黒森峰の逸見姉妹 (H&K)
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第一章 黒森峰の逸見姉妹(TV版一年前)
黒森峰の逸見姉妹 前編


というわけでガルパンの短編です。全三話です。よろしくお願いします。


 その日もたぶん、今日みたいな暑い日だった。

 蝉が鳴き、灼熱の太陽が世界を焦がしていた。

 甲子園出場を賭けた、県大会の決勝。

 構えたミットに向かって、風切り音を立てながら白球が飛び込んでくる。

 平手に重たい衝撃を感じた瞬間、背後に立つ審判がストライクのコールを叫んだ。

 我が校のエースの調子を、球の回転と伸び具合で判断しながら、やや強めの返球を投じる。

 パシン、と小気味よい音を立てて彼はボールを受け取った。言葉で伝えなくても、今までの所作でコミュニケーションは成り立っていた。

 メット越しにエースを見やる。彼はこちらから返したボールを手のひらで弄びながら、満足げに笑っていた。

 

 今日はすこぶる調子が良い。

 

 そう考えているのが手に取るようにわかった。実際、これまでにないくらいの出来の良さだ。

 イニングは六回表。そろそろ疲れも見えてくるだろうに、エースの球威は衰えることなく、許したヒットもわずか一本。

 奪った三振は七個で、快刀乱麻という言葉がこれほど似合うピッチングはないだろう。

 

「あと、四回。リードは二点」

 

 サインを出しながら零した呟きは、エースが投じた白球が奏でる音と、観客の歓声の中に消えていった。

 目の前をバットが通り過ぎ、ミットにはボールが収まっている。

 空振り三振。この回一つ目のアウトは三球三振という、これ以上ない結果だった。

 あと十一個のアウトを、このエースと積み上げれば甲子園という夢が叶うところまできたのだ。

 自然に、まったく意図しないままに、ミットを叩いてガッツポーズをしていた。

 と、その時だった。

 ネクストバッターサークルから一人の選手がバットを握りしめて、こちらに歩いてきていた。

 普段ならば、特に意識することもなく、エースに対して次のサインを出し、ナインに守備位置を伝えていただろう。

 けれどもその時は、選手の視線がこちらに向いていることに気がついて、つい意識してしまった。

 ばっちりと目が合う。

 メット越しとはいえ、その迫力に一瞬気圧された。

 

「あまり調子に乗るなよ」

 

 言葉はたった一つだけだった。歓声と、ナインの掛け声に埋もれた言葉はなんてことない、ただの負け犬の遠吠え。

 でも耳からこびりついて離れなかったのは、そこに込められた呪詛の大きさたるゆえか。

 

 いや、あれから随分と時間がたった今だからわかる。

 あの呪詛はその後に待っていた悲劇の凶兆そのものだったからだ。

 それを当時の自分は、なんとなく察していたのだろう。

 

 体を支配していた高揚感や万能感をすべて引きはがされたまま、中腰になりミットを構えた。

 リードはアウトロー。つまり外角低め。大怪我をしにくい、手堅い攻めだ。

 けれども、初球にそれを要求したのは今日は初めてだった。

 エースもどこか訝しんだようにこちらを見ている。

 けれども、けれども彼は、そのサインを拒否することなく、ただ一つ頷くだけだった。

 

 お前がそういうのなら、そうなんだろう。

 

 目線だけで、そう語り、投球の所作で信頼を示してくれた。

 その証拠に、こちらへ投じられた球は要求通りの最高のアウトロー。

 一瞬感じた不安が全部嘘だったかのように、何の心配もしないままにミットを開いた。

 

 ただ、その時。

 左打席に構えたバッターが一歩踏み込んでくるのが見えた。

 いつもなら悪あがきと笑ってみせる動作から、どうしても目が離せなかった。

 ボールではなく、踏み込んだバッターを見ていると、近くで甲高い金属音が聞こえた。

 それから約二秒。

 ミットにボールは届かなかった。

 

 代わりに、球場を飲み込む悲鳴の中に、外野ベンチと硬球が奏でる打撲音を聞いた。

 呆然と立ち尽くしたまま、人混みの間を跳ね回る白球を目で追う。

 審判が頭上で手を回し、バッターが悠々とベースを回った。

 

 そして本塁を踏んだバッターがこちらを見てこう告げた。

 

「ざまあみろ」

 

 

2/

 

 

 目が覚めた。

 いつの間にかクーラーが止まっていたのか、寝汗をびっしりとかいていた。

 あの日と同じ、夏の暑い日だ。遮光カーテンの隙間から差し込んでくる光を見ても、その様子がうかがい知れる。

 何処かで蝉が鳴いている。暑さにうんざりしながら、ベッド脇の窓を開ければ、さながら音の暴力だった。

 けれどもそれほど不愉快ではない。なぜならその音が、楽しかったあの頃の記憶を構成する大事な一つのピースだからだ。

  

 栄光はなかった。 

 でも、屈辱ではなかった。

 

 折り合いを付けきった、自分なりに消化した過去のことだ。

 例え、あれから連打を浴び、県大会の決勝で涙を飲んだのだとしても、「彼女」にとってそれは過ぎ去った昔に過ぎないのだ。 

 蝉の鳴き声に混ざって、木製の階段を踏みしめる音が聞こえた。

 たんたんと、リズムよく、力強く踏みしめる聞き慣れた音。

 のっそりと部屋の扉に振り返ったのと同時、その扉が勢いよく開かれ、足音の主が姿を現した。

 銀色の長髪を振り払って、それは高らかに声を張り上げた。

 

「いつまで寝てるの! いい加減起きなさい! カリエ! 夏休みだからってぼさっとしてるんじゃないわよ!」

 

 姉のエリカだった。

 

 

3/

 

 

 逸見カリエ。

 

 それがこの世界での彼の、いや、「彼女の」名前だった。

 いっぱしの高校球児から、大学、社会人と、だらだらと野球を続けた。甲子園出場の夢が破れても、いつかくるであろうさらなる栄光を目指して、白球と戯れ続けた。

 けれども実力以上の芽が出ることもなく、評価も受けられず、プロなんて夢のまた夢だった。

 別に絶望はしなかった。ただなんとなく、自分はここまでだろうな、という実感もあったし、現実を認める力も持っていた。

 だから野球から身を引いても、燃え尽き症候群に陥ることもなく、それとなく入団したチームの会社でのらりくらりと仕事を続けていた。

 だがその適当さがいけなかったのか、それとも環境に流され続けてきた罰が当たったのか、大雨のある日、会社帰りに足を滑らせて水路に転落。そのまま「彼」としての人生を終えてしまった。

 けれども意識が存在しなかったのは一瞬だけ。

 本当に気がつけば、と言い様がないほどあっけなく、第二の人生がスタートしていた。

 もしかしたら、植物状態にでもなって、その時に見ている夢ではないのだろうか、と考えてしまうくらいにはドラマも何もない、ごく当然に始まった人生だ。

 ただこの人生。

 決して一筋縄ではいかないやっかいなものだった。

 まず性別が違う。前世は汗と泥に塗れ続けた野球男児だったのに、何を間違えたのか「相棒」が付いていない女性として生きていく羽目になった。

 これはかなりのストレスで、一時は本当に気が変になって奇行に走ったこともある。男らしい振る舞いを見せればそれなりに厳格な両親に叱責され、あんまり続いたときには気の確かさを疑われて病院に連れて行かれたこともある。

 それが前世のアイデンティティを踏みにじられているようで、カリエにとってどうしても耐えがたいことだった。

 ただそれも、二次性徴を迎えてからは、これはこれで自分なのだと考えられるようになり、以前ほどのストレスは感じなくなった。前世は前世、今は今と割り切ってしまえば、女の子らしい振る舞いもそれなりに楽しめるようになったのだ。

 まるで二度目の思春期だな、と妙に納得したのを今でも覚えている。

 だが、一筋縄でいかないのは性別の問題だけではなかった。

 

「ほら、とっとと歯を磨いて、顔洗って私のところに来なさい。髪梳かしてあげるから」

 

 それは目の前で仁王立ちしている今世での姉、逸見エリカの存在だった。

 彼女とカリエは一卵性の双子で、エリカが姉。カリエが妹ということになっていた。

 それぞれ顔のパーツは殆ど同じ。違うのは性格から由来しているのか、目つきと表情のバラエティくらい。

 身長体重もほぼ完璧にシンクロしているので、二人して黙って並べば両親ですら識別を違えることもあった。

 だからなのか、エリカは長髪、カリエは短髪でそれぞれを区別していた。

 この、髪型と性格以外何もかもが同じな、自身の分身の存在がカリエにとってある意味で悩みの種となっていたのだ。

 

「一人でできるから、いい」

 

 のそり、とベッドから起き上がり、エリカの脇を抜けようとする。

 けれどもそれが叶うことはない。なぜならエリカががっちりとカリエの腕を捕まえていたのだ。

 

「馬鹿いいなさい。あんたはやることなすことが適当すぎて見てらんないのよ。ほんと、おんなじ顔のくせにどうしてそこまでぐうたらなのか」

 

 そう、それはエリカの世話焼きな気質にあった。

 カリエは今世ではまだ15そこそこを生きただけの若造も若造だが、前世では30近くを生き、合わせれば45は生きているのである。両親と殆ど同じような年齢だ。

 そんな中身が大の大人が、遙かに年下の女子高生に世話を焼かれる――人が人ならば喜ぶだろうが、残念ながらカリエはそこまで図太い神経をしていなかった。

 端的に言えば恥ずかしさとやるせなさが入り交じった、複雑な感情を姉のエリカに抱いているのである。

 決して悪人などではなく、むしろ度が過ぎるほどの善人かもしれないエリカが、カリエは苦手で仕方がないのだ。

 

「ほら、タオルはこれ。歯磨き粉は一昨日帰省するときに学園艦から持ってきたのを使って――、ああじれったいわね。頭だけこっちに寄越しなさい」

 

 スタイリング剤を頭髪に振りかけられ、ドライヤーと櫛で寝癖を梳かされる。何度も自分でできる。やめてくれ、と懇願してきた朝の支度だが、ついぞエリカが一人ですることを認めてくれたことはない。

 理由は至極単純。カリエに任せると雑だから、とのこと。

 

「支度が終わったら、お昼ご飯食べて、熊本市内に向かうわよ。バスと電車の時刻は調べてあるから、あんたは外行きの準備だけしていなさい。服装は制服だから忘れないように」

 

 カリエのヘアスタイルの出来に満足したのか、それだけを告げてエリカは洗面所から出て行った。

 一人取り残されたカリエは、相変わらず嵐のような姉だな、とため息を一つ吐き、力のない瞳で鏡を見つめる。

 

 そこには気だるげに歯ブラシを咥えた、姉と同じ顔の少女が一人、突っ立っていた。

 

 

4/

 

 

 黒森峰、と刻まれた校章が眩しい制服に袖を通して、カリエは熊本市内を走る電車に乗っていた。もちろん隣には同じ格好をしたエリカが手元のスマートフォンを操作しながら、時折カリエの方に視線をやっていた。

 

「エリカ、あんまりちらちら見ないでほしい」

 

「あんたが余計なことをしないか、気が気じゃないのよ。あと、エリカじゃなくてお姉ちゃんと呼びなさい。いいこと? これから向かうのはね、かの高名な――」

 

「何度も言わなくてもわかるよ。隊長と副隊長の実家でしょ。別に昔じゃあるまいし、髪の毛毟ったり、胸をちぎったりはしないよ」

 

「馬鹿! あんた電車で何言ってんの!」

 

 慌てて口をふさがれ、エリカに叱責される。その声が案外響いたのか、電車内にいた乗客が何人かこちらを見た。けれどもすぐに興味を失ったのか、それぞれ新聞を読むか、スマートフォンを操作するか、それぞれの世界に埋没していった。

 

「……あんたね、今回のお招きがどれだけ有り難いことかわかっているの? あの隊長のご実家にお呼ばれしているのよ。これほどの名誉、なかなかないわ」

 

「エリカはそういうけれど、相手は同じ学校の生徒でしょ? 普通にすればいいのに。あと、私、隊長より副隊長の方が取っつきやすいな」

 

「エリカって言うな。あと、今の言葉、隊長の前で言ったらただじゃおかないからね」

 

 それくらいわかっているよ、とカリエは本日何度目かわからないため息を吐いた。これ以上姉とやり合えば疲れることが目に見えているので、興味がないと言わんばかりに電車の釣り革広告をじっと見つめる。

 そこではクマをデフォルメした真っ黒なキャラクターが、熊本県をPRしていた。こいつ、この世界にもあるんだな、とくだらないことを考えつつ、そう言えば副隊長もクマのキャラクターが好きだっけ? と次会ったときの話題に思いを巡らす。

 こうなった妹にはもう何を言っても無駄だ、と理解しているエリカもそれ以上小言を告げることなく、持ってきていた文庫本を開いて読書を始めた。

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 熊本市を抜け、南の方に向かっていた電車は田園地帯の真ん中の、小さな駅に到着した。そこが目的地だと理解していた二人は荷物をまとめ、座席を立ち、ホームに降り立った。

 田園地帯特有の湿気を孕んだ暑さに、顔をしかめながら、カリエは隣のエリカにこう問いかけた。

 

「そう言えばなんの本読んでたの?」

 

 エリカは何でもないことのように、こう答えた。

 

「『戦車道の基本戦術 ~浸透作戦編~』よ」

 

 

5/

 

 

 スポーツとはそれなりに関わりのある人生だったとカリエは自負している。

 けれども、今自分が競技者として参加しているこのスポーツは果たしてスポーツなのだろうか、と考えない日はない。

 

 駅を降りてまず目に入ったのは砂漠色をした、巨大な陰だった。

 ましてやそれが、一般乗用車には出せないような重厚なアイドリング音を出して、駅前広場に鎮座しているとなればこの世界は何処か狂っていると、カリエはいつも頭を抱えていた。

 さらにその陰から自分と同じような背丈の少女が降りてきて、先輩のように振る舞うのだから尚更たちが悪い。

 

「良く来てくれたな。暑い中、ご苦労だった。古いⅡ号だが私のお気に入りなんだ。実家までの道中、楽にしていてくれ」

 

 少女は柔和な笑みで逸見姉妹を迎えた。

 するとさっきまで暑さに顔をしかめていた姉のエリカが途端に笑顔になり、少女に向かって頭を下げた。

 

「こちらこそわざわざお迎えありがとうございます! 妹共々、よろしくお願いします!」

 

「なに、みほも二人が来ることを楽しみにしている。もちろんそれは私も同じだ。今日はどうか、自分たちの実家でくつろいでいるつもりで楽しんでくれ」

 

「ありがとうございます! 隊長! ほら、あんたもお礼を言いなさい!」

 

 小脇を小突かれながら、頭を一つ下げる。

 高校時代はこういった上下関係に対してはカリエは愚直に従っていたが、前世も併せて45歳を超えるとそういった機微はもう殆ど忘れてしまっていた。だから、傍目から見てもそれほど綺麗ではない礼だった。

 それでも隊長と呼ばれた少女――西住まほは一つ微笑むと、「出発するか」と巨大な陰に乗り込んでいった。

 姉のエリカも嬉々としてそれに続き、一人駅前広場に取り残される。

 

「ほら、急ぎなさい! たく、とろいんだから」

 

 先に乗り込んでいたエリカにぐいっ、と手を引っ張られ、カリエも砂漠色の陰によじ登ることになった。足裏からは直列6気筒ガソリンエンジンの奏でる重低音が感じられた。

 今となってはもう、それほど違和感を感じなくなってしまった独特な振動。

 

「よし、しっかり掴まっていてくれ。それほど速度はでないが、一応な」

 

 唸りを上げて陰が前進する。両側に備え付けられた履帯がアスファルトを噛み、轟音とともに駅前広場から県道へと飛び出した。 

 ガタゴトとゆれる車体の上部――キューポラから顔だけを出したカリエは、夏の風を確かに感じながら砂漠色の車体をそっと撫でた。

 Ⅱ号戦車F型。

 それが、彼女ら三人が乗り込む巨大な陰の正体だった。

 

 

6/

 

 

 戦車道という競技がある。

 礼節のある、慎ましやかで凜々しい婦女子を育成することを目的とする武道が発展したものだ。

 読んで字のごとく、戦車に乗車し、相手チームの特定車両を撃破するか、もしくは全てを撃破することが勝利の条件となっている。

 戦車戦の何が大和撫子の育成につながるのか、カリエはさっぱり理解していなかったが、この世界では姉のエリカに引っ張られてなし崩し的に選手としての人生を送っていた。

 当初カリエは、野球でもやろうかと考えていたのだが、女子は女子らしくと考えている両親と姉の手によって、戦車の道に放り込まれることになったのだ。

 才能は、まあ前世と同じようなものだった。

 それなりに出来はするが、プロなんてものは夢のまた夢。身近にいる天才の引き立て役のような役回りだ。

 実際、黒森峰女学園という戦車道の強豪校に入学できたのも、姉のエリカの実力のお陰というのもある。

 姉があれだけ優秀な選手なのだから、妹もそれなりにやるだろう、という妙な期待感である。

 

「よし、着いたぞ。Ⅱ号を車庫に戻してくるから少し待ってくれ」

 

 そしてその戦車道の花形である戦車に揺られること数十分。カリエとエリカは無駄に大きな和風の門の前に立ち尽くしていた。表札には仰々しい筆跡で「西住」と刻まれている。

 

 例えば弓道の日置流。剣術のタイ舎流など、武道、武術にはさまざまな流派が存在している。戦車道も例外ではなく、西の「西住流」。東の「島田流」といったように、さまざまな流派が鎬を削っているのだ。

 そして二人の前に鎮座する、立派な屋敷こそが西の「西住流」の本屋敷なのである。

 

「はえー、馬鹿でかい」

 

 カリエの今世の家も、それなりに裕福ではあったが、さすがに目の前の屋敷には圧倒されていた。いつもならそんな妹を「失礼よ!」と注意するエリカも、今はその役目を忘れて屋敷の佇みに見入っている。

 

「戦車を扱うための敷地が広いだけだ。本宅は大したことがないぞ。あまり期待してくれるな」

 

 いつのまに戻ったのか、二人の間にその西住家の長女――まほが立っていた。

 彼女は巨大な門の脇にある勝手口を手慣れた様子で開けると、中へ二人を招いた。

 

 

7/

 

 

「本日はよくぞお越しくださいました。ごゆるりとおくつろぎ下さい」

 

 屋敷に上がれば菊代という、お手伝いさんに出迎えられた。緊張した、ガチガチの動作でエリカは実家から持ってきた手土産を渡す。対するカリエは初めて訪れる西住の屋敷に興味津々なのか、玄関口にある戦車の置物をしげしげと眺めていた。

 

「さあさあ上がってくれ。エリカも土産など用意させて気を遣わせてしまったな。すぐにでも冷たい茶を用意する。菊代さん、この二人を客室に連れて行ってやって下さい」

 

 言われて、二人は客室に通された。部屋の中央には立派な木造のテーブルが座しており、周囲には上等な紫の座布団が四つ並べられている。自然と下座の方に腰掛けた二人は、しばし無言のままテーブルを見つめた。

 姉のあまりの緊張ぶりに、何か話しかけた方がいいのだろうか、とカリエが思い始めたとき、ぱたぱたとスリッパが奏でる足音が聞こえてきた。

 なんとなくそれが、まほのものではないな、と考えたとき、襖がさっと開けられ人影が二人の前に現れた。

 

「いらっしゃい! エリカさんにカリエさん! 今日はわざわざありがとう!」

 

 先ほどのまほが落ち着いた雰囲気の、静の人だとすれば、目の前に現れた少女は何処か明るい雰囲気の、動の人だった。

 西住家の次女、みほだった。

 

「別に、あんたに会いに来たわけじゃないのよ! 私は隊長に……」

 

 照れ隠しなのか、エリカがごにょごにょと何かを言っているが、みほはあまり聞いていないのか、まっすぐ二人の下に歩みを進め、そのまま両方の手を取る。

 

「本当に来てくれたんだね! いっぱいボコのお話しようね! あと、お気に入りのコンビニアイスも買ってあるの! 二人とも後で一緒に食べよう!」

 

「こらこら、みほ。二人とも疲れているんだ。先にきちんともてなさないか。ほら、アイスティーを配ってくれ」

 

 そんなみほを諫めるように、背後からお盆を抱えたまほが現れた。お盆にはよく冷えているのか霜に濡れた品のよいグラスが四つ並べられている。さらにはエリカが用意していた手土産――熊本市の銘菓が盛られていた。

 

「あはは、ごめんなさい。お姉ちゃん」

 

「それにボコの話もいいが、まずは次の試合の打ち合わせが先だ。二人も今日は私たちに遠慮せず、忌憚のない意見をぶつけてくれ」

 

 

8/

 

 

 先ほどまでアイスティーとお菓子が並べられていたテーブルは、一抱えもある大きな地図と、戦車関係の分厚い資料本で埋め尽くされていた。

 赤鉛筆を持ったまほが地図に注釈を書き込めば、資料を手にしたエリカが補足の意見を述べていた。二人の議論は白熱しており、どんどん地図が赤く染まっていく。

 対する妹組――カリエとみほはそんな二人の様子を静かに眺めていた。

 

「みほも何か意見はないか? 私が見落としていること、思ったこと、何でもいい」

 

「カリエ、あんたも何か言いなさい。せっかくパンターの車長を任されているんだからもっと責任感を持つの」

 

 けれどもそんな状態が長く続くはずがなく、議論が一段落したところで姉組から催促がすっ飛んできた。けれどもまほとエリカの視線を受けた二人の態度は対照的だった。

 

「えと、その……お姉ちゃんとエリカさんの言っていることで間違いないと思う」

 

「地形の話はそれでいいと思う。でも、相手校の選手のデータがわからない以上、これ以上対策のうちようがない」

 

 ぎょっとしたのはエリカだった。慌ててあけすけと口を開いた妹を止めようとするが、それをまほが押しとどめる。そして真剣な眼差しでカリエに問うた。

 

「それは?」

 

「戦車道も野球と同じ。人が中に乗っている以上、統計に基づいたデータが必ず役に立つはず……です」

 

 とってつけたような敬語だったが、まほは咎めなかった。むしろ面白い話を聞いたと、笑みを深めるとそのまま部屋を後にした。残されたエリカは顔面を蒼白にし、カリエの襟首を引っ掴んだ。

 

「あんた隊長になんて口聞いてるの! あれほど礼儀正しくしろって言ったじゃない!」

 

「まあまあ、エリカさん。お姉ちゃんはそんな細かなこと気にしてないよ」

 

 がくがくとカリエを揺らすエリカを、なんとかみほが宥めていると再び襖が開かれた。けれどもそれはまほではなく、お手伝いの菊代だった。まほはその後ろで、両手いっぱいのDVDケースを抱え込んでいた。

 

「た、隊長! すいません! うちのカリエがとんでもないことを……」

 

「いや、いいんだ。それよりカリエ。ここに過去二年分の試合の映像がある。これを見ればデータの統計はとれるのか?」

 

「……それと試合のスコアがあれば完璧」

 

「なるほど、すぐに用意しよう。戦車道連盟の公式のスコアブックが確かあった筈だ」

 

 再び部屋を去ったまほにエリカが呆気にとられているうちに、みほはいち早く取り残されたDVDを手に取った。

 

「なら私はこれの準備をするね!」

 

 再生機器を取りに行ったのか、みほまでも部屋から去った今、エリカは特大のため息を一つ吐いた。

 

「……あんた、帰ったら覚えときなさいよ」

 

 姉のドスが効いた声は久しぶり、だとカリエは脳天気な感想を抱いた。

 

 

9/

 

 

 結局、まほが用意したDVDに全て目を通すことは出来ず、カリエは西住邸からの帰り道、大きな紙袋を二つ下げる羽目になった。借りてきたスコアブックも入っているそれは結構な重量で、電車内では早々に床へと下ろしていた。

 

「……帰ったら続き見るわよ。あれだけの啖呵を隊長に切ったんだから中途半端は許さないから」

 

「わかってる」

 

 まさか本当に意見を採用されると思っていなかったカリエは少しばかりげんなりしながら答えた。

 何だかんだいって、妹に付き合うつもりのエリカも、疲労の色は隠し切れていない。

 

「……本当にわかってる? 黒森峰の栄光はあんたや隊長に掛かっているんだから」

 

 ふとエリカが零した台詞にカリエは違和感をなんとなく覚えた。

 けれどもその違和感の正体がわからないまま、カリエはうっつらうっつらと船を漕ぎ出す。

 

「馬鹿、そっちに倒れたら他の人に迷惑でしょう。こっちにきなさい」

 

 まどろみの中そう言われたので、カリエは素直にそちらへ体重を預けた。誰にもたれ掛かっているのかそこまで考えず、ぼんやりとこれからのことを考える。

 取りあえず、適当とはいえ、一度提案してしまったデータ分析はやり遂げなくてはならない。

 あとはそれを、名門校独特の凝り固まった思想を持つ上級生たちに受け入れられるよう、説得力のある形にまとめる必要もある。

 変なところで社会人気質の残っているカリエは、脳天気な思考のまま、すぐに眠りの世界へと落ちていった。

 

 

10/

 

 

 自身の肩ですやすやと寝息を立てる妹を、エリカはそっと見た。

 自分と同じ顔をした、けれどもまったく違う顔をした己の分身。

 昔から何をするのも一緒だった。エリカとカリエ。名前すら、切っても切り離せない妹。

 最初は親の洒落かと考えていたが、そのうち聞かされた名前の由来を知ってから妹に対する見方が変わった。

 幼い頃は妹のことが怖かった。

 

 奇行に走り、意味のわからないことをずっと呟き続ける妹。

 

 けれども、両親から二人あわせて円を描く、決して切り離せない、支え合い続ける願いを込めた、と言われれば話は違っていた。

 カリエはある意味で自分そのものなんだから、自分を守るように、自分が守ってやらねばならない。

 どうしてだか、本人もあまり覚えていないが、気がつけばそう決意していた。

 決意してからは早かった。

 女の子らしく振る舞えないのなら、そう出来るように、婦女子の武道である戦車道の世界へ共に飛び込んだ。

 奇行が目立ち、誰かにいじめられているのなら、いじめた相手に十倍返しできるような気性も手に入れた。

 カリエが男っぽい服装をしても悪目立ちしないよう、自分は思いっきり少女趣味の服装をするようになった。

 何もかも、カリエのために頑張った。

 そして不思議なことにそれはエリカにとって苦痛でもなんでもなく、むしろ生き甲斐になった。

 妹に戦車道での才能があるとみるや、人一倍努力して、一緒に黒森峰女学園に入学できるよう頑張った。

 妹が立てた作戦の有用性を証明するために、率先して妹の指示を仰ぎ、敵を殲滅していった。

 妹そのものの素晴らしさを理解してもらうため、次期黒森峰隊長と評されていた西住まほに必死に取り入った。

 もちろんまほ個人の技量や人柄に惚れたのもあったが、元々の理由はそれだった。

 そのお陰か、半ば心酔しているまほに対してすら、私の妹の方が、あなたの妹より優れていると言ってのける気概も持っていた。これに関しては一悶着あったが、結局はどちらも素晴らしい、という結論までまほと二人で辿り着いている。

 

「……あんたが十連覇をいや、十一連覇、十二連覇と支えてくれれば、あんたを認めてくれる奴はもっと増えていくわ。だから、私も頑張るから、あんたも頑張るのよ」

 

 自分と唯一違う容姿である短めの銀髪を、エリカはそっと撫でた。

 くすぐったそうに身動ぎするカリエに苦笑を零し、エリカも瞳を閉じる。

 疲れはエリカにもあった。

 すぐに意識がまどろみ、妹と同じように眠りへと落ちていく。

 

 結局、二人は終点の熊本駅で駅員に起こされ、寝過ごしに気がつくまで、姉妹仲良く眠りこけていた。

 

 

11/

 

 

『プラウダ高校フラッグ車、行動不能! よって黒森峰女学園の勝利!』

 

 原野フィールド全体に響き渡る勝利宣言に、黒森峰の各車両は沸いていた。

 全国大会前の最後の練習試合。両軍20両が参加した大規模な戦車戦は、被撃破が5両。撃破はフラッグ車を含む17両と黒森峰の圧勝とも言って良い結果だった。

 西住姉妹を擁し、さらには熊本の「ウロボロス」と呼ばれた逸見姉妹が所属する黒森峰は歴代最強ではないか、と関係者の間で囁かれている。

 そう、当事者のカリエは全く知らない話だが、黒森峰の逸見姉妹と言えば西住姉妹ほどの知名度はないものの、それなりに全国区になりかけている有名姉妹だった。

 質実剛健でありながら、妹カリエの立てた作戦を確実に遂行していく機動力を有する姉のエリカ。

 冷静沈着、確実に相手を追い詰めていく、さながら詰め将棋のように作戦を立てていく妹のカリエ。

 二人の名前の両端がつながっており、並べてみれば互いの尾に食らいつくウロボロスの蛇のようで、ついたあだ名は「黒森峰のウロボロス」。

 カリエが聞けば、「なんか中二くさい」と嫌がっただろうが、幸い本人にはその勇名は届いていなかった。

 

「カリエ、作戦立案ご苦労だった。しかし見事なものだったな。しばらく優勝から離れているとはいえ、プラウダもメキメキと実力を伸ばしている強豪校だ。それがこうもあっさり墜ちるとは」

 

 パンターG型のキューポラから頭だけを出したカリエに、隊長である西住まほが声を掛けた。まほなりの、最大級の賞賛だったが、ちっともそれを理解していないカリエはいいや、と首を振った。

 

「……いえ、チームの根幹を握る『ブリザードのノンナ』を徹底的にマークしただけです。こんなの誰にでも出来ます」

 

 そう、カリエからしてみれば、作戦とすら呼べないような、単純な作戦だった。過去の対戦遍歴や、プラウダ高校の過去のデータを見てみると、「ノンナ」と呼ばれる選手がプラウダの攻撃面での主力であることがわかった。

 そこでカリエは、野球の守備陣が打者専用シフトを敷くかの如く、徹底して「ノンナ」の行動を予想し、「ノンナ」が嫌がるであろう布陣を敷き続けたのだ。

 どれだけ能力の高い打者だとしても、打球方向を分析されてそこに守備をする選手をポジショニングされれば、成績の低下は免れない。前世の経験からこの理論を知っているカリエは、戦車道でそれを実践したのだ。

 だから本人は作戦のことを誇ることもなく、ただ誰でも思いつくようなことをした、としか考えていない。

 確かに、有力選手を徹底的にマークする作戦は戦車道において、過去何度も行われただろう。

 けれども言うに易し、行うに難し。

 野球と違い、戦車道は常に状況が流転する。

 特定の選手をマークし続けるには、偵察を綿密に行うチームワークと、マークを外さないために、食らいつき続ける実力のある選手が必要になってくる。

 カリエにとって幸いだったのが、前者を姉であるエリカが、後者を西住流を修めたみほが難なくこなせるところにあった。

 エリカは妹の作戦を完遂するため、死にもの狂いで偵察を行うし、みほはその卓越した指揮能力でエリカとカリエをサポートする。

 チームメイトに恵まれたからこそ、カリエの野球の概念を導入した作戦が活きてくるのだ。

 

「……そうか。やはり底が知れないな。カリエは。だが間違いなく、黒森峰に必要な存在だ。――私は試合後の挨拶を向こうの隊長と行ってくる。先にみほとエリカに合流して、反省会を始めていてくれ」

 

 そう言って、ティーガーⅠを駆り、まほはカリエのパンターから離れていった。残されたカリエは「はてエリカはどこにいるんだろう」とつらつらと考えながら、自身の戦車に前進を命じていた。

 

 

12/

 

 

「お疲れさま、エリカさん」

 

 乗っていたⅢ号戦車の側で座り込み、滝のような汗をかいていたエリカにみほがタオルを差し出した。彼女らの目の前には白旗を掲げるプラウダのフラッグ車が鎮座している。エリカのⅢ号とみほのティーガーⅠに狙われたフラッグ車――T34は奮戦空しく二人の連携の前に撃破されていた。

 

「別にこれくらいどうということないわ」

 

 嘘だ、とみほは瞬間的に見抜いていた。その血走った瞳と滝のような汗、未だ荒い息を見ていれば、エリカがどれだけ死に物狂いでⅢ号戦車を操っていたのか手に取るようにわかる。

 けれどもその理由を知っているみほは、あえてそれ以上突っ込まなかった。

 

「……すごいね、カリエさんは。あのプラウダでもこんなに簡単に負けちゃうなんて」

 

「馬鹿ね、とどめを刺したのはあんたじゃない。あんた、涼しい顔してえげつない追い立てかたするのよね」

 

「もう、それはエリカさんもだよ。『ノンナ』さんだっけ? その人が乗る車両が本体と合流しないように、ずっと纏わり付いていたでしょう」

 

「……あれくらいしないと、こっちがやられていたわ。さすが去年の準MVP。射撃精度のえげつないのなんの。ちょっと距離をあければバカスカ撃ってきて」

 

 と、エリカがそこまで告げたとき、彼女が左手を押さえているのが、みほには見えた。

 慌ててその手を取ってみれば、どこかにぶつけたのか酷く腫れ上がっている。

 

「大変! はやく医務室に行かないと!」

 

「ちょっ、触んないで!」

 

「でもほっとくと大変なことになるよ!」

 

「わかってるわよ、それくらい! でもあんた、このことをカリエの目の前で言ったら絶対許さないからね! あの子が帰ってからゆっくり行くわよ!」

 

 みほは何故エリカがそこまで固持するのかわからなかったが、「カリエ」という名前が出た途端に、その真意を理解していた。

 エリカはカリエの作戦を完遂するために、常にキューポラから身を乗り出して指揮をしていた。それは「ノンナ」を決して逃がさないため、常に肉眼で追っていたからだ。そうやって、常に生身を曝していたものだから、「ノンナ」から反撃を受けたとき、撃破こそされなかったものの、エリカが負傷してしまったのだろう。

 

「あんたならわかるでしょう? だから黙ってて。これが終わったら、適当に転けたことにして病院に行くから」

 

 みほが自分の真意に気がついていると認めているからこそ、エリカはそんな事を言った。

 エリカはカリエが本当は心優しい妹だと思っている。自惚れでなければそれなりに好かれていると自負もしている。だからこそ、カリエの作戦のために負傷したと、彼女に知られたくないのだ。

 もしもそれを知られてしまえば、カリエの作戦立案能力にマイナスにしかならない。

 エリカはカリエの戦車道を自身が邪魔してしまうことを許さない。例えその身が痛んでも、決してカリエには悟らせない。

 

「……うん、わかった。でもせめてこれだけ……」

 

 そう言ってみほは一度ティーガーⅠに戻った。そしてすぐさまエリカの下に戻ってくる。何事か、と見やれば彼女はどうしてか湿布薬を手にしていた。

 

「私もおっちょこちょいでよくぶつけちゃうから……。戦車の中に常備しているの」

 

 エリカの手をそっと握り、手際よく湿布薬を貼り付けていく。

 さすがのエリカもそんなみほの厚意を無駄にするわけにはいかず、おとなしくされるがままだった。

 二人の間を微妙な沈黙が支配する中、何処からか二人にとって聞き慣れたエンジン音が聞こえてきた。

 

「……カリエのパンターが帰ってきたわね。反省会かしら」

 

「たぶんお姉ちゃんから頼まれたのかな。私たちも合流しよう」

 

「ええ」

 

 立ち上がった二人はそれぞれの車両に戻っていった。エリカはⅢ号に乗り込む途中、左手を痛むそぶりを見せるが、パンターが丘の向こうから現れた瞬間、表情をすぐさま切り替えて、何でもないかのように車長席に収まった。

 ちょうどその時、パンターのキューポラから顔の上半分を覗かせるカリエと目が合った。

 間一髪だったと内心胸をなで下ろす。

 

「そうよ、私たちはウロボロス。二人で一人。私がここで頑張らなきゃ、どうすんのよ」

 

 Ⅲ号の操縦手に指示を出し、パンターへと合流する。後ろからはみほが乗り込むティーガーⅠがぴったりとついてきていた。

 こうした合流の動作一つとっても、黒森峰の戦車団の連携の卓越した技量が現れていた。

 けれどもそれが、薄氷の上に乗った危ういものであることにこの場の誰しもが気づいていなかった。

 

 

13/

 

 

 まほは試合が終わってから、プラウダの天幕を訪れていた。

 練習試合を引き受けてくれたことの感謝と、来たるべき全国大会に向けての挨拶に来ていたのである。

 乗ってきたティーガーⅠを降り、ひとりテントへと入り込む。

 すると長机を囲んで、プラウダ高校の幹部たちが座しているのが見えた。

 一番奥にプラウダの隊長が腰掛けている。

 

「良く来てくれた、黒森峰の隊長」

 

「こちらこそ、今回の練習試合を引き受けてくれたこと、深く感謝する」

 

 頭を一つ下げ、テントを進む。幹部たちの目線が突き刺さるが、それに動じるような人物ではなかった。

 

「いやいや、感謝しているのはこちらさ。噂の西住流姉妹、そしてウロボロスの逸見姉妹となかなか見れないものを見せてもらった。いい勉強になったよ」

 

 ふとその時、プラウダの隊長の隣に見慣れない人影が腰掛けているのが見えた。

 まほはこの試合が始まる前、カリエが作成したプラウダの選手名簿に目を通している。記憶力の良い彼女はそこに記載されていたメンバーを殆ど全員覚えていた。もちろん控えを含めてである。

 だが、その名簿には載っていない顔がよりによって隊長の隣に座り込んでいたのだ。

 怪訝な表情をしたまほに気がついた隊長が、にやりと笑った。

 

「ああ、紹介しよう。ここにいるちびっ子はプラウダの次期隊長だ。今回は諸事情があって不参加だったが、全国大会で実際に差配するのはこいつだ。名は――」

 

「カチューシャよ! 『地吹雪のカチューシャ』! 覚えておきなさい!」

 

 体格にそぐわぬ尊大な態度にまほは一瞬面食らった。だがそれ以上に、彼女から感じる言い様のない不安に一番驚いていた。

 

 別に自惚れていたわけではない。慢心していたわけではない。

 けれども今の黒森峰は自身と妹、そして逸見姉妹を擁した歴代最強だと自負している。

 

 そんな彼女が、プラウダの大戦車軍団を前にしても落ち着いて試合を運んだまほが、目の前の小さな次期隊長に何か不気味なものを感じていたのだ。

 あのカリエのリストから漏れたからか? ――否。

 負けたのに、その表情が大胆不敵だからか? ――是。

 

 そうだ。大胆不敵だからだ。完敗と言っても良い試合展開だったのに、このプラウダに流れている空気は――とくにカチューシャから感じる知性に裏付けされた自信が不安の原因なのだ。

 珍しくまほは生唾を飲み込んだ。

 そんなまほの機微に感づいたのか、カチューシャは愉快そうに笑った。

 

「ふん、あんたたちなんか、ぎったぎったのめっちゃくちゃにして、ピロシキのお総菜にしてやるんだから!」

 

 

14/

 

 

 そして皮肉なことに、まほの不安は一ヶ月後、見事最悪の形で的中することになる。

 

 

 

 中編につづく。

 




逸見カリエは一度だけ姉のエリカと大げんかをしたことがある。
それはエリカがハンバーグオムライスを作ったことが原因だ。
彼女の好物はオムライスである。
目の前にはオムライスの上にハンバーグをのせ、デミグラスソースを並々とかけているエリカがいた。
ぷっつんときた。オムライスはオムライスであってしかるべきなのに、そこへハンバーグを乗せて食べている姉にぷっつんときた。
ハンバーグとオムライス。それぞれ独自の文化圏として共存してきたのではないか。姉と妹、それぞれの矜持を認め合ってこれまで生きてきたではないか。
それがなんだ。この姉の行いは。
自身のユートピアを荒らされたカリエは激怒した。

「オムライスにハンバーグなんて乗せないで」
「はあ!? ハンバーグをディスるんじゃないわよ!」
「そうやってすぐネット用語を使うのか、エリカの悪い癖」
「エリカ言うな! ていうか、私が何食べようと勝手じゃない! だいたいね、親が旅行だから折角私が夕食作ってあげてんだからおとなしく食べなさい!」
「ハンバーグを乗せないで」
「うっさい! それに折角あんたと二人で好物を食べられると思って料理したのに、文句ばっか言うな!」

 言って、しまったとエリカは赤面した。
 一生の不覚である。妹のことは支えると誓ったが、デレるとは一言も言っていないのだ。

「……今デレた。ツンデレ?」
「あんたこそ2ちゃん語話してんじゃないわよ!」


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黒森峰の逸見姉妹 中編1

ちょっと長くなりすぎたので、中編を二つに分けます。


 薄暗い森を鋼鉄の豹が疾走している。

 その巨体に違わず、横たわる木があれば踏みつぶし、行き先を邪魔する岩があれば悠々と乗り越えていった。

 頭上を数多の枝が通過していく中、一切の減速を許さず、逸見エリカは無線に吠えていた。

 

「隊長、もうすぐカリエの車両ポイントに辿り着きます!」

 

『了解した。彼女はなんとかファイアフライどもから逃げているが、そろそろ限界かもしれん』

 

「……最後の通信は?」

 

『期待せず待つ、だそうだ。我々は当初の予定通り敵のフラッグ車の包囲殲滅に向かう。……悟られぬよう、細心の注意を払ってくれ』

 

「了解しました。――ったく! あんの馬鹿! 世話が掛かるのよ! 小梅! 私が見てるからもっと速度上げなさい!」

 

「でも逸見さん、これ以上はパンターのエンジンが……」

 

「別にこれくらいじゃ焼き切れはしないわよ! それにカリエと合流したら渡河していくらでも冷やしてやるわ!」

 

 こうなったエリカに理屈は通じないと知っている小梅は黙ってパンターの速度を上げた。エンジンの轟音が危険な領域に入っても、エリカはいっこうに気にするそぶりを見せない。

 彼女の頭を支配しているのはただ一つ。

 自身の半身たる妹の安否だけ。

 

「……やられてたらただじゃおかないわよ!」

 

 

1/

 

 

 エリカのいる森林とはうって変わって、カリエは盆地の最低部にいた。ちょうど戦車二台分くらいの窪みを見つけた彼女は、そこに自身のパンターを潜り込ませていた。理由は言わずもがな。二台のシャーマンと一台のファイアフライに包囲されているからだ。

 時折飛来する砲弾に顔をしかめながら、彼女はキューポラから頭の上半分を出していた。

 けれどもすぐに中から手が伸びてきて車内に引きずり込まれた。

 

「だから危ないって」

 

 手を伸ばしたのは装填手である上級生の一人だった。彼女はカリエを車長席に座らせると、中に座しているパンターの面々に声を掛けた。

 

「さて、これで本隊が向こうのフラッグ車に肉薄できればいいけど」

 

「たぶん大丈夫だと思います。隊長と副隊長、それにエリカさんがこちらを助ける振りをして、追いかけていた本隊を逃がしたそうですから。その証拠にあそこのシャーマンたちは本隊の救援に向かう様子が見られません。餌には掛かってくれたようです」

 

 通信手の少女が上級生に答える。

 

「あとはどれだけ時間を稼ぐか、ね。おそらく隊長と副隊長、それに逸見姉の三人がいればそう時間は掛からないと思うけれども」

 

「でも驚きましたね。わざと落伍した振りをして最大の脅威のファイアフライを1両釣り上げるなんて。正直ハイリスク過ぎる賭けだと思ったんですけど、無事ペイできそうです。カリエさんのネームバリューが敵の功名心をかき立ててます」

 

「いや、あの……うぉっ」

 

 なんか変な方向に進みつつある車内会議に口を挟もうとカリエが動いたとき、車体が大きく振動した。どうやらパンターの装甲がシャーマンの砲弾を弾いたようだった。

 思いっきり舌を噛んだカリエはそれ以上何も言えないまま、一人悶絶していた。

 

「ちっ。接近してきてるわね。カリエ、このままここにいるか、うって出るか決めて頂戴」

 

 上級生の催促だったが、カリエは何も答えることが出来なかった。ただ黙して舌の痛みをこらえるだけだ。

 

「カリエさん?」

 

 通信手の少女が様子のおかしいカリエの顔を覗き込む。

 上級生もカリエの肩に手を掛けて何かを言おうとした。

 が、ちょうどその時。

 

『こちら車両番号214! パンターG!! 救援に来たわ! 正確な位置を知らせなさい!』

 

 甲高い声が狭い車内に響く。声色は車長であるカリエによく似ていたが、そのトーン、激しさは全く違う。その場にいる全員は確信した。これは姉のエリカの方だ。

 ただ、同じ声を聞いていてもそれぞれの反応は全く違った。

 通信手と装填手が何事か、と一瞬手を止めたのに対し、痛みにぼんやりしていたカリエは姉の叫び声に驚いて、思わず操縦手の背中を蹴飛ばしていた。

 蹴飛ばされた操縦手はカリエに抗議の声をあげるのではなく、普段からの練習のたまものか咄嗟にパンターを急発進させていた。

 窪みからカリエたちのパンターが勢いよく飛び出す。

 呆気にとられたのはパンターを包囲していた2両のシャーマンと1両のファイアフライだった。

 ファイアフライの17ポンド砲弾が飛び出したパンターの脇を掠める。ファイアフライの砲手は撃破を確信し狙っていただけに、パンターの挙動に驚きを隠せなかった。

 

 

2/

 

 

「ファック! 未来人でも乗っているの!? あのパンター!」

 

 ファイアフライの車長が残りのシャーマンにパンターを追うよう指示する。「イェス! マム!」と答えた1両のシャーマンが遠ざかるパンターの背中に狙いを付けた。

 が、その長砲身から砲弾が飛び出すことは終ぞなかった。

 

「なっ!」

 

 発砲音は確かに聞こえた。けれどもそれはシャーマンのものではなかった。なぜならパンターを狙ったシャーマンは黒煙をエンジンルームから吐き出して、白旗を掲げているからだ。

 

「オーマイガッ! 後ろだ!」

 

 ファイアフライの車長が回頭を指示する。そしてその指示は正解だった。彼女たちの背後には既に、もう1両のパンターが急接近していたのだ。

 

「シット! スネークのエンブレム! 『ウロボロス』の姉の方だ!」

 

 残されたファイアフライとシャーマンが散開する。だがそれは成功しない。逃げようとしたそれぞれの進路の先に、2両のパンターが砲弾を浴びせたからだ。

 

「いつの間に!」

 

 再び振り返れば逃げ出していた筈のパンターがこちらを向いていた。砲身からはまだ真新しい煙が吹き出ており、姉に合わせて発砲したことが容易に想像できる。

 そう、もう一台のウロボロス 妹の車両だ。

 

「嘘、あいつらお互いの発砲タイミングがわかってるの?」

 

 怯えを含んだ声色を滲ませたのと同時、挟撃に来た二匹のヒョウの射線が重なった。

 それぞれシャーマンとファイアフライを――敢えて自分から離れている方を狙っていた。

 何故なら、そう狙うことでそれぞれのエンジンルームに砲身が重なるからである。

 

 やられた、とファイアフライの車長が呟いた。

 

 

3/

 

 

『サンダース大学附属高校、M4シャーマン及びM4シャーマンファイアフライ 走行不能!』

 

 無線越しに伝えられる、大会審判の宣言に西住みほは胸を撫で下ろした。

 どうやら大切な友人たちは窮地を脱したようだ。

 

『みほ、エリカとカリエがやりきった。次は私たちの番だ』

 

「うん、お姉ちゃん。じゃなかった。隊長、こちらももうすぐ終わります」

 

 こちらから姿は見えないものの、それでも位置関係だけは常に把握し合っている姉の声を聞いて、みほはもう一度安堵した。カリエが身を挺して開始した作戦だが、どうやらそれは成功のうちに終わりそうだった。

 

『カリエの車両が落伍したときは何事かと思ったが、まさか伏兵を一人で釣り上げるとはな。敵を欺くにはまずは味方から。正直恐れ入った』

 

「うん、でも一人で行くのはやっぱ心配だな。怪我していないといいけれど」

 

『運営から何も連絡がないからおそらく大丈夫なんだろう。とっ、みほ。いた、サンダースのフラッグ車だ。他の車両の包囲は完成しているか?』

 

 みほは自身の左側に貼っていた地図に目線を走らす。通信手がリアルタイムで書き込んでいったホワイトボードの地図は、とある地形を取り囲む自軍の様相を伝えていた。

 

「うん、大丈夫みたい。ではこれより包囲殲滅戦を開始します。……パンツァー・フォー!」

 

 

3/

 

 

 夕暮れの中を巨大な学園艦が突き進んでいる。

 白波をものともせず進むそれは、栄えある黒森峰女学院の学園艦だった。

 その黒森峰女学園の、本校舎の裏手にある戦車道の部室では今日の戦いを終えた学生たちがそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。

 

「ほら、舌出して」

 

「んべ」

 

 その一角で向き合って座る人物が二人。彼女らは全く同じ顔を何の疑問もなく突き合わせていた。

 

「取りあえずハチミツ塗っておくから舐めるんじゃないわよ。今日ご飯が食べられないようなら、後でコンビニで栄養ゼリーを買ってきてあげるから」

 

「ん」

 

 それは逸見エリカと逸見カリエ、その人だった。試合中に舌を盛大に噛んだ妹のため、姉のエリカがハチミツを塗ってやっているのである。

 

「いやー、でもカリエさんが怪我しているのを見たときのエリカさんは怖かったです。あの糞サンダースども、殲滅してやるって息巻いていましたから」

 

 その様子を眺めていたのはエリカのパンターの操縦手である小梅だった。彼女が茶化すように、エリカはカリエが口端から血を流しているのを見て、試合中に激高していたのだ。

 

「ばっ、それは誰にも言わないって約束したじゃない!」

 

「あら、でもカリエさんは嬉しそうですよ」

 

 見れば治療を受けていたカリエがエリカの服の裾を掴んでいた。喋ることが出来ないなりに、彼女は感謝の意を伝えていたのだ。

 それを見たエリカは毒気を抜かれたのか、盛大にため息を一つ吐くとやや乱暴にカリエの頭を撫でた。

 

「まあ、あんたの作戦で無事勝てたわけだから、今日のところはお説教もやめといてあげるわ。でも、次は承知しないから」

 

 それが照れ隠しだとわかっている小梅はくすりと笑い、珍しく空気を読んでいるカリエも黙ってされるがままだった。

 

「エリカ、カリエ、少しいいか?」

 

 が、そんな姉妹のじゃれ合いはそれほど長くは続かない。何故なら彼女たちの背後には一抱えの資料を持ったまほが立っていたからだ。

 エリカと小梅は慌てて姿勢を正す。唯一カリエだけが脳天気に腰掛けたままだったが、すぐにエリカに立たされ、気をつけをさせられた。

 

「いや、いい。楽にしてくれ。今回の試合のことと、次の試合について話し合いたい。ミーティングルームに来てくれないか」

 

「はい、了解しました!」

 

 はきはきと返答をするエリカと、喋ることが出来ないため、こくりと一つ頷くカリエ。

 両者の反応にまほは微笑むと、先に資料を持ったままミーティングルームに向かっていった。周囲にいた生徒たちも、なんとなく解散の予兆を感じたのか、それぞれ自らの手荷物をまとめはじめた。

 ただカリエだけが、姉にせかされるまでぼんやりと椅子に腰掛けていた。

 

 

4/

 

 

「ほら、鍵開けるからちょっと荷物もって」

 

 すっかり日が暮れた学園艦の一角。大型のバイクに二人乗りで帰ってきたエリカとカリエは学生寮の廊下に立っていた。食事の難しいカリエのために栄養ゼリーを買い込んだエリカの両手にはコンビニの袋が提げられている。

 

「ん」

 

 がちゃがちゃとエリカが鍵を開けている間、カリエはエリカから袋を受け取り黙って立ち尽くしていた。

 

「洗濯したいから先にお風呂入っちゃいなさい。結構汗かいたでしょ? あとタンカースジャケットも洗いたいから出しといて」

 

 てきぱきとエリカは家事を進め、カリエは黙ってそれに従っていた。実家を離れ、学園艦で暮らし始めてからはずっとこのような毎日が続いている。

 カリエが風呂場へ向かったことを確認すると、エリカは制服を脱いでエプロンに着替えた。カリエが脱いだ服を脱衣所で回収し、その時彼女がタンカースジャケットを出し忘れていることに気がついた。

 たぶん部屋か、とあたりを付けたエリカはカリエの部屋に向かい、ベッドの上に置きっ放しになっていたボストンバッグから真っ赤な黒森峰のシャツと黒のタンカースジャケットを取り出した。

 と、その時。

 鞄の底に一冊のノートを見つけた。一瞬、戦車道についてまとめているのだろうか、と考えたがその割にはノートは随分と古く、少なくとも数年は使い古しているような年季だった。

 表紙には何も書いておらず、日記とかじゃなければいいか、とエリカは何気ない気持ちでノートを開いた。

 

「え? 何これ……」

 

 思わず声が漏れた。慌てて周囲を見回し、カリエが近くにいないことを確認する。

 エリカはそっと息を潜めるとカリエのベッドに腰掛けてノートを一枚一枚捲っていった。

 紙面には意外と達筆なカリエの筆跡で、次のようなことが書いてあった。

 

 女の子は足を開いて座らない。

 

 女の子が大口を開けてあくびしない。

 

 女の子はたくさん食べない。

 

 女の子は戦車に乗る。

 

 それは今までエリカがカリエに伝えてきた、女の子としての振るまい達だった。しかも一つ一つの項目を漢字の書き取りの如く、何度も何度も繰り返し書いてある。

 最初、それの意味がよくわからなかった。

 けれども、妹の進んで来た道。自身が進んできた道について思い至ったとき、エリカは咄嗟に口元を押さえた。

 耐えがたい嘔吐感に抗うためだ。

 けれどもそれは、カリエに嫌悪感を感じてのことではない。自分自身にどうしようもない吐き気を覚えたのだ。

 

 エリカがこれまで何気なく、カリエのためを思っていった言葉。

 少しでも妹が周囲に馴染めるように、親切心と愛情でカリエに贈った言葉。

 

 それが全て一冊の古いノートに刻まれていた。そう、刻まれていたのだ。

  

 なんだこれは、とエリカは震える。

 彼女は自身の行いの罪深さに恐怖する。

 カリエに贈った言葉は言葉じゃなかった。カリエはエリカの言葉を呪いのように受け取っていたのだ。

 エリカがカリエに何かを言うたび、言葉は呪いのようにカリエそのものに刻みつけられていたのだ。

 

「えぐっ、おえっ」

 

 ついに吐き気に耐えきれなくなって、吐瀉物を吐き出した。咄嗟に脇に避けてあったカリエのタンカースジャケットで受け止め、ベッドや部屋を汚すことはなかった。

 かたん、と脱衣所のドアを開ける音が聞こえる。

 エリカは慌ててノートを鞄の底に押し込むと、カリエの部屋を飛び出て、吐瀉物で汚してしまったタンカースジャケットを洗濯機にたたき込んだ。洗濯機の置いてある洗面台では、何事か、と風呂上がりのカリエが立ち尽くしている。

 

「……エリカ、具合悪いの?」

 

「別にそんなことないわよ」

 

「なら、なんで私のジャケットにゲロ吐いてるの?」

 

「……悪かったわよ。しっかり洗ってクリーニングに出すから。ちょっと昼ご飯を食べ過ぎたの」

 

「……ふーん、いくら好きでも、ハンバーグはほどほどにね」

 

「うっさいわね」

 

 特にそれ以上追求することなく、カリエはエリカの脇を通ってリビングまで歩いて行った。テレビの音声がかすかに聞こえ始め、何も悟られていないことにエリカは安心した。

 

「ごめんなさい」

 

 回り始めた洗濯機の前で、エリカは座り込む。

 ここなら雑音が多いから、少しくらい口を開いたってカリエには聞こえない。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 堰が切れれば、涙を止めるものは何もなかった。真っ白な膝の上に落ちる涙の粒は、数と大きさが増していくだけだ。

 

「……ごめん、なさい」

 

 小さな呟きは、ついぞカリエに届いていなかった。

 

 

5/

 

 

 準決勝の相手は「聖グロリアーナ女学院」だった。全国大会準優勝の実績を持つ、戦車道屈指の強豪校だ。

 黒森峰女学院の実質的なライバルと言っても良い。

 実際、次の対戦相手がグロリアーナと決まったとき、黒森峰の隊員達の士気は一層向上していた。

 

「さて、次のグロリアーナ戦だが参加車両はチャーチル、マチルダ、クルセイダー、さらにはクロムウェルだ」

 

「はい、質問よろしいですか」

 

「どうした」

 

 隊長であるまほ主催のミーティングで、隊員の一人が挙手をした。

 

「グロリアーナはOG会の権力が強く、チャーチル、マチルダ、クルセイダーの三種の戦車しか運用してきませんでしたが、今隊長が仰られたように、クロムウェルを導入することは可能なのでしょうか」

 

「いい質問だ。それについては逸見カリエ、君から説明してほしい」

 

 言われて、最前列と最後列の丁度真ん中あたりに着席していたカリエに、周囲の視線が一斉に向いた。

 カリエはマイペースに立ち上がると、のそのそとまほの隣にまで出てきてプロジェクターを操作、パソコンから出力した画面をその場にいる全員に見せた。

 元社会人である彼女は、こういったプレゼンテーションに手慣れていたのである。

 

「……これはグロリアーナと知波単学院が行った今大会の第一回戦の映像です。このグロリアーナの陣地の後方に座して動かない車両――隊長車の隣に陣取っているこれがクロムウェルだと思われます」

 

「おおー」

 

 黒森峰の隊員達の感心した声が随所から上がる。何故なら映像はただ試合の模様を引っ張ってきたのではなく、戦車が登場するたびにその性能表が画面上に表示されるような演出がなされていたのだ。

 小手先だけの子供だましだが、普段からそういったプレゼンテーションを見ていない女子高生には効果覿面だった。

 カリエもこんな中身のない資料で喜んでもらえるのなら、とそれなりに力を入れている。

 

「で、クロムウェルが突如配備された理由ですが、それはグロリアーナ内の政治勢力の変化が挙げられます」

 

 画面が切り替わり、戦車の映像ではなくグロリアーナの隊員達のリストが表示された。全員が遠景なり近景なりのスナップ写真付きだった。全てがカリエと、とあるもう一人の隊員がグロリアーナにスパイした成果だった。

 リストが次々と表示されていく中、一人の生徒がクローズアップされる。

 ティーテーブルに腰掛け、優雅に紅茶を傾ける金髪の美少女だった。

 

「で、この二年生。現在の副隊長なんですけれども、この生徒が実質的な政治権力を握っていると思われます。彼女がクロムウェルの導入を達成した模様です。確かグロリアーナの幹部は紅茶にちなんだ名前を襲名していくのですけれど、えと……」

 

 ぱらっ、と資料を一枚捲った。

 

「ああ、ダージリン。紅茶の銘柄で言うダージリン、だそうです」

 

 

6/

 

 

「で、こちらが潜入調査で判明した黒森峰の陣容になります」

 

 紅茶の園、と呼ばれる場所がある。

 聖グロリアーナ女学院の、戦車道を履修する幹部達が交流を深める場である。

 その一角では煌びやかなティーテーブルを囲んで、二人の女子生徒が言葉を交わしていた。

 

「ご苦労様、アッサム。ふむ、なるほど。噂の西住姉妹はティーガーⅠに、逸見姉妹はパンターに所属しているのね。なかなか厄介だこと」

 

 アッサムから資料を受け取った金髪の美少女――ダージリンがそう言葉を溢した。

 

「はい、それとサンダースとの試合なども観覧いたしましたが、両姉妹とも驚異的な連携で相手を追い詰めていました。データから考えますと、非常に脅威です」

 

「……こんな言葉をご存じかしら? 『垣根は相手がつくるのではなく、自分がつくるものである』」

 

「……はあ、またですか。アリストテレス。ギリシャの哲学者ですね」

 

 うんざりしたようにアッサムはダージリンに答えた。だがダージリンは特に気にした様子もなく続ける。

 

「相手を警戒するのも良いけれど、しすぎは余計な垣根を目の前に出現させてしまうわ。向こうも私たちと同じ人間。日々に悩み、苦悩する葦そのもの。例え完璧に見える連携でも、かならずそこに綻びはある。どれだけ完璧に焼けたスコーンでも、場所を違えなければ容易に割ることも出来るでしょう?」

 

 そこまで告げて、紅茶を一口。

 静かに微笑んだダージリンはその瞳に野心を迸らせ、こう告げた。

 

「勝つのは我々よ。アッサム。それだけは覚えておきなさい」

 

 

7/

 

 

 準決勝、試合当日。

 場所は森と平野が混在したステージだった。黒森峰とグロリアーナ。両者が共に得意とするフィールドだ。

 カリエの乗るパンターは黒森峰の戦車団の後方、まほが乗る隊長車の隣でアイドリングしている。

 

「うーん」

 

 肝心のカリエはそのパンターの車長席で一冊のノートを開いていた。それはつい先日、エリカが盗み見てショックを受けていたノートだ。

 カリエはそこに記されている「女子としての振るまい」を必死に頭にたたき込んでいる。これは彼女が戦車道の試合に臨む際のルーティンワークみたいなものだ。

 前世の影響からか戦車は男が乗るもの、という固定観念があるカリエは、いざ戦車道が始まると昔のように男らしい振る舞いをしてしまうのだ。

 それを姉のエリカに見つかってしまうと、また小一時間怒られると思っているカリエはそんなことがないよう、いつも直前に女子らしい振る舞いについて学んでいる。

 漢字の書き取りみたいになっているのは、そうでもしなければ覚えられないほど、カリエの暗記能力が微妙なせいだ。キャッチャーを任され、常にチームに指示を出すことが出来るくらいには頭の回転は良いのだが、単純な暗記はいつまで経っても苦手なままだ。

 

「カリエ、あんまり根を詰めてもよくないよ」

 

 装填手の上級生がカリエを気遣って声を掛ける。まさか自分の戦車の車長が女子の振る舞いについて復習をしているとは思ってもいないから、自然とその言葉は優しい。

 

「そうですよ。それにカリエさんの立てた作戦は皆頭にたたき込んできましたから、後は黒森峰が誇る練度で完遂するだけです」

 

 通信手の同級生も、地図に自軍の位置をマーキングしながらフォローを入れる。

 そういうことじゃないんだけどなあ、とカリエは思いながらも、折角の厚意なので眉間のしわをほにゃほにゃと解した。

 だいたい、今回の作戦も「ダージリン」と呼ばれている副隊長を執拗に追い立て、グロリアーナに楽な試合運びをさせないという単純なものだ。つまり彼女の乗車するチャーチルを速攻で探し出し、黒森峰の重装甲と機動力で追いかけ回すのだ。

 もちろん、それだけで黒森峰の隊員達が納得しているわけではない。

 チャーチルの軌道特性であったり、「ダージリン」の指揮傾向を分析した資料をカリエが用意し、それを皆が見ているからこそ、黒森峰の隊員達はカリエの作戦に身を預けているのだ。

 唯一問題があるとすれば、提案した本人がそこまで深く――いや、下手をすれば何も考えていないということか。

 

「カリエ、もうすぐ試合が始まる。エリカとお前で右側面から敵陣の偵察を頼めるか?」

 

 隣にいたまほから指示が飛んできた。カリエは手元の地図を確認し、いける、と頷きで返した。

 

「よし。エリカには既に伝えてあるから、二人に役割分担は任せる。私とみほは本隊を率いて左側面から攻める。中央の河を渡河してくる可能性もあるが、それは私たちに任せてくれ」

 

「わかりました、です」

 

 ついこの間、思いっきり蹴飛ばしてしまった操縦手の背中をそっとつま先で小突く。操縦手は慣れたもので、アイドリングさせていたパンターをすっと前進させた。そして前方に展開していたエリカのパンターの隣につける。

 

「エリカ。隊長に偵察を頼まれた。始まったら行こう」

 

「……エリカって呼ぶんじゃないわよ」

 

「いちいち細かい」

 

 これまで何度も繰り返してきたやり取りをカリエとエリカは行う。いわばこれは二人にとって儀式のようなもので、緊張解しの意味合いも兼ねていた。

 カリエはすぐに飛んで来るであろうエリカの小言を期待して、どう返してやろうかと内心悪戯心を芽生えさせていた。

 が、いつまで経っても小言が飛んでこないばかりか、帰ってきたのはえらく殊勝な言葉だけだった。

 

「そうね、ごめんなさい。私たち双子だから姉も妹もないかもしれないわね」

 

「え?」

 

 驚いたのはカリエだった。今まであれだけ姉御風を吹かしていたエリカが、素直に謝ってきたばかりか姉も妹もないと言い出したのだ。

 

「何か悪いものでも食べたの? 冷蔵庫のハンバーグ、日にちが経ってたから捨てたけど、もしかしてそれを食べた?」

 

「誰がゴミ箱の中身まで食べるのよ! ていうかあれはあんたが冷凍し忘れたのが原因でしょ! 折角作り置きしてたのに!」

 

 やっと飛んできた小言に、なんだいつも通りか、とカリエは胸を撫で下ろした。 

 すわ体調不良かと、一瞬本気で心配したのだ。

 

「……試合が始まったわ。無駄口はここまで。私が先導するから付いてきなさい。砲身は左側面を警戒。私が右側面を見る」

 

「了解。……見つけても、あまり深追いしないように」

 

「当然よ。それくらいはわきまえているわ」

 

 

8/

 

 

 2両のパンターが静かに、でも確実に森林を進んでいく。それぞれ砲塔の右側面には半円を描いた蛇が一匹描かれていた。先頭のパンターは半円の上半分、後方のパンターが下半分だ。二匹が重なれば、それぞれの尾を噛みしめ合うウロボロスの蛇の図面が完成するようになっている。

 何処かで逸見姉妹の異名を聞きつけた整備班が、嬉々として姉妹のパンターに書き込んだのだ。

 キューポラから周りの様子を伺うカリエはエンブレムが刻まれた右側面を、微妙な表情で見つめていた。

 

「なんて微妙なエンブレム。どうせならオレンジのウサギが良かった」

 

「あら、なかなか格好いいと思うけれど。ウロボロスの蛇。でもどうしてオレンジのウサギ?」

 

 車内にいた上級生が問いかけると、カリエは普段滅多に見せない興奮した調子で答えて見せた。

 

「だってオレンジのウサギは東京ラビッツのマスコット……!」

 

 何のことかわからない上級生が首を傾げるが、通信手の同級生がフォローした。

 

「プロ野球ですよ。プロ野球。彼女、ああ見えて熱烈なラビッツファンなんです」

 

「へえ、でも地元も熊本なんでしょう? 普通博多ホークスなんじゃないの?」

 

 上級生の呟きにカリエは食らいついた。

 

「んなことはなか! 熊本は川上哲夫選手の出身地ばってん、くまもとんもんの人間はラビッツファンがおおかと!」

 

 おお、っと上級生が思わずたじろぐ。

 いつも冷静で物静かだったカリエがこれほどまでにヒートアップするのだ。珍しすぎて、動画に撮って他の隊員達に見せてやりたいと思った。地の熊本弁まで出ているのは、特に見られないシーンだ。

 

『こら、カリエ! 無線機付けたまま阿呆なこと言ってんじゃないわよ! そろそろ向こうの勢力圏なんだから気を引き締めなさい!』

 

 ただそのレアな場面はそう長く続かない。姉のエリカがしっかりと叱責してきたからだ。

 カリエも今のは自分が悪いとわきまえていたので、とくに反論することもなく大人しくした。

 そして、木々の向こうから砲弾が飛来したのもまた同時。

 

『っ! 右側面から敵襲! 数は2、車両はチャーチル!』

 

「左からも撃ってきてる。数は4、こっちもチャーチル」

 

 命中弾はないものの、飛来する砲弾をそのままにするわけにもいかない。

 エリカとカリエ、両者ともに砲手に発砲を指示する。パンターの長砲身から飛び出した砲弾は木々の間をすり抜け、チャーチル軍団の間に次々と着弾していった。

 

『ダージリンが乗ってるチャーチルの車両番号は覚えているの!?』

 

「今大会は143。エリカも余裕があったら探して」

 

 カリエは高速で移動するパンターのキューポラから身を乗り出し、木々の合間に展開しているチャーチルを見据える。そして驚愕に表情を染めた。

 

「エリカ!」

 

『何よ!』

 

 滅多に聞くことのない妹の大声にエリカは内心驚く。何事か、と耳を傾ければ、それこそ耳を疑うようなことをカリエは告げた。

 

「やられた! グロリアーナ! 車両番号を全部消してる! これじゃあ、誰をマークすればいいのかわからない!」

 

 

9/

 

 

 チャーチルの車内では、淹れたての紅茶が心地の良い香りを醸し出していた。

 

「さて、今頃あちらさんはそれなりに焦っていてくれるかしら」

 

「逸見姉妹当人が偵察に来たのは予想外でしたが、今となってはそれで良かったのかも知れませんね」

 

「あの二人を釘付けにしておけば、新たな作戦も立てられ難くなる。西住流は元来正攻法で押しつぶしてくる流派。ならば戦いようもあるというもの。ウロボロスは封じさせてもらったわ。西住まほさん」

 

 紅茶を優雅に傾けたダージリンにアッサムは苦笑する。

 

「けれど全ての車両番号を消すというのは思い切ったことを考えましたね。味方同士の識別すら困難になる諸刃の剣です。我々グロリアーナは連携が重要視される浸透戦術を得意としていますから」

 

「……それに関しては頭の固い先輩方を説得するのに苦労したわ。正直、乗っている車両をシャッフルすることも提案したけれど、それは受け入れられなかった。私の弁論術もまだまだということね。まあ、あなたの有能さを精一杯アピールしてもぎ取った勝利なのだけれど」

 

 そう、車両番号を消した彼女達がどのように味方車両の位置関係を識別しているのかというと、ノートパソコンを駆使したリアルタイムのマッピングだ。

 戦車道の大会では様々なレギュレーションによって装備等が制限されているが、通信関係についてはそこまで厳しくない。そこで各車両にノートパソコンを搭載させ、それに組み込まれているGPSで互いの位置を把握していたのだ。

 ただこれは、車長が肉眼で目の前の車両を識別する方法に比べれば、どうしてもタイムラグが発生するため、卓越した通信技術を有したアッサムがいて初めて成立する戦法だった。

 

「車両番号140番、そのまま北に進軍。逃げてきたパンター01を牽制して下さい。おそらく02がカバーに入る筈なので、すかさず167番が妨害、中央の川に追い立てていきます。そうすれば中央を進んでくる味方本隊のキルゾーンへ誘い込めるはず」

 

 アッサムの的確な指示が黒森峰のウロボロスを追い詰めていく。

 やはり彼女に目を掛けていて良かった、とダージリンは笑みを深めた。

 

「さて親愛なるチャーチル小隊の皆さん、哀れな双子の蛇をここで踏みつぶしてしまいましょう」

 

 

10/

 

 

 エリカが乗車するパンターを先頭に、カリエが後ろをついて行く。いくつかの命中弾を貰った二匹のパンターは装甲のところどころを錆び付かせていた。

 

『カリエ、そっちはいける?』

 

「うん、なんとか。でも一度止まってきちんと見てみないと……」

 

 背後から時折飛来する砲弾をなんとかかわしながら、カリエが答えた。つい先ほどまでぴかぴかに輝いていたウロボロスのエンブレムも、煤で薄汚れている。

 

『このまま川沿いを伝っていったん隊長達がいるポイントに向かうわ。向こうは向こうで敵本隊と撃ち合っているから援軍は期待できないけれど、このまま2両で相手するよりマシなはず』

 

「……同感」

 

 カンッ! と側面装甲が砲弾を弾いた。何事か、とカリエが目線を走らせてみれば左側面から2両のチャーチルが接近してきていた。

 

「エリカ、敵来てる」

 

『ちっ、仕方ないわね! 予定変更! 川をつっきるわよ!』

 

 追い立てられるように2両のパンターは右旋回。川に向かって突き進んでいく。水深はあらかじめ調査してあり、ぎりぎりシュノーケルなしでも渡りきれる計算だった。

 だが、問題が一つある。

 

『……カリエ。心配しなくても私がついているわ。しっかりこっちのパンターの後ろを付いてくるように指示しなさい。あんたは目をつぶって、良いと言うまでそうしてて』

 

 それはカリエが抱えているある問題だった。

 エリカの言葉にカリエは脂汗をびっしりかいて頷く。車長席で小刻みに震える彼女を、中にいた上級生が心配した。

 

「カリエ?」

 

「大丈夫、何でもない」

 

 いや、大丈夫ではなかった。

 これはカリエの、前世での死に方に関係している。彼女の最期は大雨の水路に転落しての溺死だった。苦しかったのは一瞬とはいえ、本物の死の恐怖を味わってしまったのだ。

 そのトラウマが、今世で水恐怖症という形で現れている。

 シャワーくらいならばなんとか耐えられるが、自身が浸かれる位の水は恐怖で動けなくなるのだ。

 それを一番理解しているエリカだからこそ、敢えて川を渡るのではなく、それに沿って陸地を下るという選択肢を選んできていた。

 だが、ここまでくれば背に腹は代えられない。

 恐怖で動けないカリエの目になることによって、エリカは妹と共に渡河を成し遂げようとしていた。

 

『カリエ車の操縦手、私のパンターにしっかり付いてきなさい。こちらが道を開拓する』

 

 黙りこくったカリエに代わってエリカが指示を飛ばす。彼女のパンターはあっさりと水に入っていき、浅瀬と思われるポイントを的確に進んでいった。

 続くカリエのパンターもおっかなびっくりそれに続く。

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 目を塞ぎ、己の身を抱きかかえたカリエがうわごとのように呟く。この状態ではどのみち発砲も出来ないので、手が空いた装填手の上級生がそっとカリエの手を握った。

 

「ほら、落ち着いて。あなたのお姉さんがきっと向こう岸までつれていってくれるから」

 

 がたがたと川底の凹凸を越えるたびに、パンターの車体が揺れる。

 それに併せてカリエの体も震えた。 

 ちょうど川の中程に辿り着き、水位が一番高くなる。ぎりぎりエンジンルームに浸水しない高さだとエリカが目視で確認し、さらに前へ進むよう指示を飛ばした。

 だが、運命の女神は浮気者。

 女神が微笑んだのはパンターを追いかけていたグロリアーナの方だった。

 

「きゃっ!」

 

 目を閉じていたカリエが大きく揺さぶられる。思わず目を開けたカリエが何事か、と思えば川の上流にあった中州に、いつの間にかマチルダが2両、陣取っていた。

 待ち伏せだ。

 そう理解した瞬間、マチルダの砲撃がカリエのパンターの近くに着弾した。

 特大の水柱が立ち上がり、雨のようにパンターを打ち付ける。

 

 それは奇しくも、カリエが前世で最期に見た、大雨によく似ていた。

 

「うわあああああああああああああああ!!」

 

 理性の壁は一瞬で砕かれた。突如として叫びを上げたカリエにその場にいた全員が驚愕する。

 ただ一人、エリカだけが必死に取り残された妹へ呼びかけを続けた。

 

『カリエ! カリエ! 大丈夫! それは雨じゃない! ――カリエんとこの操縦手! 早く前進して!』

 

 泣き出しそうな声で叫びを上げるエリカに答えるべく、カリエのパンターの操縦手が思いっきりアクセルを吹かした。彼女もまた、己の敬愛する車長の異変を敏感に感じ取っていたのだ。

 けれども女神は、何処までも残酷だった。

 

「だ、駄目ですエリカさん! さっきの砲撃でエンストしたみたいです!」

 

 そう。瞬間的に水位が上昇したせいか、パンターはエンストを起こしていた。エリカは盛大に舌打ちを一つすると、己のパンターの操縦手に叫んだ。

 

「早く川から上がって! このままじゃ反撃できない! 陸に上がり次第、中州の敵を叩くわよ!」

 

「はっはい!」

 

 パニックの妹を置き去りにするのは気が引けたが、まずは最大の脅威を振り払うべく、エリカのパンターが猛スピードで陸に上がった。そしてすぐさま回頭し、中州のマチルダに狙いを付けた。

 

「調子こいてんじゃないわよ!」

 

 怒りのままに放たれた砲弾が、1両のマチルダを撃破する。すぐにエリカのパンターの方が脅威だと判断した生き残ったマチルダはそちらへ狙いを付けた。

 

「そう、そうよこっちを狙っていれば良いの!」

 

 飛来した砲弾を急発進でかわし、すぐさま発砲。砲塔と車体の間を狙った一撃は、2両目のマチルダを行動不能に追い込んだ。

 

「よし! カリエ、すぐに引き上げてあげるから……」

 

 言って振り返った。

 だがエリカは忘れていた。彼女もまた、突如訪れたピンチに一杯一杯だったのだ。

 例えカリエと共に戦車道の腕を磨いていたとしても彼女らはまだ一年生。

 全国大会の猛者たちのレベルを侮りすぎていた。

 振り返った先にあったのは、白旗を掲げ完全に息の根を止められた、妹のパンターだった。

 

 円環のウロボロスの半円が、今陥落した。

 

 

11/

 

 

「パンター1両撃破しました。おそらくデータが正しければ、妹逸見カリエの車両です」

 

「結構。眉唾だと思っていたのだけれど、彼女の弱点は本当だったようね」

 

「ええ、まさか指示を飛ばせないほどの水恐怖症だとは……。彼女達の中学校時代の同級生に接触していて正解でしたね」

 

「『他人の目を無条件で信じてはいけない。情報は自分の目で確認しなければならない』なるほど、実際に目にすればどれだけ滑稽なものでも信じられるものね」

 

 空になったダージリンのティーカップに、アッサムは紅茶を注いだ。

 

「さて、仕上げよ。残された可哀想な姉蛇を妹のところへ案内してさしあげて?」

 

 

12/

 

 

 エリカは乗員の呼びかけに全く反応しなかった。

 ただ呆然と、全く動かない妹の車両を見つめていた。

 先ほどまで無線機を支配していたカリエの叫び声はもう聞こえない。

 不気味な沈黙だけが、無線に満たされている。

 からからに渇いたのどが、一つ鳴った。

 

「助けなきゃ。私が、私が助けてあげなくちゃ」

 

 うわ言のように繰り返す彼女は、殆ど無意識に操縦手である小梅の背中を蹴った。

 妹を失った蛇のエンブレムのパンターが静かに前進する。

 対岸のチャーチルが二手に分かれて、片方が渡河を始めた。どうやらもう片方の援護を受けてエリカを撃破する作戦のようだ。

 

「はははっ、でもそのまえに――」

 

 エリカは装填手に向かって指をHの形に曲げた。それは徹甲弾ではなく、榴弾装填の合図。

 不安そうにエリカを見上げた装填手は彼女が笑っていることに気がついた。

 それは今まで誰も見たこのない、壮絶な笑みだった。

 

「あんたたち、全員、まとめて始末してやる」

 

 パンターの砲身が咆哮をあげる。

 水中で爆発した榴弾が特大の水柱をぶち上げた。

 その水柱に向かって、パンターが突っ込んでいく。

 

「絶対に、一両たりとも許してやらない!」

 

 妹を失った蛇が一匹、グロリアーナの仇敵の喉元に食らい付いた。

 

 

  中編2へ続く。

 

 

 




丁度 一年後の話 戦車喫茶にて

「うわー!! 本物の逸見姉妹ですー! まさかこんなところでお会いできるなんて!」

「え、どしたのゆかりん。この人たち有名人なの?」

「全く同じ顔をしていらっしゃいますね」

「お化けだ……」

「誰がお化けよ! 誰が! 双子に決まっているでしょう!」

「……幽体離脱」

「あんたも悪ノリしてんじゃないわよ!」

「みなさんご存じないんですか? 黒森峰の逸見姉妹と言えば、西住姉妹とその知名度を二分する超有力選手です! 月間戦車道でも何度も特集されてるんですよ!」

「へえー。で、ゆかりん。それはどんな感じに?」

「ええと、ですね。妹のカリエさんは才気煥発の天才軍師と称されています」

「おおっ、なんだかすごそうだ」

「で、姉のエリカさんはハンバーグが大好きです」

「ぶっ叩くわよ!」


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黒森峰の逸見姉妹 中編2

グロリアーナ戦で後半何があったのかは、後編で明らかになります。


 夢を夢だと認識したまま見る夢を明晰夢という。

 カリエはそれの真っ只中にいた。

 

 

1/

 

 

 しとしと降りしきる雨の中、家の縁側で外をじっと眺めている。

 それは今世における小学校三年生くらいの時の記憶だった。

 いい加減、次の人生にも慣れ初め、前の人生の記憶が朧気にもなりつつあった頃。

 彼女はどうしようもない深刻な問題を抱えていた。

 それは雨の日の登校拒否である。

 前世の記憶から、雨や水に関するものがカリエはことごとく苦手になっていたのだ。

 水に触れれば体が震え、水に浸かれば体が動かなくなる。

 顔に水を浴びせられれば、叫び声を上げてパニックに暴れ回った。

 そう、いわゆる水恐怖症である。

 

 躾に厳格な両親も、こればっかりはお手上げだった。

 彼女の水恐怖症を克服させることを諦めたのである。

 彼らがカリエに対して愛情を抱いていないわけではなかった。むしろ人一倍愛情を注いでいるからこそ、水に狂乱する娘を無理矢理水に慣れされることは出来なかったのだ。

 たまの奇行や、男らしい振る舞いなど、普通でないことは多々あっても、彼らは娘の聡明さを知っていたし、それ以外の素晴らしい素質を過分に認めていたのだった。

 だからこそ雨の日の不登校を認め、娘の謎の心の傷が癒えるまでそっとしておくことにした。

 

「カリエ、もうすぐお姉ちゃんが帰ってくるわよ」

 

 そしてその日も、過分に漏れずカリエは家に引きこもっていた。縁側から外の景色を眺めているだけで、随分と進歩している物である。少し前なら雨が降っただけでいたく怯え、部屋に籠もって布団に潜り込んでいたのだから。

 家事を一通り終えた母はそんなカリエに優しく話しかけた。彼女も彼女なりに娘のことを気に掛けていた。

 けれどもカリエが口を開くことはなかった。

 母はいつも通りの反応が返ってきたことに嘆息する。

 

「……お姉ちゃんはあなたのことを嫌っているわけじゃないのよ。ただお姉ちゃんはお姉ちゃんで戸惑っているだけ」

 

 両親はもちろんカリエの水恐怖症のことを心配していた。だが、目下の悩みの種はカリエの水恐怖症ではなく、それに伴う姉妹の溝だった。

 姉のエリカは決して妹が贔屓されていると文句を言わないが、幼心ながらに扱いがイーブンでないことを感じ取っていた。

 エリカは両親をして、殆ど手の掛からない娘だった。

 妹のカリエとは違い、女子とはこうあるべき、を地で行く淑女だった。

 誰に対しても礼儀正しく、学業も優秀で、運動神経も申し分なかった。習い事も完璧にこなし、あらゆる分野で賞も獲得している。

 ただ、妹のカリエに対する態度は他とやや違っていた。

 まず関わりを極力持とうとしない。無視をしているわけではないのだが、自分から話しかけていくことは皆無だった。

 それとなく両親が諫めても、「カリエの方が話を聞いてくれない」と返されれば両親もそれ以上は何も言えなかった。

 

「違う。エリカは私のことを気持ち悪がっているだけ」

 

 ぼそっ、とカリエはそんな風なことを呟いた。

 母親は「そんなことない」と返すが、カリエは静かに首を振った。

 

「そんなこと、私が一番わかる」

 

 やや意固地になった口調でカリエが断言するものだから、母はほとほと困り果てた。

 こればっかりは時間が解決するのを期待するしかない、とそれ以上の声かけはしなかった。

 カリエを縁側に残したまま、母はリビングに戻る。すると丁度そのタイミングで部屋に備え付けられている電話が鳴った。

 縁側にいたカリエも、母が受話器を手に取り、いつもより高い声色で応対するのを聞いていた。

 

「はい、はい。いつもエリカがお世話になっています。……ええ。はい。――っえ? それは本当ですか!?」

 

 

2/

 

 

 エリカが虐められている。

 

 そう担任から連絡を受けた母は、カリエを家に残してすぐさま学校に向かった。

 一人取り残されたカリエは、盗み聞いた母と担任の会話を振り返っていた。

 

「妹のことで友達と揉めたのが発端で……」

 

 母が零した一言をカリエは決して聞き逃さなかった。

 リビングのテーブルに腰掛けた彼女は、黙って己の手を見つめる。

 前世で白球を受け止めていた大きな手のひらはもう存在しない。あるのは小さくてひ弱な、弱虫の少女の手だった。

 生まれ変わってから、かれこれ十年が経とうとしていた。けれどもこれといって何も変わらないまま、だらだらと過ごし続けた十年だった。

 勉強は出来た。

 でもそれは当然のことだ。前世も合わせれば既に四十近く。小学生の勉強ぐらいこなせなくって何になるのだ。

 むしろそれだけ生きているのに、双子の姉とまともな関わりも持てていない今はなんなのだ。

 エリカが虐められた理由なんて、母と担任の会話を最後まで聞いていなくても殆ど想像できた。

 大方、奇行が目立ち、男らしく振る舞い、雨の日には必ず休む変な奴を妹に持ってしまっているから、虐めのターゲットになったのだろう。

 つまりは全部カリエのせいだった。

 カリエがもっと真剣に周囲と馴染もうとしないから、エリカが苦しむ羽目になっているのだ。

 

 カリエは外を見る。

 日が暮れかけた外は、雨が降っているということもあって、既に真っ暗だった。

 ただ、さっきよりも強くなった雨音だけがカリエの耳に届いていた。

 

 

3/

 

 

 目が覚めた。

 夢は中途半端なところで終わっていた。どうせなら「最後まで見せてくれても良いのに」とカリエは瞳を閉じたまま唸った。やけに柔らかい枕に顔を埋めながら、そういえば家の枕と全然感触が違うな、とどうでもいいことを考えていた。

 

「っ、カリエ!」

 

 誰かが耳元で叫んでいる。

 カリエの知るかぎり、そんなことをしてくるのはこの世でたった一人しかいない。

 エリカ。もう少し寝かせて、と口走りかけた時、電撃を受けたかのように彼女は飛び起きた。

 

「カリエ!」

 

 見れば目の前にこちらを覗き込んでくるエリカの姿があった。

 けれどもカリエは全く別のことに気を取られていた。だからエリカの憔悴した顔にも、赤く腫れた目にも気が付かない。

 カリエが気を取られていたのは戦車道大会の準決勝のことだった。

 盛大に水を引っ被って、泣き喚いたことだけは覚えている。

 けれども、その後は、その後の記憶が全くといって良いほどなかった。

 自分たちは、黒森峰女学園は果たして勝ったのか、負けたのか、何もわからないままだった。

 

「エリカ!」

 

 必死にこっちを揺さぶってくるエリカの肩を掴んだ。

 面食らったような表情をしたエリカが、一瞬だけ動きを止めた。

 

「勝った? 負けた?」

 

 沈黙が二人を支配する。同じ顔を突き合わせ、片方は真剣そのもの、片方は呆気にとられていた。

 けれども呆気にとられていた方――エリカは直ぐさま表情を険しくし、そのまま頭突きをカリエに叩き込んだ。

 

「うぎっ」

 

 脳天に星が舞ったカリエが思わず呻いた。何をするんだ、と抗議を入れようとするがそれはエリカの言葉の嵐に打ち消されていった。

 

「勝ったわよ! 隊長とみほがグロリアーナのフラッグ車を叩きのめして黒森峰が勝ったわよ! でも、だから何!? あんた、二日も眠り続けていたのよ!」

 

 言われて、カリエは周囲を見渡した。確かにそこは黒森峰の学園艦の医務室だった。

 戦車道中の怪我で何度か訪れていたから身に覚えはある。

 

「え? うそ」

 

 さすがにそんなことはないだろう、と笑って見せた。けれども何かを堪えるように俯いてしまうエリカを見て、それが冗談ではないことを察した。

 

「グロリアーナ戦であんたは意識を失ったの。別に何処かをぶつけた、とかじゃなかったから大事には至らなかったけれど、もう一日眠りこけていたら実家に送り返されていたわよ」

 

 聞けば、撃破された直後にカリエは失神してしまったらしい。

 直ぐさま運営に助け出された彼女は病院へ直行。精密検査の結果、特に外傷は見られないとして、学園艦の方で経過を観察することになった。エリカがカリエの水恐怖症の事を口添えしたこともあって、取りあえずは心的ストレスが原因だと診断され今に至っているのだ。

 

「そんなことが……」

 

 全く実感のわかないエリカの話に、カリエは脳天気そうに答えた。その態度がますますエリカを苛つかせ、彼女はカリエに掴みかかった。

 

「もっと真剣に考えなさいよ! あんた失神したのよ! 下手をすれば命にだって関わったのかもしれない! だいたいあんたは昔からそうなのよ! こっちがどれだけ心配してもいつも飄々としていて、ちっとも本音を曝け出してくれない!」

 

 いつの間にかエリカは泣いていた。泣きながらカリエを揺さぶっていた。

 あまりにも久しぶりに見た姉の涙に、カリエは何も言えないままだった。

 

「なんとか言いなさいよ! 言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない!」

 

 それからはもう、悪循環だった。エリカがまくし立てるたびにカリエは困惑を深め、言葉数を失っていく。そうすればエリカはますますヒートアップし、カリエに食ってかかった。それを受けて、カリエは何も話せなくなる。

 ついには、鞄の底で見つけたノートの事をエリカは口走ってしまっていた。

 

「あんたが私に言われたことをいちいち書き留めているのも知っているのよ! そんなに私の小言が嫌なのならそう言ってよ! お前なんか大嫌いだと一言言ってくれればこっちだって諦めがつくのよ! あんたが優しいから、こんな私でも姉みたいに扱ってくれるから勘違いするじゃない!」

 

 医務室を沈黙が支配する。

 エリカの荒い息と嗚咽だけが時折零れていた。

 カリエが何か口を開こうと、エリカに手を伸ばした。だがそれは、エリカが手を振り払ったことで中断を余儀なくされる。

 

「……着替えとかは全部用意してあるから適当にしなさい。お金もある程度渡しておくから好きなものを食べると良いわ。実家には私から連絡しておく」

 

 それだけを捲し立てると、エリカは踵を返して医務室から出て行ってしまった。

 取り残されたカリエは心底困惑した様子で、エリカの出て行った扉を見つめた。

 だが、その扉は数秒と経たない間に開けられる。

 一瞬だけカリエの表情に明るさが戻るが、それは長続きしなかった。

 何故なら入ってきたのはエリカではなく、険しい顔をした西住まほとみほだったからだ。

 

「エリカと何があったかは敢えて聞かないでおく。だが、私から伝えなければならないことがいくつかある。心して聞いてくれ」

 

 

4/

 

 

 カリエの退院自体は即日だった。

 もともと体調不良でも何でもなく、心理的要因からくる失神だったのと、過去に同じような症状から回復していること、何より現在のカリエが食欲も旺盛で受け答えもしっかりしていたことから退院があっさりと決まったのだった。

 

 

5/

 

 

 着替えの詰まったボストンバックを抱えて、カリエは一人、学園艦上の道を歩いていた。

 まほから自宅まで送迎する提案をされたが、体力回復のために歩きたいと言われれば、彼女もそこまで強要はしてこなかった。

 いつもならエリカと並んで歩いていた帰路が、一人で歩くと随分と遠く感じる。連絡の一つでも入れれば、エリカがバイクなりなんなりで迎えに来たのだろうが、今はそんな気分になれなかった。

 どんな顔をして彼女に会えばいいのかわからないのだ。

 久方ぶりの大喧嘩だった。そして過去最大の大喧嘩だった。

 あそこまでエリカに嫌われたのはそれこそ小学校の時以来だろうか。

 これほどまでに居心地の悪さを感じたのは、記憶にある限り殆どない。

 そしてそんなことを考えていた罰が当たったのだろうか。

 病み上がりの体力で、やっとのことで辿り着いた我が家には誰もいなかった。かわりに、テーブルの上にはエリカが作り置きで残していったオムライスがあった。置き手紙は見当たらなかった。

 

「……たべよ」

 

 そこまで空腹を感じているわけではなかったが、どこかこれだけは食べなければならないような気がして、カリエはオムライスを温め直した。適当にケチャップを振りかけ、一人でスプーンを差し込んでいく。

 ふと正面を見れば、いつも姉が座っている空席が目に付いた。

 いつ帰ってくるのかもわからない、しばらくは埋まることのない席だ。

 ぽたり、と涙が零れた。

 何故、と疑問に思えば思うほど、涙の量は増していく。

 一度あふれ出た滴は、止まることなく皿の上のオムライスを汚していった。

 涙に塗れたそれを口に運んで、カリエは一言呟いた。

 

「美味しくない」

 

 

6/

 

 

 エリカが家に帰ってきたのは日もとっくに暮れた十一時過ぎだった。日程調整のためか、二週間後になった決勝戦に向けて、黒森峰の隊員達はこれまでにないくらい練習に打ち込んでいた。

 もちろんエリカも例外ではない。

 病院からカリエが退院した旨を伝えられた時は、すぐにでも迎えに行こうとしたのだが、カリエ本人が自力帰宅を望んでいることを聞かされ、直前の口論もあってか彼女の意思を尊重することにした。

 ならばせめてと練習に人一倍取り組み、くたくたになった体を押して、カリエの好物であるオムライスの材料やお菓子などを大量に買い込んでいたのだ。

 しかしながら、その思いやりが実ることがなかった。

 まず帰宅をしたとき、家の鍵が閉じられていることに気がついた。中から施錠しているのかと、訝しみながらも解錠をし、エリカは中に入った。だが人の気配は一切感じられず、代わりにリビングのテーブルの上に空になったオムライスの皿と、置き手紙がされているのを見つけた。

 置き手紙にはたった一言だけ記されていた。

 

 プラウダに行ってきます。

 

 手紙を見たエリカが荒れに荒れたのは言うまでもない。

 

 

7/

 

 

 学園艦が変われば、やはり流れている空気も違うな、とカリエはぼんやりと考えていた。

 彼女は医務室でまほから告げられた言葉を思い出す。

 

「カリエはしばらく静養しろ。戦車に乗ることは認められない。決勝戦まで、その体力が回復することを祈っている」

 

 実質的な戦力外発言だった。

 確かに自分なら試合中に失神する奴をスタメンでは使えないと、カリエは妙な納得の仕方をしていた。

 けれどもそれで腐るようなことはなかった。

 グロリアーナ戦では確かにとんでもない失態を演じてしまったが、それで全てを諦めるほどカリエは自暴自棄になっているわけではない。そもそもそれで心が折れていたら、前世において高校の時に野球をやめていただろう。

 エリカお手製のオムライスを食べて、ひとしきり泣いた後のカリエの行動は早かった。

 エリカと喧嘩別れしてしまっていることは気がかりだが、今にどうこう言っても問題が解決しないことはわかっていたので、それは時間の経過に任せることにした。一言エリカに嫌っていない、むしろ好いていると告げることは簡単だが、今のエリカにそれを言っても逆効果だろうと考えたのだ。

 カリエが考えたのは、戦車に乗れない間、少しでも敵の情報を集めることだった。インターネットで黒森峰の次の対戦相手がプラウダ高校であることを確認し、直ぐさまプラウダの学園艦の停泊地を調べた。するとそれが、黒森峰の学園艦が寄港している横浜に程なく近いことを突き止めると、荷物をまとめてとっとと下船。電車を幾分か乗り継いで、人の行き来に紛れ込んで見事プラウダの学園艦に乗船を果たしていたのだった。

 カリエの意外なフットワークの軽さを知っているのは、散々手を焼かされてきたエリカくらいのものである。

 

「さてはて、どうしたものか」

 

 勝手などわかるはずもないプラウダの学園艦だ。スパイ目的でオークションサイトからあらかじめ入手していたプラウダの制服に身を包んだまではよかったのだが、そこからどのように行動すれば良いのかまでは調べていなかった。

 露骨に戦車道が行われているエリアに近づくのは躊躇われたし、だからといってのんびり散策していられるほど時間は残されていない。それにいくら置き手紙をしてきたとはいえ、エリカに無断で出歩いているのだ。

 戻れるのならば、早めに戻るに越したことはなかった。

 

「まあ、とにかく車両編成くらいは確かめないと」

 

 ならば最低限の偵察はするべきだ、と戦車道新規履修者の振りをして配備車両をチェックすることに決めた。幸いプラウダも戦車道に力を入れている学校なだけあって、車両の整備所の位置は直ぐに把握することができた。

 曜日も日曜日だったためか、人の出歩きが多く、カリエがふらふらと散策をしていても誰も気にもとめなかった。

 

「で、これがその場所か。大きいな」

 

 学園艦の北側に位置する校舎の一角で、カリエは大きな煉瓦造りの建物を見上げていた。冬は雪が積もるのか、いたく鋭角な屋根が備え付けられた大きな建物だった。しかもカリエにとって好都合なことに、日曜日は戦車道の公開練習が行われているらしく、その場所は人で溢れていた。

 

「おおっー、すげーべなー。来年はわだすも戦車に乗ってみてーだ」

 

 脇から声が聞こえた。ふとカリエが横を見るが誰も居ない。

 気のせいか、と首をかしげたがやっぱり人の気配がするのでもう一度横を見た。それでも人影は見当たらなかったが、やや視線を下げてやれば、随分と小柄な少女が目を輝かせ戦車を眺めていた。

 

「あ、先輩は戦車道の生徒さんだべか? わだしは仁那川と言います。今年、プラウダ高校を受験しようと考えどる青森の中学生だべ」

 

「――逸見です。ごめんなさい。私も戦車道を見学に来たので、まだ正式な隊員ではないのですよ」

 

 咄嗟に口が回ったのは、文字通り生まれ持った頭の回転の速さのお陰か。なんとか慌てることなく、少女に応対することが出来た。

 やや口調が固かったか、と不安を覚えたが仁那川という少女は「ご丁寧にどうも」と妙な関心をしていたので、誤魔化しは効いていたのだろう。

 

「なら、先輩。一緒に戦車見ていかねーべか? これでもわだし、それなりに勉強してきどるんです」

 

 人生初めての本格的な東北訛りに戸惑いはするが、それは決して悪い提案ではないなと思ったカリエは二つ返事で了承していた。一人でうろうろするよりも、誰かと一緒に見学していた方が怪しまれずに済むと考えたし、何より第三者の意見を取り入れていくのも、相手戦力の分析には必要なことだったからだ。

 

「ほな、こっちから回るべ。おっ、あれはわだしの好きなKV-2でねえか!」

 

 ただ、想像していた以上にテンションの高い仁那川に、カリエはどうしたものかと苦笑した。

 

 

8/

 

 

「ずいません。あっちこっち連れ回して。先輩に付き合って頂いて、わだし、とても楽しかったです」

 

 小一時間ほど、カリエと仁那川は戦車道の見学を行っていた。取りあえずは一段落か、と一息吐いたとき仁那川はカリエに向かって頭をぺこり、と下げていた。

 どうしたのか、とカリエが問えば仁那川はこう答えた。

 

「いえ、わだし好きな物の前では周りが見えなくなって暴走してしまうことがあるんだべ。それのお陰で、友達もあんま多ぐねぇです。けれども逸見さんは嫌な顔一つせずに、付き合ってぐださった。本当に、ありがどうございました」

 

 その言葉を聞いて、カリエは微妙に居心地が悪くなった。いや、私はプラウダに偵察に来ているのだ、とは口が裂けても言えなかった。仁那川はそんなカリエの焦りに気が付かないまま、さらに続けた。

 

「逸見さんはどこかわだしの姉のようで、本当に頼りになるお人でした。もしも来年、一緒に戦車道が出来るのならば、是非よろしくお願いするべ」

 

 出来るよ。敵同士だけど。

 そう出かかった言葉をカリエは必死に飲み込んだ。

 そしてそれと同時、仁那川に告げられた「姉のようだ」という言葉に引っかかった。

 思わずカリエは仁那川に問い返していた。

 

「……何で私が姉だと?」

 

「だっで、逸見さん。私が迷わないようにいつも手を引いてくれたし、喉が渇いたら飲み物まで買ってくれたべ。まさに理想のお姉さんそのものだっだ」

 

 言われて、確かに世話を焼いたことを思い出していた。けれどもそれは、

 

「――エリカの真似をしただけ」

 

 そう。カリエがやったのはそっくりそのまま、エリカがカリエにしてきたことばかりだった。

 カリエがふらふらと脳天気に出歩けば、それをいつもひっ捕まえ、カリエが財布を忘れたと溢せばどこからともなく飲み物を買ってきてくれていた。戦車道でも、カリエが何かミスをすれば直ぐさまそれをフォローし、いつもカリエの前を走り続けていた。

 エリカの行いをただ真似してきただけなのに、それを仁那川は理想の姉と言ってのけたのが、カリエにとっては衝撃だった。

 

「? エリカって誰だべ?」

 

「私の姉です」

 

「そっか。ならそのお姉さんは大切にしてくんろ。きっとそのお姉さん、逸見さんのことが大好きだべ」

 

 屈託のない仁那川の笑みに釣られて、カリエも笑った。エリカと喧嘩して以来の、初めての笑みだった。

 胸のつっかえがすっかりと抜け落ちた、そんな笑みだった。

 

「ところで、逸見さん。プラウダ高校の戦車道履修者はロシア風の名前を先輩から頂けるそうだ。逸見さんはなんて名前もらいてえだ?」

 

 そしてカリエと仁那川の別れ際、仁那川のほうがそんなことを聞いてきた。

 正直初耳だったので、カリエは再び焦りを覚えたが、口から出任せでこんなことをいった。

 

「カリーシャ」

 

「へえ、綺麗な名前だ。ならわだしは……なんだろう?」

 

 まだ入学もしていないのに、気が早いんだな、とカリエは笑った。でもそんな純真さに引かれつつあったのもまた事実なので、カリエは一つ提案をした。

 

「仁那川なら、ニーナでどう?」

 

「おおっ! すんげえ可愛いべ! ほんならわだし、その名前が頂けるよう、精一杯頑張るべ!」

 

 予想以上の食いつきに正直面食らったが、気に良いってもらえたのなら、とカリエも気をよくした。

 そして、いつか彼女と戦車道をやってみたいと思うようになった。

 

「ではさよならです!」

 

 精一杯手を振る仁那川にカリエも手を振り返した。やがて、彼女の姿が人混みに消えていくのを確かめると、カリエは再び戦車道の整備所に足を向けた。

 確かにある程度の情報は集まったが、肝心の隊員達の情報はまだ埋められていない。

 もう少しだけ、とカリエは偵察を続けることにした。

 だが、それは彼女にとって大きな墓穴となった。

 

「あら? 今日の公開練習はもうお終いですよ」

 

 背後から声を掛けられる。

 いや、それだけではなかった。

 声だけなら、一言謝罪して踵を返して戻ることも出来た。

 だが肩をしっかりと掴まれては、それ以上何をすることも出来ない。

 ましてや肩を掴む力が万力の如しだとすれば、カリエは観念するほかなかった。

 

「それとも、まだ我が校に用事がおありなのでしょうか。黒森峰の逸見カリエさん」

 

 ブリザードのような凍えた声色。

 なまじ美声なだけに、そこから感じられる威圧感は恐ろしいものがあった。

 カリエは静かに両手を挙げ、降伏の意を示して振り返った。

 

「いえ、もう大丈夫です。プラウダのノンナさん」

 

 そう、カリエをがっちりと拘束したのは、プラウダの実質的な主力。

『ブリザード』のノンナその人だった。

 

 

9/

 

 

「スパイは見つけ次第、粛正してやるわ!」

 

 開口一番、カリエの目の前に座しているちびっ子はそう嘯いた。

 こんな選手、プラウダ高校のリストに載っていたっけ? と疑問に思うが、やがて西住まほから聞かされていた、謎の選手だと思い至った。

 

「ではどうしますか? 古式に則り拷問に掛け、まずは爪を剥ぎましょうか。それでも秘密を暴露しなければ鼻を削ぎ、耳を削ぎ、ボルシチにして食べさせてみますか?」

 

「え? いや、そこまではしなくていいのよ。だってこのカチューシャ、バイカル湖よりも深い慈愛とウラル山脈よりも大きい優しさを持っているのだから! だから、ノンナ。もっとそれらしく穏便にいかない?」

 

「わかりました」

 

 こぽぽ、とロシア式の紅茶がカップに注がれた。ベリーのジャムと一緒に差し出されたそれは、甘くて良い香りがした。

 さらにビスケットが盛られた小皿を目の前に出されれば、カリエはさてどうしたものかと、困惑を深めるだけだった。

 

「プラウダ特製のロシアンティーです。ジャムと一緒にどうぞ」

 

 先ほどからこの扱いはなんなのだろう? とカリエは自問する。

 正直ノンナに捕まったときは、もうお終いだと絶望を覚えたものだが、いざ連行されてみればいたく豪勢な客室に招かれ、アフタヌーンティーまでご馳走になっていたのだ。

 手錠なども勿論はめられておらず、両手がフリーのままカップを手に取ることが出来た。

 

「で、あんた一人で偵察に来たわけ? 馬鹿なのか度胸があるのかさっぱりわからないわね。まあ、別にいくら私たちのことを調べようとも、私たちがあんたたちを踏みつぶすのは変わりないけれど!」

 

 上機嫌に笑うちびっ子――カチューシャは口の周りにジャムをたくさんつけて笑って見せた。

 まるで子供だな、とカリエは思うが、それを口にしてしまえば本当にボルシチにされそうだったので、黙ってロシアンティーのカップを傾けた。

 

「どうですか? お口に合いますか? 黒森峰では紅茶を飲む習慣がないようですので、遠慮なく言って下さい。残念ながらビールはありませんが、ウォトカくらいなら用意することも出来ます」

 

「あ、いえ。とてもうまいです」

 

 思わず素で返してしまったが、カチューシャとノンナが気づいたそぶりは見せなかった。

 何故ならカチューシャの口の周りについたジャムをノンナがせっせと拭き取っていたからだ。

 

「で、あんたが偵察に来たことは今回だけ特別に不問にしてあげるわ! そのかわりいくつか質問に答えなさい!」

 

 来た、とカリエは身構えた。

 確かに歓待ムードは漂ってはいるが、それすらも政治的な駆け引きだ。

 彼女は高速で話しても良い機密、駄目な機密を整理する。その中で、どれを告げればカチューシャが満足するのか、必死になって考えた。けれどもそれはある意味で杞憂に終わった。

 

「早速いくわよ! ……あんた、姉のエリカと喧嘩別れしたのは本当?」

 

 だがまだ機密を聞かれた方が、カリエはすんなりと答えられたのかもしれない。

 持っていたカップを取り落とさなかったのはたまたまだった。

 

「さあ、どうなの? てきぱきと答えなさい。カチューシャがね、この世で一番嫌いなのは人に待たされることなの!」

 

 カリエは震える手を押さえながらカチューシャを見た。

 するとそこには、その体格に全くもってそぐわない、底の知れない知性と野心を秘めた表情があった。

 

 

10/

 

 

 カリエが自宅に帰ってきたのは、プラウダに偵察に向かってから三日経ってのことだった。

 部屋に入ってから僅か10秒。

 彼女の頬には真っ赤な紅葉が咲いていた。

 理由は言わずもがな。

 出迎えたエリカが涙目で平手を打ち付けたのである。

 

「ただいま。エリカ」

 

「……あんた、人に心配ばっか掛けさせてんじゃないわよ」

 

 いつものヒステリックな叫びはなかった。ただ弱々しく、カリエを抱き寄せる彼女がいた。

 カリエは抵抗しなかった。

 

「ねえ、エリカ」

 

「黙って。聞きたくない」

 

「ううん、聞いて」

 

「黙れって、言ってるでしょ」

 

「ごめんなさい」

 

 エリカの動きが一瞬止まった。けれどもそれだけだった。エリカは直ぐにカリエを押しのけると、一切振り返ることなく自分の部屋に戻っていった。

 取り残されたカリエは真っ赤に腫れた頬を押さえて、当分は埋まりそうにない姉との溝に溜息を吐いた。

 

 

11/

 

 

 結論から言えば、カリエは決勝戦の参加を認められた。

 最後の大会に対する意気込みが特に強い三年生の隊員達が、優勝するにはカリエが必要だとまほに頼み込んだのだ。

 さらに本人の体調も特に問題がなく、参加に前向きだったこと。

 いざとなれば装填手の上級生と車長を交代すると本人が告げたこともあって、まほが渋々認めた形になった。

 そして決勝戦の前日、一同に集められた隊員達は最後のミーティングにいそしんでいた。

 

「いよいよ決勝戦だ。諸君らの日々の研鑽を考えればここまできたのは当然のことだと思う。ならばこの先の栄光も必然のことだ。だが、慢心と油断はいつの時代も強者を奈落へ引き摺り込む。各自、今更言うまでもないだろうが最後まで気を引き締めて戦って欲しい」

 

 あと一歩で十連覇となれば、いつも冷静なまほの言葉にも熱が籠もっていた。

 まほですらそうなのだから、その他の隊員達は推して知るべしである。

 だがその熱気から一歩身を引いてミーティングに参加するもの達もいた。それが逸見姉妹の二人である。

 妹のカリエはいつもそうしているように、何を考えているのかいまいちわからない表情でパイプ椅子に腰掛けていた。

 ただ姉のエリカはその様子がいつもと違っていた。

 まずその座している位置である。

 必ず妹のカリエの隣に腰掛けている彼女が、幾分か離れた場所に位置しているのである。

 さらにはまほの言葉を聞いているのかいないのか、何処か遠い目線で前を眺めていた。

 

「対戦相手のプラウダ高校だが、前回練習試合では我々が完勝した。だがそのままでいてくれるほど甘い相手ではないことは重々承知だと思う」

 

 丁度二人の中間ぐらいに位置していたみほだけが、そんな二人の様子を心配していた。

 まほから二人が喧嘩していることは聞かされていたが、いざ目にしてみればその深刻度合いは想像の上だったのだ。

 あれだけ仲が良かったのに、と眉根を下げてきょろきょろと二人を見つめる。

 

「では初期配置などは手元に配った資料通りだ。作戦についても先日演習した通りにいく。何か質問は?」

 

 手は上がらなかった。

 相手の陣容を説明するカリエのプレゼンテーションがないことだけが気掛かりだったが、当人が病み上がりと言うことを知っていたので深く追求することはなかった。

 

「……よし、それでは解散してくれ」

 

 言われて、それぞれの隊員達が散り散りにミーティングルームから退出していった。前で演説を述べたまほも広げていた資料の片付けを始める。

 と、その時。

 まほはカリエがパイプ椅子に腰掛けたまま微動だにしていないことに気がついた。

 

「どうした、具合でも悪いのか」

 

 近づいて、顔を覗き込む。

 それほど表情の変化のないカリエだが、まほから見ても何か悩んでいるかのように眉根を寄せているのが気になった。

 

「隊長……このあと少しいいですか」

 

「……どういうことだ」

 

「この前、プラウダに偵察に向かったことは知っていると思います」

 

 その時の資料は確かに受け取っている、とまほは一冊のファイルを提示した。

 カリエが調べてきた車両編成、隊員の名簿が収められたファイルだ。

 

「ああ、その節は本当にご苦労だった。けれどもエリカがいたく心配していたんだ。今度からは必ず彼女に直接告げてから偵察に向かってくれ」

 

「いいえ、私が言いたいのはそういうことじゃありません」

 

 まほが持っているファイルをカリエが引ったくった。

 何をするのか、とまほが呆気にとられていると、あろうことかその資料をファイルから取り出し細かく破り始めたのだ。

 

「何をする!」

 

 珍しくまほが声を荒げた。だがカリエは一切怯むことなくまほを見据えた。

 それはまほが初めて見る、カリエの表情だった。

 

「隊長、我々は嵌められています。前回の練習試合の時からカチューシャに踊らされているんです。彼女は賢く、聡明だ。このままだと、黒森峰の栄光は訪れない」

 

 まほが一つ、息を呑んだ。

 

「隊長、私に策があります。もしあなたが私のことを信じてくれるなら、あのちびっ子に必ず一泡吹かせることをお約束します。けれどもこの策は決してエリカに伝えないで下さい。もちろん他の隊員にもです。あなたと、それに副隊長だけで共有して頂きたい作戦です」

 

 

12/

 

 

 決勝戦のその日。

 T-34に乗車したカチューシャは己の副官たるノンナと最後の打ち合わせを行っていた。

 

「ノンナ! あなたここの地形図は頭に叩き込んだんでしょうね!」

 

「ええ、カチューシャ。北部の河川までの道のりは既に確認済みです。実際に徒歩でマッピングもしておきました」

 

「そう。で、妹の方は参加しているのかしら?」

 

「ええ、先ほど挨拶に赴きましたが、その時に確認しました」

 

「ならいいわ! グロリアーナみたいにこそこそやるのは性に合わないけれど、正々堂々やるなら話は別よ! 真っ正面からあの妹を水辺まで追い詰めてやりなさい!」

 

 カチューシャの立てた作戦は至極単純明快だった。

 準決勝で水恐怖症を発し、パニックに陥ったカリエを黒森峰の弱点だと判断。

 全軍を持ってそれを徹底的に突いていく作戦だった。グロリアーナと違うのは、あちらは一部の選抜部隊が事に当たったのに対し、プラウダは全車両をカリエにぶつけることか。

 その意図はカリエに対する他の黒森峰の隊員達の親愛を利用するものだった。

 カチューシャはカリエを狙い続ければ、必ずや他の隊員達が無理を押してでも彼女を守ろうとすることを知っていたのだ。

 

「……カリエはね、黒森峰のみんなから愛されているのよ。ならカチューシャはそれをとことん利用してやるわ。カチューシャと違って、あの子は最初から認められているの。でもそれがお前達の敗因なんだって証明してやる」

 

 ふと見せたカチューシャの寂しげな表情に、ノンナは何も言えなかった。

 何故ならノンナは知っているからだ。

 目の前の小さな副隊長が、これまでどんな苦労をしてきたのか。

 どんな挫折を味わってきたのか。

 ただ人より体格が小さいだけでどれだけ軽んじられてきたのか。

 

「カチューシャは負けるわけにはいかないのよ。あんな奴らに絶対に負けてやらない。必ず踏みつぶして私が如何に優れているかみんなに知らしめてやるわ」

 

 まほやカリエに見せた野心に溢れる表情はそこにはない。ただ誰かに認めて貰いたくて、必死にあがき続ける一人の少女がそこにいた。

 

 ノンナはそんなカチューシャにかける言葉が見当たらず、たまらず空を見上げた。

 すると暗雲垂れ込める曇り空の向こうで、雷が奏でる音を聞いた。

 

 決勝戦開始まで、残り一時間。

 

 

 

 後編に続く。

 




「ねえ、エリカ。たまにヘッドホン付けたまま、ニヤニヤしてることあるんだけど、何してるの?」

「ぶっ!」

「私がウォークマン貸して、って言っても絶対に貸してくれないよね」

「げほっ、げほっ」

「……あんまり、人に言えないのは聞かない方がいいよ」


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黒森峰の逸見姉妹 後編1

 豪雨のカーテンが、道なき道を行く鉄の獣たちを打ち付けていた。

 試合開始早々、ぽつぽつと降り出していた雨は、いつの間にか視界を遮るほどの大雨になっていた。

 これに舌打ちをしたのは決勝戦からティーガーⅡに乗車をしていたエリカだった。

 

「小梅、隊長から何か連絡は?」

 

 操縦手から通信手に配置変更になっていた小梅が無線機のチャンネルを回す。

 時折鳴り響く雷の影響を受けているのか、通信機器にはノイズが乗っていた。

 

「……なんとか聞き取る限り、カリエさんが車長を交代したそうです。ただ体調不良を訴えるほどではないとか」

 

「そう。なら問題ないわ」

 

 降り続ける雨のせいで、平原を進む彼女達の足下は酷くぬかるんでいた。

 時折履帯が空転しているのか、耳障りな音が車内に響く。

 

「エリカさん、隊長から指示がありました。私たちと他2両のヤークトティーガーはこのまま先行してフィールドの南側で待機しろとのことです」

 

「カリエは?」

 

「カリエさんのパンターはフラッグ車の副隊長と共に西の岳陵の奪取に向かいます。……おそらく隊長の配慮かと」

 

 言われてエリカは車長席に備えられている地図を見た。カリエ達が向かう岳陵地はフィールドの北側から南側に向かって流れる川からは正反対の位置だった。

 

「ふん、隊長に気を使わせるくらいなら参加するんじゃないわよ」

 

 エリカの叱責に対しては、小梅は一拍だけ呼吸を置くことで答えた。

 そして、憂鬱そうに天を見上げる。

 

「……でもついてないですね。予報ではそんなことなかったのに、こんな大雨になるなんて」

 

 小梅の言うとおり、決勝戦の天気予報は曇りのち晴れだった。それがここまでの大雨になるとは誰が予想したか。

 何処までも黒森峰に逆風が吹き続ける決勝戦だった。

 

「……どんな敵でもただ踏みつぶすだけよ」

 

 エリカの小さな呟きは降りしきる雨の中に消えていった。

 

 

1/

 

 

 豪雨のカーテンの中を進むのはエリカ達だけではなかった。本隊から分かれて行軍を進めているのは、カリエのパンターとみほのティーガーⅠ。そして2両のⅣ号戦車だった。

 

「カリエさん、そちらは変わりないですか」

 

 大雨の中、カッパを着込んだみほが先頭を行くカリエ車に話しかける。しかしながら先頭のパンターのキューポラから身を乗り出していたのはカリエではなかった。いつも装填手をつとめる上級生の隊員だった。

 ならばカリエは何をしているのか。

 彼女はパンターの車体内部で、何台もの無線機を必死に操作していた。

 

「……大丈夫。車長は代わって貰ったし、機材の準備はもう終わっている」

 

 それらのうちアクティブ状態だった無線機を使って、カリエはみほに応答する。

 

「わかりました。先行していた偵察部隊によると、この先でIS-2が1両、T-34が5両、待ち伏せているそうです」

 

 みほの報告を聞いて、カリエは手にしていた地図に赤いマーキングを次々と入れていった。そしてそれが、まほの予想したとおりの陣形であることに安堵の息を吐く。

 

「あなたのお姉さんはすごい。私がかじりだけ話したのに、あっという間に細かな作戦まで立ててくれた。それにあなたもここまで完璧に三つの小隊を率いている。やっぱ敵わない」

 

 カリエの賞賛は心からのものだった。彼女は前世においてそれこそ自分の数倍の才能を持ったプレイヤーをたくさん見てきた。プロに行ってそれなりに活躍した人物だって見ている。

 そんな彼女から見て、西住姉妹はまさに同類と呼ぶべき天才達だった。

 ただ、当人達が頑なに認めないだけで。

 

「そんなことないよ。……でもいいの? 今ならこの作戦も引き返すことが出来る。一応、黒森峰の設備で何度も安全は確かめたけれど、100パーセント安全なんてないんだよ? それにカリエさんは……」

 

 西住みほの、カリエを心の底から気遣った言葉。だがカリエは敢えてそれに首を振った。

 

「違うよ。みほ。私がやるからこそ、あのカチューシャを欺ける。彼女は天才だった。それに野心に溢れていた。私たちに負ける気なんてさらさらない人だった。だからこそ私は真っ向から挑んでみせる」

 

 無線機を脇にどけて、カリエは車長席に近づいた。そこに立っていた上級生が一瞬だけ驚きを見せるが、カリエの目を見てあっさりと席を譲った。

 打ち付ける雨の中、カッパもなしにカリエがキューポラから身を乗り出す。

 恐怖心はもちろんあった。

 いつものように体が動かなくなる。

 ただそれはわずか数秒のこと。天を仰ぎ見て、一呼吸着いた彼女は後続のみほに振り返った。

 

「もう、前の時みたいに逃げて失敗したくはない」

 

 

2/

 

 

『カチューシャ、妹蛇が網に掛かりました。あなたの予想通り、安全圏で陣地を展開するようです』

 

「そう。なら手筈通り、北部の川に追い立てなさい」

 

 東側の丘で戦車隊を展開していたカチューシャはノンナの報告に笑みを深めた。

 ここまでは彼女の読み通りの状況が展開していた。

 それは自身の有用性をなんとか証明しようとしているカチューシャにとって、かなり好都合なことだった。

 

「天候まで味方しているのだから、ミスは許さないわよ!」

 

『肝に銘じます』

 

 副官の頼もしい言葉を耳にしながら、カチューシャは車長席にぽすん、と収まった。

 彼女が座るには余りにも大きすぎる座席は、今の状況を如実に表している。

 

 何度も、好奇の視線に曝されてきた。

 何度も、戦車道をやめろと言われてきた。

 何度も、実力でないところで評価され、冷や水を浴びせられてきた。

 

 だがここに来て、ようやくその芽が出てきた。

 人一倍戦略について学び、人一倍練習した成果が現れ始めていた。

 あと一歩。もうあと一つ勝てば、彼女のプラウダにおける地位は盤石なものになる。

 そのためには、目の前に広がる黒森峰という余りにも高い壁を乗り越えなければならない。

 

「そうよ。利用できるものは何でも利用してやる。折角ここまで来たのよ。折角、カチューシャの実力を皆に認めさせることが出来るかもしれないの。失敗は許されないわ」

 

 キューポラの蓋を閉じ、彼女はしばし思考の海に潜った。

 天蓋を叩く雨の音を背景に、彼女の鋭敏な思考がフル回転する。

 それはこれまで何度も彼女が行ってきたルーティンワークのようなもの。

 誰も頼れる物がいない、敢えて一人の空間を作り出すことで自分を追い詰め無理からでも知恵を絞り出すのだ。

 

「まほは西住流らしく手堅く陣地を構築していってる。エリカとみほはその先鋒。カリエはみほに守られながら防御策をとったわ。大丈夫、大丈夫よ。ここまでは何も問題がないわ」

 

 カチューシャは自身に言い聞かせるようにそっと呟いた。

 声色から滲む怯えの色は決してまやかしではない。

 ここまでは自身の読み通りに状況が展開しているのに、どうしても胸に抱えた不安が拭えないのだ。

 

 決勝戦だから? 

 絶対に負けられないから?

 相手があの黒森峰だから?

 

 いや、どれも違うと首を振った。

 カチューシャが思い出すのは、つい先日のカリエとの会話だった。

 そうだ。

 思い返せば、あの日からこの胸の内に不安が燻り始めていたのだ。

 

 

3/

 

 

「……エリカと喧嘩なんかしていない」

 

「嘘ね。うちの諜報部を舐めないで頂戴。あんた達くらいのビッグネーム、近況を調べるくらいどうってことないのよ」

 

 華やかなお茶を囲んだ団欒のテーブル。しかし繰り広げられていたのは互いの腹の内を探り合う政治戦。

 副官のノンナはあくまで沈黙を保ち、対面のカチューシャだけがカリエを追い詰めていた。

 

「嘘なんかついていない。私はエリカと喧嘩したつもりなんてない」

 

「それは詭弁よ。あんたがエリカのことを鬱陶しがっていることくらい、みんな知っているのよ!」

 

 追い詰められるカリエに対して、カチューシャもまた必死だった。

 偵察に来たカリエを捕らえるというまたとない機会。ここで黒森峰の内情を探れるかどうかで、決勝戦の駒の進め方も変わってくる。

 危ういバランスの上に成り立っている己の地位が、決勝戦の結果次第では全て無に帰してしまうのだ。

 だから知らずのうちに彼女は竜の尾っぽを踏んづけていた。

 普段の冷静なカチューシャならあり得ない、珍しい失策だった。

 それまで淡々と言葉を返していたカリエが爆発した。

 

「勝手なことをいうな! 鬱陶しがるわけなんかないだろ!」

 

 事の成り行きを静かに見守っていたノンナが思わず身構えるくらいには、カリエの声色は室内に響いた。

 対面に座していたカチューシャも、呆気にとられて一歩身を引いている。

 叫びをあげたカリエはテーブルに手をついて、カチューシャに身を乗り出していた。

 

「お前達が私とエリカの何を知っているんだ! お前達が私の何を知っているんだ! 私だって、私だって必死なんだ! 後悔ばかりの人生をもう一度歩んでしまわないよう、がむしゃらに生きているんだよ!」

 

 いつの間にかカリエは泣いていた。

 一人でエリカの手料理を食べたときのように、泣いていた。

 あのときはわからなかった涙の訳が、今ようやっとわかったような気がした。

 

「エリカは自分が虐められても私の悪口は言わなかった! いつも私のことを心配してくれていた! 私がエリカに負い目を感じていると知ったら、そっとしてくれていたんだ!」

 

 涙の訳は後悔だった。

 後悔だらけの前世を繰り返さないように、必死に生きてきたつもりだった。

 けれどもカリエはまた繰り返してしまった。

 昔エリカが虐められたときのように、彼女にいらない重荷を再び背負わせてしまった。

 妹を救えなかったという重荷を、エリカに押しつけてしまったのだ。

 

「私のことは好きにすれば良い。水恐怖症を突きたければいくらでも突けば良い。私が水を怖がっているのは事実だ。それは否定しないし、卑怯だと罵ったりはしない。でも、でも――エリカに対する暴言だけは許さない」

 

 カリエにこんな一面があることをカチューシャは想像もしていなかった。

 カチューシャの思い描くカリエというのは黒森峰の皆から愛され、蝶よ花よと大切に育てられているお姫様そのものだった。

 だから何も考えずに一人で偵察に向かうし、ノンナに対して馬脚もあっさりと表してしまう。

 いわゆる世間知らずのお嬢様だと考えていたのだ。

 だが目の前にいたのは愛する家族を侮辱されて、怒りに震えるただの人だった。

 

 カチューシャは思う。

 余裕に振る舞う天才よりも、形振り構わなくなった凡人のほうが遙かに恐ろしいと。

 なら黒森峰の鬼才と称されたカリエが形振り構わなくなればどうなるのか。

 向かい合わせたカチューシャの喉が鳴る。

 

 それは、蛇を目にした小動物の仕草によく似ていた。

 

 

4/

 

 

「……そうよ。そうだわ。なんで気が付かなかったの? あんだけ啖呵を切った癖に、なんであいつこんなに大人しくしているの?」

 

 外界と隔てる役割をしていたキューポラの蓋を、カチューシャは跳ね上げた。

 雨音の向こうから時折砲撃の音が聞こえてくる。

 独特の重低音は、己の副官たるノンナが乗車したIS-2のものだ。

 

「やっぱり怖じ気づいたから? それとも姉と隊長があんたを押し込めてるの?」

 

 問答は長くは続かない。何故ならカチューシャの乗車したT-34の直ぐ隣に、砲弾が飛び込んできたからだ。

 

「っ! 何事!?」

 

「隊長! 黒森峰の本隊です! あいつらこの豪雨の中、森の中を突っ切ってきました!」

 

「まほか! 良い度胸してるじゃない!」

 

 直ぐさまカチューシャは自隊に回頭を告げた。

 ここで黒森峰の本隊と撃ち合っても良かったが、装甲防御力で劣っている以上、機動力を活かした戦いを行うべきだと考えたのだ。

 

 もしもこの時。

 

 テーブルを挟んで対面したカリエの表情を思い出していれば、カチューシャは戦いの中で感じる不安と違和感に答えを見つけられたのかもしれない。

 激情に身を任せながらも、しっかりとカチューシャを観察していた彼女の目を見ていれば何かが変わったのかもしれない。

 

 あとから考えてみれば、この絶妙なタイミングでの黒森峰本隊の接敵が、両者の明暗をはっきりとさせるものとなっていたのだった。

 

 

5/

 

 

「カリエさん! 右側面からT-34! 撃ってきます!」

 

 西住みほの焦りを含んだ声が雨音の中に響き渡る。

 今彼女が率いる小隊は岳陵地を左手に見据えたまま、低地を疾走していた。

 

「わかってる。装填手、榴弾を装填。砲手、併走するT-34の十メートル先に叩き込んで」

 

 車内で無線機に背を預けながら、カリエは指示を飛ばしていた。キューポラから外を伺う車長である上級生が状況を報告する。

 

「後続のⅣ号が若干遅れてるわ。それに副隊長のティーガーとも距離が開き始めている。あんまり開くと副隊長のフラッグが危ないわよ」

 

「プラウダの本隊を強襲した隊長らがこっちに引き返してきている。それまでの辛抱。操縦手、速度を少し落として」

 

 カリエの指示通り、パンターとティーガーの距離が詰まった。

 この距離なら肉声でも伝わると判断したみほが、パンターの上級生に叫んだ。

 

「順調と言ってもいいのかわかりませんが、確実に誘導されています! それにさっきからIS-2の姿が見えません!」

 

「だってさ、カリエ! IS-2だけが依然行方知れず!」

 

 カリエは素早く地図に目線を走らせた。そして自身が作成したリストのコピーを睨む。

 それは昨日、まほの目の前で破いて見せたものの改訂版だ。

 

「IS-2はノンナが乗車してる。彼女は長距離砲撃の名手。それにIS-2の速度はそこまで優れものでない。なら、考えられるのは待ち伏せ」

 

 地図に青いマーカーでIS-2と書き込んだ。それは今この小隊が向かわんとしているポイントだった。

 

「みほ、出来るだけパンターの陰に隠れて。最悪こちらを盾にしてくれてもいい。カチューシャがいつ方針を転換するかもわからない。私がやられたらすぐに隊長に合流して」

 

「……わかりました。でも、一つだけ約束して下さい」

 

 なに? とカリエが問う。

 みほは今までカリエに見せたことのないような、ひどく真剣な声色でこう告げた。

 

「カチューシャさんの読みを逆利用するのが私たちの作戦です。カチューシャさんが読んだように、私たちはあなたを守ろうと必死に戦います。そしてそれを逆手に取ろうとしている」

 

 でも、と

 

「カリエさんを守ろうとするのは作戦だからじゃありません。あなたが私たちの大切な仲間だからです。あなたが、私たちの大切な友達だから私たちはあなたを守ります。それを、それを決して忘れないで」

 

 パンターの車内は無言だった。

 カリエ相手だけではなく、パンターの車内全体に告げられたオープンチャンネルの宣誓に、誰も言葉を挟まなかった。

 そしてそれは全面の肯定を意味している。

 パンターの乗員全てに見つめられながら、カリエは答えた。

 

「……ありがとう」

 

 

6/

 

 

 決勝戦が着々と進んでいく中、特設会場に設けられた観客席でティーカップを傾ける女子生徒がいた。

 わざわざ雨よけのパラソルまで持ち込んだ、ダージリンとアッサムである。

 

「ダージリン様が仰られたとおり、プラウダはカリエさんを狙い撃ちにしようとしていますね」

 

「ええ、一見すればプラウダの本隊はまほさんの本隊を狙っているように見えるけれど、その実、主力はカリエさんとエリカさんの頭を抑えに行ってるわね」

 

 巨大なディスプレーに表示された戦況を見て、ダージリンは目を細めた。

 

「プラウダのカチューシャ。中々おやりになるわね。何より我々の失敗に対してきちんと対策を打っているところが好感が持てて憎らしいわ」

 

 ダージリンが告げる失敗とはエリカの実力を見誤ったことだった。

 常に二人一緒に行動していた逸見姉妹は、両者が揃ってこそその真価が発揮されると考えていたのだ。

 けれどもそれは正しくもあり、間違っていた。

 間違いなく二人揃っていた方が最高のパフォーマンスを発揮するだろう。

 だが問題はその片割れの脱落の仕方だった。

 普通にカリエが脱落したのならば、エリカは諦めて次の行動を取っていた。実際、ダージリンもそう予想した上で、エリカの追撃を命じていたのだ。

 だが、現実は――

 

「……蛇の中にはね、つがいを一生変えないような、愛に忠実な種類もいるの。エリカさんはそのタイプだったのね」

 

 エリカはダージリンの予想を裏切り、逃げなかった。1両対5両という圧倒的なハンデを負いながらも向かってきたのだ。

 ではそれは何故か。

 理由は至極単純だった。

 エリカは怒ったのだ。自身の大切な妹を傷つけられて怒り狂ったのだ。

 妹のトラウマを抉るような、ダージリンの戦い方に真っ向から刃向かったのだ。

 

「『近代に勝利したのは「個人」ではなく「家族」である』……私たちはエリカさんの「家族愛」に負けたのよ」

 

 結果的にあの局面において勝利したのはダージリンだった。

 エリカの車両は行動不能になり、撃破判定のフラグが戦場にはためいた。だが、それに伴うグロリアーナの出血はけして小さくはなかった。

 5両のうち3両が撃破された。

 ダージリンの車両も、あと一歩のところまで追い詰められた。ダージリンがその場を切り抜けることが出来たのは、エリカのパンターの弾切れのお陰である。

 そしてその少なくない出血が、グロリアーナ全体の敗北に繋がった。

 黒森峰本隊と抗戦していたグロリアーナ本隊の応援に駆けつけても、それといった働きが出来なかったのだ。

 

「その点を鑑みればプラウダの最初から逸見姉妹を分断する作戦は良いかもしれませんね。カリエさんをすぐに仕留めるのではなく、徐々に追い詰めていく。そうすれば分断されたエリカさんは妹を助けようと無駄な動きを強いられますし、かといって、カリエさんを見捨てられるほどエリカさんは割り切れていない」

 

 アッサムの言葉にダージリンは頷いた。

 

「エリカさんだけではないわ。黒森峰は西住流。元来、落伍する味方なんて目もくれないような流派だけれども、今その黒森峰に新しい風が吹いている。確実にまほさんもその妹もエリカさんのスタンスに引き摺られているわ」

 

「……なら、プラウダの優勝は殆ど決まったようなものでしょうか?」

 

 ダージリンは静かにティーカップを見つめた。

 ゆらゆらとたなびく赤い液体に、自身の顔が映っている。

 それが存外嬉しそうな表情をしていたので、彼女は思わず笑ってしまった。

 

「運命は浮気者。だから私は浮気者を捕まえておく鎖を彼女に渡しておいたわ」

 

「へ? 彼女とは誰です?」

 

 珍しく顔を惚けたアッサムに、ダージリンは「そういえば、あなたはその場にいなかったわね」と嘯いた。

 

「カリエさんよ。……ねえ、アッサム。私たちが取り組んでいるのは戦車道。目指すべき道の違いはあれど、何でもありの戦争ではない。イギリス人は恋と戦争では手段を選ばないけれど、同時に騎士道を重んじる心を持っているのよ」

 

 

7/

 

 

 確実に追い立てられているとカリエは地図に残された自車の走行経路を見て思った。

 もしこの追い立て方ですらカチューシャの指示の賜だとしたら、己の警戒心も中々馬鹿には出来ないな、と苦笑した。

 

「カリエ、そろそろ川よ」

 

 パンターを先頭にしたカリエとみほの別働隊は河川敷を駆け下りていた。 

 そして、大雨で増水した川の脇道を慎重に進んでいく。

 一瞬、プラウダの砲撃が静かになった。

 さっきまで執拗に打ち込まれていた砲弾達が鳴りを潜めている。

 

「そうか、ここが終点か」

 

 カリエのパンターが停車した。彼女は車長をつとめていた上級生と交代する。雨脚はさらに強く、滝のような雨粒がパンターの装甲にぶち当たって跳ね返っていた。

 

「……カリエさん」

 

 背後に突いたみほが声を掛けた。

 それは無理もないことだった。

 以前のようにパニックに陥ることこそなかったが、キューポラから体を乗り出したカリエは全身をかたかたと震わせていたのだ。

 けれどもカリエの目は死んでいなかった。

 彼女はそっと自身の胸元を引っ掴んだ。

 

「? カリエ、何をしているの?」

 

 それぞれの正しい配置に戻った装填手と通信手が疑問の声を上げた。

 カリエは手短に答えた。

 

「ダージリンからのお守……」

 

 ただし、言葉は最後まで続かない。

 先ほどまで鳴りを潜めていた砲撃が再び開始されたからだ。

 直ぐさまみほは小隊に指示を飛ばし、駆け下りてきた河川敷を後進しながら登り始めた。

 

「カリエさん!」

 

 だがその動きにカリエのパンターは追従しなかった。彼女はじっと、滝のカーテンの向こう側に広がる暗闇を見ていた。

 赤い閃光が暗闇で瞬く。遅れて、砲声。

 最後にパンターの足下に発生した爆発。

 

「みほ! IS-2が正面に1両! ここでお別れだ!」

 

 カリエが操縦手の背を蹴飛ばす。急発進したパンターはIS-2の2発目の砲撃をなんとかかわし、反撃の一撃を叩き込んだ。だがIS-2の強固な正面装甲がそれをはじき返す。

 

「カリエさん、戻って!」

 

 みほの悲鳴が轟いた。まだ撃破出来る距離ではないと判断したカリエがIS-2に肉薄したからだ。

 デザートカラーのパンターと、オリーブグリーンのIS-2が真っ正面からぶつかり合う。

 

「馬鹿! 早く行け! 作戦を忘れたのか! いつカチューシャがそっちを狙うのかわからないんだぞ!」

 

 火花をまき散らしながら、パンターとIS-2は互いにその場を譲らなかった。IS-2がみほのティーガーに砲塔を合わせようとしても、そこへ割り込んで妨害する。

 

「やっぱり見捨てるなんてできません!」

 

「違う! 見捨てるんじゃない!」

 

 カリエが叫ぶ。IS-2の車体から決して離れないように、重量で勝る重戦車を押しとどめる。

 雨と増水した川、そして凄まじい威圧感を放つIS-2からくる恐怖感と戦いながら叫んだ。

 

「ここまでみほがいたからこれた! みほが後ろにいてくれたから、ここまでやってこれた! それにここから先は私の戦いだ! 私に戦わせて!」

 

 カリエが振り返る。みほと目が合う。

 カリエは笑った。みほの表情が崩れた。

 

 均衡を保っていたパンターが、IS-2に押し出された。

 

「みほ、後は頼んだ! 直ぐに隊長と合流して、このIS-2をカチューシャのところへ連れて行って!」

 

 最後の言葉はそれだった。

 重量で一トン近く勝っているIS-2に押し出されたパンターは、ぬかるみに履帯を空転させながら徐々に川の方へ滑り落ちていった。

 みほはカリエのパンターを断腸の思いで視界外におき、残された車両と共に河川敷を登り切る。

 だが登り切る瞬間、戦車が一瞬だけ底面を曝してしまう瞬間を、IS-2は見逃さなかった。

 

「させるか!」

 

 滑り落ちながらもパンターは発砲した。ろくに照準も付けられていないそれは、またしてもIS-2の装甲にはじき飛ばされる。

 けれどもそれで十分だった。

 振動によって狙いを外されたIS-2の砲弾はティーガーの足下を穿つ。

 

「へへっ、ざまあみろ」

 

 IS-2へ渾身の嫌がらせが出来たと、カリエは不敵に笑った。

 ただ、状況は何も好転していない。

 発砲の反動でバランスを崩したパンターはさらに川へと滑り落ちていく。

 

「……大丈夫。今回は上手くやってみせるから」

 

 川底に呑まれていった呟きは誰に当てたものなのか。

 今世の姉であるエリカか、それとも前世でバッテリーを組んだエースなのか、答えを知るのはカリエだけだった。

 

 

8/

 

 

 カリエのパンターが川に転落した。

 

 その知らせは、他の黒森峰の隊員達を動揺させるには十分すぎる効力を持っていた。

 よりによって、水恐怖症であるカリエの車両が転落したのだ。

 フィールドの南側でプラウダの別働隊を抑えていたエリカは、絶望に心が押しつぶされるのを感じた。

 

「隊長! 直ぐに運営に救助を! 早く!」

 

 だが雷鳴が轟く中、無線の感度は最悪だった。

 まほへ繋がっているはずのホットラインは無情にも、ノイズを返してくるのみ。

 

「大丈夫ですエリカさん! 運営が必ず救助しますから!」

 

 小梅の励ましもエリカには届かなかった。

 エリカは少しばかり沈黙を保った後、うわごとのように命令を下した。

 

「……助けに行くわよ」

 

「駄目です! ここからじゃ遠すぎます!」

 

「なら、カリエを傷つけた奴を同じ目に遭わせてやるわ。このキングティーガーならIS-2だって川底にたたき落とせる」

 

「っ! しっかりしなさいエリカ!」

 

 ぱんっ、と小梅の平手がエリカの頬を打った。

 彼女は涙目ながら、エリカの胸ぐらを掴んで詰め寄った。

 

「エリカがしっかりしないとどうするのよ! 破れかぶれで報復することをカリエは望んでいるの!?」

 

「っ! うっさいわね! あんたに何がわかるのよ! あんたにカリエの苦しみの何がわかるのよ!」

 

「わかるわけないでしょう! エリカだって、わかっているつもりじゃない! あの子にその苦しみから救ってくれって、頼み込まれでもしたの!?」

 

 ぐっ、とエリカが詰まった。

 彼女は思い出してしまっていた。カリエの鞄の底から見つけたノートの事を。

 己が押し付け続けていた呪いのことを。

 小梅が言うとおり、水恐怖症のことだって、エリカが一方的に構っているだけに過ぎない。

 事実、カリエはエリカにそれについては何かを頼んだことは一度もない。

 

「あの子が黒森峰のみんなに頭を下げて回ったことを知らないんでしょう!? 隊長に、もう醜態はさらさないから使ってくれって頼み込んでいたことも知らないくせに! あの子が優勝を目指すために頑張っていることも!」

 

 エリカは何も言えなかった。

 本当に知らないことばかりだった。

 準決勝で、最後まで守ってやれなかったことを負い目に感じて、ここ最近はまともに話しかけもしなかった。

 エリカはカリエを見ていなかった。

 

「エリカが見てやらないでどうするのよ! 前に進むあの子を信じてあげなさいよ!」

 

 ごんっ。

 

「……!!」

 

 小梅の追及はそこまでだった。

 言葉が出ないエリカをさらに問い詰めたとき、ティーガーⅡの超重装甲が鈍く振動したからだ。

 例え互いに反目し合っていても、そこは黒森峰の一員。

 二人の反応は一瞬だった。

 

「どっから撃ってきてる?」

 

「東部の丘からです。どうやらプラウダは中央の本隊からさらに分割したものかと」

 

 

「ちっ、面倒なときに。でもそれが狙いか」

 

 エリカが小梅を見る。小梅が一つ頷いた。

 

「……ちょっとだけ目が覚めたわ。取り敢えずは目の前のこいつらをぶっ潰して、カリエの元へ向かうわ」

 

「それがよろしいでしょう。さっきはああ言いましたけれど、私だってそれなりに立腹しているんです」

 

 王虎の動力が唸りを上げた。

 いくら道が悪くとも、戦車に通れない道はない。

 ティーガーⅡに率いられて、随伴していたヤークトティーガーたちも咆哮をあげた。

 

「そうよ。あいつはね、こっちがどれだけ心配していてもいつもけろっとして帰ってくるのよ。どうせ今回も、ヤキモキさせられるだけ無駄なんだわ」

 

 丘の向こうから数両のT-34が顔を覗かせた。

 ティーガーⅡのアハト・アハト砲がそちらに照準を合わせる。

 

「だからあんた達、私の憂さ晴らしに付き合いなさい!」

 

 

 

 後編2へ続く。

 



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黒森峰の逸見姉妹 後編2

次回の終章で終わりです。


 試合後のベンチ。

 敗戦の屈辱も覚めやらぬその空間でエースとキャッチャーは向かい合っていた。

 エースは力なくベンチに腰掛け、こう零した。

 

「すまない、俺が息切れしたせいだ。お前のリードは完璧だった」

 

 それは違う、と否定するだけの勇気をキャッチャーは持っていなかった。

 何も言えないでいると、エースはさらに続けた。

 

「アウトローをあそこまで運ばれたんだ。俺の球威がまだまだ足りなかった」

 

 そんなことはなかった。

 スタンドに運ばれた球は、考え得る限り最高の球だった。

 ならば何故打たれてしまったのか。

 理由は至極単純だ。

 キャッチャーのリードが、打者に対する怯えが見抜かれていたに他ならない。

 でもキャッチャーはその事実を、打ち砕かれたエースの前で告げることはできなかった。

 ただ曖昧に「そうか」と笑って誤魔化すしかなかった。

 エースにお前のせいで負けたと責められるのが怖かったのだ。

 自分が臆病風を吹かせたから、チームが負けたのだと認めたくなかったのだ。

 

「……でも、お前とバッテリーを組んできた三年間は、今までの野球人生で一番楽しかった。感謝しているよ」

 

 これほど惨めな気持ちになったことは、今までに一度もなかった。

 エースの屈託のない笑みが、彼を何処までも追い詰めていった。

 キャッチャーはエースから逃げるようにベンチを後にした。エースは何も言わなかった。

 

 せめて彼がこちらを責めてくれれば、カリエのその後の人生はまた変わったものになっていたかもしれない。

 

 

1/

 

 

 エリカが率いる小隊と、プラウダの別働隊の戦闘は泥沼の様相を見せていた。

 3両のT-34を屠ることに成功していたが、随伴していたヤークトティーガー1両が撃破され、エリカのティーガーⅡも複数の砲弾によって装甲を抉られていた。

 

「くそっ、あんた達しつこいのよ!」

 

 ティーガーⅡのアハト・アハト砲が咆哮を上げる。生き残ったヤークトティーガーを狙っていたT-34がエンジンルームを撃ち抜かれて停車した。

 だがその陰から直ぐさま別のT-34がエリカのティーガーⅡに向かって発砲する。

 なんとか正面装甲で受け止めたが、その強烈な反動にエリカは激しく揺さぶられた。

 

「エリカさん、危ないですから中に!」

 

「駄目よ! ただでさえこっちは小回りきかないんだから常に相手を補足しないと!」

 

 エリカの言うとおり、ティーガーⅡの弱点は融通の利かない足回りにあった。超重装甲と攻撃力を誇る分、車重もまた破格であり、履帯が破損しやすいという欠点を抱えていたのだ。

 万が一この乱戦の中で履帯を破損してしまえば、それは致命的な隙になる。

 

「T-34/85 2両! 左側面!」

 

 だからこそエリカが常に肉眼で敵を確認し、その機動を予測してティーガーⅡを操っていた。死角に回り込まれないよう細心の注意を払い、随伴するヤークトティーガーとの連携を指示する。

 

「あんた達なんか模擬戦のみほやカリエに比べればまだまだなのよ!」

 

 縦列で接近していたT-34/85の先頭車両を撃ち抜く。だが当たり所が良くなかったのか、正面の防盾が砲弾を弾いていた。ただそれだけでエリカが焦ることはない。

 彼女は冷静に随伴するヤークトティーガーへ命令を下した。

 

「足が止まった! 後方のT-34/85を吹き飛ばして!」

 

 さすがは黒森峰と言うべきか、ヤークトティーガーの砲手もまた卓越した技量を持っていた。エリカの指示通り、いつの間にかT-34/85の側面に回り込んでいたヤークトティーガーが後方のそれを撃破する。退路を断たれたT-34/85が慌てて回頭するが、それはエリカの狙い通りだった。

 

「次弾、ってー!!」

 

 王虎の一撃がT-34/85の車体下部を吹き飛ばした。

 降りしきる豪雨の中、T-34/85が吹き出す黒煙と、撃破を知らせる白旗がはためいている。

 先ほどまでの激戦が嘘のような静寂が、エリカ達を包んでいた。

 

「はあっ、はあっ。はあっ」

 

 荒い息と火照った体を雨の下に曝して冷却する。

 エリカが気怠げに周囲を見回してみれば、動いている陰は随伴するヤークトティーガーだけだった。

 

「……どこへ行ったの?」

 

 おかしい、とエリカは疑問の声を上げた。

 確かもっとこちらに押し寄せてくる敵影があった筈。それなのに気がつけばあっさりと敵の波が引いていた。

 こちらの攻略を諦めたのだろうか。

 それなりに撃破されてしまったから、怖じ気づいたのだろうか。

 

「小梅。ヤークトティーガーは何か言ってる?」

 

「いえ、向こうも敵影をロストしたようです」

 

 何かがおかしいとエリカは周囲を見回した。ぽつぽつと木々が点在する林の中、ティーガーⅡとヤークトティーガーのエンジン音だけが鳴り響いている。

 

「……まさか」

 

 ふとその時、木々の向こう側で何かが光った。それがT-34/85とは比べものにならない砲煙だと認識したときには、ティーガーⅡの車体が浮き上がっていた。

 

「全速後退!」

 

 バウンドが落ち着いた瞬間、エリカが叫んでいた。

 だがヤークトティーガーがそれに従うことはない。彼女達は既に黒煙を吐き出しながら、車体を引っ繰り返らせていた。

 

「エリカさん、どうしたんです!?」

 

「KV-2よ! プラウダの奴ら、とんでもない怪物を持ち込んでいたわ!」

 

 慌てて後退したティーガーⅡの鼻先で特大の爆炎が打ち上がる。

 KV-2の152ミリ榴弾砲が炸裂したのだ。爆風は周囲の木々をなぎ倒し、ティーガーⅡを激しく揺らした。

 

「つっ、さっきの奴らも戻ってきた!」

 

 最悪なことに足の遅いKV-2を護衛するかの如く、3両のT-34がエリカ達の前方に展開していた。KV-2が1両だけならなんとか死角に回り込むことも出来たのだが、今となってはそれも叶わない。

 

「エリカさん、指示を!」

 

「とにかく後退よ! ここで囲まれたら一巻の終わりだわ!」

 

 ティーガーⅡのエンジンが唸りを上げ、エンジンが焼き切れる限界のところまでスピードを上げた。だがT-34の前進速度はそれを上回っており、徐々に距離を詰められていく。

 なんとか反撃のアハト・アハト砲を叩き込むが、ろくに狙いも付けられていないそれは濡れた地面を穿つだけだった。

 

「エリカさん、後ろ!」

 

 小梅の悲鳴が車内に響き渡った。

 慌ててエリカが振り返ってみれば、そこは大幅に増水した川だった。

 

「しまった!」

 

 プラウダの狙いを理解したエリカが舌打ちをした。

 最初からエリカをここで包囲することが、彼女達の狙いだったのだ。

 

「やってくれるじゃない……」

 

 憎まれ口を叩いても、内心には余裕がなかった。後方には増水した川。前方にはプラウダの怪物が座している。

 川を渡ろうにも、シュノーケル装備がなければエンストを起こして停止するのが目に見えていた。

 

「こんなところで!」

 

 苛立ちをティーガーⅡの上部装甲に拳を打ち付けてぶつける。

 KV-2の152ミリ砲がこちらを向いた。例えティーガーⅡの重装甲でも、直撃すれば一撃撃破は免れない。

 

「こんなところで負けるわけには行かないのよ! まだカリエのところにいかなきゃいけないのよ!」

 

 追い詰められたエリカが選択したのは徹底抗戦だった。

 包囲を完成させた油断があったのか、前に出すぎていた1両のT-34/85をアハト・アハト砲で吹き飛ばす。けれども次弾装填が間に合わない。直ぐさま残されたT-34がエリカに狙いを付け、彼女の進行方向を穿った。

 急停止を命じてなんとか直撃はかわしたものの、そこはKV-2のキルゾーン真っ只中。

 

「あっ……」

 

 目が合うというのはこのことだろうか。

 まっすぐこちらを見据えるKV-2の砲口をエリカは見た。

 車内にいた小梅が危険だと、エリカを中に引き摺り込む。

 砲声が鳴り響いた。

 KV-2が奏でる超弩級の砲声だ。

 ティーガーⅡの乗員達は来たるべき衝撃に向けて、身を寄せ合った。

 小梅も引き摺り込んだエリカをしっかりと抱きしめていた。

 

「……?」

 

 だがいつまで経っても衝撃は訪れなかった。

 爆音がどこか遙か遠いところで炸裂している。

 まさか外したのか、とエリカはおそるおそるキューポラから外を伺った。

 

「えっ?」

 

 口から漏れたのは、なんとも間抜けな声。

 エリカの視線の先にあったのは足下を撃ち抜かれて、車体を大幅に傾けさせたKV-2だった。

 ぬかるんだ地面に履帯がはまり込んで擱座している。

 

 まさか自滅したのか?

 

 そう思い至るが、鼻をつく火薬の臭いがその可能性を否定させた。

 エリカはもう一度川を振り返る。

 火薬の臭いに身に覚えがあったからだ。

 これまで何百も、何千も嗅いできた、自身のパートナーの香り。

 

 そう、彼女の視線の先にあったのは――。

 

「カリエ!」

 

 川から上半身を覗かせた、愛しい妹の姿だった。

 

 

2/

 

 

「カリエ、防水シールが浸水し始めたわ。そろそろ上にでないとエンジンすら掛からなくなるわよ」

 

 ぐらぐらと揺れる車内で、装填手の上級生がカリエにそう報告をした。

 キューポラから外の様子を伺っていたカリエは地図の上に描かれた川を指でなぞる。

 

「大丈夫。もうすぐこの川が大きく蛇行する。そこに行けば川岸に乗り上げるはず」

 

「そう。なら良いけれど。……で、この作戦は隊長の指示なの?」

 

「この作戦?」

 

 首を傾げるカリエに上級生は疑問をぶつけた。

 

「わざと川に落ちて敵の背後まで川の中を通っていく作戦よ。いくら黒森峰で防水装備を試験してきたとはいえ、いくらなんでも無茶が過ぎるわ」

 

 そう。カリエが提案した作戦というのは、川の中を伝って敵を強襲するという困難にも程がある作戦だった。

 もちろん、そのような作戦をまほが提案する筈がなく、カリエは首を振って否定した。

 

「んなわけない。むしろ最初は止められた。でもある条件を呑むことで許可が下りた」

 

「……ある条件?」

 

 そう、とカリエが頷く。彼女は飛沫を上げる川の終点を見据えながらこう言った。

 

「私たちの上陸地点にエリカを配置すること。必ず姉妹で背後を突くこと。これが隊長の出してきた条件。もちろん私はそれを二つ返事で呑んだ」

 

「つまりは、上陸時に万全のサポートが出来るよう、隊長が図ってくれたのね」

 

「そうかもしれない。でも、私は別の意味を感じた」

 

 カリエは周囲の荒れ狂う水を見た。

 不思議と恐怖感はあまり感じない。

 川に落ちるまでは震えが止まらなかったのに、今は何故か落ち着いていた。

 いや、何故かはわかっている。

 それは――。

 

「隊長はきっと、仲直りしろって、言いたかったんだと思う。やっぱりあの人はすごい。エリカがこの先で待っているとわかれば、私が大丈夫なことを私よりも知っていた」

 

 カリエは笑っていた。

 苦手なはずの、決して相容れない筈の水に囲まれながら、彼女は笑っていた。

 

「前の時は一人で悩んで、一人で逃げて失敗した。お互いにわかり合っている気になって、何も理解していなかった。でも今回は違う。私たちは姉妹だ。しかも双子だ。この世でたった一つの特別な肉親なんだ。だから大丈夫。もう失敗しない。もう逃げない。だって一人じゃない。姉妹で、黒森峰の逸見姉妹として私たちは戦っている」

 

 パンターの揺れが突如停止した。それが上陸の合図であることは、既に乗員全てで示し合わせられていた。

 カリエが周囲を伺う。

 すると奇遇なことに、直ぐ前方に姉の乗車するティーガーⅡの背面が見えた。

 ただ姉の置かれている状況は、少々厄介なものらしい。

 でも心配や懸念はなかった。

 

「……助けに来たよ。エリカ」

 

 

3/

 

 

 エリカやカリエにとって幸運だったのは、プラウダが彼女達が想像する以上の混乱に包まれていた事だった。

 まさか川の中から撃たれたと思わないKV-2の乗員は足回りのトラブルを想像し、周囲のT-34も同じ思考を辿っていた。

 端的に言ってしまえば、カリエの援軍に気がつかなかったのである。

 これにつけ込んだのがエリカだった。 

 彼女は直ぐさま前進を命じると、動きを止めていたT-34に思いっきり体当たりをした。三十トン近い重量差に押されて、T-34が吹っ飛ぶ。

 混乱の頂点に達した無事なT-34が破れかぶれに発砲するが、その隙を川中のカリエが見逃さなかった。

 

「よくやったわ!」

 

 側面を打ち抜かれたT-34の脇を通り抜け、吹っ飛ばされたT-34にティーガーⅡが砲塔を押しつける。例え傾斜装甲で強固な防御力を誇ろうと、アハト・アハト砲の接射にT-34が耐えられるはずもなかった。

 

「落ちなさい!!」

 

 瞬く間に随伴戦車を撃破されたKV-2が慌てて後退を始める。だが履帯のダメージを忘れていたのか、急な後退のせいで履帯が千切れ飛んでしまった。

 そうなってしまえば、KV-2は逸見姉妹の餌食になるほかない。

 

「「撃てっ!」」

 

 二人の声が重なった。全く同じ声で唱えられた宣誓は、KV-2の車体下部を連続で穿っていた。

 片方だけなら耐えられたであろう砲撃だが、同じ箇所を連続となるとそうもいかない。

 一瞬の沈黙ののち、KV-2の砲塔から白旗が揚がる。

 

「やりました!」

 

 小梅と、その他の乗員の歓声が上がる。

 それは無理もないことだった。絶体絶命のピンチから一転、一気に形成を逆転したのだ。

 やはり逸見姉妹はすごい、と小梅が尊敬の眼差しを車長席に向けたとき、エリカは既にそこにいなかった。

 ならば何処へ? 

 と小梅がキューポラから外へ身を乗り出してみれば、一目散にパンターへ駆け寄るエリカの後ろ姿を見つけた。

 

「エリカさん!」

 

「小梅たちはそこで待機!」

 

 川岸まで駆け寄ったエリカが声を張り上げる。

 

「馬鹿! 危ないから早く上がってきなさい!」

 

「うん。……うん?」

 

 パンターのキューポラから顔を覗かせていたカリエが妙な声を上げた。

 そしてすぐに車内に顔を引っ込めた。

 やがて数秒経過した後、今度は顔の上半分だけをこちらに覗かせた。

 

「エリカ」

 

「何よ!」

 

「エンストした」

 

「はあっ!?」

 

 エリカが素っ頓狂な声を上げたと同時、パンターの車体がぐらついた。何事か、とカリエが視線を足下に走らせれば、流れに負けて徐々に車体が流されていた。

 

「まずい、流される」

 

「早くエンジンを掛けて!」

 

 エリカの悲鳴が豪雨の中響き渡った。車内では必死に格闘しているのだろう。セルモーターの音が雨音に空しく消えていく。エンジンの火が点火されることはない。

 

「っ、待ってなさい!」

 

 川岸に立っていたエリカが慌ててティーガーⅡに戻った。そして、車体後部に備え付けられていた牽引用のワイヤーと麻のロープを引っ張り出す。

 

「エリカさん!」

 

「これ、ティーガーⅡにくくりつけて!」

 

 ワイヤーとロープの端を小梅に放り投げ、エリカは再びパンターに走った。

 見ればパンターは川の中程まで流されており、車重でぎりぎり持ちこたえているような状態だった。

 

「エリカやめろ!」

 

 姉が何をしようとしているのか察したのだろう。

 カリエが滅多にあげない怒声を上げた。けれどもエリカは意に返さない。

 己の胴体にロープをしっかり結びつけると、牽引用のワイヤーを片手に、躊躇することなく川に飛び込んだ。

 

「エリカッ!!」

 

 今度はカリエの悲鳴が響き渡った。彼女は半狂乱になりながら「エリカ、エリカ」と叫び続ける。中から乗員達が彼女を抑えていなければ、それこそ飛び込みかねない勢いだった。

 

「だからエリカって言うな!」

 

 ざばっ、と水中から手が伸びた。

 慌ててカリエがその手を取ると、ずぶ濡れになったエリカがパンターの車体をよじ登ってきた。

 しっかりと牽引用のワイヤーを手にした彼女は、垂れた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。

 

「帽子、流されたわ。後で隊長に怒られるわね」

 

「エリカぁ!!」

 

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃに顔を歪めたカリエがエリカに抱きついた。それを難なく受け止めたエリカはよしよし、と彼女の頭を撫でた。

 

「よしよし。もう大丈夫よ」

 

「死んだかと思った! エリカが死んだかと思った!」

 

「馬鹿ね。あんたをおいて死ぬわけないでしょう? 危なっかしくて見てられないもの」

 

 それはどっちのほうだ、とカリエは言葉にならない声を上げた。

 エリカの線の細い体を、彼女は決して離すまいと強く抱きしめる。

 

「私はお姉ちゃんだからね、いつもあんたを迎えに来てあげる。あんたが前に進めないときは私が引っ張っていってあげる。でもそれは、そんなことができるのは、あんたがこうして元気に生きていてくれるからよ」

 

 ついこの間の喧嘩が嘘みたいに、姉妹は堅く抱き合った。

 

「それに、あんたは覚えてないかもしれないけれど、こうして迎えに来てくれたのは、あんたの方なのよ」

 

「へっ?」

 

 心当たりの全くないカリエが素っ頓狂な声をあげた。

 エリカは苦笑を一つ零すと、自身のタンカースジャケットの袖でカリエの汚れた顔を拭ってやった。

 

「小学生の時ね、私がくだらないことで虐めを受けたとき、あんたが学校まで迎えに来てくれたのよ。あんなに雨が駄目だったあんたが、一人で私を迎えに来てくれた」

 

 奇しくも同じ雨の中、エリカは微笑む。

 

「その時からよ。あんたを守っていこうと誓ったのは。あんたの姉として悔いのないように生きていこうと考えたのは。ありがとう。カリエ」

 

「……お姉ちゃぁん」

 

 カリエの感情が決壊した。

 わんわんと声を上げて泣き、涙をまき散らした。

 エリカはそれを優しく抱き留め、背中をそっとさすってやった。

 

「……さあ、行きましょ。私たちはまだまだ戦えるわ。私はあんたがいる限り負ける気がしないもの」

 

「それはこっちも同じ。エリカ」

 

「こら。エリカって言うな」

 

 カリエは嬉しかった。

 こちらを軽く小突いてくる姉の優しさが。

 車内からそっと見守ってくれている乗員達の視線が。

 川岸で牽引の準備を始めてくれている小梅たちの頼もしさが。

 

 何より、仲間と共に戦えるこの人生が、カリエは嬉しくてたまらなかった。

 

 

4/

 

 

 カチューシャは自軍の配置と黒森峰の配置に違和感を感じ始めていた。

 まほ率いる本隊と交戦を始めて二時間弱。

 両者ともにそれなりの損害を出していたが、大勢を決するような展開にはまだまだ至っていなかった。

 まほとカチューシャ、それぞれの巧みな用兵が互いの決定打を阻害していたのだ。

 

『カチューシャ。黒森峰のフラッグ車が本隊にもう直ぐ合流します』

 

 本隊から離れていたノンナの報告に、カチューシャは耳を傾ける。

 

「……カリエ車の詳細は?」

 

『わかりません。運営に救助されたのか、それとも流されたのか。この雷雨さえやめば無線で確認も取れるのですが』

 

 がりっ、とカチューシャは爪を噛んだ。

 それは己に対する苛立ちの表れだった。

 

「……別に川底へ落とすつもりはなかったのよ。ただ足を止めてくれれば、ただ怯えて周囲の味方の足を引っ張ってくれればそれでよかったのに」

 

 弱々しい声は、幸いなことに雨音と砲声に邪魔されて、周囲の乗員に聞き取られることはなかった。

 カチューシャは別にカリエのことを嫌っていたわけではない。

 むしろライバルとして高く評価していたからこそ、彼女を封じ込める戦法を決行したのだ。

 それが想像以上の惨事を引き起こしたことに、彼女は若干の後悔を滲ませていた。

 

『……カチューシャ、彼女を川に叩き落としたのは私です。カチューシャが気に病むことはありません。もしそのことでご立腹ならいかようにでも罰を受けます』

 

 そんなカチューシャの心境を感じたのか、ノンナがすかさずフォローを入れた。 

 だがそれは今のカチューシャには逆効果だった。

 

「わかったような口を聞かないで! カチューシャは、カチューシャは別に落ち込んでなんかいないわ! そうよ、川に落ちた愚図なカリエが悪いのよ!」

 

『……差し出がましい口をきいて申し訳ありませんでした』

 

 ノンナが謝罪し、沈黙を保ったのを見てカチューシャはその表情を崩した。

 違うの、そんなことを言いたかったんじゃないのと口を開き掛けるが、内心に燻るプライドがそれを許さなかった。

 小さな暴君は、暴君たり得なければプラウダに君臨することを許されないのだ。

 だからこそ、口から突いて出た言葉は内心とは正反対のものだった。

 

「ええ、ノンナは口出しをしないで。私の命令だけを聞いていれば良いの! そうしたら必ずプラウダに勝利の栄光をもたらしてあげるわ!」

 

 精一杯の強がりは果たして伝わったのだろうか。

 ノンナからの返答がなかなかないことにカチューシャがヤキモキし始めたとき、明らかに黒森峰の砲撃の密度が上がったことに気がついた。

 キューポラから慌てて顔を出したカチューシャは遠くに見える黒森峰の本隊を睨む。

 

「ふん! ついに西住妹の凱旋ということね! 目に見えて士気なんかあげちゃってむかつくったらありゃしない!」

 

 これは残念ながら本心から出た言葉だった。

 何故なら目の前にいるまほやみほのカリスマが、エリカとカリエの人望が羨ましかったからだ。

 

「そうよ! カチューシャがあんたたちみたいな甘い奴らに負けるわけにはいかないのよ! なによ、なによ! みんなしてカリエを守っちゃって! みんなしてあいつを大切にして! カチューシャは誰もそんなことしてくれないのに!」

 

 カチューシャは己の立てた作戦に苛立つという矛盾を抱えていた。

 彼女は黒森峰の弱点を突いたつもりでいたが、それと同時に己の自尊心まで傷つけていたのだった。

 それに気がつかないカチューシャは涙目ながらに、全軍へ指示を飛ばす。

 

「黒森峰のフラッグ車が合流したわ! みんな、一斉に包囲しなさい! ここで黒森峰を叩きつぶすわよ!」

 

 

5/

 

 

「みほ、ご苦労だった。どうやら無事、カリエはエリカと合流したようだ」

 

「……よかった。ほんとうによかった」

 

 胸を撫で下ろし、車長席にへたり込むみほを見てまほは苦笑した。

 

「安心するのはまだ早いぞ。カリエの決死の強襲作戦なんだ。ここで奴らに気取られては全てが無駄になる。私たちはこれよりプラウダの本隊に全面攻勢をしかける。カチューシャがその頭脳を回転させる隙を与えるな」

 

 うん、とみほは力強く頷いた。

 まほは頼もしい妹を隣に、喉元のマイクを抑える。

 彼女が全軍前進の号令を掛ければ、黒森峰の獣たちは一斉に獲物へ飛びかかるだろう。

 だがまほは直ぐにはそうしなかった。

 ふともう一度、隣の妹を見つめた。

 

「みほ、一つだけ聞いて良いか?」

 

「え? 何? お姉ちゃん」

 

 みほは困惑した。何故なら目の前の姉が自分には中々見せない、少し迷ったような表情をしていたからだ。

 あの冷静で、何事も即断な姉が二の句を告げないでいる。

 いつものみほならそんなまほの言葉を待つか、姉のそんな表情を見なかったことにしていただろう。

 だがエリカとカリエの絆を目にしていたみほは一歩だけ踏み出していた。

 

「何でも言って。お姉ちゃん。私、カリエさんみたいに頭も良くないし、エリカさんみたいに前向きではないかもしれない。けど、お姉ちゃんのことは二人に負けないくらい大好きだよ」

 

 驚いたのはまほだった。

 彼女は目の前のみほが昔ながらの活発さを取り戻したのか、と錯覚した。

 それくらい、みほの言葉と表情は力強かった。

 けれどもそうでないくらい、まほは理解している。

 流れ過ぎた時間は決して元には戻らない。妹が、昔に戻ることはもうない。

 ただ、成長することは出来る。

 黒森峰の、西住のみほとして一歩前へ踏み出しているのだ。

 みほは、妹は黒森峰に来て初めて、己を主張していた。

 

「そうか。なら私も安心して聞けるな」

 

 穏やかに笑ったまほが問うた。

 

「みほ、戦車道は楽しいか?」

 

 まほからしてみれば、もう答えのわかっている問いだった。

それでも聞いておきたかった。みほの言葉で答えを聞いてみたかった。

 そうすればプラウダの車両がどれだけ現れようとも、決して負ける気がしなかった。

 みほもそんな姉の真意を見抜いているのか、とびきりの笑顔で答えた。

 

「決まってるよ、お姉ちゃん。こうしてみんなで頑張る戦車道が楽しくないわけがないよ」

 

「それは私もだ。――なあ、みほ。前進の宣言を頼む。ここにいる仲間全てに聞こえるような、そんな宣言だ」

 

 まほの言葉を受けてみほはマイクをしっかりと手で押さえた。

 周囲に展開する黒森峰の仲間に、そしてこちらに向かってきているであろう逸見姉妹にはっきりと聞こえるように。

 

「みなさん、パンツァー・フォー!!」

 

 

6/

 

 

「張り切ってるね。副隊長」

 

 ガタガタと揺れる車内で、上級生が笑った。

 

「いやー、戦車道はいいわね。大学に行ってももう少し頑張ってみようかな」

 

 砲弾を片手に、屈託のない笑みを浮かべる上級生。

 カリエはそんな上級生に疑問の声を上げた。

 

「……ルミ先輩って高校でやめるつもりだったんですか?」

 

「おやや、カリエに初めて名前で呼ばれたかも。まあ、そうね。私が継続高校からこっちに転校してきたのは知ってる?」

 

「ええ、まあ」

 

「私、継続ではいっぱしの車長もやってさ、それなりに自信持ってたんだ。でも黒森峰に来たら万年補欠で、三年になってようやく装填手になれたわけ。正直、周囲の才能に絶望してた」

 

 カリエはそんなルミの心境が痛いくらいに理解できた。 

 前世での自分がそうだったのだから。

 

「でもさ、カリエの指揮を近くで見てていろいろ勉強してるとさ、やっぱ諦めきれないんだよね。戦車道。それに今日臨時とはいえ車長をやって、それがすっごく楽しかった。まだまだやりたいと思ったんだよ」

 

「先輩なら、出来ますよ」

 

 気がつけばカリエはそんなことを口走っていた。

「え?」とルミがカリエを見上げる。

 

「ルミ先輩なら必ず素晴らしい車長になれます。ポンコツで、ドジで、脳天気な私をいつも助けてくれた先輩なら必ず日本を代表する車長になれます。――それに先輩は私と違って諦めていない。一度目から諦めていない」

 

「そっか。ありがとう。カリエがそう言ってくれるんならまだまだ頑張れそうだよ。――でも、まずは目の前の優勝が欲しいかな?」

 

 悪戯っぽく笑うルミにカリエも笑った。

 

「そうですね。私もMVPが欲しいですし。――エリカ、本隊までどれくらい?」

 

 言葉は直ぐさま返された。

 

『あと四十秒! カリエ、チャンスは一度よ! プラウダの本隊のど真ん中に出るんだから覚悟しなさい!』

 

 エリカの言葉にカリエは気を引き締める。

 彼女達の進む森林が、今途切れようとしていた。

 

「見えた! 目標T-34/85! フラッグ車を叩く!」

 

 豹と王虎の姉妹が咆哮を上げた。

 

 

7/

 

 

 カチューシャは焦った。それは自分が意図しないタイミングで乱戦の様相を呈していたからだ。

 彼女の予想では、もっとまほは手堅く駒を進めてくると踏んでいた。

 それがどうだ?

 黒森峰の車両達はそれまでとは想像も付かないほど変則的にプラウダの本隊へ肉薄している。

 敵味方入り交じった戦場では、誰がどこにいるのか最早把握できなくなっていた。

 

「何でよ! 何でよ! どうして誰もカチューシャの言うことを聞いてくれないの!?」

 

 実際はカチューシャの指示を仰げないほどに、プラウダの車両が混乱しているだけだったが、今の彼女にはそこまで推し量る余裕がなかった。

 

「どうして急にこんな……」

 

 ぐっ、と戦車帽の鍔を握りしめてカチューシャは弱音を吐いた。

 するとその時、黒森峰の車両の先頭にフラッグ車を指し示す青い旗がはためいているのが見えた。

 何事か、と目をこらしてみれば、それはみほの乗車するティーガーⅠだった。

 カチューシャに電撃が走った。

 

「そうか、まほの奴、指揮権を妹に渡したんだわ! 自分の指揮が私に研究されていることを知って……」

 

 それと同時、カチューシャは羨ましいと思った。

 指揮権を委ねてもいいと考えることの出来る、信頼できる仲間を持っているまほを羨ましいと思った。

 それはカチューシャがどれだけ欲しても、永遠手に入れられないものだ。

 この小さな体躯では決して願うことも出来ない、絶対の絆。

 

「見せつけてんじゃないわよ!」

 

 カチューシャが爆発した。

 先頭のみほのティーガーⅠに苛烈な砲撃を叩き込んだ。みほも己が狙われていることに気がついて、カチューシャのT-34を常に視界に捉えた。

 

「あんたたちなんかに負けたくないの! カチューシャは折角ここまで来たの! こんなところで負けられないのよ!」

 

 散々馬鹿にされてきた。

 散々蔑ろにされてきた。

 散々無視されてきた。

 

「だからカチューシャを虐めないでよ!」

 

 叫びには涙が混じっていた。

 その涙が皮肉なことに、彼女の指揮を鈍らせた。

 みほのティーガーⅠが死角に回り込んでいる。砲塔が捉えられない。

 

 やられた。

 

 こちらを見据えるみほの目線と、ティーガーⅠの照準にカチューシャは諦めの言葉を吐いた。

 

『させません!』

 

 カチューシャの無線に叫びが轟いた。カチューシャも聞いたことのない、ノンナの叫びだった。

 気がつけば、カチューシャとティーガーⅠの間に、ノンナのIS-2が割り込んでいた。

 ティーガーⅠの主砲が、IS-2の極近距離で炸裂した。

 

「ノンナ!?」

 

 一撃で撃破されたIS-2が黒煙を噴き上げる。

 カチューシャとみほは呆気にとられた。復活が早かったのは、切り替えに優れていたのはカチューシャだった。

 

「砲手、ティーガーⅠを!」

 

 直ぐさま反撃の砲弾をティーガーⅠに叩き込む。ただみほの反応も、カチューシャの予想を超えていた。直ぐさま急発進したみほはカチューシャを深追いすることなくその場を離れた。

 取り残されたカチューシャはノンナに必死に呼びかけた。

 

「ノンナ! ノンナ! 返事をしなさい!」

 

『申し訳ありません。カチューシャ。やられてしまいました』

 

「馬鹿、そんなことはどうでもいいの! ノンナは無事なの!?」

 

 無線の向こう側で、ノンナがくすりと笑っていた。

 

『やはりあなたはプラウダに必要な方です。私の小さな暴君、カチューシャさま』

 

 何を言っているのだ、とカチューシャは怒りをあらわにした。

 

「訳わかんないことをいってるんじゃないわよ! 私なんか黒森峰の強襲も予想できなかった間抜けな指揮官よ!」

 

『いいえ、カチューシャさま。あなたは我がプラウダへ新しい風を吹き込むお方です。あなたの地吹雪は我々の古き因習を吹き飛ばし、さらなる栄光をもたらして下さるでしょう』

 

 ノンナの穏やかな言葉にカチューシャは息を呑んだ。

 そして、震える声色でこう問うた。

 

「なら、ノンナは私についてきてくれるの? こんな無様を曝した私をいつまでも支えてくれる?」

 

 小さな暴君にふさわしくない、年相応の少女の言葉。

 だがそれをノンナは否定しなかった。彼女は全肯定した。

 

『あなたが望む限り、いつまでも』

 

 言葉はそれだけ。

 だがカチューシャにとっては十分だった。

 十分すぎる、再起の言葉だった。

 地吹雪のカチューシャ。

 彼女は小さな暴君だからこそ、プラウダの長たり得る。

 涙をごしごしと拭い、戦車帽を目深にかぶり直したカチューシャが無線を引っ掴んだ。

 

「プラウダの全隊に告ぐわ! 敵は私たちの混乱を誘っている! 今すぐ私の元に集まりなさい! 後方のフラッグ車も同じよ! 全員で体勢を立て直すわ!」

 

 返答は期待していなかった。

 それでもここからプラウダがやり直せるのならば、とカチューシャに出来る最後の指示だった。

 けれどもプラウダの隊員達はカチューシャを裏切った。

 敬愛する小さな隊長に、あらん限りの歓声を送ったのだ。

 

「「「ウラアァァァァァァァァァァ――!!」」」

 

 地鳴りのような応答にカチューシャは耳を押さえた。

 だが彼女は笑っていた。

 

「うっさいわね! 無線機が壊れちゃうじゃない! 無線機が壊れたら、あんたたちの声が聞こえなくなるのよ!?」

 

 

8/

 

 

「カリエ、敵フラッグ車が本隊に合流する!」

 

「わかってる。私に任せて!」

 

 単独行動をしていた筈のプラウダのフラッグ車がカチューシャの元へ集まりだしていた。

 エリカが焦りの声を上げるが、カリエは落ち着いて指示を出す。

 

「              」

 

「            !!」

 

 その時の二人の会話を知っているのは、当の本人たちだけだった。

 豹と王虎が奏でるエンジンの協奏曲が、二人の声をかき消したからだ。

 けれども二人は、逸見姉妹は互いのやるべきことを理解していた。

 通じ合っていた。

 

「行けえええええええええええ!!」

 

 カリエのパンターが急加速する。エンジンから煙を吹き出しても、決して速度は緩めない。

 白煙をまき散らしながらも、逃げるプラウダのフラッグ車――T-34/85に並んだ。

 だがパンターの主砲は真横を向いていない。少しでも速度を稼ぐために、空気抵抗を減らすために正面を向いていた。

 ならばエリカのティーガーⅡか。

 否。

 エリカの距離からはまだT-34/85を確実に撃破出来なかった。

 チャンスは一度きり。

 一度逃してしまえば、速力で勝るT-34/85に逃げられてしまう。

 

「エリカ!!」

 

 だからカリエは考えた。

 逃げるフラッグ車をどう押しとどめれば良いのか。どうやって足を止めれば良いのか。

 エリカのティーガーⅡが照準を定めた。

 エリカが砲手の肩を、一瞬の間のあと、叩いた。

 

 ガンッ!!

 

 ティーガーⅡが撃ち出した砲弾がパンターの右履帯を吹き飛ばした。

 それは丁度、パンターとT-34/85の間の履帯だった。

 エリカはT-34/85の履帯を狙わなかった。何故なら、T-34/85にかわされることがあっても、信頼する妹ならば必ず受けてくれると信じていたからだ。

 殆ど最高速度で前進していたパンターが、片足を失ってスピンする。

 スピンした車体は逃げるT-34/85を巻き込んで、その場に急停車した。

 パンターの砲口が、殆どゼロ距離でT-34/85の装甲に張り付いた。

 

「カリエ!」

 

 砲撃音が一つ。

 高らかと鳴り響いたパンターの雄叫びは、黒森峰とプラウダ、それぞれの隊員全ての耳へと届いていた。

 



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黒森峰の逸見姉妹 最終話

 思ったより長くなってしまった「黒森峰の逸見姉妹」はこれで終わりです。
 今後はブリジットをメインとしつつ、月一くらいで短編集を投稿できたらな、と考えています。
 ここまで読んで下さった読者の方、本当にありがとうございました。


最後に謝辞を。

 この物語はハーメルンに投稿されているエリカが主人公のとあるSSに感銘を受けて執筆したものです。この素晴らしいSSがなければ自身がガールズ&パンツァーのSSを執筆するようなことはなかったでしょう。
 ハーメルンの全ての作家様、素敵な物語をいつも投稿して下さっていることに感謝します。これからも、どうかよろしお願いします。




 こんなにも沢山のフラッシュに囲まれるのは初めてだと思った。

 前世では恐らく一生縁がなかったであろう経験。

 煌く光に目を細めながらも、精一杯彼女は笑っていた。

 それは、前世のエースに向けた満点の笑顔だった。

 

 

1/

 

 

 全国戦車道大会の表彰式。

 真紅の優勝旗を隊長であるまほが受け取った後、カリエは一人壇上に呼び出されていた。

 最優秀選手賞――すなわちMVPに選ばれたのである。

 なぜ自分が、とカリエは困惑した。

 撃破数ならダントツでエリカが一位だったし、試合を終始指揮し続けたのはまほとみほ、西住姉妹だ。

 自分なんかよりももっと相応しい選手は沢山いる。

 フラッグ車を仕留めたのも、たまたまそういう役割だっただけでカリエがいなければ、エリカかまほ、そしてみほ辺りがいずれ止めを刺していただろう。

 そんなことをつらつらとカリエは口走っていたが、エリカに頭を小突かれ、まほに肩を叩かれ、みほに背中を押されて、ようやく彼女は壇上に登った。

 その瞬間、カメラを手にした人々が一斉にシャッターを切った。全国放送のカメラとマイクもいくつか回っていた。

 今までにない初めての経験だったカリエは、思わず身を竦め「ひゃいっ」と情けない声を上げていた。

 

「逸見カリエさん。おめでとう。これは最優秀選手賞を受賞した子にだけ渡されるトロフィーよ。あなたを含めて、まだ62人しか授けられていない、栄誉の証だから大切にしてね」

 

「蝶野」という名札をつけた、大会の運営委員であろう女性がカリエに歩み寄った。彼女の手には戦車をモチーフにした金色のトロフィーが握られている。

 

「あなたが選ばれた理由はね、常に前へ進み続けるあなたの戦車道を体現して見せたからよ。さまざまな障害を乗り越えて、時には挫折しながらも最後まで戦った。運営委員会はそんなあなただからこそ、このトロフィーを授与することを決めたの」

 

 じわり、とカリエの視界が滲んだ。

 自分がやってきたことは間違いじゃない。

 この道で良かったんだ、と理解したとき彼女は嗚咽を溢していた。

 カリエはカメラの波の向こう側にいるエリカを見た。

 最初は彼女に無理矢理連れてこられた道。

 けれども途中からは自分で歩いてみようかな、と思った。そこには情熱も、気概もまだまだ足りていなかった。でも色々な人々に支えられて、いつの間にかもっと先に行きたいと願っていた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 カリエは叫んだ。こちらを優しく見つめ、手を叩くエリカを見た。

 彼女はカリエの言葉に目を丸くしていた。

 

「ありがとう! お姉ちゃんがここまで連れてきてくれた! 本当にありがとう! お姉ちゃん大好き!」

 

 全国のカメラの前で放たれたまさかの宣言にエリカは顔を真っ赤にした。

 両脇をまほとみほに固められて、何かからかわれたのか彼女はその場で地団駄を踏んでいた。

 でも直ぐにカリエの方に向き直ると、彼女に負けず劣らずの声色でこう返した。

 

「私もよ! カリエ!」

 

 カメラのフラッシュが最高潮になる。

 蝶野はぼろぼろと泣きはらすカリエの肩をそっと叩くと、柔らかな声色でこう言った。

 

「さあ明日の一面の写真よ。あなたが出来る一番の笑顔をみんなに見せて頂戴」

 

 

2/

 

 

 こうして、第62回全国戦車道大会は無事終わりを告げた。

 大会は黒森峰女学園が偉業となる十連覇を達成し、全国の戦車道関係者を湧かせた。

 西住姉妹の卓越した指揮能力と、逸見姉妹の華やかな連携の話題が瞬く間に全国へと広がり、戦車道興隆の大きな礎となったのだ。

 さらには全国放送で中継された「黒森峰女学園対プラウダ高校」の試合が伝説になり、試合を分析した関連書籍やDVDまで発刊される始末だった。

 それらに触れた少女達が、戦車道に憧れ、その道に入っていくにはそう時間は掛からなかった。

 そしてここにも多分に漏れず、決勝戦の熱気に取り付かれた少女がいた。

 

 

3/

 

 

 

「いやー、熊本は大洗に比べると暑いであります」

 

 夏休みまっただ中の炎天下の中、熊本駅の改札で彼女は戦車道雑誌を片手にきょろきょろと周囲を見回していた。

 

「ええと、エキシビションの会場までは熊本駅からバスが出ているはずなのですが……」

 

 戦車道雑誌の巻末ページを凝視していた彼女は、目当てのバスターミナルを見つけると軽やかな足取りでそこに駆けていった。

 だが、駅前のバスターミナルは既にそのエキシビション目当ての人々で溢れかえっていた。

 

「あちゃー、もう一本早い新幹線でくれば良かったですかねえ」

 

 満員のバスに押し込められながら少女はそう呟いた。

 どうせ交通費は学園持ちなのだから、値段が少々高くても朝方の空いている新幹線を頼めば良かったと後悔しているのだ。

 

「しかし、うちの生徒会も何考えているかよくわかりませんね。後期から戦車道を復活させるから、強豪校の試合を偵察してこい、なんて。いや、戦車道復活は嬉しいんですけれども、果たして私にそれがつとまるでしょうか……」

 

 ぼんやりとこれからのことを考えながら、バスに揺られること十数分。

 辿り着いたのは熊本城の威容が覚めやらぬエキシビションの会場だった。

 

「うわー、大きいですね。ここがその会場ですか」

 

 足下に敷かれた白砂の照り返しに汗を流しながらも、彼女は表情を輝かせて周囲を見回した。

 ふとその時、前を歩いていた少女のリュックからキーホルダーが外れて、地面に落ちていくのを見た。

 慌てて駆け寄ってみれば、包帯を体中に巻いた、正直言って悪趣味なクマのキーホルダーだった。

 でもそれが、落とし主に届けぬ理由にはならないと、彼女は前を歩いていた少女に走り寄った。

 

「すいません、これ落としましたよ!」

 

「え?」

 

 振り返ったのは彼女より幾分か年下の少女だった。銀色の髪をサイドテールにし、腕にはキーホルダーと同じクマを抱えている。

 

「わわっ、ありがとう! 大事なボコをなくしちゃうところだった。ありがとう、お姉さん」

 

「いえいえ、お安いご用ですよ。今度からは気をつけて下さいね」

 

 目的は果たしたと、彼女は再び歩みを進めようとする。だが袖をいきなり掴まれてそれは適わない。

 何事か、と先ほどの少女を見れば、少しばかり照れながらこんなことを言った。

 

「私、島田愛里寿っていいます。お姉さんは?」

 

「え? 名前ですか? 秋山優花里ですけど」

 

 優花里は若干困惑の色を滲ませてそう返した。自慢ではないが、彼女にとってこれまでの人生、それほど人と関わって生きてきたわけではないのだ。

 少女――愛里寿はそんな優花里に向かって笑いかけた。

 

「秋山さんも試合を見に来たんでしょう? なら一緒に見にいきませんか」

 

「島田殿もエキシビションを観戦しに来たのですか!? いやー、その年で戦車道に興味がおありとは、将来有望ですね!」

 

 戦車道、と言われて愛里寿は若干表情を曇らせた。

 

「……実はお母様から見に行きなさい、って言われたの。でもちょっとばかり心細くて。だから一緒に来てくれると嬉しい」

 

 元来、人付き合いが苦手な優花里だったが、年下の少女にそう言われて断れるほど腐ってもいなかった。

 すぐに優花里は笑顔になると、愛里寿の手を引っ張った。

 

「そんなことならお安いご用ですよ! これでも私、戦車には詳しいんですよ? わかんないことがあったら何でも聞いて下さいね!」

 

 

4/

 

 

 アイドリングしたティーガーⅡの上で、エリカは試合前の最終確認を行っていた。

 黒森峰謹製のチェックリストに整備項目を書き込んでいくのだ。

 そんなエリカの様子を、紅茶を傾けながら優雅に眺める人影があった。グロリアーナのダージリンだ。

 

「随分と真面目なのね。それが強さの秘訣かしら」

 

「……うるさいわね。私、まだあんたたちのこと許していないから」

 

「あら、妹さんにはお許しを得たのだけれど」

 

「それとこれとは話が別なのよ!」

 

 何故違う高校の二人がこうして轡を並べているのか。

 理由はエキシビションの形式にあった。

 第62回全国戦車道大会十連覇の偉業を讃えて、熊本県が戦車道連盟にオールスター方式の試合開催を企画したのが全ての始まりである。大会に参加したそれぞれの高校の代表者が集い、二つのチームに分かれてフラッグルールで試合を行う。それがこのエキシビションの形式だった。

 つまりは黒森峰のエリカとグロリアーナのダージリンが同じチームに配属されたのである。

 

「ならこれはご存じかしら?」

 

 言われてエリカはダージリンの方を見た。

 彼女はいつのまにかティーカップの代わりに、銀色に光るネックレスを持っていた。

 小さなベルのような物がこしらえられた上等なネックレスだ。

 そしてエリカはそれに身に覚えがあった。

 

「あっ、それカリエがいつの間にか身につけていた奴じゃない!」

 

 そう。ダージリンが手にしていたのは、カリエがここ数週間のうちに肌身離さず持ち歩くようになったネックレスと同じ物だった。

 もともとそういった装飾品に興味がなかったカリエが急に身に付けだしたので、エリカも疑問に思っていたのだが、出所を聞くに聞けないでいたのだ。

 

「ええ。決勝戦が始まる前に、カリエさんに渡した物よ。正式に謝罪をした折りに『幸運と貴女の勇気を讃えて』と贈らせて貰ったの。幸運のラッキーベル。ふふっ、あなたの妹さんとおそろいね」

 

「……あんたやっぱむかつくわね!!」

 

 噛みつかんばかりに吠えるエリカを見て、ダージリンはくすくすと笑った。

 案外、相性が良いとも言える二人だった。

 そんな二人のやり取りが一段落した頃、エリカと同じようなチェックシートを手にしたまほが近づいてきた。

 

「二人とも準備はいいか? こちらの青チームは我々の他にサンダースの隊長と副隊長、それに随伴する隊員達の車両が5両。継続高校の隊長と車両が2両だ。対して赤チームはみほにカリエ、それにプラウダの隊長と副隊長、随伴が5両。グロリアーナの車両が2両だ」

 

 チームの編成を聞いたエリカが表情を引き締める。

 ダージリンはあくまでも紅茶を傾け、その余裕を崩さなかった。

 

「みほとカリエが敵に回ったが、やることは変わらない。指揮は私が執るが、エリカやダージリンも気が付いたことがあったら何でも言ってくれ」

 

 

5/

 

 

 ところ変わって、赤チーム。

 カリエとみほ、そしてカチューシャとノンナは臨時につくられた天幕で作戦会議を行っていた。

 

「で、カリーシャ! 何か作戦はあるの?」

 

 カリーシャと呼ばれたカリエは、うーんと首を捻った。

 やがて数秒も経つと、妙に神妙な顔つきでこう言った。

 

「特にない」

 

「特にない、って何よ! やる気あるの?」

 

「まあまあ、カチューシャさん落ち着いて」

 

 興奮するカチューシャをみほが宥めるが、結局は焼け石に水。カチューシャはカリエに詰め寄った。

 

「いくらエキシビションといっても私は本気なんだから」

 

 けれどもカリエは特に焦った様子もなく、のんびりと答えた。

 

「知ってる。だから敢えて小細工はやらない。正面からエリカ達を叩きつぶす。みほとカチューシャの戦略眼なら決して不可能ではない」

 

 そこまで言われると満更でもないのか、カチューシャは仕方ないわねと笑いながら座った。

 隣に腰掛けていたノンナもそっと微笑みながら二人の様子を見守っている。

 何だかんだいってカチューシャの扱いが上達してきているカリエである。

 彼女はエキシビションのフィールドが描かれた地図を見下ろしながら、続けた。

 

「エリカは私の手を知り尽くしている。それを逆手に取られるようなことはしたくない。けれどもみほとカチューシャはそれぞれ隊長とダージリンに手の内を知られていない。三人寄れば文殊の知恵。私たちは私たちのチームワークで戦う方が良い」

 

 カリエの言葉にカチューシャが不敵に笑った。

 みほも力強く肯く。

 

「例えお祭りでも勝ちに行くのが私の戦車道。みほ、カチューシャ。力を貸して」

 

「ふん、仕方ないわね。このカチューシャ様が手を貸してあげるんだから負けは許さないわよ!」

 

「ええ、頑張りましょう!」

 

 固く手を握り合った三人が天幕を出た。

 カリエはぐっぐ、と伸びを一つし、みほは被っていた帽子の位置をきっちり整えた。

 ノンナはぴったりとカチューシャの側に付き、天幕を出た途端に彼女を肩車した。

 

 それを見て呆気にとられたカリエとみほに、カチューシャは声を上げた。

 

「どう!? カチューシャとノンナは一心同体! あんた達の姉との絆にだって負けないんだから!」

 

 笑い返したのはカリエとみほ、二人同時だった。

 

「「こちらこそ!」」

 

 昨日の敵は今日の味方。

 共に戦車道を歩む同士なれば友になれる。

 そんな道なき道を突き進んでいく、少女達の姿がそこにあった。

 

 

6/ Epilog

 

 

「カリエ、カリエ!」

 

 誰かが名前を呼んでいた。声色は自分と全く同じ。でも調子だけが決定的に違う。

 そんな人物はこの世に一人しか居ないとカリエはのそのそと起き上がった。

 

「いつまで寝てるの! もう直ぐ試合が始まるわよ!」

 

 身体を捻ってみれば妙に背中が痛んだ。ふと自分が寝ていた場所を見下ろせば、それは戦車の天蓋だった。

 もう何年も乗り続けているパンターの天蓋だ。

 ポリポリと頭を掻いたカリエは寝ぼけ眼でエリカを見た。

 

「懐かしい夢を見てた」

 

「はあ、いつのよ?」

 

「高校三年生と一年生の夏の夢。片方は負けて、片方は勝った。どれも私の宝物」

 

「馬鹿ね。負けたのは二年生で三年生は勝ったわよ」

 

 エリカの呆れたような声に、カリエはううん、と首を振った。

 

「負けたんだ。前の三年生の時は。でも今思えば、それがとても愛おしく思える」

 

 よっこいしょ、とカリエは立ち上がる。

 この日のために新調したタイトスカートが皺になっていたが、そんなことを気にするような彼女ではなかった。ついでに、胸元へぶら下げていたラッキーベルをシャツの中にしまい込むと、軽やかな足取りでパンターの車長席に収まった。

 姉のエリカもそんな妹を見届けて、ティーガーⅡの車長席に戻る。

 

「いよいよ決勝なんだから気合い入れなさいよ」

 

「……これが終われば世界一かと思えば、なんか妙な気分」

 

 ドゥルンッ、と豹と王虎の動力が唸りを上げた。

 車体を揺らす微細な振動は、彼女たちが暴れ出す直前の合図。

 

「まほ隊長とみほ副隊長は後方で本隊の指揮を執るわ。私たちは二人で敵の偵察及び、攪乱。余裕があれば強襲ってとこかしら」

 

「まあ、あのドイツ代表が相手だからそこまで上手くいかないと思うけどね」

 

 試合開始の空砲が鳴り響いた。エリカとカリエ、二人の操る鋼鉄の獣は地響きを奏でながら、ゆっくりと前進する。

 

「あら、そうかしら。カリエと一緒ならそれくらい朝飯前だと思うけれども」

 

「もう昼時だけどね。でも、余裕なのは確か」

 

 パンターとティーガーⅡの砲塔側面には煌びやかなエンブレムが刻まれていた。

 それは円を描く二匹の蛇。二人で一つの無限の蛇は、逸見姉妹の象徴だった。

 

「さて、いい加減 大洗シーデビルズのウロボロスを、世界のウロボロスにしよっか」

 

 カリエの軽口にエリカは微笑んだ。

 

「あんた、そう言って一年の時もMVPをかっ攫って行ったからね。今回も有言実行しなさいよ」

 

 2両の戦車は徐々に速度を上げていく。けれどもその動きに乱れはなく、互いが互いの鏡のように表裏一体となって動いていた。

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

 心地の良い風がカリエの銀髪を揺らしていた。

 エリカが何? と答える。

 

「戦車道って、楽しいね」

 

「馬鹿ね、二人一緒だから楽しいのよ」

 

 カリエの夢の続きは、まだまだ終わらなかった。

 ここまで来るのに随分と時間が掛かってしまったが、だからといってここが終着点ではない。

 彼女は彼女の道を、これからもひたすら歩いて行く。

 そこにどんな困難が待ち受けていても、もう逃げたり、心が折れたりしないだろう。

 何故ならカリエは理解しているから。

 いつも隣に佇んでいる、たった一人の分身がいつまでもその手をとってくれるということを。

 

 

 

 黒森峰の逸見姉妹 了

 

 




「……どうしよう。こっそり姉のウォークマンをパクっ……じゃなかった。借りてみたら、全国放送で流れた『お姉ちゃん大好き!!』が無限リピートで入ってた」

「……言いたいことはそれだけかしら?」

「ふるふる。暴力は止めよう。エリカのボクササイズで鍛えたパンチは本当に危ない」

「大丈夫よ、一撃で終わらせてあげるから」

「私たちは一心同体。二人で一つの蛇。だから片方が傷つくの良くない」

「私のプライドは何もかもズタボロよ!」

「……でも、エリカも人が悪い。録音なんか聞かなくても、私がいつでも言ってあげるのに」

「それ本当なんでしょうね!? 嘘だったら承知しないわよ!」

「……ごめん、やっぱそこまで必死になられるとちょっと引く」

「ふざけんじゃないわよ!」


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幕間 秋山優花里の夢
秋山優花里の夢


ちょっとした小話です。正直、62回大会はまだ構想段階で何も決まっていないに等しいです。


 やけに馬鹿でかい荷物を持って、秋山優花里は大洗女子学園の学園艦に戻ってきていた。

 両手に掲げた紙袋には熊本銘菓と戦車道関連グッズがこれでもかと詰め込まれ、背負っていたリュックサックには包帯を巻いたクマのキーホルダー、「ボコ」が吊されていた。

 

「不肖、秋山優花里、ただいま帰還いたしました!」

 

 勢い良く木製の扉を開ければ、そこは生徒会室。

 中には既に先客が三人おり、それぞれ優花里に労いの言葉をかけた。

 

「お疲れ様。わざわざ熊本までありがとう。本当なら私たちが行かなければならないんだけれども、前の生徒会の引き継ぎに忙しくって」

 

「おお、秋山か。ご苦労だった。早速資料の方を見せてくれ」

 

「いやー、暑いところお疲れちゃん。どう? エキシビションは楽しかった?」

 

 三人の生徒会役員はそれぞれ小山柚子、河嶋桃、角谷杏といった。

 優花里は三人に手にしていた紙袋を手渡すと、備え付けのソファーに腰掛ける。

 

「さすがに生の試合はすごい迫力でしたよ。あ、生っていってもパブリックビューイングで、音だけが少し遠くの方で聞こえてくる感じでした」

 

 向かい側に腰掛けた三人はそんな優花里に次々質問を飛ばしていく。

 

「そっか、そっか。で噂の西住姉妹、逸見姉妹はどうだった?」

 

「うーん、わたくし自身が戦車道未経験者なのではっきりとは言えませんが、間違いなく他の選手よりも目立っていましたね。西住姉妹のまほさんが3両、エリカさんが4両撃破しましたし」

 

「と、なると青チームだったか? 姉達が勝ったのか?」

 

 桃の疑問に、いえいえと優花里は首を振った。

 

「僅差で赤チームが勝ちましたよ。殆どの車両を撃破されましたけれど、逸見姉妹のカリエさんがみほさんとプラウダの隊長と協力してまほさんを撃破したんです。あっ、今回の試合はフラッグ戦と言いまして、あらかじめ決められた特定車両を撃破した方が勝利なんです。青チームのフラッグ車がまほさんで、赤チームがみほさんでした」

 

「成る程成る程。保有車両の優劣が必ずしも試合結果に結びつくわけじゃないんだねー。これは戦車道で一山当てれるかもね」

 

 にしし、と笑う杏に優花里は苦笑を溢す。

 確かにフラッグ車を撃破さえすれば一発逆転の目はある。けれどもそのフラッグ車を追い詰めるまでの過程を実際に見てきた彼女は口が裂けても勝つことが簡単だとは言えなかった。

 

「大丈夫、大丈夫。そこまで甘くは考えていないよ。プロ野球選手だって素人相手に三振することもあるっていうものの例えだよ。可能性はあるにはあるけれど、それが限りなく低いということは理解しているつもりさ」

 

 ぺらぺらと会場で配布されていたパンフレットを杏は捲った。

 

「秋山ちゃんはさ、実際に現地に行って戦車道の今後をどう見た?」

 

「今後ですか? そりゃあ、あれだけ華やかな選手の方々が揃っているんですし、しかも毎日のように全国放送されていますし、一時の熱気が戻ってくるんじゃないでしょうか」

 

 優花里の告げたとおり、此度の黒森峰主催試合は異例の観客数となっていた。

 開催地の熊本市も全力でエキシビションをサポートしたこともあってか、現地はちょっとしたお祭り騒ぎになっていたのだ。

 試合後、自走できる車両に乗った選手らが市内の大通りを凱旋したことは、優花里の記憶にも新しい。

 

「そう、それなんだよ。本屋に行けば戦車道関連の書籍で溢れかえっているし、ビデオ屋に行けば決勝戦のDVDが全て貸し出し中。インターネットの再放送も人が多すぎてサーバーダウン。これはちょっとした社会現象なわけだ」

 

 そこまで言って杏は手にしていたパンフレットを優花里に返した。

 そして自身のデスクに戻ると、やや分厚めの冊子を一つ持ってきた。

 

「なんですか、これ」

 

「まあ見てみなよ」

 

 言われて優花里が冊子に目を通す。

 中身は文部科学省が発表した報道資料が纏められたものだった。

 

「全国戦車道活性化の手引き?」

 

「数年後に戦車道の世界大会があるらしくてさ、それに向けて国内でいくつかのプロチームを発足させるんだって。茨城にも予定では一つチームができるよ。で、それらの選手を確保するためか全国の戦車道を開講している高校は文部科学省から助成金を貰えるんだよ」

 

「おおっー、それは凄いですねえ! ていうことは大洗も!?」

 

「後期から戦車道の授業を開講するよん。結構昔に廃止になっちゃったみたいだけれど、書類上は戦車もいくつか残っている筈なんだよねえ。あとはそれを動かす人なんだけれど、それの指揮を秋山ちゃんに頼みたいんだ」

 

 一瞬優花里は言われている意味がわからなかった。己のほっぺたを両方ともつねってみて、さらにはその場に立ち上がって周囲をぐるぐる回ってようやっと、現実を受け入れることが出来た。

 

「ええっー!? わたくしがですか!?」

 

「そそっ。わざわざ熊本まで試合を見に行って貰ったのも、少しでも戦車道の感覚を知って貰うためだよ。来年に向けて戦車道経験者の中学生に粉を掛けたりはしているんだけれども、当面は秋山ちゃんが頑張ってね-」

 

 急な申し出に優花里は困惑した。

 確かに戦車は好きだ。

 生まれて初めての海外旅行はドイツの戦争博物館だったし、アルバイトで稼いだお金は全て戦車グッズに消えている。寝ても覚めても戦車戦車の生活と言っても良い。

 もちろん、実際に戦車を操ることの出来る戦車道に興味がないわけがなかった。

 けれども彼女には即断出来ない理由があった。

 随分と返答に悩む秋山を見て、桃が首を傾げた。

 

「お前が無類の戦車好きなのは聞いているぞ。何をそんなに迷っている。普通なら即決じゃないか」

 

「いや、確かにお言葉は有り難いですし、わたくしは戦車が大好きです。でも、あの熊本の試合を見たあとだと、本当にそんな動機で戦車道を始めて良いのかわからないのです」

 

 何を生意気な! と苛立ちを募らせる桃を押さえて、杏が優花里に問うた。

 

「聞かせて貰える?」

 

「はい、熊本の試合で見たのはひたむきに戦車道に打ち込んでいる選手の皆さんでした。とくに逸見姉妹のカリエさんは、今大会でパニック障害を患いながらも最後まで戦い抜いていました。水に対するトラウマで足が竦んで動けないはずなのに、彼女はチームのため身を挺して、川を下るという強襲作戦も成功させました。そんな覚悟をいざ間近で見せられると、わたくしのような半端者が同じ道を歩んではいけないと思ってしまうんです」

 

 優花里の返答に杏はしばし考えた。

 滅多に見ない杏の長考に、側に控えていた桃が「かいちょー」と情けない声を上げる。

 だが、ややあって杏は意を決したように口を開いた。

 

「秋山ちゃん、戦車って、決められた、綺麗な道しか走れないのかな?」

 

 杏の言葉に優花里は直ぐさま食らいついた。

 

「そんなことはありません! 戦車は道なき道を行くための乗り物です! 戦車は火砕流の中だって、川の底だって走れるんです!」

 

 言って、優花里は「はっ」と言葉を失う。

 

「そうだよ。戦車は決められた道を行くものじゃない。黒森峰の逸見姉妹が行く道と、私たちが行く道が同じである必要はないんだ。秋山ちゃんは秋山ちゃんの動機で、秋山ちゃんの戦車道を見つければ良い」

 

「……わたくしの戦車道」

 

 今度は優花里が長考する番だった。

 彼女はテーブルに置かれていたエキシビションのパンフレットを見つめ、静かに考えを纏めた。

 杏も、桃も、そして柚子も答えを焦らすようなことはしなかった。

 凡そ五分が経過しようとしたその時、ぽつぽつと優花里が口を開く。

 

「私、幼い頃から本当に戦車が大好きだったんです。けれども、そのせいで周りから浮いてしまい友達は殆ど居ませんでした。両親にはたくさん迷惑を掛けましたし、わたくし自身も辛い思いをしました。だからせめて高校くらいは普通に過ごそう。両親に心配を掛けないような、普通の高校生になろうと考えたんです」

 

 でも、と彼女は続ける。

 

「戦車に対する情熱だけはいつまで経っても捨て切れていません。正直、角谷さんから熊本行きを命じられた時は天にも昇るような気持ちでした。そしてこの目で見てきた戦車道はとても楽しそうで、私が憧れていたときのままでした」

 

 優花里の中ではもう答えが決まっていたのだろう。

 即決できなかったのは彼女が言うとおり戦車道の世界に飛び込んでいく資格が自分にあるのかどうか、迷っていたからだ。

 誰かが背中を一押ししてやれば、優花里は決断することが出来た。覚悟を決めることが出来た。

 

「わたくし、戦車道をやります。やりたいです。やらせてください。素人も素人でどこまでやれるかは全くわかりませんが、みなさんに頂いたこの折角の機会を逃したくはありません! わたくしは、わたくしの内に燻った戦車に対する愛で戦車道をやってみたいです!」

 

 優花里の力強い言葉に杏は笑った。笑って、その小さな手を差し出した。優花里がそれを掴むと、大きさはからは想像も出来ないような力で、がっちりと掴み返してきた。

 

「秋山ちゃんの思い、確かに聞いたよ。私たちに出来ることがあれば何でも言ってね。何でも協力するからさ」

 

「はい! よろしくお願いします!」

 

 こうして、大洗女子学園の戦車道参加は決まった。

 誰も覚えていないような昔に戦車道を廃止してしまった無名の弱小校。

 保有車両は貧弱で、乗員は素人ばかり。

 そんな泡沫の夢のような高校が、第63回全国戦車道大会において黒森峰女学園と歴史に残る名勝負を繰り広げるまで、まだもう少し時間が必要だった。

 

 

 

 秋山優花里の夢    了

 

 




「お姉ちゃん大好き。だからチャンネル変えても良い?」

「お姉ちゃん大好き。だから風呂掃除お願い」

「お姉ちゃん大好き。だからこのお菓子買ってもいい?」

「お姉ちゃん大好き。だからもう少し寝かせて?」



「……あんたね、『お姉ちゃん大好き』と言っていれば、私が何でもしてくれると思ってんじゃないわよ!」


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第二章 秋山優花里の戦車道(TV版)
秋山優花里の戦車道 00 


すいませんOVAよりもさきにこちらができあがったので投稿します。


 逸見カリエが黒森峰女学園に入学して、二度目の夏がやって来た。

 一度目の夏に比べればまだ若干過ごしやすい、俗に言う冷夏の八月。

 けれども窓の向こう側では、この季節独特の大合唱。

 海に浮かぶ学園艦だというのに蝉の声は元気も元気で、ベッドの上で大の字になっていたカリエは思わず眉を顰めた。

 たんたんたん、と包丁とまな板が奏でるリズム良い音がする。

 鼻孔には炊きたてのご飯と、程よく出汁の利いた味噌汁の匂いが届いた。

 まだ半覚醒状態の頭で、彼女は何となく朝の訪れを感じ取っていた。

 

 そろそろ起き上がらねば、口うるさい姉にどやされる。

 

 決して前向きとは言えない理由ながらも、何とか起きようかと身動ぎしてみれば、金縛りに遭ったかのように身体が動かないことに気がついた。

 まさか連日の猛練習が祟ったのか。よりによってこんな時期に、と冷や汗を流す。

 ただ冷や汗どころか、かなりの寝汗を掻いていることに気がついて、どうして扇風機も回しているのにこんなに暑苦しいんだ、と思い至ったとき、カリエの意識は完全に覚醒した。

 そして呆れ混じりに声を漏らす。

 

「……やっぱり」

 

 首だけを動かして己の左半身を見てみれば、ピンク色の物体ががっちりと絡みついていた。

 そのピンク色が「うーん」と呻き、栗色の髪ががさごそ揺れているのを見てカリエは「はあ」と溜息を一つ吐き出した。

 そして、もぞもぞとピンクのホールドから腕だけを器用に抜き出し、栗色の髪を何度か叩く。

 

「みほ、起きて。そして離れて。暑い」

 

 簡潔な言葉を受けて、栗色の髪の持ち主――西住みほは寝ぼけ眼をこすりながら欠伸をしたあと、自身が抱きついているカリエを見上げて「おはよう」と笑った。

 

「えへへ、三人で作戦を考えてたらいつの間にか寝ちゃってたみたい」

 

「……少なくともみほが寝落ちしたときには、私たち、エリカを挟んで川の字の両端だったと記憶しているんだけれど」

 

 じとっとカリエ独特の三白眼を受けてみほは「ごめんね」と頭を掻いた。

 

「いや、カリエさんがなんか冷やこくて、つい……」

 

「じゃあ離れて。一刻も早く。エリカが来る前に」

 

 若干焦りを含んだカリエの様子が普段とは違っていて面白かったのか、みほは悪戯っぽく首を横に振った。

 

「えー、やだー。だってカリエさん、朝になっても冷たいんだもん」

 

「私は暑いの。いや、心はもううすら寒いけれど」

 

 おたおたと逃げ出そうとするカリエを、みほはしっかりとホールドしていた。

 ああ、これはもう駄目かもしれないとカリエが諦めにも似た感情を抱いたその瞬間、二人がじゃれていた寝室の扉が開け放たれる。

 

「カリエ! みほ! いい加減起きなさい! いくら夜遅くまで作戦会議していたって言っても、寝坊は許されないわよ……って、朝っぱらから何やってんのよ!」

 

 黒色のエプロンに身を包み、朝食の用意を終えたエリカがそこから顔を覗かせていた。

 ただ、その表情はカリエとみほの有様を目にして、真っ赤に、そして明らかに怒っていた。

 カリエはこれから飛んでくるであろう小言を覚悟して、やや大げさに肩を落として見せた。

 

01/

 

 

「たくっ、朝っぱらからいちゃいちゃいちゃいちゃと、信じらんない!」

 

 卓についたカリエとみほへご飯をよそいながら、エリカは小言を垂れていた。

 それに対してみほは、表情を崩しながら「ごめんなさーい」と答えている。対するカリエは、みほの命知らずな言動に冷や冷やしながら皿に乗せられた焼き魚を突っついていた。

 

「大体二人とも気が緩みすぎなのよ。明後日は私たちの十一連覇を掛けた決勝戦があるんだから、もっと緊張感を持ちなさい。そりゃあ、連日の作戦会議で疲れているのはわかるんだけど」

 

 ちらり、とエリカが寝室の方に目をやれば、寝床一面に広げられた地図や対戦校の資料が目に入った。

 それは寝る間を惜しんで、妹と親友が議論を重ねている証拠でもある。

 だからこそ、彼女はそれほど強く二人の寝坊を咎めようとはしなかった。

 むしろ、ゆっくりと時間ぎりぎりまで寝かせて、朝食の用意を買って出るほどである。

 

「ところでカリエ。対戦相手の資料は見つかったの? 黒森峰の図書館にも、隊長――じゃなかった。まほさんとみほの実家にも問い合わせたようだけれど」

 

 エリカの言葉を受けて、カリエは傾けていた味噌汁の椀を元に戻した。

 

「残されているデータが全部二十年以上前のものだったから、実質収穫はゼロ。つまりはノーデータの学校ということになる」

 

 カリエの返答を受けて、エリカの表情がみるみる厳しくなった。

 

「いくら素人同然の弱小校とは言え、あのプラウダを破って来たんだからノープランで試合に臨みたくはないわね。最悪、これまでの公式戦――いっても三試合だけれども、それを徹底的に洗うしかないか」

 

 いいや、とカリエはエリカの提言を否定した。

 

「あそこは試合ごとに何かしらの新戦力を投入しているから、これまでの公式戦のデータだけを信頼しすぎると痛いしっぺ返しに合うかも。まさかないとは思うけれど、ティーガークラスの戦力を用意されると、こちらの立てる作戦の履行が危うくなる」

 

「なら、私たちが一番得意とする、正面からの総合火力で押しつぶすのが最善かも……」

 

 ぼそりとみほが言葉を零したのを見て、双子の姉妹は難しい顔をした。

 そしてそれぞれが食事の手を止めて、みほの提案に頭を捻る。

 

「向こうの出方がわからないのならば、こちらが最も習熟度が高い戦法で押しつぶしてしまうのが得策といえば得策か」

 

 エリカに被せてカリエも口を開いた。

 

「でも何だろう。彼女たちの準決勝ーー、プラウダ戦を見たときからどうしても胸騒ぎがする。何か先読みが過ぎるというか、各高校の戦法に熟知しすぎているとか」

 

