とある少女の仮想世界(シミュレーション) (類子)
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第一章 仮想世界
1、現実は仮想へ


初投稿です。拙い部分もありますが、よろしければどうぞ。


その少女は、年齢の割には聡明であった。

 

研究者の父を持ち、他の子供達よりも知識に触れる機会の多かった少女は、六歳という年齢の割には沢山の事を知っていた。

 

 

けれど、目の前に広がる悪夢に正気でいられるだけの精神は、まだ無かったのだ。

 

 

「あ……ああ……」

 

冷たいフローリングの床に転がる、つい先ほどまで穏やかに笑っていた父母の死体。じわりと少女の足元までにじり寄る、赤黒い血溜まり。そして、怯える少女を冷たい眼で見据える、見知らぬ男。

 

その手に握られている黒い銃が、音を立てて少女に向けられた。

 

床が軋む。少しずつ近づく男。立ち上がる事も出来ず、少女は後退る。やがて壁に背が付いて、

 

「……ぃや……」

 

目前に迫る死。死ぬ。私は、また……また、あの悪夢を、

 

 

目の奥に、炎がちらついた。

 

 

「いやあああああああああああああ!!!」

 

刹那、少女の周囲は炎に包まれた。間近に迫っていた男も、例外なく火にくべられ、突然の苦痛にのたうち回る。

 

火の勢いは弱まる事なく、辺りを炎の海に変えた。それはまるで、『あの日』の地獄絵図。

 

彼女は思い出してしまった。前世の自分は火災に遭って死んだ事。そして、この世界が、前世ではただの作品(フィクション)であった事を。

 

その日から、少女…緋乃陽向は、実年齢の割には聡明になった。

 

 

 

 

 

ブルースクリーンの空。

 

紙くずの桜吹雪が舞い散る中。

 

白い蛍光灯みたいな太陽が照らす、憂鬱な春の日。

 

今日は、とある高校の入学式である。

 

とある高校とは何処の高校だ、と問われれば、それは学園都市の某主人公が通うとある高校だ、と答えるしかない。作中で名前が明かされていなかったからこそ、その少年然とした少女……緋乃陽向はこの高校の前に佇んでいるのだから。

前世を思い出してから早十年、仮想世界に嫌気が差していた陽向が、仮想(フィクション)の爆心地とも呼べる高校に好き好んで飛び込むはずもない。全ては、どの高校に入りたいか、という後見人たる伯父の質問に、どこでもいいという投げやりな答えを返した事に起因する。要は陽向の自業自得である。

 

沸き立つ雑踏、喜色満面な群衆、そして極めつけが、校門の前に掲げられた、『ご入学おめでとうございます』の立て看板。ご丁寧に施された花の装飾の前で、顔も名前もない誰かが記念写真を撮っている。

 

「……くっだらねー……」

 

馬鹿みたいな騒ぎを前に、陽向は心の底から吐き捨てた。

全くくだらない。この世界のおかしさに気付かない彼らも、気付いていて笑わなければならない自分も。

 

「……行くか」

 

どうしても外面が気になってしまう陽向は、能面のような無表情を切り替え、周囲の人間と変わらぬ微笑みで校内へと足を踏み入れた。

 

 

入学式に特筆すべき事はない。あえて言うなら、前世ですこぶる退屈だった校長の話は、画面を通して見る世界では輪をかけてつまらなかった。それだけである。

 

だが、事がクラス分けになれば話は別だ。

 

「はーい。今日から皆さんのクラスを担当する、月詠小萌ですー。よろしくお願いしますねー」

 

教卓の前に立つと首しか見えなくなるというとんでもない教師。陽向は、この文言をどこかで見た事があった。言うまでもない、『原作』である。

 

そもそも一年七組と聞いた時点で気付くべきだった。だがとある高校に入ってしまったという事実に気を取られ、すっかり忘れていたのだ。

 

よりによって、主人公と同じクラスになってしまうとは。

 

陽向がちらりと辺りを伺うと、この世界の主人公である上条当麻だけでなく、土御門元春や青髪ピアスの姿も見えた。金や、まして青の髪なんて日本では目立つ事この上ないのに、何故気付かなかったんだ。陽向は思わずため息を吐いた。

 

だが、事はこれだけに留まらない。

 

自己紹介を終え、陽向もなんとか当たり障りない言葉を吐いて、いざ席替え、となった時。

自分のくじが示す席。その隣には、なんとあの上条当麻が座っていた。

 

陽向は思わず黒板と自分の引いたくじを見返した。二度見どころか三度見、いや四度見はしただろう。更に前から順番に席の数を数える。結果――――この世界は残酷だった。

 

「あ、お前隣の席か?」

 

半ば諦念と共に陽向が椅子を引いた時、唐突に隣の席の主人公が声をかけてきた。

一瞬呼吸が止まる。今自分に質問しているのは、自分の最低限保っている現実感さえ壊しかねない人物だと思うと、陽向は一言だって上条当麻と言葉を交わしたくなかった。

けれど、そのまま黙っている訳にもいかず、陽向は心なしか作った笑みを隣の人物に向けた。

 

「うん、私は緋乃陽向。一年間よろしくね」

 

さらりと然り気無い自己紹介。なるべく印象に残らないように、普段と一人称さえ変えた。

主人公は特に何も思わなかったのか、至って普通の反応を返してくる。

 

「おお、緋乃か。俺は上条当麻。一年間よろしくお願いします」

 

軽く頭を下げるその人物は、どこからどう見ても普通の男子高校生だった。そんな上条当麻が世界を救う主人公だという事実に、この世界の異常性を改めて見た気がして、陽向は気付かれないよう眉をひそめた。

とはいえ、きっとこの主人公たる少年と、自分のような奇妙な経歴を抱えているだけのモブキャラが、日常を超えて関わる事はないのだろうな、と。

 

 

 

「思ってたのになあ……」

 

時と場所は大きく変わり、もう夏の気配がやってくる頃、陽向は路地裏をひたすら走っていた。

そう、例の主人公と共に。

 

事の発端は単純である。ただ、陽向が買い物をしようと出掛けた帰り、この道の方が近道かな?と裏道を通っていた最中、突然出会した主人公が、とにかく来い!と陽向の腕を引っ張って走り出したのだ。

どうやら不良に追われていたらしく、何故か関係ないはずの陽向まで一緒に追われる事になってしまった。陽向は近道しようなんて思った自分を殴りたくなった。

 

陽向は別に体力がない訳ではないので不良に捕まりはしないが、この不幸男と並走していると厄介事が何倍にも膨れ上がりそうなので、早急にこの場を離れたかった。かといって一人で逃走すれば、主人公にマイナスイメージを持たれるかもしれない。それが遠因となって主人公と敵対する事は陽向の本意ではなかった。

逃げるのを止めて喧嘩をしたとして、陽向は不良の十人や二十人、相手をしても負ける事はまずないのだが、如何せん手加減が苦手であった。不良に大怪我など負わせた日には、お人好し主人公との対立は避けられないだろう。

 

つまり、八方塞がり。この不幸主人公と共に、背後の不良が諦めるまで走り続けるしかないのだ。

 

「上条!……何か、逃げ切る算段とか、ないの!?」

 

陽向は苛立ち紛れに叫ぶ。そこそこだった休日を台無しにされた上、打開策がほとんどないのだ。苛立ちもするだろう。陽向は昔から巻き込まれ体質ではあったが、いくらなんでもこれはない。

だが、そんな陽向の様子も知らず、主人公は言った。

 

「っんなの、あるわけ、ねーだろっ!!」

 

