キッツランド衰亡録 (いちう)
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喜を~】

               

 ここはキッツランド大陸西のはずれ、デルバール島。この島は漁業と観光業に経済面を依存した、今にも大国に飲み込まれそうな小国である。常は波濤穏やかな海に船が幾隻も並んで、割れた石畳の上島民が名物のオレンジ・キャロルをかじって往く、平和な島であった。――そう、ただ一点をおいては。

「では、オープンといこうか」

 今はそのデルバールに宵闇が忍び寄ってきている。闇は赤煉瓦の街並みを容赦なく冷やし染み入って、あたりを暗色に染め変えてしまう。海の果てに太陽が吸われ消え去っていく、その折に彼女は叫んだ。

「ダイヤのエース、ハートのクイーン、そして、二枚のジョーカー! ほれごらん、あたしの勝ちだよ!」

  人相の悪い男らとの賭けものに勝ち、うら若き娘は喜びに顔をほころばせている。娘の名はアリア・ロサージュ・イノヴィア。ロサージュはキッツランド語で薔薇を、イノヴィアは常には聞かれぬが、命、という意味がある。確かに、今年で十七になった娘アリアの美貌は薔薇のごとく、眼をひくものがあった。うねった黒髪が白いワンピースのスカートひだまで届き、鼻筋は通り、紅い唇など彼女の燃え立つような情熱のありかを示していた。中でも特筆すべきは、その金の瞳であった。それは占いをする魔女に言わせれば【神から愛されたあかし】であったが、町の民からは【神に疎まれてこの世に落とされたあかし】として、毛嫌いされた。それゆえ、だろうか。養母のシスターの運営する修道院にいながら、このように悪い連中とカードで賭けを繰り返すのは。

(あたしはみんなから疎まれている)

 孤児ゆえ、本来は弱者に優しく、寂しがりやである。排斥されている、疎まれている。 そう思うと彼女の胸は、どくどくと鳴り響いて、頭を悲しみの音色で満たしていくのであった。しかし、アリアはそういったことを見抜かれるのが大嫌いなので、わざと悪ぶり、強がった。

「さあさ、あんたら用意はいいかい? このカードの並びじゃ三十ベスタは確実だよ! とっとと耳を揃えて」

「何をしているのですか、アリア」

 お出し……と言いたかったアリアのその耳が、修道服をまとったシスターによってつままれ、次には首根っこをおさえられる。

「げえっシスター!!」

 振り返り、驚きおののき、アリアは言葉をなくす。常は強がり、町の品位を落とす不良として名を馳せたアリアも、この養母には弱い。なにせシスターは上背もあり、瞳は涼しく、鼻梁高く、黙っていたら紫のバラのように品と威厳があって美しいのだ。

「この娘は連れて帰ります。みなみなさま、ごきげんよう」

 シスターによって古びた、烏色の屋敷から連れ出されたアリアは、ぶうと口をすぼませた。

「ったく、せっかく勝ってたのによ」

「おバカさん。あのようなごろつきが、お金を出すかと思いますか。まったく、あなたときたら夕のお勤めの際はいつもいないのだから。いい加減私はあの連中と顔見知りになりそうですよ」

「へえへえ、申し訳ありませんでしたー」

 このアリアのまるで反省の色がない態度にも、シスターはほうっとため息をつくばかりで矯めようとはしない。そうしたとて無駄だとわかっているからかもしれない。それに。

「せっかくあいつらが巻き上げて、修道院の屋根の修理にでもあてようと思ったのによ」

 彼女のこの一言に、シスターが思わず微笑む。

「嘘おっしゃい。お前はそんな殊勝な子ではありません」

「あー! 疑ったなー!ちくしょーシスターったらいつもそうなんだもんなー」

 アリアの機嫌を損ねたと思ったか、シスターが急に、にこにこしだす。

「はいはい、それより修道院に早く戻りますよ。夕餉が出来ていますからね」

「うお、飯か楽しみだ」

 金と飯と男を愛するアリアのことを、シスターは呆れながらも憎くは思っていないのであった。

◆◆

 ぼろぼろの修道院に戻り、アリアは抜け出しの罪で夕餉のあと作務を言いつけられた。白亜のだだっぴろい、歴史だけはある教会の清掃である。少ない水に布をあてて、しみ込ませ、アリアは悪態をつきながらも一人、拭き掃除を始める。

「ったく、ちくしょーシスターめ。いつかあそこで荒稼ぎしてこんなぼろい教会潰してやる」

 そんでもって新しい、綺麗な掃除の必要のない教会を建ててやるんだ。そうまでは口に出さないのが、この娘の可愛いところで、シスターに気に入られる一因でもあった。

 教会に祀られるは、全知全能の神としてこの大陸で広く崇められている、ロド、という神であった。男の姿をしていて、身を押し包む黒い衣の裾が翻っている像が多い。それはこの争いの多い大陸のうちで崇拝される、戦の神、だからであり、その翻る裾は波間をかきわけても争いに赴き、その黒い衣はいかに血に濡れそぼっても戦い抜けと、そういった意味合いが込められていると聞いた。それゆえに顔だちがやや恐ろしく、歪んでいて、腰にささる剣が抜かれていないのまた恐怖を誘う。

(何で、こんなのが崇拝されてんだろ。このせいで、このせいで……)

 像を強い力で磨きこみながら、アリアの表情が引きつっていく。

 アリアは戦争孤児だった。先の宗教戦争で、ロドを崇拝するものとそれを否むものとで争いが起こり、火種はこの国でも黒く芽吹いた。ひどい戦争だった。多くの民が家を失い、家族を失い、深手を負った。今でも五年前のことはありありと覚えている。砲弾が破裂し、腕を飛ばされながら必死に娘を探す母親、黒焦げになった父親を揺り動かして号泣する少年たち。

(戦争で犠牲になるのは、常に弱者だ)

 アリアはつぶさにそれを見聞きしてきた。それゆえ彼女は戦争を忌んでいたし、それをあおるような姿のロドのことも、好きではなかった。戦争終結から五年。最近は天災が多く、豪雨も降り続いた。おそらくまたどこかの誰かが言い出すのであろう。

(このような天災は、ロド様を崇拝しないものがいるからだ)

 そして争いはまた続いていく。何か、止める手立てはないものか。

「ちょっとお、アリアさん?」

 ふいに、ロドから意識を取り戻され、アリアは驚いたままに振り返った。同じく修道院にいる修道女のセイミーに、眼光鋭く睨まれているのを知った。

「あなた、いつまでそんなに拭き掃除しているつもり? とっととこちらの部屋掃除も手伝っていただきたいものだわね」

「……へいへい」

 アリアは不愉快を顔にみなぎらせ、祭壇をおり、セイミーのあとについていった。

(ったく、せっかく人が考えごとをしていたってのに)

 それから彼女はこんなことを心中考えた。

(――ロドをめぐる争いがやむ為には、ロドが死ねばいいんだ――)

 あるいはもしこの世にいるのだとしたら。

(絶対あたしが殺してやる。人の命を奪う神なんて)

 そのとき、少し、地が揺らいだ気がした。

◆◆

あの日の記憶は、いったいいつのものなのか。それも知らぬまま、アリアは夢の中であの日にいた。黒焦げの二体の死体。その脇で泣き叫ぶ幼いおさげの自分。それへと強い腕が伸びてくる。黒い袖をそよがせる、強い腕が。

 はっと眼が覚める。もろい古い木のベッドからは、蜘蛛の巣かかる天井が見えた。朝霧の冷たさがひそやかに伝わってくる。

(あれはシスターだと、思っていた)

 だけど、あたしを抱きすくめた腕は、あの力の強さは、女のものではなかった? それにあの黒いローブ。

(まさか、あれがロドだったりしてな)

 陽光はいまだ射してはこない。

はは、と乾いた笑いをかみ殺して、またアリアは夢へと落ちていった。

 

 

◆◆

 翌日の朝の作務も散々だった。養母アナスタシアでない、いじわるなシスターによって、枯れ果てた薔薇をへし折って捨ててこいと命じられ、それはアリアの細い手指をいたく傷つけた。薔薇のとげが指に食い込み血を膨らますたび、アリアの心中はむなしさを感じ、また気持ちが鬱屈としてくるのであった。

 そんな訳で無論夕の作務になど出ず、アリアはまた町に繰り出した。途中、地鳴りが聞こえたが、何もなく無事目的地に着けた。烏色の寝床、と名付けたぼろの屋敷に入り、悪友たちとカードで賭ける。今日は珍しくシスターが来なかったので、アリアは存分にゲームに興じることができた。

「まあたアリアのやつに負けた! ほんと、お前さんの強運ぶりには舌を巻くよ」

「そうだそうだ。こんな噂を巷で聞いたが、お前ら知ってるかい」

 葉巻の細いのをくゆらせながら、男の一人がランプの薄明りのもとで口走った。

「なんでも、もうすぐ世界の終わりが来るって話だよ。巷じゃ女子供がみんなおびえてるってさ」

「ははっ」

 これにはアリアも、他のひげ面も笑った。世界の終わり? 確かに最近は地鳴りや揺れが多少はあるが、とてもそうは思えない。まして、先の大戦で疲弊しきった世界の国々が、再び争いに立たんとなどするはずがない。

「いや。どうも本当らしいんだよ。そいつらがいうには、ロド様が怒っておられるって。先の大戦で自分の名で戦が行われたことにお怒りになって、この世界を滅ぼすおつもりだって。それがロドこそ邪教だって言い張るやつらともめているらしくってねえ」

