ローズヒップ、頑張りなさい。 (テイカー)
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一日目
オレンジペコ、落ち着きなさい


 オレンジペコは普段通りの慣れた所作で熱湯をカップに注ぎ、温度を確かめて一人頷いていた。

 十分に温まったカップから湯を戻し、ポットの中に茶葉を匙で放り込む。

 

 広間の中央を振り返れば、茶菓子を三段ごしらえのケーキスタンドにセットし終えた二人の少女が紅茶を待つ間のんびりと談笑を楽しんでいた。

 

 ダイニングキッチンのように給湯室が併設された、広間とも呼べる一室。

 壁一面の窓から降り注ぐ朝日はガーデンの草花がほどよく遮って木漏れ日を演出し、燦々と心地いい陽光の下。

 

 彼女が紅茶を持っていけば、お茶会の準備は完了だ。

 

 

 いつも通りの、聖グロリアーナ女学院の朝。

 

 

 今日のモーニングはイングリッシュアールグレイ。ほのかに香る中国茶とダージリンティーを合わせた、新鮮なフレーバーだ。

 今日のような清々しい朝にはちょうどいいだろうとオレンジペコが学園艦の紅茶専門店(いきつけ)で購入したもので、試飲以外では初めての開封を彼女自身も楽しみにしていた。

 

 給湯器に突っ込んだ温度計を確かめて火を止めると、丸いポットにゆっくりとお湯を注ぐ。フレーバーティーならではのほんのりとした香りに頬を緩ませながら、その秋波眉の尻を下げてほっと一息。

 

 トレイにカップを三つとポットを載せて、二人が待つ白の円卓へと歩いていく。

 

 さて、今日はどんな会話をしているのだろう。

 滑らかに加われるように、ゆっくりとした足取りで彼女らのもとへ。

 

 テーブルに置かれたカップに三分弱ほど蒸らした紅茶を注いでいると、ちょうどアッサムが口を開いたところだった。

 

「はぁ……意中の殿方ですか」

「What!?」

「オレンジペコ!?」

「あ、申し訳ありませんつい」

「ついで滑らかなEnglishが出るようなことが今まであって!?」

 

 遅れて、淹れられた紅茶に礼を言ったダージリンはまず一口。

 

 あらおいし、と口元に指を添えて呟かれた言葉にそっと口角を上げながら、オレンジペコも用意されていた席に腰かけた。

 

「データの上では、オレンジペコがwhatと口にしたのは今回が初めてです」

「そんな統計取らないでください……ってそれよりも」

 

 相変わらず感情を見せないゆったりとした所作のアッサムに、オレンジペコは食いつく。

 

「だ、ダージリン様に意中の殿方が?」

「いいえ。私ではなく、ローズヒップのことよ」

「…………あのひと恋愛とかする機能あったんですか」

「人をブレーキの無い蒸気機関車のように言うのはおやめなさい」

「そこまでは言ってないんですが……」

 

 苦笑い交じりに否定を一つ入れて、オレンジペコはシミ一つない天井を見上げた。

 

 あの暴走巡航戦車(ローズヒップ)に好きな人。

 

 言い方から察するに結ばれた訳ではなさそうだが、それにしても。

 

「……この女学院で色恋沙汰の話を聞くことになるとは思いませんでした」

「こんな格言を知っている? 恋愛論を得意げに語る奴には、恋人がいない。人知れずどこかで、恋というのは始まるものよ」

「マーフィーの法則ですね。……ということはダージリン様には」

「私は今、恋愛論なんて語っていないわ」

 

 ぷい、とティーカップと一緒に横を向いてしまったダージリン。

 アッサムとオレンジペコは、やってしまったと顔を見合わせて口元を緩める。

 とりあえず、会話をずらそう。どちらからともなく出たそのアイディアを、アイコンタクトで確認して。

 

「それにしても、どこの何方なんですか?」

「データによりますと、男性教師陣の既婚率は100%です。また、用務員、校務員の方は女性スタッフで占められています。……学園艦外部の方ということでしょうか」

「ダージリン様はご存じですか?」

 

 おそらくは知っているのだろうと踏んで。

 アッサムが聞き手に回っていたということは、ダージリンがこの話題の発端だろうと分かったうえで、オレンジペコはそう問いかけた。

 

 すると彼女はくるりと佇まいを正して、必要以上に胸を張って頷いた。やたら重々しく。

 

「ええ、もちろんよ」

「わー、流石ですねー」

 

 ふふん、と機嫌良さそうに鼻を鳴らすダージリン。

 オレンジペコはお代わりの紅茶をポットから注ぎつつ、彼女の次の言葉を待つ。

 

「とはいえ……あまり本人の居ないところで、というのも気が引けるものね。まだ結ばれたわけでもないのだし、今日の戦車道の時間に改めて話すことにしましょうか」

「ここまで話してしまったらあまり意味ないと思いますけど……」

「それは、そうね……」

 

 言葉を濁したダージリンに首を傾げていると、アッサムが助け船を出した。

 話題の発端は、と前置きしたうえで、彼女は。

 

「ローズヒップに浮いた話が出て、何故私たちには春が来ないのでしょうか。という話がしたかったのですよね。データの上では、ダージリンのような淑やかな方は恋愛色豊かだという結果が――」

「あの、そのくらいにしておいてあげてくださいマイノリティの渦に叩き込まれたダージリン様のメンタルが撃破寸前です」

「あっ」

 

 気付けば胸を押さえて怖い漏れ方の笑い声をこぼすダージリンの姿。

 

「ふ、ふふふ。ふふふふふ」

「あー、これはまずいですねー」

「データによりますと、この後ダージリンが開き直る確率は」

「やめてあげてくださいって!!」

 

 幽鬼のようにゆらりと上体を起こしたダージリンは、アッサムとオレンジペコを順々に見据えると歪な笑みを湛えてテーブルに手をつくと。

 

「ねえオレンジペコ」

「なんでしょう……?」

「こんな格言を知っている? 急いで結婚する必要はない。結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない」

「トルストイですね。要は来てないんですね、春」

「そんなことないのよ!」

「データの上ではダージリンが――」

「アッサム!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「と、いうようなことがあったんですよね」

「……きみはいつも苦労しているな」

「あはは」

 

 両腕で包めるほどの大きさのテーブルに、静かに置かれた一枚の皿。

 そのうえにはオレンジペコの好物であるホットクロスパンと、添えられたささやかなお菓子の盛り合わせ。

 

 小腹を満たすにはちょうどいいおやつ。

 ゲーテの詩集を片手に、オレンジペコは給仕にやってきた青年とのんびりと会話をしていた。

 

 ローズヒップの人権や恋愛事情に関わる部分は除いた、ダージリンを統計という凶器で殴るアッサムの話を。

 

 ここは彼女の行きつけであるティーサロン。

 放課後に時間があると、ついふらりと寄ってしまう場所だった。

 

 一階にある紅茶専門店と提携していて、目の前に立つ青年が切り盛りしている店だ。

 

「戦車道にはあまり詳しくないけれど、キミやキミの周りのメンバーは流石に有名だからね。まるで有名人同士の日常を聴けているようで、俺も楽しいよ」

「そんなんじゃないんですけどね……。でも、私もここに来るのはとっても楽しいです」

「そりゃあ、好物を並べていた甲斐があるよ」

「えへへ」

 

 カウンター奥に引っ込んでいく彼を見送って、ホットクロスパンを一口。

 いつも通りに美味しくて、いつも通りに優しい味。

 

 紅茶とパンと、それからケーキ。何を取っても美味しいこのお店は、実はオレンジペコだけが知る穴場だった。

 

 聖グロリアーナの学園艦には、その校風からか沢山の有名な紅茶店や喫茶店が出店している。イギリスにフランス、中国にインド。そのどれもがブランドとして名高いなか、この店は路地の先にひっそりと建っている。

 

 繁盛しすぎるのも考え物だ、という謎の理論を掲げる彼が、十八にして出資者から予算を獲得してこの場所に建てたというから驚きである。自分と幾つも変わらないはずなのに、一城の主だ。

 

 それに、紅茶ソムリエとして幾つか賞も取っているようで、初めてオレンジペコが訪れた時はそのくりくりと大きい瞳を点にしていたくらいだ。

 

「紅茶は、セイロンのフルリーフでいいかな? ちょうど新茶の、はっきりした味わいのが入ってるんだ」

「ありがとうございます」

「少々お待ちをー」

 

 フルリーフ。ということは、オレンジペコだろうか。

 多分、きっとそうだ。

 

 分かっていても、オレンジペコは自分からそのことを言ったりしない。

 間違っていたら恥ずかしいし、わざわざ彼がそんな言い方をしたのだとしたら、サーブする時に改めて言ってくれるだろうから。

 

 あっという間にホットクロスパンとお菓子を平らげて、ゆっくり詩集を読んで待つこと数分。

 

 ポットとカップをトレイに載せて持ってきた彼は、そっと彼女の手元にカップを置いて。

 

「はいよ。セイロンと中国茶のブレンド、当店のオレンジペコでございます」

 

 気取ったように詠う彼に、オレンジペコはくすりと笑って。

 

「わざわざ今それを言うために、さっきはフルリーフなんて言ったんですか?」

「博識なキミには小賢しいごまかしに見えてしまったかっ……!」

「そんなことはないですけど」

「やはり女の子と接するにはまだ経験値が足りないな……修行しなくては」

 

 その黒い短髪を押さえるように後頭部に手をやりながら、彼はおどけた。

 

『キミが博識であることを分かっていても、男というのは格好つけたいものなのだ』

 

 以前そう言っていたことを思い出す。

 

「変に修行なんてしても仕方ないと思いますよ」

「なんだと」

 

 だから、オレンジペコは詩集で口元を隠しながら、彼に伝える。

 

「私以外の人にそんなことしたら、引かれちゃいますから」

「おおう、なんともどぎついご忠告だ」

 

 女子高生にキモいとか言われたら立ち直れねえ、とかなんとか言いながらキッチンに戻っていく彼の背中を見つめて、オレンジペコは緩んでいた口元を詩集から離す。

 

 紅茶とパンと、それからケーキ。そしてもう一つ、彼という存在。

 

 四つ合わさって、オレンジペコはこの店を秘密にしている。

 最初の三つだけだったら喜んで仲間に紹介したであろう店を、つい、あまり多くない欲で。

 

 最初は自分でも驚いた。彼、ひいてはこの店の為なら多くの人に広めた方がいいだろうに。

 けれど、"あまり繁盛しすぎないようにしている"という彼の言葉が、免罪符となってしまって。未だに誰にも打ち明けられていない彼女だけの場所。

 

「……ダージリン様。こんな格言を知っていますか?」

 

 オレンジペコは、ついここには居ない己の先輩に向けて呟く。

 

「人生で一番楽しい瞬間は、だれにも分からない二人だけの言葉で、だれにも分からない二人だけの秘密や楽しみを、ともに語り合っている時である」

 

 手元にある、ゲーテの詩集に書かれていたその言葉。

 

 オレンジペコは今朝、自分の恋愛については一切語らなかった。

 

 嘘は言っていないけれど、打ち明ける理由もなくて。

 

 このゆったりとしたひと時を、店員の彼と客の自分で楽しむのが、オレンジペコにとってのささやかな恋であるなんて、わざわざ口にする意味がない。

 

 彼女にまで先を越されていると知ったら、ダージリンもどうなるか分からないのだし。

 

 今日も閉店の間近までゆっくり詩と紅茶を楽しむ。

 

 最近はやたらとはまってしまった、恋の詩を。

 

 

 と、その時だった。

 

 階下から誰かが上ってくる足音がしたのは。

 

 珍しいこともある。この夕暮れの時間帯に客など、オレンジペコは会ったことがない。

 そしてそれは彼も同様のようで、今から来るであろう客に向けてカウンターからひょっこりと顔を伸ばしていた。

 

 そして。

 

「ろ、ローズヒップ参上でございますわ!!」

「ローズヒップ。止まりなさい。あまり声を上げるものではありません」

「わ、分かっていますわ! で、でもこう、緊張というかなんというか」

 

 オレンジペコは、文字通りフリーズした。

 

 何故、ここにチームメイトが。

 そして、彼女は誰よりも早く察することが出来た。

 胸が早鐘を打つ。何故、という二文字が脳内を踊る。

 

「ま、また来ましたのよ!」

「ああ、この前の。いらっしゃいませ。本日"は"営業してますよ」

「分かっていますわ! OPENの文字が見えたからこそ、私はやってまいりましたのよ!」

「どうぞ、お好きな席に」

 

 嗚呼、なんで。

 

 こんな酷なことがあるだろうか。

 顔を真っ赤にしたローズヒップが、それでも楽しそうに、嬉しそうに彼と話している。

 

 その様子は、雰囲気こそ全く違えど自分と彼が話す時のそれと酷似していて。

 

 すぐに、察した。

 

 ローズヒップに、意中の殿方が居る。

 

 それがまさか。

 

「あら、オレンジペコ」

「……ダージリン様」

 

 嬉々として彼と話すローズヒップの後ろで、店内を見渡していたダージリンと目が合って。落ち込み具合がバレていないかと目を逸らしながら、それでも頭を下げる。

 

「じゃあせっかくですし、当店自慢の美味しいケーキを振るまうとしましょうか。そのつもりで来てくれたのでしょう?」

「もちろんでございますわ!!」

 

 謎のサムズアップをするローズヒップは、終ぞオレンジペコには気づかなかったようで。

 ダージリンと纏めて席に案内されたさいにも、なんでオレンジペコがここに? と何も察しない様子だった。

 

 

 これは、そう。

 自分は、きっと。

 

 ダージリンたちと同じように、ローズヒップの恋を応援するわけにはいかないようだ。

 

 




ローズヒップが可愛い話を書こうとしたらオレンジペコの魅力にやられていた。


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ローズヒップ、気張りなさい

 その日は午後から雨だった。

 

 まだ小雨であれば鞄を頭の上に掲げて駆ける程度で雨露を凌ぐことが出来たかもしれないが、あいにくと今日のそれはぽつぽつとコンクリートの地面を雨模様で彩っていくような可愛いものではなかった。

 

 まさしく篠を突くような激しい大雨は町全体を雨音で覆い隠していて、視界すらままならない中を一人彼女は走っていた。

 

 一生の不覚ですわ!