 カリエが思い出しているのは、詰め将棋のように戦略を潰されていくプラウダの様相だった。

 昨年、あれだけ苦労して何とか勝ち抜くことが出来た最大のライバルが追い詰められていたその姿が、何とも自分たちに重なって不気味だった。

 妹のそんな後ろ向きな思考を読んだのか、エリカはかぶりを一つ振ると、さっさと朝食を掻き込んで力強くその場を締めにかかる。

 

「これ以上、つべこべ言っても仕方ないわ。私たちには私たちの、王者には王者の戦い方っていうものがある。なら、それを完遂することが出来るよう、残された時間を使って少しでも練度を上げるべきなのよ」

 

 特に反論が思いつくほど、残された二人に妙案があるわけではなかった。

 それから先は、思い思いに朝食を楽しむ、静かで穏やかな時間が流れているだけだった。  

 

 02/

 

 

「カリエ副隊長、車両の準備が整いました」

 

 声に振り返ったのは、きらきらと光る銀髪が美しい、黒森峰の双子姉妹の妹――逸見カリエだった。

 今年から黒森峰女学園に入学した一年生である佐久間ナナは緊張した面持ちで、カリエの翡翠色の視線を受け止める。

 彼女からしてみれば、昨年の全国大会で伝説的な功績を残した逸見姉妹を前にして、緊張するなという方が難しい話だった。

 

 中等部からの持ち上がりではなく、高等部への編入試験を経て黒森峰女学園の一員となった彼女からしてみれば、突如として有名人が身近に現れたようなものだったから。

 そんなナナの心境は露知らず、カリエは暢気にエリカに声を掛けていた。

 

「ありがとう。 ……エリカ、先に演習場を回ってる。あと新品のパワーパックのテストもついでにやってくる」

 

「あんま飛ばしすぎるんじゃないわよ。前のエンジンは酷使が祟ってお釈迦になったんだから。島田流でもないのに無茶しすぎなのよ、あんたは」

 

 車両点検の項目が記載されているであろうチェックシートから目を離すことなくエリカがカリエに言葉を返していた。

 ナナにとってはエリカも雲の上の存在の人物ではあったが、一応は違う車両の車長だったのでカリエほど緊張する存在ではなかった。

 変わった話ではあるが、パンターG型の狭い車内ですぐ近くに、それもほぼ毎日同じ空間にいるカリエの方がどうしても意識してしまう対象なのだ。

 

「よし、では佐久間さん。早いとこ車両庫に行こう。今日は紅白戦もないから新しいパワーパックの挙動に全員で慣れてしまおう」

 

 言われて手を引かれた。

 顔に熱が集まって、色が赤色に近づいていくのがわかる。

 緊張の度合いが一気に増し、視界がぐるぐると回り出した。

 そんな調子のまま、車両庫でアイドリングを続けていたパンターに近づいてみれば、通信手である同級生の一人がからかってきた。

 

「あんたカリエ先輩に惚れてんの?」

 

 馬鹿っ、と慌てて彼女の口を塞ぐ。続いてパンターの側面からよじ登っていたカリエを見る。幸いそのやりとりは見られていなかったようで、車長席に収まったカリエが不思議そうにこちらを見た。

 

「早く乗って。佐久間さんが乗らないと誰もパンターを動かせない」

 

 

03/

 

 

 わざと不整地にされた演習場を一両のパンターが進んでいく。巧みにギアチェンジを繰り返し、最低限の減速だけで凹凸を踏破している。

 

「次、70センチ。右にやや傾斜。速度このまま。進行方向やや左」

 

 咽頭マイクへの指示と同時、カリエのブーツのつま先がナナの背中を叩いた。

 最近は少しずつ慣れてきた感触を受けながら、ナナは要求通りの操作を行う。

 

「よし、良い感じ。あと半周すれば一旦休憩しようか」

 

 カリエの言葉に乗員たちが少しばかりの安堵の息を漏らした。栄光の黒森峰の副隊長の車両と言うことで、その乗員たちはそれなりの緊張感を持って搭乗をしていた。ただ、佐久間ナナのようにカリエ個人に対して緊張しているというわけではなかったが。

 前年度の全国大会から丁度一年。

 逸見カリエの車両は二年生と一年生を中心に構成された随分と年若いチームだった。

 装填手のルミが抜けた場所を通信手だった同級生が埋め、砲手は去年からそのまま。ただ操縦手と通信手が新入生である一年生となっていた。

 一年生と言っても中学生の世界ではそれなりに活躍してきた戦車道エリートであり、王者黒森峰に入学することが出来るだけの実力を有していた。

 ましてや最重要ポジションとも捉えることが出来る副隊長の車両である。彼女たちの実力はそんな新入生たちの中でも抜きんでているといっても過言ではない。

 

「戦車停止。エンジンはそのまま。後ろからエリカの車両が追いついてくるまで休憩」

 

 カリエがヘッドセットを外したのが休息の合図だった。それまで張り詰めていた車内の空気が若干弛緩し、車内壁面に括り付けられていた水筒からおのおのが水分補給を行う。佐久間ナナも操縦桿から手を離し、覗き窓を全開にして背もたれにもたれ掛かった。

 

「ねえ、佐久間さん」

 

 ふと、上から声が振ってきてナナは飛び上がった。見ればいつの間にそちらへ回り込んだのか覗き窓の向こう側からカリエがこちらを覗き込んでいた。

 敬愛する車長の視線にドギマギしながらも、何とかナナは平静を装う。

 

「な、なんでしょうか。副隊長」

 

「カリエでいいよ。副隊長だとエリカと区別が付かないから」

 

「ならカリエ先輩でお願いします。ところで何かご用でも」

 

 カリエはそんなナナの様子を深く追及することなく、単調直入に問うた。

 

「新しいパワーパックはどんな感じ?」

 

 そんなことを聞かれて、ああ、そう言えばエンジンを載せ替えたばっかだったんだなとナナは妙な納得をしていた。

 納得をして、思いついたまま答えていた。

 

「前のエンジンは結構癖が――前任の操縦手の人の癖が残っていてそれはそれで面白かったんですけれど、今回は新品で癖がなく扱いやすさは段違いだと思います。ただ、土壇場で無理をした時、どこまで大丈夫なのかボーダーラインが探れないので、そこだけが怖いですね」

 

 自分でも驚くくらい、すらすらと述べることが出来た感想にナナは驚いた。

 やっぱり戦車のことになると饒舌になってしまうあたり、自分も黒森峰の人間なのだと、思い知らされるようだった。

 

「……ボーダーラインかなるほど。ならエリカとの合流は中止。今から森林踏破性能を確かめよう」

 

 言って、カリエはするすると覗き窓から姿を消し、再び車長席に飛び込んだ。

 上級生でもあり車長でもあるカリエが突然現れたことによって、車内に流れていたリラックスムードが霧散する。

 乗員は慌ててヘッドセットや装填用の革手袋を身につけ、ナナも操縦桿をしっかりと握り込む。

 

「演習場南をショートカット。そのままシュバルツバルトへ。安全のため、覗き窓等の使用は禁止。私の目測で行軍を行う」

 

 マイバッハ水冷4ストロークV型12気筒ガソリンエンジンが唸りを上げ、黒煙が一瞬だけ噴き上がる。

 その状態でギアを入れてやればちょっとした衝撃と共に、パンターは履帯を回転させながら前進を始めた。

 ナナの腕が良いのか、直ぐさま理論上の最高速に到達したパンターは一切の躊躇を見せることなく、鬱蒼とした森林地帯に突入していく。

 頭上を飛来していく小枝をかわしながら、カリエが細やかに指示を飛ばす。

 

「前方に倒木。衝撃注意。――おっと、想像以上に脆いな。そのまま速度維持。進路左へ10度。いや、右に2度修正」

 

 一方、操作を任されているナナは割と一杯一杯だった。

 カリエはナナを信頼しているのか、かなりの難度を要する挙動を要求している。これまでは何とか応えられてはいるものの、いつ障害物に乗り上げて行動不能になるのかわからない怖さがあった。

 他の乗員もナナと同じ心境なのか、車内の突起物にしっかりと捕まりながら衝撃に耐えている。

 だがカリエの指示は容赦がなかった。彼女は車内を一切覗き込まないまま、装填手に向けて手文字を作った。丁度「H」の形を横向きにしたようなそれは黒森峰共通のハンドサイン。すなわち「空砲を装填しろ」という命令だった。

 それまで壁面にしがみついていた装填手が弾かれるように行動を開始した。

 彼女だって黒森峰の一員であるという自負心がある。先程までの不安に駆られていた表情を払拭し、数ある砲弾の中から空砲を選択。

 卓越したバランス感覚で、激しく上下する車内の中、砲弾を素早く装填した。

 

「発砲準備完了!」

 

 装填手の報告を受け、カリエが咽頭マイクへ話しかける。

 

「十秒後前方にT-34がいると仮定して発砲。その後、左へ90度ターン。通信手は森が途切れたその直後に本部への通信回復に努めて」

 

 それぞれ指示を受けた砲手と通信手も表情を引き締め、自身の役割に没頭していく。

 砲手は照準を覗き込んで、架空のT-34を睨んだ。通信手は無線機のチャンネルを操作し、直ぐさま本部へ通信できるよう状況を整えた。

 装填を終えた砲手も、次発の可能性を考えて、空砲をしっかりと抱え込んだまま砲身の近くに待機している。

 

「大丈夫。君たちなら何も問題はない」

 

 カリエの声は乗員からしてみれば魔法のようなものだった。

 ひとたび彼女に指示を与えられれば自然と身体が動き、一切の怖れが消え失せてそれぞれの役目に没頭させてくれる。

 それはナナも例外ではなく。

 自分の背後で同級生が、先輩が、ばたばたと動いている気配を感じ取った瞬間、それまで感じ取っていた不安が薄れていった。

 まるでカリエの指示を忠実に遂行していく戦車の部品になったような感覚だった。

 そしてそういう風に感じさせるカリスマが、カリエの持つ伝説的な功績の大きな要因であると言うことに気づかされた。

 

「3、2、1 発射。よし、T-34撃破」

 

 ナナが思いっきり舵を左へ切る。

 やや車体を傾けながらも、しっかりと履帯は地面を踏みしめて90度のターンを成し遂げていた。

 不安はまったくなかった。

 ただカリエの言うとおりにやれば、必ず出来るという安心感があった。

 

「……三十秒後森を抜ける。その後、本部へ連絡。内容は『車両試験完了。エリカの小言は後で聞く』と伝えて」

 

 車内にいた誰かがカリエの言葉に笑った。

 それが合図になったのか、車内にいた皆が皆笑顔で声を漏らしていた。

 ただ一人カリエだけが、「私からしたら笑い事じゃないんだけどね」と困り顔だった。

 

 

04/

 

 

 夏の、少しばかり遅い夕暮れのなか、パンターが車両庫に向かってゆっくりと進んでいく。

 もう車長の指示は入らないだろうと、車内で地形図を眺めていたカリエにナナは声を掛けた。

 

「カリエ先輩」

 

「? どうしたの」

 

 地形図から顔を上げたカリエにナナは言葉を続けた。

 

「今日、何となくわかりました。先輩が指示さえしてくれれば、いえ、先輩が車長である限り私たちは負ける気がしません」

 

 突然の褒め殺しに目をぱちくりとさせるカリエだったが、周囲の乗員たちまでもが「うんうん」と頷いているのを見てますます困惑を深めた。

 

「先輩の声は魔法なんです。先輩の声が私たちに力をくれます。きっとそれは黒森峰にいる皆がそうだと思います。西住隊長も、逸見エリカ副隊長も、他のチームメイトも、みなそうなんです。だから先輩が副隊長でいるかぎり、私たち黒森峰に負けはありません」

 

 それから少し。カリエは虚を突かれたように何も言わなかった。

 けれどもやがてその表情を柔らかく崩すと、後ろからナナの髪の毛をくしゃりと撫でた。

 

「せ、先輩!?」

 

「……ありがとう。なんか胸のつっかえが取れたよ。もしかしたら私、十一連覇のプレッシャーに負けてちょっと怯えていたのかもしれない。見えない何かを怖がって、周りが見えていなかった。こんなにも上手い乗員たちがいるんだ。黒森峰はやっぱり王者だよ」

 

 あわわわ、とテンパったナナが操縦桿の操作を誤った。

 がたん、とパンターの車体が揺れて、慌てて操縦桿を握り直す。

 カリエは突然の衝撃にも動揺せず、静かに乗員たちへ語りかけた。

 

「エリカやみほだけじゃない。黒森峰には君たちがいるんだ。いくら新進気鋭の大洗だってきっと叩き潰してみせる。それが私たち黒森峰女学園だ」

 

 それは決勝戦2日前のやりとりだった。

 後に伝説となる黒森峰女学園 対 大洗女子学園の試合が2日後に迫った夕刻のやりとりだった。

 

 ふと運転席から車長席へ振り返ったナナが見たカリエの表情は、おそらく一生忘れることがないであろう部類のものだった。

 何故なら。

 開けっ放しのキューポラから差し込む夕日に照らされた黄金色の彼女は、黒森峰女学園に勝利をもたらす女神のようだったから。

 

 

05/

 

 

 同日の夜。黒森峰女学園が最後の演習を学園艦で行ってから数時間後。

 仙台沖を一隻のフェリーが航行していた。

 茨城と北海道の苫小牧を結ぶそれは「さんふらわあ」という船名を冠し、中には乗用車やトラックの他に十両にも満たない戦車が積み込まれていた。

 そんなフェリーのデッキの一角にあるソファー席では、難しい顔をした一人の少女が一枚の地形図を相手にペンを走らせている。

 

「いやー、秋山ちゃん。本当に苦労を掛けるね。でも明日も早いんだからそろそろ休もう?」

 

 対面に腰掛けるのは栗色の髪をツインテールに結んだ角谷杏という少女だった。

 走らせていたペンを止めた少女――秋山優花里は難しい顔のまま杏の方へ向き直った。

 

「……ずっと対黒森峰の作戦を考えてはいるんですが、考えれば考えるほど隙がなくて、正直勝機が全く見いだせないんですよ……」

 

 硬い表情から、随分と覇気のない、弱気な声が漏れていた。

 優花里は手元のタブレットを操作して、黒森峰の陣容を杏に示す。

 

「プラウダ高校はフラッグ車を後方で遊ばせる癖と、フラッグ戦でも殲滅戦まがいの戦法を仕掛けてくるという特徴がありましたから、それの裏を突くことでなんとか勝利することが出来ました。黒森峰も去年までならば、正面火力で押しつぶしてくる特性を逆手にとって罠を張ったりすることも可能だったんです。けれども……」

 

 言って、三人の顔写真を見せる。

 

「新西住流ともいうべき、柔軟な用兵を黒森峰に導入した西住みほ選手。そして徹底的に対戦相手のメタを貼り続け、確実に黒森峰へ有利な状況へと戦況を持ち込んでいく逸見カリエ選手。さらにはそんな二人をしっかりとサポートし、卓越した技量とカリスマで切り込み隊長をこなし続ける逸見エリカ選手と隙がなさ過ぎるんです。黒森峰の『足回り』や『機動力』『応用力』という弱点を全て解消しています。さらになんなんですか、この三人は。去年からの公式戦を全て洗いましたが、三人の内誰一人としてここ一年、ただ一度たりとも撃破されたことがないなんて出鱈目にも程があります」

 

 優花里の分析を受けて、杏の表情が引き攣りを見せた。

 

「でもさ、そんな三人だからこそ誰か一人でもやられたら浮き足だったりするんじゃないかな」

 

 杏の言葉に優花里は沈痛な面持ちで首を横に振る。

 

「隊長の西住みほ選手を撃破すればその可能性がありますが、残り二人についてはそれはないと思います。聞けば逸見姉妹の二人はどちらかが撃破されても、戦況に支障をきたさないよう、常に相手のバックアップを引き継げる訓練をこなしているそうです。それにこの三人の車両に配属されている乗員はそれぞれが他の高校に行けばその役割のエースになれるような逸材ばかりです。全員が武部殿や五十鈴殿、冷泉殿のようなものです。正直タイマンを張って敵うような相手ではありません」

 

 そこをなんとかならないかなー、と杏は優花里に縋り付いて見せた。

 優花里もそれを振り払うことは出来ず、ただ漠然と三人の顔写真が並んだデータを静かに見下ろした。

 

「……思えば、私が戦車道をやりたいと思うようになったのは、この人たちのお陰なんですよね」

 

 それがなんたる皮肉なのか、この三人を倒さなければ来年以降の戦車の道は閉ざされる現実が目の前に横たわっている。

 優花里にとっての全ての始まりが、彼女に終焉をもたらそうとする最大の障壁になっていた。

 彼女は杏を身体に張り付かせたまま、ソファーの背もたれに深くもたれ掛かった。

 異変を感じ取った杏が「秋山ちゃん?」と疑問の声をあげるが、敢えて言葉は返さなかった。

 

 彼女の前に積み上げられたのは膨大なコピー用紙の山。

 その一つ一つが大洗女子学園戦車道の軌跡であり、ライバルたちの軌跡だった。

 

 その山をぼんやりと眺めながら、秋山優花里は回想する。

 自分が何故、こんなところにいるのか。

 自分が何故、大洗戦車道チームの隊長として、王者黒森峰に挑もうとしているのか。

 

 全ては昨年の夏休み明けからだった。

 

 

 

 

  

 

 

 



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秋山優花里の戦車道 01 

 月間戦車道ニュース 9月号

 

『黒森峰、破竹の対外試合七連勝。新体制後 未だ負けなし!』

 

 黒森峰女学園の勢いが止まらない。

 国際強化選手に指名された前隊長、西住まほ選手がドイツで行われる強化合宿に参加するため電撃的な引退をしてから一ヶ月。黒森峰は対外試合七連勝という破格の強さを誇っている。

 当初は超有力選手の引退が黒森峰の戦力低下に繋がるのではと心配されていたが、全くの杞憂だった。

 それどころかまほ選手ですら成し遂げられなかった、新体制下無敗という華々しい成績を残している。

 ではその驚異的な強さの秘訣は何なのか。

 本号では新隊長の西住みほ選手、新副隊長の逸見エリカ・カリエ選手の活躍とその能力に着目し、黒森峰女学園の黄金時代を分析していこうと思う。   

 さらに黒森峰の保有車両を本誌独自の視点から……

 

 

01/

 

 

 自分が戦車道というものを何となく意識するようになったのは、小学校の時だったように思う。

 

 四年生の春休み。

 ドイツの戦車博物館に親に連れて行って貰った「わたし」は、その重厚な存在の虜になっていた。

 たぶん初めての海外旅行ということで浮かれていたというのもあったのだろうが、照明に照らされて静かに鎮座している戦車たちは何とも言えない魅力が確かにあった。テレビで見るような縦横無尽に走り回る戦車も良かったが、こうして役目を終えてただ観客を楽しませる老兵も好きになった。

 だからこそ、その年の夏休みの国内旅行で「戦車道博物館」に行きたいと親にねだったのはごく自然な流れだったし、親も親で嫌な顔一つせずにそこへ連れて行ってくれた。

 人生初めての九州。火の国熊本。

 西住家が出資するその豪華な施設は、幼い「わたし」の目には随分と輝いて見えた。

 巨大な車両庫に並べられた戦車たちは歴戦の傷痕が残されたものもあり、「わたし」に戦車道という世界の一端を教えてくれていた。

 自分が大好きな戦車を使って競うことのできるスポーツが存在するという事実が嬉しかったし、またワクワクもした。

 外からしか見たことのないあの鋼鉄の怪物たちに乗り込めば、どんな景色を見ることが出来るのか夢中で想像を膨らませていた。                      

 あまりにも「わたし」が展示物に釘付けになっているので、やや困り顔を浮かべていた両親は、集合時間だけを告げて二人して施設外の休憩所に赴いていた。

 今思えば、降ってわいてきた夫婦の時間というものを大切にしたいという思惑もあったのだろう。

 そんなわけで、「わたし」は一人、館内パンフレットを握りしめながらたくさんの戦車の間を練り歩いていた。

 西住家の試合で活躍したのであろう、ティーガーⅠやパンター、Ⅳ号戦車に一々感動し、パンフレットの写真と毎回見比べていた。

 パネルに記載された説明書きを熱心に読み、撮影許可が下りているスポットでは父親から借りたカメラで数え切れないくらいの写真を撮っていた。

 ふと、そのときだったか。

 灰色に塗装されたパンターG型の前で視線を感じ、徐に振り返ってみた。

 見つけたのは翡翠色の瞳と、きらきらと輝く銀の髪だった。

 第一印象は、自分と違って随分と女の子らしい綺麗な子だな、というもの。

 身につけている服も、近くのスーパーで購入したTシャツと短パンである「わたし」とは正反対で、随分と上品なお嬢様ぽい、フリルとレースがふんだんにあしらわれた如何にも「女の子」といったものだった。

 自分のことを棚に上げておいてなんだが、そんな女の子があまりにも戦車道博物館には合っていなくて思わず声を掛けていた。

 

「女の子なのに戦車が好きなの?」

 

 確かに戦車道は女子のスポーツではあるが、無類の戦車好きという女子はそれほど多くはない。ましてや九州のくんだりまで来て、戦車道博物館を見学に来る物好き小学生など自分以外にはいないだろうな、という思い込みもあった。

 何よりもっと戦車好きの女の子がいれば、自分はたくさんの友達がいたはずだ、という悲しい自負心もあったから。

 

 女の子はじっと翡翠色の瞳をこちらに向けたまま口を開いた。

 

「……好きじゃないよ。戦車なんて。『俺』はこんなところ来たくなかった」

 

 

 名前も、顔ですらよく覚えていないその女の子の一言が「わたし」を「わたくし」に変え、その後の「わたくし」の運命を決定づけるなんて当時は思いもよらなかった。

 けれども今になって振り返ってみれば、あの日、あの場所で、あの子にあったからこそ、十年近く時が経った今、大洗戦車道を復活させる者として前へ進むことが出来たのかもしれない。

 

 

02/

 

 

 朝になった。

 母に起こして貰わずとも、勝手に目が覚めるようになったのは間違いなく戦車道のお陰だと秋山優花里は思う。

 彼女はまだ鳴ってすらいない目覚ましのアラームを解除し、薄暗い世界の中、机の上に置かれたノートパソコンを開く。

 朝一のメールを確認してみれば、懇意にしている島田流の娘から返信が送られていることに気がついた。

 

 

 秋山さんへ

 

 頼まれていた戦車道の教本の電子版を送信しました。

 あとこれは必要かどうかはわかりませんが、うちにもあったⅣ号戦車のマニュアルを郵送しておきました。

 こちらではもう使うことがないものなので、ご自由にご活用下さい。

 

 PS 大洗限定ボコありがとうございました。うちの子たち皆と仲良くなっています。

 

 

 寝ぼけた頭でお礼のメールを返すのは失礼だと、取り敢えずはノートパソコンを畳み、優花里は部屋を出た。

 そして誰もいない廊下を通り抜けて、洗面所に向かう。

 夏でも冷たい水で顔を洗ってみれば、若干隈の残った、春よりも痩せた顔がそこにはあった。

 

「……結構ご飯は食べてるんですけどねぇ。やっぱりもう少し食べなければ戦車道はやっていけないんでしょうか」

 

 

03/

 

 

 八月が終わって九月になった。

 夏の空気が燃え尽き、残滓になりかけていた頃。

 秋山優花里は緊張に胸を高鳴らせながら、新学期の校舎を歩いていた。

 大洗女子学園の、少し古ぼけながらも味のある校舎である。

 

「はあ、夏休みの間にやれることは全部やりましたが、やっぱり不安なものは不安であります」

 

 運動着に身を包んだ彼女は数冊のファイルを携えていた。

 今日のために優花里が用意した秘蔵のファイルだ。

 夏休みの間、少しでも大洗の戦車道に貢献できるようにとまとめてきたものだ。

 大洗戦車道の実質的なリーダーに指名されてからというもの、彼女の日々は一変していた。

 

「まさか寝ても覚めても戦車道の事ばかりになるとは。去年までのわたくしなら絶対信じないでしょうね」

 

 彼女の言うとおり、去年までの優花里は戦車道のせの字もない人生だった。

 観客として、ファンとして戦車道に関わることはあっても、自身がその世界に飛び込んでいくなど考えられないことだったのだ。

 

「人生、本当に何があるかわからないものですね」

 

 そう締めくくった彼女は渡り廊下を抜けて、校舎の裏庭に出た。そこには自動車部が活動場所としている巨大なガレージが鎮座している。

 鉄骨がところどころむき出しだったが、決して痛んでいるわけではなく、むしろ丁寧に整備されているからこそその状態でも成り立っているように見えた。

 

「おっ、秋山ちゃん。待ってたよ」

 

 そしてガレージの前では好物の干し芋を咥えながら、一人の女子生徒が立っていた。

 大洗女子学園の生徒会長である角谷杏である。

 

「すいません。遅くなってしまいました。資料のいくつかをコピーし直して、今朝方知り合いから送って貰った教本を生徒会の方々の分まで印刷をしていたらこんな時間に」

 

「ああ、助かるよ。島田流だっけ? 王者黒森峰の西住流に並ぶ有名な流派なんでしょう?」

 

「ええ、戦車を活かした集団戦法の長が西住流だとすれば、島田流は究極の個人技を極める流派です。正直素人の大洗が導入するには余りにも難易度が高すぎますが、教えの一端は請うべきでしょう」

 

 言って、その送られてきた教本のコピーを優花里は杏に手渡した。「結構分厚いね」と杏は呟き、ぱらぱらと教本をめくる。

 

「戦車道のおよそのいろははそれに書いてあります」

 

「なるほど。では早速これを片手に動かしてみようか」

 

「ですが、今のところ見つかっている戦車は一両だけ。受講生の人数を考えればまだまだ足りないのでは?」

 

 優花里の言うとおり、大洗のガレージに残されていたのはⅣ号戦車が一両だけだった。

 書類上では他にも売却のされていない車両がいくつか残されているはずだが、一見しただけではその姿はどこにもない。

 

「まあ、それは来週受講生を集めたときに探すとして、取り敢えずはデモンストレーション用にあの戦車を動かしてみたいんだよね。優花里ちゃんは三日後の説明会覚えてる?」

 

 言われて優花里はあらかじめ渡されていた一枚の資料を取り出した。

 それは来年からの必修科目選択の用紙で、「戦車道」の項目だけ不自然に大きい、非常に作為的なものだった。

 

「説明会ではさ、戦車道の特徴や楽しさをできる限り伝えたいんだ。だから動いている戦車というものをできる限り披露したいんだよねー」

 

 ならば、と優花里は杏に言葉を返した。

 

「でしたら今日はⅣ号戦車の整備を行いたいと思います。さすがにあのボロボロのままでは見栄えも悪いですし、自動車部の人たちにレストアして貰う前に洗車をしておいた方が良いでしょう」

 

「戦車だけに?」

 

「駄洒落ではありませんよ!」

 

 あははっ、と杏が笑う中、優花里は「さてはてどうしたものか」と息を吐いた。

 戦車のレストアを含めて、やらなければならないことはたくさんある。けれども、てんでずぶの素人集団である自分たちでは何から手を付けていけば良いのかはっきりと整理することが出来ないというジレンマもあった。

 まだまだ始動すら出来そうにない大洗戦車道の現実に、吐き出す息も溜息的なものに変化するまで、そう時間は掛からなかった。

 

 

04/

 

 

 新参故に五里霧中を彷徨う学園がある中、王者であるが故にあるべき道を進まねばならない学園もまたあった。

 

 すなわち常勝無敗。

 

 勝ち続けることを周囲から望まれ続け、また自分たちもその期待に応えるべく邁進する実力者集団。

 それが全国大会十一連覇を目指す黒森峰女学園だった。

 

『試合終了! 黒森峰女学園の勝利!』

 

 主審の宣誓が広大な戦車演習場に響き渡る。

 ところどころに撃破されたマチルダやクルセイダーが擱座する荒れ地の一角ではもうもうと黒煙が天高く立ち上っていた。

 中戦車であるパンターG型と、超重戦車であるティーガーⅡに挟まれたチャーチルが黒煙を吐き出しているのである。

 キューポラ脇から伸びるフラッグポールには、被撃破を周囲に知らせる白旗とフラッグ車特有の青い旗がはためいている。

 この哀れなイギリス戦車を仕留めたのは、豹(パンター)でも王虎(キングティーガー)でもなかった。丁度マチルダの正面、やや高台になったところからこちらを見下ろしている車両番号217のティーガーⅠだった。

 フラッグ車の証である青い旗をはためかせ、黒森峰の虎は己の戦果を静かに見下ろす。

 

「状況終了です。皆さんお疲れ様でした。相手フラッグ車は沈黙。こちらの被害は撃破2、中破3、大破1です。ミーティングは一時間半後に仮設テントで行います。それまで各自自走できる車両は宿営地に帰還。自走不可車両は回収車の到着を待ってから帰還してください」

 

 無線から聞こえる隊長の声色に、隊員たちはそれぞれ了解の意を返す。副隊長であるカリエとエリカも、挟み込んで動きを封じたマチルダから離れるようにそれぞれ命令を下し、アイコンタクトでティーガーⅠが鎮座する丘陵を登り始めた。

 

「清水さん、後続のエリカを突き放さないように速度を少し落として。高橋さんはみほ――隊長の車両と常に連絡を取り合って。原さんと堀内さんはちょっと休憩してて良いよ」

 

 自身の車両の乗員たちに指示を飛ばしたカリエは、キューポラから身を乗り出して砲塔の上によじ登った。そしてこちらに目線を寄越しているエリカに話しかける。

 

「エリカ、そっちの損傷は?」

 

「……チャーチルをあんたとサンドイッチしたときに、サイドスカートとOVM(車外取付工具)のフックが吹っ飛んでるわね。でも走行に支障はないわ。あんたはどうなの?」

 

「たぶん大丈夫かな。異音もしないし。ただクルセイダーを跳ね飛ばしたときに、エリカと同じでOVMがどっかいっちゃった。あとで拾いに行かないと」

 

「それくらい修繕経費で買い直しなさいよ」

 

 ケチくさいことを告げる妹に小言を垂れるエリカだったが、その声色はやや上機嫌な色を含んでいた。

 久しぶりの妹との連携が上手くいったからなのか、それとも全国大会の意趣返しをすることができたからなのか、その理由は本人のみぞ知るものである。

 

「しっかしダージリンさんは相変わらず強いな。まさかあそこからタイマンを張ってくるとは」

 

 言って、砲弾が装甲をえぐり取っていた痕をカリエは撫でた。

 鋼鉄と塗料が溶けて特徴的な被弾痕を残しているそこは仄かにまだ暖かい。

 もう少し侵入角が深ければ恐らく撃破されていただろう傷痕だった。

 長いこと親しんできた気もする、二匹の蛇のパーソナルマークも心なしか煤けていた。

 

「あんたがあんまり追い詰めすぎるからよ。夏のこと、恨みでももってんのってくらいギリギリと締め上げていたじゃない」

 

 エリカに戦術の嫌らしさを指摘されて、カリエはぽりぽりと頬を掻いた。

 

「いや、ダージリンさんにはこれくらいしないと通用しないと思うし、実際予想以上の反撃を受けてるから……」

 

 カリエがみほに進言したのは、中戦車部隊を縦横無尽に走らせて、敵車両を各個撃破していく黒森峰らしくない戦法だった。

 これまではその火力と装甲に任せて相手を押しつぶしていくことを得意としていた黒森峰だが、ここにきて機動力を活かした新戦術を導入し始めている。

 カリエという、最前線で指示を飛ばし続けることの出来る副隊長と、そんなカリエと完璧に連携をこなすことが出来るもう一人の副隊長のエリカがいて初めて成立する戦術だった。もちろんその二人を的確に戦場に配置し、敵方の動き一つ一つに対応した総指示を唱えることの出来るみほの存在も欠かせない。

 

「動けるパンターとⅣ号で敵車両を燻り出し、ティーガーやエレファントの前に押し出していく。あとは火力の有利を活かして各個撃破。自分以外の車両が全てやられたときのダージリンの顔を見てやりたかったわ」

 

 ふふん、と得意げに笑ってみせるエリカを見てそんなにダージリンのことが嫌いなのか、とカリエは首を傾げた。

 まあ、エリカのことだから何処か素直になれない意固地になっている部分があるのだろう、と深く追求まではしなかったが。

 

「ところで、カリエ。明後日あんたは暇?」

 

 もう少しで宿営地、というところで併走していたエリカがそんなことを聞いてきた。

 いつも持ち歩いている小さな手帳を懐から取り出し、スケジュールを確認したカリエは首を縦に一回振った。

 

「どうしたの?」

 

「明後日には横須賀へ寄港するから、その時に陸の戦車道ショップに足を運んで備品の注文をしたいのよ。あんたが良ければ付き合ってくれない?」

 

 そう言えばエリカはそんな役回りだったな、とカリエは姉の要望を了承した。

 陸には、特段用事があるわけではなかったが、どうせ暇なので付き合ってやっても良いかと思ったのだ。

 

「なら決まりね。お礼にケーキくらいなら食べさせてあげるわよ」

 

 

05/

 

 

 戦車回収車を待つ傍ら、ダージリンは若干冷めた紅茶が入ったティーカップを傾けていた。

 その傍らではノートパソコンを手にしたアッサムが今日の一戦についてデータを纏めており、それが一段落したのか大きな溜息を一つ吐いていた。

 

「完敗でしたね。最後の突撃は相手の意表くらい突けたでしょうが」

 

 煤のせいで黒くなった頬を拭いながら、ダージリンに言葉を投げかける。

 話しかけられたダージリンはカップから口を離した。

 

「ほろ苦い隊長デビュー戦になってしまったわね。私たちもそれなりに強くなったとはいえ、あちらはさらにその先を行っている。まほさんが引退したから少しくらいは戦力低下してくれるかと思ったのだけれど、見通しが甘かったわ」

 

 振り返れば、黒森峰に踏みつぶされていった自軍車両の亡骸が転がっている。

 例え黒森峰が王者だったとしても、その開いた実力差は余りにも大きかった。

 

「『我々は道をふさいだ岩石、小さな障害物にすぎず、流れを食い止めることはできなかった』」

 

「誰の言葉です?」

 

 ダージリンの突然の格言にアッサムは疑問を口にしていた。

 

「ハンス・ウルリッヒ・ルーデルよ。彼はその超人的な功績で知られてはいるけれど、結局ドイツは負けてしまった。大きな流れの前では、個人がどれだけ足掻こうと意味なんてないものなのよ」

 

 ともすれば黒森峰に対する敗北宣言とも取られかねない言葉にアッサムは肝を冷やした。

 何処で自分以外が聞き耳を立てているのかわからないのだ。ちょっとした失言が命取りになりかねない聖グロリアーナの政治状況を考えれば当然の不安だった。けれどもダージリンは臆することなく続けた。

 

「でも、それは個人に限った話。岩でも小石でも、幾多も集まればそれは壁になるわ。ならば我々は融通の利かない一つの岩になるのではなくて、柔軟な大きな壁を目指すべきではなくて? 個々の練度では叶いようがなくても、集団戦法の多様さはこちらに一日の長がある。アッサム、今日の敗北は私たちにとって大きな糧となるわ」

 

 ふっ、とアッサムは安堵の息を吐いた。

 やはりこの人物は自分が想像している以上に食えないのだ、とあらためて認識を確かにする。

 そして、圧倒的な力を振るっていく黒森峰の三本柱に匹敵するのは間違いなくこの人なのだと確信を深めた。

 

「それに来年に向けての布石を打っているわ。面白そうな子が二人、粉を掛けているの。一人は新しい私の右腕に――次期グロリアーナを導いてくれるであろう人物。もう一人はその軽快な人柄でグロリアーナに新しい風を吹き込んでくれそうな人物。今から楽しみで仕方が無いわ」

 

「……もしかして二人目の人物、私が自動車部から引き抜こうとしている子じゃありませんよね?」

 

 しかしながら決して油断してはならない奸計に長けた人柄であることも再認識した。

 まさか自分以外にあの娘を狙っていた人間がいるとは、思いも寄らなかったのである。

 

「さあ? でも、その子にローズヒップの名前を襲名させようとしてOB会と揉めていることくらいなら私の耳にも入っているわよ? アッサム、今のあなたは猫の手でも借りたいのではなくて?」

 

「ぐっ、あなた何処までそんな……」

 

 痛いところを突かれて言葉を返せないアッサムは、小さくダージリンを睨んだ。

 けれども二人の間に険悪な雰囲気はない。

 もう随分長いこと聖グロリアーナの魔境を二人で切り開いてきたのだ。今更反目し合うことなどあるわけがなかった。

 

「アッサム。私たちにはもう来年しか残されていないわ。黒森峰という壁を乗り越えるのはますますあなたの力が必要よ。デビュー戦を被殲滅という華々しい戦果で飾るような隊長でもこれからもよろしくお願いするわ」

 

「……何を今更。ここグロリアーナであなたに出会ったときから私の考えは変わりません。あなたと共にこのグロリアーナにさらなる栄光を」

 

「ふふっ。頼もしいわね。ところでアッサム。紅茶は如何かしら。幸い湯沸かし器はまだ使えたみたいだから煎れ直してみたわ」

 

 そうやって、戦車回収車が到着するまでの間。二人は互いにティーカップを傾け合っていた。

 全国大会終了後、初の対外試合は完全なる敗北。誰かに誇れるようなものではなかった。

 だが、そこで得られたモノがゼロであるということは決してない。

 

「黒森峰の皆さん。今は王者の立場をあなたたちに譲りましょう。けれど来年、真紅の栄光に輝くのは我々グロリアーナと言うことを肝に銘じておきなさいな」

 

 

06/

 

 

 横須賀。

 古くから海軍の要所と知られていた港町では複数の学園艦が寄港していた。

 その中に、決して大きいとは言えないがそれでも結構な歴史を有した大洗の学園艦の姿があった。

 空母「翔鶴」を模したそれからは、久しぶりの陸と言うことで羽を伸ばさんばかりに、たくさんの生徒たちが上陸を果たしていた。

 秋山優花里もその内の一人だ。

 

「普段なら私用で好き勝手に訪れている戦車道ショップなんですけれども、学園のお遣いとなれば少し緊張しますね」

 

 彼女は今、あらかじめ印刷した地図を片手に陸を踏みしめていた。

 港から少し内陸よりに足を向けてみれば、寄港する学園艦相手に商売を繰り広げる商店街を見ることが出来る。

 他校の生徒たちが思い思いに出歩いているそこを、彼女は黙々と足を進めていた。

 途中、美味しそうなクレープ屋を見つけても、良い匂いが漂ってくるハンバーガーショップを見つけても、誘惑を一人断ち切りながら目的地を目指す。

 幾ばくか迷いそうになりながらも、ようやく辿り着いたそこは他店に比べれば客足の少ない戦車道関連の商品を扱う店だった。

 軒先に並べられた砲弾のレプリカたちに目を輝かせながら、彼女は店の中へ足を踏み入れる。

 

「……すいません、昨日電話させていただいた大洗の者です」

 

 取り敢えずは、と手頃な店員を捕まえてあらかじめ連絡を入れていた旨を伝える。

 するとあちらも優花里のことを待っていたのか、すぐに店の奥に連れて行かれて複数の書類やカタログを手渡された。

 店員は書類の一つ一つにボールペンで注釈を加えながら優花里に応対を始める。

 

「注文していただいていた戦車道関連の整備用具は明日にでも学園艦の方へ運び込ませて頂きます。ただ訓練用砲弾や、その他いくつかの備品に関してはもう少々お時間を頂きたいと思います。遅くとも今月中には配送されるよう手配しておりますので」

 

 そう、優花里がこうして戦車道ショップを訪れたのは、新生大洗戦車道に必要な備品を買い揃えるためである。

 大洗自動車部に戦車等の整備を依頼したところ、専用工具や整備マニュアルなどを取りそろえて欲しいと要求されたためだ。

 その出来事を生徒会長である角谷杏に報告してみれば、二つ返事で予算が承認され、「あとは秋山ちゃんが適当に注文しておいて」と丸投げされたのだった。

 いくら戦車道に詳しくとも、それに必要な備品にまで頭が回らなかった優花里は、こうしてプロである店側に相談を持ちかけていたのだ。

 

「Ⅳ号用のシュルツェンは入荷が完了し次第、また連絡させて頂こうと思います。ついこの間までは在庫があったんですが、大口の注文が最近入ってきて全部買い占めていっちゃったんですよ」

 

 そして注文していた部品の一つが完全に在庫切れである旨を知らされた。

 特に優先順位が高いという訳ではなかったが、ずぶの素人が安全に戦車道を楽しむため是非とも欲しい装備だっただけに、優花里は少なからず落胆した。

 落胆して、その大口の注文を行った集団にふと心当たりがあった。

 

「……ひょっとして黒森峰ですかね」

 

 Ⅳ号戦車はもともとドイツで運用されていた戦車だ。

 そんなドイツの戦車を大量に保有し、しかもその部品を買い占めることが出来るような財力と規模を有する戦車道集団など日本には一つしか存在しない。

 店員も顧客情報なので、全てを語ることはなかったが「昔から時折こういった注文が入ってくるんですよ。店としては有り難いんですが、しばらく忙しくなるんですよね」と否定はしなかった。

 まさかこんなところで王者と接点が産まれるとは思わなかった優花里は純粋に驚き、同時に弱小故の悲しみというものを味わっていた。

 予算も人も遙か高みにいる黒森峰女学園が羨ましいとも思った。

 

「わかりました。ではそちらは入荷されたら私まで連絡をお願いします。あと、教本関係とスコアブックをいくつか見繕って貰ってもよろしいですか?」

 

 けれども無い袖は振れないし、羨んでいても仕方ないとすぐに思考を切り替える。

 決して備品を揃えることが最終目標でないだけに、まだまだやらなければならないことがたくさんあると己を鼓舞する他ないのだ。

 

 

07/

 

 

 ありがとうございましたー、と店員の挨拶を背中に受けながら優花里は店を出た。

 備品注文関係の書類と、数冊購入した戦車道関係の本を脇に抱え学園艦の方へ戻ろうと足を進める。

 ふとその時、前方から随分とレトロな車両が走ってくるのが見えた。

 軍用車両に造詣が深い優花里はそれがすぐにキューベルワーゲンであることを見抜き、さらにそれが黒森峰女学園の保有車両であることに気がついて妙な声を漏らした。

 現行車両に比べればやや小ぶりなキューベルワーゲンはオープントップ仕様で、二人の女子生徒が運転席と助手席から降りてくる。

 

「ねえ、エリカ。さっきのクレープ屋もいきたい」

 

「こっちの用事を済ませたらね。あとワーゲンの給油もついでに済ませていくから学園用の財布は分けといてよ」

 

 女子生徒たちはそんな優花里には目もくれず、すたすたと戦車道ショップに歩みを進める。

 グレーを基調とした制服とスカートは紛うことなく王者黒森峰女学園のそれで、優花里はそんな二人から目が離せなかった。

 

 何より。

 

 戦車道に本格的に携わるようになってから、優花里は数え切れないくらいの関係雑誌に目を通してきていた。

 そしてそのほぼ全てで一度は特集が組まれていた人物たちが目の前にいるとなれば、彼女の思考はオーバーヒート寸前となっていた。

 

「い、逸見姉妹じゃないですか……」

 

 そう。第62回全国戦車道大会において伝説的な連携を披露し、見事黒森峰を十連覇の栄光に導いた立役者たちが眼前に立っていたのである。

 とても冷静でいることなんて不可能に近くて、逸見姉妹が店内に消えた後も優花里は「あわあわ」とその場に立ち尽くし続けていた。

 



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秋山優花里の戦車道 02

 戦車道説明会の掴みは何となく上々だったのではないかと、秋山優花里は考えた。

 やはり動いている戦車というものは誰が見ても興味が惹かれるもののようで、Ⅳ号戦車を使って校庭の外周を一回りするだけで相当の歓声を手に入れることが出来ていた。

 けれどもここまでの道のりは決して平坦なものではない。

 まず第一に操作方法の、それこそ確実に安全な運転が出来るくらいのスキルを手に入れるまで随分と時間が掛かってしまった。

 島田家からⅣ号戦車のマニュアルを入手はしていたが、紙面に書かれていることを実行するにはそれなりの下地が必要なのだと思い知らされた。

 最初のうちは真っ直ぐ進むことすら困難で、よく校庭脇の廃タイヤで出来た車止めに突っ込んでいたものだ。

 生徒会役員の一人、副会長である小山柚子と二人してⅣ号戦車と格闘すること数時間。

 何とか始動、安全な操作まで持って行くことが出来たのは昨日の夕方のことだった。

 

「というわけで皆-。是非、戦車道を受講してねー」

 

 校庭に設けられたステージ上で、生徒会長の角谷杏はひらひらと手を振っている。

 彼女自身も好感触を肌で感じているのか、上機嫌でにこにこと微笑んでいた。

 優花里と柚子はその様子を少し離れたところで、アイドリングを続けるⅣ号戦車から見守っていた。 

 

「デモンストレーション、取り敢えずは上手くいきましたけど、何か凄く疲れた気分です」

 

 車長席から顔を覗かせた優花里が溜息をつく。すると彼女の足下――操縦手席から柚子が「ごめんね」と言葉を返した。

 

「昨日は殆ど休みなしでこれを動かす練習したからね。付き合ってくれてありがとう、秋山さん」

 

 いえいえ、そんなことはありませんよ。と社交辞令でも返すべき場面なのだろうが、気疲れと実際の疲労のせいで優花里は上手いこと口が動かなかった。これからもこんな風に戦車道を続けていればその内血を吐いて倒れてしまうかもしれないな、と苦笑が漏れる。

 

「選択必修科目の用紙の提出は来週が締め切りだ。今回は特例で年度内での転科も認められている。よろしく頼むぞ」

 

 会長の角谷杏に引き続いて、後方の河嶋桃も壇上に立っていた。                                                     

 勇ましく弁舌を垂れるその姿に、優花里は「ありゃりゃ」と声をあげた。

 

「つい昨日はⅣ号戦車の悪戦苦闘ぶりにあれだけ狼狽していたのに切り替えが早いというかなんというか」

 

 優花里が思い出していたのは、Ⅳ号戦車をさあ動かすぞ、と生徒会メンバーと車両庫に集合したときだった。

 当初は「私にお任せ下さい!」と勇ましく名乗りを上げ、実際にⅣ号戦車に乗り込んでいた桃だったが十分も経てば「柚子ちゃーん」と柚子に泣きついていたのである。

 やれギアが入らないだの。やれ真っ直ぐ進まないだの、泣き言のオンパレードだった。

 それがどうだろう。

 今壇上の上に立っている彼女からは、そんな情けない姿は全く想像できず、大洗戦車道は私が引っ張っていく! と意気込んでいる。

 本当に昨日と同じ人物なのだろうか。

 そのあまりにもあんまりな変わり身の早さに優花里は舌を巻いていた。

 

「あはは。桃ちゃんは昔からああだから。だからあんまり気にしないでね」

 

 まあ、それはそれで個性なのか、と優花里は余り深く追求しないことにした。

 折角味方として戦車道再興をバックアップしてくれている生徒会なのだ。仲良くしておくことに越したことはないだろう。

 

「ところで秋山さん。来週以降の予定なんだけれど、受講生が確定し次第他の戦車たちを探そうと思うんだけれど大丈夫かな?」

 

 デモンストレーションも佳境に入り、Ⅳ号戦車を回送するタイミングを待っていたその時柚子がそんな事を聞いてきた。

 優花里は車内に吊り下げていたドキュメントボードを取り上げ、記載されている予定を確認する。

 

「そうですね。書類上存在しているとはいえ、見つからなければ無いものと同じですもんね。それぞれの状態も確認してみないとわかりませんし……。一応戦車道ショップの方には中古で安い戦車が流れれば連絡をもらえるよう手配しておいたのですけれど」

 

 言って、先日の事を優花里は思い出す。

 久方ぶりの陸で見つけたものは、中々の大物だった。

 その時の光景を思い出していたら表情に何かしら出ていたのだろうか。柚子が純粋な疑問をぶつけてきた。

 

「そういえば黒森峰の人と会ったんだよね。やっぱり強いの?」

 

 いまいち戦車道界隈の勢力図について詳しくない柚子の言葉に、優花里は手振りを加えて答えを返した。

 例え戦車道素人だったとしても、雑誌やTVではそれなりに情報を入手していた知識がこんなところで役に立っている。

 

「強いなんてものじゃありませんよ。正直、高校戦車道の世界では歴代最強と言っても過言ではありません。潤沢な装備と資金、そして卓越した練度を有した乗員たち。さらにはカリスマと実力に溢れる指揮官が率いるというドリームチームが今の黒森峰なんです」

 

 さらに、と優花里は続けた。

 

「今回の戦車道大会十連覇達成が黒森峰に大きな追い風となるでしょう。中学戦車道の実力者の多くが黒森峰の栄光に心酔し、来年以降次々と加入していく筈です。ただでさえ黒森峰に大きく傾いていた戦力バランスがもっと傾くことになります」

 

 優花里の言葉を受けて、柚子は「もしもだよ」と自信なさげに言葉を吐き出した。

 その表情は不安と少しばかりの絶望に彩られている。

 

「私たちが戦車道を始めたところで、来年の大会――その黒森峰に勝てる可能性はある?」

 

 優花里の答えは一瞬だった。

 思考の余地がないだろう、とやや呆れ気味に即断で彼女は返す。

 

「あるわけないですよ。素人の草野球集団が大リーグのオールスターに挑むようなものです」

 

 

01/

 

 

 大洗女子学園が今まさに戦車道を再興しようとしていたその時、黒森峰女学園でも動きがあった。

 けれどもそれは学園全体規模の大きな動きではなく、生徒個人レベルの小さな動きだった。

 

「よし、これで荷物は全部か。ていうか段ボールの殆どがぬいぐるみってどんな生活してるのよ」

 

「いやー、寮生活だとものが増やしにくくて。ご飯も食堂とコンビニだったから調理器具は買わなかったし、服装も制服とパンツァージャケットがあればそれでいいかなって」

 

 黒森峰のアップリケが縫い付けられたエプロンと軍手を身に纏い、逸見エリカはアパート前に届けられた最後の段ボールを部屋に運び込んでいた。

 後ろから同じような格好の西住みほが衣装ケースを抱えて部屋に入る。

 室内ではTシャツに短パン姿というラフな姿形をしたカリエがカッターナイフ片手に、段ボールの開封作業を行っていた。

 

「うわー、これがエリカさんとカリエさんのお部屋なんだ。なんかとても不思議な気分」

 

「みほの部屋は私の部屋の隣。広さはそれなりだから好きに使って」

 

 エリカから最後の段ボールを受け取って、カリエはそれの梱包を解いた。すると中から大量のぬいぐるみが出てきたので、またかと、苦笑を一つ零した。

 

「今までどんな生活をしてきたのかすっごい気になる」

 

「うっ。カリエさんもエリカさんと同じような事を言うんだね。やっぱり双子だからかな」

 

「あんたがおかしいのよ。あんたが」

 

 三人それなりに姦しく、引っ越し作業は順調に進んだ。

 何を隠そう新学期が始まって一週間。

 西住みほは慣れ親しんだ学生寮を出て、エリカとカリエが暮らすアパートにルームシェアすることになったのだ。

 

 

02/

 

 

 事の次第は三週間ほど前まで遡る。

 南熊本の、母方の実家から黒森峰学園艦へ帰宅した逸見姉妹を待っていたのは、黒森峰戦車道の長である西住まほの呼集だった。

 

「疲れているだろうにすまないな。楽にしてくれ」

 

 普段は戦車道のミーティングに使われている幹部専用の会議室。そこでは隊長のまほと副隊長のみほ、そして逸見姉妹の二人が顔を付き合わせていた。

 空調の効いた室内。

 エリカとみほは何かしらの緊張に身体を硬くし、ただカリエだけは出された冷茶で暢気に喉を潤していた。

 

「早速だが本題に入ろう。三人は私が戦車道の国際強化選手に選出されていることをもう知っているな?」

 

 突然の呼集ながら、振られた話題はごく平凡なものだったので、エリカとカリエ、そしてみほはただ首を縦に振るだけだった。

 まほはそんな三人の様子を静かに見守ると、そのまま言葉を続けた。

 

「で、その強化合宿という名目で新学期から私はドイツに留学をしなくてはならなくなった」

 

 驚いたのはエリカとみほだった。

 まさに寝耳に水といったまほの知らせに、二人は思わず席から立ち上がり、彼女に詰め寄っていた。

 

「そんなの初めて聞いた!」

 

「私もです!」

 

 珍しく声を荒げるみほに少々目を丸くしながらも、まほは落ち着いた口調で二人に話しかける。

 

「すまん。本当は黒森峰戦車道を理由に断るつもりだったから、話さなかったんだ。これに関しては完全に私の落ち度だ。謝罪させてくれ」

 

 深々と頭を下げるまほにエリカは狼狽した。けれどもみほは普段の大人しさは何処へやら、さらに追求を深めた。

 

「断るつもりだったってどういうこと?」

 

 まほの口ぶりからは留学に対するスタンスに、心変わりが産まれたように受け取れた。

 ならば何故そのような心境の変化が訪れたのか、みほは問い詰めずにはいられなかった。

 

「なに、後顧の憂いというか、この黒森峰女学園戦車道に対する心配が全てなくなったんだ」

 

 それから先、まほは極穏やかな口調で夏の終わりに自身が感じたこと、考えたことをつらつらと語り始めた。

 

「私はこの黒森峰で最高のチームメンバーに恵まれた。みほはもちろんのこと、エリカやカリエ、そして他の乗員全てだ。そんなチームメンバーと共に十連覇を勝ち取ることが出来たのは何よりの喜びであり、私の一生の糧になると思う」

 

 その余りにも悠然としたまほの態度に当てられたのか、いつの間にかエリカとみほは静かに席に着いていた。

 まほは微笑みを零しながら続ける。

 

「けれども一抹の不安はあった。それは十連覇後のプレッシャーがチームに与える影響だ」

 

 言われて、カリエが初めて反応した。

 彼女の翡翠色の瞳が、じっとまほを見つめる。スポーツの世界に当たり前に存在し続ける、勝ち続ける難しさを良く理解している彼女だけに、何か思うところがあるのかもしれなかった。

 

「私は今年から前隊長より隊長職を引き継いだ。そこで受け継いだのは何も地位や権力だけではない。連覇し続ける王者黒森峰という重圧も引き継いだんだ。私の代で連覇を終わらせてしまってはどうしよう。私が不甲斐ないせいで、皆にいらぬ責任を負わせてしまってはどうしよう――、そんな葛藤や不安だった」

 

 まほらしからぬ弱音だった。

 十連覇を成し遂げたあとだからこそ、三人に吐露する彼女の抱え続けてきた闇だった。

 

「けれどもそれらは杞憂に終わった。十連覇という最高の結果で大会を終えられたからだ。ただ、贅沢なものだな。連覇の後はさらなる連覇の不安――十一連覇の不安が私を襲った。そして、私がもしここで黒森峰を去ってしまえば、その不安や葛藤をみほやエリカ、カリエに押しつけることになる罪悪感も覚えた」

 

 そんなことを姉が考えていたとは露知らず、みほは思わず「お姉ちゃん」と歩み寄り掛けていた。

 しかしながらそのみほの動きをまほは手だけで制した。

 

「――熊本でのエキシビションを覚えているか? あの時、私はみほとカリエのチームに敗北した。黒森峰らしからぬ搦め手で攻めてくる二人に私は撃破されたんだ」

 

 敗北の思い出を語っているのに、まほの表情はとても穏やかだった。まるでその事実が、いつか待ちわびた夢の光景のように彼女は語る。

 

「憂いが無くなったのはその瞬間だった。私が撃破されるまで、プラウダの重戦車を一人で押しとどめ、一番撃破数を伸ばしていたエリカの姿もそうだった。三人が三人、私にこれからの黒森峰の戦車道を見せてくれたからこそ、私は自分の不安が全て意味の無いものだと理解することが出来たんだ」

 

 三人が三人とも、最早言葉を無くしていた。

 そしてまほが自分たちに伝えたいこと、どうしても告げたかったことを悟っていた。

 

「みほ、エリカ、カリエ。君たち三人を見て、これからの黒森峰の栄光を確信した。私がいなくとも、黒森峰の栄光を守り続けてくれる三人の姿をはっきりとこの目で見た」

 

 まほが再び頭を垂れた。

 しかしそれは先程とは意味合いの異なる、謝罪では無い礼だった。

 

「どうか三人とも、黒森峰を頼む」

 

 拒否する者など、その場にいなかった。

 ただいつまでも下を向き続けるまほに、三人はそっと歩み寄った。

 

「お姉ちゃん」

 

 みほが優しくまほに寄り添う。エリカとカリエもそんなみほの両側にそれぞれ控えた。

 

「わかった。お姉ちゃんの期待に応えられるよう、私頑張る。心配はいらないよ。だって私にはお姉ちゃんと一緒に磨いてきた西住流と、こんな素敵な仲間がいるんだから」

 

「みほ……」

 

 妹の言葉に、まほは微笑んだ。

 やがてその微笑みは、みほの両側に控えていた逸見姉妹に向けられる。

 

「エリカ、カリエ。みほのことを頼んだ。ちょっとおっちょこちょいだが、私の自慢の妹だ。君たち二人がいてくれれば、何も怖いものなどない」

 

 逸見姉妹の二人はまほの言葉に力強く頷いた。

 そして自分たちに任せてくれ、と言わんばかりに二人してまほの手をしっかりと握りしめる。

 

「ご心配はいりません。必ずや黒森峰にさらなる栄光を」

 

「大丈夫。みほと黒森峰のことは任せて下さい」

 

 非公式ながら、黒森峰の次期隊長と副隊長が決定した瞬間だった。 

 二人の副隊長という変則的な新体制ではあったが、その場にいる誰もが異議も疑問も唱えなかった。

 まるで最初からそうであったかのように、四人の心に、すとんと当てはまった新しい黒森峰の姿がそこにはあった。

 

 

03/

 

 

 そんな新体制の黒森峰の最初の変化は、みほの居住地の変化だった。

 姉のまほがドイツに留学するということで、寮に一人取り残されることになったみほを案じて、エリカがルームシェアを提案したのだ。

 

「あんた、私たちのところに住んじゃいなさいよ。そっちの方が家賃も安いし、まともなご飯だって食べさせてあげるわよ」

 

 カリエも特には反対しなかった。

 姉以外の女性とは暮らしたことがなかったものの、女子校生活がそれなりに長いせいで今更意識することなど何も無かった。

 

「うん、いいんじゃない? 家事当番も楽になるし」

 

 カリエの脳天気な台詞にエリカが噛みついた。

 

「あんたサボってばかりでろくに家事してないでしょ!」

 

 そんなことを言いつつ、エリカはカリエの面倒をよく見ているので、「本当に優しいんだな」とみほはニコニコと微笑んだ。

 

「ま、そんなわけで新学期が始まるまでに引っ越しの手続き進めときなさいよ。何よりあんたとカリエが一緒に住んでいたら、作戦立案も気軽に出来るでしょ」

 

 

 以上のようなやりとりから数日。

 西住流次期家元からの許可も、意外な程あっさりと下りてみほの引っ越しが決まったのである。

 

 

04/

 

 

「あ、エリカさん。これお母さんから」

 

 荷解きも殆ど終わり、「ちょっと一息つこうか」と三人してテーブルを取り囲みコーヒーを傾けていた時だった。

 そんな弛緩した空気の中、思い出したかのようにみほはエリカに紙袋を一つ手渡したのだ。

 

「何かしら?」

 

「これからお世話になるから、そのお礼だって」

 

 みほに必要な当面の生活費はとっくの昔に振り込まれており(エリカとカリエがそれぞれ二人ずつは暮らせそうな額だった)、そこまで気を遣わなくても、とエリカは少しばかり困惑した表情でそれを受け取った。

 ただ、西住流次期家元の面子もあるだろうから、と無碍にすることはない。

 

「何かしら……あら、私とカリエの個人宛ね」

 

 出てきたのはさらに小さな二つの紙袋だった。それぞれ「逸見エリカ様」、「逸見カリエ様」とえらく達筆な文字で名前が書いてあり、姉妹それぞれへの品であるということが見て取れる。

 こんなものまでわざわざと、エリカはみほの方に視線を向けるが、本人は渡して当然という雰囲気を纏っており突っ返すのも憚られた。

 何よりカリエが紙袋に興味津々で、中身を確認したそうにうずうずしているので、何だかんだ妹に甘い彼女は素直にそれを開封する。

 

「あら、封筒……」

 

 紙袋の中から封筒がさらに一つ。厚手で白地のそれは金文字で文字が印刷されているが、流麗な筆記体過ぎてエリカは意味を推し量ることが出来なかった。

 

「?」

 

 得体の知れないものへの疑問を浮かべながら封筒を開封する。品の良い金封を爪で開いてみれば、中から出てきたのは三枚のチケットらしきもの。

 

「んん?」

 

 三枚のチケットはそれぞれ同じもので、全ての紙面にはこう書かれていた。

 

『帝国ホテルレストランお食事券』

 

 ぴしり、とエリカの身体が硬直した。自身の決して豊かではない想像力をフルに働かせながら、「帝国ホテル」とは何かを想像する。

 そしてそれの正体に思い至ったとき、「こんな受け取れるわけないでしょ!」とみほに詰め寄ろうとした。

 だがその気勢を絶妙なタイミングで削いだ人物がいる。同じく紙袋を開封していたカリエだった。

 

「エリカ!」

 

「何!?」

 

 いつものんびりふわふわしている妹が珍しく大声を出したので、エリカは内心驚きながらも応対する。

 彼女が妹の方を見てみれば、彼女は三枚の色紙らしきものを震える手で持っていた。

 

「なにそれ?」

 

 超高級ホテルの食事券からの落差にエリカは一気に緊張がほぐれる。そして妹よりも幾分か余裕のある態度で品物について訪ねてみた。

 するとこれもカリエらしからぬ、興奮に満ちた声色で彼女は答えた。

 

「しっ、色紙! サイン! ラビッツの! 東京ラビッツの!」

 

 ラビッツとはカリエが熱心に応援をしている東京の野球チームの事だったか。

 もしかしたら妹はそこの選手のサイン色紙でも貰ったのだろうか、と思い至り、だとしたら自分とは違って随分と可愛らしい贈り物と反応だな、とエリカは苦笑した。

 けれどもその楽観は数秒も続かない。

 

「メジャーの! 三人ともメジャーに行った選手の! もう日本にいない! しかも私の名前入り!」

 

 こんなにも喋り下手な妹だったか、と面食らうくらいカリエの台詞は支離滅裂だった。

 ただその尋常では無い昂ぶり方から、ようやく色紙たちがとんでもない代物なのだということが理解出来た。

 相変わらずぷるぷると震えている妹から色紙を受け取ってみれば、エリカですら知っている有名メジャーリ―ガー三人(元ラビッツ所属)のサインが書かれており、それぞれ「逸見カリエさんへ」と宛名まで付け加えられている。

 

「みほ! ありがとう! もうあなたの下僕になってもいい! 何でも命令して!」

 

 さすがに本物の金持ちはレベルが違う、とエリカは呆れた。

 みほもみほで、突然床に這いつくばって足の甲でも舐めんばかりに縋り付いてくる友人にどう対処したら良いのかわからず、おろおろと狼狽えるばかりだった。こういった仕草一つ見ても、嫌らしさを感じさせない当たりが、この人物の美徳でありカリスマなのだろう。

 

「か、カリエさん。やめて! そんなことしなくてもいいから! もう! お母さんたら!」

 

 己の母親が今回の騒動の原因だと思い至ったのだろう。

 余り他人に見せることのない憤慨顔でみほは頬を膨らませるが、すぐに足下へ縋り付いてくるカリエをみて「どうしよう」と困り顔になる。

 二つの表情を忙しそうに行ったり来たりさせるみほを見て、いつの間にかカリエも笑みを零していた。

 

 エリカはそんな二人のやりとりを見て、ふと表情を緩める。

 ルームシェア初日からこんな様子ならばこれからの毎日、退屈な日など一日たりとも存在しないだろうな、という確信めいた予感を覚えたからだ。

 

 何より、誰かにじゃれついてけらけらと笑う妹がそれなりに珍しくて、そんな表情を引き出してくれたみほにちょっとばかり感謝していた。

 

 

05/

 

 

 和気藹々とした新しい風が吹き始めているのが黒森峰女学園とすれば、大洗女子学園ではまた違った風が吹いていた。

 戦車道復活のデモンストレーションから丁度一週間、戦車同様に急遽用意されたガレージには受講生とおぼしき生徒たちが集まっている。

 それぞれがみな、目の前に横たわっている未知の世界に対する好奇心に溢れていた。

 

「えー、それではこれより戦車道の授業を開始する。まず受講生諸君にはそれぞれが搭乗する戦車の捜索をしてもらいたい」

 

 生徒会広報である河嶋桃がガレージに設けられた壇上の上に立っていた。

 彼女は集っている受講生をざっと一望し、想像していたよりもその数が少ない現実に若干眉を顰めた。

 

「はい、質問です!」

 

 威勢良く手が挙げられる。ぴんっと張った背筋が綺麗なやや小柄な女子生徒のものだ。

 桃は手元の受講生名簿と、眼前の生徒の特徴を照らし合わせて、彼女の名が磯部典子であることを確認する。

 

「なんだ?」

 

「戦車を捜索するとは言いますけれど、何か当てはあるんですか?」

 

 典子の疑問は最もだった。例え過去に戦車道を行っていた実績があろうと、その時の戦車たちが残されていない可能性もある。

 完璧な徒労に終わる可能性がある以上、戦車が確実に存在するという言質を確認したかったのだ。

 その考えはその場にいた生徒たちの殆どが抱いていた物らしく、それぞれが「うんうん」と頷いている。

 

「それに関しては問題ない。こちらに過去の戦車道で使用されており、尚且つ売却された記録の存在しない戦車たちのリストがある。これを今から全員に配布するので、戦車捜索の手掛かりにしてくれ」

 

「ということはつまり、学園艦の敷地内に存在することは確かだということですか」

 

「そう捉えて貰っても構わない」

 

 とは言っても彼女たちは戦車道に関しては完全な初心者。

 リストを配られたからと言って、そこに記されている名称がどういった戦車を指すものなのかてんでイメージがわかなかった。

 ざわつきを見せる戦車道履修候補者を見て、杏は「もう少し丁寧な説明会をすればよかったかな」と呟いた。

 壇上の桃も、決して高いとは言えない履修候補者たちの士気を見て、「どうしよう」と及び腰になっていた。

 だが、

 

「あの! ちょっとよろしいでしょうか!」

 

 いよいよざわつきが激しくなってきたとき、ガレージに響いたのは一人の女子生徒の声だった。

 声の主は誰か、と皆が視線を周囲に向ければ壇上の隅で手を頭上に掲げた女生徒に行き当たる。癖毛が特徴的な少女は自身の名を「秋山優花里」だと名乗った上でこう続けた。

 

「今からそのリストに載っている戦車の外観、特徴を纏めた資料を配付します! これで皆さんの戦車探しが少しは楽になると思うんです! もちろんわたくしもお手伝いします!」

 

 緊張しているのか、やや早口でボリュームも可笑しな事になっていたが、ざわめきを沈めるには十分すぎる効果があった。

 優花里が配った資料はそれなりの厚みを持つA4の冊子で、中を開いてみれば様々な戦車が写真と解説付きで掲載されていた。

 

「ここに載っている車両がこの学園艦のどこかに保管されているはずなんです。一番最初に該当車両を見つけた人に、その戦車に乗って頂きます」

 

 その一言で、履修候補生たちの目の色が変わったのを、杏は見逃さなかった。

 戦車道というまだまだ正体不明な科目を履修する不安と、宛てのない戦車捜索をさせられそうになっていた候補生たちが色めきだっていたのだ。

 それはすなわち、

 

「このⅢ号突撃砲というのが渋くていいな」

 

「へー、チハっていうんだ。この戦車。これで頑張ればバレー部も復活できるかな?」

 

 ところどころで、自分たちが気に入った戦車について語り合う声が上がる。

 義務的だった戦車探しが、優花里の用意した冊子一つで宝探しの様相を呈してきたのだ。

 

「ふーん、やるじゃん秋山ちゃん」

 

 ただ、冊子を用意した当の本人は会場のさらなるざわめきに当てられて、おろおろと困り果てていた。

 その初々しさも、これからの大洗戦車道が大成していくには必要なものなのかもしれないと、杏は考えた。

 そしてこう確信する。

 

 彼女を大洗戦車道の肝に任命したのは間違っていなかったと。

 

 

06/

 

 

 それから半日の間に、大洗戦車道の面々は四両の車両を見つけることに成功した。

 チェコが開発。けれども実際の運用はドイツ軍が行った38tが一両。

 ドイツの傑作突撃砲車両、Ⅲ号突撃砲F型が一両。

 フランス軍の頼れる重戦車ルノーB1bisが一両。

 そして日本軍が運用した、熱心な愛好家も多い八九式中戦車が一両。

 それぞれ個性的で、一癖も二癖もある車両ばかりだが、ある意味でこれからの大洗戦車道には相応しい車両なのかもしれないと秋山優花里は思った。

 履修候補生のプロフィールを見てみれば、発見された車両のように個性的で味のある人物ばかりだったからだ。

 

 秋山優花里の友人は決して多くはない。

 幼い頃から戦車に傾倒してきたからだが、だからといって別に友人を欲していないわけではなかった。

 

 戦車道履修者の名簿一覧を見て彼女は思う。

 この個性がありすぎる戦車と、個性がありすぎるチームメイトと打ち込む戦車道はどれだけ楽しいものなのだろうと。

 さらに願わくば、その青春の過程の中で少しでも友人が増えれば、どれだけ素晴らしいことなのだろうか。

 

 柚子に黒森峰相手に勝算はあるかと問われたとき「ない」と即答した。

 けれどもそれは今の状態であって、これからのことではない。

 勝てる可能性は相変わらずなきに等しいが、諦めるにはまだまだ時期尚早だと彼女は考えている。

 

 大洗のチームメイトと掴み取る真紅の旗の妄想を少しばかりして、彼女は日課となっている島田愛理寿相手へのメールの文面を構想しはじめた。

 タイトルだけは何となく決まっているそれは、大洗戦車道復活を告げる電報のようなものだ。

 

 

07/

 

 

 拝啓、島田愛理寿さま ようやく、夢が一つ叶いました。



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秋山優花里の戦車道 03

 逸見姉妹とみほ三人による共同生活は、一ヶ月も経てば安定の様相を見せていた。三人の家事分担もほぼ確定し、生活のルーティンワークも整った。

 そのルーティンワークの一つに、カリエとみほによる戦術研究がある。二人して戦車道に関する様々な資料を読み込み、新しい黒森峰の戦術を考えるのだ。エリカはそんな二人のサポートとして資料を学園からかき集めてきたり、それらのコピーをコンビニなどで制作している。また、時には黒森峰の切り込み隊長としての意見を唱えることもあった。

 そしてそれはある日の夕食後の出来事だった。

 エリカの作ったビーフシチューに舌鼓を打ち、カリエとみほの二人は黒森峰の遊軍部隊についての検討を行っていた。

 

「カリエさんはエリカさんとは別の、遊軍部隊を率いてもらうことになると思う。エリカさんが偵察した成果を元にカリエさんはいつも相手に対するメタを張ってくれる。でもカリエさんが自由に動かせる部隊があった方が、今まで以上に戦いやすいと思うの」

 

 みほの言い分はこうだ。

 

 今のカリエの立ち位置は副隊長としてみほの側に控えるというもの。そこでエリカから入った敵の情報を元に、作戦を立案、みほがそれを全軍に号令するという体裁を取っている。

 しかしながらこの体制は即応性がそれほど高くなく、エリカの索敵範囲を外れた敵に対して対応しづらいという欠点があった。思わぬ伏兵に部隊が奇襲を受けるという状況が極わずかながら発生していたのだ。

 黒森峰の自力からしてみれば、そこまで過敏にならなくても良い問題ではあるのだが、それは王者の事情が許さない。常勝を義務づけられている彼女たちは、少しばかりの敗北も許されないのだ。

 そこでみほは、カリエに全ての裁量を預けた部隊を一つ立ち上げ、遊軍として配備しようと言うのだ。

 

 もちろんカリエはその提案を渋った。

 曰く、「自分には部隊を指揮できるほどの技量はない」というものだ。

 夕食後の皿洗いを追えて、食後のコーヒーを持ってきたエリカがそんなカリエの頭をコツンと小突いた。

 

「馬鹿ね。あんたにその能力がなければ誰が出来んのよ」

 

 みほもそんなエリカの言葉を後押しする。

 

「そうだよ。カリエさんだからこんなこと頼めるの。あなたならきっと黒森峰の新しい戦術を築く礎になってくれる筈」

 

 それでもカリエはうーん、と唸った。

 一人の副隊長が自由裁量を持つ遊軍はこれまでの黒森峰になかったものだ。いくら黒森峰といえども、その運用ノウハウはなく、遊軍のメンバーの選抜も難しい。一軍として高い技量を誇る隊員たちはそれぞれが皆、チームに欠かせない役割についており、好き勝手に動かすわけにはいかなかったのだ。

 そんなカリエの懸念を読みとったのか、みほはエリカを手招きして呼び寄せ、耳元で何かを囁いた。

 姉と親友の視線がこちらを向いているのを見て、カリエは若干イヤな予感がした。そしてその予感は的中する。

 

「ねえ、カリエ。あんた冬休みは特に予定ないわよね」

 

 いや、あると誤魔化そうとしたら、エリカが「私があんたの予定知らないわけないでしょ」と釘を差した。

 ぐぬぬ、と何も言えなくなっているカリエにみほが詰め寄った。

 

「ねえ、カリエさん。一つお願いがあるんだけど……」

 

 普段はぽやー、としているのにここぞというときのみほの眼光は鋭い。そこはさすが西住の家系か、とカリエは居たたまれなくなって目線を反らした。

 だがみほの決して大きいとは言えない手が、カリエの両頬をしっかりと掴んだ。

 

「冬休み、カリエさんは黒森峰の予備軍の人々を連れて合宿に向かってください。期間は特に設定しないので、カリエさんが思うような遊軍を整備してくださって構いません」

 

 みほの言葉に、無駄なんだろうなと思いつつもカリエは反論した。

 

「いや、合宿といっても戦車道の合宿が行えるような場所なんて限られているし、何より予算が……」

 

「エリカさん」

 

 ぴしゃり、と言い放つみほの気迫にカリエは「ひいっ」と及び腰になった。そして指名を受けたエリカが妹の退路を断つ。

 

「合宿所なら長野の戦車道演習場を押さえてみせるわ。大丈夫、あそこの支配人とはユース時代からそれなりに懇意にしているもの。予算なら心配する必要ないわ。昨年まで積み立てた特別予算を使いましょう。新生黒森峰に必要な部隊を育成すると説明すればOGの反発だってありゃしない。あの人たちは王者黒森峰さえ守られればそれでいいもの」

 

 いよいよ逃げ道がなくなったカリエは助けを求めるようにみほにすがる。けれども、みほはカリエをここまで追い込んだ本人だということを彼女はしっかりと失念していた。

 

「大丈夫です。カリエさんならきっと素敵な部隊を育成してくれると信じています。明日には全ての隊員に通達を行いますから、メンバーの選抜をお願いしますね」

 

 とっても素敵な、けれどもどこか威圧感すら感じられるみほの笑顔に、カリエは「どんどん黒森峰の隊長らしくなっている」と溜息を吐いた。

 

 そんなこんな経緯があって、カリエは遊軍設立のため冬休みには長野へ旅発つことになったのだ。

 

 

01/

 

 

 優花里は悩んでいた。

 彼女は生徒会室の片隅に並べられた書類の前で「うんうん」と唸っていた。あまりにもうんうんと唸り続けているものなので、心配した柚子がコーヒーを煎れて差し出した。

 

「いったいどうしたの? 秋山さん」

 

 おずおずと事情を問うてくる柚子に対して、優花里はテーブルの上に並べた書類を指さした。

 

「他校への練習試合のお願いの返事が返ってきたんです。五つの学校に送ったんですが、すべからく断られてしまいました」

 

「やっぱり新設の弱小校だから?」

 

 柚子の言葉に優花里は力なく頷き返す。

 

「……それもありますが、一番は保有車両の少なさです。履修者の人数の関係で、我が校が動かせる戦車はわずか四両。戦車道公式試合の最低参加車両数も満たせていません」

 

 優花里の告げたとおり、大洗で実働状態にある車両はⅣ号戦車D型、Ⅲ号突撃砲F型、38t戦車B/C型、ルノーB1bisの四両だった。もう一両発見されている八九式中戦車は人員の都合上、運用は保留されている。来年度に新入生が戦車道を履修しなければ、公式戦もままならない状態が、今の大洗戦車道なのだ。

 

「試合にならなければ意味がないという至極全うな理由で断られてしまっているんです。こればかりはどうしようもありません」

 

 戦車を動かす訓練そのものは、夏休み明けに陸上自衛隊の戦車道講師資格を持つとある人物に頼み込んで実現はしている。大洗内での練習試合も四回ほど行っている。けれどもそれはある意味で勝手知ったる身内同士の練習試合であり、公式戦のそれにはまだまだほど遠いものだった。

 

「まだわたくしたちは本格的な戦車戦を行っていません。一応、逐一島田流の教えは受けてはいますが、実戦なければ机上の空論に過ぎないんです。このままでは大洗戦車道は馴れ合いのサークルになってしまいます。いえ、実はその空気はすでに生まれ始めているんです……」

 

 優花里が不安視するとおり、戦車道の訓練が始まっておよそ一ヶ月。戦車を動かすことの面白さを履修生たちが感じ始めていることは歓迎すべきことではあるが、どうしても弛緩した雰囲気というものが拭えないでいた。

 端的に言ってしまえば、身内だけのサークル状態となっていたのである。

 優花里は優花里で、このまま残りの二年、戦車道を続けていくのも悪くないかもしれないと考えている。憧れの戦車道の世界に身を投じることが出来ただけでも、今まででは考えられないくらいの幸運なのだ。これ以上何かを望むものならば、罰が当たっても可笑しくないとすら思える。

 けれどもーー。

 

 少し戦車道について考えてみれば、いつも脳裏に思い浮かぶのはあの夏の激戦のこと。

 テレビの前で釘付けになった、戦車道トップ校同士の華々しい死闘。

 そして、自身のハンデを、トラウマを乗り越えて黒森峰を優勝に導いた一人の少女。

 

 もしさらに願いが叶うのならば、自分もあのような頂点の夢の舞台に立ちたいと夢想する。自分も全てを賭けて強敵に挑み、真紅の旗をその手で掴み取りたいと憧れ思う。

 決して叶わない夢であることはわかっている。それでもその夢に向かって足掻いてみることくらいは許されるのではないか、と考える。

 

 優花里の葛藤は、そう長くは続かなかった。

 いつの間にか彼女の対面に腰掛けていた杏が声を掛けてきた。

 

「ねえ、秋山ちゃん。秋山ちゃんは何を成したい? 戦車道で何を成し遂げたい?」

 

 側に控えていた柚子が一歩下がる。

 優花里は現状のままでも恵まれすぎています、と社交辞令を返そうとして返せなかった。何故なら対面に腰掛ける全生徒の長、生徒会長である杏の瞳は鋭かったからだ。

 それは決して優花里を責めるようなものではないものの、本能的に試されていると彼女は感じた。

 嘘や策謀は苦手な優花里だ。

 だから思うままに考えていたことを口にした。

 

「思い上がりと笑って頂いても構いません。でもわたくしは、大好きな大洗で、大好きな戦車道で、どこまで駆け上がっていけるか試してみたいです」

 

 杏は笑わなかった。

 いや、笑いはした。しかしそれは嗤いではない。笑みを見せたのだ。

「にぃ」と我が意を得たと言わんばかりに口を開いた。

 

「本気なんだね。秋山ちゃん。なら、この私の努力は無駄にならずに済みそうだね」

 

 杏から手渡されたのは、一枚の書類。でかでかと大洗生徒会の赤い印が押された何かの承諾書だった。

 優花里はすぐさまそれに目を通す。

 

「私たちが動かせる車両が四両しかないのは仕方がない。これについては来年、新入生たちが戦車道を履修してくれるのを大人しく待とう。けれども、今の私たちのスキルアップに上限はない。なら、やれることはやってみようじゃん」

 

 書類のタイトルは簡潔にして明瞭。

 行数にするとわずか一行。

 

「この前、戦車道の訓練をお願いした蝶野さんのツテを使ったんだ。長野に戦車道の演習に使える合宿所がある。予算の都合で三日しか押さえられなかったけれど、その三日間はきっと私たちに実りあるものになる。それにーー蝶野さんの話が本当ならば、念願の練習試合、そこでやれるかもしれないよ」

 

 まあ、これに関してはまだまだ確定じゃないんだけどねー、と杏は苦笑した。だが優花里にとっては十分すぎる内容だった。

 三日間の宿泊費と燃料代、その他諸経費を考えれば決して楽な予算決めではなかった筈。

 それを大洗戦車道の為に尽力してくれたとあっては、しっかりと成果を出さなければならないと、優花里は意気込んだ。

 

「合宿の件、了解しました。すぐに愛里寿さんに短期集中訓練用のプログラムの相談を持ちかけてみます。次の戦車道の授業で、その旨をみんなに伝えて見せます。さて、これから忙しくなりますよ!」

 

 こうして、大洗女子の冬の合宿の実施が決定された。

 結果的に言ってしまえば、この合宿が後の大洗女子の命運を大きく決定づけるのだが、そのことに気がついている人物は誰もいない。

 

 ただ優花里はいつか夢見た真紅の旗に思いを馳せて、もっと本気で取り組んでもいいのかもしれないと、考えていた。

 

 

02

 

 

 時間というものはあっという間に過ぎ去っていく。

 夏の残滓が垣間見えた九月も終わり、十月も通り越して十一月になっていた。いつの間にか冬服に衣替えが済んでいた肌寒い季節、カリエは黒森峰戦車道ガレージにて、三十人ほどの隊員たちの前で名簿を読み上げていた。

 

「以上、名前を読み上げた三十一名のみなさん。あなたたちは私と共に黒森峰における新生部隊の隊員となってもらいます。基礎訓練は本学園艦において一ヶ月間行いますが、それとは別に冬休み、二週間ほど長野の演習場にて集中的な部隊訓練を行います。何か質問は?」

 

 姉のエリカとは違い、淡々と伝えるべき内容を伝えていく。

 彼女はことの仔細が隊員たちの間に伝播したことを確認すると、こほん、と咳払いを一つ取った。

 

「正直、この部隊運用が成功するかは完全に未知数です。現西住師範代がもたらした正当派西住流が我々黒森峰の真骨頂。副隊長の独自裁量権が認められた部隊など、邪道も邪道ですから」

 

 カリエの告げたとおり、黒森峰は元来、戦車戦の基本である装甲火力を全面に押し出した戦い方をする学校だ。いわば車両の性能と隊員の練度で相手を押しつぶしていく戦い方を得意としているのである。そこにトリッキーな動きを見せる独立遊軍を新設するなど前代未聞だった。

 

「けれども我々は十連覇という節目を越えて、次なる連覇を遂げ続けなければなりません。そのためには大小の変革も必要でしょう。事実、現隊長の西住みほは決して正当派西住流の戦いではありませんが、我々に公式戦無敗の成果をもたらしてくれています。ならば我々隊員はそれに答えるべく、彼女の手足となりうる尖兵となるべきではないでしょうか」

 

 カリエはそこで言葉を区切った。そして彼女の言葉に耳を傾ける隊員たちを見回す。

 彼女らの士気は決して低くはない。戸惑いはしているものの、王者黒森峰の責務として与えられた任務を全うする覚悟を持っている。

 けれどもそれだけだ。それ以上ではない。

 このままでは自身が告げたように、みほの手足だけの手駒になってしまうとカリエは考えた。でもそれは仕方ないとも思う。

 何故ならここに集めた隊員たちは黒森峰における実質二軍の立場の者たちばかりだからだ。一軍として公式戦に出ることを夢見て、日々戦車戦の腕を磨く者たちだ。そんな彼女らは与えられた命令をこなすのが精一杯で、進んで何かを成し遂げようと考える余裕はない。そんなもの、明日の立場も保証されているレギュラーだからこそ至ることの出来る境地なのだ。

 カリエは痛いほど彼女たちの気持ちが理解できた。カリエも前の世界では控えとして苦渋を舐め続けた経験がある。肩は強いが、身体能力は決して秀でていない。投手をやれるほどの器用さもない。だからキャッチャーを目指した。でもそんなだから、少しばかり才能のある選手が同ポジションに加入してしまうと、いつもベンチを温めていた。

 新しい配球も守備位置も考えている余裕はなかった。ただ、キャッチャーとしての基礎能力を磨いて、守備交代で使ってもらえれば御の字だといつも考えていた。

 カリエはぐっと唾を飲み込む。

 正直、エリカほどのカリスマは自分にはない。姉ほどぐいぐいと誰かを引っ張っていくことは苦手だし、みほのようなある意味天才的とも言える気遣いも出来ない。そして二人に比べればこと戦車道において、自分が凡才であることも嫌と言うほど理解していた。

 だからこそ、目の前で緊張に固まる彼女たちに声を張り上げた。

 

「あなたたちは控えだ! 栄えある黒森峰戦車道において不合格の烙印を押され続けている欠陥品だ! 試合には出れないし、演習場が空にならなければ戦車に乗ることも出来ない! 車長は戦術書を読みあさり妄想にふけるしかない! 机上の空論に過ぎないのに!」

 

 隊員たちの表情が曇った。カリエに対する怒りが沸々と沸き上がっていった。

 圧力の増した三十一人分の視線を受けてカリエは叫んだ。

 

「通信手は隣に座る自分と同じ立場の隊員と通信のおままごとをしているだけだ! 刻一刻と変化する戦況をあなたたちは知らない! 装填手は手製の練習台で砲弾を叩いて楽しいのか!? 砲が火を噴いた衝撃も火薬の臭いも嗅いだことがないくせに!」

 

 皆が皆、拳を握りしめて肩を震わせていた。黒森峰女学園女学園の副隊長という、名誉ある彼女に罵倒されて悔しさを滲ませていた。特に二年生の上級生たちは、年下の彼女に嫉妬心を燃やしていた。なぜこいつが、どうしてこんな小娘が自分たちをここまで蔑むのかと。

 でもカリエは声を緩めない。

 

「砲手は止まっている標的、或いはやる気のない演習場の味方相手に研鑽を積んでもなぜ無駄だと気がつかない! 実戦では誰もが死にものぐるいで砲弾を交わして反撃してくるんだ! あんたたちのそんな生ぬるい練習に意味なんてあるのか!? 操縦手は大雨の中の川底すら走ったことがないのに、戦車軌道の全てを知った気になるな!」

 

 ガレージに静寂が訪れる。けれどもそれは穏やかな静寂ではない。噴火寸前の火山のような、爆発前の一時の沈黙なのだ。何かあと一つ、起爆剤があればもう噴火は止まらない。

 はあ、はあ、と慣れない大声を出したカリエが息を整える。

 興奮したことによる発汗と動悸を押さえながら、彼女は先ほどと打って変わって落ち着いた声色で言葉を繋いだ。

 

「だからあなたたちを集めた。基礎の鍛錬を積み続けたあなたたちを呼んだ。あなたたちはまだ何にも染まっていない。まだ自分の道を、戦車道を見つけていない」

 

 場の空気が変わった。ぴりぴりとした、戦場のような不穏な空気がいつの間にか霧散していた。

 

「あなたたちの努力は決して無駄にはしない。無駄にはしないから、しばし私にその研鑽の成果を預けてほしい。新しい黒森峰の象徴に私はあなたたちと共になりたい。みほのような戦術眼と人心掌握術も、エリカのような勇気やカリスマもない。それでも、凡百の一生徒でしかない私についてきてほしい」

 

 カリエの言葉以外で初めて静寂が破られた。それは嗚咽だった。隊員の何れもが涙をぽろぽろと零し、声を押し殺していた。

 

「先ほどは隊長の尖兵と言いました。けれどもそれは何も考えない盤上の駒のことではありません。己で考え、最善策を模索し足掻いてみせる、私たちだけの、私たちのための部隊です」

 

 怒号が弾けた。

「jawohl!!(ヤボール!!)」とそれぞれか考え得る限りの最大の声量でカリエに応えた。涙と鼻水にまみれながら、日陰者だった彼女たちは目の前の副隊長に最大の忠誠を捧げた。

 

「……本日よりあなた方は私の指揮下で訓練をしてもらいます。演習場は押さえました。隊長とエリカ副隊長の許可も取り付けています。それぞれの車両も用意しました。あとはそうですね、本日の訓練が終わったら部隊章でもみんなで考えましょうか。誰か絵の上手な人います?」

 

 やや憔悴したような表情を見せるカリエを見て、黒森峰の控え隊員たちは妹副隊長の真意を悟った。そして、あの燃えるような罵倒も、自分たちのことをしっかりと見ていてくれなければ出てこない言葉だと思い至ったとき、彼女たちはカリエを全員で揉みくちゃにした。

 

「うわっ、えっ、ちょっ、お、落ち着いて! ……おう! 誰!? 尻撫でてるの!」

 

 演説用に被っていたカリエの全ての仮面は一瞬にして剥がされる。気取っていた言葉遣いも、取り繕っていた凛々しさも吹き飛んで、いつも通りのぼんやりとした暢気な気質が顔を出す。けれども控え隊員たちにとってはそれすらも愛おしいものだった。

 自分たちをしっかりと見ていてくれた。自分たちのことを気に掛けてくれた。自分たちを必要だと言ってくれた。

 それだけで彼女たちは十分だった。

 

「わわっ、ちょっと担がないで! 怖い! 装填手に持ち上げられるのすごく怖い! 降ろしてくださいお願いします! さっきの暴言は謝りますから!」

 

 

03/

 

 

 演説の様子をこっそりと物陰から見守っていた人物たちがいた。みほとエリカ、そして小梅の三人である。

 三人はカリエの演説が無事終了したことを確認して安堵の溜息を吐いていた。

 

「よかった。カリエさん自ら訓辞をすると言ったときはちょっと心配になったけれど、どうやら杞憂だったみたい」

 

「見るからに控えの方々は腐っていましたからね。強豪校故の慢性病だと考えていましたけれど、どうやらうまく収まったようです」

 

「たく、心配掛けさせるんじゃないわよ」

 

「エリカさんたら、カリエさんに皆が怒っているのを見て、慌てて助けにいこうとしていたもんね」

 

 三人が心配していたのは隊員たちがカリエと衝突する危険性だった。見るからに素行不良の生徒は黒森峰戦車道において存在しないが、それでも軋轢がゼロというわけでもない。

 現行黒森峰体制に不満を持っている隊員たちをカリエが選抜したときは、三人が必死になってそれを止めようとしたのだ。

 

「でもカリエの奴、いつ控えなんてなっていたのかしら。『あの人たちの気持ちは良くわかる』なんて言ってたけれど、あいつ戦車道ではずっとレギュラーよ」

 

 エリカの疑問に小梅は「たぶん」と前置きしてこう応えた。

 

「エリカさんと比べられる自分の境遇を重ねたんじゃないでしょうか。いつもカリエさんは『エリカさんの横に立つと自分は日陰者だ』って言ってましたし」

 

「馬鹿ね。それは私の台詞よ。あいつったら、熊本の戦車道博物館に無理矢理連れて行ったその日に、あれだけ嫌がっていた戦車道をするって言い出して、あっという間にトッププレイヤーになったんだから。ついて行くこっちの方がしんどかったわよ」

 

 二人の言葉にみほは「わかるなあ」と笑みを零した。

 

「私もいつもお姉ちゃんと比較されてばかりだったから。今もそう。お姉ちゃんから引き継いだ黒森峰をしっかりと優勝に導けるか不安で不安で仕方ないんだ。でも、皆と一緒ならどんな道だって進んでいける気がする」

 

 ついには胴上げが始まったガレージの様子を見て、エリカがやれやれと頭を掻いた。何だかんだいって面倒見の良さがずば抜けている彼女が妹を救い出してやるのだろう。

 ガレージに踏み込んでいったエリカに続いて、正式な辞令を記した書類を携えた小梅が足を踏み入れる。最後に激励の言葉を用意したみほが二人のあとを追うが、「もう必要ないかな」と呟いた。

 何故なら、一歩踏み出したその先。

 ガレージに充満している熱気は最高潮で、これ以上の言葉など必要ないと感じたから。

 自分のために、そして黒森峰のために体を張ってくれた親友のことを思って、みほはとびきりの笑顔でこう告げた。

 

「それではみなさん、早速各自の持ち場に着きましょう。パンツァー、フォー!」

 

 

04/

 

 

 合宿の日程はあっという間にやってきた。心配していた降雪もなく、はっきりとした寒さは感じるものの、天候は快晴だった。

 優花里は戦車輸送用列車に運ばれてきた大洗の車両の積み卸しを眺めながら、隣に立つ杏に声を掛けた。

 

「ここから合宿所までは専用道路を使って30分ほどです。今日の為に操縦手の皆さんには公道用の免許を習得していただきましたから問題はないでしょう」

 

「りょうかーい。それじゃあ、戦車降ろし終わったら早速向かおうか。それまで秋山ちゃんは休憩しときなよ。昨日も夜遅くまで備品の点検をしていてくれたんでしょ?」

 

 杏の告げたとおり、クマこそは作っていないものの、優花里の表情は疲労の色を見せていた。優花里自身もそれを感じているのか、「ではお言葉に甘えて」と合宿所近くの駅の広場のベンチに腰掛ける。

 すると少しばかりの間があって、三人の人影が彼女に近づいていた。

 

「お疲れさまゆかりん。これそこの自販機で買ったんだー」

 

 缶ジュースを携えたのは明るい雰囲気の女子生徒、武部沙織だった。彼女に続いてお淑やかな大和撫子の五十鈴華と、落ち着いた物腰の冷泉麻子も優花里の元へ歩いてくる。それぞれ優花里と同じⅣ号戦車D型を操るチームメイトだ。

 

「今日は朝早くに出発したから眠くて叶わないぞ」

 

「もー、麻子ったら、だからあれだけ早く寝なよって言ったのに」

 

「でも合宿なんて人生初めてでとてもわくわくします。母と新三郎を説得するのは骨が折れましたが、皆さんと一緒に来れてよかったです」

 

 彼女たちの気遣いを受けて、優花里は疲れが和らいでいくのを感じた。何を隠そう、人生初の同級の友人なのだ。友人一号は島田愛里寿だったが、同じ学校の同じ学年となれば彼女たちが初である。

 

「いやー、ありがとうございます。皆様の気遣いで疲れなんて吹っ飛びましたよ」

 

 受け取った缶ジュースをゴクゴクと飲み干しながら優花里は笑った。三人もその様子を見て、小さく笑みを零す。

 

「そういえばこの合宿で初めての練習試合が出来るんだよね。そろそろ試合もしてみたいなー、と思っていたから楽しみかも! もしかしたら素敵な出会いがあったりして!」

 

「沙織さん、相手も恐らく女子校ですよ? 女性同士の出会いがお望みなのですか?」

 

「出来たとしても彼氏じゃなくライバルとかかもな」

 

「二人ともずばっと言い過ぎー! ゆかりんも何か言ってやってよー!」

 

 取り留めのない三人の会話を聞いて、ゆかりは合宿を企画して本当に良かったと考えた。もっと言えば、この大洗で戦車道を再興する決断をして本当に良かったと思った。

 何故ならこの目の前の光景は、自分が願い続けた夢の一つのカタチだからだ。

 

「会長は相手を最後まで教えてくれませんでしたが、恐らくわたくしたちと同じような規模の学校です。ですが戦車道の経験は向こうが上でしょう。ならば胸を借りるつもりで頑張るまでです」

 

 優花里の言葉を受けて、三人は了解の意を返した。

 こんな気さくに言葉を交わしあえる友人を与えてくれた戦車道に、そしてその機会を与えてくれた杏に彼女は感謝した。

 

 

05/

 

 

 前言撤回はすぐに成される。

 いや、感謝まで否定するつもりはないが、少しくらい文句をいってやらねば気が済まないと優花里は思った。

 

「わー、あれが合宿所を使うもう一つの学校? タンカースジャケットも格好いいなー」

 

 沙織の暢気な言葉に、歴史好きチームの一人、エルヴィンが頷いた。

 

「うむ、どことなくドイツの機械化師団を思わせる風貌がいいな。私たちもああいった戦車乗りになれるだろうか」

 

「目指すはオットー・カリウスぜよ」

 

 坂本竜馬に似た風貌のメガネ女子、おりょうが口を開いたかと思えば、

 

「いや、139両の車両を撃破したヨハネス・ベルターだ」

 

 赤いマフラー姿の歴女、カエサルが言葉を返し、

 

「大事な人物を忘れているぞ。かの真田勇士のごとく、最多の撃破数を誇るミハエル・ヴィットマンだ」

 

『それだ!!』

 

 歴女チームはそれぞれが好き勝手に論評して盛り上がっていた。けれどもそんな戯れ言すら、今の優花里の耳には届かない。

 何故なら、

 

「あら、もう一つ合宿所を使うことになってる学校がついたみたいですよ。副隊長」

 

 相手校の一人の生徒が、合宿所に鎮座していたパンターの車長席をのぞき込む。二匹の円環の蛇を見て、歴女チームの誰かが「ウロボロスだ」と呟いた。

 

「ん、わかった。私は挨拶その他もろもろを済ませておくから、全員の点呼を取った後、演習場にて今日のメニューを始めておいて」

 

 パンターから出てきたのは銀の髪が美しい、儚い印象を他者に与える女子生徒だった。けれどもその内面に渦巻く熱意と確固たる信念を優花里は知っている。

 横須賀ですれ違いはした。けれども話しかける機会なんてなかった。 

 そしてそれは永遠訪れることのない機会の筈だった。

 

「あ、初めまして。あなたが大洗女子学園の隊長さん? 私は黒森峰女学園の副隊長その二の、逸見カリエです。本日から三日の日程と聞き及んでいますが、ともに切磋琢磨出来れば嬉しいですね」

 

 相手は天上の人だと考えていた。けれどもその人物が今目の前で挨拶の口上を唱え、こちらに手を差し出している。

 優花里は手汗をびっしりと掻きながら、挨拶に応えた。

 

「こ、こちらこそ初めまして。大洗女子学園の秋山優花里です。まだまだ戦車道素人の私たちですが、あなた方の技量の一端でも参考にさせて頂ければ恐悦至極に存じます」

 

「あはは、どうしてそこまで畏まるんですか。同じ高校生同士なのに」

 

 カリエの手から感じる全てが力強かった。単純な握力はもちろんのこと、その生命力と言うべきか、覇気すらも自分たちとは圧倒的に違うことを瞬時に理解していた。

 

 

05/

 

 

 戦車道素人の弱小校の隊長である秋山優花里と、戦車道の王者たる学校の副隊長、逸見カリエはこうして出会った。

 これが両校の長い長い因縁の発端になることは、その場にいる誰しもが知る由もなかった。



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秋山優花里の戦車道 04

 演習場には監視塔が幾つか備え付けられている。戦車道の訓練、或いは試合の様子を俯瞰するために造られたものだ。

 そのうちの一つに上っていた秋山優花里は、双眼鏡片手に下界の様子を眺めていた。

 

「秋山ちゃーん」

 

 背後から声がした。

 振り返ってみれば、簡素な階段を上ってくる杏の姿があった。38t戦車B/C型の車長をしている筈の彼女が、何故こんなところに、と優花里は疑問の声を上げた。

 

「いやー、一応用意していたメニューはこなしたからさ、車両整備を兼ねて河嶋たちには休憩を取らせているんだよ。秋山ちゃんこそⅣ号戦車の車長はいいの?」

 

 杏の言うとおり、本来ならば優花里はⅣ号戦車の車長としてチームーーあんこうチームの指揮を執っていたはずなのだ。それが今、こうして一人して訓練場を眺めている。

 

「いえ、車長は磯部さんに代わってもらってます。彼女、八九式中戦車に乗りたがっていましたけれど、人員の都合で我慢してもらっていますし、将来的には新入生をそこに編入して車長を任せたいと思っていますから、その練習です。それに、ここで黒森峰側の訓練を観察することもわたくしの責務だと思いましたから」

 

 優花里の視線の先には一糸乱れぬ行軍と射撃を繰り返している黒森峰の車両たちがあった。戦車道素人の自分たちとは比べるべくもない、完璧な運用に杏ですら舌を巻いた。

 

「うひゃー、あれですら実質二軍みたいなものらしいからやっぱりやばいね黒森峰は。十連覇組はさすがに格が違うや」

 

 杏の驚きは決して大げさなものではなかった。事実、大洗と黒森峰の間ではそれほどの技量の差が存在している。ましてやその比較対象が実質二軍とあれば、黒森峰の主力との差は考えれば考えるほど馬鹿らしいものだった。

 

「……会長は最初から知っていたんですか?」

 

 この合宿所に来てからずっと抱いていた疑問を、優花里は杏にぶつける。疑念というわけではないが、それでもこれからの信頼関係を考えれば是非とも聞いておきたいことだった。

 杏は茶化すような表情からは一転、すぐに口元を引き締めて優花里に応えた。

 

「先に言っちゃうと秋山ちゃんが萎縮すると思ってね、黙ってたことは謝るよ。でも、二軍とはいえあの王者黒森峰が練習試合を引き受けてくれると言っているんだ。これを利用しない手はないと思ったんだよね」

 

 杏の言うとおり、これは千載一遇のチャンスなのかもしれない。黒森峰と練習試合を行いたがっている学校はそれこそごまんと存在している。でもその殆どが日程や黒森峰の都合で願いを叶えられていない。

 そんな中で、たとえ二軍でも矛を交えることができるのはこの上ない幸運と言っても良かった。

 

「……黒森峰はわたくしの憧れであり目標なんです。わたくしに戦車道をやりたいと思わせてくれた大恩ある学校なんです。そんな相手と練習試合が出来るなんてまるで夢みたいで、会長には感謝してもしきれません。ですが一つだけ心配があるんです」

 

 優花里の懸念を杏は正確に読みとっていた。彼女は口を開き掛けた優花里を制すると言葉を続ける。

 

「私たちが為すすべもなくあちらに惨敗して、大洗の皆が戦車道から離れてしまうことを怖がっているんだね」

 

 杏の言葉は優花里の考えていたことそのものだった。

 

「ええ、間違いなく手も足も出ずに敗北するでしょう。ズタボロにやられて、怖い思いをする人も出てくるかもしれません。そうなればわたくしは戦車道から離れていく皆さんを引き留めることは出来ません」

 

 優花里の表情は明るくなかった。いや、むしろここ数ヶ月では間違いなく一番憂いを帯びていた。忙しく、肉体的に辛い毎日ではあるが、それを憂鬱だとは考えたことがなかったのだ。

 けれども黒森峰と一戦を交えた後に起こるであろう、大洗女子の面々の変化が怖かった。

 

「わたくしは隊長として、大洗女子を率いるものとして黒森峰に挑みたいです。個人的な感想を吐き出してしまえば、練習試合をとても楽しみにしています。だってあの黒森峰ですよ。わたくしたち弱小校なんて本来ならば絶対に相手をしてくれないような遙か天上の学校なんですよ? そんなところが練習試合に応じてくれるなんて、わくわくしなければ嘘じゃないですか」

 

 けれども、と続ける。

 

「折角初めての友人が出来たんです。戦車道のおかげで友人が初めて出来たんです。そんな大切な方々を、わたくしの身勝手な戦車道で失いたくはありません」

 

 優花里の独白に、杏はそっか、と頷いた。

 冬の凍える風が監視塔を吹き抜けていく。近くで砲声がした。見ればⅣ号戦車が演習場に置かれた標的に砲撃を行っている音だった。

 下で頑張っているチームメイトをほったらかしにして、自分はうじうじ何を言っているのだろうと、優花里は自己嫌悪を深めた。

 

「……こんなのが慰めになるかはわからないけれどさ、もし大洗の皆が今回の練習試合で秋山ちゃんから離れていっても、私はそうはならないよ。どれだけ惨めな敗北をしようと、怖い思いをしようと、私は秋山ちゃんの戦車道につき合うよ。それに、これは私の勘だけれど、秋山ちゃんが思っているほど、あの子たちは柔じゃないよ」

 

 どういうことでしょう? と首を傾げる優花里に杏は眼下を指さした。

 

「だってもう二十年もほったらかしにしていた戦車道をやってみようっていう奇特な子たちだよ。いわば私たちの戦車道は茨の道であることは確定しているんだ。そんな道を自ら進んでいこうとしている仲間なんだ。秋山ちゃんが信じてあげれば、きっと大丈夫さ」

 

 杏の言うことも一理あるかもしれない、と彼女は眼下を見た。するとそんな優花里の視線に気がついたのか、Ⅳ号戦車が砲撃を終えて進路をこちらに取る。車長席に収まる典子も、ハッチから顔を出す沙織や華も、皆がそれぞれ、優花里に向かって手を振っていた。

 

「ゆかりーん、華ったらスゴいんだよ! あれだけ遠くの的を一発で命中させちゃった!」

 

「冷泉さんの操縦も凄かった! 戦車ってこんなに軽やかに動くものなんですね!」

 

 Ⅳ号戦車が監視塔に接近していることを察知した他の車両も続々と集結してくる。

 

「おい、秋山ー!! 指示通りの訓練は終えたぞ! 次は何をすればいい?」

 

「終えたって、桃ちゃんはまだ一発も命中させていないんじゃ……」

 

 38t戦車B/C型に続き、車高の低いⅢ号突撃砲も到着した。車長席ではエルヴィンが親指を立てて微笑んでいる。

 

「秋山さん、こちらもメニューを消化した。次の指示をくれ」

 

 最後に不慣れながらルノーB1bisも集合に加わった。こちらは車長席越しではなく、無線機を使って言葉を零した。

 

「ちょっと秋山さん、あれほど合宿の日程はしっかりと詰めておきなさいと言ったはずよー! 風紀に関わるわ!」

 

 一番戦車の扱いには手こずっているが、人一倍真剣に訓練をこなしている生徒会チームだった。

 わずか四両ばかりの大洗戦車道だったが、一同に介する姿を俯瞰してみれば、胸にこみ上げてくるものが優花里にはあった。

 

「大丈夫だよ。秋山ちゃん」

 

 ね? と杏が隣で笑っているのを優花里は感じた。

 確かにもう少し自分は大洗の皆を信じてもいいのかもしれないと思った。黒森峰という一つの壁を前にして、一番怯えていたのは彼女だった。

  

「……会長、練習試合は明日なんですよね」

 

「先方にはそう伝えてるね」

 

 ならば、と優花里が杏に振り返った。その瞳は何かしらの覚悟を称えていて、先ほどまでの不安に揺れていた瞳とは全くの別物だった。

 

「申し訳ありませんが、午後は会長が合宿の音頭を取ってください。わたくしは明日に向けて少しばかり準備することができました」

 

 先程までの彼女とは別人であることを察した杏が了承の意を返す。

 

「でもどうして? 誰かにやらせたりとかはできないの?」

 

「いいえ。こればかりはわたくしが体を張らねばなりません。古来より情報は宝と言われてました。ならば指揮官たるわたくしがそれを頭に叩き込まなければ意味がないんです」

 

 そこまで足早に告げると、優花里は一目散に階段を下りていった。ただ一人取り残された杏は「やれやれ」と苦笑を零した。

 

「副隊長は河嶋なんだけどなー。ま、いっか」

 

 

01/

 

 

 長野にやってきて早三日。残り一週間ほどの日程だったが、カリエは若干の疲れを滲ませながら大浴場にやってきていた。

 いつもなら個室に備え付けられたシャワールームを使用しているのだが、明日の練習試合の編成や作戦を一人会議室で練り続けていたら0時を越えてしまっていたのだ。その為、この時間からシャワーを浴びるのは同室の隊員に申し訳ないと考え、一人大浴場に足を向けているというわけだ。

 さすがにこの時間になると人気は皆無で、一人きりの入浴が始まる。

 入浴とは言っても、まだ若干水が苦手なので洗い場のシャワーを使うだけに止めようとしていた。だが、一日の訓練で冷え切った体と気疲れした精神が、少しくらい浴槽に浸かってもいいんじゃないか、とカリエに語りかけてきていた。

 以前のように水に触れることによるパニック障害はある程度克服しているため、一応世間一般で言うところの入浴は可能だ。

 だが、だからと言って積極的に水に触れようとは思わないのも事実だった。

 

「うーっ」

 

 浴槽の縁に腰掛けて足だけをお湯に浸す。冷え切っていた体の末端が仄かに暖かくなっていくのを感じた。それだけで、カリエの中の天秤は入浴に前向きな方に傾いていく。

 

 このまま全身浸かってしまおうか。

 両足が大丈夫なら、完全に体を沈めても大丈夫だろう。

 

 傾きだした天秤に特に疑問も抱かないまま、カリエは体を前のめりに倒していった。ゆらゆらと揺れる、湯気が立ち上る水面に彼女の顔が映える。

 

 だがそのとき。

 

「失礼します!」

 

 やけに威勢の良い、ハキハキとした声が背後から降ってきた。がらりと大浴場のガラス戸は開け放たれ、素っ裸の女子生徒が一人、入浴道具を脇に抱えて立っている。

 端的に言ってしまえば、カリエ以外の浴場利用者が訪れただけだったのだが、如何せんタイミングが悪すぎた。

 体重を前に傾けていたカリエは、突然の大音量に飛び退いて浴槽に落ちた。

 

「わああああああああああ!!」

 

 いくらパニック障害を克服したとはいえ、それは完全なものではない。今でも不意打ち気味に水を浴びせれば恐慌状態に陥るし、ましてやお湯の張った浴槽に頭から突っ込めばそりゃもう一発だった。

 訳も分からないまま、悲鳴を上げてばしゃばしゃと暴れ回るカリエを見て、訪問客はただ事ではないことを瞬時に悟り、慌てて救助に飛び込んだ。

 

「わわっ、大丈夫ですか!?」

 

 戦車道を始めてから少しばかりついてきた筋肉を総動員し、浴槽からカリエを引き上げる。カリエの体は華奢だったが、どこにそんな力が秘められているのかと驚くくらいには、凄まじい暴れっぷりだった。

 ずるり、と洗い場までカリエを引っ張り上げたとき、訪問者は誰を救い出したのか理解した。

 

「い、逸見殿?」

 

 己の体が陸にあることに気がついて、正気を取り戻したカリエが視線を上げる。見れば、こちらをのぞき込んでいるのは今朝方挨拶を交わした大洗の隊長だった。

 

「えと、秋山さん?」

 

 思いも寄らない二人の邂逅は、大浴場から始まった。

 

 

02/

 

 

 大浴場前のロビーで、カリエは自販機で購入したペットボトルを傾けている。そのすぐ隣ではソファーに腰掛けた優花里が申し訳なさそうに頭を下げていた。

 

「本当にごめんなさい! 逸見さんが水が駄目なのを知っていながら余計なことをしてしまいました!」

 

 カラスの行水のごとく、瞬時に入浴を済ませた優花里は、先に大浴場から上がったカリエにすぐさま追いついて謝罪の言葉を連ねていた。

 謝罪を受けたカリエも罰が悪そうに、頭を下げる。

 

「いや、余計なことをしていた私が悪いよ。秋山さんはただ挨拶しただけだし。驚かせてごめんね。それにすぐ助けてくれたから大事には至らなかった」

 

 外面用のメッキが剥がれた、丁寧語を話さないカリエだった。優花里は何となく、こちらが本来の彼女であるということを感じていた。

 

「でも秋山さんもずいぶんと遅くにお風呂に来たんだね。大洗の人たちは日が暮れる前には撤収していたと思うけれど」

 

「わたくしたちには黒森峰の方々のように夜間訓練が出来るほど練度は高くありませんからね。日が暮れると店仕舞いであります。あとわたくしは隊長として個人的な責務に追われていまして、気がつけばこんな時間でした」

 

 どことなく余所余所しい態度の優花里を見て、カリエは首を傾げた。けれどもまだ自分に負い目があるのかもしれないと思った彼女は、もう一度「気にしなくて良いよ」と優花里に告げた。

 

「……私も明日の練習試合に向けて準備をしていた。如何せん癖の強い人たちばかりで彼女たちを纏めるのは骨が折れるよ」 

 

 そう言って、カリエは合宿に連れてきた仲間たちのことを振り返る。もともと真面目な気質が多い隊員たちではあったが、ここに来てカリエの指示を馬鹿正直に守る嫌いがあり、おふざけで砲撃精度90パーセントを要求すれば、それを達成するまで宿舎に帰ってこないと言い張る事件があった。初日から砲弾が尽きて、浜松港に停泊している黒森峰学園艦に届けてもらえるよう申請した暁には、エリカからどやされることが目に見えていたのである。慌てて指示を撤回して、丁度良い塩梅の命令を考えるのに半日も費やしてしまっていた。

 

「あはは、いくら天下の黒森峰も予算は無限というわけではないんですね」

 

「そりゃそうだよ。結局は同じ女子高生の一競技でしかないんだから。野球の甲子園常連だって、万年予算不足でOBたちからのカンパで成り立っていたことがあったし」

 

 何故高校野球に例えてくるかはわからなかったが、優花里は初めて挨拶を交わしたときよりも、カリエに対して明らかに親近感を覚えていた。

 天上の黒森峰と言えども、自分たちのような人間臭さを感じるエピソードを聞いたからだろうか。

 

「……ところで明日の練習試合なんだけれど」

 

 ペットボトルを空にして、自販機備え付けのゴミ箱に突っ込んでいたカリエが口を開いた。若干気が抜けていた優花里だったが、「練習試合」という言葉を耳にして、瞬時に背筋を正す。

 

「あなたたちは最大四両、用意できるんだよね?」

 

「は、はい。お恥ずかしい話ですが、まだまだ履修生が少なくて、動かせる車両はそれだけなんです」

 

 優花里の返答を受けて、カリエは「そう」と何かを考えるように口元へ指を寄せた。そしてやや間を空けたのちに、優花里へと向き直る。

 

「ならば私たちもそちらに合わせて四両の編成で試合に挑む。ルールはこちらは殲滅戦、そちらはフラッグ戦」

 

「というと?」

 

 優花里の疑問の声に、カリエは「ハンデ」と応えた。

 

「私たちの勝利条件はそちらの車両を全て撃破すること。あなたたちは私たちのフラッグ車を撃破すること。フラッグ車だけれども、Ⅲ号戦車に任せる予定」

 

 思ってもみない提案に優花里は「本当ですかっ!?」と食いついていた。舐められているとは思わない。それくらいのアドバンテージを貰えてようやく試合として成立するかどうか、という現状を理解していたからだ。

 

「それに加えてもう一つ。私たちは満載できる燃料の半分と、それぞれ五発の砲弾のみを積んで試合に参加する。いや、私の車両は四分の一の燃料と二発の砲弾でいいか。こっちはそれなりに腕利きの生徒を連れてきてしまっているから」

 

 まさに出血大サービスとも取れるカリエの提案に、優花里は戦慄を覚えた。何故ならそれほど自分たちに枷を加えても、こちらに絶対勝てるという自信をカリエは見せていたからだ。

 たとえ非公式の練習試合と言えども、王者黒森峰に敗北は許されない。これだけハンデを与えて負けたとなれば、カリエの黒森峰内での進退問題にも関わるだろう。それなのに、目の前の彼女は飄々としていて、黒森峰に恐れを感じる優花里の内心なんかそっちのけにして、カップラーメンの自販機と睨めっこを始めていた。

 

「うーん、ちょっと小腹が空いたな。いや、隊員たちに食事も訓練のうちと言ってしまったから、私一人が食べるのは不味いか」

 

 やはり次元が違う、と優花里は唾を飲み込んだ。

 けれども折角降って湧いたハンデの提案だった。

 彼女はそれに大人しくあやかって、どうにか試合として成立させるプランを早速練り始めていた。

 

「というわけで秋山さん、明日はよろしく。ところでさ、このカップラーメン半分ずつ食べない? 半分だけなら無罪だと思うから」

 

 ただ、頭の回転には栄養が必要だったのか、二人して一つのカップラーメンを食してから、それぞれの宿舎へ戻っていった。

 

 

03/

 

 

 試合当日。早朝から演習場は冷え込み、芝には霜が降っていた。優花里が黒森峰側に挨拶へ訪れたとき、上等そうなブーツを使って足下のぬかるみ具合を確かめているカリエがいた。

 他の隊員はそんなカリエの意見を聞き取って、ドキュメントボードに備え付けられた何かしらのチェックシートにペンを走らせている。

 

「あの、おはようございます」

 

「ああ、おはよう。わざわざごめんね。そちらの陣地に帰るときはワーゲンで送るよ」

 

 カリエの背後にはアイドリングを開始している四両の車両が並んでいた。ただでさえ燃料を減らしているのに、そんなことをしても大丈夫なのかと優花里は考えたが、自分なんかよりも遙かに実戦に精通している彼女たちがしていることなので、正解ではあるのだろう。

 

「見ての通りこの四両がこちらの編成。パンター一両、Ⅲ号二両、Ⅳ号一両。Ⅳ号はシュルツェンを外している。私の乗っているのはそこのパンター」

 

 カリエが指さした先へ視線をやれば、整備の行き届いているのであろうパンターG型が鎮座していた。あれが夏の激戦を戦い抜いた伝説の戦車だと意識したとき、優花里は体の芯からかーっと熱くなっていくのを感じた。冬特有の、少し遅めの朝日を受けて、ウロボロスのエンブレムが鈍く輝いている。

 

「では試合開始の準備をしようか。審判はこちらの隊員が勤めるけれど、公平に判断するように厳命しているから心配しないで。あなたをそちらに送り届けてからきっかり十五分で試合を始めよう」 

 

 カリエの命令を受けた隊員が優花里を黒森峰の移動車両のところまで連れて行く。

 独特のエンジン音と共に移動車両が発進したとき、優花里は黒森峰陣営を振り返った。すでに隊員たちは戦車への乗車を始めており、カリエ一人だけが最後の確認なのか、巨大な戦車たちを静かに見上げていた。

 低い唸り声を上げる戦車の中に佇むカリエの姿に、優花里は神話の中の戦女神を幻視していた。

 

 

04/

 

 

 テーブル一杯に広げた地形図を使って、優花里は作戦の概要を説明した。

 

「とにかく逃げ続けることが我々に残された唯一の勝利の可能性です。向こうは燃料を半分しか積んでいませんから、撃破されずに逃げ続けることが勝利につながるでしょう」

 

 言って、赤いマーカーで地図の一点を指し示す。

 

「ここに戦車道演習の為の仮設の町があります。小さな町ですが、逃げながらゲリラ戦を仕掛けるのに向いています。逆に開けた平地では絶対に直進をしないでください。ジグザグに逃げて、少しでも被弾の可能性を減らすんです」

 

「つまりはあれか。試合開始と共に、全速力でこの町を目指せばいいんだな? そして町中を逃げ回り、相手の息切れを待つ」

 

 エルヴィンの問いに優花里は「はい」と返した。

 

「また町中では同士討ちをさけるために、通信手同士、綿密な位置情報のやりとりをお願いします。特に敵フラッグ車を発見したチームは決して深追いせず、他のチーム全てにその位置情報を報せてください」

 

 優花里の指示に全員が肯定の意を返した。

 まだ黒森峰という学校のブランドを理解していない殆どの面子が、「もしかしたら勝てるかも」と淡い期待を抱いている。その様子を見て、優花里は一人小さく「大丈夫、誰も怖い目には遭わせません」と零した。

 

「残り時間が五分を切った。今すぐ全員戦車に搭乗。作戦通りに進めるぞ」

 

 副隊長である桃がその場を締めて、それぞれが持ち場についた。

 車長席に収まった優花里は、初の本格的な実戦に震えている己の手をみた。戦車の揺れとは明らかに違う自分のそれを見て、優花里はぐっと拳を強く握る。

 

「愛理寿さんは言いました。戦車道に必要なのは冷静な思考と、ちょっとした勇気。わたくしは怯えているのではありません。これは武者震いなんです!」

 

 どん、と何処かで空砲が鳴った。一瞬、砲撃が始まったのかと大洗チームに動揺が走ったが、「試合開始の合図です!」と優花里が無線に語りかけることで、すぐに落ち着きを取り戻した。

 

「それでは私たちから見て右側、東の方角に進路を切ります。森の合間を縫って、町を目指しましょう!」

 

 優花里の指示を受けて、Ⅳ号戦車を先頭にⅢ号突撃砲、38t戦車B/C型、ルノーB1bisの順番で進軍を開始する。少しでも黒森峰に発見されることを防ぐために、森の合間を通っている小さな街道をそれぞれ進んだ。

 ごくりと飲み込んだ唾の音が、咽頭マイクを通して何倍も増幅されているのを優花里は聞いた。

 大丈夫だ、このまま逃げ切れればゲリラ戦に持ち込めると彼女は地図に目線を走らせた。街道は残り200メートルほどで途切れている。そこを抜ければ高低差のややある丘を下って、町まで一直線だった。

 丘まであと100メートルと迫った。

 まだ黒森峰の気配はない。このままいける、と速度維持したまま街道を抜けるように、優花里は全車へ通達した。

 

 だがーー。

 

「おい、何か変な音が聞こえないか?」

 

 Ⅳ号戦車のすぐ後ろを走っているⅢ号突撃砲の車長であるエルヴィンが疑問を挟んだ。何事か、とヘッドセットを外した優花里は背後に振り返る。聞こえる音と言えば、追従してくる戦車のエンジン音のみ。

 けれども生粋の戦車マニアである優花里の耳は、ある違和感にすぐに気がついた。

 

「麻子さん! 全速前進!」

 

 咄嗟に指示を飛ばせたのは、そして麻子がそれに応えることが出来たのは奇跡のようなものだった。急加速したⅣ号戦車のすぐ後ろで土煙が吹き上がり、Ⅲ号突撃砲のエルヴィンが悲鳴を上げた。Ⅲ号突撃砲が落伍しなかったのは、操縦手であるおりょうが外の状況をよく理解できないままに、余計な操作をしなかったからだ。

 さらにある意味で一番冷静沈着な杏の乗った38t戦車B/C型も、どうにかして車列に食らいついていく。車内の桃はパニック状態に陥っていたが、操縦手の柚子が進軍に躊躇しなかったのが幸いした。

 しかしながら、最後尾だった典子とそど子、そしてゴモヨとパゾ美を乗せたカモさんチームは車列を乱してしまった。

 見るからに速度を落としてしまったルノーB1bisを見て、優花里は「しまった」と無線機に叫ぶ。

 

「背後から迫っています! 加速急いで!」

 

 優花里の必死の呼びかけは、果たして徒労に終わった。

 街道脇の森から出てきた三両の黒森峰車両ーーⅢ号戦車二両とⅣ号戦車戦車一両が無慈悲にも、ルノーB1bisの進路上に出現し、砲の照準を合わせていた。三両同時に放った砲弾は、ルノーB1bisの装甲をいとも簡単に破壊し、走行不能の白旗を引きずり出す。

 着弾の衝撃からか、大きく吹き飛ばされたルノーB1bisは街道上で横転し、黒煙を吐き出していた。

 

 

04/

 

 

『副隊長、ルノーB1bisの撃破に成功しました。残りの三両が丘に出てきます』

 

 無線越しに受け取る撃破報告を受けて、カリエはパンターの前進を止めさせた。そして砲手に何かを耳打ちし、砲塔をある方向へ向ける。

 

「Ⅳ号、敵が街道を抜けるタイミングを知らせて」

 

『残り二十秒ほどです』

 

「もっと正確に」

 

『失礼しました。あと十三秒です』

 

 報告を受けて、カリエは懐から懐中時計を取り出した。一秒、一秒と時を刻むそれを目にしながら、彼女は大洗にとって絶望的とも取れる指示を下す。

 

「五・四・三・二・一、撃て」

 

 パンターの主砲が火を噴き、車内に火薬の臭いが充満する。後退してきた砲塔後部に次弾を装填する砲手の動きには淀みはない。

 カリエはひりつく主砲の熱を車長席で感じながら、「あと二両」と淡々と呟いていた。

 

 

05/

 

 

 最後尾の38t戦車B/C型が突如吹っ飛んだ。

 何が起こったのか大洗女子で理解していたのは、先頭を走っていた優花里だけだ。

 スピーカー越しに、イヤホン越しに、何百何千と聞いてきた雷の如きパンターの主砲が炸裂したのを全身で感じ取っていた。

 

「これが……黒森峰」

 

 丘の向こう側、優花里たちから見て左側に陣取るパンターを見て、優花里は寒気を覚えていた。

 あのパンターは、いや、逸見カリエは、こちらが通り抜けるであろうルートを完璧に予測し、最短時間で待ち伏せが出来るポイントに展開。

 ルノーB1bisを三両掛かりで確実に撃破した後、慌てて街道から飛び出してくる車両のタイミングを予測して、自ら撃破したのだ。

 

「ば、ばけものじゃないですかあ」

 

 じわりと滲んだ涙で景色がぼやける。

 止まりかけていた震えが再燃し、次の指示を飛ばすための口が使い物にならなくなった。

 ぴたりとこちらに追従するパンターの砲塔を見て、「ひいっ」と情けなくも悲鳴を上げた。

 

 もうやめましょう。もう降伏しましょう。

 

 そう全軍に通達するために、優花里は咽頭マイクを掴む。これ以上自分の身勝手な戦車道に付き合わせてはならない。これ以上、友人たちに怖い思いをさせてはならないと、彼女は震える唇を開いた。

 

『秋山!!』

 

 ぴたり、と優花里の手が止まった。何事か、と思えば車内の通信装置を通して聞こえる杏の声だった。

 

『あきらめるな! 私たちはまだ負けていない! カモさんもアヒルさんも中は無事だ!』

 

『ごめんなさい! 秋山さん、私たちやられちゃったけれど、怪我はしてないわ!』

 

 杏の声に続いてルノーB1bisに乗っていたそど子が応える。

 

『秋山さん! とにかく町を目指そう! あのパンターはあと一発しか弾を持っていないんだろう!? なら早々撃ってこない筈だ!』

 

 振り返れば、後続のエルヴィンが優花里に手を振っていた。その表情は恐怖に引き攣っていたが、戦意までは失っていなかった。

 

『大丈夫だよ、秋山ちゃん。私たちは最後まで秋山ちゃんについて行くよ。だから私たちに、大洗戦車道チームに指示を与えてくれ!』

 

 正直言って、恐怖感はまだあった。

 いくら怪我人がいないと聞かされていても、次は自分たちだと考えると怖くて怖くて仕方がなかった。

 震えも止まっていない。

 ぴたりとこちらを向いたパンターの砲塔は怖い。

 でも、降伏の言葉は優花里の頭からすっぽりと抜け落ちていた。

 

「Ⅳ号、Ⅲ号突撃砲共に出来る限りジグザグに走行してください! 幸い足下は若干の砂地です! 履帯で土埃を巻き上げれば、天然の煙幕になります」

 

 Ⅳ号戦車のエンジンが唸りを上げ、履帯が吹き飛ぶぎりぎりの動きで丘を駆け下りる。街道から三両の黒森峰戦車が顔を覗かせたが、発砲はしてこなかった。

 徒に砲撃を繰り返すことを禁止しているのだ、と優花里はカリエの指示を何となく予想していた。

 

 試合開始からおよそ二十分。

 早速半数の車両を失ったが、大洗は降伏の旗を揚げなかった。

 反骨精神ではない、勝機を見いだしているでもない。

 

 だが隊長としての責を果たすことを求められているから、なけなしの勇気を振り絞って、優花里はⅣ号戦車戦車を走らせた。

 

 もう一度、丘の上に座するパンターに振り返る。車長席には冬の風に銀髪を靡かせたカリエがいた。

 先程戦女神を幻視させたその姿は、今見てみれば、こちらを執拗に追いつめる、悪魔のようだった。  



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秋山優花里の戦車道 05

秋山優花里の戦車道05

 

 

 丘を死に物狂いで下っていく大洗の車両たちを見下ろしながら、カリエは無線機で次の指示を飛ばしていた。

 

「……予定通りあちらは市街地に向かった。これより先、単独行動は禁止。指定のポイントまで全車両で向かう。遭遇戦は起こさないこと」

 

 続いて車内に体を伏せ、中でカリエの言葉を待っていた隊員たちを見回した。

 そのうち、気まずそうに視線を逸らす砲手の上級生に向かってカリエは口を開く。

 

「さっきの射撃、二秒ほど遅れています。後続の38tは撃破できましたが、厄介なⅢ号突撃砲は健在です」

 

 砲手を勤めていた二年生が、「すみません」と頭を下げた。カリエの指示通りの射撃が間に合っていれば、厄介な攻撃力を持つⅢ号突撃砲を始末できた上に、後続の38t戦車B/C型も巻き添えにすることが出来ていたのだ。己の失態を噛みしめて、「次は必ず当てます」と申告する。

 だがカリエは「いいえ」と首を横に振り小さく微笑んで見せた。

 

「ですが仰角、俯角の調整は見事でした。先輩のその腕は待ち伏せ戦術において素晴らしい戦果をもたらしてくれる筈です。合宿の後半は私と一緒に待ち伏せの戦術について考えましょうか」

 

 先程まで死にそうな程、顔を青ざめさせていたことが嘘のように、砲手の表情が明るくなっていった。

 その様子を見ていた他の乗員たちが「いいなー」と嫉妬の言葉を漏らす。

 カリエはこほん、と一つ咳払いをすると外の様子を一瞥して、各車に指示を追加する。

 

「さて、そろそろ即席煙幕も晴れたはず。市街地に降りて、残党狩りを開始。各車、パンターを先頭に前進を。市街地からは隊を二班に分けて獲物を仕留める」

 

 

01/

 

 

「後ろからついてくる気配がない。待ち伏せされているかもしれないぞ」

 

 地獄の丘を下りきったその先、Ⅳ号戦車とⅢ号突撃砲は市街地を疾走していた。当初の予定通り、市街地までたどり着くことが出来た車両はわずか二両だけで、試合開始一時間も経たないうちに半数を失った計算になる。

 操縦桿を握る麻子は周囲に漂う微妙な静けさを敏感に感じ取って、優花里に伏兵の可能性を告げた。

 

「おそらく前方に伏兵を張っているということはない筈です。あちらは燃料に限りがある以上、進行速度は稼げません。さっきは最短距離をショートカットされて先回りされましたが、同じ方向を目指している現状ではわたくしたちの方が早く動けていると思います」

 

 ガタン、と地面の凹凸を噛んでⅣ号戦車の車体が揺れた。装填手と通信手を兼任している沙織が小さく悲鳴を上げる。

 

「でもこれからどうしましょう? ここでゲリラに徹するのなら、そろそろ隠れるところを見つけないと」

 

 砲手の華が言うとおり、黒森峰にゲリラを仕掛けるにはそろそろ時間が限界に近づいていた。これ以上市街地をうろうろしていては、追いかけてきたⅢ号戦車などに、居場所を捕捉される危険がある。

 

「では、Ⅲ号突撃砲のカバさんチームは家の塀などを利用して何処かに隠れてください。私たちは黒森峰の車両から逃走を図りつつ、Ⅲ号突撃砲の目の前にどうにかして相手を引きずり出して見せます」

 

『任された。健闘を祈るぞ。あんこうチーム』

 

 およその待ち伏せポイントを告げて、Ⅲ号突撃砲がⅣ号戦車と別れた。一人取り残されたⅣ号戦車は黒森峰戦車を釣り上げるべく、進行速度を若干緩める。

 

「冷泉殿、接敵し次第、すぐさま最高速にギアチェンジ。全力で逃走を図ります。ナビは私がしますから、安心は出来ないでしょうけど、言われた通りの操縦をお願いします」

 

 優花里のやや後ろ向きな感情を汲み取ったのだろう。麻子は冷静に操縦桿を握りしめたまま、振り返ったりせずに口を開いた。

 

「いや、私は秋山さんを信頼している。それはここにいる皆が同じだ。大洗の皆は秋山さんが戦車道のため、どれだけ頑張ってくれているか知っている」

 

 麻子が戦車道を履修する動機は、沙織があまりにも熱心に誘いを掛けてくることと、連続遅刻記録の免除及び、これからの遅刻にもある程度目を瞑ってみせるという、戦車道の特典だった。

 天才肌どころか、本物の天才たる器用さを有している彼女は、あっという間に戦車の操作をマスターした。けれどもやる気に満ちていたかというと、そんなことはなく、適当に履修を続けて、特典さえ貰えれば良いという考え方だった。

 だがーー。

 

「いつも誰よりも早くにガレージにやってきて戦車の点検をしていることを皆が知っている。私たちが怪我をしないように、怖い思いをしないように、細心の注意を払ってくれていることも知っている。不慣れな、それこそ経験の全くない隊長という仕事も文句一つ言わずにやってくれている。そんな秋山さんだから、私はこんな状況でも信用したい」

 

 麻子の言葉は沙織と華の気持ちの代弁でもあった。それぞれ異性にモテたい、何か新しいことをしてみたい、自分の他の可能性を見てみたいという違った動機ばかりだったが、優花里に対する感謝の気持ちは共通していた。

 

「だから指示をくれ。黒森峰のいけすかないエリートどもをぎゃふんと言わせるような指示をくれ。秋山さんならきっとできるはずだ」

 

 何処からかⅣ号戦車とは違ったエンジン音が聞こえてきた。

 それが黒森峰の追っ手の車両であることくらい、三度の飯よりも戦車である優花里はわかっていた。

 彼女はこれまで己の中に培ってきた黒森峰の車両のスペックデータを思い出す。戦車道のレギュレーションに則っているかぎり、その長所も短所もスペックデータそのままの筈だ。いくら黒森峰側が超人的な戦車道スキルを有していても、それは変わりようがない。

 そして戦車に対する情熱と同じだけ、興味と関心を向け続けた相手がいる。

 

「……ありがとうございます。冷泉殿、今思い出しました。わたくし、実を言うと、黒森峰の、特に逸見カリエ殿の大ファンなんです。逸見エリカ殿や西住みほ殿ほど見てきたわけではありませんが、第三者としては誰にも負けないくらい、彼女を研究したと自負しています。今この展開も、彼女の戦術も、いつかわたくしが憧れてきた彼女そのものではないですか」

 

 キューポラから顔を出し、背後に振り返る。やや遠くの方で、こちらを追う二両の車両ーーⅢ号戦車が見えた。

 

「やはりⅢ号戦車に比べて、足まわりが貧弱なパンターでは追いかけてきません。燃料の制限もハンデに見せかけたブラフです。追撃戦を行わないのならば、行動半径が縮小しても大した痛手にならないですし、車重が減少して、機動性の向上が見込める……」

 

 優花里は大浴場で交わしたカリエとの会話を振り返る。今になって思えば、あそこから戦車道の試合は始まっていたのだ。

 

「わたくしたちは彼女に誘導されていたんですよ。燃料と砲弾を減らすと聞けば、素人のわたくしたちは彼女たちと鬼ごっこを演じるしかないじゃないですか。けれどもそれはカリエ殿の術中に嵌まっているのと同じこと。全て予想通りだったんです」

 

 改めて優花里は黒森峰の強さというものを噛みしめていた。単純な戦車の性能、隊員の実力が優れていることなど、表面上の強さでしかない。試合が始まるまでの、リング外での攻防も黒森峰を支える立派な強さなのだ。

 

「……この試合が終わったら反省会ですね」

 

 まんまとカリエの策に嵌められたとわかった今、優花里は既に恐怖を感じなくなっていた。

 ただ、自分の情けなさと甘さに対する呆れだけが強くなっていく。

 だがこのままやられっぱなしではいられない、と優花里は咽頭マイクをオンにした。そして待ち伏せを続けているであろうカバさんチームに対して新しい指示を飛ばす。

 だが、カバさんチームのエルヴィンから返ってきた言葉はさすがに予想外のものだった。

 

『すまない秋山さん。たった今、私たちは撃破された』

 

 

02/

 

 

 黒煙を吐き出すⅢ号突撃砲から、操縦手であるおりょうが黒森峰の隊員によって引っ張り出されていた。

 

「……すまないな。救助までしてもらって」

 

 既に車外に出ていたエルヴィンがカリエに向かって礼を告げた。

 カリエは無線機で回収車の位置を確認しながら、エルヴィンに返答する。

 

「本当は回収車を呼ぶべきなのだろうけれど、今回は火災の恐れがあるからこちらから助けた。公式試合ではこんなことは基本ないから気をつけて。まあ、車内強化カーボンは基本耐火性だし、自動消火装置が積んであるから、勝手に逃げない方がいいんだけど」

 

 でもあなたたち、こういった本格的な戦車戦は初めてでしょ? とカリエは微笑んだ。

 

 どことなく、こちらを追いつめ続ける黒森峰チームのイメージとは随分とかけ離れた表情だったものだから、エルヴィンは思わずカリエに問い掛けていた。

 

「……どうしてここまで面倒を見てくれるんだ? 聞けばルノーも38t戦車も回収車がすぐさま駆けつけて救助してくれたらしいじゃないか。わざわざそちらが無線で座標を伝えて。我々のような、来年も戦車道を行っているかわからないようなチームに媚びを売っておいても無駄足になるかもしれないんだぞ?」

 

 カリエはエルヴィンの言葉に二秒ほど首を傾げる。それは何を当たり前のことを聞いてくるんだ、という純粋な疑問だった。

 

「いや、だって、そのスポーツを始めようとしてくれている初心者の面倒を先達が見るのってそんなに可笑しいかな? 競技人口は少しでも多い方が、絶対楽しいし」

 

 これは一本取られたな、とエルヴィンは笑った。試合をすることで精一杯だった自分たちとは明らかに違う心構えと、立場を有する黒森峰が痛快で笑った。

 そしてひとしきり笑った後、救助活動を終えて戦車に乗り込もうとするカリエに言葉を投げかける。

 

「? まだ何か? もしかして車内に忘れ物?」

 

「いや、すぐに済むさ。うちの隊長はまだまだ初心者で小心者だけれど、その生真面目さは天下一品かもしれない。それに加えて思わぬ行動力もある。たとえ黒森峰のような王者でも、足下をすくわれるかもしれないぞ」

 

 エルヴィンの言葉に、カリエは目をぱちくりと瞬かせた。そしてこう返す。

 

「すくってくれた方が、こちらのチームの技量も上がるし、大歓迎」

 

 発進し、自分たちから離れていくパンターを見て、エルヴィンは頭を掻いた。そしてちょっとばかりボヤくように一言だけ零す。

 

「あれが王者の余裕、か」

 

 

03/

 

 

「撃破されたとはどういうことなのでしょう?」

 

「突然背後からパンターが家を突き破って出てきたらしいよ。で、びっくりしていたら、一緒にいたフラッグ車のⅣ号戦車にやられちゃったって。もー、そんなのありー?」

 

 華の問いに沙織が言葉を返す。車長席にいた優花里はそんな二人を見て「少しばかり逸見殿の策に気がつくのが遅すぎました」と謝罪した。

 

「謝る必要はない。しかしあれか。戦車は家も関係なく進めるものなのか」

 

 麻子の言葉に、優花里はあくまで条件がそろえば、と補足した。

 

「全体的に密度が低い日本家屋なら可能でしょう。特にパンターは装甲と馬力に優れた戦車です。砲身を痛めないように注意を払えば問題ありません」

 

「でもさでもさ、どの家が突き抜けられるかなんて、初見でわかるものなの?」

 

 沙織の言うとおり、最近の家屋は耐震技術の発展もあり、外観からその強度を推し量ることは難しくなっている。例え戦車道用の仮初めの町であっても、その強度はまちまちで下手を打てば車両を大きく破損させる危険性を孕んでいるのだ。まさかあの逸見カリエがそんな大博打を打つはずがないと、優花里は首を横に振った。

 

「恐らく昨日のうちに……或いはわたくしたちがこの合宿所に到着するずっと前に、町の下見を終わらせていたんです。道路だけでなく、どこにどのような障害物があるのか、どの建物なら戦車でごり押ししてショートカットしても良いのか。わたくしたちのような戦車道素人なら、どこに待ち伏せしようとするのか、全て想定尽くだったんです」

 

 ぞわっ、と寒気を感じた沙織は己の肩を抱いた。優花里もアクションこそは起こさなかったが、気持ちとしては同じものだった。

 王者としての華々しい部分しか見てこなかった自分はなんて馬鹿なんだろうと、さらなる後悔が湧いてくる。あれほど知将と尊敬していたカリエの謀略が、自分に向いたときの怖ろしさを全く持って想定し切れていなかったのだ。

 

「この町に逃げ込んだのは悪手でした。相手の庭どころか、お腹の中に飛び込んだようなものです。背後から追いかけてきているⅢ号戦車も恐らく牽制みたいなもの。その証拠に一発も撃ってきませんし、全く同じ距離を維持したままこちらに着いてきています」

 

「ならどうする? 逃げるのをやめて立ち向かうのか」

 

 いいえ、と優花里は麻子に返した。

 彼女はやや悩みながらも、提案が一つだけありますと口にした。

 

「最早ここまでくれば勝利は万が一にもあり得ません。ですが、このまま相手の策略通りに試合を終わらしてしまっては、他の皆さんに申し訳が立ちません。ですからここは一つ、逸見殿の裏をかき、かつ、一番彼女を驚かせるような戦いをしてみたいと思います」

 

 

04/

 

 

 最初、三つ連なる家屋をぶち抜いて進め、とカリエに命令された時、操縦手が感じたのは当たり前だが戸惑いだった。

 彼女も黒森峰戦車道の立派な隊員である。座学の授業は真面目に受講しており、そこで戦車を使って建物を突破するという運用も習っていた。けれども実行に移すにはそれなりの覚悟と運が必要であることも理解している。何せ、途中、少しでも突破困難な障害物があればたちまち砲身を痛めたり、履帯を破損してしまう可能性があるからだ。

 砲手もせめて砲身だけは保護しようと、砲塔を後部へ旋回させようとする。だがカリエはそれを押しとどめた。

 

「いえ、砲塔の回転は指示してないけど」

 

 つまり砲身もそのままに突っ込め、と言っているのである。その場にいる全員が無茶だ、と思った。だが口にはしない。何せ、こういう時のカリエが本気であることは、ここ数日で嫌と言うほど学んでいるからだ。

 せめてもの反抗として「どうなっても知りませんよ」と愚痴を零して見せたが、カリエはそんなもの何処吹く風だった。それどころか、砲手と装填手に向かって発砲準備まで指示したのだ。

 ええい、ままよ。とその場にいた乗員全てが覚悟を決め、パンターが前進を開始する。唸りをあげて前へ突き進んだ鋼鉄の獣は、薄い土壁を突き破り、一つ目の家屋をぶち抜いた。

 キューポラの天蓋を閉め、車内で持ち手をしっかり握りしめたカリエは「もっと早く」と操縦手を急かした。

 ここまでくればやけっぱちだ。

 二つ目の壁を突き破った衝撃が走り、基礎を乗り越えたのか、車体が傾く。必死に操縦桿を握りしめて、進行方向に歪みが出ないよう、必死に調整を繰り返す。

 三つ目の衝撃はややあって訪れ、中の家財道具やガラスが吹き飛んでいるのか、甲高い破砕音が装甲のすぐ外で鳴り響いた。

 

 バキっ、と最後の壁を突き抜けたとき、すぐさまカリエはキューポラから外へ身を乗り出した。通信手が「危険です!」と引き留めようとも、それを振り払って外の様子を伺う。

 そして何かに気がついたのか咽頭マイクに向かって叫んだ。

 

「パンター発砲中止! 砲塔やや左に旋回! 操縦手も左へ十五度! 他全員は対ショック体制! 後続のⅣ号、射撃準備! 目の前にⅢ号突撃砲が飛び出すぞ!」

 

 突然の指示だったが、日頃の訓練の賜か隊員たちはすぐさま動いた。砲手と操縦手は言われたとおりにそれぞれ操作し、装填手と通信手は近くの持ち手を掴み、何かの衝撃に備えた。背後に続くⅣ号戦車も同じように指示に従っているのだろう。

 時間にしておよそ三秒。家に突入した時とは比べものにならない衝撃がパンターを襲った。

 

「くっ!」

 

 カリエの視線の先にはこちらに背を向ける大洗のⅢ号突撃砲がいた。待ち伏せをしていたのか、家の塀に隠れるよう、静かに鎮座している。

 そのⅢ号突撃砲のやや左後方に、パンターの右前面が衝突した。だが進路を左に取っていたお陰か、正面衝突には至らず、両者ともに接触した程度の衝撃だった。

 続いて後続のⅣ号戦車が家屋から飛び出す。あらかじめⅢ号突撃砲の存在を知らされていたⅣ号戦車は落ち着いて停車し、極近距離でⅢ号突撃砲を仕留めて見せた。

 

「よし、一両撃破。これであと一両」

 

 二両とも動きを止め、周囲の状況を伺う。

 カリエは「ふー」と息を一つついて、額の汗を拭った。

 

「いやー、びっくりした。思ったよりⅢ号突撃砲、近くに隠れてたんだ。黒森峰なら待ち伏せ後の退路を考えて、もう少し道路側に寄せてるからそのイメージに引きずられたな。なるほど、型に囚われない相手とやるとこんなことも起こり得るのか」

 

 メモメモ、と懐から取り出したボロボロのノートに所見を書き込むカリエを見て、他のパンターの乗員たちは言葉を失っていた。

 口数が少ないため、その指示の意図はいまいち要領を得ないことが多いが、ここまでその指示が全て大洗の作戦を打ち砕いている。

 その成果から、徹底的に対戦相手のメタを張り続ける彼女の真髄を垣間見たのだ。

 少なくとも対戦相手の大洗女子のことを哀れに思うくらいには、自分たちの指揮官は常軌を逸していると感じた。

 そして、この人の戦車道をもっと見てみたいと、全員がその思考を塗りつぶしていた。

 

「ん? ほらほらボサっとしてないで回収車呼んであげて。ーーうん? ここから結構距離あるな。なら私たちでⅢ号突撃砲の乗員を助けようか。消火活動準備、砲弾降ろしたスペースに詰め込んだ消火器と救助用具の使いどころだよ」

 

 

05/

 

 

 大洗女子に残された最後の一両、Ⅳ号戦車は自分たちが嵌まりこんでいる意味のない鬼ごっこを終わらせようとしていた。

 

「ここを左折して、ここを直進、最後は丁字路を右折ですか。なるほど、ここに誘い込もうとしているんですね」

 

 優花里は膝の上に広げた地図に、マーカーで線を書き足していた。それを見て沙織がホワイトボードに赤の磁石と、青の磁石を張り付けていく。

 

「ということはこの待ち伏せされているであろうポイントから遠ざかるの?」

 

 いえ、と優花里は否定する。

 

「今からここに突入します。けれども冷泉殿、あたかもあちらに誘導されたかのように、自然な感じで向かってください。武部殿は次弾装填の必要はありませんから、衝撃に備えられるよう掴めるところを探してください。五十鈴殿、発砲のタイミングはお知らせします」

 

 あたかもⅢ号戦車に追い立てられているかのように、Ⅳ号戦車は付かず離れずの状態で道路を進む。

 加速と減速を織り交ぜながら、少しずつ優花里が予想したポイントに向かう。

 

「皆さんには先に謝罪しておきます。これからわたくしが指示することはある意味で敗退行為です。フラッグのⅣ号戦車を撃破することは叶わないでしょう。けれどども大洗戦車道が黒森峰戦車道に一矢報いるには、今のわたくしではこれくらいしか思いつきません」

 

 ぺこり、と頭を下げる優花里に沙織は「気にしなくていいよ」と笑った。

 

「もともと勝てっこない勝負だったのに、少しくらいぎゃふん、と言わせられるんでしょ? ならそれでいいじゃん」

 

「私も同感です。こんな凄い戦車道をする相手に噛みつくなんてぞくぞくします」

 

「言われたとおりにやるだけだ。でも、やるからにはあとに繋がるようなことをしたい」

 

 他の三人の言葉を聞き、優花里の表情は少しばかり明るくなった。彼女は進行方向をじっと見つめると、そこで待ち受けるであろうカリエに向かってこう言い放つ。

 

「ファンだって、時には怖いこともするんですよ」

 

 

06/

 

 

『大洗Ⅳ号、ようやくそちらに向かうルートを取りました』

 

 Ⅲ号戦車からの報告を受けて、カリエは「いや」と眉を潜めた。

 

「たぶんあちらは待ち伏せに気がついている。誘導されている割には加速と減速が交互にしすぎているんだ。こちらの裏をかいて、破れかぶれの特攻を仕掛けるつもりだ」

 

「なら、ポイントを変更して、ここを狙うことのできる地点を探しますか」

 

 通信手の提案に「その時間はない」とカリエは返す。

 

「ここで迎え撃つ。それにこれは私たちに対する挑戦だ。折角ビギナーが覚悟を決めて向かってきているのだから、逃げるなんてありえない。それに、あなたたちならどんな奇策でも跳ね返すだけの力量があると私は思っている」

 

 彼女の言葉にパンター内の隊員たちは顔を見合わせた。そして互いに頷き合い、カリエに向き直る。

 

「任せてください。副隊長。必ずあなたに勝利をもたらせて見せます」

 

 パンターの砲塔が旋回した。試合前に積み込んだ最後の一発は既に装填されている。これを外してしまえば、事実上の被撃破だが乗員たちに恐れはなかった。

 

「……来ました。最後の右折路まで来ています。接敵まで三十秒とのこと」

 

 Ⅳ号戦車を追いかけているⅢ号戦車からの報告を、通信手がカリエに伝えた。カリエは車体と砲塔の微調整を指示して、キューポラから外を伺う。

 

「Ⅳ号戦車は万が一を考え、パンターの後方へ。大洗Ⅳ号に対して斜めの位置を取り、装甲厚を増やして。Ⅲ号戦車はそのまま前進。フレンドリーファイアを防止するため、そちらの発砲は禁じる」

 

 音が聞こえてきた。

 背後の黒森峰Ⅳ号戦車に比べれば、整備もまだまだ行き届いていない、歪なエンジン音だ。

 だが確実にこちらに向かってきている証拠でもある。

 

「三・二・一、今飛び出した! ぎりぎりまで引きつけて!」

 

 丁字路の陰から、大洗のⅣ号戦車が飛び出してきた。殆ど最高速で右折したそのテクニックにカリエは内心舌を巻く。

 しかし、それ以上でもそれ以下でもない。

 必要以上に狼狽えたりはしない。

 

「発砲準備」

 

 パンターの射線にⅣ号戦車が重なる。

 普段は操縦手の肩を叩くために使っていた足を、砲手の脇腹に持って行く。それは適切な発砲タイミングを知らせるための最後のアクション。

 

 パンターとⅣ号の距離が詰まる。カリエは咽頭マイクを押さえた。足を引き、砲手の脇腹を小突くための動作が始める。

 

 だがーー。

 

「!」

 

 大洗のⅣ号が舵を突如右に切った。それはカリエから見て左側だ。最後の悪足掻きか、とカリエは発砲を踏みとどまる。しかもそこを抜かせてしまえば、フラッグ車へ一直線である。それだけは何としても防がなければならないと、「左に砲塔回せ!」と口が滑り掛けた。

 

 そこから先、カリエがその指示を飛ばしたのは奇跡のようなものだった。

 

 自分と同じようにキューポラから身を乗り出した優花里と視線がぶつかる。それだけで、カリエは優花里の狙いを自分だと察した。「フラッグ車狙いでこちらを見ているのはあり得ない」と、彼女のキャッチャーらしい観察力が働いたのだ。

 左と口走り掛けたのを、右へ、と叫んだ。

 中の砲手が死に物狂いで砲塔を回し、カリエから見て右側、自車から見て左側にドリフトを始めた大洗Ⅳ号を追う。

 射線が再び重なるが、発砲はしなかった。Ⅳ号がドリフトを追え停止したその瞬間、パンターの側面についた一瞬のうちに、カリエは砲手の脇腹を小突いた。

 今度は遅れなかった。砲手はカリエが指示した最高のタイミングでトリガーを引いた。

 パンターが最後の砲弾をⅣ号戦車に叩き込んだ。

 

 

07/

 

 

「……すいません。先に引き金がロックされてしまいました」

 

 砲手を勤めていた華が、全身から力を抜いていた。戦車道のルール上、撃破判定がなされると、殆どの機構がロックされてしまう。それはつまり、大洗のⅣ号戦車が発砲するよりも先に、黒森峰のパンターが砲弾を放ったということ。

 不発に終わってしまった現状を華は嘆いた。

 

「いや、私の操縦が不味かった。もっと回転半径を縮めるべきだった」

 

「ううん、麻子と華はよくやったよ。最初の試合でこれだけ動けたら言うことなしじゃん。それにゆかりんも凄かった! 立派な隊長ぶりだったよ。……ゆかりん?」

 

 何時まで経っても言葉を発しない優花里を心配して、沙織は車長席を見上げる。そこではキューポラから身を乗り出して固まった彼女がいた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 優花里とカリエ、両者は視線を交わしている。明確な勝者と敗者を、それぞれの車両の状態が教えてくれていた。黒煙を吹き上げるⅣ号戦車から、優花里はカリエに笑いかけた。

 

「負けちゃいました」

 

 カリエもそんな優花里に微笑み返す。

 

「いや、紙一重だよ。危なかった。あなたの視線に気づけたから、止められた」

 

「凄いですね。こちらのやることなすこと、最後まで全部読まれちゃいました」

 

「それは秋山さんの作戦が理に適っているからだよ。あなたはもっと自分の隊長業に自信を持っていい。チームメイトの実力があなたの作戦に追いついたそのとき、大洗は強いチームになれる」

 

 よっこいしょ、とカリエがパンターのキューポラから抜け出す。そして肉薄していたⅣ号戦車に飛び乗り、優花里へと手を差し出した。

 

「初陣おめでとう。私が最初に車長やったときよりも巧かったよ。いや、これお世辞じゃなくて本当の話」

 

 優花里はそんなカリエの手を掴んだ。試合には完璧な完敗を喫したが、その心境は明るかった。

 

「カリエさん」

 

「うん?」

 

 キューポラから引っ張り上げられ、カリエと目線が同じ高さになる。

 王者黒森峰と、新設大洗の隊長が、二人して肩を並べていた。

 

「わたくし、あなたのような隊長になりたいです。やっぱりわたくし、あなたのファンみたいです」

 

 優花里の言葉にカリエは「何それ」と苦笑した。

 

「ならサインでも書こうか?」

 

「はい、もちろんそれは頂きたいのですが」

 

 適当に告げた冗談に、思いも寄らぬ食いつきをされカリエは一歩引いた。だが優花里はそれを二歩詰める。

 

「連絡先、教えて貰えないでしょうか。わたくし、あなたとお友達にもなりたいんです」

 

 カリエはきょとん、とした。それは優花里に見せた初めての表情だった。

 緊張の面もちで、優花里はカリエの返答を待つ。だがそれは数秒も続かない。

 

「もちろんいいよ。でも私、友達少ないから変なこと言うかもしれない。まあ、それは勘弁してほしいかな」



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秋山優花里の戦車道 06

 秋山優花里は困惑していた。いや、というよりも大洗女子たち皆が困惑していた。

 

「Ich danke ihnen sehr für ihre Muhe(お疲れさま)」

 

 場所は合宿所備え付けの、レクレーションルーム。大きさは少し大きめの体育館ほど。

 眼前には流暢なドイツ語を唱えて、両手にビールジョッキを手にした逸見カリエ。

 ただし表情の変化は乏しく、じとっとした三白眼で、彼女に対しどのような反応を返せばいいのか、誰もわからない。

 微妙な沈黙が両者の間を支配する中、勇気を振り絞って言葉を返したのは意外なことに桃だった。彼女はずれ落ちたモノクル眼鏡もそのままに問う。

 

「いや、その格好は何だ?」

 

 カリエは首を傾げながら己の格好を見下ろした。そして何か変なところでもあるのかと、逆に桃に返す。

 

「? でぃあんどる。知らないの?」

 

 ディアンドル。ドイツ語で「お嬢さん」を意味する伝統的な衣装である。多数のフリルがあしらわれ、背中と肩がやや露出した不思議な衣装だ。

 

「いえ、副隊長。ディアンドルですよ。発音が違います」

 

 ここまで来ては、同じ服装をした黒森峰の隊員の訂正ですらどうでもよかった。優花里は引き攣った顔のまま、呆気にとられている桃の前に出て、カリエの眼前に立つ。

 

「ディアンドルって、あのディアンドルですよね。ドイツの民族衣装の」

 

 優花里の台詞に、カリエは胸を張って応えた。あまり表情が動かなくても、どことなく自慢げに見えるのは一応その衣装を気に入っている証拠なのだろうか。

 

「うん。そのでぃあんどる。折角学園艦からノンアルコールビールをくすねてきたんだから、雰囲気も盛り上げようと思って用意した」

 

 カリエの端的な説明に、奥のテーブルで食事の用意をしていた隊員たちが反応する。

 

「いやー、副隊長に言われて醸造科からビールを買い付けて、ドラム缶に隠し持ってきたときは緊張しましたね。エリカ副隊長が側を通りかかった瞬間なんて生きた心地しませんでしたもん」 

 

「畜産科からソーセージもゲットしてきましたよね。副隊長結構顔が広いから、いろんなところから物資を集めて来れました」

 

「草野球仲間が結構多いから」

 

 隊員たちの言葉に、片手を上げながらカリエは応えている。

 眼前に立ち尽くす優花里は冷や汗を流したまま、どうしてこのような状況になってしまったのか、ほんの少し前の出来事を思い出していた。

 

 

01/

 

 

 練習試合も終わり、それぞれの撃破された車両は黒森峰によって回収され、彼女らに随伴してきていた整備班に引き渡された。

 

 黒森峰副隊長のカリエ曰く、「明日までには自走可能になると思う」とのこと。

 

 思わぬ厚意に恐縮しきりだった優花里だが、カリエは礼も受け取ることそこそこに、大洗の面々に入浴を勧めた。

 言われて、自分たちの様相を見てみれば、煤と泥やその他もろもろで汚れており、女子としては些か不合格な出で立ちだった。

「施設に要請して、湯は張ってある」とカリエから告げられれば、あっという間だった。激闘に心身とも疲れ切っていた彼女たちは、温かい風呂を存分に堪能した。

 そして全てをリフレッシュし、ホクホク気分でそれぞれの反省点をつらつらと述べながら大浴場を後にした。

 すると浴場の入り口の前に、黒森峰の制服を着込んだ隊員が一人立っていた。

 何事か、と杏が用件を問うと、隊員はこう言葉を返す。

 

「副隊長が黒森峰と大洗、両校の懇親会の用意をされてお待ちです。ご都合がよろしければ、レクレーションルームにお越しください」

 

 ぺこり、と頭を一つ下げて隊員はその場を去っていった。取り残された大洗の面々は「どうしたものか」と顔を見合わせる。その中で真っ先に音頭を取ったのは、練習試合で一皮剥けた気のある優花里だった。

 

「是非参加しましょう。激闘を終えた後に親睦を深めることができるなんて。こんな機会滅多にないですよ」

 

 彼女の提言に反対するものはいなかった。沙織は「連絡先を交換しちゃおうかなー」と携帯電話を取り出し、華は「お食事も用意されているのでしょうか。楽しみです」と微笑んだ。麻子も珍しく「ケーキとかあるのか」と興味を示している。他の面子もおよそ似たような反応だ。

 

「なら決まりだね。今日はとことん黒森峰に甘えて、彼女たちと仲良くなろう!」

 

 杏の弾けるような声があれば一発だ。それぞれ会話と足を弾ませてレクレーションルームに向かう。大洗側の宿泊棟とは反対側にあるため、途中渡り廊下を進んだ。

 すると、その廊下から黒森峰の戦車専用ガレージが少しばかり伺えた。

 やはりと言うべきか、大洗の数倍の規模でガレージを貸し切っている。

 

「見ろ、あそこ。私たちのⅢ号突撃砲だぞ」

 

 エルヴィンが指さした先には履帯を外されたⅢ号突撃砲が鎮座していた。人影はないものの、直前まで何かしらの整備を受けていたことがわかるような様子だった。

 

「本当に直してくれているのか。捕虜を全て無傷で返還したサラディーンのようぜよ」

 

 黒森峰の厚意に感銘を受けたおりょうが歴史に例えてみれば、真っ先に反応したのはカエサルだった。

 

「いや善政を敷き、圧倒的な徳で知られるローマの五賢帝だな」

 

 それは違うだろうと、左衛門佐が首を横に振る。

 

「甲斐の信玄に塩を送った越後の謙信だ」

 

『それだ!』

 

 納得の答えができたのか、歴女たちは満足そうにうんうんと頷いていた。優花里はその四人に苦笑を禁じ得なかったが、感銘を受けていたのは同じだった。

 

「なんかさー、懐が深いよねー。いつかお返ししたいものだね」

 

 杏の言うとおり、黒森峰の面倒見の良さは正直面食らってしまうレベルだ。優花里も「そうですね」と相づちを返しながら、感謝の品を「干し芋」にしようかと笑う杏の言葉に頭を掻く。脇に控えていた柚子が「熊本の方々ですから、干し芋を食べる文化が多分ないですよ」と牽制を入れてくれたのがせめてもの救いだった。

 

「あ、ここみたいですね。『親睦会会場』って書いてますよ」

 

 典子が親睦会の看板を目聡く発見した。半紙に墨で書かれた題字は中々達筆で、それぞれが「おおっー」と感心の声をあげる。

 徐々に沸き上がりつつある大洗女子のテンションを感じ取ったのか、風紀に敏感なそど子が先に釘を差した。

 

「皆さん、楽しむのは良いけれど浮かれすぎないようにお願いします!」

 

 彼女に対する返事もそこそこに、麻子がレクレーションルームの扉を開ける。訓辞をないがしろにされたそど子が麻子に噛みつくが、麻子は中の光景を目にしたその瞬間、全ての動きを止めた。

 いや、口だけは動いていた。

 

「おいそど子。浮かれているのはどっちだ?」

 

 そど子が麻子の視線の先にあるものを見る。そして麻子と同じように固まった。

 彼女たち二人の視線の先にあったのはディアンドルに袖を通し、無表情でビールを持つ逸見カリエだったのだ。

 

 

02/

 

 

「副隊長がですね、『どうせみほもエリカもいないんだし、普段出来ないことがしたい』といって準備、企画されたんですよ。歩哨の目をくぐり抜けてビールを戦車に積み込むのはドキドキしましたね」

 

「そうそう。ソーセージもいつの間にか合宿中の生活物資に紛れ込ませていたんですよね。私、この合宿に来るまで副隊長のことはあまりよく知らなかったけれど、意外とお茶目なところがあって可愛いですよね」

 

「あはは。確かに逸見殿は見た目はクールビューティーですからわからなくもないですね」

 

 親睦会という名の宴が始まって早一時間。大洗の面々は黒森峰謹製のノンアルコールビールとソーセージを堪能していた。秋山優花里もその一人で、複数人の黒森峰の隊員たちに囲まれながら、親睦会準備までの黒森峰学園艦における攻防に耳を傾けていた。

 

「ちょっと、あんまり恥ずかしい裏話は話さないで」

 

 丁度そのとき、相変わらずのディアンドル姿で、ビールとソーセージをしっかりと握りしめたカリエが近づいてきた。先程まで杏たち生徒会組と歓談していたのだが、どうやら一段落ついたらしい。

 

「あ、副隊長。お疲れさまです。ささ、ビールをどうぞ」

 

「うう。ノンアルだから雰囲気だけであんまり旨くないんだよな」

 

「何言ってるんですか。おっさんみたいなことをぴちぴちの女子高生が言っては駄目ですよ」

 

 空になり掛けていたジョッキに黒いノンアルコールビールを注がれて、カリエは「あながち間違いじゃないんだよな」と言って唸った。

 隊員たちに親しまれている様子を見ると、これも逸見殿の魅力の一つなんでしょうね、と優花里は微笑んだ。

 

「ねえ、秋山さん」

 

 ごくごくと注がれたビールで喉を潤しながら、カリエは優花里に話しかける。

 

「はい、何でしょう。逸見殿」

 

 優花里の返答にカリエは「それ」と突っ込んだ。

 

「逸見殿だとエリカと区別が付かなくなるからカリエでいいよ。それになんか他人行儀だし」

 

 突然の申し出に優花里はあたふたと慌てた。そして特徴的な癖毛を両手でもみくちゃにしながら悶える。

 

「い、いえ。確かに先程は勢いでご連絡先まで頂いてしまいましたが、わたくしなんて本来、逸見殿とは比べるべくもない立場のもので、名前で呼ぶなんてそんな恐れ多いことを」

 

 ぐにゃぐにゃと忙しい優花里をカリエはじっと見つめた。彼女の翡翠色の視線を受けて優花里が「はうっ」とさらに挙動不審になる。

 何となく、このままでは埒があかないと感じたカリエは嘆息一つして、優花里に詰め寄った。

 

「優花里さん」

 

「はひっ」

 

 銀の長い睫に縁取られた翡翠色の瞳が目の前にあった。絶え間なく変化する戦況を見据え続けて来た黒森峰の妹蛇の瞳が優花里を見ていた。

 

「ほら、優花里さん。カリエだよ」

 

 やっぱりこの人はとんでもない人だ、と優花里は再確認する。本人は頑なに否定するが、彼女が有しているカリスマは魔性のものだった。誰もがこの物静かな副隊長の元へ集まる理由がわかった気がした。

 

「か、カリエ殿」

 

「そうそう。でも面白いね。優花里さんてさ。自分のことわたくしっていうくらい丁寧だし。あ、あと殿付けもそうか。……なんか、昔似たような男の子にあった気がする」

 

 男の子。

 そのワードを聞いて優花里は何か引っかかるものを感じた。

 何処か漠然とした違和感。けれどもその正体に彼女が思い至ることはない。

 何故なら優花里が歴女チームに囲まれてしまったからだ。

 大洗同士のやり取りがあることを察したカリエは「またね、優花里さん」と会釈をしながら離れていった。そういった気遣いも彼女の魅力であると再確認していた優花里だが、残念に思う気持ちも少しばかりあった。

 だがすぐさま彼女の思考は歴女チームのトークに巻き込まれていく。

 

「今日の指揮は格好良かったぞ。グデーリアン」

 

「ぐ、グデーリアン?」

 

 ビール片手に肩を組んでくるエルヴィンに優花里は疑問の声を上げる。

 

「なんだ、グデーリアンを知らないのか?」

 

 意外そうに驚くエルヴィンに優花里は「いえ」と首を横に振る。

 

「ハインツ・グデーリアンの事は存じ上げていますよ。ドイツ電撃作戦の生みの親の方ですよね」

 

 歴史全般に詳しいというわけではないが、無類の戦車好きを自負する優花里である。戦車に縁のある人物、特にドイツ軍人たちに関しては歴女チームの誰よりも知り尽くしていた。

 

「そう。そのグデーリアンだ」

 

「では、その、どうしてわたくしをグデーリアンと?」

 

「今日の指揮が見事だったからじゃないか。結果的には負けてしまったが、あの黒森峰の副隊長を焦らせたんだろう? まさに大洗女子学園の英雄。そんな我らが隊長に是非、グデーリアンのソウルネームをプレゼントしたいんだ」

 

「命懸けで脱藩し、薩長同盟を纏め上げて新時代を切り開いた坂本直柔、つまり坂本竜馬ぜよ」

 

「いや、ルビコン川を電撃的に渡河したガイウス・ユリウス・シーザー、つまりカエサルだ」

 

「いやいや、大阪城に真田丸を築き、徳川方に大損害を与えた真田左衛門佐信繁、つまり真田幸村だ」

 

「グデーリアンじゃないんですか?」

 

『それだ!』

 

 徐々に歴女チームの波長がわかり始めた優花里は笑みを零した。まさか自分がこのようなやり取りをすることが出来る友人ができるとは思ってもいなかったのだ。

 

「とにかく、このソウルネームは我々からの餞別だ。これからも大洗の戦車道をよろしく頼むぞ」

 

 エルヴィンから差し出された手を優花里はしっかりと掴んだ。たくさんのことがありすぎる一日だが、こんなに幸せな一日は人生初めてだった。

 

 戦車道を率いる隊長としてのプレッシャーを忘れたわけではない。

 けれども戦車道を始めて本当に良かったと思える一幕だった。

 

 

03/

 

 

 親睦会もお開きとなり、それぞれが割り当てられた宿舎に帰っていた頃。

 カリエは一人、合宿所のロビーで携帯電話に耳を傾けていた。通話の相手は黒森峰学園艦に残っているエリカである。

 

「というわけで初の対外試合は勝った。これで隊としての形は一応纏まったと思う」

 

 カリエの言葉に電話口のエリカは返す。

 

『新設の学校相手ならそれくらい余裕でこなしてくれないと困るんだけどね。まあ、何はともあれお疲れさま』

 

 言葉こそ厳しめだが、その声色は柔らかく、カリエは姉の不器用な優しさを電話越しに感じ取っていた。昔から面と向かって褒めてくれることは少なくても、何だかんだ言ってカリエのことを気遣ってくれる姉なのである。

 カリエは苦笑を少しばかり零しながら姉との電話を続ける。

 

「来週はそちらに戻る。みほと小梅の方はどう?」

 

『小梅はプラウダとの練習試合を取り付けてきたわ。ひょっとしたらあんた達のデビュー戦はそこになるかもしれないわね。みほは相変わらず”ほわほわ”言いながらえげつない戦術で相手を叩きのめしているわ。あいつが参加すると紅白戦の意味がなくなるのが頭の痛いところね』

 

 その様子が容易に想像がついてカリエは「くすくす」と笑った。確かにみほは普段はカリエ以上にのほほんとしているが、戦車に乗ると別人のように凜々しく、また激しくなる。

 

『……笑っているけれど、あんたも大概だからね。たく、みほにしろカリエにしろ、普段から戦車に乗ったときのようにしっかりとしてくれたら楽なんだけれど』

 

 姉の小言は軽くスルー。カリエは受話器から耳を離すことで答えた。

 エリカもエリカで、カリエが小言をまともに聞く事なんてないとわかっているので、深くは追求しなかった。

 それから二言、三事、近況について報告し合う。最後に学園艦への帰還経路を確認し合って、いよいよ電話を切ろうかというその時だった。

 

「ねえ、エリカ。ちょっと聞きたいんだけど、エリカは一人称が『わたくし』の男の子知ってる?」

 

『なにそれ。男でも出来たの?』

 

「いや、ちょっと気になって」

 

 コンプレッサーの低音が自販機から聞こえてきた。カリエがちらりと壁掛け時計に目を走らせてみれば、時刻は既に午後十一時を指そうとしている。

 手持ち無沙汰になった足下がいつの間にか貧乏揺すりを刻んでいた。

 

『……少なくともそんな男の子心当たりはないわよ。気掛かりなら、黒森峰の諜報部使って他校の生徒でも探してみる?』

 

 若干の沈黙の後、エリカの返答は凡そカリエの想像の範疇だった。

 自分でも真意がよくわからぬ質問なのだ。それこそ流暢に答えられていたら、腰を抜かしていたかもしれない。

 

「ううん。いい。本当にちょっと気になっただけ。大したことなんかないよ」

 

 ごめん。変な事を聞いて。

  

 それだけを手短に伝えて、カリエは電話を切ろうとした。

 だがその寸前にエリカが『ああ、そういえば』と何かを思い出したような声を上げた。カリエは無意識の内に、受話器の向こう側に神経を集中させていた。

 

『新品のドラム缶が三つほど見当たらないのよね。そっち持って行ってない? あと、醸造科の黒ビールが品切れになってて、学園艦の何処でも買えないんだけれど。それに合宿の予算見積もり、この接待費っていうのは――』

 

 ぴ。

 

 姉との繋がりは指先一つで絶たれる。万が一折り返しの電話が来ないように、速攻で機内モード。

 携帯電話をポケットに詰め直し、自販機で水を一つだけ買ってカリエはロビーを後にした。

 そしてそれまでの通話のやり取りなんてすっかり忘れて、どう誤魔化せば良いのかと頭をウンウン唸らせながら、宿舎へと足を向けた。

 その所為か、それからしばらく。

 カリエは「わたくし」の男の子のことをすっかりと忘れることになる。

 

 

04/

 

 

 瞬きもしない間に切られた電話を見て、エリカは溜息を吐いた。

 その直ぐ横ではみほと小梅がパジャマ姿で、「どうどう」とエリカを宥めている。カリエが定時連絡をしてくると聞いて、二人して逸見姉妹宅に泊まりに来ているのだ。

 

「……別に怒ってはいないわよ。あの子、昔から変に気が利くから相手校と隊員達にアメでも用意していったんでしょう」

 

 交際費は正式な予算として認められているしね、とテーブルの上に置かれていたコーヒーに口をつける。

 

「でもエリカさん、台詞の割には表情が怖いというか、固いというか」

 

 余計な事を、と小梅がみほの口を慌てて塞ごうとするがすんでの所で間に合わない。

 ぎろ、とエリカの翡翠色の瞳がみほと小梅を睨み付ける。「ひいっ」と普段は気の弱い二人は互いに肩を抱き合った。

「そこまで怖がらなくてもいいじゃない」とやや頬を赤く染めてエリカはマグカップをテーブルに戻す。

 

「……自分に少し苛立っただけよ。あの子の問いをはぐらかした自分がちょっとばかり嫌になっただけ。何だかんだ言って、まだ少し、カリエに嫌われているのを怖がっているのかもね」

 

「少し?」

 

「なに? 何か言いたい事あるの?」

 

 茶化しておきながら、ぶんぶんと小梅が首を横に振った。

 エリカは「調子狂うわね」とぼやきながら続ける。

 

「あの子、間違って覚えているのよ。馬鹿ね。自分が戦車道を始める切っ掛けをくれた恩人なのに、よりにもよって性別を間違えているなんて」

 

 何処か割り切れない、といった風に嘆息するエリカを見て、中々複雑な事情がありそうだ、とみほと小梅は顔を見合わせた。

 余り目立ちはしないが、逸見姉妹もそれなりに紆余曲折ある過去を有している事を思い出していたのだ。

 そんな二人のアイコンタクトを見て、「隠すようなことじゃないからいいんだけどね」と口を開く。

 

「私が最初、戦車道の世界にあの子を連れて行こうとしたら、全力で拒否されたわ。今でも思い出せば軽くヘコむくらいにね。けれどもそんなあの子の心を溶かした人物が一人だけいたのよ」

 

 エリカの視線の先にあったのは幼い頃の姉妹を写した一枚の写真だった。

 同じ顔をしたエリカとカリエ。両者の視線は全く違うところを向いており、特にカリエの視線は完全に明後日の方角だ。

 

「……本当、昔の事で未だにうだうだ言っている自分が嫌になるわね」

 

 

05/

 

 

 一週間が経った。大洗女子学園戦車道に修繕した車両を引き渡し、最終日の合同訓練を行って丁度一週間が経っていた。

 予定していた全ての日程を終えた黒森峰女子学園戦車道チームは合宿所を引き上げて、帰路についた。

 陸路をチャーターした戦車輸送用の列車で進み、途中何度か自走して名古屋港に辿り着く。

 まだ日も昇りきらぬ早朝に出発したというのに、気が付けば真夜中になっていた。

 隊員達の先導と列車の手配。公道の走行と常に気を張り巡らせていたカリエは、名古屋港の敷地に到着した瞬間に車長を通信手に任せて完全に眠りこけていた。

 装填手達がジャンケンを行って(勝った人を)輸送要員として選抜。すやすやと熟睡しているカリエを、選ばれた人員が「よっこいしょ」と背負いながら学園艦を目指す。

 ただその労力はそう長くは続かない。

 何故なら前方から黄色いヘッドライトが照らされたからだ。何事か、と目をこらしてみればみほとエリカが乗った黒森峰学園艦の輸送車両がそこにいた。

 

「迎えに来たわよ、って早速眠りこけてるじゃない。しっかりしなさいよ」

 

 呆れ声を出しながらも、起こさないようにそっと装填手からエリカはカリエを受け取る。

 所謂横抱きの、お姫様だっこだったがエリカはふらつく事なくしっかりと彼女を支えていた。誰かがその様子を見て「おおっ」と感嘆の声をあげた。

 

「皆さん、お疲れ様でした。少し前にお別れしたときよりも全員、精悍な顔付きになっています。これは明日からの訓練が楽しみですね」

 

 顔のパーツを全て線にしながらみほは笑った。その雰囲気は労いと慈愛に満ちていたが、同時に隊員達の成長への期待を隠し切れていなかった。

 以前とは全く違う隊長の自分たちへの目線に、合宿へ向かっていた隊員達は誰となく身震いをする。

 

「今、小梅が戦車収容の手配をしているわ。搭乗してきた戦車は指定された順番通りに学園艦に積み込んで。そのあとは各自自由解散。明日の朝練は時間の都合上なしよ。けれども夕練は普通に行うからそのつもりで」

 

 淡々とエリカが今後の予定を述べるが、その口調も何処か楽しげだ。

 本当に自分たちは期待されていたんだと、隊員達の身震いは武者震いに変わる。

 

「あ。もうついたんだ」

 

 と、そのとき。

 エリカの腕の中でカリエが目を覚ました。彼女は腕の中で器用に身動きをすると、そのままエリカの腕から地に足をつけた。

 そしてまだ眠気が完全に飛びきっていない視線で隊員達を一瞥する。

 やがて決して大きくはない、けれども夜の港に染み渡るような声色でこう告げた。

 

「皆さん、短い間でしたけどありがとうございました。楽しかったです。明日からも頑張りましょう」

 

 それまである一種の興奮に包まれていた隊員達の空気が変わった事を、みほとエリカは敏感に感じ取っていた。

 自分たちの労いで士気の向上は見せていた。けれどもそれはあくまで予想の範疇の出来事だ。

 だが、カリエの激励でも何でもない、誰しもが口にするような挨拶を受けた彼女たちがどうなったか。

 

「はい。カリエ副隊長。二週間弱、本当にありがとうございました」

 

 それぞれが完璧に整列し、完璧なタイミングで頭を下げた。武者震いはなりを潜め、誰も微動だにしない。

 カリエが「うん、今日は早く寝なよ」と告げて初めて面を上げた。

 そして三十一人分の瞳、つまり六十二個の視線が三人を見た。真っ向からそれを受けたみほとエリカの二人は背筋が粟立つのを自覚した。

 

 明らかに違う。

 

 自分たちが送り出したときと明らかに、人が違っていた。

 確かに期待はしていた。

 実質二軍の扱いを受け、腐っている隊員たちに新しい役割を与えて、戦力の強化を図る事を狙ってはいた。

 だがここまで、これ程までに人格と所作を作り替えてくるなど、誰が予想していていたか。

 カリエは「それじゃあお休み。パンターは最後尾に格納しておいて」と特に何かを意識した様子はない。

 二人はいつも通り過ぎるカリエを凝視し、終ぞ何か言葉を吐き出す機会を失っていた。

 みほ程の戦術眼はない。エリカほどの人を引っ張っていくカリスマはない。

 

 それでも戦うために必要な知恵と貪欲さをカリエは持っている。戦術眼はなくとも。

 徹底的に、それこそ病的と言えるまでに相手を分析、マークし、常に自軍が有利なようにメタを張り続ける。

 

 カリスマもまた、ない。しかしカリエは放っている。

 この人について行きたい。この人の役に立ちたい。この人に褒められたい、と思わせる魔性の雰囲気を。

 

 それぞれの分野ではみほとエリカに適わない。

 けれども両者に通ずる、中隊長の指揮官として必要なものを彼女は誰よりも持っていた。

 そのことを改めて理解したとき、二人はカリエのことを不謹慎ながら怪物を見るような眼差しで見ていた。

 この合宿で、ある意味一番変わってしまったのは親友、或いは妹かもしれないと。

 

 

06/

 

 

 翌日の午後。

 黒森峰女学園戦車道において、紅白戦が開催された。隊長、副隊長それぞれ幹部クラスが不在の元、一般の隊員同士で試合は執り行われた。

 紅白の内訳は以下のようなものだ。

 第六十二回戦車道全国大会を戦い抜いたメンバーが殆どを占める紅組。

 そして、カリエが合宿に連れて行ったメンバーで構成された白組。

 実質、合宿の成果を確かめる試合であることは誰もが理解していた。だからこそ、白組の面々の士気は高く、それを見た紅組は試合前から若干押されているきらいがあった。

 

 試合結果は実に呆気のないものだった。

 

 カリエから紅組の弱点、癖、戦術思考を徹底的に叩き込まれていた白組が圧勝した。

 種を明かせば紅白戦の開催を見越していたカリエが、合宿の最後の三日間を使って対紅組用の戦術を伝えたのである。

 フェアではなかった。

 決して同じスタートラインに立った試合ではなかった。

 だが誰も不平を言わなかった。

 いや、言えなかった。

 

 それがこのチームの、白組の目指す戦車道であることを誰もが理解していたからだ。

 

「……本当に私、カリエさんに合宿を任せて良かったと思います」

 

 戦闘指揮車から紅白戦の戦況を見守っていたみほが零した。エリカも口をこそ開かないが、無言で隣に立っていたカリエの頭をガシガシと撫でていた。

 

「私と言うより、みんなが頑張ったからだよ」

 

 エリカの手で乱れた髪を手で梳きながら、カリエは首を横に振る。

 

「ううん、本当にカリエさんに頼んで良かった。これなら新しい黒森峰としては私たちは戦える」

 

 みほの言葉に、若干の照れを見せたカリエはぽりぽりと頬を掻きながら、ふと視線を空に向けた。

 冬の混じりけのない、澄んだ空が何処までも広がっている。いつか見上げた、敗北に喘いだ夏の空とは何処までも正反対な綺麗な空。

 

「あの時もこれだけ気が回っていたら……いや、もうそれは意味のないことか」

 

 昔の自分と今の自分は何もかも違う。

 けれども昔の自分がいるからこそ、今の自分がいることは間違いなかった。

 いつか来た、後悔だらけの一人きりの道。

 今も後悔がないとは言わないが、それでも共に歩んでくれる人はいる。

 いや、前の時も歩いてくれる人はいた。

 ただその人から勝手に逃げ出して、一人きりだと嘯いていただけだ。

 

 ――もう声は届かないけれど、出来ればあの夏を共にしたエースに、ごめんと伝えたかった。

 

 そして、それと同じように。

 

 今の自分になるきっかけをくれた、記憶の片隅の男の子に彼女は「ありがとう」と言いたかった。

 

 

07/ 

 

 

 それから月日が巡った。

 年が明け、冬が過ぎ、二月の半ばになっていた。

 黒森峰学園艦には、四月からの栄光を掴むため、戦車道履修希望者の中学生たちが大勢受験に訪れていた。

 そんな集団の中、受験生誘導のプラカードを掲げてメガホンを手にした女子生徒が一人いる。

 彼女は銀の髪を揺らしながら、ややテンパった調子で声を張り上げていた。

 

「受験番号210749から210800までの受験生の方、試験会場に案内するので、私についてきてください!」

 

 誰かが「逸見さんだ」と口を開く。

 それに呼応して誰かが「カリエさんだ。本物だ」とやや興奮した調子で続いた。

 まさか自分の名が中学生に覚えられているとは思っていないカリエは疑問符を浮かべながらも、受験生たちの先頭に立って試験会場を案内した。

 

「ええと、それでは実技試験をこれより開始します。この会場は操縦手志望の方を対象にした試験です。こちらが試験車のマニュアルになりますので、目を通しておいてください」

 

 ガレージに並べられたパイプ椅子に腰掛けた受験生たちに、カリエはあらかじめ用意しておいたマニュアルを配布する。一人一人手渡ししていく中、最後の受験生――、210800の生徒の前で彼女は足を止めた。

 何故なら、

 

「……体調が悪いようでしたら試験時間をずらしましょうか?」

 

 カリエの視線の先、誰が見ても真っ青な顔をした女子生徒が座り込んでいた。彼女の名前が「佐久間ナナ」であることを手元のドキュメントボードで確認したカリエはもう一度「大丈夫ですか」と問う。

 女子生徒――ナナは「いいえ、大丈夫です。緊張しているだけです」と手短に答えた。

 だが、どう考えても大丈夫でないことは明白だったので、カリエは視線を屈めてナナの顔を覗きこむ。

 

「無理する必要はありませんよ」

 

「いいえ、無理をしなければならないんです」

 

「……理由を伺っても?」

 

 カリエの視線を受けて、ナナは押し黙った。一秒、二秒と時間だけが経過していく。しかしながら――十秒も経たないうちに、観念したようにナナは答える。

 

「この道しか、私には残されていないんです」

 

 ナナの返答を受けてカリエは「そうですか」と頷いた。それから一拍、何かを考えるかのように視線を斜め上に向ける。

 そして何かを思いついたのか直ぐにナナを見つめ直し、

次に他の受験生を見渡した。

 

「……この道しかないと感じていても、人生、案外他の道は転がっているものです。ここにいる全員が受かるわけではないけれども、どんな結果であれ、それでも今日この日まで歩んできた道は無駄にはなりません。

 大丈夫。皆さんは見たところ、私なんかより余程聡明だから、一度目から違えて腐ることなんてないですよ」

 

 だから頑張ってください。

 

 正直、言葉の意味を真に理解したものは誰もいなかった。しかしながら、確実に救われたものたちはいた。

 ナナ程ではないにしても、緊張に追いつめられ視野が狭くなっていた女子生徒たちの表情は変わっていた。ナナ本人も、青白い顔に少しだけ色を取り戻していた。

 

「まあ、私なんかが受かった試験なんです。気楽にのんびりと挑めば、必ず何かが起こりますよ。もし駄目でも良いじゃないですか。黒森峰以外にも道は無限に広がっているのだから」

 

 言葉はそこまで。

 マニュアルを配り終えたカリエは次の受験者たちを迎えにいくべく、ガレージから去っていった。

 最後にマニュアルを受け取った佐久間ナナは、ただ呆然とカリエが消えていった方角を見つめている。

 彼女はそっと呟いた。

 

「別の道って、ますますこの道を進みたくなるじゃないですか」

 

 その表情は、緊張感を残しながらも、幾分か柔らかいものだった。 



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秋山優花里の戦車道 07

大洗女子学園編執筆にあたり、少し感じた事。

終わりが見えない……

ここからアニメで言うところの10話分残っています。


 ちちち、と鳥が鳴いている。

 ついこの間まで何処を探しても見つからなかった小動物たちの音が耳に届く。

 それと同時。

 遙か遠くで聞こえる砲声が鳴った。

 鳥の鳴き声と同時に耳にするには余りにも浮き世離れしていて、それはまるで別世界。

 二つの両極の音をぼんやりと聞きつつ、暖かい陽気に当てられたカリエは徐々に己を蝕みつつある眠気と戦っていた。

 ふとキューポラから覗く天蓋を見てみれば、いつの間に積もったのか、淡い桜の花びらが薄ピンク色の絨毯を形作っている。

 ふっ、と微笑みを零した彼女はそのうちの一枚を拾い上げてキューポラの中に引っ込んだ。

 

「ねえ、佐久間さん。見てこれ」

 

 佐久間、と呼ばれた女子生徒――操縦手の佐久間ナナが車長席のカリエに振り返る。

 

「どうされました? 副隊長」

 

「いや、待ち伏せが長すぎたのかパンターの装甲に桜が積もってる」

 

 ひらひらと手の中で弄ばれる一枚の花弁。カリエは何故か上機嫌にそれを飽きもせずに眺めていたが、話しかけられたナナの表情は少しばかり曇っていた。

 

「すみません。私の操作が不慣れなばっかりに」

 

 そう言ってナナはカリエに対して頭を下げた。

 彼女――佐久間ナナは今年から黒森峰女学園に入学した新入生である。意外なことに戦車道の経験はなく、新入生たちの中でも一際珍しい存在だった。

 ただ、乗り物の操作にかけては天賦の才を有していた。その腕前を見たカリエが、いの一番に自身のパンターの操縦手に指名した程だ。

 何でも中学時代はミニバイク界隈では伝説の存在になっている凄腕ジュニアレーサーだったらしい。

 そんな彼女がどうして黒森峰にやってきて、戦車の操縦桿を握っているのか、その動機はナナ本人しか預かり知らぬところだが、一年生ながら副隊長の車両の操縦を許されているという現実が全てだった。

 正直カリエからしてみれば、不慣れと言っているナナの台詞が謙遜も行きすぎていて嫌みの領域に達していると感じてはいるが、敢えてそれを口にすることはなかった。

 これはカリエの直感だが、佐久間ナナはカリエの事を少しばかり信望しすぎるきらいがあり、迂闊なことを言った暁には必ずや面倒なことになるのがわかっているからである。

 

 だからこそ、ナナが表情を曇らせているのを見て、カリエは焦った。

 

「いや、そんな深い意味はないよ。それにエンジンを切ってここに停車しろと命令したのは自分だし」

 

 いそいそと桜の花びらをタンカースジャケットのポケットにねじ込み、カリエは再び車長席に戻った。優秀で有能ではあるのだが、ちょっとばかりメンタルが弱い後輩をどう焚きつければいいのか、頭を悩ませながら周囲を伺う。

 すると、パンターの座している窪地の向こう側から、装填手の同級生が息を切らせながらこちらに走ってきているのが見えた。

 彼女はこちらにたどり着くまでの時間が惜しいと言わんばかりに、激しく上下する胸もそのままに、大振りな手信号をカリエに送った。

 

「ええと、エレファント一両、Ⅲ号二両、パンター一両が接近中。うーん。規模が中途半端すぎて本隊かどうか判断がつきませんね」

 

 カリエと同じように、パンターの車体備え付けハッチから顔を覗かせた通信手が手信号を解読する。カリエは装填手に早く戻ってこいと手招きし、相手チームの戦力表と報告を見比べながら、咽頭マイクのスイッチを入れた。

 

「パンターは小梅。おそらく斥候。けれども本命のティーガーⅡがいない。……十六号車、そちらは何か見つけた?」

 

 ややノイズが走りながらも、ここから離れたところに陣取っているⅣ号戦車から無線の応答があった。

 

『いえ、まだ発見できません。街道三本、いずれも姿見えず』

 

 Ⅳ号車長の言葉を受けて、カリエは通信手に「だめだ」と首を振った。通信手はそんなカリエの様子を見て脇に立てかけてあった大判の地図に赤いマーカーで×を書き加える。

 

「……はてさてどうしたものか。小梅の隊を無視して一気に殴り込みをかけてみる?」

 

 カリエの提案に通信手は「難しいんじゃないでしょうか」と懸念を示した。

 

「副隊長が命じてくだされば、もちろん任務は遂行しますけれど、さすがに同型パンターとエレファントを同時に相手するのは骨が折れます」

 

「だよね。でもここで小梅の隊に釘付けにされて背後を取られるのも不味いな」

 

 振り返れば薄暗い雑木林が鬱蒼と広がっている。後方警戒を疎かにしているわけではないが、万が一の不意打ちについても考慮せねばならない地形だ。

 

「ほんと、あのお姉さまに小梅みたいな優秀な参謀役がついたら手が着けられないや」

 

 待ち伏せは悪手だった、とカリエはため息をついた。装甲火力ではどうあがいてもあちらの方が上手だったので、その戦法を取らざるを得なかったという事情もあるのだが、結果としては上手くいっていない。

 

「ではどうしましょう」

 

「このまま十六号車と十三号車は待機。私たちもぎりぎりまでアンブッシュ。キルゾーンに相手斥候が入り次第、パンターから優先的に片づける。万が一、相手本隊の奇襲があったのなら、予め決めておいた逃走経路を使って分散。Fー74地点での合流を目指す」

 

 言って、丘の向こう側を双眼鏡で観察する。砲手も砲塔を操作し、稜線に向かって照準を合わせた。

 パンターの車内に、待ち伏せ時独特の張りつめた空気が漂い出す。

 だが、良い意味でその緊張感を打ち消したものがいた。それが操縦手の佐久間ナナだった。

 

「副隊長、一つ提案が」

 

 何事か、とみたびカリエが車内を覗きこんだ。すると、操縦席からこちらを見上げるナナと視線がぶつかる。車内の熱気に当てられたのか、彼女の頬には汗が一筋流れていた。

 

「相手パンターとエレファントの間を抜けて、敵本隊に殴り込みを掛けるのは可能だと愚考します。Ⅲ号戦車に関してはこちらより小回りが利きますが、パンターの装甲なら側面を晒さない限り問題ないかと」

 

「ん、その心は?」

 

 じっ、とカリエの翡翠色の瞳がナナを見つめる。彼女はごくり、と喉を一つ鳴らして、けれども視線を逸らすことなく答えた。

 

「私なら、あの人たちを撒いてみせます」

 

 カリエのみならず、車内にいた全ての隊員たちの視線がナナに突き刺さった。カリエ一人の時よりも、若干の怯えは見せたが、それでもナナはカリエをしっかりと見ていた。

 数秒、沈黙が車内を支配する。

 車長たるカリエの言葉を待って、誰もが口を開かなかった。

 

「ん、ふっふっ」

 

 音はカリエの口から。

 何事か、と隊員たちがカリエに目線を向ければ、口元を押さえて笑いを堪えている彼女がいた。ナナは緊張がピークに達し、己の失言を呪って「ごめんなさい、ごめんなさい」と連呼している。

 けれどもカリエの手がそんなナナを制した。

 

「いいね、佐久間さん。やっぱり紅白戦だもの。なるたけ楽しくやるのがスポーツの醍醐味だもんね」

 

 カリエは胸から下げていた双眼鏡を外した。こんなものはいらないと言わんばかりに、それを通信手の隊員に手渡す。そしてふんばりを聞かせるように車長席に立ち、キューポラから身を乗り出していつでも外の様子を伺える体勢を整えた。

 咽頭マイクをぐっと握りしめ、短い呼吸を一つ。

 

「全車に告ぐ。これより当フラッグ車は敵本隊に肉薄。我がお姉さまを討ちにいく。このまま待ちに伏せるもよし、我に続くもよし。各自の裁量に今後を委ねる。では健闘を祈る。オーバー」

 

 やけに芝居がかった言い回しだったが、それで充分だった。パンターの周囲の窪地や茂みから次々とエンジン音が吹き上がる。

 パンター自身も心臓部たる動力機関に熱を取り戻し、小刻みなアイドリング特有の揺れを奏で始めた。

 

「ではこれより、敵フラッグ車の撃滅に掛かる。パンツァー・フォー!!」

 

 ぐおん、とパンターが大きな揺れを一つ残して前進を開始した。窪地の斜面を駆け上がり、車内の角度が世界がひっくり返ってしまうのではないか、と錯覚させるくらいには傾く。

 だが誰も恐れはしない。キューポラから身を乗り出すカリエも顔色一つ変えない。

 丘の向こう側から、Ⅲ号戦車が顔を覗かせた。すぐさま照準を付けていた砲手が発砲し、轟音が響き渡る。

 パンターが吐き出した鋼鉄の砲弾がⅢ号戦車の正面装甲を穿った。WWⅡ最優の中戦車と名高いパンターの砲撃を受けてしまえば一溜まりもない。

 あっと言う間に撃破を知らせる白旗と黒煙を吐き出してⅢ号戦車は停車した。

 

「次、榴弾装填準備」

 

「次、榴弾装填しました」

 

 車内に向けてHのハンドサインをつくり、カリエは次発の指示を下す。装填手も阿吽の呼吸と言うべきか、淀みない動作で、後退してきた砲身尾部に砲弾を叩き込んだ。

 

「狙い、丘の頂上。小梅のパンターが見え次第叩き込んで。撃破は出来なくても良い」

 

 砲身が駆動し、照準を変更する。

 丘から姿を現したパンターは目の前のⅢ号戦車がやられたことにより、直線的な軌道を放棄。ジグザグの航行を始めていた。

 その直ぐ後ろに、カリエは榴弾を撃ち込む。

 徹甲弾よりもかなり派手な爆発を残して、榴弾は土煙と火炎を丘に刻み込んだ。

 

「おおっ」

 

 その直後。カリエの意図を汲んでいたのか、別地点に潜んでいたⅣ号戦車とヤークトパンターもほぼ同じ場所に榴弾を放ってきた。

 三両の戦車の榴弾が炸裂した丘は、紅蓮の火炎と漆黒の黒煙にまみれて、さながら地獄のようだった。

 

「完璧。ありがとう、十六号車、十三号車」

 

 カリエの礼に二両の戦車は次なる砲撃で答える。

 

「よし、みんなのお陰で道は出来た。佐久間さん、全速前進」

 

 丘越えの出鼻を挫かれた斥候の足並みが榴弾の雨によって乱れており、一分の隙がパンターの進行方向上に出現していた。それを見逃すほど、カリエは暗愚ではない。

 マイバッハ12型エンジンが唸りを上げ、履帯が丘の斜面に食いつく。

 ようやく落ち着きを取り戻した小梅のパンターが照準をこちらに合わせてくるが、Ⅳ号戦車の砲撃が間に割って入り、結果的には素通りさせてしまうことになった。

 丘の頂点を越え、一瞬パンターの車体が浮く。

 カリエはキューポラの取っ手をしっかりと掴みながら、開けた視界を一望した。

 そして見つける。

 こちらを王虎の如く睨みつけているアハトアハトの砲塔を。

 

「! 佐久間さん、進路左へ! 全速急いで!」

 

 履帯が再び地面に接した瞬間、パンターは急な制動で左に進路を取る。その直ぐ背後を88ミリの砲弾が通過していった。

 

「うっそお」

 

 初撃をなんとか回避し、だらだらと冷や汗を吹き出したカリエがボヤいた。

 彼女の視線の先では、パンターに刻まれた蛇のエンブレムと全く同一のものを有したティーガーⅡが砲塔を旋回させている。

 

「ふん、あんたが待ち伏せを放棄して殴り込みにくるのはわかりきってたのよ。だからあんたの手間を省いてやるべく、こうして目の前に出てきてやったわ。感謝しなさい」

 

 妹の目論見を潰せたことが嬉しいのか、実に生き生きとした表情でエリカはティーガーⅡを操っていた。

 奇襲なし、不意打ちなしの一対一の不利を悟って、カリエの顔が青ざめる。

 

「私の姉は想像以上のアレだ。フラッグ車で、しかも鈍重なティーガーⅡで逆に殴り込みにくるなんて」

 

「でも副隊長、エリカ副隊長がどんなアホでも正直まずいですよ。こちらの砲は背後か側面に回り込まなければまず弾かれます。しかもあちらの攻撃は何処に当たってもアウトです」

 

 通信手の無慈悲な上申に、カリエは「だよねえ」と眉尻を下げた。今は何とかティーガーⅡよりはマシ程度のパンターの機動性で逃げ回っているが、それも何処まで持つのかわからない。

 ティーガーⅡが足まわりにトラブルを起こして、自滅するのを待とうにも、それまでにパンターも足まわりが破損する可能性もある。

 完全にとは言わないが、限りなく詰みの状況に追い込まれて、カリエはエリカに叫んだ。

 

「昨日の夕飯、ミニハンバーグを一個多く私が食べたのがそんなに憎いのか!」

 

「馬鹿言ってんじゃないわよ! だいたい一個って嘘つくんじゃないわよ! あんたが二つ多く食べなければ残りの計算が合わないのよ! 過小報告なんて小賢しい真似を!」

 

「あ、その一個はみほだよ。あの子も私と同じで、一個余分に食べた」

 

「はあ!? 何それ! あんたたち今日帰ったら詳しく話を聞かせてもらうからね!」

 

 ぎゃあぎゃあ、と紅白戦中に繰り広げられる姉妹喧嘩に、パンターとティーガーⅡの乗員は苦笑した。苦笑しながらも、両者、相手の喉笛を噛み切るべく常に動き回っているのは、王者黒森峰の練度の高さ故だ。

 

「ええい、あの邪知暴虐の姉をぎゃふんと言わせねば気が済まぬ。佐久間さん、常にティーガーⅡの左側面に回り込んで!」

 

 パンターの履帯が土煙を巻き上げながら高速回転する。ティーガーⅡの装甲において、唯一撃ち抜くことが出来そうな側面、しかも極近距離に接近する腹積もりだった。

 だがエリカも伊達にティーガーⅡに乗り続けていない。王虎とも称される、強みも弱点も満載な重戦車ならば黒森峰で誰よりも熟知しているのだ。

 

「甘いのよ!」

 

「わわっ!」

 

 エリカが下した指示は至極単純。パンターに向かって全力で肉薄しろというものだった。予想外の姉の行動に、カリエは珍しく焦った様子で狼狽えた。

 ナナの操縦テクニックのたまものか、紙一重でパンターとティーガーⅡがすれ違う。

 

「何考えてるんだ馬鹿エリカ! 車重の差を考えろ!」

 

 カリエが喚くとおり、パンターとティーガーⅡにはかなりの車重差が存在している。パンターが45トン。ティーガーⅡが70トン。およそ25トン差だ。

 そんな両者が接触したとき、悲惨な末路をどちらが辿るのか、考えるまでもない。

 

「ふん、わざとに決まってんでしょ。車重が軽い分、小回りで勝っていると考えるのは浅薄だわ。接近戦になれば、砲弾をぶち当てる以外にも、走行不能に追い込む手段がこちらにはあるのよ」

 

 ぐぉん、とティーガーⅡが再びパンターに突進した。パンターの砲手が破れかぶれに主砲を放つが、強固すぎる正面装甲に弾かれる。

 

「ムダよ。パンターの主砲の威力じゃ、ティーガーⅡの正面装甲は抜けないわ。それに焦りすぎて傾斜装甲の一番分厚いところを外せていない」

 

 エリカが発砲を指示する。パンターの側面装甲すれすれを砲弾が通過していき、カリエは咄嗟に回避を命じた。

 突進と砲撃。

 二つの脅威にさらされたカリエは「さてどうしたものか」と考える。

 足は忙しなくナナの肩を叩き、進路を小刻みに伝えている。今のところナナは完璧にその要望に応えきってはいるが、戦車戦に慣れきっていない新入生だ。どこで限界が訪れるのかはわからない。

 さらには先ほどから無理を押しているパンターの足まわりも気になった。ティーガーⅡよりはマシとは言え、こちらもドイツ戦車特有の問題を抱えた足まわりだ。いつ転輪が破損し、履帯が外れても可笑しくはなかった。

 このままだとじり貧だ、とカリエは唇を噛んだ。

 

「ふ、副隊長!」

 

 パンターとティーガーⅡのエンジンが奏でる狂騒の中、カリエの耳に届いたのは可愛がっている後輩の声。

 

「ティーガーⅡの弱点に無理矢理割り込む方法があります。け、けれど一度きりの、使えば立て直しの効かない方法でもあります」

 

「…………」

 

 先ほどのように、カリエがナナに視線を向けている暇はない。彼女の神経はエリカの一挙一足に向けられており、姉の戦術を見逃すまいと全神経をそちらに注いでいる。

 だがナナの肩を叩いていた足を止めて、そのまま静かに彼女背中へ足裏を当てる余裕だけはあった。

 

「副隊長?」

 

 返答は言葉ではなかった。

 ただ優しくぐっと押し込むカリエの足だけ。

 けれども彼女の真意はナナに伝わった。

 

「っ、右側面防御!」

 

 突如として左旋回を止めたパンターが全力で後退する。ティーガーⅡの周囲をぐるぐると回って隙を伺っていたカリエたちだったが、ここに来て正反対の方向へバックし始めたのだ。

 咄嗟に放たれたティーガーⅡの砲弾が、紙一重でパンターの鼻先を通過する。

 ティーガーⅡの右側面をパンターに取られたのを見て、エリカは砲塔の回転で砲弾を受けろと叫んだ。

 だが発砲はない。何故ならカリエが車内に向けて両手でつくった×印を掲げていたからだ。

 

「あの子、まさか!」

 

 さすがは双子と言うべきか、姉のエリカはカリエの狙いを瞬時に察した。彼女も車内手信号――手首から先を素早く回して、砲塔の180度回転を指示する。

 殆ど横滑りしながら、履帯と転輪、そして火花をまき散らしてパンターがさながらバイクのようにドリフトした。

 

 カリエとエリカ、二人の視線がぶつかり合う。

 

 パンターの75ミリ砲と、ティーガーⅡの88ミリ砲がほぼ同時に炸裂する。

 多量の炸薬によって巻き起こされた白煙に周囲は包まれ、二両の姿はその中に消えた。

 

 

01/

 

 

「というわけで、紅白戦はエリカさん率いる紅組さんチームの勝利でした」

 

 隊長であるみほの宣言に勝利を称える拍手が鳴る。

 両頬を煤で真っ黒に染め、髪のあちこちを焦げ付かせた逸見姉妹はそれぞれ歓喜と落胆に分かれた。

 

「ふん、姉に勝とうなんて百年早いのよ」

 

「わずか数時間早く産まれただけのアドバンテージの癖に」

 

 後輩である佐久間ナナに、濡れたハンカチで汚れた頬を拭ってもらいながら、カリエは「けっ」とやさぐれた。

 

「まあまあカリエさん。さすがにティーガーⅡにパンター単騎で挑むのは難しかったんですよ。着弾はほぼ同時でしたから、装甲と火力の差が出てしまったんです」

 

 小梅のフォローに噛みついたのはエリカだった。彼女もカリエと同じように、小梅にこびり付いた煤を落としてもらっていた。

 

「なに? 同じ車両だったら私たちが負けていたとでも言いたいの?」

 

「い、いえ。たぶん引き分けくらいじゃないですかね」

 

 何かとエリカの逆鱗にソフトタッチする癖がある小梅を見て、カリエは「命知らず」と呟いた。ナナが駄目だ、と言わんばかりに敬愛する副隊長の口元を押さえるが、しっかり呟きはエリカに届いていた。

 

「あんたねえ、少しは姉に対する敬意ってものを持ちなさいよ」

 

「いちいちミニハンバーグの食べた個数を気にしないお姉さまならいくらでも尊敬する」

 

 やいのやいの、と再び始まった姉妹喧嘩に、小梅とナナは顔を見合わせた。そしてどちらからともなく笑いだし、その一帯の雰囲気だけ、中々混沌としたものに変わっていく。

 隊員たちの最前列で訓辞を述べていたみほがその惨状を見て、困り顔で「話を聞いて欲しいなあ」とぼやいた。

 けれどもどこかその声色は嬉しげで、変わりつつ黒森峰戦車道の雰囲気や空気を心の底では喜んでいる。

 

「というわけで、今日の訓練は終了します。明日一日は休みで、明後日から全国大会に向けた本格的な訓練を再開したいと思います。逸見エリカさんとカリエさん。それに赤星小梅さんは大会の抽選会に関するブリーフィングを行いたいので、このあと少しだけ残ってください。それでは皆さんお疲れさまでした。解散してください」

 

 途中、姉妹喧嘩というハプニングがあったものの、訓練自体はつつがなく終了した。隊長の解散令を受けて、隊員たちは訓練場を後にする。

 残されたエリカとカリエ、そして小梅は四人乗りの戦闘指揮車両に乗り込んで、戦車ガレージに併設された会議室に向かっていた。

 

「抽選会か。もうそんな時期なのね。今年はどこなの?」

 

 エリカの疑問にみほは「ええと」と手にしていた書類を慌ててめくる。だがみほが答えるよりも早くに、指揮車両を運転していたカリエが答えていた。

 

「さいたまスーパーアリーナ。残念、去年は日本武道館でラビッツの試合をこっそり見に行けたのに」

 

「あんた、帰りに姿くらませたと思ったらそんなことしてたの!?」

 

 相変わらずのマイペースぷりにみほは苦笑を漏らした。ふとその時、まだ連盟からの書類を見ていない筈のカリエがどうして抽選会の会場を知っているのか気になって、みほは疑問の声をあげていた。

 

「そういえば、どうしてカリエさんは会場の場所を?」

 

 カリエは運転のため、前方を注視したまま答える。

 

「ダージリンさんにメールで教えてもらった。前置きの格言が長かったけれど、まあそれは仕方ない」

 

 メールでも格言があるんだ、とその場にいたカリエ以外の全員が心の中で突っ込んだ。

 ただ助手席にいたエリカだけはすぐに我に返ると、運転の邪魔にならない程度に、カリエに詰め寄った。

 

「……あの女にいらないことを吹き込まれているんじゃないでしょうね。

 ていうか、あんたアクセサリーに興味なんて微塵もなかった癖に、どうしてあの女から貰ったラッキーベルだけは後生大事に身につけてんのよ」

 

 エリカの言葉に後部座席にいたみほと小梅がカリエの首筋を覗き見る。すると確かにそこには銀の細いネックレスのチェーンが見え隠れしていた。

 きゃー、と声に鳴らない声をあげて、みほと小梅は手を取り合って喜ぶ。例え女子校といえども、こういった甘酸っぱい話題は彼女たちの大好物である。

 

「いやだってせっかく頂いたんだし、大事にしないと。それにこれをつけてから戦車道の勝率もいい。本当に幸運のお守りなのかもしれない」

 

 はにかんだようなカリエの表情に、エリカは青筋を立てた。何だかんだ言って妹のことになると熱くなりすぎるお姉ちゃん体質なのだ。

 

「まあまあエリカさん。他校の方と仲がよろしいのは良いことじゃないですか。今後の学校間のやりとりも便利ですし。――ところで西住さん、抽選会で私たちにお伝えしたいことって何だったのですか」

 

 小梅による露骨な話題転換ではあったが、一定の効果はあった。そういえば、と言わんばかりにカリエとエリカの注意力がみほに注がれる。

 

「それがですね、二週間後の抽選会に誰がいくのか決めたいんです。同じ日に横浜で戦車道の見本市が開催されていて、そちらにも何人か行って貰いたいから」

 

 みほが取り出したのは一枚のチラシだ。中古のドイツ戦車用部品の展示会の予定も明記されており、黒森峰としては是非人員を送りたいところである。

 

「なら、みほとカリエで抽選会に行ってきなさいよ。こっちの方は私と小梅で行ってくるから」

 

 助手席から手を伸ばし、エリカはみほからチラシを受け取る。みほの隣に腰掛けていた小梅もうんうんと頷いていた。

 

「資材調達の担当は私ですしそれがいいでしょう。カリエさんならドラッヘの操縦も出来ますから、横浜港に寄港させたまま会場に迎えますね」

 

 カリエも特に反対しなかったので、みほが懸念していた抽選会と見本市の人員の割り振りはあっさりと決まった。

 これじゃあ、会議室に行く必要がないですよね、とみほは運転席のカリエの方へ身を乗り出す。

 

「ならこれから皆さんでお茶でもしませんか。学園艦の大通りに新しいカフェが出来たんです」

 

 みほの提案に小梅は「良いですね」と賛同し、エリカも「この面子で行くのは久し振りね」と微笑んでいた。ただ運転席のカリエだけが即答を返さない。

 

「あら、あんたダイエットでもしてるの?」

 

 エリカの言葉にいいや、とカリエは首を横に振る。

 

「カフェは付き合うよ。ただ、ちょっと考え事をしていた」

 

 ガレージへ向かっていた指揮車両の進路を、学園艦の外に通じている裏門へと変更する。

 なに? とエリカが問えば、カリエはぼんやりと、こう答えた。

 

「抽選会、もしかしたら優花里さんたちもくるのかなあ、ってそんなことを考えてた」

 

 

02/

 

 

 生徒会によってもたらされたその知らせは、優花里にとってはちょっとした事件だった。

 事実、彼女は生徒会室の応接間で顎が外れんばかりに大口を開けて驚いている。

 

「ま、まさか本当に戦車道大会に参加するんですか」

 

「あれ? 秋山ちゃんは出るつもりなかったの?」

 

 干し芋をくわえたまま嘯く杏に、ぶんぶんと優花里は首を横に振る。

 

「いえ、そりゃあ出られれば最高だろうなー、くらいは考えていましたが、まさか本当に出場するなんて……」

 

 優花里の歯切れの良くない言葉に、杏は「何を心配してんのさ」と笑う。

 

「一年生も何人か戦車道に参加してくれて、最低出場車両数はクリアしたじゃん。自動車部も車両さえ見つかれば参加してくれるって言ってるし、あとは実際に参加して勝つだけさ」

 

 勝つだけ。

 

 杏のその言葉に優花里は首を傾げた。

 

「勝つだけと言いましても、新設の弱小校のわたくしたちが並みいる強豪校を相手取るなんて、夢のまた夢ですよ? そりゃあ、勝てるに越したことはないでしょうけど」

 

 いいや、と杏が否定する。

 

「駄目なんだよねー。やるからには勝って貰わないと」

 

 その時、優花里がしっかりと杏の瞳を見ていれば、彼女のそれに宿った不穏な光に気がついていたかもしれない。

 けれども、いつもの思いつきが始まったのかと嘆息していた優花里はそれを見逃していた。

 

「まあ、確かに会長のおっしゃる通りやるからには勝ちたいという気持ちはもちろんあります。その為の秘策がないわけじゃないですし」

 

 言って、ソファーの脇に置いてあった軍用バックパックを見た。

 

「へえ、それは楽しみだね。やっぱ島田流の秘伝の教えとか?」

 

「いえ、教えは請うていますけれど、さすがに付け焼き刃過ぎます。それよりかは、もっと間近に見せつけられた勝つための努力をしてみたいと思います」

 

 この時、優花里が誰の事を思い描いたのか、杏は瞬時に察していた。

 察していた上で、こう助言する。

 

「うん、たぶんそれがいいよ。秋山ちゃんもあの子も、結構根っこの部分では似ているからさ」

 

 バレていましたか、と優花里は頭を掻いた。

 

「ま、生徒会長だからね。生徒のことは何でもお見通しなのさ。ところで秋山ちゃん、今日は初めての紅白戦をするらしいけれど、準備は大丈夫なの?」

 

 杏の言葉を聞いて、優花里は「あっ」と何かを思い出す。

 

「すいません、忘れていました。わたくしとしたことが、自動車部の方々にM3中戦車リーを引き取りに行かなければならないんでした。一年生の方々に乗って貰う前に整備をお願いしていたんですよ」

 

 台詞と同時に、いそいそと荷物を纏め上げ優花里は席を立った。そして馬鹿でかいバックパックをしっかりと背負い、その場で一礼する。

 

「全国大会の件、委細承知しました。ご期待に沿えるよう頑張ってみたいと思います!」

 

「うん、期待してるよ。また何か相談があったら遠慮なく遊びに来てね」

 

 ひらひらと杏の振られる手を背に受けながら、優花里は生徒会室を後にする。

 一人残された杏は、窓際から眼下に広がる桜吹雪の光景を眺めた。

 

「……本当に期待しているよ。秋山さん。君は黒森峰の彼女によく似ているんだ。自分の才能に気がついていないところ。凡人だと思い込んでいるところ。そしてそう思い込んだ上で、天才に食らいつくために努力することが出来ること」

 

 一拍、間を空けて

 

「努力する無自覚な天才がどれだけ恐ろしいのか、案外みんな知らないんだよなー。でもそれが既定路線ってやつをぶち壊す最高の役者にもなるんだよね」

 

 彼女の笑みは、優しさと、罪悪感が入り交じった少々複雑なものだった。



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秋山優花里の戦車道 08

 抽選会の日程が来週にまで迫ったとき、大洗女子学園は全国大会前最後の練習試合を行っていた。最後と言っても、他には合宿所での対黒森峰戦しか行っていないので、実質的な二回目の練習試合である。

 一年生が戦車道に加入することによって編成することが出来た新たな車両も加えて、初回に比べれば随分と充実した戦力で試合に挑むことが出来た。

 ただそれで相手に勝つことができるのかどうかという面においては完全に別問題であったが。

 

 神妙な面もちで、角谷杏は対面の秋山優花里に問いかける。

 彼女が思い浮かべているのは、敗北を喫してしまった先の練習試合だ。

 

「さて、聖グロとの練習試合を終えて、我が校は有り難く二連敗を喫したわけだけれども、何かコメントはある? 秋山ちゃん」

 

 最早優花里にとっては、自教室の次くらいには見慣れてきた生徒会の応接室。

 幾多の戦車道関連の資料を広げて、優花里は柚子が煎れてくれた紅茶を口にした。

 そして二、三秒黙考したのちにこう答えた。

 

「……控えめに言って大進歩であります。やはり蝶野教官に短期とはいえ集中的に訓練をしていただいたこと、それぞれの車両の役割を周知徹底して望めたのが良かったのでしょう」

 

 優花里が目にしていたのは、先日行われた対聖グロリアーナの練習試合の結果をまとめた資料だった。

 敗北と銘打たれたそれらの書類群だが、そこから導き出される結果は優花里にとって決して悲観するようなものではない。

 

「対黒森峰戦では一両も撃破できないまま敗北してしまいましたが、今回は違います。マチルダⅡ歩兵戦車を二両、クロムウェル巡航戦車を一両撃破できました」

 

「……特に新加入した八九式で一両やっつけられたのは大きいよね。バレー部の――アヒルチームだっけ」

 

 優花里は書類の山から八九式中戦車について纏められた文面を取り出す。そしてそれを杏に見せた。

 

「車体が小さいので、立体駐車場に潜むという奇策が使えました。正直、わたくしには思いもよらない作戦でしたが、バレー部の皆さんが八九式中戦車の特性をしっかりと理解し、それを活用したという点において、素晴らしい戦果だと思います」

 

 地形とそのギミックを活かした奇襲。

 それは装甲火力に劣る大洗女子学園が格上に対して執るべき最良の策である。

 しかもそれを自身の指示なしにやってのけたことが、何よりの収穫だと優花里は鼻息を荒くする。

 

「成る程ね、順調にチームは成長しているわけだ。いいことだよ」

 

 杏も何か思うところがあるのか、上機嫌に笑って見せた。そしてその笑顔のまま、優花里の眼前に赤い紅茶の入ったカップを突き出す。

 

「それに加えてさ、秋山ちゃんもちょっとは自信になったんじゃない? どう? グロリアーナ謹製の紅茶の味は」

 

 わざとらしく紅茶のカップをゆらゆらと揺らす杏に優花里は苦笑を漏らした。

 そう、今彼女たちが口にしているのは、ダージリンから「将来の強敵」として認められた証である伝統の紅茶なのだ。

 普段は滅多に口にしない、飲み慣れていないものなので味の甲乙はよくわからなかったが。

 

「まあ、ある程度は認められたかなっていう自負はありますけれど、所詮はある程度ですよ。本当のライバルに認定して貰うには、それこそ黒森峰に勝つくらいじゃないと」

 

 けれども、杏の言葉に対する優花里の返答はあくまでも控えめのものだった。確かに健闘を称えられはしたが、結局はそれだけ。

 まだまだ強者としてのダージリンの余裕を覆すには至らず、彼女の想像よりも少しばかり上回っていただけだと優花里は考えている。新設の弱小校という殆ど高さのないようなハードルが、少しだけ意識しなければならない程度に伸びただけなのだ。

 

「ははは、なら私たちの目標はダージリンに認められることかな?」

 

 グロリアーナの女王に認められる――そのフレーズを耳にしたとき、優花里の脳裏に思い浮かんだのは当面の目標になりつつある逸見カリエだった。

 

「そういえば、ダージリン殿が言っていましたね。カリエさんを目指せって。新設のあなたたちだから目指すことの出来る道なんだって。あれはどういう意味だったんでしょうか」

 

 試合終了後、別れ際にダージリンから告げられた言葉。その意味をあれから少しばかり考えていた優花里だが、まだ答えは出ていない。

 杏は干し芋を手の中で弄びながら口を開いた。

 

「んー、たぶんあれじゃない? 伝統とかそのしがらみとかが一切ない私たちだからこそ、あの戦い方を真似してみろっていうことなんじゃないかな」

 

 成る程、と優花里は取りあえずの納得を見せる。泥臭く相手をマークし、その対策を立てるというものは、口にするのは簡単だが、いざ実行に移すとなると様々な障害が待ち受ける戦法でもある。

 特に学校の風俗や伝統を重要視する強豪校ではその傾向が強い。いわゆる汚れ役のメンバーをチームから選び出すことが困難なのである。誰もやりたがらない上に、メンバーを育成することのできる実力者がそもそも存在しないのが普通なのだ。

 

「だとすれば黒森峰の西住まほ殿が引退したのは、向かい風どころかとんでもない追い風だったわけですね。伝統的な黒森峰の戦法を極めたお姉さんが、自由かつ柔軟な戦法をお持ちの西住みほ――妹さんに隊長職を譲った。これ以上ない、新体制の設立に成功したことになります」

 

「その通りなんだよねー。あと、逸見姉妹の姉の方、逸見エリカが副隊長になっているのも大きいんだよ。彼女はどちらかというと黒森峰の伝統的な戦法を得意としているから、残された上級生や同級生の不満も最小限に押さえられるってワケ。あくまで柔軟な用兵中心だけれども、伝統を捨てたということじゃないよ、っていうアピールになってるのさ」

 

 周りの学校としちゃ、王者の癖に大補強なんて卑怯としか言いようがない、と珍しく杏が愚痴を零した。

 ただその言い分は至極正しいので、優花里も否定はしなかった。

 

「強豪校のジレンマを上手にかいくぐって、王者としての体制を強化する。でもダージリン殿の言うとおり、これが私たちの当面の行動指針になるかもしれないですね。伝統がないことを逆手にとって、相手に対して有利に立ち回ることのできる戦車道が確立できるかもしれません」

 

 そう言って、優花里は机の上に広げられた書類を片っ端から集め始めた。杏はちらりとカレンダーに目線を走らせたあとに、そんな優花里に声を掛ける。

 

「あれ? 今日は車両整備だから戦車道はお休みだよね。もっとゆっくりしていきなよ」

 

「いえ、お言葉は有り難いのですが、ちょっとやらなければならないことがありまして、お先にお暇させて頂きたいのです」

 

 書類をファイルケースに挟み込み、相変わらずの軍用バッグに押し込む。どれだけ重さがあるのか、バッグが置かれたソファーがえらく沈み込んでいた。

 

「……最近忙しそうだね。無理してない?」

 

「うーん、そりゃあ体力的には無理してますけど、精神的には楽しくて仕方ないですよ? なんたって大好きな戦車に毎日どっぷりと浸かり込んでいるのですから」

 

 笑顔を見せる優花里の表情は確かに明るく、忙しさにも気力を見いだしているような顔だった。だが杏はきっ、と表情を引き締めると、久方ぶりの年長者らしい雰囲気で口を開く。

 

「この学校の戦車道はさ、本当に秋山ちゃんが頼りなんだ。だからくれぐれも自分の体調には気をつけて欲しい。しんどいときは、しんどいと言ってくれていいんだよ」

 

 きょとん、と優花里は立ち惚ける。けれどもすぐに顔のパーツを全て線にして笑った。

 

「もし本当に辛くなったらいの一番に会長に泣きついて見せますよ」

 

 

01/

 

 

 日本全国にこれだけ戦車道を志す人間がいたのか、と衝撃を受けるくらいには、大会の抽選会場は人でごった返していた。

 優花里はⅣ号戦車のメンバーである沙織、華、麻子を連れて「さいたまスーパーアリーナ」を訪れていた。言わずとしれた、戦車道大会の抽選会場である。

 

「生徒会が自衛隊のヘリをチャーターしたときは何事か、と思ったがまさかこんな所に連れてこられるとは」

 

 まだ眠気が覚めやらぬのか、ぼんやりとした眼をこすりながら麻子がボヤく。それに答えたのはころころと笑う華だった。

 

「ヘリコプターなんて滅多に乗れるようなものじゃありませんし、私は貴重な体験ができて楽しかったですよ」

 

「確かに! パイロットのお兄さんイケメンだったなー。心なしか私に優しかった気がする!」

 

「あはは、そうでしたっけ?」

 

 沙織の面喰いな口だけの言葉に、優花里は苦笑を漏らした。この四人と触れ合うようになって数ヶ月。それなりに気心の知れたやりとりが出来るようになってきたのである。

 そして早速会場に踏み入れた優花里はええと、と周囲を見渡した。受付で貰った案内用紙を頼りに、会場の人混みをかき分けていく。

 

「あら、大洗の方じゃありませんこと。この度はごきげんよう」

 

 やっと見つけた大洗女子学園の指定席にたどり着いたとき、その隣に座していたのは聖グロリアーナの面々だった。こちらを先に見つけたダージリンが挨拶を口にする。

 ある程度まとまった人数でやって来たのか、大洗組の三倍くらいは生徒が集まっている。

 

「皆さん、こんにちは。やはりあなたたちも戦車道大会に出られるのですね」

 

 ダージリンに続いて、大洗組に頭を下げたのはやや小振りな身長が特徴のオレンジペコだった。ダージリンの指揮するチャーチル歩兵戦車肝いりの装填手として、今年からグロリアーナに加わった新入生である。

 

「こんにちは。まさかこんな早くにグロリアーナの皆さんにお会いするなんて思っても見ませんでしたよ」

 

 大洗組を代表する形で優花里が頭を下げた。

 

「そうね、偶然とはいえ隣席同士。今日は実りのある抽選会にしたいわ」

 

 そう告げたダージリンの目線がある区画を見つめていることに優花里は気がついた。その視線を追っていけば、灰色を基調とした制服に身を包んだ集団が席に腰掛けている。彼女たちから見て右やや前方にいるのは――

 

「あ、カリエ殿」

 

 優花里の呟きにダージリンは即座に反応した。

 

「そう、あそこにいるのは黒森峰よ。大会十連覇中の正真正銘の王者。誰もがあそこの動向を伺っているわ」

 

 言われて優花里が周囲を見渡してみれば、少なからずの生徒たちが黒森峰の集団に視線を向けていることに気がついた。

 それだけ、十連覇中という看板は参加校に警戒心を抱かせるには充分すぎるものなのだろう。

 

「大会はAブロックとBブロックに分かれて行うトーナメント式。しかも回を追う事に参加車両が増えていくから、何回戦で試合を行うかによって、立てることのできる戦術も随分と変化していくわ。だからこそ王者と何処で相対するのか決まるこの抽選会は、我がグロリアーナだけでなく、全ての学校が優勝を掴むためにはとても重要な要素なの」

 

 つまり参加車両の少ない一回戦、二回戦の対戦と、車両の多い準決勝、決勝の対戦とでは全く別の試合内容になるとダージリンは告げているのだ。

 参加車両が少なければ、黒森峰やプラウダが得意とする、装甲火力で相手を押しつぶす戦法にも穴が生まれやすい。

 

「ならダージリン殿は黒森峰と早く対戦したいんですか?」

 

 優花里の疑問に、ダージリンはこう答える。

 

「グロリアーナの栄光のためならそうね。黒森峰に対するディスアドバンテージが最小限で済むから。でも――」

 

 一端言葉を切った彼女の表情は、優花里の背筋に冷たいものを流し込むには充分すぎる様々な感情に溢れた笑みだ。

 

「私個人としては是非決勝戦で雌雄を決したいわ。そうでないと、昨年から抱くこの気持ち、行き場がなさ過ぎていい加減壊れてしまいそう。まさに『恋は罪悪ですよ、解っていますか』ってね」

 

「……夏目漱石の『こころ』ですね」

 

 オレンジペコの注釈が耳に届かないくらい、優花里は目の前のダージリンに圧倒されていた。普段は余裕たっぷりに、優雅に振る舞っているだけに、黒森峰に見せる執着心が意外だったのだ。

 

「負けたことを恨んでいるわけではないわ。寧ろその健闘ぷりには好感すら抱いている。でも人間の感情はそんな二元論で分類できるほど単純じゃないことはあなたならお分かりでしょう?」

 

 ぞわり、と優花里の中の何かが逆立つ。まるでこちらの全てを見透かしたようなダージリンの瞳に彼女は喉を鳴らした。

 

「あの子はまさに魔性だわ。人を魅了し惹き付けてやまないかわりに、私のようなものに執着心を抱かせる何かを持っている。本当、目に入るだけにこんなにも心がざわめくなんて、恋なのか憎しみなのか自分でもわからないわ。でも、そうね。もしかしたらそれだけ悔しかったのかもしれないわね。昨年の敗戦は」

 

 そのとき初めて、ダージリンが黒森峰ではなく、逸見カリエについて話していることに気がついた。彼女はカリエに対して何かしらの執着心を抱いているのだ。

 

「あら、もうこんな時間ね。グロリアーナの抽選の時間になってしまったわ。それじゃあ秋山さん、私はこの辺りで」

 

 まるでそれまでの愛憎が嘘のように、ダージリンはその場を後にした。どうやらオレンジペコだけを伴って、抽選の壇上へと向かったらしい。

 

「ねえねえ、ゆかりん。私たちもそろそろなんじゃない?」

 

 呆けながら二人の後ろ姿を見送っていた優花里に沙織は声を掛ける。確かに時計を見てみれば、グロリアーナの次の次くらいには大洗の順番が回ってくる計算だ。

 優花里は「そうですね」と案内の書類を手にして、客席を立った。

 

「不安なら私もついていこうか?」

 

「いえ、大丈夫です。わたくしひとりでも」

 

 ダージリンの初めて見せる迫力に気圧されたことを見抜いているのか、沙織が気をつかった。

 けれども優花里は、不思議と平気そうにしている自身のメンタルに気がついていた。

 

「強がりでも何でもなく、何でしょう? 意外と大丈夫なんですよね。もしかしたらダージリンさんの気持ち、少しわかっちゃうかもしれないですね」

 

 けろっと笑う優花里を見て、沙織は眉尻を下げた。だが彼女が優花里に直接問うことは出来なかった。

 

 カリエさんへの好感に共感したのか、悔しさに共感したのか、ゆかりんはどちらなの? と。

 

 

02/

 

 

 優花里が引いた番号は七番。直後のサンダース大学附属高校の代表であるケイが引いた番号は八番だった。

 それはつまり、大洗女子学園の初戦の相手が、サンダース大学附属高校であるということを表していた。

 あちゃー、と客席の上の方で沙織が額に手を当てているのが見えた。まだ黒森峰と聖グロリアーナは確定していないが、それらを除けば最悪と言っていい巡り合わせだ。

 けれども優花里は客席の沙織たちに比べれば幾分か前向きだった。

 

「確かにいきなり強豪校相手ですけれど、幸い一回戦です。圧倒的な物量で攻めてくるサンダースの特性が活かされにくい、我々に有利な条件とも考えることが出来るんです」

 

 自分に言い聞かせるように、優花里はぶつぶつと呟いた。

 彼女の言うとおり、車両数が十両までに制限されている一回戦はサンダースにとって持ち味を活かしにくい状況だ。そこにつけ込めれば、と優花里はすぐさま本番への構想を練り始めた。

 その最中、沙織から連絡でも受けたのか、早速生徒会から抽選結果に関する連絡が届く。

 メールの差出人は桃で、文面は以下のようなものだった。

 

 

 どうしてお前はそんなにクジ運が悪いんだ!