「おお、こわこわ」

「……また、戦になるかもしれんな」

 ひげ面たちが大仰に肩をさすってみせる。アリアは微笑をたたえながら、内心は複雑であった。また、ロドのせいで――。

「こんな話もある。なんでも王都には、この上なく美しい姫さんがいて、それを天上のロド様の妻にさすべく生贄として殺さねばならないというんだ。でないとロド様のお怒りはおさまらず、この世が、この大陸が滅ぶって話だ」

「へえ、それは興味深いな」

 この返しに、思わず面々、後ろを見やる。そこにはこのごみだめのような場所に降り立った、孔雀のように華やかな美男が立っていた。男は枯れ葉色のシャツにズボン姿で、決していい仕立ての身なりではなかったが、それでも一目で身分の高さがうかがわれた。

「その話、もっと伺いたいものだ」

「あたし、興味ないね、そんなん」

 アリアが吐き捨てるように言うと、その男は少し困ったような表情を見せる。

「ほら、男前、賭けなよ」

 アリアがそう言うと、男が財布から二千ベスタ札を出したので、みなみな驚いた。ベスタは本来金色のコインであって、札などはこんな僻地にて見られるはずがなかった。それほど物価の隔たりがあったのである。貧しい僻地はさらに貧しく、都市はさらに発展するような経済政策が神官によってとられているせいだとは、僻地の面々にわかるはずもなかった。

「よし、俺は二千ベスタ賭ける。もし、それでこの勝負に勝ったら」

「勝ったら?」

 みなが尋ねると、男は。

「この娘を俺のものにしたい。どうだ、いいだろう」

 と、にわかにアリアの腰に手をまわし、にやと、笑んでみせた。わお、と男たちは歓喜と興奮の渦に包まれ、

「面白れえじゃねえの」

 などとのる気をみせた。肝心のアリアはというと、ちっと舌打ちしながらも、いやな気はしなかった。もともと金と美男が大好きな女であるから、一時はそれも一興と思ったのかもしれぬ。どちらにしろアリアは本気にはしていなかった。

「いいよ。じゃああたしが勝ったら、その二千ベスタは全部あたしのもんだ」

 あたりには安酒と古い煙管の匂いが饐えて広がっている。やんややんやと盛り上がるうち、ふと気が付くと一人減り二人減り、おやじたちの姿が消えていった。みな、

「眠くなった」

だの

「気持ち悪くなってきた」

 だのして、ねぐらへ帰っていった。アリアだけは賭けに夢中になっていた。はたと目線を上げると目の前には先ほどの美男しかいなくなっていた。

「おや、おひらきかい」

 そう言ってアリアが立ち上がり帰ろうとすると。

「おい」

男が声をあげて呼び止めた。

「まだ賭けの商品をもらっていないんだが」

「なんだい、それ」

「賭けに勝ったら、あんたを頂くといったろう」

 男は好きだが、美しすぎる男も、粘着質な男も嫌いなアリアは、途端に不機嫌になった。

「はあ? 本気だったのかい? 悪いけどあたしらみたいな育ちの悪いのは、嘘をついて場を盛り上げるのが大好きなんだ。さあ、わかったら帰っておくれ」

「そうはいかないな」

 あん? とアリアが怖いような瞳で睨み据えても、男は微塵も介さない。

「あんたには大切な責務があるんだ。この世を救うという、な」

「ああ? 何言って……」

 おわっと声を発したときには、既に男に押し倒されていた。飴色の床が近くに見える。それから上には、碧色の瞳をした、ブロンドの美しい男の顔が。

「なっ何しやがんだい!」

「俺とともに来てもらおう。わがマスターのために」

 世界を救う? わがマスター? アリアの頭が疑問符でいっぱいになっていく。さっきからわからないことだらけだ。皆の言う、世界の終わりの話も、この謎の男がいう話も現実離れしておかしい。

「いいか。今からいう話をちゃんと聞けよ。お前はな、伝説の巫女の……」

「ふんぬ」

「ぐわっ」

 押し倒され、伸びていた足を彼の股へ蹴り上げるようにすると、男は鈍い悲鳴をあげ、もんどりうった。うししとアリアがほくそ笑んで去っていく。

「あんたが何を考えてるかしらねーが、あたしはただの田舎のやっかいもんさ。そんな変な話をして、いちいちからかわないでおくれ」

 じゃあな、と手を振り、修道院に帰ると。

珍しくシスターが入口にいなかった。おかしい。普段なら門のところで、地獄の使者みたいな顔つきで仁王立ちしているのに。今日はいない。

「シ、シスター?」

 おそるおそる灯りともる教会に入ってみると、シスターはそこで一人、何かを必死に祈っていた。ロド像にひざまずき、手を組み合わせて、ひたすらに祈りをささげていた。そこでアリアははっとした。あの気の強く、冷静沈着なシスターが涙を流していたのだ。これにはアリアも驚いた。

「シ、シスター。何を泣いているんだ……」

 ふいにシスターが振り返る。ようやっとアリアの存在に気が付いたか、シスターは気丈にも涙をひと拭きで拭い去り、それからはいつもの凛呼とした表情を見せた。

「……いいえ。ただあなたの帰りが遅いので、ぐれていないか、男に身を任せていないかと不安に思い、祈っていただけです」

「あ、ああ。そうかい。悪かったね」

 それから、アリアも常の元気な朗らかな声音で。

「いやー今日変な男に会っちゃってさー」

 ぴくり、とシスターの背が震えるのを、アリアは気づいていない。

「あたしが世界を救うだとか、マスターがどうのこうのとか話し始めてさーいやーったくまいっちゃうよね。変人ってこれだからいやだね」

「アリア」

 その時、いつもに似ず厳しい声音がアリアへ飛んだ。

「この修道院を、出ていきなさい」

「……は?」

 この突然の物言いに、アリアは驚いて目を見開く。その金色のまなこを見やって、シスターがうつむく。

「あの御方の使者が来たということは、世界の終わりが近いということ。もう、お前のことはここでは救いきれません。どうか出ていって。この世界のために」

「な、なにを言っているんだよシスター……」

「明日の朝には出ていくようになさい。私からあの御方に手紙を書きます」

「は、はあ!? 何言ってんだよシスター! あたしはっあたしはいやだよっ確かにあたしはやっかいものだけど、あたし、あたしはあんたを……」

 ほんとの母みたいに思って……。その言葉が発されると同時に、教会のステンドグラスをたたき割って、黒馬が走りこんできた。黒馬はつばきを口にみなぎらせ、歯を見せ口の端を怒らせて唸っている。その上には宵色のローブを纏った謎の人物が、馬首をこちらへ向けている。

「きゃああああ」

 その悲鳴もそのままに、シスターがアリアの腰をかきいだき、教会を走り去る。

「シ、シスター、なんだよこれ、どういうことだよ、これ!」

 震え声ながら必死に叫ぶアリアへと、シスターが早口で怒鳴る。

「詳しく話す時間はありません! 早くあの御方の使者のところへお行きなさい! そしてこの世界を、救って……」

「シスター……?」

 銃声がとどろいてすぐ、シスターはバランスを崩し、床になだれた。

「シスター、シスター! ひっ」

 シスターを揺り動かさんとした時、アリアは彼女から流れ出ていく大量の血に触れて、思わず青くなった。

「アリア、どうか、この世界、を……」

「シ、シスター? いつもの冗談、だよ、な……シスター……」

 もう何度揺り動かしてもシスターは動かなかった。ただただ、いつも自分を案じてくれたその顔が冷え切って、死相をあらわしてゆき、もう二度と、彼女はほほ笑んでくれなくなったことをアリアは悟った。

「シスター、シスターをよくも……」

 その時、アリアは自分が紅い色合いの涙を流しているとは知らなかった。ただ自分が怨嗟の言葉を並べるうち、黒馬に乗った男が身をよじって苦しみだしたのはわかった。

「よくも、よくも……」

 身をよじって落馬し、地に倒れ伏す男の後ろで、またローブを纏ったものが馬で走りこんできて、アリアに銃口を向けた。そこで、ガラスを割れる音が響き、現れたのは今朝の男であった。今度は碧色の軍服を纏い、金のタッスルを揺らして庇うようにアリアの前に立ちふさがる。

「わがマスターに害なすものよ。死んでもらおうか!」

 碧服の男が短剣を抜き去って放ると、それは見事に敵の胸を刺し、またその者も倒れた。馬蹄はなおも外で続いている。おそらくこれきり、二人きりで来ているのではないだろう。

「さて、逃げるか」

「嫌だ」

「なぜ」

 男が急いた口調でも微笑みながら尋ねると、アリアの瞳には涙が次々たまっていった。

「シスターが、シスターが死んじまったんだ……シスターが、シスターは」

 そこで極まったがごとく、アリアは泣きじゃくった。

「シスターが死んじまったんだよ! あたしのことを誰より案じて、愛してくれた人が……」

「シスターは、何か、言っていたか?」

 これに、アリアはおぼろながらも思い出したことがあった。あの御方の、使者に……。

「あの御方の使者のもとへ、と、言って、いた……だけど、あの御方が、あたしにはわかんないんだよ」

「案ずるな、それは俺だ」

「あんた、が?」

 いまだ何も分からなく、混乱したままのアリアへ、男が強いまなざしをしたまま頷く。

「そうだ。お前を迎えに来たんだ。これからはシスターの代わりに俺がお前を守る。ずっと、ずっとな」

「どういう、ことだい」

「まずはとにかくここから逃げるぞ」

 自分を横抱きにかかえ、走り出す男に、アリアは抵抗を示さなかった。自分を狙う者たち、殺されたシスター、自分へとむけられた銃口、それから守ると告げた青年騎士。碧色の軍服は王都にいる王の直属の近衛兵のあかし、とは知っていた。これから導き出せるは、自分は何か大きなものに狙われている、ということだった。それも利用されて生かす、というたぐいのものではなさそうだった。あの黒衣のものたちはまっすぐ、自分に銃口を向けた。殺す気なのだ。何をおいても。

