柘榴は花恋 -近頃、私、愛したい- (純鶏)
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0話 プロローグ

 2000年9月13日金曜日。いつもなら夕暮れが見えそうな時間に、今日は雨が降り始めていた。

 

 石川県加賀市霞ヶ丘(かすみがおか)町にある霞ヶ丘中学校。その中学校の生徒達は文化祭に向けて部活動に勤しんでいた。今日で文化祭まであと1週間を切ったので、放課後になってでも残っている生徒もいれば、やることを終えてすぐに帰宅する生徒もいた。

 

「う……ぁ、ああ……っ!」

 

 そんな中、書道部に所属する生徒2人が文化祭に向けて部室に残っていた。

 1年生の男子生徒は自分の指先についた液体を見て、顔色が絶望に染まっていく。

 

「僕、どう、して……また、こんなこと」

「……だいじょうぶ?」

 

 書道部の部員である1年生の男子生徒は、地面に膝をつき、涙を流しながら目を細めていた。

 

「たすけて……ください……月菜先輩っ!!」

「う……っ!?」

 

 1年生の男子生徒の目の前にある足。部活の先輩でもある女子生徒の両足に、部員の1年生の生徒は両手で触れていた。

 部活の先輩は自分の足に触れている後輩の手を見つめながら、冷ややかな視線を向けて始めていた。

 

「僕、どうしたら……このままじゃ、先輩を殺してしまいそうです!」

「……たしかに、とても苦しそうね」

「先輩! 僕を助けてください! もう、自分が怖くて……」

「私が、あなたを救ってあげることはできないのよ」

「そ、そんな! 先輩、嘘ですよね?」

 

 絶望した表情を浮かべる1年生の男子生徒。懇願する男子生徒の願いを、部活の先輩は受け入れない。

 ずっと冷たい視線を向けたまま、傷を負った首を手で触る。傷からにじみ出た血液が、指を赤色に染めていた。その仕草が、男子生徒を困惑させる。

 

 それはまるで、先輩は1年生の生徒を見捨てるかのような。どうでもいいと言いたげな。そんな雰囲気を感じさせていたからだ。

 

「……嘘、ですよね? 何か……言ってくださいよ!」

 

 1年生の男子生徒は頭を垂れ、苦しそうに目を閉じる。

 目の前にいる憧れの先輩。自分の知らないものを教えてくれた、愛する先輩。もしかしたら、先輩は自分を受け入れてくれるかもしれない。先輩は僕を救ってくれるかもしれない。先輩ならきっとそうしてくれるに違いないと。部室にいる男子生徒は心の中でそう願っていた。

 

 しかし、そんな期待を抱いていただけに、1年生の男子生徒は部活の先輩の言葉を聞いて絶望する。目の前の先輩に拒絶されたという現実を受け入れたくないように、目を閉じて救済を求めるように、声を震わせていた。

 

「でも、そうね。自分自身で救うという方法がないわけではないわね」

「え、自分自身で?」

 

 先輩から“救う”という言葉を聞いて、1年生の男子生徒に期待と希望の感情が顔色に表れる。

 だが、自分自身で救うとはどういった方法なのか。全く見当もつかないので、すぐにその方法を先輩に問いかける。

 

「それはいったい?」

「それはね、“じぶん”を愛せばいいの」

「自分、を?」

 

 1年生の生徒は先輩が言っている言葉に呆然とする。どういう意図でそう言っているのか分からない。そう言いたげに、顔を上げて自分の姿が映る洗面台の鏡を見つめる。

 指や手の平についた血液を、先輩は舐めている。洗面台の鏡に写る先輩のその仕草を見て、1年生の生徒はまた床を見るように頭を下げた。

 

 すると、1年生の生徒の頬に血液のついた先輩の手が触れる。

 

「あなたなら愛せるはずよ。自身に自信を持ったあなたなら、自分の本気の“じぶん”を愛することが出来るはず」

「自分の本気の“自分”?」

「そう。それが本気であるなら、本気で愛せるはず」

 

 首の傷から出てくる血液を手で触っては、手についた血を舐めている先輩。1年生の生徒に対してそう呟いた後、うっすらと微笑みを浮かべる。

 しかし、1人の生徒は危惧していることがあった。むしろ、先輩の言っていることは、結局は何も解決しないうえでの最悪の答えになってしまう。それは、涙を流している1年生の生徒にとっては、救いの言葉でも、自分を救うための提案でもない。

 つまり、先輩の言葉は、1年生の生徒にとっては自分で自分を殺せと言っているようなものであった。

 

「でも、本気で愛してしまえば……僕はいつか自分を殺して」

「大丈夫よ」

 

 先輩は、血に染まっていない方の手。もう片手に持っていたものを床に落とす。それが、1年生の生徒の足のそばまで転がっていく。

 それに視線を向けた瞬間、1年生の生徒は先輩が何を言おうとしているのか。自分を救ってくれるものが何なのか。それが今の自分に必要な物であることを気付いた。気付いてしまった。

 

 

 黒く滴る液体。部室の床の一部が少しずつ黒色に染まっていく。

 その液体は、書道部なら誰もが知っているもの。“墨汁”であった。

 

「だってそれは、白から黒に染まった“じぶん”なんだから」

 



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1章 自分、私、どうする
1話 独白


 石川県加賀市の南部にある霞ヶ丘(かすみがおか)町。山林が多く、加賀市の中でも山沿いに所在しているこの霞ヶ丘町には、古くから山と隣接するように建てられた高校があった。

 その高校の名前は霞ヶ丘(かすみがおか)高等学校。普通科と家政科の2つの学科があり、3学期制度であるこの高校は、今年の7月でちょうど100年目を迎えようとしていた。そんな歴史的な年である2005年の今年、7月に学校創立祭が催される予定となった。そのおかげもあってか、この高校に入学する者も少しばかり増え、在学生達も学校創立祭があることを喜んでいる者が少なからずいた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 入学者が増えてきている霞ヶ丘高校ではあるが、加賀市の霞ヶ丘町の中でも山林の多い東側の端に所在する学校であったこと。また、人の住む町から山に上ろうとする場所に位置しているという問題があった。

 つまり、霞ヶ丘高校は霞ヶ丘町に住む地元の人間以外には通いにくい場所に建てられているのである。霞ヶ丘町には駅はなく、隣街の駅から学校までの距離が8キロメートル。電車で通学している生徒は20分ほどかけてバスに乗って向かうか、そこから自転車に乗って40分ほどかけて向かうしかなかった。その上、バスでは高校に向かう便が多くなかったため、霞ヶ丘町に住まない人間でこの高校に通う者は少なかったと言える。

 

「……はぁっ、はぁっ……くっそぉ」

 

 それでも、隣町からわざわざ霞ヶ丘高校に通う高校生はいた。1人の高校生が、今日も実家から汗水垂らしては45分もかけて自転車を漕いで通っている。

 

「あぁっ、もう! なんでこんなに暑いんだよ!!」

 

 自転車のペダルを足で踏ん張って漕ぎながら、男子高校生は照りつけるような光を浴びせてくる太陽に向かってそう嘆いてみせた。

 今日は6月6日。ちょうど高校で衣替えの移行期間が始まる日である。週末明けである月曜日の今日、自転車を漕ぐ男子高校生もさっそく半袖のカッターシャツを着ていた。そのおかげで自転車に乗って風を感じることができるのは気持ち良かったが、その反面刺すような日光を常に浴びてしまうことをとても辛く感じていた。

 

「こんなことなら、水筒持ってくれば良かったな」

 

 体から流れていくように出ていく汗。失われた水分を補給しようと男子高校生は自転車のカゴに入っているペットボトルの麦茶を一口飲む。男子高校生は水筒を持って来てはいなかったため、水分補給が必要不可欠と感じ、道中の自動販売機でペットボトルの麦茶を購入した。

 だが、その表情は険しい。麦茶を飲んで喉が潤っても、気持ちの部分ではあまり潤わないでいる。その理由は、いつも節制の日々を送る男子高校生にとって、麦茶に自分の大事なお金を使わないといけなかったこと。それがとても心苦しく感じさせていた。

 

 男子高校生は頭の中で思う。水分を補給することは必要なことだったんだ。そうするしかなかったんだと。そう自分に対して諭していく。

 しかし、麦茶を購入したことが仕方のないことだと分かっていくだけに、男子高校生は自分が水筒を持ってこなかったことを後悔せずにはいられない。自分に対する不満と苛立ちが、よりいっそう表情を険しくさせていった。

 

「ん? あれは……なんだ?」

 

 男子高校生の向かう先に、白い傘が見えた。最初、その白い傘が何なのか分からない様子で自転車を漕ぎながら、男子高校生はしばらく注視していた。だが、少し近づいてきてやっとその正体が白い傘であることに気づく。

 今日は晴れなのに、傘を差して道路を歩いている高校生。日傘を差して歩くやつなんて珍しいと感じた男子高校生は自転車のペダルを漕いで、よりいっそう近づいてみる。そして、近づくごとにはっきりと見えてくる半袖のカッターシャツと制服のズボン、それにカバンや靴。それらが男子高校生にとって、よく見知っているものだった。

 

 自転車に乗っている男子高校生は日傘を差している高校生のすぐ後ろまで行くと、ついて行くように自転車のペダルを漕ぐ速さを落とした。

 後ろからずっとついて来る自転車の車輪が回る音を聞いて、日傘を差している高校生は後ろを振り向く。

 

「おっ、やっぱ涼平(りょうへい)じゃん!」

 

 霞ヶ丘高校に繋がる道路。歩道で日傘を差して歩く人物は、自転車に乗っている男子高校生の一番の友人。名前は“宇垣(うがき) 涼平(りょうへい)”。同じクラスメートでもあり、入学して最初に話しかけた同学年の男子。半袖のカッターシャツが似合う友人が、堂々と日傘を差して歩道を歩いていた。

 

「なんだ、誰かと思ったら(つかさ)じゃないか」

「なんで日傘なんか差しているんだ?」

「日焼けしたくないからさ。太陽の直射日光を浴びるのは肌に悪過ぎる」

 

 日傘を持ちながら、宇垣は面倒そうな表情を浮かべて肩をすくめた。

 それに対して、自転車に乗っている男子高校生。“相田(あいだ) (つかさ)”は不思議そうに宇垣を見つめる。

 

「日焼け? そんなの気にしてんのか? 別に俺達若いから良くね?」

「そりゃあ、政はもう手遅れだから良いだろうけど」

「はぁ? 手遅れってどういうことだよ」

「だって、政はもう小麦色だろ? 自分の肌は白色だからね。気をつけないとすぐに焦げちゃうよ」

 

 相田は中学の頃、野球部であった。炎天下の中、外でよく部活をしていたため、腕や顔などがよく焼けていた。そのせいもあって、いつの間にか肌の色が年中ずっと小麦色のままになっていた。

 それに対して宇垣は、中学の頃は書道部であった。運動全般が苦手なのもあり、知り合いの先輩に誘われたからという理由で書道部に入部し、屋内で過ごすことが多かった。また宇垣自身もある出来事をキッカケに紫外線を気にするようになった。そのため、高校生になっても肌が白いままであった。

 

「男だったら、肌くらい焦げていたっていいじゃんか」

「今は良くても、将来大人になってから苦労するのさ」

「そんな未来のこと言われても……大人になるまでには回復するんじゃね?」

「人間、負ったダメージは蓄積するものだよ。自然回復なんて期待しちゃダメだ」

「それなら、回復薬みたいなの使えば? なんか、そういった感じのやつあったような……」

「ゲームじゃあないんだから。簡単に回復できるような、そんな都合の良いものはこの世にないよ。何も負わないように予防をするのが一番さ」

 

 相田は宇垣の言う言葉を聞いて表情を曇らせる。宇垣に対してなにか腑に落ちないものを感じていた。

 相田も自分の母親が日焼け止めのクリームを塗ったりしているのをいつも見ている。それに、紫外線とか日焼けを気にして予防しようとする人もいることも理解はしていた。ただ相田にとっては、それは女性が気にすることであり、若い男性が普段から気にするようなことではないと思っていた。

 さらに言えば、男という人間はそんな紫外線なんてみんな気にしないで生きているとばかり思っていた。それだけに相田は、宇垣が日傘を差してまで日焼けを避けようとする行為があまり理解できないでいる。

 

 だけど、相田が表情を曇らせたのは、もう1つ理由があった。それは宇垣が日焼けを気にしながら日々を送ること自体、なんだか窮屈でつまらないなという想いを抱き始めたからだ。もっと気楽に生きればもっと楽しいのに。紫外線を気にして生きていくなんてなんだか可哀想だ。相田はそう思ってしまっただけに、雲のない青空とは対照的に相田の表情は曇っていった。

 

「それに、もう後悔だけはしたくないから」

「え、後悔って?」

「昔、海に行ってね。肌を露出していたのもあって、自分を焦がしてしまったんだよ」

「ああ、なるほどな。だいぶ焼き過ぎちゃった感じか」

「あれは今まで生きていて、最高に辛かった」

 

 中学の頃、宇垣は部活の仲の良い先輩に海に誘われて、肌をだいぶ焼いてしまったことがあった。その時に、尋常じゃない痛みと痒みを知ったうえに、皮がむけるという衝撃の体験をしたことがあった。それ以来、宇垣は海には行けなくなった。

 宇垣は遠い目をしながら、そんな昔の自分の過ちを思い出している。そんな宇垣を見て、相田はなぜ宇垣がそこまで日焼けを嫌がるのか納得する。その理由が日焼けによるものならば、日焼けを避けようとするのも分からなくないからだ。

 

「じゃあ、長袖着ればいいのに」

「…………えっ?」

「え?」

 

 宇垣は手に持っていたカバンを落とし、少し口を開けたまま立ち止まった。そんな宇垣の様子に驚いて、相田もゆっくり漕いでいた自転車のペダルを止めて、自転車から降りる。

 

「お、おい。どうしたんだ?」

「ん? い、いや、何でもないよ?」

「もしかして、長袖を着ればいいってことに気づいてなかった?」

 

 宇垣は落としたカバンを拾いながら、相田から目を逸らす。視線を斜め下に向けて微妙そうな笑みを浮かべている。そんな宇垣を見て、相田は自分が今言ったことが本当のことなのだと確信する。

 

「え、マジで?」

「良い着眼点を持っているじゃないか。やっぱ政は肌が焦げているだけあるね」

「それ、褒めているのか貶しているのか分かんねーな」

「身を削ってまで得た経験は大きいよ。そうだね、日焼けしていたことは褒めてるかな」

「日焼けしていたことを褒められてもな」

 

 笑みを浮かべる宇垣に対して、相田は呆れてしまう。まさか、相田よりも頭の良い宇垣がそんな簡単なことに気づかないとは思わなかったからだ。

 でも、日焼けを気にしている宇垣に、長袖を着れば良いことを気づかせることができたのは良かったなと。相田は宇垣の笑みを見てそう思っていた。

 

「しかし、朝は長袖を着用しつつ、学校の中で半袖に着替える。なるほどね。そこは盲点だったよ」

「日傘なんか差しているから、そういうところを見落とすんじゃないか。傘なんて邪魔なだけだろ?」

「そんなことない。日傘は楽だよ? 日焼けを防止するという点においても長袖より優秀だしね」

「それは、そうかもしれないけど」

「なにより自分は白くありたいんだよ。心も体も全部、白のままでいたいかな」

「白く、かぁ……つまり、ずっと綺麗なままでいたいってこと?」

「そうだね、そんな感じかな」

 

 宇垣の話を聞いて、相田は思い返してみる。相田と宇垣が出会ったのは2ヶ月ほど前の入学式の日。入学式が始まる前、教室で隣の席の女子には話しかけづらかった相田が、後ろにいた宇垣に話しかけたのがきっかけだった。

 あれから今日までの2ヶ月間、相田は宇垣がどんな物を持っていたのかを思い出す。筆箱、カバン、携帯電話、腕時計、ハンカチ。宇垣の持っている物は、どれも白色が基本となっている物がほとんど。さらに、宇垣は普段から身の回りを小奇麗にしていることも知っている。

 相田は今まで宇垣が何故そんなに白っぽい物が多いのかあまり気にはしていなかったが、宇垣の言葉を聞いてその理由に納得した。

 

「とは言っても、いっそ焦がしたり、染まったりした方が楽だろうなーとは思うけどさ」

「そうだな。楽なのは、たしかだわ」

「それこそ何にも縛られず、何にも恐れず、我慢とか後のことなんて気にせず。ただ自分のやりたいことをやれれば、本当は良いんだろうけどね」

 

 宇垣は顔を見上げて、青い空を見つめながら語っていく。普段から後悔しないようにと、気楽に生きることを我慢している。自分で自分を縛っている宇垣だからこそ、何かと縛られている自分が嫌で、何にも縛られたくないと思っていた。

 

「それなら、自分を覆い隠さないで、思いっきりやっちゃえばいいじゃん。やりたいことやろうぜ」

「そうしたいけど。でもね、やっぱり後のことを考えたら……うん。やっぱり無理かな」

「でも、勢い? なんていうか、思うがまま行動する感じって言うのかな? 自分の気持ちに素直になっていくのも大事だと思うけどなー」

「うーん、一理あるけど。でも、今はできそうにないかな」

「ま、それもそうか」

 

 相田は自分とは違って、宇垣が気楽に日焼けできないのはなんとなく理解できた。今までやり通してきたことを、簡単に覆してしまうのは難しい。面倒だから予防するのをやめたいという気持ちはあっても、今までしてきた頑張りを無駄にしたくないという気持ちが勝ってしまう。それだけに、宇垣が自分のようにできないというのは、分からなくもないなと相田は感じていた。

 

「とりあえず、自転車置いてくる。先、行ってて」

「うん、玄関で待ってるよ」

 

 相田はそう言って、自転車にまたがってペダルを漕いでいく。宇垣もいつものように玄関へと向かって歩いていった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 霞ヶ丘高校の敷地には自転車置き場が2つあり、1つは学校の玄関のそばにある。そこは主に2年生や3年生が使うように決められていて、1年生はもう1つの場所。少し離れた職員用の駐車場の近くにある自転車置き場に置くことになっている。その場所は玄関からはやや遠く、徒歩である宇垣には少し面倒な距離であった。そのせいか、宇垣は相田と一緒に学校に行く際は、いつも自転車置き場まで行こうとはしないで先に行こうとする。そんな宇垣であるからこそ、相田は今日も玄関で待っていてもらうことにした。

 

 相田は1年生の自転車置き場に自分の自転車を置いて、自転車についているロックに鍵をかける。カバンを自転車のカゴから取り出しては玄関へと向かって歩いた。学校の玄関が見え始めたところで相田は宇垣を目で探す。

 ところが、宇垣の姿がどこにも見当たらないでいた。普段なら、宇垣は玄関の扉の前でいつも待っている。今日もそうだとばかり思っていた相田は、周り玄関以外の周りも見渡してみるが、やはり宇垣の姿は見当たらない。もしかしたら玄関の中にいるかもしれない。相田はそう思って玄関の中に入って探してみると、何かを見ているのか呆然と立ちつくす宇垣の姿が見えた。

 

「あ、いたいた。何見てんの?」

「ん? 別に何でもないよ」

「あ! これ、宮越(みやごし) 菜月(なつき)じゃん!」

 

 玄関を越えた先にある掲示板に、最近話題の人気女優が写っているポスターが貼ってあった。長髪の髪の毛を後ろで縛っては、キリッとした表情をしている女優の宮越菜月。その女優が袴姿で、白い墨で文字が筆で書かれてある黒い紙を堂々と掲げている。持っている紙には“絶対阻止!”と達筆な字で書かれ、『薬物に染まるな!』というキャッチフレーズが大きな字でポスターに描かれてある。そんな薬物乱用の阻止を促すポスターを、宇垣はずっと見つめていた。

 

「もしかして、涼平も好きなのか!?」

「いや、じぶんがね……ただ、すごく綺麗だなと思ってさ。つい目を奪われてしまってね」

「あー分かる! めっちゃ良いよな、宮越 菜月! 俺もめっちゃ好きだわ」

「ん? ああ、そうか。政は好きなんだっけ? この女優さん」

「そうそう、最近映画とかドラマとか出てるだろ? めっちゃ可愛いんだよな。普段はキリッとした感じなんだけど、笑うとめっちゃ可愛くて。それで最近めっちゃ出てくれるからさー、ほんとめっちゃ可愛いんだよな」

 

 嬉しそうに語る相田に対して、宇垣は苦笑いを浮かべる。あまり女優とかアイドルとかに興味のない宇垣にとっては、どう反応したらいいのか分からず、ただ苦笑いをするしかできないでいた。

 

「わかった、わかったよ政」

「おっ、涼平も分かってくれるか」

「とりあえず、あの女優さんが最近テレビによく出るってことと可愛いってことと政が大好きってことは伝わったよ」

 

 宇垣は呆れたように呟いて、相田の肩に手を乗せる。しかし、相田はそこで話を終えることなく、続けて口を開いて話を続ける。

 

「まだまだあるぜ、出始めたのは1年前のちょっとしたCMからで、そこからドラマとか映画に少し出始めてさ。段々とブレイクして俺も好きになってさ。それで詳しく調べたら、なんと俺達と一緒の石川県出身って言うし、歳は俺達の2つ上の18歳なんだよ。高校3年生だぜ? ヤバイだろ?」

「はいはい、分かったから。政がこの女優さんのファンだってことはヤバイくらい伝わったし、もうこれ以上はいいよ……はぁ」

 

 相田のテンションが高くなり、このまま止まりそうにない。そう感じた宇垣は、これ以上話さないように相田を制止する。今の相田の様子を見て、宇垣は相田がこの女優が本当に好きなんだなと痛感して、ついため息を吐いた。

 

「でも、まさかこんな場所に宮越 菜月のポスターが貼られているなんてな。もしかして、先週からあったか?」

「いや、無かったと思う。さすがに玄関だし、変わっていたら普通は気づくよ」

「じゃあ、今週からか。そうかー。うん、やっぱ可愛いな!」

「ほらほら、とりあえず教室行かないとね。そのポスターの女優さんとは会おうと思えばいつだって会えるんだから」

「んー、わかったー。今いくー」

 

 相田はポスターの前から微動だにせず、ずっとポスターの中の女優を見つめていた。そんな相田に、宇垣は呆れ果ててしまい先に行こうとする。

 

「行く気ないじゃないか。なら、自分は先に行くからね」

「おいおい冗談だよ、待ってくれよ涼平!」

 

 宇垣の言葉を聞いて相田は、そのポスターにさようならをするように会釈すると、宇垣についていく。その一部始終を見ていた宇垣は、相田に若干引いてしまい、つい怪訝そうな表情が出てしまっていた。

 だが、相田は気にしていないのか。もしくは分かっていないのか。平然と宇垣の隣を歩いては、嬉しそうな表情を浮かべたままだった。

 

 相田と宇垣の2人は同じクラスの1年5組。教室の場所は玄関の先にある廊下をずっとまっすぐ歩いたところにある。2人は自分達のクラスの教室へと会話をしながら歩いて向かって行く。

 

「そういや、昨日の『君と僕等はいた』のドラマ見た?」

「見てないよ。自分はあんまりドラマとかは見ないから」

「マジかよ、昨日の話めっちゃ良かったのに、見てないのか」

「あまり興味ないからさ。そういう恋愛ものは特にね」

「でも、自分を想ってくれる2人に対して、ヒロイン役の宮越 菜月がどちらを愛せばいいのか葛藤するわけだよ。めっちゃ切ないんだよ、これが!」

 

 宇垣は、またしても宮越菜月か。そう言わんばかりに相田に対して呆れた顔をしながら、またため息を吐いてしまう。友達の見てはいけない一面を見てしまった気分に宇垣は陥っていた。

 

「なら、その切ないってどういう感じなのか教えて欲しいな」

「切ないっていうのがどんな感じなのかをねぇ。なんとも難しい質問ときたもんだ」

「切ないという感情が分かる政なら、どういった感じなのか分かるのかなと」

 

 相田は腕を組み、しかめっ面を浮かべて悩み始める。相田がすぐに言えない辺り、本当に難しいことなのだろうと宇垣は察する。

 

「うーん、なんていうか……心臓が小さくなったように締め付けられて、誰かに握られては遊ばれてる感じかな」

「……それ、ヤバイ病気なんじゃないの? 政、今からでも病院に行って診てもらった方がいいよ」

「俺の体はどこも異常じゃないぞ!」

「いやいや、おかしいよ。特に頭がね」

 

 宇垣は、相田をバカにするように自分の頭を指差す。相田を煽るように言った宇垣に対して、相田は少し目を細めては腕を組んで言い返していく。

 

「失礼なやつだな! なんて言うか……分からないかな? なんか、人を好きになるとさ。胸が張り裂けそうになるって感じのやつ」

「うーん、いまいち分かんないかな」

「なんで? 誰か好きになったことくらいあるだろ?」

「誰かを好きになったことは……その、ないわけじゃないけど」

 

 言いたくないのか、宇垣は言い淀んでは渋った表情を浮かべる。それに対して相田は、言い渋っている宇垣にその答えを急かしていく。

 

「けど、なんだよ」

「うーん、正直分かんないかな。自分の場合、好きになってもその人を愛せないから。恋人にはならないんだよね」

「つまり、友達以上恋人未満で現状維持するやつか。付き合っちゃえばいいのに」

「政みたいに、自分はお気楽には生きられないからね」

「お気楽で悪かったな!」

「自分としては良いと思うけどな。政のそういうところ。けっこう羨ましく感じているよ」

「なんか、あんまり褒められている気がしないな」

 

 少し羨ましいように、優しく微笑む宇垣。それに対して、相田は宇垣に少しバカにされているような気がしていた。

 でも相田は、そんなお気楽な自分を恥じてはいない。考え無しではあっても、自分の気持ちにまっすぐに生きていくことは大事であると。そんな生き方をしていくことが自分であるのだと。相田はそう思っているだけに、たとえバカにされようとも自分の生き方を変えるつもりはない。

 

「でも、本当に好きならやっぱ勢いも大事だと思うけどなー。色々考えず、付き合ってみればいいのに」

「よくは知らないけど、恋愛なんて、そんな単純にいかないものだと思うけど?」

「まーね。そりゃあそうなんだけどさ。でもさ、俺はそういったまどろっこしいのとか面倒だなと思うから」

「どちらかと言うと、何も考えてない方が後で後悔すると思うけどね」

「でも、好きな人に好きって伝えるのって一番素敵なことだと思わないか?」

「なんかどこかで聞いたような言葉だね」

「だって、歌手が言ってた言葉だからな。ロマンチックだろ?」

 

 自分ではなく、他人の言葉であることを堂々と言う相田を見て、宇垣は呆れてしまう。自分が経験した上でそう思っている言葉ならまだしも、相田は他人が言った言葉をただそのまま言っているようにしか感じられない。それだけに、宇垣は鼻で笑いならが相田を小馬鹿にするように言葉を返し始める。

 

「薄っぺらいなぁ、政。そんなんじゃ、本当に好きな人ができても告白する時には失敗しちゃうね」

「そんなことないさ。受け入りだろうが、本気で告白すれば、実らない恋はないはず!」

「そして、その恋が脆くも崩れ去るわけか」

「いやいや、崩れないから」

「でも、失恋は人生において良い経験になるらしいね。そう考えると政はきっと良い大人になれるよ」

「それって……俺が失恋する前提の話じゃねーかよ!」

 

 そんな会話をしている内に、2人は自分の教室へと入る。黒板の上にある壁時計は8時10分を指していて、他のクラスメート達も半分ほど教室の中にいた。

 相田の机は窓際に近い一番後ろ側の席。宇垣の机は、教卓と教室の扉に近い前側の席。宇垣が自分の机にカバンを置くと、さっそく相田のそばまで来ては、相田が座る机の隣の机に腰かける。

 

「そういや気になったんだけど、政は彼女とか好きな人とか昔いたりしたの?」

「え、そうだなぁ……まずどこから話せばいいやら」

「自分の予想では、彼女がいなかったに5割で、好きな人はいたけど告白しなかったに5割で賭けるね」

「彼女がいたということには1割も賭けてないのかよ」

「そりゃあね。いなさそうだから」

「はいはい。そうですか」

 

 とぼけて言う相田に対して、宇垣が冗談なくそう言った。相田は腕を組み、思い出すように目を閉じる。本気で話してくれるのだと思って、宇垣は相田の顔を見つめた。

 

「それで、結局どうなの?」

「……俺が恋をしたのは、一昨年の6月。豪雨が降り続く中、俺は濡れている彼女を見つけたんだ」

「それで?」

「ちょうどタオルを持っていたから、拭いてあげたんだ。濡れた体や毛を優しくな」

「うん……うん?」

 

 宇垣は、相田の話を聞いて少し疑問に思ってしまうところがあったが、相田は無視して話を続けるので、話の続きを聞くように再び耳を傾ける。

 

「でもその時彼女は弱っててさ……それでつい抱きしめたわけさ」

「え、そんな……あ、まさか」

「でも、その時に感じたよ。こいつとは家族になれるって」

「なるほどね。つまり、その彼女は政の下僕になったわけか」

「下僕じゃない、あいつは家族なんだ! 今は愛すべき家族の1人なんだよ!」

「1人じゃなくて、1匹なんじゃないの?」

「あ、そうか」

 

 宇垣は自分の質問に対して、相田が自分のペットの猫のことを話し始めていたことに、なんとも言えない哀れさを感じてしまっていた。それくらい、色恋沙汰なんて今までなかったということ。彼女もできなかったうえに、好きな人さえいなかったこと。ペットのことしか語れない相田が、少し可哀想にも思えてきていた。

 

「あんまり理解したくないけどね。動物というか、ペットをそこまで溺愛するなんて」

「でも、好きなんだ。あいつのこと、愛してるんだよ」

「あと、彼女じゃないよね。それにペットを好きになった対象にカウントしたらダメでしょ」

「べつに人が誰かを愛するのに、相手が人間だろうが性別だろうが関係ない。それこそ種族の違う生き物であったとしても、自分と相手のことさえ分かり合っていれば、きっと愛し合えると俺は思ってるぜ」

「…………政」

 

 相田の言葉を聞いて、宇垣はぽかんとして相田を見つめる。そんな宇垣の様子を見て、相田はどうしたのかと疑問を抱く。

 

「どした?」

「そうだよ。政にしては珍しく良い事言ったじゃないか。さすがだね、政!」

「お、おう。なんか珍しく、褒めてるな」

「今後、政の名言は『ペットであろうが、愛さえあれば関係ないんだ!』と周りに広めることにするよ」

「それだと、完全にヤバイやつじゃないか。そんな名言を周りに言いふらすのはやめてくれ!」

 

 2人は他愛もない話に花を咲かせていく。宇垣も相田も楽しそうな雰囲気で、朝のHRが始まる前の時間を過ごしていく。

 そんな時、相田と宇垣の2人がいる場所に1人の女子生徒が近づいてきた。女子生徒が相田達の目の前に来ると、2人は会話をやめて女子生徒に視線を向ける。

 

「おはよう、相田くん。宇垣くん。なんか楽しそうだね」

「あ、椎名(しいな)さん。お、おはよう」

「……おはよう。椎名さん」

 

 女子生徒の名前は“椎名(しいな) 智華(ちか)”。相田と宇垣と同じ1年5組のクラスメートの1人。このクラスの副長という役職を担っている女子であり、クラスの中でも1・2位を争うほど可愛い女子である。清楚で柔らかな雰囲気を醸し出している彼女が、何か用なのか2人のそばまで来ていた。

 

「相田くんって、創立祭の役員だったよね?」

「えっ!? あ、ああ。そういや、そうだったかも」

「さっき古部(ふるべ)先生がね、創立祭役員の人がいたら、後で職員室に来てほしいって言ってたよ」

「そ、そうなんだ。え、でもなんでこんな朝に?」

「分かんない。けど、なんか創立祭のことで、伝えたい話があるんだって。そう言ってたよ?」

「そうなんだ。わかった。ありがとう椎名さん」

「うん、そういうことだから。お願いね、相田くん」

 

 優しい雰囲気と可愛らしい容姿の椎名。相田は自然と顔を緩ませ、椎名が話かけてくれたことを嬉しそうにする。

 次に椎名が相田から宇垣に視線を向けると、やや緊張した表情を浮かべ、少し申し訳なさそうに宇垣に話しかける。

 

「それと、宇垣くん」

「ん?」

「えっと、その……ちょっと時間もらえるかな。あ、今じゃなくて、あとでいいんだけど」

「いいけど、何で?」

 

 宇垣の言葉はやや冷めたような物言いであった。さっきまでの楽しそうな雰囲気は消え、身内ではない相手と話すような。クラスメートではあるが少し距離を置いた人間と話している雰囲気である。

 

「クラスのことで話したいことがあるから」

「ああ、クラス委員の話か」

「そうそう。だから、またあとで来るね」

「わかった。またあとでね」

 

 椎名はそう言って、2人の前から去って行く。椎名はどこか用事でもあるのか、カバンを持って教室から出て行ってしまった。

 宇垣はクラスの室長という役職を担い、椎名も副室長という役職を担っている。その関係もあって、2人はクラス関連のこと。生徒会のこと。担任の先生に言われたことなど、色々と話さないといけない機会が多い。

 とは言っても、雑務を担っているのはほとんど椎名であり、宇垣自身あまり女子と話したがらないため、2人が会話をすることが多いわけではない。

 

 相田は、教室を去って行く椎名の姿が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。そんな様子の相田を見て、宇垣は勘づいてしまう。

 

「どうしたんだい政?」

「え、何が?」

「ずっと、椎名さんの方ばっかり見て」

「え、いや、何でもないよ」

「……もしかして政、椎名さんのこと気になってるの?」

「そそ、そんなわけないだろ!」

 

 動揺する相田を見て、宇垣は堪えきれず笑ってしまう。今の相田の様子を見れば、誰が見ても椎名智華のことを気にしていることは明白であった。

 

「ふふっ、え、嘘だろ? ちょっと動揺し過ぎなんだけど。ふふふ……」

「なっ! なに笑ってんだ! 違うって!!」

 

 宇垣が笑い出すと、相田は慌てた様子で立ち上がり、手を横に振る。それでも宇垣が笑うので、宇垣のふとももを軽く叩いては、椎名のことが好きであることを否定する。

 

「ほんと、政は分かりやすいね」

「だから違うって! そういうのじゃないから」

「まぁいいさ。とりあえず、今は違うってことにしてあげるよ」

「だから! 俺はべつに」

「そんなことより政。早く行った方がいいんじゃないの?」

「あ? 何がだよ?」

 

 相田は宇垣が何のことを言っているのか分からないでいる。そんな様子を見て、宇垣は呆れた様子で答える。

 

「もう忘れたの? 職員室だよ。椎名さんからお願いされたことを無視するつもりかい?」

「あ! そうだった! い、行ってくる!」

「うん。待ってるよ。また後でね」

 

 面白そうに笑っている宇垣を無視して、相田は駆け足で職員室へと向かった。

 

「さて……と」

 

 相田が教室を出て職員室へと向かったのを見ると、宇垣は自分の机に戻る。

 宇垣の机の上に置かれたカバンの中から、文房具箱とノートを取り出していく。宇垣は自分の机のイスに座り、文房具箱から鉛筆を右手で持って、机の上に置かれたノートに文字を書いていく。

 

「どうしようかな」

 

 ふと、宇垣は今後のことを考えながら、小さい声でそう呟いた。これからどうしていくべきか、未来を考えつつ、ひたすら文字を書いていく。文字を書いて、見つめる。見つめては苦しそうな表情を浮かべる。

 

「くそ、またいつものやつか。んっ……今は、とりあえず落ち着かないと」

 

 宇垣は書いていたノートの1枚のページを掴む。少し笑みを浮かべながら、楽しそうに文字が書かれたページを引きちぎる。

 引きちぎったページをくしゃくしゃに細かく破いていく。破かれた紙の残骸は机の中心に集め、机の上で山になっていく。それを見て、宇垣は小さく呟く。

 

「……ふう。でも、そうか。まさかだったよ、政。しかも、よりにもよって椎名さんか」

 

 にんまりとした表情で、感情が黒く染まったような声。誰にも聞こえない声の大きさで、宇垣はぶつぶつと呟いては、考えこむ。

 

「……うん。そうだね。じゃあ、これから」

 

 宇垣は、今後のことで考えが決まったのか、紙屑の山を右手で握る。

 強く握り、真剣な目つきで、なにか決意を固めたような表情を浮かべながら、宇垣は言った。決して人に聞こえることのないように、より小さく、より低い声で。愛情を含んだ言葉を口に出した。

 

 

「殺し愛さないといけないね」



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2話 恋愛

 霞ヶ丘(かすみがおか)高校の今日1日の授業は全て終わり、太陽はオレンジ色に変わる。同様に、青く晴れていた空は夕暮れによって夕焼けの色に染まっていた。

 

 時刻は夕方の17時30分。生徒達は授業を終え、各々が自分達のことに時間を費やしに向かう。部活動に勤しむ生徒や学校に残って談笑を楽しむ生徒。勉強や宿題をする生徒。帰らずに学校の中に残っている生徒もいれば、夕焼け空の下で悠々と帰って行く生徒もいる。

 そんな中、相田(あいだ)は学校創立祭の役員の仕事を終え、3階の南校舎の視聴覚室から自分の教室へと向かいながら、ぼそりと呟き始める。

 

「……はあ、疲れた」

 

 霞ヶ丘高校には中庭を挟むように校舎が2つある。北の校舎が主に生徒達の教室で、南の校舎は主に教科ごとに使われる教室か職員室であった。そして、南校舎より南の方にグラウンドや運動部の部室などがあり、東側には体育館やプール、西側には玄関や自転車置き場や駐車場があり、教師と生徒達はそこから出入りしている。

 相田の教室は、学校の北校舎の1階にある1年5組の教室。教室に戻ると、相田が戻ってくるのを待っていた宇垣(うがき)が本を読みながら机に座っている。それを見て、相田は宇垣に声をかける。

 

「ごめん、待たせたな」

「あ、終わったんだね。じゃあ、行こうかな」

 

 宇垣は今まで読んでいた本に栞を挟み、本をとじてカバンの中に入れる。カバンを持って相田のところまで行くと、2人は学校の玄関へと向かって歩き始める。

 

「で、仕事の方はどうだったの?」

「んーと、手伝いさせられただけかな。部活してない人だけ、手伝えって感じだった」

「そうなんだ、それはお疲れさまだね」

「うん、疲れたわ」

 

 元気のない声で受け答えをする相田。宇垣は相田に労いの言葉をかけるが、相田はあまり表情を変えずにいる。どことなく、心ここにあらずといった状態で歩いていた。そんな様子の相田を見て、宇垣は本当に疲れているんだなと感じていた。

 

「……はぁ」

「どうしたの、政?」

「いや、明日から何のために生きていこうかなって」

「え? それはどういうこと?」

 

 相田と宇垣の2人は学校の玄関で靴を履くと、急に相田が深いため息を吐いてはそう呟いた。思い詰めた表情を浮かべ、元気のない様子で呟く相田の姿を見て、宇垣は心配になっていく。

 いつも帰り際は調子の良いことを言うくらい元気なのに、今回は様子がおかしい。そう思った宇垣は、心配そうな表情で相田の呟いた言葉の意味を尋ねていた。

 

「ほら、創立祭が延期になったからさ。これから俺、何を糧に頑張っていけばいいのかなって」

「え、まだそんなことを気にしていたの? 学校の都合だから、仕方ないんだろ?」

「そうなんだけどさ……でも、なんかモチベーションが上がらないんだよな」

 

 宇垣は呆れ顔を浮かべて、相田の顔を見つめる。てっきり、人生の悩み事とか進路とか、もっと深刻なことで悩んでいるのかと思っていた。

 ところが、話を聞けば相田が悩んでいたのは延期になった創立祭のこと。そんなことで、明日をどう生きようか悩んでいると言って、思い詰めていた表情をしていたのかと思うと、宇垣は悲しくなっていく。自分がわざわざ心配したのがアホらしい。そう感じて、宇垣はため息を吐きたくなってしまう。

 

「ねぇ、政ってそこまで創立祭を楽しみにしてたの?」

「べつにさ、すごく楽しみにしていたわけじゃなかったんだ」

「それならそこまで気にしなくてもいいじゃないか」

「だけど、色々と面倒なことになったからさ。しかも、よりにもよって夏休みにするなんて……マジでありえねぇ」

 

 相田は眉毛を眉間に寄せたりしながら、最後は少し苛立ちを含んだように呟いていた。

 朝に創立祭の役員である相田が職員室に呼び出された理由。それは、何らかの事情で学校創立祭の行われる日にちが延びてしまったことを知らせるためであった。それに伴って、8月の上旬である夏休みの最中に行われること。更には、創立祭をもっと盛り上げるために創立祭の役員の仕事が増えたことを先生から知らされる。それを聞いた相田は気難しい表情を浮かべ、1日中そのことを気にしていた。

 

「ほんと、大人達のせいで俺達が振り回されてしまうよな。あいつら、マジで調子に乗ってるだろ!」

「まぁ、気の毒だとは思うよ。せっかくの夏休みに、わざわざ学校に行って準備させられるのはね」

「くっそ、こんなことなら創立祭の役員なんかなるんじゃなかった」

「それこそ今更じゃないか。自分で選んでおいてよく言えるね」

「だってさ、あの時は聞いた感じでは楽そうだったんだ。それに楽しそうだと思ったんだよ!」

 

 相田は面倒なことを押しつけてきた先生達に憤りを感じながら、つい自分の中で抱えていた不満を宇垣にぶつけてしまう。そんな相田を宇垣は哀れむように、ただ苦笑いを浮かべていた。

 

「ま、諦めて勉強するしかないでしょ。政、次の期末試験で赤点を取ったら終わるって言ってなかった?」

「……実は今日言われたんだけどさ。次で赤点を取ったら、夏休み返上して補習させられることになったんだよ」

「えっ!? それなら、勉強頑張らないと。もし赤点を取ってしまったら、余計に夏休みが減ってしまうじゃないか」

「でも、別に創立祭に出られなくなるわけじゃないし……んー、もういいかな」

 

