルが、助けを求めるようにシグナムへと視線を送ってきた。シグナムは静かに頷き、躊躇するシャマルに答えを促す。

 

「……まず、この子は人間ではありません。()()()()()()()()()()()なんです」

「……なるほど。だからアースラの設備では調べられなかったのか」

 

 現代に確認されている人間を模した魔法生命体は、守護騎士プログラム(シグナム達)のみだ。夜天の書は現代の魔法技術では再現不可能な製法によって造り出された古代遺失物(ロストロギア)。その構造を理解できるのは、同じ構造を持つ者のみである。

 シャマルがアースラに残って解析を行っていたのは、シャマルにしか少女の身体を調べることができなかったためだった。ベルカ式の魔法を専門としていること以上に、夜天の書のプログラム体であるが故に。

 

「この少女も我らのようなプログラム体ということか?」

「そうなんだけど……一番近いのは、リインフォースなの」

「それは……」

「はい。この子は、融合騎(ユニゾンデバイス)です」

 

 三人の視線が、ベッドの上の少女に向けられる。

 穏やかな寝息を立てる少女に、目を覚ます気配はまだなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 黒き雲

 

 日が西に傾き、気温が徐々に下がって肌寒くなってきた。時折そよ風が吹き、夕日に照らされた街路樹の桜の枝を揺らしていく。茜色に染まった八分咲きの花が、幻想的な風景を作り出していた。

けれども、伸びる影をぼんやりと見つめているはやてはそれを気にも留めない。周囲の喧騒を聞き流しながら、ゆっくりと車椅子を前に進めていた。

 

「――そうしたらね、なのはったら何て言ったと思う?」

「にゃにゃっ、その話はしちゃダメーっ!」

 

 響くのは、アリサにからかわれて赤面するなのはの悲鳴。その隣、すずかとフェイトがはしゃぐ二人を微笑ましく見守っていた。

 だが、その音も光景も、はやての耳と目を通り過ぎていくだけだった。

 学校で授業を受けて、皆でご飯を食べて、友達とおしゃべりをしながら下校する。それは、はやてが望んでいたことの一つだったはずだ。

 口に出すこともなかった、今まで真面に学校に通えなかった分の憧れ。

 静かな生活の中、ほんの少しだけ夢見る程度だった小さな願い。

 それがようやく叶ったのだ。嬉しくないはずがない。

 しかし、今のはやてにはそれを楽しむ余裕がなかった。

 思考を埋め尽くすのは、『闇の欠片』というキーワード。

 ナハトヴァールと同一の魔力波長を持った、リインフォースと同じく融合騎(ユニゾンデバイス)の少女。

 漆黒の魔力粒子で躯体を構成していた、再生能力を持つ巨大な赤竜(魔法生命体)

 ナハトヴァールと闇の書の動力部と共に消滅してしまった、はやての兄(八神颯輔)

 闇の書の、無限転生機能。

 

「――やて、はやてってば!」

「ひゃあっ!?」

 

 はやてがあげた悲鳴は、けたたましいクラクションによって掻き消された。すぐ目の前を、銀色の壁が高速で過ぎ去っていく。トラックが通り過ぎた先、歩行者用の信号は赤色に染まっていた。

 どうも思考の海に沈みすぎてしまっていたらしい。赤信号にすら気づかず車椅子を進めるはやてを、すずかがハンドルを握って止めていた。両脇の肘置きは、なのはとフェイトによって支えられている。正面には、腰に手を当て険しい目つきで顔を覗き込んでくるアリサがいた。

 

「はやて。あんた、もうちょっと周り見なさい。……考え事をしたっていい。私達の話を聞き流してたっていい。だけど、せめて赤信号くらいは気づきなさい」

「ごめんなさい……」

「よし、許す。それじゃあ次は?」

「……助けてくれてありがとう?」

「あたしに言ってどうすんのよ。あんたを助けたのは誰?」

「……すずかちゃん、フェイトちゃん、なのはちゃん、それに、アリサちゃんも。助けてくれてありがとう」

「うん、どういたしまして」

「気にしないでもいいよ」

「それよりはやてちゃん、怪我はなかった?」

「ん、おかげさまで大丈夫や。ほんま、おおきに」

 

 はやてがもう一度礼を言うと、四人は優しく笑ってくれた。

 いったい何をしているのか。

 四人は朝からぼんやりとしているはやてを気遣い、色々と話題を振ってくれたり、時にはそっとしておいてくれたのに。

 それに比べて自分はどうだ。

 話を振られても曖昧に頷くだけ。一人で集中してみるも考えはまとまらない。挙句の果てには車に轢かれそうになってしまっている。

 皆に救ってもらったこの命は、人一倍大切にしなければならないというのに。

 

「でも、珍しいね。はやてちゃん、いつもこういうことには気を付けてるのに」

「それくらい深い悩みってことでしょ。……私とすずかはなのはとフェイトみたいにあんたの力になってはあげられないけど、それでも話くらいは聞いてあげられるんだから、話せるようになったら話しなさいよね。一応、私達も現地協力者なわけだし」

「うん……」

 

 いいわね、と念を押してくるアリサに、はやては小さく頷いた。

 今のはやてを取り巻く現状()()は、なのはとフェイトの二人に話してあった。友人を厄介事に巻き込むことは気が引けたが、話さずにいて何かが起こってからでは遅い。それに、二人がリンディの部隊に所属している以上、遅かれ早かれ耳に入っていただろう。

 もっとも、二人はまるで自分のことのように協力を申し出てくれたのだが。

 だが、局員としても優秀な能力を持つなのはとフェイトとは違い、すずかとアリサはあくまでも一般人だ。現地協力者であるとはいえ、進展中の事件についてはおいそれと相談できない。すずか達もその辺りを弁えているらしく、深く追求してこようとはしなかった。

 

「ふふっ」

「……ちょっとすずか、何で笑ってんのよ」

「だってアリサちゃん、去年のなのはちゃんのときはツンツン怒ってたのに、はやてちゃんには優しいんだなーって」

「あ、あれは、その、なんていうか……。わ、私だって成長くらいするわよ!」

「そんなことあったの?」

「うん。……あー、ほら、フェイトちゃんとジュエルシードを集めてたとき」

「あ、ああ、そんなこともあったね……」

「なんや、私とフェイトちゃんがおらんときに色々と面白いことあったみたやなぁ。すずかちゃん、なのはちゃん、アリサちゃんについて、他の話も詳しく聞かせてもらってもええ?」

「もちろ――」

「――ああっ、もうおしまいっ! おーしーまいっ! ほらっ、フェイトだって困ってるじゃないっ!」

「え、えーと、私はまったく全然これっぽっちも気にしてないから、大丈夫だよ? うん、他の話なら」

「それじゃあ、去年の夏に私となのはちゃんでアリサちゃんのお家に遊びに行ったときのことなんだけど――」

「――やめなさいって言ってるでしょ!?」

 

 赤面するアリサをからかいながら、青になった信号を渡る。皆の計らいで、空気が変わったのがわかった。

 こんなときくらいは、考えるのをやめて頭を空にしよう。

 八神はやては元闇の書の主で、守護騎士を束ねる夜天の王。その肩書きは重く、数え切れないほどの悪意を呼び寄せてしまう。もう何も知らない子供ではいられないのだ。

 だから、夜天の書の記憶も受け入れた。忍び寄ってくる悪意から、家族を守るために。

 局員の中には、確かにはやて達のことを理解してくれる者もいる。過去に確執があったとはいえ、聖王教会の騎士やシスターにも好意的な者はいた。

 けれども、そんな人間はほんの一握り。その一握りの人達でさえ、はやて達に向ける最初の目は厳しいことが多かったのだ。表向きは良くしてくれていても、粘着く笑顔の裏に、醜悪な悪意を隠している者さえいた。

 そんな状況に現れた少女と、そして、一つの可能性。家族のためと前を向き続けていたが、そこに逃げ道を示されたことで、はやては後ろを向いてしまいそうになっていた。

 だが、今だけは。

 学校の制服に身を包み、何でもない話で笑い合える今だけは。

 友人に囲まれている今だけは、はやてが子供でいてもいい時間だ。

 だから、今だけは不安も期待も忘れてしまおう。

 ――そう、()()()は。

 

『――はやて』

 

 大気中の魔力素が震え、はやての頭に直接声が届く。アースラで眠る少女の監視をしているはずの、ザフィーラからの思念通話だった。

 条件反射で周囲を警戒するが、特に異常は見られない。強いて言えば、笑い合っていたなのはとフェイトの二人が真剣な顔つきになった程度。どうやら、向こうも念話を受けているようだった。

 

『ザフィーラ、どないした?』

『件の少女が目を覚ましました。シャマルが健康状態の再チェックを終え、もう話ができる状態にあります』

『ほんまっ!?』

『ええ。ですが、どうも記憶が混濁しているらしく……』

『そう……』

『ハラオウン提督の許可は取ってあります。リインフォース達もアースラに乗り込んでいますが、はやてもこちらに来てみますか?』

『……ん、学校も終わったとこやから、そっち行ってみるよ。おおきにな、ザフィーラ』

『いえ。では、お待ちしております』

 

 ザフィーラとの思念通話が切れた。一度深呼吸をし、スイッチを切り替える。顔を上げれば、立ち止まった四人がはやての方を向いていた。

 

「はやてちゃん、もしかして、これからお仕事?」

「ん、そうみたいや」

「それじゃあ、遊ぶのはまた今度ね」

「ごめんな、アリサちゃん……」

「いいわよ、明日だって明後日だって、その次の日だってあるんだし。あ、お花見までには終わらせるのよ?」

「それは大丈夫やと思うけど……うん、もし長引いても、お花見は絶対行くから心配あらへんよ」

「ならいいんだけど。なのはとフェイトも気を付けてね」

「にゃはは、ごめんね」

「もし早く終わったら連絡するから」

「うん、待ってるね。それじゃあ、また明日」

 

 また明日、と手を振り、すずかにアリサと別れる。二人の背中が遠ざかるのを、三人は静かに見送っていた。

 普通の小学生として過ごす、子供でいてもいい時間はもうお終い。今からは、非日常を生きる管理局員としての時間だ。

 雲が切れて夕日が強く差し込み、はやて達の姿が茜色の光に包まれる。そして、その光に融けていくかのように、三人の姿が忽然と消え去った。

 

 

 

 

 アースラの転移ゲート。そこに描かれたミッドチルダ式の転移魔法陣が作動して輝きを放ち、三つの光を作り出す。桜色、金色、そして、白銀。光の塊は人型を形どり、三人の少女となった。

 

「お、来たねー。三人共、学校お疲れ様!」

 

 アースラへと転移してきたはやて達を迎えたのは、明朗快活に話す、癖毛の目立つ少女。アースラの通信主任を務める、エイミィ・リミエッタだった。

 切羽詰まった状況というわけではないが、エイミィの態度は些か今の状況には相応しくない。しかし、それこそが彼女の持つ美点の一つだ。どんな状況でも、彼女がいれば気持ちが楽になる。事実、身構えていたはやては、肩の力がすっと抜けるのを感じた。

 

「エイミィさんも、お疲れ様です」

「はやて達が保護したっていう子、起きたんだよね?」

「うん、ちょっと前にね。それで、健康状態をチェックして、今は、クロノ君が事情聴取してるとこ……なんだけど、その子、何だか怖がってるみたいで、ほとんど話は聞けてないんだよね……。とにかく、はやてちゃんは当事者だし、それから、なのはちゃんとフェイトちゃんにも状況知っといてもらおうと思って呼んだっちゅーわけ」

「あの、私も会うて話してみてもええですか?」

「話してくれるかどうかはともかく、それは大丈夫だと思うよ。んー、それじゃあまっ、とりあえず、医務室に行ってみよっか。リインフォース達もそこにいるからさ」

 

 こっちこっち、と歩き出すエイミィの後について、はやて達も医務室へと向かう。その途中、時折すれ違うアースラの乗組員は、はやてが挨拶をすると明るく返してくれるが、その大抵が目を合わせてはくれなかった。

 上司からそう言われたから、という気持ちが手に取るように分かる。それに気が付いているのは、はやてとエイミィだけ。まだまだ子供であるなのはとフェイトは、その悪意とまでは言えない小さな嫌悪を違和感程度にしか認識できていないようだ。

 無視されないだけマシか、と割り切る。

 はやての魔力量は、Sランクオーバー。そして、『管理局――特に、アースラの乗組員には怨みを抱いている』とまことしやかに囁かれているのだ。思う所があるのは事実だが、だからどうこうしようなどと、考えてもいないのに。

 そのようなことをしてしまえば、皆と一緒にいられなくなってしまうから。

 大切な約束を、破ることになってしまうから。

 アースラの乗組員の中ではやてが心を許すことをできるのは、誰とでも分け隔てなく接することのできるエイミィくらいだ。特務四課時代は何かと世話になることの多かったメンテナンススタッフのマリエル・アテンザもいたが、彼女はもう本局の技術部に戻ってしまっている。はやてにとって、なのはとフェイトが一緒にいようとも、アースラは居心地のいい空間とは言えなかった。

 少々気まずい思いをしながら、黙って廊下を進む。医務室の前には、シグナム達が控えていた。

 

「ただいま、皆」

「はやてっ、おかえり!」

 

 シグナム達が揃っている場所こそが、はやての居場所。傍に集まってくる四人を見て、はやての強張っていた表情から力が抜けた。

 

「先ほどは下校中にお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした」

「気にしてへんから謝らんでええよ、ザフィーラ。それより、リインフォースは?」

「リインフォースなら、医務室の中にいますよ」

「中? でも、今はクロノ君がお話してるんとちゃうの?」

「それが、実は……」

「あのちびっ子、起きたはいいんだけどさ……リインフォースが一緒にいねーと、泣いちまうんだよ」

「は……?」

 

 言い難そうに切り出したヴィータの言葉に、はやては目を丸くした。ちびっ子というワードになのはが吹き出し、食って掛かるヴィータをフェイトが宥めていたりするが、今はそちらの微笑ましい光景にも構う気になれない。

 リインフォースがいないと泣いてしまうとは、いったいどういうことなのか。それではまるで、見た目相応の子供だ。

 突然はやて達の前に現れた、闇の書に関係があると思しき融合騎の少女。記憶に混濁が見られるという話だったが、実際に直接話をしてみれば、何かしらの情報が得られると思っていた。だが、それでは真面に話を聞くことができるかも怪しい。

 眉根を寄せるはやての前で、医務室の扉が開く。中から出てきたのは、事情聴取を終えたらしきクロノだった。

 

「ああ、君達も来たのか」

「お邪魔してます。……クロノ君、中、あの子とリインフォースの二人っきりにしたん?」

「いや、アルフも一緒だ。君の懸念も分からないでもないが、そう心配することはない。あの少女一人だけでは何もできないさ」

「ならええけど……」

 

 肩を竦めるクロノを見て、はやてはざわついた心を静めるように深く息を吐き出した。

 今現在のリインフォースは、戦う力を持たない儚い存在だ。リミッターを掛けているとはいえ、魔法を使うことのできる素性のわからない相手と二人きりにするのは激しく抵抗があった。

 だが、クロノが言うにはフェイトの使い魔であるアルフも一緒にいるらしい。守護騎士クラスの力はないが、それでも腕の立つアルフならば、いくらか安心できた。気さくで面倒見のいいアルフにはいくらか心を許せることも、任せられる理由の一つだ。

 

「というか君達、今までずっと廊下にいたのか? エイミィも、どこか休めるところに案内するようにと言っておいただろう」

「お気遣いありがとうございます。しかし、何かがあったときはすぐに動かなければなりませんので」

「というわけでさ、あはは……」

「事の重大さは重々承知しているつもりだ。だからこそ、少しでも休んでおいて貰いたかったんだが……」

「朝になってからヴィータちゃんとザフィーラに代わって貰えましたから、私もシグナムも、十分休めましたよ」

「昼にはリインフォースとアルフが来てくれました。我らも休息はとってあります」

「……それに、もし欠片が出てきたら、あたしらがやらねーといけねーですから」

「それは……」

 

 ヴィータの言葉に、クロノが口を閉ざす。実際そのとおりで、そしてそれは、はやて達でなくては難しいことだった。

 アースラの乗組員には、数名だが武装局員もいる。その平均魔導師ランクはAランクと高めだが、その人数では大きな事件――例えば今回のような、闇の欠片への対処は難しい。なのはとフェイトが学校に行っている間、主戦力はAAA+ランクのクロノだけなのだ。部隊再編の時期が重なっていることもあり、本局からの早期の増援も望めそうにないとのことだった。

 もしもはやての予想が当たっているのならば、事態はこれだけでは済まない。だからこそ、余計にシグナム達の力が必要だった。クロノもそれを分かっているため、言葉を返せなかったのだろう。

 けれども、それで無茶をしてしまえば、それこそ本末転倒だ。

 

「でも、皆ちょう疲れたやろ? ここはお言葉に甘えて、少し休ませてもらおか」

「ですが……」

「私も来たから大丈夫や。クロノ君、そんなわけで、お願いしてええかな?」

「ああ、もちろんだ。この人数なら……そうだな、今の時間なら、食堂の談話スペースが使えるだろう。休憩を挟んだら、詳しい話をしたい。それまでは、そこで待っていて貰えるだろうか?」

「……わかりました」

「じゃあ、シグナム達は先に行っといてな。クロノ君、私、ちょうあの子とお話してみてもええ?」

「それは構わないが……。その前に一応聞いておくが、はやて、それからシグナム達も、シュテルという人物に心当たりはあるか?」

「シュテル?」

 

 聞き慣れない名前に、はやては首を傾げた。シグナム達に目をやってみるも、首を横に振るばかりだ。

 だが、聞いてきたクロノ本人も、望む答えは返って来ないとわかっていたらしい。むしろ、知らないであろうことを確認したかったようだった。

 

「いや、心当たりがないならいいんだ」

「シュテルって、もしかして、あの子の名前?」

「残念だが、あの少女は自分の名前も覚えていないらしい。覚えているのは、目を覚ました時に一緒にいたらしいシュテルという少女の名前だけだったんだ。リインフォースにも確認してみたが、やはり、シュテルという人物には心当たりがないらしい。念のため局の資料を洗って、聖王教会にも問い合わせてみるつもりだ」

 

 とある事情から、シグナム達の記憶は一部が欠落してしまっている。夜天の書の旅路を覚えているのは、夜天の書の管制人格であるリインフォースと、その記憶を受け取ったはやてだけ。二人が知らないのならば、件のシュテルは夜天の書とは関係のない人物ということになる。

 

「とにかく、僕も情報を整理する時間が欲しい。エイミィには僕の手伝いを頼みたい。なのははシグナム達を食堂まで案内して、それから、フェイトははやてに付いておくように」

「……おおきに、クロノ君」

「……話を終えたら君も休んでおくように」

「ん、了解です」

 

 エイミィを連れ立ち、背を向けたクロノの姿が離れていく。シグナム達も、なのはと共に食堂へと向かって行った。

 厳しい言葉を使うことはあっても、クロノは優しい。二人一組いることの多いなのはとフェイトを分けたのも、はやて達のことを考えてのことだろう。アースラでの信頼を勝ち得ているなのはかフェイトがいれば、いくらか風当たりは弱まるから。

 

「はやて?」

「ん、ああ、ほな、行ってみよか」

 

 シグナム達の背中を見つめていたところを、フェイトに呼び止められる。意識を戻したはやては、車椅子のハンドルを操作した。

 医務室の扉がスライドする。嗅ぎ慣れた病院の匂いはせず、今更ながらに地球との文化の違いを実感した。

 そのまま車椅子を進め、医務室の奥へ。真っ白なベッドの上には、困り顔でベッドに腰掛けるリインフォースと、リインフォースの膝の上に収まった金髪の少女と、少女の腕に抱かれた子犬フォームのアルフがいた。

 嫉妬からか、はやての胸がざわめく。

 その場所は、はやての場所のはずなのに。

 

「なんや、そうしてると親子みたいやなぁ」

「いえ、これは、その……」

 

 少しだけ、棘を含んだ声が出た。理不尽な怒り。けれど、慌てて取り繕おうとしているリインフォースの姿に、心が鎮まっていく。やりすぎはよくないが、狼狽するリインフォースは見ていて和む。

 一方の少女は、新たな闖入者に身を小さくしていた。波打つ長い髪が身体を覆うその様は、頭から毛布を被っているかのようだ。アルフを抱く腕にきゅっと力が入り、上目使いにこちらの様子を窺ってくる。その金色の瞳にだけは、見覚えがある気がした。

 

「アルフ、お気に入りにされちゃった?」

「みたいだねぇ。おっきいのはリインフォースで間に合ってるっぽいからさ、あたしはご覧の有様だよ」

「アルフを抱っこしてると落ち着くもんね。……はじめまして、私はフェイトだよ。この子、アルフのお友達」

「……お友達?」

「うん、そう。はやてもお友達なんだよ」

「はじめまして、はやていいます」

「はやて……はやて……はやて……」

 

 反芻する幼い声。金色の瞳は、はやてをじっと見据えたままだ。

 正直に言って、はやては幼い子供の相手が得意ではない。これまでずっと甘える側で、年下の子供と付き合う機会などほとんどなかったのである。ヴィータなどははやてよりも小さいが、家族は別だ。それに、ヴィータの場合は親友か妹のような感覚で、気を遣うような関係ではなかった。

 その点、フェイトの対応には慣れたものがあった。おそらく、過去の経験が活きているのだろう。今でこそ人間形態のアルフは大人の体つきをしているが、使い魔の契約をした当時は、その頃のフェイトよりも幼かったという。フェイトにとってのアルフは、姉妹というよりも娘のような感覚らしい。

 

「もしかしたら、さっきむすっとしたお兄ちゃんに訊かれたかもしれへんけど、お名前、言える?」

 

 ふるふると首が横に振られる。リインフォースに目を向けても、同じ反応が返って来た。

 

「ほんなら、どうやってうちに来たん? 私の部屋、転移してきたよね?」

「……シュテルに『逃げてください』って言われて、それで、逃げてきたんです」

「シュテルっちゅう子は、どんな子?」

「闇色のドレスを着て、かっこいいんですよ、シュテルは」

「かっこええ子なんか、私も会うてみたいなぁ。……じゃあ、あなたは何から逃げてきたん?」

「……怖い、暗闇からです。たくさん闇が集まって、わたしを連れ戻そうとするんです」

「連れ戻す? それは、どこへ?」

「深い、深い、闇の中です。……わたしはもう、あそこには戻りたくない。……ずっとずっと、一人ぼっちで……それから、それから……」

『ちょっ、はやて、フェイト! この子、さっきより記憶戻ってるよ! クロノんときはここまで話せなかったんだ!』

 

 途切れ途切れで話す少女の声に、切迫したアルフの念話が割り込んできた。リインフォースも、驚いたように少女を覗き込んでいる。

 徐々に記憶が戻りつつあるのか、それとも何かのきっかけがあったのか。後者なら、それは間違いなくはやてとの邂逅だろう。

 ――もし、私と接触して記憶が戻ったっちゅうんなら。

 

『フェイトちゃん、録音お願いしてもええ?』

『うん、大丈夫。最初からバルディッシュに録ってもらってるよ』

『さっすがフェイトちゃん、おおきにな』

 

 フェイトへと念話を送って短く要件を告げ、はやては車椅子の背もたれに預けていた身を起こした。少女の顔がぐっと近くなる。少女は瞬くように目を瞑り、何かを思い出そうと必死になっていた。

 幼子の声音ながらも、少女の語彙は見た目通りのものではない。例えばそれは、夜天の守護騎士であるヴィータのように。

 鼓動が、うるさくなる。

 

「ごめんな、もう一回訊くよ。あなたの名前は?」

「わたしは……わたしは……」

「あなたはどこから来たん? シュテルはどこ?」

「わたしは……どこ……?」

「ちょっとはやて、そんなにいっぺんに訊いたら――」

「――どうして突然家に来たん? 夜天の書との関係はっ?」

「……私は……夜天の……?」

「はやてっ、それ以上は――」

「――お兄は……八神颯輔はどこにおるんっ!? お願いやから思い出してっ!」

 

 フェイトの制止を、リインフォースの忠告さえも振り切った。意図せず大きくなったはやての声が、医務室に響く。痛々しい残響が消えると、室内は静寂に包まれた。

 知らず肩を掴んでしまった少女の目は、大きく見開かれている。その小さな唇が、ゆっくりと開きかけて――

 室内が赤く明滅し、耳に痛い警報(アラート)が鳴り響いた。

 

『取込み中ごめんなさい――……はやてさん?』

「……何でもありません。どうかしましたか?」

 

 中空に現れたディスプレイには、リンディの困惑した顔が映し出されている。それを見とめたはやては少女の小さな肩から手を離し、深呼吸をしながら車椅子に背を預けた。

 リンディの視線が医務室を見渡すようにちらりと動き、そして、何事もなかったかのように言葉が続けられる。

 

『実は、周辺世界に例の魔力反応があったの。それで、フェイトとはやてさんにもブリッジまで来てほしかったのだけれど……お邪魔だったかしら?』

「いえ、そんなことないです。すぐそちらに向かいます」

「はやてと一緒にいきますから、大丈夫です」

『それじゃあ、お願いね。それから、アルフはもうちょっとその子に抱かれていてね。リインフォースさんも、お願いできる?』

「りょーかーい」

「はい、任されました」

 

 お願いね、と朗らかな声があり、ディスプレイが消える。見咎められた気がして、はやてはリンディの顔を直視することができなかった。

 視線を戻せば、少女がリインフォースに縋るようにして身を寄せている。腕の中のアルフが、少しだけ苦しそうにしていた。

 怖がる少女の姿が、いつかの自分と重なった。

 もう一度、深呼吸。手をグーパーと握り、体の力を抜く。

 

「さっきはごめんな、怖い思いさせてしもうて……」

「…………」

「無理はせんでええから、何か思い出したら教えてくれる?」

「……はい」

「ほんなら、また後で。リインフォースも」

「ええ、お気をつけて」

「アルフも、二人をよろしくね」

「おっけー、いってらっしゃい」

 

 よしよしと、緊張を解させるように少女の頭を撫でてみる。さして抵抗もなく受け入れた少女は、顔色を窺うようにしてはやてを盗み見ていた。

 こうしていれば、見た目通りの少女なのに。

 やるせない思いを儚い笑顔の裏に押し隠し、はやてはフェイトと共に医務室を後にするのだった。

 

 

 

 

 はやてとフェイトがブリッジへ入ると、先に着いていたらしいシグナム達やクロノ達の視線が飛んできた。それぞれがいた場所からの距離はそこまで変わらないはずだが、今のはやては車椅子を使っていることを考えれば、最後になってしまったことも頷ける。だが、はやてはそれを言い訳にはしたくなかった。

 遅れてすみません、と周囲に告げ、車椅子を走らせてシグナムの横に並ぶ。ブリッジのメインモニターには周辺世界の位置関係を示すマップが示されており、三つの世界が赤く点滅していた。

 

「全員揃ったようね。それじゃあエイミィ、状況の説明をお願いできるかしら?」

「了解です」

 

 一瞬だけ合ったリンディの目はそのまま通り過ぎていき、メインモニターに向けられた。すでに状況を把握しているらしいエイミィが、口を開くと同時に慣れた手つきで端末を操作し始めた。

 

「えっと、アースラの巡航区域にある三つの世界にて、現地の定置観測班が要警戒対象である闇の欠片と思われる魔力を感知しました。昨日のはやてちゃん達のケースと同じで、何の前触れもなくいきなり現れた感じだね。反応はそれぞれの世界に一つずつで、計三カ所。ただ、魔力反応はちょっと大きいかもです」

 

 モニターの映像が忙しなく切り替わり、魔力反応の位置と現地の航空写真、そして、測定された魔力素の濃度が表示される。索魔法の端末(サーチャー)が上手く機能できていないのか、航空写真にはぼんやりとした霧のような黒い影が映り込んでいるだけだった。

 三つの世界はいずれも無人世界か観測指定世界で、人的被害が出ることはないだろう。しかし、周囲と比べて突出した魔力素の濃度から考えて、出現するであろう闇の欠片の脅威度は、はやて達が相手にした赤竜よりも上であることは確実だ。多少の危険は伴うが、放置しておくわけにはいかなかった。

 一つ不可解なことがあるとすれば、再生のために一カ所に集まるはずの闇の欠片が、世界を跨ぐほどにばらけてしまっていることか。夜天の書が存在している現状、闇の欠片の出現自体がイレギュラーであるため、これまでの規則性はそれほど当てにできないが。

 

「そこで、なのはちゃん、フェイトちゃん、シグナム、ヴィータちゃん、シャマル、ザフィーラの六人に、現地の調査をお願いします。何もないってことはないだろうから、具体的には、闇の欠片の排除だね」

「ちょ、ちょう待ってください。闇の欠片は私らの問題やから、私だけ待機っちゅうわけには……」

 

 エイミィの言葉が切れるのを待って、はやては口を挿んだ。

 未だ九歳の小娘に過ぎないとはいえ、はやては夜天の王。闇の書が起こした問題の責任を取るのは、はやての役目だ。家族であるシグナム達、そして、友人であるなのはとフェイトが動いておいて、はやてだけが胡坐をかいて待っているなどという真似はできない。

 そんなはやての訴えを却下したのは、艦長席に座るリンディだった。

 

「八神はやてはクロノ・ハラオウンと共に待機、これは艦長命令です」

「なっ――っ、どうしてですか……?」

「今のアースラには、リインフォースさんとあなた達が保護した子も乗っています。彼女達を守るための戦力も、必要ではないのかしら?」

「っ、それは、シャマルかザフィーラを残して……」

「闇の欠片は、はやてさんも狙っているのかもしれないのでしょう? 艦長として、むざむざ危険を冒させるような命令はできません」

「そんなのっ、シグナム達やって――」

「――はやてちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

 

 真っ直ぐにリンディを見据えていた視界が遮られ、体がふわりと包み込まれる。抗議するはやてを止めたのは、正面から抱きしめてきたシャマルだった。

 

「今の私達は前よりも強くなってますし、それに、リミッターも外してもらっていますから、闇の欠片なんてちょちょいのちょいです。なのはちゃんとフェイトちゃんだって、私達と同じくらい強いじゃないですか」

 

 はやてが夜天の王として覚醒したことで、確かにシャマル達の基礎能力は覚醒前よりも強化されている。施設を出るまでは課せられていた魔力の制限も解かれ、その力を十全に振るうこともできる。なのはとフェイトの二人が闇の欠片に負けることなどあり得ないほどに強いことだって、はやては知っていた。

 だが、問題はそんなことではないのだ。

 

「今回は迷惑をかけちゃいますから、その分、今度のお花見ではおいしいものを作って行って、お詫びにしましょう? それに、なのはちゃんとフェイトちゃんが困った時には、私達が率先して協力すれば――」

『――ちゃうっ、シャマルだって分かってるやろっ!? リンディさんの考えはっ!』

 

 周囲の視線が集中しているのを感じる。誰にも聞かれないように、念話に切り替えてシャマルの言葉を遮った。

 夜天の王と守護騎士(ヴォルケンリッター)は、人材不足に悩む管理局にとっては魅力的な戦力だ。今回、はやて達はアースラチームに協力してもらっている立場だが、もしも、リンディがはやてを盾にしてシャマル達を利用しようとしているのならば。

 

『あの人は、そこまできる人間ではありませんよ。……だって、颯輔君と同じくらい優しい人ですから。はやてちゃんだって、そんなことくらい分かっているはずです』

「シャマル、なんで……」

 

 困ったように笑ったシャマルが、念話を返してきた。

 分かっている。

 リンディが本心からそのようなことをできる人物ではないことくらい、家族を守ろうとするあまりに疑心暗鬼となってしまっていることくらい、自分が一番よく分かっている。

 けれど、分からない。

 どうしてそこで兄の名前が出てくるのか。

 もしかしたら、心の汚い部分をシャマルに見透かされてしまったのか。

 

『はやてちゃんのお仕事は、リインフォース達を守ることですよ。……もしかしたら、これだけでは済まないかもしれません。なるべく早く戻ってきますけど、それまでは、ここの守りをお願いしますね』

 

 シャマルの細く柔らかい指が、はやての頭をそっと撫でていく。シグナム達が、「大丈夫ですから」と一声かけ、横を通り過ぎて行った。

 こういうとき、精神リンクというものは卑怯だ。こちらが思い悩んでいることは伝わってしまい、そして、相手の心は手に取るように分かってしまう。

 叱るでもなく、咎めるでもなく、諌めるでもない、純粋な心配からくる言葉。

 はやてには、転移ゲートに向かう六人の背中を見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 暗く、暗く、暗い、一切の光の届かない世界。

 深く、深く、深い、奈落の闇に覆われた世界。

 そんな世界に、彼女達はいた。

 一方は、不遜な態度の少女。その視線は鋭く、中空に展開した二つの投影型ディスプレイを腕組みをしつつ見下している。時折羽ばたく漆黒の翼が、黒銀の髪と暗色のガードスカートを揺らしていた。

 一方は、幼さを見せる少女。薄紅の瞳を不満気に細め、小さな口をツンと尖らせている。右へ左へと交互に首を傾げながら、水色のツインテールを気の向くままに振り乱していた。

 

「ねー、ねー」

「くくくっ。阿呆共め、まんまと釣られおったわ」

「ねー、ねー」

 

 ディスプレイにアースラからの転移反応を捉え、ニヤリと頬を釣り上げる黒銀の少女。その周囲を、水色の少女がくるくると忙しなく飛びまわっていた。

 

「ねーってばー」

「あの女狐が夜天の王を匿うのも計算の上よ。ふははははっ、我が策に狂いはないっ!」

「ねーってばっ!!」

「ええいっ、耳元で喧しいっ! そう声を張り上げずとも聞こえておるわっ!」

「……反応しなかったのはディアーチェじゃんかー」

「今度はボソボソと……。レヴィよ、言いたいことがあるのならばはっきりと申してみよ」

「えぇー……」

 

 ギロリと鋭い視線を飛ばす黒銀の少女――ディアーチェの反応に、がっくりと肩を落とす水色の少女――レヴィ。今や主従の関係ではなくなってしまった二人だが、ディアーチェの態度は相変わらずのようだった。

 もっとも、二人はつい昨晩まで話はおろか対面すらしたことがなかったのだが。

 理不尽に叱られてしまったレヴィは、不満顔のままにディアーチェへと告げた。

 

「ボク、そろそろ我慢できなくなってきたんだけど、まだ行かないのー?」

「そう急くでない。貴様の見せ場はまだ先だ」

「えー……」

「何だ、単騎駆けに興味はないのか?」

「たっ、単騎駆けっ!?」

「応ともよ。この策の成否は貴様の仕事振りにかかっていると言っても過言ではない」

「たんっきーがけっ、たんっきーがけっ、たんっきーがけぇ~」

「……なんとまあ扱いやすい奴よ」

 

 鼻歌を歌いながら武骨な戦斧(バルニフィカス)をバトンのように振り回し、器用にも中空でスキップをしてみせるレヴィ。呆れ顔になっていたディアーチェは、表情を引き締めてディスプレイに視線を戻した。

 現在のアースラの主戦力は、ディアーチェが発生させた闇の欠片によって分散させることに成功している。あの忌々しい巡航艦が対艦反応消滅砲(アルカンシェル)を取り外した今、厄介なのは夜天の王(八神はやて)のみだ。

 だが、はやての存在は、同時に策略の肝でもあった。

 つまり、攻め込むのならば今。

 ぼうと光る暗闇から、ディアーチェは剣十字の騎士杖(エルシニアクロイツ)を出現させた。

 

「さて……」

「たんっきーがけっ、たんっきーがけっ、たんっきーがけぇ~」

 

 ディアーチェが見据えるは、もう一方のディスプレイ。

 二つの反応を追うそちらは、未だ沈黙を保ったままだった。

 

 

 

 

 その異常は、立て続けに起きた。

 周辺世界の調査に向かったなのはとフェイト、シグナムとザフィーラ、ヴィータとシャマルの三組との通信が唐突に途絶した。分かっているのは、目標地点への転移は成功したこと。その周辺では、漆黒の魔力素が霧状になって渦巻いていたこと。そして、六人は封鎖結界に囚われてしまったらしいこと。

 続いての異常は、アースラへの攻撃。

 第97管理外世界(地球)の軌道上に待機していたアースラは、突如発生した海鳴市を中心とする広域封鎖結界へ、強制的に転移させられた。ベルカ式と思われる結界内の景色は、漆黒の闇。見渡す限りに広がる闇の欠片の大群が、沈みかけた夕日の光さえも遮断して待ち構えていた。

 

「うそ、でしょ……?」

 

 誰もが言葉を失い静寂に包まれたブリッジ。顔色を真っ青にしたエイミィの呟きが、やけにはっきりと聞こえた。

 管理局の巡航艦であるアースラの全長は、100メートルを超える。それほどの大質量を単独で強制転移させることのできる魔導師など、次元世界中を捜しても、片手で数える程度しかいないだろう。それも、アースラ側の抵抗を許さない展開速度。それを成した者の実力は、もはや計り知れない。

 さらには、メインモニターを埋め尽くすほどの魔力反応だ。個々の大きさは一般局員程度のBランクとはいえ、装備も人員も整っていない一巡航艦が相手にできる戦力ではない。戦闘要員が十人にも満たないともなれば、尚更だ。

 しかし、今現在のアースラに乗り込んでいるのは、なにも管理世界にありふれた凡夫ばかりというわけではない。

 

「――っ!」

「はやてっ!?」

 

 ブリッジが白銀の光に包まれ、意識を引き戻したクロノが光の中心に向かって叫ぶ。そこには、騎士甲冑とデバイスを展開したはやてがいた。

 車椅子を投げ捨てる勢いで飛び立ち、純白の翼で狭苦しい空を切り裂く。真っ直ぐに転移ゲートを目指すはやてを遮ったのは、険しい表情をしたリンディだった。

 

「待ちなさいっ!」

「……どいてください」

「待ちなさいと言ってるでしょうっ!!」

 

 横を通り抜けようとしたはやては、伸びてきた細い腕によって引き戻された。魔法で身体強化もしていない、脆弱な力。だが、どこかで見たことがあるその目が、はやてを引き留めた。

 なんてことはないはずなのに、肩に食い込む指がやけに痛い。

 

「闇の欠片の狙いはあなたなのでしょうっ!? あなた一人が行ってどうするつもりですかっ!?」

「――っ、私が行かんで誰が行くんですかっ!? 他人の心配してる暇があったらっ、さっさと障壁張ってくださいっ!!」

 

 上から降ってくる金切声に、はやては俯いたままで怒鳴り返した。

 夜天の王であるはやての魔法は、広域攻撃に優れている。目標地点に敵しか存在しないのならば、その殲滅力は局内でも飛び抜けているだろう。強大な魔力を持つはやてにも殲滅は難しいかもしれないが、それならそれで、他にやりようはあった。

 この状況ではやてを温存するのは、正しく愚の骨頂だ。はやてが時間を稼いでいる間、結界を破り返すなりなのは達が戻るのを待つなり好きにすればいい。それが分からないほど、リンディは無能な指揮官ではないはずだった。

 しかし、リンディが選んだ答えは。

 

「このっ――」

「母さんっ!!」

「――…………っ!」

 

 大きく振り上げられた平手が、クロノの叫びによってそのまま停止し震えている。上がったままだった腕が力なく下に落ち、はやての肩を掴んでいた手がゆっくりと離された。

 

「……クロノ、武装隊員を連れてはやてさんの援護を。エイミィは、最大出力での魔力障壁の展開を急いで。私は結界の解析に入ります。……はやてさん、私が結界を破るまで、時間を稼いでもらえますか?」

「……はい」

 

 機械的に言葉を返し、今度こそはやてはリンディの横を通り過ぎた。

 唇を噛み締めているリンディは、硬く握り拳を作って震えている。いつも笑顔を作っているリンディがここまで感情を露わにしているところを見るのは、初めてのことだった。

 だが、それに気遣っている余裕などない。

 今は、はやてが授かった命と力の意義を示す時だ。

 そして、もしも叶うのならば――。

 その心に浅ましい願いを秘め、はやてはクロノ達と共に転移ゲートを潜った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 雲の向こう(前編)

 

 なのはがフェイトと共に転移してきた世界。そこは、太古の地球によく似た世界のはずだった。

 文明によって汚されていない、原始の景観を保ったままの大自然。豊かな水に恵まれた、野生の魔法生物がのびのびと暮らす世界だ。

 しかし、二人の周囲を満たすのは漆黒の闇。霧状に散布した、漆黒の魔力粒子だった。

 普段ならば見事な大瀑布を望めるはずが、視界は酷く狭い。恒星はまだ中天にあるはずの時間帯だが、3メートルと離れていないはずのフェイトの顔を認識するのが精一杯だ。

 

「真っ暗だね……」

「うん……。それに、何だか息苦しい……」

 

 あまりに濃密な魔力素は、魔導師にとっては毒となる。その点から考えれば、この場に長時間留まるのは避けた方がいいだろう。はやての様子がおかしかったのも、あまり長居はしたくない要因の一つだ。

 だが、すぐそこにあるはずの異常が感じられない。誰かに視られているような感覚はあるのだが、その相手がどこにいるのか、まったく気配が感じられないのだ。すぐそばにいるはずのフェイトの気配でさえ、希薄に思えてならない。自分の中にあるコンパスが狂い、ぐるぐると回ってしまっているような感覚だ。

 異常と言えば、この状況こそが一番の異常。この場にいるだけで、心がざわざわと落ち着かなくなってしまう。

 

「闇の欠片、出てくるのかな…………フェイトちゃん?」

 

 目を凝らして辺りを見回していたなのはは、急に黙りこくってしまったフェイトを不審に思い、フェイトがいる方向に振り返った。

 

「フェイトちゃん? どこいっちゃったの……?」

 

 けれども、振り返った先にフェイトの姿はなかった。

 フェイトには少々抜けたところもあるが、まさかこんなところで迷子になってしまうような子ではない。真面目で実直な性格のフェイトが、勤務中に突然かくれんぼを始めたという可能性も皆無だ。正確な気配を掴めない以上は自信がないが、何かに襲われた様子もなかった。

 こんなときこそ魔法と念話を送ってみるも、フェイトが応えるどころか通じてすらいない。なのはのデバイスであるレイジングハートさえも、周囲の状況が読み取れていないようだった。

 

「フェイトちゃーーーんっ! ……レイジングハート、アースラとは通信繋るかな?」

《……I tried but failed.(繋がらないようです。)

「そんな……」

 

 感覚に頼った魔法行使をするなのはとは違い、機械であるが故に正確な魔法行使を売りとするレイジングハートでも駄目ならば、それは不可能だということだ。

 とにかく、このままじっとしていても始まらない。なのはは時空管理局の一員で、この場には仕事で来ているのだ。迷子になって終わりましたでは、クロノあたりに溜息をつかれてしまうだろう。

 調査をしつつ、まずはフェイトと合流を、と飛行魔法を操作したときだった。

 ぼんやりと、闇の向こうに揺らぐ影。

 背の低いそれは、ゆっくりと近づいてきて。

 その姿をはっきりと捉えたとき、なのははそこに鏡でもあるのかと思った。

 

「私……?」

 

 見覚えのある白いバリアジャケットは、聖祥小学校の制服を模したもの。だが、レイジングハートが去年の12月に強化される以前の、まだ装甲が薄い最初期のモデルだった。

 その手の魔導の杖はなのはの杖(レイジングハート・エクセリオン)とは違い、カートリッジシステムの象徴であるマガジンを付属していない。今となっては懐かしさすら覚えるそれは、紛うことなきレイジングハートだ。

 白いリボンでツインテールに結ってある明るい茶髪。不安を宿しておどおどとした瞳は、なのはを見つけて驚いている。その顔は、毎朝洗面台で見ている自分自身の顔だった。

 

「私……? レイジングハート、あの子もジュエルシードの異相体なの?」

 

 自分によく似た少女の問いかけに、もう一振りの魔導の杖が光って何事かを告げていた。

 その少女の口から出た声に、自分の声はこんな感じだっけ、と違和感を覚える。私はそんなに舌足らずな幼い声ではないと否定したかった。

 闇の欠片。

 消滅した闇の書が転生を計る際に出現する、闇の書の残滓。闇の書のデータが形を得たものを『闇の欠片』と呼ぶのだと、はやては言っていた。

 なのはは闇の書事件でリンカーコアを蒐集されてしまったため、自分の情報は闇の書に記されてしまっている。その情報には魔法関連だけではなく、その人物の記憶なども含まれているらしい。

 つまり、言動から考えて、目の前の少女は去年の春にジュエルシードを集めていた頃の自分に違いない。

 相手は過去の自分。闇の欠片という存在は、いわばお化けのようなものだということは分かっている。けれども、それが自分自身ならば、いくらか話は通じるはずだ。

 

「えーと……なのはちゃん? もうジュエルシードは――」

「――うん、わかってるよ、レイジングハート。暴走してるジュエルシードを封印しないと……!」

「えっ? ちょっと待って、あなたは――っ!」

 

 言い終わらない内に、相手の足元に桜色のミッドチルダ式魔法陣が描かれた。五つの魔力弾が形成され、なのはを目掛けてすぐさま射出される。その魔法の術式は、なのはのものであるディバインシューターだった。

 説得を一時中断し、なのはは回避行動に移った。同時に術式を起こし、同数の魔力弾を練り上げる。迫りくる射撃魔法(ディバインシューター)に、反転したなのはは射撃魔法(アクセルシューター)を放った。

 桜色の魔力弾がぶつかり合い、そして、五つの魔力弾(相手の魔法)が砕け散った。

 この一年間――特に、年が明けてからは――なのはは自身の魔法技能を向上させることに余念がなかった。ミッドの訓練校では、フェイトと共に魔法戦闘の教えも受けている。それを考えれば、当然の結果だ。魔力量も少しばかり増加した今、過去の自分に負けることなどあってはならない。

 しかし、だからといって、過去の自分が脅威ではないということはない。

 進む魔力弾の先では、もう一人の自分が砲撃形態(カノンモード)のレイジングハートを構えていた。杖を取り巻く四つの環状魔法陣。左右に広がる光の翼の中心に、桜色の砲弾が輝いている。

 今度は、砲撃魔法(ディバインバスター)だ。

 

「ディバイーン、バスターッ!」

「レイジングハート、お願いっ!」

《Excellion Shield.》

 

 解き放たれた桜色の奔流を前にしながらも、なのはは回避を選ばなかった。信頼するパートナーに防御を任せ、自身は魔力弾の制御に集中する。あまり好きにはなれない方法だが、実力差を見せて動きを止める必要があった。

 カートリッジを一発ロードし、レイジングハートが強固な防壁を作り上げた。砲撃を真正面から受け止め、面積あたりの魔力密度を計算し、防御システムがそれに合わせて防壁を補強する。想定よりも威力が高かったのか、レイジングハートは途中でもう一発だけカートリッジをロードしていた。

 なのはの視界は桜色に埋め尽くされている。しかし、その魔力の流れを辿ることで、相手の位置は手に取るように分かった。

 砲撃を避けて回り込ませた魔力弾を、相手を囲むように配置させる。光が晴れた先、そこには五つの魔力弾によって包囲された、闇の欠片である高町なのはがいた。

 

「そんな、ディバインバスターが通じないなんて……!」

「お願い、いい子だから、大人しくしてくれる?」

「…………や」

「……?」

 

 相手は俯き、何事かを小さく呟いている。今の距離では、掠れたその声は聞こえなかった。

 それでも、なのはは確かに見た。相手の頬を伝い落ちた、一滴の雫を。

 

「……のままじゃ、また独りぼっちに逆戻りしちゃう!」

 

 涙に濡れ、くしゃくしゃに歪んだ顔が持ち上げられる。

 

「私もやればできる子だって、お利口さんにできるんだって証明しないと、誰も私を見てくれなくなっちゃうよ……!」

 

  少女の悲痛な叫びが、なのはの心の奥をちくちくと刺した。その痛みが呼び起こすのは、幼い頃の思い出(なのはのトラウマ)だった。

 なのはに物心がついたかどうかの頃に、父が事故に遭って大怪我をした。母は父の看病と始めたばかりの喫茶店の切り盛りで忙しく、なのはの相手をしている暇がなかった。すでに大きかった兄と姉の二人は、少しでも家の助けになろうと母の手伝いをしていた。

 そのような環境で、幼いなのはだけは一人きりになることが多かったのだ。物音のしない自宅が恐ろしく思え、そばにいてくれる誰かを求めて外に出る。けれど、塞ぎ込んでいたなのはの相手をしてくれる誰かはどこにもいなかった。

 寂しさは募るばかりで、それでも、家が窮地にあるのは子供心に理解していて。だから、決して人前では涙を流さず、家族の負担にだけはならないようにした。自分は大丈夫だとアピールすれば、なのははいい子だね、と褒めてもらえるから。 

 孤独に耐え忍んでいた幼少期。それによってなのはが身に付けたのは、誰かに嫌われずに生きていく術だった。相手の顔色を窺って、相手の望むことをする。そうすれば、独りになることはない。

 直視しないようにしてきた、自分の弱さ。

 もう一人の自分は、容赦なくそれを暴いてきた。

 

「だから……」

 

 嘆く少女を中心に、桜色の流星が集い始める。なのはが配置していた魔力弾さえも、構成を解かれて吸収されてしまった。

 なのはとレイジングハートが編み出した知恵と戦術の結晶、集束砲撃魔法(スターライトブレイカー)――ではない。形成されるはずの砲弾はなく、集められた魔力は、全てが少女の内へと取り込まれている。

 桜色の光が少女を包み込み、新たな力を発現させた。大きく開いた光の翼に、赤色の魔力刃(ストライクフレーム)。カートリッジシステムまで再現させてみせたそれは、当時のなのはではあり得ないものだった。

 

「私は……!」

 

 自分の弱さを受け入れるという行為は、決して容易なものではない。それは違うと否定して、そんなことはないと拒絶してしまいたくなる。痛々しい表情で突貫してくる自分からも、目を背けてしまいたかった。

 

《Don't worry.》

 

 けれども、なのはは知っている。

 

《You are not alone.》

 

 自分はもう、独りきりではないのだと。

 

《Exelion Mode, drive ignition!》

「……ありがとう、レイジングハート」

 

 自ら翼を広げたパートナーの言葉を受けて、なのははしっかりと前を見据えた。

 カートリッジを三発ロードし、足元に煌めく魔法陣を描く。前面に構成したのは、二重構造の防壁。防御性能が向上しているエクセリオンモードで展開したこの魔法は、フェイトにすら破られたことがなかった。

 真っ直ぐに向かってきた赤い刃が、桜色の防壁に激突する。

 

「このっ……!」

「もう泣かなくてもいいんだよ」

「う、うううう……!」

「よく思い出してみて。あなたのそばにいる人達を」

 

 一層目の防壁を突き破った刃は、二層目で止まっていた。ストライクフレームを受け止めているのは、魔力刃を咬んだ一層目の防壁。二層目の役割は万が一の場合の保険と、そして、もう一つ。

 二層目の防壁から光の鎖が伸び、泣いている少女を拘束していく。この状態の少女が自己を曲げないであろうことは、自分自身が一番分かっていた。

 

「ううっ、うううっ!」

「あなたのそばにいるのは、何の見返りも求めないでただそばにいてくれる、優しい人ばっかりだよ」

 

 家に帰れば、大好きな家族に会える。あのときは、ただ忙しかっただけ。誰も好き好んでなのはを独りきりにしていたわけではない。仕方がない事情があっただけなのだ。

 学校に行けば、大好きな友達に会える。最初は喧嘩もしたけれど、今となっては自他ともに認める仲良し。アリサとすずかは、胸を張って親友と言うことのできる存在だ。去年の冬からはそこにフェイトが、この春からははやても加わって、この五人なら、きっといつまでも一緒にいられるだろう。

 そして、なのはの手の中にある魔導の杖(レイジングハート)。機械でありながら意思を持つ彼女は、ただの物などではない。どんな悩み事も相談できる、そして、なのはに力を貸してくれる、大切なパートナーだ。

 なのはの大切な人達は、なのはを見捨てるような真似など決してしないだろう。できないことがあれば教えてくれて、悪いことをしてしまえば叱ってくれる、心優しい人達ばかりなのだから。

 もちろん、だからといって甘えてばかりではいられない。恩返しというわけではないが、何かをしてあげたい。だが、それはきっと、しなければならない義務などではないのだ。

 大切なのは、気持ちを伝え合うこと。

 たったそれだけのことで、孤独などは消え去ってしまう。

 

「だから、私の大切な人達のことを、悪い人みたいに言わないで」

 

 砲撃距離をとり、カートリッジを三発ロードする。展開した魔法陣に足を置き、なのははレイジングハートを突きだした。

 なのはの魔力と、カートリッジ三発分の魔力、そして、濃密な魔力素を集束させて砲弾を成す。集束時間を短縮して威力を犠牲にし、展開速度を速めた集束砲撃魔法。しかしその威力は、ただの砲撃魔法(ディバインバスター)をも容易く凌駕する。

 

《Hyperion Smasher.》

 

 誰かにそばにいてほしいから。よくやったねと褒めてほしいから。そういった望みが前提にあって何かを頑張ることは、少しだけ卑しいかもしれないが、何もいけないことではないだろう。以前のなのはだって、戦う理由はそのためだった。

 だが、今は違う。

 なのはが魔法の力を振るうのは、誰かが悲しい思いをしてしまうのを止めるためだ。

 

「もっと周りを見るだけで、きっと世界は変わるから」

《Shoot.》

 

 想いを魔法に乗せて、なのははトリガーを引いた。

 砲弾が解き放たれ、桜色の激流となって暗い空を明るく照らし上げる。一直線に突き進んだそれは、目を見開いている高町なのはを飲み込んだ。

 辺りが再び漆黒の静寂を取り戻すと、両手で目元を擦る少女が見えた。嗚咽を漏らしながら、溢れてくる涙を拭っている。少女の杖は桜色の光となって散り、少女の体も、足元から解けつつあった。

 闇の欠片は、そのコアに一定の魔力ダメージを受けると躯体を保てずに消失してしまうという。過去が再生されただけの影は、何をしようとも助けることなどできないのだ。

 エクセリオンモードを解除したなのはは、レイジングハートを待機状態に戻して泣きじゃくる少女へと近づいた。ツインテールの間に手を置き、そっと撫でつける。

 

「大丈夫だよ。もう少し頑張れば、新しく素敵な友達もできるから」

「……っ……っ」

「それから、できればなんだけど……私が助けられなかった人達を、どうか助けてあげて。それはきっと、あなたにしかできないことだから」

「わた、わたしに……?」

 

 淡い光に包まれ、半透明になってしまった顔が上を向く。なのはは柔らかく微笑んで見せた。

 

「うん、あなたにしかできないこと。そのうちの一人はもう少しで、それからもう一人は……ううん、二人かな。もう二人は、12月に会うことになると思うから。お願いできるかな?」

「……うん、頑張ってみる」

「ありがとう。あなたに会えて、よかった」

「……!」

 

 きょとんとした顔は、涙に濡れながらも照れくさそうな笑顔へと変わる。うん、と頷きを残して、闇の欠片は消滅してしまった。

 闇の欠片は闇の書を再生させるためだけに存在しているのであって、過去から来た自分などではない。なのはがかけた言葉は無意味でしかないものだ。

 けれども、意味などなくたって、救いのない存在だと分かっていても、その心を支えてあげたかった。

 それが例え、未練がましいおしつけでしかなかったとしても。

 

「……酷いこと言っちゃったかな?」

No, she was surely saved in your words.(いいえ、きっと彼女は救われましたよ。)

「だったらいいな……――まだ、終わりじゃないみたいだね」

 

 再び、影が蠢く。

 次に現れたのは話の通じる人間ではなく、獰猛な魔法生物だった。

 

「行くよ、レイジングハート!」

《All right, my master!》

 

 目尻を拭い、なのはは撃ち抜く力を再びその手に宿した。

 

 

 

 

 炎の尾を引き、排煙で軌跡を描きながら、ヴィータは暗い空を飛翔していた。苦々しく歪めた表情で、ちらりと後ろを振り返る。迫るは、ミントグリーンの光。咎人を捕え上げようと、ミントグリーンの魔力紐(ワイヤー)が伸びて来ていた。

 ちっ、と舌打ちを漏らし、ヴィータはグラーフアイゼンに魔力を送り込んでエンジンを吹かした。炎が大きくなり、飛行速度が上がる。手首を使って角度を作り、黒天に鋭利な曲線を引いた。

 急激なカーブによって体がバラバラになりそうな慣性力を受けたが、そんなものは身体強化を使って無視をした。元より体は並の人間よりもよほど丈夫に造られている。そこに魔法の補助が加われば、魔導師の常識を逸した機動など容易いことだ。

 だが、相手方はヴィータの能力と戦法を熟知していた。

 ワイヤーがぶるりと震え、鞭のようにしなる。引き離していたはずのワイヤーが、横合いからヴィータの視界に入り込んできた。

 手首を捻って急上昇、一本目のワイヤーをかわす。二本目、三本目、四本目と繰り出される攻撃を、鋭角なカーブを繰り返すことで避け続けた。

 見知った攻撃を掻い潜り、ワイヤーが集結する一点を目指す。視認したのは、やはり見知った顔。武骨な甲冑をまとった、シャマルの顔をした存在だった。

 

「――っ、アイゼンッ!」

《Tödlichschlag.》

 

 展開される風の護盾。構わず、ヴィータは紅に染まった鉄槌を振り下ろした。

 

「くっ……!」

 

 散りゆく風の向こう、感情をなくした顔が僅かに曇る。奇しくも宿った表情が、ヴィータの攻め手を緩めさせた。

 こいつはシャマルの偽物で、ただの闇の欠片で、倒すべき敵。そんなことは分かっている。それでも、今のヴィータには、葛藤なしにその敵を屠ることができなかった。

 

『ヴィータちゃんッ!』

「――うおっ!?」

 

 頭に響いた声で、ヴィータは慌てて頭を後ろに引いた。鼻先を紅の鉄槌が駆け抜け、轟と空気を引き裂くスイング音が一瞬遅れてやってくる。巻き起こった風が、前髪をバタバタと乱暴に揺らした。

 攻撃はまだ終わらない。

 割り込んできた影は、勢いをそのままに小さな体を回転させた。ハンマーが頂点に至ったところでくるりと身体を捻り、体幹を真っ直ぐに整える。頭上から繰り出される第二撃を、ヴィータは紅の障壁を展開して受けた。

 障壁越しに、光をなくした目を見る。どこかで見た暗いその瞳は、彼のような優しい夜などでは断じてない。まだ見ぬ未来への希望ではなく、これまでと同じであろう未来に絶望した、全てを諦めた瞳。

 ヴィータを攻撃しているのは、武骨な甲冑に身を包んだ闇の欠片(過去の自分)だった。

 

《Explosion.》

 

 相手の魔力が膨れ上がり、障壁が粉々に砕かれる。迫る鉄槌をグラーフアイゼンの柄で受け、攻撃の勢いに身を任せて後方へと飛ばされた。

 距離を稼ぎながら体勢を立て直す中、ぐるぐると縦に回る視界で次の一手を見定める。せっかちな自分のことだ、必ず追い打ちをかけに突っ込んで来るだろう。そこにカウンターを、と戦術を練っていたが、ヴィータの予想は裏切られた。

 紅と、ミントグリーンのベルカ式魔法陣が輝く。放たれたのは、巨大な砲弾と渦巻く風の砲撃だった。

 

「ちっ――お?」

 

 とにかく回避を選ぼうとしたが、その必要はなかった。後方に飛ばされるうちに、何かを潜り抜ける感覚。視界が一瞬だけミントグリーンに染まり、次の瞬間には別の景色があった。

 まだ勢いは死んでいなかったのか、それでもなお落下を続ける。しかし、間もなく「よいしょっ!」と声があり、あまり頼り甲斐のない細腕に抱き止められた。

 見上げた先には、ほっと一息をついているシャマルの顔がある。どうやら、シャマルの転移魔法(旅の鏡)によって助けられたらしかった。

 

「ヴィータちゃん、大丈夫?」

「助かった。……けど、あんま人を物みてーに扱わねーでくれよ」

「仕方ないじゃない、私の飛行速度じゃ間に合わなかったんだもの」

「……ま、いいけどよ。ありがと、シャマル」

「どういたしまして。……それより――」

「――どうして攻撃を躊躇ったりしたの?」

 

 シャマルの腕から降りたヴィータにかかる声音が、突然変質する。抑揚の少ないその声は、ヴィータの隣にいるシャマルとは別方向、いくらか離れた位置から聞こえてきた。

 声のした方を見れば、ヴィータ達をこの空域に捕えている闇の欠片(シャマル)がいる。その隣、いつの日かの自分が、次に口を開いた。

 

「前は、女子供だろーが容赦なくぶっ殺したくせに」

 

 泣き叫ぶ声。

 鉄槌を下す自分。

 フラッシュバックした記憶を頭を振って払い、ヴィータは自分を睨みつけた。

 

「黙れよ、偽物」

「あたしを否定したって、てめーらの所業までは否定できない」

「あなた達が犯してきた罪は、決してなくなりはしない」

「それは……」

 

 他ならぬ自分の声に指摘され、隣のシャマルが唇を噛んで俯いた。

 ヴィータとシャマルは夜天の書の守護騎士だ。今はもう覚えていないが、始まりの時も夜天の書の守護騎士だったはず。だが、その間は違った。

 いつの頃か夜天の書に発生した異常。何が原因かも分からなかったそれは、夜天の書の呼び名を闇の書というものに変えてしまった。そして、次元世界にその悪名を轟かせるきっかけとなったのだ。

 敵軍を斬り捨て焼き払う、剣の騎士。

 戦艦を墜として叩き潰す、鉄槌の騎士。

 謀殺によって敵国を覆す、湖の騎士。

 迫る脅威を串刺しにする、盾の守護獣。

 重ね上げた武功と残虐な所業によってその名を馳せた、闇の書の守護騎士。

 込められた祈りを忘却し、命じられるがままに命を刈り取り続けた自分達。主の命令は絶対と信じ込み、目と閉じ耳を塞いで心を殺していた。道を踏み外してしまった主を正すことなく、意思のない人形へと成り下がっていた。

 その結果が、千年以上に渡る大量殺戮。

 弱者を排斥する世界、積み上げた死体の数など覚えていない。だが、死体の山を築き上げたであろうことは間違いないのだ。

 民を殺し、兵を殺し、将を殺し、王を殺した。

 男を殺し、女を殺し、子供を殺し、老人を殺した。

 斬り捨て、叩き潰し、毒を盛り、串刺しにした。

 震えるヴィータとシャマルの手は、今でもその感覚を忘れてなどいない。

 

「たくさん殺したくせに」

「命乞いなんて聞かなかったのに」

「許されるわけねーのに」

「裁かれるべきなのに」

「そのくせどーして」

「のうのうと起動しているのかしら?」

「もしかしててめーら」

「今更幸せなれるとでも思っているのかしら?」

 

 その言葉は、グラーフアイゼンで殴られるよりも重い一撃だった。管理局の裁判でも散々に言われたが、自分と同じ声で言われた方が精神的に堪える。自分の心の声と錯覚し、抵抗なく受け入れられてしまうのだ。

 あまりに重すぎる罪。

 けれども、その事実を受け入れた上でもヴィータ達は。

 

「……黙れって、言ってんだ! シャマルも顔下げてんじゃねぇ!」

「――っ、はいっ!」

 

 紅の魔法陣が輝き、起動した術式が八つの鉄球を召喚する。震えを押さえつけるため、グローブの中の指が白くなるほどに柄を握り込み、グラーフアイゼンを振り抜いた。

 射撃魔法(シュワルベフリーゲン)が着弾するのを待たず、ヴィータも同時に飛び出す。相手方も鉄球を撃ち出し、そして、風の護盾を展開していた。

 甲高い音を立てて飛翔した十二の鉄球が、互いにぶつかり合って砕け散る。ヴィータが放った残りの鉄球は盾を張るもう一人のシャマルへと向かい、相手が放った鉄球は、ヴィータとシャマルを狙っていた。向こうの自分は、デバイスを構えて飛び出してきていた。

 グラーフアイゼンを右に薙ぎ、自分へと飛んできた鉄球を粉砕する。同時に高速移動魔法(フェアーテ)を発動してスライドし、シャマルを狙う鉄球を叩き潰した。

 次、と視線を上げ、状況を確認する。もう一人の自分はもう目の前で、もう一人のシャマルはヴィータの鉄球を防御して動きが止まっていた。

 

「シャマルッ!」

「任せてッ!」

 

 シャマルの名を呼び、そして、振り下ろされた戦鎚に向けてグラーフアイゼンを振り上げて迎え撃つ。火花を捉える視界の隅を、クラールヴィントのワイヤーが駆け上がっていった。

 

「現実見ろよ。てめーらの居場所なんてどこにもねえ。世界中敵だらけだ。そうだろ?」

「違うッ! 勝手に決めつけてんじゃねーよッ!」

 

 確かに、闇の書の守護騎士だったヴィータ達には居場所などなかった。世界を飛び回り、戦場を駆け抜ける日々。主の下に帰還したところで労われもせず、食事も与えられずに暗い部屋へと押し込まれた。

 人間ではなくプログラム体に過ぎないのだから、当然の扱いだ。

 考え直すまでもなく、そう思い込んでいた。

 

「あたしらの居場所は、はやての隣だッ!」

 

 けれども、そんなことばかりではなかった。

 世界を飛び回ることなどなく、戦場になど繰り出さない日々があった。温かい食事に柔らかいベッド。向けられるのは害意ではなく大きな好意で、きらきら輝く笑顔と心温まる優しい笑顔がそこにはあった。

 プログラム体に過ぎないヴィータ達を、人間として扱ってくれた二人の主。

 何より大切な、初めての家族。

 

「こんなあたしらを、友達だって言ってくれるやつだってできたんだッ!」

 

 存在するはずのない魔導師との邂逅。静かな生活は終わりを告げ、望まぬ再会時には、やはり戦うこととなった。一方的に襲撃する者と、一方的に襲撃される者。加害者と被害者で、その間に友情が芽生える余地などなかったはずだった。

 しかし、彼女は違った。事情を知らぬうちから話を聞かせてほしいと訴えかけてきて、何度突っぱねても諦めず、そして最後には協力してくれた。

 人懐っこい性格で、その無邪気な笑顔が大切な人と重なってしまう、放ってはおけない少女。

 

「でも分かってんだろ? どうせまた裏切られるに決まってる」

 

 火花を散らしていた二振りのグラーフアイゼンが、互いに弾かれた。体勢を立て直しながら、互いにカートリッジをロードする。ハンマーフォルムからラケーテンフォルムへと変形したグラーフアイゼン達が、炎を吹き上げた。

 

「例え裏切られたって――」

「――私達は、私達の意思で道を選ぶ!」

 

 暗い空を昇っていくヴィータ達の姿を捉えながら、シャマルが高らかに宣言した。

 左右の掌に装備したクラールヴィントから伸びる計四本のワイヤーは、同数のワイヤーと絡み合っている。向かい合うは、闇の欠片として構成された過去の自分。基礎能力では今のシャマルの方が勝っているが、だからといって、容易に倒せる相手ではない。

 

「それは、主に使い捨てられたとしても?」

「はやてちゃんはもう主なんかじゃない――私達の家族よ!」

 

 シャマル達とはやてとの関係は、もはや主従のそれを超えている。はやてが夜天の王でシャマル達が守護騎士である以上その本質は変わらないのだが、そんな低次元の話ではないのだ。

 十ヶ月という時間は、一人の主に仕えるにしては異例の長さだ。主の方針によって多少は左右されるが、六ヶ月を越えたことはまずなかっただろう。記憶が曖昧で確かではないが、すぐさま蒐集に駆り出され、闇の書を完成させては消滅と再生を繰り返していたはずだ。

 今回も主の願いによって蒐集を始めはしたが、その願いはこれまでとは違ったものだった。最愛の人の命を助けたいという、儚い祈り。そう願った主も大切な家族で、主として振る舞ったのは必要に駆られたためでしかなかった。

 そして、危険が迫れば真っ先にシャマル達を切り捨ててきたこれまでの主とは違い、彼は身を挺してシャマル達を護り抜いた。はやてとは、身代わりとなった彼を救うために同じ空を飛んだ。

 共に過ごし、共に空を翔けることで育まれた絆。

 それはきっと、愛情と呼ばれる感情。

 

「そんな関係、いつまでも続くはずがない。あなた達の存在は、重荷でしかないのだから」

「続けて見せるわよッ!」

 

 分かっている。

 シャマル達の存在が、はやてを貶めてしまっていることくらい。

 心のどこかでは疎ましく思われていることだって、シャマル達は知っている。

 当然だ。多少歪んでしまってはいても、はやては純粋無垢で何の罪もない少女だった。血塗られた歴史を持つ闇の書の主に選ばれるべき人間ではなかった。シャマル達の穢れきった手で触れていい存在ではなかった。

 けれども、はやてはそれでも手を差し伸べてくれた。優しく触れてくれて、笑顔を向けてくれた。シャマル達の真実を知ってもなお、その態度が変わることなどなかった。

 それは、シャマル達が奪ってしまった彼も同じ。

 だが、命を奪われた彼が、最愛の兄を奪われたはやてが、無限の愛を注いでくれるはずがない。二人は人間で、聖人君子などではないのだから。大きな好意の裏に、小さな嫌悪がなかったわけではないのだ。

 しかし。

 

「例え嫌われたって……憎まれたってっ! 私達は――あの子のそばにいたいから!」

 

 はやてから光を奪い、清廉な身を穢したのは確かに自分達だ。

 しかし、闇の中にいたシャマル達にとって、はやての存在は掛け替えのない光なのだ。守護騎士プログラムの根幹を滅びゆく夜天の書から蒼天の書へと移した今、言葉通りにはやてなしでは生きられない。

 だから、シャマル達ははやてと共に生きることを望む。はやての重荷でしかなくとも、はやてのそばにいたいから。

 嫌われたって構わない。

 憎まれたって構わない。

 それでも、共に生きる努力をしよう。

 はやてをもっともっと好きになって、好きになってもらって、はやての生が終わるそのときまで、そばでその身を支えよう。

 共にいることではやてが穢れるというのなら、穢れきったこの身を清めてみせよう。

 犯した罪は消せないことなど分かっている。だから、命を奪った分だけ他の命を救って見せるのだ。それは、はやてが生きているうちには叶わないかもしれない。だが、それでも。

 

「だから――」

「あたし達は――」

 

 矛盾を孕んだ想い。

 以前は何かを願うことなどなかった。

 何かを望むことなどなかった。

 願望を持つ資格すらないと思っていた。

 けれども、願ってもいいのだと、望んでもいいのだと、シャマル達は教えてもらったのだ。

 それが、人間として生きるということ。

 

「罪を背負って――」

「――生きてくんだよッ!!」

 

 何度目かの衝突の後、ヴィータはグラーフアイゼンを右手で強く握り締めた。

 クラールヴィントのワイヤーを自ら切り、シャマルは両手を正面にかざした。

 左手に魔力を集中させ、振り下ろされたグラーフアイゼンの衝角を受け止める。

 風の砲弾に魔力を集中させるため、迫るクラールヴィントを構わず受ける。

 しかし、それらの攻撃が騎士甲冑を完全に貫くことなどない。

 覚醒した八神はやての力は、何より騎士甲冑の強化に当てられているのだから。

 これ以上、大切な家族がいなくなってしまわないように。

 

「クラールヴィントッ!」

「グラーフアイゼンッ!」

《《Jawohl!》》

 

 シャマルのクラールヴィントが、ヴィータのグラーフアイゼンが、主の声に応えるかのように一際強く光り輝いた。

 掌に猛る暴風が集い、衝角が真紅に染まって燃え上がる。

 狙うは、闇に囚われてしまった自分。

 

《Sturmwind!》

《Flammeschlag!》

 

 放たれた砲撃が過去を切り裂き、打撃と共に発生した炎が闇を照らし出した。強力無比な魔力は躯体を貫き、その核へと到達する。心臓部を蹂躙された闇の欠片は、闇に溶けるようにして消えて行った。

 グラーフアイゼンが駆動し、排熱機構から大量の蒸気を吐き出す。無音になった世界で、駆動音がやけにはっきりと聞こえた。

 欠片が消失した虚空をじっと眺めていたヴィータの隣に、警戒を続けながらもシャマルが昇ってくる。まだ終わっていないことは、ヴィータも察知していた。

 

「ヴィータちゃん、手、大丈夫?」

「あんくらいへっちゃらだよ。シャマルこそ、直撃受けてたじゃねーか」

「ちょっと痛かったけど、心配はいらないわ。……まだ続くようだけど、いけるかしら?」

「ああ、任しとけ。……けど、何か嫌な感じがする。シャマル、できるだけあたしが相手しとくから、この妙な結界ぶち破るのを優先してくれ」

 

 胸を押さえながら言ったヴィータに、シャマルが頷きを返した。

 先ほどからやけに胸騒ぎがするのは、決して気のせいではない。精神リンクから伝わってくる感情が、ヴィータの心を乱しているのだ。

 不安と、期待と、恐れ。ここ最近続いていたはやての心の振れ幅が大きくなっている。もしかしたら、連絡のつかないはやてとアースラの方で何かが起こっているのかもしれなかった。

 再び結界の解析に入ったシャマルを背に、ヴィータはグラーフアイゼンを構え直す。視線の先では、深い闇が大きな影を作り出すところだった。

 

 

 

 

 汗で滑る剣十字の杖(シュベルトクロイツ)を握り直し、はやては蒼天の書を開いた。連続でリンカーコアから流れ出す大魔力に、いい加減体が悲鳴を上げている。それでもその細い腕を前へと伸ばし、はやては術式を起動した。

 大規模魔法陣が描かれ、眩い白銀の光が闇の中で輝いた。前面に形成された砲台五門が、大魔力を素に砲弾を練り上げる。

 はやての(砲身)が指し示す先には、無数に蠢く異形の影があった。反響する咆哮が恐れ戦いているように聞こえるのは、込められた魔力の量を直に感じ取っているためか。

 

「来よ、白銀の風……っ、天よりそそぐ――矢羽となれっ!」

《Hräswelg.》

 

 五点から解き放たれた砲弾(フレースヴェルグ)が、暗い闇の中を翔け抜けた。闇の欠片である魔法生物達が放った攻撃を掻き消しながら進むほどの威力だが、狙いはまだまだ甘い。元々、リインフォースの補助があることを前提として発動する魔法なのだ。はやて一人では、完全に使いこなすことは不可能だ。

 だが、今は撃てば中る状況。その制圧力は絶大だった。

 欠片の群れに突き刺さった砲弾が、圧縮させていた大魔力を炸裂させる。着弾地点はおよそ1キロずつ離れてはいたが、拡散した魔力爆撃が互いに重なり合い、闇の壁を突き崩していった。

 はやての砲撃は、まだ終わらない。

 

「次……っ!」

 

 息を切らしながらも砲台の向きを変え、第二射、第三射と放つ。爆撃は欠片の軍勢を削り取っていくが、ようやく片側が空いた程度だ。クロノ達もいるにはいるが、はやてに迫る闇の欠片を迎撃するので手一杯。アースラの主戦力であるクロノですら、はやてと同じ戦列には加わることはできないのだ。

 あと半分。流石の連携で欠片を撃墜していくクロノ達の姿をぼんやりと捉えながら、はやては歯を食いしばった。

 大魔法の連発で、膨大な魔力を持つはやてでさえも底が見えてきていた。もう撃てないわけではないが、これ以上魔力を消費しては、リインフォースへの供給分までなくなってしまう。状況は分かっているつもりだが、魔力を使い果たすつもりはなかった。

 だから、取るべき選択肢は一つ。

 蒼天の書がバラバラと捲れ、とあるページを開く。そこに記してあるのは、リインフォースの知識を基にして共に組み上げた、はやてのための魔法。

 重たい身体に魔力を通し、はやては気力で腕を持ち上げた。極大の魔法陣の上で掲げた杖は、真っ直ぐに天を指す。剣十字が指し示す先に、白銀の光が集い始めた。

 

「……響けっ、終焉の笛っ!」

 

 魔力の高まりを感じてか、クロノ達が慌てて射線から逃れていく。『こっちに撃つなら知らせてくれっ!』と飛んできた念話に、事前に知らせることすら忘れていたことにようやく気が付いた。

 どうしてこんなに必死になっているのだろう。

 どこかにいる冷めきったはやてが、息を切らす自分を見下している。リンディが結界を破るのを待つだけでいいのに、シグナム達が戻るまで耐えるだけでいいのに、何故大切な魔力を浪費する必要があるのか。

 こんなことをしたって、妄想が現実になる保証などはどこにもないのに。

 

「――ラグナロク……っ!」

 

 大気に満ち満ちた魔力を集束した砲弾が、極光となって溢れ出した。止めどなく溢れる光が空に橋を架け、砲台と闇の欠片の大群とを結ぶ。着弾した砲弾は拡散を始め、津波のように全てを飲み込んでいった。

 出せる手札を出し尽くしても、闇の欠片の殲滅には至らない。だが、大群の七割方が魔力素に還ったことで、残りの欠片だけではアースラの障壁を破ることは難しくなっただろう。ここまでやれば、はやては十分に役目を全うしたと言えるはずだ。

 はやての常識外れな大火力を目の当たりにして呆気に取られていたクロノ達が、我に返って飛び回り始める。なかなか整わない呼吸に苦戦しながらその様子を見ていたはやては、突如、一人の武装局員が水色の閃光に貫かれる場面を目の当たりにした。

 絶望的な状況にもようやく光明が見え始めていたはずが、一気に緊張状態へと突入する。六人いた武装局員のうち三人がはやての護衛に回り、残る二人が海面へと落ちていく局員の救助へと向かった。クロノが襲撃者を抑えにいくが、雷光の如く翔けるそれに翻弄されてばかりだ。

 突然現れた標的から感じる魔力は、そこらの闇の欠片のものではない。少なく見積もってもクロノ並で、はやて達が対応した中では突出していた。

 疲労が溜まっているのか、射撃魔法の雨を降らせるクロノもその動きは芳しくない。クロノの攻撃を掻い潜った光が、救助に向かった二人の局員をも貫いていた。

 とにかく援護をしなければと、はやてが不得手な射撃魔法を発動させようとしたとき、雷光が爆ぜた。

 

「そこのけそこのけ、ボクが通ーる!」

 

 あまりに場違いな、しかしどこかで聞き覚えのあるような声。それを認識したときには、はやての周りにいた三人は斬り捨てられていた。

 

「斬り捨てごめーんっ!」

「――っ!?」

 

 直感に身を任せて両手で支えた杖に、蒼雷を帯びた魔力刃がぶつかった。中途半端な身体強化では受けきれず、はやては押し負けて弾き飛ばされてしまう。だが、一瞬だけ襲撃者の顔は見た。

 闇の欠片のものとも違う、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンによく似たその顔を。

 

「えーっ!? ボクの攻撃止められたーっ!? ――って、よく見たら夜天の王じゃないか! ちょっと悔しいけど、それなら納得かなー」

 

 毛先だけが黒い水色の髪に、爛々と輝く薄紅の瞳。ころころと変わる表情とその雰囲気は、落ち着きのあるフェイトとは似ても似つかない。しかし、目の前の少女がフェイトの容姿を模した何かであることに違いはなかった。

 背後から迫っていたクロノの砲撃を振り向きもせずに回避して見せた少女が、ふと叱られた子犬のような顔を見せる。

 

「わ、わかってるってば! 夜天の王とは戦っちゃダメなんでしょー? うんうん、ボクのお仕事はもっと大事なことなんだも――はい、余計なことは喋りません、ごめんなさい……」

「ちょ、ちょう待ちぃっ!」

「あーダメダメ、今ボク忙しいから! また後でねー!」

 

 反転した背中に向かってはやてが叫ぶも、少女はお遣いにでも向かうかのような気軽さで手を振りながら、アースラへと突貫する。後を追おうにも、高速機動型らしき少女に追いつくことのできる移動手段も攻撃方法も、はやては持ち合わせていなかった。

 

「パワーきょくげ~んっ!」

 

 少女の振りかざした剣が巨大化し、あっという間にアースラの障壁を一部を切り崩してしまう。闇の欠片の攻撃には十分耐えていたはずの障壁は、あまりに呆気なく突破されてしまった。

 

「はやてっ! まだ飛んでいられるかっ!?」

 

 少女を取り逃してしまったはやての背に、半ば怒鳴り声と化した声がかかる。見れば、バリアジャケットをボロボロにしたクロノが荒い息を吐き出していた。

 

「う、うん、まだ大丈夫やけど、クロノ君は――」

「――休める状況じゃなくなってしまったが、きついならアースラに戻ってもいい。僕は彼女を追う。いいか、絶対に無理だけはするんじゃあないぞ!」

「えっ、あっ、ちょっ……」

 

 はやての返事を待たず、クロノは少女の後を追ってアースラに向かって行った。この場の指揮官であるはずが出鱈目な采配を取っていたあたり、クロノも相当に切羽詰まっているのだろう。クロノの焦り具合を見て少々落ち着いてしまったが、アースラにリインフォースを残しているはやてだって、休んではいられない状況だ。

 夜天の王であるはやてを無視した水色の少女の狙いは、十中八九、記憶喪失の少女だ。つまり、一緒にいるリインフォースにも危険が迫っているということ。共にいるアルフでは、おそらく抑えられない。

 闇の欠片とも違う少女の正体は気がかりだが、今はそんなことはどうでもいい。

 どうしてあんなに簡単に行かせてしまったのか。

 今更自己嫌悪に陥りながらも少女の追撃に向かおうとしたとき、はやては周囲の異常に気が付いた。

 はやてを守っていたクロノがいなくなって、武装局員が墜とされて、どうしてひっきりなしだったはずの攻撃がまったくなかったのか。

 様々な音色の咆哮で煩かったはずのこの場は、どうして無音の世界になっているのか。

 

「……っ!?」

 

 ふと気が付いた気配に、はやての心臓が飛び上がった。

 全ての闇の欠片が魔力素へと還り、一カ所に集い始める。

 ゆっくりと形を造っていくそれは、魔力の総量に反して大きくはない。

 はやてよりも大きい程度の、人型。

 

「――っ!!」

 

 巻き起こる魔力風になびくのは、闇に溶け込んでしまいそうなほどに深い色合いをした漆黒のローブ。

 影に隠れていた顔が、フードが風にあおられたことによって露わになる。

 フードに下にあったのは――

 

「……はやて」

 

 八神はやては、二度と聞けるはずのなかった声を聞いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 雲の向こう(中編)

 執務官の心得その一、急事にこそ冷静さが友。上司であり義兄でもあるクロノから受けた教えを思い出し、フェイトは動揺を鎮めて周囲の様子を観察した。

 ぐるりと視線を動かしてみると、見渡す限りに暗がりが広がっている。その正体は、大気中に含まれた魔力素が視覚化されたもの。霧となって空間を閉ざす漆黒の魔力粒子だ。

 無限に続いているようにも見える暗闇には、フェイト以外の姿はない。直前まで行動を共にしていたはずのなのはは、ふと目を離した隙に消えてしまった。

 それとも、消えてしまったのは自分の方か。

 なのはに加えてアースラとも連絡が取れない以上、フェイトの方が結界に囚われてしまったと考える方が現実的だ。結界を展開された感覚はなかったが、そもそもこの異様な霧自体が結界だとすれば納得もいく。

 そうと決まれば話は早い。なのはの安否を確認するにしても、アースラに連絡をつけるにしても、この結界を破りさえしてしまえばいいのだ。どちらにせよ、このような環境で長時間の活動を続ければ、フェイトの方が参ってしまうのだから。

 問題があるとすれば、フェイトの行動を妨害してくるであろう誰か。この世界に転移してきてからずっと感じている気配に、フェイトは基本形態(ブローヴァフォーム)のバルディッシュ・アサルトを構えて臨んだ。

 

「いるのは分かっています。大人しく出てきてください」

 

