鋼殻のレギオスに魔王降臨 (ガジャピン)
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原作1巻 鋼殻のレギオス
第1話 魔王の旅立ち


ぶっ飛んだ主人公が書きたくなって、衝動的に投稿しました。
週一で1話くらいのペースだと思いますが、お付き合いして下さる方は、お付き合い下さい。


 法輪都市イアハイム──今この都市では前代未聞の出来事が起こっていた。

 市民が放浪バスの前を開けてずらりと左右に並び、一本道を創っている。その列は最後尾が見えぬ程に続き、終わりなんてないように見えた。

 放浪バスに乗っている乗客たちは、何事かと窓に手をあて顔を近付ける。

 乗客たちが見たものは、市民の道を当然のような顔をして、悠然と歩を進めている一人の若い男の姿だった。

 彼の容姿は、肩の高さで切られた赤みがかった黒髪、赤ワインを思わせる深い赤の瞳。体格は細くも太くもない、正に武道家のような筋肉質な肉体だ。

 若い女性たちから、ほぅと熱を帯びた吐息が漏れる。

 彼女らを虜にしているのは、容姿もさることながら彼の纏う雰囲気に他ならない。

 傲慢と称されても仕方ない程に、彼の纏う雰囲気は暴力的であり、野性的だった。

 普通の男であれば、どんなに容姿が良かろうとも敬遠されているだろうが、この男はその雰囲気を完璧に自分の容姿と調和させていた。

 その危うさと全てをねじ伏せるような男らしさが、火遊び好きな女性の心に火を灯している。いや、もしかすると、優秀な遺伝子を残そうとする人間の本能に直接訴えかけるような抗い難い魅力が、女性を虜にしているのかもしれない。

 そんな彼の名は、ルシフ・ディ・アシェナ。 

 法輪都市イアハイムにある侯家と呼ばれる七つの武門の内の一つ、アシェナ家の長男である。

 ここイアハイムでは、王の死後、新王を七つの侯家の中から民政院という民衆によって選ばれた政治家たちが選出する。

 現在の王はマテルナ家の家長であり、イアハイムは彼に治められている。

 つまり、アシェナ家であるルシフは王でもなければ、王家でもない。他の人間と違う部分があるとすれば、次期王候補の一人という点だけだ。

 しかし、現王が死ななければ、それは何の意味もないゴミ同然の肩書きに過ぎない。

 にも関わらず、まるでこの都市の王であるかのような──いや、たとえこの都市の王であっても市民が道を創るなどと大それたことはされないだろう。

 何故このようなバカげた事が起こっているのか?

 簡単な話だ。ルシフという人間そのものが、市民にとって最大限に敬う相手だからだ。

 ルシフは五年前に、王に対してある提案をした。

 その内容は武芸者の選別。

 今までは武芸者というだけで、都市から援助を大なり小なり受けられた。

 何故都市が援助をしてまで武芸者を大事にしているかというと、この世界には汚染獣と呼ばれる武芸者にしか倒せない存在がいて、武芸者を多く都市に抱えておけば、それだけ汚染獣を倒せる確率が高くなると考えられているからだ。

 それに都市同士で戦争を行う場合もあり、その時にも武芸者は勝つために必要な主戦力となる。

 武芸者は抱えれば抱えるほど良い。これがこの世界の常識である。

 だが、ルシフの考え方は違う。

 はっきり言って、武芸者は剄量が全てといっても過言ではない。

 どれだけ鍛えようが汚染獣の子供すら殺せない武芸者もゴロゴロいるし、並の汚染獣ですら、基本的に多数の武芸者が協力して倒す始末。

 汚染獣すら倒せぬ武芸者など不要!

 雄性体の汚染獣とまともに戦えてこそ、武芸者と名乗る資格がある!

 つまり、百人の並の武芸者から武芸者という地位を剥奪し、一人の強い武芸者の援助をこれまでの何倍にもする。

 強い武芸者などそうたくさんはいない。援助を何倍にもしたところで以前と比べれば、かなりの金額が浮いた。

 その浮いた金額を市民の給料に割り当てるようルシフが進言し、市民は裕福な生活をすることが出来るようになった。

 更にイアハイムで抱える武芸者の人数を二百人に制限。一年に一回だった武芸大会を月に一度に変更し、常に武芸者は競い合わなくてはいけない環境をつくり、武芸者の質の向上を継続的に行う仕組みを確立。

 その内の百人をルシフは徹底的に指導し、町の警備にあてた。これにより、武芸者の地位を剥奪された人間の犯罪は減少し、以前よりも遥かに治安が良くなった。

 武芸者が少なくなっても、ここ五年間であった戦争には全て圧勝しているし、汚染獣に襲われても秒殺している。

 都市の安全及び治安と、市民全員の生活水準の向上の両立。

 これこそが、ルシフが市民に敬われている理由である。

 今までとは比べものにならないくらい、暮らしやすくしてくれた相手を慕うのは当然だろう。

 

「本当に行くつもりかね?」

 

 放浪バスの前まで来たルシフの前に、この都市の王が市民の列をかき分けて立つ。

 ルシフは無言で王の顔に視線をやった。

 その顔には汗が浮かび上がり、強張った表情をしていた。

 自分を恐れているのだ、この王は。

 反応を窺い、怒らせないよう必死に言葉を選んで、小動物のように身体を微かに震わせている。

 ルシフは内心で眼前に立つ人間を嘲笑った。

 

(何の威厳もなければ、先見の明もない、市民の人望すら集められんこんな男が『王』とは……)

 

 表情にその感情は出さず、あくまで無表情でルシフは口を開いた。

 

「くどいですね……俺が行くと決めたんです。

それを邪魔するなら、たとえ『王』でも容赦出来ませんよ?」

 

 王と呼ばれた男は息を呑む。

 普段の彼ならばここで黙り、放浪バスに乗る自分をただ見送るだけだろう。

 しかし、今日は違った。

 

「だが……! 今更ツェルニなどという学園都市に君が行くメリットはあるのか!?

君の能力はすでに学ぶものなど何もない領域にまで昇華されている! 正直な話、君が得るものは何一つとしてないぞ!」

 

 ルシフという人間を知っているなら、それは誰もが感じる疑問だった。

 まずは知識の方だ。

 ルシフは幼い頃から、学者や教師を家に呼んでもらい、自主的に知識を積み重ねていた。

 ルシフはいわゆる天才であった。

 十を数える時には、イアハイム中の誰よりも知識を得て、誰も彼には教えられなくなった。

 それでもルシフの向上心は留まることを知らず、ルシフは図書館に通い、自己流で自身の知識を深めていった。

 次に武芸の腕。

 ルシフは剄を使える人間だった。それも並大抵の剄量ではない。どの錬金鋼(ダイト)もルシフが全力で剄を込めれば、錬金鋼が耐えきれず爆発した。

 更にルシフは、剄技の仕組みを使用者の剄の流れから理解する特技を持っており、ありとあらゆる剄技を見ただけで使えた。

 ルシフはその才に甘んじることなく、知識と同様に幼いころから鍛練を続けた。いつも死線に身を置き、死にかけたことも幾度もある。そうやって常に自分を限界に追い込み、独力で自身の剄の扱いを高めた。

 今のルシフは、武芸の本場といわれるグレンダン以外の都市であれば、最強の武芸者として君臨できるだろう。

 だからこそ、ツェルニなどという学園都市に行く意味が分からなかった。

 ルシフは目の前の男に少し感心した。

 怯えながらも果敢に向かってくる気概。この男にはこんな一面があったのかと少しだけこの男の評価を改めた。

 

「まさかとは思うが、私の娘に手を出すつもりでは……」

 

 ああ、とここでルシフはようやく得心がいった。

 娘を守りたいという意志の強さが、男の恐怖心を凌駕させたのだろう。

 ツェルニにはこの男の娘が通っているのだ。

 娘の名はダルシェナ・シェ・マテルナ。

 王の娘でありながら、武芸の才能が大したことないせいで劣等感を感じ、気弱な性格になっている三つ年上の女性。

 

「ご冗談を……。俺があんたの娘をどう思っているかなど、あんたが一番よく知ってるでしょう」

 

 ルシフからのダルシェナの印象は、いつも誰かの影に隠れて怯える愚か者という印象だ。

 ルシフはダルシェナと一対一で話したことが一度としてない。常にダルシェナはルシフとの間に誰かしらの障害物を置き、その障害物を盾に話す。ちなみにその障害物によく選ばれていたのが、ダルシェナの父親、つまりここにいる男である。

 ルシフにとってダルシェナという存在は、己を最大限にイラつかせる存在だった。故に、ダルシェナに対して恋愛感情などこれっぽっちも持ち合わせていない。

 しかし、第三者の目で見れば、わざわざ王の娘がいる学園都市に行くのは、娘を使って良からぬ事を企んでいるのでは──と考えるのが自然。

 この都市の王が焦れたように叫んだ。

 

「最近の君はおかしいぞ! 一年前に君のお気に入りをツェルニに入学させたり、君らしからぬ意図の分からん行動ばかりする!

何故だ!? 何故君程の人間が学園都市に通う!?」

 

「学園都市というものに興味があった──それだけです。別に俺は卒業までいるつもりもないですよ。飽きたらとっとと退学して、ここに帰ってきます」

 

 ルシフは話は終わりだと言わんばかりに再び歩みを再開し、放浪バスの搭乗口に片足を乗せる。

 

「行ってらっしゃいませ、マイロード」

 

 放浪バス付近で列を創っていた内の一人の男が一歩前に出て、うやうやしく頭を下げた。

 その男の身なりは、全身に返り血を浴びたような赤い服装をしている。

 彼は『剣狼隊』という名の、ルシフが徹底的に指導した百人からなる武芸者集団の一人であり、ルシフを絶対君主として、彼の命令にのみ従う。ルシフが個人で所有している軍隊のようなものだ。

 『剣狼隊』は入れ替わりが激しく、しょっちゅうメンバーが替わり、『剣狼隊』から弾かれた武芸者は他都市に追放され、二度とイアハイムの地を踏むことは許されない。それほどまでに、『剣狼隊』は厳しいところだった。

 

「うむ。俺が帰ってくるまでこの都市を現状維持しろ。

出来るな?」

 

「出来ます!」

 

 自信満々に頷く男の顔をルシフは一瞥すると、ルシフは放浪バスに乗った。

 放浪バスの一番後ろの席で、ルシフは放浪バスが出発するのを待つ。その顔には、見た者をゾッとさせる邪悪な笑みが浮かんでいた。

 ルシフにはある秘密があった。

 その秘密とは、産まれた瞬間から、前世の記憶というべき別の人間の記憶と知識を持っていたこと。

 そのせいでルシフは三歳になるまで、その膨大な情報を処理しきれず知恵熱と頭痛を慢性的に起こし、死にかけたことも数えきれない回数あった。

 しかし、三歳になった時にピタリと知恵熱と頭痛はしなくなった。

 この時にルシフは悟った。自分は神の企みを退け勝利したと!

 この世に神がいるとするなら、神はルシフという人格を殺し、ルシフが持っていた別人格をルシフの肉体に宿す腹積もりだったのだろう。

 だが、神はルシフの器を見誤った。

 彼の器は尋常ではないくらいに大きく、その別人格の全てを彼自身の器は呑み込み、奪いとったのだ!

 肝心の奪いとった記憶と知識の内容だが、ほとんどはルシフにとって無に等しいものだった。

 まずこの人間の記憶の大部分を占めるのが、周りに流され続けて行動しながらも、自分の本当にしたい行動をとれない自身に対する弱さと無力さの葛藤が延々と続くだけの記憶。

 そして、死の間際にこの人間は願った。

 もっと力があればと。

 この人間の人生には常に選択肢が無かった。こうしたいと思いながらも、こうしたら自分はこうなるだろうという恐怖から、自身の本当にしたい行動がとれなかった。

 この人間の最期は、散々周りからいいように使われた挙げ句、口封じに殺されるという、ルシフからすればつまらん最期だった。

 そんな記憶と知識の中で、ルシフは唯一自分にとって得をするものを手に入れた。

 それはこの世界、鋼殻のレギオスの原作知識。

 つまり、ルシフはこの先この世界で何が起きるか知っているし、自分の住む世界が何なのかも理解している。

 ルシフがツェルニに入学する目的は二つ。

 一つ目は、『廃貴族』を自身に憑依させること。これをすれば更に莫大な剄が手に入る。

 二つ目は、グレンダンに存在する『天剣』と呼ばれる錬金鋼の奪取。『天剣』は錬金鋼の中で、もっとも剄の許容量の大きい錬金鋼であり、自分が唯一使える武器になり得る。

 ちなみに狙っている天剣の名は『ヴォルフシュテイン』。この天剣以外の天剣を手に入れるつもりはない。

 この天剣だけが、ルシフの保険となりえるものなのだ。

 ルシフはある計画を胸に思い描いていた。

 その計画の名は『レギオス統一計画』。

 その計画を完遂させるためには、この世界で最強の存在になることが絶対条件。

 

「汚染獣が出たぞおおおお!」

 

 放浪バスの外から、外を見張っている念威繰者から報告を受けた武芸者の叫びが聞こえ、ルシフは思考を止めて、放浪バスの中で怯えて縮こまった他の乗客たちを無視して、放浪バスの外に出た。

 

「ルシフ様! あの汚染獣は俺にお任せを!

レストレーション!」

 

 真紅の服装をした男は、錬金鋼を音声信号による記憶復元の形質変化で武器に変え、イアハイムの外縁部まで来た汚染獣に向かっていこうとするが、その行く先をルシフの右手が塞いだ。

 

「その必要はないッ! 俺が直々に相手をしよう」

 

「はっ!」

 

 錬金鋼を元に戻した男には目もくれず、ルシフは内力系活剄、旋剄で瞬く間に汚染獣の眼前に迫る。

 普通の都市ならば、今頃市民は悲鳴を上げ、我先にシェルターに行こうと大混乱が起きているだろう。

 しかし、この都市の市民はむしろルシフが戦うところを見ようと、ルシフが見える場所まで移動した。

 すでにルシフの手により、市民たちの中の常識が狂わされているのだ。

 市民は汚染獣がルシフを殺す可能性など微塵も考えていない。ルシフの勝利を確信している。

 

「雄性体一期か──どれ、少し(たわむ)れてやろう」

 

 汚染獣が歓喜の雄叫びを上げながら、突如として目の前に現れた餌に食らいつく。

 汚染獣の大口がルシフを飲み込み、牙で噛み千切ろうと何度も顎を動かす。

 だが、牙はルシフの肉体に食い込まず、逆に牙の方が砕けた。

 金剛剄と呼ばれる剄技がある。活剄による肉体強化と同時に衝剄による反射を行うことで攻撃を弾く技。

 ルシフは牙が肉体に触れる瞬間にこの技を使うことで、攻撃を無効化させていた。

 汚染獣が必死に顎を動かして、ルシフをガジガジしているにも関わらず、ルシフは一切気にする様子はない。動物を可愛がるように、右手で汚染獣の顔を撫で撫でしている。

 

「おーよしよしよし! おーよしよしよし!

貴様、なかなか甘えるのが上手いなァ!」

 

 当然汚染獣はルシフに甘えているわけではない。むしろ全力でルシフを噛み殺そうとしている。

 汚染獣がルシフに甘えている光景が十数秒続いた後、とうとう汚染獣はルシフの圧倒的な力に屈し、顎を動かすのを止めた。

 

「なんだ、もう(しま)いか。

なら死ねェ!」

 

 ルシフが汚染獣の大口から抜け出し、汚染獣の巨体に右拳を打ち込む。右拳は汚染獣の腹を突き破り、手首の部分まで汚染獣の身体にめり込んだ。

 剄を拳に集中させて、極限まで強化された拳だからこそ出来る芸当。

 

「光栄に思うがいい……いずれ王になる男の門出を祝福する花火になれるのだからなァ!」

 

 ルシフが内力系活剄で脚力を最大限まで強化して、汚染獣をエアフィルターの外まで蹴り上げる。

 汚染獣は空中でどんどん身体が歪に膨らんでいき、最期には花火のように爆発。汚染獣の内部に、ルシフは自身の剄を流し込んでいたのだ。

 空中で咲いた緑色の体液の花を、ルシフは最後まで見届ける。

 

「──汚い花火だ」

 

 ルシフは再び放浪バスに向かって歩く。

 

「クックックッ……フハハハハハ……」

 

 徐々に、徐々にではあるが、ルシフの笑い声のボリュームが上がっていく。

 

「ハァーッハッハッハッハッ! ハハハハハッ!」

 

 最後には高笑いしながら、ルシフは放浪バスに乗り込んだ。

 汚染獣の脅威が去ったことを悟った放浪バスの運転手は、機関を回転させた。放浪バスの折りたたまれていた多足が伸び上がり、バスの車体が持ち上がる。

 その多足を駆使して、バスが都市の外へと進みだす。

 悪魔に更なる力を与える手助けをしていることにも気付かず、愚直に目的地を目指す。

 ルシフはもう既に遥か後方に行ってしまった故郷を、放浪バスから見ようとは思わなかった。

 ルシフはいついかなる時も、後ろは振り向かない。常に前を見据え、己の目的のために生きる。

 次に故郷の地を踏む時は、最強の存在になり、正真正銘の王になった時以外有りはしない。

 放浪バスが法輪都市イアハイムを出発して数週間後、ルシフは学園都市ツェルニに到着した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニに住む学生は基本的に寮住まいだ。ルシフもその例に漏れず、寮で暮らすことになる。

 そのことについては、別にいい。最初からそうなる事は分かっていたから。

 問題は、ルシフに割り当てられた部屋が二人部屋という事実。

 そして、その相方が──。

 

「僕はレイフォン・アルセイフ。槍殻都市グレンダンの出身だ。これからよろしく」

 

 ルシフの前でボサボサな茶髪をした少年が、右手を差し出した。少年の瞳は藍色。一般教養科の制服を着ている。

 ルシフは元々部屋にあった椅子に腰掛けている。

 ルシフは武芸科の制服に身を包み、剣帯には六つの様々な種類の錬金鋼が吊るしてあった。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ、法輪都市イアハイム出身。

よく覚えておけレイフォン・アルセイフ。俺はいずれ王となる男だとッ!」

 

「えっ? あ、はい」

 

 ルシフは戸惑いながら頷くレイフォンを見て、満足そうに笑った。

 

「それでいい。それから、同じ部屋のよしみとして忠告してやろう。

俺の敵にはなるな」

 

 ルシフはそれだけ言うと立ち上がり、部屋を出ていった。

 レイフォンは唖然とした表情で、ルシフが開けた部屋の扉を見ていた。そして数秒後、頭を両手で抱えてベッドに座る。

 

「……最悪だぁ……」

 

 まさかあんなにも近寄り難い人間が相方なんて……。

 差し出した右手も結局最後まで無視された。顔の前にわざわざ右手をもっていったにも関わらず。

 

「しかも王とか言っちゃってるし……」

 

 それはつまり、自分と対等に接しないと言外に言っているようなものだ。

 こちらから歩み寄ろうとアプローチしても、まともに相手をされないだろう。

 何であんな人間が、よりによって自分の相方になるのか。

 レイフォンは己の運のなさを呪った。

 

(それにしても、彼が纏っている剄は──)

 

 レイフォンは、ルシフの剄の輝きを思い出す。

 彼の剄は洗練されているが、それ以上に威圧的な剄だった。まるで、相手を屈服させることだけが目的かのように。

 それに、かなりの実力者であることも間違いない。

 ルシフが纏っていた剄に、乱れや無駄が全く見られなかったからだ。

 これがツェルニの武芸者の標準だとすれば、注意しなくてはならない。

 ルシフとて、レイフォンが剄を使える人間であることは気付いているだろう。

 レイフォンは一般教養科だが、元武芸者だ。それも武芸の本場と呼ばれるグレンダンで、十二本しかない天剣を与えられた、天剣授受者という名誉を授かったこともある最強レベルの武芸者。

 レイフォン・アルセイフは武芸者以外の道を見つけるために、ツェルニに入学した。

 自分の武芸の腕を迂闊に見せてしまったら、何かに利用しようとする輩が現れる可能性がある。

 

(よし、頑張るぞっ!)

 

 レイフォンは出来る限り、武芸者としての実力を隠すと心に決め、自身の両頬を両手で叩いて、これからの学園生活を乗り切るために気合いを入れた。

 

 

 ルシフは寮の通路を不機嫌そうな顔で歩いていた。

 

(──最悪だ)

 

 レイフォン・アルセイフ──原作の主人公であり、ツェルニで様々な出来事が、彼を中心に起こる。

 ルシフは本来ならば、ツェルニにいない人間だ。原作知識を持っているからこそ、ツェルニに存在しているイレギュラーなのだ。

 故に、出来事の中心に深く関わるレイフォン・アルセイフと関われば関わる程、本来の未来とは違う出来事が起こりやすくなる。

 少なくとも『廃貴族』との接触までは、原作通りに事を進めなくてはならない。それに加え、自分が『廃貴族』を手に入れるためには、レイフォン・アルセイフの近くにいる必要がある。

 

(だが、四六時中不確定要素を引き起こす可能性といるのはごめんだ)

 

 ルシフはため息をつく。

 まずは自分の住む場所の変更。

 これをしよう。寝る時くらいは安心して寝られる環境を整えよう。

 次に、第十七小隊か第五小隊への入隊。

 『廃貴族』に接触する廃都市探索任務は、原作通りならば、この二つの小隊が担当する。

 出来ることなら第十七小隊への入隊が望ましい。原作は序盤、第十七小隊を中心に進んでいくからだ。

 だから、入隊するために手を打つ必要がある。

 それから、『廃貴族』を手に入れるまでは、自重しよう。

 

 ──この世界で最強になるのは、俺だ! 王たる俺こそが、最強の存在として君臨するに相応しい!

 

 この物語は、ルシフ・ディ・アシェナが歩む道の軌跡。

 魔王と、それに関わる者たちの闘争の記録である。




キャラ設定

・ルシフ・ディ・アシェナ

名前の元ネタは……

ルシフ――堕天使ルシファー(後のサタン)。
ルシファーは、被造物の中で最高の能力と地位と寵愛を神から受けていたために自分が神に成り代われると傲慢になり、神に反逆し、堕天した元全天使の首領。
7つの大罪の1つ、『傲慢』にあたる悪魔。

ディ――悪魔の英単語、デビルから。

アシェナ――悪神アエーシュマ。
アエーシュマは、ゾロアスター教の悪神の一人。アヴェスター語で『狂暴』を意味する。

堕天使・悪魔・悪神と3拍子揃ったキャラです。

ルシフの今現在の剄量と、武芸のセンスはレイフォンと同等。
実力はレイフォンが死ぬ気で今まで鍛練したイメージのため、全盛期のレイフォンより強い。
そのため、ツェルニに入学するために武芸の鍛練を怠り、勉学に集中していた今の鈍りきったレイフォンなら余裕で勝てる。
ただ、レイフォンとの実力差は剄の技術だけのため、ルシフの技術をレイフォンが盗んでルシフの実力に追い付く可能性がある。


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第2話 第十七小隊に入隊

 学園都市ツェルニ。学生が都市を治め、学生が教師をする。大人を徹底的に排除し、学生による学生のための自治が為された都市。

 今、ツェルニの街を大勢の学生が歩き、中央にある校舎群の周囲にある施設の内の一つ、全校生徒が集合する大講堂に向かっていた。

 今日、この場所で新入生の入学式があるからだ。

 ルシフも例外ではなく、大講堂の中に入っていく。

 

「おい! ちょっと待て!」

 

 大講堂の入り口付近にいた、武芸科の制服をきた三人の男の内の一人が、ルシフを呼び止めた。

 どうやら式典を取り仕切る人の内の一人のようで、問題のある生徒を大講堂に入れさせない役割を与えられているのだろう。

 だが、ルシフは歩みを止めず、男たちがルシフの正面を遮るまで止まらなかった。

 

「待てと言っているだろう! 新入生のくせに、生意気だな!」

 

 苛立ちを隠そうともせず、男たちがルシフを睨む。

 ルシフはそれを軽く流した。

 そのナメた態度が、余計に男たちを不機嫌にさせた。

 男たちはその手に錬金鋼(ダイト)を持ち、構える。

 

「新入生は半年間、帯剣の所持を禁止している!

にも関わらず、六本も錬金鋼を所持! その錬金鋼は全てこちらで預からせてもらう!」

 

「出来るのか? 貴様らごときに」

 

 瞬間、ルシフの身体から大量の剄が迸る。

 眼前の男たちは殴られたような衝撃を受け、後方に吹っ飛び、壁にぶつかって気を失った。

 ルシフはそれを冷めた目で一瞥すると、何事もなかったように歩きだす。

 ルシフの周囲にいた生徒たちは、顔を青ざめながら、ルシフから距離をとろうと逃げる。

 更にルシフの起こした騒ぎが、他の新入生の武芸科の生徒たちに伝染し、ある二人の武芸科の新入生が、隠し持っていた錬金鋼を取りだし、喧嘩を始めた。

 そのせいで、新入生側は混乱の極みになっていた。騒動から逃げようとする一般教養科の生徒たち。今にも喧嘩をしそうなそれ以外の武芸科の生徒たち。

 パニック状態となった大講堂の中で、一際大きな音が響いた。

 喧嘩を始めた武芸科の二人を、レイフォン・アルセイフがあっという間に倒したことにより、生じた音だ。

 レイフォン・アルセイフは派手に二人を倒すことで他の武芸科の新入生たちを威嚇し、喧嘩しそうになっていた武芸科の新入生たちの動きを止めた。

 

(見事な手腕だな。まぁ大したことはないが)

 

 ルシフは人と人の隙間から、その光景を見た。

 ルシフの周囲は、上級生の武芸科の生徒で包囲されている。

 数は五人。それぞれが剣帯に吊るしてある錬金鋼に手をかけ、いつでも抜けるようにしている。

 

「おい、調子にのるな。さっさと錬金鋼を渡せ! でないと、痛い目をみるぞ」

 

「何故錬金鋼を渡す必要がある? 貴様らも錬金鋼を所持しているではないか」

 

 ルシフからすれば、錬金鋼を渡しても何の支障もない。ルシフにとって、錬金鋼は玩具以外の何物でもない。

 だが、自分の意思ではなく、誰かの意思でそれを渡すのが許容出来ない。

 

「未熟者が錬金鋼を持てばああなるからだ!」

 

 囲んでいた一人が、床に突っ伏している二人を指さす。

 つまり、半年間の間に武芸者とはなんたるかを新入生に叩き込み、武芸者に相応しい立ち振舞いを覚えさせる。

 これがツェルニの武芸科の教育方針。

 

「この俺を奴らと同じ括りにするか。それと、貴様らは早とちりしている。

これを見ろ」

 

 ルシフが制服のポケットから紙切れを取りだし、折り畳まれていたのを広げて、周りに見せる。

 そこには『帯剣特別許可証』と書かれており、生徒会長の印が押されている。

 

「分かったか? 俺が錬金鋼を所持していても許されることが。

分かったらそこをどけ。あいつらのようになりたくないだろう?」

 

 ルシフの視線が壁付近で気を失っている三人の男に向けられる。

 周りにいた武芸科の上級生たちは息を呑み、屈辱で顔を歪めながら、渋々ルシフから離れる。

 錬金鋼の所持が認められている以上、ルシフの錬金鋼に対して何も言えないし、何も出来ない。

 その後、パニック状態が収まったとはいえ落ち着きのない大講堂の状況に、生徒会長のカリアン・ロスは式典の延期を決定し、その日の式典は中止となった。

 

 

 それから三十分後、ルシフは生徒会長室に設けられた椅子に座っていた。

 大きな執務机を前に腰を下ろしている生徒会長がため息をつく。

 

「確かに私は公の場で君の実力を示さなければ、小隊に推薦出来ないと言った。

だが、それを式典でやるとは……」

 

 生徒会長の容姿は白銀の髪に、銀色の瞳。

 実はルシフは、生徒会長室に来たのは初めてではない。

 昨晩、ルシフは生徒会長室に半ば強引に押し掛けた。

 ちなみに押し掛けた際、客人を座らせる椅子がないことを怒り、椅子を生徒会長室に持ってこさせた。

 途中、生徒会長室の警護のバイトをしていた武芸科の生徒を数人叩き潰したが、それ以外は何もなかった。

 そして、カリアン・ロスにいくつかの要求をした。

 一つ目は、自分を小隊員に入れること。

 二つ目は、錬金鋼の所持の許可。

 三つ目は、自分の部屋を替えてほしいこと。

 まず一つ目の要求は、ある程度実力があると周りに知られないと、生徒会長の権限だけでは推薦出来ないという理由で保留となった。

 二つ目の要求は、もし自分から問題を起こした場合、錬金鋼を取り上げるという条件付きで承諾。

 三つ目の要求は、空き部屋が見つかり次第ルシフに紹介し、ルシフが気に入ればそこに部屋を替えることに決定。

 ルシフはあえて許可証を見せず、武芸科の上級生に喧嘩をふっかけさせた。

 そして、それを一瞬で倒す。

 間違いなく自分は強い武芸者だと、全校生徒の頭に叩き込むことが出来ただろう。

 

「そう言うな。それに、貴様にとっては都合が良かっただろう?」

 

  カリアンの瞳が一瞬凍りつく。だが、すぐにその動揺を抑え、静かな瞳に戻る。

 

「──何のことかな?」

 

「式典で騒ぎを起こした武芸者二人。奴らは錬金鋼を持っていた。まるで闘うのを最初から分かっていたように。

普通に考えれば、大講堂で錬金鋼を隠し持つメリットがない。だが、レイフォン・アルセイフがあの騒動を収めた時、理解した。

あの二人はただレイフォン・アルセイフを生徒会長室に呼ぶ口実作りのためだけに、錬金鋼を隠し持ち、喧嘩を始めたのだ。

俺が起こした騒ぎのお陰で、奴らの喧嘩は自然な流れになった。まぁ、錬金鋼を持ち込むミスはしてるが」

 

「それは言いがかりだよ、ルシフ・ディ・アシェナくん。

そういえば君は、法輪都市イアハイムの武芸大会で何十人という武芸者を再起不能にしたらしいね」

 

「それがどうした? 雑魚に相応しい場所に連れていってやっただけだ」

 

 こちらも君のことを分かっているという遠回しな牽制をカリアンはしたが、ルシフは少しも動じていない。

 

「俺はそんなつまらんことを言われるために、此処に呼ばれたのか? さっさと本題に移れ」

 

 カリアンは内心で、ルシフに苦手意識を持っている。

 自分のペースに中々持ち込めないからだ。

 ルシフはどんな言葉を言われようが一切ブレない。己の行動全てに確固とした意思と理由を持っている。

 だから、言葉による揺さぶりや誘導が通用しない。

 言葉を武器に闘うカリアンにとっては、相性が悪い相手なのだ。

 

「一つ確認だが、本当にどの小隊でもいいのかね?」

 

「構わん。入学したばかりの俺が、小隊のことなど分かる筈もない。

どの小隊に俺を入れるかは、貴様に任せる」

 

「分かった。決まったら、その部隊の小隊長に推薦する」

 

 カリアンがそう言うと、ルシフは椅子から立ち上がり、生徒会長室を出ていった。

 一人になった生徒会長室で、カリアンは執務机の上に一枚の紙を置いた。

 それは『ルシフ・ディ・アシェナ』と書かれた履歴書。

 その履歴書を眺めながら、カリアンは息をついた。

 本当ならば、入学させなかった。

 だが、彼は性格に難があれど、学力と武芸者としての能力が桁違いに優秀過ぎた。

 入学出来ない理由を見つけられなかった。

 カリアンがルシフを知っている理由は、純粋な好奇心からだった。

 ツェルニには、様々な都市から人が集まる。その中で、法輪都市イアハイムから来た学生が言っていた言葉が、カリアンに興味を持たせた。

 その内容は、法輪都市イアハイムは子供が実質上の支配をしていること。

 カリアンは子供がどう都市を支配しているか気になり、人を雇って調べさせた。

 そして、得られた調査結果に戦慄した。

 恐怖政治。ルシフの支配はそれが全てだった。反抗する者全てを容赦なく潰し、ルシフを支持する者にしか安らぎはない。

 ルシフの上手いところは、ただ恐怖で抑えつけるだけでなく、ちゃんと支持する者たちに見返りを与えることだ。

 逆らわなければ、いい思いが出来る。そう住民に思わせることで、反抗する意思を削ぎ落とす。

 驚くべきは、イアハイムの住民たちが恐怖政治だと気付いていない点だ。

 ルシフに反抗する者が悪いという思考になっており、反抗者が住民たちから責められる。

 ルシフの存在が、ツェルニをどう変えるか。

 現状維持がないことだけは確信している。

 ルシフは強力な毒であり、薬。

 ルシフの独特の価値観が、ツェルニに影響を及ぼすのは間違いない。

 

「望んだわけではない……だが、強力なカードを手に入れたことは事実。

これで、ますます都市対抗の武芸大会の勝率が高まった。

──彼は、やはり第十七小隊が一番利用価値が高そうだ」

 

 レイフォン・アルセイフはどんな手を使っても、武芸科に転科させ、第十七小隊に入れる。

 だが、彼にやる気がなければ意味がない。

 ルシフ・ディ・アシェナは、そんな彼のやる気を出させる起爆剤になるかもしれない。

 レイフォン以外にルシフを倒せる可能性のある人間はいないのだから、ルシフという名の悪意を、彼が倒さなければと感じてくれれば、上出来だ。

 思考を巡らしていると、扉がノックされる音が聞こえた。

 どうやら本命が来たらしい。

 

「レ、レイフォン・アルセイフです」

 

 少し落ち着きのない声。

 

「どうぞ」

 

 カリアンは口の端を吊り上げた。

 

 

 

 ルシフが自分の教室に向かって歩いている。

 

(間違いなく、俺は十七小隊だろう。

それ以外の選択肢などない。俺を利用しようと考えるなら)

 

 カリアン・ロスはしたたかな人間だ。転んでも決してただでは起きない。

 だからこそ、読みやすい。自分の利用価値さえ見誤らなければ、カリアン・ロスを自分の思い通りに動かすのは容易い。

 ルシフは剣帯に吊るされている錬金鋼をカチャカチャ鳴らしながら、廊下を進む。

 途中すれ違う学生たちが、ルシフを避けるようになるべく離れようとする。

 そんなことは一切気にせず、歩みを止めない。

 ルシフは自分の教室に辿り着き、教室の引き戸を開けた。

 教室の中にいた三人の学生の視線が、ルシフに集中する。

 その内の一人、黒髪の女生徒が、ひっと小さく悲鳴をあげた。

 ルシフのことを、相当怖がっているようだ。

 

「あれは感心しないな」

 

 別の一人、赤毛の女生徒がルシフに近付き、ルシフを睨む。

 ルシフは鼻で笑った。

 

「何が感心しない? 武芸科の上級生を吹っ飛ばしたことか? 先輩を敬わないことか? 錬金鋼を所持するのを無理やり認めさせたことか?」

 

「わざわざ上級生を吹っ飛ばす必要はなかっただろ。

『許可証』を持っていたのだから、それを見せれば、それで終わってた」

 

「俺に刃向(はむ)かうとどうなるか、全校生徒に教えてやる必要があった。あれはそのための見せしめだ」

 

 赤毛の女生徒は大きく目を見開き、怒りで身体を震わした。

 

「剄は、武芸はそんなことのためにあるんじゃない! その力は、人がこの世界で生きるために与えられた力だ! 己の私欲を満たすためじゃない!」

 

「そうか。なら、お前はそのために剄を使えばいい。俺は俺のために剄を使う。俺に与えられた力をどう使おうが、俺の勝手だろう?」

 

 赤毛の女生徒はぐっと押し黙る。

 こいつには何を言っても無駄だ。それを悟った。

 それに、大多数が赤毛の女生徒と同じ考えを持っているとはいえ、結局は価値観の押しつけに過ぎない。

 

「はいはい、二人ともそこまで」

 

 栗色の髪をした女生徒が、二人の間に入る。

 

「クラスメイトなんだから、仲良くしないと。

わたしはミィフィ・ロッテン。こっちの赤い髪がナルキ・ゲルニ。で、ナッキの後ろに隠れてるのが、メイシェン・トリンデン。全員交通都市ヨルテム出身だよ。

あなたは?」

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。法輪都市イアハイム出身」

 

「そっか。よろしくね、ルッシー」

 

 ルシフが唖然とした表情で、ミィフィを見る。

 

「……ルッシー?」

 

「そっ、ルシフだからルッシー。あ、もう決定だから。やっぱり仲良くなるには、呼び名があった方がいいよね」

 

 自分を恐れず、自分を前にしてここまで自然体でいた相手は、今まで数える程しかいない。

 ルシフは息をついた。

 

「まぁ、好きに呼べばいい。そんな些細なことで怒る俺ではない」

 

 ルシフは自分の席に向かい、机の上に置いてある教科書を全部机の引き出しに放り込むと、教室から出ていった。

 ルシフの出ていった教室では、ナルキが笑いを堪えていた。

 

「くくっ、今のルッシーって呼ばれた時のあいつの顔を見たか!? 狐につままれたような顔をしてたぞ!

だが、よくルッシーなんて言えたな」

 

「……絶対、怒ると思った」

 

 メイシェンもナルキの言葉に頷く。

 

「いや、二人ともルッシーを怖がりすぎ。普通に会話してて怒る奴なら、そもそも式典の時の犠牲者が、三人で留まってるわけないじゃん」

 

 三人を吹っ飛ばした後に、五人の上級生にルシフは囲まれていたのだ。喧嘩っ早い性格なら、その五人も『許可証』など出さずに倒していた筈だ。

 それに、刃向かったらどうなるか教えるなら、その五人も倒さないとおかしい。

 ミィフィがそう二人に説明すると、二人は感心したように頷いた。

 

「成る程な。なら、ミィは三人を吹っ飛ばした目的はなんだと思う?」

 

「ストレス解消とか、周りに自分の強さを自慢するとかそんな感じじゃない? まぁ、あんまし気になるなら直接聞けばいいよ。

それよりも、あの式典の時にメイっちを助けてくれた謎の武芸科少年は、ここに来るかなぁ」

 

「来るだろ。ルッシーも来たんだし……ていうか、メイっちを助けた男子は一般教養科だぞ」

 

「え~、武芸科だよ。あんなに強いのに、一般教養科なわけないじゃん」

 

「い~や、絶対一般教養科の制服だった。賭けてもいいぞ?」

 

「じゃあ私は武芸科、ナッキは一般教養科で勝負!

負けた方は勝った方にジュース一本奢りね」

 

「よし、乗った!」

 

 ナルキとミィフィが賭け成立の意を込めて、握手する。

 

 それから十数分後、扉を開けてレイフォンがこの教室に現れた。

 賭けの結果はというと──最後の最後でミィフィに勝ちが転がりこんだのであった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レイフォン・アルセイフが生徒会長室を出ていって十分後、金髪をショートカットにした武芸科の少女が、カリアンの正面で直立している。

 彼女の名はニーナ・アントーク。第十七小隊の隊長を務めている。

 だが、第十七小隊は規定人数に達しておらず、今のところ小隊成立していない、いわば仮の小隊だ。

 小隊として成立させるためには、最低でもあと一人隊員を獲得しなければならない。

 そんな現状にある第十七小隊隊長の蒼い瞳が、執務机の上に置いてある二枚の履歴書を捉えている。

 『レイフォン・アルセイフ』と『ルシフ・ディ・アシェナ』の履歴書だ。

 

「──で、どうするのかね? 彼ら二人を小隊に入れる気が君にあれば、彼らは君の小隊員になるだろう。

それとも、このチャンスを不意にして小隊成立叶わず、前回の武芸大会のような屈辱を味わうつもりかい?」

 

 その時の事を思い出したのか、彼女は悔しそうに顔を歪めた。

 

「そうなるつもりはありません。

しかし、こっちはともかくとして、こっちの方は──」

 

 ニーナの綺麗な指が、ルシフの履歴書をさす。

 

「何か不満が?」

 

「彼は上級生三人を一方的に倒しました。間違いなくかなりの強さを持っているでしょう。

しかし、上級生に対して、彼はあまりに不遜です」

 

 どれだけ実力があろうと、ルシフは一年生だ。

 下級生が上級生を敬うのは当然の礼儀であり、それを守れない人間が、果たして自分や他の小隊員たちと連携がとれるのだろうか。

 

「なら、とりあえず小隊員に迎えてテストするのはどうだい?

もし、やっていけないと判断したなら、その時に小隊員を辞めさせればいい。隊長である君には隊員を選べる力がある」

 

「……分かりました。彼の実力は確かに魅力的なものがありますので、一応小隊員に加えてみます」

 

「二人のこと、よろしく頼むよ」

 

「はい。失礼します」

 

 ニーナはその場で鮮やかに回れ右をして、流れるような洗練された動きで部屋を出ていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは今、少し古びた感のある会館にいた。

 ルシフがここに来ることになった経緯はこうだ。

 ルシフは教室を後にし、まだ昼食をとってないことに気付いて、近場のレストランで遅めの昼食を済ました。

 そして、レストランでのんびり紅茶を飲んでいると、一人の少女がルシフの席に来た。

 一目見た瞬間に、この少女はニーナ・アントークだと確信し、自分の狙い通りにカリアンが動いたことを悟った。

 彼女から一言付いてきてほしいと言われ、付いてきた先がこの会館だった。

 ルシフが今居る部屋は教室を二つ分合わせたくらいの広さの部屋で、壁には様々な武器が並べられている。

 さしずめ訓練場といったところだろうか。

 ルシフの他にも、複数の人が部屋内に居る。

 長髪を頭の後ろで括り、孔雀石のように深い緑色の瞳をしている長身の男と、ツナギを着た男。

 長い銀髪と銀の瞳をして、人形のように整った顔をしている身長が低めの少女。

 その少女の付近には、一枚の光る鱗のようなものが飛んでいる。念威端子だ。

 この部屋を撮影し、何処か別の場所にこの部屋の映像をリアルタイムで流しているのだろう。

 そして、金髪碧眼の少女。

 最後に、レイフォン・アルセイフ。

 

「レイフォン・アルセイフ、貴様は確か一般教養科だったと記憶しているのだが?」

 

「武芸科に転科すれば奨学金をAランクにすると生徒会長に言われたから、武芸科になったんだよ。

三年までは武芸科でも一般教養を学ぶらしいから、別にいいかと思ってさ」

 

 実際のところは、カリアンに限りなく強制に近い提案をされ、転科させられたのだが、レイフォンはその事を一切口にしない。

 最終的にレイフォンはカリアンの眼力に屈し、頷いてしまった。

 レイフォンが武芸科に転科したのはほぼカリアンのせいだが、レイフォンにも非が多少ある。

 だから、転科させられたなどという言葉は言わない。

 

「わたしはニーナ・アントーク。第十七小隊の隊長を務めている。

お前たちに来てもらったのは他でもない、お前たち二人を第十七小隊の隊員にスカウトしたからだ」

 

 そう言った後、ニーナが小隊に関する説明をした。

 小隊とは、武芸大会で部隊分けされた時に中心となる核部隊である。

 そのため、何かしらの能力で突出していなければならない。

 ニーナの話を簡単にまとめるとこうなる。

 つまり小隊とは、武芸科のエリートの集まりなのだ。

 

「これから貴様らは、我が隊においてどのポジションが相応しいか、そのテストを行う」

 

 ニーナの瞳がレイフォンとルシフを捉え、僅かに逡巡した後、ニーナは剣帯に吊るしていた二つの黒い棒を抜き、右手に持った棒をレイフォンに向けた。

 

「まずは貴様からだ、レイフォン・アルセイフ。

そこにある武器から好きなのを取れ!」

 

 レイフォンは困惑した表情で、壁にある様々な武器に視線を送った。

 レイフォン・アルセイフは考えた。彼なりに考えた。

 レイフォンにとって武芸は捨てたものだ。これ以外のものを見つけるために、彼はツェルニに来た。

 なのに、武芸科に転科させられ、挙げ句の果てに小隊員? 冗談じゃない。

 これが彼の本音だ。

 だが、彼はすでに武芸科になってしまった。なら、どうすれば前の一般教養科に戻れる?

 簡単な話だ。カリアンを失望させればいい。武芸科にしても無駄だったと思わせればいい。

 一応闘いはするが、全く力を発揮しない。これだ。これこそが、彼が元の道に戻れる手段であり、彼なりの決意でもあった。

 要するに、レイフォンは呆気なくニーナの技を食らい、気を失った。

 ニーナは軽く息をついた。

 

(レイフォン・アルセイフ……少し期待し過ぎたか? しかし、訓練で鍛えれば小隊員として十分な実力になるだろう)

 

 レイフォンを部屋の隅に寝かせ、ニーナはルシフを見据える。

 

「次は貴様だ! ルシフ・ディ・アシェナ!」

 

 ルシフは退屈そうに、一つ欠伸(あくび)をした。

 ニーナとルシフの手合わせ。この闘いで、ニーナはルシフという人間の一端に触れ、ルシフの異常性を知ることになる。



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第3話 魔王をテスト

 ニーナが二本の鉄鞭を両手に一本ずつ持ち、構える。

 ニーナの表情は硬く、緊張した面持ちをしている。

 ルシフは上級生を一瞬で倒す程の実力者。レイフォンのように、実力が分からない一年生同士の小競り合いを止めたのとは訳が違う。

 そんなニーナの思考も、ルシフにはどうでもいい。

 ルシフは構えず、ただニーナをじっと見る。

 

「ニーナ・アントーク、俺をテストしようなど、人が神に試練を与えるのと同義だぞ。身の程をわきまえろ。

テストするまでもなく、俺はどこでもこなせる。

流石の俺も、念威操者のポジションは出来んがな」

 

 念威は剄の派生といってもいい。剄を持つ者は生まれた瞬間から、二つに分けられる。

 すなわち、武芸者か念威操者か。

 念威の才能があった場合、剄はルシフやレイフォンとは全く別の物に変化する。

 だから、ルシフは一生念威は使えない。その才能は、ルシフに与えられなかった。

 

「それだ」

 

 ニーナが右手の鉄鞭を、ルシフに突きつける。

 

「わたしは三年生で、おまえの所属する隊の隊長だ。どれだけ実力があろうと、おまえはわたしに敬語を使うべきだ。

そんな基本的な礼儀も身に付いてない奴と、連携がとれる気がしない」

 

「はっ」

 

 ルシフは嘲笑うように鼻で笑った。

 

「じゃあ、貴様は俺より上回るものを何か一つでも持っているのか? 一応言っとくが、年が上回っているとかつまらない事は言うなよ。それは下の方が価値ある唯一のものだ」

 

 ニーナは絶句した。

 学校の先輩とか年上とかという理屈は、この男には無意味なのだ。

 この男の敬う基準は、自分より優れているかどうか。

 ただこの一点のみで判断する。

 

(傲慢にも程がある!)

 

「そんなものあろうがなかろうが、年上を敬うのは人として最低限の礼儀だ!」

 

 ニーナの解答に、ルシフは心底がっかりした表情になった。

 

「一つ言っておくぞニーナ・アントーク。

その年が上なら無条件で敬われるべきだというこの世界の愚かしい風習。これこそが無能を調子づかせ、己の研磨を怠らせる毒だ」

 

 無能が、年を取るだけで偉くなったと錯覚する。

 ただ年上という理由だけで、年下の優れた人間に好き放題発言でき、好き放題やることが出来る。

 そんな奴らは恥を知れ! 長く生きているくせに、自分より短い年月で自分を上回った相手に偉そうにするなど、言語道断!

 少し考えれば、短い年月で高みに至った人間と、長い年月をかけても成長しない人間、一体どちらが敬われ称賛されるべき人間か分かるだろう!

