賽の出目は The empress couldn't hide true feelings (天木武)
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1 餅は餅屋に

 

 

ログナンバー00062

 

L:そういうわけなのですが、お願いできますか?

名前を入れてください:他ならぬお前からの頼みだ。私は構わない

名前を入れてください:ただ、

L:ありがとうございます!

L:? なんでしょう?

名前を入れてください:お前らしくない。前に言ったはずだ

名前を入れてください:単刀直入な言い方しか出来ないのは弱点ではあるが、同時に武器でもある、と

L:ええ、そう思います

L:だから、あの時言われたように餅は餅屋に、と思ったんです

名前を入れてください:餅屋に頼まなくてもいいことではないのか

L:それは……

名前を入れてください:お前自身の口から言えば、わざわざ私に頼まなくてもいいことだと思うのだが

L:……

名前を入れてください:いや、言いたくないことならいい

名前を入れてください:やらないと言っているわけではない。餅屋は黙って、餅を提供する

 

 

 

 

 

 夏服と冬服の変わる時期を6月と10月としたのは、一体どこの誰がどの時代に決めたことかと尋ねたくなる。そういうことには無駄に詳しい我が旧友にして同じ部に所属する福部里志(ふくべさとし)にでも聞けば「ホータロー、それはね」などと解説を始めることだろう。だが別にしてもらう必要はない。

 今年は5月から異常気象と言ってもいい陽気で、下旬の段階では既に「今日は7月上旬並みの暑さとなり」などとテレビの女性ナレーターが嬉々として報じていた。どこが嬉しいのか全くわからん。それこそ別なニュースのコメンテーターではないが「いやあこれもきっと異常気象のせいでしょうか」とか言いたくなる。地球は悲鳴を上げているのだ、大変なことだ。そんな暑さの中であっても学ランを着ていなくてはいけないということはある種の拷問と言っても過言ではなかろう。

 もっとも、だったら別に脱げばいい。身も蓋もなく言えばそうだ。しかし、衣替えがまだである以上脱いだところでそれは手に持つか、ともかく所持していないといけないということになるらしい。着崩している輩もいるが、生徒指導の教師に呼び止められかねない。それはめんどくさい。つまり着ないなら脱いで手にでも持つということになる。しかしそれは荷物が増える。だが脱がないと暑い。省エネ主義の折木奉太郎(おれきほうたろう)としてはそこにジレンマを感じずにはいられない。

 

 だがそんなジレンマからもようやく解放された。とうとう6月に入り、暑苦しい学ランを家において登校出来る日が来た。が、それで浮かれていられるのもしばらくの間だろう。

 6月となれば今度は梅雨になる。梅雨になれば雨が降る。傘をささなくてはいけないというのはこれまためんどくさい。大体明日の天気予報は早くも雨らしい。結局どう転んでも勝つことの出来ない天候という絶対の存在に、矮小なる我々人間は抗えないというわけなのだ。悲しき運命かな、だとするならそのこと自体に対してあれやこれやと文句を言うのは浪費というものだ。制服の件は矮小なる我々人間の決めたことだが、天候はどうすることも出来ないことだ。だったら俺はおとなしく傘をさす。「やらなくてもいいことは、やらない。やらなければいけないことは手短に」という俺のモットーに則れば、お天道様に文句を言うことなど意味のないことだからだ。

 

 そんなことを考えながら6月最初の日の授業を受け、昼休みになった時。

 問題ごとはそこから始まった。

 

「あ、折木君?」

 

 昼飯を適当に平らげ、残り時間は寝るか文庫本でも読むかと考えていた俺に、まともに話したこともないクラスの女子が声をかけてきた。はっきり言うと名前はわからない。

 

「ん?」

「なんか廊下に呼んで来てほしいって言ってる女の人がいるよ」

 

 まあこの女子生徒の言うことはその辺りだろうとは思っていた。俺に用事があるという奇特な女子はこのクラスにはおそらくいないだろう。女の人、と言ったということは同じ部の千反田(ちたんだ)える辺りかと思ったが、あいつは用事があるなら気にせずクラスに入ってきそうな気もする。なら誰だろうか。

 

「先輩っぽいけど……。すごく美人の」

 

 その一言で俺は凍りついた。……女の先輩だと? しかも美人? 有り得るはずのない、だが他に予想の付かないその「先輩」を確かめようと、外れていて欲しいという思いで俺は廊下へと視線を移した。

 しかし俺の予想は見事に的中した。女子にしてはすらりと伸びた身長、どこか冷たさを帯びつつも整い、伝言を頼まれた女子が言った「美人」という言葉に(たが)わないその顔立ち、そして放つ雰囲気はまさにつけられた渾名に相応しい、どこか気品と荘厳さすらあるような空気。

 

 「女帝」――入須冬実(いりすふゆみ)が、俺のクラスの入り口に立って、俺を待っていた。

 

 

 

 

 

「で、俺に何か用ですか?」

 

 人気(ひとけ)の多い教室の前を避け、そこよりは幾分往来の少ない階段の踊り場付近まで進んでから、俺は彼女の方を振り返った。

 

「まずは忙しいところを急に呼び出してしまってすまない」

「別に忙しくはないです。昼飯は食べ終わったので、どうせ寝るか適当に本でも読んで時間を潰そうと思ってましたし」

 

 社交辞令の形の謝罪を俺は遮った。この人に謝罪などという言葉は似合わない。彼女は「女帝」だ。人を手駒として扱い、それを悔いない姿勢こそが相応しい。だからこそ、女帝と呼ばれる存在であり、そしてその姿は美しい。

 俺は以前、彼女と「対決」した時にそのことを痛感していた。そしてあのような形で「決着」となった以上、俺はこの人に対してはどちらかと言うと話をしたくない、という気持ちの方が強い。

 だからさっさと済ませたい。付け加えるなら、面倒ごとに巻き込まれるのも金輪際御免でもある。そもそも、まさかまた俺に話をしに、それも学校内で来るとは思ってもいなかった。

 

「それで、用件はなんです? あなたに限って四方山話(よもやまばなし)のために俺を呼び出した、なんてことはないと思いますが」

「いきなり、なかなか手厳しいな」

「もしそうなら俺は帰りますよ。やらなくてもいいことは、やらない。やらなければ……」

「やらなければいけないことは手短に。……君のモットーだそうだな。では、手短に話を済ませよう」

 

 俺のモットーを持ち出したことに、正直言うと内心驚いていた。省エネ主義者というぐらいは知られていてもおかしくないが、俺がこの人に直接己のモットーを言ったかどうか記憶は曖昧だ。どこかから伝手を通じて知ったのかもしれない。

 それはさておき、彼女の口から飛び出したのは、まさに手短、簡潔な話だった。

 

「明日の放課後、格技場とテニスコートの裏に来てはもらえないだろうか?」

「格技場とテニスコートの裏……?」

 

 場所はわかる。格技場とテニスコートはグラウンドの隅に位置している。その裏、となるとまさに人目につかないところだ。だがなぜそんなところに、この俺を呼び出す必要があるというのだろうか。

 

「理由を知りたいですね」

「場所の理由かな」

「それもですが、なぜあなたがわざわざこんな俺をそんなところに呼び出すのかも気になります」

 

 気になります、とは俺のセリフではなかっただろうと言ってから思う。1年以上同じ部で付き合ってきたせいで、もしかしたら俺にもあの好奇心の権化の口癖が移ってしまったのかもしれない。だが気になるのは事実だ。

 

「逢い引きの場としては、もっとも適切だとは思わないか」

「笑えませんね。あなたが冗談を言う人だとは思っていない。真面目に答えてください」

「やはり手厳しいな。……大切な話がある。誰にも聞かれたくない話だ。だから、人目につかないそこがいい」

 

 俺の言葉通り、最初のは冗談だと言わんばかりに後半は語気のトーンを落としていた。同時に、表情もやや真面目になる。

 ……なるほど、筋は通っている。人に聞かれたくない話、だから人目につかない格技場とテニスコートの裏、そこに放課後。

 だが俺としてはそれは出来ることなら御免蒙りたい。なぜなら、先ほど述べたとおり格技場とテニスコートの裏と言うのはグラウンドの端を意味している。そこに行くにはグラウンドを横切らなければならず、つまり()()のだ。そんな非省エネなことをしたいとは思わない。

 

「どうしても今ここでは話せないことだ、と」

 

 ここだってそこまで人通りが多いわけではない。ならここでいいじゃないかと思う。そりゃ確かに女帝とよくわからん後輩男子が話していたら目立つと思わないわけでもないが。

 

「そうだ。……頼む」

 

 今目の前にある光景を、俺は微塵にも予想出来たであろうか。

 

 入須は軽く顎を引き、頭を下げていた。

 

 女帝が、たかが一生徒の俺に頭を下げているのだ。罪悪感というか、不安感というか、なんだか後ろめたい気分が心に溢れてくる。

 

「……わかりました。だから頭を上げてください」

 

 この様子を傍から眺められていたらあらぬ誤解を招きかねない。それはあまり喜ばしいことではない。

 出来ることなら入須からの頼みは「やらなくていいこと」に割り振りたかった。だが彼女がこれだけ真剣に頼んできているのだから、何かあるのだろう。ならば「手短に」済ませるべきだ。

 

「感謝するよ。……では明日の放課後、格技場とテニスコートの裏に。確かに頼んだよ。言うまでもないが、あまり言いふらさないでもらえると助かるな」

 

 言いふらすようなことでもないし、そもそも相手もそこまでいない。言ったところでからかわれるのが関の山だ。

 かくして、平和なはずの俺の明日の放課後は消滅した。「入須冬実と、格技場とテニスコートの裏で密会」という予定が埋まる。踵を返して去っていく入須の後姿を見つつ、どうにも解せない思いが俺の心に浮かんでいた。

 

 入須が話したいこととは、一体何だ?

