大洗への旅 (景浦泰明)
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第一話 『逸見エリカ』

 愛用の原付。スーパーカブだけど、名前はパンターだ。この名前はふたりいるうちの上の姉が付けた。姉さんの好きな戦車の名前だけど俺はなんだか間抜けな感じがしてこの名前が好きじゃない。だけど俺が高校に上がってバイクで通学するとなったとき、姉さんはあの仏頂面をぴくりともさせずに「良いバイクだ。パンターと名付けよう」と言って、俺がちょっと引いてるのも無視して強行した。今ではそれなりに気に入っている。

 

 ぼろではあるが父さんがいつもしっかり整備してくれていて、彼は「これだけぼろになったなら、お前とどっちが先にダメになるか勝負になるかもしれないな」と言った。悪い冗談だと思ったが、聞くところによれば父さんが大学生のころにもこれで旅をしていたらしいのであながち間違っていないのかもしれない。

 

 そう、俺も旅に出ることにした。この熊本から大洗まで、原付で1300㎞の旅だ。

 

 お年玉の貯金を崩した費用三十万を封筒に入れて、リュックサックの一番深い場所に詰めこむ。着替えはそれぞれ三セットもあれば十分だろう。熊本から大洗までだ。とにかく準備はどれだけ入念に行っても悪いことはない。思いつく限りの荷物を詰め込んではそれを背負って部屋を歩き回り、重すぎると感じては何度も内容を精査していった。

 

 ふと、なぜこんなことをするのかと考えた。

 

 三十万円も用意したのになぜ原付なんかで旅をしなければならないのか。そもそもなぜ旅に出なければならないのか。ぼんやりと考えてはみたけれど、これまでと同じように答えが出ることはなかった。だが、なぜだかいまみほ姉さんに会わなければいけないと心のどこかで強く感じている。その気持ちだけでこの旅を計画した。

 

 時計が十二時に差し掛かったころ、旅の用意が済んだ。明日必要になるすべてを部屋の片隅にまとめ、机の上に置いた手紙に目を通す。何度も書き直したが、気に食わず、結局そこには「夏休みを利用して旅に出ます。新学期までには帰ると思うので、心配しないでください」とだけ書かれている。

 

 心配しないで下さいと入ったが、きっと母さんは心配するだろう。もしかしたらどこかで連れ戻されるかもしれない。その時あの母さんがどれだけ怒るかと考えると身震いした。みほ姉さんを勘当すると言った時のように、俺も勘当されるだろうか。あれほど戦車道に精通している姉さんすらあんな厳しいことを言われるんだから、俺なんかそれはひどい目にあわされてしまうかもしれない。そう考えるとなんだか怖くなって不安と旅に出ることへの期待がごちゃまぜになり、胸のあたりがぞわぞわし始めた。

 

 布団の中に入ってもそれはおさまらなかったが、それでもがんばって目を閉じているとだんだん意識が遠のいていった。頭の中のどこかが妙にさえていて、遠い昔のことを夢に見た。

 

 まほ姉さんがみほ姉さんに戦車のことを教えてあげていて、俺はそれを縁側に座って眺めている夢だ。俺の隣に座る母さんも二人を温かい眼差しで見つめていて、なんだか寂しくなって手に持ったアイスの棒をがじがじと噛む。ふとみほ姉さんがこちらを見て手を振る。これは記憶と違うことだ。ぼくも手を振りかえす。ぼくらは双子のように顔が似ているのに、立っている場所は全然違っていた。

 

 いつのまにか隣の母さんがいなくなっている。空間が歪むようにしてまほ姉さんとみほ姉さんが遠くなっていく。全てが闇の中に消えていき、俺がゆがんで小さくなっていく。

 

 旅立ちの日の目覚めはじっとりと汗ばんだ最悪のものだった。

 

 

 

 

 出発はまだ朝もやが出ているような時間だった。うちの人たちはどうも朝に強いのでこれぐらいの時間でないと見つかってしまう。この大荷物だから、見つかったら最後全ての計画が発覚して「まだ宿題も終わっていないでしょう」「黙って出ていこうとするなんて」と夏休み中軟禁の憂き目にあってしまうかもしれない。

 

 俺は誰にもみつからないように静かに玄関から出ていき、大事をとって家からしばらく離れるまではパンターのエンジンを入れることもしなかった。

 

 家の前の坂道を下りきると広い国道に出て、俺はようやくそこでパンターにまたがりエンジンを入れた。排気音とともに車体が振動する。手首を回転させると車輪が回転し始め、ゆっくりと俺を運び始めた。

 

 早朝の風はまだひんやりとしていて気持ちいい。車も少なく、パンターのエンジン音の隙間から聞こえるセミの鳴き声も日中とは違っている。俺は少しずつスピードを出しながら、道の真ん中を走り始めた。軽快な旅の始まりだった。

 

 しばらく国道を走ると横道にそれ、幼い頃何度も通った神社に立ち寄る。特に信心深いほうではないが、これからしばらくはここに寄ることもないのだと思うとそういうことも必要に思えた。思えばほとんど九州から出ることもなく暮らしてきたのだ。

 

 石段のそばにパンターを止め、境内に向けて登り始める。

 

 ふと階段を見上げると、女性がひとりすごい勢いで石段を駆け上っていくのが見えた。この神社の石段はかなりの急こう配で段数も多く、運動部がよく練習に使用していると聞いたことがある。

 

 こんな朝早くから練習熱心だと思いながらのんびりと登っていくと、ほどなくして鳥居にたどりついた。鳥居から伸びる石畳のそばではスポーツウェアを身に着けた女性が息を弾ませながら歩き回っており、ちょうど練習を終えてクールダウンしているところだとわかった。

 

 俺は先客に軽く会釈をして通り過ぎようと思ったのだが、そこで彼女に見覚えがあることを思い出して立ち止まる。すると向こうも怪訝な顔をしながらこちらを向き、ややあって口を開いた。

 

「あなた、隊長のところの」

 

 まほ姉さんが連れてきて何度か家で見たことがある顔だった。名前は確か逸見エリカ。まほ姉さんと同じ戦車チームの副隊長で、かなり信頼が厚いらしい。

 

「おはようございます。逸見エリカさん、でしたよね」

 

「おはよう。えぇ、っと……」

 

「西住一意です」

 

「ありがとう。一意君ね。早起きじゃない」

 

 俺はそう言われてあいまいに笑う。普段はこんなに早起きじゃないんだが、面倒なのでそういうことにしておいた。

 

「逸見さんこそ、こんな朝早くからトレーニングなんて、戦車道っていろんなことが必要なんですね」

 

「違う違う。これは私の趣味のボクササイズ。中には装填のために筋トレとかする子もいるけど、普通そんなに力を入れて筋トレしたりしない」

 

 笑いながら水筒を開ける彼女の頬を大粒の汗が伝う。うちに来てた時からカッコいい人だとは思っていたけれど、こうしてみるとまるで軍用犬のような凛々しさだと感じる。俺は父親似、というかどういう遺伝子のいたずらか下の姉によく似ているから、こういうかっこよさみたいなものには憧れてしまう。

 

 ぼくが感心しきっていると逸見さんにまじまじと見つめられ、なんだか照れくさくて顔をこすってしまう。

 

「あぁ、ごめんなさい。その、前に見た時も思ったけどあまりにも下のお姉さんに似ているから」

 

「まほ姉さんに似ていたほうが、女の子にもててよかったんですけどね」

 

「そんなの大変なことになる」

 

 逸見さんに即答されてつい笑ってしまう。事実まほ姉さんは黒森峰で絶大な人気があるらしく、同じ女性から告白されたりといったこともあるらしい。最近は共学の学校がめっきり減ったからかもしれないがそういう話を聞くと妄想をたくましくしてしまうのが男というもので、クラスの男子からよく話を仕入れてこいと頼まれる。

 

「逸見さんもまほ姉さんが好きなんですか」

 

「そそそそういうわけじゃないから! ただ学校でのモテ方を見てるとあんな男の人がいたら大変なことになっちゃうよっていう意味だから勘違いしないでよ!」

 

「早口だなあ」

 

「うるさい!」

 

 いつもまほ姉さんと同じように厳しい顔をしているところしか見たことなかったのでこの反応は新鮮だった。俺は逸見さんが落ち着くまで顔を赤くして照れる様子を眺めてけらけら笑っていた。

 

「ところで、あなたはなんでこんな早朝に神社になんかきたわけ? 運動部の練習ってわけじゃないでしょ」

 

 それを訊かれてちょっと口ごもってしまった。一応家族には秘密の旅を始めているわけで、ここで逸見さんに正直に話すのはどうなのかと考えたからだ。ぼくが口ごもると、逸見さんから「考える顔までアイツそっくりね……」という声が聞こえてきた。

 

「夏休みを使って旅に出るんです。みほ姉さんに会おうと思って」

 

 結局、正直に話すことにした。どうせ旅に出た以上こっちのもんだし、すぐにわかることだ。

 

「みほに、って。何で行くの? 新幹線?」

 

「原付で」

 

 答えを聞いた逸見さんはしばらくぽけっとしていたが、やがて事態を理解すると猛然と食いついてきた。

 

「本気!? あんた、ここから大洗までってどれだけあると思ってるの!」

 

 その言葉からは本気で理解できないという風と、すこしの心配が混ざっていて俺は気分が良くなった。まほ姉さんの副隊長で、みほ姉さんの友達が優しいひとだとわかったからだろうか。逸見さんはまた笑い出した俺のことをみて本当の馬鹿だと思ったみたいだが、悪い気はしなかった。

 

「わかってます。だけどどうしてもみほ姉さんに会わなきゃいけない気がするんです」

 

 俺がそういうと逸見さんはまだ少し思うところがあるような顔をしていたが、ややあってから大きく息を吐き出した。

 

「あんた、やっぱり隊長たちの弟ね。あのふたりがやるって言った時と同じ顔してる」

 

 その言葉にはすこしびっくりしてしまって、うまく言葉を返すことができなかった。

 

 俺がふたりの姉さんに似ているところが顔のつくり以外にあるなんてこれまで考えたこともない。逸見さんは予想外のことを言われて困っている俺の顔をみながら少し微笑み、それからぼくのことをせかして参拝させた。こんなところで油売ってないでさっさと行きなさいだそうだ。(賽銭箱に一円だけ投げ込もうとしたら、みみっちいことするなと五百円入れさせられた!)

 

 石段を下り終えてパンターの姿を見ると、こいつ本気でやる気なんだ、と言わんばかりの表情で逸見さんが苦笑した。またパンターにまたがってエンジンをかける。

 

「ま、精々気を付けなさいよ。隊長たちに心配かけたら許さないからね」

 

「それに関しては手遅れかもしれないですね」

 

「……あんたちゃんとこのこと伝えてるんでしょうね」

 

 ぼくはそれに答えず、大きな声で逸見さんに礼を言って走り出した。後ろで逸見さんが何か叫んでいるが、聞こえないことにする。

 

「逸見さんも練習頑張ってくださーい!」

 

 だんだんと逸見さんが小さくなって、俺はまた来た道を戻って国道に乗った。来た時よりもずいぶん車が多くなっていて、日差しも強くなっている。空のかなたに巨大な入道雲が鎮座しておりまるで山の上に腰を下ろしているように見えた。スピードをどんどんあげると、生まれた町の面影がどんどん消えていった。

 

 

 

 



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第二話 『サンダース大付属 下関へ』

 熊本を抜けて福岡に入ったころ、山沿いの平地に大量の戦車が走っているのが見えた。

 

 通常、高校戦車道ではルールとして三十両までしか戦車を出すことは出来ないのだが、眼下に見える大部隊は間違いなくその倍以上の戦車で隊列を組んでいる。しかもそのほとんどが米国のシャーマンだ。

 

 門前の小僧なんとやらというやつで、俺も実際に戦車道をやるわけではないもののそれなりに戦車道には詳しい。あれほどの数の戦車を有し、しかもその全てがシャーマンとなれば、間違いなく長崎のサンダース大付属だろう。非常に資金に余裕のある学校で備品などが大変充実していると聞いたことがあるが、あの大部隊をみればそれも頷ける。あれほどの数の戦車が走っているのは大会の開会セレモニーか家元の襲名披露のときぐらいのものだ。

 

 幸い渋滞にも巻き込まれなかったため、今は時間に余裕がある。俺も家元の子として生まれた以上人並み以上に戦車に興味はあるため、今回の旅では各地にある戦車道を行う学園艦なども見て回りたいと考えていた。

 

 ハンドルを傾けて平地に向け、すこし平地から離れた丘の上を目指して走っていった。道が荒れているからかなんども車体がはねてハンドルを御すのに苦労したが、丘の上は素晴らしい見通しで大戦車部隊がくまなく見渡せた。

 

 横列、縦列、雁行、方円。様々な陣形をかわるがわる作り上げる様子は美しく、さすがは戦車道の名門サンダースだと息を吐いた。今年は惜しくも初戦で敗れはしたものの、敗れた相手が優勝校であればそれも決して恥ではないだろう。

 

 ふと、一両の戦車が隊列を離れてこちらに近づいてくるのが見えた。最初は次の訓練のために移動しているのかと思ったが、一両だけまっすぐこちらに向けて向かってくるのを見るとどうやら違うらしい。少し離れた遠くで車内からブロンドの美女が現れ、こちらに向かって大きく手を振った。知らない人なのだが、俺も何となく手を振りかえしてみる。すぐそばまで近づいた彼女がおや? と首をかしげるのをみて、まあそうなるだろうなと思った。

 

「アリサー! みほじゃないよー!」

 

 どうやら姉と知り合いらしい。ブロンドさんは通信機に向って「すごく似てるけどちがうー!」と叫んでいる。俺はエンジン音にかき消されないよう、できるだけ大きい声で彼女に声をかけた。

 

「西住みほは姉です! 俺は弟!」

 

「What!? アリサ! ナオミ! 聞いた!? みほの弟だって」

 

「なんとまほの弟でもあります!」

 

「Jesus! まほの弟だって!」

 

 そりゃ当たり前だろと思ったが、どうやらなんにでも驚いてくれるひとらしい。

 

「Hi! 私はケイ! 西住流の弟は!?」

 

「一意です! 西住一意! はじめまして!」

 

 いつのまにかケイさんの車両に二両ほど戦車が合流し、それぞれにエンジンを止めて中から人が出てきた。ひとりはボーイッシュな雰囲気の背の高い女性。もうひとりはそばかすのある小柄な女性だった。名前はそれぞれナオミさんとアリサさんといい、ふたりともサンダースではかなりの実力者らしい。

 

「へぇ、大洗の隊長によく似てるわね」

 

「こうなると黒森峰の隊長が本当にふたりの姉かどうか疑わしくなってくるな」

 

 ナオミさんの言葉は俺自身いつも思っていることだったのでけらけら笑っておいた。

 

「みなさんは戦車道の特訓ですね。邪魔しちゃってすみませんでした」

 

「良いのよ! みほの弟が見られてよかったわ。訓練中にいきなりアリサが『大洗の隊長がいます!』って言い出した時はトラウマになってるのかと思ったけど」

 

 トラウマという言葉にすこし面食らい、怪訝な表情になる。まほ姉さんのTHE 西住流といったパワフル戦車道ならともかく、みほ姉さんがそんな激しい戦い方をするだろうか。

 

「みほ姉さんにそんなひどいことされたんですか?」

 

 そう尋ねるとナオミさんとケイさんが大声で笑い始め、アリサさんは悔しそうな表情で唇を噛んだ。

 

「ちがうちがう! この子ったら試合中に大洗の無線傍受をやったのよ。それでお仕置きされたから、大洗には良い思い出がないわけ」

 

「無線傍受ですか。それはまた……」

 

 おそらく反則かスレスレの行為なのだろうが、そこまでしてでも勝ちたかったという気持ちは大事なんだろうなと思う。このひと夏をかけた戦車道大会にみんな情熱を燃やしていたんだ。

 

 その後ケイさんからの誘いでサンダースの休憩に合流させてもらい、たっぷりのフライドポテトとコーラで迎えてもらった。サンダースはアメリカ風の教育に力を入れているとは聞いていたが、こんなところまでアメリカナイズされているというのはちょっと驚きだ。というかここの生徒の将来が心配になってくる。

 

 そういえばまほ姉さんも黒森峰に行って以来何かにつけてふかしたジャガイモばかり食べているし、学園艦の教育には洗脳じみたものがあるように思う。姉さんが中学生のころに家に来ていたツインテールのひとはイタリア風のアンツィオ高校に行ったらしいし、もしかしたら今頃は「パスタをお食べ!」って感じになっているかもしれない。俺はなんだか学園艦の教育方針そのものに疑問を抱き始めていた……。

 

 食事をいただきながら話をしていたところ俺が背負っていた荷物の話題になり、ここでは正直にみほ姉さんに会いに行くところだと答えた。何はともあれ走り出したのだから、今更ごまかしても仕方がない。

 

「下関からフェリーか? それとも福岡空港から飛行機とか」

 

「いえ、全部原付で行こうと思って」

 

 そう答えると全員が「Wao!」と喝采をあげた。みな口々に旅の無事を祈ってくれたが、アリサさんだけは腑に落ちないようで、なぜそんなことをするのかと尋ねてきた。きっとこれから何度も同じことを聞かれるのだろうなと思って、俺はいま出来る限り自分の考えてることを言葉にしておきたいと思った。

 

「ただ会いに行くだけなら飛行機でもなんでも良いとは思うんですが、それだけじゃいけないような気がしてて……。

 みほ姉さんが熊本からどれだけ遠くへ行って、どういう所でどうしてもう一度戦車道を始めようと思ったのか。自分の足で見に行って、そういうことを知りたいんです」

 

 まあ、もちろんお金を豪勢に使えないのもあるのだけど、とは言わないでおいた。かっこついたしかっこつけておこうと思った。

 

 俺の言葉を聞いて場が一瞬沈黙に包まれ、次いでケイさんがバネで跳ねるようにして俺に飛びついてきた。まほ姉さんに負けず劣らずのあれに包まれ、あれに押しつぶされて俺の喉から低い声のカエルみたいな声が絞り出される。

 

「みほのこと大好きなのね!」

 

 ケイさんがそう言って、ナオミさんとアリサさんがにやにやと笑う。

 

 姉さんのことが好きだったのは確かだったから上手く言葉を返すことができなかった。俺は姉さんのことを理解したかった。嫌々戦車道をやって、黒森峰から戻ってくるたびに憂鬱そうな顔をしていた姉さん。学校に行かなくなって毎日暗い顔をしていた姉さん。たくさんの荷物を抱えて寂しそうな顔で行ってくるねと俺に笑いかけた姉さん。――優勝旗を抱えて仲間たちと笑う姉さん。

 

 少し見ないうちに姉さんは大きく変わっていて、俺が姉さんに感じていた暗い親近感はどこかへ消えてしまった。姉さんは大洗でなにかすごく大切なものを見つけたのだと思う。そして俺もそれを知りたいと思った。戦車道ができないなら自分なりの方法で走り出してみよう、そう考えた。

 

 ケイさんに向って笑う。

 

「きっとそうです。だから姉さんに会いたいんです」

 

「OK! じゃあもっとたくさん食べて、すぐ出発しなさい! お金がないならスーパーギャラクシーで送ってあげようかと思ったけど、そういうことなら私たちで見送ってあげるわ!」

 

「え、いや、それはちょっと」

 

「遠慮しない! 全然かまわないんだから!」

 

「いや、なんか暴走族みたいじゃ……」

 

「GOGO!!」

 

 追い立てられるように食事を詰め込んで、それからやっぱり追い立てられるように俺は戦車大隊に見送られた。

 

 はっきり言って六十両近くの戦車を後ろにつけて走るのは恥ずかしく、俺は消え入りたい気持ちでいっぱいになりながら50㎞ほどを走った。別れるときには空砲まで鳴らしてくれて、サンダースのその心意気はありがたいが一刻も早く長崎に帰れとも思う。

 

 ケイさんは別れるときにはまた出会った時のように大きく大きく手を振ってくれて、俺もそれに応えるように大きく手を振った。長いブロンドの髪が陽の光に照らされて金色に輝き、そして鉄の塊の中に消えていった。

 

 俺はそれから体力の続く限り走り続け、そして夕焼けになる少し前に関門大橋にたどり着いた。原付でこの橋を渡ることになったら多分殺されちゃうよなと思っていたが、どうやら原付や自転車はエレベーターに乗って海底に架けられた通路を歩いて向こう岸に渡るらしい。なんと通行料金は20円だ。

 

 パンターを押したままエレベーターに乗るのはなんだか違和感があったが、それよりもさらに海底トンネルでパンターを押しながら歩道を歩くことのほうが不思議だった。どこまでも長いトンネルで出口も見えない。俺はそこをひたすら歩き、そしてトンネルの中で福岡から山口県へ越境した。

 

 トンネルの中にはほかにも人がいたが、誰もかれもどこまでも続くなだらかな勾配に疲弊して無言だった。それはもちろん俺も同じで、ようやく最初と同じトンネルから出るためのエレベーターにたどり着いたときは感嘆のため息が漏れた。今まで生きてきてこれほどエレベーターの振動を心地よく思ったこともなかっただろう。

 

 激しい振動とともに外に出るとすっかり西日が差して世界は茜色に染まっていた。関門大橋のケーブルに赤く条線が走り、そしていままさに九州に向けて陽が沈もうとしていた。今日はこれで休もうと思っていたが、なんとなくもう一度パンターにまたがって走り出した。

 

 

 




感想ありがとうございます。
大変励みになります。
ガルパンの絵を描いている人は「パスタをお食べ!」の画像を各校のキャラでパロディした絵を描くべきではないかと日々考えています。
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%92%E3%81%8A%E9%A3%9F%E3%81%B9&num=30&safe=off&espv=2&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjz8P7dsJjNAhVEHKYKHY4oB0UQ_AUICCgB&biw=1024&bih=651


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第三話 『岡山 継続高校』

 二日間かけて山口と広島を抜け、今日は岡山を通過する予定だった。

 

 このあたりはひたすら海沿いを走ることができるので気もまぎれていい。

 

 海を見ながら走るのがとても素敵なことだと知ったのはこの旅のいくつかの収穫だと思う。朝、昼、夜と海は様々な要因にさらされながら刻一刻とその姿を変えていき、そしていつも美しい。

 

 海沿いで休憩するたびに猫が寄ってきてはエサを寄越せと鳴かれるのは少し億劫だったが、それも海辺の町の風景のひとつだった。俺は良く晴れた毎日を何の苦も無くパンターと走り抜けていた。岡山駅を通過してしばらくまでは。

 

 ――この旅に出るにあたって覚悟していたことがふたつあって、ひとつはお風呂に毎日入れないこと、もうひとつはいつか絶対パンクするということだった。

 

 前者はすでに昨日の夜実績を得た。そして後者に関してはたったいまだ。

 

 そう、パンクだ。パンクした! あー!

 

 軽快に山道を走り抜けていたら突如として背後から低い破裂音が鳴り、それから視界が一段下がった。慌ててバイクを路肩に止めて確認すると、タイヤから釘の頭が出ているのを見つけた。正直これは我慢できずに三発ぐらいため息を吐いてしまったが、そもそも旅の最初に覚悟していたことでもあるので黙々と作業を開始する。

 

 パンク修理自体は何ということはない。穴が開いている場所を見つけてそれを専用キットでふさいでいくだけだが、問題は空気を入れることにある。現在の山道から人里までパンターを押して歩くことがたまらなく憂鬱だった。自分で走ってくれる分にはまだしも、一度沈黙してしまったこいつを押して歩くのは本当にかったるい。想定通り二十分もするとパンク修理はおわり、そして俺はもう二回ため息をついてパンターを押して上り坂を登り始める。

 

 登り始めて十分もすると全身から汗が噴き出してきた。夏の坂道で原付を押しながら歩くのは正気の沙汰とは思えない。街についたらすぐにどこかで空気をいれさせてもらって、今日はゆっくり休もうと決意する。今日のノルマは守れないかもしれないが、そもそも十日ぐらいで行っちゃおうというのが間違っているような気がする。

 

「まあ、日に百五十㎞は走るだろうから、それだと十日でいけちゃうな。余裕すぎる……西住流の血が怖い……」

 

 とか言ってへらへら笑っていた自分のことを殴ってやりたい。置手紙にも書いた通り、新学期までに戻るぐらいのつもりでゆっくりやろうと決意した。

 

 だが、それはそれとして今はこの坂が問題だ。ひとつ目の坂を越え、ふたつ、みっつと越えるころには既に俺と原付のどちらがどちらに体を預けているのかよくわからなくなっていた。俺はパンターの車体に体を覆いかぶせるように、前傾姿勢でひたすら坂を上り続ける。うつむいた顔から汗がだらだらと零れ落ち、しばらくの間頭上からかけられる声にも気が付くことはなかった。

 

「おーい! おーい! だいじょうぶですかー!?」

 

 その声が自分にかけられているものだと気付いて顔をあげると、目の前にBT-42が止まっていた。BT-42、別名クリスティ突撃砲。第二次大戦中にフィンランドが開発した自走砲だ。なんでこんなところにと思う間もなく、車体の左側に腰かけている髪をふたつ縛りにした女の子から声をかけられる。

「タイヤ、パンクしちゃったんですか?」

 

 そうなんだ、と俺が答えると、戦車の中からぞろぞろふたりほど乗組員が出てきた。ひとりはチューリップハットをかぶってカンテレを抱えた女性で、もうひとりは勝気な表情をした赤毛の女の子だった。赤毛のほうの女の子が寄ってきて、タイヤの状態を調べる。

 

「パンクは自分で直したのか。じゃああとは空気だけだけど、この先はまだしばらく街がないよ。見たとこ旅の途中みたいだけど、この調子じゃ今日は山の中で野宿だぞ」

 

 その言葉にショックを受け、もうこのまま森の中でトトロのように寝て暮らそうかとおもった。

 

「わかった。じゃあ俺は今日からこの森でトトロのように寝て暮らす」

 

 声に出てしまった。今の俺は多分死んだような目をしているのだろう。赤毛の女の子がげらげら愉快そうに笑って、カンテレ持ちが弦をぽろぽろと鳴らした。なんなんだこのキャラ立ち集団は。最初に話しかけてきたふたつ縛りの女の子が「もー! ミッコったら意地悪だよ!」と赤毛をたしなめ、それから俺に向き直った。

 

「私たち今から岡山のBC自由学園まで行くんだけど、よかったらそこまで一緒に乗っていかない? 原付もBT-42の後ろに乗せればいいよ」

 

 願ってもないことだった。俺はそちらさえよければぜひそうさせてほしいと願い出て、彼女に頭をさげた。

 

「そ、そこまでしてくれなくていいよう。……ね、ミカもそれでいいでしょ?」

 

 そう言ってカンテレ持ちを振り返ると、彼女はまた弦をぽろぽろと鳴らす。

 

「ふたりが良いなら構わないよ。道連れが増えるのもいいものだ」

 

「決まりだね」

 

 それから俺は彼女たちとお互いに自己紹介し、彼女たちの名前を確認した。俺の名前を聞いた時に西住流の息子だと知って驚いていたようだが、俺も彼女たちが継続高校の面々だと知って驚いた。その名前はかつてみほ姉さんが「とっても優秀な隊長がいて手ごわいんだよ」と褒めていた学校だったからだ。俺はBT-42の後部にパンターをくくりつけながらその話をした。

 

「戦車道の規模自体はそう大きくないけど、優秀な隊長がいて手ごわいと姉さんが言っていました」

 

「天下の西住流にそう言ってもらえるなんて、私も捨てたものじゃないようだね」

 

「また皮肉っぽい言い方」

 

 軽口を飛ばしつつ、パンターの固定を終えるとゆっくりと戦車が走り出した。慌てて車内に入ろうとするとミッコから「くるなくるな。人がたくさん入るとあついだろ」と注意され、結局後部にパンターと一緒に座り込んだ。アキとミカさんも戦車に腰かけているし、風も涼しいからそのほうがいいのかもしれない。道交法は戦車に甘い。

 

 先ほどまで汗を流しながら見上げていた空と比べて、戦車にゆられて快適に進みながら見上げる空は全く別に見える。道の両脇から伸びた木々が空を縁取り、木漏れ日がキラキラと輝く。俺は背中を押しつけるように戦車に深く腰掛け、わずかに残った汗をぬぐって息を吐いた。

 

「ものの見え方なんて簡単に変わってしまうものだよ」

 

 不意に聞こえた言葉に驚いて引っ張られたように首を向ける。

 

 俺は言葉を発することもできず、口の端をふるわせながらミカさんのことを見つめる。言いようのない不気味さを感じる。俺の心が読まれているかのような、全て見透かされているかのような。カンテレから指を離すと、彼女がゆっくりとこちらに顔を向けた。切れ長の澄んだ瞳が俺の眼を射抜く。

 

「ミカ! またひとをからかってる!」

 

 アキの声が聞こえて、俺は自分をとらえていた糸を断たれたように弛緩した。

 

「からかっちゃいないよ。彼が悩んでる風だったからちょっとね」

 

「そういうの、大きなお世話っていうんだからね。ごめんなさい、一意くん」

 

 いや、いいんだ。とだけ言った。俺は事実、先ほどミカさんが言ったことを獲得するために旅に出たのだ。

 

 それならいいけどと言って、アキはまた自分の席に腰を下ろす。俺はミカさんのほうに体を傾けた。

 

「BC自由学園に行くのは戦車道の練習試合ですか」

 

 答える代りに浅く首肯する。

 

「継続高校は確か石川ですよね。母港からかなり離れてますけど」

 

「うちはお金がないからね。練習試合があったりするとこうやってみんなで戦車に乗って、野宿しながら旅をするのさ」

 

「一意くんも旅の途中なんだよね」

 

 運転席から「わざわざ自分からなんて物好きな奴だな」と笑う声が聞こえてくる。この旅を始めてから数えきれないぐらい言われてきたことだ。俺はその言葉にけらけら笑った。

 

 下り坂の向こうにさっき通り過ぎた街がもう一度見えて、ため息をついた。こういう日もあるのだと自分に言い聞かせる。

 

 

 

 BC自由学園は一言で言って雰囲気の悪い高校で、あまりチーム内で仲がよろしくないようだった。話を聞くところによると色々込み入った事情があるようだが、そこらへんは俺には関係ないことだ。俺はBCに着くとすぐ事情を説明して同校の自動車部を紹介してもらい、そちらでパンターに空気を入れさせてもらった。ちなみに継続高校は彼らと一対一の模擬選をやって全勝したらしく、あの隊長は変な人だが本当に強いのだなと感心した。思えばみほ姉も変なぬいぐるみを可愛がったりするし、中学時代の姉の知り合いとかいうひとは自分のことを「アンチョビ」と呼ばせようとしてきたし、戦車乗りには変な人が多いのかもしれない。

 

 それはともかく。

 

「いやあ、ありがとう!! 本当にたすかりました!!」

 

 はずんだ声で礼を言いながら、俺は何度も後輪を持ち上げては地面にバウンドさせる。パンター完全復活だ。

 

「処置自体は自分でやってくれたみたいだし、こっちは空気を入れただけだよ」

 

「それでも助かりました。継続高校とみなさんには頭があがりません」

 

「そんなおおげさな……」

 

 今日一日ぶんは少しばかり遅れが出てしまうかもしれないが、これで明日からはまた変わらないペースで走り出すことができる。今度は絶対路肩によらないようにしようと考えた。クラクションがなんだという気持ちだ。パンクするよりはクラクションを鳴らされるほうがいい。いやどっちも嫌だが。

 

 遠く、夕陽の先でBCの戦車隊が追い立てられているのが見える。後ろから隊長のなんとかいうひとが「きびきびはしるざます!!」と怒鳴り声をあげながら追い立てていた。こころなしか隊長さんの首が伸びているように見えるが、あれは気のせいだろうか。継続相手にぼろ負けしてしまったのがかなり腹に据えかねたようであるが、このままでは俺もとばっちりを受けるかもしれないと想い、もう一度自動車部に礼を言って早めに切り上げた。彼らはにこにこ笑って、気を付けなよと声をかけて見送ってくれた。

 

 来た道を戻り、そしてまた行く。二時間も走るころにはとっぷりと日は暮れ、すっかり世界は闇のなかだ。なんとか朝パンクした地点を越えたあたりで、どうせ山を走るなら一番高いところで野宿しようと考えた。寒いかもしれないが星が良く見えるだろう。

 

 俺はもう一息とアクセルを開いて山道を登ると、いつのまにか背後から聞き覚えのある駆動音が近づいてきた。

 

「一意くん!」

 

「アキ! BCに泊まるんじゃなかったのか!」

 

 今日一日何度も目にしたBT-42だ。今日はBCのほうで一泊させてもらうということだったから別れてきたが、話をきくとどうやら雰囲気が悪いから逃げ出してきたらしい。隣に並んで走る車体からミッコが顔を見せ、こちらを見てにやりと笑う。

 

「ま、途中までは行き先も一緒だし仲良くやろうぜ」

 

 俺は不敵な笑みを浮かべるミッコに苦笑いを返す。見上げるとアキも似たような苦笑いを浮かべ、ミカさんは相変わらず泰然とカンテレをもてあそんでいる。どうもこの旅は一筋縄ではいかなくなってきたようだ。

 

 

 




戦車道大作戦に出てくる☆3のスズキが南米出身のF1レーサーにしか見えなくて困ります。


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第四話 『滋賀 続継続高校』

 継続高校を伴って旅は続く。

 

 継続の連中は旅慣れているだけあって料理や野宿の設営もそつなくこなし、俺が不慣れなことも快く教えてくれる。旅は思いのほか快適になった。

 

 ミッコは山菜を採ってきたり川魚を釣るのが得意で、山の中で休憩したりするとすぐにそういうものを集めてくる。ふらっといなくなるので初めは不安だったが他の二人からすればいつものことらしく、しかもそのたびに食料を確保してくれるのだから何も問題はないらしい。いつも不敵な顔で笑って、いたずらっぽくて面白い奴だ。

 

 採ってきた食料はアキが調理してくれる。彼女はとても料理が上手で道中大変助かった。面倒見がよく、BT-42の整備や他の二人の生活の管理も彼女がしているようだ。他の二人では自由気まますぎるし、必然的に彼女がやっているというところも大きいだろう。

 

 ミカさんはいつもカンテレを弾いてはわかったようなわからんようなことを言っている。

 

 アキから簡単な料理をいくつか教えてもらい、ミッコから色々な食べられる野草を教わった。俺がこれから先もひとりで旅を続けられるように、ということらしい。

 

「結局、ひとりで旅をしてわかることは、ひとりでは生きられないということなんだ」

 

 山中のキャンプで火を囲みながら、ミカさんがそう言ったことがあった。彼女はいつも手放さず持ち歩いているカンテレを弾くこともなく、澄んだ瞳で寝袋の中のアキとミッコを見つめている。その眼を見て、いつかミカさんもひとりで旅をしたことがあったのだろうと考えた。

 

「そんなことはとっくにわかっているっていう顔をしてるね。みんなどこかで気づくことだ。だけど君はそれを実感してみたくなったんだ」

 

 断言する口調だった。俺は言葉に詰まってじっと火を見つめる。

 

 それきり会話もなく、気が付いたら俺はいつの間にか眠りについてしまった。

 

 目が覚めて、なんだか身体がうまく動かない。

 

 いつのまにか気を失うようにして眠ってしまったためか、夜風にあたって風邪をひいてしまったらしい。

 

 何もない風を装って運転をはじめたが、全身が震えてうまくハンドルを制御することができない。出発してすぐにパンターの挙動のおかしさに気が付いたミッコによって路肩に停めさせられ、額に手をあてられる。

 

「熱があるな」

 

「えー! なんで体調が悪いのにすぐに言わないの!? そんな状態で運転して、事故でもしたら旅を続けられなくなっちゃうよ!」

 

 アキやミッコが騒ぐ声もまるで一枚フィルターを通したように聞き取りにくい。意識がもうろうとして立ち上がることすらできなかった。周囲の状況もよくわからない。

 

 そのとき、このまま病院に連れて行かれてしまったらどうしよう、という気持ちが心中を鷲掴みにした。財布の中の学生証を見られて学校に連絡がいく。学校から母さんに連絡が行って、仕事用のヘリで病院まできて熊本に連れ戻されてしまうのだろうか。あっけないふりだしに戻るだ。俺はまだ走り出したばかりなのに、こんなくだらないことで家に帰されてしまうのか。

 

 頭の中に浮かんできたのは、十連覇を逃したまほ姉さんの思い詰めた表情と、それからすっかりしゃべらなくなってしまったみほ姉さんの背中だった。

 

 全身の力を振り絞って腕を動かした。関節がさび付いたように痛い。何十年も動かされていない機械のように震えた動きで、がたがたと震えながら何かを掴んだ。温かい、そして細い腕。それを離さないようにしっかりと掴んだ。

 

「何か言いたいことがあるのかい」

 

 その声だけ奇妙なほどクリアに届いた。

 

「まだ帰れない」

 

 ちゃんと声になっていたかどうかわからない。朦朧とした意識では、かすれてよく聞き取れない声にもならないような音だったかもしれない。だが掴んだなにかを手放さずにいると、ふと手の甲にあたたかい誰かの手が重ねられた。

 

「君がそういうのなら」

 

 俺はまた意識を失った。

 

 

 

 ――まだ帰れない。

 

 その言葉が呪いのように感じられた。このまま帰ったら俺はまたあの家で自分が存在する意味を見失ってしまう。みほ姉さんがふさぎ込んだとき、母さんに怒られていたとき、俺は何もしなかった。まほ姉さんが思いつめ、みほ姉さんは春を待たずに熊本から去って行った。

 

 それから今まで、何度も何度も自分に問いかけた。俺はなぜここにいるんだ。

 

 戦車道家元に男子として生まれ、戦車道には参加できず、特別勉強ができるわけでもなく、何か秀でたこともない。

 

 俺はなぜここにいる。

 