 

 

 どうやら動揺しているのは沙織だけではないようだ。

 これは宥めるのに骨が折れそうですね、と優花里は冷や汗を流す。

 取りあえずはサンダースの数の有利を縮めることが出来るんです、と返そうとした時、前方から彼女は声を掛けられた。

 

「優花里さん、やっぱり来てたんだね」

 

 見ればカリエがひらひらと手を振ってこちらに歩いてきていた。周囲を見渡せば、いつの間にか自分が参加校控え室のすぐ側まで戻ってきていることに思い至る。

 そこまで自分は思考に没頭していたのか、と少しばかり反省した。

 

「はい、まさか生徒会から大会出場の許可を頂けるとは露ほども思っていなかったので、正直びっくりです」

 

「そうかな? そちらの会長さんはこういったお祭りが好きそうに見えたけれど」

 

 久し振りの再会だったが、二人の会話は進んだ。

 どこか波長が合うのか、出会った数は少なくても意気投合の領域に差し掛かっている。

 

「そういえば、カリエ殿が抽選されるのですか? そうだとしたらそろそろステージの方に赴かれた方が宜しいかと」

 

「いや、うちの隊長――みほがもう引きに行ってる。あの子、クジ運あんまり良くないからちょっと心配なのだけれど」

 

 カリエの「みほ」という言葉に、優花里のテンションが急上昇した。

 

「ま、まさか本物の西住殿がこちらの会場に来ていらっしゃるんですか!」

 

 ずいっ、と詰め寄ってくる優花里に若干顔を引き攣らせながらも、カリエは何とか答える。

 

「優花里さんの言っている西住は確かにうちの隊長だから、たぶんそうだと思う」

 

 鼻息を荒くしながら、優花里は「サインとか頂けないですかね!」とカリエにさらに詰め寄った。カリエもカリエで、有名人のサインを欲しがる心理は重々理解していたので、どうどう、と宥めながらもこう提案した。

 

「ならみほが帰ってくるのをここで待てばいいよ。でもペンと紙は持ってるの?」

 

「はい、こんなこともあろうかと、ペンとノートは常備しているんです!」

 

 言って、何処からともなく優花里は本当にそれらを取り出した。一体何処にしまっていたんだ、とカリエは優花里の周囲をぐるぐると回るが、答えが出ることはない。

 だが、ある事実に気がつく。

 

「優花里さん、そのノート結構ボロボロだね」

 

 カリエが指摘した通り、優花里の持っているノートはページの所々が禿げ、破れを補修した跡もあった。

 何となく自分が持っている「自戒ノート」に似ているそれを見つけて、カリエは興味を募らせていた。ちなみにカリエのノートには女子としての振るまい方や、戦車道の気がついたこと、エリカの小言が記録してある。

 

「はい、実はこれ小学生の時から使っているノートなんです。ページが足りなくなったら少しずつ継ぎ足しているので不格好なんですけれど、わたくしの好きな戦車などについて書いてあります!」

 

 へえ、とカリエは関心の声をあげた。

 

「とは言っても、また使い出したのは最近なんですけどね。小学校の時にちょっと使って、あとは結構ほったらかしだったんです」

 

 えへへ、と照れ顔を見せる優花里を見て、カリエはさらに関心を深めていた。

 優花里の言っていることが真実だとすれば、そのノートの傷たちは最近生まれたものであり、それが意味するところは一つだからだ。

 

「……頑張っているんだね、優花里さん」

 

「いえいえ、好きだから出来ているんですよ。それに、わたくしの頑張りなんて黒森峰の方々にくらべれば遊びみたいなものですよ」

 

 優花里の謙遜に「いいや」とカリエは首を横に振った。

 

「そんなことはないよ。頑張りに貴賤なんてあるわけがない。それにあなたは一回目なのにそこまで自分の好きなことに真摯に向き合っている。それは大切なことだからこれからも頑張って欲しい」

 

 一回目? と優花里は首を傾げた。しかしながらカリエがその疑問に答えることはない。

 

「残念。それは私の最大にして最高の秘密だから」

 

 前世の記憶があって、しかも男で、野球バカだったなんて信じてもらえる筈がなかったが、カリエがそのことを口にする機会ははおそらく一生ない。

 何故なら彼女は決めているからだ。

 この人生を、この道を後悔なく歩んでみせると。

 

 優花里はそれがカリエなりの冗談だと思ったのか、けらけらと笑った。

 

「意外と面白い方なんですね。カリエさんって。戦車道雑誌とか見ていると、クールビューティーの深淵知謀の策士って紹介されてますけれど」

 

「あれかなり恥ずかしいからやめて欲しい」

 

 本気で顔を赤くするカリエに、これは珍しいものを見た、と追い打ちを掛けようとする優花里だったが、それはすんでの所で回避される。

 二人のツーマンセルのような掛け合いに、遠慮がちに声を掛ける人物がいたからだ。

 

「あのー、カリエさん。その人は?」

 

 カリエと優花里が振り返る。するとそこには最早見慣れた隊長が、もしくは雑誌の中でしか見たことのない憧れのその人が立っていた。

 

「に、西住どの!」

 

 優花里が飛び退き、慌ててノートをぺらぺらとめくり出す。どうやら白紙のページを探しているようだった。

 みほを見定めたカリエは「助かった」と感謝しながら、優花里がサインを欲している旨を伝えた。

 

「えー、私のサイン!? そんなもの価値あるの?」

 

「価値があるないじゃないんです! わたくしが是非欲しいんです! お願いします!」

 

 ずいっ、と頭を下げながらノートを突き出すという、器用な真似をする優花里を見て、みほが困惑の声をあげる。

 カリエもカリエで、サインくらいしてあげなよと催促したものだから、みほは顔を真っ赤にしてペンを握った。

 

「あ、そういえば!」

 

 どのようなサインにしようかと眉根を寄せて悩んでいる最中の事。突如として声を出したみほにカリエは「何?」と問うた。

 

「いえ、さきほどエリカさんたちから連絡があって、横浜で一度合流しないかってお誘いが合ったんです。上の隊員の人たちの予定を確認して、誰が横浜に向かうか聞いておかないと……」

 

 みほの懸念に、カリエは「大丈夫」と答えた。

 

「私が先に上がって予定を纏めておくよ。学園艦に直帰する隊員は先に帰しておくから安心して」

 

 そう言って、カリエはその場をあとにした。

 二人取り残された優花里とみほは顔を見合わせる。

 

「カリエ殿って頼りになりますね」

 

「うん、頼り過ぎちゃうくらい」

 

 控えめに笑うみほを見て、いつの間にか普通に会話が出来るようになっている自分を、優花里は見つけた。

 戦車道を始める前にはあり得なかった自分に驚かされ続ける毎日である。

 

「ええと、秋山さんだったっけ?」

 

「あ、はい。でもどうしてわたくしの名を」

 

「カリエさんがよく話してくれるんだよ。新設なのにとても頑張っている隊長がいるって」

 

 じんわりと、胸の内に広がる暖かいものを優花里は感じた。そして先ほどダージリンに感じた共感めいた感情の正体に何となく思い至る。

 

「やはりカリエさんには好感以外の感情が持てませんね」

 

 自分とダージリンは部分的には同じでも、全てがそうでないと言うことを、改めて確認していた。 

 

 

03/

 

 

 クジを引いたのは西住みほだった。彼女の手にした白いボールを目にした瞬間、会場からは歓喜の声と悲鳴が同数あがった。

 歓喜の声は黒森峰と別ブロックになった学校から。

 悲鳴は同じブロックになってしまった学校からだった。

 

「あら、おかしいわね。喜びの声と嘆きの声、逆だと思うんだけど」

 

 言って、ダージリンは自身が引き当てた番号を見る。それは、順当に行けば黒森峰と準決勝で対戦することになる番号だ。

 隣に着席したオレンジペコが「それはダージリン様だけですよ」と小声で囁いた。

 

「だって決勝でもないのに、王者黒森峰に挑むことの権利を得られたのよ。これを喜ばずして何を喜ぶの。まあ、本当は別ブロックになって決勝で当たるのが最良だったのだけれど、次点でよしとしましょうか」

 

 それが本心から言っていることを知っているオレンジペコはますます困り顔で囁く。

 

「今のお言葉、絶対OG会の前では言わないでくださいね。よくも悪くも、黒森峰の名前は皆さんの冷静さを奪っていってしまいますから」

 

 後輩の忠言を受けたダージリンはふっと笑みを零して「そろそろ帰りましょうか」と席を立った。

 

「あなたの言うとおりだからこそ、私はあなたとローズヒップをこの学園に呼んだのよ。あなたはあの学校と私たちの因縁に囚われていない。だからこそあの学校に対する切り札になり得るわ」

 

 ダージリンが帰還の姿勢を見せたからか、他のグロリアーナの隊員たちも帰宅の準備を始める。

 

「さて、大洗の方々に挨拶を――ってあら? 秋山さんはまだ戻ってきていらっしゃらないのかしら」

 

 ふと隣席を見れば、優花里を除く三人が席に着いたままだった。ダージリンの視線に気がついた沙織が慌てて立ち上がり、頭を下げる。

 

「ごめんなさい。ゆかりんたらまだ帰ってこなくて」

 

「いえ、いいのよ。秋山さんにもよろしく伝えておいてくださいな」

 

 気品ある笑みを見せ、ダージリンはその場を去る。

 客席から通路に出て、隊員たちを引き連れながら会場の出入り口を目指した。

 するとその途中、いつか見た人影がこちらに歩いてくるのに気がついた。

 ダージリンと人影、両者の足が止まる。

 

「あ、ダージリンさんだ。こんにちは」

 

 ぼんやりとした三白眼。されどもその心中を中々察することの出来ない不思議な翡翠色の瞳。

 黒森峰女学園の副隊長の一人である逸見カリエだった。

 カリエの姿に気がついたダージリン以外のグロリアーナの隊員たちに動揺が走る。

 オレンジペコが何かを口走りそうになるが、ダージリンが後ろ手で制した。

 

「ごきげんよう、カリエさん。お姉さんはお元気かしら?」

 

 ダージリンの挨拶にカリエは「うーん」と唸る。

 そしてやや間を空けてからこう答えた。

 

「元気すぎてちょっと疲れるくらいですね。エリカったらちょっと摘み食いしただけで烈火の如く怒るんですよ」

 

「あら、それはあなたのことが可愛いからよ。彼女、とても妹思いだから」

 

 妹思い――そうダージリンに告げられた時、カリエは若干頬に赤を入れて照れて見せた。

 

「まあ、そうかもしれませんね」

 

 確固たる姉妹の絆。それを見てダージリンは「羨ましいわね」と微笑んだ。

 

「私もあなたのような妹がいたら毎日が楽しいでしょうに。……ではカリエさん、グロリアーナはお先に失礼させて頂くわ。月並みで陳腐な言葉だけれども、次は準決勝でお会いしましょう」

 

 言って、ダージリンは歩みを再会した。カリエも「はい。さようなら」と会釈を一つしてすれ違うように歩いていく。

 やがてカリエの姿が見えなくなった頃合いにぽつりとダージリンが口を開いた。

 

「カリエさん、私のラッキーベルを身につけてくれているのね」

 

 ジェスチャーで首もとのアクセサリーを形作るダージリンにオレンジペコが答えた。

 

「はい。あれは確かダージリン様が贈られたんですね」

 

「ええ、そうよ。あの子にお詫びと健闘祈願を掛けて贈ったの。でもどうしましょう。少し意地悪なジョークを思いついてしまったわ」

 

 ダージリンが時折見せる、少し茶目っ気のある悪戯心が隠し切れていない表情。

 

「ねえ、オレンジペコ。イギリスではね、ベルの首飾りは――」

 

 その時、オレンジペコはグロリアーナに来て初めて、ダージリンの事が恐ろしいと思った。

 茶目っ気はそのままに、けれども瞳の奥にどろりとした複雑な感情を密かに讃えて彼女は嗤ったのだ。

 

「自分の溺愛する飼い犬につけるものなのよ」

 




こんなの書いておいてあれですけど、ダー様はガルパンキャラで二番目に好きです。
一番はもちろんエリカですけど。


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秋山優花里の戦車道 09

何度でも言います。私はダー様が好きです。


 黒森峰女学園戦車道に参加している全ての車両にはホワイトボードが備え付けられている。

 真っ白なボードの上にフィールドの地図を貼り付け、様々な色の磁石で戦況をリアルタイムに確認するための機材だ。

 通信手同士が自車の位置、敵車の位置を逐一報告しそれぞれで更新していくのである。

 このホワイトボードは元々、エリカとカリエの車両だけに積まれていた装備だった。

 姉妹揃って学園艦のホームセンターに赴き、私費で購入していたものである。姉妹同士の位置把握に勤めるために用意したというのが、本人達の弁だった。

 それに注目したのが、黒森峰の新隊長に就任した西住みほである。

 彼女は何かの拍子にエリカの車両に乗り込んだときにそれを見つけた。

 常々、姉妹の連携が緻密すぎる事に気が付いていた彼女は、直ぐさま戦車道予算で全車両分のそれらを購入。訓練に導入したのである。

 元来、黒森峰の隊員達の力量は高く、ホワイトボードなしでもかなりの連携を得意とはしていたが、緻密さといえばまた話は別だった。

 みほが隊員達に求める連携のレベルは遙かに高度なものであり、隊員の単純な練度では補いきれないレベルに差し掛かろうとしていたのである。

 導入の結果は良好だった。

 さすがに双子の阿吽の呼吸と言うべきか、逸見姉妹のそれには適わないものの、かなりの精度を持って車両同士の連携が成されるようになっていったのである。

 この疑似C4Iとも言うべきシステムの、公式記録において一番最初の犠牲になったのは知波単学園であった。

 

 

01/

 

 

『……みほ、突撃を失敗(``)させたわ。今現在、街道を南に離脱中。後続の小梅から知波単の奴らが追いかけてきてるとの報告も上がってるけど問題はなさそうね』

 

『了解しました。被害状況を教えて下さい』

 

『被撃破なし、大破なし、中破は――見かけだけなら一両、実質ゼロ。小破3』

 

 隊長と副隊長のやり取りに耳を傾ける黒森峰の隊員達。彼女たちは今後の作戦の段取りを何度も頭の中に反芻させながら、その時を待つ。

 たとえ王者としても、決して払拭する事の出来ないある一種の緊張状態の中、泰然としていたのはもう一人の副隊長である逸見カリエだった。

 彼女はキューポラから頭だけ出して外の様子を伺い続けている。

 

「ねえ」

 

 体勢はそのまま、口だけを開く。車内にいた隊員達は何か不測の事態でも生じたのかと、冷や汗を垂らした。

 だが――、

 

「喉渇いた。水頂戴」

 

 ひらひらと車内で揺らめくカリエの白い手。その緩慢な動きに乗じるように、車内の空気が弛緩していく。

 良い意味で緊張感とは無縁の副隊長兼車長の姿に、パンターの隊員達は溜息を吐いた。

 

「ほんと、副隊長っていつも通りですよね。私なんて、昨日は緊張で中々寝付けませんでしたよ」

 

 装填手の呆れたような声色にカリエは意外だ、と反応した。

 

「そうなの? 私は東京ドーム・ラビッツ名場面集を見てたらいつの間にか寝てたよ。郭のホームランが凄いんだ」

 

「たまに副隊長っておじさん世代のお話をしますよね」

 

 狭いキューポラの円の中で、カリエがぶんぶんと器用に素振りする。最早微塵も残されていない緊張の空気すら恋しくなって、隊員達は互いに顔を見合わせる。

 

「……変に緊張しても仕方ないんだよ。私たちはやれることはやって来たんだ。あとはそれを信じてやるだけ」

 

 言って、彼女は車長席に沈み込んだ。

 沈み込んで、通信手の脇に置かれたホワイトボードを見る。自軍と敵軍の位置関係が逐一更新されていくそれを見て「そろそろか」と呟いた。

 徐に咽頭マイクを掴んだ彼女は、後方に待機している隊長たるみほに話しかけた。

 

「みほ、そろそろこちらも出る。エリカには流れ弾に当たらないよう、全速力でキルゾーンを駆け抜けるように言って」

 

『馬鹿ね、全車通信なんだから聞こえているわよ。まあ駆け抜けるのは了解ね。パンター共の砲弾の雨なんて、さすがにティーガーⅡでも御免被るわ』

 

 即応したエリカに続いて、落ち着いた声色でみほが答える。

 

『はい、了解です。くれぐれもカリエさんはフラッグ車なので気をつけて下さい。万が一、ということも考えられますので』

 

 みほの心配を受けて、カリエは「大丈夫だよ」と笑った。

 その万が一が起こらないように、今日まで研鑽を積んできた。つまらない油断なんかして、敗北を喫してやる気など毛頭ない。

 ただ勝利を掴むため。

 カリエとて王者黒森峰の一員としてこの一年を過ごしてきたのだ。

 ふっ、と体中の余分な力を抜くように息を吐き出した。そして前方、双子の姉がいるであろう方向を翡翠色(エメラルド)の瞳でしっかりと見据える。

 いつだって共に戦ってきた、この世界で一番信頼できる存在がそこにいる。

 しかもそれに加えて――、

 

『カリエ小隊長、こちらも準備整いました。全車いつでも出れます』

 

 無線から聞こえてくる仲間達の声。冬から共に成長し続けて来た可愛い手駒達。

 姉に対する全幅の信頼とはまた違った、戦友としての信頼を抱く事の出来る彼女たち。

 カリエの浮かべた笑みは、間違いなく戦車道に対する楽しさを讃えた笑みだった。

 

「待機中のチームヒドラに伝令。”(チハ)が釣れた” 繰り返す”(チハ)が釣れた”」

 

 少しばかり弾んだ、けれども淡々とした指示。だがそれで充分だった。それだけで茂みに潜んでいた蛇の首(ヒユドラ)たちは満足する。

 それぞれ思想も信条も違う。けれども全てが黒森峰と敬愛する副隊長の栄光を願う、多頭の蛇。

 

「全車前進。ここで試合を決める」

 

 カリエの宣言が合図だった。至る所にアンブッシュしていた5両のパンターが、エンジンを唸らせて一斉に前進を開始する。

 彼女たちの前方には、ジグザグに走行するティーガーⅡとパンター、そしてⅢ号戦車が出現していた。

 

「タイミングは完璧。友軍に対する誤射だけには気をつけて。発砲タイミングはそれぞれに一任」

 

 パンターの砲身がこちらに疾走を続けるティーガーⅡの後方に向く。カリエがキューポラから身を乗り出してみれば、同じような体勢のエリカと目が合った。

 彼女は手信号を駆使し、戦況をカリエに伝える。

 

「チハが5、うち最後尾の車両がフラッグ車だそうです」

 

「エリカの報告が正しければそのフラッグ車は逃げ足が速い。一度逃がすと、こちらから追いかけるのは骨が折れる。折角釣り上げたんだ。大事に食らいついていこう」

 

 通信手の解読にカリエは答え、自身も手信号を送った。あまり綺麗な手信号ではなかったが、稚拙なそれでも姉のエリカには伝わったようだった。

 カリエの意図を汲み取って見せたエリカがティーガーⅡの進路を思いっきり右に切る。街道から外れて、荒れ地に突っ込んでしまったが、戦車の踏破性能を持ってすればさしたる障害にはなり得ない。

 急停止したティーガーⅡが急いで砲塔を180度旋回させたのと同時、土煙を携えて彼女たちは現れた。

 

「吶喊――!!」

 

 相変わらずの威勢の良さだと、カリエは安心した。対戦校になり得る学校の能力、伝統、戦術は一年もの間、心血を注いで研究してきたのだ。今更路線変更でもされようものなら、その徒労感は想像するに難くない。

 

 知波単学園。

 

 突撃を良しとし、相手の懐に飛び込む戦術を得意とする学校。

 その吶喊精神は状況にマッチすれば脅威となり得るが、そうでなければ進路予測のし易いただの的だ。

 

「副隊長、発砲許可を」

 

 カリエの足下に座した砲手が発表許可を具申する。カリエは敵軍との彼我の距離差をじっと見つめて、ややあってその肩をとん、と叩いた。

 

 轟雷が街道に吹き荒れる。

 

 待機していた5両のパンターに加えて、敗走を装っていたティーガーⅡとパンター、Ⅲ号戦車その全ての砲身が火を噴いた。

 余りの大火力に一瞬で知波単学園の先陣を切っていた九七式中戦車が大破する。

 

「次」

 

 カリエの指示を聞くまでもなく、装填手が素早く次弾を装填。次なる砲火を吐き出した。即座に穿たれた砲弾は3両目の九七式中戦車を吹き飛ばし、撃破の白旗を天高々と掲げさせる。

 雷のように連続して降り注ぐ砲弾から逃れるべく、1両の九七式中戦車が後退を見せた。

 カリエが素早く双眼鏡でそれを見定めれば、フラッグ車を示す青い旗が砲撃の熱と爆風による風にはためいている。

 

「不味い、逃げる気だ。佐久間さん」

 

 それまで静かに事の成り行きを見守っていたナナが「なんでしょう?」とカリエに振り返る。

 

「逃がさないで」

 

 指示は単調かつ明瞭。けれども佐久間ナナは水を得た魚のように、「はい!」と返した。

 彼女が操縦桿を握り、アクセルを噴かせれば45トン超の車重を感じさせない軽やかさで、パンターが潜んでいたバンカーから飛び出す。

 

「カリエ!」

 

「相手は1両、このまま仕留める! エリカは援護を!」

 

 横を駆け抜けていく妹に、エリカは目を剥いた。だが直ぐに表情を引き締めると自車の砲手にパンターの援護射撃を命じる。

 

「九七式の足を封じなさい」

 

 さすがは黒森峰と言うべきか、突然のオーダーにもティーガーⅡの砲手は迅速に答えてみせる。直撃とまでは行かなかったが、王虎のアハトアハト砲がチハの足下を穿ち、その車体を激しくバウンドさせた。

 最初の加速を妨害されたチハに、急加速したパンターが肉薄する。

 互いの車長の顔が識別できるような距離まで近づいたとき、カリエは相手の正体に凡その見当をつけていた。

 

 西絹代 二年生 現知波単学園 副隊長

 

 必死にこちらからの壊走を図る黒髪の美人。

 彼女は確か吶喊一筋の知波単内において、それなりに慎重派だった、とカリエはプロフィールを脳内から引き出す。

 だとしたら、知波単らしくない撤退の判断もあり得ると一人納得していた。

 

「副隊長、すいません! 速度が速すぎて狙いが!」

 

 彼女を思考の海から引き上げたのは、砲手の進言だった。彼女の言うとおり、ほぼ最高速度を記録しているパンターの主砲が同速度のチハを捉える事は困難である。

 無駄弾を撃たせるくらいなら、とカリエは砲手を宥めた。

 

「大丈夫。佐久間さん、あのチハに思いっきり体当たりして」

 

 何気なく告げられるカリエの言葉。これが一昔前なら、誰かが反対するか、反対しなくとも狼狽えていただろう。とくにナナは忠誠心と恐怖心の狭間に揺れ動いていた筈である。

 だが今は違う。

 今の黒森峰は少し違う。

 

「わかりました。逸見副隊長は突入角度の指示をお願いします」

 

 カリエが何も言わなくとも、ナナを除く全員が車内の持ち手にしがみつく。しかしその表情に恐怖心はない。ただ、自分たちの車長の突拍子もない指示が楽しいと言わんばかりに笑みすら浮かべていた。

 そしてナナもカリエからの信頼に歓喜し、嬉々としてパンターを操作した。

 

「良し、方向そのまま。五秒後、対ショック体勢」

 

 カリエが宣言したとおりの時間差で、パンターがチハの左後部を突き上げた。

 圧倒的な車重差に突き上げられて、チハがブリキのおもちゃのように転げ回る。

 さすがに衝撃が重すぎたのか、やがて回転を止めたチハは黒煙を吹き出して被撃破の白旗を吐き出した。

 何処か遠くで、試合終了を告げる空砲が鳴る。

 

「いたた、乗員怪我は?」

 

 たとえ車重で勝っているとしても、それなりの衝撃を受けたパンターもダメージを受けていた。走行不能というわけではないが、OVMと機銃対策に備え付けたサイドスカートが脱落している。

 車長席に腰を抜かしたまま、カリエは車内を見渡した。

 

「乗員4名、全員怪我はありません――って副隊長! そのおでこ!」

 

 カリエの呼びかけに答えた通信手が悲鳴をあげた。何事か、とカリエが額に手をやってみればぬるりとした嫌な感触が手に伝わる。

 ハッチから差し込む光に照らされたそれは鮮やかな赤色だった。

 どくどくと流れ出す血がカリエの足下にいくつかの飛沫をつくっていた。

 乗員達は一瞬でパニックに陥った。

 

「ふっ、副隊長! 死なないで下さい!」

 

 操縦席から身体を乗り出し、ナナはがっしりとカリエの胴体にしがみつく。

 普段は余り弱音を吐かない性分の彼女だが、ことカリエの事になると冷静さを失ってしまうきらいもあるのだ。

 万力のようなホールドを受けて、カリエは「うぐっ」と呻いた。

 

「西住隊長、逸見エリカ副隊長! カリエ副隊長が負傷しました! すぐに大会本部に連絡を!」

 

 しかも直ぐさま通信手が全隊通信に状況を報告したものだから、黒森峰陣営は勝利の余韻に浸る事もないまま、大騒ぎになった。

 

『わかりました! すぐに救護車両を呼び寄せます!』

 

『今からそっちに向かうから安静にさせて!』

 

 後方のみほが救護の要請を飛ばし、近くに待機していたエリカのティーガーⅡがパンターに横付けした。キューポラから飛び出し、パンターに飛び乗ったエリカは車内から妹を引き上げる。

 

「大丈夫? 気持ち悪いとかない? 私の顔、ちゃんと見える?」

 

 パンターの天蓋の上にカリエを寝かせ、自身のタンカースジャケットが汚れる事もいとわずに額の血を拭ってやる。

 珍しく涙目で、いそいそと看病をしてくる姉に、カリエは口を開きかけて辞めた。

 

 額の傷はぶつけたんじゃなくて、キューポラの角で擦って切っただけだよ、と言える雰囲気ではなくなっていたのだ。

 

 なまじ血管が集中しているものだから、ちょっとでも切り傷を作ると重傷のように見えてしまうのが額だ。軽傷で済んで運が良いのか、いらぬ勘違いをさせて運が悪いのかわからないな、とカリエは溜息を吐いた。

 

「ああもう! 早くしなさいよ!」

 

 到着しない救護車に苛立ちを見せるエリカが視界の片隅に映る。

 冷静さを失っている姉を気遣ったのか、カリエはそっと彼女の袖口を握りしめた。

 そして「大丈夫、切っただけ」と意を決して報告しようとしたが、その健気に見える動作は完全に逆効果だった。

 いつもなら茶々すら入れてくる妹が、緩慢な動きで袖を握ってきたのである。エリカの顔はさーっ、と青ざめ、ついにはボロボロと泣き出してしまった。

 焦ったのはカリエだ。

 ほぼ一年ぶりに姉を泣かしてしまった、という事実がカリエの胸を押しつぶし、事の顛末の告白を躊躇わせてしまう。

 カリエは冷や汗を垂らしたまま、押し黙った。

 正直に話して周囲を宥めようという解決策を諦め、知らない振りを決め込んだのだ。

 もう何も聞こえない、何も見えないと言わんばかりに目を閉じ周囲の声を無視し、狸寝入りを始めたのである。

 その行為が火に油を注ぐ最悪の選択である事を考えもせずに。

 

「うわあああああああ、ふくたいちょー、しっかりしてくださああああああああい!!」

 

「ちょっと、カリエ! もうすぐ救護車が来るから頑張って! お姉ちゃんがここにいるから!!」

 

 

02/ 

 

 

「というわけで、黒森峰対知波単の一回戦の詳細ビデオだよ。黒森峰は撃破された車両ゼロ。知波単は10両全て全滅。いやー、知波単学園もそれなりの実力差なのに、やっぱここ頭おかしいわー」

 

 ぱたぱたと夏の熱気を払拭するべく、杏は扇子を仰いだ。彼女の目の前には、いつもの優花里ではなく、あんこうチームの残りの三人が雁首揃えて腰掛けている。

 

「あのー、これとゆかりんの行方に何の関係があるんですか?」

 

 生徒会応接室備え付けのテレビで動画を視聴させられていた沙織が疑問の声をあげる。他二人は黙ってはいたが、その心の内は沙織と同じものだ。

 つまり、ここ二日もの間、学園から忽然と姿を消してしまった秋山優花里の事を案じているのである。

 

 事の始まりは二日前の放課後だった。

 

 連日続く暑気を払拭するべく、アイスクリームでも食べにいこうと沙織が提案したのである。

 幸い戦車道の授業もなく、放課後がフリーだった華と麻子は即座に賛成し、優花里も誘って四人で食べにいこうと話がまとまった。

 そうと決まればと、二年C組を訪ねてみたのだが、そこにいた優花里の同級生から彼女が欠席している旨を伝えられたのだ。

 大洗女子学園の戦車道素人を纏めるべく、東西に奔走している優花里のことだ。無理が祟って体調を崩してしまったかと、三人は心配し、放課後の行き先をアイスクリーム屋から秋山優花里の実家に変更した。

 いざその家を訪ねてみれば、優花里の父親が大層感激し、母親も落ち着いてはいるが娘の友人の来訪に喜びを隠せていなかった。けれども肝心の優花里は家を出払っていると二人は答えたのだ。

 母親の好子曰く、

 

「何でも生徒会から頼まれて出張に行ってるみたいで。公欠扱いになるから心配しないでって、優花里は言ってましたけれど」

 

 申し訳なさそうに頭を下げる好子に三人は慌て、

「これからも優花里をお願いします!」と土下座まで始める父親――淳五郎を何とか宥めて、それぞれ優花里の実家である「秋山理髪店」をあとにした。

 そしてその日は解散し、翌日に何があったのか優花里を問いただそうと決めたのである。

 しかしながら、優花里は翌日も学園に現れなかった。

 連絡をするように送った三人のメールにも返信はなく、いよいよ音信不通が浮き彫りになってきたのである。

 そこで強硬手段として、好子が口にした「生徒会からの頼まれ事」を追求するべく、三人して生徒会室に殴り込みを掛けていたのだ。

 だが三人に対する杏のリアクションは、一本のDVDを見せるというものだった。 

 

「角谷生徒会長、いくら何でもおふざけがすぎると思います。私たちは本当に優花里さんを心配しているんです」

 

 普段はおっとりとしていて、大和撫子のように温厚な華が凄みを利かせた。その態度だけで、彼女の心中が穏やかでないことを周囲は察する。ただ他の二人もほぼ似たような心境であった。

 

「生徒会が何かを秋山さんに命じたことは、彼女のお母さんから教えて貰っている。そんなに隠さないといけないようなことなのか」

 

「そうです! あんまりはぐらかされると、ゆかりんのお父さんとお母さんに告げ口しちゃいますからね!」

 

 時間が経つ度に怒気を強めていく三人に、杏は「困ったね」と苦笑した。側に控えていた桃は若干涙目になり「かいちょー」と情けない声を漏らす。ただ柚子だけが落ち着いた調子で杏に返した。

 

「……今朝方の連絡通りならそろそろです」

 

「うーん、いくら秋山ちゃんとの約束とはいえ、そろそろ限界なんだよねー。もうバラしちゃおっか」

 

 杏が三人に向き直り、口を開き掛けた。

 その表情は、先ほどまでのへらへらしたものではなく、至って真剣な、何かを覚悟したかのようなものであった。

 杏の只ならぬ雰囲気に飲まれたのか、三人が「ごくり」と喉を鳴らす。

 

「実はね、秋山ちゃんは――」

 

 ばん。

 

 杏の言葉は応接室の扉を勢いよく開け放たれる音にかき消される。何事か、と三人が振り返ってみればそこには人影が一つ。

 

「不肖、秋山優花里、ただいま帰還いたしました! ……あれ、皆さんお揃いですが何かあったのですか」

 

 そう。まさに揉め事の渦中だった、秋山優花里が立っていたのである。

 

 

03/

 

 

 ぽかぽかと、沙織が優花里の肩を叩いた。

 

「もー、本当に心配したんだからね! 何で連絡の一つもくれないのさ!」

 

「あはは、それに関しては誠に申し訳ないです。ちょっと込み入った事情がありまして。……ていうか武部殿、装填手も兼任されている筋力で叩かれると結構痛いです」

 

「いいぞ、沙織もっとやれ」

 

「ええ、ちょっとくらいは痛い目にあって貰いましょう」

 

「どうか御慈悲をー!」

 

 先ほどまでとは打って変わって、生徒会応接室の雰囲気は明るいものに変わっていた。柚子が煎れた紅茶を全員で楽しみながら、優花里の報告にそれぞれが耳を傾けている。

 

「いてて、本当にすいませんでした。でも、諜報活動を行う上で情報の守秘は必要だったんです。他校に潜入活動を気取られてしまうと全て台無しですから」

 

 ぺこぺこと頭を下げる優花里に、ようやく手を止めた沙織が問いかける。

 

「でもサンダースではついにバレちゃったんでしょ。大丈夫なの?」

 

 彼女たちが囲むテーブルの上には数冊のファイルが鎮座している。それぞれサンダースの隊員のプロフィールや保有車両、それに全国大会に向けた編成のデータが纏められていた。

 そして黒森峰対知波単を写していたポータブルDVDプレイヤーにはサンダース内部で優花里が撮影してきた映像が常時流されている。

 

「まあ、あちらの隊長の気質、思想を鑑みればたぶん大丈夫だと思います。随分フェアプレーを重視されるというか、アメリカンな思考の方なので、敢えてそのままぶつけてくる可能性が高いです」

 

 程良い温度まで冷えた紅茶を啜りながら、優花里はテーブルの上のファイルをめくった。

 

「相手の戦力はシャーマンを中心に、ファイアフライを1両加えた編成になりそうです。正直装甲火力ではこちらと天と地ほどの差がありますが、何とかやりようはあると思います」

 

 優花里の瞳は、僅かながらも存在する勝利の可能性をしっかりと見ていた。いつもはニコニコと、幸せそうに戦車と触れあっているというのに、この時ばかりは沙織がどきりとするくらいには鋭い視線だった。

 

「まあ、一回戦からここと当たったのはある意味僥倖だと思うよ。数で押す戦術が得意でも、一回戦は10両までしか試合に参加できないし、うちとの戦力差も自動的に縮まるからね」

 

 杏の言葉に優花里は頷く。

 

「黒森峰対知波単の試合を観戦してきましたが、一回戦から黒森峰と戦わされるのは不運としか言いようがなかったです。それぞれが高い練度を有した学校では、参加車両数が少ない分、より連携が強固になって手が着けられなくなりますから」

 

 優花里の言葉に、ようやく合点が言った、と華が手を叩く。

 

「成る程、私たちが見せていただいた黒森峰の試合映像も優花里さんが撮ってこられたものなんですね」

 

「ええ、会場が埼玉と隣県だったので日帰りで観戦してきました。黒森峰のデータはいくつあっても足りませんから」

 

 何でもないことのように笑う優花里だが、華はとんでもない、とその手をぎゅっと握った。突然の華の行動に、優花里は頬を染めてたじろぐ。

 

「優花里さん、あなたは少し頑張りすぎていると思います。私たちの戦車道の隊長ばかりだけでなく、他校の試合分析まで……。このままじゃいつか必ず倒れてしまいますよ。だから、私に手伝えることがあったら何でもおっしゃってください。生憎、母とは係争中で、実家の力は使えませんが、私個人の力ならばいくらでもお貸しします」

 

 戦車道という、華道と対極に位置する武道に参加したため、華は実家から勘当を言い渡されていた。決して精神的には穏やかではないだろうに、それを表に出さない彼女に優花里はいつも感心し、感謝している。

 

「いえ、無理は本当にしていないんです。わたくし、毎日が本当に楽しくて、辛いと思ったことは一度もありません。他校の偵察も私が言い出したことですし、生徒会の皆さんはむしろよく支援してくださっているんです。それに五十鈴殿に武部殿、そして冷泉殿がいらっしゃるからこそ、わたくしは頑張れるんです」

 

 優花里の言葉に、「それでも」と華は続けた。

 

「そう思ってくださっているなら、尚更私たちの事をもっと頼ってください。折角のお友達なのですから、優花里さんと共に、私、戦車道を頑張っていきたいと思います」

 

 優花里がふと周囲を見渡してみれば、沙織や麻子だけでなく、杏と柚子、そして桃までもが五十鈴の主張に頷いていた。

 いつの間にか、自分のことを案じてくれる人がこれだけ増えていたことに、優花里の瞳は熱くなる。

 

「ぐすっ、わたくし皆さんと出会えて本当に良かったと思います。本当に、戦車道を始めて良かった」

 

 だからこそ、と優花里は華の手を逆に握り返す。

 

「やるからには全力でやりきりたいと思います。新設で強豪校の足下にも及ばないかもしれませんが、だからこそ勝つことに対する欲求は誰にも負けません!」

 

 優花里のあまりにも強い手の力に華は驚いた。そしてふと思う。この力強さこそが、今までの自分の人生で足りていなかったものかもしれないと。

 

 そして華はさらにこう考える。

 

 この力強さを、もっと間近で見てみたい。そのために、サンダースに絶対勝って、もっと優花里と戦車道をしてみたいと。

 

 運命のターニングポイントがあるとしたらこの時だった。

 

 もしこのとき、優花里が華の手を握り返していなかったら華の戦車道に対する決意は違ったものになっていたのかもしれない。

 やるからにはそれなりに全力で取り組むが、結局はそこまで。五十鈴華最大の武器である並外れた集中力が限界を超えて発揮されることはなかっただろう。

 だが運命は定まった。

 戦車道に対する決意を固めた人物が、優花里の隣に一人増えたことによって、大洗女子学園の栄光ある歴史が始まりを告げたのだ。

 第63回戦車道全国大会。

 その一夏の大会において、一つの伝説を築き上げる無名の高校戦車道が、今産声をあげた。

 

 決勝戦まで、およそ一ヶ月と少し。

 少しずつではあるものの、あるべき結末に向けて、それぞれが動き出していた。

 

 

04/

 

 

「運命は浮気者。こんな格言はご存じ?」

 

「いや、ごめんなさい。知らない」

 

「かの有名な悲劇、シェイクスピア作、『ロミオとジュリエット』の台詞よ。カリエさん」

 

 大会負傷者が収容される医務室の一角、ベッドに寝かされたカリエの元に、来訪者が訪れていた。

 赤いタンカースジャケットを着こなしたダージリンである。

 

「たまたま同じフィールドが試合会場でしたから、こうしてお邪魔させて頂いたわ。それで、体の加減はいかが?」

 

 ぽすっ、とカリエのベッドの縁にダージリンが腰掛ける。そしてそのまま手を伸ばし、包帯の巻かれた額と髪を静かに撫でた。

 脇腹の辺りにダージリンの重さと体温を感じながら、カリエは答える。

 

「切っただけって言っても誰も信じてくれないし、医者も念のため今日は入院っていうから気持ちの方が滅入りそう。エリカなんてあとから体当たりしたことを怒鳴り散らしてくるし。……でも、ダージリンさんが来てくれたから、ちょっと役得かも」

 

「あら、それはどういう意味かしら?」

 

 くすり、と零される優雅な微笑み。

 ああ、これだとカリエは返した。

 

「いや、ダージリンさんて基本的に綺麗でお淑やかで、私の目指すべき人って感じがしてなんか安心する。目標としている人に構ってもらえて嬉しい、とかそんな感じ」

 

 カリエの人生は、常々女子らしさ、というものに悩み続けてきた人生だった。もちろんエリカも目標としていたが、さすがに十七年も一緒にいるとそれも変化していく。

 今では目標と言うよりも、共に歩み成長していくべき存在となっていたのだ。

 だからこそ、新しい理想の女性像としてカリエが掲げているのが、聖グロリアーナ女学院の女王であるダージリンなのである。

 カリエの返答を聞いて、ダージリンは意外そうな表情を浮かべた。

 

「あら、それは光栄な事ね。誉れ高い逸見姉妹のあなたからそんな風に思われていたなんて」

 

 ほら、その顔。とカリエは言い掛けて口をつむぐ。ころころと笑うその美しさに見蕩れてしまいそうだとは口が裂けても言えなかった。

 

「でもそしたら私とあなたはおあいこね。私もあなたのことを目標としているのよ?」

 

 それこそ意外だ、とカリエは惚ける。

 だがダージリンは「いいえ」と首を横に振った。

 

「あなたのその人を惹きつけて止まない力、是非私にも欲しいわ。それくらいの魅力があればOG会を相手取るのなんてさぞかし簡単でしょうに」

 

 なんだ、そんなことか、とカリエは安心の息を吐いた。

 吐いて、魅力なんて大それたものは持っていないと否定する。

 けれどもそれは、ダージリンのさらなる否定に上書きされてしまった。

 

「本当、あなたは自分が危ないバラである事を自覚するべきだわ。その青さで人を虜にし、その棘で絡め取ってしまう。あなたの無自覚な行動全てで、どれだけの人が哀れ逃れられなくなったことか」

 

 さらり、とまた髪を撫でられた。その手つきが優しく、心地が良いので、思わず目を瞑ってしまう。

 

「大丈夫よ、カリエさん。お休みなさっても」

 

 声は眠気を誘う魔法だった。

 元々試合に疲れていたのと、普段とは違う環境に張っていた気が急速に緩んでいく。

 カリエが静かな寝息を携えて動かなくなるのは、あっと言う間だった。

 

「……さて、わたしも戻りましょうか。オレンジペコとアッサムには少し無理を言ってしまったことだし」

 

 誰もいない病室。ダージリンはそっと身を乗り出してカリエの枕元の読書灯に手を伸ばした。

 せめて余分な光源くらいは止めてやろうという純粋な気遣いである。

 淡い光は断ち切られ、月の光だけが射し込む薄暗い空間が生まれた。ダージリンが体重を移動したためか、カリエが「ううん」と身じろぎした。

 その時、彼女の首もとが銀色に光った。

 何事か、とダージリンが見てみれば、そこにはいつか贈ったシルバーのラッキーベルが月明かりを受けて輝いている。

 

 理性の枷が砕かれる音がした。

 

 ダージリンの体が、腕の下のカリエに向かって降りていく。

 彼女自身、カリエに抱いている感情の正体はまだ理解していない。余りに大きすぎる愛しさも、それに勝るとも劣らない憎しみも同時に渦巻いているから。

 だがこの瞬間、

 たった今この瞬間だけはその感情の比重が傾いていた。

 それはつまり愛しさ。

 間違いなく、この時だけはカリエに対する愛しさが勝っていた。

 

 静かな寝息が繰り返される唇がダージリンの瞳に写る。 この唇が紡ぐ言葉が、自分たちの栄光を砕き続けて来た事実を今更ながらに意識した。

 憎しみはわかなかった。

 それどころか、その事実すらも愛おしく感じながら、ダージリンはそのまま腕の力を抜いていった。

 二人の陰が、月明かりの下で一つに重なっていく。  




好きですってば


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秋山優花里の戦車道 10 

「あんた、人の妹に何やってんのよ」

 

 万力どころではない、それこそ握りつぶさんばかりの力の強さでダージリンの肩が掴まれた。

 常人ならば悲鳴では済まない握力。

 だが彼女はその痛みにも表情一つ変えることなく、ゆっくりと振り返る。

 

「……あら残念。怖い怖いお姉さんに見つかってしまったわ」

 

 カリエの唇と触れあう寸前だったダージリンがそっと起きあがる。彼女の視線の先には、声こそ押し殺しているものの、射殺さんばかりの目線を送るエリカがいた。

 控えめに言っても、激怒を通り越している。

 

「あまり口汚いことは言いたくないんだけれど、敢えて言わせて貰うわ。ぶち殺すわよ」

 

「それは宣戦布告かしら。受けてたとうかしら。……でも場所が悪いわね。あなたもこの可愛らしい寝顔を壊したくないでしょう?」

 

 言われて、エリカはダージリンと共に医務室を出る。

 その間、互いに無言。

 ただ言いようのない圧力だけが、二人を支配していた。

 人気のない屋外まで連れ立った時、先に口を開いたのはダージリンだった。

 

「こんな言葉をご存じ? 『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ』って」

 

「ふざけんじゃないわよ!」

 

 エリカがダージリンの(えり)(もと)を掴みあげた。

 暴発寸前の怒りを何とか押し止めて、握り込んだ拳は止まってはいる。だがその震えは激しく、何か一押しあれば誰にも止められないというところまで来ていた。

 

「ふざけてなどいないわ。私は真剣よ」

 

「いつものように煙に巻けると思ってんなら大間違いよ。人の妹にいつまでもちょっかいを掛けて、そんなに負けたことを根に持ってんの? 馬鹿じゃない? あんた」

 

 エリカの侮蔑と挑発が混じり合ったような声色。しかしダージリンはあくまでも冷静だった。

 いや、というよりも感情の希薄な、冷たい瞳を(たた)えて、エリカを見る。

 

「……あなた、本気で言ってるの? だとしたら馬鹿はあなたよ。肉親という地位に胡座(あぐら)だけ掻いて、のうのうと生き続けている大馬鹿者よ」

 

 爆発した。すんでの所で拳を平手に変えたのは、カリエの顔がちらついたからだった。

 良くも悪くも、ダージリンのことを尊敬していると公言している彼女がいたからこそ、エリカは(いち)(まつ)の理性をつなぎ止めることが出来た。

 平手を受けて切ったのか、(くち)(はし)から小さく血を流しながらダージリンは続ける。

 

「それとも、気がついてはいるが、敢えて知らないふりをしているだけかしら。まだ数度しか直接話したことのない私でも気がついているんですもの。十数年、共に暮らしてきていたあなたが気がつかないわけがないわ」

 

 咄嗟(とっさ)にやめろ、とエリカは叫んだ。

 彼女はダージリンが言わんとしていることを察してしまっていた。

 ダージリンのことは文字通り殺してやりたいくらい嫌っているが、その洞察力は認めている。彼女の化け物染みた勘の良さというものを知っていたのだ。

 だがダージリンは止まらない。エリカの叫びをむしろ愉悦に感じ、端的に言い放った。

 それはエリカにとって死刑宣告にも等しい言葉だった。 

 

「……カリエさんはね、器と中身が一致しない人間なのよ」

 

「やめろ! それ以上言うな!」

 

 再びエリカがダージリンに掴みかかった。その表情は先ほどまでの怒りではない。エリカらしくもない、怯えの表情だった。

 だがダージリンは一歩も引かない。

 それどころか逆にエリカに詰め寄って見せた。

 

「あの人の中身は女性ではないわ。必死に取り繕い、周囲に擬態して見せてはいるけれど、その本質は男性よ。体と心が一致しない、特異な人なの」

 

 襟もとを握りしめた手から力が抜ける。エリカの全身から力が奪われていく。

 気がつかないふりをしていた、見ないふりをしていた事実が残酷なまでに突きつけられる。

 

「私も最近ようやく気がついたわ。自分があの子の何に惹かれているのか。あの子の周りの人間が何に惹かれているのか。あの子にはカリスマなんてない。それこそ、西住さんやあなたの方がそれに溢れている。なのに人々は、彼女の周りの女性は皆あの子に一定の好意を抱いている」

 

 不思議でしょ? とダージリンは嗤った。

 エリカは「やめてくれ」といつの間にか懇願すらしていた

 されども、グロリアーナの女王は無慈悲に、冷徹に、ただ己の主観を言い切って見せた。

 

「……男の子なのよ。どうしようもないくらいに。行動、言動、無意識の動き、そのそれぞれが全て男性を感じさせるの。あの子は生まれるべき器を違えてしまった、哀れなお人形なのよ」

 

「人形なんかじゃない!」

 

 再びエリカが食ってかかった。ダージリンはそれを真っ向から受け止めて、反論する。

 

「人形よ。あなたたちがそうなるように縛り付けているんでしょ? あなたはあの子の自由意志を尊重したことがあるの? あなたたちはあの子の男性を認めてあげたことがあるの? 姉妹の絆のような綺麗事で()()()()にしているのではなくて?」

 

 ついにエリカが折れた。

 それまで気がつかないふりをしていた不都合な事実を全て指摘された事によって、彼女は膝をついた。

 

 カリエの中身が男性であることなんて、十数年前から気がついていた。

 体と心がすれ違っていることなんて、否が応でも意識させられていた。

 けれども彼女には妹でいてほしくて、愛らしい妹で欲しくて、エリカはそれを願い続けていた。

 そして幸いなことに、カリエも姉の願いに応えるべく努力してきていた。

 そんな妹の健気さに甘えてきたことはエリカには否定できない。

 ダージリンの主張はまさしく(せい)(こく)を射ていたのだ。 

 

 今度はダージリンがエリカに()(べつ)の視線を向ける。

 そして勝ち誇った声音で告げた。

 

「私はあの子の全てを受け入れるわ。だってそれが愛なんですもの。私はあの子の男性を愛し、全てを受容して見せる」

 

 エリカは何も返せなかった。

 カリエの男性を受け入れると宣言したダージリンを否定することが出来ずに、押し黙ってしまった。

 反抗の牙すら抜けてしまったか、とダージリンはエリカに対する興味を急速に失っていく。

 彼女はこの問答を終わりにするべく、トドメの一言を口にした。

 

「最後に一つ。私は戦争と恋愛には手段を選ばないわ。このまま、あなたたち姉妹の物語を綺麗事で片づけてやるつもりなんてさらさらない。それだけは覚悟しておくことね」

 

 ダージリンが去っていく。

 

 止めなければ、

 妹を守らねば、

 もう一度でもぶん殴って、妹から引き離さねば、

 

 自分がするべき事をエリカは理解していた。けれどもどれだけ願おうと、一度折れた膝は易々と動いてはくれない。

 カリエに対する自らの欺瞞をダージリンに見抜かれて、彼女は妹を守ってやることの意義を完全に見失っていた。

 

 そして何より。

 

 逸見カリエがダージリンに憧れ以外の感情を抱きつつあることをエリカはとっくの昔から知っていた。

 

 ダージリンについて話すたびにはにかみ、頬を染め、恥じらいを見せる妹を見てきたのだ。

 

 銀のラッキーベルを肌身離さず身につけ、試合のたびに握りしめている妹の姿を見せつけられてきたのだ。

 

 一回一回は些細な傷だった。

 でもそれが少しずつでも刻まれるたび、エリカは確かに痛みを感じ、ついにはそれが膿んで、もう取り返しのつかないところまで来ていた。

 その感情を理解し、癒やしてくれるものは誰もいない。

 最愛の妹ですら、エリカではなくダージリンにその視線を向けている。

 隣には立ってくれている。いつも寄り添ってはいてくれている。

 けれども互いに見つめ合う関係ではない。エリカの自分だけ見て欲しいという願いには応えてくれない。

 

 よりによって。

 

 世界で一番大好きな妹は、世界で一番憎い相手に恋をし始めていたのだ。

 

 

01/

 

 

 サンダース大学附属高校 対 大洗女子学園。

 

 その組み合わせを見たとき、万人の殆どかがサンダースの勝利を予想していた。

 優勝候補の一角である強豪校と、無名の新設校ではその試合結果など火を見るよりも明らかなものだったからだ。 だが――、

 

「……もしかしたらもしかしたらだけども、優花里さん、やってくれるかもしれない」

 

 黒森峰の学園艦。

 その艦の一角、戦車道チームが拠点を置くガレージの片隅のモニターに数人の生徒が集まっていた。

 栄えある黒森峰の隊長である西住みほ。そして彼女を支える双子姉妹である逸見エリカとカリエ、さらにはチームのまとめ役が板に付いてきた赤星小梅である。

 みほは大洗に(ことごと)く裏をかかれ続けるサンダースを見て、あることに思い至った。

 

「どうやら大洗側はサンダースの盗聴に気がついたようです。しかもサンダースはそれを逆手にとられていることに気がついていません」

 

 彼女が分析したとおり、サンダースは万全の勝利を手にするため大洗の無線を盗聴していた。いくらレギュレーションで禁止されていないからといって、推奨される行為ではない。だが大洗はそれを大会運営に抗議するのではなく、偽の情報を流してサンダースを(かく)(らん)することに利用したのだ。

 

「よし、そのまま包囲を抜けてフラッグ車の後ろを取って」

 

 特にカリエは(ほう)(がん)(びい)()気質なのか、それとも何かしらの思い入れでもあるのか、どことなくそわそわと戦況を見守っている。エリカが落ち着きなさいよ、と諫めるもののその効果は微々たるものだ。

 

「サンダースのフラッグ車が燻り出されました。慌てて本隊が援護に向かっていますがこれは……」

 

 みほが手を口元に当てて冷静に状況を観察する。恐らく四人の中では一番戦況分析の能力がある人物だ。他の三人は静かにみほの解説に耳を傾けた。

 

「ファイアフライの大きな砲声を聞いても大洗の部隊は浮き足立っていません。下手な練度の学校だと、それだけで隊列を乱してしまいます。――まるで最初からその存在を予想し、入念に対策を取っているかのような」

 

 ちらりとみほの目線がカリエに向けられた。まだ包帯は取れていないものの、随分と回復した様子の彼女である。

 カリエは何故自分に視線が注がれているのか、いまいち理解していなかったが、エリカと小梅は「確かにどこぞの誰かにやり方がよく似ている」と納得を見せていた。

 

「それにこのⅣ号……操縦手と砲手の能力が素人離れしていますね。カリエさん、彼女たちは経験者なんですか?」

 

 みほの興味はⅣ号戦車に移っていた。黒森峰レベルとまではいかないものの、その練度は高く、他校の実力者を想起させるような働きぶりだ。

 そんな車両だから数少ない経験者でも乗せているのか? と疑問に思ったのだ。

 カリエはそんなみほの疑問に「いや」と首を横に振った。

 ただ、「けれども」と補足を加える。

 

「前に練習試合をしたときから、このⅣ号の練度は高かったよ。多分天性の才能とかそんな感じ」

 

 思い出すのはⅣ号戦車との最後の撃ち合い。タイマンに持ち込まれたその操縦技術と、ピタリとパンターの側面に砲身を合わせて見せた技量は並外れたものだった。

 みほもカリエの賛辞がお世辞ではないことを見抜いており、「凄いですね」と関心を漏らしていた。

 

「成る程、これだけの技量を整えてくる学校です。隊長も素晴らしい指揮をする人なんでしょう」

 

 みほがそう感想を述べたそのとき、画面の向こう側で試合終了の空砲が鳴り響いていた。どちらが勝利したのか、カリエが身を乗り出して確認する。

 

 主審である蝶野亜美が宣言した言葉は「大洗女子学園の勝利!」だった。

 

「フラッグ車をⅣ号が狙撃しての勝利。まさかサンダースが一回戦で敗退するなんて……」

 

 信じられないと言わんばかりに、小梅が驚きの声を上げた。けれどもそのリアクションが普通であることを、その場の全員が理解している。

 世紀の番狂わせが、今この瞬間、リアルタイムで巻き起こっていたのだから。

 

「今年の大会も一波乱も二波乱ありそうです。昨年から一年間、やれるだけのことを万全にやって来たつもりですが、今まで以上に気を引き締めた方が良いかもしれません」

 

 テレビの向こう側の、強豪校に対する思わぬジャイアントキリング。その渦中に自分たちが陥らないという保証はないのだ。

 みほの言葉はそれぞれ三人の総意でもあった。

 

「そういえばカリエさん、次の私たちの対戦相手は決定したんですか?」

 

 観戦を終え、並べていたパイプ椅子をさあ片づけようか、というそのとき、みほはカリエに問うた。

 カリエは脇に除けていたタブレット端末をすらすらと操作し、戦車道大会のホームページを開く。

 トーナメント表を辿り、今日の午前の試合結果を確認して、彼女は答えた。

 

「ええと、これは継続高校かな?」

 

 

03/

 

 

 紙一重だったと、優花里は息を吐いた。緊張の糸が切れ全身が()(かん)する。ずるずると車長席からずり落ちていくと、いつの間にか通信手兼装填手の沙織に支えられていた。

 

「ゆ、ゆかりん……」

 

 けれども彼女も唇が震えていた。いや、唇だけでなく全身が震えていた。

 さらに足下の華も、その下の麻子も信じられない、といった面もちで優花里を見ていた。

 優花里は何とか弛緩している体に鞭を打ち、車長席をよじ登る。そしてキューポラから恐る恐る顔を覗かせて、遙か遠方で黒煙を吐き出しているシャーマンの姿を確認した。

 ふらり、と気が遠くなるような思いがした。

 

『大洗女子学園の勝利!』

 

 いつか自分たちの教官を務めてくれた蝶野亜美のアナウンスがフィールドに響きわたる。

 これは出来の悪い夢なんじゃないだろうかと優花里は目一杯自身の頬を抓りあげていた。

 

「ゆかりん、勝ったよ! 私たち勝ったんだよ!」

 

 Ⅳ号戦車の乗員の中で、一番最初に正気を取り戻した沙織が優花里に抱きついた。続いて華が喜びの声をあげ、麻子が「よし」と小さく頷いている。

 

「おめでとう! ナイスファイトだったわ。オッドボール軍曹!」

 

 後ろから追いつけていた数両のシャーマンたち。その中の一両がⅣ号戦車に横付けし、車長たる人物がⅣ号戦車の飛び移った。

 彼女は優花里の姿を見定めると、開口一番謝罪を口にする。

 

「そちらの無線を盗聴していたことは謝罪するわ。でも彼女を、アリサを許してあげて。あの子はどうしても勝ちたいと強く思いすぎていたのよ」

 

 腰が抜けている優花里を引き上げたのは、サンダースの隊長であるケイだった。彼女はそのはつらつとした笑顔を振りまきながら、優花里に祝福の言葉を贈り続ける。

 

「でも、無名の新設校とは思えない素晴らしい指揮だったわ。あなた戦車道経験者なの?」

 

 ケイの疑問に、優花里はぽりぽりと頬を掻きながら答えた。

 

「いえ、目標とする人を精一杯真似しただけです」

 

 そう、と何処か納得したようにケイは笑った。その笑顔をあまりの眩しさに、優花里はこの人のことも出来る限り見習いたいと思った。

 

「例え真似だとしても、その戦略眼は本物だったわ。無線の盗聴に気がついた洞察力、そこから逆算的に戦術を組み立てることの出来る思考力、それらを支える試合前の綿密な事前偵察。――何より、チームの仲間のことを信じて指揮することが可能なあなたの人徳、それらは何物にも代え難い、戦車乗りにとって必要な武器よ」

 

 そのとき初めて、優花里は認められた、と思った。

 これまでカリエやダージリンは優花里のことを誉めてくれていた。けれどもそれはあくまで勝者の余裕からであり、敗者を気遣った言葉でもあった。

 

 だが、ここにきての初勝利。

 それに加えて、相手の隊長からの心からの賛辞。

 

 その二つが揃って初めて、優花里は自身の戦車道に自信を持てた。

 この道が間違っていないと、やっと認識することが出来た。

 

 ありがとうございますと、震える声とぼやける視界でケイに頭を下げていた。

 

「あらあら、その涙はとても尊いものね。あなたのその戦車道、何処まで行けるか最後まで見たくなってきたわ。そして叶うことなら、またいつか熱いゲームを繰り広げましょう」

 

 最後にがっちりと力強い握手をかわして、二人は別れた。

 後方からファイアフライに撃たれたⅣ号戦車は自走が不可能だったので、戦車回収車を待ち、自走可能なケイたちはそのまま自分たちの陣地に戻っていく。

 小高い丘の上に一両取り残されたⅣ号戦車の天蓋の上で、優花里は一人横になった。

 涼やかな風が流れていくのを全身で感じながら、何処までも高く広がる空を見上げる。

 

「ゆかりん?」

 

 いつまでも車内に戻ってこない優花里が気になって、沙織が声を掛けた。だが応答はない。

 どうしたのか、とその顔を覗き込んでみれば小さな寝息を立てて優花里は眠っていた。

 一瞬、起こそうかと沙織は手を伸ばしたが、その手をすぐに引っ込める。

 

「……昨日も夜遅くまで、ずっと作戦を考えてくれていたもんね。お疲れさま、ゆかりん」

 

 自分が着ていたタンカースジャケットの上着を、そっと上から掛けてやる。

 

 戦車回収車が現れる気配はまだない。

 でも今はそれでいいんじゃないかと、沙織は小さく微笑んだ。

 

 

04/

 

 

「前衛が全滅。残っているのは私たちだけだって」

 

 操縦手を担当しているミッコと呼ばれている少女がボヤいた。その背後では砲手と装填手を兼任している少女――アキがどうしようと(うろ)()えている。

 二人が背後に視線を送れば、車長席で静かにカンテレを演奏する車長がいた。

 彼女――ミカは演奏の指を止めることなく、詩人のように(うそぶ)く。

 

「なるようになるさ。元々絶望的な戦力差があることはわかっていたこと。それならば私たちの戦車道を最後まで貫くべきだと思わないかい?」

 

 掴み所のない、詩歌のような言葉。それを彩るのは遠くから飛来するドイツ戦車たちの砲弾。

 

「いやいやいや、戦力差とかもそうだけれど、状況がすでにやばいのよ。徐々に向こうも距離を詰めていてこのままだと包囲されちゃうよ?」

 

 完全に落ち着きをなくしてしまっているアキにミカが微笑む。

 

「なら、それを楽しむまでさ。ミッコ、よろしく頼むよ」

 

「ほいほい合点!」

 

 彼女らの搭乗するBTー42がグレーの排煙を吹き上げる。ミッコがアクセルを吹かせば、その機動性を裏切らない快速ぶりで、包囲を縮めつつある黒森峰に突進した。

 

「ミッコ、右」

 

 パンターの照準が合わせられたことを察知したのか、ミカが極簡潔に指示を跳ばす。それだけでBTー42は驚異的な運動能力で、75ミリ砲の一撃をかわしてみせた。

 

「アキ、そういえば黒森峰で二匹の蛇をパーソナルマークにしているのは誰だっけ?」

 

 左右に砲弾の雨を浴びながらもミカは一切動揺しない。それどころか「今気になった」と言わんばかりにアキに問いかけをする余裕さえあった。

 何とか黒森峰の中戦車相手に砲戦を演じていたアキが、呆れながらも律儀に答える。

 

「噂の逸見姉妹だよ! ティーガーⅡならエリカ、パンターならカリエ!」

 

「そうかありがとう。なら、あそこでフラッグをはためかせているのは、妹のカリエさんなんだね」

 

 へ? とアキが妙な声をあげる。ミッコもミッコで、「嘘お」と珍しく目を丸くしていた。

 何故ならミカが宣言したとおり、彼女たちの進路上には黒森峰のフラッグ車たるカリエのパンターが座していたためである。

 

「まさか向こうがミスったのかな! こんなにフラッグ車が突出しているなんて!」

 

 これはチャンスだと言わんばかりにアキが榴弾を発砲、パンターの視界を一時的に封じた。

 ミッコも降って沸いた好機に、嬉々としてBTー42を突撃させる。

 ただミカだけが(たい)(ぜん)と振る舞っていた。

 

「なに、風が運んでくれたのさ。これは単なる偶然。これを必然として遂行できるのは私の妹くらいなものさ」

 

 だがさすがは王者黒森峰。フラッグ車たるパンターもただ者ではない。BTー42が脅威であると認識したのか、全力で後退を始めた。まるで後ろに目が付いているかのような、神業のような機動にミッコが感嘆の息を吐く。

 

「……珍しいね、ミカが実家の話を持ち出すなんて」

 

 重量級の砲弾を何とか担ぎ上げ、装填を繰り返すアキがふと呟いた。

 ミカはカンテレの演奏の手を止めて、「いや」と首を横に振る。

 

「別に忘れているわけではないよ。義務も責任も期待も全て妹に押しつけて逃げてきたことはそれなりに申し訳ないと思っている」

 

 パンターの反撃が始まる。

 直撃こそはしていないが、幾つかの75ミリ砲弾がBTー42の装甲を掠め、車内を激しく揺らした。

 砲弾を持ち上げていたアキがふらつき、倒れ込みそうになった。それをミカは背後からしっかりと支えてやる。

 ミカはそんなアキの耳元でこう(ささや)いた。

 

「あちらの姉妹のあり方を見ていると、こっちの方がいくぶんかマシかな、と考えたのさ」

 

 

04/

 

 

 遂にパンターの砲弾がBTー42の履帯を吹き飛ばした。これで何とか戦況を押し返した、と砲手が安堵の息を吐く。

 だが車長であるカリエはすぐさま叫んでいた。

 

「クリスティー式だ! 佐久間さん、全力で再び後退! 装填手は次弾装填、砲手は発砲待機!」

 

 果たして、カリエの指示は正しかった。履帯を失った筈のBTー42が先ほどよりも遙かに高機動で動きを再開したのだ。

 車輪だけでも自走することの出来るBTー42は、履帯を破損させても撃破判定とはならない。

 一瞬の油断の分だけ動きが遅れたパンターの死角にBTー42が回り込む。

 

「ギアチェンジ! 前進切り替え!」

 

 最早足による意思伝達は遅いと、カリエは持てる限りの全力の声量を出す。パンターのエンジンに幾ばくかかき消されてしまうものの、ナナの耳には届いていた。

 ここに来て、モータースポーツと共に歩んできた彼女の人生経験が役に立っている。常に何かしらのエンジン音を耳にし続けた彼女の聴覚は、人の声を正確に聞き分ける術を持っていたのだ。

 そしてその技能が黒森峰を救った。

 

「副隊長、次は!?」

 

 急発進したパンターの後部装甲をBTー42の砲弾が通り抜けていった。あと一秒でも反応が遅ければ、ラジエーター部分に直撃していただろう。

 

「くそ! 素早すぎる! 一時離脱! チームヒドラはこっちに戻るな! 同士討ちの危険がある! 継続の残りの車両の奇襲を警戒しろ!」

 

 無線を受けた全員が驚くような、乱暴な言葉遣いだった。良くも悪くも、いつも淡々としている副隊長らしくないと、皆が感じた。

 けれどもカリエはある一種の懐かしさを覚えている。

 むしろ昔はこちらが自分だったと、緊迫感の中の加速された思考の中で笑っていた。

 久々の男言葉だった。

 この場にエリカがいたらどやされるだろうな、と自嘲すら漏れる。

 いつも被っている女の子のメッキはやはりメッキで、追いつめられたらこの有様だ。

 

「副隊長、発砲許可を!」

 

 動き回るBTー42に射線が重なることを受けて、砲手が具申した。だがカリエはそれを即座に却下する。

 

「駄目だ! 向こうはこちらの装填のタイミングを狙っている! 撃っちゃ駄目だ!」

 

 がん、とパンターの車両が揺さぶられた。侵入角度が浅かったため弾きはしたが、BTー42の砲弾が装甲と衝突した衝撃だ。

 まずい、とカリエはキューポラの縁を握りしめた。

 これはまだ直感の部類ではあったが、ナナの操縦の癖が読みとられつつあると感じたのだ。

 先ほどからこちらの軌道の先回りをするようにBTー42が動き回っている。こんな化け物、継続にはいなかった筈だ、と唇を噛んだ。

 

「ちょこまかちょこまかと! 忍者か、お前は!」

 

 砲手の苛立ちも限界だった。カリエの命令を無視して発砲することなどありえないが、冷静さを欠いている今、咄嗟の指示に対応できない可能性も出てきている。

 全てが全て、自分が不利な状況に追い込まれていることを、今更ながらカリエは意識した。

 そして久方ぶりに相見える強敵を恐れた。

 

 

05/

 

 

「いける、いけるよミカ!」

 

 先ほどよりもさらにハイペースに、それこそ驚異的なスピードで装填を繰り返すアキが明るく口を開いた。

 ミッコも口数は少ないが、徐々に手繰り寄せている勝利の予感に心を躍らせている。

 

「……確かにそうだね。妹さんだけなら私たちの勝ちだ」

 

 ミカのカンテレの演奏も佳境に差し掛かっていた。そのリズムが装填、操縦のタイミングを無意識下にコントロールしている。

 遂に一発の砲弾がパンターの装甲に接触した。動揺したのか、目に見えて動きが鈍る。

 

「いくら王者でも人の子ってね!」

 

 その隙をミッコが見逃す筈もなく、急加速を以ってBTー42がパンターに接近した。装填時間の都合上、無駄弾を撃つことの出来ないパンターはその接近を結果的に許してしまう。

 

 いける、とアキが砲身の発射レバーを握り込んだ。

 射線の先に、無防備なパンターの側面装甲が映る。

 

 ミカのカンテレの演奏が終わった。

 

 

06/

 

 

 会場に轟いたのは、『Bブロック第二回戦 黒森峰女学園の勝利』というアナウンス。

 砲撃の白煙覚めやらぬ中、BTー42とパンターの間に、一つの巨体が横たわっていた。

 

「……ちょっと目を離した隙に何してんのよ。あんた」

 

 装甲の一部を大きく欠損しながらも、致命傷は免れていたティーガーⅡの天蓋にその人は立っている。

 カリエはBTー42を撃ち抜いた砲手に労いの言葉を一つ投げかけて、エリカの手を取った。

 

「助かった。エリカが割り込んでくれたから、こちらの砲撃が間に合った」

 

「珍しいわね。あんたらしくない試合運びだったわ」

 

「……卓越した個人技の前では、対応しきれない状況もあるということだよ」

 

 そこまでカリエが口にしたとき、撃破されたBTー42から人影が出てきた。エリカが警戒心をむき出しにして、カリエの前に立とうとするが、カリエはそれを手で制する。

 

「やっぱりあなたに阻まれたね。個人技だと、どうしてもこういった素晴らしい連携には適わない」

 

 カンテレを脇に抱え、チューリップハットを被った不思議な生徒だった。カリエはその容姿、言動を元に正体を割り出そうとするが、完全なアンノウン、つまり彼女の事前調査から漏れきった生徒だった。

 

「初めまして。訳あって名を名乗ることが出来ない無礼を許して欲しい。どうしても不便ならミカと呼んで貰いたいな」

 

 差し出された手をエリカは渋々取った。カリエもそれに続く。

 

「君たちが逸見姉妹か。噂に違わぬ凄腕だね。お姉さんの到着にはもう少し余裕があると踏んだのだけれど、見通しが甘かったみたいだ」

 

「あなた、本当に継続の生徒?」

 

 つらつらと言葉を述べるミカを遮るように、カリエが口を開いた。エリカが普段らしくもない妹の様子に驚きを見せるが、カリエは引かなかった。

 ミカの視線が少しばかり鋭くなる。

 

「……それはどういう意味かな」

 

 カリエは怯まない。

 

「言い方を変えようか。あなた、いつから継続の生徒になったの? 四月に編成を調べたときは、あなたの名も姿もそこには見受けられなかった」

 

 ふふっ、とミカが微笑む。

 

「これは一本取られたかもね。まさかウチの生徒の全員を調べ上げたのかい? だとしたら君はお母様や妹よりもよっぽど恐ろしい存在だ。うまいこと、世間を隠し通せたと思ったのに」

 

 それだけを告げて、ミカは(きびす)を返した。どうやらカリエの質問には答えるつもりがないらしい。

 カリエもカリエでまともな返答を期待していなかったのか、それを追うような事はしなかった。

 だが、一言だけ挨拶を投げかける。

 

「……正直負けたと思った。でも楽しかったよ。()()ミカさん」

 

 ミカの足が止まった。まだカリエの言葉の意味を理解していないエリカだけが「島田?」と首を傾げている。

 ミカはカリエに振り返ることなく、こう返した。

 

「天下の黒森峰副隊長にそう言って貰えるなら、私もこの試合に意味があったと感じることができるよ。ありがとう」

 

 今度こそ、ミカは二人から去って行く。

 二人取り残された姉妹は、互いに顔を見合わせて、エリカの方からカリエの手を取った。

 

「……あんた」

 

 エリカの声色は怪訝なものだった。けれども特に何かを口にすることはなく、黙って妹をパンターから降ろしてやる。

 着地した瞬間、がくっとカリエが膝を着いたが、エリカが抱きかかえていたお陰で倒れ込むことはなかった。

 いつの間に集合していたのか、ティーガーⅡとパンターの乗員が二人に駆け寄ってくる。

 

「副隊長たちはお怪我はありませんでしたか!?」

 

 乗員たちの心配を一身に受けて、エリカとカリエは苦笑した。特に前科ありのカリエは後輩たちに揉みくちゃにされ、エリカが腕を引っ張って助け出してやるほどだった。

 

「いやごめんね、ちょっと口調がきつかったよね。さすがの私もパニクってさ、次回からは気をつけるよ」

 

 殆ど怒鳴り散らすように指示を飛ばしていたことを気にしているのか、ふとした拍子にカリエが謝罪した。だが謝罪を受けた隊員たちは「そんな必要ないですよ」と笑顔を見せた。

 

「クールな副隊長の熱い一面が見れてとてもよかったです!」

 

「そうですよ! なんか私たちのために必死になってくれているって気がして胸が熱くなりました!」

 

 カリエの謝罪は完全に杞憂だった。誰もが副隊長の意外な一面を好意的に捉え、むしろもっと見せて欲しいと懐いている。

 エリカは良かったじゃない、と乱暴にカリエの頭を撫でた。

 

 今更ながら遅れてだったが、ようやく黒森峰の隊員たちに勝利の雰囲気が満ち始めていた。

 

 

07/

 

 

 その後。

 

 自走で陣地に帰還できると判断され、パンターとティーガーⅡはエンジンをアイドリングさせていた。

 あとは車長の二人が乗り込めば、いつでも発進できるような状態だった。

 カリエがいよいよパンターに乗り込もうとしたとき、不意にエリカが彼女に手を伸ばしていた。

 

「ねえ」

 

 カリエが振り返る。

 

「なに?」

 

「あんたさ――」

 

 エリカが口を開きかける。ただ一秒、二秒とその体勢のまま彼女は固まった。

 

「エリカ?」

 

 カリエがパンターから降りてエリカに駆け寄ろうとする。だがエリカは「やっぱり何でもない」と先にティーガーⅡに乗り込んでしまった。

 

「副隊長?」

 

 ティーガーⅡの乗員たちも、どこか様子のおかしい自分たちの車長のことを気遣う。エリカはそれも「何でもないわ」と(そで)にした。

 カリエはしばらくの間、そんなエリカをじっと見つめていたが、やがてパンターに乗り込んでいった。そしてエリカを先導するように自陣への道を進んでいく。

 そんな妹の後ろ姿に、エリカは自分の手の平を重ねた。

 さっきまで、カリエの手をしっかりと握りしめていた手だ。

 

「……あんた、怖がってるの?」

 

 エリカの呟きは幸いなことに、二両の戦車のエンジン音に掻き消される。誰にも聞こえることのない声はエリカだけのもの。

 

「あんた震えてた。試合が終わって震えてた」

 

 試合後、ミカと分かれた直後。

 ぐいっと自身に引き寄せた妹の腕は小刻みに震えていた。まるで何かを恐れるように、何かに怯えるかのように。

 

 黒森峰が負けることに恐怖したかのように震えていたのだ。

 

 もう一度妹の後ろ姿を見る。

 自分と全く同じ身長、体重の、(うつ)()のような妹。

 けれどもその人影はやけに小さく見えて――、

 

 彼女が見えない何かに押しつぶされているように、エリカは見えた。  




好きです(半ギレ)


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秋山優花里の戦車道 11

 黒森峰のフラッグ車を誰が担当するのかは、それなりに揉めた議題だった。

 隊長であるみほ。

 副隊長であるエリカとカリエ。

 三人のうち誰かがフラッグ車を担当することは早くに決まっていたが、そこから先は議論が紛糾した。

 それぞれ三人とも、フラッグ車を担当するにはチームにとって一長一短の要因を抱えていたのである。

 

 まずはみほ。

 搭乗車両はティーガーⅠであり、防御力、攻撃力ともに申し分がなかった。けれども司令塔としての彼女は戦場を自由に動き回るわけにはいかない。さらにティーガーⅠの足回りの不安定さ故に、黒森峰の中核部隊――護衛の車両たちとの行軍が難しいという問題を抱えていた。

 

 次にエリカ。

 搭乗車両はティーガーⅡ。こちらもティーガーⅠと同じように防御力、攻撃力が優れている。だがエリカの役割がチームの切り込み隊長であることがネックだった。そしてティーガーⅡの足回りはティーガーⅠより遙かに不安定で、護衛車両に最適な形で随伴できる可能性が低いため優先順位は三人の中で最低である。

 

 最後にカリエ。

 搭乗車両はパンター。防御力、攻撃力はティーガーシリーズに及ばないが、第二次世界大戦中最優と謳われたバランスの良さが魅力で、機動力もそこそこあり護衛部隊との作戦行動が容易であるメリットがあった。だがカリエは遊軍の司令塔でもあり、前線のやや後方あたりまで最悪出張らなければならないというデメリットが存在していた。

 

 つまりそれぞれが「護衛を伴いにくい」という問題、もしくは「前線に近いところで活動しなければならない」という欠点を抱えていたのである。

 

 結論はしばらく出なかった。

 

 何度も紅白戦を繰り返し、戦術シミュレーションを何通りも推敲してようやく一つの意見が纏まった。

 

 例え前線に近いところで活動しなければならないとしても、いざという時に撤退戦もこなせるだけの機動力があり、護衛として振る舞うことが出来る部隊を抱えているカリエが担当するのが最良である、と。

 

 もちろんカリエは渋った。

 渋ったが拒否はしなかった。彼女とて黒森峰の一員であるという自負がある。

 皆がそれを望むのならば、とフラッグ車を担当することを了解した。

 彼女がフラッグ車に選ばれたことに、肝いりの小隊である「ヒドラ」の隊員たちは大喜びし、一層張り切っていた。佐久間ナナも一年生ながらそんな重要な車両の操縦手に選ばれたことに喜びを感じ、カリエに対する尊敬をますます深めていった。

 この選択で良かった、とチームの士気と雰囲気が向上したことを感じ取っているみほが言った。

 頑張りなさいよ、と誰よりもカリエの実力を信じているエリカが激励した。

 何でも手伝えることがあったらおっしゃってくださいと、小梅がカリエの手を取った。

 

 彼女が彼だった時、ここまで誰かに期待されることなどなかった。

 こんな名門校の勝利の行方を左右するような重要なポジションに着くなど考えることが出来なかった。

 皆からの期待を一身に受けてカリエは笑った。

 

「頑張ってみるよ」と。

 

 

01/

 

 

 黒森峰女学園の生徒たちは淡路島で行われた二回戦を無事に終えて、海路で九州を目指していた。

 学園がチャーターしたフェリーに乗って、太平洋を横断していたのである。

 激闘に疲れているだろうからと、寝ている間に熊本に到着することの出来るフェリーを学園が用意していたのだ。それに加え、淡路島の港では黒森峰の巨大な学園艦が着岸できないという物理的な事情も関係していた。

 

「さて、シャワーも浴びたしあとは寝るだけね」

 

 エリカはフェリー備え付けの浴場を後にして、艦内を一人ふらふらと歩いていた。学園が貸し切っているため一般客の姿はない。途中、ゲームコーナの前を横切ってみれば珍しくみほが熱心にUFOキャッチャーに齧り付いていた。

 その隣で小梅が困ったように笑っている。

 

「みほさん、もうその辺にしたほうが」

 

「だめです! この限定ボコをゲットするまでは帰りません!」

 

 凡その事情を一瞬で察して、エリカはその場を後にする。

 エリカの姿を見つけた小梅が救援要請の視線を送ってはくるものの、そそくさとその場を後にした。ややあって携帯電話にメールの着信がある。

 何事か、と文面を見てみれば一言だけ「裏切り者」と(つづ)られていた。

 それからしばらく。

 エリカは様々な場所を一人で巡った。個室が割り当てられているのに、わざわざ雑魚寝スペースでごろごろとしている集団もいれば、デッキで何もない夜の太平洋をぼんやりと眺めている集団もいた。さらには食堂で大飯をかき込んでいる佐久間ナナもいた。彼女はエリカの視線に気がつくと、「車長には内緒でお願いします! いっぱい食べる子だと思われたくないんです!」と懇願してきた。

 食べるのは事実だし、カリエはそんなこと気にするような性分ではないと、やんわりと伝えたが「それでも!」と押し切られてしまった。

 この後輩をカリエが特に可愛がっていることは知っていたので、半ば呆れながらも「はいはい」と頷いていた。

 と、そこまで船内を一巡したとき、カリエがどこにもいないことに気がついた。

 取りあえずは、と目の前のナナに問いかけてみたが彼女は知らないという。

 デッキの夜景組も、二等客室の雑魚寝組も彼女の居場所を知っているものは誰もいなかった。

 

「どこいったのかしら」

 

 念のため、と言わんばかりに浴場や売店、トイレも探してはみた。けれどもさしたる収穫は得られず、全て無駄足に終わってしまう。

 そこまで考えてみて、自分たち姉妹に割り当てられた個室にいるのではないか、という可能性にたどり着いた。

 そうと決まればエリカの行動は早い。若干の急ぎ足で個室が集まっているエリアに(とつ)(かん)し、「逸見エリカ・逸見カリエ」と名札の張られた部屋に辿り着く。

 鍵が閉まっている可能性を考慮して、一応ルームキーを用意してはいたが無駄に終わった。

 それはつまり、中に誰かいるということ。

 

「カリエ、あんたここにいるの?」

 

 室内は真っ暗だった。オーシャンビューの窓から差し込む淡い月明かりだけが唯一の光源だ。

 その必要はなくとも、思わず忍び足になるくらいには無音の空間。

 

「カリエ?」

 

 備え付けのベッドの一つが膨らんでいる。夏だからか、タオルケット一枚だけ頭まですっぽりと被った陰が一つだけある。

 近づいて、頭の部分だけそっと捲ってやれば探し求めていた自分の妹だった。

 

「なんだ、ここにいるんじゃない」

 

 誰も聞いていないというのに、エリカは安堵の溜息とともに言葉を吐き出した。

 静かに寝息を立てる妹の髪をそっと撫でる。

 急に誰かに触られたからか、カリエが「ううん」と眉を潜めて唸った。

 慌ててエリカが手を引っ込めるが、カリエが目を覚ますことはない。ただ寝返りを一つ打ってエリカに背を向けた。

 何となく、このまま寝かせてやるのが良いと判断したエリカは、はだけたタオルケットを元に戻してその場に立ち上がった。

 ふと、声が聞こえる。

 

「――――」

 

「え、なに?」

 

 もしかして目を覚ましたのか、とカリエの顔を覗き込んだ。けれどもその瞳は堅く閉じられていて、彼女の覚醒を示すものではない。

 いや、とエリカは違和感を覚えた。

 

 普通、人の寝顔というのはもっと安らかではないのだろうか。

 

 人は眉をしかめて、歯を食いしばって、虚空を握りしめながら寝るものなのだろうか。

 次ははっきりと聞こえた。カリエの言葉がエリカの耳に届いた。

 

「あと二回。あと二回、あと二回、あと二回」

 

 最初、彼女の言っている意味が理解できなかった。何が「あと二回」なのか、何をそんなに(うな)されるのか。

 けれどもエリカは察する。

 少しばかり間を空けて、「あと二回」の意味を理解した。

 

「――カリエ」

 

 ぐいっ、と妹の肩を引っ張った。魘され続ける妹を何とかこちらに向かせようとしたのだ。

 カリエはそれでも寝言を止めない。それどころかきゅう、と体を縮込ませて「あと二回」と呟き続けた。

 

 二回。

 

 それは、黒森峰が十一連覇を達成するのに必要な、残りの勝利の数だった。

 

 

02/

 

 

 BTー42の砲身がこちらを向いた。パンターの砲身が必死の回転を見せるも、数秒の差で遅れている。

 カリエの視線と、BTー42の砲身がぶつかり合った。

 

 別に、カリエのフラッグ車が突出していたわけではない。寧ろ知波単学園戦の時とは違い、継続高校の突破力を警戒し、前線の後方に陣取っていた。

 遊撃部隊である「ヒドラ」に最前線を一任し戦況を一望していたのだ。

 パンターの前には幾重にも重なる「ヒドラ」による護衛網が築かれており、その突破はほぼ不可能な状況だった。

 継続高校のBTー42が単騎でカリエのパンターに肉薄することが出来たのは、ひとえに彼女たちの実力が黒森峰の想像の遙か上にあっただけのこと。

 誰かの責任でも失態でもなく、単純に実力で押し負けたというスポーツでは当たり前の出来事だった。

 

 カリエは夢を見る。

 BTー42に追いつめられる夢を見る。

 現実では姉のエリカが間に合った。

 パンターとBTー42の間にティーガーⅡが割り込むことによって、撃破を免れた。そしてカウンターと言わんばかりに、パンターの75ミリが火を吹き、継続の最後の悪足掻きを押し潰した。

 でも夢の内容は違う。

 白旗が眼前ではためいている。

 それは継続のBTー42からではない。

 自身の――、これまで苦楽を何度も共にしてきた愛車であるパンターからだった。

 フィールドにアナウンスが響きわたる。それは絶望にも等しい宣告。

 

『継続高校の勝利!』

 

 姉は間に合わなかった。カリエも一歩及ばなかった。

 回転途中でロックされた砲身が、敗北という事実を容赦なく突きつけてくる。

 

「副隊長」

 

 意気消沈したナナが操縦席から外を伝って、パンターの天蓋によじ登ってきた。彼女はいつものような尊敬の視線をカリエには向けない。それどころか若干の失望を滲ませて、「戻りましょう」と告げた。

 自走が不可能と判定されたパンターを置いて、黒森峰の輸送トラックで自陣へと向かう。

 トラックの荷台にそれぞれ顔を向かい合わせて座る。カリエはトラックの荷台の一番奥に腰掛けていた。

 戦車とはまた違う大型車両のエンジン音に紛れて、何処からか(すす)()きが聞こえてきた。

 誰のものか、とカリエが目線を走らせてみれば必死に涙をこらえているナナがいた。

 彼女は小さな声で「勝ちたかった」と漏らす。

 カリエと同学年である隊員の一人がそんなナナの胸ぐらを掴んだ。

 

「めそめそ泣くな! 精一杯やった結果だろうが!」

 

 そんな彼女の瞳も涙に濡れていた。上級生に詰め寄られてどうしたらいいのか解らなくなっているナナも、いよいよ声をあげて泣き始めた。 

 荷台の上は一瞬で修羅場と化した。

 皆が皆(どう)(こく)し、誰かに怒りと悔しさをぶつけ、みっともなく泣き喚いた。

 カリエはそんな隊員たちを見ても何も出来なかった。ただ止めてくれ、と言わんばかりに目を塞ぎ、耳を塞ぎ、いやいやと首を横に振っていた。

 カリエは思う。これではまるで、死刑場に連れて行かれる囚人じゃないか、と。

 

 トラックが止まった。

 

 一人、一人真っ赤に泣き腫らした顔を携えて荷台から降りていく。

 もう誰も騒いでいない。おとなしく運命を受け入れたかのように、静かに荷台をあとにしていった。

 最後に残されたカリエも恐る恐る目を開け、荷台から立った。

 眼前に誰かいた。

 今この瞬間、一番目にしたくない人だった。

 

「よくもやってくれたわね」

 

 向けられたことのない視線と感情だった。

 

 エリカに怒られたことは何度もある。それこそ数え切れないくらいだ。男言葉を使って、家事をさぼって、みほと悪戯して――、怒られなかった日なんて一日もないほどに。

 けれどもその無限の毎日の中、エリカの怒りにはいつも愛があった。男言葉は妹が生きにくくならないように、家事は将来自立して生きていけるように、みほとの悪戯は怒りよりもどちらかというと親友を見つけた妹を喜ぶかのように。

 思い起こす限り、姉からの愛を受けない日がなかった。

 

 でも今はどうだろう。

 無様にも、フラッグ車なのに撃破されてしまった自分を見るエリカの視線と感情はなんなのだろう。

 

 侮蔑、失望、呆れ、軽蔑、憎悪、嫉妬、殺意――。

 

 考え得る限りの全ての負の感情を携えて、エリカはカリエを見ている。

 やめてくれ、と掠れた声が漏れた。

 エリカは何も言わなかった。

 ただ、それまで抱いていた負の感情その一切をかき消し、心底興味を失ったかのような瞳を持った。

 

 カリエが一番、エリカから受けたくない視線だった。

 

 姉からの無関心が、この世界で一番怖かった。

 遂にカリエの感情が爆発する。

 何とか均衡を保っていた表情が崩れ、醜くもエリカにすがりついた。

 

「お願い、お姉ちゃん、私を見捨てないで!」

 

 カリエが必死に手を伸ばす。けれどもその手は何度も虚空を掴み、エリカに届かない。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん!」

 

 エリカが(きびす)を返す。カリエから少しずつ離れていく。

 もう手が届かない。もう姉に見て貰えない。もう姉は自分の事を愛してくれない。

 もう、姉と生きていくことは出来ない。

 絶望感が頂点に達した。

 

 

03/

 

 

「お姉ちゃん!」

 

 何かを引き倒す。夢の中で必死に振り回していた手が何かを掴んだ。

 無我夢中でそれを逃がさないように、手放さないように、無理矢理押さえつけて、繋ぎ止めるようにのし掛かった。

 

「お、おねえちゃん?」

 

 淡路島のフィールドではなかった。いつか乗り込んだフェリーの個室の中だった。

 窓から差し込む月明かりが、雪のような銀の髪をきらきらと照らし出している。

 カリエの下に、エリカがいた。

 

「……」

 

 エリカは何も言わない。けれども無関心の瞳ではなかった。何処か呆けたような、どうしたら良いのかわからないと困惑している表情だった。

 

「あ、ごめん」

 

 自分がエリカに馬乗りになっていることに気が付いて、カリエは慌ててその場を飛び退いた。ベッドの上に押し倒されていたエリカは乱れた髪を手櫛で戻しながら、ゆっくりと起きあがる。

 

「え、えと」

 

 あまりにも姉が無言なので、カリエは気まずさに逃げ出してしまいたくなった。こんなにも静かなエリカを彼女は初めて見た。

 

「フラッグ車」

 

 ぼそり、とエリカが呟く。

 目覚めて最初に聞いた姉の言葉がそれだったので、カリエは「へっ?」と間抜けな声を出していた。  

 だがエリカはそんな妹の反応に鑑みることなく、こう告げた。

 

「次の試合、私がフラッグ車やるから」

 

 何を言っているのか咄嗟に反応できなかった。

 エリカは畳みかける。

 

「みほとはもう相談してある。おそらく次はグロリアーナ。なら防御力で優れた私の方が適任。あんたは前線の指揮でいけ好かないあいつらの鼻面を押さえて」

 

 言いたいことは言い切った、とエリカはベッドから立ち上がった。そしてカリエの方を一切振り返ることなく部屋から出ていく。

 一人取り残されたカリエは、まさか「寝言」を聞かれたのかと顔を青くした。

 だが今となっては全てがあとの祭りで、気恥ずかしさに悶えながら、カリエは再びタオルケットを頭から被りなおした。

 

 

04/

 

 

 さすがに二回目ともなると、少しは落ち着きが出るのかと優花里は思った。

 相手フラッグ車であるPー40が白旗を掲げているのを見ても、嘘だとは思わなくなったのだ。頬も抓ることはないし、腰を抜かすこともない。

 

「いやー、本当に新設校かっていうくらいの強さだったぞ。まさかマカロニ作戦が初っぱなから見破られるとは」

 

「アンチョビさんが参加された試合の詳細を全て研究したんです。するとアンチョビさんはアンツィオ高校の隊員の方々に()(まん)(さく)(せん)の必要性を説いている、というデータが出てきたので、チーム全員にその対策を徹底しました」

 

「うわ、なんだそれ。後出しじゃんけんみたいだな! でもそれだけウチに手間暇を掛けてくれたんだ。楽しい試合だったぞ!」

 

 試合後、大洗女子学園のメンバーはアンツィオ主催の野外パーティーに誘われていた。

 その会席の中、秋山優花里は安齋ちよみことアンチョビに大層気に入られ、試合のこと、戦車道のこと、さまざまな話題で絡まれている。

 

「でも本当にすごいな。ウチにもきちんと偵察に来ていたんだろ? ルールでこそ認められてはいるが、どこの学校も人員や時間の問題でないがしろにしている制度をここまで活用するなんて」

 

 アンチョビの賞賛に、優花里は照れを隠せないまま答えた。

 

「無名で伝統がないからこそですよ。しがらみが何もないので、やれる可能性のあることは、何でも出来るんです」

 

 優花里の告げた通り、大洗女子学園の強みはそれだった。伝統的な戦術もなく、OG会も存在しないため、試合中の振る舞いは自由、作戦もあらゆる学校のそれを参考にすることが出来る。

 つまり各学校の良いとこどりのような作戦立案が可能なのだ。

 

「でも作戦を考えてもそれを遂行する人員の育成が必要だろ? それはどうしているんだ?」

 

 アンチョビの疑問は最もなものだった。

 対戦相手に有利に働く、メタ的な作戦を採用することが出来ると言っても、それを完璧に履行することはそれなりの練度が求められる。

 つまり優花里の要求に応えることのできる部隊でなければ、全てが机上の空論に過ぎないのだ。

 優花里はそれはですね、と一冊のノートを取り出した。 そしてそれをぱらぱらとめくり、ある一日のスケジュールをアンチョビに見せる。

 

「わたくし、他校の戦車道に対する練習時間を調べたんです。黒森峰、プラウダ、グロリアーナ、サンダース、知波単、継続、ポンプル、BC自由学園、グレゴール、バイキング水産、コアラの森、メイプル、伯爵、ヨーグルト、ビゲン、マジノ女学院、青師団、ワッフル……」

 

「お、多すぎないか?」

 

「そんなことないですよ。で、それぞれの高校の練習時間は一番長いところで一日五時間、休みの日で八時間ほどでした。まあ、それが黒森峰なんですけれど」

 

 けれども、と優花里は続ける。

 

「じゃあ乗員一人一人の練習時間はいくらなんだって、それぞれの高校の練習時間を計ってみたんです。三ヶ月くらいかかりましたけれど。――それでわかったのは、意外と一人当たりの練習時間はそんなに長くないということです。車両の数の問題だったり、訓練場の広さの問題で、待機時間が結構長かったり」

 

 ある数字を優花里は指さす。

 

「一人当たり二時間弱が最高でした。もちろん長期休みになるともっと伸びますが、平均を取ればこのくらいです。しかもこれは強豪校にありがちな傾向なんです。参加人数が多いと、練習することの出来る人数も限られているんですよね」

 

「それがどうして大洗の練度の話につながるんだ?」

 

 ふっふっふ、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに優花里は答えた。

 

「大洗はですね、訓練場の広さの割に、人員が少ないので、ほぼ全員がフルタイムで練習できるんですよ。平日は授業時間含めておよそ四時間、休日は休憩を挟みつつ八時間です」

 

「おお、そりゃすごいな」

 

「しかも定期的に教官をお呼びして、技術指導も行って頂いています。操縦に関しては自動車部の皆さんに協力していただいて、最適な軌道操作を日々研究しているんですよ。砲撃は五十鈴殿が中心になって停止射撃を徹底して練習しています。あと待ち伏せのような各種技能は、忍道を履修されている生徒の監修でクオリティアップを心掛けているんです」

 

 腑に落ちる感情がこういうものなのか、とアンチョビは思った。

 楽しそうに、しかしながら常識ではあり得ない、あまりにも密度の高すぎる戦車道を話す優花里を見て、これが本物なんだな、と納得もしていた。

 決して優花里は戦車道エリートではない。

 西住流でも、島田流でもない。

 あくまで戦車が好きなだけの素人だ。

 だがその戦車に対する情熱は、これまでアンチョビが出会ってきた人物の誰よりも深く激しいものだった。

 その熱意が、興味が、生活のほとんど全てが戦車道に向いていると気が付いたとき、目の前で朗らかに笑う少女が、とんでもない傑物のように思えた。

 

 普通の人は、そこまで戦車を愛せない。

 普通の人は、そこまで戦車道に手間を掛けない。

 

 どこの世界に、他校の練習時間を知りたいと三ヶ月もの期間を捧げる人間がいるのだろうか。

 どこの世界に、日本中の戦車道開催校を調べる人間がいるのだろうか。

 口では明言してはいないが、この様子だと殆ど全ての高校が偵察済みなのだろう。

 それは最早人間の所行ではない。

 戦車に向ける労力、エントロピーが余りにも巨大すぎて、自身が正気を失っていることに気が付いていないのだ。

 

「秋山さん、だっけか。本当に、戦車が好きなんだな」

 

 意味のない言葉だと思った。だが思わず口をついて出てきたのは、そんな面白味の欠片もない、月並みな台詞だった。

 優花里はそんな言葉に対してさえ、心底嬉しそうに反応する。

 

「はい! わたくし、戦車道を始めることが出来て本当に幸せです!」

 

 アンチョビはそれなりに戦車道を続けて来たという自負がある。黒森峰からのお誘いを受けるくらいには、実力も経験も身につけてきていた。

 だが、そんな戦車道人生――つまり時間が、たった一人の情熱の深さに負ける瞬間を今見ていた。

 戦車を乗り回していた時間ではなく、戦車を愛する意気込みが重要であることを思い知らされていた。

 そしてそれは、自分がアンツィオを引っ張っていこうと決意したときの原風景であることを思い出す。

 

「昔さ、アンツィオと黒森峰、それぞれから推薦の話が来ていたんだ。その中で私が選んだのは見ての通りここだ。それはどうしてだと思う?」

 

 優花里は「わかりません」と首を傾げた。

 アンチョビには申し訳ないが、その二つならより名門の黒森峰を選ぶ人間が多いからだ。

 優花里の心境を察したのだろう。アンチョビは「それはな」と苦笑する。

 

「ここの戦車道は本当に楽しそうだったんだよ。黒森峰ももちろん充実した戦車道だと思ったんだけれども、私はこっちで戦車道の楽しさってやつを極めたかったんだ」

 

 楽しさ。

 

 それは優花里が戦車道において、一番追求し続けている感情だった。

 アンチョビのような実力者に、自分が戦車道に求め続けているものを認められて、彼女は喜んだ。

 

「準決勝以降は並み居る強豪校がぞろぞろいる。これまでのような試合運びは出来ないかもしれない。それでも秋山さんは秋山さんの戦車道を貫いてくれることを祈っているよ」

 

 アンチョビが手を差し出した。

 戦車道を始めてから、こうして誰かに握手を求められることが増えていた。

 試合を重ねるごとに、友情が積み重なっている。

 

 やはり戦車は偉大です、と優花里は満面の笑みを見せていた。

 

 

05/

 

 

 準決勝となれば、それなりに注目される試合だ。

 特に王者黒森峰と、優勝候補として名高いグロリアーナの一戦となれば、言わずもがなだった。

 圧倒的練度と戦術で他校を挽き潰してきた黒森峰女学園。

 優雅さと気品を兼ね備えた浸透戦術で他校を翻弄してきた聖グロリアーナ女学院。

 夢の対戦カードである試合のチケットは早々に完売し、パブリックビューイングの会場は人混みでごった返していた。

 対戦校も、観客の密度もともに理想的な試合内容。

 ただ、天候だけがその例外だった。

 

「雨、ね」

 

 エリカの台詞が天候の様子を端的に言い表している。けれどもただ「雨」と片付けるには難しい、類い希なる豪雨だった。

 

「運営から連絡が来ました! 試合そのものは定刻通り開催するそうです! ただ、途中中断もあり得るため全ての車両にはオープン状態の通信機を搭載するように、とのことです!」

 

 軍用雨合羽に身を包みながらも、殆ど濡れ鼠のようになってしまっている小梅が、黒森峰陣営の天幕に入ってきた。近くにいたカリエが用意していたタオルを手渡してやる。

 

「わかりました。それでは大会から支給されている通信機を各車の通信手が持ち込んで準備してください。戦車の暖気の管理も綿密にお願いします」

 

 みほの号令を受けて、黒森峰の隊員たちは散っていった。

 ただカリエだけ一人、他の隊員たちが天幕から出て行くまでその場を動かなかった。

 咽頭マイクを操作していたみほが、そんなカリエを見つけて声を掛ける。

 

「……カリエさん、もし雨が辛いのなら誰かと車長を交代しますか」

 

 みほが心配したのはカリエの水恐怖症のことだった。けれどもカリエは「違う」と首を降った。

 彼女は少し逡巡したあと、みほに問いかける。

 

「みほはエリカと相談してフラッグ車の変更を決めたの?」

 

 びくっ、とみほの肩が跳ね上がる。何故なら、フラッグ車の変更はエリカによる完全な事後報告で、みほが追認した形だったからだ。

 もちろんエリカからは変更の理由を伺っている。

 カリエの様子がおかしいから、フラッグ車の担当が負担になっているから、と告げていたエリカの姿が脳裏によぎる。

 明らかに挙動不審な様子のみほを見て、カリエは姉の嘘を確信した。

 

「……やっぱりそうなんだ」

 

「あ、あの、カリエさんの能力どうこうとか、そういう問題ではなくて……」

 

 何か言い訳をしなければ、と狼狽えを見せるみほ。だがカリエは「大丈夫だよ」とみほのそれを制した。

 

「ちょっと格好悪いところをお姉ちゃ――エリカに見せちゃったんだ。多分、そのことを気遣ってくれたんだと思う。エリカの思いやりは凄く嬉しいし、グロリアーナに対して装甲防御力に優れるティーガーⅡで挑むのは正解だと思うから、何とも思っていないよ」

 

 今度はみほが「嘘だ」と思った。

 言葉こそは前向きだったが、そう語るカリエの表情は今すぐにも泣き出しそうで、このままではいけない、とみほはカリエの肩を掴む。

 

「確かにエリカさんはカリエさんのことを思ってフラッグ車を交代しました。けれどもエリカさんも、もちろん私も、あなたのことをフラッグ車失格だと思ったことはありません。そもそもあなた一人にずっと押しつけていた状況がおかしかったんです。カリエさんが気に病む必要なんて()(じん)もありません」

 

 普段はあまり見せることのないみほの力強い視線を受けて、カリエの泣き顔が少しだけ和らいだ。

 連日見る「姉に見捨てられる悪夢」を、今この瞬間だけ忘れることが出来そうで、カリエは心の重しを少しだけ手放した。

 

「大丈夫です。私たちは必ず勝ちます。だってエリカさんとカリエさんという素晴らしい戦車乗りが二人もいるんですよ。こんな贅沢な学校他にはありません。私はそんな黒森峰の隊長をやれて本当に幸せだと思っています」

 

 それに――と付け加える。

 

「頼りにならないかもしれませんが、西住流の私がいるんです。そりゃあお姉ちゃんには叶わないかもしれないけれど、お二人に勝利をお届けするくらいには打ち込んできたつもりです」

 

 何それ、とカリエが笑顔を見せた。

 その様子を見てみほは「もう心配がいりませんね」と一緒に微笑む。

 

「いろいろと心配掛けてごめんね。西住流の名を汚さないよう、グロリアーナから勝利をもぎ取ってくるよ」

 

「楽しみにしています。カリエさん」

 

 二人がそれぞれ天幕を後にする。

 雨に濡れることを気遣ったのか、パンターとティーガーⅠが天幕のすぐ近くに待機していた。

 試合開始まで残り三十分ほど。

 二人の車長が戦車に乗り込み、黒森峰の臨戦態勢が整った。

 王者の戦いが今始まろうとしている。

 

 ――だが、不安材料がないわけではなかった。

 

 敢えて彼女たちのミスを上げるとするのならば、グロリアーナという学校を、普通の対戦相手と彼女たちが認識していたことにある。

 

 優雅な強豪校、聖グロリアーナ女学院の女王ダージリン。

 彼女の執着をカリエとみほの二人は知らなかったのだ。

 唯一それを感じ取っているエリカは二人に何も告げていない。

 

 波乱の準決勝が、いくつもの不確定要因を抱えたまま始まろうとしていた。

 




さらに追記 平成29年2月7日21時
章がずれている問題を修正しました。
ご指摘いただいた方々、本当にありがとうございました。
これからも本作品をよろしくお願いします。


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秋山優花里の戦車道 12

 初めて彼女を目にしたのは、二年生の春だったとダージリンは記憶している。

 多分、戦車道に関する何かの講習会があって各校から将来の幹部候補が揃って参加していたときのことだ。

 グロリアーナ代表としてそこを訪れた彼女は、会場の一角に同じ顔を揃えた二人組を見つけていた。

 その時はまだ、黒森峰の逸見姉妹という通称も、黒森峰のウロボロスという通り名もそこまで有名ではなかったため、次期黒森峰の幹部候補なんだな、くらいの感想だった。

 ただ、その年の夏にはこの姉妹と雌雄を決さなければならないことだけはわかっていたので、存在を記憶の片隅には留めていた。

 ファーストコンタクトは会話すらなかった。

 お互いに面識もなかったし、馴れ合うつもりなど毛頭もなかった。

 

 状況が変わったのはやはりその年の全国大会だろう。

 奇しくも今年と同じ準決勝において黒森峰とグロリアーナは激突したのだ。

 作戦の立案を行える立場にいた彼女は、諜報部を使って黒森峰のウィークポイントを必死に探し続けた。

 その時から、日本戦車道の頂点である西住流の跡取りである西住姉妹を擁していたのだ。

 何か策を弄さなければ、グロリアーナが敗北することくらいダージリンは理解していた。

 母校の栄光のため、彼女はあらゆる情報に(すが)()いた。悲しいことに、実力では到底及ばないことはわかっていたので、(から)()で攻めるしかなかったのだ。

 

 そして眉唾ながらも一つの情報が飛び込んでくる。

 

 逸見カリエの水恐怖症の噂だ。

 

 最初その話をアッサムから聞かされた時は、「なんだそんなことか」と落胆した。

 人間誰も怖いもの、苦手なもの、克服出来ないものが存在している。だからダージリンに取ってカリエの水恐怖症とは「プールで泳げない」だとか、「冷たいもの」が苦手だとか、そんなことだろうと考えていた。

 だがそんなダージリンの嘲笑をアッサムは否定する。

 何でもカリエの水恐怖症は、本人がパニックを起こしてしまうくらい深刻なものだと。

 原因も不明で、治療の施しようもなく、逸見家はそれに関しては既に匙を投げていることも聞かされた。

 ダージリンは少しばかり葛藤した。

 彼女の探していたウィークポイントとは、選手間の不仲だったり、連携がなし得ない実力差だったり、編成の穴だったりそういったものだった。

 決して特定個人を攻撃するものではなく、チーム全体のウィークポイントを付いてやろうという魂胆だったのだ。

 彼女は考えに考えた。

 勝利か、誇りか。

 泥水でも啜って栄光に固執するのか、名誉を重んじて勝てない勝負に挑むのか。

 

 ――ダージリンは周囲から気高く、優雅で、余裕のある気性を持った人間であると思われている。

 しかしながら、それはあくまでも周囲からの評価であり彼女の本質ではない。

 気高く振る舞うのは、学園内に存在する敵対勢力に足を(すく)われないためだった。

 優雅に過ごすのは、誰かを惹きつけるカリスマを会得するための術だった。

 余裕を見せるのは、そんな臆病な自分を騙すための演技だった。

 

 彼女は選択する。

 個人のプライドをかなぐり捨て、学園の栄誉を選択した。

 ここで自分に嘘をついてしまっては、これから「ダージリン」として振る舞うことが出来なくなるのがわかっていたから、正直に選んだ。

 だから彼女は追い詰める。

 逸見カリエを猟犬の如く追い立て、暗い水底にたたき落とした。

 そして彼女は、そんな自分を心底嫌悪した。

 

 

01/

 

 

 雨の中、カリエの車両は林の中の茂みに隠れていた。

 通信手に命じて、各地点に散会している「ヒドラ」たちからの報告に耳を傾けている。

 

『川の西側、敵影ありません』

 

『南側、同じく』

 

 雨の音に混じって、きゅっきゅっ、とマーカーの走る音だけが車内に響く。カリエが報告を元に地図に朱を入れている音だ。

 しかしながらその作業はそう長くは続かない。地図の中央部分が真っ赤に染まりこれ以上書き込む場所がなくなっていたからだ。

 赤が意味することは至極簡潔。

 

 敵影見受けられず、だ。

 

「……グロリアーナ、どこにいるんでしょう」

 

 通信手が漏らすとおり、黒森峰の全ての索敵においてグロリアーナの車両を発見することが出来なかった。

 索敵の斥候全てが空振りに終わったのである。

 考えられるのは斥候を送った場所がとんでもなく見当違いだった場合のみ。

 けれどもカリエは「それはありえない」と首を横に振っていた。

 何故なら――、

 

「おかしい、ダージリンさんなら必ず私たちのいるポイントのどれかを突破してくる筈なんだ」

 

 どういうことかというと、黒森峰のフラッグ車の特性が関係していた。

 フラッグ車であるエリカのティーガーⅡは足回りが弱く、自陣のスタート位置を大きく動けないという制約がある。特にこの豪雨の中では尚更だ。

 そこでカリエはグロリアーナの女王であるダージリンの思考を読んだ。

 彼女は聡い。黒森峰の弱点である足回りの弱さなど熟知していて当然だろう。

 だとしたら、ダージリンは攻撃部隊をまっすぐ黒森峰のスタート地点に差し向ける可能性が高かった。

 装甲火力の撃ち合いになれば黒森峰に遙かに分がある。その分野においてダージリンが勝負を挑んでくるとは考えにくい。彼女が勝負を仕掛けてくるのは、間違いなく速度を重んじた電撃戦だ。

 ならば、とカリエはエリカのいる位置に雪崩れ込むことが出来る街道、峡谷、橋、その他全てに斥候を放った。自身もそのうちの一つにアンブッシュし、グロリアーナの攻撃部隊を待ち受けている。

 だが結果はご覧の通り。

 見事なまでの不発だった。

 

「まさか豪雨で互いの命中率が低下していることを見越して、撃ち合いを望んでいるのでしょうか」

 

「いや、あの人がそんな賭けみたいなことする筈がないんだ。なにか、何かを見落としているのかもしれない」

 

 そう言って、カリエは再び地図に齧り付いた。

 副隊長の思考を妨げぬよう、通信手は押し黙り装填手と砲手も動きを止め、物音を立てないように配慮する。

 再び車内を沈黙が支配した。

 ただ、操縦手のナナだけが動きを見せる。目の前のハッチから周囲の様子を伺ったのだ。

 

「…………」

 

 滝のような豪雨が視界を遮っている。一瞬でずぶ濡れになりながらも、彼女は滝の向こう側を見ていた。

 

「ん? 佐久間さん、何か見つけた?」

 

 雨に塗れながらも、外を見続けている後輩にカリエは声を掛けた。

 だがナナにしては珍しく即答しなかった。

 

「――おと? いや、でも――、まさかこの数は」

 

 カリエの声が届かないくらいナナは外に集中していた。カリエはふと、背筋を駆け抜けていく悪寒を感じ取った。

 それは第六感ともいうべき、天性の勘だった。

 

「あ、」

 

 ぐい、とナナの肩をカリエは足で上から下になぞる。それはあらかじめパンター内で決められていたサインの一つ。

 度重なる訓練で、パブロフの犬のように条件付けられていたナナはほぼ無意識のまま、パンターを後退させた。

 

 何かが飛来する音。

 滝の雨を切り裂いて、何かが飛ぶ音。

 少し遅れて、炸裂する。

 

「――副隊長! すいません、向こうから複数のエンジン音が聞こえました!」

 

 自身の聴覚が捉えていた違和感の正体に気がついたナナが叫ぶ。ほぼ同じタイミングで敵襲を察知していたカリエも目一杯咽頭マイクに叫んでいた。

 

「こちら55号車のパンター! 敵襲、数複数! 車両の正体不明! これより交戦を開始する! 偵察部隊はそのまま別部隊の動向を監視! 待機していた援護部隊だけこちらに向かわれたし!」

 

 近くで砲弾が弾けパンターの車体が揺らいだ。カリエは土砂降りの雨の中、キューポラから身を乗り出す。

 降りしきる雨の中、後方を確認し、さらなる後退を指示。

 援護部隊と合流が容易な街道上のジャンクションを目指すよう、ナナに伝えた。

 雨のカーテンを抜けて、砲弾の光だけがパンターの車体の近くを通り過ぎていく。

 

「――え?」

 

 それは接敵してから凡そ三十秒ほどの出来事だった。

 相変わらず全力で撤退を続けるパンターに執拗に食い下がるグロリアーナの車両がいる。

 正直言って何も可笑しいことはない。

 戦車道の試合なのだ。一度見つけた敵を追いかけることは普通のことである。

 だがカリエは「どうして……」と困惑の声を漏らした。

 彼女は真っ白な雨の幕の向こう側、そこにいる車両にはためく青い旗を見た。

 

 意味がわからなかった。

 いや、旗の意味はわかる。

 でも、何故ここにそれがあるのか理解できなかった。

 質量のある雨に打たれているのは、フラッグ車を示す青い旗。

 

 カリエはぽつりと、言葉を零した。

 

「ダージリンさん?」

 

 

02/

 

 

「驚きました。本当にここに彼女のパンターがいるとは」

 

 次々と砲弾を装填しながら、オレンジペコが感嘆の声を漏らす。砲手を務めているアッサムも、言葉こそ発しなかったが驚きの表情で照準を覗き込んでいた。

 ただ、紅茶を傾けたダージリンだけが「当然のことよ」と(うそぶ)いた。

 

「彼女なら、自分の手でこの要所を押さえるに決まっているわ。あの子は人一倍責任感が強いから、重要拠点に必ず現れるの」

 

 勝ち誇ったかのようなダージリンの言葉を受けて、「何でもお見通しなんですね」とオレンジペコは苦笑した。

 ダージリンはそんな後輩を可愛がるかのように静かに微笑む。

 

「いいえ、何でもではないわ。彼女のことだけよ」

 

 視線の先、パンターが逃走を続けている。ダージリンは手元の無線機の受話器を手に取ると、周囲の車両に向かってさらなる指示を下した。

 

「ローズヒップ、パンターの背後をクルセイダーで塞ぎなさい。でも撃破することは許さないわ」

 

『承知しましたわ!』

 

 アッサムが発掘してきた肝いりの生徒であるローズヒップが威勢良く答える。

 彼女はダージリンが意図したとおり、クルセイダーの快速ぶりを遺憾なく発揮し、あっという間に後退を続けるパンターを追い抜いていった。

 そしてその背後を押さえつける。

 たまらずパンターが左に進路を切った。街道から外れ、悪路に乗り上げるが、何とか履帯の機動性を駆使し逃走を計る。

 ダージリンはそれすらも追うように命じた。

 まるでカリエのそんな悪あがきが愛おしくてたまらないと言わんばかりに。

 

「ええ、そうよ。そのまま逃避行を続けて頂戴カリエさん。私、案外逃げる殿方を追うのが好きなんですのよ?」

 

 ダージリンの周りを取り囲むマチルダⅡ歩兵戦車が、砲撃を絶え間なくカリエの周囲に降らせる。それは撃破を狙ったものではなく、あくまで逃走経路を限定させるための砲撃だった。

 そう、彼女は随伴する車両全てにある命令をあらかじめ下している。

 

 オーダーはたった一つ。

 

 決してパンターを撃破するな、と。

 

 

03/

 

 

 黒森峰側は混乱していた。

 結果的にとは言え、完全に予想の裏をかかれる形になっていたからだ。スタート地点のやや近場の高台で、三両の黒森峰車両が集っている。

 それぞれティーガーⅠ、ティーガーⅡ、パンターだ。

 

「そんな、まさかフラッグ車が先陣を切って突撃してくるなんて」

 

 カリエからの報告を受けたみほが震える声で、雨の中でも地図を開いていた。耐水ラミネートを施してはいるが、すぐに水が溜まり、何度も何度も手で払いのける。

 

「カリエさんのパンター、55号車はB7地点の街道を西に後退、C3ジャンクションを目指しています。彼女を救援に向かう最短経路はこれしかないでしょう。小梅さんを中心とした援護部隊を突貫ですが編成します」

 

 アルコールマーカーを使い、青い線を書き入れる。

 

「でもカリエさん以外の偵察部隊から接敵の連絡がありません。我々が援護に向うと、その隙をついてこのスタート地点に回り込まれてしまう可能性があります。ここは酷ですが、カリエさんには何とか耐えしのいで貰って、現場の部隊のみで援護部隊を組むべきでは? 我々はエリカさんの護衛を固めた方がいいと思います」

 

 小梅の進言を受けて、みほは「っ」と唇を噛んだ。カリエを救いたい気持ちばかり先行してはいるが、チームとしては小梅の案が限りなく正しいのだ。

 ただその提案は曖昧にはしてはいるものの、カリエを見捨てることに直結している。

 もちろん小梅が断腸の思いで告げていることは理解しているが、出来ればその選択肢を取ることは避けたかった。

 

 考えろ、考えろ。

 

 西住としての経験値が、黒森峰の隊長としての責任感が、親友としての優しさが、みほの脳をフル回転していた。彼女は試合前のカリエとのやりとりを思い出す。

 カリエは何を思っていたのか。

 彼女はこの私に何を望んでいたのか。

 

 やがて、雨の冷たさにも負けない、徹底的に冷えた思考からある結論を導き出した。

 それを告げる彼女の声は強ばっていた。

 

「……小梅さんを含むフラッグ車の護衛はこのまま待機。偵察に出している部隊もそれぞれ少しずつ下げます。索敵ラインの一つが突破された以上、ラインを限界まで引き延ばす必要はありません。監視する街道を絞り込みグロリアーナのさらなる奇襲に備えます」

 

 みほは己の決定を二人に伝えた。その瞳は揺れはしていたが、堅い。

 

 西住としての経験値が見捨てろと結論づけた。

 黒森峰の隊長としての責任感が「他の部隊を危険に晒すな」と言った。

 親友としての優しさが、カリエにいらぬ重みを背負わせるな。チームに負担を掛けてしまったという事実を作るな、と囁いていた。

 

 小梅もみほの覚悟を汲み取ったのか、「護衛部隊に戻ります」と頭を下げた。

 だがみほの言葉はそれで終わりではなかった。

 それは西住でもない、隊長でもない、親友という立場でもない、西住みほ個人としての言葉だった。

 

「私が、私が助けに行きます。私一人でカリエさんの援軍に向かいます。もし私とカリエさんが撃破された場合、指揮権の全てをエリカさんに移譲、小梅さんを副隊長として黒森峰を率いて下さい」

 

 思いもよらない命令に小梅は目を剥いた。だがそれには反論しなかった。

 すぐに意を決したように表情を引き締めて「はい、お気をつけて」と力強く頷く。

 何故なら小梅は信じていたからだ。みほとカリエの実力を。そして指揮権を移譲しても良いと言わしめるだけのエリカのカリスマ性、戦略眼を。自身が副隊長に向いているとは若干思えなかったが、それでも自分を信じてくれているみほを信じることは出来る。

 

「我が儘を言ってすいません。でも誰も見捨てたくないんです。『撃てば必中、守りは堅く、進む姿に乱れなし』。……西住の教えには反しているかもしれませんが、それでも私は私の戦車道を貫きます。皆で戦い抜く戦車道をやって見せます」

 

 広げていた地図をしまい込み、みほは時間が惜しいと言わんばかりにティーガーⅠに走った。

 その時になって始めてこれまで黙していたエリカが口を開いた。

 

「みほ、待って。ごめんなさい。私、あなたに謝らなければならないことがある」

 

「え?」とみほの足が止まる。

 エリカはみほが持っていた地図を貰い受けると、もう一度それを広げて、自身が持っていた赤いマーカーで×を書き足していった。

 

「これは全てカリエの私兵たちが敵影なしとつげたポイントよ。このポイントに敵が現れることは一切ないわ」

 

 エリカの断言に、みほと小梅が困惑した。けれども彼女はそのまま続ける。

 

「グロリアーナの狙いはたった一つ。カリエよ。あの子を私たちの前で惨たらしく撃破することが目的なの。だからカリエがこのジャンクションに辿り着き、尚且つ私たちが合流するまでカリエは撃破されない。それどころか、私がここを動かなければ、あの女はここまでカリエを追い立てる」

 

 意味がわからなかった。何だそれは、とみほが震える唇を開く。だってそれは――、

 

「そんなこと、よっぽどの私怨や恨みがなければあり得ません。全国大会の準決勝で、特定選手に報復をするような真似……」

 

 そう、エリカの言葉が正しければ、最早それは戦車道ではない。ただの私闘だ。個人に対する憎しみを戦車道という場において果たすという、考えられる中で最も唾棄される行為。

 しかもそれを行おうとしているのが、優雅であり気品あふれるグロリアーナなのだ。

 

「でも、でもなんでカリエさんなんですか!? グロリアーナが仮に黒森峰を恨んでいたとしても、カリエさんだけに執着する理由が……」

 

 小梅の反論は正しかった。黒森峰に煮え湯を飲まされ続けているグロリアーナが恨むべき相手は、黒森峰全体であって、カリエではない。仮に個人に絞ったとしても、昨年の副隊長であり、今年の隊長である西住みほだろう。

 だがエリカは「いいえ、あの女はカリエがご希望なのよ」と呟いた。

 

 ぞくり、とみほと小梅の肌が粟立った。ぐしゃり、とラミネート加工された地図が握りつぶされ、エリカが持っていたアルコールマーカーがへし折られる。

 雨の中、彼女の翡翠の瞳はこれまで二人が見たことのない怒りを湛えていたのだ。

 

「これが私があなたたちに謝罪することよ。私は知っていた。グロリアーナが、いえ、グロリアーナの女王ダージリンがカリエに執着していることをずっと知っていたの。そしてそのことを黙っていた」

 

「私は私が、そしてあの女が許せない」とエリカは零す。

 

「執着って、ダージリンさんとカリエさんはそんなに接点があるんですか? ましてやあのカリエさんですよ。誰かの恨みをかう筈がありません……」

 

 消え入りそうな声で小梅が反論を続けた。けれども残酷なことにエリカは首を横に振る。

 

「恨みだったらどれだけ良かったことか。あいつはカリエに対して憎しみもあると嘯いているけれど、それはあいつなりの言い訳。あいつはね、カリエのことを――」

 

 そこで、エリカが言いよどむ。数拍、言葉が紡がれない。それはみほと小梅、二人にとって無限にも近い時間の長さだった。

 やがて、エリカは意を決したかのように、いや、諦めたかのようにこう告げた。

 

「愛して、いるのよ。――好きとかそんなレベルじゃない。彼女は病的なまでにカリエを求めている。この試合は、この奇襲は、あいつなりの愛の告白なのよ」

 

 何処かで雷鳴がなった。

 互いに多量の雨をしたたらせながら、三人は遂に言葉を失っていた。

 

 

04/

 

 

 カリエとダージリンが初めて会話を交わしたのは、それこそ昨年の決勝戦の直前だった。

 プラウダとの決戦に挑む黒森峰の試合を、ダージリンが観戦しに向かったのだ。

 目的は二つ。

 

 グロリアーナを結果的とは言え、準決勝で負かした相手がどんな人物か見定めるため。

 

 そして、水恐怖症という、本人にとって決して触られたくなかっただろう弱点に塩を塗り込んでしまったことを謝罪するためだ。

 

 ダージリンは気品に溢れ優雅ではあるが、他人に対する配慮がないわけではない。

 たとえそれが計算尽くの行為だったとしても、きちんと礼節を弁えることの出来る人間だった。

 そして今回も、試合外でいらぬ禍根を作らぬよう、詫びの品をいくつか用意して決勝戦の会場に訪れていた。

 もちろんただ謝罪をして終わりというわけではない。

 今後、少しでもグロリアーナが黒森峰に対してマウントを取れるように、様々な布石を打つつもりでいたのだ。

 問題はどうやってカリエに接触するか、だが、ダージリンにとって幸運な出来事が一つあった。それは逸見姉妹の仲違いである。

 準決勝が原因で、二人一緒に行動する可能性がこの時点においては限りなく低くなっていたのだ。

 当たり前のことだが、ダージリンはそれを利用した。エリカが当時の隊長だった西住まほとの打ち合わせに忙しいことも読み切って、網を張ることにしたのだ。

 試合開始までの少しばかりの自由時間の間、参加校の生徒が周辺の屋台や各種協賛企業の出張施設を訪れることは知っていたので、黒森峰もそうだろう、と会場出入り口で獲物を待った。

 時間にしておよそ数分。きょろきょろと、まるで誰かのことを警戒しているかのように周囲を見渡しながら、件の人物は現れていた。

 輝く銀の髪も、深い知性を湛えた翡翠の瞳も、そしてグロリアーナを敗北に叩き込む策を弄した口も、初めて見かけたときそのままだった。

 

「あなたが逸見カリエさん?」

 

 ダージリンの声に、びくりっ、とカリエが反応する。誰を恐れているのかはわからなかったが、あまり人から声を掛けられたくない心境であることをダージリンは悟った。

 そして、その原因の大本は自分であることも。

 

「えと、そうですけど……。あなたは確か――グロリアーナのダージリンさんですよね?」

 

「あら、あなたのような実力者に名を知られているなんて光栄だわ」

 

 嘘だ。

 カリエが自分の名を知っていることくらい、事前にリサーチ済みだ。逸見カリエが対戦相手のことを徹底的に調べ上げてから試合に臨むことは当の昔から知っている。

 ダージリンは白々しく演技を続ける。

 

「あなたと少しお話がしたくて伺ったの。お時間は大丈夫かしら?」

 

「あ、はい。パンターの乗員の軽食を買い揃えるだけなので、そんなに急ぎではないです」

 

 カリエの返答を受けて、ダージリンは笑みを顔に張り付けた。

 

「ならこの先に美味しそうな紅茶を振る舞っていただける出張カフェを見つけているの。ご一緒して頂けるかしら」

 

 カリエの返答は「是」だった。

 断られるか承諾されるかは、正直二択の賭けみたいなものだったが、ダージリンはその賭けに勝っていた。

 彼女はここまでの結果に満足しながら、とぼとぼと後ろを付いてくるカリエを先導する。

 以前見かけた時はもっと泰然としている雰囲気だったが、ここ最近のカリエを取り巻く状況がそんな雰囲気を消し去ってしまっているのだろうと、当たりをつけた。

 なら、より(くみ)しやすいと、カリエに見られぬよう笑みを深める。

 

「さて、ここよ。この後は雨の予報だから、オープンデッキではなく、お店の中でお茶を頂こうかしら」

 

「雨」という単語を聞いて、カリエの肩が震えたことを見逃さない。

 やはり水恐怖症は本当だったのか、とグロリアーナの諜報網の能力を再評価する。

 ただ表情は決して崩さない。ダージリンにとっての戦いは既に始まっていたからだ。

 店内に入り、予め目星をつけていたテーブルにカリエを連れていく。

 内装から店員の雰囲気に至るまで、ダージリンがカリエに対して優位にことを進められるような空間であったからこそ、この店を選んでいた。

 

 落ち着いた調度品は相手の心境をリラックスさせて、油断を誘うように。

 人当たりの良い店員はいらないトラブルを引き込んでしまわないように。

 

 常に相手を自分のペースに巻き込んでいくことが、グロリアーナで生き残っていくための処世術なのだ。

 注文ももちろんその一環だ。

 紅茶に疎いカリエが自分に注文を任せることも予想していたので、程よく緊張をほぐしつつも、決して味の強くない紅茶、そしてカリエの好みだとアッサムに聞かされているチョコレートケーキをすらすらと注文していた。

 カリエが驚いた様子でダージリンに声を掛ける。

 

「……ダージリンさんと私って好きなケーキも同じだったんですね。どうもチーズケーキは苦手で、エリカとケーキを買うときはいつも二人バラバラなんです」

 

 馬鹿な子、とは思わなかった。

 カリエが知恵者であることはこれまでの黒森峰の戦い方を見ていれば容易に想像が付く。けれども自分と違って他者を蹴落とすための策謀に塗れていないその笑顔が、ダージリンには少しばかり眩しく見えた。

 

「……そうね、もしかしたら私たち気が合うのかもね」

 

 自分がペースを崩されてどうするのだ、とダージリンは自分を心の中で叱責した。 

 どうもこの少女と自分はテーブル下の攻防において、相性が余り良くないということに今更ながら気がついていた。

 何とかこちらの思惑に乗せるため、ダージリンは話を切り出す。

 

「本題に入らせて貰うわ。今日あなたを訪ねたのは、この前の試合について謝罪するためよ。いくらグロリアーナの為とはいえ、最低な行為に身を染めてあなたを不当に貶めてしまったわ。本当にごめんなさい」

 

 深々と頭を下げる。相手が恐縮し、罪悪感を抱かせるくらい大げさにやるのが肝要なのだ。

 これもまた、グロリアーナでのし上がっていくために身につけた、生きていくための知恵。

 ただ、グロリアーナの生徒とカリエが違うのは、ダージリンの謝罪に、厭みや皮肉で返さないということだ。

 

「いえ、そんな、水のあれは私の問題ですし謝ってもらうようなことじゃないですよ。別にルール違反でもないですし……。むしろ特定個人を徹底的にマークしろ、とかメタを張れとか言っちゃってる私の方があくどいくらいで――」

 

 正直、恨み言の一つくらいは予想していた。

 本人にとっての最大のトラウマを抉ったのだ。

 出会ったその瞬間に罵倒され、殴られる腹づもりも抱えていた。

 そして罵倒されたならされたで、相手の感情を揺さぶったということでダージリンの勝利だった。

 殴られれば最高だ。上手くことを運べば、逸見カリエを高校戦車道大会から追放することが出来る。

 さらに策を積み重ねれば、黒森峰を陰で脅迫する良い材料になるだろう。

 

 だがカリエは何れの想定も裏切った。

 何の疑いもなく自分の誘いに乗り、何の悪意もなくダージリンの言葉に言葉を重ねていく。

 

「だからダージリンさんが気に病む必要なんてないんですよ。むしろこんな手間まで掛けさてこちらこそ申し訳ありませんでした」

 

 頭が下げられ、カリエの頭頂部がダージリンの瞳に映る。

 無防備な、警戒心の欠片も見受けられない頭。

 

 グロリアーナではこうはいかなかった。

 全く接点もなく、悪意を抱かせたことがない筈の人物にすら、油断をすればいつの間にか踏み台にされていた。

 ダージリンがそれ相応の地位を手に入れ始めてからは幾分かマシにはなってきてはいるが、あらゆるしがらみと人の負の感情が、いつまでも彼女を縛り上げている。

 端的に言って、息苦しい毎日だ。

 弱音を吐いたことは一度もない。そして恐らくこれからも。

 だが、溜息くらいは良いのではないか、とダージリンは今日最初のそれを吐く。

 自分がここにくるまで積み上げてきたあらゆる謀略が何となく馬鹿らしくなってしまったからだ。

 

「……あなた、素敵なお馬鹿さんね」

 

 ふと口を開けばそんな言葉が漏れていた。

 カリエが「え”」と妙な声を上げるが、決して怒りはしなかった。困惑が深すぎて言葉が出てこないのだ。

 その反応すら、グロリアーナのそれとは正反対で、ダージリンの口がついつい滑る。

 

「もっと罵られることを覚悟してきましたのに。あなたったらよくわからない謝罪を口にするんですもの。この私の行き場のない感情、どうしてくださるの?」

 

 若干拗ねてしまったかのような演技。

 それにすら、カリエはあたふたと慌てて、しどろもどろに言葉を返す。

 

「え、いや何かごめんなさい。でも本当に前の試合のことは何とも思っていないんです。あれはそうですね――、とても痛くて怖いデッドボールの経験があって、インコースのボールに怯えるバッターがいたとして、そのバッターにダージリンさんはインコース攻めをしたようなもので、勝負の世界だと当たり前だと思います。むしろいつまでもデッドボールにうじうじしている方が間抜けというか、進歩していないというか、それで今もお姉ちゃんには嫌われているし……」

 

「デッドボール? インコース?」

 

 聞き慣れない単語だと、思わず問い返していた。

 

「あ、すみません。野球の用語なんです。デッドボールがピッチャーにバッターがぶつけられたボールで、めちゃくちゃ痛いです。一度脇腹に食らったときは昼飯戻しそうになりました。インコースってのはバッターの体の近いところに投げ込まれるボールで、デッドボールを受けた直後は怖くて体が仰け反ります」

 

 正直カリエの言っていることはよくわからなかった。

 でもここまで(じよう)(ぜつ)になるくらいなのだから、この少女でも夢中になることがあるのだな、と考えた。

 

「でも、野球を続けていくにはいつかは忘れて克服しなければならないんです。人生も同じでしょう。いつまでもうじうじと怖い思い出を後生大事にしている私が駄目なんです。これから楽しく生きていくのなら、いつかは忘れて前に進んでいかないと……」

 

「『新しいものが始まる。古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう。きみはどうするかい?』」

 

「え?」

 

 突如として紡がれたダージリンの格言にカリエは首をかしげた。

 ダージリンもダージリンで、何故このタイミングで自分の口が開いてしまったのか不思議で仕方がなかった。

 相手につけ込まれるようなことは基本口にはしない性分の彼女だ。彼女の好む格言も、本当に信頼した者か、可愛がっている者、自分にとって至極どうでも良い人物のいずれかにしか伝えない。

 果たしてカリエはそのうちのどれなのか――、

 

「――スイスの作家、ヘルマン・ヘッセの言葉よ。もしあなたが何かしらの過去からの脱却を目指していて、新しい人生を始めようとしているのだとしたら私は是非応援させていただくわ」

 

 ダージリンは願う。

 まだ確証は持てなくても、カリエは「本当に信頼できる者」であって欲しいと。

 格言の解説を聞いて、素直に喜んでくれている彼女のことを、出来れば信頼したいと。

 だから、用意していた全ての段取りをすっかり忘れて彼女は一つの箱を取り出していた。

 

「これは私からあなたへの餞別よ。幸運の銀の鐘。あなたのこれからの健闘を祈っているわ」

 

 箱の中にはシルバーで出来たベルを模したアクセサリーが入っていた。

 謝罪とともに贈るのだから、とそれなりに立派なものを用意してきたつもりである。

 カリエもその値打ちくらいはわかるのか、きらきらと目を輝かせて魅入っていた。

 けれどもすぐに何かを思い直してかのように、「こんな高級品、受け取れません」と首を横に振った。

 

 いつものダージリンならそれだけで、新しい策謀のやりとりが始まったのだ、と心に昏い感情を湛えていた。

 けれどもこの瞬間だけは、純粋にカリエの謙虚さが好ましいと笑っていた。

 

「いいえ、受け取っていただかないと困るわ。それともカリエさんはあれかしら? 私が丹精込めて選び抜いたアクセサリーがお気に召さないの?」

 

 意地悪に(うろ)(たえ)えるその動作一つ一つが新鮮で面白い。

 ならもっとからかってやろうと、ダージリンはアクセサリーを手に取って身を前に乗り出した。

 カリエの頭を抱き寄せて、アクセサリーを首に掛けてやる。

 

「わわっ」

 

「ふふっ、よくお似合いよ。あなたの決勝戦での活躍が楽しみだわ」

 

 顔を真っ赤にして、カリエは自身の首にぶら下がったラッキーベルを見た。しばらく呆けたように弄んでいたが、彼女はすぐにダージリンに向き直って、「ありがとうございます、頑張ります」とはにかんでいた。

 

 ただ不思議なことに、この時ダージリンが抱いた感情は、喜びでも、楽しさでもなかった。 

 ずきりと、ささくれが逆立つように、茨が指先を傷つけるように、心のどこかに痛みを感じた。

 心そのものは謀略もなにもない、久方ぶりの晴れやかなもの。

 なのに、どうしてか、ずきずきと痛む自分の内面を彼女は敏感に感じ取っていた。

 そんな自分が理解できなくて、得体が知れなく不気味で、ダージリンは笑顔を零しながらも、そっと己の膝上で拳を握りしめた。

 

 いや、その感情の正体には多分、気がついてはいた。

 けれどもそれを認めてしまえば、自分が自分じゃなくなるようで、それがとても恐ろしくて、直視することができなかっただけだ。

 

 ダージリンは笑う。嗤うのではなく笑う。

 せめてこの笑顔だけは正直でいなければ、カリエに対して申し訳が立たないと考えたから。

 

 感情の正体は至極単純なもの。

 

 本当の自分をカリエに見て欲しい、という年相応の少女の純粋な願いだった。




まさかの四日連続一万文字。
エリちゃんとダー様に対する情熱が炸裂している気がします。


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秋山優花里の戦車道 13

 ずきずきとあたまがいたむ。

 

 もう雨なんて怖くないはずなのに、歯が噛み合わずかちかちかちかち五月蠅(うるさ)かった。

 

 震える右手を、同じく震える左手で無理矢理押さえつけて、豪雨の中、パンターの天蓋で堪え忍ぶ。

 

 またすぐ近くで砲弾が炸裂した。

 

 それが偶然、もしくは幸運からくるものでないことくらい、カリエは解っている。

 

 グロリアーナの砲弾が、自分をいたぶるものであることくらい、これだけ長時間砲火に晒されれば理解できる。

 何かしらの悪意に、自身が晒されていることくらい、嫌でも思い知らされた。

 

 どうして、と目の前のチャーチル歩兵戦車を見る。

 フラッグ車を示す青い旗が、雨の中揺れている。

 チャーチルから、いや、ダージリンから発せられる無言の圧力に「どうして」と言葉がこぼれた。

 

 パンターの足が遂に止まる。

 カリエは殆ど無意識の内に停車を命じていた。

 容赦なく打ち付ける雨粒のなか、カリエはこれ以上の逃走を諦めていた。

 

 背後にクルセイダーが。

 両脇にマチルダが。

 そして眼前にはチャーチルが、

 パンターを包囲している。

 

 四面楚歌に陥る中、乗員の一人である砲手が「撃ちますか」と問いかけてきた。

 彼女の視線の先にはフラッグ車であるチャーチルが座している。もしも仮にここで撃破に成功すれば、その時点で黒森峰の勝利だ。

 だがカリエは首を横に振った。絶妙に保たれた彼我の距離の差がその砲撃が無駄に終わることを教えてくれていたからだ。

 チャーチルの強力な装甲を一撃で撃破できなければ、反撃で袋叩きに合うことは分かり切っていたのだ。

 無闇矢鱈に、乗員を危険にさらすことも出来ないと、カリエはキューポラの上でがっくりと(うな)()れた。

 

「……そんなに私のことが憎いんですか。こんなことをするくらい、私を嫌っていたのですか」

 

 溢れ出す疑念は、ダージリンの行動に対するもの。

 信じていた者に裏切られた、カリエの嘆き。

 

 その気品に憧れていたのに、

 その知性に敬意を抱いていたのに、

 その優しさに惹かれていたのに――、

 

「どうしてこんなことをするんですか! 私のことが嫌いだったんですか! あんなに優しくしてくれたのに! それは全部演技だったんですか!」

 

 返答はもちろんない。

 ただチャーチルの砲塔が静かにパンターに向いた。

 かあ、と頭に血が昇った。

 裏切りに対する怒りが、カリエの思考を塗りつぶした。

 ダージリンが無言の圧力を貫くのならば、精一杯足掻いてやると、カリエは怒声を上げた。

 

「舐めるなあ!」

 

 パンターがその場で旋回した。超信地旋回は出来ないが、ナナがそれに近い挙動でパンターを操作した。クルセイダーが咄嗟に砲撃で牽制を行うが、敢えてそれを装甲で受け止めた。

 激しく車体が揺さぶられるが、カリエは形振り構わずチャーチルにパンターに突進させる。

 カリエの意図を汲み取った砲手が75ミリ砲を放つ。チャーチルを狙ったものだったが、間に割り込んだマチルダを撃破していた。

 やはり盾を排除しなければ、と撃破されて動かなくなったマチルダに体当たりする。そしてそのまま車体を押しのけて、右側に展開していたもう一両の車両に突っ込ませた。

 撃破こそは出来なかったが、同質量の車両に押しつぶされて、右舷のマチルダは動きを封じられた。

 

「ダージリン!」

 

 道は開けた。

 突然のカリエの苛烈な攻撃に、グロリアーナの車両は狼狽えていた。

 とは言ってもさすがは強豪校。その隙はあくまで一瞬であり、すぐさまパンターの動きを封じるべく活動を再開する。

 だが一度穿った道を取りこぼすほど、カリエは(もう)(ろく)していない。マチルダとの衝突の衝撃からいち早く復帰したパンターが再加速を開始した。

 

「いけええええええ!」

 

 40トンの質量を置き去りにして、パンターがチャーチルに肉薄した。彼我の距離が詰まる。

 撃破可能距離まであと数秒。

 後方のクルセイダーが破れかぶれの砲撃を放つ。

 (ろく)に狙いも付けられていない、焦りから生じた一撃。

 パンターの左後部で火花が散った。

 

 ばきん、とカリエの視界の端で何かが跳ねた。

 

 何事か、と視線を向けるよりも先、突如として世界が回転する。

 まさか車外に投げ出されたか、と背筋を寒くしたが、両足はパンターの車内を踏みしめていた。

 ならば何故、と周囲を見渡した。いつの間にか回転が止まっている。

 半ばで断ち切れた履帯が無惨にもパンターの左側面に転がっていた。

 転輪が空しく空転し、雨の中嫌な金属音を周囲に響かせていた。

 

「あっ」

 

 よりによって、こんなところで――、

 

 カリエは唇を噛みしめた。あと少しというところで、パンターは足を失っていた。撃破の判定はまだ出ていない。

 だが、これ以上走ることは出来ない。

 まだダージリンとの距離がある。

 まだ、彼女には届かない。

 後方から追いついてきたクルセイダーたちが再びカリエのパンターを囲んだ。

 控えめに見ても殺気立っていることが伺える。捕らえたと思っていた獲物が、予想外に暴れたので苛立っているのだろう。

 

 がん、とパンターの天蓋に拳を打ち付けた。

 こんな情けない形で、

 こんな醜態をさらけ出して、

 撃破されることが悔しかった。

 

 何より、ダージリンの真意を知れないままに退場しなければならない、己の未熟さと無力さ加減に腹が立って仕方なかった。

 

 天を見上げる。

 雨の滴が容赦なくカリエとパンターを打ち付けている。

 体を支配する激情からくる熱も、パンターの発する熱も、冷たい雨に打たれて徐々に冷めていく。

 何となく、この熱が引いたときが敗北の時だとカリエは感じた。

 

 やるなら(ひと)(おも)いに――。

 

 そんな願いを込めて再び眼前のチャーチルを見る。

 いよいよ、ダージリンは何も言わなかった。

 

 もういい、と瞳を閉ざす。来るべき衝撃に備えて、キューポラの縁をぎゅっと握りしめた。

 審判(おわり)の時を今、待ちわびる。

 

 

01/

 

 

 カリエにとって救いがあるのだとしたら、それは乗員たちの練度だった。

 彼女たちはカリエの命令を忠実に遂行するスキルを有している。

 カリエが動けと言えば動き、止まれと言えば止まった。例えその場では理に叶っていないと思わせるような命令でも、カリエが命じるのだから、と一切の余談を挟むことなく彼女たちはそれに従う。

 カリエの言葉に全てを捧げた従僕なのだ。

 けれども、命令をこなすだけのお人形ではなかった。

 彼女たちの練度は、忠誠と自主性が複雑に入り交じった、本物の練度だったのだ。

 通信手が無線を受け取る。

 友軍の発信内容を読み取る。

 そしてカリエを見る。カリエはチャーチルを睨み付けてはいたが、すぐに観念したように天を仰いでいた。

 

 そんな彼女に無線内容を伝え、命令として車内に伝達されたときのパンターが反応できるスピード。

 自身が独断でナナに指示を下して、パンターが反応できるスピード。

 

 考えるまでもなかった。

 後から叱責されてもいい。カリエに嫌われてもいい。この試合の後、パンターから降ろされてもいい。

 けれども、自分の車長がこんなところで、グロリアーナの卑劣な作戦の前に屈する姿など見たくなかった。

 何よりカリエの、悲痛な叫びをこれ以上聞きたくはなかったのだ。

 

「ナナ! 右の履帯だけで良い! 全速前進!」

 

 そしてナナもそれは同じこと。

 カリエの命令でなくても、通信手の言葉一つに全てを託した。言われたとおりにパンターを操作する。ここにきて初めて、カリエの意図しない動きを彼女たちは取った。

 

 そしてそれがカリエを救う。

 

 

02/

 

 

 飛来した砲弾が装甲と火花を散らした。

 

 右の履帯だけで、殆どスリップするように動いたパンターの背後から、砲弾が飛来したのだ。

 最初、グロリアーナの面々は焦ったクルセイダーの誤射だと思った。

 

 だがその雷鳴すら掻き消してしまう発砲音の大きさが、もっと事が重大であることを教えてくれる。

 冷たい雨と、砲撃の熱がぶつかり合って、白い水蒸気が巻き上がっていた。

 

 第二次世界大戦中連合軍が、最も恐れた怪物。

 公式記録上、一度も撃破されたことのない誇り高い王虎。

 燦然と輝くエンブレムは、円環の蛇であるウロボロス。

 

 王者黒森峰女学園、栄光あるフラッグ車。

 逸見エリカのティーガーⅡだった。

 

「うそ、なんで」

 

 半ば心が折れていたカリエが疑問の声を上げる。

 何も指示を下していないのにパンターが動いたこともそうだが、ここにあるはずのない巨体を見定めて動揺する。

 後方にいるはずだった。小梅たち護衛に守られて座しているはずだった。黒森峰の勝利のために、彼女は彼女の役割を果たしているはずだったのだ。

 

「エリカ!」

 

 いつかそうだったように、妹を(なぶ)られた怒りか、猛然とティーガーⅡが前進を開始した。

 途中、クルセイダーの一両がチャーチルの盾になるべく進路上に割り込むが、アハトアハト砲の一撃で吹き飛んでいった。目に見えて、グロリアーナの部隊の統制が乱れた。

 

「エリカ! エリカ! 駄目だ来るな!」

 

 無謀とも取れるカリエへの援軍。

 去年のあの時は、エリカの奮闘及ばず二人とも最終的には撃破されていた。

 ただ、その時と決定的に違うことが一つある。

 それはティーガーⅡに随伴車両が複数台伴っていたことだ。姉妹二人ではない。今回は姉妹を救うために意を決した仲間がいた。

 雨のカーテンの向こうから、ティーガーⅠとパンターが出現したのだ。

 車両番号を照会するまでもなく、二両の主が誰なのか、カリエにはわかっていた。

 みほと小梅までもが、カリエを救うために最前線まで駆けつけていた。

 じわり、とカリエの視界が雨以外の液体で滲んだ。

 

「副隊長、救援です! エリカ副隊長とみほ隊長、小梅さんが助けに来てくれました!」

 

 ぽろぽろと涙を零しながら、通信手がカリエに叫ぶ。

 彼女が受け取った無線は簡潔ながらに明瞭。

 

『ティーガーⅡの射線上にあなたたちがいる。至急、発進されたし』

 

 通信手の完全な独断ではあったが、確かにパンターは動いた。

 動いて、エリカのティーガーⅡの砲撃の道を開いた。カリエに対する包囲網が一転、グロリアーナのフラッグ車が強力な黒森峰の主力車両に反包囲される形になった。

 状況が一瞬で好転したのである。

 

「…………」

 

 思わぬ援軍に、パンターの乗員の士気が一気に回復した。履帯は破損していたが、砲塔部分は全く問題がない。装填手が砲弾を砲尾に叩き込み、砲手がハンドルを使って砲身を回転させる。

 狙いはもちろん、敵フラッグ車のチャーチル。

 

「…………おかしい」

 

 ぽつりとカリエが漏らした。「え?」とパンターの隊員たちが疑問の声をあげる。彼女たちが敬愛してやまない副隊長は浮かない顔をしたまま、チャーチルに視線を送っていた。

 今更何を恐れる必要があるのかと砲手が発砲を催促する。

 けれどもカリエは硬直しまたまま、チャーチルをじっと見つめた。

 そして――、

 

「あっ」

 

 ある可能性に気がついた。

 いや、可能性というには余りに状況が揃いすぎていて、それは必ず成就する呪いの予言みたいなものだった。

 カリエは自分たちに下された神託を状況から読み取って、戦慄する。

 目の前に突如と出現した、黒森峰敗北の未来をはっきりとその目で見てしまう。

 震える唇で、紡ぐ。

 自分たちを見事に釣り上げてみせた、グロリアーナの女王に敬意と畏怖を込めて、口を開く。

 

「あなたは何処まで――」

 

 ――何処まで策を弄していたんですか、ダージリンさん。

 

 

03/

 

 

 砲弾の雨が降り注いだ。

 一つ一つの威力は、黒森峰の車両を貫通させるほどではないが、それでも決して無視できるものではない。

 ティーガーⅡとティーガーⅠ、パンターが一カ所に身を寄せ合って、死角が生まれないように砲身を操作する。それぞれがそれぞれ、あらゆる方向に対して反撃の砲撃を叩き込んでいた。

 カリエのパンターは少し離れた場所で、その惨状をただただ見せつけられる。

 

「餌だったんだ。私が餌だったんだ」

 

 カリエの中で、全ての疑問が氷解していった。

 何故、フラッグ車自らが自分をあそこまで追い詰めようとしていたのか。何故、他の街道を無視してまでそこまで一点突破に拘ったのか。何故、パンターを破壊することなくいたぶる真似をしたのか。

 

「ダージリンさんは、最初からこれが目的だった……」

 

 みほのティーガーⅠに、小梅のパンターに、エリカのティーガーⅡに砲弾が接触し、火花を散らす。

 致命傷には程遠い。

 けれども、確実にその体力と装甲を削り取っている。

 

「ふ、副隊長、まさか――」

 

 通信手が己のしでかした失態に顔を青くする。副隊長を救うことに意識を傾ける余り、彼女もしっかりダージリンの策に騙されていたのだ。

 カリエはもう一度、チャーチルを見た。

 もう、無言だとは思わなかった。それどころか声高に、己の策略が成功したことを宣言しているかのようだった。

 

 

04/

 

 

「見事な采配でした。ダージリン様」

 

 オレンジペコが、淹れ立ての紅茶をダージリンに手渡した。ダージリンはそれを受け取って、静かに傾ける。

 それは事前に定めておいた作戦の行程が最終段階に差し掛かったことを意味していた。

 

「……エリカさんが妹思いな人で本当に助かったわ。私がカリエさんにご執心な様子を見せれば必ず警戒してくれるんですもの」

 

 これまで一年間、一年もの間、コツコツと積み上げてきた策略を思い出して、彼女は息を吐く。

 カリエに接触し、過剰に追い求めたフリをし、エリカにそれを見せつけて彼女の冷静な思考を奪っていく。

 あとは準決勝のこの場面で、自身が暴走している演技をしてやれば、必ずエリカを引き摺りだせると踏んでいたのだ。

 

「美しい姉妹愛、大いに結構。それはあなたたち黒森峰の強みだわ。でもそれが、こうして弱みにもなり得ることをいい加減自覚する事ね」

 

 ダージリンがこの準決勝において、グロリアーナに下した命令は至極単純。

 カリエのパンターを半数の部隊で追い詰め、残りの半数はそこから少し離れて待機しておく、というものだ。

 そして必ず出現するであろう黒森峰主力からなる援護部隊を、待機していた残りの部隊で包囲し直し、一気に撃滅するのである。

 

「カチューシャの言っていた通りね、カリエさん。あなたはお姫様よ。黒森峰の人々全てを魅了する魔性のお姫様。その魅力は皆の冷静な思考をドロドロに溶かし、亡き者にしてしまう。本当、恐ろしい人」

 

 グロリアーナの女王は嗤う。

 王者の不甲斐ない姿を、情にほだされ、本来の実力を発揮することのできない黒森峰を嘲笑する。

 

 何度も何度も煮え湯を飲まされてきた。

 優勝の栄光を夢見るたびに、彼女たちの前に膝を屈してきていた。

 どれだけ策を巡らしても、どれだけ相手を謀略に陥れても、あと一歩のところで手が届かなかった。

 黒森峰に敗北するたび、OG会から無能の烙印を押されてきた。

 逸見姉妹の後塵を拝するたびに、愚か者の称号を押しつけられてきた。

 

 けれどもその日々は今日この瞬間に終わりを告げる。

 謂われのない侮辱に耐え忍び、泥水を啜り、嘲りを受け流し続けた日々が今終わる。

 防弾ガラス越しに、姉のティーガーⅡの援護を続けるカリエが映る。

 己をここまで追い詰めてきた、憎き蛇がそこにいる。

 彼女はこちらに背を向けていた。

 ダージリンを見てはいなかった。

 

「アッサム」

 

 紅茶のカップから口を離し、砲手のアッサムにオーダーを下す。

 沈黙を保っていた彼女は「何でしょう、ダージリン」と車長の命令を待った。

 

「パンターにとどめを刺しなさい。カリエさんの心を弄んでしまったお詫びのようなものよ。黒森峰が敗れ去るその瞬間に生き残っていた、という屈辱を与えてあげないでおきましょう」

 

「……本当によろしいのですね」

 

 普段ならその指示を即実行するアッサムが疑問の声を挟んだ。らしくない姿に、装填手のオレンジペコが困惑する。だがダージリンは顔色一つ変えずに続けた。

 

「くどいわ。何を(ちゆう)(ちよ)するというの。さっさと始末なさい」

 

 苛立ちを交えた催促。だがアッサムは狼狽えることなく、むしろ何処か慈愛すら滲ませて答えていた。

 

「――あなたがそのように決意を固めているのなら、私は地獄の果てでもお供すると言うことを忘れないで下さい」

 

 砲身が回転する。

 パンターの砲塔と車体の隙間――、かの車両の一番の弱点に狙いが付けられる。

 オレンジペコが徹甲弾を装填し、砲尾の栓を閉じた。

 後はアッサムが引き金を引くだけ。

 それだけで、行動不能に陥っているカリエのパンターは試合続行不能に追い込まれるだろう。

 

「さようなら、カリエさん。――本当に、本当に楽しかったわ」

 

 轟音が雨音を吹き飛ばすように響き渡る。

 光が瞬いて、世界が真っ白に染まった。

 

 

05/

 

 

 これは全て自分の失態だ、とエリカは現状を嘆いた。

 例えフラッグ車でも、ティーガーⅡの装甲火力を持ってすれば、乱戦に陥る前にチャーチルを撃破することが出来ると判断していた。

 妹の救援と、グロリアーナの撃破が出来ると甘い幻想を抱いてしまっていた。

 

 冷静な思考が失われていたことも大きい。

 

 ダージリンのカリエに対する妄執を警戒しすぎて、慎重さを完全に欠如していた。

 あの女の昏い瞳を思い出すたびに。

 あの女に穢される妹を思うたびに。

 あの女に思いを寄せる妹を想うたびに。

 

 エリカの思考は激情に塗りつぶされ、ダージリン以外の何もかもが見えなくなる。

 今となってはその直情さが()()に愚かなことだったのか、嫌と言うほど理解することができた。

 

「ごめん、みほ、小梅、カリエ」

 

 救援に駆けつけた三両は、必死に応戦を繰り返している。

 けれども包囲網は確実に狭まっており、装甲に跳ね当たる敵の砲弾も増えていた。

 今はまだ、ドイツ戦車が誇る強固な装甲で耐え忍んではいるが、被撃破の瞬間はすぐそこまで迫っている。

 

「私が馬鹿だったから、私があの女の思惑に気がつかなかったから」

 

 ふと視線をカリエのパンターに向けた。

 履帯を破損し、身動きの取れなくなっているパンターだ。

 彼女にダージリンの想いをしっかりと伝えていれば、彼女にあの夜の事を伝えていればこの現実は少しは違っていたのだろうか。

 

「ごめんね、本当に馬鹿なお姉ちゃんでごめんね」

 

 絞り出すような謝罪は雨と砲声に掻き消されてカリエに届くことはなかった。

 エリカの最愛の妹は、ただ敗北を待つだけの自分たちを見ていることしか出来ない。

 ふと、カリエの背後にいるチャーチルが動いていることに気がついた。

 こちらの援護のために、砲塔だけを動かしている妹は、自分が狙われている事に気がつかない。

 

「カリエ!」

 

 どれだけ叫んでも言葉が通じない。

 後ろに佇む死神を妹は知らない。

 

「やめてやめてやめてやめて!」

 

 エリカは絶望する。それは妹がダージリンに撃破されることではない。

 妹が憧れた、恋していた女に裏切られる瞬間が、すぐそこまで来ていることに絶望したのだ。

 もしもその未来が成就するのなら、最愛の妹が立ち直れなくなることくらい理解できていた。

 全ての終わりが目の前に横たわっている現状に、エリカは(どう)(こく)する。

 

「お願いやめて!」

 

 ダージリンについて話すたびにはにかんでいた妹を思いだしていた。ダージリンから貰ったアクセサリーを大事にする妹を思い描いていた。ダージリンに想いを寄せていた妹が今消え去ろうとしていた。

 

 地獄の戦場を轟音が支配する。

 エリカの必死に伸ばした手は無残にも虚空を切った。世界が白く瞬き、彼女の視界が一瞬消え去る。

 

 

06/

 

 

 しん、と沈黙が世界を支配した。

 いや、正確には雨と雷音だけが鳴り響いている。

 何処か遠くで、赤い火柱が上がっている。カリエのパンターからではない。

 

 少し離れた場所の、立ち枯れた針葉樹が落雷を受けて燃えていた。

 

「ダージリン、砲身がロックされました。発砲できません」

 

 淡々と、アッサムが報告を下した。

 気がつけば、エンジン以外の全てのシステムがロックされている。これは撃破されたときの症状に似ているが、全く違う状況であることくらい全員が理解していた。

 無線が鳴る。

 ただしグロリアーナのものではない。

 試合に参加する車両全てに搭載を義務づけられた、大会運営の無線だ。

 

『戦闘中の全ての車両に通達します。頻繁な落雷が確認され試合の続行が危険であると判断されました。よってこの瞬間より、全ての戦闘行動を禁止。各車両は今から指示するポイントに避難し、試合開始まで待機して下さい』

 

 落雷による試合の中断。

 その判断を受けて、運営が全ての車両の一部機能を、遠隔操作でロックしたのだ。

 つまりカリエのパンターはほんの少しのタイミングの差で、命拾いをしていた。

 

「……そう、千載一遇の好機なのだけれど仕方がないわね。全車両に通達。これより運営の指示に従い待機ポイントに向かいます。自走できない車両はそのまま待機。回収車を向かわせるので大人しくしていなさい。絶対に外に出ては駄目よ」

 

 一言で全体に対する指示を下し、ダージリンは無線機を置いた。

 そしてままならないわね、と脇に置いてあった紅茶のカップに手を伸ばす。

 だが、

 

「あら?」

 

 つるり、とカップが彼女の指をすり抜けた。重力に引かれたそれは、一秒もしない間に車内の床にたたき付けられ、破砕音と共に紅い染みを作り出していた。

 

「あ、ダージリン様、私が片付けます! お怪我はありませんでしたか!?」

 

 慌てたオレンジペコが砕けた破片を拾い集める。

 ダージリンはまるで信じられない、といったふうに己の手を凝視していた。

 

「うそ、なんで……」

 

 かたかたと、震える手。いや、手だけではなかった。彼女の身体そのものが何かに怯えるように震えていたのだ。

 オレンジペコがそんなダージリンを見て、「お寒いのですか?」と気遣う。

 言葉を返したのはアッサムだった。

 

「オレンジペコ、視界が悪いわ。あなたが車長席に立って周辺警戒を行ってくださる? 特にローズヒップがちゃんとこちらに着いてきているか、監視をお願いしたいわ」

 

 落ち着いていながらも、有無を言わせぬ迫力の言葉に、オレンジペコはすぐさま行動を開始した。合羽を着用しないままキューポラをこじ開けようとしたので、慌てて通信手に止められている。

 

「……ダージリン」

 

 この会話は二人にしか届かないと、アッサムはダージリンに向き直った。

 訳がわからない、と自分の手を押さえつけようとするダージリンの腕を彼女は掴み取った。

 

「この試合中断は黒森峰の幸運ではありません。私たちに対する幸運です。神様がくれた、最後のチャンスです。よく考えて下さい。そして忘れないでください。私は、いえ、私たちは地獄の果てでもあなたに着いていきます。だから、次は自分の心のあり方を間違えないで下さい」

 

 がくん、とチャーチルの車体が揺れる。

 待機ポイントに向かい始めたのか、車両が歩みを進めていた。

 ダージリンが他の乗員の制止を振り切って、合羽も着ないままにキューポラから顔を出す。

 着替えを行っていたオレンジペコが「駄目です!」と縋り付いていたが、それでも彼女は止まらなかった。

 

 カリエのパンターが遠ざかる。

 姉たちに支えられて、パンターから引き上げられるカリエが遠ざかっていた。

 

 

04/

 

 

 未だ雨脚が収まらぬ中、みほと小梅、そしてエリカは雨合羽を着込んでカリエのパンターの周辺に残っていた。それぞれ自分たちの車両の車長を通信手に委任し、指定ポイントまで向かわせたあと、履帯の破損したパンターの応急処置を手伝っていたのである。

 回収車が到着するまでの間、少しでも車両復帰を済ませておこうという魂胆だった。

 

「みほ、小梅、それにカリエ。本当にごめんなさい、私が短慮だったわ」

 

 そして、応急処置が完了していたパンターに、四人で乗り込んで身を寄せ合った。

 本来のパンターの乗員たちは、先に来た兵員輸送車で指定ポイントに先行している。回収車が到着するまでパンターの見張りを四人で行うとエリカが申し出たのだ。

 自分たちの隊長格にそんなことはさせられない、とナナ達は反対したが、みほが滅多に見せない「命令を聞いて下さい」という威圧に押される形で、渋々輸送車に乗り込んでいった。

 雨粒が天蓋を打ち付ける音と、時々鳴り響く雷音が四人の耳に届く。

 エリカの謝罪に最初に答えたのはみほだった。

 

「いえ、反対もせず作戦を承認した私の責任です。エリカさんが気に病む必要はありません」

 

 彼女が謝罪するのは、隊長としての務めを果たすことの出来なかった自分の甘さだ。

 エリカのフラッグ車が前線に向かうことの危険性を軽視し、黒森峰を結果的には窮地に追い込んでいた。

 

「みほさんもエリカさんも悪くないですよ。大人しく援軍の編成に従わなかった私が悪いんです」

 

 そんな二人に小梅が反論する。

 彼女はそもそもこんな状況に陥ってしまったのは自身の進言が原因だと主張して譲らなかった。

 

 カリエを除く三人がそれぞれ自分の責任を主張し合った。

 その不毛な議論は数分ばかり続いたが、誰からともなく「せっかく命拾いしたんだからやめましょう」と宣言して一応の収束を見せる。納得したわけではなかったが、今はそんな場合じゃないと自分たちを律した。

 数拍の沈黙が車内を支配する。

 一度謝罪合戦を終えてしまえば、互いに口を開くことが躊躇(ためら)われた。それほどまでに、四人の雰囲気は消沈していたのである。

 だがぽつり、とそれまで黙していたカリエが口を開いた。

 

「……三人は悪くないよ。私が全部悪い」

 

 今更蒸し返すな、とエリカがカリエの頭を小突いた。けれども自分たちの謝罪とは毛色が違うことに気がついて、三人はカリエの言葉に大人しく耳を傾けていた。

 

「ダージリンさんに対する甘えがあったんだ。この人は私のことを見てくれている。私のことを気に掛けている、私のことを好ましく思ってくれている。そんな浅ましい考えをあの人に見透かされたからこんなことになった」

 

 それは残念ながら事実だった。

 カリエのダージリンに対する想いが利用されたからこそ、黒森峰は窮地に陥った。カリエがダージリンに対する冷静な分析を持つことが出来たのなら、主力を釣り上げる為の餌にされることもなかった。もっと早くに自身の生存を諦めて、数両を道連れにグロリアーナに痛手を与えるのが正解だったのだ。

 

 再び、車内から言葉が失われる。

 誰もカリエの言葉を否定できなかった。本人の、自分たち以上の悲痛な想いを知っているからこそ、否定することが憚ら(はばか)れたのだ。

 淡々と時間だけが過ぎ去っていく。

 無言の時間だけが積み重なっていく。

 回収車はまだ現れない。この悪天候の中、パンターの元に辿り着くのに手間取っているのだろうか。

 

「……カリエはダージリンのことが好きだったの?」

 

 ぽつり、とエリカがいつのまにかそんな事を口にしていた。

 薄々と感づきながらも、触れることのなかった一種のタブー。見えないふりをしていた不都合な真実。

 カリエは驚いたように姉を見つめたが、隠していても仕方がないと観念したように言葉を繋いだ。

 

「たぶん、ね。エリカは怒るかもしれないけれど、やっぱり私の中に捨てきれない男の部分があるんだと思う。そしてそいつがダージリンさんに懸想しているんだ」

 

 馬鹿みたいだよね、とカリエは自嘲した。

 自嘲して、静かに涙を零しながら続ける。

 

「逸見カリエとして生きていくと、お姉ちゃんの妹として生きていくと決めていた筈なのに、どうしても心がざわめくんだ。あの人の笑顔を思うたびに、あの人に貰った好意を思い出すたびに、心臓が言うことを聞いてくれなくなるんだよ。頭ではおかしいとわかっていても、心がそれについていかない」

 

 でも大丈夫だよ、と笑顔を見せた。エリカだけではなく、みほや小梅にまで笑顔を見せた。

 

「――フラれちゃったから。ダージリンさんにはもうフラれたから大丈夫。次はもう惑わされない。次は黒森峰の逸見カリエとして叩き潰してみせる。あなたたちの栄光を穢しはしない。名声も堕としはしない。あの人を完膚なまでに叩き潰して、勝利を掴み取って見せる。そのために牙を磨いてきた。逸見姉妹として、研鑽を積んできた」

 

 それは壮絶な笑みだった。みほも小梅も、エリカですら初めて見るカリエの笑みだった。

 三人に恐怖心を抱かせるには十分すぎる、殺意に塗れた感情だった。

 先ほどとは違った意味での沈黙が車内に満ちる。余りに重たすぎるカリエの気配が、三人を押し潰しているのだ。みほも小梅も言葉が紡げない。

 カリエの言葉を否定するだけの、何かが足りない。

 

「――馬鹿なんじゃないの、あんた」

 

 そんな状況だからこそ、動いたのはエリカだった。

 気がつけば、彼女はカリエの胸ぐらを掴みあげていた。

 そしていつかダージリンにそうしたように、カリエの頬を平手で打ち付けていた。

 

「え、エリカ」

 

 困惑したカリエが自身の頬を押さえる。姉にぶたれるのはこれで二度目だと、混乱する思考の片隅でそんなことを考えていた。

 

「フラれたも糞もないでしょう! あんたがはっきりしないからあいつも拗らせて狂っているんじゃない! あんたがいつまでも何も言わないから、あんたが何も言ってくれないから……!」

 

 正直言って八つ当たりだった。責めるべき相手を間違えてはいた。

 カリエが悪くないことくらい理解していた。カリエのダージリンを叩き潰すという覚悟が正しいこともわかっている。

 けれどもエリカはそれを容認できなかった。

 最愛の妹が、そんな選択をせざるを得ない今が許せなかった。

 ダージリンの事は今でも嫌いだ。殺してやりたいくらい恨んでもいるし()()もしている。

 妹にした数々の所業を許すことは恐らく未来永劫ありえない。

 けれどもカリエが、それらを乗り越えた上で、ダージリンを許し、愛そうと決めているのなら、話は別だった。

 そんな妹の想いを諦めさせることが何よりも我慢ならなかったのだ。

 エリカはカリエを愛している。

 愛しているから、カリエが幸せになるあらゆる道筋を認め、共に歩んでいくと決めていた。

 

「お願いだからそんな選択をしないで。あなたまで、おかしくならないで。あなたはあなたのままでいい。私はそのままのあなたが一番好きなの。だから、後悔をしないように、あなたがやりたい道を進んで見せて」

 

 それが私の幸せだから、と遂には泣き崩れた。

 みほと小梅は何も言わない。だが心の内はエリカと同じだった。

 カリエの気持ちを踏みにじってまで手に入れる勝利など、微塵も求めていない。

 二人の視線がカリエを射貫く。じんじんと痛む頬が、寝ぼけていた思考を無理矢理起き上がらせる。

 

「ごめんなさい。お姉ちゃん。やっぱり、私のお姉ちゃんはお姉ちゃんだけだ」

 

 カリエが狭い車内であるものに手を伸ばした。それは運営から支給されている黒森峰、グロリアーナ、その全てにホットラインが開いている無線機。

 試合中断のこの瞬間だけ使える、ダージリンへの最後の道標。

 

「やっぱりお姉ちゃんが一番好き。お姉ちゃんと共に決めた道を歩いて行くのが私の一番の幸せ。でもこれから想いを伝える人はそんな道を進むときに、寄り添っていて貰いたい人だと思う。お姉ちゃんとはいつまでも二人で行き先を決めて、時に馬鹿みたいに笑い合いたい。そして――、この人とは手を繋ぎたい。道を歩みながら二人で同じ月を見ていたい」

 

 最後にこう告げる。

 

「我が儘な妹でごめんね」

 

「馬鹿ね、あんたの我が儘なんてもう慣れっこなのよ」

 

 エリカがぐいっ、とカリエの肩を押した。

 彼女はこんな風にして妹と何かを決め続ける毎日が、自分にとっての最大の幸せだと、いつの間にか理解していた。

 

 

05/

 

 

 宣誓が響き渡る。

 黒森峰とグロリアーナの垣根を越えて、青臭い少女の声が響き渡る。

 

『ダージリンさんに告ぐ! 試合開始直後に私は私の部隊を率いてあなたを貰い受けに行く! 絶対に逃がしはしない! 地の果てでも、地獄の向こう側でも、何処に行こうとあなたの姿を見つけて、その青く気高い全てを奪いにいく! 全てを欲しているのがあなただけなんて、馬鹿な考えは捨てて下さい! あなたは私の全てを受け入れるとおっしゃってたんですよね!? なら――』

 

 カーン、と無線が音割れした。

 

『あなたが欲しいという私の欲望も受け入れて下さい! 私はあなたを信じています!!』  

 黒森峰とグロリアーナ、雌雄を決するときがきた。



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秋山優花里の戦車道 14

 いつから彼女のことを四六時中想うようになったのか、時折考えることがある。

 人が人を愛するには、それ相応の理由がある筈だと、疑問に感じたからだ。

 

 果たしてそれは、劇的な出会いなのだろうか。

 または情熱的な愛の告白か。

 それとも破滅的な自身の状況がそうさせたのか。

 

 だがいずれのそれも全て否だと彼女は結論づけていた。

 

 出会いは平凡だった。いつのまにか、彼女は自分の認識の中にいた。

 情熱的な告白などなかった。いつだって、不倶戴天のライバルとして立ちはだかられ、立ちはだかった。

 破滅的な自身の状況なんて、あまりにも毎日のことで感覚が麻痺している。そんなことで、誰かに想いを寄せるなどありえない。

 

 結局の所、世間一般の多分に漏れず、いつの間にかその人のことが好きになっていた、という実に詰まらない現実がそこにはあった。

 でも彼女は失望しなかった。

 むしろまだこんな真っ当な感覚が自身に残されているのか、と安心すらした。普通の少女のように誰かに秘めた思いを持つなど、それまでは想像すら出来なかったから。

 だが、夢想を持てたのはそこまで。

 そこから先、感情の発露という意味では、彼女は多大な遠回りを繰り返していくことになる。

 

 圧倒的権力に塗れた立場故に。

 些か回転が良すぎる頭脳故に。

 よりによって、自身が一番打倒しなければならない陣営にその相手が所属していた故に。

 

 端的に言って彼女は疲れてしまった。

 疲れて、感情に対する希望を失った。

 こんなにも苦しいのなら、こんなにも辛いのなら、もうこの感情すら利用してやろうと考えた。

 自分と相手の破滅をもって、グロリアーナに最大の栄光をもたらしてやろうと考えた。

 

 権力が役に立った。一見私怨に満ちているような作戦でも、部隊全体に押し通すことの出来る強権が役に立った。

 頭脳が役に立った。敵の釣り方、挑発の仕方、包囲の仕方、殲滅の仕方、その全てがすらすらと思いついた。

 相手が一番憎い陣営にいたからこそ、ここまで自分を追いつめることが出来た。愛情を裏返し、憎しみとした。自身に憎しみの深さを懇々と伝え、冷徹な作戦を築きあげる礎とした。

 チェスの駒は全て整った。

 あとは思い描いたとおりに盤面にそれらを踊らせ、相手のクイーン諸共全て殲滅してやるだけだった。

 実際、あと一歩の所まで来ていた。

 クイーンの足を封じ、キングを取るところまで来ていた。

 そんな有利なチェス運びが覆されるなど、理由は立った一つしかない。盤面そのものが砕かれたときだ。

 しかしそれは来てしまった。落雷という幸運によってクイーンとキングは生き延びた。

 いや、幸運は幸運だが、彼女が勝つ方法はあった。クイーンなどほったらかしにして、キングに速攻を仕掛ければよかったのだ。

 そうすれば落雷が発生する前に、キングを仕留めることが出来ていた。車両の一部をクイーンの牽制に当てていたから、運命の時に間に合わなかった。

 自身の想いに決別するために、相手に完膚なまでに憎まれるように、敢えてクイーンに止めを指そうとしたのがいけなかった。

 

 いや、もう回りくどい言葉はやめよう。

 

 カリエに最後の最後で執着したことが、ダージリンの失態だった。

 執着の演技を演技で終わらせられなかった。カリエを無視して、エリカを仕留めることが出来なかった。

 その僅かの時間の差が、グロリアーナの手から勝利がこぼれ落ちる一因になってしまっていた。最後の最後で、ダージリンは勝ちきれなかった。

 

 愛情も、憎しみも、どちらも突き詰められなかったから。

 彼女は全てを失ってしまっていた。

 

 

01/

 

 

 グロリアーナの天幕の雰囲気は決して明るくない。いや、寧ろ先ほどまでの状況を考えればこれ以上ないくらい消沈していた。その理由は、黙して語らない指揮官にある。

 

「…………」

 

 いつものように紅茶を傾けることもなく、指揮官は静かに瞳を閉じていた。閉じて、身動き一つ零すことなくただ沈黙を保つ。

 眼前に立つ隊員たちはさすがに困惑を隠せていなかった。

 

「――だめね、勝ち筋が消えてしまったわ」

 

 やがて、沈黙が針のような痛みを持ち始めたとき、ようやっとダージリンが口を開いた。彼女の思わぬ言葉を受けて隊員たちがざわめく。

 

「装甲火力でこちらが劣っている以上、奇策を以て相対するしかなかった。けれども彼女たちとて王者黒森峰。二度の失策に嵌まるような愚者ではない」

 

 ダージリンの告げる事実は限りなく正しいものだった。正面からぶつかっても勝ち目がない以上、彼女たちは相手の裏をかき続ける必要があったのだ。

 けれどもその為に用意されていた策は天候という不運に打ち破られ、黒森峰に状況を立て直す余裕を与えてしまっている。

 

「ダージリン……」

 

 脇に控えていたアッサムが思わず声を漏らす。彼女のすがりつくような瞳が、二の句を言い澱む唇が、グロリアーナの隊員たちの心境を代弁していた。

 それはすなわち――、

 

 ここで我々は終わりなのですか、と。

 雨の降りしきる音が五月蠅いと感じるほど、天幕内は静寂に包まれていた。

 誰もが自分たちの陥っている状況を理解し、悔しさを滲ませて、唇を噛んでいた。あと少し中断が遅ければ、彼女たちには王者を打ち砕いたという栄光があったのだ。

 ほんの少しの差ですり抜けて行ってしまった未来がたまらなく憎らしい。

 誰からともなく、嗚咽を漏らした。

 ダージリンやアッサムの手前、露骨に泣く者はいなかったが、皆がそれぞれ、行き場のない感情を持て余していた。

 王者は天まで味方に付けてしまうのか、と新たな絶望を覚えていた。

 

「……試合が再開された直後、全部隊で浸透戦術を仕掛けるわ。あちらの防御網の強固さは今更語るまでもないでしょうけれど、機動性を活かしてなんとかフラッグ車を目指すのよ。それが我々グロリアーナに残された最後の手段」

 

 ダージリンが立ち上がった。立ち上がり、泣き腫らしている隊員たちを見回した。

 彼女はもう一度瞳を閉じた。おそらく思い描いているのは、自身が隊長として引っ張ってきたこれまでの一年間だ。汚濁を精一杯飲み込み続けて来た、地獄の一年。

 

「皆さんには礼を言うわ。私のような未熟者を隊長として仰いで下さったことには感謝をしてもしきれない。そして此度の結果は全て私の責任よ。最後の最後に策を弄しきれなかった私の責任。だからこそあなたたちにけじめとして、宣言するわ」

 

 すっとダージリンは息を吸った。そしてこれまでの一年に、いや、自身の戦車道人生に幕を下ろすべく口を開いた。

 後悔ばかりの毎日だった。辛いこと、苦しいこと、悲しいことに塗れていた日々だった。けれどもその全てに蓋をするように、彼女は告げる。

 

「今日この試合をもって、私は戦車道の一切から手を引きます。ノーブルシスターズからも辞するわ。それが私に出来る最後の――」

 

 カーン、と無線機が割れた。運営からの連絡が途切れないように、と一台だけ天幕に持ち込んでいた無線機が音を鳴らしていた。

 作戦会議が漏洩しないようにと、マイクはオフにしてある。だが、スピーカーだけはそのままだった。

 全体に聞こえるよう、大音量に設定していたスピーカーが吠えた。

 

『ダージリンさんに告ぐ! 試合再開直後に私は私の部隊を率いてあなたを貰い受けに行く! 絶対に逃がしはしない! 地の果てでも、地獄の向こう側でも、何処にいようとあなたの姿を見つけて、その青く気高い全てを奪いにいく! 全てを欲しているのがあなただけなんて、馬鹿な考えは捨てて下さい! あなたは私の全てを受け入れるとおっしゃってたんですよね!? なら、あなたが欲しいという私の欲望も受け入れて下さい! 私はあなたを信じています!』

 

 誰もが呆気に取られた。何を馬鹿なことを言っているのだ、と言葉を失っていた。そもそも誰がオープンチャンネルを使っているのかも理解していなかった。

 だが、ダージリンがその声を見失う筈がなかった。

 あれだけ追い求め続けた愛しく憎らしい存在を、見失うわけがない。

 

「……カリエさん?」

 

 ダージリンの困惑の声に答えるかのように、無線は続けた。

 

『こちらが引き連れていくのは私のパンター1! 遊撃部隊のパンター3、Ⅳ号2、Ⅲ号3! 計9両! それ以上でもそれ以下でもありません!』

 

 誰もが硬直する中、アッサムとオレンジペコが弾かれたように動き出した。すぐにテーブルの上に紙を広げてカリエの告げた編成を書き込んでいく。そして、黒森峰に残された車両と見比べた。

 

「……機動性に優れた車両が全て逸見カリエの部隊に取り込まれています。フラッグ車の護衛にはティーガーⅠが1、パンター3、エレファントが1です。パンターを除けば重戦車クラスしか残されていません。しかもそのパンターも決して足まわりが優れているわけでもない」

 

 アッサムの即興の分析に対して、誰かがいける、と呟いた。

 たとえ装甲火力で劣っているとしても、機動力ではグロリアーナに分があった。

 カリエが宣言したとおりに部隊を編成するのだとしたら、グロリアーナの機動性を持って、黒森峰のフラッグ車を含む主力に対して有利に立ち回ることも可能だったのだ。

 しかも豪雨でぬかるんだ地面だ。足まわりに優れた中戦車を減らし、より鈍重になってしまった黒森峰主力にとって、それは最悪のフィールドコンディション。何処までもグロリアーナに追い風の状況だ。

 

「ですが黒森峰の罠だという可能性もあります。大会規約に反していない範囲でこちらに陽動を掛けているのかも……」

 

 オレンジペコの冷静な呟きに、にわかに活気づきかけた隊員たちが意気消沈する。

 自分たちへの追い風の大きさに対して盲目していたことに気がついたのだ。もしこれが黒森峰側のフェイクだった場合、グロリアーナの戦力が伏兵によって撃滅されることになる。

 やはり王者には手が届かないのか、と誰もが思い始めたとき、流れを変えたのは他ならぬダージリンだった。

 

「――そう、決闘のつもりなのね、カリエさん」

 

 決して周囲に響きわたるような声量ではなかったが、彼女の呟きは全員に届いていた。

 

「皆さん、安心しなさい。黒森峰は王者を自負する学校よ。フェイクで誘導するほど落ちぶれていないわ」

 

「な、なら本当にこの通りに編成を組み直すんですか?」

 

 信じられない、とオレンジペコが動揺する。だとしたらそれはこちらに対する慢心を通り越した侮辱だと、怒りを露わにしていた。

 だがダージリンはそんな疑問を一笑のもとに伏す。

 

「それでも勝つつもりなのよ。彼女たちは。――いえ、彼女は、かしらね。本当、あなたは何処までも私の心を掻き乱していくのね。不愉快で気持ちが良いわ」

 

 火が、灯っていた。

 隊員たちの動揺など、さも存在しないかのような野心を再び灯したダージリンがそこにいた。

 彼女はアッサムとオレンジペコが囲んでいた地図に近づき、ペンを走らせていく。

 

「向こうがそのつもりなら、それを最大限に利用させてもらうわ。あちらのフラッグ車周りは鈍重な重戦車ばかり。それらに機動力で遙かに勝る車両で、黒森峰討伐隊を編成します」

 

 隊長としてのダージリンが蘇っていた。一度は己の失脚を覚悟し、懺悔していた彼女が、再びグロリアーナの女王に返り咲いていた。

 誰もそのことに異論を挟まない。むしろそれを願っていたと全員が目を輝かせる。彼女たちは、自分たちの気高く聡い女王を愛していた。

 

「ローズヒップ、あなたがクルセイダー6両を率いてティーガーⅡを討ちに行きなさい。あちらの装甲火力は恐るべきものがあるけれど、機動性では遙かにこちらが勝っている。なら、戦い方はご存じね」

 

「はい、ダージリン様、お任せ下さいませ! 必ずやグロリアーナに勝利をもたらして見せますわ!」

 

「結構。期待しているわ」

 

 ここにきて初めてダージリンが微笑みを見せた。それまで堅く結ばれていた唇が緩んでいた。 

 

「ルクリリはこちらのフラッグ車の護衛につきなさい。あなたの率いているマチルダの半数も同様よ。そして残された4両をクルセイダーの後詰めとして討伐隊に加えなさい。ただし同時に進軍しては駄目よ。黒森峰本隊が疲れを見せたタイミングで逐一投入し、あちらの足並みを乱すの」

 

 女王の采配が生きていた。グロリアーナを栄光に導くための、彼女の頭脳がフル回転していた。

 

「フラッグ車の護衛車両の布陣はこうよ。カリエさんは知謀に優れた方だけれど、突破力では姉のエリカさんに一歩譲るわ。だからこそ、向こうの遊軍部隊の機動力に頼らざるを得ないところがある。そのため、単調な防衛網は放棄。少し複雑でもこのように待機して。車両間の連携が問われる場面だけれども、あなたたちだからこそ可能な陣形よ」

 

 ダージリンの指示を受けて、隊員たちはそれぞれの車両ごとに集い、作戦の確認を始めた。

 取り敢えず、今出来ることはやりきった、とダージリンはテーブルに備え付けられていた椅子に腰掛けた。そしてオレンジペコの姿を探すが――、

 

「はいどうぞ」

 

 声を掛けるまでもなく、眼前に湯気の立ったカップが用意されていた。見ればにこにこと、喜びが隠しきれないといわんばかりにオレンジペコが微笑んでいる。

 何がそんなに嬉しいのか、と問えばオレンジペコはこう答えた。

 

「だって、ダージリン様ったら本当に嬉しそうなんですもの」

 

 まさか、と彼女は首を降って否定した。だがアッサムがその否定を上書きする。

 

「いえ、決闘を受けると決断したときから、見違えるほど生き生きとしていますよ。あなたは。やはり、黒森峰の副隊長に求められたのがそんなにも嬉しいですか?」

 

 少しばかりからかうような声色。けれどもダージリンはよくわからない、と眉を潜めながら答えた。

 

「決闘を求められたことが嬉しい? 私ってそんなに好戦的に見えるのかしら? 確かに、こちらの手の中に、再び栄光を得るチャンスが転がり込んできたのは喜ばしいことなのでしょうけど……」

 

 絶句したのはアッサムとオレンジペコの二人だった。互いに顔を見合わせて、「嘘でしょう」と声を漏らした。

 意を決してダージリンの肩を掴んだのは、彼女の最古参の腹心であるアッサムだった。

 

「もしかして気づいていないのですか? あなた、自分が何に喜んでいるのか」

 

「いえ、何を怒っているの? アッサム……」

 

 普段は見せない、腹心の呆れたような表情に、ダージリンが初めて狼狽える。さっきまでなら間違いなく鉄面皮を貫いて、無視すら決め込んでいただろうに、ダージリンのガードはかなり緩んでいた。

 

「確かに我々に勝利の可能性が見えたことは大変喜ばしいことです。ですが、あなたのその心は、重石を、楔をいつの間にか捨て去ったあなたの心は、逸見カリエの告白を無自覚に喜んでいるからでしょう!」

 

 世界が沈黙した。

 いつの間にか、作戦会議に熱中していたグロリアーナの隊員全ての視線がダージリンに注がれていた。彼女は真顔のまま、視線を二、三度、左右に泳がせた。

 そして、一気に赤面した。

 

「な、何を言っているの! ここは冗談を言って良い場面ではない筈よ!」

 

 耳まで真っ赤にしてダージリンは叫んだ。だが、それに負けず劣らずの声量でアッサムが返す。

 

「どう考えてもあれは告白じゃないですか!」

 

「嘘よ! 大体カリエさんが私のことを好いてる筈がないわ! あれだけ裏切り続けていたのよ! 彼女を利用し続けていたのよ! それを全部なかったことにするなんて、大馬鹿にもほどがあるわ!」

 

 愛情があったことは否定しない。けれどもそれと同程度の憎しみも持っていたし、それをぶつけもした。此度の奇策など、まさしくそれの集大成だった。

 そんなどろどろとした企みが黒森峰に露見した今、カリエが自身に好意を持つはずがない、とダージリンは主張する。

 けれどもアッサムは悩まなかった。むしろなんで自分がこんな簡単なことを教えなければならないのだ、と盛大にため息を吐いて、ダージリンにこう告げた。

 

「そんな大馬鹿者だから、好きになったんでしょう」

 

 言葉は返せなかった。

 言い訳や、煙に巻く格言を模索したが、何も思い浮かばなかった。

 真っ白な頭のまま、ダージリンが取った行動はたった一つ。

 赤い顔をそのままに、小さく頷いてみせるだけだった。

 

 

02/

 

 

 試合再開はそれから一時間後のことだった。

 雨は小降りになり、雷は鳴りを潜めていた。

 それぞれ指定されたポイントをスタート地点として、ほぼ新規の状態で試合が開始された。

 いくら大会規約で定められていても、圧倒的にグロリアーナ有利の試合展開がリセットされたことに、観戦していた観客たちは不満を漏らした。

 黒森峰に何かしらのハンデをつけるべきだ、という声も出ていた。

 だがそんな不満の声も試合開始までのもの。

 いざ試合が始まったその時、観客たちが目にしたのは、王者黒森峰と古強者グロリアーナのそれぞれの威信を懸けた決闘まがいの試合だった。

 黒森峰は圧倒的不利になるとわかっていて、グロリアーナに遊軍部隊を差し向けた。

 グロリアーナもそれを正々堂々受け止め、優雅な機動戦術を披露した。

 誰もが試合中断の遺恨を忘れた。

 優勝というたった一つの栄光に直向きな彼女たちに魅せられていた。

 

「高校戦車道史上最高の激闘」と後に呼ばれることになる、伝説の試合が幕を開けた。

 

 

03/

 

 

「6号車と10号車は左側面から出てくるマチルダを押さえて。7号車と19号車は右側面を警戒。私から離れないで」

 

 泥濘をかき分けながら、パンターが疾走する。エンブレムは土に汚れ、履帯は茶色く染まっていた。けれどもその進みは軽快そのもので、グロリアーナの防衛網に食い込んでいく。

 

「タイムリミットは30分。これより、落伍する車両は残念ながらカバーできない。死ぬ気でついてきて欲しい」

 

 カリエが下す命令は、自身に随伴する車両の援護を切り捨てるというもの。つまりグロリアーナの網に引っかかった車両はそこで脱落を意味している。

 だがそのことに不平を漏らす者はいない。むしろ当然だ、と言わんばかりに静かな闘志を燃やしていた。

 

「グロリアーナも別ルートで、私たちのフラッグ車に別軍を差し向けている筈。このフィールドコンディションで護衛車両が戦える時間は限られている。厚い皮膚より速い脚。ただただ速度のみを重視」

 

 カリエの告げたとおり、機動力で劣る黒森峰主力が、ぬかるんだ地面で快速のグロリアーナ車両を相手取ることのできる時間は有限だった。

 履帯の不安、車重の不安、乗員の負担の不安、あらゆる面で、不利な戦いを強いられている。

 

「けれども、向こうも条件は似たようなもの。私たちがフラッグ車に一度取り付いてしまえば、あとは装甲火力の差で押しつぶすことが出来る。これは黒森峰とグロリアーナのそれぞれの長所をぶつけ合う、いわば決闘」

 

 ふと、カリエの視線が、随伴するⅣ号戦車の車長とぶつかった。カリエよりも一つ学年が上の彼女は、口元を指さして、何かしらのジェスチャーを送ってきている。

 カリエはそのジェスチャーの意味を一瞬で理解した。

 

 もったいぶるのも、取り繕うのも、今はいい。

 

 ふふっ、と笑みがこぼれた。張りつめていた緊張感が、適度なそれに変化していく。

 カリエは再び咽頭マイクを握りしめた。

 

「目標、グロリアーナフラッグ、チャーチル。我々なら必ず討ち取ることの出来る敵。御託はいらない。大義もいらない。ただ、私が彼女のフラッグを求めているだけ。皆さんにはその我が儘につき合って貰うだけ。拒否権はありません」

 

 返答は、思わずヘッドホンを耳から切り離してしまうくらいの歓声だった。

 敬愛する副隊長がそれを欲するのなら、必ず奪い取って見せるという、覚悟の現れだった。

 

『Jawooooooohl!!(ヤボール!!)』

 

 パンターがマチルダの砲弾を弾く。すさまじい衝撃が車体を襲うが、カリエは表情一つ変えなかった。

 いや、それどころか瞬き一つしなかった。

 そんな彼女の視線が見つめるのは只一つだけ。

 グロリアーナの幾重にも重なった防衛網のその先。

 誇りと、名誉によって彩られた王座に佇む、女王だけだった。

 

 

04/

 

 

『みほさん、クルセイダーです! 数は6! 2両ずつ、3つのチームで、それぞれ三方向からこちらに向かってきてきます!』

 

 小梅の報告を受け、みほが地図を指でなぞる。

 

「こちらの防衛網はグロリアーナのそれとは違い、多重陣地ではありません。フラッグ車を後衛に隠すことは出来ませんが、乱戦を防ぐことが出来ます。斥候のパンター以外の全ての車両は、エリカさんのティーガーⅡを包囲。単純な鉄の盾となり、グロリアーナの突撃を阻止します」

 

 命令を受けた全ての車両が、エリカのティーガーⅡを取り囲む。みほのティーガーⅠだけが、ドイツ戦車で形作られたサークルの周りをぐるぐると回った。

 

「これより本車両単独でクルセイダーの猛攻を防ぎます。斥候にでているパンターはいかなる状況でも戻ってきてはいけません。あなたたちは、これより後に進行してくるであろう、マチルダを警戒し、押しとどめて下さい」

 

 みほの下した作戦は黒森峰にとって、これ以上ないとも言い切れるほどの背水の陣だった。

 彼女たちはただ、グロリアーナの猛攻を堪え忍ぶだけ。

 勝利条件はただ一つ、カリエがチャーチルを討ち取ることのみ。

 そんな状況の黒森峰に比べて、グロリアーナの取ることの出来る作戦の幅は広い。

 黒森峰の防衛網に猛攻を仕掛けることも出来れば、それを突破できないと判断し、即座に転進して、単独で突出しているカリエの部隊を包囲殲滅することもできる。速力で劣る黒森峰本隊は、目標を変更したクルセイダーを止めることが出来ないからだ。

 クルセイダーが最初からカリエに殺到しないという状況も、黒森峰を結果的には追い込んでいる。最初からそちらに食いついてくれれば、いくら足の遅い黒森峰でも、クルセイダーたちに追いつき、殲滅することが可能だった。カリエを餌として、今度はグロリアーナを釣ることが出来たのだ。

 けれどもダージリンはその決断をしなかった。敢えてカリエの突撃を受け止め、クルセイダーに黒森峰の息の根を止めさせる道を選んだ。

 もしそれら全てが計算ずくだとしたら、どれだけ恐ろしい知能を有しているのだろうか、とみほは身震いする。

 自分たちでこの道を選んだとは言え、何処までもグロリアーナ有利な状況だ。

 

「悪いわね、みほ。カリエの我が儘につき合わせて」

 

 それぞれの車両の距離が近すぎるが故に、無線なしでも車長同士の会話が可能だった。

 エリカも黒森峰の不利を悟っているのか、嘆息しながら謝罪の言葉を貰す。しかしながら後悔の色は微塵もない。

 それはみほも同じだった。

 

「いいえ、これを打ち破れないチームなら、決勝に上がってくるであろうプラウダに勝つことなんか出来ません。それに、あの状況から試合がリセットされた以上、私たちの失態を振り払うにはこれがむしろ好都合なんです」

 

 みほの台詞は黒森峰の栄誉に関するものだった。

 

 敗北寸前だった戦況を落雷という、天候の幸運によって救われたという事実。

 

 そこからグロリアーナを装甲火力で押しつぶして勝利しても、王者の名は汚れ、人々は黒森峰を侮蔑する。

 黒森峰の隊員たちは言われなき誹謗中傷を受け、マスコミは面白可笑しく王者の無様な姿をあざ笑うだろう。

 ならば、そんな失態を払拭するだけの劇的な勝利を手に入れれば良い。

 自分たちの一度の負けを認め、その分のハンデを背負った勝負を自らグロリアーナに申しつけるのだ。

 そしてグロリアーナはそれを受けるしかない。

 何故なら彼女たちが勝利する道もそれしかないのだから。

 

 エリカは此度の負け戦の必要性を懇々と説くみほに、「無理しなくていいのよ」と微笑んだ。

 

「あんたがそんな難しいことを、あの一瞬で思いつくわけないでしょう」

 

「ふえっ」

 

 思わぬエリカの言葉に、みほは何とも言えない顔をする。エリカはそんなみほの様子に構うことなく続けた。

 

「ありがとう。カリエが正気を保ったまま立ち直れたのも、あんたがこの無謀な決闘劇を認めてくれたからよ。あんたはそんなことをあの子に悟らせないように、色々と言い訳を考えているみたいだけれど、私たちにそれはいらないわ」

 

 真意を見抜かれていたことに、みほは狼狽する。だが、クルセイダーのエンジン音が聞こえたことで、すぐさま隊長としての表情を取り戻す。

 

「エリカさん、心苦しいでしょうが、あなたは援護に徹して下さい。必ず私たちが守ります」

 

「大丈夫よ。最悪あんたたちを置いて逃げる覚悟ぐらい固めているわ。カリエのため、一分、一秒でも稼ぎ抜いてやる」

 

 稜線の向こう側から、砲弾が飛来する。

 みほはエリカの前に立って、それらの砲弾を敢えて受け止めた。

 誰も、そんな被弾如きで焦ることはない。

 

 黒森峰女学園にとって、この夏、一番長い三十分間が始まろうとしていた。

 

 

05/

 

 

 いつの間にか雨が止んでいた。

 日が雲の合間から差し込み、大地を照らしている。

 水が貯まった大地を疾走するのは、蛇のエンブレムを身につけたパンター。

 彼の戦車は装甲の所どころを焦げ付かせながらも、前進を止めなかった。

 すでに随伴車両は2両を残して落伍している。

 車長たるカリエの耳には、本陣強襲の旨が届き、エリカを守っていたエレファントが撃破されたことを伝えていた。

 時間はもうない。

 一度綻びを生じた黒森峰の防御網はそう長くは持たない。

 それでもカリエの思考は冷静だった。

 

 不気味すぎるほど冴え渡っていた。

 やや遠くに見えるチャーチルの陰をしっかりと見定め、左右から突撃してくるマチルダの気配を感じ取っていた。

 

「行かすかぁぁぁぁぁぁぁあぁあああ!!」

 

 怒声を上げるマチルダの車長。

 右側面を防備していたⅣ号戦車が、そんなマチルダの進行を身を挺して止めた。

 マチルダの車長――ルクリリは「邪魔だ!」とⅣ号戦車の装甲を打ち抜き、もう1両のマチルダに突撃を指示する。

 だがそれも、パンターの左側にいたⅢ号戦車がブロックしていた。カリエの前に、道が開ける。

 その道にパンターが踏み込んだ。

 太陽が映り込む水たまりを踏みしめ、ただ王座の頂を目指す。

 だが、そんなパンターの眼前に、最後の車両が出現した。

 ダージリンがグロリアーナにおける政治闘争の中でもぎ取って見せた、クロムウェル巡航戦車だ。 

 車長は本来ならばダージリンの元で砲手を勤めているアッサム。

 カリエの前に立ちはだかる最後の壁は、ダージリンがグロリアーナで得たものの集大成だった。

 しかも、動かなくなったⅣ号戦車を押しのけて、ルクリリのマチルダがパンターに追い縋る。

 クロムウェルの砲身がパンターに狙いを定める。

 カリエは挟まれた。

 戦況を見守っていた観客は、試合の終わりが近いことを悟った。

 二両の砲弾が、一斉に空を切り裂いた。

 