 教会裏の地面にうがたれた穴は地下通路になっていた。そこをくぐり、郊外に出たときにはもう、空は朝もやが澄んで、青い空が見えていた。青草をわたる風のなか、丘の草原に二人、立つ。

「あんたらは、何なんだい」

 もう涙を流し切った顔で、アリアが問う。男がひざまずいて、アリアへと述べる。

「アリア、もうじきまた戦の種が芽吹くかもしれない。それを救えるのはお前だけだ。どうか、助けてほしい」

「どういうことだ」

「あんたも、生贄の話は知っているだろう」

 それへ、アリアがうむ、と顎をひく。

「あの、姫君を犠牲に、という話だろう」

「そう、しかしその姫は何の罪もないばかりか、王族の末、我が国の尊ばれるべき神官だ。その御方を殺させる訳にはいかぬ。だが先ほどのローブのものたち、ロドの苛烈信者たち通称ネシスは、本気で姫であり神官であるマリアンヌ様を殺し、この世の異変と終わりを終焉とさせようとしている。われらはそれを何としても止めねばならない。その為にお前の力が必要なのだ」

「でも、どうやってあたしが」

「それは簡単だ」

 ふいに近づいて、アリアの涙でこごった前髪を、男が撫でてやる。

「お前はマリアンヌ様と容姿が非常に似ている。姫はお命のため、城の深くに身を隠され、神官を下りられる決意をなさった。これからはお前が神官になるのだ」

「なっ」

「もちろん、お前のことは俺たち近衛兵が全力で守る。頼む。神官であり、王族である姫がロドの信者によって殺されれば、戦が起きるは必定。またあの惨劇が繰り返される。それを阻止するために、お前の力が必要なんだ」

 「……っ」

 アリアは先達の戦の酷さを思い返していた。確かに、ロドの信者によって姫が殺されれば、また大きな戦になるだろう。何か、したいと思っていた。神を殺そうと思うほど、戦を防ぎたいと、思っていた。まして敵は、大切な母を、シスターを殺した。

 決して、許さない。

「……わかったよ」

「! 承知してくれるか!」

 青年騎士の顔が喜びに晴れ渡った。アリアが、くす、とほほ笑む。

「大したことができるとは思えないが、助けにはなってやるさ。戦はもう、いやだしね」

「いいや、ただ生きているだけでいいんだ。ありがとうアリア!」

 それから青年は額づいて。

「俺の名は近衛騎士団アランだ。長い付き合いになりそうだ。よろしくな、アリア」

「ああ」

 アリアは、アランの手をとり、淡く微笑んだ。こうしてアリアは史上類を見ない、神官であり王族でもある少女の身代わりとなった。それがのちに、どんな残酷な結末を迎えるかもしらずに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【第二章】

 ――アリアは夢を見ていた。もやのかかる、淡い、血なまぐさい夢。そこではシスターが、黒いローブの男に崖の上に連れていかれ、地に落とされガラス片のように粉々になっていく。そんな悲しい夢だった。

「シスターっシスターっ」

 声を発そうと思っても、喉がふさがって声が声にならない。黒いローブの男がこちらへ振り向いた。その顔は歪んでいる。この男は――ロドだ。

「ロドっ」

 ロドの黒き腕が勢いよくこちらへ伸びてきても、アリアはひかなかった。

「ロドっあたしは、あんたを、あんたの造ろうとする運命を、変えてみせるっ」

 ロドの腕が、アリアを捕らえる。その間際、だった。

 馬のいななきと同時に眼が覚めた。

「ん……」

 ここは馬車の中であり、今は騎士のアランがそばにいて、こちらを心配そうにうかがっていたことを認めた。

「大丈夫か、うなされていたぞ。アリア」

「ん、ああ」

 アリアは頭をかきかき、おどけるように笑った。そう、大丈夫。自分は今から神官に化け、戦神ロドの作ろうとする未来を変える。もう二度と、誰の犠牲も出さずに。――シスターの笑顔が思い起こされる。

(シスター、あたし、あんたのためにも、やってみせるよ)

 馬車の小窓のカーテンを、アランが勢いよくひく。そこにはオレンジ屋根のどこまでも続く、海辺に沿うた美しい街並みが広がっていた。

 

 道にはオレンジの皮が花弁のように落ち、石畳にはロマンチックな貝殻があたりにちりばめられている。

「ここが……」

 アリアがぽつり、言うと、アランがにっこりして答える。

「そう、キッツランド本土の大国、ミランシェ王国だ。ここに、姫君がおられる」

 朝の光を受け、たてがみそよがすままに黒馬がひく馬車は丘の上の城にたどり着いた。城は町の中心部にあり、青の屋根をそびやかし、尖塔がいくえも青空を持ち上げているような高さを誇っていた。

 そこに着くなり、アリアは、はああと大きく欠伸をした。長旅で疲れているのだ。眠りも浅く、嫌な夢も見た。彼女にとっては何気ない仕草だった。そこへ。

「違いますアリア様っ」

 いきなり叱声が飛んできて耳に刺さった。アリアが一歩踏み出した、市松模様のホール奥より、一人の女がやってきた。

 女は碧色の軍服を纏い、ブルネットの髪を肩のあたりでゆらめかせた、高慢そうな美々しい女だった。

「城の内部で欠伸をなさるのは、巫女様にふさわしくありません! おやめなさいませ!」

 自分より年かさには見えるが、背丈が低い。そんな彼女に叱られて、アリアは一瞬困惑した。が、すぐに田舎のヤンキー魂で言い返した。

「なんだってあんた。あたしは長旅で疲れてるんだよ。なのに欠伸のひとつも許されないとは、どういうこったね」

 これに、女は嘆息し、眼を思い切りとがらせた。

「まあ、まるでなっていない発音! いぎたない声! 聞き苦しい言い訳! これは相当の時間を頂きますわよ、アラン様」

 女の冷たい一瞥に、アランが苦笑を浮かべる。

「まあ、よろしくやってくれ。マーガレット」

 マーガレット? この苛立たしい女は、マーガレットというのか?

「そうですわアリア様! わたくしこそ、近衛兵団の一員にして、元は子爵家の出としてあなた様の指導を承る、マーガレットと申します! 末永いお付き合いになるかと思いますので、どうぞ、お見知りおきを?」

 マーガレットの高慢な目つきに、アリアが思わず噛み付く。

「はあああ? どういうことだよ! なんであたしがこんな女の指導なんて受けなきゃいけねえんだ!」

「まあああ、なんて粗野なお言葉! わたくし、耳が腐りそうですわ」

「なんだとおお」

 二人の諍いに、アランが困り顔で仲裁に入る。

「まあ聞け、アリア。お前が今から扮するは、この国の姫君にして神官だ。姫は美しく、優雅で気品のあるお方。その方に化けるには、お前も、そういう雰囲気をまとわねばなるまい、ということだ」

「はあ? やだよあたしがそんな」

「頼む! 二か月後には舞踏会もある。そこでお前の正体がばれて、ネシスに見抜かれればこの目論見は水の泡だ。どうか、頼む」

 アランの真剣なまなざしに、つい、うん、と言ってしまったのは、世界を救いたかったからか。はたまた違う理由か。それさえも今のアリアにはわからなかったのであった。

 

◆◆

「そうではありませんアリア様っ」

 その日から、マーガレットによりアリアへのレディ教育は始まった。それは熾烈を極めるスパルタ教育だった。怒り気味の肩をならすため、岩の入った籠を二時間両手に持たされ、直立も二時間、歩き方も三時間と、鄙出身のアリアにはきついものが続いた。ようやっとそれらが終わり、洒落た調度の部屋に帰され、一息つく。すると、部屋のベッドには発声のテキストがびっしり隙間なく並べられていた。これではまるで寝られない。

「お、おいあんた、あたしはどこで寝ろってんだい」

 アリアが思わずそう詰問すると、マーガレットは。

「そのご本はお読みになったらベッド下にお置き遊ばせ。それまでは眠る間も惜しんで勉強ですわよ」

 平然とした顔で部屋を出ていった。

「くっくっそー!! 」

 アリアが怒り心頭で、テキストを次々破ろうとする。そのとき、部屋をノックする音が響き、アランが顔を出した。

「どうだ、やはり難しいか」

「アランっもうあたしは疲れて疲れて。こんなの、やっぱり無理だよ、あたしみたいな、田舎の、血筋もよくない不良娘みたいなのには、気品なんて、身につけられないよ……」

 疲れているのか、珍しく弱音を吐いてしまうアリア。そんなアリアの髪を、柔らかく撫でて、大丈夫だ、とアランが微笑んだ。

「あきらめるな。この俺様がお前が見込んだんだ。きっとあきらめなければかなう。そう信じろ」

「そうかな……」

 アリアが潤んだまなこでアランを見つめる。柔らかくアランが破顔する。

「そうだとも、だからお前も、俺様が見込んだ女なのだからと、自信を持て。きっと、うまくいく」

 ほら、と、アランはそれから背後より手をまわして。

「わあ」

 しょぼくれていたアリアの顔に、灯りがともる。そこには故郷デルバールの花である、ひまわりが幾本も顔を見せた。

「デルバールはひまわり栽培がさかんだと聞いてな。ホームシックを少しでも癒せるかと、もってきたんだ」

 アリアがアランからひまわりを受け取る。故郷デルバールの香りがする。それは優しい特効薬として、深くこころに染み入った。

「ありがとうよ、アラン……」

「お、ようやく笑ったな。お前は笑っている方が可愛いよ。元気を出して、へこたれるな。話くらいは聞いてやるから」

 そうして頭をごしごし撫でられると、いらだちの代わりに、不思議な感情が湧いてきた。なんという気持ちなのか、それはわからない。けれど照れくさそうに笑うアランを見ると、胸がどくどくと、歓喜に震えるのだ。