 声が闇に吸い込まれて消えていく。それでもなお感覚を研ぎ澄まし続けていると、リンカーコアとバルディッシュが同時に魔力の動きを感じ取った。

 命令を待たずして、バルディッシュが瞬間高速移動魔法(ソニックムーブ)を発動させる。補助を受けたフェイトが身を翻すと、帯電した金色の魔弾が虚空を貫いていった。

 魔力弾を視認したことでその正体を瞬時に看破し、薄気味悪さを覚えながらも踊るように宙を舞う。続けて飛来する計四発の直射型射撃魔法(フォトンランサー)を回避したフェイトは、最後に飛んできた圧縮魔力の光刃(アークセイバー)を形成した魔力刃で斬り捨てた。

 バチバチとスパークの音を残しながら霧散していく金色の魔力。それは、誰よりもよく知っている自分自身の魔力だった。

 

「闇の、欠片……」

「…………」

 

 高速機動に重きを置いたバリアジャケットに、金色の魔力刃を再形成させた黒鉄の鎌。そして、光のない赤い瞳には覚えがある。痛々しさを伴う既視感を感じてしまうのは、心がその姿を直視することを拒んでいるためか。

 現れたのは、心を砕かれたときの自分――希望を失ったフェイト・テスタロッサだった。

 フェイトはバルディッシュの握りを強くして堪え、闇の欠片からは目を逸らさない。今暗闇を見れば、そこに思い出したくはない記憶を投影してしまいそうで怖かった。

 

「……次は、外さない」

 

 機械的に呟くその様からは、感情は窺えない。まさしく人形といった様相が、フェイトの心を掻き乱した。

 大きく息を吸い、心臓を停止させるかのように呼吸を止める。バルディッシュを振りかざす自分を見据え、フェイトは空を蹴った。奇しくもそれは、相手と同じタイミングだった。

 閃光が走り、激突する。そこに均衡はなく、より強い光がもう一方を押し戻していた。

 魔力量の差はある。デバイスの性能差ももちろんある。だが、それを決定づけたのは意志力の差か、経験の差か、あるいは練磨の差か。

 理由など何だろうと構わない。どんなことがあったとしても、今のフェイトはあの頃のフェイトに負けてはならないのだから。

 

「くっ……!」

 

 氷のように固まっていた表情が歪み、そこに初めて感情が宿る。それは、焦燥と恐怖。何に対するそれなのかまでは分からない。しかし、ぶつかり合ったバルディッシュを押し返す力が強くなったのは確かだった。

 ぎりぎりと迫るバルディッシュを受け止めながら、フェイトは闇の欠片の眼を見た。光のないそこには、後ろ向きな気持ちしか映り込んでいない。

 こんなとき、クロノならばどうするだろうか。

 戦闘に割く容量を残しながら、フェイトは思考を巡らせる。浮かべるは、フェイトの目標となる人物。自分自身とはいえ、せっかく明確な意思のある個体が相手なのだ。闇の欠片には、問い質しておきたいことがあった。

 

「質問に答えて。あなた達の目的は何?」

 

 それは、闇の欠片の存在意義。

 フェイト達が学校にいる間にはやてから聞き、そして、クロノとエイミィがリインフォース達から得た情報によれば、本来の闇の欠片の目的は、闇の書の復活らしい。消滅した闇の書を再構築するために発生するというのだ。

 だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 ならば、闇の欠片はいったい何を復活させようとしているのか。

 まさか、基盤となる夜天の書もなしに、新たな闇の書が生み出されるとでもいうのか。

 またあの悲劇を繰り返そうとでもいうのか。

 そんなことは、絶対に許さない。

 

「わた、しは……!」

 

 義憤に燃えるフェイトの心に、

 

「アリシアに、なるんだ……!」

 

 冷水がぶちまけられた。

 

「何を、言って――」

「――ぁぁぁぁあああああッ!」

 

 悲痛な叫びと共に、バルディッシュを払われる。同時に迫りくる刃を避けられたのは、さらに速い剣を知っていたためだろう。マントを切り裂かれながらも、フェイトは怪我もなく離脱に成功した。

 だが、衝撃は大きい。もう聞くことはないと思っていた名前が、闇の欠片とはいえ自分の姿をした者の口から出てきたのだから。

 アリシア・テスタロッサ。

 大魔導師プレシア・テスタロッサの実の娘であり、クローンであるフェイトの素体となった少女。フェイトが生まれた理由で、そうであれと願われていた目標だ。

 ずきりと頭痛が走る。思い出すのは、柔らかな笑顔を浮かべる若々しい母の姿。フェイトに植え付けられた、アリシアの記憶。

 フェイトは咄嗟に片手で頭を押さえながら、闇の欠片の姿を捜した。

 

「撃ち抜け、轟雷ッ!」

《Thunder Smasher.》

 

 闇の欠片の正面に展開された魔法陣へ、バルディッシュが乱暴に叩きつけられた。光が瞬き、雷の砲撃が放たれる。からがらにかわしたフェイトは、次の攻撃に備えた。この砲撃が本命ではないことなど、フェイト自身よく分かっている。

 砲撃のスパーク音に混じり、風を切る音が耳に届く。

 

《Blitz Rush.》

 

 バルディッシュによる加速魔法(サポート)が入ると同時、身体を捻って腕を振った。魔力刃が柄に当たり、上手く軌道を逸らすことに成功する。続けて第二撃を繰り出される前に、フェイトは頭を押さえていた片手を突きだした。

 魔力弾を形成している時間はない。故に、撃ち出すは純粋な魔力。ただし、フェイトの魔力変換資質によって電撃と化した魔力だ。

 

「ごめんね」

「――っ!?」

 

 腹に触れるか触れないかの位置から繰り出した電撃が、闇の欠片の身体を駆け巡る。声にならない叫び声が上がり、細い身体がびくんと跳ねた。

 フェイトの質問の答えはまだ返ってきていない。けれども、ぐったりと寄りかかってくる少女が過去のフェイトでしかないのならば、その返答は持ち合わせていないだろう。ならば、これ以上苦しまないよう、ひと思いに眠らせてしまった方がいい。

 例えこの少女が闇の欠片でしかないとしても、悪夢を見続ける必要などないのだから。

 

「…………らないと!」

 

 微かな声が上がると同時、背中にきつく腕が回された。続けて、ほぼ密着した体の間に生じる魔法陣。その術式は、間違いなく砲撃魔法のものだ。

 

「何を……!?」

「母さんのために、私はアリシアにならないといけないんだッ!!」

 

 持ち上げられたぎらつく双眸からは、しかし涙が伝い落ちている。

 そこから目が離せなくなったフェイトとの間に砲弾が形成され、

 

《Sonic Form, setup.》

 

 炸裂する直前に、我に返ったフェイトは腕を振り解いて離脱した。砲撃は無事に発射され、暗い空に金色の線を引く。もしもフェイトが離脱できなかったら、魔力が行き場を失い炸裂し、フェイトどころか相手も重傷を負っていたことだろう。重傷を負う覚悟などとうにできているのか、はたまた、重傷を負っても再生できるのか。とにかく、今は機転を利かせてくれたパートナーに感謝することが先だ。

 

「ありがとう、バルディッシュ。おかげで助かったよ」

《……Who are you?》

「え……?」

 

 警戒を解かずに言った礼は、予想外の言葉で返された。

 バルディッシュの口数の少なさは、知らない人からすれば、簡素なAIしか持たないストレージデバイスと勘違いしてしまいそうなほどだ。だが、堅苦しい口調ながらも、主人を敬う気持ちを感じられる賢い子のはずである。そのはずが、フェイトにかけられたのは初めて聞く冷たい声。怒っているかのような声音だった。

 もう一度、フェイトの身体が金色の光に包まれる。ソニックフォームが強制的に解除され、バリアジャケットは基本形態であるライトニングフォームへと戻されていた。まるで、答えるまでは力を貸さないとでも言うかのようだ。

 

Please let me know your name.(名前を教えてください。)

「バルディッシュ、ふざけてる場合じゃ――」

「――アルカス・クルタス・エイギアス」

 

 不可解な行動をとるバルディッシュに戸惑う中、空から降ってきた厳かな声。それは、ある呪文の詠唱だった。

 見上げた景色は、夜空を錯覚させる。輝く大規模魔法陣は満月のようで、一つ二つと形成されていく発射体は星のようにも見えた。

 当時のフェイトに扱うことのできる最大の魔法、フォトンランサーファランクスシフト。

 

「バルディッシュ、お願いだからいうこと聞いて……!」

 

 ジュエルシード事件を乗り越え、闇の書事件を経験し、研鑚を積んだフェイトでさえ、一人きりであの魔法に対応することは難しい。防ぐことなど到底不可能で、高速機動を活かしたとしても全弾回避は厳しいだろう。弾幕を掻い潜るには、バルディッシュの協力が必要不可欠だ。

 

「疾風なりし天神、今導きのもと撃ちかかれ――」

 

 一人焦るフェイトを差し置いて、詠唱は進んでいく。

 

《Who are you?》

「……フェイト・テスタロッサ・ハラオウン」

 

 緊急事態にもかかわらず自己を曲げないバルディッシュに、フェイトが折れて問いかけに答えた。

 フェイト・テスタロッサだったフェイトは闇の書事件を終えた後にリンディの申し出を受け入れ、正式にハラオウン家の養子となった。ファミリーネームが変わり、テスタロッサからテスタロッサ・ハラオウンに。テスタロッサを残したのは、その名を失くしたくなかったからだ。

 アリシア・テスタロッサのクローンとして生み出され、アリシアになれなかった失敗作。それがフェイト・テスタロッサだった。過去の記憶はほとんどがアリシアのもので、フェイトの記憶はそれに比べればほんの少し。アリシアの記憶の中では常に優しく笑いかけてくれた母は、フェイトにはその笑顔をほとんど見せることなくこの世を去ってしまった。

 辛い記憶が大半を占めるが、いいことが何もなかったわけではない。母の使い魔であるリニスに魔法を教わり、バルディッシュと共に空を翔けた時間。アルフと出会い、寝食を共にした時間。フェイトがなのはと出会い、本当のフェイト・テスタロッサになるまでにあった時間だ。

 フェイト・ハラオウンになっては、それまでの思い出を失くしてしまいそうで怖かった。だから、無理を言ってフェイト・テスタロッサ・ハラオウンになった。リンディは、それを微笑みながら快諾してくれた。

 

「バルエル・ザルエル・ブラウゼル――」

《What is your dream?》

「私の夢……?」

 

 フェイトの夢は、執務官になること。

 最初は助けてくれたクロノへの憧れからで、自分なりの理由を作って何となく目指そうと思っただけだった。だがそれは、闇の書事件を経験して明確な目標へと変わったのだ。

 自分のような境遇の子を生み出さないために。

 はやて達を襲ったような悲劇を繰り返させないために。

 そのためには、事件捜査や法の執行の権利、現場人員への指揮権をも持つ執務官になることが一番の近道だったから。夢を叶えたその先こそが、フェイトの本当にやりたいことの始まりなのだ。

 

「――フォトンランサー・ファランクスシフト……!」

「私の夢は、執務官になることだけど……」

If you have only your dream,(貴女だけの夢があるのならば、) you are not Alicia.(貴女はアリシアではありません)

「…………」

My master is only you, Fate.(私が仕えるのは貴女だけです、フェイト。)

「……!」

《Blaze Form, drive ignition!》

 

 満月と三十八の星の下に、一際大きな光が輝いた。

 黄金の光が納まり、光の大剣と純白のマントが露わになる。それは、バルディッシュ・アサルトのフルドライブ形態。過去を受け入れ未来を目指すフェイトを護るため、バルディッシュが得た力だ。

 

「……そっか。バルディッシュは、ずっと私を励ましてくれてたんだね。もう、分かり難いよ」

《Get set.》

「ふふっ。うん、一緒に行こう、バルディッシュ」

「――撃ち、砕けぇぇぇぇええええッッ!!」

 

 降り注ぐ金色の魔弾。秒間七発、総数千を超える流星群に向かうのは、一筋の光。白金の流星が、激流を遡るかのように逆行していた。

 視界を埋め尽くす魔弾だが、その一つ一つは点でしかない。点が重なり合うことで、面のように見えてしまっているだけだ。信頼するバルディッシュと共に行く今のフェイトに、それを突破できない道理はない。

 カートリッジが弾ける度、どこまでも速度が上がっていく。超高速機動を続けて縦横無尽に飛翔し、絶え間ない嘆きの雨を避け続けた。回避が間に合わないものに関しては、バルディッシュを使って切り払う。

 

「うあああああぁぁぁぁぁッ!」

 

 一斉射撃が始まって七秒が経過するが、止まるはずの掃射は止まらなかった。限界を超えた魔法行使。その魔力の供給源は、己の躯体を構成する魔力だったらしい。足元から消えかかっている少女は、それに気づかず悔恨の叫びを上げるだけだ。

 

「もう、終わらせてあげるから」

《Blade Impulse.》

 

 弾幕の壁を突破し、フェイトは光の大剣で宙を薙ぎ払った。剣の軌跡に沿って衝撃波が発生し、弱々しく明滅していた三十八の兵隊を薙ぎ払う。術式が破綻したことで、大規模魔法陣が消失した。

 

「あなたは……私も、アリシアにはなれない」

 

 人は、誰かになることなどできない。なれるとしたら、自分自身だけだ。

 フェイトはアリシアにはなれなかったが、フェイトになることはできた。フェイトとして見てくれる人達がいて、フェイトと呼んでくれる人達がいて、フェイトと笑いかけてくれる人達がいる。

 一番笑いかけてくれて欲しかった人はもういないけれど、最後のあれは、もしかしたら。

 

「だけど私は、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンになれたんだ」

 

 大上段に構えた光の大剣を、紫電の速度で一閃する。間に挟まれたバルディッシュを両断し、そして、フェイトは過去を断ち切った。

 闇の欠片が金の粒子となって解けていく。もしもあのとき隣になのはがいてくれなかったならば、フェイトもこんな風になっていたのかもしれない。そう考えると、胸が締め付けられる思いだった。

 だが、何をしようとも過去は変わらない。

 いなくなってしまった人は帰って来ない。

 だから、過去の記憶を胸に抱き、前を向いて進むしかないのだ。

 進むことのできなかった、彼女達の分も。

 

「……まずは、なのはと合流しないとだね。バルディッシュ、ここから出るよ」

《Yes, sir.》

 

 スピードローラーを交換し、カートリッジをリロードする。もう一度バルディッシュを振りかぶったフェイトは、結界破壊の術式を起動させた。

 

 

 

 

 暗闇に轟く二重の咆哮。同時に圧縮魔力のスパイクが多重に出現し、シグナムの行く手を阻む。しかし、シグナムは飛行速度を落とすことなくその気配へと向かっていた。

 スパイクを避けて開けた視界、飛び込んできたのは幾重にも分かれた燃え盛る刃。放たれた連結刃を弾き返し、シグナムはその始点を睨みつける。カートリッジをロードすると、解放された魔力が炎となって刀身に宿った。

 

「紫電――一閃ッ!」

「ぐっ……!」

 

 肉薄して振り下ろしたレヴァンティンが、かざされた鞘にぶつかった。しかし、シグナムの攻撃が防がれることなどない。シグナムは相手の上を取っており、そして、こちらは両手であちらは片手なのだ。加えて基礎能力まで勝っているとなれば、結果は分かりきっている。

 レヴァンティンが盾代わりの鞘を両断し、シグナムとまったく同じ甲冑へと到達する。シグナムは、躊躇することなく腕を振り抜いた。

 

「……浅かったか」

 

 両断されることなく弾き飛ばされるに留まった相手の姿を目で追いかけ、シグナムは忌々しく呟いた。レヴァンティンは確かに相手の甲冑に届いたが、それだけだったのだ。鞘によって攻撃を一瞬止められ、その一瞬が回避を選択させる時間となってしまった。結果、シグナムの刃は肌を裂くに止まってしまったのだ。

 歯痒い結果を受け止めたシグナムは、カートリッジをリロードしてから追撃に入った。そう何度も回復を許すわけにはいかない。一刻も早くアースラへと帰投し、何らかの危機を迎えているはやてを助けなければならないのだから。

 目指す先には、早くもラベンダーの魔力粒子が集い始めている。それは斬り裂かれた柔肌と甲冑へと集中し、損傷部分を修復させつつあった。

 闇の欠片の顔が上がる。その表情は、憤激と悲哀と憎悪。涙を流して歯を食いしばるその顔は、シグナムと同一のものだった。

 

「レヴァンティンッ!!」

《Jawohl!》

 

 激情の叫びと共にカートリッジが排出され、相手の身体に魔力が行き渡る。シグナムの放った剣は、鏡合わせの剣によって受け止められた。

 今度は、剣が動かない。

 

「邪魔をするなッ!」

「……煩い」

「私は、颯輔を救わなければならんのだッ!」

「……黙れ」

 

 闇の欠片の剣は、シグナムの身体には届かない。しかし、その表情と放たれる言葉は、的確に心を斬りつけてきた。

 あの冬の日の別れの後、何があってもはやてだけは護り抜くと決めた。

 凶暴な魔法生物だろうと、穢れを持った人間だろうと、例え、初めて得た友人だろうとも、大切な家族だろうとも、自分自身だろうとも、はやての命を脅かすものは、全て斬り捨てる。

 それが、八神颯輔を救えなかったシグナムの役目。シグナムの(チカラ)は、そのためだけに存在する。

 では、いったい何の冗談なのだ。

 現れた闇の欠片達は自分達の姿をとっており、あろうことか、その記憶はあの決戦のときのものだったのだ。

 颯輔の守護を任されておきながら、結局何もできなかった自分達への罰だとでもいうのか。

 癒えない傷の上から鞭を打たれるなど、今の自分には耐えられない。

 

「私の大切な人を――」

「――黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇえええッッ!!」

 

 魔力にものを言わせて身体能力を極限まで高める。漏れ出した炎は心が流した涙と血潮。絶叫によって慟哭を掻き消し、鍔迫り合う剣を力任せに振るった。

 相手の剣(レヴァンティン)を砕き、甲冑ごと肌を裂き、硬い骨を断ち、柔らかい臓腑を斬った。

 袈裟切りによって核をも破壊したことで、闇の欠片の躯体は消え始めている。しかし、無念に染まるその顔は、未だにシグナムを向いていた。

 レヴァンティンを鞘に収め、カートリッジをロード。神速で抜刀し、特大の炎を纏った連結刃を放つ。繰り出した擬似炎熱砲が、消えゆく闇の欠片を跡形もなく焼き尽くした。

 シグナムは連結刃を剣へと戻し、荒い息を吐き出した。今度こそ闇の欠片は再生する様子を見せない。それを確認することにいくらか時間がかかったのは、視界が滲みつつあるからだ。

 倒すべき敵を倒しただけのはずなのに、どうしてこんなにも心が苦しいのか。混ぜ返された感情の波に戦闘思考が埋もれていく。躯体からは徐々に力が抜けていって、レヴァンティンを取り落としてしまいそうだった。

 それでもその一射の直撃を免れたのは、積み重ねられた戦闘経験が故にだろう。

 

「――っ!?」

 

 音速に迫る速度の膨大な魔力の塊。リンカーコアが感知したのは、炎の隼だった。

 背後から放たれた攻撃を視認する前に察知し、その脅威度から反射的に体が動く。弾けるようにその場から飛び出し、そして、脇腹を掠めた隼の翼によって騎士甲冑を焼き切られた。

 微かな金属の焦げる臭いが鼻をつき、魔力ダメージの鈍痛が走る。堪えて振り向いた先には、新たに生まれたらしい大弓を構える自分と、すぐそこにまで迫った新たなザフィーラがいた。

 ふっ、と短く息が吐き出される音と、丸太のような脚から繰り出される上段蹴り。群青色の魔力で覆われた右脚甲が、防御に回した左腕に突き刺さった。

 ミシミシと骨が軋む音を聞かされながらも、シグナムは固く握り直したレヴァンティンを突き出した。切っ先が厚い胸板を貫き、その内側へと滑り込む。炎と化した魔力を送り込んでやると、あの頃のザフィーラ(闇の欠片)は目を見開いて消滅を始めた。

 半透明になった闇の欠片越しに、第二射を引き絞る自分の姿に気付く。舌打ちと共にレヴァンティンを引き抜こうとして、してやったりと笑う顔を見た。

 レヴァンティンの刀身を包む筋肉が引き絞られ、さらに、伸ばした腕を掴まれる。消えかかりつつもぱくぱくと動くだけの口が、『やれ、シグナム』と告げていた。

 

「どこまで我らを愚弄するつもりだッ!」

「落ち着け、シグナム」

 

 獣の如く吠えるも、射線上に飛び込んできた本物のザフィーラによって嗜められた。ザフィーラは両手を広げて鋭角な防壁を作り出し、偽物に捕まったシグナムに大きな背中を見せている。その奥で、闇の欠片の手から二羽目の隼が飛び立った。

 瞬く間に距離を詰めたシュツルムファルケンが、群青色の防壁にぶつかる。性能が劣化している闇の欠片が放った攻撃とはいえ、それはシグナムが誇る最強の一手だ。ザフィーラにも真っ向から防ぎきれるものではない。角度によって軌道が逸れた隼は、遥か彼方で爆炎を上げていた。

 

「心を強く持て、シグナム。はやての感情に飲まれてしまっているぞ」

「何を……」

 

 青白い頬に脂汗の浮かんだ額。ゆらゆらと落ち着きのない目は、明らかに平時のものではない。それでも二体の欠片を打倒して見せたあたり、流石はシグナムといったところだが、これ以上はザフィーラも見ていられなかった。

 心に湧き上がってくる様々な負の感情。悲哀や絶望や諦観といったそれらは、ザフィーラやシグナムのものではない。精神リンクを伝わってくる、今現在のはやての感情だ。

 あまりの情報量にザフィーラも飲み込まれてしまいそうになったが、心の内で沸々と怒りの火を焚くことで耐えていた。シグナムにも念話を送って注意を呼び掛けていたのだが、飲まれたシグナムには声が届いていなかったようである。

 本当は、今すぐにでもはやての下へ駆け付けたい。繋がりが深くなったことも原因かもしれないが、それでも、ここまでの感情を受け取るのは初めてのことなのだ。はやてにかつてないほどの危機が訪れているのは明白だった。

 だが、ザフィーラにはこの結界を破る術がなかった。境界となる面があるのならばいざ知らず、実在しない世界の壁を切り裂くことができるのは、この場ではシグナムだけだ。

 もっとも、それらの理由を抜きにしたとしても、ここまで弱ったシグナムを放っておくことなどできないのだが。

 

「今のお前が気が付けているかは知らんが、これは間違いなく陽動だ。我らがこうしている間も、はやての身が危険に晒されている」

 

 取り押さえていた闇の欠片が完全に消滅しても、シグナムは動かない。

 第三射を弾いた防壁に、亀裂が走った。

 

「家族を――はやてを守ると誓い合っただろう。いい加減に目を覚ませ、シグナム。……俺は、あのような思いはもう二度としたくない」

 

 戦乱のベルカでは最強を誇ったザフィーラ達の力でも、彼を救うことはできなかった。命を奪うことはあんなにも容易だったはずなのに、本来の役目であるはずの命を守ることができなかった。守護獣であるザフィーラにとっては何よりの屈辱だ。

 だから、せめて彼との約束は守り抜こうと思った。

 彼が命を代価に守り抜いた、はやてと自分達の命。それだけは、誰にも奪わせない。そして、その誓いはザフィーラだけのものではなく、ザフィーラ達全員で共有することとなったのだ。

 そのはずが、晒しているのはなんという醜態か。

 想定外とはいえ、これほど明け透けな陽動にも気が付けず、まんまと結界に囚われ、闇の欠片風情に踊らされ、挙句の果てにははやてを危機に追い込んでしまっている。今からこの様では、先が思いやられるというものだ。

 

「……黙って聞いていれば、人を無能のように言ってくれる」

 

 その目に光を戻したシグナムが、鞘に収めたレヴァンティンを構えて不敵に笑う。

 同時にもう一人のシグナムが第四射を構え、三体目となるザフィーラが新たに現れた。

 

「では、任せるぞ」

「ああ、任された」

《Explosion!》

 

 ザフィーラが防壁を放棄して離れると同時、レヴァンティンがカートリッジを炸裂させた。それでもまだ足りないと、シグナムはさらに魔力を送り込む。闇の欠片達が魔法を繰り出すが、シグナムはその場から微動だにしなかった。

 

「喰らい尽くせ、煌竜ッ!」

 

 輝くラベンダーのベルカ式魔法陣に足をつけ、シグナムは裂帛の気合いと共にレヴァンティンを抜き放った。鞘の中で圧縮されていた魔力が炎へと変換され、伸びる連結刃を覆って形を成す。

 咢も、牙も、双眼も、鱗も、その全てが煌々と燃える炎。

 シグナムの魔力の化身、烈火の魔竜。

 燃え上がる炎が胴を伸ばさせ、巨竜がその咢を大きく開く。真っ向から飛び込んできた隼を飲み込んで己が体へと取込み、遅れて降ってきた圧縮魔力のスパイクを噛み砕いた。

 魔竜はまだ止まらない。展開された群青色の障壁を体当たりで粉砕し、勢いのままに奥の術者を消滅させる。そして、激昂して向かってくる剣士を容赦なく焼き払った。

 新たな闇の欠片の発生はまだ確認できない。それでも魔竜は天を目指し続けた。魔竜の標的は最初から唯一つ、主人を閉じ込める結界だけ。その過程にあったものなど、道を塞いでいるただの障害に過ぎないのだから。

 天を昇った魔竜が不可視の壁に激突し、それを突き破る。最後に咆哮が轟くと、漆黒の霧はまるで逃げ惑うように晴れていった。

 視界が開け、黄昏に染まる海が露わになる。だが、シグナム達には幻想のような風景を楽しむ暇などなかった。

 

「転移の準備はできているな?」

「ああ、いつでもいける」

 

 シグナムが連結刃を剣へと戻しつつ問うと、すかさずザフィーラの返答があった。見れば、言葉の通りに転移魔法陣を展開している。シグナムが結界を破ることを、欠片も疑っていなかった様子だ。

 レヴァンティンを鞘へと納め、転移魔法陣へと着地する。間もなく群青色の光がシグナム達を包み込み、世界から姿を消した。

 目指すはシグナム達の帰るべき場所。

 今度こそ、大切な人を護り抜く。

 

 

 

 

 はやてが思い出すことのできる最も古いであろう記憶は、自身を抱いてくれている少年の姿だ。いずれは青年のものへと変わっていくその顔は、まだあどけなさを残している。逞しくなるはずの腕だってまだ細く、硬くなる胸板だってまだ柔らかい。だが、その笑顔だけはずっと変わらずそこにあった。

 そっと髪を梳いていく手にはほとんど力が籠められていなくて、何より大切にされているのだと曖昧ながらも理解できていた。それが嬉しくて身体を預けると、包み込むように抱き返してくれる。胸の奥がぽかぽかと温まって心地よく、べったりと甘えてばかりだった。

 はやてがあまりにも颯輔に懐くものだから、父は目に見えて悔しがっていた。それを嗜める母の姿も覚えているが、そうしている母の目にも不満の色はあったような気がする。父と母が嫌いだったわけではもちろんないのだが、ただ単純に颯輔の方が好きだったのだ。

 今にして思えば、それははやてと颯輔の二人が魔力を持っていたことが理由なのかもしれない。その頃は闇の書の影響によってリンカーコアが真面に機能していなかったはずだが、それでも分かるものは分かる。あの冬の日に感じた颯輔の魔力は眠りを見守る夜のように心地よく、そしてそれは、ずっと感じていた颯輔の雰囲気そのものだったのだから。

 颯輔がいて、父がいて、母がいて。その全てを覚えているわけではないが、それは間違いなく幸せな時間だった。

 だがしかし、不幸というものは何の前触れもなくやってくる。

 幼かったはやてには、何が起こっているのか分からなかった。父と母の写真があって、黒い服を着た人達がいて、颯輔はそれらを見て何かを必死に堪えていて。

 異変に気が付いたのは、家に帰ってもいつもいるはずの母の姿がなかったから。夜になっても父は帰って来なくて、それがいつまでも続いた。

 だから尋ねた。唯一人はやてのそばにいる颯輔に。

 父さんと母さんはどこいったん?

 遠いところだよ。

 いつ帰って来るん?

 分からない。

 なんで?

 ごめん、ごめんな、はやて。

 そう言っていつもより強く抱き締めてきた颯輔の身体は何かに怯えるように震えていて、はやてはようやく理解した。父と母はもう帰って来ないのだと。この家にはもう颯輔と自分しかいないのだと。

 だが、理解はしても納得などできない。颯輔がいて、そして、父と母がいてはやての世界は回っていたのだ。世界が半分になってしまって、いったい誰がそれに耐えられるというのか。入れ替わるようにギル・グレアムとその飼い猫二匹が現れたが、父と母の代わりは誰であろうと務まるはずがない。

 何故か流すことを忘れてしまっていた涙は、グレアムが去ると同時に溢れてきた。去来する悲しみは悪夢となってはやてを侵し、眠ることを拒絶させた。

 泣いて、眠って、目覚めて、泣いて、その繰り返し。泣く度に颯輔が慰めてくれるものだから、それに余計に甘えるようになった。

 しかし、父と母がいなくなって辛かったのは自分一人だけではなかった。叔父さん、叔母さんと呼びながらも本物の家族のようだった颯輔だって、死を知っている分はやてよりも辛かったはずなのだ。

 だから、颯輔が怒鳴ったのも仕方がないことに違いない。

 うるさい。

 聞いたこともない大声に驚き、涙が止まった。それを見て、颯輔が慌てて謝ってくる。知らない人に見えてしまった颯輔がいつもの颯輔に戻ったことで、また涙が流れ始めようとした。それを必死に堪えたのは、泣けばまた颯輔が知らない人になってしまいそうで怖かったから。

 それから、はやては何があっても泣かないようにした。病院に通うのが辛くたって、学校が不安で仕方なくたって、一人家に残されるのが怖くて堪らなくたって、はやては泣かなかった。

 だって、少しだけ我慢すれば、すぐに大好きな颯輔が帰って来てくれるのだ。姿が見えなくなったらそのままいなくなってしまいそうだから、本当は離れたくない。けれども、颯輔はいつだってはやての下に真っ直ぐに帰って来てくれた。せめて家にいる間は片時も離れたくなくて、颯輔の後を追って必死に家事を覚えた。

 シグナム達が現れてからは二人きりでいられる時間が減ってしまったけれど、それでも颯輔ははやてのそばにいてくれた。寂しいときも、不安なときも、怖いときも、優しく抱き締めてくれた。

 颯輔も、いなくなってしまった父と母も、共に過ごすシグナム達もリインフォースも、はやてにとっては大切な家族。けれど、もしもその中から一人だけを選べと言われたならば、はやては間違いなく颯輔を選ぶだろう。はやてにとっての颯輔は、動かない自身の足に変わってその生を支える柱だったのだ。

 しかし。

 颯輔は、父と母と同じようにいなくなってしまった。

 はやて達を救う代価として、その命を差し出してしまった。

 颯輔にとって、はやて達の命はそれだけのことをする価値があったのだろう。はやてが最後にもらったクリスマスプレゼントのノートを見れば、その想いは手に取るように分かる。

 最初ははやての知っている颯輔の字で、しかしそれはページを捲るにつれて少しずつ震えていって、最後には、はやての字の方が上手く見えてしまうほどに乱れていたのだ。

 はやてが闇の書の侵食に苦しめられていたのと同じように、颯輔だって苦しんでいたはずなのに。いったいどれほどの想いであの想像を絶する激痛に耐え、料理のレシピが綴られたノートを完成させたのか。

 だが、はやてが欲しかったのはそんなノートではない。

 颯輔の想いがいらないなどということでは断じてない。

 しかし、はやてが本当に望んでいたのは、颯輔との時間だ。

 はやてはまだ九歳で、颯輔はまだ十七歳だった。シグナムがいて、ヴィータがいて、シャマルがいて、ザフィーラがいて、そして、リインフォースがいて。本来ならば、家族七人での生活が今もまだ続いていたはずなのだ。これからもずっと続いていくはずだったのだ。

 一緒に料理して、同じテーブルについて、同じ食事をとって。

 買い物に出かけて、遊びに行って、家でのんびりとして。

 何でもない時間を過ごして、これからも楽しい思い出をたくさん作るはずだったのだ。

 そのはずがどうして、どうして、どうして。

 胸の奥に押し隠した想いは、そのまま忘れたことにしてしまいたかった。精神リンクから薄々気が付いていただろうシグナム達だって不用意に触れることはしなかった。リインフォースも気づいていない振りをしてくれていた。

 だが、隠したはずの想いは他ならぬはやて自身が呼び起こしてしまった。

 きっかけは、闇の欠片の出現。闇の書のデータが形を成して現れるのならば、そこにはきっと颯輔の姿もあるはずだ。闇の欠片が闇の書を復活させるのならば、颯輔も同時に蘇るはずだ。そう思うと、もう気持ちを止めることなどできなかった。

 そして、はやての願いは叶った。

 

「……はやて」

 

 ダムが決壊したように溢れ出る涙の所為で、その顔を望むことはできない。滲んだ視界に黒いシルエットが浮かんでいるだけだ。

 だが、その顔が見えなかったとしても、ずっとずっと聞きたかったその声を聞き間違えることなどどうしてあろうか。例え五感を失おうとも、この胸のリンカーコアでその存在には必ず気づいてみせる。

 会いたかった。

 会ってありがとうと礼を言いたかった。

 会ってごめんなさいと謝りたかった。

 会ってどうして黙っていたのかと怒りたかった。

 だけど、今はそんなことはどうでもいい。

 

「……おにぃっ!」

 

 ようやく口から出た声は嗚咽がほとんどで、しっかりと届いたかどうかすら怪しい。それでも、颯輔はその場でじっと待っていてくれた。

 両手を塞ぐ本と杖を待機状態に戻して、空を滑る。たった数メートルを飛ぶだけでいいのに、それが酷く難しく感じてしまう。これではまるで、足がまったく動かなかったあの頃に逆戻りしてしまったかのようだ。

 はやては颯輔の下にようやく辿り着き、その腰にきつく腕を回した。それはまるで別れの時の再現のようで、余計に心が疼きだしてしまう。

 けれど、颯輔は帰って来たのだ。砕け散った欠片を集めて、ついにはやての下へ帰って来てくれたのだ。

 例え死を経験していたとしても、八神颯輔は八神颯輔で、はやての兄以外の何者でもない。触れる体は温かくて、静かな鼓動は心を癒してくれる。ただの魔力の塊などではなく、しっかりと生きてここに存在しているのだ。

 ならば、それでいいではないか。

 八神颯輔がいて、八神はやてがいて、これではやての世界は元通りだ。時間はかかってもまた戻ってきてくれた颯輔ならば、きっとリインフォースのことだって救ってくれる。そうしたら、管理局も教会の騎士団も辞めて、もう一度海鳴で静かに暮らすことができるはずだ。

 その幸せを邪魔するというのならば、例えフェイトやなのはであろうとも許さない。はやてを護ってくれたように、今度ははやてが颯輔を世界から護り抜くのだ。

 幸いにも、はやてにはその力がある。リインフォースとユニゾンすれば、グレアムにだって負ける気はしない。同じく夜天の王である颯輔がリインフォースとユニゾンしたら、きっと次元世界に敵はいないだろう。これからは、はやてが切望していた時間が続いていくのだ。

 声を上げて涙を流すはやては、ようやく取り戻した温もりを二度と離してしまわないようにとさらに颯輔に身を寄せて、

 

「うるさいんだよ」

 

 ドン、と肩を突き飛ばされた。

 

「………………えっ?」

 

 何が起こったのか分からない。

 はやては颯輔に抱き着いていたはずで、颯輔は当然それを受け入れてくれるはずで、この場にはもうはやてと颯輔しかいないはずで、ならばはやてにうるさいなどという者はどこにもいないはずで、はやてを突き飛ばす誰かがどこかにいなくてはならないはずなのに。

 突然の出来事に涙は止まってしまった。

 周りを見渡しても、やはり颯輔しか見つけられない。

 しかし、颯輔であるはずの人物はどこかで見たことがあるような知らない人の顔をしていた。

 だが、その知らない人は颯輔なのだから身を寄せても大丈夫なはずだ。

 はやてが手を伸ばすと今度は颯輔も手を伸ばしてくれて、その大きな掌がはやての肩に置かれて、

 

「いたっ……!?」

 

 肩が砕けそうになるくらいに強い力で握られた。

 

「おにぃ、いたい……!」

「何がお兄だよ」

 

 どこかで聞いたことのある知らない声が降ってきた。

 

「はやてだって知ってるだろ? 俺がお前の本当の兄貴じゃないことくらい」

 

 吐き出すような声には深い感情が込められている。

 

「颯輔はお兄ちゃんなんだからちゃんとしないとね。颯輔君はちゃんとお兄ちゃんできて偉いね。颯輔は小さいのにしっかりしているな。颯輔って何でもできるんだな。八神君って大人っぽいよね。八神ならば大丈夫だな。……うるさいうるさいうるさいうるさいどいつもこいつもうるさいんだよッ!」

 

 それは、不条理な世界に対する激しい憎悪。

 

「お兄ちゃんだぁ? 俺には妹なんていなかったんだよッ! 父さんと母さんが死んで、俺だけが助かって、叔父さんと叔母さんに拾われて、仕方なく兄貴になったんだよッ!」

 

 その言葉は剃刀のように鋭利で、

 

「しっかりしてるだぁ? 何でもできるだぁ? 大人っぽいだぁ? そんなの当然に決まってんだろ、だってそうなるしかなかったんだからさ。どうしてしっかりするようになったか分かるか? どうして何でもできるようになったか分かるかっ? どうして子供じゃいられなくなったか分かるかッ!?」

 

 はやての心を切り刻んでいく。

 

「全部お前の所為だよ、はやて」

 

 その目には暗い炎が宿っており、

 

「しっかりしなきゃいけなかったのも、何でもできるようにならなくちゃいけなかったのも、大人にならなくちゃいけなかったのも、全部全部お前の所為なんだよッ!」

 

 はやての心を焼き尽くしていく。

 

「お兄お兄って付きまとってただけのお前に俺の気持ちが分かるか? お前が待ってるからすぐに帰らなくちゃいけなくてさ、誰かに遊ぼうって誘われても断らなくちゃいけなくてさ、お前が嫌がるから誰かを家に呼ぶこともできなくてさ、そんなやつがどうなると思う?」

 

 颯輔は学校が終わると飛んで帰って来てくれた。

 颯輔は誰かを家に招いたことなど一度もなかった。

 

「そんな付き合い悪いやつに、真面な友達なんてできるわけないだろ。それ誤魔化すために本ばっかり読んでさ、俺は一人の方がいいんだから構うなってオーラ必死になって出してさ、俺がどれだけ惨めな思いしてきたか、お前に分かるか?」

 

 そんなことは、考えたこともなかった。

 颯輔は颯輔で、はやての知らない世界でもはやての知っている颯輔であるのだと思っていた。

 

「本からはなんか出てくるし、今度はそいつらの面倒まで見なきゃなんないしさぁ……! お前ら俺がいったいどんだけ我慢してきたと思ってんだよッ!?」

 

 颯輔は疲れたようにしながらも笑ってくれていて、その笑顔は本物だと思っていたのに。

 

「俺だってみんなと遊びたかったよッ! 部活とかしたかったよッ! 魔法の力なんていらない、特別じゃなくたっていい、俺はみんなと同じように普通に生きてみたかったんだよッ!!」

 

 ならば颯輔の笑顔は、その全てが嘘だったということなのか。

 

「闇の書だかなんだか知らないけど、俺ははやてのことだけでいっぱいいっぱいだったんだッ! 魔法だ主だ呪いだうるさいんだよッ! 何で俺ばっかりこんな目に遭うんだよッ!? これ以上面倒持ち込むなッ! だってどう考えたっておかしいだろッ!? 何で俺がお前らなんかのために死ななきゃいけないんだよッ!?」

 

 今までずっと、その不満を溜め込んできたというのか。

 

「なぁ、はやてもそんなのおかしいって思うだろ?」

「……っ……ぁ……!」

 

 肩にあった掌は首に触れ、力が込められ絞られていく。

 

「俺ははやてのために生きて、はやてのために死んだんだ。はやてがそうやってのうのうと生きていられるのだって、俺のおかげだろ? ……だからさ、せめてはやては俺のために死ぬべきだって思わないか?」

 

 耳元で囁かれた言葉が、すっとはやての心に落ちてくる。

 考えてもみればそのとおりだ。

 颯輔は、はやてのためにその生涯を捧げたのだ。

 その命を使ってはやてを救ったのだ。

 だったら、救われなかった颯輔を救うにははやての命を捧げるしかない。

 そうすることで颯輔が救われるのなら、喜んでこの命を差し出そうではないか。

 颯輔の望むようにするのだから、颯輔も喜んでくれるに違いない。

 聞きたくもない言葉を聞かなくて済むのなら、見たくもない誰かを見なくて済むのなら、どうなろうとも構わない。

 

「ありがとう、はやて」

 

 闇に染まっていく世界の中で、はやては骨が砕ける音を聞いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 雲の向こう(後編)

 

 魔法陣から発せられる翡翠色の魔力光が満ちるアースラの展望デッキで、リンディはこれまでに経験したことがないほどの苦戦を強いられていた。

 高速処理に特化しているはずの銀色の杖(アテナ)が、想定を超えた負荷にコアを明滅させている。リンディの額には玉の汗が浮かんでおり、閉じられた瞼、張りのある頬、すっと伸びた顎と伝っては、落ちた先にある制服の胸元を湿らせていた。

 リンディは深く呼吸をし、再度、結界の解析に取り掛かる。アテナの補助もあってか結界の術式を半分ほどは読み取れるのだが、その後が問題だった。

 

「…………っ! アテナ、もう一度っ!」

《Yes, Ma'am.》

 

 アテナのメモリに記録させた術式が、突然意味のないものへと変わってしまう。それは、結界の術式が組み替えられたことによるものだった。リンディとアテナが術式を読み解き、結界を展開した者が術式を組み替える。結界の解析に入ってから、そんないたちごっこが延々と繰り返されていた。

 アースラの外では、武装局員どころか子供達まで命をかけているというのに。

 

「……――っ!? もう一度よッ!」

《Yes, Ma'am.》

 

 リンディの努力を嘲笑うかのように、術式が千変万化を繰り返す。それも、変化する度に術式が段々と複雑になっていくのだから性質が悪い。一度はシャマルの結界さえも破ってみせたリンディだったが、今は完全に子供扱いを受けていた。

 もしもシャマルが残っていたならば、同系統と思われるこの結界をすんなりと破っていただろうか。

 無理を押してでもはやてを結界の解析に回していたならば、今頃この窮地を脱していただろうか。

 もしも、もしも、もしも……。

 焦燥という名の隙間から漏れ出てくる弱音が、リンディの演算能力を低下させていく。カッ、とアテナで床を叩いてそれらを消し去り、もう一度最初から解析に取り掛かろうとしたときだった。

 アースラが、大きく揺れた。

 揺れでたたらを踏んだリンディは、すぐさま飛行魔法を発動させてふわりとその場に浮かび上がる。揺れは一度だけでは収まらず、その後も断続的に小さなものが続いているようだった。乱れた集中を切って瞼を持ち上げてみれば、展望デッキのガラスがびりびりと震えているのが窺えた。

 そして、ガラスの向こうに、新たに現れた異常を見つける。緊急事態を告げる警報がけたたましく鳴り始めたが、頭が上手く回ってはくれなかった。

 

『――艦長っ!』

 

 顔の横の空間にディスプレイが現れ、冷静さを欠いたエイミィの声が聞こえるが、その光景から目を離すことができない。

 リンディの視線の先、いつの間にか闇の欠片の大群が消えてしまった空には、白と黒の二人の人物が浮かんでいた。

 

『突然現れた高速機動型の魔導師によって障壁が突破されてっ、艦内に侵入されてしまいましたっ!』

 

 白は、騎士甲冑に身を包んだ八神はやて。

 黒は、漆黒のローブをまとった青年。

 その青年は、クロノではない。

 直接顔を合わせたことはなかったが、リンディの知っている人物だった。

 

『隔壁は下したんですけどっ、目標っ、隔壁を破壊しながら一直線に魔導炉に向かってますっ! クロノ君がッ――』

「――っ!?」

 

 不意に通信が途絶え、同時に全ての照明が落ちた。我に返って辺りを見回しているうちに、ぼんやりと非常照明が灯る。頼りない灯りの中、リンディの頭はようやく回り始めた。

 察するに、魔導炉が停止してしまい、予備の動力に切り替わったようだった。浮力を失って艦が墜ちるなどということはないが、その分だけ他の設備で犠牲を払っている。だが、照明やら通信機器やらを犠牲にしても、長時間の航行は難しい。予備の動力が生きている間に魔導炉を再稼働させなければ、今度こそ、アースラは航行能力を失ってしまうだろう。

 さしあたっての問題は障壁が消失してしまったであろうことだが、幸いというべきか、どういうわけか、目に見える範囲に闇の欠片の姿はない。ならば、この状況で最優先に対応しなければならないのは、二つの問題についてだ。

 エイミィの報告にあった、アースラへの侵入者。

 そして、はやての下に現れた人物。

 未だ細かな振動が続く中、リンディはもう一度外に目をやるが、目を離した隙に、はやて達の姿はなくなってしまっていた。二人がいた場所に代わりにあったのは、大きな漆黒の球体。見ただけでは詳細など分かろうはずもないが、新たに結界が展開されたようだった。その周囲に目をやるも、はやてと同じく迎撃に当たっていたはずのクロノ達の姿も見つからない。

 数瞬で迷いを捨てたリンディは、新たな結界の解析に取り掛かりながら、慣れ親しんだ魔力を捜した。

 

『……クロノ、聞こえるわね? そちらの状況は?』

『母さんっ!? こっちはフェイトに似た魔導師と交戦中で――』

『――その魔導師は何としても捕縛しなさい。……狙いはやはり、あの子のようね』

 

 リンカーコアが捉えたクロノの魔力、そして、その傍にあるクロノと同等の魔力は、リンディのいる方向へと近づいてきている。正確には、展望デッキの近場にある、医務室の方向へと。

 真っ先に魔導炉を停止させたのは何か狙いがあったのか、はたまた単なる撹乱のためだったのか。どちらかは分からないが、とにかく、侵入者は保護した少女に用があるらしい。

 アースラの艦長であるリンディは、アースラに乗っている全ての者の命を預かっている。それは、管理局員でなかろうとも例外ではない。その理屈からすれば、侵入者の捕縛に向かうべきなのだが、今このときだけ、リンディは職務を放棄することを選んだ。

 リンディは念話の領域を拡大し、アルフにも同時に繋いだ。クロノとアルフに酷な役目を押しつけ、自分一人だけが逃げるようだが、それでもやらなければならないことがある。

 

『リンディ提督っ、何が起こってるんだいっ!?』

『アルフ、クロノと協力して、艦内に侵入した魔導師を捕縛してちょうだい。フェイトに似ているらしいから、心構えはしておいて』

『リインフォース達はどうすん――って、フェイトに似た侵入者っ!? ちょっ、ちょっと待っ――』

『――私ははやてさんを救出に向かいます。クロノも、分かったわね?』

『分かりました。……すみません、はやてを頼みます』

『ぁあっ、分かった分かりましたっ! こっちは任されたから、無事に戻ってきて下さいよっ!』

『……ありがとう。二人共、お願いね』

 

 一方的な言葉だったにもかかわらず、すぐさま返ってきたクロノの言葉。そして、こちらの意思を酌んでくれたらしいアルフの言葉。二人の言葉に送り出されたリンディは、片手を突き出して砲撃を放った。

 翡翠色の魔力がガラス張りの壁面に直撃し、展望デッキを吹きさらしへと変える。リンディは飛行魔法を操作し、ガラスの破片が舞い散る中を突っ切った。過去に囚われた少女を、その手で救い出すために。

 八神はやて。十歳を待たずして、夜天の王として覚醒してしまった少女。知識と魔力は次元世界でも群を抜いているのだろうが、その能力に反して精神は幼く脆い。当然と言えば当然だ。いくら夜天の書の記憶を継承しようとも、いくら大人びた振舞いをしようとも、まだまだ子供であるはやては、身体的にも精神的にも誰かの支えを必要としている。

 だから、誰かが傍に立って守らなければならない。

 それに、はやての隣に立つ人物を奪ったのは、他ならぬリンディなのだから。

 アルカンシェルを撃ったあのときの判断は、きっと間違いではなかった。少なくとも、管理局員であるリンディは成すべきことを成したのだと思っている。

 だが、同じ経験があり、そして、母親であるリンディはそうは思わない。シグナム達がいたとはいえ、唯一血の繋がりがあった、兄も同然の従兄を奪ったのだ。例え本人の意志だったのだとしても、それしか方法がなかったのだとしても、正義という大義名分があったのだとしても、はやての大切な人の命を奪ったことに変わりはない。はやてから恨まれるのだって、仕方のないことだ。

 恨まれているからというわけではないが、正直に白状してしまえば、リンディもはやてのことは苦手としていた。リンディの夫を奪ったのは、闇の書事件なのだ。闇の書の守護騎士であったシグナム達を、闇の書そのものであったリインフォースを庇護下に置いている少女のことなど、好意的に見られるはずがない。感じまいとしているだけで、夫を亡くした日から今までずっと、心の傷は疼き続けている。

 あるいは、ただの同族嫌悪なのかもしれない。

 いなくなってしまった人にもう一度会いたいという気持ちは、痛いほどに分かる。もしも願いが叶うのならばと、時を経たリンディでさえ思うことがあるのだから。幼いはやてならば、なおさらのことだ。

 しかし、シグナム達やリインフォースを家族と呼ぶのならば、はやてにそれは許されない。

 はやて達の事情を知ってもなお、リンディの心は曇ったままなのだ。事情を知らない闇の書事件の被害者達などは特に、はやて達の関係をよしとしないだろう。事実、裁判の際には手酷く糾弾を受けていた。

 はやてが真に家族との未来を望むのならば、後ろを見ている暇などない。心無い言葉を投げつけれられても前を向いていられるほどに強い心を持たなければ、いつかきっと折れてしまうだろう。はやてが進もうとしている道は、そういうものだ。

 だから、支えを奪ってしまったリンディだからこそ、守りを取り払ってしまったリンディだからこそ、はやてが折れてしまわないようにと、守らなければならなかった。

 

《Analysis complete.》 

 

 けれども、リンディ・ハラオウンは理解できていなかった。

 

「……ッ、何でッ、どうしてよッ!?」

 

 夜天の王である八神はやてを守るには、その役目に足る力が必要であることを。

 

「アテナッ!!」

《Blaze cannon.》

 

 許される限りの魔力をつぎ込んで放った砲撃はしかし、目標の結界にぶつかって空しく散っただけだった。

 解析の結果、漆黒の球体は結界の類で間違いがなかった。だが、そこにリンディが付け入る隙などなかったのだ。

 リンディが結界を破壊する場合、術式の綻びを突いて破綻させるという方法を取る。ミッドチルダ式だろうとベルカ式だろうと、完璧な答えというものが存在しない魔法の術式には、必ず穴があるはずなのだ。

 だが、目の前のものは違った。いくら解析をかけようとも、複雑な術式など存在していなかった。直径三メートルほどの球体の外壁は、ただ単に魔力粒子を集めて固めただけの層でしかなかったのだ。技術も何もなく、素人が作ったに過ぎない、ただ隙間がなく分厚いだけの壁。原始的だが、ある意味最も強固な結界だ。

 アースラの魔導炉が停止してしまっている今、後方支援型であるリンディは、それを突破する術を持ち合わせていなかった。

 

「このっ……何でっ……どうしてっ……!」

 

 アテナを振りかぶって壁に打ち付けるも、球体は沈黙を保ったままで、壊れる気配などは皆無だ。先にリンディの手がいかれるか、アテナが折れてしまうかのどちらかだろう。

 

「どうして私はっ……間違えてばかりでっ……誰も助けられないのよぉっ!!」

 

 十二年前の闇の書事件では、最愛の夫であるクライド・ハラオウンを助けられなかった。

 去年のジュエルシード事件では、フェイトの母であるプレシア・テスタロッサを救えなかった。

 最後の闇の書事件では、はやての兄である八神颯輔を殺してしまった。

 そして、今回も判断を間違えた。

 彼女達ならばと、なのは達を調査に向かわせてしまった。

 夜天の王の力があればと、はやてを迎撃に向かわせてしまった。

 結界の破壊ならばと過信し、最後まで艦に残るべき自分が飛び出してきてしまった。

 リンディ・ハラオウンは、あまりにも無力だ。

 

『――離れてください』

 

 漆黒の球体の前で成す術もなく打ちひしがれていたリンディへ、不意にその念話は届けられた。

 

「…………!」

 

 リンディが振り向いた先には、漆黒の光を放つ球体があった。そして、球体に集う漆黒の星々。集った光は膨れ上がり、徐々に人型を組み上げていく。胴体、手足、首、頭と形ができ、やがてはっきりと像を結んだその人型は、ローブを纏った人物になった。目深に被ったフードによって隠れており、その顔を望むことはできない。届いた念話の声音から、辛うじて若い男性――青年であることが分かる程度だ。

 はやてを捕えた闇の欠片と同一タイプの個体。しかし、リンディの目の前の青年から感じる魔力は、闇の欠片ではあり得ないほどに強大だった。

 

「どうして、あなたが……!」

「今は、はやてを助けるのが先です」

《Anfang.》

 

 無機質な音声と共に青年の左手首が輝き、新たな漆黒の光が形を成す。青年の左腕、ローブの上から装着されたそれは、あまりにも禍々しいデバイスだった。

 有無を言わせない言葉に飲まれたリンディが下がると、入れ替わるように青年が前に出る。青年は、漆黒の球体へと左腕を向けた。

 

「ナハト、頼む」

《Jawohl.》

 

 炸裂音と同時に、鋭利な刃を備えた腕甲から、血のように赤い杭が射出された。

 

 

 

 

 頼りない照明で薄暗い部屋、リインフォースが肌に感じるのは、腕に抱いた少女の震えだった。少女は、暗がりに脅える子供のようにひしとしがみついてくる。リインフォースは、少女を守るように抱きしめることしかできずにいた。

 

「……ひぅっ」

「大丈夫だ。この艦は、そう簡単に墜ちはしない」

 

 艦のどこかから伝わってきた振動に、少女が身をすくませる。リインフォースは少女の耳元で囁き、少しだけ腕をきつくして対応した。

 アースラを大きな揺れが襲ってから、その後も小さな揺れが続いている。一度照明が落ちてしまったことから、艦内で何かが起こっていることは間違いないのだろう。同室にいたアルフも誰かからの念話を受け、「ぜぇーったいここから出るんじゃないよ! いいね!?」と残して飛び出していってしまった。

 アルフが出て行ってから、いくらも時間は経っていない。だが、少女と二人きりにされてから、リインフォースの不安は募るばかりだった。

 今のアースラはどういう状況なのか。

 周辺世界に向かったというシグナム達はどうしているのか。

 そして、この騒ぎの中、はやては無事でいてくれているのか。

 不定期な振動はおそらく戦闘の余波なのだろう。艦の内外から伝わってくる度に、腕の中の少女が肩を跳ね上げ微かな悲鳴を上げている。

 闇の書(リインフォース)に原因がある騒動であるはずなのに、その本人が何もできないというのは、やはり歯痒いものだ。足掻けば運命の一角を突き崩せるのだと知ってしまった今、無力となった自分が恨めしい。できることと言えば、波打つ金糸を撫でつけて少しでも不安を拭い去ってやる程度だ。

 本来ならば、はやてと共に空を翔けていたはずなのに。

 愛しい者達に降りかかる火の粉を、この身の翼で振り払っていたはずなのに。

 胸を満たすやるせなさ。あのときの彼も、こんな想いに駆られて片方の拳を握りしめていた。

 

「大丈夫、大丈夫だ」

 

 言い聞かせた言葉は少女へのものなのか、はたまた自分自身へ向けてのものなのか。何の根拠もなしに言ったそれには、彼ほどの力などない。やはり、同じ言葉でも、込める思いの丈次第で別物となってしまう。

 あるいは、その不安が現実へと這いずり出てきてしまったのかもしれない。

 

「……? 近づいて来ているのか?」

 

 ふと気が付いたそれは、まるで足音のようだった。断続的に続いていた振動が、徐々に大きくなってきている。それに伴って重たい破砕音が聞こえ始め、少女が益々身を小さくしていく。何かしらの脅威が迫っているのは明らかだった。

 身の危険を感じたリインフォースが少女を抱え、ベッドから腰を浮かせたときにはもう遅かった。

 突然、医務室の壁の一面が吹き飛んだ。リインフォースが慌てて少女を庇うと、飛んできた粉塵が背中を汚していく。庇う寸前に一瞬だけ見えたのは、橙色と水色だった。

 一際大きな音を残して途絶えた振動。その震源に目を向け、リインフォースは息を飲んだ。

 

「アルフ……!」

 

 水色の魔力刃によって貫かれたアルフが、壁面に磔にされていた。気を失っているようだが、力なく垂れた四肢は、時折引きつるようにして動いている。原因は、アルフの身体を走る水色の電気。その電気は、腹部に生えた魔力刃から流れ出ていた。

 

「あっ! ユーリみーっけたっ! 夜天の融合騎も一緒じゃないかっ! もうっ、捜すの大変だったんだからねーっ!?」

 

 魔力刃の柄は、場違いなほどに明るい声を出す少女が握っていた。水色の髪と薄紅の瞳。色合いと身にまとう雰囲気が違うだけで、その容姿と声音は、驚くほどフェイト・テスタロッサ・ハラオウンによく似ていた。

 

「……お前は、何者だ?」

 

 だが、それはあり得ない。闇の書の記憶を基に生み出される闇の欠片では、独自性を獲得することなどあり得ないのだ。当然、そのような容姿を持つ魔導師、あるいは騎士から蒐集した覚えなど、リインフォースにはなかった。

 

「ボク? ……あー、そっか、キミは知らないんだったね。ユーリも忘れちゃってたみたいだしさー」

 

 ボク達ずっと一緒だったのに、酷いなぁ。

 水色の少女が、剣を引き抜きながら呟く。その言葉の意味が、リインフォースには理解できなかった。

 リインフォースは知らない。

 ユーリと呼ばれた少女は忘れている。

 ずっと一緒だった。

 頭を巡る少女の言葉を余所に、無造作に剣が引き抜かれ、支えを失ったアルフが床に倒れ込む。そして、剣を肩に担いだ少女の口がゆっくりと動き、

 

《Stinger snipe.》

 

 壁に空いた穴から飛来した水色の魔力弾が、言葉を紡ぐ水色の少女の邪魔をした。

 魔力弾は一直線に少女へと向かうが、何ら脅威に値しないとばかりに、軽く身を反らしただけでかわされてしまった。それでも魔力弾が軌道を変えて追随してくると、少女は面倒臭そうに顔をしかめながら、魔力刃を一振りして両断するのだった。

 

「ほんっと、しつこいなぁ……」

「アルフっ、リインフォースっ、無事でいるかっ!?」

 

 遅れて駆け付けたのは、満身創痍のクロノだった。もう魔力がほとんど残っていないのか、それともその暇もなかったのか、バリアジャケットは酷く損傷したままで、再構成させる様子は見られない。リインフォースと抱かれた少女の姿を見つけ、その表情からいくらか険がとれるも、続けて水色の少女の傍に倒れるアルフに気が付き、鋭い視線を水色の少女へと向けていた。

 一方の水色の少女は、余裕の態度を崩していなかった。クロノを前にして視線を外し、あろうことか、溜息をつく暇さえあるほどだ。事実、クロノでは相手にならないのだろう。クロノが肩で息をしているのに対し、水色の少女の呼吸はさほども乱れていない。先ほどのやりとりから見ても、水色の少女の方が、随分と上手であることが分かった。

 

「もうっ、邪魔しないでってばっ! おつかい済ませたら大人しく帰るからさー!」

「悪いが、それはできない。僕は、君の思い通りにさせないために、ここにいるんだ……!」

 

 水色の少女を見据えながら、クロノが杖を構える。その足元に、水色のミッドチルダ式魔法陣が描かれた。なけなしの魔力を全て使っているのか、その魔力光は、離れたリインフォース達の下へも届くほどだ。

 

「これだから非殺傷設定は……ほんとなら、もう細切れになってるはずなのにさぁ」

 

 対する水色の少女も、魔法陣を展開する。クロノに近い魔力光だが、その輝きは、少女の方が強い。腰と膝を落とし、振りかぶるようにして、剣を構えていた。

 

「一応言っとくけど、キミじゃあボクに勝てないよ?」

「ふん、やってみなければ分からな――」

 

 クロノが言い終わらないうちに、状況は終了していた。

 リインフォースの視界に水色の閃光が走ったかと思いきや、水色の少女は、クロノの目の前にまで詰めていた。すでに振り下ろされていた剣は、医務室の床に触れてスパーク音を上げている。剣閃の軌道上にいたクロノは、構えたデバイスを両断され、力を失くして人形のように倒れてしまった。

 

「だって、弱っちぃんだもん」

 

 倒れるクロノと入れ替わりに、剣を振った体勢から身を起こした少女が、リインフォース達へと向き直る。今度こそ少女の歩みを阻むものはなく、ゆっくりと距離を詰めてきた。その表情は、この状況下にはあまりに不向きな無邪気なものだった。

 

「さぁユーリ、一緒にディアーチェのとこ帰ろ? 今ならきっと、怒りんぼのディアーチェだって許してくれるよ。ボクも一緒に謝ってあげるからさ、ね?」

「……いや、です。あなたなんて、知りません」

「えっ、ひどくない? ボクだよ、レヴィだってば。ユーリ、ひょっとして、まだ思い出せてないの?」

「待て、どういうことだ。お前は……お前達は、いったい何者なんだ?」

 

 リインフォースの問いは、レヴィと名乗った少女、そして、きつく抱き着いてくるユーリと呼ばれた少女の二人へと向けたものだった。

 闇の欠片の出現と関係しているらしい二人の少女。ならば当然、二人は闇の書とも関係しているはずだ。それはすなわち、リインフォースとも近い関係にあったということ。しかし、リインフォースには二人の名前にも、新たに聞いたディアーチェという名前にも心当たりがない。ユーリが一緒にいたという、シュテルという人物にもだ。闇の書と関係しているというのに、情報が皆無などということはあるはずがない。

 リインフォースの問いかけに、レヴィは落胆の表情を見せた。

 

「さんざんお世話になっておいて、ほんとに何にも知らないんだ。まったく、失礼しちゃうよね、ユーリ。ボク達、ずぅーっと利用されてたってのにさー」

「利用されていた……? 私がお前達を、利用していたとでもいうのか?」

「まぁ、ボク達が敢えて利用してもらってた面もあるから、お互い様っちゃお互い様なんだろうけどさ。……とにかく、絶大な魔力を誇った闇の書、フル稼働してたわけじゃないけど、その魔力、ボク達がやりくりしてあげてたんだからね? あれだけ魔力があったのに、最後はそーすけの所為でやられちゃうしさ。ほんと、踏んだり蹴ったりだよ。まぁ、おかげでこうして出て来られたんだけどね」

「……待て、今、誰の所為と言った」

 

 レヴィの話には聞き逃せないものがいくつもあった。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 リインフォースも知り得なかった闇の書の動力部についてなど、今更知ったところで何になる。

 

「――どうしてお前がっ、颯輔の名を口にするのだっ!?」

 

 問題は、この得体の知れない少女の口から、颯輔という名前が軽々しく出てきたことだ。

 

「……もう、びっくりしたなぁ。急に怒鳴ったりしないでよ、ユーリだって怖がってるじゃないか。っていうか、……えーと、りーんほーす、だっけ? キミ、今の状況分かってる?」

「質問にこた――」

「――だからぁ、どうしてキミがボクに命令するのさ? 今ボクに命令できるのは、ディアーチェだけなんだよ? ……もう何にもできやしないんだろうけど――」

 

 剣を横に振りかぶったレヴィは、不機嫌そうに眼を細めている。そこに映し出されているのは、リインフォースの真っ白な首筋だった。

 

「――だったらさ、今ここで消滅したって、同じだよね?」

 

 床に倒れているクロノとアルフには、レヴィに付けられたはずの刀傷がない。もしもあれば、今頃床一面を血染めにしているはずだ。レヴィに得があるかは判断しかねるが、本人も言っていたとおり、その攻撃は非殺傷設定になっているのだろう。

 だが、非殺傷設定になっていても、魔力ダメージを与えるその一撃は、リインフォースにとっては致命傷と成り得る。一切の魔法が使えない今のリインフォースでは、防御も回避も選ぶことができない。在りし日々のように、ただその理不尽な運命を受け入れるしかなかった。

 腕の中、ユーリの身体が一層と強張る。

 振り抜かれた剣が、やけにゆっくりと見える。

 蒼雷迸る魔力刃が徐々に近づいてきて、そして、リインフォースの首へと到達する前に、新たな水色の光が瞬いた。

 

「ぐっ、このっ、何これっ、設置型のバインドっ!? いったい誰が――って、今度は誰さっ!?」

 

 レヴィの腕をデバイスごと絡め捕ったのは、水色の拘束帯だった。続けざまに橙色の鎖が伸び、レヴィの身体に巻きついていく。保険をかけていたらしいクロノは未だ気を失ったままだったが、燃えるような目をしたアルフが、倒れ伏しながらも腕を伸ばしていた。

 

「黙って聞いてりゃ……その姿で、物騒なこと言ってんじゃあないよっ……!」

「もうっ! どうして無駄だって分かんないかなぁっ!?」

 

 だが、クロノが残したバインドも、アルフが伸ばしたチェーンバインドも、レヴィを完全に止めるには至らなかった。レヴィが声を上げると同時、その身体の表面を、水色の電気が駆け抜けていく。伝わる先は、レヴィを縛るクロノとアルフのバインドだ。電気が強く輝いて大きな音を立てると、二重の拘束は、構成を解かれて散り始めた。

 クロノは目覚めず、アルフは力尽きる寸前で、リインフォースには戦う術がない。レヴィが拘束から抜け出せば、今度こそ、その凶刃を止めることはできないだろう。

 

「バルニフィカスっ! こんなやつらもう殺しちゃ――」

「――少々おいたが過ぎますよ」

 

 だが、クロノ達が必死に稼いだ時は、決して無駄などではなかった。

 再び飛来した魔力弾。弾数は六発で魔力光は緋色。それを察知したレヴィは、舌打ちと共にバインドを砕き、剣を六度閃かせた。

 レヴィに断ち切られ、燃え尽きるようにして散っていくその魔力には、心当たりなどない。だが、直前に聞こえた声は、リインフォースにも聞き覚えがあった気がした。

 

「へぇ……やっほーシュテるん、昨日振り?」

「ええ、そうですね。お灸を据えに来ましたよ、レヴィ」

 

 壁に空いた穴の向こう、暗がりから音もなく現れ舞い降りたのは、闇色のバリアジャケットに身を包み、踝に緋色の翼を展開した少女だった。髪型は違うが、その顔立ちは、高町なのはによく似ている。ただし、こちらもレヴィと同じく、なのはとは纏う雰囲気がまったくの別物だった。

 

「……シュテル?」

「ユーリに、それからリインフォースも、まだ無事だったようですね。遅れてしまい、申し訳ありません」

「お前がシュテル、か……」

「お初にお目にかかります、リインフォース。ですが、積もる話は後ほどに。まずは、こちらを片づけてしまいましょう」

 

 短い会話の最中も、シュテルの目は、油断なくレヴィに向けられたままだった。注視してみれば、そのレイジングハートと同型と思われるデバイスにも、僅かに魔力を纏わせている。なのはは近接戦を苦手としていたが、シュテルの方は違うらしい。雷光に迫る速度を誇るレヴィを、正面から相手取るつもりのようだった。

 シュテルと対峙したレヴィは、子供のように楽しげな顔をしていた。その目は爛々と輝き、頬はにんまりと持ち上げられている。強者との戦闘を楽しみにしているかのような様子だ。

 

「ねえ、シュテるん、ほんとにここでやる気? それにこの距離、シュテるんじゃあ何にもできないよ?」

「試してみますか?」

「うんっ!!」

 

 やはりと言うべきか、その戦闘は一瞬の内に終わってしまった。

 クロノとレヴィの一戦の焼き回しでも見せられたかのように、レヴィが魔力を爆発させ、短い距離を疾走する。シュテルは顔を隠すように杖のガードを上げるが、レヴィは剣を真っ直ぐに突き出したまま、速度を緩めず駆け抜けた。

 再びアースラを揺れが襲う。シュテルの腹部を貫いたレヴィは、そのまま残った医務室の壁へとシュテルの体を叩きつけた。

 シュテルの手から杖が落ち、カランと無情な音を立てる。壁際で密着している二人は、シュテルを貫く剣がなければ、抱き合っているようにも見えた。

 

「ほらね? シュテるんが撃つより、ボクの方が速い」

「……流石はレヴィです。反応すらできませんでした」

「そうでしょそうでしょ? ボクは速くて強いんだぞーっ! なんたって、力のマテリアルだからね!」

「ええ、レヴィは誰よりも速く強い」

「えへへーっ」

 

 無邪気に笑うレヴィへと、シュテルが腹を貫かれながらも両手を伸ばし、そっと抱え込むようにして頭を撫でる。その手つきで完全に表情を崩したレヴィは、甘えるようにしてシュテルに寄り添っていた。

 直前まで戦闘をしていた者達とは思えない状況。しかしそれは、全てがシュテルの手の内だったらしい。

 

「……ですが、詰めが甘いのが欠点ですね」

《Rubellite.》

「えっ? わっ、わひゃっ!」

 

 床に転がる杖が音声を発し、展開した緋色の拘束帯(ルべライト)によって、レヴィをシュテルごと縛り上げていく。レヴィの頭を抱えていたシュテルの両手は頬へと回され、レヴィの顔を覆うようにしていた。

 

「おしおきです。すみませんが、しばらく眠っていなさい」

「ひょっ、まっ――」

《Good night, Levi. Fire.》

 

 大きく目を見開いたレヴィの顔が、緋色の砲撃に飲み込まれた。威力が絞られていたのか、細い砲撃はレヴィの頭部を消し去りつつ、外部とを隔てる壁に小さな穴を開けて抜けていく。思わずユーリの顔をぐいと胸に押し付けたリインフォースの横で、倒れたまま一部始終を目撃していたアルフが、「うわぁ……」と小さな声を上げた。

 頭部を失ったレヴィの身体は数歩よろめくと、やがて、力なく床へと倒れ込んだ。間を置かず、レヴィの身体は水色の魔力粒子となって解けていった。

 主の消失に連動したのか、シュテルを磔にしていたレヴィのデバイスも消え始める。ようやく自由になったはずのシュテルは、膝を折ってその場に崩れ落ちた。

 

「……大丈夫、か?」

「いえ、リンカーコアの一部を損傷しました。私も直に躯体を保てなくなるでしょう。それまでに、貴女には伝えなければならないことがあります。理のマテリアル、シュテル――私は、そのためにここへ来ました。同胞であるレヴィを討ったことで、貴女方の敵ではないという証明とさせてください。……リインフォース、黙って話を聞いてもらえますか?」

「……ああ」

 

 壁に背を預けたシュテルの腹部からは、すでに緋色の魔力粒子が漏れ始めている。それでも、シュテルはリインフォースへと静かに目を向けてきていた。

 リインフォースとしても、元より何かしらの情報だけでも得るつもりだったのだ。敵味方の判別が怪しいとはいえ、シュテルの申し出を断る理由はない。

 

「ありがとうございます……ユーリ?」

 

 ぴたりと合っていたシュテルの目が、僅かに下へと下がる。リインフォースが視線を追った先では、腕の中でぐったりとするユーリが、漆黒の光に包まれ始めていた。

 

 

 

 

 馬鹿は死んでも治らない。そんな確かめようがないはずの荒唐無稽な言葉を、八神颯輔は理解することができた。自らが引き起こした事態の収拾をつけるつもりが、事は悪い方向へと転がるばかりだ。絶対の真理である死を覆してもらってもこれなのだから、きっと、これからも選択を間違え続けてしまうのだろう。

 最早、何をどうするのが正しいのかなど、颯輔には分からない。

 それでも、自分が今やらなければならないことは、分かっているつもりだった。

 

「ナハト、頼む」

《Jawohl.》

 

 戦闘形態をとったナハトヴァールの内で、颯輔の魔力が爆ぜ、血のように赤い杭が射出される。杭は漆黒の球体へと突き刺さり、音もなくその外壁を消し去った。

 破れた結界の中を見た颯輔は、頭が沸騰するような感覚を覚えた。

 思考を放棄すれば、拙い魔法技術しか持たない颯輔では、飛行すら危うくなってしまう。だが、今はその危うい飛行で十分だ。すぐ目の前まで、ただ真っ直ぐに飛べさえすればいい。

 

「何でお前が――っ、ぁぁぁぁあああああっ!?」

 

 後先など考えず、湧き上がる力に任せ、左腕を振り下ろした。ようやく本来の形で戦闘を楽しめるナハトヴァールが、張り切ってサポートをしてくれているらしい。手刀でもなんでもない原始的な攻撃だけで、はやての首へとかかっていた腕が外れ、あらぬ方向へとひしゃげてしまった。

 苦悶の声を上げる闇の欠片(自分)などは視界の端へと追いやり、空いている右手で、落下する直前の小さな身体を引き寄せる。青い顔をしながら咳き込んではいるが、間に合わなかったなどということはなかったらしい。

 もっとも、取り返しがつくかどうかは、もう分からないけれど。

 

「邪魔を――」

 

 一丁前にひしゃげた腕を修復して見せた敵へと向けて、颯輔は左腕をかざした。常に颯輔の意思を酌んでいるナハトヴァールは、すでに攻撃の準備を終えていた。

 

《Schwarzer sarg.》

 

 三角形の中央に剣十字を配した、漆黒のベルカ式魔法陣。魔力の流出と共にそれが展開されたのは、怒りに顔を歪めたもう一人の颯輔の足元だった。

 魔法陣から闇が吹き上がり、目標を捕えて三角柱を形作る。指定した空間を閉ざすその中では、魔力爆発が何度も何度も巻き起こされていた。捕えられた闇の欠片の声など、黒い棺が完成した瞬間から聞こえなくなっている。やがて、黒い棺が魔力素へと還ると、そこには何も残されていなかった。

 闇の欠片が消滅したことを確認した颯輔は、行き場を失った左手を彷徨わせた。本当なら、もう二度と会うことはなかったはずの、愛しい少女を抱き締めてやりたい。だが、それはもう許されないだろう。はやての前に現れた闇の欠片は、颯輔が殺し続けてきた想いを告げてしまっただろうから。はやてだって、それを聞いたら颯輔を拒絶するに決まっている。

 

「……八神颯輔君?」

「…………」

 

 疑問形にしてははっきりとしているその声の主は、確証を持って訊いているようだった。颯輔が目を向けた先には、髪を乱したリンディがいる。颯輔はそれに答えることはせず、喉を押さえて荒い呼吸をしているはやてを、リンディへと託した。

 はやてに掛けたい言葉はある。リンディにも事情くらいは説明しておきたい。だが、その時間は残されていない。こうして表舞台に出てきたことでさえ、颯輔の目的からすれば、間違いであったのだから。

 何も語らず元の場所へと戻ろうとした颯輔の背に、

 

「……って……まって……!」

 

 精一杯に振り絞った、掠れ掠れの小さな声が届いた。

 もう一度聞きたかった、けれど今は聞きたくなかった声。その選択は間違いだと理解しながらも、颯輔には、はやてを突き放して消え去ることなどできなかった。

 振り向けば、リンディによって支えられながらも、必死に手を伸ばしているはやてがいる。颯輔が近づき手を伸ばせば、容易に触れ合うことができる距離だ。

 八神颯輔にとって、誰よりも大切な少女。

 八神颯輔が愛し、憎み続けていた少女。

 八神はやては全てを知った上でもなお、八神颯輔を求め続けていた。

 颯輔は震える右手を伸ばし、その選択が、取り返しのつかない致命的な間違いであることを悟った。

 

『見つけましたぞ』

「――っ!?」

 

 頭に直接声が響くと同時、黒い拘束帯が何重にも纏わりつき、颯輔の躯体を締め上げる。次元を跳躍して放たれた捕縛魔法は、颯輔だけでなく、はやてとリンディにも及んでいた。二人共、魔力が尽きかけており、拘束を逃れることができずにいる。颯輔の方にしても、技術の及ばない主に代わってナハトヴァールが破壊を試みているが、それを上回る速度で、更なるバインドが重ね続けられていた。

 

「やはり現れましたな、兄上」

「ディアーチェ……!」

 

 頭上に集った黒い光。それは、はやてによく似た少女を作り上げた。だが、黒銀の髪を揺らす少女は、はやてと対を成すような暗色の騎士甲冑を着込んでいる。背面に展開された六枚の翼も、純白ではなく漆黒に染められていた。

 蘇らせた颯輔へとそれまでの座を明け渡し、新たに知のマテリアルの座へと納まった少女(プログラム)――ディアーチェ。ディアーチェは、颯輔とはやて達とを遮るようにして、その間へと降り立った。

 

「あぁ、お会いしとうございました。レヴィから受けた損傷も、すでに修復させてしまったご様子。流石は我が兄上です。さぁ、どうかそのお顔を、ディアーチェめにお見せ下さい」

 

 後ろにいるはやて達など眼中にないとでもいうかのように、ディアーチェの目は、颯輔へと向けられたままだ。恍惚の表情を浮かべたディアーチェの細腕が、颯輔のフードへと伸びる。そっとフードが下されると、ディアーチェの後ろにいるはやて達が、ようやくさらされた素顔に、息を飲んだのが分かった。

 できることならば、はやてには顔を見られないうちに立ち去りたかった。颯輔が蘇ったことを感付かせないままに、事を終えてしまいたかった。死別を二度も味わうなど、はやてにとっては、そして、颯輔にとっても、耐えられることではない。

 颯輔とはやての心情など、十二分に理解しているはずのディアーチェは、動けないはやてに見せつけるかのように、颯輔へと身を寄せて見せた。

 

「おにぃ……!」

「……っ」

「そう嫌なお顔をなさらないでいただきたいものですな。……ですが、その苦しげなお顔も、我は好いておりますぞ」

「……要件は何だ」

「ふふ、兄上ならば分かっておりましょう? 奪うことのできなかった残りの頁を、頂戴しに参ったのです」

 

 颯輔の胸を這い回っていたディアーチェの右手が、そっと左胸へと宛がわれる。心臓の鼓動を確かめるようにしていたその手は、水に潜るようにして、颯輔の胸へと沈み込んでいった。

 

「あぁ、なんと冷たく温かい。兄上の魔力はディアーチェを虜にしてやみませぬ。叶うのならば永遠にこうして……いや、もうすぐこの願いも叶う。兄上と永久に共に……ふふ、待ち遠しいですな」

「くっ……このっ……!」

「無駄ですぞ。今の兄上の腕前では、我の拘束を破ることは叶いませぬよ。ナハトにしても、我を直接攻撃するような真似はできぬはず。間もなく済みますので、しばしの辛抱を」

 

 颯輔にとっては悔しいことに、全てディアーチェの言うとおりだった。ただ膨大な知識を与えられただけの颯輔では、元からそうであったディアーチェ達のように、それを技術として活かすことができない。それどころか、知のマテリアルであるディアーチェの術式を正面から破ることのできる人物など、存在するかどうかも怪しい。シャマルですら及ばない領域にあり、ようやく勝負になるのは、全盛期のリインフォースくらいだろう。

 文字通りに身体の内側を掻き回される感覚に耐えていると、ほどなくして、ディアーチェの手が、颯輔の中枢へと届いた。颯輔の躯体の核でもあるリンカーコア、その内へと融け込んだ、ユーリとシュテルの管制権が記された頁。知のマテリアルに位階を落としながらも、紫天の書を開く権利を持ち続けているディアーチェならば、それを取り出すのは容易なことだ。

 ディアーチェの腕が引き抜かれると、そこには一冊の本があった。夜天の書と対を成す、もう一冊の魔導書(紫天の書)。颯輔が保持していた、シュテルとユーリの管制権を記した頁と、ディアーチェが保持していた、レヴィと闇の欠片の管制権を記した頁が合わさり、元の姿を取り戻したものだ。

 

「どうするつもりだ……!」

「異なことをおっしゃる。我らをあるべき姿に戻すのですよ。そして今度こそ、兄上の望みを叶えるのです」

 

 鋭く細められたディアーチェの目は、その言葉が、本心からのものであると告げていた。恍惚とした表情など消し去った、冷たく凍えるようなそれは、ディアーチェが持つ本来の表情だ。はやての容姿を借り受ける以前にあった、王のマテリアル(紫天の王)としての表情。

 この世の全てを敵に回してでも、ディアーチェは颯輔を()()()()()()()()

 

「違うっ! 俺は――」

「――ええ、分かっていますとも。兄上の望みを叶えるためには、そこの塵芥共の存在が、邪魔でしかないことなど」

 

 颯輔から離した左手に紫天の書を持ちかえ、空いた右手に剣十字の杖(エルシニアクロイツ)を展開したディアーチェは、初めてはやて達の方へと向き直った。闇の書であったころの破壊衝動は、明確な自我を得たことでもう治まりつつあるとはいえ、未だその残滓を残しているディアーチェが何をしようとしているのかなど、知りたくなくとも予想がついてしまう。

 

「夜天の王よ。貴様の存在がどれほど兄上の重荷となっていたか、存分に思い知ったであろう?」

「それ、は……」

「違う……やめろっ! はやては関係ないだろっ!!」

「兄上こそ、誤魔化さないでいただきたい。兄上の心の内、このディアーチェが読み違えるとでも?」

「だったらっ!! 俺の心が分かるっていうんならっ……お願いだから、もうこれ以上はやて達には手を出さないでくれ……!」 

 

 空に消えていく小さな叫び。

 颯輔を振り返ったディアーチェは、今にも泣き出しそうな顔をしていて、

 

「――我らの家族に近づくなァッ!!」

 

 すぐにそれを、忌々しげな表情で隠してしまった。

 

「ちぃっ……!」

「ぉぉぉぉおおおおおッ!!」

 

 ディアーチェが空へと展開した防壁に、ラベンダーの光が激突する。それは、はやての危機を察知して駆け付けたシグナムだった。

 

「誰に断ってその恰好してんだッ、てめえッ!!」

「ええい、次から次へと……!」

 

 シグナムに続いたのは、炎の尾を引く紅の少女だ。ラケーテンフォルムのグラーフアイゼンを構えたヴィータが、ディーアチェの横合いから迫る。ディアーチェは紫天の書を突き出し、自身の姿を覆い隠すような障壁を張って、それに対応した。

 

「シャマルッ! ザフィーラッ!」

「あたしらごと捕まえちまえッ!」

「了解ッ!」

「任せろッ!」

 

 シグナム達の攻勢は、まだ終わらない。シグナムとヴィータがディアーチェの足を止めたところで、それを囲むようにして、圧縮魔力の小さなスパイクが降り注いだ。スパイクが障壁に突き刺さったのを確認すると、シグナムとヴィータが、その場から離脱する。

 シグナムとヴィータが飛び立つか飛び立たないかのうちに、今度は、ミントグリーンのワイヤーが伸びてきた。ワイヤーはディアーチェの障壁を取り囲むと、スパイクを柱に見立てて幅を広げ、立方体の檻を作り上げた。

 

『……ユーリ達の調整を終え次第、再び伺います。兄上にも、積もる話がございましょう。どうか、その時までに別れを済ませておきますよう』

 

 だが、シグナム達の連携も、躯体を自由に解くことができ、なおかつ、完全な紫天の書を手にしたディアーチェを、捕えるまでには至らなかったらしい。ディアーチェから颯輔へと一方的な念話が告げられると、檻の内部から感じられていた気配は、忽然と消えてしまうのだった。

 颯輔達を拘束していたバインドも、ディアーチェの逃走に伴って、ようやく解け始める。だが、颯輔にだけは、新たなバインドがかけられた。

 ディアーチェに逃げられたことを同じく察知したらしく、シグナム達の目は、颯輔へと向けられていた。

 

「本物だったらすみません……」

「……いいよ、シャマルの判断は、間違ってなんかいないさ」

 

 颯輔の胴に巻きつくクラールヴィントは、悲痛な面持ちをしたシャマルの指へと伸びていた。

 