 

06/

 

 

 逸見カリエに対する高校戦車道界の評価は高い。

 綿密な情報戦を得意とする諜報員として、

 黒森峰の重火力に命を吹き込む深淵鬼謀の策士として、

 戦況を手玉に取り、相手を徹底的に追いつめるゲームメイカーとして。

 

 けれども。

 

 その個人の指揮力は、西住みほに及ばず、

 単体での戦闘能力は逸見エリカに一歩譲る。

 

 つまり、逸見カリエ自身の戦車乗りとしての資質は評価されていなかった。

 もちろんある程度の技量は認められている。

 高練度揃いの黒森峰において、レギュラーを張る程度の実力は認められている。

 だがそれだけ。

 その知謀とチームにおける重要性に比肩するほどの戦闘力はないとされていた。

 だからこそ、プラウダに、グロリアーナに、黒森峰を打倒せんとする強かな強豪校たちにたびたび弱点として認識され、執拗に狙われた。

 実際彼女が弱点だったことは否定できない。

 カリエが狙われれば、エリカは本来の戦闘力を発揮することが出来ず、みほはそんな二人をカバーする指揮しか出来なくなっていた。

 もちろん、カリエが足を引っ張っているというわけではない。平常時では彼女の分析力と情報収集力が猛威を振るい、黒森峰に公式戦無敗の栄光を一年間もたらしていた。

 だが、弱点であることには変わりない。

 

 ただ一つだけ、一つだけ訂正を加えるのだとしたら。

 

 カリエの戦闘力というものは、戦況を常時把握し、みほに上奏し、エリカに伝達し、遊軍の指揮をし、小梅に護衛の可否を伝えるというオーバーワークの上に成り立っていたものだった。

 全てのしがらみを捨て、一人の戦車乗りとして戦う場面など、その戦車道人生において数えるほどしかない。

 ではその数えるほどの機会とはいつだったのか。

 少なくとも、その一つに加えられる日はある。

 いつか。

 今日だ。

 

 

07/

 

 

 ダージリンの目には、パンターが遂に動きを停止したように見えた。実際、パンターは歩みを止めていた。

 当たり前だ。

 前進ではなく、後退を始めたのだから。

 そのまま進めば、クロムウェルとマチルダの射線の真っ直中にいた。そのまま進めば、どちらかの砲弾がパンターの装甲を穿っていた。

 けれどもカリエのパンターはその射線を僅かに外していた。そして、被弾の是非も確かめないままに進軍を開始していた。

 神業だった。

 クロムウェルとマチルダの発砲タイミングを完璧に把握し、その砲弾の弾速を計算。その何れの軌道からもパンターを消したのだ。

 わかっていて出来ることではない。

 努力で出来ることではない。

 運で出来ることではない。

 圧倒的な戦車乗りとしての才能がなければ成し得ない、絶技。

 クロムウェルの脇を、パンターが通り過ぎる。

 装填のタイミングが僅かに間に合わない。

 カリエはクロムウェルの装填時間から、横を通り抜けても安全なセイフティタイムを割り出していた。

 チャーチルの砲手が発砲する。

 

 一発目。

 

 右に進路を取られ空振り。

 

 二発目。

 

 急停車により、パンターの僅か前方に着弾。

 

 三発目。

 

 次は急加速に対応できず、後ろを穿った。

 

 オレンジペコが滝のような汗を流し、神速の装填技を見せる。次々に放たれる砲弾の成果を確認することなく、黙々とそれを叩き込む。

 

 四発目。

 

 遂に履帯を吹き飛ばした。だがダージリンに不運が訪れる。

 砲弾によって吹き飛ばしたのは彼女たちから見て左の履帯。

 なのに、ペリスコープの向こう側のパンターは両方の履帯を失い、慣性だけでこちらに突っ込んできていた。

 ダージリンは思い出す。

 パンターの左の履帯は一回破損していた。いくら修繕したとはいえ、戦場での応急処置。何か強い衝撃があれば、再び切れることもあり得る。

 それが今になってきた。

 片側の履帯が吹き飛んだとき、示し合わせたようにもう片側も切れた。

 そのどちらかが残されていれば、パンターはスピンし、王座にたどり着かなかったのに。

 

 もしも、とダージリンは紅茶を口付ける。

 これからの未来、カリエに討たれるようなことがあれば、自分はどうなってしまうのだろうかと。

 

 グロリアーナの女王の立場から失脚するのだろうか。

 オレンジペコやアッサムに愛想を尽かされるのだろうか。

 敗北の隊長として、屈辱を味わうのだろうか。

 

 いや、と首を降る。

 

 既に眼前までパンターが迫っていた。キューポラから身を乗り出したカリエと目が合ったような気がした。

 

 たぶん、きっと。

 

 この光景を目にしたままに訪れる敗北は彼女にとって、余りにも甘美な終わりであり、絶望の一切ない安楽死のようなものだった。

 

 チャーチルとパンターが衝突する。互いの砲身が、それぞれの装甲に接触する。

 

 激しく揺れる車内であっても、オレンジペコはしっかりと車床を踏みしめ、砲弾を叩き込み、砲尾を閉じた。

 チャーチルの発砲準備が、本来ならばあり得ない速度で完了していた。

 砲手が引き金を引いた。

 

 結末が、訪れた。

 

 ダージリンは思う。

 この先にある未来は、グロリアーナの女王としての自分の死であり。

 この先にある未来は、そんな死をくれた、誰かさんの為に捧げるべきものであるということを。

 

 微笑みがこぼれる。でも紅茶は零さない。

 

「……おやりになるわね」

 

 黒森峰女学園 対 聖グロリアーナ女学院。

 

 試合最後の砲声が世界に響きわたった。

 

 

08/

 

 

 ローズヒップはこの瞬間を一生忘れないだろうな、と思った。

 

 クルセイダーの砲身がティーガーⅡを捉えている。落伍したエレファントの隙をついて最接近し、その剣を王虎の喉元に突き付けていた。

 他のクルセイダーを駆逐していたみほがこちらに振り返っているが、援護に間に合うことはない。

 ローズヒップがひとたび発砲を命じていれば、栄光が聖グロリアーナの手の中に転がり込んでいた。

 けれども、

 

「……駄目です。引き金が引けません」

 

 ボロボロと大粒の涙を零しながら、砲手が報告する。

 彼女の言葉の意味するところはたった一つだけ。

 

「ダージリン様……」

 

 自分を信じて送り出してくれた女王に、彼女は振り返る。

 幾つもの稜線を超えた遙か向こうの先、きっとその青く気高い全ては誰かに奪い取られているのだろう。

 不意に滲んだ視界をどうすることも出来ずに、ローズヒップは天を仰いだ。

 

「ご期待に、添えませんでしたわ」

 

 呟きは、『黒森峰女学園の勝利!!』というアナウンスに掻き消されていった。

 

 

09/

 

 

 視界も定まらぬ豪雨だったことが嘘のように、綺麗な夕焼けが世界を包み込んでいた。

 戦車回収車がせわしなくフィールドを行き来し、自走不可に陥っている車両を拾い上げている。

 その中の一つに、カリエのパンターがあった。

 彼女の車両は、グロリアーナの陣地のど真ん中で夕日を受けて輝いている。

 

「……まずはおめでとう。よくあの状況からここに届いたわね。あなた本来の実力を見誤った私の負けよ」

 

 そんなパンターの天蓋に腰掛ける人影が二つ。

 紅茶のカップを携えたカリエとダージリンだった。

 静かに肩を並べながら、パンターの回収車が来るのを待っている。

 

「いいえ、あの時は火事場の馬鹿力みたいなものですから。私の実力なんて、ダージリンさんの足下にも及びませんよ」

 

 首を横に振るカリエに対して、ダージリンはこんな言葉をご存じかしら、と微笑んだ。

 

「才能を信じなければ、本当の努力はできない。でも、過信してしまったら努力はできない」

 

「えと、それは」

 

「あなたはあなたの才能を信じていたからここまで、いえ、ここに辿り着いたのよ。そしてその才能の大きさを常に見極め、努力してきたからこそ、届いた」

 

 それはダージリンなりの最大級の賛辞。そして、カリエの全てを過小評価し続けてきた自分に対する戒め。

 もうあなたを侮ることはないわ、と彼女はカリエの方へ体重を預けた。

 カリエは照れ顔を見せながらも、それを逃げることなく受け止めた。

 

「だってこれから私はあなたと手を取り合っていくのだもの。そんな今生の人を侮る訳なんてないでしょう。もしもあなたが自分の才能を信じられなければ、それを信じ支えようとしている私を信じて下さらないかしら」

 

 カリエの返答はなかった。

 けれども、ウロウロと行き場を無くしていた腕でダージリンの肩を抱き寄せていた。

 ダージリンはそれだけで満足だった。

 

『ダージリン、そろそろ黒森峰の回収車がそちらに到着します。何かしら理由を付けて延長させましょうか?』

 

 二人の背後に置かれていた無線機から、アッサムの何処か楽しげな声が響く。

 びくりと肩を振るわせた二人で、それに振り返った。

 若干顔を顰めながら、ダージリンが無線機を手に取る。

 

「それには及ばないわ。いらない気遣いは結構。速やかに黒森峰の皆さんをこちらに案内して」

 

 そして、こほん、と咳払いを一つ。

 カリエはそんな顔もするんですね、と笑った。

 意地悪な人、とダージリンは頬を膨らませた。

 

「ねえ、カリエさん」

 

 黒森峰側の車両のエンジン音が聞こえる中、二人の別れ際にダージリンが口を開いた。

 カリエは「何でしょう?」と首を傾げている。

 

「……本当に私で良かったのかしら。私があなたの全てを受け入れるという言葉は嘘偽りのない真実よ。でもその真実を上塗りして、あなたを突き放そうとしたのもまた私。きっと、あなたは苦労すると思うわ」

 

 いいえ、とカリエは否定した。

 

「苦労するのはあなたですよ。ダージリン。未だに男なのか、女なのか決めきれない気持ちの悪い存在、とっとと見捨てた方が良いと思います」

 

 それこそあり得ないわ、とダージリン。

 

「そんなあなたが真っ直ぐ前を向いて進み続ける姿に魅せられたからこそ、あなたが欲しいと思ったのよ。隣に立ち、いつも同じ月を見ていたいと感じたから、あなたを求めた」

 

 夕日の逢瀬の終わりが近づく。

 日が暮れ始めて、紅い世界に藍が射し始めた。

 ようやく回収車が到着した。

 エリカやみほが乗った黒森峰の回収車両がパンターに横付けをした。

 

「……ありがとうございます。本当に、あなたで良かった」

 

 カリエがパンターの天蓋から足を進める。黒森峰の仲間達が待つ場所へと歩みを進める。

 そんな姿を見送るダージリンは、ふと何かを思いついたかのようにこう言った。

 

「あら、同じ月を見たいと言ったのにここで終わりなのかしら?」

 

 太陽はまだ地平線の上。

 天上の月は昇っていない。

 その光景を確認したカリエは困ったように笑った。

 

「ダージリンさんて結構意地わる――」

 

 ですよね、とは告げなかった。

 何故ならカリエの唇は、ダージリンのそれにしっかり塞がれていたから。

 回収車のエリカが何かを叫んだ。みほは自分の視界を手のひらで隠そうとしているが、指の間からバッチリと二人の姿を目に焼き付けていた。

 数秒たって、ぷはっ、と息が出来るようになる。

 夕日の数倍顔を紅くしたカリエが、「なななな、なにを」と狼狽えていた。

 ダージリンはエリカの耳にも届くよう、こう宣言する。

 

「あら、私の全てを貰ってくれるのでしょう? なら、あなたが欲しいという私も貰ってくれなければ契約違反だわ」

 

 そして再び唇を重ねた。

 二回目は、僅か一秒ばかりの短いキス。

 けれども次に二人の顔が離れたときには、ダージリンの表情は憑きものが落ちたかのような、晴れやかなものに変わっていた。

 カリエは「敵わないな」と笑顔を見せていた。

 

 副隊長の重圧も、黒森峰のプレッシャーも忘れた、彼女本来の笑みだった。

 




次回、大洗VSプラウダです。

すいません、改行がおかしくなっている不具合を修正しました。


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秋山優花里の戦車道 15

 雪が降っていた。真夏にはあり得ない、ふわふわのパウダースノー。

 大洗女子学園の学園艦には、季節に全く似つかわしくない雪が降り積もっていた。

 けれどもそれは異常気象や天変地異の類いではない。むしろ、学園艦の状況を鑑みれば当然とも言える事象だった。

 

「やっぱり高緯度の地域に赴くと雪が降るんですねー。こんなにたくさん降っているのを見るのは、数年ぶりかもしれないです」

 

 氷のように冷えた窓から秋山優花里は外を伺う。

 家々の屋根にうっすらと白い化粧が施されているのを見て、彼女は歓喜の声を上げていた。

 そんな優花里にコタツに足を突っ込んだ杏が笑いかける。

 

「やっぱり学園艦育ちの秋山ちゃんがそういうと説得力あるね。あ、そろそろ鍋も煮えたかな」

 

 最早おなじみの、生徒会応接室。

 けれどもその内装はいつもと違い、八月の初旬には似つかわしくない冬の様相を呈していた。

 理由は言わずもがな。

 準決勝のフィールドが高緯度地域の雪原に決まり、学園艦ごとその該当地域に赴いているからだ。

 そのため、夏でも冬のような天候と気温になっている。

 

「次はいよいよ準決勝。秋山さん、試合の準備の方はどうなっているのかな」

 

 コタツの上でぐつぐつと煮えているあんこう鍋を掻き混ぜながら、柚が問うた。

 その隣で、桃が小皿や食器達を取り分けている。

 

「ええと、一応雪中行軍の訓練プランは出来上がりました。それぞれの車両も、全部とまではいきませんでしたが、突貫で雪中迷彩を施しています。三突用のヴィンターゲッテンも用意が出来ました。あとは対戦校であるプラウダ高校のデータが……」

 

 言って、彼女は部屋の隅に置いてあったバックパックを引っ張り出す。そして中から膨大な量の紙束を取り出した。

 今更もう驚きはしないが、それでも圧倒されるだけの情報量に杏達の表情が引き攣る。

 

「いやー、春休みの間にプラウダ高校には偵察潜入もとい、練習の見学にお伺いしていたんですよ。こっちの束が保有車両で、こっちの束が戦車道履修者ですね。プラウダ高校は地吹雪のカチューシャ、と呼ばれる方が隊長を、ブリザードのノンナと呼ばれる方が副隊長を務められています。あと一人、留学生の方もいらっしゃって、一応幹部クラスなのですが、諸事情で本大会には参加していないそうです」

 

 つらつらと説明を続ける。

 

「プラウダは昨年、黒森峰と決勝戦で死闘を演じた高校です。あの黒森峰をかなり追い詰めましたからその実力は折り紙付きです。正直、胸を借りるつもりで挑みたいですね」

 

 優花里の「胸を借りたい」という言葉に杏の表情が曇った。いや、それは柚子も桃も同じ事だった。

 室内の雰囲気が急に変わってしまった事を察して、優花里は「あれ?」と狼狽える。

 

「あ、あの……」

 

 何か不味い事を言ってしまったのだろうか、と恐る恐る杏に視線を送る。

 けれども彼女は直ぐに何事もなかったかのように、笑顔を見せて出来上がったあんこう鍋を優花里に勧めた。

 

「今更秋山ちゃんにこいつの美味しさを語るまでもないだろうけどさ、そこそこ良い材料を手に入れて用意したんだ。普段頑張っている秋山ちゃんへの感謝の印みたいなものだから、食べてってよ」

 

 正直言って、何か誤魔化されている事くらい、優花里にはわかっていた。

 だがそれを追求しようという気は、不思議と湧かなかった。

 何故なら優花里はここまでの生徒会の厚意を知っていたからだ。彼女たちが自分を裏切らない事くらい、わかっていた。

 だから今は話す時ではないのでしょう、と大人しく鍋のご相伴に預かった。

 大洗にずっと住み続けている彼女からしたら、特別珍しい料理ではなかったが、それでも生徒会が手間暇掛けて用意してくれたそれはとても美味しかった。 

 

「……このコタツを含めてさ、この2年間いろいろと楽しい事ばかりだったんだよ。ねえ、小山」

 

 杏の問いかけに、柚子は微笑んだ。

 

「ええ、冷蔵庫やヒーターのために予算をやり繰りする日々は充実していました」

 

 そう言って、愛おしそうに目の前のコタツの縁を撫でる。まるで備品達を揃える日々を思い起こすかのように。

 そういえば、と杏は桃にも視線を送った。

 

「かーしまー。去年のイベントの写真とかあるかなー」

 

「はい、確かこちらのファイルに……」

 

 言われて、桃は一冊のファイルを用意した。中から出てきたはそれなりの量がある写真たち。

 それぞれ春夏秋冬の学園で執り行われたイベントの数々が収められている。

 

「この泥んこプロレス大会、桃ちゃんが大泣きしちゃって大変だったねー」

 

 写真の一枚を手に取って柚が思い出を語った。杏もプール開きの写真を取って優花里に見せる。

 

「秋山ちゃんはこの写真たちどれくらい覚えてる?」

 

「もちろん全部覚えていますよ。わたくし、学園のイベントごとはできる限り参加していましたから。まあ、友人も少なかったので、それなりに寂しい思いをしてきたことは否定しませんが……」

 

 

 えへへ、と優花里は頬を掻いた。

 彼女の弁が正しければ、まともな友人が出来るようになったのは戦車道を始めてからだという。

 それまでは生粋の戦車オタクっぷりがいけなかったのか、友人の縁には恵まれてこなかったと彼女は語っていた。

 けれども、その理由がどうにも腑に落ちていない人物がいた。

 それが杏である。

 彼女はそれが不思議なんだよねー、と箸を咥えがながらぼやいた。

 

「優花里ちゃんてさ、正直かなり対人コミュニケーション高いし、人も良いし、どう考えても友人が出来ないような人種には見えないんだけれど、その話は本当なの?」

 

 別に優花里が嘘を吐いていると疑っているわけではなかったが、それでも気になると杏は問うていた。

 優花里は「それがですね……」と言って良いのか悪いのかわからないと(しゆん)(じゆん)した。

 だが生徒会の事を基本的には信頼していたため、少し迷いながらも中学生までの自分について語り始めた。

 

「実はわたくし、中学生まで男装紛いのことをしていたんですよ。髪はベリーショートですし、ファッションも男の子が着るような服ばかり着ていました」

 

 初耳だ、と生徒会の面々が驚きの表情を見せる。

 三人の心を代弁したのは、やはりと言うべきか生徒会長たる杏だった。

 

「え、それは趣味で? それともそういう、その人格というか……」

 

 あの杏が言葉を言い淀んでいた。思っていたよりもデリケートそうな話題だったので、ずけずけと聞く事が憚ら(はばか)れたのである。

 しかしながら、優花里は笑いながら杏達の不安を一蹴した。

 

「別に性同一性障害とかそんなのではないですよ。中学生までは幼い頃の約束というか思い出を馬鹿正直に守っていただけなんです」

 

 それから優花里は自身の原点とも言うべき思い出について語り始めた。

 幼い頃のほんの一瞬だけ交わし合った、尊い友情の話を。

 

「小学生の頃、わたくし両親に熊本の戦車道博物館に連れて行って貰ったことがあるんです。で、そこで一人の女の子に出会いました」

 

 銀髪の綺麗な子でしたよ? と優花里は微笑む。

 

「その女の子、どうやら両親から戦車道をさせられそうになっていて、その事前学習に訪れていたそうなんです。けれどもその子、戦車が余り好きではないみたいで、館内の隅の方で膝を抱えていました」

 

 瞳を閉じれば今でも鮮明に思い出せる光景。

 薄暗い照明達の下、浮かない顔をする天使のような少女。

 

「わたくしとしては、お節介心というかなんというか、折角戦車を見に来ているのに、そんなに辛そうな顔をして欲しくなかったんですよ。だから今思えば完全に余計なお世話なんですけれど、その子を連れ回して戦車を案内したんです。逃げられても全然仕方ないような強引さだったんですけれど、優しいのか引っ込み思案だったのか、何だかんだ最後までその子は付き合ってくれました」

 

「ということはその子が男装の原因なのかしら?」

 

 柚子の疑問に「まあそういうことになりますね」と優花里は答えた。

 そして自身の思い出を続ける。

 

「その子、多分性同一性障害というか、性別があやふやというか、中身が男の子だったんですよ。一人称も俺で、だから女子が行う武道である戦車道が嫌だったみたいです。そしてその子、最後まで私の事を男の子と勘違いして接してきていたんですよね」

 

 あはは、と優花里の苦笑が漏れた。

 だがそんな軽い調子の優花里とは真逆の反応を杏達は示した。まさかこの優花里を男に間違うような間抜けがいるのか、と目も剥いていた。

 でもそれは仕方がないんです、と優花里は慌ててフォローを加える。

 

「当時の私は父の真似をしてベリーショートのパンチパーマでして……、しかも服装も動きやすいように短パンにTシャツという有様。正直、間違えられても全然仕方のない容姿だったんです」

 

 多分その時の写真がありますよ、と優花里は携帯電話を操作する。

 そして一枚の画像を呼び出した。

 杏達がそれを覗き込んでみれば、確かに少年チックな優花里が映っている。

 

「彼女は自身の性別に大層悩んでおられました。『俺』という人称に対しても複雑な思いを抱いておられるようで、これは完全に子供の浅知恵なんですけれど、わたくし、それまで『ボク』だった人称をその子の目の前で『わたくし』に変えたんです。これで変なのは君だけじゃないよー、って。男の子でも『わたくし』って言うんだよー、って。今振り返れば大分間抜けですよね。しかもその所為で自分が女の子だって、最後まで打ち明けられませんでしたし」

 

 ちょっと待て、と桃が突っ込みを入れる。

 

「お前が変な人称をわざわざ選択した意味はわかるが、それまでの『ボク』も大概じゃないか」

 

「そうですかね? まあ、父は男の子が欲しかったみたいで、私を小学校高学年までは少年のように育てていましたから、その影響かもしれませんね」

 

 秋山ちゃんも大概強者だよねー、と杏が感心していた。

 妙な心の強さというか、メンタルの強靱さが彼女にはあるのである。

 優花里は杏の台詞の意味も特によく考えないままに言葉を紡ぐ。

 

「で、男装の原因なんですけれど、その子との別れ際に約束したんですよ。いつか戦車道でなくても良い、けれども戦車に関わる何かで再会しようと。その時の私は戦車道に憧れはしていましたが、自分でやってみようとは考えていませんでしたからね。で、中学の時はその子が自分を万が一見つけても見失わないように、できる限り出会った当時の格好でいたんです。なんたって、戦車で出来た最初の友達でしたから」

 

 以上が優花里の口から語られた過去の(てん)(まつ)だった。

 要するに、人生で初めて出来た、戦車における友人と再会しても、優花里本人だと認識して貰えるように男装を続けた事が、中学以降で友人が出来なかった直接の原因という事らしい。

 律儀で義理堅い優花里らしい原因だと、杏は感心していた。

 

「いやー、そこまでいくとなんというか本当に美しい友情だよね。でもさ、秋山ちゃんはその子とそれから再会したの?」

 

 優花里はやや寂しそうにこう答えた。

 

「いえ、よくよく考えれば地元が熊本の子と茨城のわたくしでは会えるわけがないんですよね。だから、再会は今のところお預けです」

 

 いつか会えるといいね、と杏はそんな優花里の健気な友情を讃えていた。

 

 

01/

 

 

「こんにちは、優花里さん。久しぶり」

 

 何故彼女がそこにいるのか、と優花里は驚いていた。

 何処までも雪景色が広がる銀世界の準決勝会場。そこの選手達が控えている非交戦地域にて、秋山優花里は逸見カリエと久方ぶりの再会を果たしていたのだ。

 

「い、逸見殿?」

 

 本来あり得ない筈の人影を前にして、優花里の声色は上擦っている。

 

「それは駄目って、この前言ったよね。それに今日はエリカもいるからややこしくなる」

 

 カリエの非難染みた視線を受けて優花里は慌てて訂正した。

 

「か、カリエ殿!」

 

「うん、よろしい」

 

 満足げに笑うカリエに対して、優花里は思わず問いかけていた。

 

「どうしてこんなところに?」

 

「うん? 決勝の相手がどちらになるか気になるのはそんなにおかしいかな?」

 

 決勝の相手はどちらになるのか気になる。

 その言葉を受けて、優花里は胸の奥がじわりと熱くなっていくのを感じた。

 自分たちの実力が少しばかり認められたような気がしたのだ。

 けれども口からはつい、否定の言葉が出てしまう。

 

「相手はあのプラウダですよ? 私たちの勝利など万が一にもないと思いますが」

 

「いや、そりゃあカチューシャは強いけれど、だからと言ってあなたたちが負ける理由にはならないでしょう。野球ではジャイアントキリングなんて割とあることだし。それに――」

 

 カリエはこう続けた。

 

「12月に始めて練習試合をしたときよりも、あなたたちは遙かに強くなっているよ。その顔付きを見ればわかる。もう立派な戦車乗り。それに、結果も出ている。サンダースとアンツィオを破るなんて、運なんかじゃ絶対出来ないよ。優花里さん、あれから本当に頑張ったんだね」

 

 彼女の微笑みを受けて、優花里は不意に視界が滲んでしまった。けれどもここで涙を見せるわけにはいかないと、必死に目頭を服の袖で擦り上げる。

 

「ありがとうございます! カリエ殿にそう言って頂ければプラウダの一つや二つ、必ず打ち破って見せられそうです!」

 

「ふふふ、期待してるね」

 

 本当に綺麗に笑う人だと、優花里はその顔に一瞬見惚れた。前回の抽選会で出会ったときに比べて、数段美しく笑えるようになっていると、直ぐにわかった。

 まるで憑き物の一切合切が抜け落ちたような、そんな笑みだった。

 ただ、その笑みは次の瞬間には優花里には見せた事のない、()()りの色に染められていた。

 

「あら、カリエさん。浮気なんて感心しないわ。あなた、あちこちの女の子を惹き付ける魔性の魅力の持ち主だから、本当に心配だわ。ここに鎖でもつけて、互いの首を縛ってやりたくなるくらい心配だわ」

 

 ぞわわ、と優花里の背筋を悪寒が駆け上がった。

 思わず一歩退いてしまったが、恐らくその選択は正しいものだった。

 何故なら、いつの間にかカリエの背後にいたダージリンが、彼女の首にその白魚のような指を這わせていたから。

 

「あの、えと、ダージリンさん。オレンジペコさんのところに紅茶を受け取りに行ったのでは?」

 

 優花里がカリエさんもこんな顔をするんだ、と妙な関心を覚えるくらいには、カリエの顔は焦っていた。

 それはまさに、浮気現場を妻に押さえられた夫のような狼狽えぶりだった。

 

「あら、秋山さんじゃない。ご機嫌よう。まさかあなたたちがこの舞台に上がってくるとは、という驚きと、あなたが率いるチームだから当然、と納得している私がいて変な気持ちだわ。でも、その奮戦期待しているわね」

 

 カリエの台詞を無視して、ダージリンが優花里を見た。表情は極和やかで、親愛に溢れていたが、これ以上一歩踏み込めば無事では済まさないと、瞳が雄弁に語っていた。

 端的に言えばカリエに対する独占欲が剥き出しだった。

 

「え、えとお二人の関係はもしかして……」

 

 余り深入りすべきではない、と本能が告げていたが、それでも気になりすぎていたので、優花里は二人に問いかけてしまっていた。

 言ってから、しまったかな、と後悔したがもう遅い。

 けれども返ってきた反応は優花里を非難するものではなかった。

 ダージリンはあっけからんと言い放つ。

 

「結婚も考えたお付き合いをさせて頂いているわ。ねえ、カリエさん」

 

「まあ、うん。ダージリンさんが本当にそれでもいいのなら是非」

 

 微笑み合う二人を見て、優花里は開いた口が塞がらなくなった。まさか自身が尊敬して止まない二人の戦車乗り同士がそんな関係にあったなど、夢にも思わなかった。

 

「あら、やはり驚かれているのね。関係を打ち明けた全ての人が同じ反応だから、少し飽きてきたわ」

 

「表面上は同性愛の恋人だから仕方のない事かもしれないけれど」

 

「ふふ、やっぱりあなたの本当の姿を知っているのが私だけって言う事実がとても誇らしいわ」

 

「いや、エリカも知って……いてて、ごめんなさい、余計な事を言いました」

 

 ぐりぐりと、ダージリンの雪中用ブーツがしっかりとカリエの足を踏みしめていた。

 まさしく他の女の話題を嫌う女性の反応を見せるダージリンに、優花里は事の重要性を改めて認識する。

 

「まあ、この事についてはそのうち詳しく。とにかく優花里さんのことはしっかりと応援しているから。あ、あと雪中偵察の用意だけはしておいた方がいいかもしれない」

 

 ぐいぐいと、ダージリンに腕を引かれながらも、矢継ぎ早にそれだけをカリエが言い残して、嵐のように二人は去って行った。

 正直言って、まだ事態の全容を完全に把握したわけではない。

 むしろわからないことが多すぎて、優花里の思考は混乱の極地にあった。

 そんなわけだから、コーンスープとカイロを用意した沙織がやってくるまで、優花里はただ一人雪原の中に立ち尽くしていた。

 立ち尽くして、ダージリンの言葉に引っかかりを覚えている自分に気が付いた。

 

「……カリエさんの本当の姿って何なのでしょう?」

 

 おそらくこの時、もう少しばかりダージリンが嫉妬心を見せなければ、優花里とカリエ、二人の物語は違う結末を迎えていた。

 けれども運命の女神は浮気者。

 

 彼女は未来の勝者に、この時から微笑んでいたのだ。

 

 

02/

 

 

 試合が始まった。

 パブリックビューイングの大型液晶の前で、カリエとダージリンは二人してその様子を観戦している。

 

「あら、エリカさん達は来られないのかしら?」

 

 自分たちと共に、準決勝観覧に訪れていた筈のエリカやみほの姿をダージリンは探す。

 周囲には一般の観客の姿が見られるものの、黒森峰の制服を着た二人の姿が見受けられなかったからだ。

 カリエはそんなダージリンの疑問に答えた。

 

「……二人は野外観戦塔で、フィールド備え付けの監視塔で見てるよ。何でもみほのお母さんも観戦に来ていて、特別に同行を許可されてるみたい」

 

「あら、カリエさんはそちらに向かわなくて良かったの?」

 

 気を遣わせてしまったかと、ダージリンは困り顔でカリエに問いかけた。

 けれどもカリエは「そんなことないよ」とダージリンが差し出してきた紅茶に口をつけていた。

 

「ダージリンさんとこうして肩を並べて観戦するのも、私の夢だったから。だから今幸せなんだ」

 

 さらりとそんなことを言ってのけるカリエに対して、ダージリンは「やっぱり天性の垂らしね」と頬を膨らませた。

 膨らませて、そのまま自身の頭をカリエの肩に預けた。

 

「……大洗の隊長、私と練習試合を行ったときよりも遙かに強くなっていたわ。あなたはあの才能をいつ見抜いていたの?」

 

 試合開始の空砲と併せて、前進を開始する大洗の姿を見ながら、ダージリンはそんなことを零した。

 カリエはダージリンの絹のような金髪を撫でながら答える。

 

「去年の12月から片鱗はあったよ。たまにいるんだ、私たちの長年の努力なんて全部置き去りにして、一気に駆け上がっていく化け物が。戦車道は元々、個人の技量の差が現れにくい競技だったから、尚更かもしれない」

 

 カリエの言うとおり、戦車道は究極のチーム戦である。参加している車両一つ一つが、既に複数人からなる個の集合体であり、そんな戦車が十両も集まれば、参加しているメンバーの人数は莫大なものとなる。

 古今東西、これだけの人数が一度に一つの試合に参加する競技など中々ない。

 だからこそ、チーム全体の結束力が物を言う競技であり、如何なる強豪校でも不和を抱えたままでは勝ち進むことが難しい。

 黒森峰に置いても、結束力の向上は常に最大の課題だとされており、頻繁な泊まり込み訓練を以て、それらの改善に宛てられていた。

 カリエはさらに続ける。

 

「あんな風にチーム全体を鼓舞して、正確に状況判断し、相手の戦力の知識に長け、皆に有無を言わせない説得力のある命令を下せる人間が一人いるだけで、どんな高校でも恐るべき存在になるんだよ。……そういうところが野球に似ているから、ここまで私も続けてこれたのかも」

 

 どういうこと? とダージリンはカリエに問いかける。彼女は余り野球に詳しくなかった。

 カリエは「ええとね」と必死にかいつまんで説明した。

 

「野球は士気のスポーツなんだ。どれだけ戦力を揃えて、どれだけ他のチームを出し抜いても、監督が慕われていなかったり、チームの和を乱す選手が一人でもいると、あっという間に負けが込んでしまう。なんていったらいいのかな……、球場の雰囲気だったり、ベンチでの会話一つで勝てる試合も勝てなくなるんだよ」

 

 それはカリエの実体験に基づいた言葉だった。さすがに前世の記憶までは伝えなかったが、カリエなりの今世の教訓としている言葉をダージリンに伝えた。

 

 自身が怯えてしまったから、

 怖じ気付いてしまったから引き寄せてしまった苦渋の敗北。

 出来ればあの後悔を、隣に寄り添ってくれる大事な人に伝えたかった。

 

 そして、カリエにとって幸いと言うべきか、ダージリンもその聡明さ故に、彼女の言わんとしているところを何となく理解していた。

 彼女は小さく微笑みを零して、カリエの腕に自身の額を擦りつけて口を開く。

 

「――確かにカリエさんの言う通りね。私たちも、あなたの無限大に膨れ上がった欲望という名の士気に負けてしまったもの」

 

 ぶっ、と口に含んでいた紅茶を吹いた。そんなカリエをからかうように、ダージリンは「あらあら、お行儀が悪いわよ」と手にしていたハンカチで口周りを拭ってやっていた。

 相変わらず自分よりも一歩、二歩上手の彼女にカリエは苦笑が漏れた。

 

「……ひょっとして割と根に持ってます?」

 

 カリエの言葉に飄々とダージリンは答える。

 

「あら、根に持つわけないわ。ただその甘美な瞬間を忘れないように、心に刻んでいるだけよ」

 

 澄まし顔でトンでもないことを告げるのはどちらだ、とカリエは思った。けれどもそこで口にしない当たり、ダージリンのことを誰よりも理解していると言える。

 

「ところで、カリエさん。あなたは士気によって戦車道の試合結果が左右されるとおっしゃったわよね」

 

 すっと、ダージリンの瞳が鋭くなっていることにカリエは気がついた。自分をからかっていた時とは明確に違う、グロリアーナの女王としての彼女の目線だ。

 

「実は私、ついこの間プラウダにお邪魔していたのよ。カチューシャとの個人的な親交を深めるためにね。そこで私は何を見たと思う?」

 

 カリエは思考した。ダージリンの思惑を読みとるように、その瞳を真っ向から受け止めた。そしてややあってから一つの結論を導き出す。

 

「……もしかしてプラウダは私たち黒森峰打倒の為、かなりやる気に満ち溢れているんじゃないですか」

 

 ダージリンはすぐに答えなかった。

 手元のカップの紅茶を一口含み、パブリックビューイングの液晶に目線を送ってから、こう答えた。

 

「正解よ。カリエさん。プラウダの士気は過去たぐいまれないくらい高いものだったわ。そんなプラウダに今一番勢いのある学校がぶつかる――これほど楽しい試合なんてなかなかなくてよ」

 

 

03/

 

 

 秋山優花里はこれまで、常に相手の裏をかき続ける指揮を執り続けてきていた。

 逸見カリエに習って、対戦相手のことを徹底的にマークし、その弱点を突く戦術に終始していた。実際それは結果にも現れていたし、自身の戦車道に対する戦術の指針として正しいように思われていた。

 今はまがい物の劣化コピーでも、いつかはその頂に指先くらい引っかかることを夢見て頑張ってきていた。

 けれども彼女は失念していた。

 自分たちの勝利が、逸見カリエの戦車道の餌食になっていないチームを相手にしていたという、幸運の上に成り立っていたという事実を忘れていた。

 唯一サンダースが交戦の経験を持っていたが、準決勝以上の本格的な戦車戦ではない。アンツィオはそもそもそんな経験がなかった。

 だが此度は違う。

 此度の相手は、逸見カリエの戦車道の牙を、一身に受け止め苦渋と辛酸を舐めさせられたプラウダだった。

 カリエ個人の立てた作戦に敗北したことを自負し、戒めとしているプラウダだった。

 カチューシャは試合開始前から気がついていた。

 自分たちに挑戦しようとしている新設の無名校がただの弱小校ではないことに。

 彼女たちは、小さいながらもカリエと同じ牙を持っていることに。

 カチューシャは愚か者ではない。

 むしろ高校戦車道界きっての切れ者といっても過言ではない。やや傲慢なところが散見されることはあっても、自身を律する理性を失うほどではない。

 だからカチューシャは全力で大洗を叩き潰すことにした。決勝で待ち受ける王者に対する宣戦布告として、そして前哨戦として大洗を打ち砕くことに決めた。

 黒森峰対策として練った策は全て弄した。

 去年のカリエのように、わざとやられたフリをして、大洗を雪原の窪地に誘い込んだ。

 もともと正面火力で叩き潰してやろうと考えていた自分を捨て、搦め手で大洗を翻弄した。

 血反吐を吐くレベルで乗員たちに徹底させた、包囲殲滅陣を短期間で築き上げた。

 観戦するカリエとダージリンが息を呑むような鮮やかさで、大洗の戦車たちを教会の廃墟に閉じこめた。

 試合開始からわずか三十分弱。

 プラウダ高校の勝利がほぼ確定的なものになっていた。

 

 

04/

 

 

 荒い息を吐きながら、カチューシャは全車に停止を命じていた。眼前にそびえ立つ教会を忌々しく見つめながら、隣に控えるノンナに声を掛けた。

 

「……これが、カチューシャが一年掛けて築き上げた新しいプラウダよ」

 

 ただその言葉はノンナだけに手向けたものではなかった。どこかで見ているであろう、昨年の仇敵に向けたものでもあった。

 

「はい。その素晴らしさ、偉大さはよく存じ上げています」

 

 ノンナの言葉は決してお世辞ではなかった。言葉数は少ないものの、彼女が贈りうる心からの賛辞だった。

 カチューシャもそれを理解しているのか、汗に塗れた頬を拭いながら、全車に対する命令を下す。

 

「ここで(とど)めを指しても構わないけれど、それじゃあまだまだ黒森峰に対する備えを完璧にしたとは言えないわ。これから敢えてあちらの陣営を挑発。我々に突撃するようにし向けなさい。黒森峰はここまで追いつめても圧倒的な装甲火力と練度で包囲を食い破ってくるわ。これからはその練習だと思って、試合に臨みなさい」

 

 万全に万全を喫しなければ、自分たちには栄光が訪れないとカチューシャは考えていた。この準決勝を以て、自分たちのチームが完成すると本気で考えていた。

 だからこそ、あらゆる事態を想定するために、大洗をとことん利用し尽くす。

 

「わかりました。ですが挑発はどのようにすれば?」

 

「……降伏の使者を送るのよ。あちらが絶対に飲み込めないような屈辱的な条件でね。時間はそうね……一時間、いえ、そういえば向こうの砲撃で何両かダメージを負っていたわね。それに、あちらの車両もある程度動けるようにならないと意味がないわ。三時間でどうかしら?」

 

 カチューシャの提案にノンナは頷く。

 

「良いと思います。ですが向こうの偵察がこちらの陣容を把握するだけの時間も同時に与えてしまっていますが、こちらの対策はどうされますか?」

 

 ノンナの懸念にカチューシャは首を横に振った。

 

「むしろ偵察をさせなさい。私たちの陣容を掴んで貰わなければ、全く見当違いの方向に突撃される可能性もあるわ。対黒森峰を想定した訓練である以上、余計な動きをされても困るもの」

 

 やはりこの方はプラウダに栄光をもたらす方だと、ノンナは感極まっていた。たとえ無名の弱小校相手でも、次の戦いの礎にするその器量に感服していた。

 

「……悪いけど、その間の指揮をノンナに委譲するわ。ちょっと休ませてもらうわね。やっぱりカリーシャの真似は負担が大きすぎるわ。あの子、毎試合毎試合、こんな感じで戦術を立てているのだとしたらタフすぎるわよ」

 

 ただ、代償ももちろんあった。

 もともと体力的には優れているとは言えないカチューシャだ。カリエのように、常に戦況を把握して、指示の全てを、それこそ細かすぎるくらいに全車両へ伝達するという荒技は彼女の小さな体躯にはオーバーワークすぎた。

 堪え切れぬ疲労感と、張りつめた精神力からくる気疲れを感じて、カチューシャは休息を取ることを選択した。

 100パーセントのコンディションで指揮をすることが出来なければ、対黒森峰の総決算として試合をまとめ上げることが出来ないからだ。

 ノンナもそんな指揮官の事情を心得ているのか、柔らかな笑みでカチューシャの願いを受け入れた。

 すぐに野外用のベッドの用意を隊員たちに指示し、自身はTー34から降車するカチューシャを静かに抱き上げた。

 そして既に睡魔に身を任せ始めているカチューシャを抱いたまま、待機していた他の隊員に大洗への使者を勤めるよう告げた。

 

 このような経緯とプラウダの思惑があったことによって、大洗女子学園にはおよそ三時間の猶予が与えられたのだった。

 

 彼女たち大洗にとって、本大会最大の試練となり得る三時間の始まりだった。



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秋山優花里の戦車道 16

 薄暗く、肌を刺すような冷気に満ちた廃墟の中、気温とは裏腹に、彼女たちは汗を掻いていた。

 それぞれ破格の重量を誇る転輪と履帯を運び回り、優花里の指示を受けながら、傷ついた自分たちの戦車に応急処置を施していく。

 被弾の衝撃で、砲塔の回転機構に不調をきたしたⅣ号戦車もその例外ではなかった。

 

「砲塔、回るようになりましたね」

 

 破損していた砲塔の回転装置に対して行った処置が功を奏したのか、華の操作に合わせてⅣ号戦車の砲塔が回った。

 取り敢えずはこれで戦うことが出来ると、優花里は安堵の息を吐く。

 けれども、その顔色は優れない。

 

「ええ、そうですね。三突も、M3リーも、どれもこれも致命傷だけは免れましたから」

 

 彼女は何とか廃墟に逃げ込んできた車両たちを見つめる。全国大会が始まってから、ここまで車両たちがボロボロになるのは初めてだった。

 戦車道という、戦車が破損しても当然の大会ではあるが、やはり傷ついた戦車というものは見ていて気分の良いものではないのだ。

 

「……わたくしの不徳の致すところです。わたくしの冷静さが足りなかったため、このような事態を招いてしまいました」

 

 優花里が思い出すのは、プラウダの釣り野伏せにまんまと引っかかってしまった自らの失態だった。

 一見、(かい)(そう)をしているように見えるTー34を必要以上に追い回してしまったが為に、今現在のように包囲されてしまう結果になってしまっていた。

 チーム全体の浮ついたムードを押さえきれなかった自分の責任だと感じているのだ。

 

 何となくわかっていたのに、

 何となく、罠かもしれないと理解していたのに、

 

 大丈夫だ、ここが攻め時だと、自分に都合の良い嘘を吐き続けてきた結末が、目の前に横たわっている。

 

「……いえ、プラウダの罠に引っかかったのはチーム全体の責任です。決して優花里さんだけの問題ではありません」

 

 華の言葉は正しい。

 けれどもそういった事態に陥らないように、ブレーキをかけなければならなかったのが自分だと理解しているからこそ、優花里の胸の内は苦しいものだった。

 

「たぶん、自惚れていたんです。ここまで素人ながら勝ち進むことが出来て、もしかしたら行けるかも、と甘い期待を抱いていたんですよ」

 

 Ⅳ号戦車の狭い車内、優花里の吐く白い息が霧散し消えていく。砲手席でそんな彼女を見上げていた華は、これ以上どのような言葉を優花里に掛ければいいのかわからないでいた。

 沈黙が、車内を支配する。 

 けれどもその無言の時間は一分と続かなかった。何故ならキューポラから一応は副隊長である桃が車内を覗き込んできたからだ。

 

「秋山、会長とプラウダの使者の交渉が終わった。今から作戦会議を始めるぞ」

 

 

01/

 

 

 チーム全員の土下座と、学園艦の清掃及び麦踏み。

 それがプラウダ高校が提示してきた大洗女子学園に対する降伏条件だった。

 当たり前のことだったが、それを聞かされた大洗の面々は憤りを隠さなかった。

 

「いくら弱小校とはいえ、酷すぎる! 隊長、最後まで戦いましょう!」

 

 勝負事に関して、一番熱い心を持っているバレー部チームが優花里に詰め寄った。特に典子は優花里へ掴みかからんとする気迫である。

 普段はグデーリアン、グデーリアン、と笑っている歴女チームもそれぞれが静かに闘志を燃やしていた。

 

「今こそ我々の戦い様を見せるときだ。チーム一丸となって、最後の抵抗を見せよう」

 

 エルヴィンの宣言に、同調の声があがる。

 

「箱館、五稜郭の戦いで華々しく散った土方歳三ぜよ」

 

「いや、寡兵ながらもローマを翻弄し続けたハンニバル・バルカだ」

 

「それこそまさしく真田丸で徳川に決死の抵抗を見せた真田左衛門佐信繁だ」

 

『それだ!』

 

 なら、我々は徹底抗戦の意志でいいのだな、と桃はチーム全体を見渡した。彼女の視線を受けた面々は、小さく頷くことで自らの意志を示した。

 だが桃の視線がとある場所で止まる。

 それは自身の隣に立っていた優花里だった。

 

「どうした秋山? 我々に降伏の選択はない。早速起死回生の策を立てるぞ」

 

「…………」

 

「おい、秋山!」

 

 何も言葉を返さない優花里に、桃は苛立ちを見せた。そして彼女の肩を掴んで揺さぶった。

 だが、それでも反応がない。

 いい加減にしろ! と怒鳴りかけたとき、優花里の手によって、桃の腕は振り払われていた。

 まさかの展開に大洗の全員が動揺する。

 一番の狼狽えを見せたのはやはりというべきか、桃であった。彼女は信じられない、と目を剥いたあとすぐさま涙目になって柚子に泣きついた。

 

「柚子ちゃああああああん!」

 

「はいはい、大丈夫だから。秋山さんもわざとじゃないから。ね? そうでしょ、秋山さん?」

 

 けれども柚子のフォローにすら、優花里は言葉を返さない。静かにある一点を見つめ、ぶつぶつと何かを呟いていた。

 これは様子が可笑しいと、いぶかしんだ杏が側に寄る。

 

「ねえ、秋山ちゃん、もしかして体調でも……」

 

 悪いの? とは問えなかった。何故なら杏は優花里の呟きの意味に気がついたからだ。

 

「プラウダのカチューシャは昨年黒森峰の逸見カリエが立てた背後強襲作戦に破れている その後の練習試合においても包囲殲滅陣を西住みほ単騎に蹂躙され総崩れになったところを逸見姉妹に押されて敗北 黒森峰に対する勝利は未だなし なら彼女は本大会において何をめざす? 優勝 違う 勝利 当たり前

 ならそれら全てを達成することのできる完全勝利 そのために必要なものは カチューシャは何をしなければならない カチューシャは私たちとの試合に何を求める……」

 

 本当に耳を凝らさなければ聞こえないような小さい声。しかしながら紡がれている言葉は秋山優花里の思考そのものだった。

 杏は優花里から一歩身を引いた。

 今己が踏み込むべきではないと判断し、優花里から退いた。

 

「ね、ねえ、ゆかりん」

 

 心配した沙織が駆け寄ろうとするが、それは麻子が止めた。麻子もまた、優花里の変調の意味に気がついていた。

 

「少し待て。秋山さんの邪魔をするな」

 

「邪魔って――」

 

 そんなことない、と沙織が反論し掛けたその時、ようやく優花里の呟きが収まった。

 彼女は自身の出した結論が信じられないと言わんばかりに、髪を掻き毟った。さすがにそれは見過ごせないと、杏と柚子が目配せし合い、左右から優花里を取り押さえる。

 

「大丈夫、秋山ちゃん。秋山ちゃん一人だけじゃないんだ。ここには大洗のみんながいる。だから落ち着いて」

 

「そうだよ。だから秋山さんの考えを教えて? みんなでこのピンチを乗り越えていこうよ」

 

 優花里の自傷まがいの行為はすぐに収まった。だが代わりにその肩を振るわせてその顔を両手で覆う。

 そして顔を隠したまま、ぽつりぽつりと零し始めた。

 彼女は自信の思考に怯えていた。

 

「……私たちはプラウダにとって、決勝戦に挑むまでの体の良い練習台にしかすぎません」

 

 ざわっ、とどよめきがチームメンバーに走った。

 それはまともな対戦相手扱いされていないという、辛辣な事実を知らされたからだ。

 けれども優花里はそんなチームメンバー達を無視して続ける。

 

「カチューシャさんは私たちを仮想黒森峰と考えています。私たちが破れかぶれで行おうとしている最後の突撃を、黒森峰の電撃戦に見立てて封殺しようとしています」

 

 優花里の導き出した結論に反論したのは沙織だった。

 

「でもゆかりん、それはあくまでゆかりんの想像でしょ? 全部その通りになるなんてことは――」

 

 瞬間、爆発した。

 これまで何とか均衡を保っていた優花里の精神が爆発していた。

 自分だけで完結させていたあらゆる感情が吹き飛んでいた。

 屈辱、後悔、懺悔、それら全てか吹きすさぶ。

 

「状況がそういっているんですよ! 何であれだけの練度がありながら、我々は一両も撃破されなかったんです!? 何であれだけ悠々と追いつめていながら、我々の車両は致命傷を免れているんですか! 彼女たちは私たちを都合の良い実験台程度にしか考えていないんですよ!」

 

 ふーっ、ふーっ、と優花里が荒い息を吐いていた。誰もが初めてみる秋山優花里だった。いつも朗らかに笑い、大好きな戦車道にのめり込んでいる優花里ではなかった。

 

「お、落ち着いて秋山さん」

 

 柚子がそんな優花里の背を叩き、なんとか宥めようとしている。桃もいつの間にか泣き喚くのをやめて、そんな優花里の手を取っていた。彼女なりに無神経な自身の振る舞いを詫びているつもりだった。

 

「…………しましょう」

 

「え?」

 

 やがて、息を整えた優花里が俯きながら何かを口にした。

 その言葉は最初、誰も聞き取れなかった。

 だが二度目に同じ言葉が紡がれたとき、その意味は全員に伝播していた。

 

「降伏、しましょう。私は皆さんの安全を預かる身でもあります。これ以上皆さんをプラウダの苛烈な砲火の下に晒すことは出来ません。この試合は普通の試合とは違います。黒森峰という名の亡霊に憑かれた哀れな羆を相手取る消耗戦です。おそらく我々は一切の手心なく蹂躙されます。そんな無茶苦茶な試合の元で、まだまだ素人の私たちは自分たちの身の安全を担保出来ません。だから降伏しましょう」

 

 

02/

 

 

「――カチューシャが試合を止めたわね。慈悲のつもりかしら」

 

 ダージリンの零した疑問に、カリエは首を横に振っていた。

 

「いや、違う。あれは大洗が破れかぶれの突撃をしてくるようにし向けているんだ。プラウダは大洗を利用して、自分たちのチームや戦術を完成させるつもりだ」

 

 突如として両軍が動きを止めたことにより、観客たちはざわめいた。

 だがカチューシャの嗜好、その恐るべき知力を知っているカリエとダージリンは落ち着いて状況を分析していた。

 

「だとしたら苛烈にして悪辣ね。カチューシャ、秋山さんの心を徹底的に折ってしまうわよ」

 

「彼女にはそのつもりはないよ。ただ、私たちに対するリベンジを必ずや果たすつもりなだけ」

 

 パブリックビューイングの液晶には、「降伏交渉中」の文字が踊っている。

 勝利の見込みが完全消滅する程追い込まれた学校が、乗員たちの安全を守るために降伏を申し出るのは大会規約で認められていた。

 もしや大洗はそれを使うのか、と観客たちは勝手に想像し邪推している。。

 

「逆、ね」

 

 ダージリンの告げたとおり、実際にはその逆だった。

 絶対に大洗が飲み込めないような条件を突きつけて、自分たちに突撃させるのが目的なのだ。

 つまり交渉を持ちかけているのはプラウダである。

 

「でも大洗の一か八かの突撃は危険極まりないわ。素人の彼女たちではプラウダの重火力を受け流すことが出来ない。下手をすれば怪我人の可能性もある。秋山さんは何処まで冷静に判断が出来るのか……」

 

 ダージリンの言葉に、カリエは頷く。

 プラウダの黒森峰に負けず劣らずの火力を知っているだけに、その内心は穏やかではなかった。

 試合前、無邪気にここまでこれたことを喜んでいた優花里の事を思い出す。

 どうかせめて、引き際は間違えないで欲しいと、カリエは願っていた。

 

 

03/

 

 

「ふざ、けるな」

 

 絞り出すように優花里へ口を開いたのは桃だった。

 彼女は優花里の胸ぐらを掴みあげると、その怒気を隠すことなく詰め寄った。

 

「降伏するだと!? ここまでコケにされておいて、のこのこと白旗を揚げろというのか!?」

 

 沸騰している桃に対して、優花里は冷静に、冷たく言い放った。

 

「そうです。降伏を受け入れます。私の戦車道は勝利を追い求めるものではありません。皆さんが楽しく、安全に続けられるようにサポートし続けるのが私の戦車道です」

 

 それは優花里が戦車道を初めて以来、一貫してとり続けてきたスタンスだ。

 勝利に(こだわ)ったことは一度も無い。

 自分と共に戦車道をしても良いと思ってくれている仲間達が、競技を通して幸せだと感じられるように汗を流し続けてきたのが彼女の戦車道なのだ。

 そしてこれからもそれを曲げるつもりはなかった。

 

「馬鹿なことを言うな! 勝たないと意味がないんだ!」

 

 だが桃も譲れなかった。自分たち、いや、学園が陥っている状況を理解している彼女はここで白旗を揚げる訳にはいかなかったのだ。

 ここで諦めれば全て終わりであることを知っていた。

 だから、激情に身を任せつい口走ってしまう。

 決して告げてはならない言葉を。

 杏からは「秋山ちゃんに知らせてはならない」と厳命されていた真実を。

 

「勝たないと終わりなんだ! 我々は負けた時点で終わりなんだ! 秋山は学園が無くなっても良いのか!?」

 

 しん、とそれまでの喧噪が一瞬で静まった。

 誰もが言葉を失い、桃までもが己の失態に気がついて顔を青くしている。

 ただ杏だけがあちゃー、と天を仰いでいた。

 そして杏の次に正気を取り戻した柚子が慌てて桃に駆け寄り、「桃ちゃん!」と叱責していた。

 一人取り残された優花里が、震える唇で言葉を吐く。

 

「なんですか、それ」

 

 それは底冷えすら生ぬるい、余りにも冷たい声色だった。

 対面する形になっていた桃が数歩後ずさるくらいには、感情のない声色だった。

 

「学園が無くなるって、我々が負けたら学校がなくなるってどういうことなんですか」

 

 生徒会が何かを隠していることは薄々気がついていた。

 けれどもそれはもっと予算のことだったり、人員のことだったりと優花里が頭を各所に下げて回れば解決することの出来る話だと考えていた。

 だがその生徒会から告げられた本大会の真実。

 負ければ、そもそも学園がなくなるという話は完全に優花里の想像の範囲外だった。

 

「――会長、説明してくれますよね」

 

 優花里の雰囲気から、これ以上隠し通すことは出来ないと杏は観念した。

 観念して、事の顛末を語り始めた。

 大洗女子学園の廃校の危機を、そして廃校回避の為に文部科学省と交わした一つの約束を。

 

 戦車道大会で、万が一でも優勝すれば廃校撤回について考慮するという約束を。

 

 一同の空気が質量を持ったかのように重たいものへ変わる。

 誰もが口を開く事が出来ず、俯いていた。

 そんな凍えた空間の中、優花里だけが杏に言葉を投げかけていた。

 

「私に黒森峰のエキシビションマッチを見学させたときからこの計画は練られていたのですか」

 

 杏は淀みなく答える。

 もう隠しても仕方がない、嘘を吐いても仕方がないといったように。

 

「そうだよ。12月の合宿も、それからの猛練習に対する許可も全てこの大会で優勝するために仕込んだものさ」

 

 優花里は続けた。

 

「本当にそんなもので優勝できると思っていたんですか。そんな付け焼き刃で戦い抜けると思っていたんですか」

 

「思っていなくとも、縋らなければならなかったからね。この大会は私たちに残された最後の希望なんだ」

 

 杏を優花里が見下ろした。杏に初めて向ける、裏切られた悲しみと怒りに溢れた揺れる瞳だった。

 

「私を、利用していたんですね」

 

「否定はしないよ」

 

 ぐらり、と優花里の世界が傾く。

 咄嗟に沙織が駆け寄り、その身体を支えてやらなければそのまま冷たい地面に叩き付けられていただろう。

 沙織は腕の中の優花里がやけに軽いことに気がついて、きっと杏を睨んだ。

 

「私は、私は皆さんと共に楽しむ為に戦車道を続けてきたんです。そのために寝食も忘れて頑張ることが出来たんです。そんな意味不明な重しを背負うために、頑張ってきた訳じゃないんです」

 

 頭を抱え、現実が認められないと言った風に優花里は喘いだ。

 涙混じりの言葉を誰も止めてやることは出来なかった。

 

「……ごめんよ。でも、こうするしかなかったんだ」

 

 悔しさを滲ませるように杏は言葉を絞り出していた。

 彼女も彼女で葛藤や後悔を抱えていたのだろう。けれどもそんな杏の気持ちを汲み取ってやれるほど、今の優花里には余裕がなかった。

 彼女は涙ながらに、ぽつりと消え入りそうな声でこう告げた。

 

「――もう、もう私には指揮が出来ません。大洗戦車道隊長としての権限を全て河嶋先輩に移譲します。私には地獄しか待ち受けていないこの先に、皆さんを連れて行けるだけの勇気も実力もありません」

 

 

04/

 

 

 廃墟の片隅で、優花里は膝を抱えていた。

 これほどに心の痛みを感じるのは、友人に恵まれず一人で生き続けてきた中学生の時ぐらいしか記憶にない。

 それくらい、この一年間は毎日が充実した幸せな日々だった。

 

 大好きな戦車に、己が持ちうる情熱の全てを傾けることが出来ていた。

 気がつけばたくさんの友人に囲まれて、いつも笑顔を零していた。

 目標としたい人も出来た。

 たくさんのライバルも作ることができた。

 

 そんな幸せな戦車道にこんな落とし穴が待ち受けているとは考えもしなかった。

 学園存続の重荷を突然背負わされるなんて、想像が付くはず無かった。

 彼女の戦車道はチームメイトと楽しむ戦車道だった。

 何か一つの大義を成し遂げるための戦車道ではない。

 誰かに利用されても良しと出来る戦車道ではなかった。

 

 いや、と優花里は首を振った。

 

 本音では杏達の事情も理解することが出来る。

 学園存続のために、何かしらの成果を上げるため、戦車道に縋ら(すが)なくてはならなかったこともわかっている。

 これまで生徒会には数え切れないくらい助けて貰ってきた。

 予算で、人員で、時には個人的な相談で、此度の騒動程度でこちらが切り捨てて良いような義理ではないはずだった。

 

 それでも駄目なんです、と優花里は再び涙ぐむ。

 

 理屈ではわかっていても、理性が囁い(ささや)ていても、生徒会に対する憤りがどうしても押さえることが出来ない。

 これでは駄々を捏ねる子供ではないか、と己を叱咤しても心が納得しなかった。

 自分でもどうしてここまで意固地になっているのかわからないくらい、心が(がん)()(がら)めだった。

 

 仲間達の安全を最優先にしているのは嘘ではない。

 プラウダの総攻撃に皆が傷つくことが耐えられなくて、試合を放棄したのは事実だ。

 けれども全ての真実でもなかった。

 本当にそれを優先しているのならば、桃に指揮権の移譲などせずに、今すぐにでもプラウダ陣営に突っ走って降伏の旨を伝えに行けば良かったのだ。

 でも現状は違う。

 こうして仲間達が作戦会議を続けているのを、ぼんやりと少し離れたところで見つめ続けている。

 もちろん学園が失われることはショックだ。出来ることならば阻止したいと考えている。

 だがその感情を優先するのならば、真っ先に大洗の輪に戻って作戦について議論すべきだった。

 仲間がどうとか、自分に対して言い訳をする前に行動に移すべきだったのだ。

 

「なんて馬鹿なんでしょう、私は」

 

 結局のところ、優花里はどっち付かずだった。

 降伏も徹底抗戦も優花里は選べていなかった。選択することが出来ていなかった。

 学園を見捨てることも、仲間を危険に晒すこともどちらも出来なかった。

 選べるわけがなかったのだ。

 

 学園は、いや学園艦は優花里を育ててくれた街だった。言わば第二の故郷そのものであり、彼女にとって何物にも代えがたい大切なものだった。

 杏や桃、柚子達も学園艦のことを愛してはいるが、それに負けないくらい優花里も愛していたのだ。

 そんな学園艦の統廃合をみすみす見逃せるはずもなかった。

 

 しかしながら、それと同じくらい戦車道を通して出来た友人達も彼女にとって大切なものだった。

 自分の戦車道がこれで間違っていないと教えてくれた、かけがえのない人々だったのだ。

 いくら学園艦を守るためとはいえ、そんな彼女たちを勝ち目のない危険な戦いに連れて行くなど不可能だった。

 学園艦と友人、どちらも彼女にとっての最大の宝物であるからこそ、ここまで心は捩れ、悲鳴を上げていた。

 何を選べばいいのか、どちらが正しいのかわからなくなっていたのだ。

 

 そんな優花里の心境を知っているからこそ、大洗の生徒達は誰も彼女を非難しなかった。

 杏も柚子も、桃でさえも権限を移譲したいと告げた優花里を責めることは出来なかった。

 自分たちがどれだけ酷な選択を迫っているのか、わかってしまっていたから。

 

「……こんな時、あなたはどうするんですかね。カリエさんは戦車道でこんな辛い思いをしたことがあるんでしょうか」

 

 気がつけば、見えない何かに問いかけていた。

 自分の眼前に、虚空に問いを投げかける。

 

「カリエさんは選ばなければならない時って、あったんですか? 人生でこんな究極の二択を選ばなければならない日があったんですか?」

 

 思わず口をついて出てきた名前は、戦車道において目標とし続けている恩人だった。

 彼女がいなければ自分は戦車道をやってみようとは思わなかった。

 彼女の決死の活躍を目にしなければ、戦車道の世界など画面の向こう側の出来事だった。

 

 カリエが負かしてくれたから、もっと強くなろうと思った。

 カリエが努力の方法を教えてくれたから、疑いなく戦車道に打ち込むことが出来た。

 偵察が怖くなかった。戦車を覚えることが苦痛ではなかった。戦術がすらすらと頭の中に入ってきた。

 

 カリエがいたから、自分はやっとここまで来られた。

 

 ふと、手を伸ばす。

 目の前に鎮座するⅣ号戦車に手を伸ばす。ここまで一緒に戦ってきた戦友に手を伸ばす。

 何故だか、薄暗い廃墟の下に佇むそれに見覚えがあった。

 心の何処かの原風景に触れているようで、心の重しを降ろすことが出来そうな気がした。

 そんなものに縋りたいくらいには優花里の精神は疲弊していた。

 

「――あなたはどこでお会いしたのでしょうか」

 

 優花里の胡乱な心境とは裏腹に、彼女の思考は高速な回転を見せていた。

 過去の記憶を総当たりし、目の前の光景と一致する場面を必死に想起する。

 

 初めてⅣ号戦車を見つけた学園艦のガレージ――違う。

 テレビの向こう側に見た黒森峰のⅣ号戦車――違う。

 子供の頃に雑誌で見たⅣ号戦車――違う。

 

 ならばどれだ?

 どのⅣ号戦車が今目の前の風景に重なって見えるのだ?

 

 ふらふらと、優花里は立ち上がった。

 立ち上がってⅣ号戦車に歩みを進める。かの戦車が近づく。かの戦車が視界いっぱいに広がる。

 履帯に触れた。

 履帯に付いていた白銀の雪が、優花里の革手袋に触れた。

 その冷たさが、儚さが、彼女の心に掛かっていた(もや)を吹き飛ばしていた。

 

「……ああ、そうだったんですね。なんて馬鹿なんでしょう、私は」

 

 台詞は先ほどと同じもの。

 けれどもその声色は、その表情は、その意味は全くといって良いほど真逆のものだった。

 優花里に声を掛ける事を躊躇っていたチームメイトが驚くくらいには、安堵に満ちた声と表情だった。

 

「本当にあなたは凄いです。私が、いえ、わたくしが助けて欲しいと思ったときには、こうやって手を差し伸べてくれるんですね」

 

 雪を握りしめる。

 その銀の証を手の中に刻む。

 

 優花里は思い出していた。

 暗い照明の元に佇むⅣ号戦車。そしてそれを恨めしく、膝を抱えて見つめるさっきまでの自分のような人影。

 銀の髪に、翡翠色の瞳。

 天使のような少女は、自分の戦車道に対する心の原風景。

 彼女は優花里に名前を告げていた。

 散々引っ張り回し、戦車について精一杯語って見せた優花里に名を告げていた。

 

 ――逸見カリエ。それが俺の――いや、私の名前。

 

 

09/

 

 

 別に優花里が立ち直ることを期待していなかった訳ではない。

 けれどもこの試合中に全ての葛藤を飲み込んで貰うことを強要するつもりは、なかった。

 自分たちが彼女の好意を、戦車に対する情熱を利用していたことは認めていたし、罪悪感も常々感じていたからだ。

 だから半ば諦めにも似た感情を抱きながら、杏は桃と作戦を練り続けた。

 練り続けて、如何に自分たちが優花里におんぶ抱っこだったのか、と思い知らされていた。

 まず作戦の立て方がわからない。

 何となくこうすればいいのかもしれない、というビジョンは思い浮かぶものの、それを明確化するデータも知識も経験も何もかもが足りていない。

 その現実に薄々気がついているのか、桃や柚子の表情は暗かった。

 目の前に横たわっている「敗北」という名の現実に絶望していることが在り在りと見て取れた。

 だが自分までそんな表情をしては終わりだと、杏はあくまで気丈に振る舞っていた。

 

「だから残り二時間で何とか偵察を済ませるんだ! そして包囲が薄いところを何としてでも突破する!」

 

 桃の力説も空回りするばかりだ。

 彼女の意見の正当性を理解することが出来ていても、どういった風景を見て、包囲が薄いと判断して良いのか、どのような事に注力して偵察をすればいいのか誰もわからなかった。

 薄々その事実に皆が気づき始めていても、誰も対案を出すことが出来ない。

 誰も作戦について意見を述べることが出来なかった。何が正解で、何が間違っているのかわからないのだから。

 

 もう駄目だ。

 

 誰かが呟いた。

 これまでギリギリで保ち続けていた最低限の士気の維持すら困難になっていた。

 寒さと圧倒的なプラウダとの実力差、そして優花里の離脱という現状が彼女たちを追い詰め始めていた。

 杏はもしかしたらこれが年貢の納め時かも知れないと、静かに瞳を伏せた。

 

「――その突破法では駄目です。包囲が薄いところは仕掛けられた餌です。カチューシャさんは必ずやそこに火力を集中させ、わたくしたちを殲滅しにきます」

 

 声がした。

 誰もがその声に耳を疑った。

 もう自分たちを引っ張ってくれる筈のない、隊長の声がした。

 バサリと作戦会議の場に使われていたテーブルに大量の資料が積み上げられる。

 

「これがプラウダの編成と戦術傾向です。彼女たちはここ一年間、敢えて包囲に綻びを作るという面倒な訓練に勤しんでいました。相手に気がつかれないように、悟られないように、罠を張る方法を訓練し続けたのです」

 

 彼女は資料を指さす。

 指さして、大洗のこれからを示す。

 

「敢えて包囲の厚い部分を突破する必要があります。そのためには偵察班を編制して、包囲の全容を確かめる必要があります。麻子殿、そど子殿、エルヴィン殿はこの後、雪中偵察の装備をお渡ししますので、偵察をお願いします。麻子殿とそど子どのは確か視力が良かったですよね。エルビン殿は私と共に敵のフラッグ車の捜索をお願いします」

 

 すらすらとそれぞれの隊員がすべきことを羅列していく。

 彼女たちの長所を活かした、適材適所を組み上げていく。 

 

「はっきり言います。二時間後、間違いなくわたくしたちは人生で一番怖い思いをするでしょう。怪我だってするかもしれません。けれどもわたくしの事をもう一度信じてはくれませんか。一度は投げ出したわたくしですけれど、もう一度だけ、着いてきてはくれませんか」

 

 その場にいた全員が優花里を見た。

 誰もが自分たちの隊長を見た。見て、その力強い瞳と目が合った。

 試合前よりも遙かに覚悟に漲った瞳がそこにはあった。

 

「必ず勝ちます。プラウダに勝ってみせます。大洗女子学園を廃校になんてさせません。そして、皆さんを戦車道に失望させたりなど、絶対にさせません」

 

 杏は自身の表情が綻んでいくのを感じた。 

 そして恥じた。

 優花里の事を甘く見すぎていた自分を恥じた。

 彼女の本当の芯の強さを未だに認めていなかった自分を、大いに恥じた。

 

「もちろんさ、秋山ちゃん! 必ずプラウダに、そして黒森峰に勝って大洗に帰ろう!」

 

 飛びつくのは、ハグをするのはまだまだ先だと自分に言い聞かせた。

 歓喜の瞬間はその時に取っておくのだ、と何とか両足を地に縫い付けた。

 けれどもそれくらいしなければならないほど、杏の心は喜びに満ちていた。

 自分たちの隊長が帰って来た事を喜んでいた。

 

 誰も優花里が戻ってきたことに異論を唱えることはない。

 それどころか、全員がその復帰を喜び、大なり小なり彼女に抱きついた。

 優花里はそれらを一つ一つ受け止めて、微笑んだ。

 自分が手に入れたものの、大切さ以上に、その強さを噛みしめていた。

 

 いつも心の片隅にあった原風景。

 天使のような女の子と戯れた、幼少の夏。

 優花里の戦車道は去年の夏から始まったのではなかった。

 実のところ、同じ人物によってその遙か昔から種が蒔かれていたのだ。

 

 優花里は思う。

 このプラウダ戦は所詮通過点に過ぎないと。

 ここに勝って、最高の舞台で、最高の戦力を率いるカリエと戦ってこそ、自分の戦車道が完成するのだと。

 それがカリエをこの世界に引き込んだ自分の義務なのだと。

 

 待っていて下さい、と声が漏れる。

 

 この雪原の何処かで自分たちの事を見守っている彼女に、言葉を紡ぐ。

 試合再開まで残り二時間弱。

 大洗女子学園の秋山優花里は、遂に自分の戦車道を見つけていた。

 

 

10/

 

 

 試合が始まった。

 大洗女子学園が降伏しないまま、タイムリミットを切った。

 試合再開の空砲が雪原を揺るがす。

 プラウダの戦車隊が徐々に前進を始めて、その包囲を縮めつつあった。

 陣頭指揮を取るカチューシャは、教会内から聞こえてくる複数のエンジン音に気がついていた。

 彼女の鋭敏は耳は、大洗の交戦の意思を明確に掴み取っていた。

 

(じゆう)(りん)するわよ! ぎったぎたの滅茶滅茶にしてピロシキのお惣菜にしてやるわ!」

 

 砲声が轟く。

 幾つもの曳光が教会に飛び込んでいく。

 T-34たちによる砲撃だった。大洗も負けじと教会内から応戦する。

 だがその砲弾は雪原に雪の柱を刻み込むだけだった。

 プラウダ側に明確な被害は一切見られない。

 

「そろそろ出てくるわよ! 気をつけなさい!」

 

 カチューシャが警告したとおり、どん、と一両の車両が飛び出してきた。

 38t戦車だった。その38t戦車は煙幕を炊いていた。

 教会の入り口を包み隠すような、煙幕を周囲に撒き散らしていた。

 

「ちっ、出てくるところをカバーするつもりね。煙幕から距離を取りつつ砲撃を続行。後続にプレッシャーを与えるのよ」

 

 絶え間ない砲撃に煙幕が晒される。

 煙幕内にいるであろう、大洗の車両の装甲に砲弾が接触しているのか、時折甲高い金属音が響き渡った。

 このまま行けば、試合終了も目前だと、カチューシャは笑顔を見せた。

 

「黒森峰を打ち倒すのはこのカチューシャよ! どいつもこいつもよーく覚えておく事ね!」



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秋山優花里の戦車道 17

 教会の二階の窓。

 秋山優花里は暴れ狂う心臓を何とか押さえ込みながら、双眼鏡で眼下を観察していた。彼女の脇には複数の無線機、地図、偵察情報をまとめた書類が散らばっており、二階テラスの手すりからは一階に向けてロープが垂れ下がっている。

 

『秋山、こちらカメさんチームだ。教会入り口の強行突破を開始。予定通り煙幕を焚いてカモさんチーム、アヒルさんチームと脱出する』

 

「こちら秋山了解です。ここから先は事前の打ち合わせ通りにお願いします。なんとしてでもフラッグ車のアヒルさんチームを守りきって下さい」

 

 桃の通信に優花里が返す。すると向こう側で杏が割り込んだのか、次の返答は彼女からだった。

 

『秋山ちゃん、本当にありがとね。また私たちと一緒に戦ってくれて』

 

 優花里は一度双眼鏡から視線を外して答えた。

 

「――私の戦車道は皆さんと楽しく毎日を過ごしていくための戦車道です。それは変わりません。ですが、ここで勝たなければその戦車道が終わってしまうのなら、何度だって戦ってみせますよ。それがあの人が教えてくれた道です」

 

 応答は暫くない。

 けれども、どこか安心したかのように杏は最後にこう告げた。

 

『そっか。じゃあ、またね』

 

 通信が切れる。

 優花里の眼下では煙幕の中を突き進んでいく大洗の車両たちが見えた。

 優花里は車両たちの無事を一心に祈りながらも、その鋭い視線を張り巡らせていた。

 そして、待ち続けていたその時が来たことを察知する。

 カチューシャが呼び寄せていたKVー2が、煙幕を吹き飛ばさんと、砲身を旋回させていたのだ。

 慌てて床に転がっていた無線機を拾い上げて、外の状況を味方に叫んだ。

 

「華さん、準備お願いします! さん、にい、いち、今!」

 

 ズガン、と教会全体が振動する。

 それはあたかもKVー2の榴弾によって引き起こされた事象のようにも見えた。

 いや、実際、かの車両の砲撃が建物の一部を吹き飛ばしたことは事実だ。けれどもそれが全てではない。

 

「ゆかりん! はやく!」

 

 瓦礫と塵埃(ちりぼこり)が降り注ぐ中、優花里が二階テラスの手すりに結わえられていたロープを掴んだ。そしてそれをラペリング降下の要領で、するすると降りていく。

 ロープの真下には、エンジンをアイドリングさせたⅣ号戦車が待機しており、そのすぐ背後にはⅢ号突撃砲が同様の状態で座していた。

 キューポラから顔を覗かせていた沙織が、優花里の手を引く。

 

「こっちの準備は出来たよ!」

 

「念のため砲塔を回転させて下さい。カバさんチームは後進でお願いします。では冷泉殿、行きましょう」

 

「おうよ」

 

 優花里の合図とともに、砲塔を後部に向けたⅣ号戦車が急加速した。そして、教会の入り口とは正反対の壁に向かって突進をした。

 いくら鋼鉄の怪物である戦車であっても、煉瓦で組み上げられた壁を突き破ることは出来ない。けれども、彼女たちの進路上の壁はなくなっていた。

 榴弾によって吹き飛ばされていた。

 

「しかしあれですね。プラウダの砲撃音に紛れて撃つと聞いたときは驚きましたが、何とかなるものですね」

 

 一部残された煉瓦たちを踏み越えた衝撃で、車内が激しく振動する中、しっかりと砲手席にしがみつきながら華が感心していた。

 彼女たちはプラウダの裏を掻くべく、教会の背部を強行突破していたのだ。

 

「――目くらましの煙幕は長くは持ちません。すぐにあちらは私たちがいないことに気がつくでしょう。それまでに……」

 

 優花里の言葉を沙織が繋ぐ。

 

「相手のフラッグ車を強襲して、勝つんだよね。大丈夫、きっと私たちなら出来るよ」

 

 沙織の力強い視線を受け止めて、優花里は頷いた。

 言葉にすれば簡単だが、いざ実行するとなれば高度なチームワークと練度が要求される二方面作戦。

 けれども優花里は信じていた。

 ここまで自分と共に歩んできてくれていた大洗のチームメイトたちを。

 自分の戦車道がこんなところで終わりにはならないということを。

 白銀の雪景色の中、Ⅳ号戦車を先頭に、Ⅲ号突撃砲が隊列を成している。

 事前の偵察が正しければ、この先にカチューシャはフラッグ車を隠しているはずだった。

 月明かりの下、優花里はキューポラの上によじ登った。

 沙織が「危ないよ!」と手を伸ばすが、「大丈夫です」と首を横に振る。

 Ⅳ号戦車の天蓋をしっかりと踏みしめて、優花里は周囲を見回した。

 

「こちらの方がよく見えるんですよ」

 

 彼女の視線の先には、雪に埋もれた一つの廃村。

 背後から、別働隊を襲う凄まじい砲撃音がここまで聞こえてきている。障害物の少ない雪原だからこそ、何処までも反響し、その苛烈さを優花里に教えてくれていた。

 けれどもそんな地獄の坩堝(るつぼ)に仲間を送り込んだ後悔はない。

 自分は自分の使命を完遂することが、チームに対する最大の貢献であることを彼女は知っていたからだ。

 

 もう迷わない。

 もう絶望しない。

 

 進み続けなければ、失われてしまう道であることがわかった以上、足を止めるという選択肢はない。

 秋山優花里は月を見上げた。

 銀世界を照らし出す青白い月。

 彼女はその光の向こうに、大洗の未来を見いだそうとしていた。

 

 

01/

 

 

 大洗にとって幸いだったのは、別働隊の存在に気がつくことにカチューシャが少しばかりの時間を必要としたことだった。

 彼女は教会から飛び出してきた車両が、敢えて包囲の分厚い所に突撃してきたことに、少なからず動揺してしまったのだ。

 心のどこかで、大洗を新設の学校だと思いこみ、定石通りの手を打ってくると思いこんでしまっていた。

 そしてそれは対黒森峰としては正しい思考だった。

 黒森峰は装甲火力に優れているため、敢えて邪道を進むことは殆どない。

 カリエならば裏を掻いて包囲の分厚いところを食い破る、というプランを考えはするだろうが、乗員の安全等のリスクを鑑みて、実行するようなことは殆どなかった。

 王者だからこそ、ここぞという場面で定石を打つのだ。

 むしろ対グロリアーナ戦が例外中の例外なのである。

 

 カチューシャの犯してしまったミスは単純かつ明快。

 

 秋山優花里のこれまでの戦い方に、逸見カリエの影を幻視しすぎてしまったことだ。

 同一視してはならない部分まで、二人を同一視してしまっていた。

 さらにカチューシャの作戦の基盤を揺るがしていたのは、大洗の廃校問題だった。優花里も廃校問題さえなければ、定石通りの作戦を打っていたかもしれない。だが廃校という現実を突きつけられた彼女は、邪道を進む覚悟を決めていた。

 定石を捨て、勝つためのあらゆる布石を打つ戦法にシフトしていたのだ。

 まさかカチューシャも自ら与えた三時間の間に、対戦校の戦車道の根幹が正反対のものになっているとは夢にも思わなかったのである。

 

 煙幕の煙が、KVー2の榴弾によって吹き飛ばされる。 教会から飛び出してきた大洗の車列が露わになる。

 Ⅳ号戦車とⅢ号突撃砲がいなかった。

 だが、その事実に気がつくまでさらに若干の時間を擁してしまった。

 彼女の視線は、思考は、自らの眼前に突撃してくる38t戦車を見ていた。

 

「ばっかじゃないの! わざわざ包囲の厚いところに突っ込んで来るなんて!」

 

 罵りと同時に、大洗の車列への発砲を許可する。

 多数の砲弾が車列の周辺に雪の柱を立てた。

 幾つかの命中弾が散見されたが、撃破できた車両はなかった。

 

「ちっ、このまま逃がすわけないでしょ! ノンナ!」

 

 車列が自身のTー34/85の脇を通り抜けて行ってしまったことを確認したカチューシャは、己が一番信頼を寄せている副官の名を叫んだ。

 ノンナは静かにカチューシャのTー34/85に自身のISー2を横付けした。

 

「私が討伐隊を率いて大洗のフラッグ車を討ちます。カチューシャは……」

 

 ノンナの進言にカチューシャは被せた。

 

「わかっているわ。ここにいないⅣ号戦車とⅢ号突撃砲を倒しにいく。おそらく向こうはこちらのフラッグ車を狙っているはずよ。でもいつのまに――」

 

 さすがは、と言うべきか、カチューシャは既に大洗の二方面作戦に気がついていた。車列が横を通り過ぎたときに、全ての車両をカウントしたのである。

 そしてⅣ号戦車とⅢ号突撃砲がいないことをあの一瞬で察していた。

 

「……おそらく我々から見て反対方向の壁を突破したものと思われます」

 

 ノンナの言葉通りなら、どれだけ無茶苦茶な作戦なのか、とカチューシャは(そし)った。

 謗って、その蛮勇と思い切りの良さに感心さえ覚えていた。

 

「ふん、少しはやるじゃない。でも最後に勝つのは私なんだから! 向こうがどれだけ足掻いてみせようと、必ず踏み潰してやる!」

 

「……大丈夫です。カチューシャなら」

 

 最後にそう告げて、ノンナは大洗のフラッグ車を追い始めた。カチューシャは残された車両たち――全体の三分の一の車両たちを率いて、フラッグ車の救援に向かう。

 

 ここに来て、大洗女子学園 対 プラウダ高校の試合は白熱の様相を見せていた。

 

 

02/

 

 

『会長、背後からプラウダの車両が追いついてきました。ISー2が先頭にいます』

 

 最後尾のカモさんチームの報告を受けて、杏は手にしていた書類をぱらぱらとめくった。

 

「……おそらくそれがブリザードのノンナだね。彼女は高校戦車道一の砲手と呼ばれている。全車ジグザグ行進を開始。アヒルさんチームをみんなで囲んで」

 

 フラッグ車護衛隊の指揮を執っていたのは彼女だった。優花里から是非とも分離した隊を預かって欲しいと言われたのである。

 桃はその装填速度の達者さを買われて、装填手を勤めていた。肝心の杏はまさかの砲手席に腰掛けている。

 

「かーしまー、次の丘を越えたら私たちで殿(しんがり)をするよ。少しでもノンナを足止めして時間を稼ぐんだ」

 

「わかりました。ですが、隊の指揮はどうされます?」

 

 杏の提案は至極まともなものだった。

 練度で劣る大洗は鬼ごっこを続けていても、何れプラウダに追いつかれる。

 ならば一両でも決死の突撃をして、少しでもプラウダの足並みを乱すべきだった。

 けれども桃が指摘したとおり、杏は隊の臨時指揮官である。ここで失って良い人材ではない。

 

「いや、多分もう指揮はいらないよ。ここで稼いだ時間内に決められなければ私たちの負けだ。後ろを見てみなよ。肝心のカチューシャがついてきていない」

 

 言われて、ハッチから桃が顔を覗かせた。確かにこちらを追いかけて来ている車両の数が足りていない。

 杏の告げたとおり、優花里たちの別働隊を討ちに行っていることは明白だった。

 

「――まさかこんなに早く気づかれるとは。教会の壁を吹き飛ばしたタイミングは完璧だったはず」

 

 驚きの声を上げる桃に杏は苦笑する。

 

「腐っても昨年の準優勝校ってことだよ。さっきカチューシャとすれ違ったときに、数が足りていないことを悟られたのさ。まったく、戦車道の強豪校は化け物ぞろいだね」

 

 徐々にプラウダとの距離が詰まり始める。杏は小山に速度を落とすよう指示した。

 大洗の車列との距離が開き、プラウダとの距離が縮まる。

 

『大洗のみんな、大変だろうけど頑張ってね。私たちはここいらで格好つけさせて貰うよ』

 

 台詞と同時、柚子が38t戦車の操縦桿を切った。殆どその場でターンした38t戦車がプラウダの車列に突進する。 Tー34の砲撃か装甲の脇を掠め、やや後方に着弾していた。

 38t戦車が、一両のTー34に肉薄する。

 

「さて秋山ちゃん、あとは頼んだよ」

 

 

03/

 

 

 杏たちが決死の特攻を仕掛けたその時、優花里たちもプラウダのフラッグ車に接触していた。

 だが奇襲を仕掛ける寸前のところで悟られてしまい、廃村を使った鬼ごっこをここでも繰り広げていた。

 焦りを覚えていたのは優花里である。

 

「……不味いです。時間が余りありません」

 

 無線越しに、フラッグ車の護衛隊が一両、また一両とダメージを追っていることが伝えられていた。杏たちの特攻が成功したかどうかも、まだ報告されていない。

 けれどもそう長くは持たないことを、彼女は誰よりも理解していた。

 

 かたかたと、手が震えている。

 急速に膨れ上がりつつある敗北の瞬間に、冷や汗が止まらなくなる。

 

「ゆかりん!」

 

 ふと、思考が暗いものに支配されそうになったとき、優花里を引き戻したのは沙織の声だった。

 彼女は車内から優花里の手をしっかりと握りしめて叫んでいた。

 

「きっと大丈夫! 私たちが先に相手をやっつけちゃうよ!」

 

 根拠もリアリティも何もない言葉だった。けれども今の優花里にとっては、万の励ましにも勝る一言だった。

 

 優花里は頬を一発叩き、考えろ、と己を叱咤する。

 前方を逃げ続けるTー34を、プラウダのフラッグ車を冷静に睨みつけた。

 

「……残念ながらあちらの方が雪中の進行速度は上です。このままではただ距離が開いていくだけ。待ち伏せも、ルートの解析が出来なければ……」

 

 彼我の戦力差を、これまで培ってきた知識を元に明らかにしていく。

 ぶつぶつと、呟くように思考をカタチにしていく。

 その様子は車内の沙織からもよく見えたが、彼女は邪魔をしなかった。教会での追いつめられた優花里が思い起こされる姿ではあったが、その意味合いが違うことくらいは理解していたからだ。

 ふと、優花里の視界の隅に何かが映り込む。

 教会で吹っ切れる前ならば、おそらく見逃していただろう小さな陰だった。

 優花里がそちらに視線を向けてみれば、白銀の夜を貫くように鐘塔が立っていた。

 一瞬で、思考が加速した。

 

「……冷泉殿、相手に気がつかれない程度に速度を落として下さい。出来ればコーナリングで(ちゆう)(ちよ)している感じで」

 

 ぼそり、と優花里が呟く。何故かその声は騒音だらけの車内にあっても、乗員全員に届いていた。

 

「いいけど何をするつもりだ」

 

 麻子が怪訝な表情で問う。優花里は意を決した表情をもって答えた。

 それは勝利への道筋を確かに見極めた、軍神のような表情だった。

 優花里が何をするもりなのかを察した沙織が慌ててその手を引っ張る。

 

「だ、駄目だよ! 危ないから止めて!」

 

 ぐいっ、と握りしめられた手に伝わる感触は力強いものだった。始めて出会ったときに比べれば随分とたくましくなってしまった沙織の握力だった。

 優花里は何だかその変化が面白くて、笑みを零していた。

 

「笑って誤魔化さないでよ!」

 

「誤魔化してませんよ。ただ嬉しかっただけです。友達に心配されるって、こんなにも心が温まるものなんですね。雪の中の戦いということを忘れてしまいそうになります」

 

 優花里は少しずつ沙織の指を解いていく。

 自身の腕を握りしめていた指を優しく解いていく。

 

「ここから先、Ⅳ号戦車の操舵は武部殿の指示に従って下さい。冷泉殿。わたくしが外から誘導しますから」

 

 もう一度、優花里はⅣ号戦車の天蓋を踏みしめた。

 無線機と双眼鏡を詰め込んだバックパックを手に、天蓋に立った。

 徐々にⅣ号戦車の速度が落ちていく。

 一度息を吐く。恐怖心がないわけではなかったが、それ以上の使命感が優花里を突き動かしていた。

 

「ゆかりん、本当に気をつけてね!」

 

 車内から投げかけられる沙織の言葉を受けて、優花里はバックパックを雪に落とした。

 そしてそれに続くように、優花里はⅣ号戦車から飛び降りた。

 雪の深いところに五体で着地し、衝撃を殺す。

 そして近くに転がっていたバックパックを拾い上げて、彼女は一目散に掛けだした。

 目指すのは視界の少し先にそびえ立っている鐘塔だ。

 白い息が、白い夜に溶けていく。

 

 もしかしたら、人生最後の戦車戦になるかもしれないと思えば、雪を踏みしめる足から冷たさが消えた。

 もしかしたら、もう皆と戦車道が出来なくなるかも知れない、と思えば張り裂けそうな心臓も無視できた。

 もしかしたら、この先に勝利が転がっていると思えば、どんどん進む足は速くなっていた。

 

 鐘塔の内部階段を駆け上がっていく。

 躓いて、転げそうになったことは一度や二度ではない。

 その度に手をつき、何とか足で踏ん張り、上へ上へ、と目指す。

 最後の踊り場から、階段を一段飛ばしに駆け上がったその時、彼女の視界が一気に開けた。

 

「はあ、はあっ」

 

 吐き出す息は荒く、胸は上下を止めてくれない。

 でも優花里は小休憩を挟むことなく、双眼鏡ですぐさま眼下を見た。

 

「――いた、あれが」

 

 廃村内で繰り広げられる雪中の鬼ごっこを確認し、無線機を準備する。

 焦る気持ちを何とか抑えつけながら、チャンネルを合わせた。

 

『武部殿、Ⅳ号戦車はそのままフラッグ車を追いかけて下さい。次と次の角は全部右折です』

 

 応答はなかった。

 けれどもⅣ号戦車の挙動が、自身の指示が伝わっていることを教えてくれる。

 続いて優花里は逃げ続けるフラッグ車――Tー34を見た。

 

「…………」

 

 呼吸すら忘れて、彼女は対象を観察した。

 この日のために自分は戦車道を学び続けてきたんだ、と言い聞かせて脳に刻み込んだ全ての知識をフル動員していた。

 

 Tー34の最高速度はどれくらいだったか。

 かの戦車の装甲はどのような配分だったのだろう。

 プラウダではどのように操舵するように訓練していただろうか。

 あの戦車の車長はどんな心境で、どんなルートを模索しているのか。

 

 ついには瞬きも止めて優花里は見入った。見入って、ある結論が導き出された。

 だがすぐにそれを口にすることは出来なかった。

 何故ならやり直しの一切効かない、一度きりのチャンスであることがわかり切っていたからだ。

 

 自身の指示通りに味方が動けるとは限らなかった。

 敵が自身の予測通りに行動するという保証もなかった。

 

 決断の時だった。

 ここで一か八かの賭けに出なければ、また別の勝ち筋が見えてくる可能性もあるにはあった。

 だが勝利に対する最短経路はこの賭けの先にあることも理解していた。

 気温は氷点下に近いというのに、優花里の額を汗が流れた。

 

「――――カバさんチームに告げます。B74地点の廃屋の陰で待ち伏せを行って下さい」

 

 優花里は決めた。

 自分たちが勝つために必要なことを吟味した上で、決断した。

 ここで賭けに勝たなければ、自分たちに未来が無いことを覚悟して、口を開いた。

 

「必ずそこを敵フラッグ車が通過します。――私を信じてください」

 

 

04/

 

 

 カチューシャは見つけた。

 自軍のフラッグ車を追いかけ回すⅣ号戦車を見つけていた。

 彼女は間に合っていた。

 

「全車に伝達! 目標はⅣ号戦車! 必ず仕留めなさい!」

 

 フラッグ車を追うⅣ号戦車をさらに追いかける形で、編隊を指揮する。

 絶え間ない砲撃を浴びせかけることで、Ⅳ号戦車に対するけん制とした。

 実際、時折フラッグ車に発砲していたⅣ号戦車の砲身が沈黙を見せる。

 

 優花里が味方を信じたように、カチューシャもまた信じていた。

 己の副官を、可愛がってきた隊員たちを信じていた。ここでフラッグ車を救援してみせれば、必ずや自分たちが勝利することを疑っていなかった。

 

「カチューシャはもう誰も疑わないのよ! 自分のことだってそうよ!」

 

 操縦手に加速を指示し、Ⅳ号戦車に肉薄する。

 彼女は自らの手で、フラッグ車の窮地を救うつもりだった。

 自らの手で、勝利を捥ぎ取る腹づもりだった。

 ノンナを、他の隊員たちを使って相手を追い詰めていく自分と決別していた。

 

 全ては敗北の苦渋を舐めさせられた去年があったから。

 自分の隊員たちを信じ切れずに負けた過去があったから。

 自分の事を信じ切れずに、あと一歩前に進むことが出来なかったあの時があったから。

 

 そんなカチューシャの決意を感じたかのように、Ⅳ号戦車がターンをした。

 一対多勢であることはわかっているだろうに、カチューシャの覚悟に答えるようにⅣ号戦車がこちらを向いた。

 カチューシャは臆することなく突っ込んでいく。

 Ⅳ号戦車も速度を緩めることなくT-34/85に突進した。

 ここに、隊長車同士の一騎打ちが勃発した。

 

 

05/

 

 

 優花里が次に下した指示は、カチューシャの別働隊を迎え撃つことだった。

 一対複数になることはわかり切っていたが、敢えてその選択肢を取った。

 何故なら自らが蒔いた勝利の種が芽吹くまでの時間を稼ぐ必要があったからだ。

 Ⅳ号戦車の、あんこうの友人達を危険に晒しているという自覚はもちろんある。

 けれどもその葛藤を全て飲み込んで、これからの戦車道を終わらせないために、彼女は告げた。

 

「これよりカチューシャ殿率いる別働隊を迎え撃ちます。冷泉殿、わたくしの指示通りの操作をお願いします。五十鈴殿、わたくしの告げたタイミングでの発砲をお願いします。武部殿、わたくしの指示の伝達、砲弾の装填、よろしくお願いします」

 

 無茶な指示であることは百も承知だ。

 だがあんこうの乗員達は拒否しなかった。

 むしろそうやってまで自分たちを信頼してくれている優花里に答えようと、決意を新たにしていた。

 

「カチューシャ殿が撃ちます。いち、にい、さん、今、停止。続いて三秒後退。左に進路3度。次は右に前進。できる限り背後に回り込むような、それでいてカチューシャ殿から離れないで」

 

 奇しくもそれは、準決勝でカリエが見せた戦い方に似ていた。

 彼女と違い、俯瞰の視点を得ているというアドバンテージはあったが、戦い方の根本は同じだった。

 優花里は自身の知識の中にあるTー34の砲弾の重さや車内構造から、凡その装填速度を導き出していた。

 さらにプラウダの訓練風景を偵察して割り出した練度から、Tー34の射角に入り込んでも撃破されることのないセイフティタイムを推測していた。

 相手に対する徹底的な分析を持って、勝利を掴み取ろうともがいていた。

 

「撃破する必要はありません。五十鈴殿、Tー34の後部へ射撃お願いします。武部殿、装填休め。しばらく通信に専念を。五十鈴殿は頻繁に砲塔を操作して、Ⅳ号に砲弾が装填されていないことを悟られないように」

 

 馬上騎士同士が行うトーナメントのように、互いの砲身がぶつかり合って火花を散らす。

 余りの接近戦に、カチューシャが引き連れてきていたT-34も割って入ることが出来ない。

 さらにカチューシャも己が繰り広げている戦車戦にどんどんのめり込んで行ってしまっていた。

 優花里はそれを目ざとく見抜く。

 

「相手もだいぶ白熱しています。冷泉殿、今から直進と見せかけて右旋回を。フェイントを織り交ぜます。武部殿、そろそろ装填を。装填が完了したら、五十鈴殿は射線が重なった一瞬で構いません。咄嗟に発砲した演出をお願いします」

 

 Ⅳ号戦車の砲身が火を噴く。

 あんこうチームにとって行幸だったのはその砲弾が思いの他、カチューシャの車両の至近を穿っていったことだった。

 カチューシャはⅣ号戦車の技量に騙される。

 その一瞬だけで、眼前のⅣ号は自身を撃破するだけの実力がある車両だと思い込まされた。

 

「っ、馬鹿にするんじゃないわよ! カチューシャだってそれくらい出来るわ!」

 

 さらに熱くなったカチューシャがⅣ号戦車に体当たりを命じた。

 さすがにそれを防ぐだけの技量は、あんこうチームにはない。Tー34/85の質量を全面に受けて、Ⅳ号戦車が横滑りした。

 カチューシャが引き連れていたTー34達の砲撃がⅣ号戦車に叩き込まれる。

 その瞬間を優花里は見ていなかった。

 

 そう、彼女は既にⅣ号戦車への指示を打ち切っていた。

 彼女の瞳は、別の場所を見ていた。

 

 裏切りでも薄情でもない。

 ただその判断がチームを、学園を、己の戦車道を、そして友人達の努力を救うと信じて、優花里はⅣ号戦車を見捨てていた。

 

「カバさんチーム、カウント開始です。5,4,3,2,1――」

 

 

06/

 

 

 パブリックビューイングの液晶の向こう、ノンナのISー2に狙われた八九式中戦車が激しいバウンドを見せていた。

 かのソ連の重戦車の砲撃を受けるたびに、バレーボールの如く激しく飛び跳ねている。

 八九式中戦車の回りの随伴車は既に残されていない。

 全てISー2の砲撃の餌食となり、雪原に残骸を散らしていた。

 最後に残された八九式中戦車が大洗のフラッグ車。つまり、彼女たちの希望でもあった。

 

「――これは勝負あったかしら」

 

 さすがにここから大洗が勝利することは不可能だと、ダージリンは瞳を伏せた。

 隣に座しているカリエが、大洗に対してそれなりの思い入れがあることを知っている彼女は、咄嗟に慰めの言葉を考えていた。

 きっと悲しむであろう愛しい人に、何か気の利いた言葉を送らねば、と悩んでいた。

 

「うん、勝負あり」

 

 だがそんなカリエの声色は至っていつも通りだった。

 まるで大洗の敗北なんて無かったかのように、淡々としたものだった。

 どういうことか、とダージリンは伏せていた瞳を再び開く。

 開いて、パブリックビューイングの液晶を見た。

 

 大洗女子学園の勝利。

 

 最初、どういうことか彼女は理解できなかった。

 時間の停止したまま、「大洗女子学園の勝利」がどのような意味を持つ文章なのか考えていた。

 そして、たっぷり十秒ほど経過してから、ようやく絞り出した。

 

「え、かった、の、かしら?」

 

 未だ信じられないと彼女は口元を手で覆う。

 周囲の観客達も、大なり小なり似たような反応ばかりだった。

 誰もが今勝利した学校がどちらなのか、理解できないでいた。

 

「優花里さんの策略勝ち。本当、やってられないくらいあの子は凄い」

 

 よいしょっ、とカリエが立ち上がった。

 もう思い残すこと、見逃すことはないと言わんばかりに帰り支度を始めてしまう。

 ダージリンは慌てて、そんなカリエの片付けを手伝った。

 

「まさかあの待ち伏せが成功したというの?」

 

「うん、本当に紙一重の差だったけれど。残念ながら、優花里さんとの一騎打ちにのめり込んじゃったカチューシャの負けだ」

 

 カリエはカチューシャの敗因をダージリンに説明した。

 

「カチューシャは騙されていたんだよ。Ⅳ号戦車に優花里さんがいると。自分が優花里さんの相手をしている限り、大洗は次の一手が打てないと思い込んでしまっていた」

 

 でもそれは違った、とカリエは続ける。

 

「実際のところ、優花里さんは遙か上、俯瞰の視点で戦況を見ていた。そしていつでもⅣ号を切り捨てる覚悟でいた。大洗の勝利の瞬間のため、Ⅳ号を犠牲にする覚悟を決めていた」

 

 カリエの言葉にダージリンは絶句した。

 それは自分が相対した優花里の戦車道とは全くの正反対のそれだったからだ。

 友人のことを何よりも優先させてきた優花里の戦車道とは完全に真逆だった。

 

「……何かそうせざるを得ない事情でもあったのかしら」

 

 大洗の廃校について知らない二人は、結論を導き出せないまま疑問符を浮かべ続ける。

 勝利の要因を分析していたカリエでさえも、優花里の心変わりについては察することが出来ても、その原因まで類推することは不可能だった。

 何か得体の知れないものを大洗に感じて、カリエはぶるる、と身を震わせた。

 

「もしかしたら、プラウダなんかよりももっと厄介な人たちが決勝の相手なのかもしれない」

 

 

07/

 

 

 鐘塔から降りてきた優花里を待っていたのは、仏頂面で雪の中に立っているカチューシャだった。

 彼女は優花里をきっ、と睨み付ける。

 

「あんたたち、このカチューシャに勝ったからには、黒森峰相手に無様な試合は許さないわよ!」

 

 最初、余りにも鋭いカチューシャの視線を受けた優花里は、警戒心を隠すことが出来なかった。

 だが彼女のその台詞が、自分たちを応援しているものだ、と気がついたときには笑みを零していた。

 

「はい、必ずわたくしたちは次の試合に勝ってみせます。勝って、この戦車道を続けてみせます」

 

「ふん、ならいいわ。黒森峰をぎったんぎったんにする役目をわざわざ譲ってやるんだから感謝しなさいよね、カリーシャ!」

 

「か、カリーシャ?」

 

 馴染みのない名前で呼ばれた優花里が困惑する。

 しかもそれを告げたカチューシャまでもが何かに気がついたのか、「あっ」と慌てたものだからますます混乱した。

 

「……駄目ね。カリーシャはカリエに既に名付けているんだもの。ええと、秋山優花里だから――、」

 

 まさかプラウダ風のソウルネームなのか、と優花里が思い至ったとき、再びカチューシャは口を開いた。

 

「ユリーシャよ! ユリーシャ! ゆかりだからユリーシャ! 光栄に思いなさい! このカチューシャ直々に名付けたんだから!」

 

 何となく、すとん、と優花里の胸にその名前は落ち着いた。

 一瞬だけでもカリエと同じソウルネームを貰い受けたことは喜ばしいことだったが、それ以上に自分だけの名を貰うことが何よりも嬉しかった。

 試合をするたびに友人が増えていく戦車道が、何よりも楽しくて仕方がなかった。

 

「はい! ありがとうございます!」

 

 この試合において始めて見せた心からの笑顔だった。

 廃校のプレッシャーも、大洗を率いるというプレッシャーからも解放された、彼女本来の笑みだった。

 

「……次の黒森峰は本当の強敵よ。あそこは王者の癖に戦うたびに強くなっている。でも、戦う相手に合わせて強くなれるあんたたちなら、もしかするともしかするかもしれないわね」

 

 それだけを告げて、カチューシャは待たせていたTー34/85に乗り込んでいった。

 黒煙を噴き上げるⅣ号戦車とは対照的に、殆ど無傷のまま生き残っている隊長車だった。

 結局のところ、一騎打ちの技量では大洗の完敗だった。

 

「ゆかりーん!!」

 

 本当に紙一重の勝利だったんだな、と今更ながらに思い知らされた優花里が、膝から雪にダイブする。

 一度抜けてしまった腰は中々言うことを聞いてくれず、慌てて駆けつけてきた沙織に抱き起こされるまでそのままだった。

 

「大丈夫!?」

 

「いえ、力が抜けただけですよ。ご心配、ご迷惑をお掛けしました」

 

 沙織と華、そして麻子に囲まれながら優花里は空を見上げた。

 いつの間にか満月が天頂に達し、世界を青白く染め上げている。

 その色さえも、自身が目標にした、いや、超えるべき人の色に似ていて、王者の頂の高さを突きつけられているようだった。

 

 だが、試合中盤に感じていた絶望感を再び覚えることはなかった。

 

 勝てるかどうかも、勝負になるかどうかもわからなかった。

 それでも、ようやっとその頂に指が届いたことが今は何よりも幸せだった。

 戦車道を始めて凡そ一年。

 

 ついに秋山優花里の戦車道は、王座への切符をその手に掴み取っていた。




次回、王者黒森峰戦です。
月曜日に投稿できるよう調整しています。


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秋山優花里の戦車道 18

大変長らくお待たせしました。最終話の一話目です。


 夕食時のことだった。

 昨日までそうしていたように、エリカが台所に立ち、カリエとみほの分の食事を用意していた。

 いつもならば鼻歌交じりに料理を行っているエリカだが、この日は何故か勝手が違っていた。

 大きな青筋をこめかみに刻み込み、野菜を断ち切る包丁の音は小気味よいざくざくとしたものではなく、まな板まで両断せんばかりの凄まじいものだった。

 彼女の目に見えた不機嫌さを感じ取っているのか、みほはボコのぬいぐるみをしっかりと抱きしめ、居間で震えていた。その隣のカリエも知らぬ存ぜぬと、内容のちっとも入ってこないテレビに視線を向けている。

 そしてとばっちりというかなんと言うべきか、夕食に招待されていた小梅もそんな両人の間でおろおろと狼狽えている。

 ダージリンだけが、カリエの肩に体重を預けて平然とリラックスしていた。

 

 ダン!

 

 びくうっ、と三人の肩が跳ね上がった。もちろん誰の肩かは言うまでもない。みほとカリエ、そして小梅が恐る恐る台所を振り返ってみれば土鍋を一つ抱えたエリカが立っていた。

 彼女はその据わりきった目でカリエを見定めるとたった一言。

 

「鍋敷き」

 

「はい! お姉さま!」

 

 いつもの気怠げな調子を完全に投げ捨てて、カリエが立ち上がった。そして戸棚から姉が望んでいる物を取り出し、恭しくテーブルの上にセットする。

 

「みほ」

 

「はい! 何でしょうエリカさん!」

 

「小皿四つ。お箸も四つ」

 

 隊長としての威厳も何処へやら、みほもカリエのように切れのある動きで戸棚に走った。だがその手は小皿に触れるか触れないかのところで止まってしまう。

 何故ならダージリンの声が聞こえたからだ。

 

「あら、エリカさんはお腹が空いていらっしゃらないの? 勿体ないわ。こんなにも美味しそうなのに」

 

 鍋の中に煮立つ水炊きを見て、ダージリンは眉根を(ひそ)めていた。彼女はエリカの告げた小皿の数が、この場にいる人数に比べて一つ少ないことを指摘していた。

 つまり、カリエと自分、みほと小梅だけが鍋を食べても良いのか、と遠回しに問うていたのである。

 本場イギリスのような皮肉な言い回しに、ついにエリカがキレた。

 

「ばっかじゃないの!? あんたの分なんてそもそも用意してないのよ! 何したり顔でウチに居座っているのよ!」

 

 エリカは我が物顔で逸見宅に居座るダージリンに詰め寄った。カリエとみほ、そして小梅がそれぞれ身を抱き合うくらいには凄まじい剣幕だったが、ダージリンは何処吹く風と言わんばかりの涼しい顔でそんなエリカを受け流す。

 

「あなたたちが(よこ)()()から(わつか)(ない)に移動して下さるというからカリエさんに便乗をお願いしたのよ。そしたら何処かの誰かさんとは違って、快く承諾して下さったの。本当、何処かの誰かさんとは違って」

 

「別にあんたのためにそのルートを取っているんじゃないわ! 私たちは対戦校の見極めのためわざわざこんな寒いところまで出張ってきてるのよ! だ・ん・じ・て何処かの腹黒偏屈格言馬鹿のタクシーの為にここまできてるわけじゃないから!」

 

 そう、彼女たち黒森峰の学園艦は実の所、大洗やプラウダの学園艦と同じように、試合会場となっている高緯度地域に乗り付けていた。

 理由は言わずもがな、決勝で相対することになる対戦校研究のためだ。

 カリエがその事をダージリンに話したところ、横須賀から観戦に来ていた彼女が、学園艦への同乗を願い出たのだ。

 もちろんカリエはそれに快く応じた。そしてダージリンが良いのならば、家に泊まっていけば、と口走ってしまったのだ。

 そしてダージリンがそんなカリエの厚意というか好意を断るはずもなかった。

 ただカリエは一つ重要なことを失念していた。

 自身の姉と、ダージリンとの究極的とも言える相性の悪さを完全に忘れていたのだ。

 

「ううっ」

 

 かちゃかちゃと、無言の夕食が続けられる。

 あれからさらに二悶着ほどあったあと、結局食器を五人分用意して、皆して鍋をつついていた。

 エリカが用意した水炊きは冷たい気温も相まって絶品の域に達しており、普段ならばその美味しさを全員で喜んでいただろう。

 だが素直にその味を喜べない現状が存在している。

 箸を動かす手は重く、舌の上で踊る各種具材の味は、食卓に(まん)(えん)する重圧に押し潰されている。

 カリエの両サイドに腰掛けたみほと小梅がジト目で彼女を見た。

 責任追及の容赦ない視線を浴びたカリエは、箸を咥えながら呻くという器用な芸当を披露した。

 遂に針の(むしろ)になったカリエが弱音を零した。

 

「お姉ちゃん、ダージリンさん、お願いだから何か話して」

 

 二人からの応答はない。

 エリカはこめかみに青筋をこしらえたまま白菜を摘まみ、ダージリンは平然とした表情で鶏肉を口に運んでいた。

 カリエの奮闘ともいえないなんとも微妙な戦果に、みほと小梅が溜息を吐く。

 それはもうしばらくは無言の食卓が続きそうだ、という二人にとっての諦めの溜息だった。

 

 

01/

 

 

 入浴が終了すれば、就寝の時間だった。

 特に朝練を控えているダージリン以外の黒森峰組は早々に布団へ潜り込んでいた。

 みほの部屋にみほと小梅が、エリカとカリエはそれぞれ自室に、ダージリンが客間に寝床を敷いていた。

 だが、全員が全員、すんなりと眠りについたわけではない。

 何事にも例外というものが存在しているのである。

 

「……あら、エリカさんはお休みになられないの?」

 

 照明が落ちている居間のテーブルに、ダージリンが着いていた。

 彼女は携帯用の読書灯を頼りにノートにペンを走らせていたのだった。寝間着の上に半纏を着込んだエリカが、ダージリンの対面に腰掛ける。

 

(とぼ)けないで。カリエもみほも小梅も寝たから――、あんたの望んだ状況が整ったから来てやったのよ」

 

 言って、手にしていたスマートフォンの画面をダージリンに見せる。

 暗闇の中に輝く液晶には、メールの文面が踊っていた。

 

 皆さんがお休みしたら、二人で話しましょう。

 

 ダージリンは自身が送った文面を液晶越しに確認すると、静かに微笑んだ。

 

「去年のエキシビションマッチの時に連絡を交換し合ったのは無駄ではなかったようね。何より、あなたが私の連絡先を拒否も削除もしていなかったのはとても有り難いわ」

 

 ダージリンがそっと席を立つ。

 エリカが何事か、と視線を向けてみれば彼女は台所からポットを一つ運んできた。そしてそのまま、「紅茶を入れていたのよ」とテーブルに予め並べられていたカップにポットの中身を注いでいった。

 

「このあと眠れなくなるのは勘弁被るわ」

 

「心配なさらずとも、カフェインレスの特別製よ。大分冷ましてあるからむしろ安眠の効果さえあるわ」

 

 ダージリンから何かを与えられるというのは、エリカにとって(しやく)なことではあったが、無差別に厚意を否定するほど狭量でもない。

 彼女は黙って紅茶のカップを傾ける。

 

「で、話って何? 私はあんたと話したいことなんてこれっぽっちもないんだけれど」

 

 つっけんどんに応対するエリカに、ダージリンはあくまで余裕を崩さずに答えた。

 

「私は沢山あるわ。でもまずはそうね。謝罪と感謝を述べさせて頂くわ。――グロリアーナと私の保身の為に、あなたの妹を散々利用したことを謝罪します。大変申し訳ないことをしました」

 

 この言葉には、エリカが目を丸くした。

 もっと言えば、こちらに下げられた彼女の頭という光景が咄嗟に飲み込めなかった。

 プライド高く、グロリアーナでは女王として君臨する女の所作としてはあり得ないものだったからだ。

 ダージリンもそんなエリカの心境を見抜いているのだろう。

 ややあってから頭を上げ、彼女は小さく笑った。

 

「あら? 私の謝罪がそんなに意外かしら?」

 

 からかわれている、と理解したときエリカはついつい噛みつきそうになっていたが、カリエ達が就寝していることに思い至って、ぐっと踏みとどまった。

 ダージリンもそんなエリカの聡明さが好ましいのか、上機嫌に続けた。

 

「それと、何だかんだいって、こうして寝所まで用意して下さったことに対する感謝を。あなたの作った夕食、とても美味しかったわ。カリエさんが、あなたのことをべた褒めする理由がまた一つわかってしまったかもしれないわね」

 

 思わぬ賛辞にエリカは顔を紅くした。けれどもすぐにダージリンが不倶戴天の敵であることを思い出し、(ささや)き声で突っかかるという器用な真似をして見せた。

 

「私はあんたとカリエのことを絶対に認めないから」

 

「あなたはカリエさんが女性を愛することが嫌なの?」

 

 ダージリンの問いにエリカは即答する。

 

「あんただけは断じてありえないのよ」

 

 にべもないエリカの言葉にダージリンは「困ったわ」と大げさに(うそぶ)いた。

 一向に堪えていないことくらい、誰にでもわかるような仕草だった。

 その()(ゆう)(しやく)(しやく)の態度がムカつくわ、とエリカは追い打ちを掛ける。だがそんな子供染みた非難が通用する相手でないことくらい、彼女は悲しいかな、よくよく理解していた。

 

「なら仕方ないわね。私とカリエさんの蜜月も今日で終わり。これから二人別々の道を歩いて行くべきなのかも」

 

 ダージリンの視線が、獲物を狙う鷹のような光を持ったことをエリカは見逃さなかった。

 さらに自身が獲物に定められているということも。

 これはダージリンなりの舌戦のジャブであることを、重々その身に刻みつつ反論を返した。

 

「私とすればそうしてくれるのが、有り難いのだけれども」

 

 エリカが素っ気なく告げてみれば、自身のジャブが不発に終わったことを悟ったのだろう、ダージリンが一つ溜息を吐いた。

 

「本当に連れないわね」

 

「本当、あんたの性悪には呆れるわ」

 

 ほぼ同時に言葉を交わし合う。根本的に仲が悪いことを考えなければ、ある意味息ぴったりな二人だった。

 エリカもそれを薄々わかっているのだろう。ダージリン以上の溜息を盛大に吐き出した。

 

「癪だけど、あんたがあの子の心の支えになりつつあることはわかっているのよ。だからこそ、この絶好の機会にあんたに伝えとくわ。――カリエを次に泣かすような真似をしたら、比喩でも何でもなく殺してやるわ」

 

 別に凄みを利かせた訳でも、ドスを利かせたわけでもない。

 ただ本音を告げただけだったが、ダージリンがぐっ、と息を呑むくらいには凄まじい殺気が込められている言葉だった。

 やはり愛の力は侮れない、とダージリンは居住まいを正す。

 彼女も彼女とて、エリカの殺気程度で折れる性根などとうの昔に捨て去っているのだ。

 

「心配ご無用。私、こう見えて尽くす女なのよ」

 

 エリカがカリエに抱く愛とは、また違った愛をダージリンは誇った。

 カリエの中に混在している男性を受け入れると豪語した彼女がそこにはいた。エリカにとっては遺憾なことであるが、その心意気、その器の広さには感嘆する他ない。

 

「……前から気になっていたのだけれど、いつからあんたはカリエの秘密に気がついていたの? 私や両親しか知らないカリエの本当の姿。みほや小梅は全く気がついていないのに」

 

 ふと、エリカはここ最近抱いていた疑問を口にした。

 ダージリンから宣戦布告を受けたときから気になっていた疑問だ。

 自分たちよりも遙かに少ない頻度しか顔を合わせたことがないはずなのに、どうしてカリエの秘密に思い至ることができなのか、不思議で仕方が無かったのだ。

 エリカの疑問をぶつけられたダージリンは、紅茶のカップを手にしたまましばらくの間視線を周囲に彷徨わせていた。答えに窮しているという感じではなかったが、それでも即答できない様子だった。

 ダージリンの事だ。つらつらと理論立てて説明してくると身構えていたものだから、エリカは少しばかり驚いた。

 ようやく何かしらの答えを得たのか、ダージリンはそれから数十秒ほど経ってからようやく口を開く。

 

「言われてみればどうしてかしら。でも、あるふとした瞬間からカリエさんの違和感に気がついてしまった。そして、それに納得の出来る答えを見つけようとした結果が今なのかも知れないわね。でも、そうね、一度意識してからはあっと言う間だった。多分、カリエさんの中の男性が何処までも私の好みに合致していたというところかしら」

 

 何処までも底が知れない女だ、とエリカは呆れた。

 普通、好みに合ったからと言って、性別の壁を乗り越えて情愛を抱く人間がどれだけ存在しているのだろうか。ダージリン自身がそう告げているように、些か情が深すぎるのではないのだろうか。

 むしろ、それだけ彼女が気を張らなくても良い相手を探さねばならないほど、グロリアーナは魔窟だというのだろうか。

 

「いや、その両方か」

 

「はい?」

 

 思わず独り言が漏れた。

 そしてそれをダージリンに聞き咎められていたがエリカはそのまま流した。

 一瞬生まれかけた彼女への同情心を悟られたくなかったからだ。

 カリエという隣人に恵まれ続けてきた自身の人生を振り返ってみれば、グロリアーナで闘争に明け暮れているダージリンよりも遙かに恵まれてきたことは明白だった。

 

「ところでエリカさん。こうしてあなただけを呼び出した理由である、話の本題に入らせて貰っても構わないかしら。謝罪も感謝も重要だけれど、未来のためのお願いが私の目的なの」

 

 エリカが独り言について何も言わなかったので、ダージリンは遂に本題を切り出した。エリカも何となく勘づいていたのか、露骨に嫌そうな顔をして――、けれどもそのまま話の続きを待つ。

 

「とても簡単な、だけどあなたにしか出来ない事よ。……次の決勝戦、何か嫌な予感がするの。カリエさんに、あの人だけでは乗り越えられないような受難が待ち受けている気がする。あの人は残念ながらそういう星の下に産まれてきたとしか思えないような、試練に塗れた人生を送ってきているわ。だからこそ、あなたに彼女をどんな形でも良い、守ってあげて欲しいの。これは、カリエさんと共に戦うことが許されたあなたにしか頼めない願い事よ」

 

 何を今更、とは言えなかった。何故ならダージリンの告げた言葉が、エリカが心の片隅に抱いていた思いそのままだったからだ。

 双子故の勘の鋭さというべきか、エリカは決勝戦に対する嫌な予感というものを人一倍感じ取っていた。

 そして、もう一つの懸念すらも。

 

「――――」

 

「? 何か言いたいことでも?」

 

 不自然に沈黙を貫くエリカを見て、ダージリンが首を傾げた。

 エリカはこの自らが抱いている懸念をダージリンに告げて良いものなのかどうか迷った。だが、カリエが心を許した人間である以上、やはり伝えてはおくべきだ、と口を開く。

 

「あの子は人一倍のプレッシャーを今大会に感じているわ。準決勝で少しばかりマシにはなったけれども、でも心の根底では誰よりも敗北を恐れている」

 

 それはダージリンを驚かせるには十分すぎるエリカの言葉だった。

 準決勝であれだけ博打染みた一手を打ってきたカリエが敗北に怯えているなど、悪い冗談のようだった。

 だがエリカは無情にも続ける。

 

「あんたたちとやり合ったときは、良くも悪くもキレていたのよ。勝利や敗北を超えたところで戦うことが出来た。でも次は違う。次は我が黒森峰の十一連覇が掛かった試合。否が応でも、あの子の小さな肩にあらゆる重圧が降りかかる」

 

 ならば、とダージリンは反論の言葉を返す。

 

「フラッグ車をあなたが担当すればそれなりにプレッシャーは緩和されるのではなくて? それにティーガーⅡの防御力を持ってすれば大洗の車両に抜かれるなど早々無いはずよ」

 

 ダージリンの提案はもっともらしいものだった。戦略的にも戦術的にも理に叶った理想的なプランだ。しかしながらエリカは「いいえ」と首を横に振るだけだった。

 

「その話は何度かみほと議論を交わしたわ。そして出た結論はフラッグ車として認められない、というものよ。皮肉にもあんた達との決勝戦で私のティーガーⅡのフラッグ車としての適正のなさが露呈してしまった。足回りの弱さは少しでも小回りのきく車両を持ち込まれると何ともし難いディスアドバンテージになり得るから。やはり機動力があり、尚且つ車長が優れた能力を有するカリエ車が適任なのよ。それに、準決勝で晒してしまった醜態を再び繰り返すことは黒森峰には許されない」

 

 ダージリンが準決勝で指揮したクルセイダーによる波状浸透攻撃。それは今大会で黒森峰を最も追い詰めた戦術でもあり、黒森峰の苦渋の記憶でもある。

 王者が同じ過ちを犯すことは認められない。

 すなわち、その波状浸透攻撃に対する対策を万全にすることが求められているのだ。

 エリカの説明に、ダージリンはカップをテーブルの上に手放した。

 そして一つ息を吐き出し、こう続ける。

 

「……まさかそんな詰まらない(きよう)()でカリエさんに全てを押しつけるつもりなのかしら」

 

 今度はダージリンがエリカに対して凄む番だった。

 だがエリカは怯まない。

 ダージリンからの視線を真っ向から受け止めた。

 

「押しつけるのではないわ。分かち合うのよ。あの子の敗北に対するプレッシャーが自分勝手な思い込みであることを知らしめるべく、私たちはあの子を支えながら、それでいて大洗を叩き潰してみせるわ。それに――」

 

 一拍。

 エリカが笑った。ダージリンが目を見張るくらいには、美しい笑みだった。

 

「正直、黒森峰の栄光なんてあの子に比べれば本当にどうでもいいの。ただあの子が笑っていられるのなら、何でもするわ。例えそれが邪道と呼ばれる道でもね」

 

 ダージリンは何処か合点がいった、という風に再び紅茶に口を付けた。

 どうして自分がエリカに対して、それなりの好意を持って接することが出来るのか。

 どうしてエリカが自分の事を蛇蝎の如く嫌うのか、理解していた。

 ダージリンはエリカの目を真っ直ぐ見てこう告げた。

 

「あなた、考え方が私によく似ているのね」

 

 エリカは表情を変えなかった。

 嫌な顔一つせず、ただそれが確固たる事実であるかのように言葉を返す。

 

「本当にムカつくけれど、それは認めざるを得ないのかもね」

 

 

02/

 

 

 最愛の人たちの逢瀬を、カリエは扉越しに聞いていた。

 息を殺し、耳を研ぎ澄まし、二人の会話を伺っていたのだ。

 もともと二人の相性の悪さは気にはなっていた。

 ダージリンはそうではなかったものの、エリカのダージリンに対する確執は如何ともし難く、カリエ自身、それなりに気にかけていた問題だった。

 だが二人の会話を盗み聞きしたことによって、その難題が杞憂まではいかなくても、自分が想像していたよりは溝の浅い問題であることがわかった。

 何だかんだいって、エリカはダージリンのことを何処かで認めている節があるのだ。

 あの頑固な姉にそう思わせるダージリンの人間性と、エリカの器の大きさの両方に、カリエは感心する。

 感心して、ふと自分がどうなのか、と振り返った。

 姉として最大限の思いやりを与えてくれるエリカ。

 恋人として溢れんばかりの愛を注いでくれるダージリン。

 果たしてその二人に自分はきちんと義理を示すことが出来ているのが疑問に感じたのだ。

 振り返れば偽りだらけの人生。

 自身が抱える細大の秘密を守り通してきた毎日。

 誰に対してもいつも仮面越しに接してきていた。

 もちろん本音をさらけ出すことがなかったわけではない。エリカに対する感謝も、ダージリンに対する愛情も全て本物だった。

 けれども、彼女たちとの間に存在するベールはこれまで一度も剥がされたことがない。

 いや、それ以前に剥がそうと思ったことがない。

 そしてこれからも剥がしてはいけないものだと言うことも理解していた。

 

 だが、このままで良いのかという思いをどうしても捨て去ることが出来ない。

 演技にまみれた自分が正しいという確証が持てない。

 

 カリエは振り返る。 

 自分が騙してきた人々を思い出す。 

 

 奇行に走り続けていても、一度も見放したりしなかった両親。

 我が子ながら不気味で仕方なかっただろうに、決して見捨てず愛情を向けてくれた。

 

 少しでも妹が生きていき易いように、といくつもの道を教えてくれたエリカ。

 カリエの奇行が原因で周囲から責められても、()(ぜん)と立ち向かい、姉として守り続けてくれていた。

 

 僅かばかりの(かい)(こう)でも、本当の自分に迫り、それを愛すると告げてくれたダージリン。

 どうしても捨て去ることが出来なかった男としてのカリエの孤独を埋めてくれた人。 

 

 こんな嘘つきな自分でも、信じて共に戦ってくれるみほや小梅をはじめとした仲間たち。

 信じるに値なんかしないのに、いつも共に(くつわ)を並べ、どんな苦しい戦いでも支え続けてくれていた。

 

 今まで出会った全ての人のことを考えたその時、カリエの両目からは涙がこぼれんばかりに溢れていた。

 嗚咽を漏らさぬよう、静かに膝を抱えて扉の前にうずくまる。

 この期に及んで真実を話すことの出来ない自分が、腹立たしく、また悲しくて泣き崩れた。

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 気がつけば、二人の逢瀬が終わり、時計の針は深夜を指していた。

 カリエは無言のまま、居間への扉を開ける。

 誰もいないその空間を通り抜けて、彼女は浴室に向かった。

 顔を洗って、少しでもマシな表情に戻したかったのかもしれない。

 しかしながら、洗面所で見つけたあるものが目に入ったとき、そんな陳腐な思惑は完璧に忘れていた。

 明かりも点けていない浴室で、居間のオレンジライトに照らされたハサミ。

 もともとはエリカがカリエの髪を整えるために、ドラッグストアで購入してきたものだった。

 

 鏡を見る。

 

 真っ赤な瞳を称えた少女が一人いた。

 昨年の夏に比べれば、随分と伸びた髪。

 姉との境界線を引き続けるために、維持してきた妹たる自分の象徴。

 カリエはその一房をおもむろに手に取る。

 そして反対側の手でハサミを握った。

 

 この行為の意味を説明しろと言われれば、カリエは多分出来ないのだろう。

 でも、姉に、ダージリンに、両親に、そして親友たちに一つのケジメを見せる手段の一つではあった。

 ハサミが髪に入る。

 

 白銀の残滓が、洗面台にはらはらと落ちていった。

 

 

03/

 

 

 翌日、エリカは鼻孔を突く朝食の香りで目が覚めた。

 自分が用意したわけではないのに、どうしてそのようなものがするのか、と胡乱な瞳を周囲に巡らしてみれば壁掛け時計が視界に飛び込んでくる。

 遅刻というわけではなかったが、朝食の準備をするには余りにも遅すぎるその時間に彼女は血の気が引いた。

 引いて、慌てて飛び起き寝間着のまま居間に飛び込む。

 せめてパンくらいは焼いて用意してやらなければ、と半分寝ぼけた思考で考えていた。

 だが、

 

「え?」

 

 フライパンで何かを炒める音。

 台所には人影が一つ。

 一瞬、誰がそこにいるのか、エリカは理解できなかった。

 それなりに髪も伸びて、自分との容姿の境界が曖昧になりつつあった妹だったが、今現在目の前にいる存在ははっきりと自分との境界線を引いていた。

 ポニーテールに結った髪。

 でも毛量が昨日に比べて圧倒的に少なくなっている。

 居間に飛び込んできたエリカに気がついたのか、カリエが振り返った。器用にフライパンを返した彼女はエリカを見定めると、小さく微笑んだ。

 

「おはよう、お姉ちゃん」

 

 一瞬、言葉を失った。

 ポニーテールでなんとか少女としての対面を取り繕ってはいるが、正面から見てみれば殆ど少年のような短さまで髪を切りそろえたカリエがそこにいたのだ。

 ふらり、とエリカの地面がぐらついた。

 

「あらあら、朝から騒がしいわね。あら、エリカさん着替えも済んでいないなんて淑女にあるまじき――」

 

 ぴっちりとグロリアーナの制服に身を包んだダージリンが客間から出てくる。

 彼女は呆然と立ち尽くしているエリカを見て、やや呆れたように口を開いていたが、すぐにカリエの姿を見定めて、小馬鹿にしたエリカと同じように固まった。

 

「あ、あら? カリエさん、その頭は……」

 

 困惑していた。

 いつ何時も冷静を装い、鋼の女王として振る舞ってきていたダージリンが困惑していた。

 そしてついでに、顔を赤らめていた。

 

「…………」

 

「……あいたっ」

 

 妹に見惚れているダージリンに気がついたエリカが、無言で足を踏みつける。

 

「な、何をするのかしらエリカさん」

 

 こめかみをヒクつかせながら、ダージリンがエリカに詰め寄る。昨日とは全く逆の光景に、フライパンを持ったままカリエが目を丸くしていた。

 

「人の妹に色気を出しているんじゃないわよ。こんな朝っぱらから」

 

 エリカは吐き捨てるように、詰め寄るダージリンに答えた。

 ダージリンもダージリンで一切引くことなく反撃を見せる。

 

「あら、固まっていたのはあなたも同じじゃなくて? 近親者ということで私よりもよっぽど業が深いわよ」

 

「はん、どこぞの紅茶色情狂いと一緒にしないでくれるかしら。ただ単に少し驚いていただけよ」

 

 昨日と同じように繰り広げられる舌戦に、カリエは溜息を吐いた。

 逢瀬を盗み聞きしていたことは明かせなかったが、それでも昨晩に一瞬だけ見せた互いへの理解を、もう少しばかり思い出して欲しいと思ったのだ。

 結局のところ、二人の同レベルの罵り合いはみほと小梅が起きてくるまで続けられた。

 

 

04/

 

 

「で、なんで朝起きたらそんな頭になってるのよ。ていうか自分で切ったの?」

 

 カリエが焼いたベーコンエッグをつつきながらエリカが問うた。

 久方ぶりに口にした妹謹製の朝食に舌鼓を打っていたエリカだったが、ふと思い出したように口にしたのだ。

 カリエもカリエで、昨日の盗み聞きから許される範囲で頭を丸めました、とは言えずに、少しばかり迷ったかのように口ごもった。

 それがエリカ、強いてやダージリンのみならずみほや小梅にまで不安を抱かせる所作となっていることに、彼女は気がついていない。

 カリエ自身、そこまで難しく考えての行動ではないだけに、どう理由を付けて良いのかわからないというのが真相ではあるが、まさかそれを答えるわけにはいかなかった。

 だからこう答えた。

 

「うーん、決意表明、かな。どっちつかずの自分を戒めるというか、そんな感じ」

 

 どっちつかず。

 それはエリカとダージリンの間で揺れ動いているカリエの心情を言い表した現状そのものだった。

 その中途半端な状態をいい加減辞めてしまいたいというのが、カリエの告げた答え。

 つまりはどちらかに身を寄せるという事。

 彼女の返答を聞いて、エリカ以外の全員が息を呑んだ。

 随分と男性寄りのスタイルに変化したカリエを見れば、姉と恋人のどちらに寄り添ったのかは一目瞭然だったからだ。

 あのダージリンですら、エリカの心中を悟ったのか言葉を紡ぐことができない。

 だが気まずい沈黙というものはそう長くは続かなかった。

 何故なら皆の同情の渦中にいたエリカ本人が、すぐさま嘆息したからだ。

 彼女は箸で切り取ったベーコンエッグを口に運びながらこう話した。

 

「あっそ。なら、後悔なきよう頑張りなさい」

 

 簡潔な、余りにもあっさりとしすぎた一言。

 けれどもそれ以上は告げることなど何もないと言わんばかりに、エリカは席を立った。

 綺麗に食べ尽くした食器をまとめ上げて、流し台に向かう。そしてまだ食卓に付き続ける四人に振り返らないまま、言葉を投げかけ居間から出て行った。

 

「ティーガーⅡの乗員に、早朝練を言い渡してあるから先に学校に向かうわ。食器はそのままで良いからあんたたちもそこそこの時間で登校しなさいよ」

 

 終ぞ、そんなエリカに誰も何も言えなかった。

 取り残された四人の内、カリエを除く三人が顔を見合わせた。

 

「……エリカさん、怖いくらい落ち着いていましたね」

 

 小梅の言葉にみほが眉根を下げて困り顔を形作る。

 長年連れ添ってきた親友の心中を僅かばかりながらも察したからだ。

 

「多分、我慢しているんだと思う。私、エリカさんと学校に行くね」

 

 皿に残されていたおかず達を口に放り込み、みほが席を立った。小梅もそんな彼女に追従するかのように、急ぎ食事を終える。そして二人してエリカのように居間から姿を消した。

 最後に残されたのはカリエとダージリンの二人だった。

 

「……本当に良かったのかしら?」

 

 何が、とは誰も言わなかった。ダージリンの言葉の意味をカリエは痛いくらい理解していた。

 特に深い意味はなかった断髪ではあるが、その言い訳には意味があった。

 それはつまり、あの言い訳が口からの出任せではなく、少なからず普段から感じている本意そのものであるということ。

 

「――いい加減、姉離れするべきだと思ったから」

 

 カリエがどうしても考えてしまうのは、昨夜のエリカの言葉だ。

 妹のためならば、黒森峰などどうなっても構わないと彼女は宣言した。

 けれどもそれが全て本心であるとはカリエもダージリンも思ってはいない。

 カリエ程ではないものの、みほや小梅、そして黒森峰の仲間達に対してエリカが大きな愛情を抱いている事は確かだからだ。

 しかしながらどちらかしか選べないのなら、どちらかを犠牲にしなければならないときが来れば、エリカが迷う事はない。

 間違いなくカリエを選び、黒森峰を斬り捨てるのだ。

 だがそれは決して悔いの残らない選択というわけではない。エリカなりに断腸の思いで、捨てなければならないものを捨てるのだ。

 カリエはその事をよく理解しているからこそ、敢えて姉を突き放すような事を口にしたのだ。

 つまりいい加減自分からは手を引いてもいい頃合いだと、それとなく伝えたのである。

 

 自身は共に歩いて行くべき人を見つけた。

 だからこれからは姉妹それぞれの幸せを探していくのだ、とカリエは伝えたかったのだ。

 

 ダージリンは食後の時のために用意されていた紅茶を口に含む。

 含んで、同時に瞳を伏せた。

 それは悲しい姉妹の献身からくるすれ違いに心を痛めたからだ。

 ダージリンはエリカの真意とカリエの真意を唯一比較する事が出来る立場にいる人間だ。

 比較できるからこそ、それぞれの思いの尊さに感動し、そしてそこから産まれる悲劇に押し潰されそうになる。

 ただ、彼女は一つだけ思い違いをしていた。

 ダージリンはカリエが昨夜の逢瀬を盗み聞きしていた事を知らないのだ。

 カリエがエリカの思いや決意を知らないままに、姉離れを(かん)(こう)しようとしていると勘違いしていた。

 実際は、カリエが一切合切を飲み込んだ上で決意した事であるのに、そのことに気が付かなかったのだ。

 そのため、カリエに掛けるべき言葉を少しばかり間違えてしまう。

 まるでシャツのボタンを掛け違えるかのように、一つズレたことを口にしてしまう。

 

「無理に自立をしなければならないほど、あなたたち二人の関係は爛れていないわ」

 

 

05/

 

 

 ついにこの時が来た。来てしまった、と優花里は一人、資料に埋もれた部屋の中で思う。

 去年の今頃に比べれば随分と様変わりしてしまった部屋だ。あれほど所狭しと並べられていった戦車グッズたちは押し入れの中に居場所を変えて、代わりに戦車道関係の書籍や資料が棚や床を埋め尽くしている。

 カテゴリが戦車である事には変わりがないものの、その意味、本質は全くもって違う。

 部外者の、いわば外からの視点しか持ち得なかった一戦車マニアとしての、自分はとうの昔に消え去っていた。

 

 ここにいる、今現在の秋山優花里は大洗女子学園戦車道の隊長なのだ。

 学校の命運を託された集団を率いる長なのだ。

 

 その長に相応しいと、そこにいても良いと自分で言えるようになる為に作り上げた部屋なのだ。

 そんな部屋の中心で、優花里はノートパソコンのキーボードを叩く。

 彼女はメーラーソフトを使って、これまで島田愛里寿から受けてきたアドバイスや戦術指南を必死に読み返していた。

 これから自分たちが挑むのは、遙か頂きに座している王者黒森峰。

 車両の質、量、そして乗員の練度全てが全学校の頂点に君臨し続ける百戦錬磨の超強豪校。

 正直、勝てる可能性など無きに等しい。

 全く勝負にならないままに敗北する事だって大いにある。

 ここ数日は、試合開始早々に奇襲を受けて、チームが壊滅してしまう悪夢を何度も何度も見ていた。その所為か目の下にはうっすらと隈がやどり、血色は悪い。

 

 全てはその悪夢を現実にしない為に。

 

 愛里寿が提言する、黒森峰の戦術パターンを片っ端から頭に叩き込んでいく。それに加えて、黒森峰が保有する全車両のスペックを何度も何度も復唱する。

 その車両がどれだけの装甲と火力を有しているのか。そして機動力はどれほどのものなのか、できうる限り全てのデータを頭に叩き込んでいくのだ。

 

 これらは皆、逸見カリエから教わった戦い方だ。

 

 対戦相手に対して常に優位に立ち回る事が出来るように、逸見カリエが辿り着いた戦車道のある一つの極地だ。

 自分がそれを完全に再現できているとは、秋山優花里は考えない。それでも少しでも天の頂きに手が届くように、彼女は必死に足掻き続ける。

 ふと、カーテンの向こう側から朝日が差し込んでいる事に気が付いた。

 時計を見てみれば、あと二時間弱で学園艦を降りなければならない時間帯になっていた。

 学園艦の都合なのか、決勝の会場となる北海道の原野へはフェリーで向かう事になっているのだ。

 まだ「昨日」だったころに纏めておいた荷物が入った、カーキ色のボストンバッグを確認した優花里は、寝不足の頭をなんとか振り絞りながら、階段を降りていく。

 すると炊きたてのご飯の香りと、鰹出汁が良く効いた味噌汁の香りが漂ってきていた。

 優花里を気遣ってくれているのか、いつもよりもかなり早く起床した母が、朝食を用意して待っていたのだ。

 

「……そろそろ降りてくる頃だと思ったの。寝不足なら、フェリーの中で寝なさい。アイマスクや毛布を買ってきておいたから」

 

 母からの大きな愛情を感じながら、優花里は朝食の味噌汁を啜った。

 この学園艦で、もう十年以上は味わっているいつもの味。

 けれども、明日の試合の結果次第では、その味がいつものそれではなくなる可能性すらある。

 学園艦が廃艦された時、優花里の実家がどうなってしまうのか、わからないことだらけなのだ。

 

「ご馳走様でした」

 

 口数少ないまま、用意されていた食事を腹に収めた優花里は軽くシャワーを浴びた後、髪をセットして制服に着替え、愛用のバックパックとボストンバッグを携えて家を後にしようとした。

 本来の集合時間まであと一時間は余裕があったが、少しでも早くガレージに向かって、戦車のコンディションを確認したいという彼女の本心の表れだ。母である好子もそれを理解しているのか、特に何かを咎める事無く、静かにそんな優花里を見送った。

 

「優花里、ちょっと待ちなさい」

 

 玄関の取っ手に手を掛けた時、そんなことを母に言われた。

 何事か、と足を止めてみれば目の前で火花が散った。

 それが火打ち石のそれだと気が付くまで、少しばかり時間が掛かった。

 

「怪我だけはしないでね。本当に危なくなったら、降参するのもまた勇気よ。優花里さえ無事に帰ってきてくれれば他に何もいらないわ」

 

 これから挑まなければならない相手が、言葉にするのも難しいほどの強敵である事を母である好子は理解していた。

 理解しているからこそ、いざという時は負けてもいい、と彼女は告げた。

 そして古風ながらも、無事を祈り続ける儀式までやってみせて、娘の事を案じた。

 優花里はただ、「ありがとう」と微笑んだ。

 言葉数は少なかったが、精一杯の感謝の気持ちを込めて、「ありがとう」と告げた。

 

 くぐり慣れた玄関を抜ける。

 

 もしかしたらこうして玄関をくぐるのも最後かもしれないと、優花里は背後を振り返った。

 すると、理髪店の二階の屋根に人影が見えた。

 登り始めた朝日を背に、こちらを見下ろしているのは、まごう事なき父である秋山淳五郎だった。

 姿が見えないと思ったら、何をしているのか、と半ば呆れ顔で優花里は父を見上げるが、父はそんな優花里を気にする事無く、急に何かを振り始めた。

 黄金色の朝日に輝くそれは、のぼりだった。

 いつのまに用意したのか、特注で用意したであろう、世界に一つだけののぼりだった。

 

『最後まで楽しめ! 秋山優花里!』

 

 大きなのぼりに弄ばれながらも、大粒の汗を精一杯流して淳五郎はのぼりを振り続ける。さすがに激励を叫ぶ事は、早朝という時間を考えてなかったが、それでも娘に対する愛と期待を存分に表現し続けていた。

 優花里は不意にこみ上げてくる何かを、ぐっと飲み込んでそんな父に手を振った。

 隈と寝不足で完全なものではなかったが、それでも今することの出来る一番の笑顔で、父に答えた。

 

 何より。

 

 頑張れ、とも必勝、とも言わない両親が有り難かった。

 決勝のプレッシャーに飲まれそうになっている優花里に、両親は「勝ってくれ」とは言わなかった。

 優花里から、この試合に負ければ、学園艦が廃艦になることは両親に伝えてあった。

 これからの生活に直結する大事ではあったが、両親は優花里に何かを告げるという事はなかった。

 

 ただ、あれほど娘が憧れ、焦がれていた戦車道を楽しむ事が出来るよう、見守るだけだった。

 見守って、それぞれが出来る最大の愛情表現を持って、娘を送り出したのだ。

 

 プレッシャーから完全に解放されたわけではない。

 重圧から解き放たれた訳ではない。

 

 それでもそんな重たい心に、一筋の希望を見いだしながら、優花里は大洗女子学園までの道のりを歩いて行った。

 

 決勝戦まで残り二七時間。

 対に運命の時が、直ぐそこまで来ていた。

 

 



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秋山優花里の戦車道 19

 カリエの戦車道の思い出の原風景は、いつも薄暗い博物館から始まる。

 

 

 01/

 

 

 一般的なサラリーマン男性としての人生を生きてきた経験があるカリエは、周囲から見れば随分と奇特な人物だった。

 逸見エリカという双子の姉と、若干歳の離れたもう一人の姉、そして母親という三人の女性たちに囲まれながらも彼女が会得し、日常で使い続けたのは立派な男言葉だったからだ。

 もちろん、普遍の日本語など前世から当然のように会得していたカリエからすれば不思議でも何でもない話だったが、周囲の反応は決して好意的ではなかった。

 両親は真っ先にカリエの性同一性障害を疑い、医学書を読み漁り、医者の所へ毎日のように通って娘への理解へ努めようとした。

 二人の姉も、子供心ながら末っ子が普通ではないことくらい理解していたので、日々妹への接し方に悩んでいた。

 カリエもカリエで、自分の言動や行動が家族のストレスになっていることに薄々気が付き始めていたので、ちょっとした動作にも気を使うようになり、気を滅入らせていく。

 そして、それが原因かどうかは今となっては結論の出しようがないが、突然全てを放り出してしまいたくなるような衝動に狩られることが増え始めた。奇声をあげてみたり、意味もなく暴れ回ったりしたのである。

 この行動は完全に悪手で、両親や姉たちからは情緒不安定を煩っていると思われてしまった。

 

 ここでカリエの気が違えていると結論づけてしまって、精神科なりなんなりに放り込んでしまえば、そこで逸見家はつかの間の安息を得ることが出来たのかもしれない。

 

 だが両親たちはそれをしなかった。

 むしろ、自分たちのカリエに対する態度がいけなかったのだ、と自分たちの行いや娘への子育ての在り方を責め娘をとことん庇ったのだ。

 そんな両親とカリエの関係を間近で見ていた姉たちも自分たち家族が上手く行っていないことを理解し、余計な不安と焦りを覚え始めていった。

 とどのつまり、逸見家はカリエを中心とした不協和音に苛まれ、誰しもが家族の崩壊の悪夢を見るようになっていったのだ。

 ましてや、その直接の原因だと自覚しているカリエからすれば、その環境は生き地獄に他無く、居場所などなきに等しかった。

 なまじ、双子の姉のエリカが気を使って来るものだから尚更だった。

 そんな絶望と混沌の毎日が続いていた頃、ついにカリエの母親は、学生時代の旧友に助けを求めた。

 同年代の女児を二人産み育てている友人に、悩みの全てを打ち明けたのだ。

 

『……そう、なら私たちが経営している博物館に一度連れてきなさい。戦車道に触れさせてみれば、何かが変わるかもしれないわ。お嬢様で気難しかったあなたが気の置けない友人に変わったようにね』

 

 (わら)にも縋りたい気持ちだった両親は、その週末にはエリカとカリエを連れ出していた。本当はカリエだけを連れて行こうとしていたのだが、妹を妙な施設に放り込まれてしまうと、慌てたエリカが頑なに反対し、ついには自分もついて行くと主張したのだ。

 両親も両親で、どうせなら双子揃って連れ出した方が良いのかもしれない、と考え四人で熊本市内の戦車道博物館に足を向けていた。

 博物館のロビーには旧友が手配してくれていたのか、逸見家専属の案内人がにこにこと待ち受けていた。

 ぴちっとしたスーツに身を包んだ彼女は、「西住」の紋章が眩しいバッチを左胸に付けて、双子に微笑んだ。

 並の子供ならば、「綺麗な微笑みの優しいお姉さん」と相貌を崩し、警戒心を解くのだろうがこの双子は違った。

 姉のエリカは妹のカリエをかばうようにして立ち、カリエも自分が連れてこられたみょうちくりんな施設を見て、不安げな表情を見せていた。何せ、前世には影も形も無かった、戦車道の博物館である。その突拍子もない発想に度肝を抜かれていたのだ。

 自身が余り歓迎されていないことを悟った案内人は、引き攣った笑みを携えつつも、鉄壁の営業スマイルを維持し続けた。

 

「ここは西住流が戦車道を社会にアピールするために立ち上げた博物館になります。戦車道は古き良き大和撫子を育て上げる武道として知られ、西住流は西日本最大の流派となっております」

 

 大和撫子という言葉にカリエはびくっ、と反応した。何せ、女性のような振る舞いを求められ続けてナイーブになっているところに、これなのだ。反射的に両親を睨みつけると、二人はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

 そうか、二人は少しでもこの俺を矯正させたいのか。

 

 カリエはどこか諦めにも似た気持ちを抱いた。両親の真意としては、ちょっとした気晴らしと、何か打ち込める女子らしいスポーツを見つけてくれれば、といったものだったが、それはカリエに対して歪んだ形で伝わっていた。

 なまじ、中身が大人だからこそ裏の裏まで邪推してしまったのだ。

 ならば、とカリエは目の前に手を広げて立つエリカを押し退けた。そして案内人に対して静かに微笑む。

 

「逸見カリエです。今日はよろしくお願いします」

 

 

 02/

 

 

 カリエを原風景から引き戻したのは、こちらを覗き込んで来ている後輩のナナの声だった。

 

「副隊長、作戦の最後の打ち合わせをお願いします」

 

 細く白いナナの顎筋からぽたり、と汗が流れ落ちるのを見て、カリエは真夏の気温を思い出した。

 自身の様子を振り返ってみれば、汗でぐっしょりと濡れたパンツァージャケットが肌に張り付いていた。

 原風景で感じた、冷房の利いた薄暗い館内の空気は当の昔に消え去っていた。

 

 

 03/

 

 

 快晴だった。

 蝉が鳴き、日差しが地を焼き、数多の観衆が声を上げる決勝戦日和の夏の一日。

 逸見カリエはパンターの天蓋に腰掛けながら、試合前最後のチェックを行っていた。

 夏の日で装甲が熱くなっているだろうから、と気を利かしたナナが自身のパンツァージャケットをクッション代わりに差し出している。

 カリエはそんな即席クッションの上に、ちょこんと座り込んでいた。

 

「……作戦内容は前日のミーティングの通り。機動力に優れる私たちがあちらの主力を追い立て、追随してくる後方のみほやエリカたちと合流して殲滅」

 

 パンターの乗員全てに聞こえるように、口頭で作戦内容を確認する。

 互いに作戦に対する()()がないかどうか、念入りに()り合わせていくのだ。

 

「今回は、グロリアーナ戦のように斥候は送り込まないんですね」

 

 パンツァージャケットを脱いでいるからか、赤いシャツ姿でカリエの隣に腰掛けているナナが疑問の声を上げた。カリエはそんな後輩に対して優しく首を横に振る。

 

「去年まで決勝戦を行っていた富士の演習場ならやってもよかったんだけどね。今年から世界大会のことを考えているのか、会場は北海道の大平原。戦車の行軍をある程度限定してくれる街道も平地と殆ど区別がないから、車両を孤立して配置するのは悪手につながる。何より、あちらはそういった配置を逆手に取る、各個撃破が得意みたいだしね」

 

 大洗対プラウダで得た私見を下に、カリエは作戦を組み立てていた。

 各個撃破を繰り返しつつ、なんとかフラッグ車に食らいついてく大洗女子学園の作戦スタイルを考えてみれば、それに対するメタ。つまり、集団で押し潰していく戦術が最適であると結論を出した。

 大洗は特異な学校だ。

 新設校という事もあってか、戦術や思想、伝統という情報がこれまでの相手に比べても格段に少なく、メタを張りづらいチームであることをカリエは理解している。

 理解しているからこそ、黒森峰が最も得意とし、最も心血注いで来た戦法で叩きつぶしていく事を彼女は選択した。

 小細工を弄して、いらぬ隙を作り出すのではなく、あくまで王者として積み上げてきた自分たちのスタイルを貫くのだ。

 

「……でも、二回戦以来のフラッグ車になってどうしても緊張してしまいます」

 

 ただし不安がないと言えば嘘になる。

 ふとカリエが背後に振り返ってみれば、フラッグ車を指し示す青い旗が風に揺られてはためいていた。ナナの言うとおり、二回戦以来のフラッグ車をカリエが担当することになっていたのだ。

 理由は至極単純。

 大洗の機動戦術に対してティーガーⅡでは相性が悪いこと。隊長であるみほがフラッグ車を担当してしまうと、新生黒森峰の武器である柔軟な用兵に支障をきたすことだった。

 つまり、二回戦までのドクトリンに立ち帰っただけとも言える。

 

「まあ、でもあと一勝だから何とかなると思う。いや、何とかするためにこの一年間、頑張ってきたんだ」

 

 試合開始の空砲まで残り時間はそう残されていない。

 すでにスタート地点では複数の黒森峰の車両がエンジンをアイドリングさせ、試合開始その瞬間を今か今か、と待ち詫びていた。

 

 この日のために皆、血を吐くような訓練をこなしてきた。

 先人たちが積み上げてきた栄光に泥を塗らぬよう、全てを犠牲にして技量を磨き続けて来た。

 隊員たちはもちろん、三人の隊長格も同様だ。

 それぞれがあらゆる葛藤を乗り越え、今日のために頑張ってきていた。

 これまでの訓練に対する疑問は一切ない。己の力量に対する後悔や不信も存在しない。

 ただ、目の前の優勝という結果だけを見据えてきていた。

 

 だが、どうしても一抹の不安だけは拭えなかった。

 それは人である以上、誰しもが持ちうるものであり、頂だからこそ、王者だからこそ見えてしまう、ある種の闇だった。

 それはすなわち――、

 

「――本当、なんで今更前の夏みたいな日に、こんな大事な試合をしなくてはならないのか」

 

 雲一つない空を見上げながら、ぽろりと零された呟き。

 

 いつか味わった、己の弱さから招いてしまった屈辱の敗戦。

 王者として君臨し続けた今だからこそ思い出してしまう、絶望感に押しつぶされそうになった一瞬。

 そう、カリエは知っていた。

 

 栄光など、勝利など、ちょっとしたイレギュラーがあればこの手からこぼれ落ちていってしまう現実を。

 

 頂点だからこそ見てきた、他校が味わった数多の不運。

 

 黒森峰と同じブロックになってしまったが故に、優勝の可能性を捨てざるを得なくなってしまった中堅校たち。

 

 逸見エリカという特異な存在一つに破れてしまった継続高校。

 

 そして、逸見カリエという個人に執着させられてしまったが故に天候に見放され、敗北の泥水を啜らなければならなくなった聖グロリアーナ女学院。

 

 彼女たちに勝ち続けた黒森峰の逸見カリエだからこそ理解できる、勝負事の幸運と不運。

 これまでは実力という下駄を精一杯使って、幸運に乗り続けてこれた。だが、いつ不運に転落するかわからないということを、カリエは痛いくらいに理解している。

 

 たった一つの後ろ向きの配球が、カリエとエースを地獄にたたき落としたように、たった一つのミスが、黒森峰を準優勝という奈落に突き落とすのだ。

 

 あの時と何もかもが違うはずなのに、このヒリついた肌の感覚は取れそうにない。

 ナナはカリエの言葉をを聞いて、「どういうことなのか」と問いかけようとした。

 だが、天を仰ぐカリエの目元が不意に曇っていることに気がついて、彼女はそのタイミングを逸してしまっていた。

 涙に濡れているわけではなかったが、何処か諦観めいたその視線にナナは言葉を失っていた。

 

 

04/

 

 

「作戦は至極単純です。逃げます。とことん逃げます。逃げて逃げてとにかく逃げて、相手を攪乱します」

 

 大洗最後のブリーフィリング。

 天幕の中、全員が集合する中で優花里は壇上に立っていた。

 彼女の視界いっぱいに広がる大洗の仲間達は、自動車部とネットゲーム愛好家の二つのチームが増えてそれなりの所帯になっていた。

 だが、王者黒森峰とは比べるべくもなく、相変わらずの少人数チームだ。

 だからこそ、試合中盤から終盤に掛けてどれだけの車両が生き残ることが出来るのかどうかが、自分たちの運命を決定づけると豪語した。

 

「もちろん追いかけてくるであろう黒森峰の練度、チームワークはこれまで戦ってきた何処の相手よりも遙かに上です。天上の、それこそ王者の頂に立つチームと称しても過言ではありません」

 

 優花里の言葉に大洗の面々が息を呑んだ。

 これまでも決して楽な戦いではなかったというのに、それ以上の強敵に挑もうとしているのだから。

 けれども優花里の目は、決して曇ってはいなかった。

 

「だからと言って、私たちが萎縮する必要は無いでしょう。むしろ、黒森峰に比べれば重たくのし掛かる伝統も、十一連覇のプレッシャーもありません。廃校の話なんて、ここまで来られたことが奇跡みたいなものですから、そんなのどうでも良いのですよ」

 

 優花里の強がりであることは誰もが理解していた。

 その証拠に、彼女の堅く握られた拳は小刻みに震え、演説を垂れるその口元の下、顎先からは汗がぽたぽたと流れ落ちていた。

 それでも力強く、自分たちを鼓舞しようとするその姿を見て、彼女たちは覚悟を決め始めていた。

 

「勝てない戦いであることは重々承知の上です! けれども、皆さんと共に戦って悔いを残すことだけは絶対に嫌です! 全力でぶつかりましょう! 全力で、王者黒森峰に食らいついてやりましょう!」

 

 そこまで一気に捲し立てた直後、試合開始十分前のコールが鳴った。それぞれ天幕の外に待機していた車両達に次々と乗り込んでいく。その動作が余りにも手慣れているものだから、知らない人が見れば彼女たちが新設の無名校であることを見抜くことは不可能だろう。

 いや、もう新設の無名校という肩書きは古くてカビが生えかかっている。

 準決勝でプラウダ高校を下したその瞬間から、彼女たちの称号は改められていた。

 

 大番狂わせのダークホース。

 

 誰からも期待されない中、着々と試合を勝ち上がってきた彼女たちの、今世紀最大のジャイアントキリング目当てに、観衆達は色めきだっている。

 全ての人が黒森峰女学園の十一連覇という偉業を心待ちにしながらも、大洗女子学園の奇跡を心の何処かで望んでいる。

 

 試合が始まる。

 両校にとって、一番長い夏が始まる。

 

 

 05/

 

 

 速攻を仕掛けたのは黒森峰だった。彼女たちは装甲火力を全面に押しだし、機動力に長けたパンターを中心にした部隊で大洗の背後を強襲したのだ。

 だが、それに狼狽えるような時期はとっくの昔に過ぎ去っていた。度重なる激戦と、優花里の綿密な分析から、可能性を示唆されていた面々は落ち着いて、逃亡を図った。

 

「このまま北西に向かい、小山に陣取ります。Ⅲ突と三式を中心に防御陣地を構築。車高の高いルノーB1bisとM3リーはそのまま小山を超えて、迂回路を経由して森を通り抜け南進。私たちを強襲した前衛部隊の後方に待機している黒森峰後衛部隊の側面を突きます」

 

 淡々と優花里は指示を下す。黒森峰の前衛部隊が突き進んできたであろう森林地帯に赤くバツを描き、独自の主観に基づいた補足を書き連ねていく。

 

「……やはりあちらはもっとも得意とする戦術で攻めてきました。ですが、いつトリッキーな機動戦術に移行するかわかりません。決して油断することなく、各個撃破されないよう注意して下さい。試合中盤までどれだけ生き残ることが出来るか、それが我々の正念場です」

 

 背後から数多の砲弾が飛来する中、優花里は落ち着いて戦況を分析し続けた。ここで慌てて散開しようものなら、一つずつ、優勢火力で押しつぶされていくことを知っているのだ。

 なればこそ、その思惑に乗ってやる必要はないと、隊列を保ち続けたまま、北西の小山を目指した。

 

 ふと、優花里の頬に当たる風の向きが何故か変わった。

 

 何てことのない、ただの風向きの変化。

 人生生きていれば、いつだって感じることの出来る無為な自然現象。

 けれども不思議なことに、優花里には見に覚えがあった。

 この不穏な風の変化を何処かで経験していた。

 そしてほぼ反射的に、「不味い!」と振り返っていた。

 

 そこからの光景は優花里の網膜にしっかりと焼き付いていく。

 森林の暗がりで光る、たった一つの砲撃。

 

 その音は、忘れたくても忘れられない、思い出の音。

 戦車オタクである優花里からしてみれば、一瞬で判別することの出来る、パンターの砲撃音。

 しかも、よく手入れされた車体、一切の無駄のない姿勢、砲身の角度から放たれた音は轟音ながらも澄み渡っていた。

 まるでそれは、戦車を操る車長そのもののようで、優花里は銀色の人影を幻視していた。

 

「――カリエ殿!」

 

 そう、いつかの練習試合の時のようにカリエのパンターが森林の窪地から優花里のⅣ号めがけて、砲撃を仕掛けていたのだ。

 相手の挙動、思考、練度を全て考慮し尽くした、神業とも言うべき予測射撃。

 迂闊なことに、優花里はのこのことその射線に入ってしまっていたのだ。

 

 まさかこんなところで、こんな形で終わりが――、

 

 優花里は力一杯、瞳を閉じた。そして、来るべき衝撃に備えてキューポラをしっかりと掴む。

 砲弾が装甲を穿ち、致命的なダメージを刻む。

 一瞬で行動不能にされた車体からは、黒煙と敗北を告げる白旗が揚がっていた。

 

「…………え?」

 

 優花里は肌に感じる火焔の熱さに惚けたような声を出した。だがその熱も、Ⅳ号が歩みを進める事に消え去っていく。

 同時に、視界一杯に広がっていた三式中戦車が距離が開くに連れて徐々に小さくなっていった。

 

『あいたたた、あっさりやられちゃったぴよ』

 

『急に発進したかと思ったら、速攻でキルされたもも』

 

『ボクたちをこうもあっさりと討ち取るとは、恐るべし! 黒森峰!』

 

 そう、Ⅳ号の盾として代わりに撃破されたのは決勝の直前に加入したアリクイさんチームの三式中戦車だった。操縦に不慣れだった為か、意図しないタイミングで急発進してしまい、パンターとⅣ号の斜線の間に割って入ったのだ。

 そして、たとえ偶然とは言えそれが大洗女子学園を結果的に救うことになった。

 

『秋山隊長、無駄死にの私たちを許して欲しいもも』

 

『もし叱るのならボクを叱ってください!』

 

 そうとは知らない彼女たちは優花里への謝罪を口にしていた。優花里は咄嗟に、そんな三人をフォローする。

 

「いえ、アリクイさんチームのお陰で命拾いしました。あなた方がいなければ、ここで大洗は負けていました。それに……」

 

 何かを見落としている気がして、優花里は「それに」の続きの言葉を吐かなかった。Ⅳ号の盾になったこと以外にも、何か彼女たちがとてつもなく大きな功労を果たした気がして、優花里は一度言葉を切った。

 突如として押し黙ってしまった優花里に、やはり不興を買ってしまったとアリクイさんチームは慌てるが、優花里の冷静ながらも、何処か興奮が押し殺しきれない、といった声色にすぐに圧倒される。

 

「そうか……、それがカリエさん、あなたの唯一の弱点なんですね」

 

 もう一度、背後を振り返る。

 黒煙を吐き続ける三式中戦車の向こう側から、じりじりとカリエのパンターがこちらに接近してきていた。

 けれどもそれほど熱心に追いかけてきているというわけではなく、あくまで一定の距離を保とうとしている。

 パンターの両サイドに陣取った黒森峰の車両逹も、完璧な統制を見せながら。同じ動きを見せていた。

 その動きを見て、優花里は自身の仮説に対する確信を深めた。

 

「みなさん、唯一の勝ち筋が見えました。アリクイさんチームが教えてくれました。彼女たちの撃破は決して無駄ではありません。彼女たちが、示してくれた道が、我々の希望の道です」

 

 何が、とはまだ告げない。だが優花里は自身の指示に様々な修正を加えることで、ようやく見つけた希望の道をたぐり寄せていく。

 

「アリクイさんチームの代わりに、我々あんこうが陣地構築を行います。レオポンさんチームのポルシェティーガーは牽引ロープを使って、三突とヘッツァーに引っ張って貰ってください」

 

 新加入の重戦車であるポルシェティーガーの足まわりの弱さをカバーするべく、複数の車両で引っ張り上げる策を取る。これは、昨年の決勝戦で、逸見エリカが、妹のカリエの車両を川から引き上げた場面を思い出して、提案した作戦だ。

 また防御陣地の構築も、今年度の準決勝で黒森峰が聖グロリアーナに対して取った防御策を大いに参考にしている。

 

「我々が黒森峰に勝っているのは、伝統と校風に縛られないということだけです。その利点を最大限に活かして見せます」

 

 ぐっ、と握り込んだ拳からは、いつの間にか震えなど消し飛び、ただ彼女の意志の強さだけが宿っていた。

 

 

 06/

 

 

「みほ、カリエと小梅の中戦車部隊が大洗の背後を強襲。けれど、撃破は三式中戦車一両のみ。あいつら、思いの外やるようね」

 

 黒森峰の前衛部隊のやや後方。ティーガーⅠやエレファントなどを中心とした重戦車部隊は前衛の報告を受けて歩みを進めていた。

 エリカの言葉を受けて、みほは硬い表情で手元の地図を見る。

 

「……やはりあの学校はただの無名校ではありません。新進気鋭のダークホースとして警戒するべきです」

 

 正直、二人の中に動揺がないと言えば嘘になる。

 カリエと小梅の中戦車部隊の指揮能力は、日本一だと断言してはばからないほど、みほとエリカはその実力を評価していたからだ。

 その二人を全面に押し出した強襲作戦がここまで不発に終わるとは想定外のことだった。

 

「あちらの隊長の分析能力はカリエ並ね。こちらの行動パターンや戦術ドクトリンの殆どを読まれている。厄介な相手よ」

 

 エリカが忌々しそうに指を噛んだそのとき、ティーガーⅡの通信手がカリエからの無線を受け取っていた。

 すぐさまヘッドホンで妹からの前線報告をエリカは聞き取る。

 

『エリカ、向こうは北西の小山に防御陣地を構築した。そちらの重戦車部隊で、近づけるだけ近づいて砲弾をたたき込んで欲しい』

 

 戦車戦において、高所に陣取って籠城するのは一つのセオリーだ。そしてセオリーだからこそ、堅実性が高く、攻める側に少なくない出血を強いることが出来る。

 そういう意味では、間違いなく大洗はいやらしく強かな学校であると言えた。

 

「わかったわ。ただ、初手の強襲が成功しなかった以上、あんたはでしゃばっちゃ駄目よ。別にあんたの実力を疑っているわけではないけれど、万が一ということもあるわ。これからは、中心部での指揮に徹して、大洗を追いつめなさい」

 

 だからだろうか。大洗に対する警戒心の現れか、エリカは妹へ釘を差していた。こんなことを今更言わなくてもわかっているだろうに、言葉では言い表せられない不気味さを感じて、思わず口にしていたのだ。

 カリエもそんな姉の気心を感じているのか、特に反抗はしなかった。

 

「エリカさん、そろそろ……」

 

 気がつけば、所定の位置にたどり着いていた。

 既に砲撃の用意を整えた黒森峰の重戦車たちが、照準を小山の頂上に付けている。

 隊の長であるみほが、すっと息を吸い咽頭マイクに号令を下した。

 

「全車、一斉砲撃!」

 

 

 07/

 

 

 山が消滅してしまうのではないかと錯覚してしまうような、苛烈な砲撃が降り注いだ。カリエは自分たちより遙か後方から加えられている援護射撃を双眼鏡の分厚いガラス越しに見ている。

 

「……駄目だ、車体をドーザー代わりにして、壕を掘ってる。あれではこちらからの砲撃が届かない」

 

 素人が見れば、圧倒的な火力が大洗の戦車群に降り注いでいるように見えるだろう。だが、その実体は殆ど効果的なダメージを与えることが出来ていない黒森峰の歯がゆさだ。言わば、弾の浪費を強いられている。

 

「エリカ、支援砲撃に一つ注文を付けさせて。一定の割合で榴弾を付与。そして、こちらが合図したら砲撃ポイントを山の後方に転換。つまり、大洗の後ろをひっぱたいてほしい」

 

 姉からの返答は言葉ではなく、オーダー通りの砲火だった。小山に降り注いでいた徹甲弾に、榴弾が混じり始め、特大の土柱を打ち上げる。

 それを確認したカリエは、まだ黒森峰の砲火の冷めやらぬうちに、周囲の味方たちにこう命じた。

 

「今から突っ込む。エリカが大洗の背後を思いっきり小突きあげるから、その場で右往左往したところを各個撃破」

 

 突っ込むと言っても、小山には未だに味方の砲撃が降り注ぎ、多数の土砂が巻き上げられ、噴煙と火焔が渦巻いている。一歩間違えれば同士討ちの可能性すらあった。

 だがカリエは一切(ちゆう)(ちよ)しなかった。

 何故なら、エリカの支援砲撃が自らを穿つことなどありえないと確信しているからだ。

 双子の勘とも言うべきか、エリカもカリエがこの状況で防御陣地を強行突破する未来を見ている。だからこそ、いつでも砲撃目標を変更できるよう、咽頭マイクから手を離すことはなかった。

 そして、周囲の隊員たちもそれは同じこと。

 彼女たちは敬愛する副隊長たちを信じて、鋼鉄の獣をただただ前進させた。

 これに驚いたのはもちろん大洗だ。

 砲火が降り注ぐ中を、黒森峰の中戦車部隊が突っ込んできたからだ。

 さすがにフラッグ車のパンターは後方に陣取ってはいるものの、それでも戦術としては恐るべき強攻策だった。

 

 

 08/

 

 

 Ⅳ号から指揮していた優花里は、慌てて防御陣地の放棄を決断した。

 

「これ以上無理に籠城する意味はありません! 十分砲弾も消費させましたし、相手のおよその編成も砲撃音から推測することが出来ました! 背後から山を降りて、市街地方面へと逃走を図ります!」

 

 当初の目的は果たしたと、全軍後退を命じる。だがそれはカリエの仕掛けた罠に飛び込むことと同義だった。

 陣地から抜け出した大洗の車両たちに、砲撃目標を変更した黒森峰重戦車の砲弾が殺到したのだ。

 

『秋山あ! これ後ろに下がるのは無理だああああああ!』

 

『根性! と言いたいところですけれど、ちょっときついです! 近くに砲弾が落ちるだけで、車体がきしんでます』

 

 

 桃、典子をはじめとした大洗の面々の悲鳴が告げるとおり、籠城していたときよりもさらに苛烈な砲撃が彼女たちに降り注いでいた。

 砲弾の消費を度外視した意外な攻勢に、優花里は焦りを覚えた。

 まさかこの展開を読まれていたのかと、小山の麓を駆け上がってくるパンターたちを戦慄の視線で見つめる。

 だが迷ったのは一瞬だけだった。数多の猛者たちに揉まれ、そしてその戦術を学び続けた彼女は、即断で指示を下した。

 

「……山を、正面から降ります。危険ですがそれしかありません。パンターの間を抜けます。ここで用意していた煙幕を使いましょう」

 

 爆発によって奏でられる轟音と地響きの中、優花里の無線越しの言葉は大洗の面々にしっかりと届いていた。氷の剣を刺されるかのような、寒気を覚えるくらいには無謀とも言える策だ。

 けれども、それに異を唱えることも疑問を抱くこともない。

 

『ええい、ここまで来たならとことんやってやるぞ!』

 

 桃が吠えれば、柚子が応えた。

 

『その意気だよ桃ちゃん!』

 

『次こそは根性! ピンチはチャンスだ!』

 

 典子は狭い車内で、バレー部の後輩たちと肩を組み、

 

『徳川の大軍を敵中突破した島津の気持ちぜよ』

 

『だが、それも悪くない』

 

 不適な笑みを浮かべたおりょうとエルヴィンが視線を交わしていた。

 

「少々揺れる。気を付けてくれ」

 

 麻子の言葉を合図に、Ⅳ号が先陣を切って掛けだした。そして、黒森峰の隊列を通り抜けられるよう、随伴する車両たちが適度に散開してそれに続く。

 殆ど間を置かずに展開された煙幕が、大洗の車両を覆い隠した。そして、彼我の距離が恐るべき勢いで縮まっていく。大洗と黒森峰、どちらも一歩も引くことなく、砲弾を相手に叩き込んだ。

 

「みなさん! 山を下りた後は、黒森峰後方部隊に奇襲を仕掛けたウサギさんチームとカモさんチームに合流します! そして市街地に逃げ込み、散発的なゲリラ戦を仕掛けましょう!」

 

 果たしてどれだけの車両が生き残れるか、と優花里は薄暗い車内で表情を険しくした。

 前回の練習試合では市街地にたどり着く前に半数以上が撃破された。もし今回も同じような展開になれば、折角見えた勝利の希望も潰えることになる。

 

「おい、そろそろ煙幕が晴れるぞ」

 

 ふと、操縦桿を握る麻子がそんなことを言った。ならばすぐに視界を確保するべきだ、と優花里はキューポラから身を乗り出した。

 すると麻子の告げたとおり、煙幕の切れ目がすぐ目の前まで来ていた。

 鬼がでるか蛇がでるか、とキューポラの縁を握りしめる。

 

 視界が晴れる。

 

 晴天の青空の下、すぐ真横に陰を見つけた。

 

 煙幕の果てにいたのは蛇だった。

 

 燦然と輝くウロボロスのエンブレム。

 その栄光の中戦車を操るのは、黒森峰が誇る逸見姉妹の片割れ、逸見カリエ。

 月のように輝く銀髪を後ろに纏めた彼女は、いつか砲火を交わした、師匠でありライバルであり、古い友人だった。

 

 言葉は無かった。

 

 されども、いつかの冬の日のようにぶつかり合った視線は、互いに一歩も譲ってはいなかった。

 その刹那のひとときは、優花里に「やっとここまで来たのだ」と実感させるには十分すぎる瞬間だった。  




あと二話か三話で完結です。


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秋山優花里の戦車道 20

本日から三日間で「秋山優花里の戦車道」を完結させます。よろしくお願いします。


 真横を通り抜けていったⅣ号を、カリエが慌てて追うことはなかった。

 ただ、煙幕で多少の混乱をきたしている味方をまとめ上げるべく、無線に対して口を開いた。

 

「全車、深追いは禁物。逃げるのなら逃がしてやればいい。それぞれいつものツーマンセルを編成。煙幕が完全に晴れ次第、追撃を開始する」

 

 過ぎ去っていくⅣ号をカリエは静かに見送る。彼女が思い出すのは、すれ違った一瞬の、ぶつかり合った視線。

 

 変わっていた。

 

 半年以上前に見たときとは、別人になっていた。

 

 破れかぶれの、こちらに一泡を吹かせてやろうという視線ではなかった。あれは、カリエにどうすれば勝利することが出来るのか、真剣に探りを入れる勝負師の視線だった。

 

 ぞくり、と泡立つ体を押さえるように、カリエはその場に踏みとどまる。

 まさか僅か半年でここまで戦える指揮官に成長するとは、さすがのカリエでも読み切れなかった。

 大洗の快進撃を見守っていたときとは明らかに違う、自らが当事者になったからこそわかる感情だった。

 

「くそ、これだからぽっとでの天才は厄介なんだ」

 

 こちらは何年もの間、毎日必死に打ち込んでようやくここまでこれたのに、とカリエは愚痴を一つ零した。

 水を吸うスポンジの如く全てを吸収し、決勝まで上り詰めてきた怪物に対する最大級の賛辞でもある。

 

「あちらは山を降りた。どうやら疑似市街地に向かっている模様。そちらはどう?」

 

 そんな怪物をどう討ち取るのか、カリエは考えを巡らせた。そして幾つか浮かび上がってくる作戦を検討するべく、姉との通信を図る。

 しかしながら、中々応答がない。普段ならば、少し喧しいくらいには連絡を欠かさないエリカだったが、今日は勝手が違った。

 不審に思ったカリエがもう一度、無線に呼びかける。

 

「エリカ?」

 

 返答は、遙か前方から響いてくる砲声だった。

 

『ごめんなさい、カリエさん! 少数ですが本隊が奇襲を受けました! 撃破までは行かないものの、数両が足まわりをやられています! そちらも不意の奇襲に注意してください!』

 

 しかも無線の応答はエリカに同行しているみほからだった。明らかに交戦中と思われるそれを聞き、さらに姉からの返事が未だないことに、カリエは表情を曇らせる。

 

「副隊長、我々だけでも先に市街地に向かいますか?」

 

 通信手の問いに、カリエは即答出来なかった。

 正直、姉の車両の安否だけでも確認したいという気持ちはあった。だが、余り時間を掛けすぎると、大洗が市街地に拠点を構築し終えてしまうというデメリットがある。

 死角の多い市街地では、装甲火力に勝るというアドバンテージの差が狭まってしまうのだ。そのため、拠点を構築し終わっていない早期に遭遇戦へ持ち込む必要があった。

 つまり、待ち伏せや小細工の時間をなるたけ与えないようにしなければならないのだ。

 

 数秒、カリエは沈黙した。

 

 こうして黙考すること事態はそれほど珍しいことではないので、パンターの乗員たちは静かにそれを見守った。むしろ、この面白くない状況をカリエならきっと打開してくれるという期待感すら抱いている。

 

 やがて、カリエは口を開いた。

 

「……私たちだけで先に市街地に向かう。ツーマンセルを徹底し、待ち伏せを食い破るだけの火力を維持。後方の本隊とは市街地にて合流する」

 

 指示が下されてからの彼女たちは素早い。一切の迷いを見せることなく、フラッグ車兼現場指揮官であるカリエを護衛する布陣を展開。

 防御力と機動力に優れたパンターが先頭を切り、撤退した大洗の車両を追撃し始めた。

 少しばかり丘を下っていけば、右手側に廃遊園地が見える。

 

「あちらは発砲禁止区域ですね。ここから東へ向かうと、戦車戦の為に整備された疑似市街地があるはずです。街の主な入り口は二カ所。一方は橋で、もう一方は大きな幹線道路です。ただ、幹線道路はこちらから少し離れたところにあり、橋を渡るよりも時間が掛かります」

 

 通信手の進言を受けて、カリエは地図を見た。

 先に街へ入った大洗チームは十中八九、近場の橋を渡って行っただろう。だからといって、黒森峰がそれに追従するのは危険極まりない行為だ。

 もし橋を渡っているときに、それを落とされでもしたら大きな損害を招いてしまう。

 だが、黒森峰のそんな安全策を見越して、橋への攻撃をブラフとしている可能性もあった。

 敢えて橋の防衛を放棄して、幹線道路に戦力を集中。のこのこと道路を辿ってきたところを集中砲火するのだ。

 どちらも大いにあり得る策なだけに、カリエは頭を悩ませる。姉と連絡がつけば、どちらの道を辿るのか相談もするのだが、今はそれも叶わない。

 みほも同様だ。奇襲からくる乱戦直後の部隊を纏め上げる力のある彼女に、余計な手間は煩わせたくなかった。

 自身が決断しなければならない場面が連続している状況に、カリエは嘆息した。

 不安や緊張感に押しつぶされているわけではないが、それでも息の詰まる現状であることには変わりない。

 もともとこういった勝負事の読み合いを得意とはしていたが、それでも常時その状況を堪能できるほど、達観してはいない。

 ひりつく感覚を覚えながらも、カリエは地図のある一点を指さした。

 

「幹線道路を目指す。待ち伏せに十分留意し、市街地に突入する」

 

 

 01/

 

 

 偵察に出ていた典子から、橋をスルーしていく黒森峰の戦車団の様子が報告された。

 

『橋を渡るつもりはないようです。おそらく、北側の道路から入ってくるかと』

 

 なるほど、カリエ殿はそちらを選びましたか、と優花里は頷いた。

 そしてそのまま偵察ポイントに待機するよう伝える。

 

「了解しました。レオポンさんチームがもうすぐそちらに合流します。アヒルさんチーム、レオポンさんチームは後続の重戦車部隊に発見されないよう、引き続き身を隠して偵察に努めてください」

 

 取り敢えずは読み通りに敵が動いてくれたことに、優花里は安堵の息を吐いた。

 正直、こちらが橋と幹線道路を見張っていることなど、カリエには見抜かれているだろうが、突拍子もない策を打たれていないだけ、まだまだ希望はあった。

 

「カモさんチーム、ウサギさんチーム、黒森峰の後続はどれくらいで復帰してきそうでしたか?」

 

 自分たちに残された時間を知るため、優花里は問いかけた。すると、当初の素人ぶりが嘘のように、すらすらと簡潔かつ明瞭な洞察が告げられた。

 

「あの様子なら、あと三十分は動けない筈です。特に無理をしたティーガーⅡは片側の履帯が吹っ飛んでましたから、そこそこ時間は稼げていると思います」

 

 梓の言葉に、優花里は「よし」と喜びを露わにした。

 

「それはおそらく逸見エリカ殿の車両です。普段ならば履帯を飛ばすなどという失態は犯されない方ですが、妹のカリエ殿と離れているという状況が確実に焦りを生んでいます。露骨に分断作戦を講じてしまうと、その化け物じみた連携ですぐに合流されてしまいますが、今回はまだその心配はありません」

 

 優花里はここにきて初めて、決勝戦の作戦の魂胆を全車に告げた。

 

「カリエ殿の方からエリカ殿とは別行動をするように、とことんし向けます。私たちが逃亡に徹しているのも、機動力に優れるカリエ殿がエリカ殿たちと合流する暇を与えないためです。西住殿もエリカ殿もカリエ殿のことを信用していますから、単独で前衛を率いることに疑問を挟むことはないでしょう」

 

 そう、優花里の立てた作戦は何てことのない、逸見姉妹の分断作戦だった。けれどもそれは、黒森峰と砲火を交わしたチームならば一度は考え、実行したことのある、言わば手垢の付いた作戦である。

 そしてことごとく、黒森峰はそんな作戦を打ち破り連勝記録を伸ばし続けていた。

 つまりは作戦そのものがことごとく失敗しているのだ。唯一ダージリンだけが、纏めて始末しようと奮戦しているが、それすらも姉妹には食い破られている。

 

「お二方は何よりも互いを信頼し、互いを気遣いあっています。だからこそ、どちらかが集中砲火を受ければすぐに駆けつけてきますし、纏めて包囲してもその神業のような連携で包囲した側が殲滅されてしまいます。無理矢理二人を分けようにも、それを察知したら最後、意地でも互いから離れようとしなくなります」

 

 ですから、と優花里は続けた。

 

「どちらかを集中攻撃せず、包囲せず、そして離れさせなければいいのです。カリエ殿が、自身の考えでエリカ殿から離れて戦う戦況を作り出せばいいのです。他校はこんな逃げ続ける戦車道なんて、学園の伝統とプライドに掛けて出来ないでしょうが、私たちなら出来ます。逃げの戦車戦を続けることが出来ます」

 

 理論だけならばそれほど難しいものではないが、いざ実行しようとなると様々な障壁が立ちはだかる困難な作戦だった。

 まず逃げ続ける戦車道など、中堅校以上ではまず不可能な戦法だ。それぞれOG会や理事会、そして伝統という歴史そのものが、逃げるだけの戦車道を許容することが出来ない。ここで殆どの学校がふるいに掛けられる。

 そしてその戦法を許容することの出来る学校は、そもそも戦車道大会に出ることの出来る規模を有さない弱小校だったりして、黒森峰から逃げ続ける技量をそもそも持ち合わせていないのだ。つまりは、このような戦法を黒森峰に対して仕掛けた学校が歴史上存在しないのである。

 そんな中、一つのイレギュラーな学校が戦車道大会に参戦した。

 負けたら廃校という、背水の陣を敷き、戦車道の伝統が途絶えたからこそ、逃げの戦車道を許容することが出来た。

 そして何よりも戦車道を優先したが為に、黒森峰から逃亡を図る技量も何とか手に入れることが出来た。直接の戦車戦での技量ならば、大洗は黒森峰の足下にも及ばない。それどころか、プラウダやグロリアーナにも蹴散らされるだろう。

 だが逃げの一手を打ち続けるだけなら、やりようがあった。戦いようがあったのだ。 

 

「それではみなさん、『逃げるは恥だが役に立つ』作戦開始です! パンツァーフォー!」

 

 Szegyen a futas de hasznos.