「な、なあ、アラン」

「ん? なんだ」

 なんとなく、アランをこのまま帰したくなくて、もっと話していたくて、アリアが声をかける。

「あの、その元の神官マリアンヌ様は、どんな方だったんだ?」

「それは、な」

 急に、アランの声が世にも穏やかな優しい声音に変じたので、アリアは少し落胆する。男のその瞳は、熱を帯びたその瞳は、確かに恋をしている眼であった。

「先の戦で俺が敵国の将を討ったとき、拝謁願ってな。それはそれは美しい人だったよ。お前にも似ていられるが、なんというか、常人離れしたオーラを漂わせていた。あの御方は月だ。薔薇だ。見る人の心を惑わせ、不安にさせるほど美しい」

 これを聞いて、アリアがほうとため息をついた。世にも美しき薔薇に、鄙のひまわりが勝るはずもなかった。そのことになぜこのように落胆と寂しさを覚えているのか。そんな自分の気持ちが分からなかった。

 アランがふいに、アリアの顎をすくい、微笑んだ。

「だが俺は、太陽に向かって一生懸命に咲く、ひまわりも、可愛いと思う」

「な、なんだって」

「――薔薇だけがすべてじゃないよ、アリア。お前はお前の花を咲かせなさい」

 アリアがこころ千々に乱れたのを見てとったか、アランはさっと背を翻して部屋を辞した。残されたのは、ぼうっとなって頬を紅潮させる、アリアのみとなった。――破ろうとしたマナーのテキストはすべて、マーガレットの手書きだった。丁寧に絵入りで、不器用ながらも何十枚も書いてある。時折、頑張って、とメッセージも寄せてある。

「ちぇっ」

 素直じゃないやつら、め。

「もう少し、頑張ると、するか」

 そうしてアリアはテキストを開き始めた。

 

◆◆

 そして迎えたミランシェ王族主催の舞踏会の夜。舞踏の間とあてられた大広間には、金の床を優雅に泳ぐ、名士貴族の姿が数多見えた。みなみな、昨今の地揺れや地鳴りなどの話題を一度は口にするも、それよりこのダイヤはどうだ、このシャンデリアは、といった自慢話に花が咲いた。そのとき、数百はいる招待客へと、扉の開閉を任されたアッシャーが、大声でかの女性の名を呼んだ。いよいよ姫君の登場である。

「ミランシェ王国第一王女、マリアンヌ姫、ご入来!!」

 次には舞踏を終え、ホールにずらりと詰め込まれた招待客のみなみなが声を失った。美しき騎士、アランと、その側近マーガレットに連れられ現れたのは、世にも美しい容貌の女だったからである。純白の、裾にレースをたっぷりあしらったドレス、身に着けたパールもかすむような、美しい花のかんばせ。金の瞳が月光に浴して、光を放つ。それが攻撃的なものでなくて、どこか宝玉のような光を放っているのが、気品高く優雅で聞こえた王女らしい。姫は階段を下りる際も、決して首を前に突き出して、見苦しく歩を進めるでもなく、きちんとみなみなに会釈をしながら優雅にこちらホールへ歩いてくる。

「あ、あれがマリアンヌ様」

「噂に聞いた通り、息をのむほど美しいわ」

 女性陣からも思わずそんな声が出るほど、アリアは美しきプリンセスを完璧にこなしていた。

「一時はご病気と疑ったが」

「それもでまだったか。ん?」

 そのとき、アリアは出されたフルーツ入りのよく冷やしたカナッペを、口に運んだ。そのしぐさがいかにも、品があって、事情を知るものもはらはらさせない。

「マリアンヌ様っ」

「マリアンヌ様」

 みなが我さきにとアリアに近寄る。そうして発する声はまさに天上のハープが如し、柔らかで耳に心地よく響く、王侯貴族の発音だった。

 アリアがみなに囲まれている間、アランはマーガレットとひそかに赤ワインをくゆらせ、乾杯していた。

この舞踏会は成功だ――。誰もがそう確信した、そのときであった。

 ガラスの割れるけたたましい音が響き、ローブを纏った怪しげな男たちが会場に乱入してきた。

「あっあれはっ」

 黒のローブに金色の鍔の剣、金の短砲。まさに今、ロドの苛烈信者、ネシスが大挙して押し寄せたのだ。その数数十と見えようか。

「お前らは下がってろ! マーガレット、アリアを頼む」

 近衛兵がわっとネシスに襲い掛かり、あたりは騒然となった。正装の裾を踏まれ破かれながら、逃げまどう人々。高いダイヤを捨て去っても、身軽に走ろうとするレディ。ネシスの一人がシャンデリアを撃ち落としたので、あたりは燭台のみの薄闇となり、パニックは極限に達した。

 アリアは必死で城を逃げまどう、マーガレットの腕を掴んでいた。怖い。怖い。ロドに、殺される――。夢の中では立ち向かえたのに、実際に血煙けぶる現実に置かれると、それはあまりに恐ろしかった。城の奥へと逃げるマーガレットの腕。だが、宵闇を逃げまどううち、アリアははたと気づいた。その腕の力は、女の力ではない。そしてマーガレットだったはずの碧色の軍服は、いつの間にか黒のローブにすり替わっている。このものは、ロドの苛烈信者、ネシスだ……。

 ぞくうっと背筋が凍りつくような予感にかられながら、立ち止まってアリアが問う。

「あんた、誰だ」

「はは、見抜かれた?」

 男がローブを脱いだ。けぶったような黒髪に金の瞳が、闇にまがまがしく照り輝いている。

「やあ、はじめましてアリア。俺の名はルシフェール。ネシスを率いる、闇の神官さ」

「闇の、神官……?」

「そうとも」

 なぜ、この男は自分の名を知っているのか。それもよく問いただせないままに、アリアは彼の次の言葉を待った。

「あんたがあのマリアンヌの代理神官というのは、ネシスならみんな知っているよ」

「な、なぜ……」

「いくら上手に化けたって駄目さ。あんたは、マリアンヌのようにはなれない。だってあんたは……」

 おっと、とルシフェールが慌てて口に手をあてた。

「これを話しちゃあ、あんたは絶望の淵へ落ちてしまうだろうから、言わないね」

何か、あるのだ。隠していることが。

「どういう、ことだ」

 アリアがきつく問いただそうとする。その瞳が紅く染まっていく。それをちらと見、ルシフェールがけたけたと笑った。

「はは、勘弁してくれよ。俺は光の神官とやる気はないんだ」

「アリアー!!」

 そのとき、背後からアランの急いた声が聞こえてきた。近衛兵が集ってきているのだ。

「さて、じゃあ俺は帰るとしようかね」

「待てっ」

 アリアがその袖を掴もうとする。

「絶望の淵に落ちるとはどういうことだ! 」

「いずれ、わかるよ。みんな隠しているだけでね」

 そう、意味深長な言葉を残し、ルシフェールは煙のように姿を消した。

 

◆◆

「アリア、大丈夫だったか?」

「ごめんなさいアリア、わたくし、途中から何者かにすり替わられて……」

「大丈夫、あたしはなんともないよ」

 それより。アリアは彼らに聞きたいことがあった。どうしてさっき、ネシスがいるのにも関わらず、アリア、と呼んだのだろう。そして絶望の淵に落ちるとは、どういうことだろう。それはもしや、昨今の地震や地鳴りに関係があるのか? アリアはもともと賢い娘だったので、思わずそれを問いただしたくなる。みなは私に、何か隠しているのではないか? 何か、絶望の淵に追い込まれるようなことを。

「これはどうしたことです」

 そのとき、威ある声が響くと、近衛騎士たちが一斉に、こうべを垂れ、膝まづいた。アランも、マーガレットも、同じく床に額づいた。アリアだけがたたずんでいる。奥の神聖な白き扉が、ゆっくりと、開いた。

「こんにちは、アリア。我の名はマリアンヌ。こたびは、大儀でありましたね」

 あっと、マリアンヌの姿を見たアリアは、言葉を失い、ただ立ち尽くした。現れたマリアンヌは、確かに顔かたちは自分に似ているが、圧倒的なオーラがあり、アリアは直視も出来ず、思わずひれ伏したくなるほどだった。

(この世に、こんなお方が、いたのか……)

 そうアリアに思わせるほど、強く気高い、圧倒的な存在感が、マリアンヌにはあった。

「危険な任を背負ってくれてありがとう。さぞや怖かったでしょう。だけれど、もう少しの辛抱です。その日まで、よろしく頼みます」

 その日まで? アリアがふいに疑問を覚えたのもつかの間。ふらっとマリアンヌがよろめいたのを、アランが抱き留めた。

「大丈夫ですか、マリアンヌ様……」

「すみませんね、アラン。いつも、迷惑を……」

「少しお顔色が優れないご様子。このままお部屋までお連れします」

 そして緊張した面持ちで部屋に連れていくアランの背中を見、アリアは思わず身もだえしたくなる衝動をこらえた。あれだけの美女を見ても、対抗心をまた抱く己が、ただただ恐ろしかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◆第Ⅲ話