 それはもしかしたら幼い日からずっと考え続けていたことなのかもしれない。姉二人とともに戦車で出かけ、三人で仲良くアイスを食べた日は思わなかっただろう。だが初めてみほ姉さんに母さん自ら戦車を指導したときはどうだっただろうか。俺は寂しさを覚え、どうあっても割って入れない無力感にほぞをかむような思いをしなかったか。

 

 俺はただ、俺に何ができるのか知りたかった。俺がここにいて良い理由を見つけたかった。

 

 

 

 SF小説とかアクション映画でよく見る、何度も意識を失ってめまぐるしく場面が変わる展開を味わった気分だ。今度は起きたら景色が丸ごと変わっていた。

 

 二段組みのベッドが二つならんだ、宿泊訓練で使われるコテージのような場所で俺は目を覚ました。意識は非常に明瞭で最後に感じたあの身体のだるさは完全に消え去っている。久しぶりに布団で寝たからかここ数日続いた野宿による身体の痛みもない。起き上がって窓を開くと窓の外に鬱蒼とした白樺の森が広がっていてしばし固まった。

 

 意識を失う前までは滋賀県を琵琶湖に沿って走っていたため、これには顎が落ちるような思いがした。風景が違うというか、なんというかもう植生が違う。病院に運ばれて家に送り返されていなかったことはありがたいが、俺はいったいどこまで運ばれたのかと困惑した。

 

 おっかなびっくり部屋から出るとすぐに頬を風が撫で、深い森の香りとほんの少しの潮の匂いが香った。海の近くにいる。そう考えて、ようやくここが継続高校の学園艦なんじゃないかと思い始めた。白樺の森はフィンランドの植生に近い。だがそうなると俺はどれだけの間寝込んでしまっていたのだろう。

 

 ここで考え込んでいても仕方がないと思い森の中を歩いてみようと考えた。コテージへと続く階段を降るとふかふかした柔らかな大地に迎えられ、普段と違った感触に戸惑いながら歩き出す。森の中に入ってすぐにコテージが見えなくなり、俺は幾重にも林立する白樺の檻に囚われたようになった。地面には足首ほどもある雑草が茂り、人間が立てる音は一切聞こえない。

 

 そういえば昔、姉さんたちと三人で森の中を歩いたことがあったのを思い出した。みほ姉さんが「カブトムシがほしい」と言い出して俺とまほ姉さんがそれに付き合った、というのが理由だったように思う。あのときもこんな風に人の営みから隔絶されたような空間で、自然の立てる音がどうにも不気味だった。みほ姉さんはそんなこと気にもせずにガンガン進んで行っていたが、なぜあんな向こう見ずで勇猛果敢な少女がいつしかほえほえして自分の意見もはっきり言えなくなってしまうのかよくわからない。

 

 道すがら何度もブルーベリーがなっているのを見つけ、もぎとって食べながら歩き続ける。フィンランドの森ではこのようにそこらじゅうにベリーがなっておりベリー獲りの大会なんかも開かれていると聞いたことがあるが、同時にその森には毒蛇が生息しているという話を思い出して背中に寒気が走る。頑丈な靴を履いているし長ズボンだから一応大丈夫だとは思うが、はやめに森を抜けたいと考え始める。だがそもそもどちらに行けばいいのかもわからない。なんとなく立ち尽くして空を眺めていると、不意に繁みがざわつき、メッシュでできたトトロみたいな生物が目の前に現れた。

 

「おっ、起きたね」

 

 メッシュのトトロかと思ったものはミッコだった。いや虚無僧かもしれない。虚無僧になったとしても中身はミッコだ。

 

「ミッコ! 虚無僧だったのか?」

 

「コムソー? これはベリー獲りをする時の格好だよ。蚊がたくさんいるし、毒蛇もいるからな」

 

 やっぱりいたらしい。よく見るとミッコの腰のあたりにはベリーがたくさん入ったカゴが取り付けられ、手には骨組みだけの塵取りのような器具を持っている。どうやらしっかりベリー摘みをしている最中だったようだ。

 

 とりあえず付いてこいよ、と言うミッコの後をふらふら追っていくと、毒蛇に関する逸話を色々と披露してくれる。

 

「ここにいる蛇はそんなに毒が強いわけじゃないんだけど、足がめちゃくちゃ腫れてすんごい痛いんだ。こないだなんか一年生が噛まれて保健室に担ぎ込まれてさ、びーびー泣いちゃって可愛そうったらなかったよ」

 

 俺はそんななかをふらふらしてるのか、と言いたくなったがきっと取り合ってくれないのでやめておいた。

 

 ミッコからこれまでの話をきくと、やはり俺は継続高校まで運ばれてきたらしい。熱を出して寝込んだ俺を戦車に担ぎ込み、石川まで運んでくれたそうだ。パンターもいまは車庫でアキの整備を受けているそうだ。

 

「本当にありがとう。みんなのおかげでこれからも旅を続けていくことができるよ」

 

「ま、礼ならアキとミカに言うんだな。熱を出して寝込んでるお前の世話をしてくれたのはあの二人だよ」

 

「もちろん、あったらちゃんとみんなにお礼を言わせてもらうつもりだよ」

 

「お礼だけで済むといいんだけどな。ミカなんか、お前の身体拭いてやったりしてたんだからな」

 

 はぁ? と自分でも驚くぐらい間抜けな声が出る。いま目の前でにやにや笑っている(ように見える)女はいったいなんと言った。

 

「夏風邪だからそりゃ汗もかくって。そのままにしてたら汗が冷えちゃっていつまで経っても直んないだろ? アキにはまだ早いってミカがおまえの身体を拭いてやってたんだよ」

 

 呆然とする俺の前でミッコが突然姿勢をただし「あ、ミカとアキだ! おーい!」と駆け出してゆく。その先には確かにそのふたりがいて、俺はしばし反応もできないまま立ち尽くすことになった。

 

 

 




戦車道大作戦のミッコはキャラがぶれてて面白いです。


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第五話 『石川? 続々継続高校』

 あのあとミカさんとアキの二人と合流したところ、まずアキから身体の心配をされ、次いでかなり強めの口調で体調が悪い時はしっかりと自己申告をしなければならないと叱責を受けた。

 

 俺の熱はかなりひどいものだったらしく、一時は本当に病院に連れて行こうかどうか悩んだほどらしい。俺は心配をかけたことについて何度も謝り、自分をここまで運んで看病してくれたことについて何度も感謝した。

 

 最後には「本当に心配したんだから。次からは正直に言わなくちゃだめだよ」と念を押され、俺はその言葉にしっかりと首肯した。その間ずっとミッコがミカさんの肩に腕を回してにやにやとこちらを見ていて、本当に良い性格をしていると思う。

 

「ミカからもなんか言ってやりなよ」

 

「……大事なことは全部アキが言ってくれたからね」

 

 ミカさんはそれだけ言ってまたカンテレをぽろぽろとつま弾いた。その変わりない様子になんとなく安心する。このひとはもし継続が廃校になると告げられてもこうして何も変わらずカンテレをつま弾いているのじゃないだろうか。そう考えてしばしの沈黙が流れた後、ふとミカさんがその手を止め

 

「ただ、元気になったようで良かったよ」

 

 と言った。

 

 俺はその瞬間猛烈に顔面が熱くなるのを感じ、掌で顔を覆った。ミッコが目を真ん丸に見開いて、アキがなんだかむっとしたような表情で俺とミカさんを見ている。

 

 一瞬後にミッコの馬鹿笑いが一帯に響き、ミカさんが「うるさいよ」と声をかけた。

 

 

 

 体調も回復したし旅の続きに出ようと思ったが、そう申し出たところアキとミッコから慌てて引き留められ、すごい勢いで「病み上がりなんだから無茶しちゃだめだよ!」と怒られてしまった。ミッコからも同様のことを言われ、すでに万全である自分の体調を思って釈然としない気持ちになる。

 

 だが必死に引き留める二人からなんとなく焦ってるような雰囲気も感じ、もしかしたら途中でパンターを落っことして修理する時間が足りていなかったりするんだろうかと考えた。だとしたら折角助けてくれた人たちに恥をかかせるのも悪いしと思い、俺は何も言わずに継続高校での滞在を了承した。

 

 そうするとふたりは目に見えてほっとしていたので、どうやらそういうことなんだろう。

 

 突然やることがなくなってしまい、何もせず橋の上に座り込み雲が流れていくのを眺めたりしていた。石川は雲の流れが速いなあなんてことを考えていると、いつの間にかすぐそばにミカさんが座っていた。なんとなく頬が熱くなる。

 

「色々障害は増えていくかもしれないが、気が済むまでやればいい」

 

 俺はその言葉に微笑み、看病してくれたことへの礼を言う。ミカさんは少しだけ頬を緩め、「君がこれからどうするのか興味がわいたんだ」とだけ返された。

 

 それからしばらく二人で水面を眺めたりしていると、今度はミッコが隣に座って釣り糸を垂らしていた。

 

「釣れるのか」

 

「ちっちゃいやつばっかりだけどな。でもまとめて揚げてレモン絞って食べるとうまいんだ」

 

 それは良いなあと思う。ミッコはたらした釣り糸の先をまっすぐに見つめていて、それ以上話しかけることはためらわれた。しばらくそのままぼうっとしていたが、アキに呼ばれて全員でのんびり動き出す。

 

 まるで時間がどこまでも引き延ばされて永遠の中にいるように感じる。

 

 それから、三人の手伝いをするという形で俺も彼女たちと共同で生活をした。

 

 継続高校はいったいどこに学校があるのか、本当に一般人が住んでいるかすら定かではなかった。とにかく森ばっかりで、時折潮の香りが漂ってきたりするので船の上であることは確かなのだが、土地勘がなく森を出られないのでそれもはっきりとはしない。

 

 俺は結局森の中でアキと一緒にベリー摘みをしたり、一日中大量の薪を割ったりして過ごした。

 

 薪割を知ることができたのは非常に素晴らしいことだ。俺は一日中薪割をしたことでその快感と奥深さに触れ、そのうち斧の先が自分の腕の先であるかのように感じることすらできた。このまま薪割の素晴らしさについて語ることはあまりにも簡単であり、俺は日が暮れるまでその話を続けられる自信があるが、今はひとまず中断する。だがひとつだけ俺は世界中に声を大にして言いたい。薪割は良い。

 

 さておき、ここでもミッコのサバイバルスキルやアキの料理に助けられた。ミッコは今まで通り魚を釣ったりキノコを採ってきたりと活躍し、アキはそれをいつも美味しく調理してくれる。ふたりは「男手があると捗る」と言ってしきりに感謝してくれたが、俺は彼女たちに言われるがまま手伝うばかりだった。

 

 彼女たちは常に自分たちの役割を意識し、そのことを念頭において行動している。戦車道の訓練に同行してBT-42に乗せてもらった際それを強く感じた。彼女たちは言葉を交わさなくても通じ合い、ミカさんの指揮のもとで的確に目標を撃ち抜いていく。自分たちの役割を完璧にこなし、全員で勝利に向かっていく。

 

 俺の目にはそんな彼女たちがとてもまぶしく映った。

 

 夜になると全員で広間に集まり、めいめいに好きなことをして過ごす。アキは静かに本を読んだりしていることが多く、ミッコとミカさんが暖炉の前で向かい合っていることが多かった。時折みんなでミカさんのカンテレを聴くこともあったが、基本的にはそれが彼らの定位置のようらしい。

 

「ミッコ、世の中にはどんな意見も存在していいと私は思う。だけどそればっかりは承服しかねるな」

 

「じゃあミカは薪の皮を下にして暖炉にくべるっていうんだな。本物のフィンランド人はそんなことしない」

 

 夜が更けてくるとふたりはこうやって毎晩言い争った。

 

 これがあまりにも有名な薪を暖炉にくべるときは皮を上にするか下にするか論争だと気が付いたとき、俺は生きているうちにこの論争を間近で見られることに感動し、そして二日目の夜にはどうでも良いからさっさと薪をくべろと考えていた。お前らは本物のフィンランド人じゃないと言ってやりたい。

 

 おかしなことに継続高校に滞在している間に気温が刻一刻と低くなり、二日目の夕方頃には三人とも暖炉の前で猫のように丸まることとなった。

 

 二シンの塩漬け、ジャガイモ、茹でたザリガニ、ブルーベリーのパイ。そんなものを四人で暖炉の前でかたまって食べた。ザリガニを初めて出されたときはそう言われてぎょっとしたが、要はエビだし汚水にいるアメリカザリガニとはそもそも種類が違う。俺はすぐに彼女たちと同じ食生活に慣れることが出来たが、食後にミッコがガリガリと噛み砕く黒くて変な風味のする飴だけは勘弁してもらいたかった。その様子を見るミカさんもどこか不快そうな様子だったし、おそらくあいつがおかしいんだろう。

 

 

 

「一意君にしかにしかできないことがあるよ」

 

 三日目の夜。ミッコが眠りこけミカさんが自室へ戻った後にふたりで会話をしていたところ、そんなことをアキから言われた。

 

 そのとき俺は継続高校での暮らしについて色々尋ね、その内容に逐一驚いていた。アキの料理はすべて高校に入学してから身に付けたものらしい。半自給自足のような生活をしている継続高校ではそれぞれができることを見つけ、お互いに助け合って生きるそうだ。

 

 俺はすこし卑屈っぽく笑い、「俺なんか家では何もせずにごろごろしているから、継続に通ってたら今頃ミイラだな」と言葉を返した。アキはちょっと笑って、それから静かな声で先ほどの言葉を俺にくれた。

 

「前にミカが言ってたんだ。たくさん人が増えて世界が複雑になって、自分のやるべきことが分からなくなることがあっても、ひねくれたりせずに探し続ければ、きっと自分のやるべきことが見つかるって」

 

 いったん言葉が途切れて、アキがこちらを覗き込む。炎で照らされた顔はなんだかとても幻想的に見えた。

 

「私もそう思うよ。だから、一意君がやるべきことっていうの、探してみれば良いと思う」

 

 それから心地よい沈黙が訪れ、時折薪がはぜてパチパチと鳴る音だけが広間に響く。俺たちはしばらくみじろぎもせずにそれを眺めていた。

 

 俺はだいぶたってからようやく、擦れた声で「ありがとう」と言えた。

 

 

 

 四日目の朝、三人に連れられて小さな小屋の中でパンターと再会した。

 

 どれだけひどい状態になっているのだろうと考えていたが、久方ぶりの対面を果たしたパンターは以前と全く変わらないボロぶりで、俺はなぜ今までパンターを見せくれなかったのかといぶかしむ。

 

 アキとミッコはそんな俺の様子を見て苦笑いを浮かべ、ミカさんは「勝手に思い込むもんじゃない」と不安なことを言う。

 

 その様子を見て何かおかしい、と思った。

 

 雲がやたらと早かったこと、日を追うごとに低くなっていった気温。

 

 旅を再開させてくれなかったことに関しては何かあるとは思っていたが、もしかしてそれを過少に考えすぎていたのではないだろうか。

 俺が恐る恐る、震える声で

 

「ここってどこ?」

 

 と尋ねると、アキが気まずそうに顔をそらした。 

 

 だんだんと顔から血の気が引いていく俺のことを無視して、三人はいそいそとパンターをBT-42に固定していく。

 

「あきらめろよ」

 

 俺の肩を叩いてミッコがそう声をかけ、ぐいぐいと俺の背中を押す。俺は何もできないままそのまま戦車に乗り込み、車体が走りだしてようやく正気を取り戻した。

 

「まて、ここはどこなんだ。いまいったいどこにいるんだ」

 

 必死になって隣に座るミカさんに尋ねるが、相変わらず澄ました顔でこちらを見向きもしない。

 

 戦車がどんどん速度をあげ、周囲の風景が瞬く間に移り変わっていく。ミカさんが「ふっ」と不敵に笑う。

 

「日々移り変わるものについて尋ねても仕方ない」

 

「学園艦は出航しているのか!? 俺はいまどこらへんにいるんだ!?」

 

「何度も言わせないでほしいな」

 

 ちゃんと説明をしてくれと叫ぼうとした直後、ミッコの雄叫びが車内に響き渡る。

 

 「天下のクリスティ式、サスペンションも世界一ィィイィィイイイイイイイ!!!!」

 

 その瞬間、まるで無重力状態になったように俺たちは車内で宙に浮いた。アキの苦笑い。涼しげな顔をするミカさん。そして俺とミッコの絶叫が車内に響く。

 

 俺は必死にもがいて車内でしがみつけそうなところを探し、最終的にすがるようにミッコの座席にしがみついた。

 

 いったい何秒間叫んでいただろうか。ジェットコースターでもこれだけ長い間落下した経験はないような気がする。時間が引き延ばされて、自分の声もどこか遠くで聞こえてくるようだ。気が遠くなりそうになった頃、車体がばらばらに砕け散ってしまうような衝撃とともに着地した。

 

 それからも戦車は止まらず、ミッコはまるで古代ローマの猛将のごとく雄叫びをあげて走り続ける。俺はもう声をあげることもできずに必死でミッコの座席にしがつき、ようやく戦車が止まった時には全身の骨を抜かれたように虚脱してしまった。

 

 ミカさんの手を借りてようやく戦車から這い出ると、そこは前も見えないほどの吹雪で覆われた雪原だった。

 

「ここどこ……」

 

 呆然とする俺のことを放置し、三人はまるで映像を早戻しするようにテキパキとパンターをBT-42から降ろす。

 

「じゃあここでお別れだ」

 

「また継続に来るといい。次は旅の結果を教えてほしいな」

 

「プラウダのひとたち、みんな優しいから大丈夫だよ!」

 

 ミッコ、ミカさん、アキがかわるがわる俺に向かって声をかける。俺が雪原の上に立って目を白黒させていると、突然ミッコがニヤッと笑った。

 

「もう来た!」

 

 そう叫んだミッコの視線の先を追うと、そこに戦車の大部隊が迫っていた。IS-2、KV-2、間違いなく昨年姉さん率いる黒森峰の戦車隊を破ったプラウダ高校の精鋭たちだった。ミッコが舌なめずりし、捕まえられると思うなよー! と吠える。

 

 もうすべてわかっていたが、俺にはどうすることもできなかった。これは半行事化しているプラウダと継続の鬼ごっこだ。

 

 俺を残した三人は熟練の兵士のように素早く戦車に乗り込む。

 

「捕まって拷問なんかされんなよ!」

 

 最後の最後でミッコが叫んだ内容は、あまりにも不吉なものだった。

 

 BT-42が走り去り、背後からプラウダの戦車大隊が迫る。俺は傍らにパンターを抱いてどうすることもできずただ立ち尽くす。

 

 そしてついにプラウダの重戦車たちが現れ、盛大に雪煙をあげながら俺の横を通り過ぎていく。最後に残った一両が俺の目の前で停車すると、中から黒髪の背の高い女性が現れ、凍り付くような視線で俺のことを見た。

 

「逃げ遅れですか。継続は逃げ足だけは早いと思っていましたが、考えを改めなければいけませんね」

 

 俺はとりあえず母さんと二人の姉さんのことを考えることにした。もしかしたらこの土壇場で俺にテレパシーが発現して三人に別れの言葉を述べることもできるかもしれないと考えたからだ。

 

「どうしますか」

 

 目の前で俺を射殺すように見つめていた女性が呟くと、ややあって戦車の中から妖精のように可愛らしい女の子が現れた。まるで雪の妖精のようだ。

 

 彼女の姿をみた瞬間「もしかしてこれは助かるんじゃないか」という淡い希望が胸に芽生えた。こんな可愛らしい女の子がひどいことなんてできるはずがない。どうすれば許してくれるだろう。お馬さんごっこかな? 俺でよければどんどんやろうと思った。

 

「決まってるわ。捕虜は尋問して拷問したうえでシベリア送りよ」

 

 脳が活動を再開した時、俺はこれまでよりも更に熱心に母さんに向けてのメッセージを送り始めた。

 

 

 




書くために調べてたんですが、フィンランドのご飯ってあんまり美味しそうじゃないんですよね。ニシンのパイみたいな伝統料理出てきたし。ベリーとザリガニはよさそうです。

あと自分でも何やってんだこいつって思ったんですが、第一話っきり話数を頭につけてないのはすっかり忘れてたからです。


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第六話 『洋上 プラウダ高校』

 

 

 あの後なすすべもなくプラウダの戦車道チームにひっとらえられ、(彼女たち曰く)偉大なる同志カチューシャさんの御前に引きずり出されることとなった。

 

 俺はというといまや完全に委縮しきっていた。そもそも女の子ばかりの学園艦に不法侵入したというだけでも問題しかないというのに、それに加えて道中どんな言い訳をしても一言も言葉を返さないプラウダ戦車チームの面々や、カチューシャさんの隣に控える二人の女性の冷徹な瞳が怖すぎたというのが理由として大きい。

 

 小柄な体格で勘違いしそうになるがカチューシャさんは三年生でプラウダの隊長らしく、それも不必要なほど俺をおびえさせる。

 

 ふと、以前まほ姉さんが言っていたことを思い出す。プラウダはここ数年めきめきと実力を伸ばしており、その裏には非常に優秀な隊長の姿がある。その名も『地吹雪のカチューシャ』と。

 

 あのときは高校生にもなって二つ名はよくないのではとか考えていたが、この旧ソ連然としたチームをまとめ上げる隊長ならばそういった仰々しい名前を付けたくなるのも頷けるように思う。

 

 そしていま、ついに偉大なる同志カチューシャさんから俺に対する尋問が始まった。

 

「あんたがミホーシャの弟ね」

 

「西住一意です……」

 

 雪原でしばらくすると「なにが尋問じゃ! ここは法治国家やぞ!」なんて考えていたが、戦車部隊の面々や宿舎の様子を見るうちに「もしかしたらプラウダは表面上青森の飛び地を名乗っているだけで、いつの間にか北の大きい国に併呑され静かなる前線基地として機能しているのかもしれない」という考えが脳の大半を占めるようになった。

 

 俺はいまやビッグブラザー率いる党に拉致されたウィンストンの末路を思わずにはいられないでいる。

 

 つっかえつっかえ自己紹介を終えると、カチューシャさんの背後に控えていた女性が一歩前に進み出て事情聴取が始まった。俺はこれまでの旅について話し、そして継続高校に置いていかれてされてここにたどり着いたことを説明する。カチューシャさんはところどころ興味深そうにしていたようだが、隣に立つ黒髪と金髪の女性はぴくりとも表情を変えなかった。

 

 説明を終えると、椅子の上でふんぞりかえったカチューシャさんが声をあげる。

 

「継続はこれからしばらく帰港する予定がないんでしょうね。うちはあと二日もすれば青森に帰港するから、うちにちょっかいだすついでにアンタを置いて行って本土に届けようとしたんだわ」

 

 その言葉でようやく俺がプラウダに置き去りにされた理由と、アキからの「大丈夫」という言葉の意味がわかった。すべては俺が旅を続けられるようにとの配慮だったことを知り、継続のメンバーに一瞬だけ感謝をする。

 

 が、よくよく考えたら虎の穴に放り込むような真似をされた気もした。

 

「そのようなことをしてあげる理由などありませんが」

 

「まあいいじゃない。ミホーシャに借りを作っておくのも悪くないわ! 指導者たるもの器の大きいところを見せてあげなきゃ!」

 

「さすがですカチューシャ」

 

 俺を放置したまま「でしょー!」と盛り上がる様子を眺め、どうやら歯を抜かれるとか何のためにあるのだかよくわからない変な回転する軸を回す仕事なんかを言い渡されないようで安心する。

 

 というかそんなことをしてあげる理由がないと言っていたが、それに対してカチューシャさんが「それもそうね!」とか言って賛同したらどうなっていたのだろう。もしかして海に放り出されるのか。それとも本当にシベリア送りにされるのか……。なんにせよこの場では聞かれたことにだけ答えようと思った。

 

「さて! そうと決まったらアンタには何をしてもらおうかしら!」

 

 側近の女性との会話を終え、カチューシャさんがこちらに向き直る。

 

「肩車はノンナがいるから必要ないし、子守唄の伴奏もクラーラがいるわ。残念ながらこのプラウダは鉄壁の布陣よ!」

 

 カチューシャさんがそれぞれの女性を肩で示すと、両隣に従うふたりが心持ち自慢げに胸をそらす。肩車と子守唄の伴奏で自慢げなのはどうなのか。もっと戦車道で重要な役割を負っている人たちじゃないのか。

 

 それはともかく、俺がプラウダのためにできることはなんだろう。しばらく考えたが、これしか思い浮かばなかった。

 

「……薪割とかすごく得意です」

 

「はぁ? 西住流ではまだ薪で火を起こしてるの? 熊本ってそうなの? なんにせようちはとっくにオール電化よ」

 

 一瞬で切って捨てられた。オール電化じゃ仕方がない。プラウダ高等学校すごい。

 

「はー。じゃあもうこっちで決めちゃおうかしら? 採掘場に行きたい? 森林開発? 安心していいわ。ウォッカだけはいくらでも支給してあげるから」

 

「お、お母さん……」

 

「カチューシャ、あまり驚かせるものではありませんよ」

 

「聞いたノンナ!? お母さんだって! かわいー!」

 

 俺の心の中で絶対この女ぎゃふんと言わせてやるぞという気持ちがすくすくと成長していた。三年生でお姉さんだからって調子に乗りやがって。まほ姉さんに比べたらお前なんて雪の妖精みたいなもんなんだからな。生まれてこの方冬将軍と一緒に暮らしてんだぞこっちは。

 

 そうして切歯扼腕する俺を放置してカチューシャさんは機嫌よさそうに笑い、とりあえず保留ということで! と宣言した。

 

 

 

 

 結局俺は採掘場にも森林開発にも回されず、その日はカチューシャさんとノンナさんに連れられてプラウダ高校を見て回ることとなった。

 

 屋外へ出ると、先ほどまで前も見えないほど激しかった吹雪はすでに落ち着いていて、油絵の具で幾重にも塗り重ねたような厚い雲だけが残っていた。周囲は一面の銀世界で、鬱蒼とした森がそれを縁取る巨大な壁のように俺たちを囲んでいる。

 

 前を進むふたりの足取りは軽いが、俺はというとこれほど降り積もった雪の上を歩くのは初めてでどうにも苦戦してしまう。途中で何度も支給してもらった長靴を雪に取られてしまい、見かねたノンナさんが腕をとって助けてくれる。

 

「普段のように歩くのではなく、そう、足の裏全体で雪に乗るようにして、小さな歩幅で歩いてください」

 

「焦らずにゆっくりよ。王者のような貫録で進むの! このカチューシャ様のように!」

 

 俺はノンナさんの上で反り返るカチューシャさんを眺め、この場合王者のように進んでいるのはノンナさんではないかと悩む。まあ輿の上に担がれているようなものかと思い、素直に頷いてノンナさんについていく。

 

 雪の上を歩くのにも慣れたころ、森のそばに巨大な工場が見えてきた。見た目からすると工場というより巨大なガレージとでもいうべきだろうか。俺の背の何倍もある高い扉をくぐると、そこには大量の戦車がずらっと並び、プラウダの生徒たちが忙しそうに走りまわっていた。

 

 継続の後だから余計にそう感じるのかもしれないが、とんでもない大工場だ。俺が居並ぶ重戦車に見惚れていると、物陰からカチューシャさんのそばに小柄な女子生徒が駆け寄っていた。

 

「か、かちゅーしゃ様~!」

 

「ニーナ! 遅いわよ!! 被害報告!!」

 

 それからニーナさんが「車輪が……砲塔が……」とカチューシャさんに報告するのを小耳にはさみつつ、俺はふらふらとプラウダの戦車を見学させてもらった。後ろから「継続めぇ」「カチューシャ様、おら次にあいつらが来たらふんじばってやるだ」とか聞こえてくるがしらんぷりをする。時折ニーナさんの視線を背中に感じるが無視だ。

 

 プラウダ高校の格納庫ならきっとそれがあるはずだと思い物色していると、手前から三列ほど進んだ先で俺はその戦車を見つけた。

 

 IS-2。

 

 二次大戦で使用された重戦車で、俺の一番好きな戦車だ。とくにプラウダ高校で使われるIS-2は雪上戦を想定してか白く塗装されており、重戦車らしい無骨さもそこそこにその美しいフォルムが強調されているように思える。俺はIS-2をこれほど近くで見られることに興奮し、生まれて初めての経験に周囲を何度も往復しながら全体をくまなく眺めた。

 

 不思議なもので、プラウダ高校に対してやそこで運用される戦車にも暗い負の感情を抱くことは無かった。黒森峰の十連覇を阻んだ宿敵で、みほ姉さんが出ていく原因のひとつとなった学校ではあるが、そういう気持ちはいつのまにかどこかに消えていたらしい。

 

 以前はすこし恨んだこともあったかもしれないと考える。だが大洗との準決勝や、優勝旗を掲げた姉さんの笑顔を見た後では、俺がそんな気持ちを抱くことすらおこがましいように思えた。

 

「IS-2がそんなに珍しいですか」

 

 不意に後ろから声をかけられて振り向くと、ノンナさんが後ろに立っていた。その肩の上にカチューシャさんの姿はない。

 

「IS-2が好きなんです。かっこいいし」

 

「……西住流の子だから、ドイツ戦車が好きなのだと思っていました」

 

 そう言われて考えてみるとドイツ戦車にのめりこんだ覚えはないような気がする。確かにまほ姉さんはパンターが好きだと言っていたしみほ姉さんもII号が好きだったはずだが、俺はIS-2の前はセンチュリオンが好きだった覚えがある。必ずしも身近なものを好きになるというわけではない。

 

 考え込む俺の返事を期待する風もなく、ノンナさんが俺の隣に立つ。

 

「次の試合で私が乗る車両です」

 

 IS-2の砲身に視線を向け、その車体を愛おしげに撫でる。そしてそのまま顔だけをこちらに向けた。

 

「ぜひ、カチューシャと色々話をしてみてください」

 

 その言葉にあっけにとられ、俺はしばし固まってしまう。いったいどういう意味なんですかと尋ねても、ノンナさんは優しく微笑むだけだった。その瞳は俺に向けられているように見えて、実際もっと別のものを見ているように見えた。

 

「深い意味はありませんよ。ただカチューシャがあなたの旅の内容に興味を示していたようですから」

 

 ノンナさんはそれだけ言うとすぐカチューシャさんに呼ばれて駆けていき、ぼうっとしていたら俺も「西住来なさい!」と怒られた。

 

 みほ姉さんはミホーシャでまほ姉さんはマホーシャ、俺は西住らしい。母さんを連れてきたらシホーシャと呼ぶだろうかと想像していたらこらえきれずに吹き出してしまい、そのうえ母さんにパイルダーオンしたカチューシャさんのことを想像し、笑いすぎて死にそうになってしまった。

 

 結果として宿舎に戻ることになった際、俺は車体後部にくくりつけられた橇に必死でしがみつくことになった。時折カチューシャさんが車体から体を出してはこちらを振り向き

 

「言葉も出ないみたいじゃない! これからガンッガン働いてもらうわよ! 働かない者食うべからずなんだから!」

 

 と叫んでくる。

 

 俺は心の底から「一刻も早く青森についてくれ」と願っていた。

 

 

 




今日はお休みしようかと思っていたんですが、第五話の段階で平均文字数が4444、総文字数22222でなんだか気に食わなかったため急遽書くことにしました。


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第七話 『洋上 続プラウダ高校』

 カチューシャさんからの命令は多岐にわたった。

 

 戦車の洗浄と掃除。なんだかよくわからない大量のはんだ付け。隊長室の掃除。お昼寝をする際に布団が乱れたら直す。カチューシャさんの身体をぶら下がり健康器まで持ち上げる。ロシア歌謡『カチューシャ』の合唱。お茶くみ。雪合戦用の雪玉をひたすら作り続けるなどの過酷な作業である。

 

 俺は朝からひたすらカチューシャさんのそばについてあらゆる指示を受け、一時間の休憩の間は燃えカスのようになっていた。だがそんなときにはいつもプラウダの生徒たちがよってきて、お菓子や紅茶を差し入れてくれるのでとても助かった。

 

「あのちびっこ隊長ば無茶ばっかりさせるからなぁ」

 

「ほれ、これも食べ! カチューシャ様についてこうと思ったらたくさん食べねば!」

 

 俺は彼女たちによる田舎のおばちゃんのような猛攻を受け、毎回口いっぱいに食べ物を詰め込まれていた。それは休憩時間だけではなく食事の時もそうで、彼女たちは毎回俺のぶんだけとんでもない量をついでくれる。校風は節制! 規律! といった様子なのに生徒たちはほがらかで人懐っこく、雪中という過酷な環境にもかかわらず笑顔が絶えなかった。

 

「カチューシャ様は他人に厳しいけど、自分にはもっと厳しいからなぁ」

 

 食事の最中にニーナさんがそう言った時のことをよく覚えている。

 

「ちっこい背ぇして、誰よりも頑張ってきたから隊長になれたんだ」

 

 他人のことを語っているのに、その声のようすにはそれを我がことのように誇る雰囲気があった。すぐそばで聞いていたクラーラさんがすかさずそれを肯定する。

 

「カチューシャ様、偉大なお方です。私は日本に来てカチューシャ様と一緒に戦車道ができることが何よりもうれしい」

 

「かーっ! クラーラさんそれ絶対カチューシャ様の前で言うんでねえぞ!」

 

「んだんだ! ちびっこ隊長はすぐ調子に乗るかんな。大洗に負けたのだって優勢になって調子に乗りすぎたからだ!」

 

「まあ、そういうところがオラたちで支えねばって思えるとこなんだけどな」

 

「んだなぁ。すーぐ無理すっかんなあの隊長は」

 

 隊員たちはその後も休憩時間まるごとカチューシャさんの話で盛り上がっていた。口は悪くとも彼女たちの口調には親密なものがあり、ネタにしていても彼女を愛する気持ちがこもっているようである。

 

 

 

 その日の昼下がり。俺は「ぬるい!! もっと熱く!!」と叱責を受けながらカチューシャさんの紅茶を淹れ終え、ようやく一息ついたところだった。美味しそうにジャムを舐めながら紅茶を飲むカチューシャさんを見ていると、先ほど隊員たちが口々にたたえていたのと同一人物とは思えなくなる。

 

「カチューシャさんはすごいひとなんですね」

 

 だしぬけにそう言うとカチューシャさんは即座に硬直し、そして膝の上にスプーン一杯のジャムをこぼした。

 

「あぁぁ! ちょっと西住! あんたが突然変なこと言うから!」

 

「俺のせいじゃないと思う……」

 

「うるさい!」

 

 もう! と悪態をつきながらズボンを拭くカチューシャさんをみてしばらく笑う。

 

「で、いきなり何なわけ? いやしいこ。私のお菓子がほしくなったの?」

 

 ズボンを拭き終えたカチューシャさんが呆れたような表情でこちらを見る。俺が昼間あったことをかいつまんで話すと、カチューシャさんは一瞬喜色満面といった風に口角を釣り上げたが、何故かすぐに目を伏せてしまう。

 

 俺はてっきりいつものようにふんぞり返って自分を讃えると思っていたので動揺し、何か気に障るようなことを言ったかと心配になる。

 

 結局それきりカチューシャさんは何もしゃべらず、その日は思いつめたような表情のまま一日を過ごしていた。

 

 

 

 翌日、俺はプラウダのガレージでパンターの整備をしていた。

 

 継続高校でアキがしっかりと整備してくれていたのでほとんどやることはなかったが、命を預ける以上自分でも見ておきたいと思うのは当然だ。ひとつひとつ項目をリストアップして点検し、最後に綺麗に磨いているところで後ろから声をかけられた。

 

「なによこれ、ぼろぼろじゃない!」

 

 そこにいたのはしかめっつらをしたカチューシャさんだった。

 

 いきなり何ともな言いようだけど、ぼろぼろなのは事実なんだから仕方ない。俺はパンターを磨く手を止めないままでカチューシャさんに挨拶をする。

 

 カチューシャさんはぶっきらぼうに挨拶を返しつつ、なんだか疑わしげな眼差しでパンターをじろじろと眺めた。

 

「こんなんで本当に走るの? 実は特殊なカーボンでできてるとか?」

 

 ぶしつけにそう尋ねるカチューシャさんに昨日の思いつめた雰囲気はない。結構気分屋なひとなのかもしれないが、こうやって元気なほうがいくぶんかやりやすい。少し安心して返事を返す。

 

「いや、これはずっと昔から同じのを使ってるからそんなことないですよ。それでも多分俺がヨボヨボになっても動くと思う」

 

 実際、特殊なカーボンじゃなくても、トンデモ機構で動いているというのは否定しきれない。圧倒的な燃費。ビルから突き落としても動き続ける不死身さは、創業者の特殊な念で動いているという説にも信憑性がある。

 

「それにしたってよくこんなので旅しようと思うわ! カチューシャが戦車で送ってあげましょうか!」

 

 そういう言葉を言われたのはサンダースに続いて二回目で、なんとなく笑ってしまう。いつの間にやら青森にまで来てしまって、今更ながら俺の旅はいったいどうなってしまうんだろうと思った。

 

「ありがたいけど、今回は自分で走りたいんです」

 

 もし機会があったら今度一緒に連れてってくださいと笑うと、カチューシャさんは「このカチューシャ様の厚意を無碍にするなんて」とかもごもご言っていたが、やがて黙って俺の隣に腰をおろす。俺がパンターを磨く様子を見るカチューシャさんはいつのまにかまた思いつめたような表情になっていた。

 

 こうなると俺はどうにも困ってしまい、なんだかカチューシャさんのほうばかり気になってしまう。こういう浮かない表情の女性がそばにいるとなんだか家にいるような気持ちになってくるのだ。なんとかしてこの空気を打破するような気の利いたことを言えたらいいのだが、そんな器用な真似ができるならそもそもこんなよくわからない旅に出て風邪ひいて青森まできてないんだよなあと考える。

 