 そんな当たり前の思考を奪い取るもの──それが生まれた時からの教育という名の洗脳と、今までこうだったからという思考放棄した頭の固い多数の大人たち。

 親から子に、古くさい風習が受け継がれ、子は間違っていると疑うことなく、愚直に教えられた事が絶対に正しいと盲信し、他人にもそれを押し付ける。

 

「一度自分の頭でしっかり物事を考えることを覚えろ。

他者からの教えをただ漫然と受け入れるから、貴様のような勘違いをするのだ」

 

「ふざけるなッ!」

 

 ニーナの怒号が、室内に響きわたる。

 ニーナの纏う剄が輝きを増し、激しさを伴って空気を震動させる。

 それはニーナの怒りを、剄が具現化したために起こったことだった。

 

「貴様に教えてやる。

人の価値は能力だけではない。性格、人柄、人間性、経験……そういったものも含めて人の価値は決まるのだ!

人を道具としか見れんのか、貴様は!?」

 

「……どうやら、話しても無駄らしいな」

 

 ルシフはニーナの怒気を意に介さず、ため息をついた。

 

「そうだな。話はここまでにして、闘おう。

来い、ルシフ・ディ・アシェナ!」

 

「まぁ、そう焦るな。ただ闘うだけでは面白くない。どうだ、勝負しないか?

ルールは簡単。俺にかすり傷一つでも負わせたら、貴様の勝ちだ。

その時は貴様が優れていると認め、貴様の言うことを聞いてやろう。貴様の隊にいる間は、年上全員に敬意を持って接してやる」

 

「わたしに有利すぎる勝負だな。で、かすり傷一つ負わせられなかったら、おまえの態度をわたしは認めなければならないと。そういうことか?」

 

「そうだ。で、どうする? やるか?」

 

 もしレイフォンに意識があれば、ニーナに対して絶対に勝負を受けたら駄目だと、声高々に叫んでいただろう。

 だが、レイフォンは気を失っていて、ニーナにルシフの実力を感じとれる技量は身に付いていない。

 ニーナは、この勝負は十分勝算があると判断した。かすり傷一つ負わせることが出来ないイメージが、ニーナには思い浮かばなかった。

 

「いいだろう。さぁ、剣帯から好きな錬金鋼(ダイト)を取れ!」

 

 ニーナは二本の鉄鞭を構え直す。

 ルシフの体勢は構えすらせず、ただ立っているだけだ。

 

「一つ聞きたい。貴様は何か剄技を持っているか?

旋剄や殺剄といったヤツだ」

 

「わたしに剄技名のついてる技はない。あるのは型だ」

 

 ニーナの場合、型の中に様々な技が組み込まれている。だが、それはあくまで型の流れにあるものであり、単体で使うものではない。

 

「そうか」

 

 ルシフは剣帯の錬金鋼に触れる素振りもみせず、未だに構えていない。

 

「どうした? さっさと錬金鋼を抜いて構えろ!」

 

「その必要はないッ! 打ってこいニーナ・アントーク! それとも、構えもしていない相手に傷を負わせる自信がないのか?」

 

「──どこまでッ!」

 

 ニーナの身体が震える。怒りが身体中に伝播し、両腕に持つ鉄鞭にもそれが伝わり、鉄鞭を覆う剄が勢いを増した。

 錬金鋼をいくつも持ちながら、それを使用せず、構えもしない。

 武芸者にとって、それは耐え難い屈辱だ。

 

「どこまで人をバカにすれば気が済む! 分かった、貴様はそれで闘うというんだな! なら、構えてなくても容赦しないぞ!」

 

 空気を切るような音をさせて、ニーナの右手の鉄鞭がルシフの胸に打ち込まれた。

 

「今……何かしたか?」

 

 ニーナの表情が驚愕に染まっていく。

 打ち込んだ瞬間の手応えが、今まで打ち込んできた武芸者の肉体とは全く違っていた。

 

「っ! ──まだまだいくぞ!」

 

 ニーナは再び鉄鞭を振るう。

 

 

 

 

 

「……おい、ハーレイ。俺は夢でも見てんのか?」

 

 髪を括った男、シャーニッド・エリプソンが唖然とした表情で、近くのツナギを着た男、ハーレイ・サットンに問いかける。

 

「……少なくとも、先輩だけが見ている夢じゃなさそうです」

 

 ハーレイも驚きで、口をあんぐりと開けていた。

 銀髪の少女、フェリ・ロスは目を見開いている。

 フェリを知る者がその表情を見れば、こんなに感情の入った表情は初めてだと驚愕するだろう。

 ニーナは、ルシフの頭以外の全ての箇所に鉄鞭を打ち込んだ。

 手応えがないわけではない。むしろ、痛いくらいに鉄鞭を持つ両手に手応えを伝えてくる。だが──。

 

「いい加減、かすり傷の一つでも付けたらどうだ?」

 

 ルシフはため息をつく。

 十分だ。十分という時間の間、ニーナは休まずにルシフに鉄鞭を振るい続けた。打ち込んだ数は優に二百を超える。

 だというのに、ルシフは未だに無傷。青アザどころかかすり傷もない。

 ニーナは、今まで積み上げてきた武芸が土台から崩れていくような錯覚を覚えた。

 何なのだ、この男は?

 錬金鋼も抜いていない、構えもしていない。なのに、わたしの鉄鞭が全く効いていない。

 打ち込んだ感触も、人のそれではない。皮の下に金属が詰め込まれているような感触。人ではなく、まるで鋼鉄を殴っている感覚。

 

「おまえ……本当に人間か?」

 

 肩で息をしながら、ニーナがルシフに尋ねる。

 口に出してから、何をバカな事を言ってるんだと自分の言動が恥ずかしくなった。

 ルシフはふっと笑う。

 

「二百回以上鉄鞭で殴られて、無傷で済む人間がいるか?

武芸者は人間を超えた新しい生物だ。

だというのに、貴様ら武芸者は人間の真似事をする。身体構造から人間と違うのに、だ。自分たちが人間と同じ外見だから、自分たちも人間だと思い込んでいる」

 

 武芸者は、剄を大量に発生させる『剄脈』と呼ばれる内臓を持っており、そこから剄の通り道になる『剄路』という管が、神経と平行するように全身に伸びている身体のつくりになっている。

 だから人間じゃないという極論を、ルシフは幼少の時から信じて疑っていない。

 

「……何を……何を言っているのだ、おまえは?

わたしたち武芸者も人間だ。剄という力は、人間がこの世界で生きていけるようにと、人間に与えられた大切な贈り物だ」

 

「なら、何故その贈り物が全ての人間に渡されないのだ?」

 

 人間に与えられた贈り物というなら、なぜ剄を持たない人間が生まれてくる?

 剄を与えられた者と与えられない者の差はなんだ?

 

「──え?」

 

 ニーナは答えられなかった。

 ルシフの話が続く。

 

「あまつさえ、この世界は人間同士で闘う事を強要する。これが仕方ない事か? 許せるのか?

もし、剄を与えた神がいるとしたら、そいつは人間同士が争い、傷付いていくのを楽しんでいる性悪だ」

 

 都市のエネルギー源となるセルニウム鉱山を巡っての戦争。

 都市同士、要は人間同士で争うシステムが、この世界には組み込まれている。 

 

「都市には電子精霊がいる。自分の都市のセルニウム鉱山の所有数も電子精霊は把握している。

戦争ではなく、電子精霊同士の話し合いで、滅びそうな都市にセルニウム鉱山を譲るということも出来る筈だ。

だが、そんな話は聞いたことがない。

分かるか? 貴様がいうような、人間を救済するために剄は与えられたわけではない。たまたまだ。たまたま剄という異能を持つ生物が、人間の腹から生まれるようになっただけだ。

そこに意味を見いだそうとしても無駄なのだ」

 

 ニーナの頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。

 これまで正しいと信じていたものを、この男は平然と踏みにじる。

 だが、全く的外れな考えというわけでもない。それが更にニーナを追い詰める。 

 ニーナは、都市同士の戦争はあって当たり前だと思っていた。

 限られた資源を確保するためには必要な戦いであり、生きていくために必要な犠牲だと。

 でも、その犠牲を出さずにセルニウム鉱山を手に入れる方法が有ったとしたら?

 それは人類にとって大きな進歩となる。

 

「それにしても、俺もナメられたものだな。

ニーナ・アントーク、何故アルセイフを気絶させた技を使わない? 肉体強化しただけの攻撃で何とかなると思っているのか?」

 

 レイフォンを気絶させた技、それはニーナにとって一番威力が高く、自信のある技だと自負している。

 肉体強化した身体で一気に距離を詰め、その勢いを殺さず相手に二本の鉄鞭を打ち込み、打ち込んだ瞬間に鉄鞭の剄を衝剄にして、相手を吹き飛ばす。

 

「今までは、無防備の相手にやったら大怪我すると思って使わなかった。しかし、おまえなら問題ないだろう。

わたしの一番の技、その身で受けるがいい」

 

 活剄で、最大限の肉体強化をする。

 それをしながら体勢を低くし、鉄鞭を前でなく後ろにもっていく。

 その構えは、鉄鞭の引いて振るう動作の引きを無くした、防御を一切考えていない攻撃の型。

 

「打ち込むなら、頭を狙え。たんこぶくらいならできるかもしれないぞ?」

 

 普段のニーナなら、無防備な頭に打ち込めるか! と激怒していただろう。

 だが、ニーナ自身も驚く程に、その言葉をあっさりと受け入れることが出来た。

 ニーナは、ルシフのことを人間に見えなくなっていた。目の前にいるのは、人間の皮を被った何か。

 頭に打ち込んでも、人間じゃないのだから大事にはならない。

 そんな根拠のない理屈で、頭を狙うのを正当化した。

 ニーナは大きく一歩を踏み込み、一瞬でルシフの眼前に移動する。

 そして、その勢いのまま、ルシフの頭部に二本の鉄鞭を同時に打ち込み、インパクトの瞬間に衝剄を放つ。

 訓練場内が、ニーナの衝剄で震える。

 立てかけてあった様々な武器は倒れ、室内なのに突風が吹き荒れる。

 その場に居た誰もが顔を背けて、衝剄の余波を防ぐ。

 金属を叩いたような鈍い音が、訓練場内に響き渡る。

 ニーナの二本の鉄鞭は、宙を舞っていた。

 ニーナの両腕は、鉄鞭を打ち込んだ際の衝撃で微かに震えていて、両手は擦りむいたように赤くなり、所々の皮が(めく)れている。

 ニーナの握力を、鉄鞭に伝わった衝撃が上回ったために生まれた傷だ。

 鉄鞭が床に落ちたのと、ニーナが崩れ落ちるように床に両膝をつき、座り込んだのは同時。

 ルシフの頭部は、無傷だ。

 ルシフは、目の前で起きたことが信じられないといったニーナの表情を一瞥して、くるりと半回転し、ニーナに背を向ける。

 そのまま三歩前に歩く。その歩きの間にルシフは剣帯に吊るしてある錬金鋼の一つ、黒鋼錬金鋼(クロムダイト)を抜き、手の平でくるくる回転させる。

 

「レストレーション」

 

 ルシフが小さく呟くと、手の平で回転していた錬金鋼が、ルシフの身長程の真っ直ぐな黒い棒になった。

 それを両手で持ち、ニーナの方に向き直って、この闘い初めてとなる構えを見せた。

 両腕を上げ、黒棒を頭より高く持っていき、後は振り下ろすだけの上段の構え。

 

「止めてくれえ!」

 

 ルシフが何をしようとしているかなんとなく察したハーレイは、恐怖心を抑えつけ声の限り叫んだ。

 だが、ルシフにその声は届かない。

 ルシフは内力系活剄で肉体強化をし、力強く一歩を踏み出して、ニーナの眼前目掛けて黒棒を勢い良く振り下ろす。

 その黒棒はニーナの鼻先を掠め、そのまま床に叩き付けられた。

 床が抉れ、床の欠片が辺りにばら蒔かれる。その時の衝撃で、ニーナの髪は煽られボサボサになった。

 ニーナの虚ろな目が、ルシフの黒棒が叩いた床を見る。

 その床は地割れのようにヒビが入っていて、建物だけでなくその下の地面すら砕いていた。

 

「うむ、この技の名前は『地砕き』にしよう。

ニーナ・アントーク、技を出す時は技に心を、魂を込めろ。貴様の技、勝手に『地砕き』という技名にしたが、この技を使う場合は、絶対に目の前のものを打ち砕くという心で放つのだ。

貴様はただ技を出しているだけだ。それでは技に溺れ、その技を使う本質に気付かんだろう。

何か目的があるから技を使う。その事をよく覚えておくのだな」

 

 ルシフが技名に(こだわ)りを持つのも、全てはこれが理由だ。

 技名があった方が、技に心を入れやすい。名前が無いより有った方が、自然と技に力が入る。

 これはルシフの持論であるが、武芸者たちの強力な技には、全てにおいて技名が付けられている。

 技名は、ただ技を表す名ではないのだ。技に入れる心も、その名には入っているのだ。その事を、強い武芸者程理解している。 

 ルシフが黒棒を黒鋼錬金鋼(クロムダイト)に戻し、剣帯に吊るす。

 ニーナの光を失った瞳に、僅かに光が戻った。

 

「……それは、アドバイスか? おまえが、わたしに?」

 

「貴様は、()がり(なり)にも俺を従える隊長だ。強く在ってもらわねば、俺が低く見られる。俺が迷惑するのだ」

 

「……どこまでも、勝手なヤツだ」

 

「ふん……テストも終わったな。で、今日は他に何かするのか?」

 

 ニーナは軽く横に首を振った。

 

「いや、今日はテストだけの予定だ。わざわざ手間を取らせて悪かったな」

 

「貴様は隊長だ。隊長が気安く謝るな。貴様は、常に毅然としていればいい。それだけが、俺を扱える資格だと思え」

 

 ニーナは、改めて目の前の人の形をしている何かを見た。

 何なのだ、この男は?

 全ての攻撃を構えもせずに防ぎ、わたしの技を一目見ただけでわたし以上に使いこなして、わたしの精神を徹底的に蹂躙した。

 なのに、アドバイスのようなことを口にし、励ましに近い言葉を放つ。

 ニーナはルシフという男がどういう男なのか、未だに捉えられないでいた。

 ニーナがそんな思考をしている間に、ルシフは悠然とした態度で、訓練場から出ていった。

 

 

 

 ルシフが出ていった訓練場内、座り込んでいたニーナはそのまま後ろに身体を倒し、仰向けになる。

 それを気を失ったと思ったシャーニッドとハーレイは、慌ててニーナに近付く。

 ニーナは両腕で顔を隠していて、口しか見えない。

 

「なぁ、ハーレイ、シャーニッド、フェリ」

 

 ニーナがその場に居た全員の名を口にする。

 三人はニーナの次の言葉を聞き逃すまいと、耳を澄ませている。

 

「わたしは、人間だよな……」

 

 ハーレイとシャーニッドは目を見開き、フェリは僅かに眉を上げた。

 ルシフの武芸者は人間じゃないという言葉が、ニーナの心に突き刺さっている。

 いち早く平常心を取り戻したシャーニッドは、軽く笑った。

 

「バッカだなニーナは。

確かに武芸者の身体のつくりは、人間とは全く違っている。けど、俺たちは人間として、この世界に生まれてきたし、人間の心を持ってる。

なら、俺たちは人間だよ。アイツの考えの方がおかしいんだ。アイツの言葉を真に受けない方がいいぜ」

 

「シャーニッド──」

 

「そうそう。ニーナが人間だってことは、小さい頃から一緒にいた僕が一番分かってるから」

 

「ハーレイ──」

 

「…………」

 

「──フェリは、わたしに何かないのかな?」

 

「ありません」

 

 フェリだけは、いつもと変わらず素っ気ない。

 その事に少しだけニーナは寂しさを感じたが、いつも通りの反応が嬉しくもあった。

 

「シャーニッドとハーレイ、レイフォンを保健室に連れていってやってくれ。

フェリはレイフォンの看病を頼む」

 

「了~解だ。さぁハーレイ、レイフォンを担げ」

 

「先輩が担いで下さいよ。僕は肉体強化出来ないんですから」

 

「ダメだ。たまには運動しないと、な」

 

「先輩の鬼~」

 

 ハーレイはレイフォンを頑張って担ぎ、フラフラしながら訓練場を去っていく。そのすぐ後ろをシャーニッドが歩き、フェリは少し距離を開けて付いていく。

 訓練場の扉が閉められ、ニーナは両手を握りしめる。

 自分が今まで積み上げてきた武芸を、ルシフは粉々にしていった。

 正直な話、鉄鞭を打ち込んでも打ち込んでも平然としているルシフの姿は恐ろしかったし、レイフォンを気絶させた技も全く通用しないと思い知った時、心が折れる音が聞こえた。

 もし、ルシフが何も言わずに訓練場を去っていたら、わたしは心が折れたままだったろう。

 ルシフがあの時ニーナに声を掛けたおかげで、ニーナは正気に戻り、再び立ち上がれたのだ。

 

(わたしは、どうしようもなく弱かったのだな)

 

 自分なりに一生懸命努力した。自分が強くなれると思った鍛練をずっと続けてきた。

 だが、その鍛練は本当に強さに繋がっていたのか?

 ただ鍛練したという自己満足で終わってたんじゃないか?

 もっと効率の良い鍛練の方法があったんじゃないか?

 ルシフは底が知れない。あれだけの強さが、才能だけで手に入るとは思えない。

 確実にルシフは努力している。良い鍛練方法も知っているだろう。

 ニーナには、ある想いがある。

 それはツェルニを護ること。それも、他の誰でもない、ニーナ自身の手でツェルニを護りたい。

 そのためには、今よりもっと強くならなければならない。

 ならば──。

 

「本当に気が進まないが、今より強くなれる可能性があるなら、それにすがりついてみるか」

 

 ルシフに鍛えてもらおうと、ニーナは心に決めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは古びた会館から出て、外を歩いている。

 

(調子に乗りすぎた……)

 

 ルシフは後悔していた。ニーナを精神的にボッコボコにしたことを。

 第十七小隊はニーナがいるからこそ成り立っている小隊であり、ニーナが武芸者として死ねば、第十七小隊の空中分解は必至。廃都市探索任務に同行する目的も瓦解する。

 だから、ルシフはニーナに少しだけ優しくした。ニーナが第十七小隊を辞めないように。

 普段のルシフなら、蹂躙した相手に言葉など掛けない。

 

(刃向かう者を徹底的に蹂躙したくなる感情──今は我慢するのが賢明だな)

 

「お久し振りです、ルシフ様」

 

 考え事をしているルシフの前に一人の少女が立ち、軽く頭を下げた。

 少女の容姿は、腰まである真っ直ぐな青い髪をツインテールにした髪形で、青空のような透き通った青い瞳。剣帯の色は二年生を表している。

 ルシフが一年前にツェルニに入学させた少女だ。名をマイ・キリーという。

 

「マイか。頼んでおいた件はどうなっている?」

 

「そのご報告をするために、こうしてルシフ様の元に来ました。私の部屋に案内します。付いてきて下さい」

 

 こうしてルシフはマイの部屋に訪れることになった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 生徒会長室──今この部屋は薄暗く、ある映像がフェリの念威端子を介したモニターに映し出されている。ニーナたちがいた訓練場の映像だ。

 生徒会長室には二人の男がいた。生徒会長であるカリアンと、ツェルニの武芸長を務め、第一小隊の隊長でもある六年生、ヴァンゼ・ハルデイ。

 二人とも青い顔をしてモニターを観ていた。映像のあまりの衝撃に、二人とも言葉を失っている。

 いち早く衝撃映像から立ち直ったカリアンが口を開く。

 

「どう……思うかね?」

 

「これは俺の正直な意見だが──ツェルニ中の武芸者全員でアイツに闘いを挑んでも、勝てる気がしない」

 

 ニーナは一年生で小隊員に選ばれた実力者であり、実力は折り紙つきだ。ヴァンゼもニーナを高く評価している。だからこそヴァンゼはニーナの小隊立ち上げに反対し、小隊員としてじっくり育てるべきだとカリアンと対立したこともある。

 そのニーナが全力で放った攻撃を涼しい顔で受けきり、更にニーナの技を一目見ただけで使いこなした。

 

「それに、コイツの六つの錬金鋼、これも気味が悪い。一つハッキリしているのは、全く本気を出していないってことだ」

 

「彼にとって、錬金鋼は玩具だよ。錬金鋼を使っているなら、彼は本気じゃない」

 

「──何だと?」

 

 カリアンは目を見開いているヴァンゼを、真剣な表情で見る。

 

「彼を調べた時に偶然手に入れた情報なんだが──彼は錬金鋼を使わない闘い方を極め、剄を錬金鋼のような武器に変えて闘うらしい」

 

 武芸者は錬金鋼を武器に闘う。錬金鋼が耐えきれない程の剄量を持った武芸者でも、剄を抑えてまで錬金鋼を武器にして闘う。

 これが武芸者にとって、当たり前の闘い方だ。

 錬金鋼を使わない方が強いなど、ハッキリいってバカげてる。

 何だ? 何なのだ、このルシフ・ディ・アシェナという男は?

 未知の生命体に遭遇してしまったような恐怖と不安感。

 ルシフが言っていた武芸者は人間じゃないという言葉も、その感情に拍車をかける。

 

「対抗戦──どうする?」

 

「なるようにしか、ならないだろうね」

 

 もうすぐ小隊同士の対抗戦が始まる。対抗戦は、簡単にいえば小隊の序列を決めるための戦いであり、序列が上位ほど、武芸大会で重要な位置に配置させる。

 

「まぁ、彼も見境なく傷付けたいわけじゃないだろうから、大事にはならないと思うよ」

 

(万が一大事になったとしても、その時はレイフォン・アルセイフが止めに入るはずだ。彼が武芸に乗り気でないのは分かっているが、他人のために行動出来る人物なのは、入学式の式典で証明されている)

 

 ヴァンゼに気付かれないよう、カリアンは静かに口の端を吊り上げる。

 ヴァンゼはそんなカリアンの思惑を知るよしもなく、ただ対抗戦を憂いて目を伏せた。



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第4話 魔王の苛立ち

 ルシフは質素な机に並べられた写真を、一枚一枚手に取り目を通していく。

 正確にいうなら、それは写真ではなく念威端子で映した映像をプリントアウトした画像だ。

 ルシフは今、マイ・キリーの部屋に居る。部屋にあるのは、ベッド、机、タンス、椅子しかなく、それらの家具の色は茶色で統一されたお世辞にもオシャレといえない地味さで、とても女の子の部屋には見えない。

 カーペットすら敷いていない床に正座をして、マイはルシフの横顔をじっと見つめている。その瞳は心なしか不安そうだ。

 ルシフは椅子に座り、机の上に並べられた写真を一通り目を通したら、手に持っている写真を机の上に放り投げ、マイの方に椅子の向きを変える。

 

「この一年で、ツェルニは隅々まで余すところなく調べ尽くしました。今ご覧になった画像は、その中で私が気になったところです」

 

「で、お前のこの都市に対しての意見は?」

 

「不気味です。少女らしき人型を捕らえて実験体のように扱われている画像があったと思いますが、あんなもの、私は今まで見たことがありません。

一体この都市の学生は何をしようとしているか……それを考えるだけで寒気がします」

 

「ふむ、ごく一般的な意見だな。なんの面白みもない」

 

 マイは正座の姿勢のまま、びくりと身体を震わせた。

 マイ・キリーは念威操者であり、幼少の頃にその念威の才能を見出だされてルシフに拾われた孤児だ。念威の才能は、フェリ・ロスに勝るとも劣らない。

 

「そう強張るな。今の言葉は別にお前の意見を責めるつもりはない。

調査に関しては、むしろ一年という限られた時間の中で、よくやってくれたと褒めてやってもいいくらいだ」

 

 ルシフにとって、その言葉に嘘偽りはない。

 ルシフは鋼殻のレギオスの世界の知識を生まれながらに持っている。

 大抵の人間ならば、自分は未来を知っていると自惚れ、その知識に胡座をかいて日々を過ごしていくだろう。

 だが、ルシフは違う。ルシフは未来と鋼殻のレギオスという世界の全てを知っているからこそ、幼少の頃から様々な都市の歴史書や、その都市について書かれた書物を買って持ってくるよう外に出ていく人に頼み、様々な都市に関する知識を集めた。

 法輪都市イアハイムにあるルシフの部屋は、多数の書物が所狭しと本棚に並べられている。

 何故、そんなことをルシフがしたのか?

 理由はたった一つ。自分の知る未来と知識が本当に正しいかを知るためだ。

 未来はちょっとしたことで大きく変わる。自分は未来を知っているからとその時まで何もしなければ、いざとなった時に知っている未来と現実が違っていた場合、その知識は何の意味も無くなり、未来を知っているというアドバンテージは無に帰す。

 ルシフはそんなつまらないヘマをするつもりはなかった。

 ルシフは常に世界の情報を仕入れ、自分の知る未来からズレていないかを監視し続けた。

 特にグレンダンに関しては毎年のように人を送り込み、グレンダンの情報を得ていた。

 グレンダンは原作においてツェルニと並ぶ重要都市であり、また原作知識の中にはグレンダンで起きた出来事が他都市と比べて多く入っているため、ズレているかどうか知るのにはうってつけの都市だった。

 結論をいえば、ルシフの知る未来とほぼ同じ未来が展開され、原作とほぼ同様の状態でツェルニに入学出来た。

 そして、一年前のツェルニに入学させる前にマイ・キリーに頼んでいたツェルニの調査。

 その調査で得られた旧錬金科実験棟のポッドの中にいる少女。

 少女の名を、ルシフは知っている。

 ニルフィリア・ガーフィート──ツェルニに住む学生を操り守護獣を開発し、来るべき戦いに備えている存在。以前は電子精霊ツェルニと同化していた少女。

 ニルフィリアに対してどうこうする気は、ルシフにはない。彼女は一応この世界を護ろうとする側の存在であり、放っておいたところでルシフの障害にはならない。

 それに、ニルフィリアはマイがツェルニを調べていたことに気付いている筈だ。にも関わらず、何らかのコンタクトをとろうとしてこないのは、ルシフの行動を黙認したという根拠になる。

 このツェルニの情報を得て、ルシフは自分の知る未来と大筋の流れはズレていないと確信した。

 これからルシフは、原作の流れを当てに行動すればいい。

 

「あの、ルシフ様?」

 

 黙りこんだルシフを、マイは首を傾げて怪訝そうに見る。

 

「──マイ、お前は俺の物だ。その事を忘れるな」

 

 マイは顔をほころばせて頷く。

 

「初めてルシフ様と出会ったあの日から、私はルシフ様の物です。これまでも……そして、これからもそれは変わりません」

 

「ならいい」

 

 ルシフは机の上にばら蒔かれた写真の内の一枚を手に取り、制服のポケットに入れる。

 そして、椅子から立ち上がり部屋の扉の方に歩き、扉のドアノブを握ろうとルシフが手を伸ばす。

 が、その扉は外から勢いよく開けられた。

 

「マイ! あのルシフがツェルニに──っ!」

 

 長い金髪を縦ロールさせた少女が勢いよくマイの部屋に入ろうとして、その扉のすぐ前に立つルシフに驚き顔を強張らせる。

 

「──ダルシェナ・シェ・マテルナ。三年ぶりくらいか?」

 

 ただ立っているだけの筈なのに、息が詰まりそうになる威圧感を放っているルシフに、ダルシェナは後退りしそうになった。

 ダルシェナは深呼吸を一つして自分を落ち着かせ、ルシフを見据える。

 

「何故お前が学園都市ツェルニ(こんな場所)にいる? お前のいるべき所ではない筈だ」

 

「ほう……障害物なしに俺と話せるようになったか。

貴様も気付いていただろうが、俺は貴様のあのひ弱な立ち振舞いが本当に嫌いだった」

 

「お前が私をどう思っているかなどどうでもいい。それより、私の質問に答えろ」

 

「俺がツェルニに入学した理由はただの気紛れにすぎん。

そんなことより、随分と気が強くなったな。身体も女らしく成長した。

今の貴様なら、一晩抱いてやってもいいぞ?」

 

 ルシフの指がダルシェナの顎に触れ、顔をダルシェナに近付ける。

 そのままダルシェナの唇に自身のそれを重ねようとして、ルシフの左頬をダルシェナが右手で思いっきり平手打ちした。

 部屋に乾いた音が響く。

 

「誰が貴様のような下劣な男に身体を許すか!

私をそこらの女と一緒にするな!」

 

 ダルシェナは顔を真っ赤にして叫んだ。自分を軽んじられたことに、ダルシェナは相当の怒りを感じている。

 そのまま乱暴に踵を返し、ダルシェナは足早にマイの部屋から去った。

 ルシフは左手で左頬を軽くさする。左頬には綺麗に手形が残っている。

 ──痛覚。それは本当に久し振りの感覚だった。じんじんと熱を帯びていく左頬。

 さすがは武芸者といったところか、ダルシェナの平手打ちは思った以上に痛かった。

 

「お優しいですね」

 

 ルシフの後方から掛けられた言葉に、ルシフは無言で振り返り、微笑しているマイに視線をやる。

 

「ダルシェナ様の平手打ちに当たってあげるなんて」

 

「俺がそんな善人に見えるか? あの程度の女の平手打ちなど、防ぐまでもない。

それに、マテルナに机の上にあるものを見られるわけにはいかん」

 

 あえてダルシェナを怒らすようなことをして、ダルシェナをマイの部屋から遠ざける。

 今のダルシェナならされるがままでなく、自分の意思をハッキリと示す気丈さがあるのをルシフは見抜いていた。

 強引に関係を迫れば、ああいう態度をとるのは予想できた。

 

「平手打ちを防いでも、ダルシェナ様は逃げていったと思いますよ。

ダルシェナ様の気を晴らしてあげるために、平手打ちを防がなかったんですよね」

 

 くすくすと笑うマイから、ルシフは視線を逸らした。

 念威操者にしては、マイは感情表現豊かだ。初めてマイと出会った時に比べたら、感情の起伏に雲泥の差がある。

 

「俺があんな女を気にするわけがないだろう。

もう俺は自分の部屋に戻る。机の上の画像は処分しておけ」

 

「はい。

ルシフ様、またいつでも私の部屋に来て下さい。それとも、私がルシフ様のお部屋にお邪魔しましょうか?」

 

「来んでいい。お前が必要になったら、俺から呼ぶ。念威端子は常に俺の近くに置いておけ。周りにバレんようにな」

 

「分かりました」

 

 マイが剣帯に吊るしていた重晶錬金鋼(バーライドダイト)を復元し、半透明の杖がその手に握られる。六角形の結晶が集まり、角ばった形をしている杖。その杖の先端から六角形の結晶が一つ離れ、ルシフのポケットに入っていく。

 

「私だと思って、大切にしてくださいね」

 

「気が向いたらな」

 

 マイの軽口を素っ気なく返し、ルシフはマイの部屋を出て自分の部屋に向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 翌日。第十七小隊は野戦グラウンドで対抗試合に向けての連携訓練をしていた。

 ルシフはレイフォンの護衛役を命じられ、レイフォンと並走して、襲いかかってくる樽のような形をした自動機械を殴って破壊する。

 野戦グラウンド内は木々が植えられていて、訓練用の自動機械が多数仕掛けられている。自動機械にもバリエーションがあり、斧を使う自動機械もあれば、狙撃してくる遠距離攻撃型の自動機械もいる。

 

 ──つまらない。

 

 自動機械を次々に壊しながら、苛立ちを覚える。苛立つ理由は、こんなものに手間取る第十七小隊の不甲斐なさだ。

 ニーナは明らかに冷静さを欠き、八つ当たりのように自動機械を鉄鞭で叩きのめす。

 ニーナが指示をしたのは、最初のポジション決めくらいだ。

 訓練が始まってから、ニーナはフェリに対して「遅い!」と怒鳴ったり、舌打ちばかりで全く指示を出していない。

 一体何のために隊長がいて、念威端子という通信機があるのか。その事に頭が回らないニーナは、結局他人に対して高く期待し過ぎているのだ。

 ──言われなくても、これくらい察しろ。そんな言葉がニーナの態度から伝わる。

 レイフォンは集中力が散漫で、動きが鈍い。遠距離攻撃型の自動機械を常に気にしているようで、いつも頭を左右に振り、近くの自動機械への対応が僅かに遅れている。

 後方もチラチラ見ているから、シャーニッドの動きも気になるのだろう。

 シャーニッドは狙撃手で、遠距離から味方の援護を行う。その援護が自分に当たらないか不安なのだ。それは、シャーニッドとて同様なのだろう。

 現にシャーニッドは、訓練が始まってからレイフォンとルシフから離れたところの自動機械しか狙撃していなかった。

 それでは、狙撃の効果を大して得られない。

 フェリは念威で一応索敵しているが、大抵直接視認してから、その情報を念威端子で伝えてくる。

 もうその情報は視覚から伝わっている情報であり、はっきりいって念威操者の役割を一切果たしていない。そんな半端なことしか出来ないなら、むしろ何もするなとルシフは言いたい。

 だが、一番の苛立ちの理由は、自分の立ち位置。

 この訓練で自分がどう行動しようが、第十七小隊の面々がばらばらで、それぞれ問題を抱えているのを変えられない。

 不毛。自分がここでこうしている意味。貴重な時間の浪費。

 それらがルシフにのしかかり、ルシフの苛立ちを加速させる。

 ──そして、ついにそれは限界を迎えた。

 自分がここでこうしているのが無意味なら、少しでも早くこの不毛な時間を終わらせよう。

 遠距離攻撃型がニーナを照準に捉え、近くの自動機械に攻撃しているニーナに、遠距離攻撃を放った。

 ニーナは近くの自動機械に気をとられ、遠距離攻撃に対応できない。

 ルシフはレイフォンから離れ、旋剄でニーナと遠距離攻撃型の射線上に移動。そこから右手を前に翳し、放たれたペイント弾を受け止め、衝剄を利用してそっくりそのまま遠距離攻撃型に弾き返す。

 遠方でごんという音がした。直撃したことを確信し、ルシフは旋剄で次々に自動機械を破壊していく。そして最後の自動機械を破壊した時、全て破壊したことを報せるサイレンが野戦グラウンドに響いた。

 

 

 野戦グラウンドのすぐ側にあるロッカールーム。ニーナが全員を睨んでいる。ルシフを含めた全員だ。

 そもそもニーナは訓練が始まる前から機嫌が悪かった。その原因はシャーニッドが訓練に遅刻したせいだ。

 ルシフはこんなことに付き合う気はない。さっさとロッカールームから出て、シャワーを浴びる。そう決めている。

 

「ルシフ! どこに行く!?」

 

 ニーナの怒鳴り声で、ルシフはロッカールームから出ていこうと動かしていた足を止める。

 

「シャワールームだが? 訓練はもう終わりだろう?」

 

「お前は今の訓練で何も感じなかったのか!?」

 

「感じたさ。

ただの一隊員に成り下がっている隊長。

戦闘に集中できないアタッカー。

狙撃することを怖れる狙撃手。

索敵も満足にできない念威操者。

これ以上ないくらい最悪だな。貴様らは何もしなくていい。俺一人いればどの小隊にも勝てる。

対抗試合は貴様ら全員後方で座ってろ、役立たずども」

 

 ルシフの言葉が、ロッカールームの空気を凍らせる。

 怒りを露わにしていたニーナの表情が強張る。

 レイフォンが拳を握りしめて、顔を俯ける。

 フェリが役立たずという言葉に反応し、眉を僅かに寄せる。

 ロッカールームの腰掛けに寝転がっていたシャーニッドが起き上がり、ルシフを睨む。

 

「へいへい、確かに俺は援護できなかった。レイフォンとお前の動きやリズムが分かってなきゃ、援護射撃なんざ怖くて出来ねぇよ。

けどな──後ろから見てたから分かんだよ。お前が自分を攻めてきた敵しか倒さず、レイフォンの方はまるで無頓着だったことをな。

レイフォンの護衛を任されている奴がそれでいいのか?」

 

「貴様の目は節穴か? レイフォン・アルセイフのどこに傷や染料がある? 無傷なら、俺が役割を果たしたも同然だろう?」

 

 レイフォン・アルセイフは訓練衣を泥で汚している。だが、自動機械から一撃もくらっていない。

 

「それに、最後の最後でお前はレイフォンの護衛という役割を捨てて、ニーナを守った。更にそこからは役割もなんも無しに、ただ自動機械を壊していっただけ。

お前だって他人のことを言えた義理じゃない」

 

「なら、あそこで俺がアントークを守らなければどうなっていた? これは対抗試合に向けた訓練なのだろう? 隊長の戦闘不能は負けじゃなかったか?

──それに、何故貴様は息の合わないアルセイフからアントークに、援護する人間を切り替えなかった?

アルセイフは俺が付いていた。貴様があの時アントークの近場にいた自動機械を狙撃していれば、アントークは敵の狙撃に対応出来ていたのだぞ」

 

 ルシフは不快感を露わにして、そう言った。

 シャーニッドがぐっと唇を噛み締める。

 

「俺の役割はレイフォンとお前のカバーと援護だった。ニーナを援護するのは俺の役割じゃ──」

 

「状況判断をせず、ただ与えられた役割しかこなせん頭でっかちが。まともに援護できんのに、役割もクソもないだろう。

役割をこなせないなら、こなせる役割を見つけて、それを果たすために全力を尽くすことを考えろ」

 

 シャーニッドは反論する気力を失なったようで、ルシフから顔を逸らして、舌打ちした。

 沈黙が、ロッカールームを包む。

 ルシフは全員の顔をざっと見渡して、自分に意見を言ってくる相手がいないことを確認すると、ロッカールームの扉を開けた。

 ルシフはロッカールームから出て、ロッカールームの扉を閉めた。いや、閉めたというよりは、ロッカールームに向かって扉を叩きつけた。

 そして、ルシフの足はシャワールームを目指して動き出した。

 ルシフがいなくなったロッカールーム。

 乱暴に閉められた扉の音が、まるで責められているような気分にさせる。

 「何故もっと考えて闘わないのだ!?」と言われた気がする。

 だが、ルシフという圧力を否応なく振り撒く存在が消えたことで、この部屋にいる全員の心に少し余裕が戻った。

 

「聞いたか、ルシフの言葉──」

 

 ニーナが自嘲気味に力のない笑みを浮かべる。しかし、目の光は失っていない。

 その青い瞳の最奥に、怒りの火が燃えている。

 ニーナ以外の三人は、視線をニーナに集中させた。 

 

「わたしは隊長ではなく、隊員だそうだ」

 

 隊員に指示を出さず、一人で闘っている隊長──確かにそんなものは隊長のあるべき姿ではない。

 隊長とは、刻一刻と変化する戦場をいち早く把握し、小隊ひいては全体を勝たせるための作戦を頭に思い描き、それを通信機を使って隊員に伝え、隊員と力を合わせて現実のものにする。

 これこそが、隊長のあるべき姿。目指すべき到達点。

 ニーナの立っている場所は、そこから遥か下。山で例えるなら、まだ登り始めて間もない段階。

 

 ──当たり前だ。

 

 ニーナは脳内でそう吐き捨てる。

 ニーナの第十七小隊が小隊として認められたのは、つい昨日の話。隊長としての経験値が絶対的に不足しており、武芸の腕もツェルニで上位に位置してはいるが、ニーナより上の武芸者はそれなりにいる。

 自分はまだ隊長として相応しい能力に達していない。それは分かってる。

 なら、この胸の内の悔しさは、怒りはなんだ?

 自分はそんなものを言い訳にして現状に満足していない、何よりの証ではないか! 

 

「悔しくないか、お前たち? 入学してまだ数日しか経っていない一年に、好き勝手言われて──」

 

 誰もニーナの言葉を否定しなかった。

 この場にいる誰もが悔しさを感じている。

 レイフォンとて同様だ。

 戦闘に集中していないと言われた時は、そんなに怒りを感じなかった。確かに言う通りだと納得した。

 悔しさを感じたのは、「役立たず」と言われた時だ。

 役立たず──つまり、戦場において無意味な存在。

 レイフォンがその気になれば、訓練時のルシフのような動きくらい余裕で出来る。レイフォンはルシフに匹敵する強さをもっている。

 その強さは、レイフォン一人で手に入れた強さではない。

 サイハーデンの技を余すところなく教えてくれた養父──デルクのおかげであり、綱糸という武器を使った技を教えてくれたリンテンスのおかげでもある。

 レイフォンはその二人を侮辱されたような気分だった。

 デルクがしっかりレイフォンを鍛えていないと、リンテンスが技を教えるのに手を抜いたと非難されている感じだ。

 許すな。思い知らせてやれ。徹底的に叩きのめして二度とそんな口を利けなくしろ。

 心がそう叫んでいる。

 だが、理性は止めろと制止の声を必死にあげている。

 レイフォンの心は、未だにどうするべきか、どうするのが正しいのか決めかねていた。

 だが、たった一つ分かっていることがある。

 

(ルシフをびっくりさせられたら、気分がスカッとするんだろうな)

 

 なんとなく、そう思う。

 あの傲慢で容赦のない男の鼻を明かせたら、今感じている悔しさを晴らせる気がする。

 

「わたしは悔しい! わたし自身のこともそうだが、何よりわたしが集めた隊員のお前たちを低く見られたことが、本当に悔しい!」

 

 ニーナの纏う剄がきらめき、光を放っている。

 それはニーナの意志の強さだ。ニーナという存在そのものの輝きだ。

 シャーニッドはため息をついた。

 

「──心の底から不本意だが、今日のデートはキャンセルしねぇといけねぇな」

 

「シャーニッド?」

 

「一年坊に好き放題言われて黙ってられるほど、人間できてねぇんだわ。あの野郎をぎゃふんと言わせてやらぁ」

 

 シャーニッドは立ち上がり、レイフォンの眼前に立つ。

 

「だから教えろよ。お前の動き、リズム、全部俺に教えろ。それが分かりゃあ、俺は常にお前の十センチ横を撃ち抜けるぜ」

 

「わ、分かりました」

 

 いつも飄々としてやる気があるのかどうか分からないシャーニッドが、やる気を見せている。

 たったそれだけのことなのに、なんだか嬉しくなってニーナは微笑んだ。

 

「──よし、じゃあ連携の訓練を再開するか。幸いさっきの訓練はほとんどルシフが倒して、そんなに疲れてないしな。

フェリはどうする? いや、無理にとは言わないが」

 

「……隊長がやるというなら、やります。

わたしは十七小隊の隊員に所属していますので」

 

「そうか。

じゃあお前たちは先に野戦グラウンドに行っててくれ。

わたしはちょっとルシフに用がある」

 

「あ、隊長っ、ちょっと──」

 

 レイフォンの声が聞こえたが、レイフォンが全てを言う前に、ニーナはロッカールームを出た。

 あの場でレイフォンが言うことは、大して重要じゃないだろう。

 そう判断しての行動だった。

 本来なら、第十七小隊がまとまり始めるのはもっと先だった。

 しかし、ルシフという容赦のない性格の人間が現れたことで、第十七小隊の面々は火がついた。

 ──絶対に見返してやる。

 ──二度と生意気な口を叩けなくしてやる。

 ルシフという共通の敵が、ばらばらだった十七小隊を繋いだ。

 そこに同じ十七小隊所属のルシフが含まれていないのは、なんたる皮肉か。

 第十七小隊にとって、ルシフは自分たちという存在を認めさせる相手になった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 シャワールームは男女共用だ。中央に長椅子が三つ置かれて、左右にずらりとシャワーがある個室が並べられている。個室の扉は、閉めきらないよう隙間があった。

 ルシフはシャワーを浴びながら、自分を落ち着かせるように息をついた。

 何故あんなにも第十七小隊に腹が立ったのか?

 ルシフは分かっている。第十七小隊の面々の実力があの程度ではなく、もっと上にいけることを。

 つまり、期待していたからこそ、あんなにもイラついた。あの程度の訓練くらいなら容易くこなしてほしかった。

 ニーナのことをルシフは言えない。ルシフとて、ニーナ同様勝手に第十七小隊を高く見積もっていたのだ。

 

(頭を冷やせ……俺は廃貴族を手に入れるために第十七小隊に所属したのだ。

それまであいつらとは適当に接していればいい)

 

 ルシフはいずれこの世界を統べる王になるつもりだ。その時、第十七小隊はおそらくそれを止めようとしてくるだろう。

 最終的に敵になる連中と仲を深めたところで意味はない。

 そんなことを考えている最中、シャワールームの扉をノックする音が聞こえた。

 

「ルシフ、入るぞ」

 

 ニーナ・アントークの声だ。ニーナはシャワールームの扉を開け、シャワールームの中に入る。

 そして、ルシフがシャワーを使っている個室の前まで歩いてきた。

 ルシフはニーナに背を向けて、シャワーを浴び続けている。

 ニーナから見ると、ルシフの姿は頭と膝から下が見えている。

 

「ルシフ、お前がわたしに腹を立てた気持ちは分かる。わたしは確かに指示らしい指示を出していなかった」

 

「…………」

 

「目の前の自動機械に気をとられて全体を把握できず、目の前の自動機械を倒すことだけしか考えられなかった」

 

「……………………」

 

「わたしが弱いからだ。お前のようにどんと構えて、落ち着いて闘えない。目の前で起こったことに焦る。周りの隊員たちのことが頭から消える。

だから──わたしを鍛えてくれ。お前は性格はともかく、武芸の腕はわたしの目指すところにいる。

必死にお前に食らいついていくつもりだ。

だから──」

 

 その先の言葉が、ニーナは出てこなかった。

 いや、ニーナはもう言いたいことは全部言った。その先の言葉など、あるわけがない。

 シャワールームの中は、シャワーの水が床を叩く音だけが響く空間になった。

 

 ──駄目か……。

 

 ニーナは僅かに顔を俯けた。

 ルシフが人を教えるわけないとなんとなく分かっていたから、この程度の落胆で済んでいるが、がっかりしたという気持ちは誤魔化せない。

 

「ニーナ・アントーク、稽古をつけてほしいなら、別に構わんぞ」

 

 ニーナの顔が弾かれたように上がり、扉越しにルシフを見た。

 ルシフは先と変わらず、ニーナに背を向け続けている。

 

「本当に良いのか?」

 

「貴様、俺を誤解しているだろう。俺は必死に頑張ろうとする奴を、馬鹿にしたことは一度たりともない。その覚悟が本物か、試すことはあってもな」

 

 ルシフが気に入らないのは、弱者に一方的につっかかりでかい顔をする奴と、身の程をわきまえず好き勝手する奴と、つるんで大人数で調子にのる奴だ。

 そういう奴らは一切の慈悲なく粉砕する。自分たちが何をしていたのか、その身をもって味わわせる。

 しかし、それ以外の奴に関しては刃向かう奴以外、そうする気が起きないし、何かを求めてきても、一方的にそれをはねのける気もない。

 

「──ありがとう、ルシフ! 恩に着る!」

 

 ニーナの顔がぱっと明るくなり、軽く頭を下げた。

 ルシフはニーナの方に身体を向け、ニーナの顔をじっと見る。

 頭を上げたニーナはそれに気付き、怪訝そうな顔をした。

 

「それにしても──」

 

「……なんだ?」

 

「まさか貴様にシャワールームを覗く趣味があるとは、夢にも思わなかった」

 

「ば、ばかっ」

 

 ニーナはそこでようやく、自分がどういう状況か客観的に把握した。

 二人きりのシャワールーム。男がシャワーを浴びている個室の正面に立つ女。

 第三者が見たら、男を覗こうとする女に見えなくもない。

 

 ──そうか、レイフォンはこれを言いたかったのか。

 

 それをようやく悟ったが、もう遅い。

 ニーナはこうと目的を定めたら、他のことが一切見えなくなるタイプだった。

 なるべく早くルシフに鍛えてほしいと伝えたかったために、見境なしにこの場所に来た。

 ルシフしかいないからという理由もある。さっきの言葉を他の人間に聞かれるのは恥ずかしかった。

 ニーナは顔を真っ赤にして、シャワールームから出ていこうと早歩きした。

 

「ニーナ・アントーク」

 

 その背に、ルシフの声がぶつけられる。

 

「な、なんだっ」

 

 ニーナは振り向かず、足も止めない。

 

「赤くなった貴様の顔──可愛かったぞ」

 

「うるさいっ!」

 

 ニーナはシャワールームの扉を開け、シャワールームから出ると乱暴に扉を閉めた。

 全くあいつは……全く!