 

 歯を食いしばりながら、勢いよく水たまりを踏んづけて彼女は駆ける。

 

 知らなかったのだ。今日がこんな大降りの悪天候だなどと。

 そしてクラスメイトや戦車道のチームメイトが足早に傘を抱えて帰る中、つい大事な巡航戦車の整備に時間を費やしてしまったのが運の尽きだった。

 

 ニュースキャスターは昨日、再三に渡って大雨警報についての注意喚起を述べていた。

 今日は雨が凄いらしいから早く帰ろうと、クラスメイトたちは談笑の中にそんな話題を交えていた。

 

 彼女はたまたま昨日テレビを点けず、たまたま今日の休み時間はやり残した宿題に追われていた。

 

 ずぶぬれになっていく身体は徐々に冷えていって、もう冬は過ぎたというのに荒い呼吸に白色が混ざっている気がする。自覚したと同時に襲いくる寒さは無視できるほどぬるくなく、彼女は散々の雨のなか屋根のある場所へと飛び込んだ。

 

「……へくち」

 

 口元を隠しなさい、ローズヒップ。

 敬愛する先輩の言葉が聞こえたような、聞こえなかったような。

 ずぶぬれの鞄を地面に転がし、寒さに耐えるように両腕を抱え込んでいた彼女には、とっさのくしゃみに備えるだけの余裕すらもなかったのだった。

 

「……ここ、どこですの」

 

 ふと、気づく。

 雨で視界が酷かったのもあろう。よく分からない道に踏み込んでしまっていたようだ。

 

 とっさに屋根下に飛び込んだのはいい。

 けれど振り返ればその店にはシャッターが下りていて、目の前の細い通りには人っこ一人歩いていない。

 

 大雨であるから仕方ないだろうという思いはありつつも、どこか閑散とした雰囲気の漂う一本道だった。

 

 きょろきょろと回りを見渡してみると、明かりのついている家屋はところどころにある。イギリスの商店街を彷彿とさせる、一階を店として二階以上を住居にするような形。

 

 階層の少ない雑居ビルのようなイメージの赤煉瓦が、この細道を埋め尽くしていた。

 

「マチルダIIはおろか、クルセイダーでも通れそうにありませんわね」

 

 だからだろう、この道を彼女が知らなかったのは。

 

 しかし、

 

「いい場所ですわ。こんな雨にさえ見舞われなければ」

 

 雨が降らなければ終ぞ知らずに終わったかもしれない場所。

 そう分かってはいても、釈然としない思いがあった。

 

 燦々と降り注ぐ日光の下であれば、こんな通りを買い物でもして歩くのは休日の過ごし方として非常に素晴らしいものだろう。

 

 だからこそ惜しい。

 いつ上がるか分からない土砂降りの雨、それを生み出す鈍色の黒雲を睨みつけながら、彼女は小さくため息を吐いた。

 

 その息すら白く染まっていることに気が付くと、また連鎖的に寒さを思い出してしまう。

 

 雨雲が消え去る予兆はなく、むしろついにこの細道を川に変えてしまうほどの勢いだ。

 

 先ほどまで目下にあった水たまりは消え去り、代わりにごく浅い水の流れが出来上がってしまっている。

 

 ぐっしょりと水のしみこんだローファーが気持ち悪い。

 

 冷え込んだ肩が寒い。

 

 庇はこの店以外になく、どこへ行くにもまたぬれねずみになる必要がある。

 

 今日は最悪の日だ。

 

 何度目になるか分からない嘆息を漏らそうとした、その時だった。

 

 ざーざーと打ち付けるテレビの砂嵐のような雨音に混じって、ばっしゃばっしゃと豪快な足音が聞こえてきたのは。

 

 思わず、顔を上げてそちらに目をやった。

 雨でべったり張り付いた赤い前髪を避けながら、自らがやってきた方とは反対側に目を凝らす。よくよく見れば、向こうから傘をさしてやってくる人影が見えていた。

 

「What the fuck!! なんだこれ全く、大雨警報どころの騒ぎじゃないだろうが。でかい傘を持ち歩きましょうっつーから言う通りにしたのに、こいつらお構いなしに顔面殴ってくるじゃんか。ブーツの中にまで入ってくるし、ズボンの裾は悲惨だし、あっ、くつぴた、くつぴたつめたひ」

 

 やけにやかましい独り言。

 誰もいない小道、大雨でかき消される音、やるせない思いの三重奏が合わさってしまったが故の悪態だろうが、この道にもう一人立っている少女にとっては丸聞こえだ。

 

 言葉の通り大きな傘に、小脇にバゲットの刺さった茶色い紙袋を抱えてやってくる。

 

 この大雨の中、ようやく見つけた通行人。

 

 彼女は、酷く冷え切ってダウンしてしまった頭で低速の思考に沈んでいく。

 傘の中に入れて貰えないか頼んでみようか。

 流石にそれは変な人だ。しかしだからといって傘を借りる訳にもいかない。

 家に戻ったら傘を貸してください、という方向か。それも無駄に彼に労力を割いてもらうことになってしまう。

 

 うーん、と悩むも、寒さでぼんやりした頭は上手く回ってくれない。

 そんなことをしているうち、みるみる影は近くなってきて。

 

 日本人らしい塩顔の青年だ、と分かったくらいのところで彼もこちらに気が付いたようだった。

 

 面食らったように目を丸くして、ついで気まずそうに目を逸らして。

 それからようやく庇のところにまでやってきて、傘をばっさばっさと開閉して水気を飛ばす。その間の無言は少々痛くもあったけれど、極限状態の彼女にとっては些細なことだった。

 

 ふと、青年がこちらを見る。

 彼も彼女ほどではないにしろずぶぬれで、傘が何の役にも立たなかったことが窺える。

 これは確かに"What the fuck"と叫んだのも頷ける。まさしく"なんだよこれ!"と言った具合の大雨だ。

 

 髪の水滴を飛ばしながら、その茶色の瞳で彼女を見据えて。

 問いかけるようにバリトンの声を漏らす。

 

「……雨宿りには心もとないでしょう」

 

 心配しているようでもあり、呆れているようでもあり、そしてどこか、バツの悪そうな風でもあり。なんとも言えない感情の刻まれたその言葉に、彼女はつい目線を逸らして言葉を返した。

 

「あ、あー。それでも、屋根があるだけ嬉しいですわ」

「確かに、この騒がしい雨の中だ。これ以上居たら風邪じゃすまないでしょうね」

 

 言いながら彼はごそごそとポケットをまさぐっているようだった。

 

 わざわざ屋根の中に入ってきた彼も、人恋しくなった同士だろうか。

 確かにこの雨は、傘がある程度ではもう凌げない。ようやく見つけた庇を借りて雨宿りするのは、何も彼女だけの特権ではない。

 思いを巡らせながら、シャッターにかけられた傘を一瞥する。

 一緒に入ってもいいですか。あとで借りてもいいですか。

 

 様々な疑問が口の中でぐるぐる回っては胃のずっと下の方に戻っていく。

 

 と、彼はぼうっとしている彼女との無言を切り裂くように口を開いた。

 

「ここ、俺の店なんですよ」

 

 ぱちくり。彼女は目を瞬かせる。

 彼が取り出したのは、鍵が幾つもついた金属の輪。

 おそらくはシャッターの鍵を探している彼に、何か返事をしようとして、ふと留まる。

 

 はあ。

 そうですの。

 屋根お借りしてますわ。

 

 脳内に選択肢はあれど、どれもいまいちパッとしない。

 声が出ないまま、ついぽろっとこぼれた言の葉は、自分が全く考えもしなかったものだった。

 

「奇遇、とはこういうことを言うのかもしれませんわね」

「その言葉は、俺も嫌いじゃないですね」

「えっ」

 

 その小さな、言葉ともいえない驚きの感嘆符は誰に向けて出たものだったろうか。

 妙なことを口走った自分かもしれないし、一瞬で合わせてきた目の前の彼かもしれない。

 

 何れにせよ、震える指先を気にしなくなるほどには衝撃的だった。

 

 先輩の影響だろうか。つい、抽象的な表現で何かを彩ろうとしてしまったのは。

 けれどそれは目の前の彼には酷く簡単に受け入れられたようで。

 

 これはガレージ、これは車だろ。これ玩具のカギだ。ええっと。

 ポケットから出した金属の輪をかちゃかちゃやりながら、青年は目当てのものを見つけたようで、このどんよりした雨の中気持ち良い笑顔を見せた。

 

「誰の一生にも、偶然ってことがある。俺がこの雨の中買い出しに出かけて、この時間に戻ってきたこと。その間にやってきた初対面の貴女と、こうしてのんびり話せていること。両方の偶然が重なりあった奇遇。俺は、好きですよ」

 

 だから、これも奇遇。鍵の中から目的のものを見つけた時の純粋な笑顔が、彼女の振った話題に対して答えている時に浮き出てきたことも。

 

 不覚にも一瞬、呼吸が止まる。

 思わず目線を逸らし顔を背け、ちらりと窺うように彼を盗み見れば。

 軽い金属の重なる音を響かせながら、シャッター下の錠前に鍵を差し込んでいた。

 

「この土砂降りはまだまだ続きそうですし、いかがでしょうか。店内は温かいですし、紅茶で良ければお出ししますよ。それから、申し訳程度ですがバスタオルなども。本日はお休みをいただいていますので」

「さ、流石にそこまでされてしまうのは申し訳ありませんわ」

「そう言わずに。これでも店を背負っている身ですから、滅多なことはしませんし。……それに」

 

 青年はしゃがみ込んだうえで、持っていた鍵を回して勢いよくシャッターを上げる。

 

"紅茶専門店 M&M"

 

 木彫りの看板が堂々と現れ、木製の扉を彼は開く。

 

「俺の店の前で雨宿りをしていた人との"奇遇"ですから」

「あ、いえ、その」

 

 こんな時、何と言っていいのか分からないけれど。

 親切に簡単に乗るのも申し訳ない気がして口ごもる。

 

 それを察してか彼は少々悪戯めいた笑みを浮かべてつづけた。

 

「ああそうそう。その代わりにといっては何ですが。先ほどの独り言は、誰にも言わないでおいてくださるとうれしいです」

「……ふふ」

 

 土砂降りの雨の中、過剰なもてなしの雨宿り。その代償が一つの秘密。

 

 ついおかしくなってしまって、彼女は笑った。

 

「分かりましたわ。貴方があんなスリーワードのスラングを叫んでいたことは、内緒にしておいてあげますわ」

「ありがとうございます。では、どうぞ」

 

 笑顔で通された、静かで穏やかな店内。雨の騒音から隔絶されたここは、まるで別世界のようだった。

 店の三方は、まるで客を囲むように多くの紅茶缶が棚に入って陳列されている。

 銘柄を眺めている限り、相応以上の品を取り扱っているのが窺える。

 

 こんな場所を知らなかったなんて、という思いと、この雨があったからこその奇遇だったのだという素敵な空想が合わさって、少々気分が高揚する。

 

「ひとまず、これがバスタオルです。身体が冷え切っていないと良いのですが」

「大丈夫でございますわ! 私、これでも体調管理は万全ですの!」

「それなら、良かった。二階のティーサロンで一杯振る舞いますよ」

「あ、ありがとうございます……ですわ」

 

 青年に案内された、マホガニー製の階段を上った先。

 そこは、テーブル席が六つほどの小さなサロンだった。

 

「ここは……」

「俺の店です。あまり繁盛しても仕方がないので、このくらいの席数で。味は保証しますよ」

 