 マンガの主人公みたいにいろんなことを上手にできたりとか。みんなを勇気付けたりするようなことがすぐ言えたりとか。そういうことができたらなあなんて、馬鹿な無いものねだりで胸がいっぱいになってきた。

 

「何!? そわそわしてないで言いたいことがあるなら言いなさい!」

 

「うえ、いや、なんか元気ないですか」

 

 突然カチューシャさんから声をかけられ、しどろもどろになりながらなんとかそう返す。

 

「黙ってバイクふきなさい!」

 

 にべもない。結局また重苦しい空気の中で黙ってバイクを磨くことになってしまい、俺は小さくため息をつく。このちびっこ隊長はいつもこうなんだろうか。なんにせよ俺にはアキみたいに優しくしたり、ミカさんみたいにカッコいいことは言えないらしい。

 

「なんで旅なんかしてるわけ」

 

 黙って作業をしていると、今度はカチューシャさんからそんなことを聞いてきた。なんでと言われても困るんだが、たぶん姉さんに会いたかったからとかそういう言葉では納得してもらえないんだろうということがなんとなくわかる。俺はしばらく悩んだ後、だいたいそういうことなんだと思える言葉を見つけることが出来た。

 

「俺にできることが何かって思って」

 

 カチューシャさんはそれでも納得できないような表情をしてこちらを見ており、俺は困って髪をぐしゃぐしゃと押しつぶす。自分でもよくわからないことばかりだし、この旅をおえたところで結局「なんでそんなことしたの?」といろんな人に首をかしげられるような気がしている。

 

「旅自体はまだ達成できるかどうかわからないですけど。でも優勝した姉さんのことを見てたら、とにかくなにかやらないとっていう気持ちになって旅に出ようと思ったんです」

 

 照れて笑ってしまう。なんだかとても恥ずかしいことを言っている気持ちになり、先ほどよりも力をこめてパンターを磨く。

 

「……あんたはみほーしゃみたいになりたいの」

 

 その言葉に心臓が大きく跳ねる。そう考えたことは無かったが、それは姉さんの試合を見ていたときの気持ちとほぼ間違いないような気がした。みほ姉さんは自分の道を見つけて、俺もきっと旅路の先にそういうものがあると思っていた節がある。俺は苦笑してパンターを磨くための布巾をたたみ、カチューシャさんに向き直る。

 

「多分そうでした。だけどいまはなんか違うなあって」

 

「どういうこと!?」

 

 ここにきて予想外の食いつきに驚く。カチューシャさんはなんだか怒っているんだか不安なんだかよくわからない表情でこちらを見つめており、その表情には曖昧な返事は許さないという強い意志が宿っているようだった。俺は何度か呼吸に意識を向けて気分を落ちつけ、これまでのことを考える。

 

「姉さんのできることと俺のできることはきっと違うんですよ。これまで旅をしてきて、みんな自分にしかできないことがあるんだって。俺もいつかきっとそういうものが見つかると思ったんです。だからもう、姉さんみたいになりたいっていうのは違うかなって」

 

 「ひねくれたりせずにいればいつか」とは言わずにおいた。

 

 継続の連中と会う前と今では自分の気持ちが随分変わっているように思った。旅を続けられるならこのまま最後まで行きたいが、継続高校に連れられるまでの「何が何でも行かなくては」という気持ちはすでに薄れているように感じる。それよりも今こうしてプラウダ高校に厄介になっているような、旅の途中で起こるひとつひとつの出来事を大切にしていきたいと思えた。

 

 カチューシャさんの表情はいまだに晴れていないが、それでもいくらか納得はしてくれたようである。俺はもしかしたら怒ってるのかもと恐々としていたが、ノンナさんをけしかけてくる様子もないのでおそらくシベリア送りは免れたようだ。それよりも自分が偉そうなことを言ったことや、なんだかしゃべりすぎたことに照れてしまう。

 

「……まっ、カチューシャはなんだってどんなことだってできるんだから、みほーしゃなんて関係ないけどね!」

 

 突然元気を取り戻したカチューシャさんがそう叫び、俺のすぐ隣で精いっぱい胸をそらす。

 

「イチーシャも何か困ったことがあったらどんどん頼りなさい! この頼れる同志のカチューシャ様がなんでもしてあげちゃうんだから!!」

 

 俺はカチューシャさんの言葉に苦笑しつつ、ありがとうございますと礼を言う。

 

「カチューシャさんには頼れる同志が沢山いるから、みんなでやればそれこそどんなことでもできちゃいますね」

 

 そういうとカチューシャさんは輝くような笑顔を浮かべ、大きな声で「あったりまえじゃない! プラウダ高校は最強なんだから!」と宣言した。最強は俺の姉さんのどちらかだと思ったが、笑って頷いておく。

 

 

 

 

 その日の晩、俺は昼間の会話を思いだしながら、カチューシャさんはきっとすぐに胸の裡に秘めた悩みを克服するだろうと考えていた。

 

 

 カチューシャさんのまわりには彼女を支える多くの人たちがいる。ノンナさん、クラーラさん、そして多くの後輩たち。彼女たちを率いて進むことで、カチューシャさん自身も成長する。何故か俺はそう確信していた。

 

 それは不安に揺らいでいたカチューシャさんが最後に見せた笑顔のせいだと思う。

 

 

 

 おまけ

 

 七月一四日。

 

 西住一意は成功。カチューシャと同じように悩みの中に立つ彼ならばと思いましたが、予想以上の働きをしてくれたようです。

 

 カチューシャの悩みはまだ完全に解決したとは言い難いが、それでも時間の問題といえるでしょう。夕食の時には食欲も取戻し、満腹になったのか寝つきも非常に良かった為、西住一意には感謝しなければなりません。

 

 明日は帰港の日。

 

 




なんだかいつまでも気に入らなくてずいぶん長くかかってしまいました。
待っていてくださった方、大変お待たせして申し訳ありません。
これからもがんばります。


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第八話 『青森~大洗 西住一意』

 旅は続く。

 

 今朝方プラウダ高校の面々と別れた後、俺の旅はまたひとりになった。

 

 じめじめした夏を走りながら俺は朝のことを思い出す。別れの時にはみな俺のことを激励してくれ、何故かノンナさんからは頭を撫でられて「よくやりましたね」と褒められた。格納庫での会話といい、俺のなかでのあのひとはよくわからないひとということになる。戦車道をやるひとはやっぱり変なひとばっかりだ。

 

 カチューシャさんからは「私の出る試合は全部見るように!」ときつく言い含められた。「カチューシャ様がいまよりもっと偉大になるところをすぐそばで見せてあげる!」ということだったので、楽しみにしていますと言うと「西住流なんてけちょんけちょんにしちゃうんだから!」と言われてこのクソガキと思った。

 

 俺は笑顔で手を振り、そして振り返される。

 

 ここから先は全く想定もしていなかった道だ。最初に立てたコースは今では全く役に立たない。俺は途中で何度も地図を広げ、そして次の街にたどり着くたびに期待で胸が膨らむのを感じた。

 

 青森、岩手、宮城。最短の距離を行くならきっとそうなのだろう。だけどどうなるかはわからないし、どうなってもいいやと思う。幸いながら夏休みはまだまだ終わらない。途中でタイヤがパンクするのも良い。もしかしたらまたどこかの誰かの厄介になるかも。とにかく美味しいものをたくさん食べるのがいいと思ったからそうする。

 

 わざと大回りして三陸海岸沿いを走る。海沿いに走れば水平線に沿ってジグザグの大地が見えるかと思ったが、どうやらそういうものではないらしい。だががっかりすることはなく、旅路の合間に新鮮な魚介類に舌鼓を打つ。良く晴れた日に鳴き砂の浜辺を歩き、潮風を全身に感じながら遠く高いところを飛ぶカモメを眺めた。

 

 堤防で釣りをしてたくさんの魚を釣ったこともあった。近くの海の家で貸してくれた釣竿でサビキ釣りをやり、びっくりするほどのイワシが釣れる。隣にミッコがいたらずいぶん喜んだだろう。俺はそれを近くの民宿で揚げてもらい、アキがそうしてくれたようにレモンを絞って食べた。

 

 仙台でたらふく牛タンを食べ、残金が軽くなって冷や汗をかく。思う存分楽しむのはいいが、この後も旅は続くし、あまり減るとそのぶん母さんからの叱責が大きくなるような気がする。

 

 ふと、旅が終わったらどうしようかと考えた。愚かなことだが、旅に出た時はそれが終わったら完全無欠のハッピーエンドが訪れてファンファーレがなりまくり、やったー! と叫んでエンドロールが流れるような気持ちでいた気がする。だけどいまはこれからのことを考えている。

 

 母さんに会って何を話せば良いのだろう。まずは謝ればいいんだろうか。答えは出ない。

 

 仙台を抜けて福島にたどり着いたころ、俺はまた体調を崩して立ち止まることになった。

 

 今度は夜風にあたったとかではなく、ただの疲労による発熱のようだ。俺はそのとき山中で野宿をしていた最中で、目が覚めてテントの中で体調の悪化を覚えた。

 

 どうしようもなく不安な気持ちになる。今回は意識を失うような高熱ではないが、それだけに寂しさが募っていく。今回は継続の連中はいない。俺はひとりでこの状況を脱しなければならない。

 

 いくつめかの街で買っておいた風邪薬を飲み、チョコレートを長い時間をかけて舐める。食欲は湧かないがとにかく栄養は摂らなければならない。

 

 もしこのまま悪化したらどうしようと考えた。テントの天井を見つめながら、もしかしたら次に目が覚めた時は意識がもうろうとして何も判断できず、それきり起き上がれずに死んでしまうかもと思う。こんなことならもうちょっと母さんとの交渉を粘って携帯を買ってもらえばよかったとため息を吐いた。うまくいかないものだ。

 

 眠りに落ちたときは底に落ちるようだった。眠っている最中、継続の戦車に乗ってカチューシャさんに追いかけられる夢を見た。あと、女の子として生まれた俺が母さんと二人の姉さんと一緒に戦車に乗って出かける夢も見た。これは少々気味が悪かった。

 

 

 

 目が覚めてテントから抜け出すと、夜明け前の白い空に薄靄がかかっている。

 

 俺はすっかり体調が回復したことにも気が付かないまま、夢の内容を思って一人で笑う。腹が痛くなるほど笑ったのは久しぶりだった。

 

 

 

 走り出すと雨が降り始め、やがて雷が鳴って豪雨になった。

 

 俺はリュックの中にしまっていたレインコートを二枚重ねにして着込み、誰もいない道を走りながら何度も水分補給を繰り返す。レインコートの下はまるでずぶ濡れになったような汗だ。熱中症で倒れると本当につらいと教えてくれたのは、どこかの街で会った自転車乗りのお兄さんだった。

 

 前も見えないような雨の中をひたすらに走る。風景を楽しむ余裕なんてないし、頭の中でいろいろなことを考え始めた。

 

 姉さんたちは今頃どうしているだろう。まほ姉さんは朝起きてもぬけの殻になった俺の部屋を見て、みほ姉さんはそこから連絡を受けて俺がいなくなったことを知るだろうか。心配しないでくれと書いたのだから心配してほしくないが、まあ無理だろう。姉さんにあったらそのまま実家へ強制連行される可能性も視野に入れる必要があるなと考えた。

 

 この旅で何度目かもわからないぐらいみほ姉さんのことを思う。

 

 カチューシャさんと話したことで、ずっと俺の心の中に溜まっていたものの正体がわかったような気がする。

 

 結局俺は寂しかっただけだったのだなと笑う。いや、妬ましかったと言ってもいいかもしれない。全てを失って家から出て行った姉さんが新しい土地で素晴らしい友人に囲まれて、笑顔で優勝旗を掲げていた姿にひねくれた嫉妬を覚えていた。

 

 だけどいま旅が、ひととの出会いが俺の中からその気持ちをすっかり取り除いてくれた。

 

 いつしか雨があがり、雲の切れ目から太陽が顔を出す。広い草原に続く一本の道に点々と天使の梯子のような陽の光がさした。俺はレインコートを脱いでTシャツだけになり、全身に風を感じながらまた走り出す。

 

 果てしない道の向こうに虹が現れる。

 

 

 

 あっけないほど唐突に茨城県の標識が現れ、俺はこれといった感慨もなく目的地にたどり着いた。

 

 数日前に姉さんの住むアパートに向けて「そちらへ行きます」という手紙を出したからそこまで驚かれないとは思うのだが、俺はまたこれで姉さんに会いに行ったら母さんとまほ姉さんが待ち構えていたりしたら笑えないと思う。とはいえ、よくよく考えてみればみほ姉さんに限ってそれはないだろうなとも思う。

 

 茨城に入っても海は変わらない。俺は特に何も考えずに海沿いを走りながら、いくつもの街を抜けていく。

 

 茨城県に入ったのは十四時ごろだったが、渋滞に巻き込まれて大洗についたのは十六時ごろになってしまった。港につくとどう考えても異彩を放つ巨大な空母が停泊しており、見慣れたつもりでもやはりその異様さに驚いてしまう。

 

 大洗の学園艦は黒森峰よりはかなり小さいだろうか。それでも周囲の船と比べれば鷹と雀のような差があり、港全体に大きな影を落としている。ここにみほ姉さんがいるんだと思うとなんだか怖くなってきた。やっぱり迷惑じゃないかとか、いや迷惑に決まっているだろうという気持ちで胸が侵されていく。

 

 どれほど帰ろうかと思ったが、なんとか勇気を振り絞ってパンターを押しながらタラップを登った。

 

 登り切った先にはセーラー服を着た少女がいて、俺のことをいぶかしげに見つめて「乗船許可証はお持ちですか?」と尋ねてきた。

 

 俺は船内に姉がいて彼女に会いに来たのだが、乗船の許可はもらえないかと尋ねる。セーラー服の少女はいぶかしげにしていたが、俺が財布から学生証を出して西住みほの弟だと名乗ると顔をまじまじ見た後で信じてくれた。女顔でどうも気に食う顔ではないが、たまには役に立つものだと感じる。彼女は快く乗船許可をくれた上で、大洗女子学園の生徒にも引き合わせてくれた。

 

 園みどり子さん。大洗女子では風紀委員をしており、大洗の戦車チームではルノーに乗り込んでともに戦ったと説明された。もちろん全部知っている。

 

「はじめまして。俺は西住一意といいます」

 

「……普通なら西住隊長も呼んで身元の確認をするんだけど、これだけ似てるとそんな必要ないわね」

 

 彼女はぽかんとした表情でそんなことを言い、俺を快く案内してくれた。

 

 船体を登り、甲板に出る。そこには地上と変わらないように見える街並みが広がっていて、やっぱり地上と変わらない潮風が漂っていた。少しだけ風が強いかもしれない。

 

 園さんにこれまでの旅の話をして呆れられたりしながら、大洗女子学園の街並みを歩く。いつのまにか西陽が差しつつあって、俺は予想外に時間を食ってしまったのだなと後悔する。みほ姉さんはどうしているでしょうかと尋ねると、いまごろは戦車道の練習が終わるころで、おそらく学校へ行けば会うことが出来ると言われた。

 

「姉さんはどうですか。友達とか、楽しくやっているんでしょうか」

 

「あなたお母さんみたいなこときくわね。もちろん私たちの隊長だもの。みんなに慕われているし、今日もきっとあんこうチームの仲間たちとどこか寄り道して帰るんじゃないかしら。風紀委員としてはあんまり褒められたことじゃないけど」

 

 その言葉に安心するが、俺はどこかそわそわして落ち着かない。瞼の裏に暗い顔で家を出て行った姉さんの姿が浮かぶ。黒森峰で副隊長として活躍しながらも、思いつめたような疲れた表情を浮かべていた姉さんを思う。胸の周りに毒虫が這い回るようにぞわぞわする。園さんと会話をしながら夕暮の街を歩きつつ、俺の気持ちはどこか遠いところにあるようだった。

 

 やがて大洗女子学園が見えてきた。

 

「ほら、ここが私たちの学校よ、って、何後ずさってるのよ」

 

 気が付くと俺は学園の前から少しずつ離れて行っていた。ここまできてなんだか逃げ出したくなっている。園さんからみほ姉さんが元気なことは聞けたし、俺はこのまま実家に向けて走り出せばいいじゃないかと思った。

 

「いや、なんか俺帰ります。もう大丈夫です」

 

「はあー!? あなた何言ってるの!? せっかくここまで案内してあげたんだからさっさときなさい!」

 

 無理です無理ですとうめきながらも園さんに腕をひかれ、じりじりと校門に近づいていく。

 

「ほら! 西住さんいるわよ!」

 

 いやだいやだと抵抗しているとふとそんなことを言われ、いつの間にか校門の向こうに女子生徒の集団がいるのが見えた。その中には確かに見慣れた栗色の髪がある。俺はすぐさま園さんを抱えて校門に身を隠す。

 

「ちょ! ちょっとあなた非常識じゃない!?」

 

 俺は校門の陰から学校を覗き見ながらその身を硬直させてしまっていた。しばらくして腕の中で園さんがもがくのを感じ、慌てて腕を離す。

 

「まったくもう、ここまできてなんだって……」

 

 ふと園さんが俺の顔を見て言い淀み、それで俺も園さんのことを見つめ返す。その拍子になにかが零れ落ちて俺の頬を濡らした。

 

「……ほら、ここまできたんだから来なさい」

 

 俺は園さんに優しく腕を引かれ、やがて力なく歩き出した。校門をくぐりぬけてグラウンドを歩く。少し離れたところで「……そどこだ」「ほんとだ! 誰か連れてるよ!? もしかして彼氏」「あら、追い抜かれちゃいましたねぇ」と声が聞こえる。俺はどうにも涙を止めることができず、それでも顔をあげて前をみる。

 

「え!? みぽりんがふたり……」

 

「どっ、ドッペルゲンガーぜよ!」

 

「すわ、ロームルスとレムスか!?」

 

 まわりの女子が口々に騒ぎ出す中、姉さんは驚いて口に手を当てたまま固まっている。

 

 俺は園さんに手を引かれたまま歩き、そして最後には背中を押されて姉さんの前に立たされた。その拍子にパンターを支えていた手を放してしまい、背後でパンターが音を立てて倒れる。

 

 俺の両目からは依然として涙がこぼれつづけ、やっと会えた姉さんには何を言えばいいかわからないままだ。だけど俺の目の前で硬直する姉さんをみて、やがてひとりでに口が動き始めた。

 

「姉さん」

 

 嗚咽交じりで上手く言葉を発することができない。だが何を言っているかは伝わったようで、みほ姉さんの周囲がざわつくのを聞いた。

 

「ずっと、ずっと旅をしてきたんだ。姉さんに会いたくて、熊本から。だけど俺、さっきそこで園さんに連れられて、顔が似てるって、いや、その、校門から姉さんのことをみたら、本当によかったって。姉さんが新しい学校で楽しそうで、家を、家を出るときにじゃあねって」

 

 それ以上は言葉にならなかった。

 

 俺の名を呼ぶ声が聞こえて、それからみほ姉さんに抱きしめられた。いつも優しいみほ姉さんからは信じられないような強い力で抱きしめられ、俺はうめくように声を出てしまう。心地よい香りがして、それから耳元に「ありがとう、ありがとう」と絞り出すような声が届く。

 

 俺はこの旅に出てよかった、と心の底からそう思っていた。みほ姉さんに抱きしめられ、やがて周りに人が集まってくる。何も気にならなかった。みほ姉さんに会えてよかった。体調を崩してもあきらめずに旅を続けてよかった。俺はここまでこの旅を通じていろんな大切なものを手にすることができた。

 

 涙は止まることなく、俺は姉さんのことを強く抱きしめ返す。

 

 西陽がグラウンドに長い影をひいた。

 

 




ここからはタイトル詐欺になります。


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第九話 『大洗 小休止一』

終わってなくて、しばらく旅もしません。


 ふと、昔読んだ本の一節を思い出した。

 

 昔はわしも若かった。

 一人で旅をして道に迷った。

 人に会えたとき、自分が豊かになった気がした。

 人は人にとって喜びなのだ。

 

 結局旅をするというのはそういうことで、俺にとってはミカさんに言われたことを再確認するだけのことだった。

 

 俺は朝の陽ざしの中でパンターを綺麗に磨きながら、これからどういうルートで戻るか思いを馳せる。

 

 帰りは適当にフェリーを乗り継いで楽に帰ればいいやと思っていたが、まだ八月も十日を過ぎた頃だしどうせなら帰りもパンターに乗ろうと思った。

 

「そうしてるとお父さんにそっくりだね」

 

 声をかけられて振り返ると、太陽をさえぎるようにしてみほ姉さんが立っていた。俺は笑い、俺たちは父親似だからねと返す。

 

「朝ごはんできたから食べよう」

 

「みほ姉さん料理できるんだ。すごい」

 

「料理ぐらいできるよぅ」

 

 揶揄したつもりはなかったのだが、そう聞こえてしまったようだ。姉さんは少し不満そうな表情をしていたが、俺が美味しい美味しいと声をあげるとすぐに嬉しそうに笑ってくれる。ベーコンエッグとキャベツの千切り。油揚げとネギのお味噌汁。みほ姉さんが知っていたのかどうかはわからないが、俺が一番好きな朝ごはんの取り合わせだった。

 

 姉さんの部屋は女の子らしい柔らかな雰囲気のする部屋で、実家は質素な日本建築だから本当はこういう部屋に住みたかったんだろうなと思う。姉さんの好きなぼこられ熊のぬいぐるみがベッドの周りにたくさん並べられている。実家にはなんのためかよくわからないパンツァーファウストが置かれていたりしたが、そういうところまで一緒じゃなくてよかったと思う。

 

 そのまま視線を移していくと、勉強机の前に張られたコルクボードに何枚もの写真が貼られているのが見える。戦車道のチームメイトたちと撮ったものだろう。写真の中のみほ姉さんは幸せそうに笑っていて、俺も隠しきれずに笑顔になる。それに気づいた姉さんから「よそみしないの!」と声をかけられ、また食事に戻った。

 

「戦車道のひとたち、みんな面白いひとばっかりだね」

 

 そう話しかけると「個性的だよね」と返事が返ってくる。確かにあのカバさんチームとアリクイさんチームの面々は個性的と言って差し支えないだろう。昨日も散々歴史やゲームの話をふられ、あまり詳しくない俺はひたすらわたわたするばかりだった。

 

 昨日はあれからとても賑やかな一日になった。

 

 

 

 あれからしばらくして俺と姉さんが落ち着くと、すぐに小柄で活発そうなひとが寄ってきて「よし! じゃあお疲れ会しよう!」と言って背中を叩かれた。

 

「熊本から大洗まで来るなんてすごい根性だよ! バレーとか好き!?」

 

「と、得意というほどじゃないです……」

 

「いきなりバレーの勧誘をするな! 弟が困っているだろう」

 

 激しい押しに戸惑っていると片眼鏡の知的な雰囲気の女性が現れて助けてくれる。俺がお礼を言うと「ふん。当然のことをしたまでだ」とクールに返された。かっこいい。

 

「桃ちゃん、さっきまでもらい泣きしてたのにね」

 

「かーしまー、あんまりかっこつけんなよー」

 

「桃ちゃんとよぶな! たまにはかっこつけさせてください!」

 

 あんまりかっこいいひとではないらしい。

 

 それを皮きりにいろんな人が周囲に集まってきて色々なことを話しかけてくる。全員が大洗の戦車チームのひとたちで、なかには全国大会のモニターで見知った顔もあった。

 

「このカブで千三百キロ走ってくるなんてすごいなあ。カブだからこそかな」

 

「ビルから落っことしても壊れないんだから安心だよね」

 

「すごーい。西住隊長にそっくりだね」

 

「お姉さんのほうはこーんな尖った目つきだったのにね!」

 

「……西住流に後退という言葉はない」

 

「桂利奈似てるー!」

 

「まさかこんな小さいバイクで旅とは。まるで伊能忠敬」

 

「それは徒歩だろう。三蔵法師」

 

「チェ・ゲバラぜよ」

 

「それだ!」

 

「それか……?」

 

 ハイスピードで繰り広げられる会話の流転に目を回していると、目の前で姉さんがくすくすと笑う。

 

「本当によくきたね。手紙はもらってたけど、実際に会うのは久しぶりだしなんだか逞しくなってたから、びっくりしちゃった」

 

 俺はいつの間にか地面にへたりこんでいて、姉さんから差し出された手をおずおずと掴んで立ち上がる。立ち上がった時に、今年の初めに姉さんと並んで立った時と目線が違うことに気が付いた。

 

「一意、背が伸びたね。大人に近づいてるんだなぁ」

 

 そう言ってみほ姉さんが笑う。目線だけじゃなくて、あのときとはすべてが違う。場所も、表情も。

 

「みほ姉さんも今年のはじめとは全然違うよ」

 

「えぇ、そうかなぁ」

 

 自分の頭の天辺をかいぐりするみほ姉さんを見ながら、そういう意味じゃないんだけどなと思う。だけどきっと俺が指摘するまでもないようなことだ。

 

 いつのまにかみほ姉さんを囲むように四人の女性が立っていて、タイミングを見計らったように話しかけてきた。

 

「みぽりん! ふたりの世界も良いけどはやく紹介してっ!」

 

「そうですよぉ! 西住殿、弟がいるなんて全然聞いてないです!」

 

「いけませんよみなさん。感動の再会に水を差しては」

 

「一卵性双生児かと思うほど似てるな……。日焼けと髪の長さがないとわからん」

 

「あの、えっと、はじめまして。西住一意です」

 

 四人がそれぞれ名乗り、試合のモニターで何度も見たあんこうチームの四人だと気付く。それから次々に他のチームも挨拶をしてくれる。レオポン、カモ、アヒル、カメ、うさぎ、アリクイ、カバ。自己紹介だけでも個性豊かなひとの集まりだとわかる。というかカバさんチームとアリクイさんチームのひとたちは絶対本名じゃないと思うんだが、自己紹介の時もそれで済ませるのか……。

 

「んじゃーせっかくだし、生徒会室であんこう鍋でもやろうか」

 

 そう生徒会長が口にしたことで、その日はそのまま宴会になった。あんこうって冬じゃないのかなと思ったが、どうやら学園艦の船体内でいつも養殖されているらしい。よくわからないけど力を入れるところを間違えているような気がする。

 

 

 

「俺さ」

 

 昨日のことを思い出していた俺がふと声を発し、みほ姉さんがこちらを見る。

 

「昨日五十鈴さんに『何故、なぜその道を選んだのですか。その道に何があったのですか』って詰められたのめちゃくちゃ怖かったよ」

 

 遠い目をしてそう呟くと、笑いをこらえきれぬようにみほ姉さんが口元を抑えて俯く。昨日の宴会の最中に俺は五十鈴華さんにつかまり、まるで飲み屋でからまれるようにひたすら「道とは」という問いにさらされた。何がそんなに彼女の琴線に触れたのかはわからなかったが、彼女は俺に哲学的な問答を繰り返した。

 

「最後には納得してくれたみたいで良かったけど、あんなに納得してくれないひと初めて会った」

 

「は、華さん、一本気なひとだから」

 

 それって女の人に使う言葉なのかなとは聞かずにおいた。一目で個性的なひとだけが突き抜けてるわけではない。大洗女子学園の深淵を見た気持だった。

 

「姉さんも個性的な人に囲まれて変わっていくんだなあ」

 

「えぇ、そんなことないよ」

 

「でもプラウダ戦でいきなり踊りだしたよね」

 

 そういうと姉さんは「あれのことは忘れて!」と猛烈に抗議してきたが、あれを忘れるのは無理ではないだろうか。あれはすごかった。会場で見ていた俺も言葉を失い、ようやく試合が終わってから隣を見ると母さんはいまだに固まったままだった。俺には分かる。その後なんとか正気を取り戻して厳しいことを言っていたが、あれはまだまだ動揺していた。

 

 まだ不満そうな姉さんをよそに食事を終えて洗い物を済ませる。姉さんは今日も戦車道の練習があるということで、出かける支度など大変だろうから朝食の片づけは俺が請け負った。手を洗ってリビングに戻ると姉さんがにまにまといやらしい表情をしている。

 

「どうしたの?」

 

「お姉ちゃんに『一意がきたよ。元気そう』ってメールしたら、『たっぷり話があると伝えておいてくれ』だって」

 

「はー!? みほーしゃったらばっかじゃないの! なんでよりによってまほーしゃにそんなこと言っちゃうわけ!?」

 

 よにもよってこんな仕返しをされるとは予想外だった。予想外すぎてたまに心の中でやってるカチューシャ文体が出てしまうほどだった。みほ姉さんは仕返しができてうれしそうにしているが、俺はこの後家に帰るのが猛烈に憂鬱になってくる。このまま一生旅に出てしまおうかという気持ちになる。

 

「一意、本当に良くしてもらったんだね。グループトークで昨日の写真あげたらみんなからたくさん反応があったよ」

 

 ごまかされたような気持ちで姉さんから差し出された携帯を見ると、そこにはサンダースのひとたちやカチューシャさんからのメッセージが並んでいた。

 

『Congratulations! 本当にやったのね! たくさんみほに甘えるのよって言っておいて!』

 

『このカチューシャ様の大ファンなら当たり前だけど、褒めてやらなくもないわ』

 

 大ファンじゃねえし、甘えねえよ! と叫びたくなるのをこらえるのが大変だった。

 

「たくさん甘えていいよ!」

 

「甘えねえよ!」

 

 結局叫んでしまった。みほ姉さんは「えぇ~」とか言ってるが、高校生にもなった男が姉に甘えてたら絵面としてはあまりいいものではないと思う。

 

「他にもダージリンさんとかアンチョビさんがうちにも来いって言われてるよ。一意ったらモテモテだね」

 

「もういい! もうその話いい! 早く戦車道の練習いけばいい!」

 

 感動の再会から一夜明け、すでに俺は家族って本当に面倒だなという気持ちになっていた。昔からこうやって姉さんは俺をからかうところがあり、ここにまほ姉さんまで加わると天然で乗っかってきて収集がつかなくなる。

 

 俺はほらほらと姉さんを急かして支度をさせ、一緒に玄関を出た。パンターの整備をしていたときまではまだ朝の冷気がすこし残っていたが、いまではすっかり太陽が昇って激しい太陽の照り返しが目をつく。俺と姉さんはふたりそろってがくっと肩を落としてあーっと声をあげ、全く同じように息を吐いてまた背筋を伸ばす。

 

「一意は今日どうするの?」

 

 アパートの階段を降りながら姉さんがそう尋ねてくる。そういえば全く考えていなかったが、姉さんが戦車道の練習に行くなら大洗の観光にでも行こうかと考えていた。

 

「特に何も用事がないならうちの学校を案内するよ」

 

「それって大丈夫なのかな。俺って部外者だし」

 

 父兄だから大丈夫だよ! 気にしない! と言って前を歩く姉さんは既に俺を学校へ連れて行くことに決めたようだ。俺は苦笑し、「兄でも父でもないんだけど……」とぼやく。

 

 まるで昔に戻ったようだと感じる。小さい頃はよくこうやって姉さんの思い付きが俺とまほ姉さんを引っ張っていったことを思い出す。

 

 何も難しいことなんかなくて、俺たちはいつもあの頃に戻れるんだと思う。次は姉さんと三人になれる。

 

 俺はなんだかうれしくなり、笑いながら姉さんの後をついていった。

 

 

 




少し長く。

そもそも継続~プラウダの流れは青森から大洗を目指すためという目的もあって、それというのも途中に栃木をはさめるからでした。

これを思いついたときはヨッシャと思ったものでしたが、そういえば栃木って内陸県だよなと考え、アンツィオの母港ってどこなんだと調べたら「清水港」と出ました。おかしい。

そんなわけで当初はプラウダ~アンツィオ~大洗。それから帰路という予定を立てていたものの、もういいやみたいになってさっさと大洗に向ってもらいました。一意君は栃木で餃子とか食べたと思います。

今後はすこし大洗に滞在し、それから帰路につきたいと考えています。

もうしばらくお付き合いください。


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第十話 『大洗 小休止二』

小休止、短い話を三話やるつもりです
明日の7時、12時でそれぞれ一本ずつ更新する予定です


 『畳の宇宙』

 

 いぐさの一本一本を数えていれば宇宙が見えるような思いだ。

 

 幾重にも折り重ねられたいぐさはどこまでも終わりなく、俺はついに千九百の大台まで数えることが出来た。俺は姿勢が悪いから正座し続けていると足がしびれてしまう。なんとか気を紛らわせるためにいつからか畳の網目を数え始めるようになったのである。

 

 単純作業や毎日の習慣には哲学が宿ると誰かが言っていたような気がするが、俺も畳の網目を数えていると次第に意識が遠い場所へふよふよと飛んで行き、まるで天の川銀河と平行に飛んでいるような気持ちになってしまう。網目はどこまでも続くのだ。千九百二十七。千九百二十八。千九百……。

 

「あのような行い。西住流の子として恥を知りなさい」

 

 どこかで誰かが身体をびくつかせたような気がする。どこかで誰かが悲しそうな顔をしているようだ。

 

 とにかく、俺には関係のないことだ。俺は片手を畳におき、引き続き爪でたぐるようにしていぐさの網目を数えはじめる。これは邪道である。いぐさが痛んでしまうから本来ならばあまりやりたくないが、せっかく二千に届きそうなほど数えることができたのだからとなりふり構っていられなくなる。

 

「あなたも、西住流の名を継ぐ者なのよ」

 

 誰かがしゃべっている。

 

「西住流は何があっても前へ進む流派。強き事、勝つ事を尊ぶのが伝統」

 

 誰かがしゃべっている。

 

「母さん。でも、死んじゃうかもしれなかったんだよ」

 

 俺がしゃべっている。

 

 俺に向けられた視線は突き刺さりそうなほど鋭かった。

 

「一意、これは戦車道の話よ。黙っていなさい」

 

 宇宙はどこまでも広い。俺はこの畳を宇宙として見ることが出来る。

 

 いつのまにか姉さんがどこかへいなくなってしまった。

 

 

 

 『うちは全員西住ですが?』

 

 

 

 姉さんと二人で道を歩いていたところ、後ろから「西住殿~!」と声をかけられて二人して振り返る。

 

「あ、あぅ」

 

「優花里さん、ふたりとも西住だから……」

 

「もしもし、西住さんいますか? だね」

 

「お母さんが『うちは全員西住ですが』って言ってたの怖かったよね」

 

「西住流家元に言われたらもう何も言えません……」

 

 昔はよく姉さんたちの戦車道仲間が家に電話をかけてきてはそれで自爆していたような気がする。あのころは幼いこともあって携帯ももっていなかったし、俺やみほ姉さんならともかく、母さんやまほ姉さんが出ると『西住ですが?』になってしまうのでかわいそうだった。

 

「というか秋山さんはなんでみほ姉さんのこと西住で呼んでるんですか?」

 

「うぇえ!? いや、そのぅ、私などが西住殿を名前で呼ぶなんて畏れ多いというか、今までずっと西住殿と呼んでいたから慣れてしまったというか……」

 

 話しをききながら女の子同士っていろいろ難しいんだなあと思っていたが、隣を見るとみほ姉さんがなんとなくむずがゆそうな顔をしているのに気が付く。その顔をみながらこういうところはあんまり変わっていないんだと少し笑う。

 

「でもみほ姉さんは名前で呼んでもらいたがってますよ」

 

「あっ、い、一意!」

 

 顔を真っ赤にした姉さんに怒られながらけらけらと笑う。秋山さんもあわあわするばかりでなにもできず、俺は朝の仕返しを出来た気分だ。最後に勝つのは末っ子だなとほくそ笑む。

 

「に、西住殿がそうおっしゃるのでしたら私は!」

 

 俺が完全勝利に震えていたところ、意を決したような秋山さんの声がそれを止めさせた。姉さんもびっくりして目を丸くしながら秋山さんを見ている。

 

「えっと、私も、優花里さんのことは大切な友達だと思ってるから」

 

 そういって姉さんはゆっくりと二度息を吸い、秋山さんのことをまっすぐに見つめる。

 

「名前で呼んでもらえると、すごく嬉しいよ」

 

「っ、ぅ~! みほ殿!」

 

「はい! 優花里さん!」

 

「なんだよこれは」

 

 姉と友人の美しい友情を目の前で見せられ、なんだよこれはという気持ちになっていた。これがひとをからかった人間の報いなのかという言葉が胸中に泡のように浮かび、そのままやはり泡のように消えていった。

 

 

 

『素敵なカバさん』

 

 

 

 大洗の練習を見学させてもらい、その後にあんこうチームの面々とともにお昼を食べる。

 

「それにしてもみぽりんと一意君、本当によく似てるよね」

 

 並んでサンドイッチを食べる俺と姉さんを見て武部さんがしみじみとした声をあげた。

 

「確かに、初めて一意殿をみた時は驚きました」

 

「おりょうさんなど、ドッペルゲンガーかと思っていましたね」

 

 改めてそう言われると色々と思い出すことがある。中学時代には女顔とからかわれたりして随分腹を立てたものだが、最近はそういうことも少なくなった。

 

「俺はちゃんと声変わりしたので、声を出すとすぐわかるんですけどね。もう少ししたら髭も生えるんじゃないかな」

 

「それ良くないよ! せっかく綺麗な顔してるんだから絶対脱毛しなきゃ!」

 

 脱毛!