 いきなり何を言い出すのだ!

 あんな歯の浮いたセリフを言う奴とは思わなかった!

 だから、顔が熱いのは怒りのせいだ。そうに違いない。

 ニーナは野戦グラウンドに出て、自分を待っている第十七小隊の元に近付いた。

 

「……あれ? 隊長、なんか顔赤くないですか?」

 

 レイフォンが、不思議そうに尋ねる。

 

「なんでもない」

 

 シャーニッドが意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「レイフォン、訊くな。

ニーナはうぶなんだ。あいつのシャワーシーンを見て興奮しちゃったんだよ」

 

「……シャーニッド、わたしの鉄鞭をそんなに受けたいとは知らなくて済まなかったな。

安心しろ、今からたっぷり受けさせてやる」

 

 氷の如く冷たい表情をしているニーナ。

 シャーニッドは顔に冷や汗を浮かべながら、レイフォンの後ろに隠れた。

 第十七小隊が訓練を再開したのは、結局それから十分後のことだった。

 

 

 

 ルシフはシャワーの水を止めて、扉付近に掛けられていたタオルを手に取り、頭に乗せて髪をごしごしと拭く。

 意外に思うかもしれないが、ルシフは人を鍛えるのが好きだ。

 人を鍛える行為とは、言い換えれば自分の分身を創るような感覚に近い。自分を楽しませる相手に成長する可能性もある。また、鍛えることによって見えてくる新たな一面も、ルシフが楽しみにしている理由の一つ。

 結局のところ、ルシフは他人を知ることが好きなのだ。それも上辺ではなく根っこの部分。

 そうして、自分の創る世界に必要か不必要か判断する。ある意味人材マニアといってもいい。

 なんにせよ──。

 

(廃貴族を手に入れるまでに、いい暇潰しができた。

廃貴族をその身に宿した意志の強さ──俺に見せてみろ)

 

 原作では、最終的にニーナが廃貴族をその身に宿す。

 ニーナを知れば、廃貴族を手に入れる可能性が高まるかもしれない。

 ルシフは微かに唇の端を上げた。

 そして、それから数日後、ついに小隊の対抗試合の日がやってきた。




原作キャラの、しかも主人公サイドを役立たずって……。
ルシフは動かすたびに頭が痛くなります。
しかし、最悪な性格のせいか、第十七小隊の反抗心をこれでもかというくらい煽り、結果として原作より早く十七小隊がまとまってきています。ルシフを除いて。

ルシフ……涙拭きなよ。ハンカチやるから。

あと、ルシフはかなり女好きです。
ま、まぁ欲望に忠実なんで……。


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第5話 魔王とフェリ

 小隊同士の対抗戦当日。

 対抗戦が行われる場所は、前に第十七小隊が訓練を行った野戦グラウンドだ。

 その時と今の違いは無論グラウンドを囲む観客席。

 訓練の時と違い、野戦グラウンドの観客席は多数の生徒たちで埋め尽くされている。

 その観客席には、マイ・キリーの姿もあった。その手にジュースとポップコーンを持っている。

 マイの耳には、観客席の生徒たちの会話が自然と入ってきている。

 

「お前、どっちに賭けた?」

 

「当然第十六小隊! やっぱ賭けは堅実が一番っしょ!」

 

 第十六小隊と第十七小隊、どっちが勝つかという賭けも、生徒たちの間で一応内密に行われている。都市警察もそれに関しては黙認しているため、問題が起きない限りは動かない。

 かくいうマイも、その賭けに参加している。いや、ルシフからお金を渡されて、ルシフの代わりに賭けをさせられている。

 ルシフが渡してきたお金は、ルシフが現在所持している全額といってもいいくらいの大金。それを第十七小隊に賭けた。

 原作での第十七小隊は大穴扱いで、レートが桁違いだった。しかしルシフの登場により、レートは僅かに第十七小隊が高いだけに留まっている。

 

「お、見てみろよあの黒髪の子。めちゃめちゃ綺麗じゃね? スタイルもいいし、ナンパしようぜ!」

 

「確かに綺麗だな。二十歳くらいか? けど、あんな子いたっけ?」

 

「ここにいるんだから、いたんだろ。俺らだって全生徒を知ってるわけじゃねぇし、今まで出会ってなかっただけってことさ。

だがしかーし! 今日我々は運命の赤い糸に導かれ、彼女に出会えた! なんという幸運! なんという奇跡! この好機を逃す俺ではない!」

 

「……まことに言いにくいが……お前がそんなつまらん口上を言ってる間に、あの子どっか行っちゃったぞ」

 

「なんとぉー!」

 

 ──男という奴は……。

 

 マイは蔑んだ目で、ナンパしようと話していた二人を軽く睨んだ。

 それを気があると勘違いした一方の男が、ぱたぱたと手を振る。

 マイはふんとそっぽを向き、その男に勘違いだと分からせた。

 男はしょぼーんとうなだれる。

 マイは男が嫌いだ。男という存在そのものを、できることなら消し去りたい。

 だが、ルシフだけは別だ。いや、マイにとってルシフは男ではなく、神様のような存在であり、他の男たちとは格が違う。

 マイはルシフを心酔しており、ルシフが望むなら何でもする覚悟がある。

 しかし、マイには一つ納得のできないことがあった。

 それは、一度たりともルシフに身体を求められたことがないこと。

 それとなく好意があることをちらつかせても、ルシフはそれを軽く流す。

 自分で言うのもなんだが、自分はかなり綺麗な顔をしている。スタイルも出るところはしっかり出て、引き締まるところはしっかり引き締まっている。

 女としてかなり魅力的であると、自覚している。

 ツェルニに入学してからの一年で、うんざりするくらい告白され、ラブレターも大量にもらった。

 客観的に見ても、私はいい女だ。

 なのに、一度も求められない。むしろ私の目の前で、ルシフ様が他の女を口説き落とすことが数えきれない程ある。

 ルシフ様が口説き落とした女全員自分より上だったかと訊かれれば、自信をもってノーと言える。

 だが、何故か私は抱く対象から除外される。

 それがマイにとって唯一の悩み。

 マイは軽くため息をつき、野戦グラウンドを見た。

 そこら中に樹木が植えられたデコボコのグラウンド。そして、その両端には柵や塹壕(ざんごう)で囲われた陣。その上を念威操者に操作された中継機が飛び回り、観客席のあちこちに設置された巨大モニターに、野戦グラウンドの色々な場所が次々に映されている。

 それらのモニターが全て同じ映像に切り替わった。

 第十七小隊と第十六小隊が、野戦グラウンドに出てきたからだ。

 観客席から歓声があがり、それぞれ思い思いの会話をしていた生徒たちが、グラウンドに視線を送る。

 全ての準備が終わり、巨大モニターには第十七小隊の初期配置が映されている。

 それを観て、マイは首を傾げた。

 他の観客席の生徒たちも、マイと同様だった。

 戸惑いのざわめきが、野戦グラウンドに響く。

 

「第十七小隊の隊長さんは、一体何を考えているのでしょう?」

 

 マイの呟きは、観客席の生徒全員の疑問だった。

 そして、その初期配置のまま、対抗試合が始まった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは陣の中に立っていた。その隣には、不機嫌そうな顔をしたフェリがいる。

 念威操者の護衛。

 これがルシフに与えられた役割だった。

 ここで、この対抗試合のルールを説明すると、まず攻め手と守り手に二つの小隊を分ける。

 そして、攻め手は敵小隊を全滅させるか、敵陣に置かれているフラッグを破壊すれば勝利。守り手は敵隊長の撃破か、制限時間までフラッグを守り抜けば勝利。

 守り手は、試合が始まる前にグラウンドに罠の設置を許可されている。

 第十七小隊は攻め手、第十六小隊は守り手に分けられた。

 対抗試合の守り手の戦術は、フラッグを制限時間まで守るのが基本戦術だった。

 また、攻め手が守り手の念威操者を狙うことはあっても、守り手が攻め手の念威操者を狙うことは滅多にない。そっちを狙うくらいなら、攻め手側の小隊長を狙うだろう。

 つまり、攻め手側の念威操者を護衛する意味は、全くといっていい程ない。

 第十七小隊はわざわざ一人戦力を減らして、この試合に臨んでいるも同然。

 何故?

 観客席の生徒たちは、この事が頭に引っかかっていた。

 

 

 

 ルシフはニーナに言われたことを思い出す。

 

『ルシフ、お前を闘わせれば、間違いなく勝てるだろう。しかし、それでは小隊の意味がない。

お前は見届けろ。お前が役立たずと言ったわたしたちが、勝利を収めるところを』

 

『いいだろう。しかし、俺はどんな些細な勝負でも、負けるのは嫌いだ。

負けそうになったら、遠慮なく戦闘に参加するぞ』

 

『……分かった。その時は、甘んじてそれを受け入れる』

 

 思い出すのを止め、ルシフは柵の隙間からグラウンドを眺めた。

 フェリは敵小隊の位置をニーナたちに伝えたら、ルシフを無表情で見る。

 もうフェリの出番はないだろう。

 敵は野戦グラウンドに罠を張らなかった。

 つまり小細工なしの真っ向勝負になり、フェリが探知しなくても問題ない戦況だった。

 だから、会話をする余裕が生まれた。

 

「……あなたに一つ言っておきますが──」

 

 ルシフは、フェリに視線を向ける。

 

「私はわざと実力を低くしています。私が全力なら、この程度の広さの戦場の把握なんて一瞬です」

 

 フェリは「役立たず」と言われたことが許せなかった。

 フェリの念威は通常では考えられない量で、その才ゆえに、幼い時から念威専門の訓練を受けてきた。

 ルシフの言葉は、自分の今までの人生を否定された気分だった。

 フェリが実力を発揮しない理由。

 その理由は、フェリは将来が念威操者になるしかないことを嫌い、別の将来を模索するためにツェルニに入学したからだ。

 だが、危機的状況にあるツェルニで、フェリほどの念威操者をフェリの兄であるカリアンが放っておくわけもなく、一般教養科で入学したフェリを、レイフォンのようにむりやり武芸科に転科させた。

 その影響で、フェリは兄のカリアンを恨み、兄に諦めてもらうために、念威の実力を発揮しない。

 それは、フェリという人間のささやかな抵抗。

 兄のカリアンに、自分がどう考えているかを伝える手段。

 フェリの出した結論は、レイフォンと似たようなものだった。

 

「──くだらんな」

 

 フェリが実力を発揮しない理由を知り、フェリの内面を知った上で、ルシフはそう吐き捨てた。

 フェリは目を見開き、怒りで身体を震わせる。

 

「あなたのような男に、私の何が分かるのですか」

 

「念威操者以外の道を見つけたい……大いに結構。

しかし、その道を見つける場所には邪魔者がいて、道を見つけられない。まぁ、分かるといえば分かる。首を傾げる部分はあるがな。

だから、実力を発揮せず、邪魔者が諦めて邪魔しなくなるのを期待する。この部分の意味がどうしても分からん。

むしろ実力をこれでもかというくらい発揮するのが普通だろう? カリアン・ロスという人間を知るなら尚更だ」

 

 カリアン・ロスは利害さえ合致していれば、ある程度の要求を通せる。

 自分の要求を一方的に通す時もあるが、基本的には話が分かり、合理的な判断を下せる人物。

 それがカリアン・ロスだ。

 

「……何故、それが普通なのです?」

 

「うん? 武芸科で学ぶものなどないと分からせれば、武芸科の制服のままで、一般教養科の授業を受けることを許可させられるだろう?

武芸大会の時だけ、武芸科に転科するという手も有りだ。

極端な手として、一般教養科に戻さなければ、武芸大会の時に妨害すると脅してもいい。

カリアン・ロスは、貴様を武芸大会で使えて勝てればいいのだからな」

 

 フェリはぽかんと口を開けていた。

 どうしてルシフという男はこう、思いもよらない手を次から次に考えつくのか。

 

(──ん?)

 

 ルシフは、自分が今言った言葉に疑問をもった。

 そう。カリアンは武芸大会でフェリを使いたい。フェリを武芸科にするのは、武芸科でないと武芸大会に出れないから。

 そして、カリアンほどの男が、今ルシフが言った手を思い付かないわけがない。

 つまり、フェリの要望を満たしつつ、自分の要求を通せた筈だ。

 一般教養科の生徒を無理やり武芸科にできるくらいの権力を、カリアンは握っている。

 なのに、フェリの要望の一切を無視し、自分の要求だけを通す。

 カリアンらしからぬ、合理的でない手だ。

 

(……いや、妹が本気で念威操者以外の道を望んでいるか、試しているのだとしたら──)

 

 あえて妹の敵になり、乗り越えるべき壁として立ち塞がることで、今まで言いなりだった妹の主体性を伸ばそうとしているのだとしたら──。

 ルシフは微かに笑った。

 全て自分の推測でしかないが、おそらく間違いないだろう。

 

(妹の敵になっても、妹を成長させてあげたい──。

カリアン・ロス、貴様のそれもたぶん兄妹愛なのだろう。

肝心の妹に、その愛は伝わっていないようだがな)

 

 急に口を閉ざしたルシフを不思議に思って、訝しげな表情で見つめてくるフェリを見返して、ルシフはため息をついた。

 

「……なんです?」

 

 ルシフはカリアンの真意を伝えるべきかどうか一瞬悩んだが、自分の役目じゃないと結論を出した。

 

「……いや、何でもない。貴様の兄が報われないなと思っただけだ。

──しかしなんだ、ぱっと考えただけで三手、俺の頭の中に浮かんだ。

貴様には一年も時間があった。これらの手が思いつかない筈がない。

本気で念威操者以外の道を探そうと思っているならな」

 

 フェリはルシフの言い草にむっとした。

 それではまるで、自分が本気で念威操者以外の道を探していないみたいではないか。

 

「ところで──貴様は料理が作れるか?」

 

「……作れません」

 

「裁縫とかは?」

 

「……出来ません」

 

「人形を作ったり、何か物作りは出来るか?

接客や人に教えることは?」

 

「……さっきから、何が言いたいんです?」

 

 フェリの苛立ちを隠そうともしない声が、ルシフにぶつけられる。

 ルシフは不敵な笑みを浮かべた。

 

「分からないか?

何かが出来なければ、何かにはなれない。これが世界のルール。

道を見つけるというなら、何か取り柄がなければならない」

 

 その理屈はフェリも痛いくらい理解している。

 その取り柄を見つけるために、一般教養科でフェリは学びたかったのだ。

 しかし兄は──そんな私の気持ちを踏みにじった。

 

「なのに、今の時点で貴様の取り柄は念威以外無し。

この一年何をしていたのだ?

アルセイフは言っていた。三年生までは武芸科でも一般教養を学ぶと。

武芸の訓練だって、念威操者は身体を動かすわけでもなく、ましてや貴様は手を抜いていたのだから、疲労もそんなに溜まらなかっただろう──」

 

 ──やめて。

 

 フェリは頭の中で呟いた。

 その先の言葉は聞きたくない。

 

「その気があれば、料理にチャレンジしたり、様々な事を試す、あるいは磨く時間がとれた筈。

つまり、貴様は──」

 

 ──やめて! 聞きたくない聞きたくない!

 

 フェリは脳内で必死に叫ぶ。だが、声にはならなかった。

 

「何かしようと努力して、自分には念威以外何もないことを知るのが怖かっただけだ。

努力すれば何か出来る可能性もあるのに、何も出来ない可能性を見たくなくて、最初の一歩が踏み出せない」

 

 フェリの目が大きく見開かれた。

 

「大小の差はあれど、変化には常に痛みがつきまとう。

貴様はその痛みから逃げた! 目を逸らした!

そのくせ、念威以外の道を探そうとすることで、自分は誰かの言いなりじゃなく、自分の意思をもっているのだという気になり、ちっぽけな自尊心を満たしている」

 

「……違います」

 

「本当は兄に無理やり武芸科にされて、ほっとしたんだろう?

これで、他の道を探さないでいい口実ができたと」

 

「違います!」

 

 フェリらしからぬ、力強い否定。

 感情表現が上手くないフェリが、ここまで感情を露わにする。

 それはつまり、ルシフの言葉がフェリの心を深く抉った証拠。

 ルシフは俯いたフェリを見据え、力強く声を張る。

 

「──痛みを怖れるな、フェリ・ロス!

己の可能性を信じ、挑み続けろ!

その痛みを受け入れなければ、貴様はずっとそうやってふてくされて、ただひたすら無為に時を過ごしていくだけだ!」

 

 フェリはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐルシフを見た。

 ルシフ・ディ・アシェナ──フェリにとって大嫌いなタイプの人間。

 無理やりでも自分の意見を通すところに、兄のカリアンに近しい印象をもってしまうからだろう。

 しかし、自分というものをしっかりともっているところは、素直に羨ましいと感じてしまうのも事実。

 いずれにせよ、フェリはずっと目を逸らしてきた自分の本当の心に、今日気付けた。

 あとはフェリの問題だ。

 本気で変わりたいと思うか。それとも、今まで通りカリアンのせいにして、何も変わらないか。

 

「…………こういう時は、ありがとうございましたというのが正しいのでしょうか」

 

 ルシフはキツい言い方だったが、いつまでも同じ場所でうじうじしている自分を叱ってくれた。

 なら、礼くらい言うのが筋だろうと考えての言葉だった。本音は礼など言いたくないが。

 

「礼など要らん。俺はただ思ったことを口にしただけだ。

……それにしても、暇すぎるな。少しからかってやるか」

 

「──え?」

 

 フェリは、とてつもなく嫌な予感がした。

 ルシフは足元に転がっていた手ごろな大きさの石を左手にとり、内力系活剄で脚力を強化し跳躍。

 空中を飛んでいる中継機より高く、鳥が飛ぶくらいの高さまで跳ぶ。

 観客席からは驚きの声があがり、対抗試合を実況している生徒が興奮した様子で何かを叫んでいた。

 遥か上空から敵の陣を見下ろす。敵の陣に置かれたフラッグが丸見えになっている。

 そこから左手を振りかぶり、掴んでいた石を投げる。

 投げる瞬間、内力系活剄で脚力ではなく、腕力を強化。

 投げられた石は、目にも止まらぬ速さでフラッグのすぐ横に突き刺さった。

 敵陣にいた念威操者は唖然とフラッグのすぐ横に埋まった石と、ルシフを交互に見る。

 敵の狙撃手が、慌ててルシフに照準を合わせ狙撃。

 放たれた弾丸が、ルシフの額に撃ち込まれる。

 だが、ルシフは微動だにせず、凄絶な笑みで狙撃手を見据えた。

 狙撃手の顔がどんどん青ざめていく。

 地面に着地したルシフは再び石を持ち、跳躍。

 何発も狙撃されながらも、それを無視しフラッグのすぐ近くに石を投げる。

 何度も、何度も、何度もその流れを繰り返す。

 さっきまではち切れんばかりの歓声をあげていた観客席も、今はお通夜のような静寂に包まれ、実況している生徒も言葉を失っている。

 

「……ばか」

 

 ルシフに聞こえないよう、フェリが軽く息をついて呟いた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「──ったく、あの悪魔ッ! ほんと、とんでもねぇな!

俺が華麗にフラッグを撃ち抜いて目立つ予定が……」

 

 シャーニッドが殺剄を使いながら、木々の間を駆け、陣が狙える木に登って、軽金錬金鋼(リチウムダイト)を復元。

 シャーニッドの手に狙撃銃が握られ、スコープ越しに敵陣を見る。 

 

「こちらシャーニッド。フラッグを破壊するには、障害物がある。二射する隙があれば、確実に破壊できるぜ」

 

『……シャーニッドはそのまま待機しろ。

だが、いけると思ったら、いつでも狙撃を試みて構わないし、他に良い位置があれば、移動してもいい』

 

「了解」

 

 通信機にそう返すと、シャーニッドは狙撃銃を構え直す。

 ニーナの指示は以前と変わった。

 以前はがちがちに縛るような指示だったのが、今はある程度の自由が与えられた指示になった。シャーニッドという人間を考慮しての指示だろう。

 実際シャーニッドはこういう指示の方がやりやすい。

 気に入らないのは、それを気付かせたのがぽっと出の一年ってことだけ。

 ニーナは、隊長とは何かを真剣に考えだした。

 前まではただひたすら訓練して、自分のことしか頭になかったニーナが、隊員を理解しようとしたり、どういう指示をされたいかと隊員に訊くようにもなった。

 嬉しい変化だ。

 けど、どこか腹が立つのは、自分が最初に入隊した隊員だからだろうか。

 自分が気付かせたかったと、柄にもなく後悔しているのだろうか。

 シャーニッドは首を左右に振る。

 そんなのはどうでもいい。ただ、何故かアイツには負けたくないのだ。

 実力差を思い知らされても、絶対にいつかは勝つ、少なくとも一矢報いてやると思う。

 認めたくないが、ある意味でルシフ・ディ・アシェナは人を惹き付ける魅力があるのだろう。

 圧倒的な存在感で、誰もの心に何かしらを刻み込む。

 それは恐怖だったり、畏怖だったり、尊敬だったり、友愛だったり、嫉妬だったり、軽蔑だったり……。

 だから、誰もの心にルシフという存在が強く残る。

 

(俺は──対抗心か? ったく、アイツが現れてから熱くなって……俺らしくねぇ)

 

 だが、悪くない気分なのも事実。

 なんとなく過ごしていた毎日に、火が入れられたようだ。

 その点だけは、アイツに感謝してやってもいいか。

 この思考を最後に、シャーニッドはスコープから見える視界に集中し、トリガーに指先をかけた。

 

 

 

 ニーナとレイフォンの相手は、三人の旋剄使いだった。

 ニーナとレイフォンの周囲には、土の粒が舞っている。

 敵のアタッカーが、衝剄でグラウンドの土をニーナたちに飛ばした影響だ。

 そうして視界が悪くなったところに、陣前にいた三人の旋剄使いが、旋剄を使用して一気に攻めてきた。

 はっきりいって、劣勢だった。

 レイフォンはただ襲いかかってくる敵の攻撃を防ぐばかりで、反撃しない。

 レイフォンは、まだ迷っていた。

 何度も地面に転がされながらも起き上がり、また転がされる。

 ニーナは二人を同時に相手していて、防戦一方になっている。

 ルシフと鍛練を始めたが、まだ数日。

 たったそれだけの時間で強くなれるほど、甘くはない。

 ただひたすらに、二人の攻撃を受け続ける。

 だが、何事にも限界がある。

 度重なる攻撃で受けた僅かなダメージが蓄積され、ニーナから力を奪う。

 ニーナが纏っている剄の輝きが曇る。足から力が抜け、ニーナが片膝をつく。

 好機とみた敵が、二人一斉に襲いかかる。

 その時、ニーナの前方でどごんという音がした。

 敵の二人も足を止め、何事かと後方を振り返り、自分たちの陣を見る。

 レイフォンの方もそうだった。

 彼らが見たものは、遥か上空からひたすら第十六小隊の陣に向かって石を投げ続けるルシフの姿。

 

「……おいおい……」

 

 第十六小隊の隊長らしき人物が、唖然とした表情で呟いた。

 ニーナとて、同様の表情だ。

 そこでシャーニッドから通信が入り、シャーニッドに指示を出して、再び戦闘に集中する。

 ニーナはルシフから警告されているような感じだった。

 しっかりしないと終わらせるぞと、脅されているような気すらした。

 ニーナの身体を覆っていた剄が、輝きをとり戻す。

 力が入らない足を、無理やり立たせて鉄鞭を構える。

 再び攻撃を再開しようとしている二人の敵を見据える。

 さっきまでと違い、彼らは鬼気迫る表情をしている。

 一刻も早く、隊長であるニーナを倒さなければと考えているのだろう。

 

「……嫌がらせのようなことをして……俺たちをおちょくって……隊長の風上にも置けん下衆(ゲス)が! 恥を知れ!」

 

 敵小隊の隊長らしき男が、内力系活剄で強化された重さのある威圧的な声で叫んだ。

 言われた途端に、ニーナは必死に立たせた身体が重くなった感じがした。

 ニーナの目は大きく見開かれ、怒られた子供のように身体を縮こまらせた。

 

(わたしが……下衆?)

 

 その言葉は、ニーナの心を深く傷付けた。

 そして──ショックを受け力を失ったニーナに、二人の敵が襲いかかる。

 ニーナは倒されるのを覚悟し、敵を見るともなく見る。

 せめて最後の瞬間までは、しっかり見ておこうと決意してのことだった。

 しかし、ニーナに最後は訪れなかった。

 ニーナの眼前で、二人は横に吹き飛んだ。

 ニーナが横を見て、二人を吹き飛ばした相手を知った時、ニーナは絶句した。

 そこには鋭い目付きをした、レイフォンの姿があった。

 

 

 

 レイフォンが実力を発揮したきっかけは、敵小隊長がニーナに言った下衆という言葉だった。

 レイフォンはニーナと少なからず接点があった。

 初めての訓練の前に、ニーナと機関掃除のバイトで一緒に仕事をしたこともある。

 その時にニーナと話をして、ニーナのことを知った。

 ニーナは自分の都市以外の世界を見てみたかった。

 一つの世界だけでなく、たくさんの世界を見たかった。

 それが、ニーナがツェルニに入学した理由だった。

 また、ツェルニという都市の意識──幼い少女の姿をした電子精霊に出会ったのもその時だ。

 ニーナとツェルニが仲良さそうに接するのが微笑ましかった。

 それから、初めての訓練が終わった後の錬金鋼の調整で、ハーレイと二人きりになった時、ニーナが小隊を作った理由を知った。

 ニーナにとって、ツェルニは故郷と一緒で大切な場所。

 もしツェルニに入学しなければ、会わなかった人々。

 奇跡のような確率で、出会えた繋がり。

 そういうのをなくしたくないから、自分の力でそれを守りたいから、ニーナは小隊を作ったのだと、ハーレイに教えられた。

 ただひたすら真っ直ぐに、自分の目指す場所に突き進む。

 それが、ニーナの纏う剄が眩しいくらいに輝く原動力なのだろう。

 ルシフとの鍛練で、必死に頑張っている姿も見てきた。

 

(……許せない)

 

 そんなニーナのことを知らず、下衆などと言った敵小隊長が。

 その言葉がどれだけニーナを傷付けたかは、ニーナを見るだけで一目瞭然だった。

 

(──許せない!)

 

 ここで力を発揮したらどうなるとか、そういうのはレイフォンの頭から全て抜け落ちた。

 隊長のことを侮辱するなら、僕が全身全霊をもって否定してやる。

 隊長が落ち込む原因があるなら、僕がその原因を潰す。

 その一心で、レイフォンは力を解放させた。

 レイフォンを攻撃していた敵に、レイフォンはカウンターの要領で剣を叩きつけ、ニーナの方を見る。

 ニーナの至近距離に二人の敵が迫っていた。ここから走っても間に合わない。

 なら、走らなくてもいいやり方で、助ければいい。

 レイフォンは剣に通していた剄の質を変化させながら、剣を敵二人に向けて振り抜く。

 振り抜いた勢いで、衝剄に変化させていた剄を放つ。

 それもただ放つわけではない。

 外力系衝剄の変化、針剄。

 針のように鋭くした衝剄で、敵二人を吹き飛ばした。

 ニーナが驚いた顔で、レイフォンを見ている。

 そこで、野戦グラウンドに激しいサイレンの音が鳴り響く。

 敵が吹き飛んだのを見て、好機と判断したシャーニッドがフラッグを狙撃し、二射目でフラッグを破壊したからだ。

 観客席がどっとわきあがり、実況している生徒が興奮気味に、第十七小隊の勝利を叫んだ。

 こうして、対抗試合は第十七小隊の勝利で幕を閉じた。




ルシフの戦闘シーンでは、いつも脳内に「覚醒、ゼオライマー」のBGMが流れる作者です。
BGM自体は凄く良いBGMなので、興味をもった方がいましたら、ぜひ聴いてみてください。
ルシフの戦闘シーンは「やり過ぎだろ……(呆れ)」ではなく、鬼畜過ぎて逆に笑えてくるような戦闘を目指しています。

今回の、カリアンがフェリを強制的に武芸科にした真意は、原作では書いていません。作者である私の捏造であり、願望です。
でも、カリアンならこれくらい考えていると思います。仮にフェリを武芸大会に出したいって気持ちだけなら、フェリの意見をがん無視するのは、ちょっと考えづらいです。

でも、こうするとレイフォンにも同じことが言えてしまうわけで……。レイフォンを無理やり武芸科に入れたカリアンを説明出来なくなるという罠。
まぁ、フェリに気付かせないためとかそういう理由付けはできますけどね。


話は変わりますが、私は廃貴族を宿す前(ここ重要)のニーナが、ヒロインの中では一番好きです。


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第6話 汚染獣襲来

 廊下を歩く。いや、廊下を(かたき)のように踏みつけ進む。

 ニーナは怒っている。

 何故か?

 裏切られたと思ったからだ。

 ルシフが他の第十七小隊の面々より実力が突出しているのは承知している。

 ニーナは知らず知らずの内にルシフ以外の隊員たちと手を取り合い、ルシフという壁を越えるべく、歩幅を同じくして歩んでゆくつもりだった。

 だが、その心を嘲笑うようにニーナの手を振り払い、ルシフのような桁違いの実力を垣間見た隊員がいる。

 その隊員の名は、レイフォン・アルセイフ。

 レイフォンの実力は、ニーナの遥か上をいくものだったと、対抗試合を思い出して確信する。

 ニーナは許せなかった。

 実力があったことではない。実力を隠し、そればかりかテストした際わざと負けたという事実が許せなかったのだ。

 いっそのことルシフのように最初から本気だったのなら、それを受け入れられただろう。

 ニーナは生徒会長室の扉を荒々しげにノックする。

 

「どうぞ」

 

「武芸科三年、ニーナ・アントーク。入ります」

 

 部屋の中からカリアンの声が聞こえたので、ニーナは扉を開け、カリアンの前に直立した。

 生徒会長室には、カリアンの他に武芸長のヴァンゼもいる。

 そのことにニーナは少し驚き、熱くなっていた頭が僅かばかりその熱を冷ましたが、冷静になれるほどの効果もなく、熱に身を任せて、カリアンを睨んだ。

 

「レイフォン・アルセイフは何なんです?」

 

 小細工なんかいらない。そう思った。

 そもそも頭の機転や回転の速さはカリアンが上回っていると自覚している。

 ならば、己の心のままに言葉をぶつけるのが、カリアンに対して最も効果が得られると考えてのことだった。

 

「そうだな」

 

 ヴァンゼも、ニーナの言葉に同意する。

 心強い。

 ニーナは心の中でヴァンゼに感謝した。

 ニーナのみならずヴァンゼの言もあれば、カリアンも観念して話さざるを得ないだろう。

 ニーナの予想通り、カリアンは黙り通せるものじゃないと悟り、レイフォンのことを話し出した。

 カリアンはレイフォンのことを話し出すと、人が変わったように興奮して話し続けた。

 そして、ニーナはレイフォン・アルセイフという人物を把握した。目の前が真っ暗になる感覚を、初めて味わった。

 それくらい、カリアンが話したレイフォンの人物像は、ニーナにショックを与えた。

 話を聞き終え、ニーナは力のない足取りで生徒会長室から退出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レイフォンは保健室で頭を抱えていた。

 何度も敵に転がされ頭をその度に打っていたから、レイフォンの頭にはたくさんのこぶがあった。

 それを撫でているように見えるが、実際はこぶが原因で頭を抱えているわけではない。

 レイフォンには決めたことがあった。

 本気を出さず、やる気を出さずに日々を過ごすことで、一般教養科に戻してもらうことだ。

 だが、その決意ももう水の泡だ。

 これから前みたく実力がない振りをしても、誰もがレイフォンは実力があると知っている。誰もが、その実力を求め、欲してくる。

 どれだけレイフォンが覚悟を新たにしようと、周りが彼を一般教養科(その場所)に誘わない。彼がいるべき場所へ場所へと、彼を押し上げようとするだろう。

 更に、カリアンに他人のために闘う人物だと露呈した。

 カリアンはそれを事ある毎に持ち出し、言葉を上手く使ってレイフォンを武芸科に留める説得を続けるはずだ。

 ツェルニを守ることは君自身の未来を守ることだと言ってくるかもしれない。

 レイフォンはため息をついた。

 何かをしようと思っている。だが、具体的に何をしたいかは決まっていない。

 いつかは見つかるだろうと、楽観的な気持ちでツェルニに入学した。

 だが、それが間違いだったのか?

 結果的に、自分の前に示された道は、以前と変わらず武芸の道のみ。それ以外の道は、創られる兆しすら見えない。

 結局自分にはこの道しかないのだろうか?

 そんなことをつらつらと考えていると、保健室の扉が開き、見慣れた三人が入ってきた。ナルキ、ミィフィ、メイシェンだ。メイシェンの手には大きなバスケットが握られている。

 それから、ミィフィとナルキはレイフォンを称賛し、すごいすごいとレイフォンをもてはやした。

 そのすぐ後にジュースのお代わりが欲しくなったと、二人は保健室から出ていった。

 はからずもレイフォンと二人きりになったメイシェンは、途端に落ち着きが無くなった。

 メイシェンは人見知りする性格だと思い出したレイフォンは、さっきからつまんでいるメイシェンのバスケットに入っていたサンドイッチに感謝し、メイシェンにお礼を言った。

 

「僕のためにわざわざ作ってくれて、ありがとう」

 

「……いいんです。レイとんにたすけてもらったお礼だから」

 

 レイフォンは入学式の時のことを思い出し、首を振った。

 

「そんな感謝されることじゃないよ」

 

「……でも、たすけてもらったから」

 

 メイシェンは大人しそうに見えて、自分の意思をしっかり通す強さをもっている。

 彼女のことを深く知っているわけではないが、レイフォンは彼女の今までの行動からなんとなくそう感じていた。

 そこから自然と話は対抗試合のことになり、いずれ言われるであろうと思っていた言葉を、メイシェンは発した。

 

「……レイとん、すごく強かったです。

……でも、どうしてすぐに倒さなかったんですか?」

 

 レイフォンは誤魔化そうとは思わなかった。

 誤魔化したところで、メイシェンを納得させることは出来ないし、別にやましいと思っているわけでもない。

 だから、素直に言うことにした。

 対抗試合に勝つ気がなかったこと。

 武芸はお金になると知り、稼ぐためにツェルニに来る前は武芸をしていたこと。

 今はもう、武芸に対して熱がないこと。

 武芸以外のものを見つけたいと思っていること。

 全部、メイシェンに話した。

 

「……きっと見つかります」

 

 メイシェンは小さな声で、でもはっきりと聞き取れる声量で呟いた。

 

「……対抗試合のレイとんはなんだかかっこよくなかったです。……なんかみっともなかったです。

……わたしはお菓子を作ったりするのが好きです。なんで好きになったとかはうまく説明できないですけど……」

 

 メイシェンはそこで一拍置き、覚悟を決めるように深呼吸をした。

 

「……入学式のレイとんは、本当にかっこよかったです。だから、そんなかっこいいレイとんを、わたしはずっと見てたいです」

 

 メイシェンは俯いた顔を真っ赤にしていた。

 レイフォンは、どう返せばいいか戸惑った。

 あの時の自分は、ただこれ以上放っておくのはよくないと思って行動しただけで、深く考えていたわけではない。

 結局レイフォンは何も言えず、そんなことはないと首を振るしかできなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 対抗試合があった夜。第十七小隊はあるバーで打ち上げをしている時間だ。対抗試合の祝勝会という名目らしい。

 フェリ・ロスが念威端子で知らせてきて、ルシフはそれを断った。

 ルシフからすれば、何故勝って当たり前の小隊に勝った程度で祝勝会をするのか、理解できなかった。

 ルシフは汗だくで、ツェルニの外縁部にいる。ルシフは毎晩この場所に来ては鍛練していた。

 周りに人の気配はなく、ツェルニの足が大地を踏みつける音だけが近くに響いている。

 気分が悪い。

 ツェルニに来て以来、自分の望んだ通りに時は進んでいく。

 だが、何かが自分に纏わりつく。何かを見落としている気がする。

 こう見えて、自分は物事を慎重に行うタイプだ。その用心深さが、自分を追い込んでいるのだろうか?

 それらの思考を振り払うように、ルシフは剄を纏いながら、動く。地を蹴り、突き出ているように見える古びた建造物を蹴り、縦横無尽に動き回る。

 ただ動き回るだけではない。動き回りながら、剄を放出する。

 指先から針のように細く放出された剄が建造物に触れると、豆腐で出来ているかと錯覚してしまうほど、建造物は容易く切れた。

 化錬剄のちょっとした応用である。放出する剄を、触れたら切れるという性質に変化させたのだ。

 ルシフは剄を、意思を具現化する力だと考えている。剄は己から生じる力であるため、意思を反映させることもできるという単純な結論であったが、今までルシフの意思を剄が具現化できなかったことはない。

 もちろん、最初から意思を具現化できるわけではない。何度も何度も失敗した。しかし、最終的にはルシフの望み通りの形に、剄はなった。だからこそ、死に物狂いで鍛練する価値があり、自らが高まっていっている実感がわく。

 ルシフは内力系活剄で、視力を強化する。

 遠く離れた場所、およそ四百メートルはあるかと思われる場所に、廃墟のような建造物があった。その廃墟からルシフの場所まで、遮る物は何も無い。

 ルシフはその建造物を指差した。そのまま、指を横に薙ぎ払う。

 四百メートル先の廃墟が、上下に真っ二つになった。切り離された上部がずれ、地面に落ちる。ルシフはその落ちている上部目掛けて指を上下左右に動かす。

 瞬く間に、落ちていた上部はこま切れになり、ちりのような小ささに変わった。

 ルシフは旋剄を使用し、一気に外縁部から離れる。賑やかになっていく景色。ルシフは跳んだ。建物の屋根に飛び乗り、更に高く跳んだ。そして、ツェルニの建造物の中で、一番高い建物の頂上に着地。その場に片足を曲げて座り、もう一方の足を虚空に遊ばせるようにした。

 渇いている。

 ルシフはそう自覚した。どうしようもなく、渇いている。

 退屈過ぎたのだ、学園都市が。それにほんの一週間通っただけだが、学園都市というシステムの、複数の矛盾点にも気付いた。自分が王となったら、真っ先にその矛盾を解消しようと考えた。

 ルシフは眼下に輝く無数の光を、ぼんやりと眺める。中央にいくほど光は集中し、外縁部には光は全く見えない。こうまで明暗に差があると、(かえ)って清々しい気分になる。

 まるでこの世界のようだと、ルシフは思った。

 ある場所の人間には光が満ち溢れ、ある場所の人間には光など全くない。

 おそらく昨年度までは、ツェルニも光のない場所だっただろう。

 抱えるセルニウム鉱山は一つしかなく、武芸者の質も低い。

 絶望的な未来しかないはずだった。

 しかし、レイフォン・アルセイフという存在が、ツェルニを再び輝ける場所へと復活させる。

 そう。光ない場所であろうとも、光ある者が現れたなら、光放つ場所に変化する可能性がある。

 ならばこそ、ルシフ・ディ・アシェナは頂点に立ち、光をあまねく照らす必要があるのだ。全ては、自分のものなのだから。

 ルシフは日付が変わるまで、その場所から動かなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 次の日の夜、レイフォンは機関掃除のバイトをニーナとともにしていた。

 だが、会話は一度もしていない。お互いに背中を向けて、黙々とブラシで掃除する。

 ニーナがゴシゴシと掃除する音さえ、まるで自分を責めているような気がしたレイフォンは、この気まずい空気に耐えられなくなっていた。

 

「あの……怒ってますか?」

 

 口に出した瞬間、自分から地雷を踏みにいくかのような言葉に、呆れた。

 もっと言い様があっただろうと、自己嫌悪した。

 

「……いや」

 

 ニーナは自分を落ち着かせるように息をついた。

 

「わたしは、生徒会長からお前のことを全て聞いた。生徒会長が知る全てを、わたしは聞いた。

わたしはそれが真実でないと信じるのみだ」 

 

 ニーナの瞳は、嘘だと言ってくれと懇願しているような瞳だった。

 だが、レイフォンの表情がこわばりを消えていくのを見て、ニーナの表情が凍りついている。

 嘘じゃないと、そのレイフォンの変化で気付いたからだろう。

 それから、レイフォンは生徒会長も知り得ない事実もまとめてニーナに語った。

 自分はかつてグレンダンで天剣授受者だったこと。

 天剣授受者でありながら、グレンダンで禁止されていた賭け試合に出場していたこと。

 この話の最中、何故だとニーナに問われた。

 レイフォンはそれに丁寧に答えた。

 グレンダン全ての孤児院を養わなければと考えていたこと。

 何故、自分がそんなことを考えたかは分からない。強いて言えば、孤児という全ての者たちが、自分にとって仲間だと思っていたからだと感じた。

 だから、金がいる。莫大な金が。

 だから、高額の賞金が用意されていた賭け試合に出場した。

 しかし、それも長く続かなかった。

 ある武芸者が、そのことをネタにレイフォンを脅迫してきた。

 ばらされたくなければ、天剣を渡せ。天剣授受者を決める試合で負けろ。

 そう脅迫してきた。

 レイフォンはその脅迫に屈せず、試合当日にその相手を殺そうとした。

 しかし殺せず、相手の右腕を切り落としただけだった。

 そして試合後、その相手の告発によってレイフォンのしたことは公の事実となり、レイフォンはグレンダンから追放された。

 全てを知ったニーナは言葉を失っている。

 

「以上が僕です。卑怯だと思いますか?」

 

 ニーナは口を閉ざしていた。永遠に続くんじゃないかと懸念してしまうほど長い静寂に、レイフォンは感じた。実際は数十秒程度の時間だったろう。

 ニーナは口を開いた。

 

「おまえは……卑怯だ」

 

 そう言った瞬間、レイフォンたちを激しい揺れが襲った。

 

「なんだ、これは!?」

 

「都震です!」

 

 都市は汚染獣から逃げるために、常に自らの足で移動し続けている。

 その足を踏み外したのでは、とレイフォンは考えた。

 最初に大きく縦に揺れ、次に斜めに激しく揺れた。

 

 ──穴か何かに落ちた?

 

 床は斜めになったまま、戻る様子はない。

 都市は斜めの状態で身動きがとれなくなっているようだ。

 揺れに驚き、絶句していたニーナだが、ようやく頭が回りはじめ、冷静さを取り戻す。

 

「非常呼集がかかるはずだ! 早く外に出なければ!」

 

 ニーナは内力系活剄で運動能力を上げ、地上を目指して駆ける。

 レイフォンも同様にして、半ば飛ぶようにして走った。

 その途中で、電子精霊を見つけた。

 電子精霊は恐怖で凍りついた表情で、縮こまって地底を見つめていた。

 それで、レイフォンは確信した。

 今、ツェルニがどういう状況にあるかを把握した。

 レイフォンはニーナに追いつき、その腕を掴んだ。

 ニーナはとにかく地上に行かなければという思いばかりが先走り、レイフォンを怒鳴った。

 

「放せ! 今は一刻を争うんだ!」

 

「ええ、そうです!」

 

 レイフォンも負けじと怒鳴り返し、ニーナはその剣幕に呑まれた。

 

「汚染獣が来ました!」

 

「……汚染獣だと?」

 

 ニーナはしばらく硬直していたが、ようやく事態を飲み込めた。

 

「なら、尚更行かねばならん!」

 

 ニーナの全身から剄が放たれる。その剄の輝きが、ニーナそのものを輝かせている。

 

「心配しなくとも、ルシフがいます。

あいつなら、汚染獣なんて……」

 

「じゃあ、わたしはこのまま黙って見ていろと言うのか!?

全てをルシフに任せて、隠れていろと言うのか!?

わたしたち、武芸者は何のために存在する? 今この瞬間のために、わたしたちはいるのだ!

それを放棄して逃げるなど、わたしたちには許されない!

ルシフとて、この都市全てを守ることなどできまい! 全員で立ち向かわなければならない敵なのだ、汚染獣は!」

 

 ニーナの身体は震えていた。

 紛れもなくそれは恐怖だ。汚染獣を恐怖している自分を、必死に奮いたたそうとしているのだ。

 恐怖に打ち克つ心の強さ。

 これこそが、ニーナ・アントークの強さなのだ。

 

「でも、逃げないと……」

 

 レイフォンは分かっていた。

 ずっと前からグレンダンで汚染獣と戦ってきた。だからこそ、汚染獣がどれくらいの強さか、感覚的に理解している。

 だからこそ、ニーナが汚染獣を倒せないことが分かっていた。

 

「──何故だ?」

 

 ニーナが呟いた。

 

「何故それほどの力を持ちながら、逃げるなどという選択ができる?

わたしたちの暮らしている都市が、これから汚染獣に蹂躙されるのだぞ! 何故それを許容できる!? 何故それに怒りを感じない!?

友だちだっておまえはいるだろう。その友だちが、今汚染獣に食われるかもしれない危機なんだぞ! それを放っておくのか!? 自分の住む都市を守りたくないのか!?」

 

 雷に打たれたような衝撃を、レイフォンはうけた。

 

「僕は……」

 

「わたしは戦う! 今戦わずして、いつ戦うのだ!」

 

 ニーナはレイフォンの返事も聞かずに走り去った。

 

「僕が……他人のために戦うなんて……」

 

 誰もが感謝してくれると思った。しかし、賭け試合が発覚した時に見せた孤児院の仲間たちの表情は、レイフォンを責めていた。

 あんな思いをするくらいなら、他人なんかのために戦いたくない。

 

「ルシフがいるじゃないか……」

 

 彼の強さならば、並大抵の汚染獣は秒殺だ。

 自分が戦う必要なんてない。自分が戦わなくても、代わりはいる。

 気付けば、レイフォンは地上に出ていた。

 そのまま自室に戻った。ルシフの姿は見えなかった。

 そのことに安心しつつ、作業着を脱いで制服を着る。

 剣帯に錬金鋼(ダイト)を吊るす。

 自衛の手段はもたなくてはならないと、自分に言い訳した。そんな体裁など、誰も気にしていないというのに。

 ふと扉の下を見ると、しおれた封筒が落ちているのが目に入った。

 慌てて、その封筒をとる。送り主を見る。リーリン・マーフェス。封筒を開ける。

 中には手紙が入っていた。

 レイフォンは、グレンダンに住む同じ孤児院で育ったリーリン・マーフェスだけには、手紙を出していた。

 リーリンは、賭け試合が発覚した後も変わらずにレイフォンと接してくれた数少ない相手。

 そんな相手から送られてきた手紙を読む。

 火がついた。

 さっきまで、誰かのために戦いたくないと思っていた。

 けど今は……誰かのために戦うのも悪くないという気分になっていた。

 レイフォンは手紙を握りしめ、走る。ただひたすら走る。

 手紙をズボンのポケットに突っ込み、走った。

 自分のしたことは、間違いだったかもしれない。

 でも、全部が間違っていたわけじゃない。確かに救えたもの、守れたものがあったんだと、リーリンの手紙は気付かせてくれた。

 だから、今はこの心のままに、友だちを、隊長たちを、この都市に住む全ての人を守ろう。

 レイフォンは疾風となって、地を駆ける。

 目指すは、ハーレイのところだ。

 レイフォンの姿は、誰の目にも映らなくなった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 外縁部北西地区にニーナたちは集まっていた。ルシフはニーナたちから数歩離れた場所で待機している。

 ルシフの隣には、マイがいた。

 

「索敵完了しました。幼生体の数、現時点で千七十四。ツェルニがはまった地下の奥深く、一際大きな空洞の中に、瀕死の母体一。

フェリ・ロスも私と同様の情報を入手、全小隊長に伝達、レイフォン・アルセイフ、フェリ・ロスに接近」

 

 錬金鋼を復元させ、マイの周囲には六角形をした半透明の結晶が何枚も浮かんでいた。

 マイはルシフ以外の念威サポートをしていない。

 ルシフはその情報を聞き、眼前にいるニーナが鉄鞭を構えて幼生体の群れに突っ込んだところで、身体に剄を走らせた。

 ツェルニの射撃部隊が、空を埋め尽くす幼生体の群れに、汚染獣迎撃用の剄羅砲から巨大な砲弾を撃ち出す。

 その砲弾が幼生体の群れの先頭に当たり、爆発する。

 爆発の花はそこら中で咲いた。

 幼生体たちは次々に地面に降り、這いずるように襲いかかってくる。

 ツェルニの武芸者たちは、その幼生体の群れに全力で攻撃を叩き込む。

 だが、幼生体の甲殻になんとかひびを入れられる程度の実力のため、大して殺すことは出来なかった。

 ニーナも幼生体に鉄鞭を打ち込み、手に伝わる衝撃に目を細める。

 

「なんて硬さだ!」

 

 まるでルシフを殴った時のような感触だ。シャーニッドも必死に狙撃しているが、手応えは感じられないようで、通信機から舌打ちが聞こえた。

 ニーナの周囲は幼生体で囲まれ、一斉に角で突き殺そうとしてきた。

 ニーナは逃げようとするが、一瞬遅れた。

 

「しまっ……!」

 

 そのニーナの襟首を掴み、ルシフは無造作に後ろに放り投げた。

 ニーナは数メートル後方に上手く着地。片膝をついた姿勢で顔を上げる。

 

「──無様な、幼生体ごときで」

 

 ルシフはニーナやツェルニの武芸者を見据える。

 ルシフの手に錬金鋼は握られていない。

 ニーナはむっとしたが、ルシフの現状を見て顔を青くする。

 

「ばかッ! 後ろ!」

 

 ルシフはあろうことか、幼生体の群れに背を向けていた。

 当然そんな好機を幼生体が見逃すわけもなく、後方左右から同時にルシフに角を突き立てた。

 しかし、その角はルシフを貫かず、ルシフの体表で止められている。

 後方にいた幼生体は角での攻撃を諦め、ルシフにのしかかるように上から覆い被さった。

 ツェルニの武芸者たちが悲鳴をあげる。

 そして、それすら気にも留めない無傷なルシフに、ツェルニの武芸者は絶句した。

 恐ろしい光景だ。人間一人を幼生体がよってたかって食おうとしているように見える。

 だが、その人間に怯えはなく、ただ残忍な目の輝きだけが、ツェルニの武芸者たちを捉えている。

 

「──久し振りの獲物だ」

 

 ルシフは両手を動かす。

 ルシフに攻撃していた三匹の幼生体は八つ裂きになった。

 

「……は?」

 

 戦場に場違いな気の抜けた声を出したのは、ニーナだ。

 いや、ちょっと待て。何故何も武器を持っていないのに斬れる?