「貴方は……八神颯輔なのですか?」

「……頼むから、答えてくれ」

「…………」

 

 弱弱しい眼光のシグナムが、刃先の震えるレヴァンティンを構えていた。

 目の端に涙を溜めたヴィータが、グラーフアイゼンの柄を強く握り込んでいた。

 拳を解かぬままのザフィーラが、はやて達を背に庇いながら様子を窺っていた。

 マテリアルのコンソールといってもいい紫天の書を奪われてしまった颯輔には、事態を収拾する手立てが残されていない。自ら協力を申し出てくれていたシュテルも、ディアーチェによってプログラムの一部を書き換えられ、行く手を阻む存在となってしまうだろう。争いから遠ざけながらも、もしものときはと考えていたユーリにも、頼ることなどできなくなってしまった。

 

「その人は恐らく、あなた達の知っている颯輔君で間違いないわ。……そうでしょう、はやてさん?」

「……はい」

 

 答えられずにいた颯輔に代わり、場を進めたのは、リンディだった。その隣には、自力で飛べるまでには回復したらしいはやてがいる。だが、力なく頷くはやては俯いたままで、颯輔を見ようとはしなかった。

 

「はやてさんは、貴方のおかげで助かりました。アースラの方も、ひとまず騒ぎは治まったようです。今起きている事件について、知っていることを話してくれますね?」

「…………」

 

 これからどうするにせよ、今の颯輔には、リンディの問いかけに黙って頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 紫天の書が取りまとめるシステムを構築するシュテルとレヴィは、本来であれば同格の存在だ。しかし、今回は後手に回らされたシュテルが、圧倒的に不利だった。対峙した場所は閉所で、傍には保護対象までいる。シュテルが有利になる要素など、皆無であったのだ。

 一方のレヴィは、自分の距離で存分に力を振るうことができた。その状況下で、周囲に被害を出さずにレヴィだけを撃ち抜くには、確実に動きを止められるあの方法しかなかった。状況を選べたのなら、シュテルはその力を遺憾なく発揮し、無傷で勝利を収めることもできただろう。

 だが、今回の勝負の結果は痛み分けだった。

 シュテルの躯体から急速に力が抜けていく。レヴィによって腹部に空けられた風穴からは、緋色の魔力粒子が漏れ出ていた。

 シュテル達マテリアルは、それぞれのリンカーコアを基に魔力素を結合させることで、それぞれの躯体を構築している。守護騎士(ヴォルケンリッター)と同様の魔法生命体だが、どちらかといえば、融合騎であるリインフォースに近い構造で、魔力素へと還り易い性質を有しているのだ。そのため、躯体の維持を放棄し、世界から完全隔離された、紫天の書の内へと戻ることも容易だ。

 持ち得た性質から、多少の肉体的損傷はその場での修復が可能だが、レヴィや今のシュテルのように、リンカーコアを損傷してしまった場合は違ってくる。強制的に躯体が解体せれるため、一度紫天の書の内へと戻り、損傷を修復させなければならないのだ。リンカーコアの情報は常にバックアップがとられているため、例え全損であっても問題はないが、その場合は、それに応じた時間がかかってしまう。

 

「おいおいおい、その子、そのままじゃまずいんじゃないのかい……?」

「わからない。だがこれは……シュテル、どうなっている?」

「…………」

 

 躯体の構築と解体には、並大抵の魔法よりも複雑な演算が必要となる。リンカーコアの損傷から記憶を失っており、加えてリミッターまで課せられているユーリには、本来であればできるはずがない。

 だが、リインフォースの腕の中で意識を失くしているユーリは、躯体の端から魔力素へと還元され始めていた。ユーリが自ら解体しているのでなければ、答えは自ずと見えてくる。シュテル自身、損傷の割には躯体が解体されるペースが通常よりも早いことに、違和感を感じてはいたのだ。不完全な紫天の書が原因だろうと考えていたが、ユーリの件を踏まえれば、その答えは一つしかなくなった。

 

『――シュテル、いいか……?』

 

 シュテルが事実に辿り着いたと同時に届いた念話は、別行動中の颯輔からだった。「しばしお待ちを」とリインフォース達に告げ、シュテルは念話に集中する。

 

『ええ。丁度、私も訊きたいことができました。颯輔、ディアーチェに私とユーリの管制権を奪われましたね?』

『ごめん……』

『いえ、ただ事実確認を取りたかっただけです。やはり、ディアーチェの方が一枚上手だったという事でしょう。それよりも……こうなってしまった以上、これからどうすればよいかは理解していますね?』

『…………』

『出来得る限りは時間を稼いでおきますから、どうか、悔いの残らない選択を。ただ一点……次にまみえるときは、貴方に杖を向けてしまうことをお許しください』

『……シュテル、俺は――』

『――それでは、ご武運を』

 

 躯体の消失が進んでいる今、例え念話であっても、これ以上のリンカーコアへの負荷は許容できない。突き放すつもりはなかったが、シュテルは一方的に念話を切り、再びリインフォースを見やった。

 ディアーチェが紫天の書を完成させたのならば、シュテルが颯輔へと力を貸すことは、もう許されないだろう。頼みの綱であったユーリも同様とあらば、いよいよ手段は限られてくる。颯輔を救済するためには、リインフォース達に全てを託すしかなくなってしまった。

 

「お待たせ致しました。時間がありませんので、必要なことだけを手短に話します。アルフ、リンディ・ハラオウンへは状況を逐一報告していたのでしょう? 守護騎士にも念話を送り、これから言う私の言葉を、一言一句漏らさずに伝えて下さい。ただし、間違っても夜天の王にだけはまだ伝わらないようにお願いします」

「……こっちの面子は当然のように把握してるってわけかい」

「ええ、そうとってもらって構いません」

 

 レヴィとの戦闘の際中も、アースラの外から伝わってきていた魔力から、そこに誰がいて何が起きているのかくらいは察知できていた。魔力素に近い体を持つシュテルにとって、それは特に難しいことではない。真面な戦闘ができないアルフが、せめてもと誰かに念話を送っていたのも同様だ。あの状況下でも確実に繋がり、なおかつ繋いだままにするのならば、相手は指揮官であるリンディでしかあり得ないだろう。

 アルフから発せられる魔力の波が広がったのを確認し、シュテルは口を開いた。

 

「結論から言いましょう。我らが主――八神颯輔は、紫天の王の座につき、その存在を留めています」

「颯輔が……!?」

 

 颯輔の復活については薄々感づいてはいたのだろうが、確証までは持てなかったのだろう。リインフォースは目を見開いている。本来ならばすでに気付けていただろう魔力にも気付けていないあたり、あるいはもう、すぐそこまで死が迫っているのかもしれなかった。

 シュテルは消えかかった足に力を込め、無理矢理に躯体を起こして前へと一歩を踏み出す。気を利かせたリインフォースが、同じく消えかかったユーリを連れて傍へと寄ってくれた。

 

「ですが、貴女達家族を守るため、彼は再びその命を捨て去ろうとしています」

「それは、どういう……」

 

 シュテルはすでに下半身のないユーリを受け取り、その小さな躯体をそっと抱き締めた。

 颯輔やシュテル達を守ってくれたユーリの損傷は大きく、完全に回復してもいなかったのだから、躯体を構築することすら困難だったはずだ。それでもユーリは、颯輔を蘇らせるために無理を押して起動してみせた。だが、颯輔の意志を貫かせては、そんなユーリの努力も無駄になってしまう。

 もっとも、このままの状況ならば、ディアーチェがそれを阻止してくれるだろう。だがそれは、颯輔が真に望む最善の未来を迎えることにはならないはずだ。颯輔に従い、心に触れたシュテルには、それがわかる。

 

「彼一人では、私達を止めることなど到底不可能。融合騎である貴女の力が必要不可欠です」

「だが、私にはもう……」

「心配には及びません。我らの核である彼とならば、貴女はもう一度空へと舞い上がることができるでしょう。未来を望むのならば、紫天の王の翼となりなさい。……夜天の融合騎、それから、夜天の守護騎士達よ、どうか、彼の心を……っ」

 

 腕の中のユーリが消え、シュテルも遂に倒れ込む。それを途中で支えたのは、瞳を潤ませたリインフォースだった。

 

「一つだけ、聞かせて欲しい。……どうして、そこまでしてくれるのだ?」

 

 確かに、最初は颯輔がシュテルの管制権を持っているからという理由だけで従った。

 理のマテリアルであるシュテルが動くには、それだけで十分だった。

 だが、颯輔の心に直接触れてしまったシュテルは、

 

「……私も貴女達と同じく、彼の強く弱い心に絆されてしまったようです」

 

 穏やかな微笑みを残して消滅し、奈落の底へと落ちていく。繋がっていた絆を断たれたシュテルは、心が急速に冷えていくのを感じていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 心の声

 

 素晴らしく風通しが良くなってしまったという医務室に代わり、クロノはアースラ内にある自室のベッドで横になっていた。貫かれた腹に傷はないが、今でも触れただけで鈍い痛みが広がる。目覚めた当初はまだ感電による痺れが残っていたのだから、これでも徐々に回復はしているようだ。

 クロノが追ったフェイトによく似た少女――レヴィは、強かった。魔力量や技能で言えば、フェイトも劣ってはいない。それはつまり、フェイトのこれからの伸び代を除けば、今のクロノとも同等であるということだ。

 とはいっても、速度、太刀筋など、戦闘スタイルの違いから、クロノでは及ばないところはもちろんある。だが、ただ一点、攻撃する際の躊躇いのなさは、突き放されていた。レヴィは、人を斬ることを、物を破壊することを、心の底から楽しんでいた。どころか、どうして解除しなかったのかまでは分からないが、攻撃が非殺傷設定であることを、不服にさえ感じていたようなのだ。

 魔法の非殺傷設定は、相手を傷つけずに制するためにある。だが、現実としてそれは不可能だ。過ぎた魔力ダメージは、相手を精神的に殺すこともできる。魔法自体には殺傷力がなくとも、それが周囲にもたらす影響――例えば、砲撃によって破壊された建造物の破片などが悪い所に当たれば、怪我では済まされないかもしれない。ベルカの騎士が持つアームドデバイスに限らず、ミッドチルダの魔導師が持つ杖にしても、相手を傷つけること自体は容易だ。

 それらのことを正しく理解しているのならば、攻撃の手には少なからず躊躇いが生まれるはずだ。非殺傷設定にするために、相手に怪我をさせないために、魔法の発動は最短の発動時間よりも一歩遅れてしまう。だが、レヴィにはその遅れがなかった。それこそが、レヴィの強さの秘密。クロノ達では、どう足掻こうとも埋めることのできない絶対的な差だった。

 

「……言い訳がましいな」

 

 ベッドの上に放り出していた手を、クロノは無意識のうちに握り締めた。

 才能の差、技術の差、心構えの差、消耗度合の差、そんな指摘を挙げたところで仕方がない。何をどう弁明しても、クロノが負けたという事実が変わることなどないのだから。そして、ただ負けただけでなく、正しい判断を下すことすらできなかったのだから、なおさら始末におけない。クロノにもっと力があり、判断を間違えることがなかったのなら、こんな状況には陥らなかったはずなのに。

 

「おっすー! 調子はどうかな、クロノ君?」

「……エイミィか」

「えっ、せっかく忙しい中わざわざ時間作って様子見に来てあげたのにその反応、いやー、私傷ついちゃうなー」

「……すまない」

「……うーん、こりゃ重傷ですなぁ」

 

 ふぅー、と溜息をついたエイミィが、我が物顔でクロノの部屋へと侵入してきた。机と共に備えられていた椅子をベッドの横へと引っ張り出すと、背もたれを跨ぐようにして座る。背もたれに両肘をかけ、そこに顎を置き、上から覗き込んできた。

 クロノは、エイミィの目を直視することができず、窓の方へと顔を向けた。窓の外には暗い海が広がっており、夜の空には、紅の壁がそり立っていた。

 

「ヴィータちゃんが結界張ってくれてるし、シグナムさんも警戒してくれてるから大丈夫だよ。今のところ、闇の欠片が出てくる気配もないみたいだし」

 

 闇の欠片の襲撃から二時間あまり。幸いにも死者は出ていないが、アースラが受けた被害は甚大だった。

 武装局員はことごとくが絶対安静状態で、クロノもアルフもリンディも、魔力までは回復していない。魔力切れ寸前まで追い込まれたはやては、シグナム達から魔力を分けてもらったようだが、戦える精神状態ではなかった。残存戦力は、なのはにフェイト、シグナムにヴィータ、シャマルにザフィーラの六人。並の事件ならば手間取ることなく解決してしまうであろう面々だが、生憎と、今回はそうではなかった。

 レヴィによって停止させられたアースラの魔導炉は、再稼働の目途が立っていない。炉を真っ二つにされた上に封印までされており、アースラに乗り込んでいる技術班だけでは、手の施しようがないのだ。そのため、予備の動力だけでは飛行もままならず、現在アースラは、海鳴市の近海に着水していた。

 次元航行艦の動力が一瞬でも落ちれば、管理局本局へと救難信号が出される。航行ルートが近い艦もあるのだが、その艦だけでは圧倒的に戦力が足りない。部隊再編と始動の時期が重なっていること、また、90番台の遠方の世界であることから、本局からの増援の到着は、早くとも翌朝となってしまうそうだ。

 状況は、未だかつてないほどに追い込まれている。アースラが受けた損害は、たった一日で、あの闇の書事件をも超えてしまっていた。

 だが、この状況を打破できる可能性だけは、まだ残されている。

 

「……八神颯輔への聴取は、どうなっている?」

「魔力リミッターの施術に手間取ったみたいで、ようやく始まるところだよ」

「手間取った? まさか――」

「いや、抵抗したりはしなかったらしいから大丈夫。艦長もまだ魔力は戻ってなくて、施術できるのがシャマルさんくらいだったんだけど……その、颯輔君、体の構造がまるっきり変わっちゃってて、それでシャマルさん、動揺しちゃったみたいでさ。……もう、普通の人じゃなくなっちゃったんだって」

「どうやったかは知らないが、アルカンシェルを耐えきってみせたんだ。だいたい、あのときにはすでに――……すまない、口が過ぎた」

 

 エイミィの気配が剣呑なものへと変化しつつあったことに気が付き、クロノは言葉を変えて継ぎ足した。

 

「自分の無力さに怒り心頭で、これでもいっぱいいっぱいなんだ。見逃してくれ」

「あっはっはー、クロノ君、実はそこまで強くないもんねー」

「……君は負け犬を笑いに来たのか?」

「……ホント、重傷だね。いつものクロノ君なら、そんなこと絶対言わないもん。今更失敗したくらいでいじけちゃってさ、あー情けない情けない。背はちっちゃいくせに、プライドだけは一丁前に高いよね、クロノ君は。そんなんだから見た目も最年少執務官とか言われちゃうんだよ。エリート街道まっしぐらだからって、ちょっと調子に乗り過ぎたんじゃない? 自分の分も弁えないでさ、危ないことばっかしてさ、心配ばっかかけてさ……ちょっといい加減こっち向きなさいよコノヤロー」

「むぐっ」

 

 ぐいと顎を掴まれ、強制的に顔を動かされる。少しだけ近づいたエイミィの顔。その目が赤くなりつつあった。

 

「……泣きたいのは罵倒されたこっちの方なんだが」

「泣いてないし」

「だがしかし――」

「泣いてないしっ! もうっ、なんで気の利いたセリフが出てこないかなぁクロノ君は! ここは『泣かないでくれ』っていいながら目尻を拭ってあげたりする場面でしょーが! その辺は見習ってよ! 間近で見てた艦長の方が恥ずかしかったんだって! いや、あそこまで人数囲われるのも困るけどさぁ!」

「ちょっと待て、結局君は何が言いたいんだ」

 

 まさか闇の欠片なのか、というくらいにエイミィの様子はおかしかった。飄々としながらも一応は真剣な話をしていたはずが、完全に脱線してしまっている。母が何を見たのかも多少気になるが、今はエイミィを落ち着かせることが、クロノにとっての最優先事項だった。

 

「だぁーかぁーらぁーっ! 暗いの! アースラの中、すっごく暗いの! 私こんなの耐えらんないよクロノ君!」

「それはまぁ、通信設備やら何やらに少ない動力を回しているわけだから、多少薄暗くなってしまうのは――」

「違うってば! 照明の話じゃなくて、空気の話! シャマルさんはぽろぽろ涙流しながらみんなのこと治療してるし、シグナムさんとヴィータちゃんは怖い顔したまんまで通信出るし、はやてちゃんはザフィーラに抱き着いた体勢からちっとも動かないし、なのはちゃんとフェイトちゃんもつられて元気なくなっちゃうし! 何でっ!? 色々切羽詰まってるのは分かるんだけどっ、それでもせっかくまた会えたんだから素直に喜ぼうよっ!!」

「それは、僕たちは自分の闇の欠片を見ていないから分からないが、なのは達は、それなりにきついことを言われたと言っていたじゃないか。はやての場合は、八神颯輔の闇の欠片だったようだが、それでもやはり、堪えるようなことがあったんだろう。あの家庭環境だ、八神颯輔が何も溜め込んでいなかったとは、正直思えない。はやてが参っている状態なら、シグナム達も手放しでは喜べないだろうさ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 

 エイミィがしゅんと萎れ、クロノの顎も自由になる。その部分を撫でながら、クロノは過去の事件の資料を思い返した。

 クロノは資料で目を通しただけだが、八神颯輔の人生は、地球――特に日本でいうところの平凡な人間のものではなかった。実の両親、育ての親と失っているのだ。残された家族は足の不自由なはやてのみで、子供だけの二人暮らし。シグナム達が現れてからは多少は楽になったようだが、しかしそれでも、八神颯輔への負担は大きかっただろうことだけは、想像に難くない。

 

「アースラ内のムードは今後の士気に関わるだろうから、すまないが、クルーの面々くらいは君が何とかしておいてくれ。はやて達に関しては、家族間の……いや、あまりにも特殊過ぎる問題だ。僕達が入り込む余地なんてないし、入り込むべきでもない」

「だけどさぁ……」

「全ては八神颯輔次第だろう。そろそろ話を戻させてもらうが、その八神颯輔への聴取はどうなっているんだ?」

「……艦長と、それからリインフォースも一緒にするってさ。リインフォースにも分からないことだらけらしいけど、やっぱり、闇の欠片とかに一番詳しいのはリインフォースだから」

「そうか……」

「……で、クロノ君はどうするわけ?」

「ディアーチェ、と言ったか。ともかく、彼女達は再び現れるのだろう? なら、それまでに少しでも魔力を回復させてもらうさ。例え背が小さいくせにプライドだけは高い調子に乗った負け犬でも、多少は戦力になるはずだ」

「ごめん、気にした……?」

「全て事実だ。気にする気にしないの問題じゃあない。何かあれば叩き起こしてくれ」

 

 両手を布団の中に仕舞い直し、クロノは瞼を閉じた。

 クロノ・ハラオウン個人にできることなどあまりにも少ないのだと、クロノは理解しているつもりだ。だが、この状況下で普段できることができるのと、できないのとでは大きく変わってくる。そのときにクロノができることをできるようにするために、今は少しでも休んでおくべきなのだ。

 隣に座っていた気配が立ち上がり、そっと離れていく。扉が開いた音は聞こえたが、閉まる音までは聞こえなかった。

 

「……ねぇ、クロノ君」

「何だ」

「……私ね、あのときクロノ君がアースラに戻ってきてくれて、すっごく安心した。それではやてちゃんには色々あったけど、どうすれば正解だったのかなんてわからないけど、すっごく安心したんだ」

「…………」

「でもね、すっごく安心したけど、すっごく怖くもあった。……クロノ君、頑張るのはいいことだけど、頑張り過ぎたりしないでね。クロノ君はすごいけど、今のアースラには、もっとすごい人達がいるんだからさ。……私、違う誰かの補佐官になるなんて、絶対嫌だからね。……約束してよ、クロノ君。無茶だけはしないって。私はさ、命懸けられてまで守られたくなんかないよ」

「……ああ、努力しよう」

「…………おやすみ、クロノ君」

 

 扉が閉まる音があり、コツコツと気配が遠ざかっていった。

 クロノの補佐官は、いっそ残酷なほどに現実を見てくれている。この歳になっても夢見がちなクロノとは、大違いだった。

 

「命を懸けられてまで守られたくはない、か……」

 

 レヴィにアースラへと侵入されたときの通信で、いったい自分は何を口走っただろうか。

 無我夢中だったために曖昧になっている記憶を辿りながら、クロノはゆっくりと意識を落としていく。握り締めていたはずの拳は、いつの間にか解けてしまっていた。

 

 

 

 

 アースラにある一室で、颯輔は僅かに息苦しさと気怠さを覚えていた。六畳ほどの広さの部屋には、テーブルとそれを囲む四脚の椅子しかなく。天井の照明は半分が消されており、室内の照度は明らかに足りていない。閉塞感を醸し出す部屋の中、一人きりで椅子に座っていた。

 しかし、颯輔が覚える息苦しさと気怠さは、もっと別の理由からだった。

 今の颯輔は、シグナム達やリインフォース、ディアーチェ達と同じように、魔力素を結合させることで身体を作り上げている。そのような構造を持つ者にとって、大気中の魔力素は、それこそ空気と同じ役割を果たすのだ。呼吸ができないというわけでもないが、魔法行使を阻害する魔力リミッターを課せられた今、リンカーコアの機能が低下しているために上手く魔力素が取り込めず、十全な活動が不可能な状態に陥っていた。

 闇の書事件の後、皆も同じような体験をしたのだろうか。

 ふと考えてしまったのは、自分が消えた後のこと。おそらく同じようにリミッターを課せられただろうから、同じ息苦しさを覚えたに違いない。もしかしたら、躯体が魔力素により近い分、自分しか覚える事のない感覚なのかもしれないけれど。

 だが、本当に気がかりだったのは、さらにその後のことだった。もっとも、はやて達は拘束を受けずにここにいたため、頼んだとおりにグレアムが上手く動いてはくれたのだろう。もしかしたら刑務所のような施設でずっと、という心配は杞憂に終わった。

 ただし、はやて達がこの場にいたことは、今の颯輔にとっては素直に喜べることではないのだが。

 

「――失礼します」

 

 女性の声と共に扉がスライドし、二人の人物が入ってくる。リンディとリインフォースの二人だった。

 ちゃらり、と鎖が鳴った。最も弱い颯輔を守っているナハトヴァールは、待機状態となって颯輔の左手首にはめられている。そこから伸びる鎖が揺れ、颯輔に警戒を促したのだ。

 颯輔は腕甲の表面をそっと撫で、敵ではない、とナハトを落ち着かせた。リンディもリインフォースも、この場で颯輔をどうこう、などと考えるようなはずがない。

 リンディとは、すでに自己紹介を終えている。相手はアルカンシェルを撃った人物のようだが、颯輔にとっては()()()()()()()()であり、直接の恨みなどはなかった。リンディの方は気にしているようだったが、それも含めて申し訳なく思ってしまう。

 リインフォースは、颯輔の予想以上に落ち着いていた。颯輔としては、自分が存在し続けていることを知れば、もっと違う反応があると思っていたため、意外ではある。シュテルからは何も聞かされなかったが、リインフォースへと何かを伝えてはいたのかもしれない。そうでなければ、心を決めた目をして、真っ直ぐにこちらを見つめてきたりはしないだろう。

 二人は静かに足を進め、颯輔の対面へと並んで座った。様子を窺えば、リンディは何かを考えるようにして目を閉じ黙している。最初に口を開いたのは、リインフォースの方だった。

 

「……お久しぶりです、颯輔」

「……『主』は、もうつけないんだな」

「ええ、家族は名前で呼ぶものだと教わりましたから。はやて、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ。皆のことも、しっかりと名前で呼んでいますよ」

「そうか……」

「…………」

「…………」

「……他には、何も尋ねてはくれないのですね」

「……ああ」

「そう、ですか……」

 

 話し始めて和らいだはずのリインフォースの表情が、再び変化してしまう。目を落として悲しげに口を閉じるリインフォースを、颯輔は見ていられなかった。

 途切れた会話にようやくリンディが目を開き、ちらりとリインフォースに視線をやる。リインフォースが静かに頷くと、リンディの目は颯輔へと向けられた。

 

「では、聴かせてもらえますか。あなた達はいったい何者で、いったい何が起きているのかを」

「……はい」

 

 挨拶は済みましたね、とリンディが目でも確認してくる。颯輔は、リンディに対して二重の肯定を示した。

 今回の件は、おそらく解説役として同伴させたであろうリインフォースにも、分からないことばかりのはずだ。だが、リンディ一人に一から十まで説明するよりは、夜天の書そのものであるリインフォースがいた方が、話は早い。

 タイムリミットは刻一刻と迫っているのだろうが、颯輔はまだ道を見失ったままだ。新たな手掛かりを得るためにも、颯輔は要所を順を追って説明していくことにした。

 

「多少長くなってしまいますが、大丈夫ですか?」

「ええ。ここからは記録させてもらいますが、構いませんね?」

「できればご遠慮願いたいのですが……そうもいかないんですよね?」

「……はやてさん達の情報は、機密事項として扱われています。具体的には、将官以上でなければ閲覧できないようになっています。闇の書に関わる話であるのならば、そういった扱いも可能です」

「…………」

 

 はやて達の情報が公にされていないことは、颯輔にとっては朗報だ。完全な情報規制は不可能かもしれないが、闇の書の主や守護騎士であったことが周知の事実となるよりは、ずっといい。

 だが、今回の件に関してはそうもいかない。むしろ、将官以上のような者だからこそ、知られたくはないのだ。本音を言ってしまえば、リインフォースにさえも真実は告げず、このまま闇に葬り去ってしまいたいほどだった。

 颯輔が言葉を選んでいると、小さな溜息の音が聴こえてきた。

 

「それじゃあ、今回の席はただの雑談の場としましょうか。聴取はまた後日に、ね?」

「いいんですか……?」

「だって、嫌なのでしょう? 記録に残すかどうかは、聴いてみてから判断するわ。これなら、真実を知るのは、あなた達の他には私とリインフォースさんの二人しかいない。その方が、色々と都合がいいでしょう?」

 

 笑顔の仮面。この場で被るそれが、それを見抜くことができる相手の心象へとどのような影響を与えるのか、考えが及ばない女性ではないはずだ。

 信用できないのならば消しなさい。言外にそう告げてくるリンディは、安易に信用してはならないタイプの人間だ。

 だが、力が及ばずともはやてを救い出そうとしていたリンディならば。

 リンディの悲痛な叫びを知っているからこそ、颯輔は、ひとまず信用してみることにした。

 

「……ええ、そうですね。ありがとうございます、ハラオウン提督」

「いいのよ、お礼なんて。私がどうするのか、まだ決まったわけではないわ」

「……そのときは、そのときですから」

「あら、怖い怖い」

 

 おどけて見せるリンディからは、場馴れした様子が窺える。こういった駆け引きは得意なのだろう。甘く見積もっても、素人同然の颯輔が勝てる相手ではない。それに、グレアムとの交渉の場では相談役となってくれたリインフォースも、今はリンディの隣にいるのだ。どう足掻いても、颯輔では手玉に取られてしまうのがオチだった。

 無駄な抵抗は、いたずらに時間を消費してしまうだけ。そう学習した颯輔は、大人しく話を進めることにした。

 

「それじゃあ、掻い摘んでになってしまいますが、話していきます。……記録を拒んだ理由が、これから話をする上で大前提となる、夜天の書の旅の本来の目的なんです」

 

 次元世界に広がる魔法技術の蒐集。夜天の書が闇の書になった後も続けられていたそれは、それ自体が主目的ではなく、真の目的を果たすための手段でしかなかった。リインフォースすらも知り得なかったそれは、紫天の書を開いたからこそ、颯輔でも知ることができたものだった。

 夜天の書と闇の書の知識と記憶だけでは、知りようがない真実。それを記録しているもう一冊の魔導書――紫天の書は、夜天の書側からはその存在を認識することさえできなかったのだから。

 

「それは、世界各地の魔法技術を蒐集し、ある技術を完成させることでした。それが、魂の永久保存……早い話が、永遠の命を得て、不老不死になるための魔法です」

「……!」

「待って! あり得ないわ、そんな、お伽噺のような魔法は……」

「俺からしてみれば、魔法そのものがそうですよ。転移に念話、飛行に身体強化、魔力付与に射砲撃、障壁に捕縛だって、地球で暮らしていた俺にはお伽噺、空想妄想の世界です。それに、そういった技術を指して、ロストロギアと呼んでいるはずですよ、管理局は。次元世界に、あり得ないものなんてありません」

 

 無限に広がる世界には、人が考え付く程度のものなど、必ずどこかに存在している。ないのではなく、ただ見つけられないだけなのだ。

 だが、それだけの可能性がある世界でありながら、夜天の書を創造したほどの者が目指したものは、永遠の命などというありきたりなものだった。それはつまり、ほとんどの世界において、死という運命が絶対のものであるという証明なのかもしれない。

 しかし、創造主の存命中には叶わなかったが、永遠のように長い時を経て、夜天の書は、絶対の運命に逆らう術を完成させた。その生き証人が、八神颯輔である。

 

「それじゃあ、今のあなたは……」

「一時的に消滅こそしますが、誰に何をされたって終わらない存在ですよ……。それから、本人達には認識されないように設定されていましたが、リインフォース達にも、その技術の一部が組み込まれていたんです。彼女達の再生と転生は、デバイスの自動修復機能だけでは説明がつかない。どんなに複雑なデバイスでも、その構造は人間のそれには及びませんから。もっとも、彼女達は元が人間だったというわけではなく、そういう存在として生み出されたからこそ、不完全な術式でも再生と転生を繰り返すことができたのですが」

「……では、旅の目的や創造当時のことが思い出せないのは、不完全な術式であったためですか?」

 

 自覚はあったらしいリインフォースの問いかけに、颯輔は視線を向けずに頷きだけを返した。さすがに本人は話が早い。

 

「実はその術式は、最初からある程度の雛型ができていました。リインフォース達が記憶を継承できるようになったのは、雛型でしかなかった術式が整ってきたからです」

「で、ですが颯輔、そのような術式、夜天の書のいったいどこに……?」

「……誰にも利用されないように、どこかに隠されていたというわけね? リインフォースさんでさえも知り得ないのならば、それこそ誰にも知りようがない」

「はい。その術式は、夜天の書が内包するもう一冊の魔導書に記されていました。そしてそれは、夜天の書の管制人格であるリインフォースですら知覚できない領域に隠されていたんです」

「……動力部」

「そう。その夜天の書の動力部は、二つのユニットによって構成されていました。無限の魔力を供給する魔導炉、永遠結晶エグザミア。そして、不老不死の術式が記され、連動するエグザミアの制御端末でもあった紫天の書。どちらか片方だけでも、世界を覆しかねない技術です……明るみに出ていい代物ではありませんでした」

 

 どれほど技術が進んだ世界でも、未だに永久機関と不老不死の技術の完成形は確認されていない。片方だけも夢想の先にある代物なのだ。その二つが揃っていた夜天の書はロストロギアの塊であり、まさしくロストロギア中のロストロギアと言っても過言ではないだろう。

 そんな技術の存在を知ってしまったからこそ、八神颯輔は決断を下さねばならなかった。

 

「無限の魔力……俄かに信じられない話だけれども、心当たりがないでもないわ。あのとき……闇の書の暴走体は、いくら魔法を使っても残存魔力の数値が動いていなかったもの」

「ですが、矛盾があります。未完成の私も、完成したあとの私も、確かに魔力を消費していました。さらには、リンカーコアからの蒐集によって、魔力を貯蓄していたはずです。私自身は、そのような魔力を感じたことがないのですが……?」

「……エグザミアは、ただの魔導炉ではないんです。特定魔力の無限連環機構――ある波長を持つ魔力が入力されて、初めて稼働するんです」

「それが、あなたの魔力だったと?」

「そういうことです。永遠の命を得るための魔法、その術式の起動には、それこそ無限に近い魔力が必要になることが、構想の初期段階からわかっていました。術式を組み上げる過程で消費量が増減するにしても、あらかじめそう想定しておけば、後からでもどうとでもできます。術式を完成させてからの旅の目的は、エグザミアを起動させるための魔力の確保に変わっていました」

「そして、颯輔に巡り会った……」

「夜天の書は、問題を抱えながらも役目を果たしたということね?」

「はい。紫天の書は術式を完成させ、エグザミアは燃料を確保し、夜天の書は主を選定しました。ですが、その頃にはすでに、無差別に破壊を振り撒く闇の書へと変貌してしまっていました。その原因は、紫天の書の術式が完成に近づいたことと、繰り返された蒐集にありました……。夜天の書は、蒐集を通して対象の魔法技術を記録します。そこには単なる技術だけでなく、技術を生み出すための知識も含まれていました。一概に言ってしまえば、蒐集対象の記憶です」

 

 生み出された技術を一から解析するよりも、それを生み出した知識ごと得た方が理解は早い。そうした知識も合わせることで、紫天の書は術式の改変を行っていたのだ。記憶を覗き、必要な部分を己がものとして不要な部分を消去する。その過程にこそ、問題があった。

 

「ところが、記憶にはその場面に対する印象、すなわち感情も含まれます。当然、術式の完成に不要なそこは切り捨てるのが本来なのですが……そのふるいとなるフィルターが、壊れてしまったんです」

 

 人が新しい何かを生み出そうとするとき、そこには現状を打破しようという意思がある。

 では、どうして打破しようというのか。

 答えの多くは、避けられなかった悲劇があったから。

 その運命を覆すために、人は新しい技術()を求めるのだ。

 例えば、プレシア・テスタロッサ。

 プレシアは、実の娘を失うという悲劇があったからこそ、死者蘇生の秘術を求めた。その原動力は、もう一度娘に会いたいという想い。しかしそれは、ただそれだけの純粋な想いだけではなかっただろう。そこにはもっと別の、世界の何かに対する暗い想いがあったはずなのだ。

 愛憎。

 いつの時代も、人を突き動かすのは愛情と憎悪だ。

 そしてこの場合、新しい技術を生み出す原動力となったのは、憎悪の方が多かったというだけの話。その想いがあまりにも深く大きかったとしたら、どうなるだろうか。例えば、紫天の書の想定を超えてしまっていたとしたら。

 

「想定を超えた量の感情は、フィルターを詰まらせてしまいます。そうして、堆積した負の感情が最初に影響を与えたのは、それを蓄えていた紫天の書でした」

 

 膝の上に置いていた手を持ち上げ、机の上で両手を組む。颯輔は交互に重ねた指に目をやりながら、思い出すようにして続きを話し始めた。

 

「紫天の書には、術式の構築の他にもいくつかの機能がありました。先ほども言った、エグザミアの制御端末としての機能。それから、夜天の書の抑止力としての機能です」

「抑止力、ですか……?」

「けれどそんなものは……いえ、働かなかったのではなく、働くことができなかったというわけね?」

「はい。もともと、星を消滅させるほどの暴走でなければ働くことのなかった機能ですが……その事態が起きるようになった頃には、すでに異常を来した後でした」

 

 蒐集をするならば、主が支配者の立場にあった方が効率がいい。だから、戦争を引き起こす程度の利用ならば、夜天の書の抑止力は動かなかった。蒐集ができなくなるような利用方法をされて、初めて抑止力が動くのである。

 

「稼働していない状態のエグザミアは、夜天の書が蒐集した魔力の貯蔵庫として使われていました。夜天の書を活動停止させるには、そのエグザミアからの供給を断てばいい。ですが、主からの魔力供給も受けるシグナム達は別です。紫天の書のシステムには、暴走した彼女達を打倒できるだけ力が宿っていました」

「シュテル達、ですね?」

「そう。紫天の書のシステムの構築体(マテリアル)――王のディアーチェ、理のシュテル、力のレヴィ、そして、彼女達の力を最大限に引き出す融合騎、ユーリ。負の感情が堆積したものは……呪い、とでも言うのでしょうかね。とにかくそれは、まず彼女達を穢していきました。そして、その呪いは紫天の書を内包する夜天の書にまで及び、闇の書の防衛プログラム――ナハトヴァールとして具現してしまったんです」

「それが、闇の書の真実というわけね……」

 

 新たな技術を求める者の原動力は、憎悪。

 その方向性は、運命という名の法則の破壊。

 その権化である闇の書は、法則の集合体である世界を破壊し続けていた。

 だが、それには当然魔力が必要になる。魔力を集め、使い切ったらまた集め、それでは効率が悪い。だからこそ、闇の書は、狂いながらもエグザミアを起動させるための魔力を求め続けた。

 

「そうして、事は俺が引き起こした事件へと繋がります……」

 

 あの冬の日から、すでに三ヶ月あまりの時が経っているという。時間が止まったままの颯輔には、それが信じられなかった。信じたくなかった。まるで悪夢のような話だ。

 目を閉じれば、それまでの日々が色鮮やかに浮かんでくるというのに。

 

「……主に選定された者のリンカーコアは、闇の書の内に取り込まれ、覚醒の時まで一時的に休眠状態に入ります。その間、俺のリンカーコアは、紫天の書によって入念に解析されていました。そして、エグザミアに適合する魔力を生成できることが判明し、闇の書の最奥、紫天の書へと徐々に取り込まれ、同時に精神リンクも構築されていったんです」

「だからあのとき……管理局と交戦したとき、颯輔のリンカーコアは、完全には起動できなかったのですね」

「……? どういうこと?」

「12月11日、貴女が展開した結界を破るために、颯輔と私は魔法を行使しました。その際、颯輔のリンカーコアを起動させたのですが、稼働率は半分で止まってしまったのです。その時は蒐集した魔力を代用しましたが……その頃には、颯輔のリンカーコアは半分も紫天の書に取り込まれてしまっていたということでしょう」

「……なるほど、ね。そして、その代用した魔力が貯蓄されていたところが、永遠結晶エグザミアだったと」

「そのとおりです。その魔法行使を機に、蒐集と精神リンク構築の速度は急激に上がりました。蒐集が完了し、精神リンクが完全に繋がったのは、夜天の書からナハトヴァールを切り離したときです。あのとき夜天の書からナハトを切り離せたのは、俺の魔力がエグザミアに適合していたからでしょう。そうでなければ、ナハトは夜天の書を手放さなかったでしょうから」

「颯輔を手に入れ、もう擬態は必要なくなったということですか……。ナハトが真に守っていたのは、闇の書……。夜天の書ではなく、闇の書の根幹である紫天の書とエグザミアだったと……」

「そんな言い方って……」

「…………」

 

 俯くリインフォース。リンディが助けを求めるように見てくるも、颯輔には何も言うことができなかった。

 しなかった、という方が正しいかもしれないが。

 必要以上に言葉を交わさないのが、お互いのためなのだから。

 沈黙を破ったのは、リインフォース自身だった。

 

「……では、あのとき颯輔は、いったいどのようにして暴走を止めたのですか?」

「……紫天の書とは、精神リンクが構築されていたと言いましたね」

 

 颯輔は、リインフォースを見ずに続ける。

 

「あのとき暴走を止められたのは、ユーリのおかげなんです。ナハトに取り込まれた俺は、紫天の書が造り出した幻想の中にいました。そこで、ユーリと会ったんです。それ以前にも何度か会ってはいたんですが、それを思い出せたのは、幻想の中でユーリと会ったときでした。それから、ユーリは俺に言いました。『自分一人か、他の全てかを選んでほしい』と」

「……あなたはそれに、他の全てと答えた。でも、その……マテリアルの彼女達も、それを許したの?」

「いえ、ディアーチェ達は、その時はまだ完全には目覚めていませんでしたから……。俺が目覚めさせたのは、最も波長が近いユーリだけでした。ユーリは融合騎なんですが、ディアーチェが起きていなければ、紫天の書の管制権がユーリに下りてくるんです。それで、ユーリが暴走していたナハトと、稼働していたエグザミアを停止させてくれて……そして、全てが終わるはずでした」

 

 そう。

 あのとき、はやて達の尽力もあって、闇の書だったものは消滅するはずだった。

 八神颯輔は、この世を去るはずだった。

 だが、そうはならなかった。

 救いようがないほどに愚か者だった、八神颯輔の所為で。

 

「……だけど、終わらなかった。これは、あの闇の書事件の続きということ?」

「……ええ。そして、今回の事件も……俺が招いたものです」

 

 

 

 

「……ええ。そして、今回の事件も……俺が招いたものです」

 

 颯輔は、絞り出すようにしてそう言った。リインフォースには向けられず、リンディのみを見ていた目も、机の上で組んだ両手へと落ちる。その姿は、いけないことをしたと告白する子供のようであった。

 

「あのとき……アルカンシェルの光に飲まれたとき、俺は、思ってしまったんです。……死にたくないって、まだ死にたくないって、願ってしまったんですよ……」

 

 どうしてこの人は、『しまった』などと言うのだろう。死にたくないと思うのは、願うのは、それは生物として当たり前のことだ。魔導書であろうと、造り出された人格でしかなくとも、永く人間を見てきたリインフォースには、それが理解できている。少なくとも、そう理解できているつもりだ。

 

「その願いを聞き入れてくれたのは、停止していたはずのユーリでした。壊れたままのエグザミアを起動させたらどうなるかなんてわかっているくせに、あの子は無理矢理起動してみせたんですよ、俺なんかを救うために」

 

 そんな風に言わないでほしい。

 そんな風に自らの存在を貶めないでほしい。

 だって、リインフォース達は、他ならぬ颯輔によって救われたのだから。

 

「アルカンシェルの光の中、ユーリは散り散りになった俺の残滓を紫天の書の中に集めてくれて……そして、俺に永遠の命を与えてくれたんです。まあ、体は消滅してたわけですから、当然、そのときにはもう俺の意識なんて残っていなかったんですけど……だけど、誰かに包まれるような感覚はあった気がします」

 

 余計なことを。

 馬鹿なことを。

 言葉の端に隠されたそれに、沸々と怒りを感じてしまう。その怒りには、納得がいかないという思考も含まれているのかもしれない。リインフォースにはついぞ救うことのできなかった颯輔を、あの少女は救ったのだから。

 救ってくれたことには、もちろん感謝をしているけれど。

 

「きっと、俺はそこで一度死んだんだと思います……だけど、完全には滅んでいなかった。エグザミアには俺の魔力が残っていましたし、紫天の書には、すでにリンカーコアのバックアップが取られていましたから、あとはもう術式を発動させるだけでした。それに、ユーリが起動したということは、ユーリが抑えていたナハトも再起動したということです。つまり、停止させたはずの無限転生機能も働くんですよ。けれど、損傷したユーリだけでは処理能力が追い付かない。だから彼女は、システムとしての役割を果たすだけだったディアーチェ達も目覚めさせてしまいました……。紫天の書の覚醒に、壊れかけとはいえエグザミアも稼働。完成形とまではいかないとはいえ、そこまでの条件が揃ったんです、再生速度は驚くほど速かったですよ。十年はかかるそれを、たったの三ヶ月でです。それも、八神颯輔という異分子をシステムの一部に加えながらの作業ですから、もしかしたら、その処理速度はエグザミアが完全に稼働した場合の理論値に迫っていたかもしれません」

 

 基礎構造を再構築させて、千年以上の記録を追いかける。散り散りになった欠片を繋ぎ合わせるのには、十年の時を要するのが常だった。リインフォースの処理速度では、それが限界。それを四十分の一にまで短縮させるなど、リインフォースの理論上では不可能なはずだった。それも、システムを書き変えながらやってのけたのだ。さらには、それが限界ではないという。もはやそれは、リインフォースの知っている闇の書という規格外のロストロギアですら、足元にも及ばない領域にあった。

 つまり、だからということですか。

 そこまで至って、リインフォースは僅かにぼやけていた颯輔の理由をようやく捉えた。

 

「とにかく、三ヶ月の時が経って、俺はもう一度意識を取り戻しました。そこにいたのは、自分の修復なんかいっこも進んでいないボロボロのユーリと、それから……はやての姿をとったディアーチェ、なのはちゃんの姿をとったシュテル、フェイトちゃんの姿をとったレヴィでした……」

「……彼女達は、どうしてはやてさん達の姿をとったの?」

「ディアーチェは、自分に最も適した魔法資質を持つ者……すなわち、夜天の王であるはやて。シュテルとレヴィは、ディアーチェが基にしたはやてと関わりがあって、なおかつ、魔法資質の近い魔導師だったなのはちゃんとフェイトちゃん、というわけです。……ですが、はやての生体データを基にしたのは、ディアーチェにとっては失敗だったと思います」

「それは、どうして?」

「闇の書だった頃、はやてとは精神リンクが繋がっていましたから、なんといいますか……はやての思念が、呪いの中にも色濃く残っていたんです。元の体も同然のものがあるわけですから、その思念はディアーチェの内に入り込んでしまうわけで……」

「それで、あの態度というわけね……」

「はい……。破壊を振り撒くための道具にされて、今度は心まで勝手に決められてしまったんです。そんなの、暴走しているのと同じですよ。ある意味、ディアーチェが一番の……」

 

 被害者。

 その言葉を、颯輔は口に出さなかった。

 それは、颯輔の悪い癖。他者には無関心を貫き通せるくせに、一度身内に数えてしまうと、途端に切り捨てるという選択肢がなくなってしまうのだ。近しいものは捨てられない、だから代わりに自分を切り刻む。そんな、酷く歪な思考回路。それこそが、八神颯輔が抱える最大の歪み。

 

「……本来の彼女には、紫天の書の管制人格――王のマテリアルに相応しい人格が備わっていました。そのはずが、新たに知を司る座を作ってまでして、俺なんかに王の座を明け渡して……そうして、言ったんですよ。『我らと共に、兄上を排斥した世界を殺し尽くしましょう。兄上が生きるべき世界は、その先にあります』なんて、はやてと同じ顔して、そう言ったんですよ……」

「…………」

 

 それは、どれほどの衝撃だっただろう。リインフォースは、ディアーチェとは対面していない。だが、色素の違いはあれど、シュテルとレヴィは、なのはとフェイトに瓜二つだった。そして、直接会ったシグナム達は、驚くほどはやてに似ていたと評していたのだ。その上、颯輔にとって、はやては唯一無二の存在だった。それが、殺し尽くそうなどと吐いた。

 だが、ディアーチェはどうしてそのようなことを言ったのか。颯輔を蘇らせ、王の座まで明け渡したほどのディアーチェが、颯輔が望まないことをするはずがない。

 それはつまり、リインフォースだけが知っていた颯輔を、ディアーチェ達も知っているということで。颯輔とディアーチェ達との精神リンクは、それほど深くにまで根を張っていたということで。

 

「そんなの、頷くわけがないじゃないですか。皆で必死になって呪いを解こうとしたのに、たくさんの人に迷惑をかけてまで暴走を止めたのに……よりにもよって、あなたにアルカンシェルを撃たせてしまったのに、闇の書は滅ばなかったなんて、どの面下げて言えるんですか。……だから俺は、断ったんですよ。そんなことは望んでない、自分勝手で悪いけど、やっぱりもう終わりにしようって」

 

 自分で自分を非難するように、颯輔は独白を続ける。

 

「……自分でお願いして生き返らせてもらっておいて、今度は一緒に死のうだなんて、救いようがないですよね。……ディアーチェも、俺がそう答えるって予想してたのかもしれません。ディアーチェは、王の座を降りながらも紫天の書の管制権は捨てていませんでしたから。俺が答えると、ディアーチェは紫天の書を奪い返そうとして……それに俺は抵抗して、でも、紫天の書の半分は奪われてしまって……そこから、仲間割れですよ。ディアーチェはレヴィをけしかけてきて、闇の欠片まで生み出して……俺は、ひとまずシュテルにユーリを任せて、なんとかディアーチェ達を説得しようとしたんですが……結局、真面に戦ったこともない素人にできることなんてなくて、レヴィに斬られて躯体を保てなくなってしまいました……。シュテルはユーリを連れて逃げることには成功したんですけど、そのうち闇の欠片に追いつかれて交戦して……。その騒ぎでユーリの意識が一時的に戻ったらしくて、なんとかユーリだけは逃がしたそうです。そこからは、知ってのとおりだと思います。ユーリはどうしてか家に逃げたみたいで、動けない俺は言わずもがな、シュテルも容易には手を出せなくなってしまって……。それで、ディアーチェは俺を誘い出すために闇の欠片をけしかけて、それに俺はまんまと釣られて、って具合です」

「……これまでの背景は、大体掴めたわ。それで、これからどうするつもりなの? どうすれば、彼女達を止められるの?」

「…………」

 

 問いかけたリンディに、颯輔はただ沈黙を返した。交互に組んだ指、その爪の先は白く染まっている。固い表情のまま、颯輔はそこに目を落としていた。

 颯輔は、切り捨てられないもの同士を天秤にかけてしまっている。そんなことをすれば、天秤()が壊れてしまうだけだというのに。固く握られた手が、リインフォースには軋みをあげる天秤に見えた。

 おそらく、ここが分岐点。

 このときのために、颯輔の本心を聞き出すために、リインフォースはここへ来た。

 

「……颯輔、どうか隠さずに教えてください」

「…………紫天の書を外部から破壊することは、不可能だ」

 

 颯輔の顔が、ゆっくりと持ち上げられる。颯輔は、ようやくリインフォースと言葉を交わす気になったらしかった。

 

「……だから、何とかしてディアーチェから紫天の書を奪い取って、内側から自壊させるよ。ロストロギア『闇の書』を、今度こそ完全に消滅させてみせる」

「シグナム達と同等の存在から紫天の書を奪うことなど、貴方一人にできるはずがありません。例えできたとしても、貴方は彼女達を見捨てられませんよ。特に、ディアーチェは」

「……はやての姿をしてるから、か? そんなの関係ない……だって俺は――」

「はやてを憎んでいるんだから、とでも仰るつもりですか」

「…………」

「颯輔。私は、貴方以上に貴方の心を知っているつもりですよ」

 

 なぜなら、リインフォースはずっと颯輔の心に触れていたから。

 颯輔が事故に遭ったあの日から。退院して帰ってきたときも。叔父夫婦に引き取られたときも。はやてが生まれたときも。叔父夫婦が亡くなったときも。グレアムが家にやってきたときも。

 はやてが泣き、颯輔が怒ったときも。颯輔が中学生になり、はやてが寂しがったときも。はやてが小学生になり、颯輔が不安を募らせたときも。颯輔が高校生になり、はやてが不登校になったときも。

 シグナム達が目覚めたときも。その存在に戸惑ったときも。その存在を受け入れたときも。共に笑い合ったときも。共に嘆いたときも。共に涙を流したときも。

 颯輔が絶望したときも。颯輔が奮起したときも。颯輔が覚悟を決めたときも。

 あの日あのとき、精神リンクが断たれるまで、リインフォースは颯輔の心に触れていたのだから。

 

「はやてを憎んでいるだけの人間が、どうしてはやてのために命を捨てられるというのですか。確かに貴方は、はやてのために多くを犠牲にしてきました。恨む気持ちも当然あるでしょう。……ですが貴方は、それ以上にはやてを愛していたはずです。たった一人の肉親を、大切に大切に守ってきたはずです。そんな貴方が、ディアーチェを殺せるはずがないでしょう……!」

「……はやての首、見ただろ、痣になってたの。ハラオウン提督に限っては、その現場を見ているはずです。……俺の欠片が、はやての首を絞めたのを。それでもまだ、殺せないっていうのか?」

「それは闇の欠片ですっ! 貴方自身ではありませんっ! ……ディアーチェは、自分の意思で闇の欠片を生み出せるのでしょう? 闇の欠片では、オリジナルの記憶の全ては持てないはずです。はやての首を絞めた闇の欠片は、はやてを負担に思う記憶と感情だけを、意図的に植え付けられていた。つまりは、そういうことなのでしょう? ……それに、貴方は取り返しのつかないリスクを背負ってまで、はやてを助けに来ました。それが、何よりの答えです」

「……確かに、俺ははやてを助けに来た。それは、間違いなく俺の意思だよ。……でも、はやてを殺そうとした欠片だって、間違いなく俺なんだ。そんなやつはもうはやての前に現れない方がいいし、現れちゃいけない。それに、はやてだけじゃない……お前達の前にだって、俺の欠片が現れる可能性はあるんだ。……だからその前に、全部、終わりにするんだよ」

「……そうして、貴方はどうなるのですか」

「……どうもこうもない。言っただろ? 俺はもう、『闇の書』の一部なんだ。破壊を振り撒く怪物も、不老不死の魔法も、無限に魔力を供給する魔導炉も、存在しない方がいい……しちゃいけないんだ」

「そんなものがあれば、お前達の身にまで危険が及ぶから。そのように考えているのだとしたら、私達は貴方を許しませんよ、颯輔」

「…………」

 

 沈黙した颯輔が、リインフォースから目を逸らす。図星の反応だった。

 ここが攻め時だ。颯輔の理由を崩し、新たな理由を用意してやればいい。リインフォース達のために自分を切り捨てようとしているのならば、リインフォース達のために自分を傷つけられなくしてみせる。

 呪いをかけるのは、この世界に存在する()よりも得意なことだから。

 

「……本当に、それでいいのですか。後悔しないのですか」

「……俺のせいでこうなったんだ、だから――」

「いいえ、そうではありません。私は、貴方自身はそれでいいのかと訊いているのです。その選択で、微塵も後悔はしないのかと訊いているのです。颯輔は、私達のためにまたも命を捨てようとしている……そうではなく、もっと他の選択肢があるのではないのですか」

「ないよ……そんなものは、ない」

「そんなはずはありません。……シュテルは、他の道を示してくれましたよ」

「…………」

 

 颯輔の眉根が寄る。固く唇を引き結んでおり、その視線は、机の上で握った両手に向けられていた。

 

「……颯輔、貴方にお願いがあります」

「…………」

 

 リインフォースは両手を伸ばし、颯輔の手をそっと包み込んだ。

 びくりと震えた手が、逃げるようにして引かれる。重ねたままそれを追うと、颯輔はそれ以上抗わなかった。リインフォースが引き寄せると、固く握り込んだまま、おずおずと従って動く。冷たくなってしまっている颯輔の手を温めるようにすると、指先に、ひんやりとした待機状態のナハトが触れた。

 

「……舞い散る雪の中、皆と見上げた空は高く、遠くに美しい光が輝いていました。シグナムと語らい、ヴィータとじゃれ合い、シャマルと寛ぎ、ザフィーラと歩き、そして、はやてに魔法を教えた時間は、嘘のように充実していました」

「……やめろ」

 

 祈るように、

 

「知っていますか、颯輔。つい先日から、はやては再び学校に通い始めたのです。可愛らしい制服に身を包み、素晴らしい友人にも恵まれて。その日の夕餉の席では、学校で何があったのかを事細かに話してくれました。颯輔についてまわるばかりだった、あのはやてがですよ?」

「頼む、リインフォース……」

 

 願うように、

 

「呪いから解き放たれた私にとって、今日までの日々は、奇跡のような時間でした。……ですが、私はそれ以上を望んでしまったのです。もっとこの時間が欲しいと、シグナム達と共にありたいと、はやての成長を見守りたいと、そう望んでしまったのです。……それから、もう一つ」

「お願いだから……」

 

 詠うように、

 

「……あの時間の中、どれほど捜してみても、貴方の姿が見つかりませんでした。どれほど耳を澄ましてみても、貴方の声が聴こえませんでした。この世界で逢いたかった人が、触れ合いたかった人だけが、どこにもいませんでした」

「もう、やめてくれ……!」

 

 縛るように、

 

「……颯輔。私は、貴方と共に生きていきたい。まだ、消え去りたくなどありません。どうか私に、貴方を含めた家族全員で過ごす時を与えてください。そして、私達の……誰よりも、はやてのそばで、貴方の優しい笑顔を見せてください」

 

 リインフォースは、颯輔へと想い(呪い)告白し(かけ)た。

 

「……なんで、なんでそんなこと言うんだよっ。俺のことなんか全部知ってるくせに、なんでそんなこと言えるんだよっ……!」

 

 持ち上げられ、再び視線が合った颯輔の目は赤くなっており、酷く濡れていた。

 

「俺は、お前のことを見殺しにしようとしたんだぞっ……。なのに、どうして……どうしてそんな風にしていられるんだよっ……!」

 

 言いながらも、固く握られていた颯輔の手が解け、下からリインフォースの手を受け止めた。互いの存在を確かめるように、掌を重ね合わせる。ようやく現実世界で触れ合うことのできた颯輔は、脅えるように、微かに震えていた。

 

「ずるい……ずるいよ、リインフォース……」

「ええ、私は生き汚い魔導書ですから。颯輔とはやてのためならば、いくらでも狡猾になってみせましょう。さあ、颯輔。本当はどうしたいのか、()()()教えてください」

「そんなの……――俺だって、皆と一緒にいたいに決まってるだろっ」 

 

 その言葉を受けて、リインフォースは颯輔の手をそっと握り込んだ。先を促すように、親指の腹で掌を撫でてやると、颯輔は湿った声で「だけどっ」と続けた。

 

「もうダメだ……ダメなんだよ、リインフォース。もう、一緒にはいられないんだ、いちゃいけないんだよ……」

「どうして、そう思うのですか」

「だってそうだろっ。不老不死の魔法に無限の魔力――そんな力、この世に存在しちゃいけないんだ。その力がいったいどれだけの悪意を呼び寄せるか……無理だよ、リインフォース。俺なんかじゃ、皆を守りきれない……皆に危険を強いてまで生きるなんて、そんな図々しいことできないよっ!」

 

 颯輔の懸念は、リインフォースも十分理解していた。

 真の目的は別にあったとはいえ、夜天の書が蒐集した魔法技術は膨大にある。更には、所々が抜け落ちているとはいえ、リインフォースは真実の歴史をも記憶しているのだ。それらは、守護騎士に管理局や聖王教会を敵に回すという、多大なリスクを差し引いてでも手に入れる価値がある。はやてやシグナム達がリミッターを課せられていないのは、忍び寄る悪意から身を守るためだった。

 もしもそこに、不老不死の魔法に無限の魔力という紫天の書の力が追加されたのならば。それが一度知れれば、間違いなく今の生活は失われる。持ちつ持たれつの関係である管理局や聖王教会も、掌を返すかもしれない。次元世界の二大勢力までもが敵に回ったら、世界から居場所がなくなってしまうだろう。闇の書であった頃か、それ以上の苦行だ。ましてや、魔法に関わりのなかった颯輔とはやてには。

 だが、その程度。

 

「……本当に、困った人ですね」

 

 その程度の代償で、颯輔を取り戻せるのなら。

 はやての涙を止められるのなら。

 守れなかった誓いを、今度こそ果たせるというのなら。

 この触れ合う温もりを、これからも感じられるというのなら。

 

「聞いていたな、お前達」

 

 リインフォースが目配せをすると、リンディが、どこか呆れたように息をついた。リンディは銀色のカード型の端末を取り出し、さっと操作する。すると、三つのディスプレイが中空に投影された。

 

『颯輔、貴方は大馬鹿者です』

 

 シグナムは、()()と颯輔を睨みつけながら。

 

『確かに、あたしらだけじゃあ頼りねえかもしれねえけど』

 

 ヴィータは、如何にも不満だと主張するように腕を組みながら。

 

『だからって、どうして独りで抱え込むんですかっ』

 

 シャマルは、ハンカチを片手に涙を拭いながら。

 

「なんで…………ハラオウン提督、どういうつもりですか」

「早期の事件解決のため、必要なことと判断したまでです」

 

 語気を強めた颯輔に素っ気なく答え、リンディは再び目を閉じ黙した。果たす義理のない一方的な要望に応えてくれたリンディに小さく頭を下げ、リインフォースは、シグナム達と共に颯輔を追い詰める。

 

「颯輔。私達は、貴方がたから多くのものを授かり、多くのものを奪いました。ですから、今度は私達の番です。どうか、貴方がたに返させてください。私達からも奪ってください」

『我らが支えとなりますから』

『颯輔とはやてを守るから』

『弱さも受け止めますから』

「ですからどうか、もう一度生きてください。今度は他の誰のためでもなく、ただ貴方自身の幸福ために」

「だけど、俺は今まで……心のどこかじゃ、お前達のことだって恨んでいて――」

「怨恨の念を感じなかったとは言いません。私達は、それだけのことをしましたから……。ですが、それでも貴方は、私達を大切に想ってくれていました。貴方がたから授かった私達の心が、それを間違えることなどありませんよ」

「でも、はやては――」

「颯輔がどう思おうとも、例え何を言おうとも、はやては貴方を必要としますよ。そして、ただ憎しみしか持たない者をはやてに近づけるほど、私達の目は落ちぶれてなどおりません」

 

 それに、精神リンクを断たれようとも、繕った言葉などには騙されない。

 颯輔が本当に覚悟を決めていたのなら、真実を話す必要などなかったのだから。

 ナハトを起動させ、リミッターを強引に破壊してしまえばよかったのだから。

 それでも、颯輔はそうしなかった。声なき声で、「助けて」と叫び続けていた。リインフォース達には、確かにその声が届いていたから。

 だから、リインフォース達は。

 

「……本当に、いいのか」

「貴方が望むのなら」

『例え世界の全てが敵に回ろうとも』

『例え颯輔とはやてがあたしらを嫌っても』

『この躯体がある限り』

「――我らは、永久に貴方がたの傍にあると誓いましょう」

「――っ」

 

 颯輔が息を飲んだ。

 リインフォース、シグナム、ヴィータ、シャマルと続いた声を締めくくったのは、扉を開いたザフィーラ。その隣には、自身の足で立つはやての姿があった。

 

 

 

 

 僅かに時を遡る。

 背中に張り付いた小柄な体を、ザフィーラは静かに受け止めていた。涙に濡れた毛はすでに乾きつつある。ぎゅっと抱き着いてくるはやては、沈黙を保ったままだった。

 アースラに帰還してから、はやてはずっとこのままだ。宛がわれた部屋に籠り、床に伏せたザフィーラに腕を回している。なのはやフェイト、エイミィが様子を見に来たりとしたが、誰とも口を利こうとはしなかった。それは、リインフォースやザフィーラ達にも同様だった。

 いったい、颯輔の闇の欠片に何を言われたのか。シャマルの治療によって消えた首の痣。つまりは、痣を残されるような感情をぶつけられたということだ。魔法では、心の傷までは癒せない。ザフィーラ達が癒すにしても、長い時を要するだろう。それほどまでに、はやての傷は深い。

 その傷を癒し、跡を埋めることができるのは。

 絶望の淵に立ったはやてを、引き戻すことができるのは。

 

「――はやて」

 

 リンディからの念話を通して伝えられる状況。颯輔が僅かに揺らぎ始めたのを機に、ザフィーラは、受け止めるばかりだったはやてに言葉をかけた。

 

「ご存知かもしれませんが、闇の欠片は、闇の書が蒐集した対象を模して生み出されます。姿形に記憶、それらを模しているのならば、その存在は、限りなくオリジナルに近づくでしょう」

「…………」

「しかし、まったくの同一とまではいきません。闇の欠片では、持ちうる情報の量に限りがありますから。故に、闇の欠片はオリジナルに劣る能力となるのです」

「…………」

「今回の闇の欠片の出現は、意図されたものです。では、その者が闇の欠片を構成する情報を、意図的に制限したとしたらどうでしょう」

「……そんでもそれは、お兄の記憶と感情や。……お兄は、本当は私のこと――」

「好意しか持たない人間などおりませんよ」

 

 ようやく口を開いたはやての言葉を、ザフィーラは敢えて遮った。口下手だった自分がよくもこうまで喋るようになったものだ。そうしみじみと思いながら、ザフィーラは言葉を繋いだ。

 

「そのような人間は、すべからく狂人の類でしょう。愛憎と好悪を合わせ持ち、矛盾を孕みながら生きていくのが人間らしい人間というものです。はやて。貴女にも、颯輔の嫌いなところがあったはずですよ」

「…………」

「……例えば、颯輔がシグナムかシャマルのどちらかと二人きりで買い物に出かけたときなどは、決まってヴィータか我を呼びつけ、愚痴を零していたではありませんか」

「……それは、ザフィーラがそうしろって言うたんやで。私、忘れてへんよ」

「結果的に、愚痴を零したことには変わりありません」

「むっ。……でも、お兄の愚痴はそんな可愛いもんとあらへんかったよ」

「では、本物の颯輔が、はやてにそれをぶつけたことがありましたか?」

「……ううん」

「そう思っても思うだけで、心の内に秘めていたのでしょう。……では、言葉ではなく態度に表したことは?」

「……小さい頃、一回だけ怒鳴られた、かな。あとは、優しかった。あんな風に思っとるなんて、わからんかった」

「我慢は颯輔の得意技ですからね。それも、精神リンクが繋がっていても隠し通すほどにです」

「……ほんならザフィーラにも、不満とか、隠してることとかあったん?」

「ええ、もちろんです」

 

 特に、秘め事は。

 夜天の王となった今でこそ知られてしまったが、闇の書の騎士として駆け抜けた時代の話は、誰も二人には告げなかった。

 血に濡れた自分を知られたくなかった。

 罪に汚れた自分を知られなくなどなかった。

 嫌われたくなかったから。

 脅えられたくなかったから。

 ようやく手に入れた陽だまり、それを失うのが怖かったから。

 再びあの暗闇に戻ってしまうことが、酷く恐ろしかったから。

 

「始め、『蒐集はするな』と告げられたときなどは、何を呆けたことをと思ったものです。何を言うかと思えば、戦わずに身の回りの世話をしろというのですから。同じようなことは少なからずあったような気がしますが、それでも、身の回りの世話しかしなかったのは、初めてのことだったと思います」

 

 もっとも、結局は再び戦うことになってしまったのだが。

 

「……私のお守り、嫌やった?」

「正直に言えば、目覚めたばかりの頃は、そうでしたね。世界を飛び廻って蒐集させられるよりも、よほど気を遣う困難な()()()でした」

「…………」

「それを子供一人の手でこなしていたのですから、まったく大したものですよ、颯輔は」

「…………」

 

 心なし、ザフィーラを掴む腕に込められる力が強くなった気がした。背中に押し付けられたはやての頬、その反対側へと尻尾を伸ばし、ふわふわとくすぐってみる。

 

「そう俯かないでください。それでも我らが――颯輔が貴女を支え続けることができたのは、同じく貴女に支えられていたからなのですから」

「……私、何もしてへんよ」

「いいえ。はやては、笑顔を見せてくれました。『おおきに』と労ってくれました。たったそれだけで、我らの小さな不満などは消し飛んでしまったのです」

「そんなんで……?」

「『そんなん』ではありません。我らには、『そんなん』も与えられなかったのですから」

「…………」

 

 守護騎士プログラムは、高性能な使い魔のようなものだ。主から供給される魔力を糧として起動し、その命令に従うところなど、よく似ている。

 そして、使い魔は使い潰すことを目的として生み出される存在。むしろ、使い魔風情に温かな感情を向けることの方が異端なのだ。

 だが、颯輔とはやては、そのような存在にも心からの笑顔を向けてくれた。それが、ザフィーラ達にここまでの変化をもたらしたのだ。

 では、颯輔の場合は。

 

「我らの場合は、そういった扱いが当然だったのです。ですが、颯輔は違う。颯輔は、はやてと同じ人間です。……周囲と自分を比較したとき、颯輔は何を思ったのでしょうね」

「お兄の闇の欠片は、『普通に生きてみたかった』って言うてた……。『何で死ななきゃいけないんだ』って……」

「……そうやって本音を隠して我慢してしまう颯輔が、我は嫌いでしたよ。我らの荷物まで奪い、独りで背負い込んでしまうのです。それを支えて歩けるほどに強くなどないくせに、全部、全部、持っていってしまうのです、颯輔は」

「それは……うん、分かるかも」

 

 はやての手が背中から離れて伸び、ザフィーラの頭にまでやってきた。耳の間にそっと着地し、宝石の上を中指の腹で往復する。

 ザフィーラは瞼を落とし、酷く自分勝手な青年の顔を思い浮かべた。

 

「颯輔は、いつもはやてのことばかり考えていました。『はやてを守ってほしい』と我らに言ったのです。蒐集を始めるときなど、『はやての命を助けてください』と言い直して、頭を下げたのです。……心の底では死にたくないと泣いているくせに、その実、最初から死ぬことになると分かっていたような口ぶりでした……」

「…………」

「はやて。我には、颯輔が真にはやてを憎んでいたなどとは到底思えません。どうか、颯輔の覚悟を……あのときの颯輔の涙を、偽物になどしないでください」

「…………」

「……確かめに、行きませんか」

「え……?」

「颯輔の本心を、確かめに行くのですよ。今ならきっと、本音を聞かせてくれるはずです」

「…………」

「何も恐れる必要はありません。それに、もしもこれ以上はやてを悲しませるような男でしかないのなら、我がこの手で張り倒してみせましょう」

 

 おどけ、前足で宙を叩いて見せると、背中から小さな笑い声が聞こえた。短く吐かれた息が、ふわりと毛を揺らす。もう一度、ぎゅっと抱き着いてきた小さな身体は、しばしの沈黙を待って、「うん」と離れた。

 颯輔を繋ぎ止める最後の楔。その役目を果たすことができるのは、はやてをおいて他にいない。

 

 

 

 

 はやてを背に乗せながらも、廊下を駆けたザフィーラは速かった。それでいて不快な揺れを感じさせないのだから、如何に気を遣い、速度を落としていたのかが分かる。ザフィーラにしても、早く颯輔のそばに行きたかったはずなのに。

 徐々に目的地が近づいて来る。早く答えが知りたくて、けれどそれを知るのが怖くて、はやては掴まるザフィーラのたてがみに顔を埋めた。

 会いたいけれど、会いたくはない。いったいいつからそんな風になってしまったのだろう。いっそ何も知らないままでいられたのなら、綺麗な思い出であったのならば、こんなに心を乱さずに済んだのに。

 けれども、思い出に触れることはできない。はやてが欲しいのは、あの温もりだから。

 では、もしもそれが、包まれるように温かくなどなくて、刺されるように冷たかったとしたら。

 渦巻く迷宮へと迷い込むはやての心とは裏腹に、ザフィーラの足は、遂にその部屋の前で止まってしまった。

 

「はやて、身体強化を。この先へは、貴女自身が足を踏み出してください」

「うん……」

 

 言われ、はやては足に魔力を通した。まだ不自由の残る足が、はやての意思に追随できるように変化する。はやては、ゆっくりと時間をかけてザフィーラの背から降りた。

 床に足をつけ、自身の力で立ち上がる。扉の前に向き直るも、はやては俯き、制服のスカートをぎゅっと握った。

 

「……今なら、引き返してもいいのですよ。我はああ言いましたが、はやてがそれを望まないのなら――」

「ザフィーラ、ちゃんとついてきてな。一緒におってな。私、ちゃんと確かめるから……お兄と、向き合うから」

「……はい」

 

 ザフィーラの言葉を切り、はやては自分に言い聞かせるように宣言した。

 あれから三ヶ月が経った。はやてを取り巻く状況は驚くほどに変化してしまったのに、はやての時間はあの日から止まったままだ。それを進めるために、はやては向き合わなければならない。

 もしも再び拒絶されたとしても、それでも、八神はやてはきっと――。

 

「……いこ、ザフィーラ」

 

 不安を吐き出すように、大きく深呼吸。スカートから手を離し、はやては顔を上げた。

 扉のランプが赤から緑に変化し、鍵が外れたことを示す。大きく一歩を踏み出すと、扉がスライドし、室内の様子が明らかとなった。

 

「――貴方が望むのなら」

 

 まず視界に飛び込んできたのは、リインフォースの背中。猫背気味になり、身体を前に倒して両手を伸ばしている。その隣には、黙して腕組みをするリンディの背中があった。

 

『例え世界の全てが敵に回ろうとも』

『例え颯輔とはやてがあたしらを嫌っても』

『この躯体がある限り』

 

 二人の周囲には、三つのディスプレイが浮かんでいる。はやての位置からでは角度がきついが、音声からシグナム達であることがわかった。

 

「我らは、永久に貴方がたの傍にあると誓いましょう」

 

 隣に立つザフィーラが、そう締めくくった。

 そして、はやてはそこから目が離せなくなった。

 

「――っ」

 

 息を飲み、濡れた目を見開く兄の姿。水気が増し、目尻に溜まっていく。それはすぐに溢れ出し、止めどなく流れ落ちていった。

 颯輔は右手を持ち上げて両目を覆い隠し、声を殺して泣き始めた。肩は震え、息を詰まらせている。颯輔の口から漏れ出て微かに届いた言葉が、はやての足を前へと動かした。

 

「……った……ほんとうに、よかったっ……はやて、あるけるようになってっ……!」

 

 机を回ると、その上で繋がっていた手を、リインフォースがはやての方へと動かした。リインフォースに目をやると、穏やかに頷きを返される。はやては両手を伸ばし、差し出された颯輔の左手をとった。

 右手で人差し指と中指を、左手で小指と薬指をそっと握る。一度強張った手はすぐに緩み、颯輔の親指が、はやての右手を撫でた。

 闇の欠片と同じ、大きな手。闇の欠片とは違う、優しい手。その先の手首には、禍々しい腕甲が巻きついている。勝手に全てを持っていった、腹立たしい手だった。

 掴んだ手を引くと、颯輔は椅子から降りて膝立ちになった。同じくらいの高さにあった颯輔の頭が、ようやく胸の辺りまで下りてくる。はやては両手を自由にし、泣きじゃくる颯輔の頭を胸に抱え込んだ。

 

「……あなたは、本物のお兄?」

「……っ、ああ」

 

 子供のように泣く颯輔など、はやては見たことがない。はやてが見てきたのは、優しくて強い颯輔だった。だが、それが全てであるはずがない。あのときのように怒ることもあれば、あの闇の欠片のように憎むこともあり、今の颯輔のように泣くことだってあるのだ。

 颯輔だって、はやてと同じ。それを、知ろうともしなかった。

 

「お兄、わたしな、皆にいろんな魔法教えてもらったんよ」

「……うん」

「ほんでな、初めて自分で術式を起こして、初めて自分で使ったのが、身体強化」

「うんっ、うんっ」

「お兄、わたしな……自分で歩けるように、なったんよ?」

「っ、はやてっ……!」

 

 大きく肩が震え、颯輔は遂に、声をあげて泣き始めた。はやての背に腕が回り、縋りついてくる。はやてはその重さを支えながら、抱え込んだ颯輔の頭をそっと撫でつけた。

 

「ごめんっ、ごめんな、はやて。勝手にいなくなって、全部押し付けて、ごめんっ」

「もう、お兄いなくなって、大変やったんやで? お兄が、いなくなって……わたし……わたしはっ……」

 

 心にぽっかりと、大きな穴が空けられて。

 リインフォース達がいても、その穴は塞がらなくて。

 

「お兄、ほんとはわたしのこと、嫌いやった?」

「そんなこと、ないっ」

「ちっとも? お兄に迷惑かけてばっかりで、お兄のこと何もわかってなかったわたしやったのに?」

「確かに、もう嫌だって思ったことはあった。はやてが……いなければって、そう思ったこともあった……だけどっ」

 

 颯輔の腕が解かれ、体が離れた。間を置かず、颯輔の手がはやての肩に置かれる。あのときと同じ状況。けれども、肩に触れた手は壊れ物を扱うようで、そして、はやての前にいるのは、はやてが知っている颯輔だった。

 

「だけど俺は、はやてがいたから生きて来られたんだよ。はやてが笑ってくれたから、頑張ろうって思えたんだよ。はやてがそばにいてくれたから、俺は皆を守ることができたんだよ。もしもはやてがいなかったら、俺はきっと、もっとダメになってたと思うから……だから、はやてがいてくれて、よかった。それは、嫌だって気持ちよりも、ずっとずっと大きな気持ちなんだよ」

 

 今度は、はやてが抱きすくめられた。少しだけ力強く、それでいて、頭を撫でていく手はどこまでも優しくて。触れ合い伝わってくる温もりが、流れ込んでくる気持ちが、心の穴を埋めていった。やがて、溢れ出したそれは、はやての目から流れ落ちていく。

 

「おにぃ、わたし、おにぃのこともうこまらせたりせぇへんから……ちゃんと、じぶんであるいてくから……そやから、おねがい、やから――」

 

 嗚咽で上手く話せない。

 伝えなければならないのに。

 言葉にしなければならないのに。

 

「……はやて、お願いがあるんだ」

 

 はやては、受け止められてばかりで。

 

「いつになるかわからない、元通りとはいかないかもしれない、これまで以上に不自由をかけるかもしれない……だけど、それでもいいなら、こんなダメな俺でも、許してくれるなら――」

 

 本当は、はやてが颯輔を受け止めなければならないのに。

 

「いつかまた、皆と一緒に暮らしてもいいか?」

 

 それでも、ずっと望んでいた未来を見せてくれたその言葉が、嬉しくて堪らなかった。

 

「うっ、っ、ぁぁ……」

 

 口から出てくるのは嗚咽だけで、はやてが颯輔へと伝えたい言葉は一つも出てきてはくれない。はやては颯輔の背中へと腕を回し、何度も頷くことで、それを返事とした。

 本当は、怖かった。また聞きたくもない言葉を聞かせられるのかと、怖くて怖くて手足の震えが止まらなかった。

 颯輔の本心は聞いてしまったが、それでも、心の傷は疼かなかった。それは、もう痛みを痛みともわからないほどに傷ついてしまったからなのかもしれない。けれども、その傷は、颯輔の温もりが癒してくれるから。

 だから、今だけはこの腕の中で泣かせてほしい。そうしたらきっと、八神はやてはもう二度と折れずにいられる。

 だから、今だけは。

 

「っ、ぅ、ぁぁ、おにぃ、ごめんなさい、ごめんなさいっ、っ、ぅ」

「どうしてはやてが謝るんだよっ。はやてが謝ることなんて、いっこもないんだ。謝るのは俺の方なんだよ」

「っ、だって、だってぇっ」

「大丈夫、大丈夫だってば。皆、はやてのことが大好きだから。だから、謝らなくたっていい。泣かなくたっていい。それに、リインフォースのことだって、俺がなんとかしてみせるからさ」

「わた、わたしもっ、いっしょにっ」

「……うん。ありがとう、はやて」

 

 固く抱き合ったまま、しばらくの間、はやてと颯輔は涙を流し続けた。心に溜まった重たい泥を吐き出すように。互いの温もりを分け与えるように。強く、強く。

 ずっとこのままでいたい。だが、いつまでもそうしてはいられない。

 なぜならば、まだやらなければならないことが残っているから。

 やがて、颯輔が言った。

 

「……夜天の書の動力部の一つ、永遠結晶エグザミアは、俺のリンカーコアに融合しているんだ。起動はできないけれど、これがあれば、完全にとまではいかなくても、リインフォースの融合(ユニゾン)能力を取り戻せると思う。あとは、紫天の書があれば……。紫天の書を取り戻して、夜天の書を在るべき姿に戻します。はやて、リインフォース、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ……ハラオウン提督も、どうか力を貸してください」

 

 それを拒否する者など、一人もいるはずもなく。

 七つの返事が、部屋に響いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 荒ぶ風

 

 フェイトの結界が覆う夜の空を、なのははゆっくりと飛行していた。サーチャーを飛ばしながら、同時に、右へ左へ上へ下へと視線を動かし、異常がないことを確かめる。波の音しか届かない静まり返った空は、いっそ不気味なほどだった。

 なのはとフェイトがアースラ周辺の警戒を交代してから、そろそろ小一時間が経つ。それまでそれを任されていたシグナムとヴィータは、夜天の書の修復のためにアースラへと帰投していた。八神家一同がその作業に追われており、今現在の戦闘可能な人員は、なのはとフェイトの二人のみである。

 だが、なのは達が周辺世界に向かった際にアースラを襲撃した闇の欠片は、周囲の空を覆い尽くすほどであったという。更には、闇の欠片とは一線を画す力を持つ紫天の書の構築体(マテリアル)も現れたらしい。それらは、闇の書の暴走体と同等の戦力だというのだ。

 そのような相手を前にして、なのはとフェイトの二人だけで守りきれるのか。

 比較対象がなかった頃、なのはは自分が並の魔導師、あるいはそれ以下の実力しか持たないと思っていた。しかし、アースラに所属するようになり、クロノからある意味でさんざんな評価を受け、管理局の平均から見れば上位の実力者であるというアースラの武装局員を知り、そして、三ヶ月におよぶミッドチルダでの研修を経て、その認識は改めさせられた。畏れ多くも、なのははちょっとありえないクラスの魔導師(エイミィ談)らしい。

 そんななのはではあるが、同等の実力者であるフェイト達と協力しても、闇の書の暴走体にはまるで歯が立たなかったのだ。攻撃は通っても――打倒してはならなかったのだが――打倒できるというイメージは全く湧かなかった。ならば、ディアーチェ達に対しても同じことが言えてしまうだろう。

 ディアーチェ達の狙いは、颯輔だ。颯輔の話によれば、あちらも紫天の書の修復に追われているようだが、それが終われば、必ず颯輔を狙って現れるらしい。そして、修復速度は間違いなくあちらの方が上だという。つまりは、敵わないと知りながら、なのはとフェイトの二人で時間を稼がなければならないということになるのだ。

 はやては空を覆い尽くす闇の欠片の半分以上を消し飛ばしたというが、魔法資質の関係上、なのはとフェイトの二人には、そのような真似はできない。保有魔力量も、はやてに比べれば圧倒的に少ないのだ。その上、周辺世界での戦闘で消費した魔力も、完全には回復していない。

 そのような状態で迎えるであろう局面が、なのはは怖かった。

 預かった命の総量に、その責任の重さに、今にも押し潰されてしまいそうだった。

 一対一が二面ではなく、二対多。実力差が分かりきっている相手に酷く不利な状況で挑むということが、なのはにとっては初めての経験であるが故に。

 それでも、フェイトと共にならば……。

 一通りのコースを見回ったなのはは、フェイトと合流すべくアースラの直上を目指した。バリアジャケットのおかげで夜風に身体が冷えることはないが、心は僅かに震えてしまっている。暗い海の上というのも、心細さを加速させる要因のひとつだった。

 事前に決めてあった合流地点には、すでにフェイトの姿があった。フェイトの飛行速度は、なのはよりも随分と速い。受け持った周回範囲が同じならば、フェイトが先に戻っているのは当然のことだった。

 徐々に見えてきたフェイトの顔は、月明かりを受けながらも朧気な陰りを見せている。何かを考え込むかのように、下に向けられていた。なのはが近づくと、その顔が上がる。フェイトは、儚い笑みを浮かべてなのはを迎えた。

 

「おかえり、なのは」

「うん、ただいま。こっちは異常なしだったよ。フェイトちゃんの方も、大丈夫だった?」

「うん。こっちも何もなかったよ。結界もちゃんと機能してるし、まだ大丈夫みたい」

「そっか、よかった。……ねえ、フェイトちゃん」

 

 なのはが呼ぶと、フェイトは小首をかしげつつ、「どうかした?」と返してきた。そこに、なのはが来るまであった暗い色はない。

 

「何かあったの?」

「何かって、どうしたの、急に」

「うーん、なんか、フェイトちゃん、考え事してたみたいだったから」

「私だって、考え事くらいするよ?」

「それは、もちろんそうなんだけど……でも、ちょっと様子がおかしかったから、気になっちゃって」

「……あは、やっぱりなのははすごいなぁ」

「そ、そんなことないよっ。私、フェイトちゃんだから分かったんだもん。それに、フェイトちゃん、分かり易いから」

「そうかな……?」

「そうだよ。さっきだって、こんな顔してたもん」

 

 言って、フェイトの真似をして俯いて見せた。フェイトは、「そんな顔してたかなぁ……」などと言ったが、絶対にしていた。精神リンクの繋がっているアルフには敵わないが、フェイトに元気がないことくらいは、なのはにも看破できる。

 フェイトは、内側に溜め込んでしまうタイプの人間だ。それは、なのはも同じ。溜め込み過ぎては、いつか取り返しがつかなくなってしまう。そうなってしまった人を、なのはもフェイトも知っていた。だから、溜め込んだものは定期的に吐き出さなければならない。リンディ達には未だに気を遣う様子を見せるフェイトだ、なのはが少しでも代わりになれたらと思った。

 フェイトは躊躇を見せながら、言葉を選ぶようにして言った。

 