ふざけんな。陽向は思わず叫びたくなった。勝手に巻き込んでおいてどうにもできないとか、これだから主人公様は。

苛立ちが頂点に達し、我慢ならなくなって、陽向は今の今まで出し渋っていた能力を使用した。

ポケットから取り出したライター。そのフリントホイールを強く回した。赤い火花が散る。

刹那、男達の目の前で、橙の炎が燃え上がった。

 

この学園都市には超能力というものが存在し、妙な経歴と個性を持っているだけの一般学生陽向も、超能力とやらを所有している。レベル1という低レベルも低レベル、0じゃないだけいいというレベルではあるが。

本来はレベル3か4くらいはあるのだが、その能力と陽向の相性が、本来の実力を発揮できなくしていた。

 

その能力とは――――発火能力(パイロキネシス)

 

よりによって、前世の死因を司る能力であった。

 

当然恐怖から能力のコントロールはまともにできず、火を起こす事さえ不可能という体たらく。結果火炎操作(パイロワークス)レベル1、という微妙な能力に成り下がっていた。その能力でさえ過度に使用すると悪夢を見て眠れなくなる始末。

 

しかし、そんな能力でも、使いようはあった。

 

人は本能的に火に恐怖を抱く。陽向ほどではないにせよ、触れる事は流石に躊躇うだろう。

そんな炎が突然眼前に広がった不良達は、当然怯み、混乱していた。

 

その隙をついて全力で逃走すれば……

 

 

「ハァ……ハァ……撒いた、か……?」

 

「みたい……だね」

 

無事に逃げ切った安堵からか、主人公は灰色の路面の上に腰を下ろした。陽向も膝に手を付き、浅い呼吸を整えている。

 

「なんか、悪ぃな。巻き込んじまって……」

 

ようやく余裕の出てきた上条当麻が問いかける。陽向は彼をジト目で一瞥した後、大きく息を吐いて体を起こした。

 

「……まあ、いいよ。こういうの慣れてるし」

 

ふと、上条は、彼女の手が僅かに震えている事に気付いた。

それは陽向が、能力を使った事でトラウマを刺激されたというだけでなく、主人公と関わってしまったという恐怖に近い感情も含まれていたのだが、そんな事彼は知る由もない。

その理由を聞こうとするも、陽向は上条に背を向けて足を踏み出してしまっていて。

 

「じゃあ、俺はこれで。」

 

そんな別れの言葉と共に、去って行こうとする。

 

「待っ……」

 

思わず上条は、立ち上がってその腕を掴もうとした。

 

瞬間、上条の不幸体質と、陽向の巻き込まれ体質が、謎の化学反応を起こした。

 

「うおああっ!!?」

 

「え、うわっ!?」

 

原因不明のラノベ的引力が働き、上条の足は立ち上がった瞬間に縺れた。そして彼は、油断しきっていた陽向の背中にタックルをかまし――――

 

陽向がゆっくりと目を開くと、目の前に迫る主人公の顔が見え、手首を地面に押し付けるように掴む手を感じ……要は、押し倒されていた。

 

どうしてこうなった。陽向は思わず能面のような無表情になった。

だが、とんでも不幸男の引き起こす厄介事は、これだけに留まらない。

 

「あ……アンタ……」

 

誰もいないはずの路地裏に、声が響いた。凛とした少女の声。それは陽向にも、上条にも聞き覚えがあるどころじゃない声で。

二人が恐る恐る顔を上げれば、そこには、学園都市のレベル5、超電磁砲こと御坂美琴が、激しい電撃を纏い立っていた。

 

「な……にやってんだ、ゴルァーーー!!!」

 

そして、雷が落ちる。

 

襲いかかる白い電光。その猛威を、二人で示し合わせたように、横に転がって避ける。その勢いのまま飛び上がるように立ち、二人は再び全力疾走へと戻っていった。

 

「ふ……」

 

不幸の連続に、二人は思わず例の台詞を叫んだ。

 

「「不幸だーっ!!」」

 

 

ブルースクリーンの空。

 

絵の具の緑が生い茂る中。

 

白い蛍光灯みたいな太陽が照らす、不幸な夏の日。

 

もしかしたら、自分は傍観者ではいられないのかもしれない。そんな恐ろしい予感に、陽向はひたすら背を向けて走ったのだった。

 

 



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2、禁書目録と低能力者

『原作』では、虚空爆破事件が起こっている時期の事。茹だるような真夏日にも、ブルースクリーンみたいな空は変わらない。

陽向の近辺で変わった事といえば、あの日から御坂美琴と知り合いになった事と、上条当麻との遭遇率が二次関数グラフみたいに跳ね上がった事くらいである。それが恐らくはこれからも上昇し続けるだろう事が、陽向は何より面倒だった。

 

しかし目下の問題としては、目の前に転がる白いシスターが一番の面倒事である。

 

表通りから一つ細い路地に入っただけの、人気のない道にその少女は倒れ伏していた。その体が僅かに上下する事から生きてはいるのだろうが、こんな場所で倒れるくらいだから体調は万全でないのだろう。

 

そう、お腹が空いている、とか。

 

その外見のインパクトから思わず足を止めてしまった陽向だったが、数秒後には自分の行動を全力で後悔する事となる。

 

少女の指がぴくり、と動いたかと思うと、その銀髪シスターはがばりと顔を上げて、言った。

 

「おなかへった」

 

その顔に陽向は見覚えがあった。あるどころではなかった。

どこで見たのか。答えは『原作』である。

 

 

――――なんと陽向は、この世界の主人公よりも先に、禁書目録(インデックス)と出会ってしまったのだ。

 

 

 

「わあ……!」

 

所変わって、陽向とインデックスはファミレスに来ていた。

 

あれから例の上目遣いで、おなかへったんだよ?と言われてしまった陽向は、とんでもない厄介事の気配を感じながらも、その子羊のような瞳に負けた。敗北してしまったのだ。

敗者となった陽向は、処刑を待つ罪人のように項垂れる事しかできない。その目の前で、インデックスは様々なメニューに目を輝かせていた。

 

「これ、なんでも頼んじゃっていいの……?」

 

インデックスが、ふと顔を上げた。口元にメニュー表を当て、軽い上目遣い。計算しているのかと疑いたくなるその仕草に、陽向は思わず無表情になった。

 

「あー……一万円以内でね」

 

されど敗者に抵抗する権利などなく、陽向は財布の中身を鑑みて妥協案を提示した。

 

「うん!わかった!」

 

満面の笑みと素直な返事。これだけ見れば至って年相応の少女であり、魔導書図書館だとか必要悪の教会(ネセサリウス)だとかそういう血生臭い話とは無縁のように見えた。

 

「(でも……実際、そうなんだよなあ)」

 

陽向は前世からインデックスの事情を知ってしまっている。だからこそ――――彼女自身の口から、それを語らせる訳にはいかなかった。

恐らくその事情を聞いてしまえば、生粋の巻き込まれ体質である陽向は十中八九彼女に深く関わる事になる。そんな事になれば原作崩壊どころか、アレイスターのプランとやらに抵触する異端分子として排除される可能性すら出てくる。そうまでして死ぬ訳でもない人間を助けたいと思うほど、緋乃陽向はお人好しではなかった。

どうせ自分がわざわざ出張らずとも、数日後には主人公(ヒーロー)が全てを解決してくれるのだ。関わらないでおこう。

そう陽向が結論付けたちょうどその時、メニューとにらめっこしていたインデックスが顔を上げた。

 

「ひなた!これがいいんだよ!」

 

その無邪気な笑顔に、僅かばかりの良心が傷んだような気がして、

 

