藤の花の盛りを迎える (ruuca)
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邂逅

 ____迸る閃光。

 棋院から足を踏み出して外に出た瞬間、大量のフラッシュが焚かれた。棋院の前に詰めかけたのは、新聞やテレビなどのマスメディア。何人もの報道陣を前にして威風堂々と立つ男性は、今回の本因坊リーグで見事防衛を果たした進藤ヒカル本因坊だった。

 彼は以前19歳という若さで本因坊のタイトルを取った日本を代表する棋士だ。その後何度か他のプロたちにタイトルを奪われるということがあったが、その度に彼は本因坊を奪取し、今や本因坊といえば進藤ヒカルとまで言われるまでになった。現在は三期連続防衛中である。

 そして今日の棋戦で、挑戦者であった塔矢アキラと接戦を繰り広げ見事本因坊位防衛を決定付けたのだった。

 隣に今日の対戦相手だった塔矢アキラが並び立つ。負けてもなお、悔しさを表に出さずメディア向けの微笑みを称えている。

 フラッシュがさらに激しさを増す。

 進藤は内心、頭を使ったから早く帰って休息させて欲しいと思っていたが、プロの務めを全うするためそんな本心を隠そうと試みていた。しかし、彼自身は上手く隠せたつもりでも周囲には進藤の疲れた様子が手に取るように伝わってきていたため、やがて棋院の職員が気を利かせて報道陣を退かせ、取材はまた後日ということになった。

 塔矢は呆れたように溜息をつくが、彼は出会った頃からこんな調子のため今更何か言う気にもならなかった。

 

 勝負後の検討は後ほど、と約束を交わすと進藤は早速踵を返し、関係者達への挨拶を済ますと真っ直ぐ自宅へと足を向けた。彼は成人してから一人暮らしを始め、現在は亡くなった祖父の家を相続してそこに居を構えている。

 改築も経て整えられた純和風建築の家は、普段の彼の雰囲気からはそぐわない、しかし肩書きを考えると違和感の無い装いだ。美しい植物が季節ごとに移り変わる風情たっぷりの庭は意外にも進藤の趣味で、腕のいい庭師を呼んでは整えさせているらしい。

 彼は自宅に着くなり家には上がらず、庭の横にある蔵へと足を運んだ。蔵の中だけは祖父の生前の頃から手をつけておらず、若干黴臭いにおいが漂っていた。その中で、柔らかな光に包まれた碁盤が数々の調度品の中で異彩を放っている。

 進藤はその碁盤に近づくと、そっと手をかざし物思いに耽るように目を閉じた。

 

「____佐為、勝てたぜ」

 

 ただ一言、彼は何者も存在しない空間で今日の勝利を報告した。

 彼が棋士になってから続くこの儀式めいた習慣。この世でたった一人の、進藤の碁の導き手となった存在への感謝を示していた。

 その存在は、彼の碁にはなくてはならないもので、また彼の碁そのものでもあった。そして彼にとっては神格でもあり、自らの半身でもあった。

 この儀式を行うことで、彼は戦いの世界に身を置く覚悟を新たにし、さらなる研鑽への志向を持つことができるのだ。

 進藤は一旦碁盤の前から離れると、近くに置いてあるバケツに水を入れた物と清潔な布巾を持って戻り、碁盤を磨き始めた。碁盤以外はまともに掃除もしていないため、数日も放っておいたらすぐに埃がたまる。

 足まで綺麗に拭き取ると、進藤は満足そうに息をついた。

 勝負の余韻で張り詰めていた気分が解かれ、自然と笑みがこぼれた。

 

「ふうっ、腹減ったな。なんか食うか」

 

 蔵を後にし、家の中に入ると何か空腹を満たしてくれるものがないかと冷蔵庫を開けた。

 

「げっ」

 

 しかしそこで、冷蔵庫の中に食べられるものが何も入っていないことが判明した。

 あるのは、ご近所からもらった味噌と缶ビールが数個。これでは腹の足しにはならない。多忙でなかなか買い物に出かけられなかったことに気づき、進藤は後悔する。棚にインスタント食品の類がないかと探してみるが、こちらもここ最近の忙しさで全く補充していないことに気がついた。

 仕方がない、と少し遠くにあるコンビニまで歩いていくことにする。

(ゆっくり休むつもりだったのによお・・・・)

 祖父の家を相続したはいいが、コンビニまで歩いて結構距離があるのが残念だ。

 もう大分日は落ちたが、昼間の熱を引きずるような暑さを残していた。蝉の声もただ煩く感じられる。

 買う予定のなかったアイスを買って帰路につくが、この暑さではすぐに溶けてしまいそうだなと思い途中にあった公園に立ち寄り、そこでアイスだけは先に食べることにした。

 まだ囲碁も知らなかった幼い頃、よくこの公園で遊んでいた。様々な遊具があって幼い頃のヒカルを楽しませてくれていたものだが、今やそのほとんどが危険だからという理由で使用禁止になっている。

 もう残っているのは、お年寄りが散歩の途中で腰掛ける石のベンチか、錆の味がしそうな水飲み場くらいだ。広場で元気に走り回る子供も見かけなくなった。

 しかし、おかげでこうやって一人で静かに休むことができるのだが。

 ベリベリとアイスの包装を破いていると、突然後ろからガンッと何かを投げつけられたかのような衝撃を受けた。

 

「うっ!!?」

 

 転々と進藤の目の前に青色の球体が転がってきた。

 幸い頭に当たったものは柔らかいゴムボールだったようだが、それでも不意に後ろからぶつけられて無視できるはずもなかった。

 

「ったく、誰だよ!おい!」

 

 進藤は声を荒げて後ろを振り向くが、そこにはそれらしい人影が見当たらない。しかし、どこかに隠れているはずだと思い、飛んできた方向である方に声を飛ばした。

 

「おい!そこにいるんだろ!」

「・・・・・・・」

 

 すると、控えめな仕草で木の後ろから子供の顔が覗いた。怯えたような目で進藤を見ている。そこでハッと子供相手に大人気なかったかと思い至り、深呼吸して苛立ちを鎮めた。

 そして、できるだけ穏やかな声色で子供に対し言葉を投げかけた。

 

「・・・怒鳴って悪かったよ。怒らないから出てこいよ」

 

 ゴムボールを手に持ち、子どもに向かって笑いかけると、恐る恐るといった様子で木から姿を現した。

 

(・・・・女子?)

 

 と、一瞬進藤はそう思った。艶やかな少し長い黒髪に、中性的な美貌。どことなく育ちの良さを感じさせる優美な仕草。だが、微妙に女子のものとは違う体格から、恐ろしく顔立ちが整った美少年であることが察せられた。

 

「あ、あのっすいません!本当に!お怪我はありませんか?」

「ゴムボールだったし別に平気だよ。ていうかお前、何やってたんだよ?ハンドボールの練習?」

「さ、サッカーです・・・・」

「サッカー?」

「はい、あまり上手くなくて、いつも仲間はずれにされるから・・・・」

 

 悲しげに言った少年に、思わず同情する。あまり上手くないと言っているが、蹴って進藤の頭に誤って当ててしまうあたり、かなり下手なのだろう。

 そして、少年の姿にどこか昔の彼の面影を重ねてしまい、放っておけない気持ちになってきた。チラリと破りかけの包装から覗く一対のアイスを見る。

 中からそれを取り出すとパキリと二つに折って、片方を少年の方に差し出した。

 

「元気出せよ」

「・・あのっ・・・・」

 

 躊躇っている様子を見せたが、進藤の邪心のない笑みを見て安心でもしたのか割と素直にアイスを受け取ってくれた。

 

「ありがとうございます」

「おう」

 

 そして二人揃ってベンチに隣り合ってアイスを食べた。少し溶けたが、ちょうど食べやすい頃合いになっていたのでするすると嚥下することができた。

 

「お前、いつもここでサッカーの練習してるのか?」

「・・・いえ、今日が初めてです。実は、本当はサッカーは好きじゃないんです。仲間外れにされても、別に構わないくらい・・・でも、それを両親が心配してて、友達作らなきゃって・・・・それで」

「練習、か。でも、好きじゃないことをいくら頑張っても、対して身につかないんじゃないか?お前、何か好きなことはあるのか?」

「はいっ!最近は囲碁というものを始めまして・・・!」

 

 囲碁という単語に、進藤はピクリと反応した。当然だ。進藤はその囲碁のプロで、普及活動も積極的に行っている。俄然進藤はこの少年に興味が湧いてきた。

 

「へえ、囲碁か。強いのか?」

「お爺様としか打ってないので、よく分からないんですが、でも、お爺様にも勝てるようになってきたんですよ」

「へえ、じゃあそれなりに打てるのか」

「・・・もしかして、貴方も囲碁を・・・・?」

「ああ、やってる。それも超強いぜ」

 

 なんせ今日トップ棋士たちの戦いを勝ち抜いて本因坊防衛を決めたところだ。進藤が胸を張って言うと、少年は目を輝かせた。

 

「そうなんですか!?あの、あの、良かったら打ってくれませんか!?」

 

 まさかいきなり対局を申し込まれるとは思っていなかったため、進藤は一瞬目を丸くした。

 少年のこの様子だけで、彼がかなり囲碁に入れ込んでいるのが見て取れた。そして、その姿に微妙な既視感を覚えながら進藤は答えた。

 

「今からは無理だぜ。もうこどもは帰る時間だからな」

「い、一局だけ」

「(食い下がるのか)別に打つのがダメとは言ってねえよ。土曜の昼ごろ、できたらここに来いよ。そんときなら相手になってやるぜ」

「本当ですか!ありがとうございます!」

 

 進藤が言うと、少年は花も綻ぶような笑顔を浮かべた。

 気分が良くなった進藤は、ふと、彼の名前を聞いてないことに思い至った。

 

「そういえば、お前、名前はなんていうんだ?」

 

「さいと・・・・彩人です」

「そうか、俺はし・・・」

 

 進藤は自分も名乗ろうと口を開いて、ふと思い立って一瞬言葉を止め、それから続けた。

 

「・・・ヒカルだ」

「ヒカル・・・さん。約束ですよ!」

 

 



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本因坊

 藤の香りがする。近くに出来た自然公園のものだろうか。今はちょうど藤の花の盛りが訪れる季節で、開け放たれた窓から風に乗って匂いが運ばれてきていた。

 進藤は、窓際のベッドで簡易碁盤を広げている老人を見て、苦笑した。

 

「桑原のじーちゃん。窓なんか開けてたら風邪ひくんじゃねえの?」

 

 進藤が親しげな様子で声をかけると、碁盤に注がれていた目線をあげ、進藤の方を向いた。

 

「フォッフォッ。小僧か。久しぶりじゃな。本因坊戦以来か?」

「引退の時の挨拶以来かな。元気そうじゃん」

 

 進藤は桑原に促され、近くの丸椅子に腰掛けた。そして鞄をごそごそと探ると、中から一束の書類を取り出した。

 

「これ、この前の本因坊戦の棋譜。土産に何持ってきたらいいか分かんなくて、これなら興味あるかなって思ったんだけど」

「ほう・・・」

 

 桑原は関心したように息を吐くと、進藤から髪を受け取ってその棋譜を眺め始めた。老眼でも分かりやすいように、大きめの文字で印刷してある。見入ってる様子を見ると、どうやら気に入ってくれたようだった。

 桑原元本因坊。かつて長い間本因坊位にしがみつき続け、進藤が19歳の時に彼からそのタイトルを奪取している。今でもあの戦いは覚えている。お互いに本因坊に並々ならぬ執着を持つもの同士、その戦いは熾烈を極め、今でも棋界で話題に上がるほどの名局を作り上げた。

 その桑原は本因坊位を取られたことをきっかけとし、そして体調不良により予てから考えていた引退へと踏み切った。一部では、進藤が桑原を追い出した、引導を渡したと言われたが、桑原の引き際は非常にあっさりしていた。引退の挨拶の日に、「もう思い残すことはない。これからは完全にお前たちの時代じゃ」と進藤に言い残した。

 進藤は桑原の膝上に並べられた碁盤を見て、嬉しそうに言った。

 