「じゃあ……うん、なのは、聴いてくれる?」

「うん、もちろん」

「あのね、何て言うか、愚痴、みたいなものなんだけど……。颯輔さん、戻ってきたでしょ?」

「うん……」

 

 シグナム達に遅れ、なのはとフェイトがアースラに帰投すると、そこには亡くなったはずの颯輔の姿があった。あわや幽霊、あるいは闇の欠片かとも思ったが、どうやらそうではないとのこと。その場ではすれ違う程度でろくな挨拶もできなかったが、警戒の任務に就く前は、少しだけ話ができた。そこで、簡潔にだがこの事件のあらましを聞いたのだ。

 

「それでさ――まあ、調査はこれからって段階だったんだけど、颯輔さん、事件の解決方法も教えてくれたよね。それに、すごく落ち込んでたはやても、元に戻しちゃって……。私達が何を言っても、顔も上げてくれなかったのにさ……」

 

 颯輔と話をしたとき、その隣には、ぴたりと寄り添うはやての姿があった。宛がわれた部屋で、ザフィーラの背中に顔を埋めて泣き、なのは達には反応もしなかったはやて。そのはずが、次に見る頃には、はやては泣き腫らしていながらも確かに顔を上げていた。

 

「私は、はやての友達のつもりだったけど、何にもしてあげられなくて、でも、颯輔さんは違くて……。家族と友達だったら、それはそうなんだろうけど、やっぱり、敵わないなぁって……」

 

 「それに、ね」と続けるフェイトは、どこか暗い笑みを湛えていた。

 

「……颯輔さんは、一回は死んじゃったはずなのに、戻ってきた。はやて達のところに、ちゃんと帰ってきた。死んじゃったら、もう終わりのはずなのに……」

「…………」

「それで私……ずるいって、思っちゃったんだ」

 

 絞り出すように、フェイトはそう言った。

 

「私の時は、最初にリニス。それから、母さん。二人共、私を置いていっちゃった。リニスはいなくなっただけだけど、母さんは虚数空間に落ちたから、だから、例えどこかで生きてたんだとしても、たぶん、もう……」

 

 フェイトの魔法の先生であったというリニス。大魔導師プレシア・テスタロッサが生み出した使い魔。使い魔は、主の魔力供給なしでは生きられない。また、虚数空間では、魔力は結合せずに分断されてしまうのだ。それが意味するところは、言葉にせずとも明白だった。

 

「二人共、もう帰って来ない。私の本当の家族は、もう戻って来ないんだよ? だけどっ、はやてのところには、戻って来た。死んだはずの颯輔さんが戻って来て、死ぬはずだったリインフォースも助かるって。私は大切な人を失ったのに、はやては何一つ失ってない。もちろん、私も嬉しいって気持ちはあるんだよ? よかったねって、ちゃんと言えたんだよ? 颯輔さんにまた会えて、リインフォースとこれからもお話ができるって分かって、すっごくほっとしたんだよ? ……でも、それだけじゃないんだ。はやてはずるいって、はやてが羨ましいって思っちゃって……こんな気持ち、いけないのに、いけないって分かってるのに、だけどっ……!」

 

 フェイトの目は、赤く濡れていた。

 なんて真っ直ぐで綺麗な心を持っているんだろう、なのははそう思った。

 フェイトは、一途に慕うプレシアから酷い仕打ちを受けていた。直接その現場を目撃したわけではないが、それはなのはも知るところだ。だが、それだけの仕打ちを受けながら、人の悪意に触れながらも、フェイトは真っ直ぐで綺麗なままだった。

 それがきっと、なのはがフェイトに憧れる理由。

 眩しいくらいに純粋な心を持ち続けているフェイトが、羨ましかった。

 

「……おいで、フェイトちゃん」

「……っ……っ」

 

 鼻をすするフェイトを、なのはは腕の中に招き入れた。とんとんと背中を叩いてあやしながら、そっと頭を撫でつける。分け目を辿りながら、ツインテールの束を乱さないように、静かに掌を動かした。

 

「あのね、フェイトちゃん。誰かをずるいって思うことは、羨ましいって思うことは、普通のことなんだよ? それは、どっちかって言ったら、いけない気持ちなのかもしれないけど……でも、そう思うことは、ダメなことじゃないと思うんだ」

「だけどっ……」

「だけどじゃないの。だってフェイトちゃん、嬉しいって気持ちもあって、よかったねって言えたんでしょ? だったら、それでいいと思うな。いけない気持ちだけじゃなくて、ちゃんといい気持ちもあるんだから、それは悪いことなんかじゃないと思うよ。うん、普通だよ。フェイトちゃんは、どこもおかしくなんかない」

「ほん、とに……?」

「うん、本当。私だって、そんな風に思うことあるもん」

「なのはも……?」

 

 胸の上でもぞもぞと動いたフェイトが、そっと見上げてきた。なのはは、はにかみながら一つ頷いてみせた。

 フェイトは、プレシアの実の娘ではない。実の娘であるアリシア・テスタロッサのクローンだ。故に、確固たる自己のルーツを持てず、人と違うことに脅えてしまうことがある。それへの対処法は、誰かに肯定してもらうこと。それを、なのはは無自覚ながらも察知していた。

 

「私が入局したのは、魔法の力を使って誰かの役に立ちたくて、誰かの涙を止めたかったからだけど、それだけじゃないんだ。えっとね……フェイトちゃんみたいになりたいなって、思ったからなのです」

「私……?」

「うん。フェイトちゃんは、真っ直ぐで、綺麗で……すっごく可愛いのに、強くてカッコよくて、ずるいなぁーって、そう思うもん」

「そ、そんなことないと思うけど……」

「そんなことあるよ。だって、フェイトちゃんは私の憧れの人だから」

「そっ、それを言ったらなのはだってっ」

 

 顔を紅潮させたフェイトがばっと離れ、真っ直ぐになのはと向かい合った。

 

「なのはだって――ううん、なのはの方が、可愛くて強くてカッコいいもんっ。射撃と砲撃は私なんかよりずっと上手だし、それにっ……それに、すごく楽しそうに空を飛ぶんだ。私は、そんななのはが好きで――」

「へっ……?」

「――あっ、ちっ、違うの、そうじゃなくてっ、いやっ、違わないんだけどっ、そういう意味じゃなくてっ……うぅぅ~、なのはぁっ」

「んふふっ、やっぱり、フェイトちゃんの方がかわいっ」

 

 フェイトの可愛らしさを再認識したなのはは、それを直に確かめるべく抱き着いた。背中にぎゅっと腕を回し、すりすりと頬を摺り寄せる。フェイトの体はふにふにと柔らかい感触を返してきて、頬は滑らかで心地良かった。こうして温かさを感じているだけで、なのはの心は安らいでいくのだ。

 「わっ、わっ」と驚いていたフェイトも、やがて、おずおずと背中に腕を回してくる。その挙動はガチガチで、ばくばくと跳ねる心臓の鼓動が触れ合った胸から伝わってきた。

 なんとなくいけない気がして、こういったことは二人きりのときにしかしない。しかしそれでも、結構な回数はこうしているはずである。そのはずが、フェイトはちっとも慣れてくれはしない。もっとも、それを含めてフェイトが可愛らしい所以なのだが。

 柔らかな感触を楽しんでいると、「なのは、そろそろ……」とフェイトが身動ぎをした。よいではないか、などと思いつつ離さないでいると、いよいよフェイトの抵抗が強くなってくる。

 

「なのは、もうダメ。……来たよ」

「来たって何が……っ」

 

 遊びがなくなった声を受け、顔を離してみると、フェイトは上を向いていた。その鋭い視線を追い、なのはは息を飲む。遥か上空、フェイトの結界の天蓋が、ひび割れ始めていた。

 きしり、きしりと亀裂が入っていく。結界の隙間から漏れ出てくるのは、超重量を錯覚させるどす黒い魔力だった。それが持つ説明のできない引力に視線と身体の自由を奪われるうち、遂に、フェイトの結界が破壊される。

 砕け散った結界の外にあったのは、光を閉じ込めるつるりとした壁。

 そして、中天には大きな黒い月が浮かんでいた。

 月明かりすら拒絶する暗幕の中、月の表面が波立った。ともすればそれは、底の見えない水面にも見える。波紋を広げるその始点から、とぷんと現れたのは、一人の女性だった。

 漆黒の戦装束。

 全身を覆う赤帯の紋様。

 三対六枚の深紫の翼。

 夜風に流れる銀色の髪。

 感情の失せた深紅の瞳。

 シグナム達以上の魔力を迸らせる、リインフォースの闇の欠片がそこにいた。

 そして、まだ終わらない。波紋の数がいくつも増え、月の表面が荒れに荒れた。そこから生れ落ちてくるのは、無数の魔法生物。巨竜、怪鳥、怪魚。その種類は多種多様で、おどろおどろしい容貌が大半だった。

 リインフォースが率いる闇の軍勢が、瞬く間に夜空に展開されていった。

 

「……なのは。一当てしたら、私がリインフォースの欠片を抑えるから」

「っ、そんなっ、無茶だよフェイトちゃんっ!」

 

 リインフォースの闇の欠片が現れたのは、最悪のパターンではなくともそれに近いものだ。

 リインフォースは言っていた。「もしも私の欠片が現れたならば、決して戦ってはならない。広域魔法の発動だけを阻害し、あとは逃げに徹して時間を稼ぐだけでいい」と。「それさえも厳しいのならば、いっそ離脱しても構わない」とまで言っていたのだ。リンディ達ですら、それを許した。

 闇の欠片がオリジナルよりも劣化した性能しか持たないとはいえ、そのオリジナルが途方もなく強大な存在ならば、結局は驚異的な存在となる。闇の書が蒐集した魔法の全てを操り、そして、戦乱のベルカの歴史が生み出した戦術を網羅するリインフォースの欠片(闇の書の暴走体)は、明らかにその類の存在だった。

 

「だけど、どっちかが抑えないと、他の欠片が野放しになる。そうしたら、障壁が張れないアースラは……」

「でもっ……だったら私が――」

「それはダメ。私の砲撃と射撃じゃあ、あの数には対応できない。それはなのはも同じかもしれないけれど……でも、私よりは信頼できる。それに、私の方がなのはよりも速いから、リインフォースの攻撃も全部かわしてみせる」

「でもっ……でもっ!」

「大丈夫、ちゃんとフォローはするから。だからなのはも、余裕があったら私のフォローをよろしく。それから、アースラの皆を――私の家族を守って、お願い」

「……うん」

「うん、いい子」

 

 微かに震えている掌が、なのはの頬を流れていく。フェイトはなのはを一度強く抱き締め、そして、離れた。

 フェイト自身、無謀な選択をしたことは分かっているのだろう。だが、それしか選択肢がないから。守りたいものを守るための最適解は、おそらくそれで合っているから。

 ならば、なのはも全力を尽くそう。フェイトの家族を、なのはの大切な人達を、はやて達を、そして、フェイトを守ろう。今奮わずして、いったいいつ奮うというのだ。

 

《Sonic Form――》

「いくよ、なのは」

《Exelion Mode――》

「うん、フェイトちゃん」

《《Drive ignition.》》

 

 金色と桜色の魔力が溢れ返り、天に柱を突き立てた。フェイトは許された最速の機動をするための、なのはは全ての力を出し切るための形態だ。

 並び立ち、なのはは翼を展開した杖を、フェイトは光の剣を構える。上を見上げると、深紅の双眸と視線がかち合った。

 

「ロードカートリッジッ!」

「N&F、コンビネーションッ!」

 

 フェイトの勇ましい声になのはが続き、そして、二機のデバイスが炸裂音を上げる。金色と桜色の魔法陣が重なり合って拡がり、眩い輝きを放った。

 

《Blast Calamity.》

《Manipur Shift.》

 

 ふわりと桜が舞い、ばりばりと雷が迸る。大規模魔法陣の上、二人の眼前に形成されゆくのは、桜色と金色の小弾頭。百二十にもおよぶそれらが、軍列を成した。

 軍列の向こうで、闇の欠片の軍勢が展開を終える。その最前線に立つ女指揮官が、すっと天に腕を伸ばし、そして、振り下ろした。

 

「「撃ち――砕けぇぇえええッッ!!」」

 

 同時、二人も号令をかける。命令を受けた砲弾が、雄叫びのような轟音と共に放たれた。風が唸り、夜が切り裂かれる。そして、欠片の軍勢と激突した。

 

 

 

 

 『交戦します』と、短い念話がリンディに送られてきた。『気を付けて』と、その程度の言葉しか返せない自分が酷く恨めしい。もう若いとは言えないリンディは、数時間の休養程度では十分に魔力が回復しないのだ。前線に立つタイプの魔法資質には恵まれなかったが、それでも、もしも魔力を消費していなかったのなら、あの場にいたのはリンディだったはずなのに。

 照明を落としたブリッジの中、光源となる投影ディスプレイの一つに目を向ける。そこには、四肢に光翼を煌めかせて飛び立つフェイトの姿があった。なのはが放った射撃魔法を従えるその姿は、普段からは想像もつかないほどに勇ましい。

 有り余る才能を持ってしまったが故に、次代を抜かして最前線に立たされてしまった少女達。立たせたのは、他ならぬリンディだ。その事実が、余計に自己嫌悪を催した。

 気を揉みながら視線を移し、もう一方のディスプレイに目を向ける。映っているのは、複雑怪奇なベルカ式の魔法陣の上に立つ、颯輔とはやての二人。目を閉じ手を取り合う二人の間には、二冊の魔導書が浮かんでいた。夜天の書と、蒼天の書。蒼天の書から四色の光が溢れ、夜天の書へと流れ込んでいた。

 夜天の書の修復は、まだ終わらない。闇の欠片は現れてしまったというのに、いったいいつ終わるのかも分からない。こちらも、ただ黙ってそれが終わるのを待つのみだった。

 アースラの外、たった二人の少女の前には、無数の欠片の軍勢。そして、相手方にはリインフォースが――闇の書の暴走体までいるのだ。無理だ、勝てるはずがない。フェイトとなのはがいくら才気に溢れようとも、例えオリジナルには及ばない闇の欠片であっても、格が違い過ぎる。あれは、人が戦って勝てる相手ではないのだ。時間を稼ぐことすら難しい。それこそ、化け物の領域に踏み込みでもしなければ。

 どうしてあんな化け物が出てくる?

 どうしてフェイトとなのはが戦わなければならない?

 どうして管理局の応援が来ない?

 どうして自分は何もできない?

 どうして八神颯輔は生きている?

 飛び交う疑問(糾弾)が思考を埋め尽くす。ただ椅子に座し、状況を黙って見守るのみ。命令も指示も出せず、ただ祈ることしかできない者などは、指揮官とも呼べない。

 そして、見守ることも許されなくなってしまった。

 少ない魔力をやりくりして飛ばしていたサーチャーが、潰されてしまったらしい。戦闘の余波を受けたようで、投影ディスプレイの一つを影が覆い、そして、ぶつりと途切れた。

 何か出来ることがあるはずと、避難を選ばずブリッジに集まっていた乗組員の間にどよめきが起こる。そこにはリンディ自身の声も含まれていた。

 頑張れ。

 負けるな。

 無事でいて。

 まだなのか。

 早くしてくれ。

 なにをしている。

 祈りと罵倒。どよめきはその二つに分かれ、喧騒へと成り果てた。

 無責任なそれらに、ふと気が付いた。自身は動かず、危険だと分かっていながら娘達を送り出した。それは、プレシア・テスタロッサと同じ選択だ。

 逃げ出してもいいとは言ったが、フェイト達は決して逃げ出さない。正確には、逃げ出せない。持てる力の全てを持ってして、例えどんなに無茶をしようとも、多くの人が乗るアースラを守ろうとするだろう。家族を、友人を、大切な人を守ろうとするに違いない。二人は、そうしてしまう子なのだから。

 フェイトにジュエルシードを集めさせた、プレシアと同じ選択。アルカンシェルの代わりに、子供を使って復讐を果たそうとしているのかもしれない。今度こそは良き母であろうと誓ったはずが、それ以前の問題だった。

 弱く、脆く、利己的。無意識の内にまで浸みこんだ、卑劣極まりない打算。眩しいほどに真っ直ぐな子供達に比べ、なんと歪んでいることか。

 更には、実の息子さえもあの場に送り出そうとしているのだから救いようがない。

 何の前触れもなくあがった扉が開く音で、喧騒に包まれていたブリッジが静まり返った。そこに響くは二つの足音。時空管理局の制服に身を包んだ、クロノとエイミィの二人。二人は黙ってブリッジを進み、リンディの前で止まった。

 

「クロノ君、叩き起こして来ました」

「アースラの非常動力とパスを繋ぎました。ここまでの扉は全て開放して来たので、魔導炉が落ちても閉じ込めの心配はありません」

「そう……」

 

 分かっている。この場で戦場に出るべきは、後方型のリンディではないことなど。

 分かっている。クロノはいつまでも自分の庇護下にはいてくれないことなど。

 これはただの意地(我がまま)。そんなことは、十分に分かっているのだ。

 

「持っていきなさい、クロノ。これはもう、あなたのデバイスよ」

「ありがとう、母さん」

 

 ざわつく心を鎮め、リンディは待機状態のデバイス(銀色のカード)を差し出した。リンディと共に駆け抜けてきた、銀色の杖(アテナ)。外装こそ昔のままだが、中身のハードとソフトは現行のハイエンドモデルだ。来たるべき闇の書事件に向けて改良を重ねてきた、リンディ・ハラオウンの半身。すでに、クロノに合わせた調整は済んでいた。

 大破したクロノのデバイス(S2U)に代わる新たな力。クロノは、差し出したそれを静かに受け取った。

 これで、リンディは戦う術を失った。無論、魔法が使えなくなったということはないが、実戦で要求されるレベルには到底至らない。ましてや、今日この場所では。出来ることはと言えば、フェイトとなのはの無事を祈り、クロノに後を託し、そして、颯輔達を待つことのみである。

 

「……クロノ、フェイトとなのはさんをお願い」

「――いってきます」

「……いってらっしゃい」

 

 こくりと頷き、クロノはリンディへと背を向けた。リンディはエイミィと共にその後ろ姿を見送りながら、残った魔力で転移ゲートを起動させる。力強く足を踏み出すクロノは、いつの間にか逞しくなっており。その後ろ姿は、若かりし頃の夫を幻視させた。

 

 

 

 

 連携砲撃を放った後、フェイトとなのははすぐさま次の行動に移った。

 フェイトは四肢に光翼(ソニックセイル)を展開し、放電を呼び起こすほどの魔力を込めた。同じく、下段に構え直したザンバーフォームのバルディッシュ・アサルトにも魔力を供給し、その管理を任せる。魔力を受け取ったバルディッシュはそれを変換して己と主へと反映させ、魔力刃の強度を上げてフェイトの身体機能を強化した。

 フェイトの隣では、なのはが動く。レイジングハート・エクセリオンをくるりと回し、十二の魔力弾を練り上げた。桜色の輝くそれは、フェイトを守るようにその周囲を取り巻いている。一発に込められた魔力が普段よりも多いらしく、温かな光がフェイトを強く照らし出していた。

 『交戦します』、『気を付けて』と、リンディと一言だけの念話を交わす。そして、なのはと視線を合わせ、頷きを合図にし、フェイトは雷光の如く飛び出した。

 重力の縛りを物ともせずに加速と上昇を続け、一息で最大戦速へと到達。その頃には、なのはの射撃魔法を置き去りにしてしまっていた。

 だが、問題ない。なのはの射撃魔法はあくまで最初だけの援護。直に、次の援護は期待できなくなる。ならば、最初からないものと思った方がいい。それに、フェイトがなのはへああ言ったのは、少しでも早くリインフォースの下へと辿り着くためだったのだから。

 

「行くよ、バルディッシュ」

《Blade Impulse.》

 

 ぼうと浮かび上がった環状魔法陣が、バルディッシュの刃に融けて消える。()()と短く息を吐き出し、フェイトは剣を横薙ぎに振るった。

 剣の軌跡から放たれた衝撃波が、魔力素に還って渦巻いていた黒い霧を祓う。そして、それだけに止まらず、その奥に蠢く異形を斬り裂き、僅かな道を拓いた。

 

「プラズマスマッシャー」

《――Fire.》

 

 フェイトは深い闇の奥を見つめ、続けて砲撃を放った。雷砲は先の一閃で作り上げた軍列の亀裂へと牙を突き立て、肉を抉るようにして突き進む。そして、その奥で唐突に弾けて霧散した。

 フェイトの砲撃を防いだのは、リインフォースが展開した防壁。牽制のつもりでしかなかったが、それでも、ひび割れどころか傷一つさえついていないそれを見せつけられては、溜息の一つもつきたくなるというものだ。

 無論、そんなことをしている暇などない。フェイトは溜息の代わりに大きく息を吸い込み、バルディッシュの柄を強く握り締めた。

 

「ぁぁぁああああああッ!」

 

 微かな不安を裂帛の気合いでかき消し突き進み、ただ我武者羅に剣を突き立てた。深紫の防壁に剣先がぶつかり、斬り裂く代わりに雷電を迸らせる。

 防壁の向こう、凍てつく眼光がフェイトを射抜く。リインフォースが小さく唇を震わせると、その足元に新たな魔法陣が出現した。

 フェイトの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。リインフォースの周囲に瞬時に出現したのは、血塗れの刃。十六の短剣が、フェイトを睨んで牙を剥いていた。

 

「穿て――」

 

 凍えるような祝詞の続きが耳に入るのを拒絶し、フェイトは深紫の防壁を蹴り飛ばした。

 振り向むいた先には、目の前にまで迫った竜の咢。咥内から届く臭気に顔をしかめつつ、フェイトは竜の頭部を二つに撫で斬った。

 魔力素とも血しぶきとも判断のつかないモノが降り落ちてくる前に、雷光を残してその場から離脱を計る。崩れ落ちる竜を飛び越えた先には怪鳥と怪魚の群れ。しかしそれらは、遅れてやってきたアクセルシューターによって蹴散らされた。

 停まらない桜色の魔力弾。その向かう先で、真紅の剣兵が解き放たれた。そのうちのいくつかがぶつかり合い、そして、互いに炸裂する。その爆煙の向こうから、四本の短剣がフェイトへと追い縋ってきた。

 なのはが作りだしてくれた隙間に飛び込み、その奥に群がる闇の欠片を回り込んで盾とする。しかし、短剣は障害物を避け、執拗にフェイトを狙い続けてきた。

 闇の欠片をかわして飛び、剣を振ることのできるスペースに辿り着く。すると、フェイトは反転して速射砲を放った。

 轟く雷鳴が、迫りくる短剣を飲み込む。だが、一本だけはその軌道を変え、フェイトへと飛び込んできた。

 バルディッシュを振り抜き、短剣を斬り落とす。そうして安心したのも束の間のこと。続けてフェイトは目を見開いた。

 

「――っ!!」

 

 フェイトは、そのまま首が千切れ飛びそうな勢いで頭を逸らした。首筋に寝違えたかのような痛みが走ったが、それでも身体強化の賜物か。斬り捨てた短剣の影に隠れていたもう一本は、浅く頬を裂くに止まった。

 短剣は、フェイトの後方にいた怪鳥の翼膜に突き刺さり、圧縮魔力を爆裂させた。翼を失った怪鳥は、おぞましい叫びをあげながら、暗い海へと落ちていく。浅いはずの頬の切り傷から、どくんどくんと鼓動が聴こえた気がした。

 

「っ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」

 

 これは、殺傷設定の攻撃だ。

 その事実を認識した途端、頬がひりひりと焼け付くように痛みだし、吹き上がってきた汗が額から流れ落ちた。鼓動は太鼓のようにうるさく、呼吸は全力疾走を続けた後のように荒い。

 闇の欠片に取り囲まれる中で、フェイトは死の恐怖に硬直してしまった。

 

『フェイトちゃんっ!』

『フェイトっ!』

 

 二つの声が届いた。

 親友(なのは)と、それから、義兄(クロノ)の声。それらが届くと同時、下方から桜色の砲撃と水色の剣群が立ち昇り、フェイトに迫るモノ達を一掃した。

 息を飲みながら視線を落とせば、今まさに闇の欠片に取り囲まれようとしているなのはとクロノの姿が見えた。新たな魔力弾と、更なる剣群を作り出す二人が、闇に埋もれて消えていく。

 

《Jet Zamber, set.》

 

 かたかたと鳴っていたバルディッシュが、カートリッジを排出して魔力刃を輝かせた。新たに付与されたのは、障壁破壊の魔法。まるで、立ち止まってしまったフェイトを急かすかのように、ばりばりと電撃が漏れ出ていた。

 

「――うんっ」

 

 震えが、止まった。

 殺傷設定の魔法は確かに恐ろしい。その前では、装甲の薄いフェイトなど紙切れも同然だろう。基本形態であっても、フェイトのバリアジャケットでは気休めにもならない。そしてそれはおそらく、いくらか威力が制限される非殺傷設定でも変わらないのだ。

 フェイトよりも装甲の厚いなのはならば、リインフォースの魔法にも数発は耐えられるかもしれない。だが、所詮は数発。回避ではなく防御に重きを置くなのはでは、リインフォースの猛攻を受けきれず、限界などすぐにやってきてしまうことは目に見えていた。

 だからこその、フェイト。

 殺傷設定も非殺傷設定も、一発でも当たれば墜ちるのだ。ならば、一発も当たらなければいい。どんなに威力がある魔法も、当たらなければ墜ちはしない。殺傷設定だろうと非殺傷設定だろうと関係ない。そのために、フェイトは最速の形態(ソニックフォーム)を選んだのだから。

 自分でそう決めたのならば、こんなところで立ち止まってなどいられない。

 

「守るって――」

 

 ならば、恐怖を飲み込み糧としろ。

 それができなかったとき、どうなるかは分かっているはずだ。

 

「決めたんだッ!」

 

 舞を披露するように、フェイトは軽やかに回転してみせた。ぐるりと円を描いたバルデイッシュが、包囲を狭めてきていた闇の欠片を真一文字に両断する。霧散する闇、その向こう側からさらに顔を覗かせる異形を尻目に、フェイトは刀身を巨大化させるバルディッシュを振り上げた。

 見定めるは、深い闇の奥。強大な魔力が渦巻く、その中心点。

 

「――そこッ!」

 

 雷光一閃。暗闇を断ち切った軌跡はしかし、闇の中心でその進行を止めた。黄金の光に照らし出されたそこには、変わらず表情を殺したリインフォースの姿があった。

 真上に掲げられた左の掌、その先には、ベルカ式魔法陣の防壁が展開されており。前方に突き出された右の掌、その先には、深紫の魔力球が形成されていた。

 数瞬のせめぎ合いの果て、フェイトの剣が盾を破ると同時、リインフォースの砲撃が炸裂した。

 

《Sonic Drive.》

 

 闇の欠片を巻き込みながら迫る濃密な死の気配を伴った砲撃を、光を身に纏って回避する。臆せず、フェイトはバルディッシュの刀身を戻して疾走を開始した。目標であるリインフォースは、先の攻撃を回避して、次の一手を繰り出そうとしていた。

 砲撃に沿って飛び、最短経路を塞ぐ欠片を斬り伏せる。一瞬遮られた視界、そこにリインフォースの姿が戻ると、その周囲には血塗れの短剣が再び整列していた。

 リインフォースを中心にして、上下左右を囲む円陣。回転を始めたそれが、フェイトに向かって射出される。

 一本目、二本目、三本目を回避。四本目で危うくなり、五本目を迎撃。それ以降は全てを斬り捨てた。無傷の代償は、幾何かの減速。リインフォースが更なる短剣を追加する今、足を止めてはジリ貧だ。

 フェイトの思考をトレースしたバルディッシュが、カートリッジを炸裂させた。用途は、機動力の底上げ。フェイトを包む魔力光が、放電を始めた。

 短剣の雨が再開されると思いきや、十六のそれは、一斉に掃射された。一本一本の面積は小さいが、その追尾性を考えれば、間を掻い潜るほどの間隔などはない。ならばと紫電を残し、フェイトは最短経路を放棄した。

 コンマ数秒の時間を相手に与え、代わりに背面の奪取に成功する。この際卑怯などとは言っていられない。障壁破壊の術式を維持したまま、フェイトはバルディッシュを振り抜いた。

 

「ふっ――」

 

 肺から息を吐き出す短い音。それは、フェイトだけではなくリインフォースからも漏れていた。

 羽が舞い、銀扇が広がる。拳に魔力を纏わせたリインフォースの身が翻り、左の裏拳がバルデイッシュを弾いて跳ね上げた。

 拙い(遅い)

 そう思考する前に、お互いの体が動く。反転した勢いを上乗せし、右の正拳を繰り出すリインフォース。それに対し、フェイトは反動に逆らわずに釣られ、大きく後方宙返りをした。

 リインフォースが繰り出した拳の先から、込められていた魔力が砲撃となって放たれる。逆さまになった頭のすぐ下を通過するそれに肝を冷やしながら、フェイトは身体を捻った。

 身体を倒して水平に。消失した砲撃の射線を辿り、掬い上げるように斬撃を放つ。

 攻撃の後を突いた渾身の一手。

 だが、リインフォースの攻撃にはまだ続きがあった。

 右の拳をさらに前へと突き出し、半身になってフェイトの斬撃を回避。そのまま右足を軸にして回転し、空振って目線の高さまで上がった魔力刃の側面へと、左足の踵を叩きこんだ。

 硬質な音を響かせて、魔力刃が中程から砕けた。フェイトの魔力とカートリッジを消費して練り上げた切り札。それが、いとも簡単に、あっけなく。

 これが、ベルカ式の魔法。闇の書の融合騎の力。戦乱の歴史を相手にするということ。生まれて数年程度では、辿り着くことの許されない領域。

 ――だから、どうした。

 所詮は代えの訊く刃。折られたのならば、また新たに練り上げればいい。

 剣を折られても、心までは折られるな。

 まだ遅いのならば、相手の反応速度を凌駕しろ。

 

《Saber Blast.》

 

 剣の破片を爆破し、即席の目暗ましに。爆発は今さらに追いついた血塗れの短剣を巻き込み、より大きなものとなった。だが、その程度でダメージが通るなどとは思っていない。数秒数瞬、ただ離脱する時間を稼げればそれだけでよかった。

 自身の攻撃の衝撃が来るよりも速く、フェイトはリインフォースから離れた。合間に残りのカートリッジを使い果たし、更なる魔力を纏って加速。バルディッシュのストレージから替えのホルダーを呼び出しセット。魔力刃を再構成させ、ジェットザンバーを再発動させた。

 方向転換し、怪魚を相手に斬れ味を確かめる。そのまま数体を捌いて前を向くと、爆煙からリインフォースが飛び出してきた。やはり健在だったようで、ダメージは見られない。

 だが、それでもいい。フェイトの目的は、あくまで時間稼ぎ。リインフォースの注意を引き、アースラを攻撃させないこと。そのためには、真っ先に狙われる存在であり続けなければならない。

 片手を突き出し、牽制に射撃。三本の雷槍を放ち終えると同時、相手の側面に回り込む。そうしてフェイトは、自身の射撃魔法と共に挟撃を仕掛けた。

 攻撃の到達は、コンマ一秒以下のタイムラグもなかった。着弾と同じタイミングで剣を振る。リインフォースの選択は、側面に回り込んだフェイトの迎撃だった。

 雷槍が、リインフォースへと届く前に不可視の障壁に阻まれ消失した。深紅の瞳に映るはフェイトの姿。深紫に輝く右拳が機械じみた正確さで刀身へと迫り――それがぶつかり合う前に、フェイトは剣を引いた。

 拳が伸び切る前に、再び背面へ。リインフォースに反応されるよりも早く、フェイトは剣を閃かせた。

 障壁を割り、翼を断って肩へと刃が滑り込む。さして抵抗もなく、そのまま左肩から右腰へと抜けると、リインフォースは魔力を散らして煙のように消え去った。

 勝った、と思う暇もなかった。

 後方から、魔力の高まりを感じたから。

 

「果てなき闇に惑うがいい」

 

 その魔力は闇の欠片を取り込み変成させながら瞬く間に周囲へと広がっていき、フェイトを包囲した。一人、二人、三人とその数を数えていき、すぐにその思考を中断する。群がっていた闇の欠片に代わる、リインフォースの集団。十二十ではきかないが、百には上らない。その一人一人が、深紫の砲弾を形成していた。

 ガシャンガシャンガシャンと、残りのカートリッジを全てロード。身体を焼く膨大な魔力が、雷を伴う暴風を巻き起こした。

 後のことなど考えるな。

 持てる力の全てを出し続けろ。

 例え、その果てに燃え尽きたとしても――後悔するよりは、ずっといい。

 

「眠れ、小さき者よ」

 

 数え切れないほどの砲撃が、フェイトを目掛けて放たれた。

 瞬間、雷光を撒き散らしてスタートを切る。砲撃が密集する前に包囲を離脱し、最も近いリインフォースの下へ。腕を振るタイムロスも惜しいと、バルディッシュを横に構えたまま、すれ違い様に両断した。

 身体が上げる悲鳴に聴こえないふりをして、自身を雷と化す。二人目、三人目、四人目と消滅させたところで、リインフォース達が次の攻撃に移った。

 遂に捉えられないと悟ったのか、十数人のリインフォースもろとも、フェイトが飛ぶ空間を障壁が覆っていく。取り残されたリインフォース達は、特大の魔力球を形成し始めていた。

 こんなところで負けて堪るものか。

 フェイトはバルディッシュの刀身を伸ばし、刃先を障壁の天蓋へと突き立てた。僅かな抵抗があったものの、魔力刃は天蓋を突き破る。動きを止めたフェイトに鎖が殺到するも、それが到達する前に、全周障壁を内側から輪切りにした。

 鎖を避け、あるいは両断し、刀身を伸ばしたままのバルディッシュを一振り。数個の魔力球を叩き斬ると、それらは圧縮魔力を炸裂させた。一つが爆発する度、近くのリインフォースと別の魔力球を巻き込み、爆発が連鎖していく。それらを尻目に、フェイトは疾走を再開させて障壁を抜けた。

 迫る拳、短剣、砲撃、鎖。ただひたすらに回避し、ただひたすらに攻撃を続けた。

 十人、二十人と斬るが、リインフォース達はまだ大勢いる。一人一人はただの幻影に過ぎないのだが、そもそも闇の欠片自体が幻影のようなものだ。込められる魔力量が変わらなければ、それらは本物の闇の欠片と同義である。幻影が幻影を生み出すため、最初の一体を見つけることに意味などない。時間が来るまで、殲滅を続けるしかないのだ。

 

「――っ」

 

 確かに、はやて達には嫉妬をした。

 けれど、壊れてほしいなどとは思っていない。

 守りたいと思った気持ちが、フェイトの真実だ。

 

「とお――」

「遠き――」

「と――」

「遠き地にて――」

「闇に――」

「闇――」

「闇にしず――」

「や――」

「っ、ぁぁっ、ぁぁぁぁあああああああああッッ!!」

 

 反響する詠唱を掻き消すが如く、咆哮と共に雷鳴を轟かせた。

 闇の欠片は偽物だ。

 本物のリインフォースは別にいる。

 そうと理解はしていても、姿形が同じ者を殺し続けるなど――気が触れてしまいそうだった。

 やがて、握力が落ちてきた。

 腕が重くなった。

 肩が上がらない。

 足が棒になった。

 少しずつ、速度が落ちてきた。

 もう魔力が尽きてしまいそうだ。

 聴こえてくる詠唱も、徐々に長くなってきている。

 もうこんなことは止めたい。

 停止して崩れ落ちたい。

 体がばらばらに千切れてしまいそうだ。

 だが、それでも。

 疾く。

 疾く。

 疾く。

 この世の何よりも、疾く。

 

「フェイトッ!」

 

 声。

 水色の魔力。

 取り巻く剣。

 射出。

 撃ち抜く。

 それは、フェイトを守るようで。

 気が付けば、リインフォースは一人きりになっていた。

 

「――――」

 

 飛ばなくては。

 空白の意識にはただそれだけがあった。

 どこかで刃が折れたままのバルディッシュを両手で支え、直進。突き出された拳を紙一重でかわし、その胸に飛び込む。

 

《Defen――》

 

 そして、人型の機雷(リインフォース)が爆発した。

 

「――…………ぁ」

 

 誰かの声が聴こえた気がして、黒に染まった視界に色が戻った。

 落下している。そう自覚するのに数秒かかった後、魔力がぶつかり合う上空を見下ろす。遥か先には砲撃を放つリインフォースの姿があり、それを、クロノとなのはが二人がかりで防いでいた。

 水色と桜色の防壁が、深紫の槍によって貫かれる。僅かに軌道が逸れたその槍は、フェイトの真横を通過していった。クロノとなのはは衝撃で吹き飛ばされ、それを見止めたリインフォースが、ミッドチルダ式の魔法陣を展開する。

 

「咎人達に、滅びの光を――」

 

 無音の世界に響く、冷たい声。

 クロノとなのはが砲撃を放つも、それらは目に見えてか細くなってしまっている。二人も限界なのだ。砲撃がリインフォースへと着弾するも、案の定、障壁を破ることはできなかった。

 

「星よ集え、全てを撃ち抜く光となれ――」

 

 散っていった闇の欠片の魔力が、その一点に集中する。深紫の天体は、星を取り込み膨張を続けた。

 これで、終わり。

 フェイトの役目は、もうない。

 なのはも、クロノも、十分に耐えきった。

 

「貫け、閃光――」

 

 あとは体の力を抜き、その結果を受け入れるだけだ。

 

「スターライトブレイカー」

 

 膨れ上がった天体が、爆発した。

 吹き荒れる爆風と広がる闇。

 溢れるミントグリーンの光。

 そして、夜空に舞い散る漆黒の羽根。

 フェイトの落下が止まり、柔らかく包まれた。

 

「よいしょっと。転移完了です」

「これは……――っ、フェイトっ!」

「フェイトちゃんっ! フェイトちゃんっ!」

「……大丈夫、すぐに治療しますからね」

 

 駆け寄ってくるクロノとなのは。

 フェイトをふわりと受け止めた、湖の騎士(シャマル)

 

「あれを相手によく時間を稼いでくれたな。見事だったぞ、テスタロッサ」

 

 すらりとレヴァンティンを抜き放つ、剣の騎士(シグナム)

 

「あとはあたしらに任せて、お前らはゆっくり休んどけ」

 

 どっかりとグラーフアイゼンを肩に置く、鉄槌の騎士(ヴィータ)

 

「……はい」

 

 風が止み、凪が訪れた。

 シャマルに抱かれ、見上げる先には大きな背中。

 三対六枚の漆黒の翼。

 漆黒の戦装束に、銀の髪。

 空には、極大魔法を受け止める巨大なベルカ式魔法陣の防壁が。

 

「……ごめん、フェイトちゃん」

 

 深い紅に染まり、悲痛に歪んだ瞳が、フェイトに向けられる。

 夜天の翼(リインフォース)を纏った、紫天の王(八神颯輔)がそこにいた。

 

 

 

 

 夜天の書であろうと闇の書であろうと、新たな主を選定した直後では、万全の力を揮うことはできない。なぜならば、主の魔法資質に合わせた融合騎の調整が必要となるからだ。特に、主の力がまだ開花していなければ、調整には更なる時間を要することとなる。

 例えば、八神はやて。

 選定時にまだ生まれてもいなかったはやての場合は、じっくりと時間をかけなければならなかった。資質を解析して得手不得手を調べ上げ、魔力量やリンカーコアの特性を考慮し、戦術プランを練り上げる。はやての成長に合わせて何度も何度も繰り返し、微調整を重ねてきた。ゆえに、はやてとの融合(ユニゾン)の相性は、歴代でも一、二を争うほどである。

 さらに、はやての魔法資質で特筆すべきは、成長と共に開花し定まっていった、稀少技能だった。

 魔法の遠距離・遠隔発生。

 通常ではあり得ない距離に魔法の発生点を置く異能。他の何者にも許されない、はやてだけが持つ才覚。リインフォースの持つ広域攻撃と掛け合わせることで、いっそ凶悪とも言える性能を引き出すことのできる能力だった。

 その発現は、はやての願望に因る。

 闇の書の呪いに侵されていたはやては、足が不自由だった。両親が他界すると、どうしても家で一人きりになることが多かった。

 手を伸ばしても遠ざかる背中には届かない。足を縛る鎖ははやてを離さない。

 独りになりたくない。その背中に追いつきたい。その隣に並び立ちたい。

 そんな願望が、魔法の遠距離・遠隔発生という力をはやてへと与えた。

 では、八神颯輔の場合はどうか。

 選定時には資質が定まりつつあった颯輔の場合は、はやてに合わせるほどの労はなかった。一度解析し、あとはそれに合わせるだけで、基礎はできあがった。

 魔力量は、歴代の主と比べれば平均よりもいくらか上の位置だろう。今はまだ勝っているが、これからの伸び代を考えれば、はやての方に軍配が上がる。もっとも、並の魔導師と比べれば、二人共が突出しているのだが。

 魔法資質から戦闘スタイルを導き出せば、堅牢な防御から大威力の攻撃で沈めるカウンター型が最適解だ。近距離にせよ遠距離にせよ、そのスタイルは変わらない。それは、颯輔が持つ稀少技能を活かすものだった。

 颯輔が発現させたのは、魔力の集束結合。文字通り、周囲の魔力を高効率で集束させ、それらの強固な結合を促進させる能力である。孤独の中に見つけた温もりを、誰にも触れさせずに守り続けるという、颯輔の誓いの形だ。

 その技能により、颯輔が発動させる防壁の類は強固となり、また、集束適性もおのずと高くなる。難点があるとすれば、魔力素の強固な結合によって密度が高くなるため、人と同じ大きさの魔法を発動する場合は魔力消費量が多くなってしまうということだ。

 だが、その難点は、術式の調整や、他人よりも多い魔力量でカバーできる範囲だ。そして、永遠結晶エグザミアが起動した場合は、その難点も消え失せる。大魔力には付き物である魔力運用の難しさも、融合騎がいれば解決されるのだ。

 そこにはもう、何もできなかった颯輔はいない。颯輔は、守りたいと思うものを自らの手で守ることのできる力を手に入れた。その力の一端となれる日を、いったいどれほど待ち望んできたことか。

 颯輔の心象世界は、眠りを見守る夜だった。颯輔のリンカーコアにリインフォースの魔力が融け、漆黒の夜が深みを増していく。叶うはずのなかった願いが成就したことで、リインフォースの心は歓喜に打ち震えていた。

 どれほど緊迫した状況であろうとも。例え、恩人である者達が傷つこうとも。この気持ちだけは、誤魔化すことなどできはしない。きっとそれは、酷く薄情で自分勝手なことなのだろう。そうと自覚しても、心に点った炎は煌々と燃え滾っていた。

 

「……ごめん、フェイトちゃん」

 

 闇の欠片の攻撃を受け止めつつ、颯輔が後ろを振り返った。なのはとクロノの先には、重傷を負ったフェイトがシャマルによって抱きかかえられていた。バルディッシュの機転によって直撃は避けたようだが、防護服は大破し、黄金色の美髪はくすんでしまっている。焼け焦げ黒ずんだ肌と、青黒くそまった手足が見ていて痛々しかった。

 フェイトの姿を見て、颯輔の心が罪悪感に満たされていく。これでは、闇の書の主とその融合騎の立ち位置が真逆になってしまっている。主が心を痛めているというのに、融合騎は、その本能のままに力を引き出したいと思ってしまっているのだから。

 

「謝らないで、ください。私、そんな顔されるために戦ったんじゃ、ありません」

「……うん。ありがとう、フェイトちゃん。なのはちゃんと、ハラオウン執務官も」

 

 フェイトは、痛みに顔を曇らせながらも鋭い視線を向けてきていた。なのはは親友の惨状を見てわっと泣き出してしまい。クロノはフェイトと颯輔との間で視線を行き来させながら、悲しみを飲み込むかのような、怒りを堪えるかのような、複雑な顔をしていた。

 さすがに、熱に浮かされてばかりではいられない。リインフォースは防壁の術式を維持しながら、立体映像を中空に投影させた。

 

『……我らが同胞と、私の欠片が迷惑をかけた。すまないと思っている』

 

 赤い目と視線が絡む。フェイトは、現れたリインフォースに瞳を揺らして目を伏せた。

 

『私はここにいる。だから、気に病む必要などはない。それから……ありがとう』

「っ、はい……!」

 

 もう一度合った目が大きく見開かれ、そして、湿り気を帯びた声が返ってきた。今はここまでと投影を放棄し、颯輔と共に前を向く。防壁の先では、敵の広域魔法がようやく収まりを見せつつあった。

 

「シャマル、アースラに戻って三人の治療を頼む」

「はい」

「シグナムとヴィータは、闇の欠片を止めておいてほしい」

「わかりました」

「はっ、お安い御用だぜ」

『はやてとザフィーラは、艦の防衛を。颯輔と私で、全てを終わらせてきます』

『ん、気ぃつけてな』

『こちらは任せておけ』

 

 颯輔の指示にシャマルが頷きを返し、シグナムとヴィータはデバイスを構える。リインフォースが精神リンクを介して念話を送ると、すぐさまはやてとザフィーラの返事があった。

 シャマルが負傷者の治療。シグナムとヴィータが闇の欠片の排除。はやてとザフィーラで障壁を張り、事が終わるまでアースラを防衛。その間に、颯輔とリインフォースでディアーチェ達との決着をつける。それで、この事件の幕とするのだ。

 

「八神颯輔。フェイトがここまでしたんだ、だから……だから、あとは頼む」

「ああ……!」

 

 シャマル達と共に転移する寸前、クロノが言葉を残していった。颯輔は、前を向いたままで強く頷いて見せる。四人の気配が消えると、颯輔の拳が強く握られ、待機状態のナハトヴァールがちゃらりと鎖を鳴らした。

 颯輔とリインフォースは、戦いに赴くわけではない。和平の使者は槍を持たないという。だから、今は槍など必要ないのだ。代わりに、その場に辿り着くための翼だけは大目に見てもらうとしよう。

 

「行こう、リインフォース」

『はい、颯輔!』

 

 攻撃の終了と共に防壁を解く。そして、闇の欠片のさらに奥、天頂に鎮座する黒い月を見据え、颯輔とリインフォースは、翼を大きく震わせた。

 

 

 

 

 アースラの中、フェイトの部屋にベルカ式の転移魔法陣が描かれる。ミントグリーンの光が輝きを増すと、フェイトを抱えたシャマルに、なのはとクロノの四人が現れた。先の襲撃によって医務室が使えなくなってしまったため、シャマルはフェイトの自室を処置室に選んだのだ。

 シャマルはリンディへと帰還の旨を念話で伝えながら、クロノとなのはに場所の確保を頼む。二人が掛け布団を避けると、空いたベッドにフェイトの身体をそっと横たえた。

 クラールヴィントを伸ばしてフェイトを囲み、診断を始める。傍目にも重傷を負っていると分かってしまうフェイトだが、より深刻なのは中身の方だった。 

 限界を超えたリンカーコアの酷使と、重ねに重ねた身体強化。さらには、後先を考えない超速戦闘が祟っている。フェイトは自身の魔力で自家中毒を引き起こしており、負荷に耐え切れなかったあちこちの筋繊維が断裂してしまっていた。特に、自家中毒が魔導師にとっては大事だった。

 一方のなのはとクロノには、目立った外傷はほとんどない。何箇所か、切り傷擦り傷が見られる程度だ。流石に疲労はしているようだが、自力で立つくらいはできている。優先すべきは、フェイトの治療だった。

 

「お願い、クラールヴィント」

《Heilkräftiger Wind.》

 

 シャマルの指輪から伸びたワイヤーが、フェイトを取り囲む。フェイトの身体から金色の光が漏れ出し、代わりに、ミントグリーンの光が流入していった。

 まずは、堆積して毒となった魔力を交換しなければならない。そうしなければ、シャマルの魔法の効果も十全には現れない。そして、リンカーコアを回復させなければ、未だ床に伏しているアルフの治りも遅くなってしまうのだ。

 フェイトは浅い呼吸を繰り返し、脂汗を滝のように流している。空いた手でフェイトの汗を拭いながら、シャマルは治療を進めた。

 フェイトは時間を稼ぐため、たった一人でリインフォースの闇の欠片に挑んだのだ。それがどれほど無謀なことかは分かっていたはずなのに、一歩も退かなかった。そして、事を成し遂げ、酷く傷ついてしたまった。この恩には、なんとしても報いなければならない。これもまた、シャマル達が背負うべき罪のひとつだった。

 

「あの、フェイトの容体は……」

「……大丈夫です。必ず完治させますから」

「本当にっ? 本当に大丈夫なんですかっ、シャマルさん!」

「ええ、もちろん。フェイトちゃんの次は、あなた達二人の番ですよ。それまで、もうちょっと待っていてくださいね」

 

 なのはの存在があったため、クロノの問いには曖昧に答えた。続くなのはの問いには、安心させる意味で、笑顔で返した。

 無論、答えに嘘はない。フェイトの応急処置が済んだなら、なのはとクロノを治療し、その後、フェイトを全快させる。以前ならばいざ知らず、今のシャマルならば、二、三時間もあればそれができるだろう。颯輔が夜天の王に戻り、二人の覚醒した主を得たことで、シャマル達の能力はさらに強化されている。致命傷でも負っていない限り、どんな状態からでも全快させてみせる自信が、シャマルにはあった。

 シャマルの言葉に安堵を覚えたのか、なのはとクロノはその場に座り込んでしまった。目尻を下げて二人を見、そして、フェイトの治療に集中する。ところが、ほどなくして部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 

「フェイトっ!!」

 

 現れたのは、肩で息をするリンディだった。シャマルを押し退ける勢いでベッドへと駆け寄り、フェイトの姿を見て口元を手で覆う。その場に膝を着くと、ぽろぽろと涙を零し始めた。

 無理もない。リンディは、フェイトを実の娘さながらに可愛がっていた。おそらく、フェイトの背景を知っていたため、余計にそうしていたのだろう。大切な家族が大怪我をして帰って来たらと思うと、リンディの心情は容易に察することができた。

 

『過剰魔力による自家中毒、リンカーコアの機能不全、中度の火傷、全身打撲、それから、多数の筋断裂が見られます。ですが、私が責任を持って完治させますから、どうか心配しないで下さい』

「当たり前でしょうっ!! あなた達の所為でフェイトは、フェイトは……!」

『……申し訳ありません。ですが、子供達の前です。罵倒なら後で気が済むまで受けますから、今は控えてください』

「っ……ごめんなさい、取り乱しました」

「いえ、お気になさらず」

 

 罪悪感を抱きながらも窘めると、念話にする余裕もなかったほどのリンディは、気勢が削がれていった。普段は声を荒げることもなさそうなリンディだ。なのはとクロノも驚きに顔を上げ、不安の色を濃くしていた。

 リンディがなのはとクロノにも謝罪をし、労っていると、不意に、フェイトの手が動いた。意識が朦朧としているのか、その手は宙を彷徨っている。それに気が付いたリンディは、両手でフェイトの手を強く握った。

 

「どうしたの、フェイト?」

「……かあさん、わたし、がんばったよ。ちゃんと、いわれたとおりに、できたよね?」

「っ、え、ええ、フェイトはたくさん頑張っていたわ。母さん、ちゃんと観ていたわよ。偉かったわね、フェイト」

「……えへへ、かあさんに、ほめられちゃった」

「そんなの、当たり前じゃない。フェイトは立派に戦ったのだから、誰も悪くなんて言わないわよ。そんなこと、絶対に誰にも言わせないわ。さあ、疲れたでしょう? 今はゆっくり休みなさい」

「……うん」

 

 安心したように笑うと、フェイトは静かに寝息をたて始めた。リンディはフェイトの手を握ったまま、顔を落として嗚咽を漏らし始める。フェイトが誰を視ていたのか、リンディが誰を演じようとしていたのかは、直接は知らないシャマルにも分かった気がした。

 部屋を満たすはリンディの嗚咽。一方のアースラの外では、激しい戦闘が始まっていた。精神リンクを伝って流れ込んでくる情報、そこに、颯輔とリインフォースのものだけはない。ただ、確かに繋がっていることだけは感じ取れていた。

 今度は、無事に帰ってきますように。

 天に祈りを捧げ、シャマルは治療に専念し始めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 重なる空

 

 それは、不思議な感覚だった。全身を包み込まれているかのような、後ろから抱きしめられているかのような、そんな、温かな感覚。不快感はなく、安らぎを覚えるもの。ずっと昔に失くしたはずの、母や叔母が生きていた頃を思い出してしまうものだった。

 だが、今は感傷に浸っている場合などではない。胸の奥に感じる熱で不安と恐怖を融かし、空へと上がる時だ。

 今ならば、いつまでも、どこまでも飛んで行ける。そんな自信が、颯輔にはあった。

 

「行こう、リインフォース」

『はい、颯輔!』

 

 颯輔の意志を酌んだリインフォースが、飛行魔法を制御する。翼を大きくはためかせ、中天に鎮座する黒い月を目指して飛び出した。そこに、危うさなど欠片もない。颯輔の未だ拙い魔法技術を補うために存在するのが、融合騎(リインフォース)なのだから。

 颯輔達は、冷たい夜風を切り裂いて上昇を続ける。妨害があるかと思いきや、闇の欠片(リインフォース)はただ黙って見送るのみだった。おそらくは、ディアーチェ達も颯輔を待っているのだろう。現に、闇の欠片からの視線はほどなくして切れ、シグナムとヴィータへと向き直っていた。

 颯輔とリインフォースも協力してまずは闇の欠片を、という選択肢はなかった。なぜなら、紫天の書を操るディアーチェを止めない限り、闇の欠片は何度でも復活するからだ。その元となる魔力は、エグザミアが一度起動した際に、紫天の書の内へと貯蔵されている。故に、事態の収束を図るのならば、ディアーチェを止めなければならない。そして、ディアーチェ達が待つ場所へと辿り着くことができるのは、紫天の王である颯輔と、その内に融け込んだリインフォースのみだった。

 『後は任せた』と念話を残し、颯輔とリインフォースは、月の内側へと突入する。とぷんと表面を潜ると、中は激しい魔力流が渦巻いていた。すぐさまリインフォースが障壁を展開し、それを防ぐ。颯輔は、これは相当怒ってるなぁ、などと思いながら、闇の最奥へと突き進んだ。

 魔力流を掻き分けて進むうち、やがて、障壁の外が静かになった。辿り着いた月の中枢。そこには、一人の少女の姿がある。漆黒の翼を広げ、腕組みをして仁王立ちをしているディアーチェ。伏せられていた瞼が持ち上がると、鋭い眼光が颯輔達を射抜いた。

 

「遅かったですな、兄上」

「ごめん。ちょっと、準備に手間取ってたんだ」

「着の身着のままでよいというに……。何故、そのようなお姿で? 壊れかけの翼など、兄上には必要ありませぬ」

「必要だよ。俺はまだ、一人じゃ上手く飛べないから」

「ならば、今はもう役目を果たしたはずです。そのような異物は脱ぎ捨て、我らと共に永遠の空へと飛び立ちましょう」

 

 目尻を下げたディアーチェが、そっと手を差し伸べてくる。

 だが、颯輔は静かに首を横に振った。

 

「リインフォースは異物なんかじゃあない、大事な家族だ。それに、一人でそっちには行けないよ。俺は、皆と生きていくって決めたから」

 

 目を逸らさず、真っ直ぐに颯輔は告げた。もう、自分一人を犠牲にはできないのだ。

 初めは、ディアーチェ達の説得も一人で行おうと思っていたのだが、それは許されなかった。「貴方を一人にすると、私達の気も知らず、勝手に決めて勝手にどこかへ行ってしまいますから。ですから、私も共に行きます」と言われてしまい、リインフォースに同行されてしまったのだ。信用がないとは思うが、なにぶん、前科のある身である。颯輔は、首を縦に振るしかなかった。

 颯輔の答えを受けたディアーチェは、見る見るうちに下がっていた目尻を釣り上げ、眉間に深い皺を刻み込んだ。憎悪が込められた視線。それは、颯輔に向けられていながら、その内側を見ていた。

 

「夜天の融合騎っ! 貴様っ、またも兄上に背負わせたなっ!? その道の行く先に何があるかっ、理解しておらぬのかっ!?」

『……ああ、理解しているとも』

 

 深紫の光が瞬く。激昂するディアーチェを前にして、リインフォースが姿を現した。融合(ユニゾン)したままに颯輔の隣へと並び立ち、その憎悪を一身に受け止めている。

 

「ならば何故兄上を縛るっ!? 何故兄上を苦しめるっ!? 貴様らのような重荷などっ、兄上には必要ないのだっ! 貴様らのために兄上がどれほど自身を殺して来たかっ、貴様らも分かっておろうがっ!」

『それでも、我らは颯輔と共に在りたいと願ったのだ。無論、その分の重荷は我らも支えるさ。その想いは、お前達も同じだろう?』

「言うに事欠いて、我らが貴様らと同じだと……? 巫山戯るでないわ阿呆っ! 我らは兄上の重荷になどなりはせぬ! 我らは兄上が望む全てを捧げる! 兄上から奪うだけであった貴様らなどと、我らを同列に語るでないわっ!」

「……無理だよ、ディアーチェ。俺の望みは、ディアーチェ達だけじゃあ叶えられない」

「何を……何を言うのですか、兄上! 我らならば、兄上が望む世界を――」

「でもそれは、本物じゃないだろう? 俺は、夢の世界の住人になる気はないよ」

 

 確かに、ディアーチェ達は颯輔が望む世界を創り出すだろう。だがそれは、紫天の書の内に展開される幻想の世界だ。全てが思い通りになる世界。なるほど、それは理想の世界なのかもしれない。以前にユーリが作りだしたような、失ったものがある世界。颯輔が望めば、そこにはリインフォースやはやて達の姿もあるに違いない。エグザミアが織りなす魔力によって、その幸せは永遠に続くのだろう。

 けれどもそれは、嘘で塗り固められた虚構の世界だ。その世界を守るため、ディアーチェ達は現実世界の脅威を全て排斥してしまうだろう。そんなことは、許容できない。颯輔が命を賭して守ったのは、この世界に生きるはやて達なのだから。

 

「今の俺があるのは、今までの俺があったからだ。確かにさ、辛いことの方が多かったと思うよ。満足よりも、不満の方が多かったさ。だけど、幸せだって、そう思えることもあったんだ。あの時間が、すごく大切だったんだ。それを、今更なかったことになんてできないよ。……だからさ、ディアーチェ。シュテルも、レヴィも、ユーリも。皆で一緒に、こっちで生きてみないか?」

 

 今度は、颯輔が手を差し伸べた。

 ディアーチェは目を見開き、そして、下唇に犬歯を突き立てた。つぅーと、赤い雫が落ちる。その足元には、黒いベルカ式の魔法陣。その両手に光が溢れ、紫天の書とエルシニアクロイツが握られる。漆黒の翼は鮮血に染まり、炎のように揺らめき出した。

 

「……それこそ、夢物語ではありませぬか。兄上、貴方は甘い。全く先が見通せていませぬ。我らの力に安息などありませぬよ。下にあっては、使い潰されるのが目に見えていましょう。守るものがあっては、兄上は奴隷に成り下がってしまいます。その果てに摩耗し、擦り切れ、歪み、輝きはくすむ。そのようなお姿、ディアーチェは見たくなどありませぬ」

「……先のことなんて、そのときにならなきゃわからないさ。それでも俺は、皆と一緒にいたいって思うんだ。やってみたいことも、欲しいものも、たくさんある。俺はさ、結構わがままな王様なんだよ、ディアーチェ」

「……は。ははっ。はっ」

 

 渇いた笑いだった。悲観、諦観、失望、絶望。それらをないまぜにした、見た者を、聴いた者を暗がりに引きずり込むかのような笑い。身の毛もよだつ狂気を孕んだものだった。

 ディアーチェの両隣に、緋色と水色の輝きが現れる。二つの光は周辺に満ちた魔力を掻き集め、その躯体を構築させた。

 ルシフェリオンを構えるシュテル。矛先は、ぴたりと颯輔に向けられている。蝋で塗り固められたかのような無表情からは、何の感情も窺い知ることができなかった。

 バルニフィカスを構えるレヴィ。蒼雷を撒き散らし、薄紅の目を爛々と輝かせている。どこまでも純粋な、暴力に酔いしれた獣。うずうずと身体を震わせ、解き放たれるのを待っていた。

 

「やはり、最初からこうすべきだった。兄上が惑わされる前に、兄上を救うべきだった。兄上、愚かなディアーチェをお許しください。今すぐに、その泡沫の夢を吹き払います故」

 

 ディアーチェは、自分こそが正しいと信じて疑わない。世界が間違っているのだと断定している。だから、その力を使って間違っている全てを焼き払うのだ。それが、紫天の書を穢した呪い。どれほど薄まろうとも、根底にまで滲み付いたそれは、紫天の書の管制プログラムだった存在を徹底的に歪めてしまっていた。

 颯輔の隣に寄り添っていたリインフォースの姿が消える。だが、以前として武装であるナハトヴァールは待機状態のままだ。颯輔達に、この場で槍を構える気など毛頭ない。颯輔達は、ディアーチェ達を迎えに来ただけなのだから。

 

「シュテルっ、レヴィっ! あの忌々しい翼を兄上から削ぎ落とせっ!」

「頼むっ、リインフォースっ! 俺に力を貸してくれっ!」

 

 緋色の炎、水色の雷、暗黒の闇。凶悪なほどの魔力を秘めた攻撃が押し寄せ、颯輔達を飲み込んだ。

 

 

 

 

 闇の欠片(リインフォース)は、ただじっと飛び行く颯輔達の背中を見つめていた。表情は動かない。ただ静かに見守る様は、颯輔達と出会う前のリインフォースを思い起こさせた。

 やがて、颯輔達の背中が小さくなると、シグナム達へと向き直る。フェイトと激戦を繰り広げたはずが、微塵も疲弊した様子はなかった。それもそのはず。この空域には、闇の欠片だった魔力が満ち満ちている。これらが消えない限り、何度でも回復して見せるのだろう。

 

「よお。颯輔達、追わなくていいのかよ?」

「主颯輔は通すように言われている。だが、お前達は通さん。紅の鉄騎、烈火の将よ」

「お前にそう呼ばれるのも久しく感じるな……。で、どこまで覚えている?」

「そのような問いに意味などない。私はただの影。与えられた命に従い、お前達を滅ぼすだけだ」

「記憶があろうがなかろうが関係ねえ。てめえは偽物で、あたしらのダチをボコったんだからよ」

「我らはただ与えられた命によって動けばいい。そうだろう?」

「考える頭を失くしたか」

「……私の言葉を聴かなかったのは、お前達も同じだ」

 

 呟き、リインフォースの影――暴走体の魔力が更なる高まりを見せる。それが、合図だった。

 爆発を起こしたかのような勢いで、シグナムとヴィータが飛び立った。左右からの挟撃。僅かばかりにタイミングをずらし、シグナムが先行していた。

 数瞬の間にカートリッジをロード。レヴァンティンをラベンダーの魔力が包み込み、グラーフアイゼンが紅に輝いた。

 暴走体へと肉薄し、シグナムが真一文字に薙ぎ払う。一拍遅れ、ヴィータが真っ直ぐに振り下ろした。

 空間ごと断つような斬撃。大地も砕かんばかりの打撃。対応する暴走体は、水面のように静かで疾風のように速かった。

 防ぐことはせず、上半身を前に倒してレヴァンティンを掻い潜る。通り抜けた斬撃は、僅かに羽根を散らすに止まった。続くグラーフアイゼンは、身体を捻って横向きにして回避。衝撃波が薄く装束を裂くも、ただそれだけだ。翼も装束も、集束させる魔力によって瞬く間に修復されてしまう。

 そして、回避から流れるように反撃へ。いや、そもそも暴走体の動きは、回避するためだけものではなかった。単なる攻撃の予備動作だ。ならばそれは反撃などではなく、最初から狙い澄ました攻防一体の先制攻撃と言えよう。

 暴走体の踵が、下から掬い上げるにヴィータへと迫る。丁度、グラーフアイゼンを振り下ろして顔を晒したヴィータの真正面。鼻先から頭蓋を砕かんとするそれを、頭を逸らして回避。それでも頬を掠り、肌が薄く切れて血の玉が浮かんできた。

 だが、それすらも予備動作のひとつ。本命は、今まさに刃を返しているシグナムだ。リインフォースの踵に魔力が集束する。それはもはや、単なる胴回し蹴りなどではない。膨大な魔力により、格闘技の域を超越した一手。唸りを上げて迫る踵に、シグナムは咄嗟にレヴァンティンの鞘をかざし。

 そして、深紫の魔力が炸裂した。

 砲撃も同然の放出魔力が、シグナムの姿を飲み込む。「シグナムッ!」と叫びたくなるのを堪え、ヴィータは第二撃へと移行した。暴走体は周囲の魔力を取り込み、刻一刻とその力を強化している。故に、長期戦は圧倒的に不利。騎士の矜持などは捨て、二人がかりで仕掛けてでも短期決戦に持ち込むしかない。守るべきものを守ってこその騎士なのだから。

 

「フォルムツヴァイッ!」

《Raketenform.》

 

 ヴィータの呼び声に応え、グラーフアイゼンがカートリッジを吐き出し稼働した。衝角が迫り出し、三門の噴射口が形成される。煌々と燃える炎が点り、咆哮を上げる。ヴィータは身体を駒のように回転させ、体勢を立て直している暴走体へと振り下ろした。

 手応えは、あった。

 ただしそれは、硬質なもの。暴走体がかざした左の掌の先、展開された防壁が、ぴたりと衝角を受け止めていた。だが、ヴィータも負けてはいない。先陣を切って防壁を粉砕するのが鉄槌の騎士の役目だ。二人の王によって強化されている今、押し負けることなど許されない。

 グラーフアイゼンへと魔力を送り込み、推進力を増幅させる。炎が高く立ち昇ると、暴走体もろとも仄暗い海面を目指して突き進み始めた。

 ぐんぐんと落下速度が上がっていく。防壁は、きしりきしりと音を立て、亀裂が入っていた。だが、暴走体も黙っているわけではない。空いた右の掌をヴィータへと向け、その先に魔力球を形成し始めた。溜まりつつある魔力は、直撃を受ければただではすまされないものだ。

 

「はっ、上等。だけど悪ぃな、あたしは一人じゃねぇんだ」

「墜ちろッ!」

 

 ヴィータの視界を、ラベンダーの火の粉が舞った。直上からヴィータの隣へと降ってきたシグナムが、防壁にレヴァンティンを突き立てたのだ。戦装束のところどころが焼けているが、剣の騎士は未だ健在。炎刃はひび割れた防壁を貫き、魔力球を串刺しにして、暴走体の胸に突き刺さった。

 レヴァンティンが炎を吹き上げ、魔力球を押し出して暴走体をへと射出する。ヴィータが慌てて防壁を張ると、その向こうで目を焼くような魔力爆発が起こった。

 轟音に混じり、微かな水音が耳を打つ。暴走体が海へと落下したようだが、それはつまり、あの爆発を受けても海へと落下する程度には躯体を保っていたということだ。ダメージは通ったかもしれないが、撃破には至っていない。

 

「おい、あんま吹っ飛ばすんじゃねーよ。距離空いたら不利なのはあたしらじゃねーか」

「それはすまんかった。いやなに、お前の泣き叫ぶ声が聴こえた気がしてな」

「あん? お前、調整ミスったんじゃねーの? ちょっとはやてんとこ戻って治してもらって来いよ」

「あの程度の防壁も破れんとは、お前の方こそ、前より弱くなったのではないか? これでは先が思いやられるというものだ」

「初っ端から一撃もらってたやつがよく言うぜ」

「高度なフェイントもわからんとは、騎士の名が泣くぞ?」

「うっせーいいからさっさと本気出せよ。お前、さっきのフェイトより弱いぜ?」

「そっくりそのまま返してやろう。二対一でこの様、恥ずかしくはないのか?」

『……シグナム? ヴィータ?』

『……馬鹿者共が。試運転が済んだのならばさっさと動け。来るぞ』

 

 シグナムとヴィータは猫撫で声に震えあがり、続く忠告に意識を引き締めた。

 無論、二人共ただじゃれ合っていたわけではない。断じて、絶対に、ない。状況が状況故に調整を突貫工事で終えたため、実際の動きをふまえて躯体の最終調整を行っていたのだ。もちろん、海面下で膨れ上がる魔力にもとっくに気が付いていた。

 海面が、爆発する。立ち上る深紫の柱が、天へと突き刺さった。それは、シグナムもヴィータも及ばぬ魔力量。その身に魔力がある限り、破壊の限りを続ける存在。

 闇の書の暴走体が、翼を広げて中空へと躍り出た。

 

「おいどうすんだよ、向こうも本気になったみてえだぞ」

「無論、打倒すまで」

「……ちげえねぇ」

「征くぞ、ヴィータッ!」

「応よッ!」

 

 轟と風が舞い上がり、ラベンダーと紅の柱が伸びる。身体強化を施したシグナムとヴィータは、再びデバイスを構えて突撃を開始した。

 対する暴走体は、その場に留まり魔法陣を敷いた。戦列に加わるは、特大の魔力球。周囲に配置されたそれらは、三十は下らない。その威力が折り紙つきであろうことは、明白だった。

 暴走体へと迫る二人は、相手の挙動を見て二手に別れた。こともあろうに暴走体は二人から視線を切り、あらぬ方向を見やったのだ。その紅の瞳に映るのは、はやてとザフィーラの障壁によって覆われたアースラ。シグナムはそのまま暴走体を目指し、ヴィータは暴走体とアースラの間へと翔けた。

 高速移動魔法(フェアーテ)を発動したシグナムの姿が掻き消え、暴走体の眼前で像を結んだ。炎熱迸る剣閃を走らせるも、暴走体は正確にそれを捌く。唐竹割りを半身になって避け、続く斬り上げが届く前に魔力の籠った拳を突き出す。シグナムはそれを受けることはせず、回避を選んだ。剣を引き、中空で屈んで足払い。それには成功するも、しかし代わりに上から肘が降ってきた。そこにレヴァンティンの柄尻を叩きつけ、暴走体の肘を砕く。腕はあり得ない方向へと曲がったが、暴走体はやはり間を置かずに回復させてみせた。

 厄介だな、と思う間などない。術式はすでに完成していたのか、魔法陣が消失しても魔力球は健在だったのだ。さらに、暴走体の猛攻も止まらない。互いに攻撃を仕掛け、それを躱し、反撃を繰り返す、激しい攻防が始まった。シグナムと暴走体が揉み合う一方で、魔力球は今まさに砲弾へと変わろうとしていた。

 シグナムに比べれば速度は劣るが、それでもヴィータが遅いなどということはない。ヴィータもフェアーテを発動してアースラの前で立ち塞がると、グラーフアイゼンを腰溜めに置いた。

 

「アイゼンッ、フォルムドライッ!」

《Gigantform.》

 

 カートリッジの消費はなしに、鉄槌へと戻ったグラーフアイゼンが巨大化を始めた。本来のギガントフォルムと比べればコンパクトなサイズに落ち着いたが、それでもヴィータの背丈を優に超えている。取り回し易さを保ったまま、打撃力を強化したのだ。推進装置の恩恵は消えたが、その分は身体強化で補えばいい。それに今は、機動力を求めてはいないのだ。

 ヴィータの見据える先で、魔力球が解放された。一発一発の威力がなのはの砲撃に勝るそれ。そんなものを三十も四十も受けては、いくらはやてとザフィーラの防壁とて危うい。ある程度は回復しているものの、魔力切れの寸前まで追い込まれ、さらに、夜天の書の修復で力を使ったはやてに、これ以上の負担はかけられなかった。

 絡み合う複数の射線。そこから直撃コースのものを選別し、柄を強く握りしめる。自身とグラーフアイゼンに更なる強化を施すと、ヴィータは迫り来る砲撃目掛けて降り抜いた。

 

「通さねぇッ!」

 

 先陣を切った砲撃に、グラーフアイゼンが激突する。手首が嫌な音を立てたが、構わず、ヴィータは全身を使って押し込んだ。

 砲撃を弾き返し、後続の砲撃へとぶつける。両者が接触すると、凄まじい爆発が起こった。周囲の砲撃を巻き込んでいくそれは、瞬く間に広がっていく。だが、全てを潰したわけではない。爆発を突破してきた砲撃に向けて、ヴィータは振り抜いた鉄槌を返した。

 無論、ヴィータ一人で全てに対処することなど不可能だ。ヴィータの奮戦を嘲笑うかのように、隣を抜けていく砲撃もある。しかしそれは、アースラを正面から捉えるものではない。そして、その先にははやてとザフィーラが控えているのだ。二重に展開された障壁に阻まれた砲撃が、それを突破することなどなかった。

 

『ヴィータ、あまり無理はするな。こちらは我とはやてに任せておけ』

「こんくらいヨユーだっての。てめえの尻拭いぐらいさせてくれよ」

『ほんなら、頑張ったヴィータにはご褒美や。シグナムがちょう苦戦しとるみたいやから、お願いな』

「ありがと、はやて。そんじゃあ、いってくる」

 

 はやてから、消費した分の魔力が送られてきた。手首の不調は消え、躯体に活力が満ちる。ヴィータはグラーフアイゼンをハンマーフォルムへと戻すと、紅の魔法陣を敷いて鉄球を召喚した。

 強襲用のラケーテンフォルムはヴィータの十八番だが、先ほどは炎で機動を読まれてしまった。ならば、射撃で牽制しつつ、シグナムと共に近接戦に持ち込んだ方がいい。

 

『上手く避けろよ』

『いいからさっさと撃て』

 

 減らず口は、信頼の証。

 十二の鉄球を殴りつけると、ヴィータはフェアーテを発動して飛び立った。

 

 

 

 

 ディアーチェ、シュテル、レヴィ。三基のマテリアルは、暴走した守護騎士を止めるための戦力だ。すなわち、その実力は三基でシグナム達と渡り合えるほど。そのうえ、ディアーチェがユーリと融合(ユニゾン)し、無限に等しい魔力を扱えるのならば、その力はシグナム達を優に超える。さらには、個々が意思を持って連携してくるのだ。もはやそれは、闇の書の暴走体ですら及ばぬ領域へと達しているだろう。

 海をも裂く炎熱砲。

 山をも断つ雷閃。

 そして、空をも覆い尽くす闇。

 地形を造り替えるほどの威力を誇る極大の魔法が、月の内側を激しく揺さぶった。紫天の書がディアーチェの手に渡ったことで戒めが解かれ、その攻撃は殺傷設定のものとなっている。一つ一つが必殺のそれを受けては、後には塵も残らないだろう。だがしかし、攻撃の余波が過ぎ去ったそこには、確かに漆黒の球体が浮かんでいた。

 球体の色が薄れ、中の様子が露わになる。そこには、颯輔達が健全なままにいた。魔力と物理ダメージを遮断する、四層式の複合障壁。リインフォースが、それを展開していたのだ。四層のうち三層も破られてしまったが、なんとか耐え抜いていた。

 

「リインフォース、大丈夫か?」

『ええ。しかし、今の私達ではそう何度もはもちません。障壁を抜かれては、颯輔が……』

「まあ、そこは心配しなくていいよ。……問題は、ここからどうするかなんだよなぁ」

 

 障壁を張り直し、本格的な連携攻撃に備える。自信満々に飛び出してきた颯輔とリインフォースだったが、実のところ、どうやってディアーチェ達を止めるか、具体策までは考え付いていなかった。

 前提を捨て置き全力で戦ったとしても、颯輔達の勝利はほぼあり得ない。リインフォースとナハトヴァールがいるにはいるのだが、いくら強力な一撃があろうとも、手数で圧し切られてしまうだろう。シグナム達がいればまた違った結果となるかもしれないが、生憎と援軍は頼むこともできなかった。

 現実的な案は、ディアーチェから紫天の書を奪い、強制的に従わせることだ。颯輔は紫天の王の座から降りていないため、まだ紫天の書へのアクセス権を保持している。マテリアルへの管制権を行使すれば、ディアーチェ達は颯輔の命令通りに動くことだろう。

 だが、颯輔自身がそれらの方法を認めない。力で降すことも、言いなりにすることも、相手の意思を踏みにじる行為だ。颯輔は、これ以上ディアーチェ達の在り方を力尽くで捻じ曲げたくはなかった。

 ディアーチェ達は、紫天の書を穢した呪いによって変えられてしまった。そして今度は、颯輔が変えてしまった。そしてまた、颯輔は自分の都合でディアーチェ達を変えようとしている。

 共に生きることを選んでほしいなど、図々しいにもほどがある。子供のようなことを言っていると、そんなことは分かっている。

 利己的であることを認めよう。紫天の書のシステムを担う颯輔は、ディアーチェ達なしでは生きられない。ディアーチェ達を救うことで、自身が生きながらえようとしているのだ。

 しかし、決してそれだけが理由ではない。

 紫天の書の知識も得た颯輔は、本来のディアーチェ達を知ってしまったから。

 

「光翼天翔――雷斬破ァーッ!」

 

 気合の入った掛け声と共に、レヴィが斬りかかって来る。颯輔が手をかざすと、リインフォースがすかさず三重の防壁を展開した。

 ザンバーフォームのバルニフィカスが、一つ目の防壁を両断し、二つ目の防壁を粉々に砕き、三つ目の防壁に突き刺さる。魔力刃には障壁破壊の術式が付与され、込められている魔力量も桁違いだ。いくら颯輔が防御に秀でていようとも、レヴィの攻撃を完全に止めることは不可能だった。

 

「レヴィっ、頼むから話を聞いてくれっ!」

「やーだよっ! ってゆーか、そーすけの言いたいことくらいボクだって分かってるし」

「だったらっ」

「でも、そーすけの言うとおりにしたら、好きに暴れられないじゃん。ボク、そんなのつまんないもん」

 

 レヴィが剣を振り抜く。三つ目の防壁が真っ二つに斬り裂かれ、その刃は複合障壁にぶつかり、颯輔達を弾き飛ばした。

 颯輔達が体勢を立て直す前に、今度は複数の魔力弾が一点に連続して突き刺さる。そこは、レヴィの斬撃によってわずかに構成が解かれた場所。十二の炎弾が、一層目の障壁に亀裂を入れた。

 そして、闇夜に緋色の直線が走る。

 

「~~っ、シュテルっ!」

「…………」

 

 細く絞られたレーザーのような砲撃は、障壁の亀裂へと寸分違わず命中した。燃え盛る炎が溢れて亀裂を広げ、一層目の障壁を剥がす。それを放ったシュテルは、すでに次の一手を構えていた。

 輝く緋色の魔法陣。ルシフェリオンの先に炎が渦巻き、間髪を入れずに射出される。炎熱砲の三連射。それらは颯輔達に回避を許さず直撃し、二層目の障壁を焼き尽くした。

 

『――っ、何故シュテルが攻撃を?』

「たぶん、紫天の書から直接命令を受けてるんだ」

 

 氷のように冷え切った目。そこに、颯輔とリインフォースの知るシュテルはいない。そこにあるのは、標的を焼き払う機械の如き殲滅者。理を司るシュテルが、紫天の書を持つ者に逆らうことなど決してありはしないのだ。

 シュテルとレヴィの追撃に備えて障壁を修復しつつ、ひとまず距離を取ろうとしたときだった。黒い鎖が伸びてきて、障壁の上から颯輔達を拘束した。

 この程度、と振りほどこうとしたが、それは失敗に終わってしまう。赤黒い巨大な腕が左右から迫り、障壁を掴んで固定したのだ。その腕の付け根は、ディアーチェの翼。ユーリが与える翼――魄翼の力の片鱗だった。

 

「兄上、無駄な抵抗はお止め下さい。すぐに我らが楽にして差し上げます故」

「ディアーチェ、お前、ユーリを……!」

「ご心配なさらず。ユーリの修復は済み、我が内で眠らせております。今は力のみを拝借している次第」

 

 万力のように力が込められ、障壁が軋んで悲鳴を上げる。リインフォースが修復を急ぐも、それと同等以上の速度で破られるため、障壁が全損するのは時間の問題だった。ディアーチェがその時を加速させることはあっても、手を緩めることなどあろうはずもない。

 ディアーチェを頂点にして、シュテルとレヴィが集結する。三人の正面に円形の魔法陣が浮かび上がると、それらは術式が綴られた帯で結ばれた。その中央には、剣十字。三基のマテリアルによって、巨大なベルカ式魔法陣が闇夜に描かれた。

 

「ご安心ください。兄上一人に痛みを与えたりなどは致しませぬ。我も共に貫かれますから、何も恐れる必要はありませぬよ」

「……我らが敵を射抜く剣の兵よ」

「紫天の光の元っ! 軍勢となりこの空を埋め尽くさぁーんっ!」

 

 瘴気を撒き散らす黒剣。煌々と燃え盛る炎剣。絶えず放電する雷剣。無数の剣が魔法陣の前に葬列を成す。所狭しと並ぶそれらの切先は、その全てが颯輔達へと向けられていた。

 ディアーチェが術式を起こし、シュテルが制御し走らせ、レヴィが必要な魔力を供給する。それが、紫天の守護者の在り方。それこそが、マテリアル三基の本来の運用法。その力は、誰よりも颯輔がよく知っていた。

 

「……リインフォース」

『はい』

「お前がいないと、俺は真面に飛べもしないんだ。だから、絶対に身代りになったりはしないでくれ」

『はい……は、そ、そうすけ?』

「躯体の修復と――ああ、それから、たぶんナハトが起きようとするから、ちゃんと抑えつけておいて欲しい。頼んだぞ」

『何を、言って』

「――斬り落とせ」

 

 ディアーチェの号令により、剣の雨が降り注いだ。

 凄まじい速度で飛び来る剣は、その道中にあるディアーチェとユーリの翼を当然の如く斬り捨てながら、颯輔達へと殺到した。隙間なく障壁へと突き刺さり、瘴気が溢れ、炎が燃え上がり、雷が踊り狂う。瞬く間に二層を食い破ったそれらは、容赦なく颯輔を貫いた。

 胸を貫き背を抜けて、夜天の翼を斬り落とした。腹を裂いて臓腑を貪り尽くし、肉を削いで背骨を断った。肩口から切断された腕、落ちていく脚、それら一片たりとも残すまいと、細切れに刻んでいった。

 痛みを感じる暇などなく、ただただ一方的に、颯輔は首から下を蹂躙された。

 

「――――」

『――けっ……そう……颯輔っ!!』

 

 数瞬の意識の断絶の後、悲鳴によって覚醒。リインフォースの防壁が覆うリンカーコアを中心として周囲の魔力が集束し、颯輔の躯体が再構築されていく。颯輔自身も持て余していた、魔力の集束結合。リインフォースの手に懸れば、その能力も本領を発揮する。この場に満ちるは魔力は、元はと言えば颯輔のもの。ならば、例えエグザミアを起動できずとも、この場にある限りは消滅など在り得ない。

 ぐっと拳を握り、再び翼を広げる。そこには、傷一つない颯輔の姿があった。

 

「ありがと、リインフォース。助かったよ」

『ふざけないでくださいっ! あのような、二度と、私はっ!!』

「っ、でも、あれは防ぎようがなかったし……いや、ごめん、ごめんってば」

 

 言葉は要領を得なかったが、融合(ユニゾン)の影響か、リインフォースの感情は直接颯輔の心に響いてきた。洪水のようなそれらに意識が流されそうになり、寸前で全てを遮断。それでも心の隔壁をぶち破る勢いの流入量に、颯輔は弁明を諦めて謝罪の言葉を繰り返した。

 事実としてディアーチェ達の魔法は防ぎようがなかったのだが、それでもあの受け方はなかったな、と颯輔は自身に呆れ果てた。魔法生命体となった颯輔は、躯体の核が傷つかない限りはその場での修復が可能であり、また、修復が不可能でも紫天の書のバックアップによって時を置けば復活する身であるのだ。永遠の命やら不老不死やらの言葉は聞こえはいいかもしれないが、その実は不死身の化け物。リインフォース達の手前、それを口にすることはないが、その在り方に()()()()()()()()自身が恐ろしくはあった。

 

「……って、言ってる場合じゃないな」

『……終わったら一度、皆と協議の場を設けさせてもらいます』

「わ、わかった。あとでいくらでも怒られるよ」

 

 視線を巡らせる先には、散開して颯輔達を取り囲むディーアチェ達の姿がある。内には、静かに怒りの火を燃やすリインフォース。そして、颯輔の左腕では、ナハトヴァールが威嚇するように震え始めていた。