 

 実は島田愛理寿から教えられたハンガリーの諺である。

 例えどれだけ恥ずべき逃げ方であっても、生き抜き戦い抜くことが重要であると、彼女は優花里に伝えた。

 そしてそれが、大洗の強みなのだ、と彼女は語ったのだ。

 優花里はその言葉を胸に、作戦を一つ一つ組み立てている。

 

「ねえねえ、秋山ちゃん」

 

 ふと、無線機から脳天気な声色が優花里のもとへ届いた。

 幹線道路の入り口で偵察活動を行っていた杏たちだ。

 

「お客さんが到着したよ。これは歓迎が必要かなー」

 

 杏の言葉を聞いて、優花里は口を開こうとした。

 だが声を発する必要はなかった。

 何故なら、敵部隊接近の報を受けて、それぞれの車両が、優花里の号令よりも先に自分たちに割り当てられたポイントに移動を開始したからだ。

 皆が皆、己の成すべき役割を理解しているからこそ出来る動きだ。

 逸見カリエに無惨な惨敗を喫した冬からこの夏に掛けて、数多の試練を乗り切ってきた彼女たち。

 その逞しく、頼りになる姿を見て、優花里は何かこみ上げてくるものを感じた。だが、まだその感傷に流されてはいけないと、気丈に首を振った。

 遠くから、ドイツ戦車特有のエンジン音が協奏曲を奏でながら接近してきている。

 自分たちが今まで経験したことの無いような激戦を感じ、誰ともなく喉をごくりと鳴らした。

 大洗に逃げられ続けていても、頂に立つ王者の風格が損なわれることはない。威風堂々と、完璧な精密さを追い求めた隊列を組んで、市街地の入り口までたどり着く。

 

 優花里対カリエの第二ラウンドが今ここに、幕を開けようとしていた。

 

 

02/

 

 

「副隊長、待ち伏せです。先頭が撃たれています」

 

「……各自訓練通りの防御陣営を構築。速やかに前進し、向こうの待ち伏せ陣形を逆包囲して」

 

 カリエが予想したとおり、幹線道路では大洗が伏兵を仕掛けていた。だが、先頭車両から伝えられる敵戦力を鑑みてみれば、それが大洗の全車両からなるものであるとは考えにくかった。

 つまり橋と幹線道路、両方に優花里は伏兵を仕掛けていたことになる。

 カリエはその戦術に若干の疑問を抱いていた。

 

「幹線道路に全戦力を配置しなかったのは何故? こちらが橋を強行突破する可能性を考えた? いや、そうだとしても、戦力を二分化して配置するのは悪手だ。橋は『伏兵がいるかも』というブラフだけで十分封鎖できることくらい、優花里さんは理解しているはず。何故わざわざ中途半端に戦力を配置している?」

 

 キューポラの縁に背を預け、カリエは熟考に浸っていく。通信手と装填手、そして砲手や操縦手であるナナも、車長であるカリエの思考を遮らぬよう、身じろぎ一つせずに彼女の結論を待った。

 

 だが――、

 

『――副隊長! 背後からも奇襲です!』

 

 味方車両からもたらされた報告に、カリエが振り返る。見れば、最後尾の車両の砲塔が真後ろを向き、砲煙を吐き出していた。

 

「敵は?」

 

 思考を中断したカリエが最後尾に問う。すると、ルノーB1bisがいつのまにか接近してきたことを伝えられた。

 

「……了解。私が始末する」

 

 抑揚のない声色でカリエが応えた。彼女の意志をくみ取ったのか、ナナがパンターを最後尾方面へと進める。すると、奇襲から撤退しようとしているのか、その場で後退と前進を繰り返しているルノーB1bisがいた。

 

「たしか、風紀委員のチームだったか」

 

 停止を命じ、砲手の肩に手をおく。

 狙い撃ちされぬよう、不規則な加速と減速を繰り返しながらその場を離れようとするルノーB1bisだったが、その動きこそがカリエの待ち望んでいるものだった。

 

「いくらこちらの進路予想を外そうと無駄な動きを繰り返しても、人間の生み出せるランダムパターンなんてたかが数が知れている。いずれ何処かで単調な直進が生まれるからそこを狙ってやればいい。しかも、逃げることに精一杯だから、意外と殺気に対する警戒心も薄い。こんな楽な的、なかなかいない。だから、――ほら、今」

 

 全幅の信頼感がなせる技か、カリエが軽く肩を叩いただけで砲手は何の疑いもなく砲撃を行った。真っ直ぐ空気を切り裂きながら進んだ砲弾は、ルノーB1bisのボディやや後方を穿つ。それは偶然か必然か、ラジエーターが納められている弱点部分。

 精緻な射撃でラジエーター部分を撃ち抜かれたルノーB1bisは黒煙を吐き出しながら少しばかり前進した後、

小さな爆発音を上げて動かなくなった。

 

「全車に通達。ルノーB1bisを撃破。向こうの奇襲は失敗した。落ち着いて前進。先頭の伏兵も数と練度で押しつぶして」

 

 副隊長の人間離れした技術に、前線部隊の隊員たちが色めき立つ。ここまで大洗の攪乱戦術に少なからず苛立ちを感じていた彼女たちは、副隊長が見せてくれた華麗な撃破劇に胸がすく思いを感じているのだ。

 そしてそれは士気の向上に直結している。

 目に見えてキレが増した動きで、パンターたちが前進を再開した。大洗側もそれを感じ取ったのか、圧力の増した黒森峰の進撃に浮き足立っていく。

 夏の風を顔に受けながら、カリエは正面を見据える。

 この先にいるであろう、秋山優花里を見据えるように、視線を前方に固定していた。

 

「ねえ、優花里さん。ここからどうする?」

 

 

 03/

 

 

 汗水と機械油に塗れながら、エリカは巨大な転輪を転がしていた。パンツァージャケットは必要以上汚れないよう、車内に置いてきている。黒森峰特有の真っ赤なシャツの袖を捲り上げて作業しているわけだが、そのシャツは結構な面積が真っ黒に染まっていた。

 

「副隊長、ここからは私たちがやります。車内で休んでいてください」

 

 そんな副隊長の有様に何か思うところがあったのか、ティーガーⅡの乗員たちがエリカに声をかける。

 だがエリカは首を横に振り、転輪を転がし続けた。

 

「あんたたちが遠慮する必要はないわ。少しでも早く戦線復帰するには、総出で修理するのが一番いいでしょう?」

 

 大洗の奇襲部隊を無理に追撃しようとしたために、履帯を吹き飛ばすという失態を犯してしまったエリカ。彼女は自らの未熟さを戒めるという意味でも、積極的に修理に携わっていた。

 実際、普段から肉体を鍛え続けているエリカが、一番スムーズに転輪を運んでいる。

 

「……ちょっとでも早くあの子に合流して上げなきゃいけないのよ。例え無名校相手でも、一人で戦線を維持し続けてくれているあの子を見殺しに何てできないわ」

 

 エリカが心配して止まないのは、もちろん妹のカリエのことだ。奇襲を受け、前進が遅れている重戦車部隊の代わりに、戦線を構築し大洗と砲火を交わしている。

 妹の技量を疑っている訳ではないが、それでも一人で隊を指揮し続ける負担を考えれば、直ぐにでも合流して支えてやりたかった。

 妹に黒森峰の戦いの責を負わせ続けるにはいけないのだ。

 

「エリカさん、随伴のエレファント、ヤークトティーガーの修理が終わりました!」

 

 最後の転輪の取り付けが終わり、重量級の履帯も復旧したそのとき、みほが小走りに近寄ってきた。彼女によれば、損傷を受けた全ての車両が戦線復帰したという。

 これで前進を再開することが出来ると、エリカは乗員たちに振り返った。

 

「ティーガーⅡはこれより主力部隊の盾として先陣を切るわ。カリエたちに合流し次第、かの部隊の護衛に加わる。私たちの装甲と火力を持って、一気に敵戦力を撃滅。試合を終わらせるわよ」

 

 焦りを若干帯びつつも、的確で冷静な指示に隊員達が肯く。直ぐさま王虎――キングティーガーⅡのエンジンが始動し、随伴する車両を引き連れて前進を再開した。そんな超巨大重戦車の動きに呼応して、みほは指揮するティーガーⅠを横につける。

 

「カリエさんからの報告に寄れば、大洗の人たちはこの先の疑似市街地で待ち伏せ戦術を展開しているようです。南側の橋、北側の幹線道路共に伏兵あり。ただしカリエさん達が北側から侵入した為、南側の守りが手薄になっている可能性があります」

 

 みほの言葉を受けてエリカは地図に目を走らす。南の橋と北側の幹線道路。二つの入り口のどちらが使えるかで街への到達時間に大きな差が生まれる事に気が付いた。

 

「……出来れば南の橋を強行突破したいわ。伏兵の有無をカリエに確認できないかしら?」

 

「リアルタイムで確認する事は難しいと思います。ですので、斥候を用意して橋を偵察。伏兵がなければそのまま強行突破が一番効率が良いかも」

 

 黒森峰の指揮官二人が顔を付き合わせながら地図を睨む。カリエが進撃し、敵を蹴散らしている分、北側の幹線道路の安全が担保されているが、南側の橋を強行突破する利点も捨てがたかったのだ。

 エリカは一つ嘆息すると、みほに向き直った。

 

「……ここはあんたのプランで行くわ。私の隊から斥候を用意して橋を偵察させる。もしも伏兵が存在していて、橋を攻撃される可能性があるのなら、斥候を置いたまま北側に向かうわ。排除が可能ならばそのまま排除。なにか異論は?」

 

 みほは首を横に振った。そして、エリカの台詞に付け加えるように、無線へこう言い放った。  

 

「これより市街地への浸透強襲を行います。斥候の二両は南側の橋に偵察を。その他は斥候からの報告を待ちつつ、北側の幹線道路を目指します。おそらくカリエさんは訓練通り、市街地内において、ツーマンセルのチームを構築しているでしょう。私たちは火急速やかにそれらに合流。無理にフラッグ車を狙うのではなく、カリエさんを護衛しながら、敵戦力をすり潰していきます」

 

 有無を言わせない、万人を納得させるだけのカリスマは西住みほ特有のものだ。カリエのように理詰めでなくても、エリカのように威圧しなくても、誰しもが頭を垂れてその命令に忠を捧げる。

 黒森峰の長として最も必要なものを有している彼女は、よく通る声色で、戦場に宣告した。

 

「パンツァーフォー!!」

  

 

 04/

 

 

 いつかこの舞台で、カリエと試合をしたいと願ったことがある。それは間違いなく昨年の十二月のことだった。

 けれどもそれよりも前に、あの女の子と戦車道をしてみたいと感じたことがある。それは下手をすると十年近くも前の話だ。

 

 カモさんチームが撃破された知らせを受け、さらに黒森峰の最前線と接触している車両たちから伝わってくる強大な圧力を感じた優花里は汗を一つ流した。

 それは気温からくるようなものではなく、緊張と興奮からくる生理反応のようなものだった。

 あの逸見カリエが本気でこちらを潰しに来ているという夢のような現実に、身体が反応しているのだ。

 

「ゆかりん、私たちはしばらくこのまま待機でいいんだよね」

 

 ふと、沙織の声に意識が引き戻される。車長席から見下ろしてみれば、優花里以上に緊張した面もちで、無線を操作している彼女がいた。この日のために、猛勉強でアマチュア無線資格を獲得した彼女は、遺憾なくその能力を発揮している。

 

「ええ、決して黒森峰の車両に発見されてはいけません。私たちが見つかれば、かの戦力が集中して襲いかかってきますからね。出来るだけ全ての車両が分散して、あちらが戦力を散開させる必要性を作り出します。そしてカリエさんに対する攻撃は絶対に許可できません。私たちが黒森峰のフラッグに指先一つ届かない状況を演出するんです」

 

 言って、優花里は沙織が慌ただしく駒を動かしているホワイトボードを見る。何処にどの車両がいるのかリアルタイムに表示されているそれが、言わば大洗の生命線だ。

 

「アヒルさんチームとレオポンさんチームは引き続き橋の見張りをお願いします。カバさんチームはそろそろ所定の位置に移動を。カメさんチームとウサギさんチームはカリエさんから逃げ始めてもらって結構です」

 

 優花里の指示の直後、沙織がホワイトボードの駒を動かした。無線越しに報告される移動距離や方角が反映されているのだ。

 

「……あと少しです。あと少しで我々に残されたたった一つの勝機が訪れます。ですからみなさん、ここが正念場なんです」

 

 ぽつり、と零された優花里の言葉は、まるで自身に言い聞かせるようなやや切羽詰まったものだった。

 

 

 05/

 

 

「やば、黒森峰の車両がこちらに近づいてる」

 

 とある民家の二階部分に潜んでいた典子が、双眼鏡片手に声を上げた。その隣にいたスズキも、同じく双眼鏡を覗き込みながら、無線を操作した。

 

「黒森峰、南の橋に接近。隊長に伝えて」

 

 彼女たちの視線の先には、二両の斥候と思われる車両ヤークトパンターが今まさに、橋に差し掛かろうとしているところだった。優花里からは黒森峰の車両が近づいてきたら連絡を入れるように指示されている。

 だが――

 

『だめですキャプテン。あんこうもこちらも屋内に潜んでいるためか、無線が繋がりません』

 

『同じくこちらナカジマ。レオポンも無線の感度が悪いね。黒森峰に見つかる覚悟で屋外に出て見るかい?』

 

 互いに屋内に身を潜めている所為か、無線が繋がりにくくなっていた。そうこうしているうちに、二両のヤークトパンターが橋を渡り始めている。

 

「……落とすなら今だよ」

 

 スズキがぼそり、と呟く。彼女が告げたとおり、ポルシェティーガーの主砲には榴弾が詰め込まれており、橋の一部分に狙いが合わせてあるのだ。

 ここで橋を落とせば、二両のヤークトパンターを撃破することが出来る。

 しかしながら典子はその提案に首を横に振った。

 

「いや、秋山さんならもっと効率的に敵を罠に嵌めるはず。あの二両を撃破しても、私たちとの戦力差は殆ど埋まらない。なら、敢えてあの二両は通してしまって――」

 

 典子の言わんとしていることを理解したのだろう。スズキが不敵に笑った。

 

「良いね、それ。そういうの好きだよ。他の学校ならば隊長に伺わないと懲罰ものかもしれないけれど、ここなら問題ない」

 

 二人で納得し合ったその瞬間、スズキが待機中のポルシェティーガーに対して、無線機越しに言葉を告げた。

 

「もっと大きな戦果を隊長にプレゼントしたければもうしばらく待つんだ。何、決勝戦まで裏方として待ち続けたんだ。なら、この数分くらい短いものさ」

 

 

 06/

 

 

 敵影なし。

 

 そう斥候から告げられたエリカはみほに向き直った。すると、自分と同じように難しい顔のまま、何かを考えるみほと視線が合う。

 そしてほぼ同時に、間髪入れずに口を開いた。

 

「はっきり言うわ。私はここを通るべきだと思う」

 

「はっきり言います。ここは慎重を期すべきです」

 

 周囲にいた誰かが息を呑んだ。何故なら、ここに来て初めて隊長と副隊長の意見が完全に分かれたからだ。他の学校ならば、隊長の意見が優先されていただろう。

 だが今年の黒森峰は違う。他ならぬ隊長である西住みほが逸見エリカの意見を尊重するように振る舞っていたからだ。だから今回もエリカの意見を否定せずに、その魂胆を問うた。

 

「エリカさんは何故ここを?」

 

「私たちにはあまりにも時間がないわ。これ以上、大洗に市街地でゲリラをさせるわけにはいかないし、何よりカリエを孤立させている時間が長すぎる」

 

「あちらには小梅さんもいます」

 

「小梅と私、そしてあんたの役割は別物よ。小梅はカリエの指示を忠実に遂行してくれる良き仲間。でも私とあんたは違うでしょう? あの子以外に黒森峰を舵取り出来る人間があちらにはいないわ」

 

 エリカの言葉を受けて、みほは再び考え込んだ。正直言って、エリカの意見が正論であることくらい理解している。みほ個人の感想を言ってしまえば、エリカの提案にすぐさま乗ってやりたいくらいだ。

 けれども黒森峰の隊長という立場がそれを許さない。

 決して敗北してはならない王者としての立場が許してくれない。

 つまり、慎重さを忘れて個人可愛さに強行突破することが出来ないのだ。

 エリカもそれを痛いくらい理解しているからこそ、みほをせかすことはない。ただ、一つだけ代案を提示した。

 

「ならここで二手に分かれましょう。私たち半数がここを強行突破する。みほたち別働隊は北側の幹線道路を目指して」

 

 妥当な線だ、とみほは思った。戦術としては一番理に適っている提案だ。しかしながらそれはエリカたち強行突破組を危険に晒しかねないものであり、多大なリスクを孕んでいることも同時に考えていた。

 ぐっ、と言葉に詰まるみほの真意を見抜いているのか、ふっと微笑んでエリカは言葉を告げた。

 

「大丈夫よ。無茶はしないわ。それにあんたを信じているからこそこんなことを言い出せるのよ。万が一、こちらの戦力が駄目になっても、あんたなら黒森峰を十一度目の王座に導いてくれるって信じているから」

 

 そこまで言われてしまっては、首を横に振ることはみほには出来なかった。わかりました、と息を吐き随伴の車両を橋から遠ざける。

 一分、一秒の時間が惜しいと言わんばかりにティーガーⅠを後退させながら、エリカに視線を投げかけた。

 

「中で四人共に戦えることを楽しみにしています!」

 

 重戦車特有のエンジン音にかき消されながらも、何とか肉声で言葉を伝えようとみほが叫んだ。エリカが叫び返すことはなかったが、代わりに大きく腕を振る。

 

「任せてなさい、隊長殿。それに、このシチュエーション、別に初めてって訳じゃないのよ」

 

 北の幹線道路を目指すみほたちを見送った後、三両の随伴車両を伴って、エリカも前進を開始した。その際、ティーガーⅡを最後尾にするよう、指示を飛ばした。

 

「待ち伏せがあることくらい、わかっているのよ。でもね、それをねじ伏せてこそ私たちなのよ!」

 

 前から二両目、ちょうど車列の真ん中のエレファントが橋の真ん中に差し掛かったとき、何処からか発砲音が轟いた。

 来た、と感じたときにはエリカは操縦手の背中を強く押して叫んでいた。

 

「全速前進! ティーガーⅡの車体で前の子を思いっきり押し上げて!」

 

 予想通りの伏兵に、エリカはただ前進を命じた。飛来した榴弾が橋の橋脚を穿ち、特大の火柱を吹き上げる。橋脚の片側が吹き飛ばされた所為か、徐々に橋が進行方向右に傾き始めていた。

 

 誰かが悲鳴にも似た声を上げた。

 

 そりゃそうだ、とエリカは妙に落ち着いた思考で考える。視界はおよそ三〇度ばかり傾いており、その傾斜角はなお増大中だ。前進は続けているものの、いつ橋から投げ出されて川に転落するかわからない現状にあれば、誰だって悲鳴の一つや二つは上げたくなるだろう。

 だが、そこでパニックにならないのが黒森峰の化け物じみた練度の象徴とも言える。

 そしてそれはエリカも例外ではない。

 脂汗が吹きだし、車内の取っ手を掴む手は震えてはいるが、そのぎらついた視線は揺らいでいなかった。

 ただ前を、妹が待つ戦場だけを見据えている。

 彼女は自分に言い聞かせるように、怒声を上げた。

 

「カリエはもっと怖い道を辿ってきてくれたのよ! なら姉たる私が怖じ気付いてどうするのよ! 逸見エリカ! 根性見せなさい!」

 

 あれだけ水を恐れていた妹が、川の中を渡って自分を助けに来たのだ。ならば自分もそれに応えるべきだとエリカは自身を叱咤する。

 左側の履帯が浮き上がった感覚がした。超重量級であるティーガーⅡの車体が、履帯が浮き上がるほどに傾いているのだ。その異常事態に、エリカの思考回路は完全に茹であがっていた。もう、怖いという感情すら消え去っていた。

 ただ覗き窓の向こう側で、前方のエレファントが橋を渡りきったことを確認した。少しばかり無理矢理でも、ティーガーⅡで押し上げたのが良かったのだろう。

 いつかの納涼祭で自分がしてもらったことを、今ここで再現したのだ。ただ、その時と違うのは自身の生存を諦めていないことだ。

 

「あんたもここまで来たんなら、ちょっとは踏ん張りなさいよ!」

 

 だん! とエリカが床を踏みしめた。すると、それが影響した訳ではないのだろうが、浮いた履帯の先端が、崩落し掛けている橋の一部分を噛んだ。

 かすかに戻ってきたコントロール可能の証に、操縦手が飛びつく。さすがは黒森峰と言うべきか、それともエリカの車両を任されているが故か、その僅か一瞬のチャンスを見逃したりはしなかった。

 ほとんど飛ぶように、その車重を何処かに置き去りにしてきたかのように、ティーガーⅡが橋を駆け抜けたのだ。

 

 

 07/

 

 

 転がるように民家の二階から駆け下りた典子とスズキはとんでもないものを見たと言わんばかりに脂汗をまき散らしていた。

 何せ崩落必至の橋を、一両の損失を出すことなく黒森峰の重戦車たちが渡ってきたのだ。その恐るべき操縦技術と、人間離れした度胸を目の当たりにして、自分たちが相対しているチームの化け物っぷりを実感していた。

 両腕で抱えた無線機に、スズキと典子が叫ぶ。

 

「レオポンチームはD45地点に退却! たぶんさっきの砲撃で、何処から撃ったのかバレたと思う!」

 

「バレー部のみんなはそのまま待機! 今から戻るから絶対に動かないで!」

 

 それぞれ違った指示を告げながら、民家前の歩道橋を駆け上がる。少しでも黒森峰の動きを観察するために、最後の偵察を敢行したのだ。

 

 そして彼女たちは見た。

 

 ティーガーⅡのキューポラから半身を覗かせる、黒森峰の逸見エリカを。

 

 あれほどの修羅場を潜り抜けたというのに、一息つく間もなく、周囲の車両を動かしていた。それがこの先で逸見カリエ相手にゲリラ戦を仕掛けている仲間たちを押しつぶすための事前準備であることくらい、二人には痛いくらい理解できた。

 だからこそ、必死の思いで二人は前線の優花里に呼びかける。

 

「申し訳ありません! 南側の橋に構築していた防衛ラインが強行突破されました! 繰り返します! 橋を逸見エリカが強行突破しました!」

 

 それは大洗女子学園にとってまさしく凶報であり、黒森峰女学園にとって久方ぶりの良き知らせだった。 

 

 

    



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秋山優花里の戦車道 21

 正直言って、少し前まではカリエはエリカのことを苦手にしていた。自分と同じ顔、同じ声、同じ背丈等々、まるで自分の映し鏡のような彼女のことが苦手で仕方がなかった。

 ただでさえ前の人生との性別の差異に苦労しているというのに、エリカが目の前に立つとそんな自分の無残な現状がありありと突きつけられているような気がしたからだ。

 エリカを通して「逸見カリエ」という認めがたい現実を突きつけられ続けていた。

 

 そして、その苦手意識のピークはちょうどカリエが戦車道と出会った頃だった。

 両親によって戦車道博物館に連れてこられていた彼女は、自分の手を引っ張り続ける姉のエリカを疎ましく感じていた。戦車道なんてやりたくないのに、もうその世界に飛び込むことが規定事項であるかのように振る舞うエリカが嫌だった。

 

 俺のことはないも知らないくせに。

 本当の年齢からしたら、まだまだ幼いガキのくせに。

 この苦しみに気がつくこともないくせに。

 

 だから振りほどいていた。

 しっかりとこちらを握りしめていた姉の手を、力の限り突き放した。

 こんな反抗の仕方、この人生においては初めてのことだった。

 

 でもそうでもしなければ、どんどん自らの何かが蝕まれていくようなきがして、我慢ならなかったのだ。

 

 

01/

 

 

 エリカは痺れるような痛みが走る己が手を見つめた。

 カリエとは違い、きちんと毎日学校に通い、地元のスポーツクラブに入団しているエリカの力は引き籠もりがちなカリエよりも遙かに強い。だからその気になればカリエを捕まえ続けることなど造作もないことだったが、呆気にとられたエリカは妹との繋がりが断たれた己の手を再度動かすことが出来ないでいた。

 カリエがそんなエリカに冷たく言い放った。

 

「触るな。何も知らないくせに、姉面なんて真っ平だ」

 

 案内を続けていた博物館の職員が、逸見姉妹間の決定的な亀裂に「しまった」と感じても後の祭りだった。カリエはただ立ち尽くす姉を一瞥することもなく、全く見当違いの方向に歩みを進め始めたのだ。

当初のルートから外れていることと、そして何より、このまま姉妹を別れさせてはいけないと感じた職員が慌てて後を追おうとする。

 しかしながらその足取りが前に進むことはなかった。

 

「だめよ、今は独りにしてあげなさい」

 

 職員をその場にとどめたのは一つの声だった。凜としていて、それでいて何者にも動じないような巨岩のような芯の強さが感じられる、そんな声。

 妹に拒絶されたショックから、思考が真っ白になっていたエリカですら、その存在感の大きさ故にそちらに視線を向けざるを得なかった。

 

「全く、旧知の親友に泣きつかれて何かと思えば随分と厄介な子ね。うちのみほとは違った意味で手が掛かるタイプだわ。でもあの子、ただの我が儘な性分とは少し違うみたい」

 

 展示されている戦車の陰から歩み出てきたのは、黒髪が靡く美しい女性だった。この時エリカは、何となくではあるが、この人物が母が昔から口にしていた「親友」であると察していた。

 そしてそれはつまり、

 

「に、西住次期家元候補!」

 

 これまでの職員の立ち振る舞いも、子供相手ながら随分と丁寧なものだったが、彼女の前では殊更だった。「西住」と呼ばれた女性は職員に「楽にしなさい」と告げると、こちらを見上げていたエリカの正面に立った。さらにあろうことかそのまま膝をつき、エリカに目線を合わせる。

 職員は「西住」のその行動に目を剥いていた。

 

「初めまして。当館の管理を任されている西住しほと申します。そしてあなたのお母様の旧友でもあります。あなたたちのことはお母様から聞かされているわ」

 

 やっぱり、とエリカは息を呑んだ。この人物こそが、母が昔からことあるごとに口にする「しほちゃん」なのだと確信した。

 だがそれだけだった。母からはこの西住しほに大恩があることを聞かされてはいるが、それはエリカには関係のないことだ。今は初対面の大人を相手取るよりももっと重要なことがあったのだ。

 エリカは会釈を一つだけ零し、すぐさまカリエが消えた方角に足を向けた。一刻も早く、妹を見つけ出して話をしなければならないと、彼女は考えていた。

 しかしながら、そんな小さな蛮勇の足取りはすぐに途切れる。何故なら、しほの白い手がエリカの肩をがっちりと掴んでいたからだ。その細指からは想像も出来ないような力強さに、エリカは一瞬狼狽えた。

 

「あなたが妹さんのことを心配する気持ち、よくわかるわ。でも今は少しばかりそっとしてあげなさい。妹さんはね、ちょっと自分一人で考える時間が必要なのよ」

 

 エリカは「カリエのことも碌に知らないくせに、偉そうなことを言わないで!」と口走りそうになった。ただそれを口走らなかったのは、その言葉が自分にも返ってくる諸刃の剣だと思い至ったからだ。エリカは自分すらも、カリエの内心を全く何も知らなかったことに気づかされていた。

 しほもそんなエリカの葛藤を見抜いているのか、表情を少し和らげてこう告げた。

 

「大丈夫よ。あなたのその妹さんを想う気持ち、必ずいつか伝わるわ。だからその時を待ちなさい。戦車道の真髄は圧倒的な装甲火力で相手を叩きつぶすこと。でもそのためには、相手が一番気を許すその瞬間を待ち続ける忍耐も必要なの」

 

 しほの言葉の意味を、今のエリカが完璧に理解することはできない。それでもしほの超然とした雰囲気がそうさせているのか、その言葉の重みと説得力だけはエリカに伝わっていた。

 

 事実。

 

 この時のしほの行動と、エリカの思いとどまりがカリエの運命を大きく変えた。カリエが戦車道の世界に足を踏み入れるには、あるキーパーソンに出会う必要があったからだ。

 もしその出会いがなければ、カリエは戦車に乗ることもなかったし、姉との良好な関係を築き上げることも出来なかった。

 

 運命は浮気者。

 

 ちょっとした出来事の差異で、その後の結果は大きく変貌していく。

 それはカリエの過去のみならず、現在も、未来も同じことだった。

 だが結果そのものは、足掻き続けたその先でしか見つけることはできない。

 

 おそらく、

 なんとなく、

 

 カリエはそんな世界の真理に気がついているからこそ、日々を戦い続けている。

 それは戦車道はもちろんのこと、

 

 二度目という、本来ならばあり得ない人生そのものすら、カリエにとっては戦いなのだ。

 

 

02/

 

 

 薄暗い車内を支配しているのはあまりにも重たい空気だった。通信手の側に設置された無線機だけが、決勝戦の戦況を如実に伝えるような味方同士の交信を垂れ流し続けている。逆に言えば、無線機のスピーカー以外に誰も物音を立てることがなかった。

 

 その理由は至極簡単なものだ。

 

 普段から自然体の柔らかな雰囲気を持ち続け、一つ一つの言動そのものに不思議な包容力を纏わせていた黒森峰女学園戦車道の副隊長、逸見カリエが不気味な沈黙を保っているからである。

 決して普段から饒舌というわけではないが、無意味な沈黙を保ち続けるような緘黙さではなかった。むしろ、こういった気不味い場面こそ積極的に口を開き、場を和ませることの出来る資質を持っていたのだ。

 そんなカリエの居心地のよいコミュニケーション能力が、今完全に死滅している。

 彼女の瞳は虚空を睨み付けており、がりがりと己の爪を噛み続けていた。

 負の沈黙の権化とも言うべき彼女の姿勢に、パンターの隊員たちは噴火前の火山を幻想していた。

 

「——————。————」

 

 ふと、カリエが何かを呟いた。

 やっと出てきた副隊長の言葉に、全隊員が耳を傾けた。それほど、彼女たちはカリエの次の言葉に飢えていた。だがその健気さを彼女たちはすぐさま後悔することになる。

 

「馬鹿エリカ、馬鹿エリカ、馬鹿エリカ、馬鹿バカバカ。アホ、ボケ、スカポンタン、考えなしのイノシシ姉」

 

 カリエに振り返っていた全員が、一斉に前を向いた。そして、副隊長が抱え込んでいる怒りの余りの大きさに、身を震わせた。

 

「何が強行突破だ。危険を冒してまで橋を渡ってくる価値がどこにある。アホか、アホなのか。あの馬鹿姉は」

 

 ふつふつと沸き上がってくる怒気を押さえ込むことに必死なのか、カリエは周囲の隊員たちがドン引いていることに気がついていない。いや、たとえ気がついていたとしても、彼女がその行いを改めたかは疑問だ。

 それほどまでに、カリエの思考は怒りで茹で上がっていた。

 静かに、けれども圧倒的な威圧感をもってカリエの手が通信手の眼前に突き出された。

 悲しいかな、ここまで辛苦を共にしてきた戦友だからこそ、カリエの意図に通信手は気がついてしまった。

 だが抵抗するという選択肢は端から存在していない。通信手は恭しく、それでいて出来るだけ刺激を与えないように無線機をカリエに手渡していた。

 乗員すべてがごくり、と唾を呑んだ。

 逸見姉妹の姉妹喧嘩は日常茶飯事の、それこそ黒森峰女学園戦車道の名物みたいなものだ。しかしながら、その喧嘩は姉妹間の絆の確認でもあり、二人の親密さのパフォーマンスでもある。

 本気でどちらかが相手を弾劾する喧嘩など、隊員たちは誰一人として目にしたことがないのだ。

 そしてその機会がまさかこんなタイミングで訪れてしまうとは夢にも思っていなかった。

 

 降って湧いた波乱の予感に、車内の緊張感がピークに達した。

 

 すっと、カリエが息を吸った。

 チャンネルは逸見姉妹専用に用意された回線に合わされている。

 

 雷が。

 落ちた。

 

「馬鹿! 馬鹿エリカ! お前の頭には何が詰まってるんだ! 考えなしの蛮勇がどれだけ危険なのかわかっているのか!? アホ! 間抜け! 大間抜け! そこまでリスクを張って無茶する場面ではないことくらいどうしてわからない!?」

 

 崩落する橋を強行突破してきた蛮行を、もっと言えば安全牌である迂回路を進まなかった姉をカリエは責めに責めた。他人に対してはどこまでも寛容に接してきたあのカリエが罵倒を口にしていた。

 そして、その目尻には薄らと涙を浮かべていた。

 

「こんなくだらないことで、エリカが脱落したらどうなる? こんな無茶苦茶な作戦で、怪我でもしたらどうする? 黒森峰には――、いや、俺にはエリカが――、」

 

 ただ、威勢が続いたのは最初の十秒もないくらいだった。空気の入れすぎた風船が急速に萎んでいくかの如く、カリエの語気も弱々しいものに変化していく。

 結局のところ、彼女の雷は雷らしく、一瞬のものだった。

 だが、燻り続ける負の感情だけはそうもいかない。

 カリエは縋るように、それでいて懇願するかのように続けた。

 

「エリカがいてくれないと、安心して戦えないんだ。エリカが先に脱落するなんて嫌だ。エリカがいない戦車道なんて嫌いだ」

 

 しん、と先ほどとは別種の沈黙が世界を支配した。

 パンターと、無線越しに聞こえてくるティーガーⅡのエンジン音すら、乗員たちの耳には届いていなかった。

 冷静沈着な副隊長の独白が、本音がそうさせていた。

 

『——』

 

 ふと、エリカが口を開いた息づかいだけが伝わってきた。

 カリエの癇癪にも近い罵倒に、さらなる大音量で返礼してくるのかとパンターの乗員たちは身を竦める。

 しかしながら、息づかいの少し後に届いた声音は、ひどく優しいものだった。

 

『——馬鹿はあんたよ。私が戦車道を続ける理由はね、あんたを支えるためよ。姉としてあんたを支え続けるのが、私の戦車道なのよ。あんたが勝てるのなら、あんたが戦車道で楽しいと思えるのならば、崩れる橋だって、火砕流の中だって——川の底すら走ってきてあげるわよ』

 

 それはエリカの原風景だった。

 博物館で拒絶されたときも、最後までカリエのことを案じていた。カリエが戦車道を始めるという決意を固めても、彼女の考えは変わらなかった。

 ただ愛しい妹を支えたくて、今日まで生きてきていた。

 例えそれが黒森峰の命運を賭けた決勝戦でも変わりない。カリエが勝てるのなら、カリエが幸せになれるのなら、どんな危険を冒してでも妹の元へ駆けつけようとする。

 そしてそれは、ティーガーⅡの乗員たちも同じことだった。

 敬愛するエリカが望むことならば、どんな苦行にも耐えられるよう研鑽を積んできた精鋭たちだった。エリカが「黒」と言えば「白」が「黒」になる、そんな隊員たちだ。

 

 エリカのカリエに対する愛情と、

 隊員たちのエリカについていくという覚悟。

 

 この二つが揃って初めてなし得た奇跡だったのだ。

 

 余りに大きく、そして数の多すぎる他人からの優しさを受けて、カリエは言葉を詰まらせた。

 エリカのことを罵った自分が悪人になってしまったみたいで、居心地の悪さに吐き気すら覚えた。だがそんなカリエの心情すら、姉のエリカは見抜いている。

 

『……ありがとう。心配してくれて。でも、カリエが川の底を怯えながら這いずって来てくれたときからいつか恩返しはしたいと思っていたのよ。あんたのお叱りは全部終わってから聞いてあげるわ。だから今は戦いましょう。私たち逸見姉妹が挟撃するのよ? この攻勢に耐えられる学校なんてこの世界のどこを探しても存在しないわ』

 

 そうだ、切り替えろとカリエの本能が囁いた。

 対戦相手との駆け引きを続けてきたカリエの本能が急くのだ。

 

 姉に本音を伝えた。姉からの愛を受け取った。

 ならばそれに報いるには、今日のこの物語を完結させるためには成さなければならないことが残っている。

 

 カリエは再び無線機を手に取った。そして素早く車内のホワイトボードを確認する。さすがと言うべきか、あの混乱の中でも通信手はエリカの現在位置を正確にマークしていた。 

 さらにカリエは大洗女子学園の主力が潜んでいるであろうポイントを予測し、ホワイトボードに書き連ねていく。そこから先は彼女の頭脳の高速回転。

 

「あちらはエリカが橋を強行突破してくることを予想していなかった筈。なら、エリカ側――南側に展開している戦力は微少。ただエリカは重戦車中心の構成。機動戦をとられると若干不利か」

 

 彼我の戦力の特質、力量差を一つ一つ確認していく。

 これまで何千、何万と繰り返してきたルーティン。カリエが誰かに誇れることがあるとすればその試行回数だろう。

 

 エリカのような思い切りの良さ、状況判断の的確さがなかった。

 みほのような戦術眼、カリスマがなかった。

 小梅のような丁寧さ、慎重さを持てなかった。

 

 黒森峰の誰よりも凡庸ながら、彼女が副隊長であり続けられるのは分析力がずば抜けているからこそ。そしてカリエもそのことを痛いくらいに理解しているから、今この瞬間に全力を投じる。

 

「よし、エリカ。二人で挟撃しよう。小梅の部隊は後詰めを。みほの部隊は挟撃後の残存戦力を殲滅する包囲網を敷いてほしい」

 

 みほと小梅、それぞれから了承の意が帰ってくる。その証拠に、カリエの前方に展開していた小梅の隊が徐々に後退を始めた。このまま、カリエの隊との入れ替わりを遂行するためだ。

 ナナを初めとしたカリエの部隊の操縦手たちも、直接命令された訳ではないが、カリエの真意をしっかりと汲み取ってパンターの前進を開始していた。そしてよく訓練されたブラスバンドの隊列の如く、互いの車両間の距離が殆ど存在しないようなギリギリの間隔で前後の部隊が完璧な入れ替わりを果たす。

 この黒森峰の神業には、観戦していた一般人ですらも感嘆の声を上げていた。

 

「これぞ戦車による『集団行動』――なんちゃって」

 

『馬鹿なこと言ってないで挟撃を始めるわよ。侵攻のテンポはどうする?』

 

「中速、やや急ぎ足で。時折緩急をつけつつ。軟投派の意地を見せつけてやりましょう。お姉様」

 

『残念、私は速球派なのよ』

 

 互いの緊張感をほぐすやり取りが数度。それに一区切りついたそのときが、黒森峰の攻勢の合図だった。カリエを中心に、パンターを基本とした中戦車部隊が歩みを進めたのと完全に同時、エリカを先頭にした重戦車部隊が進撃を始めた。

 

 王者の闘争心に、いよいよ灯が点った。

 

 

03/

 

 

 優花里は無線越しに届けられる砲声と泣き言に頭を悩ませていた。

 エリカがカリエとの合流をほぼ成し遂げたという特大のバッドニュースは、その絶望の度合いにふさわしい結果を運んできていたのだ。

 特に、なんとかカリエの進行速度を押しとどめていた北側の戦線崩壊が著しい。

 もともとカリエの攻勢に押され気味だったが、エリカ合流の報を受けて士気の向上した彼女たちの勢いに呑まれる形になっていたのだ。防衛戦を展開していたウサギさんチーム、カメさんチームはそれぞれ立ち止まっての防衛を放棄し、市街地を逃げ回る遊撃戦に移行しようとしていた。

 しかしながら、相手は大洗に遊撃戦は何たるかを散々見せつけてきた逸見カリエである。2チームの頑張りがどこまで通用するかは、ハッキリ言って儚い望みだった。

 事実二つのチームから下りてくる報告は、「逃げ回って翻弄していると言うよりも、追い立てられている感じがする」という嫌な予感しかしないものだった。

 優花里は脂汗をたっぷりと浮かべた額を、タンカースジャケットの袖で乱雑に拭い、口を開く。

 

「……これは相当不味いです。まだ完全な合流は果たしていませんが、それも時間の問題です。お二方が同時に我々を挟み込んでいる今、両者を押しとどめるだけの戦力も力量も、我々にはありません」

 

 沙織が提示したホワイトボードを睨み付けながら、優花里は続ける。

 

「伏兵の配置は完了していますが、それだけで対応できるキャパシティを完全に超えてしまっています。わたくしたちは一番やってはならなかった二正面作戦に足を突っ込んでしまったんです」

 

 あんこうチームのメンバーが不安げに優花里を見上げる。彼女たちはこの期に及んでも、優花里の指揮を信じていた。優花里ならば、どうにかこうにかこの場面を切り抜けられる秘策が思いつくと信じていた。

 優花里も自身の発想力に悲観しているわけではない。むしろ皆が信じてくれているからこそ大丈夫なんだ、と自分に言い聞かせて虚勢を張り続けている。

 事実、口では悲観的な事実ばかり述べていても、その瞳はまだ死んではいない。

 

「アヒルさんチームのみなさん。西住殿が市街地に突入してくる凡その時間はどれくらいかわかりますか?」

 

 沙織から無線を受け取り、思考に必要なピースを掻き集めていく。黒森峰の動態を最後まで偵察し続けた典子たちに優花里は問うていた。

 

『およそ40分ほどだと想います。それほど機動力が高いようには見えませんでした』

 

 ここまで判明している黒森峰の編成表に沙織が目を走らせる。そして、戦車のスペックについてまとめたお手製のノートをぱらぱらと開いた。

 

「あちらの隊長はこのティーガーⅠていうやつに乗っているんだよね。ならアヒルさんチームの予測は正しいと思う。まさか隊長だけを置いて、他の戦車が進軍してくるなんてあり得ないから」

 

 確かに、と優花里は相づちを打った。

 黒森峰のフラッグ車——つまり失ってはならない心臓部は逸見カリエのパンターだが、アキレス腱は隊長車たるみほのティーガーⅠだ。黒森峰はみほのカリスマによって纏められているチームでもある。例え副隊長二人の手腕がずば抜けていようとも、みほを欠いてしまっては本来の戦い方が出来るチームではなかった。

 

「だからこそ、それなりの護衛が必要、か。成る程、理に適っています。皆さんの仰るとおり、黒森峰最後の部隊の到着はそれくらいになるでしょう。つまり我々に残された時間もそれくらいということになります」

 

 優花里の言葉に、大洗女子学園すべてのメンバーが身震いをした。逸見姉妹だけでもここまで押され続けているのに、西住流を修めるみほまで相手にしていては、万が一にも勝ち目というものがなかったからだ。

 誰もがそのことを理解しているからこそ、優花里の言葉は重々しくそれぞれにのし掛かってくる。

 

 ただ、負けた、という感情は不思議となかった。

 ここでおしまいだ、というプラウダ戦に感じていた絶望はなかった。

 前回よりも遙かに状況が逼迫しているのに。

 負けたら廃校なのに。

 

 誰も敗北に関する弱音や、諦めは抱いていなかった。

 いや、その理由はハッキリとしていた。

 

 優花里と沙織の目が合った。彼女は力強く頷いていた。

 華が振り返っていた。彼女は優しく優花里に微笑んでいた。

 麻子が背を向けながらも親指を立てていた。彼女はただ優花里の言葉を待っていた。

 

 ああ、これだ。

 

 優花里はぐっと拳を握った。

 これがあるから、諦めてしまう気にはならないんだ、と優花里は前を見た。

 

「良いでしょう。わたくしたちは学校を、いえ、大洗女子学園戦車道を救おうとしているんです。ならこれくらいの障害なんてあって当然なんです。乗り越えなければならないんです」

 

 あちらが姉妹の絆を取り戻したから何だと言うのだ。

 こちらは仲間同士の絆を抱いて、ここまで戦ってきたのだ。

 泥臭く、栄光とは無縁に頑張ってきたのだ。

 

「逃げるは恥だが役に立つ。ええ、いいでしょう。思いっきり恥を掻いてやるんです。掻いて掻いて掻きまくって、最後の最後に勝利を掴み取って見せましょう」

 

 これは宣戦布告だ、と優花里は無線機を握りしめた。

 

「――逸見カリエ殿、いざ尋常に勝負です」

 

 

 04/

 

 

 逃げ回る大洗の車両の動きがおかしい、と最前線のⅣ号戦車から無線が入っていた。

 カリエはその言葉の意味を吟味しながら、この街のどこかに潜んでいる優花里のことを考えた。

 

「……妙だ。彼女たちはみほが合流するその時がタイムリミットであることを理解している。悪戯な時間稼ぎは自分たちの首を絞めるということぐらい気づいていなければならない。破れかぶれの反撃ならまだしも、散発的な誘導で何になる? 何かの罠に誘っているのか?」

 

 じっ、とカリエは街の地形図を見つめた。

 無線越しに伝えられる大洗の逃走経路を見定めているのだ。

 

「――いや、勝負事での長考は危険だ。ドツボにはまる可能性がある。ここはあちらの誘いを無視して、エリカとの合流を目指す。隊周辺部からの奇襲を警戒しつつ、このまま挟撃を続けよう。ペースはこのまま。中速やや急ぎ目を崩さないように」

 

 カリエが選択したのは、撃破しても勝利に直結しない部隊を完全に無視することだった。

 街の北端と南端から姉妹でしらみつぶしに探索と侵攻を行って、大洗のフラッグ車を燻り出そうと考えたのだ。

 それぞれの部隊の進行速度を均一にしなければ綻びが生まれてしまう難易度の高い作戦ではあったが、彼女は「必ず成功させられる」という自信と確信を持っていた。

 それは双子の繋がりが生み出す神業でもある。

 

「包囲の輪をこのペースで狭める。大丈夫、勝利はすぐそこまで来た。あなたたちとなら、エリカとなら必ず勝てる」

 

 

 05/

 

 

 逸見カリエ、こちらの誘導を完全に無視。

 

 最前線でカリエの周りをちょこまかと動き回っているカメさんチームからもたらされた報告を優花里は聞いた。そして、彼女は何度もその報告の是非を問うた。

 それはすなわち、「確実にカメさんチーム」は無視されているのか、と。

 

 杏の答えは何度問われても「是」のみ。

 

 優花里は静かに息を吐いた。

 それは、一つのプロセスを乗り越えた安堵の息だった。

 

 

06/

 

 

 あ、と声を上げたのはカリエだった。

 彼女は咄嗟に自身のパンターの停止を命じていた。

 キューポラから半身を乗り出していた彼女は、あるものを見つけていのだ。

 

 それは何の変哲もない民家だ。

 万人の殆どが、その民家に対して大した感慨を抱くことはないだろう。

 だがカリエはその民家を視界に入れたその瞬間には、全身を覆い尽くす寒気を感じていた。

 

 そしてカリエのその直感は正しかった。

 

 パンターが停止したその瞬間、眼前を砲弾が横切った。

 

 

07/

 

 

「何故今の砲撃がわかった!?」

 

 車長たるエルヴィンが頭を掻きむしる。ここまでとことん息を潜め続け、好機を伺い

続けていただけにそのショックも大きかった。

 そう、カバさんチームたる歴女のメンバーは、仲間が苦戦し続けようとも決して動くことなくこの一瞬を待ちわび続けていたのだ。

 動かざること山の如しを体現し続けた彼女たちだったが、その努力は実を結ばなかった。

 カリエの超人的とも言える直感に敗北したのだ。

 

「かの御仁の第六感にはもうこりごりぜよ!」

 

 カリエを狙われたことに怒り狂った黒森峰車両たちが殺到してきている気配を感じて、おりょうは慌てて操縦桿を操作した。

 果たして、その判断は正しく、Ⅲ号突撃砲が急後退したその直後に砲弾の雨が降り注いだ。

 

「不味い! 背後は家屋だ! これ以上の後退は無理だ!」

 

 砲手の左衛門佐が照準越しに吹き上がる爆炎を見つめながらそう叫んだ。彼女が警告した通り、後退するⅢ号突撃砲の背後には家屋が迫っている。だが、ここで後退を止めてしまえば砲弾の雨の餌食になることは確実だった。

 だがエルヴィンは不敵に笑う。

 

「我々が黒森峰から学んだことを思い出せ! 逸見妹はこう言った! 『退路は常に確保しろ』と! そして彼女は実戦で教えてくれた! 民家はぶち破れる!」

 

 エルヴィンの言葉を受けて、おりょうは腹を括った。

 括って、躊躇することなく背面から民家に突っ込んだ。

 カリエほど、戦車で突破可能な民家を見分けられる分析力があるわけではない。

 だが彼女たちは持ち前の度胸と根性、そして思い切りの良さで恐れ知らずに後退を続けた。

 

「操縦桿が言うことを聞かないぜよ!」

 

「さっきから天蓋がきしみっぱなしだ!」

 

「ええい! こんなことなら六文銭を懐に忍ばしておくのだった!」

 

「『賽は投げられた!』 今更うだうだ言っても仕方がない!」

 

 それぞれの悲鳴を抱きながら、Ⅲ号突撃砲は民家を食い破っていく。技量も何もない、我武者羅な後退は民家の砕いてはいけない柱を朽ち壊し、全体の倒壊を招いていた。 

 しかしながら完全倒壊の一歩手前のその瞬間、Ⅲ号突撃砲は瓦礫の山を抜け出していた。

 そして幸か不幸か、背後からの包囲を行おうとしていた黒森峰のⅣ号戦車の左舷側に追突する。

 

「ついに瓦礫に埋もれたのか!?」

 

 世界がひっくり返らんばかりの衝撃に、カエサルが砲弾を抱えながら焦りの声を上げる。だがエルヴィンは自分でも不思議に思うくらい落ち着いていた。

 

「いや、黒森峰の車両にぶつかった! おりょう、やや前進したのち右に90度だ!」

 

 エルヴィンの言葉通りの挙動を遂げたⅢ号突撃砲のすぐ真後ろを、衝突されたⅣ号戦車の砲弾が通過していった。

 その様子を防弾ガラス越しに確認したエルヴィンは雄叫びに近い声を発した。

 

「さらに90度! そして停車! 動きが完全に止まったら左衛門佐、ぶっ放せ!」

 

 果たして左衛門佐はオーダー通りの射撃をなし得た。

 Ⅲ号突撃砲が放った砲弾が、Ⅳ号戦車の脇腹に直撃する。

 それなりの装甲を有しているとはいえ、Ⅲ号突撃砲の直撃はⅣ号戦車のダメージ許容量を優に超えてきた。

 黒煙を吐き出しながら、Ⅳ号戦車が停車する。

 数秒遅れて天に翻ったのは撃破を告げる真っ白な旗だった。

 まさかの黒森峰車両初撃破は、カバさんチームが成し遂げていた。

 

 

08/

 

 

「落ち着いて囲んで。Ⅳ号が道を開いてくれた」

 

 ふと、エルヴィンはそんな声を聞いたような気がした。

 

 そこから先は、殆ど無意識下の行動だった。

 

 車内の全員に、何かに掴まるよう叫んだ。

 自身も、車長席の取っ手にしがみついた。

 

 初撃破に喜びを感じたのもほんの一瞬の出来事。

 

 Ⅳ号戦車と衝突したときよりも、遙かに強烈な衝撃がⅢ号突撃砲を襲った。

 すぐさまそれが、砲撃に晒された証拠なのだと、歴女チームの全員が理解していた。

 さらにこの一撃が自分たちの致命傷になるということも。

 

 車体の振動が鳴り止んだその直後、エルヴィンはおそるおそるキューポラから外の様子を伺いでた。撃破されたことは確実だったが、それでも状況を確認したかったのだ。

 

 そして目が合った。

 

 翡翠色の瞳がこちらを見ていた。

 

「……あなたたちが垣根を崩さずに民家の庭に侵入していたら気がつかなかったかもしれない。ここまで成長してくるなんて思っても見なかった」

 

 カリエの言葉はそれだけだった。恐るべき集中力を発揮しているのか、撃破されたⅣ号戦車にもⅢ号突撃砲にも目もくれず、そのままパンターを前進させていった。

 だがエルヴィンにはそれだけで十分だった。

 あのカリエに、「ここまで成長した」と言わせただけで十分だった。

 救助の情けまで掛けられてしまった、冬の合宿の雪辱は果たしていた。

 感謝と共にあった無念の気持ちが綺麗さっぱり吹き飛んでいたのだ。

 

 カバさんチーム全員が、Ⅲ号突撃砲から這い出て空を見上げる。 

 いつかの曇天とは違う、目映いばかりの大空。

 

「我らが隊長、グデーリアン。どうやら、我々は彼女たちの足下くらいには届いたみたいだぞ」

 

 夏の光の下、まだ戦いを続ける優花里にエルヴィンは言葉を贈った。

 自分たちでもここまでやれるんだ、と万感を込めて口を開いていた。

 だから告げる。

 自分たちの隊長ならば、必ずやり遂げると信じて告げる。

 

「グデーリアン、足下にさえ届けばその足を掬える。頑張れ、ここからが踏ん張りどころだ」

 

 

 09/

 

 

 思わぬ伏兵の襲撃は、カリエの立てていたスケジュールを僅かに狂わせていた。

 別段、それに苛立ちや焦燥を覚えることはないのだが、無視が出来るほどカリエも余裕を抱いているわけではない。

 

「佐久間さん、エリカとの連携を維持するため少しばかり進軍を早めてほしい。待ち伏せや伏兵は私が見張るから」

 

 だからこそ行軍のスピードを速める。自身はキューポラから見える景色を注視し、どんな些細な異変でも見逃さないよう神経を研ぎ澄まさせる。

 先ほどは、僅かに乱れていた民家の垣根の様子から伏兵に気がつくことが出来た。

 もしもその乱れがなければ、あの場で撃破されていた可能性すらある。

 その幸運を偶然として処理するほどカリエは愚かではない。

 偶然を必然のものとするべく、大洗の車両たちは必ずや痕跡を残している筈だ、と自分に言い聞かせながら指揮を執り続けるのだ。

 

「副隊長、エリカ副隊長の隊が一つ向こうの通りまで来ています。このままだと残り一分ほどで街の中央広場にて合流すると思われます」

 

 通信手の言葉を受けて、カリエは耳を研ぎ澄ました。すると聞き慣れたエンジン音がかすかに聞こえることに気がついた。まさかただのエンジン音にここまで安心感を覚えるなんて、とカリエは無意識のうちに苦笑を漏らす。

 邂逅は通信手の告げた通り、ちょうど1分後だった。

 黒森峰の重戦車隊が、続々と広場への侵入を果たしていく。

 

 広場の中心を支点に、両者対極に相対した。

 

「さて、そちらは脱落がひとつ、というところかしら。こちらはポルシェティーガーを一両見つけたけれど深追いはしなかったわ。あれは欠陥車両だけれども、攻撃力だけは本物だから」

 

 久方ぶりのエリカは相変わらずの調子だった。

 開口一番、彼女は戦況について語った。ついさっきまで、壮絶な姉妹喧嘩をしていたとは思えないような、自然体の様子だった。そしてそれはカリエも同じこと。

 エリカを罵倒し続けていた唇は、いつもの気だるげな、それでいて姉への信頼感を滲ませたそれに戻っていた。

 

「こっちはⅢ号突撃砲を撃破した。代わりにⅣ号が一両やられたけれど。——これで残りはヘッツァー、八九式、ポルシェティーガー、M3リー、そしてⅣ号。逃げ回られている割には、順調に数を削れていると思う」

 

 それぞれの肉声で会話が出来るくらいまで、車両を近づけ合い、姉妹久々の会話を続けた。

 そしてカリエは、姉妹の再会に安心したのが自分だけではないことを知る。

 エリカもまた、どこか息を吐いたようにカリエに微笑んでいたから。

 

「ま、新設校相手に手こずっていることは否めないけれども、戦況としてはまあまあね。泥沼に陥りかけているところを、何とか踏みとどまってはいるわ。今まで、ここまでゲリラに徹してくる学校は存在しなかったから、厄介なことには変わりないけれど」

 

 エリカの告げた通り、黒森峰の定石がとことん通用しにくい対戦相手であることは間違いなかった。伝統も変なプライドもない所為か、自分たちの戦略に迷いがない。

 逃げて逃げて逃げ続けて、時折奇襲を仕掛けてくる、もっとも厭らしい戦い方を体現しているのだ。

 ただ、逸見姉妹の二人は特別それを意識しているわけではない。

 やりにくい対戦相手であることは間違いなかったが、自分たちの実力ならばいつかは漸減させられると考えているからだ。

 だが二人に引っかかりがないわけではなかった。

 双子故の共感性か、両者共に同じ疑問を抱いていた。

 

「ねえ、カリエ」

 

 切り出したのはエリカ。彼女は疑問を疑問のままで終わらせない性分だった。 

 そして妹ならば自分の疑問に答えを必ずくれると信じているから、率直に言葉を口にした。

 さらにカリエも、姉に被せるよう、彼女の疑問に答えるよう、口を開く。

 

「「大洗のⅣ号はどこに行った?」」

 

 

 10/

 

 

 カバさんチーム、つまりⅢ号突撃砲が撃破と被撃破の判定を受けたことを聞かされて、優花里は一言「お疲れ様でした」と呟いた。

 そしてその場で深々と頭を下げる。

 

「……これでようやくピースが、いえ、歯車が揃いました。わたくしたちの勝利に必要な、最低限の駒が揃ったんです」

 

 優花里はまず、周囲を見渡した。そして頼りになる仲間たちの顔を一人一人しっかりと目に焼き付けていった。

 泣いても笑ってもこれで最後。

 ここが正念場なのだ、と自分に言い聞かせる。

 

「……『逃げるは恥だが役に立つ作戦』の最終フェイズを開始します。冷泉殿、エンジンに火を。武部殿、全車両に作戦開始の合図を。五十鈴殿、狙いはさっきお伝えしたとおりです」

 

 ぐおん、と車体が一つ振動した。

 ようやく自らの出番が来たのだと、歓喜の身震いをしたかのようだった。

 優花里もまた、これから訪れるであろう激戦の予感に武者震いをした。

 

「行きましょう。これがわたくしたちの最後の戦いです。――パンツァー、フォー!!」

 

 

 11/

 

 

 周囲に斥候を飛ばそう。

 

 姉妹の結論は結局のところそこに落ち着いていた。

 カリエとエリカを中心に、偵察隊を展開。市街地に潜んでいるⅣ号戦車を見つけ出す作戦だ。

 偵察の目をすり抜けて奇襲を受けても、姉妹二人の連携で叩きつぶす腹積もりでもある。

 むしろ、それが作戦の主眼だった。

 カリエを餌にⅣ号戦車を釣り上げるのだ。

 大洗の取り巻きの車両が一斉に攻勢を仕掛けてきても、適当にあしらいながら展開している斥候を呼び戻し、逆包囲を仕掛けるという、二段構えの策まで用意している。

 

「乗ってくれば私たちの勝ち。乗らなければ、みほとの合流を果たした私たちの粘り勝ち」

 

 カリエの告げた通り、二人は状況がどちらに転んでも黒森峰が勝利できるように場面を整えていた。みほが率いる隊との合流を果たせられれば、どれだけ時間を掛けようとも、一両一両殲滅していけばいいと、姉妹間の考えを摺り合わせる。

 

「さて、どちらをあいつらは選んでくるのかしらね。でも、どちらを選ぼうと全力で叩きつぶすわ。ここまで来たらそれが王者の義務であり、私たちの矜持でもある」

 

 エリカの言葉にカリエが頷きで肯定を返したとき、二人の随伴車両から、偵察の準備が完了したとの知らせが入った。 

 作戦開始の合図を告げるのはカリエの仕事だった。彼女は無線機を手にし、今一度周囲を見渡した。これから最後の三〇分を戦い抜く仲間たちを目に焼き付けた。

 

「では、作戦を開始します。『オペレーション ワルキューレ』始めてください」

 

 全車一斉に歩みを進めた。

 黒森峰だけがなし得る鉄の連携を持って、前進を開始した。それぞれが見えない鎖で結ばれているかのような、化け物じみた連携で進軍した。

 

 だが、その鎖を飛び越えてくるものがいた。

 いや、正確には既に鎖の内側に、魔物が潜んでいた。

 

「「!!」」

 

 カリエとエリカ、両者同時に行動に移った。

 天性の勘故か、魔物を視界に収めるよりも先に、動いていた。

 

 カリエはフラッグ車らしい防御機動を。

 エリカは護衛として盾になるべく、妹を庇う機動を。

 

 その鋼鉄の獣は、広場のすぐ側にあった大きめの民家のガレージに潜んでいた。

 シャッターを無理矢理突き破って、姉妹の眼前に姿を現していた。

 

 Ⅲ号突撃砲の時のように、民家に異変はなかった。垣根も乱れておらず、履帯痕も存在しなかった。忽然と、そこに出現したとしか思えないような挙動で、Ⅳ号戦車が二人に突進していた。

 

 大洗が奇襲を仕掛けるとき、必ず痕跡がある。

 

 深層心理にそう刻まれていたカリエの、完全に虚を衝く形だった。



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秋山優花里の戦車道 22

 

 目があった。

 

 刹那のその時、カリエはそんなことを考えていた。

 

 

 01/

 

 

 両者の距離が急速に縮まっていく。

 冬の時とは違い、優花里の瞳は射殺さんばかりにカリエに固定されていた。

 フェイントを狙った目線ではなかった。

 優花里の視線を真っ向から受けたカリエは己を叱咤する。

 叱咤して、すぐさま車内に高速でジェスチャーを展開していた。目標の位置、速度、そしてどういった軌道を取り得るのか全て伝えていた。

 

 狙いは自分だ。

 衝撃に備えつつ、迎え撃て。

 エリカが盾として割り込んだその隙に、打ち砕け。

 

 言葉としてはそれだけ。

 けれどもその短節に込められた感情、意思、想いは並々ならぬものがあった。

 必ずやこの窮地を乗り越えてみせるという、力強い決意があった。

 果たしてパンターの乗員たちも、そんなカリエの意気込みに答える。

 これまでの鍛錬の全てを動員して、滝のような汗でジャケットを濡らしながら、それぞれの役割に身を捧げた。

 成果は出た。

 パンターの主砲がギリギリのタイミングでⅣ号戦車に狙いを定めたのだ。

 カリエは瞬きすら放棄して、Ⅳ号戦車の影を追った。

 確実に撃破が可能な距離になるまで、カリエは砲撃を命じない。

 それと同時。

 盾としての役割を担ったエリカのティーガーⅡがパンターの前に陣取った。これで優花里がカリエを撃破するには、無理な挙動を持ってパンターの側面に迂回しなければならなくなった。

 Ⅳ号戦車の機動に合わせて主砲を操作しなければならないというデメリットが発生してはいたが、自動追尾装置のような正確さで的を追従する訓練を受けてきた黒森峰の砲手ならば、さして問題のあるシチュエーションではない。

 つまり、寸での所ところで逸見姉妹の連携が成ったのだ。

 鉄壁の防御陣と一撃必殺のカウンターを整えられたのだ。

 

 これで万が一にも優花里の勝利はなくなった。

 

 事実逸見姉妹はそう考えていたし、試合を観戦していた観客たちも同じことを考えていた。

 

 やはり今年も黒森峰か。

 

 それは、彼女たちを見守る万人が共通して抱いた感情だった。

 

 

 02/

 

 

 ちりり、と頬を焼くような何かを感じてカリエは不安を抱いた。

 あと二秒もしない間に、自分たちの勝利が確定するところまで来ているというのにその心情はささくれ立っていたのだ。

 

 何故? 

 何か見落とした?

 どうしてこんなにも勝利の実感がない?

 

 疑問と迷いに苛まれつつも、カリエは発砲準備のハンドサインを形作った。

 あとはそのサインを少しばかり変化させ、発砲を指示するのみ。

 

 Ⅳ号戦車の車体先頭がカリエから見て左に動いた。

 やはりエリカの盾を迂回するのか、と回転する主砲に合わせてカリエも視線を動かす。

 

 だがカリエの視線は空を切った。

 視界の左側には何も存在しなかった。

 

 カリエの視界の右端では、同方向に進路を切ったⅣ号戦車が写っていた。

 Ⅳ号戦車はエリカのティーガーⅡに突進していたのだ。

 

 カリエは無意識のうちにこう叫んだ。

 

「お姉ちゃん!」

 

 

 03/

 

 

 優花里の作戦は徹頭徹尾、逸見姉妹の分断に終始していた。

 それは姉妹が合流を成し遂げても変わることのない不変の方針だった。

 優花里は逸見姉妹に対する徹底的なメタをもって、黒森峰に勝利しようとしていたのだ。

 それはカリエから学んだ戦術でもあり、彼女自身の戦車道の体現でもあった。

 

「ティーガーⅡの装甲を打ち砕けるかは、五分五分の賭けです! ですが修理されたばかりの転輪なら別! 必ずや撃ち抜けます!」

 

 揺れる車内で、華の感覚は研ぎ澄まされていた。怒声にも近い声量を誇る優花里の言葉をしっかりと受け止めつつも、その心は風に揺れる水面のように澄み切っていた。

 視界が目まぐるしく変化する中、ティーガーⅡの転輪がいよいよ視界一面に広がった。

 反射的に引き金を引きそうになるのをぐっとこらえ、さらなる接近を待つ。

 麻子もそんな華の意図を読み取っているのか、さらにティーガーⅡにⅣ号戦車を肉薄させた。

 

 そして、その時が来た。

 

 秋山優花里が逸見カリエに一矢報いるその時がやってきた。

 

 

 04/

 

 

 Ⅳ号戦車の主砲によってティーガーⅡの転輪が吹き飛ばされる様子を、カリエはしっかりと見ていた。言葉に表すことも出来ないような数多の感情が押し寄せ、カリエの思考を数秒の間停止させる。

 奇襲に成功したⅣ号戦車が逃げ出すには、それだけの時間があれば十分だ。

 カリエはこちらから遠ざかりつつあるⅣ号戦車をすぐに追うことは出来なかった。

 

 その僅かな時間ロスから生まれる焦りが。

 姉を手に掛けられたという屈辱が。

 そして油断を喫してしまったという後悔が。

 

 カリエを突き動かした。

 

「全軍、Ⅳ号戦車を追跡しろ! ポイントはEー23! 進行方向は北東、速度35! 私もすぐに追撃を開始する!」

 

 カリエのオーダー通り、パンターが動きを再開した。

 それは姉妹を殺された豹の姿そのものだった。

 凄まじいまでの怒りと後悔がパンターの原動力。

 

「砲手、左に20度、徹甲弾、撃て!」

 

 パンターの主砲が咆哮を上げる。

 逃げ続けるⅣ号戦車のすぐ足下を砲弾が穿っていく。

 正確かつ苛烈な砲撃がⅣ号戦車に殺到していた。

 だが、激情に支配される思考であっても、カリエ本来の冷静さを失っている訳ではなかった。彼女は砲手に絶え間ない砲撃命令を告げつつも、無線機で周辺に展開した斥候たちに細やかな指示を飛ばす。

 

「目標はF-11に移動。16号車——小梅と11号車で道路を封鎖。背後から12号車と私の車両で挟撃する」

 

 何としてもⅣ号戦車を討ち果たさなければならないと考えているからこそ、カリエの思考回路は澄み切っていた。ふつふつと滾るマグマを原動力に、何処までもクリアな視界で世界を見ていた。

 

「砲手、Ⅳ号戦車が右にフェイントを取ろうとしている。乗せられているフリをしながら左に砲弾を外して。こちらが合図をしたその時に、右に砲撃を叩き込んでほしい。相手の挙動が乱れたその瞬間、四両の車両で包囲しとどめをさす」

 

 だからこそ、結果の定まっている詰め将棋のように一手一手、確実に勝利への布石を敷き詰めていく。それは小さな歩幅で階段を上り続けるような地味な作業。

 

 みほのような鮮やかで天才的な用兵ではない。

 エリカのようなカリスマに溢れた鮮烈な用兵ではない。

 

 カリエがこれまでの人生で少しずつ積み重ねてきた彼女だけの戦車道なのだ。

 

 刻一刻と、包囲陣の完成が近づいてくる。

 珍しく手に汗をカリエは握っていた。

 今まで、幾度となく緊張感に苛まれながら戦ってきたが、こんな感覚は初めてだった。

 先の見えない未来。

 定まっているはずなのにあやふやな勝利。

 それら全てが彼女を必要以上に発汗させ、心臓の鼓動を始めていた。

 

 時が来る。

 もう数秒もない間に決着がつく。

 カリエは小さく息を吐き出し、

 目を閉じた。

 

 未来が成った。

 

 

 05/

 

 

 ――これが静寂なのかと、カリエは車長席に深くもたれ掛かった。

 前方にはこちらとの距離を徐々に開きつつあるⅣ号戦車が見える。

 砲手には砲撃を一時中断するように指示していた。

 

「……状況報告を」

 

 カリエ自ら無線機を操作して周囲の様子を伺う。すると包囲の為に移動させた三両の車両から、悲痛な返答が届いた。

 

『カリエさん、こちら赤星! 奇襲です! 先回りされ、指定ポイントに近づけません!』

 

『ごめんなさい! こちらもです! ヘッツァーの砲撃を受けて、履帯がやられました! 申し訳ありません!』

 

『12号車、予定の進路を民家の瓦礫で埋められていました。……迂回して何とかそちらに向かいます』

 

 嗚呼、と声を漏らした。

 前方のⅣ号戦車に座しているであろう優花里のことを、カリエは想った。

 詰め将棋をしていたのは自分だけではなかった。

 優花里もまた、自らが望む勝利を目指して一つ一つ手を打っていたのだ。広場に潜み続けていたときから、彼女の道は成っていたのだ。

 カリエはそんな道にまんまと乗せられてしまっていた。

 策士として生きてきた彼女が、生まれて初めて策に嵌められた。

 

「――これは堪えるな。悔しく、腹立たしく、悲しく、そして清々しい。ここまで綺麗に嵌められると、こんなにも不思議な気持ちになるのか」

 

 カリエは全てを察する。

 優花里の策の全貌を完全に悟ったのだ。

 

 優花里は結局のところ、最初から最後まで逸見姉妹の分断だけに終始していた。こちらが合流を果たしてしまっても、最終的に分断できればそれでよしとしたのだ。

 Ⅳ号戦車が戦線に一切参加せず傍観と隠密に徹していたのも、分断する最高のタイミングを待ち続けるため。

 逸見姉妹ならば、必ずや鉄の連携を持ってあの広場に辿り着くと予想していたのだ。

 おそらく街に逃げ込んだその瞬間から、その方針が定まっていた。大洗女子学園のメンバー全員でⅣ号戦車をあの民家に隠した。

 

 戦車の操作に優れるものが、周囲の堀や街灯を傷つけないように、気の遠くなるような慎重さを持ってⅣ号戦車をガレージに運んだのだろう。

 偽装工作に優れるものがⅣ号戦車の履帯痕を一つ一つ消していき、カリエの目を欺いたのだろう。

 通信技術に優れるものが、各車両の位置関係を常に把握し、黒森峰に強襲されて逃げ回る大洗を演出して見せたのだろう。

 

 見事だ。いや美事だ、とカリエは感嘆した。

 そして大洗女子学園の成長を自分勝手に評していた自分を恥じた。

 彼女たちはカリエが思い描いてきたレールを、道を辿ってきたのではない。

 大洗女子学園は、カリエとはまた違った方向に自分たちの戦車道を見つけ出し、ひたすらその道を邁進してきたのだ。

 カリエからのアドバイスなど、踏み台でしかなかった。カリエが大洗女子学園を引き上げたのではなく、いつの間にか次のステップへの足がかりにされていただけなのだ。

 勘違いも甚だしかった、とカリエは自らの負けを認めた。

 

 だが――、

 

「私の策が負けても黒森峰は負けていない。ここには黒森峰選りすぐりの精鋭たちがいる。私たちはまだ負けていない」

 

 その瞳の闘志は失われるどころか、より苛烈に燃え上がっていた。

 こんな気分になったのは、ダージリンを奪いに行った時くらいだと、カリエは笑って見せた。

 前方にⅣ号戦車がいる。

 新しいライバルがそこにいる。

 

「決着をつけよう、優花里さん」

 

 

 06/

 

 

 転輪の修復、西住隊長の部隊が合流するまで不可能です。

 

 乗員たちから告げられた言葉に、エリカは「そう」とだけ答えた。

 彼女はただ、足を失ってしまった王虎を静かに見上げる。

 

「……予備の部品をみほたちから工面してもらうしかないのね?」

 

「ええ、残念ながら。初回の修理で殆ど使い切ってしまいました」

 

 エリカはちらり、と腕時計を見た。みほが合流を果たすまであと十数分残されている。

 僅か十数分。

 されど今のエリカにとっては永遠にも等しい長いときだった。

 

「カリエから連絡は?」

 

「我々に対しては何も。ただ、周辺に展開していた車両に細かな指示を飛ばされています」

 

 ならばよしとするべきなのか。

 

 エリカはそっと瞳を閉じた。

 この結果でよかったのだ、と己を納得させる。

 あの場面でカリエを庇わないという選択肢は一ミリも存在しなかった。

 カリエがやられればその時点で黒森峰の敗北だった。

 そして何より、妹が目の前でターゲットにされているというのにただ黙って見ている姉など、エリカにしてみたらあり得ないものだったのだ。

 

 だからあの選択は最善だった。

 自身が狙われていると気がついても、決して回避機動を取らなかった。

 

 流れ弾がカリエに向かえば?

 無理に動いてカリエに衝突していれば?

 

 全ての可能性をあの一瞬で類推し、エリカは判断を下したのだ。

 例え自分が倒れてもここから逃げてはならないと。

 だから胸を張ってこう告げることが出来る。

 

 自分は最善を戦った、と。

 

 だが——。

 

「エリカ副隊長、西住隊長と合流したら速やかにカリエ副隊長のあとを追いましょう。それからでも遅くはありません。カリエ副隊長は必ずやエリカ副隊長のことを待ち侘びているはずです。私たちも全力でことの復旧に当たります。なに、訓練で散々やってきたことじゃないですか。ティーガーⅡの転輪の交換なんて。朝早くから日が暮れるまで。手元が見えなくなったら皆で懐中電灯を咥えて。その様子を見た他の課からは『幽霊が戦車に群がってる』って怖がられましたっけ。確かにあの光景は異常でしたかもしれませんね。でも、私たちは少しでもタイムを縮めようと必死で、勝ちたくて、くろ、もり、みねを……十一連覇にみちびき、たくて、かちたくて、少しでも、エリカさんの役に立ちたくて、勝ちたくて、みんなで優勝したくて、ああああああああああああ」

 

 嘆きは連鎖していた。ティーガーⅡの周囲ではこれ以上戦うことが出来ないと悟った乗員たちが慟哭を上げている。

 エリカはそんな乗員たちを叱咤しない。

 いや、することが出来ない。

 いつもなら「軟弱よ」と喝を入れていた唇が震えて言うことを聞かない。

 彼女もまた、タンカースジャケットと足下の地面に特大の染みを作り出してしまう大粒の涙をぽろぽろと零していたのだ。

 

「ごめんね。カリエ。最後まで一緒じゃなくて。ごめんね、みんな。私の我が儘で最後まで戦わせてあげられなくて」

 

 嘘偽りの無い言葉は蝉の声の中に消えていく。

 蜻蛉のような儚い夏の空気に、彼女たちの慟哭は溶けて無くなっていった。

 

 

 07/

 

 

 ナナは必死だった。

 大洗女子学園のフラッグ車を追撃することが出来るのが、自分たちだけだと知らされ覚悟を決めていた。

 自分の操縦、一挙手一投足がこの後の運命を左右するのだと自覚していた。

 

 ふと、背後の車長席から指示を飛ばすカリエの気配を感じる。

 

 彼女もまた覚悟を決めていた。

 ここで勝負を決めなければならないと、ここで勝利しなければならないと覚悟を決めていた。

 

 ナナは自分が何故、この副隊長について行こうと思ったのか、思考の片隅で思い出す。

 

 中学生の頃までは戦車と無縁の生活を送っていた。

 代わりにナナがのめり込んでいたのはジュニアモトレースだ。

 祖父と父は世界的に有名なレーサーだった。

 優秀なサラブレッドの血を引いたナナもまた、超人のような才能を有していた。

 面白いくらいレースに勝ち続けた。練習すればするほどあらゆるテクニックが爆発的な伸びを見せ、走れば走るほど高みに登っている感覚があった。

 祖父も父もそんなナナの活躍を喜び、これからの将来を大いに期待していた。

 ナナは人生が楽しかった。

 この一度きりの人生が楽しくて楽しくて仕方が無かった。

 世界中、何処を探してもここまで幸せな毎日を送っている人間など存在しないと疑わなかった。

 

 ——だからかもしれない。天罰が下ったのは。

 

 大雨の翌日のレースだった。

 本来ならばアクシデントの発生を危惧しなければならないコンディション。

 されどもそれは常人にとってのこと。

 ナナにとってそれは考慮すべき事象では無く、自身の人生にさらなる彩りを添えてくれるスパイスでしかなかった。

 事実、ナナは独走した。

 危なげも無く、一度も足を路面に囚われることも無く、ただ圧倒的なスピードでレースを支配していた。

 前方に周回遅れのマシンが見えた。

 大会のルール上、ここでナナが相手を抜き去ってしまえば、その相手は失格となりレースの続行が不可能になる。

 その為か、背後にナナが迫っていることに気がついた相手は、何とか抜かせまいと必死にスロットルを回していた。

 ナナはそんな相手をあざ笑うようなことはしない。

 ただ自身の全力を持って抜き去りに掛かった。

 それが勝負の世界の礼儀であることくらい、既に理解していたから。

 天才と凡才のデッドヒートが始まる。

 火事場の馬鹿力か、追い詰められたネズミなのか、ナナも内心舌を巻くほど、相手は粘った。

 粘りに粘って、本来の実力以上の走りを、相手は展開していた。

 ナナもその健闘を称えながら、ここぞというタイミングを虎視眈々と見定め続けた。

 

 そして時はやってくる。

 

 左に大きく展開したハイカーブ。

 

 ここが狙い目だと、ナナが距離を詰めた。

 相手も己の危機を察し、何とかブロックしようとマシンを操作した。

 

 ふと、マシンが空を飛んだ。

 

 極限まで追い詰められて視野が狭くなっていた相手のマシンが空を飛んでいた。

 

 スリップだ、とナナは呟いていた。

 だが焦ることはなかった。彼女の思考は至って冷静だった。

 何故なら彼女には勝算があった。あの角度で滑っていったのなら、こちらは安全であると理解していたから。

 事実、スリップしたマシンはナナの進行方向からは消えていた。

 ナナのレースを妨害するものなど、何一つ残されていなかった。

 

 結局、勝負は天才が勝利する。

 大番狂わせなどなく、当たり前の結果がそこにはあった。

 

 だが、ナナの悲劇はここから始まっていた。

 

 あ、とナナは声を上げた。

 相手の実力が自分と拮抗しうるものだと勘違いしていたナナの失態がそこにはあった。

 突然のスリップにパニックになった相手が、何とかもがこうとしてマシンから放り出されていた。

 マシンにしがみついてさえいれば、安全にコースアウト出来たのに、下手に暴れたから体だけコースに取り残されていた。

 そしてそれはナナの進行方向直上。

 なんとか接触を避けなければ成らないと、ナナはマシンを操作する。右と左が運命の分かれ道。

 右には、まだスリップを続ける相手のマシンがあった。

 左には、何も無かった。

 ナナは左に意識を傾ける。けれども、その最中に見てしまった。

 マシンとは全く違う動きでコースを転げ回っている相手が徐々に左に移動しているのを見てしまった。

 九割で接触しないと判断した。

 相手がナナのマシンの目の前を横断するよりも、ナナがその場を走り抜ける方が早いと判断していた。

 事実ナナには実力があった。

 最悪の事態を回避するだけの神業をナナは有していた。

 

 だが悲しいかな。

 ナナは天才の器に、凡人の、心優しいただの少女の魂を持っていた。

 残された一割に踏み込めなかった。一割の可能性を無視して勝利することを恐れてしまった。

 

 右にマシンが傾く。

 スリップした相手のマシンが迫り来る。

 なんとか衝撃を殺そうと、頭を腕で守った。

 世界が目まぐるしく変化する。空に投げ出されればこんな気持ちになるのか、とナナは漠然と考えていた。

 右腕から地面に落ちた。

 今までの人生で一度も聞いたことのないような音を、自分の肉体から聞いた。

 初めての体験だった。

 

 ただ一つだけ理解していたことがある。

 

 これが自身のレーサーとしての終わりなのだ、とナナは感じ取っていた。

 

 

 そこから先は地獄だった。

 目の前に広がっていたあらゆる道が閉ざされ、人より優れていた才覚は失われていた。

 残されたのは人よりも不自由な右腕だけだった。

 バイクにはもう、乗れなかった。

 走らせることは出来ても、ナナの感覚に体がついてきてくれなかった。

 レースに耐えられる体では無くなっていたのだ。

 中学校最後の一年間を全てリハビリに当てても、完全に回復が出来なかったとき、ナナは呆気ない終わりに絶望していた。

 

 丁度その頃、俄にテレビを騒がす人物が現れていた。

 名門黒森峰女学園新進気鋭の副隊長である逸見カリエである。

 ナナは戦車道に詳しくなかった。

 いや、全くといって良いほど知らなかったと言っても良い。

 それでも、連日テレビや雑誌を賑わしているほぼ同世代の有名人の話は、嫌でも彼女の耳に入ってきていた。

 最初の頃は、一切興味を抱けなかった。

 同じ乗り物を乗り回す競技でもモトレースと戦車道は余りにも世界が違いすぎて実感が湧いてこなかったからだ。

 だから無視した。

 何かしらの競技を続けさせてやりたいと、ナナを気遣って戦車道の話題を持ってくる父を無視していた。戦車道の講習会に赴き、競技の世界を何とかナナに伝えようとする祖父を無視した。

 二人とも、ナナを戦車道の世界に放り込んでしまいたいという魂胆が明け透けで、ナナは不快だった。

 もうモトレースに出ることも出来ないのだから、競技の一切から手を引きたいと考えていたのだ。

 ただ、そんなナナの心情は、彼女が父と祖父を無視したように、また無視されつつあった。

 どれだけ耳を閉ざし目を塞いでいても、逸見カリエの話はナナに飛び込んでくる。

 

 やれ、水恐怖症を克服しただの。

 やれ、美しい姉妹愛で勝利しただの。

 やれ、ナナの地元である熊本県の英雄なのだと。

 

 ナナは普通の少女だった。

 どれだけモータースポーツの天才でも、根は何処にでもいる普通の少女だった。

 全ての情報をシャットアウトし続けることなど、土台無理な話だった。

 一度興味の扉を開いてしまえばそこから後戻りは出来なくなっていく。

 

 最初は、見舞いにきた友人が持っていた雑誌かもしれない。

 もしかしたらぼんやり見ていたテレビの特集だったかもしれない。

 一番可能性が高いのは、やっぱり父と祖父が持ってきたあらゆる情報だろう。

 

 とにもかくにも、ナナは気がつけばカリエについて調べていた。

 どういった経歴で、どういった思想で、どういった競技観を抱いているのか徹底的に調べ尽くした。そして調べ尽くせば尽くすほど、逸見カリエという存在にのめり込んでいた。

 

 カリエはナナにとってIFの存在だ。

 事故で抱えた障害を乗り越えていった憧れのIF。

 カリエは先天的、ナナは後天的という違いこそあれど、

 自分が進むべき道を示してくれていることは確かだった。

 

 あとはもう、とんとん拍子だ。

 

 モトレース並みの繊細さが要求されない戦車の操舵など、ナナにとっては朝飯前だった。

 彼女の天性の才能が、あっという間にナナの肉体を戦車道専用のものに作り替えていった。

 黒森峰の高校編入試験は実技であっさりとパスした。

 彼女の操縦センスに敵うものなど、高校戦車道の世界を見渡しても一握りしかいない。

 ナナにとっての心配事など、どの車両に配属されるか、くらいだった。

 そして、ナナの夢が、これからの人生の一歩目が、叶うことになる。

 

 ——他ならぬカリエの手によって。

 

 ナナは覚えている。

 それは一生忘れることの出来ない、世界で一番美しい光景。

 

 戦車道練習の初日、緊張で固まっていたナナを後ろから優しく突き飛ばす影がいた。

 何事か、と振り返れば「くすくす」と笑みを零すカリエがいた。

 突然のことに、思考停止しているナナの手をカリエはさっと握りしめ、そのまま歩き出す。

 カリエはナナに振り返らずに、悪戯が成功した子供のように口を開いていた。

 

「新入生の乗員のドラフトなんて、完全ウェーバー制の早いもの勝ち。というわけで、うちにおいでよ。こっちには小言の五月蠅いエリカもいないし、笑顔で怖いことをいうみほもいないよ。アットホームでのほほんとした車両だから」

 

 その小さくて大きな背中を、ナナは涙交じりの瞳で目に焼き付けていた。

 

 

 08/

 

 

 カリエにとっては、考えなしの、それこそ気まぐれだったのかもしれない。

 それでもナナにとっては万の言葉に勝る、明るい未来を教えてくれる一瞬だった。

 

 そしてその未来が成就する瞬間がすぐそこまで迫っているのだ。

 カリエとナナ、そしてパンターの乗員たちで掴み取らねばならない未来が眼前まで来ている。

 

 ナナは滝のような汗をまき散らしながら、カリエの一言一言を決して聞き逃さないよう全ての神経を極限まで研ぎ澄ましていた。

 カリエの手足となるべく、全身全霊を注ぎ込んでいた。

 いつもは鈍痛にしかめながら動かしていた右腕も、すこぶる調子が良い。

 まるで全盛期に戻ったかのように、カリエの、ナナの願いを聞いてくれていた。

 

 黒森峰を、逸見カリエを勝利させるため、

 佐久間ナナはパンターをただただ前に進めていた。

 

 

 09/

 

 

 優花里が何かを口にした。

 それは決して大きな声量ではなかったが、Ⅳ号戦車の乗員たちには確かに伝わっていた。

 まず最初に動きを示したのは麻子だった。

 それまでほぼ全速力で逃げ続けていたのを、少しずつ速度を落とし、追いすがるパンターとの距離を縮めた。

 次に優花里がキューポラから身を乗り出して背後を見た。すると当然と言うべきか、自身と同じようにキューポラからこちらを見ているカリエがいた。

 両者の視線が重なる。優花里の動きの全てを、カリエが見つめている。

 

 そうだ。それでいい。

 

 優花里は振り返ったまま、車内にジェスチャーを送った。

 手信号を読み取った沙織が何かを叫ぶ。

 すると麻子が進路を思いっきり右に切った。だが、華は主砲を左に向けた。

 

「!」

 

 それは二方向に分岐している分かれ道で成された。

 Ⅳ号戦車は分岐のうち右側に進路を変えている。だが、カリエは左へ進んだ。

 いや、進まされていた。

 進路を右に取ったのと同時に主砲を左へ。

 それは目の錯覚を応用した高度な操縦テクニックだった。人間という生き物はどうしても、戦車のシルエットで最も判別が容易な主砲部でその戦車の進路を判断してしまうのだ。

 優花里はその特性を利用した。彼女が昔に見た、富士の総合火力演習で活躍する90式戦車をモチーフにした作戦だった。常に一定の方向に主砲を向け続けることの出来るかの戦車の挙動を観察してみると、どちらの方向に進んでいるのか判別しにくいという経験を思い出していたのだ。

 右の分岐は坂を上っていく。

 行き先はとある運動公園。

 優花里はその中心に座しているスタジアム——野球場を目指した。

 彼女の思い描く最終決戦の舞台がすぐそこまで来ていた。

 

 あともう少し。

 

 それはあんこうチーム全員の気持ちそのもの。

 しかしながら、優花里は咄嗟に停止を命じた。

 

「!?」

 

 眼前を砲弾が通過する。

 左側へ視線を走らせれば、併走するパンターがいた。

 事前の調査では、左側の道も最終的には運動公園へと続いている。それでもその道は非常に狭く、パンターで通過するのは殆ど困難だという結論に至っていた。

 もし通ることが出来ても、亀のような歩みであり、スタジアム周辺で再び奇襲の準備をする時間くらいは稼げると考えていたのだ。

 パンターの操縦手であるナナが、神がかりな操舵を見せて、ほとんどトップスピードで駆け抜けてくるなど、優花里の完璧な想定外だった。

 

「      」

 

 けれども優花里は狼狽えない。

 それでこそカリエ殿、と言わんばかりにⅣ号戦車を前進させた。互いに併走しあいながら砲弾の応酬を繰り広げる。眼前にスタジアムが迫ってきても、それぞれ速度は中々緩めなかった。

 ただ、ここで右に進路を切ったあんこうチームと、左へ進まされたカリエに差が生まれていた。

 優花里の進行方向は、スタジアムの柱となっており突破が困難なものだった。

 対するカリエは、ちょうどスタジアムの入り口となっており、閉ざされたシャッターも戦車ならば突破可能な代物だった。

 優花里とカリエ、それぞれ一瞬だけその事実を確認する。

 そして優花里は急停車を、カリエはそのまま前進を選択した。

 カリエのパンターだけがスタジアム内に突入したのだ。

 

 この方針の違いは、両者の有利不利を決定づけた。

 すなわち、スタジアム内で万全の態勢で優花里を迎え撃つことが出来るカリエと、

 迎撃態勢を整えたカリエに挑まなければならない優花里に分かれたのだ。

 短期決戦でカリエを討ち取らなければならないという状況に追い込まれた優花里としては、この上なく不利な展開だった。

 

 

 10/

 

 

 シャッターを突き破り、途中あった自販機を挽きつぶし、砲撃を一つ加えて吹き飛ばした薄壁の向こう側にはいつかの夏があった。 

 何処までも広がるだだっ広い青空。

 白く、重々しい質量すら錯覚させる特大の入道雲。

 観戦スタンドを取り巻くのは夏の熱気に当てられた陽炎たち。

 そして眼前には、バッターボックスとその延長線上に形作られたマウンド。

 

 懐かしさすら覚えるその光景に、カリエは息を呑んだ。

 

「野球場、ですか」

 

 何故かナナの呟きがよく聞こえる。パンターのエンジン音があるはずなのに、何故かその言葉だけが耳に届く。

 カリエはちょうどマウンドのその位置でパンターを停止させた。

 そこから見る景色に、彼女は目眩すら覚える。

 

「そうか。ここが終点なのか」

 

 どこか遠くでⅣ号戦車戦車のエンジン音が聞こえる。

 カリエは静かに球場を見渡して、Ⅳ号戦車の侵入経路を絞った。

 自身が通ってきた道をトレースしてくることはあり得ない。

 ならば、選手控え室など小部屋が多数配置され、戦車で強行突破が可能な一塁側ベンチと三塁側ベンチのどちらかだった。

 マウンドの上で、バッターボックスを、いや、キャッチャーが座す位置にパンターを回頭させる。

 この位置取りならば一塁側ベンチと三塁側ベンチ、どちらからⅣ号戦車が突入しても迎撃が可能だった。

 

「すぅー、はあー」

 

 高鳴る鼓動を押さえ、呼吸を整える。

 Ⅳ号戦車のエンジン音がカリエの耳から不意に消えた。

 一瞬の静寂。

 それはスタジアムへの突入を果たした合図だろうか。

 

 そこから先、カリエの人生でもっとも長い十秒間だった。

 

 十秒——カリエはここまで来た道のりを振り返っていた。

 九秒——カリエは感謝した。ここまでついてきてくれた仲間たちに。

 八秒——カリエは謝罪した。自分のために盾になってくれたティーガーⅡの乗員たちに。

 七秒——カリエは思い出していた。いつか通った、遠い夏の勝負のことを。

 六秒——カリエは女としての人生も案外楽しいものだと笑った。

 五秒——カリエはダージリンにありがとうと告げ、胸元のラッキーベルを握りしめていた。

 四秒——カリエは両親に思いを寄せていた。今この瞬間を見てくれているだろうか。

 三秒——カリエはみほに嘯いた。悪いけどMVPは私だ。

 二秒——カリエはエリカのことを考えた。言葉には出来ない深い愛情があった。

 

 そして一秒。

 

 カリエは気がついた。

 その昔、自身を戦車道の道に引き込んでくれた人物の正体に。

 誰が自分の原風景なのか、思い出していた。

 

 

 11/

 

 

 Ⅳ号戦車が出現した。

 けれどもその出現地点は、カリエの予想を二つとも外していた。

 Ⅳ号戦車はカリエの背後。

 外野席の真下、ライトフェンスの中から出現していた。

 カリエは、己の失態に今更ながら思い至る。

 優花里が出現したそこは、緊急時に救急車両がスタジアム入りする非常口が隠されているところだった。

 

 完全に失念していた。

 

 もしも、カリエが。

 遠い夏に後ろめたさを感じずに、キャッチャーが座すポイントに停止していれば結果は大きく

変わっていた。

 もしも、カリエが。

 逸見カリエとしてでは無く、○○○○としての意識で戦えていたのならば、そんな抜け道を見落とす筈が無かった。

 野球人とは名ばかりの、戦車道の逸見カリエになっていたからこそ、生まれた隙だった。

 皮肉なことに、逸見カリエは戦車道を通して、勝利に必要な「昔の自分」という大切なピースを失っていたのだ。

 本能的に、キャッチャーの守備位置へ立つことを嫌がってしまったからこそ、これからの未来が収束してしまった。

 

 

 12/

 

 

 Ⅳ号戦車が急速に接近する。

 カリエは背後への旋回を命じる。

 土のグラウンドを横滑りしながら、Ⅳ号戦車はパンターの周囲をドリフトした。

 パンターの主砲は必死にそんなⅣ号戦車を追いかけた。

 やがて、両者の動きが一瞬だけ止まる。

 互いの砲口がそれぞれにぴたりと向けられていた。

 カリエと優花里、ごく至近距離で視線が交じり合う。

 

 ああ、やっぱり。

 

 砲撃のその瞬間、カリエは泣き笑いの表情を形作っていた。

 それは、長年見つけられなかった探し人をようやく見つけられた、安堵から来る笑みだった。

 

 

 13/

 

 

 砲声は夏の空の下、世界の何処までも響き渡る。 

 それはとてもとても美しい音色だった。




間に合えば、本日中にエピローグを投稿します。


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逸見カリエの戦車道 00

これで秋山優花里の戦車道は終わりです。本当にありがとうございました。


 それからの話を少ししようと思う。

 黒森峰の逸見カリエの、その後の話だ。

 

 

 01/

 

 

 黒森峰の逸見カリエがただの逸見カリエになるには、たった一枚の書類で十分だった。

 五年近く積み上げてきた経歴を終わらせるにはそれだけで事足りた。

 決勝戦から少し経った後、学園艦を降りて、単身実家に帰省した彼女は両親と面会していた。

 ただの逸見カリエになるための書類にサインをしてもらうためだ。

 両親は当然のことながらサインを渋った。

 彼らはカリエが黒森峰で積み上げてきたものの重みを知っていたからだ。

 だがカリエは「これは仕方のないこと」「ここでなくても自分は大丈夫なこと」「エリカとはもう話をつけていること」を伝え、頑なにサインを求めた。

 先に折れたのは両親だ。

 彼らは悲しげにカリエを見やった後、震える指先で書類にペンを走らせる。

 

 母は問うた。

 

 本当にこれでいいの?

 

 カリエは頷いた。

 

 父は問うた。

 

 今ならやり直せるぞ。

 

 カリエは首を横に振った。

 両親は我が娘の意思の堅さを感じて、それ以上何も言わなかった。

 ただ、いつでもここに帰ってきなさいとだけ伝える。今の娘にはその言葉しか掛けられないと、やっと絞り出した言葉だった。

 カリエは一言、「ありがとう」と頭を下げていた。

 

 

 02/

 

 

 書類を両親から受け取ったカリエは、実家近くの郵便局に来ていた。

 彼女は出来たてのそれを封筒に入れて窓口の職員に手渡す。

 これで自分はただの逸見カリエだと自嘲気味に笑ってしまい、職員に何事かと訝しがられていた。

 だがそれだけ。

 それ以上でもそれ以下でもなく、郵便物は淡々と処理されてカウンターの向こう側に消えていった。もう後戻りが出来ないことを悟ったカリエは何の感慨も抱くことなく、ふらふらと郵便局を後にする。

 そしてそのまま空港に向かう。

 小さなトランクと、エリカとお揃いのボストンバッグを抱えて熊本空港に向かった。

 学園艦での移動が殆どだったカリエからしてみれば、久方ぶりに訪れる施設である。

 そんな熊本空港には決して多くない一般客に紛れて既に先客がいた。

 

「カリエ副隊長……」

 

「もう私は副隊長じゃないよ。佐久間さん」

 

 出発ゲートのすぐ側。見送りの人々の中でカリエを待っていたのは佐久間ナナだった。

 彼女は小脇に1着の服を抱え込んでいる。それは地元熊本では余りにも目立ちすぎる、黒森峰のタンカースジャケット。

 それを見たカリエはそっと視線を彼方に背ける。

 

「――副隊長、忘れ物です。パンターの中に残されていました。クリーニングはしましたが、肘先の穴は直せていません。それでも、これはあなたのです」

 

 ぐい、と胸元に押しつけられるそれを、カリエは受け取らなかった。

 ただ小さく首を横に振って「それは佐久間さんに処分して欲しい」と頼んでいた。

 半ば予想していた答えに、ナナは体を一瞬硬直させる。だが嫌々をする子供のようにさらにジャケットをカリエに押しつけ、それでも受け取ってもらえないことを理解すると、今度は自身の体ごと押しつけて見せた。

 殆ど抱き留めるような形になっていることに対して、カリエは苦笑を漏らす。

 それとは対称的に、ナナは本当にもう手遅れなのか、と縋るような視線でカリエを見た。

 カリエはその視線を真っ向から受け止めながら、横に首を振った。

 

「あの日、みんなを勝たせられなかったその瞬間から、こうなることは決まっていたんだよ」

 

 それはカリエの口からは決して聞きたくない言葉だった。

 そしてナナにとって、カリエに決して言わせてはならない言葉だった。

 溢れんばかりの後悔と自責の念が、涙という形になって両の瞳からあふれ出る。

 カリエはそんなナナの涙を持っていたハンカチで拭ってやっていた。そのハンカチはそのままナナに握らせる。

 

「ごめんね、佐久間さん。見送りありがとう。——じゃあ、お元気で」

 

 保安検査場に歩みを進めようとするカリエに、ナナは我慢が出来なかった。

 これが最後の別れになるのかと、泣き喚きたい衝動をぐっと堪えて彼女はこう叫んだ。

 

「私、待ってます! また副隊長の下で戦える日を待っています! だから――、だから副隊長も戦車道を辞めないでください!」

 

 カリエの足が一瞬だけ止まる。

 だが返答はなかった。

 彼女の足がその場に留まっていたのはほんの数秒のこと。

 やがて歩みを再開したカリエはただの一度も振り返ることなく、保安検査場の曇りガラスの向こう側に消えていった。

 

 

 03/

 

 

 渦巻く黒煙はカリエの頬を、ジャケットを汚している。破片でも当たったのか、いつの間にかタンカースジャケットの右肘からうっすらと出血していた。

 

「…………」

 

 言葉はない。

 ただカリエと優花里、それぞれが視線を交わしたまま数秒ばかりの沈黙を作り上げていた。

 何処か遠くで、勝者を告げるアナウンスが響く。

 だが結構な声量の言葉は二人の耳には届いていなかった。

 

「……お疲れ様でした」

 

 先に口を開いたのはカリエだった。

 彼女は自身の横ではためき続ける白い旗をそっと撫でた。

 

「去年の準決勝以来だ。公式戦でこの旗を見たのは。それくらい、この子は、いやこの子たちはよく頑張ってくれた」

 

 その瞬間、カリエの足下から啜り泣きが聞こえ始めた。何とか押しとどめようとしていても、一度堰を切った感情は止めようがない。

 優花里の耳にすら届くそれをしっかりと受け止めながらカリエは言葉を続けた。

 

「優花里さんだったんだね。私に戦車道を初めて教えてくれた人は。ごめんなさい。すっかり忘れていたよ。つい先ほど思い出した。あなたがライトフェンスをぶち抜いてくる直前だ」

 

 カリエの瞳はいつか存在した、たった二人の逢瀬を見ていた。

 

「あのときあなたが教えてくれたんだ。私の進むべき道を。あなたが私の悩みを突き崩してくれたから、私はこの世界に飛び込んできた。だから、そう。あなたにこうして引導を渡されたのは当然のことだったかもしれない」

 

 そしてそのまま空を見上げる。

 その時の瞳もまた、彼女しか知らない夏を見ていた。

 

「あの時とは違って積極的に動いたつもりなんだけどなあ。そう物事は単純には行かないか。今日、この日は落ち着いて外角でカウントを取らなければならなかったんだ」

 

 優花里はカリエの言葉の意味がわからない。

 それでもその声音に織り込まれている後悔と無念さだけはひしひしと感じ取っている。

 

「いや違うか。あの時はあいつを勝たせなければならなかったんだ。言わば俺は裏方だった。強気の姿勢で支え続けなければならなかった。でも今回は主役だった。チームの要だったんだ。私は慎重にことを進める必要があった」

 

 どうして今更になって気がつくんだろう? とカリエは優花里に笑いかけた。

 

「馬鹿だよね、ほんと」

 

 二人のやり取りはそこまでだった。

 カリエが突破してきたルートを伝って、一両の戦車がスタジアムに侵入してきたからだ。それが黒森峰の隊長車である西住みほのティーガーⅠであることくらい、優花里には一目瞭然だった。

 優花里は自身の車両が自走可能であることを確認すると、麻子に皆のところに帰る旨を告げた。

 麻子は問う。

 

「本当に良いのか? もっと交わすべき言葉があるんじゃないか?」

 

 優花里はただ首を横に振った。そしてこう告げた。

 

「カリエ殿のあの表情を見ていたら言葉なんて見つかりません。今はこれでいいんです」

 

 

 04/

 

 

 ティーガーⅠには、みほの他にも何処かで拾われてきたのかエリカと小梅も乗っていた。三人はカリエのパンターに横付けすると、すぐさまそちらに飛び移った。

 

「カリエ!」

 

 先陣を切ったのはやはりと言うべきかエリカだった。彼女は妹の怪我を確認し、手当の必要があると判断。すぐさまキューポラから引っ張り出そうとする。だが腕から伝わってくる妹の全体重を感じて、表情を曇らせた。

 

「あんた……」

 

 エリカが何かを言いかけるよりも先に、カリエが口を開く。

 

「ごめんね、お姉ちゃん。ちょっと自分じゃ立てないや」

 

 言葉を受けて、みほと小梅がそれぞれカリエの両脇を支えた。三人息を合わせて、何とかカリエをパンターから引きずり出した。すると三人の目に飛び込んできたのは小刻みに痙攣を続けるカリエの両足だった。

 負傷している訳ではない。

 それは精神的な負担から来る筋肉の震えだった。

 敗北という現実を受けて、平常心でいられないカリエの心の動きそのものだった。

 

「ごめんね、お姉ちゃん」

 

 顔を伏せたままカリエが再び謝罪を口にした。エリカは「そんなことする必要ない」とやや強めの口調で妹の肩を掴んだ。

 それは彼女なりの気遣いだった。だがカリエは壊れたオルゴールのように同じ言葉を繰り返す。

 

「ごめんね、お姉ちゃん」

 

「なんで謝るのよ。勝負事だから負けることもあるでしょう」

 

「ごめんなさい、お姉ちゃん」

 

「大丈夫よ。こんなことで王者黒森峰は屈しないわ」

 

「ごめんなさい。お姉ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 

 いつ妹のことを抱き留めていたのか、エリカが自覚することはなかった。ただ、今しっかりと捕まえておかなければ妹がどこかに行ってしまいそうで、エリカはカリエを必死に胸にかき抱いた。

 カリエはエリカの腕の中で声を上げた。

 それは黒森峰十一連覇のプレッシャーと常に戦い続けてきた凡人の叫びだった。

 

「うわあああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 ぼろぼろと涙が止まらない。

 泣き叫ぶ声がやまない。

 どれだけエリカのジャケットを汚しても、どちらも止まる気配がない。

 みほと小梅がカリエの手をそれぞれ握っても、彼女の震えは酷くなるばかりだった。

 

 

「ごめん、なさい! まけ、、ちゃった! まけた! まけた、んだよ! 私が馬鹿だから、私が弱いから負け、た!」

 

 嗚咽混じりの言葉をエリカは受け止め続けた。

 妹にのし掛かっていたあらゆるものを受け止め続けた。

 

 飄々としていた。

 それは本人の不安を誤魔化すカリエなりの防衛機制だった。

 

 自信を持ち続けてきた。

 それは周りを安心させるためのカリエなりの処世術だった。

 

 最後は一人で戦った。

 それは挑戦者に対する王者の戦いをしなければならないという、カリエなりのプライドだった。

 

 そして今、その全てが溢れ、爆発し、感情の発露となって渦巻いているのだ。

 カリエが持つ感情の渦は余りにも大きく、ちょっとやそっとの言葉掛けでは解決できるものではなかった。

 カリエの心は折れていた。

 彼女の精神は砕けていた。

 ここまで張り詰めていた糸が切れていた。

 幼い子供のように、カリエはそれから暫く延々と泣き続ける。

 

 エリカはただ、その背中を優しく撫で、ただ「大丈夫」と繰り返すだけだった。

 

 

 04/

 

 

 試合終了のアナウンスが流れたその時、ダージリンの足下には割れたカップの破片と紅茶の水溜まりが広がっていた。 

 彼女は深く、そして一つ息を吸い込むと隣に座していたオレンジペコに対して口を開く。

 

「まさかこんな展開になるなんてね」

 

 ダージリンの言葉を受けて、オレンジペコは眉尻を下げながら問いを投げかけた。

 

「カリエさんに幻滅されましたか?」

 

「それこそまさかよ。あれだけ全てをさらけ出したカリエさんを今すぐ抱きしめてあげたいわ。だからエリカさんが羨ましくて仕方がないの。カリエさんがあんな無防備に泣きつける相手なんてこの世界に一人しかいないから」

 

 相変わらずですね、とオレンジペコが呆れのため息を吐いた。薄々感づいてはいたことだが、自身の敬愛する先輩はかなりの拗らせ症らしい。

 だがその欠点がオレンジペコの忠誠心を曇らせることは決してない。何故ならオレンジペコは知っているからだ。ダージリンがダージリンたる所以。彼女が有する、何人たりとも寄せ付けない頂きの才能を。

 そしてその確信の根拠は、ものの数秒で成立する。

 

「さて、カリエさんのことはしばらくエリカさんに任せて、私は私のお仕事をしましょうか。ここからは政治の時間よ」

 

 世紀の大番狂わせに色めく観客たちには一切目をくれず、ダージリンは立ち上がってその場を後にした。オレンジペコも特に異を挟むことなく、粛々と後ろを付いていく。途中、ダージリンは携帯電話を取りだして何処かに連絡を取り始めた。

 

「もしもし、お久しぶりですわ。アールグレイさま。え? もうその名で呼ぶなって? いえいえ、あなたはいつになっても私の敬愛するアールグレイさまですもの。ところで一つだけお伺いしてもよろしいかしら。――ええ、手短で簡単なことですのよ? ……島田流の跡継ぎが大学日本代表を率いていますけれど、そこにあなたが加入する予定なのは真でしょうか? え? 何処で聞いたかって? さあ? 風の便りが教えてくださったんじゃないかしら」

 

 ああ、あくどい顔をしているな、とオレンジペコは困ったように笑った。

 それは生き生きと謀略を張り巡らすダージリンに対する苦笑でもあったが、こんなダージリンが大好きだという自分自身に対する苦笑でもある。

 

「……成る程。来週にはそのことを公表してもよろしいのですね? ではもう一つ。お国のお役所が、日本戦車道の底上げのために大学日本代表と疑似高校日本代表をどうにか戦わせられないか、と考えているのは本当なのでしょうか?」

 

 一秒、二秒、三秒、とダージリンが相手の返答を待つ。

 最初に一つだけ聞きたいと言った癖に、さらりともう一つの質問を投げかけていくあたり、ダージリンの話術はそれなりに通用しているのだろう。

 だがそんなダージリンを持ってしても、中々返答の得られない問いらしく、気がつけば十秒近く沈黙が続いていた。さすがのダージリンも「これは駄目か」と涼しい顔を崩して険しい表情を見せる。

 動きがあったのは問いかけから丁度十五秒が経過してからだ。

 

「——そうですか。そのような方針で動いているのですね。でしたらその催しは近いうちに開催されることでしょう。ええ、はい。ありがとうございます。……また何かありましたら連絡させて頂きますわ」

 

 どうしても得ておきたい情報は全て手に入れたのだろう。謝礼もそこそこにダージリンは携帯電話の通話を打ち切った。

 そしてやらねばならないことが出来たと言わんばかりに、やや足早に歩みを進めようとする。

 しかしながら、何かを思い出したかのようにほんの数歩で歩みを止めてしまった。

 訝しげにこちらを見るオレンジペコすら殆ど無視するように、彼女はまだカリエが残っている野戦フィールドへと視線を向けていた。

 そっと口が開かれる。

 

「……これから暫くはあなたにとって受難の時よ。でも必ず私はあなたを支えきってみせるわ。血が繋がっていなくとも、私はあなたの一番側にいたいと願い続けているから」

 

 それから一拍してダージリンは歩みを再開した。

 彼女は彼女のやるべきことの為に動き始めた。

 また、ようやくオレンジペコの存在を思い出したのか、徐に彼女へと声を掛けた。

 

「……ねえ、オレンジペコ、知ってる? 私、これでいて結構尽くすタイプなのよ」

 

 若干の茶目っ気を滲ませながら戯けてみせるダージリンに、オレンジペコは「はいはい」と答える。掴み所がなさ過ぎるのはいつものことなので、彼女のダージリンへの対応も手慣れたものだ。

 

「嫌というくらい存じ上げておりますよ。普段から『私はカリエさんの妻だ妻だ』と連呼していることも、グロリアーナの学園内で婚約していると吹聴して回っていることも」

 

 オレンジペコの意外な切り返しに、ダージリンは「あらあら」と笑う。

 

「意地悪なペコね。でもその話、エリカさんとカリエさんには内緒よ?」

 

 

 05/

 

 

 熊本空港を出発してから凡そ四時間と少し。カリエは首都の東京駅にいた。前の人生でも何回か来ていたおかげか、田舎の高校生らしくないキビキビとした足取りで構内を歩いていた。

 そしてバスの乗車券売り場の列に並び、水戸駅に向かうためのバスの乗車券を購入した。

 彼女の目指す目的地には、特急で向かう方が早くたどり着けることを知ってはいたが、のんびりバスで向かいたいと、彼女らしいマイペースな結論を出していたのだ。

 それからは二時間ほどの旅路だった。

 平日のせいか、バスには殆ど人が乗っていなかった。

 カリエの隣の座席も空席で、通路側だった席を勝手に窓際に移動していた。

 大都会東京の景色が緩慢とした動作で背後に流れていく。やがて何もない平原と畑が広がる景色ばかりになったとき、カリエは船をこぎ始めていた。

 そこからしばらく彼女の意識はない。

 気疲れもあったのか、ぐっすりと眠り込んでいたカリエはバスの運転手に起こされて水戸駅に到着していることに気がついた。終点だから別に大丈夫だろうと油断していたのもいけなかったのだろう。

 いつもならエリカに起こされていたな、と今日は隣にいない姉のことも考えたりしていた。

 半分寝ぼけた頭のまま、カリエはそれなりに大きな水戸駅を歩く。昼食は隣接する駅ビルでファストフードを食べた。エリカがいれば不健康だ、と罵られそうな昼食だった。

 たった一人での外食など久しぶりすぎて、何処かふわふわした妙な感触を覚えていた。

 昼食を済ませたカリエは乗り換えの為の切符を購入しようとする。

 券売機の頭上に張られた路線図を見て、ここからさらに東に向かうのか、とため息を吐いた。

 路線は鹿島臨海鉄道大洗鹿島線。ワンマン車両の小さな路線だった。

 熊本では中々みない、本当に小規模な路線だった。

 

 ディーゼル車特有の音を聞きながら、ただただ目的地を目指す。

 でもそれは最初の数分だけ。直ぐにやって来た睡魔に大した抵抗を見せることもなく、カリエは再び居眠りを繰り返していた。

 

『——。——』

 

 目的地についても起こしてくれる人間はいなかった。

 いよいよ姉の不在が現実として突きつけられているようだった。

 カリエが車掌のアナウンスで目覚めたのは完全に運とタイミングによるもの。

 重たい体を引きずって、カリエは列車を降りる。

 小さくもないが大きくもない、地方の田舎らしい駅舎だった。

 赤茶色の外壁をぼんやりと眺めつつ、カリエは駅前広場に躍り出る。広場中央に座しているイルカのオブジェが日の落ちたあとの街灯に照らされて光っていた。本当に知らない土地に来たのだと、その時になって初めて実感を覚えた。

 

「いらっしゃい。待ってたよ。逸見カリエさん」

 

 ふと、声を掛けられた。

 出迎えなんて頼んでいなかったのに、とカリエは眉を顰める。だが声の主はにこにこと笑ってカリエに手を差し出していた。

 

「ようこそ、大洗へ。黒森峰の学園艦と違って、本当に何もないところだけれども、それなりに良いところだよ」

 

 カリエは差し出された手を取らなかった。 

 ただ、社交辞令的に頭を下げ、社交辞令的に口を開いていた。

 

「……黒森峰から転校してきました逸見カリエです。よろしくお願いします。角谷杏さん」

 

 翡翠色の瞳が杏を見た。

 すっかり日が落ちた関東の果て。

 逸見カリエは大洗の土地を踏んでいた。




バッドエンドでは終わりません。
次回予告「逸見カリエの戦車道 01」


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第三章 逸見カリエの戦車道(劇場版)
逸見カリエの戦車道 01


いろいろ事情込みで投稿します。大変長らくお待たせいたしました。


 黒森峰女学園の敗北が世間に与えた影響はとても大きなものだった。

 新設の無名校が、完全たる王者である強豪校を打ち破るというサクセスストーリー。

 余りにも日本人好み的な、それこそどこかの夢物語のような試合結果に世間の人々は色めき、沸き立った。

 昨年度から勃興しつつあった戦車道ブームはさらに加熱し、書店では関連書籍が軒並み売り切れ、テレビ局では連日のように特番が組まれていた。ネットではサイトの種類を問わずに戦車道に関するあらゆる情報が洪水のようにあふれている。

 普通に一日を過ごしていれば、戦車道関係の話題が否応なしに耳に入ってくる毎日が訪れていた。

 そんな世間の風に煽られたのか、それとも最初からそうなるように既定路線が組まれていたのか、この国家の中枢部分でも動きがあった。

 学生戦車道を統括する文部科学省である。

 

「やあ、辻君。こんなにも暑いのに精がでるね」

 

 ここは霞ヶ関の何れかの建物の、何れかの階にある、何れかの執務室。

 空調によって外界からの熱波から完璧に守られているというのに、その女性はニコニコとそんなのことを宣っていた。

 相も変わらぬ嫌らしい会話の切り口に、辻と呼ばれた男は眉根を顰めながら応対する。

 

「……逸見課長、今日は上との会議だったのでは? 来年の世界大会に向けて関係省庁との打ち合わせがあると仰っていた筈ですが」

 

 逸見、と辻によって名を呼ばれた女性は「うーん」と困ったように笑って見せた。

 

「いや、それがね? 黒森峰女学園が負けちゃったからこれからの会議スケジュールが全部吹っ飛んじゃったの。かの王者のメンバーを中心に高校生のユースチームを作り上げて、プロチーム育成へと繋げていく青写真だったんだけどさ、全部おじゃんもおじゃん。なんたって、王者より強いチームが出てきちゃったんだもの」

 

 笑っちゃうよねー? と戯けてみせる逸見に対して、辻の返した言葉は至極事務的なものだった。

 

「仕方がありません。それが勝負の世界というもの。たとえ、あなたの姪っ子達が活躍するチームだったとしても勝負事では敗北もありえるでしょう。ならば、その結果を受け止め、さらなるプランを練り上げるのが我々の仕事です」

 

「うわー、いつも通りの堅物っぷりだね。……でも確かに君の言う通りかも。兄さんの子ども達ったらちょっと頭おかしいくらい優秀だったから、今回も優勝するだろうって楽観視してたこちらの落ち度だよね。物事に絶対などなし。スポーツと教育に携わる私たちが常に胸に抱いていなければならない不変であり普遍の真理って訳だ」

 

 ふふん、と勝ち誇ったように笑う逸見に対して辻は溜息を吐いた。

 いつも自由で傍若無人。かつ、なまじ頭が切れる分だけ非常に扱い辛い上司。

 それが辻の逸見に対する評価だった。

 

「ただね、私たちはそうやって頭を切り替えるだけで済むけれど、そうもいかない人たちもいるんだよ。先週なんてさ、お義姉さんから泣きの電話が入ってきてたいそう愚痴られちゃった。あの人、姪っ子ちゃんたちを溺愛してるからね、現状に耐えられないみたい」

 

 現状? と辻は首を傾げる。

 

「うん、現状だよ。これは割と内密というか口外厳禁な情報なんだけれど、姪っ子ちゃんたちの一番末っ子――カリエちゃんがさ、黒森峰を追い出されちゃった」

 

 あはは、と笑い飛ばす逸見に対して辻は露骨に顔を顰めて見せた。

 とことん役人気質で徹頭徹尾官僚的な思考で生きてきている辻からしても、「追い出された」というワードは決して看過しうるものではなかったのだ。

 

「……それはどういうことですか?」

 

 だから問う。逸見の言葉の真意を。

 

「いやそのままの意味だよ。王者の栄光に泥を塗ってしまったカリエちゃんはさ、OG会にとことん恨まれて黒森峰にいられなくなっちゃったんだ」

 

 まさかそんな横暴が成される訳がないと、辻は逸見の言葉を否定しようとする。

 だが逸見はそれまでの飄々とした態度を一変させて、逆に辻に詰め寄った。

 

「そのまさかがまかり通るんだよ。あの学校はさ。理事長なんて外から連れてきたただのイエスマンだ。戦車道の顧問だって名ばかりの名誉職で実権なんてなにもない。結局はOG会が金と権力にものを言わせて未だに牛耳っているんだよ。まあ、勝ち続けている間はそれでもよかった。勝つ為の戦車道ならばどんなことでも認められていたから。――でも今回は駄目だ。負けてしまった。それも新設の無名校に。王者の癌たちのプライドはズタズタ。彼女たちは体の良い生け贄を欲し、罰する事でこれからの自分たちの体面を保とうとしている」

 

 まさかそんなことが、と反論を口に仕掛けるが、逸見の視線に宿った殺意に似た感情を見て、辻は口をつぐんだ。

 彼は知っている。

 目の前の女は誰よりも執念深く、誰よりも情が深い蛇みたいな女だという事を。

 そして彼女のそんな親愛は可愛らしい姪たちに向けられていて、その姪が害されている現状に相当苛立っているという事を。

 

「だから学園長はカリエちゃんに遠回しに退学を進めた。おそらくもう黒森峰では戦車に乗れないとかなんとか上手く言ったのだろう。もしくは仲間たちに迷惑が掛かるとか、そんな感じだ。とにもかくにも、こうして黒森峰女学園は戦犯を見事処断して見せた」

 

 ふう、と逸見が息を吐いた。

 それは自身の内に渦巻いている怒りを一度沈めているかのような所作だった。

 触らぬ神に、いや蛇に祟りなしと言わんばかりに辻はただ逸見の次の言葉を待つ。

 

「たださ、一つだけ幸運もあった。それはカリエちゃんが、兄さんやお義姉さん、そして本人が思っている以上に周囲から好かれていたということだよ。そんなスケープゴート劇を良しとしない人たちがちょっと手を回して見せたんだ」

 

 そう言って逸見は辻の背後にあった本棚から一冊のファイルを無断で取り出していた。部外禁のその資料は南京錠の掛かった棚に収められていた筈だが、いつの間にか解錠されていた。

 いつも通りとは言え、その手の早さに辻は感動すら覚える。

 

「――この学校がカリエちゃんの転校先。ねえ、辻君。どうして私がここに足を運んできたのか、賢い君ならもう理解したでしょう?」

 

 開かれたページはとある学校の統廃合に関する資料が収められているものだった。

 そして辻はそこに記されていた学校名を見て、額から一つの汗を流した。

 

「これからあなたは、私が描く青写真に基づいて行動して欲しいの。まずはそうね……とっととこの学校の責任者を呼び出して廃校を告げなさい。あなたが存続のための特別予算を組んでいるのは知っているけれど、いったん棚上げね」

 

「……それは彼女たちとの約束を翻意することになります」

 

「翻意じゃないわ。保留よ。条件が変わったと突きつければ良いのよ」

 

 何を考えているのか、と辻は疑問の視線で逸見を見た。

 だが彼女は何処吹く風と言わんばかりに言葉を続ける。

 

「大学日本選抜と試合をさせなさい。その勝利が統廃合の撤回の条件である事を彼女たちに伝えるの。そして連盟各位には面白い催しがあると告げればいいわ」

 

 ああ、なんて非道なのだと辻は逸見を仰ぎ見た。

 目的達成の為なら、本来この件とはなんの関わりもなかった人々を再び失意のどん底に叩き込んでも良しとしているのだ。

 彼女は策を張り巡らせるのが楽しくて仕方がないと言わんばかりに、辻に視線を送り、辻を見ていなかった。

 ただその頭の中にあるとある未来を視ていた。

 

「逸見カリエが今後の日本戦車道界に必要不可欠な人材であることは誰の目から見ても明らか。一学校のプライドの生け贄にしていいものじゃない。だから私たちでもらい受けるの。私たちのプランを推し進める為のキャラクターになってもらう。自分たちを打ち破った無名校の統廃合を阻止した英雄として返り咲いて貰う。ほら、どう? このシナリオ? いけ好かない強豪校を追い出された主人公が、新生ライバルの所に転がり込んでそこを救う救世主になる。なんて日本人好みの、それこそ愚民受けするサクセスストーリー」

 

 ねえ、辻君? と逸見はようやく辻を見た。

 ただその瞳は酷く冷たく生暖かい。

 生理的嫌悪感すら抱かせる、爬虫類のような瞳。

 

「私たちでお祭りを起こすの。日本全体を巻き込んだ楽しい楽しいお祭りを。その過程で私の可愛らしい姪っ子ちゃんたちが救えるのなら、これほど面白い事は無いでしょう?」

 

 毒婦だ、と辻は吐き捨てた。

 逸見は「毒婦でもなんでも結構」と嗤って見せた。

 何処までも自分勝手で傲岸不遜。

 それが自分の生き方なのだと言わんばかりに嗤っていた。

 

 

 01/

 

 

 どこかの首都で自分にまつわる陰湿な政治劇が繰り広げられていることなど露知らず、カリエは晴天の空の下を歩いていた。

 彼女は一匹のペンギンを抱えている。

 戦車備え付けのOEMや、シュルツェン、そして履帯痕の散乱する海岸を一人でとぼとぼと歩みを進めていた。

 激戦の痕を感じさせる砂浜だ。

 腕の中に抱えられたペンギンはとくに暴れる事もなく大人しくされるがままに運ばれている。

 耳元にはどこかと連絡を取り合っているのか、イヤホンが垂れ下がっていた。左肩には腕章が安全ピンで留められ、「エキシビション運営委員会」と銘打たれている。

 そのイヤホンが決して明瞭でないながらも、それなりの音量で声を伝えてきた。

 

『やーやー、逸見ちゃん、悪いねー。アクアワールドから逃げ出したペンギンの捕獲を手伝って貰っちゃって。飼育員さんたちも驚いていたよ。自分たちが捕まえると大層暴れる癖に、逸見ちゃんが捕まえると借りてきた猫のように大人しいって。もしかしたら向いてるのかもねー』

 

 まだこの調子には慣れないと、カリエはあくまでマイペースを守ったまま返答を返した。

 彼女の間延びした声は襟元のピンマイクが拾っている。

 

「――そう、かもしれない。戦車道なんて忘れてこのままペンギンたちと暮らしていくのも悪くないかも」

 

 その返答が意外だったのか、無線の向こう側の杏が珍しく狼狽えていた。

 普段は余裕たっぷりに振る舞っているだけに、ちょっと面白いな、とカリエはずれた感想を抱く。

 

『いやいや、ごめんね。冗談だよ。と、とにかくさ一度本部に戻っておいでよ。このあと、グロリアーナにプラウダ、そして知波単のみんなを潮騒の湯に招待しようと思ってるんだ。逸見ちゃんも汗掻いただろうから早い内においで』

 

 返答はしなかった。

 ただ砂浜を踏みしめていた足を止めて、無線の電源を落とす。

 ぎゅっ、と腕の中のペンギンをかき抱けば、ペンギンが不思議そうにカリエを見上げていた。

 カリエはそんなペンギンに小さく笑いかけた。

 

「ごめん、ちょっと休憩」

 

 言葉の意味が通じた訳ではない。

 だがペンギンは特に暴れる事もなく、優しげに少し伸びたカリエの髪をそのくちばしで突いていた。

 一人と一匹は、しばらくそうやってただ浜辺に打ち付ける白い波を見ていた。

 

 

 02/ 逸見カリエの戦車道 01

 

 

 カリエが歩いていた海岸から少しばかり南下すると、大洗女子学園の生徒たちがよく通う入浴施設である「潮騒の湯」があった。

 海水が温水となっているため、舐めると非常に塩辛いが、肌には良いともっぱらの評判である。

 そんな「潮騒の湯」の駐車場には大洗女子学園をはじめとして、プラウダ高校、知波単学園、聖グロリアーナ女学院が所有する戦車が所狭しと言わんばかりに並べられていた。

 大洗の町で執り行われたエキシビションの慰労会が開かれていたのである。

 砂浜に打ち寄せる波の音が涼やかな露天風呂では、オレンジペコが防水ケースに入れたスマートフォンを操作していた。

 

「……だめです。カリエさんからの返事はありません。メールメッセージも電話の応答もノーサインです」

 

 湯船で味わう日本酒のように、紅茶のカップが乗った銀盆を湯船に浮かべながら、ダージリンは「そう」とつぶやいた。

 

「こちらに来たのだからもしかしたら、と思っていたのだけれどまだ時期尚早だったみたいね。仕方がないわ。今はただ待ちましょう。私が蒔いた種ですもの。それくらい我慢しますわ」

 

「とかなんとか言いながら、一番お綺麗なお召し物を持ってきているのをこのローズヒップはごぼごぼごぼごぼ」

 

 二人の会話に横やりを入れようとしたローズヒップは、慌てて駆けつけてきたルクリリの手によって湯船に沈められていた。

 そしてそのままごゆっくりと、首根っこを引っつかまれて何処かに連れて行かれる。

 聖グロのでこぼこコンビが見せた珍妙なやりとりに苦笑を漏らしながら、オレンジペコはダージリンの空になったカップに紅茶を注いだ。

 

「でもカリエさんと本格的に連絡がとれなくなって二週間が経ってしまいました。決勝戦から一度も戦車には乗られていないようですし、ちょっと心配です」

 

 オレンジペコの言葉にダージリンは肯定の意を返しつつも、「それこそ仕方がないわ」と続けた。

 

「私がそうなるように仕向けたのもあるけれど、黒森峰にあっさりと切り捨てられたのが相当堪えたのかもしれないわね。エリカさんたちは必死に庇ったみたいだけれども、かのOG会の責任追及に疲れ切ってしまったんだわ。こんなことになるのなら、もっと早くに、それこそグロリアーナに匿うべきだったと今では思うわ」

 

 ダージリンの何気ない台詞に、オレンジペコは困り顔で言葉を返す。

 

「それこそ絶対だめですよ。良くも悪くもカリエさんの名前はグロリアーナでは刺激が強すぎます。未だに怨敵だと敵視する派閥もいれば、ダージリン様を陥れた奸雄として歪んだ崇拝を向ける一派もあります。そんな環境にカリエさんを引きずり込むわけにはいきません」

 

 オレンジペコのため息交じりの否定と同時、ダージリンは大洗の主力メンバーたちの様子を横目で伺っていた。

 これ以上踏み込んだ話題を口にしても良いのか判断するためだ。

 幸い、プラウダや知波単のメンバーと騒いでいるおかげか、彼女たちはダージリンとオレンジペコのやりとりに注意が向いていなかった。

 今このときなら、とダージリンは再び口を開いた。

 

「彼女たち大洗女子学園がカリエさんを受け入れる姿勢を見せてくれたのは僥倖だったわ。カリエさんを黒森峰から避難させることは火急の課題だったけれども、その受け入れ先には随分と難儀したから」

 

「サンダースは好感触でしたが、いかんせん長崎の佐世保は黒森峰のある熊本と近すぎました」

 

「プラウダは副隊長の大反対を受けてしまったわね。まあ、うちと事情は同じなのでしょう」

 

 そう、カリエの突然の転校劇は何を隠そうダージリンが裏から手を回したものだった。もちろん彼女個人の力だけではなく、黒森峰内のカリエを慕うものたち、ダージリンと親交のある各校のOG、そしてそれなりの権力を有した人々、それぞれが尽力した結果である。

 目的はたった一つ。

 優勝逸脱の責任を追及されそうになったカリエを、少しでも黒森峰の中枢から遠ざけるためだった。

 

「この事態の直接の原因となった大洗が受け入れ先というのは、正直思うところがないわけではないけれど、今思うとそれなりな選択ね。戦車道チーム内での派閥はなく、OG会も既に消滅済み。なおかつ学校の責任者たちが話のわかる人たちだから隠れ蓑にするにはもってこいだわ」

 

 そう嘯くダージリンの視線の先には、無邪気に優香里と語りあう杏の姿があった。

 オレンジペコもダージリンが誰を見ているのかすぐに気がついて――不意に眉尻を下げた。

 

「でも大洗には今回のドタバタ劇の肝心な部分は告げていないんですよね」

 

 それまでよりも遙かに声量を落として、オレンジペコはダージリンに問いかけていた。

 

「――今は余計なことを言うべきではないわ。アールグレイさまの言っていたことが本当ならもうそろそろ角谷さんのところに例の催しの通達が来るはず。そしたら彼女はなりふり構わず助けを請うでしょう。他でもないカリエさんに」

 

 オレンジペコは手元のスマートフォンをちらりと見た。メッセージアプリの、カリエとのやりとりは一向に更新されず、既読の印すらついていない。

 電話の向こう側のその人が乗り越えなければならない未来を予感して、「それはそうなんですけれど……」と言葉を濁した。

 

「はたしてカリエさんはそんな大洗の皆さんのお願いに応えて下さるでしょうか。お優しい方であることは存じ上げていますが、今の彼女は許容できるキャパシティを遙かに超えた受難を感じられています」

 

「精一杯戦えて悔いなどないという満足感。もっと他にも方法があって、必ず勝てたという後悔。エリカさんたち黒森峰の人々に対する謝罪の念、そして自分を蛇蝎のごとく嫌悪してくる学園とOGたち。人の感情は複雑怪奇なものであることは重々承知だけれども、今のカリエさんのそれに関しては少々ややこしすぎるわね。一つ一つに整理をつけていくにはまだまだ時間が足りないわ」

 

 ならばダージリン様の目論見ははたして成り立つのですか? とオレンジペコは縋るような視線を投げかけた。対するダージリンは涼しい顔をしたまま、だが、確固たる信念を抱いた瞳を持ってこう答えた。

 

「馬鹿ね。私が選んだ人は強い人よ。本当に本当に強い人。だから私はそのすべてをあの人にあげた。見くびるのも大概にすることね」

 

 

 03/

 

 

 最初は一本の電話だった。

 

 カリエがエリカの胸の内で泣きに泣いた翌日。

 黒森峰の戦車道の乗員たちは学園所属の飛行船で熊本への帰還を目指していた。激戦を戦い抜いた戦車たちはあとから海路で輸送されてくることになっていて、乗員だけ先に学園艦へ戻るよう指示されていた。

 意外なことに、この時のカリエは割とけろっとしていて、ナナたちに交じって大富豪に興じたりしていた。

 少しばかりぎこちない仕草を時折見せるものの、大筋では何処か一区切りつけた、自分なりに納得した表情を見せていたのだ。

 エリカやみほ、そして小梅はそんなカリエの様子に安心し、それなりに楽しい旅路を続けることになった。

 異変が生じたのは、彼女たちが学園艦にたどり着き、戦車のまだ到着していないガレージで解散式を終えたその直後だった。

 それぞれが帰り支度を始め、荷物などを纏めていたとき、ふらふらっとカリエが集団から離れていった。

 そしてガレージ備え付けの事務所に籠もり、十分ほど自身の携帯電話で誰かと話していた。

 このカリエの行動はエリカを始めとした、黒森峰の乗員のほとんどが確認している。

 やがて、カリエが事務所から出てきた。

 誰と電話していたのか、とエリカが何気なく問いかけた。

 だがカリエは答えない。

 ちょっとね、と誤魔化し笑いを一つしてエリカに「帰ろう」と笑いかけていた。

 この時エリカはダージリンから電話があったのだろう、と深く追求はしなかった。いけ好かないことは確かだが、カリエに対してはダージリンと付き合うのをやめろとは言えないのである。内心面白くないわね、と感じながらもカリエの「帰ろう」という言葉に賛同していた。

 そして一晩経った。

 エリカとカリエは二人して夏期補修に登校した。

 二学期の始業式前、最後の登校日である。

 途中、クラスメイトたちからは「お疲れ様」「大丈夫だった?」「かっこよかったよ」と概ね好意的な態度で迎え入れられた。普段はマイペースに過ごしているカリエも、さすがにその時ばかりは周囲に笑顔で応対していた。

 エリカは安心する。

 なんだかんだいって、日常に戻りつつある自分とカリエのことを考えて安心していた。

 十一連覇を逃したことは確かに辛く、悔しく、やるせない事実ではあったが、そんなもの来年しっかりとリベンジすれば良いと楽観的に考えていた。

 日中の授業はつつがなく進んでいく。

 途中、休憩時間にカリエが席を立っていたが、別段気にするほどのことでもないと、エリカは注意を向けなかった。

 大方トイレか、小腹が空いたので購買に立ったのだろうと判断していた。

 そして、すべての校時が終了し、戦車道の授業時間が訪れる。

 エリカは先に更衣室に向かい、タンカースジャケットに着替えていた。

 カリエはお菓子を買っていくと、堂々と寄り道宣言をし、エリカと分かれていた。

 まあ、それで少しでも気が晴れるのなら、とエリカは珍しくそんなカリエを咎めなかった。むしろ私の分もよろしくね、とらしくない冗談を告げたくらいである。

 

 ふとエリカは気がついた。

 何やらガレージが騒がしいと。

 規則では乗員たちはガレージに集合し次第、備品の整備や簡単な清掃活動をすることになっていた。

 別に私語が禁止されている訳ではないが、それにしても喧しすぎると眉を潜めた。

 大会が終わって緊張感が切れたのかしら、とエリカは注意をするべく更衣室から出ようとした。

 だがガレージに繋がる扉を開ける寸前、人影が中に飛び込んできていた。

 それはカリエの副官でもあり、忠臣でもある佐久間ナナだった。

 彼女は顔を真っ青に染めてエリカに詰め寄った。

 

「エリカ副隊長! はやく来て下さい!」

 

 

 04/

 

 

 以下の者を戦車道履修者から除名するものとする。

 

 乗員たちが取り囲んでいたのは作戦会議にも使われているホワイトボード。そこには一枚の紙が貼り付けられていた。

 真っ白で簡素な、だが学園理事長の実印が赤く毒々しいそれには異世界の単語が書き連ねられていた。

 エリカは何が書いてあるのか全く理解できなかった。

 

 対象者:3号車車長 兼 副隊長 普通科 2-C 4番 

 

 いや、理解はしていた。だがそれを認めることが出来なかった。

 震える視線を走らせて見れば、自分の名前の次に見慣れた文字列が飛び込んでくる。

 

 逸見カリエ

 

 瞬間、エリカはホワイトボードから書面を剥ぎ取っていた。

 咄嗟にナナたちが止めていなければ、そのまま激情に任せてそれを破り捨てていただろう。

 ガレージは一瞬で阿鼻叫喚に包まれる。

 怒り狂う逸見エリカと、それをなんとか押しとどめようとする佐久間ナナたち。

 周囲にいた他の乗員たちは、エリカが怒りを代弁したせいか、代わりに大きな悲しみをあらわにしていた。

 泣き出す者や、カリエに謝罪を繰り返す者、ただうつむき静かに耐える者。

 それぞれが突然下された裁定に対して各の反応を繰り広げる。

 一枚の書面を巡った混乱は、遅れてやってきた西住みほと赤星小梅に止められるまで、止まることはなかった。

 

 

 05/

 

 電話越しにカリエが受け取っていたのは、自身の処分に関する知らせだった。

 本来ならば、大会で敗退するくらいで処分されることなどありえない。

 仮にあったとしても、幹部としての任を解かれる降格人事だろうと、カリエは考えていた。

 そして、もしもそのような判断が下されたのだとしたら、甘んじて受け入れていこうという覚悟もあった。

 己の至らなさが招いた敗北なのだから、その責任はいずれ取るべきなのだ、としていていたのだ。

 だが今回ばかりは少々事情が違っていたようだった。

 

 まず第一に、黒森峰の十一連覇という偉業を無に帰してしまったということ。

 次に後塵を拝した相手が、戦車道の「せ」の字も知らなかった新設の無名校だったこと。

 最後にカリエの状況判断の悪さが直接の敗因だったこと。

 

 他にも細々とした要因があるのだろうが、大まかに言ってしまえば以上の3点だった。

 僅か3点ながらも、カリエの立場を絶望的に悪化させてしまう致命的な要因。

 それらが複雑に混じり合った結果、黒森峰OG会の怒りと憎悪が爆発していたのだった。

 

 電話向こうの人物はカリエにこう告げる。

 

「今後の進退について話がある。明日の戦車道の授業時間、出頭するように」

 

 どうやら降格人事どころではないだろうな、とカリエは何処か諦観にも似た感想を持っていた。

 夏の、大会の残滓も燃え尽き始めている八月の終わり頃。

 まだまだ終わりそうもない波乱のこれからに、彼女は深いため息を吐いていた。

 

 

 

 そして現在。

 黒森峰戦車道のガレージで一枚の書面が発見されたのと同時刻。

 カリエは理事長室に訪れていた。

 

「……というわけだ。君にはしばらくの間、戦車道を休んでもらいたい」

 

 大粒の脂汗をたっぷりと流しながら、その男はそう宣っていた。彼の瞳はカリエを一切見ておらず、常にあさっての方向に固定されている。試しにカリエが一歩詰め寄ってみせれば、びくり、と肩を振るわせていた。

 

 ――板挟みか。

 

 学園の責任者たる理事長のあまりにも情けない姿を見て、カリエはそんな感想を漏らしていた。

 黒森峰OG会の影響力についてはそれなりに知っていると自負はしていたが、まさか理事長を脅すことが出来るほどとは、と感嘆すら抱いてしまう。

 OG会からの莫大な寄付金が減額するのを恐れているのか、それとも彼自身の今後のポストを揺すられているのか、詳しい事情は全くもって不明だが、彼が外部の狗であることは早々に知ることが出来ていた。

 だからこそ、カリエはこの人物に反抗しても仕方がないと、従順の姿勢を見せることにした。だが、疑問点だけは解消さえてもらうと、いくつかの質問を飛ばそうとする。

 

「しばらくと仰ってはいますが、具体的にはどれくらいの期間でしょうか」

 

「それは――ほとぼりが冷めるまでだ」

 

 彼が言うほとぼりとはおそらくOG会の怒りのことだろう。ならば事実上の永久追放だな、とカリエは思わず笑っていた。

 まさかここまで苛烈に責任を追及してくるとは考えていなかっただけに、呆れや怒りを通り越して笑いが込み上げてきたのだ。

 だからこそ、もうやけっぱちに、もうどうでも良いと言わんばかりに次の質問を口にした。

 

「早期の復帰を私が望んでいるのだとしたらどうしますか?」

 

 自分でも意地が悪い問いかけだな、とカリエは思った。

 いわばOG会とカリエという板の距離を狭めて見せたのだ。間に挟まれた理事長は先ほど以上に目を泳がせていた。

 そりゃ、答えようがないよな、とカリエは今日何度目かわからないため息を吐く。

 

 ——意地が悪かったですね。ごめんなさい。質問を撤回させて頂きます。

 

 これ以上の時間はもったいないと、カリエは問答を切り上げようとする。しかしながらそんなカリエの行動は理事長の言葉によって遮られることとなった。

 

「君のお姉さんの立場の保証は出来ない」

 

 奇しくもそのタイミングは、エリカがその激情を滾らせたのと全く同じだった。

 双子故の奇蹟か、それとも運命の悪戯か、全く同時刻に逸見姉妹はそれぞれ感情を爆発させていたのだ。

 

「ふざ、けるな」

 

 エリカが行動でその怒りを表現するのだとしたら、カリエは言葉だった。

 決して手は出さないが、それでも特大の殺意と凄みのある言動をひっさげて、理事長に詰め寄っていた。

 

「エリカは関係ないだろう。なぜそこで彼女の立場の話になる」

 

 理事長は落ち着いてくれ! と必死にカリエをなだめた。だがカリエは止まらない。

 唯一と言っても良い、カリエの地雷を踏み抜いてしまったのだと、彼は後悔した。

 

「あくまでも君が勧告に従わなかった場合だけだ! 君さえ従ってくれればお姉さんにはいかなる影響もないし、君自身の在学だって認められる! 戦車道だって、大学に進学さえしてしまえばあとは自由だ! 好きにしてくれたらいい! だからこれ以上私を困らせないでくれ!」

 

 怯えたように懇願する男を見て、カリエは冷静さをふと取り戻した。

 思えばこの男だって、悪意ある誰かに弄ばれているのだ、と気がついたのだ。

 それに男は言った。

 カリエさえ大人しくしていれば、エリカには何の危害も及ばないと。

 おそらくそれは事実なのだろう。

 OG会だって表だってことを荒げたくないはずだ。

 カリエはOG会の意図を正確に読み取っていた。

 

「なるほど、私が責任を感じて自ら戦車道を引退した、というシナリオですか」

 

 どこか合点がいったというふうに、カリエは呟いた。

 そしてカリエは淡々と、それこそ他人事のように言葉を続けた。

 

「——わかりました。では理事長。私、逸見カリエは今年度の全国大会を通して己の至らなさにようやく思い至り、黒森峰戦車道の栄えある歴史を牽引していくには力不足であると判断いたしました。よって、私の一存においてこの場を持って戦車道に関する一切から引退させて頂きます。今までありがとうございました」

 

 一筆書きますか? とカリエは問うた。

 理事長は黙したまま首を横に振った。

 カリエは「わかりました」とそのまま踵を返し、理事長室の重厚な扉のノブに手をかける。

 

「……他の学校で戦車道を続ける分には、誰も何も言わないだろう」

 

 カリエは振り返らない。ただ、「そうですか」と相槌だけをうって、その場から退出した。

 夏の熱気が充満した薄暗い廊下で、カリエは一人ぼんやりと立ち尽くす。

 さてこれからどうしようか。

 

 ぼそり、と零された嘆きに答えてくれる人物は誰もいなかった。



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逸見カリエの戦車道 02

 当然とも言うべきか、その日の戦車道の授業をエリカは早退した。

 授業である以上、カリエ一人だけのために、全体休止をすることは出来なかったが、せめてもの処置としてエリカだけが早退届を提出して学校を飛び出していた。

 あとのことをみほと小梅に任せて、彼女は帰宅の道をただただ急ぎ続ける。 

 たまたま学内で出会った同級生から、カリエの目撃情報は得ていた。曰く、カリエはとっとと荷物を纏めて校門を出ていったらしい。

 エリカとカリエ、そしてみほの住むアパートに帰宅しているとは限らなかったが、一応の行き先としてエリカはそこを目指したのだ。

 電話連絡を繰り返してみても一切の応答がないのでエリカは端整な顔立ちに苛立ちを見せつつも、夏の帰り道をひた走った。

 ふと、歩行者信号に捕まったとき、自身の上がった息に混じって異音がしていることに気がついた。よく耳を澄ませて異音を辿ってみれば、それが携帯電話のバイブレーションの音だと思い至る。

 鞄を大慌てで漁ってみれば、小刻みな振動を繰り返す携帯電話がそこにはあった。

 一瞬、カリエからの連絡を期待して画面を確認するが、すぐに落胆の色に塗り替えられてしまう。

 何故なら液晶に刻まれた文字列は、仇敵にして天敵、そして怨敵である「ダージリン」の本名だったからだ。

 エリカは迷うことなくその着信を無視して、信号が変わった横断歩道を駆け抜けた。

 いつも朝方に寄り道するコンビニを素通りしながら、中にカリエがいないか目線で捜索を続ける。

 立ち読みの客が数人いるだけで、他には誰もいなかった。

 カリエがよくクレープを買い食いしている屋台にも、黒森峰の一般生徒が数人いるだけで、カリエの姿はなかった。

 地元の少年らと時たま野球に興じているグラウンドには人っ子一人いなかった。

 

 ならば自宅か。

 

 エリカは最後の交差点を走り過ぎ、アパートの階段を駆け上がった。

 汗の滴を振りまきながら、アパート二階の廊下をひた走る。

 彼女たちの住まいは階段から一番離れた角部屋だ。たった数メートルの距離すらまどろっこしいと言わんばかりに、エリカは最後の距離を跳んだ。

 ドアノブを引っつかむ。

 果たしてそれは回った。

 それはつまり、鍵が既に開けられていて中に誰かがいると言うこと。

 エリカは希望を胸にドアを開け放った。

 

「あら、随分とお早いご帰宅なのね。もう少し時間がかかると思っていたのだけれど」

 

 だが飛び込んできたのは絶望だった。

 否、今一番会いたくなかった世界で一番嫌いな人物がそこにいた。

 携帯電話を片手に、優雅に食卓に座すダージリンがそこにはいた。

 

「……住居不法侵入で警察に突き出す前に聞いてあげるわ。何故あんたがここにいるわけ?」

 

 開け放った扉を後ろ手で閉めながらエリカは静かに問うた。

 だがその表情は、カリエ捜索の空振り故か、ダージリンの落ち着き払った態度に相当きているのか、憤怒に彩られており爆発寸前の火山を思わせるようなものだった。

 ダージリンはそんなエリカの感情を真っ向から受け止めながら、泰然と答える。

 

「カリエさんに入れて貰ったのよ。あなたが帰宅するほんの三〇分前までここに二人でいたの」

 

 そう言って、ダージリンは食卓の上のティーカップを指差した。見ればカップはしっかりと二人分用意されており、まだ仄かに湯気が立ってすらいる。

 

「――話が見えないわ。説明しなさい」

 

 ダージリンがカリエのことについて言及したお陰か、やや調子を落ち着かせたエリカが対面に腰掛けた。

 そしてカリエが飲んでいたであろう紅茶の飲みさしをグッと傾ける。

 さも当然といった風にそう振る舞うエリカに対して、ダージリンは初めてその眉根を顰めて見せた。だがその生まれ持った律儀さ故かダージリンはエリカに対して口を開く。

 

「アパートの前であなたたちの帰宅を待っていたのよ。そしたら思いのほか早く帰ってきたカリエさんと鉢合わせしたの。たぶん一時間ほど前の事ね。で、あなたが大層心配しているだろうから私の方から連絡を入れさせて貰ったわ。結果は大いに空振りだけれど」

 

 じとっ、とこちらに向けられる視線を受けてエリカは思わずたじろいだ。ダージリンからの着信を無視したのは事実だったので、後ろめたさを全く感じないというわけにはいかなかったのだ。

 だがここで屈してしまうエリカではない。不倶戴天の敵と見定めたダージリンに対して弱みを見せるわけにはいかなかった。

 

「で、そのカリエは何処に出かけたのよ。見たところ靴もないし、外に出てるの?」

 

 ダージリンに対する苛立ちを何一つ隠そうとせずエリカは問い詰めた。結局の所、エリカの追い求めるものはカリエの所在ただ一つなのである。ダージリンもそれを理解しているのか、やれやれと嘆息を一つ吐いてぽつぽつと答えを紡いだ。

 

「カリエさんには大変申し訳ないけれど、もう一度学園に戻って貰ったわ。彼女には転校届を持ってきて貰う必要があったから」

 

 瞬間、エリカの手はダージリンの胸ぐらを掴んでいた。

 

 

01/

 

 

 そこでぶん殴ってしまわなかったのは、何だかんだ言ってエリカもダージリンの知能には一定の信頼を置いているからだった。

 何かしらの深謀を秘めた瞳を目にしたその時、エリカは握りしめたダージリンの胸ぐらを解放していた。

 

「……わざわざグロリアーナの学園艦からこちらに飛んできてまであんたが何をしようとしているのか全部吐きなさい。それなりの理由がなければ承知しないわよ」

 

 ダージリンはエリカの非礼を特に咎める事もなく、襟をきちんと整えてから回答を並べていった。

 その声音はダージリン自身も、己の考えを自分に言い聞かせているかのような、至極丁寧なものだった。

 

「恐らく今日、カリエさんは黒森峰の理事から戦車道罷免の通達を受けたはず。これはあなたたちのOG会と交流のあるとある方から仕入れたお話だから確かなことだわ」

 

 エリカは肯定も否定もしなかった。

 ただ続きを促す為、じっとダージリンの言葉に耳を傾ける。ダージリンもエリカからのリアクションが何もなくとも、淀みなく言葉を繋ぎ続けた。

 

「……単刀直入に言ってしまうわ。カリエさんに対する嫌がらせや報復はこれだけでは終わらない。あなたたちのOG会には今回の罷免劇で満足かつ納得している一派もいればそうでない一派もいる。たとえカリエさんが戦車道から身を引こうとも害を及ぼそうとしてくる勢力は少なからず存在している。そのやり方は考え出せば切りが無いほど。学園の生徒を焚き付けて攻撃する者もいれば、カリエさんが転科した科そのものに圧力を掛けてくる者もいるでしょう。こればっかりは覆りようのない事実よ」

 

 まさか、と鼻で笑う事は出来なかった。

 事実、敗北からほんの三日も経たないうちに、カリエは戦車道履修を罷免されてしまっている。

 エリカはここにきて初めて、自分たちを陥れようとしている勢力の執念深さに身震いをした。

 

「……仮にそうだとしても、理解できないことだらけだわ。確かに誤解を恐れずに言えば、今回の敗因はカリエにあると思う。けれどそれ以上に、カリエの功績で勝つことが出来た試合はそれ以上であることは疑いようのない事実よ。何がそこまであいつらを駆り立てているのか、私には全く理解できない。だってそうでしょう? カリエが罷免されたことだって理に適ってなさすぎる。彼女の戦車道の実力は早々切り捨てて良いものじゃないのよ」

 

 ようやく絞り出したその言葉はエリカの苦悩そのものだった。

 相手の意図が分からない。どうしてそこまで、黒森峰の上層部が自分たちに攻撃的なのか推し量ることが出来ない。贔屓目に見ても、自分たちは十分黒森峰の栄光に貢献してきた自信があった。それなのにたった一度の敗北でここまで追いつめてくる相手の心胆が不明瞭すぎるのだ。

 ダージリンは直ぐには応えなかった。

 彼女自身も、何処か言葉を選ぶような、それでいてエリカを気遣うような、そんな視線を寄越してようやっと応えた。

 

「それが恐らく人の感情と言うものよ。およそ理性だけでは推し量れない理が人の奥底には流れている。向こうだって理解しているわ。カリエさんを罷免することが黒森峰の戦力にどのような影響を及ぼすのか。――それでもやめられないものなのよ。幼稚な八つ当たりというものは」

 

 幼稚な八つ当たり、と口にしたあたりでダージリンは瞳を伏せていた。それは呆れの発露にも見える仕草だったが、エリカは全く別のものを感じ取った。

 何故なら彼女の纏う雰囲気に何やら肌がひりつく感覚を覚えたからである。言うなれば殺気にも似た何か。

 

「本当に、殺してやりたいくらい幼稚だわ」

 

 前言撤回。それは紛れもない殺気だった。

 ここに来てからずっと飄々とした人物を演じ続けてきただけにそのインパクトは凄まじい。

 だが、エリカはダージリンが初めてみせる凄みに、生唾を飲み込むのと同時、何処か安堵にも似た感情を抱いた。

 それはダージリンの怒りが、カリエの為に振るわれているという現実に対する安堵だ。

 世界で一番愛する妹が、自分以外の誰かに愛されているという現実が、疲弊を見せるエリカの心を何とか支えてくれる。

 そしてダージリンのそんな側面を見たお陰か、エリカは極自然に口を開くことが出来た。普段は決して見せることのない、ダージリンの知性に対する信頼を口にしたのである。

 

「それだけお冠なあんたが、わざわざここに来たと言うことは、何かしらの謀を用意してきたのでしょう? 話くらいなら聞いて上げるからとっとと吐き出しなさい」

 

 随分と上からの言葉ではあったが、ダージリンからすれば些事も良いことだった。彼女は纏っていた殺気を霧散させると、何処から引っ張ってきたのか手頃なサイズの白紙とペンを用意した。

 白魚のような細い指先がペンをつまみ上げ、インクを白紙に走らせていく。

 

「大まかな黒森峰の現状を整理してみるわ。あなたたちは十一連覇を逃してしまった。しかも新設の無名校相手に。そしてそれは黒森峰の上層部にとっては耐え難き屈辱に他ならない」

 

 理事会・OG会・外部の者たち と、書き込みが加えられる。

 

「彼らはその屈辱をどうにかするために、誰かに責任を取らせようとしている。自分たちの気を紛らわせるための生け贄が必要なのよ。もしくは、そうでもしないと自分たちの面子が立たないと考えているのかもしれないわね。そして腹立たしいことにその意見に賛同する人間がそれなりに存在してもいる。……普通ならば隊長の西住みほさんが血祭りに上げられるのでしょうけれど、彼女は幸か不孝か西住というネームバリューの庇護下にある。だから生け贄の対象からは外されているわ」

 

 言って、西住みほと書かれた文字列が赤い斜線を上書きされた。

 

「なら次に標的になるのは誰か。最早説明するまでもないわね。世間的に戦犯とされ、実際あなたたちの直接の敗因となってしまった、フラッグ車を担当していたカリエさんよ。ここまではあなたでも把握していることじゃないかしら」

 

 ダージリンのやや挑発的な視線をエリカは無視した。ただ、じっと続きを促すように視線を送る。ダージリンはダージリンで「それでこそあなたね」と何処か感心した風に言葉を続ける。

 

「――そしてとても嘆かわしいことに、生け贄の選定はなされ、その処断も済んでしまった。今からカリエさんの処遇を覆すことは到底不可能だし、反対運動を起こすのも不毛ですらある。何故ならカリエさん本人が、あなたたちの理事長に処分に関する一切を承諾してしまったそうだから」

 

 カリエが処分を受け入れた。

 その文言を受けてもエリカは驚くほど冷静だった。むしろ、あの馬鹿妹はそうするでしょうね、とため息を吐く余裕すらある。

 だが、それだけだ。

 たとえ余裕を抱いていたとしても、にじみ出る怒りばかりはどうしようもない。先ほどのダージリンにも勝るとも劣らない怒りを隠すこともなく、エリカはただそこに座していた。

 ダージリンは「その感情、好ましいわ」と小さく笑みを零していた。

 

「あの人らしいと言えばらしいのかしら。一身に全ての憎悪を引き受けて身を引くつもりみたい。そういう潔いところはとても愛おしいのだけれど、私としてはもっと別の結末を望むわ。これって私だけの身勝手な願いかしら」

 

 お前はどうなんだ、と問うてくるダージリンの視線をエリカは真っ向から受け止めた。

 

「まさか。例えカリエが現状に納得していたとしても、私は絶対にそれを受け入れないわ。いえ、受け入れてたまるものですか。首根っこをひっ捕まえてでも引きずり戻してみせる」

 

 エリカの答えはダージリンが予想した通りのものだった。彼女は笑みを少しばかり深める。

 

「私も同感よ。カリエさんは必ず返り咲かなければならない。あの人がこんな幕引きを受け入れて良いはずがないわ。でも、そのためには幾つかの舞台を整えなければならないの」

 

 そう言って、ダージリンはさらにペンを走らせて見せた。

 紙面に刻まれたのは「逸見カリエ」という流麗な文字列。

 

「……カリエさんは今、あらゆるヘイトを集めてしまっている。戦犯という汚名と一緒にね。だからそれをまずは払拭したいわ」

 

 周囲から向けられる悪意を示しているのだろう。青い矢印がカリエに集中するように追加された。

 

「そのためには何かしらの英雄的功績を立てる必要がある。黒森峰の上層部すら黙らせることが出来るような功績が。――そうね、世間から戦車道の英雄と認められればそれで十分でしょう」

 

「けど、その功績はもう黒森峰では打ち立てられないじゃない」

 

 エリカの言葉は苦渋と屈辱に満ちていた。カリエが黒森峰の戦車道から身を引くことを了承してしまっている以上、さらなる功績を打ち立てることは限りなく不可能なのだ。

 ダージリンも「そのことは重々承知よ」とエリカのフォローに回った。

 

「だから転校するのよ。カリエさんの力を今一番必要としている勢力にね。そこで華々しい功績を打ち立てて貰って、黒森峰に復帰する足がかりとするのよ。それこそ、全てのヘイトを押しのけるような強大な功績を」

  

 

 ようやく話が見えてきた、とエリカはダージリンの謀略の尻尾を掴んだ。けれどもまだまだ足りないピースが多いと苦言を漏らす。

 

「でもその華々しい功績やらは来年の全国大会まで存在し得ないわ。全国クラスの大会でなければ意味がない。地方の大会で無双したところで、うちのバカどもは見向きもしないでしょう」

 

 エリカの言葉にダージリンは頷きを返す。だが、その瞳は何処までも挑戦的で、自身の策の肝をようやく披露できる喜びに満ちていた。

 

「だからつくるのよ。その舞台を。功績を獲得できる大舞台を。ねえ、エリカさん。こんなシナリオは如何かしら」

 

 ダージリンはペンを置いた。そして真っ直ぐにエリカの翡翠色の瞳をのぞき込んだ。

 ダージリンの桜色の唇が、そっと言葉を紡ぐ。

 

「自分たちを打ち負かした優勝校を廃校の危機から救う。――これ以上の世間好みの英雄譚的なシナリオ、他にあって?」

 

 

02/

 

 

 さてどうしたものか、とカリエはアパートの前で立ち尽くしていた。西日で赤く猛っていた空は、いつの間にか藍色を通り越して黒く染まり、あれほど感じていた夏の熱気が涼やかな夜の風に入れ替わっている。

 ダージリンから言われるままに、黒森峰女学園の事務課に蜻蛉返りして一時間ほど。目的の書類は無事に手に入れていたが、その成果物をいざ自宅に持ち込まんとする寸前で立ち往生しているのだ。

 理由は言わずもがな。

 話し込んでいる姉とダージリンだ。

 

「――――」

 

「――――」

 

 随分と長いこと、二人は会話を続けている。心配していた怒鳴り声等はなく、それなりに理性的に議論は続けられているのだろう。

 十分ほど前にアパートにたどり着いていたカリエは、直ぐにエリカが帰ってきていることに気がついた。姿形を直接確認することがなくても、何となく気配で察することが出来るのは双子故になせる技なのだろうか。ただ、ダージリンと何かしらの応酬を繰り広げているエリカは、そっちに気を取られてカリエの接近に全く気がついていないようだが。

 

「……コンビニでもいこっかな」

 

 頭の上がらない二人のやりとりに割ってはいる気概が湧くはずもなく、カリエは立ち尽くしていた身体に回れ左を命じた。

 自宅近くのコンビニに向かって、軽食を買い、立ち読みをして時間を潰そうと考えたのだ。今は何も考えずに、ふらふらと動き回りたいという心情もあった。

 突然の引退勧告を受けたことも相まって、今のカリエは何処までも無気力に動き続けている。

 黒森峰に一度戻ったことだって、ダージリンに言われるままにしたことであり、そこまで何かを期待してのことでもなかった。

 ただ何となく、これ以上黒森峰にいられないことくらいはわかっていたので、ダージリンの申し出は少しばかり、「渡りに船だな」と考えていた。

 姉やみほ、そして小梅と離れるのは心残りではあるが、彼女たちの進退が人質に取られる可能性がある以上、既に諦めもついている。

 そういった負の思い切りの良さは、もしかしたら前世という重石を抱えたカリエならではの性質だったのかもしれなかった。

 だとしたら、そんな妹の首根っこをひっ掴んで、何処までも引っ張り回す気質をエリカが醸成したのは必然のことだったのかもしれない。

 

「……どこいくのよ」

 

 びくん、とカリエの肩が跳ねた。理由は言わずもがな。地獄の底から響いてくるかのような、エリカのドスの利いた声が彼女を呼び止めたからだ。

 アパートの扉から半身を乗り出したエリカがカリエをじっと見据えている。

 

「いや、その、アイスでも買いに行こうかな、と」

 

 突然のエリカの出現に、カリエの口をついたのは半分出任せの言い訳だった。コンビニに向かおうとしたことは事実だが、そこまで確固たる目的があった訳ではない。

 エリカの翡翠色の瞳が、カリエを捕まえ続ける。

 いい加減居心地の悪さを感じ始めたカリエの頬を、夏の暑さからくるものとは違った汗が流れた。

 

「――いいわ。ちょっとそこで待っていなさい。財布、取ってくるから」

 

 エリカは一度扉の内側に引っ込んで、中にいるのであろうダージリンに何か二、三言言葉を投げかける。そんな姉の行動に呆気にとられたカリエは、言葉を失ったまま、ただ姉を待った。

 

「さて、ちょっと散歩するわよ。つき合いなさい」

 

 小脇に愛用の財布を抱え込み、Tシャツにショートパンツの出で立ちに着替えた姉が部屋から出てきたのは、ちょうど三分後のことだった。

 

 

/03

 

 

「……あんた、黒森峰の戦車道から除名処分を受けてたわよ」

 

 白いLED照明の下、駐車場に面したガラス壁の前で、逸見姉妹は肩を並べて雑誌をめくっていた。エリカは主婦向けのレシピ雑誌を、カリエはプロ野球関連の雑誌だ。

 

「うん、知ってる。大会の負けた責任を取らされたみたい」

 

「理事長から直接言われたの?」

 

「そうだよ。でも、あの人も誰かから言わされている感じだった。うちの学校、ドラマやアニメに出てくるような影の組織みたいなのがあるのかな?」

 

 二人同時に雑誌のページをめくった。エリカはオムライスの作り方のページを、カリエはドラフト候補生の特集を見ている。

 

「そんな格好いいものじゃないわよ。うちが勝たないと損するような大人たちが、ただあんたに八つ当たりしているだけだわ」

 

 ぺらり、ぺらり、とページをめくる音だけが二人の周囲を満たす。天井の小さなスピーカーからは、この夏話題の新しいフレーバーのフライドチキンのコマーシャルと、今流行のアーティストのシングルCD発売の報が垂れ流しにされていた。

 夜中のワンオペレーションなのか、さっきまで商品の検品作業をしていた店員は退屈そうに一人でレジカウンターに立っている。

 

「そっか。ならしょうがないかな」

 

 目当ての記事を読み切ってしまったのか、カリエが雑誌を棚に戻した。そして一人、アイスケースの近くに足を向ける。すると、雑誌を手にしたままエリカがその後を追った。

 

「……まだ読んでていいよ」

 

「いえ、これ以上の立ち読みも意地汚いし買うわ」

 

 それから二人で無言のままアイスケースを物色した。エリカはバニラアイスを、カリエはショコラアイスを手にする。ダージリンにはエリカが紅茶フレーバーのアイスを選んだ。カリエが少しばかり微妙な顔をしたが、「あいつはこれでいいのよ」と言い切るエリカを見て、「ま、いっか」と深くは反対しなかった。

 

 ありがとうございましたー、と間延びする声を背中に受けながら、コンビニを後にする。二人が住んでいるのは、黒森峰学園艦の中でも随分と静かな地域で、日が落ちてしまえば人影は殆ど見あたらない。街灯と、月明かりで彩られた影を引き連れながら、二人はただ歩みを進める。

 

「ねえ」

 

 コンビニ袋が擦れる音だけだった世界を終わらせたのはエリカだった。

 カリエは何も言葉を返さなかったが、エリカは雰囲気で妹がこちらに耳を傾けていることを察した。だからそのまま言葉を続ける。

 

「あんた、何処かに転校しろって私たちから言われたらどうす――」

 

「いいよ」

 

 即答だった。自身の台詞を最後まで告げることが出来なかったエリカだったが、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。思わず足を止めてしまった姉に対して、カリエが怪訝そうに振り返る。

 

「? どうしたの? 別に転校くらいいいよ」

 

 何を当たり前のことを聞いてくるのだ? と言わんばかりの態度のカリエを見て、エリカは思わずその肩をひっ掴んでいた。

 

「あんた、そんな簡単に決めて本当にいいの? だってこの学園艦を出て行くことになるのよ? そんな大事なこと……」

 

 言葉は最後まで続けられなかった。何故ならエリカは見てしまった。「いいよ」と軽く答えて見せた妹の相貌が、濡れて光っているのを見たから。

 

 嗚呼。

 

 エリカは声にならない声を漏らす。状況に逼迫して、どうにかしなければとあがいて焦って、その理不尽に怒りを燃やし、この現状に悲しみを覚えていたのが自分だけではなかったことにようやく思い至る。

 双子だから。

 双子だからこそ。

 エリカとカリエ、その心中は実のところ同じものだったのだ。飄々と振る舞えているのは表面だけ。

 内実は何処までも荒れ狂う嵐のように混沌としている。

 

「……エリカ、ちょっとバイク出して」

 

 みほが引っ越してきてから、めっきり出番の減った大型バイクのことにカリエが言及した。去年まではそのバイクに二人乗りをして、学園艦を走り回っていたことを、エリカは思い出した。

 

「何処に行くの?」

 

 妹に問う。今度は即答ではなかった。

 たっぷり十数秒ほどおいて、カリエは口を開く。

 

「学校にいこう」

 

 

/04

 

 

 黒森峰戦車道の幹部クラスにだけ配られている、学校の裏門の鍵をカリエは使った。エリカは「理事長に返せと言われなかったの?」と呆れ顔で問いつめたが、カリエはけろっと「ガメた」と返す。彼女もそれ以上詮索するつもりはないのか、「餞別代わりに丁度いいかもね」とため息を吐くだけだった。

 

「こっち」

 

 珍しくカリエがエリカを先導する形だった。カリエは守衛所や防犯カメラを上手に避けながらとある場所を目指している。そういった機器の位置に詳しい妹の事を不審に思うエリカだったが、農産科が生産しているノンアルコール飲料やソーセージを持ち出しまくっているカリエの事を考えれば、妙に納得できる感じがして、怒る気力すら失せていた。

 

「よし、門が閉まってるから分かってはいたけれど、居残り組はいないみたい」

 

 二人がたどり着いたのは黒森峰戦車道のガレージだった。学園でも結構な敷地を占めているそこは、大会前になると平気で日をまたぐ頃合いまで誰かが居残り練習なり整備になりに精を出している。

 ガレージの勝手口にとりついて、カリエが鍵を操作する。一定以上の役職についている履修生ならば誰しもがもっている鍵だった。もう数え切れない程操作してきたお陰か、月明かりだけの暗闇でも、淀みなく鍵は開いた。

 

「ありゃりゃ、まだ直ってないのか」

 

 扉を開け放ち、ガレージの水銀灯を点灯させたカリエが見つけたのは手負いのパンターだった。修理が後回しにされているのか、最低限の煤落としなどの清掃だけされており、肝心な撃破痕はそのまま残されている。

 車体後部に回り込んだカリエは、黒ずんだ穴が穿たれた車体後部をそっと撫でていた。自分の運命を決定づけた、綺麗な傷だった。

 

「で、こんなところ連れてきてどういうつもりよ」

 

 ふと、声が上から降ってきた。見上げてみれば、パンターに並んで駐車されていたティーガーⅡの天蓋からエリカがこちらを見下ろしていた。カリエもいそいそと手負いのパンターによじ登る。

 姉妹、それぞれの愛車に乗っかって顔を見合わせた。 

 

「ねえ、お姉ちゃん」

 

 口を開いたのはまずはカリエから。彼女はパンターの天蓋に足を組んで腰掛け、エリカの方を真っ直ぐ見つめている。

 

「私、まだ戦車道に未練たらたらなのかもしれない」

 

 意外だ、とはエリカは思わなかった。何故ならエリカは知っているから。普段は泰然と、飄々としている妹がどれだけの気持ちを戦車道に込めているのか知っていたから。

 だからただ頷くだけで言葉は挟まなかった。

 ただ、妹の胸の内を静かに受け止め続ける。

 

「頭では何となくわかってるんだ。黒森峰の逸見カリエとしての自分はもう終わりだって。すっかり忘れていたけれど、ここはそんな環境だ。勝ち続けなければならなかった王者の世界だったんだよ」

 

 カリエの告げた通り、黒森峰女学園は文字通り常勝不敗の学校だ。常勝無敗ではない。不敗なのだ。

 負けが無いでは認識がまだまだ甘かった。

 負けてはいけない。不敗。負けないことに全力を注ぎ続ける学校だった。

 

「そりゃあ十一年も積み上げてきたものを、私の向こう見ずな采配でお釈迦にしたんだ。ある意味で上様の怒りはもっともだよ。今だって、どうしてあそこまで一騎打ちにこだわってしまったのか考えることもある」

 

 向こう見ずな采配、という言葉をエリカは敢えて否定しない。だがそれを咎めることもない。

 

「……でもあれはあれで良かったんだ。あれが今の私の全力だから。私の全てがあの一瞬に注がれていたから」

 

 ガレージにきて初めてカリエが瞳を伏せた。思わず腰を浮かしそうになるエリカだったが、拳をぐっと握って耐えた。まだ、妹の覚悟を、心を受け止め切れていないと踏みとどまる。

 

「でもさ、だからこそなのかな。悔しくて悔しくて仕方ないんだ。この責任追求の形が、あの一瞬に掛けた私を馬鹿にされている気がしてとても腹が立つ。そして――、とても悲しい」

 

 ぽたり、とパンターの天蓋が濡れた。

 

「だってあんなにも頑張ったんだよ? あんなにもみんなが頑張ってくれたんだ。それなのに、それなのに、どうしてこんな形で責められるの? まだ戦車道を続けたいのに、みんなと、――お姉ちゃんと続けたいのに」

 

 決勝戦後の号泣とは違っていた。声を荒げる訳でもなく、静寂に、淡々と、カリエは涙を流していた。

 渦巻く激情も、後悔も、怒りも悲しみも全てのキャパシティが決壊しているからこそ、ここで露わにしていい感情を完全に見失っていた。

 

「――ダージリンさんと話したんだ。これからどうするのか。もう、私は黒森峰にはいられない。黒森峰では戦車に乗れない。でもね、お姉ちゃんとはまだまだ戦車道をしたいんだ。だから出て行こうと決めた。黒森峰を出て、何処かでもう一度最初からやり直して、お姉ちゃんとまた肩を並べられるように頑張るよ」

 

 最後は泣き笑いだった。

 ぐちゃぐちゃと混ざり合う感情に戸惑うカリエの泣き笑いだった。ここにきて、ようやくエリカは腰を上げた。

 とん、とパンターの車体に飛び移ると、ぐすぐすと鼻を啜る妹を正面から抱きしめる。

 そして何か口を開こうとして、やめた。

 それは今の妹にはどんな言葉を送っても陳腐にしか聞こえないという懸念からくるものであり、一時間ほど前にダージリンと交わした約束の履行でもある。

 だからエリカはカリエを抱きしめながら、ガレージの天井を仰ぎ見た。そして小さく、本当に小さく呟く。

 

 恨むわよ、と。

 

 

 /05

 

 

 ダージリンがエリカに説明したのは、如何なる道筋でカリエを英雄として仕立て上げるかのストーリーだった。

 

「大洗女子学園。あなたたちを敗北へ導いた件の学校は、もうすぐ廃校になるわ」

 

 寝耳に水。

 しかしながらそれに驚いている時間も余裕もない。

 エリカはただ耳を傾ける。

 

「……あら、余り驚かないのね? ああ、今はカリエさんのことで頭が一杯だから、こんな話題は些事も些事なのかしら」

 

 無視。

 

「本当、カリエさんがいなければ私たち、とことん相容れないのかもしれないわね。まあ、いいわ。話を戻しましょう。もともとあの学校はね、此度の全国大会を制覇しなければ廃校になる予定だったの。でも神の気まぐれか、それとも悪魔の悪戯故か、その予定調和は反故にされてしまった」

 

 どういうことだ、と疑問が深まった。

 エリカの訝しげな表情を読みとったのだろう。ダージリンは首を横に振った。

 

「さあ? 詳しい理由まではわからないわ。でも問題なのはね、その廃校への既定路線が、まだ大洗女子学園には伝えられていないということよ。かの学校の誰もこのことはまだ知らされていない」

 

 何故そのことをダージリンが知っているのか、とエリカは疑問に思わない。彼女のそういった情報網の広さは信頼しているから。

 

「で、ここからが本題よ。戦車道と学園艦に関する一切を取り仕切っている文部科学省はね、どうやら迷っているみたいなの。廃校が既定路線とはいえ、仮にも優勝校。しかも王者黒森峰を打ち破って見せた期待のホープよ。そんな学校を廃校なんかにしてみれば、世間の支持は得られない。でも、廃校そのものを今更覆すことも出来ない。なんたって予算は有限。最初から存在しないものを今更用意するなんて余程の事がない限り不可能だわ」

 

 おそらく優勝すれば廃校撤回というのは、何かしらの口約束だったのだろうと、エリカは推測する。

 

「そんなわけで彼らは今、二つの派閥に分かれているわ。規定どおり廃校を押し進めて学園艦の統廃合事業を達成したいグループと、高校戦車道期待の新鋭である大洗女子学園を大々的に宣伝して、戦車道という競技の白熱と活性化を達成したいグループにね。で、後者のグループはまだ確定事項ではないけれど、一計を案じているの。ただ、この一計について説明する前に、一つだけあなたに話しておきたいことがある」

 

 ダージリンが紅茶のカップを傾ける。つられて、エリカも同じように喉を潤した。

 

「島田愛里寿という少女をご存じかしら? え、知らない? なら簡単に紹介するわ。彼女は西住流と並び立つ島田流唯一の後継者の娘よ。年齢的にはまだ中学生だけれども、特例措置で大学生の身分を持ち大学戦車道の選抜チームを率いている猛者ね。この選抜チームは現時点での実質日本代表チームであり、これから開催されるであろう世界大会に出場することも決まっている。ただ一つだけ問題があって、まだまだ競技人口的には発展途上である戦車道の選抜チームに並び立つチームなんてそうそう作れるものではないの。つまり、彼女たちは切磋琢磨するべきライバルチームを欠いていて、技能的な停滞に頭を悩ましている。……簡単に言ってしまえば試合する相手が少なくて実戦経験が積み上げられなくなっているのよ」

 

 だからどうした? とエリカは続きを促す。

 

「もう、せっかちね。ここからが私の考えの肝なんだから。いい? ここまでの戦車道を取り巻く状況をふまえた上で説明するわ。文部科学省が管轄する大学日本代表は対戦相手を欲しているの。そこで彼らは考えた。大学戦車道チームの対戦相手が不足しているなら、出来る限りその実力に近づいたチームを作ればいいと。で、白羽の矢が立ったのは私たちよ。黒森峰を中心に、高校生のドリームチームを作ることにしたの」

 

 でも、とエリカが口を挟む。その黒森峰を下したチームが出てきた今ではそのプランは難しくないか、と。世間が大洗女子学園の健闘に酔いしれている今、人々に支持され、熱狂を生み出すドリームチームにかの学園は必要だろうと。

 ダージリンはその通り、と頷いた。

 

「ここで話が全て繋がるのよ。さっきも話したけれど、文部科学省は二つのグループに分かれている。そのうちの一つである大洗女子学園の躍進を出しに、戦車道の興隆を目指す勢力が賭けに出たの。それはつまり、ドリームチームの核に大洗女子学園を据えて、大学選抜チームを打ち破る青写真。もし高校チームが大学チームを打ち破れば、世間はとんでもない盛り上がりを見せるわ。戦車道界の下克上として、語り継がれるでしょうね。もし高校チームが負けても、大学選抜チームの技量の向上が見込めるだろうから、それはそれで問題ないのね。

 ただ、この提案にもう一つのグループ、学園艦の統廃合を押し進めたいグループが乗っからなければ意味がないことくらいエリカさんなら理解できているでしょう? そのグループが統廃合を押し進めてしまえば、話の中心の大洗女子学園は物理的に消滅してしまうわ」

 

 エリカが話に割って入る。ようやくダージリンの策謀の全容が見えてきたと彼女の聡明な頭脳が結論を出していた。

 

「――ちらつかせるのね。大学選抜チームに高校選抜チームが万が一にも勝利することが出来るのなら、こんどこそ統廃合を見直すと。統廃合を押し進めるグループも、一度口約束をした手前、統廃合を強行することは難しい。だからもう一度、大洗女子学園に統廃合撤回の条件をちらつかせることで、仕切り直しをしようとしているんだわ」

 

「その通り。上手く考えられているわね。どちらのグループにも一定の利益が有るわけだから。

 ――統廃合グループは自分たちの失態を取り返す良い機会だし、戦車道興隆グループは世間にさらなる起爆剤を投入できるまたとないチャンスだもの」

 

 まったく、と困ったようにダージリンはため息を吐いた。だがその瞳は、口元は笑みを隠し切れていない。

 エリカはそんなダージリンの様子を頼もしく思う自分と、生理的嫌悪感を抱く自分に板挟みになりつつも、話を進めていく。 

 

「……あんた、この政治劇を利用するつもりね。カリエを大洗女子学園に送り込んで、大洗女子学園の逸見カリエとして大学選抜チームと戦わせる。そして勝利さえすれば世間はカリエを敗軍の将から、好敵手を救った英雄へと見方を変えるでしょうから」

 

「お見事。全く以てその通りだわ。最早カリエさんの黒森峰における責任追及は逃れられない。だからと言って座して待つわけにはいかないのだけれども、かの勢力と真っ向から争っても、カリエさん含めあなたたちが疲弊するだけよ。それは私としては出来れば避けたいことなの。だから搦め手でいくわ。向こうがカリエさんを追い出したいのなら、こっちから出て行けばいいのよ。そして外で手柄を立てて、それを手みやげに堂々と凱旋してやればいいわ」

 

 なるほどな、とエリカは天井を仰ぎ見た。

 確かに勝手に話を進めているダージリンに思うところはある。正直なところ、彼女の手を借りるなどまっぴらだし今もふつふつと反抗心だけは消し切れていない。

 だがエリカは思う。

 おそらくこれがカリエにとって最善なのだと。

 ダージリンのことは信用ならないが、カリエのことを第一に考えるダージリンの姿勢は信頼できるのだ。

 しかもあの策謀に長けたダージリンが考えに考え抜いて、使うことの出来る人脈をとことん使い倒したプランだ。これが駄目なら最早何も打つ手がないといっても良い。

 結局のところ、カリエの幸せを考えれば乗っかるしかないのだ。随分とスケールの大きい、カリエの復帰への道筋に。

 だが、一つだけ確認しなければならないことがある。

 

「――この話はどこまでカリエに伝えているの? 転校届けを取りに行かせたくらいだから、それなりにはちゃんと伝えているんでしょうね」

 

 エリカの懸念にダージリンは涼しい顔をして答えた。

 

「何も伝えていないわ。私はただカリエさんに「転校届けを取ってきてくださらない?」と言っただけよ」

 

 だめだ。

 やっぱりぶん殴ろう。

 エリカは席を立った。

 しかしながらダージリンは至極落ち着いた調子でエリカに言葉を投げかけた。

 

「あなたも詳しい話はカリエさんにしては駄目よ。言わばこの作戦は大洗女子学園を利用するものだから、カリエさんは必ず引け目を感じてしまうわ。そうなったら、あの人は転校そのものを拒否してしまうかもしれないから」

 

 ダージリンの言葉は正論だ。だがエリカは正論では動かない。ことカリエに関しては、理屈を優先しない。

 

「だからといって『はいそうですか』と言えると思ってんの? 人の妹を何だと思ってるの? 何も知らないあいつをあんたは自身の策謀の為に利用しようとしているの?」

 

 いよいよエリカはダージリンに詰め寄った。だがダージリンは一つもうろたえない。むしろ、ここにきて一番の凄みを込めた視線をエリカに送ったのだった。

 彼女もまた、カリエに対して並々ならぬ思いを抱いているのだから。

 

「カリエさんはカリエさんよ。確かに見方によればこれはカリエさんを嵌めたシナリオよ。あの人はそんな打算込みで大洗を助けたいとは考えない。自身の進退なんてどうでもいいから純粋に手助けするでしょうね。でも、そんな重みを背負い込めるほど余裕なんてないのよ。あなたはあの人が帰ってきて直ぐに涙を見せたことを知っているの?」

 

 ぐっと言葉に詰まったエリカに畳みかけるように、ダージリンは続けた。

 

「ここに来てすぐ、あの人は泣いたのよ。「まだ戦車道がしたい。エリカと戦いたい。みほと戦いたい。小梅と戦いたい」って。私はそんな彼女を見て、このシナリオを完遂することを決意したわ。多くの人を利用して、踏み台にしていくこのシナリオをね。でも、それくらいの覚悟がないと、もう前に進めないのよ。私も、あなたも、カリエさんも」

 

 ああ、そうか。とエリカは一人納得した。

 最初から残されている道は殆ど無かったことにようやく気がついていたのだ。

 いつの間にか埋められてしまった外堀を打破する手段なんて、手元には残されていない。

 唯一の光明はダージリンが用意した、大洗女子学園を踏み台に英雄に返り咲くシナリオだけだった。

 エリカはいよいよ覚悟を決める。

 カリエを栄光に帰り咲かせる為に、全てを利用することを。そのためにはカリエすら欺いてみせることを。

 恨まれても良い。あとから嫌われても良い。

 ただ、カリエがもう一度道を進めるのならそれで良い、と。

 

 だから絞り出すように、苦渋の決断を口にした。

 

「いいわ。あんたの考えに乗っかって上げる。そのかわり約束して。必ずカリエを幸せにすると。そのためには私をいくら使い潰してもいいわ。あの子がもう一度笑うことができるのなら、私はあの子を欺くし、あんたの真意も黙っているから」

 

「……ありがとう。あなたが協力してくれるなら百人力よ。必ず成功させてみせるわ。

 ――取り敢えずはカリエさんの転校手続きを迅速に進めましょう。大学選抜戦は早ければ八月の末日に執り行われるの。つまりはあと二週間。あちらの責任者には早急にこちらの事情を伝えるわ。おそらくノーとは言わないはず。なんたってカリエさんほどの助っ人はこの世界何処を探しても見つからないでしょうから」

 

「ん? ちょっとまって。そんなにも大学選抜戦まで時間がないの? だとしたらいくらカリエでも、自分が選抜戦のために大洗に送り込まれたことに気がつくわよ。そして、自身の復帰のシナリオの存在にも。そこんところはどう考えているのよ?」

 

 エリカの疑問に、ダージリンは初めて躊躇いの表情を見せた。それかカリエがいずれ目の当たりにするであろう苦悩を理解している故に。

 

「そう。それがこのシナリオの最大の欠点よ。正直、私たちの思惑を最後までカリエさんに隠し通すことは不可能だわ。聡明で利発な彼女のことだから、直ぐに自分が手柄を立てるために大洗に送り込まれたことを理解するでしょうね。でもそれはもう私たちにはどうしようもないことだわ。結局は彼女が自らの意志で前に進まなければ道は切り開けないから。例えそれが友人を利用するような道であっても」

 

 すぐにリアクションは返せなかった。激情に任せて突っかかることも、文句を言うことも出来なかった。

 ダージリンが零したように、最後はカリエが自分の足で進まなければならないことをエリカもわかっているからだ。

 

「……つまり私たちはカリエを谷に突き落とすわけね。どうあがいても後戻りの出来ない、受難と苦悩の谷に」

 

「遺憾ながらそういうことになるわ。例え選抜戦に勝利することが出来て、大洗女子学園を救い、黒森峰に凱旋したとしても、大洗女子学園を利用したという事実は消えないから。でも私は信じているの。あくまで凱旋は結果論であって、あの人ならそんなご褒美が無くともきっと大洗女子学園に手を貸す筈よ」

 

 ねえ、とダージリンは続けた。

 

「あなたも薄々考えているのでしょう? カリエさんがそのまま大洗女子学園に、どこか別のところで骨を埋めてしまっても良いって。あの人が戦車道を続けられるのなら、場所なんてどこでも良いって。私も同感なの。一応、黒森峰に復帰する道筋は用意しているけれども、あの人がそれを拒否しても私は失望しないわ。

 ――正直、今回のシナリオもいろいろと理屈を吐いてはいるけれど、あの人にもう一度チャンスを与えたいだけなの。全力で、全霊でもう一度戦車道に打ち込むチャンスを。だって、ここで戦車道をやめたらきっと後悔しか残らないだろうから」

 

 あくまで全ては結果論。

 あとはカリエの選択次第だとダージリンは語った。

 深い深い愛情に裏付けされた、彼女なりのカリエに対する献身がそこにはあった。

 

「本当に、あんたって馬鹿ね。たかだか一人の後悔のために、ここまで人間を使い潰すって異常そのものだわ」

 

「何とでもおっしゃい。それだけ愛しているのよ」

 

 はあ、とエリカは息を吐いた。そしてダージリンに詰め寄りかけていた足を動かし、彼女の眼前に立つ。何事か? と首を傾げるダージリンに対して、ぶっきらぼうに手を差し出した。

 

「でも本当の馬鹿者は私みたい。あんたのその無駄にスケールの大きい企みに賭けてみたい自分がいる。あの子が、カリエがもう一度やり直せるのなら、文字通り悪魔にだって魂を売ったげる」

 

 手をダージリンは握り返した。

 

「なら話は決まりね。やらなければならないことはまだまだたくさんあるわ。取り敢えずはあなたの方から、みほさんやその他の幹部の方々に根回しをして頂戴。私は来るその日に向けて、道筋を整えていくから」

 

「あんた、もしかしたら全てが終わったとき、カリエに恨まれるかもしれないわよ。私と一緒に」

 

 エリカの何気ない一言に、ダージリンは笑った。

 

「結構。それが内助の功というものよ。いくら恨み言を吐かれようとも、カリエさんが前に進めるのならそれでいいわ」

 

 

  



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逸見カリエの戦車道 03

 エリカとダージリンからカリエが聞かされたのは、これからどうやって戦車道を続けていくのか、という道筋だった。

 黒森峰で続けることが殆ど不可能な現状を考えてみれば、二人が語った「転校」というプランは随分と現実味を帯びている。ただ、問題はどこの学校ならば、「逸見カリエ」という存在を受け入れてくれるのか、だった。

 彼女のネームバリューは、本人が考えている以上に大きいものだ。生半可な高校では派閥割れやOG会との軋轢を恐れて受け入れることができない。

 そんな中、エリカとダージリンの二人が口にしたのはカリエにとって予想だにしなかった学校名だった。

 

「大洗女子学園ならば、あなたを受け入れてくれるわ」

 

 え? は? とカリエは目に見えて困惑した。まさか決勝で惜敗した相手チームに転校しろと言われるとは、さすがに予想していなかったからだ。まさか二人の遠回しな意趣返しか、と邪推してしまうのも無理からぬ事だった。

 しかしながら、エリカとダージリン、それぞれの瞳を見つめたその瞬間に、カリエは二人が本気であることを悟った。

 世界で一番自分のことを理解してくれている二人が見せた視線は、こちらを裏切るものではなかったから。

 

「えと、でもその、なんというかそれは不味いんじゃ」

 

 上手く言葉に表現することはできないが、この転校劇は今まで自分を支え続けてくれた人々に対する裏切りのようにカリエは感じた。

 このままではただの蝙蝠野郎ではないか、と考えたのだ。だがエリカはそんなカリエの気勢を制するように口を開いた。

 

「……正直、あんたのネームバリューを受け入れることのできる器を持つ学校なんてそこ以外存在しないわ。曲がりなりにも伝統を重視する高校戦車道界において、元黒森峰のあんたを受け入れて無事に済むケースなんて皆無よ」

 

「エリカさんの言うとおりよ。あの学校は一度伝統が断絶しているお陰で、何処までもニュートラル。しかもあなたを受けれても崩壊しない芯の強さもあるわ。唯一の懸念はあなたが告げたとおり、あなたを打ち破って優勝したという実績だけね。あなたが周囲から裏切り者の誹りを受けることは否定しないわ。でもそんな誹り、必ずや私達が払拭してみせるから安心して欲しいの」

 

 二人の展開する理屈は確かに正しいのだろう。だがカリエは素直に首を縦に振ることができない。当たり前だ。そこで納得することのできる理詰め人間ならば、恐らく決勝戦で敗れるようなことは無かっただろうから。

 

「――二人がそこまで考えてくれたことはとても嬉しいし、ありがたいと思う。でもそれはできないよ。ここで私が大洗に行ってしまったら、たぶん誰にも顔向けができなくなると思う。何より、私自身が許せない。そんなみんなの思いを犠牲にしてまで、競技にしがみつきたくない」

 

 一拍だけおいて、カリエはこう答えた。それはもうこれ以上答えを覆すつもりはない、というはっきりとした声音だ。

 エリカもダージリンもそんなカリエの信念を感じ取ったのだろう。二人とも顔を見合わせていた。有る程度カリエがこちらに反発することは考えていたが、まさかこうもあっさりに戦車道を諦めてくるのはさすがに予想外だったのだ。

 エリカが慌てて問いかける。

 

「ならあんたはこれからどうするの? 正直、もう他には戦車道のない高校に転校するか、黒森峰の片隅で細々と暮らしていくしかないわよ」

 

「別にそれでもいいよ。あ、でも黒森峰に残るのは駄目かな。一応、引退ということで責任は取ったけれども、まだまだ私に対するOG会の嫌がらせは続くと思う。そのとばっちりを皆には合わせられないから、出て行くことは出て行くよ」

 

 次は大学で会いたい、とカリエは笑った。それはここ数日間の出来事に憔悴しきった上に形作られた脆い笑みだった。

 これは駄目だ、とダージリンは焦りを見せる。このままではカリエだけが虐げられる、本当の意味での最悪のシナリオになりかねないと感じたからだ。

 だから口を開こうとする。

 

 恨まれたって良い。

 絶縁されても良い。

 許されずとも良い。

 

 即興で練り上げた言葉を頭の中で反芻する。

 

 ――あなたには失望したわ。そんな簡単に逃げ出すのね。私を負かした癖に、あっさりと戦車道を捨てるのね。いつか必ずあなたを陥れるという私の気持ちをどうしてくれるのよ。その為に、ここまであなたに取り入ってきたのに。

 

 ぐっとダージリンは瞳を閉じた。目の前に横たわる自身とカリエの終わりに絶望する。だが、彼女はそこで躊躇することはない。カリエが少しでも前に進めるのなら、もう一度、エリカの隣に立つことができ、幸せに思えるのならそれで良いと自分に言い聞かせていた。

 

 結局のところ、ダージリンは逸見カリエに、黒森峰で築き上げてきたものを捨てさせたくなかったのだ。

 彼女が築き上げた黒森峰に敗北した自分が誇らしいから。

 自身を叩きのめしたチームを作り上げた、カリエが好きだったから。

 

 口を開く。終わりのワードか喉を通過する。目の前がちかちかする。手に掻いた汗が握りしめたスカートを濡らしていた。

 だがその呪いは成就しない。

 ダージリンが言葉を発するよりも僅か数秒先に、別の声が割って入っていた。

 

「……は? あんた何か勘違いしてない? これは私からの罰よ。ダージリンは何か綺麗事をほざいてるけれど、私は違うわ」

 

 最初、何を言っているのかわからなかった。それはカリエもダージリンも同じこと。

 

「あんた負けたのよ。お陰で黒森峰は十一連覇を逃して、私たちは負け犬の罵倒を受けている。良い迷惑だわ。身勝手な独断と専行で巻き添えを食らうこっちの身にもなってよ」

 

 エリカがカリエに詰め寄っていた。

 

「何甘いこと言って逃げようとしているのよ。戦車道をやめる? 大学からまた始めればいいから? 馬鹿じゃないの? 私はあんたと大学で戦車道を続けたいなんて考えていないわ。だってそうでしょう? 負け犬の妹とツーマンセルなんて、普通に考えたらまっぴらだもの」

 

 あまりのことにカリエもダージリンも動けない。突然の暴挙とも取れる言動に呆気に取られてしまっていた。

 エリカはさらに畳みかける。

 

「いいんじゃない? 大洗に行って裏切り者の誹りを受ければ。そしたら私たち残された方はまた団結が出来るもの。裏切り者を必ずや討つという大義名分が抱けるから。だから、ねえ、あんた、ちょっとあっちに行って来年の大会に顔を出しなさいよ。――徹底的に痛めつけてやるから」

 

 気がつけばダージリンはエリカの正面に立っていた。そしてこれ以上言わせてはならないと、そのままエリカの身体を押しのけようとする。少しでもカリエから引き離すように、これ以上、エリカの言葉がカリエに届かないように。

 だが悲しいかな。普段から身体を鍛えているエリカを、ダージリンはその場から一歩も動かすことが出来なかった。

 

「……う、嘘だよね。お姉ちゃん。それは演技だよね。わかっているよそんなこと。お姉ちゃんはそんなこといわないもん」

 

 震える声でようやくカリエが言葉を紡いだ。これまでたくさんの涙を流してきたカリエだったが、ここで流したのはこれまでとは全く違った種類のものだった。

 彼女の目尻を濡らすのは、深い絶望の涙。

 

「……何私のことをわかった気になっているのよ。あんたが私の何を知ってるっていうの? やめてよ気持ち悪い」

 

 カリエは言葉を失った。エリカはそんなカリエを見て、

ダージリンを無理矢理引き剥がす。そしてカリエの眼前に立った。

 

「さようなら。あんたとはここでお別れね」

 

 

 01/

 

 

 これでいいのだ、とエリカは一人、学園艦の公園で自分に言い聞かせていた。

 あの瞬間、ダージリンに憎まれ役をさせてはならないと、エリカは瞬時に判断した。

 カリエの理解役には彼女が必要だったのだ。黒森峰とはなんの関係もない、無心に支えてくれる人が必要だった。

 だからダージリンには言わせなかった。彼女が考えたであろう、悪役の台詞を遮断した。それを告げることが出来るのは、この世界で自分だけなのだと前に出た。

 今まで散々、姉妹喧嘩をしてきた仲だがあそこまで一方的になじったのは今回が初めてだろう。

 

「あーあ、嫌われたわね」

 

 やや投げやりな、だがどこかあっさりとした声色が誰もいない公園に木霊する。

 後悔はない。

 カリエがまだ戦車道を続けられるのなら、自分はどんなに憎まれても良かったから。

 ただ悲しみがないと言えば嘘になる。

 だって、結果的には妹を傷つけたことには変わりないから。

 

「本当、馬鹿みたい」

 

 腰掛けたベンチに背を預け、エリカは空を見上げた。月明かりに照らされたやや青みがかった空。

 ほんの一時間前にはカリエと見上げていた空。

 

「本当、馬鹿みたい」

 

 もう一度、同じ言葉がこぼれる。

 不意にぼやけた視界を誤魔化すため、腕で顔を隠した。どうしてこうなってしまったのだろうと、答えのでない問いを何度も何度も繰り返して。

 

「馬鹿じゃないの、エリカ」

 

「馬鹿じゃないよ」

 

 怨嗟すら込められた声に、ふと返されるものがあった。視界を覆っていた腕をそっとずらしてみれば、こちらを心配げに見下ろす二つの瞳と目が合う。

 エリカはのっそりとベンチを起きあがった。

 

「……ごめんね、みほ。先に帰ってて。私、しばらく帰れそうにないわ」

 

 エリカの憔悴しきった声に、みほは「ううん」と首を横に振る。

 

「アパートにはさっき一度帰ったよ。そしたらダージリンさんがいて、『エリカさんを探してきて頂戴』って頼まれちゃった」

 

 余計なことを、とエリカは爪を噛んだ。勝手に自爆した自分なんて、ほっとけばいいのに、と八つ当たりを口にする。

 みほはそんなエリカを見て、およその事情を察したのだろう。敢えて姉妹の話題には触れず、自分が今まで何処で何をしていたのかを語り始めた。

 

「小梅さんのところで、いろんなところに電話してたの。処分に関する抗議書面も作ったからあとで確認してね。取り敢えず明日は顧問の先生と理事長のところに行って直談判を行います。黒森峰の隊長として、いや、一人の友達として今回の処分劇は許せません」

 

 ぐっ、と力を込めて気合いを入れるみほを見て、エリカは「ああ、まだこれからのことを知らないのか」とある種の納得をしていた。そして、ダージリンがエリカの方からみほたちに事の進め方を説明しろと言われていたことを思い出す。

 なら、せめてその役割くらいは全うしなければ、とエリカはみほに向き直った。

 そして語る。

 ダージリンと自分が進むと決めた道を。

 自身が犯した、カリエに対する背徳の内容すらも。

 

 

 02/

 

 

 ダージリンは自身の携帯電話にエリカからメッセージが入っていることに気がついた。書面は簡潔明瞭。

 

 赤星小梅の所に泊まるから、カリエをよろしく頼むわ。

 

 どうやらあちらはあちらで確実に手を進めているのだ、とダージリンは一人ごちた。そして、携帯電話を枕元に置き直し、隣で横になっているカリエを横目で見る。

 彼女はこちらに背を向けたまま、微動だにしていない。一瞬眠っているのか、と考えたが、その割には呼吸も不規則だったので、本当に横になっているだけなのだろう、と判断した。

 今二人はカリエの部屋で一つのベッドを共有している。今日のカリエをさすがに一人にはしておけないと考えたダージリンが宿泊を申し出たのだ。茫然自失のカリエはそんな願いをあっさりと了承し、一人とっとと部屋に籠もってしまっていた。さすがに入浴はしましょう? と提案するダージリンにカリエは何も返さなかった。

 ダージリンも諦めがついたのか、それ以上細かいことは言わず、ただカリエの隣に寝転がった。

 そしてそんな二人の同衾から小一時間が経とうとしている。

 

 ――今日はもう、このままそっとしておくべきか。

 

 沈黙を保ったままのカリエにダージリンはそんなことを考えた。そして余りにも負担を掛けすぎていると、反省と自己に対する嫌悪感を胸に抱く。

 だがその嫌悪のスパイラルはそう長くは続かない。何故ならぽつりと、ここにきてようやくカリエが口を開いたからだ。彼女はダージリンに背を向けたまま、少しずつ言葉を繋いでいく。

 

「……本当はエリカが思ってもいないことを言ってるってわかってるんです。だって、エリカったら演技が下手くそだから」

 

 ダージリンはカリエの手を後ろからそっと握りしめた。カリエもそれを無下にすることはせず、静かに握り返す。

 

「……二人は何か考えがあって、私を大洗に転校させたいんですよね。たぶん、そこにいかないといけない何かがあるんでしょう? だからエリカはあんな突き放すようなことを言った。あんな下手くそな演技で、私を突き放した」

 

 カリエの聡明さが初めて疎ましいとダージリンは感じる。何も知らないまま、されるがままならここまで苦悩せずともいいのに、と唇を噛む。

 

「何が辛いって、そんな憎まれ役をエリカにさせたことが辛いんです。あんな泣きそうな顔をしているエリカを見たくなかった。何より、私なんかの為に、あんな顔をさせたくなかった」

 

 ぎゅっ、とダージリンの手を握るカリエの手の力が増した。かすかに震えるそれは、やがて何かを決意したかのように堅く結ばれた。

 背を向けたままだったカリエが振り返ってみせる。

 二人の視線が至近距離で交錯した。

 

「――私、大洗に行きます。二人の意図は敢えて聞きません。私のために紡ぎ上げてくれた道なら、多分大丈夫だから」

 

 ダージリンはああ、と声を漏らした。

 自分が恋い焦がれ、心を許した瞳がここにあると。

 勝手に焦って、追いつめられて、奔走していた自分が恥ずかしい。

 どんな苦難があっても、必ず自分の意志で前に進む強さがあったからこそ、全てをあげてもいいとダージリンは素直に思えたのだのだから。

 そんな大事なことを忘れていたなんて、と彼女は思わず苦笑を漏らす。

 そして、しっかりと視線を交わしたまま、己の本音を、心からの気持ちを口にした。

 

「――私も、カリエさんならきっと大丈夫だと信じているわ」

 

 

 /03

 

 

 封の切られた段ボールがいくつか積まれた部屋がある。

 中途半端に引っ越し準備が進んだ、辛気くさい部屋だった。

 黒森峰での最後の数日は怒濤のように過ぎ去っていた。

 九州から北関東へ。

 距離で言えばどれくらいなのだろうか。

 鼻で感じる匂いも、肌で感じる気温も、目で感じる景色も、心で思う世界も、すべてがあっという間に様変わりしていた。

 カリエは一人横になっている。

 結局、エリカと喧嘩まがいのことをしてからこちら――大洗のアパートに引っ越してくるまで、エリカと会話を交わすことは無かった。

 引っ越しの荷物をまとめることだって手伝ってくれたのに、終始、互いに無言だった。

 恐らく互いに遠慮していたのだろう、とカリエは嘆息する。

 姉にあそこまで言わせるくらい、迷惑を掛けた自分が不甲斐ないと感じたカリエ。

 妹に方便とはいえ、あそこまで言ってしまったという自己嫌悪感に苛まれているエリカ。

 双子故の似たもの同士というか、お互いがお互いに引け目を感じた故に会話の糸口を見つけることが出来なかった。

 この転校が今生の別れというわけではないだろうが、次に轡を並べて戦うことがあるのだろうか、とカリエは不安を覚える。ダージリンとエリカがたてたプランによれば、恐らく大学に進学するまで、この状態が続くのだろう。もう黒森峰にいられない以上、仕方のないことではあるが、それでもそう簡単に割り切れるものでもなかった。

 未練というものをかなぐり捨てて生きていけるほど、カリエはまだ達観はしていない。

 

「でもなんかあっという間だったな。まあ、緊急避難みたいなものだから仕方がないのか」

 

 エリカとダージリンが、自身を黒森峰から遠ざけようとした心胆くらいなら、カリエは理解していた。あのまま学園に残り続けていても、OG会からの嫌がらせは継続していただろうし、他の生徒にも被害が及んで、カリエがその心を痛めることになっていたことは確実だ。

 そんな目にカリエを遭わせたくないからこそ、二人は半ば強引に大洗にねじ込んで見せたのだ。

 世間から裏切り者の誹りを受けることにはなるかもしれないが、世間からの評価など割とどうでも良いと考えているカリエからすれば、前述の問題に比べれば些細なことだった。

 ただ、一つだけ心残りがある。

 

「……佐久間さんには悪いことしたな。他のみんなもろくに挨拶できなかった」

 

 それは黒森峰の仲間たちと満足に別れを交わせなかったことである。彼女たちも、エリカとみほから何かを聞かされていたのか、それとも自分たちで察したのか、カリエの転校劇に大騒ぎをすることはそれほどなかった。カリエを信奉するナナのような仲間たちからの引き留めはあったが、大方エリカが説得して回ったのだろう。最後まで受け入れられなかったのは結局ナナだけだった。

 そんなナナも、カリエに恨み言を告げることだけはなかったくらいだ。

 

「ちょっと落ち着いたら、みんなに連絡くらい取ろう。いや、長期休みに遊びに行くくらいなら大丈夫かな」

 

 ぼんやりと天井を見上げながら、カリエは寝返りを打つ。

 昨晩のうちに大洗に到着した彼女は、杏に紹介された地元のホテルに宿泊、そして次の日の朝、学園艦に乗船した後、午前のうちに下宿先のアパートへたどり着いていた。それなりの強行日程で体力を消耗した上に、アパートで出迎えてくれたのが先に送り届けられていた段ボールの山となれば、それは致命傷にも似た止めの一撃だ。

 引っ越し作業を始めておよそ半日。その時間の殆どを、カリエはだらだらと過ごしている。あらゆる事に対するモチベーションというものが、一切湧いてこなかったのだ。

 余りにも急な転校だった為か、どうしても思考を切り替えることが出来ず、黒森峰のことをつらつらと考えてしまう。それが良くないことであり、エリカとダージリンに迷惑を掛けることだとわかってはいても、どうしても身体が動いてはくれなかった。

 まさか一人がこんなにも居心地悪いものだとは、想像もしていなかった。

 

「あのー、すいませーん」

 

 ふと、声がしたような気がした。学園経営のアパートだから、壁が薄いのだろうかと不機嫌度合いを深める。

 

「留守なんでしょうか。あれ、でも鍵は開いてるし、電気もついていますね」

 

 いや、違うとカリエは跳ね起きた。まさかの突然の来客に何事かと、アパートの入り口を見た。

 目が合う。

 栗色の癖毛が懐かしい、いつか見た友人であり恩人であり、好敵手である少女が扉から半身を覗かせていた。

 

「あれ? カリエ殿がどうしてここに?」

 

「……優花里さん?」

 

 まさかの、余りにも早すぎる邂逅だった。

 

 

 04/

 

 

 同じ学園艦、しかもこちらで戦車道を履修する可能性があったカリエからしてみれば、秋山優花里との再会は想定している範囲のものだった。

 だが、戦車道の授業はもっと自身が落ち着いてから――それこそ三学期までは保留にして、それまでに有る程度の心の整理を付けておこうと予定立てていたカリエからしてみれば、今回の再会はあまりにも早すぎる出来事だった。

 

「いやー、あの会長にアルバイトの話を持ちかけられた時点で疑わなくちゃいけなかったんだよ。まさかこんな隠し玉があるなんて」

 

「でも驚きました。あの逸見カリエさんが大洗に転校してくるなんて。あの、なんでしたっけ? 戦車道履修者を対象にした交換プログラムとかなんとか」

 

「それで黒森峰から人が来るなんて夢にも思わないけどな。普通は。まったく、生徒会は何を考えている」

 

「まあまあ、みなさん。時限付きとはいえ、折角カリエ殿がわざわざ大洗まで来て下さったんですから、会長の政治手腕に感謝しましょうよ。カリエ殿のネームバリューなら、恐らく他の学校と壮絶な奪い合いになったことでしょうし」

 

 武部沙織。

 五十鈴華。

 冷泉麻子。

 そして秋山優花里の四人を加えたアパートの一室はさすがに手狭だった。

 カリエは困惑を深めたまま、念のために、と購入しておいた紙コップにジュースを注いで四人に手渡す。

 

「わあ、有り難うございます! 外がなかなかの暑さだったので、とても助かります! こうなったらわたくしたち、バリバリと引っ越しのお手伝いをさせて頂きますよ!」

 

 優花里と、残りの三人の口振りからカリエはなんとなく事情を察し始めていた。

 

「えと、四人はひょっとしてあの生徒会長さんから私を手伝うように、お願いされたの?」

 

 カリエの疑問に答えたのは沙織だった。

 

「そだよー。割の良い物品整理のアルバイトがあるから受けないかって、昨日電話が掛かってきてさー。そしたらびっくりしちゃった。まさか天下の黒森峰から時限付き転校ってやつで逸見さんがこっちに来てるなんて完全に予想外だよ」

 

 動きやすい服装に、軍手を携えた四人の姿を見れば、どうやらそれが真実らしいとカリエは納得した。だが、一つだけ見逃せない単語が散見している。

 

「ねえ、優花里さん。生徒会長さんから時限付き転校って聞かされているみたいだけれど?」

 

 敢えて曖昧な形で問いを口にする。これは完全な直感だったが、カリエは四人が転校の真実を聞かされていないと当たりをつけたのだ。そしてその勘は正しい。

 

「ええ。高校戦車道振興のために、二学期からそれぞれの戦車道の人員交流が行われるらしいんです。その第一号の方が大洗にいらっしゃると昨日聞かされたんですよ。――まさかそれがカリエ殿とは思いも寄りませんでしたけれど。というか、今でもこれが夢なんじゃないか、と疑っている自分がいます」

 

 えへへ、と笑う優花里を見て、カリエはおよその真実を理解していた。

 間違いない。

 件の生徒会長である角谷杏は四人に嘘をついている。

 彼女はカリエが特殊な形式で大洗に転校してきたと、四人に伝えているのだ。

 カリエは大洗女子学園に対して、一身上の都合という一筆を添えて通常の転校届けを提出した。書類そのものはまだ届いたばかりだろうが、その旨は電話連絡という形で数日前に相手方に伝えているから、そこで齟齬が発生したことはありえないだろう。多分、その連絡が生徒会長である角谷杏のもとに届けられてから、意図的に歪められているのだ。

 果たして何のために、と憶測を膨らませる中、気がつけば四人はカリエの出したジュースを飲みきって、それぞれ段ボールに組み付いていた。

 

「ねえ、カリりん、この服はそこの衣装ケースに入れたらいいのかな?」

 

「か、カリりん?」

 

「あら、このズボンとシャツ、男の子みたいですね。でも、凛とした逸見さんが着られればきっとお似合いなんでしょう」

 

「え、いや、それはダージリンさんと出かけた時に着ようと買ったやつで……」

 

「なあ、これ黒森峰の教科書か? 随分と進度がこちらとは違うんだな」

 

「えと、それはエリカが勉強しろって買ってきた参考書だから……」

 

「うわーカリエ殿! この箱、ひょっとして全部戦車道関係の本や資料ですよね! わわわ! これは黒森峰の生徒にしか配布されないという戦車道必携じゃないですか! すごい! 全部のページにカリエ殿の注釈が加えられています! あ、あとで見せていただいてもよろしいですか!?」

 

「あ、あの優花里さん?」

 

 思考を深める間もなく、四人それぞれがてきぱきと引っ越し作業を進めていく。カリエはおろおろとそんな四人の質問に答え続けるのが精一杯だった。

 午前からあれだけ進まなかった引っ越し作業だったが、気がつけば日が暮れる前にあらかた片づいてしまっていた。

 

「よし、これで大体終わったね。じゃあ、晩ご飯の買い出しにいこうよ。カリエさん、ちょっと台所借りるね?」

 

 そしてあっというまに、四人に連れられて学園艦のスーパーに連れられていた。「これから女子会だから!」と夕食以外にもお菓子やジュースがぽんぽんとカゴの中に放り込まれていくのを、カリエは呆然と眺め続ける。

 

「あ、お金の心配はしないでくださいね。生徒会から、今日の報酬として夕食代プラスお菓子代を貰ってきてますから!」

 

 カリエが言葉を失っているのを見て、何を勘違いしたのか優花里が全く見当違いの言葉を口にしていた。そういうことじゃないんだけれどなあ、とカリエは眉尻を下げるが、ここにきて四人の盛り上がりを邪魔する気にもなれず、あとはされるがままだった。 

 気がつけば、カリエが黒森峰から持ってきた食卓を五人で囲んで、豚カツとその他総菜に舌鼓を打つことになったのである。

 

「ねえ、カリりん。戦車道の授業は明日から参加するの?」

 

「え、いや、手続きとかあるから、会長と相談することになると思う」

 

「ふーん、色々とめんどくさいんだな」

 

 食事のさなか、中々際どいことを明け透けに聞いてくる沙織を何とかかわし、麻子の気だるげな反応に相づちを返す。

 

「でもカリエ殿が戦車道の授業に参加されるとなると、どの車両に参加して貰うのがいいのでしょう? わたくし、一度はカリエ殿の指揮の元で戦ってみたいので、Ⅳ号戦車の車長をしてみますか?」

 

「……一回くらいなら」

 

 きらきらとした視線を送る優花里には、曖昧な返事で誤魔化した。まさかカリエがどのような境遇に陥っているのか知らない優花里は、ただ純粋な好意を向けてきているのだ。そんな優花里の純情をここで台無しにするほど、カリエはまだ擦り切れていない。

 けれども、そこで割り切った感情を抱くことができる程強くはなかった。

 胸の内にくすぶる仄暗い感情はいつだってそこにある。

 

「ーーどうやらカリエさんはお疲れのようですね。皆さん、そろそろお暇いたしましょうか」

 

 ふと、華がそんなことを三人に提案していた。直前にカリエと目があったのは果たして偶然なのだろうか。

 その真意をカリエが推し量ることはなかったが、それでも暗い感情に吐き気を覚えつつある彼女からしてみれば渡りに船の提案であった。

 

「そうですね。夜も遅くなってきましたし、カリエ殿、明日またお会いしましょう」

 

 優花里が立ち上がったのが全ての合図だった。四人の中で一番ふわふわとした印象を抱かせる優花里だが、残りの三人はそんな優花里を自分たちのリーダーだと認めているのだろう。それぞれが優花里の後を追うように荷物を纏めていく。

 外から見ていただけでは、わからないこともたくさんあるんだな、とカリエはそんな四人組の人間関係をぼんやりと観察していた。

 そしてこの連帯感に自分たちは敗れたのだと、改めて思い知ることになっていた。

 

「……優花里さん、五十鈴さん、武部さん、冷泉さん、今日はありがとうございました。また明日からもよろしくお願いします」

 

 別れの言葉はそんな感じのものだった。

 四人とも、笑顔でカリエのアパートを後にしていた。

 一人残されたカリエはすっかり片づいてしまったアパートでぼんやりと天井を見上げる。

 

 それから就寝するまでの少しの間。

 カリエが考え続けたのは黒森峰に残してきた仲間たちのことだった。 



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逸見カリエの戦車道 04

 鋼鉄の獣に触れたその瞬間、それまでに感じたことのない悪寒を覚えた。

 こちらを見下ろすその威容は、黒森峰にいた頃までは頼もしさすら感じていたのに、今となっては恐ろしさだけが身を貫いていく。

 纏った装甲の分厚さは他者を拒絶する壁のように思えて、触れれば刺すような痛みすら幻視した。

 かたかたと、油の切れた歯車が回るような挙動で、なんとか天蓋によじ登る。

 小豆色のキューポラに手を掛け、そこを覗き込んでみれば異界の入り口が開いているように思われた。

 

「カリエ殿?」

 

 直ぐ近くで名を呼ぶ声がする。それが優花里のものであるということに気がつくまで、カリエは数秒の時間を要した。

 ぽたぽたと夏の熱気とはまた違った――それどころか寒気からくる脂汗を天蓋に落とす。

 

「カ、カリエ殿!」

 

 異変を察知した優花里がカリエの肩を掴んだ。結果的にはそれが呼び水だ。

 ふらりと傾いた視線は、どれだけ身体に力を込めても元には戻らない。いつの間にか夏の青空が視界一面に広がったと思いきや、背中に強い衝撃を感じた。

 砲塔部分から車体部分に落下したと気がついたとき、周囲には人が押し寄せていた。

 何やら騒がしい辺りのノイズに身を晒しながらも、カリエの思考はぼんやりと働いている。

 

 この感覚を知っていると、彼女は考えていた。

 いや、厳密には知っていたと訂正を加える余裕すらある。

 けれどもだらりと力が抜けた四肢を再起動させる余裕はない。

 

 いつか煩っていた水恐怖症。

 前世の因果からなる、カリエに刻み込まれた呪い。

 頭では大丈夫だとわかっていても、覆しようのない圧倒的な畏れ。

 今ではなんとか克服したものの、長年カリエの人生に昏い影を落としていた楔。 

 

 まさか、とカリエは思う。

 けれども全身をひた走っていく感覚たちが現実というものを突きつけてくる。

 一度「トラウマ」という病巣と向き合い続けてきたからこそ理解できる、自身の肉体の変調。

 

 決勝戦で負けたという後悔。

 十一連覇を閉ざしたという重責。

 そしてそれが原因で他者から徹底的に排除されるという屈辱をもって、

 

 逸見カリエは戦車恐怖症になっていた。

 

 

/01

 

 

 どういうことだか説明して貰えますよね?

 

 優花里をはじめとしたあんこうチームの四人が生徒会室に来訪したのは、カリエが医務室にかつぎ込まれてすぐのことだった。

 それぞれが険しい表情を携えながらの訪問だったが、それは生徒会側も同じだった。どこかに電話連絡をしているのか、杏が会長席に腰掛けて受話器に対して言葉を投げかけている。

 柚子と桃の二人はそんな杏を護るように――門番のように立っていた。

 

「……どなたと連絡されているのですか?」

 

 柚子に勧められるままに、応接用のソファーに優花里が腰掛ける。柚子はその真向かいに位置どりながら優花里に答えた。

 

「グロリアーナのダージリンさん。もともと、今回の短期転校プログラムの仲介をしてくれたのは彼女なの」

 

 言外にそれ以上のことは知らないと、柚子は目線だけで語っていた。優花里も追求するのならば杏だと、ただひたすらに電話のやりとりの終わりを待ち続ける。

 杏が受話器を本体に納めたのは、それからおよそ五分ほど経過してからだった。

 

「――ちょっと不味いことになったね。あんなに狼狽えているダージリンなんて初めてかもしれない。今回のことは向こうもこちらも、完全に想定外だ」

 

 いまいち要領の得ない言葉をつぶやきながら、杏がソファーに腰掛けた。そんな彼女の背後に桃が陣取ったのと同時、優花里の背後にも沙織、華、麻子が立つ。

 

「本当は冬くらいに打ち明けようと思っていたんだけれど、そうもいかなくなったみたいだ。皆には逸見さんの本当の転校理由を教えるよ」

 

 え? と声を上げたのは杏を除いた生徒会の二人だった。柚子たちは全てを打ち明けるという杏の判断に明らかに戸惑いを見せていた。

 まさか大っぴらに出来ないようなことなのか、とあんこうチームの彼女たちは表情を険しくしたが、杏はそんな他の面々の困惑を振り払うように口を開き始めた。

 

「実はさ、逸見さんの転校はダージリンに依頼されたものなんだ」

 

「それはつまり、短期転校プログラムっていうのは嘘と言うことですか?」

 

 間髪入れずに優花里が口を挟む。杏は「その通りだよ」と肯定の意を返した。

 

「いや、全部が全部嘘というわけじゃない。短期転校プログラムっていう制度にねじ込んだのは本当の話さ。けれど、実質が違う。実質は大洗への都落ち。いや、亡命だよ」

 

 亡命、という言葉を聞いて、優花里の脳内を何かが駆けめぐった。それは高校戦車道界の事情に通じている優花里故の頭の冴えでもあった。

 彼女は殆ど正解に近い結論を瞬時に導き出していた。

 

「そうか、カリエ殿は黒森峰敗北の責任を負わされて転校せざるを得なくなったんですね……」

 

 言って、優花里は後悔した。後悔して、自身の胸の内を支配し始めた薄暗い感情が膨れ上がっていくのを感じる。

 

 昨日、自分はカリエになんと声を掛けた?

 

 昨日、カリエに自分はなんとお願いした?

 

 昨日、失意のカリエの前でどれだけはしゃいでいた?