「やっぱり、生涯碁打ちなんだな」

「当たり前じゃよ。碁は、わしの人生そのものじゃった」

 

 辞世の言葉のような桑原の発言を聞いて、進藤ははっとなる。彼には、間違いなく死の気配が近づいている。気まずい心持になっていると、桑原が笑いながら話をする。

 

「小僧・・・わしは、本因坊戦で小僧と戦ったとき、ワシが今まで本因坊であり続けた意味を、碁打ちであり続けた意味を知った。進藤、お前はどうして碁を打ち続ける?」

 

 進藤は桑原の言葉に、しばらく考え込んだ様子を見せるが、その末に出てきた言葉は極めて明瞭だった。

 

「遠い過去と、未来を繋ぐためだ」

 

 進藤のその言葉を聞いて、桑原は満足そうな笑みを浮かべた。

 きっと桑原の答えも同じなのだろう。進藤は彼の表情を見てそう思った。

 

「お前の姿を初めて見たとき、ただならぬ気配を感じた」

 

 突然の桑原の話題転換に、進藤は呆気にとられた。しかし桑原はそんな進藤などお構いなしに話を続ける。

 

「覚えているぞ、お前がまだプロにもなっていない、ひよっこだった頃、棋院の中でたった一度すれ違っただけで、わしはお前が只者ではない・・・そう感じた。シックスセンスってやつじゃよ」

 

 進藤は、昔の記憶を思い出した。桑原の存在を初めて知った時、院生時代にエレベーター前ですれ違って、進藤と彼もその雰囲気に若干の戦慄を覚えたことを。

 彼の言うただならぬ気配、その正体には心当たりがある。なんとなく、桑原が耄碌して可笑しなことを言っているわけではないと感じた。

 進藤は、今まで隠し通してきた秘密を明かすつもりで答えた。

 

「そのシックスセンス、案外当たってると思う」

「ほう?心当たりが、あるんじゃな」

「ああ・・・・桑原のじーちゃんには、話してみてもいいかもしれない」

 

 藤の香りが一層強く漂ってくる。その香りは、いつの間にやら病室全体を満たし、まるで別の世界へ迷い込んだようだった。

 進藤は藤の花の香りに誘われるまま、桑原に自分の秘密を話した。話し終えると、桑原は笑みを浮かべて噛みしめるように言った。

 

「・・・やはり、わしはお前と戦うために本因坊であり続けたのじゃのう」

 

 進藤が桑原を訪ねてから僅か数日後、桑原が息を引き取ったという連絡を受けた。長い間棋界を支えたとも言える重鎮の弔いは、棋院を上げて執り行われた。

 葬式の帰り、進藤は桑原と最後に会った病院の直ぐ近く、藤の花が咲く自然公園へと足を運んだ。

 病院内で嗅いだ香りは仄かで心地よかったが、花の直前まで来ると強烈な匂いに襲われる。

 

「うわ、すっご。こんなに咲くものかよ。藤の花って・・・・」

 

 一面紫色の圧巻の景色に進藤は呑まれそうになる。モノトーンの景色を見慣れた彼には、藤の花の淡い色彩すら極彩色のようだった。

 藤棚の中を、進藤はひたすら歩いた。その手には、すっかり彼の手に馴染んだ扇子が握られている。

 

 昔の、かつて彼の心にぽっかりと穴を開けた喪失の経験を思い出していた。

 数日前、生前の桑原には全ての秘密を話していた。その内容は、普通の人から見たら荒唐無稽で、唯物論を信じる多くの人々からは失笑され、気狂いとでも言われてしまいそうなものだった。それでも話したのは、桑原の直感の鋭さを、決して目に見えるものだけには囚われず、本質を見透そうとする力を信じたからだった。進藤の思った通り、桑原は全てを聞いて納得してくれた。

 そのことが、嬉しかったのかもしれない。未だ怖くて塔矢アキラにも打ち明けられていない秘密を聞いて、受け入れてくれたことが。だから、唯一受け入れてくれた人が旅立って、少しの寂寥を感じている。

 また、秘密を受け入れてくれた人はいなくなった。

 

(俺は、また誰かにこの秘密を、打ち明けられるのか・・・?)

 

 扇子を開き、またパチンと音を立てて閉めた。進藤の脳裏には、生涯の好敵手であり、同時に、最も彼の秘密に近い人間である塔矢アキラの姿が映っていた。

 



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提案

 

「お、おじゃましまーす・・・」

「そんなに固くなるなよ。家には俺以外誰も住んでねーから」

 

 約束の土曜日。碁を打ってもらう約束をして意気揚々と公園に向かった少年、彩人は顔を強張らせながら進藤の自宅へと足を踏み入れた。彼はてっきり公園で打つものだと思っていたが、進藤が自宅にある碁盤で打とうと言い、彩人を進藤邸へと連れてきたのだった。

 進藤邸は持ち主自身の印象とは異なり、純和風建築だ。ギャップに驚いていると、進藤はズンズンと家の中を進んでいく。慌てて彩人はその背中を追いかけた。

 

「お茶、これでいいか」

「あ、はい。いただきます・・・」

 

 通された部屋は和室。部屋の中心に碁盤が置かれており、部屋の隅に幾つか置かれた書棚には詰碁の本や、囲碁雑誌、そして棋譜と思われる書類がファイルに綴じられ収まっている。

 囲碁一色で染まった部屋に、驚きよりも先に高揚感が沸き立った。

 すでに囲碁の魅力に取りつかれた彩人にとっては、この部屋は理想の空間だったのだ。

 

(この人、きっとすごく強い。だって、こんな囲碁専用みたいな部屋があるくらいなんだ)

 

 彩人の胸は期待で膨らむ。お菓子とお茶を一緒に差し出されて、彩人は礼儀正しくお辞儀をしてからそれらに手をつけた。

 

「じゃあ・・・まずは4子置いてみるか」

「はいっ。お願いします」

 

 彩人が先番だ。黒石の入った碁笥の中に手を入れると、じゃらっと石がぶつかり合う音がした。

 部屋の中に静寂が訪れる。ひたすら碁盤に石を打つ音と、それから時に進藤が茶をすする音くらいしか聞こえる音という音はない。彩人は対局中、一度も進藤のように出されたお茶やお菓子に手を付けはしなかった。

 やがて決着はついた。二目差ほどで進藤の勝ち。しかも、彼は手加減して打っていた。

 敗北した彩人はというと、白黒の盤面を見つめながら、呆然としていた。

 負けたことによるショックではなく、とてつもなく強い相手が目の前にいるという高揚でだ。

 かつて彩人は碁を教えてくれた祖父としか打ったことがなかった。祖父との勝負は勿論楽しい。しかし彩人はその祖父の棋力にすでに追い付き、しばらく大敗するということが無くなっていた。

 大敗、そう大敗だ。彩人にはすでに、目の前の男性が手加減をして打っていたことに気づいていた。4子も置いて、先番も彩人に譲った上での指導碁。歴然とした棋力の差を感じさせられた。

 

「ヒカルさん・・・貴方は一体・・・」

「・・・ははっ。なんかデジャヴ」

 

 彩人の疑問の言葉を受けても、進藤は飄々としていた。進藤は先ほどまで競っていた盤面を見つめる。

 

(決して弱くない。むしろ、かなり打てる。爺さんとしか打ってないって言ってたけど、それでこれほど打てるっていうなら、すげー才能を持ってるか、爺さんが初段相当の実力があるか・・・)

 

 冷静に目の前の少年の実力を分析する。顔を上げると、落ち着かない様子で進藤の言葉を待っているように見えた。

 まずは、彩人の疑問を解くことにした。

 

「プロ棋士って知ってるか」

「は・・・囲碁の強い人で、お給料をもらっている人・・・ですよね。ヒカルさんは、そのプロなんですか?」

「まあな。それにしても、結構打てるくせに、囲碁のプロについてはあまり知らないんだな」

 

 と、進藤は立ち上がると、書棚の横に置いてある新聞を手に取り、広げて彩人に見せてやった。

 彩人ははっと目を見開き、新聞に載っている写真と進藤の顔とを見比べた。

 新聞にはこう載っていた。

 

『進藤ヒカル、本因坊連続防衛達成!』

 

 先日、進藤が本因坊を防衛した時の記事だ。スーツ姿の進藤が、碁盤に向かい合う姿が映っている。

 彩人は記事を読んでさらに目を丸くしていた。進藤は自慢げに微笑んだ。

 

「どうだ。すっげーだろ。本因坊だぜ本因坊」

 

 普段はあまり自分の地位をひけらかすことはしないのだが、なんとなく彼と似た面影を持つ彼に自慢したいような気持ちになった。そして彩人はというと、公園で知り合った男性が、実は新聞に載るほど有名な囲碁のプロだと知って驚愕していた。

 

「囲碁のプロ・・・囲碁を打つのが仕事ってことですよね。毎日、強い人と碁が打てる・・・」

 

 彩人はそう一人呟くと、毎日打てる、という贅沢な環境にいる進藤を羨ましそうな目で見つめた。

 

「すごいです・・・!いいなあ、囲碁のプロかあ」

「お前はなりたいと思わないのか?囲碁のプロ」

「む、無理ですよぉ。プロのヒカルさんに、この通りボロ負けしましたし・・・」

 

 進藤は思わず吹き出した。進藤はプロの中でも一握りのタイトルホルダーである。そんな彼に一回負けたくらいでプロは無理だと言われてしまうようでは、プロになれる人間はほとんどいなくなってしまう。

 確かに、プロになるのは大変だ。どんなに頑張ってもその高みに届かない人間だって大勢いる。

 しかし、進藤は先程彩人と打った盤面を見て、考えごちた。

 ふと、昔の思い出が蘇ってくる。囲碁を覚えたての頃、大した碁も打てず、悔しい思いした日々。しかし、そんな思いをしている時に優しく、時に厳しく、進藤の碁を導いてくれた一人の存在。

 彼が、囲碁の世界で一人でも戦えるように鍛えてくれた。

 この盤面を見て、強く思う。この子もきちんと導いてやれば、きっともっと強くなる。この子には、何より囲碁を愛する才能があるのだから。

 

「無理じゃねえよ。俺だってお前くらいの年の頃は全く打てなかったんだぜ?今のお前の方がよっぽど強いくらいだ」

 

 進藤がそう話すと、彩人は信じられないというように目を丸くした。

 

「貴方が?うそ・・・」

「うそじゃねえよ。誰だって最初は弱い。強くなるには何が大切かって、誰よりも強くなりたいと願い、努力することだ」

「努力・・・・」

 

 彩人はじっと進藤の部屋の棚、新聞を見て呟いた。

 

「私でも、プロになれるでしょうか」

「可能性なら、いくらでもあるだろ」

「・・・なりたいと思っても、いいんでしょうか」

「・・それは、お前の自由だろ」

 

 ぎゅっと彩人は決意を込めた眼差しを進藤に向けて言った。

 

「私、プロになりたいです。もっと、強くなって、いろんな人と打ちたいんです」

 

 打ちたいんです。そう言った彩人の表情が、彼の影と重なった。

 白い狩衣がふわりと風に揺れたように見えた。よく見れば、それは開け放たれた窓から入ってきた風が、彩人の髪を揺らしただけだったのだが。

 

「・・・・そうか」

「はい、そうと決まれば、一杯勉強しますよー!お爺様にも、囲碁友達を紹介してもらえるようお願いしてみます!」

「待った、彩人」

「はい?」

 

 彩人が意気揚々と今後の抱負を語っていると、進藤が制止した。

 

「囲碁が強くなるために大切なことが、気持ち、努力の他にもある。多分この二つよりもずっと重要なことだ」

「そ、それはなんでしょうか・・・!」

 

 重要、と言われて彩人の目は真剣味を帯びる。進藤はそんな彩人に優しい眼差しを向けながら言った。

 

「ライバルと、指導者だ」

 

 進藤がここまで強くなれたのは、本人の才能によるものだけでなく、切磋琢磨し合えるライバルと、正しい方向へと導いてくれる指導者、二つの要素に恵まれたからに他ならない。