 

 

 

 

 溢れる魔力を熱へと変換し、刃の内に押し留めた。刀身が白熱し、周囲の空気を焼く。ただの斬撃を繰り出すだけではなくなったレヴァンティンを、シグナムは一点に狙いを定めて振り抜いた。

 間に挟まれた防壁を両断し、その向こう側の暴走体へと熱刃が迫る。だが、暴走体は胸の前へと魔力で強化した右腕を滑り込ませ、あろうことか、レヴァンティンの刀身を掴みとった。

 じゅうと音が聴こえ、肉の焼ける臭いが鼻をつく。構わずシグナムが押し込むも、レヴァンティンは進むどころか徐々に押し戻されつつあった。

 単純な力比べでは、魔力量の多い――すなわち身体強化の度合いが強い暴走体に軍配が上がる。さらに、両手が塞がっているシグナムに対し、暴走体は片手が空いているのだ。力の差は歴然であり、そして、それは致命的な隙でもあった。

 暴走体の左腕に魔力が集中し、深紫の光を放つ。ぐっと引き絞られた拳はしかし、シグナムへと向かうことはなく、伸ばした右腕の下を通って右側へと突き出された。

 

「ちっ」

 

 暴走体の右側からカバーに入っていたヴィータが舌打ちを漏らす。深紫の砲撃が轟と唸ってその音を掻き消した。

 ヴィータが射線から逃げて背後へと回り込むも、暴走体は腕を動かしてそれを追う。その瞬間、暴走体の視線が切れたのを機に、シグナムはレヴァンティンを待機状態へと戻した。

 暴走体の拳が空気を握り潰す。その視線が戻る前に、シグナムは右の握り拳を突き出した。拳は鳩尾へと突き刺さり、暴走体を後ずさりさせて間に空間を作る。暴走体が右手を掴みに来るのから逃げつつ右腕を振り戻し、その勢いを利用して、無防備にさらされた顎へと左足で上段回し蹴りを見舞った。

 そして、まだ終わらない。蹴りの勢いのままに右足を軸に回転。レヴァンティンを再起動させ、その柄を右手に握る。シグナムは虚空からレヴァンティンを抜き放ち、連撃を居合で締めくくった。

 銀閃が走り、炎が踊る。

 居合の逆袈裟斬りは、確かに暴走体の胸を斬り裂いた。だが、浅い。胸の奥の核、リンカーコアまでは届いていない。不死身の暴走体を打倒すには、核を破壊して躯体を消滅させるしかないのだが、これが困難を極めていた。

 吹き飛ばされた暴走体の背後から、ダメ押しとばかりにヴィータが鉄槌を下す。再度接近しながらその様子を正面で見ていたシグナムは、暴走体の瞳が深みを増したのを見止め、ぞわりと背中が粟立つのを感じた。

 

「離れろッ、ヴィータッ!!」

「あん?」

 

 暴走体の翼が肥大し、空を叩く。それだけで暴風が巻き起こり、今まさに一撃を見舞おうとしていたヴィータを、まるで紙屑のように吹き飛ばした。

 魔力の込められた暴風は背後だけではなく、暴走体を中心として周囲へと流れ出ていた。正面から近づいてたシグナムも全身を魔力風で叩かれるが、咄嗟に障壁を展開してダメージを軽減させる。だが、吹き荒れる暴風の中、風を切り裂いて迫りくる紅の鉄球を視界に捉え、シグナムはすぐさま障壁を解いた。

 その鉄球の正体は、胴に深紫の鎖を巻きつけられたヴィータだった。暴風に打たれながら、可能な限り衝撃を殺してヴィータの体を受け止める。それでもその速度を殺しきれず、シグナムはヴィータもろとも弾き飛ばされた。

 

「ぐっ……! この、何を遊んでいるのだお前は」

「悪い……っ、シグナムッ!」

 

 ()()と顔を上げると、暴風に乗った血塗れの短剣がシグナム達へと向かってきていた。ヴィータを小脇へ抱え直し、シグナムは防壁を展開する。ヴィータも同じく展開し、ラベンダーと紅の防壁が混ざり合った。

 そこへ、十六、三十二、四十八、六十四、八十と、次々と短剣が突き刺さって炸裂していく。二人がかりの防壁は悲鳴を上げているが、強化を続けることで辛うじて猛攻に耐えていた。

 この距離は、まずい。一度失敗してから、絶えずシグナムかヴィータのどちらかが張り付いていたのだが、今は二人共が暴走体の傍を離れている。そして、攻撃に耐えるのに精一杯で、この場に縫い止められてしまっている。暴走体の魔力に尽きる様子が見られない以上、この先の展開は容易に想像がついた。

 

「さて、どうしたものか……」

「どうしたもこうしたも、あたしが囮になるしかねえだろ」

「…………」

「あたしの防壁はお前のより丈夫だ。んで、あたしよりお前の方が速い。さっさと行ってこの攻撃止めてくれよ」

「しかしだな……」

「――ヴィータ、お前にも荷が重いだろう」

 

 群青色の転移魔法陣が輝く。シグナムとヴィータの会話に割り込んだのは、この場へと転移してきたザフィーラだった。

 新たにザフィーラが防壁を張ったことで、シグナムとヴィータの負担がぐっと軽くなる。しかし、二人は窮地を救ったはずのザフィーラを睨みつけた。

 

「はやてを決して一人にするなと言ったはずだが?」

「そのくせ何のこのここっち来てんだ、てめぇ」

「そのはやてに頼まれたのだ。シグナムとヴィータを助けてほしいとな」

「それでもお前ははやての傍を離れるべきではなかった」

「こっちはあたしらだけで十分だ。さっさと戻りやがれこのバカ」

「ならば、これ以上醜態を見せてくれるな。はやては今にも泣き出しそうになっているぞ」

「む……」

「……そういうことは先に言いやがれってんだ」

「いいからさっさと行け」

 

 ザフィーラの防御性能は守護騎士一だが、それでも暴走体の猛攻を前にしては長くはもたない。ザフィーラをはやての下へと戻すためにも、急ぎ攻撃を止める必要がある。シグナムとヴィータは防壁を解き、フェアーテを発動させてザフィーラの防壁から飛び出した。

 暴走体は左手を突き出し、掌を取り囲むように短剣を構築させては次から次へとそれを射出していた。だが、その視線と右手は別の方向へと向けられている。その先にあるのは、はやて一人が障壁を展開しているアースラ。そして、突き出された右手の先からは、今まさに砲撃が放たれるところだった。

 

《Bogenform, Sturmfalken.》

「ヴィータ、先行しろ」

「あいよ!」

 

 三叉に別れて迫る短剣を回避しながら、シグナムは剣を大弓へと変形させて矢を番えた。シグナムが直接接近するよりも、射った矢の方が到達速度は速い。はやては暴走体の砲撃に耐えているようだが、迅速にそれを止める必要がある。ならば、ヴィータ一人に危険を背負わせようが、その選択肢しかあり得なかった。

 炎の隼が翔ける。先行するヴィータを追い越しその先へ。最速の一射は、暴走体が放つ砲撃の起点へと突き刺さった。

 シグナムの魔力と暴走体の魔力が反応し、大規模な爆発を起こす。暴走体の姿が飲まれるが、シグナムは感覚を研ぎ澄まし、第二射、第三射と連続で矢を射った。

 爆発も収まらぬうち、その内側を更なる業火がなめ尽くす。並の闇の欠片ならばリンカーコアごと蒸発するはずだが、暴走体の反応は未だそこから感じられるままだった。

 ヴィータがグラーフアイゼンをギガントフォルムへと変形させ、爆煙を掬うように振り下ろす。だが、巨人の鉄槌は半ばで急停止し、爆煙を吹き払うに止まった。

 ヴィータの一撃を受け止めたのは、体中を焼き焦がした暴走体。その痕も、大翼も、戦装束も、燃え尽きた銀髪も、急速に再生されていく。直接リンカーコアを狙ったわけではなかったが、暴走体はシグナムの最強の一手にも耐え抜いて見せた。

 

「……無駄だ。もう諦めろ」

 

 呟く暴走体が動き出す前に、ヴィータがグラーフアイゼンを戻してスペースを空けた。すかさずザフィーラが放った圧縮魔力のスパイクが飛び、大半は防壁に阻まれながらも、残りの僅かが大翼に突き刺さる。だが、突き刺さったはずのスパイクは急速に解けていき、大翼に飲み込まれて消えた。

 弓を剣へと戻し、シグナムは暴走体へと斬りかかる。再び、ヴィータとの挟撃。左右から迫る炎刃と鉄槌を、暴走体は眉一つ動かさずに受け止めて見せた。

 両手が塞がったところに、遅れて接近したザフィーラの拳が迫る。それを見止めた暴走体は、向かいくるザフィーラ目掛け、シグナムとヴィータの二人を叩きつけた。

 ザフィーラは拳を解き、辛うじて二人を受け止める。三人が固まったところに深紫の鎖が伸びてきて、まとめて拘束した。

 

「せめてもの慈悲だ。主はやてと共に逝くがいい」

 

 ぐいと鎖が引かれる。一度暴走体の後方まで飛ばされ、再び引き戻された。反動で鎖が体に食い込み、続けて、凄まじい加速。アースラの方向へと投げ飛ばされたのだ。

 視界を景色が流れていき、やがて、()()()()()にぶつかる。白銀のそれは衝撃を吸収して速度を殺し、その後、自ら破れて三人を内側へと招き入れた。はやてが障壁の構成を変質させ、シグナム達を受け止めたのだ。自由落下に身を任せ、三人ははやての傍へと着地した。

 

「あはは、おかえり、皆」

「……ただいま」

「すみません、助かりました」

「あの、このようなはずでは……」

「ええよ。あの子が強いのは、ここから見とるだけでも十分わかったしなぁ。そんであれ、どないしよか……」

 

 苦笑いを浮かべつつ、頬を掻くはやて。見上げれば、空には特大の魔法陣が描かれていた。それは、召喚魔法陣だ。呼び寄せるのは、魔法生物などではない。もっと凶悪で、ずっと強力な兵器。千年を生きる大樹もかくやという、巨大な漆黒の槍。暴走体が発動させたのは、夜天の書に記された対艦攻撃用の秘術だった。

 召喚された黒槍が、ゆっくりと回転を始める。回転に合わせ、竜巻のような暴風が吹き荒ぶ。それを構える暴走体は、ぴたりとシグナム達を見据えていた。

 

「うわぁ……」

「えげつないな……」

「呆けている場合か。どうする?」

「アースラごと転移させてみる? さすがに外は無理やけど、この結界内ならどこでもいけるで」

「いえ、結界内ではどこに逃げても同じでしょう」

「かと言って、あれを防げと言われても厳しいぞ」

「だったら、ぶっ壊すしかねえな」

「そういうことだ。話が早くて助かる。ヴィータ、任せたぞ」

「おう。任しとけ」

「えっ、えっ? ちょ、ヴィータ? シグナムも本気?」

「大丈夫だって。あたしにもとっておきがあるからさ」

「ヴィータにお任せください……とはいえ、万が一があります。はやてはザフィーラと共に、再び防壁の展開をお願いします。ザフィーラ、今度こそ頼んだぞ」

「ああ、わかっている」

「ちょ、ちょう待って!」

「相手は待ってなどくれませんよ。それに、心配には及びません。はやてが信じてくれるのならば、我らに不可能はありませんから」

「うぅー……うぅ……ん、わかった、シグナムら信じるよ。そやけど、ただ信じて待つんはいやや。私も戦う。リインフォースのあんな姿、これ以上見たないんや」

「……では、はやてにひとつお願いが」

 

 シグナムがはやてに耳打ちをする横で、ヴィータが飛び立ち防壁の外で構えた。黒槍は目にもとまらぬ速さで回転し、暴風を生み出している。吹き荒れる風が、ヴィータのおさげとスカートを激しく揺らした。

 ヴィータは首を鳴らしつつ、グラーフアイゼンにカートリッジをセットしていく。これから発動させる魔法は、はやてと颯輔が主として覚醒したことで使用可能となったもの。それを実戦で使うのは、今回が初めてのことだった。だが、そこに不安はない。二人から授かった力を揮うのに、何を恐れる必要などあるのか。

 

「アイゼン。あたしも頑張っから、お前もぶっ壊れねえでくれよ」

《Ja!》

「おし、いい返事だ。そんじゃあ、いっちょやってやるか! アイゼンッ、フォルムフィーアッ!!」

《Zerstörungsform, Dragoonfaust.》

 

 輝く紅の大規模魔法陣。ヴィータの呼び声に、グラーフアイゼンが応える。込められた全てのカートリッジを炸裂させ、変貌を開始した。

 ハンマーヘッドが角柱へと変わり、込められた魔力に比例して巨大化する。ハンマーの片側からは螺旋状の切り刃と逃げ溝が掘られた衝角が迫り出し、甲高い唸り声と共に回転を始める。他方には巨大な一門の噴射口が形成され、紅の炎を湛えた。

 吹き荒れる暴風を自身が引き起こす魔力風で打消し、ヴィータは天を見据えた。深い紅の瞳と視線が交差する。

 

『退け、紅の鉄騎。抵抗すれば、余計に苦しむだけだ』

『聴けねえな。あたしは、お前を止めてくれって颯輔に頼まれてんだ』

『……ならば、もう眠れ』

『ああそれと、最後にひとつ大事なことを教えといてやるよ』

 

 空が落ちてくるような錯覚と共に、ヴィータの視界で黒槍が大きくなり始めた。風が強まり、ヴィータを吹き飛ばそうと画策してくる。ヴィータは魔法陣に足をつけて踏ん張り、グラーフアイゼンを引き絞った。

 

「さっきから古くせえ名前で呼んでんじゃねえよッ! あたしの名前は、八神ヴィータだッッ!!」

 

 噴射口が、特大の炎を吹き出した。極限まで強化されたヴィータの腕力と、自身の推進力によって加速し、グラーフアイゼンが黒槍を迎え撃つ。黒槍の先端と衝角の先端がぶつかり衝撃波を生み出し、激しい火花が散った。

 

「こっのぉ……!」

 

 上からかかる超重量に、ヴィータの身体が悲鳴をあげる。グラーフアイゼンが押し戻され、柄を握る腕が下がり、膝は折れかかっていた。

 はっきり言って、荷が重い。この形態のグラーフアイゼンは、定点の障壁や防壁の類を破壊するためのものであって、決して迎撃のために使うものではないのだ。ましてや、相手は格上である暴走体の極大魔法。下手をせずとも、グラーフアイゼンは砕かれてしまうだろう。

 だが、ここで退くわけにはいかない。

 ヴィータの後ろには、はやて達がいるのだから。

 

「気合入れろアイゼンッ! あのデカブツぶっ壊すぞッ!」

《Jawohl!!》

 

 膝を伸ばし、もはや一体化させるほどの思いで強く柄を握り込む。グラーフアイゼンは自身に亀裂を入れながらも、込められた魔力の全てを推進力へと変換。ヴィータは躯体へのダメージを全て無視し、全力で腕を振り抜いた。

 

「おんっ、どりゃぁぁぁああああああああッ!!」

 

 血を吐き出すかのような咆哮。

 グラーフアイゼンの衝角は潰れながらも回転を続け。

 そして、噛み合った黒槍を砕き割った。

 

『よくやったな、ヴィータ』

 

 グラーフアイゼンを振り抜いたヴィータの隣を、紫炎の隼が音速を超えて翔け抜けていく。降り注ぐ黒槍の欠片を焼き尽くしながら進み、その持ち主へと激突した。

 アースラの甲板でシュツルムファルケンを放ったシグナムは、レヴァンティンを急ぎ剣へと戻した。カートリッジを炸裂させ、刀身に炎を宿す。その足元には、白銀の転移魔法陣。後ろには、シグナムの願いで目を瞑ったはやてがいた。

 

「では、お願いします」

「ん、いってらっしゃい」

 

 短く言葉を交わし、シグナムは燃え盛るレヴァンティンを大上段に構える。魔法陣が輝くと、シグナムの姿が掻き消えた。

 白銀の光がまだ収まらぬ視界の先には、隼を防壁で受け止める暴走体の後姿があった。背後に転移したシグナムに気が付いた暴走体が、後ろを振り向く。だが、完全に向き直られる前に、シグナムは渾身の力を持ってレヴァンティンを振り下ろした。

 シグナムの究極の一、紫電一閃。炎熱が正中線に沿って走り、躯体の核――リンカーコアを確かに断ち斬った。

 

「騎士らしくない最後ですまんな。だが、未熟な私がお前を斬るにはこれしかなかったのだ。……さあ、お前も颯輔の元へと還るがいい」

 

 立ち上がり、火の粉を振り払って刀身を鞘へと納める。暴走体はラベンダーの炎に包まれ、ゆっくりと魔力素へと還っていった。

 暴走体が再生する様子も、新たな闇の欠片が出現する気配もない。暴走体が燃え尽きるのを見届けると、シグナムははやてへと念話を送る。『もう終わりましたよ』と伝えると、『お疲れ様』と返ってきた。

 はやてには、暴走体(リインフォース)の最後を見せたくなかったため、目を瞑ってもらっていた。はやても闇の欠片であることは理解しているだろうが、それでも、心優しいはやては暴走体の死を背負ってしまうだろうから。幼いはやてがそこまで背負う必要はない。汚れるのは、シグナム達の役目だ。

 そして、理由はもうひとつ。はやて達のためならばいくらでも汚れてみせる覚悟はあるが、シグナムは、自身が汚れる様を見られたくはなかったのだ。はやてには、はやて自身が知るシグナム達だけを見ていて欲しかった。夜天の書の記憶を受け入れたはやては過去のシグナム達を知ってしまっているが、今のシグナム達をそれと重ねてほしくなどなかった。

 いくら汚れようとも、いつかはそれを雪ぎ落としたいと願っているのだから。

 そうして、胸を張って隣に並び立ちたいと思っているのだから。

 

「自分勝手なことだな。……ふふっ、これが人になるということですか、颯輔」

 

 微笑を浮かべ、シグナムは天を仰ぎ見る。

 黒い月が妖しげに輝き、ただ静かに全てを見下ろしていた。

 

 

 

 

 ディアーチェは闇夜の中で紫天の書を開き、目的の頁を開いた。記された術式を起動し、走らせる。周囲に黒剣を並べると、ゆっくりと狙いを定めた。

 ディアーチェが見据える先には、夜天の融合騎(リインフォース)融合(ユニゾン)した颯輔の姿があった。柔らかな栗色の髪は忌々しい銀に染まり、深い夜のようだった瞳は紅に薄汚れてしまっている。一刻も早くその穢れを払い落したかったが、颯輔は頑なにリインフォースを手放そうとしなかった。

 何かを訴えながら飛ぶ颯輔へとレヴィが追い付き、雷電を乗せた斬撃を見舞う。一度でも足が止まれば、シュテルの番だ。シュテルを操作し、炎弾と炎熱砲で動きを完全に縫い止める。そうして、ディアーチェは黒剣を解き放った。

 闇夜よりもなお深い黒が翔ける。黒剣は薄くなった障壁を断ち、うち一本が颯輔の胸へと突き刺さった。

 颯輔の身体が衝撃で吹き飛び、苦痛に表情を歪めてみっともなく悲鳴をあげる。それを目と耳に入れただけで、ディアーチェは陶然たる面持ちになった。

 

「ああ、兄上、いったいいつになったら諦めてくださるのですか。この布陣、今の兄上ではどう足掻こうとも破れませぬよ」

「それ、でも……!」

 

 颯輔が黒剣を引き抜き、小脇へと投げ捨てる。漆黒の魔力がそこに集うと、まるで最初から何事もなかったかのように傷口が綺麗に塞がった。

 だがそれだけだ。

 急ごしらえの調整のためか、本来の調子を取り戻しているとは到底言えないリインフォース。そして、一向に起動させる気配のないナハトヴァール。颯輔は障壁を張り、それでも破られ攻撃を受けながら、ただ飛び続けているだけだった。

 もしもナハトヴァールの起動を()()()()()いなかったのならば、いくらか攻撃を弾くことができただろう。もしも颯輔ではなくリインフォースが表に出ていたのならば、本調子ではなくともこれほど一方的な展開にはならなかっただろう。しようと思えばそうできるにもかかわらず、颯輔はひたすらに声をあげるのみ。

 しかしその声は、ディアーチェには聴こえていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『――――』

 

 そして、もう一人。颯輔の他に、ディアーチェへと言葉をかけ続けている者がいた。

 視線を感じ、ディアーチェはそちらへと目を向けた。向けられているのは、感情の失せたシュテルの目。躯体は紫天の書を介してディアーチェが直接操作しているが、肝心の中身――精神まではそうではない。今にも躯体の制御を取り戻そうと、紫天の書の支配に抗い続けていた。

 

『――――』

 

 そうしながら、ディアーチェに念話を送り続けて来るのである。流石に鬱陶しくなったディアーチェは、レヴィを颯輔達へと差し向け、黒剣を放ち続けながらシュテルに応じた。

 

『ええいっ、いい加減喧しいぞシュテル!』

『やっと話す気になってくれましたか。実は、八方塞がりで困っていたのです。颯輔達は、見てのとおりですからね』

『白々しい。して、何用か』

『単刀直入に言わせてもらいます。颯輔の援護に回りたいので、躯体の制御を返してもらえませんか?』

『ほう……』

『ああ、失礼。私としたことが、間違えてしまいました。貴女の敵に回りたいので、躯体の制御を返してもらえませんか?』

『狂うたか、シュテルよ』

『いつまで狂ったふりをしているのですか、ディアーチェ』 

『かっ、何を言うかと思えば……』

『滑稽ですね、ディアーチェ。貴女はいったいいつまでこのようなことを続けるつもりなのですか』

『……何が言いたい』

『颯輔のためと言いながら、何故颯輔が望まぬことをするのかと、そう訊いているのですよ』

『知れたことを訊くでない。兄上の言うようにさせては、いつか兄上はその重荷に耐え切れずに折れてしまおう』

 

 颯輔は安定を求め、時空管理局へと恭順を示すだろう。逃亡など――ましてや反抗などは考えもせず、謂れなき罪を償う道を選ぶはずだ。そうしていつか、かつてのような生活に戻れると思っているのだ。

 しかしそんなことは在り得ない。

 ディアーチェは、悪意というものをこれ以上なくよく知っている。正義の旗など、鼻をつく悪意を隠すための香水でしかないのだ。笑顔で近づいて来る者ほど胡散臭い者もいない。颯輔をそんな者達に使い潰されるのは、我慢がならなかった。

 八神颯輔は紫天の王。八神はやては夜天の王。どちらも、世界を変えるほどの力の持ち主だ。そんな者達が組織の下に入ればどうなるか。互いの存在を引き合いに出され、利用されることになるのは火を見るよりも明らかだった。

 

『それは確かに。しかし、ディアーチェの唱える方法は、颯輔の全てを否定するものです。貴女は颯輔へと王の座を譲りました。ならば、我らは王である颯輔の意思を何よりも尊重すべきではないのですか。颯輔の選ぶ道を共に行き、その歩みを支えるべきではないのですか』

『王が道を踏み外そうとしているとき、それを正すのも我らの役目であろう』

『笑わせないでください。ディアーチェ、貴女は道を正しているのではありません。颯輔のためと言いながら、貴女の望む道を強いているだけです』

『貴様――』

『怖いのでしょう? 自分が選ばれないことが。孤独の闇に戻ることが。貴女は、八神はやてに敗れて捨てられるのを恐れているだけです。八神颯輔が愛しているのは八神はやて。八神はやてが生きていては自分は見向きもされないと、そう考えているのでしょう?』

『……黙れ』

『もう一度言いましょう。滑稽ですね、ディアーチェ。紫天を統べるべく生み出されたはずの貴女が、小娘一人の感情も御しきれていない。そして、何も見えずに聞こえてもいないのですから』

『……黙れと言っておろう』

『ええ、ええ、黙りますとも。ですが、最後にこれだけは言わせていただきます。この場で颯輔のことを信じていないのは、貴女一人だけですよ、ロード・ディアーチェ』

『失せろ……!』

 

 ディアーチェはシュテルとの念話を切り、そして、紫天の書の力を行使した。理のマテリアルへの魔力の供給を止め、活動を停止させる。発動中の魔法も掻き消え、躯体の維持も放棄されたシュテルは、吊り糸が切れた人形のように墜落を始めた。

 

「シュテルっ!」

 

 突然の出来事に、颯輔達が付き纏うレヴィの猛攻を受けつつもシュテルの元へと飛んだ。躯体が魔力素へと還元され、間もなく完全に消え失せるというのに、颯輔達は必至でシュテルを受け止めていた。

 颯輔達の腕にシュテルが抱かれたのは、ほんの数秒のことだった。間もなく颯輔達の腕から緋色の光が漏れ出し、シュテルの姿が完全に消え去る。無論、消滅したわけではない。ディアーチェの持つ紫天の書の内へと戻ってきただけだ。だが颯輔達は、ただそれだけにもかかわらず、何かの感情を込めた視線をディアーチェへと送ってきた。

 胸が痛んだ。

 颯輔にそんな目で見られたくはなかった。

 

「あれ? シュテるん戻しちゃったの?」

 

 颯輔達を追い回していたレヴィが、ディアーチェの傍へと現れた。小首を傾げ、不思議そうにしている。薄紅の瞳に非難の色はない。ただ純然に、どうして戦力を減らしたのかと疑問に思っているようだった。

 ディアーチェは「ああ……」と力なく答え、レヴィを見た。

 レヴィは、ディアーチェの命に背くことがない。言いつけを守って待つこともでき、要望通りに動くこともできる。そこに、嫌々従っているという風はない。手を焼かせることもあるが、ぴたりと方向性が合っているような、そのような間柄だ。

 一方で、シュテルは違った。颯輔に付き従い、何度もディアーチェの手を振り払った。紫天の書を完成させて直接命じてみても、絶対であるはずの命令にさえ抗ってみせた。故に、躯体は維持させてもそこに精神は入れず、ディアーチェが代わって躯体を操作していたのだ。

 本来は上位存在であるディアーチェには逆らえないはずのシュテルが、それを可能とするほどに変革した。

 シュテルにはあり、レヴィにはないもの。

 シュテルは経験し、レヴィはしていないもの。

 有無の差か――あるいは、性質の差か。

 

「答えよレヴィ。何故我に従った?」

「えっ、変なこと訊かないでよ。ディアーチェが命令したんじゃん」

「そうではない。何故それに賛同したのかと訊いている」

「ああ、そういうこと。えっと、いーっぱい暴れられると思ったから!」

「では、何故兄上は拒んだのだ?」

「そーすけとじゃ暴れられそうにないからだよ?」

 

 レヴィは、さも当然だとばかりにそう答えた。片手間に、向かってきた颯輔達をディアーチェが拘束し、レヴィが砲撃を放つ。颯輔達は防壁を展開してそれに耐えるも、砲撃の勢いに押し戻されて距離を空けた。

 ディアーチェは、レヴィの答えを吟味する。レヴィはすなわち、単純に激しい戦闘が期待できるからという理由でディアーチェを選んでいたのだ。命令系統は問題なく機能しているようだが、大人しく従っているのは、ディアーチェに賛同したのは、自身の性質に因るところが大きかったらしい。

 つまりは、暴れられるのならばどちらでも構わないということだ。

 

「……ならば、戦の場を用意できるのなら、兄上と共に在っても構わぬのか?」

「それならそれでもいいけどさ、でも、無理でしょ? そーすけ、そういうの嫌いだし。あっても、自分が前に立とうとするんじゃないかなぁ」

「……飽いたのならば、シュテルとでも遊んでおればよい。その、なんだ、偶にならば、我も相手にならんこともないぞ。それならば、どうだ?」

 

 言って、ディアーチェは自身の口を突いて出た言葉に驚いた。これではまるで、レヴィを説得しているかのようだ。さも自分で自分を否定しているようなものだ。

 違う、そうではないと心の中では訴えながらも、ディアーチェの口は別の生き物であるかのように言葉を紡いでいく。

 

「それに、兄上の前には、多くの敵が現れるだろう。もしも、そうした者と、共に戦わせてもらえるのならば、貴様は……」

「……ディアーチェ、どうして泣いてるの?」

「何……?」

「だって、ほら」

 

 レヴィの手が伸び、ディアーチェの頬を拭う。離したその掌には、確かに水気があった。ディアーチェも確かめるように頬に手を当てると、一筋の涙が指先に落ちてきた。

 違う。泣いてなどいない。ディアーチェは乱暴に雫を拭い捨て、強く目を閉じて頭を左右に振ってから、レヴィを見据えた。

 

「レヴィ。しばしの間、貴様の力を我に預けよ。決着をつける。それから、どう転んでも文句は言うでないぞ」

「……ん、おっけー」

 

 にかっと笑ったレヴィの躯体が解け、光に消える。力のマテリアルの存在が、紫天の書の内へと確かに戻ってきた。

 こうして、紫天の書には三基のマテリアルと融合騎の力が宿った。足りないのは、動力である颯輔だけ。ディアーチェは紫天の書を操作しながら、乱れた心を整理して前を向いた。

 

「ディアーチェ……?」

 

 そこには、ここでの戦闘とも呼べない戦闘が始まってから、もっとも距離を詰めた颯輔達がいた。数歩前へと進み、手を伸ばせば触れ合えそうなほどに近い。だが、ディアーチェがシュテルとレヴィを戻したことに困惑しているのか、颯輔達は戸惑っているようだった。

 

「兄上。どうあっても意思を曲げるつもりはないのですか?」

「それは、うん、ないよ」

「我も同じです。ですから、そろそろ決着をつけましょう。どちらも譲らぬのであらば、敗者が勝者に従うのみ。その方が分かり易いというものです」

「だけど、それは……」

「……そうやって、立ち塞がるモノ全てに言葉をかけるおつもりですか。そのような、言葉で説得されるようなモノなど、そもそも障害にもなり得ません。何があっても意思を押し通すと言うのであれば、時には力を示すことも必要となりましょう。そして、今こそがそのときなのですよ」

「…………」

「心配せずとも、決闘には公平なる条件を敷きましょう。兄上には夜天の融合騎のみ。対し、こちらにはシュテルとレヴィにユーリ。我ながらこれは不公平というもの。しかし丁度、半分に割ることのできる頭数です」

 

 言って、ディアーチェは紫天の書を操作した。ユーリから無断で拝借していた力を返し、眠らせていた意識に覚醒を促す。ユーリの力が抜けたことで、ディアーチェの翼は元の形を取り戻し、闇夜を閉じ込めたかのような色合いへと染まり、そこに緋色と水色が混ざり合った。

 ユーリはすぐに目を覚まし、瞬時に状況を把握したらしく、躯体を形成し始めた。颯輔達との間、ディアーチェの正面に、強い漆黒の魔力が輝く。それは、紫天の書の内に貯め込んだ魔力の半分近くを持ち去り、なおかつ、近場に漂う魔力素を枯らすほどに掻き集め、姿を具現させた。

 純白の装束が舞い、金の長髪が波を打つ。長い睫毛が震え、瞼が持ち上がった。金色の瞳に光が宿り、真っ直ぐにディアーチェを射抜く。「わたし、すっごく怒ってますよ!」と目で訴える、紫天の融合騎(ユーリ)がそこにいた。

 

「ディアーチェっ、どうして颯輔をいじめてるんですかっ! わたし、いくらディアーチェでも許せません!」

「すまぬな。しかし、故にユーリを起こしたのだ。ユーリが兄上の側につけば、対等であろう? あの翼は些か以上に脆過ぎるでな、兄上も飛び難かろうて」

「……ディアーチェ?」

「さっさと行くがいい……我の気が変わらぬうちにな」

 

 ディアーチェの言葉に困惑したユーリは、振り返りながらも飛び、颯輔達の首へと抱き着いた。

 これでいい。頭数は、丁度三対三。どちらも、王の資質を備えた者が一人に、それを支える者が二人ずつ。確かにユーリの力は大きかったが、それでも、ディアーチェにはシュテルとレヴィがいる。戦闘の素人と不調の融合騎が相手ならば、この采配が最良のはずだった。

 

『聴いていたな、シュテル』

『……よいのですか、ディアーチェ』

『構わん。貴様の掌で踊り続けてやろう。その代わり、相応の対価を支払ってもらうぞ』

『……ええ、何なりと』

『決して手を抜くな。今ばかりは我に協力しろ』

『委細承知』

 

 迷いのないシュテルの返事。話をつけながら、ディアーチェは颯輔達の様子を窺っていた。

 颯輔達の首にかじりついているユーリは、その耳元にそっと口を寄せ、何事かを囁く。すると、颯輔達は驚いたようにディアーチェを見て、続き、ユーリに視線を戻して頷いた。

 ユーリは颯輔達へと微笑を返し、自ら躯体を解いていく。そうして、颯輔達のリンカーコアへと融け込んでいった。

 銀一色に染まっていた颯輔の髪が、新たな色を帯びていく。夜天の銀と、紫天の金。二色が重なり合い、柔らかな白金の髪となった。

 そして、瞳にも変化が現れる。左の瞳は紅のままに、右の瞳は金に。真っ直ぐに向けられる視線は、今まで以上に力強かった。

 最後に、翼。漆黒の翼は形を失い、不定形となって重なり広がっていく。炎のように揺らめくそれは、燃えるような赤色をしていた。

 大いなる翼を纏いし者。

 夜天と紫天――双天を統べる王。

 その名に恥じない魔力を身に宿し、颯輔は言った。

 

「わかった。ちゃんと戦うよ。そして、必ずディアーチェ達を連れて帰る」

「ただで負けるつもりなど毛頭ありませぬよ。兄上、覚悟を」

 

 一言だけ交わし、そして、今度こそ戦端を開いた。

 ディアーチェが魔法を選択し、シュテルが術式を制御してレヴィが魔力を運用する。黒剣、炎剣、雷剣がそれぞれ十本、瞬時に展開されて牙を剥いた。

 迫る剣群に、颯輔達が選んだのはやはり防御。前面に漆黒のベルカ式魔法陣を展開し、計三十本の剣を苦も無く受け止める。

 だが、それはディアーチェ達の想定通りだ。ユーリの力を上乗せしているのだから、それくらいはしてもらわないと何の面白味もない。剣を射出すると同時に距離を空けていたディアーチェ達は、剣群が突き立った防壁へと砲撃を放った。

 漆黒の極光が伸び、防壁に直撃する。砲撃は先にあった剣群を巻き込み、大きな魔力爆発を巻き起こした。

 当然、この程度で終わるわけがない。ディアーチェ達はそれぞれが別々の術式を立ち上げ始めた。展開されていく漆黒の魔力弾。そして、唸りをあげる雷の槍。シュテルは周囲の魔力の集束を始め、次撃に備える。ディアーチェはレヴィから魔法の制御を受け取り、爆煙に向け目を凝らした。

 突風が巻き起こり、爆煙が吹き払われる。魄翼が宙を叩き、颯輔達が上空へと舞い上がった。その進路上へと目掛け、ディアーチェは引き金を引く。魔弾と雷槍が解き放たれ、颯輔達を狙った。

 ディアーチェが二つの魔法を制御して颯輔達を追う一方で、シュテルの集束が完了する。集束した魔力をレヴィが駆け巡らせ、シュテルが術式を起動した。

 ディアーチェ達の全面へと特大のベルカ式魔法陣が描かれ、膨大な魔力が渦を巻く。三つの頂点へと姿を現すそれは、漆黒、緋色、水色の三色の特大魔力球。ディアーチェ達それぞれの、極大魔法だった。

 追尾していた魔弾と雷槍を振り払い、あるいは防いで見せた颯輔達が、目を見開く。

 

「紫天に堕ちよ――」

 

 そして、極大魔法が解き放たれた。

 業火がうねり、蒼雷が瞬く。二色の集束砲撃は真っ直ぐに突き進んで颯輔達を飲み込み、そしてそこへ、深淵の闇が落ちた。

 それは、全てを無に帰すための魔法だった。暴走した守護騎士達を、あるいは夜天の融合騎を、微塵も残さず滅ぼすための魔法。ともすれば、一国にのみ止まらず、その星ごと崩壊させてしまうような魔法だ。ディアーチェ達に放つことのできる、最大の火力である。吹き荒ぶあまりの爆風に、ディアーチェ達は思わず目を細めた。

 ――しかし。

 

『ほう……』

『うっへぇ~、あれも耐えちゃうんだぁ』

「あれがユーリの――いや、兄上の資質か」

 

 闇が晴れゆくその中には、揺らめく炎が燈っていた。炎が大きく燃え上がるようにして、魄翼が左右に開く。そこには、きょろきょろと辺りを見渡し、ほっと胸を撫で下ろす颯輔達の姿があった。

 颯輔達の姿を見止めて、ディーアチェ達は次なる魔法を選択する。渾身の一手は耐え抜かれてしまったが、瞬間火力が駄目ならば別の手を試すだけだ。すなわち、継続的なダメージ。颯輔達の防壁を斬り裂いて見せた、剣の大軍勢だ。

 ばらばらと紫天の書が捲れ、目的の頁を開く。剣の展開はシュテルとレヴィに任せ、ディアーチェは颯輔達を拘束すべく、幾条もの鎖を放った。

 無論、颯輔達も黙って捕らわれるのを待ってなどいない。翼をはためかせ、ディアーチェ達へと向かってきた。生物のように蠢く鎖を綺麗に避け、ただただ前へ。向かいくる颯輔達に、ディアーチェ達は剣の大軍勢を差し向けた。

 だが、今度の颯輔達は、それを防御しようとはしなかった。翼が大きく広がり、剣と同数の魔弾を従える。漆黒の魔弾が射出され、剣の大軍勢とぶつかり合った。

 総数は千を優に超える剣と魔弾。ぶつかり合ったそれらは互いの爆発で膨れ上がり、眩い光がディアーチェ達の視界を塗りつぶした。

 

「ディアーチェっ!」

 

 颯輔の声が耳を打つ。

 離脱を図る前に、頬に風が当たる。

 そして、微かな衝撃がディアーチェ達を襲った。

 

「やっと、捕まえた。もう、こんな危ないことしちゃあダメだぞ?」

 

 少しだけ上から降ってくる優しげな声。

 ディアーチェ達は、颯輔達に抱き止められていた。

 ディアーチェ達の手から、紫天の書とエルシニアクロイツが光に包まれ消えた。

 

「……ふっ、ふふ。我とレヴィを相手にし、たった一人で立ち向かってきた方の台詞とは思えませぬな。それに、我らと共に消え去ろうとしていたはずでは?」

「うっ。それは……ディアーチェ達がそういう生き方しか選べないんなら、今もそうしようとしていたかもしれないけど……だけど、リインフォース達と話して思ったんだ。リインフォース達もそういう存在だったけど、ちゃんと変わることができた。だからきっと、ディアーチェ達も変われるはずだって」

 

 颯輔達の右手が動き、ディアーチェ達の頭をそっと撫でる。

 ディアーチェ達は颯輔達の胸へと両手を置き、そっと頭を預けた。

 

「つくづく、甘い……」

「でも、その甘さを捨てたらそれは俺じゃあないだろう? 確かに結果を見れば、俺は今までの主と同じようなことをしてきたし、させてきたよ。だけどさ、それでも、八神颯輔は今までの主とは違うんだって、そう思ってもらいたいから」

「きっと、後悔しますよ……?」

「はは、あのときああすればよかったって、そう思うことはあるかもしれないな。……でもさ、ディアーチェ。俺は、今誰かを泣かせるより、後になって悔やんだ方がずっといいって思うんだ」

 

 穏やかな声が耳に心地いい。

 確かな鼓動が温もりとなって伝わってくる。

 そして、気が付いた。

 

「ならば、そうなってしまわぬように、我らが貴方を支えましょう。我らは、貴方が望む貴方だけの力です」

「……ありがとう、ディアーチェ」

 

 自分はきっと、こうしてもらうことができればただそれだけでよかったのだと。

 

 

 

 

 淡いミントグリーンの魔力光が満ちる部屋で、リンディは静かに窓から外を見上げていた。数分ほど前にシグナム達と闇の欠片との激闘が終わり、夜空は静寂を取り戻している。だが、ディアーチェ達によって展開された結界は残ったままだった。

 部屋の中には、リンディとシャマルの呼吸の音と、子供達三人の寝息の音しかない。フェイトは治療の際中に気を失うようにして眠ってからそのままだ。シャマルによって治療を施されたクロノとなのはの二人は、流石に疲れが祟ったらしく、床に座って壁に背中を預け、仲よく肩を寄せ合い舟を漕いでいる。空いているベッドへと運ぼうかとは思ったが、起きている間は「全てが終わるまではここにいる」と聞かなかったため、その時が来るまではそっとしておくことにしていた。

 一方で、シャマルはフェイトの治療を休まずに続けていた。フェイトの応急処置を終えてから、クロノとなのはの二人の治療に回りはしたが、それが済み次第、すぐにフェイトの治療に戻っている。時折呻いていたフェイトも今は穏やかな呼吸となっているため、治療自体は上手くいっているのだろう。その点に関しては、守護騎士であるシャマルの実力を疑ってなどいない。事実、見るに堪えなかった肌はすでに健康的な色合いを取り戻しつつあった。

 残るはやてとシグナム達は、激闘が終わってからも変わらず外に待機していた。はやてからの念話で連絡を取り合いはしたが、その際にリンディがそう命令したというわけではない。颯輔達が帰って来るまで待っていると、自らそう言ってきたのである。

 シグナム達の戦いぶりは、はっきり言って、リンディの想像を超えた別次元のものだった。全てを目に収めたわけではないが――リンディの目で追いきれる様な戦いでもなかったのだが――あれは、管理局最強と謳われていたグレアム達の全盛期ですら及ばない領域のものである。それほどのものを繰り広げても人を待つ余裕があるというのだから、その規格外っぷりを思い知らされた気分だった。そして、黒い月の内部では、それ以上に熾烈な戦いが繰り広げられているに違いない。

 そうした力を持つロストロギア『夜天の書』と、ロストロギア『紫天の書』。これら二つのロストロギアの力が管理局に所属するのならば、これから後の世は、きっと明るいものとなるだろう。

 だが、同時にリンディは思うのだ。

 もしも二つのロストギアが、正しく力を揮えなかったのならば。正義ではなく、悪意に飲み込まれてしまったのならば。そのとき次元世界は、どうなってしまうのかと。

 だからこそ、誰かが見守り導かなければならない。ならばそれは、本人達以外に唯一真実を知る、リンディ・ハラオウンの役目だろう。それが、闇の書事件を見届けたリンディ・ハラオウンの責。八神颯輔を殺し、彼らを焚きつけたリンディ・ハラオウンの贖罪だ。

 もっとも、その前提条件として、まずは颯輔達に無事に帰って来てもらう必要があるのだが。

 先行きの見えない険し過ぎる道に不安を覚え、リンディは天頂に座す黒い月を見上げる。静かに輝いているだけだったはずのそれは、疲れがとうとう目に来てしまったのか、脈動しているようにも見えてしまった。

 

「これは……」

 

 しかしそれは、錯覚などではなかった。確かに月が脈打ち、何かが生まれ出でようとしている。リンカーコアの感覚を研ぎ澄ませてみれば、その異変は明らかだった。結界内、アースラの外に満ちる咽返るほどに濃密な魔力素が、上へ上へと昇っていっているのだから。

 おそらくその魔力は、数値だけを見れば現実を疑いたくなるような、あるいは恐怖に震えあがるようなものだっただろう。だが、リンディはその魔力を知っていた。それは、どこまでも静かで、安らぎを与えるようなものだった。

 脈動していた黒い月が次第に薄れていき、構成していた魔力がその中心へと集まっていく。周囲を覆っていた結界からは圧迫感が消え、外界の様子が窺えるほどの透明感を持ったものとなった。

 数え切れないほどの星々が輝き、そして、大きな満月が淡い光を注ぐ夜の空。その中心には、ひとつの人影があった。

 強化もしていないリンディの視力では、その人物の顔を判断することなど到底できない。精々、人のようなシルエットと、大きく広がる陽炎のようなものが見える程度だ。

 大気に満ち満ちた魔力が集う先には、その陽炎がある。赤色をしていたそれは、魔力を吸い集めるうちに光を強め、やがて、純白に近いものとなった。

 月を背負いながら、それよりもなお明るく輝く二つの光。それは、あまりに膨大な魔力を宿した二枚の翼だった。

 夜天に輝く光を目指し、甲板に控えていたはやて達が空を翔け昇って行く。全てが無事に終わったらしいことを悟ったリンディは、シャマルの方へと振り返った。

 

「あなたは、あそこへ行かなくてもいいの?」

「ええ。まだフェイトちゃんの治療が終わっていませんから」

「でも、ほとんど終わっているのでしょう? なら、少しくらい休憩のつもりで行ってきてもいいのよ?」

「自分の患者を放ってどこかへ行く医者なんていませんよ。それに……」

「それに?」

「颯輔君は、ちゃんと帰って来てくれました。だったら、好きなだけ会えるじゃないですか。これからも、私達の時間は続いていくんですから」

「……そうね」

 

 フェイトから目を離さずに治療を続けるシャマルの頬には、伝い落ちていく二筋の跡がある。しかし、同時に柔らかく微笑んでもいた。

 リンディは力を抜くように息を吐き出し、窓辺を離れる。すやすやと寝息を立てる子供達のそばに寄ると、まずはなのはを抱え上げた。

 

「子供達を部屋に寝かせてきます。フェイトのこと、お願いしますね」

「はい。任せておいてください」

 

 シャマルと言葉を交わし、リンディは仮眠室を目指して廊下へと出た。

 たった二日間の出来事のはずなのに、まるで数ヶ月、数年の時を過ごしたような疲れがある。

 しかしそれは、あながち間違いではないのかもしれない。

 長らく続いた『闇の書事件』は、今度こそ終わりを迎えたのだから。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 桜の季節

 

「――とりあえずは、こんなところかしらね」

「…………」

 

 アースラの一室。颯輔の対面の席に座っていたリンディが、踊らせていた指を止め、満足そうに頷いた。対する颯輔は、あたかもテーマパークのキャストの着ぐるみから中の人が出てくるのを目撃してしまった子供のように、残酷な現実を知ってしまって落ち込んだような顔をしていた。

 

「どうしたのよ、そんな顔をして」

「いえ、あの、本当にこんなのでいいのかなって思いまして……」

「何よ、今さら。それとも、正直に一から十まで報告してもいいのかしら? それで困るのは、あなた達の方でしょう?」

「それはまあ、そうなんですけど……」

 

 「はっきりしないわねぇ」と呆れた様子のリンディに、颯輔は重たい体から力を抜いて、現実から目を背けるようにして視界を閉ざした。

 一連の騒動を終えてから、数日が経っていた。

 ディアーチェ達を連れ戻した後、颯輔ははやて達に囲まれ、様々な約束事を一方的に取り決められた。一人だけで悩まないこと、自分だけを犠牲にしないこと、何かあればすぐに頼ることなど、数え上げればきりがない。そうするうちに、いつの間にか誰もが疲れて眠ってしまったようで、翌朝、目を覚ましてみれば、アースラの談話室で颯輔を囲むようにして一塊になっていた。

 翌日には、管理局の本局から技術部の人員が派遣され、アースラの補修が始まった。本来は、武装局員が山ほど乗り込んだ次元航行艦の大艦隊が送られてくる予定だったようだが、リンディが鶴の一声でそれらを追い返してしまったらしい。「必要な時にいないくせに、後から来て大きな顔をされてもねぇ」とのことだった。

 颯輔はといえば、アースラが航行できるようになるまでの間、誰との面会も禁じられ、ディアーチェ達と共に隔離された。そして、改めてリンディからの聴取を受け、つい先ほどまで、共に細部の事情を()()()()()に追われていたのである。不老不死の魔法やら無限の魔力やら、颯輔が何故今も生きているのかなど、表沙汰にはできないことが多々あったためだ。

 颯輔が知識に溢れ返った頭を使いこなせず悩ませたのに対し、リンディの手腕は、これは酷いの一言に尽きた。管理局の中将ともあろうものが、平気な顔をして巧妙な嘘をすらすらと並べ立てていくのである。ギル・グレアムといい、管理局の上層部はこうも真っ黒なのかと先行きが不安で仕方のない颯輔であった。

 リンディは、肝であった颯輔の存在の尽くを利用した。闇の書の主であった八神颯輔は、先の闇の書事件にて死亡。今いる颯輔は、八神颯輔の生体情報を模した『八神颯輔(王のマテリアル)』。記憶も人格も同じにみえるが、ただそれだけで、同一人物ではなく限りなく近い魔法生命体。蘇った云々ではなく、闇の書の残滓から生まれた別人ということにしてしまったのである。となれば残るは無限の魔力だが、そこは魔導炉を内包しているためただ単純に魔力量が途方もないだけ、ということにした。

 管理局にはロストロギアである紫天の書を解析することが不可能であるため、結局のところ、言った者勝ちである。それでも闇の書の主とは言われるだろうが、颯輔に問うことのできる罪は、実質は今回の一件のみとなるだろう。先の闇の書事件の分は、すでに八神颯輔(闇の書の主)が支払っているのだから。

 だが、颯輔はリンディの案を拒んだ。

 今の存在している颯輔の意識は、紛れもなく以前のままの八神颯輔である。颯輔は、八神颯輔のままでいたかった。例え罪が重くなろうとも、はやて達のために命を賭した自分を、辞めたくはなかった。これ以上、自分から逃げたくはなかったのである。

 颯輔は、ナハトヴァールと生体融合を果たした時点で魔法生命体となっている。闇の書の暴走体ならば、これまでどおりに転生したということにしてしまえばいい。そうすれば、不老不死の魔法も、無限の魔力も、闇の書というネームに隠れてくれるだろう。闇の書の根幹は颯輔達にあるのだから、真実味のある話だ。はやて達に預けてしまった罪も、いくらかは颯輔の元に返ってくるはずだった。

 リンディは、そう提案した颯輔を、生き辛い性格だと評した。

 

「あなたねぇ、仮にも次元世界に災厄を振り撒いた闇の書の主だったのでしょう? そして今は、紆余曲折あって紫天の王。大罪人でベルカの王様なら、もっとそれらしくしゃきっとしたらどうなの?」

「とは言われましても、俺、ちょっと前までは普通の高校生のつもりでしたし……」

「普通の高校生は世界を滅ぼす様な力を持っていたりしません。自前の魔力にしたって、いったいどれだけリミッターをかけたと思っているんですか」

「お手数おかけします……」

「それよそれ、その態度がダメなのよ。もっとふんぞりかえって堂々としてないと、すぐ悪い人につけこまれちゃうわよ?」

「いや、その態度もどうかと……」

「またそんなこと言って。言っておくけれど、はやてさんだってしゃんとしてたのよ? それを、あなたがそんなのでどうするんですか。それともあなた、えーと、何て言ったかしら……そうっ、内弁慶! で、合ってるわよね? とにかく、それだったの?」

 

 リンディの止まらぬ口頭責めに、颯輔はますます小さくなっていった。颯輔が管理局やリンディに多大な迷惑をかけたのは、動かざる事実。なんだかんだあっても正常な善悪観念を持ちあわせている颯輔からすれば、あれだけのことをやらかしておいて大きな顔をしたままなどということはあり得なかった。

 だが、どうもリンディはそんな颯輔の態度が気に入らないらしい。それも、数日顔を突き合わせていたためか、はたまた恨み辛みを発散しているだけなのか、遠慮というものが一切ない。颯輔が小さくなるのを見て、ますますヒートアップしていくのである。酷い悪循環がここに完成していた。

 リンディの言葉に曖昧に返事をしながらも、年上の女性に叱られるという状況に懐かしさを覚えていると、颯輔の胸の内でざわつくものがあった。

 

『兄上が下手に出ておれば、女狐風情がいい気になりおって……!』

『まったく酷い言われ様ですね。だいたいそのとおりであるのが余計に腹正しいです』

『ねえねえこの人やっちゃう? やっちゃうの?』

『やっちゃいましょう!』

 

 颯輔の内、リンカーコアを間借りしている状態のディアーチェ達だった。紫天の書の汚染の洗浄作業に追われているはずが、いつからか外界に対して聞き耳を立てていたようである。ディアーチェとレヴィとユーリなど、今にも躯体を具現化させんばかりだ。唯一冷静であるはずのシュテルが悪乗りしてさりげなく罵倒してくるあたり、颯輔の心労をさらに募らせた。

 

『やめなさい。ほらほら、みんな他にやることあるだろ?』

『ですが兄上っ!』

『もう飽きたぁ。そーすけー、ボクそろそろ暴れたいよぉー』

『二人共、あまり颯輔を困らせてはいけませんよ』

『あーっ、シュテルずるいです! 颯輔、わたしもいま止めようと思ってたんですよ? ほんとですよ?』

「ちょっと、ちゃんと聴いているの?」

「も、もちろんです」

 

 内外からステレオで響く声に、颯輔は頭を抱えたくなった。いっそのこと全てを捨てて窓から飛び出してしまおうかとも思ったが、そう思考した途端に、『それじゃあわたしの出番ですね!』と心を読んだユーリが弾んだ声をあげる始末である。『ユーリ、抜け駆けは許さぬぞ!』やら、『私もお供しましょう』やら、『じゃあ皆で競争しようよ!』やらと声が姦しく続く。颯輔は、多重人格がどうとかそんな生半可なものでは断じてなく、もっと深刻な何かを味わっていた。

 ディアーチェ達がなぜこのような状態にあるのかといえば、それは、彼女達の性質が原因だった。ディアーチェ達紫天の書のマテリアルは、その本来の運用法の特性上、それぞれが融合騎(ユニゾンデバイス)に近い性質を有している。故に、デバイスでいう待機状態となる場合、本人達の希望もあり、颯輔のリンカーコアへと潜り込んでしまったのである。居心地の方は、かなり快適らしい。

 そして、颯輔と共に在ることを選んだディアーチェ達だったが、その躯体は、病とでもいうべき問題を抱えていた。紫天の書の汚染である。これがあるうちは、ディアーチェ達の思考は危うい方向に偏りがちで、これからの生活では不便をする。そのため、完全な除去は難しくとも、少しでもと汚染の洗浄に取り組んでいたのだ。洗浄が終わった後、颯輔の精神リンクを介して夜天の書とのパス繋げば、システム面は創造当時のものに回復する見込みだった。

 さらに、颯輔個人にとっての問題がもう一つ。ディアーチェ達との精神リンクが強く、そして、融合(ユニゾン)状態に近い所為か、この状態では互いの思考が筒抜けなのである。どれほど密接な関係にあっても、やはり秘密の一つや二つは持ち合わせているもの。ディアーチェ達からは反対の声が大きくあがるだろうが、いずれはどうにかして心のプライバシーを確保したかった。

 

『とにかくごめん。今はハラオウン提督と大事なお話をしてるから、また後でな』

 

 手が空いてさえいれば、颯輔にもディアーチェ達を手伝うことはできる。だが、未だに並列思考でさえ覚束ない颯輔だ。せめてディアーチェ達の話し相手くらいは勤めたかったが、そう甘やかしてばかりもいられない。あがる非難の声に後ろ髪を引かれつつも、颯輔はリンディとの話に集中することにした。

 

「またあの子達? あなたも大変ねぇ」

「いえ、そんなことありませんよ」

 

 目尻を下げたリンディに、颯輔は頬を掻きつつ答えた。だが、リンディはほどなくして穏やかな表情を戻し、静かに颯輔を見やった。

 

「……いい、颯輔君、よく聴いて。確かに、あなた達は誰よりも強いかもしれない。だけど、ただ強いだけでは守れないものもあるの。それは、分かるかしら?」

「……ええ」

 

 無限の魔力。古今東西の魔法。鍛え上げられた戦技。それらを十全に発揮できるのならば、おそらく、颯輔達に敵う存在などありはしない。

 しかし、リンディが言っているのは、直接的な戦力の話ではない。その程度のことは、颯輔にも理解できていた。

 

「戦闘になれば、あなた達は誰にも負けないでしょう。でもね、相手があなた達と同じ戦場に立ってくれるとは限らない。戦闘が始まる前に、あなた達の弱い所を狙って勝負を決めてしまうはずよ。少なくとも、私ならそうするわ」

「立場、ですか」

「そう。闇の書の主だったという事実。闇の書事件の加害者側だったという事実。それは、確実にあなた達の立場を悪くするわ。あなた達が元のような生活を望むのなら、尚更ね。そして、それはきっと、この先ずっと付き纏う問題よ」

「…………」

 

 知らず、颯輔は膝の上で拳を握りしめた。

 颯輔は、自分達の身柄を管理局に預けることにしている。次元世界に手を広げている管理局は、慢性的な人員不足に悩まされているのだ。それこそ、本人に更生の意思があるのならば、犯罪者ですら局員として迎え入れるほどに。そこで社会的信頼を得ることができれば、人並みの生活を取り戻すことも不可能ではなかった。

 だが、闇の書を知る者ならば、颯輔達に真っ当な生活を許しなどはしないだろう。現に、はやて達は少なからず冷遇を受けていると聞いている。当然だ。守護騎士であるシグナム達や暴走体であったリインフォースは、闇の書の象徴とも言える存在なのだから。

 しかし、颯輔には闇の書の主という肩書がある。消滅したと思われていた闇の書の主が生存していたと世間に知れれば、その目はおのずと颯輔へと向くだろう。それを利用すれば、はやて達の風当たりもいくらか納まるはずだった。

 罪を背負い、分け合い、雪ぎ、そしていつの日か。

 しかしその過程には、これまでほど強大ではないにしろ、時間のかかる障害があって。

 

「……表立ってではないし、大したこともできないでしょうけど、それでも可能な限り、私も力を貸しはしましょう」

「いいんですか……?」

「でも、勘違いはしないで。私だって、善意だけでそうするわけじゃあないのよ。私には私の目的があって、あなた達に恩を売っておけば、後々大きくなって返って来るだろうって、そう思ったからよ。……それに私、あなた達のこと、あんまり好きじゃあないもの」

 

 最後には視線を机に落としてしまったリンディだが、その言葉に大きな嘘はないだろう。これまでのことを考えれば、リンディ・ハラオウンという人間が、闇の書に対して好感情を抱くはずがない。どころか、そんな人間の方が稀有というものだ。

 それでも、それをはっきりと伝えてくるあたり、不器用ながらも『いい人』だと、颯輔は思った。

 

「もちろん、俺達でよければ、できるだけ力になりますよ。……でも、結構はっきり言っちゃうんですね」

「ええ。だって、あまり頼りにされても困るもの。私はきっと、あなた達を最優先にはできないから。他に何かあれば、きっとそちらを選んでしまうわ。私にだって、あなたと同じように大切なものがあるのよ。……部隊の保有制限もあるけれど、そういう自分が嫌で、はやてさん達は受け入れなかったの。ああ、でも安心して。はやてさん達の上長、私とは違って完全に実力主義の人だから。そのぶん人使いは荒いんだけど、たぶん、アー()スラ()よりも居心地はいいはずよ」

「えーと、レティ・ロウラン提督でしたか?」

「そう。一応、私の親友というか、腐れ縁というか、とにかく、局内では信頼できる人間よ。今日明日ではないけれど、あなたもそのうち会う機会はあるでしょうね。今期からまた海に出てくるけど、それまでは運用部にいたから、懇意にしておいた方がいいわ。敵に回すと怖いけど、うまくすれば、あなた達にはない力になってくれると思うの。ああそうそう、それから、当然グレアム元帥もね」

「……グレアム元帥、ですか」

 

 呟き、颯輔は最後に見たグレアムの顔を思い出した。

 ギル・グレアム。颯輔にとっては、自分達の生活を支えてくれていた保護者であり、自分達を闇の書もろとも消し去ろうとしていた仇敵であり、そして、今現在のはやて達を守ってもらっている恩人である。颯輔との約束通り、闇の書事件を解決した手柄を使い元帥の地位に就き、手に入れた力を貸してくれているらしいことは、聞き及んでいた。

 

「あの人は、信じられない?」

「……正直、難しいですね。結局、俺は裏切られたところまでしか知らないわけですし……。もう一度会ってみないことには、なんとも言えません」

「……私も動きを探ってみたりはしていたけれど、はやてさん達に関しては、真摯に向き合っていたと思うわよ」

「はい、そう聴いています。はやて達にしたって、あからさまに拒絶しているってわけではなかったようですし。俺も、おじさんの力は必要だって、分かってはいるんですけどね……」

「どこまで話したらいいものか?」

「はい……。やっぱり誰にも話さない方がよかったって、そう思ってるくらいですから」

「あら、信用ないわね」

「そういう問題じゃあないです。ハラオウン提督に話す気がなくても、実際に言葉になんてしなくたって、欲しい情報を引き出す術は、いくらでもあるんですから」

 

 颯輔は、おどけて肩をすくめて見せたリンディの目を真っ直ぐに覗き込んだ。

 颯輔とて、伊達に闇の書の記憶を覗き見たわけではない。そこには、口に出すことも憚れるような、思い出すことにさえ忌避を覚えるような、血生臭い情報収集の方法があった。それに、相手に経験がなければ、颯輔達は蒐集をするだけで記憶そのものを引き出すことができる。そうした方法さえあるのだ。意思力の問題ではない。知っているかいないか、ただそれだけが、情報を求める者にとっての分水嶺。それに、例え紫天の書が持つ力が知られずとも、闇の書は暗いモノを惹きつけてしまう。

 リンディの顔色が白味を増していく。颯輔が一度視線を切ると、リンディは、思い出したかのように止まっていた呼吸を再開させた。

 

「……っ、あなた、そういうこともできるんじゃない」

「えっと、まあ。一応、これでも王様ですから」

「……人畜無害そうな顔して、とんだ猫かぶりね」

「ちょっ、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。とにかく、ハラオウン提督も気を付けて下さいって言いたかったんです。……何かあったら、俺かシグナム達にすぐ念話を飛ばしてくださいよ?」

「あら、私のことも守ってくれるのかしら?」

「もちろんです。大事な後ろ盾ですからね」

 

 小首を傾げて見せたリンディに、颯輔はにっこりと笑って返してやった。これから先、腹芸のひとつやふたつはできなければ話にならない。予想外の反応だったのか、リンディは詰まらなそうに顔をしかめた。

 

「シグナムさん達はともかく、あなた、よくて隔離施設入りじゃない」

「後先考えなければ、たぶん、どこにいたってどうとでもできます。リミッターだって、今なら破ろうと思えばいつでも破れますし、あってないようなものですよ」

「言うわね……。でも、そこまでされたって、私は懐柔なんてされないわよ?」

「真面目に言ってるんですから茶化さないでくださいよ。ハラオウン提督に何かあったら、お子さん達に合わせる顔がありません」

「ふうん……。そのときは、頼りにさせてもらうわ。でもあなた、分かってはいるでしょうけど、管理局に頼り切りじゃあダメよ? あんまりいいたくないけれど、管理局だって、清廉潔白とは言い難いんだから。はやてさん達が聖王教会の騎士団にも所属してるって、聴いているでしょう?」

「俺としては、聖王教会の方が怖いんですけどね……」

 

 戦乱期にあったベルカを統一した国家――聖王家を信仰する宗教団体、その名を聖王教会という。関連するロストロギアを封印保管していることもあって、ベルカに関することならば管理局よりも聖王教会の方が明るい。リインフォースの延命のために繋がりを持ったようだが、颯輔はそれが不安でならなかった。

 ベルカの世界を荒らしまわってきた闇の書は、聖王家とは特に因縁が深い。聖王家のベルカ統一を語るのに、闇の書は切っても切り離せないのだ。そして何より、闇の書は聖王家を滅亡に追い込んでいる。信者から恨まれるのは、自明の理であった。

 結局は、聖王教会にリインフォースの問題を解決することはできなかったわけだが、それでも技術や歴史の補完などの小さな対価は求められているらしい。しかし、もう問題は解決したのだからと言って、関係を切ることもできない。時空管理局と聖王教会、二つの組織に所属する大きなデメリットを飲み込んででも、得られるメリットには価値がある。それは、颯輔も理解できていた。

 

「それに、なんだかスパイみたいじゃあないですか」

「板挟みだからこそ、どちらも容易には手出しできない。そうでしょう? ……まあ、実質は管理局が独占してるようなものだけれど」

「来る者拒まず去る者追わずってスタンスらしいですからね。それに、騎士団と言っても要人警護や危険なロストロギアの回収が主だそうですし。はやて達にしたって、無茶苦茶な要求はされていないって聴きました」

「衰退したベルカの知識や技術の復興――いえ、維持や継承の方が適切かしら。とにかく、そういう保管庫的な意味合いの方が強くて、博物館なんて言われてるくらいよ。熱心な信者もいるかもしれないけれど、ベルカ史の塊を相手に滅多なことなんてできないわよ。逆に、闇の書事件が終わる度に、わざわざ本局まで偉い方が抗議に来るくらいだもの」

「でも、だからといっておいそれと信頼なんてできませんよ」

「……あなた、やっぱりちゃんと考えるタイプよね。考えたうえで間違えるし、肝心なところは出たとこ勝負なんだから、余計に性質が悪いわ」

「……やるだけやってダメだったら、そうするしかないじゃないですか」

「それで結果は出してきたんだものね。リインフォースさん達の苦労が目に浮かぶわ。……私、やっぱりあなたみたいな人、大嫌いよ」

「ものすごくはっきり言いましたね……」

「当たり前じゃない。私達が、いったいどれだけあなた達に振り回されたことか、分かってるの?」

「それについては、すみませんでしたとしか……」

「私だってもう昔みたいに若くはないんだから、勘弁してほしいわよ」

 

 ノリノリで毒舌を飛ばして来たかと思いきや、頬杖を突き、途端にやる気をなくしてしまったリンディである。その毒舌といい、なんだか聴いていたイメージと大分違うな、と思いつつ、颯輔は話を続けることにした。これから世話になるであろう相手だ。懇意にしておいて損はない。

 

「これからは、なるべくご迷惑はおかけしないよう努力しますよ。でも、ハラオウン提督、まだまだお若いじゃあないですか」

「それは、そう見えるようにいろいろと頑張ってますからね。でも、お肌に限らずあちこちボロボロよ。魔力だって、ようやく回復してきたくらいだし。……なのはさんにフェイトにあなた達。こうも立て続けに若くて優秀な人材が見つかると、隠居も考えたくなるわよ」

「いやでも、なのはちゃんだってフェイトちゃんだってまだまだ子供じゃあないですか。あの子達も、ハラオウン提督のような方がそばにいた方が安心ですって」

「……決めた。私、孫ができたら船を降りるわ。その頃なら、なのはさんもフェイトも今のクロノくらいにはなってるでしょう。ていうか、どう見ても実力的にはもう超えてるでしょうし」

「あなたにまで言われたら、ハラオウン執務官が不憫過ぎますよ……。それで、具体的に言うってことは、当てがあるんですか?」

「あら、あなたほどじゃあないけれど、クロノの周り、結構女の子多いのよ? やっぱり第一候補は不動のエイミィのようね。以前からよく一緒にいたのだけど、ちゃんとくっつき始めたの、実はあなた達のおかげだったりするのよ。多分、そろそろもう一歩進展があるはずだわ」

「お言葉ですが、そういうの、邪推ってやつじゃあ……」

「いいじゃない。女はね、いくつになったってこういう話が大好物なのよ。それに、クロノはお堅いから余計にね。……それで、あなたはどうなのよ?」

「……何もありませんよ」

「間が空いたわね」

「察してくださいってば。はやてがいたし、シグナム達もいたんですから、そんな暇なかったんですよ」

「でも、好きな人くらいはいたんじゃない? ……あっ、もしかして……うん、まあ、王様だものね、そういうのもアリよね」

「勝手に何を想像したか知りませんが、シグナム達とはそういうのじゃないですから」

「ふふん、私はシグナムさん達がどうとかなんて一言も言っていないわよ? それとも名前が出るってことは、やっぱり意識はしてたのかしら?」

「し、してませんっ」

「どもったわね。じゃあ、誰が一番好みなの? シグナムさん、シャマルさん、リインフォースさん。三人共タイプは違うけれど、ちょっとそこらを捜した程度じゃ見つけられないくらいじゃない」

「……黙秘権を行使します」

「……まさか、ヴィータさん?」

「あの、そろそろ怒りますよ?」

「やあねぇ、ただの人物調査じゃないの」

「…………はぁ」

 

 うふふと含み笑いをするリンディに、颯輔は何も言い返すことができず、大きく肩を落とした。舌戦も腹芸も、まだまだ素人に毛が生えた程度である。『我が言い負かしてみせましょう!』やら、『私と練習ですね』やら、『もう斬っちゃおうよ』やら、『颯輔が好きなのは――はぅ……』と、颯輔の内側で声が響いた。

 しかし、颯輔は肩を落としつつも、苦笑を漏らしていた。

 交渉術云々はこれから鍛えていくとしても、こうしたリンディのような存在は必要と思えた。若くして時空管理局の中将にまで登り詰め、次元航行艦の艦隊を動かすほどの発言力まで備えている。そして何より、はやてを助けようとしてくれたのだ。頼りがちになる気まではないとはいえ、後のことを考えれば、信頼できる権力者の味方はやはり心強かった。

 無論、権力という点から考えれば、元帥であるグレアムの方が望ましい。だが、まだその真意を確かめられてはいないのだ。はやて達の話を信じないわけではないが、こればかりは、颯輔自身が直接確かめなければ判断できなかった。

 

「あら、悪い顔をしてるわね」

「そんな顔してませんよ。……それより、いいんですか? そろそろ時間だと思いますけど」

 

 リンディからの聴取が始まってから、三時間あまりが経過している。颯輔は空腹を感じるような体ではなくなってしまったが、時間感覚は以前にも増して正確になっていた。

 今日は、アリサやすずかの計らいで、花見が開催される日だ。面会は禁じられているが、精神リンクまでは規制されていない――というよりもできない――颯輔である。はやて達から話は聞いており、もうそんな季節か、と思うと同時、そういうことができるようになったはやてに対し、多くの喜びと一抹の寂しさを覚えていた。

 颯輔が促すと、リンディは顎に人差し指を当て、誰かと念話を交わしているようであった。

 

「んー……そうね。向こうは、もう準備ができているみたいよ。一段落したし、今日のところはこのあたりにしておきましょうか」

「はい。それじゃあ、楽しんできてくださいね。俺達はちゃんと大人しくしてますから、できれば、はやて達によろしくとお伝えください。それから、フェイトちゃん達にも」

「何言ってるのよ。そのくらい、自分で伝えなさいな」

「えっと、伝えられないからお願いしたんですが……」

「だから、あなたも行くのよ」

「ですから…………はい?」

 

 颯輔は、耳を疑った。聞き間違いでなければ、リンディは颯輔の外出を認めたのである。今日まで、基本的には拘留室と聴取室の往復しかなかった。当然だ。颯輔は、一連の事件の重要参考人であり、首謀者と言っても間違いではないのだから。

 しかし、席を立ったリンディは、颯輔を見たまま、颯輔が立ち上がるのを待っていた。颯輔が呆けた顔を晒したのに対し、リンディは、理解に苦しむといった風だった。

 

「あのねぇ、どうして私が本局の武装隊を追い返したと思ってるのよ。メンテナンススタッフだって、信用できる子で最低限の人数にまで絞ってるんだから」

「いや、だって、俺は……」

「世間の評価はどうであれ、闇の書事件を解決したのはあなたよ。なら、それ相応の報酬がなければ、不公平でしょう? どうせこれからいくらでも苦労するのだから、今日くらいは羽目を外してしまいなさいよ」

「……正気ですか。そんなの、ハラオウン提督の立場が危うくなるだけです」

「ほんと、面倒臭いくらいに律儀ね。でも、だからよ。あなたみたいな人は、恩を仇で返したりはしないもの。先に利をあげるのだから、せいぜい、頑張って返しに来なさいな」

「……受け取れません」

「……艦長命令です。八神颯輔、ついて来なさい」

「えっ、ちょっ、待っ――」

 

 颯輔が拒み続けると、リンディは目を据わらせた。ぽうと翡翠色の魔力の光り、颯輔に手錠がかかる。手錠から伸びた鎖は、リンディの手に握られていた。

 慌てた颯輔を、リンディは鎖をぐいと引っ張って立ち上がらせた。リンディは微塵も力を緩めず、ドアを開いて廊下へと出る。颯輔が踏ん張ろうとすると、まるで、言うことを聞かない犬を躾けるが如く、強引に鎖を引いて颯輔を歩かせた。

 レヴィが暴れ回ったのは別の区画らしく、廊下は整えられていた。動力を節減しているのか、照明は一つ飛ばしで灯っているのだが、照度は十分に保たれている。幸いというべきか、目的の部屋に辿り着くまで、誰かとすれ違うことはなかった。

 颯輔の抗議の一切合財を黙殺したリンディは、一際大きなドアを開けた。ドアが左右にスライドし、室内の様相が明らかとなる。そこは、アースラの脳とでも言うべき管制ブリッジであった。

 ブリッジでは、数名の乗組員がそれぞれの席で端末を操作しながら、談笑を交わしていた。仕事に追われているといった雰囲気はなく、余裕が窺える。だが、入室してきたのがリンディと颯輔の二人であると知ると、その空気は時間が止まってしまったかのように凍りついた。

 

「……あの、どうも。その節は、ご迷惑をおかけしました」

「転移ゲート、借りるわね。私、午後は予定通りに半休を使うから、ランディ、アレックス、後はお願いするわ」

 

 とりあえず、と颯輔は頭を下げておいた。しかし、そんなものはなかったとばかりに颯輔の存在を無視し、リンディは要件を伝えるだけ伝えてすたすたと歩を進める。もうどうにでもなれとされるがままに付いて行くと、時間が動き出したのか、背後からクスクスと忍び笑いが聞こえた。

 リンディは、ブリッジに敷設された転移ゲートの前で足を止めた。リンディが手早く端末を操作すると、ゲートに転移魔法陣が描かれ、淡い光を漏らし始める。翡翠色の魔力が解け、颯輔の手が自由になった。それでも逡巡する颯輔の背を、リンディが叩くようにして押した。

 

「ほら、行くわよ」

「……わかりましたよ」

 

 促され、颯輔はリンディと共に足を踏み出した。颯輔達が転移ゲートに乗ると、輝きが広がって視界を覆い尽くす。体が目には見えない力に引かれ、浮遊感が生まれた。

 数秒の浮遊感の後に、足が地面を掴んだ。若草の感触がある、柔らかい地面である。久しぶりの感覚。だが、颯輔の意識を捕えて離さなかったのは、見渡す限りの桜色だった。

 緑の大地に太く根を張り、力強くそびえる桜の木々。競うように天へと腕を伸ばし、色づいた花を思うがままに開き、春を告げている。柔らかな風に揺れる葉音や、小鳥のさえずりが心地いい。胸いっぱいに吸い込んだ空気は清く澄んでいて、微かな甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 

「どう?」

「月並みですけど、すごく綺麗ですよ。ありがとうございます、ハラオウン提督。……でも、ついこの間までクリスマスムードだったのに、もうすっかり春なんですね。なんだか、玉手箱を開けた浦島太郎みたいな気分ですよ」

「この国の童話だったかしら?」

「はい。亀を助けた浦島太郎は、海の中にある城に招かれて、そこで楽しく過ごすんです。それで、いざ地上に帰ってみたら、いつの間にか何年も時間が経っていたっていうお話です。まあ、俺の場合は三ヶ月ですし、楽しく過ごしてたってわけでもないんですけどね」

「それでも、あなたは戻ってきた。さあ、会場は向こうよ。念のために結界を張ってあるから、安心なさい。一般の方もいるにはいるけれど、なのはさんのお家の方とか、そのお友達のお家の方とか、大まかな事情は知っている人ばかりだから。……あら?」

 

 感慨深く景色を目に収めていた颯輔は、リンディの声に気を引かれ、そちらを見やった。

 そよ風で遊ぶ桜の花びら。並ぶ木々の奥からは、喧騒の音が小さく聞こえる。その間をゆっくりと、しかし確かな足取りで、真っ直ぐに颯輔達へと近づいて来る人影があった。

 人並み以上に整った容姿。レンズの奥に覗く目は、柔らかなものだ。大きなリボンで留めたおさげが、歩を進める毎に左右に揺れている。颯輔は、目を見開いた。

 

「こんにちは、リンディさん」

「あら、美由希さんじゃない。……どうしたの、こんなところまで来て」

「エイミィが、教えてくれたんです。きっとびっくりするからって」

「ふうん……。それじゃあ、私はちょっとエイミィとお話したくなったから、悪いのだけれど、そこの人、お願いできるかしら?」

「はい」

 

 現れたかつての友人である高町美由希の存在に、颯輔は言葉を出せずにいた。その横で、とんとん拍子に話が進んでいく。『また貸しがひとつね』と念話を送ってきたリンディは、振り返りもせずに喧騒の方へと立ち去ってしまった。

 一人残された颯輔は、美由希の視線にさらされた。美由希は、颯輔を上から下まで細部をチェックするように見回している。まだ家に颯輔の衣類を残していたらしく、人前に出られる身なりをしてはいるが、何とも言えない居心地の悪さがあった。

 やがて、美由希は納得したようにひとつ頷き、朗らかに笑った。

 

「うん、やっぱり幽霊じゃない。どこからどう見ても、八神君だね。やっほ、久しぶり」

「あー、えっと、お久しぶり、です」

「ふふっ、何で敬語?」

「いや、なんとなく。……うん、久しぶり、高町」

 

 颯輔の曖昧だった笑みが、自然なものになった。

 美由希は、春らしい色合いのゆったりとしたパーカチュニックにレギンスパンツという出で立ちである。制服姿とは違い、年相応の女の子然とした中にも大人っぽさを感じさせた。初めて見る私服姿に緊張を高めた颯輔だったが、胸の内で何人かが膨れたのを感じ取り、慌てて鼓動を落ち着けた。

 

「なんか、いろいろ大変だったみたいだね」

「……んんっ。高町は、どこまで知ってるの?」

「八神君がはやてちゃん達を助けるためにいなくなって、最近ひょっこり帰ってきたってくらいかな」

「ざっくりだなぁ。それ、誰から聞いたのさ?」

「なのはとエイミィ。……そんなこと訊いてどうするの?」

「俺は悪い魔法使いだから、口封じとかかな?」

「あははっ、なにそれ、全然似合わないよ」

「事実は小説よりも奇なり、ってね。まあ、口封じは冗談としても、悪い魔法使いは本当だってば。こう見えて、世界を滅ぼす極悪非道なやつなんだ」

「でも、本当は家族想いの優しい人なんでしょう? 私が知ってる八神君は、そういう人だよ」

「なんか、改めて言われると恥ずかしいな……」

 

 小首を傾げて下から覗き込んでくる美由希に、颯輔は一歩下がって視線を外した。

 こうして話してしまうと、颯輔の内には様々な感情が渦巻き出した。この世界では死んだことになっている颯輔は、もう海鳴市に戻ることも、美由希と普通の会話をすることもできなくなってしまうだろう。学校に通うことも、我が家で過ごすことも、きっともうない。まさしく、幽霊のような存在になってしまったのだから。

 桜を見ているふりをしていると、美由希は颯輔の隣に並び立った。どちらも口を開くことはなく、並んで風情を楽しむ。しばらくして穏やかな沈黙を破ったのは、美由希の方だった。

 

「あのね、八神君。私ね……」

「……高町、そろそろみんなと合流しよう」

 

 言葉を詰まらせた美由希に対し、颯輔は木々の向こうを指差した。

 

「もうお昼時だし、俺、お腹空いちゃった。はやて達も待ってるだろうしさ、ね」

「……うん、そうだね。実は、私もまだ何にも食べてないんだ。はやてちゃん達、おいしそうなのいっぱい持ってきてたから、楽しみだね」

「そういえば、高町は料理上手くなった?」

「あっ、酷い! 私だって、いつまでも下手のままなわけじゃないんだからね? お母さんだって、上手になったって褒めてくれたし。……まあ、はやてちゃんのおすそわけ見たら、その自信もなくしちゃったんだけど。なにあれ、どんな風に教えてあげたの?」

「その秘術を知りたくば、それ相応の代償を支払ってもらおうぞ」

「……え、八神君って、ファンタジー系好きなんだっけ?」

「ちょっと、いきなり素に戻んないで」

 

 どちらともなく歩み出し、木々の間を談笑を交わしながら潜り抜ける。そこに、卑屈の色はなかった。

 颯輔は、これでいいと思った。美由希が何を言おうとしたのか、それは知るべきではない。文字通り、住む世界が変わってしまうのだ。そうなれば、このような関係に戻ることもないだろう。得難い友人がいたという記憶さえあれば、颯輔はただそれだけで十分だった。

 ゆっくりとでも、歩み続ければそれだけ進んでしまうものだ。美由希と二人だけの時間は、すぐに終わりを告げた。無論、ディアーチェ達もいるにはいるのだが、四人は颯輔のリンカーコアの中である。なのはの両親などがいる以上、姿を現し惑わすわけにもいかない。ディアーチェ達も作業に集中すると言っており、表に出てくる気はないようであった。

 木々を抜けた先は、海鳴市を一望できる高台の広場だった。颯輔達が花火を観た、見晴らしの丘である。その端、桜の木々の下に、大きなブルーシートが敷かれ、多くの人が重箱などを囲んで座っていた。

 いくつかのグループに分かれて座る人達。そのうち、子供達は見知った顔だった。なのはにフェイト、すずかにアリサである。流石にその家族全員まで顔見知りとはいかなかったが、なのはの両親やクロノにエイミィ、月村家のメイドであるノエルなど、中には知った顔もあった。

 

「お兄っ!」

 

 喧騒に負けない声があった。誰もが座っている中から、小さな頭が顔を出す。立ち上がった少女――八神はやては、人の間を縫うようにして駆け出していた。

 迷いのない、確かな足取り。子供のように走るそれは、夢にまで見た光景だった。八神颯輔が命を賭して手に入れたもの。はやての未来である。

 飛び込んできたはやてを、颯輔は屈んで受け止めた。

 

「もうっ、お兄遅い!」

「ごめんごめん。なにせ、今さっきハラオウン提督に聞かされたんだ。ちょっとくらい、多目に見て欲しいかな」

「なら、許してもええよ。その代わり、抱っこして?」

「なんだそれ、随分と甘えん坊じゃないか」

「私、まだ子供やもーん。それに、走ったら疲れてもうたんよ」

「はいはい」

 

 首元にかじりついて身をすり寄せ、幼子にように甘えてくるはやてに、颯輔は苦笑を漏らしながら頷いた。はやての背を優しく叩き、後頭部をくしゃくしゃと撫でる。はやては、くすぐったそうに身をよじって声を漏らした。

 颯輔がはやてを抱き上げようとすると、突然、影が差した。見上げてみれば、酷く怒気を孕んだ顔がある。颯輔達のそばに寄って見下ろしていたのは、はやての担当医である石田幸恵だった。

 

「はやてちゃん、離れなさい」

「え、あの、ちょう、石田先生……?」

「いいから、ちょっと、退きなさい。颯輔君に、お話があります」

「は、はいっ」

 

 有無を言わせない冷たい声に、はやてが脅えて颯輔の後ろに回った。立ち上がった颯輔の上着を摘まみながら、様子を窺うようにしてちらちらと顔を覗かせている。隣にいたはずの美由希の姿は、いつの間にかブルーシートの上にあった。颯輔と目があった美由希は、そっと視線を料理に落とした。リインフォース達の姿も見つけたが、全員に無理ですと首を横に振られてしまった。

 石田は、鋭い目つきで颯輔の目を見ていた。身長で言えば、断然颯輔の方が大きいはずなのだが、颯輔が委縮しているせいもあってか、俄然大きな存在に見えてしまう。さてどうしたものかと颯輔が頭を悩ませていると、石田の右手が閃いた。

 渇いた音が鳴った。

 張られた左頬が、じんじんと痛んだ。

 石田は見る見るうちに目の端へ雫を溜めると、どんと颯輔の胸に頭をぶつけ、握り拳を振り下ろした。

 

「あなたはいったいどれだけ心配かければ気が済むのよっ!」

「……ごめんなさい」

「どうせ私は頼りないわよ! はやてちゃんの病気も治せなかったわよ! でも! 一言くらい相談してくれてもよかったじゃないのよぉ!」

「あの、石田先生――」

「うっさい! この馬鹿息子っ! 不良息子っ! ちょっとは私の気持ち考えなさいこのばかぁっ!」

 