「うん、じゃあ注文するね」

 

やはりそんなのは気の迷いだと、陽向は笑顔を貼り付けた。

 

そう、これでいい。深く立ち入っては互いにとって良くない。

 

そう、思っていたのだが。

 

 

「ここには魔術はないの?」

 

……このシスター、科学サイドの一般学生である陽向に、魔術サイドの情報をペラペラ喋る。

あり得ない。だが『原作』でも、迷惑をかけないと心に決めていたはずの上条当麻に、魔法名やら魔術結社(マジックキャバル)やら話していた。

もしかしたら予想以上にこの少女は口が軽いのかもしれない。関わらない事が思ったより難しいミッションになりそうで、陽向は頭痛を覚えた。

 

「……ま、じゅつ?さあ……ないと思うよ?」

 

あくまでも無知。自分は無知な幼女自分は無知な幼女……と暗示のように言い聞かせる。本当は前世の記憶を抜きにしても魔術の知識はあるのだが、そんな素振りを見せれば一発で終わる。

そんな陽向に、目の前のシスターはオムライスを頬張りながら告げた。

 

「そうなんだ……この街、教会も見当たらないし、魔力の気配がそもそも薄いかも」

 

魔力って。

絶対に魔術を知らない人間の前で言っていい事ではない。この腹ペコシスターはそんな事も分からないのだろうか。

 

「(……いや、本当に分からないのか)」

 

彼女は魔術により記憶を消されている。例の魔導書十万三千冊以外の記憶を。きっと消された記憶の中に、魔術サイドの人間としての常識もあったのだろう。

目の前の少女が改めて哀れになって、けれど陽向は素知らぬふりを続けた。

 

「……?教会に行きたいの?」

 

我ながら流石にこれはないかと思ったが、インデックスは今度はデザートのパフェに夢中らしい。

 

「うん……教会に行けば、保護してもらえるはずだから……」

 

どこから食べるか迷いながら、まるで独り言のように呟くインデックス。その言葉に突っ込まないのは不自然だろうかと思いつつも、陽向はあえてスルーした。

 

「ふーん……?だったら、この街の外に出た方がいいかもね。ここにはあんまり宗教関連の施設はないから」

 

端から聞くとまるで成り立っていない会話。それに対するツッコミさえ放棄して、陽向は半ば自棄になって微笑んだ。

 

「そうなの?」

 

どうやら上から順に食べる事にしたらしく、インデックスはパフェのアイスをつつきながら顔を上げた。

 

「うん。外まで案内してあげようか?」

 

陽向の言葉は嘘であった。心優しい少女が、自分を巻き込む事を恐れて断るのを見越しての、真っ赤な嘘だった。

そして、予想通りにインデックスは首を振った。

 

「……いいや。ひとりで大丈夫かも」

 

いつの間にやら食べ終えていたパフェの器を置き、インデックスは窓の外をちらりと見る。

その視線につられないようにしながらも、陽向は魔術の気配を感じていた。超能力者には魔力を練ることはできないが、練れなくても魔力を感じる事はできる。

きっと、これは禁書目録(インデックス)の追手の気配だろう。インデックスもそれを感じている。

白昼堂々仕掛けてくる事はないだろうが、人払いのルーンが存在する以上、油断はできない。そんな状況で心優しい少女は、陽向を、一飯の恩のある相手を巻き込むまいと、席を立った。

 

「じゃあ、私は行くね。ごはんありがとう!」

 

「うん、……じゃあ、縁があれば、またね」

 

それも嘘だった。陽向には、これ以上主人公達に関わる気など更々なかった。

それに気付く様子もなく、インデックスは笑顔で手を振り、建物の外へと走っていった。

 

嘘吐きな陽向と、優しいインデックス。すれ違った二人の出会いは、ここに終わりを告げた。

 

「……っあー……」

 

インデックスの姿が消えた途端、陽向は全身の力を抜いてテーブルに倒れ伏した。

やった。やりきった。やり遂げた。乗りきったのだ、あの状況を。巻き込まれる事なく。

 

「……はは……」

 

奇妙な達成感が、雀の涙程度の罪悪感を伴って沸き上がり、陽向は乾いた笑いをこぼした。

自分が望んでやった事だ。この方が、互いにとっても良かったんだ。何より、全てはもう過ぎた事。今更何を思っても変わらない。

 

だから、陽向は一つだけ呟いた。

 

「あのシスター、食べるの早すぎだろ……」

 

たった十分ほどでサラダからデザートまで食べ尽くした少女の未来の仮想世界(シミュレーション)に、思いを馳せた。

 



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3、ミサカと陽向

普通、人間というのは、大半が平凡な日常を過ごしている。

それはこの学園都市という一風変わった街でも同じ事で、ただ常識情報が多少変わるだけの話だ。一部の特殊な人間を除き、皆平穏な毎日を暮らしている。間違っても、数日置きに厄介事に巻き込まれたりはしない。

 

その、はずなのに。

 

「……っまじかよ……」

 

思わず頭を抱えた陽向の数メートル先では、この前(誠に不本意ながらも)知り合った御坂美琴……と瓜二つの、軍用ゴーグルを付けた少女が、不良に絡まれていた。

 

また例のパターンか。陽向は叫びたくなった。何故ならその少女は、『妹達(シスターズ)』という名称で呼ばれる、御坂美琴のクローンだったのだから。

厄介事の匂いがする。いやむしろ、厄介事が起こる気しかしない。陽向は激しく逃げたい衝動に駆られた。しかし数秒立ち止まったその間に、その少女……通称ミサカと目が合ってしまったのだ。逃げられるはずもない。

ミサカを御坂美琴本人だと勘違いしている不良と、そいつらに囲まれ無表情ながらも困惑しているミサカ。陽向は彼らの元に大股で歩み寄った。

 

「ああ、御坂さん!奇遇だね!」

 

我ながら白々しい事この上ない台詞と共に、不良とミサカの間に割り込む。不良達の注意を引く事には成功したらしく、彼らは一斉に陽向の方を向いた。

 

「何だテメエ?」

 

その中で一際体格の良い男が陽向を睨み付ける。その手には金属バットが握られていた。

しかし、陽向は怯む事なく微笑む。

 

「あれ、いたの?ごめーん、オーラ無さすぎて気付かなかったー」

 

「んだとコルァ!!ふざけてんじゃ……ねえぞ!!」

 

わざとらしい挑発の言葉。それに不良らしく過剰反応した相手は、手にしていたバットを躊躇いなく振り下ろした。

その場にいた誰もが、その少年然とした、辛うじてセーラー服を着ている事で性別が判別できる少女の頭が、カチ割られるところを想像した。

しかし、いつまで経ってもその惨事は訪れない。

 

「なっ……」

 

陽向は、自分の倍以上の体格はあろうかという相手が両手で振り下ろしたバットを、片手一つで受け止めていたのだ。

 

陽向は不良の十人や二十人、相手をしても負ける事はまずない。

――――何故なら、自販機程度なら片手で持ち上げられるほどの、怪力の持ち主だからだ。

 

金属バットが、陽向が握っていたところからぐにゃりと折れ曲がる。まるで針金でも曲げるかのように、陽向はそのバットを二つに折り畳んでしまった。

凍りつく空気。その元凶である陽向は、にっこりと微笑んだ。

 

「あ、ちなみにこれ能力使ってないんだけど――――」

 

恐怖。その一つの感情が場を満たす。

そして固まった空気を粉々に砕くように、陽向は言った。

 

「まだやる?だったら……手加減しないよ」

 