 ルシフはしゃがみ、そのまま半円を描くように右腕を薙ぎ払う。

 右腕から放出された細長い剄が、化錬剄により不可視の剣となり、遥か後方まで連なっていた幼生体の群れから、足の部分を切り落とした。その剣の間合いは、軽く三百メートルを超え、地面に這いつくばっていた幼生体の群れ全ての自由を奪った。

 

「…………は?」

 

 またも気の抜けた声を出したのは、ニーナだった。

 いや、ちょっと待て。ただ腕を払っただけで、何故遥か後方の幼生体までまとめて斬れる?

 

「ははっ! なんて惨めな姿だ! ははははは!」

 

 ルシフは打ち上げられた魚のように、上下にビクビクと跳ねている幼生体の群れを見て、心底楽しそうに笑った。

 理不尽に死を与える存在に、逆にこちらが理不尽に蹂躙し、死を与える。

 これ程までに痛快なことはあるまい。

 ルシフは幼生体の翅を両手で千切る。一匹一匹歩いて近付き、翅を千切った瞬間の幼生体の絶叫を興奮剤にし、次々と千切っていく。

 幼生体は、ルシフが近付くだけで絶叫をあげるようになっていた。それに満足しながら、翅を千切る。

 

『二時の方向、角度四十、距離二二三。八匹の幼生体が瀕死の状態で飛行』

 

 マイから、幼生体の位置情報を得たルシフは、その方向に身体を向ける。

 

「──誰が飛んでいいと言った!?」

 

 鋭い廻し蹴りを放ち、その蹴りに剄を乗せて、その方向に剄を飛ばす。

 飛ぶ斬撃となった剄が八匹を両断し、十六の肉片が地面に落下した。

 

「……おい」

 

 ルシフがツェルニの武芸者たちを見る。

 

「貴様ら、何をぼけーっと見ている?

とっとと幼生体どもをなぶり殺しにしろ!

汚染獣を殺す感覚を、全身に刻みこめ!」

 

 ルシフの声が外縁部に響きわたる。

 その時、ツェルニの武芸者たちは見てしまった。

 幼生体全てが必死に身体を持ち上げて、自分たちを見ているのを。

 人に汚染獣の言葉など分からないし、汚染獣の感情も分からない。

 だが、ツェルニの武芸者たちは、はっきりと幼生体の声を聞いた。

 助けてくれ。頼むからこいつを止めてくれ。

 汚染獣がである。汚染獣が人間に命乞いをしているのだ。

 ルシフは近くにいた幼生体の頭部を、右足で踏み潰した。

 幼生体の頭部はぺちゃんこになり、小さく痙攣した後、動かなくなった。

 幼生体の群れは鳴いた。必死に鳴いた。

 その鳴き声が、まるで懇願しているように聞こえて、武芸者たちはなんとも言えない気分になった。

 あまりのルシフの残虐な行為に、目を背けてしまう武芸者も少なくなかった。

 やがて、ツェルニの武芸者たちは武器を構えて、動けない幼生体たちにそれぞれ近付いた。

 そして、各々の武器で、幼生体の息の根を止める。

 もう、幼生体の鳴き声は聞きたくなかった。

 

『レイフォン・アルセイフ、母体の始末、完了。

幼生体、全滅。

お疲れ様でした、ルシフ様』

 

「──まぁ、良いストレス解消になったな」

 

 そこにエアフィルターを突き破って、レイフォンが空から降ってきた。

 そして、ニーナの傍に着地すると、そのまま気を失ってしまい、ニーナがレイフォンを抱き抱えるような体勢になっていた。

 汚染獣との戦い、終わってみればツェルニの武芸者たちの圧勝だった。

 ツェルニの武芸者たちは、ルシフの恐ろしさを骨の髄まで染み込ませて、今日を終えた。

 その後、ツェルニの武芸者たちの間で、絶対ルシフを怒らせるようなマネをしないようにという暗黙のルールが生まれた。




この話で、原作一巻の内容は終了となります。


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オリジナル1章 ルシフとマイ
第7話 魔王の失敗


 汚染獣の襲撃から数日が過ぎた。

 自分の教室で、ルシフは退屈そうに頬杖をついている。その周囲は、卓上からみれば一目で異様だと分かった。

 ルシフの周囲は、他の生徒たちより生徒との間隔が大きかった。あからさまにならない程度に、距離を置かれている。

 そうなった原因は、入学式の時の一件もあるだろうが、一番の原因は汚染獣相手の戦い方だった。

 汚染獣襲撃から次の日、シェルターに隠れていた生徒たちが口を揃えて言ったのが、どうやって汚染獣を倒したか知りたい、だった。

 汚染獣は大抵の人間にとって、恐怖の対象であると同時に未知の生物である。

 都市は汚染獣を避けるために足があり、移動し続けているのだ。汚染獣に遭遇することは本当に稀で、聞いたことはあるが見たことはないという人間が多数を占める。外縁部の片付いていなかった幼生体の死体を見ただけで、気を失ってしまった生徒も少なからずいた。だからこそ、余計にどうやって倒したのか気になるのだろう。

 カリアンはそういう展開になる可能性も考えていたため、フェリの念威端子が得ていた情報を保存して、映像として残しておいた。

 そして、ある広い部屋に映像機器を設置し、汚染獣襲撃の詳細が知りたい生徒は、この部屋で映像を観るのを許可すると、全生徒に伝えた。

 当然多数の生徒がその部屋に押し寄せた。すぐに部屋から人があふれた。一度の映像の再生だけでは、とても全員に観せられなかった。何回にも分けて再生した。たかだか一時間程度の長さだったが、放課後しかその部屋を開放しなかったこともあり、情報を欲する生徒全員が観終わるのに、丸三日かかった。

 そして、レイフォンとルシフの活躍を知った。

 レイフォンはルシフと違い、生徒たちから避けられていない。

 レイフォンは母体に向けて真っ直ぐ走り、母体を見つけたら剣で一刀両断した。その行動は迅速で無駄がなかった。レイフォンの戦い方は普通で、恐怖心を煽るような戦い方じゃない。

 だが、ルシフの戦い方は違った。普通じゃなかった。

 汚染獣を玩具のように扱い、いたぶっていた。錬金鋼(ダイト)を使わずに斬ってもいた。

 化け物。鬼。悪魔。ルシフって汚染獣の変異体じゃね?

 様々な言葉が、ルシフの映像を観た生徒たちの脳裏によぎった。どの言葉も、ルシフを良い印象で捉えている言葉はない。

 だから、生徒たちから距離を置かれていた。

 関わらなければ、害を与えられる心配もない、ということだろう。

 ルシフは、そんな現状を当たり前のように受け入れている。

 ルシフは頬杖を支えにして、目を瞑って寝ようとした。

 不意に、背を叩かれた。

 

「おっはよ~! 朝から辛気くさいぞ、ルッシー!」

 

 ミィフィだった。汚染獣襲撃の映像を観ても、ミィフィは変わらなかった。

 ルシフの背を叩いたミィフィを、教室にいる生徒たちはぎょっとした表情で見た。

 

「おいミィ、あまり刺激を与えるようなマネをするな」

 

 ナルキが小声で、ミィフィに言った。

 ナルキは武芸科のため、汚染獣の迎撃戦に参加していた。映像だけでなく、間近でルシフの戦いを見ていた。

 だから、ナルキがルシフに抱く恐怖は尋常じゃなかった。

 メイシェンは、ナルキの影になっている。ぴったりと後ろにくっつき、ナルキの正面から見ると、メイシェンは全く見えない。

 メイシェンの身体は震えている。

 そんなに怖がるなら、近付かなければいいと思う。

 周りの連中のように、離れていればいい。

 ルシフは一つあくびをして、ミィフィに顔を向けた。

 

「お前はいつも元気だな。元気なのは構わないが、それを他人にまで強要するな」

 

「元気にしないと、幸せが逃げちゃうんだぞ!」

 

「構わん。逃げるなら捕まえればいい」

 

 ミィフィくらいだった。

 クラスメートの中で、ルシフに自然体で話してくるのは。

 ルシフは普通に接する相手に攻撃しないと、感じとっているようだ。

 正しい判断だ。

 一般人に力をひけらかして、暴力など振るって何が楽しいのか。何が満たされるというのだ。

 ルシフは力のない者を、力ある者が絡んだり、ちっぽけな欲を満たそうとするのが一番許せない。

 故に、ルシフは決してそうはならない。

 ミィフィは記者になりたいらしい。訊いてもないのに、得意気に雑誌社のバイトが決まったと言っていた。

 記者を目指しているから、人を見る目があるのだろうか。

 それとも、人を見る目があったから、記者になろうとしているのか。

 どちらが先で、どちらが後か。

 考えて、くだらないことだと結論を出した。 

 ルシフは軽く視線を巡らす。レイフォンと目が合った。レイフォンは顔を背けた。

 レイフォンは、明らかに自分を嫌っている。

 それに気付いたのは、汚染獣襲撃が片付いて、部屋に帰った時だった。

 

 

 

 部屋に入り、扉を閉めた瞬間に、レイフォンが胸ぐらを掴んできた。

 

「どうして、最初の攻撃で殺さなかった!?」

 

 ルシフはわざわざしゃがんで攻撃した。殺そうと思えば殺せた。

 どんなに弱っていても、生きている限り何があるか分からない。武芸科の生徒たちが危険な目にあっていた可能性もあった。

 それが、レイフォンには許せない。

 

「汚染獣のどこを潰せば殺せるか、勉強させるためだ。知っておいて損はあるまい」

 

「そんなこと、する必要はない! 汚染獣の相手は僕らですれば十分だ! ここの武芸科の人たちに、汚染獣は荷が重すぎる!」

 

 レイフォンはこと武芸に関して、無意識に他人を見下す傾向がある。見下すというより、達観しているというべきか。

 レイフォンは汚染獣の強さを痛いくらいに知っており、ツェルニの武芸者がどれだけ頑張ったところで敵う筈がないと決めつけている。

 幼生体ならともかく、雄性体は強い武芸者数人単位で戦うのが普通で、幼生体を数人でやっと倒せる武芸者では、何人で戦おうが、完璧に連携しようが雄性体を倒せないだろう。

 そもそも、連携は一番動きの遅い者に合わせなければならない。その者を無視して連携をすれば、連携をしている者と連携をしていない者とで綻びができ、そこから連携が徐々に崩れてゆく。

 それなら、レイフォンのように桁外れに強い武芸者が、一気に汚染獣を倒した方が犠牲は出ない。

 雄性体の汚染獣と戦えるのは、学園都市などというところに来た弱い武芸者などではなく、都市が抱えたいと思うほどに強い武芸者だけだ。

 レイフォンは、そう考えている。

 そして、ルシフもレイフォンの考えに同意する。

 レイフォンのいうことはまことにその通りで、ニーナあたりの気持ちさえあれば何とかなると考えている武芸者に、伝えてやりたいくらいだ。

 だが、だからといって経験を与えられる機会に、それをしないというのは、違う気がした。

 そもそも瀕死の幼生体に襲いかかられたところで、死にはしない。悪くて重傷を負うくらいだろう。

 それでいい。いくらでも、傷を負え。生きるとは、常に痛みを伴い歩き続けるものだ。痛みとは、身体的な痛みだけではない。心の痛みもある。

 痛みを避けて生きるのは、生きるといわない。そういうのは、飼われている家畜と変わりない。いつか誰かに食べられるため、誰かの役に立つために死ぬ生き物。

 痛みに疎いから、簡単に潰される。誰かに良いように利用される。痛みが、人を成長させる。

 たとえ弱くても、幼生体を殺したという事実は、間違いなく幼生体を殺す前より成長させる要因になる。

 幼生体を効率よく殺すための弱点を知れた。汚染獣を殺したことで、自信がつく。武芸の腕をさらに磨こうと思う武芸者も出てくる。

 人は可能性に満ちていなければならない。そのうえで死ぬべきだ。

 何の可能性もなく死ぬのは、人じゃない。

 ここが、レイフォンとルシフの考え方の違いだ。

 ルシフは、たとえ弱くても、成長させられるなら成長させて損はないという考え方なのだ。

 レイフォンは痛い思いをさせない方がいいと考えているが、ルシフは痛い思いならどんどんしろという考えである。

 噛み合うわけがない。

 人の上に立つのを常に考えている者と、他人の代わりに自分がやればいいと考えている者では、ズレが生じるのは当たり前だ。

 

「貴様の言う通りだ。だが、成長するなら成長させた方が得だと考えないのか」

 

「考えないね。多少成長したところで、汚染獣には意味ないんだ。その成長が、判断を鈍らせる場合もある」

 

 確かに、成長した影響で調子に乗る可能性は否定できなかった。

 だが、それでいい。調子に乗って死ね。それは、その人間が選んだ道の終わり。実に人間らしい死に方だ。

 

「それは、調子に乗った奴が悪い。身の程知らずが死ぬだけのことだ。そんな者に心を砕く必要はない」

 

 レイフォンは、ルシフの胸ぐらから手を放した。

 

「君は最低な奴だ。命を軽く見過ぎてる」

 

「最低だと思うなら、別にそれでいい。他人からどう思われようが、俺は一切気にせん」

 

「──もし、君が隊長たちや僕の友だちに危害を加えるなら、僕は君を倒す」

 

 それだけ言うと、レイフォンは外へと出ていった。

 ルシフは楽しそうに笑みを浮かべる。

 

「それでいい、レイフォン・アルセイフ。常に俺の敵でいてくれ」

 

 

 

 あの日以来、アルセイフは極力俺と話さないようにしているようだ。

 そうしたいなら、ずっとそうしていればいい。今しか俺を倒せないことなど、考えもしていないだろう。

 

「おはようございます、ルシフ様!」

 

 教室に、マイが入ってきた。

 汚染獣の襲撃の時にルシフしかサポートしていなかったのが周囲に知られ、マイとの関係が公になってしまった。

 マイはもう隠す必要はないと判断し、こうして隠さずにルシフに付き従うようになった。

 休み時間や、昼休み、放課後の自由時間に至るまで、授業や訓練の時間を除けば、ほぼ確実に自分の傍にいる。

 

「おはよう、マイ。

だが、もう授業が始まる頃だ。さっさと自分の教室に戻れ」

 

「はい。ルシフ様を一目見たくて足を運んだだけなので、すぐに戻ります」

 

 マイは笑顔で手を一度振って、自分の教室に引き返していった。

 それを見ていたミィフィが悪戯っぽい笑みで、ルシフに近付く。

 

「ありゃ完全にルッシーにほの字だねえ!

マイ・キリー先輩、武芸科二年生。出身都市、法輪都市イアハイム。所属小隊なし。その美貌とスタイルで、多くの男子生徒に告白されるも、全て拒否。フェリ先輩と同様、二年男子生徒の人気を二分する内の一人。

好きな相手がいたから、告白を全部断ってたんだねえ」

 

 メモ帳を開きながら、ミィフィが得意気に言う。

 ルシフは怪訝そうな顔をした。

 

「何を言ってる? マイは別に俺が好きなわけじゃない。俺が昔傍にいろと言ったから、それに従っているだけだ。

しかし、あいつはいつもああやって俺をからかう。全く困った奴だ」

 

「……え?」

 

 ミィフィは信じられないという表情で、ルシフを凝視している。

 

「本気で言ってる?」

 

「本気も何も、マイは昔からあんな感じだ。いちいちあれに惑わされていては、疲れるだけで何も得しない」

 

「……マイ先輩も可哀想ね」

 

「何がだ?」

 

「何でもない」

 

 ミィフィは深くため息をついた。

 近すぎて、ルシフは逆に見えていないのだろう。

 あの姿を、好意なしにできるわけがない。

 そこでチャイムが鳴り、授業を教えに来た上級生が教壇に上がった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 怯えている。

 表情には出ていないが、心が怯えきっている。

 目の前で荒く息をする男を見て、カリアンは思った。

 カリアンは生徒会長室の椅子に座り、その男の目をじっと見ている。

 目の前の男は、第十四小隊の隊長である。そして、第十七小隊の次の相手の大将でもある。

 

「生徒会長!」

 

 黙っているカリアンに焦れ、男はカリアンの前にある机を、両手でバンと叩いた。

 小物がすることだなとカリアンは見下したが、表情には出さなかった。

 

「はっきり言って、第十七小隊には力が集まりすぎています! 特にレイフォン・アルセイフとルシフ・ディ・アシェナは桁外れです!」

 

「……まぁ、そうだね。どちらも、並大抵の都市には並ぶ者がいない実力者だろう。

で、君はどちらかを別の小隊に動かした方がいいと?」

 

「こんなことは情けなくて言いたくありませんが、ルシフが相手と聞いただけで、我が隊員たちは戦いたくないと泣き言を上げる始末。

正直に申しあげて、次の対抗戦は勝負になりますまい」

 

 確かにそうだろう。

 カリアンは軽く頷いた。

 あの汚染獣襲撃の映像を観れば、ルシフの敵になることがどれだけ恐ろしいか、分からないわけではない。

 

「それは困る、と言いたいが、それは第十七小隊以外の小隊全員が抱える問題だね。

やはり、ルシフくんの小隊を移動させるべきかな?」

 

 男がびくりと身体を震えさせた。

 

「──そういう問題ではないのです。ルシフという男は、小隊などに入れていては駄目なのです。

奴の存在そのものが、小隊を破壊します」

 

「……つまり、ルシフくんを全ての対抗試合において、出場禁止にしてほしいと言いたいのかい?」

 

 男は静かに頷いた。

 カリアンは男の肩を軽く叩く。

 

「分かった。本人に訊いてみよう。

安心したまえ、君の名は出さない」

 

 男は安心した表情で、生徒会長室から立ち去った。

 

「どう思うかね、私の案は?」

 

 カリアンの隣で口を閉ざしていたヴァンゼは、カリアンの方に視線をやる。

 

「奴を小隊戦に出さないのは、賛成だ。レイフォン・アルセイフと違って、奴は何を考え、何を見ているのか、全く予想できん。

それに今や、奴は武芸科の奴らにとって恐怖の対象になっている。闘う場を奴に与えてはならん。

問題は、奴がそれを素直に受け入れるか、その一点だ」

 

「──難しい問題だな。私にも、ルシフくんが何を選ぶか読めない部分がある。

でも明日、彼には誠心誠意をもって話し、理解してもらう。彼は、話が通じない類いの人間でもない」

 

 ヴァンゼは両手を強く握りしめた。

 

「俺は、どんな相手にも屈してたまるかと、そういう気概で日々を過ごしてきた」

 

「知っている」

 

「それが、入学して間もない奴に恐怖し、屈してしまいそうになっている。

なんて、弱い。その弱さが、俺は本当に許せない」

 

「それも、知っている」

 

「──強くならなければならないと、あの映像を観て感じた。

必ず俺は強くなってみせる。奴に屈してたまるかと思えるくらい、強く──」

 

 ヴァンゼの横顔からは、覚悟を決めた強い意志を感じる。

 良い傾向にツェルニはなっていると、カリアンは思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 第十七小隊は野戦グラウンドがあるロッカールームに集まっていた。

 来ていないのはシャーニッドだけで、後は全員揃っている。

 だが、訓練が始まる時間まではまだ少し余裕があった。最近は遅刻をしていないから、もうそろそろくるだろう。

 ニーナはレイフォンとルシフを見る。

 明らかに二人の仲は悪い。

 レイフォンは、ルシフと組んで戦いたくないとまで言ってきたため、もう疑いようがないことだ。

 しかし、なぜここまで仲が悪くなっているのか、ニーナには分からなかった。

 汚染獣の襲撃があった後からこうだから、やはり汚染獣の時のルシフの戦い方に、レイフォンの気に入らない何かがあったのだろう。

 わたしも、汚染獣を玩具のように扱うのを見て、酷い戦い方だと感じた。

 剄だけで戦う姿も、化け物なんじゃないかと何度も思った。

 それでも、そのお陰で大した怪我もせずに汚染獣を倒せた。そこは、認めるところじゃないかと感じる。

 何はともあれ、わたしたちは小隊であり、この状態は非常に良くない。

 何とかして二人に仲直りしてもらわなければと思うが、良い案は思い浮かばなかった。

 それにしても、レイフォンとルシフ、一体どちらの方が強いのだろうか?

 ニーナは汚染獣襲撃以来、そんなことをしばしば考える。

 ニーナは、レイフォンよりルシフの方が強い気がしていた。

 ルシフの戦い方は、常識では計り知れない戦い方であり、常識の枠に何とか収まっているレイフォンとは、強さの質が違う気がした。

 ルシフの方が強さに深さがあると、ニーナは感じていた。

 

「おまたせ~」

 

 ロッカールームの扉が開いた。

 シャーニッドが、上機嫌で顔を出す。

 そして、すぐに顔を後ろに向けた。

 

「此処で、第十七小隊は訓練をやってるんだぜ」

 

「シャーニッド?」

 

 ニーナは首を傾げた。

 シャーニッドが、誰かを連れているような立ち振舞いをしている。

 

「──おっとわりぃ、紹介しねぇとな」

 

 シャーニッドはロッカールームに入るよう、促した。

 シャーニッドの後に続いて、黒髪の女性がロッカールームに入る。

 レイフォンの表情が、凍った。

 ルシフが目を見開く。

 そんな二人の表情を見て、黒髪の女性は笑った。

 

 ──あり得ない。

 

 ルシフの頭に浮かんだ言葉はそれだった。

 自分は慎重に事を進めてきた。

 原作と同じ未来になるよう、最大限の注意を払っていた。

 なのに、こんな最悪な形で、未来がズレた。

 

「私は、アルシェイラ・アルモニス。そこの二人は、私のことをよく知っていると思うけど、どう?」

 

 レイフォンが表情を固くした。

 ルシフは、ただアルシェイラを睨んだ。

 ルシフは自惚れていた。

 そう思ってなくても、ルシフの身体の最奥には、未来を知っているという自負があった。

 そして、自分は神のような立ち位置で、原作に関わっていると思っていた。

 だが、そんなわけがないのだ。原作に、ルシフという名の人物は出てきていない。

 つまり、ルシフがツェルニにいる時点で、原作の未来とは大幅に変わっている。

 ルシフは神ではなく、人なのだ。

 何も影響を及ぼさない空気のような存在ではなく、鋼殻のレギオスに生きる人である。

 本質はレイフォンやニーナと同じなのに、ルシフは己を別次元の人であるような勘違いをしていた。

 ニーナは怒りで身体を震わせている。

 

「シャーニッド! 今から訓練をやるというのに、部外者を連れてくるとは、一体何を考えている!?」

 

「いや、俺の話を聞いてくれ!

俺が此処に来る途中、そこのお姉さんが十七小隊に用があるって声をかけてきたんだよ! だから、俺は親切で連れて来たんだ!」

 

「──用?」

 

 ニーナは、アルシェイラの方に身体を向ける。

 

「わたしたちに、何か用ですか?」

 

「わたしたちというか、あの子に用があるかな」

 

 アルシェイラがルシフを指差した。

 

「ルシフに?」

 

 アルシェイラはルシフを見据える。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。単刀直入に訊く。

何故、グレンダンを探っていた? それも毎年」

 

 グレンダン、という単語に、フェリ、ニーナ、レイフォンは反応した。

 ルシフは両拳を握りしめた。

 

「ルシフ、君は僕を知っていたのか?」

 

「知っていたさ。

俺がグレンダンを調べていた理由は、武芸の本場と呼ばれるグレンダンなら、俺の全力の剄を受け止められる錬金鋼(ダイト)があると考えたからだ。

しかし、よく気付いた。グレンダンの女王なだけはある」

 

 女王という言葉で、ニーナとフェリが目を見開いて、アルシェイラを凝視した。

 

「私には優秀な念威操者がいてね、不自然に感じた相手を尾行させたのよ。

そしたら、その相手はいつも法輪都市イアハイムに向かっていた。

私からも、法輪都市イアハイムに毎年人をやって探らせていたわ。

そんで、あんたがツェルニに来るって情報を得て、先回りしてたってわけ。

此処なら、邪魔は入らなそうだったからね」

 

 そういうことかと、ルシフは唇を噛んだ。

 おそらく、女王の代わりは影武者であるカナリスがやっているのだろう。

 自分が未来を変えてはいけないと慎重にやっていたことが、逆に最悪な未来を引き寄せた。

 

「で、本題に入るけど、あんた天剣授受者になるつもりない? 今、ちょうど一振り空いてるのよ。

少し戦いを見せてもらってたけど、あんたには天剣に相応しい実力がある」

 

「何を言ってるんですか、陛下!」

 

「天剣授受者は、ただ強くあれ。強ければ、年齢は問わないし、性格も問わない。

あんたもよく知ってるでしょ?」

 

 レイフォンはアルシェイラの言葉にぐっと押し黙った。

 

「──で、どうする? なる気があるなら、学生を辞めてグレンダンに来なさい。

あんたがグレンダンに来しだい、天剣授受者を決める試合をすぐにやる。

あんたは、自分に相応しい武器を手に入れられる」

 

 ルシフは唇の端を吊り上げた。

 

「断る」

 

「理由は?」

 

「天剣授受者ということは、俺はあなたの下になるわけだ。

俺は王になる男であり、媚びるようなマネはせんし、誰かの下に甘んじる気もない。

欲しいものは力で奪う。いつか力を付けてグレンダンに乗り込み、天剣を奪ってやる」

 

「そうこなくっちゃ!」

 

 アルシェイラは楽し気な笑みを浮かべていた。

 

「野戦グラウンドに来なさい、ルシフ・ディ・アシェナ。

天剣授受者になれば、グレンダンにちょっかいかけてたのを許そうと思ってたけど、断るなら、あんたが誰に喧嘩を売ったか思い知らせてやらないと。

もう二度と、バカなマネをしないようにね」

 

 ルシフはアルシェイラに従い、野戦グラウンドに出て、アルシェイラと対峙した。

 これより、ルシフが今まで戦ってきた敵の中で、最強の敵と戦う。

 ルシフの顔には、一筋の汗が流れていた。




アルシェイラのフラグは、第5話で立てておきました。


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第8話 グレンダンの女王

 ニーナやレイフォンたちは、野戦グラウンドの観客席にいた。アルシェイラが、グラウンドにいると邪魔だからと観客席に行かせたからだ。

 ニーナの目は、ルシフとアルシェイラを捉えている。

 

「──本当に、あの女性がグレンダンの女王なのか?」

 

「信じたくないですが、間違いないです」 

 

 レイフォンの表情は強張っていた。緊張しているようだ。

 レイフォンの都市追放を決定した張本人。もしかしたら、レイフォンはルシフとの戦闘が終わった後に、アルシェイラが自分へ罰を与えてくると不安に思っているのかもしれない。

 

「女王は、どれくらいの強さなんだ?」

 

 ニーナはルシフと鍛練をしているため、ルシフの強さはよく知っているつもりだ。

 底知れない、それがニーナのルシフの強さに対する印象だった。

 ルシフが強いと分かっているが、ニーナではその上限が見えない。

 今までルシフの闘いを何回も見てきたが、どれも遊びのようなもので、全力の半分すら出していないだろう。

 グレンダンの女王とはいえ、ルシフが負ける姿は想像できなかった。

 だから、女王の強さが気になった。

 

「──今からだいたい五年前くらいの話です。天剣授受者三人が陛下に反乱を起こし、三人がかりで陛下に挑みました」

 

 天剣授受者はグレンダンの最強の称号であり、レイフォン並かそれ以上の実力者しかなれないらしい。

 つまり、レイフォン以上の実力者が三人同時に女王と闘った。そして、女王の姿は今も健在である。

 ニーナの頬を、一筋の汗が流れていった。

 

「結果はかすり傷一つつけられず、三人とも一瞬で倒されたらしいです」

 

「かすり傷すらつけられなかっただと!?」

 

 ニーナは立ち上がっていた。気付いたら立っていた。それほどまでに、衝撃は大きかった。

 

「正直、僕は陛下に勝てる気すらしません。ルシフが闘おうとしている相手は、そういう相手です」

 

 負けるのか。

 あのルシフが、ニーナが知っている中で最強かもしれない存在が、負ける。

 そう考えると、複雑な気持ちになる。

 ルシフが負けるところを、見てみたいと思う。ルシフの性格上、負けるかもしれない相手には全力で闘う筈だ。ルシフの全力がどういうものか見てみたい。

 それと同時に、いつものように涼しい顔で勝ってほしいとも思う。

 何故かは分からないが、ルシフの限界を見たくなかった。

 

「ルシフの奴、負けたらどういうふうになんのかな」

 

 話を聞いていたシャーニッドが静かに呟いた。

 あの自信満々な態度が、負けても変わらないのか。それとも、不様な姿を晒すのか。

 この場にいる誰も、ルシフがどうなるのか予想できなかった。

 

「──そろそろ、始まるみたいですよ」

 

 その場にいた全員が、野戦グラウンドに視線を向けた。

 レイフォンは野戦グラウンドの光景に集中する。

 ニーナは、静かに腰を下ろした。

 

 ──ルシフ、勝て。

 

 そんな願いを込めて、ニーナはルシフを見た。

 ルシフは自分の小隊の隊員なのだ。なら、隊長である自分は、ルシフの勝利を願うのが正しいと思う。

 たとえ、限りなく勝てる可能性が低くても──。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 アルシェイラは構えない。突っ立ってるだけだ。アルシェイラの瞳は、目の前の獲物がどれくらいの大きさか見極めるような感じで、ルシフに定まっている。

 そして、暴力的なまでに激しい剄の嵐が、アルシェイラを中心に起こっていた。

 逆にルシフは腰を低くし、両手を胸の高さまで上げて構えた。ルシフが最初から構えているのに、ニーナたちは驚いているだろう。

 不愉快だった。アルシェイラの構えない姿を見て、そう思う。舐めきっている感じがするのだ。

 自分はしてもいいが、相手にされるのは許せない。

 成る程、自分と闘ってきた者たちはみなこういう気持ちだったのかと、理解した。

 だが、相手を挑発して全力を出させるには、構えない構えもなかなか効果的だと身を以て感じた。これからも構えない構えは続けていこうと心に決める。

 しかしそれも、この窮地を乗り越えられたらの話だ。

 ルシフはアルシェイラの一挙一動を見逃さないよう集中する。

 アルシェイラが大きく一歩を踏み出した。

 そう思った時には、アルシェイラの姿は眼前にあった。右腕を引いている。

 右ストレートがくる。そう読んだ時にはもう、ルシフの左腕は受け流しの動作に入っていた。

 アルシェイラの右腕の横に、ルシフの左の裏拳が勢いよくぶつかる。ルシフの顔面を捉えていた右ストレートの軌道が変わり、ルシフの顔面のすぐ左横を抜ける。

 風がきた。ルシフの髪が激しくなびく。ルシフの後方にあった木が根っこごと吹っ飛んだ。アルシェイラの右拳が大気を殴り、空気の塊を飛ばした影響である。

 ルシフが一番注意しているのが、アルシェイラの攻撃をまともに受け止めることだ。

 アルシェイラの剄量は、ルシフより遥かに多い。

 いつものように金剛剄を使用しても、ダメージを完全に殺せないだろう。確実にダメージが残る。

 攻撃は受け止めずに避けるか捌く。そのためには、身体を地面から離れさせてはならない。常に身体の一部分は地に付け、身体のコントロールを失わないようにする。

 跳んだら最後、上手く身動きが出来ないところをアルシェイラに狙われ潰されるだろう。

 ルシフの性格上、攻撃を真っ向から受け止めないのは相手から逃げているようで気に食わないが、相手の方が強者なのは間違いないため、そこは仕方ないと妥協した。

 どれだけ立派な闘いをしたところで、勝たなければ何の意味もない。勝つためなら、ルシフは自分の好まない闘い方も許容できる。

 アルシェイラは右腕を突き出したまま、目にも止まらぬ左膝蹴りを放つ。その時には既に、ルシフは旋剄で右に真っ直ぐ移動していた。

 アルシェイラの左膝が、ルシフの横腹を掠める。ルシフの着ていた制服の横腹の部分が、刃物で切られたように裂けた。

 受け流してすぐに旋剄を使って、ぎりぎりかわせる攻撃速度。驚愕に値する。アルシェイラの動きを先読みして行動しなければ、一瞬で負ける。

 ルシフの旋剄に、アルシェイラは楽々追い付いた。その顔には笑み。

 咄嗟にルシフは地面を蹴り上げ、土の壁を作った。アルシェイラとルシフの間に、土が舞う。

 アルシェイラが鬱陶しそうに目を細めて、ルシフの顔面を狙った左フックを打つ。間にあった土の壁は瞬く間に霧散し、消えた。ルシフは左フックがくる前に、屈む動きをしていた。

 そもそも、土の壁は上への攻撃を誘うためにした。視界を遮られないようにしたいだろうと、相手の心情を読んだうえでの判断だった。

 すぐ頭上を暴風とともに通りすぎた左フックに恐怖し、ルシフの顔に冷や汗が浮かんだ。

 その恐怖を抑え込み、ルシフは右手でアルシェイラの腹部に触れた。

 触れた瞬間に剄を右手に集中し、その剄を電気に変化させ、アルシェイラにぶつける。

 化錬剄の変化、紫電掌。

 アルシェイラの全身が紫電に包まれ、アルシェイラの身体を這うように紫電が駆けた。

 電撃を浴びせたら、すかさず旋剄でアルシェイラから離れる。

 

「──今の何? 電気マッサージ?」

 

 アルシェイラは何事もないようだ。それどころか笑みを深くしている。

 電撃、効果なし。

 ルシフの頭に一つ情報が入れられた。

 普通の武芸者なら黒焦げになっている威力の電撃だったのだが、アルシェイラに対してはそれも攻撃に値しないらしい。

 アルシェイラの両手に剄が集まり、両腕を物を投げるように動かして、衝剄の塊を次々に放つ。

 それらは真っ直ぐ飛んでいくわけではない。不規則に宙を動きながら、ルシフの方へ青白く輝く数多の閃光が襲いかかった。

 ルシフは閃光をかわしながら、半円を描くように移動する。標的を外した幾筋もの閃光は、見当違いな場所に当たった。衝撃波が次々に起こり、野戦グラウンドを荒れ狂っている。

 ルシフはアルシェイラの右横の位置で方向転換し、そこから瞬く間にアルシェイラに近づく。

 だが、アルシェイラの動きの方が速い。横をとったと思ったら、既にアルシェイラはルシフの方に身体を向けていた。

 

「ちょこまかと!」

 

 アルシェイラが左腕で殴りかかる。ルシフはそれを右手の裏拳で、アルシェイラの左腕の横にぶつけて軌道を逸らした。

 もしアルシェイラがフェイントを交えて攻撃すれば、ルシフはアルシェイラの攻撃を受け流すなどできないだろう。フェイントがないと決めつけて、ルシフはアルシェイラの攻撃に対応している。

 ルシフには、アルシェイラがフェイントしないと分かっていた。自分がアルシェイラの立場なら、フェイントを使わないからだ。

 フェイントは格下相手に使うものではない。強者だからこそ、力だけで敵を潰す。

 誰よりも強いアルシェイラだからこそ、強者の余裕というものがある。そこに付け入る隙があった。

 受け流した刹那、ルシフは右手を(かえ)してアルシェイラの左腕を掴む。

 右手に剄を集中し、化錬剄で剄を氷に変化させた。

 アルシェイラの全身が瞬く間に氷で覆われる。しかし一瞬で、アルシェイラを覆った氷は砕けた。

 アルシェイラはルシフに左腕を掴まれた状態のまま、右腕でルシフを殴る。ルシフはアルシェイラの左腕を離し、アルシェイラの右腕を左拳で打ち落とす。ルシフは完全にアルシェイラの攻撃のタイミングを掴んでいるうえに、アルシェイラの速さに慣れてきていた。だからこそ出来た芸当だった。

 ルシフはすぐさま旋剄でアルシェイラから距離をとる。

 氷撃、効果なし。

 再びルシフの頭に情報が入れられた。

 ルシフはアルシェイラに効果的な攻撃がないか探っている。

 アルシェイラが跳んで、頭上から左拳を振り下ろす。それを素早く一歩後ろに下がってやり過ごした。アルシェイラの左拳が地面にめり込み、土が周囲に散らばる。更にアルシェイラは避けたルシフに近付き、右足下段蹴り。ルシフは前に出て、アルシェイラの右太股の部分に当たるようにした。アルシェイラの蹴りの威力を最大限殺した筈なのに、ルシフの左横腹に重い衝撃がきた。歯を食い縛り、踏ん張る。

 

「さっきから獣みたいに地面を這いつくばって、いいかげん鬱陶しいのよ!」

 

 アルシェイラの言葉を無視し、ルシフは左手をアルシェイラの右太股にもっていく。そして、左手の剄を火炎に変化。左手を中心に、火炎がアルシェイラの右太股にまとわりつく。

 

「ッつぅ!」

 

 ここでアルシェイラに、今までと違う動きがあった。

 アルシェイラが勢いよく右足を引いたのだ。まるで無条件反射したように。

 

 ──炎撃、効果あり!

 

 アルシェイラでも、熱までは何も感じないというわけにはいかないらしい。

 電気は流れる性質があるため、熱が拡散してしまったが、火なら熱を集中させる。それが、アルシェイラの纏う剄の壁の上からでも熱を感じさせたのだろう。

 ルシフは両手に火を纏う。

 もともと長期戦にするつもりはなかった。地力が違い過ぎる。長期戦になればなるほど、その差がルシフにのしかかり、不利になる。

 アルシェイラに効果的な攻撃が見つかった時点で探る闘い方を止め、攻勢に転ずる。

 

「──反撃開始だ」

 

 ルシフが両の手の平をアルシェイラに向ける。手の平の炎が勢いを増し、アルシェイラを炎の檻に閉じ込める。アルシェイラは周りで燃え盛っている炎には目もくれず、ルシフがいたところに接近し左足での廻し蹴りを放つ。その時に生じた風圧が、周囲の炎をも掻き消した。だが、廻し蹴りの先に肝心のルシフはいない。

 いや、ルシフはアルシェイラの近くにいた。それも一人ではない。何百はいるんじゃないかと思うほど、アルシェイラの周囲も、頭上も、僅かな隙間もなくルシフの姿で埋め尽くされている。

 

「──千人衝!」

 

 観客席のレイフォンが叫んだ。

 活剄衝剄混合変化、ルッケンス秘奥、千人衝。

 天剣授受者であるサヴァリス・ルッケンスが使用する技である。

 ルシフはルッケンスの秘伝書を読んだことも、実際に千人衝を見たこともない。独力で習得した。

 それら全てのルシフの手の平がアルシェイラに向けられ、その手の平に炎が集中していく。

 全てのルシフが同時に火炎攻撃するのを悟ったアルシェイラは、全身から膨大な剄を放出させる。

 その時に生まれた衝撃波が、アルシェイラを囲んでいたルシフの全ての分身を消し飛ばした。しかし、ルシフの本体はいない。気配もアルシェイラは感じられなかった。

 不意に頭上から、膨大な剄の波動を感じた。アルシェイラは頭上を仰ぎ見る。何も見えない。内力系活剄で視力を強化。エアフィルターすれすれの位置に、ルシフがいた。

 ルシフは千人衝でアルシェイラの周りを気配で埋め尽くし、自分の気配を分からなくしてからエアフィルター近くまで跳躍していた。そこから下を見る。アルシェイラは黒い点にしか見えない。

 その点を切る。

 切る自信があった。

 真っ二つに切る。

 そういう覚悟をして、剄を放出した。

 地面から身体を離す時は、勝負に出る時だと決めていた。ずっと地面を這いずり回っていたから、アルシェイラは上から攻撃してくるなど夢にも思わなかった筈だ。

 アルシェイラは頭上に右手を(かざ)し、不可視の剣を受け止めた。老生体すら容易く斬るであろう刃を、アルシェイラは軽々と受け止めたのだ。

 アルシェイラに止められた時点で、ルシフは剄の放出を止め、不可視の剣は消えた。

 アルシェイラがルシフ目掛けて一直線に跳んだ。凄まじい速さでルシフに向かっていく。

 空中では上手く身体を動かせない。

 ルシフは眼前まで迫ったアルシェイラから目を逸らさず、右手を後方の虚空に伸ばし、何かを掴むような動きをした。

 アルシェイラが右腕を引いた。超高速の右ストレートがくる。

 瞬間、ルシフの身体が何かに引っ張られたように右斜め下の方向に動き、アルシェイラの右ストレートをかわした。そして、アルシェイラの横腹に左膝蹴りを入れる。

 ルシフの右手には剄で創った糸が握られていた。跳ぶ前にその糸を野戦グラウンドの壁に張り付けておいたのだ。ルシフの右手がその糸を握るまで、その糸は目視できない細さであり、握った瞬間に糸に剄を流して、自分の体重と力に耐えれる糸にした。

 きっとアルシェイラは思っただろう。

 頭上からの不可視の剣が切り札だと。後は殴りにいって終わりだと。

 ──この瞬間。この瞬間を闘い始めた時から待ち望んでいた。

 横腹に蹴りを入れて、アルシェイラの動きを完全に制御化に置いた。

 全身に剄を巡らせ、その剄全てを鋭い刃物に変化させる。

 今まで人に向けてこの技を使ったことはないし、使おうと思ったこともない。

 今まで人を殺したことはないし、人を殺そうと思って闘ったこともない。

 だが、この相手は違う。殺す気でやらなければならない相手だ。自分の方が弱者なのだ。殺さないで倒すなどという甘い考えは、自分を殺す。

 ルシフはアルシェイラの背に手刀を入れる。

 アルシェイラの身体が半回転した。アルシェイラの顔が見える。その表情は楽し気な笑み。その顔を張り飛ばす。

 ルシフは自分を奮い立たせるように、腹の底から雄叫びをあげた。

 その声はツェルニ全体を震わせ、そこに住む人々を強張らせた。

 目にも止まらぬ速さで、アルシェイラの全身に次々に攻撃を加えていく。雄生体ならば細切れになっている攻撃だが、アルシェイラの肌に傷一つ付けられない。

 

 ──ここで殺す。

 

 しかし、ルシフは攻撃を止めない。傷を与えられなくても、猛攻を途切れさせない。

 

 ──ここで殺しきる!