 相田は次の期末試験のことを思いだすと、余計に面倒に感じたのか、どうでもよくなり始めていた。相田は段々と顔に力が抜け始め、少しずつ声も無気力になっていく。

 

 元々の予定では、学校創立祭が行われる日は7月の上旬にある期末試験の後。期末試験が終わってから行われる予定であった。そんな学校創立祭を、相田は楽しみにしていた。

 ところが、相田は昔から勉強嫌いで学校の成績があまり良くない。担任の教師からは、期末試験の成績で赤点を取ったものは創立祭に参加させないと釘まで刺されていた。それだけに、相田は創立祭のために期末試験に向けて勉強を頑張る気持ちを奮い立たしていたのだった。

 

 しかし、創立祭が8月に延期したため、相田は期末試験に向けて勉強を頑張る気力を失い始めていた。

 そんな相田に対して、宇垣は少し面倒臭さを感じずにはいられないでいた。だからと言って、このままでは実際に赤点をとりかねない。そう思った宇垣はとりあえず、相田にやる気を出してもらうようにしなくてはと考える。

 

「まだ期末試験まで1ヶ月くらいあるじゃないか。政、部活してるわけじゃないんだし、難しくないでしょ」

「そうだな。でも、とりあえず今は勉強を頑張れるテンションじゃないから、また明日にするよ」

「明日にするって……まあいいのか。まだ1ヶ月あるし、べつに今は焦る必要はないからね」

「そうそう、中学の頃と違って部活して無いし、勉強する時間くらいまだまだいっぱいあるさ」

「……それで後悔しないといいけどね」

 

 宇垣は相田の“明日にする”という発言を聞いて呆れてしまう。そう言って、ちゃんとやるやつもいるのかもしれないが、相田がちゃんとやる人間には到底思えない。信じられないと、宇垣は心の底から思ってしまった。

 しかし実際に今はまだ焦る時ではない。今日や明日がダメでも、試験の日が近づけばきっとやる気を出してくれるだろう。そう考えた宇垣は、これ以上試験のことを話すことをやめた。

 

「とりあえず、自転車を取ってきなよ。自分は先に行ってるからさ」

「ああ、そうだな。じゃあ、また後で」

 

 そう言って相田が自転車置き場へ走っていくと、宇垣はその姿を少し見つめながら、帰り道へと歩き始めていった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

「はぁ……やっぱ遠いね」

「いや、まだ近いだろ」

 

 相田が歩いている宇垣のところまで自転車を漕いでやってくると、宇垣は気だるい感じでそう言った。そんな宇垣に、相田は自転車を降りて歩いては、ついツッコんでしまう。

 

 相田の家は隣町であるが、宇垣の家は霞ヶ丘町の中にある。霞ヶ丘高校から近いわけではないが、特別遠いわけでもなく、歩いて20分くらい。もし、宇垣が自転車に乗っていた場合なら、10分もかからない距離である。

 そんな距離に住んでいる宇垣が自転車に乗らないのは、本人の運動神経の悪さが影響している。宇垣は今まで自転車でケガをすることが多くあり、一度は田んぼの中へ落ちてしまったことがあった。それ以来、自転車を乗ることを極力避けるようになり、学校には歩いて行くようにしている。

 

「そういや、涼平って中学の時、部活は書道部だったんだっけ?」

「そうだよ。でも何で?」

「いや、もし部活してたら、俺も涼平も何か変わっていたのかなって。ちょっと思ったから」

「どうかな? 自分はそんなのはあんまり考えないからさ」

 

 相田は自転車置き場で自転車を取りに行った際、部活動に勤しむ生徒の姿を見かけた。その時に、相田は自分がもし部活に入部をしていたらという想像を浮かべては、歩いている宇垣に追いつくまでの間、部活に入っていた場合のことを考えていた。

 宇垣は相田が部活のことを聞いてきた理由を知り、どうでもよさそうに返答をする。ただ宇垣は、今まで自分が部活動に入った時のことなんて少しも考えたことがなかったため、ふと自分が部活動に入った場合のことを想像してしまう。

 

「ただ、自分は部活に入ったところですぐに辞めていただろうね」

「なんでだよ?」

「前に話したかな? 自分って、中学の頃に書道部の先輩に誘われたんだけど、その先輩に憧れて部活に入ったんだよ」

「そういえば、そんなこと前に言ってたな」

「その先輩、豊条(ほうじょう)先輩って言うんだけどね。その人の書く字や文がとても綺麗でさ。その人のおかげで書道の楽しみを知ったんだ」

「へー、そうなんだ」

 

 書道に関しては全く興味のない相田は、宇垣が意気揚々と話すのとは裏腹に、適当に相づちをうちながら言葉を返す。字の綺麗さなんてどうでもいいと思っているし、書道自体に苦手意識を持っていたため、つい興味のない素振りをしてしまう。そんな相田を無視して、宇垣は懐かしむように当時のことを思い返していた。

 

「ん? それじゃあ、なんで部活入らなかったんだよ」

「……だってその豊条先輩は、もうここにはいないからさ」

「え? もしかして、死んじゃったのか?」

 

 相田は聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと思い、しまったと言わんばかりの苦い表情を浮かべる。その様子を見て、宇垣は焦って訂正し始める。

 

「あ、そういうわけじゃないんだけど……ちょっと色々あってね。2年ほど前に引っ越しちゃったんだ」

「ああ、なるほど。そういう感じか」

「べつに書道なんて家でだってできるだろ? だから、部活に入る意味はないんだよ」

「でも、スキルを上達したいとか賞を取りたいとかさ。なんか、そういうのはないのか?」

「べつに自分のスキルを上達したいとも、賞が欲しいとも思わないからね。それは政も同じだろ?」

「え?」

「政だって、野球のスキルを上達したいとか大会で勝ちたいとか、そんなこと思わないんじゃないの?」

「うーん、たしかに」

 

 宇垣の言葉を聞いて、相田は頷く。宇垣の言わんとしていることが分からないでもない。そう思って、納得した顔をする。

 相田が部活に入らなかった理由は、部活動に入ると色々と面倒なことになるのを知っていたからである。中学の頃は顧問や先輩、同級生などの同じ部員との人間関係で苦労し、毎日部活のしごきや練習で苦労してきた。そんな苦労の日々を高校でも過ごさなければならないことに相田は心の底から嫌気が差していた。それだけに、学校生活は自由に過ごしたいと考え、結局どこにも入部をすることはなく、今はこうやって宇垣と帰っているわけである。

 

「そう言われるとそうだな。なんか、涼平が部活に入らない理由が分かったわ」

「でも、もしあの豊条先輩がこの学校の書道部にいたら、きっと入っていただろうね」

「なんかそれって、運動部に入るマネージャーみたいだな」

「うん? それはいったい、どういうこと?」

 

 宇垣は相田の言うことに、疑問を問いかける。運動部に入るマネージャーと自分との共通点がいまいち分からない。

 困惑気味に問いかける宇垣に、相田は少し笑みを浮かべながら疑問に答え始める。

 

「いや、部活でマネージャーとして入部する女子ってさ。なんで、部員ではなく、マネージャーになるか分かるか?」

「それは、その部活には入りたいけど、女子は部員として入れないからじゃないの?」

「それがさ。あいつら、憧れの先輩とか好きな男子と一緒にいたいのが理由で、単に彼氏が欲しいからなんだぜ」

「え、そんなまさか。そんなくだらない理由で?」

「でも、それ以外の理由が思いつかないだろ?」

 

 相田にそう言われ、宇垣は考え込む。しかし、相田の言う通り。それ以外の納得できる理由があまり浮かばない。考えれば考えるほど、宇垣は相田の言う理由が本当にそうなんじゃないかと思えてきていた。

 

「そうだね……なるほど。つまり彼女らは、部活の中身ではなく部員を目当てとして入部していたわけか」

「そういうこと。だから、涼平もそれに似てるなって思ったわけ」

「そんな人達と同じにされたくはないけれど、たしかに。似ているという点は否定できないね」

 

 宇垣は難しそうに苦笑いを浮かべ、また考え込んでいく。そんな人達と自分が一緒にされたくない想いもあってか、宇垣は考えを終えると、また話しだした。

 

「でも、自分はべつに豊条先輩に憧れているだけだし、あの人の彼氏になりたいわけでもないから。やっぱ一緒にはされたくないかな」

「……え、彼氏? ちょっと待ってくれよ」

「うん? どうしたんだい、政」

「その豊条先輩の本名は?」

「“豊条(ほうじょう) 月菜(つきな)”っていう名前だけど?」

「“つきな”ってことは、その人は女性なのか?」

「え、そうだけど?」

 

 驚きの表情を浮かべる相田に、宇垣は戸惑ってしまう。相田が何を気にしているのか分からないだけに、不思議そうに顔を見つめる。

 

「はー、マジかよ。男の先輩だとばかり思ってたわ」

「あれ? 言わなかった? 自分はてっきり、女だと分かっていたからマネージャーの話をしてきたのかと」

「そんなわけないだろ! てか、それだと話が違うじゃないか!!」

「え、なにが?」

「それだと好きな女性ということになるじゃないか」

「いやいや、自分は今も好きなわけじゃないから。単に憧れているだけだからね」

 

 宇垣がそれを言った瞬間、相田がニヤリと笑みを浮かべる。そんな相田を見て、宇垣は少し不気味に感じてしまう。

 

「今も好きなわけじゃない。ということは、昔は好きだったのか」

「ええと…………」

 

 相田の言葉に、宇垣はなんて言おうか悩んでしまい、つい言い淀んでしまう。悩んだ末、言い逃れはできないと思い、宇垣は重たい口を開いて話し始める。

 

「正直のところ分からない。けど、好きじゃなかったのかと言われたら、きっとそれは嘘になってしまうのかもね」

「じゃあ、やっぱりそうか」

 

 相田は予想が的中し、嬉しそうな様子で指パッチンを鳴らす。

 しかし、宇垣は何かを思い詰めたように段々と険しい顔になっていった。

 

「でも、あの頃の自分はなんて言うか……自分が分からなくてね。あの人のことばかり考えていたから」

「それ、完全に恋しているじゃねーか」

「そうだね。だから自分は後悔しているよ。あの後、転校してしまったしね」

「うん? それは、その先輩に告白をしなかったことを後悔してるってことか?」

 

 その問いかけに、宇垣は黙って歩いて行く。宇垣の反応を待ちながら、相田は宇垣の顔を見つめる。

 

「いいや、後悔しているのは……」

 

 さきほどまで険しい表情をしていた宇垣だったが、少しだけ目を閉じると、目を開いた瞬間に微笑み始める。少し悲しげに、弱々しく、宇垣は答えを告げた。

 

()()だよ」

「え?」

「残念だけど、続きは今度だね」

「な、なんで……ってそうか。もう家の前か」

 

 歩きながら喋り込んでいるうちに、2人は宇垣の家の前まで来ていた。

 相田は宇垣の話に集中していたせいか、宇垣の家の前まで着いたことに今気づく。

 

「またね、政。また明日」

「ああ、また明日な。涼平」

 

 宇垣はそう言って軽く手を振ると、相田もそれを返すように軽く手を振る。宇垣が家の扉を開けて入るのを確認すると、隣町である自分の家に向かって自転車を押しながら歩き始める。

 ただ、歩き始めながら、相田は少し考える。何故か、考えてしまっていた。宇垣の言った、あの言葉を。

 

「しかし……恋愛ってどういうことだろ?」

 

 宇垣は相田が予想とは違う答えを言った。

 後悔しているのは、“告白”ではなく、“恋愛”であると。

 

 失恋したのであれば。好きであることを好きな人に伝えて、拒絶されたのであればだ。きっと、告白したことに対して後悔していることになる。

 だが、宇垣は後悔していることは恋愛であると言った。それは、彼女を好きになったということを後悔しているということ。恋してしまったことを後悔しているということ。そこが、相田には理解できないことであった。

 

 たしかに、告白できない状況で、付き合うことも好きと伝えることもできないのであれば、恋なんてしなければよかったと。好きで居続けることが辛いと。恋愛感情を抱いたことに対して後悔することはある。

 だが、恋愛を今までしてこなかった相田には、その気持ちや感情は分からない。考えたところで、そこは相田が経験したことも知ることもなかった未知の領域である。そのため、納得のいく結論に至ることは出来ず、渋い顔を浮かべたまま悩み続けていた。

 

「……うーん、まぁいいか」

 

 ある程度歩いたところで、相田はくしゃくしゃと頭をかく。考えたところで分かりそうにない。それはまた今度聞こう。相田はそう思い、自転車にまたがって漕ぎ始める。

 夕焼け空は暗くなり、太陽は落ち始めていた。相田は、朝に鬱陶しく感じていた太陽が沈みかけているのを見て、今回は落ちないでくれと思いながら、足早に自転車を漕いで帰っていった。



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3話 告白

 霞ヶ丘町には、古くから建てられた図書館が存在する。近くには公園もあるからか、お年寄りや小さい子どもがわりとやってくる図書館であり、憩いの場としてもよく使われる場所であった。

 ただ、普通の図書館とは少し違った雰囲気で、どちらかと言うと本を読むという点ではあまり好ましくないところではある。特に郷土歴史遺産の物が多く展示され、さらに関係者以外は入れもしない中庭まであるという造りであった。そのうえ、置かれてある本の数が石川県内の図書館の中でも少なく、分かりづらい場所に建てられたものだから、図書館としての評価はあまり芳しくない。

 

「これ、なんでこうなるんだ?」

「答え見て分かんないの?」

「だから、聞いてんじゃねぇか」

 

 図書館の2階。机が多く置いてある学習室にて、相田と宇垣の2人は教科書と問題集とノートを広げて勉強していた。

 時刻は18時ごろ。学校の中ではあまり集中できず、つい会話が増えたり、クラスメートや他の生徒で集中が削がれることも多く、相田と宇垣の2人は静かな図書館の中で勉強することにしていた。

 

「これ、このまえの授業でやっていたじゃないか。授業、聞いてなかった?」

「聞いていたさ。しっかりとな。でも、聞いたからって、分かっているわけじゃないからな」

「それもそうだね、政の耳が竹輪であることを忘れていたよ」

「なるほど。中が空洞(くうどう)だから聞いたことを右から左へ受け流しちゃう感じか……って、バカにしてるだろそれ!」

「いいじゃないか。能天気という意味ではね」

 

 あれから2週間ほどが経ち、期末試験までの日にちが少なくなって、相田は焦りを抱き始めていた。そこで相田は、自分より頭の良い宇垣に勉強を教えてほしいと頼み、今回はこの図書館で勉強を教えてもらうこととなった。

 相田は中学の頃から成績が悪かったため、距離の離れた霞ヶ丘高校に入学するしかなかった。そんな相田とは逆に、宇垣は中学生の頃から成績は良い方であった。実際、学力的に霞ヶ丘高校よりももっとランクの高い学校を目指すことも出来た。

 だが、宇垣は霞ヶ丘町に住んでいたのもあって、近場の高校に行きたかったという理由があった。そのため、霞ヶ丘高校を選んで入学したのである。

 

 そして、今回の期末試験では、相田にとって一番の難関と言われる数学が待ち受けていた。苦手としていた教科だったため、宇垣は数式やら解き方やら色々と教えていきながら、期末試験が始まるまで共に勉学に勤しんでいた。

 1時間ほどが経ち、相田は問題集の1ページ分の問題を解き終えると、背伸びをするように立ち上がる。

 

「ちょいと飲み物買ってくるわ」

「うん。じゃあ、自分のも買ってきて」

「なにがいい?」

「政のセンスにまかせ……るのはやっぱり危険そうだから、ウーロン茶で」

「へいへい、了解」

 

 相田は1階の自販機の方へと向かう。ずっと座って勉強することが苦手なのもあり、学習室そばの階段を下るという動作だけでも、相田にとっては良い気分転換になっていた。

 本来なら図書館の中で飲み食いは禁止されてはいるが、2階の学習室だけは飲み食いをしても良いとなっている。そのため、喉が渇き始めた相田は、図書館の入り口の外に設置されている自販機にて、アルミ缶のお得用になっている炭酸飲料水を購入する。おつりの小銭が出てきて、それを取っては財布の中に入れようとしている最中、後ろから女性の声が聞こえてくる。

 

「あれ? 相田くんじゃない?」

「え?」

 

 炭酸飲料水を手に取ってから後ろを振り向くと、そこには相田の好きな女性である椎名がカバンを持って立っていた。思わぬところで声をかけられたからか、相田の心臓の鼓動が段々と早くなっていく。

 

椎名(しいな)さん?」

「こんなとこで何してるの?」

「えっと、その……期末試験に向けて勉強かな」

「そうなんだ。えらいね、相田くん。私なんて勉強まだだよ?」

「そんな、べつに……ただ赤点を取らないように、ちょっと勉強してるだけだから」

 

 相田は緊張しながらも、嬉しそうに笑みを浮かべながら椎名と会話する。お世辞だとしても、椎名から“えらいね”と言われて嬉しく感じずにはいられない。

 ただ、まさか褒められるとは思っていなかったため、相田はすごく動揺してしまう。その動揺を隠すように、つい癖で頭をかいてしまう。

 

「もしかしてなんだけど、宇垣くんも一緒?」

「え? ああ、うん。そうだね。涼平も一緒だよ」

「そっかぁ……やっぱり」

「ん? やっぱり?」

「ううん、なんでもないの」

 

 椎名の“やっぱり”という言葉に、相田は少し不思議に思って聞いてしまう。なぜ、椎名さんが宇垣もいると思ったのだろうか。その疑問に、頭の中で思考していく。

 だが、相田は少し考えると、すぐにその理由に気付く。相田はよく宇垣と一緒にいることが多い。いつも一緒にいるのだから、椎名がこの図書館に宇垣がいるかもしれないと思うのも普通だ。だから相田は、椎名が宇垣がここにいたことに“やっぱり”と言ったのだろうと思い、これ以上は聞かずにいた。

 

「じゃあ、ちょっとだけ挨拶しに行こうかな」

「え? ああ、うん。2階の学習室にいるよ」

 

 アルミ缶の炭酸飲料を片手に持ちながら、相田は先に歩いて椎名を誘導していく。

 相田は椎名と2人だけで歩いていると、まるで親しい間柄の関係に見えてしまうなと、ふとそう思ってしまう。すると、段々と心臓の鼓動が早くなっていき、緊張が高まっていく。しかし、このまま沈黙のままでいるわけにもいかない。なにか話さないといけないなと思い、耐えきれず相田から口を開いた。

 

「そういや、椎名さんはなんでここに?」

「え? えっと……そうそう。借りたい本があったの。だからね、来たんだ」

「そうなんだ。俺はあんまり本とか読まないから、図書館に本を借りに来るなんてすごいね」

「ううん、相田くん達みたいに、図書館で勉強している方がよっぽどすごいと思うよ」

「ほんとうなら、勉強も家とか学校でできるといいんだけどね」

 

 相田は椎名と階段を上がりながら、苦笑いを浮かべる。本当は、宇垣に教えてもらうために図書館にいるわけなんだが、さすがに椎名の前でそれを言うことは相田には出来ないでいた。

 2階の学習室に相田と椎名が入ると、宇垣は教科書から入って来た2人へと視線を向ける。特に椎名の姿を見ると、少し驚いた表情を浮かべる。

 

「ん!? 椎名さん?」

「こんにちは、宇垣くん」

「椎名さんもここに来てたんだね。椎名さんも勉強?」

「いや、本を借りに来たんだって」

「ああ、なるほどね。そうなんだ」

 

 相田から椎名が図書館にいる理由を聞くと、宇垣は頷いて、手に持っていた教科書を机に置く。妙に何かを察したような表情を浮かべる。

 

「そうだ。ちょっと学校のことで話があるんだけど、いいかな?」

「うん? ここで?」

 

 椎名が宇垣に近づいて、少し申し訳なさそうにお願いする。宇垣は椎名の言葉を聞いて、こんな場所でするのかと言いたげな表情で、椎名の問いに問いかけの言葉を返す。

 

「じゃあ、ちょっと外でもいい?」

「うーん………いいよ。じゃあ政、ちょっと行ってくる」

「おう。行って来いよ」

 

 また2人きりになるのかと思うと、相田の表情は少し曇っていく。

 そんな相田に、宇垣は座っていたイスから立ち上がると、右手を下手に突きだして、相田の前までやってくる。

 

「それより、ウーロン茶は?」

「え? あっ!?」

 

 宇垣に言われて、相田は宇垣に頼まれていたものを思い出した。しまったと言わんばかりに、口を開けて硬直してしまう。手に持っているのは、炭酸飲料水だけ。椎名に声をかけられ、宇垣の分の飲み物を買うことをすっかり忘れていた。

 

「もしかして、買ってないの?」

「すまんな、忘れてた」

「仕方ない。じゃあ、自分が外行くついでに買ってくるよ」

 

 宇垣はそう告げると、学習室を出て行こうとする。それについて行くように、後ろから椎名が歩いていくのを、相田は見つめる。

 

「政、あとでもう1本買ってきてね」

「はいはい……って2本目買わせる気かよ!」

 

 そう言って、宇垣は笑って学習室からいなくなると、椎名も一緒に笑って学習室から出て行った。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 相田は2週間ほど宇垣に勉強を教えてもらいながら、なんとか期末試験までにテスト範囲までの内容を頭に叩き込んでいった。そのおかげか、相田の期末試験の結果は悪くはなく、なんとか赤点を取らずに済んだのだった。

 

 辛かった期末試験が終わり、三者面談も終えた生徒達はこれから始まる夏休みと8月の創設祭に期待を膨らませていた。

 そんな7月19日の火曜日。4限目の体育の授業が終わっての昼休み時間。相田と宇垣は教室で昼食を食べて雑談をしている。そんな中、相田が眠たげな表情で宇垣に言う。

 

「すまんわ」

「ん? どしたの政?」

「さすがに眠いから寝るわ」

「そっか。じゃあ、自分はちょっと用事あるから。また後でね」

 

 4限目にあったのは体育の授業。内容は学校のプールで水泳するというものであった。プールに入れる数少ない機会というのもあり、相田はつい、はしゃいでいた。その結果、相田は昼の休み時間が始まって昼食を食べ終えた後、疲労による眠気に襲われてしまう。

 宇垣が教室から立ち去ると、相田は机に顔を伏せて眠る。そこで相田は目を閉じながら、プール学習で椎名の水着姿を思いだすことにした。眠りの世界に誘われているのもあって、相田の表情が段々と綻んでいき、ついでに鼻の下まで伸びていく。

 

 霞ヶ丘高校には学校指定の水着とかはない。なので、プール学習の際は各自で自由に水着を持ってくることになっていた。

 そんなプール学習の時間。相田は女子達に視線を向けずにはいられなかった。特に意中の相手である椎名には、無意識に目で探してしまうほど視線を向けていた。

 椎名智華の水着は、フリルのついた淡い水色が主に使われているチェック柄のビキニ。特に胸や尻がでかいわけでもなく、特にスポーツをやっているようなスレンダーな体つきでもなく、やや細いくらいの体。そのため、外見は色っぽいというよりは可愛らしいという印象であった。

 それは相田にとって椎名に対する可愛いイメージが余計に拍車をかけ、可愛いという感情が頭を埋め尽くしていく。椎名の可愛さで心が満たされていくと、相田は幸福感も相まってぼんやりと眠りについていく。

 

 寝始めて15分くらい経った辺りで、相田は目を覚ます。眠たい目をこすっては、教室の時計に目を向ける。

 時刻は1時18分。15分ほどぐっすりと寝ていたことに少し驚くが、それ以上に休み時間が少ししかないことに、気持ちがブルーになっていく。

 

「あれ? 宇垣は?」

 

 相田は眠たげな眼差しで教室の中を見渡すが、宇垣の姿はどこにも見当たらない。

 しばらく見渡して、相田は自分が眠る前に宇垣が言ったことを思い出す。宇垣が何かしらの用事があって、教室から去ったんだと今になって理解した。

 

 次の5限目の授業まであと10分弱。それまでにトイレだけは行かないといけないなと思った相田は、あくびをして背伸びをする。そして、椅子から立ち上がって近くのトイレへ向かった。

 

 教室を出て近くの男子トイレに入り、相田は頭がぼんやりとしたまま次の授業のことを考える。たしか、次の授業の科目は英語。なんか疲労感があってダルいし、またしても眠くなりそうだな。そう思って小便を済ませると、洗面台で冷たい水を顔に何回か浴びせる。少し頭が冴えてきたのか、持っていたハンカチで顔を拭いた後は眠たげな表情は消えている。相田は顔を軽く叩いては次の授業に対して気持ちを切り替え、トイレから出た。

 その瞬間、横から来た女子生徒に肩がぶつかる。トイレが階段のそばにあるのもあり、相田からは死角であった。相田もトイレの前の廊下の方を注意して見ていたわけではなかったため、横から女子生徒が走ってきたことに気づかないでいた。相田にぶつかった女子生徒は少しよろめいている。

 

「あ、すみませ……っ!?」

「ご、ごめんなさいっ!」

 

 相田自身もまさかトイレから出て横から急に来るとは思っていなかったため、反射的に肩がぶつかった女子生徒の謝ろうとして、女子生徒が倒れた方に視線を向ける。

 しかし、女子生徒の姿を見た瞬間、相田は驚きのあまり硬直してしまい、言葉を止めてしまう。そんな相田を無視するように、女子生徒は口元を手で隠したまま、男子トイレの隣にある女子トイレの中へ慌てて入って行った。

 

「え、なっ……なんで椎名さんが!?」

 

 相田はひどく動揺する。今ぶつかった女子生徒が、相田の意中の相手である椎名(しいな) 智華(ちか)であったこと。椎名が涙を流しながら、トイレに駆け込んで行ったこと。辛そうに、自分の悲しみを隠すように、女子トイレの中へ逃げていった様子が、相田の心に刺さる。

 相田は心の中で自分に問いかける。いったい何が。何がどうして、椎名さんは泣いているんだ。どうしよう。もしかして、俺がぶつかったせいなのだろうか。それとも、他に何かあったんだろうか。相田は椎名が泣いていたことが頭から離れず、今の状況が飲み込めないでいた。

 

「あ、政じゃないか」

「うえっ!? りょ、涼平?」

 

 宇垣が階段から下りてくると、ずっと女子トイレを見つめたままでいる相田に気付いて肩を叩く。相田自身は、後ろから急に肩を叩かれて驚いてしまう。そんな相田の態度に、宇垣は心配そうに尋ねる。

 

「どうしたの? こんなとこで、女子トイレなんか見つめて」

「えっと、それがさ。椎名さんとさっきぶつかって」

「ああ、なるほどね」

 

 相田の言葉に、宇垣は頷いては微妙な表情を浮かべる。困惑気味の相田は、宇垣が何故そんな顔をするのか分からない。

 

「うーん、なんて言えばいいのかな。もっと時期を見て言おうと思ったんだけど」

「え、涼平。もしかして、椎名さんのことで何か知っているのか?」

「知ってるも何も……いいや、とりあえずどこか別の場所に行こう。話はそれからにしようか」

 

 宇垣は少し悩ましげな表情で言い淀んでいたが、周りにいる他の生徒を見ては、相田の手を取って男子トイレから離れる。相田は宇垣が人気のない場所で話したいのかなと思い、とりあえずそのまま宇垣についていく。

 学校の中庭に出られる一番近くの場所を通っては、学校裏の人気の無い場所に行く。周りから見られない場所ではないが、人があまり通らない場所なので、宇垣はそこで足を止める。

 

「で、なんで椎名さん泣いてたんだ?」

「それは……」

 

 相田が椎名について追及すると、宇垣は困った表情を浮かべる。普段の宇垣は割と率直に言うことが多い。今回もそうだと思っていた相田は、率直に言えずに悩んでいる宇垣の様子が珍しく感じた。それだけに、宇垣から語られる言葉が何なのか緊張してしまう。

 

「実は自分、椎名さんに告白されたんだ」

「は? え、あ……はあっ!!?」

 

 相田は、宇垣が何を言っているのかがすぐに理解することが出来ないでいた。むしろ、本能的に理解したくないと思っているのか、言葉の意味を理解することを躊躇していた。

 しかし、しばらく考えれば誰にだって分かる。宇垣が椎名に愛の告白をされたことは、さすがの相田も考えついた。

 

「どういうことだ? え、椎名さんが涼平に告ったって……そういうことなのか?」

「うん、そうだね」

「………マジで? 嘘だろ?」

「嘘じゃない、本当だよ」

「そんな……」

 

 かつてない現状に、相田は開いた口が塞がらないでいる。好きな椎名さんが、友人である涼平に告白をしたこと。それが嘘偽りのない真実なのだとしたら、自分はどうすればいいのか。2人はこの後、どうなっていくのか。相田は戸惑いを隠せず、宇垣のそばへ行って問いただす。

 

「って、え? じゃあ、涼平は椎名さんと付き合うのか!?」

「いいや、それはない。自分は断ったから……」

「そ、そうなのか」

 

 宇垣が椎名と付き合うことになっていないと分かると、相田は少し落ち着きを取り戻していく。だが、宇垣に聞きたいことは山ほどある。相田は続けて宇垣に問いかける。

 

「え、でも、なんで?」

「なんでって、それは……その」

 

 宇垣は相田に告白を断った理由を聞かれると、理由を言いたくないのか視線を下に向けて考え込む。言いたくなさげな宇垣を、相田はずっと見つめる。

 

「それは?」

「……そうだね。政には話そうかな」

 

 相田の表情は真剣で、椎名の告白を断った理由を聞きたいという意志を感じ取れる。そんな相田に宇垣は観念したのか、断った理由を話すことを決める。宇垣は意を決したように視線を相田に向ける。

 

「私は……いいや、自分はね。椎名さんを愛せないんだ」

「愛せない? どういうことだ?」

「だって、もし愛してしまえば、彼女はもう“人”ではなくなってしまうから」

「え? どういうことだ?」

「……つまりね、政」

 

 宇垣は目を逸らさず、相田の目をじっと見つめる。しかし、宇垣の顔が歪む。まるで、笑みを堪えているかのような、宇垣は何とも不気味な笑みを浮かべる。

 

 その笑みを含んだ表情と、その真剣で苦しむような目と、その震えるような声。

 次の宇垣の言葉を聞いた瞬間、その言葉で相田の背筋は一気に凍っていき、目を見開かせてしまう。

 

「愛すれば、自分は愛する人を殺してしまうんだよ」

 



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4話 悲恋

 霞ヶ丘高校の学校裏の場所。中庭の通路から通れるその場所は、普段なら人がたまに通ったりする場所ではある。だが、授業がそろそろ始まろうとしている現在、生徒はおろか教師でさえそこを通る人はいない。

 そんな学校裏の校舎下。校舎によって太陽が遮られ、日蔭になっている場所に相田と宇垣の2人はいる。

 

 宇垣は言った。笑みを堪えるような、口元が引きつったような、なんとも不気味な表情で。

 “愛すれば殺してしまう”という、非人道的な言葉を宇垣は相田に告げた。

 

「……は?」

 

 宇垣の言葉を聞いて、相田は思考を停止してしまう。理解出来ないのではなく、理解したくないという想い。頭の中で宇垣の言うことの意味を深く考えることが出来ない状況に相田は陥っている。

 

「わ、わけわかんねぇよ。殺す、ってどういうことだよ?」

「だからね、椎名さんを愛してしまえば、自分は椎名さんを殺してしまうんだ」

「そうじゃない、なんで殺すんだって言ってるんだ!」

「それは、殺したくなるからだよ」

 

 相田は宇垣の諭すような態度に苛立って、声を張って言ってしまう。

 分からない。分かりたくない。分かるとしても、考えたくない。それが相田の頭の中で、浮かび合った言葉。愛せない理由が、殺してしまうからなんていう理由。そんなもの、相田には考えたくもないことであった。

 

 人を殺したくなる気持ち。人を殺す時の感情なんてものは、怒りや恨み、負の感情で湧き起こるものだと相田は知っている。

 だけど、宇垣は愛すれば殺してしまうと言った。愛は人を救うもので、決して人を不幸にするものなんかじゃないと相田は信じている。なのに、宇垣の言っていることは、愛は人を殺すもので、人を不幸にしてしまうものであると。だから、愛せないと。宇垣の言うことは、相田の信じているものの真逆のことであった。

 

「なんで殺したい? なぜ、殺したくなるんだよ!?」

「好きになれば好きになるほど、その人を愛したくなる。愛したくなれば愛したくなるほど、その人を殺したいほど愛したくなる。その湧き上がってくる愛情と殺意は、溢れたら止められないんだ」

 

 理解出来ないことで、疑問が頭の中でいっぱいになり、戸惑い始める相田。それに対し、宇垣は真面目に相田の目を見て言う。達観した表情で、まるで経験したことのある言い方に、相田はよりいっそう困惑してしまう。宇垣が理解できるように言ったつもりでも、相田にはそれが理解出来そうで出来ない。

 相田は右手で頭をかいては、地面を見るようにうつむいてしまう。

 

「なんだよそれ? 分からない。分からねぇよ、そんなこと」

「そうだね。残念だけど、恋愛を知らない今の政には、自分の気持ちは分からないだろうね」

 

 残念そうに、哀れむように、宇垣は相田を見下すように言った。相田には理解できないのだと、悲しげな目を向けている。

 それが、相田の気に触れた。宇垣が相田に向けた表情も言葉も全てが、困惑している相田の神経を逆なでにしてしまっていた。

 

「なんだそれ? 俺をバカにしてんのか!? ふざけんじゃねぇ!!」

 

 相田は頭に血がのぼって、宇垣の胸倉を掴むようにカッターシャツを右手で掴んで引っぱる。

 理解出来ないのは、恋愛をしてこなかったからだと。理解しようとしないのは、それだけ未熟であるからだと。分からないのは、宇垣より自分自身が劣っているからだと。相田はそう言われている気がして、無意識に力が入ってしまう。

 

「政、痛いから。手を離してくれ」

「なんで、なんでおまえが……椎名さんを」

「だからね、椎名さんを殺さないためにも、政のためにもだ。自分は椎名さんの告白を断ったんだ。仕方がなかったんだよ」

「…………は?」

 

 相田は目を細めて、表情に怒りの感情を強く表していく。

 宇垣の言った言葉は、相田の怒りを余計に買ってしまうものであった。仕方ないから。政のためだから。そんな言葉が、火に油を注ぐように相田の心を燃やし、頭をさらに過熱させてしまう。

 

 相田は許せなかった。好きな椎名を泣かせておいて、宇垣の言い放った言葉が許せない。よりにもよって宇垣は、相田のために断った。椎名さんを泣かせてまで断ったのは、椎名さんと相田のためだったから。だから仕方がなかった。そんな人のせいにするような理由で告白を断ったことを、相田自身が許せるはずがなかった。

 

「仕方ない? だとぉ!? 涼平、おまえっ!!」

 

 相田が手を振り上げた瞬間。宇垣にとって、運が良いのか。相田にとって、不運なのか。学校の授業のチャイムが鳴り響いて聞こえる。

 チャイムの音で相田の腕は止まり、硬直する。そのまま静止していると、殴られると思って目を閉じていた宇垣が、その様子を見て口を開いた。

 

「離してくれ政。殴ったところで、意味なんかないんだ。それに授業が始まる。早く授業に行かないと」

「………ぐっ!!」

 

 相田は歯を噛みしめて、辛そうに表情を歪める。宇垣の言う言葉は、殴ればどうなるのか。殴ってしまえば、人間として、友人として、取り返しのつかないことになること。自分が分からないから、許せないから、相手を暴力で自分の想いを押し通す。自分の思い通りにならないから、負けを認めてしまうようなものであること。それに殴ったところで、何も変わらない。宇垣自身、変えるつもりもない。そんな意味が宇垣の言葉には含まれていた。

 それでも相田は、殴りたい衝動が、握り締めた拳の力が、どこにも行き場がないように体の中に留まって消えない。しばらく堪えた後、宇垣を突き押しては、校舎の壁を叩く。

 

「先に、行ってくれ。俺は、後で行くから」

「……分かったよ」

 

 相田は怒りを抑えるように、痛みに堪えるように、そう言って顔を伏せる。その様子を見て、宇垣は軽く頷くと、相田を無視するようにその場から立ち去る。

 宇垣がその場からいなくなったあたりで、相田は膝を地面につき、校舎の壁に両手の指を突き立てながら崩れ落ちた。

 

「……いってぇよ、くそっ! なんで、なんで……こんなことに」

 

 相田は目を閉じ、両手を強く握り締め、認めたくない現実に抗おうと心の中で葛藤する。

 

 なんて理不尽なんだ。そんな自分がみじめに感じた。

 ただ、宇垣を許せなかった。だからこそ自分が悔しかった。

 この現実を認めたくなかった。でも、抗ったところでこれが現実だった。

 

 そんな心の葛藤が、相田の胸を締め付けていく。ぎゅっと心臓を握られるように胸の中が痛くなって、左胸を右手で抑える。

 相田は目を開いて地面を見つめた。段々と視界がぼんやりとにじんでいく。そこで、目の中に涙がたまっているのが分かり、左手で涙をぬぐった。

 

「こんなのが、友情っていうのか? こんなのが……恋愛だっていうのかよ」

 

 信じたくない。受け入れたくない。自分が今まで信じてきた恋愛は、思い描いていた恋愛は、こんなものじゃない。宇垣の言うことも、宇垣が行った行為も、絶対に友情なんかじゃないと。何もかもが間違いで、嘘であると。相田はそんな想いを抱えて、地面に向かって言葉を吐き出す。

 

 しかし、この世界は理想や空想、フィクションとは違う。ここはまぎれもない現実。相田の目の前で起きたことは、嘘偽りのない現実である。

 相田が好きな椎名が、実は宇垣が好きであったこと。宇垣は相田が椎名を好きでいたことを知っていて、告白を断ったこと。宇垣は椎名を愛してしまえば殺してしまうと言ったこと。そのうえで、椎名を殺さないためにも、相田と椎名のためにも、宇垣が告白を断ったこと。そして、椎名が涙を流して傷ついてしまったこと。これが、相田に知らされた事実であり、現実の世界で起こった出来事であった。

 

 何も受け入れられないまま、相田は校舎の壁に背中を預けて座る。涙が渇いた瞳で、右手の甲を見つめる。皮がむけ、血が流れ、赤くにじんだ手は今も痛みは消えない。

 ただ、その痛みが、今の相田の思考を落ち着かせる。手の甲の痛みに集中している方が、今の相田には気楽に感じられたからだ。

 

 

 消えない心と体の痛みに堪え、物理的な痛みに意識を向けながら、相田はその日保健室にて過ごしたのだった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 宇垣が椎名に告白された日。相田と宇垣でトラブルがあった日から、3日が経った。

 あれ以来、相田は宇垣と会っていない。というのも、相田が宇垣に会わないようにしているわけではなく、会えていないという方が正しい。

 

 あの出来事の後、相田が保健室へ行って教室に戻った時には、宇垣は学校にはいなかった。すぐに早退して、帰ってしまったという話を、相田はクラスメートから聞かされた。

 それ以来、宇垣は学校には登校せずにずっと休んでいた。理由は病欠であると相田は聞かされる。学校の方には、病気で欠席することは担任の教師には連絡がきていた。だがその間、宇垣から相田に連絡はない。相田もまた、宇垣に連絡を取ることはなかった。

 

 今日は7月22日金曜日。今日の終業式が終われば、明日から夏休みが始まるということで、霞ヶ丘高校の生徒達は待ち望んでいた夏休みに意気揚々としていた。

 そんな中、相田の表情は明るいものであるとは言えず、明らかに意気揚々としていないのは誰の目から見ても分かった。そうなるのも、相田の頭の中でどんよりと残っているわだかまりが、相田の気持ちを暗くさせていたからである。暗い気持ちが、頭から消えない何かが、相田の感情を沈ませている。

 

 時計の針は3時半を過ぎ、太陽の日差しも弱くなってきた頃。相田が図書室で夏休みの宿題を開いている最中、近くに誰かがやってくる。

 

「あ、相田くん」

「え?」

 

 相田に声をかけたのは、椎名智華。相田が好きな女子であり、宇垣に告白をしてフラれたという彼女。その椎名から、相田は声をかけられた。

 相田が教室でのHRが終わったのは12時半過ぎ。つまり、用事のない生徒達が帰り始めてから3時間ほど経った今、宇垣と椎名は学校の図書室にいた。

 

「なんでここに?」

「えっと、とりあえず宿題を片づけようかなと」

 

 図書室自体は、文芸部や演劇部などの文化部が主に使用することもあり、今日も使用することが可能であった。そして、相田がここにいた理由は、単にエアコンの冷房がかかっていて涼しかったから。ここまで長くなってしまったのは、その前に学校創立祭の役員として、仕事をしていたためである。気持ち的に夕方になるまで帰りたくなかった相田は、つい先ほどこの図書室で簡単な宿題を済ませようと長机に座ったところだった。

 

「椎名さんこそ、なんでここに?」

「私は、クラス委員の仕事があったから。今やっと、終わったの」

「クラス委員の仕事?」

「そうそう」

 

 椎名は小声でそう言うと、少し苦笑いを含んだような微笑みを浮かべる。隣のイスに座り、相田との距離を近づける。

 相田は、椎名がなんで今日もこんな時間までクラス委員なんかの仕事をしているのか、不思議に感じていた。椎名がいつも大変そうにしているのを知っているし、いつも頑張っていることも今まで見てきたから分かっていた。

 だけど、今日は1学期最後の日。終業式を終えたのに、まだクラスの仕事があるなんて、相田には不思議で仕方がなかった。

 

「今日、終業式だったのに、そんな仕事あったの?」

「今週は宇垣くんが休みだったでしょ? だから、仕事が重なっちゃって」

「ああ、そういうことか」

 

 相田はそこでやっと納得する。宇垣がしなかった仕事の尻ぬぐいを、椎名がしているのであれば仕方がない。

 ただ、宇垣のために苦労させられている椎名のことを思うと、相田はいつも以上に椎名が可愛そうに感じてしまう。

 

「けっこう大変なんだな、クラス委員って」

「ううん、そんなことないよ。2人でやれば大変じゃないから」

「……そうなんだ」

 

 頷きながら、相田はそれ以上何も言わなかった。

 2人でやれば大変じゃない。だけど、宇垣が手伝わないから、何もしないから、椎名が大変になる。相田はそれを知っているから、何も言わずにいた。

 