 

 やってしまった、という絶望が鎌首をもたげていた。それは優花里以外の三人も同じだった。

 それぞれが、自分たちが訪問したときのカリエの心中を想像して、言いようのない吐き気を覚えている。

 これは駄目だ、と杏が生徒会室を支配し始めた負の感情を払いのけるように声を張り上げた。

 

「——秋山さんたちが気に病む必要はないよ。責任を感じなければならないのは間違いなく私だ。私が逸見さんの気を少しでも紛らわせようと、君たちにお願いをしたことなんだから。そこは勘違いしないで欲しい」

 

 まあ、それで割り切れないのが秋山さんたちの優しさなんだけどね、と杏は付け加えた。

 杏のフォローを受けた優花里はぐっと、自分自身の後悔を押さえつけて次の質問を口にする。

 ここで自己嫌悪に陥って、話を停滞させている余裕など正直なところないのだから。

 

「——先ほど会長はダージリンさんも想定外だったとおっしゃいました。それはつまり、カリエさんが戦車に拒否反応を見せることが想定外だったという事でいいんですね?」

 

 杏はただ頷く。

 そしてこれはダージリンから聞いたことなんだけれども、と前置きを一つ加えて言葉を繋いだ。

 

「逸見さんが黒森峰で色々と手続きをしたときは、戦車に関して問題なかったみたいなんだ。なんなら、姉である逸見エリカとはそれぞれの戦車に腰掛けて話していたくらいなんだって。それはつまり、大洗という新しい環境に来たからこそ生まれた弊害かもしれない」

 

 大洗に来てから生まれた弊害。

 その場にいる誰しもが「そんなものある筈がない」と否定することが出来なかった。

 

 あの飄々としたカリエだから。

 あの黒森峰で戦い続けてきたカリエだから。

 自分たちに頂の遠さを突きつけてきたカリエだから。

 

 全国大会のやるせなさその他もろもろを呑み込んで大洗に来てくれていると、勘違いをしていた。杏ですら大洗への緊急避難という言葉を軽く考えて、匿い続ければ何とかなると楽観視していた。

 そしていつか、黒森峰に戻ることが出来るようになるまで大洗で様々なことを楽しんでいって貰えればいいと考えていたのだ。いわば大洗女子に戦車道がなんたるかを教えてくれたカリエに対するこちら側の恩返しだと勝手に思いこんでいた。

 しかしながらそのツケを想像していたよりも遙かに早く支払う羽目になってしまった。他ならぬ、逸見カリエの新しい恐怖症の発現だった。

 

「もともと逸見さんは水恐怖症を患っていた。もしかしたら精神的に強く揺さぶりを掛けられると人より過剰に防衛機制が働く体質なのかもしれない。一応、本校のカウンセラーに診て貰えるよう手続きは整えておいたよ」

 

 カウンセラーに診て貰えるから、と安堵することができればその場にいる全員は幾分か楽な気持ちになることができただろう。だがそんな無責任を良しとしない気質ばかりが集まった生徒会室の空気は一向に重たいままだ。

 けれどもこれ以上ここで言葉を重ねても仕方がないことくらい、全員が理解していた。

 突如始まった生徒会とあんこうチームの会議に区切りをつけたのは、やはりというべきか秋山優花里だった。

 

「……大方の事情と現状は理解しました。カリエ殿は黒森峰で何らかの圧力を受けて他校に転校するほかなくなってしまった。そしてその受け入れ先にわたくしたち大洗が名乗りをあげた。転校そのものはつつがなく進んだものの、カリエ殿の心に巣くっていた恐怖心だけは誰にも見抜けなかった――このような理解でよろしいですね?」

 

「うん。全く以てその通りだ。私はもう少しダージリンや黒森峰の人と連絡をとって情報を集めてみるよ。秋山さんたちは……」

 

 杏の言葉を遮るように声を上げたのは華の凛とした声色だ。

 

「では私たちはカリエさんのお見舞いと、その後のアフターケアに回らせていただきます。出来ることはそれほどありませんが、最善を尽くそうと思います」

 

 沙織と麻子も華の言葉に同意を示す。優花里はそんな三人を引き連れて、杏と向かい合った。

 

「会長はもっとたくさんの情報を手に入れて下さい。戦車道チームのみなさんや、カリエさんのことはこちらに任せてもらいたいと思います」

 

 いつか優花里が見せた、決意に固まった瞳がそこにはあった。

 自分たちに敗れた逸見カリエの亡命まがいの転校劇。

 そこには多くの疑問や不安、そして確執が残されているのは間違いない。

 けれどもそれらを全て理解した上で、秋山優花里は逸見カリエを何とか支えて見せたいと願っていた。

 それは受けた数多の恩を返すという至極当然の理由もあったが、優花里は敢えてこの言葉を口にしていた。

 

「カリエ殿は一言で言い表すことが出来ないくらいわたくしとの複雑な関係を持つ方です。ですが、わたくしの友人であることに疑問を挟む余地はありません。友人を助けたいという気持ちに理由なんていらないでしょう」

 

 杏はただ、「任せたよ」と微笑んでみせた。

 優花里に対する信頼だけがそこにはあった。

 

「……大洗を救って貰ってすぐに申し訳ないけれど、たった一人の女の子を救うミッション。きっと私達ならやり遂げられるさ」

 

 

 02/

 

 

 目が覚めて最初に見たのは数え切れないくらいの瞳だった。

 ああ、そういえば優花里たちに医務室に運び込まれて、簡単な診断を受けてから横になって、それで眠ってしまったんだっけ、と冴えない頭でここに至る経緯をトレースする。

 しかしながらその過程でこれだけの瞳に見つめられるような要因など何一つ思い至るものがない。

 カリエは微妙な居心地の悪さを感じながらも、取りあえずは、とのそりと起きあがった。

 

「えと、おはようございます。みなさん」

 

 声を発したその刹那、カリエは人の波に揉まれた。

 バレー部らしきユニフォームに身を包んだ一団からは「根性も大事だけれど、体調不良にはこれ!」と栄養ドリンクのセットを押しつけられ。

 歴史上の人物のコスプレをした一団からは「入院中の暇つぶしにはこれ!」となにやら分厚い書籍を何冊もベッドの中に放り込まれ。

 ツナギが眩しい健康的な一団からは「Ⅳ号戦車の整備に不備があって目眩がしたのだとしたら申し訳ない! 詫びの品はこれ!」と何故かスパナを手に握らされ。

 下級生らしき少し幼い雰囲気の一団からは「これ、風邪を引いたときに効くと思います!」と新鮮な万能ネギを手渡され。

 見事なおかっぱでヘアースタイルを統一した一団からは「夜更かしからくる寝不足は立派な校則違反よ! 今日はこれを飲んで寝なさい!」と現時点で既にいれたてのココアが入ったマグカップが眼前に置かれ。

 

 そこから先、優花里たちが医務室に駆けつけてくるまで、瀑布のような喧噪は収まることはなかった。ただ、体調的には辛いはずなのに、その一時だけカリエは今まで抱えていたわだかまりをすっかりと忘れていたことは事実である。

 だからこそ、やや怒り調子だった優花里に対しても医務室に押し掛けてきた集団を咎めないで欲しい、と申し出ていた。

 そして場面は仕切り直され、戦車道チームを引き連れて華と沙織、そして麻子が医務室を後にした。

 優花里とカリエだけが医務室に残される形だ。

 

「本当に、本当に申し訳有りません! 皆さん決して悪い人たちなんかではなく、いやむしろとても良い人たちなんですけれども、タイミングが悪かったというか、とにかくごめんなさい!」

 

「いや、全然大丈夫だよ。むしろ良い気分転換になったと思う。なんか黒森峰にいた時を思い出すよ。風邪でも引いて戦車道の授業を休もうものなら、翌日にパンターの車長席がお見舞いの品で埋まっていたこともあったから」

 

 ころころと笑みをこぼし、黒森峰での思い出を語るカリエを見れば、そう大事なかったのだと優花里は錯覚を覚えそうになった。

 だがそれは違う、と彼女は心の中で首を横に振る。

 戦車に触れただけで意識を手放す状態のカリエが普通の訳がなかった。

 あの逸見カリエが、戦車に触れられないなどあってはならない現象の筈なのだ。

 優花里は吐き気すら覚える緊張感を抱えながらも、事の本質を突くべく口を開いた。

 

「カリエ殿、単刀直入に聞かせてください。戦車、乗れないんですね?」

 

 それまで医務室に流れていたふわふわとした空気が仮初めのものであったことが暴かれる。

 優花里に本質を問いただされたカリエが見せた表情は、筆舌に尽くしがたい苦悶の表情だった。

 

 葛藤、失望、恐怖、苛立、困惑。

 

 様々な重苦しい感情が、代わる代わる顔を覗かせては消えていっていくのを見て優花里は思わず唾を飲み込んでいた。

 質問のことを悔いるわけではないが、それでも軽々しく問いただすべきではなかったと後悔を滲ませる。

 カリエはカリエで、震える瞳と瞼を押さえつけるように、かき抱いたシーツで表情を覆っていた。

 

「……たぶん、そうです。Ⅳ号に触れた瞬間意識が飛びました。いつかの時みたいに、水を触れた時のように、体が言うことを聞かなかった」

 

 ぽつりぽつりとカリエはその時のことについて言葉を重ねていく。

 その行為は決して触れたくない傷痕をあえて弄くるかの如く、痛く、辛く、苦しいことだった。

 言葉として現状を積み重ねていく度、まるでそれが現実になっていくような錯覚すら覚えてしまう。

 認めたくない自身の今が襲いかかってくる。

 

「――頭ではまだまだ戦車に乗りたいって思っているんです。このまま戦車道を続けて、いつかまたエリカやみほ達と一緒に頑張りたいと思っている。でも、自分のものじゃないみたいにその瞬間には体が拒否していました。駄目だ、と思う間もなく体が戦車から離れていた」

 

 心は離れていないはずなのに、という呟きは余りにもか細すぎて対面している優花里すらも聞き逃してしまいそうなものだった。

 しかしながらそれがカリエの抱く紛れもない本心であることに優花里は気がつくことが出来た。

 カリエは戦車を嫌っているのでも、拒絶しているのでもない。

 

 ただいつか西住の博物館で出会ったときのように、体がついていっていないだけなのだ。

 

 ならばまだ希望はあると、優花里はカリエの方に身を乗り出した。そしてカリエを覆っているシーツをそっと捲っていく。

 この人の泣き顔を見るのはこれで三度目だ、と赤く染まった瞳を優花里は覗き込んだ。

 

 一度目に見たときのように、戦車道博物館でそうしたように、優花里はカリエに語りかける。

 

「――心が離れていないのなら、まだまだ大丈夫です。今の状態は麻疹みたいなものでしょう。人間誰しも、ちょっと不安定になってそれまでに打ち込んでいたものが嫌になることくらいあるんです。わたくしだって、こんなに好きでたまらない戦車道なのに、一度嫌になったことがありました。プラウダとの準決勝で、大洗女子学園の廃校を聞かされたときです。自分の進んでいた道の意味を一瞬だけ見失ったあの時、わたくしは確かに戦車道から逃げたくなった」

 

 でも、と優花里は続ける。

 

「そんな苦しみを乗り越える時はあっという間です。わたくしの場合は記憶の中にいたカリエ殿が背中を押してくれました。あなたがいたからこそ、わたくしは準決勝でも立ち直ることが出来た。なら、わたくしなんかよりよっぽど強い心をお持ちであるカリエ殿が戦車に対する恐れを乗り越えられないわけがないじゃないですか。それに微力ながらわたくしたちがいろいろとお手伝いいたします。困ったことがあったら何でも言ってみてください。難しい問題でも一緒になればなんとかなりますって。ああ、それにお姉さんや黒森峰の皆さん、それのカリエ殿を慕う全ての人があなたの味方なんですよ? みなさんが必ずやカリエ殿をサポートしてくれます。……きっととてもお辛いことが向こうではあったのだと思います。それこそ、新設のわたくしたちでは決して想像できないような惨い現実が。けれども、それもここに来たらなんの心配もいりません。絶対に絶対に、カリエ殿の事を守って見せますから」

 

 緊張のためか早口で紡がれた言葉はともすれば聞き逃してしまいそうなほどたどたどしい。

 しかしながらその言葉、その思いは本物なのだとカリエは感じ取っている。感じ取っているからこそ、こちらに身を乗り出している優花里に向かってその身を預けて見せた。

 カリエが今までそんな仕草を見せたことがあるのは、この世界ではエリカとダージリンだけだった。

 二人の最愛の人にしか見せなかった弱みを、初めて全くの他者にさらけ出していた。

 

「御免、優花里さん。しばらくこうしてても良い?」

 

 姉にも、恋人にも見せられなかった憔悴が今湧き出ていた。

 二人には心配を賭けたくないと、副隊長を罷免されてから被り続けていた仮面がぼろぼろと剥がれ落ちていく。

 縋り付くように優花里の制服の裾を掴んだ白い手は小刻みに震え、一度止まった涙は再びシーツを汚し始めていた。

 

 どうして自分が。

 なぜたった一度の敗北で。

 あんなに頑張ってきたのに。 

 あれだけ努力してきたのに。

 一生懸命前に進んだのに。

 

 どろどろと渦巻いていた負の感情が、見えないふりをしていた嘆きが、慟哭という形をもってカリエの口からこぼれ落ちていく。

 優花里はただただその言葉達を受け止め、カリエを抱き留める腕に力を込めていった。

 こんな彼女に掛けられる言葉などあるはずがないと、ひたすらに歯を食いしばる。

 

 それからしばらく。

 カリエが泣き疲れて再び眠るまで。

 優花里は医務室で一人カリエと向き合い続けていた。

 これから先に控えているエキシビションの話は一切しなかった。

 今自分たちに必要なのは、戦車の話ではないということくらい理解していた。

 カリエが抱えた心の傷を癒やすには、もっと沢山の時間が必要であることを思い知らされていたのだった。

 

 黒森峰からもぎ取った勝利に後悔はない。

 けれども。

 こんな禍根を残してしまうくらいなら、もっと別の道があったらよかったのにと一人夕暮れに嘆き続けていた。

 

 

 03/

 

 

 

 

 大洗女子学園の優勝を記念したエキシビションは、表向きでは大したトラブルもないままに終了した。そこにカリエの姿がなくとも、そもそも電撃的な転校劇が世間にはまだ知られていないのだから、問題にすらならなかった。

 大洗女子学園に属する生徒たちと聖グロリアーナの一部の生徒のみが、カリエが黒森峰から放逐された事を知っているのだから当然と言えば当然である。またそれぞれのグループの長が厳戒な緘口令を敷いたことも大きい。

 転校という事実そのものがなかったかのように、対外的にはいつも通りの両校として振る舞っていたのだ。

 そういった細々とした工作があった上で、当日カリエは、運営委員の一人としてひっそりと大洗女子学園戦車道に関わる形になっていた。

 優花里や杏たちは自宅療養を進めたが、体だけでも動かしたいと希望したカリエが運営委員会に潜り込んだのである。

 身も蓋もないことを言ってしまえば、大洗女子学園側に迷惑を掛けっぱなしであることを気に病んだカリエがせめて何か役に立てないか、と無理を押し通した形だ。実際、戦車道の試合運営に精通しているカリエの助力は初めてエキシビションを開催する大洗女子学園側には大いに役立っていた。

 無名だった新設校が、伝統ある元王者のノウハウを請うことになったのである。

 そして大洗女子学園側の雑用係として裏でちまちまと働いていたカリエが最後に取りかかったのが、アクアワールドから逃げ出したペンギンたちの捕獲だった。さすがに水族館から逃げ出した生き物の捕獲ノウハウなど有しているわけがなかったが、何故かカリエはペンギンに懐かれやすい体質らしく、想像よりもスムーズに作業は進んだ。もしかしたらぼんやり立ち尽くす姿が、ペンギンたちから見れば仲間に見えるようにできているのかもしれない。

 そんなこんなで、全てのペンギンをアクアワールドに返し終え彼女は帰宅の道についた。

 途中、ダージリンからのメールの連絡があったものの、返信どころか開封する勇気すら持てないまま悶々と過ごし、気がつけばとっくの昔に自宅に辿り着いていて、携帯電話をベッドに投げ出していた。

 あのダージリンのことだから、カリエを責めるような文面はまずあり得なかったが、それでも踏ん切りがつかないまま時間だけが過ぎていく。

 学園艦さえ降りてしまえば直ぐに会いに行ける距離にお互いがいるというのに、その距離は無限にも等しい開きを持っていた。

 あれだけ便宜を図って貰っておいて、「戦車に乗れなくなりました」という現状がカリエを縛り付けているのだ。

 

 申し訳なさや情けなさ、悔しさだけが溢れ出ていてダージリンの顔などとても見ることが出来ないのである。

 ましてや、メールすら確認することが出来ないのに、直接顔を合わせることなど不可能だった。

 

 ダージリンもダージリンでそんなカリエの心情を痛いくらいに理解しているからこそ無理に面会を押し通そうとはしなかった。

 そっとしておくのもまた愛だと言わんばかりに、敢えて距離を置いたのである。

 例え直ぐ目の前にカリエが乗り越えなければならない山場である大学選抜対高校選抜の一戦が控えていたとしても、そのことは決して口にはしなかった。恐らくそれは苦渋の決断ではあったが、英断でもあった。

 きっと今カリエにそのことを伝えても、ただ心が砕かれるだけで何の意味もなかっただろうから。

 

 だが、そんなダージリンの深慮と心慮を無に帰すような出来事も並行して進んでいた。

 奇しくもダージリンがカリエへの連絡をこれ以上続けない、とオレンジペコに伝えたのとほぼ同時刻のことだった。

 それはつまり、日が傾き始め、夕焼けが大洗女子学園の町並みを照らしていたまさにその時。

 

 

 動きがあったのは首都の中枢にほど近い、高層ビル群に挟まれた昔ながらの店が密集するエリアだ。

 その中でも特に歴史のある高級料亭の一室で、三人の人物が顔をつきあわせていた。

 辻と呼ばれる職員を伴った逸見——逸見カオリが一つの会談の席を設けていたのである。

 霞ヶ関から日も明るいうちに移動してきた彼女らはある人物に接触を試みていた。

 

「……成る程。文部科学省が何を考えているのか、凡その道筋は聞かせて頂きました。島田流家元として、そちらの申し出大変ありがたく思います」

 

 深々と頭を下げる島田流家元、島田千代を見てカオリは相貌を柔和に崩した。

 

「いえいえ、こちらとしましても今後の戦車道会の発展を願うばかりですから。全国高校生選抜チームと大学選抜チームの対抗試合を実現させることがわたくしどもの悲願であります」

 

 何とも白々しい、と辻は思わず視線を伏せていた。

 最初から最後まで仕組まれたマッチポンプの様相に、彼は感情を完璧に殺すことが出来ていなかった。

 しかしながら隣に座すカオリは対面に位置する千代に向かって笑みをそのままに言葉を重ねていく。

 

「日程の調整等はこちらにお任せください。戦車道連盟に働きかけて高校生の代表選抜を選考していきたいと思います。恐らく本年度の優勝校である大洗女子学園を中心とし、黒森峰、聖グロリアーナ、そしてプラウダで脇を固めた構成になることでしょう」

 

 何処までも妥当で無難な提案である。

 余りに収まりがよすぎるので、却って千代の警戒心を生み出してしまうのではないか、と辻は危惧した。だが、千代はそれに関して特に意見を告げることはない。高校選抜としてそれ相応の実力さえ伴っていれば十分だという考えを持っているが故の沈黙だ。

 大学選抜チームと互角まで行かずとも、それなりに相対できるチームさえ用意してもらえるのならばそれでよかった。

 カオリと千代。お互いがお互いの立場や考えを最初から知っているからこそ、会談とは名ばかりの、これからの対抗試合の細案が摺り合わされていく。

 何処までも政治臭く、何処までも出来レースの話し合いだ。

 ただ辻一人だけはそんなつまらないとも言える会談劇に安堵の息を吐いていた。最初、カオリがいらぬ事を口にしては話し合いをかき乱すのではないか、と心配していたのだ。他者を煽るだけ煽って無理矢理にでも隙を生み出そうとするのが、カオリの交渉のやり方なのである。

 悪辣としか言いようのないカオリに帯同して会談に臨むなど、悪夢としか言い様がなかった。

 そして残念ながら辻の恐れていたことは現実となる。

 会談もそれなりに進み、ようやく締めの頃合いが見え始めたその時だった。

 

「——島田流家元、これはわたくしの素朴な疑問であり愚問だと存じ上げますが一つお聞かせください。大学選抜チームは——そちらのチームを率いられるのはあなたのご息女という理解でよろしいでしょうか」

 

 それまで静かに、泰然と会談に望んでいた千代の眉が初めて動いた。

 余りにも小さな動きすぎて、常人ならば気がつきもしない千代の表情の変化。けれども霞ヶ関という魔窟で生き残り続けているカオリと辻はその変化を決して見逃さなかった。

 カオリは千代の返答を待たずしてさらに口を開いた。

 

「おっと失礼。官僚たる私が曖昧な言葉を使っては示しがつきませんね。だから改めてお聞かせください。大学選抜を率いてくれるのは島田家元の次女様という認識でよろしいでしょうか」

 

 辻は比喩でも何でもなく地雷が踏み抜かれる音を聞いていた。

 彼も噂だけならばそれとなく耳にしたことがある。

 元来、島田流の後継者は二人の姉妹という形で存在していたと。だがそれは今となっては過去形で、島田流を真っ先に継ぐ筈だった長女は家を出奔。親の影響力が全く及ばないような小さな高校に姿を眩ませたと。

 逸見カオリが踏み抜いたのはまさにその地雷である。

 彼女は島田千代に対してここにきてとんでもない挑発を掛けて見せたのだ。

 沈黙が部屋を満たす。

 

 誰も身じろぎ一つしなかった。

 辻は自身の速すぎる心音すら聞いていた。会談の当事者はカオリと千代ではあったが、一番心労を感じているのは間違いなく彼だった。

 そんな苦労人がいよいよ吐き気すら覚え始めた時、ぽつりと千代が口を開いた。

 

「……次女も何も、私には愛理寿という娘が一人いるだけです。まだ十三の子どもですが、私が伝えうるあらゆる技を既に会得しています。必ずや対抗試合を実りのあるものにしてくれるでしょう」

 

 言葉はそれだけだった。

 千代は「これからの予定がありますので」と席を立つ。辻はこのまま行かせてはいけない、と本能的に千代を引き留めようと腰を浮かせかけたが、隣に位置していたカオリが手で制した所為で中途半端な姿勢になってしまった。

 カオリは辻を一瞥することもなく、こちらに背中を向ける千代に向かってもう一度口を開く。

 

「島田家元、わたくしの企みを認めてくださりありがとうございます。ただ、あなたのご息女に最高の舞台を用意してみせるというわたくしの考えは真実であることをこの場をお借りして申し上げておきます」

 

「——黙りなさい。あなたに心を砕かせなくても、私の愛理寿は一人で前に進むことが出来ます。そうね、何処かの双子の姉妹とは違ってつまらないことで足を止めたりはしませんし、無様な外野に引きずり下ろされることもありませんから」

 

 きっとそれは島田千代なりの意趣返しだったのだろう。

 人が世間から隠している事情に精通しているのが自分だけだと思わないことだ、と千代なりに釘を刺した形だった。

 だがその場に居合わせた辻は全く生きた心地がしなかったのも事実だ。

 あくまで丁寧な口調で繰り広げられる舌戦に、彼は神経をすり減らし摩耗させ、ほぼほぼ失っていた。

 特にカオリの本性についてよく知っているものだから、千代の意趣返しは核爆弾級の破壊力を持つものだった。

 姪を侮辱された彼女がどのような行動にでるのか一切想像がつかなかったのである。

 

 しかしながらそんな彼の怯えと恐れは幸いなことに杞憂に終わった。

 

「そうですか。ではその双子たちとご息女、どちらが頂点に立つのか、一戦車道ファンとして心待ちにさせて頂きます」

 

 カオリはただそう述べるだけで、去って行く千代を引き留めなかったのだ。

 料亭の女将によって静かに引き戸が閉じられ、部屋にはカオリと辻だけが取り残された。

 辻はその時になって初めて安堵のため息を吐いたが、カオリはまた別の仕草を見せた。目の前に出された料理と酒を初めて口にし、がつがつと膳を平らげていったのである。

 さすがに辻は呆気にとられて「何をしているんですか」と苦言を呈した。

 全く悪びれもせずカオリは「もごもご」と返答を告げた。

 

「ん? 辻くんは食べないの? これ経費で落ちるから食べとかないと損だよ。例え天下の官僚っていってもここの夕食は我々の財布では持て余してしまう」

 

 ぱくぱくと決して上品とは言えない仕草でカオリは出されいた膳を次々と空にしていく。つられて辻も幾つか箸を伸ばしたが味は全くわからなかった。

 

「……意外って顔をしてるね。そんなに姪っ子のことで暴れない私が珍しい?」

 

 最初から全てお見通しだったのだろう。食前酒を食後に平らげるカオリは事も無げにそう零していた。

 辻は明確な返答を避けたが、否定もしなかった。

 

「さすがに自分から喧嘩売っておいて、相手が反撃したから怒るなんて餓鬼な真似はしないさ。あれはあちらがどれだけこっちの情報に通じているのかカマをかけただけだからね。半分確信めいたものはあったけれど、カリエちゃんが黒森峰を追い出された話、戦車道界隈では広まりだしてるみたいだ。まあ、島田流家元はそれなりに黒森峰の一団と付き合いがあるからね。当然と言えば当然なのだけれど」

 

 言って、彼女は携帯電話を取りだしていた。

 そして辻の言葉を聞くこともなく何処かへ電話をし始める。

 それまでのラフな態度は何処へやら。表向きの逸見カオリとしての顔が電話の向こうに数多の言葉を投げかけていた。

 辻はただ、言葉のやり取りが途絶えるのを数分待ち続ける。

 

「……はい。それでは明日の午前、そちらの邸宅にお邪魔させて頂きます。時間の都合、本当に御礼申し上げます」

 

 ぴ、と通話が切れた。

 カオリの目が辻を見ていた。今日一日で何度も目にしてきた、蛇のような鋭い瞳。

 

「今から羽田に向かうよ。タクシーの中で辻くんは熊本空港行きのチケットを取ってちょうだい。今日中に現地入りして資料を揃えたいから」

 

 辻がどれだけ料理を口にしたのか気にもとめず、カオリは立ち上がっていた。辻はカオリの台詞と、凡そ想像しうる電話の相手を思い浮かべてこれからのスケジュールに目眩を覚える。

 

「まさか逸見課長、明日西住流の家元に突撃するおつもりですか」

 

 何を今更、とカオリは笑った。

 

「そりゃあ、高校選抜から黒森峰をハブにするわけにはいかないからね。挨拶くらいはしておかないと。それに辻くんは興味ない?」

 

 何が、とは言えなかった。

 何故ならその後に続けられるであろう言葉など、容易に想像がついたから。

 

「西住流家元、西住しほは今回の黒森峰の動きについてどう考えているのか、私興味津々なんだ」

 

 無邪気に笑みを零すカオリに、辻は黙って付き従った。

 不本意なことに、辻は自身の好奇心が全くないとは口が裂けても言えなかったのだ。



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逸見カリエの戦車道 05

 ところでさ、とカオリが言葉を漏らしたのは熊本空港から市街地に向かう車の中だった。大手のレンタカー会社から国産セダンを調達し、カオリが運転する形で高速道路を進み続けていたときのことだ。

 助手席でこの後に控える会談の資料を纏めていた辻はおそるおそる「何でしょう」と尋ねていた。

 カオリはぼんやりとハンドルを握りながら、ぽつぽつと口を開いた。

 

「いや、勢いで君をここまで引っ張ってきてしまったけれど、よくよく考えたら大洗女子学園に廃校を伝達する人員として残しておくべきだったなー、と反省し始めているわけ。今日東京に帰ってから連絡してもまだ間に合うには間に合うけれど」

 

 ああ、そのことか、と辻は安堵の息を吐いた。

 あのカオリが少しばかり真面目に言葉を継げていくものだから、すわ何事かと肝を冷やしたのだ。

 辻は決して空調が悪くて掻いたわけではない汗をハンカチで拭き取りながら「段取りはつけてきました」と報告を返す。

 

「信頼できる部下から書面で既に通達するよう手配しています。もし直談判等、直接顔を合わせたいのならば明日以降にスケジュールを確認すると付け加えて。ですから今頃はあちらもおよその事情について察し始めているかと」

 

 そっか、それならいいんだとカオリは再び運転に集中力を傾けていった。

 小規模とはいえ伝統ある一つの学校が廃校の危機に陥れたという現状に、彼女は一切の憂いも後ろめたさも感じていないようだった。

 つくづく恐ろしい女だ、と辻は視線を外に移す。

 空港から市街地に接続されている高速道路はそろそろ終点を迎えつつあった。

 ここからは市内の幹線道路を通して、郊外にある西住邸を目指していくのだろう。

 まだまだ熱を帯びた夏のとある日。

 

 事態は確実に動き始めていた。

 

 

01

 

 

 は? と声を上げたのは誰だったか。

 しかしながら少なくとも、現状について理解が及んでいたのは角谷杏ただ一人だけだった。

 普段ならば大洗女子学園の生徒たちが集うであろう体育館。

 そこに設置されている黒板にはある書面が貼り付けてある。その隣に立つ杏はすっと息を吸い込み、全体に届き渡るような声量で口を開いた。

 

「……大洗女子学園の統廃合の撤回。その条件が変わった。これから開催される高校選抜と大学選抜の試合を勝ち抜くこと、それが新しい廃校撤回の条件らしい」

 

 誰も咄嗟に言葉を紡ぐことが出来ていなかった。

 その場にいたほぼ全員が困惑を抱えたままただ立ち尽くしている。それは、ここまで大洗女子を引っ張り続けてきた秋山優花里も同じだった。

 だが現実はいつも非情で、そのことを痛感している杏は周囲の反応に答えることなく、書面の補足を加えていった。

 

「大洗を存続させるための特別予算が否決されてしまったのがそもそもの原因らしい。何でも、統廃合を計画していた文部科学省が統廃合の撤回を宣言しても、予算を管理する財務省が『一度決まったことだから』と拒否したそうだ。だから文部科学省のある一派が財務省に対して交渉を試みてくれた。それがさっき言った、選抜対選抜の試合での勝利だ」

 

 まだ事態を飲み込めている者はいない。柚子と桃ですら口を半開きにしたままそのばに固まっていた。

 杏はただ一人、淡々と言葉を重ねていく。

 

「世間に対するさらなるインパクトと、関係省庁を完璧に沈黙させる功績が大洗女子学園に必要らしい。私たちが戦う大学選抜チームは、来年日本で開催される世界大会への出場を控えている。そんなチームの技量を向上させることが出来るくらいの――それこそ戦って勝利するくらいの成果が私たちには求められているというわけ。まあ、ごちゃごちゃ説明はしているけれども、私たちが乗り越えなくてはならない壁はたった一つでシンプル。お国が用意してくる全日本選抜相手に勝て、というただそれだけだ」

 

 しん、と体育館から一切の音が失われる。

 大洗女子学園が直面している苦難を知らない、戦車道履修者以外の生徒達が発する無邪気な話し声が校舎の方角から聞こえてくるくらいだった。

 沈黙はそれから十秒ほど続いた。

 やはりこれくらいの反応はあり得るか、と杏が眉を潜めたその時、口を開いたのは一年生である澤梓だった。

 

「えと、高校選抜の一員としての私たちなんですよね? それってつまり、他校の皆さんの助力も得られると言うことですか? もしそうだとしたら、黒森峰相手に戦いを挑んだ決勝戦よりもまだ希望があるんじゃ……」

 

 梓の言葉に同調を示したのはその場にいたほぼ全員だった。表情を変えることなかったのは、生徒会の面々と優花里だけだ。しかしながら、それくらい彼女の告げた言葉には説得力があった。

 何せ自分たちが散々苦労してなんとか勝つことの出来た学校達が今度は味方になってくれるのである。

 これほど心強いことなど中々ないだろう。 

 たとえ相手が全日本選抜だとしても、そこに希望を見いだすのは仕方のないことだった。

 そんな、若干の弛緩した空気が流れる中、黒板の目の前に立つ杏がちらりと優花里を見た。彼女の視線は何か問いを投げかけるような、いや、何かしらの意思疎通を通わせようとするようなものだった。優花里はその視線をじっと見定め、やがて首を横に振った。

 

 今は何も言わなくても大丈夫です。

 

 声にこそ出さなかったが、優花里が杏に伝えたのはそのようなことだった。果たして彼女の真意は杏にきちんと伝わったらしく、杏が体育館に満ちた雰囲気に異を唱えることはなかった。

 ただ、「もうひと頑張りする必要が出てきたから、みんなで一緒に頑張ろう!」と努めて明るく音頭を取ったくらいである。

 それから先、柚子と桃から簡単な今後の予定が告げられて、大洗戦車道チームの面々は解散した。

 学校統廃合の条件が変わってしまったことに関しては腑に落ちないものがもちろんあったが、自分たちならもう一戦くらい勝ち抜くことが出来るという自信もあった。何より、戦車に乗ることが出来なくても、その類い希なる戦術眼を有するカリエがこちらにいるのである。

 自分たちが敬愛する秋山優花里と逸見カリエ。

 二人の奇才と天才がいれば全日本選抜相手でもなんとかなるだろう。

 

 この場にいた大多数の人間がそう考えていた。

 

 

02

 

 

「え? 全日本選抜と試合をするんですか?」

 

 エキシビションを終えた翌日。

 場所は大洗女子学園内に設けられた、戦車道履修者が使用することの出来る専用の会議室。

 その会議室に備え付けられたテーブルの一つに座す人物がいる。まだまだ大洗女子学園の制服姿に違和感を隠し切れていない逸見カリエだった。

 彼女は大会運営の報告書を黒森峰から持参したノートパソコンで作成していた。国内大手のハードウェアメーカーを隠すように、黒森峰の校章シールが貼られた立派な備品である。つまるところ、カリエは黒森峰からいろいろと勝手に持ち出していた。

 そのうちの一つが戦車道履修時に与えられた公務用パソコンなのである。

 何となくそんな事情を察した優花里は「ええと」と言葉を濁したが、同行していた杏は特に気にしたそぶりもなく「うん、そうなんだよ。参っちゃうよね〜」と笑っていた。 

 するすると相手の心の内側に入っていくことの出来る、杏なりの処世術である。

 

「しかもさ、逸見さんはもう知っているかもしれないけれど、前の全国大会、私たちってこの学校の廃校を賭けて戦っていたんだよ。で、その廃校撤回の条件が全日本選抜との試合で勝利することに変わっちゃったんだ」

 

 事も無げに言葉を継げる杏だったが、優花里とカリエ、二人の人物はその動きを完全に止めていた。

 特にカリエは目を見開いて、瞬きすら忘れてしまっている。

 

「え、なにそれ。どういうこと」

 

 残念ながら杏の処世術は失敗した。いや、そもそも処世術の成功など最初から望んでいなかったのかもしれない。 

 もしかしたら心の何処かで、自分の代わりに事態に取り乱してくれる人物を探していたのかもしれなかった。

 彼女だって、飄々とおちゃらけなければ心の均衡が保てなかっただろうから。

 何より、これからのカリエのことを思えばその心の内側に入り込む勇気など持てなかったから。

 しかしながら時間は確実に前に進んでいく。

 カリエに大洗の現状を伝えなければと、優花里はいち早く硬直から抜け出して口を開いていた。まさか杏がこうも簡単にカリエに廃校の危機を伝えるとは思ってもいなかったので、どうしても上ずった声色になってはいたが。

 

「——会長が仰っている通りそのままです。わたくしたち大洗戦車道チームを中心に、各高校から選手を選抜して高校選抜チームを編成。そして全日本選抜チームと対戦し、勝利しなければこの学校は廃校になり消滅してしまいます」

 

 優花里の補足に対してカリエは完全に言葉を失った。優花里と杏はそれが「折角転校してきた学校が再び廃校の危機になる」という事実に驚愕しているのだと思い込んでいるが、実情は全く違う。

 カリエは一つ心当たりがあった。

 こんな事になる予兆は以前から確かにあった。

 

「——そっか。あの人は知っていたんだ。ここがもう一度廃校にさせられることも、その撤回の条件も。だから私はここにきた……」

 

 思わず口走られた言葉に優花里と杏は戸惑いを覚える。廃校の危機に驚かれ、嘆かれる事を予想していただけに、何かに合点がいったような、それでいてさらに深い絶望を覚えたようなカリエの反応は予想外も予想外だったのだ。

 

「なんて、こと。だめだ。もうダージリンさんの期待に応えられない。あの人は折角道を示してくれていたのに。私が黒森峰に戻る道も、大洗の人たちを救う道も示してくれていたのに。私はその道を進めない!」

 

 ガン! と椅子が床に打ち付けられた。

 激しく立ち上がったカリエは会議室内をうろうろと彷徨う。

 

「なんで、なんで、どうして乗れないんだ! こんな大事なときに! 全部解決できる道がそこにあるのに! みんながここまで私を引っ張ってきてくれたのに!」

 

 落ち着いて! とまず杏がカリエに飛びついた。だが体格差が大きすぎて全く抑止力にならない。

 杏とカリエの取っ組み合いを目の当たりにして、ようやく我に返った優花里が次に動いた。

 正面から抱きすくめて、いや殆ど拘束するように抱き込めて、カリエは何とかその足を止めた。

 ぐっと、後ろから杏が両腕を押さえなければそのまま自傷に走りそうな様相だったものだから優花里は気が気でなかった。

 

「逸見さん、ひょっとしてダージリンはあなたを黒森峰に復帰させるため、そして私たちの廃校問題を解決させるため、あなたをここに転校させたんだね」

 

 背後から杏が問う。カリエはただ首を縦に振るだけ。

 

「そっか。合点がいったよ。確かに全日本選抜を相手取るには、秋山ちゃんだけだと大洗のブレーンが足りなさすぎる。そこでそんな弱点を埋めるためにダージリンは逸見さんを送り込んできたんだ。そして逸見さんからしてみれば黒森峰に復帰するいい足がかりになる。言わば一挙両得。一石で二羽を得る一手だ」

 

 杏の理解が優花里にも伝播した。まさかそんなことが、と腕の中のカリエを見やる。

 優花里の視線を受けたカリエは、もう一度首を縦に振った。

 そして、「けれども」と前置きをしてこう告げた。

 

「今の私にはとても戦車を指揮することなんてできません。もしこうなることを知っていたらもっとしがみついてでも戦車に齧り付いていたのに。一度戦車を否定してしまったから触れることすら出来なくなってしまった」

 

 彼女が零したのは己の心の弱さだった。

 無理矢理にでも、自身の畏れを飲み込んでさえいれば戦車に乗ることが出来たのかもしれない、という後悔。

 ここでなら、大洗ならば、自分が戦車を拒否しても生きていくことが出来ると考えていた身勝手な卑怯さ。

 事態が進めば進むほど自己の醜さが浮き彫りになってきて、カリエは嫌気を覚え始めていた。

 

 今まで誰もからも愛されていたからこそ、此度の排除劇に打ちのめされた。

 黒森峰という、強大なバックボーンがあったからこそ、廃校という危機を直視できない。

 姉という、エリカという守護者がいたからこそ、今の八方ふさがりに絶望する。

 

 なんで、どうして、と声にならない声を漏らした。

 うめき声のような苦悩はそれから数秒ほど続く。

 そして一切合切言葉を発しなくなってからたっぷり二分ほど。

 最後にぽつりと零したのは、間違いなくカリエの今の本心。

 

「どうして、私ばかりこんな目にあうんだ」

 

 

03/

 

 

 会議だけでも参加させて欲しい、と懇願したのはなんとか落ち着きを取り戻したカリエだった。

 廃校の報を受けて随分と取り乱した彼女だが、さすがと言うべきか何とか表面状の均衡だけはその後に取り戻して見せた。

 ただでさえ戦車に乗ることが出来ないのだからせめて情報提供だけでも、と考えたのかもしれない。

 杏と柚子に桃、そして優花里にカリエの五人が囲むテーブルの上には、現時点で判明している全日本選抜の資料が羅列されている。

 そこに全日本選抜について、少しばかりの知識を有しているカリエが細かな情報を付け加えていた。

 

「全日本選抜は大学生を主体としたチームです。全国から選りすぐりの精鋭を掻き集めています。仕様車両はレギュレーションギリギリの、大戦後期に設計された車両が大半で、あのセンチュリオンも導入されています」

 

 せんちゅりおん? と生徒会の面々が首を傾げたのを見て、優花里は「これを見てください」と手にしていたタブレットPCを操作した。

 そこには簡単な性能表と優花里による私見が表示されている。

 

「イギリスが対戦後期に開発した傑作戦車です。装甲、火力、機動力、全ての値が高水準で纏められている言わば怪物です」

 

 だが優花里の説明が簡素すぎたこともあり、三人はまだまだピンと来ていない様子を見せている。

 優花里は「ええと」とカリエの方を覗き見た。何故ならこれから先、三人にわかりやすいようにセンチュリオンの性能を伝えるにはカリエが搭乗していた車両たちで例えるのがてっとり早いと感じたからだ。しかしながらカリエの心情を思う気持ちが寸前のところで優花里を踏みとどまらせている。

 カリエもそのことに気がついたのだろう。

 心配はいらないよ、と自ら口を開いた。

 

「私の乗っていたパンター並の装甲を持ち、エリカ——姉が乗っていたティーガーⅡ並の攻撃力を有し、ダージリンさんが乗っているチャーチル並の機動力と踏破性を持っているということです。残念ながら高校戦車道会において、この戦車に匹敵するだけの性能を持つ車両は存在していません」

 

 ここにきて、三人ともようやく事態の深刻さを噛みしめ始めた。

 技量面では高校生であるこちらが不利に立たされているということは自覚していたが、黒森峰やプラウダ、そしてグロリアーナと連合を組んでもなお車両の性能で不利に立たされるとは考えていなかったからだ。

 高校戦車道会のスリートップが束になってもセンチュリオンを超える性能の戦車は用意できないという事実は間違いなく凶報だった。

 しかも大洗にとって逆境となる事実はまだあった。

 そのことをここにいる五人の中で一番よく理解している優花里が「大変申し訳ないんですけれども」と前置きを一つ置いてこう続けた。

 悲報はこのタイミングで伝えきらなくてはならないという使命感が彼女を突き動かしている。

 

「全日本選抜を率いる隊長――島田亜里寿殿はわたくしのもう一人の戦車道の師匠です。ていうか、大洗の戦車戦術に関しては彼女からの教授が殆どです。そんな亜里寿殿の実力についてはもはや語るまでもありません。日本のアマチュア界では西住みほ殿と並んで間違いなく頂点にいる方。現時点における日本最強の戦車乗りといっても過言ではないでしょう。例えこちらが高校選抜として各校のベストメンバーを招集することが出来たとしても、厳しい戦いになることは明らかです」

 

 厳しい戦い。

 精一杯現実を濁した優花里なりの表現だ。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、勝ち目など殆ど残されていない試合である。

 車両の性能で圧倒され、技量ではトップ層こそなんとか食らいついているものの絶望的に人員が不足している事実。

 これで勝てると楽観視するなどどだい不可能である。

 先ほど優花里と杏が交わしたアイコンタクトはこのような惨状に薄々気がついていた二人なりの気遣いの表れだったのだ。

 

「……しかもこの書面を確認する限りルールはフラッグ戦ではなく殲滅戦。つまり互いの車両、どちらかが全滅するまで続けられる試合形式です。間違いなく車両の性能差があとあとに響いてくるでしょう」

 

 優花里に加えてカリエも絶望を提示する。この五人の中で一番戦車道経験が豊富な人物の言葉だけに、その重みは計り知れないものがあった。

 フラッグ戦ならば奇襲と奇策を駆使すれば一抹の可能性くらいあっただろう。

 そのわずかばかりの、存在するか存在しないのかあやふやな希望さえ粉砕されてしまった四人の心情は果てしなく重たいものとなっている。

 

「――はっきり言って勝ち目はゼロです。私から姉やみほ、そして小梅に助力を願い出てもこの戦力差は覆せません。ダージリンさんに頭を下げてグロリアーナの全面協力を取り付けても同じ。プラウダに願い請うてカチューシャ達の戦車群を揃えてもかわらない。……これが今の私から言える全てです」

 

 カリエのその言葉を持って、即席の会議は終了した。

 次の日程も、今後の調整も何も話し合われなかった。

 時間が逼迫していたとか、他に議題があったわけではない。 

 ただこれ以上五人で顔を合わせ続けても先はないと薄々感づいていたからだ。

 

 

 04/

 

 

 正直言って、心身ともにボロボロだった。

 

 黒森峰を追い出され、転校した先では戦車に乗ることが出来ず、さらにその学校が廃校の憂き目にあっている。

 全てが全て悪い方向に向かっていると言って良い。

 あらゆる人の悪意と、身近な人々の善意が重くのしかかってくる。

 常時感じるプレッシャーの所為で吐き気は常在化しているし、負にまみれた感情はとことんこちらを追い詰めてくる。

 もう全てを投げ出してただの女子高生としてふらふらと生きていくのもいいんじゃないか、とさえ思えてくる。

 

 けれど。

 けれども。

 

 気がつけば優花里たちが整理してくれた本棚をひっくり返していた。

 これまで集めてきたあらゆる教本と資料を引っ張り出し、自身の覚え書きすら床に並べていく。

 そしてそれら全てを一度は開き、優花里たちに伝えなければならないと感じた項目は全て新品のノートに書き写していった。

 ほんの些細な注意事項から、戦術の根幹に関わる大局的な視点まで、カリエがこれまでに培ってきた技術という技術を刻み込んでいく。

 

 もう戦車には乗れないかもしれない。

 もうこの道で戦えないかもしれない。

 

 でも、とカリエは拳を握り込む。

 ここから先の道が見えずとも、自らが歩いてきた道というものを否定する必要はないのではないか。

 この先に足が進まなくとも、進もうとしている人間に自分が歩いてきた道を伝えることは出来るのではないか。

 その思いだけでただひたすらにペンを走らせていく。

 

 何かしらの大会で得た教訓を描き込めば、その瞬間、一刹那まで脳裏に鮮明に場面が蘇った。

 姉やみほ、そして小梅から学んだことを記せば三人との思い出が思い出された。

 ダージリンとの決闘での心境を振り返れば、今この瞬間でも乗り切れそうな気がしてきていた。

 これまでの戦車道に携わってきた人生の全てが、一晩のうちにカリエの中を駆け巡っていく。

 

 カリカリと、ペンだけが奏でる音が部屋に響く。

 アクセントとなるのはページをめくる音と、一息ついた呼吸音のみ。

 

 日付が変わって、月が沈んで、新聞配達のバイクが走り回って、朝日が再び上り詰めたその時。

 

 カリエはようやく手を止めてふと横になってみせた。

 使い切ってしまったボールペンたちと莫大な量の資料に囲まれながら天井を見上げる。

 

 あれだけ心身がボロボロだったのに。

 久しぶりの徹夜で体力なんて残っていないはずなのに。

 

 何故だが久しぶりに、自然と笑みがこぼれていた。

 

 

05/ 

  

 

 名家にもなると、来客用の茶ですらこんなにも旨いのだな、とカオリはくだらない感想を抱いていた。

 彼女は今、古き良き日本屋敷の一室にいる。付き人として連れてきた辻はいつものように隣で脂汗をかいている。

 和室でもしっかりと空調が効いているだけに、彼が流す汗の性質を思えば愉快さすら滲み出てきていた。

 

 まあ、気持ちはわからないでもないけれど。

 

 とん、と一口だけ口にした湯飲みを手放し、小さく息を吐く。

 そして、対面に座す人物をちらりと見る。

 島田流家元の島田千代が流麗な貴婦人だとしたら、こちらは堅牢な武人だった。

 

 西住しほ。

 

 つい最近、西住流の家元を襲名した西日本戦車道会の長。

 その名声も実力も計り知れないまさに伝説的人物である。聞けば黒森峰の馬鹿げた連覇劇も、この人物が一端の指導者として学園に関わったことから始まったのだとか。

 逸見カリエを取り巻くゴタゴタを紐解いて行くには、この人物への接触は必要不可欠。

 しかしながら、さすがのカオリも「これは一筋縄ではいかない」と思考を高速に張り巡らせていた。 

 こちらが一物抱えているような印象を抱かせてしまえば、そこでこれから先の門戸は閉ざされてしまう為である。

 島田千代のようにこちらの挑発に少しでも乗ってくれればやりようはあるのだが、西住しほという人間について考えたときそれは余りにも望み薄な目論見だった。

 何せ、誰よりも「己」というものを見つめ続け、誰よりも「己」に克つことを至上としてきている人物なのだから。

 カオリからの外的刺激など、まさに何処吹く風であることなど最初からわかりきっていることだった。

 

 つまるところ、逸見カオリが相性的にもっとも苦手とする性格や資質を有しているのが西住しほという人物なのである。

 あのカオリですら慎重に事を進めていかなければならないと警戒心を抱いているのだ。

 だがその分見返りは大きいはずだとカオリはぐっ、と息を呑んだ。

 

「——家元も襲名されて大変お忙しい中、私どものような者の為にお時間を御都合して頂き本当に有り難うございます。此度は黒森峰女学園でのある動きについてご意見を承りたく参上いたしました。平にご容赦を」

 

 カオリが深々と頭を下げたのと同時、辻も全く同じ動きをしていた。

 ここまでは想定の範囲内だと、カオリは現状を分析する。そしてこのタイミングで会談が始まるのだ、と予想を立てた。

 果たしてその読みは正しいものだった。

 こちらに視線を寄越すしほが、眉一つ動かすことなくようやく口を開いたのである。

 

「話はみほ——いえ、娘から伺っています。どうやら戦車道履修者の一人が今回の準優勝の責を問われ罷免されたのだとか。その事に関して、黒森峰に在籍する複数の生徒の署名が書きつられた嘆願状が娘から届けられてもいます」

 

 言って、どこからともなく封筒に収められた書状が取り出された。

 決して薄くないそれは集まった署名の数を物語っている。

 

「……では西住家元は何かしらの抗議などのアクションを学園に起こされるのですか? それとも此度の決定は既に定まったものだと静観されるのでしょうか?」

 

 カオリの疑問にしほは即答しなかった。

 ただ机の上に置かれた封筒をそっと一撫でして、数秒ほど経過してから言葉を口にした。

 

「私は西住流の長である前に、様々な側面を抱えた人間であることを自覚しています。それは二人の娘の母親であったり、もしくは黒森峰という学び舎を後にした学徒の一人だったり。西住の長としては学園の決定に異論を挟むつもりはありません。これ以後の学園が勝利を積み上げていく度に件の一生徒が不要ならば排除すべきでしょう。何せ、勝たなくては意味がないのですから」

 

 やはりこの人は武人だ、とカオリは直感した。

 たとえ我が娘が糾弾の対象になったとしても、顔色一つ変えずにその運命を受け入れるだけの覚悟と芯を抱いているのである。

 現代日本にこれほどの人物がまだ残されているとは、と驚きを感じずにはいられなかった。

 何処までも公人として振る舞うことの出来る鉄の人が、西住しほという人間なのである。

 けれどもカオリはそこで早合点をすることはない。

 究極の公人として振る舞うことが出来たとしても、その心の奥底にある感情はそうとは限らないからだ。

 しほの言葉に込められた別の意味を見逃さずに正確に汲み取っているカオリは、彼女の本当の考えを読み解いていく。

 彼女は敢えて「様々な側面」を抱えていると前提を示した。

 そして娘から手渡されたという嘆願状をこの会談の場に持ち込んでいる。

 それが意味するところをここで問うべきかどうか迷いを感じたが「無粋だ」と囁く己の本心に従って、そこから先、何も疑問を投げかけることはなかった。

 あとは事務的に、高校選抜と全日本選抜の試合が行われることを告げ、幾つか意見を請うたくらいである。

 辻が何かを言いたそうにずっとカオリを横目で盗み見ていたが、カオリは敢えて無視を貫き淡々と会談の内容を前に進めていった。

 やがて小一時間ほど経過したとき、西住しほのスケジュール的に時間切れとなり両者の意見交換はお開きとなったのである。

 島田千代の時よりもさらに短い間隔で、二人は西住邸を後にすることになった。

 

 まだ日も高い帰り道を、行きの時とは違い、辻の運転で辿っていく。

 西住しほとの会談を終えて「疲れた」とカオリが嘯いたので運転を交代することになったのだ。

 ドア部分に頬杖をつきながらカオリは背後に流れていく熊本市の市街地をぼんやりと眺めている。

 

「……勝利のためには致し方なし。だが一人の親として、一人の元学徒として面白くはないわけ、か」

 

 ぽつりと零された呟きに辻は反応した。

 

「だからわざわざ嘆願状のことを私どもに見せつけられたわけですか。でも、——だとしたらわからないことが一つあります。西住しほという人物は黒森峰OGとしては最上級の格を有している方。どうして今回の責任追及劇に対してあそこまで超然とされているのでしょう? 勝利のためなら致し方なし、という言葉にはそれ以外は許されないという意味が込められている筈です。客観的に見て、今回の責任追及劇は全く理に叶っていない。後先の考えられない駄々っ子のような思惑が透けて見える。ならばそれは西住氏にとってもっとも唾棄すべき事態なのでは?」

 

 辻の言葉にカオリは頷いた。頷いて、行きとは真逆の景色を見やりながらこう返した。

 

「——ならば、黒森峰のOGですら逆らえないような何かしらの権力の介入があって、西住家元とはいえ口出しが出来ない、ってところかな。つまりOGたちは積極的にカリエちゃんを追い出したかったのではなく、何か追い出さなければならない事情があったということになる。そしてそのことを知っている西住家元は苛立ちを覚えつつも現時点では静観を決め込んでいるわけだ」

 

 ありえない、と辻は首を横に振った。

 

「だとしたら全く意味がわかりません。誤解を恐れずに言ってしまえば、あなたの姪さんにそこまで執着する価値などない筈です。だってたかだか高校生の、一選手に過ぎないはずだ。OG会ですら従わせることが出来るような権力がそんなミクロの視点で動くなど滑稽にも程があります」

 

 だよねー、とカオリは気のない声を返した。

 しかしながらその推論がもっとも現状を説明することが出来るとカオリは付け加える。

 

「本当、今回の事件は何から何まで不可解で意味不明だ。だからこそ我々はこんな回りくどい、搦め手のような手法で一つ一つ外堀を埋めて行くハメになっている。——もう今だからゲロっちゃうけれど、今回の選抜戦、私の発案であって私の発案じゃないから」

 

 は? と間抜けな声が車内に響いた。

 カオリは「だよね」と珍しく苦笑を漏らしながら続ける。

 

「カリエちゃんが決勝戦に敗れたその日には私の元に選抜戦開催の計画書が届けられていたんだよ。差出人は文部科学省のとあるお偉いさん。けれどもそのお偉いさんは判子を押して認可しただけで発案者ではなかった。発案者自体は「全日本戦車道発展運営委員会」とかいう怪しい委員会。実態について調べたけれど、所属の人間等々殆ど不明瞭。この世界では珍しくもなんともないペーパー委員会って奴だ。天下りや利権獲得のための書類だけの会だよ。けれどもそんな名前だけの委員会が実際に私の上司に働きかけて計画書を認可させている。不思議だよね」

 

 意味がわからない、と辻は珍しく素の声色で漏らしていた。カオリも同じ心境なのかそれを咎めることなく「その通りだ」と相づちを打つ。

 

「もっと正確に言えば選抜戦を行う、という計画案だけ提示されていたんだ。もう君なら薄々わかっているかもしれないけれど、私がその計画案を乗っ取った形だ。まあ、でもその乗っ取りすら最初から織り込み済みだろうけどね。私がカリエちゃんをフォローするために計画を利用することが読まれていたわけだ」

 

 ならあなたは素直にそれに従ったんですか、と辻が問う。

 カオリは数拍ほど置いてからこう言葉を返した。

 

「……あの子のためなら誰かに引かれたレールを進むことくらい何てことないよ。例えそれが私を嵌める為の深淵の入り口であってもね」

 



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逸見カリエの戦車道 06

すいません。予定より遅れました。


 優花里が見守る中、カリエはⅣ号戦車のハッチに触れていた。

 戦車から感じる刺すような緊張感は相変わらずだが、押さえ込めないほどではない。

 よく手入れされているのか、想像していたよりもスムーズに蝶番がすべり、砲塔の左側面にある乗降口が開いた。

 やはり、とこの時点でカリエはある確信を持つ。

 恐る恐るではあるが、身を車内に潜り込ませていけば、黙って見守っていた優花里がいよいよ口を開いた。

 

「——本当に大丈夫ですか、カリエ殿」

 

 言葉には首肯のみしか返せない。何せカリエの全神経はⅣ号戦車に入り込んでいく己の全てに注がれているのだから。

 

 足が床につく。

 ついに全身がⅣ号戦車の中に収まった。

 薄暗い車内に目を慣らすように、瞳を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。

 そしてそのまま周囲を見渡せば可愛らしいイラストがあしらわれたホワイトボードや、壁面に紐で吊された数冊のノートが目に入った。

 よく見てみればそれぞれの乗員の座席にはクッションが敷かれている。

 空ではあったがクーラーボックスも鎮座しており、彼女たちがどのような思いで戦車に乗っているのか窺い知ることができた。

 

 思わず零れたのは、自分でも驚くような朗らかな笑い声。

 

 緊張感は随分と和らいでいた。

 クッションに触れ、座席に座り込んでも何もない。

 

 やはりそうか、と確信が間違っていなかったことをカリエは悟った。

 

 次に車長席を見上げる。丁度、装填手の位置からだった。自分もここからならああいう風に見えていたのか、と暢気な感想を抱く。

 そっと車長席に手を伸ばした。

 触れれば幻痛を感じた。

 どうやらここに座ることは無理そうだ、とあっさりと手を離す。

 カリエはそのまま、装填席に腰掛けてぼんやりと天井を見上げた。

 少し余裕が出てきたのか、Ⅳ号戦車のにおいの事を考え始めていた。

 自身のパンターとはまた違う、女の子らしい柔らかなにおいがする戦車だと思っていた。

 なんだか変態くさいな、と微妙な感情が湧き出てきていたが不思議と嫌な気持ちではなかった。

 

「あの、カリエ殿?」

 

 ふと頭上から声がした。

 振り返って見上げてみればいつのまに移動したのだろう。車長席から優花里がこちらを見下ろしていた。

 彼女はどこか安心したような、それでいて困惑を隠しきれない表情をしていた。 

 まさか車内のにおいについて考えていました、とはさすがのカリエも口にすることが出来ず、「ごめん。考え事をしてた」と誤魔化して見せた。

 優花里も深く追求するつもりはないのか、「そうですか」と直ぐに相貌を崩す。

 

「やはり車長が駄目なのですね」

 

「うん、車長が駄目みたいだ。でもここなら特に問題ないと思う。やっぱりあなたに負けたあの瞬間をそこで過ごしたのが目に焼き付いて離れないんだろうね」

 

 そう。

 何もかもが絶望的な現状において、大洗女子学園に一つだけ光明があった。

 それがカリエの戦車恐怖症が実は限定的なものではないか、というカリエ自身が立てた仮説である。

 本当に戦車の一切合切が駄目なら、徹夜で戦車道に関する覚え書きを作成できるわけがない、とカリエは気がついたのだ。

 それに車長席に収まらなかった——パンターに腰掛けてエリカとの最後の夜を過ごした事実もカリエの仮説を後押ししていた。

 ならば善は急げ、と覚え書きを提出したその足でカリエは優花里にそのことを報告したのである。

 あとは付き人を優花里にそのままお願いして、早速実験に乗り出したのだ。

 結果としては——カリエの仮説が正しかった。

 

「今のⅣ号戦車は装填手と通信手が沙織さんによる兼任制になっているんだよね。なら沙織さんには通信手に専念して貰って、私が装填手をするよ。一応向こうでは一通りの役割がこなせるように訓練は受けているし。たぶん無理に兼任して貰うよりは早く装填できると思う」

 

 確かにカリエの言うとおりだと優花里は理解する。現状、通信手と装填手の二足の草鞋を実行している沙織の負担はそれなりに大きいものだ。

 その問題が解決できるのならば、カリエの提案に乗るべきなのだろう。

 だが即決できない事情ももちろん存在する。

 

 それは、あれだけ戦車に一度は拒絶を示したカリエをここに引き摺り込んで良いのか、という疑問。

 そして何より、「Ⅳ号戦車」に負けたカリエの心情を見て見ぬふりをしてよいのだろうか、という罪悪感。

 

 ぐっ、と返答に詰まった優花里の視線が中空を彷徨う。そんな優花里をカリエはじっと見つめた。

 優花里を射貫くカリエの瞳は驚くほど澄んでいて、いつか憧れた美しさが残されていた。

 恐らくカリエの思いは至ってシンプル。

「なんとか大洗女子学園の廃校を撤回させたい」というただそれだけなのだろう。

 せめて一度受け入れてくれたのなら、その恩義は必ず返したいと考えるのが今のカリエなのだ。

 

 特大の悪意に身を落とされただけに。

 人からの優しさには最大限の力を以て報いようとする。

 

 ならば今この瞬間、カリエの提案を受け入れることは、そんな弱り切ったカリエに付けいることになるのではないかと、優花里は危惧し始めた。

 しかしながらそんな優花里よりもカリエの方が幾ばくか上手だ。

 優花里の中で芽生え始めたいらぬ心配を払拭するように、言葉を重ねた。

 

「私に乗らせて。お願い優花里さん。これは私の我が儘。エリカやダージリン、そしてあなたたちにこのままじゃ顔向けが出来ないんだ。戦術だって提案できないかもしれない。指揮なんて今のままじゃ到底無理。けれども何か一つ、ここまで私を支えてくれている人に何かを返したい、っていう私の我が儘をどうか聞いて欲しい」

 

 決まりだった。

 そこまでの思いを語られてしまっては、優花里に断るという選択肢は選べなかった。

 ただ静かに頭を下げて「よろしくお願いします」と言葉を返すのみ。

 

 こうしてカリエは、選抜戦を装填手として戦うことになった。

 

 

 02/

 

 

 大洗女子学園の角谷杏の名前で幾つかの高校に書状が届いていた。

 ここ黒森峰女学園でも同じ事で、届けられた書面を戦車道ガレージの中で履修生の全員が取り囲んでいる。

 

「……ついに来ましたね。これがカリエさんを取り戻すための戦いですか」

 

 小梅の言葉にみほが力強く頷いた。

 

「お母さんに私たちの署名を預かって貰ったけれど、最後はやっぱり自分たちの手で掴み取らなきゃいけないと思う。だからこれは絶対に負けられない戦い。決勝戦で私たちに勝った大洗女子学園に思うところがある子はたくさんいると思うけれど、今は黒森峰一丸となって戦うべきです」

 

 誰からともなく、「はい!」と力強い肯定が集団から湧き上がる。

 まだ見えぬ敵から追放されてしまった副隊長を取り戻す戦い。それが此度の選抜戦であることを、黒森峰の戦車道履修生たちは全員がみほたちから聞かされていた。その為か、今の黒森峰女学園に流れる士気は先が見えぬほど高い。

 中でも、車長を意図せずして失い、敬愛と忠誠心を向ける相手を奪われたカリエのパンターの乗員たちが顕著だった。

 彼女たちは今にも掴みかからんばかりの勢いで書状を読み込んでいる。

 

「……私たちからの参加車両数は大会規定で定められているのね。合計四両。みほと小梅、そして私。この三両は決定と言うことで良い?」

 

 異論は湧かなかった。現黒森峰における最高戦力の三両である。当然と言えば当然だった。

 だが残りの一両——この枠をどの車両で埋めるかは随分と議論が紛糾した。

 

「車両構成を考えれば、重戦車で固めるのがよろしいかと。大洗は基本的に中戦車以下の構成ですし、プラウダを除けば他校も同じような事情です。ならば私たちは連合軍の一角として攻撃力に秀でた重戦車部隊を編成するべきです」

 

 小梅の提案にみほは一理あると頷いた。だがそれに反論したのはエリカだった。

 

「私は残りの車両を偵察もこなせる中戦車——Ⅳ号戦車が理想だと思うわ。参加車両の多さを考えれば使い勝手の良いマルチプレイヤーがどうしても必要よ。即席のチームで余り連携が取れないことは目に見えているのだから、私たちの部隊だけである程度の作戦能力は維持するべきだわ」

 

 成る程、とエリカの意見にもみほは肯定を返した。

 正直なところ、二人の意見はそれぞれがそれぞれとも正しい。どちらも黒森峰が取るべき戦略だろう。ただ、視点が違うだけだ。

 ふと、白熱した議論が一度静まる。

 原因はみほの雰囲気にあった。深く椅子に腰掛け、書状をじっと見つめる彼女の姿にこれ以上自分たちが口を挟むべきではないと皆が判断したからである。

 皮肉なことにカリエが抜けたからこそ、黒森峰にはみほを絶対中心に据えたカリスマ的組織構造が芽吹き始めていたのだ。

 そしてそれが今回はプラスの方向に働いている。

 

「わかりました。残りの車両は重戦車で固めたいと思います。エリカさんの意見も尤もですが、やはり今回は中心校が大洗女子学園ですので、あちらの学校に足りていない戦力で参加しようと思います。連携の問題も、大洗女子学園側にいるカリエさんがフォローしてくれるでしょう。どの車両の車長をするのかはわかりませんが、カリエさんも重戦車で固めた部隊で援軍を受けた方が普段通りの采配を振るえるかと思います」

 

 みほが選択したのは小梅の提案だった。ただ選ばれなかったエリカも特に思うところはないのか、大人しく「わかったわ」と頷いている。

 あくまで最善の形を話し合っただけで、議論することが本題ではないのだから当然の反応ではあった。

 選抜戦をカリエと共に勝ち抜き、黒森峰に凱旋させる、という目的が果たせられれば手段など何でもよかったのだ。

 実際、みほの決定に異論を挟むものなど誰もおらず、実際の編成をどう組むか、という議題にシフトしようとしていた。

 みほも手にしていた黒森峰の編成表を取り出し、選抜戦へ向けての戦略の構成に思考を傾け始めている。

 

 その時だった。

 

 次の場面へと移行しようとしていた空気に佐久間ナナが一石を投じたのは。

 

「あの!!」

 

 声はよく響く。

 編成会議を始めるよう意識を傾けていた全員がナナを見るほどには。

 

 彼女に対する黒森峰の戦車道履修生たちの感情はおおむね好意的で同情的だ。

 カリエに対する真っ直ぐすぎる忠誠心はあまりにも有名で、カリエの転校に頑として反対し続けたのも我が儘などではなくその忠誠心の表れなのだ、と評価されていた。

 みほや小梅、そしてエリカもその面については大いに認めており、カリエのパンターの人員の一人として、他の車両に編入させずそのままにしている。

 つまりカリエが復帰したあとの操縦手の地位が約束され続けているのだ。

 ただ主人を失ってしまった犬のように見られているのもまた事実だった。ナナの圧倒的な操縦技術はカリエという主人がいるからこそ成り立っているのだ、という見方もあるくらいには。実際、カリエがいなくなってからのナナはケアレスミスも多く、その実力を十全に発揮できている状況とは言いがたい。

 

 そんなナナだからこそ、この場面で声を上げたことは否応なしに注目を集めていた。

 

 みほがナナの前に立つ。

 どうしたんですか? と柔和な表情が語りかけた。しかしながらその背景にちらつく圧倒的なカリスマ性はナナを一瞬でも萎縮させる。

 ナナはぐっ、と何かを堪えながらもみほの前に立ち続けた。

 

「わ、私を選抜戦に連れて行ってください!」

 

「……それは参加する車両の操縦手をつとめたい、ということで良いですか?」

 

 周囲で聞き耳を立てていた人間は「なるほど」と一定の納得を見せていた。

 確かに十全ではないとはいえ、ナナの実力は黒森峰においてトップクラスだ。選抜戦に参加する車両の操縦手をつとめあげることは理に叶っている。

 ここでナナが声をあげたことはごく自然なことであると、皆が考えていた。

 ただ例外が二人いる。

 それはみほとナナだ。

 

 ナナが絞り出すように口を開いた。

 

「いえ、私を、私たちを連れて行って貰いたいのです。副隊長が指揮されていたパンターとその乗員を連れて行ってください」

 

 は? とガレージの空気が凍った。

 まさかナナが車長不在の自分たちを連れて行けなどと言い出すなど、誰にも予想が出来なかったからだ。

 そんな空気の中でみほだけが周りとは違った反応をナナに返す。

 

「……何となく予想はしていました。あなたたちはカリエさんの居場所になりたいんですね」

 

 みほの言葉に「そんなこと」とエリカが言葉を漏らした。けれども彼女も何か思うところがあるのかそれ以上口を挟むことなく、黙ってナナの言葉を待った。

 その場にいる全員の視線を受けながらも、ナナは気丈に言葉を連ねていく。

 

「はい、副隊長がもう一度私たちの車両に乗ってくれるのかは正直わかりません。もしかしたら黒森峰よりも大洗で戦う方が良いと考えておられるかもしれません。ですが! 私たちは副隊長がいつでもこちらに帰ってこられるよう、副隊長の居場所を守り続けたいんです! いつでも帰ってこられるように、お側にいたいんです!」

 

 気がつけば、ナナ以外の乗員たち——装填手、通信手、砲手の隊員たちもナナの隣に立っていた。

 そしてナナと同じようにみほへ懇願を口にする。

 

「私たちからもお願いします! 必ず役に立ちます! 副隊長が戻ってこられるよう、全力を尽くします!」

 

「決勝戦では撃破されましたが、同じ轍は二度と踏みません! ですからどうか!」

 

「お願いです! 西住隊長! 私たちを選抜戦に連れて行ってください!」

 

 しん、と一瞬ガレージの喧噪が静まる瞬間がきた。

 パンターの乗員たちが一様に頭を下げて、その前にみほが立つという構図ができあがった瞬間だ。

 みほは静かに乗員たちを見渡した。彼女はそのままパンターの乗員たちへ問いかける。

 

「車長が不在ですがそれはどうするんですか?」

 

「私が代理としてつとめます。幸い、副隊長からは手ほどきを受けています」

 

 ナナが面をあげた。確かに副隊長車の操縦手を任されているだけあって、そんじょそこらの中堅校の車長なんかよりも状況判断力、指揮力は勝っている。だがそうなればナナがつとめあげていた操縦手はどうなるのか、とみほは問いを重ねた。

 

「それは私がやります。通信手が装填手を兼任する形でパンターを運用します」

 

 次に面を上げたのは装填手の少女だった。彼女もまた、黒森峰でレギュラーを張るだけあって操縦手としての技能も一応持ち合わせている。

 しかしながらそれぞれが一線級かと言われれば断じて否だ。

 彼女たちよりか、もっと専門的な技能に秀でた人間など黒森峰にはそれこそ溢れんばかり存在している。

 戦力的な視点で考えたとき、ナナたちを無理してでも連れて行くメリットは皆無に等しかった。

 だからこそみほは悩んだ。

 大洗にいるカリエのことを思えば、慣れ親しんだ車両を連れて行くのは至極当然とも言える。

 車長として合流さえしてしまえば戦力としては完成するだろう。 

 ただそれだけでは終われない懸念材料が一つあったのだ。そしてその懸念を口にしたのは沈黙に伏していたエリカだった。

 

「あんたたち、カリエの性格を考えたらパンターにあいつが帰ってくる可能性は限りなく低いわよ。間違いなく大洗女子学園への義理を果たそうとして——いえ、違うわね。私たち黒森峰に対する負い目でパンターに乗ろうとはしないと思う。あいつ自身が何かケジメを決めきれなければ、それこそ最後まで帰ってこないと思いなさい」

 

 黒森峰への負い目。

 それは黒森峰に残された全員が薄々感づいていた、カリエに穿たれた楔だった。

 かの副隊長が此度の敗戦にどれだけの責任を感じていたのか。どれだけの重圧と自戒を持っていたのか、全員が嫌と言うほど知っているのだ。

 大洗への亡命の道がなければ、それこそ戦車道を辞しても可笑しくないくらいには追い詰められていた。

 理事長からの罷免という切っ掛けがあったにしろ、カリエの心はそれを一度受け入れている。

 つまりはそういうことだ。

 誰かにやめろ、と糾弾されればあっさりとそれを認めてしまうくらいには、カリエは戦車道というものから離れる決心をつけていた。

 そのことを黒森峰に取り残された全ての人間が感じている。

 もっと意地汚く黒森峰の戦車道にしがみつきさえしてくれれば、と恨み節を抱いてしまいそうになるくらいにはカリエの心境が伝わっているのだ。

 だがナナはそんな事情を理解し尽くした上で、「それでも」と続けた。

 エリカに向かって言葉を吐いた。

 

「その時に帰ってこられなくても、例え可能性がなくとも、私たちは副隊長の車両を連れて行きたいんです。理に適っていないこともわかっています。もっと良い編成があることも知っています。ですが、絶対に足手纏いにはなりませんから、必ず副隊長を支えますから——お願いします!」

 

 最後はみほに、エリカに、いや黒森峰の乗員全員に対する拝み倒しだった。

 自分たちが頓珍漢なことを主張しているという自負があるからこそ、ただひたすらに頭を下げるだけだった。

 余りに泥臭いその姿を見かねた小梅が、パンターの乗員たちに頭を上げるように告げるが、ナナたちは微動だにすることない。

 エリカもまさかここまでとは、とナナたちの決意の固さに呆気にとられていた。

 

 どれくらいその問答が続いたのだろうか。

 少なくとも分の時間は刻んでいる。

 徐に口を開いたのはやはりと言うべきか、此度の最高意思決定者であるみほだった。

 

「——皆さんの願い、覚悟、わかりました。選抜戦へはカリエさんのパンターを伴って参加します。エリカさんの言うとおり、カリエさんが乗り換えてくれる保証などないに等しいですが、私たちの不退転の覚悟を示すには必要なことだと思います。責任も私が取りますから、ここにいる皆さんもどうか納得してくれませんか」

 

 鶴の一声だった。

 みほが認めたその瞬間、ガレージを覆っていた困惑は消し飛んでいた。

 何故なら皆が皆、心の何処かでパンターの乗員たちの思いに共感していたからである。

 車長を理不尽な決定で奪われてしまった彼女たちの無念は十分知られていた。

 

「——なら残り少ない時間だけれども、この子たちを私たちの編成に組み込んだ訓練を行うべきだわ。それにここにいる全員の知恵を出し合って戦術教練も行わないと。選抜戦という慣れないフィールドだからこそ、黒森峰の総力を挙げて挑むべきだわ」

 

 ふとエリカがナナの横に立った。彼女はみほやその他全員に向けてこれから成すべき事を速やかに提案する。黒森峰他の隊員たちも異論など有るはずもなく、「はい!」とガレージ全体に響き渡る声色で喜色を滲ませていた。

 

「それでは皆さん、今から参加組は車両訓練を。待機組はエリカさんが告げた通り戦術教練を行って、当日の戦術についての提案を纏めてください。私たちならばきっとカリエさんを取り戻すことが出来ます!」

 

 みほの号令でそれぞれが散っていった。ナナはエリカがわざわざ隣に立ったことを不思議に思いつつも、車両訓練を行うべく足を前に踏み出した。

 けれども、エリカがそんなナナの肩をおもむろに掴んだ所為で、その場に留まることになってしまった。

 何事か、とエリカを見やればカリエと同じ翡翠色の瞳がこちらを見ていた。

 そしてそこから先、エリカの零した言葉はナナにだけ聞こえるものだった。

 

「——よく言ったわね。有り難う。カリエの代わりに私から礼をさせてもらうわ」

 

 ぱっ、と肩から手が離れ、エリカはそのまま自身のティーガーⅡへと足を向けていった。

 一人取り残されたナナはぼんやりとその様子を眺め、やや赤く染まった顔で、やがてこう声を漏らした。

 

「——ちょっと揺れてしまった自分が憎い。浮気、だめ、絶対。……でも、顔は同じなんだよなあ」

 

 

03/

 

 

 俄然王者としての実力を有する黒森峰女学園が本格的に動き出したとき、女王率いるグロリアーナも歩みを再開し始めていた。

 残念ながら全国大会をベスト4という成績で終えていたものの、依然としてダージリンを中心とした強固な結びつきで戦車道に挑んでいるのが彼女たちだ。

 とはいっても、ダージリンが現役であるのは言ってしまえば残り一戦。選抜戦を残すのみとなっている。

 だからこそ、そこに賭ける意気込みは黒森峰に負けず劣らずのもので彼女たちもまた非常に高い士気を有していた。

 

 ただ憂いがないのかといえばそれは嘘になる。

 

「大洗から連絡がありました。逸見さんはどうやら車長ではなく、Ⅳ号戦車の装填手として出場するみたいです。実際に練習も行っているのだとか」

 

 大洗とのメールのやり取りは常に電子機器を携帯しているアッサムが担当していた。

 彼女は今し方開いた文面をダージリンの眼前に差し出す。

 

「ダージリン、あなたが告げたように彼女はまだまだ諦めていないようですよ。これは朗報なのでは?」

 

 久方ぶりの良い知らせのためか、自然とアッサムの声色は弾んでいた。

 ここ最近、当事者でなくとも気が滅入るような知らせばかりだったために、その反動が来ているのだろう。

 側に待機しているオレンジペコも心なしか柔らかい表情で二人のやり取りを眺めている。

 

「ええ、そうね。このことに関しては本当に良い知らせだわ。信じていたとはいえ、あの人の心が死んでいなかったという事実が何よりも嬉しい。けれども、そうまでしてカリエさんを追い詰め続けている自分が本当に嫌になるの」

 

 そう言って、ダージリンは手にしていたカップを口に傾けた。

 カリエのために繋いだ道とはいえ、半ば自分勝手な感情から始めた策謀だ。そこには周囲が想像している以上に複雑な感情が蠢いている。

 

「……アールグレイさまから選抜戦の存在をリークされてから2週間。あなたは本当に上手く立ち回っていると思います。そんなあなたが自己嫌悪に浸っていては逸見さんも悲しむと思いますよ」

 

 アッサムは知っている。 

 ダージリンがどれだけ危険な橋を綱渡りしているのかを。

 彼女が持つ情報網をフル活用し、選抜戦の存在を掴んでからは、それを利用した策を綿密に丁寧に推し進めている。そこには決して大っぴらに出来ない人脈であったり、取引だったりが存在している。

 全国大会が終わった今、座していればグロリアーナの女王として幕を閉じることが出来るというのに、彼女はその地位を失う可能性がある道をただただ邁進しているのだ。

 

「アッサムの言う通りかもしれないわね。ここまで来たらわたくしに迷いなんて許されないわ。地獄の底に落ちてでもあの人を失意から救わないといけないの。でもたった一つの懸念が頭から離れない、と言えばあなたたちは失望してしまうかしら?」

 

 ふと茶目っ気を込めてもたらされたのは意外な一言だった。

 あれだけ細やかな計画を打ち立て、それを実行する能力のあるダージリンが「懸念」などと不確定要素を口にするのは普通ならば考えられないことだからだ。

 アッサムとオレンジペコは驚きに表情を染めたまま、ダージリンの次の言葉を待つ。

 

「実はね、随分前から選抜戦が行われるかもしれない、という情報がアールグレイさまが漏らしていたの。それこそ全国大会が始まってすらいない、今年の三月から」

 

「——それ自体は不自然ではないと思います。これだけの大規模な試合ですからそれ相応の時間を掛けて計画が練られて然るべきかと」

 

 言葉を返したのはオレンジペコだった。彼女がダージリンに告げた通り、選抜戦の計画が随分前から存在していたという事実は全くもって不可思議ではない。ダージリンも同じ事を考えているのか、最初の一言は肯定だった。

 

「確かにオレンジペコの言う通りね。計画案が起草された時期そのものは気にとめる必要もないでしょう。けれどもね、その起草者が少し気になるのよ」

 

 言って、彼女はカップをテーブルに置いた。

 そして一拍おいた後、静かな声色で言葉を紡ぐ。

 

「逸見カオリ。何を隠そう、カリエさんやエリカさんの伯母の名前がそこにはあったの。彼女が文部科学省に働きかけて、選抜戦をこの時期に開催しようとしていたのよ」

 

 は? と声を漏らしたのはアッサムもオレンジペコも変わらなかった。 

 ダージリンは当然の反応だと言わんばかりに、さらなる言葉を重ねていく。

 

「偶然にしてはできすぎているでしょう? でもね、私の懸念はそんなことではない。もっともっと深いところの話。——この選抜戦の計画案はね、4月には一度凍結されて棚上げになっていたの。けれども何があったのか再び表舞台に上げられている。何を隠そう、全国大会が終わった直後にね。そしてそこで起草者が逸見カオリから『戦車道興隆委員会』という不可思議な委員会に取って代わっていた。ねえ、カリエさんの伯母さんはどこに消えたの? どうしてこの時期、このタイミングで再び計画案が再開されているの? どうしてカリエさんが全国大会で敗戦したその後に都合良く計画が横たわっているの?」

 

 ダージリンはオレンジペコとアッサムに問うていた。

 どうしてこんなにタイミングが良すぎるのか? と。

 逸見カリエの復帰戦に利用することの出来る大会が、何故こうも都合良く存在しているのかと。

 さらに彼女は畳みかけていく。

 

「カリエさんが新しい功績を打ち立てて、黒森峰に凱旋することの出来る道筋を作ったのは確かに私よ。その為に大洗女子学園だって利用した。けれども私のその行動ですら、誰かに牽かれたレールの上を走らされているように思えてならないの。ねえ、この道は本当にカリエさんを救える道なのかしら? もしも悪意ある誰かが全てを操作しているのだとすれば、それこそ取り返しのつかないことになるわ」

 

 ダージリンの疑念に二人は言葉を返すことが出来なかった。

 彼女も彼女で返答を期待しているわけではないのか、そっと窓から外の景色を見下ろす。

  

 夏を彩り、季節を刻みつけていた熱気はいつのまにか残暑と呼ばれる残り香に変貌していた。

 おそらくもう少しもしないうちに空気は冷気を帯び、季節を移ろいゆかせていくのだろう。

 蝉の寂しげな声が何処かで聞こえる。夏の終わりが目の前に横たわっている。

 

 夏はカリエの季節だった。

 いつだってこの暑さの中で、彼女の輝きに嫉妬し絶望し、そして愛した。

 そんな夏が終わる。秋が来て冬が来る。

 

「——もしかしたら、色々と理屈づけてはいるけれども怖いのかもしれないわね」

 

 何がですか? と聞き返したのは果たしてアッサムとオレンジペコのどちらだったのだろうか。

 ただ、ダージリンはその後、残暑の喧騒に消え入りそうな声色でこう告げた。

 

「不意に現れた終わりよ。折角手に入れることができた——いえ、あの人がくれた幸せがあの人とともに消え去るのが怖いのよ」 



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逸見カリエの戦車道 07

 たぶんその知らせが自分に届いたことは運命なのだろう。

 

 ミカは早朝から一人でそんな風に考えていた。

 彼女は今、学園から陸へとその身を移している。何を隠そう、「会いたい」と願い請うた人物がそこにいるからだ。

 

 継続高校の学園艦を降りるときは、いつもアキやミッコと一緒だっただけに、此度の一人旅は何処か新鮮で、それでいて懐かしいものだった。

 思えば、継続高校に転がり込む前はいつも一人だったな、とこれまでの一時を振り返る。

 母と妹という血の繋がった肉親がいたとしても、心の在り方は常に孤独だった。

 流派というしがらみに囚われ、ただただ自身の思いを殺し続ける日々。

 自由に憧れ、世界に羽ばたく自分を夢想するも、それは叶わぬ夢だと諦め続けていた。

 

 もしも流派の長として定められたレールがあれば彼女はそれを拠り所に生きていくことができた。

 私はこの流派を発展興隆させていくために生まれたのだ、と諦めをつけることも出来た。

 けれども母はミカに長の地位を約束しなかった。それはミカですら敵わないと感じてしまう超人染みた妹の存在があったためだ。

 

 門下生がいつも噂をしていた。

 

「姉が妹に負けてしまうなど、何とも情けない」

 

 一族の連中がいつも陰口を叩いていた。

 

「何故あの母親はとっとと妹を後継者に指名しないのだ」

 

 いつか妹がミカに告げた。

 

「お姉ちゃんはお姉ちゃんの好きな道を生きれば良い」

 

 こんな自分はなんなのだ、と自問を続ける毎日だった。

 自由はなく、地位もない。あるのはただ漠然とした未来への不安だけ。約束されぬ将来と、約束された不自由さが横たわっていた。

 ——けれども。

 そんな閉鎖的で、息の詰まるような生活は唐突に終わりを告げた。

 ミカが今を以て刹那論者であるのはその出来事が何の予兆もなく自身に降りかかったためである。

 どうてことのない、他流派との親善試合。

 西住流とかいう、西日本で根付いているもう一つの流派との極普通の試合。

 そこに彼女たちはいた。

 

 確かに目立っていたのは将来流派を継承するであろう、西住の姉妹だった。化け物染みた連携と技量で確実に相手を押しつぶしていく、質実剛健な姉妹だった。

 しかしながらミカが目を奪われたのはそんな西住姉妹と共に戦うもう一つの姉妹だった。

 顔を見てみれば双子であることが一目瞭然な容姿をしており、それぞれがそれぞれと連携を取ろうと努力していた。

 ただその技量は西住姉妹に遠く及ばず、双子ならではの連携もこちらの門下生が突っついてやれば直ぐに瓦解するような脆いものだった。

 その証拠に、あっという間に妹の方が討ち取られ、姉の方もそれから程なくして撃破されていた。

 恐らく、こちらからしたら特に気にとめる必要もない、凡百な選手だっただろう。

 

 それでもミカが目を奪われたのはそんな普通の姉妹だった。

 

「馬鹿ね! あれだけ出しゃばったら撃破されるに決まっているでしょう!」

 

「エリカうるさい。いいでしょ、それなりに頑張ったんだから」

 

「あのね、カバーするこちらの身にもなりなさいよ!」

 

 試合後、目の前で繰り広げられていた姉妹喧嘩にミカは己にないものを見つけていた。

 ちょっとお節介焼きの姉と、ちょっと我が儘な妹。

 そんな何処にでもいるような普通の姉妹が、ミカにとっては余りにも衝撃的な光景だった。

 

 自分と妹は、喧嘩一つしたことがなかった。

 自分と妹は、世話を焼くことなど一つも許されなかった。

 自分と妹が、最後に顔をまともに合わせたのはいつだろう。

 

 それから暫く、ミカは二人の姿が頭から離れなかった。

 少し時間さえあれば、姉妹のことを調べていた。

 二人が逸見姉妹と呼ばれ、地元熊本ではそれなりに名の通った選手であること。

 幼い頃から西住流を学び、黒森峰女学園の中等部に所属していること。

 様々な二人に関する情報を、ミカは手にしていた。

 手にして、いつか思いは憧れと絶望に変わっていた。

 

 自身も妹と同じような関係になりたいという憧憬。ただの姉妹として、くだらない毎日を送りたいというささやかな願い。

 呪いのような流派に身を置くが故に、決してそれは叶わぬという残酷すぎる現実。

 そんな二律背反の感情を抱き続けていた彼女だが、その限界は呆気ないほど直ぐにきた。

 

 高校進学を目の前にして、ミカはある人物に接触を図っていた。

 それは血縁上は父と呼ばれる者であり、戸籍上は全くの赤の他人という人間だった。

 ミカは家を出て行った元父に請う。

 

 ただ一言「逃げたい」と。

 

 元父はミカが拍子抜けするくらいにはあっさりと「わかった」と告げた。

 そして翌日には元父の車で、ある学園艦に訪れていた。

 

 継続高校。

 

 ミカがその身を埋めさせる学び舎はそんな名前だった。

 

 

01/

 

 

 指定されたのは都内のある高級ホテル。

 女子高生という身分では決して立ち入ることの出来ないレストランのテーブルにミカは腰掛けている。

 そんな彼女の対面に座すのは島田流家元、島田千代。

 何を隠そう、ミカの実の母親だった。

 

「——まさかあなたが私の呼びかけに応じてくれるなんてね。便りの一つも寄越さなかったというのに」

 

 母の皮肉交じりの言葉にミカは棘のある口調で返答した。

 

「——あのように連絡を打てば私が必ずここにやってくると確信を持っていたのでは?」

 

 千代の表情が強ばったことをミカは見逃さなかった。

 やはり母は何か一物を抱え込んでいるのだ、と彼女は警戒心を自然と高める。

 思えば母からの久方ぶりの連絡など、ただの親子のやり取りで終わるはずがないのだ。

 千代はそんなミカの警戒心を感じ取っているのだろう。

 回りくどい弁解などいらぬと、あっさりと内心を打ち明けてみせた。

 

「ええ、『逸見姉妹』の事で話があると綴った下心は認めるわ。それがあなたを釣り上げる最優の針であることも知っていたから。でもそれは決してあなたを釣り上げる為の偽りの針ではない。純然たる事実として確かに存在する針よ」

 

 そう、普段ならばミカは決して母の呼び出しに応じなかっただろう。

 居場所がバレていることは薄々感づいていたが、母からの何らかの干渉があっても無視を決め込むつもりで学園生活を送っていたのだ。そんなミカがアキやミッコを置いて学園艦から出向いてくるなど余程のことである。

 ミカが食いつかざるを得ない餌——『逸見姉妹』の話を持ち出されるくらいのことがない限りは。

 これは恐らく罠だ——と、ミカの本能が警鐘を鳴らし続けてはいるが、このまま怖じ気づいていても仕方がない、と母へ言葉を返す。

 

「ならばその針の向こう側にある『あなた』を早く見せて欲しい。どういう思惑があって私を呼び出したのか、どういう魂胆があって今更会う気になったのか洗いざらい吐いて貰いたい」

 

 他人から見れば二人が親子であることを推し量るのは難しいだろう。

 それくらい両者の間には隔絶した壁があった。ミカは決して千代を『母』とは呼ばない。

 

「……そうね、島田流の真髄はある意味で忍術めいた回りくどさと丁寧さにあるのだけれども、たまには西住のように正面切って進むことも良いでしょう。特にあなたに対しては殊更そう思うわ。では単刀直入に言います。島田ミカさん、あなたにはもうすぐ開催される高校選抜対全日本選抜の試合に選手として出て欲しい。——大学選抜チームの一人として」

 

 ここでどれだけ言葉を重ねても娘には届かないと考えた千代は、胸の内を一瞬で吐露していた。今は殆ど他人でも一応は実の娘である。これが現時点における最善手であることを読んでいた。

 実際、その読みは殆ど的中していて千代の言葉を受け止めたミカは目を見開いて身動き一つ出来なくなっていた。

 彼女が次に言葉を発するまでには実に数十秒の時を要する。

 

「——まさかあなたは私を逸見姉妹と戦わせるためにここに呼び出したのか」

 

 首肯だった。

 千代は「あなたが彼女たちに抱いている気持ちをよく知っている」と告げた。

 

「あなたが家を出て行ったのも元を辿れば彼女たちに憧れ絶望したからでしょう? この間の全国大会で『いつか砲火を交わしたい』という願いは一応叶えられたものの、それが消化不良に終わっていることは理解しているつもりだわ。だってあなたが望んだ相手は姉妹で徹底的に敵を蹂躙する逸見姉妹であって、妹を守る姉という逸見姉妹ではないもの」

 

 やはりこの人物は強敵だ、とミカは思わず苦笑を漏らしていた。

 自身が抱く鬱屈した感情が見抜かれていることは想定の範囲内だったが、その先の、それこそ直近の大会で感じた思いまで知られているなどとは考えもしなかったからだ。

 血が繋がっているというだけで、何処までも見透かしてくる千代が素直に言って恐ろしい。

 

「……次の選抜戦、逸見姉妹は文字通り死力を尽くしてこちらに食らいついてくるでしょう。彼女たちの、姉妹で引き裂かれてしまった境遇ももちろんあるけれども、そうなるようにレールを敷いている人間もいる。これはあなたに取って絶好の舞台ではなくて?」

 

 正直、何処までも甘美で何処までも唾棄したい提案ではあった。

 逸見姉妹ともう一度戦えるという餌は限りなく極上のものであるし、そんな自身が抱く欲望を知られているという事実が何よりもおぞましい。

 文字通りミカは葛藤する。

 揺れ動く天秤に心が乱されていく。

 彼女の中にいる獣は既に餌に食らいつく寸前だった。

 

 だが——。

 

 ふと、アキとミッコの姿が脳裏にちらついた。

 ふらりと継続に飛び込んできた自分を受け入れ、そして今まで付き添ってくれた二人の姿だ。

 得体の知れないこんな自分を友人だと言ってはばからない二人だ。

 そんな二人を、こんな自分勝手な願いで千代の思惑に巻き込んでいいのか、と獣に殺されかけていた理性が警告を鳴らしてくれている。

 今まで隠し通してきた家の問題に巻き込んでいいのか、と忠告してきてくれている。

 

 危なかった、とミカは息を吐いた。

 先ほどの苦笑とは正反対の、まさに安堵の息だった。

 逸見姉妹を目の前に、まんまと踊らされそうになった自身が恥ずかしくなった。

 彼女たちと本当の意味で砲火を交わす機会など、それこそこれから先の人生、いつか実現すると視野が明らかに開けていた。

 だからこそ、憑きものが落ちたかのように素晴らしく晴れやかな表情でミカは口を開いた。

 

「残念ながら私はあなたの申し出を辞退するよ。そもそも継続高校の一車両だけが全日本選抜に参加するなんて可笑しな話だ。筋が通っていないんじゃないかな?」

 

 返答には興味がない、とミカは席を立つ。

 いつの間にかウェイターが運んできたコーヒーに目線が向かうが、千代が用意させたものだと思うと到底手をつける気にはならなかった。

 アキ辺りがこのことを知れば「勿体ない」と残念がるだろうね、と冗談を思いつく余裕さえある。

 そして学園艦をこっそりと抜け出してきたことが二人に知れ渡ると面倒だ、と帰りの道を思い描いていた。

 

 しかしながら。

 

「——訂正するわ。『ミカ』。逸見姉妹と戦う、と告げた事実には一つ誤りがある。今から私の真意とあなたへの願いを伝えます。それに、あなたがこんなことで釣れるだろうと軽んじたことも謝罪します。だからもう少しだけ話を聞いて頂戴」

 

 足が止まった。

 いよいよミカの本能が警告する。

 耳を傾けるな、そのまま立ち去れ。千代の言葉が呪いになるぞ、と。

 でも悲しいかな。

 ミカは馬鹿正直に振り返ってしまっていた。

 

 母に『ミカ』と名を呼ばれたのが余りにも久方ぶりすぎて、それを少しばかり喜んでしまった『娘としての自分』が振り返らせてしまっていた。

 迂闊だった。

 

「私たちの敵は逸見姉妹ではないわ。その伯母であり官僚でもある『逸見』というもっと大きなものよ。文部科学省で戦車道に関する一切を牛耳ろうとしている女狐がいる。彼女はあろうことか愛里寿を狙っていた」

 

 どういうことだ、と言葉には出来なかった。 

 まだ母の真意をミカは測りかねている。

 

「ついこの間、『逸見』と顔を会わせたの。そこで彼女はあなたと愛里寿の関係について言及してきた。——あの人はね、世間的には知られていない愛里寿のアキレス腱を知っているの。どうすれば島田愛里寿という人間を揺さぶれるのか知っている」

 

 愛里寿のアキレス腱。すなわち弱みと母が口にしたことで、ミカは言いようのない不安を覚える。けれども母はそんなミカの内心を待ってはくれない。

 

「愛里寿があなたとの関係をずっと気に病んでいることを理解していた。そして彼女は何処までも身内を守ろうとする策謀家。此度の選抜戦、逸見姉妹を勝たせるためにはそんな愛里寿の心の弱点を容赦なく突いてくるつもりよ。有ることないことを外野に吹き込み、こちらの身内にも吹き込み、あなたと愛里寿の不和をでっち上げるでしょう。文言なんて簡単な物よ。ちょっと言いふらせば良いの。『姉である島田ミカは妹の島田愛里寿を恨んでいる。島田流後継者の座を追い出されたから恨んでいる』ってね」

 

 そんなことはない! とミカは再び母の前に立った。

 言葉にこそしなかったが、その目線と表情で自身が抱く愛里寿への感情を母に示した。

 千代はそれを正確に読み取ってみせる。母親だからこそ、姉妹の間に横たわっている複雑怪奇な感情も理屈も理解していた。

 そしてだからこそ、と続ける。

 

「私は先に手を打ちたい。あの女にあなたたちを滅茶苦茶にされる前に先手を取りたい。もしこのタイミングであなたと愛里寿の関係に横槍を入れられたら、それこそ姉妹の仲は完全に修復不可能なものになってしまう。私は一人の母親としてそれを許すつもりは毛頭ないの。だからお願い。あなたから全日本選抜に参加して愛里寿を支えて欲しい。顔を合わせなくたって良い。言葉を交わさなくても良い。ただあの子の側にいて欲しい」

 

 最早懇願染みた母の言葉をミカは撥ねのけることができなかった。

 母の告げる言葉は恐らく真実だからこそ、ミカはその場に固まってしまっていた。

 葛藤ですらない。

 ただただ困惑と焦燥だけが体を支配している。

 

「——そんなにも『逸見』という人はいけないのかい?」

 

 だからこそやっと絞り出せた言葉はごく僅かなもの。

 だが母はその言葉に誠実さだけを見せる。

 

「あれは本当に魔物よ。自身の目的達成ならば何人を犠牲にしても眉一つすら動かさない怪物。残念ながらミカと愛里寿はその視界に入ってしまっている。『逸見姉妹』という茨に触れてしまったあなたたちを見ている」

 

 これは何の因果だ、とミカは唇を噛んだ。

 自身が島田の束縛から逃げる切っ掛けを作ってくれた『逸見』が、今度は島田そのものを破壊しようと目の前に立ちふさがっている。

 もしもあの時、逸見姉妹に憧れずにいたら別の未来が見えていたのだろうかと、後悔すら滲ませてしまっていた。

 

 時だけが流れていく。

 母は一切急かさなかった。

 やがてミカは大きく深い息を一つだけ吐いた。

 その行為は皮切りだった。

 再び母の対面に腰掛ける。

 テーブルには既に冷えたコーヒーが一つ。

 

 ミカはそれを手に取り。

 最後には口につけて一気に飲み干していた。

 

 

02/

 

 

「……撃破しなければならない車両は全部で30両。しかもそのほぼ全てが王者黒森峰と同等の実力を有した猛者。無理ゲーだな」

 

 いつもの学園艦ではなく、つい最近乗ったばかりの「さんふらわぁ」号。

 茨城と北海道を結ぶ大型のカーフェリーはそれこそ数週間前に辿った航路を再びなぞり直す。

 それが大洗女子学園の現状であり今だった。

 フェリーに設けられているロビーの円卓を囲った、大洗のあんこうチームの中で、麻子が苦言を漏らしたのはまさにそんな現実に対してなのかもしれない。

 

「いくら高校選抜として他校の皆さんが協力してくれても厳しいものがありますね。黒森峰の皆さんも車両制限で四両の参加ですか」

 

 華が告げた通り、文部科学省から通達されたレギュレーションには各校の参加車両に関して事細かに条件が記されていた。

 一番当てにしていた黒森峰に許された四両という数字は、大洗に流れ始めていた楽観的な空気を一瞬で吹き飛ばしている。まさか文部科学省がここまで黒森峰の戦力を制限してくるとは夢にも思わなかったからだ。

 

「それでもやるしかありません。カリエさんはこの通り、私たちに持てる全ての戦車道に関する考えを渡してくれています。何とかこれをもとに微かな突破口を見つけるしかないでしょう」

 

 言って、優花里はまだ真新しいノートをぎゅっとかき抱いた。カリエに手渡されたそれは全日本選抜に関するあらゆる情報と、その対策について記されている。

 カリエの戦車道に関する全てが詰まっていると言っても過言ではないものが、今優花里の手の中にある。

 

「でもさでもさ今回ばかりは本当に危ないよね。結局、それぞれの学校同士の連携訓練も出来なかったし、戦力も思った以上に伸びていない。そりゃあ何とか勝ちきって廃校を撤回して貰わないといけないのはわかるけどさ。それでも限度って言うものがあるでしょ」

 

 沙織の嘆きはその場にいた全員が共通して感じているものだ。

 問答無用の廃校は何とか回避できてはいるものの、大して好転しているとは言いがたいこの状況。

 大なり小なり突きつけられた理不尽さへの複雑な感情は全員が抱いている。

 

「……足を止めてしまえばそれこそそこで終わってしまう道です。私たちの道は今までも決して平坦なものではありませんでした。恐らくあの人——カリエ殿も同じだったでしょう。だからこそ、共に手を取り合い、何とか歩き続けていかなければならないのです」

 

 優花里の最後の言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるかのような、そんな熱を帯びていた。

 

 

03/

 

 

 まさかこんな直ぐに北海道にとんぼ返りするなんて。

 

 夏の生ぬるい海風を全身に受けながら、カリエはフェリーのデッキに備え付けられているフェンスにもたれ掛かっていた。

 目的があったわけではない。

 ただ、あんこうチームの会合を始め、大洗の諸チームの顔合わせに参加するだけの気概がなかったから、ふらふらと船内を彷徨った結果だった。

 とっとと横になって睡眠を取った方が良いことくらい理解はしていたが、何故だかそんな気にはなれなかった。

 ならば気晴らしに、と足を踏み入れたのが結果的にフェリーのデッキだっただけだ。

 

 ぼんやりと海を見つめてみれば、天上に輝く月が鏡のような水面にきらきらと映り返している。

 

 今思えば、この人生において姉とここまで離れて行動するのは初めてだった。

 おそらく何事もなければ選抜戦にその顔を連ねた二人に再会はするだろうが、車長として戦うことが出来ない以上、そこで顔を合わせる機会があるかどうかも怪しいものがある。

 何より、ダージリンとエリカが用意してくれた道を脱線している今、合わせる顔などあるのだろうか、という懸念がつきまとっている。

 あの二人が考えたのは、大洗女子学園を救う救世主となり英雄となり、その功績を以て黒森峰に凱旋するという青写真。

 けれども、部隊の指揮を執ることが出来ない無様な現状のままでは、文字通り青写真のままになりその期待を裏切るのと同義だ。

 

 正直、会いたくないとすら思ってしまう。

 

 大洗の廃校が掛かった選抜戦に手を貸すことは吝かではないのだが、だからといって一切の雑念なく試合に臨めているとは口が裂けても言えなかった。

 試合に全く集中できていないと言っても良い。

 本当に中途半端だと、自嘲の声すら零れていた。

 だがそんなカリエの呟きは、フェリーがかき分けていく海原の飛沫にかき消されていた。

 世界の何処にも、居場所がないと錯覚させるような夜の海だった。

 

「……本当、なにしてるんだろう」

 

 だからだろうか。次にこぼれ落ちた言葉はそれなりに声量の込められたそれだった。

 自身がどれだけ空しいことをしているのか自覚があるだけに、カリエの気持ちは明るくない。むしろより低い場所へ落ちていったくらいだ。

 しかしながら怪我の功名もある。

 カリエのそんな虚しい言葉を拾う者が現れたのだから。

 

「随分とブルーだね、逸見さん」

 

 いつの間にか背後に人が立っていた。

 随分と小さな人影だったが、体から溢れ出ている覇気はどこかエリカを思わせるもので、存在感だけは人一倍だ。

 

 角谷杏。

 

 大洗女子学園をある意味でここまで引っ張ってきた傑物だ。

 彼女がいたからこそ、大洗は全国大会を制することが出来たし、此度の選抜戦の開催も滞りなく行われようとしている。

 そんな大人物が何のようなのか、とカリエは困惑を隠しきれずにいた。

 

「いや、みんな気を使ってそこまで馴れ馴れしくはしていないけれども、うちの子たちはみんな逸見さんのことを気に掛けているんだよ。もちろん私も同じさ。まだ日が浅いとはいえ、間違いなく逸見さんは私たちの仲間だから、そんな顔で一人アンニュイになられたら心配もするだろう?」

 

 アンニュイ、と言われてカリエは自身の顔をぺたぺたと触った。

 そして何とも女々しい姿を見られてしまったと、思わず顔を顰める。気が重たいのは確かだが、それを誰かに見せびらかして喜ぶ性分はカリエにはない。

 むしろ誰にも見られたくないからこそ、こうして一人人気のないところに逃げ出しているのだ。

 そんなばつが悪そうなカリエに、杏は優しく笑いかけた。

 

「逸見さんが何を考えているのか何となくわかるよ。それにおこがましいかもしれないけれど、その気持ちもある程度理解できる。だからさちょっと話に付き合ってくれない?」

 

 何が「だから」なのかてんでわからなかったが、カリエは思わず頷き返していた。

 もしかしたらこの押しの強さが杏の弁論術なのかもしれないという考えがちらりと頭をよぎるが、詮無きことだと直ぐに深く考えるのをやめていた。

 近くにあったベンチに二人して腰掛ける。

 

「いやさー、明日にはもう現地入りじゃん。こんな急ぎ急ぎ組まれたスケジュール一つで私たちの学校がなくなるとかさ、ほんと訳わかんないんだよねー。ぶっちゃけ意味不明すぎて私もあんまり理解していないのかも」

 

 杏のぼやきにカリエは「いや」と言葉を続けた。

 

「失うのは本当に一瞬なんだって、これまで何回も経験してきたからわかるよ。ちょっとした油断や誰かの悪意で簡単に今まであったものは手のひらをすり抜けていく」

 

 カリエが思い浮かべるのは黒森峰での楽しかった日々と、前世の最後の記憶。 

 ほんの少しの歯車の手違いですり抜けていってしまった黒森峰での幸福の日々。

 あっけないほど終わりを告げてしまった前世の命。

 どちらも終端の予兆など全くなかった。気がつけば仄暗い現実の中に足を踏み入れていた。

 だから杏に「それはあり得る話」と返していた。

 

「成る程。逸見さんにとって突然の終局は不思議でも何でもないんだね。ならさ、その終わりは幸福だけのものかい? 不幸にも同じように終わりは訪れないのかな?」

 

 杏が告げたのはあくまでも素朴な疑問だった。しかしながら確実に的を射てはいる。

 けれどもそんな言葉は理想論だとカリエは首を横に振った。そして不幸が突然終わることを期待して「ただ待つだけ」の選択肢は取れないと口にする。

 

「例え明けない夜でも足搔かなくてはならないと思う。例えどんなに苦しい暗闇でも歩み続けないといけないと思う」

 

 そっか、と杏はどこか合点がいったような反応を示した。

 ただカリエは「でも」と言葉を続けた。

 

「頭ではそうわかっていても、やっぱり心がついてこない。ちょっと油断してしまえば、全部投げ出して何処かに逃げ出してしまえば良いと囁く自分がいる。なんでわざわざこんな苦しい目に遭わなくてはならないんだ。もっと楽な道を進んでもいいんじゃないかって」

 

 カリエが頭を伏せた。

 両者に言葉はない。

 二人の間には水面が奏でる波の音だけが流れていた。本当の本当に静かな夜。時間だけがゆっくりと過ぎ去っていく。

 それからどれだけの時間が経ったのかはわからない。カリエと杏、二人はベンチに腰掛けたまま動こうとはしなかった。

 どちらも言葉を発さないまま随分と時間が経った。

 ふと口を開いたのは杏の方からだった。

 

「ならさ、いっそのこと諦めちゃう?」

 

 冗談のような台詞だったが、冗談の声色ではなかった。その証拠に、カリエを見つめる杏の視線は極真面目なもの。

 カリエも杏の雰囲気から察しているのか即答しない。むしろ長考に浸っていった。

 

 正直言って大洗に思い入れがあるわけではない。

 手酷く切り捨ててきた黒森峰に対する未練も殆ど残されていない。

 これまで自分を支えてくれた人たちと肩を並べることが出来ないことは残念ではあるが、今にこだわる必要がないことは知っている。それこそ大学なり社会人で再会しても何の問題もないのではないか、とすら考えている。

 目の前に突きつけられた状況だけ見てみれば、杏の言うとおり諦めてしまうのが得策にすら思えてくる。

 

 けれどもどうしてだか踏ん切りがつかなかった。

 格好悪いということは百も承知だったが、何故だかこのまま戦車道にしがみついてやろうという感情がこびりついている。

 この不思議な思いに対する正確な答えをカリエはまだ知らない。

 まだハッキリと自覚しているわけではないが、もやもやとした何かが燻っている。

 

 だからこう口にした。

 

「いえ、自分でも訳がわからないですが、諦めるのは嫌です。まだ何か見落としている、答えを見つけられない自分がいるのでもう少しだけ頑張ってみようと思います。だから優花里さんに私の全てを託しました。装填手として意地汚くしがみつく道を選びました。かなりみっともないですけれど、今自分に出来ることの全てをしているつもりです」

 

 いつの間にか両者の視線が交錯していた。杏はそんな一時の逢瀬の中で、カリエの瞳をしっかりと見つめる。

 そしてここにきて初めて、カリエの瞳が美しい翡翠色をしていることに気がついた。見とれてしまいそうになる綺麗な色だった。思わず言葉を忘れてしまうくらいには。

 

「……」

 

「角谷さん?」

 

 困惑したカリエが声を掛けてようやく杏は「ああ」と声を絞り出していた。

 それはこの静かな邂逅の終わりの合図でもある。

 

「いや、ちょっとぼおっとしちゃったね。失敬失敬。まあ、カリエちゃんの考えは大体わかったよ。そういうことならば是非とも協力してもらいたい。もちろん、そのために必要なことがあるんだったら何だってするからさ」

 

 悪戯っぽく笑ってみせる杏にカリエは微笑み返した。それ以上の言葉は互いに必要なかった。

 じゃあね、と杏が去って行く。カリエはその背中を見送って再び海を見下ろした。 

 若干熱を帯びていた潮風はいつの間にか冷たさすら孕んでいて、気がつけば心地の良いそれに変わっていた。

 

 もう少しだけ、この流れに身を任せてみようか。

 

 最後の呟きは波に消えるのではなく、はっきりと世界に刻まれていた。

 

 

 04/

 

 

「会長、カリエさんは……」

 

「あいつ、ふらふらふらふらと、少しは迷惑というものをだな」

 

 フェリーの生徒会チームに割り当てられた船室に杏は帰還した。出迎えたのはやはりというべきか、柚子と桃の二人だ。柚子は言わずもがな、桃も字面では非難こそしているがその口調にはカリエに対する不安と心配を覗かせている。

 杏は「よいしょ」とソファーに腰掛けて、にっこりと笑った。

 

「カリエちゃんは大丈夫だよ。さすがと言うべきかなんと言うべきかとんでもない胆力だね。ありゃ」

 

 言って、眼前のテーブルに置かれていた干し芋の袋を手に取る。中身をごそごそと漁って一欠片を口に含んだ。

 もごもごと口を動かしながらさらに続ける。

 

「篝火ではあったけれども、火はついていたよ。まだ燃え方を知らないだけで、種火は確実にあった。やってくれるよあの子は。うちの秋山ちゃんとともに必ずや大きいことをしでかしてくれる」

 

 杏が語ったのはカリエに対する全幅の信頼だった。直接その思いを聞いたからこそ抱くことの出来る確信がそこにはあった。

 大洗女子学園を預かる長として、カリエが抱き続けている種火を見抜いていた。

 だからこそこう締めくくってみせる。

 

「ああいう静かなタイプはね、溜めて溜めて最後は爆発するって相場が決まっているんだよ。なら私たちはそれを待とうじゃないか。そのための時間を稼ごうじゃないか。私たちは私たちの役割を全うすればいいのさ」

 




昨日、約束を守れなかったので、今日は二話投稿です。


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逸見カリエの戦車道 08

 選抜戦のスケジュールは延べ三日間と設定されている。

 一日目の今日は、招集された学校及び選手が大会会場に集合して、それぞれの顔合わせ。二日目は選抜戦に向けての作戦会議が各校の隊長クラス同士で行われ、そしてそのまま選抜チームとしては初の合同訓練を行うことになっている。本戦そのものは三日目で、一日がかりで試合が決行される。

 大洗女子学園は初日の、日が昇ったばかりの早朝に現地入りを果たしていた。

 高校選抜チームに割り当てられた巨大な宿舎では全てではないものの、招集された幾つかの学校が待ち受けていた。

 

「ご機嫌よう、大洗の皆さん。全国大会ぶりね。長旅ご苦労様でした」

 

 朝霧も覚めやらぬ宿舎の大部屋。

 そこでは先に到着していた聖グロリアーナ女学院の生徒たちが荷物を整理し、人員の点呼を行っている最中だった。

 集団の長たるダージリンは大洗女子学園が到着したことに気がつくと、オレンジペコを伴って、ねぎらいの言葉を掛けるべくグロリアーナの集団から一歩前に出る。

 相対したのはこちらも大洗女子学園の長たる角谷杏だった。もう一人のある意味でトップである秋山優花里は戦車の搬入関係で席を外している。

 開口一番、ダージリンが口にしたのは意外なことに謝罪だった。

 

「今回の様々なこと本当に申し訳なく思うわ。けれども非才な私にはこの道しか見えなかったのよ」

 

 様々な事——。

 それの意味するところを知っている杏は嫌な顔を一つせずに笑って見せた。

 例え自分たちが利用されているのだとしても、ダージリンの根底にはこちらに対する優しさがあることに気がついているから。

 自分たちをライバルと認めてくれた彼女が、同時に大洗廃校の危機も救おうと奔走してくれていることを知っているから。

 だから返答は感謝の言葉から。

 

「いや、廃校のことを考えるとダージリンがこうやってセッティングしてくれた道は本当に有り難いと思っているよ。それに明後日は私たちと一緒に戦ってくれるんだよね。ならそれで貸し借りはなしだ」

 

 杏の快活な声を受けて、ダージリンは安堵したかのように優しく微笑んだ。微笑んで、ちらりと視線を大洗の生徒たちに向ける。

 彼女の青い瞳が何度も集団の中を往復した。

 今度は微笑みから一転、何かしらの憂いの色を視線は帯びている。

 

 明らかに探していた。

 

 杏は「ああ」と何かしら合点が言った調子で口を開く。

 

「——カリエちゃんは外で私たちの戦車の積み卸しを手伝ってくれているよ。彼女はうちのⅣ号戦車の装填手として参加してくれることになっているから」

 

 ダージリンの真意を汲み取った彼女は先んじてカリエの居場所を伝えていた。ダージリンも自身の行動があからさま過ぎることを自覚していたのか、それともカリエへの思いが読まれていることはある程度予測済みだったのか、特に焦りを見せることもなく「そう——」と言葉を漏らす。

 ただ二の句は随分と長い間紡がれなかった。二人の間に微妙な間が生まれようとも、ダージリンはリアクションを起こさなかった。

 

「ダージリン?」

 

 杏が心配の声をあげた時、やがて何か諦観したような、それでいて何処か遠い目線を含んだ表情でこう告げた。

 

「なら、今は無理に顔を合わせない方が良いのかもしれないわね」

 

 側に控えていたオレンジペコが悲しげに眉の両端を下げている。きっとグロリアーナの中——いや、ダージリンたちの間にも様々な葛藤があったのだろう。言わば彼女たちもカリエと同じように数多くの苦境を味わっているのだ。

 そんな様子を察した杏は若干の迷いを見せはしたが、直ぐに表情を引き締めて口を開いた。

 

「いや、今から行ってきなよ。そしてダージリンにも見て欲しい。あの翡翠色の目の向こう側にある篝火を」

 

 篝火? とダージリンが首を傾げた。

 

「まだ大きな火なんかじゃない。まだまだ小さな火。けれども来るべき時に向けて機を待ち続けている火だ。ダージリンは是非ともそれを見るべきだと思う」

 

 その時、側にいたオレンジペコを始めとして、対面する杏も感じたのはダージリンの怯えたような雰囲気だった。

 ここまでくれば彼女がカリエに対してどのような思いを抱いているのか二人とも手に取るように理解していた。

 

「大丈夫だよ。カリエちゃんはダージリンのことを恨んでなんかいない。選抜戦に巻き込んだことを憎らしく思ってなんかいない。むしろ、荒れに荒れていたよ。ダージリンさんの期待に沿えない! って。だから会ってやりなよ。会って、カリエちゃんの火を見てあげて」

 

 そう。ダージリンが恐れていたのはカリエの心だった。

 良かれと思って牽いてきた道。カリエが黒森峰に戻ることができるのなら、と敷き詰めた道。

 だがそれは結果的にカリエを苦しめる楔にもなっていた。心折れ、戦車を拒絶したカリエを追い詰める結果になっていた。

 こんな筈ではなかったのに、と随分と取り乱しもした。何度も何度も己の自分勝手さと迂闊さを呪った。

 いっそのこと、カリエの方から糾弾してくれればいいのにと仄暗い感情も渦巻いていた。

 それでも、カリエに嫌われるのが怖かった。

 死んでしまいそうなほど怖かった。

 

「——でももしそこであの人に拒絶されてしまったら、私はこれ以上生きていけないわ」

 

「杞憂さ。むしろここで会わないと絶対に後悔すると思う」

 

 杏の言葉は頑なだ。彼女の意志の強さを表すような堅さだった。

 ダージリンもようやく観念したのだろう。控えていたオレンジペコに後のことを任せると、一人宿舎を後にしていった。その後ろ姿はグロリアーナの女王でも何でもなく、ただ一人の、思い人との逢瀬に不安を覚える少女のものだった。

 杏は一言、何処か嬉しそうに呟きを見せる。その言葉は残されたオレンジペコですら同意を示すある一つの事実。

 

「青春だねえ」

 

 

01/

 

 

 あれだけ追い求めてきた姿は実にあっさりと見つかった。 

 宿舎を後にして、高校選抜チームが使うことになる戦車ガレージへと足を踏み入れたダージリンは思わず足を止めていた。

 

 あ、と声を漏らしたのはどちらだったか。

 

 少なくとも、彼女たち以外には一切の人影が見当たらなかったので、カリエとダージリン、どちらかということになる。

 ただ、先に口を開いたのはカリエからだった。

 彼女は手にしていたⅣ号戦車の訓練用砲弾を足下に置いて、ダージリンを見た。

 

「……戦車の搬入が終わったから、いろいろと最終チェックをしていたんです。明後日は装填手として参加しますから砲弾の積み込みとかもしなければなりませんし、優花里さんや華さんと装填のタイミングなんかも話し合わないと」

 

 言い訳染みた言葉はカリエの心情を如実に表していた。事実カリエの足はダージリンから遠ざかろうとしている。

 その動きを見たダージリンは本能的に駆けだして、及び腰になっていたカリエの手を掴み取っていた、

 やってしまった、と感じたのは恐らく両方だろう。

 

「凡その事情はそちらの角谷さんから聞かせて貰ったわ」

 

 ぎゅっ、とダージリンの白い手に力が込められる。

 事情というのはカリエが大洗に転校してから起こったほぼ全てのことを指していた。

 カリエもそのことを理解しているからこそ、ダージリンの期待を裏切り続けている現実を思い出して咄嗟に目線を逸らしていた。

 そしてダージリンはそんなカリエの一挙手一投足が悲しくて仕方がなかった。

 

「どうしてこちらを見てくださらないの。私のことが嫌いになったの?」

 

 縋り付くようにダージリンがカリエを引っ張った。本来ならばそんなことでカリエが体勢を崩されることはなかっただろう。

 だが突然の再会に驚いていたカリエはいとも簡単に足下をふらつかせて、ダージリンと殆ど密着するように立ち尽くすことになる。

 二人の距離がほぼ限りなくゼロになっていた。

 けれども二人が触れあう部分にはどんな熱も感じられず、むしろ今までの溝が割り込んだかのような冷たさが横たわっていた。

 これでは昔のままではないか、とどちらとも唇をきつく噛む。

 噛んで、やがて観念したように、カリエは声を発した。

 

「ダージリンさんこそ、私に失望したんじゃないんですか? 車長として戦車に乗れなくなった私はもう黒森峰に凱旋できないかもしれないのに。あなたが心尽くしてくれた策を全部台無しにしているのに」

 

 ダージリンがカリエに思いを問うたのなら、カリエもまた同じ事を問うていた。

 ずっと逃げ続けていた——けれどもいつかははっきりとさせなければならない残酷な問い。それを互いが互いにそれぞれぶつけ合っていた。

 視線がぶつかる。

 不安に塗れた瞳が合わせ鏡のように相手を映す。

 絶望の沈黙が二人を覆い尽くす。

 

 相手の真意を聞くのが怖くて。

 これから先の未来を見通すことが怖くて言葉が出なかった。

 ふと、カリエを引き寄せていたダージリンの手が少しずつ緩みだした。

 まだ掴んではいる。カリエに触れてはいる。だがそんな最後の糸は確実に綻びを見せている。

 カリエもそれを感じて、諦めたように瞳を閉じた。

 二人の体が離れていく——。

 

 

02/

 

 

 その時、カリエは自身の中で燻っている何かが熱を帯びていることに気がついた。

 今となっては見失ってしまっている、とても大切な何か。

 まだまだその正体はわからない。

 ただ、その熱はとても心地よくて、二人の間にあった冷たい溝ですら溶かしていくようだった。

 

 本当ならこんなこと恥ずかしくて出来ないのに。

 本来ならこのまま分かれてしまう二人なのに。

 

 カリエの手が動く。

 

 

03/

 

 

「——嫌いになるはずないじゃないですか。大好きですよ。大好きだから、愛しているから今の自分が情けなくて辛いんです。あなたの期待に応えられない自分が嫌で嫌で仕方がないんです」

 

 絞り出すように声を出す。

 けれどもカリエはいつの間にかダージリンの背中にしっかりと手を回して、そのか細い体をしっかりとかき抱いていた。苦悩と恐怖を押し隠すように、強く強く抱きしめていた。

 驚きに表情を染めたダージリンが「カリエさん?」と困惑の声を漏らしていた。

 それすらも包み込むように、いや、奪い取るようにカリエは強く強く抱き寄せていく。

 

「あなたを嫌った事なんて今までも、これからも永劫ありえない。こんな情けない『男』ですけれども、それが私です」

 

 ダージリンの動きが止まった。

 息を呑んで、視線をカリエに走らせて、体を硬直させていた。

 そして「ああ」と声を、吐息を漏らす。

 彼女の体はしっかりとカリエの腕の中に収まっていった。

 極至近距離で二人の間で睦言が交わされる。

 

「……よかった。あなたはあなたのままだった。私の考えは正しかった。あなたがどれだけ強い人間か。あなたがどれだけ何度でも立ち上がってきたのか。——本当に悔しいけれど角谷さんも見抜いていたのね。そんなあなたの本質を。私だけが知っていれば素敵なことなのに」

 

 言って、ダージリンはカリエの瞳を覗き込む。

 いつだって心奪われそうになる翡翠の色がそこにはある。

 ほうっ、と息を吐いたのは瞳の向こう側にある「何か」を感じ取ったからだろうか。

 

「ごめんなさい。ダージリンさん。まだ十全じゃないし、決意も固まっていない。迷いも恐れも断ち切れていない。それでもまだ終わりにしたくなくて懲りずにしがみついています。こんな私でも一緒に戦ってくれますか? 肩を並べてくれますか?」

 

「ごめんなさい。カリエさん。私はあなたを苦しめた。あなたがどんな思いで決勝戦から先を生きてきたのか、もっと考えるべきだった。それなのに自分勝手な我が儘でここまで引き摺ってきてしまった。こんな馬鹿な女を許してくださる?」

 

 返答は互いの背に回された腕に込められた力だった。

 挟み込むように増した圧力が二人の距離をより縮めた。

 

「……向こうはこれまでにない強敵です。今度ばかりは本当に駄目かもしれない。でも、諦めたくはありません」

 

「……それに加えてこちらの連携は未知数。車両制限も相まって相当不利な状況ね。大洗の隊長さんが何処まで先を見通せるかに掛かっていると言っても過言ではないわ」

 

「なら心配はありません。優花里さんは私なんかが足下に及ばないくらい賢く強い人だ。彼女ならば高校選抜の隊長として必ずやチームを纏め導いてくれる」

 

「あら、随分と入れ込んでいるのね」

 

 ダージリンの白魚のような細い指がカリエの尻をつねり上げていた。「いっ」と思わず飛び上がったカリエだが、かっちりと抱きすくめられているお陰で、その場から飛び退くことは出来なかった。

 ギリギリと圧が増していく痛みに冷や汗を垂らしながらも、カリエは続けた。

 

「まだ二週間ほどですが、彼女の凄さは間近で感じさせて貰いました。あの戦車道に懸ける情熱は日本一と言っても過言ではないでしょう。むしろ彼女でなければ、黒森峰や聖グロを始めとした即席の連合チームを纏めることは出来ません」

 

「カリスマによる覇道ではなく、情熱による王道を行く人なのね。良いわ王道は私の得意分野よ」

 

「……」

 

 何も言葉を返さなければ返さないで、さらに尻をつねられた。

 言ったら言ったで、もっと怒るくせに、とカリエはため息を吐く。

 ただダージリンはそんなカリエを見てくすくすと笑っていた。

 

「例えあなたが装填手という表に立たない役を担っていたとしても、私が支え続けることには変わりないわ。だから共に戦いましょうカリエさん。選抜戦に勝って大洗を救い、黒森峰に戻りましょう」

 

 笑いながら、カリエの直ぐ眼前で宣誓を告げていた。

 相手に全幅の信頼を置いているからこそ生まれる、宣誓と笑み。

 もちろんカリエもそれに応える。

 もう一度、ダージリンに問う。

 

「今からでも、あなたの期待に沿えますか?」

 

 何を今更、とダージリンは即答した。

 

「あなたが私を裏切るなんてありえないわ。それこそ私のちっぽけな期待なんていつだって軽々と飛び越えていくでしょうに。あと、私はいつまでもいつまでもしつこく待ち続ける女よ。——ふふ、ご愁傷様。あなたは決して私から逃げることなんて出来ないわ。だから諦めなさい。逃げたくなっても、逃がしてなんてやらないんだから」

 

 悪戯っぽく告げられた言葉にカリエはぱちくりと目を見開いた。

 ダージリンもダージリンで意地悪くカリエに微笑みを送り続けている。

 これはちょっとからかわれているな、とカリエは表情を顰めた。それでもダージリンは嬉しそうに笑みを崩さない。

 少しだけ苛ついた。

 心地よく、気持ちよく苛ついた。

 これはちょっとばかりやり返さなければならないと、カリエの心が告げていた。

 

 だからちょっとだけ仕返しをした。

 

 ここ数日に行った装填の特訓のお陰か、カリエの手は神速をもってダージリンの後頭部に回された。

 そして有無を言わさず引き寄せる。

 

「え? あれ? カリエさん、うむっ!?」

 

 世界が、時間が止まった。

 ばたばたとダージリンはカリエの腕の中で暴れたが、やがて観念したように四肢から力を失っていく。

 二人の影が離れたのはそれからたっぷり十秒ほど経過してからだった。

 顔を真っ赤にしたダージリンは口元を押さえながら、ぽかぽかとカリエの胸元を拳で叩く。

 

「本当、あなたは! 私の心を惑わせるようなことばかり! もう! もう!」

 

 先ほどまでの余裕なんて吹き飛んでダージリンは声を上げていた。

 カリエは叩き込まれる拳を適当にいなしながら、あはは、と笑って見せた。

 

「いつかの意趣返しですよ。ダージリンさん」

 

 

04/

 

 

 その日の昼までには、選抜戦に参加する全ての高校が現地入りを果たしていた。

 知波単、プラウダ、アンツィオ、そしてサンダースがそれぞれの車両と隊員を伴って北海道の原野に足を下ろしている。

 ただ、最後に到着したのは意外なことに、カリエの古巣である黒森峰女学園だった。

 いの一番に駆けつけ、とっとと訓練に雪崩れ込みそうな学校だけに、周囲は驚きを持って到着した黒森峰の一団を迎えていた。

 

「ごめんなさい。遅くなりました。黒森峰、戦車四両、隊員十九名です。よろしくお願いします」

 

 大洗女子学園の隊長たる秋山優花里に頭を下げたのは王者黒森峰を率いる西のカリスマ、西住みほだ。

 少し前ならば誰もが想像し得なかった光景に、他校の生徒たちも思わず見入ってしまう。

 

「い、いえ。こちらこそよろしくお願いします。黒森峰の皆さんと戦うことが出来るなんて本当に夢みたいで光栄の極みです!」

 

 ただ優花里がそれ以上に頭を下げたものだから、対面するみほは困ったように「えと……」と言葉を濁した。

 もともと戦車を降りると小心なところがあるみほである。優花里にここまで畏まられることは完全に想定外だったのか、それ以上の行動が取れなくなっていた。

 放っておけばどちらも頭を下げ続けそうになる雰囲気の中、一石を投じたのは黒森峰のナンバー2たる逸見エリカだった。

 一歩前にでた彼女はみほの首根っこを掴んで、とっとと後ろに下げて見せた。

 ある意味で神をも恐れぬ所行に、事の成り行きを見守っていた他校の生徒たちは「おおっ」と感嘆の声をあげる。

 

「副隊長の逸見エリカよ。妹が世話になっているみたいね。感謝しているわ」

 

 ええ、それって本当に感謝しているんですかあ? と優花里は危うく声を漏らしそうになるが、すんでの所で堪えて見せた。

 あらかじめカリエから「エリカは結構初対面ではつっけんどんに見える」と聞かされていたからこそ、必要以上に恐縮するということもない。

 ここは伝えるべき事を伝えるべきだと至って冷静に言葉を返した。

 

「はい、えと、こちらこそお世話になっています。ところで、カリエ殿は戦車道ガレージで到着した戦車の搬入の指示をされていますから、そちらに行っていただければお話もできるかと……」

 

 挨拶はそこそこにまずは久方ぶりの再会だ、と優花里は気を利かせた。

 ダージリンがカリエと再会を済ませたことは知っていたので、そこからきた気遣いでもある。

 だがエリカ、そしてみほは「いいえ」と首を横に振った。

 

「旧交を温めるのは後でも出来るわ。先にこの選抜チームの長たるあなたの展望を聞かせて欲しい。二日後、どうやって大学選抜を破ろうとしているのか、その未来を教えて貰えないかしら」 

 

 意外と言えば意外であるが、これが王者黒森峰なのだ、と考えれば納得の出来ることではあった。

 カリエのことを蔑ろにしているわけではないが、みほやエリカたちにも何かしらの優先順位が存在しているのだろう。

 それが高校選抜が勝利するための見通しというのは、何とも黒森峰らしい価値観だと周囲は認識していた。

 だが優花里だけは彼女たちの真意を、どうしてここに現れているのかを正確に読み取っていた。もちろん大洗の廃校を撤回させるため、という動機もあるにはあるのだろうが、それとは比べものにならないくらい大きなものを彼女たちは背負っている。

 

「……わかりました。本来ならば明日の作戦会議でお話しするべき事なんでしょうけれども、幸い参加してくださる学校の隊長がここには揃っていらっしゃいます。一日前倒しして、今から作戦会議を行いたいと思います。——よろしいですね」

 

 みほとエリカの返答は肯定だった。

 背後に控えていた隊員たちも二人の意を汲んだと言わんばかりにそれぞれが荷物を持って散らばっていく。恐らく割り当てられた宿舎に向かい、明日の訓練への準備へと移行していくのだろう。

 随分と統率の取れた、軍隊のような集団だと様子を眺めていた他校の隊員たちは感じていた。

 

「というわけで、参加校の隊長の皆さん、10分後に会議室で最初の作戦会議を行いたいと思います。急な要請で大変恐縮ですがよろしくお願いします」

 

 誰も反対はしなかった。

 黒森峰が内包していたある種の異様な雰囲気に当てられたのか、あのアンツィオの面々ですら黙って事の成り行きを見守っている。

 ただプラウダの選抜要員として参加しているカチューシャだけが「相変わらずお堅いわね」と鼻を鳴らしていた。

 

 こうして高校選抜チームを構成する最後のピースがようやく現れた。

 だが、集まった全てのピースが組み合わさり、勝利という一つの絵を描き出すにはまだまだ足りないものがある。

 何となくそれを感じている優花里は眉根を下げたまま、困ったようにその場に立ち尽くしていた。

 まだバラバラのままだ、と悔しさすら滲ませながら。

 

 

05/

 

 

 作戦会議は随分と紛糾したようだ、とカリエは優花里を気の毒に思った。

 疲労困憊の表情で、優花里があんこうチームに割り当てられた宿舎の一室に帰還してきたことから凡その事情を察したのである。

 とんでもなくアクと個性が強い高校選抜の面々である。一つにそれらをまとめ上げるストレスは並大抵のものではないだろう。

 事実、作戦に関する方針も目指すところは各校バラバラで、グロリアーナと黒森峰だけが優花里の方針を支持するだけに留まっていた。

 それぞれの学校が有する伝統、戦術を含めたドクトリンがぶつかり合っていたのである。

 最後の最後に、黒森峰を代表して出席していたみほが「このチームの隊長は大洗の秋山さんです。ここは隊長の方針に従うべきでしょう」と告げてくれたものだから会議は一応の纏まりをもって終えることが出来ていた。

 だがそれぞれの学校が完璧に納得していったとは到底言えるものではない。

 明日からの合同訓練のことを考えてみれば、かなり頭の痛い問題だった。

 

「いえ、皆さんが高校選抜を勝利させるために必死になってくれていることはよく伝わってくるんです。つまるところそれは、わたくしたちの廃校問題を何とかしないといけないと考えてくれているわけですから有り難いことには間違い有りません。——残念ながら、カリエさんの問題に関しては会長から緘口令を敷かれているためお話は出来ていませんが」

 

 それは全くの本心だったが、表情が明るいわけではなかった。

 やはり胸の中に燻る一抹の不安が気になるのだろう。

 果たしてこのチームはチームとして機能できるのか、という問題だ。

 

 カリエが大洗にいる限り、黒森峰とグロリアーナとはそれなりに協調路線を敷くことが出来る。

 戦況が不利に傾けばその限りでないことはいささか気がかりだが、現時点ではそう信じるしか道はなかった。

 問題はプラウダ、サンダース、知波単そしてアンツィオとどのようにドクトリンの摺り合わせを行うか、である。

 それぞれの学校が長所と短所を有し、本人たちもある程度それを自覚しているからこそ、長所を伸ばし尽くすドクトリンを長年にわたって形成してきたのだ。

 今更それは変えられるものではない。

 しかしながら一つのチームとして戦う以上、どうしてもドクトリンの特質の差が生じるが故に、ある程度の路線変更を強いる場面は必ず存在している。

 西住みほのような圧倒的な戦車戦のカリスマがあるならまだしも、人徳だけで大洗を纏め続けてきた優花里にはいささか荷が重い問題だった。

 もしカリエが車長として戦うことが出来るのならば、優秀な参謀としての信頼から他校を納得させることが出来ていただけに、優花里の心労は尚更だった。

 

「ごめんね、優花里さん。黒森峰とグロリアーナの人たちにはこちらから何とかお願いしてみるから……」

 

 カリエもそのことを理解しているのか、その二つの学園に対する調整役を買って出ている。

 何かしらの心境の変化があったのか、黒森峰、そしてグロリアーナを避けようとしていた時とは別人のようだった。

 あんこうチームの面々も口には出さないが、ダージリンとこっそり再会したのがプラスの方向に傾いたのだ、と安堵していた。

 

「でも本当にどうしよう。一応こちらからは適材適所で配置やら役割やらを決めさせて貰ってはいるけれど、どうしても不満とかは完全には無くせないよね。これってやっぱり明後日までに何とか解決しないと……」

 

 沙織の懸念は尤もだ、と華と麻子が頷いた。

 優花里が必死に説得して回っていることは事実ではあるが、それにはやはり限界というものがある。

 現時点における日本最強のチームに対して勝利を掴み取るには本の些細な不和ですら命取りになりかねないのだ。

 カリエもこればかりはどうすれば良いのか、と必死に頭を悩ませる。

 最悪、土下座して回ろうか——いやいやそれは相手を引かせるだけで悪手なだけだ、と呟きを漏らしていた。

 

 残念ながら、あんこうチームの彼女たちが顔を付き合わせて深夜まで議論を重ねても答えは出なかった。

 これ以上は明日以降の訓練に支障がでるとして時間切れで幕を引いた。

 有効な解決策を見つけることが出来ずに明日を迎えてしまったのだ。

 

 だがここにきて彼女たち——いや、大洗女子学園に一つの幸運が訪れていた。

 その出所は意外なことに黒森峰の陣営からだった。

 

 

06/

 

 

「で、こんな夜更けに大洗以外を集めて一体どういうこと? カチューシャはもう寝る時間なんだけれど」

 

 露骨に不満を口にしたのはプラウダの隊長たる小さな暴君カチューシャだった。

 彼女は欠伸をかみ殺しながらテーブルの一角に座している。その他にも、同じテーブルには今回選抜戦に参加する高校の隊長たちが一同に介していた。

 ただ大洗だけが誰一人として参加していない。 

 意図的に大洗だけがこの場から取り除かれていた。

 そしてそのような催しをわざわざ開催したのは、あろうことか黒森峰を率いる長でもある西住みほその人だった。

 彼女はテーブルの一番奥の席に、副隊長たる逸見エリカと共にあった。

 

「……今回、皆さんをお呼びしたのは他でもありません。私たち黒森峰の立場と考えを包み隠さず全てお伝えするためです」

 

 堅い声色で紡がれた言葉にカチューシャは眉を潜めた。

 何故ならここにいる高校は大洗女子学園の廃校問題を撤回させるために集まっているのだ。そんな時に黒森峰は自分たちには別の立場と考えを持っていると宣言したのである。

 まさか黒森峰が決勝戦での遺恨を今更蒸し返してくるなんて、と呆気にとられるのと同時、少しばかりの侮蔑の思いすら抱くのは当然のことだった。

 そしてそんなカチューシャの感情は大なり小なり会議室に集っていた各校の隊長達に伝播していた。

 彼女たちもまた、大洗を取り除いて隊長クラスを招集した黒森峰に不信感を抱いているのだ。

 室内の雰囲気は暗く、重い。

 こんなところで元王者のプライドを出されてしまってはチームの空中分解が必死なだけに全員が表情を強ばらせている。

 唯一の例外は黒森峰の二人の隣に位置するダージリンだけだ。

 彼女だけは瞳を伏せたまま微動だにせずに、黒森峰側の主張を静かに聞いていた。

 

「——みほ、そこから先は私が伝えるわ。これは私の責任でもあり義務よ」

 

 いよいよみほが口を開こうとしたその時、それを遮ったのは沈黙を保っていたエリカだった。

 逸見エリカの名は良くも悪くも有名である。カリエが深淵鬼謀の策士として的確に相手のウィークポイントを見極めてくると畏れられているのと同時、エリカはカリエが見極めたウィークポイントを一切の容赦なく食い破ってくる切り込み役として知られている。

 その突破力は高校戦車道界随一と称されており、苛烈に見える性格も相まって他校からはまさに畏怖の対象だった。

 そんなエリカがみほの口を遮ったのを見て、いよいよ集っていた隊長達は顔を青くした。

 

 これは荒れる。間違いなく良くない方向に荒れてしまう、と覚悟すら決めたのである。

 

 誰かがごくりと喉を鳴らした。先ほどまで不機嫌そうに振る舞っていたカチューシャは怯えた表情で椅子にしがみついている。彼女はこの場にノンナを連れてこなかったことを心底後悔していた。プラウダ戦車団の訓練メニューを考えておいてよね! と丸投げしてしまったのがいけなかった。

 今回から試合に帯同させ始めたクラーラにも「ノンナのことを手伝いなさいよ」と偉そうに告げてしまった自分が憎らしい。

 

 がたん、とエリカが立ち上がる。

 みほが不安げにそちらを見上げたものだから室内の緊張のピークは頂点に達していた。

 今から繰り広げられるであろう黒森峰陣営との舌戦を想像して全員が吐き気すら覚える。

 だが、しかし——。

 

「——お願いします。どうか大洗女子学園に協力して、私たちを助けてください。あなたたちに伝統があることも矜持があることも知っています。けれども今回は、今回ばかりは皆で手を取り合って、大洗女子学園を勝たせてもらいたいんです」

 

 頭が垂れていた。エリカの銀に輝く天頂が衆目にさらされていた。

 もしもテーブルという邪魔なものがなければそれこそ土下座になっていたであろう、綺麗な姿勢だった。

 本当の意味で全員が呆気にとられた。

 

「……あ、頭を上げてください! あなたたちに何があったのかは存じ上げませんが、事情を話してもらわないと!」

 

 別の意味で気まずい沈黙を破ったのは知波単学園率いる西絹代だった。彼女は勢いそのままに立ち上がってエリカの元に慌てて駆け寄る。それでもエリカは微動だにしないまま頭を下げ続けた。

 

「お願いします! 私たちは負けるわけにはいかないんです! 絶対に勝たないと……絶対に勝って妹を取り戻さないといけないの!」

 

 妹を取り戻す——。

 エリカの口から放たれた不穏当な言葉にカチューシャが反応した。

 

「ねえ、まさかカリーシャがやけに大洗の子達と一緒にいたのとそれは何か関係があるの?」

 

 カチューシャが思い出したのは昼間の光景だ。私服姿ではあるものの、常に大洗女子と共に活動を行っているカリエを疑問に思っていたのである。

 黒森峰側からの相談役として世話なり何なりをしているのだろうと自身を納得はさせていたが、やはり引っかかるものはあったのだ。

 ケイやアンチョビも同じ考えだった。カチューシャほどカリエとの交流はないものの、その姿が黒森峰側に見えないことには薄々気がついていた。

 エリカは頭を下げたまま、絞り出すように三人の疑問に答えた。

 

「カリエは……黒森峰の逸見カリエはもういないわ。彼女は全国大会の敗退の責任を負わされて黒森峰を辞めた。そして大洗がそんなあの子を受け入れてくれたの」

 

 はあ? とカチューシャを始めとしてほぼ全員が声を上げた。

 ここに来て沈黙を保ち続けているのはダージリンだけだ。しかしながら彼女もその瞳に確かな怒りを称えて前を見つめている。

 

「ばっかじゃないの! たかだか大会の敗退だけで責任を取らせるとかどうかしているわ! いくら黒森峰でも常軌を逸しているわよ! あんた達、そんな理不尽な決定を黙って受け入れたの!?」

 

 カチューシャもまた怒っていた。曲がりなりにも自身がその実力を認め、ソウルネームを送った相手である。

 そんなカリエが黒森峰において蔑ろにされ、追い出されたなどと聞かされて平静を装えるわけがなかった。言葉にこそしなかったが、ケイやアンチョビ、絹代も同じ気持ちを抱いている。

 そこんところどうなのよ! と問い詰めるカチューシャに対して、エリカもまた吠えた。

 

「受け入れる訳ないでしょう! でもね、こうするしかなかったの! あの子を守るためにはこうする他なかった!」

 

 叫びは慟哭。エリカは内に燻っていた憤りを、悲しみを吐き出した。

 吐き出して、尚も全員に縋る。

 

「お願い……。あの子が黒森峰に戻るには、大洗のカリエとして選抜戦を勝ち抜いて、その功績で凱旋するしかないの。もし黒森峰に戻ることがなくても、傷ついたあの子の戦車道をそのままにはしておけない。必ず勝って、あの子の次の道を紡いであげたい……」

 

 誰も口を開くことが出来なかった。 

 黒森峰が抱える凡その事情を察したとき、安易に同情することも同意することも自分勝手だと糾弾することも出来なかった。他校の廃校問題を利用するな、と正論を吐くことも出来なかった。

 それだけエリカの懇願は真に迫っていた。

 

「……およその事情は今エリカさんが説明した通りよ。黒森峰の皆さんは逸見カリエさんを取り戻すために戦っているわ。そしてその道筋を、策を張り巡らせたのはこの私。恨み言はいくらでもこちらにくださいな」

 

 次に口を開いたのは沈黙を貫いていたダージリンだった。

 彼女もまた、いつものすまし顔ではなく滅多に見せない真剣な表情で周囲を見渡した。

 

「——なるほど、あんたたち最初からグルだったのね。大洗女子学園を廃校にさせない、という私たちの思いすら利用するつもりでここに来たのね」

 

 カチューシャの言葉を捻くれている、と糾弾できるものは誰もいなかった。みほもまたエリカに並んで「その通りです。責はこんな我が儘なプランを遂行することを決定した私にあります」と頭を下げていた。

 カチューシャは面白くなさそうに続ける。

 

「本当に自分勝手ね。いい? 大洗は学校がなくなろうとしているのよ? 個人が戦車道を辞める辞めないじゃないの。全校生徒の運命が掛かっているし、それを勝ち取るために奮闘したユリーシャたちの頑張りが否定されようとしているの。それが許せないから私たちはここに集まったし、大洗を勝たせようと全力を傾けている。カリーシャのことはもちろん残念だけれど、それは私たちには関係のないことだわ」

 

 彼女の言葉は何処までも正論だった。

 統廃合の掛かった試合に私情を持ち込んだ黒森峰とグロリアーナが異常なのだ。それに付き合う義理など、残された学校には存在していない。

 何ならこのまま両校を糾弾して、チームのイニシアチブを握ることだって可能だった。

 けれどもただ、カチューシャはこう続けた。

 

「ねえ、私カリーシャにまだリベンジマッチしてないのよ。去年のエキシビションでも同じチームだったし、今年は組み合わせが悪くて戦えなかった。本当に遺憾だけれども」

 

 おや? とアンチョビとケイ、そして絹代のカチューシャに送る視線が変化する。

 それは困惑から、何かを期待するかのような。

 

「……勝ったらカリーシャは本当に救われるのよね? また笑顔で戦車道を続けられるのよね。私たちと戦えるのよね?」

 

 カチューシャはエリカに歩み寄っていた。

 先ほどまでの問い詰めるような雰囲気ではない。何か大事なことを確認するかのような、どちらかというと不安げな子供のような雰囲気だった。

 

「That's all right! 結局のところ話は極シンプル! 勝てば大洗は廃校なんかにならないし、カリエは黒森峰に戻れるのよね??」

 

 次に立ち上がったのはケイだった。彼女もまた何か吹っ切れたような、さっぱりとした笑顔を称えていた。

 

「あなたたち逸見シスターズには去年の熊本でも借りを返していないんだもの。こんなところでユニットを解散なんてそんなのナンセンスだわ」

 

「わ、私も同じ気持ちだ! こんなことで学校を追い出されるなんて間違っている! 何としてでも試合に勝利して、悪い奴らを見返してやるべきだ!」

 

 アンチョビもまた賛同の声を上げていた。全国大会で砲火を交わしたことこそないものの、彼女の正義感が此度の罷免劇に対する義憤を駆り立てている。

 最後に絹代がすっと立ち上がる。

 

「負けこそはしましたが、この間の全国大会、カリエさんの見せた読みの鋭さには我々知波単の全員が敬服しております。そんな日本戦車道界の宝と言ってもいいカリエさんが苦しんでおられる現実は間違っています。微力ながら、我々もあなた方の勝利に貢献させてもらいたい」

 

「……と、いうわけよ。要するに勝てば良いのよ! 勝てば! もとより負けるつもりなんてこれっぽっちもないわ! そんな弱気、すり潰してピロシキのお惣菜にしてやるんだから! ——だからあんた達も頑張りなさい。私たちが私たちの戦いをすれば絶対に勝てるわ」

 

 カチューシャの言葉を受けて、みほとエリカ、そしてダージリンは初めて表情を柔らかくした。カチューシャもカチューシャで気をよくしたのか、声高々に大洗とカリエに対する全面的な協力を叫ぶ。

 

「でもそのためには連携が不可欠とあんた達は言いたいんでしょ? 確かにそれぞれの学校が違った伝統とドクトリンを誇りに思っているわ。けれども今回ばかりはユリーシャに、そしてカリーシャにそれを預けてあげる! あの二人の指揮なら不安なんてこれっぽっちもないわ!」

 

「ありがとうございます!」とみほが喜び、エリカも安堵の表情を見せていた。カチューシャの声にケイたちも賛同の意を示していることから尚更だった。何より、逸見カリエという人間がここまで他校に好意的に見られていたことが二人は嬉しかった。

 彼女が一人ではないという証明に繋がっているようで嬉しかった。

 自分たちだけで守り抜かなければならないという不安と焦燥から解放される気持ちだった。

 

「ありがとう、カチューシャ。あなたのそのバイカル湖よりも深い器量に本当に感謝するわ。でも、一つみほさんやエリカさんを始め、皆には先に言っておかなければならないことがあるの」

 

 ふと、ダージリンがそんな事を言った。

 明るい雰囲気が差し始めていた会議室の空気が再び固まる。

 隊長クラスの人員が集まっている所為か、ここにいる人間たちは人一倍勘の鋭い人種だった。そんな勘に冴えた彼女たちはダージリンから如実に感じ取っていたのだ。ここにきて、確実に厄介な話題を彼女は有していると。

 あなたたちは何か知っているのか、とカチューシャやケイがみほとエリカを見た。

 だが、みほとエリカですらダージリンが何故そのようなことを口にしたのか理解しておらず、怪訝そうに首を傾げている。

 これは完全によくないことだ、とカチューシャは頭を抱えた。

 ダージリンは「このことも何れは伝えなければならないことだから、この場をお借りして皆さんには伝えるわ」ととうとう口を開いた。

 

「カリエさんは今、車長として戦えなくなっているわ。決勝戦での挫折が、その後の見えない悪意から戦車のあの席に座れなくなっている。だから今回の試合、装填手として参加するそうよ」

 

 爆発した。

 何が爆発したのかというと、みほの隣に立っていたエリカが爆発した。

 当然だった。

 そんなこと、エリカは一言もダージリンから聞かされていなかったからだ。

 

「あんたなんでそんな重要なことを今まで黙ってんのよ! 本当に頭おかしいんじゃないの!?」

 

 みほと絹代が咄嗟に押さえていなければ、ダージリンに掴みかからんばかりの勢いだった。

 先ほどまで自信満々に振る舞っていたカチューシャはエリカの怒気に完全に怯えて、ケイの後ろに隠れ込んでいる。ケイもケイでそんなカチューシャを抱き寄せて「OH……、これはいけないわ」と天を仰ぎ見ていた。アンチョビは「喧嘩はいけないぞ」と会議室を行ったり来たりしている。

 

「話自体は大洗の会長から聞かされていたけれど、私も本人にそのことを確認できたのはつい先ほどよ。それまで、カリエさん、本当に音信不通だったんだから。エリカさんこそ、連絡のやり取りをしていなかったの?」

 

「したわよ! でもあの馬鹿、干し芋が旨いとかマリンタワーが大きいとかくだらない事ばかり返信してきてのらりくらりかわしてくれてんのよ! ていうか、大洗の会長から報告を受けた時点でこちらに連絡するのが筋ってもんでしょう!」

 

「情報が不確定なまま、周囲を不安にさせる訳にはいかないでしょう? それにほら、あなたも自覚がないかもしれないけれど、随分と不安定だったから心配を掛けたくなかったのよ。大体、カリエさんが戦車に乗れなくなったことを聞かせていたら、大洗に踏み込んでいただろうから——」

 

 それの何が悪いんだ、と告げようとしてエリカはみほが首を横に振り続けていることに気がついた。

 そして急速に頭が冷えていくのを感じる。

 

「ダージリンさんの仰っていることは私も正しいと思います。カリエさんを受け入れて貰っている以上、大洗の皆さんへ騒ぎを波及させるわけにはいきませんし、何よりカリエさんが辛い思いをします」

 

 みほの言い分の通りだった。

 戦車に乗れずに失意に沈んだカリエの元に、エリカが押しかけていたらそれだけでカリエは潰れていた可能性があった。ダージリンに失望されることを極端に恐れるのと同時、姉に失望されることを何よりも恐れているカリエである。万が一にもあり得ないとしても、戦車に乗れないという事実はカリエにとって、エリカには絶対に隠し通したいものだっただろう。

 エリカもそんな妹の性格を熟知しているだけに、「ぐっ」と何も言えなくなっていた。

 だがここで終われない。

 終わるわけにはいかない。

 捨て台詞とわかっていてもエリカは前へ突き進む。

 

「——あんたね」

 

 ぼそっと、声を漏らす。

 それは随分とドスの利いたものでケイの後ろに隠れていたカチューシャが「ひっ」と悲鳴を上げるくらいには凄みに満ちていた。

 だがダージリンはそれを正面から涼しい顔で受け止める。

 

「何かしら?」

 

「次、あの子のことで隠し事をしたら承知しないわ。ただ単純にぶちのめすわよ」

 

「あら、ぶち殺すと脅してきたときに比べたら幾分か優しいのね。ひょっとしてカリエさんとの仲を少しは認めてくださっているの?」

 

 どうしてそこで煽るのよ! とカチューシャは最早涙目になっていた。アンチョビも二人の覇気にやられたのか、いつの間にかケイの後ろでカチューシャに縋り付いている。

 

「はあ? 認めるわけないでしょう? こちとらカリエがあんたの腐りきった性根にいつ気がつくかわくわくする毎日だから」

 

「待ちの姿勢なんて、あのエリカさんが随分と消極的なのね。積極的なカリエさんとは大違いだわ。本当——カリエさんたらあんなにぐいぐい来るんですもの。ちょっと驚いてしまったわ」

 

 あ、これはいけない、と二人のやり取りを何度か目にしてきたみほが悟った。絹代と二人で抑えていたエリカの体をそっと離し、静かにケイの元へと歩みを進めた。絹代ただ一人だけが、エリカにしがみついたままで取り残されている。

 

「——何言ってんの? あんた?」

 

 エリカもダージリンの言葉から不穏なものを感じ取ったのだろう。やや引き気味に、だが威圧はそのままに問うた。

 ダージリンはそんなエリカに勝者の余裕を見せつけるかのように、それでいて『女』の顔をして答えた。

 

「あんなに激しくカリエさんに求められたのは初めてよ。あの熱い唇を思い出したら火傷してしまいそう」

 

 ほう、とダージリンが息を吐いたその刹那、会議室で噴火が起こった。

 もう手に負えない、とみほはケイと彼女にくっついているアンチョビとカチューシャを伴ってその場から逃げ出す。それが彼女にできる精一杯の対応だった。絹代まで救う余裕はなかった。

 閉じた扉の向こう側から、エリカの怒声と罵声、そして絹代の悲鳴が響き渡る。

 外で待機していた小梅が何事か、と駆け寄ってくるが、エリカとダージリンが会議室に残っていることを知らされて、納得したように溜息を吐いた。

 ケイだけが落ち着いた様子で「いつもこうなの?」と笑っていた。みほは心底申し訳なさそうに全員に頭を下げる。

 

「二人ともカリエさんを想う余りついついぶつかってしまうんです……」

 

「ま、それだけ二人とも本気だということなんだろ。でもあの二人に思われて無事とかカリエとかいう奴は相当だな」

 

 アンチョビの言葉はその場にいる人間全ての本音を代弁していた。確かにダージリンとエリカの二人の間をふらふらしているカリエは傑物で間違いない。

 みほと小梅は大きな溜息を吐きながらも、取り敢えずはと気を取り直す。

 

「これで何とか高校選抜としてのチームの体は成したと思います。後は大洗の秋山さんと——何処まで戦えるかはわかりませんが、カリエさんが全てを握っています。私たちは二人を信じてただ戦うだけです」

 

 みほの力強い言葉に、ケイとアンチョビ、そしてカチューシャは同じく強く頷いていた。

 

 こうして、高校選抜チームはチームとしての山を何とか一つ越えることが出来ていた。

 本戦まであと二日。

 事態は着々と動いている。

 

 




そろそろ爆発です


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逸見カリエの戦車道 09

 カリエが眼を覚ましたのは、隣に寝ていた筈の優花里がもぞもぞと動きを見せていたからだ。

 何事かと、寝ぼけ眼で枕元の携帯電話を見てみれば、まだ早朝の四時を少しばかり回ったくらいだった。

 就寝したのが丁度日付が変わろうか、という時だったので四時間くらいしか経過していないことになる。

 正直言って強い眠気が頭を支配していたが、カリエはのそりと起き上がって優花里に小声で声を掛けた。

 

「何処かにいくの?」

 

 暗がりで殆どよく見えないが、優花里は外行き用の着替えに身を包んでいた。

 まさかカリエが起きているとは思っていなかった彼女は「びくっ」と肩を跳ね上げていたが、何とか声を押し殺して言葉を返す。

 

「えと、戦車の様子を見に行こうかな、と。今日は合同訓練ですから、万が一何かあるといけませんし」

 

 正直言ってカリエは感嘆した。

 ここまで戦車道に真摯でひたむきな優花里の姿勢に感動していた。皆が寝静まっている間に全てを終わらせておこうとするその心配りに心打たれていた。

 そして、自分たちに勝ったのが彼女でよかったのかもしれない、とちょっとだけ前向きな気持ちが芽生えていた。

 

「カリエ殿はお休みなさっていてください。装填手は重労働ですから睡眠は大事ですよ」

 

 優しげに優花里は微笑んで布団から抜け出していく。

 ここで「はいそうですか」と優花里の厚意に甘えることも考えたが、カリエは布団を静かに畳んで寝床から抜け出した。

 外靴に履き替えようとしていた優花里が首を傾げる。

 カリエはまだ寝息を立てている沙織たちを気遣うように、小さな声で答えた。

 

「一緒に行こう」

 

 

01/

 

 

 カリエが黒森峰で搭乗していたパンターはそっくりそのまま戦車道ガレージに座していた。

 あれだけ苦楽を共にしてきたというのに、随分と久しぶりな感覚を覚える。

 Ⅳ号戦車によって穿たれたリア側の穿孔は綺麗に塞がれていて、破片その他諸々で剥げ落ちようとしていたエンブレムは塗装し直されていた。本来の主はその指揮を執ることが出来ないというのに、随分と小綺麗にされているものだ、とカリエは関心すら覚える。

 

「——わあ、これがカリエ殿が乗っていらしたパンターなんですね。とても丁寧に整備されていて凄いです!」

 

 優花里も黒森峰の整備班の仕事ぶりに見入っているようで、数分ばかりパンターの周囲をウロウロしていた。カリエは本当に戦車が好きなんだな、と若干離れたところに置いてあったベンチに腰掛けてその様子を見守った。

 

「おっと、すいません。他校の皆さんの戦車は大体見て回ることができました。外観等に異常は見られません。さすがに中を見聞するわけには行かないので、あとは私たちのⅣ号戦車を整備しましょう」

 

 やがて我に返ったのかやや頬を赤く染めて優花里がそんなことを言った。

 そういえば自分たちは早朝整備が目当てで寝床を抜け出してきたんだな、とカリエは立ち上がる。そして若干慣れを含んだ動作でⅣ号戦車の車体に上った。

 

「訓練用の砲弾は昨日の間に積んでおいたよ。模擬戦とかはやろうと思えば直ぐに出来ると思う。ただ自走した分燃料をちょっとばかり消費しているかも。ここの給油設備は自由に使っても良いみたいだから今のうちに満タンにしておこうか」

 

 砲塔の天蓋に置かれていた整備チェックシートを見てカリエは提案を口にする。優花里も異論は無いようで、「そういうことなら」とあっという間に車長席に陣取った。

 

「わたくしが先導しますから、カリエ殿が操縦してくれませんか? 確かこの前に一通りの役割はこなせると仰っていたものですから」

 

 返答は是だった。ナナほどではないにしろ、カリエはカリエで操縦に対する造詣を有している。

 車内に備え付けられているマニュアルを一通り再確認した後、彼女はさっさとⅣ号戦車のエンジンに火をともした。

 

「今は二人だけなのでこのトランシーバーでやり取りをしましょうか。実戦では混線してまともに使えませんけれども、ここなら大丈夫でしょう」

 

 優花里がカリエに手渡したのは私物の無線機だった。イヤホンタイプのそれを耳に通してみればそこそこ明瞭な音声で互いの声をやり取りすることが出来た。

 成る程、これがあればいちいち足で指示しなくとも車長から操縦手に出来るな、とカリエはいそいそとそれを身につける。

 

「ではまだ皆さんはお休みでしょうから、こっそり静かにパンツァーフォーです」

 

 

02/

 

 

 朝焼けの平原を二人きりと一両で進んでいく。

 ナナや麻子に比べれば覚束ない足取りではあったが、他校のレギュラー選手並みにはカリエはⅣ号戦車を操っていた。

 優花里もカリエの腕に対する信頼があるのか、実に晴れやかな表情で車長席から外を見ている。

 

「……そういえば」

 

 会話の口火を切ったのはカリエだった。操縦手専用の覗き窓から差し込む朝日に顔を照らして彼女は続ける。

 

「私たちが初めて会ったのはⅣ号戦車の側だったよね」

 

「あ、カリエ殿も思い出されました? そうなんですよ。熊本の戦車道博物館で実はわたくしたち一度会っていたんですよね」

 

 なんてことの無いように優花里は答えるが、その表情は喜びに満ちていた。

 あの時の、ある意味で人生を大きく変える切っ掛けになった出来事をカリエが思い出していたことは何よりも嬉しい。

 

「あの時さ、本当に私は戦車道をするのが嫌で嫌で仕方がなかったんだ。乙女のたしなみなんて糞食らえって思ってた」

 

 カリエの言葉に優花里は思わず苦笑する。

 もともとカリエが戦車道に対して悪感情を抱いていたことは薄々知ってはいたが、改めて本人の口からそのことを聞かされると思うところはあるのだ。

 カリエはさらに続ける。

 

「でもさ、因果なものだよね。あれだけ嫌がっていた戦車道にここまで自分が執着するなんて思わなかった。こんなに未練を持つなんて想像も付かなかった。——でもそれって多分優花里さんのお陰なんだと思う」

 

 因果——。

 

 確かにその通りかもしれないと優花里は考えた。カリエが戦車道を始める原風景を生み出したのが優花里ならば、優花里が大洗で戦車道を始める道を示したのはカリエなのだ。互いが互いに相手の人生のキーパーソンとなっている。それも全く違ったタイミングで。

 

「わたくしこそ、カリエさんがいなければ大洗で戦車道を始めていないかもしれませんよ。カリエさんの戦車道に憧れたからこそ、今の自分があるわけですから」

 

 だから全くの本心を語った。

 ここにきて、自身が目指した戦車道の在り方をカリエに打ち明けていた。

 カリエを目指してただ前に進んだ日々を告白した。

 

「カリエさんがいなければここまでこれなかったでしょう。選抜戦というチャンスを与えられることも無く、大洗は廃校になっていたと思います。——本当に感謝しています。あなたがいたから、私は私の今がある」

 

 カリエは「そっか」と相づちを返すだけに留めた。

 だがその一言には万感の意味が込められていた。

 高校選抜チームに割り当てられた給油施設が近づいてくる。もう、幾ばくも無い間にこの朝の散歩は終わりを告げる。

 朝日がⅣ号戦車を黄金色に照らし出していた。

 

「ねえ、優花里さん」

 

 停車する直前、カリエがそっと口を開いた。

 アイドリングするエンジン音に紛れながらも、彼女は言葉を紡ぐ。

 

「——最近思うんだ。優花里さんに負けたのもきっと意味があることなんだって。優花里さんがあの日私に戦車道を教えてくれたように、何か大事なことをあの決勝戦で教えてくれたんだって。でもまだその答えは見つからない。きっとそれはこれからの選抜戦で見つかるような気がする。だからさ、——勝とうよ。絶対に。まだ二人で戦車道が出来るように。いつかまた戦えるように」

 

 一瞬呆気にとられた優花里は直ぐには言葉を返さなかった。

 実際、気の利いた文句も言い回しも思いつかなかった。

 伝えたい言葉が多すぎて思考が洪水を起こしていた。

 けれども、一つだけ口を抜け出した言葉がある。それはとてもシンプルなものだったが、数多くの意味をカリエに贈るには十分すぎる言葉だった。

 文字数にしてたった二文字。

 赤く染まる朝焼けの中、優花里は答える。

 ただ、

 

「はいっ」

 

 と。

 

 

03/

 

 

 優花里たちが懸念していた、各高校のドクトリンの不和は全くの杞憂に終わっていた。

 理由は不明ではあるが、優花里を隊長として立て、その指示をそれぞれの学校が有している長所を持って遂行していくという形が出来上がっていたのだ。

 もともとそれぞれのドクトリンに対する理解が深い優花里である。

 的外れな指示というものは一つも無く、各校がある程度納得できる形の用兵がきっちりと守られていた。

 カリエと関わりの深い黒森峰やグロリアーナは言わずもがな。

 プラウダやアンツィオ、そして知波単までが連携を重視した姿勢を見せてきたのだ。

 昨日の苦労は何だったのか、と優花里は疑問を抱いていたが、それに答えるものは残念ながらいなかった。

 ただ一つだけ確実なのは、選抜戦を勝ち抜くためのパズルのピースがようやく揃い始めたということである。

 

 まだまだ即席チームとしての粗が見え隠れするものの、初日のことを思えば随分と一つのチームとしての体裁を整えることが出来ていたのだ。

 

 こうして合同訓練として割り当てられていた二日目がつつがなく終了した。

 そして日付は運命の三日目へと切り替わる。

 

 

04/

 

 

 まさか日付が変わったその瞬間に掴まるなど想像もしていなかったと、カリエは冷や汗を流した。

 嫌に接触が無かったよなあ、と思いつつも恐らくこの時を待っていたんだろうな、と妙な納得すら覚えてしまう。

 シャワーから上がって僅か数分。

 カリエは黒森峰に割り当てられた宿舎に連れ込まれていた。

 

「——ま、こっちを出て行ったときに比べたら随分とマシな表情するようになったじゃない。安心したわ。ところでご飯はちゃんと食べているんでしょうねえ? コンビニ弁当ばかり食べていたら承知しないわよ」

 

 がっちりとみほと小梅に脇を固められ、正面にはエリカが陣取っていた。

 ナナたちパンターの乗員はカリエが逃げ出さないように、宿舎の入り口を塞いでいる。

 

「えと、その、あんこうチームのミーティングに行かないといけないので」

 

 さすがに気不味いと、適当なそれっぽい出任せを口にする。だがカリエのそんな些細な抵抗は意外なことにナナの手によって握りつぶされてしまった。

 

「大洗の隊長さんには既に確認済みです。副隊長。後は就寝だけと伺ったので、こうしてご足労頂いております。無駄な足掻きはやめてください」

 

 熊本空港で突き放したのがいけなかったのか、ナナがどことなく厳しかった。

 あれだけ「副隊長、副隊長」と輝いていた瞳は、カリエを鋭く見据えている。

 

「と、いうわけよ。そんな訳であんたには明日の試合を前に幾つかのことを確認する必要があるの。覚悟なさい」

 

 これは腹を括るしか無いな、とカリエは息を吐いた。

 思えば楽な方へ逃げ続けてきたここ最近の自分が悪いのである。この辺りで仕切り直しをする必要性くらいは感じていた。

 

「じゃあエリカ、何でも聞いて」

 

 エリカ、と口にしたのも久方ぶりのことだった。エリカもエリカでその呼び名が久しいのか少しばかり目を丸くしていた。だが直ぐに表情を引き締めると、いきなり本題に踏み行ってきた。

 

「あんた、戦車に乗れないっていうのは本当なの?」

 

 核心を突く打ち合わせはあらかじめ黒森峰で成されていたのか、誰一人として動揺は見せなかった。

 ただじっとカリエの口から言葉が発せられるのを全員が待ち続けている。

 これだけの人間に気に掛けてもらえるなんて果報者だな、とカリエは嫌み抜きで笑みを零していた。

 

「正確には車長だよ。もともと脆いメンタルだから、前の敗戦が効いたみたい。車長席に腰掛けたらもう目が回って何も出来なくなる」

 

 だから正直に答えた。

 誤魔化しも言い訳も一切なしに答えた。

 自分は戦車に乗れないと。指揮を執ることが出来ないと素直に口にしていた。

 

「そう。なら、明日の試合はどうするの?」

 

 意外なことにエリカはあっさりと質問を切り替えてきた。

 もっと車長をすることが出来ない問題について切り込んでくると考えていただけに、カリエは拍子抜けしていた。

 ただ拍子抜けしても、新たな問いには真摯に答える。

 

「あんこうチーム——Ⅳ号戦車の装填手として参加するよ。もともと人手が足りていないみたいだからそこの枠に拾って貰った感じ。さすがにここに来て試合を投げ出すことはないから安心して」

 

 カリエの言葉を受けて、ナナたちパンターの乗員が一瞬だけ表情を強ばらせた。

 事前にある程度事情は知っていたとは言え、自分たちの車長として戦ってくれる未来が潰えただけに、思うところは確かにあった。

 だがここで声を上げてしまってはカリエに申し訳ないと、必死に何事も無いように装う。

 エリカも特に真新しいリアクションを見せること無く、じっとカリエを見た。

 姉からの視線を受けて、特にやましいことはない筈なのにカリエは生唾を飲み込む。

 

「——はあ。やっぱあんたって妙に諦めが悪いというか、生き汚いところあるわよね」

 

 たっぷり数十秒ほど経過して告げられた言葉は溜息と呆れに彩られていた。

 まさかここでそんな感情をぶつけられると思ってもいなかったカリエは思わず「え?」と困惑の声を上げた。

 しかしながら両サイドを固めたみほと小梅が似たような表情をしているのを見て、「あれ? これはエリカが正しいのか?」と驚きを抱く。

 

「……戦車に乗れなければ、辞めればよかったじゃない」

 

「いや、何か投げ出すような感じがして嫌だった」

 

「私たちに後のことを任せていれば、他に道はあったかもしれないわよ?」

 

「そんな他人行儀なことできないよ」

 

「そうまでして黒森峰に戻りたいの?」

 

「それは——正直わからない。でも、このまま終わらせたくはない」

 

「指揮も執れないのに?」

 

「装填手も立派な選手だよ」

 

 エリカの言葉に対してカリエは即答を貫いていた。

 それは既に決まった腹積もりを明らかにしているだけの行為。

 カリエはもう、道を見つけていた。

 

「……戦うのね」

 

「うん」

 

「負けたら終わりよ」

 

「負けないよ」

 

「車長が出来ないのなら私たちに任せなさい」

 

「もちろん。私はただ全力を尽くすだけ」

 

「……あれだけウジウジしていたのに、いつの間にか随分としっかりしてるじゃない」

 

「みんなが——優花里さんやダージリンさんが引っ張ってくれたから」

 

「妬けるわね」

 

「でも、黒森峰の皆が、お姉ちゃんが一緒に戦ってくれるってわかっているからまだしがみつけているんだよ」

 

 しん、と部屋に沈黙が訪れた。

 みほと小梅がそっとカリエから手を離す。

 正面のエリカが静かにカリエに歩み寄った。

 そしてしっかりと、もう手放してしまわないように強く抱きしめる。

 

「心配する必要はないわ。必ず大学選抜なんて叩きのめしてやる」

 

「うん」

 

「お姉ちゃんたちに任せなさい。絶対にあなたたちを勝たせてみせるわ」

 

「うん」

 

「だから、だからね」

 

 ぎゅっと、さらに力が込められた。

 

「もう少しだけでも良い。ここにいる皆と——お姉ちゃんと一緒に戦車道、しよう?」

 

 

05/

 

 

 三日目の朝は快晴だった。

 

 国主催の選抜戦と言うこともあって、全国大会以上の人々が観客として訪れていた。列車の台車に載せられた巨大な液晶パネルは過去最大の数が用意され、複数のテレビ局が取材と称して会場入りを果たしている。

 ただ、選手に対する接触だけは頑として国が規制したため思ったような画は撮れていないようだった。

 それでも会場の熱狂を伝えるレポーターの言葉には自然と力が入り、全国のお茶の間に祭りの様相を送り続けている。

 試合開始まで残り僅か。

 大洗とカリエの命運を賭けた一戦が今始まろうとしていた。

 

 

06/

 

 

「え? お姉ちゃん?」

 

「あれ、ミカさん?」

 

 戸惑いの声が上がったのは、高校選抜と大学選抜チーム、それぞれの選手が初めて顔を合わせた時だ。

 初日と二日目は機密保持のためか、両者は徹底的に隔離されており互いの姿を認めることはなかった。

 それが今、試合開始三時間前になってようやく両者相まみえたのである。

 そこで二人の人物が声を上げ、三人の人物が絶句していた。

 声を出したのはみほとカリエ。そして絶句したのがエリカ、小梅、優花里である。

 五人の視線の先にはとある人影が二人いる。

 

「暫くだな、みほ。あれからも精進しているようで何よりだ。全国大会は残念だったが、その心残りを今日この場で私たちにぶつけて欲しい」

 

「やあ、奇遇だね。逸見さん。風に呼ばれてふらふらとしていたらまた君の前に戻ってきたようだ。もしかしてこれは運命なのかもね」

 

 一人は日本戦車道会最強の戦車乗りである西住まほその人だった。

 みほたちが見慣れた黒森峰のタンカースジャケットではなく、何故か大学選抜チームのジャケットを身に纏っている。

 それは今日、高校選抜チームの敵として立ちはだかることの証明のようだった。

 もう一人は継続高校に所属しているはずのミカだった。

 彼女もまた、逸見カリエを撃破寸前まで追い詰めた実力者である。

 まほと同じように大学選抜チームのジャケットをこちらも羽織っており、立場は二人とも共通しているようだった。

 

 まさかこんな人選が存在するなんて、と高校選抜チーム側はいよいよ全員が言葉を失っていた。

 ただ、カリエだけがいち早く復帰して、顔合わせの立会人となっていた職員に言葉を掛ける。

 

「これは、どういうことですか。二人とも所属から言えば高校選抜側の筈。大学生ではありません」

 

 疑問をぶつけられた職員——眼鏡を光らせ、髪を綺麗に整えたスーツ姿の男は至極事務的な口調で答えた。

 

「西住まほ選手は国の指定した特別強化選手ということで本試合に参加して頂く運びになりました。ミカ選手は大学選抜チームの監督を務める島田流家元たっての願いで準飛び級扱いでチームに参加して頂いております。どうかご理解ください」

 

 どこからともなく、「横暴だ!」「権力の腐敗だ!」「フェアじゃない!」との叫びが上がる。

 だが、職員は顔色一つ変えること無く言葉を続けた。

 

「もしこちらの決定が受け入れられないというのなら、試合を辞退して頂いても結構です。棄権はいつでもお引き受けしますよ」

 

 これ以上は伝えることはない、と男はきっぱりと拒絶の意を表した。

 取り付く島のなさに、カリエは「わかりました……」と絞り出すように小さく頷く。

 職員も一応の区切りが付いたと判断したのか、極めて機械的に言葉を続ける。 

 

「——では三時間後に試合を開始します。両チーム共に準備の方、よろしくお願いします」

 

 

07/

 

 

 やーやーやー、ご苦労様。

 

 大会関係者が控えるテントの下で、冷たい水の入ったペットボトルを傾ける逸見カオリがそんなことを宣っていた。

 空調も何もない場所なものだから、カオリはいつもの白シャツの袖を綺麗にまくり上げて、時折流れる汗のしずくをハンドタオルで拭き取っている。

 辻はその隣の椅子に深く腰掛けると、大役をこなした重圧から解き放たれた息を吐いた。

 

「……生きた心地がしませんでしたよ。西住まほと島田ミカの参戦を告げる役なんて二度とゴメンです。特に逸見エリカさん。彼女、こちらを射殺さんばかりの視線を送ってきていましたよ」

 

「あはは。カリエちゃんはおっとり系なところあるけれど、エリカちゃんはその辺激しいからね。特に妹の進退が掛かったこの試合なら尚更でしょう。でも助かったよ。さすがに私が彼女たちの前に姿を見せるわけにはいかないからね」

 

 飲む? とまだ封の切られていないペットボトルをカオリは差し出した。

 辻はスーツ姿のままそれを受け取り、ごくごくと喉に流し込んでいく。

 

「しかしどうして西住まほがあちら側にいるんですか? まさか島田流家元が島田ミカのように手を回したとでも?」

 

 一息吐いた辻が口にしたのは、此度の選手起用に関する純粋な疑問だった。

 彼もまた、まほの大学選抜チーム側での参戦は直前に知らされており、完全に想定外の出来事だったのだ。

 そして逸見カオリも同じ立場である。彼女も今日の早朝にその情報を掴んだばかりで、辻に両チームの顔合わせを任せている間、さまざまなコネクションに連絡を通して事情の確認を行っていたのだ。

 

「——まあわかったことは財務省の仕業ということくらいかな。大学選抜チームを何としても勝利させて、予算的に問題のある大洗女子学園を廃校させたいという思惑が一つ。そしてちょっとでも将来の日本代表チームの実力を世間に示して、戦車道関係の金の巡りを良くしたい、っていう願望が働いているんだってさ。全く、ここに現れない奴らばかりが私の邪魔をしてくれる。何の事情も知らされていない西住まほをドイツから引っ張ってくるなんて反則だ」

 

 言って、カオリはペットボトルを握りつぶしていた。

 やはり彼女にも思うところはあるようで、その視線は鋭く冷たい。

 彼女の逆鱗の苛烈さを知っているだけに、辻は自身に飛び火しないよう、祈ることしか出来なかった。

 

「……ただ西住まほは逸見カリエと旧知の仲です。おそらくこの選抜戦の何処かで彼女たちが抱えている事情を知る機会があるでしょう。そうなればこう、手心というか高校選抜チームも付け入る隙が生まれるのでは?」

 

 薄氷を踏むかのように辻が口を開く。

 カリエは辻を一瞥すること無く言葉を返した。

 

「さあね。でも、この突然の起用、もっと根深いところで手が回されていそうな気がするんだ。例え西住まほが高校生たちの事情を知ったところで手を抜けないような何かがね。ていうか、西住家元の教育と西住まほの性格を考えたら何処までも望み薄だと思うけど。あの子、逼迫している黒森峰の状況を憂いつつも全力で叩きつぶしてくるタイプでしょ。その辺、妹の西住みほとは違うよね」

 

 カオリの返答は真に迫っていた。

 辻も僅かな希望を口にしていながら、彼女の言葉には反論することが出来ない。

 冷や汗を流しながら「では高校選抜チームに勝機はあるのですか?」と漏らしていた。

 カオリはじっと正面を睨み付けている。

 それから十秒、二十秒と経過したとき、ようやく言葉を紡いだ。

 

「……けれどもさ、ここまできたら後は信じるだけだよ。高校生の彼女たちの底力を、そして我が愛しい姪っ子たちの活躍をさ」

 

 ふと、彼女の視線から圧力が抜けていた。

 何事か、と辻がカオリの視線の先を見てみるとオーロラビジョンに映しだされた逸見姉妹がそこにいた。

 黒森峰女学園と大洗女子学園。それぞれのタンカースジャケットを羽織ってはいるが、間違いなく同じ血を分けた同じ顔をしたたった二人きりの姉妹である。

 こうして三人を同時に見てみれば、確かにカオリは逸見姉妹によく似ている顔立ちをしていた。

 エリカの苛烈さとカリエの思慮深さを併せ持たせれば丁度カオリになるように。

 

「もうすぐ元の鞘に戻るよ。あの子たちはそんな子たちだ」

 

 試合開始まで残り二時間を切ろうとしていた。

 逸見姉妹はそれぞれ一枚の地図を取り囲んで、何かしらの打ち合わせを行っている。

 

「ところで逸見課長。カリエさんが今回の試合、装填手で出場されることはご存じですか?」

 

 そういえば、と思い出したように辻が声を上げた。

 正直言って言い出しづらいことこの上なかったが、今の機嫌ならば何とかなる、という打算も含まれていた。

 そしてその計算は当たっていたようで、カオリは姉妹を見つめたまま「ああ、そのことか」と答える。

 

「昨日の晩に——とはいっても日付が変わってそれなりに時間が経った頃だったんだけれども、お義姉さんから連絡があったんだよ。エリカちゃんから母親に伝えたらしいね。カリエちゃんが車長をこなせない、っていうことを」

 

 それは……と辻は思わず言葉を濁していた。

 カオリに電話が掛かってきた時間帯が、逸見姉妹の母の狼狽ぶりを如実に表していたからだ。

 

「私の方からカリエが試合に出ないよう説得してくれ、とも言われたよ。でもさすがに二人の母親だ。最後は娘たちが決めて、覚悟したことだから、と納得してくれたよ。本当、うちのぼんくら馬鹿の弟には勿体ないお嫁さんと娘さんたちだ」

 

 事の顛末を聞いて、辻は再び安堵の息を吐いた。確かに一悶着あったようだが、何とか解決の方向に向かっていることが良かった。

 ただ今の話を耳にして、辻はある疑問を抱き始めていた。

 

「随分と、彼女たちのお母様は逸見課長を頼りにされているようですね。そして逸見課長もそれに応えている。過去に何かあったりしたんですか?」

 

 辻の疑問を受けてもカオリは機嫌その他一切を変えなかった。ただ前を見たまま「んー?」と間延びした声を漏らす。

 それから数秒ばかりの間があって、彼女はこう答えた。

 

「多分お義姉さんなりの配慮だよ。あの人、本人が了承したらカリエちゃんを私に養子に出しても良いって言ってたしね」

 

 は? と辻は間抜け声を呟く。

 カオリは特に反応もないままさらに続けた。

 

「——自分の子どもも産めないような欠陥品に、子どもを育てることの喜びを分けてくれているのさ。そしてそれに私は甘えているわけ。まあ、確かに養子発言の時はお義姉さんもカリエちゃんも相当病んでた時期だから譫言の類いだろうけどね。——でも、ここだけの話、私はそれなりに本気にしていたよ」



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逸見カリエの戦車道 10

 試合が始まったその瞬間、高校選抜チームは全体を三つの小隊に分割していた。優花里を始めとした大洗の主力とグロリアーナ、そして知波単によって構成されるAチーム。黒森峰とプラウダの重戦車隊から構成されるBチーム。大洗の機動力に優れた車両とサンダースによって構成されたCチームだ。

 カリエはAチーム及び全体の司令塔として機能せねばならないⅣ号戦車の中にいた。

 まだ砲火を交わしていないためか、装填手として搭乗している彼女は手持ち無沙汰ではあったが、慌ただしく指示を飛ばす優花里と、通信を続ける沙織の元では緊張感もひとしおである。ぐっ、と砲弾を握りしめたまま、少しでも状況を把握しようとして彼女たちの会話に耳を傾けていた。

 

「はい、黒森峰とプラウダの皆さんはそのまま東側の高地に陣取ってください。車両の重さに対してパワーが足りていないパーシングなら斜面を登る際に必ずや隙が生まれるはずです。そこを両校の装甲火力で打ち崩していくのが現時点における最適解だと思われます」

 

 そうか、姉たちは高地に向かったのか、とカリエは車内に貼り付けられていた地図に目を走らせた。

 大学選抜チームが運用している殆どの車両がパーシングであることは事前の調査で判明している。強力な砲と装甲を備えた難敵ではあるが、その弱点を突くことは戦略次第で不可能ではない。

 ここまでは上々の展開である、とふと胸を撫で下ろす。

 

『ダーッジリッンさま! 前方からパーシングが凡そ七両接近してきていますわ!』

 

 だがそんな安寧は長くは続かない。

 ローズヒップの跳ね馬のような声色が、全車に敵車両が接近してきていることを伝えていた。

 カリエが思わず車長席を見上げたとき、同じようにこちらを見下ろす優花里と目が合った。

 

「どうやらわたくしたちが会敵一番乗りのようです。冷泉殿、武部殿、五十鈴殿、そしてカリエ殿、どうかよろしくお願いします」

 

 返答はまこの「おうよ」という声と共に前進したⅣ号戦車の動きだ。Bチームが押さえに向かった高地から見て、西側の低地に待機しているAチームの車両たちがそれに追従を始める。

 有効射程距離など直ぐに割り、先に砲火を吹いたのは高校選抜チームだった。

 

「よし、各車両はこのまま発砲を続けてください。Cチームは大学選抜チーム別働隊による回り込みを警戒しつつ微速前進。可能ならばわたくしたちが相対している部隊の背後を押さえて貰いたいと思います」

 

『オーケー。任せといて。その為の機動力だもの。ノープロブレムよ」

 

 ケイの頼もしい応答と同時、遂にⅣ号戦車も華が引き金を絞ったことによって砲撃を開始した。真っ白な煙と共に空になった薬莢が排出される。

 カリエはそこへ素早く徹甲弾を叩き込むと、迅速な手つきで砲尾を閉じた。

 砲手の華が目を丸くしたカリエを見る。

 

「装填が完了したのですか?」

 

「えと、はい。遅かったですか?」

 

 まさか、と華が首を横に振った。

 

「逆ですよ。早すぎて驚いているんです。もちろん沙織さんの装填も素早く息の合った気持ちの良いものでしたが、どうしても通信手と兼任しているという負担の上でした。それが今、私が呼吸を整える間もなく装填を終えられていて感服の極みです」

 

 ベタ褒めだった。

 手放しの賞賛である。

 だがカリエは「うちの子たちはこれの二倍くらい早いよ」と返していた。

 まあ、と華はさらに驚くが、カリエは「嘘ではない」とさらに言葉を重ねる。

 

「これ一本でやっているうちの子たちには絶対に勝てないよ。特に私のパンターに乗っていた高橋さんは異次元だった。あれだけガタガタ揺れる戦車の中でも正確に神速に装填を済ましていた。あれを真似することは不可能だと思う」

 

 気がつけば試合のさなかだというのに、熱く自車の装填手について語ってしまっていた。

 これはいけない、と直ぐに我に返りカリエは顔を赤くしながら次の砲弾を手に取る。けれども華は朗らかな微笑みをそのままにこう告げた。

 

「黒森峰の方についてお話しされているカリエさん、とてもお綺麗でしたよ。思わず見惚れてしまいそうな笑みでした」

 

 え? とカリエは己の顔に手をやった。

 確かに最近は強ばっていた頬の筋肉が柔らかみを帯びている気がする。

 

「きっと他の方々もとても素晴らしいお仲間だったんでしょうね」

 

 会話はそこまでだった。

 Ⅳ号戦車の周囲に至近弾が炸裂したお陰もあってか、麻子が慌てて車両を後退させたためだ。降り注ぐ土砂と煤に髪を汚しながら、優花里がさらなる指示を口にしている。

 

「このままじわじわと後退します! 高地を押さえられたBチームは陣を整え次第、こちらへの砲撃支援をお願いします」

 

 この時、Bチーム側からの応答を、沙織が持つ無線機越しにカリエも耳にしていた。

 

『なら心配いらないわ。今高地を押さえた。これよりAチームの援護を行う』

 

 聞き間違えようのない、エリカの声だ。

 

 

01/

 

 

 やけに静かだ、とみほは高地の頂上で周囲を見回していた。

 遙か北側にはこちらに進軍を続けるパーシングの一団が見える。だがそちらはプラウダの重戦車部隊が完全に押さえており、黒森峰側は優花里の要請に従って東側の低地に向けて砲撃を続けていた。

 斜面の踏破性に難のあるパーシング相手ならばそれなりに時間を稼ぐことも出来るだろうと、完全に役割を分けている形だ。

 そんな中、みほのティーガーⅠだけが砲撃を行うことも無くただ陣に座している。

 

「西住隊長、どうされましたか?」

 

 エリカと共に砲撃支援を続けるナナが問うた。

 ここまで無難な車両運びを進めている彼女である。正直言って合格点以上の動きと言っても良い。

 操縦手としての勘や経験が冴えているのか、高地を上っていく際も最適なルートをBチーム全体に示し、先陣を切ったのが彼女なのである。

 そんなナナが不安げに動きを見せないみほに疑問を投げかけていた。

 みほは「うーん」と首を傾げる。

 

「——この場所の重要性はあちらも理解している筈なんです。それなのにこちらへ向けられている車両は決して多くない。まるで片手間に攻略してきているような印象を受けます。Aチームと会敵している敵部隊も同じです。車両性能、実力共に向こう有利なのに攻勢が穏やかすぎます」

 

 みほの疑問は尤もだ、とナナは頷いた。

 車長としての経験が乏しい彼女でも、今の状況の不自然さくらいは感じ取れている。

 

「なら、何か罠という可能性も」

 

「だとしてもそれが何なのかは現時点では不明です。向こうの動きがなさ過ぎることが、こちらの眼を曇らせています」

 

 ふと、静寂の時が訪れた。

 砲撃を続けていたティーガーⅡ、パンターのそれぞれがほぼ同時に装填のタイミングに入ったためだ。

 プラウダの車両たちもまだ有効打にはならないと、射撃をぐっと堪えている。

 

「?」

 

 ここでナナの耳が冴えを見せた。

 もともと黒森峰で尤も鋭敏な聴覚を持つ人物である。そんな彼女が何かしらの違和感を掴み取っていた。

 

「西住隊長、おとが、音が聞こえます」

 

 ばっ、とみほがナナを見た。ナナの高性能レーダー染みた聴覚には黒森峰の全員が絶大な信頼を置いている。カリエですら「佐久間さんが聞こえるって」と何度もみほに敵の接近を上奏していたくらいだ。

 ナナが、言葉を続ける。

 

「遠くで爆発音? そしてこれは空気を切り裂くような? え? 上?」

 

 ナナが空を見上げた。

 みほが反射的に無線機を引っ掴む。

 そして叫んだ。

 

「キューポラから顔を出している人は急いで車内に! そして全車散開! 早くこの場を離れて!」

 

 そこから先、猶予は僅か数秒のことだった。

 高地にて円上に展開しているBチームの中心で光が爆ぜる。

 音は完全に遅れてやってきていた。最後に降り注いだのは、紅蓮の炎と笑いしか込み上げてこない大量の土砂だ。

 

 

02/

 

 

 爆撃か! とエリカが叫んだのは無理からぬ事だった。

 超重量を誇るティーガーⅡの車体が一瞬だけでも浮き上がって地面をバウンドする。

 打ち付ける土砂に構わず外を伺ってみれば、高地の中心に隕石が落下したかのようなクレーターが完成していた。

 余りの爆炎と破片の多さに、朝が夜になっている。

 

「っ! みほの言うとおり全車散開! 一刻も早く高地から離れなさい! 何かに狙われているわよここ!」

 

『エリカ副隊長! もう一発来ます! 北東からとんでもない発砲音が聞こえるとナナが言いました!』

 

 二発目か! とエリカは咄嗟に操縦手の背を蹴飛ばしていた。

 急発進したティーガーⅡの背後で先ほどと同規模の爆発が巻き起こる。もう一度ティーガーⅡの車体が浮き上がり、激しく地面に叩きつけられた。

 

「脱出よ! 高地を放棄! 平地に降りて態勢を立て直しましょう!」

 

『了解です! ですが南側に逃げても狙い撃ちにされる可能性があります! ここはパーシングの目の前を横切ることになりますが、北側を強行突破するべきです!』

 

『成る程、同士討ちを警戒させてこの砲撃を止めさせるのね!』

 

 みほの案に同調を示したのはカチューシャだった。彼女もまた、同じ事を考えていたのか、すでにプラウダの車両たちを北側に逃走させるべく殿のように車両を展開している。

 

『その通りです。幸い、まだ撃破された車両はありません。プラウダの皆さんと私たちならば必ずやこの窮地を挽回できます』

 

 言って、みほのティーガーⅠがカチューシャの搭乗するT-34/85の前を横切っていった。真っ先に先陣を切り、パーシングたちの砲撃を引きつけて後続の撤退をサポートするためだ。続いて技量的な不安が残るナナが続いていった。

 エリカは自分は最後で良いと言わんばかりに、東側の低地への砲撃を続けながら他の車両の撤退を待った。

 だがカチューシャはそんなエリカに先にいけ、と檄を飛ばす。

 

「あんたは先に行ってカリーシャを安心させてやりなさい! 後ろは私たちプラウダが固めるわ! 私たちの鋼の結束があればこんな爆撃まがいの砲撃なんてお茶の子さいさいよ!」

 

 いつものエリカなら殿は譲れないわ! と噛みついていただろう。

 だが此度の戦いは自分たちのためのものではないのだ。愛する妹の、そしてそんな妹を受け入れてくれた大洗のための戦いなのだ。

 分というものを弁えているエリカは素直に頷いていた。

 

「恩に着るわ。下で待っているから直ぐに来なさいよ」

 

 言って、エリカのティーガーⅡが前進を再開する。背後には小梅のパンターだけが残されていた。

 未だに砲撃の正体は不明だが、これだけの大口径砲である。装填時間を加味すれば逃げ出す余裕はまだある。

 

「つっ、副隊長! 右の履帯が空転しています!」

 

 しかしながら悲報はいつだって予期しないタイミングで訪れる。

 操縦手の悲鳴のような報告を受けて、エリカはキューポラから身を乗り出した。そして目視で地面を掴むことの出来ていない履帯の姿を認める。

 破損もしていないのに何故、と疑問が湧き出たのと同時、不自然に柔らかさを増している大地の様子に気がついていた。

 それはすなわち——

 

「そうか、砲撃でひっくり返った土砂が沼みたいになっているんだわ……」

 

 もともとそれほど盤石な土地ではなかったのだろう。砲撃によって掻き回された所為か、至る所が沼のように沈み込んでいく構造になっていたのだ。

 そしてエリカのティーガーⅡはその超重量故か、見事沼にはまり込んでいる。

 

「副隊長!」

 

 誰かが叫びを上げたがエリカは冷静だった。

 冷静沈着に、己の終わりを悟っていた。

 

「プラウダと小梅、私を捨てて行きなさい。擱座して前に進めないわ。それに、ティーガーⅡの装甲なら一発くらいなら耐えられるかも。そしてあんたたちが逃げてくれたら砲撃も後を追うでしょうから、何とでもやりようがあるわ」

 

 嘘だった。

 大地がひっくり返るほどの大口径砲だ。いくらティーガーⅡの装甲でも耐えられるはずが無かった。

 カチューシャはもちろんそこのことに気がついている。

 しかしながら「ここは小を殺して大を活かすべきだ」とエリカの提案を静かに受け入れていた。

 

「——わかったわ。カリーシャのことは私たちに任せなさい」

 

 プラウダの車両たちが斜面を降りていく。カチューシャも一瞬だけ振り返りはしたが、直ぐに踵を返して斜面の向こう側に消えていった。

 地獄の高地頂上に、エリカだけが取り残される。

 

「さて、あとどれくらいの猶予があるのか」

 

 安全のため、キューポラの蓋をしっかりと閉じ、エリカは車長席にどっかりと腰掛けた。

 まあ、敵の隠し球の成果を自分一両の犠牲に留めたのだから上々だ、と笑みすら零している。

 

「あんたたちには悪いことしたわね。折角カリエのためにここまで来てくれたのに、満足に戦わしてあげられなかったわ」

 

 エリカの謝罪に、搭乗員たちは皆首を横に振っていた。

 

「いえ、罠に掛かった味方の殆どが逃げおおせたんです。これ以上望んだら罰が当たりますよ」

 

「全くです。でも、もし叶うならあと一度くらいは妹さんのパンターと連携したかったなー」

 

「そうそう、あの車両と組むと凄くノってくるんですよね。本当、不思議な感覚でした」

 

「馬鹿言いなさんな。必ずやこちらが勝利して、妹副隊長は黒森峰に帰ってくるよ」

 

 それぞれの言葉を受けながらエリカは手近な持ち手をしっかりと掴む。

 運命の時は来た。

 先ほどの装填時間から逆算すればもう幾ばくも猶予が無い。

 

 そろそろか、と覚悟を決めたのか全員が対ショック防御の姿勢に移行していった。

 

「カリエ。しっかりやりなさいよ。後悔の無いようにね」

 

 爆炎が世界を包む。

 特大のキノコ雲は、低地で応戦を続けていたBチームからハッキリと観測することが出来ていた。

 

 

03/

 

 

「黒森峰、一両撃破されちゃった。さっきの大きな爆発にやられたみたい……」

 

 沙織の悲痛な報告がⅣ号戦車の中に木霊した。

 直前までBチームが行っていた交信はAチームにも届いており、どのような状況が展開されていたのか凡その事を察することが出来ている。

 カリエもまた、取り落としそうになった砲弾を何とか抱え直していた。

 

「——すいません。敵のあからさまな誘いに気がつけなかったわたくしのミスです」

 

 優花里がカリエに向かって頭を垂れた。

 こんなにもあっさりとエリカが撃破されてしまったのは己の拙策の所為だと謝罪の言葉を口にしていた。

 カリエは砲弾をぎゅっ、と抱き込んだまま静かに言葉を返す。

 

「いや、勝負の世界には良くあることだよ。優花里さんが気にする必要はない。それより、撤退が成功した残存部隊に指示を出さないと」

 

 切り替えを促すカリエの声色は震えていた。優花里や沙織たちもそれを感じ取ったのか、それ以上エリカのことについて言及しようとはしなかった。

 ただここはカリエの意思を尊重するべきだ、と優花里はマイクを手にする。

 

「残存するBチームの皆さんは撤退が完了し次第、E4地点での合流を目指しましょう。Cチームの皆さんは……」

 

 ふと優花里の頭の中で何かが引っかかる。

 そもそも突如としてBチームを襲った正体不明の砲撃は何だったのか。 

 あれだけの大質量の砲弾を撃ち出せるような車両は果たして存在していたのだろうか。

 Bチームの損害という事実に目が眩みかけていたが、この正体不明の敵をそのままにしていても良いのだろうか。

 

『オッドボール?』

 

 指示を中断し、沈黙を続けた優花里に対してケイが怪訝な声を上げる。だが優花里はまだ反応を返さない。

 

「佐久間殿は上空から音が聞こえると言っていた。それはつまり榴弾を曲射したということ。そんなことが出来て、戦車道のレギュレーションに適合する車両なんてシュトゥルムティーガーくらい。けれどもあの爆炎は大きすぎる。それこそドーラのような列車砲でもないと……」

 

 ぶつぶつと優花里は言葉を繰り返す。

 思考を精査していくように、真実を突き止めるように、深く深く潜っていく。

 だが、答えがあと一歩のところで出てこない。

 何かしらの取っかかりは掴んでいるのだが、あと一歩が足りない。

 これ以上の長考は危険だと本能が警鐘を鳴らす中、優花里の言葉を根気強く待っていたケイが遂に口を挟んだ。

 

 結果的にはこれが最後の一押し。

 

『ねえ、黒森峰がやられた砲撃だけど、あれってカールが犯人っていう線はないの?』

 

 カール? とピンと来ていない沙織や華、そして麻子が首を傾げた。

 そして無線を聞いていたアリサまでもが口を開く。

 

『でもマム、私たちが申請したときはレギュレーション違反だとして却下されましたよ』

 

 カール、レギュレーション……と優花里の中で何かが繋がった。

 はっ、と意識を再浮上させた優花里は咄嗟にカリエを見る。

 

「カリエ殿!」

 

「もう調べたよ。優花里さん。つい先週、日本戦車道連盟の車両に関するレギュレーションが更新されている。カール自走臼砲は——条件付きで認可だ」

 

 カリエは優花里に向かって自身のスマートフォンを掲げていた。優花里が素早く表示された文面に目を走らせてみれば、カリエが告げた通りのことが記載されていた。

 そう、カール自走臼砲がレギュレーションの網を擦り抜けていたのである。

 

『Shit! 私たちが使いたいって言ってもオープントップだから駄目って言った癖に!』

 

『試合直前に認可するなんて卑怯だわ! やっぱり向こうのチーム、お役所とグルなのね!』

 

 ケイとアリサの怒りの声を背景に優花里は「むむむ」と顔を顰めた。

 あらゆる障害物を無視して、上空から大質量の砲撃を投射することのできるカール自走臼砲は、高校選抜チームの喉元を食い破りかねない脅威だからだ。

 何としてでも早急に対処しなければならないと、優花里はさらに思考を巡らせる。

 しかしながらまたしてもケイの言葉が優花里の潜りそうになる思考を繋ぎ止めた。

 

『オッドボールは撤退するBチームに対する支援と指示をお願い。カール自走臼砲に関しては私たちで何とかするわ。Bチームにはナナっていう人間レーダーみたいな子もいるんでしょう? 彼女に発砲音から着弾までの音の時間を計ってもらえれば凡その位置を把握することも出来るわ。だから私たちに任せなさい』

 

 ケイからの提案は渡りに船だった。

 これから優花里たちAチームは残党狩りに遭うであろうBチームの撤退支援を行わなければならない。

 とくに攻撃力と防御力に優れた重戦車たちで構成された部隊だ。ここで部隊の継戦能力を失ってしまうとチーム全体にとっての大打撃を被ってしまう。

 最優先で優花里がクリアしていかなければならないミッションがそこにはあった。

 

「了解しました。ではCチームの皆さん、何処かに潜んでいるカール自走臼砲を発見し次第、その撃破をよろしくお願いします」

 

『OK! では両チームに幸有らんことを! Good Luck!!』

 

 爽やかな応答を残して、Cチームとの交信が切れる。

 優花里は本当に彼女たちが味方で良かった、と安堵の息を吐き出しながら、次なる指示に向かって頭を切り換える。

 ぐっと引き締まった表情で繰り出されるのは、困難と言われる撤退戦の指示だ。

 

「それではこれよりBチームの撤退を支援します。上空からの砲撃に対応するため、車両間隔は広めに。けれどもその隙を突かれないよう、互いのカバーは綿密にお願いします。出だしは挫かれましたが、まだまだわたくしたちには戦う力が残されています。皆さんのお力をどうかわたくしめに——」

 

 ふっ、と息を吸い込む。

 そういえばまだこの言葉は宣誓していなかった、と優花里は今更ながらに思い出していた。

 

「ではいきましょう。——パンツァー、フォー!!」

 

 

04/

 

 

 撤退戦は逃げることと、追いすがる敵を撃破すること、その二足の草鞋を履き続けなければならない難しさがある。

 丘を下り、低地に抜けていく街道をひた走るみほはその事実に歯噛みをし、常に後続の車両に気を配り続けていた。

 特にナナが指揮するパンター。 

 今回からの車長ということもあり、どうしても動きの俊敏さに欠けることがある。

 黒森峰とプラウダの一軍の上澄み揃いの中で、かの車両の練度は明らかに一段落ちていた。

 さらに先ほどから降り始めた雨がBチームに追い打ちを掛けていく。

 ただでさえ足回りに不安を抱える黒森峰の車両と、視界確保に難を抱えるプラウダの車両。

 それぞれがハンディを手にした状態で逃走を図っているのだ。

 通常の撤退戦に比べ、遙かに難易度の高い一戦となっている。

 合羽を頭から被ったみほは喉元のマイクに手をやり、後方で殿を務めているカチューシャに連絡を取った。

 

「カチューシャさん、今の状況を教えてください」

 

『こちらカチューシャ、パーシングの奴らが食いついて離れないわ! 被弾も確実に増えてるしちょっと不味いかも!』

 

 ガン、とみほが咄嗟にヘッドホンを外しそうになるくらいの金属音が無線の向こう側で響いた。

 それがカチューシャの車両が受けている砲撃の一部であることくらい、みほは確認を取ることもなく理解することが出来た。

 弾きはしているものの、車両に蓄積されているダメージは決して無視できるものではない。

 ただでさえ既に一両が撃破されているのだ。

 これ以上、主力とも言えるBチームから犠牲を出すわけには行かなかった。

 

「ナナさん!」

 

 次に、みほは背後を必死に追走してくるナナに声を掛けた。

 ナナも一杯いっぱいながら、何とかみほの言葉に耳を傾けようとする。

 

「私はこのまま速度を落として、カチューシャさんの救援に向かいます。ここでカチューシャさんまで脱落してしまってはチームの立て直しが出来なくなります! ナナさんはこのままAチームとの合流を目指して! 後から追いついてくるプラウダの皆さんがきっと助けてくれます!」

 

 言って、みほのティーガーⅠはナナのパンターと併走し、やがて追い越されていく。

 狭い街道での神業的操作ではあったが、今の彼女たちにその成功を喜んでいる余裕はない。

 みほとナナの距離が離れていく。

 黒森峰で一人取り残されたナナが不安げに振り返るが、ただそれだけだった。

 直ぐに表情を持ち直すと、前方に向き直ってむしろ前進の速度を増していく。

 それと対比するように速度を落としていくみほの耳には、後方で繰り広げられていた激しい砲撃戦の音が届いていた。

 ぼろぼろになったIS−2 ——ノンナの車両と併走する形になり、後方を走るカチューシャの支援を開始する。

 

「黒森峰の隊長が何の用よ! あんたはあの新人車長を引っ張ってやりなさいよ!」

 

 IS−2よりもさらにダメージを受けているカチューシャが吠えた。それは救援のために危険を冒そうとするみほを叱責する言葉だった。

 だが負けず劣らずの声量でみほは言葉を返す。

 

「ナナさんも立派な黒森峰の一員です! こんな状況でも立派に戦い抜く力量と覚悟を持っています! それにここでカチューシャさんを失うわけには行きません! あなたは大洗の、私たちの勝利に必要な人です!」

 

「Вообще я согласен с вашим мнением.(全くもってその通りです)」

 

 ノンナの冷静な声色もみほを後押ししていた。ティーガーⅠとIS−2の二両でカチューシャの車両に肉薄し、後方から猛攻を仕掛けるパーシングに砲撃の雨を降らす。

 進行方向とは真逆への砲撃だったが、黒森峰隊長車を任される砲手と、ノンナの力量が条件の悪さを完璧にカバーしていた。

 二両の放った砲弾が、ほぼ同時に一両のパーシングの砲塔下部を穿ったのだ。

 

「西住さん、これである程度時間は稼ぐことが出来ました。今の内にカチューシャをお願いします。クラーラ——、Пожалуйста, оставайтесь со мной(あなたは私とここに残ってください)」

 

「Конечно(よろこんで)」

 

 撃破されたパーシングを迂回するため、他のパーシングの進行速度が目に見えて落ちていた。

 これは好機だと、カチューシャのT-34/85が速度を上げる。そしてみほのティーガーⅠがそんなカチューシャの盾になるように、後方へと陣取った。

 ただ、

 

「ノンナ! クラーラ!」

 

「お二人とも早く!」

 

 完全に足を止めてしまったノンナとクラーラにカチューシャの悲鳴、みほの懇願が投げかけられる。

 二人の意図を察しているみほとカチューシャはそれは駄目だ、と自分たちの車両の足を止めようとした。

 しかしながらノンナは優しく「いけませんよ」と微笑んでいた。

 

「カチューシャ、あなたはプラウダの、いえ、私たち全ての勝利に必要な方です。こんなところで撃破されてはいけません。西住さん、いえ、みほさん。あなたも同じくです。カチューシャのことをよろしくお願いします」

 

「かちゅーしゃさま、ごきげんよう。かわらぬごぶうんをおいのりします」

 

 どんどん距離が離れていく。

 カチューシャがブレーキを踏み、後方へ下がろうと画策するが、みほが何とかそれをブロックした。

 彼女もまた、沈痛な面持ちで、だがノンナとクラーラの決意を汲み取ってカチューシャを押しとどめる。

 

「どいて! ノンナが、クラーラが!」

 

「駄目です! お二人の覚悟を無駄にしてはいけません! ここは何とか逃げおおせて次に備えるべきです!」

 

 みほの説得にカチューシャは牙をむき出しにして噛みついた。

 お前は二人を見捨てるのか、切り捨てるのか、と食らいついた。

 カリエを救うためならば何でもするのか、と。

 

「あんたは黒森峰だから割り切れるんでしょう! プラウダは私とニーナたちだけになっちゃうのよ!? それにあの二人を置いて逃げおおせるなんてあたしのプライドが許さない! あたしの信念が許さない! そんなものとんだ恥さらしだわ!」

 

 みほもまた、カチューシャの叫びに叫びで答える。

 それは違う、と叫ぶ。

 

「割り切れるはずがありません! ですがここでカチューシャさんまでやられてしまったら残ったお二人の気持ちはどうなるんですか! あなたの頭脳は、聡明さはそのことをよく理解されているはずです!」

 

 ぐっ、とカチューシャが言葉を詰まらせる。

 自身の嘆きが身勝手な我が儘であることくらい理解しているからだ。それでも譲れない矜持というものがある。

 味方を見捨てるという行為を選択することが出来ない。

 

「それでもあたしは見捨てられないの! プラウダの長としてそれだけは——」

 

 カチューシャの言葉が途切れる。

 雨を切り裂いて飛来した黄色い光弾がティーガーⅠの装甲を叩いた。

 反射的にみほとカチューシャ、それぞれが後方右側を見た。そこには街道の上方を追走してくるパーシングたちの姿があった。

 

「——っ、まさかもう二人とも……」

 

「カチューシャさん、止まらないで! 私が盾になりますからこのまま逃げ続けてください!」

 

 ティーガーⅠの88ミリ砲が火を噴く。こちらに狙いをつけるパーシングたちに至近弾を浴びせかけ、動揺を誘う。

 だが所詮は焼け石に水。多勢に無勢だ。みほが一発の砲弾を放つうちに、その三倍の砲弾の雨がこちらに降り注いでくる。

 

「くっ、こうなったら私が残って足止めを……」

 

「それこそ絶対に駄目よ! あんたがやられたら黒森峰の部隊は完全に崩壊するわ! カリーシャも大洗も全部救えなくなるわよ!」

 

 カチューシャの叱責を受けてみほは何とか踏みとどまる。それでも状況は刻一刻と悪化していく。

 ティーガーⅠに対する被弾が増え始め、パーシングとの彼我の距離は確実に縮まっていた。

 

 このままでは二人ともやれる。

 

 最悪の未来を幻視し、みほは唇を噛み、カチューシャは拳をキューポラに叩きつける。

 もう時間がない。

 パーシングの砲口のディティールが、雨天下の悪視界でもハッキリと視認することの出来る距離まで近づいていた。

 

 やられる——。

 

 絶望の覚悟を決めたのは果たしてみほとカチューシャ、そのどちらだったのだろうか。

 あるいはその両方か。

 その真意を知るのは本人たちのみ。

 

 

05/

 

 

 ニーナはあの時の光景を良く覚えている。

 

 緊張に苛まれながらも、何とか己を鼓舞して向かった学園艦の見学。

 しかもそれが名門プラウダ高校相手だったものだから、彼女の心労はひとしおだった。

 がちがちの体を押して、何とか向かった戦車道ガレージ。

 右も左もわからないままに、不安に押し潰されそうになりながらニーナはそこにいた。

 そして出会う。

 

 今思い返せば、自分がここにいるのも、彼女と出会ったのも、何かしらの運命だとニーナは考えていた。

 

 

06/

 

 

「カチューシャさまあ! 今お助けするべえ!」

 

 パーシングとみほ達の射線の間に巨大な影が割り込んできた。

 街道の怪物と恐れられ、巨人(ギガント)の異名を持つ常識外れの重戦車、KV-2だ。

 持ち前の重装甲でパーシングの砲撃を受け止めたKV-2は桁違いの威力を持つ152ミリ榴弾砲をパーシング達に叩き込む。豪快ともとれる爆炎が吹き上がり、数多の雨粒を蒸発させていった。

 

「次ィ! 砲身が吹き飛んでも構わねえべ! 黒森峰んとこの隊長と、カチューシャさまを逃がすんだ!」

 

 雨に負けず劣らずの汗を流しながらもニーナは砲弾の前部分を砲身に叩き込んでいた。

 それに呼応してアリーナも砲弾の後部を装填していく。

 砲尾が閉じられたのと同時、次発の榴弾をKV-2が吐き出す。

 

『ありがとうございます! あなたたちも早く撤退を!』

 

 態勢を立て直し、逃走を開始したみほから無線が入る。しかしながらニーナ達は「それはできない」と黙々と装填を続けた。

 ニーナはあらん限りの力を込めて砲弾を次々と込めていく。

 

「黒森峰の隊長さん! 一つだけお願いがあ!!」

 

 同じく態勢を立て直したパーシング達からの砲撃がKV-2に突き刺さっていく。激しく揺さぶられる車内にありながらも、ニーナはしっかりと砲弾を抱きかかえたまま言葉を続けた。

 

「カチューシャさまは言わずもがな、カリーシャさんをどうかお願いします! あんの人はぁ、わだしにプラウダに飛び込んでいく勇気をくれた人だから! どうかもう一度だけでも笑って戦車道が出来るように——、わだすたちといつか戦うことが出来るように、何としてでも大学チームに勝って欲しいんです!」

 

 ニーナは何度だってあの時の光景を思い描くことが出来る。

 たとえスパイとしてプラウダにやってきていたことが後からわかっても、カリエに対する尊敬と感謝の念は変わらなかった。

 むしろその戦車道にひたむきな姿勢に感心すらしたし、何より偵察の最中でも緊張で一杯いっぱいだったこちらを気遣ってくれたその優しさをニーナは覚えている。

 そんな彼女が苦しんでいる今だからこそ、自分たちが何とか役に立てればと街道に居座り続ける。

 

「こっちが動ける限りここは絶対に通さねえ! 街道の怪物を舐めるなあ!」

 

 一発の砲弾がパーシングに直撃した。爆炎に包まれたかの車両は直ぐさま白旗を掲げてその場に擱座する。

 紅蓮の火炎はニーナの怒りと決意を表すかのような熱を帯びていた。

 

「カリーシャさんにお伝えしてほしいだ! ニーナは、ニーナはあなたから貰ったこの名前を胸に、あなたと戦える日を心待ちにしていると! だからまたいつか会いたいと!!」

 

 報復の矢だと言わんばかりに、パーシングの集中砲火がKV-2に殺到した。

 さすがの防御力でもその圧倒的な火力に遂に根を上げてしまう。

 黒煙と白旗を雨に晒しながら、KV-2が動きを止めた。

 

「どうしよう! みんなみんないなくなっちゃった!」

 

「落ち着いてください! もうすぐ街道を抜けてAチームの展開する低地へ抜け出せます! 皆さんの無念を晴らす機会はまだたくさんありますから!」

 

 みほのティーガーⅠとカチューシャのT-34/85が街道を疾走していく。

 激しくなりつつある雨足をかき分けるように、鋼鉄の獣が地を踏みならす。

 

 試合開始から一時間弱。

 プラウダと黒森峰の混成部隊は、その構成車両を大きく失いながらも何とか高地からの脱出を果たそうとしていた。

 

 




本日中に完成しましたので投稿します。 
多分劇場版は15話くらいで終わりかな?