 

 男に脱毛させようというのはかなり無茶な要求のように思える。最近は男でも化粧水を付けたり脛毛を脱毛したりするようだが、俺にはあまり関係のないことだと思っていた。

 

「自分の長所を伸ばしていかなきゃね」

 

「しっかり女装させたら沙織よりも美人になるかもな」

 

「麻子ひどい!」

 

 麻子さんの毒舌に俺自身もなんとなく複雑な心境になる。俺も男に生まれた以上ロンメル将軍のようなダンディな男になりたいとつくづく思っているのだが。

 

 そう意見を口にしたところ、姉さんからこらえきれず失笑が漏れたのを見て猛烈に機嫌が悪くなった。

 

 

 

 午後の練習がはじまってからも憮然として戦車を眺めていると、邪魔するよ、と声がしてすぐ隣にエルヴィンさんが腰かける。いまだに本名を教えてもらっていないんだが、もしかして自分でも忘れているんだろうか。

 

「どうした少年。ご機嫌斜めかな」

 

 うわなんだこのひとかっこいいな。こんなかっこいい第一声を放つ人は生まれて初めてなのでびっくりしてしまう。俺はそのあまりの先輩風におそれをなし、とつとつと先ほどの理不尽をエルヴィンさんに相談し始める。

 

「なるほど。それは確かに隊長も配慮が足りないかもしれないな」

 

「でしょう。姉さんは昔から俺を侮るんですよ」

 

「だが君も」

 

 俺の言葉を遮るようにしてエルヴィンさんが言葉を発する。俺がハッとして彼女の方を見ると真摯なまなざしでじっと見つめ返された。

 

「それぐらいのことで感情を表に出しているようではまだまだだな」

 

 肩を掴まれ、熱っぽい視線で見返される。

 

「いいか、自分の人生は、……自分で演出する。そうだろ?」

 

「ろっ、ロンメル将軍!」

 

「決まったな」

 

「決まったぜよ」

 

「そうかぁ?」

 

 いつの間にか周囲を取り囲んでいたカバさんチームの面々からかわるがわる声がかかる。うろたえているうちに四人からかわるがわる背中をどやされ頭を撫でられ、腐るな腐るなと声をかけられた。

 

「素晴らしいことじゃないか。長く離れていた家族なのに会えば昔と同じように接することが出来る」

 

 左衛門佐さんが隣にあぐらをかいて座り、呵呵と笑ってまた俺の背中をたたいた。それからはまたいつも通りの歴史談義が始まり、今回は兄弟編ということで最終的にはアベルとカインまで話が飛んでしまう。

 

 はっきり言って話の半分ぐらいは何を言っているのかわけがわからないんだが、それでも彼女たちの会話の軽妙さに笑顔があふれた。

 

 遠くに姉さんの指揮するⅣ号が見え、先ほどの言葉を考える。

 

「そんなもんかな」

 

 大洗女子チームとの午後はそんな風にして過ぎていった。

 

 

 

 

 



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第十一話 『大洗 小休止三 あるいは最初で最後の戦車道』

 戦車道の練習を見学しに行ったところ、コーチとして来ていた蝶野さんに見つかった。

 

「あっ! 家出息子!」

 

「置手紙してるから家出じゃないです」

 

 犯行予告をしたので泥棒じゃないですみたいなことを言ってしまったような気がする。旅の途中で少しだけ姉さんのところに泊めてもらっていると説明すると、じゃああなたも練習に参加してみなさい! と何がじゃあで繋がるのかよくわからないことを言われた。

 

「戦車には乗れるし、よく試合を見てるから指示ぐらい出せるでしょう? Try!」

 

 トライじゃないよ。

 

「それいーねー。西住ちゃんチーム対弟くんチームやりゃ良いじゃん」

 

「姉弟対決だにゃあ」

 

「西住殿、姉の凄さを見せつけるチャンスでありますよ!」

 

 なんだか予想外の展開に目を白黒させる俺を放置し、いつの間にかチーム分けまで決まっていた。

 

 まずあんこう、カモ、うさぎ、カバのみほチーム。対してカメ、アヒル、レオポン、アリクイが一意チームということになったようだ。今回は生徒会長さんが審判に加わることになったらしく、代わりにヘッツァーの車長を俺がやるということらしい。

 

 それぞれのチームに分かれて作戦会議に移り、俺は早速河嶋さんから「やるからには勝つぞ!」と激励を受けた。

 

 俺はどうも気乗りしないまま長机の短辺側の椅子に腰かける。

 

「で、作戦はどうするの。隊長さん」

 

 ぼうっとしていると自動車部のホシノさんからそう尋ねられ、なんだか委縮してしまった。いきなり戦車道をやってみることになって隊長なんて、おかしなことになったものだ。というかどうも旅を始めてから女のひとに囲まれることが多くなって緊張しっぱなしなんだが、今回はこれまでの比じゃないなと改めて思う。

 

「あんまり緊張しないでいいからね。模擬戦なんだから」

 

「そうそう。お姉さんたちの胸を借りるつもりでどーんとぶつかっちゃいなって」

 

 ホシノさんに続いて小山さん、ナカジマさんからそう励まされる。

 

「そうだよ! 男子が戦車に乗る機会なんてないんだから楽しまなくちゃ!」

 

「ついでに西住隊長もびっくりさせちゃえばいいのよ」

 

「ジャイアントキリングしちゃおう!」

 

 次いでバレー部の一年三人からもそう声をかけられ、俺の肚も決まる。深く息を吸ってから作戦を話す。

 

 最初はふむふむと頷いていた彼女らが次第にひきつったような表情になり、最後には「やっぱり西住流ってちょっとおかしい」と呟いたのを見て、俺は満足げに笑う。

 

「じゃあ、頑張りましょう!」

 

「弟くんもあれやろうよあれ」

 

 あれというと、あれだろうか。ちょっと気恥ずかしいが、それでやる気が出るならと息を吸う。

 

「では、パンツァーフォー!」

 

 

 

 炎天下の車内はサウナのようになっているんじゃないかと思ったが、予想とは裏腹にひんやりとした冷気と硬質な鉄の匂いに包まれていた。これも特殊なカーボンによるものなのだろうか。俺は小山さんと河嶋さんの後に続いて戦車に乗り込み、車長の椅子に座る。

 

 ここまでくると不思議と緊張はしなかった。車長の椅子から見上げる空に巨大な入道雲が見える。俺はいつかどこかでこの風景を見たことがあるような気がした。

 

「それじゃあ一意君」

 

 小山さんがそう声をかけてきて、俺は無言でうなずいた。エンジンがかかり、鈍い駆動音が響く。

 

 ゆっくりと戦車が動き出した瞬間、俺は全てを思い出した。

 

 鉄の匂い。夏の青空。巨大な入道雲。俺を抱いてキューボラから身を乗り出した母さん。隣を走るⅡ号戦車を見ると、操縦手の窓からまほ姉さんが小さく手を振っているのが見える。一瞬後にキューボラからみほ姉さんが飛出し、元気いっぱいにこちらへ手を振った。

 

 俺は手を振ろうとして体勢を崩すが、母さんがそんな俺の身体をしっかりと抱えてくれていた。母さんの掌が俺の頭をやさしく撫でる。

 

「――俺は、俺は置いてかれてなんかなかった」

 

 思い出が壊れないようにゆっくりと深く息を吸い、胸の奥にしまいこむ。

 

 俺はこれから帰るんじゃなくて母さんに会いに行くんだと思った。

 

 

 

 試合開始から十分後、望遠鏡の向こうに横隊を形成するみほチームが見えた。

 

「じゃあ行きましょう。激突です」

 

 俺のその声に続いて各車から「了解です」と声が響き、鈍い駆動音を響かせて鉄の塊が走り出す。可能ならば林を出るギリギリでトップスピードになるように走りたかったが、距離が足りないのでは仕方ない。みほチームの車両を十分に引き付けることはできた。あとは必要なスピードが出れば向こうのチームが旋回する前に激突できるだろう。

 

 八九式を筆頭にし、後に続くようにしてヘッツァーと三式が迫る。まずは機動力のある八九式をぶつけ、混乱させたところで続くヘッツァーと三式をぶつける。ヘッツァーは長砲身を活かしてレオポンさんと一緒に後部支援に回ることも考えたが、ここで一機でも落とせないことには勝機はない。奇襲で数の優位を得なければみほ姉さんを崩すことは出来ないだろう。

 

 ヘッツァーから身を乗り出す。みほ姉さんもこちらに気が付いたようで旋回しつつ後退の指示を出しているようだが、こちらがスピードを落とさないことに怪訝そうな表情をしている。俺がにやりと笑う。みほ姉さんはようやくそこで俺の狙いに気が付いたようだが、時既に遅しだ。

 

 これが今回の作戦、名付けて「泥沼作戦」だった。

 

 まずみほ姉さんが黒森峰でやったようにチーム全体でレオポンさんを引っ張り、フィールド中央付近にある林に隠れひそむ。そしてみほチームが現れ、十分引き付けると同時に機動力のある八九式を先頭として全員で敵戦車に自軍の戦車をぶつけ強襲する。その後乱戦になるように後方のレオポンに砲撃させ、戦況を泥沼化させる。

 

「うまくいって良かったですね」

 

「こんな無茶なパンツァーカイルがあるか! 下手したら狙い撃ちにされて七面鳥だぞ!」

 

「む、無茶だにゃあ~」

 

「根性ぉー!!」

 

 一瞬の後、青空に轟音が響き渡った。

 

 八九式が激突したのはルノー。まだ発砲はない。次いでヘッツァーと三式も同じようにルノーに激突し、その直後に三機で発砲した。

 

 三機から至近距離で砲火を受けたルノーに白旗が上がる。

 

「レオポンさん!」

 

 それを確認してすぐにレオポンさんチームへと指示を飛ばす。みほチームは既に体勢を整えつつある。俺はすぐに各車後退の指示を出し、ヘッツァーで敵陣深くに切り込んでいく。やがて背後からレオポンさんチームの砲撃が届き、ヘッツァーのすぐ横に着弾する。

 

 危なかった。

 

「ともあれ、泥沼作戦です」

 

「お前ら姉弟はもうちょっとマシな作戦名をつけろ!」

 

 河嶋さんの指摘に憮然とした表情になりつつも、指示を出しつつ反撃されないように立ち回って敵陣をかく乱する。長砲身ゆえにこちらからも撃てない状況ではあるためできるだけ後衛のレオポンさんチームたちと挟撃の形をとりたいが、そういう色気を出して敵を大回りするとあんこうチームのⅣ号から即狙い撃ちされてしまうだろう。

 

「できるだけⅢ突に張り付いて。彼らもこの距離ではうまく動けません。Ⅲ突を挟んで……」

 

 車体に動揺が走る。何とか体勢を立て直して周囲を見渡すと、ヘッツァーのすぐ後ろにM3が張り付いていた。

 

「あ、だめだこれ」

 

 慌てて車内に潜り込んだ直後に発砲音が響き、車内が撹拌されたようにしっちゃかめっちゃかになる。天井のあたりから勢いよく空気が漏れるような音がして、白旗が上がったことを知る。

 

「すみません。一意撃破されました。あとお願いします」

 

 俺は車内で河嶋さんと小山さんにもまれてツイスターゲームみたいになりつつ、うまくいかないものだなあなんて考えた。

 

 

 

 ヘッツァーがやられてしまった後は残った三機が奮戦し、最後は結局Ⅳ号対P虎の一騎打ちでこちらが負けてしまった。

 

 こうして俺の最初で最後の戦車道は終わった。無い知恵絞って出した策で一機撃破できたんだから悪くはないだろうか。結局模擬選には負けてしまったが、これもいい経験になったように思う。

 

「惜しかったねー! ドンマイ!」

 

 そう言いながら磯部さんが俺の背中をバシバシと叩く。

 

「姉さんにはかなわないですね」

 

「そりゃあ西住隊長だからね。でも西住隊長もびっくりしてたぐらいだし、良い線いってたと思うよ」

 

 磯部さんがそういってサムズアップし、それぞれのチームの隊長からも同じように褒められる。あの大洗のメンバーに褒められるんだからそう悲観したものでもないのだろう。俺が照れて頬をかいていると不意に頭に手が乗せられ、俺の頭をやさしく撫でた。

 

 何かと思って振り向くとそこにはアリクイさんチームの猫田さんがいて、なんだかよくわからない笑い顔で俺のことを撫でていた。っていうかこのひと眼鏡の奥の顔がめちゃくちゃ美人だな。松本零○の美女みたいな顔してるぞ。

 

「あ、あの……」

 

「う、うぉぉ、このぼくとしたことが、うぉぉ」

 

 ストロングタイプの変なひとがいる。

 

 もだえる猫田さんを見てみんなで苦笑いしていると、みほチームの面々もぞろぞろと戻ってくる。

 

「いやあ凄かったですねえあの速攻!」

 

「まさかぶつけてくるとは思わなかったからびっくりしました」

 

 澤さんはそう言ってくれるが、あの強襲にも混乱せずしっかりとヘッツァーの背後を取ったあたり、澤さんのほうがずっと上手らしい。

 

「一意君って意外とだいたーん」

 

「だいたーん!」

 

 なぜかわからないが猛烈にからかわれた。

 

「家出息子!」

 

「だから家出じゃないです!」

 

「ちょっと無茶な作戦だったけど、わざと混戦に持ち込んで相手を集中砲火にさらさせる発想はGood!」

 

 家出息子とか言ったり突然褒めたり、このひと本当によくわからないな……。

 

 結局午前のほとんどをこの模擬戦に費やし、この後は簡単な反省会をして終わった。俺が参加したことで迷惑になっていなければと考えたが、みなさん楽しそうだったのでとりあえず自分を納得させることにする。

 

 これが俺の最初で最後の戦車道だった。

 

 

 



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第十二話 『大洗 小休止終』

「その道の先に何があったのですか」

 

 そう尋ねる彼女の真剣さに俺は思わず姿勢を正す。膝を突き合わせて向かい合い、彼女の視線を正面から受け止めた。

 

 道の先に何があったか、というのは今回初めて受ける質問だった。正直に言えばまだ旅は終わっていないし、何があったとはっきり答えられないように思える。

 

「今の段階で、ですが」

 

 前置きすると、黙ったまま少し頷いた。それでもかまわないという意味だろう。

 

 俺の頭の中にカチューシャさんや継続高校の面々、サンダースのみなさんや逸見さんの姿が思い浮かぶ。

 

 考えながら、つかえつつ言葉を紡ぎ、しゃべり終わって視線をあげる。

 

 彼女は少し微笑んで、「とても素敵な答えです」と言った。

 

 

 

「猫だ」

 

「猫?」

 

 練習が終わった後、みほ姉さんたちが校舎に荷物を取りに行き、俺は冷泉さんと五十鈴さんから大洗の戦車道について話を伺っていた。全員で戦車を探したこと、聖グロとの練習試合、全国大会出場……。そんな話を聞きながら三人で格納庫を歩いていたところ、大洗の格納庫でⅣ号の上に猫が身体を投げ出して寝ているのを見つけた。

 

 すぐ近くで声をあげても起きる様子を見せず、猫のくせに警戒心のかけらもない。浅黒い不細工な猫だ。俺は何故かその猫に引き付けられるものを感じて近づいていく。

 

 おかしな話だ。まるで恋する乙女のような表現だが、俺とこの猫はずっと前から出会うときを待ち続けていたように思える。そっと顎の下を撫でると猫は薄く目を開き、やがてやれやれといった表情で起き上がり、すっくと姿勢を正してこちらを見据えてきた。

 

「なんだか不遜な感じのする猫だな」

 

「あんまり可愛くないですねえ」

 

 冷泉さんと秋山さんから厳しい評価をいただくものの、猫は特に気にせず俺の手を受け入れてあくびをする。

 

 大したやつだと思って引き続き撫でていると、相手はやがてのっそりとした緩慢な動きで戦車から降りてきて、俺の足元にすり寄った。

 

「あら、一意さんのこと気に入ったんですね」

 

「パンターに乗るかなあ」

 

 そう呟いて、俺はすでに自分がこの猫を旅に連れて行くつもりになっていることに苦笑してしまう。

 

「バイクに猫を乗せるのは危なそうだな」

 

 そうだよなあと残念がりつつ、俺はその場に座り込んで猫を膝に乗せる。それに続いて五十鈴さんと冷泉さんもすわりこみ、俺の膝の上でだらけきった態度をしている猫を撫でた。

 

「ひとり旅だと道連れがほしいものなのか?」

 

 冷泉さんに尋ねられてふと考えてしまう。思えばこの旅もほとんど道連れがいたし、行く先々でひとと交流があったためそこまで寂しい思いをすることはなかった。

 

「俺の場合あんまりそういうのはなかったんですが、一度熱を出して寝込んだ時は少しさびしかったですね」

 

「えっ、それって大丈夫なのか」

 

「謎の熱病ですか? 日本に隠された最後の秘境で絶滅したはずの毒虫に足を噛まれたとか」

 

「大丈夫じゃなかったけど、五十鈴さんの考えるほど大丈夫じゃない状況ではなかったですね」

 

 この人何かにつけて物事を大きく深刻に考える癖があるみたいだけど、多分常識が足りないとかじゃなくて夢見がちなだけなんだろうな。いやもしかしたら本当に世界にはそういうものが残っていてもおかしくないのかもしれないが。

 

「風邪薬とか飲み物は沢山持っていたので。でも眠るときは怖かったかも」

 

「波乱万丈だったんですね」

 

「あまり無茶をしてご家族を心配させないほうがいい」

 

 冷泉さんの言葉にはどこか神妙な響きがあり、俺は猫を撫でる手を止めて顔をあげる。冷泉さんはなんとも言えない渋い表情でこちらを見詰めている。

 

「……わからないかもしれないが、会えなくなることもある」

 

 悲痛な雰囲気があり、俺はただただ頷く。資金に余裕があったのにバイクでの旅を選んだのは単に俺の冒険心だ。実際に二度も熱に倒れることがあったし、これはしなくても良い無茶なのだろう。たぶん、まほ姉さんや母さんも心配している。

 

「まあまあ麻子さん。心配するのはわかりますが、一意さんも男の子ですから」

 

 五十鈴さんがにこやかにそう言って場をとりなしてくれる。そのよく言えばおっとりとした響きになんとなく場が和む。

 

「旅路を安全なものにすることも大切ですが、時には危険に飛び込む勇気も大切です。無駄なことなんてないんですから」

 

 そうでしょう? と笑う五十鈴さんに頷き、なんだか力づけられる。

 

 今朝もみほ姉さんから「帰りは新幹線で早く帰ったほうがいい」とたしなめられていた際、五十鈴さんがそれとなしにその場をとりなしてくれてなんとかなったのだ。

 

「……いつも心配してくれているひとがいること、忘れるな」

 

 最後には冷泉さんからもそう言葉をかけられ、俺は笑顔でうなずいた。膝の上の猫が間延びした鳴き声をあげる。

 

 

 

 出発の日。

 

 俺は来た時と同じようにパンターを押して学園艦のスロープを降りる。戦車道の練習を休んで姉さんが見送りに来てくれてありがたいばかりだった。

 

 港に降りるとパンターのエンジンがかかることを再確認し、ガソリンもしっかり入れてあることをチェックする。

 

 よく晴れて、再び旅に出るには最高の日和だった。

 

「ありがとう。この数日間本当にたのしかったよ」

 

 そう伝えると姉さんは浮かない表情で返事をする。あれほど言ってもまだ心配しているようだが、仕方のないことだろう。

 

「チームのひとたちにも、ありがとうって伝えておいてよ」

 

 姉さんは相変わらず浮かない表情のままだ。

 

 どうしたら良いんだろうか。俺がしばらく悩んでいると、足元に突然何本もの巨大な影が差した。

 

「うわ……」

 

 俺の感嘆の声に続いて、姉さんも同じように空を見上げ、それから声をあげた。

 

 視線の先では大洗の戦車たちが揃って学園艦から砲身を突出し、綺麗な一列横隊を作り出していた。数秒の間があってから轟音が響き、各車が一斉に空砲を撃つ。砲身から勢いよく煙が飛出し、風に流されて白く細長い雲を作り出した。

 

 俺は無茶をするひとたちだなあと苦笑し、きっと園さんなんか最後まで抵抗したんだろうと思って同情する。隣をみると、姉さんも俺と同じように困ったような表情をしていた。

 

「姉さん」

 

 俺は姉さんのことを見つめる。

 

 いったい何を言えば良いのかわからない。元気そうでよかった? 優勝おめでとう? 全て無意味に思える。

 

 俺が姉さんに言えることはいったいなんだろうと考えて、そしてついにひとつだけその言葉を見つけることが出来た。

 

 すこしだけ呼吸を整える。

 

「待ってるから。またいつでもうちに帰ってきてね」

 

 そう言うと姉さんはまるで花が開くように美しく笑った。

 

 俺はまた旅に出る。

 

 

 

 出発してしばらくたったころ、車体に違和感を覚えた。

 

 普段エンジン音しかしないはずの車体後部から謎の甲高い音が聴こえ、俺はすぐ路肩にパンターを停める。自動車部のメンバーと念入りに整備を行ったはずだが、もしかしてどこかに不調が残ったままだったろうか。

 

 だが、その音はバイクから降りてもやむことは無く、そして静かに耳を澄ますことでその音はすぐに最上級の嫌な予感に変わった。

 

「お、お前……」

 

 座席後部に縛り付けた荷物から不細工な猫が顔を出す。俺はそいつを引きずり出し、目の前に掲げながらまじまじと見た。

 

 こいつ、いったいどうやって入り込んだんだ。いや、そんなことは問題ではない。

 

 俺はすぐにそいつを地面に下ろすが、そうするとすぐに高速三角ジャンプで荷物の上に乗られてしまう。意地になって引きずりおろすが、まるで俺を置いていこうなんて無理だと言わんばかりの態度で再び荷物の上に舞い戻られる。最後には手を出そうとした瞬間に手の甲を引っかかれ、挙句の果てにあくびまでされてしまった。

 

 俺はついに途方に暮れたままふらふらとバイクにまたがりエンジンをかけた。

 

 走り出す前に振り返って猫の様子を見ると、そこにはちゃっかりと荷物に入り込んで首だけを出した猫がいた。

 

 面倒なことになってきた。

 

 

 




大洗編、ずいぶん長い時間がかかってしまいました。


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第十三話 『千葉県 西絹代』

 千葉県に入ってしばらくした頃、爆音とともに背後から巨大なバイクに追い抜かれた。

 

 すれ違う瞬間にちらっとみえた感じでは髪の長いスタイルの良い女性で、ああいう人に乗られるのはバイクとしても冥利に尽きるだろうなと考える。追い抜かれるのもクラクションを鳴らされるのも別になんということはないが、俺の旅の道連れがおんぼろのカブと不細工な猫だけだというのはどうもわびしい気持ちになってくる。

 

 そこまで考えて、継続の連中としばらく一緒に旅をしたことを思い出した。

 

「普通あんな経験ないし、満足するべきだな」

 

 信号待ちでそう呟いたところ、いつの間にか身体を乗り出していた猫に後ろから背中を叩かれた。

 

 こいつ本当に人間の言葉がわかるんじゃないのかという疑問がわき、これ以上こいつの理解不能さにひきずられてたまるかと無理やり思考を中断する。

 

 走り始めたとき、驚かせてやろうと思ってアクセルを思いっきり回転させたところ、色々あり、ウィリーした。

 

 

 

「普通に死ぬかと思った」

 

 しばらくして休憩所で一息つくと自然とそんな声が出た。隣にはまたいつのまにか荷物から抜け出した猫が転がり、挑発的な態度でこちらを見ながら鳴き声を上げている。デブ猫のくせに扇情的なポーズをとりやがって。

 

 まわりの乗用車は興味深そうにこちらを見てくるし、トラックのおじさんなんか身を乗り出して爆笑していた。あのおじさん、爆笑しながら「一速はいっちゃった! 一速はいっちゃったねえ!」と叫んでいたが、実は経験あるんじゃないのか。

 

 俺はため息をつきながらデブ猫の腹を撫でる。俺の手の動きを受け入れて嬉しそうにごろごろと喉を鳴らす様子を見て、猫のくせにプライドも何もないやつだとあきれ果てた。こいつを見るたびにいったいどうしたものかと考える。荷物の中から出てきたときは余程大洗まで戻って捨ててやろうと思ったのだが、今更姉さんのところへ戻るほど恥ずかしいこともない。道中危険を覚えたらすぐ海沿いの街に捨ててやろうとも考えたのだが、運転しているときには荷物から頭を出すだけで行儀よくしている。

 

「なんだって俺につきまとうんだ」

 

 そう尋ねても猫は何も答えない。答えるわけがないが。

 

 どうもおかしくなってきてしまったなと頭を掻く。猫と二人で旅をして、しかも休憩所でそいつに話しかけているというのは、傍から見たら気がふれているかお花畑に見られるかもしれない。

 

 俺はまた黙って猫の腹を撫でる。気持ちよさそうに撫でられあくびまでしている様子を見て、まあなんだって良いかという気持ちになる。大洗を出発して四時間、気持ちの良い夏の午後に俺まで眠気に誘われる。

 

 あくびをひとつした後で、休憩所に髪の長い女のひとが入ってくるのが見えた。腰あたりまで髪を伸ばした姿勢の良い女性で、服の胸元が大きく開かれていて少し目のやり場に困る。俺はなるべくそちらを見ないようにしながら猫をもてあそんでいたが、ふと気が付くと目の前にその女性が立っていた。

 

「はじめまして西住みほさん。可愛い猫ですね」

 

 笑いかけてくる女性を見て「え」と呆けた声が出てしまう。

 

「あっ、驚かせてしまい申し訳ありません! 私知波単学園の戦車道で隊長を務めております西絹代と申します! 今年度の優勝、おめでとうございます!」

 

 隣を見ると、猫もそろって同じような顔をしていた。先ほどまで腹を撫でられていた体勢のままで上半身だけを起こし、何言ってんだこいつみたいな顔だ。気持ちはわかるがうざったいので頭を掌で抑え込むようにしてまた仰向けに戻す。俺の掌にじゃれ付く様子をみて不覚にも可愛いと思ってしまった。

 

「あー、西さん。それは俺の姉ですね。俺は西住みほの弟で西住一意と申します」

 

「なっ」

 

 気まずい沈黙が流れる。

 

「これは失礼いたしました! あまりにも似ていたものですから!」

 

 そう声を張って敬礼する西さんに向い、よくあることなので大丈夫ですよと返す。良ければどうぞと長椅子を手で示すと、彼女はふわりと上品な所作で座り込んだ。小脇に抱えていたヘルメットが目に入り、先ほど追い抜かれた巨大なバイクの運転手だと知る。

 

「あの大きなバイク、西さんが乗っていたんですね」

 

「おぉ、ウラヌス号をご覧になりましたか!」

 

 ウラヌス号ってどうなの。バロン西だからウラヌス号なのだろうが、年若い乙女の乗るバイクの名前がウラヌス号とは。

 

 俺は少し離れた場所に置かれた自分のカブを見詰め、そのあと西さんのウラヌス号を見る。こうやって見るとカブってほんとに三輪車みたいだなと笑う。

 

「立派なバイクですね」

 

「おぉ、恐縮です! 休日は気分転換にあれを乗り回すのが趣味でして」

 

「それで突撃を」

 

「突撃です! ってそんなことはしません!」

 

 意外と乗りが良くて笑ってしまう。事前情報では突撃ばかりの学校かと思っていたが、今年の大会では黒森峰相手に隊長車を追い詰める快進撃を見せて胸が躍ったものだった。直後にまほ姉さんが無双していたのには苦笑いが出たが。

 

「今年の夏は惜しかったですね」

 

 ご覧になりましたか、と西さんが笑う。苦笑のなかに少し照れがまじった笑いだった。

 

「あそこまで追いつめておいて勝てなかったのは、お恥ずかしい限りです」

 

 頬をかく西さんにたいして何も言うことができないでいると、彼女があわてて「申し訳ない! 情けないことを申しました!」と声をあげた。俺が黙って猫を差し出すと西さんは嬉しそうにそれを受け取り、もみくちゃにもてあそび始める。猫はものすごく不本意そうな顔でずっと俺のことを見ていた。

 

 会話が途切れて空を見上げると、巨大な入道雲が眼下の街にのしかかるようにしてそびえていた。俺がいるパーゴラの下と外は陽の光によって別の世界のように分かたれている。頬を汗が一筋流れるのを感じ、ただ脳から零れ落ちるように「夏だなあ」という声が出た。

 

 その視線に気が付いたように西さんも猫を撫でまわすのをやめ、空を見上げて「夏ですねえ」と呟く。俺はその言葉に心底同意しながら「暑い……」と呟いた。この状況で旅をするのは少々無理があるように思える。ここでこうしていると熱気のあまり全身が溶けるようだった。

 

「そうだ! 近くに良い甘味の店があるので一緒に行きましょう!」

 

 西さんが突然立ち上がり、猫が粘性物質のように地面にへばりつく。こいつ猫のくせに着地もまともにできないのか。何もできない奴だな。

 

 俺があー、という感じで猫を見ていると、ほら! と声をかけられて西さんに引っ張られる。俺が抵抗することもできず西さんにひっぱられていくと、後ろから猫がちょっとは抵抗しろよという顔でついてくるのが見えた。

 

 

 

 「このバイクで歩調を合わせるのは少し無理がありますね」ということで俺は西さんのバイクの後ろに乗ることになり、ものすごい運転の粗さに猫とふたりで顔面が真っ青になった。俺は運転の最中必死に西さんの腰にしがみつき、信号待ちのときには猫までもがリュックから抜け出して俺と西さんの間に身体をすべり込ませてきた。

 

「早晩死にますよ!」

 

 冷房の効いた店内で一息つくと俺はそう切り出した。西さんは困ったように笑い、これがおすすめなんですよ、とサクサク注文を済ませてくれる。

 

「申し訳ない! 恥ずかしながらハンドルを握ると他のことが見えなくなってしまって」

 

「知波単魂か!」

 

 これが噂にきく知波単魂なのね……と戦慄した。今頃猫も店の玄関先でへたばっていることだろう。

 

「どうでしょう。黒森峰も知波単魂に対抗して猛虎魂とか!」

 

「うちの姉の学校を球団みたいに言わないでくださいよ」

 

 大体アニマルシリーズなら虎以外にもいろいろあるでしょうがと言おうとして、店員さんがかき氷を持ってきてくれて会話が中断される。

 

「これが美味しいんです!」

 

 俺はまだ西さんに言いたいことがあったが、とりあえず目の前のかき氷の魅力には敵わなかったので黙る。

 

 きめ細かい氷が照明を受けてきらきらと輝き、紡錘形の山にかけられた抹茶のシロップとあずき、そしてふもとに二つ添えられた白玉が日本人の心を揺さぶる。こいつを前にして文句を言えるほどできた人間じゃないというのが俺の気持ちだった。

 

 添えられた匙をとって山を突き崩すと途端に周囲の氷がほろほろと零れ落ち、その粒の繊細さを感じさせた。俺はシロップが濃くかかった部分に少し小豆を添えて口に含む。

 

「お、おいしすぎる……」

 

 口に入れた瞬間に氷がほどけ、抹茶と小豆と渾然一体になった。小豆まで一緒に食べると甘すぎるきらいはあるが、それを補うように苦みを押し出した抹茶が口の中に清涼感をもたらし、いつまででも食べられるさわやかさを演出する。俺はかき氷と一緒に食べるだけで小豆を消費しつくすことはせず、白玉と和えて口に含む。

 

 やはり。硬すぎずもちもちと柔らかい白玉だが、その甘みはかなり控えめだ。小豆と和えることによってぜんざいとして立ち上がり、この一品の楽しみとして機能している。

 

 俺は目の前の西さんが嬉しそうに笑っているのにも気が付かないままひたすら食べ続け、食べ終わったときには食事の前に考えていたことをすべて忘れ、西さんと一緒にかき氷の素晴らしさをたたえあった。その後に運ばれてきた熱いお茶も香りが良く、かき氷と空調で冷えた体を温めてくれる。俺はこれ以上ないほどの満足感に包まれ、だらしないとは思いつつも椅子の背もたれに倒れこんだ。

 

「一意殿は、我が校についてどのように考えますか?」

 

 ふと、西さんがそんなことを言う。

 

「……どうもいけません。恥ずかしい話ですが、隊長になったばかりで弱気に駆られているようです」

 

 そう呟く西さんの顔に悩みの影が差し、俺は戦車道の隊長という役職の圧力を思う。

 

「前の隊長さんには相談とかしてないんですか? 辻さん、でしたっけ」

 

「辻隊長はその、ただ厳めしく『裂帛の気合を以て突撃すれば後は野となり山となる』と……」

 

 野となり山となってはいけないですよね。確かに試合のモニターで見ていた時の知波単学園は野山という感じだった。

 

 俺は笑い出しそうになってしまいそうになるのをなんとかこらえて西さんへと向き直る。このまま笑ってしまうのはあまりにも失礼すぎる。

 

「知波単高校は伝統ある戦車道部隊をお持ちですから、きっとその歴史の中に学ぶべき点があると思います。いつも原点に立ち返ってこそ、見えてくるものがあるのではないでしょうか」

 

 と、なんとか言ってはみたものの殆ど昔母さんが黒森峰の隊長さんに言っていたことと同じである。姉さんの前の隊長さんはよく我が家にやってきては母さんに意見をもらっていたものだが、その際に言っていたことを覚えていて良かったと思う。

 

「母の受け売りですが」

 

 言い切ったはいいものの、照れるというか誠実でないような気がしたので言い添えることにする。こういうところに自分の未熟を思わずにはいられないが、いつかミカさんのようにバシッと決められるようになるだろうと未来の自分に丸投げした。

 

「それに西さんは素敵な方ですから、きっと良い仲間に恵まれているはずです。仲間と力を合わせればきっとうまくいきますよ」

 

「なっ、あー、あっ、西住流は話術も達者ですな!」

 

「えっ、いや、そういうわけではなく」

 

「撃てば必中とはこういうことなのですか!?」

 

「いやいやいやいやそういうわけではなく!」

 

 なんだか話の腰が折れてしまい、その後はひたすら西さんに弁解をすることに終始してしまう。いつかバシッと決められるようになるはずだと考えたが、この調子ではそれも危ういなと思って頭を掻く。

 

 

 

 やはり玄関先でのびていた猫をひろい甘味処を後にする。抱き上げた時にこちらを向くことせずただなすがままになっている猫を見て、そういえば不機嫌になるようなこともあったなと思い出す。帰りもやはり西さんのバイクに乗せてもらったため少し怖気づいたが、今度は来た時ほど乱暴な運転ではなくなっていた。

 

 休憩所に戻ってパンターに荷物を縛り付ける。ずいぶん寄り道してしまったが、ここから先は大都市だから今晩泊まる場所には苦労しないだろう。

 

「旅の途中だというのに付きあわせてしまい申し訳ありません!」

 

 西さんに旅の途中であることを話すとそう謝られたが、美味しいかき氷を教えてもらって怒ることなど何もない。笑ってそう伝えると西さんもその表情を緩めてくれた。

 

 「明後日の大洗とのエキシビションがとても楽しみです! 一意殿の姉君と戦えることを誇りに思います!」

 

 俺はその言葉に嬉しくなり、西さんに向かって手を差し出す。すぐにその手を掴まれ、がっちりと握手した。

 

「姉をよろしくお願いします。大洗知波単連合の健闘を祈ります!」

 

「ありがとうございます! 必ずや吉報を届けましょう!」

 

 夕陽の中で笑う西さんはとても美しく、俺は満ち足りた気分で再びパンターを走らせる。

 

 背後のリュックで猫が不満げに鳴いた。

 

 




天鏡のアルデラミンが面白いです


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第十四話 『神奈川県 聖グロリアーナ女学院』

 

 

 夕方頃東京について一泊し、翌日も東京観光を楽しむためにもう一泊することにした。

 

 ホテルに泊まる際に猫をどうしようかと考えたが、バイクを停めるとすぐにリュックから飛び出して夜の街に消えていった。都合の良いやつである。夜の間に怖いひとにつかまって三味線にされちゃわないかとか考えていたのだが、翌日姿を見せると三匹ぐらい子分をひきつれて番長の風格を出していたので心配して損したと思う。

 

 生まれて初めての東京は刺激的だったが、とにかく人が多くて辟易したというのが正直なところだ。道行く人はみな歩くのが早く、そして街中から耳が痛くなるような音量で何かが聞こえている。熊本も都会ではあるし一番栄えているところはそう大差ないように思えるが、東京の凄いところはそれがどこまでも続いていくところだと思う。果てしなく続くビルの森と雑多な情報。そして人の群れ。

 

 俺は観光の後ですっかり疲れてきってベッドに倒れこみ、翌日ホテルのビュッフェで朝ごはんを食べながらため息をついた。気がついてはいたのだが、俺って本当に田舎者なんだなあと思う。オレンジジュースを飲みながら外を見ていると、見覚えのある不細工な猫が大量の子分をひきつれて街を闊歩している。あいつを気にするとろくなことがないと思った。

 

 見るものはいくらでもあるような気がしたが、何も見る必要はないようにも思える。少なくとも表面上は。ここは目的のない人間にとってあまりにも空虚な街だった。

 

 俺はその日の昼前に猫をリュックに詰め込み東京を後にした。

 

 俺は孤独な再開だったが、猫は大勢の子分に見送られて誇らしげである。俺もこれぐらいのバイタリティを身に付けたほうがいいのかと思う。

 

 

 

 いくつかの道を抜けて国道一号線に乗る。ここから先はしばらくこの道を走り続けることになるだろう。

 

 交通量が多くとても広い道だ。千葉に入ったあたりから何車線もある横幅の広い道が増えてきて、これが全て車で埋まることがあるのだと想像すらできない。その全てに意味があるなどということは現実感のない事実で、何もかもが巨大すぎて曖昧としていた。この大都市を走る全ての車が目的をもってどこかに向っているなんてどうして想像できる。

 

 そしていま俺もそのなかのひとつだと。

 

 横浜駅あたりで道を曲がり、海辺の公園で一休みする。どうやら予想以上に人に酔っていたらしい。ベンチに座って掌で顔を包み、大きく息を吸い込む。大丈夫。俺はすこしびっくりしているだけだ。頭の中で何度もアキからもらった言葉を繰り返す。だが、なんだか嫌な予感がして仕方ない。猫がすぐ隣に座り込み、ふてぶてしく体を投げ出した。その姿に悪態をつくことすらできない。