 穏やかに、しかし自信ありげに笑う彼。

 バスタオルで濡れた髪を拭いながら、彼女は強気な微笑みを返した。

 

「私、お紅茶には少々うるさいんですのよ?」

 

 聖グロリアーナ女学院戦車道受講者にとって、紅茶とはシンボルである。

 であればこそ、当然熟達した味覚を持っていた。

 

 一瞬目を丸くした彼は、彼女の服装を見て何かを察したように頷く。

 おそらくは制服。タンクジャケットでないにしろ、聖グロリアーナの生徒というだけで想うところがあったのだろう。

 

 しかしそれでも、彼は先ほどの笑みを崩さない。

 

「では、お好みをどうぞ。今日はケーキはありませんが」

 

 その問いかけを聞いて、ふと彼女は指を唇に当てた。

 そして。

 

「ハーブティーを、おすすめで」

「かしこまりました」

 

 そう、大ざっぱな注文をした。

 

 この雨の中、寒さもあったが心労も相当なものだった。

 であればこそ、ハーブティーを。寒さを取るならジンジャーティーも悪くはないが、今はもっと違うものを欲していた。

 

 もし、奇遇というものが重なるのなら。

 

 その楽しみを、もう少し味わってみたかった。

 

 通された近くのテーブルで待つこと数分。

 ほんのりと漂ってきた香りに、彼女は目を丸くする。

 

 これは、ひょっとして。

 

 やってきた彼はトレイにカップとポットを載せて。

 

「大雨の中ですから、リラックスできて、やはり見た目にも温かいものがいいかと思いまして。それになんだか、せっかくお任せされたのですから貴女に合いそうなものを」

 

 そっと目の前に添えられたカップに、紅がきらきらと注がれていく。

 

 ぼんやり見つめる彼女の傍ら、サーバーとして品を説明しようと彼は口を開く。

 しかし、もうなんだか我慢しきれなくなって、彼女は。

 

「ハイビスカスと――」

「ローズヒップのハーブティー、ですわね」

「おっとと。流石は紅茶の聖グロリアーナ。見た目と香りが主張すれば一瞬ですね」

「当然ですわ。……それに」

 

 奇遇、というのは、大変悪くない。

 彼は好きだと言っていた。自分も、好きになれそうだ。

 

「……聖グロリアーナ女学院戦車道では、認められた隊員に紅茶の名前がつけられるのですわ」

「ああ、そういえば。……ん、それを今言うというのは」

「ふふふっ」

 

 あまりにも、楽しくて。

 彼女は抑えきれない笑いと一緒に、カップに一口。

 

 美味しかった。温かくて、ブレンドの配合も絶妙で。

 ローズヒップを単体で飲むのも好きではあるが、この"二種類が混ざり合った調和"が今は大変に心地いい。

 

 呆気に取られている彼も、おそらく見当がついているのだろう。

 そして、それが正解。

 

 胸に手を当てて、彼女は言う。

 

「せっかくですわ。自己紹介を。私、ローズヒップ、と呼ばれていますの」

「……ははっ。奇遇というのは、素晴らしいね」

 

 凄いこともあるものだと。彼が笑うのに合わせて彼女(ローズヒップ)も微笑んだ。

 どうしようもなく楽しくて、嬉しくて。こんなことは初めてだったから。

 

 

 

 

 翌日、ローズヒップは当然のように風邪を引いた。

 しかしその熱は、冷えた反動なのかそれとも……そのほかの理由によるものなのかは分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日を隔てた、M&Mのティーサロン。

 彼の居ない場所で、その出来事を朗々と語るローズヒップの姿があった。

 

「素敵なお話ね。"人生は、出会いで決まる"。その在り方を実感したわ、ローズヒップ」

「当然でございますわ! おほほほほ!」

 

 ハーブティーを片手に、心の底から楽しそうに笑うローズヒップ。

 それに応えるのは、先輩であり戦車道の隊長でもあるダージリンだ。

 こんな素敵なティーサロンで、美しい出会いがあったこと。それを思うと、ダージリンも自然と微笑みがこぼれる。

 

 今のところただの吊橋効果のようなものではないかと思いはすれど、それを指摘するほど野暮ではないし、何より出会いの形としては憧れもある。

 

 その先が恋人でも友人でも。

 

 自分が頼んだ紅茶も、相応の品だ。まさかオートクチュールのダージリンティーがおいてあるとは。腕も一流とくれば、申し分ない。

 そっとカップに口をつけ、先ほどから無言のもう一人の後輩に目を向ける。

 

 普段であれば、『マルティン・ブーバーですね』と格言の元を付け加える彼女が、どこか落ち込んだように肩を落としている。

 

 珍しいこともあったものだ。

 また明日にでも詳しく話を聞いてみようと思いつつ、今は幸せそうなローズヒップの言葉に耳を傾けていた。

 

「どんな"奇遇"だって、言うんですか……」

 

 傾けていたからこそ、隣の少女――オレンジペコの言葉が聞き取れなかった。

 しかし、その落ち込みようからして。

 

 なんだか妙に、ダージリンも嫌な予感が拭えない。

 

 ――まさか、ね。

 

 もう一口紅茶を飲んで、心を落ち着ける。

 

 これから自分も、どんな奇遇に巻き込まれていくのか知らずに。

 



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オレンジペコ、欲張りなさい

『如何なる時も優雅』

 

 それが聖グロリアーナの戦車道その真髄だと分かってはいても、オレンジペコの心中はまるで穏やかとはいかなかった。ましてや優雅に振る舞うなど、それよりも先にこの隠しきれない動揺からなる震えをどうにか治めてからでなければ思考を割く余裕もない。

 

 "彼"お手製のブレンドティーをそっと口腔に流し込む。温かさがするりと喉元を滑り落ちていく感覚に集中し、懸命に雑念を消していく。

 

 戦車内で紅茶を飲む時と同じ、ある種の精神安定のルーティンだった。

 

 ふっと開けた視界には、見慣れた風景に見慣れない光景。

 

 この場所でなければ穏やかで楽しかった光景は、今まで独り占め出来ていた風景の中にあっては異物だった。

 

 無論ここが自分だけの場所だと主張する気はないし、そんなことは思ってもない。

 彼女たちも連れて、一緒に来たいと思った回数も片手の数では足りないほどだ。

 ただ、"一人でここに居たい"と思ったことも同じ数だけ重なっている。

 

 盗み見るように隣に座る二人の少女に目をやれば、片方は明朗快活に元気な喋りを見せており、もう片方は聞き手に徹しながらも機嫌良さそうに頷いていた。

 

 ティータイムに彼の紅茶が添えられて、それが彼女たちのこの楽しい空間に一役買っているのだとしたら喜ばしいことではある。

 ウソではない。隣に座る自分の先輩が先ほどこぼした「おやりになるわね」という一言はまさしく手に握ったカップに向けて発せられていたもので、それが分かったオレンジペコはつい口元を緩めていたのだから。

 

 敬愛する先輩が、自分の好きなものを好きと言ってくれた。

 共感を得られた時の喜びに心は踊る。

 

 そうでしょう、そうでしょう。だからいつか、貴女にもご紹介したかったんです。

 

 胸の内で呟いた言葉も本心だ。

 

 彼が"繁盛しすぎるのも考え物だ"と言っていたからこそ自分から誘いをかけるのは少々渋られたが、それでもこの先輩や目の前の同輩が純粋にこの喫茶店の存在に気付いてやってきたのだとしたら、歓迎しつつ事情を話すだけの用意もあった。

 

 仕方ない、という気持ちがないかといえば、窮するけれど。

 

 けれどそれはあくまで"彼"に関係のない場合に限ったもので、こんな状況に陥っていたのであれば話は別だ。

 

 聞けば聞くほど折り重なった偶然の産物で、おまけに彼は例のかっこつけたがる悪い癖を出していた。

 

 今日の忠告を、数日前に言っていれば。

 あの雨の日に彼が買い物に出なければ。

 迷った彼女がここに雨宿りをしなければ。

 そのタイミングが重ならなければ。

 そもそも、雨なんて降らなければ。

 ……その末に彼女が恋に発展しなければ。

 

「どんな"奇遇"だって、言うんですか……」

 

 彼女の語りに再三出てきたその言葉につい乗せて、押し殺しても殺しきれない思いの丈を吐き出してしまう。

 

 ……ずるいのだろうか。この感情は。

 

 自分は今、肥えてしまった独占欲に呑まれてしまっているのだろうか。 

 

 敬愛する先輩や絆を感じる同輩とは学校で楽しく話して、放課後はここでゆっくり彼と話していたい。上手く回っていたように見えたこの生活は、欲の張った行為だったのだろうか。

 

 自分だけの場所だったのに。

 もっと、二人で話していたいのに。

 だからといって追い出して悪者になりたくない。

 先輩とも同輩とも、ずっと仲良くしていたい。 

 

 どんなに考えてカードを引いても、裏を返せば醜い我欲が綴られている気がして、オレンジペコは彼女らに向けて声を発することが出来なかった。

 

「オレンジペコ……?」

 

 押し黙っている後輩を見かねて、隣に座っていた先輩が小さくオレンジペコの名前をこぼした。

 しかして幸か不幸か当の彼女は聞こえなかった様子で、先輩は仕方なさそうに目の前のもう一人の後輩のお話に気を戻す。

 

「世に言う優しい男性というのはまさにあの方のことに違いありませんわ! イギリス紳士のようなレディーに対する扱いと、一級品の才を持ち合わせたもてなしの形! 私、これほど男の子に興味を持ったことありませんわ!」

「ローズヒップ、お止めなさい。そのお相手、キッチンの奥に居るのでしょう?」

「はっ! ヤバいですの!」

 

 片手の紅茶を波立たせながら、空いたもう一方で口元に蓋をする少女――ローズヒップ。

 やってしまった、と言わんばかりのぱちくり瞬かせた目はダージリンに窘められる度に行う仕草だが、こんな時だけ顔を上げてしまったオレンジペコには朱に染まった彼女の頬がはっきりと映りこむ。

 

 見せつけられんばかりの恥ずかしそうなその表情が、オレンジペコの胸中をよりアンニュイな方向へ叩き込んだ。

 

「ところでオレンジペコさんはどうしてここに? 貴女、今日は日課があるとか」

「ぁ、えっと、それは」

 

 突然ローズヒップから話題を振られて、オレンジペコは答えに窮した。

 

 日課。

 確かに今日もそう言って抜けてきている。

 特別、説明が難しいこともない。彼女にとっての日課とは、放課後この喫茶店を訪れてホットクロスパンと紅茶を楽しみながら詩集を読み、時折給仕や諸々にホールへ顔を出す彼と会話をすることなのだから。

 

 ただ、それをストレートに彼女に伝えていいものなのか。

 そんな疑問が脳裏をかすめてつい機を逸した。

 はきはきと、当然のように堂々と、丁寧に答えを返すことが出来れば印象もまた違っただろうに。

 

 今日の自分はどうにかしている。そんなことは先刻承知であったが、それにしたってもっとやりようがあったろうと内心で嘆息する。

 

 訝し気に彼女を刺すローズヒップの視線。

 もういっそ謝ってしまおうかと思ったその時、助け船を出したのは隣の先輩であった。

 

「オレンジペコの日課は、ここを訪れることよ。こんな格言を知っている? 言わぬは、言うに勝る」

 

 ふふん、といつものように鼻高々に人の言葉を持ち出す先輩は、いつものように頼もしかった。オレンジペコに向けられた一瞥に含まれた意味を察して、オレンジペコは続けるように言葉を紡ぐ。

 

「源氏物語ですね。……ダージリン様の日本の格言は珍しいですが」

「……確かに、紅茶飲みに行ってきます、なんて我が校で言ったら何言ってんだってなりますわね」

「一人でゆっくりしたい時は、だれにだってある。けれど、それをわざわざ口にするのは角が立つ。オレンジペコは気遣いの出来る子だから」

「……あの、ダージリン様」

 

 やめてください、とは言えなかった。

 恥ずかしかったのは事実だとしても、こうまであからさまに庇われては黙って従うしかない。彼女――ダージリンの口ぶりからして、もしかしたら放課後のオレンジペコの行動を知っていたのかもしれないし知らなかったかもしれない。しかしそれは些細なこと。

 

 大局を見ることに長けている彼女の前では、自分は給仕係に徹するのが一番だと身に染みて理解していた。

 

「一年生ながら同じ紅茶の名を貰った者同士……流石ですわ!」

「や、やめてください」

 

 ローズヒップには言えた。

 

「ところで、ダージリン様、オレンジペコさん」

 

 照れ隠しに眉尻を下げるオレンジペコと、隣でゆっくりと紅茶を傾けるダージリン。

 二人に向けて、ローズヒップは頬を引き締めて目を合わせた。

 

 何を言うつもりだろうか。

 変に警戒するオレンジペコを置いて、ローズヒップは酷く真面目な顔で問いかける。

 

「……やっぱり、恋占いとかって参考になりますの?」

「……はい?」

 

 一瞬真っ白に頭をもっていかれて、持ち直す。

 

「恥ずかしながら私、中等部までは庶民派でございましたわ。こう、聖グロリアーナ女学院にあっては花占いを的中させることくらい容易なことでなければならないのかと」

「あ、いえ、別にそんなことは」

「勝負は時の運。運を味方につけようと思う時に使いなさい」

「ダージリン様!?」

 

 貴女、戦車道の前に芝生で花占いでもやってらっしゃいますの?