 アリアはまた夢を見ていた。血なまぐさい、血煙が淡くけぶる夢。

 これは、ロドが自分に見せているのだろうか。ふと、そう思うときがあった。

 「いずれわかるよ。みんな隠しているだけでね」

 あのルシフェールとかいう、謎の美青年の言葉も気になるのか、それが再びこだまのように夢うつつに響いてくる。

「――ロドよ」

 ロドはまた崖の上にいて、今度は誰か美しい少女の手をひいている。誰なのか、わかっているのに、いまいち判然としない。もやの中だからだろうか。彼女を、今度はその崖から突き落とすらしい。

 それへアリアは、恐怖を押し殺して声をはりあげた。

「なぜ、そのように生贄を欲するのだ。ロドよ」

 本来、ロドは神であるからして、夢で見ても人間は目通りもかなわぬし、声をかけてもならぬ、と教わった。

 けれど今のアリアはなぜだかそのような箍が外れて、ロドへと一歩一歩歩み寄っていく。

「ロドよ。なぜかように人を憎む。なぜかように……」

 そのとき、ロドが一瞬、こちらを見据えた気がした。しかしロドは、すぐにその首を少女の方角に戻し、力強く彼女を地に叩き落した。

「ああっ」

血が流れ、肉がはじけアリアは絶叫する。

「なぜかように私を苦しめるのだ、ロドよ!!」

 

 はたと、目覚めた。そこは城の一室、自室にとあてがわれた部屋のベッドの上だった。ベッドわきの椅子には、マーガレットが座っており、不安げな視線をこちらに送ってくる。

「おはようございます。どうしたのです。何かうなされていましたわよ」

「いや……なんでもない」

 アリアは悪夢を振り払うように、何度か頭を振って我に返った。

「う……」

 にしてもどうしてこうも頭が痛むのか。

「頭が痛みますのね。それは当然ですわ。昨日わたくしとやけ酒しましたものね」

「え?」

 アリアが思わず声を漏らすと。ふっとマーガレットが苦笑して。

「失恋大確定パーティのことですわよ」

ああ! と思い出すなりアリアが赤面した。昨日の話である。

 



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◆◆

「いくら待っても出てきませんわよ」

 昨日、マリアンヌを部屋に連れていったアランの帰りを、白薔薇かおる回廊にて、アリアは待っていた。外は初夏といえど、まだ身震いするほど朝方は冷える。そのアリアへ毛布をかけてやり、マーガレットがつぶやいた。

「アラン様を待っているんでしょう」

「えっいやっ」

 挙動不審になるアリアを、ふっと、マーガレットが笑った。

「面食いですのね。困った偽姫君だこと。そんなところまでマリアンヌ様に似なくてもいいのに」

 「え」

 我知らず絶句してしまうアリアへ、マーガレットが言葉を継ぐ。

「そう、愛し合っているんですわよ。あの二人は。ご存知なかったの?」

「……ベッドの中で?」

「まああ! わたくしの教育がまったく行き届いていない! と怒るのも筋違いですわね……許しましょう。まあ、十中八九、そうですわね」

 はあと、嘆息するマーガレットの姿を見、今度はアリアが微笑を浮かべた。

「がっかりしているのは、誰かさんも同じかな」

 「ま! そんなところばかり賢さを発揮して。まあ、いいえとはいいがたいですわ」

 ふっ。

ほほっ。

 二人はそうして笑いあいながら、毛布を片手に自室へ下がった。そしてワインをやけ酒にあおり、アリアもマーガレットも二日酔いの地獄に落ちたのである。 

「昨日は聞けなかったけど、マーガレットは、どうして、その、やつのことを……?」

「まあ、あの方は、ハンサムだし、お優しいし、素敵な殿方ですしね。それに、幾度もわたくしを大戦中は庇ってくださったのよ」

 そう語るマーガレットの瞳は、常に似ず夢見るようだった。

「告白は、しなかったのか」

「できる訳ないでしょう? あの方はもうマリアンヌ様を生涯の恋人と定めていらっしゃるの。あなたにとっても残念ではありましょうけど」

「そんなの、わからないじゃないか。人のころは移ろうものさ」

 げへへとアリアがほくそ笑むと、マーガレットがまた、嘆息した。

「とにかく、朝食を食べにまいりましょう。今日はわたくしたち近衛兵団も忙しいんですの。なんたって、この王都の森に魔族が出たんですからね。あなたも、朝食のあとは謁見が待っていますわ。魔族の件で」

「魔族?」

 アリアがぼうっとして繰り返す。魔族とは、いったい何のことであろう。

 

「おでましくださいませ、巫女姫様」

 謁見の間に通されたアリアを待っていたのは、貧しい野良着を着た農民たちだった。

本来、謁見は貧しくとも爵位ある貴族まで、と決まっていたらしいが、アリアが無理を押して出る、と言ってきかなかったのである。それには、初めて聞いた魔族、という言葉にひっかかりを覚えたゆえでもあった。農民たちは震えながらも嘆願する。

「森に魔族が出て何人もわれらの仲間が連れていかれました。このままでは農作業になりませぬ。どうか、巫女姫様、お出ましになり、魔族を払ってくださいませ。どうか、お願いでございます」

 これに騎士たちは厳しい反応を返した。

 「ならん、ならん。目通りかなっただけでありがたいものを、なぜ姫様がそのような魔族払いをしなくてはならぬのだ。あのようにけがらわしきものたちなど、放っておけばよいのだ。姫様のお手をあのけがれた血で汚すことなど」

「し、しかし」

「いや、いいぞ」

 アリアは農民たちの眼を見て快諾した。農民たちの眼に涙がともる。彼らは万歳をしながら、次々にアリアを拝む。

「……な、なぜにアリア様、かような任を」

 見眼美しい騎士が、苦い顔でこう尋ねてくるのを、アリアが見返した。

「あのさ、お前らの中で姫巫女ってなんな訳? ただ生きているだけでいいのか? 私はそうは思わんよ。人のためになってこそ敬われてしかるべきであろう? 違うか?」

 

 

 そう凛然と答えたアリアに、騎士は返す言葉もなかった。

農民たちが去ったのち、ところで、とアリアが侍従に問う。

「すまないね。私は鄙出身だからわからんのだけど、魔族とはいったい何なのだ」

 侍従は黒のお仕着せの裾に眼を落とし、苦々しい顔つきで話し出す。

「魔族とは……かつてわれら人間の血肉をくらっていた化け物の末のものたちです。人ではないのです。それゆえ、連れていかれた農民たちもみな、今頃は骨になっているでしょう」

「ふうん」

人を喰らったものたちの末裔。ふつうならそれに恐怖や嫌悪を浮かべるものの、アリアは決してそんな感情を抱かなかった。シスターがよく行っていたものだ。

【病に苦しむものも、生まれに苦しむものも、苦しみながら生きていくものは美しいのです。決して、差別したり侮蔑したりしてはなりませんよ。真実は自分の眼で確かめるのです】

 それゆえ、アリアはさしたる恐怖心を持たなかった。それどころか。

「私は話してみたい。彼らと」

 アリアがそう決断したことはすぐに城中に伝わった。旧弊な思想を持つ大概は、

「代理のくせに、汚らわしいやつらを相手にすると勝手に決めて」と苦々しく思っていたが、一部の進歩的な貴族や官僚は、おや、とその慧眼に一目置いた。

 

◆◆

 二日後、騎士アランとマーガレット、その他十名ほどの騎士を引き連れて、アリアは黒き森へ入った。黒き森はとろけたような枝で幾重も空を覆う、光の射さぬ恐ろし気な場所であった。

「ここが、黒き森。魔族たちの住処、か」

 そのとき、がさっと、音が聞こえ、草葉を揺らすそれはみるみる大きくなって、アリアたちの一群を囲んだ。

「なっ」

 アリアたちが驚いているまに、一人の男が輪の中からやってきた。

「ここは我らの魔族の居場所!! とっとと出ていってもらおう!」

 アリアは初めて見る魔族に眼を見張った。耳がとがり、肌が真っ白だった。美しい容姿のものばかりだが、どこかその瞳には闇を内包している感を与えた。

「しかし、ここを農場として切り盛りしている農民たちが困っているのだ! どうかうまくやれんか」

 アリアが声を張り上げると、魔族たちは少しのあいだ押し黙った。

「む、無理だよおばさん」

 おば……と思わず言葉を詰まらせたアリアへ、少年魔族が話しかける。

「僕たちはあんたら神官王族の決定で、身分制度の一番低い場所に据えられ、人から嘲られて生きてきた。このあいだもそうだった。我々が人間と仲良くしようとしても、人間は石を投げ矢を射かけ、まるで取り合ってくれなかった。我々にだってこころがある。痛みがある。命があるんだ。それは平等だろう? なぜ僕らだけが常に追われ、差別されなくてはならないの?」

「……」

 そこでアリアは、シスターの教えを思い出していた。

【ロド様は言われました。生きとし生けるものはみな平等なのだと。ロド様の御前では、みな同じなのです】

「ロドの教え、か」

 くっとアリアが微笑む。確かに、みなが平等であったなら、どんなに素晴らしい世界だろう。けれど実際は、民を率いるもの。その民が率いるもの。と、階層が生じてしまっている。どうしたら、この不平等を解決できるのか。

「……そうだ」

 ふいに、アリアが発言した。

「パーティーをしよう」

 