 

 どうしようもない気分の悪さに俯いていると、視界の端に真っ白なハンカチが差し出された。

 

「ひどい汗ですわ」

 

 見上げると、金色の髪をした美しい女性が目の前に跪いてこちらを見詰めている。彼女の言葉で全身が汗にぬれていることに気が付いた。

 

 上手に声を出せないでいると、ハンカチを持ったその手が俺の頬を撫でた。

 

「あ、あの」

 

「健康は目的ではないが、最初の条件なのである」

 

 きょとんとして目をしばたかせると、彼女はそんな俺の様子を見ていたずらっぽく笑う。涼やかな瞳と凛とした雰囲気で、俺の周囲にさわやかな風が吹き抜けるようだった。

 

「体調にはくれぐれも気を付けなくてはいけませんわ」

 

 顔を覆っていた汗をぬぐうと彼女はそう言って俺の手にハンカチを握らせ、立ち上がって少し遠くを見つめた。

 

「中華街で美味しいものでも食べるのが良いのではなくて?」

 

 去っていく彼女はどこまでも優雅で、俺は掌に残されたハンカチに目を落とす。のろのろと猫がよってきたので額を押してハンカチから遠ざけた。

 

 

 

 生まれて初めての横浜中華街にはとにかく圧倒された。

 

 まずだいいちに色彩感覚が日本のそれではない。色彩鮮やかな甍に覆われた門には毛筆体で『中華街』と書かれ、その周囲がいわゆる『禁色』の縁で覆われている。なんというかもうこれぞ中華街というほかない。昔みたアメリカのチャイナタウンを舞台にした映画はこれほどあからさまではなかったため、まるである種のテーマパークに迷いこんだようにすら思える。

 

 俺はその一画に入ったごく最初期になんだか押しの強いおじさんにつかまり、言われるがままに買ったタピオカジュースを飲んで中華街を巡り始めた。まあまあ美味しいから良いのだが、もしこれでひどいものを掴まされていたらショックのあまり今日中に神奈川県から脱出していたような気がする。それぐらいあの押し売りには勢いがあった。

 

 とはいえ、その後に食べた中華は絶品である。小龍包や肉まんを食べれば中から肉汁がこぼれだし、笹に包まれたちまきにはこれでもかと具が詰め込まれている。物欲しげに見ていた猫に肉まんの生地を食べさせてやるとうれしそうに尻尾を振っていた。いつか家族で来られたらいろんなものを少しずつ食べられるといいと思う。きっともっと楽しい思い出になると感じた。

 

 ほどよく膨れたお腹を抱えて街を観光していると、通りの向こうによく目立つ赤毛の女の子を見つけた。あっちへこっちへ行ったり来たり、見るからに落ち着かない様子だが、やがてその場に立ち止まり周囲を見回しはじめる。そして彼女の瞳が俺のほうを向くと、標的を見定めた猟犬のようにこちらへ駆け出してくる。

 

「あなた!」

 

 目の前で急停止した彼女が勢いのままに俺と鼻突き合わせる。俺はその勢いに圧されこくこくと何度も頷く。

 

「間違いありませんわ! あなたが西住一意さんですわね!?」

 

 その言葉にまたこくこくと頷くと、彼女が「やりましたわー!」と喝采とともに両手を挙げる。なんだか知らないがやったらしい。嬉しそうに飛び跳ねる彼女の口から「ダージリン様とアッサム様に褒めてもらえちゃいますわ」とか聞こえ、嬉しそうなのは良いが次第に人の視線を集めてしまっているのが気にかかる。猫も足元で困ったような顔をして前脚を舐めていた。

 

 なんだかよくわからない空間に置かれて思考停止するが、ようやく彼女が喜びの舞を止めたので再起動した。

 

「こうしてはいられませんわ! すぐペコさんとルクリリ様に……おぉ?」

 

 右を見て、左を見て、準備運動のように後ろをふりかえって、そしてまたこちらを見る。

 

「あのー、私の友人をご存じありませんこと?」

 

「知るはずがない」

 

「……これはいわゆるLost Childですわ」

 

 英語を覚えたばっかりの中学生みたいな使い方だが、ともすればビジュアル系バンドの歌詞みたいでちょっと笑ってしまう。よくよく見ると彼女の着ている制服は聖グロリアーナのもので、英国式の教育に力を入れているはずなのにそれで良いのかと突っ込みたくなった。

 

 なんだか面倒なことになりそうなので俺は適当に挨拶をして逃げようと思ったのだが、じゃあ、と言って振り返った瞬間に腕を掴まれる。あなたを連れて行かないといけないんですの、と言われてもなにがなんだかよくわからないんだが、とにかく俺じゃなきゃいけないらしい。

 

 猫がかったるそうに声をあげたことで完全に逆迷子の子猫ちゃんになった。猫のおまわりさんと犬の迷子だったらあの童謡は永遠に解決しなかっただろう。

 

 聞くところによると携帯も忘れてきたしなんなら普段からいろんなところに忘れているらしい。俺が母さんに交渉して必死に買ってもらおうとしているものをこいつ……。

 

 めんどうになって「中華街だってそんなに広くないんだし、適当に歩いていればいつか会えるんじゃないですかね」と答えると、それは良い考えですわ! と手を引かれる。どうしても俺もついていくことになるらしい。

 

「……西住一意です」

 

「ローズヒップですわ!」

 

 ローズヒップさんと連れ立って中華街を歩く。道中伺ったところによると、彼女は聖グロで戦車道の隊員をしており、先ほどから出てくるダージリンというひとはそこの隊長らしい。そういえばみほ姉さんの試合を観に行くたびに優雅にお茶を飲んでいる二人組がいたようなきがするが、まさかあのひとたちだろうか。俺はやっぱり戦車道のひとはちょっとおかしいと思いながらローズヒップさんの言葉に耳を傾ける。

 

「ダージリン様はとっても優雅で、いつも誰かの名言ばっかり言っているんですのよすごく賢いんですの。それからアッサム様はちょーほー活動? というのが得意で、頭に木の飾り物を付けて戦車から飛び出して行って、敵の情報を掴んできてくださったりしますの」

 

 あとルクリリ様は口が悪いですわ。というローズヒップさんによる聖グロメンバーの寸評を聞き、俺の頭の上にクエスチョンマークが百個ぐらいともる。全く意味が分からない。すごい。どうやら今名前が挙がったひとたちが三年生で、彼女とその友人のオレンジペコさんは一年生らしい。

 

 俺はローズヒップさんおすすめの肉まんを食べたりサトウキビのジュースを飲みながら、彼女が嬉しそうに話す仲間たちの話を聞いていた。元気いっぱいに話す様子から彼女が本当に仲間たちを尊敬していて、自分の所属するチームが大好きなんだということが伝わってくる。それはそれとしてこの落ち着きのなさは聖グロ的にはどうなんだろうと思うが。ローファーバキバキだぞこのひと。

 

 しばらくそんな風に歩いていると、突然後ろから「ローズヒップさん!」と声がかかる。ふたりして振り返ると亜麻色の髪をギブソンタックにまとめた少女が立っており、こちらをみて少し息を弾ませていた。あ、ペコさんですの。とローズヒップさんが呆けた声を出す。なるほどあのひとがペコさんかと思っていると、俺たちのところに近づいてきた彼女がまじまじと俺を見詰めてくる。

 

「西住一意さん、ですか?」

 

 自己紹介すると、彼女からも「オレンジペコと呼んでください」と言われる。なんでも良いけど本名じゃないと思うんだが。

 

「ローズヒップさん、まさか本当に見つけちゃうなんて」

 

「そっくりだったからすぐ捕まえましたのよ!」

 

「確かに絶対に間違えようがないです。ダージリン様がおっしゃっていた意味もわかりました」

 

 うんうんと頷きあう様子を見ていても仕方がないので、足元の猫に肉まんの皮をやったり腹を撫でたりする。最近は野外で軽食をしていてもこいつがじゃれついてくるのですっかり右手だけで食事をするようになった。左手で撫で、右手で食べる黄金のコンビネーションだ。

 

 俺がふたりのことを放置して猫をなでていると、「結構マイペースな方ですわ」「常に周囲を見ているみほさんとは違うタイプですね」とか聞こえてきたが、単にこの旅の途中で個性的なひとに会いすぎたせいであんまり気にしなくなっただけである。肉まんを食べ終わったあたりでふたりの会話もひと段落し、俺も立ち上がってふたりに向き直った。

 

「ところで、ローズヒップさんはペコさんともうひとり名前を挙げていた気がするけど、そのひとはどうしたんですか?」

 

「そうですわ! ルクリリ様も一緒に来ていたんですの!」

 

 ローズヒップさんとふたりでペコさんのことを見ると、なんだか申し訳なさそうな顔でもじもじとしている。ローズヒップさんが心配そうな声音で「ペコさん?」と問いかける。

 

「あのー、ローズヒップさんがいなくなった後ふたりで手分けして探そうということになったんですが……。ルクリリ様の携帯、充電が切れていたようで、実は」

 

「……もしかしてこれって、迷子がふたりに増えただけなんですか?」

 

「いわゆるLost Childrenですわ」

 

 俺はローズヒップさんの相槌を聞き、それを言うならチルドレンだから、と心の中でツッコミを入れた。

 

 

 



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第十五話 『神奈川県 続聖グロリアーナ女学院』

 

 

 迷子になったらとりあえずじっとしていればいいんですよ、という俺の主張に従い、三人で近くのベンチに座り込んだペコさんだけは「いいのかなあ」という表情で不安げにしていたが、俺は幼い頃からみほ姉さんに連れられて数々の修羅場的迷子道をひた走ってきた男だと主張すると全然安心せずに従ってくれる。みほ姉さんに山とか川とか冒険に引きずり回され、そのたびに迷子になっていたキャリアがあるというのにわからない人だ。

 

 俺が憮然としていると「それは婚活教室で『先生は三度も結婚しました!』といわれるようなものでは」と言われ、ぐぬぬと歯噛みする。

 

 まあそれはそれとしてローズヒップさんの落ち着きようは流石であると言えたが、中空を飛ぶセミをぼけっと眺めているあたりおそらく何も考えていないような気がする。

 

 俺はとりあえずペコさんの気を紛らわせるために足元の猫をひっつかんでべちゃっとベンチに乗せる。たまには役に立ってもらおうと思ったのだが、先ほどから色々なものを食べすぎて満腹らしく媚びる態度にも精彩を欠く。いやこの猫が精彩を備えていたことなどそもそもあったかという点においては大いなる疑問が残るが、それもまたそれはそれである。

 

 一応ペコさんもこの不細工に興味を示してくれたらしく、うどんの生地のように俺に触られる猫を見て少し笑ってくれる。

 

「一意さんはこの猫を連れて旅をしているんですか」

 

「置いていこうとしてもついてくるから、仕方なくです」

 

 そう答えるとペコさんは「はぁ」と頷いて俺と同じように猫をなではじめる。多分俺の言っていることがよくわからないのだと思うが、こいつのしつこさは実際に味わってみなければわからない。寝ている間に出発したはずなのにいつのまにかリュックの中にいるし、絶対に化け猫か何かだと思っている

 

「ペコさんは聖グロの戦車道チームでどういうことをしているんですか」

 

 今度は俺のほうからペコさんに質問してみる。その言葉に彼女は少し答えにくそうにしていたが、じっと見つめるとすこし照れたように答えてくれる。

 

「えぇっと、一応副隊長です」

 

 その言葉に驚いておぉ、と声が出る。聖グロリアーナといえば高校戦車道でもかなりの名門だし、一年生にしてその学校で副隊長をやっているというのはかなり凄いことなんじゃないだろうか。俺が感心しているとローズヒップさんからも「ペコさんはすごいんですのよ!」と声が上がる。

 

「ダージリン様の言った名言を誰が言ったのか全部当てちゃうんですの!」

 

 それって確かにすごいけどそういう凄いで良いのだろうか。謎の勢いと意味の通らなさに俺が首をかしげているとペコさんが顔を赤くし、その様子をみてローズヒップさんも首をかしげる。その反応を見てペコさんが「もー!」と声をあげてローズヒップさんをぽかぽかと殴りつけていた。

 

 しかし聖グロで紅茶に関連した名前を付けられるのは少なくとも幹部クラスの隊員だけだと聞いたことがあるし、それを信じるならふたりとも校内ではかなりの実力者なのだろう。

 

「じゃあこれからは二人が聖グロを引っ張っていくんですねえ」

 

「もっちろんですわ! 先輩たちが恥ずかしくないように来年こそ優勝!」

 

 ローズヒップさんが立ち上がって拳を握り、それをみたペコさんがあははと苦笑する。猪突猛進のローズヒップさんと冷静沈着なペコさんでいいコンビなのではないかと思う。

 

 それからもしばらく三人で話をしていると、やがて長い金髪を後ろで束ねた女性と豊かな栗色の髪を三つ編みにした女性が現れ我々と合流する。俺は喜んで駆け出していく二人を眺めながら猫をなで、やれやれよかったと息を吐き出した。

 

「あれほど勝手にどこかへ行くなと言っただろ~!」

 

「あぁ~! ごめんなさいですの~!!」

 

 合流した栗毛のひとがローズヒップさんの側頭部を拳でぐりぐりするのを横目に見つつ、金髪のひとに自己紹介する。金髪のひとがアッサムさん、ローズヒップさんを痛めつけている三つ編みのひとはルクリリさんというらしい。あだだだだだだ! と悲鳴をあげるローズヒップさんをうるさく思っていると、アッサムさんからの「あなたが携帯の充電を切らしていたのも原因のひとつですよ」という声でルクリリさんが言葉に詰まりお仕置きをやめる。

 

「まったく、私たちが卒業したら大丈夫かしら……」

 

 アッサムさんが額に手をあてて考え込むのを見て、先輩方も色々大変なのだなと他人事のように思う。俺はルクリリさんから迷惑をかけて申し訳ないと謝られ、なんだか恐縮してしまう。ローズヒップさんと一緒になって肉まんとか食べていたのだから謝られるとこっちが困る。

 

「一意さん、よろしければ聖グロリア―ナにお立ち寄りになってはどうでしょう。我が校の隊長が是非に、と」

 

 一通り自己紹介や挨拶が済むとアッサムさんからそんなことを言われ、それが先ほどからローズヒップさんが言っていたダージリン様かと思い出す。大方姉さんと友達だから俺が旅をしていることを聞いたのだろう。それにしたってこう運よく会えたのもおかしいような気がするが、まあそういうこともあるだろうか。

 

 先のエキシビションマッチの結果も気になっていたことだし、俺はぜひにと彼女らに同行することにした。

 

 

 

 聖グロの学園艦はめちゃくちゃでかい。

 

 これまでに立ち寄った中ではおそらくプラウダのほうが大きいのだろうが、ひとつ前に見た学園艦が大洗のものだったため余計にそう感じる。俺は聖グロのメンバーの後ろを追いかけながらその威容に圧倒され、見上げるあまりに後ろに倒れそうになった。ローズヒップさんが自分のことのように「大きいでしょう!」と自慢するのにも呆けた返事が出てしまう。俺は半ば呆然としつつも前を歩くひとたちにおいていかれないように歩き、タラップを抜けて市街地へと出た。

 

 聖グロの学園艦は街全体がレンガ造りになっており、おそらく実際のロンドンもこんな風景なのだろうと思わせる様子になっている。これで霧でも出ていればまさに、だろうか。街の中を巨大な二階建てのバスが走り、信号機の形も日本で一般にみられるものとは大きく違っている。雪と森しかないプラウダとか森しかない継続とは大違いの都会ぶりである。昔観たイギリスを舞台にした魔法使いの映画にもこんな風景が広がっていたことを思い出した。まさに異国情緒である。

 

 俺は見るもの全てにウキウキと心を弾ませながら彼女らの後を追い、市街地を抜けて学園にたどり着く。校門から見える巨大な時計塔が目を引き、おそらく英国のビッグベンを模したものなのだろう。校内に入るとそこにもしっかりと整備された英国風の庭園があり、外観だけを取り繕ったものではないのだと知らされた。通常の学校ならばグラウンドに当たる部分が全て庭園として造られているほどの巨大さにも関わらず、その設計はまるで定規で測ったかのような美しい左右対称である。

 

「これがいわゆる紅茶の園、というやつですか」

 

 俺がそう尋ねると、ルクリリさんから「そうだ、よく知っているな」と感心したように褒められる。聖グロに入学して戦車道を受講する生徒たちはいつか紅茶に関連した名前をいただき、この紅茶の園で茶会を楽しむことを夢見るとまほ姉さんから聴いたことがある。ただ、まほ姉さんから言わせると「プチブルだ!」ということらしい。あの発言にはちょっとネタに走ったところがあったが、黒森峰に入学して以来時折こらえきれずああいう思想が出ることがあるなと思う。というか褒めてもらえたからいいが、男が女子校の内情に詳しいのもなんだか気持ち悪いような気がする。

 

 やがて園内を進んでいくと薔薇園を通り抜けた先で美しいガゼボにたどり着く。巨大な鳥かごのようなそこには小さな円卓が備え付けられ、彼女たちがめいめいに席につく。聖グロは英国風の教育に力を入れているとは聞いていたが、まさかこれほど徹底していたとはと感嘆のため息が漏れる。その柱には巧妙な薔薇の細工が施され、日焼けなど一切なく真珠のような輝きを放っている。

 

 俺はオレンジペコさんがひいてくれた椅子に座り、落ち着かないようにきょろきょろとあたりを見回す。

 

「今紅茶を入れますから、一意さんはゆっくりなさってくださいね」

 

 そう声をかけられ、なんだか居心地の悪さを感じながら頷き返す。なんというか、これはあまりにもテンプレートに想像される『乙女の花園』というやつだなあと思い、その中に男ひとりでいる自分がひどく不釣り合いなもののように思えるのだ。

 

「そういえば、ダージリンさんという方は?」

 

 ふと気になってそう尋ねると全員が首をかしげる。俺がここにくることを望んだのはそのひとのはずだったが、いまだに姿を見せないことが気にかかる。アッサムさんから「彼女は変わりものですから、また何かおかしなことでもしているんでしょう」と言われているのを見て、隊長なのにひどい言われようだなと笑う。

 

 アッサムさんが立ち上がってペコさんの手伝いをし、円卓には俺とルクリリさんとローズヒップさんだけが残される。なんとなく手持無沙汰の感があってぼけっと二人を眺めていると、ルクリリさんから「私が淹れるよりもオレンジペコに淹れてもらったほうがおいしい」といわれる。別に責めているわけじゃないのだが。

 

「私は以前思いっきりこぼして以来ゆっくり座っていることにしましたわ!」

 

 お前はもうちょっとなんとかしたらどうだと思っていると、全く同じようなことをルクリリさんが発言してガシガシと彼女の頭をなでる。どっちもどっちのような気がするが、お嬢様学校と聞いていた聖グロにもいろんな人がいるのだなと思う。

 

「では、ついでですので一意さんにはきゅうりでもとってきていただきましょう」

 

 俺がいつまでたってもそわそわとして落ち着かないでいると、アッサムさんから突然そう声をかけられた。

 

 聖グロのあまりにも女子校然とした様子に委縮しきってひたすら猫をなでていたため、突然の提案に何を言われているのかよくわからなかった。というかいったい何のついでなんだ。あとなんできゅうりなんだ。

 

「きゅうりですか……」

 

「イギリスではアフタヌーンティーにサンドイッチは当然。サンドイッチにきゅうりは当然」

 

 呆けた感じで問い返す俺に対してすぐにルクリリさんからの返事が返ってくる。そのあまりにも自信満々の物言いにすこしたじろぎ、なんだか勢いに負けて頷いてしまう。彼女のいうところによると隊舎の裏に野菜の温室があり、きゅうりもそこになっているので適当なやつをもいできてくれということだった。だんだん自分がどういう立場なのか分からなくなりつつ、曖昧に返事をして温室に向かった。

 

 

 



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第十六話 『神奈川県 続々聖グロリアーナ女学院』

 

 

「うわあつっ!」

 

 真夏の温室である。

 

 入った瞬間に猛烈な熱気に襲われ、一瞬中にはいることをためらってしまう。入り口まで案内してくれたローズヒップさんが逃げ出していったのはこれが理由だなと思い、あの優雅さからほど遠い赤毛をなんとかぎゃふんと言わせようと決意する。

 

 俺は意を決して温室に足を踏み入れ、いくつもの畝と高く仕立てられた野菜の壁を潜り抜けていく。トマトやナス、オクラなどが所せましと並んだ奥にきゅうりをみつけた時にはすでに額に汗が浮かんできていた。

 

「た、たいぎゃ暑かけん……」

 

 俺は大きくため息を吐きながら声をしぼりだす。あまりの暑さに故郷の言葉が漏れ出し、それからすぐに後ろからくすくすと笑い声が聞こえた。

 

「たいぎゃ暑かけん……ふふっ、く、くくく、たいぎゃ暑かけんですって……」

 

 俺が少しだけびっくりしながら振り返ると、そこで金髪のお姉さんがおなかを抑えて苦しそうにしていた。

 

 恥ずかしさから顔が熱くなってくるのを感じるが、それよりも彼女の顔に見覚えがあってまじまじと見つめる。大きな帽子でよくわからないが、間違いなくどこかで会っているような気がした。

 

「あー、困っちゃう。こんなに笑うのは久しぶりですわ」

 

「あたげんハウスばたいぎゃ暑かったけん……」

 

 悔しかったのでさらに追い打ちをかけるとさらに激しく笑いだし、俺は少し溜飲が下がった気分になる。もう二度と熊本弁出さないぞ。

 

「まっ、まったく、さすがおやりになるわね……」

 

 しばらくして落ち着くと彼女はそう言って目に浮かんだ涙をぬぐい、ようやく平静を取り戻したように俺と向きあう。そうしてまじまじと顔を見てやっと俺も思い出すことが出来た。昼間横浜の公園で気分が悪くなった際、ハンカチを差し出して汗を拭いてくれた女性である。

 

「お久しぶりですわね」

 

 聖グロの生徒の方だったんですねと声をかけたところ、彼女の表情に花のような笑みが浮かぶ。

 

「普段は園芸部の部員としてこの野菜たちの世話などをしておりますの」

 

 おしとやかで綺麗で、そのうえ自然を愛することのできる素晴らしい女性なのだと感じ入る。迷子になったり迷子が増えたりなんだか口が悪かったりして聖グロは変なところだなと思っていたが、どうやら戦車隊の人たちがおかしいだけらしいと考え直す。こんなにも優しく美しい、令嬢の見本のような女性もいるのだ!

 

 俺が戦車隊のひとたちに頼まれてきゅうりを収穫しに来たと事情を説明すると、やはり彼女は優しげに頷き、快くそれを手伝うと申し出てくれた。

 

 野菜の世話の邪魔じゃないでしょうかと尋ねると「今日の仕事はもう終わったから構いません。ふたりで終わらせて、暑いところから抜け出しましょう」と笑いかけてくれる。俺は彼女から収穫に適したきゅうりやスーパーで選ぶ際のコツなどを教えてもらいながら、手に手をとられてきゅうりの収穫について教わった。

 

「食物に対する愛より誠実な愛はないと言いますわ」

 

 きゅうりのへたをはさみで切り、収穫したばかりのきゅうりを掲げて見せる。俺も自然とその姿に笑顔がこぼれ、ふたりでにこにこと笑いながら温室を後にする。一瞬彼女の笑顔に怪しげな策謀のようなものが混じったような気がするが、これこそ気のせいの最たるものである。

 

「ありがとうございます。本当に助かりました。……あの、よろしければお名前を」

 

 来た道を彼女とふたりで戻り、紅茶の園の近くにまで戻ってくる。俺が彼女とはここでお別れかと思っていると、意に反してそのまま俺のことを追い抜き、逆に振り返ってこちらを先導してきた。

 

「その必要はありません。さあ、みなさんがお待ちです」

 

 どういう意味だろうと思って彼女についていくと、やがてこちらに待たせていたメンバーがこちらに気が付き、その中からローズヒップさんがこちらに向かって駆け出してくる。これまででいちばんのダッシュだ。

 

「ダージリン様ー!」

 

「あらローズヒップ、よく一意さんをここまで連れてきてくれたわね」

 

「ダージリン様のおっしゃる通りにやれば余裕ってもんですわ!」

 

 あらあらとローズヒップさんの頭を撫でる彼女。直後にこれまでと別人のように颯爽と俺の横を通り抜け、そばにいたローズヒップさんもそれに従う。いつのまにかルクリリさんやアッサムさんは定位置のように円卓につき、通路から見て一番奥の席だけを開けていた。そしてツカツカと風を切るようにして歩いていた彼女が、まるで羽が舞い降りるように静かにその席に座る。

 

 こちらを見据える表情は、いたずらが成功して喜ぶ子供のようにウキウキとして、笑みを隠しきれない様子だった。

 

「はじめまして一意さん。聖グロリアーナ女学院戦車道の隊長、ダージリンと申します」

 

 やっぱり変なひとばかりだったらしい。

 

 

 

 

 白磁の皿にならんだサンドイッチを、美しい装飾のあしらわれたサンドイッチトングで取り寄せる。薄いパンにきゅうりが挟まれただけの、そのものずばりキューカンバーサンドである。イギリスではこれを紅茶と一緒にいただくそうだが実際に現物を食べるのははじめてだ。俺の家でもサンドイッチが朝食として出されることがあってもきゅうりのほかに他にハムやマヨネーズが入っているし、完全にきゅうりのみというのはあまりなじみがない。

 

「是非お召し上がりになって。ペコさんのキューカンバーサンドは絶品よ」

 

 丁度俺の正面に座ったダージリンさんからそう声をかけられる。先ほど正体を隠してからかわれた件について少しすねていたが、そういわれると目の前のサンドイッチに対する好奇心が抑えられなくなってきた。

 

「ダージリン様、これぐらい誰にだって作れます」

 

「いいえ。こういったものにこそ奥深さがあるの」

 

 あはは、と困ったように笑うペコさんを横目に見ながらサンドイッチに口を付けると、すぐにその深い味わいに驚く。きゅうりだけのサンドイッチでこんなにも美味しくなるのかと思い、一口食べてまじまじとサンドイッチを見詰める。きゅうりの向きに対して直角に切られた断面から、皮の濃い緑と実のライトグリーンがコントラストをなして美しい。きゅうりは塩コショウされており、更に酢をかけたのか少しだけ酸味を感じることが出来る。パンの内側にはバターが塗られており、それが口に含んだときに野菜だけのサンドイッチとは思えない濃厚な印象を生み出しているのだとわかった。

 

「ほらね」

 

「とても美味しいです。ほんとうに。すごいです」

 

 俺の言葉にペコさんは困ったような照れたような表情で頬をかき、これぐらい頼まれればいくらでも作れますから、と答えた。

 

「おふたりが良いきゅうりを取ってきてくれたからですよ」

 

 ペコさんを見るダージリンさんの目が少しだけ細くなるのが見えたが、俺と目が合うとすぐにこれまで通りの正体の知れない表情になる。

 

「そういえば、一意さんはこれからどうなさるの?」

 

 目を合わせないように紅茶を飲んでいると、ダージリンさんがそんなことを尋ねてきた。

 

「このまま国道沿いに走って行って、たぶん静岡の途中でフェリーに乗って熊本に帰るんじゃないかなと思います」

 

「あら、姉思いの一意さんだから飛んで大洗に戻るかと思いましたのに」

 

「え、なんでですか?」

 

 そう尋ねた瞬間時が止まったような気がしたが、すぐにアッサムさんから「弟くんは携帯電話とか持っていないの?」と声をかけられ、思い違いだろうと気にしないことにする。俺が母に交渉しているところですと話すと、彼女からカチューシャさんが「連絡する術を持て!」と怒っていたことを知らされた。そんなこと言われても困るのだけど、あのひとにそんなことを言ってもきっと理解してくれないだろう。そんな話をしていると、ダージリンさんが何事かを小さな声でつぶやくのが聞こえた。

 

「いえ、エキシビションで負かされたみほさんを慰めに行くと思っていましたの」

 

「わざわざそんなことしませんよ。勝つこともあるし負けることもあるでしょう」

 

「あら、西住流らしくない言い方」

 

 信じられないぐらいの強さで痛いところをついてくるひとだと思い、俺はじっと紅茶を飲むことにした。

 

 

 

 

 その後アッサムさんがローズヒップさんとふたりで彼女の携帯電話を捜しに行き、それに伴って他のひとたちもそれぞれの用事を済ましに行く。部屋に残ったのはただ俺とダージリンさんだけで、俺は一言も発さずににこにこと笑っている彼女と向き合うことになった。これまでずっと床でごろごろしていた猫が俺の膝に飛び乗ってくる。

 

「本当にみほさんそっくりね」

 

 膝の上の猫を撫でいているとダージリンさんからそう声をかけられた。これまでの人生で数えきれないほどかけられてきた言葉ではあるので、俺は気のない返事を返しながら猫の肉球を押して爪を出したり引っこませたりする。

 

「みほさんが転校してきたらこんな感じなのかしら」

 

 彼女が夢見るように発した言葉で意識が引き戻される。戦車道の名門である聖グロでは姉さんが転校する見込みはなかったかもしれないが、なるほど確かにこの状況はそういうシミュレーションとしてみることもできるのだろうか。

 

「戦力過剰ですよ……」

 

「あら、そんなことありませんわ。うちは二年生の層が少し薄いから。……そうすればペコさんにももう少し余裕が生まれますわ」

 

 彼女は一切音をたてずにティーカップをソーサーに戻し、耳にかかった髪をたぐって直す。それから両手の指を組んで机に肘をつき、伏し目がちに顔を伏せて部屋の隅をみた。なんとなくアンニュイな雰囲気だ。

 

「ダージリンさんは後輩想いなんですね」

 

「ふふ。かつて私がアールグレイ様……私の前の隊長ね。あのひとにしてもらったことをあの子にも返してあげたいの。きっとそういう風にしてこの聖グロリアーナの戦車道は続いてきたのよ」

 

 先ほどの物憂げな雰囲気をかき消して、再び不敵な笑みを浮かべて笑う。その姿には何か大きなものを背負っているような、圧力といえるような雰囲気があった。

 

「誰だってそう。あなたもまだ気が付いていないだけで、きっとそういった大きな流れの中にいるわ」

 

「……そういうことに気が付けるようになりたいと思っています」

 

「そう考えられることが最も素晴らしいことですわ」

 

 腕の中の猫が俺の掌に猫パンチをくりだし、俺は両手で粘土をこねるように猫をもみしだく。普通こういうことをされると嫌がるものじゃないかと思うのだが、こいつに関しては嬉しそうにニャアニャア鳴いている。

 

 ダージリンさんの言葉を考えるが、俺にはまだうまく実感できないことだと思った。姉さんに会えば森に日差しがさすようにそういうことが全て明らかになるかと思っていたのだが、実際そう上手くはいかないと旅の途中でわかっていた。俺は部屋に差し込む西日を眺めながら、そろそろ夏休みが終わることについて考えている。

 

「可愛い猫さんね」

 

 ダージリンさんがにっこりと笑う。

 

「ダージリンさん、みほ姉さんよりも見る目がないですよ」

 

「あら、光栄ね」

 

 もうちょっと狼狽えてくれてもいいのにと思って悔しがると、俺の手の中で猫が大きなあくびをする。

 

 

 

「絶対にアンツィオに立ち寄るように」

 

 とダージリンさんから厳命を受けつつ来た道を戻る。あのあと用事を済ませたメンバーがぞろぞろと戻ってくると、俺は西陽が差し始めたのをみて暇乞いをさせてもらった。ローズヒップさんからは少し惜しまれたが、ダージリンさんの「旅の途中ですものね」という言葉で一同見送ってくれることとなる。前述の言葉の意味はよくわからないが、とにかくアンツィオには寄らなくてはならないらしい。そうなると帰りは清水港からフェリーだろうか。

 

 学園艦を出た後、タラップの前でダージリンさんが「では私たちはここで」と声をあげた。

 

「色々と大変だと思うががんばれ。色々と」

 

 ルクリリさんから背中を叩かれ、そう声をかけられる。車内での表情があまりにも悪人っぽかったため当初は怖いひとなのかとも思ったが、単に口調がちょっと荒っぽいだけらしい。なんだかよくわからないしゃべり方をするローズヒップさんといい、聖グロも多様性にあふれているようだ。 

 

「引き留めてしまってごめんなさいね。旅の無事を祈っているわ」

 

「ありがとうございます。……ダージリンさんのおっしゃっていたこと、よく考えてみます」

 

 俺がそう返事をすると、彼女はハンカチをくれたときのように優しく笑い、隣にいたペコさんの頭を撫でる。突然の行為にペコさんが驚くが、結局なすがままにされていた。

 

「一意さん、あなたにこの言葉を送りますわ。『人生は誰かのために生きてこそ価値がある』」

 

「アインシュタインです」

 

 頭を撫でられながら出典を教えてくれるペコさんの姿に笑い、俺はタラップをおりるために足を踏み出した。横浜港に降り立って振り返ると、タラップの上で五人がまだこちらを見ている。俺が全身で大きく手をふると、ローズヒップさんが負けじとさらに大きく手を振り返し、他の四人が苦笑したように見えた。

 

 

 




聖グロ編改訂版です。
そんなに変わっていないんですが、なにはともあれ。
今回は私のわがままで読者の方にご迷惑をおかけして申し訳ありません。


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第十七話 『静岡県 大学選抜チーム』

 

 

 神奈川県を抜けて一夜。俺はさらに西に進み、静岡県に近づいていた。千葉、東京、神奈川と進んできたときにあれほどうんざりさせられたビルの群れは摘み取られたように少なくなり、海辺にはみかんの畑が多くなる。斜面を段々に切り抜いて作られたみかん畑には収穫を忘れられた果実がぽつぽつと残り、それが美しい彩となっていた。

 

 俺は箱根を越えたあたりで道を逸れ、御殿場に向けて北上していく。目指しているのは戦車道の聖地、東富士演習場だ。これまでの人生で何度来たかはもうよく覚えていないが、今回は大洗と黒森峰の決勝戦以来なのでそんなに期間は空いていない。それでもあそこに向おうと思えるのは、いつもどこかしらが戦車道の練習試合を行っていることと、その近くのブルワリーレストランが出してくれるスペアリブがとても美味しいからだ。

 

 幼い頃にはよくあそこで戦車道の試合を観て、それから家族全員であのレストランに行って食事をした。父さんはあまり酒に強くはなかったが、母さんはそのぶんも埋めるように大量のビールを飲み、その様子を見て姉さんたちが「私も飲みたい!」と主張していたことを思い出す。中学生になってふたりが学園艦に行ってしまってからはそういうことも少なくなったが、あのことは俺の中に大切な思い出としてしまってある。

 

 まあ大切な思い出はそこそこにぼーっとスペアリブのことを考えていると、猫も荷物のなかから身体を出してきて背中をびしばしと叩いてくる。大方俺にもよこせといったところだろうが、おそらくあの店は猫を入れてはくれないだろうなと考えた。ばれないように骨だけくすねて食べさせてやろうと考える。

 

 猫をなだめながら走り続けると次第に民家が少なくなり、道路の片側が山肌に変わっていく。セミたちが一斉に鳴きだすとまるで森全体が鳴動するように感じられる。猫はうるさくてたまらないというような表情をしていたが、俺はこの旅で何度目かの夏の雰囲気を存分に味わっていた。この夏がいつまでも続けばいいと思い、すぐに自嘲するような笑いがこぼれた。

 

 

 

 東富士演習場にたどり着くたび、その広大さと背後に見える富士の威容に驚く。俺は目的地にたどり着いただけで意味もなくわくわくし、所々の出店で軽食を買いながら猫とふたりで食べる。猫も俺と同じものを食べたがったが、動物に人間と同じものを与えると早晩くたばってしまうため猫用のカリカリで我慢してもらう。たいそう不満そうな顔をしていたが、夜にはスペアリブの骨をあげるので勘弁してもらいたい。

 

 観覧席にたどりつくと大スクリーンに今日の組み合わせが映し出されており、すでに席が少しずつ埋まり始めていた。俺は手近な席を選んで座り込むと、スクリーンに映し出された『大学選抜対社会人』という文字をまじまじと見る。どこかの高校同士の練習試合かと思ったが、今日はどうやら交流目的のような試合なのかもしれない。俺は気持ちを少し落ち着けて椅子に深く座り込み、隣の席に寝転んだ猫をわしわしと撫でた。のんびり楽しめればいい。

 

 そう考えていたが、試合が始まってほどなくすると、俺は周囲のおじさんたちと一緒にまるでフーリガンのような叫びをあげていた。

 

『強いですねこれは! 強すぎます! 島田愛里寿選手、圧倒的な強さで社会人チームを圧倒します!』

 

 開始と同時に隊長機のセンチュリオンが一機で敵陣に突っ込むというあまりにも異様な展開で幕を開けた試合だったが、経過はさらに信じがたいものだった。斥候との接触から二十分。林に隠れていた斥候を瞬殺するとセンチュリオンはそのまま敵陣深くに突っ込み、自機を取り囲んだ小隊を圧倒的な戦車さばきで下していく。単機で特攻した敵機に対して社会人が油断していたことは否めないだろうが、それにしてもあの戦車に乗っているメンバーの熟練度は圧倒的だ。まるでコンピューター制御されているような動きで砲身が動き、一発たりとも撃ち漏らすことなく敵戦車を駆逐していく。

 

 俺の周囲はいまや狂乱と呼べるほど盛り上がり、さながら乱打戦と化した甲子園球場のようなありさまとなっていた。

 

『ついに社会人チームの最後の一機から白旗があがりました! 大学選抜チームの勝利です!!』

 

「うぉぉおおおおおおお!!!」

 

 俺や周囲のおじさんたちが一際大きく叫び声をあげ、上空にいくつものタオルが舞う。まるでノーヒットノーランが達成されたかのような盛り上がりだ。大洗対黒森峰のような緊張感のある試合もたまらないが、こういった痛快なスーパープレイが見られる試合もたまらない。興奮状態に陥った猫が足元で狂ったように動き回っていて笑う。

 

 俺は試合の喧騒も冷めやらないうちから、これからは大学生の試合もチェックしていかなければいけないと決意を新たにしていた。

 

 試合が終わってからしばらくは御殿場の風光明媚な景色を楽しみ、昔姉さんたちと遊んだところをぐるぐると歩き回っていた。地ビールの工場なども公開されており、物珍しく見て回る。しばらくして外に出るともうひぐらしが鳴き、やがて世界は夏らしい薄暮に染まって青色に包まれた。俺はすっかり涼しくなったのを感じ、舗装された林の道を抜けてレストランを目指す。季節の移り変わりは素晴らしいが、俺はこの夏の夕暮れにある青色がたまらなく好きだ。まるで自分が映画の世界にいるように思える。

 

 林を抜けた先にレストランがあり、広い芝生の中に建てられたそれが煌々とした灯りで輝いていた。外観からはまるで大きなコテージのように見える。レストランのすぐ前までくるといつも通り猫がそっぽを向いて歩き出す。その背中が「兄弟、絶対骨だけは拾ってこいよな」と言っているような気がして、俺も襟を正してレストランの扉をくぐった。今日はこの旅最後の贅沢としてホテルに部屋までとったのだ。何が何でもスペアリブを満喫するつもりである。

 

 レストランのなかは広々としており、温かみを感じさせる木造の机と椅子が並べられている。天井は見上げるほどに高く、程よい喧騒の中に楽団が奏でる音色が溶け合っていた。俺は案内されながら嬉々として進み、その途中オープンキッチンで調理されている巨大なスペアリブを発見する。心は完全に肉食獣だった。

 

 席に着いてから注文するとすぐにノンアルコールビールとザワークラウトが運ばれてくる。まほ姉さんが黒森峰で覚えてきて以来、俺もノンアルコールビールにハマってしまった。俺はまずビールで口をしめらせ、ザワークラウトを半分だけ食べる。思わず顔をしかめるほど酸味が強いが、それがすっきりとした清涼感になった。昼間ジャンクフードを食べたせいか胃が少しもたれ気味だったが、ザワークラウトの酸味とビールでいくぶん気分が良くなる。そうやってしばらく楽しんでいると、ついにスペアリブが運ばれてきた。

 

「うぉぉ」

 

 とつい声が出てしまう。巨大な皿からはみ出すほど大きなスペアリブはまだ表面がしゅうしゅうと音を立て、つい先ほどまで網で焼かれていたのだとこれでもかと主張してくる。俺は添えられたナイフとフォークを手に取ってそのあばら肉の一本を切り分け、辛抱溜まらずすぐに口に含んだ。猛烈な熱さに一瞬ひるむが、かまわず噛み続けると中からとめどなく肉汁が染みだしてくる。漬けられたタレと肉自体の濃厚な味わいで、家にいたら間違いなくご飯三杯おかわりしてしまうタイプの味だ。俺はじっくりとそれを味わい尽くし、それからビールで流し込む。

 

 驚くほどの多幸感である。

 

 俺はほとんど時間もかけずにスペアリブを次々と口に放り込み、時折ザワークラウトを間に挟むことでとめどなく食事を続けた。ザワークラウトで二倍食える! と豪語する父さんのことを思い出す。ニ十分もしないうちに皿は綺麗に骨だけとなり、俺は大きく息を吐いて椅子に座り込んだ。

 

 こんなに美味しいものをひとりで食べたのは久しぶりだと思う。この旅の色々な人と道程をともにし、美味しいものをたくさん食べた。

 

 俺は満腹感に包まれながらもわずかな寂しさを覚え、すぐに店を出た。骨は渡せないと言われて、心の中で猫に謝る。

 

 

 

 店から出てきた俺の姿を見て、猫はずいぶんご立腹のようだった。レストランの前の大きなステップに腰を下ろすと、猫は背中を山なりにして肩をいからせながらにじり寄り、ガンを付けながら「おいおい兄弟。こいつぁちょっと話が違うぜ」とすごんで見せる。俺が苦笑してポケットからカリカリを取り出すとものすごい勢いで威嚇される。カリカリを差し出すと一応食べてはくれたが、その姿にもどこかやけくそな雰囲気が漂う。

 

 困ったなあと苦笑いしていると、背後から扉が開く際の鐘の音が響く。猫がその音に反応してふしゃあと鳴くのを聞き、あまりにも神経過敏であると心配になった。食べ物の恨みは恐ろしいようだ。

 

 扉のほうを振り返ると、そこに灰色のベストを着て熊のぬいぐるみを持った少女が立っていた。彼女もまたこちらを見詰めており、少しのあいだ目が合う。そして彼女が歩き出した瞬間、木組みの隙間に足を取られてぬいぐるみを手放してしまった。

 

「あ」

 

 と声をあげる暇もなく、俺のすぐ隣から流星のように猫が飛び出した。空中で落ちていく途中のぬいぐるみをとらえて地面に叩き付け、まるで高速でまり玉をつくように何度も何度も強烈なパンチを食らわせる。よく見るとすこしずつ打点が移り変わり、効率よくダメージを与えようとしているのがわかった。これは効いていますよ!