 

 さっき問い質した時に曖昧に「逢い引きの場にふさわしい」とか言っていた。またまたご冗談を。断言できる。それはありえない。俺に女帝は釣り合わない。俺はタロットになぞらえられた時に「力」と言われた。所詮「力」は、女性に「御されている」にすぎないのだ。

 もしここに里志がいたら「それでもいいじゃないか、女帝と付き合えるチャンスなんて滅多にあるものじゃないよ!」と自分には関係ないと茶化してくることだろう。

 くだらん、と俺は窓の外へと目を移しながら教室へと戻ることにする。今日は快晴、だが明日は雨だったか。ああ、だとすると雨の中わざわざグラウンドを横切るのか、実にめんどくさい。

 それ以上、入須の目的について考えることはやめにした。埒の明かない想像に過ぎなくなるからだ。「やらなくてもいいことは、やらない」だ。あと24時間と数時間も過ぎればわかることだろう。

 残り僅かになった昼休みをどうするか考えつつ、俺は教室へと入っていった。

 

 

 

 

 

 放課後というのは、人によっては学校に来て最大の楽しみとなっている人も多い時間だろう。授業が終わった後を楽しみにするために授業のある学校へと来る。一見矛盾しているように見えるがその実、そういう人々は「授業」ではなく「学校」自体に意味合いをもって通学しているのだろう。

 俺は、というと特に放課後を楽しみにしているわけではない。だが別に嫌いなわけでもない。一先ず「部活」として成り立っているかも怪しいが、成り行きで在籍している古典部の部室、特別棟の4階にある地学準備室へと向かう。少々遠いが、あそこは居心地としては悪くない。別に俺が自分の時間に入っていても咎めてくる人間もいないわけで、結局あそこでは各々がやりたいことをしているだけ、と言ってもいいような部だからだ。要するに、「何をしてる部なのか」と聞かれると返答に困る、ということでもある。

 

 部室には先客が1人いた。小学校から中学校までの9年間同じクラス、高校に入ってようやく別なクラスとなった伊原摩耶花(いばらまやか)だ。本当に高校生かと思うような童顔で俺を一瞥した後、別に何事もなかったかのように視線を机へと戻す。どうやら明日の予習辺りをしているらしい。

 

「1人か?」

「見てわかんない? 他に誰か見えるなら眼科に行くか、お祓いでもお願いしてくれば?」

 

 お祓いと来たか。残念ながら幽霊なんてものは生まれてこの方全く見た事がない。

 予想はしていたが相変わらずの毒舌だ。ため息をこぼす気すら起きない。このまま話してもいいこともなし。俺はいつも通りの席に腰掛け、適当に鞄の中から取り出したペーパーバックを開く。

 

 古典部の活動などこんなものだ。だから「何をしてる部なのか」と問われると答えられない。部員は4人。福部里志がいない理由はなんとなく察しがつく。奴は2年になってから総務委員会の副委員長になっている。あれでいて何かと忙しいらしい。去年よりこの部室にいる頻度は目に見えて少なくなっている。

 一方この部屋にいる伊原は去年在籍していた漫画研究会をやめている。色々とごたごたがあったらしいが、詳しいことは知らない。別に知る必要がないからだ。だから里志と対照的に、こっちは部室にいる時間が増えている。

 だが俺が「1人か」と伊原に声をかけたのは、おそらく2人はいるだろうという俺の予想が外れていたからに他ならない。部長の千反田えるはもう部室にいるに違いない、と踏んでいたのだ。

 もっとも、あいつもいつでもいる、というわけでもない。それにこう言っては失礼かもしれないが、別にいようがいまいがはっきり言ってしまえば大した問題でもないわけだ。問題ごとを持ってこないなら人畜無害、嫌う要素など何一つない様な人物だ。

 だが、好奇心の権化と化したとき、それは俺の天敵となる。あいつの全体を通して感じられる品のよさの中で、唯一割に合わないのがくりっとした大きな目だ。それがさらに見開かれる時、あいつは俺の平穏を奪う呪文を口にする。

 

『私、気になります』

 

 それを言われたが最後、俺の愛する平穏は脆くも崩れ去り、あいつに連れまわされて引っ掻き回されるのだ。タロットカードの「愚者」にたとえられたこともあるその好奇心は、俺にとって最大の問題ごとだ。

 とはいえ、1年も一緒にいるとそれにも慣れつつある。いや、慣れてはまずいのだが。あくまで俺のモットーは「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」だ。だからあいつが好奇心に駆られて俺が巻き込まれた時は、なるべく手短に済ませてきた。

 しかし改めて言うが、だからといってあいつが嫌いなわけではない。普段はちゃんと節度をわきまえた品のいいお嬢様だし、好奇心の権化と化してもきちんと踏み込んでいい領域と駄目な領域を把握している。だから俺は別にこの部を去ろうと思わなかったし、これまでやってこれたわけだ。

 

 ペーパーバックを読む俺に予習をする伊原。当然のように会話はない。そもそも別に必要でもない。外から聞こえてくる運動部の掛け声をBGMに、俺は適当に本を読んでいた。

 千反田が来たのは、それから30分ほどしてからだった。

 

「遅くなりました。こんにちは」

 

 普段通り、特に何も変わった様子もなく千反田は部室に現れた。無視を決め込むのもなんだか悪いのでとりあえず一瞥して「おう」とだけ俺は声をかけておく。

 

「あ、ちーちゃん。丁度いいところに来たわ。あのね、この問題が……」

 

 伊原はまだ荷物を下ろしてもいない千反田を捕まえて解き方を仰ごうとしている。ちなみに、「ちーちゃん」というのは言うまでもなく千反田のことだ。伊原はちょっと変わった呼び方をするらしい。里志のことは「ふくちゃん」、そして俺のことは「折木」。俺だけ普通だが、ま、別に気にもしていない。

 

 俺はさらに本を読み進める。それからさらに30分ほどして里志が来た。今日の総務委員会がどうのの話から始まり、伊原との四方山話へ。千反田も時々そこに混じっているようだ。俺は興味がないので読書に集中。

 いつもの古典部だ。何気ない、ある種時間の浪費とも取れる放課後の一幕。だが俺はそれを勿体無いとも、無駄だとも思わない。見る人から見ればこれは完全に「怠惰」とでも取れるだろう。大罪のひとつだ。

 

 大罪といえば、いつだったか「七つの大罪」の話をこの部でしたことがあった。その時に千反田はこう言い切ったはずだ。「大罪という言葉だけを持ってきて私たちの生活に当てはめることはできない」と。よきかなよきかな。俺は「怠惰」という罪を犯しているという自覚はあるわけだが、一概に悪いとも言い切れない、というわけだ。

 それでいい。俺の高校生活は「灰色」だ。誰もが望むような「薔薇色」と正反対、普通の、特に面白みもないような平和で平穏な高校生活がいい。そういう意味でいうと、今日この時間はまったくもって灰色で素晴らしいと思える。

 

 そんなことを思いながら読み進めていた文庫本だが、特に山も何もなくあっさりと終わってしまった。今日のはイマイチだった。明日は違うのを読むかと思いつつ、壁にかかる時計を見上げる。丁度いい具合に帰宅時間だろう。

 

「そろそろ帰ろうか」

 

 俺の視線の先に気づいたのだろう。里志がそう促した。それをきっかけに各々が帰る準備を始める。今日も灰色で平穏な部活動は終わり。世は事もなし、さて帰ろうかと俺が荷物をまとめた、その時だった。

 

「あの……折木さん」

 

 おずおずと千反田が俺に声をかけてくる。また「気になります」とか言われるんじゃないかと一瞬不安になったが、目を見てそれはないかと安心した。代わりに普段よりどこか遠慮しがちに続ける。

 

「明日の放課後……ここに来る前にお時間はありますか?」

 

 基本的に俺は予定など何もない。そのために癖で「別にない」と言いかけて昼休みのことを思い出した。

 そういえば入須が「明日の放課後、闘技場とテニスコートの裏で」とか言っていた。俺に何を言いたいのかは気になるにはなるが、それ以上にわざわざ放課後にグラウンドを横切ってあの遠いところまで行く面倒さの方が上回る。

 入須に対する義理はない。頭は下げられたが、一度彼女が女帝である由縁を痛感しているのだ、昼の行動だってどこまでが本心かわからない。また俺を踊らせるために、一芝居打ったのかもしれない。なら、千反田の用事の方を優先してもいいか、と俺は判断した。

 

「ああ。特に用事はないぞ」

「折木さん!」

 

 が、直後に千反田は机を両手で叩きながら俺の名を呼んだ。珍しい。明らかに非難の表情だ。里志も伊原も驚いた様子で千反田を見つめる。

 さっきの話じゃないが、「大罪」の話をした時に千反田は「基本的に怒らない」と言っていたはずだ。そう言ったこいつが俺に対して怒りに近い感情を向けている。しかし何かそうなるに至ったようなことを、今の短いやり取りで俺は言ったか?

 

「嘘はいけません!」

「嘘……?」

「はい! 折木さん、明日の放課後は入須さんと約束があるじゃないですか!」

 

 ……おい待て、なぜお前がそれを知っている?

 

「へえ。ホータロー、女帝と密会の約束かい?」

「……里志、ちょっとややこしくなるから黙っててくれ。千反田、確かに俺は今日の昼休み、明日の放課後に時間をくれとあの人に言われたのは事実だ。だがなぜお前がそれを知っている?」

「そ、それはですね……」

 

 こほんと千反田は一度咳払いを挟む。

 

「さっき入須さんとお会いしたんです。その時に『個人的な理由から、折木君に明日の放課後時間が欲しいと頼んだのだが、あまり乗り気でなかったようなので一言言っておいてほしい』と言われたんです。折木さん、面倒くさがって約束を反故にするのはいけません。たまにはいい運動だとでも思って、入須さんのお話を聞きに行ってあげてください」

 

 なんと、少し早口でまくしたてるように説教されてしまった。しかし生憎、ここで俺も「はいそうですか」と言うほど素直な性格ではない。大体俺は運動不足ではない。毎日健康に気を遣いながらちゃんとこの学校に登校してるんだ。

 

「……おい千反田。じゃあお前が今俺に明日の放課後時間があるか聞いたのは、特に意味も、そして用事もないんだな?」

「はい」

「なるほど、お前らしからず()()をかけてきたってことか。だがな、それだとお前も俺に対して嘘をついたってことにならないか?」

「え……え?」

「だってそうだろう。お前は俺に対して『明日の放課後に時間があるか』と聞いてきた。当然俺はお前が俺に対して何か用事があるものだと推測する。だがそれは違った。なら、それも嘘じゃないか?」

「え、えっと……それは……」

「それは屁理屈だね、ホータロー」

 

 ……余計な邪魔を入れやがって。今里志が横から口を挟まなかったら、おそらく俺は千反田を丸め込められただろう。現にこいつは明らかに狼狽していた。もっとも、里志に言われるまでもなく俺もこれは屁理屈だとわかっている。だがそこまでしてでても、やはり格技場とテニスコートというグラウンドの外れまでは歩きたくないのだ。

 

「千反田さんが聞いたのは『時間があるか』という質問だけだ。そこから先を勝手に思い込んだのはホータロー自身さ。千反田さんには何の責任もない」

「それに折木がつく嘘は悪い嘘だろうけど、仮についたとしてもちーちゃんの嘘は良い嘘なのよ」

 

 さいですか。伊原の言い分には異を唱えたいところだが、兎も角1対3では勝ち目はない。俺は両手を広げて降参の意思を示した。

 

「わかったよ。女帝様の話を聞きに行けばいいんだろ?」

「はい。私も詳しいことはわかりませんが、とにかく入須さんの顔を立ててあげてください」

 

 それでこの話はおしまいということになった。いよいよ各人が荷物を持ち、部室を後にする。そうして部室を出て昇降口まで歩きながら、俺はふとさっきの伊原の一言を思い出していた。

 

『ちーちゃんの嘘は良い嘘なのよ』

 

 良い嘘、悪い嘘。まあよく言われることだ。優しい嘘、なんて言葉も聞く。「嘘も方便」とは、昔の人は上手いことを言ったものだと思う。

 では、()()()()は良い嘘だったのかと、俺はふと考えていた。

 しかし考えたところで、今答えは出ない。なら、「やらなくてもいいことなら、やらない」のモットーに則り、俺は考えることをやめにする。

 だがそれでも、俺が思ったその考えはしこりの様に、俺の心の中に残っていた。

 