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逸見カリエの戦車道 11

 まず最初に、低地に転がり込んできたのはナナのパンターだった。

 被弾痕こそ見当たらないものの、爆炎の煤を受けて所々が黒く汚れている。高地での激戦の様相を物語る姿に、優花里は思わず息を呑んでいた。

 だがここで思考を中断することは出来ないと、次なる指示を口にする。

 

「ご苦労様でした。このまま態勢を立て直しつつ、南西の方角に向かいます。廃墟になった遊園地跡があるはずなので、そこでゲリラ戦を展開。各個撃破の形を目指したいと思います。ところで——他の皆さんは?」 

 

 彼女の疑問は、ナナの後続に向けられた視線と共にあった。

 ほぼ全速力でナナが撤退してきたのは良いものの、後続の車両たちが一向に現れないのだ。

 雨の所為か通信状況も悪く、AチームはBチームがどのような戦いを繰り広げていたのかまだ把握することが出来ていない。

 ナナは雨に濡れた前髪を煩わしく感じているのか、荒々しくかきあげて優花里に答えた。

 

「隊長は——西住隊長はパーシングに食らいつかれたプラウダの皆さんの救援に向かいました。途中までこちらが拾っていた通信によると、プラウダから3両の損害を出したようです」

 

 3両——被撃破された車両の数が優花里に重くのし掛かる。

 主力とも取れるBチームのダメージは想像していたよりも甚大だった。黒森峰の撃破された車両を合わせれば4両の強力な戦車とメンバーを失ったことになる。

 真っ白になりそうな優花里の思考を何とか繋ぎ止めたのは、砲弾を抱えたカリエの言葉だった。

 

「とにかく優花里さん、佐久間さんの報告が正しければみほたちがまだこちらに向かってきている筈。Cチームの皆さんがカールを何とかしてくれている間に早いところ合流して戦力を組み直そう。大丈夫——まだ黒森峰は、プラウダは戦える。優花里さんだってそのことはよく知っているでしょう?」

 

 確かにその通りだ、と優花里は頷いた。

 準決勝で、決勝で鎬を削った両校はこんな逆境でへこたれるような学校では無かった。

 むしろどんな逆境でもそれを糧にして前に進み続けることが出来るからこそ、強豪として、王者として君臨し続けているのだ。

 

「ナナ殿、今からAチームとBチームを一時合併します。西住殿たちが合流してきても大丈夫なよう、このまま低地を抜けて援護に——いえ、彼女たちを迎えにいきましょう。いくらパーシングの追撃を受けていても、こちらから攻勢を掛ければあちらもそこまで執拗には追ってきません」

 

 優花里の言葉を皮切りに、Aチームの車両が動き始める。 

 北の方角に展開していた大学選抜チームに牽制を加えながら、ナナが通ってきた道を辿りだしていた。

 未だ姿を見せないBチームの生き残り達。

 どうか全員無事でいて欲しいと祈りを込めながら、高校選抜チームは拘泥の中を進んでいく。

 

 

01/

 

 

 潰走を続けるみほが我が耳を疑ったのは無理からぬ事だった。

 地図によればもうそろそろ街道を抜けようか、というその時。

 一発の砲撃音が辺りに響く。

 先を行くカチューシャの眼前に着弾したそれは、それなりの大きさの土柱を上げるように爆ぜていた。

 普段ならば何てことのない至近弾として無視できていた。

 確かに相手の砲手の腕だとか、車両性能のことを鑑みれば安全とは言い切れないものの、そこまで気にとめるような事象では無かった。

 では何故彼女はそんな極普通の砲撃音に驚いていたのか。

 どうして彼女はわざわざ振り返ってまで砲撃の主を確認しようとしたのか。

 

 逸見姉妹が互いの挙動全てを把握し、その身にそれぞれを刻んでいるように。

 西住姉妹もまた、互いの全てを身体に叩き込み合っていた。

 

 どのような状況下でも完璧に連携が取れるように。

 どんな相手でも姉妹で打ち崩すことができるように。

 

 みほはまほの全てを理解していたのだ。

 

 だからわかる。

 砲撃の音、タイミング、狙いの全てが語っていた。

 自分たちに向けて砲火を投げかけたのが誰なのか。どのような意図をもって今成されたのか。

 カチューシャはまだ気がついていない。

 彼女の盾になっていったノンナ、クラーラ、ニーナ、アリーナ、そして全てのプラウダの隊員達のことを思い、必死に逃走を続けている。

 ただみほだけが後方を向いたまま、視線をある一点から離せないでいた。

 

「お姉ちゃん……」

 

 漏らされた呟きに対する応答は、ティーガーⅠの直ぐ近くで炸裂した88ミリの徹甲弾だった。

 

「ちょっと! さっきから何に撃たれてるの!」

 

 前方を行っていたカチューシャが振り返る。

 みほは「何でもありません! ただの新手です!」と咄嗟に嘘を吐いていた。

 だが考えもなしに吐き出された嘘がカチューシャに通用するはずもなく、彼女もまた先ほどからこちらに狙いをつけている車両を見て目を剥いていた。

 

「西住まほ……! 絶対何処かでぶつかると予想はしていたけれどもこんな序盤から!? ちょっと本気で潰しに来てるわよ! 大学の奴ら!」

 

 何とかカチューシャの壁になることができるよう、みほはティーガーⅠの位置取りを細かく調整しながら、背後から追いかけてくるまほのティーガーⅠに狙いを定めた。

 車両番号こそ黒森峰時代から変化しているが、間違いなく虎の主は彼女の姉たる西住まほだった。

 

「っ、こちらの事情を知らないとはいえ、このタイミングで参戦なんて!」

 

 ほぼ同じ発砲音を轟かせながら、みほとまほが撃ち合う。

 しかしながらその結果は全く違ったものとなっていた。

 みほのティーガーⅠには跳弾の傷痕が深く刻まれたのに対し、まほのティーガーⅠは全くの無傷だった。みほの放った砲撃は車両を掠めることも無く、ティーガーⅠのやや後方で炸裂していたのだ。

 それはまるで、みほの動揺が顕在化したような結果だった。

 

「カチューシャさん、このままでは私たち——二人とも危険です! 私が何とかお姉ちゃんを食い止めますから、カチューシャさんはこのままAチームに合流してください! 後から必ず追いつきます!」

 

「相変わらず嘘が下手くそだし自己犠牲が過ぎるのよ! あんたが残るなら私も残るわ! 二人がかりじゃ無いとあの化け物は止まらないわよ!」

 

 昨年の決勝戦を思い出しているのか、カチューシャの声は少しばかり震えていた。

 思えば自分たちに引導を渡したのは逸見姉妹だが、それまでこちらを追い詰めてきていていたのは間違いなく西住まほの技量と采配だった。

 しかもノンナやクラーラといった腹心達を失った今、カチューシャを守るものは何もない。

 心の支えというものが残されていなかった。

 みほに付き合うという言葉も、半ばやけくそで言い放たれている。

 

「でしたらここで必ず足止めをするか、撃破しなければ! お姉ちゃんをAチームの場所まで連れて行くことは絶対に阻止しなければなりません! 身内を自慢するようであれですが、それだけお姉ちゃんの戦車道の腕は飛び抜けています! 下手をすれば一人でこちらが壊滅させられるかも……」

 

「悔しいけれど同意してあげるわ! なら良い? いっせーのーでであんたが急停車、私が減速をするの! 速度差を活かして二人で挟み撃ちに持ち込むのよ!」

 

「良い作戦だと思います! ではいっせーのーでっ」

 

 みほのティーガーⅠの履帯が急停止し、泥濘んだ泥を滑りながら速度を失っていった。

 ほぼ全速で二人を追いかけていたまほのティーガーⅠがみほを追い抜いていく。

 次に速度を緩めていたカチューシャのT-34/85がまほの進行方向を塞いだ。

 挟み撃ちは成った。

 回避も停止も出来なくなったティーガーⅠが、みほとカチューシャに挟まれていた。

 カチューシャが叫ぶ。

 

「やってしまいなさい!」

 

 それまで後ろを狙っていたみほのティーガーⅠの砲塔が高速で回転し、ティーガーⅠの弱点とも言われるまほの車両の後部に狙いをつける。

 葛藤は一瞬。

 雨を切り裂くように、88ミリの砲弾が解き放たれた。

 

 が——、

 

「きゃっ!!」

 

 突如としてみほのティーガーⅠがぶれた。

 カチューシャからは、いきなりみほのティーガーⅠが横滑りをしたように見えた。

 何が起こったのか、数秒ばかり理解が出来ない。

 ただ当事者のみほだけが状況をある程度正確に把握していた。

 

「なんでBT-42が!」

 

 そう、みほの視線の先には自身のティーガーⅠと併走を繰り広げているBT-42の姿があった。

 街道の低い崖の上から飛び出してきたかの車両が、みほのティーガーⅠに体当たりをぶつけていたのだった。

 お陰で狙いがぶれ、千載一遇の好機が霞と消えていた。

 

「みほ!」

 

 BT-42に釘付けになっていたみほの視線が再び前を向く。

 カチューシャの短いながらも悲痛な叫びが耳に届いていたからだ。

 そして見てしまう。

 前方を走るまほのティーガーⅠが徐々に速度を落とし、こちらを封じ込めようとしている今その瞬間を。

 

「カチューシャさん、先に行って! 私に構わないで! 一人だけでもAチームに合流して下さい!」

 

 ここで進路を塞がれてしまっては、BT-42とティーガーⅠ、そして背後から追ってきているであろうパーシングの餌食になることくらい容易に察しがついていた。

 つまりは自身の終わりを見ていたのである。

 どう考えても撃破は免れないと、カチューシャに懇願していた。

 

「大洗の皆さんを、カリエさんをお願いします! 私は一両でも多く道連れにしていきますから!」

 

 まほのティーガーⅠの車両後部がみほのティーガーⅠの車両前方に接触した。

 そして強制的に速度が落とされていく。

 カチューシャとの距離が開く。それは二度と取り戻すことの出来ない彼我の距離。

 

「っ! あんたこそ精々姉に吠え面かかせてきなさい! 無抵抗でやられたら承知しないんだからね!」

 

 カチューシャはそれ以上は振り返らなかった。

 でもそれで良いとみほは思う。

 結果的に黒森峰、プラウダ共にほぼ全滅の醜態を晒してしまったが、カチューシャが生き残ることが出来たのは何物にも代えがたい僥倖と言えた。

 彼女が持つ指揮官としての能力はそれだけ隔絶したものがあると知っていたから。

 

「さすがカリエさんが他校で一番警戒していた人、あの人ならきっと——」

 

 みほからカチューシャの姿が視認できなくなる。

 しかしそれは、彼女の撤退完了を意味している分、朗報でもある。

 さてここからは自分のことだ、とみほは併走するBT-42と前方を塞ぐティーガーⅠを睨み付けた。

 

「これでも西住——いえ、黒森峰の隊員の端くれ。ただ無抵抗でやられるわけにはいきません!」

 

 ティーガーⅠの主砲が吠える。履帯が併走するBT-42を押しのけようとして火花を散らす。

 雨を蒸発させる熱気が、ティーガーⅠの排気口から拭きあがる。

 

「パンツァー、フォー!!」

 

 

02/

 

 

「こちらアンチョビ。黒森峰のナナとかいう隊員の報告したとおりの方角、距離にてカール自走臼砲を発見したぞ。護衛のパーシングは3両。あいつら、全自動に改造しているお陰か、やけに発射速度が速い」

 

 雨が上がった木陰の中、こっそりと忍び寄った豆戦車からアンチョビが顔を覗かせていた。

 彼女の視線の先には干上がった川の中州で稼働を続けるカール自走臼砲とその護衛の車両の姿が見える。

 こうしている間にもカールは爆炎と共に砲弾を撃ち出しており、高校選抜チームに痛恨を与えている様子が窺えた。

 アンチョビはそんな現状に歯がゆさを感じながらも、随分とアンティークな双眼鏡を使い、件の目標についての報せを冷静に続ける。

 

「しっかし姐さん、ミスりましたね。敵に見つかるって理由であたしたちだけで偵察に来ましたけれど、さすがにあれを撃破するのは無理っすよ。でも早いとこ何とかしないよ、Bチームの被害がどんどん大きくなりますし」

 

「ドゥーチェ、無線によればあっちはかなりの激戦みたいです。Bチームの殆どの車両がやられてしまったみたいで。カールの排除は急務です……たかちゃんは無事かしら」

 

 豆戦車——カルロベローチェに乗り込むペパロニとカルパッチョにアンチョビは振り返る。

 二人の告げた通り、カール自走臼砲を一刻も早く撃破しなければ被害は拡大するばかりである。

 アンチョビは「その通りだ」と頷いて見せた後、カルパッチョから無線を受け取った。

 

「もともと私たちだけではどうしようも無いんだ。早いところケイ達に連絡をしてあのカールを何とかしてしまおう。というわけでケイ、今から進言するポイントに向かってくれ」

 

『ノープロブレム。もう進軍を開始しているわ。でも撃破のプランはどうする? 正面から相手してたら護衛にこちらがやられちゃうし、カールの装甲もそれなりよ。ナオミのファイアフライを何とか肉薄させないと』

 

 ケイの懸念は尤もだ、とアンチョビは腕を組む。

 もともとオープントップのカール自走臼砲だが、レギュレーション通過のためにそれなりの装甲強化が成されている。下手な高校選抜チームの車両ではそんな装甲を撃ち抜くことが出来ない可能性が高い。

 カール撃破に派遣された車両で確実に撃破することが出来るのは、ナオミが搭乗するシャーマンファイアフライくらいだった。

 

『……安全にシャーマンをカールに近づけさせれば良いんですよね? なら私たちに考えがあります!』

 

 アンチョビとケイの作戦に関するやり取りをそれまで黙って聞いていた典子が声を上げた。

 貧弱とも取れる八九式戦車を使いこなし、それなりの戦果を上げてきていた彼女が提案する作戦に、アンチョビ達は興味を示す。

 

『——というわけです。サンダースの皆さんには負担を掛けてしまう作戦ですが、必ずカールを撃破することが出来ると思います』

 

 先にリアクションを出したのはケイだった。

 

『面白いプランだと思うわ。でも問題は護衛の車両をどうするかね。3両のパーシング相手にずっと囮をやるのはかなりハードよ』

 

『ならその役割、私に任せてください。マム。撃破は難しいかもしれませんが、逃げ続けるだけなら何とかなります』

 

 即座に囮を買って出たアリサに、典子たちと同じように沈黙を保っていた杏が言葉を返した。

 

『えー、でもうちのⅣ号からは逃げ切れなかったじゃん』

 

『五月蠅いわね! お陰様で逃走機動の研究と訓練が随分と捗ったわよ! ていうか茶々入れるくらいならあんたたちがやりなさいよ!』

 

 アリサの声に杏は「いいね、それ」と笑って返した。

 

『なら私たちも囮に加わるよ。二両あった方が攪乱できるだろうし。それに、回転砲塔を持たないヘッツァーなら相手も割と嘗めてかかってくるからやりようはあるだろうからさ』

 

 こうしてカール討伐隊の編成は決まった。アリサと杏の車両を囮として護衛のパーシング達を引きつけ、残されたCチームの車両達でカール自走臼砲を包囲殲滅する作戦だった。

 そして作戦開始の号令を取ったのは隊の指揮経験が豊富故か、自然と小隊長としての動きが多くなっていたケイだった。

 彼女は勢いよく無線機を引っつかむと、Cチーム全体に向かって声をあげる。

 

「Operation Oriental Witch、はじめるわよ!」

 

 

03/

 

 

 ケイの号令と共に、物陰や茂み、林の奥に潜んでいた車両たちが一斉に突撃をかけていく。

 一番先を行き、隊列を先導するのは作戦の発起人達であるアヒルさんチーム——バレー部の面々だった。

 

「ところでキャプテン、オリエンタルウィッチってなんですか?」

 

 砲手を任されているあけびがふと疑問を口にする。車長として周囲を警戒していた典子は「うーん」と歯切れの悪い枕詞を加えて、こう返した。

 

「檻をレンタルするウィッチ? あ、ウィッチって魔女か。なら檻を借りる魔女? 童話か何か?」

 

 ああ、成る程とあけびが頷いたのを見て、前部の座席で通信手と操縦手を務める妙子と忍ががくっ、肩を落とした。

 妙子が後部座席に振り返り、やや引きつった声色で訂正を漏らす。

 

「オリエンタルは東洋。ウィッチは魔女だからオリエンタルウィッチは東洋の魔女ですよ。ほら、キャプテンも知ってますよね。東京オリンピックで伝説を築いた歴代最強の女子バレーチームです」

 

「なんと……! サンダースの隊長はそんな粋な作戦名を考えてくれたのか……。恐るべし強豪校——!!」

 

 ぐっ、と気合いを入れる典子を単純だ、と笑う者は誰もいない。

 むしろ気持ちは同じだと言わんばかりに、全員が典子の言葉に賛同していた。

 

「折角頂いた素晴らしい作戦名に恥じないよう、キャプテン頑張りましょう!」

 

 忍の言葉を皮切りに、全員が一斉に声をあげた。

 それはまさに勝ち鬨の叫び。これから勝利を掴みに行く者だけに許される合い言葉。

 

「せーの」

 

 音頭はキャプテンである典子。

 

『根性——!!』

 

 八九式戦車が茂みから飛び出す。そして中州に続く煉瓦造りの橋を目指した。突然の奇襲に驚く護衛のパーシングが発砲するも、思わぬ快足と機動力を読み違えてしまい何も存在しない地面を砲弾が穿っていく。

 

『ナイスファイトよ! カメさんは私に続いて!』

 

 パーシングの注意が八九式戦車に向けられているのを見て、アリサのシャーマンと杏のヘッツァーが物陰からカール自走臼砲に向かって発砲した。

 それぞれの砲弾は距離と装甲に守られたカール自走臼砲に弾かれてしまったが、響き渡る轟音はパーシング達の怒りを買うには十分だった。

 非力な八九式戦車は脅威になりえないと判断したパーシング達がシャーマンとヘッツァーに殺到する。

 ヘイトを稼ぐことに成功したそれぞれの車両は分散しながら干上がった川の底を目指して、斜面を駆け下りた。

 

『平地での機動は向こうが上よ! 射線に入らないようこまめに動いて固まらないように!』

 

『はいよー。それじゃあカール討伐隊のみんなー、あとはよろしくー』

 

 気の抜けた声と共に、杏達がパーシングを引き連れていく。

 残されたCチームの面々はカール自走臼砲を破壊するべく、作戦を開始した。

 

「アンチョビさんは私たちと一緒にカールの陽動を! ケイさんとナオミさんは手筈通りにお願いします!」

 

 橋に到達した八九式戦車が背後にカルロベローチェを引き連れてカールに特攻していく。絶え間なく砲弾を撃ち込みながらの突撃だったが、その全てが虚しくも強固な装甲に弾かれていった。だがそれで良いと言わんばかりに、八九式戦車は前へと進む。

 やがて豆鉄砲でも放っておく訳にはいかないと判断したのか、カール自走臼砲がその重厚すぎる車体を回頭させ、橋の方角へと砲口を向けた。

 これまで相対してきたどの戦車よりも凶悪な砲口にアンチョビが涙混じりの泣き言を叫ぶ。

 

「う゛あああああああああああああああ! こっぢみでるぞおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

「キャプテン!!」

 

「こんじょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 忍の声に典子は絶叫で応えた。だがそれが全ての合図。

 カール自走臼砲の砲口が瞬いたのと同時、八九式戦車が素早く右に進路をずらした。そして追従していたカルロベローチェも全く同じ動きを繰り返す。

 あまりに巨大な砲弾の質量故か、脇を通過していった衝撃だけでそれぞれの車体が軋んだ。さらに後方に着弾した特大の爆炎を受けて、二両は激しく揺さぶられながら前方へと衝撃波に押しのけられる。

 

「よがっだあああああああああああああ! まだ生きでるうううううううう!」

 

 アンチョビの悲鳴を残しながら、二両は装填を開始するカール自走臼砲の側面に回り込んでいく。正面ならまだしも、側面装甲はそこまで整備されていないと踏んでのことだった。事実、装填機構が剥き出しのそこはカール自走臼砲の事実上の弱点とも言えた。

 

「撃て撃て撃て!」

 

「やってしまえ! ペパロニ!」

 

 二両の主砲と機銃が剥き出しの装填機構に火を噴く。

 よし、これで撃破が出来る、と典子とアンチョビは喜びに顔を滲ませた。八九式戦車の主砲が作り出した白煙がややあって晴れていく。

 

「え゛?」

 

「うわー!! やっぱ駄目だああああ!!」

 

 だが白煙の向こう側にあったのは輝かしい戦果では無かった。砲撃と機銃を受けて傷ついてはいるものの、完全破壊にはほど遠いカール自走臼砲がそこにはいたのだ。しかも装填機構はまだ生きており、二発目が既に装填を完了していた。

 

「た、退避——!!」

 

 再び二両に向けて回頭を始めたカール自走臼砲を見て、アンチョビが本日何度目かもわからない悲鳴をあげた。何とかもう一度だけでも側面に回り込もうと画策するが、つぶさに前進を始めたカールの大きさにそれすらも妨害される。

 

「て、ていうかキャプテン、これ、私たちを押し潰そうとしているんじゃ……」

 

 何かに気がついた忍が絶望的な言葉を漏らす。咄嗟に典子が背後を振り返れば、中州の端が直ぐそこまで迫っており、八九式戦車やカルロベローチェの車体の大きさから見てみれば断崖絶壁ともとれる高低差が顔を覗かせていた。

 つまり逃げ場はない。

 正面からはゆっくりとカール自走臼砲が迫ってきている。

 超重量、超質量を誇るその車体に轢かれれば、追い詰められている八九式戦車とカルロベローチェが耐えられるはずもなかった。

 

 ただ——。

 

『OK、ちっこいお二人さん。良くやってくれた。Good job』

 

 典子とアンチョビはそれ以上狼狽えることはない。

 むしろここが踏ん張りどころだと、逃げ出すそぶりを見せなかった。

 何故なら引きつけなくてはならないから。

 この方角、この位置にカール自走臼砲を留めておかなければならないから。

 くちゃくちゃとガムを咀嚼する音が無線越しでも良く聞こえた。今となってはその音ですら典子とアンチョビの福音たり得る。

 

「今だ! アターック!!」

 

「ブルスケッタ作戦最終章だ!!」

 

「姐さん、オリエンタルウィッチ作戦すよ」

 

 気の抜けたペパロニの言葉がトリガーだった。典子たちの遙か後方、中州を望む茂みの中から豪砲が響き渡る。

 聞く者に畏怖すら抱かせる特大の砲撃音はあのティーガーですら屠ることができる17ポンド砲のものだ。

 ナオミが砲手を任されているシャーマンファイアフライの一撃がカール自走臼砲に叩き込まれる。

 黄色く光る高速の光弾は吸い込まれるようにカール自走臼砲の砲口へと吸い込まれていった。

 

 そう——。

 例え17ポンド砲の威力を持ってしても、強化されたカール自走臼砲の装甲を貫徹することが出来るかは五分五分の所だった。

 装填に時間の掛かる17ポンド砲では、一撃で仕留めきれなければ手痛い反撃を受けることもあり得た。

 だからこそ必中且つ必殺の間合いを生み出す必要があった。

 無警戒に弱点を晒すその瞬間を、空間を作り出さなければならなかったのだ。

 典子とアンチョビは自分たちを囮とすることでそれを成した。

 Bチーム壊滅の切っ掛けを生み出した怪物を屠るために、最前面に繰り出していた。

 黒煙と共にはためく白旗が高校選抜チーム反撃の狼煙だった。

 

「よし! オリエンタルウィッチ作戦成功だ!」

 

 典子の歓喜の声は、遙か遠くでBチームの救援に向かうAチームの優花里の耳に、無線を通してハッキリと伝わった。

 

 

04/

 

 

 打ち付ける雨の中、みほは少し昔のことを思い出す。

 

 黒森峰女学園の中等部に入学するとき、彼女はある姉妹の話題をたまたま耳にしていた。

 何でもジュニアユース戦車道において、抜群の連携を武器に、その実力を周囲に示し続けた姉妹が本年度の新入生にいるというもの。

 一言聞いて「逸見さんたちのことを言っているんだな」と納得を覚えたことを覚えている。

 母であるしほの友人の娘ということで、数年前から西住流の門下生として腕を磨いていることを知っていたからだ。

 けれども意外なことに直接会話を交わすことは殆ど無かった。

 家元候補の娘と言うことで向こうが遠慮してきたのかというとそうではない。 

 逸見姉妹それぞれの性格を考えれば、そんな行儀の良い身の引き方をする筈がないからだ。

 思ったことは例え上級生であろうとずけずけと口にする姉のエリカと、普段から楽観的でフレンドリーな妹のカリエ。

 この二人がそんな下らないしがらみを気にして人に接するなど有る訳がなかった。

 ならば何故か。

 理由は至極単純。

 みほが二人を避け続けていたのである。

 そしてその理由も単純明快だった。

 

 逸見姉妹二人のやり取りを、距離を、じゃれ合う風景を、喧嘩し合う信頼を見てしまったから——。

 

 姉のまほと上手く関わることが出来ない自分がどれだけ惨めで、不器用で、情けないか知らしめられてしまうからだった。

 

 

05/

 

 

 みほのティーガーⅠの終わりは中々やってこなかった。

 雨粒が天蓋をぽたぽたと濡らすその時、まほのティーガーⅠとBT-42が突如としてみほのティーガーⅠから距離を取り始めたのだ。

 一瞬情けを掛けられたのか、と表情を険しくするものの、直ぐにそれが間違いだとみほも気がつく。

 弱りだした雨足に混じって、間違いなく異質な音がどこからともなく聞こえだしていたのだ。

 そしてその音はある意味でみほとまほが勝手知ったるある獣の心臓が刻む音でもあった。

 だが姿が見えない。 

 幻聴か、と思えてしまうほど気配そのものが感じられない。

 

 そっと、みほが車内に対してサインを送る。

 指示があれば急発進する事が出来るように準備をしておけ、というサインだ。

 まず中にいた通信手が了解を返し、素早く操縦手へと言葉を伝達していく。

 

 果たしてそれが、彼女たちを結果的に救うことになった。

 

 動きが見えたのは、街道に寄り添うように伸びている稜線の頂上からだった。

 少しばかり姿を見せ始めた太陽を覆い隠すように、巨大な影が稜線の向こう側から飛び出してくる。

 余りにも速度が出過ぎていた所為か、斜面の下りに対応することが不可能となり、車体そのものが宙を浮いていた。

 恐らくカリエがその姿を認めれば「無茶苦茶だ」とぼやいただろう。

 70トン超の車体が空を飛ぶなど、本来ならばあり得ないことなのだから。

 しっかりとこちらに狙いを定めていた88ミリ砲が火を噴いた。

 高速で飛来した砲弾がまほのティーガーⅠの防盾を揺るがし、世界に響き渡る金属音を奏でる。

 それがみほがティーガーⅠを急発進させる合図でもあった。

 着弾の衝撃で硬直しているまほのティーガーⅠとBT-42の間を擦り抜けて、彼女は包囲網を抜け出したのだ。

 さらにお返しと言わんばかりに、砲塔が180度回転して榴弾を叩き込んでいく。

 泥と火炎が目眩ましになったのか、BT-42の砲撃はティーガーⅠの車体を掠めていくだけだった。

 

「エリカさん!」

 

 救世主の名前をみほは口にする。ティーガーⅠの先をいくティーガーⅡのキューポラから上半身を覗かせている少女の名を呼ぶ。

 煤と土で真っ黒に汚れたティーガーⅡを駆りながら、エリカが振り返った。

 

「ごめん、遅くなったわ! パーシング達に気がつかれないよう、随分と北を迂回してきたの! 途中、本隊からみほが取り残されているって連絡を受けたから突っ込んでみたけれど、何とか間に合ったみたいね!」

 

 まほ達は深追いする愚を嫌ったのか、それ以上追撃はしてこなかった。

 恐らく、これ以上侵攻してしまうと高校選抜チームの防御網に抵触することを理解しているのだろう。

 みほは背後への警戒を密にしつつも、エリカに問う。

 

「でもどうして——どうやってあの砲撃を切り抜けたんですか?」

 

 エリカのティーガーⅡがスタックしたことはBチームの全員が知っていた。

 カール自走臼砲の砲弾が降りしきるあの丘に取り残されたことを全員が聞かされていたのだ。

 しかしながらそこからどのように生還したのかは実際の所誰も知らされていない。

 エリカは瞳を伏せながら、ややあってみほの疑問に答える。

 

「小梅がね、助けてくれたのよ」

 

 彼女は地獄の高地で行われたやり取りをつぶさにみほに語った。

 

 

06/

 

 

 そろそろ三度目の砲撃か、とエリカが覚悟を決めたとき、爆発の衝撃とは別の揺れがティーガーⅡを揺さぶっていた。

 さすがにキューポラから顔を覗かせるわけにはいかなかったので、エリカは車長用ののぞき窓で車体後方を確認する。

 そして「な——っ」と今度こそ言葉を失っていた。

 何故なら撤退したはずの小梅のパンターが背後からエリカのティーガーⅡを押し上げていたからだ。

 慌てて無線を引っ掴んだエリカが怒声にも似た声色で小梅を問い詰める。

 

「何してんのよ! 早く逃げなさい! このままじゃあんたまで巻き添えを食らうわよ!」

 

 返答は直ぐには無かった。

 ただ車重で圧倒的に勝るティーガーⅡを何とか前進させようと、パンターが悲痛なエンジン音を周囲にまき散らすだけだった。

 もう一度エリカが叫ぶ。

 

「小梅! 何とか言いなさいよ! 早く逃げろって言ってるでしょ!」

 

「……駄目です。それは出来ません」

 

 悲痛さも畏れも何もない、力強い声だった。

 思わずエリカが気圧されるくらいには力の籠もった声だった。

 小梅は続ける。

 

「エリカさん、あなたはこんなところで撃破されていい人じゃない。まだカリエさんが待っているんです。あなたはあの人ともう一度肩を並べる必要があります」

 

 覚えていますか——? と小梅は小さく笑みを零していた。

 

「去年の決勝戦のことを。あなたもカリエさんもみほさんも、最後まで誰も諦めなかった。皆必死に足搔いて勝利を掴み取ろうともがいていた。——私羨ましかったんです。そんな試合に車長として臨めるあなたたちが」

 

 小梅は「自分は通信手でしたね」と言葉を紡ぐ。

 

「もちろん私も黒森峰の一員として全力を尽くしました。でも、もっと上を目指せたんじゃないかっていつも後悔するんです。私もあの試合、車長として戦ってみたかった。エリカさん達と肩を並べて戦ってみたかった。だってほら、やっぱりその席は特別じゃないですか」

 

 何を言っているのよ、とエリカは呻くように漏らす。

 

「それが今年になってようやく車長を任せてもらえるようになった。エリカさん、あなたがレギュラーの最終一枠に私を推薦してくれたことを知っているんですよ? そしてその時から私が車長として成すべき事をずっと考えてきた。どうすれば私を選んでくれたエリカさんに報いることが出来るのか、その期待に応えることが出来るのか、ずっと考えてきた」

 

 パンターの車体が少しだけティーガーⅡの車体を押し上げた。ティーガーⅡの空転していた履帯が地面を再び掴む。

 

「今この瞬間が、私を選んでくれたエリカさんに恩返しをするときです。行ってらっしゃい、エリカさん。カリエさんの、いえ、私たち全員の未来を掴み取るのはあなたの戦車道です。あなただけの戦車道です」

 

 ティーガーⅡの操縦手が再びアクセルを操作する。大地に喰らいついた両の履帯が素早く回転した。ティーガーⅡが前進を再開した。

 

「——健闘を。頑張って、エリカ」

 

 空から振ってきた砲弾が三度目の爆炎を形作る。パンターはその煽りを受けて横転した。だが既に丘を下り始めていたティーガーⅡは煤と土砂を浴びるだけだった。

 エリカはキューポラから身を乗り出して、キノコ雲の残る頂上を見た。

 

「——ありがとう、小梅。私、必ず勝つから」

 

 それ以上、後ろを振り返ることはない。

 ただ前だけを見つめ、撤退を続けるBチーム本隊の苦境を無線越しに耳にする。

 彼女の視線は成すべき事、やらねばならないことをしっかりと見据えていた。

 そんなエリカの心情に応えるように、ティーガーⅡの王虎のエンジンが唸りをあげる。

 

 雨がもうすぐ上がる。

 日が差し、世界は再び晴れ渡る。



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逸見カリエの戦車道 12

 パーシングを引きつけるために囮となっていた杏とアリサに、一つの幸運が訪れていた。

 煉瓦造りの橋の下を抜けたその直後に、直上でカール自走臼砲の砲撃が炸裂し、破損した瓦礫が降り注いだのである。

 幸い彼女たちは無傷で切り抜けることが出来ていたが、後続のパーシング達は違った。三両のうちの一両が砲身を瓦礫に押し潰されて撃破判定を受けていたのだ。

 

「はへー、ついてるもんだねー。こりゃいけるかも」

 

 背後を振り返りながら杏が漏らす。ここまでやられっぱなしの高校選抜チームだったが、ようやく運が向いてきたようだった。

 こうした幸運の積み重ねが試合の行方を左右することを杏は知っていたので、素直に喜びを表し、チームの士気へと変換していく。

 

「でも油断できないわ。残り二両、無理して片づける必要はないけれども、もう少し引きつけておかないと」

 

 隣を併走するアリサが追いすがるパーシングに視線を向ける。 

 ジグザグに走行しているお陰で直撃弾は受けていないが、至近弾が増え始めていることから向こうもこちらの動きに慣れつつあるようだった。

 このままだとジリ貧だ、と唇を噛む。

 

「ならどうする? このまま撃ち合ってみる?」

 

 杏の提案に「いや……」と歯切れの悪い言葉を返した。

 

「あんたたちは固定砲塔だし、シャーマンの主砲で正面からパーシングを抜くことは出来ないわ。何とか側面や背後に回り込んで装甲の薄いところを打ち抜かないと」

 

 アリサの懸念に杏は「その通りだ」と頷いた。固定砲塔であるヘッツァーは弱点である横っ腹を一度晒して、180度回頭しなければパーシングを狙えない。アリサの乗るシャーマンは走攻守のバランスが取れた傑作とも言える中戦車だったが、パーシングと一対一で撃ち合うには全てのスペックであと一歩足りていなかった。

 

「なら仕方ないかー。こんな時秋山ちゃんならどうするか……」

 

 ふと口にされたぼやきを耳にして、アリサがはっ、と何かに気がついたように声を上げた。

 

「——いや、待てよ? この方法なら何とか……。でもそれが私たちに出来るかどうか」

 

 何かを思いついたのかぶつぶつと独り言を零していく。杏はどんな知恵でも有り難いといわんばかりに、アリサに思考の暴露を促した。

 

「何か思いついたみたいだね。いいよ、やってみようよ。どうせこのままだと両方ともやられるだろうし」

 

 にしし、と笑う杏にアリサは「あんたね……」と呆れたように声を上げる。

 だが考えていることは殆ど同じだったのか、それ以上の躊躇を見せることはなかった。

 

「——後ろのパーシングは上手いこと私たちをカール自走臼砲に近づかないように追い立ててきている。わざとらしく見えないよう、フェイントを織り交ぜながら。つまるところ、そこまでこちらの撃破に固執しているようには見えないわ。多分、追い払えたらそれで良いと思っているのね。そしてもう一度カール自走臼砲の守りを固めるつもりよ。で、ここからが本題なんだけれど、私たちは敢えてそれに乗って、追い立てられているフリをするのよ。そして、最後はやけになってカール自走臼砲に特攻を仕掛けたように振る舞うの。こちらの囮作戦が失敗したように見せかければ最高ね」

 

 アリサの献策に杏は「成る程ね」と頷いた。

 

「私たちがサンダースの無線傍受を逆手に取ったように、相手の作戦に嵌まったフリをするわけだ。相手もこちらの破れかぶれの特攻も織り込み済みだろうから、落ち着いて防御を固めるだろうね。で、ここから先は? 私たちがサンダースを誘き出したように、もう一手、作戦が必要だよ」

 

 それなら——とアリサは続けた。

 

「私たちの隊長がまだ残っているわ。あの人はここぞという好機を見逃さないように常に戦況を見守っている。私たちはそれを信じて特攻をかければいいのよ。三人寄れば文殊の知恵。3対2の数の利をここで活かすわ」

 

「でも私たちが中州に戻るまでにカール自走臼砲が撃破されていなければ全て台無しだ」

 

 杏の言葉にアリサは「馬鹿ね」と笑った。

 

「あんたたちの所の八九式とアンツィオの喧しい奴ら、それにナオミが総掛かりで相手しているのよ。私たちが戻る頃にはとっくの昔に撃破していてコーヒーでも傾けているわ」

 

 

01/

 

 

 パーシングに追われていたシャーマンとヘッツァーが大きく進路を左に切った。

 そしてほぼ180度ターンして、カール自走臼砲の方角へと戻っていく。

 慌てたのはパーシング達だった。ある程度織り込み済みだったとはいえ、いざカール自走臼砲への特攻を実現されてしまうのは、大学選抜チームの大きな戦力の喪失に繋がりかねないからだ。

 一発、二発とパーシングの砲弾が降り注ぐ中、杏のヘッツァーとアリサのシャーマンは蛇行運転を続けながら再び中州へと近づいていく。

 中州の上の状況はまだわからない。

 カール自走臼砲を撃破できたのか、それとも失敗してしまったのか。

 今の二人に出来ることは仲間達を信じるということだけ。

 一度特大の砲撃音が轟くが、パーシングの砲撃から逃走を続ける二人がそれを意識することは無かった。

 

「取り敢えず戻ってきたけれどこの後は?」

 

 杏の問いにアリサは答える。

 

「このまま真っ直ぐ! 大丈夫! 隊長は、マムは見ていてくれているわ!」

 

 信頼だねえ、と杏が笑う。

 だが茶化さない。

 アリサのケイに対する信頼を彼女も信じた。

 自分たちと鎬を削ってきたライバル達の実力も同じように信じているから。

 そんな彼女たちが信奉するものに間違いはない筈だから。

 

 ヘッツァーとシャーマンが中州の斜面を駆け上がっていく。

 直ぐ後ろをパーシングが追いすがっていくが、パワー不足の車体が祟って、徐々に彼我の差が開いていった。

  

 いける、と呟いたのは誰だったか。

 

 中州の頂上に躍り出る。

 

 急激に開けた視界の中には動きを止めたカール自走臼砲が横たわっており、アリサの待ち侘びていたケイのシャーマンの姿もあった。

 その砲塔はこちらを向いている。 

 アリサの信頼が勝ちを拾った瞬間だった。

 

「Good jobs(お疲れ様) 私たちの勝ちよ」

 

 シャーマンの主砲が瞬いた。

 中州を少し遅れて登り切り、一瞬車体の底面を晒していたパーシングに砲弾が吸い込まれる。

 いくら強固な装甲で防護されていようとも、車体の底面はその限りではない。

 全ての戦車に共通するウィークポイントを狙撃されたパーシングはあっという間に白旗を掲げその場に停止した。

 味方が撃破された事を理解した、まだ中州を上り続けていた残り一両のパーシングが慌てて後退を開始する。

 しかし全ては遅かった。

 カール自走臼砲の撃破という、ここ一番の大仕事をやってのけたシャーマンファイアフライの主砲が、ぴたりと側面装甲にロックされていた。

 ガムで出来た風船を割ったナオミが口を開く。

 

「Bang!」

 

 光弾はただ真っ直ぐ、ひたすらに、螺旋を描いて前へ進んだ。

 鋼鉄の盾に食い込んだそれは貫通の判定を残して爆散する。

 中州の上に翻る三つの白旗は、高校選抜チームがあげた大金星の象徴そのものだった。

 

 

02/

 

 

 風がようやく向いてきたと優花里が感じたのは、ボロボロになりながらも無事に帰還を果たしたティーガーⅠとティーガーⅡ——つまりみほとエリカとの合流を果たしたその瞬間だった。

 一時は全滅すら危ぶまれた黒森峰車両の帰還が、チームに与える士気向上の効果は決して無視できるものではない。

 ここまで後手後手に回り、苦しい戦いを強いられていただけに喜びもまた大きかった。

 しかしながら状況は相変わらず厳しいままだ。

 パーシング達の猛追を振り切ったとはいえ、ティーガーⅠとティーガーⅡのダメージは大きく、何とか隊列について行けているという有様だ。

 ドイツ戦車が慢性的に抱えている足回りの脆弱性が徒となっている。

 車長であるエリカもそんな現状を苦々しく思っているのか、眉根を顰めながら優花里に言葉を投げかけた。

 

「……どうやらCチームが小梅たちの仇を取ってくれたみたいね。これで心置きなく戦えるわ。でも、ここから先はどうするの? Bチームは正直独立したチームとしては戦えないし、足回りにも相当ガタが来てるから何処かで整備も行わないと……」

 

 四方八方から大学選抜チームの奇襲が考えられる、北海道の広大な原野の真ん中での修理及び整備は不可能である。

 優花里もそのことを理解しているのか、ずっと頭に描き続けていた青写真を高校選抜チーム全体に向かって語りかけた。

 

「このままBチームをAチームに取り込みます。そしてCチームと共に南東の方角にある廃遊園地を目指そうかと思います。ここでなら遭遇戦に持ち込みやすく、彼我の車両性能の差を埋められるかもしれません」

 

 言われてエリカとみほがほぼ同時に地図を見た。

 障害物に溢れた遊園地に逃げ込むことが出来れば、ティーガーⅠとティーガーⅡの整備をする余裕も生まれてくるだろう。

 特に反対することも無いまま、同意の首肯を返す。

 優花里も黒森峰の二人が賛成を示したお陰か、幾分かリラックスした調子で鼓舞の言葉を口にしていた。

 

「Cチームの皆さんもそのまま廃遊園地を目指してください。園の中心に位置する富士山のモニュメント周辺で集合になります。ここから先、皆さんの持ち味と技量を活かした戦いが増えることでしょう。そうなれば我々にも必ずや勝機が見えてくるはずです」

 

 

03/

 

 

「……妹さんと後輩を追わなくても良かったのかな? あの二人は必ずや台風の目になるよ」

 

 カンテレの音と共にミカが嘯く。

 彼女は今、BT-42のキューポラから上半身を覗かせながら何処か遠くを眺めていた。その視線の先に何があるのか知るのは当人だけだ。

 BT-42に横付けしたティーガーⅠの天蓋に腰掛けながら、まほはタブレットを操作している。

 

「無理な深追いは禁物だ。特にあの二人に関しては。黒森峰にいた頃からあの二人のここぞという時の踏ん張りには感心させられっぱなしだからな」

 

 チームの長である愛里寿からの指示が特にないことを確認してまほはタブレットを閉じた。

 殆ど自由裁量を認められているまほとミカの二人は、本隊とは別行動に準じている。

 ここまで下された命令はたった一つ、「好きに戦え」というものだった。

 自分たち二人の扱いを、愛里寿自身も考えあぐねていることは何となくではあるがまほには伝わってはいたので、それを無礼だとも放任が過ぎるとも糾弾することはない。むしろいらぬ気を遣わせていると、気の毒にすら思っていた。

 特に実の姉であるミカに関しては随分と頭を悩ませているようである。

 

「君は妹の所に行かなくて良いのか? 君たちの母親は妹の護衛目的で君をチームに引き込んだのだろう? こんなところで油を売っていると後々が面倒だぞ」

 

 だからこそ自然とまほの口をついたのは姉妹に関する心配事だった。

 島田姉妹の間柄が複雑怪奇なことは承知してはいたが、それでもいらぬ世話を焼きたくなるくらいには、まほもお人好しである。

 しかしながらミカから返された言葉はまほに対する強烈なカウンターパンチだった。

 

「——私たちのことよりもまほさんは自分の事を心配した方がいいのでは? 黒森峰の皆さんからしたら大きな大きな裏切りに見えているだろうに。特に今回の一戦、逸見カリエの進退が掛かっているんだよ? 妹さんや後輩から恨まれるという可能性はどうするのかな?」

 

 一瞬、まほは言葉に詰まる。

 だがあくまでもそれは一瞬のことだ。直ぐに「覚悟の上だ」と頭を振ると、自身の思いをつらつらと語った。

 

「最初はこの試合の参加要請を断るつもりだった。けれども『あの人』があんまりにもしつこく要請してくるのと、『あの人』の口車が驚くほどに回るのだから、気がつけば首を縦に振っていたんだ。西住の名誉を守るためには——妹の、みほの立場を守るためには私が出てこなくてはならないと」

 

 ミカの指が弦を弾く。 

 柔らかいその音色が、話の続きを促しているのだと、まほはそれとなく理解していた。

 

「十一連覇を逃したことで、みほの立場は随分と危ういものになっている。とくに西住の家の中での立場が。これは完全に私とお母様の失策でもあるのだが、国の求めに従ってほいほいとドイツ留学を果たしたのが不味かったみたいだ。私がドイツに向かったお陰で、みほを神輿に西住での勢力を伸ばそうとする輩が生まれてしまったらしい。その一派からしてみれば此度の黒森峰の敗北は面子を潰された形になったし、その動きを良く思っていなかった一派からしてみればみほを蹴落とす絶好の機会だ。まさに針の筵。ならば私がこの大会で『西住流ここにあり』と示すことが出来れば、不用意に分裂しそうになった家を、そしてその生け贄にされるかもしれないみほを救うことが出来る」

 

 まほの言葉にミカがすっと視線を鋭く細めた。そして次はカンテレでは無く、自身の口で言葉を繋ぐ。

 

「——嘘だね。あなたが饒舌になるときは、大抵何かを誤魔化すときだというのは短い付き合いだけれども何となくわかってきているつもりだよ。本当のところ、妹さんの、逸見姉妹の行き場のない怒りを受け止める器になりたいんだろう? 敢えて恨み役を買って出ることで、次代の黒森峰が分裂することを防いでいるんだ。西住まほという共通の敵が生まれれば、少なくとも次の黒森峰は憎悪を糧に纏まることが出来るからね」

 

 ミカの追求にまほは「敵わないわね」と小さく笑った。

 だが「一つだけ間違えているぞ」と意地悪く微笑む。

 

「共通の敵になるというのは正解だが、さらにその先にある何かを彼女たちは見せてくれると私は信じているよ。憎悪でなくとも、もっと大きな美しい何かが彼女たちを纏めてくれる。そんな下らない感情に頼らずとも、私が全てを託してきた後進たちは必ずや勝ちを掴み取りに来る」

 

 まあ、だからといって負けてやるつもりはさらさらないが……とまほは天を見上げる。

 いつの間にか空には日差しが差し込み、明るい陽光が世界を照らしている。

 

「例えそれが逸見カリエの道を閉ざすかもしれないとわかっていてもかい?」

 

 ミカの最後の問いにまほは空に視線を向けたまま答えた。

 

「私ごときで閉ざされる道を彼女は持っていないよ。知っているか? 黒森峰にいた頃から、諦めの悪さはあの子が一番だった」

 

 

 04/

 

 

 自分も大概だが、エリカも諦めが本当に悪い。

 

 エリカのティーガーⅡの整備に加わりながら、カリエはそんなことを考えていた。

 苛烈な激戦をくぐり抜けてきたかの車両は、カリエの記憶の中にあるどの姿よりも薄汚れていてボロボロだった。

 いつからか姉妹のパーソナルマークとして描き加えられていた円環の蛇など、瓦礫や砲弾に削り取られてしまったのか殆ど残されていない。

 交換を終えた各種部品を抱えていたカリエは呆然とその様子を見上げていた。

 こうになるまで戦い続けたエリカの胆力と悪運、そしてその猪突猛進ぶりに呆れているのだ。

 

「あ、副隊長、残りは私たちがやりますので、身体をお休めになってください」

 

 黒森峰にいた頃の癖なのか、ティーガーⅡに搭乗している下級生が気遣いを見せてくる。

 カリエは優しく首を横に振ると、そっと口を開いた。

 

「大丈夫、私がやりたいだけだから。優花里さん達が高台で偵察をしている今、私に出来ることがしたいんだ」

 

 カリエの告げた通り、傷ついたティーガーⅡの背後にそびえ立つ富士山——廃遊園地の中心的なモニュメントの上ではⅣ号戦車が停車して広大な原野に睨みを利かせていた。

 どの方向から大学選抜チームが仕掛けてくるかわからないだけに、彼女たちの目が今の高校選抜チームの生命線でもある。

 カリエもその役割に準じようと優花里に声を掛けてはいたが、以下のような言葉でやんわりと断られていた。

 

「カリエ殿はお姉さん達の車両についてあげてください。勝手の解っているカリエさんがいたら心強いと思います」

 

 これこそ優花里の気遣いであると、カリエは素直にそれに従った。

 例え黒森峰とはいえ、度重なる連戦と撤退戦にティーガーⅠとティーガーⅡの乗員達は多大な疲労と負担を感じている。そんな彼女たちだけで車両整備を行うとなると、完全にオーバーワークであると言えた。

 だからこそ、黒森峰の車両に通じているカリエが車両整備に参加する運びになったのである。

 自動車部のレオポンチームの面々も、カリエがいてくれるなら整備マニュアルを参照する手間が省けると喜んでいた。

 

「……うわあ、これ転輪の軸受け歪んでるんじゃない? ぴょんぴょん飛び跳ねて着地でもしないかぎり、こんなことにはならないと思うんだけれど……」

 

「さすが黒森峰、もしかしたら私たちの知らないドライビングテクニックを持っているのかもね」

 

 ナカジマとホシノがティーガーⅡの車両下で盛り上がっている声を聞いて、カリエは苦笑を漏らす。

 彼女は「多分、それは本当に飛んでるよ」とエリカの行動を正確にトレースしていた。

 そしてそんな呟きを耳にしたのか、ニコニコと笑みを零しながらカリエに近づく人影があった。

 

「ねえ、逸見さん。ここの部品の換えはないのかな? 出来ればここくらい直してあげたいんだけれど」

  

 ティーガーⅡの車内装備の一部を小脇に抱えたナカジマだった。カリエが視線を部品に向けてみれば、それは黒森峰の車両が共通で積み込んでいる無線機の一部だ。

 飛び跳ねた衝撃で破損したのか、ナカジマ曰く「ウンともすん」とも言わなくなっているらしい。

 何となくではあるが、自車に予備部品を積んでいることを思い出していたカリエは「ああ、」と言葉を返していた。

 

「それなら多分パンターに積んでいる部品で直せると思います」

 

 言って、パンターの方へと足を向ける。ティーガーⅡ、ティーガーⅠと並んだ車両のさらに奥に、そのパンターは座していた。

 他の二両の黒森峰車両の整備を手伝っているのか、本来の乗員の姿はない。

 ある意味でこれは好都合だ、と後ろめたさを感じながらカリエはパンターによじ登った。

 

「——さすがに手慣れているね。やっぱりホームグラウンドは違うんじゃない?」

 

 ナカジマの突然の言葉にカリエはドキッ、と動きを止めた。

 我に返って視界を良く観察してみれば、自身の手が車長席のキューポラに手が掛かっている。

 

「いや、もうホームグラウンドじゃ……」

 

 歯切れの悪い言い訳を口にしながらも、身体はキューポラの蓋を開けていた。そして余りにも呆気なく、何一つの障害も無く、車内に滑り込む。

 これはどういうことだ、と困惑しながらも、視線だけは目的の部品を探していた。

 部品は直ぐに見つかる。

 混乱の極地にいたカリエではあったが、ナカジマが外で待っているだろうと直ぐにキューポラから車外へと顔を覗かせた。

 するといつにまによじ登ってきたのか、パンターの砲塔天蓋にナカジマが立っていた。

 

「おお、これだ。これだ。ありがとう、助かるよ」

 

 カリエが車長席に座している事に何の疑問も抱いていないのか、人懐っこい笑みを一つ浮かべてナカジマは天蓋を降りていく。

 その様子を呆然と見つめたまま、カリエはその場から動けなかった。

 まさかこんなにもあっさりと、この席に戻ってくることが出来るとは思っていなかったからだ。

 自身が戦車に抱いていた恐怖心が克服されたのかは、まだ正直なところわからない。

 それでもいつか感じていた吐き気と鳥肌は嘘のように引っ込んでいる。

 

「なんで、どうして——」

 

 不可解だ、と表情を硬くしながらそっとキューポラの縁を撫でる。

 続いてもう一度パンターの車長席に深く腰掛けた。硝煙と鉄、そして油の臭いで満たされたそこはいつか当たり前に座していた己の世界だった。

 今となっては懐かしさすら感じる場所で、カリエは深く息を吐き出す。

 上を見上げれば、雨が晴れ上がった青空が丸く円形に切り取られている。

 戦車の修繕に使われている電動工具の音も、高校選抜チームの少女達の喧噪も何処か遠い世界のものだった。

 静かで暗い、されど落ち着き払った空間でカリエは一人そこにいる。

 

「ん?」

 

 ふと、視界の隅っこで何かを見つけた。

 通信機の部品を取りに来たときは気がつかなかったが、車長席の右手側に何かが吊られていることに気がついた。

 暗がりで良く見えなかったが、キューポラから差し込む日差しにかざしてみれば、それは黒森峰のタンカースジャケットだった。

 一体、誰のものだろうか。

 記憶を辿ってみても、パンターの乗員達は全員ジャケットを着込んで作業をしていた。

 ジャケットを脱いで、パンターの中に置いてきたとは考えにくい。

 ならば誰かの予備なのだろう、と襟元のタグをつまみ上げる。

 規則ではここに氏名を書き込むことになっているからだ。

 

「あれ? なんで?」

 

 気の抜けた声がカリエの口から漏れた。

 晩夏の日差しに当てられたタグには、流麗な刺繍で『佐久間ナナ』と刻まれている。

 カリエはその文字列にどうも引っかかりを覚えた。

 少々カリエが苦手とするくらい几帳面なところがあるナナが、車長席の隣にジャケットの予備を吊ることがあるのだろうか。

 彼女ならば、きちんと折りたたんで、アイロンを掛けて、乗員達の物品をしまい込んでおく車内ボックスを利用するだろうから。

 飲みかけのジュースを無造作に砲塔の天蓋において、急発進で零し散らすカリエとは大違いなのだ。

 

「……なんでだろ」

 

 しかしながらその理由を確認する術はない。

 今のカリエは大洗女子学園の生徒であり、Ⅳ号戦車の装填手である。

 こうしてパンターに入り込んでいることもそれなりにグレーゾーンのことであり、これ以上の長居をする気にはなれなかった。

 

 取り敢えずここから出よう。

 

 自身が車長席に座ることが出来た理由はわからないままだったが、こんなところで油を売っているのを誰かに見られたくない、という焦りがカリエを突き動かした。

 キューポラの縁に手を掛け、陽光の下に身体を晒す。

 とっととパンターから飛び降りてしまって、Ⅳ号戦車——あんこうチームの元に戻ろうと気が急いた。

 だからこそ、こちらを見上げている一つの視線を受けても、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 

「——副隊長」

 

 いつだってその瞳は尊敬と敬愛に溢れている。

 カリエが黒森峰で好き勝手に暴れることが出来たのも、彼女の超人的な操縦技術があってのこと。

 それに加えて、高い車長適性すら保有しているなど、完璧と言って余りある。

 何とかカリエが絞り出したのは、そんな少女の名前だけだった。

 

「——佐久間さん」

 

 頬を煤で黒く汚したナナがこちらを見ていた。

 パンターのキューポラから上半身を覗かせているカリエを見ていた。

 在りし日の、己の車長の姿を見ていた。

 

 カリエもまた、視線であるものを捉える。

 捉えたのと同時、パンターの車内で抱いたナナのタンカースジャケットに関する疑問が氷解していた。

 カリエの視線が向けられているのはまさにそんなナナが身につけているタンカースジャケット。

 穴が空いてしまった右肘部分に赤いパッチが当てられた、いつかの思い出。

 たぶんきっと、ナナの襟元からタグを引っ張り出してみれば、エリカが油性ペンで書き連ねた『逸見カリエ』の文字が躍っているのだろう。

 ナナもカリエの視線が自身が身につけているタンカースジャケットに向いていることに気がついて、顔を赤く染めた。

 

「あ、こ、これはその、ある一つの験担ぎといいますか、縁起物みたいな奴で、車長をしたことのない私の精神安定剤みたいなものなんです! い、いちおう隊長にもエリカ副隊長にも許可は頂いていますし、必ずクリーニングして、何百回と綺麗に洗い清めて返しますから、どうか、どうか——!!」

 

 慌てふためいたナナがよく解らない言い訳を口にしていたが、カリエは気には止めなかった。

 それどころか、ふっ、と表情を柔らかくして軽やかにナナの眼前に飛び降りる。

 

「……この穴、塞いでくれたの佐久間さん?」

 

 カリエの指が赤いパッチに触れる。

 ナナは陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせながら、やっとの思いで言葉を絞り出した。

 

「は、はい! 少しばかりエリカ副隊長にも手伝って頂きましたが!」

 

 何となくカリエは、自身が車長席に再び座ることの出来た理由に思い至っていた。

 それはつい昨日、黒森峰の仲間達と言葉を交わしたのが切っ掛けのようだった。

 

 エリカがもう少しだけ共に頑張ろうと言ってくれた。

 みほと小梅が黙って受け入れてくれた。

 ナナ達が縋り付くような視線で帰りを待ち侘びていた。

 

 結局の所、カリエが戦車を恐れたのは酷く他人から拒絶されたのが原因に他ならない。

 戦車に乗ることによって、歓迎されることはあっても、あそこまで誰かに罵倒され、追い込まれることは無かった。

 顔の見えぬ誰かの悪意がカリエの心に楔を打ち込んでいたのだ。

 

 優花里達、大洗の少女達が楔の打ち込まれた心を静かに守ってくれた。

 ダージリンが傷ついた心を受け入れてくれた。

 みほたち黒森峰の仲間達が傷を塞ごうと抱きしめてくれた。

 

 もう少しで楔が抜ける。

 切っ先一つだけが引っかかっただけの、カリエに対する呪詛と呪い。

 黒森峰の仲間達は、自身を拒絶などしたことがないという確固たる事実が、カリエの精神を再び立ち上がらせようとしている。

 

「佐久間さん——」

 

 だからカリエはナナの肩をそっと掴んだ。

 選抜戦の重圧に押し潰されそうになっている、ナナの肩を優しく解きほぐす。

 

「もう少しだけ、車長をよろしく」

 

 言葉はそれで十分だった。

 ナナはぐっ、と表情を引き締めて「はいっ」と小さく叫ぶ。

 

 何処かでティーガーⅠとティーガーⅡのエンジンが始動した。

 泥沼の戦いから撤退してきた両者のエンジン音は新品のように冴え渡っている。

 つかの間の小休止が終わろうとしている中、カリエはナナから離れた。

 

「あとはどのタイミングか——」

 

 カリエの呟きは、鋼鉄の怪物の咆哮の中に淡く溶けていった。

 

 

05/

 

 

 そしてこれは完全な余談であるが。

 

「あら、カリエさん。随分とあの下級生と親しくしていらっしゃったのね」

 

「えと、ダージリンさん。足、踏んでます」

 

「本当、おモテになる殿方を伴侶にすると、一時も心が安まらないわ」

 

「えと、ダージリンさん。お尻、抓ってます」

 

「全く、先が思いやられるわ」



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逸見カリエの戦車道 13

すいません、おそくなりました。


 大学選抜チームの本格的な侵攻が始まったとき、高校選抜チームが取ったのは戦力を分散しつつ各個撃破を目指すゲリラ戦術だった。

 総合的な戦力で劣る高校選抜チームが戦い抜くにはこれしかないと、優花里が決断を下したためだ。即席のチームワーク故に何処かで綻びが生じる可能性が大いに存在していたが、背に腹は代えられないと彼女は覚悟を決めていた。

 ただ僥倖もあった。

 普段は装填手と通信手を兼任している沙織だったが、カリエが装填手としてⅣ号戦車に乗り込んだために、通信手としての役割に専念することが出来るという幸運があった。

 急造のチームワーク故に密なお互いの連絡は最重要課題ではあったが、何とか沙織が中心となって莫大なそれぞれの戦況報告を捌ききっている。もし彼女が装填手も兼ねていたのならば、即座に高校選抜チームの通信網は瓦解していただろう。

 

『こちらグロリアーナとサンダースの混成隊。遊園地の外周を迂回してきた一部の敵が東通用門の突破を試みているわ。私達で待ち伏せを行ってはいるけれども、押しとどめられるかは未知数よ』

 

 ダージリンの凛とした声色によって告げられる報告に被せるように、カチューシャの甲高い声が重なった。

 

『北門を防衛している私と黒森峰の混成隊よ。……妙ね、敵の数がやけに少ないわ。多分こいつらは囮で、本命は東通用門か南門に向かっているかも。東通用門はともかく、南門も防備は大丈夫なの?』

 

 カチューシャの訝しげな言葉に、知波単の絹代は威勢良く言葉を返した。

 

『はっ! いざとなれば乾坤一擲、粉砕玉砕、突撃を敢行する次第であります!』

 

『落ち着きなさい、絹代さん。突撃のタイミングを見極めるのは隊長である優花里さんよ。独断での玉砕は決して許可されないわ』

 

 やや厳しげなダージリンの諫める言葉を受けて、絹代は「うっ」と言葉を詰まらせた。これは何かしらのフォローを入れるべきなのか、と沙織が考えを巡らせたとき、先に口を開いたのはあろうことかカリエだった。

 彼女は何処でガメてきたのか、黒森峰隊員に支給されている咽頭マイクをⅣ号戦車の無線機に無理矢理接続している。

 

「知波単の皆さんのその戦意、本当に頼もしく思います。戦車に乗ることに怖じ気付いていた私とは大違いです。あなたたちの勢いはまさに切り札足り得るでしょう。ですから一つだけお願いします。切り札はここぞ、という場面において最大の効力を発揮するもの。質、量ともに劣っている我々が敵チームを上回るにはあなたたちの奮戦が必要なのです。だからどうか、いたずらに撃破されぬよう、優花里さんの号令が有るまで、何としてでも生き延びて下さい」

 

 おー、と感心の声を上げたのは華と麻子、そして優花里だった。猪突猛進故に、やや指揮しにくい学校のカラーを持っている知波単学園をここまで手のひらで転がすことの出来る人材など殆ど存在しないだろう。

 事実、絹代は先ほどとは打って変わって「はい! お心のままに!」と威勢の良さを取り戻していた。

 無線の向こう側で、オレンジペコに宥められているダージリンの小言さえなければまさにパーフェクトだ。

 

「いやー、本当にカリエさんには助けられます。どうしても大洗にはカリエさんのような参謀タイプの方はいらっしゃらなかったので、こうして指揮を手伝っていただけると、まさに百人力です」

 

 優花里の賞賛に、カリエは照れくさそうに笑った。

 

「そんなことないよ。優花里さんが必死に頑張っているから、みんなが付いてきてくれているんだ。私は本当にそれを少し後押ししているだけ。微々たるものだよ」

 

 何かが変わったと、その場にいた全員――カリエを除くあんこうチームのメンバーが気がつく。

 つい昨日まで、何処か陰のあったカリエの雰囲気が変わっていた。初めて出会い、合宿という場で寝食を共にしたときと同じ表情がそこにはあった。

 そういえば、もともとはこんな風に屈託なく笑う人だったな、と優花里が表情を和らげる。

 

「ここまで随分と苦しい戦いでしたが、確実に潮目は変化しています。この流れを決して手放さず。最後まで戦い抜く。我々が勝利するにはそれしかありません」

 

 だからこそ優花里の言葉には多分の実感が込められている。カリエの変化を潮目の移り変わりと見たからこそ。彼女は力強く口を開く。

 

「みなさん、もう少しだけ私達に力を貸して下さい!」

 

 

01/

 

 

 自分と姉の関係は、普遍的なそれとは違うということくらい、島田愛理寿は早くから理解していた。

 血を分けた姉妹でありながら、島田流家元の息女という運命に翻弄され続け、気がつけば誰よりも遠い他人同士となっていた。

 島田流を継ぐものとして、門下生をはじめとした家の人間たちからの期待を一身に受ける愛理寿。

 島田流にはふさわしくないと、家中の者たちから殆どいないものとして扱われる島田ミカ。

 覚えている限り、会話らしい会話など交わしたことがない。少なくとも物心がついてからは皆無である。

 母がそんな二人の間柄を案じて気に病んでいることは古くから知ってはいたが、愛理寿に出来ることなど何もなかっった。

 何度か愛理寿からミカに対して接触を試みることはあったものの、家中の誰かがそれを押しとどめ引き離した。そして姉のミカですら、愛理寿を避けるように家の中では振る舞っていた。

 

 多分きっと、嫌われているのだ、と愛理寿は考えている。

 

 自惚れかもしれないが、戦車道の腕前はいつだって愛理寿が圧倒していた。四つも年が下であるというのに、ミカに敗北を喫したことは一度もなかった。

 その事実が姉の自尊心を、彼女が「島田」であるという理由を完膚なきまでに打ち砕いていても可笑しくない。

 ミカがどこかの高校に出奔したと聞かされても、愛理寿は特段驚かなかった。

 いつかはそうなるだろうな、という諦観すらあったし、主犯が己の父だと聞かされても「まあそうだろうな」と納得すら覚えた。

 ただ母だけが、数週間ほどいたく取り乱していたことだけ記憶に刻まれている。あれだけ冷え切った姉妹仲ではあったが、やはり母からすれば姉も腹を痛めて生んだ愛しい我が子だったのだろう。

 

 ならばおそらく、姉にも救いが少しくらいはあったのだ、と愛理寿は安心した。

 

 ミカにとって針の筵だった島田の家中にも、一応の居場所があったのだと安堵した。 

 そして願った。

 次こそは姉にふさわしい居場所が、見つかりますようにと。

 何処の高校に飛び込んだのかはついぞ知ることは出来なかったが、その高校がミカにとって己の居場所だと安らげる所であって欲しいと祈った。

 だが、今までがそうであったように、愛理寿とミカの人生はいつだって何かに翻弄され続けている。

 

 いよいよ姉は姉の、愛理寿は愛理寿の道を行こうとしていたそのとき。

 愛理寿が受け取ったのはたった一本の電話だった。

 電話越しの人物は逸見カオリと名乗っていた。

 

『もうすぐあなたのお母様から連絡があると思うが、大学選抜チームを率いて、高校選抜チームと戦って欲しい』

 

 用件だけ取ってみれば、至って普通の申し出だった。

 常人からしたら、選抜チーム同士の試合は大事であるのかもしれないが、愛理寿にとっては最早慣れ親しんだ日常である。ついこの間、社会人チームを打ち破ったことに比べれば些事に等しい。

 自分たちの戦車道に対する技量の向上が見込めるのならば、と彼女は快諾した。

 しかしながらその愛理寿の言葉は電話口のカオリにとって、獲物を罠に嵌めた合図でしかなかった。

 

『さすがは島田流家元のご息女だ。快諾傷み入ります。――ところで、あなたのお母様について少し気になることが』

 

 嫌な予感がした。

 それは一流の戦車乗りとして培ってきた愛理寿の勘というものが、警鐘を慣らしていたのかもしれない。

 無礼でも何でも良いから、ここで電話を切ってしまえ、と本能が嘯いていた。そして彼女の本能というものは結果的に言えば正しいものだった。

 

『あなたのお母様が先日、島田ミカという人物と会談の場を設けたそうよ? 私の記憶が正しければ彼女はあなたの――』

 

 受話器が母機に叩きつけられていた。

 もっと早くにこうするべきだったと、愛理寿は多分に後悔する。

 流れ出た冷や汗が衣服を汚していた。

 彼女の乱れた息だけが、小さな私室に響いている。

 

「――何で今更」

 

 それ以上の言葉は紡がれない。何故ならば再び沈黙していた筈の電話機がベルを奏で始めたからだ。

 不思議と、カオリが掛け直してきたとは思わなかった。いや、むしろ掛け直して来ただけならばどれだけ良かったことか。もしもただの掛け直しだったのならば、電話線を引き抜いて無視をするだけで済んだのだから。

 愛理寿は電話向こうの人物が誰か正確に予測していた。

 

 小さな手が再び受話器を取る。

 きっちり三秒経ってから、電話越しの人物は口を開いていた。

 

『もしもし、愛理寿? あなたに伝えなければいけないことが……』

 

 心なしか何処か安堵の感情を滲ませた母、島田千代の声だった。

 

 

02/

 

 

 ダージリン率いるグロリアーナと大洗の一部車両、そしてサンダースからなる混成部隊はそのときをずっと待ち続けた。

 堅く閉ざされた東通用門の向こう側では複数の車両が作り出すエンジンと履帯の音が響いている。

 生唾を呑み込んだのは果たして誰だったのか。

 奇しくもそれが大学選抜チーム突入の合図だった。

 

「っ、来ましたわね! 突撃ですわー!!」

 

 ローズヒップ駆るクルセイダーが猛チャージを仕掛けた。一見蛮勇とも取れる行為だったが、相手の出鼻をくじくという意味では戦術的に正しいと、ダージリンは敢えて黙認した。 

 しかしながら、全身の肌をひりつかせる何かを感じ取ったその刹那、無線機を手にして叫び声をあげた。

 

「戻りなさい!」

 

 果たして、ぎりぎりのタイミングで猟犬のリードが引き戻される。慌てて後退するクルセイダーの脇を光弾がかすめていった。

 やがてチャーチル歩兵戦車のやや眼前に着弾したそれが巨大な土煙を巻き上げる。

 どす黒い硝煙の向こう側から、そいつは姿を現した。

 

 Tー28超重戦車。

 アメリカが開発、試作を行った怪物である。

 異次元の重装甲と巨体を誇る故に、規格外の車重を有し、またそれを支えるために四つの履帯駆動を備えた意欲作でもある。

 その破格の防御力を打ち破ることの出来る車両は高校選抜チームには存在せず、また怪物の名にふさわしい攻撃力に耐えることの出来る車両も皆無だ。

 

「――こちらもトータスを持ってくればよかったわね」

 

「もってませんけど」

 

 散乱した瓦礫を文字通り挽き潰しながら、巨体が少しずつ前進する。ダージリンの皮肉交じりの軽口を受けて、オレンジペコが呆れたように言葉を返す。が、彼女らが長の抱く気持ちそのものには共感しきっていた。

 それはすなわち――。

 

「無茶苦茶、ね」

 

 常識外れの二射目が炸裂する。

 後退を続けるサンダース隊の左舷を掠めていった砲弾が遊具の一つを盛大に吹き飛ばした。

 反撃と言わんばかりに、ナオミのファイアフライが発砲するも、余りにも強固な正面装甲はびくともしない。彼女の舌打ちが、その場にいた全ての車両の無線に届いていた。

 

「……普段ならば行儀が悪いと苦言を呈したのだけれども、今は四の五の言っている場合ではないわね。こんなところで隊を全滅させるわけにはいかないわ。全車両、ツーブロック後退」

 

 無線機を手に取り、ダージリンが淡々と指示を下す。跳ね馬気質のローズヒップですら、形勢の不利を理解しているのか、大人しく指示に従った。

 

「しかしながら敵の意図がよくわかりません。ここ東通用門付近は入り組んだ構造物が多く、大部隊での侵攻に適していません。基本的に一両通ることが出来るか出来ないかという道幅ですから……。ましてやあの巨体です。小回りなど絶対に利かないでしょう」

 

 アッサムの分析に対して、ダージリンは「そうね……」と一定の同意を示した。だが、それに自身の戦略眼を付け加えるかのように口を開く。

 

「おそらく後続の部隊の盾になっているのでしょう。背後のパーシングやチャーフィーたちの姿を隠すことで、閉所におけるこちらの待ち伏せを無力化しているのだわ。向こうもこちらを攻めることは殆ど出来ないけれども、装甲火力の差を鑑みれば、持久戦に持ち込めば持ち込むほどあちらの有利。短期決戦を狙っている私達の意図を読んでいるのかもしれないわね」

 

「でしたらこうして徐々に後退を続ける私達の戦い方は悪手になり得ませんか?」

 

 アッサムの焦りを含んだ言葉に、ダージリンは頷いた。

 

「はっきり言ってその通りよ。だからこそ何かしら手を打たないといけない。けれども、今の時点で有効な一手は何もないわ。でもね――」

 

 そこでダージリンは一度言葉を切った。オレンジペコとアッサム、それぞれが不安げに振り返る。

 ただ、視線を受けたダージリンだけが涼しげに微笑んでいた。

 

「そろそろあの人が爆発しそうな予感がするの。どうしてかしら。あくまで今回は裏方だというのに、良い意味でさっきから鳥肌が止まらないの。私を追い落としたあの人の気配がどんどん大きくなっている。私はその先の未来に賭けてみようと思うけれど、あなたたちは如何かしら?」

 

 

03/

 

 

 ナナは隣を併走するⅣ号戦車を横目でちらりと盗み見た。

 操縦手だった頃は、カリエの指示に基本従っていたものだから、こうして三六〇度の風景を伺い知る機会などなかった。車長としてキューポラから顔を覗かせているからこそ、目に入る光景というものを初めて知った。

 

 ――副隊長は、カリエ先輩はいつもこの景色を見ていたんだ。

 

 彼女の呟きは最早聞き慣れきったパンターのエンジン音にかき消されていく。

 事実、隣を行く優花里は車内との作戦会議に忙しいのか、こちらを見てはいなかった。

 

 ――そうか、あそこにカリエ先輩がいるんだ。こんな近くにあの人がいるんだ。

 

 ナナはいつかの黄金色の光景を思い出す。

 失意の底にあった自身を引き上げてくれた一条の光を。光の中心にあったカリエの笑顔を。

 もう二度とモータースポーツに打ち込めないと絶望していたナナを救った光だ。

 何でもない平凡な笑顔が、優秀な一年生をとっとと引き抜いてやるという下世話な腑抜けた笑顔が、直後にエリカに「だらしない」と怒られていた笑顔がナナにとっての救世主だった。

 しかしながら、その笑顔はたった一度の敗戦でナナの手の届かないところに消えてしまった。

 他でもない、カリエを擁するⅣ号戦車の車長である優花里に負けたからこそ、掻き消えてしまった。

 

 正直言って、今のナナの感情は複雑そのものだ。

 恨みが一つもないとは口が裂けても言えない。

 身勝手な思いであることは自覚してはいるが、優花里が自分たちに勝利しなければカリエの笑顔がすぐそばにあり続けたと考えたことは一度や二度ではない。

 だがそんな鬱屈した思いを何とか呑み込んで、こうして優花里と肩を並べ続けている。

 一度は心が折れてしまったカリエを護ってくれたという恩義も一応は感じているからこそ、カリエを装填手として使役している優花里に対する嫉妬も、今のところは見て見ぬ振りを続けていた。

 

 それに、

 

 ――もう少し待っていて、と言ってくれた。それだけで今は十分。

 

 奇跡のような逢瀬の中で、カリエから告げられた言葉。それが今のナナの希望であり、戦う理由の全てでもあった。

 カール自走臼砲の砲撃をくぐり抜け、大学選抜の猛追を死ぬ気で躱し続けてこれたのも、いつかはカリエがこちらに戻ってくるという希望があるからだ。

 もう一度、カリエの指揮で戦えると信じているからこそ、ナナは慣れぬ車長を全力でこなし、生き残り続けている。

 

「――佐久間殿、東通用門が突破され、大学選抜の本隊が園内に流れ込んできたそうです。ダージリン殿率いる防衛隊は二ブロック後退。分散した敵戦力が浸透しているようなので注意されたし、との報告が」

 

 ついに正念場がやってきたか、とナナは天を仰ぎ見る。みほとエリカ、そしてカチューシャが率いる重戦車隊が正面玄関の防衛に赴いている今、敵戦力に即応することの出来る黒森峰の車両は彼女だけだ。

 ダージリンの座すチャーチル歩兵戦車は装甲こそ卓越しているものの、機動性と攻撃力において劣っており、大学選抜と正面から殴り合うのは得策ではない。 

 大洗の貧弱な戦車群は言わずもがな、サンダースの中戦車たちにも荷が重い戦いになるだろう。

 指揮官である優花里と、優秀なブレーンであるカリエが乗り込んでいるⅣ号戦車もまだこの段階では前線に出るべきではなかった。

 

「……では私が防衛組の応援に向かいます。パンターの足と装甲なら、何とかあちらとやり合える筈です」

 

「いえ、私達二両で向かいましょう。ここで一両だけ孤立して動くのは危険です。アンチョビ殿たちが園内の敵影を逐一マーキングしてくれてはいますが、それも絶対とは言えません。万が一のことを考えてツーマンセルは徹底すべきです」

 

 ナナは特に反論らしい反論を口にはしなかった。だが優花里の意見に積極的に賛成するそぶりも見せなかった。

 彼女が抱く愛憎の感情を何となく察している優花里は困ったように眉尻を下げた。

 まだまだチームが一つに纏まり切れていないと、優花里の焦りだけが増していく。

 両者の間を沈黙が横たわった。

 パンターとⅣ号戦車のエンジン音だけが世界に木霊している。

 ただ、その居心地の良くない均衡は一瞬で突き崩された。

 沙織が小さな悲鳴と共に、優花里へと叫んだ言葉がきっかけだった。

 

「ダージリンさんから新しい報告が! 大学選抜の例の三両がまっすぐこちらを目指しているって!」

 

 例の三両――。

 

 その言葉を受けて、表情を硬くしたのは優花里とナナ、その二人だ。彼女たちはつい先日に行われたブリーフィングの内容をすぐさま思い出していた。

 

 

04/

 

 

「ルミ、アズミ、メグミ、この三人が今の大学選抜のエースかつ主力と言っても過言ではないわ。島田愛理寿をトップに据えて、その下にこの三人が率いる小隊というチーム構成が大学選抜の肝なの」

 

 各高校の隊長格が集められた会議室で、ダージリンはそんなことを口にしていた。

 それぞれの手元には大学選抜の主要メンバーの顔写真と経歴が載せられた資料が配付されている。

 いよいよ試合が明日に迫った最後の夜。ダージリン主催での敵戦力の最終確認が行われていた。

 

「それぞれが代表クラスの実力者。間違いなく、私達の壁となるでしょうね」

 

 そして実は――と前置きを一つ告げて、言葉をさらに重ねる。

 

「このメグミという人は我がグロリアーナでアールグレイの名を受け、隊長として一昨年まで在席していらした方よ。個人的な親交もあって、その実力、指揮能力は卓越していると言っても良いわね」

 

 動揺はさほど広がらなかった。むしろ全日本大学選抜ならば、それぐらいの選手がごろごろ在席していても何ら不自然ではない。

 むしろ、高校選抜チームに驚きを授けたのは、ダージリンの次なる言葉だった。

 

「で、次に眼鏡が随分とお似合いのルミという方。――あなたたち黒森峰なら見覚えがあるのではないかしら? 何せ、あのカリエさんの元で装填手をされていたものね」

 

 その場にあったダージリン以外の視線が、黒森峰の座す方面へと向けられた。会議にはみほとエリカ、小梅、ナナと、車長格全員が参加していた。

 みほがダージリンの視線を真っ向から受け止めて、言葉を返した。

 

「ええ、確かにルミ先輩は昨年までカリエさんの車両の装填手を務められていました。確か一般入試で関東の大学に進学されたと記憶しています」

 

「その通りよ、みほさん。でもあなたの記憶の中のルミさんは大学選抜の小隊長を任せられるようなお人だったかしら?」

 

 ダージリンの言葉は辛辣だが事実だった。二年生まではほぼ控えに甘んじ、三年生の時にようやく装填手として日の目を見た人物だ。日本代表のチームの車長を任せられるような実力は残念ながらなかった。

 だからこそみほは言葉に詰まり、エリカは「いちいち嫌味臭いわね」と悪態を吐いている。

 ダージリンはそのような黒森峰組の反応など何処吹く風といったように、手元の資料に視線を落とした。

 

「――どうやら黒森峰を卒業された後、とんでもない猛特訓をされたそうよ。グロリアーナのメグミさんにBC自由学園の隊長だったアズミさん、この二人と違って純然たる叩き上げの小隊長なの。でもその分、実力は確かだわ。何が覚醒の切っ掛けになったのかはわからないけれど、その力を侮ることは決して出来ないくらいには」

 

 確かにあり得ない話ではないが、こんな短期間でそこまで実力を伸ばすことは出来るのだろうか。

 その場にいたほぼ全ての人間が同じ疑問を抱いていた。

 ただナナ一人だけが、何処か合点が、納得がいったような表情でルミの写真を見つめていた。

 彼女はぼそりと言葉を落とす。

 

「――中てられたんだ。副隊長に。私がそうだったように、この人も」

 

 そこである一定の理解を示したのはみほとエリカ、そしてダージリンだけだった。

 しかしながらその三人は「まあありえない話ではない」と頷きあう。

 

「大方あの馬鹿が何処かで引っかけたんでしょ。たく、本当に世話ないんだから」

 

「カリエさんのそういうところは本当に魔性です。お姉ちゃんにも私にもない才能というか。ただ、今回ばかりはあまり良くない方向に発揮されてしまったかも」

 

「ああ、これだからモテる方は大変だわ。本人にそのつもりがなくても、当たり前のように他人の人生を狂わせてしまうんですもの」

 

 うんうん、と同意を続ける三人を見て、ナナ以外のメンバーが若干身を引いていた。あの西ですら椅子から腰が浮き掛かっているものだから、その他のメンバーの心境は推して知るべしだった。

 唯一例外のナナだけが、「さすがは副隊長、とんでもない影響力です」と随分とズレた感想を抱いている。

 

「取りあえずこの三人が別格の実力を有していることは理解したわ。でも仮に、この三人に遭遇したときの有効手段というか、攻略法みたいなのは何かあるのかしら?」

 

 徐々に脱線を始めているブリーフィングを引き戻すべく、エリカがやや声を張り上げた。

 彼女の声に答えたのは、それまでダージリンに一切を任せて口を噤んでいた優花里だった。

 

「殲滅戦である以上、戦わない、逃げるという選択肢はあり得ません。ですから一人に対して必ず二両以上で対応する策を取りたいと思います。三人一度に侵攻してくるのであれば必ずこちらは六両を用意するといった風に」

 

 なるほど、とみほが膝の上で手を叩く。どうしても実力や車両性能でこちらが劣っている現状、優花里の告げた数敵優位を保ち続けることは最重要戦略と言えた。

 しかしながらその為には互いの車両の位置取りなどを正確に伝えあうことの出来る通信網が必要になってくる。

 

「そのために、アンチョビ殿たちには高台から偵察していただく戦い方を徹底していただきます。そして情報処理能力に長けたグロリアーナのアッサム殿がアンチョビ殿からの報告を整理、わたくしたちの武部殿が優先順位をつけて整理された報告を全体に伝達します」

 

 CICの考え方だ、と誰かが零した。事実、優花里は現実のCICの理念を戦車道に落とし込もうとした過程で生まれたアイデアであることを認めた。

 

「カリエ殿は個人でこの戦術を完成されていましたが、私には残念ながらそこまでのスキルがありません。ですから、チームで情報処理が得意な方々にその役割を担っていただこうと考えています」

 

 さらに発想の源がカリエであることを認めた上で、優花里はその戦術を高校選抜に持ち込むと宣言する。

 

「わたくしたちの武器は皆さんが持っておられる多種多様な長所とスキルです。それらを十全に発揮したその先に、わたくしたちの勝利があると確信しています」

 

 

04/

 

 

 ならば、その長所とは何なのだろうか。

 車長として大学選抜の三人組を迎え撃とうとしているナナは額を流れる汗を乱雑にぬぐい去った。

 当初、優花里が提示した数的優位は、みほたち正面玄関組を急行させることで保とうとしている。だが、大学選抜の三人組が先に到着するのか、正面玄関組が間に合うのかは五分五分の状態だった。

 操縦手としての自身の長所はその圧倒的な技量につきる。

 何せあのカリエが認めてくれたスキルなのだ。ナナがそれを疑うことはあり得ない。

 だが車長としての自分はどうなのだろうか。

 ナナは車長としてのスキルをカリエに披露したことがない。みほやエリカからは一定のお墨付きを得ているものの、肝心のカリエからは何も聞かされていない。

 

『こちら正面玄関組です。あと五分で、秋山さんと佐久間さんの防衛ラインに到着します!』

 

 三人組接近の報を受けて、全速力で駆けつけようとしているみほの声も、今のナナには何処か遠い世界の出来事のようだった。

 

「佐久間殿、緊張せずリラックスしていきましょう。我々がなすべき事は少しでも時間を稼ぎ、西住殿たちと合流することです」

 

 そんなことは百も承知だ、とナナはますます顔を強ばらせた。ここからが正念場であることくらいわかっている。

 わかってはいるが、胸に空いた空白が、あの日の敗北がどうしても目について離れない。

 

 次負けたらほんとのほんとに終わり。

 

 あの日、あの野球場で敗北を喫したからこそ、カリエは黒森峰を去った。

 優花里に負けたからこそ、カリエは黒森峰から、ナナの目の前から消え去った。

 

 優花里が憎い。

 大洗が憎い。

 

 いや、それ以上に、あの日負けた自分が憎い。

 

 実のところ、ナナはあの日の敗因を正確に把握していた。

 優花里の出現ポイントを読み違えてしまったカリエの判断の不味さばかりが目立っているが、最後の最後で一歩及ばなかったのはナナの操縦だった。

 まさかカリエが読み間違えるはずがないと高を括っていたからこそ、彼女の命令に反応する速度が遅れた。

 あの時、カリエの命令にいつも通りのレスポンスを返すことが出来ていたら、パンターの回頭は間に合い、Ⅳ号戦車を撃ち抜いていただろう。

 勝利していたのはカリエだった筈だ。

 

 本当に黒森峰を去るべきだったのは自分なのだ、とナナは思っている。

 だが、カリエからそのことを責められるのが何よりも怖くて、反応が遅れた事実を誰にも告げられずにいた。

 いや、もしかしたら勘の良いカリエは気がついてたかもしれない。けれどもその優しさ故に、彼女がナナを責めることは決してなかった。

 

 絡み合った嫌な感情が、嫌な汗となって体にまとわりつく。

 

 後悔と憎しみと反省と後悔と後悔が、ナナの体を強ばらせる。車長として、カリエの居場所を護らねばならないと実感するほど、その視野は次第にぼやけていく。

 

 ああ――。

 

 こんな筈じゃなかったのに。

 

 飛来した砲弾がパンターの装甲を叩いた。

 浅い角度で衝突したことが幸いし、大したダメージではない。だが、ナナの車長としての指示を鈍らせるには十分すぎる衝撃だった。

 

「佐久間殿!」

 

 Ⅳ号戦車が砲撃し、こちらに接近しつつあるパーシングを威嚇した。赤の四角、青の三角、そして黄の菱形を車体に刻み込んだパーシングが絶妙な連携で二人に迫りつつあった。

 

「このまま一ブロック後退! 正面玄関組との合流ポイントを修正します!」

 

 砲弾の応酬を繰り広げながら、Ⅳ号戦車とパンターが後退する。しかしながらそれをあざ笑うかのように、青の三角を刻み込んだパーシングが先頭となり、二両の間に突っ込んできた。

 

 分断される――。

 

 優花里とナナがそう判断したが、全ては手遅れだった。後続の二両のパーシングに追い立てられて、Ⅳ号戦車が進路変更を余儀なくされる。ナナのパンターだけが先頭のパーシングと相対する形になった。

 

「お、偶然とはいえまさか黒森峰の後輩とこうしてかち合うなんてね。結構結構」

 

 互いの砲身が睨みあっているというのに、その人物は随分と余裕そうに嘯いていた。

 身を堅くしたナナだけが鋭い視線をぶつける。

 

「ん? あれ? そのパーソナルマーク、カリエのじゃん。でも、えと、あれ? 君は誰?」

 

 続いてパンターの砲塔に刻まれたウロボロスのマークを見て彼女は驚いてみせた。まるでそのマークの主をよく知っていたかのような口振りだ。

 いや、事実よく知っている。

 まさか忘れるはずもない。

 

「そっか、あの子が黒森峰を出て行ったという噂は本当だったのか。なんだ、そうか。そういうことか」

 

 キューポラから身を乗り出したまま、彼女は何処か合点がいったかのように頷いていた。だがすぐに表情を引き締めると、まっすぐに視線をナナに向けた。

 

「でも、そのマークを引き継いだ、ってことは少しは期待してもいいんだね? あーあ、折角カリエに車長としての私を見てもらおうと思っていたんだけどなー。仕方がない。この鬱憤は君で晴らさせてもらおう。アズミ、メグミ、先に黒森峰の本隊を押さえに行って。私はちょっと用事ができた」

 

 無線でのやりとりなのか、咽頭マイクを押さえたまま彼女は言葉を続ける。その間、ナナは静かに後退の指示を車内に出していた。

 しかしながらそんな小細工は一瞬で見破られる。

 

「おっと、逃がさないよ。あのⅣ号戦車は見逃してあげるけど、そのマークを付けているのなら話は別だ。なんたってそのマークは私にとっての憧れであり、誇りだからね」

 

 声こそ陽気だったが、込められている思いは万感のものがあった。それこそカリエを信奉し続けているナナですら生唾を呑み込んでしまうほどの。

 

「逸見カリエ、あの子がいたからこそ、私はここにいる。君はそんな大切な後輩の象徴を引き継いでいるんだ。だからこそ、精一杯その技量を示して欲しいな」

 

 パーシングのエンジンが、黒い煙を噴き上げた。履帯が高速で回転し火花を散らす。

 

「見せかけだけじゃ、赦さないからね」

 

 宣告は砲撃と同時。

 ナナが戦車前進の声を上げたのも、ほぼ同時だった。



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逸見カリエの戦車道 14

 挫折というものは往々にして人の心を蝕んでいく。

 

 かく言うルミもそんな苦い経験を持つ極普通の人間だった。

 

 

00/

 

 

 ルミは幼少期から戦車道に対してそれなりの才能を有し、それなりの高校に進学し、それなりの成績を修め、それなりの地位を得ていた。

 

 絶頂とまでは言わないが、それなりに高いところを飛び続ける人生だったと言っても過言ではない。

 彼女はそんな毎日に割と満足していた。

 劇的な変化も、ドラマチックな試練も存在してはいないが、むしろそれが心の安定をもたらし、彼女の世界を優しく包み込んでいる。

 多少の上下こそあれど、ひょっとしたらこのまま一生が続いていくのではないかという予感すら抱いていた。

 そしてルミはそれが一番だと考え、幸福を繰り返す毎日を享受していた。

 ただ、高校一年生の冬、ちょっとした気まぐれが彼女の毎日を完膚なきまでに打ち砕き、甘い平穏な世界を二度と手の届かない場所へと吹き飛ばしてしまった。

 

 

01/

 

 

「いやー、調子に乗った自分が悪いんだけどさ、なまじ元いた高校で上手くやっていけてたものだから黒森峰でも大丈夫だと思い続けていたんだよね」

 

 砲弾の応酬が繰り広げられている。

 黒森峰特有の正確無比な射撃を、最小限の動きだけでいなしながらルミは笑う。

 

「でも現実は違った。それこそ井の中の蛙という言葉が ぴったりなくらい、私には実力がなかった。黒森峰の化け物集団の中でやっていくには、圧倒的に全てが足りていなかった」

 

 ナナのパンターが少しばかり後退した。するとルミは同じだけの距離を詰めてみせる。

 正面から殴り合うという、危険で非効率的な戦法ではあったが、ルミは躊躇しなかった。

 

「……そんな中さ、あの子は私を装填手に任命してくれたの。今考えても分厚すぎるデータ分析の書類を抱えて、『あなたに装填手をしてもらいたい』って。普通さ、控えの選手の装填時間の一覧表なんてつくる? ましてやそれを馬鹿真面目に分析して、実績のない無名の選手を自身の車両メンバーに抜擢する? ありえないよね。あの子は『データ分析は野球の基本。特にメジャーでは』なんて嘯いていたけどさ、本当に頭おかしいと思う」

 

 でもさ、とルミは微笑んだ。

 

「その頭のおかしさに私は救われた。私の道がその瞬間に開けた。あの子が、カリエが私を引っ張り上げてくれたからこそ、黒森峰での思い出は幸せなものになったし、今の私がある。だからこそ――」

 

 そして、静かに前進を始める。

 

「紛い物だけは、絶対に許せない。あの子のパーソナルを、私の憧れと誇りを貶められることだけは我慢できないんだ」

 

 

02/

 

 

 ナナの耳にルミの独白が届くことはない。

 当たり前だ。

 数十トンの質量を突き動かす強力なエンジンが奏でる重低音と、砲撃が織りなす爆音がその全てを打ち消している。

 

 だが不思議と、ルミが何を考えているのかおよその推測がついていた。

 

 第六感なのか、それとも四六時中カリエのことを考え続けている成果なのか、ルミが自身に対して抱いている感情を敏感に感じ取っていたのだ。

 

 大事なものを、心のより所を、その人の原点を辱められた怒り。

 

 それは人が人に抱く感情としては最上に重いもので、最も鬱屈したものである。

 しかしながらナナはその感情に恐れを抱くことはなかった。常人ならばその余りにも大きすぎる感情に萎縮していたのだろうが、ナナは常人の範疇にいない。

 ナナもまた、同じような感情を抱き続けたまま、この試合に臨んでいるのだ。

 だから怒りには怒りで返す。

 キレているのが自分だけだと思うなと、さらなる大きな怒りでルミに相対する。

 大事なものを奪われ、辱められたのはナナも同じだったから。

 ただ、カリエが教えてくれた、冷静さに裏打ちされた戦略眼だけは決して手放すことはなく。

 

「撤退します。ポイントE-3に転進。今一度態勢を建て直し、活路を見いだします」

 

 常日頃、カリエが重視していたのは如何に自身が相手に対して有利な状況をつくるか、ということだった。

 基本、彼女は不利な戦闘を行わない。例外としては今夏のグロリアーナ戦、そして大洗戦ぐらいだ。

 その戦い方を間近で見ていたナナがそういった戦法をなぞることは極当たり前のことだった。車長ではなく、操縦手が本職だと考えているからこそ、カリエの教えを忠実に守ろうとする。

 

「優花里さん、もう一度合流しましょう。不可能なら、二両でエリカ副隊長や西住隊長の所までこちらから向かうべきです」

 

 しかも車長としての実力はルミに数段劣るとも自覚していた。

 だからこそすぐさま自分以上の実力者たちに合流することを良しとした。

 自身の小さなプライドが疼きはするが、この試合の目的を見失ってはならないと自戒を強める。

 カリエがもう一度だけでも、一緒に戦ってくれるのなら、車長として導いてくれるのならば、そんなプライドなんて犬に食わせてしまえと思った。

 

 Ⅳ号戦車から返答が入る。

 それは優花里の声ではなかった。

 ナナが敬愛してやまない、求め続けた声だった。

 

『――それでいいと思うよ。佐久間さん。優花里さんならばきっとこの状況を建て直してくれる。それに、君なら必ず切り抜けられる。なんたって、うちのドラフト一位のエースオブエース、不動の四番打者なんだから。操縦手と車長の二刀流なんて余裕余裕』

 

 ああ――。

 

 何でこの人はこのタイミングで、こんなことを言ってくれるのだろう。

 これだから黒森峰の戦車道がやめられない。

 操縦手としての戦車道がやめられない。

 いや、それ以上に――、

 

 逸見カリエの戦車道がやめられない。

 

 

 03/

 

 

 メグミとアズミが黒森峰、プラウダ連合を押さえに来ていると判断した優花里の行動は早かった。

 追われている振りをしながら、遊園地の建物の間にフェイント交じりに滑り込む。

 そのフェイントはカリエを引っかけて見せた、人間の錯覚を利用したあのフェイントだ。

 すぐさま騙されたことにメグミとアズミは気がつくが、無理にⅣ号戦車を追跡する真似はしなかった。彼女たちもまた、目的を忘れていない。

 あくまで自分たちは高校選抜の最大戦力である黒森峰とプラウダを押さえに行くのだ、と理解していた故に。

 ルミがニ対一の不利な形勢になることだけが気がかりだったが、それも彼女に対する信頼が勝った。

 二人はルミがどれだけの努力を重ねてここまで上り詰めてきたのか知っている。それは生まれ持った才能や才覚と同じくらい信用に足るものであることも知っている。

 だから任せた。

 逃げたⅣ号戦車と、ルミが因縁を感じていたあのパンターを任せた。

 そこが彼女の戦うべき場であることを尊重し、任せた。

 

「……やはり追いかけてきません。こうなれば、尚更あのタイミングで佐久間殿のパンターと引き離された時間が惜しいです」

 

 離れていくメグミとアズミの気配を感じ取りながら、優花里が唇を噛んだ。

 ナナが撤退を即断したこともあって、両者の距離は徐々に詰まりつつある。このまま行けば、何とかルミに撃退されるよりも前に合流が可能だった。

 だが今はその僅かな時間すら歯がゆいものとなる。

 

「こうなっては仕方がない。しかしここでルミ先輩か。あの人の戦術は正直未知数。三人の連携を解いたとき、あの人はどんな戦いを見せてくるのかデータが存在しない」

 

「でもさでもさ、ルミさんはカリりんの装填手だった人なんだよね。なら、カリりんの戦い方を参考にしているかも」

 

 沙織の言葉に優花里が頷く。程度の大小こそあれど、全くカリエの戦法の影響を受けていないとは考えにくいからだ。

 だがそれが全てでないことも理解しているからこそ、優花里の表情は強ばったままだった。確かに根底にはカリエの考えが根付いているのかもしれない。しかしながら、不断の努力でコーティングされたルミの戦法は最早別の次元に達している可能性が高かった。

 いや、事実大学選抜のエースを名乗ることが許されている時点で、過去の彼女とは完全に別物なのだろう。

 

「……けれどもここでルミ殿を撃破できないようでは、わたくしたちに勝利の道はありえません。黒森峰とプラウダの隊が押さえられた以上、最悪わたくしたちだけで戦い抜かないと――」

 

 優花里の言葉は最後まで発せられない。

 何故ならほぼ最高速で撤退を続けるパンターとすれ違ったからだ。

 その僅かな一瞬で、優花里はナナが形作っていたハンドサインを読みとっていた。予め決められた符丁と照らし合わせた結果、導き出されたのは「敵車両急速接近」の合図。

 

「っ! 来ます! 冷泉殿、車両を左に!」

 

 黄色に輝く光の弾が脇を掠めていく。続いてそれに遅れるように、ルミのパーシングがⅣ号戦車の横をすり抜けていった。

 優花里は慌てて回頭を指示し、二両の後を追う。

 

「五十鈴さん!」

 

 カリエが装填をした傍から、華が砲の引き金を絞った。黒森峰で鍛えられた装填速度で次々に砲弾をたたき込むが、有効な命中弾が得られない。

 

「くっ、なんて技術ですか! ナナ殿を追いかけながらこちらの砲撃を予測してみせるなんて! ニ対一なのに追いつめられているのはこちらのように感じます!」

 

 逃げるナナと追うルミの距離が徐々に詰められていく。それとは反対に、パーシングとⅣ号戦車の距離は開きつつあった。

 一番最悪のパターンにはまり掛けていると、優花里は冷や汗を頬に滲ませた。

 

『秋山さん、こうなったらパンターを急停止させてパーシングを止めて見せます。一か八かの賭けですが、このまま黙してやられるよりはマシです』

 

 状況の悪さをナナも敏感に感じているのだろう。普段の彼女ならば決して下さない決断を口にしていた。

 ある意味で追いつめられたときのカリエのやりそうなことではあったが、それはいけないとカリエ自身が否定する。

 ここまで自身を慕ってくれた後輩たちにはとらせてはならない判断だと、カリエが声を上げかけたのだ。

 だがそれより先に、優花里が首を横に振った。

 

「駄目です! まだ目はあります! 諦めてはいけません! 何とか作戦を! 佐久間殿たちはまだまだこれからの戦いに必要な方たちです!」

 

 それに――、と続ける。

 

「パーシングとパンターの重量は僅か三トンの違いです。いえ、むしろ砲弾の消耗率を考えれば、今はほぼ同等の可能性があります。仮に体当たりで止めても、佐久間殿たちが無事に済みません! こればっかりは決して認められないんです!」

 

 優花里は自身の信念を口にしていた。

 彼女が目指すのは、万人が楽しむことの出来る戦車道。

 そこに負傷や不慮の事故が起こりうる戦法を持ち込むことは決して出来ない。

それは黒森峰という違う学園に在籍している人間も同じだった。誰かを切り捨てて勝利を目指すことは出来なかった。

 しかしそれは、ナナの逆鱗に触れる言葉でもあった。

 

『――ごちゃごちゃごちゃごちゃ言うな! あんたなんかに、あんたなんかに私達の気持ちがわかるわけないだろう! 諦めたと勝手に決めつけるな! 副隊長を、カリエ先輩を取り戻すためならば何でもするって決めたんだ! このパンターを切り捨てると決めた私達の気持ちなんてわかるわけない癖に! カリエ先輩のパンターを切り捨ててでも、あの人には学園に帰ってきて貰いたいんだ!』

 

 Ⅳ号戦車の車内が静寂に包まれる。ナナの慟哭にも近い叫びを聞いて、全ての人間が言葉を失っていた。

 特に、優花里とカリエは動きすら止めて目を見開いていた。

 

「……さくま、さん」

 

 沈黙を破ったのは小さなカリエの呟きだった。

 彼女の拳は砲弾を握りしめたまま、強く強く力が込められていた。

 

 篝火が揺れていた。

 

『――すみません。あと十秒で急停止します。大丈夫、私の代わりに操縦をしている先輩の腕も確かです。決して的を外しません。必ずパーシングを止めて見せます。ですから、必ず、撃破を……』

 

 力のないナナの声が無線越しに響く。

 カリエは手にしていた砲弾を静かに砲身へと送り込んだ。そして身につけていたグローブをそっと外す。

 

「……武部さん、もう一度無線を貸して下さい。あの可愛い後輩に伝えなければならないことがある。私のエースに伝えなければならないことがある」

 

 すう、とカリエが息を吸った。

 それは篝火に空気を吹きかける動作にも似ていた。

 そして空気が送られる。

 篝火が揺らめき輝く。

 

「ナナ、話がある。よく聞いてくれ。俺の話だ」

 

 

04/

 

 

 追いかけていたパンターが路地へと飛び込んだ。そしていつの間にか背後を取っていたⅣ号戦車までもが姿を消していた。

 だがルミは慌てない。冷静に、極冷静に耳を澄ませて両者の動きを探る。おそらく狭い路地の向こう側での合流を目指しているのだろう。

 定石で良手だと感心する。

 挟み撃ちという布陣を失うことにはなるが、これまでの状況を鑑みてみれば最適解ともいえる。

 おそらく二両同時にこちらに仕掛けることによって混乱を誘い、少しでも有利な戦局を作り出したいのだろう。

 

 でも甘いね。

 

 ルミは小さく笑みを零す。

 それくらいの状況予測ならとっくの昔に済ませており、なおかつ対応策は呆れかえるほどの訓練量で修得してきた。

 即ち連携が追いつかない速度でフィールドを動き回り、綻びを無理矢理作り出すのだ。

 私達バミューダトライアングルの十八番だと、彼女はさらに笑みを深めた。

 

 音が近づく。

 

 ルミの予想通り、二両の音が重なっている。

 方向はパーシングの正面。

 砲手にいきなり発砲しないよう指示を飛ばす。路地から飛び出すその瞬間が一番の撃破チャンスではあるが、直後はもっとも無防備な数秒間となる。ならば敢えて初手は見逃し、混戦に持ち込むことで決定的な隙を潰す。

 

「……来た。読み通りだ」

 

 路地から二つの鉄の塊が飛び出してくる。

 先頭がパンター、後続がⅣ号戦車だった。

 装甲や砲の威力を鑑みれば当然の陣容。

 おもしろくないな、とルミは息を吐く。

 パーシングを発進させ、二両に対して時計回りに動き始める。こうすることで、二両に側面を晒すことになるが、間違いなく動きは攪乱することが出来た。二両の連携の難易度をつり上げていくのだ。

 事実、走行性能で勝る黒森峰のパンターの動きに、大洗のⅣ号戦車がついていけていなかった。両者に微妙な速度差が生じていることをルミは見逃さない。

 

「――カリエ。君ならどうしたんだろうね。君なら今の私を見て、なんて言ってくれたんだろうね」

 

 遅れを見せるⅣ号戦車に照準を絞る。

 パーシングの主砲ならば、側面を穿てばほぼ確実に撃破が可能だった。

 あとは時を待つだけ。

 

「ありがとう。感謝しているよ。でも欲を言えば、車長の君と戦いたかった。私と真っ向からやり合って欲しかった」

 

 砲手の肩に手をおく。

 いつかカリエがしていた動作だ。

 あのときも、今のような静寂に車内が包まれていた。

 去年の決勝戦。

 すべての原点と栄光がそこにある。

 

「今だ」

 

 

05/

 

 

 真っ直ぐ飛来した砲弾が装甲と接触した。

 ルミの読みではその砲弾は間違いなく装甲を貫通し、Ⅳ号戦車を走行不能にするはずだった。

 

 そう、筈だった。

 

 

06/

 

 

 パーシングの車内では相変わらず静寂が支配している。

 だが先ほどの清廉なそれではない。

 むしろ、誰も言葉を発することの出来ない、不吉な沈黙がそこにはあった。

 ただ、それはある意味で仕方のないことかもしれない。

 

「……なんでパンターが」

 

 ルミの呟きが全てを説明している。

 パーシングの砲弾は真っ直ぐ空気を突き進み、鋼鉄と接触していた。

 だがそれは曲面に覆われたパンターの装甲であり、Ⅳ号戦車のものではない。

 見れば、急減速したパンターがⅣ号戦車の盾になっていた。まるで、ルミの読みをさらに読んで見せたかのように、パンターが先回りしていた。

 砲弾が放たれてからでは遅すぎる。

 完璧にパーシングの発砲のタイミングを掴んでいたからこそ成し遂げられた神業だった。

 

「嘘でしょ!?」

 

 初めてルミが動揺を見せた。

 まさかあの黒森峰の後輩にそんな技量があるなんて、と舌を巻く。

 確かに並いる車長に比べれば、あの後輩は秀でたものをもっていた。だが言ってしまえばそれだけで、西住姉妹や、逸見姉妹の域には決して達してはいない。

 けれども目の前の現状は、その隔絶した技量を示しており、ルミに嫌な予感を覚えさせた。

 

「――このままポイントDー7に後退。もう一度仕掛けるよ」

 

 もたもたしていれば二両に再び挟撃される、とルミは危惧した。だからこそ、相手に回り込まれないような、決して広くはない通りに飛び込む。砲身だけは後部に回転させて、警戒を続けた。

 盾となっていたパンターが真っ先に食らいついてきた。

 

「ちょっ、まさかここで連携を解くの!?」

 

 ルミの驚愕がさらに続く。Ⅳ号戦車との連携を保ったまま追いかけてくると踏んでいたのに、実際はパンターだけが通りに飛び込んできたのだ。残されたⅣ号戦車はもう仕事を終えたと言わんばかりに、アズミやメグミが向かったポイントへと舵を切り始めていた。

 

 つまりはタイマン。

 一対一で、パンターが仕掛けてきていた。

 

「なかなかどうして肝が据わっているじゃない。まさかこんな本性を隠していたなんてね……」

 

 相手を過小評価しすぎていたと、ルミは己を恥じた。

 自身が所属していた場所を改めて思い出していた。

 

 あそこは化け物の巣窟だった。

 

 彼女が抱いていたちょっとした優越感を徹底的に打ち砕いてきた魔窟だったのだ。

 たとえ、度を超えた訓練の先に生まれ変わっていたとしても、舐めて掛かって良い相手ではなかった。

 

「ふふっ、良いじゃない! 面白くなってきた! そうこないとね!」

 

 だがルミは怯えを見せない。むしろ楽しみが増えたと言わんばかりに、獰猛に笑って見せた。

 

 パンターに対してパーシングが砲弾を叩き込んでいく。パンターはそれを繊細極まったアクセルワークとブレーキングで回避していた。

 操縦手すら入れ替わったのか、と言わんばかりの動きだったが、ルミはそれすら面白いとますます笑みを深めた。

 

 二両はやがて中規模の広場に躍り出た。お互いの動きを綿密に読み合いながら、決定的な隙を伺う。

 直接視認をしなければ競り負けると、ルミは仲間の制止を振り切ってキューポラから上半身を覗かせた。

 視界の向こう側に、憧れと原点がいる。

 

 黒森峰の輝かしい思い出がそこにある。

 

 だからだろうか。

 

 ルミは幻影を見た。

 

 自身と同じようにキューポラから上半身を覗かせるシルエット。

 

 きっと、余りに多すぎる砲煙と砂埃が映し出した幻。

 

 でもそれは自身が一番認めて欲しかったいつかの後輩。

 

 碧色の瞳と、銀の髪が砲火の中で輝いている。

 

 

 

 ――君ってそんなに男前だっけ?

 

 ――君ってそんなに女らしく綺麗だっけ?

 

 ああでも仕方ないか。

 

 だってこれは夢だから。

 

 ――私の憧れが生み出した白昼夢だから。

 

 ただ、白昼夢だからこそ何を見ようが自由だ。

 

 さっきの後輩には申し訳ないけれど、今だけは醒めないで欲しい。

 

 ほら。

 

 彼女が私を見て戦ってくれているんだ。

 

 あんな真剣に、まるで実力者を見るように私を見てくれているんだ。

 

 なら夢で良い。

 

 夢であろうと、幸せならそれでいい。

 

 ねえ、カリエ。

 

 逸見カリエ。

 

 黒森峰で叶わなかった夢を、今叶えても良いよね?

 

 君と戦えるなら、私は世界一の幸せなんだよ。

  

 

07/

 

 

「いい、このままで。あちらも良い具合に燃えてきている。大丈夫、チャンスは必ずある」

 

 声が響く。

 

「ルミ先輩が強くて助かった。強くなければこんな挑発には乗ってくれない。強いからこそ、その熱量をぶつけてくれる。こんな先輩と一緒に戦えていたことは、今思えば本当に幸せだった」

 

 頭脳が命令を下している。

 

「ナナ、操舵は任せる。自分のタイミングで操作して欲しい。私はいつだってあなたを信じている」

 

 ふと、防弾ガラスの向こう側に影を見た。それはキューポラから身を乗り出したルミの姿だった。

 いつのことだったか、彼女に危ないから身を乗り出すなと注意されたことが懐かしい。

 なら答えなければ嘘になると、キューポラの蓋を開いた。

 

 硝煙と砂の香りが、残暑のむせかえるような薫りが鼻に届く。髪が熱風にたなびき、頬をパンターのエンジン音が撫でていく。

 

 

「……結局の所、足りていなかったのは私の、俺の覚悟。負けを受け入れる心だった」

 

 ただ暑さは一切感じない。あまりの熱気に陽炎が靡いていても、表情は涼しさをたたえる。

 何故ならもっと熱いものが体を支配しているから。

 篝火が巨大な炎となり、身を焦がしているから。

 

「有り難う。ナナ。君が思い出させてくれた。君の本音が活を入れてくれたんだ。そもそも男だったらウジウジ悩んでいる場合じゃないだろ。周りが俺を否定するなら、さらなる実力でねじ伏せれば良かったんだ。たく、前世を忘れて負けた癖に、それを忘れたままとか無能の極みだ。でももう、忘れない。逸見カリエの戦車道は忘れないし、見失わない。俺と私、どちらも逸見カリエだ。両輪揃ってこその、私の戦車道」

 

 キューポラから見た光景は、色鮮やかで鮮烈だった。

 美しい、と素直に感じた。

 ここが、自分のホームグラウンド。

 

 ただいまと、誰にも聞かれないように言葉を零した。

 

 ルミと眼が合う。

 何か驚いてはいるが、勝負を忘れているわけではなかった。むしろより楽しいと言わんばかりに、砲撃にも熱がこもっていく。

 パンターとパーシングが交差する。

 互いにパーソナルマークを背負ったエース同士。

 譲れない矜持と想いが交差した。 

 

 砲撃音は全く同じ。

 

 極至近距離で砲撃が炸裂する。

 極至近距離でカリエとルミ、両者がすれ違った。

 

 世界を切り裂く爆音の中、ルミが思わず零した言葉をカリエははっきりと聞いていた。

 

 ――おかえり。

 

 

07/

 

 

 端的に言って腰が抜けたし、言葉も失った。けれども、体を支配する満足感と、目の前に広がる光景だけは嘘をつかなかった。

 

「今まで何処にいたのさ。随分と待ちくたびれたよ」

 

 パーシングに対する回収車が到着するまでの僅かな時間、パンターの天蓋に二人は並んで座っていた。

 

「Ⅳ号戦車にいました。負けて自分を見失って、ぐちゃぐちゃになって引きこもってたんです」

 

「へえ、あの図太さの固まりだった君がねえ。人は変わるもんだね」

 

「変わってませんよ。元からそうでした。でもこれからは違う。もう迷わないとは言わないけれども、これまでの私とは違います」

 

「――頼もしい限りで。あーあ、折角バミューダトライアングルみたいな大層なネームを貰っていたのにここで脱落かー。まあ、メグミとアズミなら私よりも上手くやるでしょ」

 

「三位一体のコンビネーション技をここで潰せて本当に良かった」

 

「あ、こいつ、やっぱり変わってない! 図太さはそのままだ! あの時の逸見カリエだ!」

 

 ぐりぐりと、乱雑に頭を撫でられた。でも、カリエは心底嬉しそうに目を細めていた。

 

「でもさ、どうやって入れ替わったの? 路地裏でわざわざ乗り換えた? でもそこまで時間は掛かっていなかったし、何より車両を停止させた気配がなかったんだよね」

 

 ルミの疑問にカリエは答える。

 

「ええ、ルミ先輩なら音だけでも下手したらこちらの動向が読まれると思って、併走したまま飛び移りました。――ナナが抱き留めてくれなかったらちょっとやばかったかも」

 

 呆れたようにルミが息を吐く。

 

「はあ、人には無茶するなって怒る癖に、自分はいくらでも危険に飛び込んでいくところも変わってないね。後でエリカに怒られるよ」

 

「うっ、そういえばパンターに乗り換えたことをまだ全隊に伝えていないかも。優花里さんもそこまでの余裕はなかっただろうし」

 

 今更になって冷や汗を掻いているカリエを見て、ルミは苦笑を零す。

 

「ま、ヒーローは遅れてやってくるもんだから良いんじゃない? エリカだけはそれも通用しないけれど。なんたって彼女にとって君は護るべきヒロインだからね」

 

「まさか。ヒーローなわけないですよ。いいところ、悪の組織の参謀くらいです」

 

 いいや、とルミは否定する。

 

「私にとって、君はまさしく英雄だ。私の戦車道を教えてくれたとっておきのね。そして多分、私と同じ思いを抱いた人間がこの世界にはたくさんいる。ならそれはもう人々にとっての英雄さ」

 

 だからさ、行ってやりなよ。

 いろんなしがらみぶっ壊してさ。

 みんなを笑わせて、最後にエリカに怒られておいで。

 

 言葉のやりとりはそこまで。

 到着した回収車に乗り移ったルミはバイバイ、と手を振るだけだった。

 カリエもまた、控えめに手を振って、頭を下げてパンターに乗り込む。

 確かに山は越えた。

 道は開けた。

 でもまだゴールには届いていない。

 

「ナナ、東通用門を防衛している隊に合流しよう。T28とその取り巻きたちをなんとかしないと私たちに勝利はない。黒森峰は単騎でも強いってことを見せつけてやれ。なんたってこの車両にはエースに四番の二刀流の操縦手、さらには通信をさせれば正確無比なバットコントロールの首位打者に装填速度で他の追従を許さない盗塁王、あげくの果てには撃破数ナンバーワンの最多勝まで揃っているんだ。負ける理由がない」

 

「カリエ先輩、無理矢理野球に例えられても意味不明ですし、何より先輩は何なんですか?」

 

 茶化すように、明らかに喜びを押し殺したような声色でナナが突っ込んだ。他のメンバーも「そうですそうです」とカリエを見上げる。

 カリエはじっくりと一同を見渡してこう答えた。

 

「そんなもの、遙か昔から決まっているんだよ。私は扇の要、でも究極の裏方。キャッチャーが性に合ってる」

 

 

08/

 

 

「……ねえ、これって不味いわよね」

 

「あら? 今更怖じ気づいたの?」

 

「馬鹿言ってるんじゃないわよ。このカチューシャが怖じ気付くわけないでしょ。でも冷静に考えて、これは不味いわ」

 

 ティーガーⅡとT-34が並んだまま、建物の陰に身を潜めている。

 通りの反対側にある建物の傍では、みほのティーガーⅠが若干身を乗り出して警戒を続けていた。

 

「カチューシャが受けた通信によれば、こちらにパーシング二両が向かってきているみたい。しかも例のネームドよ。それに加えて――」

 

「継続の島田ミカと西住前隊長の車両をみほが視認、か。残念だけれどもあの子のことだもの。見間違いなんてあり得ないわ」

 

 だかららしくない警戒陣を敷いているのよ、とカチューシャが不満を漏らす。

 

「高校選抜の最大戦力を潰しに来ているのね。確かに黒森峰の西住みほとこのカチューシャを狙うのは良いセンスだわ」

 

「……そうね。でもそのおかげで東通用門組にも希望が残されている。私たちが頑張れば頑張るほど、向こうにも時間的余裕が生まれる」

 

 エリカの言葉に、カチューシャが眉をひそめた。

 

「自分で言っといてあれだけれども、あんたもう少し自分に自信を持ったら? もちろん向こうはあんたのことも潰しに来ているのよ。逸見姉妹の姉といえば全国的なネームバリューじゃない」

 

「まさか。そんな大層なものじゃないわ。何より、妹がやられた時に、情けなく擱座していた奴のどこか実力者よ。ちゃんちゃら可笑しいわ」

 

 その時、カチューシャは夏の敗北で心が折られた人間が一人でないことに気がついた。平気を装って、周囲を支え続けている人間こそもっとも消耗していることを知った。

 もっと早くに思い至るべきだったと唇を噛みしめる。

 

「――大丈夫よ。妹は必ず帰ってくるわ。平気な顔してプラウダの学園艦に乗り込んできたような人間よ。そう簡単に燃え尽きるわけがないわ」

 

 カチューシャの声に、エリカはすぐに反応を示さなかった。それから十数秒ほどの間を空けて、ようやく口を開く。ただそれも歯切れの良いものではなかった。

 

「――お礼は全てが終わってから告げるわ。見なさい。みほから手信号が届いてる。ええと、」

 

 エリカが即座に解読し、カチューシャにもわかるよう音読する。

 

「『ティーガー一両、パーシング二両の姿視認。戦闘準備を』」

 

「ねえ、黒森峰の」

 

「エリカよ。カリエの名前は覚えても私の名前は覚えられないの?」

 

「まだあんたのことは認めていないのよ。でも良いわ。エリカ、絶対に勝つわよ」

 

「……無論よ」

 

 二両のエンジンに火が入る。ドイツとソビエトの両雄が息を吹き返す。

 

「あの子が帰ってくるまで、負けるわけにはいかないのよ。たとえそれが前隊長相手でも」

 




いつも14話で覚醒している感じがする。


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逸見カリエの戦車道 15

 息を吹き返したカリエのパンターは真っ直ぐ東通用門を目指していた。サンダースとグロリアーナが中心となって防衛戦を展開しているエリアだったが、T28という特大の隠し球が出現したこともあってか想像以上の苦戦を強いられていた。

 無線連絡で状況を把握していたカリエは四の五の言う間もなく車輌を走らせたのである。何とか援軍となって状況を打開したいという思いが体を突き動かしていた。

 だがカリエにとっての逆境はまだ終わりを告げていなかった。

 それはナナが絞り出すように呟いたある報告が切っ掛けだった。

 

「――燃料がちょっと厳しいです」

 

 ナナが告げた燃料計の数値をパンターの砲塔天蓋にチョークで書き込む。黒森峰で叩き込まれていた計算式を続いて書き込み、残り航続距離をカリエは割り出した。

 間髪入れずに通信手が地図を差し出し、カリエにパンターの行動範囲がわかるようにアシストする。

 数秒、カリエは何も言わなかった。

 

「――ご、ごめんなさい。カリエ副隊長。私が未熟な指揮をした所為で無駄に燃料を消費してしまいました」

 

 ナナの悲痛な言葉に、先ほどまで操縦手を担当していた通信手が言葉を重ねた。

 

「いえ、私が下手くそだったからです。ナナは上手くやってくれました。私の操作に無駄が多かったから……」

 

 いや、とカリエは首を横に振る。元はと言えば戦車に乗ることが出来なくなったカリエが招いた事態である。彼女の穴を埋めるために無理を続けた結果、パンターの致命的な燃料不足を招いていた。

 

「この航続距離だとグロリアーナの援軍に行ったのち、エリカ副隊長の援軍にとって返すことは不可能になります。逆もまた同じ。――私たちが救えるのはどちらか片方だけです」

 

 通信手の指摘が全てだった。彼女の告げた通り、カリエ達は選択の岐路に立たされている。

 

 すなわちエリカを救うのか、ダージリンを救うのか。

 

 パンターが停車した。カリエがどちらを選んでも即応できるようにアイドリングする。だがその間ですらエンジンは燃料を消費し続けている。あまり時間を掛けすぎれば、それこそ両方の選択肢を失いかねない。

 

「――決めました」

 

 カリエの選択に要した時間は十秒ほど。

 車長席に深く腰掛けた彼女は乗員達を一通り見渡して、静かに口を開いた。

 

「東通用門に――グロリアーナとサンダースの救援に向かいます。殲滅戦である以上、T28を放置し続ける訳にはいきません。恐らく大学選抜最後の隠し球。それを撃破することができれば相手の士気に大きなダメージを与えることができます」

 

 苦渋の決断だ、とナナが息を呑んだ。格上相手に苦戦を強いられているであろうエリカ達をほぼ見捨てることになる。

 彼女達の実力を信じていると言えば聞こえが良いが、その実は強敵の丸投げだ。

 西住まほと島田ミカ、そしてメグミとアズミをみほやエリカ、カチューシャだけで相手し続けるには無理がある。

 しかしながら戦線が崩壊しかかっている東通用門組を放置することもできなかった。もちろんそこにダージリンがいるという贔屓目もあるにはあるのだろうが、それで戦略眼を曇らせるほどカリエは耄碌していなかった。

 純粋に指揮官として両戦線を天秤に掛けたとき、支えるべきと判断したのが東通用門だったのだ。

 

「――多分、そこでの戦いがこのパンター最後の戦いになるでしょう。あとは優花里さんと、みほやエリカ、カチューシャさんを信じるだけです」

 

 パンターが前進を開始する。

 そうこうしている間にも燃料計は減り続けている。

 援軍は片道切符。

 

 

 カリエ最後の指揮が始まった。

 

 

01/

 

 

「ねえ、こんな言葉をご存知? 『祈るだけでは勇気は得られない。努力を重ねつつ祈るのだ』」

 

「イベンター・ホリフィールド。プロボクサーの言葉ですね」

 

 オレンジペコの回答にダージリンは満足げに頷いた。彼女は車長席に備え付けられている防弾ガラスから外の様子を伺いつつ、言葉を続ける。

 

「――正直やれることは全てやったわ。幾つかの布石は打ったし、場面も整えてみせた。後は私たちにとって好ましい結果になるよう、祈るだけ」

 

 ほぼ九十度、直角に傾いた車内。ダージリンは器用に紅茶を啜る。

 

「サンダースとローズヒップの陽動部隊が間もなく直上を通過します。17ポンド砲――ナオミさんは既に配置についたそうです」

 

 それは上々ね、とダージリンが微笑みを零す。

 彼女の視線の先には煉瓦造りのアーチ橋、その真下の光景が広がっていた。

 そう、ダージリンにオレンジペコ、アッサム達が乗り込んだチャーチルは今待ち伏せを行っている。橋脚と橋脚の間に無理矢理車輌をねじ込み、車輌を地面に対してほぼ九十度傾けてまで、橋の真下から直上を狙っていたのだ。

 

「しかしダージリン、この布陣は我々の未来がありません。ケイさんのシャーマンの力を借りて体勢を整えましたが、元に戻すには馬力が足りないとのデータが。それに一度発砲して位置が向こうにバレれば嬲り殺しです」

 

 アッサムはこのままでは脱出が出来ないと苦言を呈した。だがダージリンはやんわりと諭してみせる。

 

「いいのよ。私たちはここまでで。あとは優花里さんやみほさん、カチューシャにエリカさんが何とかしてくれるわ」

 

 ダージリンの言葉にアッサムは眉尻を少しばかり下げた。

 

「カリエさんは――カリエさんはどうするのですか?」

 

 ぴたり、とそれまで紅茶を傾けていたダージリンの手が止まった。見れば紅茶はとっくの昔に空になっており、彼女は口にするフリをしていただけだった。 

 オレンジペコもアッサムもこの時初めて、ダージリンが空のカップを手にしていたことを知る。

 

「――確かにあの人のために整えた道ではあった。けれどもそれはあの人の幸せには直結していなかったし、いらない負担を掛けただけだったわ。私はね、もう自分の身勝手さには飽き飽きしているの。今更、あの人に助けを求めるなんて都合の良いことは口が裂けても言えないわ」

 

 嘘だ、と二人は言葉にしないものの同じ思いを同時に抱いた。

 カリエに対する負い目や贖罪は真実だろう。

 だが彼女の救援を期待していないという言葉は嘘だ。

 間違いなくダージリンは救いを求めている。もう一度、カリエが無理矢理にでも自分を引っ張り上げてくれることを心の何処かで待っている。

 だからこそ、この背水の陣を敷いた。

 一度でも発砲してしまえば、間違いなく敵に囲まれて討ち取られる状況に自らを追い込んだ。もちろん高校選抜チームの勝利を諦めたわけではないが、自身の道はここまでで良いと思い込んでいた。

 唯一この状況を打開することが出来るのは、思い人であるカリエだけだった。

 恐らく叶わないであろう未来を夢見ながら、一方で高校選抜が少しでも戦い続けることが出来るよう現実を選んでいる。

 何処までも矛盾を孕んだこの戦術こそが、ダージリンの想いの発露だった。

 

「――まもなくT28がこの橋を通過します。ダージリン、撃つタイミングだけお願いします」

 

 車内の沈黙を破ったのはスコープを覗き始めたアッサムだった。ダージリンは二人から視線を外すと仕切り直すかのように防弾ガラスを注視する。

 超重量からくる振動が橋を揺らしているのか、防弾ガラスに煉瓦の破片がいくつもぶつかっては弾けていた。

 事が成るのはもうすぐ。

 ダージリンは静かに息を吸い込み、その時を待つ。

 

 

02/

 

 

「斜めで受けて下さい!」

 

 みほの叫びが全車の無線に鳴り響いていた。最早誰が何処にいるのかは解らない。一々それぞれのポジショニングを確認している余裕がない。

 まほのティーガーⅠから放たれた砲弾がみほのティーガーⅠの装甲に弾かれて火花を散らした。斜めに侵入していなければ間違いなく貫通されていた一撃だった。

 

「こんの!」

 

 未然に撃破を防いだとはいえ、被弾のショックで一時硬直したみほを救ったのはエリカだった。いつの間に回り込んでいたのか、まほのティーガーⅠの背後から砲弾を叩き込もうとする。

 だが――、

 

「っ、元隊長は背中に目でも付いているの!?」

 

 苛立ちを隠し切れていないエリカの声が、砲撃の結果をその場にいた全員に伝える。驚異的な反応速度で急発進したティーガーⅠは見事エリカの砲撃から逃れていた。

 しかもカウンターと言わんばかりに入れ替わりで出現したミカのBT-42がティーガーⅡの装甲に砲弾を叩き込んでいった。

 超重装甲が撃破こそ防いでくれたものの、着弾の衝撃でエリカの体は激しく揺さぶられる。

 

「エリカさん!」

 

「問題ない! 集中しろみほ! ――カチューシャ!」

 

「私に命令しないで! でも良いガッツよ!」

 

 今度はカチューシャがカウンターを決める番だった。縦横無尽に動き回るBT-42に何とか追いついたT-34が砲煙を吐き出す。ただこれもまほと同じように急発進したBT-42を掠めるだけで有効打には至らなかった。

 

「――一度防御を固めます! 円陣を組んで下さい!」

 

 こちらのカウンターが全て不発に終わったことを悟ったみほが直ぐさま集合を呼びかける。防御力に優れた三両の戦車を円形に配置し、ウィークポイントである背面や側面の装甲をカバーし合う態勢だった。

 

「ちっ! また姿を消した! カチューシャ、よそ見してたらただじゃ置かないわよ!」

 

「言われなくともそうするわよ! ていうか私の方が年上なんだから敬語を使いなさい!」

 

「二人とも落ち着いて! お姉ちゃんも島田流のお姉さんも、私たちの連携の綻びを狙ってきています!」

 

 端的に言って雰囲気は最悪だった。互いの連携こそ取れてはいるが、ただそれぞれの技術と経験の上に成り立つだけのもの。そこにそれ以上の上澄みはなく、伸びしろもない。

 事実少しずつ車輌にはダメージが蓄積しており、ジリ貧の様相を呈していた。

 対するまほとミカは殆ど車輌にダメージを受けておらず、最初はややぎこちなかった連携も時間が経つにつれて完成されつつある。

 このままでは幾ら数的優位にエリカ達が立っていても、何れ追い詰められていくことが容易に想像が出来た。

 

「……やっぱり無理矢理にでも風穴を空けるしかないのかしら」

 

 カチューシャのぼやきを肯定するかのようにエリカは頷く。

 

「ならあとはあんたたちに任せるわ。みほとあんたなら何とかなるでしょ」

 

 言って、前進を開始しようとするエリカをみほが押しとどめた。ティーガーⅡの前方にティーガーⅠをぶつけてまでエリカを止めた。

 見た目とは裏腹の強引さにカチューシャが目を剥いたが、エリカは慣れたもので鋭くみほを睨み付けていた。

 

「駄目です! 自棄になってはいけません! ここを耐えきれば必ず勝機があります!」

 

「でももう時間が残されていないのよ! 時が経てば経つほどあちらが有利になる! 私たちが追い詰められていく! 大学選抜のネームド三人が合流するまで時間がないの!」

 

 それでも! とみほは頭を振った。

 

「黒森峰の隊長として、仲間を犠牲にする戦い方を容認することはできません! 何よりエリカさんの友人として友達を囮の餌にするなんてできません! 私が必ず何とかしますから今は耐えて下さい!」

 

 みほの鬼気迫る訴えにさすがのエリカも息を呑んだ。カチューシャはとっくの昔にその気迫に飲み込まれており、異を唱える余裕など微塵も存在していない。

 

「――お姉ちゃんが何を考えているのか、何となく私にはわかります。これはお姉ちゃんから私たちに与えられた試練です。だから三人一緒に乗り越えたい。いつも隣にいてくれたエリカさんはもちろん、良きライバルとして私たちと戦い続けてくれたカチューシャさんと一緒に」

 

「ふ、ふん! なら何か良い案でもあるの? カリーシャの姉が言う通りもう私たちには時間がないわよ」

 

 照れくさそうに頬を染めながらも、カチューシャの眼光は策略家としてのそれだった。ノンナが崇拝し、この世で最も深きものと褒め称える知性が顔を覗かせている。彼女はみほの一挙手一投足を見逃さぬよう、じっと視線を合わせた。

 

「――仲悪そうだけれども本当は大親友だよ作戦を開始します。いいですか、エリカさん、カチューシャさん。今から作戦の概要を説明しますからどうか私を信じて下さい。絶対に勝ってみせます。私たちは負けませんから」

 

 再び円陣を組み直し、それぞれの車長がキューポラから身を乗り出すことでコミュニケーションを進める。たとえ重戦車のエンジン音の中にあっても、みほの澄んだ声は残りの二人の耳にしっかりと届いていた。

 

「――いくらお姉ちゃんでも、こう何度も嬲るような攻撃をされると私とて腹が立ってきます。いい加減見返してやりましょう」

 

 

03/

 

 

 時は成った。

 ダージリンは差配を振る。

 高所に待ち伏せをしていたナオミのシャーマンファイアフライが、T28の足下――つまり橋の一部を吹き飛ばした。煉瓦が砕け散り、そこだけ裂け目のように崩れた隙間がダージリン達の眼前に生まれる。

 アッサムが繊細な砲身操作をしてやれば、チャーチル歩兵戦車の主砲がT28の底面をはっきりと捉えていた。

 

「終わらせなさい。アッサム。これが私たちのやるべきことよ」

 

 主砲が撃ち出され、空薬莢が排出される。ダージリンの視界はチャーチル歩兵戦車の発砲煙によって完全に塞がれていたが、己の戦果を読み違えることはなかった。

 橋を揺らしていた超重戦車が歩みを止める。

 さきほどまでの振動が嘘のように、世界は静まりかえった。

 

「――T28、沈黙しました。ですがこのあとの私たちは」

 

「ええそうね。残念だけれどもここで終わり。アッサム、オレンジペコ、お疲れ様でした」

 

 ダージリンが深く車長席に腰掛け直した。空になったティーカップに下から身を伸ばしたオレンジペコが紅茶を注ぎにくる。随分と傾いてしまった車内だったが、いつものお茶会のように落ち着き払った空気で満たされていた。

 

 何処からかパーシング達のエンジン音が聞こえる。

 

 二両か。思ったよりも少ない。多分、大洗が得意とするゲリラ戦に巻き込まれて、あちらも想像以上に消耗しているのだろう。

 

 紅茶を口に含みながらダージリンは今現在の戦況の分析を続けた。決して有利とは言えないがまだ勝利の芽はある。あとは優花里やみほ、そしてエリカ達の奮戦次第だ。

 ただ、心残りがないと言えば嘘だった。

 やはり戦車に乗れなくなってしまったカリエの事だけは何時まで経っても気がかりのまま。

 彼女に対する謝罪や後悔はいくら口にしても尽きないだろう。

 

「ダージリン様」

 

 ふと、オレンジペコが何かをダージリンに差し出した。それはチャーチル歩兵戦車に積まれていた無線機だった。Ⅳ号戦車戦車が使っているチャンネルに繋げば、そこで装填手をしているカリエに声を届けることは出来るだろう。

 だが、ダージリンの手は中々それに伸びなかった。

 刻一刻と終わりが近づいているというのに、それを手にするのが怖かった。

 痺れを切らしたオレンジペコが力強く、それをダージリンに握らせるまでは。

 

「ペコ?」

 

「駄目です。ここで言葉を残さなければ、ダージリン様はもっと後悔される筈です。それはここまであなたに付き従ってきた者として見過ごせません」

 

 気がつけばアッサムもこちらを見ていた。親友と言っても差し支えのないくらいには長く深い時間を共にしてきた彼女がこちらを見ていた。彼女はただ一つ頷いた。

 

「オレンジペコの言うとおりです。ダージリン、今こそ気持ちを伝えるべきです」

 

 残された時間は余りにも少ない。

 パーシング達のエンジン音は直ぐそこまで迫っている。

 搦め手でT28を始末した彼女達を討つべく近づいてきている。

 

「大丈夫、カリエさんもあなたの言葉を待っています」

 

 アッサムの言葉に背を押された。オレンジペコの力強い支持に心動かされた。

 ダージリンは無線機を握りしめる。

 いつもの澄まし声ではない。

 

 無様に。

 震え。

 怯え。

 堪え。

 必死に。

 溢れ出る何かを精一杯押しとどめて。

 

 言葉を繋いだ。

 

「あ、あっ、ご、ごめんなさい。カリ、エさん。私が出来るのはここまでです。とてもとても頑張ったのだけれども、ここまでみたい。あなたをこの戦いに引き摺りこんでおきながら、勝手にリタイアするのを許して。――私は最後まで信じています。あなたが蘇るのを。あなたがもう一度、私を引っ張り上げてくれるのを。好きよ。カリエさん。世界で一番愛してる。だから私、こんなにもがんばれ――」

 

 美しくもなんともない、彼女らしくない言葉は砲音の中に消えた。

 

 晴れ渡る夏空の下、チャーチルの車長席からは何処までも深い青い光が見えていた。

 

 

04/

 

 

 もう折れない。

 折れるわけにはいかない。

 たとえこの後の道が続いていなくとも。

 俺はこの人の期待に必ず応えてみせる。

 

 これが逸見カリエの戦車道なんだ。

 

 

05/

 

 

「させるかあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 怒りの絶叫は、夏の空気を切り裂いていった。

 キューポラから身を乗り出したカリエは正しく敵の姿を見定めていた。

 橋脚の間で擱座しているチャーチルを挟み込む二両のパーシング。その手前側、つまりカリエが邁進してきた通路側に陣取っていたパーシングに減速一切なしの体当たりを決行。

 もう燃料も尽きかけ、砲弾も心許ない。

 幾多の激戦をくぐり抜けたパンターは満身創痍だ。

 だからこそ車体へのダメージは一切考慮しなかった。

 

 もうここで終わっても良い。

 ここまででも良い。

 だがこの人だけは必ず救ってみせる。

 

 そんな覚悟で為された体当たりはチャーチルに狙いを定めていたパーシングを吹き飛ばしていた。

 

「次!」

 

 続いて対岸のパーシング。

 斜めに擱座しているチャーチルの車体下にパンターの砲身を突っ込む。ナナの数センチ単位で繰り出される車輌操作と、砲手の神がかり的な砲身調整によって、無防備な車体側面を晒しているパーシングに狙いをつけた。

 発砲のタイミングは完璧だった。

 

 チャーチルの車体下部を数センチの距離を空けて飛翔していった砲弾がパーシングに突き刺さる。

 橋脚とチャーチルの隙間から、撃破を知らせる白旗を確認したカリエは体当たりで体勢を崩していたパーシングを睨み付けていた。

 

「黒森峰副隊長その2、逸見カリエ! 東通用門組の援護に来ました!」

 

 パンターが急発進をする。

 それだけで反撃に転じていたパーシングの砲撃をくぐり抜ける。

 両者、橋脚の袂での乱戦。

 残弾が残り僅かのパンターはその身軽さで、平地での機動力に優れたパーシングは本来の性能で、それぞれ相対する。

 それぞれの砲弾が掠め、車輌同士が接触する中、先に動きを取ったのはカリエだった。

 彼女は左側面の装甲がパーシングの砲弾を弾いたことを確認すると、再びパーシングへと突進した。

 まさか二度目があるとは考えていなかったパーシングがパンターに押される。

 車重で勝るパーシングを押しとどめるのは至難の業だったが、ナナが微細な操作で上手く相手の動きをいなし、少しずつ相手を押し込んでいく。

 

 そしてカリエの狙いは成就した。

 

 彼女はありったけの声量で叫びを上げた。

 

「ダージリン!」

 

 砲音が一つ。 

 それはパーシングの背後からだった。

 擱座していたチャーチルの砲身がこちらを見ていた。

 ダージリンはカリエの乱戦の意図を正確に読み解き、あらかじめ砲身をそちらに向けていたのだ。

 手負いでもう動けないと判断していたパーシングのミスだ。

 吸い込まれるように、砲弾がパーシングのエンジン排気口を打ち抜く。

 

 砂埃と砲煙が立ちこめる空気の中、二つの白旗が風に靡いていた。

 

 

 04/

 

 

 牽引ロープを使って橋脚の間から引き摺り出されたチャーチル歩兵戦車もまた満身創痍だった。彼女達も東通用門で繰り広げられた厳しい戦いを何とか勝ち抜いてきたのだろう。

 T28と幾つかのパーシングを撃破された大学選抜チームの攻勢は凪いでいた。一度態勢を整えに行ったのか、それとも何かしらの命令を受けて退却したのか、姿形が暫く見えない。

 ダージリンの救援に遅れて駆けつけてきていたサンダースの車輌に囲まれながら、カリエのパンターとダージリンのチャーチルが向かい合っていた。それぞれの車長たる二人は、そんな車輌の眼前で邂逅する。

 

「遅ればせながら、逸見カリエ。ようやく参戦しました。本当にご迷惑をお掛けしました」

 

 ぺこり、とカリエが頭を下げた。ダージリンは静かに「頭を上げましょう?」と微笑む。

 

「――信じていたと言えば嘘になるわ。多分カリエさんはこの戦いには来ないと思っていた。でもいつかのように私の期待を裏切ってくれるのね」

 

 まあ、そうかもしれないとカリエは頬を掻く。思えばダージリンを裏切ってばかりの人生。良くも悪くも彼女の思い通りになったことは殆どない。

 でもそれが、自分とダージリンの関係なのだと今なら割り切ることが出来る。

 

「……燃料が尽きる寸前でしたが何とか間に合って良かったです。ウジウジしていた分、最後の最後に一働きはできたかな、と思います。このままだと黒森峰に帰ることは出来ないかもしれないけれど、それでもやれる事はやりました」

 

 見上げれば何処までも続く青空が広がっている。

 それはいつかグラウンドで見た、高校最後の夏と同じ空だった。

 あの時のように臆病風に吹かれてしまったが、もうそんな醜態を晒すことはない。

 

「燃料に関しては仕方がないわね。あなたの後輩さんが随分と頑張ってくれたんだもの。よくあの大学選抜の猛追を振り切ったと思うわ。まさに勲章もの」

 

 言って、ダージリンは対面するカリエの肩越しにナナを見た。操縦手の覗き窓から顔をこちらを見ていたナナが慌てたように車内に引っ込む。

 無駄に燃料を消費してしまったことを叱責されると考えていただけに、ダージリンの素直な賛辞に驚いていた。

 

「……ねえ、カリエさん。あなたはまだ戦いたい?」

 

 ナナから視線を戻し、ダージリンはカリエの瞳を見定める。カリエは一切視線を逸らすことなくこう答えた。

 

「無論です。まだ私はエリカに借りを返していない。みほに礼を返していない。優花里さんに恩を返していない。途中でガス欠はするでしょうけれど、行けるところまでは行くつもりです。最悪、一両でも相手を撃破すればあとは彼女達が何とかしてくれます」

 

 覚悟の定まった目だった。ダージリンは思わず溜息をつく。

 そういえば自分はこの瞳にあてられたのだな、と笑みすら零した。

 

「そうね。あなたはそういう人だわ。だからこそ、私はあなたを見初めたのかもね。――アッサム、準備を」

 

 ダージリンが何かしらの号令を掛けたのと同時、停車していたチャーチルから何かのホースを持ってオレンジペコが駆け寄ってきた。

 ホースの口から漂う独特の香りを嗅ぎ分けて、カリエは目を見開いた。

 

「まさかダージリンさん!」

 

「……信じてはいなかったけれど、可能性を捨てることは出来なかった。莫迦な女の内助だと思って貰えれば結構よ。チャーチルには必要最低限の砲弾だけ積んで、あとは予備の燃料とパンターの砲弾を積み込んでいたの。全部みほさんにお願いして手配して貰ったわ」

 

 そう、ダージリンはチャーチル専用の砲弾すら捨てて、パンターの砲弾を積み込んでいた。

 車長に慣れていないナナが戦い続ければ、必然と燃料と弾薬の消耗が増えることを見抜いていた。もしもカリエが車長として返り咲いたとき、万全のコンディションで戦えるよう全てを用意していたのだ。

 

「本当に、本当にありがとうございます!」

 

 ダージリンに駆け寄ったカリエがその手を取る。その目はようやく差してきた光明に輝いており、ダージリンが直視するのが憚れるほど美しかった。

 

「……速度に劣る私たちは正門で戦っているエリカさん達の応援に向かうには時間が掛かりすぎるわ。機動力に優れるサンダースの皆さんとカリエさんは先に向かって頂戴。ほら、給油も終わったし、砲弾の積み込みも終わったわ。全部で十五発。大切に使って欲しいわね」

 

 息を吹き返したかのように、パンターが排気口から黒煙を噴き上げた。操縦席から顔を覗かせたナナが「行けます!」と親指を立てている。

 

「名残惜しいけれども一旦ここでお別れよ。次は勝利の報を片手に、私を迎えに来て」

 

 ぽすっ、とダージリンがカリエの腕の中に飛びこんだ。

 カリエはそれをしっかりと抱き留めると、耳元で「行ってきます」と囁く。

 

「副隊長、これを!」

 

 ダージリンと別れ、パンターによじ登ろうとしたとき通信手から何かを投げられた。咄嗟にそれを受け止めてみせれば、今となっては懐かしさすら覚える黒森峰のタンカースジャケットがそこにあった。

 ネームタグを見てみればしっかりと「逸見カリエ」と刻印されている。

 

「ナナから取り返しました。あいつ、洗濯する! 洗濯しないと恥ずかしさで死ぬっ! て喧しかったんですけれど、副隊長にお前のを着せるのか? って聞いたら素直に脱いでくれましたよ。まあ少し臭うかもしれないですけれど、それが一番お似合いです」

 

「臭くないです! しっかり消臭剤を振りかけました! ああでも、あまり臭いは嗅がないで下さい!」

 

 足下から抗議の声を上げるナナに苦笑を漏らしながら、カリエはタンカースジャケットに袖を通す。ポケットにはあの黒い戦車帽。

 

「やっぱりそれが一番お似合いね。大洗の服装も悪くはなかったけれども、それが一番カリエさんらしい」

 

 ダージリンの言葉に微笑みを返しながらカリエは車長席に腰掛けた。パンターの天蓋に書き込んだ航続距離のチョークを袖で乱暴に消す。

 代わりにそれぞれのチームの残存車輌を手早く書き連ねていく。

 

「南門の知波単も気がかりですが、やはり相手主力と争っているエリカ副隊長達の救援が最優先だと思われます」

 

 通信手の言葉にナナが力強く応答する。

 

「この遊園地のマップは頭に叩き込みました。ショートカットを駆使すれば十分以内にあちらへ合流できます」

 

 カリエは了解した、と頷く。

 

「あ、副隊長、一応報告です。さっきパーシングに体当たりをぶちかましたとき通信機がちょっとおかしくなりました。目下修理中なんですけれども、完全復旧には少しだけ時間を頂きたいです」

 

 それは仕方がない、とカリエは眉尻を下げた。思えば車輌の破損覚悟で吶喊したのだ。通信機の故障だけで済んだのが御の字だろう。

 一応、ハンドサインで車輌同士の連携が取れるよう訓練はしているものだから、今はそれに頼るほかない。

 

「……ただエリカ副隊長にまだカリエ副隊長が復帰したことを伝えられていません。多分あとで滅茶苦茶怒られますよ」

 

 砲手の言葉にカリエはますます顔を顰める。こうなることが解っていたら、Ⅳ号戦車から飛び移ったときに伝えておくべきだったのかもしれない。

 だがもう今となっては後の祭りだと、カリエは頭を振り直す。

 ならば自分の無事は自分で伝えれば良い。戦いぶりで見せつければ良いと表情を引き締め直す。

 

 パンターが前進を開始する。

 少し遅れてサンダースの三両が後に続く。 

 連戦に次ぐ連戦でカリエの体は疲労感に満たされている。

 でもそれ以上にまだ戦えると、何処からか湧いてくる闘争心に支配されていた。

 

 夏の太陽は天頂を少し過ぎたばかり。

 傷だらけのパンターが二度目の救援を敢行するべく、熱を帯びた煉瓦造りの道を進み続けていた。

 



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逸見カリエの戦車道 16

こちらもお待たせしました。
不器用故に更新が途切れ途切れで申し訳ないですが、必ず終わらせます。


 西住みほはいつだって自分のことを四番手だと思っている。

 

 

00/

 

 

 一番手は黒森峰の伝統と格式のあるチームを完璧に統率し、見事十連覇に導いてみせた姉のまほだ。彼女は幼い頃から常にみほの先を行き、次世代の西住家を担うものとしてふさわしい品と実力を兼ね備えていた。演習での勝敗こそ七:三でなんとか食い下がっていたが、一対一のタイマンとなったとき姉を下したことは一度もなかった。

 全てにおいて自分は姉の下位互換であると、みほは常々そう考えていた。

 

 二番手と三番手は順不同で逸見姉妹だ。姉のエリカが持っている思い切りの良さと状況判断力をみほはいつも羨ましいと思っている。彼女の突破力は高校戦車道界において間違いなくトップクラスで、いつだってその実力に助けられてきた自覚がある。エリカの電撃戦を防ぎきることの出来る高校は今まで存在せず、黒森峰最強の一番槍としてその名を馳せていた。

 そしてみほはそのエリカの実力が妹のカリエによって支えられているものであることも理解していた。エリカには優れた状況判断力と指揮官としての能力が備わっている。だがそれは彼女の最大の持ち味である突破力の前では一種の足枷になりかねないものだった。それを補うように、姉のエリカがただただ前だけを目指せるように、状況判断と指揮を肩代わりしている存在が妹のカリエなのである。

 カリエの指揮能力、情報収集能力に対してみほは敵わないと感じていた。彼女には人を自然と従わせてしまう不思議な魅力がある。事実、彼女の鍛え上げた車両、彼女が選抜した乗員は皆心酔するかのようにカリエにつき従っている。詰め将棋のように部隊を展開することに掛けてはみほが長けてはいる。だが味方の鼓舞であったり一からの部隊作り、そしてそれらの部隊の統率力においてはカリエが圧倒しており、みほがどうしても手に入れることのできない破格のスキルだった。情報収集能力は言わずもがな。綿密な調査と分析力に裏打ちされた彼女の知識はいつだって黒森峰に勝利の栄光をもたらしてきていた。

 しかもカリエにはエリカという最堅の盾と最強の矛がついている。

 無理に攻めに転じなくとも、相手を叩きのめしてくれ、ひとたび自身が危機に陥れば必ず身を挺して守ってくれる姉がいるのだ。エリカが後顧の憂いなく前に進むことができるように、カリエもまた前門を気にすることなく策を練ることができたのである。

 

 二人で一つ。一つが二人。

 

 それぞれが優れた選手であるというのに、持ちうる長所を最大限に発揮できる姉妹の絆をみほは素直に羨ましいと感じていた。

 

 以上の理由からみほは自身を赤星小梅と同じくらいの、黒森峰の実力面での四番手としてカウントしていた。

 彼女は幼い頃から自己評価が低く、それが弱点であることも理解はしていたが、類い希なる実力者に囲まれた環境がそのウィークポイントの改善を長年許してはくれなかった。だからこそ、今この瞬間も自身の中で一番手であるまほに攻め続けられている状況になかなか活路を見いだせずにいる。

 

 ——けれども、みほの目はまだ死んでいなかった。

 

 一番手の姉とそれと同等に近い実力者の島田ミカを相手にしてもなお、まだ心は折れていなかった。

 四番手には四番手の矜持とプライドがあるんだ、と言わんばかりに防戦に徹していたカチューシャに指示を下す。みほの言葉を聞いた二人はそれぞれ対照的な反応を見せていた。

 カチューシャは「正気!?」と今日一番の驚愕を、対するエリカは深い深い溜息を吐き出したのちに「仕方がないわね」と頭を抱えつつも了承の意を見せていた。

 活路ではなくともそこに道はある。戦車は火砕流の中だって道さえ見失わなければ前に進める、とみほが零した。その言葉を受けてカチューシャもまた「ああもう! 失敗したらシベリア送り100ルーブルよ!」と自身の頬を勢い任せに両手で叩く。

 

 みほの両の瞳が前を見つめた。

 

 

01/

 

 

「クイックが遅い! そんな大ぶりなモーションだから隙だらけだ!」

 

 道中に出くわした一両のパーシングにカリエのパンターが砲弾を叩き込んだ。貴重な一発には違いないが、発砲直後の一番無防備な状態の時にエンジンの排気口を撃ち抜かれたパーシングは沈黙しか道が残されていない。白旗を揚げて動かなくなったパーシングの横を颯爽とパンターが駆け抜けていく。

 

「ねえ、ナナ。クイックって何?」

 

 無線機の故障により、本業が休めになっている通信手がナナに問いかける。彼女は遊園地内の地図と自車の位置をホワイトボード上で対比させながら経路をナビゲーションし続けていた。

 

「多分、野球のピッチャーのモーションのことだと思います。ほら、ランナーを背負ったときにわざわざワインドアップ——大きく振りかぶって投げていたらランナーに盗塁され放題じゃないですか。だからランナーがでてしまったときは振りかぶらずに、最小限の動作でボールを投げるんですよ。ピッチャーは」

 

「ふーん、詳しいんだね。我らが副隊長殿も普段から野球にお熱だから直ぐにそんなたとえ話が出ている訳か」

 

 通信手の言葉に車長席からこちらを見下ろしているカリエが応えた。

 

「いや、結構莫迦に出来ないんだよこれが。野球で学べる大事なことはおよそ戦車道でも同じ事だ。私はもう、それを見失ったりはしない」

 

「なら野球における必勝の秘訣とは? もし同じようなものなら今回の試合だってそこに活路はありますよね」

 

 通信手の問いにカリエはほぼ即答と呼べるものを返した。彼女は——、いや彼は、キャッチャーであったカリエらしい野球哲学が即座に口から零れていた。

 

「常に相手の裏をかくことだ。配球だって盗塁だってバッティングだって、対戦相手の予想を外せば勝ち筋は必ず見えてくる」

 

 

 

02/

 

 

「さて、もうすぐ先輩方がこちらに到着するみたいだ。でももうここいらで決着がつきそうだね。妹さんも頑張ったけれどそろそろ時間切れかも知れないね」

 

 細かいステップを踏み、カンテラのリズムに合わせるかのように動き回っていたBT−42がいよいよ照準を固めた。共に動いていたまほのティーガーⅠも同様の動きを取っている。

 

「油断するな。彼女は私が母以外で唯一畏れた——敵わないと感じた戦車乗りだ。最後の最後まで気を抜くことは許されない」

 

 建造物の陰で身を寄せ合っていたみほのティーガーⅠ、エリカのティーガーⅡ、そしてカチューシャのT34/85がいつの間にか動きを止めている。普通に考えれば、まほとミカの猛攻によって何かしらの車輌トラブルが発生し、身動きが取れなくなっていると考えるのが道理ではあるが、まほはその決めつけを佳しとしなかった。

 彼女は三割の確率で妹との模擬戦に敗北していた経験則を決して無視はできなかったのだ。

 

「でも、七割は勝っていたのかい?」

 

「いいや、三割負けていたのだ。これは逸見姉妹の妹の弁ではあるが、三割打つ打者は超一流だ。そして彼女はこうも言っていた。相手の打率が三割を超えているときは多分、大体打たれる、と」

 

「――キミらしくないね。もっと自信家というか、絶対的な負けない、という気持ちに支配された人だと思っていた」

 

 ミカの言葉にまほはふっ、と苦笑とも取れる自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「まさか、私は元来昔からとても臆病よ」

 

 動きがあった。エンジン音からみほのティーガーⅠが動き出したのだと二人は理解した。そしてトランスミッションがバックギアに入っていることも瞬時に察する。二人が卓越した戦車乗りであるからこそ、それぞれがみほのティーガーⅠの動きを予測せしめた。

 

「なるほど、キミの妹は間違えない。この試合、何を大事にしなければいけないのかわかっているみたいだ」

 

 全力で後退を進めるティーガーⅠを援護するかのようにティーガーⅡとT34/85が発砲を繰り返す。まほをして恐ろしいと言わしめる戦略眼をもつみほを何とかこの場から離脱させることが最適解であることに、向こうは気がついているようだった。攻撃力で一番勝るティーガーⅡを敢えて見捨てる戦法をとったことにミカは驚きを間違いなく感じてはいたが、それを表に出すことなく静かにアキとミッコに指示を下した。

 

「無理に追わなくて良い。もう手は打っている。私たちはまず、先頭のティーガーⅡから頂こう」

 

 ミカの言葉にアキが疑問を呈した。

 

「でもそんな悠長なことをしていたら黒森峰の隊長さんに逃げられちゃうよ!」

 

 主砲の砲尾を閉じたアキに対してミカはカンテレを奏じながら応える。

 

「逃げ出した先に幸せがあるとは限らないのさ。——私がそうだったようにね」

 

 アキはその時、ミカの瞳を覗き込んでしまったことを後悔した。いつもは飄々と、それこそ風のように掴み所の無いミカがまさかこんな視線を形作ることが出来るなんて、と生唾を飲み込む。

 それもこれも、夏の大会で逸見姉妹と対戦し、その姉妹の連携を眼にしてしまったからだ、とアキは考えた。

 ミカから聞かされた実家の事情が事実であるのならば、あの二人の姿はミカにとって余りにも眩しくて絶望的だったに違いない。

 

「私はT34を押さえる。後は任せた。ティーガーⅡは足回りが特に弱点だ」

 

 まほのティーガーⅠが動き出した。こちらも遅れまいと、ミッコがBT-42を進める。ミカは車長席の防弾ガラス越しに、蛇のパーソナルマークが刻まれているティーガーⅡを静かに見つめた。

 

「そろそろ年貢の納め時かも知れないね、お姉さん」

 

 

03/

 

 

「『仲悪そうだけれども本当は大親友だよ作戦』ね。ま、これが成功したら友達くらいにはなってあげてもいいわ!」

 

「つべこべ言わずにあんたもバックギアに早く入れなさい!」

 

 

04/

 

 

 不思議なことが起こった。後退し始めていたみほのティーガーⅠに続いてカチューシャのT34/85までもが後退を始めたのだ。2両で死力を尽くしてみほを逃がすつもりだ、と読んでいたまほはまさかエリカ一人を殿につけるつもりなのか、と驚愕していた。

 たとえ王虎と呼ばれるティーガーⅡであっても、まほとミカの二人を相手にして持ちこたえることなど不可能である。即座に撃破されて、中途半端に逃げ出したT34/85が狩られ、最終的には機動力で劣るみほのティーガーⅠがBT-42に捉えられてゲームセットだ。

 まさかここに来て黒森峰のみほとエリカ、そしてプラウダのカチューシャが仲違いをしたのかと、邪推にまで思考が誘き寄せられた。

 しかしながらその僅か数秒に満たない姉の硬直を妹は誘っていたのだと、まほはようやく気がついた。

 

「っ! ミカ! 来るぞ!」

 

 ティーガーⅡの特大の発砲音に紛れながら、そのエンジン音はいつの間にかこちらに近づいていた。だがギアはバックのまま。トランスミッションの切り替えがなされなかったことも、まほが妹の意図に気がつくまでの時間を稼いでいた。

 

 遊園地の建造物の幾つかはモルタルで出来た張りぼてである。

 建物としての強度など殆ど無い。みほたちが盾にしていた建物こそ石造りのそれだが、まほ達の周囲にそびえ立つそれらは間違いなく張りぼてだった。

 まほの頬を冷や汗が一つ流れ落ちる。

 ティーガーⅠとBT-42の向かって右側にあった壁を突き破って何かが出てきた。主砲の強度を信じて前を向いたまま、されど車輌は後進のままみほのティーガーⅠが飛び出てきたのである。おそらくバックのまま路地を回ってこちらの死角をついてきたのだろう。主砲が装甲で劣るBTー42に向いていた。

 もうBT-42がそれを回避する時間は残されていない。

 

「私は誰も見捨てません! この試合に参加してくれた誰であろうと、捨て駒になんかしたりしません! それはカリエさんも同じ事です! だから!」

 

 みほが車長席で吠えた。

 

「必ずお姉ちゃんに勝って、私の黒森峰を、私の友達を取り戻します!」

 

 砲声が遊園地内に大きく鳴り響いた。

 

 

05/

 

 

「何とか間に合ったみたいね。隊長のお姉さん、少し危なかったんじゃない?」

 

 パーソナルマークは黄色い菱形。アズミのパーシングの主砲からは白い発砲煙が噴き上がっていた。

 

「でも撃破まではいかなかったか。流石ティーガーⅠ、正面の防盾を貫通するのはまず無理そうね」

 

 パーソナルマークは赤い四角。風に黒い髪をたなびかせながら、まほの背後から進み出てきたのはもう一両のパーシング。

 

「——いいや、予想よりも随分と早い合流でした。感謝します」

 

 淡々とまほが上級生である二人に言葉を返す。着弾のショックからか、硬直状態に陥ったティーガーⅠのキューポラでみほは唇を噛んでいた。彼女の正面にはティーガーⅠ、BT-42、そしてパーシングの2両が展開しており、一人特攻をかけた分、完全に孤立してしまっていた。しかもエリカたちの射線に割り込んでしまっている所為で、二人からの援護射撃もままならない。

 

 ——まさかこんなに合流が早いなんて!

 

 言葉にならない叫びがみほの中に渦巻いている。四面楚歌、絶体絶命のこの状況。どれだけ頭を巡らせても挽回の糸口が見つからなかった。手もとにあったカードを切り尽くしてしまったことは彼女が一番理解していた。

 

「さて、申し訳ないけれど黒森峰の隊長さんにはご退場願おうかしら」

 

 アズミのパーシングの主砲がみほのティーガーⅠにもう一度狙いを定める。BT-42を救うための突発的な先ほどの砲撃とは違い、今度は間違いなくティーガーⅠの装甲の中で貫通できるところを狙ってくるだろう。

 

 ——せめて、せめて一両だけでも!

 

 みほが車内でハンドサインを形作る。それは手近な目標を何としても撃ち抜け、という指示だった、砲手が慌てて一番近くのBT-42 へと照準を合わせる。だがその動きは今の状況では余りにも緩慢で、どう足搔いても間に合うようなタイミングではなかった。

 

 

 ——ごめんなさい! エリカさん! カリエさん! みんな!

 

 目を閉じようとするのを必死に堪えて着弾の衝撃に備えるべくみほはキューポラの中へと飛び込む。余りにも呆気ない終わりに失望を感じるよりも先に謝罪の言葉が脳裏を埋め尽くしていた。

 

 

 

 だが、まだ勝利の女神は彼女達を見放していない。

 

 

 アズミとメグミが間に合ったということはすなわち、もう一両、この場に飛び込むことを許された車輌があったと言うことである。

 

 

「西住殿! 全力で後退を!」

 

 何かが大学選抜チームの眼前に投げ込まれた。それが直ぐ近くに飛び込んできたⅣ号戦車の車長席からもたらされた物であることにその場の誰も気がつかない。だが西住流の後継者として血の滲むような努力を積み重ねてきたみほは即座に車長へ後退を指示していた。そして鉄火場の中心に投げ込まれたのはあろうことか発煙筒だった。

 

「煙幕か!」

 

 まほが即座にみほを撃破するべく発砲を指示した。だが吹き上がる煙がもたらしたほんの僅かな猶予を掻い潜ってみほは全力でその場を後退。砲弾を紙一重でかわすことができていた。

 

「エリカさん! カチューシャさん! 秋山さんのⅣ号戦車に続いてそのまま撤退を! このまま逃げます!」

 

 Ⅳ号戦車戦車はみほたちを包囲する大学選抜チームの真横をエリカたちめがけて駆け抜けていった。最初から発砲による妨害など考えていなかったのだろう。もし発砲によってみほを救っていたとしても、返す誰かの砲撃でティーガーⅠとⅣ号戦車、どちらも撃破されていたに違いない。優花里が発煙筒による一瞬の目眩ましを選択したことが功を奏していた。

 

「っ! 逃がすか!」

 

「アズミ、私たちで追うわよ。お二人は隊長の指示を仰ぎつつ、態勢を立て直して!」

 

 しかしさすがというべきか、大学選抜チームで部隊を任されている二人の反応は迅速だった。すぐさまパーシングの履帯をフル回転させて、逃走を開始したティーガーⅠとⅣ戦車の追撃を開始する。まほも同じように追うべきか、と一瞬思い悩むが、想像以上に乗員と車両の損耗が激しいことを確認してその場に止まった。今は勢い任せで動くべきではないという判断だった。

 

「君の妹は中々どうして面白いね。まさか自ら突っ込んでくるとは驚いたよ。自分のチームにおける価値がわかっていないわけではないだろうに」

 

 同じように態勢を立て直すべく、その場に止まっているミカがそう嘯く。彼女は自身の読みが外れていたことをある意味で楽しんでいるようだった。

 

「カリエの言っていた通りだった。三割という確率はほぼ的中するな。一見すると奇抜にしか思えない策を迷いなく取ることができることがみほの強みだ。本物の天才とはああいった人間を指しているのだろう」

 

 相変わらず嬉しそうだね、とミカが流し目を送る。まほは真っ直ぐ前を向いたまま「ああ」と屈託無く応えていた。

 

「まだまだみほと、黒森峰の皆と戦えるのがこの上なく嬉しいんだ」

 

 

06/

 

 

 大洗のⅣ号戦車が間に合ったことで何とか窮地を脱することができたと、エリカは安堵まではいかないものの、ある一定の落ち着きを取り戻していた。まだまだ大洗に対しては複雑な感情を持て余している彼女ではあったが、助けられた事実は変わりないために一応は礼を言っておくべきか、と無線を手に取る。

 だが、しかし——

 

「追いかけてきてるわね」

 

 車長席から背後を確認してみればティーガーⅠとⅣ号戦車の少し後方からパーシング2両がこちらに向かってきていることに気がついた。やはりそう易々とは逃がしてくれないか、とティーガーⅡの主砲を後方へと向ける。どうせ鈍足なティーガーⅡは直ぐにパーシングに追いつかれるのだろうと、足止めに回る心づもりだった。

 

「——いや、違う。でもこれは……」

 

 後は徐々に減速を命じて、遮蔽物の陰に陣取るだけだった。けれどもエリカはその指示をためらった。しかもその躊躇い方は後ろ向きと言うよりもどこか前向きな、もっと他に何かあるだろうという虫の知らせのようなものだった。

 

 エリカがやや後方のⅣ号戦車を見る。

 全くこちらにコンタクトを取ってくる様子は見られないが、あそこにはカリエが乗車している筈だ。黒森峰を追い出され大洗に転校した妹が乗り込んでいる。

 そしてふと思う。

 さすがにこんな状況になってもウジウジしているようなタマだっただろうか? と。確かに夏の大会の敗北はショックだったろう。暴走とも取れる単独先行が原因だったことも一部事実だ。黒森峰上層部に見限られたことに絶望したのも間違いない。

 違和感がどんどん膨らんでいく。

 エリカの信じる逸見カリエは根っこの部分では自分によく似ているのだ。感情の発露こそ鏡のように対称的だが、結構激情家で間違いなく負けず嫌いで、決して内向的でなく周囲が思う以上にしなやかで活動的だ。

 

 そんな妹がこのピンチの連続で何もしない。ただの装填手として甘んじるなどあるのだろうか?

 

「ねえ、思いっきりブレーキを踏んで。Ⅳ号戦車とティーガーⅠの背後に出るわ。足止めではないけれど、黄色い菱形のパーシングを狙えるように調整」

 

 ティーガーⅡの乗員が指示を疑問に思うことはなかった。彼女達もまた、エリカがカリエを信じ続けているようにエリカのことを信頼しきっているからだ。もしエリカが判断を誤ったとて、それを不満に思うことも糾弾することもない。彼女達は自分たちのことを、エリカの思うままにティーガーⅡを動かす部品であるとある意味で徹底していたのだ。

 

 ティーガーⅡがティーガーⅠとⅣ号戦車の横を擦り抜けた。そしてパーシングとの距離が急速に縮まっていく。アズミとメグミもティーガーⅡの乱心とも取れる動作に驚嘆し、咄嗟の指示がほんの刹那遅れてしまった。

 

「良い牽制だ! エリカ!」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえる。パーシング2両の背後からいつか見慣れたパンターが飛び出してきた。狭い路地でひたすら息を潜めていたのか、側面のスカートは傷だらけになっている。

 車長席にはいるはずのナナではなく、いないはずの白い影があった。

 エリカは咽頭マイクにありったけを叫んだ。

 

「あんたから見て右! 赤いパーソナル!」

 

 言葉はそれだけで十分だ。急加速したパンターがアズミのパンターと接触する。誤射を恐れてメグミはパンターへと中々狙いをつけられずにいた。

 そしてティーガーⅡが、急減速したエリカがアズミのパーシングの鼻っ面を押さえた。

 

「ぶっかましなさい!」

 

「無理! パンターじゃこいつの天蓋は抜けない!」

 

 しまらないわね、と言うよりも先にティーガーⅡの主砲が火を噴いていた。

 パーシングの防盾にぶち当たった砲弾がショットトラップの要領で真下に跳弾。アズミのパーシングは徐々に力なく減速していく。取り残されたメグミだけが、直ぐさま思考を切り替えて逃走したみほと優花里の追撃を再開していった。

 

「どこほっついてたのよ。やる気出てきたんならもう少し急ぎなさいよ」

 

 メグミのパーシングが遠ざかっていくのを確認したエリカはティーガーⅡの天蓋に立ち、その人影を見下ろした。ともすれば殺意すら覗かせるその瞳に人影は「やっぱパス」とキューポラの蓋を閉めようとする。

 

「駄目ですよ、副隊長! しっかりごめんなさいはしてきなさい!」

 

 閉められなかった。下からナナに押し上げられてパンターの天蓋へと転がされる。しかも追い出された直後に天蓋を閉められて逃げ場を塞がれるオプション付き。

 

「いや、ダージリンさんの救援にちょっぱやで向かってからきたので。あと、無線壊れちゃってるから予備を貸してくれると嬉しいなーって。多分みほとエリカの車輌には積んでたでしょ」

 

 蹴りが飛んだ。お腹を踏みつける優しい蹴りだった。口端から零れる笑みを隠し切れていないエリカの嬉しげな蹴りだった。

 

「細かい話は後から聞くわ。取り敢えず今はみほ達を追いかけるか別行動を取るか考えないと。ま、でもあんたがいれば何とかなるか」

 

 天蓋に仰向けに転がされていた人影を——カリエをエリカは手を差し伸べて助け起こした。

 

「お帰り、カリエ」

 

「ただいま、お姉ちゃん」

 

 瞬間、エリカが何故か地団駄を踏んだ。いつの間にかキューポラの蓋を少し開けて、様子を伺っていたパンターとティーガーⅡの乗員達はこそこそと会話を交わし始める。

 

「あれ多分、発作的に抱きしめようとして試合中だから思いとどまった感じっすよ」

 

「シスコンもあそこまできたらなんか面白いですね」

 

「ふ、副隊長! まだごめんなさいをしてませんよ!」

 

 ギロリ、とエリカの瞳が今度は殺意を隠すことなくそれぞれの乗員に向けられた。蓋が再び音を立てて二つ閉じられる。

 

「たく、本当にどいつもこいつも良い性格をしているんだから。ま、いいけど。で、カリエ」

 

 エリカが真っ直ぐカリエを見据える。立ち上がったカリエも同じ視線をエリカに向けた。

 

「久しぶりに黒森峰の逸見姉妹ここにあり、って見せつけてやりましょう。ここから先はもう誰も私たちを止められないし、止まらせないから」

 

「いいね、エリカ。アライバやスガコバばりの絆を見せつけてやろう」

 

 あんた時たま訳のわからないことを口走る癖何とかしなさい、とエリカがカリエを小突く。カリエは小さく笑って、「これでいいんだよ」と応えた。

 

「これが『( わたし)』、逸見カリエだから」

 

 

 

 

 

 

 

 



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逸見カリエの戦車道 17

 逸見カリエが姉のエリカと合流し、ツーマンセルとして行動を開始したことは直ぐに高校選抜チームのメンバーに対して無線を通じて周知された。みほと優花里がなんとか大学選抜チームのパーソナルをまくことが出来たこともほぼ同時に報告されており、久方ぶりの良い知らせたちだ。

 

「——どうやらこちらに流れが向かい始めたみたいですね。このまま一気に畳みかけたいものですが」

 

 グロリアーナとサンダースの混成チームは遊園地の中央を目指していた。立て続けにもたらされた朗報に心なしかメンバーの様子は浮き足立っている。そんな中でアッサムは淡々とダージリンに試合の状況を伝え続けていた。

 

「そう願いたいところだけれども、『大将たらん人は、心に油断の義ありては叶うべからず。あまたの心得あるべし』 流れが良いからこそ、兜の緒はしっかりと締めたいところね」

 

「日本史の偉人、楠木正成の言葉ですか。確かに少し私たちに都合の良い流れが来すぎていると思います。それにあちらの大将——島田愛里寿さんの沈黙も不気味です。これまで会敵した人は誰もいません」

 

 オレンジペコの言葉にダージリンはその通りね、と満足げに頷いた。彼女は周囲の警戒を車長席から行いながら言葉を重ねていく。

 

「でもこの流れに乗りきらなければならないのも事実。カリエさんならば流れ有るときこそ大胆あれ、と言うはずよ。T28の撃破がなった今、残ったパーソナルのパーシングを狙うか、それともまほさんと継続のBT-42を撃ちにいくか、決断の時かも知れないわね」

 

 ダージリンは思案する。カリエはどう考えているのだろうか、と。エリカと合流が成功した今ならばきっと彼女も同じようなことを考えているだろう。ならばそれの援護にいくのも悪くないし、逆にカリエが向かわなかった方へ部隊を進めるのも一興である、とダージリンは自然と無線機に手を伸ばしていた。カリエ車への直通のチャンネルは補給を行ったときに聞いている。恐らくエリカと合流したことで新しい無線機を手に入れているであろうカリエ車にダージリンは問いかけを投げようとした。

 すうっ、と少しばかりの緊張感を身に纏いつつ息を一つ吸い込む。

 

「ダージリンさん! 不肖、知波単の西絹代です! やりました! 大洗のアヒルさんチームとの連携により裏手から侵入してきたパーシングを撃破いたしました!」

 

 鼓膜に穴が空いたかと錯覚するほどのよく通った声。思わず耳を押さえたダージリンをアッサムとオレンジペコが心配げに見上げる。恐らく車内にヘッドホンから声が響き渡っていたのだろう。二人とも絹代の報告がどのようなものだったのか察しているようだった。

 喜ばしいことですね、とオレンジペコの必死のフォローがエンジン音に虚しく消えていく。

 

「報告は受け取りました。ですが次からはもう少し声量を抑えて下さい。——引き続き大洗のチハ戦車とともに索敵、及び警戒をお願いします」

 

 無線のマイクを一度本体に戻し、ダージリンは大きく息を吐く。

 折角カリエに連絡が取れる、と内心喜んでいた彼女は一気に現実へと気持ちが引き戻されてしまったことによって何処か不機嫌そうだった。触らぬ神になんとやらといわんばかりに、こちらに振り返っていたアッサムとオレンジペコの二人はそれぞれの持ち場にきっちりと座り直す。

 

「でもこれでますますこちらに流れがきたのもまた事実、か」

 

 ダージリンが思い直したとおり、絹代の報告はさらなる朗報であることは間違いない。現時点で高校選抜チームは大学選抜チームに対して数的有利を取ることが出来つつあるのだ。殲滅戦においてそれが意味するウェイトは非常に大きい。

 だが気がかりがないと言えば嘘になる。先ほどもオレンジペコが溢してたとおり、島田愛里寿の動向がここまでいっさい掴めていないのだ。ダージリンの下調べが間違っていなければ、彼女もまた怪物じみた力量を持つ戦車のはず。それこそ黒森峰のナンバーワンである西住みほや次点のエリカやカリエを凌駕しかねないほどには。そんなトップエースが一向に前線へ出て来ないのは何かしら理由があるのだろうか、と思い至った時、ふと口端から言葉が漏れた。

 

「そうか、お姉さんの島田ミカか」

 

 今回の試合で継続高校に出奔したミカが参戦していることは既にダージリンの耳にも届いている。その姉妹仲が中々ややこしい問題を孕んでいることも同じようにリサーチがついていた。何かしら姉に思うところがあって動けないのだとしたら、これはチャンスではないか、と一筋の光明を見つけた気分になる。

 

 だが——、

 

「いや、違う。もしこの推測が正しいのだとしたら、島田ミカは島田愛里寿のウィークポイントなどではなく、むしろ」

 

 ダージリンが忘れたくても中々忘れられない光景の一つ。それは二年前の夏の大会の出来事だ。当時、既に名を馳せていた逸見姉妹を討ち取るべく彼女はさまざまな策を弄した。だがその結果は散々たるもので姉のエリカを激昂させてしまい、むしろ手がつけられない状況を生み出してしまっていた。

 もしも愛里寿がそれと同じパターンだとしたら? こちらは島田ミカが妹の愛里寿を気遣って動いていると想定していたがそれが逆だとしたら? 愛里寿がミカに対して何かしらの思いを、それこそ負い目を感じていて自由に動けないのだとしたら?

 

 まほとミカ、そしてメグミの誰かを撃破するべくカリエやエリカ、その他のメンバーは動き始めている。しかしながら一歩選択肢を間違えてしまえば竜の尾を踏んでしまう結果につながりかねないのではないか?

 さまざまな疑念がダージリンの中に渦巻いては消えていく。折角黒森峰に復帰することが叶ったのに、伸び伸び戦うことをカリエに許すことができない状況に歯噛みする。

 彼女の長い長い沈黙に割り込んできたのは、意外なことにサンダースのケイだった。

 

「ねえ、ダージリン。ジェットコースターの上から偵察をしてくれているアンツィオから今連絡があったのだけれど、ずっと外周を警備していたあちらのパーシングがいつの間にか姿を消しているみたい。多分、遊園地内の劣勢を受けて増援に加わるつもりね」

 

 弾かれるようにダージリンが地図を見た。残存車両状況が書かれたホワイトボードはアッサムが砲手席からこちらに掲げてくれている。

 

「——しまった。島田ミカに気を取られすぎたわ。もう彼女は、島田愛里寿は」

 

 瞬間、砲声が背後で鳴り響く。振り返ればアリサのシャーマンが火炎と黒煙を噴き出して停車していた。そしてその背後から恐るべき速度でこちらに近づいてくる影を見つける。

 

「ダージリン様!」

 

 オレンジペコが砲弾を叩き込み、アッサムが発砲するも掠りもしなかった。縦横無尽に動き回るセンチュリオンが急速に接近してきている。

 

「最後まで動かなかったのはおそらくブラフ! ミカとの不協和音を演出していただけだわ! 彼女は我々が一番気の緩む今を狙っていたのね!」

 

 センチュリオンの砲口とダージリンの目線が重なる。鈍重なチャーチルでは間違いなく逃げ切ることができない。ご自慢の重装甲も、この距離とあちらの技量なら間違いなく抜かれる。

 ダージリンは自身の終わりよりも先に、無線機を再び手に取り、ありったけを叫んだ。

 

「カリエさん! すぐに島田ミカを倒しなさい! 猶予はもうないわ!」

 

 複数の砲撃音が遊園地内に大きく轟いた。

 

 

01/

 

 

「隊長、このまま外周を回れば次は裏手門に展開している日本戦車たちと会敵することができます。それらをすり潰せば、いよいよ本命に手が届くかと」

 

 車内の副官の言葉に対して愛里寿は小さく頷いた。彼女は姉との合流はもう少し先になりそうだ、と消え入りそうな声で呟く。

 

「今入った報告によると、こちらのチャーフィーと向こうのクルセイダーが相打ちになったようです。ですがこれまでの隊長のご活躍により、向こうに取られた数的優位を取り戻しつつあります」

 

 そうか、と愛里寿は淡々と答える。彼女はふと懐から一枚の写真を取り出していた。それはまだ姉が家にいたころに家族で撮影した随分と古いものだ。まだ戦車道の世界に自分が飛び込んでいなかったこの頃は、姉妹揃って笑い合うことが少しばかりあった気がする。

 

「——あちらの姉妹はボコね。どれだけボコボコにされても必ず立ち上がって挑んでくる。本当、私たちとは正反対」

 

 続いて彼女が目にしていたのは残存車両が記載されたタブレットの画面だった。そこには顔写真付きで各選手と車両のデータが表示されており、トップに鎮座しているのは黒森峰の逸見姉妹。

 

「でも大丈夫だよ、ボコ。私は一人でもこの二人に勝ってみせるから。私はこんな甘い人たちに絶対負けないから」

 

 車長席の右手側に吊るされた小さなボコ人形を愛里寿は優しく撫でる。ただその目線だけは依然として鋭く前をしっかりと見据えていた。

 

「自軍のパーシングが一両、今やられました。どうやらタンケッテに誘導されて、水路に落とされたようです。ここから一本向こうの路地ですので、今から向かえばあちらの車両を二両、潰すことができるかと」

 

 愛里寿は通信手の報告に是と返した。彼女はキューポラから身を乗り出し、細かな指示を咽頭マイク越しに全軍と自車両に下していく。

 

「一つずつ、確実に行こう。その積み重ねがあの姉妹を最終的には追い詰める」

 

 

02/

 

 

「あの女の指示に大人しく従うのは癪だけれども、正直言って継続を撃破するのは賛成よ。まほさんとの連携を鑑みても、あれは相当脅威になっている」

 

「ただ夏の大会は私という餌で誘き出すことができていたけれど、今回はダメだ。向こうには私たちと無理に戦うメリットがない。すでにサンダースがやられて数の有利もなくなってしまっている。少しずつこちらを削ってくる戦法を取られるとジリ貧だ」

 

 並走するパンターとティーガーⅡのキューポラ越しに姉妹は作戦を練り続けていた。ダージリンが直前に送ってきた通信。そこから考えられるのは島田ミカと愛里寿の合流という考えられる限り最悪の展開だ。

 

「一応不仲説はあるけれども、それでどうこうなるような技量じゃないのは確かよ。ビジネスライクにツーマンセルを組まれると面倒なことこの上ないわ」

 

「つまりはせんたくバッテリーを打ち崩さないといけないわけか。こちらもオガラミ砲で迎え撃たないと——十年くらい現役期間が違うけれど」

 

「もういちいち突っ込まないけれど、何かいい策でもあるの? ただこちらが連携するだけじゃ正直ジリ貧よ」

 

 エリカの言葉にカリエはうーん、と首を捻った。だがそれも数秒のこと。彼女はすぐさまエリカの方へと向き直ると、どこか自信を覗かせながら言葉を続けた。

 

「そもそもなんか前提が違う気がする。島田姉妹って本当に不仲なの? 夏の大会の様子を見てたらどうもひっかかるんだよなぁ」

 

 カリエに対してエリカは「でも妹ほっぽって出奔する奴が仲良いわけないじゃない」と厳しい姉トークを展開していた。なんかエリカはミカに対して心なしか厳しいね、と苦笑が溢れる。

 

「どちらにせよ、あちらの姉と妹が合流したら面倒なのは間違いないわ。悔しいけれどもダージリンの戦略眼が信頼できるのもまた事実。ここは大人しくまほさんと行動を共にしている島田ミカを仕留めにいきましょう」

 

 カリエは即答しなかった。エリカの提案がダージリンの狙いが正しいことは分かりきっていたが、カリエの中にある「彼」が警鐘を鳴らしている。

 

「ねえ——エリカ」

 

 カリエがもう一度エリカを見た。硬さも緊張感も感じられない、むしろどこか愉しげな悪戯前の悪餓鬼のような表情がそこにはある。

 

「敢えてあちらのお姉ちゃんへのマークを外してみようか」

 

 

03/

 

 

 アンツィオのタンケッテ、大洗のルノーB1hisを撃破した島田愛里寿は続いて日本戦車狩りに邁進していた。いくら機動力に優れていようが、島田流の前では無意味。装甲などあってないようなものだから、1両、1両確実に息の根を止めに行っている。

 

「アヒルさん、助けに来たよ!」

 

 大洗のレオポンさんチーム——ポルシェティーガーが眼前に立ちはだかる。やけにちょこまかと逃げ回るな、と思ってみれば成る程、こちらに誘導していたのかと愛里寿は少しだけ感心していた。結成から一年も経っていない素人同然のチームという考えはやはり間違っていたのだ、と気を引き締める。逃げ回りながら装甲火力に優れた車両の眼前に誘き出すテクニックは強豪校でも中々会得することが難しい上級の戦術が故に。

 

 だがそれすらを喰い破っていくからこそ、自分は島田流の後継者なのだ、と彼女は次の指示を乗員に飛ばしていた。

 

「ブレーキ、一度目を回避。ポルシェティーガーは真後ろが弱点。逃げ続けるチハを視界に捉えつつ一つずつ確実に」

 

 ポルシェティーガーの88ミリ砲が火を吹く。だが、絶妙なブレーキワークの動きに翻弄されてセンチュリオンの装甲に掠めることもなく後方へと砲弾が流れていった。そしてその脇をセンチュリオンが駆け抜けていく。面食らったのはポルシェティーガーの背後で援護の構えを取っていたチハ戦車で、慌ててセンチュリオンからの逃亡劇を再開する。

 

「ツチヤ! 例のあれを!」

 

 ナカジマの一声でツチヤは手元に増設していた電子レバーを全てオンにした。するとポルシェティーガーの増設されたバッテリーたちが改造されたハイパワーモーターへの給電を開始した。戦車離れした加速と最高速が遺憾なく発揮され、横を駆け抜けていったセンチュリオンに肉薄する。

 

「よし、捉えた!」

 

 スズキがすぐさま次弾を装填し、ホシノが照準の中心にセンチュリオンの後部ラジエーターを映し出す。あとは引き金を引くだけだ、というタイミングで突如としてセンチュリオンの姿がぶれた。

 強引な超信地旋回によって背後に回り込まれたと気がつくことができたのは、その場には誰もいない。

 

「つれた」

 

 着弾の衝撃によってポルシェティーガーが激しく揺さぶられる。後部のラジエーターが撃ち抜かれていたのはセンチュリオンではなくポルシェティーガーだった。

 

「っひえー、これは流石に想定外だ」

 

 ツチヤの気の抜けた声のすぐ後に白旗が砲塔の天蓋から射出される。ほんの数秒の間に攻守を逆転されて撃破された事実を認識するまで、全員かなりの時間を要した。

 

「まるで忍者だね、ありゃ」

 

「うちの冷泉さんでも中々手こずりそう」

 

 自動車部員たちが戦慄しながら漏らす悔しげな声を置き去りにしてセンチュリオンが次なる獲物を視界に捉える。

 大丈夫。この距離ならもう外さない、と愛里寿は次弾の発砲を指示した。砲弾は彼女の狙い通り螺旋を描いて目標へと突き刺さった。主砲塔を撃ち抜かれたチハがぐるぐると回転しつつ沈黙する。わずか数十秒の間に彼女は大洗の主力2両を完全に手玉に取っていた。

 

「次は黒森峰の隊長と、プラウダの生き残り」

 

 園内地図に素早く眼を走らせた愛里寿が次の指示を下す。しかしながらふと、彼女は周囲を見渡す行動を取った。何処からか聞こえるエンジン音。味方のものではない敵のもの。

 

「——まさか!」

 

 一両、撃破されたポルシェティーガーの横を擦り抜けて車輌が飛び出してくる。互いの尻尾を加えるウロボロスのパーソナルマークが刻まれたパンター。さらに右前方から現れたのは第二次世界大戦の怪物、ティーガーを超える王たるティーガーⅡがこちらに照準を向けながら近づいてきていた。

 

「自分たちから仕掛けに来たのか」

 

 愛里寿の読みでは逸見姉妹はそのままみほとカチューシャの救援に向かうか、西住まほと島田ミカのどちらかを撃破しに行く筈だった。それが何と、そのどちらも無視して愛里寿の前に立ち塞がっている。

 

「エリカ!」

 

 ティーガーⅡが轟音とともに砲弾を吐き出した。もちろんそれをかわすことくらいならば愛里寿にとって造作もないこと。しかもカウンターを叩き込んで即座にティーガーⅡを撃破する余裕すらある。だが彼女はそれをしない。成せない。何故ならば猛チャージを仕掛けてくるパンターの動きを無視することができなかったからだ。

 

「くっ!」

 

 疾いし上手い、と愛里寿は言葉こそ出さないものの、パンターの操縦手の技量に驚いた。いくら機動力に優れた中戦車といえども、島田流で鍛えに鍛えた自分たちのセンチュリオンに肉薄してみせるなど、中々考えられることではない。

 

「ナナ、右! 今、撃て!」

 

 パンターの砲弾が僅かではあるがセンチュリオンの装甲に触れた。視界の端で少量の火花が血しぶきのように舞う。この試合初めての被弾に焦りこそしないが、それでも愛里寿は逸見姉妹の脅威度を一気に引き上げる必要があった。

 

「カリエ! 下がりなさい!」

 

 センチュリオンがパンターを狙えばティーガーⅡが直ぐさま割り込んでくる。そんなティーガーⅡを撃破せんと狙いを修正してみればちょこまかと鬱陶しさ満点でパンターが絶妙な緊張と距離感を保って嫌がらせのように砲弾を叩き込んでくる。

 やられた、と愛里寿は臍を噛んだ。

 

 

04/

 

 

 カリエが提案した作戦は至ってシンプル——「本丸を最後まで残す必要はない。もう撃破できるならしてしまおう」だった。

 大学選抜チームの統制が余りにも綺麗かつシステマティックで、その末端から叩いていけば本丸である島田愛里寿にたどり着けるような錯覚を覚えがちだが、あくまでこれは殲滅戦。撃破の順番などどうでも良く、尚且つ守るべきフラッグ車も存在しないために大胆な攻勢を仕掛けることも時には可能だ。ならば最大の脅威に今後なり得る島田愛里寿を早めに叩くことは理に適っているとエリカは直ぐさま同意を見せていた。

 

「あとは島田愛里寿の場所か。ダージリンの通信によればこの遊園地の外周に沿ってこちらの車輌を潰しに掛かっているようだけれど」

 

「外野フライと一緒だ。あっちが弧を描いて飛んでいるのならばこちらは最短距離で進めば良い。さっき報告では知波単と大洗の混成部隊はここに展開していると聞いた。幸い、大した遊具も見受けられないから障害物は踏み潰すか吹き飛ばすかして突入しよう」

 

「でもあんまり派手にやられると相手に感づかれるわよ」

 

「——感づいたところで逃げ出すようなタマじゃないでしょ。ただエリカ、正直彼女の技量はうちのみほ以上の可能性がある。何があっても私を一人にしないで」

 

 カリエの言葉にエリカは眼を丸くした。ここはあんまり出しゃばりすぎるな、とか勝手なことはするな、とか言われるものだとばかり思っていたものだから、「一人にしないで」とは随分意外な言葉だった。

 

「折角こうやって帰ってきたんだ。まだまだ私はエリカと一緒にいたい」

 

 全身の毛穴がぞわぞわした。やっぱり自分はこの子の姉なのだ、と声にならない歓喜が全身を支配する。いつかみほが言っていた、人をその気にさせる才能が確かにカリエには備わっているようだ。その証拠に心の何処かで感じていたちょっとした緊張感は既に霧散しており、今体中を駆け巡っているのは熱い高揚感だけ。

 

「いいわ。でもその代わり絶対ここで仕留めるわよ」

 

「もとよりそのつもり。徹底的に敵の四番をマークするのはこちらの常套手段だ」

 

 センチュリオンが放ったのだろうか。聞き慣れない砲声が通り向こうから聞こえてくる。無線に耳を傾ければ大洗のポルシェティーガーが撃破されたようだった。残念ながら同時に狙われている八九式中戦車の救援には間に合わないだろう。

 カリエがハンドサインをエリカに繰り出し、少しずつ離れていく。エリカもまた、センチュリオンの眼前に飛び出すことになる最短ルートを選択してティーガーⅡを進めていく。二人の予想通り、大洗の車輌を2両撃破したセンチュリオンが通り向こうにまだいた。あれが島田愛里寿か、とエリカが車長席の小柄な人影を認めたのと同時、カリエのパンターが背後からセンチュリオンに猛チャージを仕掛ける。 

 さすがと言うべきか島田愛里寿はぐるっと大回りに回ってパンターの体当たり染みた接近を回避した。ティーガーⅡの砲弾は残念ながら大外れだったが、しつこく食い下がるカリエのパンターが放った砲弾が僅かばかりセンチュリオンの装甲を削った。

 

 ——めちゃくちゃ強いけれども、やりようはある! 近接弾も増えてきた!

 

 エリカとカリエ、二人の間に会話らしい会話は存在しない。互いの名を呼ぶか、それすらもどかしいときはハンドサインと目線の動きだけで互いの動きをフォローし合っていた。

 パンターがセンチュリオンに一瞬だけではあるが接触した。ティーガーⅡの砲弾がセンチュリオンのスカートを吹き飛ばす。間違いない、愛里寿もその化け物染みた技量で逸見姉妹をいなしてはいるが、少しずつ追い詰められている。

 やはり数的優位を保つのは正解だったと、エリカとカリエ、双子のどちらも共通して抱いた感触だった。

 愛里寿の珠のような汗が土煙と砲煙に紛れて飛んでいる。カリエの滝のような汗が、乱雑に消されていた天蓋の数式をさらに滲ませた。エリカのしたたり落ちる汗の飛沫が、夏の日差しを浴びて熱くなっているティーガーⅡの天蓋に落ちて側から蒸発していた。

 3両の戦車が複雑怪奇な円模様を描き始めていた。しかしながらその中でセンチュリオンが描く円だけが少しずつ綻びを見せている。

 パンターの円が追い詰め、ティーガーⅡの円が進路を塞ぎつつあった。

 

「ストライク、バッターアウト」

 

 カリエのパンターの砲口がセンチュリオンの背後を遂に捉える。エリカのティーガーⅡが絶妙なタイミングでセンチュリオンの進路を塞いだ。センチュリオンの砲口は逸見姉妹の丁度真ん中をまだ彷徨っている。

 

 空が高い。雲が遠い。あの夏、最後まで取り切ることのできなかったストライクが、今カリエの手に収まろうとしていた。

 

 

05/

 

 

「カチューシャさん! 今です!」

 

 側面を晒したティーガーⅠにメグミのパーシングが突進した。鈍重なドイツ戦車が履帯に不調をきたして動けなくなっていた。勝利を確信したメグミではあったが、ここに来て、一緒に逃げていたはずのT34/85の事を思い出す。

 

「しまった、プラウダ!」

 

 突如としてパーシングの左側面の自販機が動いた。否、自販機が描かれた絵を被ったT34/85が動いたのだった。必中の位置に陣取ったT34/85が砲炎を吐き出す。

 やや遅れて飛び出した白旗は彼女達の勝利を告げていた。

 

「よしっ! 大洗の看板、借りといて良かったわ! 中々やるじゃない、ミホーシャ!」

 

 看板の背後に隠れ、擬態していたT34/85を操っていたカチューシャは喜色を浮かべながらみほへと笑いかける。

 

「まさかこんなものまで用意しているなんて、大洗の皆さんは本当に凄いです。どうりでこの試合中、Ⅲ突の皆さんを見かけないと思ったら、これで隠れていたんですね」

 

「あちらはこれで2両仕留めたみたいよ。これの擬態効果は結構馬鹿にならないわね。プラウダでも用意するべきかしら?」

 

「いえ、プラウダならば冬季迷彩が有効なのでは?」

 

 そこまで言って、みほは自分がすらすらとカチューシャと会話を続けることができていることに驚いた。自分で言っていて悲しくなるが、エリカやカリエと比べて人見知りの気がある自分が他校の生徒——しかもプラウダの隊長と普通に打ち解けている現実が未だに信じられないままでいる。

 

「……ま、あんたたちに思うところがないと言えば嘘になるわ。でも今この時ばかりは水に流して共に勝利を目指す仲間よ。このカチューシャが味方になるなんて幸運、めったにないんだから!」

 

 得意げに胸を張るカチューシャをみほは微笑ましく見守った。どことなくノンナから向けられている視線と同じものを感じ取ったカチューシャは「私の方が上級生なのよ!」と憤慨するが、みほの視線の色はそのままだ。

 

「ふん! まあ良いわ! 私の方がうわてだってことあんたにもそして——」

 

 それまで喜色を浮かべていたカチューシャの視線が瞬時に鋭くなる。そして彼女がちらりと振り返った先にはみほとはまた違う、もう一両のティーガーⅠ。

 

「そこの姉にも知らしめてやるんだから!」

 

「お姉ちゃん!」

 

 西住家、妹対姉。

 

 その第3ラウンドが始まろうとしていた。

 

 

06/

 

 

「——パスボール。いや、これはホームスチールを食らった感じだ……」

 

「カリエ! あんた無事!?」

 

 エリカの怒声が直ぐ近くで聞こえる。カリエはぐらつく頭を振りながら自車の損傷を落ち着いて確認した。

 ひしゃげた履帯の上部装甲が転輪に食い込んでいる。

 

「幸いBTー42だったからこれくらいで済みましたが、センチュリオンにやられていたら脱落していましたね」

 

 てこの原理で何とか装甲を引き剥がそうとしているナナが額についた大粒の汗を乱雑に拭った。パンターとティーガーⅡ、それぞれの乗員が総出で応急処置に勤しんでいる。

 

「しかしまさかあちらのお姉さんも飛び込んでくるとか、こればっかりは完璧に読みを外した。妹が少々追い詰められても我が道を行くタイプと思っていたのに」

 

 カリエは愛里寿にとどめを刺そうとしたほんの数分前の出来事を振り返る。完全にセンチュリオンを砲口の先に捉えたその瞬間、カリエのパンターは何かしらの衝撃を受けて横滑りしていた。何事か、と視線を走らせてみればこちらに体当たりをかますBTー42の姿が

あった。

 

 ——応援に来たのか!

 

 予想外の展開にカリエは咄嗟に言葉が出てこない。体勢を崩された今、センチュリオンがカウンターを叩き込んでくる。愛里寿の隔絶した技量ならばこの僅かな隙でこちらを撃破することなど朝飯前だろう。事実、宙を彷徨っていたセンチュリオンの砲口がこちらに流れ始めている。

 

 ——ごめん、お姉ちゃん!

 

 その叫びが現実になされたのかはわからなかった。だが着弾の衝撃に身を固めたカリエはもっと非現実的な光景を目の当たりにする。あろうことかセンチュリオンの砲口はそのまま流れ続け、明後日の方角を再び向いたと思えば、全速力で車輌ごとこちらから退避していったのだ。しかも体当たりしてきたBTー42までもがそのセンチュリオンを護るかのように続いて撤退していく。

 衝突の衝撃でぐらぐらしながら、カリエは呆気にとられてその光景を見ていた。

 彼女を現実に引き戻したのは横付けしたティーガーⅡから飛び移ってきたエリカの声だ。

 

 以上が、勝利目前の逸見姉妹に起きた出来事の顛末である。

 少しばかり見通しに隙があったか、とカリエは己の策を反省した。そして次の手を打つべく隣に立っている姉の方を見て——、

 

「くそ、人の妹を好き勝手してくれて」

 

 あ、ぶち切れてる。とカリエはエリカから一歩身を引いた。余りにも冷たい声色に周囲の乗員まで身を竦める。

 

「た、たぶんあちらも同じ事を考えているんじゃないかな」

 

 カリエの咄嗟のフォローはエリカの一睨みで無に帰した。ナナが小声で「副隊長、もっと頑張って下さい!」と檄を飛ばすが、触らぬ姉に祟りなしと言わんばかりにカリエはさらに一歩身を引いた。

 だが——、

 

「カリエ」

 

「はいっ」

 

 点呼だけで引き戻される。エリカの眼前に立ったカリエはだらだらと汗を流しながら視線を宙に彷徨わせた。

 

「じっとしてなさい」

 

「はい、お姉ちゃん!」

 

 ぎゅっ、と抱きすくめられる。強く強く抱きしめられる。余りにも力が強すぎて変な声が口端から漏れた。

 

「——こっちが勝ってると、全国に知らしめるわよ。何が島田姉妹か。熊本に逸見姉妹あり、じゃない、日本に、いえ、世界に逸見姉妹あり、と刻みつけてやるわ」

 

「う、うん。頑張ろうね」

 

 上擦った声にエリカは気がつかない。いつの間にか周囲の乗員達は応急処置を終えて、触らぬ姉妹に祟りなしと全員車輌内に引き籠もっている。

 

「勝つわよ、絶対に」

 

 意外なことに、その声はひどく優しげだった。




次回はお姉ちゃんパワー全開です。


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逸見カリエの戦車道 18

お待たせしました。あと二つ三つで劇場版は終わりです。


「お隣、宜しいですかな」

 

 逸見カオリは視線を静かに横に向けた。大学選抜チーム対高校選抜チームの試合会場に特設された観覧席。その一般席の隅に足を揃えて行儀良く腰掛けていた逸見カオリは、いつぞやに降っていた大雨を受けてその美しい銀の髪からぽたぽたと滴を垂らしっぱなしだった。

 

「湿度が高くてもよければどうぞ」

 

 暗に歓迎はしていないことを伝えた。あなたにはあちらの関係者席があるだろう、と屋根付きの座席が備え付けられた最前列に視線を向ける。だがその男、日本戦車道連盟理事長 児玉七郎は「乾燥肌なもので、丁度良いです」と朗らかに笑いながらそのまま隣に腰掛けた。

 そして品の良い扇子を揺らめかせながら、温かな眼差しで試合の趨勢を見守り始める。

 

「——何でもあそこでご活躍されている双子姉妹の叔母様だとか」

 

 即答はなされなかった。ちらり、と隣を伺ったカオリは小さく嘆息してようやっと口を開く。

 

「不肖の兄から生まれた突然変異ですよ。私も含めてこちらの血族は碌でもない者ばかり。多分、お義姉さんの血が良かったのでしょう」

 

「またまたご謙遜を。あなたはそのお若さで文科省の幹部を務めていらっしゃるじゃないですか。サラブレッドの家系からサラブレッドが生まれるのはそう特別なことではないでしょう。お兄さんも随分大きな九州の会社を率いていらっしゃるとか。私は血統主義ではありませんが、それでも血のつながりは感じずにはいられない、素晴らしいご家族達ですね」

 

 家族、という言葉を受けて初めてカオリは七郎へと視線を向けなおす。

 

「ええ、家族。その通りです。私はもうこの世界に血を分けた人間は殆ど残されていません。彼女達はそんな数少ない、私の家族です」

 

「ならばここまでの無茶な舞台をあらゆるものを犠牲にして整えられたのはその家族愛故にですかな?」

 

 七郎に向けられていた視線が鋭さを増す。ともすれば剣呑な奮起が二人の間に流れる。しかしながらすぐにカオリはその相貌を苦笑に変化させた。

 

「さて、なんのことやら。私は公僕としてやるべきことをやっただけですよ。私のボスは文部科学省。この国の教育を司る者たちです。なら、教育上有意義なことに対して粉骨砕身するのがその務めというものですよ」

 

「おや、でしたら大洗女子学園の廃校を財政閥に唆しつつも、そんな女子学園に戦車道教官として蝶野一等陸尉を派遣するというマッチポンプまがいの行動を起こされたのもすべて教育のためですかな」

 

 瞬間、二人の間に流れたのは沈黙だった。中々どうして随分とお調べになったのですね、とカオリが言葉を漏らしたのはおよそ十数秒後。

 

「ま、先ほどのカールに比べればレギュレーションに収まりきった作戦ではありましょうな。ただ理屈と道理が見当たらないという点を除けば」

 

 何をしたいのですかな? その直接的な問いかけに対してカオリは静かに笑う。正面を向いた彼女の視線の先では島田愛里寿を追い詰めるエリカとカリエの姿があった。

 

「少しばかりの身内贔屓ですよ。私はこの世界にいつかは一人ぼっちになる。なら数分の一とはいえ、少しでも血を分けた可愛らしい姪っ子たちにあらゆる糧を用意してあげたい。そんな親心です」

 

 嘘をついていないことはなんとなくわかった。

 およそ彼女らしくない、酷く温かな視線がパブリックビューイングの向こう側にいる双子たちに向けられているのを見て、七郎は酷く困惑する。

 

「——失礼ながらあなたに似つかわしくないお考えですな。それかあなたの身の回りにいる人間たちがあなたを見誤っているのかもしれません。私が聞き及んでいたあなたと今の言葉、対極にあるようだ」

 

「人づての諫言と今目の前にある事実、どちらを優先させるかはその人次第でしょう。冷徹な独裁者だって家庭の門をくぐれば良き親であり伴侶であることはざらにあります。まあ、私がそれに当てはまるとは限りませんが」

 

 煙に巻かれたな、と七郎は嘆息する。そしてこれ以上突き続けるのは正しく大蛇の尾を踏むことになるだろうと、それとなく会話を切り上げて、試合模様が中継されている大型スクリーンに目を移した。

 

 パンターに復帰した逸見カリエが何かしらの指示を無線で飛ばし続けている。

 試合は既に終盤戦。リタイアした車両が生存車両を上回り、今生き残っているのは運と実力を兼ね備えた正しく猛者たちなのだろう。

 

 彼はそんな彼女たちを見て、もっと純粋に戦車戦が楽しめられればいいのに、ともう一度嘆息した。

 

 

01/

 

 

「状況を整理しよう」

 

 カリエがエリカのティーガーⅡの天蓋に乗り込む形で作戦会議が行われていた。パンターはすぐにカリエが帰参できるようにすぐ隣を並走している。ナナの卓越した技量が成せる、目立ちこそしないがとんでもない絶技である。

 

「あちらには島田愛理寿とミカ、それに我らがまほお姉ちゃんと手練れが勢揃い。それに加えてパーシングが2両、チャーフィーが1両。ただ、ネームドの三人組は全員潰せたのは大きい」

 

 カリエの言葉にエリカは相槌を打ちつつ口を開く。

 

「対するこちらは大洗の秋山、プラウダのカチューシャ、うちのみほ、私、あんたの5両。数的不利はそこまでないけれど、如何せん向こうに大物が残っているわ」

 

 特に、とエリカはまほのティーガーⅠ、ミカのBT-42をあらわすデータを指さした。

 

「ここはみほ、カチューシャとの連携なしで撃破するのは不可能と言ってもいいわ。残念ながら私たち個々の技量では荷が重すぎる」

 

「同感。でも向こうもそれは分かっている筈。合流しようとすれば必ずそこにつけ込まれる。私たちは自然と乱戦を演じながら一堂に会さなければならない。はたしてどうしたものか……」

 

 ふとカリエの身につけているインカムに通信が入る。それはパンターを絶妙な速度で隣接させているナナからだった。彼女は操縦桿を握り締めたまま、器用に姉妹の会話に入り込んでくる。

 

「——副隊長、一つだけ提案があります。ですがこれはエリカ副隊長と我々が今一度離れる必要のある苦肉の策です」

 

 状況を打開できるのであれば最早手段は選んではいられないと、エリカが真っ先に食いついた。

 

「続けなさい」

 

「はい。これは私が車長を任されていたとき、たまたま地図で見つけたのですが——」

 

 

02/

 

 

 なるほど。

 中々どうして、黒森峰のお姫様はそれなりにやるらしい、とカチューシャは乱戦の中唐突な評価を下していた。

 もともと西住みほのことはさほど評価していなかった。所詮は西住まほのおまけ。逸見姉妹のように実力でのし上がってきた叩き上げとは違って、家と姉の威光でそのポジションに収められている飾りだと考えていた時期もある。

 だが昨年の全国大会で見せた卓越した指揮能力。そして柔軟な用兵を見て腐ってもやはり西住か、とやや評価を上方修正していた。けれどもそれだけだ。自分たちは逸見姉妹の奇策に敗れたのであって、西住みほに敗れたとは判断していなかった。

 ただ、今こうして轡を並べて戦っている中で、西住みほの特異性に気が付きつつあった。

 重装甲と火力を盾に相対者を挽きつぶしていく黒森峰の基本戦術は変わらないように見える。しかしながら所々に垣間見える野生児らしさというか、無鉄砲さ、突拍子のなさが徐々に顔を覗かせつつあるのを見て、こちらがみほの本質ではないのか、と疑いを持つようになってきた。

 

 そしてその本質に気が付いているのがもしも自分だけなら。

 今こうして火花を散らし合う西住まほがその本質を少しでも見落としているのならば、勝ち筋は見えてくるのではないかとカチューシャは小さな光明を見いだしていた。

 

「………………!」

 

 みほが何やら通信を受けて叫んでいる。どうやらもうすぐ逸見姉妹のエリカがこちらに突入してくるらしい。となれば妹の逸見カリエは再び大洗のⅣ号戦車と行動を再開するのだろうか。

 

 まほのティーガーⅠが肉薄してくる。カチューシャは落ち着いてそれをいなしカウンターを叩き込んだ。だが撃破は見込めない。向こうも同じだろう。小さなちょっかいを繰り返すことでこちらの集中力を削ぎ、装甲を貫徹する隙をうかがっているのだ。

 

「エリカさん!」

 

 通信機越しではない、生のみほの叫びが聞こえた。見れば援軍として駆けつけるように、エリカのティーガーⅡがまほの背後から遊具を弾き飛ばして突入してくる。千載一遇の好機、みほもカチューシャも一瞬、喜色の色を見せるが間に割って入ったBT-42がティーガーⅡの発砲を妨害する。

 まほもそれを理解していたのか、焦ることなく落ち着いてカチューシャの眼前に砲弾を叩き込んできた。

 

 不味い、先に向こうが揃いつつある。

 

 ミカのBT-42が到着したと言うことは、その妹である島田愛里寿のセンチュリオンの到着までもう幾ばくも余裕はない。

 向こうに残されたパーシングとチャーフィーを処理しに向かったⅣ号戦車が間に合わなければ、数的優位を取れないまま押し切られる可能性が高い。

 

「カチューシャさん、聞いて下さい!」

 

 エリカのティーガーⅡがこちらに合流し、向こうの二両と激しい砲火を交わしながら戦場を移していく。みほは一呼吸置いて見せると、この場にいる三人へ一つの指令を下した。

 

「5分です。5分、何があっても耐え忍んで下さい」

 

 

 

03/

 

 

 残された大学選抜チームのパーシング2両とチャーフィー1両は、遊園地中央に集結しつつある高校選抜チームを追い詰めるために息を潜めて進軍を続けていた。最早高校選抜チームだから、という油断は彼女達にはない。

 自分たちの隊長格が全力で当たってほぼ互角。自分たちが数の優位を取りに行って初めて勝利できる相手だと判断していた。

 だからこそ、

 

「っ! 待ち伏せだ! 先行していたチャーフィーがやられた!」

 

 路地脇から飛び出してきたⅣ号を見定めて、ここが正念場だと気合いを新たにする。遊園地中央に集まっているのは西住妹、プラウダの隊長、そして逸見姉であることは聞かされている。残された大洗の隊長車と逸見妹がこちらを狙いに来ていることは百も承知だった。

 

「逸見妹には最大限の警戒を! どこから出てくるかわからんぞ!」

 

 遊園地の密集した建物を縫うようにⅣ号戦車が逃げていく。パーシング2両はそれを深追いしすぎないように、適切な距離を保って追撃を開始する。パーシングの車長はタブレットの中で地図を目まぐるしく動かした。

 いける。この先に追い詰めれば、とはやる自分と、逸見妹がこの先に待ち構えているぞ、とブレーキを掛けてくる自分の間で揺れ動いた。

 そして彼女が選択したのは——、

 

「止まれ! やはりこの先には逸見妹がいる! 待ち伏せを受けるぞ! Ⅳ号を無視して、私たちは広場への合流を!」

 

 大洗のⅣ号撃破という大金星を前にして彼女は理性を保った。Ⅳ号の操舵は巧みで、必死に逃げる様を演出している。並の戦車乗りならばそのまま釣られてしまっても不思議ではないだろう。

 しかしながら彼女もまた、厳しい大学選抜を生き抜いてきた猛者なのだ。自分たちの役目を決して違えない。

 自分たちは中央広場の主戦場に辿り着かなければならないと、目の前にぶら下げられた餌を無視することにした。

 逃げたければ好きに逃げれば良い、と広場に向かって舵を切った。

 

 ——やっぱり強いね。そうくると思ったよ。

 

 幻聴が聞こえた気がした。

 試合前のブリーフィング。高校選抜チームのデータが回覧されたとき、最も警戒しなければならないターゲットとして提示されていたある少女。

 全国大会の戦犯でありながらも、心が折れ牙が抜かれたとされていながらも、島田流家元が一番畏れていた一選手。

 

「しまった! 読まれて——」

 

 向かって右側を併走していたパーシングが火を噴く。いつの間にか戻ってきていた、逃げていた筈のⅣ号の待ち伏せを受けた形だ。そして自車。向かって左を見ればずっとそこにいたのだろう。

 息を潜めて獲物を待ち続けていた黒豹と目が合った。

 

 Ⅳ号が逃げた先に待ち構えているというのがそもそものブラフ。彼女は、逸見カリエはパーシング達がすぐに冷静さを取り戻して、広場に向かい直すと読み切っていたのだ。

 

「隠し球です。ご愁傷様」

 

 発砲音が一つ。こうして大学選抜チームの生き残りは残り三両となった。

 

 

04/

 

 

 みほが告げた5分というリミットが半分を過ぎた頃、広場に飛び込んできたのは愛里寿のセンチュリオンだった。その他の大学選抜チームと一線を画す動きにみほ、エリカ、そしてカチューシャが目を剥く中、まほがいち早くミカとの連携を解き、みほのティーガーⅠへと突進をかけていた。

 本来のあるべき姿に戻れと言わんばかりに、愛里寿がミカと合流する時間を僅か数秒ではあるが稼ぎ出してみせる。

 

「お姉ちゃん!」

 

 ティーガーⅠのそれぞれの装甲がぶつかり、すれ違い様に火花を散らす。もう何度目かわからない姉妹対決。だが恐らくこれが最後だ。互いにそれを理解しているからこそ、二人は残りの四両から離れつつ決着を付けるべく手を打ち始めた。

 

「みほ! こっちは残り3分持たせる! ケリを付けなさい!」

 

 動き回る島田姉妹とエリカのティーガーⅡの相性は最悪だ。それでもこの二人は私たちが引き受けると、エリカが声を上げる。

 

「任せて下さい!」

 

 みほの応答と同時、先に動いたのはやはりまほだった。ヴァイキング船を模した大型ブランコを徹甲弾で撃ち抜いた彼女は、衝撃で動き出したそれの下をくぐり抜けていく。

 安パイを取るのならば迂回するのが最善ではあったが、少しでも姉に有利な位置取りをされたくないみほは敢えてそのままヴァイキング船に突っ込んでいった。

 コンマ数秒の差でティーガーⅠの天蓋スレスレを通過していくヴァイキング船。だがみほはそれに意識を向けることなく、落ち着いて姉のマークを続ける。築山のトンネルを抜けていくまほのティーガーⅠ。もちろんみほもあとを追うが、トンネルを駆け抜けていくのではなく、敢えて入り口で停車しフェイントを挟んだ。

 入り口付近で待ち構えていたまほのティーガーⅠの砲撃が空振る。

 

「上手いな」

 

 まほの口がそう動いたような気がした。自惚れでなければあの姉にもしかしたら少しは認めて貰えたのかもしれない、とみほは拳を握りしめる。

 再びまほのティーガーⅠが動き出す。みほはその進路を拒むように、大回りで右に舵を取った。メリーゴーランドを挟み、コーヒーカップの頭上で互いに砲弾を叩き込み合う。

 超絶技巧の戦車長二人による踊るような戦車戦。不思議と会場からは声が消え、誰もがその行方を凝視している。

 息の合った姉妹だからこそ、互いの手を知り尽くしているからこそ続く芸術品のような千日手だ。

 

 しかしながら——

 

「みほっ!」

 

 エリカのティーガーⅡがいつの間にか直ぐ側まで来ていた。その脇から、舞うように移動を繰り返すセンチュリオンが出てくる。センチュリオンの前方左側とみほのティーガーⅠが軽くではあるが接触した。一瞬、ティーガーⅠが静止する。それはまほの射線の目の前で、想定外だったのは姉も等しく。

 わずか1秒にも満たない時間ではあったが、両者呆気にとられたように見つめ合う。

 

「撃て!」

 

「前進!」

 

 姉妹の声が重なった。僅かばかりではあるがまほの方が早い。

 ティーガーⅠの砲撃が木霊する。装甲を徹甲弾が貫き白旗が打ち上がる。

 

 姉妹の最初で最後の公式戦はこうして幕を閉じた。



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逸見カリエの戦車道 19

出来上がったので連続更新します。
お疲れ様でした。次回、エピローグです。


 業腹ではあるが、カチューシャは自分たちの勝ち筋がみほに有ることを理解していた。西住まほを単独で抑える事が出来るのは彼女のみ。

 カチューシャはその聡明さ故に、単独での戦車戦における技量を冷静に理解している。この場にいる人間で序列を付けるのならば、圧倒的1位は島田愛里寿、そして一つ落ちて西住まほと島田ミカ。ほぼ僅差で西住みほ。二つ落ちて逸見エリカで半落ちで逸見カリエ。そしてそこから二つ三つ離れて自分だ。ちなみに逸見姉妹は二人揃えばみほに能うとも思っている。

 こんな状況なものだから、まだ自分が生き残っているのは様々な運と人に支えられた奇跡であるということも解っている。

 ならばあとはこの奇跡の中でどう動くか。

 

 島田愛里寿を討ち倒すのか。

 島田ミカを打倒しうるのか。

 西住まほを乗り越えるのか。

 逸見エリカを支えきるのか。

 逸見カリエを守り通すのか。

 

 西住みほの身代わりとなるか。

 

「ミホーシャ! これで貸し一つね!」

 

 機会はずっと伺っていた。エリカの了解を得て、島田姉妹の殆どを彼女に押しつけた。

 エリカは1分なら耐えられると豪語した。なら自分はその1分を存分に使い切るのみ。

 

 唯一読みを外したのは、存外エリカが頑張ったお陰で、島田愛里寿が弾き飛ばされてきたこと。タイマンならほぼ勝ち目がないというのに、姉妹愛という一点だけで実力差をひっくり返して見せたことは驚嘆に値する。

 ただその頑張りに巻き込まれたみほが討たれかけたのはご愛敬だ。しかしながら機会を、僅かばかりのチャンスを伺い続けていたカチューシャはその時を見逃さなかった。

 まほが硬直した1秒にも満たないその時。

 エリカと約束した1分を使い切る寸前。カチューシャはT34/85を西住姉妹のティーガーⅠの間に滑り込ませることに成功していた。

 まほのティーガーⅠが討ち出した徹甲弾が車体に突き刺さる。白旗が打ち上がり、行動不能になった。

 だがみほもまた動いていた。

 カチューシャが生み出した刹那のチャンスに食らいつき、まほのティーガーⅠの背後、排気口付近に砲弾を叩き込んでいた。

 2本目の白旗が飛び出す。

 

 一方、弾き飛ばされてきた愛里寿もただ者ではなかった。西住姉が撃破されたことを瞬時に感じ取った彼女は、背後でエリカのティーガーⅡがこちらを狙っていないことを瞬時に理解。

 発砲直後で硬直しているみほのティーガーⅠに肉薄し、砲身を突きつけていた。

 狼藉に気が付いたエリカが何かを叫ぶが間に合わない。

 

 僅か3秒。

 

 その間にプラウダの首領とこれまで黒森峰を率いてきた西住姉妹が立て続けに陥落した。

 美しすぎる千日手に声を忘れていた観客達が怒号にも似た歓声を上げていた。

 

 

01/

 

 

 長く重たい息を吐き出したのは逸見カオリだった。ただ彼女一人だけではない。いつの間にか、七郎の反対側、丁度カオリの右側に腰掛けた西住しほもまた同じ動きを取っていた。

 

「——これはこれは家元。素晴らしい戦車戦でしたね」

 

「勝敗はまだ決していません。この先勝利がなければ、あの子達が積み上げたものは全て無に帰す。総括にはあまりにも早すぎます」

 

 それは正論だ、とカオリはしほへと向けた視線を大型ビジョンへと戻した。たった一人残された逸見エリカが障害物とティーガーⅡの装甲を盾に島田姉妹へと持久戦を挑んでいる。

 

「ただ、」

 

 しほが言葉を切った。何事もきっぱりと切り捨ててくる彼女らしくないと、再びカオリの視線がしほへと向けられる。

 周囲の割れんばかりの歓声の中、凜としたしほの声がはっきりとカオリのもとへと届いた。

 

「みほもまほも目はまだ死んでいない。彼女達は己がすべきことを成したという自負がある」

 

 

02/

 

 

 5分、耐えきった。

 

 それが撃破されたみほの正直な感想だった。

 

 全国大会で自分たちを栄光からたたき落とした怨敵のエンジン音が聞こえる。

 親友を受け入れてくれた恩人の足音が聞こえる。

 この試合で背中を預け合った仲間の声が聞こえる。

 

「秋山さん。約束は果たしましたよ」

 

 広場の中央、築山に備え付けられたトンネルから轟音が響く。

 

「カリエさん、あとは頼みます」

 

 暗闇から飛び出してきたのは大洗のあんこうマークを背負ったⅣ号戦車。そしてその後ろから、帰りを待ち焦がれていた親友の駆るパンターが続いている。

 

「秋山優花里、ただいま到着しました!」

 

「逸見カリエ、なんとか間に合ったよ」

 

 ついに全ての生き残り車輌が中央広場に集うこととなった。

 

 

03/

 

 

 工事用の地下通用路。それがカリエの選んだルートだった。エリカのティーガーⅡでは通ることの出来ない、中型戦車でぎりぎりの地下通路。途中合流したⅣ号を駆る麻子と、ナナでなければこの短時間で辿り着くことは不可能だっただろう。

 地下通路の終点は築山トンネルの中。

 できれば奇襲を仕掛けたかったが、エリカの状況が芳しくない。ならば数的優位で押すのみ、と優花里とカリエはエリカのカバーに回った。

 

「カリエとそこのもじゃもじゃ。あんた達は妹の方を叩きなさい。姉の方は私が叩きつぶすわ」

 

 満身創痍のティーガーⅡが闘志を剥き出しにする。カリエも優花里も異論を挟まなかった。島田愛里寿。おそらく二人がかりで挑んでも、向こうの方が戦力的には上だろう。

 

「——わかった。もう後ろは見ないから、あとはお願い。お姉ちゃん」

 

 カリエがエリカから離れていく。優花里もまた、センチュリオンに向かって足を進めた。エリカは静かに息を吐き出し、キューポラから身を乗り出してBT-42を睨み付けた。

 

「人の妹を散々傷物にして、無事に帰ることが出来るとは思わない事ね」

 

「おお、怖い怖い。怒りは人の目を曇らせるよ。でもまあ、決着を付けたいのは同感だ。妹たちが頑張っているんだ。ここは踏ん張りどころかな?」

 

 BT-42が機動力を活かしてティーガーⅡの周囲を動き回る。エリカは車体を最小限傾けて、相手からの砲撃を受け止めてみせる。機動力では絶対に敵わない。ならば、と彼女は自分の戦い方を全うすることにした。

 

「まだよ。まだ。焦るなエリカ、しっかりしなさい。お姉ちゃんでしょ」

 

 

04/

 

 

 姉とはなんと難儀な生き物なのだろう。

 

 カンテレのリズムが鳴り響く中、ミカは苦笑を漏らしていた。

 眼前の逸見エリカしかり、自分しかり。

 

 愛里寿は選ばれた子どもだ。

 

 才能と将来に恵まれ、逃げ出した自分とは対になる存在だ。決して庇護するべき対象ではなく、本来ならば交わることすら許されない。

 血のつながりはあれど、世界で一番遠い存在だった。

 

 なのに今、自分らしからぬ負けたくない、という闘志がミカを突き動かしている。

 

 飄々と全てを煙に巻いて生きてきたのに、今はその煙を突き破って愛里寿のことを抱きしめてあげたい。

 本当によく頑張ったね、と心の底から祝福してあげたい。

 

 その為にはこんなところで負けるわけにはいかない。

 早いところ、眼前のもう一人の姉を打ち破って、援軍に駆けつけたい。

 

 愛里寿はカリエと優花里に挟まれても負けることはないだろう。自分とは違って全てを持っている人間だ。易々と破れることはあり得ない。けれども姉としての本能なのか、万難を排してやりたいという愛が、情動がミカを昂ぶらせていく。

 

 早く、速く、もっと疾く、エリカを打ち倒せ。

 

 もう何度目か解らない砲弾を叩き込む。ティーガーⅡが硬直した。いくら王虎といえども限界は必ずある。一撃を食らえばこちらがお陀仏だが、その前に削りきってしまえば勝ちは為る。

 

 焦るな、せるな、落ち着け。

 

 カンテレのリズムで自分を律する。叫びたい衝動を抑え込み、狂いそうになる理性をなんとか保ち続ける。

 ティーガーⅡが鈍い動きで砲塔を回している。どうやら駆動系に深刻なダメージを負っているらしい。

 あと一歩、と前へ突っ込む。

 破れかぶれのティーガーⅡの砲弾が右側面の装甲を抉っていった。

 

 だが撃破には至らない。

 

 BT-42の主砲がティーガーⅡの砲塔と車体の隙間に差し込まれた。

 

「Tulta!!」

 

 

05/

 

 

 エリカとミカが違っていたのは、その先をどう見ていたかだった。

 

 エリカはもう、自分はここまでだと割り切っていた。

 それと同時、カリエはもう大丈夫だと安堵していた。

 

 ここから先、自分が脱落しても彼女は一人で立っていられる。その先を進んでいけることはわかり切っていた。

 

 彼女は穏やかに、落ち着いた声で最後の指令を下す。

 

「遊具のV2ロケット。点火、今よ」

 

 ティーガーⅡの主砲弾が遊園地に備え付けられていたV2ロケットに叩き込まれる。このロケットは、遊園地に籠城した当初、ティーガーⅡに積み込まれていた榴弾を、少しでも車体を軽くするために詰め込んだ即席のトラップだった。

 優花里の発案で用意したもので、動き回る戦車には使えないから、目眩ましくらいに使いましょうと放置していたもの。

 

 V2ロケットのブースター部に詰め込まれていた榴弾が炸裂し、ロケットを打ち出す。

 

 BT-42の背後、こちらに地を這うように突撃してくるロケット。

 エリカはキューポラの蓋をしっかりと閉め、静かに天井を仰ぎ見る。

 

「やってやりなさい。あんたならきっと成し遂げてみせるわ」

 

 特大の爆発がティーガーⅡとBT-42を包む。

 エリカはほくそ笑んだ。

 

「見たか。これが姉の愛よ」

 

 

06/

 

 

 さて、とカリエは息を吸った。爆炎の余波がここまで届いている。どうやらあの無鉄砲で馬鹿な最愛の姉は見事使命を遂げて見せたようだ。

 

「大丈夫。私なら、俺ならやれる。もう変化球はいらない。ストレートで、それでいい」

 

 あの日打たれてしまったエースのことを思い出す。

 あの日、袂を分けてしまった相棒のことを思う。

 

 単純な話だ。(俺は、)逸見カリエは人を最後まで信じることが出来なかったから、あの時負けたのだ。

 臆病風に吹かれたからと思っていたがそれは大きな間違い。

 結局の所、斜に構えて疑心を捨てきれない己に負けていたのだ。

 

 カリエから優花里へハンドサインを送る。ちょこまかと動き回るセンチュリオンを追い詰めるために、二人で作戦は詰め切ってある。あとはそれをどこまで信じ切れるか。疑心に囚われず、いらぬ下心を捨てきることができるか。

 

 不思議と音が聞こえない。

 あの日キャッチャーミットを構えていた夏の時のように、世界が静寂に包まれている。

 

 Ⅳ号戦車がセンチュリオンに張り付いた。細かな位置取りが調整されていく。

 カリエはパンターの足を止めて、広場の中央に腰を下ろした。

 

「優花里さん、ど真ん中ストレート」

 

 短い交信が終わる。Ⅳ号とセンチュリオンがもつれあいながら近づいてくる。

 だが流石と言うべきか、センチュリオンは決してパンターの射線に入らない。

 

 それでいいと、カリエはもう一度息を吸い込んだ。

 

 センチュリオンの主砲がこちらを向く。やっぱり島田愛里寿は怪物だと、カリエは舌を巻いた。優花里のマークを外したセンチュリオンが大きく左へ旋回して必殺の体制に入る。足を止めてこちらを狙っていたパンターにカウンターを叩き込む機会をずっと伺っていたのだろう。

 

 カリエが咽頭マイクに手を伸ばす。

 彼女は仲間に、チームメイトに最後の交信を送った。

 

「今です。撃って下さい」

 

 主砲弾が鉄の装甲を大きく穿った。

 

 

07/

 

 

 最後の白旗がはためいたのを見て、カオリは席を立った。

 彼女の足取りを止めるものは誰もいない。揺れに揺れている観客席を背に、薄暗いスタンドの階段を降りていく。

 

「もし、エリカさんとカリエさんのおばさま、少しお時間を頂けるかしら」

 

 足が止まる。眼前に立つグロリアーナの女王、確かダージリンというコードネームを有している少女だったか、とカオリはそちらを見た。

 

「——出来れば簡潔に。たった今、私は忙しくなったので」

 

「ではその通りに。このたびはこんな小娘の流言に乗って下さって本当に有り難うございました。あなたのご協力なければ、机上の空論は夢物語に終わっていたでしょう」

 

 深々と下げられた頭を見て、やめなさいとカオリは首を横に振った。

 

「大人が大人の義務を果たしただけです。それにあなたに頼まれたから動いたのではありません。私は官僚として、役人としての責務を果たしただけ。教育と成長の場を提供しただけです」

 

 カオリが歩みを再開する。ダージリンの横を、足早に通り過ぎていく。ダージリンは前を向いたまま、カオリに声を投げかけた。

 

「——会っていかないのですか? カリエさんもエリカさんも喜びますよ」

 

 カオリの足は止まらない。もう互いの声が届くギリギリの距離まで開いている。カオリは一切振り向くことなく、最後にこう言った。

 

「莫迦ね。こんな情けない顔、可愛い姪っ子達に見せるわけにはいかないでしょう?」

 

 

08/

 

 

 跳弾だ。

 

 愛里寿は信じられないものを見たと、射線を無理矢理ずらされてしまった自身のセンチュリオンを撫でた。

 自分の背後ではⅣ号が砲煙を吐き出している。だが、こちらを狙えるようなタイミングではなかった。やっと掴み取った隙だったからこそ、愛里寿はカウンターをパンターに叩き込んでいたのだ。

 そこに読み違いはない。

 

 Ⅳ号戦車はあろうことか、パンターの正面装甲に向かって砲弾を叩き込んでいた。

 まるで野球のキャッチャーのようにそれを受け止めたパンターは衝撃を殺しきれなかったのだろう。愛里寿に遅れて撃破——自走不可能の判定を受けている。

 しかしながらパンターの装甲に弾かれたⅣ号の主砲弾はセンチュリオンに向かって飛び、その主砲を弾き動かしていた。

 パンターを仕留めるはずだった砲弾は明後日の方向へと飛んでいき、撃破判定を受ける直前のパンターが撃ちだした砲弾がセンチュリオンに突き刺さっていた。

 その証拠に、愛里寿の眼前では敗北を表す白旗がはためいている。

 

「実はランナーを刺すのは昔から得意なんだ。今思えば、歩かしてから刺しても良かったのかな。あいつ、クイックめちゃくちゃ上手かったし」

 

 よいしょ、と動かなくなったパンターから這い出てきたカリエがセンチュリオンに登ってくる。彼女はどさりと愛里寿の横に座り込むと、そのまま寝転がるように天を見上げた。

 

「あり得ない。不可能。跳弾なんかコントロールできるわけない。こんなのあってはならない」

 

 振るえる声音で愛里寿が絞り出す。横に寝転がりながら空を見上げていたカリエは「あり得るよ」と視線を愛里寿へ向けた。

 

「真っ直ぐストレートなら受け止める自信があった。向こうは華さんが乗ってる。彼女の砲撃能力は神懸かり的だ。こちらが絶対に動かなければ、跳弾くらいコントロールしてくれるという信頼もあった。あとはキャッチングと同じ。来ると思うコースにミットを構えるだけだよ」

 

「——何それ、意味がわかんない」

 

「だと思う。でも、だから戦車道は面白いんじゃない?」

 

 カリエの言葉に、愛里寿が「はっ」と息を呑んだ。面白い、果たして自分は戦車道にそれを感じることが出来ていたのだろうか。

 

「ま、私も暫く忘れていたから偉そうなことは言えないけどね。みんなが教えてくれたんだ。身体を張って、全てを私に託してくれて」

 

 カリエが瞳を閉じる。身体が酷く疲れて、もう動ける気がしなかった。もしかしたら緊張の糸というものが切れて、筋肉が言うことを聞かなくなっているのかもしれない。

 

「ふたりでのんびり回収車を待とう。ありがとう、愛里寿。本当に楽しい試合だった」

 

 愛里寿は姉と自分のこと、そして戦車道と自分の事を考える。だが今はあたまの中がぐちゃぐちゃになって、何も考えることができなかった。けれども、今、この目の前で寝転がる女が不倶戴天の敵であるということ、そして自分にはない何かを持っていることだけは理解して早速身体を動かした。

 

 それはすなわち——

 

「ぐえっ、え、なに、どうしたの」

 

 小さな体躯でカリエに馬乗りになって襟首を掴み取った。そして顔と顔が触れあわんばかりに近づけ合って、言葉を吐き出していく。

 

「決めた、あなたは私の天敵よ。ライバルよ、目標よ。ボコみたいにボコボコにされてもこんなところまで這い上がってくるなんて、信じられない。あなたに勝つまで私は諦めないから」

 

 それから先、喚き続けるように愛里寿はカリエに言葉を投げつけ続けた。しかしながらその意味は殆どわからなくて、困惑したカリエは恐る恐る愛里寿を抱き寄せてその頭を撫でた。

 すると今度は堰を切ったように泣き出してしまい、もう何が何だかわからなくなったカリエは「なんか妹が出来たみたい」と小さく溜息を漏らす。

 

「ふーん、君は人の妹にまで手を出すんだ。これは心穏やかじゃいられないな」

 

 げっ、とカリエが野太い声を漏らす。見ればセンチュリオンの天蓋に肘をつきながらミカがニコニコとこちらを間近で見ていた。

 普段ならば絶対に感じ得ないミカの怒気を浴びて、愛里寿を抱き留めていた腕をおろおろと彷徨わせる。

 

「あんたね、人の妹を脅してんじゃないわよ。まあいいわ。一人ぐらい妹が増えても面倒見てあげるから」

 

「おっと、それを言ったらもう戦争だね。さっきの続きをここで始めるかい?」

 

 反対側に現れたエリカを見て、いよいよカリエは悲鳴をあげた。自分を挟んで舌戦を繰り広げる悪癖は本当に何とかして欲しい、とカリエは情けない声を漏らす。

 

「あらあら、まあまあ、カリエさんたら、ほんとにあらあら」

 

 ひぃっ、と情けない悲鳴が漏れた。とどめに現れたのは戦車回収車。その荷台には赤いタンカースジャケットを身に纏ったダージリンの姿があった。

 

「本当に、本当におモテになるのね。ねえ、カリエさん。野暮用を済ませて、慌てて回収車に飛び乗ってきた私の気持ちがわかるかしら。恋人のねぎらいにきた私が、別の女を抱きしめる貴方を見たときの気持ちは? ねえ、どう感じたと思う? ねえ、答えて下さらない?」

 

 カリエは逃げ出した。自分にへばりつく愛里寿をそのままに、脱兎の如く逃げ出した。

 パンターの天蓋に腰掛けていたナナが「一度は痛い目にあってください」と吐き捨てたのを見て、少しだけ泣いた。

 

 遊園地の廃墟の中、もう一度空を見上げる。

 

 すると先ほどまでそこにあった、いつかの夏に見ていた入道雲はすっかりと消え失せて、世界は夕陽に包まれ始めていた。

 1日が、終わろうとしていた。

 



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逸見カリエの戦車道 20

エピローグです。皆さんお疲れ様でした。


 北海道からの帰りは、今となっては懐かしさすら感じさせる黒森峰の学園艦だった。

 これでもか、と並べられたソーセージに芋料理、そしてノンアルコールビールに満たされた戦車道格納庫。

 その中心には隊長たる西住みほが立っている。周囲の熱気は今にはち切れんばかりになっており、あとは号令一つで今日一日、彼女達は淑女であることをかなぐり捨てることになるだろう。

 

「えと、みなさん。本日は本当にお疲れ様でした。無事私たちは勝利を収め、大切な仲間を取り戻すことができました」

  

 全員の視線がある一点に注がれる。逸見エリカという特大の防波堤の横でカリエは困ったように苦笑を漏らしていた。

 みほも一瞬だけそちらに視線を向けるとさらに言葉を重ねる。

 

「私たちは一度負けました。けれども王者であるという自負は失っていません。敗北は私たちをさらに強くしてくれました。それは苦渋の経験でもあり、私たちの絆の再確認でもあります」

 

 みほがカリエに歩み寄る。そしてカリエが持っていた空のグラスになみなみとビールを注いだ。あとはあなたの役目ですと言わんばかりに、演台へと突き飛ばされる。

 

「やはり最後の言葉は私たちの大切な副隊長から頂きましょう」

 

 ぶん投げられた、とカリエが眼を剥いた。エリカは当然と言わんばかりに鼻を鳴らし、小梅はあらあらと微笑みを零す。ナナだけが小声で「頑張って下さい!」とエールを送っていた。

 ノーサインの牽制球は本当に危ないと、声にならない呻き声を漏らす。

 

 冷や汗を滝のように流すカリエが正面を見据えた。

 

 感謝の言葉、謝罪の言葉、歓喜の言葉あらゆる感情が混ざり合って渋滞している。

 本当にいろいろなことがあった。辛いことも苦しいことも楽しいことも喜ばしいことも。

 口が思うように動かない。

 頭が真っ白になって、数秒の沈黙が続く。

 

 前世の悪い自分が鎌首をもたげた。

 

 もうやけくそだった。ビールも揃って祝い事ならばこれしかないだろうと身体を動かす。

 

 それはすなわち——、

 

 一人コップに注がれたビールを一息であおった。黒森峰の隊員たちが呆気にとられたのは僅か数秒のこと。直ぐさまみほとエリカが手にしていたビール瓶を奪い取ると、ノンアルコールで何故か赤ら顔をつくったカリエが声を張り上げた。

 

「みんな本当にありがとう! 大好きだ! とにかく、やった! すごい! 見事!」

 

 ビールのシャワーがみほとエリカの顔面を直撃した。ナナが歓声をあげ、小梅が声にならない悲鳴を上げた。

 ぽたぽたと、身動き一つしないみほとエリカの顔面からビールがしたたる。

 

 ああ! なんてことを!

 

 今日は血の雨が降るぞ!

 

 副隊長が腸詰めにされる!

 

 ティーガーⅡの砲身に吊されるぞ!

 

 いや、再びの左遷だ! 次はプラウダに更迭だ!

 

 プラウダの隊長の肩車係にされるぞ!