 問いかけたい気持ちでいっぱいなところをぐっと堪えて、ローズヒップを一瞥。

 

「なるほど、デートに誘う時、とかですわね! ありがとうございますわダージリン様!」

 

 怪しいお嬢様言葉を使いこなし礼を言うローズヒップ。

 これで良かったのかと聞きたいくらい微妙な内容ではあったが、彼女にとってはセーフだったようだ。むしろ参考になったらしい。

 

 だんだん緊張もほぐれてきて、ほっと一息。

 ぬるくなってしまった紅茶の残りを一口味わっていると、おもむろにローズヒップは立ち上がった。

 

「お花を摘んでまいりますわ!」

「今から!?」

「あまり大きな声で言うものではなくてよ、ローズヒップ」

「……あ、そういう意味ですか」

 

 調度品の花瓶の前を通り過ぎてWCと書かれた看板の方へ向かっていくローズヒップを見送って、勘違いを悟ったオレンジペコはため息を一つ吐いていた。

 まさか本当に今から店のもので花占いをするとは思わないが、彼女(ローズヒップ)なら万が一がありそうで怖い。そう思う自分は失礼なのだろうかと難しい顔をしていると、静かになったサロンでこぼされる言葉が一つ。

 

「……貴女もなの? オレンジペコ」

「……あ、えっと」

 

 まさかお手洗いのことではないだろう。わざわざローズヒップの居なくなったところで問いかけられたその言葉の意味はおそらく一つだけだ。

 

 窓に取り付けられた白い小さなカーテンがドレープを作る。

 ふわりと入ってきた陽光と、ほんのり花弁を揺らす程度の微風。

 

「ここに来ていたこと、ご存じだったんですか」

「いいえ。だからちょっとだけ残念だったわ」

「申し訳ありません」

 

 戦車で浮かべる不敵なものとはまた別種の、いつくしむような微笑み。

 秘密にしていた事実が鎖となって己の心を締め付けて、絞り出したのは謝罪の一言。

 

 けれど、それすらもダージリンは気にしない様子で。

 

「イギリス人は、恋愛と戦争には手段を選ばない。聖グロリアーナ女学院戦車道のメンバーである以上、貴女がそれに全力なのであれば、私は何も言わないわ」

「ダージリン様」

「けれど、運命は浮気者。強い方が勝つとは限らないわ。勿論、先に好意を持った、なんて言い訳にもならない。私はどちらの肩も持たないわよ?」

「いえ……ありがとうございます」

「私もそろそろ恋がしたいわ」

「ダージリン様!?」

「冗談よ。盗ろうなんて思わないわ。私だって、ちゃんと自分でひとを探して選ぶのだもの。白馬の王子様を待ってなんていられないんだから」

 

 楽しそうに、詠うように、ダージリンは笑う。

 その笑顔が眩しくて、そのやさしさが嬉しくて、だからオレンジペコは敬意と一緒に一つだけ、伝えておきたいことがあった。

 

「……ダージリン様、お願いですから同じ相手を好きにならないでくださいね」

「ここは私、お礼を言われる場面だと思うの」

「ダージリン様のような素敵な方と同じレーンに並んでしまったら、勝ち目なんてないんですよぅ」

「貴女はとても良い娘よ。他の人なら我欲に溺れてしまうところを、一生懸命自制できる。もう少し素直になってもいいくらいね。……それに、私に対するイメージは結構な買い被りだわ」

 

 ぱちくりと目を瞬かせ、ダージリンはその大きな蒼碧の瞳でオレンジペコを見た。

 そして悪戯っぽく指を立てて。

 

「私、こう見えて花占いもしたことないほど初心者なんだから」

「知ってます」

「ひどいわ!」

 

 思いのほかリアクションが大きいダージリンに、隠しきれない笑みを見せて。

 仕方がない子ね、と目元を緩ませたダージリンも一緒に笑う。

 

「さっき、つい源氏物語の言葉が出てきてしまったけれど」

「へ?」

 

 なんのことだろう。

 唐突な話題の転換に、きょとんとオレンジペコは首を傾げる。

 ダージリンは頬を掻きながら、「あれは」と続けた。

 

「オレンジペコに恋愛で先を越されて、ほんとはちょっと動揺していたのよ。私」

「源氏物語みたいな恋愛がしたいんですか」

「違うけれど!?」

 

 ああ、本当にこの人の後輩で良かった。

 今日初めての無邪気な笑みを見せて、オレンジペコは思う。

 

 どんな時でもユーモアと一緒に勝利を持ち帰ってくるこの人が居るから、自分は頑張っていられる。装填手でいられる。

 

「ありがとう、ございます」

「ん、いい笑顔。よろしいんじゃない?」

 

 一時はどうなるかと思ったけれど、やっぱり戦車道のメンバーと一緒に居られる幸せを実感して。

 

 それと、同時だったろうか。

 

 あの爆走少女の大きな声が、ホールの奥から聞こえてきたのは。

 

 ぱたぱたとティーサロンを駆け戻ってくるという暴挙に出た彼女は、二人の居るテーブルまで戻ってくると、目に見えてはしゃぎながら頬を紅潮させて席につく。

 

 うきゃー、とでも言いそうな瞳に、オレンジペコの心が警鐘を鳴らす。

 

 しかし、彼女に今できることなどなく。

 ローズヒップは、心の底から嬉しそうに口にした。

 

「やりましたわやりましたわやりましたわ! 明日の定休日、デートを取り付けましたのよ!!」

 

 調度品の花瓶に入ったヒヤシンスの、赤い花弁が一枚散った。

 




赤いヒヤシンス
表(ポジティブ)の花言葉は「競技」
聖グロリアーナ女学院戦車道にはぴったりですね。


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ローズヒップ、突っ込みなさい

 学校にある捻るタイプのバルブとはまた違う、ペダルのようなハンドルを軽く倒す。

 黄金色(こがねいろ)に輝く蛇口から水が真下に向かって滑るように流れ出し、シンクとの間に両手を突っ込んで揉み込むように洗っていく。

 

 お手洗いのあとには、当たり前にいつでもやっていることだ。

 珍しくもなんともない。

 

 ただ今日に限っては、妙に指先を何度も洗ってしまったり、

 なんでこの水はまっすぐ綺麗に降りて来るんだろうと余計なことを考えてしまったり、

 楕円形の鏡に映った自分をまじまじと見つめてしまったり、随分と無駄が多かった。

 

 石鹸で何度洗浄しようとぐんぐん綺麗さが上がっていくわけではないし、

 ローズヒップは整水板なんて仕組みがあることを知らないし、

 鏡に映るのはハンカチ咥えた状態のいつも通りの自分自身。

 

 どの行為も、無意味だとばっさり切り捨ててしまえる程度の所作でしかない。

 手を洗う回数を増やそうと、知らないことを考えようと、鏡を見つめようと、見た目も雰囲気も変わらない。

 

 けれど。

 改めてハンカチで手を拭ったあと、パチンと両頬を叩いて気合を入れた彼女の目つきは戦車に乗っている時と同様の迫力があって。

 

「……あはっ」

 

 次いで転じるように魅せた可愛らしい笑顔は、今までの彼女にはない種類の表情だった。

 

 曰く、吊り目がちできつめに見える顔立ち。いまその眦はぐっと下がって、ふんわりとウェーブした赤髪と組み合わさって蕩けるような印象を与えている。チークどころかナチュラルメイクの一つも施していないというのに赤らんだ頬と、負けないくらい朱色を強調する柔らかな唇は弛緩したように優しくて。

 

 そんなほんのりとした桃色の顔色を一度戻して、彼女は顎に手を当てる。

 

「こんな感じですの? 可愛い笑顔というのは」

 

 多分、間違ってはいないはず。

 別に自分の可愛らしさに自信がないわけではない。それこそ小中と周囲からは"可愛い可愛い"と言われて育ったし、聖グロリアーナ女学院の生徒は殆どが淑やかな名家のお嬢様だ。

 

 貴女も愛されていて可愛いわね、私もそうなの。

 

 そんなお互いを尊重した校風の中にあって、ローズヒップも例に漏れず自らの容姿には自信があった。

 

 とはいえ、それを意図して誰かに向けようとした経験はない。

 故に一縷の不安はあった。

 知らず周囲に愛らしさを振りまいていたのと、誰かに可愛いと思って貰いたいのとでは意識がとてもではないが別物だ。

 

 だから精一杯。

 恋愛偏差値が高くないなら、ないなりに頑張ってみよう。

 リミッターを外して突っ込むのは得意だ。スピードを出して全力で飛び込むのも得意だ。逆にいえばそれ以外に戦う方法を知らないから、自分の持てる限りの力でやってみる。

 

『データによりますと、10代から20代にかけての男性の六割は自分を振り回すような元気のある女性を好むようです』

『成功は大胆不敵の子供。貴女なりの一番を、自信を持って振る舞いなさい』

 

 このティーサロンにやってくる前、紅茶を傾けながら先輩二人に言われたことを思い出す。

 

 初めてだけれど、初めてだからこそ初めてなりに。

 

 巡航戦車のトップを任されているのだ。

 その自分が、相手を捉えられずに居る訳にはいかない。

 

 鏡に向かって力強く頷いて、外に出た。

 

「あらっ?」

 

 二人のチームメイトが待つテーブルに戻ろうと、カウンター前の通路を抜けようとしたと同時。ちょうど入れ違いに戻ってきた青年とばったり出くわした。

 

 思わず出てしまった声に反応して彼も顔を上げる。

 接客には慣れているのだろう。

 畏まり過ぎない緩やかな笑みを会釈に変えてローズヒップに道を譲ると、ふと思い出したように指を立てた。

 

「あのあと、体調など悪くなりませんでしたか? 無理にお引き留めしてしまったようなものなんで、もし風邪などひいてしまったら申し訳ないなと思っていたんです」

「うぇ!? ああいえ、大丈夫ですわ!」

 

 実際はそれほど酷くないにしろ風邪を引いてしまったわけなのだが、それは引き留められなくとも同じだったように思っていた。

 少なくともあの土砂降りの中一人で放り出されたらあの時以上に身体を冷やしてしまう結果になっただろうし、どれだけ豪雨の中をさまようハメになったのか分からない。

 雨上がりに彼が道案内をしてくれたからこそ、どうにかまっすぐ寮に戻ることが出来たのだから。

 

 だからこそぶんぶんと首を振って、振ってしまってから行儀が悪かったかと固まって。

 取り繕うように顔を背けて笑う彼女の頬は、羞恥から赤く染まっていた。

 

「でしたら、良かった」

「お、おほほほほ」

 

 誤魔化すような形になってしまったが、とにもかくにも。

 変に責任を負わせたくはなかったし、せっかく意図せずして会話のきっかけが生まれたのだ。

 先ほど鏡に向かって入れた気合を、今こそ放出して頑張る時だと彼女の中の二頭身ひっぷちゃん達が声を大にして叫ぶ。

 

「そ、そういえばケーキ、とっても美味しかったですわ!」

「ローズヒップさんには、紅茶のシヴストをお出ししましたね。気に入っていただけて何よりです」

「カラメルの甘味とほんのりした果実の調和、それにあの生地の柔らかさ。紅茶と主張が優しく混ざり合うあのお味。聖グロにも、あんなに素敵なケーキはありませんわ!」

「や、流石においそれと受け取れる賞賛じゃないですねそれは……。でも、気持ちは俺も嬉しいですよ。お菓子にも力を入れていて良かった」

 

 照れ隠しのような苦笑を交えつつも、彼が喜んでいるのは目に見えて分かった。

 実際、聖グロリアーナ女学院と提携しているイギリスの菓子よりも彼のケーキの方が美味しかったと、彼女自身胸を張って言える。少なくともひいき目なしに、好みではあった。

 

「まあ、本当は聖グロリアーナ女学院に売りませんかっていう話もあったにはあったんですけれど」

「本当ですの?」

「でも、どう足掻いても時間が足りないのと、あまり売り上げにこだわってもいないので遠慮したんです。本店から送ってくるところと違って、うちはここのキッチンしか使えませんから」

「あ、あー……」

 

 オーク製の黒い会計カウンターにそっと手を乗せて彼は言う。

 確かに、見える範囲でのキッチンはそれほど大きくはなさそうだ。

 

 もう一つ気になるワードを聞いて、ローズヒップは問いかける。

 