次の瞬間、不良達は一人残らず逃げ去っていた。

 

「……大丈夫?」

 

不良の姿が見えなくなり、陽向は背後に振り向く。ミサカは暫くの沈黙の後、言葉を発した。

 

「特にミサカの身体に問題はありません、とミサカは質問に答えます。……しかし、ミサカはお姉様ではありませんよ、とミサカはお姉様の知り合いと思われる人物に説明します」

 

「ああうん、分かってるよ」

 

陽向は何気なく、本当に何気なくそう言った。しかし直後、少し驚いた様子のミサカを見て、自分がやらかした事に気付く。表情や仕草があまりにも違うので忘れていたが、ミサカは御坂美琴と瓜二つだった。初対面で見分けたのは不自然だったか。

 

「……あなたはお姉様とミサカの区別が付くのですか、とミサカは驚愕と共に問いかけます」

 

なんとか誤魔化さなければ。その一心で、なるべく自然に言葉を発する。

 

「うん、まあ……仕草とか全然違うし。でも本当によく似てるよね、お姉様ってことは妹さん?」

 

上手くいった。一時はそう思ったが、話題を変える為にしたその質問を、陽向はこれから、長きに渡って後悔する事となる。

 

「ええ、妹です、とミサカは自己紹介します。個体としては9889号ですが……」

 

一瞬、呼吸を忘れた。

 

9889。このたった四桁の、10000にも届かない数字が示す事実に、陽向はほんの僅かに動揺した。

 

「9、889号……?コードネームみたいなもの?」

 

その一瞬の動揺を耳慣れない単語への戸惑いに見せかけて、陽向はその場を取り繕った。

目の前のミサカは気付かなかったのか、無感情に言う。

 

「はい、そのようなものです、とミサカは曖昧に答えます」

 

へえ、と生返事をして、陽向は一度呼吸を整えた。

そうだ、この時期実験はまだ終わっていなかった。何故忘れていたのか。覚えていればあんな質問はしなかったし、そもそも気まぐれでミサカを助けようなど、欠片も考えなかっただろう。今日は厄日か。

厄介事の気配が俄然強まってくる。これ以上関われば、vs一方通行、なんて事になりかねない。当然陽向は超能力的にはレベル1、レベル5第一位たる一方通行に敵う道理はない。

 

そんな事を陽向が考えていると、唐突に隣から声がかかった。

 

「どうしたのですか?とミサカは突然黙りこんだ相手を心配します」

 

完全に物思いに沈んでいた陽向は、突然振られた質問に混乱した。

 

そして、その混乱のままに口を開いた。

 

「いや、えーっと……君の事、どう呼ぼうかと思って!御坂さんだと君のお姉さんと被るし……」

 

やらかした。完っ全にやらかした。陽向は自分の発言に、我ながら頭を抱えたくなった。

どう呼ぼうって何だよ。親交深めてどうする。というか初対面でいきなりこれは、流石に不自然すぎるんじゃないか……!?

脳内で悲鳴を上げる陽向。その先程の発言に、ミサカは首を傾げた。

 

「どうというと、それは……あだ名の事でしょうか、とミサカは目の前の名も知らぬ人物に問いかけます」

 

「うん……あ、こっちの自己紹介がまだだったね。俺は緋乃陽向。よろしく」

 

ミサカの発言に、陽向は半ば自棄になり、満面の笑みで自己紹介をする。ついでにさっきの発言が流れてくれないだろうか、と期待してみるが、ミサカは、その期待を見事に裏切った。

 

「よろしくお願いします、とミサカは軽く会釈をします。……で、あなたはミサカにどのような呼称を付けるのですか、とミサカは期待の眼差しであなたを見つめます」

 

期待、されている。陽向は光のないはずのミサカの目が、きらきらと輝くのを幻視した。

 

「あー……ハクちゃん、とか?」

 

もうどうにでもなれ。そんな投げやりな気持ちで、陽向は、ほら89だし、と呟く。

そういえばインデックスの時も、こんな瞳に負けた気がする。自分は年下女子のおねだりに弱いのかもしれないと、陽向はそんな他愛のない事を考えた。

 

「ハク……ですか。悪くないです、とミサカは自分だけの名前に満足します」

 

対するミサカは、『ハク』というあだ名を気に入ったらしく、何回か繰り返し呟いている。

自分だけ。その言葉は、この頃の個性のない彼女達には特別な意味を持っているのだろう。とても、重い意味を。

 

それを自分が与えてしまった事に、陽向は過ぎた事ながらも躊躇いを感じた。

 

「……そっか、なら、良かったよ」

 

だけど、それを口にする事もできない。自分は、『何も知らない』のだ。そういう事になっている。

もう終わりにしよう。こんな茶番劇は。陽向は、ミサカに別れの言葉を告げようと……したのだが。

 

「あの、お願いがあるのですが、とミサカは控えめにあなたを伺います」

 

そうは問屋が卸さない。陽向はまだ、この少女と関わらねばならないらしかった。

 

「……何かな?」

 

ため息を吐きたい気持ちを抑えて頼み事とやらを問うと、ミサカは答えた。

 

「此処が何処か分からないのですが、とミサカは道案内を頼みます」

 

どうやら、このミサカは迷子だったらしい。

 

 

 

「すいません、本来であれば目的地への道が分からなくなる事はないのですが……とミサカはイレギュラーな事態への困惑を顕にします」

 

時は経ち、現在ミサカと陽向は、ミサカの指定した通りへと、人混みの中歩みを進めていた。

あの時、不良達に追いかけられた結果、予定とは違う場所に来てしまったらしい。陽向が迷子かと聞いたらミサカは否定していたが、まごう事なき迷子である。

 

「あはは……まあ、そういう事もあるよ。……ハクちゃん?」

 

ミサカの言葉に苦笑いで返した陽向は、ミサカが隣にいない事に気付いて足を止めた。

辺りを見渡すと、その姿はすぐに見つかった。ミサカは数メートルほど後ろ、何やらファンシーショップの前で立ち止まっている。

 

「どうしたの、ハクちゃん……あ」

 

ミサカの元に駆け寄った陽向が、その視線を辿ると、そこにはショップ限定・ゲコ太ストラップの文字と、ゲコ太のイラストが。

そういえばミサカ遺伝子持ちはゲコ太が好きだったなあ、と陽向は遠い目をした。

 

「……それ、欲しいの?」

 

近付いても微動だにしないミサカに、陽向が思わず聞く。するとミサカは視線をそのままに答えた。

 

「欲しい、と言われればそうですが……ミサカは必要経費以外の金銭を所持していません、とミサカは残念な思いを隠しきれません」

 

全くの無表情ながら、その姿は確かに落ち込んでいるように見える。されど一向に動こうとしないミサカ。これは買わないと梃子でも動かないな、と陽向はため息を吐き、ショップへと足を進めた。

 

「……?どうしたのですか、とミサカは戸惑います」

 

ようやく顔を上げたミサカに、陽向は言った。

 

「欲しいんでしょ?買ってあげるよ」

 

 

 

「色々とありがとうございます、とミサカは感謝の意を述べます」

 

ミサカは陽向の購入したストラップを前に、心なしか目を輝かせていた。

 

「いや……いいよ、それくらい」

 

対する陽向は、自分の行動の無意味さに、額に手を当てている。

自分は何をやっているのだろう。先ほども思ったが親交深めてどうする。どうせ相手は――――

 

そこまで考えたところで、ふいにミサカが言葉を発した。

 

「……すいませんが、そろそろ『実験』の時間なのでミサカは行かなければなりません、とミサカは別れの言葉を告げます」

 

『実験』。その言葉の本当の意味を、陽向は知っている。きっと今日、このミサカは――――

それでも、何もできない。できたとしても、きっと陽向は何もしないだろう。陽向はそういう人間だった。

 

「……実験?能力関係の?」

 

けれど、そう聞いたのは何故だったのだろうか。

陽向自身もよく分からないうちに、ミサカはそれを無自覚に切り捨てた。

 

「ええ、そのようなものです、とミサカはやはり曖昧に答えます」

 

夏の、暑く湿った風が吹く。それに少しだけ目を細めた後、陽向は笑って言った。

 

「そっか。……じゃあ、縁があったら、またね」

 

そうして手を振って、ミサカに背を向けて歩き出す。

 

これで良かったのだ。自分が望んだ事だ。そもそも自分が何をしなくとも、あと一ヶ月後には主人公(ヒーロー)が全てを解決してくれる。そう、例え――――

 

あのミサカは、死んでしまうとしても。

 

「ッ……!!」

 

陽向は思わず振り返った。一度死んだ陽向は知っていた。死の恐ろしさを。死の苦しみを。だから……だから?