 

 我々の副隊長をお救いしろ! と誰かが音頭を取った。

 

 黒森峰の隊員たちが動きを再開する。我先に、と狼藉を働いたカリエに殺到し、手にしていたビールをぶちまけた。

 溺れる! 溺れる! と天に手を伸ばす大馬鹿者をもみくちゃにして、いつの間にか胴上げにまで発展していた。

 

「あの、みほさん。エリカさん……」

 

 未だ指一つ動かさないみほとエリカに小梅が声を掛ける。歓声を上げていたナナはいつの間にか逃げ出して胴上げの輪の中に入り込んでいた。

 薄情な後輩に恨み言を吐き出しつつも、小梅は「久しぶりの懇親会ですから」となんとか言葉を絞り出した。

 

「みほ」

 

「はい。エリカさん」

 

 抑揚のない声がこんなにも恐ろしいとは。小梅は一刻も早く逃げ出したくなった。だがエリカの手がすっと小梅の背後に回され、正面にみほが立つ。

 二人ともビール臭かった。

 

「やったわね!」

 

「はい! やりとげました!」

 

 いつの間にか手中にあったビールが小梅の前と後ろの襟からどばどばと注がれた。悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべる二人は、涙目で身を捩る小梅にビールを浴びせ続けた。

 

「小梅! 本当にありがとう! あなたのお陰よ! みほ、やっぱあなた天才だわ! あのまほさんに勝つなんて!」

 

「エリカさんだって最後までお疲れ様でした! 私、あなたとチームメイトで本当に良かった! 小梅さんもエリカさんを救ってくれて本当にありがとう!」

 

「もー! 二人がかりなんて卑怯です!」

 

 そこから先は呑めや騒げやの混乱の極みだった。カリエはもう乾いているところがないくらいビール漬けにされ、お腹がいっぱいとどれだけ訴えても口の中にソーセージを詰め込まれ続けていた。

 みほがケラケラと見たことがないくらい笑い、エリカがナナの肩を抱いて上機嫌に連れ回す。小梅が「もーっ」と可愛らしく怒れば、隊員達からどっと「梅ちゃんせんぱーい!」と黄色い声が飛んだ。

 

 その日は深夜遅くまで、戦車道倉庫から喧噪が止むことはなかった。

 

 

01/

 

 

 翌日、カリエは学園艦を降りて熊本の実家を目指していた。熊本市の郊外にある閑静な住宅街。そこにエリカとカリエの生家がある。エリカはいろいろ後始末があるから、と学園艦に残っていた。カリエ一人が最低限のの荷物を背負って帰宅の路をつらつらと辿っていく。

 

「——ただいま」

 

 玄関を開ける。整理整頓が行き届いた小洒落た玄関だ。ジュニア時代にエリカと獲得した小さめの戦車道トロフィーがいくつか飾られている。嗅ぎ慣れた実家の匂いというものに包まれながら、カリエは靴を脱ぎ捨ててそのまま足を進めた。

 

「あら、お帰りなさい。早かったのね。お疲れ様」

 

 エリカを一万倍柔和な感じにすればこうなるのだろうという雰囲気の母親がリビングでカリエを出迎えた。カリエから連絡を受けて掃除を進めていたのだろう。手にはハンディモップを持っている。彼女は掃除用具をいそいそと片してみせると、庭の方に向かって少しだけ声を張った。

 

「あなたー、カリエちゃんが帰ってきたわよ」

 

 庭で趣味の釣り具の手入れをしていたのか、汗を若干頬に浮かべた父が戻ってきた。こちらはカリエとよく雰囲気が似ており、ぱっと見ればぼんやりとした印象を抱かせる男だった。父は冷蔵庫から麦茶を取り出すと、何も言わないままダイニングテーブルにそれを三つ並べた。

 

「テレビで見てたわよー。おじいちゃんも町内会総出で応援してたらしいわ。最後のちょうだん? を使ったやり方、テレビでいろんな人が褒めてくれていて、お母さん鼻高々だったわ」

 

「エリカとカリエらしい、良い試合だった」

 

 自然と家族の団らんが始まる。お茶菓子も並べられ、ここ最近の近況を互いに伝え合う。両親は最近犬を飼おうか猫を飼おうか迷っていること、カリエはもうすぐ草野球の全国大会に出場することをそれぞれ話していた。

 

「——お父さん、お母さん」

 

 小一時間ばかり経ったときだろうか。ふとカリエが唇を固く結んで両親に視線を向けた。瞳が不安に揺れて、いつも泰然としている彼女らしくない落ち着きのない動作。娘の変化を如実に感じ取った両親は居住まいを正して、娘の言葉を待つ。

 

「今回はいろいろ心配をかけてゴメン。二人にも沢山迷惑を掛けたと思う。でも今からもっと迷惑を掛けることを言うと思う」

 

 言葉としての返答はなかった。けれども両親の柔和な笑みがそっと続きを促す。

 

「——これまで女の子らしくあろうと頑張ってきたつもり。たぶん、だいたいのところはもう問題がないと思う。自分自身が女性であることは理解できている」

 

 すらすらと考えが纏まらない。今日この日のために作戦を練ってきたというのに、いざ本番を目の前にするとその全てが真っ白のまま。

 

「でも、最近好きになって、お付き合いして、これからも一緒に生きていきたいと思う人は女性です。ごめんなさい。こればっかりはどうしようもなかった」

 

 それからダージリンとの出会いから近況まで全て両親に話した。自分が追い込まれたとき、側に寄り添ってくれたこと、これからもその隣で支え合いたいと誓い合ったこと。

 両親がどれだけ自分の事を心配して、あらゆる手を打ってくれたかしっているからこそ、カリエは頭を下げた。

 これ以上、有耶無耶にして不義理を貫くこともできなかった。こればっかりは勘当も覚悟せねばならないと、カリエは顔を伏せたままただ時を待つ。

 

「——そうか、君も大人になったんだな」

 

 口を先に開いたのは父だった。カリエはまだ下を向いている。母が言葉を繋いだ。

 

「昔から大人びているとは思っていたけれど、もうそんな人ができるなんて。カリエちゃんも隅には置けないわね。あ、でもこの話ってエリカちゃんは知っているのかしら」

 

「確かに。あの子にまだ黙っているなら今すぐ連絡した方が良いぞ。お姉ちゃんが怖いならお父さんが間に入ってあげるからさ」

 

 恐る恐る顔を上げる。母と目が合えば「写真はないの? 写真!」と年頃の少女のように目を輝かせて身を乗り出してきた。呆気にとられてスマートフォンを手渡すと「おおっ、これは凄いな。とんでもない美人さんじゃないか」「本当にねえ。お人形さんみたい。ぜひ二人並んで写真を撮りたいわねえ」

 

 拒絶されたり、忌避されることはないと予想していた。

 けれどもその現実が目の前に来るまで、不安に押し潰されそうになっていた。

 カリエは両親を信じ切ることができていなかった自分を恥じた。エリカは「ちゃっちゃっと報告してきなさいよ」と大変不本意そうに気軽に言ってくれていたが、その意味がよくやくわかった。

 

 まだまだ自分の視野が狭いままだったことに気が付かされる。

 

「君が幸せになるために、と女の子らしさを勧めたこともあった。今でも正直それが間違いだったとは思っていない。けれども正解だったとも思っていない。人生の、どんな道を歩いて行くのかは私たち親と、君たち子がああでもない、こうでもないともがきながら進んでいくものなんだ。でも、君はもう分別がついた。君はもう大人だ。なら、もがいた末に君が選んだ道があるのならば、あとは背中を押すだけだ」

 

「正直、ついこの間まではいろいろ不安だったのだけれど、この前の試合を見て安心したわ。この子達は、私たちの可愛い娘は自分たちで歩いて行けるって」

 

 だから、と両親二人は声を合わせる。

 

 ——いってらっしゃい。

 

 

 

                   EPILOGUE 逸見カリエの戦車道

 

 

 

 地域の運動公園。バッティングセンターやらグラウンドが併設されている総合運動施設。そこにカリエは一人で足を運んでいた。季節は秋になり世界の色の彩度が少しずつ落ち始めている頃。もうすぐ白い冬がやってくるのだろう。

 

「おい、ねーちゃん。そこは150キロだぜ。ケガするからやめときな」

 

 昔はもしかしたら野球小僧だったのかもしれない。しなやかな動きでバッティングセンターでバッティングを繰り返していた壮年の男がカリエに声を掛ける。カリエは「大丈夫ですよ」とはにかみながら150・左と書かれたケージに入っていった。

 

「おお、うまいもんだな」

 

 カリエは正直非力だ。エリカのようにボクササイズを趣味にしている訳でもないし、ナナのように筋トレを日課にしているわけでもない。だが持ち前の器用さと、身体の柔らかさで飛来するボールを綺麗にはじき返していく。

 けれどもそれは最初のワンセットだけ。計30球を打ち返した彼女はいそいそとスポーツバッグを漁り、捕手のプロテクターを自身に身に纏い始めた。

 

「まじかよ」

 

 壮年の男がカリエの動きに釘付けになる。

 本来の捕手のポジションに腰掛けたカリエは飛来する剛速球をいともたやすく捕球し始めた。設定は変化球折り込みの完全ランダム。それでも一球たりとも取りこぼすことなく完璧な形でミットに収め続けていた。

 

「凄いですね。この子、ここの常連ですか?」

 

「いや、俺は初めて見た。地元の子かどうかもわからん」

 

 カリエの捕球を呆然と眺めていた壮年の男に青年が近づいて来た。一番遠いケージでバッティングを続けていた青年だ。

 彼はカリエが1セット30球を捕球し終えたタイミングでケージの金網越しに会話を試みた。

 

「ねえ君、野球はずっとやっているのかい?」

 

 キャッチャーマスクを額に上げたカリエが振り返る。

 

「うん。ずっとしてるよ。ポジションは捕手一筋」

 

 そうか、と青年が笑った。そしてカリエに一つの提案をする。

 

 ——外のグラウンドで僕の球を受けてくれないか?

 

 

02/

 

 

 サインは即席で三つ。ストレート、フォーク、スライダー。いつの間にかバッティングセンターでたむろしていた野球好きが野次馬として二人を遠巻きに囲んでいる。どうやらこの青年はここいらではちょっとした有名人らしい。

 

「ねーちゃん、悪いことは言わないから捕れないと思ったら全力で逃げな。アザではすまねーぞ」

 

 一番最初にカリエに声を掛けた男が、プロテクターを結び直すカリエに説得を続けていた。周囲のギャラリーも似たような反応で、「誰か止めろよ」と消極的な声があちこちで飛び交っている。

 

「カリエちゃん、だっけ。一球目、70%で」

 

 手加減、されていると感じたがそれも当然か、とも思う。見ず知らずの小娘相手に本気を出す大人は中々いないだろうから。

 

「じゃあ一球目」

 

 ゆったりとしたフォーム。でも中で渦巻いている筋肉の剛力ぶりは容易に想像できた。恐らくど真ん中、とカリエはミットを構えた。

 

「おおっー!」

 

 歓声が上がる。青年の投じた一球は糸を引くようにカリエのミットに吸い込まれていった。カリエはミットに収まった白球を二、三度手の中で弄ぶ。そして鋭い矢のような返球で青年へとボールを突き返した。

 

「ありゃ、機嫌を損ねてしまったかな?」

 

 青年が眉根を下げたが、カリエはいや、と首を横に振った。そして挑発的にこう言った。

 

「次から本気で。ウォーミングアップしたいなら別に好きにしたらいいけど」

 

 その時、青年は不思議な感覚を味わった。本来なら初対面の相手にここまで言われたら面白くないだろう。だが違う。心地良い。昔からそうだったように、少女の言葉があまりにも心の中にすとんと落ちた。

 

「——わかった。サインは任せる。僕は打者がいるつもりで投げる。いや、打者に立って貰おう。駒田さん、打席に立って貰えませんか?」

 

 一番最初にカリエと関わりを持った男——駒田が慌ててバットを持ってバッターボックスに立った。彼はカリエに対して「当てないでくれよ」と情けない懇願を返す。

 カリエは一瞥だけ。

 

「当てませんよ。あいつは」

 

 ストレート。150キロ超。

 スライダー。139キロ。

 フォーク。148キロ。

 ストレート。150キロ半ば。

 スライダー。142キロ。

 フォーク。149キロ。

 

 球種が増えた。

 

 スプリット。151キロ。

 高速スライダー。149キロ。

 ストレート。150キロ後半。

 シンカー気味のストレート151キロ。

 

「ね。憎らしいくらいコントロールがいいでしょ? 構えたところに来るから楽ですよ」

 

 嘘だ、と駒田は思う。これだけ伸びのある球筋をしっかりと見極めて捕球するのがどれだけ難しいことか。

 事実ここに集っているギャラリー達全てが、半分もミットに収めることが出来ていなかったのだ。

 

「そっか、野球、続けていたんだ。良かった」

 

 次で最後にしようと青年が言った。カリエは「うん」と答えた。

 

「サインは任せるよ。相手はとんでもない強打者だ。君ならどうする?」

 

 挑発を返された。カリエはふと空を見上げる。秋の空は高い。押し潰してくるような夏の空とはまた違う。

 

 ど真ん中、ストレート。

 

 157キロ。野次馬が構えていたガンにはそう表示されていた。

 ミットからボールを取り出したカリエはそれを投げ返さずにマウンドまで歩いて行き、直接手渡した。

 

「ゲームセット。相手打者は空振り三振だよ」

 

「僕もそう思うよ。ありがとう、楽しかったよ」

 

 野次馬に囲まれたまま二人は向かい合う。カリエの方があたま二つ低い。

 

「もしよかったらなんだけれど、東京の球団に入るまでの自主トレ、付き合ってくれないか?」

 

 即答はしなかった。カリエはたっぷり数十秒、沈黙を保った。

 ギャラリーの誰かが生唾を呑み込んだとき、ようやく言葉を返す。

 

「いや、本職は戦車道だから。そっちに専念する。ごめん」

 

 泣き笑いだった。

 青年は別段驚くこともなく「そっか。頑張れよ」とカリエの肩を叩いた。カリエは再び荷物を纏めると、ギャラリーの間を縫うように足早にその場を去って行った。

 

「振られたな、兄ちゃん」

 

「ええ、折角の女房役だったんですけどね」

 

 青年の手の中にはまだカリエの手のひらの温もりが残っているボール。それを後ろポケットにねじ込むと、青年は「ああ——」と空を仰ぎ見た。

 

「夏が終わったなあ」

 

 

03/

 

 

 学園艦に戻ったら、エリカにぱんぱんに腫れた手を見咎められた。

 何をしてきたのだ、という余りにも厳しい追及の中、カリエが絞り出したのはたった一言。

 

「お別れを言ってきたんだよ」

 

 

 

 

逸見カリエの戦車道 完




逸見カリエの戦車道にお付き合いいただき有り難うございました。
途中、年単位の時間が掛かってしまい大変申し訳ありませんでした。
私生活のサイクルが変わったことが大きな原因なのですが、言い訳にもならないのでこれ以上はそういうのはナシで。

一応、小説は隙を見てちょこちょこ書き続けていました。
ただ逸見カリエの物語はここだけの話、全く筆が進んでいました。
劇場版は本当に難しく、正直心が折れていました。
けれども原作の最終章四話が私を救ってくれました。
やはり二時創作は原作ありきで、最大限の敬意を払いつつ自分の妄想をしたためるものだと再確認しました。

最終章四話のとあるシーンが全ての靄を振り払ってくれ、逸見カリエの進むべき道をはっきりと見せてくれました。

たぶん、もう迷うことはないと思います。


今後の話。
エピローグで書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでしばらくはそれを書いていこうと思います。
まだまだ掘り下げていきたいキャラクターは沢山いるので。

私の書き散らしたこの物語たちが、少しでも皆さんの人生の暇つぶしになることを願って。


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アフターエピソード
アフターエピソード1 ベースボール・メルティキス


 横浜。

 開国の象徴であり、舶来の瀟洒な街であり、華やかな中華街を要する大都会。

 普段熊本を本拠地にしているカリエはその町並みに感嘆しつつ、遠方に見える巨大な野球場を目指していた。

 

「あちらの万国橋を渡ると、赤煉瓦倉庫よ。夕食はそこのレストランを予約しているので楽しみにしてもらえると嬉しいわ。で

 、この通りを真っ直ぐ抜ければ今日のメインスポットである横浜EFMAスタジアム」

 

 そんなお上りさんの手を引くのは、随分と大人びた格好に身を包んだダージリンだった。彼女はいつものまとめ上げた髪型ではなく、ストレートに下ろした髪型をチョイスしている。最近伸びてきた髪をポニーテールにしているカリエと対になることをイメージしているようだった。

 

「やっぱ都会だね。横浜は。でも夕食までいいの? ただでさえクライマックスシリーズのチケットは入手困難だったろうに」

 

「もう、そんなこと仰らないで。あなたとこうして一日を共にすると考えたら、そんなこと些細な手間よ」

 

 始まりは8月末に届いたダージリンからの連絡だった。10月末に開催されるプロ野球の大きな試合のチケットが入手できたから、横浜で観戦しないか? という内容。もちろんカリエは「いく」と即答し、隣で電話に耳をそばだてていたエリカにノータイムで蹴りを叩き込まれるのだった。

 

「でも楽しみね。私、野球を見るのカリエさんの草野球の全国大会以来だわ。あの試合は本当に面白くて、少し野球が好きになったかも。それに今日の夕食——ディナーはその優勝祝いと思って頂戴な」

 

 ありがとう、とカリエがはにかむとダージリンは顔を赤くして微笑んだ。まさか自分がここまで情緒の弱い女にされるのか、と驚くと共に、カリエから与えられた変化が何より心地よく感じる。

 

「——あら、さすがは特別な試合ね。もう人が沢山並んでいるわ」

 

「ま、東京ラビッツも横浜ドルフィンズも人気チームだからね。凜さん、はぐれないようにしてね」

 

 ぐいっ、と引っ張られた力強さが頼もしい。スタジアムの構造はここ一週間で下見含めて完璧に脳内に叩き込んできたダージリンだったが、敢えてカリエに先導されるのも悪くないと、ますます機嫌を良くしていった。

 

 

 01/

 

 

「なかなかおやりになるわね」

 

「予想していたとはいえ、白熱の投手戦だね。流石エース対決」

 

 5回の表、小休止を二人はスタジアムの外周にある飲食店が建ち並ぶスペースで取っていた。小腹を満たす為に購入したフライドポテトを摘まみつつ、フロアに設置されたモニターで試合の様子を見守る。

 

「カリエさん、私一度お化粧直しに行ってくるわ」

 

「じゃあ私はここで待ってるよ。何か買っておいてほしいものある?」

 

「ならあちらのチュロスを」

 

 普通にカップルらしい会話ができるようになったわね、とダージリンは濡れた手をハンカチで拭う。半年前ならば決して考えられなかった関係性だ。

 いくら勝利のためとはいえ、自分がカリエを悪逆に利用した事実は消えない。だからこそこれから二人で積み上げていくものは、美しく尊いものにしていきたいと彼女は願っていた。

 化粧の乱れを整えながら、今日のカリエの姿を思い出す。いろいろと吹っ切れだしたカリエはガーリーな格好も、ボーイッシュなファッションも、どちらも着こなすようになっていた。今日のカリエは男性らしいスキニーに白いシャツという出で立ち。ダージリンが横浜駅前のセレクトショップで見繕ったキャップをそれに加えたものだから、遠目から見たら細身の男性にも見える。まあキャップは球場に入った瞬間に、ラビッツのそれに入れ替わっていたが。

 

「——ぶっちゃけ好みドストライクね」

 

 はあ、とダージリンは溜息を吐きだした。まず顔が良い。もともと母親譲りの整った顔立ちだったが、ここ最近はいろいろと懸念事項が解決したお陰か爽やかな雰囲気すら纏いつつあり、蕩けるような笑顔を周囲に振りまいている。そこに男性らしい立ち振る舞いも加わり、カリエの一挙手一投足にドギマギされっぱなしなのだ。

 次に声。エリカと全く同じ声だが、父親譲りの温和な雰囲気も相まって抱擁力の塊となりつつある。学園での悩みを相談したときは真摯に聞いてくれて、割と的確なアドバイスをくれるものだから絆されまくっている。

 最後に手。手だ。

 草野球でキャッチャーを務めているカリエの手のひらは意外と硬く、見た目とのギャップが凄い。さっきも手を握られた瞬間にぐるぐるといろんな感情が吹き出してきて狂いそうになっていた。

 

 でも、とリップをひきなおす。

 

 そんな魅力的な人は私のものだ。以前のような歪んだ独占欲ではなく、となりに立つことの出来るという誇りだった。そんな素晴らしい人と素晴らしい関係を築けているのだと、誰にでも誇れるのは自分だけなのだ。

 

「さて、あんまり待たせすぎたら不味いわね。試合、まだ千日手だと嬉しいのだけれど」

 

 化粧室を後にし、チュロス片手に待ってくれているであろう愛しい人を探す。今日だけでなく、これからの人生で輝いた日々を紡いでいくのだと信じて。

 果たしてそれは直ぐに見つかった。

 チュロスはしっかりと持っていた。流石だ。数多ある飲食店からダージリンが好みそうなシナモンシュガーたっぷりのそれを手に入れている。有能である。

 立ち姿も完璧だ。ダージリンが見付けやすいように、観客席側から出てきた入り口近くで立っている。些細な気遣いが素晴らしい。有能だ。

 

「え、お姉さん熊本から来たの? すごーい、田舎のイメージがあったのに滅茶苦茶かっこいいね」

 

「うわー、歴代の彼氏の誰よりもイケメンだ。ねえねえ、写真一緒に撮って貰っていいですか?」

 

「あ、写真撮るなら腰抱いて下さい! 腰! その手で力強く抱き寄せて!」

 

 少なくない女子達に囲まれ黄色い声を浴び、困ったようにへらへらと笑っていた。ド無能である。許しがたし、罰が必要だ。

 

「カ・リ・エさん?」

 

 怒気にあてられた女子達は一目散に逃げていた。取り残されたカリエだけが情けない声で「ご、ごめんなさい」とダージリンに縋り付いている。ダージリンはもう知りませんと言わんばかりに、カリエを引き摺りながら観客席へと足を向けた。

 

 そう。魅力的すぎるのも問題なのだ、と「ひんひん」泣くカリエを見て思う。自分も絆された身なのであまり偉そうに言えないのだが、カリエは魔性とも言わんばかりのカリスマと魅力を持っている。関わった人間のほぼ全てを味方に付けかねない天然の人垂らしであり、しかもそれに無自覚ときているから殊更たちが悪い。夏の試合で見事下して見せた島田流の妹もしつこくあれからモーションをかけ続けているので気が気ではない。カリエもカリエで妹のように可愛がるものだからダージリンをヤキモキさせるのだ。

 しかも以前、東京で初デートしたときも渋谷の一角で若い女性達に囲まれてしまい、ダージリンがキレる一幕があった。

 

「私、凜さん一筋ですからぁ」

 

 大好きな野球観戦なのに、ダージリンのご機嫌を取ろうとするカリエを見て少し気の毒に思う。確かにカリエが意図して女子を侍らしていたわけでないので、これ以上臍を曲げ続けるのは上策とは言えない。

 ここは気持ちを切り替えるべきか、とダージリンはカリエに向き直った。

 けれども言葉が出てこない。詰まらない嫉妬心でカリエを困らせたという事実がダージリンの普段の饒舌さを押さえつけてしまう。一言「もう怒っていない」と言えば良いのにその一言が何よりも重たいのだ。

 

 そう遠くない場所で甲高い笛の音が響く。観客達のどよめきが広がる。

 

 ふとカリエの目がすっと細められたのに気が付いた。こちらに縋り付いていた彼女がすっとダージリンから身を離して足下に置いていた鞄に手を突っ込んだ。いよいよカリエの機嫌を損ねてしまったか、とダージリンは泣きたくなったが、カリエはあっという間にダージリンの頭を自身の胸元に抱き寄せて一言だけ、

 

「危ないから絶対に動くなよ」

 

 ぼすっ! と頭上で革を叩く音がする。周囲で二人の痴話喧嘩を微笑ましく見ていた観客達が「おおっ」と歓声を上げた。恐る恐るカリエから身を離してみれば、いつのまにか装着していたキャッチャーミットで観客席に飛来したファールボールを捕球したカリエがこちらを心配げに見下ろしていた。

 

「ケガはないですか? 凜さん」

 

「すげえなねーちゃん! マキ選手のファールボールじゃねえか! 良く取れなあ!」

 

 ビールで赤ら顔をつくった親父が手を叩いて喜んでいる。カリエはその親父に「ファンならいります?」と今し方捕球したファールボールを手渡そうとした。

 

「本当か! ありがとな! 姉ちゃん! ——あー、いや、やっぱそれツレの姉ちゃんにあげてくれ」

 

 喜色を浮かべた親父が直ぐに優しげに首を横に振った。どういうことか、とカリエがダージリンを見下ろすとカリエのボールを物欲しげに持つダージリンがそこにいた。

 カリエが「欲しいんですか?」と問えばダージリンは小さくこくん、と頷いて見せた。

 

『残念ながらドルフィンズの攻撃はこのイニングもゼロ得点! しかしながら選手さながらのファインプレーが観客席で見られました! ラビッツファンながらあっぱれ!』

 

 爽やかな青年の声で場内アナウンスが球場に響き渡る。何事か、と周囲を見渡せばスコアボード横に備え付けられた大型ビジョンに、カリエとダージリンが映し出されていた。カリエがダージリンを抱き寄せる格好である。直ぐさま二人は弾けるように身を離したが、それを嘲笑うかのようにカリエがファールボールを捕球した瞬間がリプレイ映像として流された。現実ではすでに密着を解いた二人だが、大型ビジョンには延々抱き合っている姿がクローズアップされている。

 

「あわわわわわ、穴があったら入りたい」

 

 顔を真っ赤にしたカリエが帽子で顔を隠した。

 周りもひゅーひゅーと囃し立てるものだから、ますます身を縮こませてしまう。

 だからこそ、こちらを熱っぽく見つめるダージリンにカリエは最後まで気が付くことはなかった。

 

 

02/

 

 

「良い試合だったわね。25番の背番号の選手が打ったホームラン一つだけが得点だったけど、カリエさんの言っていた投手戦の良さが詰まっていたように思うわ」

 

 日もすっかり落ちた夕食時、二人は赤い煉瓦造りの商業施設でテーブルを囲んでいた。ダージリンが予約したコース料理を二人して楽しんでいる。

 

「戦略的にはこういった投手戦の時は、相手投手にできるだけボールを投げさせればいいのね。いくら調子の良い人でも疲労は蓄積していくから、そこをつくのが定石か。でもそんなセオリーを無視したホームラン狙いがこの試合の結果を左右したのだとしたら、不思議なものね。いつだって英雄は私たちのような凡人の創意工夫をあっというまに超えていってしまうんだもの。『壁を破ることに価値がある。壁を破ることは、何より後世のために道を作ることでもあるのだから』 とあるアメリカの政治家の言葉よ。定石に囚われて、壁を自分の周りに建てることだけは避けたいわね」

 

 ねえ、カリエさん。とダージリンが微笑みを零した。なんかこと戦車道においては「敵に塩を送ったかもしれない」とカリエは冷や汗をかく。やはりダージリンの最大の武器はその戦略眼であることにカリエは今更ながら気が付いていた。

 

「でもその壁がこちらの身を守ってくれることもある。『定石を破りたければ定石を知れ』 いわゆる型破りは型を知らなければできないことは散々学んできたよ」

 

「あら、それはエリカさんから?」

 

 ダージリンの揶揄うような言葉にカリエは首を横に振る。

 

「ううん、キャッチャーの配球。奇を穿った浅はかな思いつきはいつだって強打者の一撃に粉砕されるんだ。今日の試合もそんな感じがする」

 

 多分、エースの疲れを心配したのだろう。スタメンマスクを被っていたのは若いキャッチャーだった。ストレートを武器にする投手に投げさせた安パイの筈のカーブ。それは美しい弧を描いて、スタンドに飛び込んでいった。

 

「うん、やっぱり奇策は所詮奇策だな。続けるものじゃないや」

 

 食事終わり。二人して横浜の町並みを歩く。もともとは鉄道軌道だったのか、通りに埋められたレールをなぞるように二人並んで歩を進める。普段は無限軌道で縦横無尽に走り回っている二人だが、今この時だけは共に一つのレールをなぞっていた。

 

「奇策? どうしたのかしら?」

 

 別れの時間までもう幾ばくもない。横浜を発つ九州行きの新幹線の時刻が迫っている。

 カリエが足を止めた。ダージリンもつられて少し先のところで立ち止まり振り返る。

 

 何処かで大型船の汽笛が鳴る。

 

「凜さん、今日は本当にありがとう。とても楽しかった。途中、不安にもさせてしまったけれど、私の、いや、俺が好きなのはあなただけだよ」

 

 返事は言葉ではされなかった。ただ急に歩みを進めてきたダージリンに後頭部をがっちりと掴まれて、いつかの夏の続き、カリエの知らないエリカに阻止された逢瀬の続きがなされる。

 時間にして十秒にも満たないあっという間の出来事。

 

「私も同じ気持ちよ、カリエさん」

 

 呆気にとられるカリエを見つめるそのあおいあおい瞳は夜の照明の中、きらきらと輝いていた。

 

03/

 

 

「あら、ダージリン様、それ誰のサインボールですの?」

 

 ある日の昼下がり、ティータムを楽しんでいたグロリアーナの面々の中で、ローズヒップがダージリンの執務机上に飾られた野球ボールに言及する。ガラスケースに収められたそれにはサインが書き込まれており、野球に詳しくないローズヒップでもそれが誰かのサインボールであることは理解できていた。

 

「あ、確かに気になりますそれ。いつのまにか飾ってありましたね。もしかしてカリエさんと見に行った試合で誰かのファンになったんですか」

 

 ルクリリもそれに興味を示し、言葉にはしないがオレンジペコもアッサムもダージリンの返答に耳を傾けていた。

 

「——いいえ、違うわ。その時は確かにファンになる、そんな気持ちだったけれど、よくよく考えればずっとずっと好きな選手だったの。その人からサインして貰った大事な大事な思い出の品よ」

 

 はっきりとしない返答にローズヒップは疑問符を浮かべ、ルクリリとオレンジペコは「ダージリン様ってそんなに野球が好きだったかしら?」と顔を見合わせた。ただ一人だけアッサムが「またそうやって直ぐ惚気る」と苦い紅茶で口直しをしていた。

 

「本当に、次の『試合』が楽しみだわ」

 

 木漏れ日の差し込む部屋の中、ダージリンは静かに笑みを深める。

 彼女が座す机上には一枚の真新しいポスター。

 

 

 04/

 

 

 新幹線を乗り継いでやっとこさ辿り着いた熊本駅。楽しかったけれど流石に疲れたな、というカリエを出迎えたのはやけに笑顔が美しい姉のエリカだった。

 

「あれ? エリカ。迎えに来てくれたの? 助かる」

 

「エリカ? 何言ってるの? お姉ちゃんでしょう?」

 

 これは終わったな、とカリエは目線を反らす。清々しいまでの笑顔を見た瞬間から、カリエはなんとか平静を取り繕っていたが、最早限界だった。

 

「テレビのチャンネルを回していたらね、あんたが応援している東京ラビッツの試合があったのよ。妹の趣味嗜好を理解する良い機会だと思って、じっくり観戦していたの」

 

 死刑宣告ってこんな感じなのかな、とカリエは横を向いたまま遠い目をする。

 

「するとね、何度も何度も何度も自分の妹のファインプレーを見せられるわけ。お母さん大喜びだったわ。おじいちゃんも鼻高々だったんだって」

 

 見てほら、と万力のような力で正面を向かされる。

 眼前にはエリカが手にしたスマートフォン。

 

「凄いわね。SNSでバズり捲ってるじゃない。お姫様を護るスマートな騎士ですって。ねえ、なんで私はあらゆる媒体であんたたちがいちゃついているのを見せつけられているのかしら」

 

 手が引かれる。ローカル線への乗り換えに重機のような力で引き摺られていく。

 

「あら、次の電車は鈍行ですって。じっくり話を聞かせて貰えるかしら? カ・リ・エ」

 

 ひーん、と少女の情けない悲鳴が熊本の空に溶けていった。二人が消えた改札前では黒いクマのマスコットが手を振ったポーズを取っている。

 胡乱げな黒い瞳は正面の柱に向けられており、そこには一枚の貼られたばかりのポスター。

 

——冬季無限軌道杯。

 




こんな感じでいくつかアフターエピソードを投稿できたらな、と思っています。


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アフターエピソード2 エリカ・センチメンタル

 エリカが日課にしていることがいくつかある。

 まずはボクササイズ。自身の肉体の健康と体形の維持に欠かせない日課だ。意外と大食らいなところもある彼女はそれで理想の体形を維持し続けていた。

 次に日誌。戦車道に関することを何でもメモする日誌だ。黒森峰に入学する前から続けており、日々の反省や明日への目標を綴っている。誰にも見せたことのない、いわゆるマル秘ノートだ。

 

 そして最後に、

 

「カリエ、お握りできたわよ。明太子と昆布、鮭は塩多め。大きさはいつも通り。これでいい?」

 

「ありがとうエリカ。じゃあ今日はいつもより早いからいってくるね」

 

 いつものタンカースジャケットではなく、黒を基調とした野球用ユニフォームに身を包んだカリエが台所に顔を覗かせる。

 背中にはキャッチャープロテクターの入った大きなザック。

 

 挨拶もそこそこに、草野球の練習に出かけたカリエを見送る。もともと中学生の時から顔を覗かせていたチームだったが、夏の戦車道が一段落してからはほぼ毎週、土日は練習に参加しているのだ。

 

「なんかスタメンになったからね」

 

 と無表情でのたまうものだから、せめて昼食くらいとエリカがいつ頃からかおにぎりを持たせ始めた。つまりここ最近出来た新しい日課(週課)である。全部ペロリと食べて帰ってくることから、それなりには気に入ってくれてはいるのだろう。

 

「さて、私も小梅たちと出かけるか」

 

 エリカもエリカでカリエの練習にあわせて予定を組んでいた。今日は小梅と学園艦内のショッピングモールを回る予定である。カリエの靴下の多くが穴あきになっているので、それを補充してやらなければならない。

 

「あ、エリカさーん」

 

 待ち合わせ時刻丁度。小綺麗な身なりをした小梅が近づいて来たエリカに手を振る。エリカは小梅ほど身なりを整えているわけではなかったが、持ち前の器量の良さでパーカースタイルの野暮ったさをカバーしていた。

 

「私、新しいコスメみたいんですよね。エリカさんは?」

 

「靴下。あと戦車道関係の本」

 

「なんかいつも通りですねえ。靴下もどうせエリカさんのじゃなくてカリエさんのでしょう?」

 

 苦笑しつつ足を進め始める小梅に並びながら、エリカはまあね、と気のない返答をしていた。

 

「野球の練習頑張りだしてから、消耗が激しいのよ。この前なんて泥だらけのまま床に転がっていたから、ひっぱたいてやったわ」

 

 なんかその光景が目に浮かぶなあ、と小梅はクスクスと笑う。コスメティックを二人で眺めているときも、これカリエに買ってあげたけど三日で飽きて投げ出したやつだ、とエリカが言うものだから「筋金入りですね」と小梅に笑われた。

 

「——ねえ、エリカさん。もしこのあと時間があるならカリエさんの様子を見に行きませんか?」

 

 小梅がそんなことを言ったのは、ショッピング終わりの昼食時だった。全国チェーンのファストフード店で期間限定のバーガーを食べていた二人だったが、徐に小梅が提案してきたのだった。

 

「どうしたの急に?」

 

 まさかそんなことを言われると思っていなかったエリカがポテトを摘まみながら視線を向ける。小梅は「だって」と前置きしてから言葉を続けた。

 

「エリカさんと遊んでいたらカリエさんが普段何をしているのか気になってきたんです。それに私、カリエさんが野球をしているところ見たことないですし」

 

 まあ確かに、とエリカは独りごちる。カリエが野球らしいことをしているのを見たのは、自分ですら昨年の夏、人吉のグラウンドでキャッチボールをしたとき以来だ。

 

「まあ私は別に構わないけれど、面白さの保証はできないわよ」

 

「友人の普段見られない姿を見るだけで十分面白いですよ」

 

 というわけでそんなことになった。学園艦内で練習できるグラウンドなど一つしかないのなから、二人でバスに乗り込んでそこを目指す。時間にしておよそ十五分ほど。

 自分たちにとって道だった世界は一コマの授業時間にも満たない時間で目の前にやってきていた。

 

「あ、あっちのグラウンドみたい。ここに練習チームの一覧が書いてある」

 

 総合運動場の入り口近くの掲示板で確認し、練習球場へ足を運ぶ。思っていたよりも本格的な球場で、小さいながらも観客席がしっかりと備え付けられていた。

 

「あそこにたってるのがカリエね。なんか大人の選手に囲まれるとちっこいわね、あいつ」

 

 自分だって同じ背丈のくせに、と小梅は突っ込みかけたが、わざわざ虎の尾を踏む必要はあるまいと口を紡ぐ。

 でもエリカの言うとおり、頭一つ小さいカリエはチームの中でも目立っていた。ちなみに紅一点である。

 

「あいつスタメンに選ばれたとか言っていたけれど本当なのかしら」

 

 カリエはエリカ達に気が付いていない。午後の練習が丁度始まったのか、各々自由にストレッチを繰り返していた。やがてチームの中でノックが始まったが、カリエはキャッチャー故か全く守備をする様子が見られない。グラウンド外で、早急の逸れたボールを黙々と拾い続けている。

 

「悪いわね。小梅、付き合わせちゃって」

 

「いえ、誘ったのは私ですよ」

 

 これは別に面白くないのかもしれない、とベンチに腰掛けながらエリカが謝罪を口にする。

 

 やっぱり帰ろうか。

 

 そんな言葉が漏れかけたとき、急にカリエがホームベース後ろにしゃがみ込んだ。

 誰かが「牽制と盗塁!」とダミ声で叫んでいる。

 

 ぱーんっ、と投手の投げたボールがカリエのミットを打った。聞いたことのない音にエリカ達が目を剥く。続いて受けたボールを直ぐさまカリエが二塁に向かって投げる。

 どこにそんな力が込められているのか、矢のような送球が二塁上の選手のグラブに収まった。

 

「二塁、カバー遅い! つぎもっと低く投げますから早くベースカバー!」

 

 続いて戦車道でも数えるほどしか聞いたことのないカリエの怒声。いや、怒っているわけではない。ただプレーの事実と改善点を伝えているだけだった。

 

「うっす! 次お願いします!」

 

 再び投手がカリエに剛速球を叩き込む。それを難なくキャッチしたカリエは先ほどよりもさらに最小限の動きで二塁に送球を放った。素人目に見ても、遙かに低弾道のそれは地面すれすれで二塁上の選手のグラブに叩き込まれる。

 

「おーけー! 次ファースト!」

 

 送球を送る相手が変われども、カリエの動きは変わらない。必要最小限の動きで、1秒でも早くという意識を持ってボールを送り続けている。エリカと小梅は言葉を失っていた。

 飄々暢気に振る舞い続けている妹が、親友が自分たちに見せたことのない姿に呑まれていた。

 

「ねえ、エリカさん」

 

「なに、小梅」

 

「格好いいですね」

 

「ええ」

 

 やっと絞り出した言葉も極シンプルなもの。およそ普段の饒舌さを失った乏しい語彙のやり取りだけだった。

 

「——カリエさんに見つかる前に帰りますか?」

 

「そうね、そうしましょう」

 

 再びカリエが休憩のために引っ込んだところで二人は観客席を立った。ついぞ最後までカリエがこちらに気が付くことはなかった。それもなんだか不思議な感じがして、帰りのバスで二人はほぼ無言だった。

 

「ねえ、エリカさん」

 

「なに、小梅」

 

「カリエさんに試合の観戦を誘われたら、私にも声かけて下さいね」

 

「ええ」

 

 最後の会話はそれだった。時刻は夕方の六時。秋も深まってきた今では日が早くも沈みかけている。

 赤い世界を一人であるくエリカは「帰ったらご飯つくらなきゃ」と誰に告げるでもない独り言を零していた。

 

「——ただいまー」

 

 エリカ特製のハンバーグが焼き上がってきた頃、カリエが帰ってきた。泥だらけで蹴飛ばされた反省からか、球場の更衣室シャワーで汗を流すようになっていた彼女は、石けんの匂いを引き連れていつものドアを潜る。

 

「おかえりなさい。ご飯、もうできているわよ」

 

 カリエが下ろしていく荷物をエリカが受け取っていく。その中には朝渡したおにぎりが詰め込まれた弁当箱があった。

 朝よりも遙かに軽くなったそれが、ぼんやりしていたエリカの思考を現実に引き戻す。

 

「ねえ、カリエ」

 

「なにー?」

 

 手洗いを台所で済ませているものぐさな妹に声を掛ける。エリカは数瞬、生唾を飲み込んだあと、こう言った。

 

「こんど、あんたの試合を見せてよ」

 

 

01/

 

 その日の夜、エリカは布団の中で自分と妹の関係について考えていた。

 産まれた時から常に一緒で、性格こそほぼ真反対だが根っこのところで繋がっている自負がある。けれども今日見た姿は、野球に打ち込み練習している姿は、どこか他人のようでいて、自分の知らない妹がそこにいた。

 

「——あいつ、あんな声出すんだ。野球だとああなんだ」

 

 どうして妹が野球に惹かれたのかはわからない。

 いや、正確には気が付いたときにはどっぷりだった気がする。試合を生で見たわけではないのに、プレーしたことがあるわけではないのに、戦車道に対してはあんなに警戒心を剥き出しにしていたのに、野球だけはいつのまにか昔からそうだったように、自然と楽しむ姿勢を見せていた。まるでそれが楽しいことを嫌というほど知っていたみたいに。

 

「中身も男の子なんだっけ。本当は。だからなのかな。でも、男の子だってみんながみんな野球が好きなわけじゃない」

 

 両親からカリエは男の子の心を持っていることは聞かされている。一応カリエは性自認を女性としているが、根本の部分では男性の性別を抱えていることは家族ならばみんな気が付いていた。

 

「カリエってなんなんだろう。あの子は一体どこから来たんだろう」

 

 考え出すと色々と止まらなくなる。何でも知っていると思っていた妹のことを、本当は何も知らないと知ってしまったから思考を止めることができなくなっていた。

 

「私、お姉ちゃんなのに」

 

 きゅっと身を丸め、枕を抱きしめたエリカはついぞ満足に眠りにつけないまま、次の日の朝を迎えていた。

 

 

 02/

 

 

 次の日、眼が醒めたらカリエが消えていた。

 否、書き置きはあった。どうやら熊本市内の運動公園へ、自主練のため向かったらしい。

 いつもなら起きてくる時間帯になっても気配が感じられず、いてもたってもいられなくなったエリカはカリエの部屋を蹴破っていた。大学選抜チームとの試合のあと、いろいろと吹っ切れたカリエの部屋は男性のそれらしく様変わりしている。

 戦車道の書籍が並んでいた本棚の隣には、予備のキャッチャーミットが並べられ、部屋のカレンダーは戦車道協会配布のものから、自分で購入した東京ラビッツの選手達のものへと様変わりしていた。

 また自分の知らない妹を見付けてしまって、エリカは表情を歪めた。

 

「何を馬鹿なこと考えてるのエリカ。あの子はあの子でしょう。自惚れるな」

 

 部屋をそっと閉め、エリカは家事を再開した。タンカースジャケットの代わりに洗濯するのは野球のユニフォーム。掃除機をかけたときに床から拾ったのは戦車同様の革鞄ではなくエナメル製のスポーツバッグ。

 

「————なんでよ」

 

 エリカはリビングに飾られているある一枚の写真を見た。深紅の優勝旗を二人で持つ、昨年の全国大会のものだ。

 写真の中の二人はこの瞬間が永遠に続くと思っているかのように、屈託のない笑みを浮かべている。

 

「本当、ありえない」

 

 身支度は最小限だった。動きやすい普段着に着替えると、現金の入った財布、愛用の鞄だけもって家を飛び出していた。学園艦を退艦し、運動公園への道筋を調べ、一秒でも早くたどり着けるように道を走る。

 昼過ぎ、ようやく公園に辿り着いたエリカは園内マップで素早く野球ができそうなところを確認。

 向かい先を一つのグラウンドに定めた。

 

「馬鹿みたい馬鹿みたい、本当馬鹿みたいありえない」

 

 自分の抱いている感情が理不尽なものであることは理解している。妹には妹の世界があることも理解している。それを否定する権利もコントロールする欲望ももつべきでないことは理解している。

 

「——でも、お姉ちゃんなんだもん」

 

 人混みがあった。何故こんなグラウンドに人混みが、と少し離れた場所から様子を伺う。すると人混みの間に探し続けていた影を見付けた。間違えようのない自分と同じ顔。でも今は世界で一番よくわからない双子の妹の姿。

 

「あいつ……」

 

 妹はキャッチャープロテクターを身につけていた。

 あの子はタンカースジャケットが似合うのに。

 

 妹は見知らぬ男とあり得ない近距離で会話を続けていた。

 あの子に気安く触れて良いのは私だけなのに。

 

 妹はあり得ない剛速球を放つ男の硬球を一心不乱に受け止めていた。

 あの子を傷物にしたら殺してやるから。

 

 時間にして10分もなかったように思う。けれども人生で一番長い10分間だった。

 見たこともない妹の姿を見せつけられる10分間。いつのまにかエリカは涙ぐみ、その場で立ち尽くしている。

 

 ぱーんっ。

 

 最後の球を受け止めたミットがあり得ない音を発していた。チームメイトに様々な指示を出し、あらゆる機器を操作する手からして良い音ではなかった。

 男のもとに妹が歩いて行く。

 いかないで、と声を漏らしても妹の歩みは止まらない。

 

 二人は余りにも近い距離で笑い合っていた。男が何か言う。何故かことの時だけは、こんなにも距離が離れているのに男がいった言葉がわかってしまった。

 

 あっ。

 

 その殺し文句は駄目だ。とエリカは絶望する。それは、その言葉は妹の世界を全て塗り替えかねない呪いの言葉。たかだか血の繋がりなんてなかったことにしてしまう呪詛だった。

 

 妹が泣き笑う。妹が答えた。男の言葉はわかったのに、妹がなんと返したのかわからない。

 でもエリカはもうその場に立っていることができなくなって、逃げるように自宅への道のりを戻っていった。

 

 多分妹より先に帰宅できたのは、姉としての最後の意地だった。

 

 

 03/

 

 

 帰ってきた妹の手はパンパンに腫れていた。

 どうしてそうなったのか問い詰める。嫌な女の自覚がある。馬鹿なことをしている嫌悪感がある。

 

「お別れを言ってきたんだよ」

 

 言葉はそれだけ。でもその言葉を口にした瞬間、妹は「あーん、あーん」と泣き崩れた。声をあげ、情けなくしゃくり上げ、膝から崩れ落ちて泣き続けた。

 

 エリカは妹を、カリエを静かに抱きしめた。

 

「——頑張ったね」

 

 カリエは何も答えない。ただただ生まれたての赤子のように喚き続ける。

 終わりの見えない慟哭にエリカはただただ寄り添った。

 

「大丈夫、大丈夫よ。私がお姉ちゃんだから、カリエは大丈夫。私がいつまでもいつまでも護ってあげる」

 

 答えは見つからない。何を言ったらいいのかわからない。

 何をしたら大丈夫なのか、もうわからない。

 

「大丈夫、大丈夫だから」

 

 エリカもまた泣いた。カリエに負けないくらいの声量で「あーん、あーん」と泣き続けた。

 

 

 04/

 

 

「じゃあエリカ、今日も練習行ってくる。午後からの戦車道の練習はちゃんと出るから」

 

 多分あれは夢だったのだろう。握り立てのお握りを手渡しながら、エリカはそう思う。

 カリエはあんな風に泣かないし、あんな風に自分に縋り付いたりはしない。

 自分もあんな風に泣かないし、あんな風にカリエに縋り付いたりはしない。

 だからあれは夢なのだ。誰がなんと言おうと夢であって現実ではないのだ。

 

「——帰ってくるときは連絡をいれなさい。心配になるから」

 

 玄関から出て行く直前、エリカから発した言葉はありきたりなもの。

 振り返ったカリエはいつも通りのはっきりとしない表情でこう答える。

 

「いってきます。お姉ちゃん」

 

 こうして、またいつも通りの日常が始まる。

 黒森峰の逸見姉妹の毎日が続いていく。

 

 

 05/

 

 

 結局の所、カリエが何なのかはわからない。

 妹であることは間違いないが、何故野球が好きなのかはわからないし、何故男性なのかもわからない。

 

 何より。

 

 カリエがどんな世界を生きているのか、生きてきたのかはわからない。

 

 でも、とエリカは空っぽの弁当箱を開ける。

 水にさらし、それを洗う日課の中でカリエの存在を強く感じる。

 

「別に何だって良いわ。私はお姉ちゃんなんだから」

 

 それは決して間違えようのないこと。

 これから二人が生きていく限り続いていく、誰にも犯すことの出来ない不文律。

 

 洗い物が終わる。明日のお握りのお米のセットが終わる。

 振り返る。カリエがいる。

 小さな寝息を立てて、胸が上下している。自分と同じ顔をして、声をして、自分と違う人生を歩んでいる。

 

「馬鹿ね、お風呂ぐらい入りなさいよ」

 

 今日もまた、着替えもせずにソファーで惰眠を貪る阿呆に、優しい蹴りを叩き込む。

 

 その日、二人は共に風呂に入り、同じ布団で寝た。

 寝ぼけたカリエがダージリンの名前を呼んだものだから、日課のボクササイズで鍛えた拳を、一発脇腹に叩き込んでおいた。

 

 随分とすっきりした、秋の夜長だった。

 

 もう、夏の影は何一つ見えない。




次は島田愛里寿


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黒森峰の逸見姉妹OVA
人吉ウォー!!! 1


 

 

 

 第61回全国戦車道大会にて見事十連覇を果たし、熊本市でのエキシビションも終えた黒森峰の生徒達は、残された夏休みを謳歌するべくそれぞれが行動を移していた。

 西住姉妹の二人は仲良く実家に帰省し、小梅は友人達と共に九州の小旅行に旅立っていった。

 他の生徒達もそれぞれが実家に向かうか、旅行に向かうか、学園艦でのんびりと過ごすか、思い思いの時間を楽しんでいたのである。

 もちろん逸見姉妹であるエリカとカリエもそれは変わらない。

 彼女達は真っ赤な二両編成の電車に揺られながらのんびりと夏休みを楽しんでいた。

 

「さすがに桜島は迫力あったわね。鳥刺しも食べられたし、かるかんもお爺ちゃんとお婆ちゃんに買ったし、良い感じの小旅行じゃないの」

 

「学園艦が鹿児島に寄ってくれたから助かった。お婆ちゃんちは熊本市からいくよりも、鹿児島から向かう方が近いし」

 

 彼女達二人は、仲良く座席に腰掛けながら一泊ほどの旅行を振り返っていた。

 さらにはこれから向かう祖夫母に対する土産について楽しそうに語り合っている。

 二人の実家は一応熊本市内だったが、母方の実家は南熊本の人吉市にあったのだ。

 最初は特に訪問する予定もなかったのだが、鹿児島に実家がある生徒達のために学園艦が鹿児島に寄港したことから、それならば行ってみようかと、急遽予定を変更していたのだ。

 

「確かに丁度良かったかもね。最近は参加してなかった納涼祭の戦車道にも間に合いそうだし」

 

 言って、エリカが一冊のパンフレットを広げた。

 それは人吉市が発行している町内向けパンフレットだ。先頭のページにはでかでかと納涼戦車道大会の案内が踊っている。

 

「参加申し込みはしたの?」

 

「一週間前に電話でやっといたわ。エキシビションの翌日だから向こうもかなり驚いていたわよ」

 

「……昔はよく参加してたなー。なんか懐かしいかも」

 

 カリエの言うとおり、二人が戦車道を始めて少し立った頃、納涼戦車道大会には祖父母の家に遊びに行くたびに参加していた。

 当時のカリエはそれほど熱心ではなかったが、姉のエリカの助けもあってかそれなりに二人は活躍していたのだ。

 

「役場の人、私たちのこと覚えていたわよ。川上球場で男の子に混じって野球していた子たちですねっ、て」

 

「戦車道じゃないんだ……」

 

「ま、田舎だから目立ってたのかもね。いろいろと」

 

 ぼんやりとエリカは外を眺める。

 先ほどまで広がっていた「えびの駅」周辺の田園地帯が徐々に山麓地帯へと変化していた。

 川内川の列車橋を通り抜け、列車は熊本県との県境に向かっていく。

 ふと、隣に腰掛けていたカリエがうとうとと船を漕いでいることに気がついた。

 

「……眠いの?」

 

 うん、とカリエが頷く。

 エリカは「しょうがないわね」と苦笑を零し、カリエの頭を引き寄せた。

 

「しばらく寝てなさい。人吉駅に着いたら教えてあげるから」

 

「……でも前はそれで寝過ごした」

 

「うっ、今度はちゃんと起きているわよ」

 

 カリエの軽口にエリカは言葉を詰まらせたが、最終的には姉の方に頭を預けた。

 何だかんだいって姉のことは信頼しているカリエなのである。

 

 ガタゴトと、赤い列車が線路を行く。

 陽炎揺らめく八月の終わり。

 黒森峰の逸見姉妹は二人仲良く田舎への帰路を進んでいた。

 

 

/1

 

 

 二人して、少し大きめのスーツケースを引っ張ること十数分。

 彼女達は古風の立派な屋敷の前にいた。

 西住家の屋敷には敵わないが、それでも随分と大きくて立派なものである。

 

「呼び鈴鳴らした方がいいかな?」

 

「昔ならそのまま入ってたけどね。まあ一応鳴らしときましょ」

 

 門の脇に備え付けられた呼び鈴を鳴らす。よくある電子式のものではなく、金具を掴んで、青銅製の板に打ち付けるかなり古いタイプだった。

 応答は直ぐあった。

 下駄特有の、カラコロ甲高い音を立てながら中で誰かが駆けている。

 やや間があって、大きな木製の門が開いた。

 

「お帰りなさいませ。エリカお嬢様、カリエお嬢様」

 

 出てきたのは品のよい和服を着込んだ妙齢の女性だった。白髪交じりの髪を後ろでまとめた彼女は、お手伝いの長山タエといった。エリカとカリエは昔から長山さんと呼んでいる。

 

「ただいまです。長山さん。カリエ共々、お世話になります」

 

「なります」

 

 エリカとカリエが頭を下げたのを見て、長山は目を丸くした。

 

「まあ、まあ! お嬢様方も随分ご立派になられて! 赤ん坊の頃からお世話をさせて頂きましたが、こんなにも嬉しいことはありません!」

 

 長山の大げさな対応に二人は顔を見合わせた。

 昔からこの家では必要以上に持ち上げられてしまうのだ。それがどこかむず痒くて、そして懐かしくてどちらからともなく笑っていた。

 

「ささ、お入り下さい。旦那様も奥様も首を長くしてお待ちですよ」

 

 長山に連れられて二人は大きな門をくぐる。まず純和風の庭園が目に入り、脇の池では金の錦鯉が数匹泳いでいた。

 きょろきょろと視線があちこちに落ち着かないカリエを、エリカは黙々と引っ張った。

「行儀良くするのよ」

 

「わかってる」

 

「ご遠慮なさらずともここはお嬢さま方のお屋敷も同然です。旦那様方に挨拶された後、ゆっくりと散策なさって下さい」

 

 カリエの好奇心を微笑ましく感じているのか、長山の対応はとても大らかだった。

 エリカは恐縮しきり、しきりに申し訳ないですと繰り返していたが、カリエはそのようなこと何処吹く風。

 中々見慣れない純和風の屋敷に興味津々だった。

 

「旦那様、お嬢さま方をお連れしました」

 

 玄関にはすぐに到着した。

 上等な檜で組まれた立派な玄関だった。沈みかけている夕日を浴びて朱色に輝いている。

 その威容には、平然を装っていたエリカですら感心して惚けていた。

 今度はカリエがそんな姉の小脇を小突いていた。見れば長山は先んじて玄関の戸を開けて、二人の事を待っていたのだ。

 長山に促されて、二人は玄関をおそるおそるくぐる。万が一にもスーツケースのキャスターが敷居を傷つけないよう、細腕でしっかりと抱え込みながらだった。

 屋敷の主はそんな二人のすぐ目の前にいた。

 

「おおっ、ようきたようきた! むぞらしか姿にのうて、儂も鼻高々じゃい!」

 

 はっきりとした発声の、馬鹿でかい声だった。

 二人は咄嗟に何も言えなかった。

 あれほど礼儀正しくと口酸っぱくしていたエリカですら、呆然と立ち尽くしている。

 玄関に感心して惚けていたのとはまた別の意味で、呆気にとられていた。

 それもそのはず。

 彼女達の記憶の中ではそれなりに威厳のあった祖父だったのだが、そんな彼は頭に黒森峰の応援はちまきを装備し、黒森峰のタンカースジャケットと同じカラーリングの甚平を着込み、エリカとカリエの顔写真が印刷された応援内輪を手にしていたのだ。

 

「相良コウゾウ 御年78歳」の余りにも、あんまりな立ち姿だった。

 

 

2/

 

 

「ごめんなさいねー。この人ったら、あなたたちの試合のテレビ中継だけじゃ飽き足らず、役場で開催されたぱぶりっくびゅーいんぐ、だっけ? まで観戦しに行ったの。そしたら町内のお爺さま方にあなたたちをアピールするぞっ、て恥ずかしげもなく張り切っちゃって、このありさま。驚いたでしょう?」

 

「ふん、町内の印刷屋に突貫で作らせたのだ。可愛い孫の晴れ姿。これくらいは当然のことだろう」

 

 自分たちの団扇で風を仰ぐ祖父を見て、二人は「あはは」と苦笑を零した。精悍で威厳のある顔つきをした祖父が、さながらアイドルにどはまりした追っ掛けのような姿になっているのを見て、どう反応して良いのかわかりかねたのだ。

 祖母であり、瀟洒な藍色の着物を着込んだ「相良トヨ」は孫娘達の微妙な表情を見て、コウゾウの頭を小突いた。

 

「もう、二人ともびっくりしてるじゃない。折角学園艦を降りてここまで着てくれたんだから、もっと普通にお出迎えしてあげればよかったのよ」

 

「とは言ってもだな、儂のうちに溢れる孫への想いをどーしても二人には伝えたかったのだ。なんせ数年来の再会だからな。怖くて取っつきにくいお爺ちゃんは嫌だった」

 

「……その気遣いを俊彦さんにもしてあげたら、毎年のようにこの子達と、この子らのお姉さんを連れて家族で帰ってきてくれるんですよ」

 

 俊彦とはエリカとカリエの父親である。

 

「何を言う。儂はまだカナエとの結婚を認めとらんからな。いつだって、カナエが愛想尽かして帰ってきても言いように準備しておる」

 

 カナエは二人の母親だった。もしも両親の結婚が認められていないのならば、ここにいる自分たちは何なのだと、エリカとカリエは内心突っ込んでいた。

 

「全く……。あなたは思ってもいないことを直ぐ言っちゃうんだから。この子たちにバラしても良いんですよ? 結婚式では男泣きに泣いて泣いて、俊彦さんには『娘を頼む』と縋り付いていたことを」

 

 もうバラしてるとカリエが呟いたので、エリカが慌ててその口を押さえていた。

 

「ばっ、馬鹿もん。あれは言葉の綾でな……。本心ではないわい」

 

 相良夫婦の会話が夫婦漫才の様相を呈していたので、エリカとカリエはさてどうしたものか、と顔を見合わせた。すると丁度その時、襖が静かに開けられた。

 そこにはお盆を手にした長山が立っていた。

 

「旦那様、奥様。お嬢さま方が鹿児島で買われたお菓子になります。どうぞお召し上がり下さい」

 

 見れば鹿児島市内で購入してきた「かるかん」と緑茶が小ぎれいな豆皿に載せられていた。

 丁度良いと言わんばかりに、コウゾウは姉妹の土産に舌鼓を打った。

 

「うむ。やはり孫の土産というものはこう旨いものなのだな。……ところで話は変わるが、明後日の納涼祭。二人は参加するのか?」

 

 答えたのはエリカだった。カリエはかるかんを頬張って、姉に丸投げだった。

 

「はい。先日に電話で参加申し込みは済ませておきました。もちろん戦車道大会にも参加します」

 

「おお、そうかそうか。なら追加の応援旗も用意せんとなあ」

 

 威厳も何もあったものではない緩みきった表情でコウゾウは笑った。トヨはそんな夫を見て、隠すつもりなど微塵もないまま溜息を零す。

 

「もう本当にごめんなさいね。あんまりやかましいようだと、当日私が屋敷に閉じ込めておくから」

 

「い、いえ。おじいさまに観戦して頂けるのなら、私もカリエも喜びます。ねえ、カリエ?」

 

「うん。お爺ちゃんのために頑張るよ」

 

 普段はそれほど空気を読まないくせに、こういった場面では妙に勘の鋭いカリエである。どういうリアクションを取ればコウゾウが大喜びするのか手に取るようにわかっているのだ。

 

「おおっ! エリカ! カリエ! お爺ちゃんは嬉しいぞぉ!」

 

 機嫌が青天井並になったコウゾウは、直ぐさま夕食の準備を長山に申しつけた。

 懐から取り出した何やら分厚い封筒を彼女に押しつけて、「できる限り豪勢に支度してくれ」と注文まで付けている。

 長山も慣れたもので、直ぐさま「買い物に行って参ります」と屋敷を後にした。

 結果から言ってしまえば、エリカとカリエはこれまでの人生でも中々食べたことのないいたく豪華な夕食にありつくことができたのである。

 

 

3/

 

 

 翌日午前。

 お揃いの水色のワンピースに麦わら帽子という出で立ちの二人は「人吉駅」の駐車場に立っていた。

 カリエは手持ちのデジタルカメラで周囲をくまなく撮影し、エリカは手にしたノートに私見を書き込んでいる。

 

「この線路の向こう側まで発砲許可区域よ。どうカリエ? ここは防衛拠点に向いてそう?」」

 

「うーん、この駐車場は開けていて防衛陣地の構築が楽そうだけれども、目の前の商店街は死角が多くていらない一撃をもらいそう。それなら目の前の川を挟んで向こう側のお城跡の方が高所も取れて防衛むきかもね」

 

 そう、二人が行っていたのはフィールドの事前偵察だ。いくら地元はいえ、数年離れていた土地。できる限り地形図を頭に叩き込んで本番に臨もうという魂胆だった。

 

「なら城跡も偵察しておかないと。ちょっと歩くけれど、徒歩で向かうわよ」

 

「えー、なら商店街でアイス買ってよ。エリカ……じゃなかったお姉ちゃん」

 

「……あんたいい加減頼み事するときだけお姉ちゃんよばわりしてんじゃないわよ。……たく、お腹壊さない程度にしときなさいよ」

 

「わーい、大好きお姉ちゃん……って、あいたっ」

 

「んな棒読みで言われても嬉しくないわよ!」

 

 コウゾウとトヨが夫婦漫才なら、この二人は双子漫才だった。同じ顔に同じ声。そして同じ服装で巫山戯あう姿は良くも悪くも目立っていた。

 だからだろうか。商店街を歩いているときも、昔からの知り合いによく声を掛けられた。

 相良ヨシヒという少女も声を掛けてきた知り合いのうちの一人である。

 

「あら、エリカちゃんにカリエちゃんやないの。こっちに帰ってきとったんやね」

 

 言葉自体は関西弁だったが、イントネーションはテレビでよく見るそれと違って、ややゆっくりの言葉だった。

 アイスを手にした逸見姉妹二人が振り返ってみれば、半袖短パンの活発そうな少女が立っていた。

 

「あらヨシヒじゃないの。あんたもこっちに帰ってきてたの?」

 

「グレゴール高校の学園艦が八代に寄港したからね。ついでに帰省したんやわ」

 

 相良ヨシヒはエリカとカリエの従姉妹である。実家は人吉市で、今現在は奈良県にあるグレゴール高校に進学していた。

 

「すっかり関西弁ね。ついこの間までは球磨弁でなまってたのに」

 

「それはこっちの台詞やわ。なんなん? 黒森峰行くと東京言葉にでもなってしまうん?」

 

「大きな世話たいっ」

 

 思わず球磨弁で反論してしまったエリカが慌てて口元を抑える。カリエは滅多に見ない姉の失態を見て、くすくす笑っていた。

 

「あんたも笑ってんじゃないわよ」

 

「あれだけ人に方言で話すなって言ってたのに……。ぷー、くすくす」

 

「わざとらしいのよ!」

 

 相も変わらずに続く双子漫才にヨシヒはお腹を押さえて笑った。

 

「あはは、そっちはいつまでたってもかわらへんね。仲良しでええことやわ。……ところでお二人さん、あんたらは明日の納涼祭に出場するん?」

 

 目尻の笑い涙を拭いながらの、けれども鋭い眼光の問い。

 それに臆するようなら、黒森峰で二人はやっていけなかっただろう。

 返答は一瞬だった。

 

「もちろんよ。あんたと別チームになっても容赦しないからね」

 

「もちろん参加する。今日もそのための下見に来てるんだし」

 

 似たような答えの姉妹に、ヨシヒは不敵な笑みを零した。

 黒森峰には及ばないとはいえ、グレゴール高校で戦車道に打ち込む少女の笑みだ。

 

「それは結構なことや。でも残念。うちとあんたらは仲良く轡を並べて戦うことがもうきまっとるんよ」

 

 どういうこと? とエリカが疑問の声をあげた。

 ヨシヒは後頭部をぽりぽりと掻きながら答える。

 

「あー、それがな? あんたらが参戦することが決まったときに役場が悪ノリしてもうて、対戦相手を県外から呼んでしもたんよ。だからあんたらとうちは同じチームちゅうこっちゃ」

 

「県外の対戦相手ってどこ?」

 

 カリエの言葉にヨシヒは眉根を顰め、言いにくそうに口を開いた。

 

「佐世保のサンダースや。長崎の高校やな。これに関してはあんたらの方が詳しいやろ?」

 

 

4/

 

 

 サンダース大学付属高校――長崎県佐世保市を母校とした超金持ち高校である。戦車道履修者だけで500人近い生徒数を有し、それに見合った車両も保有している。戦車以外の装備も充実しており、全国大会ではフード車・シャワー車・ヘアサロン車といった特殊車両を連れてきていた。

 黒森峰が装備と人員の質で他校の優位に立とうとする高校ならば、こちらは質より量。それも圧倒的な物量で正面から叩きつぶそうとしてくるマンモス強豪校なのである。

 

「で、なんでそのサンダースがこんな片田舎の納涼祭まで出張ってきてるのよ」

 

 エリカとカリエ、そしてヨシヒの三人は人吉城跡の公園敷地内のカフェでテーブルを囲んでいた。

 ちょっと遅めの昼食を取っていたのである。

 エリカが「和風ハンバーグセット」。カリエが「オムライスセット」。ヨシヒが「カルボナーラのパスタ」に舌鼓を打っていた。

 

「さっきも言った通りや。折角全国優勝の立役者が参加してくれるんやから、これを機に町興しでもして当てたろっ、ちゅうことで近場の強豪校に出場を頼みこんだんや。そしたら思いの外あっさりと承諾されたんやて。実際、全国ネットのテレビ局も当日は取材に来るらしいで。なんたって『黒森峰の逸見姉妹』VS『新体制下のサンダース付属高校』やからな-」

 

「新体制って?」

 

 口元に付けたトマトケチャップをエリカに拭われながら、カリエは問う。

 

「新しい隊長が就任したんよ。確か隊員たちの間ではケイって呼ばれてる子やな。今年の春先に練習試合をしたとき、一緒に撮った写真があるけれど見てみるか?」

 

 そう言って、ヨシヒはスマートフォンを姉妹に差し出した。

 エリカとカリエで覗き込んでみれば、肩を組み合った少女が二人並んで映っている。やや茶色味掛かったヘアスタイルの少女がヨシヒで、その隣の金髪の少女がケイなのだろう。

 

「カリエ知ってる?」

 

 他校の分析に長けている妹にエリカは問いかけた。

 カリエはしばらくスマートフォンと睨めっこした後、こう答えた。

 

「……思い出した。私が平地に追い詰められたとき、シャーマンを指揮していた子だ。エリカにエンジンルームを撃ち抜かれてリタイアしている。確か肩書きは隊の小隊長だった筈」

 

「あら、あの時いたファイアフライの車長が小隊長じゃないの?」

 

「あれは出しゃばりの上級生だよ。本当はこの子ともう一両のファイアフライだけで私を追い立ててたんだけれど、無理矢理ファイアフライが後から合流したんだ」

 

「なるほど。もしあそこでファイアフライが無理せず、サンダース本隊の護衛につとめていたら多少なりとも展開は変わっていたかもね」

 

 結果が変わっていたと言わないあたり、エリカはエリカらしいとカリエは思った。ヨシヒも同じ事を考えているのか、あははと苦笑を零している。

 

「ま、誰が来ようと黒森峰の名に泥を塗らないよう、相手を叩きつぶすだけよ。カリエ、作戦の立案は任せたわよ」

 

「え? でも隊の編成も、チームメイトも知らない」

 

 カリエの言葉にヨシヒは「心配いらへんで」と答えた。

 

「参加車両は7両。ルールは殲滅戦や。役場も今回ばかりはえろう奮発してな。あんたらのためにパンターとティーガーⅡを一両ずつ用意してくれとる。残りはⅣ号が2両。Ⅲ号が3両やな。人員は基本的にあんたらより年下や。地元の戦車道チームの中学生が主やから、基本的に私ら三人がチームを引っ張っていくことになるで。私はあんたらが隊長と副隊長をするべきやと思ってるけどな」

 

 言われて、カリエはお手製のノートを広げ、ヨシヒの告げた編成を書き込んでいく。

 

「サンダースの編成は?」

 

「これに関しては当日までわからへん。でも基本的にシャーマンとシャーマンファイアフライやと思う。あっちも7両なことだけは確かやな」

 

 ノートに書き込まれた戦力図を見て、エリカが口を開いた。

 

「正面火力と装甲防御力ではこちらが若干有利くらい。でも乗員の練度を考えるとトータルではやや不利かもね」

 

「副隊長が得意な待ち伏せでもしてみる?」

 

「あれは私たちの練度があって初めて成り立つものよ。付け焼き刃のチームワークでは必ずどこかで破綻するわ。それにあんたはともかく、私にはみほのような戦略眼はないわよ」

 

「そんなことないと思うけれど。……でも待ち伏せが使えないのなら正面火力を活かして少しずつ削っていくいつもの作戦かな?」

 

 目の色を変えて戦術について議論を交わす逸見姉妹を見て、ヨシヒは懐かしい思いに胸を満たされていた。

 昔からこの二人はこと戦車道になると恐ろしいまでのチームワークを発揮してくるのだ。

 さすがは黒森峰のリーサルウェポン、と彼女たちの戦車道が頼もしいと感じた。

 

「フィールドワークの結果も交えて、私とカリエで作戦を練ってくるわ。明日はよろしく頼むわよ」

 

 ランチの代金を残して、エリカが立った。

 じゅるじゅると溶けた氷を啜っていたカリエを引っ張って、ヨシヒを見る。

 

「例え公式戦でなくとも私たちは手を抜かないから。『黒森峰のウロボロス』をサンダースの奴らに知らしめてやるわ」

 

 その自信に満ちた表情は、ここ十数年来、ずっと変わっていないモノだった。

 

 

5/

 

 

 八代港に寄港した学園艦から八代駅を経由し、人吉駅まで専用の輸送列車を使って、サンダースの生徒たちは人吉市入りを果たしていた。

 

「うーん、The middle of nowhere!(ど田舎!) 同じ九州だけれども、長崎とはまた違った町並みね!」

 

「随分内陸まで来ましたからね。久しぶりの列車移動でしたけれど、お尻が痛いのなんの」

 

「アリサは列車じゃなくて積み込まれた戦車の方に見張り番として乗っていたからね。それについては感謝しているわ」

 

「ありがとうございます。マム」

 

 エリカとカリエが駅前を後にして丁度一時間後。サンダースの彼女たちは駅で戦車の積み卸しを行っていた。寡黙なナオミが先頭に立ち、市から借り受けた重機を操作している。

 

「ところで『黒森峰のウロボロス』が参加しているのは確かなんでしょうね。ここでやっぱり参加していませんでした、じゃ That's so lame(つまらないわ) よ!」

 

 ケイの冗談交じりの言葉を受けて、アリサは手にしていた資料をぺらぺらとめくった。

 

「さっき役所で問い合わせましたけれど、参加するのは確実なようです。しかもそれぞれが黒森峰で乗車しているのと同じ車種の戦車を用意したんだとか」

 

「だとすれば虎と豹か……。シャーマンで抜くのは厳しいかもね。ナオミのファイアフライをどう活かすのかが、間違いなくキーポイントになるわ」

 

「相手にはあの逸見カリエもいます。我々がそのような作戦を立案していることは読まれているでしょう」

 

 こちらの行動は筒抜けだ、というアリサの言葉にケイは不適に笑った。

 

「あら、それを優勢火力ドクトリンで押しつぶしていくのが、私たちのやり方よ。明日は期待しているわね。アリサ」

 

 それは黒森峰のウロボロスを微塵も恐れない、絶対の自信からくる笑みだった。

 

 

6/

 

 

「ねえ、お爺さま。カリエをご存じないですか」

 

 その日の夕食後、荷物の整理を行っていたエリカはカリエの姿が見えないことに気がついた。

 屋敷の中を一回りしても、何処にも妹の姿は見えず、居間で応援グッズ製作に精を出していたコウゾウに問いかけたのだ。

 エリカとカリエの名前が刻まれたハッピに身を包み、二人の顔写真を団扇に貼り付けていたコウゾウは、「はて?」と首を傾げた。

 

「長山さんや。カリエを知らんか?」

 

 コウゾウの言葉に、長山は答えた。

 

「カリエお嬢さまなら、野球道具をもって川上球場に向かわれましたよ」

 

「え? 一人でですか?」

 

「ええ、ご友人と行かれるとは仰ってませんでしたが」

 

 長山の答えに、エリカも首を傾げた。なんで今更と思いながらも、そういった突飛もないことをするのが我が妹だとも理解しているので、「そうですか」と手短に二人へ礼を述べた。

 

「すいません。お風呂の前に連れ戻してきます」

 

 出掛ける旨を伝えて、屋敷を後にする。

 徒歩で十五分ほどの距離にある球場へ、エリカは小走りで駆けていった。

 そしてカリエは、長山の告げたとおり川上球場にいた。

 

「何してんのよ」

 

 ホームベースのやや後ろ。本来ならキャッチャーが座している場所にぼんやりと立ち尽くすカリエに、エリカは声を掛けた。

 カリエはこちらに歩いてくるエリカを見定めると、手にしたグラブを手渡した。

 

「お爺ちゃんちの納屋で見つけた。エリカ。これ持ってボール投げて」

 

 やや古びたグラブとボールを受け取ったエリカは何が何やらわからなかったが、別段断る理由も見つからなかったので、言われたとおりにボールをカリエに投げようとした。

 だがその動作をカリエに途中で止められる。

 

「違う違う。マウンドから投げて。割と全力で」

 

「はあ?」

 

 いよいよ意味不明な妹の言動にエリカは声を上げた。けれどもそこは妹に甘いエリカ。渋々ながらもマウンドに登りボールを握った。

 

「私、それなりに肩は強いから、怪我しないでよ」

 

「大丈夫」

 

 防具も着けないまま、キャッチャーミット一つだけでカリエは中腰になった。

 その姿がやけにこなれていて、エリカはますます意味がわからないと疑問を抱いた。

 でもそれで満足するのなら、とエリカはほぼ全力で白球を投じる。

 彼女が自薦したとおり、女性としてはかなりの速球がカリエに向かった。

 普通の女の子ならば恐怖心を感じてその場から逃げ出すか、体が硬直して怪我をしてしまうような、そんな球だった。

 しかしながら、カリエは普通ではなかった。

 落ち着いた様子で、それこそ体に衝突する寸前にミットを割り込ませ、何でもないような動作でボールを捕球していた。しかもその感慨にふけることなく、中腰のままエリカへとボールを返した。

 受け取ったエリカが思わず顔をしかめてしまうくらいには、重たいボールだった。

 

「黒森峰でも時折草野球しているのは知ってたけれど、あんたそんなに運動が出来たのね」

 

 それから数度、エリカをピッチャーに、カリエをキャッチャーに見立てたやり取りが繰り返された。

 普段からボールを投げ慣れていないエリカの方が先に根を上げるまでだ。

 

「野球だけだけれど。ボクササイズとかは無理」

 

 それからしばらく。

 球場のベンチに腰掛けて、二人して沈みゆく夏の夕暮れを見ていた。

 

「やる気がないだけでしょう。あんたなら直ぐに慣れて私くらいには出来るようになるわ」

 

「やだ。しんどいのはいや」

 

「野球では絶対にそんなこと言わないくせに。でも不思議よね。野球の何がそんなにあんたを惹きつけるのか。両親はどちらも嗜んでなかったし、プロの試合だって連れて行って貰ったことはないでしょう?」

 

 エリカの疑問に、カリエは答えなかった。

 ただエリカもその答えにはあまり興味がないのか、それ以上詮索することはなかった。

 

「ねえ、エリカ」

 

「エリカって言うな。で、なに?」

 

「明日のことなんだけどさ。明日は囮をやらせて貰っていい?」

 

 妹の提案にエリカは少しだけ驚いた。

 

「あんたがそんなこと言うの始めてね」

 

「かもしれない。でも、それが上手くいけばサンダースをまとめて釣り上げられる」

 

 カリエの雰囲気が変わったと、エリカは直感でそう思った。これまでの長い付き合い、この妹の頭脳がフル回転したときの雰囲気は姉であるエリカが一番熟知している。

 だからこそ、根掘り葉掘り問いただすようなそんな野暮な真似はしない。

 

「でもあんたが指揮する黒森峰とは違うわ。言っちゃ悪いけれど、練度も何もかも足りていない急造チーム。チームワークもへったくれもないわよ」

 

 エリカの皮肉も最早儀式のようなものだ。

 妹の自信を引き摺り出すための、彼女なりの小芝居。

 それを理解しているからこそ、カリエも眉根一つ動かすことなく答えてみせる。

 

「大丈夫。アメリカ人はベースボールが大好きだと相場は決まっている。なら、必ず今回の作戦に乗ってくる。それに、サンダースのケイって人は私たちが思っている以上に勝負の醍醐味を知っている人だよ」

 

 




すいません。取りあえず仮復旧です。
誤字や脱字等は後日訂正します。


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人吉ウォー!!! 2

 雲一つ見受けられない快晴の空の下。彼女たちはお揃いのタンカースジャケットに身を包んで、真っ白なキャンバス地のテントの下に集まっていた。

 人吉小学校とでかでかと書かれたテントは、役場が近隣の小学校から借り受けてきたモノだった。

 タンカースジャケットも、役場がこの日のために用意した特注品である。どことなく、黒森峰にデザインが似ているのは、やはり同じ熊本県だからだろうか。

 

「……これ、この県のゆるきゃらのカラーリングをイメージしたんだって」

 

「ちょっとカリエ。私語は慎みなさい」

 

 市内の大きな地図を前にして、地元の少女たちは作戦に関する最終打ち合わせを行っていた。

 基本的にはカリエが立案してきた作戦を全員で確認する作業である。そこはやはりというべきか、戦車道を履修している高校生組が中心となった作戦が立案されていた。

 

「サンダースに優勢火力ドクトリンを取られないよう、一部を除いて単独行動を禁止するわ。必ずツーマンセルで行動し、相手を追い詰めるのよ」

 

 エリカの唱えたとおり、車両性能で勝っているこちら側に対してサンダースは数の優位で押しつぶしてくる可能性が考えられた。カリエの考えた作戦も、それらへの対策が練り込まれている。

 

「……というわけで、怪我なく遺恨なく楽しく頑張りましょう。作戦会議終わり」

 

 カリエの気の抜けた宣言が、解散の合図だった。

 エリカが「もっとなんとかならないの」と愚痴をこぼすが、そんなことは何処吹く風。ヨシヒは相変わらずの姉妹のやり取りにケラケラと笑った。

 

「ええやん、ええやん。今ので年下の子達の緊張もほどよくとれたんやから」

 

 どういうことだ、とエリカが周囲を見回してみればどこか安心したような表情をした中学生達が目に付いた。

 何故か、と考えてみれば彼女達は自分とカリエに一種の警戒心を抱いているのだと思い至る。

 

「黒森峰のスーパーエリート姉妹がそろい踏みやからな。この子らは足を引っ張らんよう必死なんよ。やからカリエちゃんの良い意味で緩い雰囲気が、この子らの気を楽にしたんやな」

 

 見ればカリエの周囲には既に幾人かの中学生達が集まっていた。

 妹肌が身に染みついているカリエだが、何処かスポーツマンの雰囲気も持っており、後輩に慕われやすいというのはエリカも知っていた。けれどもいざ目にしてしまえば、それが自分の知らない妹の一面を見ているようで何かむず痒い気分になっていた。

 

「なんか変な感じね」

 

「ま、そう言わんと。素直に妹が人気なのを喜んでやったらええやん」

 

 中学生達に矢継ぎ早に話しかけられているカリエをぼんやり眺めていれば、ふとその垂れ目と目が合った。

 この世界で唯一自分と同じ顔をした人間。

 雰囲気が随分と違うのは、その性格の差なのか。

 ただその目線が自分だけに向けられる性質のものだと知っているエリカは、先ほどまでの釈然としない気持ちは何処へやら、やや勝ち誇ったように笑った。

 

「ほらほら、あんた達もそろそろ準備なさい。私とカリエは最後の打ち合わせをしてくるわ」

 

 中学生の輪からカリエの襟首を掴んで引っ張り出す。いつもなら抗議の目線を向けてくるであろうカリエも今日ばかりは大人しくされるがままだった。何故ならそれは彼女が望んだことだから。

 決して人付き合いが苦手な訳ではないが、それでも姦しい雰囲気が苦手なカリエを、誰よりも理解しているのがエリカなのである。

 中学生達も、目を輝かせながら姉妹のやり取りを見守っていた。

 自分たちが憧れたスーパーエースシスターズに触れ合えたことが嬉しいのだ。

 

「いくら私たちが黒森峰の人間だからって、あんた達も遠慮は無用よ。全力で試合に臨みなさい。急造とはいえ私たちはチーム。互いをフォローし、高めあって、サンダースを叩きつぶすわよ!」

 

 カリエの宣誓が余計な緊張感を解きほぐすものだとすれば、エリカの宣誓は必要な緊張感を与えてくれるものだった。

 黒森峰の逸見エリカに激励されて、やる気に満ちあふれないものはこの場にいない。皆が皆、また違った目の輝きを持って「はいっ!」と頷いた。

 エリカが先陣を切れば、カリエがそれに続いた。ヨシヒも後輩達を連れ立って、テントの側に並べられていた鋼鉄の獣たちに乗り込んでいく。

 その中でもひときわ目立つ存在――ティーガーⅡとパンターにはオリジナルのパーソナルマークが刻まれていた。

 戦車道を嗜むものならば、知らない者はいないと言われるまでになった、二匹の蛇のマーク。

 黒森峰で輝いていた円環の蛇は、逸見姉妹の故郷でも燦然と輝いていた。

 

 

2/

 

 

「Hey! Listen!」

 

 ケイのよく通る声色がサンダースの面々の間を通り抜けていった。

 

「突然の遠征試合だけれども、これだけのメンバーが参加してくれたことを私は誇りに思うわ!」

 

 彼女が告げたとおり、サンダースに人吉役場から試合の申し込みがされてから五日と経っていなかった。サンダースも他の高校の例に違わず夏休み期間中だったが、それはケイの人望がなせる業なのかほとんどベストメンバーで現地入りを果たしていた。

 

「たとえこれがエキシビションだとしても、私たちは決して手を抜かないわ。殆どが中学生で編成されたチームだからって、手心はNoよ!」

 

「「イェス! マム!」」

 

 大人数から成る声の連鎖が周囲に響き渡った。サンダース側で観戦していた町の人々も、その士気の高さに驚いている。

 

「……私はついこの間、黒森峰の逸見姉妹に負けたわ。それも完膚なきまでに。今回のエキシビションを受けたのもそれのリベンジのためよ! みんなはこんな私の我が儘に付き合ってくれるということで本当にいいのね!?」

 

 ケイの言葉に真っ先に答えた者がいた。先頭で直立不動していたアリサだ。

 

「隊長の仇は私たちの仇です!」

 

 その言葉に周囲にいた者達が「そうだ!」「そうだ!」と賛同の意を示す。

 自身についてきてくれる部下達の頼もしい姿に、ケイはとびっきりの笑顔を見せた。

 

「なら今日は絶対勝つわよ! 全員で黒森峰の蛇たちを叩きつぶしてしまいなさい!」

 

 

3/

 

 

 試合開始早々、真っ先に動いたのはパンターだった。それなりの機動力を誇るそれは勝手知ったるフィールドだと言わんばかりに、人吉の市街を疾走していく。それぞれの開始位置は人吉連合が人吉駅前から、サンダースは人吉駅から数百メートル離れた球磨川を挟んだ対岸からだった。

 

「全車両に告ぐ。サンダースは球磨川の向こう側からスタートよ。あっちは兵陵や人吉城があって不意の遭遇戦が予想されるわ。よって私たちは無理に川を渡るのではなく、このまま市街地にてツーマンセルの待ち伏せを行う。パンターとⅣ号Aは肥後銀行前の橋を速攻で渡り、威力偵察に努めて。やばいと思ったら特にⅣ号Aはすぐに引き返しても構わない」

 

 エリカの無線連絡に少女達は「了解」と返す。

 パンターもやる気に溢れたのか、一気に速力を上げて肥後銀行方面へと走った。駅方面から城側へと掛かっている三本の橋のうち、真ん中の橋がエリカの指定した渡河ポイントである。

 

『こちら先行の偵察隊。今銀行の横を通過した。橋までの視界はクリア。敵影はなし。パンターを先頭に人吉城方面へ偵察に向かう』

 

 カリエの無線連絡を受けて、エリカは地図を貼り付けたボードを見た。そして青いマーカーで橋にバツ印を描く。黒森峰でも採用している敵影なしのサインだ。

 

「こちら隊長車。人吉城方面の偵察を許可するわ。背部の兵陵にサンダースの待ち伏せがあるかもしれないから十分注意するように」

 

 今更妹にこんな初歩的なことを伝えても仕方がないとエリカは嘆息するが、黒森峰と同じような指示の出し方ではやってはいけないということも同時に理解していた。

 だからこそ無線での突然の連絡にも迅速に対応することが出来る。

 

『先行の偵察隊や! カリエの車両が橋を渡った瞬間に撃たれた。待ち伏せは城やあらへん。永国寺ちゅう、寺の前からや!』

 

 カリエとペアを組み、偵察に向かっていたヨシヒからの無線だった。エリカは素早く大判の地図を取り出すと、城の西側にある『永国寺』の文字を見つけた。

 

「今そこから橋を後退しても狙い撃ちにあうだけね。カリエとヨシヒはそのまま城の中へ向かいなさい。私たちは城へ向かう三つの橋のうちの一番東側からまとめてそちらに向かうわ。城で合流して、そこに防衛線を構築するわよ」

 

 そう指示を飛ばすや否や、エリカはティーガーⅡの操縦手の背中をつま先で小突いた。さすがに黒森峰の時のように軽やかに、とはいかなかったが、それでも中学生にしてはそれなりの練度でティーガーⅡは前進を開始した。

 エリカは黒森峰で轡を並べる、ある意味でライバルでもある副隊長のことを少しばかり思い浮かべながら、マイクに叫んだ。

 

「全車両、私についてきなさい! パンツァーフォー!!」

 

 

4/

 

 

 寺の正面から、パンターとⅣ号に正面を曝さないよう、やや斜めに車両を配置してサンダースは発砲を続けていた。

 

「隊長、人吉の奴ら、応戦しないまま城の中へ逃げていきましたね」

 

「うーん、てっきり本隊が到着するまで粘ると読んでいたのだけれど、私が想像していたよりも向こうは慎重みたいね。装甲と攻撃力に勝っていても慢心しない。良い指揮官だわ。ほんと」

 

 アリサの言葉にケイはキューポラから身を乗り出して応えていた。

 

「どっちの指示でしょうか。姉か、妹か」

 

「姉ね。妹のパンターは少しだけこっちと撃ち合う姿勢を見せたけれど、若干のタイムラグを挟んで城へ入っていったわ。あれはおそらく姉の指示を待っていたのね。あの姉妹、どちらが指揮官と言うこともなく、お互いベストなタイミングで指示を出し合っている。こういうところが厄介なのねー」

 

「つまりリーダーシップを本当の意味で発揮する役はいないということでしょうか」

 

「Yes。どちらもリーダーになり得るし、どちらもソルジャーになり得る。まさに円環(ループ)する蛇。ウロボロスそのものだわ」

 

 ケイが冷静に姉妹を分析している中、少し離れた場所で偵察活動を行っているナオミから連絡が入った。

 

『マム、人吉の本隊が一番東の橋に差し掛かっている。あれぐらいの橋ならファイアフライで叩き落とせるが』

 

「本隊にティーガーⅡは?」

 

 最大の脅威である王虎の所在をケイは問うた。

 

『先頭で他の車両の盾になっている』

 

「Shit! なら駄目ね。今ティーガーⅡを妨害しても撃破出来るとは限らないし、後ろの部隊を巻き添えに出来なければ、いたずらに位置情報を与えるだけになるわ。しかも妹が城の後ろの兵陵に陣取った以上、ちょっとしたアクションでナオミの存在もバレかねない。歯がゆいけれど、そのまま橋を渡らせて。プランCの通り、城を中心に包囲網を敷くわ」

 

『Yes。マム』

 

 ナオミとの交信が終わったケイはアリサに向き直った。

 

「そういうわけで包囲戦を開始するわ。アリサはβ小隊の指揮をお願い。私はαとδの小隊を連れて、城の南側に陣取るわ。あなたは無理に姉を妨害せず、けれどもそれなりにストレスを与えながら、城入りをさせなさい」

 

 命令を受け取ったアリサが自身の小隊を前進させた。それからわざと遅らせて、ケイも小隊の移動を始める。進軍速度を敢えてずらすことによって、全ての小隊が人吉の本隊の索敵圏内に入ってしまうことを防いでいるのだ。

 

「……しっかし中々不利なゲームね。地の利、装備の利は向こう側にある。私たちにあるのは乗員の練度の利だけれども、それがどこまで通用するか」

 

 城後ろの兵陵を見上げれば、木々に紛れたパンターとⅣ号がアリサの小隊に向けて発砲を繰り返すのが見えた。おそらく撃破は期待していない、無事に姉たちとの合流だけを狙った完全な援護射撃。

 それすら交互に、発砲のない時間がないように調整しているところを見ると、それなりに連携が取れているのも窺えた。

 思った以上に、練度の差もないかもしれない、とケイは溜息を一つ吐いた。

 

 

5/

 

 

 人吉城は戦国時代に活躍した武将、相良義陽の居城である。

 大きな石垣と堀に守られ、背後には兵陵がそびえた堅城だ。例え戦車といえども突破するルートは数カ所しかなく、防衛にはうってつけのフィールドだった。

 エリカとカリエが取った作戦はそんな城をいち早く奪取し、籠城を決め込むことだった。

 例え装甲と機動力で勝っていても、付け焼き刃のチームワークでは各個撃破される危険性があった。

 だからこそそれほど綿密な連携を要求されない防衛戦を展開し、サンダースの戦力に出血を強いる作戦を前半戦の要としたのだ。

 

「カリエ、サンダースの連中からは見えない頂上の林の中で合流するわよ」

 

『了解。最前線の指揮はヨシヒに預ける。ちょっとばかしサンダースを足止めして』

 

『こちらヨシヒ。了解したで。まかせとき。みんな地元の後輩やから勝手知ったるものやわ』

 

 サンダースの小隊達と直接撃ち合っていたカリエとヨシヒの車両がそれぞれ動いた。

 そのうちカリエは素早く兵陵を駆け上がっていく。

 頂上ではティーガーⅡの乗員達が双眼鏡などを使って、索敵活動を行っていた。エリカはティーガーⅡの車体に身を預けて、索敵の結果をボードに書き込んでいた。

 

「お待たせエリカ」

 

 車両から飛び降り、カリエがエリカに近づく。

 

「お疲れ様。ねえ、カリエ。この布陣はどう思う?」

 

 カリエが到着したことに気がついたエリカが、手にしていたボードを見せた。横から覗き込んだカリエは眉根を寄せながらボードを注視する。

 

「……ファイアフライがいない」

 

「ええ、うちの子たちが索敵をしてくれてはいるんだけれども、それらしき影が見当たらないのよ。連れてきていないと言うことはあり得ないから、文字通り『隠し球』なのかもね」

 

「隠し球か……」

 

 思わぬ野球用語に、カリエは言葉を濁した。

 エリカは自身の発言が妹の中で思わぬ波紋を呼んでいることに気がついて、慌ててフォローを入れた。

 

「べ、別にあんたの『隠し球』のことをとやかく言ってるわけじゃないわよ」

 

「でも昨日は滅茶苦茶反対したくせに」

 

「最後は納得したじゃない! だいたい囮になるだけって言ってたのに、いざ蓋を開ければさらに危険な役回りなら、そうそう賛成できるものではないでしょう!?」

 

 突如始まった姉妹の言い合いに、周囲の隊員達は皆目を丸くしていた。

 視線を感じたエリカが咳払いを一つ溢し、とにかく! と先を促した。

 

「ファイアフライの居場所がわからない以上、ますます単独行動は推奨されないわ。私のティーガーⅡは防御力には優れているけれども、小回りがきかない分、もっと連携を密にしていく必要があるわね」

 

「なら一度、編成も考え直した方がいいかもしれない」

 

 カリエの提案に「そうね」とエリカが肯いた。彼女がペンを手に取り、ボードに何かを書き加え始めたとき、ヨシヒの慌てた声色で、無線が窮地を知らせてきた。

 

『こちら前線の防衛隊や。味方が一両やられてもうた。徐々にシャーマン共が詰めてきてるで!』

 

「いくつかは撃破はできた?」

 

『向こうのシャーマン一両を撃破。もう一両を履帯破損の中破さしてる。でもこれくらいが限界ちゃうか?』

 

 ヨシヒの背後から聞こえる砲声が増していることに気がついて、エリカは舌打ちを零す。彼女がさらなる指示を飛ばそうとカリエの方へ視線を向けてみれば、既に彼女は己の車両に飛び乗っていた。

 

「ヨシヒと一緒に山を下る。あちらが私たち姉妹をマークしているのならきっと食いついてくるはず」

 

「次は何処で合流するつもり?」

 

 エリカの言葉にカリエは少しばかり考えた。 

 ややあって彼女はこう返す。

 

「橋を分散して渡ろう。駅前まで戦線を下げて街中で遭遇戦に切り替える。突貫のチームワークで遭遇戦は回避していたけれど、ここまでの戦いでこのチームの連携は完成したと思う。もうそろそろ地の利を活かした戦いをしてもいいんじゃないかな」

 

「わかったわ。街中の指揮は私が執る。カリエはヨシヒと一緒に、サンダースの車両を駅前まで引き摺りだして」

 

「了解」

 

 やりとりはそこまで。

 兵稜の柔らかい土を巻き返しながら、カリエの車両が急発進した。向かうところは前線で踏ん張り続けているヨシヒのところだろう。

 

「……はとこ同士、息が合えば良いのだけれど」

 

 一抹の不安を抱えながらエリカもティーガーⅡに乗車した。カリエが向かった方向とは逆方向に進路を取り、その他の車両たちを率いて撤退の準備を始める。

 試合開始およそ一時間。

 いよいよ互いの持ち味を活かした戦車戦が展開しようとしていた。

 

 

6/

 

 

「こちらβ小隊! パンターとⅣ号が正面から降りてきました!」

 

 アリサの悲鳴のような報告がサンダースの面々に届いた。その狼狽えぶりに訝しみながらもケイが返す。

 

『What? 何をそんなに慌ててるの?』

 

「あいつら、真っ直ぐ斜面を降りてきたんです! 迂回路も取らずにβ小隊に真っ直ぐ向かってきます!」

 

『Oh! クレイジー! まともに撃ち合っては駄目よ! ナオミのところには誘導できそう?』

 

 双眼鏡片手にアリサが答えた。

 

「いえ! 誘導できるほどこちらに車両が残っていません! 履帯破損の車両を庇いながらだと撃破されないようにするのが精一杯です!」

 

 アリサがそう報告している間にも、パンターは彼女たちの眼前に迫っていた。

 アリサのシャーマンが発砲するも、パンターの側面装甲に弾かれてしまい、撃破には至らない。さらには背後から追随していたⅣ号線車が少しばかり車線をずらして、アリサのシャーマンを打ち据えた。

 全身に響く衝撃に耐えながら、アリサは小隊に命令を下す。

 

「動けない子を一両が援護。のこり一両は私に付いてきて!」

 

 ただ命令そのものが少しばかり遅かった。アリサの指示通りシャーマンたちが動こうとした時、先頭のパンターの砲塔が火を噴いたのだ。極至近距離で叩きつけられた75ミリは動けない車両を援護しようとしたシャーマンを側面から穿った。

 運悪く装甲の薄い部分を貫いたせいか、一瞬のうちに白旗が揚がってしまう。

 突然の撃破に慌てた小隊の中を、我が物顔でパンターとⅣ号は通り抜けて行ってしまった。

 

「申し訳ありません! 一つやられました! パンターとⅣ号も川をもう一度渡っていきます!」

 

『了解したわ。大丈夫、まだ慌てるほどの損耗じゃないわ。アリサは小隊を立て直して逃げた二両を追って。私はナオミと一緒にこれから下ってくる姉の本隊を迎え撃つわ。市街地に入ったら死角には十分注意してちょうだい』

 

 アリサは己の失態に堅く唇を噛んだ。折角ケイに信頼されて小隊を預けられているのにいたずらに損耗を増やすだけで、全くチームに貢献できていない。

 

「……駄目だわ。向こうの行動が常に想定を上回ってくる」

 

 アリサの零したとおり、ここまで常に逸見姉妹の策に後手後手となってしまっている。

 目の前に横たわる明らかな実力の差が恨めしい。

 同じ車両に乗り込む隊員たちも、そんなアリサの苦悩を感じ取っているのか、言葉数は少なかった。

 

「……私がなんとかしなきゃ。もっと頑張らなきゃ」

 

 だからこそ、その呟きには誰も答えなかった。

 

 

7/

 

 

 カリエたちが街に無事撤退したことを確認したエリカは、残された本隊を率いて城の北側に車両を進めていた。

 既に一番東側の橋は安全確認が終了しているので、Ⅳ号たちを先頭に丁度隊列の真ん中をエリカのティーガーⅡは進んでいる。

 

「……妙ね」

 

 キューポラから身を乗り出し、彼女は周囲を見回した。

 やや遠くの方では妹が率いる隊が城の正面にいた敵と撃ち合いながら、後退している音が聞こえる。

 だがそれだけだ。それ以外の音。

 例えばサンダースの小隊のエンジン音などが一切聞こえなかった。

 

「……っ、不味いわね。先頭、急ぎなさい!」

 

 それは天性の勘と言うべきか、エリカが持つ超人染みた観察眼の成せる業だった。

 肌を突き刺すような不安を感じたのと同時、彼女は直ぐさま小隊に速度を上げるよう命じた。

 果たしてそれは正解だった。

 

 ティーガーⅡの足下が爆ぜる。いや、正確には足下の橋が爆ぜた。榴弾によって橋が吹き飛ばされたとエリカが気がついたときには、ティーガーⅡの重量を支えきれなくなった橋が崩壊を始めていた。

 徐々に後ろから傾いていくティーガーⅡが必死に履帯を回転させるが、瓦礫で空転してしまい余り意味を成さない。

 これが黒森峰の乗員であれば、何とか危機から脱することも出来たのだろうが、それは贅沢な要望だった。

 

「くそっ、こんなところで!」

 

 たとえ最強クラスの防御力を誇るティーガーⅡといえども、この高さから落ちたときのダメージは自重も相まって甚大だ。間違いなく一発で走行不能になるような、そんなダメージ。

 エリカはキューポラ近くの取っ手をしっかりと掴み取り、来るべき衝撃へと備えた。

 だがティーガーⅡは何時までたっても橋から墜落することがなかった。

 

「エリカさん!」

 

 声に振り返ってみれば、背後からⅢ号が二両、ティーガーⅡの背部へ密着しその車体を押し上げていた。

 崩落を続ける橋の上で、ティーガーⅡの履帯がまだ無事なアスファルトを噛み、安全な陸地へと到達する。

 だがティーガーⅡを押し上げた二両のⅢ号はそのまま橋の崩落に巻き込まれて、行動不能の白旗を揚げていた。

 

「馬鹿! あんたたち怪我はないの!?」

 

 エリカの必死の問いに、瓦礫の下のⅢ号の乗員たちは答える。

 

『大丈夫です! 怪我人はいません!』

 

『エリカさんさえ無事なら、サンダースなんかに負けませんよ!』

 

 伏兵の存在を完全に失念していたというのに、ここまで信じて付いてきてくれる後輩たちのことを思って、エリカは崩れていた表情を引き締め直した。

 彼女は直ぐさまその場から離れるように乗員へ通達すると、二両のⅢ号へ対して礼を述べた。

 

「ありがとう。あんたたちのお陰で私はまだ戦えるわ。必ず仇は取るから、特等席で見てなさい」

 

 最後の交信の後、彼女は崩落した橋の側の中州を見た。恐らく今まで川の中に隠れていたのだろう。

 装甲を水で濡らし、砲塔から発砲煙を吐き出したファイアフライが目に映った。

 

「ああやってずっと隠していたのね。……ったく、ムカつくわね。つくづく川は私たちの鬼門なのかしら」

 

 

8/

 

 

 Ⅲ号が二両、行動不能になったと街の郊外のパブリックビューイングで表示されたとき、周囲は悲鳴に包まれた。

 エリカとカリエの応援団扇を手にし、黒森峰のタンカースジャケットカラーのはっぴを身に纏ったコウゾウは頭を掻きむしる。

 

「なんたる卑怯な! 正々堂々勝負せんか!」

 

 そんなコウゾウの怒りに同調した人物が一人いた。コウゾウとよく似た顔つきの老人――相良ヨシゾウである。

 彼もまた、ヨシヒの顔写真が貼り付けてある団扇片手に、グレゴール高校のタンカースジャケットを模したはっぴに身を包んでいる。

 

「その通り! 武士なら卑怯なだまし討ちなど言語道断!」

 

「あなたたち、サンダースの生徒さんは武士じゃありませんよ」

 

 そんなヒートアップし続ける二人を諫めたのは、日傘を片手に観戦を続けるトヨだった。今日は萌葱色の着物を静かに着こなしていた。

 孫馬鹿なところは兄弟で似るのねえ、とトヨは溜息を一つ吐く。

 彼女がぼやくとおり、相良ヨシゾウは相良コウゾウの弟であり、ヨシヒの祖父だった。

 

「しかしな、二両やられたことで人吉連合が一気に不利になってしもうた」

 

 コウゾウがぼやくとおり、人吉チームはすでに三両が撃破され、残り四両。

 かたやサンダースは一両撃破のみの、残り六両だった。

 いくら車両性能で人吉チームが勝っていても、この数の差は大きなディスアドバンテージだ。

 

「たく、あれだけ孫を応援していながらなんとも情けない。二人とも、まだまだ孫を信じる力が足りませんよ」

 

 トヨは静かにパブリックビューイングのモニターを見つめる。

 

「あの子たちは昔から私たちの想像もつかないくらい、お互いを信頼し、競ってきた仲なんです。これくらいピンチでもなんでもありませんよ」

 

 トヨの言葉にコウゾウとヨシゾウは顔を見合わせた。そして互いに頷き合うと、それぞれが足下に用意していた巨大な応援旗を振り始めた。

 

「うおおおおおおおおおおお!! エリカああああああああああ!! カリエえええええええええええええ!! お爺ちゃんが応援しておるぞおおおおおおお!!」

 

「ヨシヒいいいいいいいいいいいいいいいいいいい! 人吉魂を見せちゃれえええええええええええ!!」

 

 また始まった、と頭痛のするこめかみをトヨは押さえた。

 だが直ぐに表情をふっ、と崩すと朗らかな笑みを浮かべながら、言葉を零した。

 

「三人とも、まだまだこれからたい。頑張りしゃいね」

 

 

9/

 

 

 Ⅲ号が二両行動不能に陥ったことは直ぐさまカリエの耳にも届いていた。

 だがエリカは無事だという報を聞いて、彼女は大きく胸をなで下ろした。

 

「……あの子たちには感謝してもしきれないかも」

 

『それもこれもあんたらの人望の成せることやね』

 

 カリエとヨシヒは二人して人吉駅前の商店街に展開していた。ここで東側から撤退してくるエリカたちを出迎える手筈だ。

 

「彼女たちのお陰であちらの編成が完全に判明した。シャーマンが残り五両。ファイアフライが一両。フラッグ車はシャーマン」

 

『で、こちらのフラッグ車はうちらのⅣ号やね。まさかこちらを狙わずにティーガーⅡを狙うとは、余程警戒されとるで、あんたら』

 

「仕方がない。でもこのネームバリューを活かさない手はない」

 

 そう言って、カリエは自身の車両を前進させた。ヨシヒがそれに追従しようとするが、それをキューポラから身を乗り出して制する。

 

「ここからはゲリラ戦になる。パンターが囮になってⅣ号が仕留めよう。大丈夫、パンターの装甲ならそうそうやられはしない」

 

 カリエの言葉にヨシヒは少しばかりの反論を返した。

 

「ええんか? エリカを待たへんで? それに私にはあんたら姉妹のような連携は出来へんで」

 

「エリカは直ぐにこちらの意図を読み取って私の作戦に参加してくれる。それと連携だけれども、ここまで二人でやってこれた。私はヨシヒを信じる」

 

 カリエの力強い視線を受け止めて、ヨシヒはごくり、と唾を飲み込んだ。

 そして日焼けした頬を一つ掻くと、よしっと頷いた。

 

「ええで、やったろやんか。うちは黒森峰に進めへんかった落ちこぼれやけれども、グレゴール高校の意地はある。サンダースなんかには絶対負けへん!」

 

「落ちこぼれじゃないよ。私なんかより、よっぽどヨシヒの方が凄い」

 

 そう言って、カリエは車両を発進させた。ヨシヒはそれとは違った方向に車両を進める。

 いつもの逸見姉妹とは違った、変則的な連携だが、パンターとⅣ号、両者の行軍速度は即席とは思えないほどに出揃っていた。

 

 

10/

 

 

 薄暗いシャーマンの車内でケイは無線に耳を傾けていた。

 

『マム、すまない。ティーガーⅡを仕留めたと思ったんだが、あちらが一枚上手だった。Ⅲ号二両が後ろから押し上げて、ティーガーⅡを救ってしまった』

 

 ナオミの報告にケイは素早く地図を広げる。地図の隅には敵の編成が走り書きでメモされていた。

 

「いいえ、上出来よ。ナオミ。これであちらは四両。この数的有利は大きいわ」

 

 ケイの表情には笑みが浮かんでいた。この試合で初めて見せた部類の笑みだった。

 やっとこちらに戦況が傾いたという、安堵からくる笑みだ。

 彼女も彼女で、隊員たちの前では決して態度には表さないが、今回のエキシビションではそれなりに緊張していたのだ。

 

「アリサの小隊は態勢を立て直したらすぐに市内に突入。妹をマークして。私とナオミは逃げた姉を追うわよ。その時は橋を使わずに、ナオミが待機している中州を経由して渡河を行うわ」

 

 ケイの目には黒森峰ではない、不慣れな人員を扱うことに手こずっている逸見姉妹が見えた。

 たしかにそれぞれのポテンシャル、能力は特筆すべきものがあるが、チームワークが重要視される戦車道に於いては最大の要因たり得ない。

 そしてチームワークに関しては決してあちらに負けていないという自負もあった。

 

「今のサンダースはあなたたちが知っているサンダースとは違うのよ。……ん?」

 

 力強い呟きと同時、彼女の鋭敏な耳が音を拾った。

 すかさずキューポラから身を乗り出した彼女は周囲を伺う。人吉城正面の市役所前に陣取っていた彼女はその音の正体を直ぐさま察した。

 

「なるほど! そう簡単には勝たせてくれないのね!」

 

 撤退したはずの橋を再び渡ってくる二つの影。

 装甲に優れたパンターが盾となり、その後ろをⅣ号が追従している。煙幕代わりの黒煙を撒き散らしながら、パンターとⅣ号はケイ率いる小隊の正面を横切った。

 

「応戦しなさい! でも深追いは禁物よ! 同士討ちだけは避けて!」

 

 ケイの指示は果たして正確だった。

 だが読み違えたモノもある。それはパンターとⅣ号の目的だ。彼女たちが攪乱目的で突っ込んできたと予測したケイは、車両をその場からいたずらに動かすことを良しとしなかった。

 そしてそれにパンターが食らいついたのだ。

 

『すいません、マム! 二号車やられました!』

 

 無線と同時、ケイは黒煙の幕間からこちらを狙い定めるⅣ号の主砲を見た。慌てて操縦手の背中を蹴り、急発進をする。掠めた砲弾は遙か後方で炸裂していた。

 

「落ち着いて! 指示を飛ばしているのは妹の乗るパンターよ! Ⅳ号の射線には入らないよう、パンターを追いなさい!」

 

 まだ黒煙も晴れやらぬ中、シャーマンは離脱していく二両を追う。

 だが最初から最大速力で接近し、離れていく二両には速度面で遠く及ばない。

 みすみす逃がしてたまるものか、とケイが唇を噛んだとき、意図しない方向から砲撃が炸裂した。

 それは混乱するケイたちの頭上を飛び越え、逃げゆく二両の鼻先で炸裂した。

 ナオミのファイアフライの遠距離狙撃だと思い至ったとき、ケイは今日一番の声音で叫んだ。

 

「大丈夫! 援軍のファイアフライよ! ここで取り乱せばあちらの思う壺! 車両陣形を整えて蛇を追うの! 勝利の女神は私たちに微笑んでいるわ!」

 

 

11/

 

 

「ごめん、エリカ。追ってきた車両をもう一両くらい削ろうとしたけれど、ファイアフライに邪魔された。あのファイアフライ、かなり上手い」

 

 車内で無線機に語りかけるカリエの頬は汗が伝っていた。

 ぽたり、ぽたりと膝元の地図に染みが広がっていく。

 

『……仕方がないわ。でもやっかいね。あんな砲手、去年までいなかったわよ』

 

 だが未知の戦力だからといって無策のまま挑むわけにはいかなかった。

 カリエは緑のマーカーで自身の進行ルートを書きなぞっていく。

 

「ちょっと早いけれどこちらの作戦を最終段階に移そう。もう二両は仕留めておきたかったけれどこれ以上長引くとこちらが不利だ」

 

『同感ね。私ともう一両のⅣ号で、西に展開しているサンダースの部隊の中央を突破するわ。集合場所はあそこでいいのよね』

 

「うん。幸いこちらの隠し球にも気がついていないと思う。彼女たちはしっかりとパンターに食いついている」

 

 カリエはサンダースの本隊とある程度距離が離れたことを確認して、操縦手に東へ進路を取るように指示した。

 丁度建物が死角となり、サンダースの本隊との視界が遮られる。

 彼女はキューポラの蓋を上げ、そこから身を乗り出した。普段は頭しか出さない彼女には珍しい仕草だったが、滝のようにかいた汗を袖で拭っていることから、風を求めていることは確かだった。

 ふと空を見上げてみれば、いつか懐かしい、故郷の空が広がっていた。

 本当の意味での故郷はもう前の世界の、手の届かないところへ行ってしまったが、懐かしみを感じるのは今の空だ。

 隣を見やれば、同じように身を乗り出しているヨシヒと目が合う。

 彼女と姉、三人でそれなりに遊び尽くした懐かしい街で戦えていることが何よりも嬉しかった。

 

「ねえ、ヨシヒ」

 

「なんや?」

 

「楽しいね。戦車道」

 

 言葉はそれだけだったが、ヨシヒにはカリエの言わんとすることが伝わっていた。

 

「それはな、うちらでするから楽しいんやで」

 

 ヨシヒの言葉と同時、Ⅳ号が右手の路地に入り込み急停車した。そしてそのまま息を潜め、サンダースの小隊が通り抜けていくのを待つ。

 一両、二両、と数える中で目の前をフラッグ車であるシャーマンが通り過ぎた瞬間に砲塔が火を噴いた。

 だがタイミングがやや遅い。近距離で穿たれた砲弾はフラッグ車のすぐ後ろを走っていた別のシャーマンを撃破していた。

 

「くっ、やっぱそう上手くはいかないか!」

 

 直ぐさまⅣ号は後退してその場を離脱する。カリエは直ぐさまⅣ号に別ルートで進軍することを指示すると、パンターを追いかけているサンダースの本隊を見た。

 

「これで残り車両は同数。あとは残された四両がどこまであの場所にたどり着けるか……」

 

 最後の作戦を前にして、珍しく彼女は笑っていた。

 それは姉のエリカも余り見たことのない、高揚した野球少年としてのカリエの顔だった。



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ブリジットと言う名の少女 クロス
ブリジットと言う名の少女×黒森峰の逸見姉妹 セルフクロス01


このお話は同じくハーメルンに投稿させて頂いております「ブリジットという名の少女」と「黒森峰の逸見姉妹」のクロスオーバーになります。とある方から頂いたとっても素敵なファンイラストから着想を得てコツコツと準備していました。私生活で全く創作活動ができない状態でしたが、このファンイラストに勇気づけられて執筆を進めることができました。こういったクロスオーバーが苦手な方がいることは重々承知ですが、敢えてこの場で発表させて頂きたいと思います。本編とはなんら関係がないので、苦手な方は本編のみでも全く支障がございませんのでよろしくお願いします。


 ここだけの話、逸見カリエという人物は殆ど夢を見ない体質だった。

 夢というものは休息を取る為に身体が眠っているのに、脳だけは活性化しているレム睡眠時によく見られるものだ。

 生まれ持った脳天気な気質で一度床に潜り込めば、身体も脳もしっかりと休ませているカリエは頻繁な夢見とは無縁の人物ともいえる。

 ただ、そんな彼女でも半年に一度くらいは夢を見ることがある。

 夢の内容としては大抵一度目の人生にて野球に興じていることが多い。

 泥まみれになって白球を追いかけ、打ち返し、投手に対して捕手としてリードを展開しているのだ。

 彼女はそんな夢を随分と気に入っていた。

 もちろん今の人生に不満があったりだとか、エリカと上手くいっていないということはない。

 ただただ無邪気に野球に打ち込むことができる環境が夢の中というわけだ。

 だからこそカリエは夢というものが好きだった。今の人生こそが夢みたいなものだったが、それはそれ、これはこれと夢というものを楽しんでいる。

 

 しかしながらそんなカリエでも純粋に楽しむことの出来なかった夢というものが少なからず存在している。

 所謂悪夢と呼ばれる類いのものだ。

 

 

 01/

 

 

 ああ、まただ。

 

 カリエはそこに立ち尽くしたままそんなことを考えた。

 数多の列車が行き交う巨大な駅ターミナル。

 近代的な内装が施され、ガラス張りの天井が遙か高みに吊されている。床も壁も清潔に磨かれており、行き交う人々の服装は小綺麗そのもの。

 特徴としては、何度か訪れた関西の大型駅に少しだけ似ているかもしれない。

 しかしながら、それ以外の様相はカリエが知っているものとは随分と異なっている。

 目に入る看板や案内表示の文字列は何処の言葉なのかこれっぽっちも理解することが出来ないし、耳に届く人々の会話音声も異国の言語故に内容を伺うことは出来ない。

 

 そう、ここは日本ではない。

 

 見れば行き交う人々は白人や黒人が多く、カリエのような東洋系の顔立ちは皆無と言って良い。

 平均身長も随分と高く、彼女は人々の影に完全に埋没する形だった。

 つまり、見知らぬ外国の風景の喧騒で彼女はひとりぼっち。

 

 だが勝手はわかっている。

 これからどんな未来が自身に訪れるのか知っていた。

 

 冗談のような話ではあるが、カリエの記憶が正しければ、この光景が開始してから凡そ一分ほどで彼女は殺される。

 突如として銃撃を受けて、血を流しながら惨たらしく息を絶える。

 馬鹿なんじゃないのか。

 さすがにそれは妄想が行きすぎているのではないか、と自嘲すら漏れそうになるが純然たる事実だ。

 

 実際、カリエはこの光景をもう何度も繰り返していた。

 夢なんて滅多に見ないのに、ここ一ヶ月はほぼ毎日この光景を目にしている。

 目にして、自身の末路を何度も経験している。

 最初の頃は突然の悪夢に驚いて飛び起きていたものだが、ここ最近は慣れたもので今度は何時頃に目が覚めているのだろうと下らないことを考えている余裕すらあった。

 ちらりと、駅構内の品の良い時計に視線を走らせてみれば、自身の終わりがすぐそこまで来ていることを実感する。

 確か秒針が12を回って少したった後、下腹部をまず誰かに撃たれる。

 そして、膝をついたその瞬間にとどめの一撃を頭に受けてしまうのだ。

 

 何とも趣味が悪いと、カリエはため息を吐いた。

 まあ、自身が殺される夢というものは世間一般に見ても割とポピュラーらしいので、そこまで深刻には考えていない。

 むしろダージリンに相談してみて、会話のネタになればいいな、くらい考えていた。

 だからこそ足掻くこともなく、取り乱すこともなく、ただそこに立ち続ける。

 

 夢の終わりを静かに待つ。

 

 秒針が9を回った。

 残り十五秒。

 10を過ぎる。

 十秒。

 11。

 五秒。

 

 そういえば、とカリエは思考を巡らす。

 もう何度も殺されているのに下手人の顔を見たことはなかったな、と今更ながら思い出していた。

 いつもならば終わりを覚悟して瞳を閉じていたのに、その時はそうしなかった。

 むしろ誰が己を殺すのかと振り返った。

 

 そして見る。

 こちらに拳銃を向ける下手人のその姿を。

 大柄な男だった。

 記憶が正しければ、カリエが出会ったことも話したことも無い人物だった。

 少し期待していただけに、残念とカリエは笑う。

 最後までダージリンとの同棲を反対していたエリカがそこにいたらちょっとは笑えたのにな、と馬鹿みたいな事を考えていた。

 

 男の指が引き金に掛かる。

 さて今日のお目覚めだ、とカリエは動かなかった。

 銃声は一つ。

 

 人々が溢れかえった駅構内が瞬く間に悲鳴で覆い隠された。

 

 

 02/

 

 

「こちらコードアルファ! 護衛対象の保護に成功! ギリギリ間に合いました!」

 

 ぷぎゃっ、と変な声が肺から漏れた。

 視界一面には駅ターミナルの磨かれた白い床が広がっている。

 唇もそこに接触していて、カリエの今の体勢が、地面にへばりつく形になっているのだと窺い知ることができた。

 何かしら、万力のような力で上からしっかりと押さえ付けられている。

 

「アルファルドさん、もう一度繰り返します。護衛対象の保護に成功しました。対象を害しようとしていた男はリコが吹き飛ばしたようです。もう息はありません」

 

『……できれば白昼の銃撃戦は避けるべきだったが致し方ない。良くやったぞ。ブリ——いや、コードアルファ。ところで護衛対象に怪我は?』

 

「見たところ外傷は見受けられません。想定シナリオ3ーCに則って護送を開始します」

 

 頭の上から声が聞こえる。透き通った鈴のような少女の声だ。

 それまで周囲の人々の言葉など、何一つとして理解できていなかったのに、ここにきて彼女たちが何を会話しているのか凡そ聞き取ることが出来ていた。

 この設定のガバガバ具合はまさしく夢だと、カリエは暢気に思考を巡らせている。

 ただ、そんな中でも状況というのは動いているようで、少女の声、そして携帯電話か何か越しに聞こえてくる男の声に俄に焦りの色が帯び始めていた。

 

『不味い、外に張っているジャンから連絡が入った。騒ぎを聞きつけたローマ市警がそちらに向かっているそうだ。残念ながら彼らへの根回しはまだ完了していない。拘束されると面倒なことになるぞ。今から単独でそこからの脱出は可能か?』

 

「——装備に不安はありますが、何とか逃げ惑う人々に紛れて見せます。では、合流地点はどちらに?」

 

『ローマ市内はすぐに厳戒態勢が敷かれる。列車やバスの乗車記録は出来るだけ残したくない。すまないが徒歩でE3C地点まで向かうことはできるか? 公社の回収班がギリギリ接近できる地点がそこだ』

 

「護衛対象の体力が心許ないですが、仕方がありません。ではまた後ほど定時連絡を行います。トリエラやクラエスはどのような案配なのでしょう?」

 

 完全に置いてけぼりだと、カリエはため息をつく。

 しかし、自身が殺される以外の展開は今回が初めてだと、何処か興味が湧き出始めているのも事実だった。 

 話の内容はてんでサッパリだったが、少しでも頭に入れておこうと静かに聞き耳を立てる。

 

『トリエラは既に出動済みだ。クラエスは公社から出てこられない分、本作戦のバックアップを担ってくれている。護衛対象を公社に連れ帰ったあとの話し相手だよ』

 

「なら安心です。では実働部隊として私はこれから動き始めます」

 

『困難な任務だが君なら完遂できると信じている。頼むぞ』

 

 どうやら男とのやりとりが終わったらしい。

 少女が「ふー」と息を一つ吐き出して、携帯電話を切った。そしてすぐにそれを懐へとしまい込む。

 肩に掛けられた大きなボストンバッグを「よっこいしょ」と背負い直す動作ですら様になっている。 

 大地とキスを交わしたまま、カリエはその様子を盗み見ていた。

 そんなカリエの視線に目ざとく気がついたのか、初めて少女がこちらを見下ろす。

 

 視線がぶつかる。

 カリエの碧色の瞳と、少女の鳶色の瞳が重なった。

 素直に、綺麗な色だとカリエは思った。

 

「あなたが逸見カリエさんですね。あなたにはある右派議員とマフィアの癒着について裁判所にて証言をして頂く必要があります。それに伴って——もう実感されたでしょうけれど、命の危険が差し迫っていると言っても過言ではありません。私の所属や、詳細を語ることは出来ませんが、これからしかるべき保護が受けられる環境にまで護送させて頂きます」

 

 初めて湧いた感想は「何言ってんだコイツ」という身も蓋もないものだった。

 黒森峰女学園の一生徒として、途中で大洗女子学園に籍を移したことがあっても、カリエはマフィアなる職種の人々と懇意にしたことなど一度も無い。

 ましてやマフィアと政治家が仲良しした結果からくる汚職事件の詳細など知るわけも無かった。

 しかしながらそこは夢が夢たる所以。

 疑問は疑問として抱きながらも、それを深く追求するような思考力までは湧いてこなかった。

 むしろ、このまま眼前の少女の言葉にさえ従っていれば大丈夫という、妙な安心感すらある。

 自分でも馬鹿馬鹿しいほどに脳天気な感覚だと理解はしているが、それを自省するような理性はカケラも存在していない。

 

「状況を把握されたのなら何よりです。今から移動を開始しますからついてきてください」

 

 ぐいっ、と腕を掴まれて立たせられる。その細腕に見合わず随分と力強い感触にカリエは目を丸くした。

 少女もカリエの内心を読み取っているのか、「あー」と一瞬言葉を濁した後にこう言葉を続けた。

 

「私の身体能力は決して常人のそれとは違います。並の成人男性くらいならダース単位でも処理することができますし、人よりも随分と丈夫な身体をしています。心臓か脳を破壊されなければまあ死ぬこともないでしょう。ですから安心してついてきてください。そしてもしどうにもならなくなったときは、私を肉の壁にしてもらっても結構です」

 

 随分と物騒な自己アピールだな、とカリエは表情を顰めた。

 もしその流れに従うのなら「私は戦車を操作することが得意です」とかになるのだろうか。

 ただ眼前の少女がスポーツの基準で物事を語っていないことくらい、幾ら夢の中で寝ぼけているカリエでも理解できた。BB弾を撃ち合うサバイバルゲームが達者だとかそんな話をしてはいない。もっと純粋で暴力的な、それこそ人と人の殺し合いの話をしているのだ。いくら夢であったとしても、気分が良いものでは無かった。

 ましてや、外見年齢こそほぼ同じだが、カリエの中身はそれなりに成熟した成人でもある。

 ティーンの少女が語る死を連想させる台詞に無反応ではいられなかった。

 

「いや、その必要はないよ。これは夢。何度死のうがやり直しのきくゲームみたいなものだからそこまで深く考えなくてもいい。それに、私はあなたに肉の盾になって欲しいとは思わない。だってあなたは——」

 

 ただの女の子、と言葉を続けかけて、でもそれは叶わず、カリエは再び肺から無理矢理息を吐き出すことになった。

 見れば両手両足が宙に浮いており、周囲の景色が高速で背後に流れている。

 

「アルファルドさん! 敵影を確認しました! どうやら向こうはなりふり構っていられないようです!」

 

 カリエはまさに小脇に抱えられた猫のように、少女に抱き上げられたまま駅のターミナルを高速で移動していた。動力はもちろん少女の脚力。

 ただその推進力は常規を逸しており、ティーンの子どものそれでは決して無かった。

 それこそ、筋骨隆々のアスリートの脚力を持つ大男のようなものだ。

 

「っ、不味い!」

 

 カリエは、少女の目線が駅に備え付けられていた鏡面のオブジェに向いたことに気がついた。

 誰が何のために、何を表現するために設置したのかわからない小型のトラック大の彫刻だ。少女はおそらくそこに映った何かを確認したのだろう。素早くオブジェの陰に滑り込むと、カリエを床に下ろした。

 

 そして覆い被さるように体重で押さえつけると、「けっして頭を上げるな」とやや強めの口調で命令した。

 直後、カリエ、人生初の多人数からの銃撃を受けた。

 単独でなら一ヶ月ほど前から毎日のように受けている。

 

「わわわっ」

 

 戦車の砲撃を間近で聞き続けたカリエからしてみれば、銃撃の音量そのものはそこまで大したものではない。

 だが自身に直接向けられた殺意の象徴が銃撃音だと一度意識してみれば、初めて戦車戦を行ったとき以上の恐怖感を彼女は覚えていた。

 何かの合金で作られた彫刻が、多量の銃弾を受け止めている。

 貫通こそしてはこないが、弾丸が抉り取った合金の破片は周囲に降り注いでいた。

 

 ああ、これは死んだ。

 

 カリエは思わず頭を抱えてその場に蹲った。しかしながら、側にいた少女はそれとは真逆の体勢を取る。

 すなわち。

 

「そうです。そうやって身を小さくして」

 

 少女の手にはいつの間にか艶消し色に塗装されたライフルが握られていた。それが少女が肩に掛けていたボストンバッグから取り出された部品で組み立てられた、と気がつくまでに凡そ数秒。

 なんとなくそれは映画やゲームで目にするライフルに似ていると、カリエは思った。

 そしてそのまま映画のように、何かのレバーを手前に引いて彫刻の陰から構えた。

 直後、大きな風船を連続でたたき割ったかのような破裂音が鼓膜を揺らした。

 

 効果は覿面だった。

 

 こちらの弾が命中しているのかはてんでわからなかったが、明らかに降り注ぐ銃弾の数は減っていた。

 まさか反撃があるとは思っていなかったのか、向こうも焦って銃撃を中断しているのかもしれない。

 

「——こちらブリジット。ごめんなさい。ターミナル北口で戦闘になりました。状況が落ち着き次第撤退します」

 

 撃ち尽くした弾倉を交換する傍ら、少女は再び携帯電話を操作していた。ライフルの銃口はぴたりと静止したままなものだから、それだけで彼女の常人離れした筋力とバランス感覚を窺い知ることが出来る。一切のブレがないまま弾倉がライフルに吸い込まれた。

 そして再び銃口をマズルフラッシュが照らす。

 戦車のそれと比べるととても小さな光ではあったが、間違いなく人を殺すことの出来る光だ。

 スポーツで安全性を担保された戦車道とは真逆の性質の光。

 

「15、10、3、今」

 

 ふと少女の呟きがカリエの耳に届く。最初は何を言っているのか理解が及ばなかったが、「3」と呟いた瞬間にライフルから弾倉が落とされているのを見て、装填のタイミングを計っているのだと気がついた。残弾がゼロになって空撃ちすることを嫌がっているのだ。

 そこから先、身体が自然と動いていた。

 持ち前の図太さを発揮して、勝手にボストンバッグを漁る。市販されているものよりも遙かに頑丈で、それこそ防弾チョッキとかに使われていそうな素材が内布に使われていた。

 内部は何に使うのかわからない機械達に溢れており、一瞬触れることを躊躇させる。

 だが少女が装填に使っていた弾倉がメッシュ生地の内ポケットに何本も突っ込まれているのを見て、反射的にそれを掴んでいた。

 丁度そのタイミングで少女の手がライフルから離れる。

 弾倉を欲しているのだ、と判断したカリエはそれを少女の手のひらに握らせた。

 

「え? あれ? 何で?」

 

 今度はカリエではなく少女が狼狽える番だった。まさかこんなささやかなアシストがあるとは思ってもいなかったのか、淀みなく行われていた装填の動作が停止する。

 しかしそれも僅か数瞬のこと。

 すぐに「カリエ」が使えると判断したからなのか、銃撃を再開しつつも新たな要望を口にしていた。

 

「バッグのサイドポケットにハンドガンが一つ入っています。チャンバーに弾が入っていないので暴発の危険はありませんが、絶対に引き金に触らずに取り出してください」

 

 応答する間も惜しいと言わんばかりに、カリエは行動に移った。

 言われたとおりにサイドポケットのジッパーを開封してみれば、黒く光る銃が一つ。

 おそるおそる取り出してみれば、「SIGP226」の刻印が見える。

 

「……扱いは大丈夫なようですね。次にスライドと言って上部の四角い箱みたいな部品を手前に引いてください。これも絶対に引き金から手を離して」

 

 戦車道の本番さながらの緊張感を抱きながら、スライドを引く。

 戦車に搭載された機関銃を扱った知識が役に立っていた。これが薬室に弾倉から弾を送り込む動作であることを知っていたのだ。

 

「ありがとう。あとはそっとそれを私の足下に置いてください」

 

 いつでも発射できる状態のハンドガン。

 それが手から離れた瞬間、カリエは思わず安堵の息を漏らしていた。状況としてはまだまだ危機的な筈なのに、命を狙われていることよりも、人を殺すことが出来る可能性を有している方が怖かった。

 

「弾倉を三つ持って下さい。私が合図したらこの彫刻から場所を移動します。言うまでも無いですが、出来るだけ姿勢を低く。焦らずゆっくりと絶対に私から離れないで」

 

 有無を言わせない言葉の圧力に、カリエはただ頷いていた。 

 急いでボストンバッグに手を突っ込んで、弾倉を掴み取った刹那、ぐいっと肩を抱かれる。

 

「行きますよ。大丈夫、私を信じて」

 

 もうどうにでもなれ、と言わんばかりにカリエは少女の為されるがままになった。

 相変わらずの怪力で彫刻の陰から引き摺られつつ、何とか周囲の状況を伺う。

 見れば、ライフルをストラップで背中に回した少女が、先ほどのハンドガンを手にとって銃撃を続けていた。

 一般的に余り命中率が高くないと聞くハンドガンによる銃撃だったが、遠くに見える男達が次々に崩れ落ちていくのを見る限り、その技量は隔絶したものがあるのだろう。 

 薄々感づいてはいたが、この少女、とんでもない戦闘能力の持ち主である。

 

「よし、このまま走ります!」

 

 肩に回されていた手が襟元にいつの間にか移動していた。子猫が親猫に運ばれるが如くその場を駆け抜けさせられる。

 走るのは決して苦手ではないが、余りにも広いストライドとピッチに圧倒されてカリエは何度も足をもつれさせた。

 

「アルファルドさん、ターミナルを脱出します! 私たちの回収はミーティングの通りに!」

 

 ふと、少女が向かっているのが、駅ターミナルのバルコニーであることに気がついた。

 外のバスロータリーを見下ろすことの出来るガラス張りの回廊だ。

 

 いや、まさかそんな筈は……。

 

 嫌な予感というものを感じ、カリエは冷や汗で額を濡らす。

 しかしながら徐々に近づきつつあるガラス面を見て、さすがのカリエも口を開いた。

 

「いやいやいやいや無理無理無理無理!!」

 

 カリエは少女が何をしようとしているのか完璧に理解していた。ストラップで背中に回していたライフルを再び持ち直した少女は、陽光煌めくガラス面に銃口を向ける。

 直後、あの発砲音。

 穴だらけにされたガラスはいくら強化ガラスであっても自らの重みに耐えきれずに粉々に砕け散る。

 丁度成人男性大の穴があいたそこから先は、足下の存在しない空中回廊。

 そう。ロータリーまで見事真っ逆さまだ。

 落ちたら確実に死ぬ。

 

「ねえねえ、これって絶対無理だし。何より別の道が」

 

「いえ、ここが近道ですから」

 

 聞く耳など皆無。

 それどころか、カリエのことなどすっかり忘れたように少女は背後を振り返っていた。

 彼女の目線はつい先ほどまで戦場となっていたターミナルに注がれている。

 突然の銃撃戦に恐れおののいて普通の乗客など姿形もない。ただ一部の無事な追っ手とそれぞれ手傷を負った男達が存在するのみ。

 

「……折角だからあれを使うか」

 

 ぼそり、と呟かれた言葉にカリエはこれ以上はもう勘弁してくれと首を横に振った。

 ただこれも無視。

 

「確か番号はこれだったかな?」

 

 さっきまで使われていたスマートフォンとはまた別に、少し古めかしい携帯電話を少女が操作する。 

 何処かに着信を飛ばしているのか、質の良くないスピーカーからは何度かコール音が響いた。

 

「ではいきますよ」

 

 一仕事を終えた、と言わんばかりに少女がカリエに向き直る。

 今度は抗議する間もなかった。

 いきなり腕を引かれたかと思うと、次の瞬間には空中に足を踏み出していた。

 

 ああ、死んだ。

 

 カリエは先立つ不孝をエリカに謝罪していた。

 昨日までは夢の中で何度も殺されていたというのに、いざ生き延びることが出来れば夢でも死にたくなくなるものなのである。

 この夢の世界にエリカが存在しているのかはわからなかったが、咄嗟に思い浮かべた相手はやっぱり双子の姉だった。

 

「はい、着地は任せて」

 

 耳元で何かを囁かれた。

 いつの間にかしっかりと抱きしめられて、それこそお姫様だっこのように横抱きにされていた。

 地面が迫る。

 というか、ロータリーに停車していたタクシーの黄色い屋根が視界いっぱいに広がる。

 

「よっと」

 

 もう何度も耳にしてきたガラスの破砕音と金属がひしゃげる音を聞いた。

 何とか目をこじ開け、周囲を見渡す。

 見れば、抱きかかえられているのは相変わらずだったが、一緒に跳んだ少女がタクシーの屋根に立っていた。

 つまりは狙ってこれに着地したということか。

 

「え、嘘。なんで無事なの?」

 

 だが、幾らアスファルトよりも車の屋根の方がクッション性があるといっても限度がある。

 それこそ高さ十メートルを超える場所から飛び降りた人間が無事な道理などない。

 だからカリエは素直に「どうして?」と疑問を口にする。

 

 少女はカリエを抱いたまま、やさしく微笑んだ。

 

「おっと、申し遅れました。私はブリジット。ブリジット・フォン・ゲーテンバルトです。もっといえば正式名称はサイバネティクス試験体XA14-04。いわゆる義体と呼ばれるサイボーグなんです。だから少々のことでは死にませんし、壊れません」

 

 今度こそ言葉が出てこなかった。

 ただ、自分の余りにも想像力豊かすぎる夢見に、呆れるばかりだった。

 しかも、先ほどまで自分たちが逃げ惑っていたターミナルから幾つかの爆音が聞こえる。

 何事か、とブリジットの表情越しに上を見上げれば、紅蓮の炎がバルコニーに空いたガラスの穴から吹き出ていた。 

 さっきの携帯電話の意味がようやくわかった。 

 あれはボストンバッグに残されていた爆弾を起動させるための儀式だったのだ。映画やドラマでよくある、携帯電話の着信が爆破の起動キーになっているものだった。

 あらためて、自分がそんな非現実的な空間に足を踏み入れているのだと実感した。

 頬に火炎の熱を感じながら再びブリジットと目線を合わせる。

 紅い背景をバックに、黒い濡れ髪と鳶色の瞳が美しく輝いていた。

 

「さて、移動を始めましょうか。大丈夫。あなたは絶対に死なせませんよ」

 

 そしてその美しさを湛えたまま、ブリジットはカリエをそっと地面へと下ろすのだった。

 ただ、完全に腰が抜けてしまったカリエは、無様にタクシーの屋根にへたり込んでいた。



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ブリジットと言う名の少女×黒森峰の逸見姉妹 セルフクロス02

残り三日連続投稿でこのお話は一応完結します。よろしくお願いします。
また、世界観がガンスリテイストですので流血シーンもありますのでご注意下さい。


 情けないことにそこからしばらくの間、カリエはブリジットに横抱きにされたまま移動していた。久しぶりに腰が抜けたものだから足腰への活の入れ方を完全に忘れていたのだ。

 まさかこの年になって女の子に運ばれるなんて、とカリエは頬を赤くする。

 過保護なエリカがカリエを抱いて移動することは何度かあったものの、姉にされるのと見ず知らずの赤の他人にされるのは別だった。

 そんな羞恥プレイが終わりを告げたのは、カリエが徐に自分の袖を見たときだった。

 何かのぬめりを感じて、ふと見つめた服の袖だった。

 休日によく着ている白いパーカー。

 随分と着慣れて、見慣れたそれだったが、視界に映った景色の勝手は違っていた。

 赤い。

 それも鮮やかな赤ではなく、ちょっと黒ずんだ赤である。

 人生、そこまでの大けがをしたことのないカリエでも直ぐに色の正体を察することが出来た。

 そして赤い袖から視線が離せないまま顔を青くする。

 

「あ、あのこれ……」

 

 上手く言語化できないまま、袖をブリジットに突きつける。

 さすがに場慣れしているのか、彼女の反応はカリエよりも余程機敏だった。

 

「嘘! ごめんなさい! 直ぐに下ろします!」

 

 もともと人目を忍んで移動していたお陰が、周囲には人影が一切見当たらなかった。見渡せば、石造りの建物に囲まれた裏路地に二人はいる。石壁に切り取られた空にはシーツやシャツなどの色とりどりの洗濯物が踊っていた。

 

「早く処置しないと——」

 

 えっ、ちょっと待ってと言う間もなくブリジットの手がカリエのパーカーを引き剥がしていた。あっという間に下着姿に剥かれたカリエが眼を丸くする。

 

「何処を撃たれたんですか? 痛いところは?」

 

 不自然なほどに白い指先でいろんな場所を触られた。それこそ姉のエリカすら触れたことが無いような場所まで。

 まさかの初めての経験にカリエは目を回し、その様子を見たブリジットはようやくカリエには傷が付いていないことを知った。

 そして——。

 

「ああ、もしかしてこれか」

 

 無頓着にブリジットが右袖をまくり上げる。真っ白な腕の上に赤く痛々しい銃創が一つ刻まれていた。そこから流れ出した血は殆ど固まっており、人間のそれとは思えなかった。

 

「——血液凝固のカンフル剤のお陰です。さっき撃たれたときに効果が発揮されたのでしょう。私たちはいつでも全身の血液を入れ替えることができますから、こんな劇薬でも一日近くならドーピング剤として使用することができます」

 

 何でも無いように告げるブリジットにカリエは恐怖を感じた。

 自身が撃たれたことを嘆くよりも、血が固まって傷口が塞がっていることを喜んでいるのだ。

 普通の人間の感覚ではなかった。

 

「見たところ弾は抜けていますし、筋組織も断裂していません。ホローポイント弾でなかったのが幸いしたようです。これなら公社に帰って腕を取り替えてもらえれば問題ないでしょう」

 

 問題大ありだ、と思った。

 そんな残酷なことをぬけぬけと宣うブリジットが怖かった。

 

「でもあなたに怪我がなくて本当に良かった。それだけで私のこの負傷は報われます。——さて、もう直ぐで私の担当官——上司のような人が待機しているポイントに到着します。そこまでいけば公社の防弾車両が回収してくれますから安全ですよ」

 

 袖をそそくさと仕舞い込み、ブリジットが立ち上がる。

 その背中には彼女の上着に包まれてカモフラージュされているがライフルが背負われており、ズボンの後ろ側にはハンドガンが差し込まれている。

 何処までも普通なように見えて、何処までも異質な存在。

 

 これが自身の夢が作り出した人間だと思うと、カリエの気は決して明るいものではなかった。

 こんな残酷な存在を生み出したのが自分なのかと、暗鬱とした思いになる。

 

「さて、この通りを抜けた先に迎えのフォルクスワーゲンがいる筈なんですけれど……」

 

 足取りが重くなったカリエの前をブリジットが進む。彼女は無意識なのか、無事な左腕をズボンの後ろに回していた。それがいつでもハンドガンを手にすることが出来る動作であることを、カリエは嫌と言うほど理解している。

 ふと、ブリジットが通りの終点に辿り着く。

 カリエは丁度一メートルほど離れた後ろにいた。

 視線はややうつむき気味で、ブリジットの左腕の先を見ていた。つまりはハンドガンを何となく視界に収めていたのだが、ちりちりとひりつくような感覚を首筋に覚えていた。

 それは黒森峰の一車長として培われてきた天性の勘なのか。

 神算鬼謀の策士として磨き抜いてきた観察眼がなせる技だったのか。

 気がつけば、その腕を引いていた。

 突然のカリエの動きにブリジットが驚いたように振り返る。

 だが彼女のその行動は結果的には正解だった。

 

 ——何故なら。

 

「えっ?」

 

 振り返った頭部にやや遅れて翻った黒髪の中を、何かが通過していく。

 銃声は少し遅れてやってきた。

 カリエは自身が招いた思わぬ結果に目を見開いて尻餅をついていた。

 ただブリジットが瞬時に状況を理解して、カリエを抱きしめたまま再び通りに飛び込む。

 

「狙撃か!?」

 

 胸元のポケットから手のひらサイズのコンパクトを取り出す。女性がよく化粧に使っている鏡だ。開閉ボタンが操作されれば、中からファンデーションとブラシが顔を覗かせていた。しかしながらそれらは無造作に石畳の上に打ち捨てられ、鏡だけが手の中に残されている。

 そっと、通りの陰からコンパクトを差し出す。

 カリエはまたもやその行動の意味を知っていた。

 自分も過去に鏡を使って敵の死角から偵察を行った経験があるからだ。

 

「……200メートル先のアパートメント。三階、左から4つ目の窓。観測手いち。狙撃手いち。あれはワルサーか?」

 

 言葉と同時、ブリジットがコンパクトを素早く引っ込めた。

 すると先ほどまで手のひらが存在していた空間を弾丸が通過していき、石畳に風穴を開けて火花を散らした。

 間違いなく彼女の小さな手を狙った一撃である。

 

「しかも手練れ。素人じゃない。マフィア崩れがまさかこんな腕の良い奴を揃えているのか?」

 

 腑に落ちない、といった言葉を吐きながらもブリジットは動きを止めなかった。

 背中に回されていたライフルの封印が解かれる。上着を除去されたそれは相変わらず黒く光り、いつでも人を殺すことができる獲物だった。

 

「アルファルドさん、こちらブリジットです。狙撃手を確認しました。合流ポイントのすぐ近くです。トリエラ辺りで排除することは可能ですか?」

 

 通話状態のまま保たれていた携帯電話にブリジットが話しかける。

 

「? アルファルドさん?」

 

 応答がない。そこで初めてブリジットは表情を強ばらせて見せた。本来ならば直ぐ近くにいるはずの協力者との通信が途絶えているのだ。

 恐らく内心は穏やかなものではない。

 

「なんで、どうして?」

 

 何度も携帯電話を操作するが状況は改善しない。

 ブリジットに押さえ込まれながら、通りに突っ伏していたカリエは静かにその様子を見上げていた。彼女もまた言いようのない不安に駆られてはいるが、ここでパニックに陥ることが最悪手であることくらい判断することができた。

 そして、そのある意味で剛胆ともとれる冷静さが功を奏する。

 

「あれ? ねえ、ブリジットさん、おと、聞こえない?」

 

 初めてまともに名前を呼んだな、と今更ながらに思う。けれども今重要なことはそれではない。カリエは自身の五感が感じたものを正確に口にした。

 

「何か重たいものが近づいています。エリカのティーガーⅡが忍び足で近づいている感じに似ている。石畳が、地面がさっきから揺れているんです」

 

 携帯電話の操作を諦めたブリジットがカリエを見下ろした。2,3秒の間彼女は無言を貫いていたが、直ぐにカリエの横に倒れ込み、耳を地面へと近づけた。

 常人よりも遙かに鋭敏な聴覚がそれを確実に捉える。

 

「装甲車だ! 不味い、カリエさん、こちらへ!」

 

 先に起き上がったブリジットに、カリエは腕を引かれる。

 彼女は今来た通りを全力で遡っていた。

 ただカリエも、ブリジットが考えていることが痛いくらいに共感しているだけに、必死にそれについていく。

 それはそんな二人の逃避行が開始されてから僅か数十秒後に顔を覗かせた。

 装甲車を思わせる、巨大な車輪が支える箱形の車体。

 戦車を思わせる、回転式の禍々しい砲塔。

 戦車道の世界を生きているカリエは一目見ただけでそれの正体を察する。

 そして通りを走り抜けようとするブリジットの腰元に飛びついた。

 今度はカリエが横っ飛びにブリジットを救う番だった。

 通りの途中にあった裏路地へ転がり込む。

 

「か、カリエさん?」

 

「馬鹿! 耳を塞いで口を開け!」

 

 直後、爆音が背後の空気を抉り取っていた。

 続いて、本日二度目となる爆炎が世界を覆い尽くす。

 

「せ、戦車!?」

 

 余りの音量に感覚器官を乱されたブリジットの声量は箍が外れていた。それはカリエも同じ事で、負けず劣らずの声量で言葉を返す。

 

「違う! チェンタウロだ! 世界大会の時、イタリア代表と試合したあとに特別に乗せて貰った! 105ミリ砲を搭載した装甲偵察車! ああ、でもあれはある意味で戦車かも!」

 

 とにかく急げと、カリエはブリジットの手を引く。

 普段、90ミリにも満たない口径で殴り合っているカリエからしてみれば、100ミリ越えはまさに異次元の威力を誇る主砲だった。それが生身の自分たちを狙っているなどまさしく悪夢である。

 そんなカリエの焦りは正しくブリジットに伝わっていた。

 彼女もまた、そんなMBTばりの高威力に敏感な人種である。むしろ命のやり取りを常にしている以上、カリエ以上に切羽詰まった様子で次の行動に移る。

 

「駄目だ! あの威力なら次は建物の壁ごとぶち抜いてくる! 砲弾の装填までまだ時間はある! こっちへ!」

 

 逆にカリエを体の方へと引き寄せて、ブリジットは走った。

 彼女が目指したのは路地裏にひっそりと設置されたマンホール。

 

「急げ急げ急げ急げ!」

 

 呪詛のように言葉を紡ぎながらマンホールの取っ手を引っ掴む。成人男性一人では到底持ち上がりそうにない鋼鉄の蓋が鈍い音を立てて動く。

 やがて人一人分の隙間が空いたその時、カリエを抱きかかえながら彼女はその中へ飛び込んだ。 

 何も見えない奈落の底ではあったが、躊躇するという選択肢は無かった。

 

 二人の姿が通りから消えたまさにその瞬間、赤く輝く炎が通りを舐めていく。

 マンホールに飛び込まなければ黒焦げの死体が二つ生まれていた程の熱量。

 特大の殺意が成せる煉獄に、世界はまさしく焼かれていた。

 

 

01/

 

 

 夢の中で眠れば、目が覚めると思っていた。 

 だがそれがまやかしであったことをカリエは直ぐに知ることになる。

 

「あ、気がつかれましたか」

 

 心地よい揺れにカリエはいつの間にか眠っていたようだった。こうして誰かに背負われたのは、戦車の上で昼寝していた彼女をエリカが連れ帰ったとき以来だ。

 世界大会決勝が終わったその直後、自身の車両の真上で昼寝をかました馬鹿がいたのだ。

 ただ、いまこの状況はそんな脳天気なものではなかった。

 何せ、周囲は薄暗いコンクリートの壁に覆われており、唯一の光源はブリジットが脇に挟み込んだペンライトが一つだけ。

 足下の直ぐ脇には水が流れており、ここが下水道の類いであることを教えてくれた。

 

「えっと、お互い生きてます?」

 

 カリエの言葉に彼女を背負っていたブリジットが応える。

 

「ええ、何とか。でも助かりました。普通の装甲車じゃないと直ぐに見抜いてくれたから、こうして直ぐに逃げ出して、二人とも生きています。さすがの私も、あの火砲にやられたら即死ですから」

 

 笑えない賞賛だ、とカリエは苦笑を漏らす。

 まさか戦車道の知識がこんな形で役に立つとは思いもよらなかった。

 

「ところで、悪い報せと良い報せがあるんですけれどどっちから聞きたいですか?」

 

 何かの映画みたいな問いかけだった。

 カリエは素直に「悪い報せから」と言葉を返していた。

 ブリジットは歩みを進めながら口を開く。

 

「どうやらあなたを狙っていたのはマフィアなんていう可愛いものじゃないみたいです。何故だかはわかりませんが、軍の一師団があなたを狙っています。今この街はそいつらに封鎖されました。この下水もそう長くは潜伏できません」

 

 どれだけ自分は夢の中で自身を追い詰めているのだ、とカリエは溜息を吐いた。さすがにスケールが大きすぎて困惑以上の感情が湧いてこなかった。

 カリエの反応をどう受け取ったのか、ブリジットは少しばかり慌てながら「でも」と付け加える。

 

「もちろん良い報せもあるんですよ? 私の世界で一番頼れる相棒が、街に潜入することに成功しました。この街でのあなたの回収はほぼ不可能になりましたが、彼女がいれば脱出の可能性がぐっとあがります」

 

 つまりはあれか、協力者が増えたということなのか。

 だとしたらこんな下らない夢に付き合わせてしまう人間が一人増えることになる。今、自分を守り続けているブリジットという名の少女もまた、カリエの脳が生み出した空想の産物なのだから。

 どれだけ鬱屈とした思いを心底に溜めていたのか、とカリエはもう一度溜息を吐きだしていた。

 

「——よし、ここからなら上に行けそうですね。一人で登れますか?」

 

 丁重に背中から下ろされたカリエは黙って頷いていた。ブリジットはハンドガンに何処から取り出したのかストラップを素早く取り付けると、それを口に咥えて地上へと続く梯子に手を掛けていた。

 そして持ち前の身軽さを活かしてするすると登っていき、マンホールの蓋を怪力でこじ開ける。次にハンドガンを手にすると、周囲を警戒しながら陽光の下へと姿をさらした。

 カリエもその後に続く。

 ブリジットに手を引かれて下水から這い上がってみれば、久しぶりの青空が視界一面に広がっていた。  

 

「ああ、早くおうちに帰りたい。帰ってエリカのハンバーグを食べて、優花里さんと戦車ゲームで遊んで、ナナとキャッチボールをして、ダージリンさんが淹れてくれた紅茶をがぶ飲みして、ふかふかの布団で眠りたい」

 

 ふと漏れ出していたのは早く日常に戻りたいという思いだった。

 いくら夢とはいえ、もうそろそろ覚めていつもの毎日に戻りたかった。

 相変わらず先を行こうとしていたブリジットが振り返り、大丈夫ですと笑う。

 

「必ずあなたは帰ることができます。絶対に守り抜きますから。私たちはそのためにここにきました」

 

 随分と聞き慣れ始めた慰めの言葉だったが、カリエは何か引っかかるものをそこに感じた。

 もともと頭の回転が姉のエリカばりに良い彼女である。

 そろそろ自身が抱き続けてきた疑問が言葉として口をついてくる頃合いだった。

 

「……さっきから私のことを守る、守るって言ってますけれど、そこにあなたたちは何かメリットがあるんですか? 確か公社とか言いましたっけ?」

 

 たとえこれが夢の世界であったとしても、カリエは今現在の状況を鵜呑みにはしていない。何かしらの組織犯罪に対する重要参考人として保護するとブリジットは説明していたが、それを全て信じるほどカリエは耄碌していない。

 カリエの鋭い視線がブリジットを射貫く。

 ブリジットは首だけ振り返らせたまま、「はあっ」と溜息を吐いた。

 

「うーん、やっぱり無茶がありますよね。その設定。普通、重要参考人一人に装甲車まで出てくる謂われはありませんし、何よりあなたはここに至るまでの記憶が不明瞭だったりしませんか?」

 

 観念したのだろうか。ブリジットは気の抜けた表情で何度か黒髪の中を掻いた。取り敢えずは敵対心を持たれていないと、今度はカリエが安堵の息を吐き出す。

 

「確かにあなたは重要参考人でもなんでもありませんし、マフィアがあなたを追っているというのも正直言って嘘です。ですが、私たち公社があなたのことを全力で保護しようとしているのは事実です」

 

 ならば、何故自分が正体不明の敵対組織に追われているのかは説明できないのか、とカリエは疑問を口にしていた。ブリジットは「困りましたね……」と眉尻を下げる。

 

「こればっかりは私には説明する権限がないんです。担当官から与えられた命令に、あなたへ開示しても良い情報が設定されています。つまり喋っても良いこと、駄目なことが明確に分けられているんですよね。で、あなたが追われている理由は私からは説明できません。本当に申し訳ないとは思うんですけれど——」

 

 嘘を言っているようには見えなかった。

 だからこそ、カリエは別の方面から質問を掘り下げていく。

 

「なら、ブリジットさんが度々口にしている公社や担当官ってなんですか? どんな組織でどんな人なんですか?」

 

 回答を拒否されるのだろうか? 

 しばらくの間、ブリジットが口を噤んでいたものだからカリエはそう考えていた。

 しかしながら、意外なことにブリジットは渋々ながらも口を開いた。ただ、言葉を選んでいるのか随分ゆっくりな、異常なまでに丁寧な鞭撻だった。

 

「公社は——正式名称を社会福祉公社といって、福祉機関を装った政府の秘密組織です。治安維持任務から諜報、暗殺などいわゆるブラックオプスを遂行する組織。そして私はそんな組織の備品かつ装備品なわけです」

 

 サイバネティクスXA14-04――これば冗談でも何でもなく、本物の製造番号だと彼女は笑う。

 

「担当官はそんな装備品である私たちを監視し、運用するための人間です。私たちは担当官に愛情にも似た忠誠心を植え付けられている。ですから命令に逆らうことはあり得ませんし、担当官が殺せ、と言った人物を殺すようにつくられている」

 

 ほら、とブリジットは自身の袖をまくった。そして白く輝く肌をカリエに見せつける。

 

「この中には炭素繊維で構成された人工骨と、最新のロボット及び生体工学によって開発された人工筋肉が詰まっています。こんな細い腕でも人の脊髄を砕き、殺す能力がある。だからリミッターたる担当官の存在が必要不可欠なわけです。私たちは担当官に嫌われたくないから、不必要に残酷にはならないし、殺さなくても良いときは殺さないように振る舞うことができるんです」

 

 カリエは言葉が出なかった。あっけらかんと、自身のことを人殺しの道具だと言ってのけるブリジットに掛ける言葉が見つからなかった。

 ブリジットもカリエの反応は予想通りだったのだろう。すぐに袖を戻すと、踵を返した。

 

「あなたは今、不安だと思います。どうして自分が追われているのか。どうして自分を保護しようとしているのか。その答えは私の担当官であるアルファルドさんが持っている。——私は彼のもとへ必ずあなたを五体無事で届けて見せます。信じられないかもしれないけれど、どうか信じて下さい」

 

 逃避行が再び始まる。

 結局の所、カリエの疑問は何も解らず仕舞いだった。ただ、ブリジットとの間に微妙な距離感が生じてしまっただけだ。

 だがカリエは、今の言葉たちをブリジットの口から聞いたことは、決して間違いではないと自分に言い聞かせた。理由も動機も解らずとも、ブリジットは誠実に答えられることを答えてくれたのだ。

 ならばカリエにできることは、そんなブリジットを信じて後ろをついて行くことだけだった。

 非力で、足手纏いな彼女だったがしっかりとブリジットの後を追う。

 ブリジットも気配を背中で感じ取っているのか、一々振り返ったりはしなかった。

 太陽が天頂を過ぎ、時計の針が少しずつ進んでいる。

 二人の歩む道が佳境にさしかかろうとしていた。

 

 

02/

 

 

 トリエラは路地を一つ歩むにも、細心の注意を払って進んでいた。

 日中なのに異様に人通りが少ないのは、軍が発表した戒厳令のせいなのだろうか。囁き声一つすら失われた街を孤独に歩んでいく。今は背中に吊した短剣と両腕に抱きかかえたウインチェスターだけが頼りだった。

 

「……GPSトレーサーが正しければ、この辺りの筈なんだけれど」

 

 ウレタンのゴツゴツとしたバンパーで保護された情報端末を操作しながら、建物の角から通りを伺う。目的の人物がこの周辺まで辿り着いていることは確かではあったが、大声を上げて探すことが出来ない以上、黙して探し回ることしか出来ないのだ。

 何せ、この街には優秀でどう猛な怪物が数頭ウロウロしているのだから。

 

「ん、ここだ。地図はここを指している。ヒルシャーさんやアルファルドさん曰く、十メートルは誤差がでる可能性があるから、この周辺の建物に潜んでいるのかな」

 

 目標を指し示すGPSの青い点滅上に自身が立っていることを確認して、トリエラは周囲を見渡した。 

 上手いこと気配を隠しているのか、人影らしきものは見当たらない。ただ、こと猟犬としての性能に長けている彼女は、微妙な風の変化を見逃さなかった。

 

「うん? ここだけ風の流れが変だ。人の体温で暖められているのかな?」

 

 数メートル先の石造りの建物の裏側から微弱な気配を読み取る。彼女はウィンチェスターの安全装置をそっと解除し、音を立てぬよう足を動かした。

 そして、そんな彼女の読みは正しかったのか、微かに砂利のようなものを踏みしめる音を確かに聞き取った。

 

「ビンゴ」

 

 ほぼほぼ保護対象がそこにいるのだろうが、万が一のことも考えてウィンチェスターを構えた。そして、一目散に駆け出し建物の裏に回り込む。ずい、と銃口を突き出せば腰を抜かした銀髪の少女が怯えた目でこちらを見ていた。

 

「ありゃ、ごめんね。驚かしちゃったか——」

 

 殆どわざと威嚇したようなものだが、トリエラは形だけでも、と謝罪の言葉を口にしようとした。しかしながら言葉を吐ききるよりも先に、少女の目線が変化していることに気がつく。

 いつのまにか怯えの色が、罠に掛かった獲物をみた狩人のそれに変化していたのだ。卑しくも自信に塗れた視線がトリエラを射貫いている。

 

「今だブリジット!」

 

 口から出たのは「へっ?」という間抜けな声だった。ふと、視界の上端から紐が降ってくる。それがパラシュートを構成する頑丈極まりないパラコードのそれであることに気がつき、なおかつ首の目の前で皮膚に張り付いたのを見て、即座に思考を放棄していた。

 すなわち、本能でコードに指を通し、直後に襲ってきた窒息に立ち向かったのである。

 

「わわわわっ、ストップ、ストップ! 私だブリジット!」

 

 ぎり、と首を締め上げられ——丁度背負い投げのようにブリジットの背中に乗せられていたトリエラが悲鳴を上げた。自身より体格で勝る人間を絞め殺す技を教本通りに実行しようとしていたブリジットは、「あら」と悪びれもせずにパラコードから手を離した。

 背中から滑り落ちて、尻餅をついたトリエラは涙目でブリジットを睨めつけた。

 

「殺す気!?」

 

「もちろん殺すつもりでした。待ち伏せによる襲撃を二回ほど食らったものだからこっちだって疑心暗鬼になってます。いらない悪ふざけをしたあなたが悪い。——カリエさん、大丈夫ですか?」

 

 さらっと言ってのけるブリジットに、トリエラは毒気を抜かれたようにやれやれと溜息を吐いた。確かに二人の置かれた状況を考慮しなかった自分の落ち度だと、今度こそ謝罪を口にする。

 

「ごめんてば。でもこっちだってギリギリを攻めてきたんだから少しは労ってよ。見てこれ。銃弾が掠めてえぐれちゃった」

 

 言って、トリエラは頬に貼り付けられていた白い絆創膏を指さした。血は止まっているのか色自体はそこまで汚れていない。

 

「血液凝固剤さまさまですね。まあ、取り敢えず、こんな戦場のど真ん中まで来てくれたことは感謝しています。あなたが来てくれたのなら文字通り百人力でしょう。ところでリコは? もう撤退したのですか?」

 

 ブリジットの疑問にトリエラは「残念ながら」と答えた。

 

「あいつら——チェンタウロが出てきてから、固定の狙撃手は危険だって撤退命令がでたよ。その調子だと全体に流された無線連絡も伝わっていないんだね。この街一帯が、EMP妨害を受けてるから、シールドされた機器以外は全滅だよ。ほら、私もこれのGPSしか使えていない」

 

 言って、先ほどまで操作していた情報端末を掲げてみせる。ブリジットも「やっぱり」と同じものを取り出して見せた。

 

「衛星電話も持たされたTNTを起爆するのに使ってから、全く使えなくなったんですよね。やっぱりそんなからくりが」

 

「それだけ向こうも本気って事だよ。この子を確保するのにさ」

 

 ちらりとこちらを見下ろすトリエラの視線が哀れみや同情を含んだものであることにカリエは気がついた。もしかすると自分が追われている理由も、追ってきている者達の正体も知っているのだろうか、と淡い期待を抱いた。

 だが所詮それは期待にしか過ぎず、しかも直後に打ち砕かれることになる。

 いつのまにかトリエラとブリジットに呼ばれている少女も、ブリジットも動きを止めたまま、何処か遠くを凝視し始めたのだ。

 

「——不味いですね。チェンタウロが近づいてきています。早くここから逃げないと」

 

「狐狩りの要領だね。あいつら、少しずつこちらの捜索範囲を狭めてきているんだ。このままだと包囲される」

 

「ここから安全圏までどれくらいの距離が?」

 

 ブリジットの言葉に、トリエラは即答した。

 

「2ブロック。あと2ブロック逃げ切ればこちらの勝ちだ」

 

 ならば、とブリジットはそれまでずっと小脇に吊していたアサルトライフルを手に取った。駅から持ってきた真新しい弾倉を差し込んで、チャージングレバーを引く。

 

「もう一踏ん張りといったところでしょうか。さ、カリエさん。手を。あと少しだけこの逃避行に付き合って貰いますよ」

 

 突き出された手をカリエは握り返す。不自然に白い手ではあったが、きちんと体温があって肉と血を感じることの出来る人間の手だった。

 先ほど聞かされた、殺人サイボーグの手には思えなかった。

 

「ん? ちょっと待って。チェンタウロが止まってる……」

 

 トリエラの言葉にブリジットの動きが一瞬だけ止まる。しかしながら直ぐに弾かれたように空を見上げた。

 彼女の視力が、常人離れした視力がそれを見つける。

 

「——しまった。無人機だ。無人機がこちらを見ている」

 

 トリエラの行動は早かった。ブリジットの側に立ち尽くしていたカリエをその場に思いっきり引き倒した。そして着ていたコートを広げながら盾になるように覆い被さった。

 ブリジットは「やられた!」とそんなトリエラの上からさらにのし掛かる。

 都合、二人分の肉の盾に守られたカリエが聞いたのは、世界がひっくり返るような轟音。

 ブリジットかトリエラか、そのどちらかが「徹甲弾!」と叫んでいた。

 

 そう、彼女たちは最初から狙われていたのだ。

 

 無人機によって位置を捕捉され、遠距離からチェンタウロによって徹甲弾を撃ち込まれていたのだ。高速で飛来した砲弾は幾つかの建物を見事貫通し、彼女たちの頭上で炸裂していた。こうなれば、三人に為す術はない。

 いつか感じた火炎の熱を頬に受けながら、カリエは周囲を見渡そうとする。

 けれども体はちっとも言うことを利かず、気がつけばトリエラに首根っこを掴まれて引き摺られていた。

 視界の端で誰かが倒れている。

 肉の盾として、一番外側にいたブリジットだった。

 彼女は身動き一つ取らないまま、地面に突っ伏している。

 

「トリエラさん! ブリジットが!」

 

「もう駄目だ! 右側が見当たらない! 即死だ!」

 

 そんな馬鹿な! ともがこうにも、カリエ自身も深手を負っているのか多量の血を流していることに気がついた。トリエラに引き摺られた跡が、血の道となって石畳を汚していた。

 

「くそっ!」

 

 息も絶え絶えにトリエラが建物の一つにカリエを引き摺り込む。彼女も負傷しているのか、ぽたぽたと地面に血だまりを作っていた。だがそんな己の状態を顧みないままに、カリエの体に取り付く。そして何とか彼女を治療しようと、着ていた焼け焦げたコートを引き裂いていった。

 上半身を脱がされたカリエは夢を見ているみたいだ、と小さく笑う。

 

「はは、こんなに血が出てるのに全然痛くないんですね」

 

「喋らなくてもいい。大丈夫、必ず助けるから」

 

 言葉では勇ましいことを告げていたが、トリエラの手は震えていた。処置を進めれば進めるほど、カリエの容体が絶望的であることを理解していく。

 カリエもそんなトリエラの心境を見抜いているのか、「もういいですよ」と微笑んだ。

 

「まあ、今回の夢は割と頑張った方じゃないでしょうか。いっつも駅で開幕早々殺されていましたから」

 

「訳のわからないことを言う元気があるなら呼吸を整えて! 諦めるな!」

 

 床に広がる血の面積が広がり続けている。カリエは焼け付くような喉で言葉を紡いだ。

 

「——本当に、あなたたちに出会えて良かった。あなたたちがこの夢にも先があることを教えてくれた。ただのつまらない繰り返す悪夢が、ちょっとばかり面白い冒険譚になっていた」

 

 ふと、カリエの指先に何か硬い物が触れた。焼けるように全身が熱いのに、そこだけが嫌に冷たく感じた。視線だけを動かしてみれば、銀色の小さな拳銃が転がっていた。トリエラがコートを脱ぎ捨てたときに、どこからか零れ出たのだろう。

 

 そういえば、とカリエは思い出す。

 

「——いつも脳天を吹き飛ばされて、朝を迎えていたんです。だから今回も」

 

 手が銃を握り込んだ。使い方はブリジットから聞かされていた。スライドを引き、安全装置を外す。

 トリエラは言い様もない悪寒を感じ、銃を慌てて取り上げようとした。だが、カリエの方が僅かばかり早かった。

 

「必ず次はみんなで助かって見せます。エリカに頼んで、チェンタウロの資料も取り寄せて貰います。だから、また明日、よろしくお願いします」

 

 こめかみに銃口が触れる。

 引き金が絞られる。

 銃声と同時、カリエの意識はブラックアウトした。

 

 

03/

 

 

「あら、カリエさん。今日はお早いのね」

 

 寝室から顔を覗かせていたのは、ルームメイトのダージリンだった。彼女が告げた通り、時計の針はまだ朝の5時を指している。

 

「——ええ。ちょっと調べ物がしたくて。エリカの所にいってきます」

 

 外行きの服装に着替え、少し大きめのリュックサックを背負ったカリエは、靴紐を結び直しながら言葉を返した。

 

「まさか今から熊本に帰るの? 随分と性急ね。いくら横浜駅から新幹線に乗れば良いと言っても、それなりの道のりよ。大丈夫かしら?」

 

 とんとん、とつま先で玄関先の床を叩きながらカリエは微笑む。

 

「まあ、新しい友達も出来たのでちょっと人助けのつもりで頑張ってみます。夜には帰ってきますから、あとはよろしくお願いします」

 

 扉が開かれる。

 まだ昇り切っていない早朝の太陽から漏れ出た赤紫の光が、カリエの顔を照らしていた。

 ダージリンは「わかったわ」とカリエの下に歩み寄った。

 

「——今日のカリエさんは昨日までのあなたに比べて随分と顔色がよくて結構よ。夢見でも良かったのかしら?」

 

 ダージリンの言葉にカリエはこう返した。

 

「いいえ、最悪でした。だからこそ、今日はもう少しマシな夢を見てみますよ」



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ブリジットと言う名の少女×黒森峰の逸見姉妹 セルフクロス03

お話の最後に五胡逍遥さまから頂いた素敵なファンイラストを挿絵として使わせて頂いています。
このイラストから着想を得てお話を組み立てました。
いつも途轍もない画力でブリジットやカリエを生き生きと描いて下さる五胡逍遥さまに、この場をお借りしてお礼を申し上げます。本当にありがとうございます。
次回、エピローグで完結します。
一応黒森峰の——ワールドがベースですのでそう悲観的な終わりにはならないと思います。
私の自己満足のような作品ですがあと一話だけおつきあい願います。


 いつのまにか、ブリジットとトリエラはカリエに手を引かれていた。

 彼女は何かに追われているかのように、二人の少女の手を引いて走り出していた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

「どうしたんですか!?」

 

 突然のことに二人は疑問の声を上げる。カリエはそれら一切に対してこう答えていた。

 

「空、見られている! もうすぐここに撃ち込んでくる!」

 

 二人はカリエの言葉を受けて同時に空を見上げた。青く澄み切ったイタリアの乾いた空。その中心を悠々と飛翔する黒点を見定めて、二人は顔を見合わせた。

 

「トリエラ!」

 

「はいよ!」

 

 以心伝心とはまさにこのことだろう。カリエの手を解いたトリエラがまず先行した。そして古ぼけたアパートメントの下に立つと、中腰で手のひらを上下に重ね合わす。続いてブリジットがそんなトリエラに向かって勢いよく掛けだした。

 

「よっと!」

 

 かけ声一つで、ブリジットがトリエラの組み合わされた手のひらを片足で踏みつける。トリエラはそのまま上空へとブリジットをぶん投げた。義体の怪力で空へと投げ飛ばされたブリジットは器用に一回転して、アパートメントの屋上へと手を掛けていた。

 

「うそお」

 

 カリエが間抜けな声を上げている間にも、屋上へと登りつめたブリジットがロープを地面に垂らしていた。トリエラがそれを受け取ったかと思えば、彼女はカリエへと手を伸ばしていた。

 

「さあお姫様、こちらへどうぞ。時間もないので出来るだけお早めに」

 

 もう彼女たちが何を求めているのかカリエは手に取るように理解していた。少しも躊躇することなく、カリエはトリエラの背中へと飛びつく。トリエラはカリエの物わかりの良さに少々面食らいながらも、直ぐさまロープを登っていく。

 カリエは万が一にも振り落とされぬよう、しっかりとトリエラの体にしがみついていた。

 

「さ、さすがに二人分はきつかったです!」

 

 屋上ではブリジットが仰向けに寝転がり、転落防止柵に対して足を踏ん張っていた。両手には決して手放さないようにとロープが何重にも巻かれている。

 

「ありがとう、ブリジットさん」

 

 そんなブリジットにカリエが手を差し伸べる。いつか触れたときには不自然に白かった手も、二人分の体重を支えたロープにすり切れて血が滲んでいた。

 だがカリエは躊躇うことなく、ブリジットの手を握りしめた。

 

「よし、二人ともこっちだ!」

 

 敵影がないことを確認したトリエラに招かれて、カリエとブリジットは隣の建物へと飛び移った。背後では遅れてやってきた砲撃によって、火柱と黒煙が空を焦がしていた。

 

「やっぱあれを何とかしないと脱出は無理かも!」

 

「さすがに空を飛び回っている無人偵察機を撃ち落とすことはできませんし、地面を這いずり回っているチェンタウロを始末するしかないのでしょうか!」

 

 交代でカリエを抱え建物から建物へと飛び移りながら、二人は即興で作戦を組み立てていく。やれ、TNTを車体に貼り付けて爆破しろだの、靴下にTNTを詰めて投げつけろだの、誰かがマンホールに潜り込んで車体下にTNTを貼り付けろだの——、

 そんな終わらない議論に、カリエは初めて口を出した。

 今まで黙って成り行きに任せていたカリエが初めて口を開いた。

 

「いえ、あれはチェンタウロ2と言って車体下部がV字につくられているタイプです。路上爆弾対策がされていて、車体下部からの爆発では破壊できません。装甲にTNTを貼り付けても無駄です。APFSDS弾で貫徹するのが有効でしょう」

 

 カリエの思わぬ言葉に、二人が足を止めた。

 そして互いに顔を見合わせて言葉の続きを促すように耳を傾ける。

 

「APFSDS弾は戦車に搭載されている徹甲弾の一種です。もちろんいくらあなたたちでも生身で撃つことはできませんが、方法がないわけではありません。こんな戦うことも出来ない小娘ですが、私の考えた作戦、乗ってくれませんか? これにはあなたたちの協力が必要不可欠なんです。どうか——どうかお願いします。あなたたちを私は死なせたくない」

 

 

01/

 

 

 そのチェンタウロは獲物を取り逃がした報告を受けて苛立っていた。寸前で逃げられること二回。

 生身の人間相手に過剰すぎる装備ではあったが、追いかけている獲物の素性を知らされている身としては、当然と言えば当然の防備だった。

 事実、駅で交戦した部隊はほぼ全滅の憂き目に遭い、街中で交戦した隊も深い傷痕を残している。

 ましてや、空高くを飛んでいる無人偵察機の存在にいち早く気がつき、ほぼ完璧だった奇襲をかわされてからは苛立ちに加えて一種の恐怖すら覚えていた。

 だからこそ苛立ちを抱えながらも彼らは慎重に路地裏を進んでいた。

 無人偵察機からの報告では、獲物達は屋内に逃げ込んで姿を晦ましたらしい。

 姿が見えないというそのたった一つの事実が、装甲車の足取りを重くしていた。

 だからこそ、その致命的な隙を突かれることとなる。

 

「よし、これくらいの低速ならなんとか」

 

 声は頭上から。

 肉眼で周辺警戒をしていた車長の背後に何者かが出現した。

 否、いきなり煙のように現れたのではない。

 チェンタウロに向かって、周囲の建物から飛び降りてきたのだ。

 腰まで伸びた黒髪を翻した彼女は、古めかしい短剣を躊躇することなく車長の首筋に突き立てた。

 

「——いつも使っているアーミーナイフよりも使いやすいかも。あとでトリエラに一本貰おうかな?」

 

 無駄口を叩きつつも、動きは淀みなく続けられる。

 絶命した車長を車内に押し込んだ彼女は、ホルスターからハンドガンを取りだして車内に素早く向けた。

 突如として力を失った車長に驚いた隊員達がこちらを見ていた。

 目と目が合うが、それこそ一切の躊躇いがない。

 

「——ごめんね」

 

 チェンタウロの重厚なエンジン音を切り裂くように、甲高い銃声が二発だけ鳴り響いた。

 

 

02/

 

 

「はあ? チェンタウロの操作方法? そんなもの知って何になるの?」

 

 姉が通う大学にアポなしで飛び込んだカリエは、図書館に併設されたカフェにいた。真向かいに座るエリカは呆れたように溜息を吐き、妹へ言葉を投げかける。

 

「何? この前対戦したイタリア代表に乗せて貰って気に入ったの?」

 

「まあ、そんなところ。今度イタリアにいったら自分で操作してみたくて」

 

「……それだけでわざわざ横浜から熊本までやってくるわけ? あんた本当に馬鹿じゃないの。あれだけ一度は帰ってこいって言っても、絶対に帰ってこなかったくせに」

 

 それを言われたら弱いなあ、とカリエは紙パックのミルクティーを啜った。エリカはパックのコーヒーを手にしながら言葉を続ける。

 

「——まあ、私のゼミの教授が世界各国の装甲車両の操作系について研究している人だから、研究室に行けば資料の一つや二つあるでしょうけれども」

 

「うん、ぶっちゃけそれを頼りにきた。こうなったらエリカだけが頼り」

 

 対して感情の籠もっていない調子で拝み倒すカリエを見て、エリカは再び溜息を吐いた。

 二十歳を超えてなお、この妹は随分とお気楽に生きているようだった。

 

「はあ、わかったわよ。ちょっと時間をくれたら研究室に行って資料をコピーしてきてあげるわ。その間、機甲科の棟に行ってみほと小梅に挨拶してきなさい。二人とも、あんたに会いたがっていたから」

 

 姉から出された旧友たちの名前に、カリエは素直に頷いていた。

 そういえば半年は顔を合わせていないな、とカリエは頬を掻く。

 だがその手はすぐに止まった。

 何故ならエリカの碧色の瞳が、じっとこちらを見ていたから。

 

「……何?」

 

 まさか心変わりでもしたのだろうか、と恐る恐る問いかける。ただそれは杞憂だったようで、エリカは何でもないわ、と直ぐに席を立ち上がった。

 

「じゃあ一時間後にここで」

 

 姉に釣られてカリエも席を立った。双子特有の現象なのか、二人の視線が同じ高さになる。

 

「——ねえ、カリエ」

 

 リュックを背負おうとしたら声を掛けられた。今度は何だろうとカリエはエリカを見る。

 対するエリカは少しばかり迷ったように視線を巡らせたあと、意を決したように口を開いた。

 

「お姉ちゃん、って言ってくれない?」

 

 いつもなら茶化していたかもしれない。何なの、寂しいの? とからかっていたのかもしれない。だが今日ばかりはエリカの縋り付くような視線を受けて、カリエは気がつけば声を出していた。

 

「我が儘ばかりでごめんね、お姉ちゃん」

 

 はっきりと、エリカが息を呑む音が聞こえた。カリエは深く追求はしなかった。

 エリカもエリカでそれ以上を求めることはなく、「じゃあ、約束通りに」と踵を返した。

 一人カリエだけがカフェに立ち尽くしている。

 徐々に離れていくエリカは、大学に通う学生達の喧噪に消えていった。

 

 だからこそ、去り際にエリカが呟いた言葉をカリエは完全に聞き逃していた。

 

「——夢見が悪いせいかしらね。焼きが回ったわ」

 

 

03/

 

 

「ブリジットさんは砲手を。トリエラさんは操縦手をお願いします。チェンタウロ2は自動装填装置が搭載されているので、装填手はいりません」

 

 キューポラから身を乗り出したカリエはチェンタウロに備え付けられていたマニュアルをぱらぱらと捲った。それは昼間から夕方に掛けて頭に叩き込んだ教本とまったく同じ物で、エリカの確実な仕事ぶりにひっそりと感謝した。

 

「えと、ギアは自動で切り替わるんだよね。あとは車の操作と同じなのかな?」

 

「はい。基本はオートマです。バックギアと低速ギアだけマニュアル操作になりますが、エンストすることはありません。周囲の景色はモニターで確認して下さい」

 

 ハンドルを握ったトリエラがおっかなびっくりといった様子で、チェンタウロを少しずつ前進させた。

 

「これ、自動照準だね。あ、でもこのレバーを使えばマニュアルで砲身が操作できるのか。サーモグラフィーもあって、壁の向こう側も見えるや」

 

 砲手席に腰掛けたブリジットが砲身を回転させた。スムーズに為される操作に、カリエは「何とかなりそうだ」と安堵の息を出す。

 

「向こうのチェンタウロも本車輌と全く同じ性能になっています。装甲はそれぞれの砲弾が命中すれば一発で抜かれます。つまり先に見つけて、先に撃った方が勝ちになります。接敵必殺を心がけましょう」

 

「しっかし相手の車輌を鹵獲して、残りのチェンタウロを始末しようとは、中々お姫様も過激なものだ。ま、でも正直これに賭けるしかないか」

 

 言葉とは裏腹に、トリエラの声は明るい物だった。ブリジットも大型の火砲を扱えるとあってか、心なしか鼻歌を口ずさんでいる。

 

「さっきの偵察でこの先に二両のチェンタウロが展開していることがわかっています。背後からこれを強襲し突破口を作り出しましょう」

 

 義体特有の学習能力の高さを活かして、トリエラの操縦が滑らかになっていく。あっという間に高速巡航に移行したチェンタウロは狭い路地を駆け抜けていった。ブリジットもいつでも発砲が出来るように、発射トリガーに指を掛ける。

 

「あと五秒、よん、さん、にい、いち、——いま!」

 

 薄暗い路地を飛び出し、陽光の下に身をさらしたカリエが見たのはこちらに背を向けている二両のチェンタウロだった。ブリジットは向かって右側の車輌に狙いをつけている。カリエは怖じ気づくことなく、いつも何度もそうやってきたように、ブリジットの背中をつま先で優しく叩いた。

 105ミリ砲が咆哮する。

 撃ち出されたAPFSDS弾がチェンタウロのエンジン排気口に吸い込まれていった。

 

「よし!」

 

 火炎を吐き出しながら右側の車輌が停止した。生き残ったもう一両が慌てて急発進する。ブリジットはそちらに素早く照準を向けたが、砲弾が再装填されるのが少しばかり遅かった。

 引き金を幾ら振り絞ろうとも、彼女の眼前のモニターはERRORを指し示している。

 

「慌てる必要はありません! トリエラさん、後を追って!」

 

 対するカリエの切り替えは早かった。黒森峰で使い続けた戦車道の経験をフル動員し、獲物を追い詰めていく。数多の実戦をこなしてきた彼女は言わば百戦錬磨の戦車兵である。たとえそれがスポーツという安全性が担保されたものであったとしても、戦闘勘やその他の全ての技量において相手を上回っていた。

 事実、狙われたもう一両のチェンタウロの動きなどカリエからすれば生温いにも程があった。

 これならばプラウダの重戦車部隊を正面から受け止めた試合の方が緊張したと、冗談すら零してみせる。

 

「つっ! あいつら砲塔を後ろに向けて狭い路地に入った!」

 

 トリエラの報告通り、砲塔を180度回頭させて車輌一両分の幅しかない路地をチェンタウロが突き進んでいった。成る程、最低限の戦略眼はあるみたいだ、とカリエはトリエラに進路を左に切らせる。

 敵のチェンタウロによって放たれた砲弾がカリエ達の右側面を通過していき、途中にあったバス停を吹き飛ばしていた。

 

「い、今のは正直生きた心地がしませんでした!」

 

 ブリジットの悲鳴を受け流しつつ、カリエは敵のチェンタウロが逃げ込んだ路地に並行する形で伸びる大通りに車輌を進ませる。少し速度を上げてみれば、建物と建物の隙間から併走するチェンタウロが見えた。

 

「——ナナならあちらとの車輌速度を合わせ完璧に併走させ、堀内さんなら隙間を通して向こうに砲弾を叩き込める」

 

 いつもチームを組んでいるメンバーの顔を思い浮かべながらカリエはちらりと車内を見た。中では初めてながらも何とかカリエの指示を完遂しようと必死に操作を続ける二人がいた。

 ブリジットは自身が傷つくことを厭わずに、文字通り命がけでカリエを守ってくれた。

 彼女が一度死んでしまっていることをカリエは忘れない。

 トリエラは瀕死の自分を生かそうとあらゆる手を尽くしてくれた。

 自らの脳天を吹き飛ばそうとしたのを見て、彼女が涙ながらに止めようとしたことをカリエは忘れない。

 

「——トリエラさん、速度を73キロに固定」

 

 ナナには到底及ばないながらも、何とかトリエラはその速度帯にチェンタウロを引っ張り上げた。

 

「ブリジットさん——」

 

「わかってますよ。実はね、私こういうの得意なんです」

 

 指示を出し切るよりも先に、ブリジットが砲塔を90度旋回させていた。自動照準をオフにし、全て手動操作に切り替える。彼女の目が、担当官曰く「神の眼」が建物の向こう側を見ていた。

 

「タイミングだけ教えて下さい」

 

 ここから先は全幅の信頼が必要であることをカリエは理解していた。余計な雑念も心配もいらない。

 ただ、ここまで共に来てくれた二人を信じ切ることが、悪夢を終わらせる唯一の道であることをカリエは知っていた。

 随分と長い夢ではあったが、そろそろ終わりにしてもいいだろう。

 

 深呼吸は一つ。

 目線は未来の先へ。

 

「さん、にい、いち、いま」

 

 寸分違えないタイミングでブリジットが引き金を絞った。

 路地の向こう側へ砲弾が消えていく。

 何かに着弾したのか、爆発音が一つ。

 だが獲物を仕留めたのかはまだわからない。

 

「この先、大通りとあいつらが逃げた路地が合流してる」

 

 見れば確かに道は一つになっていた。もしも敵を撃ち漏らしていたら、丁度道が合流したところで車輌同士が衝突することになるだろう。それでもカリエは速度を緩めるようには決して口にせず、ブリジットとトリエラもそれに従った。

 

 道が一つになる。

 視界が開ける。

 

「本当、手こずらせてくれました」

 

 ブリジットが安堵の息を吐き、トリエラがチェンタウロの速度を落とした。

 一つになった道には、カリエ達の一両のチェンタウロだけがいた。

 カリエは耳に装着していたヘッドセットを取り外して、天を仰ぎ見た。

 

「——終わった。やっと終わった」

 

 ふと快晴のイタリアの空が見える。

 まばらな雲とパステルブルーの色に彩られた空。

 何度も兇弾に倒れながら見上げ続けていた空。

 それを今、五体無事なままで見ることが出来ている。

 

「おっと、ようやく迎えが来たようですね」

 

 いつのまにかトリエラがチェンタウロを停止させていた。何事か、と視線を前方に戻せば、厳めしい装甲車が数両道を塞いでいることに気がつく。一瞬警戒を強めるものの、ブリジットとトリエラがチェンタウロから飛び出してそちらに駆けだしたものだから、それが味方であることに気がついた。

 

「ここはもう境界線を越えたのですか!?」

 

 ブリジットが装甲車から降りてきた四十代前くらいの男性に駆け寄っていた。男性はブリジットを抱き留めると、優しく微笑んで見せた。

 

「ああ、よくやった。君たちはミッションを無事に完遂してくれた。ここから先は政府が定めた非交戦地域だ。ターゲットの争奪戦は私たちが勝利した」

 

 ああ、典型的なイタリア優男だな、とカリエはキューポラの上で頬杖を突く。

 あれがブリジットの言っていた担当官であることくらい、嬉しそうに担当官に縋り付く彼女を見て一瞬で察することが出来ていた。あの表情は恐らく、彼だけに向けられるものなのだろう。

 担当官ってやつはもっとゴツい大男を想像していただけに、何処か釈然としない思いをカリエは抱いていた。

 トリエラもトリエラで、遅れて装甲車から降りてきたコートの男性に言葉を投げかけている。

 ここからそう遠く離れていない場所で、昨日彼女たちを死なせてしまったことが不意に後ろめたくなってきた。

 

「——君が課長の言っていた保護対象か。成る程、話に聞いていたとおり重装甲車両の扱いに長けていることは本当のようだ。どうやら機転を働かせここまでこれたようだな」

 

 エンジンがアイドリングしたままのチェンタウロに近づく人影が一つ。カリエが視線をそちらに向ければ、サングラスを掛けた金髪の男がこちらを見上げていた。

 彼も公社の人間なのだろうか、と訝しんでいれば男はさらに言葉を続ける。

 

「ジャンだ。君の保護を彼女たちに命じた者と思っていてくれればいい。積もる話もあるだろうが、続きは公社で。——リコ、あとは任せる」

 

 随分と冷たい印象を与える男だった。ブリジットやトリエラの担当官とは全く違うな、とカリエは内心言葉を漏らす。そんなカリエの眼前にいつの間にかもう一人、少女が立っていた。

 

「初めまして。私はリコ。ジャンさんに命令されたので、あなたの護衛を引き継ぐことになりました」

 

 差し伸べられた手は素直に取った。やはりと言うべきか、その細腕からは想像も出来ない力でキューポラから引っ張り上げられる。この少女も義体——つまりはブリジットと同じ境遇の人間なのだろう。

 

「今から公社に向かいます。大丈夫——とても楽しいところですよ」

 

 酷く事務的な口調ではあったが、カリエは素直に頷いていた。一仕事終えたという達成感を感じながらチェンタウロを後にする。乗せられた装甲車の中には温かい紅茶とお菓子が用意されていて、ゴチャゴチャとした装備の中にあってとてもミスマッチだった。

 しかしそれが、ある意味でこの世界そのものを表しているのかもしれないとカリエは妙な納得を覚えていた。

 

 

04/

 

 

 いくつかの健康診断を受けた後、カリエは公社内を決められた範囲だけ自由に歩き回ることが許された。いつ解放されるのかはこれっぽっちも知らされなかったが、ブリジット達も共に生活しているということで、命を狙われる毎日よりはマシだ、とカリエは結論づけていた。

 ただ支給された服が、どことなく黒森峰時代のタンカースジャケットに似たコートで妙な声を出してしまったことは特筆しておく。

 鏡に映った自分は、今は懐かしき高校時代の姿に見えた。

 

 

05/

 

 

「あら、紅茶の匂いに誘われて目が覚めたのかしら。あなたのそういう素直な所、好きよ」

 

 いつの間にか毛布が掛けられていた。背もたれに深く腰掛けて眠りについたところまでは覚えている。

 ふと頭頂部に違和感を感じて手をやってみれば小さな帽子を被らされていた。

 手に取ってみれば、それは黒森峰のタンカースジャケットとセットで身につけていた戦車帽にどことなくデザインが似ていた。

 

「ああ、それはね外でお仕事をしてきたブリジットが土産に買ってきたらしいわ。あなたが貰ったコートによく似合いそうだからって。本当、あの子ったらあなたに夢中で少し妬けちゃうわね。どことなく、波長があうのかしら」

 

 こちらを覗き込んでいた人影と目が合う。彼女の名はクラエス。ブリジット達と同じ義体の少女だ。彼女はどういった事情があるのか公社から外には出ない。

 だからこそ都合が良いのか、カリエのお目付兼世話役としていつも一緒に生活していた。

 

「——そのブリジット達は?」

 

 寝ぼけ眼をこすりながら、帽子を残していった少女達のことを問う。するとクラエスは紅茶をカップに移しながらこう答えた。

 

「お茶会のお菓子を取りに行ってくれてるわ。ほら、噂をすれば」

 

「ただいまです。今日はマカロンを貰ってきました」

 

「ヒルシャーさん達からケーキも貰ったよ。四人で食べなさい、って」

 

 サロンに姿を現したのは外行きの格好を身に纏ったブリジットとクラエスだった。二人とも先の戦いで受けた傷はいつの間にか消えていた。おそらく、彼女たちが言う「交換作業」を行ったのだろう。

 

「いやー、今日は疲れました。朝から張り込みに尾行と神経を使うことばかりで」

 

 コートを脱ぎ、椅子に腰掛けたブリジットへクラエスが紅茶を差し出す。トリエラは四人分に取り分けたケーキを皿に載せて、それぞれの前に配膳していた。

 

「でも最後は力技で話を聞き出していたよね。返り血はどうしたのさ」

 

 トリエラの言葉に呆気からんとブリジットが返す。

 

「さすがにもう着替えました。だいたいトリエラだって足を撃ったでしょうに」

 

 血生臭い話題にどう付いていったものか、とカリエが思案していたらクラエスが助け船を出してくれた。

 

「二人とも仕事の話はそこまで。折角のお茶とお菓子が美味しくなくなってしまうわ」

 

「おっと、クラエスせんせに叱られちゃった」

 

「くわばらくわばら。良い子にしていないとお菓子が貰えません」

 

 からかうように口を合わせる二人にクラエスは溜息を吐く。そろそろ意識が完全にハッキリとしてきたカリエは紅茶のカップを手にとって口につけた。

 

 何故だか、どことなく懐かしい味がし、それがダージリンがいつも淹れてくれていた紅茶の味だと気がつくまでそう時間は掛からなかった。

 

「あ、カリエさん。このマカロン美味しいですよ」

 

 ブリジットに差し出されたマカロンを頬張る。いつか、みほたちから美味しいと勧められたある店のマカロンと同じ味がした。

 

「こっちのケーキも食べなよ。ヒルシャーさんおすすめの店のケーキなんだ」

 

 トリエラから手渡されたケーキを一口。それはエリカがカリエのために作ってくれた手作りケーキと全く同じ味だった。

 

 何故だか、夢から覚めたときのことが恋しくなった。

 もう命を狙われる心配などないのに、夢から醒めたいと思った。

 

 

06/

 

 

 その日、カリエは眠れない頭を抱えて公社の屋上に来ていた。

 夜風が肌寒いものだから、あの黒森峰のコートを羽織っている。頭にも、ブリジットが買ってきてくれた帽子を被っていた。

 

「——やっぱりここにいたんですね」

 

 背後から声を掛けられる。

 振り返らずとも声の主はわかっていた。あれだけ生死を賭けた逃避行を共にしたのだ。今更その声を聞き間違える筈がない。

 

「クラエスが心配していましたよ。ベッドから抜け出したって。まあ、私が言い含めておきましたからそんな大事にはなっていませんけれども」

 

 言って、ブリジットがカリエの隣に立つ。彼女は大きな筒状の袋を肩に掛けていた。何故こんな所までライフルを持ち歩いているのだ、と訝しんでいたら「あーっ」と立腹したように抗議の声を上げられた。

 

「幾ら私でも四六時中銃を持っているわけないんですからね! これはアルファルドさんから借りてきたんです!」

 

 アルファルド——ブリジットの担当官の名前だ。見た目に違わない典型的なイタリア男で、突如として公社に潜り込んだカリエの事を色々と気遣ってくれている。元男のカリエとしてはむず痒いものがあったが、その厚意はいつも素直に受け取っていた。

 

「……天体望遠鏡ですよ。前に一度、アルファルドさんが私に見せてくれたんです」

 

 袋から取り出された部品をてきぱきとブリジットが組み立てていった。時間にして凡そ数分。完成したそれを覗き込み、幾つかの調整を経て彼女は誇らしげにカリエを見る。

 

「見て下さい。星座が綺麗ですよ」

 

 誘われるがままに、カリエは望遠鏡を覗き込んだ。彼女は星や星座に関する知識を一切持っていない。正直言って綺麗に輝いているな、くらいの感想しか湧かなかった。

 それでもブリジットがこちらを気遣って用意してくれたという事実が、カリエの胸を満たしていった。 

 たとえそれが夢の中の一時のものだとしても、間違いなく彼女はかけがえのない友人だった。

 

「いつだったか私が荒れに荒れているとき、アルファルドさんがこうして外に連れ出してくれたんです。あの人は女心を一切理解していない朴念仁ですが、そういった気は良く回るんですよ」

 

 嘘だ。とカリエは心の中だけで言葉を漏らした。

 ブリジットがアルファルドに向けている表情を思い出せば、彼女の言葉がただの照れ隠しであることくらい容易に想像が付く。

 けれどもそれをわざわざ指摘するほどカリエは野暮ではない。

 

「——本当にあの人は私にとってこの世界で生きている意味かもしれません。この顔も、体も、声も、心すら造られた紛い物の私にとって、唯一信じても良い人。まあ、好きか嫌いかで言えば大っ嫌いなんですけれど」

 

 それは本当かもしれない、とカリエは思った。

 嫌いなことと愛することは同居することをカリエは身をもって体験をしたことがある。ダージリンから一時向けられていた感情がまさにそれだった。憎悪と愛情はいつだって表と裏側だ。

 けれどもそこに存在する愛が本物のそれであることも知っていた。

 憎悪に裏付けされた愛は本当に強い。

 

「——ねえカリエさん。あなたにとってこの世界で信じていても良いものは何ですか? この世界であなたを裏切らないものって何ですか?」

 

 何だろう、とカリエは首を傾げる。

 ブリジットはいつの間に取り出したのか、星座盤を片手に望遠鏡を操作していた。

 カリエは再びそれを覗き込む。

 

「——今、目の前にある星座、双子座だそうです。同じ年、同じ日、同じ時間、同じ母親から生を受けた唯一無二の存在。それが双子。ねえ、カリエさん。あなたにとってそれこそが、私のアルファルドさんみたいな存在ではないのですか?」

 

 どういうことなのだろう、と首を傾げる。

 カリエは言葉の意味がわからなかった。

 

「もうそろそろ目を醒ましませんか。夢はこの辺りで終わりにして、カリエさんはカリエさんの時を生きるときが来たのかもしれません」

 

 望遠鏡から視線を外した。どういうことなのだろうと背後に振り返る。

 

 ああ、少なくとも唯一信じて良い人間として、ブリジットは不適だったのだな、とカリエは思い知らされた。

 

 ブリジットは——星座盤を持っていた筈の彼女はいつの間にか銃を握りしめていた。

 あらゆる言葉が嘘だった。彼女は四六時中、それを持っていた。

 カリエは何か言葉を発する暇すら与えられなかった。

 

「——お休みなさい。カリエさん」

 

 銃声が一つ。

 崩れ落ちる影も一つ。

 

 夢の終わりはいつも唐突に訪れる。

 

 

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ブリジットと言う名の少女×黒森峰の逸見姉妹 セルフクロス04

エピローグです。次回は本編を更新しますのでもう少しお待ち下さいませ。


「彼女の後始末、ブリジットがしたそうだな。君が命令したのか」

 

「いや、彼女から志願してきたよ。夢を見せたのなら、終わらせる責任を負います、と」

 

「そうか。それは辛いことをさせたな」

 

「――こうなることは解っていたはずだ。なのに何故、公社は彼女を保護した。お前ならば課長から何かを聞かされているだろう、ヒルシャー」

 

 アルファルドに問い詰められたヒルシャーは少しばかり迷いの表情を見せたが、直ぐにぽつりぽつりと言葉を口にした。

 それは、ある一人の少女を巡るつまらない陰謀の全容だった。

 

 

01/

 

 

 ドイツからある少女が亡命をしようとしている。これを速やかに確保し、公社に連行せよ。

 これが第一報だった。丁度二週間前のことだ。

 我々はこれ以上もこれ以下も知らされなかった。

 だが詳細を知らされないブラックオプスなんて日常茶飯事だ。わざわざ気に留めることなどありはしない。まさにいつものこと、ってやつだったわけさ。

 ところが事態が急変した。作戦決行の三日前だ。

 少女の正体がある人物からリークされたのさ。

 恐らく政府は最初から知っていたんだろうが、わざと黙っていた。たぶん、我々が余計な動きを取ることを警戒していたのだろう。

 君ももう知っているかもしれないが、あのカリエとかいう人間は普通の少女では決してあり得ない。

 

 普通のティーンの女の子がチェンタウロを扱うことができるか? 

 車長として的確な指示を飛ばすことができるか?

 プロの兵士が搭乗した車両を二両も撃破することができるか?

 

 答えなど語るまでもない。あの子は普通ではなかった。

 あの子はトリエラやブリジット達と同類だよ。

 

 ドイツがこっそりと作り上げていた義体のプロトタイプなんだ。

 イタリアから流出した技術を転用して作られた、言わば彼女たちの姉妹だよ。

 まあ、こちらよりもより強固な条件付けがなされていて、自身が何者かは最後まで知らなかったようだけれども。

 もう政府や公社が血眼になって彼女を保護しようとした理由がわかるだろう?

 あの子が公に晒された瞬間、破滅を迎えるのは政府や私たちだ。イタリアでなされた非人道的な所行が国境を渡ってドイツで実を結んでいるんだ。

 こんなスキャンダル、向こう五十年は生まれないだろうな。

 だから政府と公社は彼女を確保しようとした。それと同時に、現政府の対抗勢力も同じように彼女を確保しようとした。もっとも彼らにとっては彼女の生き死にはどうでもよかったみたいだが。

 死体でも政府を引き摺り下ろすのに事足りたんだろうね。

 まあしかし、幾ら争奪戦といっても無制限にやり合えばあっという間に内戦に発展だ。それを恐れた政府と対抗勢力はある密約を交わしていた。それが交戦地域の設定だ。

 馬鹿みたいな話だが、私たちは最初からルールを決めて殺し合いをすることになっていた。何故そんな密約が通じたのかは今となってはわからない。

 もっと高度な政治的取引があったのだろうけれど、そればっかりは我々の与り知らぬ所だ。

 

 ん? カリエの存在をこちらにリークしたのは誰かって? 

 ああ、そうか。君は知らされていないのか。

 多分、ブリジットにそれが伝わることを公社は恐れているんだろうな。

 でももういいだろう。

 彼女たちが無事、この悪夢から醒めた今となっては時効だと僕は思うよ。

 

 カリエの存在を僕たちに伝えてきた人物。

 それはね——。

 

 実の双子の姉だよ。名はエーリカ。ドイツ人の、カリエの担当官になるはずだった女性だ。

 

 

02/

 

 

「……それでそのエーリカという人物はどうなったんだ?」

 

 ローマ市内の幹線道路。そこを走り抜ける黒のBMWに二人の男が乗っていた。一人はアルファルド、もう一人はジャンの弟であるジョゼだ。

 

「――カリエを国境越えさせる直前に、ドイツで自殺していた。頭を自分で撃ち抜いたそうだ。ドイツ当局が彼女のオフィスに踏み込んだその瞬間の出来事だったと。きっと彼らの目を引きつけようとしたんだな。事実、ドイツ政府は完全に一杯食わされていたよ」

 

 アルファルドは先日ヒルシャーから伝えられていた言葉をそのままジョゼに伝えていた。何とも後味の悪いエピソードを包み隠さずそのままに。

 ジョゼは苦虫を噛みつぶしたように、表情を顰めたまま口を開いた。

 

「何よりも強きは姉の愛、か。苦手だな、そういった無償の愛って奴は」

 

 ジョゼの言葉にアルファルドは何も返さなかったが否定もしなかった。声には出さないものの。考えていることは同じだった。

 一人の人間が一人の人間に対して注いだ感情が、余りに大きく余りに深くて畏れすら覚えるほどだ。

 

「ところでアルファルド。君は今日のことをブリジットには伝えたのか?」 

 

 ジョゼの疑問にアルファルドは首を横に振る。

 

「いや、彼女の中にあるカリエの物語はあの夜で終わりを迎えたままだ。けれどもそれでいいのかもしれない。夢は夢のままで。たとえ醒めたとしても夢は夢だ」

 

「薄情だな。いや、それも情があるが故にか。だが彼女は一生背負い続けるぞ。ひとときの友人を自分が手に掛けたと思い込んでいる」

 

 ジョゼの責めるような口調にアルファルドは「そうだな」と呟いた。

 

「けれどもその後の彼女の物語を知ることがブリジットの幸せだとは思えないんだ。ブリジットには此度の姉妹愛は余りに重すぎて大きすぎる」

 

 それが二人の間で交わされた最後の言葉だった。

 結局目的地に辿り着くまで、それ以上の会話はなかった。

 黒のBMWはローマの市街地を抜けてある山間部に足を踏み入れていた。

 穏やかな木漏れ日が差し込む林の道をどんどん登っていく。

 やがて、少しばかり古ぼけた石造りの屋敷が見えてきて、その屋敷の敷地に車は停車した。

 

「……ここか」

 

「ああ、後にも先にも僕たちがここを訪れるのは今日が最初で最後だ」

 

 感慨深げに屋敷を見上げるアルファルドを尻目に、ジョゼはどんどん敷地内へと足を進めていった。何か後ろめたさを感じているのか、アルファルドだけが足取り重くその後を追う。

 

「公社の者だ。彼女の様子を見に来た」

 

「――お待ちしていました。あの子は今、湖を見ていますよ。屋敷裏の小さな湖です」

 

 彼らを玄関先で出迎えたのは白髪交じりの老婆だった。腰はとっくの昔に曲がってはいたが、その瞳の生気は失われておらず、むしろアルファルドなどよりも余程若々しく見えるほどだった。

 老婆はこちらへ、と静かに二人を屋敷内に招き入れる。

 

「あなた方の雇い主からたくさんの子どもたちを預けられて来ましたが、あんな子は初めてです。神の御技か悪魔の所業か、一体何をしたのやら」

 

 老婆に案内されている間、二人は言葉が出てこなかった。

 ただ彼女の手厳しい言葉を受け止めるのみ。

 しかしながらそんな息苦しい時間もそう長くは続かない。

 

「あそこですよ。声を掛けられるのも、遠目に眺めるのも自由になさってください」

 

 それだけを言い残して老婆は立ち去った。アルファルドとジョゼの二人は屋敷の裏口から小さな湖畔の辺へと足を踏み入れていた。昼の光を受けて水面が星空のように輝いている。

 

「社会福祉公社の者だ。君に届け物を持ってきた」

 

 その少女は湖を静かに眺めていた。白いワンピースに身を包み、ぼんやりと立ち尽くしたままただ眼前を眺め続けている。ジョゼは少女の下へ近づくと、公社の身分証を取り出していた。

 

「――こんな死に損ないに今更何用ですか? 私のデータは既に取り尽くしたでしょう? もう私には何の価値もありませんよ。ただこの屋敷で残り少ない時を生きるだけです」

 

 少女は、カリエは一切ジョゼに視線を向けることなく口を開いた。視線は湖に固定されたまま。

 

「用はさっき言ったとおりだ。君に届け物だよ。これを渡したら直ぐに立ち去るさ」

 

 言ってジョゼは小さな小包を取り出した。茶色い包装紙に包まれたそれをカリエは受け取る。

 

「君は公社による最後の尋問の時、夢から醒めたと言ったな。あれはどういう意味だったんだ?」

 

 カリエが小包を封印する紐に手を掛けたその刹那、アルファルドが前に進み出ていた。ジョゼが驚いたように彼を見つめたがアルファルドはさらに言葉を重ねる。

 

「どんな、どんな夢だったんだ?」

 

 初めてカリエの視線が湖から外された。彼女の碧色の瞳がアルファルドを見た。

 

「――荒唐無稽かもしれないですけれど私は私ではなかった。遠い異国から来た、ティーンエイジャーの少女。自分のことをただの一般人だと思い込んで、ブリジットの事を友人だと信じ続けていた夢見る少女。それがあの日見た夢でした。本当に楽しくて眩しくて、そして辛い記憶。だからあの夢を終わらせてくれたブリジットには感謝してます」

 

「彼女には実銃と異色ない麻酔銃をこっそりと渡していた。ブリジットは実銃と思って引き金を引いたが、その実君は昏睡状態に陥っただけだ。それが夢から醒める引き金だったのか?」

 

 アルファルドのさらなる疑問にカリエはいいや、と否定した。

 

「あの子が星座を、双子座を見せてくれたときに全部思い出していました。馬鹿な私が、決して忘れてはいけない存在を思い出したその瞬間です」

 

「君はお姉さんのことをどれくらい覚えているんだ?」

 

 カリエは直ぐには答えなかった。

 迷っているわけでも、恐れているわけでもない。

 ただ幾ばくかの時間を要して、言葉を紡いだ。

 

「ぜんぶ。エリカが私をどれくらい愛してくれていたのかすべて」

 

 

03/

 

 

「なんてことない交通事故だったそうだ。夏の休暇を一家はイタリアで取ろうとした。ただ姉だけは仕事の都合というやつで遅れて合流する手筈だったみたいだ。――結果的に両親は死に、妹だけが生き残った。けれども妹は手足が失われ――肢体不自由になった双子の妹を姉は何とか助けようとした。そんな弱みにつけ込んだのか、それとも別の方法で騙したのか、少なくとも姉の願い通りには事は進まなかった」

 

 アルファルドの言葉をジョゼは黙って受け入れる。

 

「あの小包はお姉さんの遺品が詰まっている。カリエが義体になってから、そんな彼女を姉がイタリアに逃がそうとするまでの思いが綴られた日記だ」

 

 車は来た道を引き返していた。

 ただ車内の空気だけが行きのそれとは比べものにならないくらい重たいものなだけで。

 

「――今でも夢のままでよかったんじゃないかと思うことがある。なあジョゼ、お前はどう思う?」

 

 ハンドルを握るジョゼは端的に答えた。

 

「それを決めるのは僕たちじゃない。多分彼女達だよ」

 

 

04/

 

 

 それがどこにあるのか、カリエは知っていた。

 屋敷を管理する老婆の書斎。

 そこの暖炉の上に置かれている黒壇の木箱。

 鍵は掛かっていない。

 足下には姉が遺した日記たち。

 一通り目を通したそれは目の前に横たわる残酷な現実。

 いつか夢の中で握りしめたときのように、木箱の中身は冷たくて重い。

 操作方法は知っている。

 もう三回目だから。

 友達だった人が教えてくれたから。

 夢から醒ましてくれた恩人が教えてくれたから。

 淀みない動作で薬室に弾を送り込み、引き金を握る。

 あの時は止めてくれた人間がいたけれども、今は独りぼっち。

 でも今となってはそれが好都合。

 

 いつも夢の終わりは脳天にこれが叩き込まれた時だった。

 多分今回も同じなのだろう。

 こめかみに銃口を押しつけ、天を仰ぎ見る。

 

 次は、もう少し良い夢が見られますように。

 

 

05/

 

 

 多分、間一髪だったのだと思う。

 カリエが妙な頼み事をしなければこんな奇跡は起こりえなかった。

 いつからか毎日見るようになった悪夢。

 何度も何度もカリエが殺され、それを助けようとした自分も力及ばず自殺する夢。

 妹ももしかしたら似たような夢を見ているのでは、と仮説を立ててからは早かった。

 少しでも夢をコントロールできるように、足掻き、もがき、暴れた結果、気がつけば見たことのない場面にエリカはいた。

 似合わない白いドレスを着たカリエが、銃口を自身のこめかみに突きつけているその瞬間だ。

 夢の途中経過がどうなっているのかはわからない。

 何がどうなってこんな場面を夢見ているのかはわからない。

 それでも。

 たとえ夢でもエリカのやることは変わらない。

 妹が泣いている。

 妹が涙ながらに死のうとしている。

 ならばやることはたった一つ。

 

 ぶん殴ってでも止めようと考えた。

 

 ぐーは可哀想だから取り敢えずぱーで。

 思いっきり平手打ちをかまして銃を吹き飛ばす。

 頬に赤い紅葉をこさえたカリエは涙目ながらに呟いた。

 

「お姉ちゃん?」

 

 続いて思いっきり自分の方へと妹を引き寄せる。

 手をあげた分、全身で愛情を伝える。

 いつだって守り続けてきた妹の体を強く強く抱きしめる。

 

「大丈夫、あんたには私がついているわ。だってお姉ちゃんだから」

 

 ふと意識が遠のく。

 どうやら今回はここまでのようだ。

 それでもエリカは満足だった。

 

 だって、こうして妹の温もりを抱きながら夢から醒めることなど初めての出来事だったから。

 

 

06/

 

 

 いつの間にか銃を取り落としていた。

 頬には確かに痛みを感じる。

 足下には相変わらず日記が落ちていた。

 周囲を見渡しても人影は一切存在していない。

 ただ湖畔から届く光が窓から差し込んでいた。

 朧気ながら全身を温かさが包んでいる。

 

「――もう少しだけ、もう少しだけ頑張ればいいのかな?」

 

 ふらりとその場にへたり込んだ。いつの間にか頬の痛みは綺麗さっぱりと消えている。

 でもそれと同じくして、長い長い眠りから覚めたような爽やかな心地だけが体を支配していた。

 

 

07/EPILOGUE

 

 

 目が覚めた。

 懐かしい匂いに包まれて目が覚めた。

 ふと横を見れば自分と同じ顔が寝ていた。

 それがエリカの顔だと認識するまで数秒。

 結局横浜に帰ることが出来ず、熊本の実家に泊まったのだと現状を理解するまで十秒ほどかかった。

 何故同じベッドに狭苦しく寝ているのかはわからなかったが、エリカがこちらに潜り込んできていることにやがて気がつく。

 何故ならここはカリエの部屋。横浜に引っ越してもなお、両親が実家に残し続けてくれているカリエの部屋だからだ。

 つまり自室で寝ているカリエのベッドに、あとからエリカがやってきたのだった。

 理由は全くわからない。

 でも何故だかひどく安心する自分に気がついて、カリエはそのまま横になった。

 ふと枕元に散乱したコピー用紙を見つける。

 窓から差し込む光に照らしてみればチェンタウロに関する諸資料だった。

 何故こんなものがここにあるのかわからない。  

 あとからきたエリカが散らかしたのだろうか。

 

「そういえば何か夢を見ていたような……。何だっけ?」

 

 滅多に夢を見ないことを自負するカリエである。

 たまに見た夢も内容が全く出てこなかった。

 何か夢を見ていたことは確かだったが、内容は綺麗さっぱり忘れている。

 

「ま、いっか」

 

 布団をかぶりなおして瞳を閉じる。

 むにゃむにゃと寝ぼけたエリカが抱きついてきたが好きにさせた。

 見かけによらず寂しがり屋の姉の抱き枕になってやることくらいお安いご用だった。

 それに——。

 

 今だけは何故かこうしていたい気分だった。

 世界でたった一人の分身と、今だけは同じ眠りにつきたかったのだ。

 

 

08/

 

 

「ほらカリエ、とっととコロッセオを見に行くわよ!」

 

 がらがらと馬鹿でかいスーツケースを引き摺りながらカリエは石畳の道をひいひいと歩く。

 日本代表として海外遠征を繰り返すのは正直楽しいのだが、綿密な観光スケジュールを遂行しようとするエリカに合わせようとするのは正直疲れる。

 カリエはのんびりと、自分のペースで観光地を巡りたいのだ。

 

「たくっ昨日夜遅くまでイタリア代表とチェンタウロで遊んでいるからそうなるのよ。まあいいわ。私は今からコロッセオの見学チケットを買ってくるからここで待っていなさい」

 

 黒いセーターにニット帽を被ったエリカが人混みの中にずんずんと一人歩いて行った。

 慣れない異国だというのに、どこからそんなバイタリティが湧いてくるのかカリエには全く理解できなかった。疲労の色を顔に宿したカリエはぱたぱたと白いセーターの裾で自身を仰ぎながら、スーツケースを椅子代わりにその場に座り込む。

 だが注意力散漫。

 バランスを崩して思わずよろけたカリエは背後の人影とぶつかってしまっていた。

 ええと、イタリア語でごめんなさいはなんだっけ? と思考を巡らしたその刹那、カリエと接触した人物がこちらを見ていた。

 

 鳶色の瞳に黒い髪が美しい少女だった。

 

「『あらごめんなさい。でも私、先を急いでいるんです。ローマ観光を楽しんで下さいね』」

 

 少女が口を開き、その桜色の唇から言葉が紡がれたが、カリエは全く理解が出来なかった。

 いくら遠征を繰り返していても現地での会話はエリカに任せっきりのため、イタリア語なんてさっぱりなのである。

 

「『ではさようなら」」

 

 見れば少女は大きめのバイオリンケースを肩に掛けて歩みを再開していた。彼女の行く末をぼんやりと見つめていれば、そう遠く離れていない場所で三十代後半の男と合流を果たしていた。

 会話が少しばかり耳に届くが、あいかわらず意味がわからない。

 ただ男の事を少女は「アルファルド」と呼んでいることだけがわかった。

 そして男が少女の名前を呼ぶ。

 

 何故かそれだけがカリエの耳にハッキリと届いていた。

 

「ブリジット」

 

 異国で聞いた、初めてだけれども初めてでない少女の名前だった。 

 彼女はカリエを取り残して男と去って行く。

 カリエもカリエでチケットを手にしたエリカに連れられて反対方向に歩みを再開した。

 ふと背後に振り返る。

 もう人々の雑踏に紛れて少女の姿は見えない。

 

 けれどもカリエは、

 

 ブリジットと言う名の少女のことを一生忘れないんだろうな、と小さな予感を抱いていた。

 

 不思議と懐かしさすら覚える、イタリアの道を姉と二人で進みながら。



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