 ライバルは、彩人ならきっとこれからの人生の中で出会うことができるだろう。

 そして、進藤は彩人を見て、この一つの才能が伸びるところを見てみたいと思うようになっていた。願わくば、このこどもを導いてみたい。

 かつて自分を導いてくれた彼のように、自分の持つ全てをこの子に託してみたいと思った。

 

「・・・・良かったら、俺の弟子になってみないか?彩人」

 



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相談

 弟子、とは言っても二人の関係は師匠と門下生というよりも、ご近所付き合いとでも言った方が良いような気軽さがあった。

 実際、彩人の家は進藤邸の近くに有る公園を中継地として歩いていける距離にあり、頻繁に進藤邸を訪問するのにちょうど良い距離感だった。

 

「彩人、この盤面ではこう打った方が・・・・」

「あっ、なるほど〜そういうことですか!」

 

 心地よい風が庭から流れ込んでくる縁側で、ゆったりとした雰囲気で行われる指導。しかし、その指導の内容は本格的で、あたりの空気の和やかさから想像できないだろう。

 弟子になったばかりの彩人は、進藤のアドバイスにふんふん頷きながらも、時折思いがけない発想を遠慮なく進藤にぶつけ、逆に彼を唸らせることもあった。

 盤面に向かい合う彩人は、キラキラした目で囲碁を打っている。とにかく、今は碁が楽しくて仕方がないのだろう。そしてもっと碁が打ちたい、強くなりたいと願う彼は、どんどん知識を吸収し、実力を飛躍的に向上させていった。

 その成長スピードは進藤も舌を巻くほどだ。

 

(こいつ、本当に覚えがいいな。発想も自由で、俺も時々はっとさせられる。このペースで棋力が上がれば、プロ試験もいけるようになるはずだ)

 

 プロになりたいと進藤に言った彩人の顔が思い浮かぶ。未知の世界へ挑戦しようと決めたあの表情は、誰かを彷彿とさせた。

 現在、彩人は祖父の知り合いを通じて、そこそこの相手と戦っているようである。進藤が指導し始めてから、彼らも彩人には敵わなくなったようで、ますます彩人は進藤の元を頻繁に訪れるようになっていた。

 戦うなら、できるだけ強い人の方がいい。彩人のその願いに、進藤も最大限応えたいと思った。

 しかし、比較的時間の自由がきく彩人とは違い、進藤にはプロ棋士としての仕事がある。進藤は仕事の間、彩人の指導ができなくなるのを残念に思うようになっていた。

 口にこそ出さないが、彩人の方も同じ気持ちであることがうかがえる。

 背後霊のように片時も離れないでいたら、何処へ行こうとも共に学ぶことができるというのに。

 

「って、それはさすがにめんどくせえや」

「何がです?」

「なんでもねえよ。こっちの話」

 

 思わず口に出してしまった言葉を、慌てて誤魔化す。周囲の人間を困惑させる進藤の独り言は、すっかり癖となってしまっていた。

 そのせいで、一部では失言王と呼ばれているということを、彼は知らない。

 

「彩人、悪いな。弟子にならないか提案したのは俺なのに、まともに時間とれなくてさ」

「え、そんな・・・・!」

 

 彩人が進藤の発言を聞いて、慌てたように声をうわずらせる。

 

「プロの人にたまに打ってもらえるだけで、私にはすごく勉強になるんです!これ以上を望むのは、贅沢ですよ・・・!」

 

 とは言っているが、進藤には彼が本心を言っているように見えなかった。

 彩人はとにかく分かりやすい。嬉しい時は満面の笑みを、悲しい時はしょげた様子を明からさまにし、その感情の動きを体全体で表現しているようだ。

 まだ短い師弟関係ながらも、進藤は彼がどのように考えているか、手に取るようにわかるようになっていた。

 

(なんとかならねえかな・・・)

 

 

「なら、ネット碁で指導すればいいじゃん」

 

 囲碁の解説イベントで一緒になった和谷と食事に来た時に、この前のことを相談してみると実にあっさりとした答えが返ってきた。

 

「でも、どこでもあのでかいパソコン持ち歩くわけにはいかねえだろ?」

 

 そう言うと、和谷が呆れたようにため息をついた。

 

「お前、相変わらず機械には疎いんだな。これ、見てみろよ」

「・・・なにこれ?」

 

 おもむろに和谷が鞄から取り出したのは、ノートくらいの大きさのタブレット端末だった。あまり見慣れない物を、しげしげと珍しそうに眺める。

 

「今時タブレットも知らないってんじゃ、この先苦労するぞ。これは、言わばパソコンみたいなもので、これ一つでメールしたり、インターネットに繋いだりできるんだ。もちろん、ネット碁だって打てる」

「なんだそりゃ。俺の知ってるパソコンじゃないぞ?」

「お前のパソコンの知識はどこで止まってるんだよ。とにかく、これなら持ち運びも簡単だし、ネットにさえ繋がれば離れたところでも指導碁が打てる。メールで検討することも可能だ」

「これ、キーボードはどこにあるんだ?」

「タッチインターフェースだから、キーボードはついてない。タッチパネルにタップすることで直接入力するんだ。ローマ字入力が苦手なお前でも安心の、携帯入力も選択できるぜ」

 

 和谷の横文字説明を聞き流し、試しに使ってみるかという彼の言葉に甘えて恐る恐るタブレットを操作する。

 開かれたのは実に10年ぶりくらいになるネット碁。デザインもかなり洗練されたものに変わっており、指先で打つとパチッという音が鳴った。

 そのまま打ち続けていくと、相手が投了する。するとすかさずチャットが飛んでくる。

 内容は、『どうした和谷。いつもと打ち方違わないか?』という本来の持ち主に向けてのメッセージだった。

 

「うわ、チャットきた」

「相手は伊角さんだ。試しにチャットで、『進藤だ。和谷のタブレットを使ってる』みたいなこと書いて送ってみろ」

 

 右下に浮き出たように見える、返信ボタンを押すと画面の下半分に携帯入力のキーが現れた。進藤はパパッと『俺だよ。進藤だ。今、和谷のタブレットを使ってるんだ』と入力して送信する。

 すると、数秒してすぐに返事が返ってきた。

 

『進藤か!そういえば、今日和谷と仕事一緒だったな』

「和谷!これすげえな!!」

 

 初めて使ったタブレット端末の使い勝手の良さに、思わず感動する。

 和谷は得意げにそうだろうそうだろうと笑っていた。

 

(これなら、ネット碁で彩人に指導碁した後、検討もできる)

 

 そう思い立ったら、進藤は早かった。

  

「和谷!飯食ったら電気屋に付き合ってくれ!」

「はえーなおい!まあいいけどよ!」

 

 頼られて嬉しいのか、上機嫌な様子で進藤の申し出を受け入れる。

 そうしているうちに注文した料理が届き、和谷からちょっとしたレクチャーを受けながら進藤は腹拵えした。



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伝説

 

 

「ていうかさ、お前いつの間に弟子なんかとったんだよ。それもマンツーマン指導とか」

 

 和谷にとっての進藤は、院生時代からの同期という印象が強いが、世間的には三期連続防衛中の本因坊で日本トップクラスの棋士である。そんな彼が研究会もやらずに、いつの間にか弟子ができていて、今はその弟子のために電気屋に赴いてタブレットを選んでやるという待遇の良さ。一体どんな虎の子だというのだ。

 

「二ヶ月前。近所の子で、公園で知り合ったんだよ」

「大事な経緯がいろいろすっ飛ばされてるっつーの!」

「公園で、アイス食いながら話してたら碁好きって判明してな。打ってほしいって言われたから打った。そんで弟子にした」

「軽っ・・・・正式な入門じゃねえの?」

「謝礼とってないから正式な入門とは、確かに言えねえな」

「なんなの、ただの暇つぶしなの?」

「いや」

 

 進藤は真剣な表情で続けた。

 

「俺はあいつをプロにするつもりだよ」

「・・・・・ほんっとお前ってわかんねーな」

 

 碁を初めて二年で、それも師匠もいないままにプロ入り。そんな彼が、師匠として一人の碁打ちを育てようとしている。普通の人が聞いたら、現実味のない戯言と言われてしまうようなことでも、進藤が言うと謎の説得力を持つ。

 付き合いの長い和谷でも、彼の数大き謎を解き明かすことができない。

 しかし、それでも和谷は進藤を信じることができた。きっと、進藤はまた成し遂げることができるだろう。

 

「でも、まあ、頑張れよ。楽しみにしてるぜ。進藤の弟子がプロになるのを」

「待ってろよ。棋界に名が残る棋士に育て上げてやるかならな」

 

 相変わらずの大物発言に思わず和谷は吹き出してしまう。それに進藤は「本気だぞ!?」とむきになって返していた。

 

 進藤の分と彩人の分。二つのタブレットを買ってから、ネットの接続などの難しい手続きや操作は和谷に頼んだ。こんな時機械に強い友達がいて良かったと心底思う。

 

「ほらっこれならルーターなしでもネットにつなげるぞ」

「(ルーター・・・?)おう!ありがとう!」

 

 和谷からタブレットを受け取り、まずは軽く操作してみる。タッチ操作には苦戦するが、使っていくうちになれるだろう。

 ネット碁のアプリケーションはすでにインストールされていた。それをタップすると、アカウントのログイン画面が出てくる。昔使っていたネット碁とは違うアプリのため、新しく作る必要があった。

 

「アカウントの作り方はさすがにわかるみたいだな」

「なめんなよ」

 

 IDとパスワードを設定し、次にハンドルネームを設定する。

 使える文字は半角英数字のみ。進藤は無難に『hikaru』と、特にひねりも加えず下の名前で登録した。

 

「そういえば、和谷って今も名前zeldaなの?」

「この歳になってゲームキャラなんかつけられるかよ。普通だよ。他のユーザーに俺だってバレてるし」

「ここってプロも登録してるの?」

「俺の知ってる限りじゃ、伊角さんに、本田、越智もやってる。他にもやってる人はいるんじゃないか。ここ、結構プロが内緒でやってるって有名だし」

 

 進藤は久々にネット碁で対局してみてもいいかもしれないと思いながら、メニュー画面をいろいろいじっていた。

 すると、メニューの一覧の中にコミュニティと書かれたボタンがあるのを見つけた。

 

「なあ、和谷。このコミュニティってのはなんなんだ?」

「ああ、何人かのユーザーが集まってチャットしたり、棋譜を共有して検討したりする機能のことだ。他にも特定のプロ棋士の棋譜を集めるってこともある。研究会みたいなもんだ」

「へえ〜」

 

 進藤はコミュニティの一覧をスクロールして流し見する。すると、気になる単語があったので思わずスクロールを戻し、その文面を確認した。

 

「伝説の最強ネット棋士saiについて語る会・・・・・」

「あっ、見つけたか。これ、俺も入ってるんだぜ」

「和谷が!?だって、saiがネット碁にいたのってもう随分昔だぜ?」

 

 胸の内の動揺を隠しながら、進藤は和谷に尋ねる。和谷は若干興奮した様子で言った。

 

「あれほどの強さを持っていたsaiの名前が、十数年くらいで風化するわけねえだろ!リアルタイムでsaiと打っていたユーザー以外にも、棋譜の秀逸さから新しくついたファンだっている。今だって、俺たちはsaiの再来を心待ちにしてるくらいなんだ!」

「・・・・・・」

 

 進藤は複雑そうな表情を隠すように俯き、タブレットに視線を向けた。

 進藤はコミュニティ画面を消し、メニュー画面に戻る。大体の機能はヘルプを見ればいいだろう。進藤は自分のタブレットの電源を消した。

 

「和谷、今日はサンキューな。今度なんか奢るよ」

「これくらい安いもんだって。進藤も、今度森下先生の研究会にその弟子連れてこいよ」

「ああ。彩人に話してみる」

 

 進藤と和谷は談笑しながら、次の仕事場へと向かっていった。

 



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直感

 

 彩人の両親に挨拶をしてから、進藤は彼を連れ出し日本棋院のある市ヶ谷へと向かっていた。彩人は、これから囲碁の総本山に行くということでそれなりに緊張している様子だった。