 

 アルシェイラの腹部に、左足での踵落としを垂直に叩き込む。

 アルシェイラは真下に勢いよく落下していった。

 ルシフは真下に落下していくアルシェイラに向けて、左手を翳した。

 ルシフは目を閉じ、頭の中に思い描く。

 全身を巡る剄が、左手に集中していくイメージを。

 剄脈から生まれ続ける剄が、左手に供給されるイメージを。

 自分が扱える全ての剄が、左手に収束するイメージを。

 ルシフは力強く目を開き、野戦グラウンドに片膝をついて着地したアルシェイラを見据える。

 ルシフの左手から、赤く輝く熱線が放たれた。

 アルシェイラの身体が、赤い閃光の中に呑み込まれる。

 野戦グラウンド全体が赤い光に包まれ、一瞬後に野戦グラウンド全てが爆発した。野戦グラウンドの観客席は熱風が激しく吹き荒れ、レイフォンたちは顔の前に手を翳して熱風に耐える。

 

「あいつ、ビーム撃ちやがった!」

 

 シャーニッドが驚愕の表情をしている。

 

「あの人はどうなった? あれをまともに受けたのでは……」

 

 ニーナは未だ爆煙で包まれている野戦グラウンドを注意深く見た。

 レイフォンは無言でルシフを見ている。

 熱線の爆発の広がり方を見て、ルシフは舌打ちした。

 極限まで収束させた熱線を何もせずに食らったのなら、アルシェイラのいた場所一点だけを貫くように赤い光はなった筈だ。

 野戦グラウンド全体に赤い光が広がる。つまり、アルシェイラは何かしらの抵抗をした。

 ルシフはそれを悟った。

 再び内力系活剄で身体強化をし、同時に剄の糸を野戦グラウンドに張り付け直して、その糸を手繰って素早く野戦グラウンドに下りる。

 アルシェイラの立っているところだけ、地面が盛り上がっている。それ以外の場所は全て深く爆発で抉られていた。

 アルシェイラは右手を頭上に突きだしている。あの熱線すらもその右手で受け止め、周囲に弾いたらしい。

 アルシェイラは頭上に右手を突き出したまま、ゆっくりと右手を握りしめる。

 野戦グラウンドに下りてきたルシフをアルシェイラは見る。その顔に、笑みはなかった。刃のように鋭い光を宿した瞳が、ルシフを映している。

 四段構えの攻撃だった。

 一段目は千人衝を使用した全方向からの集中攻撃。

 二段目は超遠距離からの不可視の剣での斬撃。

 三段目はわざと隙を作ってそこを攻めさせ、逆にカウンターで刃と化した手足での猛攻撃。

 四段目は全力の熱線を使用した追撃。

 これら全ては繋がっていて、どれか一つでもまともに食らえば、ほとんどの武芸者や汚染獣は死に至る攻撃だった。

 だが、アルシェイラは服すら破れてなく、無傷。

 ルシフはこの攻撃に全てを賭けていた。

 アルシェイラは一瞬でルシフに肉薄し、右のボディーブローを打つ。

 ルシフはその攻撃が見えていた。しかし、受け流せない。

 アルシェイラのボディーブローはルシフの腹部に深々と突き刺さった。

 ルシフはすっからかんになるまで剄を使った。

 剄脈から常に剄が生まれ続けていても、普段と同じ剄量に戻るまではそれなりの時間がかかる。

 活剄による肉体強化も、アルシェイラと闘い始めた時の肉体強化には程遠い。

 だからこそ、あの攻撃で決められなかったという事実は、自分の負けを意味していた。

 ルシフは口から血を吐き出し、拳が突き刺さった腹部から、バキバキと何かが折れる音がした。

 ルシフは金剛剄を使用していたが、それでも気休め程度の効果しかないようだ。

 ルシフの身体はふわりと宙を浮いた。

 剄の糸を地面に伸ばそうとしたが、アルシェイラがその糸を手で切った。

 アルシェイラの目が届かないところで密かに糸を出すならともかく、さすがに見てる前では通じないらしい。

 そんなことを考えながら、ルシフはアルシェイラが左腕を引いているのが見えた。

 顔面にくる、と直感したルシフは、右腕を顔面の前にもってきた。

 その右腕に、アルシェイラの左ストレートが当たる。右腕があり得ない方向に曲がり、ルシフの身体は後方に吹っ飛んだ。

 更に、アルシェイラは吹っ飛んだルシフに追撃を仕掛ける。

 アルシェイラが数度ルシフに拳打を浴びせ、ルシフは口から血を吐きながら、地面にうつ伏せで倒れた。

 倒れたルシフの首を左手で掴んで、アルシェイラはルシフを軽々と自分の頭より高く持ち上げる。アルシェイラの右手は未だに握りしめられていた。

 

「一つ聞いていい? あんたを今ここで殺すべきだと思う?」

 

 ルシフは一度咳き込み血を吐き出してから、アルシェイラを見る。

 

「──殺しておけ。俺を生かしておけば、いずれ後悔するぞ」

 

「……そんな強がり言って。命乞いするなら、もう許してあげてもいいわよ」

 

 数秒の静寂。やがて、ルシフは血の付いた顔で口の端を吊り上げた。

 

「……だれが命乞いなどするか。ばーか」

 

 その言葉を聞き、アルシェイラは凄絶な笑みを浮かべた。

 アルシェイラはルシフを軽く宙に放る。

 宙を舞うルシフ目掛けて、アルシェイラは左腕を頭上から振り下ろした。

 左腕から放たれた剄の塊が、ルシフの身体に勢いよくのしかかる。その瞬間、ルシフは左手の人差し指と中指で左足の太股を突き刺した。

 ルシフの身体は見えない何かで地面に叩きつけられ、全身から骨が軋む音がした。

 ルシフは気が遠くなりそうなのを、左足の太股に突き刺さっている指を動かして、痛みで無理矢理意識を保つ。

 

 ──気を失ってたまるか。

 

 ルシフはたとえ殺されるとしても、気を失った後に殺されるのは嫌だった。その殺され方は、最後の最後まで死にもの狂いで闘っていないように感じるからだ。

 死ぬ最期の瞬間まで、意識を保っていたい。

 この考えは、ルシフの意地に近いものだろう。

 ルシフの今の状態は酷いものだった。

 ルシフの口からは血がこぼれ、右腕と右足が完全に折れ、肋骨も何本も折れている。内臓もいくつか損傷。左足の太股は抉れ、そこから溢れる血がルシフが倒れている場所に血だまりを作っていた。

 アルシェイラはルシフに背を向けると、野戦グラウンドの出口へと歩き出した。

 もう勝負はついた、ということだろう。

 

「……待てよ」

 

 アルシェイラの後方から、ルシフが声をぶつける。

 ルシフはふらふらしながらも、立ち上がっていた。

 アルシェイラは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

 

「何か言った?」

 

「俺はまだ……動ける。逃げるのか?」

 

 この状況を見かねたレイフォンたちが、野戦グラウンドに下り、ルシフとアルシェイラの間に入った。

 

「もういいだろう、ルシフ!

あなたも、これ以上やる必要はないでしょう!?」

 

 ニーナが青い顔をして叫んだ。

 アルシェイラは左手で軽く頭を掻く。

 

「勝負の終わりを決めるのは、第三者じゃなくて当人たちなのよねえ」

 

 アルシェイラの姿が消えた。

 間にいるニーナやレイフォンたちを掻い潜って、アルシェイラはルシフを殴り飛ばす。

 遥か後方の野戦グラウンドの壁に、ルシフの身体はぶつかり、ルシフはそのまま地面に倒れ込んだ。

 

「──なッ!?」

 

 殴ったアルシェイラを、信じられないといった表情でニーナが凝視した。

 もう勝負はついていた。あんなルシフの挑発に乗らずに、無視して外に出ればよかった。

 誰が見ても、この勝負は女王の勝ちだ。

 アルシェイラはそんな視線を気にもせずに、再び外の方に歩き出した。

 

「わたしに逆らうとああなるってこと、よく覚えておきなさい」

 

 レイフォンとすれ違う瞬間、アルシェイラが小声で言った。

 レイフォンの表情が固まる。

 そして、アルシェイラは野戦グラウンドの外へと出ていった。

 

 

 アルシェイラは野戦グラウンドから出ると、握りしめ続けていた右手をゆっくりと広げる。

 右手の平一面に、火傷していた。

 ルシフの熱線を受け止めた時に負った火傷だ。

 アルシェイラは初めて、闘いで傷を付けられた。

 油断していたからかもしれない。しかし、そんなのは関係ない。

 油断していても、今まで傷を負わされた経験はない。

 リンテンスに喧嘩を吹っ掛けた時も。

 天剣授受者三人と闘った時も。

 ルシフ・ディ・アシェナ。

 ますます天剣に欲しくなった。

 きっと退屈しない毎日を過ごせるようになるだろう。

 それに、今の天剣授受者全員に足りない勝利への執着心や頭を使った闘い方は、きっと天剣授受者たちに良い影響を与える筈だ。

 いずれグレンダンに天剣を奪いにくるとルシフは言っていたから、その時にまたボコボコにして、屈服させればいい。どれだけ成長したところで、わたしに勝てる筈がないのだ。

 アルシェイラは再び右手を見る。

 

「これ治すの、一日くらいかかるわね」

 

 そんなことを呟きながら、アルシェイラは待たせている放浪バスのところに向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「ルシフ!」

 

 ニーナやレイフォンがルシフに駆け寄る。

 そして、ルシフの傷の酷さに顔をしかめた。

 

「とにかく、病院に連れていかないと!」

 

 ニーナはルシフの左腕を持ち、肩に腕を回そうとする。

 

「触るなッ!」

 

 ルシフは怒鳴り声をあげ、ニーナを振り払った。

 ニーナは一瞬息を呑んだが、すぐに怒りに染まった顔になる。

 

「何バカなことを言っている! おまえは重傷なんだぞ! その傷で病院に行けるわけないだろう!」

 

「俺は──『王』だ」

 

 口の端に血の筋を残し、ルシフは左手を地面につく。

 

「『王』は誰の手も借りずに、一人で立てなければならない」

 

 誰かの支えがなければ立てない王など、王と認めない。

 王は誰よりも先を歩き、導く存在でなければならない。

 ルシフはゆっくりと立ち上がる。

 右腕を掴んで、正しい方向に無理やり戻した。

 

「……ッ!」

 

 ルシフの顔が激痛で歪む。

 

「……人は他人の助けが必要な生き物だぞ」

 

「俺は他人が力を貸したいと思う『王』で在りたいだけだ。力を貸さなければと思われる『王』は、『王』じゃない」

 

「どっちも──」

 

 同じだろう。

 そう言おうとしたが、ニーナはルシフの燃えるような瞳を見て言葉を止めた。

 微妙な違いだが、ルシフにとっては重要なんだろう。

 ルシフは右足を引き摺るように、ゆっくりと歯を食い縛りながら歩き、野戦グラウンドから出ていく。

 ルシフが歩いたところは、血の道ができていた。

 

 ──アルシェイラ・アルモニス! この俺をわざと殺さなかったこと、必ず後悔させてやる!

 

 ルシフは屈辱で顔を歪めながら、心にそう誓った。



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第9話 魔王が目覚めた日

 部屋で錬金鋼(ダイト)を復元していたマイは、静かに部屋の扉を開ける。下の階から女生徒たちの悲鳴が聞こえた。

 扉を開けてから数分後、苦し気な表情でルシフがマイの部屋に入ってきた。

 ルシフの右腕と右足は固定された状態で包帯を巻かれている。服は片手では着替えられなかったらしく、制服のままだ。制服には大量の血が付いていた。それを見て、下にいた女生徒たちは悲鳴をあげたのだろう。

 マイは念威でルシフの戦闘を最初から見ていた。ルシフが必死で黒髪の女性に食らいついていたところも。黒髪の女性にボコボコにされていたところも。全部、見ていた。

 ルシフの左足の血は止まっていた。それだけではない。全ての傷の血が止まっている。剄で自然治癒力を高めつつ、止血も同時に行っているのだろう。

 ルシフは息を荒くしながら、倒れ込むように椅子にもたれた。

 

「ルシフ様、大丈夫ですか!?」

 

 マイは慌ててルシフの傍に駆け寄った。

 ルシフは緩慢とした動作で、マイの右頬を左手で撫でるように触れる。

 マイは一瞬びくりと身体を強張られたが、すぐに自身の右手をルシフの左手に添えた。そのままルシフはマイの顔を近付け、マイの顔を、正確には瞳を覗きこむ。

 綺麗な、透き通った青い瞳。強い意志の光を宿した瞳。

 その瞳を見ながら、ルシフはまどろみに堕ちていく。

 そのまどろみの中で、ルシフは夢を見た。

 

 ──遠い日の記憶。

 ルシフ・ディ・アシェナが『王』になった日のことを──。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ──十年前 法輪都市イアハイム アシェナ邸──

 

 

 ──ルシフ、お前は常に王者であれ!

 

 それが父──アゼル・ディ・アシェナがいつも口にする言葉だった。

 ぼくは広い空間以外何もない道場にいて、目の前には父上が腕を組んで見下ろしている。

 父上は筋肉隆々で背が高い。短く切られた赤髪をオールバックにしている。

 父上がぼくの両肩を掴み、腰を下ろしてぼくの目と同じ高さまで目線を下げた。

 父上の瞳は燃えるような赤。苛烈といってもいい激しさが、瞳の中にある。

 じっとその瞳を見ていると、少しだけ激しさが和らいだ気がした。

 

「よいか、ルシフよ。

我がアシェナ家は王家ではない。今の王家はマテルナ家だ。

しかし、アシェナ家は次の王家となる資格を有している。アシェナ家だけではない。他にも六つ、次の王家となる資格を持つ武門がある。

現王が死ねば、民政院の政治家たちが七つの武門から王を選ぶ。

その政治家たちは民が選出し、いわばイアハイムに住む都市民全員の意思を、政治家たちは体現している。

つまり、次王に成りたければ、現王が死んでから王の資質をアピールしても遅い。

現王が健在な今だからこそ、お前は常に王者の立ち振舞いをするべきなのだ。

たとえ無冠でも、我らには王家としての誇りがある。

現王は健在だが王家はアシェナ家が相応しいと、全ての民に知らしめるのだ」

 

 いつもこうだ。

 いつも、王者であれと言った後にこうして諭すように同じことを話す。もう何十回、下手したら何百回と聞いた台詞だ。

 ぼくは少し呆れてため息をついた。

 

「いい加減諦めて下さい父上。いつも言っていますが、ぼくは王などに成りたくありませんし、興味もありません」

 

 父上の瞳が悲しそうに細められた。

 しかし、別に何も感じない。

 父上とぼくは違う。

 両肩に乗っている父上の両手を振り払い、ぼくは道場から出ていこうと歩きだす。

 

「おお、神よ!

あなたは我が息子に素晴らしい頭脳と武芸者の素質を与えてくださった!

だがしかし! あなたは我が息子に唯一、王の気概だけは与えてくださらなかった!

ああ! なんと残酷なことをあなたはなさるのか!」

 

 ぼくの後ろで、父上が嘆いている。

 これもいつものことだ。

 最初はなんか気分が悪くて父上のところまで引き返していたが、今となっては日常の一部になっているため、気分が悪いなんて微塵も感じない。

 道場から出て、自分の部屋に向かう。

 ぼくは三歳まで原因不明の頭痛と高熱に苦しんでいた。

 実際は別人格との肉体の奪い合いが原因だったわけだが、それに気付く医者などいない。

 母上は子供が出来にくい身体だったらしく、子供はぼく一人だけというのもあって、父上はぼくが回復するまで、それはもうありとあらゆる治療方法を試した。その中には神頼みなんてものもあったらしい。

 この家で働いている使用人が笑いながらそう教えてくれた。

 父上が王だなんだと言い始めたのは、頭痛や高熱が治ってからだった。

 三歳から毎日のように学者を呼んだり、武芸を教えたり、礼儀作法を叩き込んだり……。

 特に言葉使いに関しては厳しく指導された。幼いころから言葉使いがしっかりしていると周りから一目置かれるという理由からだった。少しでも汚い言葉使いをすれば、鉄拳制裁をされた。

 別に父上の方がぼくより強いわけではない。本気で闘えば、おそらくぼくが勝つだろう。

 だが、鉄拳制裁する時の父上の怒気に呑まれてしまい、一瞬身体が強張ってしまう。そこをガツンといつもやられ、鉄拳制裁を防げた試しがなかった。やはり親というのは子にとって特別な存在であると、遺伝子レベルで刻み込まれているらしい。

 そのせいで、いつの間にか丁寧な言葉使いで話すのが定着してしまっている。慣れというのは怖いものだ。

 父上は剄量は大したことなかったが、その分剄の扱いが超人的に優れていた。その扱いだけで自分より剄量が上の武芸者を倒してしまうこともあった。

 武門と呼ばれる程の家に生まれながら、剄量が少ないというのは、父上にとってかなりコンプレックスだっただろう。そこを死にもの狂いの努力で、武門の武芸者として相応しい実力を手に入れたのだ。

 そんな父上を、ぼくは内心で嘲笑った。

 どれだけ努力しようが、才能がある者には敵わない。

 父上が勝てる相手は凡人しかいない。

 しかし、父上の剄の扱いは学べる部分が多々ある。その点だけは、ありがたいと思っている。

 それ以外に、父上から得るものは何一つとしてなかった。

 父上が口を開けば二言目には、王とは何か、王とはどうあるべきかと言いだす。

 正直、ぼくはうんざりしている。

 王などという存在に惹かれたことなど、一度としてない。

 バカどもを従えてふんぞり返っている道化。バカどもにとって都合の良い存在が選ばれているのに気付かず、光に集る蛾のように、王という言葉の魔力に引き寄せられた愚か者。

 他人の暮らしを良くするため、都市全体の管理をするために、自分を捧げる。

 

 ──バカバカしい。

 

 頭が良い人間なら、王なんてくだらないものになりたがらない。

 そんなものになるより、何も背負わず自分の好きなように生きた方が楽しいし、有意義に決まっている。

 ぼくは、この世界に関する全ての知識を持っているし、未来も知っている。

 だがくだらない情報だった。何故なら原作において、法輪都市イアハイムはどうでもいい都市だからである。

 ぼくがこの都市で好き勝手生きている間に、勝手に物語は進み、勝手に誰かが問題を解決してくれる。

 原作知識などあったところで、何か変わるわけでもない。

 別人格の記憶も、気分が悪くなるだけで何も得るものがない記憶だった。

 だから、今となってはどっちの情報も忘れかけていた。

 ぼくは自分の部屋で道着を脱ぎ、普通の服に着替えた。

 白Tシャツに少し大きめの白い上着、黒い長ズボン。

 そういう格好で家の外に出た。

 日の光が眩しい。今日は汚染物質の少ないところを都市が移動しているようだ。

 都市を探検するのが好きだ。

 行ってない場所を歩いたり色々見ていると、自分自身の世界が広がる感じがして楽しい。

 ぼくは街中を歩いていると、使用人が言っていた言葉を思い出した。

 ──裏路地は危ないから、その場所だけは行っちゃダメですよ。

 確かにそう言っていた。

 しかし、ぼくが恐れるようなヤツは出てこないだろう。

 それに行ってはダメだと言われると、余計に行ってみたくなった。

 ぼくは裏路地の方に向きを変えて、歩きを再開する。

 たくさんの人で賑わっている通りから、だんだん人が少なくなっていく。

 そして明るい通りから、全く光の当たっていない裏路地へと足を進めようとして、ぼくはその足を止めた。

 最初は死体かと思った。

 暗闇の中で、ぼくと同い年くらいの女の子が倒れている。

 その女の子は服を着ていない。汚れて黒くなっている布切れで、身体の胸の位置から膝くらいまでを包んでいるだけだった。靴すら履いていない。

 その女の子は人の気配が近くにあるのに気付いたのか、左手で布切れを押さえ、右手で地面に手をついて起き上がろうとしている。

 身体中アザだらけで、全身を塗っているように泥がこべりついていた。

 顔も左半分が赤く腫れ上がっていて、それが整っている女の子の顔を歪に変形させていた。左目も腫れでしっかり開けられないようだ。

 ボサボサで泥にまみれた長い青髪を、女の子は頭を軽く振って顔の前からどかした。

 髪と髪の隙間から女の子の両目があらわれる。青く輝く瞳。そんな状況でも強い光を放つ瞳。

 

 ──美しい。

 

 おそらく百人がその女の子の姿を見たら、百人とも醜いだの汚いだの可哀想だの、そんなマイナスな意味の言葉しか出てこないだろう。

 しかし、ぼくは違った。

 醜く腫れ上がった顔。全身を覆うアザと泥。

 誰もが絶望し、生きる意味も分からなくなるような闇に呑まれてしまう状況。

 それでもなお光を失わず、それどころか一層光を強くし輝いている瞳。未来を見据え、必死に今の状況と闘っているのが痛いくらいに伝わってくる。

 その光が、その姿そのものが尊く、美しいと感じた。

 圧倒されている。このぼくが、他人全てを自分に劣る存在だと思っているぼくが、目の前の『他人』に畏怖に近い感情を抱いている。

 頭の中で、自分が壊れた音がした。

 忘れかけていた原作知識。別人格の記憶。今まで自分自身が得ていた知識や情報。それらが全て壊され、無に帰っていく。

 そして、無に帰ったそれらが再び頭の中に構成されていく。混ざり合い、全く違う何かへと創造されていく。

 

「──どうして?」

 

 目の前の女の子が無表情で呟いた。

 

「どうして、ないてるの?」

 

「──え?」

 

 自分の頬に触れる。そこを涙が伝っていた。

 両手を強く握りしめる。

 美しいと思う。それと同時に感じていたのは怒り。

 どれだけ闘う意思があっても、世界という敵には敵わない。

 この女の子は今、生きている。しかし、一週間後には生きているか? 三日後には? 下手したら明日にも死ぬ命かもしれない。

 使用人は言っていた。裏路地は危ないと。つまり、裏路地はこういう場所だと誰もが知っているのだ。知っていて、誰もが見て見ぬ振りをしている。王すらも見て見ぬ振りを貫いている。

 この場所だけではない。今こうしている瞬間にも、この女の子のような必死に生きようとする存在が、世界という敵に為す術もなく呑み込まれているのだろう。

 汚染獣。セルニウム鉱山を巡っての戦争。武芸者と一般人の確執。生まれた場所や親。

 生まれる都市は、生まれる場所は選べない。

 生まれた場所が悪ければ、どれだけ才能があろうと、どれだけ強い意思を持っていようと、そんなもの関係なく死ぬ。その辺にいる犬や猫のように。

 原作知識が、別人格の記憶が、どうでもいいと思っていた情報が、自分の頭の中を激しく荒れ狂っている。 

 汚染獣。武芸大会という名の戦争。それにともなう孤児の増加。治安維持が出来ずほったらかしにされている場所。

 それらはこの世界では当たり前というありきたりな言葉で片付けられている。

 だが、これらは本当に当たり前か?

 結局のところ、それぞれの都市にそれぞれ支配者がいて、自分の都市しか考えず好き勝手やっているから、都市に格差が生まれる。

 汚染獣などものともしない都市もあれば、汚染獣数匹で滅ぶ都市もある。

 武芸大会も、全ての都市を一人が治めていれば起きない。それぞれの都市のセルニウム鉱山の所有数を把握していれば、武芸大会が起きても多くセルニウム鉱山を所有している都市がわざと負けたりして、犠牲者ゼロで武芸大会を終わらせれる筈だ。

 武芸大会は、相手都市の象徴といえる旗を取れば終わりなのだから。

 ならば、都市全てを支配出来るだけの器量を持つ者は、原作知識の中にいたか?

 アルシェイラ・アルモニス──グレンダンの女王だが、王としての責務を果たさず他人にそれを押しつけ、自分は好き放題に生きる。

 はっきり言って、王の素質は微塵もない。ただ最強の存在であるだけの愚か者。

 それ以外の面々も、都市全てどころか都市一つ完全に支配出来ないような奴ばかりだ。

 どの人間も自分主体に動き過ぎていて、都市全体を見る広い視野を持っていない。

 いや、カリアン・ロスだけは王に値する器量を備えているかもしれないが、カリアン・ロスでは都市一つ支配するので精一杯だろう。

 全ての都市までは、カリアン・ロスでも無理。

 原作のどの人物にも、全ての都市を支配出来ない。

 ──ならば、自分が成るしかないではないか。全ての都市を統べる『王』に。

 全ての都市を管理し、今まで仕方ないと、この世界では当たり前だという言葉で可能性に蓋をし、理不尽な世界を受け入れてきた能なしどもに、それは間違っているのだと声を大にして叫ぶ存在に。

 目の前の少女に手を伸ばす。

 

「一緒に行こう」

 

 何故、自分からこんな言葉が出たのか分からない。

 でもここで見捨てたら、この都市の王と同じになる気がした。

 しかし、少女は伸ばされた手を怖がるように、身体を強張らせた。

 そこで気付いた。明らかにこの子は誰かに暴力を振るわれている。

 他人が怖いのかもしれない。他人の言葉を信じられないのかもしれない。

 伸ばした手を引っ込める。無理に連れていっても仕方ない。

 少女はほっとしたように息をついた。

 ぼくは自分の上着を脱ぎ、少女の方に軽く放る。せめて綺麗な服くらいは渡そうと思ったからだ。

 上着は少女の頭に被さった。

 

「それ、あげるよ」

 

 ぼくは一言そう言い、少女に背を向けて裏路地を出ようと歩く。いや、歩こうとした。

 だが、ぼくの左腕を少女が掴んでいて、歩けなかった。

 

「……いっしょに、つれてってください」

 

 そう言った少女の長髪が、淡い燐光を放つ。

 念威の光だ。それも並の念威量ではない。原作知識から、そう判断した。

 優秀な念威操者は、王になるうえで必ず必要な存在。

 ぼくは振り返り、少女の前に片膝をつく。

 少女の顔は相変わらず無表情だが、不安そうに見えた。

 その不安をどうにかして無くそうと考えて、ぼくはゆっくりと左手を伸ばし、少女の右頬を優しく撫でた。

 少女はびっくりしたように目を見開いたが、嫌がる素振りは見せなかった。

 

「キミは念威操者だったんだね」

 

 少女は小さく頷いた。少し身体が震えているのが、左手に伝わってくる。

 

「ならキミは、ぼくの──」

 

 その先の言葉を呑み込む。

 自分は今この瞬間から『王』になると決めたのだ。

 なら、自分は変わったという証、自分は変わるという決意を示すべきではないか。

 

「いや、『俺』の目にならないか?」

 

 一人称を変える。些細なことだが、俺にとっては大事な変化だ。

 少女は相変わらず無表情だ。しかし、少女の右目から透明な液体が流れている。

 そして、少女は大きく頷いた。

 少女は頭に乗っている上着を取り、俺が前にいるにも関わらず、身体を包んでいる布切れを平然と外した。

 俺は慌てて少女の頬から手を離し、少女に背を向ける。

 そして、そのまましゃがんだ。

 

「俺の背に乗れよ。靴履いてないんだから」

 

 背を向けたまま、そう言った。

 

「……でもわたしきたないし、よごれちゃうよ」

 

「汚れても洗えばいい。

俺が来いと誘ったんだ。つまり、キミは客だ。

客人には優しくしろって、父上にも言われてる」

 

 そのまま、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。

 やがて少女が、俺の背にゆっくりと抱きついた。俺はそのまま少女をおんぶし、日の光が眩しい通りを歩く。

 周りから奇怪なものを見るような視線を感じるが、別に気にならない。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ」

 

「……え?」

 

「俺の名前さ。キミはなんていう名前だ?」

 

「──マイ……マイ・キリー」

 

「マイ……か。これからよろしくな、マイ」

 

 返事はない。だが、抱きついている腕にぎゅっと力が加わった。

 

 それから、数十分後にアシェナ邸に着いた。

 俺はマイをおんぶしたまま、アシェナ邸の中に入る。

 玄関に居た使用人が驚き、取り乱しながら俺に近付いてきた。

 

「若様! 後ろの子は──」

 

「この子の手当てをしてくれ」

 

「は、はい! かしこまりました!」

 

 使用人にマイを渡す。

 使用人はマイを抱っこして、慌てて走り去った。

 

「──騒々しいな」

 

 奥の書斎の扉が開いて、父上と母上がこっちに歩いてくる。

 母上は綺麗な黒髪を腰まで伸ばし、瞳の色も髪と同じ黒。淡いピンク色のドレスを着ていた。

 

「今使用人が走り去る時、見慣れん少女が見えたぞ。

お前が連れてきたのか?」

 

「──はい。

あの……あの子をこの家に住まわせたいのです。

よろしいですよね、父上。

いつも父上は言っているではありませんか、王とは民を守る存在だと」

 

 父上は身体を震わせる。

 そして、盛大に吹き出した。

 

「はははは! こいつめ、言うようになりおって!

もちろん構わん! 空き部屋ならたくさんある!」

 

「それから父上、もう一つお願いがあります」

 

「なんだ?」

 

「──俺を『王』にしてください」

 

 いつもなら、父上に殴られるところだ。俺という一人称を、父上は嫌いだったから。

 だが、父上は殴らなかった。

 俺の両肩を、父上はがしっと両手で掴んだ。

 

「待っておった……その言葉を待っておったぞルシフ!

これでお前に足りないものは何一つない!

史上最高の王に、お前なら成れる!」

 

「アゼルったら……子供みたいにはしゃいじゃって」

 

「これが落ち着いていられるか。

ジュリア、今日は息子が成長した日と娘が出来た日だ。今日の晩飯はとびきりのご馳走を使用人と作ってくれ」

 

「まあ! ふふっ、なら腕によりをかけて美味しい料理を作らないと!

ルシフ、どこか男らしくなったわね。お母さんは嬉しいわ」

 

 母上は画家で、今もコツコツと暇を見つけては絵を書いている。

 でも、基本は家事をしていて、料理も使用人に全て任せない。

 二人のきっかけは父上の一目惚れだったらしく、父上の熱意に母上は心を打たれて結婚したらしい。

 これも、使用人からの情報だった。

 

 

 そしてアシェナ邸に帰ってから二時間後、俺はマイが寝かされている部屋に来ていた。

 マイはベッドに寝かされていて、かけ布団がかけられている。

 マイの顔の左半分は包帯でぐるぐる巻きにされていて、右半分しか見えない。

 そのベッドの近くに椅子を置き、座る。

 手当てされると余計に痛々しく感じた。

 かけ布団の外に投げ出されるように出ている右手を両手で握る。

 

「マイ、キミは俺の目になった。

だから、ずっと俺の傍にいろ。

俺はこの世界を壊す。

俺の傍で、キミをこんな目にあわせた世界が壊れるのと、新しい世界の始まりを見届けてくれ」

 

「……わたしは、ずっとそばにいていいの? めいわくじゃない?」

 

 マイの右目から涙が流れ、握っているマイの右手にすこし力がこもった。

 

「──ああ、迷惑なものか」

 

「……うれしい」

 

 マイはそう言うと、眠りに落ちた。

 きっと安心したんだろう。

 俺は下唇を強く噛んだ。

 ごめんと言いたかった。俺の都合に強引に付き合わせるような真似をしてすまないと謝りたかった。

 だが、王は気安く謝ってはならない。きっとマイに謝れるのは、王でなくなった時だろう。そんな日来るわけないと思うが。

 マイの右手を握りしめ、マイの顔をじっと見つめる。

 全ての都市を俺が管理し、汚染獣の脅威も、武芸大会も、都市内の治安の悪化も全て無くそう。

 無くして、動物のようにただ生きて死ぬのではない、人間らしく生きれる世界を創ろう。

 マイ……キミのような存在のために──。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ──ああ、そうだ。

 

 ルシフはうっすらと両目を開いた。

 マイの青く輝く瞳。

 この瞳から、俺は始まったのだ。

 眼前にある青い瞳を見ながら、ルシフはそう思った。

 

「……いつも何かある度に、こうしてルシフ様は目をじっと見ますね。アゼル様が亡くなられ、ジュリア様から絶縁された時も──」

 

 ──私から全て奪うか、ルシフ!

 

 ルシフの脳裏に、死ぬ間際の父の言葉が再生される。

 

 ──あなたは魔王よ! どうしてアゼルのことをよく知っててそんなことが出来るの!? もうあなたは私の子じゃありません! さようなら!

 

 涙で綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして、自分の前から去っていった母。

 

「──嫌か?」

 

「いえ、ルシフ様の瞳がすごく好きなので、嬉しいです」

 

「そうか」

 

 マイの右頬を、ルシフは左手で優しく撫でた。

 

「マイ──お前は美しい。

お前の存在が、俺という存在を確立させる」

 

 王に成りたいと思った原点。

 王に成りたい理由。

 それら全て、マイを見れば、マイの瞳を見れば思い出せる。

 

「だから俺がいいと言うまで、ずっと俺から見える場所にいてくれ、頼む」

 

 そう言うと、ルシフは完全に意識を手放した。

 ルシフ・ディ・アシェナ。彼がマイ・キリーと出会ったのは偶然だったのか。それとも、必然だったのか。

 いずれにせよ、その出会いが舞台の裏で消えていく存在だったルシフを、表舞台へ(いざな)った。

 こうして、ルシフ・ディ・アシェナの物語は始まった。




今回はちょっと弱気なルシフです。

表面は堂々としているように見えても、実際はアルシェイラにボコボコにされたショックで、ルシフは結構まいってました。


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第10話 見つけた世界

今回は個人的にかなりの胸糞展開だと思います。
苦手な方はご注意ください。


 ルシフが規則正しい寝息を立てている。

 マイはルシフからゆっくりと顔を離すと、肩越しに扉の方を見た。

 

「──そこで何してるんです?」

 

 扉の壁から息を呑む気配がする。

 それから数秒間静寂が続き、観念したように隠れていた人物が姿を現した。

 ニーナ、レイフォン、シャーニッド、フェリの四人だ。

 

「ルシフの様子が気になってな、悪いと思ったが尾行させてもらった」

 

 いつものルシフなら、尾行など許さなかっただろう。

 弱りきって自分のことだけで精一杯だったから、周りに注意がいかなかったのだ。

 

「丁度良かったです。ルシフ様を病院まで運ぶの手伝ってくれませんか?」

 

 ニーナたちが目を見開く。

 

「それをしたら怒るだろ、アイツは」

 

「そうですね」

 

「そうですねっておまえ……」

 

「ルシフ様は自分に対して怒ります。誰かの手を借りてしまった不甲斐なさに、醜態をさらしてしまった自身の弱さに」

 

 マイは無表情で淡々と口にした。

 ニーナたちは意外そうな顔をする。

 

「自分に怒るのか? 運んだ人にではなく」

 

「ルシフ様は他人に八つ当たりするような小さいお方ではないんです」

 

「一つ……聞かせてくれないか?」

 

 レイフォンが口を開いた。

 

「なんです?」

 

「どうしてキミは、ルシフに力を貸すんだ? ルシフは人の命を軽く見る最低なヤツなのに──」

 

 レイフォンは言葉を止めた。止めざるを得なかった。

 マイから殺気に似たものが放たれているからだ。

 

「もしルシフ様を最低だと思うなら、それはルシフ様の表面しか見ていないからです。

ルシフ様の内面に目を向ければ、最低なんて言葉は出てきません。

それから言い忘れましたが、男は私の部屋に入らないでください」

 

 レイフォンとシャーニッドはマイの怒気に一瞬呑まれ、慌てて一歩後ろに下がった。

 部屋に足を踏み入れてはいなかったが、扉のすぐ近くに二人はいたため、部屋から少し距離をとった。

 だが、シャーニッドは不満そうな顔でマイを見る。

 

「ルシフだって男だぜ? 男がダメだってんなら、ルシフもダメだろ」

 

「ルシフ様は特別です。

それと、さっきの質問にお答えしますが、私がルシフ様に力を貸すのは私の生きる理由そのものだからです」

 

「……キミはルシフと陛下の闘いを念威で見たかい?」

 

 マイは頷く。

 

「ルシフが陛下にした最後の攻撃、膨大な剄を収束させた熱線。あれをもし陛下が防がなかったらどうなっていたと思う?」

 

 マイは黙ったままだ。

 レイフォンもマイの答えは期待してなく、話を続ける。

 

「──ツェルニが、破壊されていた。ツェルニに住む僕たちもろとも」

 

 ニーナたちは絶句した。

 マイはなんとなく予想がついていたのか、何の反応もない。

 

「分かるだろう? 命を大切に思っている人間なら、あの攻撃を都市の方に撃てるわけないんだ。あの攻撃を使うなら、何もない上方向目掛けて使うべきだった。

それでもキミは、ルシフが人の命を軽く見ていないと言えるかい?」

 

「ルシフ様は目的を果たすのに夢中で、頭に血が昇り過ぎる時があります。

今の言葉を、ルシフ様に直接言ってください。

それで、ルシフ様のことが分かります」

 

「言っても意味ないよ。

きっと謝りもしないさ、あいつは。自分が絶対正しいと思ってるタイプの人間だから」

 

 レイフォンは吐き捨てるように言った。

 事実、ルシフはそういうタイプの人間だ。しかし、機械のようなプログラムで動いていない限り、そういうタイプといっても例外は起こり得る。感情は時として自身すら()じ曲げる場合がある。

 

「──ルシフ様は、誰よりも人の命を考えています。もしそれが分からないのなら、目が曇ってるんです。目をしっかり開いて、ルシフ様を見るべきです」

 

 レイフォンはニーナたちと視線を交わして、ため息をついた。

 目が曇っているのはマイの方だと、レイフォンは断言できる。ルシフを慕いすぎて、ルシフが何をしても良く見えてしまうのだろう。

 

「とりあえず、ルシフが寝てる内に病院に運ぼう」

 

 ニーナがルシフの左腕を肩に回す。マイは折れている部分を触らないように右腕の付け根あたりを持って、ルシフを部屋の外へと運ぶ。

 

「こっから先は俺とレイフォンが運んでやるよ。レディーに力仕事は似合わねぇからな。なあ、レイフォン?」

 

「分かりましたよ、運ぶの手伝います」

 

 レイフォンは抵抗するのを諦め、ニーナの肩に乗っている左腕を自身の肩に回す。

 そして、シャーニッドとレイフォンは力を合わせてルシフを病院に送り届けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフ・ディ・アシェナが重傷を負い入院した──。

 この情報は生徒たちの口から口へと連鎖し、ルシフと女王が闘った次の日には、ほとんどの生徒がルシフの入院を知っていた。

 朝一番に伝えられた生徒会長のカリアンの話では、ルシフに重傷を負わせたのはルシフに対して個人的な感情をもつ他都市の武芸者の仕業であり、その武芸者はルシフに重傷を負わせたすぐ後に放浪バスに乗り、ツェルニを立ち去ったらしい。

 ツェルニに住む武芸科の生徒たちの目には、その武芸者はルシフに天罰を与えにきた神様のように見えた。

 ざまあみろ。

 バチが当たったんだ。

 これで平和ね。

 等々、ルシフが入院して喜ぶ声が後を絶たない。

 その中でも一番ルシフの入院を喜んでいるのは、近々第十七小隊と闘う予定の第十四小隊だ。

 ルシフさえ出てこなければ、試合として成立する。少なくとも理不尽な目にあわなくて済む。

 モチベーション最悪だった第十四小隊は、この出来事で息を吹き返した。むしろモチベーションはいつもより遥かに高くなっている。

 

「ラッキー……と、言っていいのか?」

 

「君たちならそう言えるが、私はそう言えない。

なにしろこの学園の生徒でない者を許可なく滞在させていたわけだからね。

警備の強化、人選の見直し、今後のセキュリティに関して全生徒を納得させられるだけの根拠の提示と説明──と、やることは山積みだよ」

 

 カリアンはお手上げと言わんばかりに両手をわざとらしく挙げた。

 ヴァンゼはそんなカリアンを冷めた視線で一瞥したが、咳払いを一度して頭を切り替える。

 

「それよりもだ、今早急に対処しなくてはならないものがあるだろう」

 

「……」

 

「入学式から今日まで、ルシフは好き勝手に振舞い先輩に対して敬意も全く示さない。それどころかバカにしたような態度で常に接していた。

──この入院を機に、ルシフに鬱憤を晴らそうとする輩が必ず現れるぞ」

 

 ヴァンゼの懸念はもっともだ。普段のルシフには手も足も出なくても、入院して弱っているルシフならば勝てるだろう。

 今まで侮辱されていた上級生のルシフ襲撃。それは十分に起こり得る問題だった。

 

「で、キミは私にルシフ君を護るよう取り計らえと、そう言いたいのかい?」

 

「むっ……」

 

 カリアンは机の上のツェルニの警備に関する資料に目を通しながら言った。

 胸の内を見通されたヴァンゼは苦い顔をする。

 

「もし生徒会長である私が素行に明らかな問題のある生徒を必死に護ろうとしたら、私刑(リンチ)をしようとした上級生はどう思うかな」 

 

 資料から目を逸らさず淡々と話すカリアンに対し、ヴァンゼははっと息を呑みカリアンの顔に視線を向ける。

 その場合、下手すれば生徒会も私刑の対象になる可能性がある。問題児を庇う腐った上層部という烙印を押されて。

 

「武芸科のほとんどの生徒は、ルシフ君に良い印象を持っていないだろう。

それらの生徒全てを敵に回すか、それともルシフ君が今よりも重傷を負うか──さて、どちらを選ぶのが正しいと思う?」

 

 明るく、それどころか楽し気にさえ聞こえる声。カリアンの顔はうっすらと笑っていた。

 普通の神経なら、この状況で笑えない。笑えるはずがない。何故なら、どっちを選んでも味方を失うからだ。選択肢は失う味方をどちらにするか決めるものでしかない。

 ヴァンゼはその顔を見て、冷たいものが自身の中に入ってくるような感覚を覚えた。

 

「──それなりにお前とは長い付き合いだが、お前はこういうヤツだと忘れていた。

お前はきっとルシフを護らない選択肢を選ぶつもりだろう」

 

 合理的に考えるなら、間違いなく敵になる上級生たちより、敵にならない可能性もあるルシフを切り捨てた方が良い。

 ルシフの性格ならば、襲撃されたのは自分がそうされる隙を見せたからだという考えになるかもしれないからだ。護らなかった生徒会に対し、怪我人を何故護ろうとしなかったと糾弾してこない可能性も高い。

 カリアンは更に笑みを深くした。

 それだけで、ヴァンゼは自分の予想が当たったのが分かった。

 分からないのは、何故カリアンがこうも余裕そうなのかだ。

 ルシフの恐ろしさは、カリアンのような人物こそ理解できる。その都市の管理者にとって、自分の地位を脅かす力を持つ者を恐れないなどできない。

 

「勘違いしないでくれ。この選択肢は生徒会として動いた場合だ。

仮の話になるが、ルシフ君をよく思わない生徒がこの機会にルシフ君を襲撃しようとしているといった内容の噂話が流れたら、状況はどう動くかな」

 

 ここでようやくヴァンゼはカリアンの策を理解した。

 生徒会が命令を出さずに自主的に生徒がルシフを護ろうと動けば、生徒会が私刑の対象になることもなく、不満を覚える上級生もいない。

 生徒会はそうさせるための火種を密かに作ればいい。つまりはルシフを狙っているという噂話を作るだけで、どちらも失わずに事を収めることができる。

 

「最初からそれが狙いか」

 

「そういうこと。わざわざ自分から敵を作るほど退屈していないのでね、この件は他人任せで解決してもらうとするよ」

 

「ならば、噂話のでっちあげは俺がしておこう」

 

「キミなら安心して任せられる。面白い噂を期待しているよ、ヴァンゼ」

 

 ヴァンゼは大きくため息をつき、呆れた表情になった。

 

「遊びじゃないぞ」

 

「物事は少し楽しむくらいが一番上手くいくものだよ」

 

 にやりと笑ったカリアンは、再び机の上の資料を読む作業に戻った。話は終わり、と暗に言っている。

 ヴァンゼはもう一度息をつき、生徒会長室から退室した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 今の時刻は深夜の一時。暗闇の中に、真っ白な壁が浮かびあがっているような錯覚がする部屋。

 光があるときに見たこの部屋は全てが白く清潔な印象だったが、今はそれが逆に無機質な冷たいもののように感じた。生活感がないからだろう。

 目の前には白いかけ布団に包まれたルシフがベッドで寝ていた。かけ布団から意図的に出された左腕には管のある針を刺され、近くのパック製の点滴容器から点滴を受けている。

 マイは少し離れた窓際の椅子に腰掛けていた。窓際は若干だが明るかったため、なんとか文字が書ける程度の光は確保できた。

 マイは日記帳に何かを書いている。その日記帳の表面には『ルシフ様との記録 パート九』と題名があった。

 マイは日記を書くのが日課だった。自分のことではない。ルシフが何をしたか、それが原因で何が起こったか、ルシフは何を思っていたか、そういったのを日記帳に書いていく。

 マイは日記帳にペンを走らせながら、昨日医者が言った言葉を思い出す。

 

 

 医者は感心したような、それでいて呆れたような声色で眠っているルシフの状態を口にした。

 

「右腕、右足ともに完全骨折、肋骨も三本完全骨折、左太股に深い刺創、内臓も胃と肝臓が損傷。しばらくは流動食になるな。それ以外にも身体中に打撲傷。

こんな状態でよくもまあ自力で歩けたものだ。普通なら歩くどころか意識を保つのさえ難しいだろう。その強靭な精神力に、呆れを通り越して逆に感服するよ」

 

 医者はルシフの上半身の内部が分かる写真を何枚もその手に持っている。

 

「内臓の損傷は手術で縫合しないといけない。しかし、彼の内臓は既に縫合されている。おそらく勁を使用して自力で縫合したのだろうが、こんなことは簡単に出来ることじゃない。常識外れだ。噂は本当だな」

 

「噂?」

 

「ルシフ・ディ・アシェナは常識が通用しない化け物だと、一部の生徒が言っているらしい。だが、あながち間違っていないようだ。

それよりも、勁糸による縫合はあくまでも応急処置のようなもので、一時的にしか縫合できない。

やはり手術は必要になるな」

 

「──ルシフ様を助けてくれますか?」

 

 マイの声は少し震えていた。

 その気になれば医療ミスという名目で殺す、または再起不能の後遺症を残す技術が、医者にはある。

 そんなマイの内情を知ってか知らずか、医者は不敵な笑みを浮かべる。

 

「私は医者だ。救いを求めるならそれが聖者でも、たとえ悪魔だったとしても最善を尽くす。

それが私の医者としての信念だ」

 

 マイはぱちくりと瞬きして、その後に深く頭を下げた。

 そしてルシフの手術がその後にすぐ行われ、今は体力が回復するまで安静にしていればよくなった。

 手術が行われるまでは第十七小隊の面々がいたが、手術が始まったら後は自分に任せてほしいと言って帰ってもらった。

 もう遅い時間になっていたし、寮には門限もある。バイトがあれば例外で出歩けるが、基本は外出禁止となるため、帰った方がいいと判断したからだ。

 

 

 ぼんやりと昨日のことを考えていたマイだが、何かに気付いたようにはっとした表情に変わって、近くに置いていた復元済みの錬金鋼(ダイト)を手に取る。

 錬金鋼を手に取ったのと、病室の扉がゆっくりと開いたのは同時。

 そして、音を立てないように慎重な足取りで病室に三人の男が入ってきた。

 男たちはルシフ以外いないと考えていた。だから、マイの姿を見た時に顔を強張らせた。

 しかしそれも一瞬のことで、すぐに冷静さを取り戻す。

 こっちには三人、相手は念威操者ただ一人。

 念威操者は後方支援が基本であり、闘い方も念威爆雷を仕掛けるといった罠の設置。

 武芸者三人に念威操者はどう足掻いても勝てない。

 その確信に近い勝利の二文字が、彼らを落ち着かせた。

 

「そんなヤツを護る意味があるのかい? なあに、殺しはしない。ただな、世の中にはルールがあるんだよ。そのルールを破ったら、キツいお仕置きがあるって教えてやるのも先輩としての義務──」

 

 喋りながらルシフに近付いてきた男の右頬に、刃物で切られたような横一文字の切り傷が生まれた。傷口から血が流れる。

 

「……え?」

 

「──それ以上、寄るな」

 

 マイの周囲には六角形の結晶が多数浮かんでいて、その中の一枚に血が付着している。

 あの結晶は人を切れるらしい。

 それが分かった時には、三人の男の首筋に一枚ずつ結晶が添えられている。

 男たちの顔が青くなった。

 

「そこから一歩でも近付こうとしたら──首を切り落とす」

 

「分かった、離れる、離れるよ」

 

 マイから放たれる殺気。脅しじゃないと悟った三人は、ゆっくりと後ろに下がり廊下に出る。

 首筋にはピッタリと結晶がくっつき、後ずさっても付いてきた。

 

「おい、首筋にあるヤツ……どかしてくれないか」

 

「……」

 

「おい!」

 

「──そこなら、ルシフ様の病室が血で汚れない」

 

「は?」

 

 首筋にあった六角形の結晶が、男たちの肩に深々と突き刺さった。

 結晶はすぐに抜かれ、肩から噴き出す鮮血。痛みでもがく男たちの、次は太股に結晶が飛び込み刺さる。またもすぐ抜かれ、六角形の結晶は空中を舞いながら、次々に男たちの身体を突き刺していく。

 

「ああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 男たちの絶叫が、病院内に響き渡る。

 何事かと廊下に顔を出した病人や看護師は、廊下の惨状を見て息を呑んだ。

 純白の廊下が、赤い絵の具でもぶちまけたように紅く染まっていた。

 それと、床にできた血だまりに横たわる三人の男。身体は上下しているから生きてはいる。

 そして、息も絶え絶えの彼らの前に立つ少女。

 

「私が、ルシフ様を害しようとした貴様らを許すとでも?」

 

 男たちは顔を上げた。背筋が凍る。

 彼らが見たものは、刃のような鋭さと、氷のように冷たい瞳で見下ろすマイの顔。

 無表情なその顔を見て、自分たちの命など彼女にとって害虫の命と等しいものだと気付いてしまった。

 

「……もう二度と、しない。しないから──頼む、助けてくれ、助けて……」

 

 必死に命乞いをする男たち。

 マイは冷たい目で彼らを一瞥すると、そのままルシフの病室に帰る。

 ピシャリとルシフの病室が閉まる音で、廊下の惨状を目の当たりにしていた人たちが我に返った。

 

「先生をッ! 早く先生を呼んでッ!」

 

「担架! 担架を早く準備しろ!」

 

「とりあえず布だ! ありったけの布を持ってこい!」

 

 深夜の病院に似つかわしくない怒号と悲鳴。

 その声を遠くに聞きながら、マイはルシフの顔を覗きこむ。

 その顔を見ながら、マイはルシフと初めて出会った日を思い出す。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ──十年前 法輪都市イアハイム──

 

 

 助けてくれる人なんていない。

 どこにもいない。

 手を貸してくれる人なんていない。

 どこにもいない。

 住んでいた家にも、この都市にも、この世界のどこにも──。

 わたしに味方はいない。

 

 ──ネ!