 それからは忙しくなった。アリアはサマードレスの裾をたくしあげて、国中の貴族と謁見をかわし、こう口にした。

「魔族のやつらと、パーティーしようと思うんだけど」

「それは短慮にございます、姫君」

 年を召したどの貴族もそういってつっぱねた。魔族は本来人でないもの。ふつうの平民でさえ相手にしない貴族が、それ以下と位置づけられている魔族と仲良くワルツを踊るものか。そういう反発は少なからずあった。町のあたりにも、パーティーの参加を呼びかけるびらを撒いたが、反応はいまいちだったと聞いている。

「ふうーまたダメか」

 地方のさる貴族からパーティーの辞退の文が届いたとき、アリアは中庭の薔薇の香りに包まれて、長く息をついた。

「なかなか、苦戦していますか?」

 眼を瞑り、開いたとき、目の前にいたのは美しきマリアンヌであった。マリアンヌは白いドレスを翻し、しずしずと、足を伸ばして座り込むアリアの隣に座した。アリアは今パーティーのことで頭がいっぱいで、失恋のことなどすっかり忘れていた。

「そうなんだよ。みんな魔族とは無理だっていうんだ」

「ならば、諦めますか」

「絶対いやだ」

 微笑するマリアンヌへ、アリアが強い調子で断ずる。

「誰かのために誰かが犠牲になるなんておかしいよ。私たちは、みな平等なのだと、母が言っていたしね」

「耳の痛い話ですね」

 マリアンヌが苦笑を浮かべて、静かに告げる。

「実はね、アリア」

「うん」

「魔族や鄙人を冷遇する仕組みは、私が作ったのですよ」

「え」

 アリアが思わず茫然とし、マリアンヌを見つめる。彼女はまっすぐに、盛り上がってはなだれる噴水を眺めていた。

「仕方がなかったのです。国をひとつにまとめるには、国を豊かにし、他国との戦争に勝利するためには、貧しさを当然と思ってくれる民もまた、必要でした。なにせこの王国の都には、数千万の民が住まうのです。彼らを豊かにし、ひとつにまとめるには、犠牲が必要でした……」

 今度はマリアンヌが、じいとこちらを見据えた。この上なく寂しい瞳で。

「こんな私が、情けなく、憎らしいでしょう?」

「いや」

 アリアがすぐさま首を振る。

「苦渋の選択だったと、信じているよ」

 アリアがそういうと、マリアンヌがまた、はかなげな微笑を浮かべた。

「……あなたにはそのせいで、ご心痛、ご面倒をかけました。その罪はいつか支払うつもりです」

 謎のような一言を残し、マリアンヌは立ち上がった。

「パーティーの件、私も何か力になりましょう」

 彼女が立ち去った後は、まるでその退去を惜しむように、白薔薇が香った。

 

 翌日から、アリアには吉報が相次いだ。

「いいですよ。私たちもそのパーティー、参加させていただきましょう」

「おお、来てくれるか」

 謁見に見えた貴族たちの中でも、ちらほら、色よい返事を返すものたちが現れた。また、平民の中でも、有力な商家の娘たちがこぞってパーティー参加を呼びかけ、その波はキッツランド全域に広がっていった。これにはマリアンヌの助力もあろう、と、アリアは感付いていた。

「これは、空前絶後の大きな出来事になりそうですわね」

 忙しく働くアリアへと、マーガレットがにこやかに話しかけた。アリアも嬉しそうに顔をほころばせる。

「うん。そうだな」

「正直に申します……最初はあなたを、見下していました。鄙から来た、ただの代わりの人形、だと。でも」

 マーガレットが、実に晴れ晴れとした顔で告げる。

「今は違う。あなたが歴史を変えるのです。キッツランドを、その運命を、あなただけが変えていくことが出来るのですわ」

 そうして潤んだ瞳をして手を握ってくるマーガレットに、アリアは深い感慨を覚えた。

◆◆

 そして、パーティー当日。城の舞踏場には、キッツランドの貴族平民の多くが我さきにと押し入り、大変な盛況だった。商家の娘たちも頭が切れるもので、

「貴族様が出られるパーティーで声をかけられ、玉の輿にのりましょう」

 と方便を使ったらしいが、どうもナンパに走る貴族を見ると、あながち方便と決まった訳ではないらしい。

 宮廷楽師たちが舞踏のワルツをかき鳴らす。そのとき、主催者のアリアは、自室で魔族の娘たちの化粧を見てやっていた。もともと、魔族というのは美形が多いので、目鼻に少しパウダーを塗るだけでも、ずいぶんと印象が変わった。

「ほおら、綺麗になった。これで大丈夫。どこに出しても恥ずかしくない、お姫様の出来上がりだよ」

 アリアが微笑んで鏡台の前にてそう言うと、娘たちもにこやかに破顔して礼を言う。

「アリア、男たちの準備も整ったぞ!」

 アランがアリアを呼び立てると、そこには美々しく着飾った魔族の青年たちが、恥ずかしそうに並んでいた。

「おうおう、いい男ぞろいじゃないか。さあ、ではいくぞ」

 アリアがひらかれた扉より先導して舞踏に入っていく。

 みなが一瞬その美しさに圧されたか、言葉を失うが、次には黙りこくった。魔族を忌んで、そうしたのではない。今まで散々ひどい扱いをしてきた者たちに、どんな顔をしたらよいのか、わからなかったのである。宮廷楽師たちも、何を鳴らしたらいいのか、わからずに音楽がやむ。魔族の面々も、やはり、と打ち沈んだ表情を見せる。

 そのとき、アリアが魔族の青年の手をとって、踊り始めた。その舞踏は蝶のように軽やかで、楽し気であった。それらを見ているうち、ひとりの近衛兵が手拍子を打ち始めた。アランである。次にはマーガレットが、次には貴族や平民が、最後には宮廷楽師までもが、手拍子を打ち、満座のうちで踊る二人を讃えた。そのうち、一人、また一人と、種族を超えて手を取りあい、携えて青年少女たちが踊り始めた。若々しい感性はついに差別を乗り越えたのである。

「……我々も、いささかかたくなになっていたようですな」

「――ええ、そのようで」

 しまいには老いた貴族の面々も、ともに手をとり踊り始めた。宮廷楽師たちも優雅で楽し気なリズムを奏で始めた。それは感動的なシーンでもあった。

(どうだ、ロドよ)

アリアが胸を張って誇らしく思う。

(これでもまだ、世界は憎しみに満ち、それゆえ戦を起こすというのかよ)

少し、地揺れがあったが、それも気にならないくらい、あたりは美しい感情に満ちていた。 

 

翌々日、パーティーの大成功に名を知らしめたアリアは街に出ていた。なぜかアランと一緒に。

「最近マリアンヌ様のお元気がない。何か、元気の出るものを贈りたいから、一緒におしのびで来てくれないか」

 そう、アランが朝方自分の部屋を訪って言ったとき、少なからずアリアの胸には落胆があったが、とにかくアランと一緒に町に行けることには、素直に喜んだ。二人は人ごみに離れぬよう、どちらともなく手を繋いだ。

「このあいだは、ご苦労だったな。アリア。マリアンヌ様もお喜びだったよ」

「そ、そうかあ? なら、いいんだが」

 勝手なことをして、叱られるかと思った。アリアが頭をかきかき口走ると、アランがにこやかに首を振った。

「いや、そんな訳はない。あの御方は本来お優しいお方。先達の差別も冷遇も、国をまとめる為に仕方なく行ったこと。誰よりこころを殺して泣いていたのは、あの御方だったのだから」

「ふ、ふうん」

 この反応に、アリアがふいと顔を背けて、呟く。そういう話まで、するんだ。自分と手を繋いでおきながら。

「そういう優しい世界を、どうか、作っていってくれよな。お前の力で。お、ほら、みてみろ」

 アランが指さしたのは、町中で花びらのシャワーを受ける、花嫁行列であった。花嫁は純白のドレスを纏い、この上なく幸福そうに微笑んでいる。

「へえ、いいなあ」

「お、アランよ。お前も憧れるのか?」

 アリアが照れながら問うと、寂しい返答が返ってきた。

「ああ、だが俺は生涯、結ばれないのだ」

 勢いよく、心臓を冷たい剣で貫かれた気がした。アランのその切なそうな表情は、マリアンヌへの真の思慕を示していた。

「マリアンヌ様は巫女姫なのだ。だから清浄な身を保たねばならぬ。だから、俺たちは口づけはできても、交わることはない」

 ドキン、ドキン……。

 高まる心臓の音を聞きながら、アリアは心の底から尋ねたかった。

【巫女姫という運命は、変えられないのか?】

【今は私が巫女姫でないのか?】

そして。

【私では、ダメなの、か?】

 手は繋いだまま、店を見て回り、城へと戻った帰り際に、

アリアはアランにプレゼントをもらった。紅い華やかな櫛だった。

「今日は、一緒に選んで回ってくれて、ありがとうな。これは、ほんのお礼だ」

「ア、 アラン……」

 そうして自室を下がろうとする男へ、アリアがか細く声をかける。

「ん? なんだ」

 アランがくしゃ、とアリアの髪を乱す。アリアはたまらなくなって、呟いた。

「私、じゃ、ダメ、かな?」

 それが聞こえたか、聞こえなかったか。アランが笑って、返答した。

「――その櫛、大切にしてくれよな。付き合ってくれて、ありがとう」

 