 石田は周りの目など気にした風もなく、火がついたように喚き散らしながら、何度も何度も颯輔の胸を叩いた。どうしたものかと颯輔は石田の肩を押さえるも、乱暴に振り払われる始末。しばらく宙を彷徨った颯輔の手は、最終的には石田の背に落ち着き、家族にするようにしてとんとんと叩いてあやした。

 初めての様相を見せた石田からは、甘い香水の香りに混じり、強いアルコールの臭いがした。見れば、石田が座っていたであろうリインフォース達のそばには、すでに空になったらしい酒瓶が転がっていた。石田を家に招いて食事をすることもあったが、そのときは、酒には手をつけなかったはずである。普段がどうかまでは分からないが、どうにも飲まなければやっていられなかったらしい。周囲から生温かい視線を注がれながら、颯輔は石田が落ち着くのを待った。

 『あなた、何人女を泣かせれば気が済むのよ』などと茶化してくるリンディに鋭い視線を向けていると、颯輔の腕の中で、石田がもぞもぞと動いた。

 

「……きもちわるい。吐きそう」

「石田先生っ!? ちょっとっ、シャマルっ、ビニール袋持ってきてっ!」

「おっきい声出さないで、頭いたいのよぉ」

「もう、何やってるんですかあなたは……」

「全部颯輔君が悪いんじゃない……うぅっ」

 

 颯輔は石田の肩を抱えてブルーシートに座らせると、慌てて駆けて来たシャマルからビニール袋を受け取った。それを石田へと渡し、シャマル共々うずくまる石田の背を擦る。顔色を真っ青にした石田は、それでも颯輔への説教をやめようとはしなかった。

 颯輔は、言葉を聴きながらも看病を続け、苦笑を漏らした。快晴の空に浮かぶ、柔らかな日差しがそれを見守っている。颯輔が望んだ日常が、確かにそこにあった。

 

 

 

 

 せっかく家族の輪にまで来たはずの颯輔は、石田の調子がよくなるまで、寛ごうとはしなかった。そして、石田が落ち着いてきたかと思いきや、はやて達が腕によりをかけて作った料理には手も付けずに、席を立ってしまったのである。どうしたのかとはやてが訊くと、颯輔は、先にどうしてもやらなくてはならないことがあると答えて、なのはの家族の下を訪ねた。

 柔らかな表情を沈痛なものへと変えた颯輔は、なのはの両親の前で正座をし、深く頭を下げた。先の事件、今回の事件と二度もなのはを危険な目に遭わせたことを、誠心誠意謝罪した。後ろを付いて行っていたはやてとヴィータも、慌てて頭を下げた。はやて達に関して言えば、ビデオメッセージを通したり、今日この場に集まったときにも謝罪はしていたのだが、それとこれとは別だった。颯輔一人が頭を下げて、後ろに突っ立っているなど在り得ない。

 なのはの父である士郎は、始め、厳しい言葉を颯輔に投げた。家族を大切に思うのは、誰もが同じであること。はやてが傷つけられたとき、自分はそれを許せるのかと。颯輔は、もう一度ただ謝罪の言葉を繰り返した。

 士郎は、少しの間沈黙して、許すと言った。はやても顔をあげると、士郎ははやて達の後ろを見ながら、肩を竦めた。その視線を追うと、なのはとフェイト、すずかにアリサの四人が、事の成り行きを見守っていた。

 颯輔は、これからのことを掻い摘んで士郎達に話すと、高町家を後にした。次に向かったのは、すずかの家族の下である。はやて達だけでなく、なのは達も後ろを付いて回った。すずかは自分の家族の下であるし、なのは達は、なら私達も、といった具合であった。

 月村家を回り、その後にバニングス家にも挨拶を済ませ、すずかとアリサとも別れた颯輔は、最後にリンディの下を訪ねた。ハラオウン家が集まるそこでは、エイミィが引きつった顔でリンディへと酌をしており、それをクロノとアルフが距離を置いて見守っていた。

 エイミィへと絡み酒をしていたリンディは、颯輔の姿が見えるとあからさまに眉をしかめた。だが、その後ろになのはやフェイトがいると知ると、途端に普段の笑顔に戻る。二人に微笑を向けると、リンディは目だけでとある方向を示した。

 颯輔に釣られてはやてにヴィータも見てみれば、リインフォース達が箸を止めてこちらの様子を窺っていた。どうやら、颯輔やはやて達が離れてからずっとそうしていたらしい。はやて達と目が合うと、リインフォース達は曖昧に笑った。

 リンディの意図を理解したはやてとヴィータは、なのはとフェイトへと一度別れを告げると、二人で颯輔の手を引いた。颯輔は少しだけ抵抗を見せたが、リンディに話す気がないとみると、会釈をしてからされるがままに歩き出した。

 はやて達が戻ると、リインフォース達が席を空けた。そこへと颯輔を置き、両隣をはやてとヴィータで陣取る。はやてがシグナムから紙コップを受け取り颯輔へと渡すと、ヴィータがリインフォースからペットボトルを受け取りお茶を注いだ。シャマルはといえば、狼形態のザフィーラへともたれかかる石田へ、酔いを醒まそうと水を飲ませていた。

 

「ふぅ、やっと落ち着いたぜ」

「お兄、ちょう忙しなかったで? あちらさんもお食事中なんやから」

「そうは言っても、何もなしってわけにはいかないだろ。タイミングだって、今日逃したらだいぶ先になるだろうしさ」

「はやて、颯輔も。今は、その話はなしにしましょう。せっかく、こうして皆が揃ったのですから」

「リインフォースの言うとおりです。……おい、シャマル」

「ちょっと待ってったら――って、石田先生っ、もうお酒はダメですってばぁ!」

「ふふん。高くていいお酒はね、悪酔いなんてしないのよ。ザッフィーも、そう思うでしょ?」

「……控えた方がよろしいかと」

 

 どこからかワインらしきボトルを取り出した石田と、それを取り上げようとするシャマルである。疲れを滲ませた声を出したザフィーラが、ぐったりと地に伏せて尻尾を投げ出していた。

 今日一日で石田のイメージががらりと変わってしまったはやては、色々と見なかったことにしてお茶が満ちたコップを持った。

 

「ほんなら、今日の主役、お兄から一言お願いします」

「主役って、いきなりだな。どうしたんだ、それ」

「あーあ、やっぱり颯輔忘れてるよ」

「忘れてる……?」

「颯輔、今日の日付は分かりますか?」

「えーと、今日は4月10日……あっ」

「思い至ったようですね」

 

 誕生日おめでとう、と声が揃った。一拍遅れ、シャマルと石田が復唱する。呆けた顔をしていた颯輔は、はにかんで、ありがとうと言った。

 4月10日は颯輔の誕生日である。奇しくも花見の日程と重なり、颯輔が突然帰ってきたこともあって、はやて達はリンディへと颯輔の参加を頼み込んだのであった。何とか承諾を得た後は、所要を済ませてから大急ぎで颯輔へのプレゼントを探し回り、今朝などは早起きをしてケーキ作りに勤しんでいた。

 乾杯をすると、はやてはコップを置いて小脇にあるバッグを漁った。取り出したのは、両手に乗るサイズの紙袋。それを、颯輔へと渡した。

 

「はい、お兄。お誕生日おめでとう」

「ありがと。開けてみてもいいか?」

「ん、もちろん」

 

 颯輔は丁寧に封止のセロハンテープを剥がし、中身を取り出した。出てきたのは、金色の羽根を模した金属製の栞。羽根の付け根からは白い紐を伸ばし、黒、緋色、水色のビーズボールを括り付けてある。皆で選んだ市販の栞に、はやてがひと手間を加えた一品だ。

 

「栞かぁ。綺麗だな」

「それ、皆で選んだんだよ」

「昨日、ミッドチルダから戻った後に、皆で急ぎ探したのです」

「装飾の部分は、はやての手作りです」

「あんな、羽根がユーリで、ビーズボールがマテリアルの子達。黒がディアーチェで、緋色がシュテル、水色はレヴィやで。ほんでな、実は、私らの分も作ってあるんよ。リインフォース?」

 

 はやてが声をかけると、リインフォースが夜天の書を具現化した。開き、銀色の羽根を取り出す。同じく付け根からは白い紐が伸び、ラベンダー、紅、ミントグリーン、群青色のビーズボールがが括り付けられていた。

 

「お揃いなんだな。こっちは羽根がリインフォースで、ビーズボールはシグナム達か?」

「正解。お兄の誕生日なんやけど、ええかな?」

「もちろん。……うん、ありがとう、皆。ディアーチェ達も喜んでるよ」

 

 言って、颯輔は紫天の書を具現化させると、栞を挿んでまた戻した。すっと腕があがり、はやての頭をくしゃくしゃと撫でる。はやては、目を細めてそれを受け入れた。

 そこに、肝心のディアーチェ達の姿はない。颯輔からは、紫天の書の洗浄にかかりきりになっていると聞いている。今はまだ会わなくてよかったと、はやてはそう思った。

 颯輔が生きていくためとはいえ、ディアーチェ達の存在は複雑だった。ユーリはまだしも、マテリアルの三人は、はやて達とほとんど同じ姿をしているのである。性格はだいぶ違うようだが、一度邂逅したディアーチェの様子を見る限り、すぐにシグナム達とのように仲良くなれる自信はなかった。

 しかし、やはりディアーチェ達の存在は必要不可欠なのである。リインフォースやシャマル、ザフィーラあたりはともかく、はやてやシグナム、ヴィータは、おそらく受け入れるのに時間がかかるだろう。そこで、一先ずはこちらから贈り物をし、それを足掛かりにしようと考えた。だから、そういう意味も込めて、あのプレゼントを選んだのだった。

 ただし、夜天の書と紫天の書のパスは、まだ繋がっていない。そのため、ディアーチェ達が真にどう思っているかは分からない。

 だが、はやては颯輔を信じている。颯輔がいればきっと上手く回っていくのだと、それを疑ってなどいない。

 

「ケーキはご飯食べてからな。お兄、皆で早起きして一生懸命作ったんやから、残したりしたらアカンで?」

「この量、食べきれるかな……とにかく、頑張ってみるよ」

「んじゃ、もっかいいただきますしよーぜ」

「そうだな。石田先生、まだ食べられますか?」

「えっと、おつまみ程度なら……」

「飲む気満々じゃないですかぁー!」

「……シグナム、シャマル一人では抑えきれんぞ」

「おい、逃げるな。お前も人型になれば飲めるだろうが」

「ほんなら、石田先生の相手は大人組でするとして、お兄はこっちで私とヴィータと一緒な。はいそこ、ブーブー禁止。さっさと手ぇ合わせるー」

 

 だから、はやては心から笑うことができるのだ。

 光溢れる場所で、愛しい家族に囲まれて。

 何より、隣には、大好きな人の優しい笑顔があるのだから。

 

 

 

 

 颯輔は、アースラの拘留室に備えられた固いベッドに一人腰掛け、穏やかな表情で手元を見ていた。その手には、一枚の写真がある。花見の席で撮影した、家族写真である。颯輔を中心として、両脇にははやてとヴィータがおり、それを囲むようにして、リインフォースにシグナム、シャマルや石田が写っていた。カメラマンはなのはや美由希の父である士郎が買って出てくれたため、ザフィーラの姿も狼形態で収まっていた。

 しかし、そこにディアーチェ達の姿はなかった。ディアーチェ達は、はやてやリインフォース達と和解したというわけではないのである。颯輔を介して、いくらかやりとりがあった程度。今日も、洗浄作業に集中すると言いながら、颯輔に気を遣っていただけなのだ。だからいつの日か、皆が分かり合える時が来たら、またあの場所に行こうと颯輔は思っていた。石田にも、「偶には顔を見せに来なさい」と言われているのである。許しが出るのであれば、是非ともそうしたかった。

 颯輔が写真を眺めながら思いを馳せていると、胸から漆黒の光を放つ球体がふわりと飛び立った。颯輔の目の前で躯体を構築させたのは、ユーリであった。

 ユーリは軽やかに着地を決めると、両手を伸ばして颯輔を見やった。意図を酌んだ颯輔は、ユーリの脇に手を差し入れると、そっと持ち上げて膝の上へと招く。ユーリは颯輔の首にかじりつくと、すんすんと鼻を鳴らした。

 

「ユーリ、もう終わったのか?」

「あとちょっとです。わたしの分はもう終わったので、出てきちゃいました」

「え、ディアーチェ達を手伝ったりしないのか?」

「いいんですよー。ちゃんと役割分担はしましたし、あとは仕上げだけですから。それに、実は、みんなで競争してたんです。一番早く終わった人が、先に休んでいいことになってるんですよ」

「じゃあ、あんまり役に立てそうもないけど、俺が代わりに手伝おうかな」

「だっ、ダメですよぅ! 颯輔は王様ですから、ディアーチェ達を信じて任せておけばいいんですっ!」

「いや、そういうわけにも……」

「そ、颯輔には、颯輔にしかできない大事なお仕事があります。まずは、一番頑張った子をたくさん褒めてあげましょう。ちゃんとご褒美をあげるのは、王様の義務ですよ?」

「……よしよし、ありがとな、ユーリ」

「えへへー」

 

 褒めて褒めて、と瞳を輝かせるユーリを、観念した颯輔はくしゃくしゃと撫でつけた。ユーリは頬を緩め、子猫のように甘えて寄りかかってくる。胸の内でディアーチェの抗議の声が上がったが、シュテルによって窘められ始める。レヴィは勝負に負けて気を落としながらも、稲妻のように魔力を走らせていた。

 結局、颯輔はユーリやディアーチェ達に支えてもらってばかりだった。颯輔の処理速度は決して速いとは言えず、その膨大な知識も活かしきれていない。今回のような繊細な作業では、邪魔にならないように気をつけながらのお手伝いが精一杯である。夜天の書の修復の際も、実際にはほとんどリインフォース一人に任せてしまっていた。

 永遠の命に無限の魔力。所詮それらは、ディアーチェ達があっての力である。魔法が使えるようになったとはいえ、颯輔は未だ弱いままだ。リインフォースやユーリの力を借りなければ、真っ直ぐ飛ぶことも覚束ないほど。これからのためにしなければならない課題は、山ほどあった。

 

「颯輔、難しい顔してます」

「ん? そうかな」

「誤魔化されませんよぉー。わたし、颯輔のことなら何でも知ってるんですからね。颯輔、また独りで頑張ろうとしてました。ダメですよ、それ。ちゃんとわたしのこと使ってくれなきゃ、やです」

 

 心の奥深くまで覗き込んでくるような、金色の瞳。ユーリは、ぎょっとするほど近くに顔を寄せていた。

 颯輔は、可愛らしく膨らんだ頬をそっと摘まんで押した。

 

「てい」

「うー、にゃにしゅるんでしゅかー」

 

 満更でもなさそうにしつつも抗議の声をあげるユーリに、颯輔は苦笑を漏らす。頬を解放して波打つ金髪を梳くと、颯輔は諭すように言った。

 

「ごめんごめん。でも、『使う』なんて言ってほしくないかな」

「だって、わたしは颯輔の融合騎ですよ?」

「うん。でも、それだけじゃないだろ?」

「うーん……? …………あっ、でも、いいんですか?」

 

 颯輔の言葉に、ユーリは目を閉じて思案した。精神リンクを伝い、ユーリの意識が颯輔の心をくすぐる。やがて、答えを見つけたらしいユーリは、頬を赤らめ、潤んだ瞳で颯輔を見上げた。

 

「当然。ユーリ達だって、何年も前からずっと家にいたんだ。ちょっと姿が見えなかっただけで、一緒に暮らしてた。だったら、ユーリもディアーチェも、シュテルもレヴィも、大事なうちの子だよ。うちの子には、自分のことを『使う』なんて物扱いしてほしくないな」

「はいっ! ……じゃあ、もう一回言いますね。颯輔、ちゃんとわたしのこと頼ってくれなきゃ、やです」

「うん。ユーリの力、頼りにさせてもらうよ。……も、もちろん、ディアーチェ達もね」

 

 花咲くような笑顔を浮かべたユーリと、猛烈な抗議の念話を繰り返すディアーチェ達。慌てて取り繕うと、抗議の声は徐々に鎮静化していった。

 ユーリ達には、まだプログラム然とした思考が残っていた。出会った当初のシグナム達のようなものである。精神リンクが強い分、そのあたりの対処はユーリ達の方が楽とは言える。しかし、問題もあった。洗浄しきれなかった汚染の分だけ、シグナム達よりも攻撃的であるという点だ。

 リンディと話しているときもそうだったが、颯輔が小馬鹿にされると、例えそれが冗談であっても心をざわつかせるのである。事実、ユーリ達の中では、リンディは颯輔に害をなす巨悪という図式が成り立っていた。颯輔が止めなければ、躯体を構築して飛び出していただろう。

 できるだけ、ユーリ達を変えてはしまわずに迎えたい。しかし、そうした譲れないこともある。ユーリ達が颯輔と共にあることを選んでくれるのならば、そのあたりが当面の問題だった。

 

「でもさ、やっぱり、俺も男の子なんだよ。いつまでも皆に頼りっきりってのは、恰好がつかないだろ? だから、ちゃんと魔法を使えるようになりたいんだ」

「……わたしは、いらない子ですか?」

「そうじゃなくて、ユーリ達が俺を守ってくれるように、俺もユーリ達を守ってあげたいってこと。だからさ、ユーリ。ディアーチェ達も、俺に戦い方を教えてくれるか?」

「颯輔がそれを望むのなら、喜んで」

 

 颯輔が言うと、ユーリは微笑みを浮かべて頷いた。ディアーチェ達も、了承の念話を返してくれた。甘えてくるユーリの相手をしながら、これから忙しくなるな、と颯輔は内心で溜息を吐き出した。

 まずは、『闇の欠片事件』と名付けられた今回の一件の裁判が待ち構えている。失敗すれば、颯輔達を待っているのはロストロギアの封印処理という未来だ。それが最良の形で終わっても、隔離施設で更生プログラムを受講しなければならない。そこで信頼を勝ち取り、同時に守りたいものを守る力をつけ、ユーリ達の人間性も回復させる。無事に日の当たる世界に戻っても、犯した罪への糾弾があるだろう。それらを乗り越えることで、颯輔達は、ようやく元の暮らしに戻ることができるのだ。

 だが、どれほど困難な道のりが広がっていたとしても、颯輔は、必ずその全てを踏破して見せよう。

 なぜなら、颯輔は約束を交わしたから。

 ずっとそばにいると。

 いつかまた、家族みんなで暮らすと。

 その約束を果たすまで、そして、果たした後も。

 決して折れずに歩み続けると、八神颯輔は、ここに新たな誓いを立てた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 光となりて闇夜に浮かぶ
第十一話 愚者の歪力


 

 史上最悪とまで言われた古代遺失物(ロストロギア)、闇の書。現在確認されているその名が登場する最古の資料は、古代ベルカの時代、およそ千年以上前の歴史書である。

 曰く、魔導の英知。

 曰く、森羅万象が記された書。

 曰く、王の力。

 曰く、栄光へと続く(きざはし)

 曰く、大いなる災禍。

 曰く、忌避すべき蛇。

 その魔導書には古今東西あらゆる魔法技術が収められており、中には消失したとされている始まりの地(アルハザード)に関する技術も含まれるという。

 その魔導書を開いた者には王にさえ勝るとも劣らない一騎当千の騎士達が付き従い、望むもの全てを手に入れることができたという。

 その魔導書が降りた地には戦乱の風が吹き荒び、大地は朽ち果て大河は血に染まり、空には日輪を隠す暗黒の雲が立ち込めたという。

 新暦65年の暮れ、ユーノ・スクライアが無限書庫にて闇の書の真実の一端が記された新たな書を発見するも、それについては未だ浸透してなどいない。絶大な力と引き換えに所有者とその地を滅ぼす悪魔の書。それが、闇の書と呼ばれるロストロギアに対する次元世界の共通認識だった。

 特に顕著なのは、闇の書が猛威を振るったベルカの血を引く者。すなわち、次元世界最大の宗教である聖王信仰の信者たちであった。

 闇の書が滅ぼしてきたモノの中には、戦乱のベルカを統一した聖王家も含まれる。歴史の裏を返せば、闇の書の存在が聖王家のベルカ統一に一役買っていたこともまた事実ではあるのだが、そのような話が日の目を見るはずなどない。闇の書とは絶対悪であり、聖王家とは絶対正義なのだ。

 当時の闇の書の主は、歴代の中でも群を抜いて保有魔力量が多かった。当代の主である八神颯輔と八神はやての二人を足しても、遠く及ばないほどに。魔力量の多さは、そのまま暴走した闇の書の活動時間に繋がる。潤沢な燃料を得た闇の書は、その異名を天に知らしめるかのように暴れに暴れ、都合八つの国を滅ぼした。最後に残って闇の書を破壊したのが、聖王家最後の当主、オリヴィエ・ゼーゲブレヒトその人である。

 貫くものなしとまで謳われた防壁、聖王の鎧を持つオリヴィエは、戦場に咲く可憐な花のようでありながら、決して踏み折られることのない強さをも兼ね備えていた。同盟国の王にして後の覇王、クラウス・G・S・イングヴァルトと並び立てば、いかなる巨悪をも打ち破ると称えられたほどである。

 だが、そんな二人の英傑を持ってしても、闇の書には及ばなかった。鎧を貫かれたオリヴィエは深い傷を負い、当時はまだ完成に至っていないクラウスは拳を砕かれた。

 しかし、万策尽きたというわけではなかった。聖王家には、ベルカ統一の切り札である決戦兵器が残されていたのである。オリヴィエはクラウスに後の世を託し、闇の書を道連れにして若き命を散らせた。残ったのは、悲しみに暮れる一人の王と、争いのなくなった荒野。悲運の聖女の命と引き換えに、ベルカ統一は成されたのである。

 そのような背景もあり、最後の聖王であるオリヴィエ・ゼーゲブレヒトの命を奪った闇の書は、ベルカの世界から強く忌み嫌われていた。オリヴィエの生涯を題材とした童話まであり、幼子などは、悪いことばかりしていると闇の書の騎士達がやって来る、などと脅かされることもしばしばだ。闇の書は絶対悪という認識が刷り込まれているのだから、その常識が覆されるなど、よほどのことがない限りはあり得ない。

 そして、魔法技術体系をベルカ式と二分するミッドチルダ式の使い手を主とする時空管理局だが、中には当然ベルカ式の使い手もおり、また、そうでなくとも聖王信仰を持つ者が多くいた。加えて、闇の書はオリヴィエの代では真に滅んでなどおらず、管理局にも多大な被害を与え続けてきた。

 だから、例え闇の書の主が管理局への従属を示したとしても、容易に首を縦に振ることなどできるはずがないのだ。

 真の闇の書の主である八神颯輔の裁判は、三ヶ月前に執り行われた裁判に続く多大な激震を管理局上層部へともたらした。

 一度は死亡したとされた闇の書の主が生きており、それが管理局入りを受け入れている。その事実が知れ渡る様は、蜂の巣を突いたかのような騒ぎであった。

 特に、闇の書事件を担当していた()などは騒然となった。これまで散々な目に遭わされてきた相手なのだから、その騒ぎも頷ける。だが、一部では闇の書事件の解決を機に元帥の座へと着いたギル・グレアムに対する非難の声さえも上がったのだ。闇の欠片事件の顛末は、それほど大きなものだった。

 世間には詳細が伏せられ情報規制まで敷かれたにも関わらず、どこから漏れたのか、裁判の最終日には、時空管理局地上本部の門前が傍聴を求める人々で埋め尽くされた。裁判は次元の海に浮かぶ本局にて行われるが、少しでも詳細を知ろうと、第1世界ミッドチルダの首都クラナガンへと押しかけたのである。各種交通機関は一時的に機能停止へと陥り、軽傷者が少なからず出る程の大混乱であった。

 世間は大混乱。しかし、打って変わって所内は終始厳粛な空気を保ったままだった。傍聴席には管理局将校および聖王教会重鎮のそうそうたる顔ぶれが並び、中にはグレアムやリンディ・ハラオウン、レティ・ロウランなどの姿もあった。裁判官に検事、弁護士までも、これまで数々の大事件を取り扱ってきたその道のベテラン揃いである。だが、その誰もが携わった最大の事件は、最後の闇の書事件。その延長線でもある闇の欠片事件の裁判こそが生涯最大の事件へとすぐさま塗り替えられるであろうことは、明白であった。

 裁判では傷口を抉るような厳しい言葉による追及が幾度となく続いたが、グレアムの紹介による老練な弁護士の助けを借りながら、その全てに颯輔は誠意を持って答えた。極度の緊張で覚えていない、などということはなく、魔法生命体の性質が、緊張の中でも数々の言葉を記憶させていた。

 明らかな挑発、嘲笑の類は何度もあった。当然、腸が煮えくり返るような思いを覚えたが、それを表に出す事などなかった。そこは、これまでの夜天の書の記憶を追体験した賜物と言えよう。そうでなければ激昂のあまりに口汚く罵り返すか、あるいは我を失って慣れない拳を振りかざしていたかもしれない。そうなっていれば、これからの道は固く閉ざされていただろう。

 法廷が開かれたのは都合三度。事件の規模から考えれば異例の早さだが、当初の想定に近い判決が下された。

 100年に渡る時空管理局への奉仕活動および技術提供。

 新暦66年4月30日、『闇の書の主』八神颯輔の管理局入りが決定した。

 

 

 

 

 針のむしろのようであった裁判を終えた明くる日。八神颯輔は、足音のみが響く窓のない廊下を四人の男女に囲まれながら歩いていた。

 颯輔の服装は、蛍光オレンジの受刑者服という目によろしくないものだ。無論、他者から目に付き易くするための格好である。その上、厳重な魔力リミッターをこれでもかというほど施されていた。紫天の王として覚醒したことによりSSランクは下らなかったはずの魔力量は、躯体を維持できる最低限のDランクにまで落とされている。何かしらの魔法を使おうものなら、即座に構成が解けて瓦解するような頼りないものだ。

 常時水の中にぶちこまれているかのような息苦しさ。慣れなかったその状態もようやく馴染んできたこの頃だが、颯輔の足取りはいくらか重かった。昨日までの心労が抜けておらず、また、これからに対する不安もあったのだ。

 気に止まらない程度にまとめて息を吐き出し、揺れるポニーテールに視線をやる。前方右側を歩くのは、颯輔の身柄を確保したリンディ・ハラオウン少将だ。近々中将に昇進するらしく、それに連なる厄介事の増加が最近の悩みの種らしい女傑である。

 リンディは、夜天の魔導書の真実を知る管理局唯一の人物だ。加えて、闇の欠片事件の総責任者ということもあり、颯輔の護送に付き合っていた。仲が良いというわけではないのだが、今は話すことはできずとも見知った人物が傍にいるのは颯輔にとっても有難かった。

 リンディの隣、颯輔の前方左側を歩くのは、長身の男だった。やや跳ねっ気のある髪が、颯輔の頭半分ほど高い位置で揺れている。しかしその足取りに淀みはなく、シグナムあたりに言わせれば、武に精通している者のそれだった。さらに言うならば、この場では最も多く、そして、大地に根を下ろす大樹のような、雄々しい魔力を感じさせる。ともすれば守護騎士に迫る勢いのそれに、颯輔は内心で舌を巻いていた。

 古代ベルカ式の使い手でありながら、時空管理局地上本部の首都防衛隊に身を置く、ゼスト・グランガイツ三等陸佐。一線級の騎士と名高い、地上本部のエースである。颯輔が出所後に身を置くことになる部隊の部隊長でもあった。

 対し、颯輔の後方には二人の女性が陣取っていた。一人は颯輔も知っている人物――というよりも、使い魔。以前は管理局最強の攻撃オプションと謳われていたチームの一人、リーゼロッテである。

 颯輔の後方右側、頭の後ろで手を組み優雅に歩いているようだが、その実、その猫耳は欠片も異常は逃すまいとぴこぴこ忙しなく動いており、尻尾は心情を表すようにぴんと真っ直ぐに伸びている。颯輔とは裁判の前から何度か顔を合わせているが、未だに警戒は解いていない様子だった。

 残る一人は、ゼストと同じく初見の人物であった。歩みに合わせ、ふわりと伸びた艶やかな髪を小さく広げている女性。リンディよりも若く、あるいは颯輔の方が歳が近くも見えるが、颯輔の外見を抜きにしたとしても、闇の書の主を前にしながら自然な微笑を崩さないほどの胆力を備えた強かな人物である。

 ゼストの部隊が誇る双璧の一枚、メガーヌ・アルピーノ准陸尉。当面は隔離施設での颯輔達の指導官の一人となり、出所後は引き続き保護観察官の一人を務めることとなっている女性だ。ふわふわと柔らかな雰囲気を纏ってはいるが、颯輔は、メガーヌからリンディに通じる何かを感じ取っていた。

 颯輔を囲む四人は、管理局の常識で考えれば護送には過剰な戦力とも言える。しかし、相手は闇の書の主。リミッターがなければ同じ人とは思えない膨大な魔力を迸らせ、なおかつ同等の魔法生命体四体を従えるような存在である。一犯罪者の護送と考えれば戦力過多であっても、相手を考えればいささか以上に頼りないとも言えた。

 もっとも、颯輔にここで争う意思も理由もない。無用な混乱を避けるために秘密裡に行われている護送は、道中では何の問題も起きず、ようやく終わりを迎えようとしていた。

 先頭を歩いていたリンディとゼストが、両開きのスライドドアの前で止まった。リンディが柱に備えられた端末を軽やかに操作すると、ロックの解除を示す電子音の後にドアが開く。ドアの厚みは3メートルほどもあり、約5メートル四方の小部屋を挟み、その向こうの厚いドアも左右に動き始めた。

 ドアの向こうから差し込む廊下よりも強い光量に、颯輔は僅かに顔をしかめた。

 

「これって……庭?」

 

 奥に広がる光景に浮かんだ感想は、そんな場違いなものだった。

 そこは、箱庭を思わせる一室だった。床には土が敷き詰められ、よく手入れをされた芝生が広がっている。中央に小さな噴水が置かれ、室内に潤いを与えていた。部屋の隅には生垣と背が低めの樹木が植えられており、意気揚々と葉を緑に染めている。天井は一面が天窓となっており、さんさんと光が降り注いでいた。

 一見すれば屋外、それも手の行き届いた庭園であるのだが、これでもかと存在感を放つ水色の壁が、全てを台無しにしている。元々あった無機質な部屋に、どこかの自然を切り取って転移させてきたかのような、そんな印象を受けた。

 

「詳しい場所は明かせないけど、ここがしばらくあなた達に使ってもらう施設よ。この部屋はさしずめリフレッシュルームといったところね。奥にはベッドルームもあるし、バストイレも完備してあるから安心しなさいな」

 

 一歩踏み出し入室したリンディが、後ろを振り返りつつ概要を述べた。

 颯輔達の躯体の事情から、転移ゲートを一切使用しないという徹底した用心振りでやって来た施設。どこぞの星とも知れないこの場で、まさかこのようなありふれた自然を目にすることになるとは、思いもしなかった颯輔である。それも、やはり想像とは違う充実した環境。とても大罪人に宛がわれるようなものとは思えなかった。

 

「話には聞いてましたけど、至れり尽くせりですね。ああいや、不満があるとかそんなんじゃないんですけども」

「あら、やっぱり固い石畳で鉄格子に覆われた独房の方が好みだったかしら」

「正直、想像してたのはそっちでした。だから余計にと言いますか、恐縮ですと言いますか」

「しゃーねーだろーが。あんまりな扱いして変な気起こされたら堪ったもんじゃねーんだからよ。ま、だからって調子乗られても困るけどなー」

「いやいや、そんなことしないって」

「はっ、どーだか」

「信用ないなぁ」

「ちょっとでもあると思ってたのか、このお気楽頭め」

 

 颯輔を追い越しリンディの隣に並んだリーゼロッテが、半目で颯輔を睨む。相変わらず嫌われてるな、と自嘲した颯輔は、苦笑でそれに返した。

 リーゼロッテの役目は、闇の書の主の監視である。局内では最もその手の魔法生命体との交戦経験があり、なおかつ使い魔である彼女は、まさにはまり役だった、というのが表向きの理由。実際のところは颯輔達の警護役であり、そして、グレアムとの橋渡し役でもあった。

 リーゼロッテ個人の心情を考えれば複雑なところもあるが、これも主人と相方の頼みであり、自分がやらなければならない仕事であることも重々承知している。彼女としては、これ以上闇の書による事件を起こさせるわけにはいかなかった。

 

「なーにいやらしい目つきでジロジロ見てんだ。言っとくけど、あたしがお前らに懐くなんてあり得ないんだからな。そこんとこ忘れんじゃねーぞ」

「あはは……はぁ」

 

 いーっと牙をむくリーゼロッテに、颯輔は今度こそ隠しもせずに溜息をついた。

 颯輔とリーゼロッテの出会いは、六年前にまでさかのぼる。叔父と叔母が亡くなりグレアムと暮らすことになった頃、グレアムが連れていた二匹の猫が、使い魔であるリーゼロッテとリーゼアリアだったのだ。

 颯輔もはやても、それまで動物に触れるという経験はほとんどなかった。そこに降って湧いたかのように現れた二匹の猫、興味が湧かないはずがない。

 ところが、二匹の猫はグレアムの使い魔。どちらかはわからないが、恨みある闇の書の主に心許すはずなどがない。生活を共にしたのは短い期間だったが、その間、二匹は一度たりとも尻尾すら触れさせなかった。

 いまいちそういった雰囲気のない犯罪者に、なにやら上機嫌な様子の少将、敵意むき出しの使い魔。この摩訶不思議な関係に戸惑っているのは、ゼストとメガーヌの二人だ。ゼストは眉根を寄せ、メガーヌは微笑を崩さないながらも一筋の汗を垂らしていた。

 ゼストもメガーヌも、書類を通して颯輔の大まかな人柄は知っていた。だが、地上本部所属であっても闇の書の主という肩書は大きい。それ故に、その肩書と人物との齟齬に違和感を覚えていた。

 目の前にいるのは、本当に最恐最悪の魔法生命体なのか、と。

 

「はいはい喧嘩しないの。大人げないわよ、ロッテ」

「忘れちまったのかよリンディ、こいつは――」

「忘れるわけがないでしょう。でも、あのときは彼じゃないわ」

「……ちっ」

 

 尻尾の毛を逆立てたリーゼロッテに、リンディは毅然とした態度で言い放つ。それを受けたリーゼロッテは、苦虫を噛み潰したかのような渋面を作った。隣にいる颯輔は何も言えず、左手の腕甲を押さえて顔を伏せることしかできなかった。

 

「そんな顔をしないで頂戴、責めたくなってしまうもの。それから、謝るのもなし」

「…………」

「難儀な性格ね、お互いに。さあ、この子達は返しておくわ」

 

 言って、リンディは颯輔に向かって右の掌を差し出した。その上には、黄金の剣十字が乗せられている。管理局の技術局が解析をかけていたはずの、待機状態の紫天の書であった。

 颯輔が手に取ると、途端に剣十字が輝いた。光の爆発に、リーゼロッテにゼストとメガーヌが身構える。だが、続いたのは颯輔の慌てた声と、少女達の姦しい声だけだった。

 

「兄上ぇーっ!」

「うわっ、ちょっ、あぁっ」

「ただいま戻りました、颯輔」

「うぅー、やっと自由に動けるよぉ。もー、しんどかったぁ」

「兄上っ、あにうえっ、あにうえぇっ。あぁ、久方ぶりの兄上成分のなんと甘美なことでしょうか。こうして肌を触れ合わせた分、兄上の魔力がいつにも増してディアーチェの中に流れ込んで来ます。しかしディアーチェはあのような塵芥共に体中をまさぐられてしまい……兄上、どうかその御手でディアーチェの穢れをお清めください」

「何を大袈裟な。心配ありませんよ、颯輔。躯体の解析まではさせませんでしたから」

「ボク達ずーっと紫天の書の中だったもんねー」

 

 光が晴れた後にあったのは、三人の少女によって押し倒されている颯輔の姿であった。

 泣きの入った黒銀の髪の少女が颯輔の頭を胸に抱き、栗色の髪に頬擦りをしながらすんすんと鼻を鳴らして媚び声を出している。

 八神ディアーチェ。知を司る紫天の書の構築体(マテリアル)であり、三基のマテリアルの統率役でもある少女だ。その躯体ははやての生体情報を基にしているため、髪と瞳の色を除けば双子と見紛うほどの容姿だった。

 颯輔の腹の上に座っているのは、一切の感情を排したかのような表情をした少女だ。しかし、微かに口角を上げながら颯輔の胸をそろそろと撫でているあたり、彼女の心情が窺える。

 八神シュテル。理を司る紫天の書の構築体(マテリアル)であり、暴走しがちな二基を嗜める手綱役だ。その躯体ははやての友人である高町なのはの生体情報を基にしているため、姉妹と言い張っても疑われない容姿だった。

 シュテルと背中合わせで颯輔の腹の上に座り、んーっと背伸びをしているのは、活発な雰囲気の少女だ。待機状態が余程気に食わなかったらしく、同時に投げ出した足をばたつかせている。

 八神レヴィ。力を司る紫天の書の構築体(マテリアル)であり、サバサバとした性格の戦闘狂だ。その躯体ははやての友人であるフェイト・T・ハラオウンの生体情報を基にしているため、他人の空似には決して見えない容姿だった。

 少女特有の柔らかさに覆われて息ができない颯輔が抵抗し、肩を押さえられたディアーチェの肌が赤く色付いていく。ほぅと息をつくシュテルはそのまま動く気配がなかったが、レヴィは早々に立ち上がって体を動かし始めた。

 これは罪科を追加できるのではないかとリーゼロッテが悩み始め、この光景は今後の取引材料になるとリンディの笑みが黒く染まっていく。ゼストとメガーヌの二人は、混沌とした光景に思考が停止しかけていた。

 状況を動かしたのは、新たな異変だった。颯輔の胸から漆黒の光が勢いよく飛び出し、激しく明滅して人型を形造ったのだ。

 

「うぅ~、ディアーチェもシュテルも颯輔から離れてくださいぃっ」

 

 ディアーチェ達よりも幼い少女が現れ、波打つ金糸を振り乱して声高に訴えた。必死に二人をどかそうとするも、リミッターによって見た目通りの力しか出せない今では、可愛らしい足掻きに終わってしまっている。

 八神ユーリ。大いなる翼を授ける紫天の融合騎(ユニゾンデバイス)でありながら、単騎では八神家の戦力ヒエラルキーの頂点に君臨する存在だ。しかし、その力量に反した愛らしい外見のため、マテリアル三基からは対等どころかまるで妹のような扱いを受けていた。

 

「離さぬかユーリっ。ええい、引っ張るでないっ」

「やーですっ。ディアーチェ達がどくまでやめませんっ」

「しかしユーリ、貴女はずっと颯輔と一緒だったではありませんか。ここは、均衡をはかるためにも私達に譲るべきです」

「私だって、一回も実体化も融合(ユニゾン)もしてないですっ。そ、それよりっ、颯輔が苦しそうにしてるじゃないですかぁっ! もぉーっ、レヴィも手伝ってくださいよぉっ」

「そのくらいじゃ死なないからへーきへーき」

「んーっ!」

 

 従者から殺されかけている王の姿がそこにはあった。ディアーチェの行動は強過ぎる愛情からであり、また、レヴィの言葉どおりに酸欠程度では死に至らないのが事実であるあたり、微笑ましい光景であると言えなくもないかもしれない。

 管理局の技術部による紫天の書の解析のため、ここに来るまでの間、颯輔達は別行動を取らされていた。万が一に備えてユーリが颯輔の護衛につき、ディアーチェ達は紫天の書の内に待機して情報の隠匿を行っていたのである。

 結果は見てのとおりに颯輔は無事、そして、紫天の書が完成させた技術の隠匿にも成功というものだった。颯輔については、グレアムやリンディが目を光らせていたというのもある。紫天の書については、ディアーチェ達が動く以前に管理局の技術不足に助けられた。紫天の書はロストロギアであるため、例え最高峰のものであっても現代の技術では解析すること自体が不可能だったのだ。

 

「あらあらまあまあ、相変わらず女の敵だこと」

「ぷはっ、い、言いがかりはやめてくださいよっ」

「私やフェイトはああだからいいけれど、はやてさんやなのはさんが見たらどう思うかしらねぇ」

「んー?」

「はっ、知ったことか。あやつはあやつ、我は我だ」

「さすがはディアーチェ、見事な開き直りっぷりです」

「貴様……まだ何か言い足りぬようだな」

「いえ、特には」

「こらこら、人の上で喧嘩しないの」

 

 上に乗りながら視線をぶつけ合うディアーチェとシュテルの二人を両脇にどかし、ようやく起き上がる颯輔。やっと解放されたかと思いきや、仲裁に入りながらもタイミングを窺っていたらしいユーリがぴょんと跳ねて背後から首にかじりついて来る始末。それを支えるためにおんぶをしてやれば、今度はどかされた二人が騒ぎ出す。唯一実害がないのはレヴィくらいなもので、そんな颯輔達を指をさして笑っていた。

 

「まるで託児所ね」

「他人事だと思って笑ってんじゃねーぞ、リンディ。ちっとはあたしらの苦労も考えやがれってんだ。これじゃあ守護騎士らの方がまだマシじゃねーか」

「そんなこと言ったって、あなた、前はアリアに丸投げしたじゃない。それに、せいぜい数ヶ月の辛抱よ。本当に苦労することになるのは、グランガイツ三佐達ですもの。ごめんなさいね、面倒を押し付けるみたいになってしまって」

「い、いえいえ、決してそのようなことはっ。隊長、ですよねー?」

「陸が熱望したようやくの戦力です。それを喜びこそすれど、面倒だなどとは思うはずがありません」

「ふぅん。それは、総意なのかしら?」

「余計なちょっかい出すなっつーの。メガーヌも隣で困ってんだろー」

「あははー……」

 

 ゼストはその気概から動じてはいなかったが、さすがのメガーヌにもそこまでのものはない。それもそのはず、相手は闇の書事件と闇の欠片事件を立て続けに解決して見せた、ポストグレアムとまで噂される将官だ。メガーヌの微笑は崩れ始め、苦笑いへと変わってしまっていた。

 局員達が言葉を交わす横で、颯輔達もようやくの落ち着きを見せていた。むしろ、妥協点を見つけたと言う方が正しいかもしれない。颯輔はユーリを肩車し、ノリで抱き着いてきたレヴィを首からぶらさげ、左右の手をディアーチェとシュテルに取られて溜息をついていたのだ。

 

「ようやく落ち着いたようね。それじゃあ、その調子でその子達の面倒をよく見ておくように。くれぐれも、私にまで迷惑をかけないでね?」

「努力します……」

『――三佐達はそうでもないようだけれど、その上は結構風当たりが強いわ。もしも何かあれば、すぐにロッテを頼りなさい』

 

 項垂れた颯輔に届けられた念話。ちらりとリーゼロッテを見てみれば、あからさまにぷいと顔ごとそらされた。先が思いやられるな、と心の中で独りごちながら、颯輔は顔を上げてリンディの正面に立った。

 

「何から何までお世話になりました。ありがとうございました、ハラオウン提督。あの、ロウラン提督にもよろしくお伝えください」

「はいはい。ロッテとも仲良くやるのよ」

「はっ、誰が」

「……だそうです」

「まあ、せいぜい認められるように頑張りなさいな。……それでは、グランガイツ三佐にアルピーノ准尉、あとはよろしく頼みましたよ」

 

 居住まいを正したリンディが、二人に向き直って敬礼をする。はっ、と敬礼が返されると、リンディは満足そうに頷いて、悠々と部屋を後にした。

 再び分厚い扉が閉まると、青色の魔力光が瞬いた。過去の経験から颯輔の身が一瞬固まったが、触れ合うディアーチェ達に緊張は見られない。そのことに落ち着きを取り戻してから視線をやると、リーゼロッテが完全な猫の姿に変化していた。

 ひとつ伸びをして調子を確かめたリーゼロッテは、しなやかに歩を進めてメガーヌの隣に落ち着いた。ようやく空気を読んではくれたらしいディアーチェ達も、颯輔から離れて――物理的な距離はほとんど変わっていないが――横一列に並んだ。

 

「メガーヌ、あとは任したぞ」

「ええ。……おほん。それでは改めまして、今日からあなた達が受講する更生プログラムの指導官となりました、時空管理局地上本部首都防衛隊所属、メガーヌ・アルピーノ准陸尉です。よろしくね。それから、こちらがゼスト・グランガイツ三等陸佐。あなた達が所属する予定の部隊の部隊長さんよ。おっかなそうな顔してるけど、口下手なだけだから、怖がらずに仲よくしてあげてね」

「ゼスト・グランガイツだ。……八神颯輔。腹を割って話せば、地上本部は深刻な人員不足に悩まされている。お前達の力、どうか当てにさせてもらいたい」

「そのときが来たら、精一杯努めさせていただきます。どうかそれまで、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。……ほら、挨拶」

 

 颯輔が促すと、一応、四人共が小さく会釈はした。しかし、ディアーチェはあからさまに顔をしかめており、シュテルは明らかに相手を値踏みしており、レヴィはきょろきょろと周囲を見回し始め、ユーリは颯輔の後ろに隠れてしまう。メガーヌが、クスクスと口を掌で隠して苦笑していた。

 外見が外見なら、内心も内心だった。程度が知れた、指揮官の才能はなさそうです、監視多いなぁ、ここの警備は当てになりません、などなど、好き勝手に念話を交わしている。颯輔には、メガーヌに便乗して愛想笑いを浮かべることしかできなかった。

 

「それじゃあ、まずは施設を一通り見てみましょ? 難しい話はそのあとにね」

 

 メガーヌが柔らかく笑って見せる。十中八九が颯輔達を安心させるためのものであろうが、そうと分かりきっていても、颯輔には有難かった。例え飴役であろうとなんであろうと、向こうに歩み寄る姿勢の者がいるだけで、随分と気が楽になる。先導するメガーヌに続き、颯輔もディアーチェ達の背を押して一歩を踏み出した。

 前方をメガーヌ、後方をゼストとリーゼロッテに挟まれながら、施設内を見て回る。隔離施設と銘が打たれているはずが、なかなかどうして快適な環境のようだった。リフレッシュルーム、講義室、寝室、トイレ、バスルームとあり、とても刑務所とは思えない。颯輔が素直にその感想を述べると、メガーヌに刑務所ではなく更生施設だと笑って返された。

 六つの部屋が隣接する細く真っ直ぐと伸びた通路。リフレッシュルームの反対側、一番奥にあるドアの前で一度止まる。バスガイドの如く一行を案内していたメガーヌは、颯輔達に振り返っていたずらな笑みを見せた。

 

「はい、ここが最後の部屋ね。きっと驚くと思うわ」

 

 メガーヌの指が踊り、ドアがスライドする。そこは、ただただ広いだけの何もない空間だった。

 水色の面に囲まれた、およそ50メートル四方の四角い部屋。メガーヌによれば、そこは魔法訓練のためだけに用意された部屋らしい。水色の壁には魔力素を遮断する機能があり、結界の役割を果たすというのだ。つまり、ここでどれだけの魔法を使おうが、外部からの探知は不可能。物理的な強度も相当なものであり、そのままシェルターにも使えるのが売りだそうだ。

 

「はっ」

「ふっ」

「ぷふーっ」

「ふふっ……わ、笑っちゃだめですよぅ」

「あ、あれ? なにかおかしかったかしら?」

 

 久しぶりに実体化していたためか、何だかんだと言って終始テンションの高かったディアーチェ達の熱が急激に冷めた。意味のある言葉にせずとも、その態度が全てを物語っている。

 すなわち、この程度で笑わせる、と。

 狼狽え始めるメガーヌに、ひしひしと感じる後ろからの視線。何とかして流れを変えなければ、と妙な使命感にかられた颯輔は、慌てて手を挙げた。

 

「はっ、はいっ、質問ですっ」

「はいっ、八神颯輔君」

「あー、えーっと……そうだ、どうしてそんな部屋が備えられてるんですか?」

「それはね――」

「無論、お前達に局員として使えるレベルになってもらうためだ」

 

 調子を取り戻したらしく、人差し指を立てて答えようとするメガーヌ。それを遮ったのは、他ならぬゼストであった。

 ゼストの言葉にメガーヌが頭をがっくりと下げ、ディアーチェ達の目に剣呑な光が宿る。それらを物ともせずに歩み出たゼストは、颯輔達に向き直った。

 

「管理局は、司法取引を行ってまで更生の余地のある犯罪者を局員として迎えている。何故そこまで人手が足りていないのか、分かるか?」

「それは、次元世界が広すぎるからでは……」

「違いますよ、颯輔」

 

 颯輔の答えに、シュテルが反応した。

 シュテルは、僅かに眉根を寄せながらゼストを見ていた。ともすれば見下しているかのようにも見えるが、正確には違う。精神リンクから伝わってくる感情は、憐憫だった。

 

「管理局は、手を広げ過ぎたのです。自分達の力量も理解せず、あれもこれもと駄々をこねる幼子のように。その結果が現状です。灯台下暗し――いえ、この場合は自業自得というやつですね。自分達の世界だけで満足していればいいものを、なまじ技術があるだけ性質が悪い。ほら、私達の待遇からも、その薄汚い我欲が透けて見えるでしょう?」

「こらシュテルっ! ……あの、すみませんでした。徐々に直させますので」

「いや、いい。耳に痛いがそのとおりだ。だが、お前達も十分に理解した上でここにいるのだろう?」

「それは……はい、そうです」

「正直だな。しかし、だからこそ信用ならない」

 

 鋭い眼光で颯輔を射抜いたまま、ゼストが右手を正面にかざした。その中指の指輪から放たれた光が、世界を山吹色に染め上げる。

 

「お前達の身柄を預かる者として、俺はお前達を見極めねばならん。お前達の力、今この場で見せてもらうぞ」

 

 山吹色の風が、ゼストが纏ったコートを激しく鳴らした。手にした武骨な槍からは、並々ならぬ魔力を感じる。Sランククラスの騎士が、本気で事を構えようとしていることを理解させられた。

 

「隊長っ!」

「問題ない。グレアム元帥の許可は得ている。そうだな?」

「ああ。あたしも口出しする気はねーよ」

 

 メガーヌの制止も効果はなかった。メガーヌは知らされていなかったようだが、どうにもこの流れは事前に取り決められていたことらしい。事実、グレアムの使い魔であるリーゼロッテが、眉根を寄せながらも颯輔達に施された魔力リミッターを解除してしまったのだ。

 抑えられていた膨大な魔力が胸の奥から溢れ出し、颯輔達の存在感が急速に高まっていく。容易く目の前のゼストを上回ったそれに、メガーヌが顔を青くしていた。

 ディアーチェが凄惨に口元を歪め、シュテルが僅かに目を見開き、レヴィがグーパーと掌を開閉させる。ユーリが颯輔の隣に寄り添い、颯輔の左手で、ナハトヴァールが歓喜に震えた。

 

「はっ、よくぞ吼えたな塵芥。我らの枷まで解いたということは、無論、我ら全員の相手をしてくれるのであろう?」

「構わん」

「たいちょーさんさー、それってすっごく無謀なんじゃないの?」

「……いえ、好都合です。ユーリ、まだ颯輔とユニゾンしてはいけませんよ」

「えーっ、なんでですかぁーっ!?」

「もちろん、颯輔に一人で闘ってもらうためです」

「……えっ」

 

 張り詰めた雰囲気の中、颯輔が戸惑いの声をあげた。

 

 

 

 

 訓練室の中央で、颯輔はゼストと向かい合っていた。シュテルの提案に大きな反対を見せたディアーチェ達も、今は隅の方で大人しくしている。ディアーチェ達とリーゼロッテ達との間にいくらか距離があるのは、この際ご愛嬌というものだった。

 観客の様子を窺えば、ディアーチェは腕組みをしながらゼストを睨みつけており、シュテルは静かな視線を颯輔に向けている。レヴィは不満から唇を突き出しており、目が合ったユーリは胸の前で握り拳を作って応援してくれていた。リーゼロッテはメガーヌの腕の中に納まっており、当のメガーヌは不安げに事の成り行きを見守っていた。

 颯輔は、大きく深呼吸をしてからゼストに視線を戻した。ロングコートを身に纏い、石突を床に置く形で槍を手にしている。ゼストの身長ほどの槍は、槍という武器にしては短い部類のものだ。しかし、見るからに鋭い刃が、そして、ベルカの騎士らしく近接戦を挑んでくるという事実が、颯輔の心を委縮させていた。

 だが、向かい立つ颯輔に震えはない。戦闘行為にまったく慣れていない精神は動揺していても、肉体の方は相手を脅威と捉えていないのだ。ディアーチェ達がシュテルによって簡単に説得されていたことからも、彼我の戦力差は一目瞭然のはずだった。

 

「どうした。まさか、騎士甲冑も纏わずにやるつもりか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 

 颯輔の感想をはっきりと言わせてもらえば、何もかもが滅茶苦茶だ。一応は大罪人であるはずの自分の枷を解き、突然戦うことを要求されている。はやて達もそういったことはあったらしいが、それはある程度の日が経ってからで、すなわち、そうしても危険はないと判断されてからのことだった。

 明らかな対応の違い。颯輔は、それに大きな不安を覚えずにはいられなかった。ゼストは言い分からそういう人物なのであろうと割り切るとして、グレアムが何を持って許可したのかが分からない。知らない誰かに見られているような、そんな悪寒があった。

 とはいえ、悩んでいても何も始まらない。この場でこれからの主導権を握るつもりはないが、この悪寒を感じる相手に対して受け身でいる気もさらさらなかった。

 

「ナハト、頼む」

《Anfang.》

 

 颯輔の左手で、決して取り外すことのできない腕甲が応えた。漆黒の柱が立ち上がり、訓練室を震わせる。閉ざされたはずの空間に風が巻き起こり、そして、()が晴れた。

 颯輔は、戦うという意志を込めた漆黒の戦装束を身に纏った。その左手で、じゃらりと鎖が音を立てる。腕甲から伸びた八条の鎖が、颯輔を中心にして大きな蜷局を巻いていた。

 

「……本来の武装とは違うようだな。それは、俺を相手にするのに武器(アームドデバイス)は必要ないということか?」

「あなたを侮っているわけではありません。ですが、ナハトの槍は人に向けるようなものではありませんから、無理を言って新しい形態を取ってもらったんですよ」

 

 颯輔は、悪いな、と腕甲を撫でた。外敵の殲滅を至上とするナハトヴァールは、颯輔の言葉には従っても現在の形態になど納得していないのだ。だから、颯輔も必要最低限の魔力しか供給はしていなかった。

 颯輔が十分に魔力を供給してナハトヴァールの槍を抜くのは、その必要がある相手が現れたときだけと決めていた。颯輔の判断基準から言えば、ゼストはそれには当てはまらない。そもそも、非殺傷設定であろうが相手を貫くほどの威力を誇る槍など、颯輔が安易に抜くはずもなかった。

 だからこその、この形態。できる限り相手を傷つけずに拘束するための武器。ただし、それでも力加減を間違えれば相手を絞め殺してしまう危険を孕んでいる。敵を殲滅することこそが、ナハトヴァールの存在意義なのだ。

 

「それがお前の戦いだと言うならば、それもよかろう。だが、後悔はするなよ」

 

 途端、魔力光を残してゼストの姿が掻き消えた。

 すぐさまナハトヴァールが反応し、俊敏に鎖を蠢かせる。だが、何もない空間に浮き上がった鎖は、火花を散らせて弾かれてしまった。

 置いてきぼりを喰らった形となった颯輔が、慌てて魔力を集中させる。鎖が弾かれた方向に向けて右手を突き出し、防壁の術式を選択して起動。中空にベルカ式魔法陣が描かれ始め――粉々に砕かれた。

 視界に残る山吹色の軌跡。ゼストの槍が、形成途中の防壁を切り裂いたのだ。

 振り下ろされた槍によって右手も叩き落されてしまい、非殺傷設定により切れてはいないが、鈍い痛みが腕を上ってくる。だが、蒐集の激痛に耐えてきた颯輔にしてみれば、強く撫でられたようなものだ。この程度の痛みで思考が乱されることなどない。問題があるとすれば、魔法の発動が遅すぎることと、体勢が崩されてしまったこと。

 

「ナハトっ!」

 

 床から1メートルほど浮遊しているゼストの直下で、颯輔の意思を酌んだナハトヴァールが動いた。

 ゼストを拘束せんと、鎖が跳ね上がる。しかし、ゼストの対処は落ち着いたもので、追撃はせずに自ら鎖の範囲外まで離れていった。

 ゼストを追おうとするナハトヴァールを鎖を引き戻して諌めながら、颯輔は思考を巡らせた。

 先の一撃を鑑みるに、ゼストはおそらくシグナムと同系統の騎士だ。高速機動を活かして相手を撹乱し、接近して重い一撃を喰らわせる。コート状の騎士甲冑も、速度を優先させてのものだろう。

 つまり、拘束は難しいが、砲撃の一発でも当てることができれば墜とせるということだ。

 しかし、颯輔が選択するのはあくまでも拘束。壊滅的な技量と経験は、有り余る知識でカバーすればいい。総合的な能力はこちらの方が圧倒的に高いのだから、それも不可能ではないはずだった。

 ゼストの攻撃を受け止め、動きが止まったところをナハトヴァールで拘束する。それが、颯輔が定めた今回の勝利条件だった。

 

「いいかナハト、捕まえるだけだぞ……いけっ」

 

 ようやく具体的な方針を得たナハトヴァールが、唸りを上げた。全ての鎖が浮かび上がり、半数が颯輔を中心にして球を作り上げ、残りの半数が先端の鏃を光らせた。

 うねる蛇のように突き進む鎖がゼストに迫る。静かに攻撃を見据えるゼストの槍が、駆動音を上げた。

 石突が稼働し、カートリッジを炸裂させる。空の薬莢が排出されると、槍の先端、薙刀を思わせる刃が山吹色に輝いた。

 

「遅いッ!」

 

 ゼストの槍が閃き、空間に光芒を描いた。四方向から同時に迫ったはずの鎖全てが迎撃され、あらぬ方向に弾き飛ばされる。弾かれた鎖が再び向かう頃には、そこにゼストの姿はなかった。

 山吹色の軌跡を追えば、鎖の結界のすぐ傍に槍を振り下すゼストの姿があった。強化が施されたままの刃が、回転する鎖にぶつかり火花を散らす。

 

「はぁぁあああッ!」

 

 耐えるかと思われた結界はしかし、裂帛の気合いの前に抉じ開けられてしまう。侵入口を力技で作ったゼストは迷わずそこから飛び込み、颯輔の眼前へと躍り出た。

 だが、何も颯輔は侵入されるのをただ黙って見ていたわけではない。鎖の結界の中、颯輔はすでに全周障壁を展開してゼストを待ち構えていた。あとは、鎖の結界を狭めれば終わりだ。

 

「あまり舐めてくれるなよ、八神颯輔」

「なっ――ぐっ!?」

 

 ゼストの対応は単純明快だった。飛び込んだ勢いのまま、颯輔の障壁に向かって突きを放ったのだ。

 山吹色の刃が漆黒の障壁にぶつかり、貫通する。貫通した刃に鳩尾を激しく突かれ、颯輔は吹き飛ばされてしまった。

 颯輔は込み上げてきたものを飲み下し、吹き飛ばされながらも左腕をぐいと引く。全ての鎖がゼストに殺到するも、やはりゼストは高速機動を活かしてそれを逃れていた。

 

「くっ」

 

 飛ばされている方向までそのまま鎖を引き戻し、クッションにしてようやく停止する。ゼストが飛び込んできてくれるのは有難いのだが、ここまで力押しをしてくるとは思わなかった。

 だが、この結果を導き出しているのは、颯輔の力量不足に因るところが大きい。魔力の集束結合という稀少技能を活かしきれていないことを、颯輔は自覚できていた。

 周囲の魔力を高効率で集束させ、それらの強固な結合を促進させる能力。それが、颯輔が発現させた稀少技能だ。この技能を活かせば、障壁の類は人一倍堅牢なものになるはずだった。

 しかし、知識はあっても経験のない颯輔は、術式の起動も遅く、その構築も甘い。一度目の防壁は、完成する前に破られた。それを反省して展開した障壁は、急ごしらえのために脆いものになってしまった。

 

(何が足りないかは分かってる。だから思い出せ。リインフォースとユニゾンしたときは、どうやった?)

 

 リインフォースが本調子ではなく、なおかつ、相手が強過ぎたことを考えても、そのときは今よりも数段上のレベルで魔法を行使していた。颯輔が経験した戦闘といえばその程度のもの。ならば、そのときの感覚を頼りにこの場を乗り切るしかない。

 

《Meister.》

「こらっ、ダメだってばっ!」

 

 じれったい。

 もっと上手くやれる。

 あの程度を噛み砕くことなど難しくもない。

 そう訴えかけてきたナハトヴァールが、颯輔のリンカーコアから魔力を引き出そうとした。それを、颯輔は許さない。繋がれたナハトヴァールとのパスを強制的に遮断すると、威嚇するように音を立てていた鎖は床に落ちて沈黙してしまった。

 その隙を見逃してくれるほど、ゼストは甘くはなかった。

 颯輔とナハトヴァールとのやり取りから察したのか、ゼストは一息で間近へと踏み込んでくる。気が付いた颯輔が顔を上げた頃にはもう遅い。何の反応をすることもできず、颯輔はまたも弾き飛ばされてしまった。

 

「この……っ!」

 

 飛行魔法を発動しながら、もう一度ナハトヴァールに魔力を通す。ふらふらと頼りなく宙に浮く颯輔を余所に、再起動したナハトヴァールは全ての鎖でゼストを狙い始めた。

 怒りに震えるナハトヴァールは、颯輔の言葉を覚えているかどうかも怪しい。難なく回避するゼストを執拗に追い掛け回している。その動きは颯輔に従っていたときよりも速いが、本来の性能に比べれば目も当てられないほどに劣化したものだった。

 傷つけずに拘束しようとしている颯輔と、眼前の敵を締め上げ噛み砕こうとしているナハトヴァール。使用者とデバイスが互いに足を引っ張り合うという、愚にもつかない悪循環が形成されてしまっていた。

 

「止まれッ!!」

 

 制御を失う前に、颯輔は暴れ始めたナハトヴァールを待機状態へと戻した。ゼストを狙っていた八条の鎖が砕け、漆黒の魔力素となって散る。腕甲から短い鎖を垂らすのみとなったナハトヴァールは、不服だと言わんばかりに腕の締め付けを強めていた。

 

「無様だな。期待外れもいいところだ」

 

 嘆息したゼストが、再びカートリッジを炸裂させる。本格的に身体強化を施したらしく、山吹色の闘気を纏ったゼストが、険しい表情で颯輔へと突進してきた。

 今の状態の颯輔には、ゼストの機動を目で追うことはできない。しかし、拡散したナハトヴァールの鎖を構築していた魔力素が掻き分けれる感覚から、向かってくる方向は掴めていた。

 ナハトヴァールの魔力は颯輔とほぼ同一。自身の躯体も同然の魔力素ならば、嫌でも感覚を共有してしまう。皮肉にも、ナハトヴァールを待機状態に戻したことによって、颯輔の索敵能力は強まっていた。

 挑発は聞き流し、感覚を鋭敏に。

 思い描くのは、リインフォースによる優美な魔法行使。

 処理が多いのならば不要な部分を省けばいい。

 すなわち、盾の展開は最小面積に。そこに今までと同じ魔力を注ぎ込めば、盾の強度は格段に上がるはずだ。

 視界の裏側で夜天の書と紫天の書の記憶がフラッシュバックする。ゼストと同じ槍使いなど、ベルカの世界には掃いて捨てるほどいた。その中からゼストと同等、あるいは格上の相手を選択し、迫る機動と繰り出される攻撃を予測。

 本を読み解くように。

 伏線から展開を先読みするように。

 ゼストの攻撃をおぼろげながらも読んだ颯輔は、一点に向けて右手を突き出した。

 周囲の魔力素が集って結びつき、小さな漆黒の壁を築き上げる。ぶち当たったゼストの槍は、壁を切り裂くことも貫くこともなく、硬質な音を立てて弾かれた。

 

「やったっ」

「何をいい気になっている」

「――っ」

 

 確かにゼストの攻撃は防いだ。だがそれはたった一度きり。ましてやナハトヴァールの鎖もないのだ。防がれたのならば、第二撃に移られることなど当然だった。

 風を切り裂いたゼストの槍が、颯輔の脇腹に叩き込まれた。颯輔はボールのように飛ばされ、無様に床を転がる。大した痛みではないはずが、颯輔は四つん這いの状態からなかなか立ち上がることができなかった。

 床を見下ろす視界の端に、ゼストのブーツが映る。はっと顔を上げるも、ゼストに攻撃を仕掛ける様子はなかった。

 

「何故本気を出さない? まさか、手加減でもしているのか? 俺を殺してしまわないように? ならばそれこそ何よりの屈辱だ。八神颯輔、お前のような素人に負かされるほど、俺は弱いつもりはない」

「……ますよ」

「何……?」

「だから、手加減だとか、勝ち負けだとか、そういう話じゃないんですよ……!」

 

 武器を向けられた恐怖からか、それとも弱い自分への憤りからか、颯輔の手足は震えてしまっていた。

 それでも颯輔は顔を上げ、見下ろすゼストの視線を正面から受け止めて言った。

 

「闇の書は、これまでいろんなものを壊してきました。確かにその力は、何かを壊すことに秀でているんだとは思います」

 

 魔力を奪い、命を絶ち、国を滅ぼしてきた闇の書。

 その事実は決してなくならない。

 過去を塗り替えることなどできはしない。

 

「だけど、それだけじゃないんですよ。夜天の書と紫天の書が培ってきた力は、何かを壊すためのものだけじゃない。治癒魔法とか、防壁とか、結界とか、もっと優しくて、命を守れるような、そういう力だってたくさんあるんですよっ」

 

 例えば、シャマル。

 シャマルの本領は、傷ついた他者を治療して癒すための魔法だ。温かくて心地よいミントグリーンの魔力は、何度も颯輔やはやての痛みを取り除いてくれた。

 例えば、ザフィーラ。

 ザフィーラの本領は、その広い背中に誰かを守るための魔法だ。力強い群青色の魔力は、何度も颯輔やはやてを攻撃の脅威から守ってくれた。

 シグナムもヴィータも、ディアーチェもシュテルもレヴィも、リインフォースもユーリも、皆がそういった他者のための魔法を使うことができる。

 そして、死に瀕した颯輔を救ったのは、呪いに侵されていた紫天の書の力だった。

 ならば、呪いが解けた今、破壊と死を振り撒く魔導書など、どこにも存在しないのだ。

 

「だったら、俺がそれを裏切るわけにはいかないじゃないですか……! 夜天の魔導書も紫天の魔導書も、もう誰にも呪われた魔導書だなんて言わせないっ! あの子達には……ナハトにだってっ、自分の力は誰かを守れる優しい力なんだって、胸を張って誇れる力なんだって、そう教えてあげたいんですよっ! だからっ! これ以上誰かを傷つけてしまうくらいなら、皆を泣かせたって、怒られたって……俺が傷つく方がずっといいっ!」

「……安い信念、穴だらけの理論だな。力を伴わない言葉ほど、劣悪なものはない」

 

 返すゼストの声は、底冷えするほどに冷たいものだった。憤怒と憐憫とが混ざり合った目を向けたまま、その手の槍をぶんと回す。床についていた石突が迫り、颯輔の顎を跳ね上げた。

 

「あ……」

「お前は俺以上に理解しているはずだろう。いつの時代だろうが、悪意はその善意を食い物にしてきたということを」

 

 ゼストの憐みの声は、しかし颯輔には届かない。魔法生命体であろうとも、意識を刈り取られることはある。いくら颯輔が痛みに慣れてしまっていようとも、すでに落ち始めた意識を自力で繋ぎ止めることなどできるはずもなかった。

 幕引きのつもりで放ったゼストの一撃。

 それは、確かに決着をもたらすものだった。

 ゼストの死という幕引きを。

 

Gegenangriff.(反撃を)

 

 崩れ落ちる颯輔の左手から、不吉を告げる電子音声が上がった。

 颯輔は、ナハトヴァールに必要以上の魔力を供給しないようにしていた。ナハトヴァールの存在意義は、紫天の王の存続。相手に悪意があろうとなかろうと、颯輔に危害を加える者の存在など、許すはずがない。

 ならば、そこで力を制限していた颯輔の意識が落ちればどうなるか。

 答えは、腕甲から伸びる八匹の大蛇だった。

 

「これは――ぐがっ!?」

 

 てらてらと光る漆黒の鱗を持つ大蛇。颯輔の有り余る魔力を使って出現したと同時、一匹がゼストに体当たりをかます。咄嗟に張った障壁は無残に砕かれ、弾丸のように飛んだゼストは壁にぶつかりようやく停止した。

 今の体当たりは、自身の躯体を展開する上で邪魔になるものを脇に避けた程度のものだ。要するに、顔を出そうと思ったら何かが頭にぶつかっただけ。ただそれだけのことで、槍で受けたゼストの手首はいかれて肩が外れてしまっていた。

 躯体を展開し終えたナハトヴァールが、八つの口を大きく開く。血のように赤い肉を覗かせながら、八匹の大蛇がゼストに向かって殺到した。

 

「――阿呆が。先の言葉、そっくりそのまま返してやろう」

 

 途端、暗転していた颯輔の視界が光を取り戻した。その視界には、猛る炎閃と鋭い雷閃が瞬いている。左腕の腕甲から伸びる八匹の大蛇が、シュテルとレヴィの二人によって細切れにされていた。

 

「まあ、こんなものでしょう」

「まったくもー、そーすけは相変わらず頼りないなぁ」

 

 魔導杖(ルシフェリオン)魔導剣(バルニフィカス)。それぞれのデバイスを構え、シュテルとレヴィは颯輔の両隣りにふわりと降り立つ。シュテルはひとつ息を吐き出ながら、レヴィは呆れ顔で颯輔を見ていた。

 

「俺は……」

『大丈夫ですよ、颯輔。ナハトはわたしがちゃあーんと抑えておきましたから』

 

 胸の奥に感じる温もりと、体の内側から響く幼い声。震えが収まった手足で身を起こしてみれば、漆黒の戦装束は純白に染め上げられている。そのどれもが、ユーリとユニゾンした証だった。

 

「そっか……――って、グランガイツ三佐はっ!?」

「はいはい正面を見るー」

「暴走したナハトの攻撃は、ディアーチェが防いでくれましたよ」

『治療もしてくれてるみたいです。……すっごく嫌そうな顔してますけど』

 

 三人に促されて見てみれば、躯体が解けゆくナハトヴァールの残骸の向こうに、漆黒の障壁が展開されていた。

 残骸の消失と共に障壁も消えると、そこには、壁際に座り込んだゼストとそれを見下ろすディアーチェの姿がある。ディアーチェは紫天の書を片手に治癒魔法を発動させながら、あらん限りの罵声をゼストに浴びせかけていた。精神リンクから伝わってくるディアーチェの感情は、憤激の一色のみである。

 

「俺、結局何もできなかったんだな……それどころか、ナハトを暴走させて……」

 

 ゼストを侮っていたわけではなかったが、慢心が全くの皆無だったとは言えない。無意識の内に、ディアーチェ達と比べてしまったのだ。ディアーチェ達に比べれば、ゼストは容易い相手だと。あのときは颯輔一人の力で戦ったわけではなく、自身の無力さも理解していたというのに。

 行き場のない憤りから、颯輔は拳を固く握り締めた。

 震える片方の拳を、シュテルの小さな掌が包み込む。

 

「颯輔、あまり自身を責めないで下さい」

「そうそう。もともと颯輔が勝てるとも思ってなかったし、ナハトの暴走はシュテるんの作戦ミスなんだから」

『そうですよぉ。本当は颯輔のピンチに――』

「んんっ」

『とっ、とにかく悪いのはシュテルですっ』

「……というわけです。颯輔には自身の力量を再認識して頂きたかっただけなのですが、颯輔の言葉があまりにも心震わせるものだったので、止めるタイミングを見誤ってしまいました。申し訳ありません」

「う、うん……って、ちょっと待って。それって、結局俺の所為ってこと……?」

「端的に言わせていただければ、そうなりますね」

「ならんわっ! というか貴様シュテルっ! 面倒事を我に押しつけておいて自分は兄上に媚を売るとはいい度胸ではないかそこに直るがいい……!!」

「きゃー。ディアーチェが恐ろしいです颯輔助けて下さい」

 

 どうやら治療は終えたらしく、わざわざ転移魔法を使ってまで颯輔達の下に戻ってきたディアーチェは、颯輔に寄り添うシュテルを見てさらに怒りを深める。棒読みの台詞を発したシュテルは、ディアーチェから隠れるようにして颯輔にしがみついていた。

 何やら聞き逃してはならない言葉があった気もするが、怒髪天をつくディアーチェを宥めるので颯輔はそれどころではない。シュテルを引きはがそうと迫るディアーチェを代わりに受け止め、どうどうと背中を撫でた。

 

「よしよし怒らない怒らない」

「はふぅ……」

「それから、ありがとうな。ちゃんと俺の言葉を聴いててくれて」

「い、いいいいえ、あのような視界に収める価値もない塵芥であろうとも、これから先、我らの上官となる相手。兄上とディアーチェの暗黒ほとばしる未来を思えば、心証を貶めることなどあってはなりませぬゆえ」

「その割には罵倒してたけどねー」

「というかなんですかその邪念溢れる未来予想図は」

『ディアーチェ汚いです』

「貴様ら……!」

「はいはいどうどう」

「んっ……!」

 

 未だに震えるディアーチェを宥めながら、颯輔は自身の荒んだ心も落ち着けていた。

 自分は弱い。それは、今後履き違えることがないほどに自覚した。経験も技量もないのだから、それは当然のことだろう。知識だけで戦うことができるほど、この世界は甘くはない。

 しかし、颯輔はもう自分が一人ではないことも知っている。ユーリがいて、ディアーチェがいて、シュテルがいて、レヴィがいる。今は会うことができないが、はやて達だっているのだ。先ほどはああ言ったが、もう一人で抱え込む必要はない。

 颯輔の力とは、皆が揃って初めて発揮されるのだから。

 

「さて颯輔。次は、貴方(我ら)の強さを再認識していただきましょうか」

「やっとボクらの出番だねっ。待ちくたびれちゃったよぉ~」

 

 ひとまずはひっついて満足したらしいシュテルが、颯輔を見上げながら言う。レヴィは一人離れたまま、肩をぐるぐると回していた。

 

「わざわざ治療してやったのだ、当然立てるであろう? 望み通り、我らの力を見せてやろうではないか。丁度いい、そこの塵芥共もまとめて来い。貴様らがロストロギアなどと称す紫天の威光、その身に刻んでやる。格の違いを思い知るがいい」

 

 颯輔の腕を引っ張り抱きかかえたまま、ディアーチェが不遜に笑って声を魔法で響かせる。立ち上がったゼストが再び槍を構え、行方を見守っていたリーゼロッテが人間形態に戻り、メガーヌの首根っこを掴んでゼストの隣に転移した。

 

『颯輔、皆で一緒にやっちゃいましょう!』

「あの、怪我させたらダメだからな? ……絶対、ダメだからな?」

 

 高まる複数の魔力を感じながら、颯輔は頬を引きつらせる。向こうでメガーヌが同様にしているのを見て、常識人が一人はいることに救われた気がした颯輔だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 マテリアル娘

 

 ユーリと融合(ユニゾン)した颯輔は、感覚が研ぎ澄まされていることに気が付いた。そうして、認識を改める。()()()()の力が、如何に凄まじいものであるのかを思い知らされた。

 管理局の基準に従って魔力量をランク付けをすれば、ディアーチェはSSランク、シュテルとレヴィはSランクとなるだろう。しかしそれは、単なる数値の話だ。実際にリンカーコアで感じる魔力には、数値以上に底知れなさがあった。

 深淵の闇を思わせる、どこまでも深い魔力を纏うディアーチェ。静粛でありながら、焼け付くような魔力を放つシュテル。荒々しくも、刃のように鋭い魔力を迸らせるレヴィ。

 敵に回したときは、一切の勝機が見いだせなかった。だが、こうして並び立ってくれた今、何と心強いことか。できないことなど何もない、そう錯覚させられるほどの安心感があった。

 

(……なんて、安心してたらダメだよなぁ)

 

 同時に覚えるのは不安。それは、果たして彼女達を守れるような存在になれるのか、ということだ。

 いくら頼もしくとも、ディアーチェ達の見た目は十歳の少女。その背に守られ安堵するなど、一人の男として恥ずかし過ぎる。何よりそれは、今までの闇の書の主と同じということだ。

 そうではない。

 颯輔が目指すのは、そんな姿ではない。

 

『ダメですよぅ。背中に庇って俺が守るなんて、そんなの許してあげません』

 

 なんて、未来の姿を思い描いただけで、僅かに膨れた声が返ってくる。ディアーチェ達にまでは伝わらなかったようだが、文字通りに一心同体となっているユーリは別だった。

 融合騎(ユニゾンデバイス)とは、術者を魔導の極限へと導く存在。そのため、一挙一動、思考に意思から心の機微まで、融合(ユニゾン)中は互いの情報が手に取るように分かってしまう。タイムラグなど存在しない正確無比な魔力の管制と補助には、そこまでのことが必要なのだ。

 ただでさえ深い繋がりの精神リンクに加え、そのような状態にあるのだ。颯輔が抱いた密かな決意など、ユーリに隠し通せるはずがなかった。

 

『どんな状況だとしても、わたしが颯輔を一人になんかさせません。いつの日かディアーチェ達よりも強くなったとしても、わたしだけは、颯輔の背中に庇われたりなんてしてあげません。だってわたしは、颯輔の融合騎なんですから。あなたの力はわたしの力。わたしの力はあなたの力。颯輔と共に在ることが、わたしの役目です。だから颯輔、わたしを守るというのなら、絶対に傷ついてはいけませんよ?』

『い、いきなり難しいなぁ』

『ふふっ、何も難しく何てありませんよぅ。わたしが()()にいる限り、颯輔が傷つくことなんて、絶対にあり得ないんですから』

 

 見た目とは裏腹の強かな言葉。しかしそこには、隠す気など毛頭ない愛情と好意が乗せられていた。そうまでされては、それに応えないわけにはいかなくなってしまう。

 背中から広がった炎のように揺らめく翼が、ふわりと颯輔の体を包み込む。温かく柔らかな感触。頬をくすぐるそれを、そっと撫で返した。

 術者が負った傷は、融合騎(ユニゾンデバイス)にも反映される。ユーリに離れる気がないのならば、颯輔も傷つくわけにはいかないだろう。ユーリが傷つき倒れている姿など――いや、ユーリだけではなく、家族の傷ついた姿など、とてもではないが直視できない。

 

「な・に・を・しておるかユーリぃぃぃいいいっ!!」

「うわぁっ!?」

 

 小さな掌が魄翼を押し広げ、憤怒に歪んだ顔がぬっと現れる。真っ赤になったディアーチェが、颯輔の胸に向かって叫びをあげた。

 

「隙をついてはいちゃこらとっ、これみよがしに精神リンクに己が感情を駄々漏らしにしおってっ! ええい妬ましいっ! 貴様っ、作戦行動中だとわかっておるのかっ!?」

『その作戦行動中に敵に背中を見せてるディアーチェには言われたくないです。それに、ここはわたしの定位置ですよ? 戦闘準備はとっくに終わってますよー』

「隙あらば媚びを売るような融合騎だけに、兄上を任せてなどおられんわっ!」

『あっ、ちょっ、無理矢理入って来ないでくださいぃ~!』

「うわぁ……」

 

 言い争いをしていたディアーチェが、躯体を解いて融合(ユニゾン)を始める。はやる気持ちがそうさせるのか、体を颯輔へと押し付けるため、まるでそのまま潜り込んでいくかのようだ。その異様な光景に、当の颯輔は言葉にならない声をあげることしかできなかった。

 厳密に言えば違うのだが、マテリアル同士でも融合(ユニゾン)は可能だ。マテリアル(構築体)とは紫天の書の機構を分割した存在なのだから、それが本来の形に戻るだけの話である。

 ただし、青年が少女を体に取り込んでいく――正確には少女が進んで青年に取り込まれていく――という光景は、その意味を知っていても絵的に拙いものがあった。事実、遠目にとはいえ一部始終を目撃してしまっているゼスト達は、言葉を失いその場に立ち尽くしてしまっていた。

 

『融合完了! さぁ兄上、このディアーチェが兄上とい、い、ぃ、ぃい一体となったからにはっ、次元世界に敵などおりませぬ! そこの塵芥共も言葉を失っておる様子。くくく、ようやく我らの偉大さに気が付いたと見た』

「いや、絶対ドン引きしてるよね? もうなんか頭痛い……」

『ディアーチェ、融合(ユニゾン)するならちゃんとバランスとってくださいよぅっ! 融合事故起こしかけてますってば!』

『む、そんなはずは……。兄上、お加減はいかがですか?』

「うん、大丈夫……大丈夫、うん……」

 

 がっくりと項垂れた颯輔の髪色が、色素の薄い金へと変わり始めた。純白だった戦装束にも、漆黒の紋様が浮かび上がる。それらは、ディアーチェの魔力による影響だった。

 二重融合。本来ならば融合事故必至のそれは、マテリアルである颯輔達にのみ許された権利だ。シュテルとレヴィも加わることで完成形となるのだが、どうやら今の二人にその気はないらしい。シュテルは目を鋭くしつつもその場を動かず、レヴィに至っては興味の欠片もなさそうだった。

 

「で、遊びは終わりましたか? あまり相手を待たせては失礼ですよ、颯輔」

「いや、遊んでるつもりは――」

「遊びは、終わり、ましたか?」

「はい」

『シュテルが怖いです……』

『ぬ、何やら怖気が……』

「……さて、本来ならば私が解説につくところなのですが、今回は他に役に立ちそうのないディアーチェへと譲ることにしましょう。広域型のディアーチェに暴れられては、颯輔の訓練どころではありませんからね。仕方がありません。ええ、仕方がないのです」

「シュ、シュテル……?」

「……ダメだよ、そーすけ。今のシュテるんをこれ以上刺激したら、すっごいおしおきされちゃうよ」

 

 ただでさえ感情が読み取り難い表情を、さらに虚ろにしていくシュテル。なにかフォローを入れなければと思った颯輔だが、いつの間にやら傍に寄っていたレヴィによって止められてしまう。耳元で囁くレヴィは、体どころか声すらも震えてしまっていた。

 レヴィはそれだけを告げると、そそくさと離れていってしまう。それを見たシュテルが、上げかけていた腕をだらんと落としていた。

 

「レヴィ、分かっていますね? 今回のあなたの役目は、颯輔達のサポートです。颯輔達が捌ききれないときは、カバーに入ってください。それから、いくら非殺傷設定だからといって、勝手に相手を斬り捨ててはいけませんよ、いいですね?」

「はいっ!」

「ユーリとディアーチェは、颯輔に戦闘というものを教えてあげて下さい。くれぐれも、ふざけたりしないように。いいですね……!」

『は、はいっ』

『お、応とも』

「最後に颯輔、あなたは目を瞑らずにいればそれでいいです。細かい動きはユーリとディアーチェがリードしますから、それに合わせて下さい」

「……わかった」

「今回は慣れることが目的ですよ。それから、言いつけは守りますし、レヴィにも守らせますのでご安心を」

「……ん、ありがと」

「いえ。……さて、長らくお待たせしてしまいましたね。そろそろ始めましょうか」

 

 両隣に並び立ったシュテルとレヴィが、それぞれのデバイスを構える。見据える先で、ゼスト達が動き出した。

 

 

 

 

 三角形の中央に剣十字を配した、ベルカ式の魔法陣。漆黒、緋色、水色のそれらが輝きを放ち、溢れ出る魔力が空気を震撼させた。

 シュテルは十二の魔弾を従え、レヴィは体に雷光を纏う。二人は自ら前に出ることはせず、数メートルの距離を開けて颯輔達の傍に控えていた。

 