「売り上げにこだわっていないというのは、つまりどういうことですの?」

「それに関しては色々理由があったりするんですけど、一番は――そうですね。常連さんが楽しめるお店を目指したいというところでしょうか。知ってくれる人が、いつも居てくれればいい。だから、名前が売れそうなことを率先してやろうとは思わないんです」

「そういうものなのですわね」

 

 戦車道では常に全力、がモットーのローズヒップにとっては、そういう考え方もあるのかくらいの感想だった。

 

 会計用のカウンター奥、棚に小さく並べられてある何等かの賞状を一瞥して彼女は思う。

 随分控えめな人なのだと。

 ここからではなんの賞でどんな成果を残したのかすら見えない。あれも客に見せるために飾っているのではないのだろう。

 

 思わず、彼女は言葉をこぼす。

 

「……オレンジペコさんが足しげく通う理由も分かりますわ」

「ありがたい常連さんです。あんな風にゆっくり寛いで貰えるのが、俺の理想だったので。いつもちっちゃく詩集を読んでいる姿が、窓際のあの席でとても絵になるんですよ。……他の常連さんに紹介してくれって頼まれたことも一度や二度ではなくて」

 

 おどけたように言葉を返した彼は、しかし心底から楽しそうだった。

 

 なんだか少し、不思議な感覚がする。

 確かにオレンジペコは可愛いし、彼女にしかない魅力がある。けれど戦車道においてはいつもダージリンの影になっている存在だ。そんな彼女が陽の当たる場所で回りから綺麗な花のように思われている事実は、まるで好きな花の二種類目の花言葉を初めて知ったような驚きがあった。

 

 そして、そんな純粋な驚きとは別に、もう一つ心の中でもてあます感情がある。

 

「私も……」

 

 私も、私だって、同じように別の側面がある。

 初等部中等部ではみんなの中心で、大輪の華のようだと告白されたことだって一度や二度ではない。周りを引っ張る誰にもない魅力がある、そう面と向かって言われたことも数知れず。自慢になることならいくらでもあった。

 

 けれどそれを彼は知らない。

 それがどうしようもなくもどかしい。

 彼はオレンジペコの魅力は知っていて、自分の魅力(それ)は知らない。

 

 なんだかそれがとても悔しいというか、なんというか。

 ローズヒップの辞書には載っていないなんとも言い難い感情が彼女の中で渦を巻く。

 

 何だか目の前の彼を見ていられなくなって、ちらりと壁際に目を逸らした。

 花瓶に刺さった一輪の花。赤いヒヤシンス。花言葉は、競技、だったか。

 

 ふと、気付いた。負けたくないのかもしれない。

 ちょっと違う気もしなくはない。けれど、負けたくないという想いはある。

 

 誰に? オレンジペコに。どうして? ……なんとなく。

 連鎖的に先ほど彼女らと話した花占いのことを思いだして、ローズヒップは顔を上げた。

 

 目の前には、相変わらず青年の姿。いま現在、客が居ないとなれば別に仕事も多くないのだろう。一瞬押し黙ったローズヒップが何かを言うのを、待ってくれている。

 

 だから、競技に挑む。

 花占いをする時は、運を味方につけたい時。

 花びらをちぎるのも忍びないので、ざっくばらんに枚数を数える。

 

 たぶん五、六枚。いける、いけない、いける、いけない……うん、五枚でしょう。そのはず。 

 

 息を吸い込んで、せっかくだから雑念を振り払って、鏡の前で練習した華やかな笑顔で。

 

「明日は定休日でしたわね!」

「え? あ、ああ、ちょうど貴女と会った日から一週間ですし」

 

 突然の話題変更に戸惑ったのか若干たじろぐ彼。

 だが、思い通りの返事がかえってきた以上会話を続けても構わないはずだ。

 

 クルセイダー、目標を捕捉。

 心の中でそう呟きつつ、一歩近づいて彼を見る。

 身長差から覗き込むような形になってしまうが、だから何だって話。別に失礼はないはずだ。

 目を瞬かせて、若干驚いたような表情の彼に、そのまま畳みかけるように問いかける。

 

「な、何か用事はありますの!?」

 

 これで、恋人とのデートの約束、などと言われてしまったら。

 そんな不安が脳裏をよぎる。

 けれど、花占いではいけると出た。ローズヒップの中ではもう既にそうなっている。

 

 なら、とにこやかな笑顔をそのままに問いかければ、目線を逸らした彼の口から出たのは何とも拍子抜けな返答だった。

 

「特に、その。次の一週間の為の買い出しですよ」

 

 思い出すのは、出会った日。

 

「……あー、紙袋抱えて?」

「あの時の光景は忘れてくれと言ったでしょうに」

「スリーワードのスラングは、初めて聞いた貴方の言葉ですわよ?」

「勘弁してくださいって」

 

 内緒ですからね? と付け加えるように言う彼。

 それが何だか楽しくなってしまって、ローズヒップは無邪気に自らの唇を指で撫でた。

 

『人生で一番楽しい瞬間は、だれにも分からない二人だけの言葉で、だれにも分からない二人だけの秘密や楽しみを、ともに語り合っている時である』

 

 そんな格言を、ローズヒップは知らない。

 ただただ楽しくて、不思議なふわふわと浮ついた心地よさが彼女を包む。

 

「ふふふ、だれにも教えませんわ! ……それで、宜しければ私にお手伝いさせていただけませんこと? その、やっぱりお紅茶のお礼がこれだけというのは」

 

 会話そのものが楽しいとはいえ、その目的を忘れたわけではなかった。

 だからこそ、内心は恐る恐る。けれど表面的には全力で誘いをかける。

 

 生来の力強さに、戦車道で身に着けた勢いを乗せて。

 

 そんな彼女の眼力が意味を成したかどうかは分からないが、彼はすっと思考するように軽く上を見上げてから。一つ呼吸を入れて、申し訳なさそうに、しかし優しい笑みを湛えて頷いた。

 

「気を遣わせちゃったら本末転倒、か。そういうことであれば、お願いします」

 

 心の中のひっぷちゃんたちが喝采を上げた。

 

「や、やりましたわ! 聖グロ1の俊足、お見せいたしますわよ!」

「いや速さはあまり関係ないかなと」

 

 そんなツッコミは最早、それこそ関係がない。

 

「それでは明日、……朝、屋根の下でお待ちしておりますわ!」

 

 青年にとってはよく分からないハイテンションで、ローズヒップは駆けていく。

 同僚であろう彼女たちの方へ。

 

 そんなローズヒップの楽しそうな後姿を見つめながら、青年は頬を掻いていた。

 

「……昼過ぎからで良かったんだけど」

 

 たまには朝から出かけるのも悪くはないか。

 しかし、一瞬だけ彼の表情に翳が差す。

 あんな可愛らしい少女と一緒に、ましてや聖グロリアーナ女学院のお嬢様と足を並べて買い物など、思いもよらなかった出来事だ。

 

「……まあでも多分、大丈夫か。なんとかなる」

 

 踵を返して、カウンターの奥へと戻っていくその視界の端で、何かがひらりと落ちたことに気が付く。

 

 花瓶に差していたヒヤシンスの花びらが、一輪五枚に減っていた。

 



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オレンジペコ、耐えなさい

 駆け戻ってきたローズヒップが花占いが成功したのどうのと一頻りの報告をし終えた辺りで、ダージリンは自らのコップの底で水たまりのようにうっすらと残っていた紅茶を飲み干した。

 

 少量残してしばらく時間をおいてしまったからか、ぬるめを通り越して少々冷たくなっていたそれが喉を通り過ぎるのと同時に、コップで口元を隠しながらちらりと隣を一瞥する。

 

 普段の一回りほど小さくなって俯いてしまっている、心なしか顔色もあまりよくない大事な後輩がそこに居た。

 

 既に紅茶は空になっていて、きっと好物が乗っていたのであろう皿も綺麗に真っ白。

 余った時間はきっと詩集と、彼との歓談に回そうと思っていたのかもしれない。

 

 目の前で楽し気に明日のことを夢想するもう一人の後輩は、今日のところはやりたいことをし終えたようであるし、そう考えると彼女のやることは一つだった。

 

「そろそろ、行きましょうか。ローズヒップ」

「へ? 分かりましたでございますわ!」

 

 鞄と上着を抱えて立ち上がると、一瞬面食らった様子のローズヒップも腰を浮かせた。

 財布と伝票をローズヒップに手渡して会計をお願いすれば、彼女は妙に責任感を思わせる顔つきでそれらを受け取って出口近くの会計カウンターの方へと向かっていく。

 

 そんな様子をほほえましく見守りながら、困惑したようにこちらを見上げるオレンジペコに視線を向けた。

 

「ダージリン様……?」

「あの子は今日したいことは十分できたと思うし、貴女のお邪魔をしちゃった部分もあるから、私たちは先に帰るわね」

「あ、いえ、そんな邪魔だなんて」

 

 思ってない。

 思ってないはず。

 きっと思ってない。

 

 だから首を振ってダージリンの言葉に答えるも、その動きは弱弱しい。

 

 不意打ちがあまりにも多すぎたのだ。

 ここを知るはずのないチームメイトがやってきたかと思えば、

 "意中の相手"が自分と丸被りしていて、

 そして自分よりも早く突然の"初デート"の約束を取り付けた。

 

 自分が何も出来ないままに、嫌な方向へと次々転がっていく状況。

 それがそのまま心労として折り重なって、いつの間にか身体から元気が消え失せていた。

 ローズヒップはきっとオレンジペコの心境なんて知らないだろうし察することも出来ないだろう。無邪気の刃は何よりも心を深く抉って、精神的には瀕死状態だ。

 

「私が言えたことではないけれど、ゆっくりしていってね。そんな顔色で明日を迎えてはだめよ? "暗闇が訪れても、朝はやってくる。希望を捨てないで"」

「……ありがとうございます」

 

 それじゃ、と立ち去っていくダージリンと、お先にですの~、と声を響かせてドアベルを鳴らすローズヒップ。

 

 本当に、嵐のような出来事だった。

 

 重々しい心の中の鉛を吐き出すように息をついてから、手元にあった詩集に目をやった。胸の中にあるのは、喪失感。なにを失ってしまったのだろうと一考して、すぐに答えは出た。

 

 居場所と、平穏。

 自分だけの場所ではなくなってしまった。ああした雰囲気だった以上、ローズヒップはここを頻繁に訪れるようになるだろう。そして、その度に否応なくオレンジペコは危機感を覚えるようになってしまう。それはもう条件反射のようなものだ。

 

 ローズヒップは贔屓目無しに可愛らしい。

 弾けるような笑顔というのはああいうのを言うのだろう。

 そして積極的で元気もよく、自分にはないものを沢山持っている。

 

 だから、沢山アプローチも出来るだろうし、いつ彼に告白しても不思議ではない。

 あんな性格で居ながら、初デートの約束も取り付けていながら、告白には奥手などとは思えない。

 

 考えれば考えるほど、思考が陰鬱な方向に進んでいく。

 

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 もっと自分に彼女のような積極性があればよかったのだろうか。

 客と店員の関係に甘んじていなければよかったのだろうか。

 もっと距離を縮めることを、怖がらなければよかったのだろうか。

 

「私が悪かったのかな……」

 

 誰にも聞かせられない独り言。

 何か悪いことをしたつもりはない。けれど、いいことをしてもいない。

 なら停滞が悪だったのか。そんなことを言われても、自分に出来ることはない。

 

 楽しかった生活が唐突に終わりを告げそうで、心の中がかきむしられる。

 なんでこうなってしまったんだろう。

 

 もう、心の底から落ち着いてここで詩集を開くことが出来なくなるかもしれない。

 そう思うと苦しくて、なんだか視界に靄がかかるようで。

 

「紅茶のお代わり、どう?」

「……へ?」

 

 気づけば夕日を背に受けてポットを抱えた青年が、心配そうに自分を見下ろしていた。

 

「あ、いただけますか」

 

 空のティーカップを回収した彼はトレイの上にあった新しいカップに紅茶を注いでいく。かぐわしい香りが湯気と一緒に踊るように周囲を舞う。

 すん、と鼻に触れたのは大好きな紅茶の種類の一つ。なんだか落ち着けるその香りと、目の前で給仕する彼の姿。

 

 ぼうっと見つめる光景は普段と何も変わらない。

 けれど昨日までの穏やかな心の水面には、今は間違いなくさざ波が立ってしまっている。

 

 もし。

 もし、今日彼女たちさえ来なければ――

 

「甘いものを食べた後だし、せっかくだからとっておきのアフタヌーンティーを淹れてみたんだ。感想を聞かせてくれると嬉しいな」

 

 こと、と白磁の陶器が手元に置かれたことで我に返る。

 ぱちくりとその大きな瞳を瞬かせて、オレンジペコは薄目の色をした紅茶に手をつけた。

 

「もちろんです。……その、私で良ければ、ですけれど」

「むしろキミだからお願いしたいんだ。常連さんに良い店を目指しております、M&Mです」

 