 

 

 

 

 天気予報というのは当たってほしくない時に限って当たる。土砂降り、というほどではなかったが、傘をささないと濡れる程度に、今日は朝から雨が降りしきっていた。

 傘の陰に身を隠しながら登校するのは、若干憂鬱になる。傘があるというだけで荷物が増える。それだけで俺の気を滅入らせる要因のひとつとしては十分だ。

 

「やあ、ホータロー」

 

 そんな俺にこのぐずついた天気と真逆の声がかけられる。声の主を確認するまでもない。この呼び方をしてくる人間もまずこいつ以外にいない。

 

「今日は歩きか」

「傘さし運転は危ないからね」

 

 当然とばかりに里志は答えた。言葉通り、今日は傘をさして歩いての登校になっている。

 

「それでホータロー。女帝への愛の言葉は決まったかい?」

「決まるも何も、そもそもそんなわけがない」

「つれないなあ。女帝と付き合えるチャンスなんて滅多にあるものじゃないよ」

 

 昨日思った、予想通りの言葉をこいつは吐きやがった。そんなわけあるか。万が一、いや、億が一迫られたとして、俺はそれを受けるつもりはない。入須には一度俺の灰色の高校生活を壊されかけた。……いや、厳密には俺が勘違いして壊しかけた、と言う方が正しいが。兎も角、それを本当にあの女帝に壊されるとなるのは御免蒙りたい。色恋沙汰を望まないとは言わない。悲しきかな、所詮俺も男なのだ、(さが)には勝てない。だが、それは省エネ思考に真っ向から反すること、基本的には憂慮すべきことなのだ。

 

「時間は放課後だったよね。それで、逢い引きの場所はどこだい?」

「誰が教えるか」

「じゃあ僕が推理してあげるよ。そうだな、校内は目立つだろうから……。体育館への渡り廊下ってところかな。ああ、もしそこならもう少し足を伸ばして駐輪場の方がうってつけだと思うよ。幸いと言うべきか、今日は雨だ。自転車の数は少ないだろうし、そこに行く生徒も多くはないだろうからね。それに雨音が丁度いい感じにそこでの密会の言葉を消して……」

「待て、里志」

 

 違和感。

 俺が今話を遮ったのは話すのがめんどくさいとか、探りを入れられるのが迷惑だとか、そういった類ではない。ふと感じた違和感のせいだ。昨日、部活が終わって帰り際に感じたしこり。それを、よりはっきりと感じたからだ。

 

「なんだい、ホータロー。まさか……怒ったのかい? いや、ホータローが怒るなんてことは……」

「里志。お前、今日の雨はいつから予報で知っていた?」

「……変なことを聞くね。確か……昨日の朝かな、遅くても。テレビでも新聞でも『6月の初日は晴れるものの、以降しばらくはぐずついた天気になる』とかだった気がするよ」

 

 さすがデータベース。だがかく言う俺も昨日までの天気予報でなんとなくそれは知っていた。

 違和感が、確信へと変わりつつある。

 

「ならもうひとつ。お前は本当に俺と入須が会う約束をした場所を知らないのか?」

 

 きょとんと里志が俺を見つめる。次いで表面だけは笑顔を浮かべ、しかしその実、上辺だけの笑顔で返してきた。

 

「知らないよ。知っていたらわざわざこんなことを切り出すもんか」

 

 そして、違和感は確信へと変わった。

 里志は俺と入須の待ち合わせ場所を知らない。それだけは間違いない。だが、だとすると昨日行われた一連のやりとりで、()()()どうにも腑に落ちない部分がある。

 

「……考えごとかい?」

 

 言われて、初めて俺は黙り込んで無意識に前髪をいじっていたことに気づいた。どうやら考え込む時の癖らしい。そしてこいつはそれを見抜いている。ひょっとしたら、今俺が考えていることも見抜いているのかもしれない。

 

「まあ安心しなよ。今日は総務委員会はないけど、僕は大人しく真っ直ぐ地学準備室に行って、千反田さんと摩耶花と世間話でもしてるから」

 

 ああ、そうしてくれ。下手に詮索されるよりはるかに助かる。

 当たってほしくないときに限って当たる天気予報だが、今日に限ってはそう思わなくていいことになるかもしれない、と俺はふと思っていた。

 



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2 剥がされた仮面

 

 

 昼休み。昼食をさっさとすませ、俺は席を立った。入須との約束の時間は放課後であって、本来この時間ではない。だが、俺はこの時間中に彼女に会いに行くつもりでいた。

 雨の日に、グラウンドを横切って格技場とテニスコートの裏という場所まで行くのは遠いことに加えて傘もささねばならずに面倒がさらに上乗せされている。だったら、「やらなければいけないことなら手短に」のモットーに則り、手短に済ませる方法をとればいい。「雨ですし場所を変えませんか、と言いに来ました」というのは()()の理由としては十分だ。

 

 3年生の教室が入る階へと行く。だが肝心の入須が果たして何組かわからない。一クラスずつ覗いていくしかない。なんと非効率的なことか。しかしたとえそれが非効率的であったとしても、雨の日に傘をさしてグラウンドを横切るよりは遥かに楽なわけだ。

 適当に3年生のクラスを覗き込んでしばらくした頃。

 

「おや、君は1個下じゃなかったかな」

 

 聞こえた声に俺は振り返る。立っていたのは髪をお団子にして3つほど頭に作った、どうやってその髪型を維持しているのか疑問に思える女子だ。俺は彼女に見覚えがある。

 

「えっと……。確か沢口……」

「沢木口だよ、探偵の折木クン」

 

 その呼ばれ方は俺としては否定したかった。だがまあ些細な問題、それにこの状況では地獄に仏だ。手がかりゼロよりは多少マシだろう。ここは入須を探すのに一役買ってもらうことにする。

 

「どうしたのさ、こんなところ歩いて。またチョコレートでもなくなった?」

「ああ、あの件はすみませんでした。まだちゃんとした謝罪もしてませんでしたね」

「ん。まあいいって細かいことは」

 

 あなたの性格からいうとそうでしょう。でもそこは「別にいいじゃない、チョコレートのことぐらい」とか、伝説の決め台詞で言ってほしかった気がしないでもないですが。

 兎も角、これは渡りに船、この人を使わない手はない。

 

「ところで入須先輩はどこのクラスかご存知ですか?」

「入須? 私と同じクラスだよ。何か用事?」

「ええ。まあ」

「まさか……愛の告白とか?」

 

 なんでこうそっちに皆結び付けたがるのだろうか。思考がわからん。

 

「そうじゃないですが、ちょっと用事が」

「また探偵稼業かな? ま、なんでもいいけど。あ、でも告るのはやめておきなよ。まずうまくいかないだろうし、万に一つうまくいったとして『女帝』の彼氏ってのは辛いもんだと思うからね」

 

 だから違いますって。もう反論するのも面倒なので俺は無言で「早く連れてきてください」というオーラを出してみる。言いたいことを散々言っていた沢木口だったが、俺のその空気を察してくれたらしい。

 

「まあいいわ。入須呼んでくればいいんでしょ? ちょっと待ってて」

「ありがとうございます」

 

 沢木口は教室の中へと消えていった。ややあって、入須を連れて出てくる。入須の滅多に見ることはないであろう驚いた顔が印象的だったが、それ以上に後ろの沢木口の顔に全てを持っていかれた。右目を閉じつつ舌をペロッと出しながらサムズアップ。「頑張れ少年!」とか心の中で勝手に思ってるのだろう。そのまま彼女はどこかへと行ってしまった。はいはい、頑張らせてもらいますよ。ただし、あなたが思ってることとは全く別なことで、ですけど。

 

「沢木口に『彼氏候補が呼んでるよ』と言われて来たのだが……。驚いたな。まさか折木君だったとは」

「あのエキセントリック女子高生の言うことを真に受けないでください。ただ、俺があなたを呼んだのは事実です」

「話の時間は今日の放課後のはずだが?」

「ええ、そうですね。ですが、生憎今日は雨だ。雨の中、グラウンドを横切って長い距離をえっちらおっちら歩こうという気にはなりません」

「なるほど。省エネ主義者らしい発言だ。だがそれだけで……」

「そして何より……俺が話をしたいのは、入須先輩、()()()()()

 

 これで、十分だった。俺が何を言いたいのか、彼女は察したらしい。続けて何かを言いかけた口を入須は閉じた。それまでの表情から余裕のようなものが消え去り、一層冷たさを増す。

 

「……わかった。場所を変えよう」

 

 同感だ。3年の教室が連なる廊下というのはさすがに目立ちすぎる。

 

 

 

 

 

 俺と入須が移動してきた先は一般棟の校舎と体育館をつなぐ渡り廊下の、その近くにある駐輪場。今朝里志が「うってつけ」と言った、奇しくも俺が「十文字事件」で「犯人」と直接対決した場所と同じになる。

 里志の予想通り、今日は自転車の数は少なかった。加えて屋根に当たる雨音で俺たちの会話は外部に漏れないだろう。ここは舗装されている。それでも上履きで出るのは少々はばかられるが、戻る時に渡り廊下にあるマットで汚れを落とせば別に問題はないと思われる。入須もその辺り、細かいことは気にしていなかったらしい。いや、その前に俺との話の方を優先すべきとしてこんなことは些事と取ったのだろうか。

 

「それで、君のモットーに則って余計な前置きは省こう。……なぜ、放課後に()()()()()()とわかった?」

 

 存外、あっさりと彼女はそのことを認めた。その速度に多少は驚いたが、俺の考えたとおりのことに違いはない。俺は口を開いた。

 

「理由はそれなりにあります。ですが、あなた関連に限定して言うなら……。いくら人目につきにくいとはいえ、()はまずかった」

「ほう……?」

「天気予報でも新聞でも、『6月に入って晴れるのは昨日1日だけ』と随分と言われていた。今日からしばらくは梅雨前線のせいで雨になる。いくら昨日が晴れていても、翌日雨が降る可能性が高いのに外を指定したというのは、どうもあなたらしくない」

 

 入須は微笑をこぼす。俺の推理に感心している、というよりは失笑、という意味合いに俺には取れた。

 

「それが、私が放課後に行かないこととどう繋がるのかな?」

「あなた自身が関係する、もっと具体的に言うならあなた自身がその場に行くとなったら傘をささざるを得ない状況になるのは避けるんじゃないかと俺は思ったわけです。雨と言うことは大体の人間が知っていたでしょう。あなたに限って知らないはずがない。しかしそれをあなたは気にも留めていない様子だった。そう思った時……あなたは関係しないんじゃないか、つまりそこに行かなんじゃないかと思ったんです」

「……それでは弱いな。私は君ほど省エネ主義ではないよ。別に傘をさすぐらい、それほど苦とも思わない。それに本当に雨のことは知らなかった、とだって言うことは出来る」

「そうですか。……出来ればあなた関連だけで追い詰めたかったんですが、やはり俺の推理能力は、別に特別でもなかったようですね」

 