 

――――振り返った先に、ミサカはもう、いなかった。

 

「…………あほらし」

 

モブキャラが街を闊歩する。そんな書き割りの風景の中、陽向はようやく我に返った。

どうせこの世界は仮想(シミュレーション)。筆者という名の神の思いつきで構成される世界だ。その作り物の世界の住人が死のうが、自分の知った事ではない。

 

もう二度と、陽向が振り返る事はなかった。

 



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4、主人公の喪失


リアルが忙しく、更新が遅れてしまいました。
今回やたら長い割にキャラとの絡みが少ないです。すみません。そして今回からやたらオリキャラが出張ります。ご注意ください。


 

真っ黒な暗幕の空。白い絵の具を散らしたような星。丸い白熱灯みたいな月が、ぽっかりと浮かんでいる。

昼間の暑さも落ち着き、悪くない夜だった。風情がどうのとか言い出すような人間なら、ふらりと夜の散歩と洒落こんだかもしれない。

 

だが、陽向は意地でも外に出てたまるかとばかりに、学生寮の自分の部屋に立て籠っていた。

 

それもそのはず、今日の日付は七月二十四日。時刻は午後八時になる十五分前である。

前世でとあるシリーズの愛読者であった陽向は覚えていた。あと十五分ほどで、『原作』のイベントが起こる。それも、二人の魔術師が別々の場所で力を振るうという、陽向にとっては悪夢のような戦闘イベントが。

単なる魔術師であればまだ救いはあったかもしれないが、二人のうち一人はなんと炎を専門とする魔術師である。自分の死因を司る死神じみた神父なんぞに、陽向は死んでも出会いたくなかった。

 

幸い彼らが出現すると思われる場所……小萌先生の家から近場の銭湯にかけてのルートは、陽向の家から徒歩二十分はかかる。以前彼女の家に書類を届けた際に確認済みだ。あのときはひたすら面倒なだけだったが、今となっては行っておいて良かったと心から思う。場所が分かっているのと分からないのでは安心感が違うのだ。

 

とはいえ、油断は禁物である。巻き込まれ体質である陽向は、何がどうなって被害を受けるか分からないのだ。明日まで絶対に家から出ない。意地でも引きこもってやる!そんな決意を胸に、寝るまでの数時間を消費するついでに課題を終わらせようとした、そのとき。

 

「うそ……だろ……」

 

――――筆箱が、ない。

ない。鞄の中にも、机の下にも、布団の中にもない。明日提出の課題を終わらせるための必須アイテムたる筆記用具が、……ない。こんなときに限って学校に忘れ物をするとは。巻き込まれすぎて上条の不幸が移ったかと、陽向は思わず頭を抱えた。

 

学校へ携帯していく筆箱の中身以外に、筆記用具を持っていない陽向の取れる選択肢は三つ。課題を諦めるか、学校に取りに行くか、それとも、コンビニに買いに行くか。

赤点を取ったために課された課題を諦めるという選択肢は、普段比較的真面目な生徒を演じている陽向には、到底選べない行為であった。となれば残る選択肢は二つだが、この二つ、なんとどちらも外出しなければならないのだ。

 

どうすればいいのか。陽向が葛藤の末に時計を見ると、まだ八時になるまでに十分以上時間があった。一番近いコンビニまでは、徒歩五分もかからない。つまり、急いで買い物をすれば、戦闘に巻き込まれることなく家に帰ってくることができる時間だ。

 

「……行くか」

 

陽向は覚悟を決めた。大丈夫、距離だって離れている。きっと何の問題もなく帰ってこられるはずだ。そう自分に言い聞かせて、陽向は玄関の扉を開けた。

 

 

 

財布を家に忘れる。文房具が売り切れ。そんなちょっとしたトラブルさえもなく、陽向はスムーズに買い物を済ませ帰路に着いた。

上手くいきすぎて、逆に恐ろしい。これから何かあるんじゃないか、という不安が沸いてくる。魔術師に会うのは流石に出来すぎだとして……例えば、例の小学生にしか見えない教師あたりに出会してしまう、とか。

 

「……あれ、緋乃ちゃん?こんな夜中にどうしたんですか?」

 

……何か、聞こえた気がする。

幻聴だろうか。きっと幻聴に違いない。陽向はそのまま歩き去ってやろうかとも考えたが、もし幻聴でなかった場合それはそれで面倒なことになる。観念して、ゆっくりと後ろを振り向いた。

 

「…………小萌、先生」

 

そこには、教師のくせに赤いランドセルが良く似合う、クラスの担任、月詠小萌その人がまさに立っていた。

立てたフラグを秒速で回収してしまい、陽向は思わず遠い目をした。

 

「緋乃ちゃんだって女の子なんですから、あんまり夜中に一人で出歩いちゃ駄目ですよー?」

 

それに気付かず、目の前の小学生教師は続ける。もしかしたらこのまま軽い世間話をするだけで済むかもしれない。僅かな希望に望みを賭け、陽向は笑顔を貼り付けて会話に応じた。

 

「いやー、急に夜の散歩がしたくなって……小萌先生は、どうしてここに?」

 

その質問は、ただの世間話の延長だった。少なくとも陽向は、そのつもりで言葉を発した。

しかし、目の前の人物の返答を聞いたとき、そしてその意味に気付いたとき、陽向は自分がした質問を激しく後悔することとなる。

 

「先生はちょっと急用が出来てしまったのですー。時間がかかりそうで、朝まで帰れないかもしれないんですよー……」

 

ため息と共に、やれやれといった様子で言葉を吐く担任教師。陽向は教師という職業の忙しさにも、小学生じみた外見の人物が夜中に出歩いている事実にもまるで興味がなかった。

しかし、『朝まで帰れない』……この言葉が、陽向の頭にどうにも引っ掛かった。何故こんなに気になるのか。喉の奥に小骨が引っ掛かったような感覚に堪えかねて、陽向は何とか理由をはっきりさせようと考えを巡らす。

そして、思い出してしまった。

 

――――確か、魔術師との戦闘に敗れた主人公を回収して手当てをするのは、この人じゃなかったか?