 

 俺が突然の出来事に呆然としていると、すぐに気を取り直した少女が体勢を立て直す。両手の拳をぎゅっと握りしめる様子に泣いてしまったらどうしようと不安になるが、その口から出た言葉は俺が実家で散々慣れ親しんだものだった。

 

「がんばれ! がんばれボコー!」

 

 本日何度目かの驚愕である。よくよく見ると彼女の持っていたぬいぐるみはあの「ぼこられ熊」であり、それを示すように全身に痛々しい包帯がまかれていた。自分のぬいぐるみが刻一刻とメタくそにされているというのに一切動揺しないこの精神性、間違いなくぼこファンの姿である。

 

 その応援によって火がついたように、ついに猫のラッシュも終盤に差し掛かった。まるでステーキ肉をやわらかくするために全体を叩くかのごとく続いていたラッシュだが、それがひと段落する。ぬいぐるみの全身をひっぱたきおえると、猫はついにその牙でぼこの首筋に食らいついた。そして犬猫が水にぬれた時に全身を震わすときにそうするように、猫もまたぼこを咥えたままで全身を左右に振ってぶんまわす。最後にぬいぐるみを地面に叩き付けると、まるで普段自らの糞尿にそうするように後ろ足で蹴りを入れた。まさに完全勝利といった結末である。

 

 静寂。痛いほどである。俺は先ほどまで猫に対抗するように隣でぼこを応援していた少女に近寄り、おそるおそる声をかけた。

 

「あ、あの、すみません……」

 

「あなたの猫ですか」

 

 きっ、と気の強そうな瞳でこちらを見詰めてくる少女に思わずたじろぐ。これだけのことをされて怒っていないわけがない。俺は泣かれなかったことに感謝をしながら恐る恐る彼女に謝罪する。

 

「はい、あの、ごめんなさい」

 

 その言葉を言い終えるか終えないかの瞬間に彼女の言葉が放たれる。

 

「とっても利発な猫さんですね!」

 

 目の前で嬉しそうに笑う少女の姿をみて、俺は顔全体が苦笑いにゆがむのを感じる。一仕事終えてのんびりモードに入った猫が地面にべったりと張り付くのが見えた。

 

 

 




ようやく終わりが見えてきました。


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第十八話 『静岡県 続大学選抜チーム』

 

 

 

 自己紹介によって少女が島田流家元の子であり、なんと昼間圧倒的な実力を見せ付けたセンチュリオンの車長であると知った。

 

 名前は島田愛里寿さん。十三歳なのに飛び級して大学に通っているらしく、なんというかマンガとかアニメみたいな天才である。まあうちの上の姉も国際強化選手だから負けていないだろう。国際だぞ。しかもまだ高校生。彼女は大学生です。昼間のセンチュリオンの動きは確かにすごかったが、まほ姉さんならきっと負けないだろう。

 

 話がそれた。

 

 「あなたとそっくりなひとにこの間、ボコミュージアムで会ったわ」

 

 俺からの自己紹介が終わると彼女からそんなことを言われ、すぐにみほ姉さんのことだとわかる。まほ姉さんはそんなにボコが好きじゃないようだし、俺はもちろん愛里寿さんと会った覚えはない。それはうちの姉で、今年の高校戦車道大会で優勝した大洗の隊長だと伝えると、彼女はなんとなく神妙な顔つきになっていた。

 

 先ほどとは打って変って大人しく黙り込んでいるが、どうやらあちらの興奮状態のほうが彼女にとっては珍しいことらしい。猫によるボコぼこぼこ劇場が終わると次第に落ち着きを取り戻し、今では俺の言葉にも三度に一度くらい返事を返す程度だ。怖がられているのかもと思ったが口数が少ないだけで普通に返してくれるし、単に物静かで内気なだけらしい。

 

 俺はというと初めて会った他の家元の関係者ということで嬉しくなり、これまで全く共感を得ることのできなかった『家元あるある』の引き出しからどんどん話題を出す。

 

 「子供の頃とか戦車乗り回すよね」

 

 「……空砲撃ってすごく怒られた」

 

 「俺も庭の木の枝を折ったよ。まあ撃ったのは下の姉さんなんだけど」

 

 これまでの人生でこれほど家元あるあるが盛り上がったことがあっただろうか。俺はいままで学校でこの話題を出すたびに「西住にナメた真似すると戦車で喧嘩売りに来る」とか「西住にオカマって言ったやつの家がアハトアハトで粉々にされた」とかいう根も葉もない噂を流されてきたのだ。彼女もそういった話はこれまで誰ともできなかったらしく、そのうち笑顔を見せてくれるようになった。

 

 「こんなふうに人と話したの、久しぶりかもしれない」

 

 話が途切れたとき、ふいに愛里寿さんがそうつぶやいた。小学校の途中からまわりは戦車道の大人ばかりになり、飛び級して大学に進んだ今では同年代の人と知り合う機会はほとんどないらしい。

 

 「じゃあ休みの日とかどうしてるの?」

 

 「……録画したボコを見るとか」

 

 不意に目頭が熱くなり、俺は眉間の両側を抑える。休日まで俺を捕まえて戦車の講釈をしてくる上の姉も大概だが、まさか下の姉のような人間がこんなところにもいたとは。

 

 「だからこんな風に、普通の話をしたのは久しぶり」

 

 そう呟く彼女の表情がほころび、手に持ったボコのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。

 

 「たのしい」

 

 「じゃあ俺たち、もう友達だね」

 

 彼女の瞳にちいさなはてなが浮かぶ。

 

 「三歳も離れてるのに」

 

 変なところに噛み付くやつだなと思い、そんなことは気にしなくて良いと言った。

 

 「一緒にいて楽しかったんだから、もう友達だよ」

 

 愛里寿さんが少し黙ってボコをもてあそび、それから隣に座る俺のことを見上げる。

 

 「じゃあ一意って呼んでもいい?」

 

 「もちろん! 俺も愛里寿って呼ぶよ!」

 

 「……ありがとう。一意」

 

 その言葉に笑みが浮かび、それから足元にいた猫ものろのろと座っている愛里寿に歩み寄る。まるで下校する児童を狙う不審者のような動きだが、愛里寿になでられるとゲル化して地面に寝転んだ。

 

 それからもしばらくくだらない話をしていたが、ふいに俺たちの声に混じって「たいちょー!」と誰かの声が聞こえてくる。

 

 「あ、メグミ」

 

 どうやら声の主は愛里寿の知り合いらしく、いつまで経っても戻らない彼女のことを心配して探しに来たようだった。愛里寿の瞳が困ったように揺れ、しばらく中空をさまよったあとで俺の方を見る。

 

 「戻らなきゃ。みんなが心配してる」

 

 「それじゃあ、俺もそろそろホテルに戻ろうかな」

 

 そういって立ち上がると、左手にひっかかりを覚えて少しよろめく。何かと思うと愛里寿が俺の服の袖を引き、さっきと変わらず俺のことを見つめていた。

 

 「一意を、大学のみんなに紹介する」

 

 「え」

 

 驚いて問い返すともういちど『友達だから、する』と駄目押しされ、俺の脳裏にそれはちょっとどうなのだろうと疑問符が浮かぶ。

 

 それはちょっとどうなのでしょうか。俺は段々と近づいてくる「たいちょーどこですかー?」という声を聞きながらそう問いかけていた。

 

 

 

 「みんなに悲しいお報せがあるわ」

 

 しんと静まり返った大テーブルにメグミさんの声が響く。先ほどまで飲めや騒げやの大盛り上がりだった席は今や水をうったように静まり返り、メグミさんの言葉に耳を傾けている。

 

 「隊長が男を捕まえてきました」

 

 直後、大テーブルは阿鼻叫喚の騒ぎに包まれ、ありとあらゆるところから「隊長に先をこされたっ!」「やっぱり昼間あの男捕まえておけばよかった!」と悲鳴がきこえてくる。

 

 「静かに、先ほど友達になった西住一意だ。みんなも仲良くするように」

 

 隣に立った愛里寿が前に出ると一瞬で騒ぎが静まり返り、全員が声をそろえて「はい」と返事をする。俺は先ほどまであまり喋らずに静かに返事をしていた愛里寿と、今堂々と隊員たちの前で声をあげた愛里寿の違いに驚き、やはりこの歳で隊長を任せられるのには相応の理由があるのだなと感心した。

 

 「それでは引き続き楽しむといい。じゃあ一意はこっち」

 

 そう言って俺の袖を引っ張る愛里寿を見て隊員たちが色めき立つ。俺はなんとも言えない居心地の悪さを感じながら大テーブルを進み、その中ほどにある席に案内される。途中「すごいなさすが忍者すごい」とか「忍者戦術には房中術もある!」とかちょっとやばい会話も聞こえてきた。もしかしなくてもここは酔っぱらいの集まりである。さすが大学生ともなるとジュースでは済まないのだ。

 

 愛里寿が示した席は彼女のすぐ隣で、その周囲には先ほどのメグミさんと眼鏡をかけた気の強そうな女性。それからなんというか、至極当たり障りのない言い方をすれば大変包容力のありそうな女性のふたりがいた。愛里寿から紹介を受けたところによると眼鏡の方がルミさん、包容力のありそうな方がアズミさんというらしい。俺は年上の方々に囲まれて少し委縮しながら自己紹介する。

 

 「一意、緊張しないで。みんな良いひとたちだから」

 

 「俺は愛里寿と違って年上の方と接する機会が多いわけじゃないから」

 

 ひとつふたつ上ならともかく、大学生というのはひとつ壁の先にいるように見える。丁度中学一年生のときにみた三年生の先輩が別の生き物に見えたときのようだ。

 

 「あら、もう呼び捨てなんて」

 

 「流石西住流だ。進む姿に乱れなし」

 

 「ここで前哨戦ってわけね」

 

 またよくわからないことを言われて西住流に風評被害が。このままでは実家に帰った際の母さんとまほ姉さんからの教育がさらに激しさを増してしまうと思い、ちょっと表情が苦くなる。気を取り直して横合いからアズミさんに差し出された飲み物をぐっと口に含み、とにかく美味しいものをたくさん食べて乗り切ろうと思った。

 

 三人は大学選抜の中で愛里寿を支える副官の立ち位置にあるらしく、そのコンビネーションで繰り出されるバミューダアタックで倒した敵は数知れず、らしい。だがバミューダアタックという名前はルミさん以外にはあまり評判がよくないらしく、アズミさんとメグミさんのふたりが「またでたバミューダ」みたいな顔をし、愛里寿はちょっと複雑そうな表情をしていた。結構かっこいいと思っているのだろうが、他のふたりからの評判が良くないからあまり主張できない感じだ。

 

 「どうなんだろう。俺もカッコいいと思うけど男だからですかね。愛里寿はどう?」

 

 「えっ、わっ、私も悪くない、と、思うぞ……」

 

 突然俺から意見を求められて困惑する愛里寿だったが、なんとかつっかえつっかえそう答える。その表情に少し赤みが差し、抱きしめたボコのぬいぐるみが大きくたわむ。ボコは今日もぼこぼこになってるなあと思いながら「ほらー! やっぱり! 隊長もかっこいいって言ってるだろ!」と大きく攻勢に出るルミさんを眺める。

 

 「まさか隊長を味方につけてくるとは……!」

 

 「ミミミ三姉妹のパワーバランスが大きく崩れてしまうわね」

 

 「隊長! 次のコンビネーションはふたりで名前を付けましょう!」

 

 喜ぶルミさんに後ろから肩を掴まれ、愛里寿が困ったように笑う。その様子をほほえましく見守っていると、左隣のアズミさんがしなだれかかるようにして肩に肘をのせてくる。非常に配慮した言い方をすると大変包容力のあるそれがふんわり腕全体に触れて全身が石のように固まる。男子校に通う男子高校生にとってこのひとの存在は非常によくないのではないか。耳元で「上手じゃない」とささやかれ、それが先ほど愛里寿に話をふったことだとわかっていても脳が爆発しそうだった。というか直後に滝のような鼻血がでた。

 

 「一意! どうしたの!?」

 

 「ただのはなぢだから、きにしないでくれただのはなぢだから!」

 

 俺は必死にアズミさんを押しのけながら鼻を抑え、心配する愛里寿をどうどうと落ち着かせる。メグミさんから渡されたポケットティッシュで鼻を抑えていると、周囲から他の隊員たちもどやどやと寄ってきた。

 

 「鼻血だしてる!」

 

 「おいアズミ! おまえさてはやりやがったなー!」

 

 「少年も隊長がいるのにダメなやつだ」

 

 「隊長ー! 戦車が恋人で良いんじゃないですか!? それも良いものですよう!」

 

 「それで良いなら別にかまわないと思うけど、酔ってるのか……?」

 

 そしてあっという間に周囲が人の波に埋め尽くされ、しっちゃかめっちゃかの中でいつのまにか俺も愛里寿も大きな声で笑っていた。宴会はどこまでも終わりが見えないように続き、いつの間にか愛里寿がその場の中心になって隊員たちから可愛がられている。その人の波がいつまでも途切れず、ようやくお開きにというときにようやく再び話すことができた。

 

 「つかれた……」

 

 ちょっとげっそりした愛里寿がそう呟き、俺はその姿を見て本当に疲れたのだなと笑う。

 

 「すごくいい仲間たちだな」

 

 そう話しかけると愛里寿は少し照れたような顔をして「そうみたい」と答える。ボコを強く抱きしめるその姿に先ほどのさびしそうな様子はなく、彼女もまた沢山の素晴らしいひとたちに囲まれているのだと思った。

 

 

 

 翌日、朝食を愛里寿と一緒にし、それから俺はまた旅を再開することになる。

 

 旅立つ前、携帯電話を持った愛里寿から「アドレスを交換しよう」と言われ、十三歳でも持たされているものを俺はいまだに許可されていないのかと驚愕する。というか「ごめん、携帯持ってないんだよ」と返事をしたときの愛里寿の表情のほうがショックだった。それって不便じゃないの!? と尋ねられても、不便だけどどうにもならないことだってあるよとしか答えられない。

 

 俺はせめてと思い実家の住所を書いた紙を愛里寿に渡し、そのお返しとして愛里寿直筆のアドレスを書いた紙をもらう。

 

 「次は俺の姉さんも紹介するよ。ボコが大好きだから、きっとすぐ仲良くなれると思う」

 

 そう伝えると愛里寿は複雑そうな表情になり、小さなこえで「きっとすぐに会えると思う」と答えた。俺もそう思ったので愛里寿に笑顔をむけ、そして再びバイクにまたがる。

 

 「じゃあ、携帯買ってもらったらすぐに連絡するよ。またね」

 

 「うん、またね。……ごめんなさい」

 

 最後の言葉はよく聞き取れなかったが、愛里寿の表情は笑っていたのでネガティブな言葉ではないと思う。最後の最後で猫が愛里寿のぬいぐるみに強烈な一撃を加え、それをみて二人で笑った。

 

 

 




ジョジョリオンの新刊がめちゃくちゃ面白いです


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第十九話 『静岡県 アンツィオ高校』

 

 

 富士で野宿をした翌日、まだ暗いなかをパンターに乗って走り出す。あまり遅くまでゆっくりしていると起きた時にご老人の集まりに覗き込まれてしまうとか、下手すると警察の方にもしもしされてしまう可能性もある。旅を続けるうち、俺は必然的に早寝早起きの生活を身に付けるようになり、折角の夏休みだというのに自堕落な生活リズムとは無縁だった。

 

 昨年の夏休みはどのように過ごしていただろうか。高校受験を控えて毎日夏期講習にいそしんでいたような気がするが、今思えばあれも実家の雰囲気の悪さから目を背けるための現実逃避だったのかもしれない。おかげさまで志望校には合格したが、俺はその間ほとんど母さんと話すことをしてこなかった。母さんと話そうとするたびに頭の中にあの時の声が蘇り、委縮してしまうことがたびたびあった。

 

 山沿いの道だからか、何度も坂道と下り坂が繰り返す。パンターはそのたびに焼けつくような悲鳴をあげながら坂を登っていくが、これに関しては単に言っているだけなので何の問題もない。スーパーカブは坂道に弱いからものすごい悲鳴を上げるが、その実全然問題にしていないのだ。

 

 いくつかの坂道を越えて夜が白みはじめ、そして由比にたどり着いたころ左手側でいままさに海から太陽が生まれるところを見た。水平線と溶け合った中から逆再生で雫が生まれるように見える。太陽と溶け合った境界線は、まるではちみつを垂らしたように地球の形に沿って世界を輝かせ、やがてその全てが真球として中空に浮かぶ。朝焼けに海がキラキラと輝き、周囲の民家たちが長く影を曳く。涼しげな風が吹き抜け、昨日夕食を食べたそば屋のテレビで天気予報士が言っていたことを思い出す。

 

 『真夏のピークを過ぎました。これからは緩やかに気温が下がり、過ごしやすい日が続いていくしょう……』

 

 旅が終わる。俺は母さんのことを考えなければいけないと思っていた。

 

 

 

 静岡東部にいるうちはずっと折れ曲がった狭い道が続いていたが、清水にたどり着くと次第に大きい道が増えてくる。海沿いにいくつもの巨大な工場や流通関係の会社が並び、車やバイクと並ぶように海鳥の類が飛んでかしましく騒ぐ。清水港に近づくにつれてその数は多くなり、猫が爛々と目を輝かせて彼らのことを眺めていた。野鳥は確か法律で保護されていたはずだが、例えば飼い猫が捕まえて食べてしまったりするとどういう扱いになるのだろう。なんにせよ俺は今すぐにでも飛び出していきそうな猫を抑えておかなければと思った。

 

 清水港にたどり着いてバイクを停めると、いつも通りリュックから猫が飛び出して大きく欠伸をする。俺が支度をする間きょろきょろと周囲を見回して尻尾を左右に振りつける猫を見ながら、こいつもしかして家までついてくる気なのだろうかと心配になった。母さんは許してくれるだろうか。というか家には既に犬がいるし、こいつの性格では絶対あいつのことをからかって喧嘩になるだろうというのは目に見えている。俺はどうしたものかと思って頭を掻くが、まあなるようになるだろうと早々に諦めた。こいつならとにかくどんなところでも大丈夫だろうという気がするし。俺が歩き出すと猫もその後をついてくる。

 

 歩き出した俺の横を食料が大量に積み込まれたトラクターが横切り、驚いて少しだけよろける。トラクターの進んでいった方向に進んでいくと次第に人通りが多くなり、やがて港の広場を利用した屋台村が現れた。聖グロを発つ前にダージリンさんから聞いた話だと、ここの屋台村でアンツィオのひとたちが屋台を出しているだろうということである。いったいなんだってあそこまで俺に「アンツィオに行け!」と勧めてきたのかはわからないが、多分キューカンバーサンドをもりもりたべていたから食事に意地汚い奴だと思われたのだろう。大体間違ってはいないので何も言うことは無い。

 

 屋台村は基本的に新鮮な魚介を使った海鮮系のものを扱ったものが多かったが、それにまじってちょこちょことイタリアンの屋台がある。アンツィオ校の寄港地なのだから珍しくもないが、その屋台にかかれた各部活の名称を眺めていると、そんなことしてないで練習しなさいよという気持ちにもなってきた。とはいえアンツィオは貧乏な高校らしいし、活動資金がなければ活動もままならないということなのだろう。世知辛い世の中である。

 

 「おにーさん! アクアパッツァ食べてきなよ! 清水港獲れたての魚を使ってんだよ!」

 

 「そっちの奴は家庭の成績2だよ! うちのピザにしときな!」

 

 「おめーなんて家庭以外全部ボロボロじゃねえか! そんな馬鹿が作った料理なんて食わせられるか!」

 

 身を乗り出して喧嘩を始めるバレー部とソフト部の間に挟まれて苦笑いする。アンツィオはノリと勢いと聞いていたが、どうやら気性の荒さも中々らしい。口喧嘩にすっかり夢中で俺のことなんか忘れているようだったのでそっとそこを抜けだし、猫とふたりで海沿いを歩く。

 

堤防沿いに等間隔に並んだひとたちが同じように釣り糸を垂れている。猫がのっそりのっそりとそのうちのひとりに歩み寄ると、おじさんが鬱陶しそうに舌打ちをひとつして小魚を猫に放った。強かなやつだなあと笑い、それから岩手のあたりで釣りをしたことも思い出す。ここでも同じような魚が釣れるのだろうかと思って散歩を続けていると、少し離れたところから「ぬわぁ~んもぉ~!」という叫び声が聞こえてきた。

 

 「ぜんっぜんお金足りないっすねえ」

 

 「どうすんだー! このままじゃカッコよく『アンツィオに任せろ!』って言ったのに会場にも到着できないぞ!!」

 

 「そうは言ってもお金は湧いてきませんからね……」

 

 屋台のそばで三人の女性が頭を抱えてうんうん唸っているというのは、あまり見ない光景である。屋台には大きく「鉄板ナポリタン」と書かれていてそれなりに結構客入りも良いようだが、それを他のメンバーに任せたまま彼女らは「金がない」「金が……」とうめき、暗澹たる雰囲気を漂わせていた。俺はそのなかのひとりにどこか見覚えがあり、ふらふらとその屋台に近寄っていく。

 

 不審げにこちらを見る三人に対して手をふると、そのうちのひとり、ボリュームのあるツインテールの安斎さんがこちらに気が付く。

 

 「一意! ようやくここまで来たのか!」

 

 「安斎さん、久しぶりですね」

 

 そう答えると「アンチョビだ!」と怒られる。俺が小学生の頃、初めて姉さんがうちに連れてきたときはこんなこと言ってなかったくせに、高校生になってアンツィオに入学したら途端にこれだ。あの頃から優秀な選手として姉さんとも交流があったりしたようだが、身一つでアンツィオの戦車道を立て直したあたりからちょっとおかしくなっちゃったんじゃないかと思う。

 

 「ドゥーチェ、その方が?」

 

 「あぁ、西住一意だ」

 

 アンチョビさんと話しているとそばにいた二人も近寄ってきて、俺は二人に頭を下げる。金髪のひとがカルパッチョさん、黒髪でぴんぴん髪がはねているひとがぺパロニさんというらしいだから本名じゃないでしょって思う。

 

 俺が興味深そうに屋台をのぞきこんでアンツィオの屋台について質問するが、三人は苦い表情で黙りこみ、それに答えてはくれなかった。どうしたんですか? と質問すると、アンチョビさんが一歩前に進み出てくる。

 

 「いいか一意、驚かないで聞け。大洗女子が廃校の危機にある」

 

 その言葉の意味がわからず、一瞬頭のなかが真っ白になる。

 

 全員の顔を見回すが、その表情に嘘や冗談を言っているような様子はない。心臓の鼓動が大きくなるのを感じ、俺はゆっくりと息を吸って深呼吸を繰り返す。何度かそれを繰り返してから質問したところによると、優勝すれば廃校を取り消すというのは確約ではなかったらしく、俺が大洗を後にしてすぐ姉さんたちは学園艦から追い出されてしまったらしい。

 

 胸の裡に黒々とした感情がともるのを感じ、それと同じぐらいの無力感が全身を包む。俺は姉さんの邪魔をする大きな何かに対しての憤りを感じ、頭痛がしてくる。だが俺に何ができるのだろう。俺には何もできない。まるで旅に出る前のようなどうしようもない気分が全身を支配する。

 

 だが、と思う。こんな裏切りのような真似が許されるわけがない。そしてあの大洗のひとたちが、母さんが、これまで出会ってきたみほ姉さんの友人たちがそんなことを許すわけがないと思った。俺は無力感に支配されそうな気持ちを押さえつけ、悲痛そうな表情をしているアンチョビさんのことをまっすぐ見つめ返した。

 

 「それだけじゃないですよね」

 

 そう問い返すとアンチョビさんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに不敵な笑みを顔全体に浮かべてもちろんだ! と言葉を返す。

 

 アンチョビさんの話すところによると、大洗の会長や母さん、それから蝶野さんの活躍によって大洗は大学選抜チームとの試合を取り付けることに成功し、これに勝利すれば廃校は取り消されることに決定したらしい。だが、なんと文科省が提示した試合ルールは殲滅戦。大洗と大学選抜の戦力差を考えればあまりにも無茶である。

 

 「だが、そこで我々の出番だ。我々他校の選手が大洗女子に短期転校することでチームとして戦い、大学選抜との戦力の差を埋める。もちろんお前の姉や、このドゥーチェアンチョビも参戦するぞ!」

 

 それは――、なんというか燃える。俺は姉さんたちと一緒にカチューシャさんやダージリンさんたちが並んでいる姿を想像し、胸にたぎるものを感じた。

 

 「じゃあ、すぐに向かわなきゃいけないですよね! お願いします。俺も、俺のこともぜひ連れて行ってください!」

 

 頭を下げて三人にそう願い出ると、途端に三人からさっきと同じ暗い雰囲気が漂い始めた。

 

 「そうしてやりたいよ、もちろん」

 

 「こんな美味しい役目、ウチらが逃す手はねえんだよ」

 

 「けど……」

 

 燃料費がないらしい。

 

 「燃料費がないんだ」

 

 二度も言われた。

 

 「なんでこんなにお金がないんでしょうねえ……。三度のおやつを二度に減らして必死に倹約しているのに……」

 

 「金、金だ。所詮この世は金なんだよ」

 

 「ちきしょう。姐さんほどのひとがこれほど悩んでみたって金はちっとも湧いてきやしねえんだ」

 

 よよよ、と崩れるカルパッチョさんのことを眺めながら、俺は全身から力が抜けるのを感じた。先ほどの燃え上がる気分はすでにどこかへ霧消してしまっている。金か、お金じゃあ仕方ないな。あんまり実感したことはないが、お金ばっかりはどうにもならないと聞いたことがある。

 

 「我々も精いっぱい頑張った。だが、どうしても足りなくて」

 

 「ギリギリまで屋台を出して稼いできたんすけどねえ。やっぱりあの、あれの修理費がかさんでいるのが」

 

 「やめろぺパロニ、あれの話だけはするな」

 

 アンチョビさんが必死そうな様子でぺパロニさんを押しとどめ、その様子を見てまたカルパッチョさんがよよよと泣く。考えなしに近寄った猫がカルパッチョさんに抱き上げられ、ものすごい力で抱きしめられて泣かれている。

 

 俺はしくしくと泣き続ける三人を横目に見つつリュックの中に手を突っ込み、一番奥から擦り切れた封筒を取り出す。随分残ったものだと思う。そんなに無駄遣いもしなかったし、基本的に野宿が苦にならなかったことが良かったと思う。継続やプラウダ、それから姉さんたちが途中で良くしてくれたことも理由のひとつだ。けち臭いとは思ったが、これまでほとんどこいつに手を付けずにきたのはこのためだったのだなと思った。

 

 俺はへたりこむアンチョビさんに向って封筒を差し出す。不審気な顔で受け取るアンチョビさんに隣のふたりがなんだなんだと顔を寄せ、そして封筒の中身を見て表情を変える。まあなんとか足りるぐらいはあったようだ。

 

 「じゃあ、すぐに出発しましょう」

 

 すぐに三人が飛び上がり「おぉ~!」と叫んだ。

 

 

 




すっごく悩んでるんですが、アンツィオってあのトラックで北海道まで行ったんでしょうか。いやたぶんフェリーだろうけど……


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第二十話 『北海道 続アンツィオ高校』

 

 

 

 十三時発のフェリーで苫小牧へ向かうことになり、それまではアンツィオ高校戦車道による盛大な壮行会となった。

 

 学園艦内の大きな広場に大量の長机が並べられ、みるみるうちにそこに料理が並べられていく。はっきり言ってこういうことをしているからすぐお金がなくなるんじゃないかと思ったが、とりあえずはこれが彼女たちのやり方みたいなので野暮なことは言わないでおいた。

 

 俺はアンチョビさんから「沢山食べろ!」と肩を叩かれ、そしていわれるまでもなく机に並べられた料理たちをもりもりと食べまくっていた。先ほど屋台で見たアクアパッツァや種々のパスタ、プロシュートやカプレーゼをどんどん皿に盛りつけていく。決して大事にとっておいたお金がなくなったからせめて元を取ろうと思っているわけではない。

 

 アンツィオのイタリアンは噂にたがわず絶品で、特にぺパロニさんが作ってくれた鉄板ナポリタンとアンチョビさんのピザは特筆に値する。鉄板ナポリタンがイタリアンと呼べるのかどうかは謎だが、甘いケチャップ味のナポリタンにひき肉の入ったスクランブルエッグが乗せられた濃厚な味わいだ。すごく美味しいですとぺパロニさんに伝えると「だろ~! アレを買えたのもこいつの力があってこそさ!」と言いながら肩を組んで髪の毛をめちゃくちゃにされたが、すぐに「アレ」とやらのことを思い出したのか意気消沈していた。めんどくさいひとだと思う。

 

 その様子を見てすぐにアンチョビさんが飛んできて、私のピザも食べろ! とピザを差し出してくる。イタリアのおばちゃんは押しが強いって聞いたことがあると発言したところ、無理やり熱々のピザを口に突っ込まれた。狙ったのかどうかは知らないが、アンチョビさんのピザは彼女が自作したアンチョビが乗せられたシンプルなものだ。もちもちした手作りの生地に酸味の効いたトマトソースがかけられ、その上に載ったバジルの香りと減塩アンチョビのほのかな塩味が良く効き、それらが渾然一体となって口の中を刺激してくる。これは確かに美味しい。俺がただ黙って咀嚼し続けているのをみてアンチョビさんが誇らしげに鼻を鳴らした。

 

 アンツィオの生徒たちは壮行会の間じゅう食べては騒ぎ飲んでは騒ぎ、その間に少しのことで盛り上がっては口々にアンチョビさんを讃えあう。もうなんか騒げればそれで良いんじゃないかと思わないでもないんだが、とにかくアンチョビさんにはものすごい人望があるようだ。壮行会が終わって俺たちがフェリーに乗り込む段になってもそれは続き、最後には全員で見送ってくれた。

 

 「カルパッチョ! ドゥーチェのことをしっかりな!」

 

 「ぺパロニ! みほさんの弟に手ぇ出すんじゃねえぞ!」

 

 「ばかやろう! 誰がそんな真似するか!」

 

 「お前ら留守をしっかりな! ちゃんと歯を磨けよ! 勉強もしろ!? 戦車の訓練を怠るな!」

 

 「うぉー! ドゥーチェ! ドゥーチェ!」

 

 これではお母さんかなにかではないかと思わないでもないんだが、アンチョビさんが本当に心配そうな表情をしているので本気らしい。大きく汽笛が鳴り響いて船が出港し、それを追いかけるようにアンツィオのひとたちも走り出す。全員がその手に白いハンカチを握り、絶え間なくドゥーチェコールを送りながら俺たちのことを見送ってくれる。その様子を見て既に泣きそうになっているアンチョビさんを見て俺は「気が早いなあ」と苦笑いしていた。

 

 その後船室で三時間にわたって「うちの子たちは本当にみんな良い子でなあ」と酔った父親みたいな絡み方をされ、少々気が滅入ったりもする。

 

 

 

 アンツィオの三人との旅は騒がしくも楽しいものだった。食堂室で美味しいものを食べ、時にはアンチョビさんと姉さんの昔話や、俺がこれまでしてきた旅の話で盛りあがった。ぺパロニさんの寝相が悪すぎて三つ隣の寝所から俺のところまで来た挙句寝ているところに乗っかられた時は海に放り出してやろうかと思ったが、アンチョビさんとカルパッチョさんのふたりから宥められて事なきを得る。北海道に上陸してからもそれは変わらず、彼女たちの騒がしさが時折ふさぎがちになるのを解消してくれた。

 

 波乱万丈の旅もここに極まれりだな、と笑う。これまで散々旅をしてきたが、水平線だけじゃなく地平線まで見られるような場所に来るとは思わなかった。果てしない平野のど真ん中でアンチョビさんが炊き出しをしているのを横目にそう考える。

 

 熊本から出て何故か青森まで行って、静岡までたどり着いたと思ったら今度は北海道にいる。俺はアンチョビさんに少し散歩してくると言って歩き出した。小川の流れに沿って歩きつつ、「迷子になるなよ! お前がどうにかなったらみほとまほが心配するぞ!」と叫び声をあげるアンチョビさんに「ならないよ!」と負けずに叫び返す。あのひと俺のことを犬かなんかだと思っている。俺はあの母親気取りを見返してやろうとミッコ直伝の山菜取りスキルを発揮し、小川のそばに自生していたクレソンを収穫して帰った。これでどうだとばかりにそれを差し出したが、

 

 「クレソンじゃないかー! おまえ偉いなあ!」

 

 「一意君すごいわねえ」

 

 「やるなあお前!」

 