 精一杯の皮肉だが、負け惜しみではない。切り札はまだ取ってある。ここで相手が観念するなら儲けものだったが、やはりそうは問屋が降ろしてくれないらしい。

 

「……つくづく嫌われたものだな、私も」

 

 彼女は苦笑を浮かべた。その自嘲的な笑いでさえ、女帝の予定調和的な演技に見えるのは、さすがとしか言いようがなかった。

 

「では、あなた関連で、という枠を取り払います。……今日の放課後にグラウンドの隅、それは別な人から俺にそう頼むように指定されたから、あなたはそのままに俺に告げた。そして、その時その場には、あなたに指定した別な人間が行く予定でいる」

「根拠は?」

「はっきりとしたものはありません。それでも強いて言うなら……。俺の前で()()を出した人間がいた。それだけです」

「ボロ……?」

「ええ。その人間は俺とあなたが今日の放課後会う約束をすることを知っていた。あなたが言ったと言っていた。ですが、そもそもそういうことをあなたが他人に言うかも怪しい、さらに俺には『言いふらすな』と言ったあなたが、よりにもよって場所まで細かく言うような人間だと俺は思わない。なのに、そいつははっきりとこう言いました。『たまにはいい運動だと思って話を聞きに行け』と。その言葉が意味するところはひとつ。その人物はグラウンドを横切らないとその場所に行けなかったことを知っている、つまりあなたに俺への約束をとりつけさせた人物だということです」

 

 既に場所を知っている俺は、あの時そのことを深くは考えなかった。確かにしこりとして残りはしたが、もしかしたら入須が話したかもしれない、という可能性もあったからだ。

 だが、里志は場所をわからないと言った。雨ということは前から知っていたとも言った。今日が雨ということが大々的にわかっているのに、わざわざ省エネ主義の俺をそこまで歩かせようというのがまず引っかかった。俺の性格から言って、反故にする可能性など十二分にありえる。もし入須が俺に何かを頼み込むとするなら、もう少し俺が来る気になる場所にするはずだ。

 その疑問が昨日のしこり――すなわち違和感を確信へと変えた。放課後に会いに来るのは入須ではない。ひょっとしたら彼女は、頼まれた伝言を伝えただけの遣いでしかないのではないか。

 そして、彼女を遣いに出来る人間など、そうそう多くはない。

 

 入須は、黙って目を伏せた。そして小さくため息をこぼし、ボソッと呟く。

 

「……まったくあいつは。餅は餅屋が提供すると言ったのにな」

「説明してほしいですね、先輩。なぜ()()()はそんなめんどくさいことをしてまで、あなたを使って俺を呼び出そうとしたのか」

 

 返答はすぐにはなかった。女帝はらしくなくその眉をしかめ、言葉を選ぶように考え込んだようだった。そして短い時間を挟んでから、口をゆっくりと開く。

 

「……その理由自体は私にも解らない。信じる信じないは、結局君次第になってしまうが。だが、私も君と同じことを思った。彼女は単刀直入にしか物事を言えない。しかしそれは一概に弱点とは言えず、使い方によっては、いや、むしろ彼女の使い方なら強力な武器になると思っている。だが、あえてそれを用いずに私に頼んできた理由というのは、私も知りたいところではある」

 

 俺は自分で人の嘘を的確に見抜くことは出来ない、と思っている。だが今の入須の言葉には嘘がないように思えた。

 

「では……。あなたは千反田が俺に何を話そうとしていたか、それはわかりますか」

 

 一瞬、彼女の瞳に侮蔑的な色が篭ったと思った。実を言うと、その内容と言うのは薄々は感じていたことだ。入須は冗談のように「逢い引きの場として適切」と言った。もしそれが冗談ではなかったとしたら。今の視線で俺の心の中でそんな思いがより強くなる。

 

「場所と時間を知っておきながら……それを私に言わせるのか? ……知ってはいるよ。だがそれはこの場で口に出されてはいけないことだとわかっている。そして私はそんな無粋な真似をするつもりもない。だから例えどんな条件を提示されようと、仮に拷問されようとも、私はそれを決して口にはしない」

 

 さすが女帝だ。言葉の重みが違う。「これで察しろ」と言いたいらしい。だったらこれ以上このことを聞くのは無駄だ。

 

「では、最後にひとつだけ」

「何かな?」

 

 口を開きかけ、俺は閉じる。出しかけた言葉を一旦飲み込み、再び言葉を搾り出した。

 

「……理由もわからない千反田からの頼みを、『女帝』であるあなたが聞こうと思った理由はなんですか?」

 

 露骨に、彼女は顔をしかめた。

 近づくものは皆彼女の手駒になる。それを悔いなく扱ってこそ女帝だ。だから、人を使うならまだしも、人に使われるというのはどこか納得がいかずにぶつけた質問だった。

 

 いや、本音を言えば最初に飲み込んだ質問こそが、もっと聞きたいことであった。だが、それは聞いたところでどうせ答えはない。そう思ったから、何がこの人をそこまで駆り立てたのかは知ろうと思ったのだ。

 

「……最後の質問が、それか」

「くだらないですか?」

「私から言わせてもらえば、くだらないな。君は私を何だと思っている?」

「女帝ですよ。あなたは人に使われる存在ではない、人を使う存在だ。そういう孤高の存在だからこそ、あなたは残酷なほどに冷たく、そして美しい」

 

 いささか持ち上げたことを言ったかもしれないが、俺は本心を述べたつもりだった。笑われるならそれでいい。それでこそ女帝だ。そう思っていた。

 だが、意外なことに彼女は笑わなかった。いや、厳密には笑ったが、それはどこか悲しさのようなものを含んだ笑みだった。

 

「……君もそう言うか。私は自分で自分を『女帝』などと言ったことは、一度もないんだがな」

 

 虚を突かれた。俺は、人の嘘を的確に見抜くことは出来ない。だから今の彼女の発言の真意をはっきりとは測りかねる。

 だがそれでも、その一言は彼女がほんの一瞬だけ見せた本心のように思えた。これまで決して外すことのなかった仮面の端から、僅かに彼女の本当の顔が見えたような。だとするなら、俺はこれまでとんでもない思い違いをしてきたのではないか。

 

 そもそも「女帝事件」の時、この人は2年F組のまとめ役だったわけだが、元々はクラス企画に全く関係なく、急遽取りまとめ役を引き受けたという話だったはずだ。今になって思う。なぜ、俺はその時尋ねなかったのだろうか。「先輩には元々関係のない話じゃないですか」と。

 その時に彼女がF組に関わって得るメリットはなんだ? お世辞にもあの映画の出来はいいとはいえない。映像技術は素人がやればこういうものだろう、という程度、演技もいいとは言い難いレベルだ。トリックについてはノーコメントにさせてもらいたい。自分が得意気に披露したあれを自分で評する気にはならない。兎も角、「私が取り仕切って、破綻寸前の映画をここまで導きました」と言ったところで何もプラスにならない。むしろ「この程度しか出来なかったのか」と思われてしまえばマイナスになる話だ。

 では、クラスのためか。あるいは助けを求めたであろう脚本を書いていた本郷(ほんごう)のためか。どちらにせよ、そこで救いの手を差し伸べたというのは、俺が抱く「女帝」のイメージ像と若干齟齬が生まれる。確かに彼女は人を扱うのが上手い。そして物事を華麗に解決する。その扱われた人物の心情は二の次としても、だが。それでもF組の件にしろ、かつて里志が言った件にしろ、今回の千反田の件にしろ、彼女は「求めてきた助けには応じている」と言えるのではないだろうか。それなら、果たして俺が勝手に抱いている、冷血で非情な女帝のイメージと言うものは正しいといえるのだろうか。

 

「以前も言ったと思うが、入須家と千反田家は古くからの付き合いでもある。その彼女が頼んできた話だから、私は受けただけだ」

 

 再び発した彼女の声は、もう先ほどの「弱さ」のようなものは微塵も感じられなかった。同時に、普段通りの入須冬実に戻ったと、俺は感じた。

 言葉を変えるなら、「仮面を付け直した」と言ってもいいかもしれない。少なくとも、今の俺はそう思った。

 では、仮面を付け直したと感じるのなら、その仮面を着ける前、つまり、さっきの彼女こそが、本当の入須冬実なのではないだろうか。本当はお節介焼き、とまではいかないにしろ、困っている人から助けを求められたらそれを見捨て切れずに応えてしまう。

 

 

「先輩」

 

 そう思うと同時、自制できずに俺は口を開いていた。彼女は普段通りの色のない表情で俺を見つめてくる。

 俺がこれから言おうとしていることは「やらなくていいこと」かもしれない。しかし同時に()()()()()()とも思った。女帝の仮面を剥がし取る、などという大それた心意気はない。強いて言うなら、「女帝事件」の時に後味悪く諦めざるを得なかった、あの思いに一矢報いたい。そんなちっぽけなプライドからかもしれないし、少し女帝をからかってみたいという誘惑に駆られたからかもしれない。何にせよ、本来なら俺にとって考慮するに値すらしない行為だとわかっていながら、それでも自制は効かなかった。

 

「……これはは大してあなたと話したこともない俺の途方もない妄想です。それでよければ聞いてください。

 先輩は、入須冬実という人間は、本来世話焼きの気のある人間なんじゃないですか? だが何かの拍子に、その恩を仇で返されたか、あるいは、名家と言ってもいいあなたの家が『無償の善』は良しとしなかったか。原因はわかりませんが、それ故、本来の心を仮面で隠し、あくまで冷淡に『女帝』と呼ばれる存在として、人を操り、本来は望まないながらも見返りを得続けている。さっき一瞬だけ見せた表情は、俺にそんな妄想を抱かせました。

 だとするなら、あなたに対して『センティメンタリストなはずがない』と評した俺は、見当違いも甚だしかったと言っていいでしょう。あなたは誰よりもセンティメンタリストだ。あの時、激昂とまではいかないにせよ頭に血が上って『誰でも自分を自覚するべきだといったあの言葉も嘘か』と問い詰めた俺に、あなたはこう言いましたよね。『心からの言葉ではない。それを嘘と呼ぶのは、君の自由よ』と。

 その言葉をかけた相手は俺だった。ですが、同時にあなた自身にもそうであったとしたら。あなたは誰よりも己を自覚し、しかし俺にそれを強制したくないと、そう述べたのだとしたら」

 

 入須は固まっていた。俺がこんなことを言い出すなど予想もしていなかったからか。あるいは、俺の話があまりにも途方もないからか。

 俺の考えでいうなら後者だ、と言わんばかりに彼女は表情を取り繕った。

 

「……面白いことを言う。でもそれは違うわね。私はそんなにセンティメンタリストじゃない」

「本当にそうですか? ではなぜ、俺を持ち上げて踊らせるためだけに『特別だ』と言っておきつつ、俺に詰め寄られた時に『嘘は言っていない』とだけ言わなかったんですか? もし真に女帝たる存在なのであれば、なぜあんな回りくどい言い回しをする必要があったというんですか。『思いたければ、そう思えばいい』、あるいははっきりと『そうだ』とでもだけ言えばよかったものを、わざわざ『心からの言葉ではない』と付け加えた、それはなぜですか?」