 それを進藤が時折茶々を入れて、彼の自尊心を奮い立たせることで気を紛らわせていた。

 

「男だろ。行く前からビクビクしてんじゃねえよ」

「びっビクビクなんてしていませんよ!こ、これは武者震いという奴です!」

「ははは!なんだそれ!」

 

 傍目から見たら、二人は兄弟か、年若い父とその子どもに見えるだろう。壁のない二人の様子は、まるで何年もの付き合いがあるように感じさせた。

 電車が市ヶ谷駅に到着すると、二人は他の乗客に混じって降りた。進藤にとっては見慣れた景色だが、彩人は道中ずっと目を輝かせながら辺りの景色を見ていた。

 見ててそんなに面白いだろうかと疑問に思いながら進藤は進む。

 どうも彩人は世間知らずなところがちょくちょく見受けられる。妙に浮世離れした雰囲気から、きっと家で大切に育てられてきたのだろうと思われた。

 東京のビルが立ち並ぶ街中に、石垣の塀が現れる。上を見上げると白いビルの壁に「日本棋院会館」と書かれていた。

 

「ここが・・・日本棋院ですか」

 

 彩人はキラキラした目で目の前の建物を見つめている。好きなものに大いに関連する施設だ。囲碁になんの関わりのない人なら、ただの古ぼけた建物に見えるかもしれない。しかし、すでに囲碁の魅力に浸かっている彼にとっては、まるで聖地のように映るのだろうと進藤は思った。

 

「さっ、行くぞ。お前に会いたがっている奴が待ってる」

「は、はい・・・!」

 

 緊張した面持ちの彩人の背を軽く叩いて、棋院の中へと入る様促した。

 一階のエントランスには、すでに和谷とさらに伊角が待ち構えていた。

 

「よお、進藤」

 

 進藤の姿を見た和谷が、声をかけながら近づいてくる。彩人は驚いてさっと進藤の後ろに隠れてしまう。

 続いて伊角が相変わらずの穏やかな笑みを浮かべながら進藤に話しかける。

 

「おはよう進藤。こうやって顔を合わせるのも久しぶりだな」

「ネットで会話してるから、あんまり会ってないような気はしてないけどね」

「そういえば、今日は進藤の愛弟子を見せてくれるはずだろ。どこにいるんだ?」

「もういるぜ。ほら、恥ずかしがってないで出てこいよ」

 

 進藤が後ろに隠れてる彩人に声をかけると、おずおずと彼の背中から姿を現した。

 

((女の子?))

 

 和谷と伊角は彩人の姿を見て同時にそう思った。

 進藤の話す様子から、二人ともなんとなく男子だと思っていたので、あてが外れたような気がした。もっとも、彩人は女の子ではないのだが。

 

「こいつが俺の弟子!女みたいだけど、こう見えて男なんだぜ?」

「む!ヒカルさん!女みたいってどういうことですか!」

(あれ、やっぱり男なのか)

(男の子か、あんまり見えないな)

 

 進藤の言葉で、二人の中の誤解が解ける。言われた彩人は、進藤の言葉に憤慨しながら文句を言った。

 そしてなんとか進藤が宥めて、彩人は改めて二人の方へ向かうと、礼儀正しくお辞儀をした。

 

「初めまして。進藤先生からご指導させて頂いています。藤原彩人と申します」

「すげえ、進藤の弟子とは思えねえくらいちゃんとしてる・・・!」

「おいおいどういう意味だよそれは」

 

 進藤は心外だとでも言うように呟くが、彼の少年時代を良く知る彼らからしたら、その意味がよくわかった。彼は今でこそ最低限の礼儀作法は弁えているが、院生時代は年上にも物怖じしない上に生意気なところがあった。海外の棋士にも啖呵を切ることだってあった。

 そんな進藤の弟子は、むしろそんなかつての彼とは正反対の、礼儀正しくしっかりとした立ち振る舞いの優等生だったため、彼らには意外に思えたのだ。

 

「まあ、元々しっかりしてるからなあ。俺が教えたことなんて、碁とネット碁のやり方くらいだよ」

「進藤にネット碁のレクチャーしたのは俺だから、実質碁しか教えてないな!」

「二人とも、彩人くん話についていけてないよ」

 

 伊角がそう嗜めると、和谷は申し訳なさそうにしながら彩人の方を見た。しかし彩人は大して気にしていない様子で、むしろニコニコと微笑みながらやりとりを見ていた。

 

「ふふ、先生がなんだか子供みたいで面白くて」

「なんだと、小学生のくせに何言ってんだよ」

 

 十以上も年の離れた相手に微笑ましげな目線を向けられて、進藤は気まずくなる。それは和谷も同様だったようだ。

 

(なんつーか、さすが進藤の弟子というか、こいつも相当浮世離れしているな)

 

 彼の持つ独特の雰囲気は、和谷の胸中をざわつかせた。しっかりした態度であっても全体から無邪気な子供らしさが滲み出ているが、何処か異様で最近の子供にしては清らかすぎるような気もした。

 

(進藤がこいつに才能を見出したのも、こういうところがあったからなのか・・・?)

 

 単純な囲碁への熱意、才能だけではない、直感で彼の光るものを見出した。そんなところが、一瞬誰かに似ているような気がした。

 

 



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才能

お待たせして申し訳ございません。前回からの続きです。


 

 

「ほう、こいつが進藤の弟子か・・・」

 

 座布団に座り、馴染みある和装姿で進藤の隣で縮こまる少年を見つめるのは、この研究会の主、森下九段だ。和谷の恩師であり、進藤も院生時代は世話になった。今でも時々足を運んでは勉強に勤しむ、現役の棋士でもある。

 年を重ねてさらに外見の厳つさが増した森下は、当然ながら彩人に怯えられた。だが、そんな態度には慣れているのかそれを咎める様子は見せない。

 

「ほら、この人が俺も院生時代には世話になった森下先生だ。ちゃんと挨拶しろよ」

 

 ぽんぽんと進藤が安心させるように彩人の頭を叩くと、なんとか顔を上げて森下の顔を見てお辞儀し、そして名前を名乗った。

 

「院生ではないんだな」

「そうですね。まだ。でも、院生でもやっていけるくらいの実力はもうありますよ。囲碁初めてまだそんなに経ってないのに、かなりの才能だと思います」

 

 進藤からの賛美に、彩人は顔を綻ばせる。美少年の微笑みは、空気を自然と和やかなものにした。

 

「彩人くんは、院生になるつもりはあるのかな?」

「やっぱり、外来で受けるよりも院生になったほうがいいよね。色んな子と打つのも、本人のいい勉強になるしね」

「そ、そうですね・・・両親や祖父とも相談して、本気で目指すつもりならいいみたいなことを言われています・・・」

 

 進藤はここに連れて来る前に、初めて彩人の両親と対面した。どうやら彩人の家はかなりの資産家らしく、両親も共に働いていて忙しい身のようだった。それを、なんとか時間を作って進藤と会ってくれたあたりに、息子への確かな愛情が見て取れた。取り敢えず、息子を変な道に進めるなみたいなことを言わない、理解ある人たちでよかったと進藤は思う。後、すんなり受け入れられたのも、進藤の本因坊という肩書きとネームバリューが物を言ったようだ。

 

「ふむ、進藤がそこまで言うほどの才能、か・・・よし、彩人と言ったか、打ってやるから、取り敢えずそこに座れ」

 

 と、森下が扇子で碁盤を挟んだ対面を指した。

 すると、先ほどまで森下に怯えていたのが嘘のように、目を輝かせながらそこに座った。

 

「はいっ、よろしくお願いします!」

「お、おう」

 

 その態度の急変ぶりと、間近で見る彩人の美貌に少し困惑しながらも、碁笥を取り出し、石を握った。

 

 

 結果は、二子置いて森下の勝ち。彩人は悔しそうな表情を浮かべながらも、ふかぶかとお辞儀をして「ありがとうございました」と告げた。

 直接打った森下と、外から観戦していた和谷や伊角は神妙な表情を浮かべていた。ただ一人、進藤は優しい微笑みを彩人に向けていた。

 やがて森下が口を開いてつぶやく。

 

「なるほどな・・・これは確かに才能があるな。囲碁を初めてそんなに経ってないのに、この実力・・・このまま成長すればプロ入りは間違いないだろうな」

「進藤お前こんな才能どこで見つけてきたんだよ」

「近所の公園で偶然だってさ・・・どんな偶然だよ」

 

 大人たちから口々に褒められて、彩人は気恥ずかしそうに俯く。

 そして進藤は何故か彼らの言葉を聞いては自慢そうな表情を浮かべていた。

 

「検討はまあ後でやるとして、進藤、やはりこの子を院生にするつもりか」

「そうですね。ずっと俺が指導したい気もするけど、やっぱり同年代のライバルがいた方がより成長できると思うんで」

 

 進藤の言葉に和谷と伊角も頷く。同じ時期を院生として過ごした彼らは、互いに切磋琢磨しあう日々をかつて送っていた。その経験は、今にも活かされている。

 しかし彩人は少し迷うような素振りを見せた。

 

「もしかして、ちょっと迷っているのか?」

「う・・・はい。私、あまり同年代の方と話さないので、上手くやっていけるか・・・」

 

 どうやら対人関係への不安があるようだ。囲碁を打つことは問題ないが、彩人はかなり人見知りだ。森下と打つ時は臆さず向かっていったものの、対局が終わるとまた緊張するようになった。

 この浮世離れした雰囲気と、整いすぎた容姿から同級生に遠巻きにされてきた日々の弊害か。同じような状況ながらも肝の据わった塔矢アキラとは対照的だ。

 

「うん、まあ不安だよな。でも、なんとかしようって気持ちがあるなら、それで十分だ。変に気負わず、お前らしく相手に向かい合え。それにお前には、囲碁があるんだからな」

 

 囲碁を知らない同級生とは違い、院生は皆囲碁を愛する者たちの集まりだ。言葉での対話が苦手なら、彩人の得意な対話を図ればいい。進藤は彩人にそう諭した。

 

「・・・なんか、意外だな。進藤も、きちんと先生やってるんだ」

 

 彩人に言い聞かせる進藤を見て、伊角がぽつりとこぼした。その声は進藤には届かなかったが、隣で聞いていた和谷も頷いていた。

 プロになってから幾つものトラブルというか、事件を起こしてきた進藤が、人を導く立場にいてそれをきちんとこなしている。人は成長するのだなと実感するようだった。

 そして、進藤を見つめるこの才能ある少年。この子もまた、どのような大人になっていくのか、是非とも見届けたいと二人は思った。

 



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白昼

 

 進藤が彩人を日本棋院に連れて行ったそのすぐ後、彩人は両親の承認もあってプロ棋士を目指すために正式に進藤の門下生となった。師弟関係はその前から続いていたものの、謝礼なども貰わず進藤は無償で彩人の面倒を見てきた。しかし、歴としたプロである進藤に対してそれはいけないと、両親が顔を若干青くさせながら正式な入門を打診してきたのだ。あまり気にしてはいなかった進藤だが、社会的に筋は通した方がやはりいいだろうと認識を改めてそれを受けた。

 というわけで、彩人は一月に院生試験を受けるため進藤の家に泊まり込みで勉強を行っていた。十月の試験には、惜しくも募集締め切りを逃してしまったため、その次の時期に受けることにした。

 本因坊の名前を使ってねじ込むことも一瞬考えたが、職権乱用はいけないと思い止まった。それに、勉強する時間は多いに越したことはない。まだ彩人は12歳だ。棋界は若い内に入段するのが良いと言われているが、ゆっくりと育ててもいい。

 それに、進藤はこうして彩人と向かい合って、時間をたっぷり使って碁を打つのが割と好きだった。

 日曜の昼下がり、庭師に整えさせた進藤邸の庭園がよく見える縁側で、足つき碁盤を置いてここはこうした方がいい、などと言いながら彩人に指導碁を打つ。穏やかな日差しに包まれながら、こうして打つことに進藤は懐かしさを覚えていた。

 