 

これ、まずいんじゃないか。陽向の頭に次々と嫌な想像が浮かぶ。

 

朝まで……ということは。戦いに倒れた主人公は、朝になってこの人ないし誰かに見つけてもらえるまで、そのまま放置され続けるのだろうか。

意識を失うほどの、その後三日も目覚めないほどの傷を手当てもされず、何時間も不衛生な地面に倒れ伏すのだろうか。

 

どうせこんなことを言いつつ、目の前の登場人物(キャラクター)が主人公を回収するに違いない。そうでなくても、運良く通りかかった誰かが救急車でも呼ぶだろう。そもそも、あの魔術師達が、主人公を禁書目録(インデックス)の足枷として使うために生かすはずだ。

 

そうは思っても、はっきりと形を取りはじめた不安は、消えてはくれなかった。

もし、自分というイレギュラーのせいで、僅かなズレが生じていたら?そのズレのせいで、物語に必要なはずの人物が途中退場してしまったら?

 

――――例えば、主人公(ヒーロー)が。

 

「……緋乃ちゃん?」

 

教師が自分の名前を呼ぶ声で、陽向はようやく我に返った。

そうだ、主人公なんだから、どうせ助かるに決まっている。それよりも、今は自分の心配をしなければ。

 

「ああ、すいません……ちょっとぼーっとしちゃって。もう家に帰って休みますね」

 

なるべく早く話を切り上げて家に帰らなければ。うかうかしていると巻き込まれて、面倒なことになるだけならまだしも、酷い目に遭うかもしれない。

 

気をつけるのですよー、はい先生も、そんなやり取りをして、担任教師は大型研究施設がいくつかある方へ向かって行った。例の戦闘イベントが起こる場所とは、真逆の方向だ。

陽向の住んでいる学生寮も教師の進んだ方にあるのだが、陽向は、逆へと足を進めた。これ以上登場人物(キャラクター)と関わりたくなかったのだ。決して、例の場所に向かって、主人公を回収するためではない。……そう、決して。

 

陽向は、寮に帰るために角を曲がろうとした。どうなろうが自分には関係ない。主人公が死のうが知ったことか――――

 

そこまで考えて、陽向は気付いた。上条当麻(あいつ)、何度か世界の危機救ってなかったか?

 

つまり、つまりだ。ここで主人公(ヒーロー)が死ぬと、結果的に世界が終わる。当然、平穏な日々を過ごすどころではない。陽向はこの世界に執着など欠片も無かったが、前世が酷かった分、今回くらいは普通に、安らかに死にたかった。世界が消滅して死ぬなどというトンデモ死因は、当然お断りである。

……結局、あの場所に向かうしかないのか。陽向は、がくりと地面に膝を付いた。嫌だ。嫌すぎる。例の魔術師達は片や魔術界では戦力的に核爆弾と称される聖人、片や自分の死因を操る悪魔のような神父。ぶっちゃけ半径一キロ以内に近付くことさえ嫌だった。

 

叫びたくなる衝動を必死に抑えて、陽向は渋々起き上がり、歩き出した。目指すは感じる魔力の中心。ここから徒歩約二十分の場所。ゆっくり歩いて向かおう。きっとその頃には、全てが終わっているはずだと信じて。

 

 

 

遠くに感じる炎の気配。赤い色の魔力。離れていてもじりじりと肌を焦がす熱を避けながら、陽向はようやく主人公の元にたどり着いた。

 

大手デパートから漏れる明かりに照らされる、片道三車線の大通り。その真ん中に、上条当麻はボロボロになって倒れ伏していた。体の至るところから血を流し、鋭い刃で切り刻まれたアスファルトの上に転がる主人公。気弱な人物が見れば気絶モノだろう。

だが、陽向は特に動じる様子もなく、周囲を確認しながら主人公へ歩み寄った。既にあの炎の魔術の気配はなかった。人払いのルーンも、いずれ解かれるだろう。今はまだ人の気配はないが、早くこの瀕死の人物を連れて撤収しなければ直に騒ぎになる。

 

「あー……これは酷い」

 

近くで確認すると、彼の容態の悪さがよりよく分かった。無数の切り傷だけでなく、複数の人間に殴る蹴るの暴行を受けたような内出血、左肩は砕かれ、右手はズタズタだった。

これ普通に考えて病院行きだろ。救急車を呼んだ方が話が早い。陽向は思わずケータイを取り出しかけたが、原作で主人公が目覚めたのが例のアパートだったということは、諦めて運んだ方が良さそうだ。面倒なことこの上ない。

 

「…………ぃ……」

 

諦めて、陽向がとりあえずの応急処置のために、道すがら購入した包帯を取り出したそのとき、気を失ったはずの主人公がうめき声をあげた。

こんな状態で意識があるのか。さすがは主人公。陽向が僅かな驚きとある種の哀れみに手を止めると、主人公は言った。

 

「……ィン…………デッ、クス…………」

 

ヒロインの、名前。それだけを呟いて、上条当麻は再び動かなくなる。意識は、なかった。

 

インデックス。陽向も一度会ったことがある。もう二度と、関わることはないだろうと思っていた少女。陽向は少女を半ば見捨てたことに、雀の涙ほどの罪悪感しか抱いていなかった。けれどそれは、少女(ヒロイン)がいずれ主人公(ヒーロー)に救われるからだ。だから陽向が少女に関わる必要がなかった。

そう、主人公には、上条当麻にはインデックスを救ってもらわなければならない。妹達(シスターズ)だってそうだ。主人公(ヒーロー)が、必要なのだ。

 

「……俺がここまでするんだから、途中で死んだら許さない」

 

仮想(シミュレーション)だと、物語(フィクション)だと思っていても、感情が全く動かない訳ではない。前世で『原作』を読んでいたときだって、登場人物(キャラクター)達に感情移入して、怒りだって悲しみだって、喜びだって感じた。

ただ、現実味がないのだ。感じる想いはどこか、薄っぺらい。仮想(フィクション)で事足りるはずがない。本やゲームがあれば、人間はたった一人でも生きていける……そんな理屈が成り立たないから、人々は誰かとの関わりを求めるのだ。

だから、いつか失ってしまった現実を取り戻すか、そうでなくても作り物の世界から安らかに消えていけるその日まで。陽向は、ただ平穏な日々を消化していたかった。そのために、主人公には陽向の関われない数々の厄介事を解決し、陽向の救えない沢山の人々を救済してもらう必要があるのだ。死んでもらっては困る。

 

手際よく処置を終えて、陽向は上条当麻を軽々と担ぎ上げた。後見人の伯父に叩き込まれた怪我の応急処置も、幼い頃いけるんじゃね?という軽い気持ちで自販機を持ち上げたとき発覚した怪力も、まさかこんな形で役に立つとは思っていなかった。できることなら、これから先二度と使いたくない。

 

空には白い月が浮かんでいる。今の陽向には風情なんて繊細な感情も、もう分からなくなってしまった。けれど、確か前世で普通の学生をやっていた頃の自分は、夜中に散歩をするのが好きだったと思う。

街の明かり。星の煌めき。月の輝き。そして何より、暗い夜の非日常。そこには何か素敵なものが転がっているような、そんな期待が、確かにそこにはあったのに。

もう戻らない。戻りたいと思うことさえ諦めた自分を、それでも時々手を伸ばしたくなる自分を、この頼りない主人公(ヒーロー)なら救ってくれるのだろうか。

 

それはなんて――――なんて、下らなくてありきたりな物語(フィクション)だろうか。

 

馬鹿馬鹿しい。自分はただのモブキャラだろうに。自分で自分の幻想を握り潰して、陽向は例のアパートへと足を速めた。

 

 

 

誰かの、暖かい手を感じた気がした。

 

ほんの僅かに、意識が浮上する。ここはどこだ。何故こんなことに。それさえ分からないほどぼやけた頭で、上条当麻は誰かの微かな声を聞いた。

けれどその声が何を言ったかは分からない。ただ、聞き覚えのある声だった。女子にしては低くて、穏やかで、どこか冷めた声。それをどこで聞いたのかが、上条には思い出せなかった。