◆◆

「うっうっく」

 その夜、自室にこもってアリアは、ひたすらに泣きじゃくった。櫛は、花が舞い散っていて、先ほどの花嫁を彷彿とさせ、アリアを焦がれさせた。

なぜ、あんなことを口走ってしまったのだろう。そしてなぜ、自分ではいけないのだろう。確かに、女として自分は、マリアンヌに圧倒的に負けている。なれど、けれど、それでもだめ、なんだろうか。精いっぱい努力するから、繋いだこの手をほどいてほしくなかった。そう思うのは、罪なのだろうか。

「ひっく、ひっく、アランの、馬鹿……」

「本当さ。お前を泣かす男なんて、馬鹿に決まっているよ」

 突然、男の声が響き、顔をあげると、そこには。

「ルシフェール!!」

 そう、闇の神官、ルシフェールが立っていた。

「結界を破いてきたのか。んっくっ」

 そのまま彼は、アリアの口をふさぎ、闇へと姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆第Ⅳ章

 

アリアは、また夢を見ていた。うつつに、眠りのまにまに。恐ろしい夢だった。地がぐんと音を立てて沈み、勢いよく海水がこの町に流れこんでひとびとを飲み込んでいく。

「きゃああ」

「誰か助けて!!」

 アリアはそれをどこか遠くで見つめながら、あまりのことに声さえ失っていた。

(私の民が、キッツランドが、滅び去っていく)

 それに対し何も出来ない、苦悩するアリアの脇に、また黒きローブを纏った男が一人、佇んでいた。

「ロド、か」

 アリアは顔面を覆っていた手をはがし、ロドに詰め寄る。

「ロドよ、何が望みだ。かように人間を苦しませ、殺し、それでもなお、その怒りはとまらぬというのか!」

 アリアの絶叫もむなしく、キッツランドが海の底へ沈んでいく。たくさんの人々を、生贄として。

「ロドよ、答えろ!! なぜ答えぬのだ!!」

 はっとして、自分の声で眼が覚めた。

 アリアは今、見知らぬ部屋のベッドで寝かされているらしかった。朝の光がうす曇りにさえぎられている。調度が赤で統一され、それが濁った血肉色を思わせ、アリアは余計に気分を悪しくした。

「やあ、ごきげんよう」

 そのアリアの部屋へと、ノックもせず入ってきたのは、闇の神官ルシフェールであった。

「ルシフェール!! なぜ、このような真似をっ」

「いや? とりあえずお礼を言おうと思ってね」

「なんだと?」

 訝しく思いながら、アリアは彼のあとについていった。

◆◆

 ここはうらぶれた古城のようであった。石畳の廊下がところどころ朽ち、鼠がはい回る音が耳近くに聞こえる。

「まあ、かけて、ゆっくりして」

 ホットプレイスのある部屋にて、アリアに椅子をひきすすめ、ルシフェールがその向かいに座る。

「おい、どういうこった」

 アリアがさっそく疑問を呈する。

「ネシスは私を殺すつもりだったはずだ。身代わりの巫女として、この命を絶やすはずだろう。なのになぜ、そのようにしない?」

 アリアがそう詰問すると、ルシフェールがにこやかに、首を振った。

「いや、そのつもりだった奴もいたけど、ネシスを率いる俺の考えは違う」

「どういうことだ」

「……これを見てもらおうか」

 突然、ルシフェールが脱ぎだしたので、アリアは一瞬ぎょっとしたが、すぐにそれもおさまり、茫然とした目つきで彼の裸形を見据えた。

 ルシフェールの体はほとんど黒ずみ、あざが出来ていた。強い力で殴られたり、ぶたれたり、あるいは煙管などで焼かれたのだろう。見るのも痛々しくて、アリアが顔を背けようとする。

「これも全部、あんたの代わりのマリアンヌがやったことだよ」

「あんたの、代わり?」

 思わずアリアが疑問を呈する。

「どういうことだよ。私はマリアンヌの代わりと聞いて、化けて神官になったのだぞ。それにその傷、いったいどこで……」

「はは、何も聞いていないんだねえ。さすが人間は、卑怯でずるがしこい」

 そうルシフェールが語るのを、アリアは一蹴もせず聞き続けていた。

「あんたには言うとしようか。実はね、ネシスとは、人間たちに恨みを持つ、魔族のものたちなんだよ」

「え……」

 ルシフェールがくす、と笑む。

「ほら、知らなかったろう? それも魔族の中でもその血濃く、人間たちの召使にもなれなかったものたちだ」

「な、なんだと」

「俺の体を見て何か思わなかったか? これは俺が人間に仕えていたころ、与えられた傷だ。主人にはよく言われたよ。こいつらは魔族だ。どのように扱ってもよい、と」

 「な、なんと」

「ひどいもん、だったよ。気に食わないことがあると、人間どもが俺を鉄の棒で殴り、蹴り、煙管で火傷を負わせたりね。俺たちは魔族ゆえ、痛覚はあってもすぐに傷は治ってしまう。その治りが追い付かぬほど、この傷は深く刻まれた訳だけどね」

「な、なんて……ひどいことを」

 涙をぼろぼろとこぼすアリアを一瞥し、ルシフェールがさらに笑みを深くする。

「そんな地獄のような日々の中で、支えとなってくれたのはロド様の教えだけだった。生まれ来るものはみな、平等で、誰が上でだれが下でもない。誰も傷つけられていい道理はない、と、俺たちはみな信じ続けた。だが魔族への非道な扱いは止まらず、俺は一緒に仕えていた妹が殺されたのを機に、ネシスを作った」

「殺され、た……だと」

「そうだよ」

 ルシフェールの笑いは、もはやいびつに曲がり、悪魔のように恐ろしく、そしてもの悲しかった。

「妹は暴行され、その挙句主人によって殺された。俺は主人を殺し、屋敷を遁走し、同じような傷を抱く仲間と集った。そしてひたすらロド様の声を待った。その答えは、すぐに来た」

 アリアはただルシフェールの言葉を待っていた。嘘とは思われぬ。彼らが酷い扱いを受けていたことも、それゆえ人間を憎むことも、ロドの答えを、待っていたのも。

「ロド様はある日、俺の夢に立ち、こう言われた。もうじきお前の望む未来がやってくる。その代わり、光の巫女を殺さねばならない、と」

「なっ」

 たまらずアリアが声を張り上げる。

「なぜ、そのように……! マリアンヌはいつも罪の意識があった。それをも殺せと、ロドが言ったのか! そして、信ずるのか! 」

「もちろん。なんたって苦しみの中から俺たちを救ってくれたのは、ロド様の教えだけだったのだから」

 これにアリアは言葉を失い、ただただ茫然自失となった。

「アリア、これは運命なんだ。ロドという神が造られた、創生の神話の一部なのだ。だからマリアンヌは死ななくてはならない。そうでないと、世界は壊れ、破滅するであろう」

「なっ何を言う……運命は変えられる……そのために私は今まで巫女の代わりとして……」

 そのとき、ぐらりと、地が大きく揺れた。花瓶が落ち、額縁が落ち、地はまるで波打つように大きく振動を始めた。

「ぬ、ぬわ……」

「ほら、ロド様が迎えに来ちゃったよ。俺たちがぼけっとしているから」

「ロドの、迎え、だと?」

「そう」

もはや立っていられぬアリアへ、ルシフェールがにこやかに答える。

「いよいよ、あの女を、殺す日がやってきたんだ」

 

 

 

 

 

◆◆第Ⅴ章

 

地揺れが続き、それがおさまった頃、アリアはルシフェールに連れられ、古城を出た。ルシフェールは言った。

「真実を見せてあげよう」

と。

 

 ルシフェールは格別、魔族の血が濃いのであろうか。黒き羽をはやし、アリアを王城へと空を飛んで連れていく。

 空から見下ろす地表は地獄のような有様だった。煉瓦造りの街並みは見るも無残に打倒されて、あたりは地が割れ、火を噴き、人々が逃げまどう様が見てとれた。

「な、なんという、こと……」

 アリアはしばし絶句したのち。

「ルシフェール、私をおろしてくれ!民が、民が死んでしまう」

「それは出来ない」

 断ずるような調子でルシフェールが言った。

「このままではもっと人が死ぬよ。それを食い止めるには、あんたが城へ行く他ない。そ

して見届けるんだ。創生の神話を」

 ルシフェールの言葉に、反発しようと思えども、それは確かに正鵠をえていた。今自分が地上に降りたとて、人ひとりに包帯を巻いてやるくらいしか出来ない。その包帯すら自分はもっていないのだ。

おそらくこの地震は、やまないのであろう。さらに恐ろしい災厄を連れてくるのであろう。

それを、防ぐには。運命の巫女として、ロドの造る運命を変えるには、城に行く他ないのだ。

「すまん、みんな」

 アリアが苦渋の表情でそう告げる。彼女をいだくルシフェールは勢いをつけて城へと飛び立っていった。

 

◆◆

 「こ、これは……」

 城へとたどり着いたとき、アリアは思わず言葉を失い、ただ立ち尽くした。城内はいたるところ深紅の血に塗られていた。深紅の血は人間の血のあかしであり、それはネシスにより城の人間たちが殺められたことを意味していた。

「ルシフェール、貴様……これはどういうことだ!」

城内に入り、床に足をつけてアリアが絶叫する。見慣れた、親切にしてくれた下女や騎士たちが、みるも無残な姿をさらして階段に引っかかっている。

「おい、大丈夫か」

 アリアが見慣れた騎士の一人を揺らすと、男は白目に少し生気を表して、

「我々は……ただ、マリアンヌ様を、お守りした、かった……」

 とつぶやき、こと切れた。 

「これがロドの、教えの、末か……」

アリアの眼からは血のしずくがあふれた。これが、ロドの教えの結果なのだろうか。優しき、穏やかな平和を打ち破ってまで、恨みを晴らそうとするのが、ロドの示した道なのか。

「私、私は、ロドを、許さない……」

 アリアがそう漏らしたとき、ふらふらになった状態のマーガレットが、階段の踊り場に、ドアを開けて姿を見せた。

「マーガレット!!」

 彼女をアリアが思わず抱きよせる。

「マーガレット、大丈夫か」

「アリア、どう、か、誰も、恨まないで……これは仕方のないこと、なのよ」

「え?」

「これは、そうなるように、定まっていた、運命、なのよ」

 どういう、こと?