「相田くん、ちょっといいかな?」

「うん? どしたの?」

 

 耳元で内緒話をするかのように、椎名は小声で相田に言う。そのせいで、相田はついドキッとしてしまい、心臓の鼓動が少し早くなる。

 

「相田くんに聞きたいことがあるんだけど……」

「聞きたいことって?」

「それでね。ここだとちょっと話しにくいから、場所変えない?」

「うん、いいよ」

 

 相田は机の上に広げた宿題をカバンの中に片づけ、椎名と一緒に図書室を出る。

 椎名が先行して歩くので、相田はそれに着いて行った。しばらく歩いたところで、椎名は止まる。

 

「うーんと、どこがいいのかな」

「人があんまりいない場所がいいってこと?」

「えっとその、話しにくいことだから。出来たらその方が嬉しいかな」

「そうなると……どこだろ?」

 

 人が来なくて、なおかつその場所に入れる場所というものは、なかなかに見つけるのが難しい。霞ヶ丘高校の中であるとすれば、空き教室や校舎裏、部室やトイレくらいである。

 しかし、空き教室や校舎裏では人のいないところを探すのに手間がかかる。それに空き教室は案外誰かがいたり、中に入ったりすることもある。また校舎裏も、部活動をしている生徒がそこを通ることが多い。部室やトイレなどは、相田と椎名では無理な話であった。

 

「じゃあ、中庭のベンチでもいい?」

「俺は構わないけど。あそこってたまに人が通るよ?」

「この時間帯なら、あんまり来ないかなって。みんな帰っちゃってるから」

「たしかに。それもそうか」

 

 2階の図書室から階段を下りて、中庭までやって来る。中庭の校舎近くのベンチがちょうど日蔭になっていたため、2人はそこに座る。

 

「それで? 聞きたい話って?」

「えっとね。宇垣くん、今どうしてるか知ってる?」

「え?」

 

 椎名の急な質問に、相田は戸惑う。椎名が相田に聞きたいことというのは、宇垣のことであった。

 

「その、病気って聞いたから。私、ちょっと心配で。それで、相田くんは知らないかなって」

「えっとその……涼平とは連絡とってないから。正直、分からないんだ」

「あ、そうなんだ……そっか」

「うん、ごめん」

 

 相田はなんとなく謝った。謝ることでもないのかもしれないが、椎名の聞きたかったことに答えられなかった。そんな想いからか、相田はつい椎名に対して謝ってしまう。

 

「ねぇ、相田くん。もしかして私のこと、宇垣くんから聞いた?」

「えっ、いや、その……」

 

 椎名が何のことを言っているのか。相田は聞かずとも、宇垣に告白したことなんだと察してしまう。それだけに、どう答えればいいか。どう反応して答えればいいのか分からず、言葉を濁してしまう。

 だが、相田が宇垣から告白されたことを聞いたことは事実であったし、今更聞いてないなんて言えるわけもなかった。

 

「俺、椎名さんが泣いているの見たから。つい涼平に聞いてしまって……」

「……そっか、そうだよね。私が泣いてたところ、相田くんに見られちゃったもんね」

「なんか、ごめん」

「そんな、相田くんが謝ることじゃないよ?」

「いや、でも……」

 

 でも、相田は謝りたかった。なんか、謝らなければいけないような。そんな気がしていたから、相田は座ったまましっかりと頭を下げて謝った。

 たしかに、相田には告白のことは関係ないのかもしれない。しかし、宇垣は相田のために告白を断ったと言った。逆に言えば、相田のせいで断ることになったと言われたのと似ていた。つまり、相田にも椎名が泣いてしまう状況に陥った原因はあると言われたようなものだった。だから相田は、本当は抱く必要はない罪悪感を胸に抱くことになってしまう。

 

「私が宇垣に迷惑かけちゃったからいけなかったの。私って、いつも宇垣くんに迷惑かけてるから」

「そんなことない……いや、そんなこと。ないと思う」

「ううん、私が不甲斐ないから。だから、宇垣くんに頼ってばかりになっちゃうし、クラス委員の仕事も上手くいかないし。全部、私のせいだよ」

「……ちがう」

 

 相田は自分に言い聞かせるように否定する。それが、相田の心の中に響いていく。そして、それは強い確信に変わって返ってくる。

 相田は思った。椎名さんの言うことは、間違っている。本当は違うんだと。彼女にそう言いたい。それを言わなければならない。いいや、言うべきなんだ。そんな思いが、相田の表情を真剣なものへと変えていく。

 

「違う! 椎名さんのせいなんかじゃない。悪いのは、涼平なんだ!」

「そんな、宇垣くんは悪くないよ。私が悪いから、宇垣くんが困ってしまうの」

「いいや、椎名さんは悪くない。悪くないんだ。涼平が、あいつが椎名さんを……」

「相田くん、私を庇わなくてもいいんだよ。私のせいなのは事実だから」

 

 優しくも辛そうに微笑みながら、椎名は相田の言葉を返す。そんな椎名の表情を見て、相田は余計に胸を締め付けられる。止まらなくなる。熱く、強く、相田の中から湧き上がる感情と想いが、混じって反応していく。

 

「それでも、椎名さんはいつも頑張っているじゃないか。涼平の分まで頑張ってるの、俺知ってる。いつも、頑張ってるのずっと見てたから」

「……え?」

「だから、椎名さんは悪くないんだ。悪いのは全部、涼平なんだ!」

「…………」

 

 相田の言葉を聞いて、椎名はうつむいた後、手の平で口元を隠す。左手は膝の上に乗せ、強く握り締めては震えていた。

 

「なんで? なんで、そんなこと……」

「だって俺……」

 

 椎名の声は、涙を堪えているかのように震えていた。苦しそうな表情で、相田を見つめる。

 そんな椎名を見て、相田は言ってしまう。今思ったことを、今感じたことを、胸の中の想いや感情を乗せて、言葉にして言った。

 

「椎名さんのことが、好きだから」



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2章 選択、私、ひとつへ
5話 切迫


 霞ヶ丘高校から自転車で15分ほどしたところに、最近になって新しく出来た公園があった。

 やや田舎なのもあって、霞ヶ丘町に住む子ども達やお年寄りたちは外に出る機会が多い。特に、親子で外に遊びに行く家族も多く、また母親同士で子どもを連れて出歩く親子もたくさんいた。そのためか、遊びやすいように広い敷地と様々な遊具のある大きな公園が、霞ヶ丘町の中に出来たのだ。

 

 そんな霞ヶ丘公園の中で、相田はブランコに座っていた。悩まし気に、ぼーっとブランコを足で揺らしている。ブランコに乗っていると言うよりは座っていると言う方が正しいように。ただ、呆然とした様子で座っていた。

 するとそばに、6歳くらいの少年が怪訝の悪そうな表情を露わにしてやってくる。

 

「ねぇ、ちょっと!」

「ん?」

「そろそろ貸してよ!」

「ああ、ごめんごめん」

 

 6歳くらいの少年は、苛立った様子で相田の目の前に立って言い放つ。なぜなら、相田がブランコを譲ってくれるのをずっと待っていたからだ。

 公園自体には、ブランコは4つほどある。だが、座っているだけに等しい相田に、少年は我慢できないでいた。

 

「ったく。良い歳こいて、ブランコなんかすんじゃねーよ」

「………そうだな」

 

 相田より年下である少年に嫌味を言われたが、相田は気にしない様子でブランコを譲る。そして、カバンを持っては遊具から少し離れたベンチに向かって歩いて行く。

 普段の相田なら、多少なりとも反発していたのだろう。最悪、大人げなく睨みをきかせては、年下の少年を威嚇していたかもしれない。だが、今はそんな気力がないように、ただ呆然として歩く。まさしく、相田にとって少年など眼中に無い様子であった。

 

「はぁ……っ」

 

 相田はベンチに座り、カバンを横に置いたと同時にため息を吐いた。指と指をからませ、両腕のひじを足の上に置く。そして、指をからませた両手の上に額を乗せ、地面を見るようにして目を閉じる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 今から1時間ほど前の出来事。相田と椎名が、霞ヶ丘高校の中庭のベンチにいた時のこと。2人の間で何があったのか、相田が告白をした後、どうなったのか。相田は頭の中で思い返していく。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

「椎名さんのことが、好きだから」

「えっ!!?」

 

 相田は勢いにまかせて、椎名に告白をしてしまった。椎名のことが好きだという想いを言葉にして、目の前で伝えた。

 そんな相田の告白を聞いて、椎名は驚いたように手の平を口元に当てたままでいる。

 

「そ、んな……ふざけて……いや、その」

 

 椎名は目を細め、困惑したような感じで体を揺らしながら、手が震えていた。

 相田は息をのむ。告白したことに対して、椎名の答えを待つ。言ってしまったことの返答を待つことしか、今は出来ないでいる。

 

「……ごめんっ!!」

 

 その結果、椎名は相田から逃げるように顔を伏せて逃走してしまう。何かに堪えるような表情で、思いっきり走り去って行った。そんな椎名の姿を、相田は呆然と見つめていた。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 そして、相田は椎名から何の答えも聞くことはできず、今は霞ヶ丘公園のベンチに座っている。

 ただ、相田の頭は椎名のことでいっぱいでいる。目の前から逃げる椎名の姿が、相田の脳裏に焼き付いて離れない。

 

「どうしよう……」

 

 またしても、相田は苦悩する。好きな人に好きと伝えることが、これほど辛いものであったなんて。こんな後味の悪いものだったなんて、思いもよらなかったと。相田は告白することが素敵なことであると思っていただけに、理想に裏切られた気分になっていく。

 相田は今になって、恋愛というものがこれほど心を苦しめるものであると知る。恋愛の辛さ、苦しみを初めて経験して、不安と煩わしさが心を占め、おかしくなりそうになる。落ち着かない、心が休まらない。何もしたくないという虚無感に苛まされながら、それでも焦燥感が消えない心境に、心労が溜まっていった。

 

 

 しばらくして相田は顔を上げる。そろそろ夕方になろうとしていることを知らせるかのように、太陽はだいぶ夕焼け色に近づいていた。

 今の時間が気になった相田は、学生ズボンの右ポケットから折り畳み式の携帯電話を開いて画面を見る。画面には4時40分という文字が待ち受けの画像の上に表示されている。

 この後、どうやって時間を過ごそうかと相田は考える。夜までには家に帰らないといけない。だが、このまま家に帰る気が起こらない。今は公園のベンチで外の風景を眺めている方が、幾分か気がまぎれる。でも、ずっと公園にいるわけにもいかない。どこかに行くにしても、親になって言い訳をすればいいのか。そんなことを頭の中で思考しては、携帯電話のアドレス帳を開く。

 

 あ行からの名前が並ぶアドレス帳の画面が映ると、上から2番目にある宇垣 涼平の名前に相田は目を止めてしまう。

 相田は携帯電話を見つめながら、ふと思いが浮かんでいく。今頃、宇垣は何をしているのだろうか。体調不良なら、見舞いに行くべきじゃないのだろうか。それ以前に、宇垣と話をしたい。宇垣に話すべきなんだ。学校裏でのことを。今日のことを。自分の想いを。

 

「…………よしっ!」

 

 相田の中で思い浮かんだものは、決意に変わっていく。

 今からすべきことは、宇垣に会うこと。そうすることで、自分は心が軽くなる。そうしなければ、胸の中のざわめきは消えない。そう感じ、そう思うようになっていった相田は、宇垣の電話番号を押して電話をかける。呼び出し音が聞こえ始め、少し緊張感が高まった瞬間だった。

 

「はい」

「あっ……」

 

 電話をかけて2秒も経たずに宇垣の声が聞こえてきて、相田は電話にでる早さに驚く。まるで、相田から電話がくることを知っていて待ち受けていたかのような。そんな早さで宇垣は相田からの電話に反応した。

 

「もしもし。俺、相田 政だけど」

「うん、知ってる。それはケータイ見れば分かるから」

 

 宇垣は元気そうな声で、軽く笑って答える。相田は思っていたよりも宇垣の明るい雰囲気に、緊張していた心が少し和らいだ。

 

「そういえばそうだったな」

「でも、ちょうどよかったよ」

「え? なにが?」

「だって、自分も今から政に電話しようと思っていたから」

「ああ、なるほど」

 

 宇垣もまた、相田と同様に電話することを考えていた。

 そのことを知り、相田はなぜ宇垣が電話に出るのが早かったのか納得する。でも、宇垣が電話をしてきた理由は分からない。相田は疑問を浮かべている様子で宇垣に問いかける。

 

「でも、なんで?」

「やっぱり、この前のことについて政に謝りたいと思ってね。今日は気分も落ち着いたから、夜くらいに会えないかなと」

「そうか。それなら話が早いわ。俺も涼平に会わないといけないなと思って電話したからさ」

「……そうなんだ、それは良かった」

 

 宇垣は嬉しそうに少し小さい声で答える。相田も宇垣が同じことを考えていたことに、親近感を抱いていく。

 

「なら、いつ頃来れそう?」

「えーっと、そうだな。今は霞ヶ丘公園にいるから、今からでも会えるぜ?」

「そうなんだ。でも今はまだ親がいるからダメだね。申し訳ないんだけど、6時以降でもいいかな?」

「そうか、父親がいるんなら仕方ないな」

 

 宇垣の父親のことを知っているだけに、相田は察してしまう。

 宇垣の父親が息子の友達を家に入れたがらないこと。宇垣の父親は夜の仕事をしていて、夕方まで家にいること。仕事に行く前に、なるべく宇垣が家にいるように言っていること。そして、宇垣はあまり父親のことを好きでないこと。色々と宇垣の口から、宇垣の父親のことを聞いて知っていた。

 ただ、相田は宇垣の父親の顔も姿もあまり見たことがない。たまに自家用車で迎えに来た時に横顔だけ少し見たり、3者面談の日に後ろ姿を少し見た程度である。なので、宇垣から聞いたことによって知って作られたイメージ像が、相田の頭の中には出来ていた。

 

「じゃあ、6時でいいか?」

「夕食はどうする? なんなら、自分の家で食べてく?」

「え、マジで!? いいのか?」

 

 相田は宇垣の提案に驚く。宇垣の提案は予想外で、相田はてっきり家ではなく外のどこかで会うことになるとばかり思っていたからだ。

 今まで宇垣は、相田を家の中に入れようとはいなかった。相田が家の中に入ってみたいと言っても、決して入れてはくれなかった。その理由のほとんどが父親のことが関連していた。だが、それ以前に宇垣もあまり人を家に入れたくないような、そんな雰囲気をいつも醸し出していた。

 そんな宇垣が、今日は家の中に招待すると言った。しかも、夕食まで用意してあげるとまで言ってきた。そのことに、相田はなんだか新鮮な気持ちと宇垣の心境の変化を強く感じていく。

 

「ほんとのこと言うと、あまり外に出たくないからね。今日は謝りたいし、特別にね」

「それなら、6時に家に行くわ」

「了解。6時までに色々と準備しとくね」

「おう。ついでに、なんかお菓子かジュースでも買ってくるわ」

「いいの? ありがとう。じゃあ、また後で」

 

 そう告げて、相田は電話を切る。いつの間にか相田の表情は、電話をする前の暗い表情から明るい表情へと変わっていた。

 相田は置いてあった自分のカバンを持ち、座っていたベンチから立ち上がる。そして、さきほどまで足取りを重そうにしていた様子は無くなり、今は軽そうに足を足早に動かしていく。

 

 向かう先は近くのスーパーマーケット。相田はカバンを自転車のカゴの中に入れ、自転車に備えつけのロックを鍵で開けてはサドルにまたがっていく。

 太陽はもうオレンジ色へと変わりつつある。昼から夕方へと変わっていくことを知らせるように、日差しは段々と弱まり、太陽は色を変えて地平線へと進んでいく。ただ、相田はそんな太陽には目もくれず、自転車を漕ぎ始める。目の前の、太陽に照らされた風景を見つめながら。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 宇垣の家に着いた相田は、重そうにお菓子やらジュースやらが入ったビニール袋を片手にさげて玄関の前に立つ。そして、もう片手には自分のカバンをさげていた。

 だが、そのカバンは公園にいた時よりも重く、より張りつめている。そのうえ、相田の呼吸は少し荒い。まさに、さっきまで慌てていたから、今は少し疲れてしまっているような。相田はそんな様子で玄関の前に立っていた。

 

 相田は近くのスーパーマーケットに行ったのはいいが、買い物を終えても時間がまだ余っていたので、道中にある小さい本屋に寄っていた。そこで、時間を潰すように雑誌や漫画を立ち読みしていた。

 しかし、相田にとっての誤算はそこの本屋を経営していたのは面倒な老人であったこと。レジにいたおじいさんに“おまえに読ませるために、置いてあるわけじゃないだぞ!”と嫌味を言われ、相田はとっさに謝る。しかし、おじいさんには謝罪が適当であったと思われたのか、おじいさんは余計に逆上してしまう。説教混じりに長々と嫌味を言われ始め、終えた頃には約束の時間はだいぶ迫っていた。そして、理不尽な想いを抱えながらも、急いで宇垣の家へと自転車を漕いできたのだった。

 

 相田は地面にカバンを置き、家のインターホンのボタンを押して呼び出し音を鳴らす。すると、しばらくして玄関の扉の奥から足音が段々と近づいてくる。

 玄関の扉が開き、そこから普段着姿の宇垣が現れる。服装は白いポロシャツにハーフパンツという、いかにもラフな格好をしていた。そんな宇垣を見て、相田は新鮮味を感じながらも笑みを浮かべる。

 

「はい、いらっしゃい」

「おう、久しぶり」

「うん、3日ぶりだね。どうぞ、あがって」

「お邪魔しまーす」

 

 相田は置いといたカバンを手に持って、玄関の中に入る。初めて入る宇垣の家だというのもあってか、相田は途中で立ち止まり、玄関や廊下を見回していく。

 宇垣の家はそこまで大きい方ではない。ただ、普通の一軒家くらいの大きさはあった。そのうえ、建てられて10年も経っていない。どちらかというと家の中はまだ綺麗な方だと言える。

 それに比べて、相田の家は昔から建てられた木造の古い家である。とくに田んぼや畑に囲まれた田舎に住んでいる相田にとっては、すごく羨ましい限りであった。

 

「ん?」

「どしたの?」

「今、廊下の奥に誰かいなかったか?」

 

 相田が玄関や廊下を見回していると、ふと廊下の奥の方で誰かが顔を覗かせている。相田が見ていることの気付いたかのように、奥にいた誰かは顔を引っ込める。

 

「ああ。親戚の子だよ。今、遊びにきてるんだ」

「そうなのか」

「てつくん、大丈夫だよー。このお兄ちゃん、お菓子くれるから」

「ほんと!?」

 

 宇垣の呼びかけを聞いて、廊下の奥から小さい男の子が顔を出した。そして、嬉しそうに走って玄関の方にやってくる。身長は低く、だいぶ幼い顔をした男の子は、目を輝かせながらお菓子に期待を込めた表情で相田を見つめる。

 

「ねねぇ! なにあるの!?」

「えっ!? えっと……」

 

 急にやってきた男の子。宇垣の言う親戚の子に対して相田はどう反応したらいいのか分からず戸惑ってしまう。そんな間に、男の子は相田の持つお菓子の入ったビニール袋に手を入れようとする。

 相田はそんな男の子に対して、見えやすいようにビニール袋を広げてあげる。すると、男の子は欲しいものを見つけたのか、チョコレートスナック菓子の1つを取り出しては2人に見せる。

 

「あ、僕ね、このチョコがいい。これ好きなんだ!」

「へ、へー。そうなんだ。じゃあ、あげるよ」

「えへへっ、おにいちゃんありがとう!!」

 

 男の子は満面の笑みを浮かべ、何の躊躇もなく相田に抱きつく。とっさの行動に相田は硬直してしまうが、それを解くように宇垣がそばに来て男の子の頭を撫でる。

 

「てつくん、ちゃんとありがとうって言えてえらいね。それじゃ、お名前は言えるかな?」

「うん。僕ね、てつくんって言うんだ。このまえ5歳になったんだよ」

 

 男の子は相田から離れると、嬉しそうに右手の指を開かせては、相田に5歳になったと分かるように手の平を見せていた。それを見て、相田は苦笑いを浮かべる。

 

「そうか、5歳になったのか」

「うん!! もう、プールで顔もつけられるんだ。すごいでしょ!」

「お、おう。すごいな」

 

 男の子の言葉に対して、相田はつい棒読み気味に答えてしまう。どう答えたらいいのか分からないし、何もすごいと感じない。心の中では、しょうもないことであると思ってしまうが、さすがに気をつかってしまって本音は言えなかった。だからこそ、相田は適当に答えた。それしか、相田には出来なかったのだ。

 

「この子、倉田哲治くんって言って、昨日から家に泊まってるんだ」

「僕ね、保育園お休みしてるの」

「そういや保育園は夏休みないんだったな」

 

 中学校や高校などの教育機関というものには、夏休みが存在する。しかし、保育園というものは教育機関ではない。根本的なものから言えば、子どもを預けて見てもらう場所である。だからこそ、小学校に入学するまでの子どもには、夏休みなどないのである。

 そのことを覚えていた相田は、目の前の男の子が少し可哀想に感じた。夏休みを知らないなんて、人生を損しているように感じてやまない。そういう心境に至っていた。

 

「とりあえず、リビングに行こうか」

「ん、そうだな」

 

 宇垣の言葉を聞いて、相田は靴を脱いで家の中にあがった。リビングに向かっている最中、男の子の表情が少し曇る。その理由を聞こうとする前に、男の子は口に出してしまう。

 

「……これ、チョコ溶けてるー!」

「え!? 嘘だろ!」

 

 男の子がすぐさま戻すように、相田の持つビニール袋の中に溶けたチョコをそのまま入れたので、相田の表情は引きつってしまう。

 そんな相田の表情を見て、宇垣は笑いながら2人の前を歩いてリビングへと向かった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 リビングの中央にあるテーブル。宇垣と相田でテーブルを挟むようにイスに座って、夕食を食べていた。そして、宇垣の親戚である男の子。倉田哲治は宇垣の隣に座って、カレーライスを美味しそうに頬張る。3人は仲睦まじく夕食を楽しんでいた。

 

「そういえば、学校の方はどうだった?」

「ん? どうだったって?」

 

 相田は宇垣の急な質問に、少し動揺する。相田がすぐに思いだしたのは、椎名さんのこと。特に、告白をしたこと。

 しかし、宇垣はまだそのことを知らない。何に対しての質問なのか分からないので、相田は質問に対して質問で返す。

 

「自分、休んでたからね。特に何もなかった?」

「あ、ああ。学校に関しては、特に何もなかったかな。伝えなきゃいけないことも特にない」

「そうなんだ。それはよかった」

 

 相田は含みのある言い方をするが、宇垣は気にせずに頷く。目線は相田の方ではなく、もう別の方へと向けていて相田を見てはいない。

 

「それより、涼平の方はどうだったんだ?」

「え? どうだったってどういう意味で?」

 

 宇垣はまた相田の方に視線を戻す。相田と同じように、質問されたことに対して質問を返した。それを聞いて、相田もさきほどの宇垣と同じように答える。

 

「だって休んでたからさ。どうしたのかなって」

「うーん、そうだね。割と辛かったかな。今日はだいぶ良くなったんだけどね」

「熱とか風邪か?」

「どちらかというと、熱かな。熱を抑えるのに苦労したよ」

 

 宇垣は少し考え込んだ後、眉根を寄せながらそう告げた。表情が笑えていない辺り、相当きつかったことが伝わる。

 そんな宇垣を見ながら、隣に座っていた哲治という男の子は不思議そうな表情を浮かべる。

 

「でも、お兄ちゃん。昨日も元気だったよ?」

「そりゃあ、てつくんが来た時にはもう治りがけだったからね」

「じゃあ、なんで学校休んだの?」

「また熱が上がるといけないからね。念のために今日は休んだんだよ」

 

 宇垣は“仕方なかったんだ”と言いたげに頭を頷きながら、腕を組んで隣の哲治という男の子を見る。そんな宇垣を、相田は怪訝そうな表情を浮かべて見つめていた。

 

「それ、単にサボりたかっただけじゃないのか?」

「……ま、そうとも言えるかな」

「え、マジかよ」

 

 相田は宇垣が否定すると思いきや、サボったことを認めたことに驚いてしまう。

 いつもの宇垣ならきっと否定していた。真面目な宇垣が認めるなんておかしい。相田は頭の中でそう思いながら、今日の宇垣はいつもとは違う気がしていた。

 その原因は、もしかして涼平の家にいるからなのか。それとも涼平に久しぶりに会ったからなのか。何なのか分からない。ただ相田は違和感のようなものを抱きながら、宇垣を見つめていた。

 

「あ、これ僕のお姉ちゃんが好きなやつだー!」

 

 そう言ったのは、倉田哲治。テーブルから見える32型の液晶テレビの方を見て、嬉しそうにそう言った。テレビには、子供向けのアニメが映っていた。

 

「てつくん、ごちそうさまは?」

「あ、忘れてた! ごちそうさまでした!」

「はい、じゃあ食器持っていってね」

「うん!」

 

 倉田哲治という男の子は食器を持つと、洗面台のところまで持っていっては、すぐにテレビの前へと向かい、ソファーに座る。

 テレビに夢中になっている哲治をよそに、相田は夕食のカレーライスを食べ終わり、水を飲んだ。

 

「それにしても、夕食ごちそうになって悪いな」

「いいんだよ。どっちにしろ、夕食は作らなきゃいけなかったからね」

「とりあえず、食器は洗うわ」

「いいよ、ついでに洗っておくから。政はてつくんとアニメでも見てて」

「でも……」

 

 相田は時計を見る。時計の針は18時34分を示していた。

 そんな相田を見て、宇垣は少し焦ったようにイスから立ち上がる。

 

「えっ!? もしかして、早く帰らないといけない?」

「いや、そんなことない。親にも遅くなるって言ってあるし。9時までに帰れば」

 

 親には、宇垣の見舞いに行くついでにどこか夕食を食べていくと告げた。夜にしか、都合がつかないことを伝えると、相田の母親は納得したのか。家の人に迷惑をかけないようにだけ告げた。

 相田の言葉を聞いて、宇垣はほっとしたようにイスに座る。宇垣が何故そんなに慌ててるのか、相田には少し不思議に思えた。

 

「そうなんだ。よかった。なら、ゆっくりしていきなよ。まだ、時間はあるんだからさ。」

「そうか? なんかすまんな」

「いいんだ、その方が自分にとっては都合がいいから」

「え? どういう……」

 

 宇垣は食べ終えた皿を持っては、ぼそっとそう告げた。相田は宇垣の言う言葉の意味がいまいち分からないので、問いかけようとする。だが、宇垣はすぐに洗面台の方へと行ってしまったので、問いかけることを諦めた。

 

 相田はイスに座ったままグラスに入った水を飲みながら、倉田哲治の方へと視線を向ける。楽しそうにテレビに釘付けになっている哲治を見ながら、相田は右頬を上げていた。

 

「ほんと、子どもだな」

 

 夢中になっている哲治の姿を見て、相田は鼻で笑う。

 相田は水の入ったグラスを持ち、ソファーへと向かう。数時間前の学校の出来事を忘れながら、相田は宇垣の家で時間を過ごしていった。

 

 

 

 この後に、相田にとって人生を変えてしまう出来事が待ち受けているとも知らずに……



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6話 熱愛

 宇垣の家のリビング。テレビの前のソファーに相田と宇垣の親戚である倉田(くらた) 哲治(てつじ)は座っていた。

 2人は仲睦まじく、女の子向けのアニメを見ながら時間を潰していく。ただ、夢中になって見ている哲治とは裏腹に、相田は呆然とアニメを見ている。

 

「ねぇねぇ、ラブって何?」

「え? ラブ?」

 

 哲治はアニメに出てきた主人公の女の子の言葉を聞いて、隣にいる相田に問いかける。

 相田は急に話しかけられ、戸惑いながら考える。

 

「えーっと、牛乳のやつのことか?」

「え? ぎゅーにゅーなの?」

「……ごめん。ラブってのは、愛だよ」

 

 しかし、問いかけられた相田は適当に答える。答えたくないという気持ちも相まってか、真面目に答える気はない様子でいた。

 

「あい? 愛って何?」

「えっ、何って。えーと……」

「それって強いの?」

「いや、その……さ」

 

 哲治の無垢な瞳でまじまじと見つめられ、相田はどう答えればいいのか考え込む。

 愛とは何か。以前までの相田なら、適当に愛について答えていただろう。きっと、愛について見知った情報を基にすらすらと適当な言葉を言い並べていた。

 しかし、相田は数時間前に学校で告白をした。好きな椎名に対して愛の告白し、そして逃げられた。そのことで恋愛について不安と悩みを抱き始めている。恋愛に対して疑心暗鬼になっている。

 恋愛とは何か。自分の掲げてきた恋愛観は間違っていたのか。そんな葛藤を抱えている今の相田に、愛について語ることは難しい。それこそ、子どもに対して普通に答えてあげられないほど、相田の心情は複雑なものになっていた。

 

「ごめん。俺もよく分かんないんだ。でも、強いとは思う」

「強いの? じゃあ、僕も欲しい! 強くなりたい!」

「欲しい、か。なら、哲治くんは好きな子がいるのか?」

「うん、いるよ。僕ね、お姉ちゃんが大好き!」

「そうなんだ。じゃあ、お姉ちゃんのことをもっと大好きになれば、とっても強くなれるな」

「もっと大好きになれば? なんで?」

 

 またしても、哲治は相田に質問をする。このままではきりがないなと思いつつも、相田はどう答えてやるべきか考える。考えては、相田なりに言葉にしていく。

 

「愛ってのは、好きな人のためにいっぱい頑張ると、本気になって強くなったり、今までの自分と変われたりすることだから」

「でも、負けてるよ?」

「え?」

 

 相田は哲治が指を指しているテレビを見る。アニメの中に登場している派手な衣装の女の子が、ボロボロになって倒れていた。見る限りでは、好きな男の子を守るために戦っている女の子が、悪そうな敵にやられてしまっている。このままではもう勝てる見込みがないように思える状況であった。

 でも、相田は笑みを浮かべる。こういう子ども向けのアニメは、諦めなければ勝つというセオリーがあることを相田は知っている。負けないことを知っているから、相田はついアニメに対して笑ってしまっていた。

 

「大丈夫さ。負けないよ。負けたとしても、諦めなければ最後にはきっと勝つから。だって、愛っていうのは無限大だから」

「むげんだい?」

 

 哲治は初めて聞いた言葉を繰り返す。まるでキラキラとした目で見つめている哲治に、相田は少し調子づく。偉そうに、達観した表情で腕を組んだ。

 

「つまり、絶対に負けなくなるくらい強くなるってことさ」

「悪いヤツも、殺せる?」

「殺す? 殺せるっていうか、まぁ倒せるか。愛の力は本気になれば、なんだってできるからな」

 

 相田が自慢げにそう言うと、それを聞いた哲治はソファーの上に立ち上がった。すると口を開いては、喜んだように元気にソファーの上で何回も跳ねる。相田の言葉を信じ込んだのか、疑うことなく嬉しいという感情を体と動作で表現していた。

 

「じゃあ僕、お姉ちゃんのために頑張る!!」

「そ、そうか。きっとお姉ちゃんも喜ぶよ」

 

 隣で元気よく大声を出している哲治に、相田は苦笑いを浮かべて答える。現実はそう簡単にいかないことを、相田は数時間前に知っただけに、より笑みに苦みが増してしまう。

 本気であれば、本気で愛している想いを伝えれば、必ず想いは伝わると。恋も叶わないわけがないと。そう相田は思っていた。拒絶や失恋なんてものは考えず、自分の都合の良いことしか考えていなかった相田は、見えていなかった。むしろ、見ようとしないでいた。その結果、相田は後悔することになった。

 

 でも、哲治の喜んでいる様子が相田の心を和ませていく。まるで自分が大人になったような気分になり、相田は苦笑いから自然と笑みへと変わっていった。

 

「おまたせ、政。なんか楽しそうだね」

 

 夕食の片づけを終えた宇垣が、2人の座っているソファーのそばまで近づいていた。2人の会話を聞いていない宇垣は、その理由を問いかけるようにそう言った。

 

「いや、この子とアニメの話をしてただけさ」

「なるほどね。それで、てつくん跳ねてたのか」

 

 宇垣は納得したように腰に手を当てる。哲治はアニメのことやお姉さんのことになると熱くなりやすい。すぐ夢中になったり、口が止まらなくなることが多い。そのことを知っていた宇垣は、今もその状況に陥っていたのだなと理解していた。

 テレビから女の子の叫び声が聞こえると、哲治は硬直したようにテレビの方に視線を向ける。アニメが緊迫した場面なのもあって、目が離せないといった様子で見ている。そこで宇垣は、口を開いて提案を1つ告げる。

 

「とりあえず、自分の部屋に行く?」

「お、そうだな」

 

 待ってましたと言わんばかりに、相田は勢いよく立ち上がる。

 宇垣の部屋を見てみたいと思っていた相田は、宇垣がそう言ってくれることを待ち望んでいた。

 

「てつくんはどうする?」

「テレビ見てるー」

「なら、何かあったらお兄ちゃんの部屋に来てね」

 

 そう言って、宇垣は相田に視線を運ぶ。相田は頷くと、テーブルのイスの上に置いてあったカバンとお菓子の入ったビニール袋を持つ。宇垣も冷蔵庫の扉を開いて、相田が買ってきてくれた飲み物が入っているビニール袋を持ってくる。

 2人は用意ができると、リビングの扉を開いて宇垣の部屋へと向かった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

 階段を上がってすぐ、相田はいくつかある部屋の中で一番近くの扉に視線を向ける。

 その扉に、木彫りの木札が吊るしてあった。木札には“涼平”という名前が黒い墨で分かりやすく書かれてある。宇垣はその部屋の前までいくと、ドアノブに手をかけて相田に視線を向ける。

 

「ここが、自分の部屋だよ」

「初めてでも分かりやすいな」

「ふふっ、たしかにね」

「でも、涼平らしいな」

 

 宇垣が笑うと、相田もつられて笑った。兄弟がいるわけでもないのに、部屋の扉に宇垣の名前の札があること。特に名前を筆で書かれてあるあたりが宇垣らしいなと、相田は思ってしまう。

 

「さあ、入って」

「ああ。お邪魔します」

 

 宇垣が明かりの点いていない自分の部屋へ入っていくと、相田も宇垣について行くように部屋の中へと入ろうとする。相田が部屋の扉を過ぎた辺りで、部屋の天井にある電灯が部屋の中を照らした。

 

「……ぇっ」

 

 相田は止まった。足だけでなく、目も、顔も、体も、思考さえも。相田の体の全てが、固まった。

 宇垣の部屋の中央にある電灯。部屋の天井から電灯が照らしたものは、宇垣と相田と机とベッドとタンス。

 そして、それらを凌駕するほどの『()()()()()()()()()()』である。

 

 宇垣の部屋の壁と天井と床は、白色と黒色で占めている。それはモノクロな部屋とはかけ離れた印象。白と黒の色が存在感を露わにしているという部屋。相田にとっては、今まで見たこともない内観であった。

 部屋の中は、白いゴミ袋、墨のついた白い小型テーブル、紙が貼られた学習机、白と黒を基本とした色のベッド、白く光る電灯。そんな中身の部屋に、墨汁を染み込ませた筆で文字がびっしりと書かれたおびただしい数の紙。それが、宇垣 涼平という男の部屋であった。

 部屋の壁のほとんどが紙で占めていて、その白い紙に真っ黒な墨で様々な文字が書いてある。それはまるで模様のようで、異様に書かれた文字は、何とも言えない奇妙さを放っていた。

 

「うん? どうしたの?」

「え、いや……なんていうか、さ。すごいな……って」

 

 相田は必死に平静を取り保とうとする。なんとか頭から言葉を捻り出し、口から出していく。

 しかし、あまりの部屋の異様さに圧倒されてしまったせいか、相田の顔は引きつっている。誰が見ても、相田の頭の中が真っ白になっていることは明白であった。

 

「ああ、これね。政は、どう感じる?」

「どう感じるって……えっとその、そう言われても」

 

 宇垣の問いに相田は考えては、悩んで、言い淀んだ。それを口に出して言えるほど、相田はまだ異常な人間にはなっていない。

 相田の中に芽生えた感情。それは狂気の混じった恐怖。もし、相田が自分で感じたものを正直に答えていたら、きっと「恐怖」と答えていただろう。

 自分とはかけ離れたもの。異常を目にした相田にとって、気味の悪さや驚きによる感情よりも先に、人間としての恐怖を感じていた。

 

「なんていうか、普通じゃないような……ほんと、すごいとしか言えないだろこれ」

「まあ、そうだね。政がそう反応するのも普通と言えば普通だね」

 

 宇垣は笑みの混じった悲しげな表情でそう言った。その表情に、その言葉に、どういった意味が含まれているのか。相田は考えようにも、まだ理解することが出来ない。

 それでも、宇垣が相田を普通であると言ったことで、相田の思考と感情は普通になっていく。頭がおかしくなりそうになること。感情がおかしくなりそうになること。それは、普通なのだと。自分の反応は、普通のことなのだと。相田はそう思えただけで、相田自身の中の自分というものを見失わずに済んでいた。

 

 ただ、相田の動揺はまだ完全に治まったわけではない。頭の中で浮かんだ疑問をそのまま言葉に変えていくことしか、まだ出来ないでいる。

 

「なんで、こんなにも習字の紙があるんだ?」

「趣味だって言いたいところだけど、本当はじぶんが書きたいっていう衝動を抑え切れないからかな」

 

 相田はとりあえずベッドに腰をかけながら、宇垣にそう聞いた。手に持っていた荷物を床に下ろし、宇垣に疑問を問いかけることで、相田の中の動揺は少しずつ和らいでいく。

 宇垣は学習机のそばにあるイスに座り、壁に張り付いた紙を見つめながら、少し小さな声でそう答えた。見えない悲しみを帯びたような、そんな宇垣の声を聞きながら、相田は首を傾げる。

 

「ん? それは趣味じゃないのか」

「ううん、趣味じゃない。趣味は本気で熱くなるものだから。これは熱くなった心を冷ますものだからね」

「冷ます? つまり、あれか? 字を書くと集中したりして、気持ちが落ち着いたりするっていうやつ」

「たしかに。気持ちが落ち着くのはそうだね」

 

 宇垣は相田の顔を見ず、淡々と相田の言葉を返していく。墨で文字が書かれた紙を触りながら、視線はその紙から離そうとしない。そんな宇垣の様子がなんとなく元気がないような、弱々しい雰囲気を相田は感じていた。

 

「でも、やっぱり趣味になるんじゃないのか? 楽しいからこんなに書くんだろ?」

「……どうだろうね。楽しいと思ってしまうこともないわけじゃないけど」

 

 相田の問いかけを聞いて、宇垣は悩まし気な表情を浮かべる。そして、相田を見て答えては、思い悩むようにやや下にうつむく。

 

「でもこの……じぶんはね。書くことを趣味として認めたらいけない気がするんだ」

「なんでだよ」

「だって、“じぶん”は私を……いいや、自分を取り戻すことが出来るから。そう、本気で愛するしかないから」

「………え?」

 

 相田は、分からないと思った。どういうことなんだと言葉を続けようとした。続けようとしたが、続かなかった。続けることが出来なかった。

 相田は、目を逸らさない。目を逸らすことが出来ない。目の前にいて、目に見える宇垣を相田は見つめる。

 

 宇垣はうつむいていた顔を上げていた。まっすぐ、相田を見ていた。目を大きく開き、喜怒哀楽のどこにも属さないような表情。力強い視線、真剣そうな真顔、宇垣の本気の表情を相田は目の当たりにした。

 相田は初めて聞いた。宇垣の本心だけが込められた素の声。この数ヶ月を一緒に過ごしてきて、ここまで本気であり、ありのままの宇垣の声を聞いたのは、初めてであった。

 そして、相田が耳にした言葉はまるで愛の告白のようで、その言葉には様々な想いと意味が込められていた。

 

「政、これを見てよ」

 

 宇垣はイスから立ち上がる。さきほどまで見ていた紙。壁に貼り付けてあった、文字の書いてあるひとつの紙を手に取る。

 宇垣は立ったまま、その紙を宇垣は画びょうを取らずにそのまま紙を剥がして相田に見せた。

 

 “春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少”

 

 中国の詩人である孟浩然が書いたといわれる有名な詩のひとつ。ことわざにもなっている「春眠暁を覚えず」の起源だと言える詩である。

 その詩が書かれた紙を、宇垣は真剣な表情を変えないまま相田に見せつける。

 

「この、じぶんのやつ。綺麗だろ?」

「あ、ああ。キレイだな」

「そうなんだよ。このじぶん、綺麗なんだ。うん、綺麗なんだよ!」

 

 相田の反応を聞いて、宇垣の表情はすごく歓喜に満ちたものに変化していく。

 逆に相田は何が何だか分からぬまま、呆然とした表情を浮かべていた。

 

「本当はこのじぶんを愛したい。いいや、愛してるけど、本気じゃない。本気になってしまったじぶんは、破れてしまうから」

 

 宇垣は自分で書いた紙を見つめながら、相田を無視するように黙々と語り始める。表情を豊かに変化させながら、気持ちが昂った様子でいる。

 

「分かってくれ、政。誰かを好きになってしまえば、その人を愛したくなるから、じぶんは書くんだ。じぶんを書くことで、愛せる対象が出来る。じぶんを愛したくなるから、じぶんを本気で愛する。愛するしかないから、じぶんを書くしかない。だから、趣味なんかじゃなくて、これは愛情表現なんだ」

 

 また、紙を見せつけるように相田の目の前へ持っていきながら、宇垣は訴えかける。これだけは分かってほしいと言わんばかりの宇垣に対し、相田は全く何も理解出来ずにいる。

 何の話をしているのか、何を伝えたいのか。様々な言葉が飛び交ってはいるが、相田はそれが話として理解出来ない。話の意味がひとつに繋がらない。結局、何の話がしたいのかさっぱり分からないのだから、ただただ難しい表情を浮かべることしかできないでいる。