 

「……じゃあ、俺はこれで」

 

今度ははっきり聞こえた。そして、思い出した。いつもいつも出会しては不幸に巻き込んでしまう、上条のクラスメイト。恨まれても仕方ないだろうに、いつだって困ったような笑顔で水に流してくれる良い奴。女子なのに男っぽくて、セーラー服を着てなきゃ男にしか見えないアイツ。

待ってくれ。訳も分からずそれでも引き留めようとして、けれど意識は闇に飲まれていく。僅かに残った感覚も消え、上条は再び気を失った。

 

 

「……そういえば、とうまを手当てしたのって、結局誰だったのかな?」

 

上条当麻が目を覚ました後。インデックスは布団に横たわった上条へと、不思議そうに言った。

そう、あの夜、インデックスがチャイムの音に扉を開くと、全身を痛々しく包帯で巻かれた上条だけが倒れていたのだ。辺りを見回しても誰もおらず、結局上条の傷の手当てをした人物は分からないままだった。

 

「あー……もしかしたら……」

 

しかし、上条には心当たりがあった。意識を失っているとき、夢うつつで聞いた声。あれは間違いなく、クラスメイトの『アイツ』の声だった。

 

「とうま、誰か分かったの?」

 

「……まあ、勘違いかもしんねーけどな」

 

インデックスの問いを、上条は曖昧に濁した。あれは夢だったのか、それとも現実か……どちらにせよ、全てが片付いたら会いに行こう。

もし本当に自分を助けたのが『アイツ』なら、礼の一つでも言わなければ。思えば迷惑をかけてばかりだ。今度何か奢ってやろう……

今度、また今度と、上条は悠長に考えていた。自分が、そんなことさえ忘れてしまうとは知らずに。

 

 

 

時と場所は変わり、数日後、とある高校にて。正確には、七月二十八日の午後一時、数学の補習が行われている教室で。

あの夜アパートまでたどり着いた陽向は、上条を玄関に置き、ピンポンダッシュをかますという手段でインデックスとの再会を回避した。そして無事に、五体満足で、魔術師に出会すこともなく、自分の城へと帰ってきたのだ。その瞬間、陽向は思わずガッツポーズをした。

課題も終わらせて提出したし、その日のミッションは完全にクリアした、はずだ。『原作』と僅かなズレが生じていた辺り不安ではあるが、目下の問題としては、数学の補習を終わらせなければならない。ならない……の、だが。

 

補習の真っ最中、陽向は机の上のプリントを前に、頭を抱えていた。

さっっぱり分からない。数学教師がプリントを終わらせてから帰るようにと告げ、教室を出てから何時間か経つが、全く空欄が埋まらない。黒板には教師が書き並べていった説明のようなものもあるが、正直暗号にしか見えない。昔から、どうも数学だけは駄目なのだ。

ああ頭が痛い。こんなことなら、昨日のうちに公式だけでも覚えておくんだった。しかし、後悔先に立たずである。……何か最近、後悔ばかりしている気がする。

 

「うへえ、わっかんねー……ひのー、なんとかしてよー」

 

陽向が悩んでいると、右隣から声をかけられた。陽向の横に座っているのは、クラスメイト兼同じ文芸部の花田。日本人にしては明るい焦げ茶色の髪を二つ結びにした、ぱっちりした大きな目がかわいらしい小柄な少女である。ただし、性格は残念極まりなく、少女というよりはいたずらっ子のそれである。

 

「そうだよ、緋乃頭良いじゃん。我々にも恩恵を分けて欲しいですなあ」

 

更に、花田の後ろから、澄んだ声が聞こえた。そこにいるのは同じくクラスメイトで文芸部員の阿賀野。肩まで伸びたさらさらの黒髪に、整った顔立ち、すらりと伸びた手足の持ち主だが、こちらも性格が全てを台無しにしていくタイプの女子だった。

 

「……うーん、無理かな。俺も分からないし」

 

面倒なのに絡まれた。陽向が何とか作り笑いで返すと、補習の常連たる二人は揃って、えーっと大袈裟にリアクションしてみせた。

 

「だってひの、この前のテストで満点取ってたじゃん!」

 

花田が叫ぶ。そこに、そうだそうだと阿賀野が同意した。

満点。まあ、確かに取った。取ったは取ったが……

 

「それ、国語の話でしょ……」

 

陽向は前世で大学二年生まで生きた。つまり、専門分野であった文系科目、特に国語は余裕で満点を取れるのだ。何だかチート技を使っているようで若干の後ろめたさを感じることもあるが、こちとらその前世の記憶のせいで爆弾級のトラウマを抱えているのだからプラマイゼロ、むしろマイナスである。

しかし、前世でも赤点続きで終いには諦めた数学に関しては、二回目の人生でも全くできるようにならなかった。そんなこんなで陽向の学力パラメーターは、文系科目に極振りするのに夢中で数学やその他関連科目に振り忘れた、みたいな無計画ステータスと化していた。

 

「えー、そこはがんばろうよ!国語できるなら数学もいけるいける!」

 

「緋乃ならできるって。諦めんな!」

 

右側から訳の分からない応援が飛んできた。それに陽向が苛立つのもお構い無しに、花田と阿賀野はどんどんヒートアップしていく。終いには、二人は席を立って陽向の周りを狂ったように回りはじめた。いや何でだよ。陽向は遠い目をした。

いつもはこの二人と一緒にいる、官野という冷静なまとめ役が場を収めるのだが、彼女は苦手教科でも最低限補習に引っ掛からない点数は取るので、落ちこぼれと不真面目の集会場(この場)にはいない。ストッパーを失った暴走機関車達は止まらなかった。

 

「今日上やんいないんやねー」

 

諦めて現実逃避をする陽向の耳に、教室の離れた場所から、胡散臭い似非関西弁が聞こえた。どうやら男子達が、最近補習に来ない上条当麻のことを話しているらしい。

来る訳がない。特に今日は。上条当麻は昨日、『死んだ』のだ。

 

記憶を失うことは、死ぬことだ。花田や阿賀野、そして官野と接していると、そのことを身に染みて感じる。

 

――――実はその三人、前世でも陽向のクラスメイトで、同じ部活だったのだ。

 

前世から彼女達が何か変わったかというと、何ら変わりない。レベル0の超能力というアイデンティティーが追加されただけで、あとは名前も、顔も、話し方も、仕草も、何もかも。前世と全く同じなのだ。

それでも。それでも、何かが違う。何か、根本的なところが。この世界で初めて三人に会ったとき、ぞっとするほどの違和感を感じたのを、陽向ははっきりと覚えている。

 

記憶を失うことは、死ぬことだ。彼女達は例え生まれ変わったとしても、記憶を失ってしまった時点で、その身体だけでなく、精神(こころ)まで永久に死んだのだ。そして、仮想世界(フィクション)歯車(キャラクター)になった。

 

そしてそれは、上条当麻にも言えることだ。あの上条当麻は死んだ。思い出を全て失ってしまったのだ。ヒロインのことも、学校のことも、家族のことも……そして、陽向のことも。もし道ですれ違ったとしても、振り向きもせずに通りすぎてしまうだろう。

その事実に、陽向は何も思わない訳ではなかったが、かといって心を痛めるほどでもなかった。忘れられることに傷つくほど、共に過ごした訳でも、何かをもらった訳でもなかったから。

 

「おい、花田!阿賀野!」

 