 

 そう思う。振り下ろされる拳を見て、そう思う。

 男の拳がわたしの腹にめり込んだ。

 

 ──ネ!

 

 胃液が逆流するような衝撃。その衝撃に任せて、私は口からそれを吐き出した。

 

「ああ~汚ねえな~。お前みたいなゴミのゲロなんか浴びちまった」

 

「調子に乗って強くしすぎるからだろ。自業自得ってヤツだよっと」

 

 笑ったもう一人の男が、うずくまっているわたしの横腹を蹴った。

 

 ──ネ!

 

「……ッ!」

 

 そのままゴロゴロと横に転がり、ゴミ袋の山に突っ込む。

 

「ははっ、見てみろよ、ゴミがゴミの山に突っ込んでらあ!」

 

 ──ネ! ──シ、ネ!

 

 楽しそうに笑う男の声が、本当に不快だった。

 

 ──シネ!

 

 わたしの両親は武芸者だった。

 でも、数ヶ月前の汚染獣の襲撃で他界した。

 その後は父の弟である叔父が、わたしの家族になった。

 最初の一ヶ月は優しかった。

 人が変わったのは、ふとした拍子に髪が念威の光で淡く輝いた時だった。

 

「お前も! お前も俺をバカにするのか!」

 

 叔父は武芸者としての才能が全くなく、いつも周りから蔑んだ目で見られていた。

 わたしは何を怒っているか分からず叔父の顔を見た。

 その顔がますます叔父の癇にさわったらしい。

 

「俺をそんな顔で見るな! こいつ! こいつめ! 養ってやってる恩を忘れやがって!」

 

 叔父は怒鳴りながら何度も蹴りをいれてきた。

 わたしはただ耐えることしかできなかった。

 それから毎日のように虐待された。服を脱がされ動物のように扱われたこともある。

 

 ──ここにいたらしんじゃう。

 

 そう思った。食には困らないが、いつか叔父に殺される。

 そして、両親と暮らしていた家を逃げるように飛び出した。何着かの服と少しのお金、少しの食糧を持って。

 それから、裏路地で暮らす生活が始まった。

 生活を始めて分かったことが一つある。

 生きるのは意外とお金がいる。

 すぐに食糧もお金も尽きた。

 身体は公園の水で洗えるし、そこで水は飲める。

 問題なのは食糧とお金だ。

 働きたいとたくさんのお店を訪ねたが、冗談と思われてどの店からも断られてしまった。

 

 ──ネ!

 

 声が聞こえる。

 

 ──ネ!

 

 聞こえるはずのない、世界の声。

 

 ──シネ!

 

 わたしの死を心から願う世界の声が。

 わたしは痛いくらいに歯を食いしばる。

 絶対負けない。絶対生きてみせる。どんなことをしても。

 わたしには何もない。わたしの死を哀しんでくれる人も、生きる目的も、生きる価値も、わたしにはない。

 でも、叫んでいる。

 

 ──いきたい!

 

 心が、世界の声を掻き消すほどの大声で。

 

 ──いきたい!

 

 何もないはずなのに、何故こんなにも生に執着しているのか。

 分からない。

 きっと憎かったんだと思う。

 両親を殺した汚染獣が。

 両親の家に居座り、我が物顔で暮らす叔父が。

 わたしの言葉を真剣に聞いてくれなかったお店の人たちが。

 わたしを死に導こうとする世界が。

 どうしようもなく、憎かった。

 だから、生きる。

 必死に食らいついて生にしがみつく。

 生きることが、そのままこの世界への復讐になると思ったから。

 だから──。

 わたしはゴミ袋の山から這い出て、男たちを見た。

 男たちの顔が僅かに険しくなる。

 男がわたしの髪を力の限り掴んで持ち上げた。

 

「なんだその目は? 元はといやぁお前が万引きするからわりぃんだろ?

罰金が払えねえからってストレス解消のサンドバッグで許してやってんのに、被害者みてえなツラすんなよ!」

 

 男はゴミの山にわたしを投げつけた。

 たしかに男の言う通りで、わたしは万引きをした。

 それがこの結果だ。

 これは正当な理由のある罰。

 どれだけ心が綺麗だったとしても、汚ない場所にいれば汚れていく。

 身体だけでなく、心もゆっくりと蝕み(けが)していく。

 みんな知ってる。汚ないものの近くにいたら、自分も汚なくなるんだって。

 知ってるから、汚ないものを受け入れない。

 お店の人たちもきっとそういう理由でわたしを拒んだんだ。

 なら獣になるしか、生きる道はない。

 人の心なんて、いらない。

 そんなもの、生きるうえで邪魔でしかない。

 心なんて──。

 

「まるで躾のなってねえ犬みてえだな。

動物に服なんざ要らねえだろ」

 

「……ひッ!」

 

 男はそう言って、わたしの着ていた服を破り捨てた。

 

「ほらッ、おすわり!」

 

 きょとんとした目をしたわたしの左頬を、男は殴った。

 

「おすわりっつってんだろッ! 言葉も分かんねえ駄犬かてめえは! いい加減殺しちまうぞ!」

 

 殺す……。

 それだけはイヤだ。絶対にイヤだ。

 わたしはおすわりのマネをする。犬のように。

 

「ははっ! いいぞおまえ、それでいいんだよ!

次はこれをやってみろ──」

 

 その後も次々に犬がするようなことをやらされた。

 

 ──男なんて全員死ねばいい! 女に己の欲望をぶつけることしか頭にない獣! わたしよりも汚ない!

 

 男の言う事を従順に聞きながらも、わたしは心の底から軽蔑していた。

 

「よーしよし、よく頑張ったな! こいつはご褒美だ!」

 

 何かくれるのだろうか。

 ほんの少しの希望と期待。

 しかし、それらは呆気なく砕け散った。

 男が座っているわたしの左頬を思いっきり殴り飛ばしたのだ。

 

「なかなか楽しめたぜ。はははははッ!」

 

 男は連れのもう一人と裏路地から去っていった。

 わたしは倒れながら、傍に落ちている服だったものに手を伸ばし、それを取る。

 そして、その布切れを身に纏った。

 

 ──もう、誰の言葉も信じない。わたしの味方になってくれる人なんていない。

 

 薄れてゆく意識の中でも、世界は音頭をとるように叫んでいる。

 

 ──シネ! ──シネ! ──シネ!

 

 まるで世界にわたしはいらないと言うように。

 

 ──シネ! ──シネ! ──シネ!

 

 わたしはしんでたまるかと言い返しながら、意識を失った。

 

 

 

 一体どれだけの時間、気を失っていたのだろう。

 気付けば、同い年くらいの男の子がわたしの前に立っていた。

 逆光で顔はよく見えなかったが、日の光でキラキラと紅く輝く髪と、何よりそれ以上に輝く深紅の瞳。その瞳は、少し前にお店で見かけたルビーという名前の宝石の輝きと似てると思った。

 人じゃないとも感じた。

 纏う雰囲気だとか、その瞳の持つ強さとか、そういったものが見事に調和されていて、まるで痺れを切らした世界が送り込んだ死神じゃないかとさえ思った。

 その顔をじっと見ていると、男の子の両目から涙が流れた。

 

「──どうして?」

 

 今までわたしの前で涙を流した人はいない。

 分からなかった。何で泣いたのか。

 だから、声が出た。

 男の子は何を言っているのか分からないといった表情をしている。

 

「どうして、ないてるの?」

 

「──え?」

 

 男の子はそう言われて初めて自分が泣いていることに気付いたようだった。

 男の子は自身の手で自分の頬を触った。

 そして、両手を下ろして力いっぱい握りしめている。

 男の子は数十秒間ずっとそのままだった。

 それから静かに右手をわたしのほうに差し出してきた。

 

「一緒に行こう」

 

 ──だまされちゃダメ!

 

 わたしはその手が怖かった。

 今までだって、こういう優しい言葉を言って油断させて、その後に乱暴してきたことが何度もある。

 きっと、この男の子も同じ。

 すぐに本性が分かる。

 自分の思い通りにいかなかったら、きっと怒って本性をさらけ出す。

 しかし、予想と外れて男の子はすぐに手を引っ込めた。怒っている感じもしない。

 乱暴されると思っていたわたしは、ほっとして息をついた。

 そして、また予想外のことが起きた。

 男の子が自分の上着をわたしの方に放ってきたのだ。

 

「それ、あげるよ」

 

 男の子はそう言って、背を向けた。

 

 ──立ち去る気だ。

 

 わたしは咄嗟に男の子の左腕を掴んでいた。

 この男の子は、今まで出会った男の中で一番優しかった。服もくれた。

 

「……いっしょに、つれてってください」

 

 この男の子のところなら、わたしは生きれるかもしれない。

 そんな気の緩みからか、念威の制御が甘くなった。

 わたしの髪が、念威で淡い燐光を放つ。

 それを見た男の子が、片膝をついて目線をわたしと同じにした。

 念威操者だとバレたら、叔父にされたように暴力を振るわれるかもしれない。

 なぐられる。絶対なぐられる。

 男の子はそのまま左手を伸ばして、わたしの右頬を優しく撫でた。

 不安でいっぱいだったわたしは、男の子が殴らないどころか優しく撫でたことに驚いた。

 でも、イヤじゃなかった。こんなに優しく撫でられたのは久し振りだった。

 それが、本当に嬉しくて──。

 

「キミは念威操者だったんだね」

 

 わたしは小さく頷く。

 わたしはやっぱり殴られるのだろうか。

 身体が震える。

 目の前の男の子が、豹変しないとは言い切れない。

 

「ならキミは、ぼくの──いや、俺の目にならないか?」

 

 ──目?

 

 それってつまり、『念威操者』のわたしがほしいってこと?

 今まで生きてきて、誰かに必要とされたことなんてなかった。

 わたしの存在に、意味を持たせてくれた人なんていなかった。

 わたしの右目から、涙が流れた。

 

 ──ああ、そうか。

 

 がむしゃらに生きたいと思っていた理由、必死に生にしがみついていた理由。

 

 ──わたしはこの男の子から命を授けられるために、今まで必死に生きてきたんだ。

 

 わたしは大きく頷いた。

 そして、頭に乗っている上着を取り、身体を包んでいた布を外す。

 男の子が右頬から手を離し、照れくさそうに慌てて背を向けた。

 わたしはその姿を見て、少し微笑ましくなった。

 男の子は背を向けたまま、しゃがむ。

 

「俺の背に乗れよ。靴履いてないんだから」

 

 わたしは自分の姿を見る。

 泥だらけのアザだらけ。

 こんな状態で背に乗ったら、間違いなく男の子が汚れる。

 

「……でもわたしきたないし、よごれちゃうよ」

 

「汚れても洗えばいい。

俺が来いと誘ったんだ。つまり、キミは客だ。

客人には優しくしろって、父上にも言われてる」

 

 汚れても構わないと、そう言ってくれた。

 みんな汚れるのがイヤだってわたしを拒絶したのに、この男の子は──。

 わたしはゆっくりと男の子の背に抱きついた。

 とても温かい。本当に久し振りの誰かの体温。

 男の子は裏路地を出て少し歩いたところで口を開いた。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ」

 

「……え?」

 

「俺の名前さ。キミはなんていう名前だ?」

 

「──マイ……マイ・キリー」

 

「マイ……か。これからよろしくな、マイ」

 

 ──誰の言葉も信じない。誰の言葉も──。

 

 でも、信じたい。この男の子の言葉を。捨てたと思っていた心が帰ってくるような、温かい言葉を。

 わたしは返事が出来ず、ただ男の子に掴まる腕に力を入れた。

 それから数十分後、男の子の家に着いた。

 凄い豪邸だった。ここでわたしはようやくミドルネームが意味するものを思い出した。

 ディ──王家の資格を有する武門の一つ。

 つまりこの男の子は、ものすごく偉い家の子供なのだ。

 

 ──きっとわたし、おいだされちゃうな。

 

 残念。本当に残念。

 わたしみたいなのを、受け入れてくれるわけがない。

 男の子が家に帰ると、使用人と思われる人が慌てて近付いてきた。

 

「若様! 後ろの子は──」

 

 やっぱり。ここでわたしは追い出されちゃうんだ。

 

「この子の手当てをしてくれ」

 

「は、はい! かしこまりました!」

 

 男の子がわたしを使用人の人に渡し、使用人の人は嫌な顔せずわたしを抱っこした。

 

 ──どうして?

 

 どうしてわたしみたいな汚ない人間に、優しくしてくれるの。

 偉い家の人の考えは分からない。

 その後はお湯で濡らしたタオルで全身を拭かれ、それぞれの傷に適切な処置をしてくれた。

 それをしている間に別の使用人の人がわたしの服を買ってきてくれたらしく、わたしはその服に着替えさせられた。

 

「……あの、どうしてここまでしてくれるの?

わたしみたいな、ただのこどもに」

 

「この家の当主様と若様が、とてもお優しい方たちだからです。

若様は素直じゃないので、優しいというと不機嫌になられてしまいますが、その反応が可愛くて微笑ましいんですよ。

あなたを連れてきたのも、若様が助けたいと思ったからでしょう。

でしたら、わたしたちは全身全霊をかけて力になります」

 

「それが、りゆう?」

 

「バカみたいですか?」

 

 わたしは首を横に振った。

 

「すごくうらやましいです」

 

 わたしは、誰かのために何かしたいと思ったことがないから。

 だから、この家の人たちはみんな輝いて見えた。

 

 ──わたしも、そうなれるかな。

 

 それから暫くして、寝かされている部屋に男の子が来た。

 男の子はベッドの近くに椅子を置いて座り、わたしの右手を両手で握る。

 

「マイ、キミは俺の目になった。

だから、ずっと俺の傍にいろ。

俺はこの世界を壊す。

俺の傍で、キミをこんな目にあわせた世界が壊れるのと、新しい世界の始まりを見届けてくれ」

 

「……わたしは、ずっとそばにいていいの? めいわくじゃない?」

 

 アシェナ家──王家の資格を有する由緒正しき武門。

 そんな家に、わたしのような場違いな人間がいる。

 それはアシェナ家の品格をも貶めるのではないか。

 わたしのせいで、この家に住む人たちが後ろ指をさされるのではないか。

 でも、この家にいたい。この家は温かい。この家ならわたしは、人らしく生きられる気がする。

 わたしの右目から涙が流れ、男の子の両手を握り返すように右手に力がこもる。

 

「──ああ、迷惑なものか」

 

 温かいものが流れこんでくる。

 

「……うれしい」

 

 わたしはやっと、人間になれた。

 

 

 

 初めて男の子──いや、ルシフ様と出会った日から数日後の夕食の時間。

 ルシフ様が重晶錬金鋼(バーライドダイト)を一つ渡してきた。

 

「マイ、キミが使う錬金鋼だ」

 

「──あ、ありがとうございます」

 

 わたしは頭を下げた。

 

「あ、あの、復元してもいいですか?」

 

「まっ──」

 

「れすとれーしょん」

 

 復元された錬金鋼は六角形の結晶を集めたようなゴツゴツした杖だった。

 その先端にある六角形の結晶が剥がれ、不規則に動き回って部屋にあるものを片っ端から切り刻んでいく。

 その結晶体を、アゼル様がつまむように掴んだ。

 

「マイ、元に戻すのだ」

 

「は、はい、アゼル様」

 

 六角形の結晶体は杖に戻り、錬金鋼はルシフ様に渡された時の形に戻った。

 アゼル様が拳を握りしめている。

 

「こっのぉ──大バカものがッ!」

 

 アゼル様が拳を振り上げる。

 わたしは思わず目を閉じた。

 しかし、拳骨のターゲットはわたしではなく──。

 

「いッ……たぁ……!」

 

 おそるおそる目を開けると、ルシフ様が両手で頭を抱えている。

 ルシフ様は若干涙目だ。

 

「初めて渡す錬金鋼に殺傷力を与えるなど何を考えとるかッ!

安全装置を付けて渡すのが普通であろう!?」

 

「安全装置など甘えです! 安全装置無しで扱えてこそ意味があり、価値があります!」

 

「まだ言いたいことはある! 何故念威操者の錬金鋼に殺傷力を持たせる!? 念威操者は後方支援が基本であり、常に護衛も付いているから殺傷力など必要ではない!」

 

「父上の考えは前時代的過ぎるのです! 念威操者だから直接闘えない──そんなキセーガイネンなんて俺が叩き潰します!」

 

「ならあのセンスはなんだ!? 六角形の形が切るのに適した形とでも言うつもりか!? もっと優れた形があるだろう!」

 

「機能性だけでは華がありません! 機能性と美のリョーリツこそ武器に必要なものです!」

 

 

「──ッ……あはははははは!」

 

 この時、わたしは初めて心から笑うことができた。

 舌戦を繰り広げていた二人が驚いたような顔でわたしの方を見る。

 わたしは恥ずかしくなって口を手で隠した。

 

「申し訳ございません。その──楽しかったので」

 

 二人は顔を見合わせた後、笑みを浮かべた。

 二人だけではない、この場にいる使用人の人たちも、ジュリア様も、みんな笑みを浮かべている。

 

「ルシフ様! この錬金鋼、大切にします! 本当にありがとうございます!」

 

 きっとあの時ルシフ様に出会わなければ、わたしはずっと獣のまま生き、獣のまま死んでいっただろう。

 

 ──あれ? そういえばいつの間にか世界の声が聞こえなくなってる。

 

 あれだけ死を望んでいたくせに、世界はちょっとしたことで気が変わる。

 わたしは、わたしが生きていてもいい世界を見つけた。

 わたしの味方になってくれる人がいた。

 その世界を護るためなら、わたしは──。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフの頬を、マイは優しく撫でた。

 

 ──誰にも、ルシフ様を奪わせない! 私がいてもいい唯一の世界!

 それを護るためなら私は──鬼にも悪魔にもなれる。

 

「あっ、廊下の掃除してこないと……」

 

 自分がやったのだから、自分がしっかり後始末をする。

 そんな思いでマイは廊下に出て、大量の雑巾をもらいにいく。

 ルシフの病室はルシフただ一人。

 しかしルシフの傍には、寄り添うように六角形の結晶が置かれていた。




まさか脳内設定を文章にするだけでここまでキツいとは……。
モチベーションがごりごり削られてました。
胸糞展開の小説を間を置かずに書ける人は、本当に尊敬します。


あと、1つお知らせがあります。
原作2巻と言いつつ、この話まで全く原作2巻の内容が出ていないので、この話までをオリジナル第1章として、次回から原作2巻の内容に突入していくという形にしたいと思います。


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原作2巻 サイレント・トーク
第11話 新たな問題


 数日前にルシフとグレンダンの女王が決闘した野戦グラウンド。

 けたましいサイレンの音が木霊する中、ニーナは野戦グラウンドに立ち尽くしている。

 今日は第十四小隊と対抗戦をする日。

 そして、今それが終わった。第十四小隊の勝利という形で。

 この対抗戦を実況していた生徒は興奮気味に、第十四小隊の作戦勝ちだと叫んでいる。

 ニーナは第十四小隊の隊長が抑え、レイフォンの気は第十四小隊の前衛二人で引き、第十四小隊の他の面々は密かに第十七小隊のフラッグが破壊できる位置に移動。

そして、第十四小隊の狙撃手が見事にフラッグを撃ち抜いた。

 確かに第十四小隊の思惑通りに進んだ試合だったのだろう。

 だが、敗北の原因はそれだけではない。レイフォンが対抗戦にあまり集中していなかったのも、原因の一つ。レイフォンはグレンダンの女王に会って以来、再び何か悩んでいるようだった。

レイフォンが少しでも本気を出せば、たった二人でレイフォンを足止めなどできない。

 ならば、第十七小隊の敗北は戦闘に集中していなかったレイフォンのせいなのかといわれたら、別にそういうわけでもない。

 第十七小隊は噛み合っていなかった。

 それはすなわち、隊長である自分の統率能力の無さに起因する。

 つまり、一番の敗因は自分だろう。

 ニーナは野戦グラウンドを見る。

 第十四小隊との対抗戦の日までに、武芸科の生徒たちが協力して野戦グラウンドを元に──とまではいかないが、それに近い状態に修復した。

 この場所にいると、嫌でも思い出す。

 ルシフとグレンダンの女王の凄まじい決闘を。

 圧倒的な実力差があっても諦めず、最後の最後まで牙をむき続けたルシフの姿を。

 あれがルシフの全力。わたしとは天と地ほど実力が離れているだろう。

 それでも、ルシフは負けた。

 中盤までは良い勝負といっていい内容だったが、それ以降はグレンダンの女王の容赦ない蹂躙だった。

 正直な話、グレンダンの女王が全力で闘っている感じはしなかった。

 まるでいつもルシフがやっていたように、手加減しているようにさえ見えた。

 

 ──この世界には、一体どれだけ強い武芸者がいるのだろう。

 

 ニーナが出会った中で最強かもしれない存在が、一矢報いることもできずに叩きのめされた。

 誤解ないようにいえば、ルシフやレイフォンクラスの武芸者など指で数える程度しかおらず、グレンダンの女王に限っては並ぶ者がいない最強の存在。

 たまたまニーナの周囲にそれだけの実力者が集まっただけ。

 しかし、ニーナにそれが分かる筈がない。

 ニーナは、他都市にはあのレベルの武芸者がごろごろいるのでは──と錯覚した。

 少なくとも武芸の本場といわれるグレンダンや、グレンダンに次ぐとまでいわれるほど武芸が盛んなイアハイムでは、ルシフやレイフォンの強さが珍しくないんじゃないかと思った。

 それに比べたら、第十四小隊など無力に等しいほど弱いだろう。

 しかし──負けた。それも惜敗(せきはい)ですらなく、完敗。

 第十四小隊にすら呆気なく負けているようでは、自分の力でツェルニを護るなど──。

 ニーナは下唇を噛んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

「それは、羨ましい話だねぇ」

 

 レイフォンが、今日の昼食をメイシェンにご馳走してもらったのをハーレイに話すと、ハーレイはそう言った。

 

 今は第十四小隊との対抗戦から二日経った放課後、レイフォンはハーレイに呼ばれて練武館にきていた。

 レイフォンの手には、計器のコードで繋がれている青石錬金鋼(サファイアダイト)の剣が握られている。

 

「ほんとにありがたいです」

 

 レイフォンもハーレイに同意して頷く。

 レイフォンは機関掃除のバイトを深夜から早朝にかけてしているため、昼食を作る暇がない。

 いや、暇はあるかもしれないが、なるべくぎりぎりまで寝ていたいと思っているため、レイフォンはいつも購買で昼食を済ませていた。

 だから、レイフォンはメイシェンがそういう自分を気遣って弁当を作ってくれたことに、純粋に感謝していた。

 

「そういう意味じゃないんだけどね……はぁ、キミといいルシフといいシャーニッド先輩といい、第十七小隊の男はみんなモテてるのに、なんで僕は……」

 

「いや、モテてるとかそういうんじゃないですよ。メイシェンは料理を作るのが趣味らしいんで、そのお裾分けをしてもらえてるだけです。

──というか、ルシフってモテてるんですか? ついこの前も武芸科の先輩に怪我させられそうになったって聞いたし、イメージ悪いように見えるんですけど」

 

「……ほんとにルシフは、クラスでモテてないかい?」

 

「え? だってルシフからみんな少し席を離してるし、みんなルシフを怖がって……」

 

 いや、そういえばクラスの何人かの女子は、ルシフのことチラチラ見てたような……。

 しかしそれが好意なのか、それとも怖いからこそ気になるのか、どちらの意味かまではレイフォンに判断できなかった。

 

「ふーん、そうなんだ。

話を戻すけど、まぁたしかにルシフの印象は悪いだろうね──武芸科の人たちには」

 

 ハーレイの言葉に、レイフォンは首を傾げた。

 武芸科の人たちには……それはつまり──。

 

「武芸科でない人たちはルシフを悪く思っていないってことですか?」

 

 ハーレイは苦笑した。

 

「いや、多分大抵の人は怖がってるよ。

でも──僕らみたいな剄を持たない人間にとっては、ルシフもそれ以外の武芸科の生徒も似たようなものなんだよ。力では絶対に敵わないからね」

 

「それは……」

 

 確かにハーレイの言う通りだろう。

 一般人は武芸者に逆立ちしても勝てない。

 

「それに基本武芸者って高慢っていうか、偉そうじゃない? だから、ルシフの態度もそんなに気にならないんだよね。

一つ聞きたいんだけど、ルシフって昼休みとかって教室にいる?」

 

「いえ、いつもどっかで外食しているみたいですけど」

 

 いつもルシフは、昼休み直前の授業が終わるとさっさと教室を出ていく。

 弁当を作っているところは見たことないから、外食になるのは当たり前の話だが。

 

「やっぱりかぁ」

 

 それを聞いて、ハーレイは合点がいったように頷く。

 

「僕のクラスの女子でね、昼休みにしつこく武芸科の男子に絡まれてうんざりしてたところを、通りがかったルシフがあっという間に追い払っちゃって、自分の心配してくれたって嬉しそうに話してるのを聞いたことがあるんだよ。

ルシフって性格だけがマイナス要素だから、性格を受け入れられる人には当然ポイント高いんだよねえ」

 

 レイフォンはルシフを思い浮かべる。

 確かにルシフの容姿は、男の目から見ても良い。それも美少年やイケメンばかりを集めた雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないレベルの。

 立ち振舞いも、高圧的だがどこか気品のようなものがある。

 頭の良さは、教えにきた上級生が嫌がらせで超難題をルシフにふっかけても、楽々解くくらいの桁違いの頭の良さ。

 そして、武芸の腕は天剣授受者だった僕より間違いなく上。少なくとも僕では陛下にあそこまで闘えない。

 こうしてルシフの分析をしていると、むしろなんでモテないと思ってた自分! と言いたくなるほど、モテる要素を持っている。

 しかし逆を言えば、ここまでモテる要素を持っていて、モテているという噂が無いのもすごい。

 それだけ学園内のイメージが大事なのだろう。

 ハーレイはゆっくりとため息をつく。

 

「学園内で嫌われているっていうのも、普通ならマイナスポイントなんだけどねえ……一部の女子にはそれすら好きになる魅力みたいだから、女心は分からないものだよ。

『学園のみんなはあなたを嫌っているけど、わたしだけはあなたの味方だから! あなたのこと想ってるから!』って感じ」

 

 ハーレイがげんなりしたような顔になる。

 悪い男に女は惹かれると聞いたことがあるが、きっとこういう心理だろう。

 要するに、自分だけはあなたを理解していると優越感に浸り、自分はいい女だと自己陶酔する。

 成る程……と、レイフォンは少し勉強になった気がした。

 レイフォンは握っている青石錬金鋼を見る。

 

「ところで……なんの意味があるんです、これ?」

 

 レイフォンはさっきから、青石錬金鋼の剣に剄を注いでいる。その影響か、青石錬金鋼の剣は淡い光を放っていた。

 

「ちょっと確かめたいことがあってさ……うわ、剄量と剄の収束が凄いなぁ。

それにしても残念だったね。せっかく錬金鋼の設定をいじって、剣だけじゃなくて鋼糸にもなるようにしたのに出番なくて」

 

 レイフォンはツェルニが汚染獣に襲われた時にハーレイの元にいき、錬金鋼に込める剄量で復元される武器が変わる設定を追加してもらっていた。

 レイフォンは新たに追加した武器──鋼糸で幼生体を潰しながら母体を斬る予定だったのだが──。

 

「いえ……みんなを結果的に護れたなら、それでいいです」

 

 ルシフが全ての幼生体の自由を奪った。

 別に自分以外の人間が汚染獣を殺すのに、抵抗はない。

 自分は別に、汚染獣からツェルニを守ったヒーローとみんなから呼ばれたかったわけじゃない。

 誰の手であろうと、守れたならそれでいい。

 しかし──守った相手が本当にツェルニを守ろうとして戦っていたか?

 ただ汚染獣をなぶり殺す快楽だけで戦っていただけで、結果としてみんなを守れただけで、その根底にある戦った理由は僕と同じだったのか?

 レイフォンにとってのルシフの印象で一番近い人物は、天剣授受者であるサヴァリス・クォルラフィン・ルッケンスだった。

 己の戦闘欲をただ満たすために戦う戦闘狂。

 だから、信用できない。あてにできない。

 ルシフはいないものと考え、あくまで自分一人がツェルニを守れる力とする。

 

「まあ、それもそうだね。あ、もういいよ」

 

 レイフォンは錬金鋼に剄を注ぐのをやめる。放出した剄の余熱が、レイフォンの身体から汗を出させた。

 レイフォンは立ち上がり、剣を上段に構えて振り下ろす。

 剄を注いだ影響で、身体を動かしたくなったのだ。

 レイフォンは無心に何度も何度も同じ動作を繰り返す。

 しばらくそうして満足したら、レイフォンは剣を振るのを止めた。

 レイフォンの後方から拍手が聞こえた。

 レイフォンが振り返ると、いつの間にか来ていたシャーニッドがいた。

 

「たいしたもんだ、切られたのも気付かないまま死にそうだな」

 

「さすがにそれは──」

 

「本当に凄かったよ!」

 

 言い過ぎと言おうとしたが、ハーレイの興奮した声で遮られた。

 シャーニッドはハーレイの方を見る。

 

「ハーレイ、頼んでたやつはできてるか?」

 

「ええ、できてますよ」

 

 ハーレイは傍に置いていたケースから、二本の錬金鋼を取り出した。

 シャーニッドはハーレイからそれを受け取る。

 

「サンキュー」

 

「銃ですか? でも、銃ならもう──」

 

「確かに持ってる……遠距離用の銃をな。

こいつらは近距離で使う銃だ。

遠距離だけじゃなくて、近距離でも闘えたら戦術の幅が広がるだろ?」

 

 シャーニッドは二本の錬金鋼を復元させる。

 シャーニッドが普段使っている軽金錬金鋼(リチウムダイト)と違い、黒鋼錬金鋼(クロムダイト)でできた、ごつい銃だった。まるで射撃ではなく、銃身での打撃に重点を置いているような……。

 シャーニッドは復元した二丁の銃をまじまじと見ると、銃の出来に満足したらしく、それらを元に戻し剣帯に吊るした。

 

「……遅くなりました」

 

 フェリが小さく挨拶をしながら、部屋にやってきた。

 

「よっ、フェリちゃん。今日もかわいいね」

 

「それはどうも……」

 

 シャーニッドの軽口を、フェリは軽く流す。

 フェリの目がシャーニッドの剣帯に吊るされている見慣れない二本の錬金鋼を捉えたが、すぐに視線は外された。

 

「あと来てないのはニーナか。ルシフはまだだよね?」

 

 ハーレイがレイフォンに視線をやる。

 

「はい」

 

「レイフォン、ルシフの奴はまだ寝てんのかよ。もう一週間くらい寝っぱなしだぜ」

 

「多分そろそろ起きると思いますけど」

 

「そうか……ていうか、ニーナが最後とか珍しいな」

 

 第十七小隊の強化を誰よりも考え、いつも一番に訓練場所にやってくるはずのニーナがいない。

 その事実は、レイフォンに少し違和感を感じさせた。

 それから、しばらく時間が過ぎた。

 

「もう帰ってもいいですか?」

 

 第十七小隊の中で一番やる気のないフェリが、この何もしない時間に嫌気がさし、口を開く。

 

「もう少しだけ、待ってみようよ」

 

 ハーレイは苦笑して、フェリをなだめる。

 その時、部屋の扉が開けられる音がした。

 

「すまん、待たせたな」

 

 ニーナが部屋の中に入ってきた。

 

「遅いぜニーナ、一体何してたんだ?」

 

「調べ物とルシフの見舞いをしていたら、いつの間にかこんな時間になってしまった」

 

 ニーナは第十七小隊の隊長だ。

 隊員であるルシフを気にかけるのは、隊長として当然かもしれない。

 ニーナは周囲を見渡して全員揃っているのを確かめると、口を開く。

 

「今日はもう遅い。だから、今日の訓練は中止にする」

 

 その場にいた全員が、ニーナの言葉に絶句した。

 フェリですら驚きのあまり、目を大きく見開いている。

 誰よりも第十七小隊が強くなるのを考えているニーナらしくない言葉だ。

 

「そりゃまた、どうして?」

 

「こんな時間から訓練を始めても、中途半端になるだけだからな。

誤解ないように言っておくが、全体訓練を中止にするだけだ。個人で訓練したかったら、別に構わない。

では、解散」

 

 それだけ言うとニーナはくるりと回れ右をして、さっさと訓練部屋から出ていった。

 

 ──やっぱり。

 

 その一連の動きの中にも、レイフォンは違和感を感じた。

 上手く説明できないが、いつも真っ直ぐに突き進むニーナの中に、どこか迷いのようなものを感じるのだ。

 きっと第十四小隊に負けたことが、ニーナに何かを考えさせたのだろう。

 昨夜のことだが、レイフォンはニーナと二人一組で機関掃除のバイトをしていた。

 そのバイト中、深夜から明け方までの数時間、ニーナは一言も話さずただ黙々と仕事をしていた。

 明らかに不機嫌だった。何度もこの場から逃げ出したいと思うほど、空気が重苦しかった。

 結局レイフォンはなんで不機嫌なのか聞けないまま、昨夜のバイトを終えた。

 

 ──どうすれば、先輩の力になれるのかな。

 

 レイフォンは去っていくニーナの背中を、ただ見つめることしかできなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 その日の夜──レイフォンはフェリの住んでいる寮に招かれた。

 別にムフフなことをするために来たわけではない。

 フェリは生徒会長のカリアンと同じ部屋に住んでいる。

 兄妹という関係を考えれば、おかしい話ではない。

 そのカリアンがレイフォンに話があるらしく、話をする場所を誰にも聞かれる心配がない、カリアンたちの部屋になったというだけだ。

 練武館からフェリと一緒にここまで来たが、途中で夕飯の買い物もした。

 フェリは今頃料理を作ろうとしているはずだ。

 レイフォンはリビングにあるソファーに座りながら、何気なく周囲を見渡す。

 広いリビングから繋がる部屋は二つあり、一つはおそらくフェリの私室。

 となると、もう一つはカリアンの私室。

 正直、レイフォンとルシフが住んでいる二人部屋とは次元の違う広さであり、豪華さだった。

 きっとルシフがこの場にいたら、こういう部屋を俺にも住ませろというかもしれない。

 さっきキッチンも見たが、そのキッチンの広さが大体自分たちの部屋の広さだった。

 

 ──これが格差か。

 

 仏のように悟りきった目で、レイフォンはリビングをぼんやりと眺めていた。

 することもないため、レイフォンはなんとなくフェリが料理しているであろうキッチンを覗きにいく。

 レイフォンがキッチンの光景を視界に収めた瞬間、何が起こっているか分からなかった。

 台所は女の戦場という言葉を聞いた記憶がある。

 ならば、無惨に切られボールに入れられている野菜や芋は、その戦場が生んだ犠牲なのか。

 今も自分に背を向けて、鬼気迫る雰囲気でただひたすらに食材()を切るフェリの姿は、紛れもなく戦士──。

 

「……先輩」

 

 レイフォンは悲哀に近い表情になる。

 その表情は、正に戦場の戦士を案じる身内のような表情。

 

「いま……話しかけないでください」

 

 フェリは背を向けたままだ。包丁を持っている手は震えている。

 

「先輩、一つアドバイスというか──その……皮を! 先に皮をむいた方がいいと思います!」

 

 フェリは振り返り、目を大きく見開いた。

 レイフォンはゆっくりと頷く。

 人は……間違う生き物だ。

 いつも、間違ってからそれに気付く。

 

「先輩……僕にお手伝いさせてもらえませんか?」

 

 しかし、間違いを正せるのもまた──人間なのだ。

 レイフォンはさっと腕捲りした。戦士の目になる。

 

 ──次は僕の番だ!

 

 

 

「うん……これは美味しい」

 

 カリアンが満足そうに頷く。

 レイフォンは住んでいた孤児院でよく料理を手伝っていたので、料理の心得があった。

 

「はぁ……ありがとうございます」

 

 レイフォンはチラッとフェリを見る。

 ものすごく不機嫌な顔で、黙々と食べている。

 客人を呼んでおいて、客人に料理をやらせるのは、フェリにとって納得いかないことだったのだろう。

 女としてのプライドもあったかもしれない。 

 

「……なんですか?」

 

「……いえ」

 

「……美味しいですよ」

 

「……ありがとうございます」

 

 そして、カリアンと他愛ない話をしながら、夕飯を終えた。

 食べ終わった食器はフェリが片付け、リビングの方に移動したレイフォンとカリアンにお茶を運んできた。

 

「それで、話というのは?」

 

「君に見せたいものがあるんだよ」

 

 カリアンはそう言いながら、書類入れから一枚の写真を取り出し、レイフォンに渡した。

 レイフォンはその写真を見る。

 

「その写真は、試験的に飛ばした無人探査機が送ってきた映像を写真にしたものなんだが──」

 

 汚染物質の影響か、写真の画質は最悪だった。

 映っているもの全てがぼやけている。

 

「写真のこの部分は、ツェルニの進行方向五百キルメルほどのところにある山だ」

 

 カリアンが写真の一部分を、指で円を描いて囲む。

 

「しかし私の目には、この部分に山以外のものが映っているように見えるんだが……どう思う?」

 

 レイフォンはじっと写真に目を凝らす。

 しばらくそうして、レイフォンは写真をテーブルに置いた。

 邪魔をしないように近くにいたフェリが、写真を覗き込む。

 

「なんなんですか、これは?」

 

 写真をしばらく見ても分からなかったフェリは、何なのか分かったような顔をしているレイフォンに尋ねる。

 

「汚染獣ですよ」

 

 フェリは唖然としたが、すぐに冷静さを取り戻しカリアンを睨んだ。

 

「そうですか。初めから利用するつもりで、彼を呼んだのですね」

 

「今の状況で、彼以外に頼れる人物がいるかい?

ルシフ君がいれば話は違ったかもしれないが、ルシフ君は未だに目覚めていない。

目覚めたとしても、彼が全快するのは最低でも一月掛かると、医者は言っていた。

つまり、今回の戦力にルシフ君はカウントできないのだよ」

 

「あの人が戦力にならなくても、武芸科が──」

 

「いいですよ、フェリ先輩。

この写真を見る限り、この汚染獣は雄性体です。それも山の大きさと比較して、一期や二期じゃありません。

おそらく僕とルシフ以外じゃ、傷一つ付けられない。

だから、僕しかいないんです」

 

 汚染獣に生まれついての雌雄の別はない。

 まず幼生体が一度目の脱皮をして雄性体となり、汚染物質を吸収しながら、それ以外の餌──人間を求めて地上を飛び回る。

 脱皮の数で一期、二期と数え、脱皮するほど汚染獣は強力になる。

 少なくとも三回以上脱皮している汚染獣。

 その強さは、未熟者の集まりである学園都市の武芸者では太刀打ちできない。

 

「あいにく、私は汚染獣の強さを感覚的に理解していないのだけれど、どれくらいの強さなんだい?」

 

「一期や二期なら、なんとかなるかもしれません。被害を恐れないのなら……ですけどね」

 

「ふむ……」

 

「それに、ほとんどの汚染獣は三期から五期の間に繁殖期を迎えます。

本当に怖いのは、繁殖を放棄した老性体です。これは、年を経るごとに強くなる」

 

「その老性体を、倒したことはあるのかい?」

 

「僕も含めた天剣授受者三人がかりで。あの時は死んでもおかしくなかったですね」

 

 レイフォン以上の実力者が三人で戦って、死を感じさせる相手。

 それが──老性体。

 カリアンとフェリは、信じられない気持ちで息を呑んだ。

 話が終わると、レイフォンは二人の部屋を後にした。

 フェリが見送りのため、レイフォンの隣を歩いている。

 

「兄を恨んでいますか?」

 

 静かに聞いてくるフェリに、レイフォンは苦笑した。

 

「前も聞かれましたね」

 

「だって、あなたは武芸をやめたいのでしょう? でも、兄はあなたに武芸を捨てさせない」

 

 レイフォンは何気なく廊下の天井を見る。

 

「今でも、武芸はやめたいと思ってます。

でも、この都市には護りたいものがある。

友だちや隊長……それにもちろんフェリ先輩も。

それを護れるのが僕しかいないなら──僕は戦いますよ」

 

 レイフォンは自分の実力が分からないほど愚かじゃない。

 汚染獣の強さを知らないほど無知じゃない。

 きっと今回の問題は、僕しか解決できないのだ。

 なら──剣を取る。

 フェリは少しだけ頬を朱に染めて、レイフォンの横顔を見た。

 しかし、フェリの頬が朱に染まったのは一瞬で、すぐにいつものような無表情な表情になる。

 

「ばかがつくほどのお人好しですね」

 

「ひどっ!」

 

「ばかですよ」

 

 フェリに繰り返し言われて、レイフォンは肩をすくめた。




レイフォンが主人公してる……(感動)


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第12話 ニーナの焦燥

 ニーナ・アントークは一人で機関掃除をしていた。

 班長の話では、レイフォンは都市警の用事でこっちのバイトは休みだという。

 都市警には臨時出動員と呼ばれる、いわゆる助っ人のような立場の枠がある。

 どうやらレイフォンはそれになったらしい。

 機関掃除という重労働のバイトに加え、時間が不定期になる仕事の臨時出動員。

 

 ――あいつは大丈夫なのか?

 

 その話を聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、これだった。

 第十七小隊の中で、ルシフに近い実力をもつレイフォンが倒れたら――第十七小隊はどうなる?

 今のルシフがいない状況で、レイフォンまで欠けてしまったら――。

 

 ここまで考えて、ニーナは頭を振った。

 そもそもレイフォンを入隊させた当初は、レイフォンにそんなに期待していなかった。

 穴埋め要員で、訓練すれば使い物になるだろう程度の認識だった。

 それが今や、第十七小隊の主戦力として考えるようになっている。

 別にその認識が間違っているとは思わない。

 レイフォンは事実として、とんでもなく強い。

 問題なのはルシフにしろレイフォンにしろ、彼らの強さに依存している自分だ。

 彼らさえいれば、彼らの強ささえあればどんな相手にも勝てると思った。

 たとえ片方欠けたとしても、一人さえいればどんな小隊だって相手じゃないと思っていた。

 だが――敗北した。

 

 何故だ?

 

 自問する。

 

 何故負けた?

 

 答えは出ている。

 

 作戦だ。第十七小隊には作戦がなかった。

 第十四小隊の作戦とチームワークに、第十七小隊は負けた。

 チームワークも作戦も、はっきりいって自分がしっかりすれば手に入るものだと考えている。

 チームワークとはつまり、連携。

 シャーニッドもレイフォンもルシフも、指示されれば指示通りに動いてくれる。

 ルシフはその指示自体を認めない時が多々あるが、何故その指示を認めないのか、どういう指示を出してほしいかをしっかりと発言する。

 指示されて、気に入らないから何も言わずに指示を無視することは一切ない。

 フェリに関しては辛抱強く説得していくしかないが、自分がやる気を出して一生懸命やれば、いつかフェリもやる気を出してくれると信じている。

 要するに、自分がしっかり隊長として機能すれば、第十七小隊は強くなれると思う。

 敵との闘いの真っ最中でも隊員に指示を出せる冷静さと、フェリからの情報を処理して瞬時に戦術を思いつけるだけの経験と対応力。

 これらが自分に備わっていたら、きっと第十四小隊に勝てていた。

 なら、どうすれば身につく?