 

「あ、えっと、その……なんの、話をしてるのか。分からなくなってきた」

「何の話って……自分がなんでこれを書いているのかの話じゃないか。分からないの?」

「いや、分からない。結局、なんで書いているんだ?」

「だから、自分でじぶんを書いて愛するしかないからだよ」

「は、はあ?」

 

 相田は宇垣が何を言いたいのか、余計に分からなくなっていく。噛み合っていない会話に少しイラ立ちを覚えたのか、相田の表情がさらに険しくなっていく。

 そんな相田の様子を見たからか。宇垣は紙を持っていない方の手で学習机から下敷きのようなものをひとつ取り出す。その下敷きのようなものには、さきほどと同じ詩が書かれてあり、それを宇垣は相田に手渡した。

 

「え、これは?」

「政には、前に話をしたよね。中学校の時の部活にいた、豊条(ほうじょう) 月菜(つきな)っていう名前の先輩。その豊条先輩が書いてくれたじぶん。まぁ、分かりやすく言うと習字のお手本みたいなものさ」

「その先輩が書いてくれたじぶんって何?」

「ん? あ、そっか。政は分からないでいたのか。だからさっきからおかしかったんだね」

 

 宇垣は何かに気付いたような表情を浮かべ、指をこすらせて音を鳴らす。何故、相田がさっきから難しい顔を浮かべていたのか。今になってやっと理解する。

 学習机の上に置かれたペン立てから鉛筆を手に取った宇垣は、ノートを取り出して何かを書き始める。

 

「てっきり、じぶんのことを分かってるつもりで話をしていたよ」

「いや、涼平のことは分かるよ? けど意味が分からないんだ。とりあえず、どういうことなのか一から全部説明してくれ」

「ごめんね。じぶんっていうのは、まず文字の字に文字の文って書いて読むやつなんだけどね」

 

 宇垣はノートに何かを書き終え、それを相田に見せる。

 開かれたノートのページには、やや大きな字で「字文」と書かれてある。分かりやすく隣に平仮名で「じぶん」とまで書いてあったが、相田は気にも止めずにそれを読み上げる。

 

「字文?」

「これは書道でいう、昔の偉人や書道家が書いた字の文のことなんだ」

「ああ、なるほど!」

 

 そこで、相田は目を細めて何回か頭を頷きながら両手を叩く。

 相田は宇垣とのさっきまでの会話で、何のことを話していたのかやっと理解する。どうしても分からないでいたものがやっと分かって、晴れやかな気分になっていく。

 

「つまり、ここにある紙に書かれたやつは全部が字文ってわけで、その先輩のお手本を見て書いたってことか!」

「うん。それでほぼ、合ってるかな」

 

 分かったように意気揚々と語る相田に、宇垣は苦笑いを浮かべて返答する。

 だが、相田は手に持った字文を見て、ふと疑問に思う。宇垣からもらった字文のお手本。下敷きのようにラミネートされたこれは、何故こんなにもボロボロで汚いのかと。

 お手本の字は確かにキレイではある。しかし、それ以外は使い古された以上に汚い。ラミネートで加工されたことによって墨汁を弾くであろうお手本が、様々な箇所から何回も折ったり曲げたりしたかのような傷がある。手か指を切ったかのような、何かを擦ったような、赤黒い何かが付着している。明らかに普通に使っていたら残らない汚れと傷。普通ではない汚れと傷が、相田の手元にある字文にはしっかり残っていた。

 

「でも、なんでこれ。こんなにグシャグシャで汚れてるんだ?」

「当たり前だろ? だって、本気で愛したくなるからじゃないか」

「え? もう一回言ってくれ?」

「まったく、仕方ないなぁ。ちょっとそれちょうだい」

 

 思ってもいなかった宇垣の答えに、相田はもう一度尋ねた。

 ところが宇垣は答えずに、相田の持っていた字文のお手本を手に取る。やれやれと言いたげな顔をしながら、さきほど見せてくれた字文の紙と字文のお手本を重ねる。重ねたことによって、宇垣の書いた字文とお手本の字文との違いがほぼ無いことに気づく。

 まるで、本人が同じように書いてみせたかのように、その字文は似ていた。

 

「いつもね、これを下に引いて書いてるんだ。綺麗で素晴らしい豊条先輩の字文の上に、同じ字文を書く。真っ白な紙をひいて、真っ黒な墨で書く。これをすることで、愛することの出来る字文になれるんだ」

「愛することの出来る字文?」

「さっきも言ったじゃないか。自分は字文を愛するしかないって。誰かを愛したいっていう欲求や感情が湧き立つと、それを抑えるのに字文を書くしかないんだ。そのためには、豊条先輩の綺麗な字をたくさん書くのが一番良いんだよ」

 

 相田は宇垣の持っている下敷きが宇垣にとってはとても必要なものであることを理解する。

 だが、肝心の下敷きが何故そこまで汚れてしまっているのか。宇垣の言っている言葉は、下敷きが汚れている理由の説明になっていない。どうして汚れてしまうのか、何をしての汚れなのかが、理由が不明瞭のままである。

 

「つまり、たくさん使い古しているから、こんなにも汚れているわけか?」

「それもあるけど、つい感情が抑え切れず、愛の力が入っちゃうからだね」

「愛? 愛の力?」

「誰かを愛したいという衝動が強くなっている時は、書けばすぐに収まるわけじゃないからね。本気で愛したくなるわけだから、字文も本気で書かないといけない。たくさん書いて、本気で字文を愛するように書くわけさ」

 

 自分が書いた字文を見つめながら、過去を振り返るように語る宇垣。相田はそんな宇垣を見て、何も言わずにいた。ただ、黙って聞いていた。

 それは、相田が理解できないからか。それとも、分かりたくないという気持ちからか。相田自身、分からないでいる。分からないまま、言葉に出来ないまま、宇垣の言葉を聞いて宇垣の悲しみのような何かを心に感じていた。

 

「でもね、これだと自分の熱は消えない。愛したいという欲求も、殺したいという欲求も消えない。本気で愛して、本気で殺したい衝動は止まらない。先輩が書いた字文も、自分が書いた字文も、すごく愛したくて殺したくなるんだ!」

 

 宇垣は自分自身が書いた字文と豊条先輩が書いたお手本の字文をイスに座って見る。とても苦しそうな顔で見つめたまま、紙とお手本を持っている手に力が入っていく。

 

「だから自分は……字文を……」

 

 宇垣は息を荒くしながら、湧き上がる衝動に堪えながら、紙とお手本を握る。握ったことによってお手本と紙は折れ曲がってしまっていた。

 それを見た相田は、そこで下敷きがボロボロに汚れている理由に気付いてしまう。今まで宇垣が言っていたことの言葉の意味を、ようやく理解した。

 

「こうやって、殺すしかないんだよっ!!」

 

 宇垣は握り潰すように両手で紙と下敷きを掴んでは、左右に引きちぎろうとする。指先にも力を込めながら、握るように、破るように、潰していく。

 だが、紙は破れても、ラミネートされた下敷きは破れない。グシャグシャに潰すように丸めては、床に落とす。

 

 そして、今度は紙をバラバラにしていく。紙をちぎっていく行為を、全力を出してはひたすら真剣に行っている。紙の全てが細々になるまで、宇垣は力を込めることを止めはしなかった。途中で力を緩めることは絶対にしないでいた。

 

 その一部始終を、相田は目を離さず、ただ見つめていた。まるで夢でも見ているかのように。目を離してはいけないと心で感じているかのように。何もせず、集中して見ていた。

 宇垣が紙を粉々にする行為。それは全力で、真剣で、本能的なものであったと相田は感じていた。全く曇りのない、まっすぐな感情。打算や理屈の混じっていない、純粋な愛情表現。考えているわけではなく、本能的にしたいという行動を思う存分しているような感じである。

 

 ただ、その行為は決して、楽しいとか喜びとかそんな幸せを感じているものではないと、相田は宇垣の表情を見て思っていた。

 手元に何もなくなった宇垣は、荒かった呼吸を段々と落ち着かせていく。地面に落ちた紙の残骸を見つめながら、宇垣は熱くなっていた感情を冷ましていた。

 

「ごめん、取り乱しちゃったね。ほんと……酷いだろ」

「いや、その……えっと」

「いいんだよ政。自分はおかしいって、普通じゃないって。そんなの、分かってるんだ」

「…………」

 

 宇垣はずっと下を向いたまま、弱々しい声を出して話している。

 相田はそんな宇垣に、何かを言ってあげるべきだと思った。しかし、結局は何も言えなかった。言えるわけがなかった。

 

 涼平はおかしい。涼平は普通じゃない。人として異常だ。相田はそう思った。

 だけど、それ以上に真剣であったこと。嘘でも偽りでもない、真実に満ちたものであったこと。涼平の気持ちは理解出来ないけれど、涼平が本気で苦しんでいるということ。それだけは、相田は心から理解出来た。

 

「本当は、何も愛したくないよ。本当は、何も殺したくない。字文を愛するなんて、しないで済むならどれだけ良いか」

 

 辛そうに、泣きそうに、葛藤を抱えた表情で、宇垣は自分自身に抱えていたものを吐き出す。声は震え、悲観的な話し方に、宇垣の苦しみの感情がにじみ出ている。

 

「でもね、どうしようもないんだ。これしか、字文を殺し愛さなきゃ、自分が自分のままでいる方法はないんだ」

 

 ずっと下を向いたまま、頭を抱え、絶望する宇垣を見て、相田は心臓を掴まれるように胸を締め付けられていた。

 なぜなら、相田は知ったからだ。宇垣の行動も言動も愛情も殺意も、何もかも全てが本気によるものなんだと。

 

 相田は理解してしまった。宇垣が人を愛さない理由を。

 相田は分かってしまった。宇垣が過去に恋愛に対して後悔しているのは何故なのかを。

 相田は気付いてしまった。宇垣が抱えてきた「恋愛」というものの正体が、相田の感じた恐怖そのものであったことを。

 

 宇垣の知られざる真実を知った瞬間、相田に残ったものは決してさきほどまで感じていた恐怖ではない。

 宇垣のことを理解してあげようという、大事な友人のことを理解してあげたいという、そんな気持ちであった。

 

「とりあえず、飲み物もらってもいいかな?」

「……ぇ?」

「喉渇いたから、何か飲めるものが欲しいなって」

「あ、ああ。そうだな」

 

 呆然としていた相田は慌てて、床に置いたビニール袋を取り出し、中のペットボトルを探る。

 

「そうそう、涼平が好きなウーロン茶を買っておいたんだ」

「お、ありがとう。政にしては気が利くね」

 

 ビニール袋から大きいペットボトルのウーロン茶を取り出し、宇垣に手渡す。すると、宇垣の表情は明るくなる。さっきのことなんて、何も無かったように表情が緩んでいる。

 

「しかも、2リットルのやつを買うなんて分かってるじゃないか」

「涼平ならいっぱい飲むかなと思ったからな」

「そうだね。ありがたく全部もらっておくよ」

 

 宇垣は立ち上がり、大きいペットボトルを持ったまま相田の目の前を横切る。

 

「全部飲む気かよ! てか、どこに行くんだよ」

「どこに、ってそりゃあ冷蔵庫にこれ入れておかないと。だって明日から100ミリリットルずつ飲むんだからね。部屋に置いといたら、ぬるくなっちゃうじゃないか」

「どんだけちまちま飲むつもりなんだ。せっかくなんだから、俺にもくれよ!」

 

 相田が手の平を見せるように宇垣に突き出すと、宇垣は呆れた表情になって鼻から息を出す。

 

「まったく、政は仕方無いやつだなぁ……特別だよ?」

「それを買ってきた俺に対して、その言い草はおかしいだろ」

「まぁ冗談だよ。あ、そうそう、ケータイっと」

 

 ベッドのそばにある棚に携帯電話が置かれてある。宇垣は充電中の携帯電話を充電器から取り出して、ズボンのポケットに入れる。

 

「とりあえずコップに氷多めに入れて、少し水で割ってきてあげるから。ちょっと待っててね」

「ありがとう……ん? って、それ薄いウーロン茶じゃねぇか!!」

 

 相田のツッコミを無視して、宇垣は部屋から出て行ってしまう。

 しかし、扉の向こうから少しだけ笑い声が聞こえたので、相田も笑みを浮かべた。

 

 宇垣が部屋から立ち去った後、相田はベッドに腰をかけたまま、宇垣の部屋の中をもう一度じっくりと見回していく。

 そんな中、さきほど宇垣が散らかした紙が気になってきたのか、相田は紙を拾うことにした。

 

「ったく。涼平も仕方ないやつだな」

 

 相田は宇垣に対してぼやきながらも、細々になった紙をいくつか拾い集め、学習机のそばにあるゴミ箱に入れようとする。すると、ゴミ箱の近くにやや丸めてある紙が落ちてあった。

 相田は手に持っていた紙をゴミ箱に捨て、一緒に捨てようと落ちていた紙を拾う。しかし、そこに墨で何かが書いてあることに気付き、相田は興味本位で丸まった紙を開いていく。

 

「え? これは……」

 

 そこに書いてあったのは“絶対阻止”という文字。水性のりのようなものが付着し、所々に小さな穴が空いている紙に、相田が見た覚えのある文字が書かれてあった。

 それは明らかに、霞ヶ丘高校の玄関の掲示板に貼られてあったポスターの文字である。相田の好きな女優の宮越菜月が写っているポスターだけに、相田が忘れるわけがなかった。

 

 相田は少し考えるが、しばらくして考えるのをやめ、手に持っている紙を丸める。

 考えても意味なんて分からないし、今更どうだっていい。偶然かもしれないし、涼平は字が綺麗だと言っていた。単に字が綺麗だから、書いただけだろう。相田はそう思って、紙をゴミ箱に捨てた。

 

 宇垣がポスターの文字を書いた意味を分からぬまま。書いた理由を知らぬまま。相田は宇垣が落とした紙をまた拾い始めたのだった。

 



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7話 心拍

 太陽は沈み、夕焼け色であった空は夜の暗い色の空へと変わっていた。月の光は空を少し照らし、電柱の外灯の光は、道路や電柱の周りの物を照らしている。完全に外は夜の景色となり、霞ヶ丘町の外を歩く人もあまり見えなくなっていた。

 

 宇垣の部屋の中も、1つしかない電灯の光が明るく照らしていた。そんな宇垣の部屋の中で、相田はヒマそうにベッドに腰をかけて携帯電話の画面を見つめている。

 

 相田は携帯電話で、自身が大好きな女優の宮越 菜月の画像を探していた。関係ありそうなワードを入力して、色々な画像を検索したり、モバイルサイトに掲載されている画像を次々と見たりしながら、気に入った画像を携帯電話の中に保存していく。

 その途中で、部屋の扉の方から誰かが近づいている足音が聞こえ、その音は段々と大きくなっていく。

 

「政、ごめん。扉をあけてくれない?」

「お、わかった」

 

 宇垣の声を聞いて相田はベッドから立ち上がり、扉のドアノブを回してはゆっくり押していく。両手に飲み物の入ったグラスを持ちながら、宇垣は扉にぶつからない位置で待っていた。

 

「ありがとう」

「おう、こちらこそ」

 

 宇垣は相田にお礼を言って、グラスを目の前にいる相田に手渡す。

 グラスをもらった相田は、首を傾げながら不思議そうにグラスを見つめる。手渡されたグラスと宇垣の持っているグラスとを見比べ、疑問を抱き始めていた。

 宇垣のグラスには小さい氷が2つ入っているのに対し、相田のグラスにはどう見ても3倍の量の氷が入っていた。そのせいか、グラスの中の飲み物の色合いも違っているように見える。

 

「ん? なんか、氷の数が多くね?」

「さっき言ったでしょ。冷たい方が好きだろうから、たくさん氷入れるって。喜ぶかなと思ってちゃんとたくさん入れておいたよ」

「いや、冷たいのが好きなのは違いないけどさ。多すぎるだろ、これ。明らかに氷がグラスからはみ出てるんだけど」

「飲み物が長く冷える。氷を当てた唇も冷える。氷を口に含めば、口の中も冷やせる。そして、一気飲み過ぎない。なんて素晴らしい配慮じゃないか。一石四鳥だろ?」

「ほとんどが嫌がらせの配慮になってんじゃねーか! 単に中身が冷たいだけで、飲み物の量が少しか入ってないうえに時間が経てば味が薄くなるし、そのうえ普通に飲み辛いっていう三石一鳥になってるだろ!」

 

 相田は宇垣の言葉に対してツッコミを入れながら、氷を落とさないように慎重にグラスを持ってベッドに腰かける。

 しかし、宇垣がそうなるようにしたからか。氷は上手い具合に氷同士でくっついていて、グラスの中はびっしりと氷で占領している。積み立てられた氷はグラスからはみ出ても、決して床に落ちることはないようにくっついていた。

 

 そんなグラスを持っている相田を見ながら、宇垣はイスに座って笑みを浮かべている。明らかに、イタズラをして笑っている少年のような表情であった。

 

「まぁ、とりあえず飲みなよ。味は保証するからさ。なにせ、特別にブレンドしておいたからね」

「ブレンド?」

 

 宇垣の言葉を聞いて、相田は顔を近づけてはグラスの中をより注視する。すると、グラスから空気の音が聞こえ、グラスの中は小さい空気の泡が発生していた。

 

「え、めっちゃシュワシュワしてるんだが」

「だって、サイダー割りしたからね」

「え、マジかよ!?」

「政、好きでしょ? 炭酸ジュースとかよく飲むからさ。喜ぶと思ってウーロン茶にサイダー入れといたんだ」

「喜ぶどころか、悲しくなってくるよ。どんだけ嫌がらせしたいんだよおまえ」

 

 色々と宇垣に言いたげな表情を浮かべる相田ではあったが、キリがないと思ったのか、ため息をついていた。

 そんな相田の様子を見て満足した宇垣は、自身が持っているウーロン茶を飲んで、口を開いた。

 

「まぁ、本音はウーロン茶をあげたくなかったってだけなんだけどね」

「……だろうと思ったよ。完全にウーロン茶の量が少しだもんな」

 

 それでも、喉が渇いていた相田は仕方無くグラスに入った飲み物を口に入れる。氷が多いせいで唇どころか鼻まで冷やされるのを我慢しながら、頑張って口の中に飲み物を入れていく。そして、苦しそうに顔を歪めながら、なんとか口に入った飲み物を飲み込むと、ゲップを吐きながらグラスを床に置いた。

 

「うぷっ……これは、すごいな。うっ……」

「うまい?」

「いや、すごく不味い。吐きそうになった」

「え、嘘でしょ? 炭酸入れても美味しいはずなんだけど」

「サイダー入れたのがダメなんじゃね? 甘いのが余計にダメだわ」

「そっか。じゃあ次の機会には、もっと良いブレンド考えておくよ」

「もうブレンドはいいから。普通にウーロン茶を出してくれ……ううっ」

 

 気持ち悪そうにそう言った相田は、口を手で抑えて下を向く。しばらく堪えると、立ち上がり扉の方へと向かう。

 立ち上がって歩いて行こうとする相田を見て、宇垣は相田に尋ねる。

 

「どこ行くの?」

「……決まってんだろ」

 

 相田は決心する。気持ち悪そうな顔で、ジュースの不味さを心に刻みこもうとする。

 これからウーロン茶とサイダーは絶対に混ぜないこと。そして絶対に宇垣にウーロン茶はやらないこと。この2つを心に決めよう。そう頭の中で決心した相田は、気持ち悪さを感じつつ部屋のドアノブに手をかけた。

 

「トイレだよ!」

 

 相田はそれだけを告げて、2階にあるトイレに急いで直行していった。

 

 その後、トイレの中で相田の気持ち悪そうなうめき声を上げていたことは、言うまでもなかった。

 

 

 

    ×     ×     ×     ×

 

 

 

「……っくぅ~。うめぇ!!」

 

 数分ほどトイレにこもってから部屋に戻った相田は今、別のジュースをグラスに入れて飲んでいた。

 相田は至福の表情を浮かべ、さっきあったことを忘れようとしている。そんな彼を、宇垣はつまらなさそうに見つめる。

 

「気分はどう?」

「最高かな。やっぱり、レモンソーダは格別だよ。メロンじゃなくて、レモンを入れるというセンスがすごいわ」

「……美味しかったと思うんだけどなぁ」

 

 不満そうに、ぼそぼそと小さい声で宇垣は呟く。

 相田のグラスに残っていた飲み物を、さきほど宇垣は洗面台に捨てに行った。その際に宇垣は、別のグラスに相田が飲んだ飲み物を入れ、少し飲んでみていた。その味が、相田が言うほど不味くないと宇垣は思ってしまう。そう思ってしまっただけに、納得いかない気持ちが顔に出ていた。

 

「まぁ、そんなことはどうでもいいや。それよりも政、今日は何か用があるんじゃないの?」

「え? な、なんでだ?」

 

 宇垣はベッドの上に置いてある置き時計を見て、相田にそう言った。時刻は19時40分。外は真っ暗になり、完全に夜の風景へと変わっている。今日という1日はもう4分の1の時間も残されていない。

 

 そろそろ、相田がここにきた理由を聞かなくては。そう思った宇垣は、今までの話題を変えて単刀直入に相田に問いかける。

 その問いかけを聞いて、相田の表情は少し緊張したものに変わっていく。焦りを感じた声で、宇垣が問いかけてきた理由を尋ねる。

 

「だって今日、政から自分に電話があったでしょ? きっと何かあったんじゃないのかなって。そう思ったから」

「それは……」

 

 相田は元々、椎名に告白したことを宇垣に話そうとして会いに来ていた。しかし、宇垣にその話題について急に振られ、少し動揺してしまう。

 相田自身、本当はきっかけを見て話そうと思っていた。だが、宇垣に聞かれたことで、相田は本題であった告白のことを話す心づもりが出来ていなかった。それだけにしばらく言い淀んでしまう。

 そんな相田を宇垣は見つめながら、相田が落ち着いて話をしてくれるまで待ち続ける。

 

「……実は今日、椎名さんに告白してしまったんだ」

「……そっか。それで彼女は何て答えたんだい?」

「それがさ。何も言わず、逃げてしまったんだ」

「何も、言わずに……か」

 

 宇垣は何かを察したように、腕を組んでうつむく。何故そうしたのか、分からなくもないといった表情を浮かべ、すぐに相田に視線を戻すと、相田はそのまま話を続けた。

 

「俺、どうしたらいいのか……まさか、逃げられるなんて思ってなくて」

「でも、何も言わなかったのなら、まだ希望はあるじゃないか」

「いいや、俺には希望があるように思えない。明らかに、困った顔してたから」

 

 悲観染みた表情を浮かべ、相田は学校での出来事を思いだしながら語っていく。

 椎名の表情、声や言葉、逃げていく姿。相田は思い出せば思い出すほど、希望が持てなくなっていった。

 

「やっぱり、驚いたんだと思うよ。それに、椎名さんは何も言わずに逃げたんじゃなくて、きっと何も言えなくなったから逃げたんじゃないかな」

「それは……いや、そうかもしれないか」

「でも、結局は椎名さんが決めることだから。彼女からの答えが来るのを待つしかないね」

「答えを待つ? 待つって、そんなの涼平を選ぶに決まってんだろ!?」

 

 相田は声を荒げて、宇垣に自分の本音を言った。

 そう、きっと椎名さんが選ぶのは涼平だ。相田はそう思っていた。心の中で椎名が自分の告白を断り、涼平を選ぶに違いないと感じていた。

 それだけに、相田は宇垣に対してつい本音を漏らしてしまう。

 

「そんなの分からないじゃないか。自分は告白を断ったんだ。もしかしたら、彼女が心変わりするかもしれない」

「そうかもしれない。けど、やっぱり無理だ。きっと、涼平を選ぶ……絶対、そうだ。なんで俺、あんなこと言っちゃったんだろ」

 

 相田は、学校で椎名が言った言葉を直に聞いた。告白を断られた今でも、宇垣のことを想っている椎名の姿を見た。だからこそ、そんな椎名に対して相田は希望が持つことができない。

 宇垣の言うような、椎名が相田に心変わりをしてくれるようなことはないと。椎名が相田を選ぶことは絶対に無理なことであると。相田はそう諦め始めていた。

 

 宇垣は、相田が椎名のことを想っていたのは知っていた。むしろ、相田が椎名に告白することを望んでいたと言っても過言ではない。そんな心境で宇垣は今まで過ごしていた。

 だからこそ、宇垣は告白したことを悪く言うつもりもなかった。相田が告白をしたことで、宇垣に対して何かしらの感情を抱いてしまうのも仕方ないと。宇垣は心の中で思っていた。

 

 だが、宇垣は相田の言葉に眉を寄せて険しい表情を露わにする。

 

「え、なに? じゃあ、政は諦めるの? 椎名さんのことは、諦められるの?」

「それは……」

 

 相田は告白したことを後悔していた。告白をしなければよかったと、そういう意味で取れる言葉を宇垣の前で口にした。

 だからこそ、宇垣は苛立ちを抱いてしまう。宇垣自身にとっては、相田が告白したことを後悔して欲しくはなかった。それも、宇垣のせいで告白が上手くいかなかったような。そんな相田の物言いに、宇垣が静かに我慢して黙っていられるわけがなかった。

 

 宇垣は悲観的になっている相田に対して、返答を待たずに目の前の相田に怒るように言葉を続けていく。

 

「さっきから政は告白しなければ良かったみたいに言ってるけど、何? 何なの?」

「……ごめん」

「待って。自分はべつに謝ってほしいわけじゃなくてさ。何で椎名さんに告白したのかを知りたいんだよ」

「何で告白したのかは、特に理由はない。その場の勢いで……つい熱くなってしまって」

 

 相田の返答を聞いて、宇垣は少し考え込む。

 感情にまかせて怒っているだけでは、政の本心が見えない。それに、政自身の本当の気持ちをここで答えてくれないと困る。宇垣はそう考え、真剣な面向きで相田に問いかけていく。

 

「じゃあ政は椎名さんに告白したことで、彼女に対する想いは薄っぺらなものだったって。本当は好きじゃなかったんだって。そのことに気づいたってこと? 好きだって想いは、一時の感情だったってことなの?」

 

 宇垣の問いかけを聞いて、相田は我に返る。真剣な目で見つめている宇垣の視線から目を逸らし、目を閉じて考える。自分自身の本当の気持ちはどうなのか。自分はどうしたいと思っていたのか。真面目に、自分の本心に向き合おうとする。

 相田が椎名に対して感じて抱いてきたもの。それは決して偽物でないこと。好きな人がいても、揺らいで消えるようなものではないこと。それ以上に、椎名のことを想えば想うほど強くなること。

 

 笑ってほしい。一緒にいたい。楽しいことをしたい。力になりたい。守りたい。愛したい。

 偽物でも、薄っぺらなものでも、一時のものでもない。決して、中途半端な気持ちで好きでいたわけじゃない。

 好きだから告白した。本当に好きだったから、告白してしまったんだ。本気で好きでいたから、告白することを止められなかったんだ。

 相田は自分の中の本心と向き合ったことで考えがまとまり、椎名に対する想いが固まっていく。目を開き、強い眼差しで宇垣に視線を向ける。

 

「……いいや、一時の感情なんかじゃない。椎名さんのことは、ずっと見てきた。今でもずっと好きだ。今日だって、もっと好きになりたいと思った。これからもずっと一緒にいたいと思ったさ」

「なら、答えは出てるじゃないか。悩む必要はないだろ? 椎名さんだって、政の想いに気付いているはずだよ。きっと、応えてくれるはずさ」

「そんなの……そんな都合のいいことが、あるわけないだろ! だって椎名さんは、今でも涼平のことが好きなんだ。フラレても、きっとまだ諦めていないんだ。だから、涼平が…………っ!」

 

 そこで相田は言い淀んでしまう。その先を言うことを、相田は止めてしまう。

 相田の中で、それを言ってはいけないという言葉が脳裏によぎる。自分が宇垣に言おうとしている言葉は、自分の気持ちを裏切ることになると。自分のことだけを想えば、それは言うべき言葉ではないと。そう感じれば感じるほど、先ほど固まった本心と決意が相田自身を邪魔していく。

 

「だから、何? 政は自分にどうしろっていうの?」

「そんなの……分かってるだろ!」

 

 相田の中の本心が揺らぐ。その揺らいだ本心を断ち切って、心の迷いを無くして、相田は決断した。

 相田が宇垣に会いにきた理由。相田が宇垣に対して抱いていた心残り。椎名に告白して、宇垣と会って、相田が宇垣に言うべきか。心の奥底で悩んで、迷っていたこと。

 

「涼平が、椎名さんの気持ちに応えてあげればいい」

 

 それは、椎名を想っての言葉。椎名を想っているからこその言葉で、相田にとってとても辛い言葉であった。相田は苦しそうに、辛そうに、その言葉を口にして宇垣に伝えた。

 でも、相田は後悔していない。椎名と話して、宇垣に対する強い想いを知った。宇垣に会って、数少ない友人であることを再認識した。そして、宇垣が人を愛せない理由も知った。だからこそ、宇垣に言うべきであると。相田は心に決めて言った。

 

「……無理だ。それは、絶対にしない」

「無理じゃない。いや、涼平は無理だって決めつけてるだけだ!」

「そうじゃない、本当にダメなんだ。さっきも言っただろ。誰かを愛することは自分には出来ないんだ」

「なんでだよ? 殺してしまうからか? そんな理由、やっぱりおかしい。本気なら、本気で頑張れば大丈夫なはずだろ!?」

 

 相田が今まで信じてきたもの。それは、本気で頑張れば、何だってできること。

 本気になれば、諦めなければ、いつか願いは叶う。本気に誰かを想って頑張れば、いつか奇跡が起こる。諦めない限り、絶対に無理ということにはならない。相田はそう信じてきた。そうあるべきだと、そうあってほしいと相田は強く感じている。それだけに、本気になって自分の想いを宇垣に訴えかけていく。

 

「本気さ。本気だからこそ、自分には出来ないんだ」

「なら、本気で他の方法を探せばいい。さっきだって殺さないための方法をやっていたじゃないか。本気であれば、何だってできるんだから。きっと、椎名さんを殺さずに愛する方法だってあるはずなんだ!」

「……っ! 簡単に、言うなよ」

 

 宇垣は小さな声でボソッと呟く。怪訝そうな顔で、綺麗事を並べ立てる相田を睨み、怒りを露わにしていく。

 本気になったり、諦めなかったり、頑張り続けること。相田の言うことが間違いではないことは宇垣も知っている。

 しかし、それを実行することが容易ではないこと。本気で、諦めず、ずっと頑張っていくことの困難さを、宇垣は過去に痛感してきている。

 

「本気になれば……それが出来るなら……こんなに我慢しなくて済むんだ! 本当は諦めたくないし、こんなに辛い想いをしなくてすむんだよ!!」

「涼平……もしかして」

「ああ。君が彼女を好きになる前から、好きだった。本当は好きで、愛おしくて愛したいと私は思ってる。彼女に対する想いをぶつけたいよ!」

 

 学習机のそばでイスに座りながら、宇垣はまっすぐに相田を見つめ、真剣そうな雰囲気で言った。

 そんな宇垣を見て、相田はベッドに腰かけたまま驚きの表情を隠せないでいる。今までの宇垣の行動や言動を考慮すれば、そこまで明確な好意を椎名に対して持っているとは思えなかったからだ。

 しかし、相田が宇垣の本心に気付かないのも仕方がない。宇垣はそれだけはバレないようにと、今まで隠してきた。相田にだけは自分の本当の気持ちや願いを気付かれてはいけないと思っていた。

 

 人間という生き物は言葉にして言うことは簡単でも、それを実行することが困難だったり、不可能だったりすることはたくさんある。いくら頑張ったところで、諦めなければならない状況にまで到達した人間はたくさんいる。

 宇垣も、葛藤し、苦悩し、色々なものに抗ってきて、諦めてきた人間の一人であった。だからこそ、自分とは違い、何も知らない相田に対して、我慢出来なかった。相田に自分のことを言うんだと思ったからこそ、宇垣が自分の中で抱えていたものを、あえて相田に強く吐露していた。

 

「それなら、なんでだよっ! なんで椎名さんの気持ちに応えなかったんだ!!」

「出来るわけないだろ! 昔、自分は愛したかった豊条先輩を傷つけた! どれだけ本気で耐えようとも、どれだけ殺したいっていう欲求を抑えても、傷をつけてしまった。彼女を愛したことで、取り返しのつかないことになってしまったんだよ!!」

「そんな……昔、いったい何があったんだ」

 

 相田は知らなかった。宇垣が過去に何があったのかを。宇垣がどういった経緯で今まで過ごして来たのかを。宇垣が恋愛という病に伝染し、殺意と向き合ってきたのかを。詳しいことは、何も知らないでいた。

 だから、相田は何があったのかを聞いた。宇垣の言う取り返しのつかないこととは何なのかを。宇垣が何故、本気で頑張ることを諦めてしまったのかを。相田は今、それを知りたいと思って尋ねていた。

 

「……中学の頃だよ。1年生だった自分は部活の先輩である豊条月菜先輩と海に行った。その時に、豊条先輩に対して恋に焦がれた。先輩と過ごして、自分は焦がされてしまったんだ。それで、いつの間にか先輩に夢中になっていた。先輩を愛したいって、そう思ったんだよ」

 

 宇垣が過去に海に行ったのは、豊条という同じ部活の女性の先輩に誘われていったその時が最後。それ以来、宇垣は海に行っていない。

 その時に宇垣は、豊条先輩の水着姿を見ていて一目惚れした。豊条先輩と一緒に過ごし、豊条先輩の姿を見つめれば見つめるほど、恋焦がれてしまっていた。豊条先輩に夢中になったから、日焼け対策を忘れ、宇垣はひどく日焼けしてしまっていた。

 皮膚は太陽の日差しに、心は豊条先輩に対しての恋の病に、宇垣は焦がされた。それが、宇垣の抱えている恋愛感情の起源であり、トラウマのきっかけであった。

 

「でも、その頃からだった。先輩を愛したいって感じるのと同時に、先輩を殺したいって欲求が出てきたのは。好きになればなるほど、愛したくなればなるほど、傷つけたくなった。殺したくなったんだ」

「なんで、そんな急に」

「そんなの、先輩に恋したからとしか言えないよ」

 

 宇垣は熱くなっていた感情を冷まし、少し落ち着きを払った声で話していく。

 海に行って、宇垣は恋を知った。恋というものが何なのか。どういったもので、どのように心を苦しめるのか。宇垣は、思い知らされた。

 しかし、宇垣は今までに恋愛をしたことがなかった。自分の中に抱えたものが恋愛であると気付いた時、世間で見知った恋愛は偽物で、偶像の産物であると知った。自分自身が抱いている恋愛こそが本物であると思い込んでしまっただけに、恋愛というものがどれほど辛く、恐ろしいものであったかを身に染みて覚えてしまう。

 

 宇垣はマンガやドラマに出てくる恋愛はフィクションであり、自分の抱えた恋愛はノンフィクションであることを持論に生きてきた。だからこそ、相田のように恋愛もののドラマや作品は見なくなり、恋愛というものを詳しく知ろうとはしなくなっていった。

 

「それで、ある日。自分は放課後の学校で、豊条先輩を傷つけてしまった。血を流して、自分がつけてしまった傷の痛みを堪える先輩を見て、思い知らされたんだ。愛する人を絶対に傷つけまいとどれだけ本気で思っていても、愛してしまえば傷つけるって。愛さない以外に、愛したい人を殺さない方法はないんだって。そう、理解してしまったんだよ」

「そんな……そんなのって……」

 

 悟ったように語る宇垣を見て、相田は胸が苦しくなっていく。

 なぜなら相田は、愛したい人を愛せないという、そんな理不尽なことは現実にあってほしくないと感じていた。さらに、苦しんできたであろう宇垣に、自分自身がどうもしてやれないことに、相田は悔しくもあり、悲しさを抱いてしまっていた。

 

「その後、豊条先輩は引っ越してしまったんだ。自分が原因で、目の前からいなくなった。だから、自分はみんなの言う“恋愛”が理解できない。理解したいと思わないし、理解出来たとしても、違和感があって信じられない。それに、恋愛をしたいと思うことさえ、自分はできないんだ」

「…………じゃあ」

 

 相田は、思い詰めたように項を垂れたまま、重たそうに口を開いた。

 本気になれば。諦めなければ。別の方法を探せば。そんな言葉を言ったところで、宇垣はもうどうしようもないところまできているのだと。相田は、宇垣の言葉を聞いて気づかされた。

 それでも、相田は宇垣に聞かずにはいられなかった。宇垣が椎名に対してどうするのか。これだけは聞かないといけないと思って、宇垣に最後の確認をする。

 

「じゃあ、椎名さんは諦めるっていうのかよ」

「……そうだね」

「好きなのに。本当に、諦めるしか」

「うん。今日までそのつもりだったよ」

「……えっ?」

 

 相田は、違和感のようなものを感じ取って、瞬間的に頭を上げる。

 宇垣の声の調子が、雰囲気が、露わにしていた感情が、何もかも変わった。

 感傷に浸っていた雰囲気は消え、決定したことを語るような。淡々と、やや早めの口調で、決めてしまったことを伝えていくような。そんな雰囲気で宇垣は相田に話していく。

 

「本当は諦めるしかなかった。だから、椎名のことは避けたし、嫌いになってもらおうとした。素っ気なくして、好きになってしまわないようにした。だけどあの日。自分は政とケンカして、止まらなくなったんだよ」

「な、なにが?」

「愛したいっていう感情、だよ。あの日から自分が学校を休んだのも、何もかもを抑えるためだった。必死に自分の感情を抑えようと、今日まで気が狂いそうになるほど字文を書いてた。書いた字文を粉々にして、破いた。何度も何度も、欲求の熱を冷ましたんだ」

 

 やや笑みを浮かべながら、すらすらと語っていく宇垣。

 相田は、宇垣が何を思っているのか分からない。何を考えて、何を思って、言葉を口に出しているのか。さっきとは変わって、宇垣の心の底が見えない。

 

「だけど、やっぱりダメだ。どれだけ紙に字文を書いても、それを粉々にしようとも、消えない。書いた字文は捨てられても、自分の想いは捨てられない。やっぱり、諦められない。もう、殺さずに愛することも、本気で好きな人の想いに応えることも出来ないって、気づいたんだ。だから、自分はね」

 

 空気が張りつめる。宇垣の雰囲気に相田は飲まれる。

 相田はその場で固まりながら、相田の言葉をただ聞き続けていく。

 

 そんな相田を見ながら、宇垣は優しそうに言葉を言った。

 

「椎名を殺すことにしたんだ」

「なっ! なんでだっ!?」

 

 相田は立ち上がった。立ち上がって、イスに座っている宇垣を見下ろす。目を見開いて、驚きの表情で、宇垣に対してどういうことなのかを聞く。

 しかし、明らかに焦燥感を抱いている相田を、宇垣は相変わらず優し気な表情を浮かべたままで見ている。何も心が動じていない様子で、相田を見て微笑んでいた。

 

「政が椎名を本気で愛するのなら、自分はきっと諦められる。けれど、もし政が諦めるっていうなら、本気で彼女を愛さないのなら、きっと自分は椎名を殺し、愛したいと思う」

「そ、そんなの。涼平、嘘だろ?」

「自分は本気だよ。本気で愛して、本気で傷つけて、愛して殺す。そして、きっと本気で殺して愛する。だから、政。椎名のことが好きっていうのなら、本気で愛せる?」

「うっ……」

 

 宇垣が、優しい雰囲気で残酷な言葉を平然と言い放っている。そんな宇垣に対して、相田は背筋が凍る感覚を知る。

 戸惑いも葛藤も何も無い。感情の込められていない言葉。しないという選択肢は微塵もなく、むしろ、そうなることが必然のことであるかのような。まるで、それはとっくに決定されていることのように感じられる。

 そんな雰囲気が伝わってくる宇垣の言葉が、相田の心臓を握り締めるように恐怖がまとわりついていく。

 

「本当に……本気で椎名を好きになって、本気で彼女を愛する覚悟が、政にはある?」

 

 宇垣は微笑みながら、相田に問いかけた。重く、黒く、まるで底のない闇に引っぱられるような言葉が、宇垣の口から相田に向かって放たれた。

 宇垣の問いかけが、相田の心の中を埋めて、脳裏に焼き付いていく。そのせいか、相田はその場から動けなくなり、硬直する。動揺と迷いと恐怖が入り混じり、思考が働いていない。

 

 そして、段々と周りが見えなくなっていく感覚に相田は陥っていく。すると、玄関のインターホンの音が家の中に鳴り響いて聞こえる。誰かが、宇垣の家に訪ねてきたのだ。

 1階の方で誰かが歩いて行く音が聞こえると、宇垣は安堵したように笑う。何もかも分かっていて、思い通りになっていることに喜んでいるような感じで、不気味に口を開いていく。

 

「ふふふっ、どうやら、思ってたよりも早く来てしまったようだね。でも、間にあってよかったよ」

「ま……さか」

「その、まさか。さ」

 

 しばらくして、階段の方に歩いてくる音が段々と大きくなって聞こえてくる。しばらく階段を上がる音が聞こえると、宇垣の親戚の子どもである、倉田 哲治の声が宇垣の部屋の中まで響いてくる。

 

「ねねぇ、お兄ちゃん! お客さんだよー。なんか、女の人だよー」

「っ!!」

 

 相田は、瞬間的に自分のカバンを持って走った。思考がままならない状態で、とてつもない焦燥感によって相田は無意識に動いてしまう。

 相田は宇垣部屋を出て、階段を下りながら哲治を無視し、玄関の方へと走って向かう。ひたすら本能的に、心の赴くまま、全速力で走っていく。

 

「あ、あれ? なんで、宇垣くんの家に」

「椎名さん! 来てくれ!!」

 

 驚いた表情を浮かべている椎名に対し、相田は椎名の手を引いて玄関を出ていく。

 戸惑いながらも、椎名は抵抗することなく相田に走っていった。それだけ、相田は真剣で本気であった。逃げなきゃならない状況なのだと。椎名は相田の様子と言葉を聞いて、そう肌で感じた。

 

「え、なに? どうしたの?」

「いいから、はやく!!」

 