 と口ぐちに褒められているうち、いつの間にか三人によしよしと頭をなでられていた。俺が求めていたものはこういうものではない。俺は自分で採って帰ったクレソンのサラダを食べながら、もしかしたら自分は逞しさから遠く離れた場所にいるのかもしれないと悩む。そもそも連中が全員弟もちというのも悪いような気がする。年下の弟は全員自分とこの弟みたいなものとでも思っているのだろうか。

 

 猫はすっかりアンチョビさんが(エサをくれるから)気に入ったようで、そばで家猫のようになっていた。

 

 

 

 試合会場にほど近い場所で野宿となり、みんなが寝静まったあとでトラックの荷台に乗って空を見上げた。図上には夜空一杯に砂糖をまぶしたような星空が広がり、思わずため息が出る。地上にある光が少ないからだろうが、これほどの星空はこれまで旅してきた中でもそうはなかった。陳腐な表現かもしれないが俺はそれを眺めているとまるで落ちてきそうだと感じ、そう思わせるほどにどこまでも深く黒々とした夜空に胸が寒々としてくるのを感じた。

 

 結局ここでも何の役にも立たない人間が一匹。頭の中にそんな声が響いてくる。たとえば俺が石油王だったらすぐに大洗の学園艦を資金援助して救えるんじゃないか。俺が女の子だったら姉さんたちと一緒に戦えただろうか。たとえば今の記憶を持ったまま、昨年の全国大会決勝まで記憶が戻ったらどうなるだろう。俺は姉さんに何か有益なことをしてあげられて、今でも熊本の実家で三人一緒にいられただろうか。――あまりにもくだらない考え方だ。

 

 胸の隙間から入り込んだ冷たい風が暴風のように心をかき乱すのを感じる。俺は凍えるように膝を抱えて顔を伏せた。八月とはいえ北海道の夜は寒い。

 

 しばらくそうしていると、足の間に何か気持ち悪い感触を覚える。何かと思って顔をあげると、そこを割って猫が顔をだした。足の間から頭だけ出している猫はなんだかプレーリードッグのようで、顔の不細工さと合わさって笑えるほど滑稽である。俺は脚を崩して猫をだき、優しく顎の下をくすぐった。今度は何の役にも立たない猫が一匹。

 

 「なにやってる」

 

 しばらくそうして猫をなでていると、突然荷台の縁からアンチョビさんが顔を出す。俺は驚きのあまり猫を取り落とし、地面にへばりついた猫が不満げな悲鳴をあげた。

 

 「まったく、明日は試合なんだから早めに寝ないとだめだ。わかっているのか」

 

 そう言いながらアンチョビさんが荷台によじ登り、うーさぶさぶとぼやきながら隣に座る。俺と同じように空を見上げてため息をついた。

 

 「これはすごいなあ。学園艦にいてもこれだけの星はめったに見えないぞ」

 

 「本当ですね。プラウダみたいにもっと遠くまで航行すれば違うんでしょうけど」

 

 「すげー! うちももっと北の方まで行ってもらえるように交渉しましょうよ!」

 

 いつのまにかカルパッチョさんとぺパロニさんも荷台の縁から顔を出していて、アンチョビさんとふたりで驚いて飛び上がる。俺が驚きに声が出ないなかアンチョビさんがおまえらなあ! と注意をし、ふたりはそれを意に介さず笑いながら荷台に上がってきた。

 

 「せまい」

 

 「狭いとかいうな! お前年頃の女とこんなに密着して最初に言うことがそれか!?」

 

 「そういうの姉さんたちで慣れてるし……」

 

 生意気なことを言うな! とアンチョビさんからヘッドロックをかけられる。俺がもがいている間にカルパッチョさんがこちらに毛布を運び込み、どうせだから星を眺めながら寝ようということになった。この夜遅くに荷台からCVとパンターを降ろし、そこに毛布を敷き詰めていく。掛布団が薄いからかどうにも寒く、俺はパンターから寝袋を持ってきてその中に入ったが、それを見たアンチョビさんが寒い寒いとうめきながら無理やり寝袋に入ろうとしてくる。

 

 「一意! お前一人だけ寝袋なんてずるいじゃないか!」

 

 「そっちはそっちで毛布あるじゃんか」

 

 「黙れ! ドゥーチェの言うことにさからうな!」

 

 「あっ、裂ける! ちょっと待てこれ裂ける裂けるから痩せて!」

 

 「太ってない!」

 

 痩せてと言ったのが発破になったのか、アンチョビさんがさらに強引に寝袋に押し入ってきたせいで寝袋が裂けた。

 

 「あ~ドゥーチェ何やってんすか~!」

 

 「ご、ごめんこれは……」

 

 「だから裂けるって言ったじゃん! 安斎!」

 

 俺が安斎と呼んだことに対する反駁もどこか小さい。ドゥーチェダメだな……と呟いて落ち込んでいるのを見かね、結局寝袋は全部裂いて開き、大きい掛布団にしてしまった。このひとがへこんでいると全面的にこっちが悪いように感じるの、絶対人生得してるよなと思う。多分こんな風にしてアンツィオ戦車道のメンバーを増やしたんだろう。

 

 ようやく掛布団が四人全体にいきわたり、充分な暖をとることができるようになる。左から順にカルパッチョさん、俺(猫)、アンチョビさん、ぺパロニさんの並びで荷台に寝転がった。隣からぺパロニさんがアンチョビさんにちょっかいを出すのが聞こえ、カルパッチョさんとふたりで苦笑いする。

 

 「明日、がんばって下さい」

 

 笑い声も静まった頃、ふとそんな言葉が口をついてでた。アンチョビさんとカルパッチョさんが顔だけをこちらにむける気配がする。俺は空の星を眺めて明日の試合の事を想う。そのとき自分が観客席から眺めるしかできないことを考え、拳を強く握りこむ。

 

 「俺には何も出来ないけど……観客席で応援してます」

 

 そう言葉にした瞬間、アンチョビさんが勢いよく立ちあがった。

 

 「ばかもん! 何も出来ないなんて言うな!」

 

 大気をふるわせるような大音声が響く。両肩をわなわなとふるわせながら顔を真っ赤にしてこちらを見ている。拳をぎゅっと握りこむその姿に俺は言葉をなくし、ただ茫然としてしまった。静寂が訪れる間もなくすぐにぺパロニさんがアンチョビさんのことを引きずりおろし、抱きしめてもみくちゃにする。

 

 「そうだ! 姐さんはそういうのに弱いんだぞ! 泣いたらどうする!」

 

 「泣かないー!」

 

 とは言うもののアンチョビさんの顔はまだ赤いままで、俺は申し訳ない気持ちになって俯く。気分を悪くさせるようなつもりはなかったんだが、どうやらアンチョビさんのことを不快にさせてしまったらしい。いまだぺパロニさんと猫の喧嘩のような揉みあいを続けるアンチョビさんを見ながら、どうしていいかわからなくて足元の猫をなでる。

 

 後ろから俺の頭にあたたかい掌が乗せられた。

 

 振り向くとそこにカルパッチョさんがいて、優しげな瞳で俺のことを見詰めている。

 

 「何もできないなんてことない。みほさんもあなたの姿を見ればきっと勇気付けられるわ。こんなに素敵な弟さんだもの」

 

 優しく諭すように頭をなでられ、固く握っていた拳がほどけていく。いつもなら子供扱いされることに苛立つはずだが、このときは不思議とそうは思わなかった。自分など何の役にも立たないと自棄になっていたからか、それともカルパッチョさんの優しく包み込むような雰囲気がそうさせたのかはわからない。

 

 「私がお姉さんだったら、すごくうれしいと思う」

 

 その言葉で胸にあたたかな火が灯るのを感じる。すぐに「そうだー!」と叫んでぺパロニさんとアンチョビさんがこちらに突撃してきて全員がもみくちゃになる。猫と俺がそろってヒキガエルのような声を出し、それからすぐに枕で応戦した。

 

 夜の平野に俺たちの声が響き、それが星空にこだまする。

 

 姉さんたちの試合がすぐそばに迫ってきていた。

 

 

 



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第二十一話 『西住流』

 

 

 『待ったー!』

 

 遠くで姉さんの叫び声が聞こえた。

 

 「黒森峰の隊長ってあんなでかい声でるんすね」

 

 「でもなんだかちょっと変な感じですね。あんまり大声を出すのは慣れてないのかも」

 

 「うちの姉さんのこと変な風にいうのやめてください。っていうか人間なんだから大きい声ぐらいでるに決まってるでしょ」

 

 「そろそろ誰か交代してくれないか」

 

 その言葉に三人で振り返り、CV33の後部に箱乗りして踏ん反り返っているアンチョビさんを見る。精いっぱいの威厳を見せつけようと顎を逸らして腕を組んでいるが、風の寒さに耐えかねて震えているのがまるわかりだ。

 

 「だから俺が上に行きますって言ったじゃないですか。なのにアンチョビさん『ドゥーチェが一番目立つところにいくからな!』って」

 

 「こんなに寒いとは思わないだろうが! おい! 頼むから一意代われ!」

 

 やだなあと思いつつ身を乗り出して後部にしがみつき、空いたスペースにアンチョビさんのことを押し込んでいく。うー、ぶるっちょさぶさぶだー! とか言いながらもぐりこんでいくアンチョビさんを眺めつつ、俺はジャケットの前を閉め、バイク用のゴーグルを目にあてた。

 

 遠く、大洗チームのそばに黒森峰の戦車が停まっているのが見える。それをめざすようにサンダース、プラウダ、聖グロ、知波単が並んで進む。俺たちは豆戦車らしい軽快なスピードで他の戦車たちを追い抜いていく。途中で知波単の先頭を走っていた西さんと目があい、彼女が燃えるような強い眼差しでこちらに敬礼をする。俺はただそれに頷くだけで応え、CVがさらに加速していく。

 

 知波単を追いぬいていくなか、一両の見覚えある戦車が目に映った。小柄ながらずんぐりむっくりして可愛らしい、思い出深い戦車だ。風に乗ってカンテラの音が聞こえるような気がして耳を澄ました。CVが隣に並ぶと少しだけあちらのスピードに勢いが乗り、きっとあいつが対抗しているんだろうなと思って笑う。CVがさらに加速する。

 

 やがて会場が近づき、俺たちはちょうど聖グロの戦車隊のすぐ後ろあたりで巡航速度に落とす。他の戦車隊と足並みをそろえるように走っていると、すぐ目の前を走っていたチャーチルのキューボラが開き、その中から見覚えのある金髪の女性が現れる。少し見なかっただけだが、相変わらず紅茶を手放さないでいるようだ。あくまで上品な挙措で紅茶を飲んでいるが、戦車から身体を出して紅茶を飲んでいるのは結構シュールに見える。俺が大きく手を振るとダージリンさんもにっこりと笑顔になってこちらに手を振り返し、そしてまた戦車のなかへ戻っていった。

 

 アンチョビさんがマイクを手に取るのが見えた。他の戦車隊も走りながら名乗りをあげているし、自分もやってやろうと思ったらしい。

 

 「大洗の諸君! ノリと勢いとパスタの国からドゥーチェ参戦だ! 恐れ入れ!」

 

 そのセリフに苦笑が漏れる。いつから静岡県はノリと勢いとパスタの国になったのだろう。ぺパロニさんと「今度は間に合ってよかったっすね」と笑い、全くだとため息を漏らした。実際今朝も起きた時には結構危険な時間に差し掛かっており、走り出しながら昨日の夜騒ぎすぎたのが悪い、全部一意のせいだと責任を押し付けられていたのである。そのうえ会場に向かう途中では「実は以前大洗の決勝に一番乗りしようとして寝過ごしちゃって……」と縁起でもない話を聞かされたのだ。俺は遠くに見える大洗の戦車をみてやれやれと深く息を吐いた。

 

 アンチョビさんのあと、カルパッチョさんによるカエサルさんへの呼びかけが終わり、彼女から笑顔でマイクを渡される。はい、と言われても何も言うことなんてないのだが、カルパッチョさんの笑顔には有無を言わさないところがあった。俺はしぶしぶマイクを受け取って手の中でもてあそびつつ、迫りつつある大洗戦車チームの姿を見る。

 

 様々な戦車による混成部隊の中に、見覚えのあるⅣ号がまじっていた。俺の胸が大きく高鳴るのを感じる。なぜだか姉さんなら絶対大丈夫だという自信が湧いてきた。

 

 「姉さん、……応援に来たよ! がんばって!」

 

 俺の声が空に響き、そして二十二両の戦車が雪崩のように会場へとたどり着いた。

 

 

 

 「イチーシャのばか!」

 

 CVから降りた瞬間に待ち構えていたカチューシャさんにそう怒鳴られ、俺の目が濁流に流されるように泳ぎまくってしまう。カチューシャさんはそんな俺の様子がさらに気に食わなかったらしく、源義経のような軽快な動きで俺の膝をステップにしてくるりと肩に飛び乗り、ヘッドロックをかけてきた。

 

 「私の出る試合は全部見るようにって言ったじゃない! それが何よ! 戦車道のある学校ばっかりまわって女の子に囲まれてでれでれしちゃって! そのうえアンツィオと一緒に来るなんてどういうこと!? 困ったら最初にカチューシャ様を頼りなさいって言ったわよね!」

 

 強力なヘッドロックにふらつきながらカチューシャさんのマシンガントークを受け、俺は早速満身創痍になってふらふらとよろけまわる。そのうえカチューシャさんの攻撃を新しい遊びだと思った猫が加わり、突然猫にひっつかれたカチューシャさんが悲鳴をあげて暴れまわった。俺はふたりしてバランスを崩し、カチューシャさんをかばいながら地面に倒れこんだ。

 

 ぬわー! と叫んで突っ伏す俺を見てカチューシャさんは「ふんっ!」と鼻を鳴らす。

 

 「良い、イチーシャ! エキシビションでの活躍を見られなかったんだから、今度こそ私の活躍をしっかりその眼に焼き付けること! あとで朱肉に付けてぺたってやったら紙に写るぐらいしっかり焼き付けるのよ!」

 

 よく覚えておきなさい! と言い残してカチューシャさんが去っていく。俺はよろよろと起き上がりながら、相変わらず恐ろしい暴君ぶりだぜと舌を巻いた。試合に出るわけでもない、そもそも試合も始まっていないのにボロボロの俺のもとに、知波単から西さんが歩み寄る。

 

 「仕方ありません。カチューシャ殿はエキシビションのときも一意さんに見せつけてやると息巻いておりましたから」

 

 どうやらカチューシャさんは大洗にたどり着いた俺がそのまま滞在していると思い、俺に見せつけるつもりで獅子奮迅の活躍を見せたらしい。それは悪いことをしたなあと頬をかいていると、西さんもまた「隊長同士で作戦会議があるそうですのでこれで」と言って去っていく。アンチョビさんもぺパロニさんとカルパッチョさんに戦車を移動させておくように指示を出しており、俺もそろそろ観客席に行かなければと立ち上がる。

 

 「一意」

 

 そこに非常に聞きなれた人物の声が届く。落ち着いた印象を与えるハスキーボイスだが、いまはその声がなんだか冷徹に響く。恐る恐る振り返ると、やはりというかなんというか、そこに我が家の長姉が仁王立ちしていた。後隣に立った逸見さんがにやにやと笑いながらこちらを見ている。

 

 「ま、まほ姉さん」

 

 「……安斎に連れてきてもらったようだな」

 

 後ろで「アンチョビだ!」とか聞こえるが、いまはそんなことに構っている場合ではない。まほ姉さんが俺に向ける視線は氷のようにするどく、大変お怒りになっているのがよくわかった。つかつかとまほ姉さんが俺の目の前まで近寄り、無遠慮に全身をぺたぺたと触ってくる。頬をなでたり髪をひっぱられたり、俺はまるでライオンに舐められるウサギのように凍り付き、直立不動でまほ姉さんのなすがままにされていた。

 

 「随分日に焼けたな。髪も伸びた。……心配をかけたとわかっているのか。怪我などないな?」

 

 俺はその声に「ひゃい!」と間抜けな声をあげ、緊張から背中を冷や汗が伝うのを感じる。まほ姉さんは俺の言葉に満足したのか「よし」と呟き、それから優しく俺を胸に抱いて「気づいてやれなくてすまなかった」とささやいた。

 

 その言葉に動揺する暇もなくすぐにまほ姉さんが俺から離れ、観客席に行くように促してくる。俺は颯爽と踵を返すまほ姉さんに追いすがり、必死に声をかけた。

 

 「まほ姉さん、その、大丈夫かな」

 

 何が、とは言わなくても伝わったらしい。まほ姉さんは先ほどの優しさなど幻だったかのような厳しい瞳で俺のことを見据える。

 

 「お前にはいろいろ言いたいことがある。が、今は黙って観客席へ行け。お母様もいらしている」

 

 その言葉に立ち止まって小さくうなずくとまほ姉さんが身体をこちらに向け、力強く肩を掴まれた。

 

 「心配するな。お前やみほが悲しむようなことには、この私が絶対にさせん」

 

 言葉もなくまほ姉さんの瞳を見詰める俺にふっと柔らかな笑顔を向け、そしてまほ姉さんは二度と振り返らずにまっすぐに去っていった。その後ろをついていく逸見さんが俺のことを見て悔しげにハンカチを噛み、恨めしそうにしているのが見える。

 

 俺は彼女たちと反対の方向に歩きだし、そのあとに猫が続く。

 

 

 

 観客席には満員のひとが押し掛けてほとんどの席が埋まっていたが、緊張からか通常の戦車道の試合にあるような和やかさは一切ない。そもそも通常の試合ではないのだから当然で、この観客席にいるひとたちもなんらかの形で大洗と大学選抜に関係のあるひとたちなのだろう。とくに前者とかかわりがあるならば、なおのこと和やかな雰囲気であはいられないはずだ。俺は大スクリーンを囲むようにして作られた観客席をゆっくりと練り歩き、そしてそのはずれ、一番西側の最上段に目的の場所を見つけることができた。

 

 「……母さん」

 

 そこに俺の母、西住しほが座っていた。まるで鋼鉄の柱のように背筋を伸ばし、堂々と座るその姿はまさに西住流そのものである。母さんがいつから気が付いていたのかは知らないが、気が付いたときには既に視線をこちらに投げかけており、俺がまっすぐに見つめ返して近づいていく間も一度たりともその眼を離すことはなかった。俺がすぐ隣に立つとようやく視線は外れ、目の前のスクリーンに移った。

 

 「座りなさい」

 

 その言葉に従い、俺は母さんの隣に正座する。逆隣りには赤いドレスに身を包んだ女性が日傘をさして座っており、俺の方を見てにこやかにほほ笑んだ。俺はその笑顔に軽く会釈をするだけで答え、母さんと同じようにスクリーンを見詰めた。

 

 母さんの隣に座り、自分でも緊張しているのがわかる。いや、緊張だけだろうか。心臓が小刻みにはね、手汗が止まらない。こうして母さんと並んで座るなんていつ以来だろうかと思う。旅に出る前、高校に入って家を出る前、――いや、あの夜以来か。俺は母さんが姉さんのことをひどく叱りつけ、そして俺を一喝したあの夜のことを思い出す。俺はあの時以来母さんのことを恐れ、そして家の中で母さんから逃げ回ってきた。

 

 俺は母さんの隣に座りながら何度も何度も呼吸を繰り返した。

 

 一生このままなんて嫌だ。

 

 そう考えたとき膝に猫がじゃれつき、それからのっそりとした動きで俺の脚の上によじのぼる。身体が重いためか途中何度か登るのに失敗して脚から滑り落ち、何度目かの挑戦でようやく成功した。俺は下腹部で丸くなる猫を撫で、それから掌にじゃれつかせる。いつしか呼吸が整っているのを感じ、俺は決意を固めた。

 

 「母さん、この試合が終わったら話があるんだ」

 

 隣を見て震える声で話しかけると、母さんの切れ長の瞳がこちらをとらえる。

 

 「……聞いてくれる?」

 

 そう尋ねると母さんは一瞬ひるんだような表情を見せたが、すぐにそれをかき消すようにまばたきをする。

 

 「それはこちらのセリフよ」

 

 その瞳や言葉にどんな感情も見出すこともできなかったが、俺の胸で滞っていた血がようやく全身に流れ出すのを感じた。

 

 俺が安心して頬を緩めると母さんはすぐにまたスクリーンに視線を戻し、それきり口を開きはしない。

 

 膝の上に寝転がる猫を抱き上げ、いつか誰かがそうしたように胸に抱きしめる。あまり良い匂いのするようなものではないが、だがそれはどこか心地よかった。猫はやれやれといった表情でこちらを見上げ、小さくあくびをした。

 

 

 



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第二十二話 『猫』

 試合が始まり、全員声を一言も発することなくスクリーンを見続ける。会場全体には常に小さなざわめきがさざ波のように広がっていたが、こと俺がいる席の周囲に咳の音ひとつ響かず、それどころか周囲のひとの嚥下の音すら響きそうなほど静まり返っていた。俺と同じように、その場にいた全員が何一つとして見逃すことのないようスクリーンに集中している。

 

 ここにきて、もう俺には何一つとしてできることは無い。だが昨晩アンツィオのひとたちと話したことやかつてアキからもらった言葉を思い出し、俺は「みほ姉さんに女神がほほ笑むように」と必死に想う。折角奪取した高地をカールによって奪われ、大学選抜の奇襲に見舞われる戦車に、知らず俺の両手は祈りをささげるような形に組まれていた。今の俺にはこれしかできることはないが、それでもこの思いが届いてくれればと強く手を組み合わせる。

 

 試合の途中、いつの間にか崩れていた天気がついに雨に変わる。試合はカール自走臼砲による弩級の砲撃で大学選抜の優位で進み、大洗は敵から奪取した高地を捨てて撤退を余儀なくされていた。そんななか、カチューシャさんが敵の追撃にあって狙い撃ちにされる一幕があった。必死に逃げるカチューシャさんだが、数にものを言わせて打ち込まれる砲撃に次第に追い込まれていく。俺はその様子を眺めながら、雨に打たれていることも忘れて歯をきつく噛みしめる。仲間を次々に失っていくカチューシャさんの姿が痛ましく、胸が締め付けられるようだった。結局彼女は大学選抜の猛追を潜り抜けたが、そのときには既にプラウダの機体は彼女ひとりだけになっていた。

 

 試合を観ている間、俺は気が付くとカチューシャさんのことばかりを気にしていた。彼女が追いつめられるたびに心臓が高鳴り、敵を撃破するたびに心躍るような思いになった。プラウダの生徒たちから圧倒的な信頼を得ていた彼女は今や、たったひとりでも初めて一緒に戦う選手たちと団結し、次々と華々しい活躍を収めていく。その姿はあのときプラウダで悩み、苛立っていたカチューシャさんとはまるで別人のように見えた。

 

 試合も終盤にさしかかり、大学選抜のなかでも傑出した動きを見せる三車――きっとあの副官の三人だろう――が園内の中央広場に向う。決着の時が近づく中、その三車に対してレオポンさんを先頭にエリカさんとカチューシャさんが強襲を仕掛ける。レオポンは規格を超えた加速に自滅してしまうが、背後に控えていたカチューシャさんが敵の一車に体当たりを敢行し動きを止めることに成功し、その隙をついたエリカさんがついにバミューダの一角を陥とした。同時にカチューシャさんとエリカさんもやられてしまったが、これでもう敵は三車でのコンビネーションを敷くことはできない。彼女たちの大金星だ。

 

 撃破された戦車たちが動きをとめ、戦況を映すスクリーンの端でカチューシャさんが戦車から這い出すのが見える。戦車から周囲を見渡し満足げに笑う彼女を見て、俺は彼女がひとつ大きな壁を乗り越えた瞬間を見たように思う。きっと彼女だけではなく、この試合は誰にとっても価値のあるものだろうが、俺にとってはいまの彼女の表情がその全てを象徴するもののように思える。

 

 試合が最後の瞬間に近づいたころ、俺はようやく、いつの間にか雨が上がっていたことに気が付いた。

 

 試合についてひとつだけ言えることがある。やっぱり俺の姉さんたちは世界一だ。

 

 

 

 「次からはわだかまりのない試合をさせて頂きたいですわね」

 

 逆隣りの女性の言葉に母さんが短く言葉を返し、ゆっくりと立ち上がる。会場でみほ姉さんが多くの選手に囲まれてかわるがわる抱きしめられ、その勝利を寿がれていた。母さんはそれを一瞥すると口の端に小さく笑みを浮かべ、そしてすぐそれに背を向ける。

 

 「行くわよ、一意」

 

 その言葉に俺は固まったままでうごかず、猫を抱いたままじっと姉さんたちを見詰める。まだ帰るわけにはいかない。心のどこかでそんな声が聞こえてくる。試合には勝った。姉さんたちのことを応援することもできた。それでも俺はまだ大切なことが済んでいないような気がしていた。俺が旅に出た理由。俺がこの家の一員として居続ける意味……。

 

 「一意」

 

 観客席の向こうから再度母さんの声がかかり、俺は震える足でゆっくりと立ち上がる。不安で視線を上げることが出来ず、せわしなく色々な場所に目をやりながら母さんのすぐそばに近寄った。

 

 声を出そうとして恐怖のあまりに喉がひきつるのを感じる。もしこれを言って、母さんがくだらないことだと一蹴したらどうすればいいだろう。俺は母さんのことを信じられなくなるのが何よりも怖い。だが、自分が今までしてきたことの何もかもが間違っていないと確信するために、俺はひきつる喉を無理やり引き絞り押し出すように声を吐いた。

 

 「母さん、みほ姉さんに会って、話をしていこうよ」

 

 震えて歪んで、自分でも笑えるぐらいに情けない声だと思う。それを聞いたときの母さんの表情は怪訝なもので、俺は心が折れそうになるのを感じた。それでも言葉を繋げる。

 

 「みほ姉さんに会って、試合のことを話そう」

 

 「そんなものは必要――」

 

 「必要なくなんてない! 必要ないわけないよ!」

 

 声を調整する場所が壊れてしまったのかと思うほど大きな声が出た。何年かぶりの母さんが驚く表情を見て自分が何を言っているのか次第にわからなくなってくる。思っていることの百分の一でも伝わってほしい。その思いでもういちど声をあげる。

 

 「母さん、きっと、それだけじゃだめだよ」

 

 今度は消え入るような声しか出せなかった。俺はうつむき、そして黙り込む。どうしてこんな風にしかできないんだろう。本当はもっといろいろなことを考えていたはずなのに。いざとなるとこんな言い方しかできない自分のことを呪う。目を瞑り、どうしようもない無力感にそれ以上言葉を繋げられないでいると、背中に暖かな掌が添えられるのを感じた。

 

 目を開いたら目の前に母さんがいた。右手を俺の背に回し、優しく自分の方に引き寄せてくれる。

 

 「背が伸びたわね」

 

 言葉と声の調子が完全にまほ姉さんと同じで、なんだかすこし笑えてしまった。母さんの目を見てゆっくりとうなずき、俺は「中学の頃より三センチ伸びたよ」と囁く。母さんの掌が背中から頭にうつり、俺の髪を優しく二度撫でた。それから俺は母さんに手を取られ、ゆっくりと、しかし母さんの確かな足取りに引かれて観客席を下っていく。

 

 観客席の下にはまだ沢山の選手が残っており、そのうちのいくつかの視線が俺たちの方に向けられる。俺が母さんの隣から少しだけ前に出ると、人波をかきわけてみほ姉さんがこちらに駆け寄ってくるのが見え、それから勢いよく抱きしめられた。

 

 「一意! ありがとう!」

 

 それが何に向けてのありがとうなのかはよくわからなかったが、今度は俺からみほ姉さんのことを強く抱きしめる。大洗のときとは逆で、今度はみほ姉さんが苦しげに声をあげた。しばらくそうして抱き合い、身体を離したあとでみほ姉さんの視線が俺の少し後ろを定めて固まる。俺はゆっくりと姉さんから身体を離し、猫と一緒にふたりを見守るような場所に立つ。

 

 しばらくの間、ふたりは向かい合ったまま話そうとしなかった。みほ姉さんはどこか決まり悪そうに立ちつくし、母さんは相変わらず表情を変えずにまっすぐみほ姉さんのことを見詰めている。会場の選手たちもあえてこちらには近寄ろうとせず、大洗のひとたちが心配そうにこちらを見ているのが見えた。

 

 「みほ」

 

 優しげな声で母さんが呼びかけ、その声に反応してみほ姉さんが困惑したように母さんのことを見詰める。そのどこかおびえたような姿に母さんの表情がすこし歪む。母さんの瞳がまっすぐにみほ姉さんの瞳をとらえ、それに引かれるように彼女も視線を正した。そしてようやく母さんの口から次の言葉がこぼれだした。

 

 「おめでとう。素晴らしい試合だったわ」

 

 みほ姉さんはしばらくの間呆けたように瞳を大きく見開いていた。かけられた言葉の意味が呑み込めないようだったが、次第にその大きな瞳がゆらりと震え、大粒の涙がこぼれだすのが見える。それは一粒あふれだすと後を追うように次々とこぼれだし、やがて粉塵と煤にまみれた彼女の頬を幾条もの線になって伝った。感極まってしゃくりあげるみほ姉さんを母さんが優しく抱きしめた。

 

 「今度は正々堂々と、玄関から帰ってきなさい」

 

 母さんのその言葉にみほ姉さんが何度も何度も同じ返事を繰り返し、やがてすがりつくようにして母さんを抱きしめて泣いていた。

 

 俺はその姿を見て胸いっぱいにためた息を大きく吐きだす。二人に背を向けて歩き出すと足元に猫がすり寄り、俺はそいつを抱き上げて胸の中で腹をなでた。猫の浮かべる気持ちよさそうな表情に、胸の中の高揚するような満足感が次第に心地よく全身に流れていくのを感じる。

 

 芝生の向こう、激戦が繰り広げられた平野から硝煙の匂いが混じった冷たい風が運ばれてきた。俺と猫は選手たちの向こうに広がる平野を眺めた。腕の中の猫を見詰めると、彼は俺の胸元に額をこすりつけ、いつにもまして激しく甘えてくる。俺が手を差し出すとその指を一本ずつ舐め、顎の下をくすぐると気持ちよさそうに声をあげた。ふと、いままで一度も考え付かなかったことを口にだす。何故こんな当たり前のことを今まで思いつかなかったのだろう。俺は目の前に広がる平野を見詰めながら、なぜだかこれを口に出した瞬間に何かが終わってしまうような気がしていた。

 

 「お前の名前……」

 

 決めなきゃな。そう言おうとして、指に激痛が走る。一瞬遅れてそれが猫に指を噛まれた痛みだと気付く。その痛みに驚いて彼を取り落としてしまうと、普段の姿からは想像もつかないような猫らしい体さばきで着地し、あっという間に走りぬけていった。猫との間に大きく距離があき、俺はたよりなげに手を伸ばす。

 

 猫は一度だけこちらを振り返ると、行儀よく座って尻尾で二度、三度と地面を叩き、大きく高い声で鳴いた。俺にはそれがまるで手を振り別れを告げるように見えた。周囲の選手たちが次々と猫の存在に気づき声をあげる。一瞬、猫がまっすぐに俺の目を見た。

 

 次の瞬間、猫は猛烈な勢いで駆け出し。二度と振り返ることはなかった。居並ぶ選手たちの間を潜り抜け、これまでに見たこともなかったような俊敏な動きを見せる。俺は彼に向って「おい!」と声を張り上げ必死に後を追ったが、とても追いつくことはできなかった。やがて選手の波を抜けたころ、平野の向こうに小さく颯爽と駆け抜ける彼の姿を見つける。彼はそうして森のなかへ消えていった。

 

 二度と振り返ってはくれなかった。

 

 



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最終話 『Jubilee』

 

 ここがあいつにとっての果てだったのか。

 

 心の中で問いかけてもそれがわかるはずもない。あいつが何のためにここまで俺と旅することを決めたのかもわからない。だが、ここが全ての終わりだとして、あいつはここで明日を迎えることを選んだのだろう。

 

 どれほどの間ここで呆けていたのだろう。いつのまにかすぐ隣に見覚えのある帽子をかぶった女性が立っていた。

 

 「うまくいったみたいだね」

 

 「……えぇ、なんとか」

 

 俺がそう言葉を返すと、ミカさんが手に持ったカンテレをぽろぽろと鳴らし、愉快そうに口元をゆがませる。なんだかミカさんに会うのがとても久しぶりのように思える。それだけ密度の濃い時間を過ごしてきたことも間違いじゃない。

 

 「次はどうするんだい」

 

 「熊本に帰って、夏休みの宿題をやります」

 

 「あぁ、それはいい」

 

 俺の言葉にミカさんは満足そうにうなずき、それから踵を返して「後でまた会おう」と声をかけてきた。

 

 その言葉に俺はただ首肯するだけで返す。

 

 そうだ、夏休みの宿題をやらなくてはならない。

 

 果てしなく広がる平野を、それから雲間に広がる青空を眺めた。俺はゆっくりと平野を歩きだし、しばらく歩いた先で小高い丘の上に腰を下ろし、試合会場を見下ろす。先ほど感じた硝煙の匂いが少し強くなったように思う。カールの打ち込んだ砲弾の名残がまだ消えないでいるのだろう。

 

 これほど多くの出会いと別れを経験し、そしてどうしようもないように思えた家族の和解を目にした。それでも風は吹き、空に雲が流れ、太陽は次第に傾いていく。明日は否応なしにやってくる。俺の心はいつエンドロールが流れても良いような気持ちでいるのに。

 

 こんなときあいつがそばにいたら、あくせくする人間を笑うようにあくびするのだろうな。それなら俺もあいつみたいにあくびしてやろうと思った。

 

 「イチーシャ!」

 

 くだらないことを考えていると、突然すぐ後ろからカチューシャさんの声が聞こえてくる。俺は反射的にその場で立ち上がり、自分が歩いてきた方を振り返った。視線の先にカチューシャさんを背負ったままのエリカさんがいて、彼女と目があいなんとなく同情的な視線になる。俺が自分たちの方に気が付いたと見るや、カチューシャさんがエリカさんに向けて「エリツィン! さっさと降ろして!」と声をかけ、それに対してエリカさんが「その名前でだけは呼ぶな!」とキレる。俺はその様子をみてげらげら笑う。カチューシャ大地に立つだ。

 

 エリカさんから降りたカチューシャさんがこちらに歩み寄り、その向こうでエリカさんがやれやれと観客席の方へ戻っていく。対するカチューシャさんは喜色満面といった様子でずんずんと進み、誇らしげな様子で俺のすぐ隣に並んだ。

 

 「何か言いたいことはある!?」

 

 俺のことを視界の端にとらえつつ、精いっぱい胸を反らして放たれる言葉。なんだか笑ってしまう。だがこの態度も当然の活躍をしたことも確かだ。俺は勝者に対する当然の権利としてめいっぱいの祝福を送る。

 

 「ものすごい大活躍でしたね。流石偉大なる同志カチューシャさんです」

 

 「そうでしょ!? イチーシャもちゃんと見てたみたいじゃない!」

 

 「……うん、カチューシャさんに釘付けでしたよ」

 

 うぇえ! とカチューシャさんが驚愕の声をあげる。自分で言わせておいて驚くのだから変なひとだ。猛攻を受けてカチューシャさん以外のプラウダの選手がやられてしまったこと。それに挫けずに混成チームを率いて大活躍したこと。全てが本当に素晴らしかったと伝えると、カチューシャさんは少しだけ頬を桃色に染め、俺のことを見上げてくる。

 

 「でも、それもこれもみんなイチーシャのおかげよ」

 

 唐突にかけられた言葉に思考回路が完全に停止する。挙動不審といえるほど狼狽えてしまい、それから「俺は何もしてないですよ!」と全力で手を振ってカチューシャさんの言葉を否定する。カチューシャさんはそんな俺の様子を見て優しげに笑い、それから思い返すような表情で言葉を紡ぐ。

 

 「私に言ってくれたじゃない。みんな自分にしかできないことがあるって」

 

 俺の否定すらもカチューシャさんは笑って否定し、いつか暗くて寒い格納庫で俺が言った言葉をもう一度声にだしてくれる。

 

 「私もみほーしゃみたいになれないみたい。だけど私には私のできることがある」

 

 そう宣言するカチューシャさんがとてもまぶしく映り、俺は胸が大きく高鳴るのを感じる。この一日の試合で、そしてどうやら俺の言葉で、カチューシャさんはいつのまにかその姿を大きく変えていた。

 

 「あんたの言った通りだったわ。私は自分のできることを見つけた。あんたがそう言ってくれたおかげよ」

 

 「俺の……」

 

 「そう! ありがとうイチーシャ! だから頑張れたわ!」

 

 その言葉に胸が締め付けられるようになり、俺は痛みに目をつむって着ている服の胸元を強く握りこんだ。カチューシャさんが心配して不安げな声をあげるのが聞こえる。俺はいつのまにか頬を涙が伝っているのを感じ、片手で胸を抑えたままそれを指でぬぐう。カチューシャさんがおろおろと慌て、俺のすぐそばにまで駆け寄ってくる。

 

 「イチーシャ、大丈夫? 痛いの?」

 

 ――痛くなんかない。

 

 俺の手に添えられた小さな手の温かみを感じながら、両目からぼろぼろと止め処なく涙がこぼれる。

 

 何も痛くなんかない。そう答える代りに俺は目の前のカチューシャさんの小さな身体を引き寄せ、両の腕の中にとらえた。俺が突然とった行動にカチューシャさんが硬直しているのを良いことに、俺は彼女が身体を反らしてしまうぐらいに強く抱きしめる。カチューシャさんはそれに少しだけ苦しげな声をもらしたが、すぐに「ばかなんだからっ」といつもの強気な声をあげて抱きしめ返してきた。

 

 随分長い時間俺たちはそうしていた。

 

 

 