パン!と手を叩く音で、陽向は我に返った。それは陽向の周りで最終的にダンスを踊っていた花田と阿賀野も同じだったらしく、手を繋いで今にもぐるぐる回りだしそうな体勢のまま固まっている。

 

「その辺にしておいたらどうだ?緋乃の目が死んでたぞ」

 

ため息混じりに言ったのは、これまたクラスメイトで文芸部員の官野。腰までの長い黒髪をポニーテールにまとめた、切れ長の目を持つ美人である。花田や阿賀野と比べればだいぶまともな性格をしているが、妙にラスボスじみたオーラと強いリーダーシップで、恋愛対象というよりは崇拝対象として見られることの方が多いとか。どんな高校生だよ。

 

「「はあーい」」

 

問題児二人も、官野の言うことは素直に聞く。噂では何やら怪しげな集団を束ねているという話だが、陽向には真偽のほどは分からないし興味もなかった。

とにもかくにも、壊れて止まらなくなったメリーゴーランドの中に放り込まれたような騒々しさからようやく解放され、陽向はため息を吐いた。

 

「……そういえば、官野さんはどうしてここに?」

 

先ほども述べたように、官野はこの補習の対象ではない。ふと疑問に思って陽向が問いかけると、官野はやれやれとばかりに首を振った。

 

「どうせこいつらだけじゃ何時まで経っても補習が終わらないと思ってな。助太刀に来たという事だ」

 

どうやら友人二人の補習課題を手伝いに来たらしい。確かにあの状況から見るに、下手をすれば朝まで居残りコースだったかもしれない。

 

「さっすが官さん!話が分かるー!」

 

「いやあ、ありがたい。我々頭を抱えていたのですよ隊長ー」

 

救世主の到来に盛り上がる花田と阿賀野に、官野はため息混じりに言う。

 

「お前らの『頭を抱える』は躍り狂う事なのか?」

 

鋭い指摘に、先ほど陽向の周囲で狂ったように舞っていた二人は、ギクッ!と口に出して言った。花田と阿賀野がこういう漫画的な言動をよくするのは前世(むかし)からだが、今の陽向にはいやに感じの悪い表現だった。だから陽向は、あえていつもの笑顔を作って、いつまでも続きそうな茶番を遮った。

 

「官野さん、俺にも教えてくれないかな?どうも数学は苦手なんだよね……」

 

「ああ、構わないぞ。どこが分からないんだ?」

 

そう、今は大した関わりもなかった主人公よりも、この補習を終わらせなければ。陽向は手始めに、にっこりと微笑んで官野に告げた。

 

「全部だね」

 

「……そうか」

 

もしかしたら、官野の手を借りても朝まで居残ることになるかもしれない。目の前のいやに現実的な問題に、陽向は本日何度目か分からないため息を吐いた。

 

 

 

『上条ちゃんによろしくですよー』

 

そんな担任教師の言葉により、夕暮れの中、陽向は第七学区の大学病院に来ていた。

あの後無事プリントを終わらせて帰路に着いたところで、うっかり担任の小学生教師に捕まってしまったのだ。どうやら上条に再補習のお知らせを届けようとしていたらしく、ついでにお願いするですよー、などとプリントを押し付けられてしまった。ついでって何だ。俺は大学病院に寄る予定なんて今日どころか今後一切ない。陽向はそう叫びたかったが、お人好しを演じている身で断れるはずもなく。

 

「はぁ……帰りたい……」

 

既に帰りたい。学生寮(安全地帯)が恋しい。とはいえ学生寮も学生寮で炎の魔術師が出没したり多重スパイが住んでいたりするので、安全とは言い難いが。陽向は改めてこの世界の異常性を感じた。

 

とにかく、お見舞いに来ているかもしれないインデックスと如何に鉢合わせずに、上条当麻に届け物を渡すかが問題である。本当は上条当麻にさえ会いたくないのだが、本人に用があるのだからどうしようもない。具体的な対策が浮かばないまま、陽向は病院の入り口をくぐった。

 

するとそこに、なんと上条当麻がいた。

どうやってセットしているか謎なツンツンヘアー。白い病院着から覗く全身に巻かれた包帯。そして神をも殺す右手は、ギプスでしっかりと固められていた。

見たところ一人のようだ。手には財布が握られている。喉が渇いたかお腹が空いたかで、売店に買い物に来た、といったところか。

何にせよ好都合である。このまま軽く声をかけてプリントを押し付ければ、自分の仕事は終了だ。陽向は早足で上条当麻に歩み寄った。

 

「上条!」

 

上条当麻が振り向く。どうやら自分の名前は分かっているらしい。しかし、やはり陽向のことは覚えていないようだった。

 

「……えーっと……」

 

本気で困っているらしい上条に、何かを感じた気がして、それでも陽向は完璧な作り笑いで答えた。

 

「ああ、覚えてない?クラスメイトの緋乃陽向なんだけど……そうか、あんまり話したことなかったしね」

 

それは真っ赤な嘘だった。巻き込まれ体質である陽向は、不幸体質である上条としょっちゅう出会していたし、その関係で学校でも多少は会話をしていた。

上条当麻と出会って三ヶ月と少し。その間、ファミレスで出会した途端店員に二人揃って水をかけられたり、階段の踊り場で突然ぶつかられて転げ落ちたり、とばっちりで危うく超電磁砲(レールガン)の電撃をくらいかける羽目になったり……あれ、迷惑かけられたことしかなくないか?

次々と浮かぶ受難の記憶に、だんだんと腹が立ってくる。そうだ、記憶を失ったということは、あの忌々しい事故の数々もリセットされたのだ。感傷に浸っている場合ではない、ここを切り抜ければもうあんな目に遭わなくて済むかもしれない。

 

「そう……か?じゃあ、何で俺に……?」

 

陽向の嘘をすっかり信じこんで疑問を口にする上条に、陽向は心なしか早口で告げた。

 

「俺この辺りに用事があって先生からついでに上条への届け物を頼まれたんだ。はいこれ」

 

半ば無理やりに、お知らせプリントと課題の入った封筒を押し付ける。戸惑いがちに上条が受け取ったのを確認し、陽向は早々に帰ろうと別れを告げた。

 

「じゃあ、俺はこれで」

 

上条当麻はそのとき、奇妙な既視感を感じた。何も覚えていないはずなのに、どこかでその言葉を聞いたような。やり残したことが、言えなかったことがあったような。記憶を失った上条が感じるはずのない何かは、しかしいやに頭のどこかに引っ掛かっていた。

 

「待っ……」

 

そして上条は、今度こそ陽向を引き留めようと、手を伸ばした。

 

瞬間、巻き込まれ体質と不幸体質が揃ったことによる、必然とも言える事態が発生した。

 

「ぐわああっ!!?」

 

「なっ、うわあ!!」

 

まだ治りきっていない体への無理が祟ったのか、上条は思い切りバランスを崩した。そして無防備な陽向の背中へ、見事なタックルをかまし――――

 

陽向が凄まじい既視感(デジャヴ)と共に目を開くと、背中には床の硬い感触、目の前には、上条当麻の顔があった。

……またか。また、ラノベの主人公に押し倒されるなんて恐ろしい目(イベント)に遭ってしまったのか。思わず陽向は、死んだ目で呟いた。

 

「……何でだよ……」

 

 

現実感がないくらいに白い病院のロビー。

 

窓の外から、橙色の電球のような光が射し込む中。

 

ざわつく群衆(モブ)の視線の元。

 

どうやら、まだ陽向の受難は終わらないらしい。予想される未来に、陽向はただ、乾いた笑いをこぼした。

 

 



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