 一瞬とはいえ、自分のことを棚に上げて他人に矛先を向けるようなとんでもない思考に身をやつしていたことを思い出して背筋を冷や汗が伝った。

 違う、だれも悪い人はいない。結果として自分にとってはよくないことになってしまったけれど、それを他人のせいにしていたらチームスポーツなどやっていられない。

 

 水面に映る自分の表情はひどいものだった。唇は変に引き締まって震えていて、目元も悲し気に垂れ下がっている。悲壮感漂う、とはこのことを言うのかもしれない。

 

 どうしてこんなことを考えてしまったのか。

 その答えは一瞬で出るけれど、そんな感情が自分の中にあることに嫌悪が隠しきれない。

 

「美味しいです。とっても。ジャスミンと、柑橘ですか?」

「蜜柑だよ。フレーバーティーとしての試作品。なんだか顔色悪かったのもちょっと心配で」

「……あ、はは。色々あって」

 

 色々。

 それが何であるかは分からずとも、来店した時には朗らかだった彼女がこうなった切欠に心当たりがない訳ではない。

 青年は窓の外を眺めながら、言いにくそうに口を開いた。

 

「話したくなければ、いいんだけど。なんかその、友達とこじれでもあった?」

 

 後から二人で入ってきた少女たちが、オレンジペコと話してから先に二人だけで帰った。おまけに残った彼女は悲壮感漂う沈鬱な雰囲気を醸し出しているとなれば、青年でなくともいやな予感はする。

 

 だからこその問いかけに、しかしオレンジペコが素直に答えられるはずもない。

 

 貴方のことが好きだと言われてしまったので、貴方が取られてしまいそうで怖いです。

 

 正直な気持ちは胸の内だけで、しかし沈黙する理由もなくて。

 

「あの、少しお話の相手になってくれますか」

 

 このまま一人で詩集を読める気分でもない。

 帰るのもよくない。せっかくダージリンが残してくれた言葉だ。きちんと折り合いをつけておきたい。枕を濡らすのは嫌だ。

 

 だから、とオレンジペコは、今の表情を見られるのも構わずに顔を上げる。

 

 息を呑んだのは青年だ。涙を含んだ瞳で見上げられては、すわ何事かと動揺してもおかしくはない。

 こういう時に一番大切なのは雰囲気だ。

 

 青年は大げさに笑みを作って、彼女に答えた。

 

「――いくらでも、俺に出来ることなら喜んで。お姫様」

「そういうのをやめてくださいって言ってるんです!」

「あ、はいごめんなさい」

 

 泣き笑いのような表情で怒るオレンジペコに、青年はバツが悪そうに謝った。

 そういえば女子高生にキモがられると言われていたのを思い出して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 珍しいことというのは集中して起きるものなのだなと、青年は一人妙な達観を胸に抱きながら自分の紅茶を淹れていた。

 というのもオレンジペコが二人で話すのに自分だけ座って何かを飲んでいるのは落ち着かないから、と主張したからだ。

 

 客も他に居ないこの現状。そして常連と二人きりの時などはたまに彼も同席することがあり、これといって遠慮する理由はない。

 むしろ、彼女が話したいと言ったのは初めてで、加えて少々不穏な空気があることもあり、腰を据えて話せるというのならもはや乗る理由しかなかった。

 

「お待たせ」

「いえ、全然待ってないです。……あ」

「ん?」

「な、何でもないですから気にしないでください」

 

 少し動揺したようにわたわたと手を振るオレンジペコ。

 気付けば頬には少し色が戻ったようで、青年は悟られぬようにほっと一息。

 

 彼女の対面に設置された白いアンティークの椅子に腰かけて、青年は自分のティーカップをテーブルにそっと置く。

 

 視界の真正面、よりは少し下方にある小さな顔は改めて見るとやはり可愛らしい。

 何度も常連たちに紹介しろと叫ばれた理由も分かるというものだ。

 大人しい小動物のような雰囲気に、優し気に沿った秋波眉と丸い瞳。

 柔らかそうな肌なのに、顎もとはきちんと角度がついていて整った顔立ち。

 少しだけ上気した頬は童顔の中にあって小さな色っぽさを出していて。

 

「……あの、そんなに見られてしまうと、その」

「ああ、ごめん。こうして向き合ったのは初めてだったからちょっとね」

「いえ、大丈夫です」

 

 紅茶を一口飲んでから、それで? と言葉を促した。

 オレンジペコは頷いてから、小さくこぼすように口を開く。

 

「二人のこと、どう思いました?」

「ダージリンさんとはあんまり会話をしなかったから分からなかったかな。映像で見るよりも綺麗な人だなとは思ったけれど、それだけ。有名人をお見掛けしました、って感想が一番近いかも」

「そう、ですか」

 

 おっしゃる通りだと思います、と頷く彼女の表情は、青年の言葉に同意をしているというよりも早く続きを聞きたいという風だった。

 それで、とも、もう一人は、とも聞かない辺り、何かを怖がっているようにも見えて。

 

 聞きたいのはローズヒップの方なのかと青年は当たりをつけた。

 

「ローズヒップさんは、この前会った時も思ったけど元気な人だなと。お嬢様言葉を使う人とは久々に話したから、新鮮というか懐かしいというか、そんな感じだったかな」

「……それだけ、ですか?」

「というと?」

「あ、いえ、可愛くって、いいなあとか……?」

 

 眉をハの字にして、困ったような不安なような顔色のままオレンジペコは問いかける。

 どうして疑問形なんだろうと思いつつ、青年は確かに、と頷いた。

 

「可愛らしい人だったね。なんか、会話してる俺も元気になってくるような活力ある人だったかな。テンションも高くて話しやすいし、あれは多分コミュニケーション力が物凄く高い人種だ。多少相手を振り回しても、みんな笑って許せるというか」

 

 促されるままに、ローズヒップのことについて思い出したり思いついた点を並べていく。この前の雨の日にあったことや、今日カウンターで会話したこと。それらを一つ一つかいつまんで、印象に残ったことを指折り数えて。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 か細く、というのはこういうのを言うのだろう。

 半ば青年の説明と被るようなタイミングで、オレンジペコは礼を述べた。

 もういいのかと彼女に目をやれば、酷く落ち込んだ様子だ。

 

 ふむ、と青年は顎に手をやる。

 オレンジペコという少女とは、長くないにしろそこそこ会話をする仲だ。

 今まで抱いていた印象としては、他人の悪口を聞いて喜ぶような陰湿なタイプではない。ローズヒップの悪印象を言っていれば彼女の機嫌がよくなったかといえば、きっとそんなことはないだろう。

 

 ということは、もしかしたら。

 ローズヒップと自分を比較して何か傷つくことでもあったのか。

 

 しょんぼり、という言葉が似合う彼女の俯いた表情。

 青年は紅茶を一口飲んで乾かないよう口内を湿らせ、同時に言葉の順序を脳内で組み立てる。せっかく自分に話を持ち掛けてきたのだから、少しでも元気にさせてあげたい。

 

 そんな善意から、青年は諭すように言葉を紡ぐ。

 

「ローズヒップさんも可愛らしいし素敵な人だけど、俺はペコちゃんの魅力の方がいっぱい知ってるよ」

「へ……?」

「彼女とは二回しか会ったことはないけれど、キミとはもう何度も顔を合わせた仲だからさ。そりゃもう、いっぱい」

 

 あの、と小さく声を漏らすオレンジペコの表情は、先ほどまでの落ち込んでいたそれとあまり変わらない。確かに、力無い励ましのように聞こえてしまっているかもしれないから、仕方のないことではある。

 けれど勿論ここで止めるつもりはないし、彼女も催促することはないにしろ具体的な言葉を待っているはずだ。

 

「静かな陽の当たる場所で詩集を広げているところがとても似合う、めちゃめちゃいい子だと思う。何だろう、見ているだけで心が癒されるような魅力はキミだけのものだ。……困っちゃうかなと思って言わなかったけど、キミを紹介してくれって言う常連もとても多いんだよ。キミはこのティーサロンのアイドルなんだ」

「……やめてくださいってそういうの」

「真っ赤になって言うことじゃないな、照れてるじゃないか」

「照れてないです。引いてるんです」

「うぐっ。いや俺のボキャブラリーが貧困なだけでだな」

 

 テーブルの下にしまい込まれた両腕がピンと張っていた。

 スカートを握りしめた手を見つめながら、オレンジペコは一つ深呼吸。

 先ほどまでの重々しいため息ではなく、身体の暑さを少しでも放出しようとする熱のこもったそれ。

 

「……その、アイドルっていうのは」

「かみ砕けと言われても、そこは本当にそういう意味で言ったわけだから代えの言葉は見当たらないというか」

「そうじゃなくて、えっと。貴方もそう思って……?」

 

 くれてるんですか。とは聞けないけれど。

 精一杯の疑問形は伝わったようで、青年は鼻の下をすりながら頷く。

 

「いや引かれるの前提で言うのは辛いんだけど、まあ、はい。俺がそう思ってます」

「……そですか」

 

 目を合わせようとしないオレンジペコは、しかし暗い雰囲気を引きずってはいないようで。代償に自分がドン引きされるくらいなら甘んじて受け入れるかと、青年は開き直ることにした。

 

 どうやら励ます方向としては正しかったようだし、きっとこれで彼女も元気で居られるだろうと。

 青年としても、オレンジペコにはこれからもこの席で穏やかな笑みを浮かべながら詩集を捲っていて欲しいと思っていたから。

 

「……そういえば」

「ん?」

 

 言いにくそうながらも、何かを思い出した様子でオレンジペコは問いかける。

 

「明日は、お出かけするとか」

「ああ、ローズヒップさんから聞いたのか。そうそう、買い物を手伝ってくれることになって。この前のお礼だって言うから、付き合って貰うことにしたんだ。わざわざ良いのにね」

「…………はぁ」

 

 あまりに軽い返事を貰って、オレンジペコは安堵の息を吐き出した。

 とはいえ、それが安堵のものなのかは当人にしか分からぬことで、青年は何か粗相をしたのかと困惑を隠せない。

 

「え、なにかまずかった?」

「あーいえ、別に貴方が悪いわけではないというか」

「ってことはローズヒップさん?」

「……そういえば、"ローズヒップさん"なんですね」

「いやペコちゃんと同い年だからってそんな親しげに呼ばないよ……」

 

 オレンジペコは、そうですかと一つ頷いてから。

 ローズヒップが悪いのかという問いに対して答えられない自分に気が付いた。

 デート、などと言った彼女のせいで動揺したにしろ、男女で出かけるのがデートというのなら彼女は間違っていない。

 結局は、自分の感情のせいなのだと分かってはいた。

 いた、けれど。

 

「私は、ペコちゃん、ですもんね」

「オレンジペコちゃんっていうのもなんだし、"ペコちゃん"とかそんな感じで良いって言ったのもキミじゃないか」

「悪いなんて言ってませんけど」

「なんなの!?」

 

 何のための確認だったかは分からないけれど、ただこの無駄な会話が楽しかった。

 

 ようやく頬の筋肉が緩んできて、オレンジペコは小さく微笑む。

 それが花のようだとティーサロンの常連から叫ばれている可愛らしい笑みであることを彼女は知らないが、青年は納得したように彼女の愛らしさに目を瞬かせる。

 

「なんでもないですよ。なんでも」

「オレンジペコさんとお呼びした方が?」

「代わりに王子様って呼んであげますね」

「ペコちゃんこれからもごひいきにな!」

「……ふふ」

 

 ふとダージリンの今日の言葉を思い出して、思わず王子様と返してしまった。

 彼はそんな柄ではなさそうだし、どちらかというと物語に出てくるなら靴職人辺りではないだろうか。

 

「あの」

「んー?」

 

 紅茶を飲もうとした彼を、呼び止める。

 せっかくなら、ローズヒップのような積極さで。

 

「良ければ今度、私ともお出かけしませんか?」

「社会人じゃないと手が届かない高いバッグでもあった?」

「怒っちゃいますよ?」

「ごめんなさい。……で、どこに?」

 

 くだらない言葉の応酬にオレンジペコが少しむっとした表情を見せれば、彼はさらりと手のひらを返した。返したついでに落ちた余計なものに、オレンジペコはきょとんと彼の顔を見る。

 

「あっさりOKしてくれるんですね」

「あれ、ダメだった? もしかしてナンパ野郎を事前にチェックする診断的な」

「そんなんじゃないですけど。……ど、どこ行きましょう」

「えっ」

「いやあの、えっと。また連絡します……」

「お、おう」

 

 どうしたんだろう、という彼の視線が痛い。

 

 とはいえ、目的は達成された。お店のメールアドレスも電話番号も確保してあるオレンジペコに隙は無い。

 

 明日はローズヒップに譲ってしまうけれど、でもきっとこれなら大丈夫。

 

 精神的に落ち着いたオレンジペコは、青年の淹れたブレンドティーをゆっくりと飲み干した。

 