 また一局が終わり、検討に入る時にふと彩人が口を開いた。

「置石、減りましたね」

「お前もめきめき実力つけてきたからな。そのうち互先で打てるようになるだろ」

「ヒカルさんと互先・・・早く打ってみたいです」

「調子にのるなよ?俺はまだ全力じゃないんだからな」

 

 進藤は強がって言ってみたものの、彩人と打つと時折ヒヤリとする場面があり、真剣に打つ時の彼の気迫はプロたちにも引けを取らない。

 まるで、初めて会った時の塔矢アキラのような、碁に対する情熱が幼いながらも感じさせられる。彩人を見ていると、自分もかつて我武者羅で、強くなることに夢中だった頃を思い出す。勿論、今も進藤は神の一手を極めるべく精進しているが、少年時代の時のような生き急ぐ感じはない。大人とこども。まるで生きてきた時間の差が、このような認識の差を生んでいるかのようだった。

 パチ、パチと石が木の盤面を打つ音が響く。先ほど二人が打った白黒の宇宙が再現されていく。彩人によるのびやかな打ち筋は若々しさを感じさせ、それをさらに引き出してやるように進藤の手が運ばれて行っている。しかし、優しく導いているようでいて冷酷に応手している。それに食らいつく彩人の手。この碁を打っている時、短刀を持ちすばしこく進藤に切り込む彩人のイメージが想起された。

 彩人の刃は、確実に研ぎ澄まされていっている。その時進藤はそう感じた。

 進藤が真剣を抜く時もそう遅くないかもしれない。それは事実だった。

 気になった所で手を止め、ところどころで解説や指導などをしていると、何やら身体をゆさゆさと動かす彩人が目に映った。

 

「・・・どうした?トイレか?」

「い、いえ違います・・・ただ足が・・・」

「足?」

 

 そう言われて彩人の足を見ると、正座した態勢である彩人の脚がもぞもぞと動いていた。

 

「ああ、痺れたのか?」

「ううっ・・・はいっ・・・」

「崩せよ!もう一時間は座りっぱなしだろ」

「うう・・・しかし、私はご指導を受けている立場なので・・・」

「そんなんじゃ俺のせっかくの指導も意味を為さなくなるだろ!もう休憩だ。座布団並べてやるから寝っ転がってろ」

「あああ・・・でもぉ・・・・」

「いいからほーら」

 

 よっこいしょ、と進藤は彩人の身体を持ち上げる。彩人の足が床から浮いた時に進藤の顔が歪んだが、半ば意地で彩人を和室へと連れて行った。細身だから軽いと思ったのにそれなりに重かった。

 床に降ろしてやると、足の痺れが一気にきたのか足を抱えて悶えながら寝転がった。その様子に思わず進藤はぷっと吹き出してしまう。

 

「なんかいるか?」

「う〜んではお茶が飲みたいです。冷たいお茶で」

 

 進藤は台所に向かい、冷蔵庫の中から彩人のお気に入りの麦茶を出してグラスに注ぐ。ついでに自分の分のコーラの缶も出して、二つを手に持ちながら和室に戻る。

 すると和室で寝転がっている彩人が、若干うとうとと瞼をゆっくりと開閉させていた。

 こと碁になると時間を忘れてしまいがちな彩人だが、やはり体は少なからず疲弊していたのだろう。彼には睡魔が襲ってきているようだった。

 

(午前に彩人が来てからほとんど打ちっぱなしだったからな)

 

 充実した時間ではあったがこども相手に無理をさせてしまったかもしれないと進藤は反省した。テーブルに麦茶の入ったグラスを置いて、彩人に一声かける。しかし彩人からふにゃふにゃした返事が返ってきた。

 進藤に起こす気は無かった。隣の部屋から扇風機を引っ張り出してくると彩人の体の方へ向けて置いてスイッチを入れる。まだ残暑が厳しい日中。熱中症になられるわけにはいかない。

 やがて彩人は深く瞼を瞑り、小さな寝息を立て始めた。

 

 進藤はそれを見ると静かに立ち上がり、あるものを取ってくると再び彩人の側に腰掛けた。銀色に鈍い光を放つ四角形の板のようなもの。それはノートパソコンだった。最近必要になってタブレットのほかに購入した。勿論和谷推奨のモデルだ。

 閉じられたそれを開くとすでに電源は入っていた。自然の光景が一定の間隔で移り変わっていくスクリーンセーバー。初期設定のままだ。それを解除すると、液晶画面上に白黒の盤面が現れた。これは日本棋院が配布している棋譜の管理ソフトだ。こんなものがあるなんて和谷に教えられるまで知らなかった。

 そこに並べられているのは、彼にとっては懐かしい一局だった。

 最初は彩人の勉強のために棋譜を集めて保存しておくためのものだった。しかし、再生機能などに触れているうちに進藤の内に懐古の念が湧いてきたのだ。

 彩人と同じくらいの年の頃の自身の棋譜を、進藤は少しずつ再現していっていた。

 画面上に映っていたのは惚れ惚れするほどの美しい石の流れ。広がる宇宙。現在の進藤の好敵手が素直な尊敬の念を抱かせたほどの一局。

 小学六年生の時の囲碁大会での一局。

 今の進藤の碁の中に流れる、生命の源流。

 初手から再生すると、ありありと浮かんできた。自分を導く優しい声、柔和な微笑み、白い平安装束。

 囲碁を一局打つことは、宇宙を創ることだと進藤は考えている。そして、今再生されているこの一局は、神による宇宙創成なのだ。

 再生が終わる。束の間の夢は終わりを告げる。

 進藤は編集し終わった棋譜を保存すると、また新たな棋譜の再現に取り掛かった。

 この棋譜を、独り占めするつもりはない。進藤は眠っている彩人の方をちらと見た。

 ____いつかこいつにこれらの棋譜を見せてやろう。そして、これを見てどう感じたか、聞いてみよう。

 心の中でそう思いながら、進藤はパソコンに向かい合い、作業へ没入していった。

 



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孤独

 

 カラン、カラン・・・・・・。

 下駄の歯が石路を鳴らす音が、はっきりと聞こえるくらいに響く。周りは五月蝿いほどに賑わっているのに不思議だ。

 両脇には、様々な露店が並びそこに着物を着た人たちが並んでは物を買っていく。人々は大抵誰かと一緒だったが、一人でその場にいたのは彼一人だけだった。彼は自問する。なんで自分はこんなところにいるんだろう。誰かと一緒に来ていたか?だとしたら、誰と?

 彼は急に一人でいる実感が湧いてきて、孤独感に慄いた。

 ___帰りたい。でも、どうしたらここから抜け出せる?

 彼はあたりを見回した。誰か頼れそうな人を見つけたかったのかもしれない。だが、誰も彼を見ようとはしない。当然だ。彼は全くの他人で、人々の関心の外なのだから。

 現状を打破したくて、彼は走り出す。カンカンカンッ、と下駄が激しく音を打ち鳴らす。目的地はない。ただ走り続けた。しかし、一向にこの場から抜け出すことは叶わなかった。露店に飾られたお面が、彼を嘲笑うかのように見つめてくる。

 

「怖い。誰かいないの?」

 

 とうとう彼は言葉を発した。しかし、見るとあれだけいた人々はいなくなっており、かわりに空っぽの露店と灯りだけが残されていた。

 

「誰か・・・・・・私を見つけて・・・・・・」

 

 ぽつりと、彼は閑散とした場所で呟いた。

 

 

「彩人!」

 

 頭の中に強く響いた声に、はっと瞼を開け寝かせた身体を起こした。

 じわじわと暑い空気の中、身体中に浮き上がった汗と視界に飛び込んできた師匠の顔で、漸く今の状況を思い出すことができた。

 彩人は今、進藤邸で師匠に囲碁指南を受けていた。その途中、疲れて休憩中に微睡んでいたらそのまま眠ってしまったのだった。

 目の前の進藤は、心配そうな表情を浮かべ彩人の顔を覗き込んでいた。

 

「お前、魘されてたぞ。暑さで悪い夢でも見てるんじゃないかと心配したんだからな」

「ご、ごめんなさい」

「謝るなよ。ほら、お茶飲めお茶。水分補給!」

「あ、どうもです」

 

 進藤に差し出されたグラスを手にとって、そのままゴクゴクと喉を鳴らしながら一気に飲み干した。寝ている間に多少なりとも脱水していたらしい。

 進藤が彩人の様子を見ながら「クーラーにしとくんだったぜ」とひとりごちていた。

 魘されていたと、進藤は言った。確かに悪い夢と言える内容だったと彩人は感じた。とてつもない孤独に苛まれる夢だった。声をあげても誰も彩人を見てくれない。確か辺りは夏祭りのような状況だった。

 どうしてあんな怖い夢を見たのだろう。進藤の言う通り、暑さの所為だろうか。

 借りた濡れタオルで汗を拭き取ると、いくらかすっきりとした心地になった。怖い夢のことも、さっさと忘れたいと思い彩人は期待を込めた眼差しで進藤の方を見た。

 

「なんだ?もう休憩は止めにするのか?」

「はい。もう十分休息はとったので!」

「休息、と言えるかあ?」

 

 進藤は悩ましげに腕を組み、なにやら思案をし始めた。

 進藤としては、体力気力共に大きく削る対局は、もう少し時間を空けた方がいいと思った。先ほども彩人は暑さでやられていたのだし、あまり身体が頑丈な方には見えなかった。やがて、ローコストな学習をした方がいいと進藤は判断した。

 

「よし、じゃあ次はプロの対局の映像を見るぞ。解説してやるから、これも勉強になる」

「プロの!?それは楽しみです!」

「進藤本因坊の解説、よおく聞いとけよ。囲碁番組での解説より分かりやすさ当社比5倍だ」

「ヒカルさんもあの番組に出たことあるんですか!?」

「まあな。つっても、始めは緊張でガチガチになって大した解説できなかったし、その後も評判悪くて呼ばれなくなったんだよな」

「一体なにをやらかしたんです・・・?」

「ははっ。さあな」

 

 まだ進藤が若手だった頃、テレビの囲碁番組の大盤解説に出演した際に、進藤は共演者もタジタジするような珍解説を披露し、一時期囲碁ファンの間で話題になった。言葉は飛ばして要点のみで分かりにくかったり、その場の空気の読めない語調で指摘したりと酷いの一言に尽きた。進藤の解説が数回行われた後、ファンの間では進藤は失言王だと認識されてしまったほどだ。それが彼の持ち味だと好意的に示すファンは多いが、テレビの関係者からは不況を買ってしまい、それ以来なかなか解説をする機会を得られないでいる。今はかなり分かりやすい解説をすることができるが、番組関係者との溝は未だに深い。進藤はそれを特に気にしてはいないのだが。

 ちなみに進藤自身は、彼が失言王とファンに認識されているのは知らない。

 

 進藤の宣言通り、映像を流しながら彼は分かりやすい解説をしてみせた。彩人がいつも見ている番組の解説者にも勝らぬとも劣らぬというものだった。

 彩人も夢中になって見て聞いて、自分の糧としていた。

 時々進藤に合いの手を入れたり、質問を挟んだりしてただの解説に収まらない、コミュニケーションをとりつつの勉強となっていた。

 一局が終わると、進藤は検討を始めようとした。しかし、突如彼の傍に置いてあった携帯電話が着信を告げた。進藤は彩人に一言断ると、電話を取りかけてきた相手と話し始めた。

 進藤が話している間、彩人は碁盤に先ほどの対局を並べた。

 

「はい、もしもし?」

『もしもし、進藤か?和谷だけど、今そこで伊角さんと本田に会ってさ。飯食いに行かないかって話してたところなんだけど、進藤も来ないか?』

「そうか、もうそんな時間か。悪いけど、今彩人が来てるんだ。泊まり込み修行中」

『あー・・・そうか。ん?ああ、進藤の弟子が来てるんだってよ。おう。あ、じゃあさコンビニで食い物買ってくるから、進藤ん家に行ってもいいか?』

「おお、いいぜ!あ、彩人、和谷たちがこれからうちに来るらしいから、打ってもらえよ。全員プロだぜ」

「わあっ、本当ですか?嬉しいです!」

『おいおい何勝手に決めてるんだよ。まあいいけどさ。本田も彩人君が見たいって』

「はは、じゃあ待ってるよ。あ、くれぐれも酒は買ってくるなよ!今日は酒はなし!間違って彩人が飲んだら大変だ」

『ははは、進藤もすっかり親バカになっちゃってまあ・・・じゃあ、多分30分後に行くからな。彩人君によろしく』

「おう。じゃあまたな」

 