 椎名は今がどういった状況なのか。何が起こっているのか分からず、相田に問いかける。

 しかし、相田は話そうとせず、ひたすら走っていく。向かう先は考えず、ただ一目散に椎名を連れて走っていく。

 

 しばらくして、相田の足取りは遅くなっていき、椎名の手を取りながらゆっくりと歩いていく。だいぶ走ったせいか、相田は段々と落ち着いてきて、周りが見え始めていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 相田と椎名が今いる場所は、霞ヶ丘公園の敷地内。自転車置き場の近くで、屋根付きのベンチと電灯がそばにある場所で、相田と椎名は息を切らして立っていた。

 

「ちょっと相田くん! どうしたのよ!?」

「あ、ごめん」

 

 椎名は呆然と立ち尽くしていた相田に痺れを切らし、握られた手を振り払う。

 理由も聞かされず、このまま近くの霞ヶ丘公園まで走らされたことに、椎名は少し憤りを感じながらも相田に対して理由を尋ねる。

 

「まず聞かせて。なんで? なんで相田くんが宇垣くんの家にいたの?」

「それは…………」

 

 相田は迷った。椎名の質問を聞いて、迷わずにはいられなかった。

 何を話せばいいのだろう。何から話せばいいのだろう。話せることは限られている。何を椎名さんに話すべきなのか。そう思いながら、相田は必死に考える。考えて、選択肢を見つけていく。

 だがいくら考えても、最善の答えは見つからない。本気で考えても、相田は苦渋の選択をしなければならないことに絶望する。

 

 

 宇垣のこと。椎名のこと。相田のこと。

 誰のことを想って、誰の想いを裏切るか。

 選択をすることはいつだって残酷で、選ばなきゃいけない選択肢も、また残酷である。

 

 相田に迫られた選択は、2つ。

 椎名に真実を教えて守るべきか、椎名に嘘をついて守るべきか。

 

 本当に選ぶべきことは何なのか。

 他の人なら、どのような選択をするのか。

 

 それは、相田は知ることも分かることもない。

 全て、相田自身が考え、選ぶこと。

 だからこそ、相田にとって未来を分けるほどの、重大な選択することになる。

 

 

 相田は悩んだ末、真剣な面向きで椎名を見て、選択を1つにする。

 その答えとは……

 



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3章(表) 空言、私、別の未来
8話 失恋


 夜も更け、空は星の見えない真っ暗な夜空へと変わっていた。

 そこにまるで穴でも空いたかのような。黒い夜空の中できらびやかな月が光を放ち、外を少しだけ照らしている。しかし、満月の明るさであっても、電灯の明かりがなければ周りに何があるのか分からない。そんな夜空の下のことだった。

 夜中の霞ヶ丘町の霞ヶ丘公園。時刻が20時頃なのもあってか、霞ヶ丘公園の周りには人影が見られない。唯一、公園の中に制服姿のままの相田 政と私服の水色のワンピースを着た椎名 智華の2人が外灯の下で立っている。

 

 椎名は相田に、何で相田が宇垣の家にいたのかの理由を問いかけた。その問いかけに対して、相田はその答えを考えている。2人は息を切らしてはいるが、少しずつ呼吸を落ち着かせていく。

 相田は咳払いをし、目を閉じて深呼吸をする。昼の告白の時のように勢いにまかせて言うのではダメだ。まず、今は落ち着くことが大事だと。相田はそう感じていた。

 

 思いっきり息を吸い、たくさん息を吐くと、相田は緊張していた表情を緩ませ、優し気な雰囲気で口を開く。

 

「実は、今日のことを言いに行ったんだ。涼平に会って、言わなくちゃいけないなって」

「何を?」

「俺が椎名さんに告白したってことを、だよ」

「それで宇垣くんは?」

「涼平は、えっと……その」

 

 椎名は鋭い視線と怒り気味の口調で、相田に問いかける。相田は恐い雰囲気の椎名を見て、余計なことは言わないようにと考え、必死に言葉を頭の中で選んでいこうとする。

 宇垣と会ったことで、何が分かったのか。何が起こったのか。相田は椎名に言っても大丈夫であろうと思われる事実を告げる。

 

「俺のこと、応援してくれた。椎名さんと付き合うべきだって」

「……そっか。宇垣くん、そう答えたんだ」

 

 椎名はさっきよりも弱々しく、少し気落ちしたような声を漏らした。相田の言葉を聞いて、宇垣がどういった反応をしたのかを知り、少なからずさっきまでの元気を失う。

 椎名としても、宇垣の反応を予想出来なかったわけではなかった。だが、あまり考えたくはなかった。もしかしたら、椎名にとって期待できる反応を宇垣がするかもしれないと。椎名自身、考えずしてそう思っていた。

 だからこそ、椎名はやや悲し気な表情を浮かべ、それを見た相田は罪悪感を抱き始めてしまう。

 

「あのさ、椎名さん」

「ん?」

「今日は本当にごめん! 本当は涼平に告白して傷ついているのに、急に俺が告白をしてしまって」

「ううん、そんなことないよ。その……あの時はちょっと、驚いちゃっただけだから…………えへへ」

 

 相田は今日の昼、椎名に告白してしまったことを謝罪した。

 さきほど感じた罪悪感が、相田に対して椎名に告白したことへの後悔を感じさせていた。相田は椎名を困らせてしまったという罪の意識から少しずつ堪えきれなくなっていく。

 今日の告白のことを。勢いにまかせて椎名に告白したことを。相田は謝罪することで、椎名から許されようとしていた。

 

 そんな相田の姿を見て、相田の言葉を聞いて、椎名は我に返る。戸惑いつつも、さっきまで怒っていた自分を取り繕うための言葉を吐き出していく。相田が顔を上げた時には、椎名は可愛らしく笑っていた。その笑みを見て、相田は椎名に許されたような気持ちになり、罪悪感が和らいでいく。

 

「やっぱり、椎名さんは笑ってる方が良いと思うよ」

「え?」

「だって椎名さん。やっぱり辛そうだったから」

「え、そう? そうなの……かな」

 

 相田が優しく微笑んでそう言うと、椎名は苦笑いを浮かべる。

 椎名にとっては、今になるまで自分が辛いとは感じずにいた。好きな人のことをいつも考えながら、無我夢中に日々を過ごしていたからこそ、辛いと思うことなく今までの日々を過ごしていたわけである。

 しかし今、相田の言葉を聞いて、椎名は気付いてしまった。辛さを感じなかったのは、辛いということに目を背けていたからであると。辛いと思わないようにしていただけで、本当は辛かったのだと。それに気付いて、椎名は心の底から苦笑いしか出て来ないでいる。

 

「俺が涼平に会いに行ったのは、本当は知りたかったんだ。涼平が椎名さんのことをどう想っているのかを」

「……うん」

「椎名さんが涼平のことを好きだってこと、分かってる。それに椎名さんが告白する前から、涼平のことが好きだっていうのは……知ってた」

 

 椎名が宇垣に対して何かしらの好意を抱いていることくらいは、普段から椎名を見ていた相田にとっては分かることであった。

 でも、相田は見ようとしなかった。椎名のことが好きであるからこそ、盲目になっていた。椎名が宇垣のことを好きだって思うことを、やめていた。それを認めてしまうことは、相田にとって容易なことではなかったからだ。

 

「今日の昼、椎名さんと会って、涼平のことが本当に好きなんだって分かって。それで俺、涼平に言ったんだ。椎名さんの気持ちに応えてくれないかって。あいつが、本当は友達の俺に遠慮してるんじゃないかって。そしたら……」

 

 椎名に話していた相田の口が止まり、相田は視線を下に向けたまま、難しい顔をする。その後のことを、椎名にどう言うべきなのか、相田は悩んでしまっていた。

 

「そしたら?」

「そしたら……その、涼平は……」

 

 相田はまた口が止まり、言い淀んでは考えている。涼平の言った言葉を、涼平の本心を、相田はどうしても口に出して言えない。

 

 今日、宇垣に会ったことで、相田は知った。宇垣が椎名と付き合う気はないこと。相田が椎名と付き合うべきであると思っていること。そして、相田が椎名と付き合おうとしなければ、宇垣は椎名を殺してしまうかもしれないということを。

 宇垣は椎名を殺したくないと思っている。最悪の事態にならないために、相田に椎名を本気で愛してほしいと。相田と椎名が結ばれて欲しいと、そう願っているわけだ。

 だがそれは、椎名と相田が結ばれなければ、宇垣は椎名を殺してしまうということ。椎名に宇垣のことを諦めてもらわないと、椎名が殺される可能性があるということであった。そんな現状であるからこそ、今どうすべきなのか。今、椎名に対して何を言ってあげるのが良いのか。それを相田は思考していた。思考して、悩んで、ひたすら沈黙の中で必死に相田自身がどうしたいのかを心に決めた。

 

「今は、椎名さんの気持ちに応えることは出来ないって。その……無理なわけじゃないけど、今は………好きな人がいるって」

「………そう、だったんだ。その好きな人って?」

「えっと……その」

「いや、やっぱりいいかな。相田くん、ありがとうね。私……なんとなく分かったから」

 

 相田が選んだ言葉は、椎名のことを想っての嘘であった。目の前にいる椎名のために、真実を隠して嘘をついてしまう。言いたい本音を隠し、かけてあげるべき言葉を選んで言った。

 これ以上、傷つけたくない。本当のことを言ってしまえば、きっと不安にさせてしまう。そもそも、殺そうとしているなんて、納得してくれるわけがない。相田はそういった想いから、嘘をついてしまう。椎名に嘘をつくことしか、今の相田には出来ないでいた。

 相田の心情を知らず、椎名は悲しそうに笑う。椎名の悲し気な表情を見て、相田は胸が余計に苦しくなる。苦しくなって、すぐに言い訳をするように口を開いた。

 

「ごめん! 本当に俺、椎名さんに何もしてあげられなくて」

「なんで相田くんが謝るの? いいんだよ、もう。なんとなく、宇垣くんのことは分かったから」

「いや、でも……」

「それに、相田くんが私のことを想ってしてくれたのは嬉しかったから」

「それは……だけど」

 

 相田はまた、椎名に謝罪をする。椎名が悲しそうな表情をしたことで、まるで相田自身が椎名を悲しませてしまったように感じてしまっていたからだ。それによって、相田の中で消えかかっていた罪悪感がまたしても押し寄せて来てしまう。

 

 だが、今回はさっきの罪悪感とは違っていた。相田は謝罪の言葉を椎名に告げても、気持ちは晴れない。相田の心はどんどん苦しくなっていくままであった。

 なぜ相田の気持ちが晴れないのか。それは、椎名に対して嘘をついてしまったからである。嘘のことを告げたことで、余計に罪悪感に苛まされ、相田自身を苦しめていたからであった。

 椎名の優しく微笑んだ表情。椎名の優しく告げる言葉。普段の相田なら、椎名にそうしてもらえるだけで、とても嬉しい気持ちになっていた。だが、今の相田にとっては、椎名の優しさが相田の気持ちを複雑にさせ、余計に苦しめてしまう。

 

「むしろ、私が相田くんに迷惑かけちゃったね。私こそ、ごめん」

「そんな、椎名さんは何も悪くない。悪いのは……いや、違う。本当は誰も悪くない。これはもう、どうしようもなくて……」

「そうだよ。もう、どうしようもないの。どうしようもないから、私……わた、し……」

 

 椎名に謝られ、相田はとっさに言葉を返す。その途中で相田は、昼に告白した時のことが脳裏によぎり、言葉を訂正した。

 特に相田は、告白をした後に宇垣と会い、宇垣のことを深く知った。葛藤してきた宇垣に対して、またしても“宇垣が悪い”と言うことは相田には出来なかった。

 

 椎名は相田の言葉を聞いて、少し泣きそうに声を震わせ、顔をうつむいてしまう。相田にとっても、椎名にとっても、“どうしようもない”という言葉は“諦めるしか他にない”と同じであることを知っていた。それだけに、その言葉が椎名にとって残酷なものであることを2人は痛感する。

 

「ねぇ、相田くん。今日のこと……あれは、本気だったんだよね?」

「……それって、告白のこと?」

「うん。私ね、相田くんに告白されて分からなくなったの。あ、べつにね。相田くんのことは嫌いじゃないよ。ただ、相田くんって宇垣くんといつも一緒にいたし、その、えっと……私、相田くんが羨ましかったというか、でも、その……えっと」

 

 椎名は話を続けようとするが、言葉がまとまらず、落ち着かない様子で言い淀んでいる。

 椎名の心の中では、相田に対して自分が感じていたことを相田本人に言っていいのか。それを自分の口から相田に尋ねてしまっていいのか。そういった、心の迷いが生じてしまい、どう言葉にしていいか分からなくなっていた。

 

「落ち着いて、椎名さん。頭の中でまとまってから話せばいいからさ」

「いや、でも」

「とりあえず、あそこのベンチに座って落ち着こうか」

「う、うん」

 

 椎名は視線を泳がせて困ったように言い淀んでいた。それを見ていた相田は、椎名に落ち着いてもらおうと公園のベンチに座ることを提案する。椎名が頷くと、相田が誘導するように先を歩いては公園内にある屋根付きのベンチへと向かっていく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 相田と椎名の2人はベンチのそばまで来ると、椎名はベンチに腰をかける。しかし相田は、そのまま立った状態で近くの自販機を見つめている。

 

「ちょっと、飲み物買ってくる。椎名さんはお茶でいい?」

「え? う、うん」

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 

 椎名にそう告げて、相田は自販機の方へと駆け足で向かって行く。

 相田は自販機の前に立つと、制服のズボンのポケットから財布を取り出し、小銭を入れてお茶のペットボトルを2本買う。出てきたお茶のペットボトルを手にすると、それを持って椎名が座っているベンチへと向かい、椎名に1本手渡した。

 

「ごめんね、相田くん。お金……」

「いやいいよ。あげるつもりだったから。それより、少し落ち着いた?」

「うん、落ち着いた。ありがとうね、相田くん」

 

 ペットボトルのフタを開け、椎名は少しお茶を飲む。お茶を飲んでいる椎名の様子を見ていた相田は、少し気持ちが軽くなったような緩んだ表情をする。

 相田はそれほど喉が渇いていたわけではなかった。だが、慌てていたとはいえ、先ほど椎名を無理矢理走らせてしまったことに負い目を感じていた。だからこそ相田は自販機で飲み物を買い、その飲み物を椎名にあげた。結果的には、椎名が落ち着いてくれていたので、そんな椎名の姿を見て相田はホッとする。相田の心も安らいでいき、落ち着いていく。

 

 相田もペットボトルのフタを開け、お茶を飲む。さきほど宇垣の家で飲み物をたくさん飲んでいたとはいえ、この公園まで椎名と走ったので、多少は汗をかいていた。失った分の水分を補給するように、お茶を美味しそうに飲む。

 

「私、本当に宇垣くんのことが好きなのかなって」

「んんっ?」

 

 お茶を飲んでいる途中で椎名が話を始めたので、相田は口に含んでいたお茶を飲み込み、ペットボトルに口をつけるのをやめる。キャップを締め、椎名を見つめた。

 

「相田くんに告白された後にね、考えたの。私、本当に宇垣くんのことが好きなのかなって。なんか、分からなくなって」

「分からなくなった?」

「そう。それで不安だったから、宇垣くんに会えば……自分の気持ち、分かるかなって」

「それは……」

「だから今日、宇垣くんと会うことにしたの。会って、自分の気持ちを確かめようって。そしたら相田くんが……」

 

 その続きは相田も知っているため、椎名はそこで話すのを止める。

 相田は不安そうに語る椎名を見つめ、何故椎名が宇垣の家に来たのかの理由を知って納得していた。

 

 だが、その理由を聞く限りでは、まるで椎名が宇垣に会うことを決めたかのように思える。宇垣の部屋で宇垣が椎名を呼び出したかのような素振りを見せていたことを思い出せば、椎名に対して疑問を抱くのが普通ではあった。

 しかし、相田はそのことに気づかない。椎名のことを気にする余り、その言葉の違和感に気づけないでいた。

 

「ねぇ。そういえば、なんで相田くんはあんなに慌ててたの?」

「それは、椎名さんが宇垣に……その、なんていうか…………」

「ん? なんていうか?」

「…………」

 

 椎名からの質問に相田は戸惑いを隠せず、言葉に詰まってしまう。視線を他のどこかへと向けている相田を椎名は見つめ、相田からの答えを待つ。

 相田は必死に考える。事実を言うことは出来ない。なんて言えば納得してくれるのだろうか。相田はそう思えば思うほど焦りを感じてしまう。慌てていた理由をそのまま椎名に伝えられないのだから、相田はまたしても嘘をつくしかない。

 だが、下手な理由では椎名に怪しまれてしまう。だから相田は、しばらく難しそうに悩んでいる表情のまま、頭の中で都合の良さそうな理由を模索し続けていた。

 

 しかし、椎名は難しそうに考える相田の様子を見て、何故そんなに悩んでいるのかと疑問に思ってしまう。相田が悩んでいる理由を考えていると、椎名はひとつの理由にたどり着き、相田に問いかける。

 

「もしかして、私が宇垣くんにまた告白するとか思ったの?」

「えっ? あ、ああ。そう、かな」

「そんなことしない。だって私、宇垣くんに告白して1週間も経ってないんだよ。何度も告白なんてできない。そんなこと、普通ならできないよ」

「……そう、だね」

 

 椎名の言葉を聞いた相田は、小さい声でそう呟きながら弱々しく頷く。それは、告白の辛さを今日初めて痛感し、身を持って知ってしまったからである。

 

 告白したからこその、もどかしさ、煩わしさ。その辛さは、告白をしたことがある人間にしか分からないものである。椎名の場合、相田と違うのは、その告白の結果を告げられたこと。告白の答えを相手から聞いたという点では、相田と違って告白の答えを待ち続けるという不安な気持ちはない。

 しかし、椎名の場合は相田と異なり、希望を持つことが出来ないことである。頭では分かっていても、自分の中にある自信や目標が脆く霞んでしまう。好きなものに対する活力は失われ、失われるのと一緒に人間として弱くなる。心は衰弱し、思考は鈍り、普段通りに動くことが出来なくなる。弱体化した人間がもう一度同じ人間に告白をするという行為は、それなりの希望や自信や理由がなければできることではない。

 

「でも私。これで良かったのかなって思う」

「へ? どういうこと?」

 

 相田は椎名の言った言葉の意味を理解出来ず、その答えを求めるように椎名に問いかけた。

 何を言っているのか分からない。そう言いたげな雰囲気の相田を見て、椎名は自分が言葉不足であったことに気づき、言葉を付け加える。

 

「あ、宇垣くんに会わなくて、かえって良かったかなって」

「ああ。そういうことか」

 

 椎名が発言した言葉の意味を理解し、相田は納得した表情で頷いた。

 相田はてっきり椎名が、宇垣に告白を断られて良かったという意味で言ったのかと思っていた。だが、それが勘違いであったのだと知ると、相田は安堵して表情を緩ませる。

 

「だって、こうやって相田くんと話していたら……なんか私ね、気持ちが落ち着いてきたんだ。だから、今日は会うのはやめておこうかなって。もし今から宇垣くんに会いに行っても、きっと何を話せばいいのか分かんなくなると思うから」

「……うん。そうかもしれないな」

「それに、ね……」

 

 そこから椎名の口は止まり、なにか思い詰めたような表情へと変わっていく。

 相田は暗い表情の椎名を見つめながら、しばらく待ってみる。しかし、待ってみても椎名は相変わらず口を開こうとしない。なので、相田は不安に思い、椎名に問いかける。

 

「……それに? どうしたの?」

「ううん、何でもない」

「何か他に不安なことがあるの? 何なら聞くけど」

「そういうわけじゃないんだけど……」

 

 相田の問いかけに、椎名は苦笑いを浮かべながら何でもないと答える。何でもないとごまかす椎名に対して相田は不安になり、心配するようにもう一度問いかける。椎名が何を言おうとしていたのか、相田は気になってしまっていた。

 

「なんとなくなんだけどね。もし、今日宇垣くんに会ってたら……私が私じゃなくなってたかもしんないなって」

「それはどういうこと?」

「きっと、私が私自身を見えなくなっていたのかなって。なんか、今はそう思うの」

「え、つまりそれって、椎名さんが自分を」

「うん。もしかしたら、私……殺してたかも」

「そ、そんな……っ! ダメだ椎名さん!!」

 

 相田は慌てて、椎名の顔に近づくように前のめりになる。椎名が自殺を考えていたと思い、それを止めようと必死な表情になってしまう。それくらい、椎名の言葉には本気が混じっていた。

 そんな相田を見て、椎名は驚く。驚いて、相田の顔を少し見つめた後、椎名の表情は笑っていた。

 

「うふふっ、冗談だから」

「え?」

「失恋したからって、そんなことしないよ。相田くん、本気にし過ぎだからね」

「あ、ああ。冗談か、びっくりした」

「相田くん、驚き過ぎなんだもん。つい笑っちゃった……ふふっ、ふふふふ」

 

 椎名は相田の反応を思い出しては、また笑う。さきほどの思い詰めたような表情とは変わり、柔らかな表情で可笑しそうに笑っていた。

 相田はそんな椎名を見て、自分の中で芽生えていた緊張が緩んでいく。椎名の様子を見ている限りでは、椎名の笑いは作り笑いではない。本当に笑っているように思えた。本当に笑っているのであれば、自殺する気などないのだろう。相田はそう感じたので、不安な気持ちは薄れていった。

 

 そもそも椎名は、自殺する気など全くない。今も自殺する気などないからこそ、椎名は自分自身で言ったことを。以前までそんなことを本気で思っていたことを。椎名の言葉を聞いて相田が本気で驚いたことを。椎名はそれらに対して笑った。

 そして、それを思い出す度に椎名は可笑しく感じてしまい、しばらくの間、笑うことを止めることが出来ずにいた。

 

「だって、椎名さん。本当にしそうだったからさ」

「私ってそんな風に見えてた? そこまで私、おかしくないよ」

「でも、もしかしたらってこともあるからさ」

「もしもの話だから。相田くんに会う前に宇垣くんに会ってたらの話だからね。今はもうありえないし、そんなこと絶対しないから」

「そうなんだ。それならいいけど」

 

 絶対にしないという言葉を聞いて、相田の表情は余計に緊張が解け、心の底から安堵する。

 なにせ相田は、椎名が宇垣のことを本気で好きでいたことを知っている。宇垣を想うあまり、思い詰めてしまうことはあるかもしれない。最悪の場合だと、自傷行為や自殺までするかもしれない。その可能性が少しでも感じられていたからこそ、相田は焦ったのだ。

 

「でも、相田くんに会えてよかったかな。私って考え過ぎちゃうとこがあるからさ。きっと今みたいにすっきりしなかったと思うの」

「そうだね。なんか椎名さん、さっきよりもだいぶ元気になったと思うよ」

 

 さっきまで思い詰めていたような雰囲気は消え、表情もだいぶ柔らかくなっている。相田がいつも学校で見ている、普段の椎名の表情。むしろ、それ以上に落ち着いたような、辛さも毒気もない表情が、相田には椎名がだいぶ元気になったように思えた。

 

「前から……というか最近は特にだったんだけどね。宇垣くんといるといつも気が張って辛かったんだ。それに、宇垣くんってなんかちょっと偉そうじゃない? しかも、あんまり気配りできてないっていうか、ちょっと冷めてない?」

「まぁ、たしかに。涼平ってそういうとこはあるかもしれないな」

「そうでしょ? そのくせ、私の気配りに気づかないっていうかね。鈍いのか、冷めてるのか分かんないけど、私にクラスの仕事を押しつけてばかりでさ。正直言うと私、ちょっとムカついてたんだよね」

 

 椎名は素のままの表情でそう言った。作り笑いや苦笑いとかはなく、そのまま思っている感情を表情に出していく。今までの学校生活を振り返りながら、宇垣に対して抱えていた本音を語っていた。

 

「う、うん。涼平ってわりとうまく出来るヤツなのに、そういうことあんまりしたがらなかったりするよな」

「そうそう、そうなの! 私が本当に色々と頑張ってるのに、宇垣くんって結局何も応えてくれないっていうかね。対応がいつもまちまちだったの。何かと冷めてたり、偉そうだったりするんだけど、なんかたまに優しかったりしてさ。変に私に気をつかったりもしてて、宇垣くんって私を見てるのか見てないのか分かんなかったの」

 

 今まで宇垣と一緒だった時のことを思い出せば思い出すほど、椎名は宇垣のことに対して話す口が止まらなくなっていく。

 そんな椎名に対して、相田は苦笑いを浮かべていた。そこまで不満が溜まっていたとは知らず、同調するように笑みを作っていく。

 

「それでね、私もさ。宇垣くんのこと色々と考えたり、もっといっぱい知ろうとしたんだけど、宇垣くんって何考えてるのか分からないの。だからね、なんか辛いっていうか……そう。疲れるって感じだったの」

「まぁ、椎名さんの気持ちは分からないでもないよ」

「でも相田くんといると、なんか気分が落ち着くね。なんていうかね、気難しくないっていうか……そうそう、気楽! 気楽って感じ!」

「き、気楽? そうなんだ。なんか複雑だけど……そっか。椎名さん、そうだったんだ……くくっ」

 

 相田は椎名との会話の途中で、つい堪えきれずに笑いを口から吹き出してしまう。ここで笑う場面ではないことは分かっていても、笑うのを止めることが出来ないでいる。

 

 相田が笑ってしまったのは、椎名の本音を聞いたから。特に、椎名が宇垣に対して何を思っていたのか。自分に対して言った言葉を聞いて、笑っていた。

 

「くくっ……あははははっ」

「えっ?」

 

 相田は笑う。心の底から笑った。

 椎名さんが本当はどんな人で、どんな性格で、どんなことを想っていたのか。実は椎名さんのこと、本当は何も分かってなかったんじゃないか。そう思った相田は、自分自身が何とも可笑しく感じていた。

 

 結局、相田は目の前の椎名について深く知らないでいた。ずっと見てきたのに、椎名に対して想像と妄想ばかりが膨らむばかりで、本当の椎名のことが見えていなかったのだ。憧ればかり抱いて、恋心ばかり募らせて、その結果自分が暴走し、告白をした。相田はそんな自分が、何ともおかしくて笑ってしまう。

 

「ど、どうしたの? 相田くん」

「ごめん、椎名さん。笑うつもりはなかったんだけど、なんかおかしくて」

「え? 私、なんかおかしかった?」

「ううん、違う。椎名さんは悪くないよ。何もおかしくないから」

 

 そう。おかしいのは自分。おかしくなっていたのは自分。自分が自分じゃないように思えて、そんな自分に対しておかしくて笑ってしまう。そう思った相田は、心にわずかな恐怖を感じてしまう。

 恋愛とは何なのか。相田は初めて恋愛というものに触れ、痛感した。恋愛の恐ろしさ、誰かに恋をすることの怖さ。そして、自分がいつの間にか異常になっているという気味の悪さを、相田は知った。それが、相田の心の中で感じた恐怖の正体であった。

 

 誰かに対して一目惚れや恋心を抱くこと。その時点では人としてまだ平常であり、何かしらのきっかけによって誰かに好意を抱くことはおかしいことではない。その結果、人が誰かを愛そうとすること。愛されようとすること。それら自体をおかしいと思う人間はいない。

 しかし、そこで妄想や欲望を膨らませたり、恋心や葛藤を募らせたり、好意や愛情を歪ませてしまうことがある。恋愛感情を抱くことで、湧き起こるその感情に堪えきれなくなってしまえば、いつしか人は異常になる。また、人間という生物の本能の1つが、人間の理性や思考を狂わせ、おかしくさせてしまうこともある。

 だからこそ人は、恋をすることを“恋患い”と呼び、まるで恋を病気のように言ったり、また病気の中でも感染症のように言ったりもする。また、医者でさえも恋を精神病の一種であると言う人さえいるのだから、それは大きく当てはまっていると言える。

 

「俺も椎名さんと会えて、なんかすっきりした。俺も涼平のことで悩んでいたから。ほんと、会えて良かった」

「私も、宇垣くんのこと話せて良かった。だって、宇垣くんのこと分かってくれるの相田くんだけだから」

「一応、涼平とは友達だからね」

「……うん、そうだよね。宇垣くんにとっても、相田くんは友達だもんね」

「そうそう。でも、今となっては友達以上に恋敵ではあるけれどね」

 

 相田が言った言葉。宇垣とは友達であることを伝えた言葉。それを聞いて、椎名は納得したように頷いた。

 なぜなら、今まで椎名が相田に聞きたかったこと。相田に対して聞くことが一番怖かったこと。それは、相田が宇垣のことを友達と思っているかどうかであった。だから椎名は、相田の言葉を聞いて納得し、もう一度尋ねる。

 

「それなら、明日は恋友になるの?」

「え? どういうこと?」

「よく“昨日の敵は今日の友”みたいなことあるでしょ? 相田くんも宇垣くんに恋したりするのかなって」

「え? ええ!? 俺が涼平を?」

 

 相田は椎名の質問の意図が分からず、何が言いたいのか分からないでいた。なんとなく、もし昨日が恋敵なら、今日は恋友になるのではないかと。椎名がそういう意味で言っていたことは、深く考えれば気付くことであった。

 だが、椎名が尋ねた言葉を聞いて、相田は混乱する。自分と同じ男に対して普通は抱くことのない感情。その恋愛感情を友人である宇垣に抱くのではないかという質問。相田は少しだけ考えるが、すぐに理解できないと言ったように首を振る。否定するように大きく右手の手の平を左右に振った。

 

「いやいや、そんなまさか。俺が涼平を好きになるとか、そんなこと絶対にありえないよ」

「本当に?」

「そりゃあ、友達としては好きだけど、あくまで涼平とは友達としてだから。例え、敵になっても、女になったとしても、涼平とはずっと友達だから」

「そうなんだ。はぁ、良かった。ちょっと安心したな」

 

 椎名が安心したように、少し息を吐く。心の荷が少しだけ軽くなった様子だ。

 相田は少し大袈裟に言いすぎたかなと思ったが、椎名の安心している様子を見て、それ以上は言葉を連ねるのを止めた。

 

「でも、なんかそういうのっていいね。ずっと友達でいるとか。そういうの憧れるな」

「椎名さんにもいるでしょ? そういう友達」

「ううん。私にはそういう友達いないよ」

「え、でも」

「仲の良い人はいるけど、相田くんと宇垣くんのような。そんな友達は私にはいないかな」

 

 椎名は少し寂し気に、自分には心から信頼する友達がいないことを告白する。その告白は、学校の知り合いにも自分の家族にでさえも言ったことはない。それだけ、椎名は相田に対して心を許し始めていた。

 

「だから私、相田くんのような……本音を言い合える友達がいることが羨ましいかな」

「そんなことないよ。下手したら、ケンカしちゃうし」

「誰だってケンカはするよ。気持ち悪いのは、何考えているのか分からない人。そういう人、多いから。私……」

 

 椎名は思い返す。今まであってきた人間。自分の父親。同級生の女子達。先輩や後輩。そして、自分に好意を抱く男子。みんながみんな、自分に対して微笑みと憧れの視線。また、優しい言葉と自分に対して共感できるといった態度を向けていた。そのうえで、周りの人間は椎名のことを深く知ろうとしていた。

 椎名は親しくしようとして、自分のことを知ろうとする人間が怖かった。椎名を知ろうとする行為が、椎名にとっては気持ち悪く感じさせていた。そうなってしまった原因が、過去に椎名に対して恋愛感情を抱いていた人間達によるものであった。

 椎名はいつしか、本音を隠した自分を演じることで、自分を守ることができる。例え、自分が傷ついても、それは偽りの自分であるからと。傷がつかないようにと保険をかけるようになっていた。そして現在、初めて恋をした相手である宇垣を心の拠り所として、椎名はおかしくなっていったのであった。

 

「じゃあさ」

「うん?」

「まず、椎名さんが本音を言うといいのかも」

「私が?」

 

 椎名は少し驚きの混じった声で、相田に聞き返す。

 相田の提案は、たしかに一番手っ取り早い方法である。本音を言えば、相手も本音を言ってくれるかもしれない。相手に対して、何を思っているのか分からないのなら、本音でそれを聞けばいい。少なくとも本音を言えば何かが変わるだろうと、そう考えるのは決して間違いではない。

 

 しかし、事はそう単純ではなかった。

 

「怖いかもしれないけれど、本音を言えばきっと友達も本音を言ってくれると思うよ」

「それは……」

「とは言っても、それが出来ないから悩んでいるんだもんな」

 

 相田は腕を組み、しばらく考え始める。

 相田の言う通り、椎名は今までそれが出来なかったから、信頼できる友達がいないのである。むしろ椎名は、自分から本音を隠してきた。本音を言う自分が嫌だった。誰かに対して本音を言うことは、相田が思っているように簡単には出来ないことではあった。

 だからこそ椎名に必要なのは、それが出来るきっかけか出来事。椎名が自分自身で自分を変えようとする何かを相田が与えてあげることである。それに気付いた相田は、椎名に対して1つの提案をする。

 

「だから、まず俺が椎名さんの本音を聞いてあげるよ。さっきも涼平についても椎名さん言えていたし、俺のことでも何でもいいからさ」

「う、うん。じゃ、じゃあね……えっと……その」

 

 椎名は少し考え、言いにくそうに本音を言おうとする。

 今まで椎名が抱えていたものはつい先ほど相田の言葉を聞いて消えた。なので、椎名の中で不安があるとしたら、相田が椎名についてどう思っているのか。今、相田に対して自分が聞きたいと思っている本音を椎名は問いかける。

 

「相田くんは私のこと、本当に好きなんだよね?」

「……うん。本当だよ」

「それは本気で?」

「うん、本気でそう思ってる」

「じゃあ、相田くんは……私のどこが好きなの?」

「えっ……と」

 

 告白したとはいえ、好きな相手に好きな理由を答えるというのは、核心と自信がなければ簡単に言えるものではない。特に相田は勢いで告白したのだから、その質問に対してすぐに答えられるほど、頭の中で言葉の整理ができていない。

 相田は真剣な面向きのままでしばらく考えた後、自分が椎名に対して好きになった理由と今抱いている本音を、言葉にして伝える。

 

「笑顔、かな」

「笑顔?」

「俺、初めて椎名さんと会った時。椎名さんが他の女子と笑ってるのを見て、なんて可愛らしく笑うんだろうって。そう

 思ったんだ」

「え、そうなの?」

「うん。それがきっかけなんだと思う」

 

 誰かが誰かを好きになった理由。特に相手を好きになったきっかけなんてものは、案外曖昧だったりする。その中でも、相田の中で印象に残っているのは椎名の笑顔。椎名を好きだと思い始めたのも、椎名の好きなところも、椎名が笑っている姿であった。それを思い出した相田は、好きになった理由が笑顔であると告げた。

 でも、本当にそれだけなのか。椎名さんに対して抱いている感情は笑顔からくるものだったのだろうか。相田はそう思い、今日の告白のことをふと思い出した。

 

「それから、椎名さんが笑顔になると、俺も元気づけられてさ。その度に椎名さんのことを段々と好きになっていったんだ」

「……そうなんだ。それが、理由なんだね」

 

 相田はそう告げると、椎名の好きな理由を語っていた口を閉じる。目を閉じ、何かを思い出して、微笑んだ。

 椎名は相田が告げた言葉を聞いて、弱々しい声で答えた。やや悲し気な雰囲気で、首を下にうつむく様に垂れ、自分の足下を見る。誰がどう見ても明らかに嬉しそうではないことが分かる。

 なぜなら、相田が椎名のことが好きな理由が笑顔であったこと。普段の学校生活で見せる笑顔だけなら、椎名にとってはとても複雑なものであった。笑顔だけで椎名のことが好きになったのなら、それは椎名の上辺の部分しか好きでないのと一緒であるからだ。

 

 うつむいている椎名に、相田は目を開け、閉じていた口を開き、言葉を続ける。優しく語りかけるように、椎名に伝わるように、相田自身の本当の想いを告白し始める。

 

「でもね、今思うと……それは違ったのかもしれない」

「え?」

「俺、椎名さんとこうやってたくさん会話したこともなかったし、こんな風に一緒になったことも今まであんまりなかったと思う。けど今、椎名さんと一緒になって気付いたんだ」

「……何を?」

「椎名さんが、本当は笑顔が可愛い以上に、誰かのために健気に頑張れる頑張り屋さんだってこと」

「…………」

 

 相田は今までのことを振り返り、本当に自分が椎名に対して心を動かされたものが何なのかを考えた。そして今、椎名と一緒に居て、相田はそれに気付く。それは、椎名の健気さであり、誰かを想って頑張れることであった。

 相田は椎名のことを思い返せば、いつだってクラスの仕事をひたむきに頑張っている姿が思い浮かんでいた。それも好きな相手のためにと一途に頑張っていたことを相田は知り、そんな椎名に対して恋愛感情を強く感じてしまう。それは、勢いではあるが椎名に告白してしまうほどであった。その結果、椎名の健気さと誰かのために頑張ろうとする姿勢が、相田の心を魅了し、心をつき動かしたのだ。

 

 相田の言葉を聞いた椎名の表情から、動揺が隠せないでいる。

 言葉が出ない。なぜ、その言葉に自分の心が揺れ動かされるのだろう。そう思いながら、椎名は相田を見つめる。

 

「昼にも言ったけど、椎名さんがクラスのことも涼平のことも、本当に色々と頑張ってたのは知ってる。全部分かっているわけじゃないけど、涼平の分まで仕事していたことは俺分かってるから」

「………うん」

「だからこそ俺、涼平のために頑張る椎名さんを見て、椎名さんのことをもっと知りたいと思ったんだ。椎名さんのそばにいて、力になりたいって。椎名さんのことが本当に好きなんだって。そう思えたんだ」

「うん」

「だから、今は難しいかもしれない。涼平のこと、忘れられないとは思う。それでも俺、椎名さんのために頑張りたいんだ。椎名さんのことをもっと知って、椎名さんの力になりたい。だから俺……」

 

 たしかに椎名は、自分の本音を隠して生きてきた。だが、宇垣に恋をしたこと。今まで宇垣のためにと頑張っていたことは、椎名自身が偽ることの出来なかったものである。それは椎名の本音による行動であり、本来の椎名自身の姿であり、椎名の本当の部分。その椎名の本心からの行動を、相田は見ていた。見ていたことで、相田の中で椎名に対する好意と愛情が大きく芽生えたのである。

 だが、それは相田が椎名を見ていたことで知ることが出来た。宇垣の近くにいたことで知ることが出来た。ずっと椎名を見てきて、椎名と今を過ごしたからこそ、それに気付くことが出来たものであった。

 

 相田の言葉を聞いて、椎名は相田が自分をしっかり見ていたのだと気づく。すると椎名の胸の奥が締め付けられ、何とも言い表せない感情が押し寄せる。それはまるで、切ないような、嬉しいような、何とも苦しい感情。

 たしかに、相田は椎名を好きになったきっかけは“笑顔”であった。でもそれ以上に椎名を好きになり、愛したいという感情が芽生えたのは、宇垣を想う椎名のひたむきな姿を見ていたこと。ちゃんと見て、椎名の本当の部分を受け入れて、それを好きと言ってくれたこと。それが、椎名の心を大きく揺れ動かす原因であった。

 

「椎名さんと一緒にいたいんだ!」

 

 相田は真剣に椎名を見つめ、椎名の手を握っては、言葉に自分の強い意志を込めて言い放つ。段々と苦しそうな表情へと変わっていく椎名を見て、相田は切ない気持ちで胸が辛くなっていく。

 抱きしめたい。守ってあげたい。笑ってほしい。一緒に居たい。苦しい。好きだ。愛したい。そういった様々な感情が相田の中でひしめきあい、相田を苦しめていく。段々と堪えきれなくなりそうになるが、一瞬にしてその感情を消え去ってしまうものを相田は目にする。

 

「えっ?」

 

 相田は硬直する。椎名の後ろから宇垣の姿が見えた。息を切らしながら、自分達を見つけたように、2人のいるベンチへと歩いてくる。

 宇垣は2人を見ている。辛そうに、苦しそうに、表情を歪めて、呼吸を整えながら、足を動かして2人のそばにやって来る。

 

「涼平!?」

「宇垣くん!? なんで、ここに?」

 

 椎名は宇垣の姿を見てすぐに握られた手を離そうとするが、相田はよりいっそう強く握り締める。相田は椎名の手を決して離そうとはしない。

 宇垣が来たことで、相田の中で緊張が走る。椎名は単に驚いているだけだが、さきほどの部屋にいた時の宇垣を目にしていた相田にとっては違う。今の宇垣は何をするのか分からないのだから、一瞬も気が抜けない状況となっている。

 

「……そっか。2人はやっと……いや、なんでもない。さっき、政が走って出て行ったからさ。心配になってきたんだよ」

「え、えっと……宇垣くん」

「涼平! 俺、涼平に椎名さんは」

「大丈夫だよ、政。自分はもう、ここから消えるから」

「え?」

 

 相田は宇垣の言葉を聞いて呆然となり、言おうとしていた言葉を止めてしまう。どういうことなのだろうか。何を考えているのだろうか。そう思いながら、相田はずっと宇垣から視線をそらさず、椎名の手を握ったままでいた。

 しかし、宇垣は苦笑いの混じったような微妙な微笑みを浮かべていた。まるで、相田と椎名の2人に気を遣うかのように、この場から立ち去ろうとしているようだ。宇垣の部屋にいた時、特に椎名を殺すと言っていたあの時の宇垣とはまるで雰囲気が違う。

 

「じゃあね、椎名さん。政」

「待って、宇垣くん!!」

 

 椎名は宇垣を呼び止める。相田に手を握られたままベンチから立ち上がり、ツバを飲み込んでは、動揺していた表情から意を決したような表情に変わる。

 

「宇垣くんが本当に好きな人って誰なの!?」

「うっ!」

 