『それでは、魄翼の力を見せちゃいますよ~』

 

 意気込む幼い声があがると同時、魄翼が揺らめき一部が分かれ、颯輔の両腕を包み込んだ。脈動し、肥大する赤黒い肌。形を成したそれは、鋭い大爪を作り上げた。

 魄翼の武装形態――魄爪。高濃度の魔力の塊である魄翼は、任意の形へと造り替えることができる。颯輔達マテリアルならば、躯体の一部とすることも可能だ。もともと強固なところに集束結合の稀少技能が合わさり、魄爪の武威は凶悪なまでに高められていた。

 もっとも、魄爪は相手に警戒を抱かせるためのフェイクだ。無論、ユーリ達には近接戦闘への不安などはないが、颯輔は違う。ましてや今回の模擬戦は、言うならば見稽古。その点から考えれば、魄爪は見せ札としてでも十分な役目を果たしてくれるだろう。

 

『ならば、ナハトの制御は我が受け持ちましょうぞ』

《Anfang.》

 

 左手の魄爪の甲に魔法陣が浮かび上がり、そこから八条の鎖が出現した。鎖は静かに地を這い、そこに暴走を始める気配はない。ナハトヴァールは、完全にディアーチェの制御下に置かれたようだった。

 先の戦闘でナハトヴァールが暴走を始めたのは、現状を維持すれば颯輔が危険にさらされると判断したためだ。ユーリにディアーチェと融合(ユニゾン)し、シュテルにレヴィの守りがあるのならば、颯輔の安全は確約されたも同然である。ディアーチェの制御力もあるが、この状況で自動防御に移るほど、聞き分けのないデバイスではなかった。

 一方で、ゼスト達も行動を開始していた。

 相手はゼスト、リーゼロッテ、メガーヌの三人編成。ゼストとメガーヌは地上本部の中でも同じ隊の所属のようだが、リーゼロッテは本局所属――さらに言うならば、元帥直属の部下だ。しかし、リーゼロッテとメガーヌには面識がある様子。問題はゼストとリーゼロッテの相性だが、生憎と悪くはなかったらしい。

 全身に身体強化の術式を施したらしいゼストとリーゼロッテ。赤紫の魔力光を背景にし、近接型の二人が向かってきた。

 高速機動を得意とするゼストと、短距離瞬間移動を駆使するリーゼロッテ。融合(ユニゾン)前の颯輔ならば、確実に見失っていたであろう機動だ。しかし、今はその全てが視えていた。

 

『颯輔、まずはあの騎士に集中しましょう。使い魔の相手は、まだ難しいと思います』

『短距離瞬間移動者の動きは複雑ゆえ、あれはレヴィにくれてやりましょうぞ。レヴィ、よいな?』

「ん、おっけー」

「では、私も露払いに徹しましょう」

 

 シュテルが杖を振り、十二の魔弾を解き放つ。シュテルの魔力変換資質によって変質した魔力の炎が、火の粉を撒き散らしながら発射された。

 ゼストもリーゼロッテも危なげなく魔弾を躱し、また、シュテルも牽制以上の深追いはせずに、魔弾を直進させる。シュテルの射撃は、メガーヌが形成していた魔力弾を一つ残らず打ち消していた。

 知らずの内にシュテルの魔弾を目で追っていた颯輔の視界に、山吹色の光が強く瞬いた。正面から迫るゼストの槍が、込められた魔力に輝きを放っている。それを迎え撃つように魄翼が広がり、ナハトヴァールの鎖が動いた。

 

『ナハト、まだ追わずともよい。その場で待ち構えろ』

『レヴィ、使い魔をお願いします』

 

 魄翼が半円を描き、空いた正面の空間には、鎖が蜘蛛の巣のように張り巡らされる。となれば隙となるのは頭上と背後だが、そこには飛行魔法を発動したレヴィがカバーに入っていた。

 レヴィの纏う雷光により、ちりちりとした感覚が伝わってくる。颯輔は身を斬り裂かれる度にそれを感じていたため、どうしても気が散ってしまう。そんな颯輔に、叱責の声がかけられた。

 

「颯輔、集中を」

「来るよ」

 

 シュテルとレヴィの声。それに示し合わせたかのように、二つの魔力が颯輔達を挟む。正面からは、槍を構えたゼスト。背後に突如として出現した気配は、リーゼロッテのものだった。

 そして、高まる魔力がもう一つ。メガーヌの正面で、召喚魔法陣が赤紫に輝いていた。

 

「錬鉄召喚――アルケミックチェーンッ!」

 

 メガーヌの声に合わせたかのような同時攻撃。前後から迫るそれらは、しかし颯輔の身に届くことはなかった。

 張り巡らされていた鎖が蠢動し、形を変えた。網のように広がった鎖が、槍を振りかぶるゼストの動きを遮る。先ほどは斬り払って強引に進んできたはずのゼストは、今度は眉をしかめて鎖を払い除け、距離をとった。

 颯輔の背後では、機械の駆動音の後に激突音が上がった。ちらりと目を向ければ、バルニフィカスを鎌へと変形させたレヴィが、リーゼロッテの攻撃を器用に柄でいなしていた。

 反撃にと雷刃が閃くも、直前にリーゼロッテの姿が消失する。それでもレヴィは迷うことなく一点に向けて砲撃を放ち、上空から放たれた砲撃を相殺した。

 砲撃を放ったリーゼロッテに向け、炎の魔弾が迫る。その間にレヴィは飛翔し、シュテルの下へ。シュテルに肉薄していたゼストへと鎌を振りかぶり、光刃で斬り結んでいた。

 シュテルは魔弾でリーゼロッテの動きを止め、レヴィがゼストの相手をする。シュテルは努めて冷静に。レヴィは目を爛々と輝かせながら。そこに緊迫した様子はなく、二人にはまだまだ余裕が見られた。

 

『兄上、あやつらの心配は要りませぬよ』

『魔導師がフリーになりました。わたし達で押さえますよ』

「うん」

 

 ゼストとリーゼロッテを封じた今、残る相手はメガーヌだ。見れば、召喚魔法陣から同じく八条の鎖が向かってきていた。

 そして、輝きがもう一つ。メガーヌの足元に浮かぶのは、ベルカ式の魔法陣。新たに従えたのは、二十の魔弾だった。全ての赤紫の魔弾が、颯輔達を目掛けて放たれる。

 複雑な動きはなくとも鎖の操作に淀みなく、魔弾の弾道にはフェイントさえ入れられている。両手にはめられた手袋状のデバイスの演算力もあるのか、単体での魔法行使にしてはそれなりのものだ。

 しかしこちらには、ユーリとディアーチェがいる。ユーリは魄翼をはためかせ、全く同数で同程度の魔力が込められた魔弾を生み出し、鏡合わせのような弾道でそれらを放った。

 ディアーチェはナハトヴァールへと命令を下し、相手の鎖を絡め取る。絡み合った鎖は余丁を失い、颯輔達とメガーヌとの間で綱引きのようにピンと張られた。

 射撃魔法を潰し、召喚された鎖も拘束。逆に言えば、注意を惹きつけられ、ナハトヴァールの鎖も封じられたということ。ただし、かといって隙が生まれたかと言えばそうではない。ユーリの手は空いているし、ディアーチェの演算能力もほとんど使っていない。ゼストとリーゼロッテの二人は完全に縫い止めており、状況は完全にこちらへと傾いたと断言してもよかった。

 もっとも、勝敗などは戦う前から決まっていたのだが。

 

『それでは兄上、まずはあれを釣り上げ封じましょうぞ』

『身体強化を施します。ナハトの鎖を思いっきり引っ張っちゃってください』

「わかった。せーのっ」

「っ、きゃあっ!?」

 

 魄爪で鎖の束を掴みとり、漲る力でぐいと引く。身体強化を施された今、力比べでメガーヌに劣るはずもない。召喚した鎖を放棄する暇も与えず、メガーヌをその場から引っこ抜いた。

 魔法陣の消失に合わせ、召喚された鎖も消えていく。飛行魔法を発動して体勢を整えようとしているメガーヌへと、先ほどとは比べ物にならない動きでナハトヴァールの鎖が迫る。

 だが、メガーヌを拘束するには至らなかった。

 鎖がメガーヌを捕える瞬間、リーゼロッテが姿を現す。八条の鎖が触れる前に、リーゼロッテは短距離瞬間移動でメガーヌを救出してしまった。

 

『ちっ、面倒な能力だ。シュテル、レヴィ、何をしておる』

「これで終わっては、何の経験にもなりません。というわけで、レヴィ、あとはお任せしますよ」

「はいよっ、と!」

 

 レヴィが斬り結んだゼストを力任せに振り払い、シュテルが新たに魔法陣を描く。生み出された魔弾は総数三十六。ゼスト、リーゼロッテ、メガーヌにそれぞれ十二発ずつ射撃を見舞うと、その隙を利用して颯輔達の傍に降り立った。

 「それでは、私も失礼します」と一声かけ、躯体を解いてしまうシュテル。緋色のリンカーコアは、威風堂々と瞬きながら直進し、颯輔の胸へと入り込んだ。

 シュテルも融合(ユニゾン)し、颯輔の髪色が赤みを帯びた栗色に変化する。魄翼の揺らめきが大きくなり、戦装束の金属部が緋色に染まった。

 魔力量は増したが、事前の取り決めもなく侵入してきたシュテルの存在に、颯輔の中が一気に騒がしくなる。しかし、言い争いはしつつもバランスには気を付けているようで、融合(ユニゾン)自体は安定していた。

 

『さぁ、今度はこちらから攻めますよ、颯輔』

「えっと、どうすればいい?」

『射撃で縫い止めて、ナハトで拘束しちゃいましょう』

『魔法行使は我らで行いますゆえ、兄上をその感覚を覚え、戦況の把握に努めてください。レヴィは好きにさせておきましょう。あれはあれで判断し、こちらに合わせるはず』

『では、いきますよ』

 

 言葉の裏で飛び交う思考。三人は瞬時に作戦を練り上げ、それぞれを役割を決めていた。

 颯輔の足元に漆黒と緋色の魔法陣が二重に現れ、光を放って回転を始める。魄翼が広がり、ナハトヴァールの鎖が鎌首をもたげた。

 魄翼を制御しているのはシュテルだ。渦巻く魔力が二対の球体を作り上げ、両翼の上に固定される。残存魔力の限りに魔弾を形成して吐き出し続ける、二門の砲台だった。

 シュテルが狙うのは、線の機動しか持たないゼストとメガーヌの二人。砲台が魔力を高め、二人に向けて無数の魔弾を掃射し始めた。

 ゼストは高速機動を使って絶えず動きまわり、一方のメガーヌは足を止めて三重の防壁を敷く。どちらが悪手かといえば、それはもちろん後者。しかし、メガーヌの判断を責めることはできないだろう。ゼストでさえ危うい回避となってしまう魔弾の暴雨では、メガーヌに回避できるはずもないのだから。

 額に汗を滲ませているメガーヌ。鮮血の雨は一枚目の防壁を食い破り、二枚目も見る見るうちに削り取っていた。

 

「くっ、このっ!」

「いかせないよ。キミには、ボクの相手をしてもらわないとね」

 

 またもフォローに回ろうとしたリーゼロッテの前に、レヴィが立ち塞がる。レヴィの反応速度をもってすれば、短距離瞬間移動の使い手であるリーゼロッテの機動にも対応が可能だ。リーゼロッテは、レヴィを振り切れずに歯噛みしていた。

 ゼストもリーゼロッテも手一杯。メガーヌの防壁も残り一枚となり、それですら辛うじて形を残している程度だ。肉片も残らないほどに穿つこともできるが、それは颯輔の望むところではない。それを理解しているシュテルは、メガーヌが耐えられる限界を見極めつつ魔弾を撃ち出していた。

 完全に足が止まったメガーヌに、ユーリが操るナハトヴァールの鎖が迫る。蛇のように地を這い進んだ二条の鎖は、メガーヌを引きずり倒して全身に巻きつき拘束した。

 

『まずは一人です。次、いきますよぉ~!』

 

 残る六条の鎖は、辛うじてシュテルの射撃を回避しているゼストに殺到していた。

 シュテルの射撃とユーリの捕縛を逃れながらも、槍に魔力を集中させているゼスト。最後に一矢報いるつもりらしいが、その機を見いだせずにいるようだった。

 そこで動きを見せたのが、リーゼロッテだ。追い縋るレヴィに痛烈な一撃を見舞って離脱。照準がメガーヌから移り変わったシュテルの射撃を、より一層複雑な機動で掻い潜り、ゼストの下を目指す。

 しかし、シュテルの射撃によって機動を限定されたゼストの足に、ついにナハトヴァールの鎖が触れ――

 

「手ぇ伸ばせッ!」

「――ッ!」

 

 完全に拘束する前に、リーゼロッテの手が届いた。

 次の瞬間、姿を消した二人が出現したのは、颯輔達の正面。ゼストの槍は眩い魔力光を纏い、リーゼロッテの右足にも青の魔力光が宿った。

 

「ここらで一発――」

「――喰らってもらうッ!」

 

 ユーリの鎖よりも、どころかシュテルの照準よりもなお早く繰り出される、渾身の刺突と蹴撃。管理局トップクラスの実力を持つ二人の痛撃が炸裂し、巻き起こった衝撃波が隔離施設全域を揺らした。

 

『残念だったな、塵芥共』

 

 ディアーチェの静かな声が響く。ゼストの槍とリーゼロッテの脚は、漆黒の衝撃に阻まれている。二人の攻撃は颯輔達には届かず、ディアーチェが展開した複合障壁の一層を破るに止まっていた。

 ゼストとリーゼロッテに、これ以上動く気配はない。二人の首筋には、背後に迫ったレヴィによって、水色の鎌がぴたりと添えられていた。

 

 

 

 

 ゼスト達との模擬戦は、合間に休憩を挟みつつ、都合三度も行われた。颯輔に経験を積ませるという目的もあったが、レヴィが一戦では満足しなかったのだ。

 ようやく起動できたかと思いきや、そこから約一ヶ月も待機状態の時間があった。これまでの時間に比べれば刹那のようなものだが、それでも、自身の躯体を動かすという経験を得たレヴィにとっては、耐え難い時間だったらしい。羽目を外しすぎて暴走、などということはなかったが、二戦目からは手加減なしで臨み、存分にストレスを発散していたようだった。

 ゼストとリーゼロッテも納得はしていなかったようで、再戦には積極的だった。二人ほどの実力者ではないメガーヌは、表に出すことはなかったが、渋々といった様子で付き合わされていた。

 結局、三戦とも結果が変わることはなかった。そして、怪我人もなし。拘束、あるいは寸止めによって、全ての勝敗がつけられた。颯輔は、シュテルの言葉通りに紫天の書の力を再認識させられたのである。

 そして同時に、自身の無力さを。

 颯輔はただ魔力を分け与え、融合(ユニゾン)の基点となっていただけだ。その場に突っ立って、戦闘の様子を見ていただけ。ユーリのおかげで目で追うことはできたが、同じような立ち回りができるようになれるとは思えなかった。

 

「はぁ…………」

 

 ベッドに座り、天上を見上げて溜息をつく。真っ白な天井にはシミの一つもなく、汚濁が許されない空間のように感じられた。

 模擬戦が終わり、ゼストは隔離施設を後にした。リーゼロッテの気配はリフレッシュルームの方から感じられるが、メガーヌは施設のどこかにいるということしかわからない。隔離された区画にいるのは、颯輔達とリーゼロッテだけだった。

 メガーヌは施設に泊まり込んでいるらしいが、必要以上の干渉はない。連絡用の端末を渡され、何か用があれば呼び出して欲しいとだけ告げられていた。

 リーゼロッテは監視のために同じ区画に留まっているようが、やはり、慣れ合うつもりはないらしい。区画内の施設は自由に使ってもいいらしいが、問題だけは起こすなとのことだった。

 とても犯罪者への対応とは思えないが、それだけ管理局も慎重になっているのだろう。特定魔力の無限連環機構であるエグザミアについては伝えてあるし、今日の模擬戦でこちらの戦力も測られたはずだ。ならばなるほど、気を遣わずにはいられないのかもしれない。

 要するに、ご機嫌取りということだ。それなりの待遇でもてなしてやっているのだから、こちらの言い分には従え。暗にそう言われているのだろう。

 正直、気分が悪い。贅沢を言っているのだとは理解しているが、腫物のような扱いに不満がないはずがなかった。はやて達にもこのような経験をさせてしまっただろうことが、申し訳なく思ってしまう。他にやりようがなかったのかと、今更ながらに思い悩んでしまった。

 

「颯輔」

「ん?」

 

 悪目立ちする受刑者服をくいくいと引かれ、名前を呼ばれる。いつのまにか、ユーリが隣で女の子座りをしていた。一緒に遊んでいたはずのディアーチェ達は、まだベッドで飛び跳ねたりしている真っ最中だ。

 

「ユーリか。どうかした?」

「……あの、晩御飯まではまだ時間がありますから、一緒にお風呂にいきませんか? わたし一人だと、この髪は洗えないです」

 

 小声で言われ、困り顔のユーリを見る。確かに、波打つ長い金の髪は、ユーリ一人では洗えないだろう。後ろ髪は腰を越えるほどで、毛量も多い。ヴィータも洗ってもらっていたのだから、さらに小さなユーリではなおさらだ。

 ふと辺りを見回し、この場にはシグナムもシャマルもいないことに気が付く。はやてやヴィータは二人に任せていたが、今は頼ることなど不可能だ。リーゼロッテに、とも思ったが、それはどちらも嫌がるだろうし、そこまであてにすべきではないと、すぐに結論が出てしまった。

 

「えっと、ディアーチェ達じゃダメ?」

「やぁです。慣れてる颯輔がいいです」

 

 なんだかんだと仲のいい三人ならばと提案するが、やはり小声で拒否され、腰に縋りつかれる始末。ユーリに他の選択肢はないようだった。

 颯輔の脳裏に、リンディの黒い笑顔が浮かびあがる。また何か言われそうだとは思ったが、よくよく考えれば、ユーリは小さな女の子。家族ならば特に問題はないだろうと思い直した。

 ユーリの頭をぽんぽんと撫で、それを返事とする。ぱっと表情を輝かせたユーリを抱えて立たせると、颯輔もベッドから立ち上がった。

 

「ユーリとお風呂入ってくるから、大人しくしてるんだぞー」

「んー、わかったー」

「はい…………はい?」

「む、ならば我もお供を」

「え?」

「えっ? い、いけませぬか……?」

「いや、いけなくはないけど、うーん……?」

 

 にこにこと満面の笑みのユーリと手を繋いで立ち尽くす颯輔と、瞳を濡らして座りこむディアーチェ。シュテルは石のように固まり、レヴィはベッドをゴロゴロと転がっていた。

 ディアーチェの躯体は、はやてを素体としている。髪色やら目の色やらは違うが、その体はほぼ同一と言ってもいい。そのはやてとは、一年前まで一緒に風呂に入っていたのだから、大きな問題はないような気もする。

 しかし、本当にそうかと問われれば首を傾げざるを得ない。石田にも美由希にもあまりいい顔はされていなかったし、颯輔自身も介護のためにしていたのだ。シグナム達が現れてからは、彼女達に任せてしまっていた。

 一応、人並みの倫理観は持ち合わせているつもりの颯輔だが、それでもはやてと入浴することはそれまで当たり前のことで、ならばディアーチェとも大丈夫なのではないか、いやいやしかし、と思考が深みにはまり始める。

 

「まっ、待ってくださいっ。私も一緒に入りますっ」

「えっ、シュテるんもいっちゃうの? じゃあボクも行くー」

 

 なぜか頭の中で響き始めたリンディの笑い声を止めたのは、そんなシュテルとレヴィの声だった。

 

「いや、シュテルとレヴィはダメでしょ」

「何故ですかっ!?」

「仲間ハズレはんたーいっ!」

「いやだって君ら、素体がなのはちゃんとフェイトちゃんじゃん。ディアーチェはともかく、二人はダメ。絶対ダメ」

 

 なんとなく引き合いに出してしまった名前を肯定と受け取ったのか、立ち直ったディアーチェが素早く颯輔の隣について、空いた手をとる。ディアーチェの行動により、シュテルとレヴィとは向かい合う構図となってしまった。あたかも、お風呂入るチームと入らないチームの結成である。

 

「颯輔、よく見てください。私のどこが高町なのはだというのですか。髪型だって違いますし、目の色だって違いますし、そして何より、高町なのはとは比較するまでもなく落ち着きがあります」

「いやいや、落ち着いてないよね? 詰め寄って来てるよね?」

「ボクもオリジナルとは違うよっ! ボクの方がカッコイイし、えーと、強いし……うんっ、ボクの方が強いもんっ!」

「レヴィのは言い訳にすらなってないよ……」

「はっ、見苦しいぞ貴様ら。兄上との湯浴みは、我とユーリにのみ与えられた特権よ」

「えー、ディアーチェもダメだと思います。わたしが颯輔と入るのは、わたし一人じゃ髪が洗えないからですもん」

「あっ、じゃあボクはそっちだねっ! ほらほら、ボクの髪も長いよ、っていうかボクの髪が一番長いしっ!」

「レヴィくらい大きい子は、自分で自分のことができないとダメだと思います」

「言いましたね、ユーリ。ならばあなたも同じはずです。今年でいったいいくつになったと思ってるのですか。その歳になってまで甘えん坊など、紫天の融合騎として恥ずかしくないのですか」

「ま、待てぃシュテルっ! その論は我らにも当てはまってしまう諸刃の剣っ!」

「はぁ……」

 

 互いに互いの足を引っ張り合う、醜い争いが颯輔の周りで繰り広げられていた。

 どうしたものかと悩み、再び天井を見上げる。そして、ふと気が付いた。さっきまでの暗い気持ちが、どこかへ吹き飛ばされてしまったことに。前向きな気持ちになったというわけではないのだが、心が軽く感じられる。この喧騒も、シグナムとヴィータの言い争いを見ているようで懐かしく感じられた。

 視線を下げれば、絶えず微笑むユーリの顔があった。まるで、「隠し事はダメですよー」と言わんばかりの表情。つまりは、またも颯輔の胸の内が見透かされてしまったということか。

 ユーリ達の誰かに気持ちが漏れてしまえば、精神リンクを介してなし崩し的に全員へと伝わってしまう。ならばこの喧騒も、つまりはそういことなのだろう。欲が見えないわけではないが、それはそれで可愛らしいものだ。

 ユーリ達は、永遠の孤独に囚われていた。与えられた使命を果たすために機能し、そして、狂い続けていたのだ。

 そこから解放されて求めたのが、一緒にお風呂に入りたいというささやかなもの。ただでさえおんぶに抱っこなのだから、そのくらいは叶えてやらねばならないだろう。最後の一線を踏み越えるつもりなど毛頭ないが、求めには可能な限り応えたい。モラルに欠けるのは重々承知の上だが、そんなものは二の次である。

 なぜなら、ユーリ達とは長い付き合いとなるのだ。どうせなら、仲よく楽しくやっていきたい。颯輔の精神衛生上あまりよろしくないのは、この際ご愛嬌だ。本来自由であるべきユーリ達には多大な不自由を強いているのだから、譲歩は必要だろう。

 それに、どうせ互いの生体情報などは筒抜けなのだ。心のプライバシーも何もないのだから、今更裸程度でどうこう言うのもおかしな話である。ましてや相手は家族で、颯輔にとっては子供のような存在だ。保護者が子供の面倒を見るのに、恥じる必要などどこにもないではないか。

 理論武装を終えた颯輔は、新たな汚名を背負う覚悟を決めた。

 

「あー、もー、わかったわかった。わかったから喧嘩しないの。喧嘩してる子は置いてっちゃうぞー」

 

 溜息混じりに言えば、途端に収まる喧騒。それにクスリと笑いを漏らし、颯輔は寝室に備えられたタンスを漁った。

 タンスには、着替えやタオルなどの必要なものが用意されていた。颯輔のものだけでなく、ディアーチェ達の分も入っている。未だに騎士甲冑姿だったが、これからは同じものを着てもらうことになるだろう。出所後は服を買いに行かなきゃなと、颯輔は心のメモ帳に記した。

 それぞれに各自の着替えを持たせ、寝室を出る。施設のバスルームは、共同浴場のような造りとなっていた。脱衣所には籠が入った棚と、洗面台があった。洗面台にはドライヤーや歯ブラシなどが置かれており、アメニティグッズは完備されているようだった。

 颯輔が籠に着替えを入れた途端、周囲で輝く四色の魔力光。まさかと思いきや、そこには騎士甲冑を解除した四人の姿があった。一糸纏わぬ状態のくせに、恥じらいなどどこにもない堂々とした立ち姿である。

 

「こらこらこら、タオルくらいは巻きなさい。シュテルとレヴィは特に」

「颯輔はこの方が悦ぶかと思いまして」

「喜びません」

「えー。別にいいじゃん、めんどくさいし」

「レヴィはもうちょっと女の子らしくなろうか」

 

 無駄に妖艶な流し目を送ってくるシュテルと、子供っぽく膨れるレヴィ。なのはにフェイト、美由希とリンディにも合わせる顔がないと、颯輔は項垂れて目頭を揉み解す。その隙を突いて、ディアーチェはそそくさと体にタオルを巻きつけていた。

 

「下品なやつらめ。貴様らには嗜みというものが足りんのだ」

「う~、颯輔、上手く巻けないです」

「どれどれ、こっちおいで」

「なん……だと……!?」

 

 ふふんとふんぞり返るディアーチェと、長いタオルと髪に手こずるユーリ。見かねた颯輔がユーリにタオルを巻く姿を見て、ディアーチェの得意顔が驚愕に歪んだ。

 

「さすがユーリ、あざといですね」

「あっ、そーすけ、ボクのもお願い」

「――はっ。ちょっと待て貴様レヴィっ! ええい、シュテルっ!」

「はいはいわかっていますとも。レヴィはこちらへ。私が巻いてあげますから」

「えー、なんでさー」

 

 飛び出しかけたレヴィをディアーチェが捕まえ、いつの間にやらタオルを巻いていたシュテルが、レヴィにもタオルを巻いていく。ディアーチェ達の中ではもっとも発育のよいレヴィだ。ディアーチェもシュテルも、無邪気さにかこつけられて出し抜かれるわけにはいかなかったらしい。

 もっとも、言葉は悪いが少女の裸など見慣れている颯輔である。これがシグナムやシャマルにリインフォースであるならいざ知らず、ディアーチェ達くらいならば何も問題はない。事実、颯輔の胸中に劣情などあろうはずもなく、素体となった少女達への罪悪感と、新たなレッテルへの諦観でいっぱいになっていた。

 集まる視線に気が付いた颯輔は、四人を先に浴場へと追いやり、きゃっきゃとはしゃぐ声をBGMにしながらそそくさと準備を終える。これでもう後戻りはできないのだと何かを諦め捨て去り、どんよりと暗い背景を背負って浴場に踏み込んだ。

 五人全員が浸かってもまだ余裕がありそうな大きなバスタブに、五台のシャワーと座椅子に桶。広い浴場はしかし、ディアーチェとレヴィによるシャワーの掛け合いで混沌とした空気に包まれていた。隅っこでユーリを庇うシュテルの姿に、なけなしの良心はやはりシュテルかと溜息をもらす颯輔である。

 

「はいはい遊ばないの。転んだりしたら危ないってば」

「だってだってディアーチェがっ」

「先に仕掛けてきたのはレヴィではないかっ」

「言うこと聞かない子は洗ってあげません。……っていうか、俺が全員洗うの?」

「代わりに私達で颯輔を洗ってさしあげますよ?」

「俺はいいからレヴィを頼みたいよ……」

「颯輔、先にわたしが背中流してあげます」

 

 なんやかんやと引っ掻き回しはするものの、物分りはいいユーリ達である。颯輔が一度の入浴で洗うのは二人の髪まで、洗われるのは背中だけという取り決めがなされたところで落ち着いた。

 シュテルとレヴィがペアを組み、先にシュテルがレヴィの髪を洗う。その隣では座椅子を三つ並べ、ディアーチェ、颯輔、ユーリの順に並んで座った。颯輔がディアーチェの髪を洗い、その間にユーリが颯輔の背中を流すという洗いっこスタイルの完成である。

 

「ついにこの時が……ああ、あにうえぇ……」

「まだ何もしてないのに変な声出さないでくれよ……。ほら、目と口閉じる」

 

 ディアーチェの前髪をかき上げ、額に手を当て防波堤とする。桶を使って黒銀の髪を濡らすとシャンプーを手に取り、久しぶりに自分以外の髪を洗い始めた。

 改めて触れたディアーチェの髪質は、やはりはやてと同じもの。後ろから見える耳の形までそっくりそのままなのだから、シャンプーが泡立ち髪色が隠れれば、後ろ姿はもはや同一人物だ。違いと言えば、はやてよりも赤みが差した肌色くらいか。ふるふると震えて声を漏らす様子から、どうにもディアーチェは緊張しているらしい。そういえばこうしてこちらからじっくり触れるのは初めてかと笑いを堪えていると、颯輔の背中に小さな手が触れた。

 

「ユーリ、届くところだけでいいからな?」

「むっ、わたしそこまでちっちゃくないですよぅ。背中くらいは全部届きます」

 

 小さな手を大きく動かし、懸命に背中を流し始めるユーリ。颯輔の気分はまさしく父親のそれだった。

 胸に感動を覚えながらもシャンプーとトリートメントを終え、頭にもタオルを巻いてやれば、ディアーチェの番は終了である。このまま体もなどと言い出される前に、ご満悦のディアーチェを置いて、背中を流してもらったユーリへと向き直った。

 さてこれはなかなかの大仕事だぞと颯輔が意気込んでいると、視界の端に飛び込んできたのは水色の毛束。濡れた髪とタオルをぴたりと肌に張り付けて困り顔をしているレヴィが、シュテルを伴い傍まで来ていた。

 

「うぅ~、そーすけ~」

「すみません、颯輔。レヴィの髪もまとめてもらえませんか?」

「あぁ、もう……わかったから向こう向いて」

 

 レヴィどころかシュテルも体のタオルが濡れており、隠すどころか体型を際立たせている始末である。それでも恥じらいのはの字もない二人に、颯輔は心の中でなのは達に土下座をした。

 長髪の扱いは、ヴィータの髪を結ったりとしていたためにそれなりの心得がある。颯輔は手早くレヴィの髪を拭いて水気を抜き、長い毛束をお団子にまとめて上からタオルを巻いた。

 二人には体を洗ったら先に風呂に浸かっているよう指示を出し、ついでに未だ夢見心地だったディアーチェも覚醒させる。これから毎日これかと早くも挫折を覚えつつ、颯輔はようやくユーリのシャンプーに取り掛かった。

 

「颯輔、やっぱり迷惑でしたか?」

 

 汚れなど皆無な様子の髪に関心していると、疑問にしては明るい声が飛んでくる。精神リンクを介して伝わるユーリの心には、暗いものなど一切感じられない。この時間を楽しんでいる様子が、手に取るようにわかった。

 ユーリ自身、颯輔の胸中など見透かしているのだろう。なんだかんだと文句を言いつつも、颯輔だってこの時間を楽しんでいる。そんなことは、言うまでもなくわかっているはずなのだ。

 しかし、それでもこうして尋ねてくるのは、ユーリが颯輔の性格を理解しきっているためだ。だからこうして甘えながら、颯輔が溜め込んだものを外へと出そうとする。これではどちらが保護者なのか、分からなくなってしまいそうだった。

 

「迷惑じゃないよ。それはユーリもわかってるだろ?」

「はい。でも、せっかくこうして話せるようになったんですから、ちゃんと颯輔の口から聞きたかったんです」

「なるほどね。でも、あんまり我がままばっかりの子はなぁ」

「ぶぅ、颯輔、いじわるです。颯輔だって、わたし達の気持ちなんて、ちゃんとわかってるくせに」

「わかってはいるけど、やっぱりね……」

「ダメですよ。ディアーチェ達の見た目は同じでも、中身は違うんですから。颯輔は気にし過ぎなんです。融合(ユニゾン)までしたんですから、裸くらいでびっくりしないでください。颯輔は王様なんですから、もっと堂々としないとダメですよ。少しは夜天の王を見習ったらどうです?」

「はやてはほら、女の子同士だから。男の俺じゃ、やったらダメなことだってあるよ」

「わたし達は気にしませんよ?」

「俺が気にするの。あと、周りの人もね」

「……他の生物なんて――」

「ほら、髪流すよ」

 

 おかしな方向に向かい始めた話を嫌い、颯輔はお湯で満たした桶を傾けた。ユーリの髪も丁寧に拭き、タオルを巻きながら思考を埋めていく。

 紫天の書の穢れは確かに雪いだ。ユーリ達は多少の歪みを残しつつも、元に戻ったはずなのだ。

 しかし、それでもこの言動。他者など路傍の石ころで、大切なのは身内だけ。判断基準ですら、颯輔がどう思うかに因るのだ。

 つまりは、最初からこうだったということ。不老不死の技術を完成させるために生み出され、副次的な役割として、夜天の守護騎士の抑止力足り得る力を与えられた存在。他者を見る目は人を見るそれとは遠く、辛うじて認識できているのも、颯輔という異物が加えられたためだ。

 逆に言えば、他者をないがしろにし続けているのも、颯輔が胸中ではそういう判断を許してしまっているから。極端に言ってしまえば、颯輔にとっては家族とそれに近しい人達だけが大切で、それ以外はどうなろうとも構わない。他人にいい顔をしているのは、そうしなければ居場所がなくなってしまうためだ。

 ましてや、はやてのためならば他人や世界どころか自分自身でさえ切り捨てられるのが、八神颯輔という人間なのだ。そんな颯輔の影響を受けているのだから、ユーリ達に真人間の感性を期待する方が間違っている。

 ユーリ達を通して見せつけられたのは、自分自身の深い闇。特に、幼いユーリの口から語られたのは、ダメージが大きかった。

 

「ユーリ、あまり颯輔を困らせるものではありませんよ」

 

 平坦な声と共に、突然颯輔へと降り注いだお湯。鏡には、桶を逆さまにしたシュテルが映っていた。

 

「わっ、ちょっ、シュテル、いきなりなにを――」

「湯船で話そうと思っていたのですが、颯輔が遅いのでこちらから来ました。それから、あまり悪感情を精神リンクに流さないでください。あなたのそれは、夜天の王達にも――はやて達にも伝わってしまいますよ。ああ、頭は動かさないでくださいね」

 

 シャコシャコとシャンプーの音がしたと思いきや、シュテルがわしゃわしゃと颯輔の頭を洗い始める。颯輔はシュテルの言葉に固まってしまい、抵抗もできずにいた。

 

「頭は私が洗ってあげますから、さっさと体を洗ってしまってください」

「あ、うん……」

「ユーリ、体くらいは自分で洗えるはずですよ」

「む、仕方がないですね」

「それからレヴィ、まだ思考がどこかに飛んでしまっているディアーチェを湯船に」

「おっけー。ほら、ディアーチェいくよ」

「……にうぇ……あぁ……」

 

 颯輔が大人しく従うと、ユーリもそれに倣って一人で体を洗い始める。再びふわふわと夢見心地になりながら延々と体を洗っていたディアーチェは、レヴィにそれを流され引っ張られていった。

 

「颯輔、思うところもあるのでしょうが、どうか焦らず気持ちを抑えてください。私達にも、できることとできないことはありますよ」

「それは……うん、ごめん……」

「……私達にとって、他の生物は資料だったのです。颯輔の言葉がなければ、今日もあれらを殺していました。はっきり言いましょう。私達が起動して、未だに死者がないということは、あなたがもたらした奇跡なんです。ああ、私達は元々そういう風に造り出されたのですから、気負う必要はありませんよ。そのあたりはご理解いただけるとありがたいのですが」

「わかってる……わかってるよ……」

「では、今しばらく時間をください。私達にも、自身を変革するための時間は必要なのです。そしてそれは、颯輔にも言えることですよ」

「俺にも……?」

「ええ。融合(ユニゾン)してはっきりと分かりました。ああ、目を閉じてください。流しますよ」

 

 言われて目を閉じると、今度は丁寧にシャンプーが流されていく。誰かにこうしてシャンプーをされるのなど、随分と久しぶりだった。

 古い記憶がフラッシュバックする。こうなる未来など、想像もつかなかった。むしろ、想像がつく方がおかしいだろう。

 現実感の欠乏による浮遊感。足場のないそれを繋ぎとめたのは、後ろから首元に回された腕と、頭に感じた重みだった。鏡には、体を預け、颯輔の頭に頬を置くシュテルの姿が映っている。隣にいるユーリは、それを見ても何も言わなかった。

 シュテルの静かな水面のような瞳が、鏡越しに颯輔の姿を映している。寂しげな視線を向けてくるシュテルには、全てを見透かされている気がした。

 

「あなたに戦闘は向きません。傷つけるのを恐れていては、あなたが傷つくばかりではないですか」

「…………」

「わかっています。見られたくないのでしょう? 自分の汚い部分を、八神はやてに、守護騎士達に、そして、私達に。あなたが真に恐れているのは、他者を傷つけることではありません。その事実を知った守るべき者達から忌避されることこそを、この世の何よりも、それこそ死よりも恐れているのです」

「…………」

「ならば、いいではありませんか。あなたが強くならなくとも、あなたが矢面に立たなくとも。魔法技術が世の主流である限り、私達に敗北はありません。あなたが戦わなくとも、露払いは私達だけで十分可能なのですよ」

「シュテル、それは――」

「ええ、ええ、わかっていますとも。これ以上私達の手を穢したくはないのでしょう? 困った人です。穢れたくない、穢したくない、清廉なままでいたい、清廉なままでいてほしい。しかしそれは二律背反の関係です。ふふっ、強欲ですね、颯輔は。私達ですら叶えられない願いを抱くのですから」

「…………」

「私達はすでに穢れきっていますし、これからも穢れずに生きていくことなんてできませんよ。特に、この世界で生きるのならば。私達の力がある以上、必ずそれを狙う者が現れます。……いえ、もうすでに現れているでしょう。その者らを排除し尽くさない限り、私達に平穏はありません。揃って行方を暗ますという選択肢もありますが、それはあなたの望むところではありませんからね。そんなことをしては、八神はやての世界が閉じてしまう。八神はやての幸福を第一に願うあなたが、そんな限られた世界を許すはずがありません」

「…………」

「自身の幸福よりも彼女の幸福を優先するあなたの在り方は、わからないでもないのです。なぜなら、私達も同じなのですから。紫天の書を完成させた今、私達の存在理由は、八神颯輔に幸福をもたらすことだけと言ってもいいでしょう。だからこそ見ていられないのですよ、あなたが傷つき悲しむ姿など」

「……それでも、俺は――」

「戦おうとするのでしょう? 大丈夫です、あなたがそういう人だということだけは、十分に理解していますとも。ですから、時間が必要だと言ったのです。私達とは違って元々人間だったあなたは、私達のように戦うことなど一朝一夕ではできません。躯体にはそれだけの能力が備わっているのですが、それを動かすあなたが、そこまでの領域に達していないのです。これまでの常識を壊して意識を変えていくのですから、時間がかかるに決まっています。時間をかけなければいけないのです。颯輔が颯輔のままであり続けるためには、急ぐべきではありません。自ら心を削る必要など、どこにもないのですよ」

「……歯痒いな、それは。それに、相手が待ってくれるかなんて、わからないじゃないか」

「そのための私達です。私達の力は、今日の模擬戦で理解したはずですよ。それまでの間は、私達の力を頼りにしていただくほかありません。……もっとも、あなたが紫天の王の呼び名に相応しいほど強くなったとしても、あなた一人を戦わせることなどあり得ませんが。ユーリになにやら吹き込まれたようですが、それはきっぱり諦めてください」

「……だそうです。残念でしたね、颯輔。それからシュテル、もう離れた方がいいですよ。そろそろディアーチェが再起動しそうです」

「おっと、それは大変です。見つかったら、何を言われるかわかりませんからね」

 

 悪戯に笑うユーリと、名残り惜しげに離れるシュテル。ようやく解放された颯輔は、溜息と共に項垂れた。

 理詰めで攻めてくるシュテルには、反論すら許されなかった。心の内を理解されているのだから、その言葉はレヴィの魔導剣並に切れ味が鋭い。それでいてどれもこれもが正論なのだから、颯輔に対抗する術など元からなかったのだ。

 しかし、言い負かされ、重い現実を突きつけられても、颯輔の心は晴れていた。清々しい敗北とでも言うべきか。見た目十歳の少女に負けるのは情けなくもあるが、全ては颯輔を想ってのこと。そうと理解できれば、耳に痛い言葉もすとんと落ちてくるものだ。

 問題があるとすれば、こうも簡単に見透かされてしまうことか。颯輔とは違い、シュテル達は精神リンクをフル活用してくるのだから、少々性質が悪い。だがそれも人間性の獲得のためなのだから、颯輔としても断るに断れないでいた。もっとも、歪な自身をお手本にさせていいものか、そのあたりは悩むところなのだが。

 

「ほらほら颯輔、行きましょう」

「待ちに待った混浴ですよ」

「せめて家族風呂って言おうね、誤解されるからさ」

「大丈夫ですよ、さすがにここにまで監視の目はないみたいですから」

「さぁ颯輔、湯船に浸かるのならば、まずはタオルを取りましょうか」

「もうちょっと女の子らしくできないかなぁ……」

「なにを今更。それに、高町なのははユーノ・スクライアと混浴するような人間ですよ」

「……えっ?」

「レヴィなんてもうすっぽんぽんで泳いじゃってますよ。わたし、まだ一人だと泳げないと思うので、颯輔に教えてもらいたいです」

「またあなたはそうやって。ダメですよ、ユーリ。颯輔には今日の模擬戦の復習をしてもらわなければなりません。それから、今後の計画についても話し合わなければならないのですから、これ以上ユーリを甘やかしている暇はありませんよ」

「えっ、ちょっと待ってシュテル、さらっと流したけど今とんでもないこと言ったよね?」

「ああ、混浴の件ですか。しかしそれは高町なのはのプライバシーにもかかわるので……。どうしても気になるならば、高町なのはの記憶を覗いてみることですね」

「いやそれはダメでしょ……。っていうか君ら、プライバシー言うわりに俺のプライバシーは守ってくれないよね? 覗き放題だよね?」

「ちっ。この期に及んでうだうだと……ユーリ、今です」

「えいっ」

「あっ、こらユーリっ、タオル返しなさいっ!」

「颯輔、日本人なら入浴マナーは守るべきです。ほら、なかなかいい湯加減ですよ」

「だからもうちょっと恥じらいを……」

 

 颯輔の腰のタオルを奪い、自分も体に巻いたタオルを脱ぎ捨て、颯輔から逃げるように湯船に突撃していくユーリ。シュテルはユーリのタオルを折りたたんで浴槽の縁に置くと、自身のタオルも同じようにして湯船に浸かり、ほぅと息を吐いている。レヴィに至っては裸で潜水をしながら遊んでいるため、颯輔の言う恥じらいを保っているのは、縁に腰掛けているディアーチェのみであった。

 とにかく、颯輔もいつまでも股間を隠して立ち尽くしてはいられない。こちらを見ては真っ赤になって目を回しているディアーチェを介抱し、レヴィを叱ってはしゃぐユーリを大人しくさせ、シュテルの話に付き合わなければならないのだ。言い訳をするどころかもはや現行犯な颯輔は、大事ななにかを失くして深い深い溜息を吐き出した。

 

「ああ、それから、言い忘れていましたが――」

 

 湯船に浮かんだタオルを手繰りよせ、それを再び腰に巻く颯輔。そこに、さも大したことでもないように、シュテルの言葉が告げられる。

 

「私達は、あなたのことなら何でも知っています。それこそ、美しいところも、汚らわしいところも、その全てをです。それでいてこれなのですから、何も遠慮することなんてないのですよ。我らが王――八神颯輔。我らに与えられた心は、いついかなるときでもあなたと共にあります。その点については、ゆめゆめお忘れなきよう」

 

 理のマテリアル――八神シュテルは、儚い微笑を浮かべてそう言った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話 すれ違い空

 

 5月1日土曜日は、ゴールデンウィークの五連休の開始日である。慌ただしい日々が続いた八神家も家族揃っての連休を取る事ができ、ひとまずは平穏が戻りつつあった。

 はやての復学に闇の欠片事件。颯輔の生還に新たな家族の誕生。事件の事後処理やら管理局員としての仕事始めやら、八神家にとっての4月は大きな出来事の連続だった。ろくに休む暇もなかったのだから、せっかくの連休初日をだらだらと過ごしてしまったのも、仕方のない事である。

 もっとも、食うもの食わずというほど不摂生に過ごしたわけではない。簡単な夕食を取ったあと、八神家の台所では、リインフォースとシャマルが後片付けに追われていた。

 

「……なんだか、今日は一日が早かったわね」

 

 テーブルを拭いているシャマルが、ぽつりと呟いた。食器を洗っている最中のリインフォースは、手を止めずに振り向く。シャマルはせっせと手を動かしながらも、心ここに在らずといった様子だった。

 

「何もせずに呆けていただけだが、私もそう思う。だが、偶にはこうした休息も必要だろう」

 

 リインフォースは手元に目を戻し、独り言のような呟きに答えた。泡塗れになった皿を置き、水にさらしていた中から次の皿を手に取る。この一ヶ月で、こうして実際に家事をするのにも大分慣れて来ていた。

 

「それはそうだけど、せっかくのお休みなのに、もったいなかった気もするわ」

「皆、少し疲れていただけさ。特にお前達はな。すまないな、苦労をかけてしまって」

「気にしないで。学校にまでついていけるのはリインフォースだけだし、その間、私達だけのんびりしているわけにはいかないもの。……でも、レティ提督ってけっこう人使いが荒いわよね」

 

 肩を落としたような声に、リインフォースはクスクスと笑う。

 リインフォース達が所属する部隊の部隊長であるレティ・ロウランは、実力主義の女傑だ。使える人材は使えるだけ使うというスタンスのレティにより、リインフォース達は実力を十二分に発揮させられていた。

 リインフォースとはやての二人は拘束時間が短いが、シャマル達は違う。管理局の人手不足を補うかのように走り回り、目が回るような忙しさを覚えているようだった。

 

「しかし、おかげで居場所ができたのだ。そう悪いことばかりでもないだろう。それに、これまでに比べれば可愛いものだ」

「……それもそうね。ヴィータちゃんとザフィーラなんか、マスコット扱いされるくらいだもの」

「シャマル先生に、シグナムの姉御もな。噂は聞き及んでいるぞ? その美貌で早くも男性局員を惹きつけていると」

「あ、あなたに言われたくないわよっ。……男女構わす魅了しちゃって、それではやてちゃんにいじられてたじゃないの」

「私は普通に接しているだけなのだがな……」

「違う違う。いえ、普通にしてるだけでも十分なんだけど、リインフォースの場合は、憂いを帯びた表情でふと遠くを見ているところが堪らない、らしいわよ? 守ってあげたくなるとかなんとか。……どうせ颯輔君のことでも考えてたんでしょ」

 

 リインフォースの手から、つるんと皿が落ちた。それがシンクの底にぶつかる前に、慌ててキャッチする。ほっと一息ついたリインフォースの背後には、ぬっと忍び寄ってきたシャマルの気配があった。

 

「ふっふっふ、図星ね?」

「な、なんのことだか分からないな」

 

 皿洗いに集中しようとしたリインフォースの肩に、そっと手が置かれる。横から覗いてくるシャマルから逃げるように、リインフォースは顔をそらした。

 

「誤魔化したってむーだ。精神リンクでぜーんぶわかっちゃうんだから」

「そ、それはお前達も同じだろう」

「もちろん心配はしてるわよ。でも、勤務中に顔に出すなんてことはしないもの。うふふ、あなたも不用心になったわね」

「くっ……」

「やっぱり颯輔君と融合(ユニゾン)したから? ここだけの話、はやてちゃんとどっちがいいの?」

「……相性で言えばはやてだが」

「はやてだが?」

「……こ、これ以上は黙秘権を行使する」

「えーっ、ずるいずるいっ! 私も融合(ユニゾン)してみ……あっ、リインフォースと融合(ユニゾン)したら、颯輔君にはやてちゃんとも間接的に融合(ユニゾン)したことに……?」

「……しないぞ、私は。非常時ならばともかく、これ以上躯体を許して安い融合騎()になるつもりはない」

 

 怪しげな雰囲気を放ち始めたシャマルをばっさりと切り捨て、水を止める。ハンドタオルで手を拭くと、リインフォースはするりとシャマルの拘束から抜け出した。

 真っ当な形ではなかったが、リインフォースはこれまで何代もの主と融合(ユニゾン)してきた。自己調整機能があるからこそできたことだが、それは本来の融合騎(ユニゾンデバイス)の矜持からは外れるものだ。これと決めた主に機能停止の時まで尽くす、それがあるべき融合騎(ユニゾンデバイス)の姿だった。

 今でこそはやてと颯輔という正統な主を得たリインフォースだが、恥ずべき過去が消えたわけではない。その点で言えば、颯輔を最初で最後の主とするユーリの存在が羨ましくて仕方がなかった。

 

「あっ、もう、ちょっとくらいいいじゃない」

「たった今、シャマルと私の相性は悪くなってしまったのでな。こんなところで融合事故を起こすわけにもいかないだろう?」

「意地悪ねぇ」

「意地悪なものか。これは数少ない私と颯輔との思い出だ。私からしてみれば、生活を共にしていたお前達の方がずっと羨ましい」

 

 誰もいないリビングへと進み、ソファに腰掛ける。リインフォースが座ったのは、暗黙の了解で颯輔の席となっていた場所の隣だった。

 追ってきたシャマルも空いた席に座り、テーブルからテレビのリモコンを手に取る。チャンネルを一周すると、バラエティで落ち着いた。

 

「……颯輔君達の出所は来春だけど、はやてちゃんは、少なくとも中学校を出るまではこっちでしょう? 颯輔君達がずっとこっちにいるわけにもいかないし……私達がミッドチルダに引っ越すとしても、最低6年は先の話になっちゃうのね」

「6年か。一瞬のはずが、今となっては酷く長く感じてしまうな」

「お休みの日に泊りに行くとしても、それ以外はユーリちゃん達がずっと一緒……」

 

 はぁ、と二人そろって深い溜息を吐き出した。テレビから聞こえてくる笑い声も、別世界のことのように感じてしまう。一日何をするでもなく過ごしてしまったのも、この陰鬱とした空気が原因の大半を占めていた。

 夜天の書側の精神リンクは、颯輔を介して紫天の書側の精神リンクと繋がっている。今まで落ち着いていたはずのそれが、今日になって活発な勢いを見せた。言葉にすることも難しい感情の波が、これでもかというほど押し寄せてきたのである。

 最初は微笑ましく思えていたそれだが、さすがに一日中続けられれば堪ったものではない。はやては今もザフィーラを連れて部屋に引きこもっており、シグナムとヴィータはシャワーを浴びて気分転換の真っ最中だ。

 

「あ、またなんか来た……」

「……今度はユーリの一人勝ちのようだな。ディアーチェとシュテルが悔しがっている」

「レヴィちゃんが落ち着いているのよね。元気なだけというかなんというか」

「あれは颯輔への執着が薄いからな。昼間は騒がしかったが、あとは静かなものだ。大方、向こうからふっかけられでもしたのだろう」

「忙しないわねぇ。私達だってもうちょっとゆとりがあったのに」

「私達はすでに実力を示していたからな。一方で颯輔達は未知数だ。早々に力量を把握しておきたかったといったところか」

「正確に測れるとは思えないけど……ていうか、そんなことより重大な問題があるわ」

 

 額を押さえて悩ましげにしていたシャマルだったが、不意にその目に力が戻る。表情を引き締めたシャマルに、リインフォースは深く頷いて見せた。

 

「ユーリ達は、颯輔と共に……にゅ、入浴、したようだな」

 

 言い切った後、しばらくの静寂が訪れた。テレビの音は、もはや耳に入って来ない。精神リンクから流れ込んでくる感情のみが、ただただうるさかった。

 リインフォース達がそれを知ったのは、いつもに比べて早めの夕食をとっているときだった。ディアーチェからの感情が、正しく津波の如く訪れたのである。

 その瞬間、笑顔だったはやての表情が無に帰し、「ごちそうさま……」と告げて自室へと退散。全員が王の威圧感に気圧されて動けない中、果敢にもはやての後を追っていったザフィーラは未だ音信不通。八神家はより一層の重い空気に包まれることとなった。

 

「あのヴィータちゃんですらそこまでは許されなかったのに……。私やシグナムなんて、一緒の部屋で眠ることすら許されなかったのに!」

「ヴィータはともかく、お前達は当然だろう……」

「なんでよっ!? リインフォースは一緒に寝てたじゃないっ!?」

「いや、当時の私は本だったのだが……。というかシャマル、お前も理由は理解しているのだろう?」

「わかってるけどっ! 颯輔君の気持ちはわかってたけど納得はできないのっ!」

 

 シャマルの矛先を変えることには成功するも、やはり怒りは収まらない。羞恥から頬を薔薇色に染めながらもぷりぷりと怒るシャマルに、リインフォースはげんなりとした。

 リインフォースとて、シャマルの気持ちはわからないでもない。はやては言わずもがな、颯輔の傍にもありたいと思っている。背中を流して欲しいと言われれば迷わずそうするし、一緒に寝ようと言われれば二つ返事でそうするし、求められれば喜んで体も捧げるつもりだ。

 颯輔は男で、リインフォース達は女。ましてやシャマルとシグナムは先に起動しており、関係も良好。となれば、一線を越えて男女の関係となるのは時間の問題とも思えた。

 しかし、肝心の颯輔はそれを望まなかった。シャマル達に女を感じてはいたようだし、欲情することもあったはあったが、それをぶつけることはしなかった。

 颯輔は、優先順位が変わることを恐れていたのだ。愛欲に溺れて己が感情が変化し、関係が壊れることを恐れた。颯輔にとっての最優先はただ一人であり、その幸福を自ら奪うことをよしとしなかったのである。

 

「だって、私達はさんざんダメって言われてたのに、あの子達はすんなりなんて、悔しいじゃない」

「気持ちはわかるが、あのときと今とでは状況が違う。あれらの姿形は子供だしな。それに、颯輔にも心境の変化があったのではないか」

「それじゃあ、次は私達も……?」

「颯輔次第だが、やはりはやてとヴィータくらいだろう。強引に仕掛ければ私達も受け入れられはするかもしれないが、それでは颯輔を困らせるだけだ」

「むー……。なら、リインフォースはどうしたいのよ?」

「わ、私か? 私は……私は、颯輔とはやての望むままにあるだけだ。それだけでも、私は十分に満たされるよ」

「……例えば、そのままいつかは誰かに颯輔君やはやてちゃんをとられることになったとしても?」

「それが二人の幸福に繋がるのならな。……複雑だが、そうあって欲しいとも思う。はやてもそうだが、颯輔も外の世界を見ようとしないだろう? 世界は広い。ならば、どこかにそれぞれの幸福があるはずだ。私は、それを見つけて欲しいと思っている」

「……もう融合(ユニゾン)しちゃったからこその余裕ね」

「なっ!? しゃっ、シャマルっ!」

 

 本心を打ち明けたつもりが、ジト目になったシャマルの一言によって全てを台無しにされてしまった。リインフォースは耳まで赤くして抗議の声をあげる。

 しかしそれは、図星を突かれたからこその反応だった。

 融合(ユニゾン)とは、躯体と心を一つにする行為。リインフォースは、それこそ単に体を重ねることよりも先にあるものと思っている。シャマルの指摘通り、シャマル達よりは一歩進んだところにいたからこその先の発言だった。

 どこの誰が現れようと、融合騎(ユニゾンデバイス)であるリインフォースの立ち位置は変わらない。融合適性を自在に変化させることなど、リインフォースにしかできないからだ。

 目下の敵はユーリ達だが、颯輔は紫天の王となったのだから仕方がないと言えば仕方がない。それに、颯輔達が全力を出すにはリインフォースの力も必要であって、なにも完全に独占されたわけではないのだからそこまで異論はなかった。

 ところが、それはリインフォースのみであって、シャマル達には当てはまらない。はやてはこちら側だとしても、蘇った颯輔は遠くにおり、そこにはユーリ達がいるのだ。つまりは、略奪され、さらには精神リンクを介して自慢までされている状態。これで不満が出ない方がおかしい。

 ふっ、と自傷気味に笑ったシャマルまでもが暗い空気をまとい始める始末。追い詰められた状況を変えたのは、廊下へと続く扉が開いた音だった。

 

「あがったー」

「む、またこの空気なのか……」

「ヴィータっ! シグナムっ!」

 

 風呂上りのヴィータとシグナムの登場にぱっと顔を輝かせ、リインフォースはその場から逃げるようにヴィータの下へと駆け寄る。そのままヴィータを連れ立って台所へと避難し、定番となった風呂上りの牛乳を準備し渡してやったところで一息ついた。

 頭のてっぺんからピンと伸びた毛束をクエスチョンマークにしていたヴィータだったが、シグナムがシャマルに捕まったのを見て全てを察した様子。牛乳を飲み干したヴィータにより、縋りついたリインフォースの頭があやすように撫でられた。

 

「シャマルまでああなっちまったか。こりゃあやっと治ったシグナムも逆戻りだな」

「すまないヴィータ。力ない私を許して欲しい」

「あたしもどっちかっつーとお前側だからな、別にお前をどうこうする気はねぇよ」

「うぅ、ヴィータぁ……」

「泣くな泣くな、今日はあたしも颯輔の――じゃなかった、お前の部屋で寝てやるから。はやても一人で歩けるようになったことだし、最悪、このままザフィーラを生贄にしとけば大丈夫だろ。盾の守護獣の面目躍如だ」

「今日ほどヴィータとザフィーラの存在に助けられた日はない。流石は守護騎士だ」

「おもしろい時代になったもんだ……。ほら、いいからさっさと風呂でも入って来い。なんならもう一回入ってやろうか?」

「鉄槌の騎士でもこの状況の打破は難しいか」

「颯輔ならともかく、あたしにはできないこともある。シグナムが時間稼いでるうちに脱出しようぜ。もしあそこにはやてまで合流されたら、もう打つ手がなくなっちまうぞ」

「……そうするとしよう」

 

 ヴィータも一人残されるのは耐えられないらしく、リインフォースは手を引かれるままにリビングを後にする。シグナムの恨みがましい視線をひしひしと感じたが、涙を呑んで気づかない振りをした。

 

 

 

 

 廊下を進んで開いた扉の先は、天窓から射し込む月明かりによって淡く照らされていた。四方の壁に備えられた足元灯もあり、夜の雰囲気が損なわれない程度の明るさを保っている。リフレッシュルームの名に恥じず、心を落ち着けるには十分の部屋だった。

 新品でふかふかのタオルを片手に、颯輔はその部屋へと足を踏み入れる。夕食後の空いた時間も颯輔が一人になることを許さなかったユーリにディアーチェとシュテルの三人は、これ以上は譲れないと扉の傍で待機したままだ。

 リンカーコアが感じ取る魔力を辿っていけば、捜していた人物はすぐに見つかった。

 中央にある噴水を回れば、薄明りの中でも輝いている目がある。猫形態で丸くなっているリーゼロッテが、颯輔を静かに見上げていた。

 

「こんばんは」

「……何の用だ」

 

 とりあえずと挨拶をしてみるも、返ってきたのは不機嫌を隠しもしない声音。予想通りの反応に、颯輔は苦笑を漏らした。

 

「ちょっと話しておきたいことがあってさ。隣いい?」

「……好きにしろ。会話までは記録されねーから、そのへんは心配しなくていい」

「それは助かる。それじゃあ失礼して」

 

 気を遣われたことに内心で驚きながら、颯輔はリーゼロッテの隣に腰を下ろす。噴水に背中を預けると、水気を含んだ空気が首筋を冷やした。

 

「寒くない? ずっとここにいるつもりなら、これ、寝床になるかと思って持って来たんだ。もちろん新品」

「あたしのことは気にしなくていい。余計な気ぃ回す暇があったら、あいつらの躾をお願いしたいもんだな」

「しばらくお世話になるんだから、そういうわけにもいかないでしょ。それから一応言っておくけど、あの子達は所構わず暴れ回るほど凶暴じゃないってば」

「はっ、どーだか。今だってすっげー警戒してこっち見てんじゃねーか」

「まだまだ俺が頼りないからなぁ……。まぁ、ロッテが仕掛けて来ない限りは大丈夫だよ」

「その気になったらあたしの転移の方が早いと思うけどな」

「連れ去られはするかもしれないけど、もしそうなっても転移先で待ち構えてると思うよ?」

「反論できそうもないのがまた頭にくるな……。んで、わざわざそんな世間話をしに来たわけじゃねーんだろ? 消灯時間まで誤魔化してやるつもりはねーからな、さっさと本題に入りやがれってーの」

 

 リーゼロッテの変わらぬ態度に、颯輔は肩を落とす。わかってはいたが、やはり闇の書事件の根は深い。これは時間がかかりそうだと、そう思った。

 しかし、会話すら拒絶することまではしないらしい。当然グレアムの指示があってのことだろうが、反応すらなかったり、逃げられたりとされないだけ幾分かのとっかかりは残されているようだった。

 ひとまずはとタオルをリーゼロッテの隣に置き、颯輔は思考を切り替える。尋ねたかったのは、これまでずっと気になっていたことだった。

 

「訊きたいことがある。ロッテ達は、闇の書がうちにあるって、どうやって知ったんだ?」

 

 颯輔の問いかけに、リーゼロッテは細めていた目を見開いた。視線をそらさず返答を待つが、先にリーゼロッテの視線が地に落ちる。それでも颯輔がそのまま言葉を繋げず待っていたのは、僅かな魔力の流れを感じ取ったからだった。

 叔父夫婦を亡くした後、施設へと預けられそうになっていた颯輔とはやてを引き取ったのは、グレアムだった。よくよく考えてみなくとも、外資系の会社に勤めていたわけではない叔父が、歳の離れた英国人と親しくなる可能性などゼロに近い。幼い時分は疑問に思いもしなかったが、すでにグレアムは封印状態にあった闇の書を狙っていたのだろう。

 しかし、そこで問題となるのは、如何にしてその所在を調べ上げたのかだ。封印状態であろうとも、ロストロギアである闇の書を発見することなど不可能なはず。グレアムが地球出身であることを考慮しても、広大な砂漠から特定の砂粒ひとつを見つけ出すような話だ。

 それでも、グレアムは颯輔達の前に現れた。リインフォース達やユーリ達ですら思い当たらない技法は、今後間違いなく脅威となる。降りかかる火の粉を払い避けるためにも、颯輔はそれを知っておかなければならなかった。

 

「……闇の書をどうやって見つけたのかは、あたしとアリアも、父様も知らない」

 

 ようやく上がった声は、小さく頼りないものだった。

 

「知らないって……」

「本当だ。あたしらでも闇の書をずっと探してたけど、結局見つけることはできなかった。やっぱり事件が起こるまで待つしかねーかって諦めかけたとき、闇の書は地球にあるって教えられたんだ……」

「それは、誰に……?」

「……最高評議会」

 

 躊躇いの息の後に続いたのは、管理局の事実上トップの名だった。

 

「えっと、バラバラだった次元世界を平定して、新暦を興したときに発足した機関だっけ?」

「何でそんなことまで知って……蒐集か」

 

 驚愕の表情が、たちまち憎々しげに歪む。リーゼロッテの推察通り、闇の書が蒐集した管理局員の記憶から得た知識だった。

 しかし、知識を得た颯輔とて、その全てを理解しているわけではない。管理局の前身となる組織を率いた三人の大魔導師によって結成され、それ以降、管理局の最高意思決定機関としてあり続けている、という程度だ。それ以上の情報は、過去の将官クラスの局員でさえ持っていなかった。

 

「こっちの情報源はともかく、それじゃあそっちは最高評議会の指示で動いてたってこと?」

「……まあ、そういうことだ。あたしらはあたしらで闇の書を破壊しようって動いてたけど、肝心の闇の書は見つけらんねーし、破壊方法もなかなか思いつかねーしで手詰まりだったからな。最初は半信半疑だったけど、確かに闇の書はお前らの家にあった。見つけた時は、驚いたってもんじゃなかった」

「在処を教えられただけ、ね……って、最初は破壊しようとしてたの?」

「当たり前だろ。いくら歴史的価値が高いったって、史上最悪のロストロギアだぞ? いつか破られるかもしれない封印より、完全にこの世から抹消しちまった方が安心ってもんだろーが」

「その考えはわからなくもないけど、当人を前にしてよくもそれだけ……いや、これはどっともどっちか。で、どうして破壊から封印に切り替えたのさ?」

「完全破壊は不可能だって言われたんだよ。確かにアルカンシェルも無駄だったし、虚数空間に落ちたときも当たり前みたいに事件は続いたからな。あたしらもそこで悩んでた。でも封印なら可能だって、そう教えられたんだ」

「それも最高評議会に?」

「ああ。教えられたのは、封印のタイミングと方法くらいか。破壊の方法を考えてるときに、父様がブラスターシステムの理論は組み上げてたからな。あたしとアリアでエターナルコフィンの術式を完成させて、あとは専用のデバイスを造りつつ、場を整えるだけだったよ。その後は知ってのとおりっつーわけだ」

「なるほどね……」

「……言っとくが、いいように使われたってわけじゃねーかんな。少なくとも、あたしらはあたしらの意思で動いてた。ただ、管理局っつー組織自体が、ある意味で最高評議会の使いっ走りみてーなもんなんだよ。結局のところ、方針を決めるのもあいつらだし、大事もあいつらの承認なしじゃ進まねー」

「いや、別にそこに引っかかったわけじゃないよ。問題は、最高評議会がどうやって闇の書を見つけたのかってことだし」

「そこはあたしらも気になってた。お前らの人事も最高評議会の決定だしな。いくら陸がうるさいからって、お前らは明らかに過剰戦力だ。局員のしがらみ関係なく、でけー事件が多い海に配置すべきだって思う。それに、お前らがおかしな行動したとき、ミッドじゃアルカンシェルも撃てねー。あたしがここに来るのにも一悶着あったくらいだし……。最高評議会は、明らかにお前らを父様の下から遠ざけて、自分達の管理下に置こうとしてんぞ」

「やっぱり狙われてるか……」

「間違いなく、な。元々胡散くせー連中だったのもあって、今は父様とアリアで色々探ってるとこだ。父様は何があってもお前らの味方でいるって決めちまったし、アリアもそれに賛同しちまった。てなわけで、あたしはまだお前らのことが大っ嫌いだけど、お前ら絡みでまた何かでけーことが起こるのも勘弁だから、仕方なくこうしてるってわけ」

 

 やる気なく淡々と話したリーゼロッテだったが、颯輔にはそこに嘘があるとは思えなかった。

 リーゼロッテ達が闇の書を恨んでいたことは間違いない。リーゼロッテ達にはそれだけの理由があり、颯輔もその全てを否定するつもりはない。

 だからこそ、こうして協力してくれているのだろう。闇の書の所業を恨んでいたリーゼロッテ達が、これ以上の悪用を許すはずがない。その逆説もあって、颯輔はリーゼロッテの言葉を信じる事ができた。

 しかし、事態は颯輔が思っていた以上に根が深い。言いなりになるつもりはないとはいえ、颯輔達は管理局に所属してしまったのだ。そのトップの思惑が知れない以上、また何か大きな事件に巻き込まれてしまうことは避けられないだろう。

 知らず溜息を漏らした颯輔に、再びリーゼロッテの声がかけられた。

 

「父様は元帥だし、あたしとアリアもその直属だからな、ここにいる間は守ってやるから安心しとけ。お前らに比べれば雑魚だけど、それなりの権力はある。面倒なやつらが訪ねて来たって追い返しといてやるよ」

「それは、うん、助かる。ありがと。だけど……」

「はやて達には、そっち方面には滅法強いリンディとレティがついてる。父様も目ぇ光らせてるし、聖王教会の庇護もあるし、おかしな指示でどーこーってのはねーはずだ。実力行使なんてそれこそ無駄だろうしな、あんま心配すんな。お前が心配しなきゃいけねーのは、お前単体じゃ話になんねーくらい弱っちーってことだけだ」

「痛いとこ突いてくるなぁ……」

 

 鋭い指摘に、居た堪れなくなった颯輔は頬をかいた。

 今日の模擬戦の黒星は、颯輔がつけてしまったものだけだった。確かに颯輔達は強いが、颯輔一人に限って見れば、いくらでも攻略法は見つかってしまうのである。

 今の颯輔は、ユーリ達の足手まといでしかなく、ナハトヴァールの力すら使いこなせていない。戦闘経験がほとんどないというのもあるが、だからといって相手が手加減してくれるわけでもないのだ。ユーリ達と分断される可能性は限りなく低いとはいえ、颯輔の存在が狙い目であるのは間違いなかった。

 

「スペックだけ見れば父様より上なんだけどな、肝心の心構えがド素人だ。実際お前、下手な手加減しなけりゃゼストにも負けなかっただろ? 広域魔法ぶち込めば終わってたはずだ」

「そこはシュテルにも散々ダメだしされたよ……」

「だろうな。ベルカ式のくせに身体強化も下手くそだったし、攻撃らしい攻撃もしなかったし、そんだけコケにされりゃーゼストじゃなくたって怒るわな。お前、夜天の書と紫天の書の記憶はあんだろ? だったらいくらなんでももうちょいマシな動きができんだろ」

「…………」

「……なんだよ?」

「あ、いや、なんでもない。その、確かに記憶はあるけど、それだけじゃ難しいっていうか、日本の常識が沁みついてるっていうか」

「実際の動きに落とし込めないってことか。それに、あんだけ治安のいい国に住んでたら、メンタル面もこうなるか。武道どころかろくなスポーツもできてなかったみてーだしな」

「学校の体育だけだよ。こんなことなら、シグナムとかザフィーラに護身術くらいは教えてもらっとけばよかった」

「今更んなこと言ったって仕方ねーだろーが。魔法に関してはあそこのチビ共に任せるとして……近接戦闘とかも任せたまんまでいいのか?」

「あー、戦闘訓練はユーリ達でしてくれるってさ。管理局側から何かあっても、参考程度にしておけって言われてる」

「それならそれで構わねーよ。こっちも古代ベルカ――ましてやお前らみてーな特殊な例は、正直面倒見切れねーかんな。なら、あたしとメガーヌは常識を叩きこむくらいで、戦闘訓練は仮想敵くらいしか出番なしか」

「あのさ、贅沢言うようで悪いんだけど、男の人の指導者とかって……?」

「なしだ。この施設にいる局員も最低限だしな。もっと言うと、お前らと接触していいのは、基本的にあたしとメガーヌくらいだ。ゼストは滅多に顔出せねーし、もう一人のメガーヌの同僚も、部隊の方で手一杯。今日の晩飯だって、メガーヌが運んできただろ? あいつがお前らの直属の上官になるから、今の内から仲良くしとけよ」

「……訊こうと思ってたんだけど、アルピーノ准陸尉とは仲いいよね?」

「アリアと教導隊にいた時期もあってな、あいつはあたしらの教え子だ。ついでに無愛想のゼストもな。要するに、信用できる部隊に預けたってわけだ。ただし、ゼストより上の地上本部のキャリア組には気ぃつけろ。特に、レジアス・ゲイズってゴリラみてーな少将がいんだけどな、あいつは最高評議会とも繋がってる。おまけに変に潔癖だから、犯罪者には風当たり強ぇーぞ」

 

 リーゼロッテみたいな人なら助かる、とまでは言わなかった。

 何だかんだと言いつつも、リーゼロッテは感情抜きに世話を焼いてくれている。話してみて、それくらいのことはわかったつもりだ。それこそ、気位の高い猫を相手にしているようなものだった。

 リインフォース達やユーリ達と同じような仲にまでなれるとは思えないが、少しずつ氷が解けていけばと颯輔は思う。リーゼロッテは、夜天の書と紫天の書を闇の書として一括りにしなかったのだ。それだけで、苦手意識はすっかり消えてしまっていた。

 結局のところ、互いに互いを信じ合わなければ、信頼関係は生まれない。颯輔が信頼されるのに難しい立場なら、颯輔の方から信頼していくべきだろう。それでも裏切られたとしたら、それまでのことだ。遠ざけて敵を増やすよりは、近づいて味方を増やした方が、ずっと有意義である。

 颯輔達のように、誰もが精神リンクで繋がっているわけではない。他者を遠ざけるばかりだった颯輔は、人間関係の基本を忘れてしまっていたのだろう。心を閉ざしたままでは、他者との距離は絶対に縮まりはしないのだ。

 

「……さっきからにやにや気持ち悪ぃな」

「何でもないよ。ありがとう、ロッテ。頼りにさせてもらう分、こっちにもできることがあったら言ってほしい」

「…………」

「それじゃあ、おやすみ」

「……おい」

 

 立ち上がった颯輔が一歩を踏み出すと、不意に呼び止められた。振り返ってみれば、青色の魔力光がリーゼロッテの体を包んでいる。そのまま人型になったリーゼロッテが、真正面から颯輔を見据えていた。

 リーゼロッテは、唇を噛んで何かを言い淀んでいる。揺れる瞳が何度か落ちそうになるが、やがて、固く拳を握り、意を決したように口を開いた。

 

「……ひとつ、訊いておきたいことがある」

「答えられることなら、何でも」

「……十二年前、クライドのやつは……あいつは、最後は苦しまずに死ねたのか?」

 

 その名前を聞いて、颯輔は一瞬息を止めた。

 クライド・ハラオウン。

 闇の書事件を一度は解決に導いた英雄。

 リーゼ姉妹の教え子で、グレアムの部下。

 リンディの夫で、クロノの父。

 闇の書が命を奪った者達の一人。

 目を瞑って深呼吸をした颯輔は、小さく頷いた。

 

「……うん。それに、艦の皆を守れたって、安心してたみたいだよ」

「……そうか」

 

 颯輔の答えに、リーゼロッテの体から力が抜ける。そのまま噴水の縁に座り込み、俯いてしまった。

 それ以上かける言葉が見つからず、颯輔は黙って背を向ける。夜の闇に解けて消えてしまいたくなったが、それでも表情を作り、ずっと待っていたユーリ達の下へと向かった。

 

 

 

 

 第1管理世界ミッドチルダ。首都クラナガンの郊外に、ゲイズ邸が構えられている。その一室で、ゼストは琥珀色の酒に満ちたグラスを傾けていた。

 酒精が喉を焼き、体の中心が熱を灯す。普段は酒を嗜まないゼストだったが、このアルコール特有の感覚は嫌いではなかった。

 戦いの熱とはまた別のものを感じながら、グラスをガラステーブルに置く。グラスの中のロックアイスがぶつかり合い、高い音を立てた。

 ゼストは見るからに高級なソファへと背を預ける。対面には、志同じくして管理局の道へと入った、十年来の友であるレジアス・ゲイズの姿があった。

 それぞれの能力からゼストは現場を選び、レジアスは上を目指した。階級こそ離れてしまったが、それでその仲が崩れるようなことはない。時折こうして酒を酌み交わすことが、ゼストの楽しみのひとつだ。

 

「それで、どうだった」

 

 その強面の通りに固い声がゼストに投げられる。気兼ねなく酒を楽しむ日もあるが、今日は事情が違った。

 レジアスが尋ねているのは、直に見たゼストの感想だった。

 優秀な人員が『海』へと引き抜かれてしまう『陸』に預けられた切り札。

 過去に数多の国を滅ぼし、次元世界に災厄を振り撒いた存在。

 最悪の古代遺失物(ロストロギア)――闇の書。

 闇の書の主――八神颯輔。

 ゼストは再び酒を煽り、口を湿らせ一息をついた。

 

「正直、予想以上だった」

 

 ゼストが颯輔の移送に付き添ったのは、颯輔達が自分の部隊の所属となるためだ。

 しかし、わざわざ入所初日から模擬戦を行う必要などない。むしろ異例なことだ。だが、その異例こそがゼスト達の主目的だった。

 模擬戦の様子を思い出しただけで、全身に鳥肌が立ち、背筋に悪寒が走る。ゼストは八つ首の大蛇(ナハトヴァール)を見たとき、絶対的な差を理解し、暗い死を覚悟していた。

 

「あれは、俺の手に――いや、人の手に余る力だ。従えようなどと……ましてや利用しようなどと、おこがましいにもほどがある」

「お前がそこまで言うとわな」

「直に魔力を浴びてみろ、並大抵の者ならばそれだけで動けなくなる。単体ならばいざ知らず、融合(ユニゾン)状態ならばなおさらだ。漏れ出た魔力素だけで、体の弱い者は中毒症状を起こしかねん」

「それほどか」

 

 ゼストの答えにレジアスは強面を渋く歪めた。

 颯輔の魔力量はSSランク。加えて、ディアーチェ達も颯輔に似たり寄ったりのランクを誇る。それぞれが単体でも戦力は十分。そして、融合(ユニゾン)状態ではそれらの魔力が一つとなるのだ。まさしくそれは、災厄そのものだった。

 しかし、それが通常状態。ロストロギア『紫天の書』は、内包する機構によって無限の魔力を生み出すことが可能だという。その力の前では、如何なる強者も弱者へと成り下がってしまう。正しく、ロストロギアの呼び名に相応しい力だ。

 

「で、件の闇の書の主は」

「八神颯輔か……。人となりは、どこにでもいるような青年だった。『闇の書の主』の名が先行しているが、本人は犯罪者らしくない子供だ。不相応な力に振り回されている、といったところか」

「事件の動機は家族を救うため、だったな。どこまで信用したものか……」

「……おそらく嘘はない。事実、八神はやてと守護騎士を残し、一度はアルカンシェルで消滅しているだろう。それに、らしい言葉も聞かされた。あれが演技ならば大した役者だ」

「お前の見立てを疑うわけではないが、やはり犯罪者は信用ならん。戦力は戦力だが、面倒を押し付けられたとしか思えんな」

「無論、俺も信頼まではしていない。むしろ気を払わなければならないと思っているさ。あれほど不安定な力もない」

「で、実力のほどは?」

「八神颯輔個人に限って言えば、素人だ。素人なのだが……動きにむらがあった」

 

 対峙した颯輔は、違和感の塊だった。

 構えと戦術に限って見れば、素人としか感想は出てこない。しかし、その瞳に素人特有の脅えやそれに近いものはなかった。視界の狭さもなく、痛みに動きを止めることもなかった。それは、戦闘の素人にはありえないことだ。

 非殺傷設定だろうと、ゼストの武装は刃のある槍。凶器を向けられれば、人は本能的に恐怖を感じる。痛みを受ければ体は固まり、周りも見えなくなってしまうだろう。それは欠点ではなく、人としてのあるべき機能。戦闘訓練を受ければ緩和されこそすれ、それらが消え去ることはないだろう。しかし颯輔には、あるべきそれらがなかった。

 ならばと力を出してみれば、案の定ついてこれはしない。かといって膝を折ることはせず、打ちつけても何もなかったかのように立ち上がる。まったく対応できないのかと思いきや、ゼストの全力の一撃は止めて見せる。

 強くもないが、弱くもない。長年現場に立ってきたゼストの目をもってしても、颯輔の実力を見切ることはできなかった。

 

「絶大な力を持つくせに、その使い方を分かっていない。だからこそ危険極まりないのだ。一度暴走しかけたのだが、あのとき俺は死を覚悟した。あれが暴走すれば、間違いなくミッドは消えてなくなるぞ」

「……プレッシャーをかけるわけではないが、お前以上の武装局員は陸にはおらんぞ。で、その暴走は誰が止めた?」

「マテリアル達だ。彼女らがいなければ俺は死んでいた。……ただ、俺が助けられたわけではないな。なにせ、八神ディアーチェは『貴様に死なれては面倒なことになる』と言っていた」

 

 ゼストは、ディアーチェの路傍の石を見るような目を思い出した。

 颯輔が暴走しかけたとき、確かにディアーチェ達はゼストを助けた。しかしそれは、あそこでゼストが死ねば、颯輔に余計な罪科が加わってしまうためだろう。

 ディアーチェ達は、終始颯輔のためだけに動いていた。颯輔一人に戦闘を経験させ、危険があれば介入する。共に模擬戦に参加したかと思えば自身は相手をいなすだけで、できる限り颯輔に相手をさせる。

 まるで、獣が子供に狩りを教えているかのようだった。ゼスト達は、颯輔が成長するために必要な手頃な獲物。あの模擬戦からは、そういった意図がありありと見て取れた。

 ただし、颯輔を操り人形にしているのかといえばそうではない。人目もはばからずに甘える姿は、見た目通りの子供そのものだった。

 そのちぐはぐな在り方に、いいようのない不安を感じてしまう。颯輔のさじ加減で、善悪のどちらにも傾く危うい力だ。

 

「現状では有能過ぎる人員だが、彼女らは八神颯輔に従っているだけで、決して味方ではない。八神颯輔に命じられれば、いつでも管理局に杖を向けるだろう」

「頭の痛い話だ。ただの爆弾ではないか」

「とびっきりのな。良くも悪くも八神颯輔の甘さが唯一の救いだ。鍛えれば俺以上の戦力になるし、同等の戦力もついてくる。融合(ユニゾン)すれば、それこそ敵なしだ。誠実な対応を心掛ければ、敵対の可能性は薄いだろう。お前の嫌いな方針だろうがな」

「当然だ。奴は闇の書の主だぞ? 相応の罰も受けず、司法取引で自由を得るなど許されるはずがない。それに、元犯罪者の局員など、管理局の信用問題に関わる。そんなことでは市民が安心できるはずがないだろう」

 

 鼻息荒く語るレジアスに、ゼストは口角を吊り上げた。

 レジアスは見た目に反して正義感の強い男だ。そのため周囲とぶつかることが多く、あらぬ誤解を受けることも多々ある。だが、それは真に世を思うからこそのものだ。その一本芯の通った在り方を、ゼストは好ましく思っていた。

 空になったレジアスのグラスに酒を注ぎ足す。酔いが回った状態でなければなかなか折れてくれないことは、長い付き合いからわかっていた。

 

「そう熱くなるな。危険な分だけそれ相応に得られるものがある。付き合い方を間違えなければな」

「お前に人付き合いを説かれる日が来ようとはな」

「お前も人のことを言えた顔ではないだろう。俺も自覚しているからこそ、メガーヌに任せたのだ。あれは人たらしだ、上手いことやってくれるだろう」

「メガーヌ・アルピーノか。よくもまぁ片腕を置いて来られたものだ」

「あそこにはグレアム元帥の使い魔もいる。最悪でも逃げては来られるだろうよ。本当に逃げ出すかは別としてもな」

「……守護騎士とも渡り合える戦力だが、またグレアム元帥の子飼いが絡むか」

「闇の書事件を追っていたのは元帥だからな、今回の一件はハラオウン少将の手柄とはいえ、不自然はないだろう。身柄もまだ完全にこちらに渡ったわけではないしな。それとも気になることでもあるのか?」

「……いや、大したことでもない。そんなことより飲め。不敗のエースがついに負かされたのだ、飲まんとやってられんだろう?」

「飲みたいのはやまやまだが、俺は明日も早いんだがな……。お前は休みだからいいとしても、あまり遅くまでいては、お前の家族がいい顔をしないだろう。思春期の娘はただでさえ気難しいと聞くが」

「ふむ、アルトセイム名産の地酒が手に入ったのだが……お前がそこまで言うのなら、空けるのは次にするか」

「む……」

 

 ニヤリと笑うレジアスの言葉に、ゼストは心動かされた。

 普段は飲まないゼストだが、酒の味はわかる方だ。農耕に適したアルトセイムの銘酒ならば、期待が持てる。高給取りであるレジアスがこのタイミングで切るカードならば、なおさらだ。

 しばし揺れ動いたゼストだったが、今日は傷つけられたプライドを癒す日と決めた。

 

 

 

 

 ディアーチェ達が収容されている隔離施設の規則では、21時を回った時点で就寝となる。しかし、それから2時間が経った今でも、ディアーチェはまったく寝付けずにいた。

 シングルベッドだが、寝息が感じられるほど近くにもうひとつの体が横たえられている。耳をくすぐるそれだけで、幸福に満たされ躯体の構成が緩んでしまいそうだった。

 恐る恐る様子を窺ってみれば、深い呼吸をしているあどけない寝顔がある。ディアーチェは、颯輔の隣で早鐘を打ち続けていた。

 寝室に用意されたベッドは、シングルサイズのものが5台。しかし、体の小さなディアーチェ達ならば、辛うじて2人寝ができる。就寝前に論争が勃発するのは当然の帰結だった。