 青年も同じように紅茶を飲み干す。

 

 ずっと嫌な予感がしていたけれど、きっと彼に変な意図はないはずだ。

 

 飲み干した紅茶が、ローズヒップであったとしても。

 

 

 




今日ちょっと書き過ぎて目標の投稿時間まであまり推敲時間がなかったので、この話は何かあったら公開後手直しなど加えるかもしれません。


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ダージリン、一日目の幕間です

これにて一日目終了。数日お休みします。


 

 

 

 

 

 今頃、オレンジペコは元気を取り戻せているのだろうか。

 

 ローズヒップと別れたダージリンは、寮の自室でハーブティーを傾けながらぼんやりと窓の外の景色を見つめていた。

 

 悪い言い方をすれば変わり映えのしない光景。

 良い言い方をすればいつでも迎えてくれる日常。

 

 そのどちらとも、少なからず感じながら。

 ダージリンは夕日が沈んだ静かな迎夜の空気に瞳を向ける。

 

 ローズヒップは上機嫌で帰っていった。

 忙しなくデートに着ていく服やらなにやらあれこれ困っているようだったが、思えば以前に比べて随分気品が出てきたように思う。

 

 テーブルマナーの欠片も知らず、ケーキなどあんぐりと口を開けて二回フォークを刺せば食べ終わってしまっていた彼女。

 相変わらず場所を構わず駆けまわる癖は治っていないが、それでも紅茶を一気飲みしたり、食事中に大きな声で"美味いですわ!"なんて匙を振り回すようなこともなくなった。

 

 そしてとうとう、初恋だ。

 

 詳しく話を聞いた時は、様々なマナーを一生懸命教え続けてきて良かったと胸をなでおろしたものだ。"M&M"という店は確かにそこまで名を馳せているわけではないが、その提携している紅茶専門店となると話は別だ。

 

 二百年以上続く交易企業の老舗にして、紅茶をはじめとした嗜好品を数多く扱っている由緒ある商会。その敷地内で、以前のようなローズヒップの身の振り方をしていればたたき出されてしまってもおかしくはないだろう。

 

 なにより、初恋の相手にも一瞬で幻滅されていた可能性が高い。

 初めてだというのなら敗れても仕方がないにせよ、一瞬で弾き飛ばされてしまうのはいくらなんでも可哀想だ。

 それでも心配で根掘り葉掘り彼女の当時の行動を聞き出して、これといった粗相がないようでほっと一息吐いて。

 

 ローズヒップから、普段からは考えられないような必死さで"もう一度しっかりとマナーを教えてください"と懇願されたのが数日前。

 

 ダージリンとて、たいそう可愛がっている後輩の頼みだ。

 無下にする理由もなく、戦車道の時と同様かそれ以上に厳しく教え込んだ。

 

 如何なる時も優雅。それを体現する者として、徹底的に。

 戦車道ならいざ知らず、マナーに関してローズヒップには素養がない。

 だからこそ普段の数割増しにキツく言葉を浴びせる結果となってしまったが、それでもローズヒップは一生懸命だった。

 その必死さにダージリンも何度も"もういいんじゃないか。今からだって、ご褒美と称して山積みのケーキを食べさせてあげてもいいんじゃないか"と思ったが、それでも耐えた。

 

 だって、あんなに頑張っているのだから。

 

 先輩として、隊長として、ローズヒップの為に出来ることを全てやって。

 彼女はそれでも少し心細いからと、ダージリンを連れ立ってM&Mへやってきた。

 

 そこで思わぬアクシデントが発生した時は、ダージリンも肝を冷やす思いだった。

 

 オレンジペコが"日課"と称してやってきていた、彼女の居場所。

 

 それがここであったことと、ローズヒップに訪れた初恋の相手がオレンジペコの想い人とブッキングしていたこと。

 

 こんな偶然があるのかと額に手を当てて天井を仰ぎたい気分だったが、そこは"ダージリン"。聖グロリアーナ女学院戦車道の隊長として、そんな不安を後輩に気取られる訳にはいかない。

 

 あれだけ一生懸命だったローズヒップにも頑張って欲しいという思いと、ずっと前から心を育んできたオレンジペコの邪魔をしたくないという思いがぶつかりあって、今日の心労は結構なものだった。

 

 心が休まる時と言ったら、珍しい紅茶を飲めたあの一瞬くらいのものだろう。

 オートクチュールなど、聖グロリアーナ女学院であってもそうポンポンと出てくるものではない。

 

 しかし、不思議なこともあるものだ。

 

 一口ハーブティーを飲んで、ほっと息を吐く。

 ゆったりと腰かけた安楽椅子に背を預けて、あの紅茶の味を思い出す。

 

「"出会い"、ね。それはオレンジペコの知らなかった一面との出会いを示すものなのか、それとも他の意味があったのか。……それにしても、ちょっと疲れちゃったわ」

 

 ダージリン・オートクチュール。意味は、一期一会。

 

 人生に一度は飲みたい紅茶という意味でつけられたその紅茶は、やはり側面として花言葉のように意味合いを持っている。

 

 あの青年がどんなこだわりで紅茶を出しているのかも知らない以上、掘り下げようとするのは無意味だ。もしかしたらオレンジペコから自分のことを聞いていて、下手な紅茶は出せないとただ良いものを出してきただけなのかもしれないのだし。

 

 実際、オレンジペコはあの場所で普段どんな会話をしているのだろうか。

 

 学校の日常が話題となるならば、勿論自分のことも話しているはずだ。

 そうでなくともこの学園艦で少なからず名を馳せる身、話題の種には十分だろう。

 オレンジペコは良い先輩だと言ってくれているだろうか。

 優しいあの子のことだから、まさかアッサムに統計で殴られた話とかはしていないはずだ。

 

 どんな話をしているのか、今度聞いてみるのも面白そうだ。

 

「……いえ、辞めておきましょう」

 

 そこまで考えてかぶりを振る。

 聞くとすれば、青年にだ。オレンジペコを随伴させられない以上、それは彼女を裏切ることにもなりかねない。ローズヒップに頼まれて付き合う時にでも、それとなく。

 

 と、そこで聞こえるノックの音。

 

「ダージリン、いらっしゃいますか?」

「どうぞ」

 

 あの独特のアルトボイスはアッサムのものだ。

 紅茶をソーサーに戻して、客人が扉を開くのを待つ。

 

 ほどなくしてやってきたアッサムは制服姿で、普段と大して変わらない佇まい。

 しかしながら明確に違う点が一つだけあった。

 

「……どうしたの、そんな怖い顔をして」

「いえ、改めてローズヒップから色々な話を聞いていたのですが、少々……かなり気になる点がありまして。相談、というのでしょうか。話したいことがあってきました」

「……穏やかじゃないわね。座って。紅茶は――」

「――アッサムティーを」

「でしょうね」

 

 彼女が自分の一番好きな紅茶を名前にしているのは知っている。

 ローテーブルを挟んだ向かいのソファを勧めると、ダージリンは立ち上がって紅茶を準備に入る。慣れた所作は手間を感じさせず、給湯器の電子音が鳴った三分後にはアッサムの前にティーカップが置かれていた。

 

 ゆっくりと紅茶を嚥下したアッサムは、一息ついてダージリンに目をやった。

 その瞳は、入ってきて間もなくよりも随分と穏やかなものになっている。

 

「相変わらず、お上手ですね。オレンジペコもかなり上達しましたが、やはり」

「あの場に居て私が淹れる訳にもいかないでしょう?」

 

 三年生同士、気心知れた仲だからか。

 どこかお道化て遠慮がなく、少ない言葉でも意思疎通が図れる会話のキャッチボール。

 

 しかしそれはただ口を滑らかにさせるための予定調和でしかなく、ダージリンは目を眇めてアッサムに問いかけた。

 

「ローズヒップに、なにか?」

「いえ、あの子に何かがあったわけではありません。むしろ……」

「むしろ?」

 

 そこで言葉を切ったアッサム。ダージリンは目を閉じて殊更リラックスしたように柔らかな雰囲気を纏いながら、静かに彼女に言葉の続きを促した。

 そんなダージリンを、アッサムはしばしぼんやりと見つめていて。

 自分が言葉を切ったことも忘れたのかと、ダージリンが首を傾げてみせると。

 

「すみません。……時々、ダージリンが重なって見えるもので」

「ああ、そういえば言っていたわね」

 

 言っていたし、聖グロリアーナ女学院にある資料を見れば一目瞭然だ。

 なぜか皆本名を書かないプロフィール欄。そこには座右の銘や趣味、好きな食べ物や家族構成諸々、様々な個人情報が書かれている。

 

 そして、アッサムの家族構成は父と母と、それから。

 

「そんなに似ているのかしら」

「見た目などは全く。ただ、なんというか、会話の間の取り方だったり言葉の促し方だったり……すみません。そして、話というのもそのことなんです」

「……あまり見えない話だけれど、私が今考えていることが当たっているとしたらとんでもない偶然よ?」

「……ええ、とんでもない偶然です」

 

 思わず目を瞬かせる。

 アッサムの顔に冗談の色はない。そもそも冗談なんてどうしようもない駄洒落くらいしか言わないアッサムのことだ。今日、ローズヒップの誘いを断って一人どこかに行ってしまっていたのは、もしかして何かを調べるためだったのかもしれない。

 

「イギリスの詩人の言葉は、いつだって私たちを驚かせるわね」

「……ドン・ジュアンですか」

「"事実は小説よりも奇なり"。まさしく、今実感しているわ。廃校を優勝で救ったみほさんたち以来の衝撃ね。それで、本当なの?」

「データによりますと、間違いなく。今はどこかの学園艦で小さなティーサロンを経営している、とだけ」

「そう……」

 

 ぬるくなったハーブティーを一口。数奇な運命というのはあるものだ。

 しかし、それにしても。今日出会ったばかりのあの青年は、普段のアッサムが言うような人物には到底見えなかったのだが。

 

「あまり悪い人には見えなかったわ」

「……分かっています。あのひとは、きっと善意で私のことを見捨てたのでしょうから。けれど、半端なやさしさほど残酷なものはありません。ローズヒップを明日出かけさせることも、正直反対したいのですが……」

「それはローズヒップが可哀想よ。それに、もう三年以上が経つのなら、きっと人は変わっているわ」

「……」

 

 整理しきれない感情があるのだろう。

 一年生の頃から口数の多くなかった彼女が抱えていた、家庭の問題。

 まさかその中心人物が今になって、しかも全く別の形で現れるとはダージリンも予期していなかった。

 

 これは少し面倒なことになりそうね。

 

 この先のことを考えながら、ダージリンは残ったハーブティーを飲み干していた。

 

 

 

 



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二日目
ローズヒップ、突貫ですわ!


 

 

 

 ぴょこん! という効果音が付きそうな勢いで、床(とこ)から上体を起こす。

 ついできょろきょろと枕元を見回して見つけた目覚まし時計を掴んで時刻を確認すれば、セットしたアラームの三十分前。

 普段なら二度寝のチャンスとばかりにもう一度枕に顔を埋めるところだが、今日に限っては訳が違った。それに、寝起きとは思えないほどに爛々と輝く瞳では、眠気に勝利の二文字は来ないだろう。

 

 そのままぱたぱたと洗面所に行って顔を洗い、予約炊飯しておいたご飯を茶碗にもってから卵をそのうえに叩き割る。ちょっと殻が入ってしまったが仕方ない。醤油かければ大丈夫。殻にも栄養あるってこの前聞いたし。

 

 そんな感じで出来上がった朝ごはんは他の同校生徒に見られれば眉をしかめられるどころでは済まなかったろうが、残念ながらこの場に文句を言う者はいない。

 テーブルの上にあったリモコンを弄ってテレビをつけると、ちょうど聞き心地の良いバイオリンをバックに天気予報がやっているところだった。

 

「ふんふふんふふーん。今日は快・晴! ですわ!」

 

 聖グロリアーナの学園艦が存在する海域は本日快晴、降水率は傘の心配など全く要らないニコニコ0パーセント。むふ、とまるでジブリアニメの少女のように鼻を広げて笑顔を作る彼女は、そのままあぐあぐとたまごかけごはんをかきこんでいく。

 

「美味いですわ! ごちそうさま!」

 

 ものの二分で朝食を平らげると、そのまま茶碗と箸を台所に持っていく。

 洗剤と一緒に漬け込んでおいた昨晩の食器と一緒に、鼻歌交じりにざっぷざっぷと洗い物。慣れた手つきで油ものからコップ類まで全部を乾燥機に乗せてスイッチを入れると、そのままお風呂場に直行した。

 

 時間にはたっぷり余裕があるから、ひとまずシャワーを浴びるべく着ていたものをぽいぽいぽーい。

 下着類までダイレクトに洗濯機の中に放り込む。洗濯網? なんですのそれは。

 

 あっという間にシャワールームに入って、バルブを捻って頭から水をかぶる。

 

「ぎゃー! 昨日ガスの元栓切ったの忘れてましたわー!」

 