 宇垣に対して、椎名は好きな人間について問いかけた。その椎名の問いかけを聞いた相田は、心臓が止まったような感覚に陥り、つい声が口から漏れてしまう。

 椎名が宇垣にした質問は、相田にとって宇垣に一番問いかけて欲しくないことであった。相田はつい先ほど、宇垣には好きな人がいると椎名に言ってしまった。また、宇垣の本心を椎名に知られてしまえば、この後良くない方向へと行ってしまうと想像出来ていた。宇垣の返答次第では、最悪の事態まで発展してしまう。そう思った相田は今までで一番心臓が跳ね上がり、宇垣が椎名の問いかけに答えるまでの時間がとてつもなく長く感じてしまう。

 

「……本当に、好きな人……か」

 

 宇垣はそう呟くと、椎名と相田の2人を見つめる。見つめれば見つめるほど、泣きそうで辛そうな表情を浮かべ、宇垣の口は震えていく。いかにも辛そうにしている宇垣を、2人は見つめるだけ。見つめるだけしか出来ないでいる。

 少しして、宇垣は左手で頭を抱えるように体を震わせ、何かに堪えるように唇を噛み締める。目を閉じ、ぼそぼそっと誰にも聞こえないような声を吐くと、宇垣は再び2人を見て、微笑み始める。

 

「自分が好きな人は……私。愛したいのは君じゃない。自分だ」

「そんな……宇垣くん」

「だから、これで終わり。もう、終わりなんだ。終わりにするしかないんだよ!」

「…………ううっ」

 

 椎名はショックを受けたように後ずさりしては、足に力が入らなくなったようにベンチに座り込んでしまう。弱々しく、涙を堪えるような表情で、空いている片手で顔を隠すように手の平を覆う。その手の平のすき間から、椎名の涙がこぼれ、流れていく。

 そんな椎名の様子を見て、相田の手を強く握っている椎名の手を感じて、相田は口を開いた。

 

「涼平……おまえ」

「政はさ。政はそのまま彼女と生きてくれ。自分はもう終わりにするから」

「でも!」

「だって、自分と政は……友達だろ? 自分に愛はいらないんだ」

「そんなの」

「本当に選ぶべき相手は誰か。本気で一緒にいるべき相手は誰か。政は分かっているはずだろ?」

 

 宇垣は相田を諭すように、優しく、友達を想うように、落ち着いた声で話していく。

 しかし、相田にはそれが、叶えられない何かを諦めるかのような。どちらかと言うと、宇垣が宇垣自身に諭しているような。そんな気がしていた。

 

「政……自分が家で言った質問は覚えてる?」

「何をだよ」

「彼女を本気で好きになって、本気で愛する覚悟はあるのかってことだよ」

「それは……」

「政の、政自身の答えを聞かせてくれ。本当に、本当に好きなんだよな?」

「……ああ、当たり前だろ!」

 

 相田は宇垣の問いかけに答える。相田は自分自身に問いかけるまでもなく、宇垣に答えた。自分の中の想いを込めて、宇垣に言った。

 

「本当なんだよな? 勢いじゃなくて、感情だけじゃなくて。本気で考えて、本気で愛する覚悟が。政にはあるんだよな?」

「ああ! 俺は本気で愛したい! 本気で愛してみせるよ!!」

 

 椎名と宇垣の前で、相田は誓う。

 言葉にして、強く誓った。真剣な眼差しで、心に誓った。椎名を本気で愛することを、相田は本気で誓ったのだった。

 

「わかったよ。それなら、自分達はこれからも友達だ。それだけは変わらないし、自分も変えるつもりはないよ」

「……っ!」

「おやすみ」

 

 そう言って宇垣は、この場から立ち去ろうとするように自分の家へと向かって歩き始める。言いたいことは、聞きたいことは、もう何もないといった雰囲気で、宇垣は足を歩ませる。

 

「待ってくれ、涼平!」

 

 相田は立ち去ろうとする宇垣を呼び止める。

 なんとなく、腑に落ちない。分からない部分がたくさんあるからか、不安な気持ちが募っていく。相田は宇垣にそのまま帰られてはいけない気がしていた。帰ってしまっては、後悔するような、そんな気がして宇垣を呼び止めた。

 

 振り返った宇垣は、相変わらず微妙な微笑みを崩さない。嬉しいような悲しいような、複雑な感情が混じったその表情が、相田に何かを気づかさせてしまう。

 

「もしかして涼平は、俺のために……」

「それ以上は考えちゃいけないよ。政は、自分のことじゃなくてさ。これからは彼女を愛することを、愛したいという気持ちを、本気で考えていくべきなんだ」

「でも、俺……」

「政は、政自身が決めた覚悟を無駄にしちゃいけない。だからさ、これで良いんだ。これで……良いんだよ」

「…………涼平」

「おやすみ、政」

 

 宇垣は優しくそう告げると、相田と椎名の2人の前から立ち去っていった。宇垣が立ち去っていくのを、相田はただ見送っていた。

 相田は宇垣の本心は、結局は分からない。何が目的で、何がしたかったのか。本当のところで、宇垣の本音が何だったのかは分からないでいた。

 だが、相田は、宇垣が友達である自分を想ってくれていたことは伝わった。宇垣は自分のことを考えて、行動していたように思えた。そう感じたからこそ、相田は宇垣に何も言えなかった。宇垣が自分を犠牲にしてまでしたことを、取り消すことは出来なかった。

 

「相田くん」

「椎名さん、大丈夫?」

「どうして? 宇垣くんは……どうして」

「……ごめん」

 

 相田は頭の中で思う。きっと涼平のことを言うべきなのかもしれない。涼平がオレを想って、椎名さんから身を引いてくれたことを。オレのために、発破をかけてくれたことを。涼平がオレのためにしてくれたこと全部。椎名さんに伝えるべきなんだ。そう思って、相田は言葉にしようとした。口に出して、椎名にすべてを伝えようとした。

 だが、相田の口は止まった。口に出して椎名に伝えることが出来ないでいる。椎名の顔を見て言おうとすればするほど心は揺らぎ、宇垣のことを想えば想うほど、言葉が出て来なくなっていった。

 

 相田が言おうとしていることは、椎名を傷つけてしまう。それ以上に、宇垣の想いを無駄にすることになると、相田は察していた。椎名を想って身を引いたこと。相田を想って、大事なことを気付かせてあげたこと。相田は、宇垣の想いから裏切ることも、相田には出来なかった。

 だから相田は、ただ謝る。ごめんという言葉しか、椎名に告げるしか出来ないでいた。

 

「どうして相田くんが謝るの? どうして? もう、分からない。分からないよ」

「ごめん椎名さん。本当に、ごめん」

「何で、どうして……うううっ」

 

 相田の体に椎名の頭がよりかかる。涙を流しながら椎名の体が震えているのを見て、椎名を抱きしめる。しばらくそのまま、椎名を抱きしめ続けた。

 何も言えないけど、胸を貸してあげること。ただ抱きしめてあげることしか出来ない。だから今はこのままでいるべきなんだと。相田はそう思って、椎名の涙を受け止めていく。椎名の涙が止まるまで、ずっとそばにいた。

 

 

 相田は見上げる。真っ暗な夜空に、満月が見えた。黒い夜空に穴が空いたように光を照らす満月を、相田はずっと見つめる。ただ1つ、夜空の中で照らし続ける月。星が見えず、月だけが見える今日の夜空。孤独に輝く月が、なんとなく寂しげであるように感じた。

 そんな満月の下で、相田と椎名は霞ヶ丘公園のベンチに座って時を過ごす。静かな時の流れが、2人に今日という1日の終わりを感じさせていったのであった。

 



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9話 愛想

 2007年7月23日。相田が椎名に告白をした日から2年ほどの月日が経ち、相田と椎名は霞ヶ丘高校の3年生となっていた。学校生活を楽しみつつ、今は日々のテストや進学に向けての勉強に勤しんだりしている。

 

「ねぇ? ねぇってば、政!!」

「え? どうした?」

 

 椎名に呼びかけられ、うつむいていた相田は気づいたように顔を上げた。すると椎名は眉を寄せて、相田に顔を近づける。さきほどから話半分にしか聞いていないような相田の反応に、椎名は相田に怒り気味に尋ねる。

 

「どうした? じゃなくてさ。ちゃんと私の話、聞いてる?」

「……ごめん、何だっけ?」

「だからね。私の父さんがね、政と一緒に食事に行きたいって言ってるの」

「へ、へぇ……そうなんだ」

 

 椎名は2年前の相田の告白を受けてから、相田と付き合うこととなった。今では相田と椎名は恋人の間柄として、日々を過ごしている。

 そして今日は、相田と椎名の2人が付き合い始めて2年目の記念日であった。椎名の提案で、椎名の家で記念日のお祝いをすることになり、椎名の部屋で簡単なパーティを開いていた。

 

「……って、え? 今なんて?」

「ああもう! バカなの? 知らない!!」

「ご、ごめん、ちょっと考え事していたから」

「いいよ、もう!」

 

 椎名はふくれっ面になりながら、相田から背を向けるようにそっぽ向いてしまう。機嫌を損ねた椎名を見て、相田は慌てて椎名のそばまで近寄っていく。椎名の横顔を見ながら、申し訳なさそうに頭を下げて謝った。

 

「ほんとごめんって。今度こそはちゃんと話聞くからさ」

「……ほんとうに?」

「うん、ほんとほんと!」

「じゃあ、次こそ私の話をちゃんと聞かなかったら、父さんに言うんだからね。政は銭湯か温泉宿に行って、男同士で裸の付き合いがしたいって」

「やめろ智華! それだけはやめてくれ!!」

 

 相田の表情がより真剣なものに変わり、非常に慌て始める。慌てている相田の態度が椎名にとって予想以上に可笑しく、少しだけ笑っては、相田に問いかける。

 

「え、そんなに嫌なの?」

「嫌っていうか、なんか怖いんだよ」

「恐い? 私の父さん、そんな恐くないよ?」

「いや、気味が悪い方の怖いって意味で」

「……うん? どういうこと?」

 

 椎名は不思議そうに頭を傾げる。相田が言っていることの意味がいまいち分からないでいた。

 なぜなら、椎名とは違い、相田は椎名の父親とは他人である。他人であるからこそ、相田に対する椎名の父親の下手くそな関わり方に違和感を抱いてしまう。馴れ馴れしさや何を考えているのか分からない雰囲気が、相田に怖さを感じさせていた。

 

 ところが椎名は家族であるが故に、その怖さが感じていない。父親がどんな人間か分かっているからこそ、相田の感じているものが分からない。

 

「と、とりあえず、智華の父さんと2人きりは嫌だから。もう絶対に」

「ふーん、まぁいいや」

 

 相田が父親を嫌がる態度に、椎名はそこで話をやめる。

 椎名とて、相田に嫌がらせをしたいわけではない。むしろ今は、お祝いをしている時である。だからこそ、相田には気分を盛り上げて欲しいところであった。

 

 しかし、相田は心ここにあらずといった雰囲気で、さきほどから表情が硬い。椎名は相田のお祝いすることが気乗りでない態度が気になり始め、相田に問いかける。

 

「そもそも、なんでそんなにテンション低いの?」

「え? テンション低いか、俺?」

「だって、さっきから全然嬉しそうじゃないもん。目の前にジュースとかケーキとかあるのに」

「いや、嬉しいよ? 特にマカロンなんて普段あんまり食えないから、めっちゃ嬉しいし、めっちゃ美味しいよ。うん、めっちゃ!」

「本当? なんか、わざとらしいけど……」

 

 椎名は相田を疑うように、疑惑の視線を相田に向ける。それに気づいて、相田は視線をどこか別の方に向け、マカロンを口に頬張る。見ている感じでは、本当に美味しそう食べているようには見えない。

 

「せっかく、私達が付き合い始めて2年のお祝いなんだからね。辛気臭い顔はやめてよ」

「……ごめん」

「どうしたの? なんか私に言いたいことでもあるの? それとも悩み? 用事? 何?」

「えっと……その……」

 

 相田は微妙そうな表情を浮かべる。言い辛そうに、どもっているように、椎名にどう言おうかと言葉を探している。

 相田の頭の中で、椎名に言っていいのか、言っては良くないのか、頭の中でせめぎ合っていることが見て分かる。

 

「あんまりこんなこと言うのもあれなんだけどさ」

「何? え? 政、もしかして、何かヤバめなことしちゃったの?」

「そうじゃないんだけどさ」

「じゃあ何なの!?」

 

 椎名は苛立ちを覚えたのか、少し怪訝そうな表情に変わる。相田の煮え切らない態度に、椎名の声がだいぶ怒り気味になってしまう。

 そこで相田は、これ以上椎名を待たせてはいけないと感じ、椎名に言うことを決心する。

 

「えっと、宇垣(うがき) 涼平(りょうへい)のことなんだけど」

「うがき、りょうへい……」

 

 ばつの悪そうな顔で、相田は弱々しく言葉にする。椎名の前では言いたくなかった名前。今まで言うことを阻んでいた名前を、相田は椎名に対して言ってしまう。

 相田が久しぶりに口にする名前を聞いて、椎名は怪訝そうな表情のまま、沈黙を貫いていた。しばらくして、黙っていた口を開き、相田に向かって言葉を放つ。

 

「誰それ? 同じ高校の人?」

「…………は?」

 

 相田は、予想していなかった返答に、言葉が出なくなってしまう。椎名が宇垣の名前を聞いて、宇垣という人物のことを相田に問いかけるとは思ってもみなかったからだ。

 

 椎名は相田の反応を見て、考えるように自分の記憶を思い返してみる。しかし、思い出せない。宇垣という名前の人物が自分の身の回りにいたか覚えていない。いくら考えても思い出せないので、椎名は考えるのをやめた。

 

「で、その人がどうしたの?」

「どうしたのって……宇垣 涼平だよ。1年の時にいた、同じクラスだった、あの宇垣 涼平! 智華、忘れたのかよ!!」

「ちょっと、そんな怒鳴らないで。えっと、たしか……1年生の時の秋に転校した人だっけ?」

「違う! 1年の夏休みの終わりの頃に、自殺したやつだよ!!」

 

 相田は声を荒げて言ってしまう。2年前に相田が椎名に告白をした1ヶ月後、宇垣が自殺をしてしまったことを。椎名にはなるべく思い出させたくなかった出来事を。つい、口にして言ってしまう。

 

 ずっと相田は気にしていた。もし、宇垣が自殺したことを言えば、椎名がどう反応するのか。嫌なことを思い出させてしまうのではないか。触れてはいけないことに触れて、椎名を悲しませてしまうのではないか。そういった気持ちを抱いていただけに、相田は宇垣の名前を言わないようにと気をつけていた。

 

 だが、椎名は忘れている。それは、相田が今まで口にしなかったおかげなのかどうかは分からないが、今の今まですっかり忘れていた。

 逆に相田は宇垣のことを今まで忘れることが出来ずにいた。特に今日は、椎名と交際し始めたことを思い出させる記念日。嫌でも宇垣のことを思い出してしまう相田は、今年も宇垣のことを思って考えていた。

 

「……ああ。そういや、そんな人いたね。もういないから忘れちゃってたよ」

「忘れちゃったって……おまえ」

「そういや、そんなこともあったね。たしか私、その人に告白してフラレたんだっけ」

「その後に、俺が智華に告白したんじゃないか」

「そうそう! それで私、次の日にオーケーしたんだよね。懐かしいなー。ふふふ」

 

 椎名は相田と交際するようになってからの経緯を思い出し、懐かしむように微笑む。でも相田は、椎名と違って和やかに懐かしむ気持ちにはなれないでいる。

 

「でも、良かったなー。その……宇垣、だったっけ? 私、その人と付き合わなくて」

「……なんでだよ?」

「だって、自殺するような人だよ? なんか、絶対重そうじゃない。きっと長くは続かなかったと思うな」

「それは……そう、なのかも」

 

 相田は椎名の言葉を聞いて、頷いた。それは相田があの頃の椎名と宇垣のことを覚えているからこそ、相田は頷いて同意した。

 2年前、実際は椎名と宇垣は両想いであった。あの頃の椎名は本気で宇垣のことを想っていた。宇垣もまた椎名のことを想っていたことを相田の前で口にしていた。相田がいなければ、2人が交際していた可能性は高い。

 

 しかし、宇垣と椎名が本当に付き合っていたとしても、両想いになって愛を確かめ合っていたとしても、最後には破綻していた。きっと長くは続かなかった。そういう風に相田と椎名が思えてしまうのは、宇垣が自殺してしまったことが原因であった。

 

「それに……」

「それに?」

「なんで好きだったのか、ほんとに好きだったのか。それこそ、その宇垣って人に対して本当に恋心を持っていたのか。今思い出してもよく分かんないから」

「どういうこと?」

 

 相田は、椎名が本気で宇垣に恋をしていたことを知っている。むしろ宇垣に対して恋心を抱いていたと思っていたからこそ、椎名の曖昧な発言がどういう意味なのかを問いかける。

 

「なんだろう。なんて言えばいいんだろうね。恋に恋してたって感じなのかな? なんか、誰でもいいから愛したかったというかね。うーん、やっぱりよく分かんないや」

「……そっか」

 

 相田はそれ以上喋ろうとはせず、天上を見上げた。見上げて、少し考えて、なんとなく悟ってしまう。椎名が宇垣のことを今まで忘れていたのは、きっと忘れることで自分の心を守っていたのだと。

 

 だがそれは、結局のところ椎名が椎名自身の中にある宇垣という存在を殺し、消し去ったのと変わらない。宇垣に対して燃えていた自分の気持ちも感情も何もかも、椎名は捨て去り、火が消えたようにすべてを忘れたのだ。

 それに加えて、椎名は相田という存在で宇垣を埋め尽くした。恋人である相田の存在で埋め尽くし、再び恋心を相田に向けて燃やした。宇垣に対する恋は焦げ尽くした灰となって消え、今は相田に対する恋で椎名の心は焦がされている。

 

「てか、その宇垣って人がどうしたの? もしかして、政の枕の上に化けて出た?」

「そうじゃねーよ。ただ、ちょっと思い出したからさ。なんか、気になって」

「そんなの気にせず、食べようよ。今は死んだ人のことを考えるのはやめてよね」

「それもそうだな。ごめん」

 

 相田は椎名の言葉を聞いて、宇垣のことを考えるのをやめようとする。グラスにオレンジジュースを入れ、一気に飲み干していく。酸味と甘さの効いたジュースが、相田の喉と共に気持ちをも潤していった。

 気持ちが軽くなったような相田の表情に、椎名も気持ちが軽くなっていく。椎名もビンに入ったシャンパンのような飲み物をグラスに入れ、口に入れていった。

 

 

 しばらくして椎名は宇垣のことをすぐに忘れ、用意してあったケーキを口に含み、美味しいという幸せを噛みしめる。相田も、ケーキを食べて、甘いという味覚に心を満たしていく。

 

 

 それでも、相田の心に。相田の頭に。相田の記憶に。

 宇垣の存在が消えることはなかった。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2005年8月24日。相田は霞ヶ丘高校の制服を着て、宇垣の家を訪ねていた。

 正確に言うなら、相田だけではない。相田以外の人間も黒い喪服で宇垣の家を訪ねて来ている。

 

 相田はクラスメートであり、親友であった人間。宇垣 涼平の写真の前まで来ると、線香をあげては、両手を合わせて頭を下げる。お坊さんが低い声で唱えている呪文のようなお経を耳にしながら、しっかりと心の中で別れを告げていく。

 

 頭を上げるとすぐに相田は振り返って、宇垣の写真から背を向けるように歩いて行く。それは、相田が宇垣の写真を直視することを避けようとしての行動であった。

 相田は少し歩いて、宇垣の親族がいるところまでやってくると、慣れない言葉を口にして挨拶をしていく。

 

「この度は、本当にご愁傷さまでした」

「……たしか、君は涼平の友達だった子だね?」

「はい。涼平くんの友達の相田 政と言います」

 

 相田は言葉を添えて、40代後半の男性にお辞儀をする。相田は何度か目にしたことがあったから知っていた。

 やや身長が高めで、やつれたような顔つきの男性。そして、涼平という名前を口にする男性は、宇垣 涼平の父親であった。

 

「今日は息子のために来てくれてありがとうね」

「いえ、俺は涼平くんの友達として……その、当然ですから」

 

 相田の表情は引きつっていた。悲しみと悔しさが混じり、父親に対してどんな表情をすればいいのか分からないような感じで、目を細めて、口角を上げる。

 宇垣の父親は、相田の微妙な表情を見て、相田の言葉を聞いて、優しく微笑む。疲れていそうな雰囲気をしていても、しっかりと息子の友人を労わろうとしていた。

 

「そっか。本当に、今までありがとう」

「…………すみません」

 

 親友の父親の前にいた相田は、その場にいることが堪えきれなくなって、父親の前から足早に立ち去っていく。黒い革靴を履き、玄関を出て、宇垣の家の外に出る。

 空は晴れ、太陽の日差しが相田の全身に刺さる。宇垣の家の前で立ち尽くし、相田は青空を見始める。相田の中で失ったものが、青空の中へと飛び立っていくように。相田はただ、晴れ渡る青い空を見つめていた。

 

「お、相田じゃねぇか」

「ん? あ、利谷(としたに)。おまえも来てたのか」

 

 相田に声をかけたのは、相田の隣のクラスの生徒。名前は“利谷(としたに) 侑治(ゆうじ)”と言い、相田とは高校の中で数少ない他のクラスの知り合いである。

 

「そりゃあな。同じ霞ヶ丘町に住んでいて、来ないわけにもいかないだろ?」

「でも、涼平となんか関わりあったっけ?」

「そりゃあ、中学一緒だったからな。1年だけ同じクラスだった時もある。それにあいつとは」

「お、おい!?」

 

 利谷の話を相田は遮って、どこかに視線を向けながら人差し指を指さす。

 

「なぁ、あれって!?」

「どした?」

 

 相田が見ている方へ利谷が視線を移すと、そこに日傘を差しては喪服姿の女性が歩いて来る。しばらく歩いて来た後、大学生くらいの女性は傘を閉じた後、宇垣の家の中へと入って行く。

 今までに目にしたことのある女性が宇垣の家に入って行く様子を、相田はずっと見ていた。女性の姿が見えなくなった辺りで、相田は口を開いて、利谷に質問する。

 

「あれ、宮越(みやごし) 菜月(なつき)か?」

「ああそうだな」

 

 女性の正体は、相田がよく知っている女優の宮越 菜月。テレビのドラマでも、高校のポスターでも、いつもよく見ているだけに相田はすぐに気づくことが出来た。

 

「なんで? なんで、宮越 菜月が?」

「そりゃあ、宮越菜月はここ出身だからな」

「は? 聞いてないぞ? って、え? マジで!?」

「そりゃあ、わざわざ名前変えてるくらいだしな。俺は先輩と同じ書道部だったから、知ってるけど」

「え? どういうことだよ?」

 

 信じられないものを目にして、相田は思考の回転が鈍っていく。利谷の事実を聞いて余計に動揺が大きくなり、相田は落ち着かなくなっていく。

 

「宮越……いいや、実家の性は豊条って言うんだけどな。あの豊条先輩は霞ヶ丘中学校の書道部にいたんだよ。卒業と同時に東京の方に引っ越してしまったけれど」

「えっ!? 今なんて?」

「ん? 何がだ?」

 

 相田は目の前にいる利谷に問いかける。聞いたことのある名前を耳にして、ある名前を口にする。

 

「今、豊条って言ったか?」

「ああ。あの先輩がここに居た頃は、豊条菜月っていう名前だったんだ。今では、名前が宮越 菜月に変わったみたいだけど」

「豊条、菜月……」

 

 豊条という名字を、相田は覚えていた。“豊条(ほうじょう) 月菜(つきな)”という女性が、宇垣の先輩の女性であり、憧れの女性であったことは、記憶に残っていた。

 そこで、相田の頭の中で1つの疑問が浮かび上がる。

 

「てことは、姉妹に月菜って人もいたのか?」

「月菜?」

 

 相田が利谷に尋ねると、利谷の目が細くなる。そして、少しだけ考え込んだ後、相田の問いかけに答える。

 

「豊条先輩は一人っ子だったはず。あ、でも、母親の名前かな?」

「え? いや、書道部に豊条 月菜っていう名前の先輩がいたって聞いたんだけど」

「は? そんなやついないぞ。俺が1年の時に豊条 菜月先輩はいたけど。もしかして、菜月先輩と勘違いしてるんじゃないのか?」

「いや、そんなはずはない。だって……涼平は……」

 

 宇垣が確かに、“豊条 月菜”という女性の名前を口にしていた。それに宇垣は、相田にその女性の字文のお手本まで見せていた。字文に書かれた名前を、相田はしっかりと目にしている。

 

 そこで相田は、思ってしまう。

 遂に相田は、1つの謎に到達してしまう。

 宇垣が死んだ今、答えが見つからないであろう1つの疑惑を頭に浮かべる。

 

「じゃあ、豊条 月菜って……誰なんだ?」

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2007年7月23日。椎名の部屋の時計が午後7時40分を示している。

 椎名は自分の部屋のベッドに横たわっていた。食べ過ぎからくるお腹の辛さから耐えるように、お腹に右手を添えて気持ち悪そうに目を閉じている。

 椎名がベッドで横になっている間、携帯電話にメールが来ていた相田は、ベッドに座りながら友人の利谷にメールを返していた。しばらくして、メールを返信し終えると、ベッドで横になっている椎名に体を向ける。

 

「気分はだいぶ良くなったか?」

「……………」

「って、寝てるのか」

 

 顔を近づけた相田は、椎名の顔を見つめる。聞き耳を立てていると、椎名の寝息が聞こえてくる。しばらく椎名の顔に視線を向け続け、本当に寝ていることが分かると、相田は微笑みながらため息を吐く。

 

「ケーキとアイスとお菓子を交互に食べたら気持ち悪くなるって言ったのに、まったく……」

 

 相田は微笑みながら、椎名の頭から足先までしみじみと見下ろしていく。

 2年前、相田は椎名に告白した時のこと。また、それまでの椎名をよく見ていたので、2年前の椎名の姿はよく覚えていた。あの頃の椎名と今の椎名を脳内で見比べてみる。

 すると相田は、苦笑いを浮かべては頭を上げて腕を組んだ。そして、またため息を吐いて、椎名に対してぼやくように小さな声で呟き始める。

 

「うーん、やばいな。やっぱこいつ。あの頃よりも太ったなぁ。あれ? てか、2時間前より太ってね?」

 

 相田がため息を吐いたのは、明らかに椎名の今の体型が2年前より太っていたからだ。理由は色々あるが、俗に言う“幸せ太り”というやつであることは間違いない。

 

 相田が呆れたような表情をして、ベッドの上で眠っている椎名に目を向ける。すると、椎名が寝がえりをうつように体が動き始める。

 もしかして、今の発言を聞かれたのではないだろうかと、相田は少し焦りを覚える。だが、椎名が寝がえりをうつと、それ以降動く気配はない。眠ったように、また寝息を立てていることが分かる、相田は安心して椎名から視線を逸らす。

 

「……っと、危なかった。本人に聞かれたら怒られるな。気をつけないと」

 

 女性の限った話ではないのかもしれないが、女性は体重というものに特に敏感であったりする。椎名も同じで太ったことにより体重を以前にも増して気にするようになっていた。2年前よりも体全体が太ったこと、高校にいる女子達の体重の平均よりも少し超えてしまったこと、そろそろ痩せないといけないということは椎名も自覚していた。

 だが、それを椎名は直そうとはしない。痩せようと努力したり、これ以上太らないようにと我慢したりすることはなかった。毎日体重を測ったり、ウエストをいつも気にしたりはするが、単に敏感であるだけ。気にしてはいるが、行動に移さない。それこそ気にしているだけなのである。だから、椎名が太ってしまったのには椎名本人に原因があると言える。

 

 それに、相田もまた椎名が太ることをあまり気にしないでいた。食べ過ぎや運動をしないと太ってしまうことは口にしていたが、椎名が太ることに対して、嫌がることはなかった。椎名に痩せてもらおうと、相田が行動に出ることは今までに一切ない。

 しかしなぜ、2年前に椎名に一目惚れまでした相田がそうしなかったのか。小柄で割と細身の椎名を好きになった相田が、何もしなかったのか。

 その理由は、相田が椎名を愛しているが故にしなかったこと。愛していたからこそ、彼女の意思を尊重したからこそ、それを強要することができなかったである。

 

「でも、そっか。あれからもう2年が経つのか。そりゃあ、変わるか」

 

 椎名の体重が変わっていったように、相田も椎名に告白した日から変わった。椎名を本気で愛することを誓った相田は、椎名を受け入れ、椎名の気持ちに寄り添うようになった。椎名が願えば、その願いに同意し、そのために頑張る。椎名が諦めれば、それを許容し、椎名のためにできることをする。そういったように、相田は自分の欲望を押しつけるのではなく、椎名の全てを受け入れ、それを愛して生きてきた。

 

 人によっては、相手をただ受け入れて愛するという考えは、愛ではないと言うのかもしれない。相手のため。相手のことを思うなら。相手にとって、相手のためになることをしてあげること。それが愛であると。そう考える人は多いのかもしれない。

 だが、それには自分の欲望が混ざっていないだろうか。誰しもが相手に対して、相手にそうあってほしいという願望が混ざっていないとはきっと言えない。なにせ人間は、相手のためにならないことを受け入れることは自分のためにならない。相手が堕落の道に陥ることは、自分も堕落の道に陥ることと一緒である。

 

 しかし、相田は違った。相田は椎名を愛しているからこそ。本気で愛することを誓ったからこそ。その過程で椎名の全てを愛してしまったからこそ。相田は愛を自分の欲望で塗りつぶすことが出来ない。愛することも愛されることも私利私欲の感情を混ぜることが出来ないでいる。

 つまりそれは、悪く言えば自己犠牲の愛。自分が相手を思いやり、自分が相手を受け入れるという、自分を摩耗させる愛だと言える。その結果、椎名を太らせ、甘やかし、そして傲慢にさせていったとしても、相田は受け入れる。受け入れるしか出来なくなっていた。

 

 はたして相田の愛は、愛であると言えるのかどうか。本当の愛と言えるのかどうか。もしかしたら、大多数の人間が持っている愛の価値観とは違い、世間一般では認められないものなのかもしれない。

 それでも、少なくとも相田はそれを本当の愛であると。本気で愛するということが相手の全てを受け入れることであると。相田はその愛を基に、椎名を愛することを決めていた。

 

「………………」

 

 相田は椎名の全身を見つめる。愛おしそうに、愛する女性の全身を何回も舐めるように見回す。視線が髪の毛、顔、胸、お腹、腰、足、つま先と何度も移ろいながら、少しずつ近づいていく。

 しかし、相田は少しずつ悲し気な表情になっていく。いつしか、ベッドに横になって寝ている椎名のすぐそばまでくると、手を伸ばして、椎名の体を触った。ややふくよかな胸、くびれのない腰、太ましいふともも、そしてもっちりとした顔の頬に触れ、椎名の髪の毛の匂いを嗅ぐ。

 

 相田は自分の中にある何かを感じようと、目を閉じながら自分の気持ちや心の衝動を感じることに集中する。だが、相田は何も感じない。

 むしろ、大事にしたい。優しくしたい。汚したくない。そういった、愛しているものへの感情が強くなっていくだけで、愛したいといった感覚が湧き起らない。

 

「……ふっ、やっぱりダメか」

 

 相田は諦めるように、ぼそりと呟いた。椎名が寝ている横に寝転がり、仰向けになりながら白い天井を見つめ、気難しそうな表情を浮かべ始める。ベッドに体を預けるように全身の力を抜いて、目を閉じて考えることに集中し始める。

 

 相田は頭の中で疑問が浮かびあがり、心の中で自分に問いかける。

 なんで? どうして? なぜ自分だけなのか? 相田は疑問を問いかけて、自分の中からその答えを探すように考え込む。

 相田は悩んでいた。2年前の椎名に告白をした日から。椎名と付き合うようになってから。相田が椎名に対して何かを失ってしまった原因を。もしくは、自分に備わっているはずのものを見失っている理由を。相田は悩みながら考える。

 

 相田が失ったものが何か。それは、欲求であった。無性に愛したいという感情。本能的に愛したいという欲求が、何故か芽生えて来ない。俗に言う、性的欲求というものが相田は椎名に対して湧かないでいる。

 相田自身、性欲というものが湧いて欲しいと願っているわけではない。だが、生理的現象が湧かない理由が何なのかが不思議でたまらない。何が、どうして、自分にある生理的欲求を椎名に対しては起こらないのかが、相田には疑問であった。

 

「やっぱり、俺って……おかしいのか?」

 

 相田は声に出して疑問を問いかける。自分だけがおかしいのか。それとも、他人と自分は違って当然なのか。相田には分からない。

 もしも、相田と同じように。相田の周りの人間達にも愛する人に対して性欲を感じていないのであったなら、相田は気にすることは無かったのかもしれない。

 だが、高校生で付き合っている異性に対して性欲を感じない人間など、相田の周りにはいなかった。元々、性欲があまりなく、誰に対しても性的欲求を感じない人間はいた。しかし、そんな人間には恋人がいないのが大半で、例え恋人がいたとしてもそれは恋人と呼ぶには薄っぺらな関係であった。

 

 恋愛感情を抱いているのであれば。恋をしているのであれば。それこそ、相手のことが好きならば、少なからずも本能による欲求めいた感情が出てくるはず。性的な情欲というものが湧いてくるはずなのだと。相田はそう思っていたし、相田の周りではそれが普通であった。だからこそ、相田自身、自分がおかしいのではないかという疑惑を自分に対して抱いてしまう。

 

「……なぁ、智華」

 

 相田は自分の隣で眠っている椎名に顔を向けて、優しく問いかけるような声で名前を呼ぶ。でも椎名は、相田が呼びかけたところで、眠りから覚めない。寝息を立てている音が隣にいる相田に聞こえてしまうくらい、椎名はぐっすりと眠っている。

 

「もしも、あの時。俺が……」

 

 相田は椎名が眠っていることを分かっていて、問いかける。

 今まで椎名に問いかけようにも問いかけることが出来なかった言葉。相田はずっと前から思っていたことを、椎名の前で言葉にする。

 

「智華に涼平のこと、本当のこと言っていたら……智華に嘘をつかなかったら」

 

 相田が今でも忘れることが出来ないこと。未だに後悔して、過去に囚われていること。そして、宇垣が相田に残していったもの。それは……

 

「あいつが死ぬことにはならなかったのかな」

 

 それは2年前の告白をした日のこと。椎名に対して相田が取った行動。椎名のために嘘をつき、宇垣の願いを受け取って、椎名に自分の想いを告白したことである。

 

 相田は、宇垣を思い出す度に思っていた。もし、椎名に告白をしたあの日。椎名に対して違った選択を取っていたら。宇垣のために、相田が犠牲になっていたら。宇垣と椎名が付き合えるように行動していたら。宇垣が相田と椎名が付き合ってほしいという想いを裏切っていたなら。宇垣を失わずに済んだかもしれない。きっと、宇垣の前で誓った決意を捨てられたかもしれない。相田はそういった宇垣を失ったことへの後悔と葛藤を抱えていた。

 

 昔の自分に対する後悔が、相田に宇垣が自殺してしまったことをずっと忘れられなくさせている。忘れられないから、囚われてしまう。囚われてしまっているからこそ、後悔する。後悔しているからこそ、相田は宇垣のことを忘れられずにいる。そんな相田だからこそ、宇垣が自殺せずに済んだかもしれないという方法。また、自分の取るべき選択が他にもあったのではないかと考えてしまうことがあった。

 

「……でも、仕方無かったのだろうか」

 

 しかし、考えたところで、過去は変わらない。自殺してしまった宇垣を救う方法など、今は残されていない。相田に残されているのは、宇垣の言葉と宇垣に対する後悔だけ。結局相田はいつも、仕方無かったという言葉で意味のない思考を停止させる。

 過去の相田の選択が正しいかったのかどうかは分からない。でも、椎名のことを思えば、相田がしてきたことは一番良かったことなのだと。宇垣が死んだということ以外は、相田が選んだ行動は間違いではなかったのだと。きっと最善であったに違いないと、後悔から目を背けるように相田は自分に言い聞かせる。

 

 相田は椎名の顔を見つめながら、愛情を込めるように椎名の髪を優しく撫でる。ベッドの上で横になりながら、感じている不安を和らげるように、椎名を愛でていく。その度に相田は、椎名を可愛がるように撫でられることに幸せを感じていた。

 

「いいや、やっぱりこれで良かったんだよな。だって、こうして椎名と一緒にいるんだから」

 

 結果的には、相田は想い人であった椎名と付き合っている。椎名も、自分のために色々と尽くしている相田に好意を抱き、今でも2人は付き合っている。恋人として椎名と今も共にしていることを考えると、相田の取った選択は良かったのだと言えるだろう。

 それこそ、好きな人と一緒に居て、好きな人を愛することが出来て、好きな人と共に人生を歩んでいける。それだけ言えば、十分に幸せなことである。相田はその幸せにケチをつけることは傲慢なことなのだろうと、椎名を撫でながら思ってしまう。

 

 相田は椎名のすぐそばまで近づく。椎名の手を両手で握り、額に近づける。椎名に触れながら、椎名の存在を心の底から感じていく。

 

「本当に、好きになって良かったって………思いたい」

 

 好きになって、こうやって恋人になって、本当に良かったと懇願する相田。

 きっと相田は、これからも変えようとはしない。今の相田だからこそ、自分から変わることが出来ないままでいるのだろう。

 

 愛したいという情欲がない。

 性的欲求が湧き上がらない。

 湧き立つ感情が起こらない

 

 きっと、相田が変わらない限り、誰かがその答えを気付かせない限り、ずっとその悩みを抱えたまま相田は生きることになる。

 

「……智華、ごめん。ごめんな。俺はおまえの気持ちに、応えられないのかもしれない」

 

 相田は一生言うことはないだろう。宇垣が抱えてきたものを。宇垣という人間のことを。自分の本音を。

 そして、度々後悔するのだろう。宇垣が自殺してしまったことを。椎名に本当のことを言えなかったことを。

 

「それでも俺、あの頃から今もずっと智華を愛しているから」

 

 けれど、相田は愛している。椎名智華という女性を今まで愛していた。

 そこに恋愛感情はもうない。異性としてではなく、1人の人間として愛している。

 大切に想って、たくさんの時間を共に過ごして、愛を育んできた。

 大事な人として、愛する人として、真剣に彼女を想ってきた。

 

 だからこそ、欲望にまみれた愛情が湧かない。もっと愛したいという欲望のようなものよりも、今目の前にいるこの愛している人を、真剣に愛することを決めている。

 好きだからこそ、愛しているからこそ、かけがえのない大切にしてきたからこそ。相田はそれを汚すことができない。欲望よりも、大事にすることを心から願ってきたからこそ、椎名を真剣に愛してきた。それ故に、相田はこれからもずっと変わらずに生きていく。

 

「これからもずっと……俺、愛しているから」

 

 それでも、相田には残酷な運命が待っている。いつか、相田が壊れる日が来る。

 それは相田の愛が自己犠牲の愛だからこそ、いつか摩耗して、擦り切れて、愛が引き裂かれてしまうことになるからだ。

 例え、どれだけ本人達が変わらずに生きていても、その愛が変わらないことはない。相手を大切にしたところで、自分が壊れてしまえば、その関係は崩れてしまう。

 

「…………うん」

 

 相田のそばから、小さい声が漏れる。震えた声ではあったが、確かに、相田の耳に聞こえた。

 握り返してきた手を、相田はさきほどより強く握る。

 

 相田は椎名の全てを受け入れ、椎名を思いやり、椎名のことを本気で愛している。

 けれどもし、相田を救えるとしたら。相田を変えることが出来るとしたら。

 それはきっと、椎名という恋人ただ一人しかいない。

 

 

 相田と椎名の2人が共に付き合い、共に恋人として生きて、共に人生を歩んでいくために。そのために何が必要なのかを、2人はいつか直面することになる。

 でも結局必要なのは、椎名が相田の全てを受け入れ、相田を思いやり、相田のことを本気で愛することなのだろう。

 

 だって恋愛は、片思いでは実らない。

 両方が思いやり、両方がお互いを想うからこそ、恋は実って、愛が育まれていく。

 

 もしこの世界で一番素敵なことがあるとしたら。

 それはきっと“好きな人に好きって伝えること”ではなく“好きな人を好きになって想いやれること”。

 

 お互いが想い合う“()()()”であるに違いないのだろう。

 









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10話 自殺

 8月20日の夕方。今は17時を過ぎた辺りの時間である。宇垣 涼平は早くも自室のベッドの上で目を閉じて眠りにつこうとしていた。

 宇垣は病気で床に伏せたように辛そうな表情を浮かべる。布団の下にもぐりながら、苦しそうにもがき続ける。恋愛という名の病気を患わっている宇垣は数分前に睡眠薬を飲み、苦しみから逃げるように眠りの世界へと入ろうとしていた。

 だが、いつまで経っても宇垣は眠れないでいる。思考はぼんやりとしながらも、お腹の中からくる気持ち悪さが眠気を消していき、眠ることを邪魔していた。ついには胸やけを感じ、今にも胃の中のものを吐きそうな気分になると、目を開いては片手で口元を(おお)い始める。

 

「う……ううっ」

 

 ベッドの上で横になっていた宇垣は、布団を払い除けて、すぐに立ち上がった。学習机のそばに置いてあるゴミ箱に顔を向け、胃の中にあったものを胃液と共にゴミ箱の中へとぶちまけていく。

 

「ぅぉっ………うぇぇっ……ぇっ」

 

 口から流れ出る胃液と消化しきれていない残飯物。そして、胃液で溶けきれていないたくさんの錠剤の睡眠薬が吐き出され、ゴミ箱の中に溜まっていく。酸味のある強い異臭が宇垣の鼻を刺激させていくが、今の宇垣自身はそれを気にしているどころではない。

 

「……うそ、だろ? ……ぉぇっ」

 

 嗚咽を吐きながら、宇垣はゴミ箱の中身を恨むような目をして顔を歪ませている。

 宇垣が口から溢れるように出ていったものは、さきほど服用した睡眠薬である。今日というこの日のために、宇垣は事前に市販の睡眠薬を買っておいた。そして今日、1箱分ほどの錠剤を水で飲用し、より溶けるようにと水もたくさん飲み込んだ。その後に宇垣はベッドの上に横になり、ついさっきまで布団をかぶっては睡眠薬が効いてくるのをずっと待っていたのだった。