 進藤が再び彩人の方へと顔を向けると、先ほどの映像の対局を並べては思案していた。彼一人では、検討は物足りないだろう。進藤は彩人が悩んでいるところを聞いてから、説明を開始した。

 検討が終わる頃にちょうど、和谷たちが進藤邸に到着したようだ。

 インターホンが鳴り響くと、進藤と彩人は二人して玄関へと向かい、彼らを出迎えた。

 

「お久しぶりです、和谷先生、伊角先生。そして初めまして、本田先生。私は進藤先生の門下生の藤原彩人と申します」

「これはどうもご丁寧に・・・」

 

 行儀よくお辞儀した彩人に、本田がかしこまった様子で釣られたようにぺこりと頭を下げた。本田も、進藤の弟子というからどんな子かと思ってみたら、随分と上品な少年が現れて少し驚いている様子だった。

 

「躾がちゃんとしているんだな」

「彩人の親がきちんとしているんだ。俺は碁くらいしか教えてない」

 

 感心したように言う本田に、進藤がそう返す。

 和谷がそれに対し、若干にやにやしながら会話に入り込んできた。

 

「師匠とは違って、礼儀のしっかりしたいい子だよなあ〜」

「なんだよー!俺もそれなりに礼儀正しくなっただろ?」

「メディアの前では、確かにそうだな」

 

 伊角が苦笑しながら言った。

 進藤は三人を家の中に上げ、長机のある居間へと案内した。進藤が促すと、皆思い思いに座布団の上に腰掛け、買って来たものを机の上に並べ始めた。

 彩人もそれに続き、ちょこんと遠慮がちに正座する。

 

「お前ら何持ってきてくれたの?」

「まあ、主に弁当。後はお茶とかジュースとか?彩人くんはどれ飲む?」

「あっ、ではウーロン茶で・・・」

「お、コーラあんじゃん!俺これ貰ってもいい?」

「いいぞ。あ、ラーメンあるぞ。温めたら食えるタイプの」

「お、わかってるね伊角さん」

「寿司もあるぞー!彩人くんがいるから少し豪勢にしてみたんだ!」

「え?あ、ありがとうございます」

 

 トントントン、と次々にテーブルの上に食べ物を並べていく。進藤は台所から食器を持ってきて適当に並べた。

 それから、三人はそれぞれ自分の食べたいものを食べ始めた。

 進藤はラーメンに舌鼓を打ったり、伊角は自分で買って来た冷やし中華、和谷は寿司のほとんどのネタを食べ、本田も寿司やら海苔巻きなど、手広く手につけた。

 彩人はというと、進藤と同じくラーメンを選択し、何やら心を躍らせた様子ですすっていた。どうやら、彼はあまりラーメンを食べたことがないらしく、新鮮な感情を抱きながらゆっくり豚骨ラーメンを最後まで飲み干した。和谷が買って来た寿司には、卵焼き以外は手をつけなかったので、和谷がなんとなく理由を聞くと、山葵がちょっと苦手とのことだった。

 進藤は、ラーメンを美味しそうにすする彩人を珍しげに見ていた。内心で、即席麺でこれなら、本格的なラーメンにはどんな反応を示すかに興味をそそられていた。

 

(そういえば、塔矢もあまりラーメン食ったことなかったっけ。お坊ちゃんってみんなそうなのか?)

 

 彩人の新鮮な反応を見て、進藤は自分のライバルと食事に行った時のことを一瞬思い出した。

 実質的な夕飯を食べ終えると、碁打ちたちは早速碁盤を広げ、棋譜を広げ、碁打ちに専念し始めた。彩人も待ち望んだ時間である。

 彩人は特に和谷ら三人に構われた。幼い棋士の卵を自分の言葉で導いていくのに楽しさを見出していた。大人たちに囲まれ、最初は戸惑っていた彩人だったが、碁を通じて徐々に固さは取れていった。

 そして打つ度に彩人の輝ける才能の片鱗を感じ取り、誰もが彼の今後の躍進への期待を寄せた。

 夜十時頃、小学生はもう寝るべき時間が迫ったあたりで和谷たち三人は進藤邸を後にした。皆、有意義な時間を過ごし、そして和谷たちは折角だから居酒屋に行こうなどと言いながら夜道を帰っていった。

 

「ふう〜なんだか凄く濃い時間でした・・・」

「なんせ俺に加え、プロが三人も相手してくれたんだ。疲れたけど、勉強になったろ?」

「はい、とっても!」

 

 彩人は満ち足りた気分だった。

 今まで相手がなかなか見つからず、ひっそりと碁を打っていたのが、今じゃプロと打つ機会が何度もある。何より、彩人が知る中で最強の、本因坊が全力で相手をしてくれたのだ。彩人はこの幸運に、自分の人生に大いに感謝したくなるほどだった。

 彩人は正直まだ起きていられたのだが、進藤が頑なに寝ろと言って彩人を客間の布団へと押し込んだ。

 進藤は隣の部屋でもう数時間だけ起きているという。もし何かあったらその時は来てもいいと言いながら、進藤はパッと蛍光灯を消した。

 

「あー」

「しっかり寝て、また明日も修行だ。目が冴えててもとにかく寝ろよ」

「うー・・・はい」

 

 強制的に暗くされると、もう寝るしかやることはなくなる。彩人が布団の中に潜り込んで目を瞑ると、進藤は「よし、じゃあおやすみ」と告げて部屋から出て行った。

 あんなに目が冴えていたのに、いざ目を瞑るとスムーズに彩人は眠りに入ることができた。

 意識が安らかな闇の底へと沈んでいき、やがて浮遊感にも似た感覚が全身を包み込む。

 それから、少し経った頃だろうか。

 彩人は気がつくと、また、夏祭りの会場のようなところに立っていた。

 下駄を履き、紫色の浴衣を着て、往来に呆然と佇んでいる。

 ざわざわと騒がしい辺りに比べて、またもや彩人はぽつんと一人ただそこにいた。

 再び、昼間のような孤独感が襲ってきた。

 辺りをキョロキョロと見回す。しかし知っている人は誰もいない。カンカンと硬質な足音を立てながら、また石路を駆け抜けた。

 

「また、一人・・・!一人にしないで、誰か私を見つけて・・・・・・!」

 

 スルスルと、人混みは彩人を通り抜けていく。

 やがて夏祭り会場を抜けた。もうそこまで行くと、人影は存在しなかった。

 道を失い、いつの間にか入り込んだ林の中を歩いて行くと、ふと、金色が目に入った。

 夜の闇の中でも、目に付く金色。彩人が顔を上げると、それはふわりと揺れ、優しい色を帯びていた。

 

「彩人!探したぞ」

 

 彩人よりも大きい体格、黄金色の浴衣を着た男性は彩人に駆け寄ると、その腕を取った。

 彩人は思わず目を丸くした。この世界で、自分を見つけることができる人がいるとは思っていなかったからだ。彩人の驚きはお構いなしに、その人は続けた。

 

「また、迷子になっていたのか?全く・・・ほら、いくぞ。皆、お前を待っていたんだ」

「私を・・・・・・?」

「ああ、皆会いたがってる。顔を見せてやれ」

 

 彩人は嬉しい気持ちになった。

 自分を求めてくれる、自分を認めてくれる誰かがいる。それがなぜこんなにも嬉しいのかはわからなかった。

 

 彩人は目の前の金色の前髪が揺れるさまを見ながら、彼に手を引かれて、林の中から抜け出した。

 



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帰省

 

 厳しい残暑が漸く和らいできた。9月の中旬、秋の彼岸の頃。彩人は両親に連れられて生家に帰省していた。彼の生まれは京都にあった。東京に来たのはごく最近。幼稚園の頃はずっとこちらで過ごしていたため、久々に見た京都の景色に彩人は懐かしさを覚えていた。

 彩人の実家、藤原家本邸。そのルーツは一千年前まで遡れるほどの長い歴史を持つ家で、そこそこの資産家としても近所では名を知られている。

 紛れもない現代っ子であるはずの彩人が妙に古風で上品な立ち振る舞いなのも、この家の教育の結果とも言える。彩人が帰省すると、それはもう可愛がられた。何せ、彩人ほどの年齢の子供は今や彼一人。おまけに引っ越したために滅多に会えないからと、兎に角世話を焼かれ、話をさせられた。その話の中には勿論、彩人が嵌っている囲碁のこと。そして進藤本因坊に師事し、棋士を目指していることが含まれていた。

 なんと、彩人の親類達は皆進藤を知っていた。両親が彩人が師事している人を教えたからではない。進藤は彩人の祖父母世代の人らから非常に知名度があった。彩人の親戚で囲碁をやっているのは母方の祖父のみだが、彼らの知り合いともなると囲碁をやっている人は年代的に多い。

 しかし、親類の一人が言った一言に、彩人は少し動揺した。

 

「彩人ちゃんその進藤先生って大丈夫なの?強さは本物みたいだけど、昔ちょっと問題を起こしたみたいだし・・・」

 

「・・・問題ってなんですか?」

 

 思わず彩人は真顔になった聞き返す。しかし、その表情を見て彩人が機嫌を悪くしたと解釈したその親戚は慌てて弁解をした。

 

「い、いいえ!そんな噂を聞いたってだけで詳しくは知らないのよ。本当にただの噂かもしれないし」

 

「・・・そうですか。でも、ヒカ・・・進藤先生はとっても良い先生ですよ。だから安心してください」

 

 彩人は心に小さなしこりを残しながらも、しっかりと自分の先生に対するフォローを入れて彼女を安心させた。

 

(そういえば、ヒカルさんが若手だったときのこととか、あんまり知らないなあ)

 

 彩人は、まだ棋界に対する知識がそれほど深くない。棋界でも最も名誉ある賞である七大タイトルというものがあり、それを貰った人をタイトルホルダーと称する。そしてそのタイトルホルダーのうちの一人が進藤であること。そして進藤の持つタイトルである本因坊は最も歴史ある冠であること。それくらいだ。

 他のプロの顔と名前も、進藤から教えてもらった範囲内でしか知らない。彩人はこれに思い当たったとき、これはいけないと焦った。

 プロを目指し、棋界に飛び込もうとしている自分が、棋界のことを何も知らないというのは問題があるのではないか、と。

 彩人はよく世間知らずと称されることが多い。彼自身もうっすら自覚はあった。

 囲碁を打つことばかりに集中するのではなく、もっと周りに目を向ける方が良い。

 そして・・・尊敬する自分の先生が、周りからどう見られているかも気になった。

 

 東京に戻るには、まだ数日の猶予があった。彩人はお出かけしてくると親に断りを入れて、財布と携帯を持ち京都の街に繰り出していった。目的地は、囲碁サロン。

 囲碁をやっているという親戚の知り合いを紹介してもらい、その人が経営している碁会所へと足を運ぶ予定だ。

 目立たないように立地したビルの二階、明朝体で囲碁サロンと書かれたそこを見つけ、教えられた店名と一致していることを確認すると恐る恐る階段を上っていった。

 カラン、と扉を開けると中は外観に反して綺麗ですっきりしており、しかし時折タバコの臭いが漂ってきた。

 彩人が中に入ると、中の客が一斉に彩人を見た。彩人は「ひっ」と喉を引きつらせる。知らない大人たちに囲まれることの怖さを、久々に味わった。

 しかし、そんな彩人の恐怖を打ち消すように明るい中年くらいの女性が彩人に声をかけてきた。

 

「いらっしゃいお嬢ちゃん。碁を打ちにきたのかい?」

 

「お、お嬢ちゃん?あ、あの、はい。ここのマスターが私の親戚の知り合いで・・・というか、私はお嬢ちゃんじゃ」

 