 

 返事は、なかった。

 

「あなたは、本当は自分を自覚したくなかったんじゃないですか?」

「私は……」

「しかし、あなたは自分を自覚()()()()()()。自分には他人を手駒として使える能力があることを知ってしまった。それが出来ると解った以上、そうしないわけにはいかなかった。なぜなら、出来るのにやらないというのは、出来ない他人から見ればあまりに辛辣だと思った、そして『見ている側が馬鹿馬鹿しい』と思ってしまったからだ。

 だから、あなたは仮面をつけた。『女帝』として人を操り、俺を踊らせた。己の本心を隠し、傷つく人間が最小になるよう、あの事態の解決を試みた。

 もしここまでの俺の妄想染みた仮説が合ってるとするなら……。あなたはやはり誰よりもセンティメンタリストだ。人から求められた助けを見て見ぬ振りができず、己の心は仮面で隠す。それでもなお、誰が言ったか『女帝』であろうとする。そんなあなたをセンティメンタリストと呼ばずして、何と呼びましょう」

 

 たかが数度話しただけで、俺は一体この人の何を知った気になっているのだろうか。話し終えてから、そんな後悔も押し寄せてくる。だが俺は一瞬仮面を外したように見えた彼女の表情から、そんな風に思っていた。いや、そんな風に信じてみたい、その価値はあるのではないかと、かつてと同じような心持ちで思っていた。

 

 それでもおそらく、万に一つ俺の妄想が当たっていたとしても、冷酷に、非情に、彼女はこう告げてお終いになる話だろう。「なかなか面白い話だった。でも、所詮は君の妄想ね」と。

 しかしそれでいい。それでこそ「女帝」だ。仮に俺が思ったとおりの人物であったとしても、本質を隠してでもそう振舞う。本来ならそれでは道化かもしれない。だが、彼女はそんなことを思わせぬほどに美しい。

 

「……話は終わり?」

「はい」

「そう。……なかなか面白い話だった。でも、所詮は君の妄想ね」

 

 俺の予想通り、全く興味がないとばかりに彼女は俺に背を向けてそう言った。別に俺はショックなど受けない。むしろ、思ったとおりの内容にどこか満足感すら覚えていた。

 だが、肩越しに俺を見つめつつ言った次の一言は、俺の予想の範疇を完全に超えていた。

 

「……君は探偵じゃなく、推理作家になるべきね」

 

 飛び出したのは以前俺が彼女と「対決」した時に俺が引き合いに出したセリフだった。皮肉を言われたと捉えてもいいだろう。その言葉の通り、あの時の俺は彼女によって「探偵」ではなく「推理作家」として踊らされていたわけだ。それを考えれば当てつけと考えていい。

 だが、俺はそうは思わなかった。そのセリフの本来の使いどころは「奇想天外な推理を開陳された時の犯人のセリフ」だ。それは様式美的に、お約束として、そして最終的にはそのトリックがまかり通って()()()()()()犯人の口から言われるセリフだ。

 それでも、思い過ごしかもしれない。彼女は明確に「敗北」を認めなかった。しかし、それでいい。それでこそ、やはり女帝なのだ。

 

「……話は以上です。では、俺はこれで……」

「待ってくれ、折木君」

 

 どこか満足感を覚えて、俺はその場を去るつもりだった。ところが、彼女がそれを良しとしなかった。まさか女帝に呼び止められるとは思わず、俺は彼女を見つめ返す。

 

「さっき言ったとおり、私は千反田がなぜこんなことを頼んできたのかはわからない。だが、彼女が君に話そうとしていたことはわかる。……相談も、されたからな。しかし、言ったようにそれを今この場で私の口から言うつもりはない。そのことを知りたいのなら、今日の放課後に、彼女の口から直接聞いてほしい」

 

 ややこしい。だが、入須の言いたいことはわかる。そして……千反田が言おうとしていることも、これまではひょっとしたら、という程度だったが、今の入須の態度で確信を強めた。

 だが元々そう思っていたからこそ、俺はその現実から目を背けたかったのかもしれないし、そのことを忘れようとしていたのかもしれない。だから、入須の本質などという、省エネ主義にあるまじき考えをめぐらせてまで、頭の中からそのことを消し去りたかったのかもしれない。

 問題は何も解決していないのだ。本来俺の最後の質問は、こう尋ねるべきだとわかっていた。「俺はどうすればいいんですか」と。

 しかし要領を得ないそんな質問をぶつけたところで女帝が答えてくれるはずもない。そうも思っていた。考えたくない、答えてくれるわけもない。それを逃げの理由として、俺は最後の質問をあえて、今回の件と本質的には関係のないものにしたのだ。

 だが、今のやりとりで入須は明確に敗北を認めていないとしても、もしかしたら俺の妄想も一概に外れているとも言いがたいのかもしれないとわかった。なら……俺が救いを求めれば、彼女は救いの手を差し出してくれるかもしれないのではないか。

 

「……先輩。さっき俺は『最後の質問』と言いましたが、もうひとついいですか?」

「さっきの最後のはなんともナンセンスな質問だった。あれを最後にするのはあまりに面白みがない。だから許可しよう」

「ありがとうございます」

 

 実に女帝らしい言い様だ。やはりこの人はこうあってこそだと思う。ある種の覚悟を決め、俺は口を開き、先ほど思った言葉をそのまま口にする。

 

「……俺はどうすればいいんですか?」

 

 さっき思ったとおり、要領を全く得ない質問だ。何が言いたいのかも伝わっていない可能性さえある。

 だが、それは杞憂だとすぐにわかった。一度目を見開き、入須は黙り込んだ。それだけで、俺は何を聞きたいのか察している、ということだとわかる。彼女は俯き加減で考えた様子をみせ、ややあって顔を上げた。同時に、口元を僅かに緩める。

 

「……省エネ主義と言うから唐変木だと思っていたが、私の思い違いだったらしいな。撤回しよう」

 

 失敬な。ですが、ありがとうございます。

 

「そうだな……。君の事を唐変木と言っておいてなんだが……私もそっち方面ではあまり君のことを笑えた口ではない」

「へえ、そうなんですか」

 

 あくまで、わざとらしく。しかし女帝はその程度の軽口では全く堪えようとしない。

 

「だから、具体的なアドバイスは無理だ。それでも言うならば……。君が思った通りに行動すればいい」

「俺が思ったとおり……」

「それが、もっともあの子のためになるだろう。下手な小細工をして喜ぶ結果を得ようとしても、おそらく彼女は喜びはしない。

 とはいえ、君のモットーとは対極に位置する事柄だ。よく考えた方がいい。そして何より、君が出すべき結論だ。私が口を出せることでないことはよくわかっている。わかっているが……」

 

 一度、入須は言葉を切って俯いた。そして顔を上げたとき、再び彼女は「女帝」としての仮面を外していた、とわかった。色の無い普段の表情と異なり、どこか申し訳なさそうな、何かを頼み込むような、少し前の彼女からは想像も出来ない表情。

 

「……出来るなら、千反田を悲しませるようなことだけはしないでくれ。……頼む」

 

 俺は、彼女を完璧であるから美しいと思っていた。それは間違えてはいないと思う。だが、人間というのは完璧である者によりも、どこかそうではない部分を見せた者の方が親近感を覚える、と何かで聞いた気がする。

 今この瞬間、そのことを理屈抜きで理解した。「女帝」は完璧であるからこそ美しかった。だが、俺の目の前にいる「入須冬実」は、この時初めて等身大の高校生に見えた。よくよく考えれば、彼女は俺と年が1つしか違わない、同じ高校生のはずだった。俺は何を神格視していたというのだろうか。

 

 そういえば千反田は一人娘のはずだ。入須の兄弟関係は知らないが、昔からの付き合いとなればおそらく千反田は入須を姉のように慕ったのだろう。そういえば以前、千反田から「尊敬する姉かかわいい弟が欲しかった」と聞いた気がする。そう考えれば、さっきの1度目の「最後の質問」は、我ながらナンセンスだ。

 なぜなら、それはこれまでの俺の妄想染みた考えで俺の中では、もうこのようにまとまっているからだ。入須冬実は血も涙もない人間ではない。そのセンティメンタリストな彼女が、妹同然の人間から頼み込まれた頼みを聞かないはずがない。

 

 いや、ひょっとしたらこれまでの俺の考えは全て大概に的を外し、僅かに見せる彼女の弱さのようなその仕草さえも計算のうち、ということだってありえる。だが、それならそれでいい。その時は最大の称賛と皮肉を持って俺は彼女に拍手を送ろう。「さすが女帝です」と。

 兎も角そうであるにせよないにせよ、今入須に頼まれたことを俺は反故にする気はない。俺だって、千反田を悲しませるようなことはしたくない。しかしそう思うと同時に、俺はまだ自分自身の心を決めかね、あいつの満足行く答えを出せるかわからずにいる。安請け合いはしたくないが、今出来る精一杯の約束でもって、俺は答えた。

 

「出来る限り善処します。俺だって、あいつを悲しませたいとは思ってませんから」

 

 入須は、笑った。これまで数度見た、張り付けたような薄い笑みではなかった。タロットにおける「女帝」のカードの意味の中にある「母性愛」と呼べるような、優しさも含まれた笑み。今、初めて彼女をタロットの中の「女帝」として、俺は見れたのかもしれない。

 

「十分な答えよ。……ありがとう」

 

 軽く顎を引き、入須が頭を下げる。そしてそれが戻った時、彼女は再び従来の意味の「女帝」として、剥がされた仮面を付け直し、普段通りの表情を張り付けていた。

 

「じゃあ私はこれで失礼するわ。……健闘を」

 

 奇しくも、俺が彼女に初めて会って、試写会の時にかけられたものと同じ言葉を残して、入須は去っていった。駐輪場の屋根に雨が打ちつける音だけが、辺りに響く。思わず、俺はため息を吐いた。

 

 ……千反田よ。お前はなぜこんな回りくどい方法を選んだ? いつものお前らしく、前置きも何もなくでよかったじゃないか。それなら俺だって勢いで誤魔化し切れたかもしれない。だが入須を巻き込んだせいで、俺は余計な考えを抱いて女帝の仮面を剥がしてしまった。昨日の帰る時点ではもし俺が考えてるようなことをお前が言ってきても、俺は鼻で笑って適当に済ませるか煙に巻くつもりでいたが……。女帝に本心から頼まれた以上、もうそれは出来ないだろう。

 いや、と思う。それですら俺にとっちゃ言い訳だ。俺は逃げたかった。「やらなくていいこと」に分類できず、かといって「手短に」済ませることの出来ない問題。さて、どうしたものかと思いつつ、俺も教室へと戻ることにする。そしてタイムリミットまでの午後の授業をそのことに対する考えに費やそうと思ったのだった。

 