 アリアの頭が疑問符で満ちていき、混乱をきたしていく。

「その女の言う通りだよ」

 そこで、城内に入るなり行方知らずになっていたルシフェールがやってきた。その右手に、マリアンヌの黒髪を巻いて。

「ひ、姫様っ」

「マリアンヌ!」

 マリアンヌを引きずるようにして連れて、ルシフェールがにこやかに登場する。

「ルシフェール、マリアンヌを離せ」

 アリアが紅い瞳で睨むものの、ルシフェールはまるで介さない。

「嫌だね。だってこの女を殺さないと、世界は滅ぶんだから」

「それが、お前の受けたロドの予言か」

「ああ。それはみいんな、知っているけどね」

 アリアがまた言葉を失う。アリアがマリアンヌののち、マーガレットを見つめる。

みな、苦しいような表情を浮かべ、うつむく。

「どういうことだ。何を隠している」

 アリアがややあって、地鳴りの中でこう尋ねた。ルシフェールが告げる。

「もうすぐ、このキッツランド大陸は滅ぶ。この大陸はロド様の怒りによって沈みだし、五千万の民とともに海の底に消えるんだ」

「な、何をふざけたことをっ」

「ふざけたこと? どの学者も、どの予言者も、いやアリア、お前が見てきた現実もすべて物語っているだろう。地震地鳴りが続き、やがてこの大陸は数千万の贄を連れて滅び去るんだ」

 それがいやなら。

「この女を殺せば、ロドの怒りは静まり、大陸は滅ばぬ。さあ、どうする巫女姫様。すべてを知っても、俺を殺してマリアンヌを救うか?」

 これにアリアの瞳は紅く染まったまま、涙をこぼし始めた。これが、本当にロドの運命なんだろうか?

 ロドには、運命には、勝てない、のだろうか。 

「アリア、かくしていてごめん、なさい」

 マーガレットの言葉のあと、マリアンヌも言葉を継ぐ。

「この者の、言う通りなの、よ。どの予言者も、みな口をそろえて言っていたの。私が死ななくては、この大陸は神の怒りによって滅ぶ、と……アリア、あなたを呼んだのは、真の巫女姫として、私が死んだあとに傷ついたこの大陸を、守っていって欲しかった、から……」

 マーガレットも、涙まじりの声を引き絞る。

「わたくしたちも、マリアンヌ様には、生きていてほしかった。だから、ネシスと戦う姿勢を見せてきた……けれど、もう、ここまでで、限界……だった」

「だけど……でも!」

 

アリアが泣き叫ぶと、マリアンヌが柔らかく破顔した。

「いいのよ、アリア。私は今まで、この国を守るために、あまりに犠牲を、強いてきました。鄙のもの、貧しいもの、魔族の末のもの……その罪を、払わねば……」

「そうだよこの呪われた巫女姫様よ!!」

 ルシフェールが、喚くようにマリアンヌの耳元で叫びだし、マリアンヌを激しく蹴りあげ始めた。

「お前さえ、お前さえいなければ、差別は生まれず、俺の妹も、俺も……!! こんな目にはっお前のせいでっ」

 なぶるままに任せていたマリアンヌの顔が、一瞬で血塗られた。深い傷を負ったアランが、背後からルシフェールの両腕を切り落としていた。

「な、に……」

「マリアンヌ様から、手を離せ……」

 ルシフェールが倒れ、マリアンヌは床になだれた。アランももはや息も荒く、座り込んでいる。地揺れが続き、宮殿の華やかな大理石が音を立てて崩れ始めた。天井が崩れ、上から落石のような大きな塊となって落下してくる。

 四人とも、押し黙っている。もはや、この国は滅ぶ。これが、神の示した、道なのか。

「アリア……」

 マリアンヌが手を伸ばし、アランがその身をかきいだいた。

「私、何もかも、あなたにあげます。この国も、身分も、未来への希望も、何もかも、あなたにさしあげます。だからどうか、この国を守って。そして……」

 激しい地鳴りがして、宮殿の床に深い亀裂が走った。

「私を許して……アリア」

 次の瞬間、マリアンヌをかきいだいたアランが、その亀裂に身を投じた。二人が亀裂に見えなくなる。亀裂はまるでそれを咀嚼するように、鈍い音をたてて口を閉じた。

「あ、ああ……」

 アリアが思わずか細い声を発す。二人が、二人が、消えていった。あの深い、亀裂と運命の中に、消えていったのだ。

「あああああああ」

 アリアは床に突っ伏して泣き叫んだ。これが、ロドの示した運命。ロドの導きたもうた、変わらぬ、運命だったのだ。

「あああああああ」

 アリアはそのまま、激しい地鳴りの中で意識を手放した。

 

◆◆

 

 夢うつつ、崖の上でアリアを待っていたのは、やはりロドであった。今はローブを脱ぎ捨て、その歪んだ顔でアリアを見つめている。それはどこか悲し気で、寂しそうに見えた。

「結局、私はロドのつくりたまいし運命に、抗えなかった……」

 アリアがそう言うと、ロドが初めて、口を開いた。

「マリアンヌは血を流しすぎたのだ。あそこで、死ぬ他なかった」

「これで、あんたの、運命通り、だよ」

 アリアがふらりと立ち上がり、崖の先へ歩き出した。その手を、ロドの手がつかんだ。強く、あたたかな手で。

 

「アリアよ」

 

「お前は生きねばならん」

 

「怒りと不浄にみちたこの世で」

 

「それでもお前は」

 

「生きていかねばならん」

 

「生きよ」

 

「真実の巫女よ」

 

その声がやむと、

 地鳴りはやみ、地震はおさまった。

 

 

 それから。

 アリアは傷ついた王国に君臨し、神官を廃し、政治顧問として、政治改革を行った。 

 身分制を廃止し、差別をなくし、あらゆる人種への平等を訴えた。

 そして、政治顧問から、民の願いにより、女王としてこの国に長く君臨することになった。無論、アリアは一手に政治を牛耳ることはせず、議会を作り、選挙制度も整えた。まさに君臨すれど、統治せず、を心得たのである。

 朝の謁見では、久しくしていなかったバルコニーでの演説を行った。女王としてこれは実に四年ぶりのことで、純白のドレスを纏った威厳ある女王の脇には、近衛騎士団を率いるマーガレットの姿があった。

 バルコニーに出、アリアは声を発す。

「私の愛する民たちよ。ごきげんよう」

 彼女はバルコニーから見える民草の姿をくまなく見てとり。

「今日は、あの恐ろしい日から三年と半年が経った。あれは、神の望んだ結末だったのか、と、今で私は疑問に思う」

「もっと、違う結末はなかったのか、もっと、違う道があったのではないか、と、私はこの四年、悩み、苦しんだ」

「民の中にも、あの恐ろしい日によって、大切なものを失ったものも多かろう。さぞやあの運命を、悔み、呪ったであろう」

「けれど、私は」

 女王は王冠を日に輝かせ、こう言った。

「運命とは、抗うものではない。かといって服従するものではない。その中で、生き延びていくものなのだ。自分の意志を、貫きながらも、生きていかねばならないのだ」

 それが、いかに難しいか。それは、アリア自身がよく知っていた。だけれど彼女は、愛する国民にどうしても言いたかった、自問してほしかったのだ。

「命は落とすものではない。どう費やしていくか、なのだ。だから、我々はこれからも」

「生きていこう。この、不浄と怒りに満ちたこの世界で」

「ともに、いつまでも」

 

 アリアの演説ののち、拍手はいつまでもやまなかった。その拍手は、人間からも魔族からも、貧者からも富めるものからも、等しく響き渡った。

 

 演説ののち、アリアは謁見のときを持った。地に降り、民草のひとりひとりと言葉を交わす。その中で、かつての自分くらいの、幼い、あどけない顔立ちをした少女が、自分の手を握り、呟いた。

「神様……」

と。

 これにアリアはすぐさまゆるやかに首を振った。

「違うよ。私は神様などではないよ」

「違うのですか?」

 少女があどけないばかりの顔で問う。アリアが厳かな顔で頷く。

「この世に人の数だけ信ずるものがあってよい。だが少なくとも私は、神様にはなれないし、なりたくないのだ。私はお前たちと同じだ。悩み苦しみ、間違いを犯すし、後悔もする」

少女が、はい、と顎をひいた。アリアが優しく笑う。

「わかってくれるね。この国を背負う民の一人よ」

 

 アリアは、自室に戻り、ドレス姿の自分を鏡で見ながら、ふうと息をつく。その姿は、かつて見たマリアンヌの姿にそっくりであった。

「これで、よかったのだな。マリアンヌ」

 怒りと不浄に満ちたこの世を、自分は生きていく。これからも、この先も、ずっと。人として、ずっと。

アリアは感に堪えたようにつぶやいた。

「マリアンヌ、私は、生きて、いくぞ……」

 

 



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