「おっ!ナベさんの言ってた知り合いの親戚ちゃんかい?いらっしゃい〜話は聞いているよ!ナベさんは今ちょっと買い出しに行ってるから、ここで打って待つと良い」

 

「は、はい。あと、私はお嬢ちゃんじゃな」

 

「ナベさんの知り合いか!よしお嬢ちゃん俺と打とうか!」

 

「あ、抜け駆けかハラさん?可愛い子とくるとすぐこれだ」

 

「次じゃあ俺と打とうよ!」

 

 彩人を「お嬢ちゃん」と勘違いしたまま、浮かれた客たちは次々と彩人の対局相手に立候補してきた。彩人は若干諦めつつも、碁が打てると思い気分が高揚した。

 彩人は次々にサロンの客たちと対局をしていった。彩人は、正直大人たちの胸を借りるつもりで対局に挑んでいた。進藤にきちんとした教えを受けているとはいえ、普段から、それも彩人よりも長く碁を打ってきた大人たちに勝つイメージがイマイチ湧いてこなかったのだ。

 彩人が手を進めるうちに、対局相手は誰もが真剣な顔つきになるか、顔を青ざめさせた。そして彩人は警戒して挑んだ大人たち相手に圧勝していく自分に、他の誰よりも驚いていた。

 結果、三人の男が彩人に挑んだが、その誰もが彩人に対しこうべを垂れた。

 

「君・・・この棋力は一体・・・」

 

「・・・あ、あの。一応、プロを目指しておりまして、棋士の先生にも普段から見てもらってるんですけど」

 

「あ、あ〜!プロ棋士の門弟か・・・それならこの強さも納得だな・・・すごい、すごいぞこれ。君一体誰に師事しているんだい?」

 

「はい。進藤ヒカルという方なのですが・・・確か本因坊というタイトルを持ってる」

 

「進藤本因坊だって!!?」

 

 彩人がその名前を口にした途端、店内は一気に騒めいた。

 彩人は彼らのその反応に面食らう。進藤はプロ棋士だし、タイトルホルダーという棋士の一人でもあることは知っていたが、彼が世間的にどれほどの知名度を持つのか、実感がなかったのだ。

 そして店内の大人たちは、進藤のただ一人の門弟であるという目の前の少年を見てただひたすら驚いていた。

 

「凄いね。進藤本因坊といえば、日本のプロ棋士たちの頂点の一人だ。塔矢名人と双璧をなす棋界の超大物だよ」

 

「そ、そうなんですか?」

 

「そんな彼に弟子なんて、聞いたことなかった」

 

「あ、あの。恥ずかしながら私、あまり棋界のことって詳しくなくて・・・よろしければ、進藤先生の昔のことを教えてくれませんか」

 

 

 彩人の言葉に快く応じた大人たちは、彩人の質問に出来るだけ詳しく答えてくれた。彼らは進藤がプロになった時から知っているようだった。

 

「進藤本因坊は、兎に角出てきた時は話題になったよ。色んな意味で。当時から囲碁界のサラブレッドとして知名度も高かった塔矢アキラのライバルってね。北斗杯にも彼と一緒に出場したし、すぐに若手トップとして名乗りを上げた。あんなことがまた起こるんじゃないかと俺たちはヒヤヒヤしたがね」

 

「あんなこと、とは」

 

「流石に弟子には言えないか。彼、プロなってすぐに公式手合いをすっぽかすようになったんだよ」

 

「え・・・・・・?」

 

「進藤スランプ事件か。懐かしいなもう何年前だ?」

 

「さあな十数年はいってるんじゃないか?兎に角、そのことがあってか今でも彼のことを快く思わない人もいる。まあ、若気の至りってやつだろう。今では立派なタイトルホルダーなんだからな!」

 

「でも正直、進藤本因坊はスランプ事件からめきめき力をつけたって見方もあるよな。必要なことだったんだろう」

 

「かもなー。でもやっぱり手合いサボったのは印象悪いだろ」

 

「十年も経って未だ蒸し返すなんて大人気ないんじゃないか?」

 

「なんだと?」

 

「やめろよ。お弟子さんの前だぞ」

 

「おっとそうだった」

 

「進藤先生って、昔は結構やんちゃ・・・だったんですね」

 

「そりゃまあね。テレビで大盤解説すればハプニングだらけ、記者の前で塔矢アキラと喧嘩を始める、韓国のプロ相手に喧嘩を売るなんてこともあったし、やんちゃはやんちゃだったな」

 

「俺はそのキャラも含めて好きなんだけどなー。でも本因坊になってからは一気に落ち着いたよな。年寄りみたいな雰囲気になった」

 

「年寄りは言い過ぎじゃねえか?あーでも、進藤本因坊がタイトルを桑原から奪取して、そのあとすぐに桑原が引退したから、やっぱ心構えも変わるってもんじゃないか?」

 

「確かに、あれ以来進藤本因坊は孤高というか・・・なかなか人を寄せ付けない雰囲気になったよなあ。初段から知っていると、成長したなって実感するよ。寂しくもあるがね」

 

「そうですか・・・」

 

 彩人は一連の話を大人しく聞いていた。いいタイミングで相槌を打つので彼らも気分快くどんどん話していった。そして彩人の方は、次々に出てくる先生の意外な一面を心の底から楽しんで聞いていた。

 彩人にとって進藤は、他人なのにどこか兄のような親しみがあって、何よりとても優しくて温かい人だった。先生として尊敬している以上に、年の離れた友人として非常に慕っていた。彼について知れるのは、とても嬉しい。

 ・・・他人を寄せ付けないところがある、というのは彩人も少し感じていた。彼は掴めそうで掴めない、心にある種の深淵を抱えているようにも見えたから。

 恐らく進藤は本質的に孤りなのだろう。

 その孤高さがトップ棋士としての地位、類まれなる棋力に由来するものなのかは分からない。だけど、囲碁を打っている間は、違うのだ。碁盤を通して、確かに彩人は進藤と対話する。進藤も、きっと囲碁を打っている間は孤りじゃないと、彩人は思いたい。

 彩人は、進藤と対局したいとその時強く思った。

 

 



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問答

 

 

 

「進藤、久しぶりだな」

 

「久々だな。まさか、出張先が同じ近畿地方だからって折角だから食事でもしようって言い出したのは驚いたけどよ」

 

 夕刻をとっくに過ぎ、時間はそろそろ深夜に差し掛かった頃、進藤と塔矢という囲碁界の双璧トッププロは現在日本三大都市の一つである大阪の駅前にいた。二人とも先ほどまで囲碁のイベントに参加していた。塔矢は京都、進藤は大阪で。塔矢が大阪に進藤がいると棋院関係者の口から聞くと、電車ですぐだからということで半ば強引に進藤を誘い大阪駅前の居酒屋へ行くことと相成った。

 

「ずっと誘いを断り続けられていたからな」

 

「お互い忙しいんだからしょうがないだろ」

 

 トップ棋士という地位にあるだけあって、彼らに舞い込んでくる仕事の量は膨大だ。タイトルホルダーが一人いるだけで囲碁イベントの客の入りも違うらしく、囲碁を普及させたい彼らとしては仕事を疎かにするなど考えられないことだった。

 

「君、付き合い悪くなったって噂になってるぞ」

 

「えー?まあ、門下生の世話もしなくちゃいけないし、それは仕方ないだろ」

 

「・・・おい、今初めて聞いた言葉が聞こえたんだが。門下生?」

 

「・・・あれ?塔矢には言ってなかったっけ?」

 

 進藤がきょとんとした顔で問い返すと、ガッと塔矢に腕を掴まれ、眉間に皺を寄せた最早お馴染みの形相で「詳しく聞かせてもらおうか」と最寄りの居酒屋に連れ込まれたのだった。

 

「今まで研究会の一つも開いたことなかった君が、いきなりどうしたんだ?一体どういう経緯で門下生を取ることになったんだ?」

 

「才能ある子供を見つけたから、育ててみたくなった。それだけだっての」

 

「それほどに才能ある子なのか?」

 

「まあ・・・院生一組くらいの棋力はあるな。今は12歳。囲碁を初めて、ほんのちょっと。今まで相手にしてきたのは祖父さん一人だけ」

 

「その経歴、なんだかどっかの誰かに重なるような気がするな」

 

 塔矢が白々しい態度でそう言った。しかし進藤は苦笑するだけだった。

 

「俺とは違う。多分あいつは本物の天才だ・・・囲碁の神様でも憑いてない限りな」

 

「・・・またそれか。君はスピリチュアルにでも嵌っているのか?最近よくその単語を聞くような気がするが」

 

「はははっ!自分では、頭可笑しくなっているつもりもないんだけどな。ただ、個人的に信じているだけだよ。というか、神を信じているっていうならお前だってそうだろ。神の一手の存在だ」

 

「それは、言い方が抽象的なだけで、実際には現実にあると言われているから」

 

「俺にとっては、どっちも同じようなものだけど・・・お、来たぜ」

 

 二人が会話しているうちに頼んでいた料理が運ばれてきた。進藤は手をあわせると即座に鳥の唐揚げを一個つまみ上げ、自らの口に放り込んだ。

 

「まあ、それは兎も角として弟子の話だ。俺ももういい年だし、弟子の一人や二人くらいいても可笑しくないだろう?」

 

「それはそうだが・・・どうにも、君が先生をやるというのが想像できなくてね。師匠は未だ不在だし」

 

「俺の師匠は囲碁の神様だから。それに、あいつはどんどん成長してるぜ。ぶっちゃけ、プロ試験に挑戦させてもいいと思ってるけど・・・院生でしか得られない体験ってあると思うからさ」

 

「僕としては、回り道などせずに実力があるならプロの道を進んだ方がいいと思うんだが」

 

「あー、考え方の違いを感じる」

 

 二人とも自分の経験を元に持論を展開しているところにかけては同じだ。しかし、決定的な経歴の違いが意見の対立を生んでいた。

 しかし、進藤もこんなところで本気の意見のぶつけ合いをするつもりもないため、水を思いっきり飲んで頭を落ち着かせた。

 

「それにあいつ、同年代の友達がいないんだよ。院生になれば年が近くて棋力も近い奴がいるだろうし・・・俺がいない間も勉強することができるし」

 

「成る程、それはあるね。僕は家に帰れば父さんがいたから、毎日とはいわずともかなりの頻度で打っていたから」

 

(俺も、心の中にいつもあいつがいた)

 

「いっそ、正式な門下生なら住み込みで指導っていうのもありじゃないか?」

 

「それは無理だ。俺料理とかあんまりできないし、成長期のあいつにまともなもん食わせられないってのも申し訳ない」

 

「君、意外とちゃんと考えてるんだな」

 

 囲碁以外のことは結構感覚的に行動しがちな進藤が、こうも弟子のためを思って考え悩んでいる姿が、塔矢には新鮮でならなかった。

 

「和谷にも言われたなそれ。俺だってちゃんと先生なんだって」

 

「・・・そうだな。弟子の教育について、僕があれこれ言うことでもないな」

 

「いつか、プロになったあいつとお前の生徒がライバルになるかもしれないな」

 

「ふふ、それは楽しみだな」

 

 二人にしては珍しく、その日の会合は和やかな雰囲気で終わった。

 店を後にし、駅前で塔矢と別れると、進藤は自分が今夜泊まるホテルへとチェックインを済ませた。

 ベッドへと腰掛け、タブレッドを起動させ明日のスケジュールを確認する。明日は京都でのイベント夜の部の出演。昼間の時間が丸々空いていた。進藤は少し心が躍った。京都には実は本因坊発祥の地が存在し、そこには進藤はまだ行ったことがなかった。進藤の本因坊に対する思い入れは囲碁ファンの間では有名である。毎年の因島への『聖地巡礼』も進藤のファンの間ではよく知られている。明日の京都のイベントで、もしかしたらそのことについて話を振られるかもしれない。

 正確には、進藤は本因坊ではなく、かつてその名を名乗っていた秀策に強い思い入れがあるのだが、本因坊位を持つ者として一度は訪れてみたいとも思っていた。

 空き時間を利用して訪れたと、京都のファンに話すネタにもなる。明日はこの空き時間を使って本因坊発祥の地を訪れてみようと進藤は思った。

 