沢木口ですが、原作においても結構カメオ出演しているので前回のエイプリルネタに続いて今回も出てきてもらいました。


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3 賽の出目は

 

 

 授業はつつがなく終わった。この先は放課後、薔薇色の高校生活を送る学生諸君が部活動やら帰路やらと各々の時間へと入っていくことだろう。一先ず、俺は席を立とうとせず、鞄に入れていたペーパーバックを開く。内容などどうでもいい。そもそもこれは昨日読み終わったものだ。フリだけでも、兎も角クラスに残っているという体裁が欲しかった。

 午後の時間、俺はずっと考えていた。省エネ主義にあるまじき程に頭を使い、考えて考えて、それでも答えは出なかった。いや、もしかしたらそもそも答えなどなかったのかもしれない。

 そうわかっていても、俺はまだ本を読むフリをし、席を立たなかった。クラスメイト達がどんどん教室を後にする。もう大分経っただろうとチラッと時計を見た。しかし俺の希望に反して過ぎた時間は授業が終わってからまだ約20分。あと10分ぐらいこうしていてもよかったが、その前に俺の心が音を上げそうだと感じたために、諦めて立ち上がった。

 

 行く先は、約束の場所じゃない。部室だ。

 

 雨の日に特別棟に行くのは面倒くさい。3階の通路は屋根がないために一旦さらに1階下の2階に行き、そこの通路を使わなくてはならないからだ。しかしそれでも、グラウンドを横切るよりは距離が短い。

 無論理由はそれだけではない。本当に面倒くさいと思ったなら、そもそも部室にも寄らなくてもいい。だが、俺は()()()な結果に事態の展開を任せようと思っていた。実に消極的、かつやらなければいけないことを「手短に」終わらせるべき俺としては、本来ありえない選択だ。それでも俺にはもう自分でどうこう決めるだけの決心が出来なかった。

 言葉は悪いが、あとはなるようにしかならないし、そうするつもりしかない。振ったサイコロの出た目に従う。ああ、なんと折木奉太郎らしくない考え方であろうか。

 しかし言い訳染みているが、それはもうしょうがないとも思っている。神山高校に入学し、古典部に俺の意思と半ば関係なく入部させられ、様々な事に巻き込まれた。これを果たして俺が望んだ灰色の高校生活といえるだろうか。常にそうだったわけでは勿論ない。だが、既に俺の高校生活は人から見ようによっては薔薇色に見えてしまうのかもしれない、とも思える。それなら……。少し、俺もモットーを揺らがせてみてもいいのではないだろうか。自ら進んで変える、というまでは行動力がない。しかし流動的になら……。「仕方なく」と思えるのなら、変わるのではないだろうか。

 

 俺は今の「灰色」の生活を割と気に入っている。だがだからと言って「薔薇色」の生活を咎めるつもりはない。そして魅力を全く感じないわけでもない。

 いつの日だったか、俺は里志に言った。「隣の芝生は青く見えるもんだ」。それに対して、里志はこう返した。「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい」。あの時は特に考えずに「かもな」と答えた。

 

 だが、今同じ質問をされたら、俺はどう答えるだろうか。

 

 生徒の盾となって薔薇色のままに学校を去ったと信じて疑わなかった関谷純(せきたにじゅん)が、本当は上げたい叫びを上げられずに去った「優しい英雄」であることを知った。入須に特別だと言われ、その気になりつつありながらも、その実持ち上げられただけだと知った。高校生活を満喫して文化祭の実行係をしていたと思っていた総務委員長が、心中で期待していた人物にそれが裏切られて失望へと変わったことを知った。

 どれも、「薔薇色」となり得る事例だったはずだ。だがその全てが、お世辞にも「薔薇色」とは言えない。

 そうわかっていてもなお、それだけのことを見てきてもなお、俺は薔薇色を望めるのだろうか。

 

 部室の前に着く。あとは丁半、賽の目次第の部分が大きい。かつて部室に入るのにここまで緊張したことはなかったな、とふと思う。一度大きく深呼吸し、俺は扉を開けた。

 部屋の中にいたのは、里志と伊原の2人だけだった。俺が来たことを見ると2人とも目を見開く。

 

「あれ……折木?」

「ホータロー、入須先輩と密会じゃ?」

「ああ。それなんだが、本来指定された場所は外だったからな。今日は雨だし、昼のうちに予定の場所を変えてもらうよう頼みに行って、そのついでに済ませておいた」

 

 前もって用意しておいたセリフは意外と淀みなく出るものだ。さらっと答えたことに、里志も伊原も特に違和感は感じていないようだった。

 

「なるほど。実に省エネ主義のホータローらしいや。話の内容は……まあ聞かないでおくよ。その様子じゃ、女帝を口説き落としたわけじゃなさそうだしね」

「まあな」

 

 伊原はまだ何か言いたそうだったが、それ以上突っ込んではこなかった。ありがたやありがたや。こっちとしても余計な気苦労が増えずにすむ。

 俺はいつも通りの定位置に腰掛け、鞄からペーパーバックを取り出した。形だけでも、読んでるフリをするためだ。文字をただ目で追っていくだけ、内容など頭に入らない。心ここにあらず。

 読みながらなるべく気にしないようにしつつも、目は時折外へと向かってしまう。この様子を、もしかしたら里志辺りは目ざとく気づくかもしれない。

 

 だが、どうやら最初の賽振りは俺に有利な目が出たらしい。10分ほどしたところでグラウンドを隅の格技場の方から横切ってくる、明らかに女子と思われる姿が目に入った。十中八九、目的の人物に違いない。しかし不幸なことにこの角度からではグラウンドを出た後、そのまま真っ直ぐ帰路につくのか再び校舎の方へ来るのかまでは確認できない。

 ここからが2度目の賽振りだ。さあ、果たして賽の出目は吉と出るか凶と出るか。その答えは、それからしばらくしてわかった。

 部室の扉が開く。俺はその人物を確認しなくたってわかる。伏目がちに、普段よりどこか表情も暗く、制服がやや濡れていた彼女は、予想に違わず千反田えるだった。出た目は吉、2度目の博打も、俺の勝ちだ。

 

「やあ千反田さん」

 

 里志がいつもの調子で声をかける。伏目がちだった彼女はその声に答えようと視線を上げ――直後、挨拶した里志を通り越して俺の方を見つめてきた。

 

「折木……さん……!?」

「よう」

 

 千反田の目が驚きに見開かれた後で、表情が明らかに曇る。……まずい、またこいつがボロを出す前に速攻勝負だ。

 

「折木さんなんで……!」

「入須先輩との話なら、昼休みのうちに済ませておいた。予定場所は外で、今日はあいにくの雨だったからな。昼に教室まで行ってその旨を話し、もう終わらせておいた」

「そんな……!」

「嘘だと思うなら確認してもらっていい。ともかく、俺はあの人との話は済ませた」

 

 そう、「入須との」話は済ませたのだ。それは嘘ではない。そして、傍から聞いていればなんらおかしいことでもない。

 

「……そう……ですか……」

 

 搾り出すようにそう言って、千反田は再び目を伏せた。何かに耐えるように口を真一文字に結んでいる。

 

「ちーちゃん、どうしたの? 座ったら? ってか大丈夫? 濡れてない?」

 

 さすがの伊原も少し異変に気づいてしまったらしい。出来ればこいつにだけは知られないうちになんとかしたいのだが……。

 

「ちょっと外に用事があったものですから……。でも……今日は、もう帰ります」

「雨が少し小降りになってきた。もうちょっとしたら止むかもしれん。せっかく来たんだ、もうちょっといろ」

「ですが……」

「別に折木の案に賛成するわけじゃないけど、ちーちゃんせっかく来たんだし、用事があるならしょうがないけど、そうじゃないなら別に急いで帰らなくてもいいんじゃない?」

「摩耶花の言うとおりだね。雨宿りの部活としてもここは立派に機能してくれる」

 

 2人にも説得されて、千反田は言われるとおりにすることにしたらしい。「では……」と言って椅子に腰を下ろす。しかし特に何をするでもなく、伊原に世間話を振られて適当に相槌を返すだけだった。

 

 ああ、と俺は自分に対して軽く嫌悪感を覚える。省エネ省エネとモットーを振りかざし、純粋なお嬢様を振り回して俺自身何もしないのだろうか。いや、従来は俺が振り回されてるんだからプラマイゼロだろうが、とも思えたはずなのに、どうしてもそんな考えは浮かんでこない。

 俺は今回の顛末を、一旦は賽に任せた。そこで凶が出れば日が悪かったと、しょうがなかったと、そんな適当な言い訳で流動的に逃げるつもりだった。しかし実際は2度振っても凶は出なかった。賽は、俺が降りることを許可しなかった。ここから先は俺自身の意思。それがどれほどのエネルギーを使うか。あまり想像したいとは思わない。しかしどんなに省エネを謳っても、俺はやはり人間だったらしい。このことに、けじめをつけなくてはいけない。

 

 パン、と少し勢いをつけて本を閉じた。そして一度息を吐き、心を落ち着かせる。

 

「里志」

「ん? なんだい?」

「お前、図書室に何か用事があるとか言ってなかったか」

「言ったかな? 言った記憶はないし……それに、ホータローがそういうことを覚えているとも思えないんだけど……」

「里志」

 

 正解だ。お前はそんなことを言ってはいないし、仮に言ったとして俺はそういうことを覚えているような人間でもない。だが、ここは()()()()()()()困る。

 名を呼んで言葉を遮った後、無言で俺は奴の目を見る。意外そうにしばらく俺と視線を交わし、思いついた節があるとばかりに奴は僅かに口の端を緩めた。そしてわざとらしく「ああ、そういえば」と切り出す。

 

「そんなこともあったかな。よく覚えていたね、ホータロー。……というわけで摩耶花、図書室まで一緒に来てくれないかい?」

「え!? なんでふくちゃんの用事に私まで連れて行かれるの?」

「図書室のことは図書委員に聞くのが早い。餅は餅屋って言うだろ?」

「それは……そうかもしれないけど……」

「ちょっと時間もかかりそうだし、荷物も持って行くよ。……そういうわけでホータロー、千反田さん、僕達はお先に失礼するね。後はお願いするよ」

 

 一方的に話を纏め上げ、半ば連れ出す形で里志は伊原を連れて部屋を後にする。そうして部屋を出て扉を閉める瞬間、一瞬だけ俺と目を合わせた奴は目元だけを笑ってみせた。

 ……ありがとよ、里志。ひとつ貸しだ。いつか必ず返す。

 

 いよいよ部屋の中には俺と千反田の2人きり。俯いたまま、あいつは何も切り出さない。俺も一度閉じた本を開こうという気にもなれず、適当に視線を宙に彷徨わせていた。外の雨の音と時計の秒針の音だけが、やけに響いて聞こえた。

 

「……やっぱり、帰ります」

 

 それほど長い時間は経っていなかったと思う。そうポツリと呟いた千反田の一言によって沈黙は破られた。荷物を手に、今座っている椅子から立ち上がろうとする。

 

「待て、千反田」

 

 千反田は、首を横に振った。机の上にあった荷物を持つ右手に力がこもり、腰が僅かに椅子から上がる。

 