 

 だが、人間の身体というものは思い通りにはならない。特に人間の体内にある臓器の1つである“胃や腸”というものは割と繊細かつ鋭いものであった。

 いつもと違うという異変を感じた宇垣の胃は、飲み込んだものを追い返してしまう。飲み込んだものを消化することに対して拒否反応を示してしまった。そのため、消化されるはずの睡眠薬は溶けてしまう前に体内からの体の外へと出て来てしまうこととなった。結果的に薬を異物として認識し、それを追い出してしまった胃は、今ではまるで万引き犯に商品を盗られたばかりのショッピングセンターのように、より厳重な警戒態勢を整えてしまっている。

 

「なんで……だよ……っ」

 

 宇垣自身にとっては、飲み込んだ睡眠薬をほぼ全部吐きだしてしまったことは思惑に反していた。本当なら、睡眠薬を飲み込んで、消化して、体内に睡眠薬の成分が効いて、安らかに死ぬ予定であった。

 だが、宇垣にとっては予定外なことに、睡眠薬の錠剤のほとんどが体の外に出てしまっている。今の状況的に、睡眠薬は余っていない。また、ゴミ箱の中にある吐きだした睡眠薬をまた口に入れて飲み込める状態ではないことは見て明らかであった。

 

「くそっ! なんで!? なんでだよっ!!」

 

 宇垣は怒りながら、自分のお腹を叩く。自分に対して憤りを感じてしまっているだけに、自分のお腹にある胃に対して怒りをぶつけてしまう。何度も何度もお腹を叩いてはみるが、宇垣の中にある怒りは消えない。腹部に痛みは感じても、自分に対する憤りは無くならないでいた。

 

 はっきり言ってしまえば、宇垣は色々と失敗していた。予備も含めて睡眠薬をたくさん買うことを忘れていたこと。事前に睡眠薬を飲んだりして、体の中で少しは睡眠薬を慣れさせていなかったこと。睡眠薬の錠剤を細かく砕いて、溶けやすいようにしなかったこと。胃に対して負担にならないように、ある程度食べ物を入れ、胃液がたくさん出て消化しやすくしなかったことなど。宇垣は自殺するという点で言うと、色々な面で詰めが甘かったと言える。

 

「……もう、どうすれば。どうしたら……ううっ」

 

 結局、怒りは消えないまま苛立ちを抱えていく。悲しみと悔しさが込み上げていく中、宇垣は吐き気が弱まったところで立ち上がり、よろめきあいながらも歩き始める。嘔吐した辛さで思考が麻痺しながらも、とりあえず部屋を出て廊下を進んでいった。

 

「とりあえず、なにか……ないかな」

 

 宇垣は壁伝いに歩きながら、ふと宇垣の部屋を出てすぐの家の階段に目を向ける。ぼんやりとした頭の中で、父親のことを。1階にある父親の部屋にある物のことを思い出す。

 

「……父さん」

 

 宇垣は壁に寄りかかりながら思考し、立ち止まったまま虚ろな目をして想像する。

 他に自殺できる方法を。自分を殺す方法を。殺さなくてはいけない存在を殺す方法を。

 

「……ダメだ。それは、父さんを……殺してしまうのといっしょだ」

 

 父親の部屋にある物で自殺する方法を考えついた宇垣ではあったが、すぐに思い留まる。もし、父親の部屋にある薬を使えば、父親を不幸にしてしまう。最悪、社会的に殺してしまう結果になりうるかもしれない。そういった思いから、宇垣は自分に言い聞かせるように言葉を呟きながら、他に自殺出来る手段を考え始める。

 

 宇垣はまた壁を伝いながら2階の廊下を歩いて、現在は父親の寝室となっている部屋と向かう。その部屋は、元々は宇垣の母親が家に住んでいた頃の母親の部屋であり、また両親の寝室でもあった部屋。宇垣は扉を開けて、部屋の中にある薬箱を探し始める。

 

「…………あれ?」

 

 部屋の中に昔からある大きい棚。宇垣は棚の上に置かれている物に、薬箱らしきものがないか探す。しかし、昔はあったはずの場所に薬を入れてある箱はなく、いくら棚の上を見渡しても、目当ての物が見当たらない。宇垣は少し戸惑い始めながらも、部屋の中を見渡し始めた。

 

「どこだ? どこにあるんだ?」

 

 テーブルの上、引き出しの中、タンスの上、テレビのそば。夕暮れの太陽の光が窓から入って来てはほんのりと照らされている部屋の中を、宇垣は必死になって探していく。

 宇垣はしばらく探していて、ベッドのそばの棚の下にある木製の箱を見つけ、手を伸ばす。木箱のフタを開けてみると、そこには市販で売られているような薬やら、病院でもらった薬などがたくさん入っていた。

 

「あった。えっと……」

 

 宇垣は箱の中をまさぐり、薬の1つ1つを確認する。床に適当に置きながら、薬の袋や箱を散乱させていく。その中に、睡眠薬は1つも含まれてはおらず、宇垣が思っていたものは箱の中には無かった。

 

「………ない、か」

 

 宇垣は落胆するかのように大きく溜め息を吐く。しかし、本当に落胆したわけではない。顔色は絶望の色に染まってはおらず、自殺することは諦めていなかった。

 

「そっか。粉末状(これ)なら……」

 

 確かに睡眠薬は存在しなかった。だが、睡眠薬でなくとも、睡眠薬と似た効果のある薬は存在する。特に、病院でもらったまま飲用しなかったものや市販の薬でも粉末タイプのものがそこにはあった。それは宇垣の父親が風邪を引いた時、頭痛が止まない時など。全部を使い切ることなく残っていた薬である。

 宇垣の表情が少し緩む。宇垣にとっては、父親が病院でもらったり、薬局で購入した薬こそが自分の求めていた物であったと感じたからだ。父親が残しておいてくれたおかげだと思うと、つい自分の父親に対して感謝の念を抱いてしまう。

 

「……いかないと」

 

 宇垣は床に置かれた薬の袋や箱を薬箱の中に戻し、それを持ちながら父親の寝室を出る。今度は壁を伝うことなく、宇垣の部屋へと歩いて向かう。

 

「はやく……しないと、手遅れになる」

 

 宇垣は少し慌て始めていた。理由は急がないと自殺することを邪魔されるからだ。それも自分自身。自分の中にいる自分に、である。

 足早に歩きながら、宇垣の頭の中に不安がよぎっていく。時間も運命も親も自分も他人も。その全てが、宇垣が自殺することへの未来を閉ざそうとしてくることは、宇垣自身にとって想像に難くなかった。時間が経てば経つほど、宇垣は自分という存在を殺す前に自分の意識や意志が殺され、自殺することが叶わなくなっていくことを知っていた。

 つまり、自殺出来なかったという結末を想像し、自殺を諦めてしまう状況に至ってしまうことを、宇垣は恐れた。その想像が、不安と焦燥が混じった感情を抱かせ、宇垣の足取りを早めていく。

 

 自分の部屋に入った宇垣は、学習机の上に薬の入った木箱を置いて、箱の中に入った薬を取り出していく。今から飲み込む薬を学習机の上に集め、イスに座って目を閉じては思考し始める。

 宇垣はさきほど、自殺することに失敗した。だからこそ、自殺するためにはどうすればいいか、完全に自分を殺すためにはどうしたらいいか。もう一度考え直し、イメージする必要が宇垣にはあった。

 

「…………ふう。簡単にはいかないね」

 

 宇垣は自分自身の頭の中で想い描いた自殺のイメージに対して、少し息を吐きながら皮肉めいた声色で呟く。表情に不気味な笑みを浮かべ、窓の外に視線を向けては夕焼け色に染まる外の景色を見つめる。

 

「甘かったのかな、楽に死のうなんて。やっぱり……自分からじゃなきゃ、自分さえも殺せないのか」

 

 現実の辛さに嘆くように、しみじみと言葉を呟く宇垣。口から吐いた言葉が宇垣自身に重くのしかかっていき、自分の中にある弱い部分を押し殺さなければいけないことを実感させる。

 

 今日、宇垣が実行しようとしていたこと。それは、比較的楽に死ねるという理由から、睡眠薬を多量に摂取しての自殺であった。

 誰だって自殺する時に苦しみたくはない。宇垣も同じで、焼身自殺や一酸化炭素による中毒死。心臓を貫いたり、静脈を切ったりなどの出血多量による自殺は、宇垣自身にとってハードルが高かった。自分を殺すという意志は固まっても、いざ実際に苦しみを堪えながら自分を殺すことは、そう容易ではないのだ。

 

 人は無意識にでも痛みや辛さから逃れようとする。反射的に避けようとしたりして、死ぬという行為に拒否反応を起こしてしまう。だから宇垣は、眠りながら死ねるという睡眠薬による自殺を選んだわけだった。

 だが、痛みや辛さが無かったとしても人は生きようとする。人は人間の本能や生物の性からは、決して逃れられない。そうなると、自分を殺すことに必要なのは確実性と本能ですら抗えない不可抗力によるものであった。

 しかし、宇垣のしようとしていた睡眠薬による自殺は確実性を欠いていた。普通なら死んでいたのかもしれないが、宇垣自身に備わる生命力が意志に反して宇垣を救ってしまったわけである。

 

 自殺に失敗したことで、宇垣は思い知る。楽に自分を殺そうなんて、間違っているのだと。中途半端な思惑で自殺をしても成功しないのだと。身を持って経験したからこそ、宇垣はそう痛感した。

 そこで宇垣は、確実性を持つためにも自分の手で自分の命を絶つことを決心し、自分を殺すイメージを頭の中で浮かべた。けれど、宇垣がイメージしていた自殺は用意ではなかった。さきほどの睡眠薬によるものとは違って、生半可な気持ちでは出来ない。だからこそ宇垣は、薬によって死ぬのではなく、薬の効果を伴った上で自殺することを考えていた。

 

 

 宇垣は立ち上がり、学習机の上に置かれたコップを手に取って、自分の部屋を出ていく。2階にあるトイレへと向かい、手洗い場の水道から水を汲んで少し飲む。減った分をまたコップの中に汲んで、自分の部屋にもどっていく。

 そして、自分で考えた自殺を実行するための準備を始めていた。

 

「さて、と。準備は、これでいいはず……だよね?」

 

 しばらくして、自殺の準備を終えた宇垣は、再びイスに座った。窓を全開に開き、机の上にあるものを確認する。

 封が開けてあるいくつかの薬。水の入ったコップ。音楽プレーヤーとイヤホン。鉛筆。封筒から出した、遺書の手紙。そして、コンセントの延長コードとダンボールカッター。

 宇垣は延長コードを持ち、窓から2階の屋根へと出て、エアコンの室外機に延長コードを固く結んでいく。そして延長コードの長さを確かめ、先端に頭が入るくらいの輪っかを作っていった。

 

 宇垣の行おうとしている自殺は、首つりによるものである。

 薬を多量に飲み、ダンボールカッターで手首を切った後、部屋の窓から出てすぐにある室外機にコンセントの延長コードをくくりつけて、2階の屋根から地面へと飛び降りる。宇垣の考えている自殺の計画はそういう内容であった。

 ただ、首つりをする時点で、薬を飲むことと手首を切る必要はない。けれど宇垣には、もう自殺は失敗したくないという想いがあった。念には念を入れて自殺することを考え、死ねる可能性を少しでも高くしようと大量の薬とダンボールカッターを用意していた。

 

「これで、完成かな」

 

 宇垣は家の屋根の上で延長コードの輪っかを首に入れたり、締まるか軽く試してみたり、簡単に取れないか強度を確かめたりする。自殺出来ることに確信が持てると、すぐに自分の部屋へと戻り、学習机の前にあるイスに座った。

 

 学習机の上にある薬は合計で8つ。宇垣は少し水を口に含んだ後、袋や箱に入った薬を2つずつ口の中に入れ、水と一緒に飲み込んでいく。6つほど飲み込んだ辺りで、もう一度水を汲みに水道へと向かい、また薬と水を飲み始めた。そうやって薬を全部飲み込んだ後、宇垣はコップを学習机の上に置いて一息つく。

 

「…………ふう~っ」

 

 軽く目を閉じながら、宇垣は胸を膨らませるように大きく深呼吸する。息を出し切ると、目を開いては学習机の上にある音楽プレーヤーに視線を移した。音楽プレーヤーとイヤホンを手に取り、電源スイッチを押して起動させては、イヤホンを両耳につけていく。イヤホンのプラグを音楽プレーヤーに繋げ、中に入っている音楽フォルダを選んでいき、「ベートーベン」の文字が出て来たところで操作を止めた。

 

「さて、始めるか」

 

 音楽プレーヤーを学習机の上に置いて、宇垣は右手で再生のボタンを押す。すると、イヤホンからベートーベンの曲が流れ始め、宇垣は耳から音が漏れるほど、音量を最大にしていく。

 宇垣は音楽を聞きながら、学習机の上に置かれた遺書の入った封筒を手に取り、中に入っている紙を取り出した。学習机の上に紙を広げ、右手で鉛筆を持ち、空白のある部分に文字を連ねるように書き始める。

 

 宇垣が遺書として残しておいた手紙に文字を書き始めたのは、生きたいという想いや自殺することへの恐怖心を麻痺させるためであった。文字を書くことで思考を鈍らせ、自分に呪いをかけることで、躊躇(ちゅうちょ)なく自殺に挑めるからだ。

 そして、紙を空白の部分を文字で埋め、書くスペースを失った瞬間。宇垣は自殺し始めることを心に決め、文字を書き終えることが自殺へと踏み出す区切りとして、遺書の紙に文字を書き始めていた。

 

「……仕方無いんだ。無理じゃない。するしかない。めんどう。いや、動くだけ。いっしゅんだから。だからやれよ。なんで、やるしかない」

 

 言葉を口ずさみながら、宇垣はひたすら文字を書き連ね、書くことに集中していく。自分に言い聞かせるように自分に対して呟きながら、自分の世界に入っていく。

 宇垣が音楽プレーヤーの中で選んだ曲は、ベートーベンが作曲したと言われるピアノ曲。「熱情」や「告別」、「悲愴」や「月光」などのピアノソナタがある。その中でも、「熱情」という曲を耳にしながら宇垣は曲の勢いに乗って紙に乱暴に文字を書いていた。勢いに任せ、自分に暗示をかけるように一心不乱に書く行為が、宇垣の心を満たし始め、自殺へ向かうための準備を整えていく。

 

「いけいけいけいけいけ、いげいげいげぇぇっ!!」

 

 宇垣は喉が荒れるような声で、声を大きくしていく。頭を軽く揺らしながら、目が乾燥するかのように見開いて紙を見つめている。

 ひたすら、休む間もなく、速く、流れるように、宇垣は文字を書く。文字を見ながら書いて、書きながら言葉を口に出して、自殺するための言葉を頭の中に埋め尽くしていく。

 

 遺書である紙の隅まで文字を書ききった瞬間。宇垣は鉛筆を適当に壁に向かって投げ、学習机の上にあるダンボールカッターで手首に勢いよく切り込みを入れる。力にまかせて引いたことにより、手首の中の血管は切断され、血があふれるように垂れ始めていった。

 

「ぅぅ、うがああああああああっ!!!」

 

 宇垣は痛烈な痛みを味わい、笑みと痛みが混じったような顔。歪んでいる表情を浮かべ、うめき声を口に漏らしながら、窓へと走り出す。窓に乗り出し、延長コードの結んである輪を首に入れ、地面へと向かって跳んだ。

 宇垣は首つり自殺を行った。自分を殺すために、誰かを殺す前に、愛する人を想って。

 

 

 

 その後、宇垣 涼平という人間の自殺は、成功した。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2005年8月27日の夜。時刻は20時を過ぎ、宇垣の家のほとんどが真っ暗である。今は先住者である人間の一人が部屋にいることを除いて、宇垣の家には他に誰もいない。

 先日まで葬式やらお通夜やらと色々と人通りの激しかった宇垣家ではあったが、今では人気の無い寂しい状態である。まるで、誰もいないという雰囲気を醸し出しているかのようだった。

 

「すぅー…………っ」

 

 宇垣 涼平の父親。宇垣 雄太は茶色のタンクトップのシャツに黒い色の短パン姿で、自室のイスにゆったりと座っている。部屋の中は暗く、明かりは机の上に置かれたパソコンの光によるものだけ。そこに、小さな火の光がぼんやりと現れる。

 壁に備え付けてあるエアコンが部屋の中の暑さを冷やしていた。だが、普通の人間ならばシャツと短パンだけでは肌寒い室温ではあった。それでも、父親の雄太は気にせずにいる。筒状のものを口にくわえ、ライターの火でそれを燃やしては、煙を口の中に充満させている。

 

「…………ふぅ~~っ」

 

 父親の雄太は自室の天井に顔を向け、一気に体内の空気を口から吐き出した。ついさっきまでパソコンを触っていたのだが、今は一段落するように手を止めて休憩している。

 

「はぁー……疲れた」

 

 椅子に背中を預けたまま、父親の雄太は気だるそうにぼんやりと天井を見つめる。今日までのことを思い出していきながら、とうとう明日が迫っていることに嫌気が差してきていた。そのせいで、今は明日のことで頭がいっぱいになっている。

 

「明日から仕事かぁ……休みもあっという間だったな」

 

 宇垣 雄太の息子。涼平が死んで6日が経とうとしている。仕事を休んでいた父親の雄太ではあったが、明日はいつものように出社しなければならない。携帯電話会社の社員である雄太に、携帯電話が普及しているこのご時世で休みを多く取れる余裕はない。

 

「……あー、面倒臭いな」

 

 宇垣が自殺をした日。8月22日以降、父親の雄太は葬式とお通夜。その他に親類や身内の人間への挨拶、警察やマスコミの接待などの日々に追われていた。そして、今日になってやっと時間を自由に取れるようになっていた。

 父親の雄太が休む暇もなく、忙しく過ぎていったこの数日間。その全ては、宇垣涼平の自殺が要因である。それだけに、雄太はストレスを感じていた。

 

 しばらく休憩していると、父親の雄太は頭が段々とぼんやりしていく。そこで、眠気を覚ますためにテレビの電源をそばにあったリモコンのボタンを押して入れる。何回かチャンネルを変えたりしながら、今の時間帯にやっている番組に目を通していく。

 

『次のニュースです。先週、石川県加賀市の霞ヶ丘町在住の16歳の高校生が、解熱剤や風邪薬を多量服用し、車に()ねられて死亡した事件で、霞ヶ丘高校の』

 

「ちっ!!」

 

 だが、父親の雄太は舌打ちをしてすぐにテレビのリモコンで電源のボタンを押す。ニュース番組で自分が関わっている事件のことが報道されていることを知ると、すぐさまテレビの電源を切った。

 

「まだ、やってんのかよ。いい加減やめてくれよな」

 

 雄太は苛立ち気味に、テレビのリモコンを机に力強く置く。しばらく目を閉じて、苛々している頭を冷やす。しかし、雄太の機嫌は良くならない。むしろ、表情に段々と怒りを露わにし、機嫌は悪くなる一方であった。

 

「……くそっ、もっかい吸うか」

 

 雄太は自分の机の引き出しを開け、手探りで何かを探し始める。しかし、そこに目当てのものはない。そこで雄太は、ついさっき吸っていたものが最後の1つであったことを思い出す。

 仕方無さそうに、雄太は椅子から立ち上がって、近くのタンスに手を伸ばす。下着が入っているところの中から、片足しかない靴下を手に取り、その中から1つの鍵を取り出した。そして、タンスの一番大きい引き出しの奥に隠してある頑丈そうな箱を取り出し、鍵のロックを外していく。

 

「ん? これは?」

 

 雄太が箱を開けると、そこに見慣れない封筒が入っていた。不思議そうな表情でその封筒をパソコンの光の前で照らすと、雄太は納得した様子で表情を緩める。

 

「ああ。涼平のか。そういや、これを渡すの忘れてたな。たしか……相田くんだっけか?」

 

 その封筒は、宇垣 雄太の息子である涼平が、友人の相田 政に宛てた手紙であった。厳密には、自殺する前に書き残した相田に対する遺書のようなものである。

 ところが、涼平の残した封筒を1番最初に見つけた父親の雄太は、すぐさま中身を確認し、その封筒を誰にも見られないようにと隠してあった。書いてある中身が雄太にとって困る内容ではなかったが、遺書を残していたとあっては自分に都合が悪くなると思ったのか、その手紙はまだ相田に手渡されていない。

 

「あいつにも、やっぱり友達はいたんだな。ったく、紹介くらいしとけよ。そうだったら、その時に……」

 

 頑丈そうな箱の中に入っている薬の袋に目を向けながら、雄太はぶつぶつと呟いていく。不満を抱える雄太ではあるが、息子の涼平があえて友人をいない素振りをしていたことに気付かない。涼平が父親にバレないようにするために、相田を家に呼ぶことはしなかったこと。学校でのことを父親にはあまり話さなかったこと。宇垣は相田に迷惑がかからないように、あえて相田の存在を隠していたのだった。そのおかげで、父親に雄太には今まで気付かれずにいた。

 雄太はぶつぶつと呟きながら、涼平の残した封筒の中身を取り出し、手紙の内容にもう一度目を通していく。いざ、落ち着いて読んでみると、友人に対して宛てる手紙にしては、酷い内容であった。むしろ、友人に重荷を与えるような手紙の中身に、雄太は息子の涼平の真意が恨みや後悔によるものであったことを感じ取ってしまう。

 

「まあ、いいか。とりあえず………」

 

 息子の残した手紙を雄太は机の上に適当に投げて、施錠出来る頑丈な箱の中から粉末の入った1つの袋を取り出す。またしても、怪し気な薬を火で(あぶ)っては筒状のもので吸い、口から体内に入れていく。

 幸福感と癖になる感覚に酔いしれながら、雄太は目をつむって椅子に体重を預ける。

 

「……ふぅ。ああ、本当に静かだ。もう1人なんだな」

 

 雄太は虚ろな目をしながら、静寂に包まれた自分の家に誰もいないことを実感する。昔はいた嫁も、この前までいた息子も、つい最近まで家に来ていた人間も、今はいない。家に自分以外の人間が誰も存在しないという事実が、雄太に開放感を与え、雄太の心を躍らせる。

 

「この家には、もう誰もいない……っふ、ふふふふ、ふはははははっ」

 

 雄太は笑わずにいられなかった。嬉しさが表情に(にじ)んでいき、楽しさで声が大きくなっていく。部屋に笑い声が響いて、子どものように雄太ははしゃいでしまう。大人が子どものように、気でも狂っているかのように、部屋の中で有頂天に騒いでいる。

 

「やったぞ! やっと自由だ。やっと、俺は自由になれたんだ。これで、もう俺を縛る人間はいない。俺だけの人生をやっと歩められる!!」

 

 雄太は幸せの感情を込めるように、喉から次々と言葉を吐き出す。決して、後悔も懺悔(ざんげ)も呟かない。

 これで良かったのだと。これで幸せなのだと。これで自分は、何も縛られないのだと。雄太はただ、ひたすら現在を肯定していく。

 

「よかった……本当に、よかった。はははっ、これで俺は、きっと幸せになれる」

 

 雄太は満面の笑みを浮かべ、幸福の感情を声に込める。幸せの絶頂を感じている。

 しかし、喋れば喋るほど雄太の胸は辛くなっていく。気持ち悪さが、体の中から悲鳴を上げるように湧き上がってくる。

 

「ありがとう涼平。死んでくれて、ほんと、う、に………ぅぅっ。うええぇっ」

 

 幸せそうに涙を流しながら、雄太は最後まで言葉を絶やそうとはしない。心の奥底に感じているものを閉じ込めるように、幸せだけを感じていく。

 しかし、身体は堪えきれず、雄太は机の上に全てをぶちまけてしまう。涙を流し、胃液を吐き出す苦しみに堪えながら、体の中で押しやっていたものが溢れ出て来てしまう。

 

 

 いつの間にか、雄太の机の上は吐露した残骸(ざんがい)まみれになり、雄太自身のお腹に入れたものが全部出し尽くした。自分のお腹の中に何も無くなったことで、雄太は気付いてしまう。気付きたくないものを、雄太は気付かされてしまった。

 息子を失ったことで、自分が失ったもの。雄太に残されたものは、何もないこと。自分以外、何も残されていないということを。雄太はそれに気付いた時には、椅子から起きる気力さえも無くなっていたのだった。

 

 

 宇垣 涼平が書き残した手紙。相田 政に宛てた遺書は、後日ゴミ箱と共に捨てられる。

 決して相田の目に届くことはなかった。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「い、がぁ……ぃ……」

 

 8月20日。夕方の5時42分。

 宇垣 涼平は、家の前の地面に寝転がっていた。

 

「あ………んで……じな、なぃ」

 

 ちぎれた延長コードが首に巻かれながら、宇垣は地面を転がり、絶望の中で泥のような感情がとてつもなく湧き起こっていた。

 

「じゃ、あ……ばぃ、あ、ああ……ぁ」

 

 目が虚ろになりながら、宇垣は理性を失っていく。

 逆に、首つりで命が絶えなかったことによって、宇垣の本能が爆発的に解放され、抑制していた隔たりは消えた。

 

「ぁ………あは。あひゃひゃはやああああ!!!」

 

 気でも狂ったかのような。宇垣は狂人染みた声を上げ、瞳孔が開き、指全体に力が入っていく。

 本能に赴くままとなり、理性が消えた状態となった宇垣は、土を掻き分けて奇声を大きく上げていく。

 

「うぎゃああああぃいいやああぁぁ、うぇぇっ!!」

 

 嗚咽し、胃液を吐きだす。吐きだし終えると、顔を上げて、白目を半分ほど向きながら、宇垣は外の世界を見る。

 

「ひぇ、へへへ……ぉぅ、ぃぃや。いいいいいやああああはああっはっはあぁぁ!!」

 

 本能が。人間の性が。生理的欲求が。

 宇垣 涼平という人間性を。宇垣 涼平という人格を。

 微塵もなく押し殺して消滅させる。

 

 宇垣は右手で何回も髪の毛を引きちぎり、湧き上がる衝動を抑えることなく、宇垣ではない宇垣という人間へとなっていく。

 

 

 人はみな、名前、記憶、性格、顔、身長、指紋、その他諸々が存在し、定められ、備えられている。

 しかし、何があれば人は別の人間に変わるのだろうか。何が変われば、何が無くなれば、人はその人でなくなるのだろうか。

 

 例えば、記憶。もし記憶を全て失えば、それは別の人間となり、別の人格となって、今までの元の人間ではなくなってしまうのだろう。

 だが、記憶を全て失ったところで、名前も顔も指紋も変わらない。別の人間として周りから認識はされない。たとえ、別の人間になったとしてもだ。

 

「なんでぇ、死にだぐない! あああ、愛したい! こ、ろじだい!!」

 

 人は人でしかない。

 個人がどうあがいても別の人にはなれない。

 個人の中に別の人格があったとしても、その個人が別の人にはならない。

 

 だから人格は、1人に集約する。

 

 たとえ、人格が2つであっても、それは1つでしかない。卵の中に黄身が2つあったとしても、卵が1つなのは変わらないのと一緒である。

 そして、その卵が割れた時、2つだった黄身をかき混ぜれば1つになる。

 

「ごぉろず! ごろじだい! 殺してぇあいじでぇぇっ、ころぉしたぁいいいぃっ!!」

 

 今の宇垣は、別の自分という人格が混じった新たな自分となり、理性が定まらないでいる。そのせいで、宇垣は抑えていた欲望に忠実になり、素直に受け入れてしまう。

 それは宇垣が一番避けたかったこと。宇垣自身が今まで恐れていたことが、宇垣の身に起こっていた。

 

 愛したいという欲望。殺したいという欲望。欲求は強くなるばかりで、止まることも消えることもない。

 ついに宇垣は立ち上がり、家の前の道路へと狂った足取りで力強く駆け出していった。

 

 横からスピードを出してやって来る車の存在も気にせず、宇垣は幸せそうに道を横断してしまう。

 恐れることも、留まることのない宇垣を、自動車を運転している人間には避けることは出来なかった。 

 

「あいじ、だい! 私、愛しだっ、があぁっ!!!」

 

 

 

 

 だから、宇垣 涼平は

 結果的に言えば、自殺を成功させたのだった。

 

 



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宇垣の手紙

これは、宇垣 涼平が相田 政に宛てた手紙である。


親愛なる友人。相田 政へ。

 

政がこの手紙を読んでいる時は 自分はどうなっているんだろう。

自殺できたのかな。それとも 誰かを殺してしまっているのかな。

でも 政のところにこの手紙が届いていた時 自分は死んでいると良いな。

そしたら きっと自分は死んだ意味があったなって思うよ。

だって それが誰もが幸せになる未来だから。

 

なんてね。そんなこと 自分が言えることじゃない。

結局 自分は自分を愛せなかった。大好きな人を愛さなかった。愛したい人を愛したくなかった。

だから 政から離れたんだ。自分は政のことを想っていたから 友達のままでいることを決めたんだ。

 

誰もが生きて 誰もが幸せで 誰も悲しまずに 誰も死なずに 誰も苦しまない。そんな人生を歩みたかった。

本当に愛する人を悲しませる未来を 自分は選ぶことなんて出来なかった。

だって どうしても自分を失うのが怖いんだ。

自分を失った先で 政の全てを失うことだけは本当に怖いんだ。

 

だから 政。

ごめん。本当にごめんな。

 

本当は口で言えると良かったんだろうけどね。

だけど今の自分だと それは難しいんだ。

きっと 自殺が出来なくなる。

 

もしかしたら 自分が謝ることで政には余計な重荷を負わせることになるのかもしれない。

けれど 謝らずにはいられなかった。

悪いのは政ではないけれど 原因は政にあるのだから。

 

ああ なんて自分は意地悪なんだろう。

こんなこと書かなきゃいいのにね。

でも書いちゃうのは 親友として自分が至らないせいなのかも。

きっと相田は自分と友達の縁を切っちゃうんだろうね。それも仕方無いのかな。

 

それでも 許して欲しい。許されることじゃないけど いつか許して欲しいと思う。

自分がもっと強ければ良かったんだけど 弱さに嘘はつけないから。

だから 弱い自分を 強くなれない自分を どうか許して欲しい。

 

そして 自分の分まで幸せでいて欲しい。不幸にならないで欲しい。

本当の愛を知った政なら きっと幸せになれるはずだから。

 

その代わりに自分が 愛したいという気持ちを抱えて死ぬからさ。

愛したいなんていう偽物の愛情に囚われるのは もう自分だけで十分なんだ。

絶対に。政にはそうなってほしくない。本当に 自分だけであってほしい。

 

だから 自分は 殺す。

自分を殺す。自殺する。自殺しなければならない。

殺さなければ誰かを殺す。

 

だから、さようなら。

政に会いたくなかった。

けど、政に会えて、よかった。

 

 

                      宇垣 涼平より

 

 

仕方無い 無理 するしかない

めんどうくさい

うごくだけ いっしゅん

 

やれよ なんで やるしかない なんで なんでだ りゆう しめい うんめい しゅくめい

きめた きめたんだ きめたから

だから まもるために すきなひとのために あいしてくれたひとのために あいするひとのために

ありがとう ほんとうに ありがとう

やる できる さすがだ 

だれもできない ぼくにしかできない じぶんだけ じぶんのため じぶんしか じぶんだから

すごい すばらしい うれしい すき あこがれる えらい やばい さいこう

 

いけいけいけいけいけ  いけいけ いけ いけいけいけいけ

いけいけ いけいけいけいけいけ いけ   いけいけいけいけ

いけいけいけいけけいけいけいけいけ  いけいけいけけけいけいけ

いけいけいけいけいけ  いけいけいけいけいけいけいけいいけい

いけけけいいいけいけいけい いけけけけいけけいいけいけいいけぃけぃ 

 




死別の未来編     ー 完 ー


       次章より、真実編が始まる。


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3章(裏) 真実、私、幸の未来
11話 失心と食愛


今までのあらすじ

相田 政は、学校の中庭で椎名 智華に告白をする。
目の前で椎名に逃げられたことで、
傷心していた相田は、宇垣 涼平に会うことを決心する。

宇垣の家に行き、椎名に愛の告白をしたことを相田は告げた。
その後で宇垣は、自分自身の想いや抱えていたものを相田に告げる。

ついには、宇垣は椎名を殺すことを告げ、
椎名が宇垣の家にやってきたことで、相田は玄関へと走り始めていた。


8話では選ばなかった、もう一つの真実。
相田が選択した、本当の物語の行く末が始まる。


 7月22日20時頃。太陽は地平線の向こうへと沈み、光の無い外の世界を、外灯が眩しく照らしていた。

 霞ヶ丘町の霞ヶ丘公園から少し離れたところに、“宇垣(うがき)”という立札が玄関にかけられた一軒家がある。その家の玄関から、霞ヶ丘高校の制服を着た男子生徒1人。そして、その男子生徒と一緒にカバンを持った私服姿の女子が、手を引かれるように走って出てきた。

 

 終業式を終え、椎名(しいな) 智華(ちか)に告白し、宇垣の家を訪ね、宇垣から予想もしない言葉を告げられた相田(あいだ) (つかさ)。宇垣の家の玄関にいた椎名を血走ったような表情で手を掴み、玄関を出ては夜の霞ヶ丘町の道を走っていく。

 

「はぁはぁっ、はぁっ……」

 

 相田は椎名の手を離せないまま、宇垣がついて来られないであろう場所を探しながらひたむきに走る。

 外灯に導かれるように、光があるところを頼りにして、止まることなく進んでいく。

 

「ねぇ! ちょっと……」

 

 相田の後ろから椎名の声が聞こえてくる。

 だが、相田の耳に椎名の声が届いても、相田の頭の中は宇垣の言葉が離れない。椎名の声は聞こえても、椎名の言葉は聞いていない。

 相田の脳裏に浮かぶ言葉。相田の耳から離れない宇垣の声。“椎名を殺す”という言葉が、相田の精神を蝕んでいき、普通ではない状態にさせていく。段々と思考が鈍っていく度に、相田の中の不安感は大きくなり、焦りが生じていた。

 

【挿絵表示】

 

 外灯に照らされた道路を走りながら、霞ヶ丘公園の前についたところで相田は失速し始める。今までは無我夢中で何となく走っていた。だがここで相田の中で、次はどこに行こうかという迷いが生じてしまう。宇垣から逃げることよりも、宇垣から隠れることを考え始めてしまったからだ。

 

「ちょっと相田くん、離してっ!」

「あっ………」

 

 だが、足が止まり始めたことで、椎名は相田に握られていた自分の手を振り払う。

 2人が立ち止まった場所が外灯の近くのせいか、相田の驚きと焦燥の混じった表情。椎名の嫌悪感を抱いている表情がよく見える。

 

【挿絵表示】

 

 相田は周りを少し見て、自分が今いる場所が霞ヶ丘公園であることに気づく。しかし、すぐに椎名の表情が怖いことで頭がいっぱいになってしまう。誰が見ても椎名は明らかに怒っている顔をしていた。

 

「……ご、ごめん」

「ねぇ、なんで宇垣くんの家にいたの!?」

「そ、それは…………」

 

 相田は言葉に詰まる。なんて言えばいいのか。どう答えればいいのか。思考しながらも言葉が何も出て来ないことに、相田は余計に慌て始める。

 だが相田は今、落ち着いて話をしていられる状況ではないことを知っている。それは先ほど、宇垣が椎名を殺すと言っていたからだ。実際に宇垣が椎名を殺そうとしているのかは定かではないが、宇垣が椎名を家に呼んでいた。椎名がここにいる時点で、言葉を選んで椎名に説明している暇はない。

 

 相田は今日、宇垣の家に行き、宇垣のことを知った。宇垣の部屋を見て、宇垣の心情を聞いた。相田が知らなかった宇垣の深い部分を、知ることができた。

 だが今は、相田は宇垣のことが分からないでいる。むしろ、宇垣という人間が余計に分からなくなってしまっていた。だから相田は、宇垣のことを上手く話せないでいる。分からない人間である宇垣を信じられなくなっていた。

 

「お願い! 隠さないで話して!」

「…………実は、その……おれっ」

 

 椎名の真剣な眼差しで見つめられ、相田も困惑しながらも椎名をまっすぐに見る。視線を逸らさず、椎名に宇垣のことを離す決心をする。

 それでも相田は、椎名に理解してもらうことよりも、宇垣から逃げることを考えている。とりあえず今は、椎名の問いに答えていく。

 

「あいつに……椎名さんに告白したことを言いに行ったんだ」

「…………え?」

「そしたら、あいつ………椎名さんとは付き合う気はないって言ったんだ」

「そんなっ!?」

 

 椎名は抱いていた怒りの感情を上書きするような、目を見開いて驚愕の感情を全面に出していく。相田が今まで見たことがないくらい、椎名は感情を顔に出している。

 相田はいつもとは違う椎名を見て、余計に落ち着いて話を聞いてもらえる状態ではないのだと察した。

 

「とりあえず、今は安全な場所に逃げるんだ!」

「え、なんで?」

「だって、今のあいつはまともじゃない! 逃げないと……っ」

 

 今の宇垣は何をするか分からない状態である。好きな女子である椎名を宇垣が殺すわけがないと。友人である宇垣が人を殺すわけがないと。相田は宇垣を信じることが出来ない。もしかしたら、自分までも殺されてしまうかもしれないと。相田はそう考えていた。

 だから、相田は宇垣から逃げることばかり考えてしまう。今は逃げるべきであることを、椎名に強要してしまう。

 

「ゃ、やめてっ!」

 

 椎名は自分の手を握ろうと手を伸ばした相田を見て、拒絶するように後ろに下がる。宇垣から逃げようとする相田と同様に、状況が飲み込めない椎名もまた余裕がないといった様子である。

 

「まともじゃないってどういうこと!?」

「それは……」

「教えてよ! 宇垣くんがどうしたっていうの!?」

「あいつは……」

 

 “椎名さんを殺そうとしている”という言葉を、相田は一度言い淀んでしまう。

 だが、すぐに相田は堪えきれず言ってしまう。一度は椎名に言うべきかと躊躇(ためら)ったのだが、相田は息を飲んで決意してしまう。

 

「あいつは、椎名さんを殺そうとしているんだ!」

 

 椎名に告げてはいけなかった。決して告げるべきではなかった最悪の言葉を、相田は椎名に言ってしまった。

 

「……なに、言ってるの!?」

「あいつ、今日はおかしいんだ。普通じゃない。さっきまで一緒に居たから分かる。異常なんだよ!」

「そんな! 宇垣くんが私を殺すなんて……ありえないよ! 宇垣くんはそんなことしない!!」

「でも、ありえるかもしれない。今の涼平は、それくらいヤバイんだ!!」

 

 椎名は相田の言葉を信じようとしない。気が動転している相田の言葉を、簡単に信じられるわけがなかった。

 相田もまた、簡単に信じてもらえるとは思わなかった。だけど、信じてもらうしか他ない。今まで宇垣と一緒にいた自分を、椎名に信じてもらうしかない状況に陥っていた。

 

「わけわかんない! さっきから、相田くんの方がおかしいよ!」

「俺はおかしくない! おかしいのは、涼平のほうなんだ! 俺が一番、涼平のこと知ってるから分かるんだよ」

「……何それ? 宇垣くんのこと知ってるからって、なんでそんなことが分かるの?」

「だって、俺はあいつとは今までいつも一緒だったから。いいや、むしろ今日あいつと会って気づいたよ。あいつは普通じゃないって」

 

 椎名を諭すように、相田は言葉を連ねていく。椎名に信じてもらうしかないから、自分を信じてもらえるように椎名に伝える。

 

「そんなの……私だって、ずっと宇垣くんのことを見てきたんだから。宇垣くんのことは分かってるよ。宇垣くんは絶対にそんなことしない!」

「でも、確かにあいつは言ったんだ! 椎名さんを殺すって。あいつは、殺すつもりで椎名さんを呼び出したんだ! だから、早く逃げないと殺されちまう!」

「ふざけないでよ!!!」

 

 ところが、相田の言葉は重ねれば重ねるほど、椎名の心を逆なでにしてしまう。

 

「そんなの信じられるわけないじゃない!」

「それは、そうかもしれない。けれど今は涼平が来ない場所に行こう。もっと離れた場所でなら詳しく話せるからさ」

 

 このまま公園の前で椎名と会話していれば、宇垣が声に気づいてここに来てしまう。これ以上は椎名に何を言ったところで信じてもらえない。相田はそう思い、手を伸ばして手提げカバンを持っている方の椎名の腕を強引に掴む。

 

「離してよっ!!」

 

 椎名は相田に腕掴まれたことで余計に感情的になり、できるだけ強く腕を振り回しながら、拒絶の態度を全面に示していく。だが、やや小さめの手提げカバンを持っているためか、相田の腕を振り払うことが出来ないでいる。

 相田もまた、手を離さないようにしっかり掴んでいる。手を離して、逃げられでもしたら。それこそ、宇垣のいるところにでも行ってしまえば、椎名は殺されてしまう。椎名を守るためにも、相田は自分の握った手を決して離すわけにはいかなかった。

 

「離して。離してよ……もう、わけがわかんない。なんで? なんで相田くんは……」

「落ち着いて、椎名さん。ショックなのは分かるけど、今は」

 

 椎名を落ち着かせようと、相田は椎名の腕を引いて抱きしめる。

 椎名を殺されたくない。憧れの人を絶対に守りたい。好きな人を決して失いたくない。相田の中に芽生えた恋愛という名の感情が、相田が椎名を抱きしめずにはいられなくさせた。

 

「やめてっ!!」

「うっ!?」

 

 相田が椎名に言葉をかけている途中で。相田に抱きしめられた椎名は、右手に持っていたカバンを地面に落とし、一気に全力で相田を押した。後ろによろけた相田はコンクリートに尻餅をつき、地面の上に手をついて倒れた痛みに耐える。

 

「なんで、なんでなんでっ! なんで、あなたはいつも、私の邪魔ばかりするのっ!!!」

「椎名さん……」

 

 椎名は頭を抱えるように、手の平を髪の毛と額に当てながら、苛立っているように喉から声を吐き出し、指先が力んで震えている。

 