 どうすれば――。

 

「ん?」

 

 考え込み、モップを動かす手も止めていたニーナは、何かが自分の髪を引っ張る感触に我に返った。

 髪を引く何かが自分の後ろから首に抱きついている。

 背中に腕をのばし、ニーナは抱きついているものを掴んで前に持ってくる。

 

「なんだ、お前か」

 

 ニーナの髪を引っ張っていたのは、この都市の意識――ツェルニだった。

 電子精霊ツェルニは、幼い女の子の姿をしている。

 ツェルニはニーナを見て、ニコニコと笑っていた。

 ニーナもつられて笑みを浮かべた。

 ツェルニは機関部を抜け出して、よくニーナの元に会いにくる。

 

「なんでお前は、わたしになつく?」

 

 ニーナはそう言いながら、ツェルニを撫でる。

 ツェルニはニーナの言葉が分かっていないのか、ニコニコとした笑みのまま何も言わない。

 いや、ツェルニが喋ったことはニーナが接してきた中で一度もないため、答えないのは別に普通だ。

 ニーナはそれを承知している。

 だからツェルニが答えなくても、嫌な顔せず言葉を続ける。

 

「お前に出会えたのは、わたしにとって最高の喜びだ。

そして――お前に出会い、共に触れあい、共に笑えることは、わたしにとってとても新鮮で嬉しいことだった」

 

 ニーナはツェルニを抱き寄せる。

 ツェルニがニーナに会いにくるのは、きっと意識そのものに触れてほしいのだろう。

 都市に住む全てを愛しく思っているからこそ、ツェルニはこうしてこの都市に住むニーナに愛らしく接するのだ。

 

「だからわたしは――お前を守りたい」

 

 こうして触れあった。温もりも感じる。

 ニーナにとってツェルニは、ただ自分が暮らしている都市ではない。

 ツェルニという大切な存在がいる、大切な都市。

 都市が死ねば、この電子精霊も死ぬ。

 ニーナにそれは堪え難いものだった。

 絶対に自分がツェルニを守る。

 そこで気付く。

 ルシフもレイフォンも、自分より遥か高みにいる武芸者。

 だが、そんな彼らに頼ることなく、自分の力で、自分の手でツェルニを守りたい。

 そのためには、立ち止まっている暇などない。

 今よりもっと、もっともっと――。

 

「わたしは強くなるぞ、ツェルニ。

わたしの手でお前を守れるくらい、強く――」

 

 ツェルニに微笑みながら、ニーナは静かに呟いた。 

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 練武館にいたレイフォンとシャーニッドは目を丸くしていた。

 原因は、練武館の部屋に置かれている大剣。

 縦にすれば、レイフォンの身長同等の大きさになるほどの大剣だ。

 ただし錬金鋼(ダイト)で作られておらず、木でできている。剣身には鉛の重りが巻きつけられていた。

 おそらく錬金鋼でこの大剣を作った場合の重量と同じにしているのだろう。

 

「こいつはなんだ?」

 

「ちょっとしたテスト。少し前にやったレイフォンの調査の続き。

レイフォン、この剣使えるかい?」

 

 レイフォンは大剣の柄を握り、片手で持ち上げる。

 かなりの重量があるが、扱えない重さではない。

 

「なんとか、使えそうです。

2人とも、離れてください」

 

 レイフォンにそう言われ、シャーニッドとハーレイがレイフォンから離れる。

 レイフォンは正眼に構え、上段から振り下ろす。

 大剣が重いため、振り下ろした後に身体が揺れた。

 レイフォンは活剄で肉体強化をし、再び剣を振るう。

 だが、いつものように大気を斬れない。

 レイフォンはしっくりこない気分を味わいながら、下段からの切り上げや突き、薙ぎ払いなど、様々な型を試した。

 

「ふう……」

 

 一通り試したら、レイフォンは素振りを止めた。

 レイフォンの素振りで風が荒れ狂っていた部屋が、落ち着きを取り戻す。

 そこで部屋の扉が開き、フェリが現れた。

 

「……今隊長に会ったんですが、野戦グラウンドの使用許可が取れたらしく、今日はそちらで訓練だそうです」

 

「随分急だな」

 

「わたしに言わないでください」

 

 フェリは用件だけ伝えたら、すぐに部屋から去っていった。

 

「しっかしよぉ……なんでこんな(モン)作ったんだ?」

 

 シャーニッドがハーレイに尋ねる。

 

「基礎密度の問題で、このサイズになっちゃうんですよね。完成すれば、軽量化もできると思いますけど」

 

「へぇ、新型の錬金鋼作ってんのか。

あれ? ハーレイの専門って開発だったか?」

 

「僕は開発じゃありませんよ。僕と同室の奴がこの剣を考えたんです。

それに、開発自体が僕とレイフォンとそいつの3人で作るっていう条件で予算おりましたし」

 

「成る程な。なら、俺に手伝えることは無さそうだ」 

 

 レイフォンたち3人は部屋を出て、野戦グラウンドに向かった。

 

 

 

 野戦グラウンドはいつも通り終わった。

 自動機械との模擬試合を行い、3戦全勝。

 ルシフがいなくても、自動機械相手ならなんとかなる程度までは、連携が取れるようになった。

 シャーニッドの援護もしっかり出来ているし、フェリからの情報伝達も以前と違い、遅れていなかった。

 ニーナとレイフォンの連携も、食い違うことはなくなった。

 

「これで、今日の訓練は終了だ」

 

「お疲れ~」

 

「お疲れさまでした」

 

 シャーニッドはシャワールームに移動し、汗をかいてないフェリは、荷物を持ってロッカールームをさっさと出ていく。

 レイフォンは立ち上がり、練武館に戻ろうとする。

 訓練の後はニーナとルシフの3人で訓練していたからだ。

 今はルシフがいないため、2人で訓練していた。

 前衛は精度の高い連携が出来なければならないと、ニーナは考えていて、レイフォンはそれに異義がなかった。

 だから、レイフォンも訓練に付き合っていた。

 

「レイフォン、今日はもういいぞ。

しばらく、全体訓練後の訓練は中止する」

 

「どうしてです?」

 

「必要ないだろう」

 

 さっきの模擬試合も行動が食い違うことはなかったが、それは別にコンビネーションというわけではない。

 はっきりいって、息の合った連携には遠く及ばない。

 ニーナは息の合った連携を求めていると思っていた。

 しかし、必要ないという。

 やはりニーナに対して、違和感がある。

 それに、ニーナから拒絶されている感じがする。

 

「では、失礼します」

 

 レイフォンは内心ですんなりこの言葉が出てきたのに驚いた。

 「違う」と言うのは簡単だった。

 だが、ニーナが訓練に乗り気でないのに何か言ったところで、意味ないと思った。

 レイフォンは自分の荷物を持ち、ロッカールームから出ていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 同じ日の夜、都市外縁部にニーナはいた。

 ここ最近は訓練が終わるといつもこの場所にきて、秘密の特訓をしていた。

 ニーナは錬金鋼を持たず、素手で様々な型を繰り出している。

 内力系活剄で肉体強化しながら、型に合わせて剄を一点に集中させたり、両足だけ他の部位より大きく強化したりと、ルシフと特訓するようになってからこういう動きばかりしている。

 ニーナが拳を地面に叩きつけると、地面にひびが入った。

 以前までのニーナなら、錬金鋼無しで地を割るなど出来なかったし、出来るとも思わなかった。

 こういうことが出来るようになったのも、ルシフとの特訓の成果だ。

 ニーナは身体を動かしてはいるが、頭は別のことを考えていた。

 ニーナは初めてルシフと特訓した日を思い出す。

 

 

 

 

 初めて特訓した場所は、野戦グラウンドだった。

 ルシフだけでなく、レイフォンもいる。

 

「アントーク、今日から俺が貴様とついでにアルセイフを鍛えるわけだが――」

 

「僕は連携訓練しかするつもりないけど……」

 

「貴様の話などどうでもいい。話の腰を折るな、アルセイフ」

 

 レイフォンはルシフから容赦のない言葉を言われて、少しむっとした。しかし、口には出さなかった。

 

「これから特訓の際は、錬金鋼の使用を禁じる」

 

「……お前と違い、わたしは錬金鋼無しで闘うなど出来ないぞ」

 

 正直、何を言ってるんだこいつはと思った。

 今まで自分がしてきた鍛練は、全て錬金鋼を使いながらやっていたからだ。

 ルシフは軽く息をつく。

 なんだその、一から説明せんと分からんのかと言わんばかりの目は……。

 

「――まあ、貴様のようなタイプは口で言うより、実際に見せた方が早いな」

 

 ルシフは右手の人差し指を上に向けた。

 自然と視線が人差し指にいく。

 そして、一瞬でその人差し指に膨大な剄が集まった。

 剄が、赤と白を混ぜたような強烈な光を放っている。

 

「剄の一点集中。貴様にこれが出来るか?」

 

「時間をかければ……」

 

 多分出来ると思う。自信がない理由は、一点集中をやったことが無いからだ。

 錬金鋼全体に剄を走らせたりする場合は多々あれど、錬金鋼の一部に剄を集めたことはない。

 

「はっきり言うが、剄量こそ武芸者の強さの基準であり、強くなるうえで避けては通れない問題だ。

しかし、剄量は生まれながらに大体決まっていて、成長すれば多少増えるが、劇的に剄量は変わらない。

ならば、どうすれば強くなれる?」

 

「限られた剄量をいかに効率良く使うか。

それが強さに繋がる――と言いたいのか?」

 

「その通りだ」

 

「しかし、錬金鋼使用禁止とは関係ないだろう?

錬金鋼を使用しながらでも、その特訓は出来る筈だ」

 

 ルシフはため息をついた。

 なんだその、手間のかかる奴だと言わんばかりの目は……。

 

「例外はいるが、基本的に武芸者は錬金鋼で闘う。

錬金鋼が剄量に耐えきれるなら、錬金鋼を使用した方が強いしな。

つまり、錬金鋼は武芸者にとって手足のようなもので、逆に言うなら手足のように扱えなければならない」

 

 わたしは頷く。

 錬金鋼を手足のように扱うために今まで型の特訓を散々やってきていたから、その重要さはよく分かる。

 

「なら訊くが、自分の手足ですら剄量の集中、制御が出来ん奴が、錬金鋼という自分とは全く異なった物質に、剄の集中や制御が出来るか?」

 

 この言葉でようやくわたしは、ルシフが言いたいことを理解した。

 自分の身体で剄のコントロールが出来ないのに、錬金鋼と合わせた剄のコントロールが出来るわけがない。

 錬金鋼を使用するのは、自分の身体の剄のコントロールをマスターしてからということなのだろう。

 それにしても、わたしはルシフがこんなことを言うのが意外だった。

 ルシフはこんな繊細な闘い方ではなく、豪快な闘い方しかできないと思っていたし、そっちの方がルシフらしいと感じていたからだ。

 

「ん? なんだその目は?」

 

「いや、お前らしくないと思ってな」

 

「まあ、そうだろう。俺の父の闘い方だからな。

だが、この闘い方が手っ取り早く強くなれる」

 

 ルシフから父という単語が出たのに、わたしは驚いた。

 あまりにもルシフは常識外れのため、全てルシフが独学で習得したものばかりだと思っていた。

 だから、少し気になった。

 

「ルシフの父親はどういう人なんだ?」

 

「弱い男だった。武芸者としても、人としても弱い男だった。

……俺の父親のことなど、別にどうでもいいだろう。

特訓、開始するぞ」

 

 父親のことを話していた時、ルシフの目が少し悲しそうな目をしていた気がしたのは、わたしの錯覚だろうか。それとも、願望だろうか。

 ルシフが人間らしい心を持っていてほしいという、わたしの――。

 

 

 

 ニーナはある程度錬金鋼無しでの剄のコントロールが出来るようになっていた。

 しかし、錬金鋼と合わせた剄のコントロールは今一つだった。

 第十四小隊の隊長に苦戦したのも、これが原因だ。

 ニーナは大量の汗をかきながら、錬金鋼無しで様々な型を繰り返しやり続ける。

 当然型に合わせた剄のコントロールをしながら。

 これをやりながら型の動作をするのは、はっきり言って今までやっていたわたしの特訓より圧倒的にキツかった。

 今まで自分がただ漫然と型の鍛練をしていただけだったことを、身を持って知った。

 ニーナの脳裏に未だに焼きついている映像は、アルシェイラに必死に立ち向かっていったルシフの姿。

 ニーナは信じられなかった。

 ルシフが負けたこともそうだが、それ以上にあんなにボロボロになりながらも立ち向かうのをやめなかったことが。

 正直ルシフらしくないと思った。

 善戦しようがぼろ負けしようが負けは負けであり、勝てないと分かった時点で、ルシフは上手く負けると思っていたからだ。

 ルシフは間違いなく頭が良い。

 しかしアルシェイラと闘っていたルシフは、負けると分かっていた筈なのに、愚直に正面から闘い、ボロボロになってもなお闘おうとした。

 

 ――分からない。

 

 圧倒的に実力が違う相手と闘っている時、ルシフは何を考えていたのか。

 何故上手く負けようとしなかったのか。

 あの闘いは、わたしとルシフの関係性を表しているように見えた。

 ルシフがアルシェイラで、わたしがルシフ。

 しかし、以前わたしの技が何一つ通じなかった時、わたしは身体に傷を負っていないのに、戦意を粉々に砕かれ、抵抗することすらできなくなっていた。

 ルシフのあの熱線は、間違いなく切り札だった筈だ。

 それを容易く防がれたにも関わらず、わたしと違いルシフは戦意を失わなかった。

 わたしとルシフで精神力に違いがあるのか、考え方に違いがあるのか、だが間違いなく精神面で差がある。

 

 ――何故なんだルシフ! お前は何故負けを分かっていてあんなになるまで闘った!? わたしに教えてくれ!

 

 それを知れば、自分に足りないものに気付けるかもしれない。

 

 ニーナは自身の疲労もかえりみず、ひたすら型の鍛練を続ける。

 そして、少しの休憩。

 休憩が終われば、再び型の鍛練。

 さっきからニーナは、ずっとそれを繰り返している。

 しかし休憩を挟んでいても、限界はおとずれる。

 ニーナは仰向けに倒れた。

 荒く息をしながら、ニーナは夜空を見上げた。

 夜空には月が浮かんでいるだけで、他に光を放っているものは何もない暗闇だけが広がっている。

 月を見ながら、ニーナは汚染獣が襲来した次の日に、ルシフとこの場所で特訓していた時のことを思い出す。

 

 

 

 

 この時の特訓に、レイフォンはいなかった。

 ルシフとただひたすら素手で組み手を行うという単純な特訓内容だったが、わたしははっきりと断言できる。

 この特訓内容は、汚染獣との闘いよりもキツく恐ろしいものだと。

 何度地面に叩きつけられたか分からない程ボコボコにされ、わたしは地面に仰向けで倒れている。

 

「だらしのない奴だな。俺は指2本しか使っていないというのに」

 

 ルシフは涼しい顔でわたしの横に立っていた。

 わたしはそんなルシフから視線を逸らして、夜空に浮かぶ月を見る。

 暗闇の中で圧倒的な存在感を放っている月は、手を伸ばせば届きそうな気がする。

 ルシフはわたしの視線に気付いたのか、頭上を仰ぎ見る。

 

「月――か。まさか手を伸ばせば掴めそうだとか、ベタなこと考えているんじゃないだろうな」

 

 思わず顔が熱くなった。

 ロマンチストとか、メルヘンチックな頭をしていると、きっとルシフに思われている。

 

「なんだ図星か。分かりやすい奴だ」

 

「うるさい」

 

「……月を掴んでみせようか?」

 

「…………は?」

 

 ニーナがルシフの言葉を理解するのには、数秒の時間を要した。

 月を掴む? 空に浮かぶ月を?

 いや、いくらルシフでもそれは無理だろう。

 しかしルシフなら、もしかしたら掴んでしまうのではないかと思ってしまう。

 

「それじゃあ、やるぞ」

 

 ルシフはじっと月を見る。

 わたしは自然と立ち上がり、ルシフが何をしようとしているのか、ルシフの方に視線をやる。

 ルシフは両手の平を合わせて器のような形をつくっている。

 そして両手の平が剄で輝き出し、その輝きが収まると、ルシフの両手の平の中には水が溜まっていた。

 剄を水に変化させたらしい。

 

「あッ――」

 

 その水を見て、わたしは思わず声をあげた。

 水に月が映っていたのだ。

 そして、ルシフはそのまま両手を握る。

 

「ほら、掴んだぞ」

 

 わたしは唖然としていたが、ルシフの言葉で我に返った。

 冷たい視線をルシフに送る。

 

「なら、掴んだ月を見せてくれないか?」

 

 ルシフは両手の平を開ける。

 握る際に水はこぼれていたため、当然手の中に月はない。

 

「掴めてないじゃないか」

 

「ん? もしかして空に浮かんでいる月を掴むとでも思っていたのか?

俺は空に浮かぶ月を掴むとは言っていないぞ」

 

 わたしは再び顔が熱くなった。

 ルシフはわたしの反応を見て、自分が言ったことが正しいのを悟ったらしい。

 

「くっ、はははははっ! アントーク、貴様面白い奴だな! あれを掴めるわけないだろう!」

 

 ルシフは爆笑していた。

 汚染獣を蹂躙している時のような残虐な笑いではない、まるで普通に友だちと談笑している時のような、少年らしい笑顔だった。

 こんな顔で笑えるのかと、正直驚いた。

 しかしそういう一面が見れたことは、純粋に嬉しかった。

 ルシフも人間なんだと思えた。

 

「お前なら、掴んでしまうんじゃないかと思っただけだ。

わたしだって、本気でそう思っていたわけじゃない。

月を掴めるわけないからな」

 

「――ニーナ・アントーク。確かに月そのものは掴めないが、月らしきものは俺が掴んでみせただろう。

浮かんでいる月をどれだけばか正直に掴もうと思っても、掴めやしない。

なんでもそうだ。出来そうにないことも、視点を変えれば簡単に出来る場合もある。

色々な角度から物事を考えてみろ。

たとえ不可能なことでも、可能にしようと挑戦し続けることが一番大事なことなのだ」

 

「挑戦し続けても、不可能な場合もある」

 

「そんなものは当たり前だ。だが、いつまでも手を伸ばさない奴と、手を伸ばし続けた奴とでは、同じ届かないでも意味合いが違う。

考えることこそが、人間の価値を高めるのだからな」

 

「ルシフ……」

 

 なかなか良いことを言うじゃないか。

 ルシフはごそごそと右手で、自分のポケットを探り始める。

 

「アントーク」

 

 ルシフが左手で、わたしの右手首を掴んだ。

 ルシフの顔が間近まで迫る。

 

「ル、ルシフ? い、いかん、いかんぞそんな未成年なのに――」

 

 ルシフはわたしの右手を上に向かせ、その上にお金を置いた。

 

「喉が渇いた。コーラ買ってこい」

 

 ……殴り倒すぞこら。

 

 初めて血管が切れそうになるくらい、怒りを覚えた。

 その後、お釣りは全部くれるというので、買いに行ったのは内緒だ。

 

 

 

 

 あの時のことを思い出して、ニーナは両手を握りしめる。

 本当にあの時は頭にきた。

 いや、思い出すべきなのは、そこじゃない。

 考えることが大事なのは、わたしにも分かっている。

 だが、わたしの頭で強くなれる鍛練の仕方といったら、これしかない。

 わたしが強くならなければならない。

 武芸大会が始まるまでに、ツェルニを守るためにわたしが強く――。

 わたしが強くなり、目の前の敵を冷静に対処できるようになれば、作戦を立てる余裕も、小隊員への指示もできるようになるだろう。

 そのためには、このまま立ち止まっている暇などない。

 武芸大会までの時間は一年を切っている。

 だからこそ――1秒たりとも無駄にはできないのだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆     

 

 

 それから2日後の夕方。

 ニーナ・アントークはゆっくりと目を開けた。

 周りを目線だけで見渡す。

 どうやら病室のようだった。

 ということは、つまり――。

 

「気がつきましたか?」

 

 レイフォンがニーナの近くの椅子に座っていた。

 

「昨日の深夜、外縁部で倒れていたのを僕と友だちが発見して、病院に連れて来たんです」

 

 あんな場所に、たまたま通りがかる人間などいない。

 

「そうか。お前、昨夜わたしを付けてたんだな」

 

「明らかに体調悪そうだったんで、心配で……」

 

 この場合、レイフォンを責めるのは筋違いだろう。

 そんな気遣いをさせてしまった自分に非がある。

 

「先輩は、どうしてそんな無茶したんです?」

 

「お前やルシフがいたからだ。

第十七小隊が、武芸大会で核の存在になれると思った。

わたしは勝ちたいんだ。お前たちを上手く活かせる隊長になりたいと思っている。

そのためには、強さがいる。常に落ち着いていられるだけの強さが」

 

 レイフォンは静かにニーナの言葉を聞いている。

 

「先輩、強くなりたいなら、剄息で日常生活ができるようになってください。

先輩が特訓してた最後の方、かなり剄息が乱れてました。

剄息が乱れるのは無駄があるってことです。

最初なら剄息を使えば、剄脈も常にある程度以上の剄を発生させるようになります」

 

 ニーナは目を見開く。

 ルシフは、そういうことは言わなかった。

 

「剄息で日常生活はかなり辛いですが、できるようになれば、剄量も、剄に対する感度も上がります。

剄を神経のように使えるようにもなります。

武芸者として生きたいなら、まず自分が人間という考えを捨ててください。

武芸者の身体構造は、人間とは違うんです」 

 

 レイフォンは、武芸者は人間じゃないという言葉にニーナがショックを受けると思っていたが、ニーナは大して驚いていなかった。

 

「……ルシフも、小隊でのポジション決めのテストの時に似たようなことを言っていたな。

お前は気を失っていたが」

 

「あ、そうなんですか」

 

 確かにルシフなら言いそうだなと、レイフォンは思った。

 

「先輩が強くなりたいなら、僕もこれからは協力します。

僕がやってた剄息の鍛練方法を教えるくらいしかできませんけど……。

先輩一人だけで強くなろうとする必要ないです。

第十七小隊のみんなで強くなればいいじゃないですか」

 

 ニーナはそう言われて気付いた。

 自分だけが強くなれば、全部上手くいく気がしていた。

 しかし、第十七小隊のみんなに自分の胸の内を打ち明ければ、レイフォンのように協力してくれるようになるかもしれないし、チームワークもより良くなるだろう。

 

「――そうだな。

わたしたちは、小隊だったな。

だから――全員で一緒に強くなっていこう」

 

 ニーナは微かに笑った。

 

「じゃあ、僕はこれで失礼します」

 

「ああ、ありがとうレイフォン」

 

 ニーナの言葉を背に受けながら、レイフォンはニーナの病室を出た。

 

 レイフォンは廊下を歩き、ルシフの病室の前に立つ。

 ルシフが入院している病院に、ニーナは運びこまれていた。

 レイフォンは軽くノックする。

 ついでにルシフのお見舞いをしてもいいかと考えたからだ。

 

「はい?」

 

 ルシフの声ではない。

 1週間くらい前に、2週間停学処分になったマイ・キリーの声だ。

 ちなみに停学処分の理由は、ルシフの病室で問題を起こしたから。

 マイ自身はラッキーと考えて、毎日ルシフの病室にいられるようになったと喜んでいる。

 

「レイフォンです」

 

「……はい、どうぞ。念威爆雷は全部解除しました」

 

 そう。マイ・キリーはルシフの病室に念威爆雷を仕掛けていた。

 それ自体に威力はなく、強い光と音を出すだけの設定にしてあるため、怪我はしないがかなりうるさい。

 それで患者から苦情が出たらしいが、マイは止めるつもりはないようだ。

 レイフォンは扉を開け、中に入る。

 ルシフが寝ているベッドの近くの椅子に、マイは座っている。

 その手にはぎゅっと錬金鋼が握りしめられていた。

 随分警戒されてるなと苦笑しつつも、レイフォンはルシフの傍にいき、ルシフを見る。

 ルシフは数日前に見た時と、姿は全く変わっていなかった。

 しかし数日前とは違い、ルシフの身体から剄が漏れている。

 この現象を見て、レイフォンはどうしてルシフが今まで目覚めなかったのか、全て悟った。

 

「大丈夫そうですね。では、失礼します」

 

「……お見舞いに来てくれて、ありがとうございました」

 

 マイが軽く頭を下げた。

 レイフォンは意外に思いつつも、一度頷いてそのまま病室を出る。

 そして足早に、カリアンや技術科の学生長との待ち合わせ場所へと向かう。

 今夜、ツェルニの進行方向にいる汚染獣を倒すために、レイフォンはツェルニの外に出る予定だった。

 

 

 

 それから数時間後、レイフォンは汚染物質遮断スーツを着て、その上から新型の戦闘衣を更に着る。

 新型というだけあって、ゴツゴツしてなくスマートになっている。

 動きやすいと素直に思った。

 レイフォンの傍には、ランドローラーと呼ばれるバイクに似た形状の乗り物が置いてある。

 汚染獣がいる場所までは、このランドローラーで向かう。

 レイフォンはランドローラーに跨がり、ランドローラーのエンジンをかける。

 そして、漆黒の景色の中にランドローラーを走らせた。

 ランドローラーで汚染されている地面を進む。

 予定では、汚染獣の場所までたどり着くのに約1日かかるらしい。

 ランドローラーを走らせながら、レイフォンはルシフのことを思い出していた。

 

 身体から溢れだしている剄。

 数日前に見た時は、剄は溢れていなかった。

 これらの情報から導き出したレイフォンの結論。

 

 ルシフは最低限生命維持に必要な力だけ残して、それ以外の力を全て自然治癒力にまわしている。

 身体から剄が溢れていたということはつまり、内側の傷は全て完治し、外側の傷を治している証拠。

 

(本当にキミは凄い奴だ。医者が1ヶ月はかかると言った傷を、僅か10日程度でほぼ完治までもっていくなんて)

 

 認めざるを得ない。

 ルシフ・ディ・アシェナは――常識外れの天才だということを。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆     

 

 

 

 レイフォンがツェルニを出発して数時間後の早朝。

 病室のベッドの上で、ルシフ・ディ・アシェナはゆっくりと目を開けた。




次回からオリ主本編復帰です。


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第13話 2つの選択肢

 目覚めたルシフは現状を把握するため、ベッドに寝ながら思考を巡らしている。

 原作通りなら、ツェルニの進行方向に老性一期が脱皮前の状態で待ち受け、それを事前に察知したカリアンがレイフォンに討伐を頼み、レイフォンが倒しに行く流れになる。

 問題は今がどの時系列か分からないこと。老性一期を倒した後なのか、それとも倒す前なのか、はたまた戦っている最中なのか。

 マイが病室にいれば現状把握は容易だが、生憎病室にいない。

 念威爆雷、念威端子は仕掛けられているから、ちょっと席を外しているだけだろう。

 原作では時系列がはっきりしていないため、最も現状把握しやすい出来事といえばニーナの入院。

 ニーナがいつ入院したか知れば、それで現状把握ができる。

 マイが帰ってきたら、まずそれを訊こう。

 そう結論したルシフは、左腕に刺さっている点滴の管を乱暴に抜いた。抜いた管は近くの台に置く。

 次に右腕を固定しているギプスを左拳で叩き壊し、右足のギプスも同様に破壊した。

 身体に付けられた余計なものを全て外すと、ルシフはベッドから下り身体を軽く動かす。

 身体を動かすと、自分の身体がかなり鈍ってるのを実感した。

 何日寝たきりだったか分からないが、この感じだと一週間は寝たままだった筈だ。

 まずは普段の身体のキレを取り戻すのが先決だと感じたルシフは、身体の動きを止めてベッドの上に座る。

 そして、ゆっくりとストレッチ。

 スローモーションのような遅い動作で、普段の感覚を思い出させるように身体を曲げたり伸ばしたりを繰り返す。

 それをするルシフの表情は、不機嫌そのもの。

 明らかにイラついた表情をしながら、黙々とストレッチを続ける。

 

(まさかアルシェイラ・アルモニスがツェルニに現れるとは……。原作通りになるよう最善の注意を払って事に当たってきた結果があれか)

 

 ルシフは血が滲むほど下唇を噛みしめる。

 何もできずにアルシェイラに蹂躙されるという醜態を晒した自分に、ルシフは腹が立って仕方がない。

 

 ――いずれ全てを統べる王が蹂躙されるなど、笑い話にもならん。

 

 今すべきはこれまでやってきた己の所業を見直し、原作を狂わす事を他にやっていないか確認すること。

 もしかしたらアルシェイラの出現の他にも、原作を狂わしている部分があるかもしれない。それを見つけ、できるなら原作の流れになるよう修正したい。

 

「ルシフ様!」

 

 病室の扉が開かれ、マイが息を切らして入ってきた。その手には果物や飲み物が入った紙袋を持っている。

 念威でルシフが目覚めたのを知り、慌てて戻ってきたのだろう。

 

「マイか。ニーナ・アントークはどうしてる?」

 

「……え、一昨日の深夜から入院してるみたいですけど」

 

「そうか。レイフォン・アルセイフは?」

 

「昨日の夕方、ルシフ様のお見舞いに来て、それからツェルニの皆さんには内緒でツェルニの外に行ったようです。念威で見ました。

何故出て行ったかは、分かりかねますが」

 

 ということは、原作通り汚染獣を事前に察知し、レイフォンが討伐に行く流れは変わっていないようだ。

 そして、汚染獣を討伐しに向かったのが今から数時間前の深夜。

 確か汚染獣の場所までは丸一日掛かる予定だった筈だから、レイフォンはまだ汚染獣と戦闘していない。

 

(ここで問題になるのは、俺の選択か。

ニーナ・アントークたちと共にアルセイフの援護にいくか。それとも、想定外の出来事に備えてツェルニから出ないか)

 

 しかし冷静に考えれば、人は自分の行動で原作と違った行動をするかもしれないが、汚染獣にそんなものは関係ないだろう。

 レイフォンが戦う汚染獣も、原作と同じ老性一期に違いない。

 今の自分は病み上がりで、せいぜい八割程度の力が限界。剄で傷は治せても、体力までは取り戻せない。

 老生一期は、鈍った身体を叩き直すのに丁度良い相手。老性一期を倒した時には、以前の身体のキレを取り戻している筈だ。

 元来ルシフは、戦うのが好きである。

 老性一期という極上の獲物を前に、ただ待っているだけなどできない。

 それっぽい理由を並べて、ニーナ・アントークと共にレイフォンの援護に行く選択を選ぶと決めた。

 決めたら、即行動。

 ルシフはストレッチを止め、ベッドから下りる。

 

「マイ、俺はアントークのところに行ってくる」

 

「ええ、どうぞ、いってらっしゃいませ。

どうせ私はお邪魔でしょうから、ここに残っています。

念威で見てますから、ご安心を」

 

「何をイラついている?」

 

「別にイラついてなんていません」

 

 そう言いつつも、マイはふいっとそっぽをむいた。

 これ以上何か訊いても無駄だと感じたルシフは、何も言わずに病室から出ていった。

 マイはルシフが閉めた扉を、じっと睨んでいる。

 

「……どうしてずっとお傍で看病していた私より、あの女の方を先に気にするのですか」

 

 そう口にした後、マイは慌てて首を振った。

 

 ――ルシフ様のお傍にいられるだけでも幸運なのに、それ以上の関係を望むなんて……。それでもしルシフ様に嫌われたら――。

 

 マイは深呼吸を何度もして、自分を落ち着かせる。

 この想いはずっと隠しておかないといけないものだ。

 今まで好意があると多々アピールしているが、具体的にどうしたいか、どうしてほしいかを言ったことはない。

 それを口に出せば、今までの関係が壊れてしまう気がするからだ。

 故にマイは、ルシフがマイに何かを望まない限り、自分から何かを望まない。

 自分はルシフ・ディ・アシェナの目であり、ルシフ・ディ・アシェナの一部。

 それでいい。それで、私は満足。

 ルシフ様を独り占めにしたいなんて、考えてはいけない。

 マイは肌身離さず持っている錬金鋼(ダイト)を、両手でぎゅっと力いっぱい握りしめた。

 

 

 病室の外に出たルシフは、ニーナ・アントークの病室に行こうとして、その病室を知らないことに気付いた。

 看護している生徒に訊けばいいと考え、とりあえずルシフは廊下を歩く。

 そこでタイミング良く、シャーニッド・エリプソンとハーレイ・サットンに出会った。

 

「ルシフ!? ようやく起きたのか」

 

「丁度良いところに来た。アントークが入院したと聞いて、見舞いに行ってやろうと思ったのだが、病室が分からなくてな。

アントークの病室はどこだ?」

 

 シャーニッドは虚をつかれたような表情を浮かべた。

 何かを考えるように数秒黙りこんだが、答えが出たらしく、ひとつ頷く。

 

「……そうだな。お前もいた方が都合が良いか」

 

「何? なんの話?」

 

「お前は分からなくていいんだ。

ルシフ、今から俺らもニーナのとこに行くつもりだから、お前も付いてこい」

 

 シャーニッドは歩くのを再開し、ルシフはその後ろに続く。話が呑み込めないハーレイは困惑した表情になっている。

 シャーニッドはしばらく歩くと、ある病室の前で止まる。

 ルシフは病室の扉に書かれている名前で、この病室がニーナだと分かった。

 シャーニッドは扉を軽くノックする。

 

「どうぞ」

 

 病室の中から、声が聞こえた。紛れもなくニーナの声だ。

 シャーニッドが扉を開け、3人ともニーナの病室に入った。

 ニーナは病室のベッドから上半身を起こして、『武芸教本Ⅰ』と題名がついた教科書を読んでいる。

 読んでいる教科書を閉じ、ニーナはシャーニッドたちに視線を向けた。

 その中にルシフがいることに気付くと、ニーナは瞳を輝かせた。

 

「ルシフ、目覚めたのか!?」

 

「ああ、心配かけたようだな。もうほとんどの傷は治した」

 

「それは良かった。お前を看た看護科の生徒が、少なくとも完治まで1ヶ月かかると言っていたから、その間寝たきりになるんじゃないかと思っていた」

 

「この俺を凡人と同じにするとは、そいつも見る目がない」

 

 ルシフは初めて会った時と同じ、自信満々の顔をしている。

 その顔を見て、ニーナは安堵した。

 グレンダンの女王に重傷を負わされ、落ち込んだり荒れたりするんじゃないかと懸念していたが、この様子なら大丈夫だろう。

 

「元気そうで安心したぜ。入院しても教科書読んで勉強なんざ、相変わらず真面目だねぇ」

 

「確かめたいことがあったんでな」

 

「そうかい。過労で倒れて、倒れても勉強する真面目っぷりには、俺も頭が下がる思いだ」

 

 シャーニッドは大げさに頭を下げた。その後ろでハーレイが苦笑している。

 その顔を見て、ニーナは内心で引っ掛かりを覚えた。

 ハーレイが無理に表情を作っているような感じがする。

 

「やることもないし、暇だから教科書を読んでいただけだ。

それにしてもハーレイ、どうしたんだ?」

 

 ニーナの言葉に、ハーレイは驚いた表情をした。

 

「どうしたって、別にいつも通りでしょ」

 

「そうか。それならいいんだが――」

 

「いや、よくねぇな」

 

 シャーニッドがニーナとハーレイの間に口を挟んだ。

 

「今日はな、確かにニーナの見舞いってのももちろんあるが、それ以上に話があってここに来たんだ」

 

「話だと?」

 

「そう。今話してたハーレイのことでな」

 

 目にも止まらぬ速さでシャーニッドは腰の剣帯から2本ある錬金鋼のうちの1本を抜き、戦闘状態に復元させた錬金鋼を、ハーレイの額に突きつけた。

 

「シャーニッド!? ルシフ、シャーニッドを止めてくれ!」

 

「ルシフ! てめぇも第十七小隊の一員なら、ハーレイの話を聞くべきだ! 邪魔するんじゃねぇ!」

 

「この俺に命令か? 随分貴様らも偉くなったものだ。アントーク、心配するな。もしエリプソンがサットンに危害を加えようとしたら、あの腕を叩き折ってやろう」

 

 ルシフから威圧的な剄が放たれる。

 シャーニッドは冷や汗をかきつつも、笑みを浮かべた。

 

「ちゃんと見極めてから動けよ」

 

「無論だ」

 

「それならいい。俺はずっと気になってることがある。あのでかい大剣、あれはレイフォンが使う武器なんだろ? あんなモン急に作りやがって、一体何をレイフォンにさせるつもりだ?

まあ、あんなモンが必要になる相手なんざ大体予想がついてるが、できればお前の口から聞かせてくれねぇか?」

 

 ニーナは黙りこんでいるハーレイを見る。

 ハーレイは諦めたようにため息をついた。

 

「ハーレイ?」

 

「……ごめん。本当にごめん」

 

 ハーレイは謝ると、しばらく口を開かなくなった。

 再び口を開くまでの間、ニーナは自分が呼吸しているかさえも分からなかった。

 そして、ハーレイが隠していた全てをニーナたちに打ち明けると、ニーナは驚愕した。

 ハーレイから全てを聞いたニーナは、このまま病室で寝ていることが許せなくなった。

 

「シャーニッド、ルシフ! レイフォンの援護に行こう! たとえ僅かな力だとしても、このまま何もしないなんてできない!」

 

「ああいいぜ。ルシフ、お前は?」

 

「まあ、俺も行ってやろう。ウォーミングアップに丁度良い相手だ」

 

「汚染獣を調整相手扱いできるのは、お前くらいだろうよ」

 

 しかし一番頼りになる味方でもある。

 ニーナとシャーニッドは、こういう場合のルシフの心強さに少し安心した。

 そしてニーナはベッドから下り、3人でカリアンがいるであろう生徒会長室に向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナたちは途中でマイと合流した。優れた念威操者は1人でも多い方がいいと考えてのことだ。

 そして4人で、生徒会長室に入室した。

 カリアンはルシフを見て、僅かに目を見開いた。

 

「ルシフ君、もう動けるのかい?」

 

「ああ。ここに来た理由は分かるな?」

 

「レイフォン君に、汚染獣を倒しに行ってもらったことだろうね」

 

「何故わたしたちに教えてくれなかったんですか?」

 

「レイフォン君自身が言ったのだよ。戦闘の協力者はいらないとね。

私は彼を信じ、君たちには伝えなかった」

 

「あいつはわたしの仲間であり、部下です。わたしには情報をもらう権利がある!」

 

 カリアンの前にある執務机を、ニーナは両手で思い切り叩く。

 今のニーナは剄が使えないので、叩いた両手がじんと痛んだ。

 カリアンは驚いた様子もなく、ただニーナを見ていた。

 

「ルシフ君なら分かるかもしれないが、汚染獣との戦いはかなりの危険をともなうそうだ。

武芸者でない私にはとうてい理解できないが、保身に回った瞬間に死ぬ世界らしい。

そんな戦場に覚悟ができていない人間を連れてきたところで無意味だと、彼は言った。

君にはあるというのかね? 常に死と隣り合わせの世界に身を置く覚悟が」

 

 ニーナは言葉が出てこなかった。

 一瞬の油断や安堵が死を招く世界。そんな世界にレイフォンは一人で――。

 過労の影響でニーナは剄を使えず、武芸者としてまるで使い物にならない。

 更にカリアンは畳み掛けるように言葉を続ける。

 

「君の体調は知っている。体調の悪い生徒を汚染獣がいる危険な場所に行かせるなど、責任者として許可できない」

 

「行きます」

 

 それは意地に近いものだった。

 今の自分にできる事は、本当に少ない。

 だが、頭によぎるのだ。

 みんなで強くなろうと言ったレイフォンの顔が。

 あの時のレイフォンは微かに笑みを浮かべていた。

 レイフォンは、自分が強大な汚染獣と戦う状況に置かれながらも、ニーナを元気づけにきた。

 ニーナはレイフォンの言葉に救われた気がしていた。何も見えなくなっていた自分の目の前に、光明が差した気さえした。

 そしてそんな言葉を吐きながら、一人で戦いに行ったレイフォンに怒りも感じていた。

 あいつを叱ってやらなくてはいけない。

 絶対に生きて戻ってきてもらわなくてはならない。

 ならばたとえ微弱だったとしても、自分が戦場に行くことでレイフォンの生存確率が上がるなら、行くべきなのだ。

 足手まといになるだろうが、囮くらいにはなれる。

 カリアンはニーナの顔を見て、何を言っても無駄だと悟ったらしい。

 

「……ふむ、仕方ないね。ランドローラーの使用許可を出そう。だが使用するにあたり、1つだけ条件がある」

 

「なんでしょう?」

 

「全員生きて戻りたまえ。君たちはツェルニに必要な人材だからね」

 

 当然死ぬつもりはない。

 

「了解しました!」

 

 ニーナは力強く返事をした。

 その言葉にニーナの意志が込められている。

 そして4人はツェルニの外に出れる外縁部に移動するため、生徒会長室を出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナとシャーニッドは旧型のゴテゴテした戦闘衣を着て、頭には目のラインだけ透明のフェイススコープと呼ばれる板状の物を嵌めた、フルフェイスのヘルメットを被っている。

 このフェイススコープに念威端子をリンクさせ、念威に視覚の代わりをさせるのだ。

 

「ルシフ、お前も着ろ」

 

 ニーナが戦闘衣をルシフに渡す。

 ルシフはその戦闘衣を受け取ると、戦闘衣を軽く放り投げ、戦闘衣が入っていたケースの中に投げ入れた。

 その行動にニーナとシャーニッドは目を見開いた。

 

「お前も来るんじゃなかったのか!?」

 

「いや、俺も行くが?」

 

「なら戦闘衣を着ないと外に出れないだろ!? ふざけてるのか!?」

 

「戦闘衣など必要ないッ! このまま俺は外に出れる!」

 

 ニーナとシャーニッドは唖然とした。

 そもそも自分たちがこの移動する都市で暮らしているのも、エア・フィルターの影響で汚染物質が都市内に入ってこないからだ。

 都市の外は汚染物質が蔓延していて、生身で外に出ようものなら、汚染物質に触れた部分から皮膚が焼けて腐ってゆくだろう。

 人間は都市の外を生身で生きるのを、この世界そのものに許されていないのだ。

 

「バカなことを言うな! 人間は都市の外で生きていけない!」

 

「それはいつの人間の言葉だ? 5年前か? 10年前か? 50年前か?

はッ、常に前進を続ける俺に、現状に屈した負け犬の言葉を聞かせるなよ」

 

 ルシフは嘲笑うような笑みを浮かべている。

 ルシフは制服のポケットから、透明なゴーグルのようなものを取りだし、それを両目のラインに沿って付けた。

 それはニーナたちの目の部分にあるものと同じ、フェイススコープだ。

 たとえ汚染物質を防げても、汚染物質が蔓延している外の視界は悪い。

 外を不自由なく移動するのに、念威はやはり必須である。

 

「マイ、フェイススコープとリンクさせろ。ついでにフェリ・ロスの念威端子もリンク。

フェリ・ロス、聞こえているなら繋げ」

 

『相変わらず偉そうに……』

 

 不機嫌を隠そうともしない声。

 不満をこぼしながらも、フェリは3人のフェイススコープに自身の念威端子をリンクさせた。

 マイも同様に3人のフェイススコープにリンクさせる。

 本来ならルシフだけサポートしたいが、全員で共有した方がより連携がしやすく、またリンクする念威操者が多ければ多いほど、広範囲をカバーできる。

 3人のフェイススコープに、鮮明な外の景色の映像が浮かびあがる。

 

「フェリ、それからマイ、リンクは良好だ」

 

『分かりました』

 

『……はい』

 

 ニーナが念威の通信機で、問題ないことを伝える。

 問題ないと確認した彼らは、ランドローラーの元へ行く。

 ルシフはサイドカーを外したランドローラーに乗り、ニーナとシャーニッドはサイドカーのあるランドローラーに乗り込む。

 シャーニッドが運転するようで、ニーナがサイドカーの方に乗った。

 フェリとマイはこの場にいない。別の場所で念威を使用している。

 ルシフは制服のままで本当に外に出るらしく、制服姿でランドローラーに跨がっている。

 ルシフの表情に不安はなく、真剣な表情で前を見据えていた。

 ニーナが手を上げ、ハーレイに合図した。

 ハーレイは頷き、外部へのゲートを開く制御室に移動する。

 そして少し経った後、外部のゲートが開き、昇降機によりランドローラーが地面に下ろされていく。

 強風が吹きつけている中、歩をゆっくりと進める都市の足が、周囲を取り囲んでいた。

 ニーナとシャーニッドはルシフの方を見る。

 もうすでにこの場所は汚染物質が吹き荒れている。

 一体どうやって生身で汚染物質から身を守るのか、2人は気になったのだ。

 ルシフの身体の周りは、剄が透明の膜を創っている。

 原理は、都市を覆うエア・フィルターと同じである。

 まず化錬剄を使用し、剄に大気中の不純物を通さない性質を持たせる。

 しかしこれだけでは、ルシフの身に纏っている膜は完成しない。

 何故ならこれだけだと、通り抜けられない汚染物質が剄の周りにまとわりつくようになり、その影響で戦闘衣を着たのと同じように、動きが鈍くなるからだ。

 それならば、戦闘衣を着た方がいい。

 ルシフは化錬剄を使った剄の膜を、衝剄を常時発生させられるようにして、通り抜けられない汚染物質を散らす効果も追加した。

 ルシフが身に纏う剄の膜は、化錬剄衝剄混合変化ともいうべき、全く新しい剄の境地の技。

 だからこそルシフは、生身で外の世界に出られる。

 ルシフに言わせれば、戦闘衣などという己以外のものに頼ることこそ弱さであり、己の力で切り開いてこそ強者であると考えている。

 ニーナとシャーニッドは本当に生身でも平気なルシフを見て、驚きと呆れが同時に込み上げた。

 生身で外に出れるのは、スゴいと思う。

 だが別に戦闘衣を着て、戦闘衣が破れた時の対策として使えばいいじゃないかとも思った。

 あんな膜を外にいる間維持し続けるのは、かなりの負担になるのではないだろうか。

 ルシフは天才だが少しズレていると、2人は思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 マイはルシフが生身で外に出る姿を見慣れているから全く驚いていないが、マイの隣にいるフェリはかなり驚いている様子だった。

 マイはルシフがあれを完成させるのに、一体どれだけ苦労したか知っている。

 

 

 あれはルシフが七歳の頃に完成させた技で、完成させるまでの間、ルシフはイアハイムの住人たちからバカにされていた。

 何故バカにされていたかというと、ルシフがバケツいっぱいに入った砂を、毎日少し離れたところから何十回とぶっかけられていたからだ。

 マイが砂をぶっかける役目をしていた。

 家の庭でやっていたことだが、隙間がある柵のため、外からでも何をしているかは見えた。

 ひたすらバケツに入った砂を浴びるルシフを見て、イアハイムの住人たちはバカにしたように笑った。

 

「またアシェナ家の問題児が可笑しなことを始めたぞ」

 

 と住人たちは口々に言い、見物にくる住人まで出てくる始末。

 しかしルシフは一切それらを気にせず、ただその場に突っ立ってバケツを睨み続けた。

 そして何ヵ月と月日が流れ、住人たちにも飽きられていた頃、今まで当たり前のようにルシフにかかっていた砂が、ルシフの剄の膜で止まるようになり、ルシフに砂が一切かからなくなった。

 これを見た住人たちは大層驚いた。

 こんなことができるのかと誰もが感心し、ルシフを天才だとほめた。

 バケツに入った砂は汚染物質の代わりであり、ルシフは生身で外に出れるようになるための特訓をただひたすらしていたのだと、ここでようやく住人たちは気付いたのだ。

 あまりの変わり身の早さにマイは子供ながらに呆れたが、ルシフはまるで気にしていなかった。

 何故なら、彼らごときにルシフが何を考えているのか理解できないのは当然のことであり、凡人は結果さえみせれば簡単になびくと子供ながらに知っていたからである。

 

 

 昔を少し思い出していたマイは、クスッと軽く笑った。

 あの時からルシフ様は何も変わっていない。

 常に最大限の努力をし続け、己を高めることに心血を注ぐ。

 そんなルシフの姿が、マイは誇らしかった。

 

 

 ルシフたちがランドローラーで移動を始めてから2時間後、急激な揺れがツェルニを襲い、マイは身体をふらつかせた。

 ツェルニが進行方向の汚染獣に気付き、慌てて方向転換した影響だ。

 

「やっぱり思った通りです」

 

 隣にいるフェリが呟く。

 マイはフェリの方を見る。

 

「今まで汚染獣って気付いてなかったんです。

多分汚染獣の死体か何かだと思っていたのでしょう」

 

 脱皮状態なら本当に微かな生体反応しかでないため、電子精霊が気付かなくても無理はない。

 

「それにしても――まさかあなたがこれ程までの念威の使い手とは気付きませんでした」

 

「実力を低くみせるよう言われていたので。手を抜いていたという意味でなら、私たちは似た者同士ですね」

 

 実力を低くみせていた理由はもちろん、ツェルニを調べやすくするために、自分に対しての警戒を弱める必要があったから。

 だからマイはこの前の汚染獣襲撃まで、ツェルニの生徒から大したことのない念威操者と思われていた。

 

「あなたは今のツェルニの進行方向を念威で索敵してください。わたしはレイフォンの方を見ます」

 

「分かりました」

 

 マイはツェルニが今進んでいる方向に探査子を飛ばし、危険がないか調べる。

 そして、予想だにしない結果に表情(リアクション)を消していたマイですら、顔を青ざめた。

 念威操者の表情が乏しい理由は、膨大な情報の内の一つ一つにいちいち反応していては、身がもたないうえに情報の処理が遅くなるからである。

 膨大な情報を処理する能力と人間が持ちえない感覚器官を多数同時に操る能力こそ、念威操者の質を決める。

 ただ念威量が多いだけでは、優秀な念威操者といえない。

 マイは当然それらの能力も高く、フェリをも凌ぐ念威操者であるが、それでもある一つの情報に反応してしまった。

 その情報は、ツェルニを今より深い絶望へ叩き落とす情報だった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはランドローラーに乗って、レイフォンの元へと移動している。

 ルシフの隣をシャーニッドとニーナのランドローラーも同様に走っていた。

 突如として、前方から獣のような咆哮が聞こえてきた。

 レイフォンが汚染獣に接触したのだろう。

 フェリの通信からも、レイフォンが汚染獣と戦い始めたことを伝えてきた。

 それにしても、凄まじい声量の咆哮だった。

 ルシフはさっきの咆哮が気になっていた。

 もしその場にいたら、鼓膜が破れていたかもしれない。

 もちろんその場合は剄で音を遮断すれば問題ないため、ルシフにとって脅威には程遠い。

 

『――ルシフ様!』

 

 マイが通信してきた。心なしか、切羽詰まっているような落ち着きのない声だ。

 

「何があった?」

 

 その声に何か問題があったらしいと悟ったルシフは、問題の内容を尋ねた。

 

『ツェルニが前方の汚染獣に気付き、進行方向を変えたのですが、その進行方向先に――きゃッ!』

 

「どうした!?」

 

『申し訳ありません。またツェルニが進行方向を変えて揺れが……。

汚染獣です! 3体の汚染獣が進行方向先からツェルニ目掛けて飛来してきています!

今ツェルニは進行方向を変えたので、汚染獣がツェルニに辿り着くまでまだ時間がありますが、汚染獣の方がツェルニより僅かに速く、必ず追い付かれます!』

 

『なんだと!?』

 

 ニーナの驚いた声が、通信から聞こえた。

 ルシフもニーナと同じ気持ちだった。

 しかしニーナとは驚いた内容が違う。

 ニーナは他の汚染獣の出現に驚いたが、ルシフは原作と違った流れに驚いた。

 まさかさっきの汚染獣の咆哮は、3体の汚染獣にむけての合図だったのではないか?

 都市の武芸者(邪魔者)を外に引っ張り出したと。好きなだけ人間を食べてこいと。

 そんな考えすらルシフの頭には浮かんだ。

 

 ――汚染獣が連携……? バカな!?