「……頼む、待ってくれ」

 

 言ってから、俺らしくない声だったと改めて思った。そして千反田もそれに気づいたのだろう。意外そうな視線を感じた後、あいつが上げかけた腰を下ろしたのがわかった。

 

「……悪かった」

 

 何から言うべきか。悩むより先に、まず謝罪の言葉が俺の口をついて出た。

 

「何を……謝る必要があるんですか? 入須さんに会ったというのは嘘ですか……?」

「いや、嘘じゃない。本当に会った。俺が謝ってるのは……お前を雨に打たせちまったことに対してだ」

 

 千反田が目を見開く。

 

「な、何を言ってるんですか? 私は用事があってちょっと外に出ただけで、その、折木さんに謝られる必然性は……」

「もういい。……全部わかってる」

 

 これだけで、全てが伝わったらしかった。千反田は見開いていた目を僅かに曇らせて俯いた。その時に何かをポツリと呟いたのが、俺の耳にも届いた。「やっぱりですか」か「なんでですか」か。だがはっきりとは聞き取れなかった。

 

「……お前に腹芸は似合わない」

「ええ……。そう思います」

「なのになぜ、お前は俺を呼び出すために入須を使うなどというややこしいことをした? 結果お前は見事なまでにボロを出した」

 

 千反田がため息をこぼす。自嘲的な色の含まれたような、こいつには珍しいため息だ。

 

「……自分にしてはうまくいったと思ったんですけどね」

「あそこで念を押さなければ、俺だって余計な疑問は抱かなかった。だがそこで念を押したばかりに、俺は事の真相を知ってしまった」

「入須さんから……お話を聞いたんですか?」

「いや。俺があの人と話したのは、俺を呼び出そうとしてたのは自分ではなくお前であるということと……あとは個人的な話を少々だ。入須はお前が言おうとしていることは決して言わなかった。それだけはあの人に誓って言っておく」

 

 やや沈黙を挟み、「そうですか」とだけ千反田は答えた。それきり口を噤む。普段はこいつが話をリードしてくれるというのに、今日は立場が全く逆になってしまっている。

 

「千反田、なぜお前、入須に頼むなんて回りくどいことをしたんだ? 俺に……話があるなら、昨日辺り直接『明日の放課後にどこどこに来てください』とでも言えば済むことだったろうが」

「……そうですね」

「そうやって直接言えるのがお前だろう。なのに他人を……あまつさえ、お世辞にも俺と良好な関係と言えない入須を使うなんてのはあまりにもお前らしくない」

「……そう、ですね」

 

 ニュアンスは少し変わっていたが、同じ回答だった。また会話が途切れたことに僅かに苛立ちを覚え、俺はその先を急かす。

 

「おい、千反田」

「これ以上……何を言う必要があるんですか……? その過程は、折木さんにとって取るに足るものですか……?」

 

 声は、震えていた。いつも凛とした千反田えるのそれではなく、ようやく搾り出したような声だった。

 

「だって折木さんなら……。折木さんなら、そんな過程なんて関係なく……私が本当に言いたいことを……きっとわかってるはずだから……!」

 

 俯いていたその顔が上げられる。特徴的なその目は、潤んでいた。

 

「なのに……なのになぜ折木さんはここにいるんですか……? 全てを知っていて……その上で来なかった……。それだったら私だって……諦めがついた……。なのにあなたはここで待っていた。そして私には帰るなと言う……。どうしてですか!? これ以上私にどうしろと言うんですか!?」

 

 珍しくまくしたて、千反田は涙が溢れた顔を両手で抑えた。

 

 胸が、詰まる思いだった。結局「悲しませたくない」だの「善処する」だの豪語しておきながら、俺はこいつを悲しませてしまった。放課後に人目につかない場所に俺を呼び出して、改まって何を言いたいのか。それはわかっていた。わかっていてなお、俺は指定の場所に行かなかった。

 いや、言い訳がましいが、厳密には()()()()()()のだ。

 

「……俺は、割と今のこの状況を気に入っている」

 

 心に整理がつかない。こんな状況で話すなどまとまりを欠くに違いない。俺らしくないと、そうわかってはいたが、今思っていることを素直に口にしたいと思った。

 

「初めは部に入ること自体乗り気じゃなかった。姉貴から部の存続のために入れと言われ、来てみたらもうお前がいた……。それからはお前に振り回されっぱなしさ。気づけば里志も伊原も入部して、『氷菓』の名前の由来から始まり、まあ色々あった。……でも案外、そんな高校生活も悪くないと思っちまってる。わかるか? 省エネ主義がモットーのこの俺が、だぞ?」

 

 バレンタインのときに、里志は伊原のチョコレートを砕いた。生き雛まつりで艶やかな着物に身を包んだ千反田を見た時にこれはまずいと思った。その生き雛まつりが終わり、「わたしの場所です」と手を広げた彼女に対し、思っっていたことと全く別なことを俺は口にした。

 なぜだっただろうか。今なら、その全ての理由がわかる。

 

「だが……俺は変わることが怖い。俺は今を気に入っている。ならそれでいいじゃないか。なのに……心のどこかでいっそ変わってしまえと囁く声が聞こえる。一方で今のままでいいじゃないかという声も聞こえる。……俺はどうすればいいかわからないんだ。『入須と昼休みに話をつけた』。そう言って帰ればいいんじゃないかとも思った。思ったのに……帰れなかった……。それじゃ、まるでお前を拒絶してるみたいで帰れなかったんだ……!

 だから俺はもう自分で答えを出すのを諦めた。あとはもうなるようになってくれと、賽を投げた。ここで待って、お前が来なかったらしょうがないとでも自分に言い聞かせて帰るつもりでいた。『やらなくてもいいこと』に分類できなかった以上、『手短に』ことを済ませるべきこの俺が、己のモットーを曲げて、出た目に全てを委ねるなんてことをやっちまったんだよ……!」

 

 保留。破棄でもなく、やらなくてはいけないことを結局先延ばしにするだけと言う、何の解決にもならない、もっとも俺が嫌うべき方法。だが、俺は今回それを選択した。

 あの時の里志もきっとそうだった。奴は伊原のチョコレートを砕き、答えを保留にしようとした。着物の千反田を見た俺も、「よくない」とだけ思うことで考えを一旦中段しようとした。まだ肌寒い初春の夕暮れ、神秘的な黄昏の中に立っていた千反田を見たときも、俺は言おうとしたことではなく関係のないことを言って誤魔化した。

 そして、今日も俺は保留した。本来なら「手短に」、つまりやる時は能動的に物事を済ませるべきはずの俺が、流動的に、受動的に、そして消極的に済ませようとした。いや、済ませたかった。

 

「俺は……怖かったんだ。呼び出された場所に行くことも、知らん振りをして今日帰っちまうことも。どっちにしても、俺とお前の距離が変わる……。俺は……それがどうしようもなく怖かった。今のこの状況を変えたくなったんだ。

 お前は、俺に『どうしろというんだ』と尋ねた。その答えは……俺にもわからない。そして……俺もどうしたらいいのか……その答えもわからないんだ。だから……俺は結局待ち合わせ場所とも違うこの部屋に来ちまった。来るかもわからないお前を待って……」

 

 静寂が、広がった。

 話がまとまっていたとは到底思えない。言いたいことが千反田に伝わっていたかもわからない。先ほど同様の、雨の音と秒針の時を刻む音だけが、室内に響いていた。

 

 しかしそが続いたのは先ほどよりも短かった。不意に、千反田がフフッと笑った気がしたのだ。

 驚いてその声の方を見る。千反田は相変わらず目に涙を溜めていた。だが、確かに笑いをこぼしながら肩を震わせていた。

 

「お前……。それは笑ってるのか泣いてるのか……どっちなんだ?」

「……どっちもです」

 

 変わらず、目には涙を溜めたまま、千反田は俺に微笑んできた。

 

「ふられちゃいましたね、私」

「あ……」

「うふふ……冗談です。……この涙は、そうじゃないんです。折木さんは、きっと全てを見抜いているとわかっていました。だから……しばらく待って来ない、とわかったときに、もう嫌われてしまった、そう思ったんです。でも、そんなことはなかった……。ですから、これは嬉し涙です」

 

 半分は、そうかもしれない。だがもう半分は強がっている。そんな気がした。

 そして不覚にも、俺はこのとき、そうやって強がっている千反田を見て、心から美しいと思ってしまった。

 

「あと笑ったのは……その喜びがあったということと……折木さんも、私と同じ考えだったからだとわかったからです」

「同じ考え……?」

「はい。……さっきの問いに答えましょう。なぜ直接折木さんに言わなかったのか。なぜ折木さんと関係が良好といえない入須さんに頼んだのか。……私は、願をかけたかったんです」

「願をかける……。願掛けか?」

「はい。私は、自分の気持ちが伝えられる勇気があるかわからなかった……。だから、願掛けをして、もし折木さんが来てくれるなら、きっと自分の言葉で言えるだけの勇気を得られる、そして思いが叶う。……そんな風に思ったんです。

 折木さんとあまり仲のよろしくない入須さんからの頼み。それも()()()()中、校庭を横切っての隅という場所の指定。……どちらも、折木さんなら断っておかしくないはずです。それでも折木さんが来てくれたのだとしたら……それはある種の奇跡ではないかと思ったんです。そしてそんな奇跡が起こるなら……。私も、自分で自分の気持ちを伝えるだけの勇気を得られるんじゃないか。……そんな風に思ったんです」

 

 何を馬鹿なことを、と俺は言えなかった。流動的だ。受動的だ。俺と全く同じじゃないか。

 いや、それも驚いたが、それ以上に……。

 

「……お前、今日の雨のことを知っていたのか」

「新聞は読む方です」

 

 そして俺のどこが「特別」かとも思った。思い上がりも甚だしい。グラウンドを横切ることまでは千反田がボロをこぼした。だが、雨の件は何も言わなかった。なのに俺ときたら「今日の雨に気づかないというのは入須ならありえないが、千反田ならありえる」程度にしか考えず、俺は入須に「来るのはお前じゃないだろう」と言い放ったのだ。随分とお粗末すぎた。

 

「折木さんがこの部屋にいて、なぜここにいるのかと尋ねた時に『俺は省エネ主義だ。めんどくさいから行かなかった』とでも言われたら……。はっきり言ってそれまでだと諦めて帰るつもりでいました。でも……思ったとおりそうではなかった。そして、嫌われての行動からでもなかった。それがわかっただけで……私は十分です」

 

 十分です、という割には完全に満足していない表情だとはわかった。それがどこか申し訳なく思う。

 

「千反田、俺は……」

「謝罪でしたら、やめてください」

 

 凛とした声だった。先ほどまで目元に溜まっていた涙は消え、強い瞳がそこにはあった。

 

「折木さんは折木さんの答えを出しました。例えそれが直接的な答えになっていなかったとしても、受動的で流動的であったとしても、です。そして私はそれに納得しました。ですから、それを謝るということはしないでください」