「いつもいつも、私の邪魔をしてばっかり! いつもいつも、宇垣くんの隣にあなたがいる。いつだって私が宇垣くんのために頑張っているのに、いつだって宇垣くんはあなたにだけ優しくする! 私じゃなくてあなただけ大事にされる! こんなのおかしいよ!!」

 

 我慢の限界を超えた椎名は、怒りの感情にまかせて喋り始めた。相田を見下すように強い視線を向けて、怒りを露わにしている椎名を、相田は何も言えずに見つめるしか出来ない。

 

「私は宇垣くんのことが好きなんだよ? 誰よりも愛したいと思ってる。もう誰よりも愛してる。だって、私なら宇垣くんを愛してみせる! 足りないなら、もっともっと愛してあげる! もし愛されなくても、私はあの人を愛したい!」

 

 相田の胸の中に、棘が刺さったような痛みが生じる。棘のある太い網で心が縛られているかのように、辛く苦しい痛みが残って消えない。目の前にいる大好きな彼女が殺されないようにしているのに、それが分かってもらえない心の混沌が、相田を悲しみと絶望の世界へと引きずり込んでいた。

 

「相田くん、なんで私に告白したのよ? 本当に私のことが好きなの? 答えてみなさいよ!!」

「……嘘じゃない。俺は、椎名さんのことが本気で好きだ」

「は!? 私のこと何も知らないのに? 私の何を好きなの? 私の何を愛してるっていうの?」

「それは……」

「答えられないよね? 答えられるわけないよね!? 私のことが本当に本気で好きじゃないんだから!」

 

 椎名の気迫に、相田は言葉が出なかった。

 もし、相田がここで何を言おうとも、その言葉は薄い。相田を見下している今の椎名には、相田の言葉は怒りしか芽生えないのだろう。椎名が激情に陥っている時点で、相田はもう取り返しのつかないところまできていた。

 

「だからあの時。あなたに告白された時、私は気持ち悪さと怒りで気が狂いそうだったの。宇垣くんのそばにいるだけでなく、私まで苦しめようとしてくるあなたを初めて殺してやりたいと思った。顔隠して、声を抑えるのに必死だったんだからね!」

 

 椎名は嘲笑うかのように、蔑んだ言葉を口から放つが、表情は何一つ笑っていない。笑みを失い、殺意が満ちた表情で、心の奥底からドス黒い声が止まることは無い。

 

「そうそう、告白の答えを言わないとね。私ね、あなたみたいな人間が大嫌いなのよ! 深く知ろうともせず、上辺しか見てない上に、都合の良い妄想ばかり考える。あなたも他の男と一緒! 私を愛したいんじゃない。女性を愛したいだけ! 半端な気持ちで告白してんじゃないよ、このゲス野郎!!」

 

 椎名の吐き捨てた言葉は、相田の精神をへし折ってしまう。衝撃を受けた相田の心は負傷し、相田を衝き動かすものは何も無い。力を失った相田は声すら出ず、立つことすら出来ないくらい、ボロボロになってしまっていた。

 

「やっと、やっと本気で愛したい人が出来たのに……どうしてよ。どうして、あなたは……私の邪魔をするの? 好きなら、邪魔しないでよ。なんであなたが、私を愛そうとするのよ! 私はあなたに愛されたかったわけじゃない!!」

 

 椎名は泣きそうに、悲しみいっぱいの表情を浮かべ、まるで悲劇のヒロインを本気で演じている役者のように嘆き始める。髪が乱れるほど頭を抱え、感情を露わにして手を上下に振り、自分の不遇さを全身で表現してみせる。終いには、顔を両手で覆い、膝を地面につけて頭を垂れる。

 

「……そうよ。あなたさえいなければ。やっぱり、あなたがいるから宇垣くんは」

 

 椎名が抑揚のない声が椎名の口から漏れた瞬間、地面に落としたカバンに手を伸ばし、チャックを開けて、中に手を入れる。

 そして、椎名が立ちあがり、手に掴んでいたものを相田は見る。その瞬間、相田は腕を上げて手の甲を見るように。椎名に向けていた視線を手で遮った。

 

 恐怖が相田の手を衝き動かし、憎悪が椎名の手に力を込めさせる。

 

「あなたさえ、いなければあぁぁっ!!!!!」

「あがっ!?」

 

 相田が上げた腕に激痛が走る。それは切られたり、刺さったりといった痛みではない。硬い棒のような物で殴られた痛み。

 椎名は嫌悪感に満ちた表情で、憎悪にまみれた声で、カバンから取り出した黒い棒を持って、相田を殴っていく。

 

「わたしがっ! 宇垣くんがっ! あなたのせいでぇ!!」

「うぐっ……や、やめ……があっ!!」

 

 相田は両腕で顔を隠すが、頭と首は殴られ、振り下ろされて殴られる衝撃が腕から顔伝わっていく。叩かれる激痛が腕から消えることなく発生し、腕の感覚を麻痺させていく。何もすることも出来ず、ただ痛みに耐えるしかできないでいた。

 

「いなくなれ! 消えろ!! わたしから、宇垣くんから、いなくなれぇぇぇっ!!!」

 

 椎名は両腕で、護身用で持たされていた黒棒を頭の後ろに構え、しなりを与えるように本気で振り下ろす。一撃ずつ力を込めて、全力で目の前の相田を叩く。

 腕が折れるまで。顔が歪むまで。口が開けられなくなるまで。椎名は、相田の顔を本気で壊そうとしていた。

 

「…………ぇ、なん、でっ」

 

 嗚咽を吐くように、相田の口から言葉が小さくこぼれた。

 

「ぉ、れぇ……ぁ」

 

 何度も何度も椎名に叩かれながら、降り続く衝撃を腕に食らいながら、言葉が漏れていく。

 

「………………き、み……ぉ」

 

 相田は無意識に、本能的に、歯を噛み締めて、精神を蝕む感情が湧き上がっていく。

 絶望によって心は狂い、激痛によって思考は狂い、理性は本能によって相田は狂い始めていった。

 

 だが、見方を変えれば、相田は狂い始めたのではない。人間としての本能に。愛したいという本能に従っただけであった。

 

「うぇっ!?」

 

 声が漏れたのは、椎名の口からだった。

 椎名は相田に攻撃を与えていた。そのはずだったのに、自分に激痛が走り、驚きと痛みが相まって両手に込めていた力が抜けていく。

 

「ただ……こ……ろさ、れぇ……たくなか……った」

「……ぁ、ぅぇ……っ」

 

 相田は椎名を殴った。

 椎名が腕を振り上げて力を込めていた最中に、椎名の横腹を本気で殴った。

 

 人は相手から自分を信じてもらうのに、相手を信じていただけでは自分を信じてはもらえない。

 自分から相手に信じてもらうために。不信感を与えないために。

 人は信じてもらえるような言動と行動を含めた振る舞いを行わなければならない。

 

 相田は椎名に信じてもらいたかった。椎名を好きだということを。宇垣から逃げなきゃいけないことを。全ては、椎名を愛したいからこその行動であることを。

 

 地面に背をつけて倒れていた相田の体の上に乗っていた椎名が、相田と同じく腹を両手で抱えて地面に倒れる。突然の痛みによって握っていた黒棒を落としてしまい、椎名から離れてしまう。

 

「この気持ちは本気で……嘘じゃないんだっ!!」

「……ぃ、ぃぁ……た、すけぇ……て」

 

 椎名は自分のお腹の痛みに堪えるように、地面に横たわりながらうずくまる。下手したら胃にあるものを吐き出してしまいそうなくらい、椎名は体内にダメージを食らってしまっていた。

 なぜなら椎名は、無抵抗の相田に対して油断していた。相田の絶望に満ちた表情と、脱力した様子から、何も出来ない状態であると思っていた。

 しかし、その油断から椎名はお腹に隙を与えてしまい、力の入っていないお腹から体内へと衝撃を大きくもらってしまったのである。

 

 逆に、相田からしてみれば椎名に対して攻撃しても当然といえるのだろう。椎名を傷つけたくない以上に、宇垣に殺されたくないという想い。椎名の与える激痛からなんとか逃れようとする想い。つまりは、死にたくないという想いが相田を本能的に行動させてしまう。

 人間というものは、意識がないと苦しみから楽な方へと行動する。たとえ死ぬと分かっていても、死ぬ気であったとしても、意識を失えば痛みや苦しみから逃れようとする。それは無意識下にある本能。生きようと足掻く人間の性からは、誰であろうとも逃れられない。

 

 だが、相田を衝き動かしたのは、人間の生きようとする本能だけではなかった。

 

「うっ!! ……ぃや、いや! たす、けて……もう、いや……なの……ぅぁ……ぁ」

 

 相田は倒れている椎名の体の上に乗り、攻撃をされないように両腕を掴んで押さえる。

 ひどく怯えながら、力なくジタバタと抵抗する椎名。たくさん殴られたことによって麻痺している腕を硬直させ、椎名に体重をのせながら、相田は虚ろな目で椎名を見つめる。

 

「好き……なのは、本当、なんだ……っ!」

 

 まっすぐに、相田は椎名を見て言った。ぼんやりとした意識でも、愛を込めて、真剣に語る。

 

 椎名の髪、椎名の目、椎名の口、椎名の首、椎名の手。

 怖がり、歪んでいる椎名の顔。怯え、震える椎名の体。

 椎名から漏れる、弱々しい声。椎名の瞳から流れる涙。

 

 相田は全力で伝わるように、自分の愛を伝えようとした。

 

「ぅぅ……ぅぁ……ぁっ」

「ほんとうに……あい、して…………ぇぁ?」

 

 一瞬で、相田の心に何かが発生する。爆発的に体内に何かが広がっていく。

 椎名が何かをしたわけでも、相田が何かをしたわけでもない。

 目に見えない何かが、相田の中で湧いて出て来て、まるで墨汁のように心を染め上げていく。

 

「ぅ………ぁ、んだ……っ!? これ!?」

 

 相田は経験する。今まで経験しなかったものを、経験してしまった。

 相田の中にある“愛したい”という感情であり、欲望であり、本能であるもの。宇垣が今まで味わってきた、誰かを愛したいと思えば湧き上がる殺意の正体。真っ黒に淀んだ恋愛感情を、相田は初めて心に抱いてしまっていた。

 

「う……ぐっ!」

 

 相田は心の底から、椎名を愛したいと思った。愛したいという欲望が、頭も心も埋め尽くし、溢れて止まることがない。時間が経てば経つほど増え続け、染まっていき、抑え切れなくなっていく。

 

 相田自身からしても、自分が今、とてつもなく異常な状態であることは察知出来た。だが、異常な状態になっては手遅れである。まるで病気にかかっているかのように、すぐに治ることは非常に難しい状態と言える。

 

「…………あ、ぃ……し……」

 

 相田は懸命に正常になろうと。異常に染まらないようにと耐える。

 しかし、相田がいくら堪えても正常にはならない。正常な人間が異常な状態になることが難しいように、異常な人間が正常な状態になることもまた難しい。

 

 相田は目を閉じ、必死に自分の意識が感情に溺れないようにと足掻いていく。押し込んで、閉じ込めて、少しずつ少しずつ、自分の恋愛感情を殺していく。殺意のように湧き上がる脅威を自分で押し殺していく。

 

「…………ふぅ」

 

 空を見上げながら、呼吸をし、相田は月を見る。満月が綺麗だなと思い、自分が椎名言うべきだった言葉を頭に浮かべる。

 落ち着いた。もう大丈夫だ。これで、自分の想いを言葉にして伝えるんだ。相田はそう決意し、空にある満月から地面にいる椎名へと視線を向ける。

 

 

 椎名と相田の目が合った瞬間。椎名の瞳に、相田の姿が邪魔で見えなかったはずの満月が映った。

 

「ぎゃあああああああああああああああああっ!!!」

 

 椎名の喉から出てきた阿鼻叫喚の叫びが、公園の外まで大きく響いていく。

 

「がぁっ、いだぁいっ! だ、がぁああああっ!」

「……ちゅぐ、じゅぐぅっ!!」

 

 椎名の目から見える光景は、夜空と満月と公園の外灯。体重を乗せ、両腕を掴んだまま押さえ、覆いかぶさりながら、味わったことのない痛みを相田に与えられてしまう。

 

「が、ぐぅぅっ!!」

「いやぁ、がぎゃあああああぁぁぁっ!!」

 

 相田は椎名の首筋の口をつけ、吸いながら噛みつき、一気に食らいついては肉を引きちぎっていた。

 何が起こっているのか分からない椎名は、全力で暴れて抵抗する。今まで出したことのない力で相田を横に倒し、欠損した部分に手をあてる。自分の体の肉を失われている感覚。血液が淀みなく溢れ出ていることを感じ、えぐられた肉と血液を口に含んでいる相田を見て、椎名は恐怖に染まる。強すぎる痛みのせいで口から言葉が出なくなり、強まる恐怖のせいで両足の股の間から黄色い水が漏れ出していった。

 

「ぐっ……ぁ、い……うぁ、ぇぅ」

 

 椎名は上半身を立たせ、尻を地面につけながら足を動かして後ずさりしていく。首筋を押さえながら、痛みと恐怖に染まった表情を浮かべながら、まるで化け物を見るような目で相田から目を離さない。

 

「だ、ず……げぇ……ぇっ」

 

 椎名の言葉から出て来た言葉は、救済を求める言葉。相田に向けてではなく、相田以外の他者に向けて。誰でもいいから自分を守ってほしい。目の前にいる人間に殺される恐怖から、救ってほしいという想いから出てきた言葉だった。

 

「ずじゅ、ちゃっ……くちゃっ……」

 

 相田は椎名に押されたことでよろけてしまい、地面に両手と両膝をつけた状態のまま、口の中にある皮と肉を必死に味わっていた。それは、お腹が空いていたり、味が美味しいからという理由ではない。相田の中にある“愛したい”という欲望が心を占領し、衝動的に味わいたいという恋愛感情の表れであった。

 

「…………んぐっ! はぁ……はぁっ!」

 

 口の中の肉と血を吸い尽くし、飲み込んだ相田の顔に幸せの色がにじんでいく。相田が椎名に対して行った行動は、相田の中に愛が芽生え、愛したいという感情が湧き起こり、愛することの幸福を感じさせていた。それはまるで子どものように。

 

 もし、人という生き物が純粋に真っ直ぐに愛を与えようとする時、どういった行動をするだろうか。

 例えば、人間が赤ん坊の時だ。母親に対して愛の感情を抱いた時に。誰かに甘え、愛してもらいたい時に。赤ん坊は思考する間もなく、無意識的に、本能的に行動する。愛したい人と愛されたい人に対して、愛着行動といった愛のある行動を起こしていく。心と本能で感じて行動する赤ん坊にとって、母親に対する行動のほとんどが愛の混じった行為といえる。

 

 そういった愛のある行為の中でもっとも初期であり、もっとも生物的なものを言うのであれば、それはきっと体内に栄養と取り込むという食事に該当するのだろう。つまりは母親の母乳を飲む時である。

 赤ん坊は愛着を持たない人間の母乳は飲まない。愛され、受け入れられたことで、身を委ね、愛したいという感情が芽生えた母親の母乳を飲む。その時、母親の体に触れ、母親の皮膚を握り、母乳が出る乳房を吸い、愛したいという感情と本能が勢い余って噛んでしまう。

 ただでさえ、脳を持った生物は感情を露わにする際に、手や脚ではなく、本能的に口を使う。手や脚が発達していない赤ん坊もまた、泣いて声を出したり、怒って噛んだり、笑って口を開いたりと、感情を口で表していく。

 

 では、赤ん坊は母親の乳房を食うのかと問われれば、そんなケースは無いに等しい。まだ、赤ん坊の時はあまり噛む力が無いことと、噛んだ時によって母親の苦しい反応を感じることで、成長によって噛むという行為は無くなっていく。もしくは、噛む力がつく前に母乳は出なくなり、離乳食を食べるようになる。

 ところが、人間が成長した時。理性が混乱し、本能的に愛したいという欲望が暴発した時。人間というものは相田のように、吸って、噛んで、相手を愛し、愛を感じようとするのだろう。

 

「ぅ、しぃ……な、ち……かっ」

 

 甘噛みという行為があるように、愛し合っている人間が噛むこと自体、珍しい話ではない。相田にしてみれば、愛したいという想いの強さで噛んだというだけである。理性的な愛ではなく、本能的な愛の強さによる行為なのだから、人間という生物という観点からしてみれば、正常とも言える行動であった。

 

「ころ……しぃ……た、ぅ……ぁぃ……し、ぃぁ……ぃ、ぁ」

 

 相田は痛む左の胸を右手で掴み、よろめきながら椎名に近づいていく。腰を抜かして歩けない椎名の一歩手前まで近づいていきながら、まともじゃない表情で、苦しそうな声で椎名に言葉を伝えようとしていた。

 椎名を殺してしまいそうなくらい愛したいという本能的な欲望に対し、相田の中にわずかに残っていた理性が、好きな人を殺したくないという願望を抱かせていた。とはいっても、願望というものは本能と欲望に負けやすい。異常な状態の相田は今、異常なくらい願望を強く抱かないと、異常な状態を覆せない状態まできていた。

 

「い、いやっ! だ、だれかっ! ころされぇるぅ!! だれがあああああああ!!!」

 

 相田の必死の“殺したくない。椎名智華”という言葉を必死に口から出したが、皮肉にも椎名にとっては“智華、殺したい”“愛したい”に聞こえていた。

 相田に殺されると思っている椎名は目を見開き、相田をもう人間として見ていない。相田に対して謝ることも、殺さないでと懇願することもない。言葉の通じない化け物と認識している椎名は、全力で声を荒げて叫ぶ。

 

 椎名の精一杯の声が響き渡ったおかげで、椎名の叫びを聞いて、息を切らしながら1人の男性がやってきた。

 

「つかさっ!!」

 

 相田と椎名のいる公園にやってきたのは、相田の友人であり、椎名の想い人であり、相田と椎名のこの悲惨な現状を作り出してしまった人間の1人。椎名が一番会いたかった人間で、相田が一番会いたくなかった人間。宇垣涼平である。

 

 宇垣は相田が家から出た後、相田を追いかけようと玄関を出て、相田と椎名を探していた。急に公園の方から椎名の叫び声が聞こえたので、宇垣は走って公園にやってきたのだった。

 

「な、んで。こんな、ことに……っ」

「ぅ……がき、くん!! た、たすけ……て」

 

 宇垣の表情に、悲しみの感情が露わになっていった。泣きそうになるのを我慢するように、ぐしゃぐしゃになりそうな顔を堪えながら、宇垣は相田を見る。椎名の声を聞いた宇垣は、次に椎名に視線を向けた。救いを求める表情を浮かべている椎名を見て、宇垣は歯を強く噛み締めていた。

 

「つかさ……っ! よくも……」

 

 宇垣がそう呟くと、椎名が落としてしまった黒い棒に顔を向ける。宇垣は椎名が護身用に持っていた短めの棒が転がっているところまで行き、拾って強く握り締める。

 そして、腕を振り上げたまま、相田と椎名のいるところへと力強く向かって行った。

 

「僕の……僕のぉ……よくもぉぉぉっ!」

「っ!!!」

 

 宇垣がそばまでやってくると、相田は抵抗せずに目を閉じた。

 宇垣が振り下ろした黒い棒が、鈍い音を鳴らすように肉体に当たり、相田の耳に響いていく。

 

「あがっ!!!」

 

 相田は痛みに耐えるように歯を噛みしめていた。抵抗しようにも、相田はもう抵抗することができないでいた。だから相田は、目を閉じ、宇垣の振り下ろした黒い棒に殴られるのをそのまま耐えようとしていた。

 

 ところが、相田の肉体に痛みは無く、肉体を殴る鈍い音は、痛みから出るうめき声は、相田のそばから発生していた。

 

「がああっ! いだいっ!! な、なんでぇ、うがきぐ……ん」

「喋るなっ、このクソが!! よくも、よくも僕のつかさにケガを負わせてくれたな!!」

「が、ぎゃあああっ!!」

「なんてことしてくれたんだ!! 僕は……僕わあああ!!」

 

 憎しみと殺意の混じった声で、取り乱したように怒り、涙を流しながら、宇垣は椎名を全力で殴り、足で蹴っていく。

 

「やっぱり、おまえがいなければよかったんだ! おまえがいるせいで、僕がっ! つかさが!! 苦しまずに済んだんだ!!」

「うげぇ……っ!! や、めて……ぅぇっ」

 

 宇垣は椎名のお腹を足で踏み、唇を噛み締めて椎名を見下ろす。顔を真っ赤にしながら激情に任せている宇垣を、相田は呆然と見つめる。今何が起こっているのかが、まだ頭ではまともに理解出来ない状態でいた。

 

「なんで、なんでだよ! なんのために……くそ! ちっくしょおおおおおっ!!」

「ぅ、ぁぃ……ぅ……ん」

 

 黒い棒を投げ捨て、椎名の服の胸元を強く掴み、宇垣は椎名の顔を本気で殴る。何度も何度も、止めることなく椎名の顔を全力殴り続けていく。

 

「……や、めろ」

 

 目の前で椎名が殴られ、痛めつけられていく姿を見て、相田は黙ってままではいられなくなっていた。椎名という人間が壊れていくのを、相田は我慢出来なくなっていく。小さい声を漏らしながら、ボロボロの体を椎名の方へと動かしていく。

 宇垣は殴り疲れると、握っていた拳を椎名の首元に持っていき、首が絞まるように全力で握り始めた。

 

「ぅ、ぁ……がぁ……ぁ………ぁっ」

 

 絞め殺されそうになっている椎名を見て、相田の中でとてつもない焦りが芽生え、相田を衝き動かしていく。

 だが、焦りは嫌悪感へと変わっていき、宇垣に対して怒りを抱かせていた。

 

 決して、椎名を救いたい。椎名を守りたい。椎名が死んでほしくない。という理由からではない。まるで、相田が椎名を殺したいほど愛したいから。殺意の混じった“愛したい”という欲望が、相田を衝き動かしているようだった。

 

「やめろぉぉぉっ!」

 

 相田は宇垣にぶつかり、羽交い絞めでもするかのように、両腕の脇から腕を入れ、背中に体をくっつけながら、後ろへと勢いよく引っ張る。

 椎名の首を絞めていた宇垣は、相田に力強く引っ張られて、一緒になって地面に倒れる。勢いよく倒れたことで、痛そうな表情を浮かべる2人であったが、少しして椎名の方を見た宇垣は一気に顔が青くなっていく。

 

「うっ……ぐぅ!!? うぇぇぇっ」

 

 宇垣は右手で必死に口元を押さえ、倒れていた体を起こす。だが、堪えきれずに口から茶色の液体を嘔吐してしまう。胃液と胃の中の残留物を地面に吐き出して、両手を地面につけたまま、涙をこぼしていく。

 

「うえっ! おええええっ!!」

「お、おい……」

 

 何度も辛そうに嘔吐する宇垣を見て、相田は自分のせいなのではと不安になっていった。

 宇垣が何故吐いているのか、相田はその原因は分からないでいた。だが、相田は無我夢中に止めようと、一気に宇垣を引っ張った。その影響で、宇垣に吐いてしまうような衝撃を与えてしまったのではないか。何かしてしまったのではないか。そんな考えが相田の頭によぎってしまう。

 

「うぇっ……うぅ……んっ。はぁ……はぁ」

「どうしたんだ、涼平!」

 

 宇垣は嘔吐が止まると、空気を体内に取り込む。少しずつ呼吸を取り戻し、相田に背を見せるように、倒れている椎名の方へ体を向ける。

 

「……………」

 

 宇垣は相田に顔を見せないかのように、そのまま無言で立ち上がる。呼吸はいつの間にか整い、服についた砂を手で払って綺麗にし、ズタボロに服が乱れている椎名をずっと見つめていた。

 

「おいっ! きいて……うっ!?」

 

 相田は立ち上がり、目の前の宇垣の肩を掴む。苛立ちの感情をぶつけながら、肩を引っ張って宇垣の顔を見た。が、宇垣の表情を見てすぐに声が出なくなる。

 なぜなら宇垣が、相田が声を出せなくなるくらい、椎名に向けていた表情に気味の悪さが際立っていたからだ。

 

「おまえ……」

 

 相田は驚愕する。宇垣が、今まで見せたことのないような表情浮かべていたことに。椎名を殴って、瀕死の状態まで追い込んで、今まで辛そうに嘔吐していた宇垣が椎名に見せていた表情。

 

 笑みの表情。それは、笑顔である。

 嬉しそうな、幸せそうな、いい笑顔。とてつもなく、歓喜に満ちた笑顔。

 相田は宇垣の顔を見れば見るほど、その表情に宇垣の感情が表れ、溢れ出していることが分かっていく。

 

 相田は、今までに感じたことのない恐怖心が芽生え、後ずさりしてしまう。

 宇垣の楽しいや嬉しいといった感情が込められた笑顔。誰が見ても笑顔と答えるような表情をそばで見てしまっただけに。相田の中で近寄りたくないという想いや感情が込み上げ、無意識に宇垣と距離を取ってしまう。

 

 それでも相田は、宇垣から目を離さない。むしろ視線を宇垣から離せないでいる。ずっと見つめたまま、頭の中で言葉を考える。心に抱いた違和感や恐怖心からくる感情を声にして、宇垣に疑問を問いかけようとする。

 

「おまえは……誰だ!?」

 

 相田が宇垣に問いかけた言葉。この問いは、相田の中で今までの宇垣との決別を意味していた。

 宇垣と今まで一緒に過ごして来た相田だからこそ。今まで宇垣と友人関係を築いてきたからこそ。目の前の宇垣に対して拒絶する。相田の中で異質なほど“宇垣ではない”という違和感が芽生えたからこそ。目の前の宇垣は、相田と共に過ごした宇垣という人間ではないと確信していた。

 

「……ふふっ、政くん安心して。私はもう“宇垣 涼平”だよ」

「えっ!?」

 

 宇垣の笑顔は優し気な微笑みと変わる。それと同時に相田へと視線を変え、相田の問いかけに答えた。

 そこで相田の表情が強張っていく。目の前の宇垣が振り向き、視線を向けて喋るという動作だけで、相田の背筋が凍る。仕草、表情、立ち方、雰囲気が、今まで宇垣とは全く違っていたからだ。

 

「大丈夫。私はあなたの知っている“ともだち”に変わりないから」

「……は?」

 

 それはまるで、大人の女性が初対面の人間に対して怖がっている子どもに優しく言うような感じだろうか。宇垣が告げた言葉は、余計に相田に恐怖を与える。

 

「……ふふ。涼平くん、可哀想に。本当はみんなが幸せになれればいいのにね。でも、仕方無いのよね。こうなってしまったら、もう運命には逆らえないもの」

「な、何を、言っているんだ?」

 

 相田は動揺を隠せないまま、ただ問いかける。疑問を問いかけるしか、今は出来ないように。震えた声で、答えを求める。

 しかし、目の前の宇垣はぶつぶつと独り言を喋っている。悲しげに自分自身を見つめて、相田を無視するように自分に対して呟いていく。

 

「さて、どうしようかしら。私が彼のためにできることは……いいえ、もう何もしなくてもいいのかな。もうどちらかは人ではなくなるんだから」

「だから! 何を言ってるんだ!!」

 

 問いかけに応じない宇垣に対して、相田は怒鳴ってしまう。わけのわからない状況に、不安で押し潰されそうになる心境に、相田はもう我慢出来ない。

 

「政くん、怒らないで。今はもう、何もかも手遅れなの」

「なにが? 手遅れって、どういうことだよ!?」

「……今のあなたに分かりやすく言うとしたら、あなたの知っている“宇垣 涼平”はもう人じゃなくなってしまったの」

「人じゃ、なくなった……?」

 

 相田は困惑する。ただでさえ疲弊し、思考がままならない相田に、目の前の宇垣が放つ言葉は難解なものになっている。

 

「もっと分かりやすく言うとね。涼平くんだった部分は欠けちゃったのよ」

「欠けちゃった、って? 何を言ってるんだ? 何、言ってんだよ!!」

「……はぁ。政くん、私に怒っても意味ないのよ。落ち着いて? ね?」

「そんなこと言ったって……もう、何が何だか……もう分かんねぇよ」

 

 相田は両手で頭を抱え、現実逃避をするかのように目を閉じる。受け入れられない現実と理解出来ない現状に、相田の精神は押し潰されそうになっていた。

 

「ふふっ……あなたって、本当にどうしようもないのね」

 

 呆れたように微笑み、相田の方へと歩み始める宇垣。相田を見下すような、言うことの聞かない子どもを見ているかのような言い方で暗い声をかける。それでも相田は、話しかけている宇垣を無視するかのように、ぼそぼそっと独り言を呟く。

 

「なんで、こんなことに……こんなつもりじゃ」

「分からないのなら、彼のためにもあなたに話してあげる」

 

 宇垣は相田に寄り添い、相田の耳元にそっと呟いた。

 優しく包み込むようで、相田の心を覆い隠そうとするかのように。甘くも優しい雰囲気で、宇垣は言葉を告げる。

 

 「好きな人を、ただ“愛したい”と願った。私の愛する“宇垣 涼平”という人間のことをね」



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12話 初心と書道

 宇垣(うがき) 涼平(りょうへい)。12月11日生まれ。いて座。性別は男の子。

 石川県加賀市霞ヶ丘町に住み、宇垣(うがき) 雄太(ゆうた)宇垣(うがき) 亜矢子(あやこ)の夫婦の第一子として誕生した。予定日よりやや早く産まれ、体重も生まれてくる赤ん坊の平均より200グラムほど下回る大きさ。成長しても病気になりがちで、何度も通院や入院を繰り返していただけあって、体が丈夫な方ではなかった。幸い、脳や体に障害はなく、生死をさまようような大きな病気にかかることもなかったため、3歳になった頃には人並みの体格にまで育っていた。

 

 ところが、宇垣 涼平の母親。宇垣 亜矢子は育児ノイローゼにかかっていた。マタニティブルーといったように、子育て経験の無い母親にとっては、初めての子育てはとても辛いものであった。融通の利かない子ども相手に生活のほとんどが縛られ、自由な時間がだいぶ減っていったため、亜矢子の心は酷く擦り切れてしまう。

 ただでさえ亜矢子の母親は早死にしており、19歳で雄太と結婚し、20歳になったばかりで子どもを産んだのだ。友人とは疎遠になり、人付き合いが苦手な性格だったため、周りの人間にも頼ろうとはしなかった。さらには宇垣家の親類の反対を押しのけて結婚したために、もう頼る相手も、話し相手もおらず、子育てによる知識も少ない状態であった。

 

 最後の希望であり、一番そばにいて支えるべき存在であった亜矢子の夫。父親の宇垣 雄太は、仕事を優先する人間であった。子育てや子どもに対して苦手意識を持っていた宇垣 雄太は母親の亜矢子に育児を全面的に任せ、仕事の方に熱心に打ち込むことが家族を支えることになると考えていた。そのおかげで、雄太は出世することは出来たが、そのせいで妻の亜矢子はおかしくなってしまい、雄太が気づいた時にはもう手遅れになっていた。

 

「ねー、パパ?」

「ん、どうした?」

 

 宇垣 涼平は3歳になり、おそるおそる父親に尋ねた。

 

「ママは、なんで帰って来ないの?」

「だから言っただろ? ママは、オオカミに食べられちゃったんだって」

 

 涼平は母親のことを詳しく聞いてはいけないことではあると何となく気づいてはいた。不機嫌そうに答える父親に対し、詳しく聞くべきでないことは態度から察することができた。それでいても、子どもの好奇心による行動は止められず、相手のことを考えて話せる年頃ではない涼平は、もう一度父親に尋ねる。

 

「でも……お腹を切れば、帰ってくるんじゃないの?」

「それはな。子ヤギは噛まずに食べたから生きてたんだ。お母さんは噛まれて、ちっちゃくなったから、もうオオカミさんになっちゃったんだよ」

 

 宇垣 涼平は明らかに、“七匹の子やぎ”という童話の影響を受けていた。オオカミに食べられた6匹の子やぎを、母やぎと7匹目の子やぎがオオカミの腹をハサミで切って救い出し、石を腹の中に詰めて池に落として殺すという話の流れである。年齢的に童話の内容を理解できるようになった涼平は、もしかしたら、母親は帰って来るのではないかという希望を持ち始めていた。

 しかし、この世に3年ほどしかまだ生きていない息子に対し、父親は救いのない残酷な事実を告げる。息子が原因で精神がおかしくなって、2人の前からいなくなったという真実を語らない辺りは残酷ではないのかもしれない。それでも、3歳の男の子にとっては、母親は食われて、細かくなって、オオカミになったなんて話は受け止めにくい話である。

 

「なんで? なんでなんで? じゃあ、どうするの? どうしたらいいの?」

「それは……その……」

 

 息子の涼平に対して突き放すかのように答えた父親の雄太は、泣きそうになっている息子の様子に、動揺してしまう。さすがに自分が大人気なかったことに気づき、もう少し言葉を選ぶべきであったことを反省する。

 けれども、現実は変わらない。涼平の母親がオオカミのように気性が荒くなり、人ではない何かに取り憑かれた人間になったことは事実である。育児を放棄するようになり、何かあれば息子の頭や体を噛んで虐待を行っていたのだ。ついには、別の男と不倫し始め、妻であることすら放棄してしまう。その結果、雄太は母親の亜矢子と離婚し、家族の関係を断ち切ったのであった。

 

「その、な……ママはな。オオカミさんになったから、涼平を食べちゃうんだ。だから、まともで普通の人間になるまで。オオカミからいつものママになるまで待ってような」

「……うん」

 

 雄太は息子の体を優しく抱きしめ、慰めるように息子の耳元でささやく。息子の涼平は父親に抱かれ、母親がいない不安よりも父親に優しくされていることに幸せを感じていく。泣きそうになっていた心は、父親の優しさによって満たされていった。

 その反面、父親の雄太は泣きそうな表情を堪えていた。本当に、なんで。なんでこんなことになってしまったのだろうという気持ちで、雄太の心はきつく締めつけられていた。

 

 宇垣 雄太は愛する人と結婚し、待ちに待った息子が生まれ、仕事では頑張った成果もあって出世することができ、今後はもっと幸せになれる未来が待っていたはずであった。それなのに、最愛の妻である亜矢子に雄太は裏切られた。愛の結晶である息子を傷つけられた。

 

「だか、ら………それまで、パパ……涼平のために、頑張るからな」

 

 息子と2人だけという望まぬ現状が。息子が自分に母親がいないことで悲しみを抱いているという苦しみが。愛していた人に裏切られたと分かっていても、元妻である亜矢子が昔の亜矢子に戻ってほしいと。息子が生まれたばかりの頃に戻りたい。あの頃に戻ってほしいと願ってしまうことが、雄太の心を酷く締めつけ、涙を流させてしまっていた。

 

 そして、雄太は固く決心する。たとえ自分が廃人になっても。まともな父親になれなくても。息子のために、生きようと。恋愛感情なんていらない。かけがえのないたった一人の愛する家族のために、生きようと。裕福で十分な人生を送れるように、幸せに生きていけるように。よりいっそう仕事を頑張ろうと。宇垣 雄太はそう誓ったのだった。

 

 

 

 その頑張りが、妻がおかしくなり、息子もおかしくなり、自分さえもおかしくさせ、宇垣家の家族を崩壊させていく原因となっていたことも知らずに。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2002年4月11日。霞ヶ丘中学校の書道室。

 霞ヶ丘中学校に書道部の部室でもある書道室で、今年入った1年生の体験入部が行われていた。

 その中の1人に、入学したばかりの幼げな顔をした宇垣 涼平もいた。

 

「それでは、始めます」

 

 体験入部に来たのは、男子4人と女子2人の合計6人。彼らの前で、3年生の書道部の部長が半紙に筆をのせ、奥ゆかしい姿勢を崩さないまま筆を走らせ始めた。

 やや茶色がかった長髪で、顔立ちは書道部の中では一番に整っている女性の部長。右手で筆を持ち、すらりと流れるように筆を動かして、半紙に文字を書いていく。墨汁で書いていく様子はとても綺麗で、体験入部にきた生徒の目を魅了し、視線を釘付けにさせている。宇垣も例外ではなく、書道部の部長の可憐な姿も含め、字を書く動作に目を奪われていた。

 

「終わりました」

 

 書道部の女子部長がそう口にすると、筆を硯の上に置き、文鎮を横にずらしては、体験入部に来た生徒達に見えるように両手で掲げる。

 半紙には、小学校で習うような楷書の字体で「精神一到(せいしんいっとう)」と書かれてあった。お手本のような、まっすぐできれいな字に、1年生達の中で驚嘆(きょうたん)の声を口から漏らす生徒もいた。

 

「この四字熟語を知っていますか?」

 

 書道部の部長である3年生の女子生徒の質問に対し、体験入部に来た1年生の生徒達は誰も答えない。首を傾げて分からない者もいれば、視線を逸らして答える気がない素振りを見せる者もいる。自ら答えようという生徒は、誰もいない。

 宇垣も同様で、部長の質問に上手く答えられる自信はなく、黙ったままでいる。書道部の部長の柔らかな顔と部長が持っている字を眺めているだけであった。

 

「じゃあ、あなたに答えてもらってもいいですか?」

 

 部長の女子生徒と宇垣は目が合い、宇垣はそわそわした様子で焦り始める。

 ところが、口を開いたのは、宇垣のやや斜め後ろにいた男子生徒。当てられたのは自分だと察したのか、宇垣が言葉を発する前に口から言葉を発していた。

 

「んーっ、なんか精神統一……とか? 集中するとか、そんな感じですかね?」

 

 宇垣と同じで、体験入部に来た1年の生徒は、やる気のない感じで適当に答える。分からないのだから仕方無いといった雰囲気で喋るのは、1年の利谷(としたに) 侑治(ゆうじ)。そんな利谷を、宇垣は答えなくて済んだという安心感を抱きつつ、すぐに答えられない自分に対して少しだけ嫌悪感を抱いていた。

 

利谷(としたに)くん、かな? イメージはそんな感じで合っているのだけれど、意味合い的にはもう少し踏み込んでいる熟語ね」

 

 “利谷”と書かれてある制服のネームプレートを見ながら、書道部の部長は優しく答えていく。

 

「実はこの精神一到という熟語はね。どんなに困難で苦しいことがあっても、精神を集中すればどんなに難しいことだって出来るってことを意味しているんです」

「へー、そうなんですか」

 

 部長に対して適当に相づちをうつ利谷。

 宇垣は後ろを振り向いて、表情を曇らせたまま利谷の顔を見る。利谷の先輩に対する態度が、なんだか感じ悪いなと思ったからである。

 

「私は、この四字熟語が書道においてとても適している言葉だと思っています。私自身、この熟語を念頭に入れて書道に打ち込んでいます。それに書道は、いつだって自分自身と相対するものですから」

「ああ。つまり、書道も結局はスポーツとかでよくある、自分自身との勝負とか戦いとか。そんなマンガみたいなやつですか?」

 

 悪態つくように発言する利谷に対して、宇垣はよりいっそう表情を険しくさせるように目を細める。

 周りの人間も利谷の態度から分かるように、利谷自身、書道部に入る気はないのだろう。なにせ今日は、体験入部の第三希望日。今日来ている体験入部の1年生は、体験してみたい部活の中で3番目に希望を出した部活である。前日に第一と第二に希望していた部活を体験して、入部する部活が心に決まった1年生にとっては、今日の第3希望の体験入部は興味がないのも仕方がない。

 

「たしかに、書道には評価による優劣や競争。また自分自身との戦う部分はあります。ですが、私は書道に対してはもっとシンプルに考えてもいいと思っています」

「え? どういうことですか?」

「私は単に、綺麗で美しくなりたいと思って書いています」

 

 書道部の部長である女子生徒の発言を聞いて、1年生達は困惑の色が表情に出始めていた。それは利谷も同じで、まさかの返答に呆気に取られていた。

 ただ、宇垣だけは書道部の部長の真っ直ぐな発言に、心惹かれていた。

 

「書道に限った話じゃないのですが、自分が書いた字というものは、自分の心を写し、自分という人間を表した、自分そのものであったりします。それは鏡に映る自分自身の姿のようなもので、時には自分の汚い部分も、心の乱れさえも字に表れたりすることがあります」

 

 さきほど筆で四時熟語が書いた半紙をそばの机に置き、部長は手を重ねるように膝の上に置いて正座し始める。畳の上でキレイに座る姿に、体験入部に来ていた1年生たちは無意識に心を引き締めさせられてしまう。それくらい、女性の部長が正座をしている姿が綺麗で、視線だけでなく心さえも魅了させていた。

 

「なぜなら書道は、自分を見つめ直すことが出来る手段の1つとなっているからです。特に私達の行っている部活では、字を見つめ直すことを大事としています。そうすることで、自分の精神を統一させたり、自分の心を清めたり、自分自身を磨いて綺麗にすることが出来るからです」

 

 真剣な眼差しで書道を語っていく書道部の部長。体験入部にきた誰しもが書道に深く興味があるわけでもないのに、部長の語る言葉を耳で聞き、部長の姿を目でしっかりと見つめていた。

 

「もし、みなさんの中で自分自身を変えたい、自分の中にある変えたい部分があるという方がいましたら、ぜひ今日の体験入部だけでなく、仮入部もしてみてはどうでしょうか。もしかしたら、書道をすることで私のように自分が思い描く自分になれるかもしれませんよ」

 

 書道部の部長はそう告げると、最後には柔らかくも優しい、大人が子どもに向けるような温かな笑みを浮かべる。まるで大和撫子のような3年生の先輩を見て、宇垣は一目惚れしたように憧れを抱き始め、利谷は悪態つくことが出来なくなっていた。

 

 その後、宇垣と利谷を含め、体験入部に来ていたほとんどの1年生が書道部に入ることを決意することとなる。結果的には、その年に10人以上も1年生が入ることとなり、書道部が創られて以降、初めての入部する生徒数の多さを記録した。そうなったのも、霞ヶ丘中学校の3年生の女子生徒であり、書道部の部長である“豊条(ほうじょう) 菜月(なつき)”という名前の生徒のおかげであった。

 

 

 これが、宇垣と利谷との出会いであり、豊条先輩との出会いである。

 



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