 カチューシャさんとふたりで観客席に戻ったところ、まほ姉さんの突き刺さるような視線を感じ、一瞬遅れてノンナさんが目にもとまらぬ速さでカチューシャさんを抱き上げて去って行った。ノンナさんにしがみついたカチューシャさんがこちらに向かって困ったように手を振り、その間も俺はノンナさんから凍てつく波動を向けられる。まあ、相も変わらず変なひとだ。

 

 戻ってきた観客席はいまや大量のひとであふれかえり、その中で料理のできる人たちがてんやわんやと動き回っている。どうやら残っていた人たちがいつの間にか盛り上がり、アンチョビさん主導で即席の大洗存続祝賀会と化しているらしい。周囲を見渡すと大学選抜のひとやとっくに帰ったと思っていた継続の連中までが残っていた。こちらに気づいた継続の連中がふらふらと近寄ってきて、ミッコが俺の肩をびしびしと突く。

 

 「女連れなんてやるようになったなァ。しかもプラウダの暴君なんてさ」

 

 相変わらず下世話なミッコを無視し、苦笑いしながらみなさん帰ったんじゃなかったんですかと尋ねる。

 

 「折角来たんだから一意君に会っていこうって言ったんだ。美味しいものも食べられるし、良いことばっかりだね」

 

 その言葉に嬉しくなり、継続の三人に礼を言う。大洗を救ってくれた礼と、あのとき一緒に過ごしたことへの礼だ。

 

 祝賀会の様子をぐるりと見渡していると、その途中で母さんに捕まえられ「すぐに帰るわよ」とつれないことを言われる。唇を尖らせながら母さんも参加していこうと提案すると、いつの間にか母さんの後ろに隠れていた赤いドレスの女性も同じように母さんを引き留めてくれた。試合中もずっと母さんの隣に座っていた人だ。

 

 ここにきてようやく知ったのだが、こちらの赤いドレスの女性は愛里寿のお母さん、つまり島田流の家元らしい。娘がお世話になりましたと挨拶され、俺は少しだけ緊張する。三人で固まって話していると、少ししてみほ姉さんが愛里寿を連れてやってきた。だが愛里寿は俺の顔をみてぱっと笑顔になった後、申し訳なさそうにみほ姉さんの後ろに隠れてしまった。

 

 「一意、その」

 

 愛里寿がこちらを見上げ、不安そうな表情で言葉を探している。俺は彼女と目線を合わせるように目の前でしゃがみこみ、ゆっくりとその言葉を待ち続けた。

 

 「あのとき、あなたのお姉さんと試合するって言えなくてごめんなさい。……こんな条件の試合だってわかったら、せっかくできた友達なのにもう会えないと思って」

 

 俺は愛里寿の言葉に黙ってうなずき、それから愛里寿に手を差し出す。困惑している愛里寿にそのまま手を向け続けると、やがておずおずと俺の手を握ってくれる。俺はまっすぐに愛里寿の目を見詰めたまま、素晴らしい試合だったとほめたたえた。愛里寿もきっと俺のことをだましているような気分になって辛かっただろうと思うと、誰のことを恨む気にもなれない

 

 「愛里寿がみほ姉さんの敵だって、俺たちはずっと友達だよ」

 

 その言葉に愛里寿がにこやかに笑って、うん! と返事をしたので俺も笑顔になる。と、いつのまにか俺のいる場所が陰になり、母さんとまほ姉さんがこちらを見下ろしていた。俺が恐る恐る立ち上がると母さんが深いため息をついた。

 

 「まほ、こういう男に気を付けなさい。この子は本当に常夫さんそっくりよ。こういう男よ」

 

 「はいお母様。実によくわかります」

 

 ふたりから向けられる視線がやけに冷たい。俺は居心地の悪さを無視するために長机に広げられた料理を手に取り、そこでも「ああやって食事に逃げるところも常夫さんそっくりよ」という言葉にさらされる。父さんが出張中で心配なのはわかるが、その心配を俺にまであてはめるのはどうなのだろう。俺は恨みのエネルギーをどこかにいる父さんに向けて放射し、くしゃみでもして戦車に頭をぶつけろと念を込めた。

 

 祝賀会はいつまでも続く。

 

 サンダースのひとたちが大きな声で歌い、プラウダ校がそれに合わせてコサックダンスを披露した。

 

 ミカさんがそれに対して合っているんだか合ってないんだかよくわからないカンテレの音色を合わせる。

 

 聖グロのひとたちが大学選抜のひとたちに紅茶をふるまっているのが見えた。

 

 アンツィオのひとたちは相変わらず料理を持って忙しく動きまわる。

 

 知波単のひとたちと大洗のメンバーが叫び声をあげ、それが天にこだました。

 

 俺はすぐそばに立っているみほ姉さんの顔を見る。みほ姉さんがにっこりと幸せそうに笑う。

 

 「すぐにあんこうチームのメンバーを連れて、実家に遊びに行くからね」

 

 俺も笑った。

 

 

 

 西陽が差す頃には宴もたけなわとなり、俺は母さんの乗ってきたヘリに同乗して熊本へ帰ることとなった。

 

 乗り込むときにはこれまでの旅で出会ったひとたちから盛大に見送られ、俺はヘリが飛び立って見えなくなるまで彼女たちに手を振り続ける。感傷に浸っていると隣に座った母さんから「帰ったらじっくり話をします」と告げられ、俺はがっくりと首を落とす。

 

 後日、大洗女子の秋山さんから俺の家に写真が届けられた。俺と母さん、まほ姉さん、みほ姉さんの四人で料理を食べている、ただそれだけのものだ。俺はそれを誰にも知られないようにこっそりと自分の部屋に持ち帰り、ここ数週間で溜まり始めた手紙とともに大切に引き出しへとしまった。たとえ夏が何度めぐっても、俺は幾度となくその写真を取り出してあの夏のことを思い出すだろう。

 

 海を泳いでいるときに海の広さを知ることを出来はしない。今自分が何をしているのかわからなくても、いつか岸辺にたどり着いたときにはその成果を確認することができる。俺は無駄な寄り道を沢山していたつもりだったが、そのうちのいくらかは、――もしかしたらその全てがあの試合の大切な要素になっていたのかもしれない。

 

 勉強机の前で椅子の背もたれに深く倒れこみ、机の上に並べられたものを見る。額に入った美しいカミツレの押し花と、その隣にあるあまり可愛らしいとはいえない、悪く言えばとても不細工な猫の置物。……この先の人生で絶対に猫を飼うことは無いだろう。だがそれでも、この程度のものをそばに置いて、時折甘ったるい感傷に浸るのも良いような気がしたのだ。そのままさらに深く倒れこむと視界が天井に移り、俺はそれを眺めながら長い時間をかけてこの夏のことを思い返す。

 

 俺はまた何度でも旅に出るだろう。

 

 

 



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『おまけ』

 『イチーシャへ。

 

 そっちはまだまだ暑いでしょうけど、プラウダはとっくに雪景色よ!

 

 あんたも散々味わったから覚えているでしょうけど、私の雪合戦の実力はプラウダ最強。戦車道は後輩に譲ってもこっちはまだまだ現役バリバリよ。また私の白球を味わわせてあげるから、秋の長期休みにはすぐにプラウダまで飛んでくるように。

 

 そっちはどう? そういえばミホーシャが大洗の仲間を実家に招待したって聞いたわ。イチーシャはすぐ他の女の子とでれでれ仲良くしようとするから、よく見張っておくようにってまほーしゃに言ってあるわ。カチューシャ様が見てないと思って好き勝手出来ると思ったらそうはいかないんだから。

 

 あとさっさと携帯を買ってもらいなさい! いまどき手紙なんて手が疲れちゃうじゃない!

 

 下に私のアドレスと電話番号を載せておくから、携帯を買ったら一番に登録するように。

 

 カチューシャより』

 

 

 

 『カチューシャ様。

 

 二百十日もことなく過ぎ、カチューシャ様におかれましてはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

 

 さて、夏の全国大会も終わり、三年生の方々にとっては退屈な日々が続くかと思います。そんな中でもカチューシャ様は仲間たちとともにお楽しみということで、倦むことなく日々を送られているようで安心しました。秋の長期休みにはぜひまたふたりで過ごす時間を取れればと強く願っています。

 

 ところで、みほ姉さんが大洗のチームメイトを実家に誘ったことは確かですが、私はそのようにでれでれとして女性に色目を使うような真似をしたことはありません。大変心外です。大洗のみなさんがいらしている間、まほ姉さんがずっと私をマークしていたのはそういうことだったのかと今になって納得がいっているところです。まほ姉さんにああいうことをさせると挙動不審になって、始終バスケットボールの試合をしているような雰囲気になるので絶対にやめてください。大洗の皆さんも怪訝な表情でした。

 

 この件に関しては後日じっくり話し合い、互いの認識のズレを埋めるべきだと思いました。

 

 九月二十四日 西住 一意

 

 追伸 携帯電話ですが、ようやく買ってもらえることと相成りました。

 

 アドレスと電話番号を追記しておきます』

 

 

 

 9/26/9:06

  to : 一意

 from : カチューシャ

 

 文章が固い!!!

 

 

 

 9/26/9:11

  to : カチューシャ

 from : 一意

 

 それじゃあいまから電話します

 

 

 

 9/26/9:15

  to : 一意

 from : カチューシャ

 

 えっ

 

 

 

 9/26/11:08

  to : 一意

 from : カチューシャ

 

 ありがとう

 大好き

 

 

 

 

 

 

 

 




全体のあとがき

活動報告 - あとがきとして
https://syosetu.org/?mode=kappo_view&kid=120604&uid=150218


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外伝 短編×4

短編をよっつほど。
カチューシャとのいちゃいちゃを書きたいという欲望に勝てませんでした。
あとご要望のあった猫エンドを。


 

 

 『カチューシャ』

 

 

 

 高く乾いた音を立てて薪がふたつに割れる。俺は土台として敷いた巨大な切り株から斧の先端を引き抜き、二つに割った薪の片割れをもう一度切り株の上に立てた。半分にすれば当然狙いが厳しくなるが、いつも同じ角度から斧を振り下ろすように身体を教育しておけば大したことではない。もう一度振りかぶり、薪は美しく両断された。

 

 「本当に上手ね」

 

 少し離れたところでその様子を眺めていたカチューシャさんが惚れ惚れとした様子で褒めてくれる。現代社会において全く役に立たない技能だから褒められても仕方ないような気がするが、恋人から褒められればどんなことでも嬉しいものだ。俺は残ったもう片方の薪も綺麗に両断すると、新たに生まれた四つのそれを小屋に併設された薪置き場に積み上げた。

 

 斧を置いて上着を脱ぐ。慣れたとはいえ薪割をいつまでも続けると体が熱を持って仕方ない。俺は大きく呼吸をすることで身体に冷気を取り込み、それから小屋の向こうに広がる果てしない雪原を見詰める。正しくはそこで俺を見ているカチューシャさんを、だ。

 

 雪原の中のカチューシャさんはまるで雪の妖精のようで、初めて出会ったときからこの感想は変わらない。さらに言えば現在赤を基調としたサラファンに身を包んだ姿は、村のはずれで仲良く遊ぶ人間の子供たちをうらやましがり、人間の姿をまねて人里に下りてきた雪の妖精のようだった。

 

 そんな雪の妖精さんは俺と目が合うと待っていたと言わんばかりに立ち上がり、こちらに走り出す。それを迎えるように二三歩駆けだすと、すぐにカチューシャさんがすっぽりと胸の中におさまり、俺は勢いのまま彼女を抱きしめて雪原の上を転がる。真っ白な雪がまるで砂塵のように舞い上がり、俺とカチューシャさんの周囲をきらびやかに飾る。俺たちはまるでイルカの群れが海面で遊ぶように雪原のうえで転げまわり、そのたびに柔らかい雪が飛沫をあげるように空に舞った。

 

 「とっても楽しそうですね」

 

 しばらくふたりでそうしていると不意にそんな声がかけられ、俺は糸で吊られたように全身を凍り付かせる。すぐに俺と胸元に抱きついているカチューシャさんに大きな影が落ち、まるで吹雪のような冷気が背後から忍び寄ってきた。カチューシャさんが「ノンナ!」と嬉しそうに声をあげ、今度はノンナさんに抱き上げられる。彼女はすこしも身体を揺らさずにそれを受け止めると、愛おしそうに彼女を胸に抱いた。

 

 「同志カチューシャと戯れてばかりですが、薪割は終わったのですか? カチューシャが身体を冷やして風邪をひいたりしたら……」

 

 俺はその言葉にすぐ振り返り、舌が回る限りの早口でノンナさんに言い訳を始める。ここでノンナさんに役立たずと認定されてしまうと折角こぎつけたキャンプも中断させられてしまうかもしれない。ノンナさんは俺の言い訳に至極冷たい表情をしていたが、やがて諦めたようにカチューシャさんを連れて小屋の中へ戻っていった。

 

 「……ココアができていますから、あなたも戻るように」

 

 最後にかけられた言葉にはなんとなく「来るな」という雰囲気があったような気がするが、俺はここで挫けてはいけないと思いにこにこしながらついていった。ノンナさんから向けられる冷気がさらに強くなったような気がするが、しほまほ冷気と同程度なのでにこにこで押し切ることにする。ふたりの後に続いて小屋に戻りながら、俺はいま女性ふたりとキャンプに来ているのかと考えてなんだかものすごい悪事を働いているような気持ちになった。

 

 

 

 今年の初めごろにカチューシャさんから連絡があり、三月にキャンプをするからそのつもりでいるように、と言付かった。これは大変なことで、俺はそれから三日間挙動不審になって机の上に飾った猫の置物に始終相談をもちかけ、布団を巻いて腕ひしぎを仕掛け、そして縁側で呆然としながら禅の姿勢を保った。四日目の朝になってようやく脳が事態を把握すると、俺は急いで母さんに向って「三月のこの日、友達の家に泊まるから!」と偽装工作を開始。そこからはクラスの友人たちとともに作戦会議を開き、絶対に彼女とうまくいくカッコいいセリフ百選を練り上げ、日に日に生暖かくなる母さんの視線にも気づかずにその日を待った。

 

 そして当日、熊本に現れたカチューシャさんのそばに立っていたのは、こちらを見詰めて凍えるような冷気をまとったノンナさんだった。

 

 「困っちゃうよな」

 

 呟く俺に頭上から「一意、火力をもっと上げてください」と声がかかる。いまはノンナさんとふたりで晩御飯のカレーを作っている最中であり、考え事をしていた俺は慌てて窯に薪を放り込み、内部の薪を高く積み上げる。カチューシャさんが親戚から借りた小屋がかなり原始的で驚きはしたが、代わりに俺は心ゆくまで薪を割ることができた。それでいいじゃないかと気持ちを落ち着かせる。それでいいじゃないか。何かあるわけじゃないんだから。

 

 「あちっ」

 

 考え事をしながら炉を掻いていると、突然火の粉が大きく跳ねて手にかかる。火掻き棒を取り落して手の甲を抑えると、そこに小さな火傷が出来ているのが見えた。間抜けなことしちゃったなあとため息をつくと、横合いから手が伸びてきてすぐにひっぱりあげられる。

 

 「火傷のようですね。すぐ外に出て雪で冷やしてきなさい」

 

 俺の手を握りながらノンナさんが心配そうにつぶやく。彼女が「あとはやっておきます」と呟くのを聞き、俺は悪いひとじゃないんだよなあと頭をかいた。ただ病的にカチューシャさんのことが好きなだけで。

 

 ノンナさんの言うとおりに小屋を横切って外に出ようとすると、ちょうど外からカチューシャさんが戻ってきた。小屋から出ようとする俺の姿をみて不思議そうにしていたカチューシャさんだが、ちょっと火傷して、と答えるとすぐに飛びつかれて手を見せろと怒られる

 

 「イチーシャったらばかなんだから。痛そう……」

 

 「いや、見た目ほど痛くないですよ。雪で冷やせばすぐ――」

 

 俺が言葉を言い終わる前に、手の甲を見詰めていたカチューシャさんがおずおずと舌をだして火傷をひと舐めする。カチューシャさんの口から出た舌は信じられないほど赤く、それが手の甲にぬるりと触れるたびに俺の心臓が大きく跳ねた。驚きのあまり口から変な笑いがこぼれ、それを聞きつけてやってきたノンナさんも完全に凍り付く。

 

 「どう? 私が怪我するといつもノンナがこうしてくれるの」

 

 俺の方を見上げて不安げに尋ねるカチューシャさんを抱きしめ、俺は彼女を守るようにしてノンナさんを睨んだ。先ほどまで凍り付いていたノンナさんだったが、俺の表情で何が起こったか気が付いたように苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべる。

 

 「……唾液に殺菌作用があるということは誰もが承知のこと。急な手当てが必要なときには致し方のないこと」

 

 その言葉になんて往生際の悪い奴だと思ったが、腕の中のカチューシャさんが「痛くなくなった?」と訊いてきたので一時中断することとなった。俺はノンナさんと一瞬視線を交差させるとすぐカチューシャさんに「もちろん大丈夫ですよ」と声をかけ、それから彼女の頭をなでる。

 

 「雪で冷やしてくるのでちょっと待っててくださいね」

 

 声をかけて小屋から出る瞬間、もう一度ノンナさんと視線を合わせる。

 

 (今回のことは見逃してあげましょう)

 

 (貸しひとつ、と考えておいてくださいよ)

 

 扉を閉める寸前、ノンナさんが苦しげな表情でうめくのが見えた。

 

 

 

 大変な一日だったなと大きくため息を吐き、ベッドに寝転んで天井をみつめる。結局あの後も俺に対するノンナさんの態度は変わらず、カチューシャさんと一緒にいてもずっとノンナさんが隣にいた。

 

 よくよく考えてみればここ数週間に俺がとった挙動不審な態度で母さんやまほ姉さんもこの旅行のことに気が付いていたような気がするし、それでもあのふたりが旅行を見逃してくれたのはきっとノンナさんが付いてくると見越したからなのだろう。

 

 俺は窓際に向けて寝返りを打ってもう一度ため息をつき、さっさと寝てしまおうと考えた。たとえノンナさんがどれだけ俺をいびろうとも久しぶりにカチューシャさんと一緒にいられることに変わりはないのだし、明日も三人で一緒に遊べばいい。

 

 そう考えて目をつむるが、俺は窓から差し込む月光のまぶしさに一向に眠ることが出来ず、しばらくしてまた目を開くこととなった。月光を「昼をも欺く明るさ」と形容したのは誰だっただろうか。俺はすっかり眠る気を失ってベッドの上に胡坐をくみ、窓から見える月を見上げる。美しい星空だ。継続、プラウダ、旅の途中にはこんな星空を何度も見た。熊本の実家も星が見えないわけではないが、これほどの星というのはやはり人里では見ることが敵わない。

 

 しばらくそうやって星を眺めていると、わずかにきしむ音を立てて背後の扉が開く音がする。俺が驚いて勢いよく振り返ると、そこに人差し指を口の前にあてたカチューシャさんが立っていた。その姿に安心した俺が肩を落とすのを見届けると、彼女はできるだけ音をたてないようにゆっくりと扉を閉める。後ろ手にドアノブを握る彼女は少し俯き加減で、窓から差し込んだ月光がその美しい髪を滑り落ち、昼間の雪のようにきらびやかに輝いた。俺はベッドから脚を投げ出して枕側に座り直し、空いたスペースにカチューシャさんを座らせる。

 

 「ノンナが寝ちゃったみたいだから、一意のこと見に来たの。まだ起きているとは思わなかったけど」

 

 囁くように話す彼女に胸がどきどきと高鳴る。隣に座っていたずらっぽく笑う姿をみて思わず笑みが浮かんだ。

 

 さて、いざこうなるといったいどんなことを言えば良いのか、よくわからなくなってしまうものらしい。学校の連中と必死で考えたシミュレーションもいざとなると何の役にも立たず、俺は会議中に突然悔しさから涙を流した同級生のことを考え、不甲斐ねえ……と心の中で謝罪した。

 

 無言の時間が過ぎていき、心臓の音ばかりが大きく響く。カチューシャさんにもきっと聞こえているだろうと思うと恥ずかしく、俺はなんども息を止めて心臓の音が止まってくれるように祈る。もちろんそんなことをしても止まらないし、止まったらやばい。そのうえ息を止めすぎたせいかめまいが起き、次の瞬間にはカチューシャさんの掌に自分の手を重ねるようにして身体を支えることとなった。

 

 カチューシャさんの口から小さな声が漏れる。俺の全身が甘くしびれたようになり、うつむいたカチューシャさんの耳が真っ赤に染まるのが見えた。すぐにカチューシャさんが手を振りほどき、勢いよく立ち上がる。

 

 「……明日も早いんだから、ゆっくり寝なさい」

 

 そう言って彼女が俺のことを掛布団に押し込み、俺の頭の中で「逸りすぎたのじゃ!」と声が聞こえる。違うんですカチューシャさんさっきのはめまいがしただけでしてと言い訳しようとしたが、こうなってしまっては何もかも手遅れだろう。俺はカチューシャさんのなすがままに布団の中に押し込まれ、それから布団の中に暖かいものが入り込むのを感じた。

 

 薄暗い布団の中でカチューシャさんがネコのように俺の胸にすがりつく。さっきまで寒々としていたベッドに彼女の香りが満ちてくるのを感じ、俺は先ほど凍り付いた心臓が再び高速回転するのを感じる。鼻がふれそうなほど近い場所に彼女の顔があり、俺は手を伸ばして彼女の頬に触れた。湿度を帯びてしっとりとした感触の頬が指先に吸い付くようだ。

 

 「眠るまでわたしが一緒にいてあげる」

 

 耳元でささやく彼女の声がひどく艶めかしい。俺は潤んだ瞳でこちらを見詰めるカチューシャさんをまっすぐに見つめ返し、ただ黙って触れるだけのキスをする。生まれて初めてのキスだ。心臓が爆発しそうに思う。ただ身体の一部が触れ合っただけなのに信じがたいほどの充足感が全身に満ちるのを感じる。

 

 彼女の目をまっすぐに見つめ、震える声で愛してますと言った。笑って、愛してると返される。目に見えないものの存在を確かに感じることが出来る。

 

 俺はそれから彼女のことを強く抱きしめ、いつの間にか眠りに落ちていた。

 

 翌朝目が覚めると彼女はいつのまにか隣からいなくなっており、俺がよたよたと起き上がってリビングに向うと、ノンナさんとふたりして紅茶を飲んでいた。カチューシャさんから寝坊助なんだからと怒られ、ノンナさんからは「そんなことで雪上戦を勝ち抜けると思っているのですか。二重包囲は鉄壁とはいえそれも兵士一人一人の意志あってこそのもの」とやたら厳しく説教をされる。

 

 俺は狐につままれたような表情で、もしかしたら昨日のことは夢だったのかもしれないと考えた。

 

 夢ならせめて忘れないように何度も何度も思いだそうと考えてひたすら歯を磨いていると、突然横合いから服の袖をひっぱられ、倒れこんだ先で頬に柔らかな感触が伝わる。歯ブラシを咥えたまま目をまるくしていると、俺の袖を握ったままのカチューシャさんがいたずらっぽく微笑み、昨日の夜と同じように人差し指を唇にあてた。

 

 その可憐な姿に俺は歯磨き粉を飲み込み、一瞬遅れて後ろから食器が割れる音が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 『旅のあと』

 

 昔から変な子ではあったが、と西住しほは考える。

 

 彼女の視線の先で末っ子長男の一意が縁側で犬と戯れ、なんだか退屈そうな表情を浮かべていた。時折犬の前脚を両手でつかんで二足歩行させるようにひっぱりあげ、遠くに向って投げたり、腹をなでた後で足の裏で踏んだりする。犬も一意による突然の凶行にうろたえていたようだが、腹を踏まれたことには流石に機嫌が悪くなったらしく、一意のことを恨めしそうに見つめていた。

 

 結局望んだ反応は得られなかったのか、一意は退屈そうに縁側に寝転び、大きな欠伸をする。

 

 昔から変な子ではあったが、家出から戻ってきてからは特におかしい。しほはその様子を見てため息をつき、子供と接することのむずかしさを思う。上の娘ならともかく、下の娘も長男も父親似で、彼女からしてみれば全く理解の及ばない存在だった。それでもみほは同じ戦車道で繋がった仲ではあるし、長男も父親と同じように接すれば理解しあえていたように思うが、家出から戻ってきた彼のことは全く理解が難しく思える。

 

 そこでふと、そもそも理解というのが烏滸がましいのかもしれない、と彼女は考える。彼女からしてみれば西住流の家に生まれた子供である以上、みほにもまほと同じような戦車道を進んで行ってほしいと考えていたが、自分の手から離れたみほは新しい才能を開花させた。

 

 小さくため息をつき、本当にままならないものだと思う。

 

 「どうしたの?」

 

 かけられた声に驚いて顔を向けると、机の脚の近くに一意が寝転びしほの方を見上げていた。彼は自宅に帰ってきてから髪を短く切り、中学生のころまでの女の子のような面影が消えた。日焼けのせいか身体がひきしまったのかはわからないが少し逞しくなり、どちらかといえばみほに似ていたその容姿はいま、しほの夫である常夫とみほの中間程度に落ち着いている。

 

 「行儀が悪いわよ」

 

 「はぁい」

 

 彼はそう返事をして億劫そうに起き上がると、そのまま身体を反転させて机に寄りかかる。ここ数日の自宅謹慎のせいか、一意はこのように家中をごろごろと動き回ってはだらしなく身体を投げ出す様子が多い。その様子はまるで家から出してもらえない猫のようにも見えるが、母に対して何の相談もなく家出同然で一か月近くも失踪したのだから、新学期までの自宅謹慎で済ましたのは寛大と言えるだろう。

 

 着流しの肩がはだけて結局だらしない。

 

 「プラウダの隊長が見たらどう思うのかしら」

 

 「今それ関係なくない!?」

 

 一意はそう言いつつも慌てて起き上がり、はだけた肩を直す。最近はこれがしほにとっての最終手段であり、そして最も多用される手段でもあった。自分でもあまり感心できることではないと彼女はため息をつく。

 

 しほが立ち上がるとその行方を追うように一意が振り返り、廊下をあるく彼女をのろのろと追跡する。玄関先まできたところでしほがため息をつき、一意の方を振り返る。

 

 「買い物よ」

 

 「じゃあ俺も行く」

 

 またため息をつく。

 

 

 

 親の欲目もあるが、西住しほから見て一意はとても可愛らしい。なんでも素直に言うことを聞くし、学校の成績だって悪いわけではない。家の手伝いもよくやる。

自慢の息子だったが、それだけに何の相談もなく家出をしてみほに会いに行き、すっかり変わった様子を見せられて動揺しないわけもなかった。一意自身は特に何も気にしていないように時折プラウダの隊長からの手紙を眺めてはにこにこし、たいていの場合縁側でごろごろとだらしなく生活している。

 

 「母さん、今日の晩御飯はエビフライが良い」

 

 「……そうね」

 

 そのくせして戻ってきてからはやたらとしほについて回り、買い物にも同行しようとする。昨年までの膠着状態に比べれば家族としてずっと健全なのは間違いないが、しほからしてみると自分の知らないうちに息子が別の生き物になったようで落ち着かなかった。助手席に座った一意が「タルタルソースってエビフライ以外であんまり使わないよね~」とどうでも良いことを呟き、なんとなくしほは全身から力が抜けるのを感じる。もうちょっと家族に心配をかけたことを反省したらどうかと言ってやろうか悩んだが、助手席でにこにこと笑うその姿をみてその気力もなえた。

 

 

 

 家からほど近いショッピングモールで買い物をしながら、しほは相変わらず一意のことを考え続ける。近頃の掴みどころのない感じはまるで出会った時の夫のようだ。それも交際をはじめて数か月たったころには掴みどころがないどころか、単にほとんど何も考えていないだけだということを知ったのだが、おそらく今の一意もそうだろう。彼は旅の合間にすっかり内面まで父に似てきていた。その女たらしな部分までも。

 

 そう考えると胸の奥からイライラが湧き上がり、彼女はなんとなく眉間に皺を寄せて歩きはじめる。が、途端に目の前の人波が割れるように道が開き、右手で眉間を揉んだ。まほのことを考え、せめてあの子にはいつも穏やかな表情でいるように言い聞かせようと思った。

 

 全く散々な買い物を終えて駐車場に戻ると、自家用車にもたれかかる一意の姿が目に入る。夕暮れ時の駐車場で何をするでもなく夕陽を眺めていた息子の姿になんとなく大人びたものを感じ、しばし呆然とそれを見詰めた。その姿にしほはなんとなく寂しさのようなものを覚える。こちらに気が付いた一意が嬉しそうに手をふり、それでようやく意識がひきもどされた。

 

 ポケットの中を漁って車のカギを探しつつ、末の息子の変化を思う。仕方のないことだが、自分は息子の大切な時期を見逃してしまったらしい。車のロックを外して運転席に腰を下ろすと、ややあって助手席に一意が乗り込み、低い声で暑いとうめく。

 

 窓を開けて冷房をかける。しほは走り出した車の中で今夜島田千代に電話をかけておこうと考えていた。

 

 ――くれぐれも見逃さないように。そう伝えるために。

 

 

 

 

 

 

 『旅のまえ』

 

 七月が終わりに近づいても雨は途切れることなく降り続ける。俺は夏休みだというのにひがな一日縁側に座り込んで庭を眺め、荒波を模したように力強く配置された岩が雨に穿たれる様子を見続けていた。

 

 全く何もやる気が起きない毎日だ。俺は周囲に積んだ漫画本を押しのけるようにしてスペースを作り、折りたたんだ座布団を枕にして縁側に寝転ぶ。もう七月も終わりだというのに一向に梅雨が明ける気配はないし、学園艦を出て実家に戻ったせいで友人と遊ぶ予定も思うように立たない。夏休みの宿題なんてそもそもやる気がない。

 

 いつまでも降り続く雨にイライラする。このまま永遠に雨が降り続いて新学期が始まるような気がした。

 

 何もしていない時間が長くなると、いつも脳内に優勝旗を抱えたみほ姉さんの姿が浮かんでくる。俺はそのたびに頭をかかえてぶんぶんと振り乱し、頭のなかからその姿を追い出そうとした。このことについて考えるといつも気分が落ち込み、気持ちの悪い感情が胸をいっぱいにしてしまうのを感じる。

 

 俺はもう一度縁側から庭を眺める。あの水滴もいつか岩に穴をあけるだろうか。波が砕け散るようにこの庭の景石たちの形を変えていくのか。

 

 また姉さんたちの戦いの様子が頭に浮かんでくる。今度は頭を振っても別のことを考えようとしても無理だった。

 

 市街地での決戦。視線を交わすだけで分かりあうようなふたり。夕暮れの中で言葉をかわすふたり。母さんがした拍手。

 

 みんな勝手に分かり合う。勝手に認め合う。俺は蚊帳の外だ。家族なのに俺には何もわからない。

 

 俺は縁側で膝を抱え、身を守るようにして身体を丸める。そうしないとこの胸の中にある汚いものを吐きだしてしまいそうだった。

 

 みほ姉さんはどうしてあんなにすごいことができるんだろう。この家であんなにひどいことを言われて、黒森峰でも批判された。だというのに彼女は大洗でもう一度立ち上がり、そして何か大切なものを手に入れたように見える。優勝旗を抱える姉さんの姿。仲間たちに囲まれて浮かべる笑顔。

 

 胸がざわついて気分が悪い。俺はいったい何をやっているんだろう。俺はいったい何ができるんだろう。

 

 俺はこのままじゃいけないのか。それとも俺のままでもいいのか。

 

 何もわからない。

 

 視線をあげる。雨が相変わらず降り続いていた。

 

 この雨が上がったら家を出ようと思った。

 

 

 

 

 

 

 『愛のかたち』

 

 仕事が終わり、全身がひどい倦怠感に包まれているのを感じる。ちょっと前まではどれだけ仕事をしても翌日には元気に出勤することができたが、最近ではすっかりそういった無茶が出来なくなった。

 

 ここ数日は仕事がかなり忙しい。目前に迫った戦車道の国際大会に向けて各方面との調整も追い込みに入り、普段はのんびりとした職場もぴりぴりと緊迫感が漂う。俺はその日も定時を一時間ほどオーバーして職場を後にし、車に乗り込んで自宅への道を走らせた。

 

 職場を出る際に確認した妻からのメールに『今日の晩御飯はエビフライ』とあり、仕事で疲れていてもなんとなく足が弾むのを感じる。

 

 この時間の家までの道はいつも少しばかり混んでいて、俺はテールライトの数だけ同じように家に向かうひとたちがいることを思う。彼らにも楽しみな夕食があり、家で妻と子供が待つのだろうか。

 

 昔は――、と考え、あの夏のことを思い出す。昔は想像力が追い付かなかった。渋滞に巻き込まれるたびに前後の車一台一台に人が乗っていることを考え、その全てに生活があることについて想いを巡らせたような気がする。いまはもうそんなことはしない。俺の想像力が現実に追い付いたからなのか、それともどこかで考えることをやめてしまったのか。

 

 そんなことを考えていると俺はいつのまにか自宅にたどり着き、危なげなく車を停めて自宅の鍵を開く。すぐに家の奥から「おかえりなさい」と声が響き、妻が姿を現した。上り口で靴を脱ぎながら妻を見上げ、いつの間にか背が伸びたなあと何千回目の思考を走らせる。昔はそれこそ信じられないぐらいに背が低かった彼女だが、いまでは日本人女性の平均と同じ程度に背が伸びた。相変わらず日本人離れした美しさはそのままに、長く伸ばした髪がきらびやかに輝いている。靴をぬいで立ち上がる俺に触れるようなキスが与えられ、ふたり連れ立ってリビングへと歩いた。

 

 リビングへの扉を開くと、待ち構えていた通り下腹部へと衝撃が走る。俺はすぐにその小さな狼藉者を抱き上げ、胸いっぱいに抱きしめた。胸の中の娘は昔の妻そっくりで、ただひとつ目元だけがまるく可愛らしい。妻のようなきりっとした凛々しさはないが、その分優しく良い子に育ってくれた。俺は彼女を抱きかかえたままでソファに座り込み、彼女を膝に乗せたままで先ほどまで見ていたらしいテレビ番組を一緒に眺める。

 

 妻からもうすぐご飯ができるからね、と声がかかり、俺は弾んだ声で「うん」とだけ返事を返す。

 

 どれだけ仕事で疲れて帰ってきても、これだけで全ての疲労が吹き飛ぶように思える。いまでは突然黙って旅に出るような真似は出来ないが、家族全員で綿密な計画を立てて旅行に出ることも悪いことではない。俺は腕の中の娘に少しでも多くのものを見せてやりたかったし、まだまだ妻と一緒に色々なものを見たかった。

 

 腕の中の娘をもういちどしっかりと抱きかかえ、その頭をなでる。まだまだ子供だが、きっとすぐに大きくなってしまうだろう。俺はいつか彼女にもあの夏が来ることを想い、そのときのためにできるだけのことをしてあげたいと思う。俺が多くの人と出会ってその背中を押してもらえたように、俺なりに彼女が進んでいける力を与えてあげたいと考えた。

 

 そういうことを考えていると、いつも胸の奥にあの時の情景が蘇る。北海道の平野に消えていったあいつ。高く良く通る声で鳴いたあいつのことを。当然ながらあれ以来一度もあいつと会うことは無かったが、あいつと過ごした日々は今でも昨日のことのように思い出せる。

 

 思い出に浸っていると、いつの間にか娘がこちらを覗き込んで不思議そうな表情を浮かべていた。いつのまにかテレビ番組は終わり、娘の興味はテレビから俺の方に映っていたらしい。俺はすぐに娘のことを抱き上げて向かい合うように位置を変えさせると、彼女に今日会ったことを質問し始めた。母親と一緒に洗濯物を干したこと、公園に行って遊んだこと。仕事とはいえそこに一緒にいられないことがとても悔しいが、彼女から話を聞くだけで俺も我がことのように嬉しくなる。

 

 「それからね。猫さんと仲良くなったよ」

 

 「猫?」

 

 「うん。すごく太っていてあくびばっかりしてたの、お母さんがきたらどこかに行っちゃった」

 

 そうか、と一息つき、俺は彼女の頭をなでる。

 

 もしかして、耳と口の周りだけ黒くて、後はうちのじゅうたんみたいに白い猫だった? と尋ねると、彼女が嬉しそうにうんと頷く。

 

 「すっごく可愛くて、沢山撫でさせてくれた」

 

 俺はもう一度そうか、と呟き、娘のことを胸におしつけるように抱きしめた。彼女がくぐもった声で笑い、お父さん汗臭いと文句を言う。彼女の頭をなでる俺の手の甲に大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。なんとなくだが、あいつだろうと思った。ふざけた話だが、今でも俺のことを見ていてくれていると心の底から信じられた。

 

 ――俺の娘を見たか。世界で一番かわいい、俺の娘だ。お前のことだから薮の中で妻と娘のことも見ただろう。これがお前と別れてから俺に与えられた愛の姿だ。

 

 俺は耐えきれずに身体を折り曲げ、娘のことを強く抱きしめる。くすぐったそうに笑う声もどこか遠くに聞こえた。

 

 俺は一生をかけてこの子に全てを伝えようと決意する。恥ずかしいことも抽象的なことも、どんなことでも俺のすべてをかけてこの子に与えてあげたいと思う。かつて俺が多くの人にそうしてもらったように。最後には与えられたものと同じだけのものを与えようと思った。いま万感の思いが胸に満ち、それが俺の愛だと気が付く。

 

 妻に呼ばれた時にはもう涙もとまり、俺は娘と妻の三人でいつも通りに食卓を囲む。食事の最中、ふと食卓に置かれた妻の手を握る。いつもありがとう、と声に出すと、彼女はまるで花がほころぶような笑顔を浮かべ、こちらの手を握り返してきた。

 

 窓の外で何かが走り去るような気配がした。

 

 もしかしたらそれは猫だったのかもしれない。

 

 

 




これで本編と合わせて一意の物語はおしまいです。
ありがとうございました。


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