「千反田……」

「私も……少し欲張りすぎたのかもしれません。ふと、魔が差したのかもしれません。折木さんの心を、自分の無理を言ってまで変えたいとは思いません。……いずれその時が来たら、またちゃんとお返事を聞きたいと思います。ですから……その時まで、『保留』で構いません」

 

 保留。随分と居心地の悪い言葉だ。している俺も、されている千反田も、本当ならさっさと済ませたほうがいいようなことであろう。しかし千反田は、そんな俺の心の中を読んでいるかのように、普段のように優しく微笑んだ。

 

「……折木さん。『やらなければいけないことは手短に』という、折木さんのモットーに難癖をつけようとは思いません。ですが……時が解決する問題と言うものもあると思います。……なんて、今回急かそうとした私が言っても説得力がないのかもしれませんが」

「時が解決する問題……」

「それに……折木さんはそのモットーを曲げてまで、答えを保留にしてくれたじゃないですか。私は……それだけで十分に嬉しいです」

 

 立ち上がり、彼女は窓辺へと歩み寄る。

 俺のモットーを曲げてまで、か……。元々別に大層なものじゃなかった。いつの間にか信条として抱き、ただなんとなく堅く守ってきただけの物だった。

 今すぐもっと行動的な人間に、なんてのは到底無理だろう。人間、根っこから変えるのはそうそう楽なことじゃないはずだ。だが少しずつなら、俺は変わっていけるのかもしれない。……今までがそうだったように。

 そう、神山高校に入学して古典部に入り、こいつに振り回されていろんなことに巻き込まれて自分でも少しずつ変わってきたと自覚しているのだから。

 

 窓辺に歩み寄った千反田の背へと目を移す。黒髪がすらりと流れる彼女の後姿は、夕日に映えて美しかった。そこでようやく気づいた。

 ああ、夕日か。つまり雨は本当に止んでいるらしい。さっきは半ばでたらめに、千反田を引き止めたいがためだけに「小降りになってきた」と言ったが、本当にそうなったか。まさに嘘から出たまことってやつだ。

 

「折木さん! 見てください!」

 

 と、その時千反田が興奮気味に叫んでどこかを指差した。立ち上がるのは少し面倒だったが、さっきまで涙を溜めていた目が輝いているのを見ては、その原因が何かを知らねばなるまい。椅子から立ち、その指差す先を見て、思わず「おお」と声をこぼした。

 千反田が指差す先には、虹が出ていた。俺は自分が無感動な人間だとは思っていない。が、感受性のある人間かと言われれば断じてノーだ。

 それでも、その虹をバックに映る千反田はやけに綺麗に見えた。数ヶ月前、狂い咲いた1本の桜の木の下を艶やかに着飾った着物姿で通り過ぎた、あの時のように。虹と夕日を背景に、目を輝かせる千反田を見て、やっぱりなと俺は自嘲的に思うのだった。

 

「綺麗ですね……」

 

 ああ、綺麗だ。しかしこれは()()()()。間違いなく自分のモットーを、平穏な「灰色」の高校生活を揺るがすものだ。だが……揺るがされて、エネルギーを浪費するだけの価値のあるものではないか、とも思えてしまう。

 隣の芝生は青い。なんだかんだ省エネ主義を貫こうとしながらも、俺はエネルギーを浪費する他人の生き方にどこか憧れつつ、それを出来なかっただけなのかもしれない。今里志に「薔薇色が羨ましかったのかい」と聞かれたら、今度こそ考えてから、「さあな」などと誤魔化さずにきっとこう答えるだろう。「まあな」。

 

「さて……。俺に対する怒りは収まったか?」

 

 雨も止んでいるなら今のうちに帰ろう、と思う。傘をさすよりはささない方が省エネだ。……いかん、少しずつ変えようとか考えておきながら早速これか。まあいい。明日からだ、明日から。

 

「私は最初から怒ってなんていませんよ? 強いて言うなら……疑問の気持ちは大いにありましたけど」

「んじゃその疑問は解決したか?」

「ええ、すっきりしました。……ご迷惑をかけてすみませんでした」

「謝るのは……。いや、俺は謝るなと言われたんだっけか」

 

 フフッといたずらっぽく千反田が笑った。

 

「折木さんのほうこそ、もう疑問は晴れましたか?」

「お前のわざわざ入須にまで頼むという回りくどいやり方の意味はわかった。だから俺ももうない」

「そうですか。では……帰りませんか? 雨も止んでますし。今なら傘をささずにすみますよ」

 

 そう言って再び先ほどと同じように笑う千反田。……なんだ、なんか俺はこいつに弄ばれてるのか?

 

「人に脱省エネを勧めておいてそれか?」

「私は勧めてませんよ? ただ、折木さんならいつか答えを出してくれると、そう信じただけです」

「う……」

 

 ぐうの音も出ないとはこのことか。だがまあいい。千反田にも許可してもらった。脱省エネは明日からだ。明日から、少しずつでも始めればいい。

 

「……帰る」

 

 少しぶっきらぼうに、俺は鞄を手にしてそう言った。案の定、千反田は少し慌てた様子で荷物と鍵を手に、部屋の入り口へ向かう俺を追いかけてくる。

 

「ちょっと折木さん!? 待ってくださいよ! 一緒に帰りましょう」

 

 無論、置いていくつもりはない。部屋を出たところで俺は足を止め、少し遅れて出てきた千反田が戸締りする様子を何気なく見つめていた。

 

「そういえば、お前」

 

 そこでふとあることを思い出した。

 

「なんですか?」

「今回、珍しく『気になります』って1回も言わなかったな、と思ってな。話の中でいくらでも言う機会はあっただろうに。さっきだって『疑問に思った』って言ってたし」

「あ……そのこと……ですか」

「感情が昂ぶってると言わなくなるのか?」

「いえ……そういうわけでも……ないんですが……」

 

 カチャリと部屋の鍵が閉まった音がした。改めて施錠を確認しつつ、だが千反田はどこか歯切れが悪そうだった。

 

「なんだ? これだけ互いに腹を割ったのに、まだ何か言いにくいことでもあるのか?」

「あの……笑わないで聞いてくださいね」

 

 どこか気まずそうに、千反田が続けた。

 

「『()になります』って言おうとして……『()()になります』なんて言っちゃったら……格好がつかないと思ったからです……」

 

 ……ああ、お嬢様のボキャブラリはなかなかユーモアに富んでいるご様子で。これには苦笑を浮かべずにはいられなかった。

 

「……折木さん! 笑わないでくださいって言ったじゃないですか!」

 

 おっと、そういう約束だった。俺は何事もなかったかのようにすぐに顔を引き締める。

 

「いや、笑ってないぞ」

「笑ってました! 嘘はいけません!」

 

 まったく、こいつといると退屈しない。今まではそれは憂うべきことだと思っていたが、ひょっとしたらこれから先、そのことに感謝する時が来るのかもしれない。

 そうなったら省エネ人間・折木奉太郎はおしまいだな、などと思うのだった。しかし当分はこのまま省エネでいよう。

 大体、脱省エネをするかもしれないと心がけるのは、明日からだ。

 

 

 

 

 

ログナンバー 00070

 

L:この度は、本当にありがとうございました

名前を入れてください:私は特に何もしていない

名前を入れてください:もし望むべき結果を得られたのなら、それはお前が勝ち取った結果だ

L:本当に望んでいた形、とまではいきませんでしたが……

L:私は十分満足しています

L:あの折木さんが「保留」という決断をしてくれただけで、

L:私は嬉しいです

名前を入れてください:……見ている方としては非常に歯がゆいがな

名前を入れてください:お前はお人好しすぎる。もっと強く迫ってもよかっただろうに

L:かもしれません

L:でも、それで拒絶されることの方が、私は怖かったんです

L:それに、私の気持ちを一方的に押し付けるようなこともしたくありませんでした

名前を入れてください:……そうか。なら、私はもう何も言うまい

L:とにかく、ありがとうございました。今度お礼を考えようと思っています

名前を入れてください:いや、不要だ。代わりに……ずっと疑問だったことを教えてくれ

L:? なんでしょう?

名前を入れてください:最初にお前に尋ねて答えてもらえなかったことだ。なぜ、私に頼んだんだ?

L:ああ、そのことでしたか

 

L:そういうことになります

名前を入れてください:つまりは「願掛け」か……。お前らしいといえばらしいな

L:実を言うと……

L:それだけではないんですけどね

名前を入れてください:と、いうと?

L:折木さんと入須さんの仲があまりよろしくないことは薄々感じていました

L:ですが、私の知るおふたりはとても魅力溢れる、私の大好きな方たちです

L:だから、是非とも仲直りをしてもらいたかった……。そして、折木さんはきっと入須さんのところに話しに行く。そう思ったんです

名前を入れてください:お前、そこまで……

L:はい。折木さんなら、きっと私の下手な嘘を見抜くと信じていました

L:実際、昼休みにお話をしたと窺いました。差し出がましいようですが、仲直りはできましたか?

名前を入れてください:一応な。……いや、完敗したよ

名前を入れてください:あそこまで腹を割って話したのは、最近ではお前以外で彼ぐらいなものだ

名前を入れてください:だからこそ歯がゆい。……はやく正式に付き合ってしまえ

L:それはできません。あの方の心が決まるまで、私は待つつもりです

名前を入れてください:その前に私が奪って行くかもしれないぞ?

L:それは困ります!

名前を入れてください:冗談だ。かわいい妹分を悲しませるようなことが出来るか

名前を入れてください:とにかく……。よかったな、千反田

L:はい。ありがとうございます

名前を入れてください:そして……。こんな私のことまで気にかけてくれてありがとう

L:気になさらないでください。妹分が、姉代わりの方を心配するのは当たり前です

名前を入れてください:全く、お前って奴は本当に、

L:はい

名前を入れてください:いや、何でもない

名前をいれてください:……私はいい知人をたくさん持った、幸せ者だよ

 




作品タイトルの英語部分の訳は「女帝は本心を隠しきれなかった」。言うまでもなく、奉太郎に仮面を剥がされた入須のことです。
入須自体は元々嫌いではなかったのですが、奉太郎を担いだ張本人ですから、どうしても好きというところまではいけませんでした。事実文化祭の時にえるに教えた内容は見事に「女帝事件」の時に行われていますし。
そのためずっと「悪女」と思っていたのですが、ネット上には熱烈なファンの方がいるものです。様々な解釈があり、真っ向から否定している意見が多々見受けられました。
そこで自分も、「ではもし入須冬実が血も涙もない女帝ではないのだとしたら」という思いから、2話の話を描きました。

それが少々メインになってしまった感は否めませんが、タイトルはあくまで「賽の出目は」。受動的に、行動を天に任せて、つまり運否天賦の賽に任せてしまった2人。
その賽の出目はどうだったのか。最良とまではいかなくても、いい目であるという思いで自分は書いてみました。
自分としてはたまには珍しく王道的に、奉太郎とえるの距離について書いてみたいと思って書いたものになります。
こういう話はほとんど書いたことがなく、今後の参考にしたいと思っていますので、批評等ありましたらお待ちしております。


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