 制限された魔力の許す限りに身体強化を施して動体視力を引き上げ、ブラフ入り乱れる読み合いを潜り抜けてユーリ達を蹴散らし、渾身の握り拳でもぎ取った勝利。ハイレベルなジャンケンを制したディアーチェは、記念すべき初添い寝の権利を手に入れた。

 しかし、いざ颯輔に受け入れられると、なにをどうすればいいのか分からなくなってしまうディアーチェである。逃げの狸寝入りを信じられてしまったのか、颯輔の意識はしばらくの後に落ち、不貞寝を決め込んだユーリ達も規則正しい寝息を立てているようだった。

 

「……兄上」

 

 小声で呼びかけてみても、反応は返って来ない。横向きのためにいささか寝苦しそうにはしているが、目を覚ます気配はなかった。

 

「兄上、もう眠ってしまわれましたか?」

 

 もう一度、今度は少しばかり声量を上げてみても、結果は同じだった。

 無理もない。きっと疲れているのだろう。

 慣れない他者からの糾弾からようやく解放されたかと思いきや、突然の戦闘行為。

 その後はゆっくりとできたものの、限界が近かったのか、夕食後にはシュテルの講釈を受けながらうとうととする場面もあった。

 そして、最後にまた重荷を背負い込んだ。ディアーチェ達の反対を押し切ってリーゼロッテに接触し、ディアーチェ達が必死に忘れさせようとしていた罪の意識を思い出してしまった。

 そもそも、颯輔にディアーチェの狸寝入りを見破れないはずがないのだ。はやてやヴィータと横になったとき、颯輔は決まって相手が寝たのを確認してから眠りについていた。

 その光景がフラッシュバックし、ディアーチェの胸から熱が奪われていく。冷えた心を温め直すため、ディアーチェは向き合うようにして体を横にした。

 温もりを求め、颯輔の胸に手を這わす。魔力素の結合によって構築された心臓が、規則正しい音を立てていた。

 間に置かれた颯輔の手の下に、ディアーチェの手を滑り込ませる。大きな手を握って指を絡ませると、僅かに颯輔の手が閉じられた。

 

「兄上?」

「…………」

「……兄上、もう少しそばに寄っても構いませぬか?」

 

 規則正しい寝息は続いている。無言を肯定ということにしたディアーチェは、ゆっくりとその距離を縮めていった。

 間に置かれた手を持ち上げ、自身の頬に導く。掌が触れると、頬を擦り付けて目を細めた。

 ふと親指が唇に触れる。心音を速めたディアーチェは、僅かな逡巡の後にそれを唇で食み、舌を蠢かせて一舐めした。

 味はしないが、躯体から微かに漏れ出た魔力素を感じる。頬を薔薇色に染めたディアーチェは、思考を狂わせるそれに夢中で吸い付いた。

 永遠の果てに巡り会った颯輔の魔力は、驚くほどによく馴染む。紫天の書が求めた最後の機構を取り込むことで、ディアーチェは欠けていた自身が満たされていくのを感じた。

 

「ん、んぅ……」

「っ、……兄上?」

 

 さすがに違和感を感じたのか、颯輔が唸って眉根を寄せた。

 ディアーチェは慌てて口を離し、弾んでいた息を殺して様子を見る。小さく身動ぎをした颯輔だったが、眉根から力が抜けて再び寝息を立て始めた。

 興奮と緊張から発汗していたディアーチェは、安堵から熱を逃がすように息を吐き出す。一度落ち着こうと深呼吸をするも、颯輔のにおいを胸いっぱいに吸い込んでしまい、余計に熱に浮かされるばかりだった。

 颯輔の腕を背中に回し、布団に潜り込むようにして、再び距離を詰めていく。颯輔の胸に両手を置き、鎖骨のあたりに頭を預けると、ぐりぐりと額を擦り付けた。

 

「兄上……あにうえ……」

 

 うわ言のように繰り返し、すんすんと鼻を鳴らして熱の素を取り込む。首元に吸い付きたくなるのを我慢する代わりに襟に噛みつき、布地を色濃く湿らせた。

 心の奥底から溢れてくる愛おしさが、ディアーチェの器を満たしていく。過去にこんな感情は知らなかったし、感じることができる状態にもなかった。

 覚えているのは、暴力にも似た飢餓感だけだ。それに突き動かされるまま、様々なものを喰らってきた。しかしそれでも満たされることはなく、果てのない世界を彷徨い続けてきた。

 そこに意思はなく、思考はなく、自己はなく、本能とでも呼ぶべき義務だけがあった。

 

「く、うぅ……」

 

 ならば、手放せるはずがない。

 初めて知った色を、初めて知った人を、初めて知った熱を、初めて知った想いを、いまさら手放せるはずがないのだ。

 もう二度と、あの虚無の中には戻りたくない。今の自分を失ってしまうことが堪らなく恐ろしい。この愛おしい熱だけが、ディアーチェを動かす唯一の回路だ。

 だから、この熱を維持するためのモノ以外は何もいらない。

 ユーリ、シュテル、レヴィは存続のためにも必要だ。はやて、リインフォース、シグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、石田も颯輔の安寧のために存在を認めよう。

 しかし、この熱を奪おうとするモノは許さない。

 颯輔に剣を向けるモノは斬り捨てる。ディアーチェ達の場所を脅かすモノは排斥する。はやて達に悪意を向けるモノは抹消する。颯輔の望む世界を壊そうとするモノは、存在を認めない。

 熱を蓄えるディアーチェは、不意に颯輔に抱き寄せられ、歓喜に体を震わせた。

 

「あにうえ――そうすけ……!」

「……はやて」

「――――」

 

 しかし、その歓喜はたった一つの言葉で霧散してしまう。

 颯輔が目を覚ましたわけではない。颯輔の意識は微睡の中に落ちたままだ。

 だから、それは無意識に漏れ出た言葉で、颯輔が欲している温もりの名だ。

 押し付けられた胸板から感じる熱も、背中に回された腕から感じる熱も、確かに本物だ。

 だがそこに先ほどまでの燃えるような温度はなく、ディアーチェを狂わせてくれはしない。体は熱くとも、思考は冷えに冷え切ってしまっていた。

 分かっている。

 颯輔にとって最も大切な存在は、八神はやて。

 そんなことは分かっている。

 八神はやてにとって最も大切な存在は、八神颯輔。

 嫌でもそんなことは分かっている。

 ディアーチェに生まれたこの感情は、元ははやてのものだ。そこにディアーチェの意識が混ざり、今の形に昇華されたに過ぎない。

 ディアーチェ自身も持て余してしまっている感情は、颯輔を愛おしく思う人の心と、紫天の書の部品ととして必要としているプログラムの規程とが混在しているのだ。混ざりものの愛情は、ある意味はやてに似ているだけの外見には相応しいのかもしれない。

 

「……兄上、我はディアーチェです」

 

 それでも颯輔は、そんな歪な存在を必要だと言ってくれた。一緒に生きようと、手を差し伸べてくれた。

 颯輔は、ディアーチェをはやての代わりとしてなど扱っていない。目を覚ましているときは、ディアーチェをディアーチェとして見てくれていた。

 ならば先ほどの寝言は、颯輔が見せた弱味だ。また重荷を背負いこんでしたったために、心が弱ってしまっているだけに違いない。

 

「我ははやてではありませぬ……ですが、あやつの心は我が内にも存在しております」

 

 ディアーチェは颯輔の腕を抜け出し、颯輔の肩に手をかけて上半身を布団から引きずり出した。そのまま颯輔の頭を胸に抱え込み、栗色の髪をそっと撫でつける。

 はやての代わりとなる気はない。しかし、はやての代わりとなることはできなくもない。躯体が同一で心も宿しているのだから、こうして颯輔が眠っている間だけならば、はやてに擬態することは可能だ。

 ディアーチェの役目は、颯輔の世界を守ること。どうせ、虚構の世界ではディアーチェがはやてを演じるつもりでいたのだ。この程度で颯輔が安寧を保つことができるのなら、ディアーチェの存在など安いものだ。

 

「……おやすみな、お兄」

 

 颯輔の体から強張りが抜けるまで、その髪を優しく梳き続ける。

 ディアーチェの目尻から、一筋の雫が零れた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 変化の予兆

 

 力のマテリアル・レヴィ。殲滅力では他のマテリアルに劣るとはいえ、単純な攻撃力を見ればマテリアル随一の実力を誇っている。本人の嗜好からも、一対多よりは一対一を得意とするタイプだ。

 愛機は破砕斧を基本形態とするバルニフィカス。他の形態には魔力刃を展開する大鎌(スライサー)大剣(ブレイバー)がある。特にブレイバーは強力で、レヴィの力を最大限に発揮することができる形態だ。

 

「煌けっ! 真・エターナルサンダーソードッ!! 斬られた相手は死ぬっ!」

 

 大上段に構えていたレヴィがカッと目を見開き、高らかな口上と共にバルニフィカス・ブレイバーを振り下した。

 刀身に封じられていた蒼雷が解き放たれ、大剣の軌跡に沿って破壊を撒き散らす。極限に至った斬撃と雷撃を受けることは、もはや死と同義である。

 眼前に迫る死の蒼を回避することは不可能だ。剣劇の歴史そのものであるレヴィの間合いに入った時点でその斬撃は必中であり、仮に奇跡が起きたとしても、続く雷撃が奇跡を飲み込んでしまう。

 結果、ただレヴィの動きを見ているだけだった颯輔は、二重の凄まじい衝撃を真正面から受け、一瞬だけ意識をブラックアウトさせられた。

 

「ふっ、またつまらぬものを斬ってしまった」

『……つまらぬものとはなんですかっ。だいたい技の前後でキャラが破綻していますよ』

 

 鞘もないくせに形だけの納刀をしてみせたレヴィに、颯輔とユニゾンしていたユーリが非難の声を浴びせる。ダメージからの復帰に多少のタイムラグがあったようだが、活動に支障が出るほどではなかったようだ。ぷりぷりと怒っている様子が颯輔に伝わってきている。

 バルニフィカスを基本形態に戻したレヴィは、軽く笑って頭をかいた。

 

「いやぁ、久々に本気出したからさぁー。それに、これはこれでやってみたかったし。で、どうどう? そんなに痛くなかったでしょ?」

「うーん、まぁ、思ったより大丈夫、かな?」

 

 ユーリの制御によって体勢を立て直した颯輔は、恐る恐る体を確かめながら答えた。攻撃を受けた箇所には傷一つなく、言われた通りに技の見た目ほどの痛みもない。強いて言えば、電撃の魔力変換のせいで微かな痺れがある程度だ。

 先ほどのレヴィの攻撃は、非殺傷設定によるものだった。相手に身体的な損傷を与えず、魔力ダメージによる無力化を狙った攻撃だ。今回はシミュレーターによって魔力ダメージが及ぼす肉体への影響を再現しているだけのため、実質のところ魔力ダメージも大幅にカットされている。

 闇の欠片事件において同一の攻撃をレヴィから受けた際は、しばらく躯体が維持できなくなるほどのダメージを受けたが、厳しく制限を設ければこんなものらしい。ユーリの補助があったとはいえ、受け比べた颯輔はその違いを明白に理解できた。

 

『三佐の攻撃を受けたときも、槍で突かれたのに傷はできませんでしたよね。その後の模擬戦でも、相手方に怪我はなかったはずです』

「だからさ、ちゃんと非殺傷にすれば攻撃したっていいんだよ。拘束魔法だけで相手を無力化なんて、そーすけにはまだ無理だって。まずは攻防を覚えて、戦闘らしい戦闘ができるようにならなくちゃ」

「言いたいことはわかるつもりなんだけど、こればっかりはどうしてもなぁ……」

 

 二人に諭されるも、颯輔にはまだ答えを濁すことしかできなかった。

 颯輔の戦闘訓練における最初の課題は、相手に対して能動的な攻撃ができるようになることだった。ユーリとユニゾンすることによって戦闘技術を得られる颯輔には、個人的な技能よりも意識の改革が求められたのだ。

 しかし、次元世界レベルから見ても比較的治安のいい日本で生まれ育った颯輔である。颯輔にとっての暴力とは、嫌悪されるべきもので糾弾されるべきものだった。事実、これまでの人生において颯輔が拳を振り上げた回数は、ほとんど皆無と言ってもいい。

 そういった背景を考えれば、無意識にまで根付いたその認識を矯正することは難しく思えた。

 

『なにもレヴィのようになれと言っているわけではありませんよ? 戦闘経験を積んで、それから颯輔の考える戦いができるようになればいいんです』

「むっ、なーんかやな言い方!」

『やな言い方じゃないですよぅ。レヴィにはレヴィの良さがあるということです』

「んー、ならオッケー! で、そーすけにはそーすけの良さっていうか、そーすけの役割があるわけ! さてそれはなんでしょーかっ!」

 

 調子を崩さないレヴィは、一回転を入れてからビシィッと颯輔に指を突きつけてくる。そのままカウントに移り、秒数が縮まる毎にぐいぐいと近づいてきた。

 

「えーと」

「さんにぃいちぜろはいぶっぶー! ざぁ~んねんでしたっ! ボクの勝ちー!!」

 

 理不尽な判定を告げたレヴィが、颯輔の頬をぐりぐりとこね繰り回してくる。ユーリは呆れて沈黙しているが、颯輔は笑ってはしゃぐレヴィを宥めた。

 レヴィのような手合いは慣れていないが、苦手意識を覚えるほどでもない。むしろ、底抜けの明るさには救われるものがあった。

 

「レヴィは強いなぁ。じゃあ、正解を教えてくれる?」

「もう、シュテるんに教わったでしょー? ずばり、そーすけの役割はボクらの盾!」

「た、盾扱い……」

『せ、正確には最前衛ですね。わたし達でチームを組んだときのポジションの話です』

「そうそう。えーっと、管理局風に言うなら、そーすけはフロントアタッカー! そーすけは堅いし再生力も高いから、自然とここに落ち着くわけ。相手の攻撃を防いだり拘束したりして足止めする方が、そーすけ的にも合ってるでしょ? 攻めに転じても、魄爪とか集束系の魔法で相手の防衛ラインを崩せるしね」

『レヴィがガードウイングで遊撃、シュテルがセンターガードで援護射撃、ディアーチェがフルバックで各種支援、わたしはいつでも颯輔と一緒です』

「まぁ、ボクらの場合はポジションなんてノリで変えても対応できるだけのスペックがあるんだけどね。でもとりあえずはこれが一番しっくりくる形かな。ちゃんと役割分担できてるから、監視で余計なのが入って来ても問題なし!」

『仮に准尉が入るとしても、ポジションはフルバックのようですし、他に比べて足手まといとなることも少ないでしょう』

「……なるほど」

 

 つまりは、颯輔が突破されれば後ろに控えるレヴィ達が危険に晒されるということ。もっと言うなら、最前線で颯輔が相手の頭数を減らすことができれば、レヴィ達の負担も減らせるということだ。

 そのために、颯輔は防御に徹するだけではなく、相手に攻撃を仕掛けなければならない。

 理屈の上ではわかっている。非殺傷設定についても理解を深めた。

 しかし、それでも忌避感は拭えない。例え颯輔が選び、颯輔が選ばせた道であっても、進む足取りは重くなってしまう。無責任だとは思いつつも、引き返せるものなら引き返してしまいたかった。

 

「……あのさぁ、そーすけは傷つけたくないって言うけど、守るってことは戦うことで、戦うってことは傷つけ合うことなんだよ? 傷つかない戦いなんてないし、ボクらは戦いを避けることはできないわけ。ここまでオッケー?」

『レヴィ――』

「いいからいいから、ちょっとユーリは黙っててよ」

 

 気を尖らせかけたユーリにペースを乱されることなく、レヴィは飄々としたまま言葉を被せた。

 笑顔で切って捨ててはいるが、その表情は表面的なものだけではない。レヴィは心底から善意で言葉を発しており、そこに一切の悪意は混じってなどいなかった。

 

「だいたい、ユーリ達はそーすけに甘すぎるんだよね。そんなんだからたいちょーみたいな雑魚にやられちゃうんだよ。なっさけないなー。ナハトだって、()()()()使()()()()()()()あんなに強いのにさ。そうでなくても、そーすけが下手くそに使うから困ってたじゃん。あれで怒られたらナハトの方が可哀そうだよ」

「確かに上手く戦えたとは思ってないけど……。鎖にしたの、そんなにダメだったかな?」

「違う違う。あの形態は別に悪くないと思うよ? 鎖は元からあるものだし、うにょうにょって蛇っぽい動きもできるしね。悪いのはそーすけの使い方。ディアーチェが使ったときは、綺麗に動いてたでしょ?」

 

 ゼストとの一騎打ちとは状況が違うが、続く模擬戦ではレヴィの言うとおりだった。

 ディアーチェに制御されたナハトヴァールに無駄な動きは一切なく、的確に相手を拘束していた。颯輔では捉えきれなかったゼストも追い詰めていたのだ。颯輔とディアーチェでは、同じデバイスでも使い方が全く違っていた。

 

「そーすけは目的を与えただけで、それを達成するための動きまではイメージできなかった。だから、そーすけがして欲しい動きと実際のナハトの動きが違ってきちゃって、お互いの足を引っ張り合ってたんだよ。ところが、ディアーチェの場合はイチからゼロまで自分で動かしてたわけ。だから、当然ユニゾンしてたそーすけ達の邪魔になるような動きはなかったし、勝手に攻撃しようともしなかったよね」

「つまり、正しく武器に遊ばれてたってこと?」

「そーいうこと。でも、それからもう一つ。ナハトは防衛プログラムだけど、そーすけの考える守るとナハトの考える守るは別物なんだよ。そーすけは、相手の攻撃を防ごうとするじゃない? でもさ、ナハトにとっては、相手を倒すことがイコールで主を守ることになるんだ。同じ守るでも、そーすけのはただ状況から逃げてるだけ。思考がびみょーにずれてるんだよね。まぁ、颯輔の守りたいって気持ちの奥にも、傷つけてくる相手を退けたいって想いはあるみたいだけど。だからあのときナハトは――」

『もういいでしょう、レヴィ。颯輔を変えていくのはゆっくりと。そう決めたはずですよ』

 

 瞳の輝きを深めていくレヴィを、ユーリがやんわりと止めた。

 レヴィは、何か致命的なことを口にしようとしていた。止められた言葉の先は予測できているはずなのに、心が理解を拒んでいる。左腕のナハトが熱を帯びて痛い。颯輔は、視界が狭まり息苦しくなったような気がした。

 

「……そういうわけで、最初に戻ってくるわけ。まずは攻防を覚えて、戦闘ができるようにならないと」

『戦闘メイキングは強者の特権です。颯輔がしたい戦いをするには、それができるくらいに強くなってからですよ。そうすれば、相手を傷つけてしまうことも少なくなります』

「だから、うじうじ悩むのはもうやめにしようよ。ボク達を守れるようになりたいんでしょ? なら、まずはできることから始めないとね。ほらそーすけ、手を出して」

 

 歯を見せて笑うレヴィが、こちらに向かって手を差し伸べている。空気を求めて喘ぐようにして、颯輔は必死に手を伸ばした。

 

「よしっ! 合体だぁっ!!」

 

 手が触れ合った瞬間、眩い水色の光が輝いた。

 レヴィの躯体が解け、颯輔のリンカーコアに流れ込んできた。金色に染まっていた髪が水色を帯び、戦装束にもレヴィ固有の色彩が反映される。溢れる魔力が視界を広げ、全身に力が漲った気がした。

 

『魄爪装着ッ! 雷刃兵装展開ッ! わはははははーっはっはっはっ、震えるぞ魔力(パワー)っ! すっご、やっぱりこれ最っ高だよ! もう癖になっちゃいそうなくらい!!』

 

 それは錯覚ではなく、颯輔とユーリが引くくらいに漲っていた。

 魄翼は蒼雷を撒き散らし、勝手に魄爪は形成され、おまけにナハトの鎖の先端には剣が展開される。薄闇に覆われた空間でなければ、周囲に存在するものを所構わず壊しそうな勢いだった。

 

「ちょっと、これは……!」

『レヴィっ、レヴィっ! はしゃぎ過ぎです抑えて下さいっ!』

『断ーるっ! 今回はボクのやりたいようにやっていいって決まりだもんねぇー! さぁさぁ、最初は軽ーく闇の欠片千体バトルといってみようか!!』

「せっ、千体っ!?」

『いくらなんでも多過ぎですっ! 最初は百体くらいでいいじゃないですかっ!』

『ダメに決まってるじゃん! 昨日の模擬戦なんて寸止めばっかりですっごく辛かったんだよ? ボクをこんなになるまで我慢させたんだ、とことん付き合ってもらうからね!』

「あの、付き合うのはいいけど、十体くらいじゃダメかな……?」

『ダイジョブダイジョブ、怖いのは最初だけで、すぐに楽しくなっちゃうから! そのうちそーすけの方からもっとやろうって言うようになるって!』

「いやいや、いやいやいや、そんな風にはならないって」

『そんなのただのレヴィです! 半分っ、せめて五百体にしましょう!』

『うるさいうるさいうるさーいっ! さぁさっ、闇の欠片かもーんっ!』

 

 颯輔とユーリの説得は空しく切られるだけで、振り切れたレヴィを止めることはできない。大きくなった指がバッチンと鳴ると、紫天の書内部の仮想空間に闇の欠片が出現し始めた。

 周囲を取り囲む気配に観念したのか、ユーリは思考を切り替えて暴れる魔力の制御に集中してしまう。同一の体にありながら一人孤立してしまった颯輔は、内側に響き渡る高らかな笑い声を聴きながら、勇み飛び出す自分の体をやはりただ見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

「うわぁ……」

 

 投影型ディスプレイに映し出された映像を観ていたメガーヌは、今日何度目になるかもわからないうめき声をあげた。

 午前中のプログラムを終え、午後からは颯輔の戦闘訓練をしている。ディスプレイの中では、ユーリにレヴィとユニゾンした颯輔が、噂に聞く闇の欠片相手に無双という言葉を体現していた。

 山のような巨龍の尻尾を掴んでは振り回し、敵の包囲を強引に抉じ開ける。背後から迫る爆炎には振り向きもせずに障壁を展開してやり過ごし、正面から鋭い爪で襲いくる怪鳥には魄翼からの砲撃を見舞う。近接戦を仕掛けてきた騎士を鎖の先の雷刃で斬り伏せては、砲撃を溜めていた魔導師へと残る鎖を差し向けていた。

 言葉を選ばず表現すれば、馬鹿げた映像だ。これがただ迫力満点なだけの映像作品ならば、壮大なスケールの中でも光る戦闘技能に万雷の拍手を捧げていただろう。

 しかし、しかしである。これが現実であると言われ、はいそうですかと信じられる者がこの広い次元世界にいったいどれだけいるだろうか。おそらくそれは、八神颯輔達の実力を知る者と同数になるに違いない。

 

「む、今のをああ返すとは、レヴィもなかなかにやりおる」

「ユーリの援護も絶妙なタイミングでした。さすがは我らが融合騎ですね」

 

 最初はレヴィの暴挙に鼻息を荒くしていたディアーチェとシュテルも、今は大人しく女の子座りをしながらのんびりと観戦している。時折あの変態的な戦闘を冷静に解説しては議論しているあたり、一応真面目には取り組んでいるらしい。

 一方で、早々に戦闘記録を諦めてしまったメガーヌとリーゼロッテは、二人の邪魔にならない程度に後ろに下がり、スケールどころか次元違いの映像をぼんやりと眺めていた。リーゼロッテ曰く、守護騎士連中が可愛く視えるレベルらしい。

 

「……あんな鋭角機動で回避したら絶対吐く。見てるこっちが飛行酔いしそう」

「安心しろ。ありゃー人間には不可能な動きだ。お前じゃ逆立ちしたってできねーよ」

「ロッテにも無理?」

「バカ、使い魔とあれを一緒にすんな」

「じゃあ、もしも、もしもよ? あー、えっと、あの子達と真剣に戦うようなことになったら、どうするの?」

「どうせ生き返るから速攻で殲滅しろ。もしもそれより先にリミッターを解除されたときは……」

「解除されたときは……?」

「諦めろ」

「……だよねぇ」

 

 小声であっても元管理局最強の使い魔の言葉は重い。一縷の希望を絶たれたメガーヌには、そんなときが来ませんようにと祈ることしかできなかった。

 だいたい命令を受けたときからおかしいとは思っていたのだ。最初はただの教育係としか聞かされていなかったのに、その期間の給料はこれまでの倍以上。拘束時間を考えてもあり得ない額だった。

 そこから厄介事だとは予想していたが、まさかこれほどの案件とは思ってもいなかった。覚悟を決めたのは、厳重な警備を敷かれた一室にグレアムとリンディという時の人が揃って現れたときだったか。あのときほど新人教育に比べたら楽勝などと思った自分を恨んだことはない。

 そもそもどうしてあんな平凡そうな男の子があんな魔力を持っているのかが理解できない。幼女には犯罪的なほどに懐かれているし、いざ話してみても真面な受け答えができるしで、ちょっと油断していたらこれだ。

 というか昨日の模擬戦すら手加減していたのか、手加減してあのレベルなのか、それはもう詐欺ではないのかと糾弾したいほどだった。

 

「あーぁ、ギンガちゃんとスバルちゃんに会いたいなぁ」

「そいつらはクイントの娘だろうが。お前が世話するのはあっちだあっち」

「私はあんなおっきな子がいるような歳じゃありませんー」

「ガキがいてもいいような歳だとは思うがなー……行き遅れんなよ?」

「よっ、余計なお世話よっ!」

「バカっ、声でかいって」

 

 リーゼロッテの言葉にはっとして見てみれば、ディアーチェとシュテルから白い目を向けられていた。

 メガーヌはひとまず爽やかな笑顔を作り、小さく手を振ってみた。二人からの視線は外れたが、それは興味をなくされただけのようにも思えた。

 

「……私、きっと局員には向いてなかったのよ。魔法の才能なんて、これっぽっちもなかったんだわ」

「ネガティブになり過ぎだろ……まぁ、お前らには同情するよ。あたしもこんなことしてる自分が情けないったらありゃしねーがな」

 

 リーゼロッテは力なく笑っている。その表情はメガーヌの知らないものだったが、不思議とそちらの方がリーゼロッテらしいとも思えた。

 メガーヌが知っているリーゼロッテは、勝気で気分屋で、余程のことがない限りは自分を見失わない女性だった。出会った当初からその印象は変わらなかったはずが、最近になって再会してからは違った一面を見せられてばかりだ。

 失礼を承知で言うなら、老け込んだという言葉がぴたりと当てはまる。あるいは大人しくなったが無難なところだろうか。芯がなくなったというよりは、作り物に思えた柔らかさが本物になったように感じられた。

 

「ねえ、ロッテは怖くないの?」

「あいつらのことか?」

「うん。だって、自分で言うのもなんだけど、管理局のドリームチームが挑んでも遊ばれるような相手よ? 今朝だって、局法は紫天の書にインストールして全部覚えちゃうし、今は仮想空間とはいえどあんなだし。私、今まで自分はそこそこ強いと思ってたんだけど、自信なくしちゃったわよ」

「お前は弱くなんかねーよ。DSAAの試合で目をつけたのはあたしとアリアだぜ? 結局は陸に取られちまったわけだが、そっちでの活躍は海にいても耳に入ってきたしな」

「ちょっと、急に煽てたって誤魔化されないんだから」

「お前、昔もそうだったけど、今はもっと可愛くなくなったなー」

「いいから答える」

 

 リーゼロッテはカラカラと笑いながら、あたしだって怖いさ、と答えた。

 

「全部終わったと思ってたら、何の冗談か今度は守護騎士以上のやつらを引っ提げて帰ってきたときたもんだ。()()()()には守護騎士共々ボコボコにされてるからな、そりゃー怖いに決まってる」

 

 リーゼロッテの言う戦闘がいつのことを示しているのかまではわからないが、どうやら守護騎士ともマテリアル達とも戦ったことがあるらしい。模擬戦ですらあれだったのだから、実際に敵同士として相対すればその脅威は比較にならないであろうことは、容易に想像することができた。

 

「だけど、肝心のあいつがあんなのだからな。怖がるのがバカらしくなるってもんさ」

 

 しかし、映像の中にいる颯輔を見るリーゼロッテの眼差しは、メガーヌ達に向けるものに近く感じられる気がした。

 リーゼロッテは、闇の書と戦い続けてきた。その傍らでも局員の育成へと力を入れてきたのは、それだけ多くの力を欲していたということなのだろう。

 メガーヌは、一連の事件についての詳細を知っているわけではない。知っていることは、八神颯輔が闇の書の主であったこと、家族を救うために命をかけたこと、そして、今こうしてここにいるということくらいだ。

 一方で、リーゼロッテ達が失敗したのかと言えば、どうやらそうでもないように思える。リーゼロッテは敗者を装っているかもしれないが、肝心な敗者特有の雰囲気は感じられないのだ。

 以前のリーゼロッテは、闇の書が話題に上がった途端に表情を険しくしていた。では、いったいどのような心境の変化があれば、そうまでして執念を抱いていた相手にそのような表情が向けられるのか。

 

「……じゃあ、恨んではいないの?」

 

 メガーヌがつぶやくように言うと、リーゼロッテは困ったように眉根を寄せた。

 

「……まあ、恨んじゃーいる。それに、まだ憎いとも思う」

「気を悪くしないでほしいのだけど、あんまりそうは見えないわよ」

「そりゃあ気のせいだ。()()()()()()()()を許しちゃいない。……あいつらにも事情があったのは理解してるつもりだけどよ、それでも許せねーもんは許せねー。あいつには迷惑な話だろうが、闇の書の主は恨まれなきゃいけねーし、あたし自身も恨んでいたいんだよ。あたしらが許すとしたら、それは一番最後だ」

 

 宣誓するように言ってから、リーゼロッテは溜息と共に肩を落とした。

 そのまましばらく映像に目をやってから、ふと話しかけてくる。

 

「メガーヌ、お前にはあいつがどう見えてる?」

「どうって……」

「陸にいた分、お前はあたしらよりは先入観が少ねーはずだ。見たまま思ったことを聞かせてみろ」

 

 少しだけ迷ってから、メガーヌはありのままに伝えることにした。

 

「私は……正直、可哀そうだと思ってるわ。話せば分かる子だし、絵的には犯罪的だけど、小さな子にもあんなに好かれているもの。闇の書の主だなんて言われても信じられないくらい、それが似合ってない。確かにあの魔力と力は怖いとも思うけど……たぶん、一番怖がってるのはあの子自身だから……うん、やっぱり心配、かな」

 

 まだ出会ってから日が経っていない、ということもあるかもしれないが、それにしても、颯輔はよくメガーヌ達の顔色を窺っているように見えた。表面上はにこやかにしているが、どこまで気を許していいのか、どこまで踏み込んでもいいのか、慎重なほどに距離を測ろうとしている。

 課せられたものを考えれば、きっと正しい行動なのだろう。あれだけの力だ、慎重に慎重を重ねた方がいいに決まっている。

 しかしそれは老練な者に多く言えることで、あのような歳若さで身に付けるべきものではない。立場がそうさせるのだろうが、少なくともメガーヌは、それを悲しいを思った。

 なぜなら、ディアーチェ達と戯れているとき、颯輔は心から笑っているのだ。それが本来の表情だろうし、あの優しげな青年にはそれがよく似合っている。荒事とはほど遠い人であることは、一目見た瞬間にわかってしまっていた。

 それでも、颯輔は力を持ち、過酷な運命を背負っている。誰が見てもそういったものには縁遠く見えるだろう。言葉だけではとても信じられないかもしれない。いっそ場違いと言ってもいいほど、八神颯輔にはそれらが似合っていなかった。

 

「きっと管理局員にも向いていないと思うわ。ああいう子は平和を享受するタイプだもの。そういう子がその手の才能に恵まれるなんて、皮肉な話だと思うわよ」

「……確かに、これ以上ないくらい皮肉な話だわな」

 

 満足のいく答えだったのか、リーゼロッテは小さく笑っている。これまで度々こうして試されるようなことはあったが、ここまで直接的なものは初めてだった。

 一人笑うリーゼロッテに、メガーヌは呆れを含ませて言う。

 

「で、合格なの?」

「ああ。あたしの感もまだまだ衰えちゃいねーな」

「そこで自画自賛に走らないでよ……。それで、これから私にどうしろと?」

「アドバイスはひとつだけだ。お前はお前のままお前らしくあいつらに接しとけ。それでだいたい上手くいくはずだ、たぶん」

「はずに多分って、あのねぇ……」

「まあいいから聞け」

 

 本当に自信があるのか怪しい言葉で態度にまで呆れが出てしまったが、リーゼロッテは最後まで聞けとばかりに諭してきた。

 

「いいか、あいつに必要なのは良識のある大人だ。そういうのの目があるだけで、あいつは正しくあろうとする。そうすりゃ自然とマテリアル達も同じような行動をとるだろ」

「…………」

「…………ん? なんだ?」

「え? そ、それだけ? もっとこう、具体的なのとかは……」

「ない」

 

 断言するリーゼロッテに、今度こそ本当にメガーヌは呆れ果てた。

 何だそのアドバイスとも言えない当たり前なアドバイスは。昔から直感でものを言うとは思っていたが、これは酷い。そのあたりはリーゼアリアが上手いことフォローしてくれていたが、それがないだけでここまで単調になってしまうのか。

 そういえば相方はこの師の在り方を悪い意味で学んでいたな、今年の新人達はそれについていけるだろうか、とふと心配になってきた。

 

「おいなんだその顔は。お前、あたしを馬鹿かなんかだと思ってないか?」

「え、いや、えっと、いいえ?」

「んだよ察してないのかよ。やっぱりお前もまだまだひよっこだな。九歳児の方がまだマシだ」

「比較対象がおかしいのはさておき、私はまだアリアみたいにはいかないわよ……」

「まっ、そのへんは自分で気づくこったな。これもちょうどいい勉強だ。これを機会に捜査官として……っつーか、人としての洞察力をさらに磨いとけ」

「わかったわよ。とりあえずは怖がらずに親身になって接してやれってことでしょ。はいはい了解しました」

「…………まぁ、親身になり過ぎて食うなよ」

「くっ?! し、失礼ね、そんなことしないわよ! それに私は年下になんて興味は――」

「だっ、だから声を抑えろって!!」

「誰のせいよっ!?」

 

 叫ぶメガーヌとリーゼロッテだが、今度は目を向けられもしない。ディアーチェとシュテルには、完全にいないものとして扱われてしまっているようだった。

 こんな体たらくで果たして良識ある大人としての振る舞いが通じるのか不安で仕方がないメガーヌは、何かを諦めて大人しく黙ってディスプレイに集中した。

 

 

 

 

 ディスプレイの灯りが老いの滲んだ顔を淡く照らし出す。終業時間は大分前に過ぎてしまったが、ギル・グレアムは執務室にこもり続けていた。

 グレアムが元帥に昇格してから早一ヶ月が経つ。役職上の頂点ともなればそれなりの仕事があるが、元々多忙を極めていたグレアムにとって仕事量の変化はないに等しい。むしろ、完全に内勤となったことで魔力を持て余しているくらいだ。年相応に老いてしまったが、まだまだ若い武装局員にも負けるつもりはない。

 とはいえ、元帥がおいそれと現場に赴くわけにもいかない。査察でもないのに高官が訪れたとなれば、そちらの対応に人員を割かせてしまうし、現場の人間からすれば邪魔者以外の何者でもないだろう。

 それに、グレアムが戦うべき相手は別にいる。それこそ、そこいらの犯罪者よりもよほど狡猾で抜け目がない相手だ。

 

「ふむ……」

 

 意識せずとも自然と唸り声をあげてしまう。

 グレアムが目を通しているのは、毎日山のように届く抗議文。それらは闇の書の被害者の会や、ベルカ自治区の平和運動団体など、出所は様々だ。

 司法取引により犯罪者の入局を認めるという性質上、この手の抗議は日常茶飯事である。さすがに闇の書関連ともなれば規模は違うが、これも時が経てば下火になっていくだろう。外にいるはやて達は自らが矢面に立とうとするかもしれないが、それまでそちらの対応は専門の部署やグレアムに任せてもらうしかない。

 グレアムを抗議文などよりも大いに悩ませているのは、はやて達や颯輔達の所属に関する問題だった。よかれと思ってはやて達も颯輔達も固めて配置したが、突出した戦力を一部隊にまとめたことで、戦力の一極化を指摘されているのだ。はやて達が早くも功績をあげたことが、完全に裏目に出てしまった。

 闇の書といういわくがあっても、誰も彼もが優秀な人材であることに違いはない。それらを振り分けろという声が、各方面の部隊で早くも大きくなり始めている。颯輔達など、まだ更生プログラムの受講が始まったばかりだというのにだ。

 確かに、いずれは個人で活躍してもらわねばならないだろう。智謀を活かして捜査官や執務官になってもいいし、武力を活かして武装隊や教導隊と、選択肢は数多くある。しかしそれは数年は先の話で、颯輔達や管理局も安定してからのことだ。

 時期尚早と言うのも早すぎる声。その裏に潜む思惑を考えれば、却下の一言だけで終えていいものではない。そういった面から颯輔達を守るのは、元帥の権力を持つグレアムの義務だ。

 

「正義の旗を掲げる組織か。果たして、業が深いのはいったいどちらか……」

 

 力なく呟いて、グレアムはオフィスチェアに背中を預けた。

 そのまま画面を見つめて今後の方針を練っていると、執務室の扉がノックされる。聞こえてきた声は、リーゼアリアのものだった。

 

「アリアか。入りなさい」

「失礼します」

 

 各方面を飛び廻って疲労が溜まっているだろうに、リーゼアリアはしゃんと背を伸ばしている。淀みなく歩んで正面まで来ると、グレアムがディスプレイを消すのを待って口を開いた。

 

「父様、ただいま戻りました」

「おかえり。苦労をかけるな」

「いえ、世話役と言っても軽く機器の点検をするだけですし」

「だが、老人達の相手は疲れるだろう?」

「あんなの、ただ頷いているだけですよ。地上本部内を歩く方が気疲れするくらいです」

 

 グレアムの心配をよそに、リーゼアリアは笑って流してみせた。

 リーゼアリアは元帥付きの秘書官への就任と共に、最高評議会の補佐役にも任命されていた。具体的な役目は生命維持装置の維持管理と、各所へのメッセンジャーである。地上本部から動けない評議会には、その補佐役が必要なのだ。

 結果的にとはいえ、本来は封印するはずだった闇の書を完全な形で管理局に取り込んだグレアムの功績は大きい。得られた評議会との繋がりは、元帥の座よりも価値のあるものと言っても過言ではなかった。

 それも、グレアムにとっては特に。

 グレアムが闇の書の転生先を知り得たのは、評議会からの情報があったからだ。それがなければ、やはり後手後手の対応となってしまっていただろう。颯輔達が起こした奇跡も、あるいは全ての歯車が噛み合い起こるべくして起こったのかもしれない。

 だが、それで万事解決とは言えない。グレアム最大の敵は、正しくその最高評議会なのだから。

 リインフォース達にも確認はとったが、待機状態にある闇の書の所在を掴むことは、現存する技術では不可能なはずだった。それができれば、これまでの被害はもっと抑えられていただろう。グレアムも、始めに聞かされたときは半信半疑であった。

 それでも、評議会は何らかの方法で所在を掴んだ。そして、グレアムを仕向けて夜天の書と紫天の書を得た。

 問題は、わざわざグレアムを焚きつけてまでそれらを得て、その先に何を望んでいたのかだ。

 

「それで、何かあったのかね?」

「ええ。実は、聖王教会からの要請があったらしく、そちらの対応にはやて達をと……」

 

 眉根を寄せて言うリーゼアリアに、やはり動き始めたか、とグレアムは意識を引き締めた。

 闇の書事件の解決は、歴史の節目だ。今はまだ腹の探り合い程度だが、この先それは大きな動乱へと発展していくだろう。利権に卑しい評議会が、そこで動かないはずがない。その巨大な魔手が颯輔達へと伸びることは、何としても阻止する必要がある。浅ましく元帥の座にすがりつき、評議会の犬と呼ばれようともだ。

 

「それは、はやて達に管理局と聖王教会との橋渡し役を頼みたいということかな?」

「いえ。どうやら、はやて達には一時的に騎士団に専念して動いてもらいたいようです」

「……公にはしたくない問題が発生したと?」

「はい。昨日未明、聖王教会の遺失物保管庫にあった聖遺物が盗み出されたそうなのです。幸いにも情報の管制は間に合ったらしいのですが、物が物でして……。教会側の精鋭と協力して、早急に取り戻してもらいたいとのことです」

「わざわざ評議会にこぎつけてまではやて達を指名するということは、それなりの物ということか」

「はい……盗み出されたのは、聖王の聖骸布――オリヴィエ・ゼーゲブレヒトの遺伝子情報です」

 

 その言葉に、グレアムは目を見開き息を飲んだ。

 なんということなのか。よりにもよって、聖王の聖骸布。それも、はやて達とは因縁の深い最後の聖王――オリヴィエ・ゼーゲブレヒトのものときた。まるで図ったかのような、出来すぎという言葉すら生温い悪魔的なタイミングだ。

 確かに、それほどのものなら事を公にすることなどできない。なにせ信仰対象の聖骸布だ。露見した結果が暴動程度で済むならばまだいい方だろう。場合によっては宗教勢力の塗り替えまである。

 それに、はやて達を頼ることも、事態の収束を考えればあながち見当違いとも言えない。闇の書はオリヴィエと同じ時代を経験し、その最後に立ち会ったのだ。持ちうる情報は、教会並かそれ以上。使用できる魔法から考えても、はやて達が適任だろう。

 しかし、なぜこのタイミングなのだ。

 闇の書事件が解決し、はやて達が局員として再スタートをきり、颯輔達が更生の道を歩み始めた途端ではないか。あまりにも狙い過ぎている。犯人が反闇の書を唱える勢力かどうかも怪しい。

 グレアムは目頭を揉み解し、溜息の後に言葉を続けた。

 

「評議会を通して言ってきたということは、それは当然正式なもので拒否権もないのだな?」

「ええ、残念ながら。教会ははやてとリインフォースの二名を指名しています」

「それ以上は手に余るか……。で、教会側の人員は?」

「教会の重鎮であるグラシア家のご息女――騎士、カリム・グラシア。および、騎士カリム付きのシスター、シャッハ・ヌエラ。以上の二名です」

 

 告げると同時にリーゼアリアは情報パネルを出現させ、グレアムに詳細を見せてくる。グレアムは、主要なものを流し読んだ。

 

「預言者の家系か。それに、実力も申し分ない。対価――いや、等価のつもりか。指名した以上、もしもの事態があっても構わないと」

「守護騎士の代わりのつもりか、それとも……。汚れた信頼ですね」

「はやて達を二重の意味で試しているのだろう。どうせこの面子なら、せめてアコース査察官もつけてほしいところだがね」

 

 カリム・グラシアもシャッハ・ヌエラも優れた能力を持つが、武闘派であり捜査向きの人材ではない。未来を予知するグラシア家の稀少技能も、このような案件には使えないだろう。二人は監視役であり、各所への通行券と考えた方がいい。

 聖骸布が盗み出されてからすでに一日が経ってしまった以上、流出したであろう遺伝子情報の回収は不可能に近い。はやて達に期待されるのは、あくまで聖骸布の回収のみのはずだ。それだけならば十分にやってのけるだろう。難癖はつけられるかもしれないが、それについてはいくらでも返し様がある。

 

「父様、マイナスにばかり考えても仕方がありません。汚名返上の機会でもあるのですから、何も悪いことばかりではありませんよ。……それに、はやて達も断りはしないと思います。少しでも事態が波及しないように、私達はリスク管理に徹しましょう」

「……それがベターな選択か」

 

 リーゼアリアは案じるように言ってくるが、グレアムにはどうしても楽観視することができなかった。

 聖王教会の遺失物保管庫が破られるなど、並大抵のことではない。それこそ内側からの手引きでもあったのではと疑うほどだ。それほどに保管庫の警備は堅かったはずである。

 そして、もしも聖骸布が技術ある者の手に渡ったのならば――いや、ほぼ確実にその手の者の犯行だろう。であれば、その先の展開はおのずと予想がつく。

 

「やはり、ままならないものだな……。アリア、はやて達への通達は頼めるね?」

「はい。父様はレティへお願いしますね」

「……これは、嫌味のひとつでも言われそうだな」

「ひとつで済めばいいですけど」

 

 冗談のように言い合い、グレアムはもう一度資料に目をやり深く読み込み始める。運命を呪うのは、自分にできることをやりきってからだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話 過去の足音

 

 窓の向こうには、万華鏡の中に虹を閉じ込めたかのような光景が広がっていた。陰鬱とした寒色帯は過ぎ去って、今は暖色帯の輝きが美しく栄えている。ゆらゆらと流れて形を変える様は、見ていて飽きることがなかった。

 しかし、はやては知っている。窓の向こう――次元の海は、ただ綺麗なだけではないのだと。あの先には虚数空間が待っており、魔法を行使することができない。その果てに何があるのかは明らかにされていないが、そこから帰ってきた人はいないということだけは知られていた。

 それでもあまり恐怖を感じないのは、やはり美しい光景だからなのか。はやては次元の海をただの景色と捉えながら、ぼんやりと時が過ぎるに任せていた。

 

「うあー、なんか目が回ってきたかも。はやて、ずっとこんなの見てて、飽きない?」

 

 はやての隣に顔を並べていたヴィータが、うんざりした様子で言った。

 はやてはヴィータの頭を撫でつけ、「んー、そやなー」と、どちらとも取られる返事をした。

 次元航行艦ヴァネッサは、地球付近の次元の海を航行中だ。はやて達の活躍もあって担当していた事件がまたひとつ落ち着き、艦内には休暇のような空気が漂っている。はやて達もひとまず出勤はしたものの、与えられた部屋での待機を命じられていた。

 アースラと同じくL級を誇るヴァネッサは大きく、八神家にも二部屋が割り当てられていた。はやて、ヴィータ、ザフィーラで一部屋、リインフォース、シグナム、シャマルで一部屋だ。

 とはいえ、実際にははやて達の部屋に集まることが多い。リインフォース達の部屋など、もはや更衣室かクローゼットのような扱いだ。ベッドが備えられていても宿泊する機会がないのだから、それが自然な成り行きとも言えた。

 珍しく全員が出勤している今日、待機時間であれば室内の人口密度が高くなっているところだが、ここには定員の姿しかない。はやてとヴィータは窓際、ザフィーラは扉の隣で寛いでいた。リインフォース、シグナム、シャマルの三人は、出勤早々にレティに呼び出されてからそれっきりだ。

 精神リンクを窺うと、リインフォースとシャマルは何かに悩んでいるようで、シグナムは少々苛立っているのがわかる。ついでに感覚を広げてみると、颯輔は現在慌てているらしい。ユーリ達のはしゃぎようからなんとなく事態を察したはやては、リインフォース達の心配を優先した。

 

「なんや、揉めてるみたいやなぁ」

「だなー。それに、シグナムのやつはけっこーマジっぽいし」

「レティ提督にまたなんや言われたんかなぁ」

「どうだろ。無茶は言っても無茶苦茶は言わねぇ人だと思ってたけど」

「あははー、それ、なんとなーくわかるわー。……リンディさんは優しかったんやなぁ」

「じゃあ、あの人のお茶飲まされるのと、レティ提督に無茶言われるの、どっちがいい?」

「ううーん……えぇー…………お茶――いやいや……あー、やっぱりお茶、かなぁ」

「うっそ、信じらんねぇ。あたしは断然こっちだけど」

「そこまで飲めなくはあらへん思うけど……って、今はリインフォース達の心配やろっ」

 

 心底驚いた顔をしているヴィータの胸を、はやては手の甲で打った。

 思わず話をそらされてしまいそうになったが、今はとにもかくにもリインフォース達である。レティの人使いが荒いのはいつものこととして、それでもシグナムが苛立つほどとは余程のことに違いない。はやてではなくリインフォース達が呼ばれたことからも、何か重要な話をしているのだろう。それも、三人そろって呼ばれるほどの何かだ。

 

「……もしかしたら、お兄のところで何かあったんかも」

「颯輔達? でも、だったら向こうから連絡してくるんじゃねぇかな。禁止されてたって、それなりのことがあったら精神リンクで知らせてくれるはずだって。まあ、どっちにしろ今は全然そんな雰囲気じゃねぇけど」

「ほんなら、ヴィータは何か思い当たること、他にある?」

「んー、あたしらがヘマした覚えはないけどなぁ……」

 

 二人して腕組みをしながら唸ってみるが、特に心当たりはない。念話で本人達に直接尋ねればそれまでだが、そこまでせずとも、話し合いが終われば向こうから知らせてくれるだろう。緊急の用件ならば、それこそ念話を飛ばしてくるか、はやて達も呼ばれているはずだ。

 レティの部隊に所属してからは、はやて達にこれといった問題行動はなかった。考えられるとすれば過去絡みの案件だが、そこは考え出したらきりがない。

 

「うーん、ザフィーラは、どう?」

 

 困って話を振ってみると、目を閉じ床に伏せていたザフィーラが顔を上げた。

 

「さて、どうでしょう。他にあるとすれば、技術部や教会絡みのような気もしますが」

「せやかて、グランツ博士には、私らが教えられるようなことはもう教えてもうたしなぁ」

「じゃあ教会かな?  戦技教導とかは騎士連中がガチで来るから気が重いんだよなぁ……。あ、シグナムなら逆に喜ぶか」

「なんにせよ、今は待つより他にないでしょう」

 

 ザフィーラの答えに、はやてとヴィータは、それもそうか、と頷く。納得すると、二人は窓際を離れてベッドに腰掛けた。

 こうして待機を命じられているのだから、何かしら仕事を任されることは間違いない。推量のしようもないのだから、今できることは、ただ待つことだけだ。

 事態が動いたのは、それからほどなくしてのことだった。はやてがヴィータと二人で指スマに興じているところに、困り顔をしたシャマルがやってきたのだ。

 

「あの、はやてちゃん。それから、ヴィータちゃんもザフィーラも、一緒にレティ提督のところに来てもらえませんか?」

「どないしたん?」

「なんかあったのか?」

「えっと、私達だけじゃ決められなくて、やっぱり本人と、皆にも聞いてみようということになりまして……」

 

 すまなそうに目尻を下げるシャマルを見て、ザフィーラが黙って立ち上がった。はやてもヴィータと顔を見合わせ、ひとつ頷いてからベッドを降りた。

 レティらが待つ部屋へと向かう道すがら、シャマルから詳細を聞く。しかし、それは用件自体が詳細と呼べる中身を持たない曖昧なものだった。

 話し合いは、艦長室近くの会議室で行われていた。室内に入ると、中央にある長机の奥に、ひとりの女性が座っているのが見えた。リインフォースとシグナムも、女性の下座に腰掛けている。

 女性ははやてを見ると、わずかに目を細めた。淡い藤色の長髪を後ろでまとめ、下縁の眼鏡をかけており、確固たる自信と知的な雰囲気をまとっている。はやて達をも迎え入れた実力主義の女傑、レティ・ロウランだ。

 

「どういうことですか? はやてとリインフォース、二人だけの出向だなんて、納得いかねえです」

「こら、ヴィータ」

「だって……」

 

 苛立ちを隠そうともしないヴィータは、入室するなり喧嘩腰の物言いだった。はやてが諌めるも、いかにも納得いかないといった様子で唇を尖らせている。ザフィーラも言葉こそ発しないものの、レティにじっと抗議の視線を向けていた。

 あらかじめ話を聞いていたはずのシグナムも、腕を組んでレティの返答を待っている。シャマルも同様で、リインフォースだけが、何かを訴えるようにはやてを見ていた。

 

「ホント、そのとおりよね。納得いかないのはこちらも同じよ、ヴィータさん」

 

 守護騎士からの強い視線を受けても、レティの声に動揺はなかった。むしろ、それはこちらの台詞だと言わんばかりの反応だ。

 さすがに、はやて達を一手に貰い受けただけのことはある。レティは、「まずは掛けなさい」と着席を促すと、普段通りの堂々とした物言いで話し始めた。

 

「今回の件は、私にさえ詳細が語られない、上から直接の命令よ。グレアム元帥から伝えられた言葉は二つ。『八神はやてと八神リインフォースを一時的に教会騎士団へと出向させよ』、それから、『すまない』とだけ。まったく、頭を下げる相手が違うでしょうに……。とにかく、この命令には従うしかないのよ。私達に拒否権はないわ」

「ですが、はやての出撃には、リインフォースと守護騎士二名の同行が原則のはずです」

 

 レティの言葉に、ザフィーラが固い声で反論を挙げた。普段の落ち着き様とは打って変わって、眉間にしわを寄せ、剣呑な目つきになりかけている。上官に向ける目ではないが、その態度がザフィーラの胸中を物語っていた。

 リインフォースが戦線に復帰してからは、はやてとリインフォースのペアを基本にして、他に守護騎士二名のチームを組むことが鉄則となっている。無論、夜天の書を持つはやての護衛のためだ。

 守護騎士の核は、夜天の書の内にある。もしも夜天の書が奪われれば、イコールではやて達の全滅を意味するのだ。この規則は、はやて達の主張以上に、管理局側の要望によるところが大きかった。

 

「だから、私も納得いかないと言ってるでしょう」

 

 おそらく、何度目かのやり取りになるのだろう。レティは眉のあたり揉みつつ、淡々と続けた。

 

「あなた達は、なくてはならない戦力として存在価値を示さなければならない。私はそうなるように努力しているつもりだし、これからもそうするつもりよ。それは、あなた達も同じはずでしょう」

 

 レティの言わんとしていることは、はやても理解していた。

 はやて達は、ロウラン隊に所属してからのひと月足らずで、立て続けに三件の事件を解決に導いた。ベルカ関連の情報提供など、間接的なものを含めれば、その数は倍以上になる。これは、担当区域の広い“海”であっても異常な数値だ。

 その結果は、はやて達の力があってこそだが、それを活かしきるレティの手腕も尋常ではない。前々から怪しいと睨んでいた区域を担当したとのことだったが、そういった事件を嗅ぎつける能力がずば抜けているのである。レティの下では、今日のような休息日が珍しいほどだった。

 存在価値を示す。それは、はやて達が次元世界で生きていくために必要不可欠なことだ。レティの下なら、それが果たせる。それは、はやて達の共通見解だった。

 

「だから、はやてさんへの危険は極力避けたい。その気持ちはわかるわ。私も可能な限りはそうあろうと努力しているつもりよ。でもね、そればかりでもいられないの。そんなことは理解しているものとばかり思っていたけど、私の認識が間違っていたのかしら?」

「時には危険を冒さなければならないときもある。局員に危険はつきもの。そのようなことは理解しております。しかし、今回はリスクが大き過ぎます。我々が言えた言葉ではないと重々承知しておりますが、この段階で、そうまでして価値を示さねばならないのですか」

「これがはやてとリインフォースじゃなくて、あたしらの誰かなら不満もねぇです。捜査関係の依頼なら、シャマルを軸にして、あたしとシグナムとザフィーラの中から一人二人つければいいんじゃねえんですか。捕物だってんなら、それこそあたしらの出番です」

 

 ザフィーラ、ヴィータと続いた後、レティは左右に首を振ってまとめての返事とした。

 

「確かに、大きなリスクを冒すには時期尚早だと思うわ。ヴィータさんの意見にも大いに賛成よ。あくまで、私個人としてはね。それでも、拒否できない命令もあるの。言っておくけど、人員変更の提案は私だってしたのよ。返答は不可。それどころか、詳細すら語られなかった。今回は、私はただの伝言役。お前の部隊からちょっと人手を借りるから、つべこべ言わずに黙って差し出せって言われたわけ。失礼しちゃうわ、ええ、本当に」

 

 話すうちに、レティの声がいくらか低くなっていった。表面上は涼しげな顔をしているが、これは相当な鬱憤が溜まっている兆候だ。

 空気が重くなったのを敏感に感じ取ったはやては、そっと周囲の様子を窺った。

 シグナムは、変わらず腕組みをしながら無言の抗議を続けている。ヴィータ、シャマル、ザフィーラも同様で、レティのプレッシャーに飲まれず強い視線を向けたままだった。

 助けを求めるようにリインフォースを見ると、リインフォースもひとりはやてを見ていた。どないしよ、と目で伝えると、リインフォースはそっと目を閉じ静かに頷く。判断は任せるという合図だった。

 はやてはひとつ呼吸をして間を置くと、すっと手を挙げた。

 

「あの。その任務、受けます」

 

 はやてが思ったよりも、場に動揺はなかった。きっと、はやてが受けると皆も予測はしていたのだろう。

 しかし、案の定、反対の声はあった。

 

「なりません。これは、いくらなんでも不当な扱いが過ぎます。何をさせられるのかすらわからないのですよ?」

「そうそう。一回突っ返して、ちゃんとしたルートから命令してもらおうぜ。アリアを通して徹底抗戦だ」

「ヴィータちゃんの言うまではしなくても、私達からも人員を増やしてもらうよう抗議くらいはするべきですよ」

 

 シグナム、ヴィータ、シャマルと矢継ぎ早に声が飛び交う。はやての隣でお座りをしていたザフィーラも、言葉こそ発せずとも立ち上がって抗議の姿勢を見せた。

 

「せやかて、そうも言ってられない雰囲気やし。レティ提督、返答期限はいつまでなんですか?」

「今この場でよ。仲介人はリーゼアリア。彼女はもう待機しているらしいわ」

「あらら、また急な」

「まずは納得のいく答えを決めなさい。アリアは待たせておけばいいのよ」

「答えはもう決まってます。今回は悪いけど、皆はお留守番や。私とリインフォースとで行ってくるよ」

「はやて、あまり答えを急がないでください。我らは颯輔からも、はやてのそばを離れないようにと言われております。これでは万が一があったときに面目が立ちません。リインフォース、お前からも……何を考えている?」

 

 立ち上がりかけたはやてに、ザフィーラが進路を塞いで慌てたように言ってきた。発言を控えていたリインフォースに同意を求めるも、その言葉は途中から変わってしまう。リインフォースは、困ったように微笑んでいた。

 

「お前達は、私が護衛では不安か?」

「違う、お前を低く見積もっているわけではない。だが、お前がはやてとユニゾンするとき、お前達の体はひとつきりだ。ユニゾンせずにお前が敵の相手をしているとき、はやてはひとりきりだ。我らは、その状況が見過ごせないと言っている。万が一の可能性すら残したくないのだ」

「それほど口数が多いのだ、そうでなくともお前の気持ちはよくわかっている、ザフィーラ。無論、皆のもな。だが、この場は私を信じて任せては貰えないだろうか。夜天の騎士の名にかけて、はやてには傷ひとつ負わせんよ」

「狙いがはやてだけとは限らない。夜天の魔導書(お前)かもしれないのだぞ」

「そのときは、釣り上げて一網打尽にしてくれるさ」

「ならば、余計に我らの手が必要なはずだ」

「私は、できうる限りはやての意思を尊重したいのだ。わかって欲しい」

「そこは我らも同じだが、今回に関しては、促したのはお前だろう」

「これ以上反感を買うわけにもいくまい。何かあればお前達を呼べるよう、リーゼアリアには話をしてみるつもりだ」

「転移時間を考えろ。間に合わなかったらどうするのだ」

「ちょっと、二人共落ち着いて」

「ザフィーラも、責める相手が違うんとちゃうか?」

 

 次第に白熱していく論争を、シャマルが間に入って止めた。はやても、リインフォースばかりを責め立てるザフィーラを叱りつけた。

 ザフィーラは、はやての視線を受けても微動だにせずにいる。ザフィーラの気持ちが、精神リンクも通して痛いほど伝わってきた。

 ザフィーラは、守護騎士の中でも颯輔といる時間が長かった。より一層、颯輔の頼みを無下にはできないのだろう。そうでなくても、去年のクリスマスに颯輔を守れなかったという負い目があるのだ。はやての身の安全については、これまでも決して譲ることはなかった。

 

「ザフィーラ。な、お願いや。リインフォースもおるし、少しでも危ないと思ったらすぐ逃げるか、皆を呼んだりするよ。せやから、いつでも来られるようにして待っててくれへんか?」

「なりません」

「あたしもザフィーラと同じ意見だ。どうしても行くんなら、あたしらもアリアのとこに行く」

「ヴィータまで……」

「私にいい考えがあります」

 

 賛成してくれる人がいないと困り果てたところで、鶴の一声のようにシグナムが言った。

 この場の全員がシグナムに注目する。シグナムはぐるりと全員を見回してから、レティに向き直った。

 

「提督。これまでの休日出勤分の代休を使わせていただきますが、よろしいですね」

 

 皆の注目を受ける中、レティの目つきが鋭くなった。

 

 

 

 

 出向を巡っての一悶着のあと、はやてはリインフォースと共に会議室にそのまま残っていた。迎えに来るというリーゼアリアの待っているのだ。どうにも、はやて達にはまだ魔法の痕跡を残して欲しくないらしい。秘匿ばかりの命令、その徹底さが見える対応だった。

 

「なんか、緊張してきたかも」

「ふふ。先ほどは勇ましかったのですが」

「いじわる言わんといて。こんなん初めてなんやから、仕方ないやろ」

 

 今しばらくのことだろうが、何も明かされないというのは不安なものだ。それに、はやて達は騎士団にも名を置いているが、正式な所属は管理局である。リインフォースと二人だけで出向というのは、離れ離れになるようで心細くもあった。

 胸中を誤魔化すように頬を膨らませると、リインフォースの手が頭に伸びてきた。あやすように撫でられるが、不快感はない。兄に似た指使いは心地が良かった。

 

「何も心配はいりませんよ。はやては堂々と構えていればよいのです」

「でもでも、またなんや言われるかもしれんし……」

 

 はやての不安は、そこだった。身の危険ではなく、周囲からの視線。聖王を信仰している教会では、管理局よりも強い感情を向けられることが多いのだ。好奇の目には慣れてしまったが、嫌悪の目には慣れそうもない。

 先が思いやられて俯くと、リインフォースの手が止まった。

 

「申し訳ありません」

「なんで謝るん?」

「はやてには、いらぬ罪悪感を植え付けてしまいましたから。それは本来私達だけのものであって、はやてが気負う必要など、どこにもないはずなのに」

 

 リインフォースは、今にも消えていなくなってしまいそうな表情をしていた。はやてはぞっとして、慌てて離れていく手を掴み寄せた。

 

「はやて……?」

「やめて。私ひとりを関係ないみたいにせんといて。皆のそういうとこだけは……嫌い」

「……そうですね」

 

 はやては、リインフォースに軽々と持ち上げられると、ぎゅっと腕の中に抱え込まれた。大きく柔らかな温もりが頬に当たる。背中に回された腕も相まって、包まれているような感覚があった。

 リインフォースはここにいる。精神リンクも繋がっている。複数の感覚を使って理解すると、波立った心が鎮まっていくのを感じた。

 

「ですが、譲れぬものは譲れません。世間がなんと言おうとも、はやてに罪はない。これだけは、どうか心にとめておいて欲しいのです。はやてがいらぬ重圧に潰されてしまう。私達にとってのそれは、世界中から非難されるよりも、はやてから嫌われてしまうよりも、ずっと辛いことなのですよ」

「潰れたりせえへんもん。仲間外れの方が嫌や」

「……では、ひとつだけ。去年の事件には、はやてにも罪があったのかもしれません」

「それは……?」

「あなたのためならば、罪に汚れてもいい。私達にそう思わせてしまうほど、はやてが愛らしいことですよ」

 

 にっこりと微笑むリインフォース。その顔が直視できなくて、はやては胸に顔を埋めた。

 

「ばか。そんなんで悪さする子らなんて、もっと嫌いや」

「心配には及びません。もう悪さなどしませんから」

「ほんなら、愛らしい私がお願いしたら?」

「そのようなことはないと願いたいですが、そのときは、はやてを叱りつけます。反省していただくまでは、抱っこもしてあげません。私だけでなく、シグナムもシャマルもです」

「むっ、それは困ったなぁ。そんなんやったら、悪いことなんてなーんもできひんわ。私、ずっといい子でおる」

「お願いしますよ。いつかは憂いなく外を歩きたいのですからね」

「ん、もちろんや。教会のお仕事も、ちゃちゃっと片づけんとな」

「その意気です。さあ、そろそろ席に戻ってください」

「えー、リインフォースから抱っこしたくせに」

「そうですが、リーゼアリアはすでに到着しているようですから。もう近くまで来ていますよ」

「アリアになら見られてもええもーん」

「いけません。あまりはしたない姿を見せるものではありませんよ」

「はーい」

 

 名残惜しい温もりから離れ、はやてはリインフォースの隣に座り直した。

 リインフォースは、はやてと戯れている間も、艦内の状況把握に努めていたらしい。平時から、万が一に備えての警戒は欠かせていないのだ。それでいて、乗組員には不快感を与えないようにと気を遣っているのだから、その繊細な魔法制御には舌を巻く思いだった。

 座り直してから五分と経たないうちに、扉が開いた。微笑を浮かべて入室して来るリーゼアリア。その向こう、扉が閉まるまでじっとこちらを見つめていたヴィータとシャマルに気付き、はやては思わず苦笑を漏らした。

 

「久しぶり、はやて、リインフォース」

「アリア、久しぶりやね」

「待たせてしまっただろう、すまなかった」

「構わないわ、と言いたいところだけど、ごめんなさい、ちょっと急いでるから、手短にいくわね」

 

 やはり、火急の用件だったのかもしれない。三週間ぶりに会ったリーゼアリアは、挨拶もそこそこにして対面まで来ると、座りもせずに、取り出したカード型の端末を操作し始めた。

 リーゼアリアとの間に、二つのウインドウを表示された。そこには、二人の女性の顔写真と細かな情報が記されていた。どちらも、修道服を着た若い女性だ。画像を見た限りでは、颯輔と同じくらいの年代だろうか。

 

「急な話でごめんなさいね。それから、受けてくれてありがとう。今回の出向では、この二人とチームを組んで捜査にあたってもらうわ。カリム・グラシアとシャッハ・ヌエラ。まだ若いけど、守護騎士に迫る力を持った、教会でも上位に位置する騎士達よ。リインフォース、調べられる限りのプロフィールと戦闘データは集めてきたから、端末から読み込んでおいて」

「わかった。しかし、戦闘データまで調べたのか?」

「念のためにね。ないとは思うけど、あなたならこれだけで十分対応できるでしょ? 他にも役に立ちそうな情報はまとめておいたわ」

「ああ、助かる」

 

 リインフォースが差し出された端末を受け取ると、一瞬だけその手にわずかな魔力光が灯った。端末のデータを、夜天の書にダウンロードしたのだ。これだけで何でも丸暗記してしまうのだから、リインフォースが羨ましく思えるはやてだった。

 魔力光が消えると、リインフォースはリーゼアリアへと端末を返した。その表情は、珍しく険しいものになっている。リインフォースが何を知ったのか、はやてにはまだわからないが、喜べるものではないことは確かだった。

 

「聖遺物の捜索か」

「ええ。でも、詳しい話は向こうで聞いて。教会は教会で大慌てだから、あまり待たせてもいられないわ」

「え、アリア。私、まだなんも聞いとらんよ」

「はやてはまだ、この二人の顔を覚えるくらいでいいわ。嗅ぎまわられていたなんて思われたくないの。知らない振り、どんな相手にもばれないようにできる?」

「あー、そういうのは、まだ難しいかも」

「そういう技術は、いますぐでなくていいのよ。向こうの話も聞いたら、リインフォースに詳しく教えてもらいなさい」

「ん、そうする」

 

 リーゼアリアは、困ったように目尻を下げて表情を崩した。

 細かな腹芸は、はやてにはまだできない。そういった技術が必要な場は、リインフォース達に任せっきりだった。リインフォース達にしても、はやてにはまだ覚えてもらいたくないらしく、魔法ほど熱心に教えてくれる気配はなかった。

 

「……はやて。私とロッテも同席になるけど、この任務が終わったら、一度、颯輔達に連絡をとってみましょ」

「ホンマにっ!? あ、でも、ええの?」

 

 リーゼアリアの一言に声が大きくなるも、はやてはすぐさま表情を曇らせた。

 颯輔達との連絡は、互いの緊急事態を除いて原則として禁止されている。精神リンクが繋がっているために大まかな感情の動きは読み取れるが、通信はおろか念話さえもできずにいた。

 

「今回の件は向こうにも報告した方がいいと思うし、それに、はやて達の活躍も知ってもらいたいでしょ? 本局の方にも噂は届いているわよ、頑張ってるわね」

「私は、なんも。頑張ってるのは皆や。でも、うれし」

「仕事を片付ければすぐに戻って来られるはずだから、少しの辛抱よ」

 

 微笑むリーゼアリアに、はやてもはにかみ笑いを返した。

 話そうと思えばいつでも話せる状況ながら、それでもなにもできないというのは、正直に言って辛いものがあった。あちらが楽しそうにしていると、はやて達のことなどもう忘れてしまったのかと考えてしまうのだ。それが、ようやく話だけでもできる。そう思うと、俄然やる気が湧いてきた。

 笑みを隠せずにいるはやてを置いて、リーゼアリアが話を進めた。

 

「さあ、そろそろ教会に向かいましょうか。出発の前にこれだけは確認しておきたいってことはないかしら?」

「二つほど、いいか」

 

 はやての隣で微笑をたたえていたリインフォースが、表情を引き締めて言った。

 

「今回の任務については、どこまで情報を共有してよいのだ?」

「そうね、関わりのあることだから、あなた達家族内では共有しておいて。それ以上は制限させてもらうわ。レティには私から上手く言っておく」

「わかった。では、有事の際の守護騎士の召喚はどうだろうか?」

「それは極力控えて欲しいところだけど……いえ、これまでどおり、許可するわ。そこでヴィータとシャマルにも睨まれたことだしね」

「あははー、ごめんなぁ」

「いいのよ。そういえば、シグナムとザフィーラはどうしたの? 今日は艦内待機のはずよね?」

 

 いぶかしむリーゼアリアに、はやては愛想笑いがひきつるのを感じた。

 はやて達の勤務状況は、逐一リーゼアリアに報告されているのだ。この反応は、レティからまだ聞いていないのだろう。もしかしたら、無茶を言った意趣返しをされたのかもしれない。しかし、レティの首までかけてしまった以上、何も言うことはできなかった。

 

「えっと、シグナムらはお休みの日も働いてたから、事件が落ち着いた今の内に休暇をもらってるんよ」

「とは言っても、一度に全員でというわけにもいかず、二人ずつ交代でだ。まずはシグナムとザフィーラが体を休めている」

「……ふーん」

 

 作り笑いを浮かべるも、リーゼアリアは察したらしい。それでもなお、リインフォースなどはすまし顔をしているが、はやては隠し通すことを諦めた。

 

「まあ、いいわ。手遅れになるよりは、ずっとね。危ないと思ったら、すぐ呼び出してあげなさい。それで面倒事が起こっても、こっちでフォローするから」

「ん、おおきに」

「いいのよ。……それくらいしか、してあげられないもの」

 

 リーゼアリアは顔を伏せ、力なく呟いた。その姿には、争っていた頃の苛烈さはどこにもなかった。

 更生施設での指導官に就いた頃から、リーゼアリアはそれまでが嘘のように協力的だった。グレアムの意向もあるのだろうが、それ以上にリーゼアリアが大人であり、同情的な気質の持ち主だったのだ。復讐の終わりを迎え、憑き物が落ちたのかもしれない。

 関係の修復は、ゆっくりとだが進んでいった。どちらにも後ろめたい思いはあるものの、好意的な人物に冷めた態度を貫くことは難しい。憎み続けることは、想像以上にエネルギーを使うのだ。最初は警戒していたリインフォース達も、表面上は嫌な顔をせずに受け答えするようになり、世間話をする程度にまではなった。

 互いのぎこちなさがなくなったのは、颯輔が戻って来てからだったか。少なくとも、はやてはそうだ。それまでは、取り繕いはしても素の自分を見せることに躊躇いがあった。リインフォースの件があり、誰かに心を許す余裕がなかったのだ。

 俯いたリーゼアリアに声をかけようとするも、その前に顔があがった。

 

「ごめんなさい。他にないようなら、もう行きましょ。転移魔法は私が使うわ」

 

 リインフォースと二人、立ち上がってリーゼアリアの側へと進む。今は語り合いの場ではない。積もる話は面倒事の後。一仕事終えれば、素敵な時間が待っているのだから。

 

 

 

 

 視界を満たしていた青色の魔力光が霞んで消えていく。リーゼアリアの魔法によって転移した先は、古めかしい石積みの壁に囲まれた狭い部屋だった。転移魔法の終端として陣が描かれてあるだけで、他には何もない。珍しく思って見回していると、リーゼアリアから、非常時にしか使用されない予備の転移部屋だと教えられた。

 雰囲気のある薄暗がりの中、はやて達以外に動く影があった。修道服に身を包んだ、髪の短い赤毛の女性だ。どうやら、一つしかない出入口のそばで待機していたらしい。

 女性は、はやて達の前まで進み出ると、うやうやしく膝を折った。よく見れば、先ほどの情報にあった一人、シャッハ・ヌエラであった。

 

「お待ちしておりました。お初にお目にかかります。聖王教会大聖堂所属のシスター、シャッハ・ヌエラにございます」

「時空管理局本局代帥、リーゼアリアです。八神はやて三等海士、並びに、八神リインフォース三等海士と共に参りました。遅れてしまい、申し訳ありません」

「とんでもないことでございます。元をたどれば、すべてはこちらの不徳の致すところ。ご助力いただけることに感謝するばかりです。さあ、どうぞこちらへ。ご案内致します」

 

 よどみない動作で立ち上がったシャッハは、一礼をすると先頭に立って歩き始めた。シャッハ、リーゼアリアと続き、はやてとリインフォースもその後を追った。

 廊下の片側は窓が続いており、緑あふれる庭園が見えた。花壇を蝶が飛び交い、木の枝で羽根を休める鳥がさえずっている。はやて達も何度か大聖堂には来たことはあるが、見覚えのない光景だった。これまでとは別の区画にいるのかもしれない。

 進むうち、ある一室の前でシャッハが足を止めた。道中で誰かとすれ違うようなことはなく、人の気配も希薄だった。こちらへの配慮か、緊張の中で余計な視線にさらされないのはありがたかった。

 シャッハが扉越しに来客を告げると、中から年若い女性の声があった。シャッハが扉を開き、連れ立って入室する。気品のある調度品が備えられた洋室からは、微かな甘い香りがした。

 

「ようこそおいでくださいました。私、大聖堂付きの上級騎士を務めております、カリム・グラシアと申します。リーゼアリア代帥、騎士はやて、騎士リインフォース、お会いできて光栄ですわ」

 

 濃い金の長髪が、深い礼でふわりと舞った。部屋の格に劣らない品のある所作には、育ちのよさが滲み出ている。カリム・グラシアは、好意的な笑みを浮かべてはやて達を迎え入れた。

 ふと、リーゼアリアの尻尾がぴんと立って固まったのが見えた。表情を窺うも、微笑は崩れてなどいない。転移部屋と同じ口上を返事として述べているが、声に震えもない。言い終わる頃には、尻尾もふわりと元に戻ってしまった。

 

「騎士カリム。本来ならば歓談といきたいところですが、こちらも多忙の身。そちらも、三士達との内談がありましょう。失礼ながら、私はこれにて退席とさせていただきます。何卒ご容赦を」

「あら、それは残念ですわ。では、少しの間、お二人をお借りさせていただきますね。この度はありがとうございました」

「いえ。それでは二人共、くれぐれも、お二方に失礼のないように」

 

 去り際に『気を付けてね』と念話を残し、リーゼアリアは音も立てずに退室していった。見送りとしてシャッハも付き添い、部屋にははやてとリインフォースの二人が残される。リーゼアリアの静かな苛立ちを見抜いてしまった手前、少しだけ居心地が悪かった。

 「怒らせちゃったわね」と冗談っぽく笑ってみせたカリムは、はやて達を窓際にあるティーテーブルへと誘った。大きめのテーブルを、四脚の椅子が囲んでいる。促されるまま、はやて達は奥の椅子に座った。

 対面に座るのかと思いきや、「すぐに戻ります」と言い残し、カリムはパタパタと隣室へ向かった。間を置かずに戻ってきたその手には銀のトレイがあり、ティーカップにポット、クッキーが並べられた皿が乗っていた。

 

「ごめんなさいね、セカンドフラッシュはまだ届いていないの。ファーストが残っていてよかったわ」

「あの、どうぞおかまいなく」

「そういうわけにもいかないわ。上からは急かされているけど、紅茶の一杯くらいは、ね?」

 

 緊張を見抜かれてしまったのか、カリムの声音はより一層柔らかくなっていた。

 カップに紅茶が注がれると、湯気に乗って香りが運ばれてきた。はやてはカップと手を見ていたが、リインフォースへと渡す時でさえ、カリムに不自然な震えはなかった。

 はやてとリインフォースの二人きりではあるが、初対面でここまで自然体を保っていた人は、いったい何人いただろうか。ぱっと浮かんでくるのは、天真爛漫を体現するエイミィと、最初から遠慮なく指示を飛ばしてきたレティ、研究のことしか頭にないような技術部局長の三人だけだった。

 黙って見ていると、シャッハを待つ意味もあったのか、カリムは温かいうちにと紅茶を勧めてきた。

 ティーカップは、濃い赤褐色のお茶で満たされていた。すずかの家で高級品を出された経験のあるはやてだが、この部屋の香りとも違う、初めての香りだった。微かに甘さがり、心安らぐものだ。ティーカップとコースターは白地のもので、ピンクの花と金の円環が鮮やかに描かれていた。

 リインフォースが飲むのを待ってから、はやてもコースターとティーカップを手に取った。ストレートではあったが、くせが少なく飲みやすい。口に含むと濃厚な甘味が広がるのだが、飲み干してもくどさが残らないという不思議な紅茶だった。

 

「二人共、飲み慣れているのね。お口に合ったかしら?」

「友人のところでご馳走になった経験があります。えっと、甘いのにすっきりしてて、おいしいです」

「よいものをいただきました。しかし、普段から愛飲されている銘柄とは違うご様子。お心遣い感謝いたします」

「そこまで見通されると、こっちが恥ずかしくなってしまうわ。さ、紅茶のおかわりもクッキーも遠慮しないでね」

「あの」

「どうしたの? もしかして、苦手な味だった?」

「いえ、紅茶はホンマにおいしいです」

「じゃあ、クッキーが嫌いとか。もしかして、アレルギー?」

「私はアレルギーもないですし、クッキーが嫌いなんて人もそうそうおらんと思いますけど。じゃなくて……」

 

 ちらりと隣に目をやる。リインフォースは咎めるでもなく、静かに頷いた。

 

「あの、私らのこと、怖くないんですか?」

「なんだ、そんなこと」

 

 おろおろとしていたカリムは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。それから、口元を隠してくすくすと笑う。「ごめんなさいね」と謝ると、目尻を下げて言った。

 

「ええ、怖くなんてないわ。……って言うのも失礼かしらね? でも、本当に怖がったりなんてしていないの。なぜなら、教会では私も怖がられているから」

「怖がられてるって、そんな」

「こう見えて、結構強いの。それから、不思議な力も持ってたり」

「不思議な力?」

『グラシア家には、預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)という未来予知に近い稀少技能が伝えられています。現当主は、騎士カリムの母であるセリアム・グラシア。教会だけでなく管理局でも重宝され、それ故に当主は行動が厳しく制限されてしまうそうです』

 

 カリムは「そっちはまだ内緒」とうそぶいたが、その傍らで、リインフォースから念話での解説があった。得意げに語るカリムの顔が直視し難い。はやてはなんとも言えない後ろめたさを覚えた。

 

「だからね、あなた達には勝手に親近感を覚えていたの。いつかお話ししてみたいと思っていたから、今日は会えて嬉しいわ」

 

 カリムの言葉に嘘はない。その笑顔は本物だ。リインフォースからの警告も今のところはなかった。

 教会に属する者にあるまじき態度。だからこそ選ばれたのか、それともはやてにもリインフォースにすら見抜けないほど芸に長けているのか。信じるべきか、疑ってかかるべきか。

 ぐるぐると回る思考が気持ち悪い。精神リンクが繋がっていないことがもどかしかった。

 

「私が――」

 

 闇の書の主だとしても?

 その疑問が口からこぼれる前に、カリムの言葉が重ねられた。

 

「力は、火に似ていると思わない?」

「……火、ですか?」

「そう。火は、生活にはなくてはならないものでしょう? 灯りにしたり、暖をとったり、調理をしたり。お湯が沸かせないと、おいしい紅茶も飲めなくなってしまうわ。でも、便利なだけじゃなくて、危険な面もある。間違って触ってしまったら火傷をするし、ちょっと目を離したら火事に、なんてこともあるかもしれない。扱い方次第で、利害なんてものは簡単にひっくり返ってしまうのよ。夜天の魔導書のような大火は、特にね」

「せやかて――」

「せやかて?」

「あ、でも、とか、だけど、って意味です」

「じゃあ、今はせやかて禁止ね。でも、だけど、けれど、しかしもダメ。最後まで聞いてくれる?」

「はあ」

「よろしい。それじゃあ続き。夜天の魔導書は、人から人へと渡る力。なら、罪の在処は魔導書ではなくその主にある。異常を来していたのなら尚更ね。普通の人はこのあたりの事情を知らないから、魔導書が悪いって決めつけているのよ。では、主となった八神はやては罪を犯したか。私が調べた限りでは、命令違反が少しだけね」

 

 にこやかなまま繰り出された指摘に、はやては身を小さくした。

 リンディには反発ばかりで、ずいぶんと生意気を言った覚えがあった。それに、現在進行形で、レティにも迷惑をかけている。次に会ったらもう一度謝ろうと心に刻むはやてだった。

 

「……ここだけの話だけど、個人的には、お兄さんの方も素敵だなって思うの」

「え、お、お兄ですか?」

「ええ。だって、大切な人達のために世界中を敵に回すだなんて、まるでお伽噺の騎士か、王子様みたいだもの。となると、あなた達はお姫様ね。それだけ想ってくれる人がいるだなんて、羨ましいわ」

「やや、そんな」

「ふふ、顔が真っ赤よ。はあ、私もぜひお会いしてみたいわ。八神颯輔さん、か……」

 

 カリムの声が熱を帯びたところで、照れ笑いをしていたはやては感情がフラットに戻った。見れば、カリムの頬は赤らんでおり、瞳も潤いが増していて、窓からどこか遠くを見つめている。はやては精神リンクを使い、リインフォースと互いの認識を確かめ合った。

 すなわち、カリム・グラシアは要注意人物であると。

 はやてが開きかけた心を急いで閉じていると、シャッハが戻ってきた。それに気が付いたカリムが、小さく咳払いをする。

 

「とにかく、あなたに関して言えば、状況が状況だったようだし、咎めるほどではない気もするわね。むしろ、あなたは罪を犯すどころか正しくあろうとしている。償う意思を見せているあなた達を、頭ごなしに否定なんてできるはずがないわ。大切なのは、過去ではなく現在、そして未来よ。あなた達が正しくある限り、私はあなた達を信じましょう」

「ありがとうございます。そう言ってもらえて、ホンマに嬉しいです」

「私達にできることであれば、尽力させていただきます。さて、そろそろ本題をお聞かせ願えますか」

「ええ、そうね。本当は、もっとゆっくりとお話ししたいところだけど、それはまた次の機会にしましょう。さあ、シャッハも座って」

 

 後ろに控えていたシャッハは、「失礼します」と断りを入れ、カリムの隣に座った。カリムが再び紅茶を行き渡らせ、ようやく話が進む。

 

「教皇マルドゥエラ様より勅命が下りました。騎士はやて、騎士リインフォース。お二人には私達と共に、二日前に盗み出されたとある聖遺物の捜索と奪還をお願いしたいのです。その聖遺物とは――」

 

 どくん、と、心臓が一際大きな音を立てた。カリムの言葉に、鼓動が速くなっていく。

 はやては、運命が再び動き出す音を聞いた気がした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。