 降水確率もゼロパーセントなら、彼女の優雅さもゼロパーセントな本日の朝。

 しかしながら、どんな作業もあっという間に終わったのはここまでだった。

 

 気を取り直してお湯に切り替えて、全身くまなく洗っていく。勿論、髪も念入りに。

 リンスとシャンプーを別々に買うなんてコスパが悪いんじゃ……なんて言っていた彼女はもういない。アッサムに散々お小言を受けて購入したシャンプーとリンスに感謝しつつ、丁寧に丁寧に自慢の赤髪を手入れして。

 

 なんだかよく分からないけれどアッサムに勧められて購入した、顔にハリ? を持たせるらしい何かを塗って、いちいち慣れない動作で洗い流していく。

 

 寝汗の変な臭いとか、絶対つかないように。

 

 丹念に、という言葉がぴったり似合う念入りのシャワータイムは、起きてからシャワーに入るまでの時間の三倍は要したのではないだろうか。

 

 一週間ほど前まではリンスインシャンプーと固形石鹸が一個しかなかったお風呂場は、ボディーソープから保湿乳液に到るまで全て先輩によって新調されていた。

 未だおぼつかない手つきながらも、彼女は一生懸命一つ一つのボトルを覚えて手順通りに使っていく。

 不安が残ればもう一度使ってみたりとあまり褒められない行為もしていたが、それも彼女の懸命さだと思えば先輩も黙って見守ることだろう。

 

 そんなこんなで長かったシャワータイムを終えて、今度はドライヤーで髪を乾かしていく。熱風はきちんと腕をくゆらせながら、髪を手串で整えるように。

 連鎖的に、『ドライヤー……? ああ、あの暖かい扇風機ですわね』などと言って先輩に睨まれたことを思いだしながら、綺麗にふわふわになるように髪を整える。

 

 さて。

 ここからが正念場だ。

 

 さっぱりした身体で、クローゼットとにらみ合う。

 昨日のうちに三着程度に絞ったつもりだったのだが、いざ今日を迎えてみるとまた悩む。没にしたこちらも捨てがたいのではないか。いやでも、残しておいたこちらも可愛いはず。

 あぐらで座り込み、並べた服を吟味すること一時間ほど。

 ようやく決めた一着は、水色のフリル付きミニスカートと、白のパフスリーブカットソー。ちょこんと胸元に添えられたリボンも水色で調和がとれて、彼女の快活さと中和されるような愛らしい装い。

 

 ここに赤のパンプスを組み合わせれば、今日のコーディネートは完成だ。

 

 鏡を見て、頷く。

 この組み合わせは実は、元々彼女が買いたくても手が出なかったものだ。物欲し気な目線に気が付いたダージリンが、『貴女に似合いそうね』と後押しをしてくれたからこそ買えた一品。

 自分にはこんな楚々とした雰囲気は合わないのではないか。

 お嬢様に憧れて、でも踏ん切りがつかなくて。

 結局購入してからも外に着ていくタイミングが見当たらなかったこの一着。

 けれど、だからこそ今。

 

 よし、と脇を畳んで拳を握りしめる。

 と、鏡の端にちかちかと映り込むテレビの画面に目が行った。

 

 そういえば点けっぱなしだったかとテーブルの上のリモコンを手に取って、画面右上に表示されている時刻に気付く。

 

「げっ、こんな時間ですの!?」

 

 出かける予定の時間まで二時間は余裕を持って起床したというのに、もうぎりぎりだ。

 慌てて電源を切ろうとして、その手が止まった。

 

『星座占い作戦です!』

 

 なんの作戦なのかはさっぱり分からないが、ちょうど本日の運勢十一位から二位までの星座が表示されていた。せっかくだからと自分の誕生日に対応した星座を探してみるも、その一覧に自分のそれはない。

 

『さあ、本日の一位、そして残念な十二位は――』

 

 残る二星座に絞られて、彼女は画面を見守る。が。

 

『今日もハンバーグが美味しい! ああ美味しいハンバーグ!』

 

 ――CMに断ち切られてしまった。

 

「タイミング悪いですわね」

 

 でも、まぁ。

 こんな素敵なイベントがあるのだから、今日の自分はきっと一位だろう。

 そう自分で結論付けて、彼女は電源を落とした。

 

 今はそれよりも時間が惜しいのだから。

 

「さあ、いきますわよローズヒップ!!」

 

 気合一擲、ローズヒップは玄関から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青年は、タイトな黒のジーンズにテーラードジャケットという、いつも通りの外出時の私服に身を包んで店を出た。茶色のレザーシューズも含めて、気付けばあの雨の日と同じ服装。

 

 あの日ずぶ濡れになった服が綺麗に乾いて、燦々と降り注ぐ太陽の下。

 ぼんやりと見上げた空は雲一つない晴天で、本当にあの日とは大違いだ。

 

 奇しくも雨宿りの際にローズヒップが立っていた場所で、同じように空を見上げる。

 快晴時のここから眺める景色が、青年はとても好きだった。

 

 ナカノの二番で整えた黒髪は、営業中とは違って額を隠さずオールバックにしている。整髪料の匂いは、微量でも菓子作りの際は気になるものだ。だからこの髪型にするのは定休日限定のこと。先週は不慮の水浴びで大変なことになってしまったけれど、今日はその心配もない。

 

「とりあえず足りなくなってる調味料と、あとはそろそろ小麦粉を買い足しておかないとヤバそうだな。あとは……」

 

 店にとっての必需品の多くは直接送られてくるが、この学園艦で歩いて仕入れたいものが幾つかある。調味料などはその最たる例で、小麦粉に関しては店というよりは自分の食用。イギリスパンなら目を瞑ってでも作れる。

 

 買い物のラインナップをおさらいしながら、軒先でぼんやり。

 

 今日の買い出しには可愛いゲストが居る。

 わざわざ恩返しを買ってでてくれたのだからと承諾したはいいのだが、待ち合わせ時間がアバウト過ぎたせいもあって、彼は一応早めに待っていた。

 

 朝。

 彼女から指定された時刻はとてもシンプルで、また随分と広い範囲をさすもの。

 連絡先も知らないとくれば、こうして待つしかない。どことなく猫っぽい自由奔放な雰囲気は感じ取っていたものの、じゃあ明日の朝にー、と軽く言われて流してしまった自分も悪い。

 

 ……いや、どうだろうか。

 彼女は猫というよりは犬? いや、でも猫っぽいような気も。

 

 とりとめもないことを考えながら暇をつぶす。

 と、そんな時だった。

 

 ――なーご。

 

 タイミングよく猫の鳴き声が聞こえて、青年は我に返る。

 待ち合わせ相手の頭に猫耳が生えた絵面を幻視して首を振りつつ、その発信源を探して上を見上げたその瞬間。

 

 どさ、と頭に重いものが降ってきた。同時に強く側頭部をどつかれるような感覚。

 ひらりと足元に舞い降りるや駆けていく白猫。

 

「What the fuck!! せっかく整えた髪がぐしゃぐしゃじゃねえか!!」

 

 あの猫め!

 と睨みつけた先に、既に路地に消えたらしい猫の姿はない。代わりに可愛らしい一人の少女が立っているだけだ。

 なんだったんだ全く、と後ろを振り返ってガラス張りの自分の店を姿見代わりにして髪を整えなおす。

 これでよし。

 うん、と頷いたところで、鏡の端に所在なさげに立っている少女に気が付いた。

 

「いつからそこに!?」

 

 それはもう美しいまでの二度見であった。

 くすくすと笑う彼女の装いは陽光の中にあってとても可憐で。

 

「そうですわね。もう聞くことはないんじゃないかと思っていた、例の言葉を聞いたところから?」

「またやっちまったのか俺は……!」

 

 ぺちん、と自らの額を叩く。今日は前髪の感触がないせいで、割と良い音がして。

 

「お待たせですの。ローズヒップただいま参上ですわ!」

「ああ、気にしない気にしない。猫に奇襲を喰らうまでは店の戸締りとかやってたから」

「……そういうことにしておきますわ。いざ、参りますわよ!」

「おー。しかしローズヒップさん、私服とても可愛いですね」

「へぁっ?」

 

 高々と拳を突き上げた彼女――ローズヒップに合わせて、青年も歩き出した。

 やや俯き気味に歩みを合わせる彼女の私服を見るのは、思えば初めてのこと。

 

 タンクジャケット姿は一方的に見たことがあり、出会った二度は両方とも制服姿。

 となれば必然、私服姿は初めてなのだが、予想以上に"可憐"という言葉が似合う。

 

 やはりどんなに快活でもお嬢様はお嬢様なのだなあと方向違いなことを考えつつ、それにしてもあまりに想像と乖離していたことに衝撃を受ける。

 チープな言い方をすれば、ギャップという奴だろう。あんなに元気な彼女が、深層の令嬢のような愛らしい服装をしていれば男なら誰でも心を打たれる。

 

 まして、なんだか今は大人しいとくれば猶更だ。

 そしてこれが一番大きいのだが、そのギャップを感じさせる服装が驚くほどに似合っている。彼女の容姿が整っていることくらいは二度の出会いで分かっていたはずなのに、全く別の側面からぶん殴られたような感覚で青年も少し照れが混じる。

 

 おかげで少し、思考が吹っ飛んでしまった。

 出会って間もない二人で歩くのだから、沈黙は気まずい。

 だからと話題を幾つか事前に用意していたはずなのに、悲しいかな恋愛偏差値の高くない青年は簡単にテンパってしまっていた。

 

 と、暖かな風が吹いた。

 青年がワックスで固めた髪を崩すほどではなく、隣のローズヒップのふんわりとした髪を少し揺らす程度のそれ。

 ただ、そのたったそれだけが女の子の香りを運んで、青年の鼻にすんと触れた。

 

「……え?」

 

 呆けた声が青年からこぼれる。ぱたり、と足が止まる。

 たった一瞬の出来事。だが勿論、些細なことでも話題がないと触れたくなる。

 ローズヒップもその例にもれず、首を傾げて立ち止まった。

 

「何かありましたの?」

「え、あ、や、別に。良い香りだなって」

「それは……良かったですわ。でも、その」

 

 少し恥ずかしそうに前髪をくるくるといじりながら、しかしローズヒップは青年を見上げて心配そうに眉尻を下げた。

 それはそうだ。ただ良い香りをかいだだけのリアクションなどでは、全くない。

 

「あー……いや、ちょっと知ってる匂いだったので」

 

 バツが悪そうに後頭部に手をやる青年は、やけに申し訳なさそうだ。

 その理由は当然、せっかく柔らかで優しい香りのする彼女にケチをつけたようになってしまっているからだろう。少し慌てていたとはいえ、あまりに失礼だと思っただけのこと。

 

 だから、困っていた。

 

 合わせた視線の先、ローズヒップの瞳の奥が、酷く揺れている気がしたから。

 

「あ、あの、もしかして、その」

「ええと、ローズヒップさん?」

 

 言うな。と彼女の心の底で二頭身の彼女が叫ぶ。

 けれど、あまりに突然の出来事に脳の回転が追いつかない。

 

 ローズヒップの先輩は言っていた。買い与えてくれたシャンプーは、聖グロリアーナの女生徒であれば持っていて当然の淑女の嗜みであると。

 

 この匂いを知っている。

 

 男性が使うものではない以上、その匂いを印象付けるほどの距離に女性が居たのは明確で。だからこそ、予想していなかった状況が出来上がりそうでローズヒップの喉が渇く。

 

 彼女が居るのですか。

 あまりにストレートな問いはなかなか口から出てくれない。

 恋人がいるのですか。

 それ以上に胸が苦しくて声になんてなってくれない。

 誰が使っていたのですか。

 そんなぶしつけな問いを出来るほど、今のローズヒップは怖いもの知らずではない。

 

 知りたい。可能性に気付いてしまった以上、"ソレ"の居る居ないははっきりさせたい。

 けれどストレートに聞いて肯定の返事が飛んできたら、どうしていいか分からない。

 

「仲良しの方に、同じシャンプーを使ってる人でも……?」

 

 だから、恐る恐る問いかけた。

 不安が伝わってしまわないことを祈り、変に気を遣われることを嫌い、奇妙に思われないようにさりげなく。

 

 その答えは、しかして。

 

「あー……仲良し、ではないですね」

「そ、そうですの」

 

 胸を撫で下ろした。

 もしかしたら"それ以上"だと言われる可能性もあったが、彼の表情を見る限りそれはなさそうだ。どことなく落ち込んでいるようにも見えなくもないが、表面上は気にしない風をふるまっている。苦笑、というのが一番近いか。

 ならきっと、恋人ということはないだろう。

 

 そう、安堵していたから深く突き刺さった。

 きっと自分には聞かせようとしていない、小さな小さな独り言が。

 

 

 

 

 

 

「俺は今も、大切に思ってるんだけどな……」

 




補習でちょいと遅くなりました。
二日目突入です。


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