 

 

 



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聖地

私は関西弁がわからないので舞台が京都ですがでてくる人は皆標準語で話すのでご了承ください。


 

 

 

 

「彩人くんいらっしゃい。藤原さんから話を聞いているよ。プロを目指しているんだってね、凄いなあ今のうちにサイン貰っとこうか?」

 

 彩人の親類が紹介してくれた囲碁サロンのマスターはにこやかに彩人を歓迎した。彼が出かけている間に、彩人はすっかり店の常連たちと仲良くなっていたし、彼が女の子であるという誤解も解けた。

 

「ナベさんこの子本当に強いぞ。あの進藤本因坊のお弟子さんだって言うし・・・」

 

「何っ?あの進藤本因坊の?」

 

 男性客の一人が言うと、また彼らと同じような反応をマスターは示した。そして一瞬だが気まずそうな顔をした。彩人は親戚の女性が、進藤に対するネガティヴな噂を聞いたと言っていたことを思い出した。噂をその親戚に話したのは恐らくこの人なのだろうとも思った。

 常連客の人の話を聞いていると、どうやら囲碁ファンの間には進藤派と塔矢派の二大派閥がいるようで、両者はよくどちらが優れた棋士か言い争いをしているらしい。最も、それは話を盛り上げるための種に過ぎず、本質ではどちらの棋士も尊敬されているのだが。そしてどうやらこのマスターはこのサロンの中で一番の塔矢派として知られているらしい。親戚に進藤のネガティヴな噂を話してしまったのも、このいつもの話題がヒートアップしてしまったため、そんなところだろう。

 そうでなかったら、彩人に詳しく進藤の指導について聞いてくるはずがない。

 熱心に訪ねてくる彼の表情は、ここにいる人たちと同じ囲碁バカのものだった。

 マスターの話は、ここにいる誰よりも詳しかった。

 塔矢アキラのファンだからか、彼は進藤と塔矢の関係について知っていることを語ってくれた。

 

「塔矢名人は、それ以前名人位で知られていた塔矢行洋という棋士の息子さんでね。プロになる前から棋界のサラブレッドとして有名だった。私も当時の塔矢アキラのことは知っていたし、プロになるのをとても楽しみにしていた。だけど、同時に少し可哀想に思ったよ。同年代に競える人がいないようだったからね。インタビューでも言っていたよ。昔は同世代で自分と渡り合う人が近くにはいなかったから、どこか張り合いがなかったとね。天才ゆえの孤独というやつだ。しかし、彼は進藤本因坊に出会った」

 

「先生が」

 

「進藤本因坊はその頃は囲碁を始めたてのひよっこだったそうだが、ずっと塔矢名人をライバルとして追いかけ続けていた。そして、碁を始めて2年でプロになり、塔矢名人に追いついた。それから二人はずっとライバルさ」

 

「とっても素敵な話ですね。でも先生、そんなこと私に教えてくれませんでした」

 

「先生も自分の青かった頃の話をするのは気恥ずかしいんだろう」

 

 少年の彩人には、そのあたりの情緒は分からない。

 話はかなり盛り上がったが、そろそろ彩人も門限が近づいてきている。彩人はマスターに席料を払おうとしたが、マスターに制止された。

 

「いいよ。今日は楽しませてもらったしね。今回はサービスするよ」

 

「え・・・?でも」

 

「その代わり、京都に来る時はうちに来てくれよ。そのうち、進藤先生も連れてきてくれたらなおよし」

 

「ナベさんあんたアンチ進藤じゃなかったっけ?」

 

「ただのネタだろそれは!俺は進藤先生もちょっと尊敬しているよ!」

 

「ちょっとなのかい・・・」

 

 彩人は和やかな彼らの笑い声を背にして、サロンを後にした。

 帰路につきながら、彩人は今日のことを思い出していた。素敵な一日だった。碁も沢山打てたし、自分がどれほど打てるようになっているのか知れたのも良かった。自信はついたし、それに進藤周辺だけだが棋界のこともちょっと知れた。

 彩人は益々、囲碁界ひいては囲碁の歴史にも興味を募らせていった。

 

(そうだ。家に帰ったら借りたタブレットで調べてみよう)

 

 進藤からネット碁での遠隔指導のために預けられた(実際は彩人へプレゼントされた)タブレットを持ってきたことを思い出し、彩人は急ぎ足で家に向かった。

 家に帰ると、丁度夕飯の支度ができた頃だったため、先に夕飯を済ませた。その後にお風呂に入り、一日の疲れを癒したところでやっとタブレットに触ることができた。

 まだあまり使い慣れないが、ネット碁だけはお手の物だ。

 検索サイトのページを開くと、取り敢えず彩人は進藤と縁のある単語から調べていくことにした。

 入力した単語は本因坊。検索結果を見てみると、トップには御馴染みの百科事典サイトが出てきた。そしてその次に出てきたのは、彩人の興味を大いにそそられるものだった。

 

「本因坊発祥の地?」

 

 観光案内のサイトのようだったが、その内容と何より場所が今彩人がいる京都だったのに驚いた。

 タップして詳しい内容を見てみると、地下鉄に乗って行ける場所にあった。

 進藤が保有しているタイトルの本因坊。そのルーツがここにある。

 そう分かると彩人はうずうずして堪らなくなった。

 

「折角帰ってきてるんだし・・・よし」

 

 彩人はすくっと立ち上がると、バタバタと両親の元へと走って行った。そして、寺町通へお出かけしに行くことの了承をなんとか取り付けたのだった。

 

 

 

 

 

 ________その夜、夢を見た。

 目が覚めたら跡形もなく忘れてしまうような儚い夢。

 

 彩人と同い年くらいの少年が、こちらに笑いかけてくる。

 声は聞こえない、しかしその金色の前髪と屈託のない笑顔には酷く懐かしさを覚えた。

 

「_、_」

 

 口が何か大切な言葉を紡ぎだすように動いた。

 なんと言っているのだろうか、わからない。

 だけど、何故か聞こえもしないその言葉に何かを応えたくなった。

 

「___」

 

 しかし、少年は次の瞬間には彩人よりも大きい大人になっていた。

 彼は・・・進藤だった。

 彩人は名前を呼ばれたような気がしたので、咄嗟に答えようとした。

 

 

 

 

「ヒカ・・・ル」

 

 朝目が覚めた時、何故か彩人は進藤の名を口走っていた。しかも、呼び捨てで、だ。

 口走ったものの何故かとても失礼なことをしてしまった気分になりながら、彩人は布団から起き上がった。

 

「今・・・夢にヒカルさんが出てきたような・・・いや、違うかな?」

 

 数秒前まで見ていた夢の内容など、彩人はとっくに忘れ去っていた。

 彩人は起き上がるとまず布団を畳んで押し入れの中に仕舞い込んだ。その次に側に置いておいた服に着替え、洗顔と歯磨きをしに洗面所へと向かった。

 顔を洗って、眠気も飛んだ彩人は、今日の予定のことを考えていた。

 本因坊発祥の地へと出かける。駅まで親に送ってもらい、そこからは一人だ。

 

 本家の人たちは彩人が一人で遠くまで出かけると聞いて、大いに心配した。それも当然だろう。彩人は東京に引っ越す以前は、生粋のお坊ちゃんとして大事に、もとい甘やかされてきたのだから。

 

「心配しすぎですよ。大丈夫です。東京では結構一人で出かけることも多かったので、慣れてますから」

 

 両親も、ここ最近での彩人の成長を見て大丈夫だと確信したのだ。

 それに、彩人の両親も親戚も、これから家の行事の準備などで忙しい。彩人には誰もついていけないのだ。

 車で駅まで送ってもらうと、彩人は地下鉄へと乗り込み、目的地の最寄りの駅へと向かった。目的の駅にはすぐに到着した。薄暗い駅から地上へ上ると、午前の京都の青空が彩人の目の前に広がった。

 この辺りには京都御苑などの有名な観光地が点在しているため、この時間でも人は多い。彩人は予めプリントアウトしておいた地図を頼りに道を進んでいった。

 京都らしい歴史的な趣を感じさせる通りを進んでいくと、車道沿いのところ四角い石が三つほど、そしてその横に木で出来た立て札が置かれているのを見つけた。

 

「あった・・・!」

 

 彩人が駆け寄ると、その三つの石の中、真ん中の石が碁盤になっていた。

 思わず彩人が感動する。

 

(こんなところに碁盤があるなんて・・・!)

 

 根っからの囲碁好きである彩人には堪らないものがあった。美しい格子模様にしばらく見惚れた後、側にある立て札の方を見た。

 そこには確かに「本因坊」発祥の地という文字が書かれていた。

 彩人は脳裏に、進藤の顔が浮かんだ。現在彼が冠している名の本因坊、それがまさしくこの辺りで生まれたのだと思うと、心が揺さぶられるようだった。

 そして、またすぐ目下にある石の碁盤に目を向けた。

 よく見ると、碁盤を挟むように置いてある石はベンチのようで、碁石さえあればそのまま対局できそうな雰囲気だった。

 

(ここで、ヒカルさんと打てたらいいのに)

 

 彩人はふとそう思ったが、すぐに無理なことだと笑う。進藤は仕事でここにはいないし、何よりここには碁石がない。

 そう、ちょっとした空想として終わるはずだった。

 

「彩人・・・?」

 

 だが、突如街中で響いた自分を呼ぶその声に、彩人は時間が止まったかと思うほどの衝撃を受けた。

 その声は、まさに彩人が思い浮かべた人の声そのものだった。自分の想像が恐ろしいほどの再現を持って現れたのかと思った。

 しかし、顔を上げた先にいる男性は、紛れもなく現実にいる進藤ヒカルだった。

 理解を超えているのは進藤も同じなのか、彩人が見たこともないほどの動揺を露わにしている。しどろもどろになりながらも紡がれた言葉は、何故こんなところに彩人がいるのかという疑問を表していた。

 

「え?・・・なんで、おま、ここ京都だぞ・・・?どうしてこんなところに・・・?」

 

「ヒカルさん!?本当にヒカルさんですか?」

 

 彩人がそう問うと、進藤も実感が湧いてきたのか、先程よりも落ち着いた様子で答えた。

 

「ああ、そうだよ。本当に、なんでお前がこんなところにいるんだ?ここ京都だぞ?」

 

「私は・・・実家が京都にあって、今はお彼岸なので本家で色々行事があるので一緒に帰ってきていたんです。ヒカルさんは・・・?」

 

「マジかよ・・・。俺は、前に彩人に言ったように仕事だ。京都の囲碁イベントに出演することになってて、仕事まで時間があるから観光に・・・」

 

「本因坊の発祥の地、ですよね」

 

「ああ・・・・・・本当、まさか京都にまで来てお前に会うとは思ってなかったよ。恐ろしいくらいの偶然だな」

 

 進藤は苦笑しながら彩人の方へ歩み寄る。そして歩道上の記念日を見やるとふっと微笑んだ。

 

「随分と小さいんだな。まあ寂光寺は焼け落ちて別の場所にあるしな」

 

「碁盤もありますよ。碁盤」

 

「これはいいな。ベンチもあるし、ここでちょっと打つってのも良さそうだ」

 

 進藤は石の碁盤の隣にあるベンチに腰掛けると、彩人の方を見てにやっと笑った。

 

「ちょっと打ってみるか?」

 

「ええ?嬉しいですけど・・・碁石がないですよ」

 

「碁石があるのを想像しながら打つんだ。目隠し碁っていうんだが。ものは試しにやってみないか。いいトレーニングになるぞ」

 

「目隠し碁・・・面白そうです!」

 

 彩人は表情を輝かせ、進藤の向かいのベンチに座って、碁盤を凝視した。それを、臨戦態勢に入ったと解釈した進藤はベルトに差していた扇子を引き抜くと、彩人に促した。

 

「お前が先番。目隠し碁だから置石は今回は五つ。ちゃんと自分の石の位置を覚えておけ」

 

「はいっ」

 

 彩人は石の盤面に、五つの石が置かれているのを想像した。そして、碁笥から黒石を取り出し、最初の手を盤面に叩き込んだ。

 

 



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