 

 自分の存在が原作の人の行動を変化させただけでなく、汚染獣を賢くしたとでもいうのか。

 しかしそれ以外に、原作と違った流れになる理由が思いつかない。

 

『ルシフ様、どうなさいますか!?』

 

 この分では、レイフォンの戦っている相手も老性一期とは限らない。

 レイフォンの援護にいき、速攻で老性体を倒してレイフォンたちとともにツェルニを襲っている汚染獣を倒すか。

 それとも、レイフォンの方はニーナたちにまかせて、自分は一刻も早くツェルニに戻って3体の汚染獣を倒しにいくか。

 

 ツェルニを絶対絶命の状況から救い出すための選択。

 ルシフはその決断を迫られている。

 ルシフは憤怒の表情で、ランドローラーに拳を叩きつけた。




ルシフは化錬剄使いです。
なので、発想次第でなんでもできます。
手や箸を使わず、剄だけでご飯も食べられます(この設定が本編に使われるかは未定)。


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第14話 老性一期

 ルシフはブレーキを使用しながら、身体を傾けつつハンドルを切った。

 ランドローラーが車体を傾けながら半回転する。その時車体が大気の汚染物質を巻き上げ、一瞬だけ大気の渦をつくった。

 

『ルシフ、いきなり何を!?』

 

 ニーナの声が通信機越しに届く。

 ルシフのランドローラーは、ニーナたちのランドローラーに対して逆向きになっていた。

 ルシフはランドローラーのアクセルを緩めず、砂塵を後輪で巻きあげながら、勢いよくニーナたちとは逆方向へ走り出す。

 ルシフは片手でハンドルを支えつつ、もう片方の手で通信機に触れた。

 

「俺はツェルニに戻り、ツェルニに迫っている汚染獣3体を片付ける! 貴様ら2人は予定通り、アルセイフの援護に行け!

フェリ・ロス! アルセイフの戦っている汚染獣は何期か分かるか!?」

 

『レイフォンが言うには、老性一期と!』

 

 ツェルニに迫る汚染獣3体と、今レイフォンが戦っている汚染獣1体。

 ここで1つ確実なのは、ツェルニに汚染獣を倒せる武芸者がいないということ。

 原作通りの老性一期なら、レイフォンはニーナやシャーニッド、フェリと協力して汚染獣の殲滅に成功している。

 つまり彼らがレイフォンに最大限のサポートをすれば、老性一期を倒せるのだ。

 レイフォンが戦っているのは原作通りの相手だと確信したルシフに、迷いはもうない。

 ランドローラーのアクセルを更に回し、限界までスピードを上げる。

 

『ルシフ!?』

 

 通信機から、ニーナの悲痛に似た叫びが聞こえた。

 ツェルニを本当に守るつもりはあるのかと、そう言外に言われた気がした。

 

「心配するな。貴様が守りたいものは、この俺が守ってやる」

 

 通信機越しに、ニーナが息を呑む気配を感じた。

 数秒間の静寂。

 

『……ルシフ、ツェルニに住む全員の命を守ってくれ』

 

 そう言うニーナの声は、静かだった。やさしく言い聞かせるようですらあった。

 ルシフの顔に不快の色が加わる。

 

「誰に向かって言っている。貴様はアルセイフの援護に集中しろ!」

 

『信じているからな、わたしは――おまえを!』

 

 そう言うと、ニーナからの通信が切れた。

 ルシフは舌打ちする。

 イラついた表情で、再び通信機に触れた。

 

「フェリ・ロスはアルセイフのサポートに集中しろ!

マイ、3体の汚染獣のツェルニ予想到達時間、俺のツェルニ予想到達時間を教えろ! それからツェルニと俺の合流予定ポイントの算出! フェイススコープにツェルニと合流できる最短ルートの表示急げ!」

 

『了解しました! 最短ルート及び、ツェルニとの合流ポイントフェイススコープに表示! 3体の汚染獣のツェルニ到達は今から約一時間半後、ルシフ様は汚染獣がツェルニに到達してから三百秒後に、ツェルニに到達します!』

 

「間違いないか!?」

 

『間違いありません!』

 

 ランドローラーの最大速度前提での到達時間算出――つまり三百秒より遅くなる場合はあっても、早くなることはない。

 最低でも三百秒は、今ツェルニにいる武芸科の生徒が汚染獣からツェルニを守らなければならない。

 三百秒でツェルニの人々は全滅しないだろうが、何の考えもなく汚染獣にぶつかれば、かなりの被害が予想される。

 今のツェルニに、汚染獣に対して適切な指示を出せる人間はいない。

 ならば、ルシフ自らがランドローラーに乗りながら、ツェルニの武芸科の全生徒に指示を出す。

 それ以外に、被害を抑える方法は存在しない。

 

「カリアン・ロス及びツェルニの全生徒に、一刻も早く汚染獣の情報を伝達!

それからツェルニの武芸科の全生徒を1ヶ所に集め、俺の通信を聞こえるようにしろ!

それができたら、俺に連絡!」

 

『はいッ!』

 

 マイの返事を聞いたら、ルシフは通信を切った。

 ランドローラーのハンドルを両手で握る。

 フェイススコープに表示されたルートを、ルシフはなぞるように疾走。

 さっきの通信の、ニーナからの言葉が頭によぎった。

 

「生意気なんだよ……この俺の心配をするなど!」

 

(俺はそんなに弱くみえるか? そんなに頼りなくみえるか? ふざけるなよニーナ・アントーク!)

 

 ルシフが一番許せないのは、自分の身を案じられることである。

 誰よりも優れていると信じて疑わない傲慢な彼にとって、気づかいや心配は侮辱であり屈辱。

 それらは弱者の証明であり、強者の自分には無縁のもののはずだ。

 

 ――ふざけるな。

 

 ルシフはランドローラーを握る両手に力を込めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナはどんどん遠くなっていくルシフの背を見ていた。

 

(あいつは頭が良い。きっと気付いている。ツェルニに住む全員の命の中に、おまえも含まれていることを)

 

 ルシフと通信機に叫んだ後のルシフの言葉。

 ニーナにとって、あの言葉は衝撃だった。

 何故なら、あの時のニーナはツェルニではなくルシフの方を心配していたからだ。

 ルシフは病み上がりであり、本調子じゃない。

 汚染獣3体に1人ではキツいだろう。そう思った。

 しかし、ルシフは自分のことには一切触れなかった。わたしはツェルニの方だけを心配していると思ったのだろう。

 ニーナはそれをさみしく感じた。

 圧倒的な個の力をもつ頭に、敗北など存在していない。勝って当たり前、圧勝こそ通常。

 汚染獣3体が相手でも、本調子でなくても、彼の頭に敗北の2文字はない。

 誰1人として、自分の心配をしていないと決めつけている。誰もが自分をみて、できて当然勝って当たり前と思っている筈。

 ルシフはそう考えているのだろう。

 だが、そんな考えは間違っている。

 どれだけ強くても、たとえ最強の存在だったとしても、ルシフを大切に想っている人間は、彼の心配をする。

 それは人の心がもつやさしさであり、人らしさ。

 そういう心が繋がりを創り、手と手を取り合うきっかけを形作る。

 ルシフが目指しているのは孤高。

 その先に、人間らしさはあるのか。

 誰の手も振り払い、一人で歩き続ける先にあるものは――。

 だからニーナは、少なくても自分は心配しているとルシフに暗に伝えた。

 おまえの心配をする人間がいるんだと、分かってほしかった。

 結果的には不機嫌にさせたようだが、べつに構わない。

 それでどれだけ嫌われようが、知ったことではない。

 好かれたくて他人を心配するわけではないのだから。

 

『ニーナ?』

 

 シャーニッドがニーナの方に、フェイスフルヘルメットで覆われた頭を向ける。

 ずっと後ろを見ているニーナを不思議に思ったのだろう。

 

「なんでもない。わたしたちはルシフの言う通り、レイフォンの援護に行こう」

 

 通信でシャーニッドにそう言うと、ランドローラーが唸り、猛然と走り出した。

 ルシフの予想外の行動で、アクセルを回すのをシャーニッドが忘れていたため、ランドローラーの速度は低下していた。その遅れを取り戻さんとする意思が、ランドローラーに乗り移ったようだった。

 

『そのことですが……レイフォンから伝言があります』

 

 フェリの無機質な声が、耳元でささやいた。

 ニーナはその先の言葉が何か、なんとなく分かっていた。

 レイフォンのことだ。きっとわたしたちが援護にきたと聞いて言う言葉は、ただ一つ――。

 

『援護はいらない。ツェルニに下がれだそうです』

 

 やっぱりか。

 ニーナの頭に熱いものが込み上げてくる。

 レイフォンの本質も、ルシフと同じだ。少なくとも武芸に関しては。

 誰の力も信じず、信じるのは己の力のみ。

 何故そうなる。何故なんでも一人で抱え込もうとする。

 確かに今の自分に剄は使えず、たとえ使えたとしても汚染獣を苦しめる存在になれないだろう。

 しかし、だからといって何もできないわけではない。

 人間には知能がある。考える力がある。

 役立たずの自分を、何かの役に立てる存在にできる可能性もあるのだ。

 レイフォンは、その不確定な要素を嫌う。戦場で曖昧なものに頼ることに、きっと抵抗がある。

 おそらくレイフォンは今まで、確定されたものの中でしか戦ったことがないのだろう。

 天剣授受者という、間違いなく自分以上の実力をもつ武芸者や、信頼できる念威操者。

 幼生体一匹倒すのにも四苦八苦するレベルの弱い武芸者と共闘など、したことないのだろう。

 だが、おまえは言った。

 みんなで強くなろうと。

 それは裏を返せば、おまえだって自分の弱さを克服したいと思っているのだろう。

 戦場で、己以外信頼できない自分が嫌なんだろう。

 いつか一緒に戦ってほしい。一緒に戦える仲間になってほしい。

 そんなレイフォンの心の叫びが、あの言葉から聞こえた気がした。

 なら、引き下がるわけにはいかない。たとえ微弱な力だったとしても、おまえを助ける力になるのだと、教えてやらなくてはならない。

 

「その言葉は聞けん。レイフォンはわたしの仲間だ。きっとわたしたちにも助けられることがある。

レイフォンと汚染獣の戦闘はどうなっている?」

 

『レイフォンが一方的にダメージを与えていますが、汚染獣の身体が硬く、なかなか深手を負わせられないようです』

 

「つまり長期戦になりそうなんだな?」

 

『……はい』

 

 前のように汚染獣を速攻で倒せない。

 それはつまり、レイフォンと汚染獣の力が互角であり、レイフォンが負ける可能性もあるということだ。

 汚染獣との戦闘で負ける、すなわち死。

 武芸者同士の闘いとは違う。

 

「フェリ。レイフォンがどこにいるか、ナビを頼む」

 

『何を言っても無駄ですか……』

 

「わたしは部下を見殺しにしない」

 

 通信機越しから、フェリがはぁとため息をつく音が響く。

 

『……分かりました』

 

 呆れているような、それでいて開き直りにも感じるフェリの声が耳を通りすぎた。

 いつものフェリだと感じる一方、ツェルニから遠く離れたこんな場所まで念威の力を届かせることができる、小隊訓練や対抗戦を一緒に闘ったフェリと似ても似つかない念威能力の高さが、ニーナを複雑な気分にさせた。

 自分の無知さ、自分がどれだけ部下を見ていないか思い知らされたような感覚。

 その感覚を振り払うように、ニーナは首を振った。今はそんなものに気を取られている場合ではない。

 それからニーナはお守り同然に持ってきた二本の錬金鋼(ダイト)に軽く触れ、正面を強張った表情で見据えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 大地が鳴動している。

 何かに呼応しているように。

 何に?

 決まっている。目の前のヤツに――だ。

 土煙を撒き散らしながら、蛇に似た胴体が迫ってくる。瞬く間に眼前いっぱいにヤツの口が広がった。

 レイフォンは鋼糸を近くの岩場に巻きつけ、すぐさまその場から離脱。

 離脱した際に、ヤツと目が合った。

 絶対に食い殺してやるという獰猛な瞳の輝き。ヤツにとって自分は、食事を邪魔した憎き存在。

 レイフォンの身体から汗が浮かんだ。

 老性一期――蛇のような胴体に、透明な大きな(はね)。その胴体の大きさは、レイフォンの十五倍はあろうかという大きさ。胴体を覆う鱗が、ヤスリのような荒々しさと鋭さをもっている。

 今のヤツに、立派な翅は片方しかない。もう片方の翅は剣で切り落とした。片方しかない翅が、陽光を反射させ七色に光り輝く。

 複合錬金鋼(アダマンダイト)――複合錬金鋼に取り付けられたスリットに複数の錬金鋼を差し込むことで、それぞれの錬金鋼が持つ長所を完全に残した状態で合成させる。

 レイフォンの手にある複合錬金鋼のスリットには、3本の錬金鋼が差し込まれている。

 剣3本分の切断力、大剣のリーチと錬金鋼3つ分の威力を持つ巨大な剣。更にその複合錬金鋼の柄尻には青石錬金鋼(サファイアダイト)が柄尻同士で繋がっていて、鋼糸も使用可能。

 それらを余すところなく扱い、なんとか老性一期と戦えている。

 もちろん、万能にみえる複合錬金鋼にも弱点はある。

 それは、3つの錬金鋼の復元状態の質量と重量も合わしてしまうこと。

 レイフォンの持つ今の複合錬金鋼は、3つの武器を同時に持っているのと同等の重量になってしまっている。

 相当な筋力の持ち主でなければ、自在に扱うなど夢のまた夢だろう。

 しかしその短所は、レイフォンにとって短所になりえない。

 故に、複合錬金鋼の投入は正解だったといえよう。

 レイフォンは老性一期の残っている翅に鋼糸を巻きつけ、鋼糸の上を疾走。

 大剣を振り上げ、残っている翅目掛けて斜めに斬る。

 翅から赤い液体が飛び散り、一瞬空に虹が生まれた。

 老性一期の残っていた翅が、地面に切り落とされる。

 もはや切れる胴体をもつ蛇といったところか。

 支えを無くした鋼糸がたわみ、レイフォンは老性一期の背に着地。

 老性一期が怒りの咆哮をあげ、左右に身体を振ってレイフォンを胴体から振り落とそうとする。

 鱗の一つ一つが尖った岩石のようなものであり、胴体の上に乗っても安全とはいえなかった。足が少しでも胴体から離れれば、一瞬にしてミンチになるだろう。

 レイフォンは予め離れた場所にある岩場に巻きつけておいた鋼糸を利用して、着地した瞬間に老性一期の背から跳んで離れていた。

 老性一期は身体をくねらせ、レイフォンを正面に捉える。

 そして、鋼糸を巻き上げながら離れた岩場に向かっているレイフォン目掛けて突進。

 老性一期は飛ぶことに特化した進化をしており、手足がない。

 そのため老性一期の攻撃方法は単純。

 ただレイフォンに向かって愚直に突進。そして噛みつく。

 翅があればもっと多彩な攻撃ができたかもしれないが、翅を落とされた老性一期に小細工はできない。

 しかし、だからといって容易く殺せないのが老性一期だ。

 先程からレイフォンは胴体への攻撃を試みているが、硬い鱗を貫けず、鱗は剥がせても胴体への直接的なダメージは皆無に近かった。

 錬金鋼の硬度が、老性一期の鱗の硬度に負けている。

 それは錬金鋼で闘う武芸者を絶望させるには十分な事実。

 だがレイフォンは別だ。

 攻撃が通用しないと絶望して、何か変わるのか?

 通用しないならば通用しないなりの戦い方がある。

 だからこそレイフォンは、柔らかい部位の翅を重点的に狙った。

 そして次に狙うは――。

 レイフォンは岩場を蹴り、斜め上へ反転する。すぐ間近まで迫っていた老性一期の頭上へと移動したレイフォンは、身体を半回転させて逆さになった。逆さのまま、張られている鋼糸に両足を乗せる。レイフォンは軽く両足を曲げ、岩場に頭から突っ込んだ老性一期を見据え、大剣を真下に構えた。

 次に鋼糸をバネに超高速で老性一期に近付き、大剣を突き立てる。

 大剣は真っ直ぐ老性一期の右目を貫き、老性一期は激痛に身を悶えさせた。

 すぐさま大剣を抜き、旋剄で離脱。離脱しながらも、老性一期から視線を外さない。

 老性一期の右目から噴水のように噴き上がった鮮血。赤い液体が老性一期の胴体を流れていく。

 激痛で暴れ回っている老性一期に旋剄で一瞬近付き、胴体の鱗の繋ぎ目を切りつけて再び旋剄で戻る。

 それを何度も繰り返し、老性一期の胴体にも少しずつ傷を与えていく。

 やがて胴体からも血飛沫があがり、胴体の至るところに切り傷が生まれていた。

 老性一期は更なる激痛に堪らず尻尾を振り回して、レイフォンを近付けまいとする。

 どうやら老性一期は激痛に耐えるのに必死で、自分を見失っているようだ。

 レイフォンは近くの岩場に飛び乗り、深呼吸をする。

 改めて身体全体に活剄を流し、疲労を少しでも軽減させる。

 何分ぶり、何時間ぶりかすら分からない休憩。

 何も知らない者がこの戦いを見れば、自分が圧倒しているように見えるのだろうか。

 とんだ間違いだ。

 レイフォンは複合錬金鋼に視線を移す。

 剣身にはあちこちに細かいひびが入っており、スリットにセットされている錬金鋼の一つが壊れて煙を上げていた。

 いくら継ぎ目を狙っていても、その部位は鱗より少し刃が入りやすいというだけで、硬いのに変わりはない。

 何時間も手入れせずに剣を振り続けていれば、刃こぼれもする。

 錬金鋼には状態維持能力があるが、それにだって限界がある。

 いわば状態維持するために、錬金鋼一つを犠牲にせざるを得なかったといってもいい。

 レイフォンはスリットから、煙を上げている錬金鋼を取り出し捨てた。

 複合錬金鋼から一つ分の質量と重量が失われ、随分軽くなった武器に違和感を感じながらも、レイフォンは再び複合錬金鋼を握り直す。

 ヤツが気付くまで休憩に専念しようと決めたレイフォンの耳に、久し振りの声が聞こえた。

 

『フォンフォン……今いいですか?』

 

 フォンフォン――ツェルニから汚染獣の場所までの移動中の会話でフェリが付けたレイフォンのあだ名。

 フェリがレイフォンから先輩と呼ばれるのに不満を感じ、レイフォンの女友達がレイフォンをあだ名で呼んでいるから、お互いにあだ名を決めようとフェリが言い出したのが始まりだった。

 戦闘に必要なもの以外を排除していた頭が、他の機能を取り戻そうと急速に活動しているのを感じる。

 あれの会話の最後は、無事にツェルニに帰ってきたら、二人きりの時だけしかこのあだ名で呼ばない――だったか。

 フォンフォンなんて恥ずかしい名前で呼ばれるくらいなら何でも約束できると思っていたが、そればかりは返事できなかった。

 しかしフェリが自分の身を心配しているのは痛いほど伝わった。

 レイフォンは老性一期から視線を逸らさず、通信機に軽く触れる。

 

「ええ……どれくらい時間経ちました?」

 

『汚染獣との接触から5時間程です』

 

「そうですか」

 

『それから……隊長たちのことで……』

 

「隊長がどうしたんです? 入院中に何かあったんですか?」

 

『……いえ、あなたの援護に行くと、隊長たちはツェルニを出ました。

それをフォンフォンに伝えたら、援護はいらない、ツェルニに下がれとフォンフォンは言いましたが……覚えてませんか?』

 

 汚染獣との戦闘で、他に気を取られていては瞬殺される。

 おそらくその情報を聞いた時に、反射的に口にしていたのだろう。

 そのため、記憶には残っていない。

 

「……すいません、覚えてないです。それで隊長たちは――」

 

 今まで痛みでレイフォンを視界から外していた汚染獣が、レイフォンの方に身体を向けた。

 

 気付いた――。

 

 フェリの声に耳をかたむけていた頭が瞬時にそれを排除し、再び戦闘に必要な感覚だけを研ぎ澄ませていく。

 もうフェリの声を聴く余裕はない。

 複合錬金鋼への剄の走りが鈍くなってきている。この武器の限界が近い。

 

 ――あと何回切れる?

 

 汚染獣に集中しながら、自分の状態を確認する。

 このまま長期戦を続けていたら、いずれこっちが戦えなくなる。

 勝負をかけないといけない。

 複合錬金鋼がダメになる前に、ヤツに決定的なダメージを与えなければ――。

 汚染獣の動きを注視していたレイフォンは、今までと違う動きをし始めた汚染獣に首を傾げた。

 自分を見ていないような、自分以外の何かに気を取られているように、あらぬ方を見ている。

 その視線の先を目で追い、汚染獣が気を取られた正体を悟った。

 サイドカーが付いたランドローラー。レイフォンの乗ってきたものではない。

 フェリが何を言いたかったか理解したレイフォンは、岩場を蹴り高速でランドローラーに近付く。

 それと同時に老性一期もランドローラー目掛けて突進。

 身体の傷を治すための栄養源の乱入。その事実が、老性一期の頭からレイフォンの存在を一時的に掻き消した。

 レイフォンは鋼糸を展開させ、老性一期の頭に巻きつける。

 ランドローラーに乗っているシャーニッドが、銃を乱射して老性一期を攻撃しているのが見えた。

 その隣にいるニーナが、自分の方を見ている。

 レイフォンは鋼糸を利用し、突進してくる老性一期の正面に跳ぶ。

 そして大剣を勢い任せに振り下ろす。

 その斬撃は老性一期の額の鱗を砕き、額を割った。だが決定打にはなっていない。

 老性一期の額から血飛沫が噴き上がり、老性一期が激痛に再び悶える。

 レイフォンはニーナたちのランドローラーに着地。ランドローラーはすぐさま反転し、老性一期から逃げるように距離をとり始めた。

 レイフォンは複合錬金鋼を見る。またも錬金鋼の一つが煙が上げていた。

 複合錬金鋼のスリットから、その錬金鋼を破棄。

 もはやただの大剣に成り下がった複合錬金鋼と、柄尻にある鋼糸。

 ニーナたちを救うために無理のある攻撃をした代償が、錬金鋼一つを失うという痛手。

 

「なんでこんな場所までッ!? 死にたいんですかッ!?」

 

『レイフォン! おまえを助けにきた!』

 

 ニーナの声を聞いたレイフォンは、一気に頭に血が上った。

 助ける? 剄も使えないのに? ふざけるなッ!

 気持ちだけでどうにかなるほど、汚染獣は甘い相手じゃない。

 覚悟だけで倒せるほど、汚染獣は柔な存在ではない。

 力もないのに、この強大な相手に一体何ができるという?

 戦場ではどうしようもなくリアリストになるレイフォンの目には、ニーナたちは戦ううえで邪魔なお荷物にしか見えない。

 

「ふざけないでくださいッ!」

 

『ふざけてなどいない! 本気だ!』

 

「助けなんかなくったって……僕一人で倒せますよッ!」

 

『そんな武器で倒せるのか?』

 

「――ッ!」

 

 レイフォンは息をつまらせた。

 

『その武器、もう限界なんじゃないのか? 勝算はあるのか?』

 

「……勝算なら、あります。さっきの割った額にもう一撃入れて、脳に直接衝剄をぶつければ……」

 

『確実にできるのか?』

 

「それは……」

 

 正直、難しい。

 激しく動き回る汚染獣にピンポイントで攻撃を加えるのは至難の技だ。

 

『わたしにあの汚染獣の情報を教えろ。おまえの状態も隠さずにな』

 

 力強い言葉だった。

 何かが胸の内を熱くさせた。

 力はないはずだ。なのにどこか頼もしく感じ始めた自分に戸惑いながらも、少しも嫌な気分ではない。

 汚染獣は飢餓状態。残り攻撃回数は数回等。

 様々な情報を聞き、フェリにも色々訊いていたニーナは、考えがまとまったのか一つ頷いた。

 

『よしッ! フェリ、さっきわたしが言った場所までナビを頼む!』

 

『……了解です』

 

『レイフォン、おまえは目的地まで汚染獣からランドローラーを守れ。できるな?』

 

「それくらいなら、鋼糸でなんとかなります」

 

『よし、任せたぞ』

 

 不思議と身体に言葉が染み込んだ。

 熱が全身を駆け抜けていく。

 力がないのに、戦場に立つのは無駄だと、足手まといなだけだと思っていた。

 だが今は――こんなにも頼もしく感じる。

 さっきまで、老性一期に勝てるかどうか分からなかった。劣勢だったかもしれない。

 しかし今は――負けるなんて微塵も感じない。

 

 ――不思議な気分だ。

 

 無意識に笑みがこぼれた。戦場で笑みなど、浮かべたことが一度でもあっただろうか。

 作戦は単純なものだった。

 汚染獣を絶壁で阻まれた渓谷に誘き寄せ、渓谷に汚染獣がきたところでシャーニッドの狙撃とフェリの念威爆雷で左右の絶壁を崩して大量の岩を汚染獣に浴びせる。

 そうして動きを封じたところで、レイフォンが額に一撃を入れる。

 ニーナは汚染獣を誘き寄せるエサに自らなった。

 飢餓状態の汚染獣は、目の前にエサがあれば飛びつくという情報から判断したことだった。

 誰もが役割を与えられた作戦。

 知恵を絞った第十七小隊が、本能に任せるだけの汚染獣に当然遅れをとるはずがなく――。

 レイフォンの大剣は見事に老性一期の額に突き刺さり、老性一期は断末魔の叫びを渓谷に轟かせた。




文章が安定しないのが、毎回の悩みです。


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第15話 武芸者であるという意味

 レイフォンたちの老性一期討伐成功から数時間前、ルシフにマイから通信が届いた。

 

『大講堂に、武芸科全員集合しました! 汚染獣接触予定時間から、一時間前です! フェイススコープに大講堂の映像表示します!』

 

 僅か三十分で武芸科全員集合できた一番の理由は、昼時で全員授業を受けていて、集合命令を最短時間で伝達できたからだ。

 ルシフのフェイススコープ右端に、小さく大講堂の映像が映し出された。

 誰もが沈んだ表情をしている。涙を流している者も少なくない。

 大講堂のモニターに、汚染獣3体が飛行している映像が映し出されているのも見えた。

 ツェルニに向かっている汚染獣の情報を、偽りなく伝えられている。

 それをルシフは確認した。

 

 ――士気が下がりきってる。

 

 こんな状態で戦っても無意味。

 戦う価値がない。

 誰も前を向いていない。

 誰もが未来から目を背けている。

 

「愚か者どもが……!」

 

 ルシフは怒りをあらわにして吐き捨てた。

 

『見てもらっている通り、ここツェルニに汚染獣3体が接近中だ。

マイ君、汚染獣の詳しい情報を教えてくれ』

 

 大講堂の映像ではカリアンが壇上に立ち、演説を始めた。

 

『はい!』

 

 大講堂のモニターに、マイの姿が映る。

 

『汚染獣3体の内、1体は雄性二期、2体は雄性一期となります。

およそ一時間後に――』

 

『ちょっと待ってくれ!』

 

 武芸科の上級生が、マイの報告の最中に口を挟んだ。

 

『それより! レイフォン・アルセイフとルシフ・ディ・アシェナが不在とはどういう事だ!?』

 

 集合命令には、汚染獣がきているという情報の他に、ルシフとレイフォンがツェルニにいないという情報も入っていた。

 ツェルニにいる全生徒がそれらの情報を知っている。

 

『彼ら二人は、別の汚染獣討伐のため外にいってもらった。

ルシフ君は今、ツェルニに戻っている最中だ』

 

『肝心な時にいないのかよ、アイツはッ!』

『ツェルニがこんな状況になったのも、アイツが深く考えずツェルニを離れるからだ!』

『ほんと、ふざけないでよッ!』

 

 大講堂にいる武芸科の生徒たちが口々に不満をぶつけ始めた。

 その不満の殆どが、ルシフに対してである。

 普段偉そうなくせに、肝心な時に役立たないのか。

 もう少し考えて行動しろよ。

 バカが……。

 戦う以外の価値もないのに、不在とか有り得ねぇよ……等の言葉が通信機から聞こえてきた。

 現状の不満を、都合よく生まれた戦犯に全てぶつけることで、心の安定を求めているのだ。

 

『全員落ち着きたまえ! そんなことを今言ったところで、なんの意味もないだろう!』

 

 カリアンが必死に叫び、武芸科の生徒たちは次第に静かになっていった。

 カリアンは息をつき、壇上から武芸科の生徒全員を見渡す。

 

『……この集合を提案したのは、ルシフ君だ。彼は被害を最小限に抑えたければ、自分に従えと言っている。

実際彼は汚染獣との戦闘経験者であり、汚染獣に対して有効な戦術や弱点を知っているだろう。

時間も残り少ない。マイ君、ルシフ君をモニターに表示してくれ』

 

『はい!』

 

 大講堂のモニターに、ランドローラーに乗っているルシフが表示された。

 ルシフの周囲を飛んでいる念威端子を中継機にし、そこから撮られている映像をモニターに映し出しているのだ。

 ルシフの姿を見た武芸科の生徒たちは、息を呑んだ。

 生身で外に平然といるからだ。

 驚きと戸惑いの声が大講堂を埋め尽くす。

 しかし、声はそれだけではなかった。

 

『よくツラだせたなァ! テメェのせいでこんなことになってんだろうがッ! 偉そうにモニターなんかに映らずに、とっとと帰ってこいよ!』

 

 武芸科の上級生の声だった。

 一旦カリアンに静められたが、ルシフを見た途端に不満が再び爆発したのだろう。

 一人こういう人間が出てくると、必ずそれに便乗する輩も出てくる。

 

『そうよ! 私たちみたいな学生に、あんな奴らの相手は無理よ!』

『そもそも一年が偉そうにしゃしゃり出てくんなよ!』

『どうせ遊び半分で外に飛び出したんだろ!? そんな根性だから、こんな事態になるんだ!』

 

 不満を口にしていない武芸科の生徒は、少し青い顔でモニターのルシフを見ている。

 ルシフがこれらの罵声にキレたりしないか心配なのだ。

 ルシフは暫く無言だった。

 無言なのを良いことに、武芸科の上級生たちは罵声を浴びせ続ける。

 ルシフの性格上、無言なのは自分の非を認めているに違いないという考えから、罵声は更にヒートアップする。

 

「……ははッ、はははははは、あははははッ! アッハッハッハッハッ! フハハハハハッ!」

 

 その罵声を聞きながら、可笑しくて仕方ないという表情で、ルシフが笑い始めた。

 己に迫っている危機から目を逸らし、この場にいない者を非難して恐怖を紛らわすことの、なんと愚かで滑稽なことか!

 その笑い声を聞き、上級生が更に罵声を激しくすると、ルシフも同様に高らかに笑い続ける。

 やがてそんなルシフの姿が恐ろしくなったのか、上級生の罵声は徐々に消え、大講堂は静まりかえった。

 モニターの中で笑い続けるルシフの笑い声だけが、大講堂に木霊(こだま)している。

 もはやそれを不気味に思わない生徒はいない。誰もがルシフから視線を逸らした。

 

「ハハハハハ! ハッハッハッハッハッ! ククク――はぁ……はぁ……いかん、笑いすぎて腹が痛い。

――ん? どうした? もっと罵れ。もっと非難しろ。気が済むまで罵声を浴びせてこい」

 

 ルシフが不敵な笑みを浮かべて、大講堂の武芸科全員に向けて言った。

 罵倒されている本人にもっと罵倒しろと言われると、罵倒することに対しての無意味さを思い知らされ、途端に罵倒する気を無くすらしい。

 大講堂の全生徒は黙りこくったままだ。

 罵声を言う気力も無くした上級生を一通り見渡し、ルシフは満足気に頷く。

 

「ふむ、なら茶番はもう終わりにして、本題に入る」

 

 大講堂の生徒たちは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 自分たちの生死を分ける作戦。

 汚染獣に対してどう戦うのか、それは自分たちに可能なのかどうかと、彼らの胸中は不安と恐怖でいっぱいだ。

 

「まず大前提として、汚染獣を倒すなど考えるな。

貴様らの誰にも無理だ」

 

 僅かな希望すら握り潰すような、そんな慈悲の欠片もない言葉。

 喉元に刃を突きつけられたような錯覚すら覚える絶望感。

 大講堂の生徒たちは顔を一様に俯けた。

 分かっていたことだ。

 汚染獣――あの凶悪な捕食者に為す術もなく食われるのは、理解していた筈だった。

 しかし言葉にして言われると、かなり心にくる。

 誰もが顔を俯けたが、その内心は様々だった。

 強く拳を握りしめ、己の未熟さを悔しがる者。

 歯を食い縛り、それでも戦ってやると闘志をあらわにする者。

 身体を震わせ涙を流し、心を恐怖に折られた者。

 

『それじゃあ、どうにもならないじゃないか!

お前が来るまで逃げ回れとでも言うつもりか!?』

 

 武芸科のある生徒が涙ながらに叫ぶ。

 ルシフはその言葉を嘲笑(あざわら)った。

 

「逃げ回る? ハッ、冗談だろ?

武芸者は都市の守護者。たとえ勝ち目がなくとも、逃げるなど許されないし、この俺が許さない。

マイ、汚染獣から逃げようとした武芸科の生徒は、片っ端から切り捨てろ。

貴様らは汚染獣と戦って死ぬのだァ!」

 

『逃亡者は殺せ――ということですか?』

 

「その判断はお前に任せる」

 

『了解しました』

 

 ルシフとマイのやり取りが終了した直後、大講堂が生徒たちの怒声で震えた。

 

『っざけんなよテメェ!』

『この鬼畜野郎がッ! 地獄に落ちろ!』

『命をなんだと思ってるんだ!』

 

「――黙れッ!!」

 

 たった一言。

 ルシフがたった一言言っただけで、大講堂は水を打ったように静まりかえった。

 モニター越しからも殺気が届いてくるような、強烈な一喝。

 

「貴様らはいつも、授業で当たり前のように言われている筈だ。

都市が危機に陥った時、どれだけ絶望的でも戦えと。

それが都市から優遇されている理由であり、貴様らの存在意義だと。

負けそうだから、死にそうだから戦いたくない? その言葉を、シェルターに避難している生徒たちの前で言ってみろッ!

剄を持たない生徒たちは、貴様らしか頼れるものがないのだ。貴様らを信じることしかできないのだ。戦いたくても、自分の力で生きたくても、それを生まれながらに許されていないのだ。

貴様らの命には、そういう奴らの命も上乗せされているんだよ」

 

 そういう人間の気持ちを考えれば、逃亡など許せるわけがない。

 ルシフは鬼畜で外道な性格であるが、最低な性格ではない。

 だからこそ、彼は『王』の素質がある。

 人の心を揺さぶり、惹き付ける魅力を持っている。

 実際大講堂にいる生徒たちは、ルシフの言葉に逃亡する気持ちを奪われた。

 逃げようと考えていた者たちはみな己を恥じ、汚染獣に立ち向かう気になっていた。

 大講堂の生徒は全員顔を上げ、モニターのルシフを見ている。最初の時のように、危機から目を逸らしていない。

 しっかりと武芸科の全生徒が前を向いた。

 これで、戦う意味がある。

 

 ――あとは仕上げをするだけだ。

 

 ルシフは唇の端を吊り上げた。

 

「理解したようだな。そう! 貴様らに逃亡の道などない! 戦うしか、貴様らに生きる道はない!

汚染獣到着から三百秒後に、俺はツェルニに到着する。

生きたい奴は、その三百秒を必死に生き抜け! 三百秒生き抜いたなら、この俺が貴様らの危機を救ってやる! この俺が、汚染獣を皆殺しにする!」

 

 大講堂に、ルシフの力強い声が響き渡る。

 この危機を乗り切った時、武芸科の連中は俺を認め、俺を支持するようになるだろう。

 もっとじっくりとツェルニをカリアン・ロスから奪い取る予定だったが、予想外の展開が自分にとって良い方に転がった。

 ルシフはこの状況を最大限利用するつもりでいる。

 大講堂の生徒たちは己を奮い立たせるため、力の限り雄叫びをあげた。

 

『やってやんよクソ野郎がッ!』

『必ず生き抜いてやる!』

 

 そんな彼らを見て、ルシフは笑みを深くする。

 

「よしッ! なら射撃部隊は外縁部の剄羅砲の整備及び射撃準備!

残りは小隊長を中心に、それぞれバランス良く戦力を割り振れ!

あと最後に言っておくが、口頭でどれだけ作戦を伝えたところで、汚染獣を前にすれば恐怖と緊張で全て頭から飛ぶだろう」

 

『なら、どう戦えばいい!?』

 

「……念威操者のマイ・キリーを最前線に送り込む。

マイは汚染獣との戦闘を3回経験している。マイの戦いを参考にして、臨機応変に汚染獣に対応しろ」

 

 このルシフの言葉には、大講堂の誰もが絶句した。

 念威操者が最前線に立つなど聞いたことがない。

 そんな心の声が聞こえたのか、ルシフは言葉を続ける。

 

「言っておくが、マイは俺とアルセイフを除いたツェルニの武芸者全員を相手にできるくらいの、武芸者としての実力がある。

イアハイムの出身者なら、よく知っていると思うが?」

 

『……確かにルシフの言う通りだ。マイは武芸者としても戦える念威操者なんだ』

 

 ダルシェナが重苦しい表情で、そう口にする。

 ダルシェナが冗談を言うタイプでないことを周りは重々承知していたため、生徒たちはルシフの言葉が真実であると判断した。

 

「納得したようだな。マイの戦い方をよく見ておけ。

それから最後にもう一度言っておく。汚染獣を倒そうなど絶対に考えるな」

 

 大講堂の生徒は頷き、全員外縁部の方を目指して走り出した。

 そして数分が経つ頃には、大講堂には誰もいなくなっていた。

 

「マイ、汚染獣3体が相手だ。やれるか?」

 

『やれます! 私はルシフ様の『目』ですから!』

 

「……頑張ってこい。すぐに俺も行く」

 

『はい! 期待して待ってます!』

 

 その会話を最後に、通信を切った。

 誰にも自分のことが見えなくなったと確認してから、ルシフはギリッと奥歯を力の限り噛みしめる。

 ツェルニの武芸者がもう少しマシだったら、マイを前線に送るなどしなかった。

 マイは武芸者に対しては高い戦闘力を誇るが、汚染獣に対しての戦闘力は皆無といっていい。

 しかし――だからこそその戦いを見れば、ツェルニの武芸者の士気は高まる。

 活剄で肉体強化できないマイが、汚染獣を上手くあしらっているのを見れば、自分もやれるんじゃないかという自信をもつ筈だ。

 もしかしたらマイは、この戦いで死ぬかもしれない。

 そんなギリギリの戦いに、『王』としては送り込まざるを得ない。

 私情を排除し、客観的にみて最善と思われる采配をとることが、『王』として出来なければならないことなのだ。

 だが本心は――。

 

 ――頼むから傷一つ負わないでくれ。武芸科の奴らを盾にしてでも生き延びてくれ。

 

 そんな言葉は、口が裂けても言えない。

 ルシフは『王』を目指したその日から、己の全てを捨て去った。

 己自身の望みも、本心も、守りたいものも、己を全て『王』という存在に捧げた。

 故に彼は、心の底から守りたいものでも、それを自ら手放す。

 どれだけ大切に思っていても、それを壊すことが『王』として必要ならば、躊躇なく壊す。

 それこそが、ルシフの『王』としての覚悟。

 だからこそ――彼は誰からも本心を理解されない。

 彼自身が救われることは、彼が死ぬまでないのだ。

 

「待っていろよ、マイ。一秒でも早く、お前のところに行くからな」

 

 微かな呟きが、ランドローラーの轟音に掻き消された。

 ルシフは全力でツェルニを目指す。

 表向きはツェルニを救うために、本心では――マイを傷付けさせないために。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニの建造物の中でも一番高い建造物。その屋上にフェリとマイの二人がいる。

 

「……なんとも思わないんですか?」

 

「え?」

 

「念威操者を前線に送る――そんなの聞いたことないです。しかも汚染獣3体を相手にするって……勝てる自信があるんですか?」

 

「勝てません。勝てなくていいんです。その役目はルシフ様が――」

 

「だからッ! あなたはその引き立て役に選ばれたんです! それに、逃亡者の始末なんてものも押し付けて……あの男は、あなたのことを都合の良い駒としか思っていません!

なのにあなたはそうやって、嫌な顔せずにあの男に従う。

何故なんです? 分かりません」

 

 フェリの顔は相変わらず無表情だが、怒りの感情が滲みでていた。

 自分のために他人の気持ちを一切考えず利用するやり方を、心の底から嫌悪しているからこその怒り。

 しかし、マイにフェリの内情は分からない。

 マイは首を傾げた。

 

「そういう役割をする人間が必要だから。そして、その役割を一番果たせる相手をルシフ様は選んだだけです。

この指示は、一番ツェルニの被害を抑えられる可能性がある指示です。

それにフェリさんも聞いた筈です。逃亡者を切る理由を……」

 

「確かに彼の言うことは正論でしょう。でも、武芸者になりたくて武芸科という科を選ぶのです。

武芸科の生徒は、武芸者である前に武芸者になりたいだけの学生です。

本来ならば彼らもシェルターに避難している生徒同様、護られるべき存在。

そんな彼らを無理やり戦場に駆り立てる。あの男は正論をいつも口にしますが、それはあの男が強者だから言えることです。

あの男は、弱い人間の心を理解しようとしません」

 

「……フェリさん、弱者は護られて当たり前――そんな甘えきった考えをしているから、危機に直面した時に自分を見失い、潰されるんです。

ルシフ様がああ言わなかったら、武芸者の自覚をもっていない生徒が戦場を混乱させ、防げた筈の犠牲者を出すことになっていたでしょう。

ルシフ様が絶対正しいから、私はルシフ様に従います。少しでもルシフ様の力になりたくて、私は好きで従っているんです。

ルシフ様が逃亡者を切れっていうなら、私は喜んで切りますよ。

安い同情なんてしないでください」

 

 フェリにとって、マイの言葉は衝撃的だった。

 てっきり心の底では、ルシフの命令を嫌がっていると思っていたが、実際はそんなこと微塵も思っていない。

 

「……あなたも、あの男と同じ考えなんですね」

 

「ええ、心から賛同しています」

 

 マイは外縁部の方向の屋上の端に立つ。

 強風がマイのツインテールを揺らし、ツインテールが横になびいている。

 

「フェリさん、あなたは優れた念威操者です」

 

「……当然です」

 

 フェリは眉一つ動かさず頷いた。

 マイはフェリの方に振り返り、笑みを浮かべる。

 

「私はそんなあなたより、ずっと優れています。

私はこの世界最強の念威操者ですから!」

 

 マイは最強を目指す存在の『目』。

 だから彼女も、念威操者の中で一番優れた念威操者を目指す。そうでなければ、ルシフの『目』として相応しくない。

 そして、彼女はルシフのように振る舞うことを自分に課している。

 念威に関しては、どこまでも傲慢に。

 マイは屋上の端に立って振り向いたまま、後ろにゆっくりと倒れていく。

 

「……は?」

 

 フェリから、呆然とした呟きがもれた。

 マイの後ろには何もない。

 マイの身体は虚空に包まれ、空気のベールを切り裂きながら、まっ逆さまに落ちてゆく。

 マイは錬金鋼を握りしめた。

 マイの周囲に、錬金鋼に残っていた六角形の結晶体が展開される。それらはマイの念威で淡く青色に光り、ツェルニの空をキラキラと反射させた。

 それらが意思を持つように、マイの足元に集まってゆく。

 そして僅か数瞬後には、マイの足元で六角形の結晶体が組み合わさって、1枚の大きな結晶のボードが出来上がっていた。

 

「それッ!」

 

 マイはボードに足を触れさせたまま、ボードごと勢い良く身体を半回転させた。そうすることで、落下のダメージを殺したのだ。

 念威端子は空を自在に飛び回る。

 理論上、人間の体重を支えられるなら、人間を乗せたまま飛び回ってもおかしくはない。

 しかし、そんなことをしようと考える念威操者など、マイ以外にいないだろう。

 マイは結晶のボードに乗り、フェリのところまで浮かび上がる。

 驚きで目を点にしているフェリを見て、胸がすっとするような快感を覚えたマイは、悪戯っぽい笑みになる。

 ルシフ様が錬金鋼をくれた時に言っていた、機能性と美の両立。

 あの時は意味が分からなかったが、あれからしばらくしてルシフ様から教えられた。

 正六角形は隙間なく組み合わせられる図形であり、完璧にコントロールできれば、念威端子で巨大な板を作り上げることも可能の筈だと。

 

 ――確か……ハニカム構造ってルシフ様は言ってたかな?

 

 ある時は偵察するための目になり、ある時は無数の刃となり、ある時は空飛ぶボードとして移動手段にもなる。

 それは(まさ)しく、機能性と美を両立させていると言ってよかった。

 

「じゃあ、フェリさん行ってきます」

 

 淡く輝く念威端子のボードを、外縁部の方へ向けて動かす。

 ツェルニの建造物を縫うように掻い潜りながら、マイの乗るボードが空を駆けた。

 外縁部に向かっている生徒がそれを見て、みな驚愕の表情を浮かべている。

 空飛ぶ人間など、彼らは見たことがないのだから、その反応は当然の反応である。

 そんな反応に慣れっこであるマイは、大して意にも介さず外縁部に到着した。

 すでに外縁部に集まっている武芸科の生徒たちのすぐ近くを低空飛行し、結晶のボードから飛びおりる。

 誰もが言葉を失って呆然としている中、マイは軽く錬金鋼を動かし、念威端子のボードを分解させて周囲に再展開させた。

 

「さてと……」

 

 大多数の武芸科の生徒は外縁部に向かっているが、極少数の生徒は隠れるように中央部に移動している。

 移動中に念威端子でその情報を得ていた。

 周囲に展開した結晶体が、それぞれ違う軌跡を描きながら、彼らの元に殺到する。

 彼らにそれをよける技量はなく、錬金鋼を復元させる前に彼らの足は斬られ、その場に崩れ落ちた。

 彼らは見せしめのための犠牲になったのだ。

 

「武芸科の皆さん、今7人ほど戦いから逃げようとしていた人がいたので、足を切らせてもらいました。

彼らにはそこで、戦いたくても戦えない生徒の気持ちを知ってもらおうと思います」

 

 マイは逃亡者を殺すつもりはなかった。

 いや、そもそもルシフはマイに対して、暗に殺すなと言っていた。

 ルシフの性格上、殺すと判断した場合はマイに判断を委ねずに殺せと命令する。

 マイに判断を任せたことが、そのまま生かせという命令になることを、マイはよく分かっていた。

 このマイの行動で、汚染獣がきたら一目散に逃げようと密かに考えていた少数の生徒たちの頭から、逃げるという選択肢を完全に奪った。

 

「マイ・キリー、警告もなしに切るとはやり過ぎだろう!」

 

 武芸長のヴァンゼが怒りをあらわにして、マイに詰め寄ってくる。

 

「警告ならルシフ様がしたと思いますが?」

 

「本当に切るとは思わなかった。

あの場はああ言っておいて、実際はやらないものだと信じていた。

まさかお前がヤツと同類だったとは……」

 

 ヴァンゼが拳を握りしめた。

 その周りにいる生徒も、その通りだと言わんばかりの視線をマイに向けている。

 

「絶対的な規律により、武芸者は統率されるべきだ。

これはルシフ様が常々言われていることです。

私たちはお互いに都市を守る戦友であり、乱れのない連携が私たちの命を繋ぎます。

その中に覚悟のない者がいれば、私たちの命も危うくなります。

殺してないんだから別に問題ないでしょう?」

 

 ヴァンゼは舌打ちをして、マイから顔を逸らした。

 マイは完全にルシフに毒されていて、何を言ったところで無駄だと感じたからだ。

 それから十数分で武芸科の生徒を小隊ごとにバランスよく振り分けて、射撃部隊は剄羅砲の剄の充填に入る。

 剄羅砲――固定砲台というべき大砲が、外縁部付近に円を描くように間隔を空けて設置されている。

 汚染獣が来る方向の剄羅砲のみ使用するため、使用する剄羅砲は数台であったが、それでも何十人と剄を集めなければ、剄羅砲を使える剄量まで溜まらなかった。

 そして剄羅砲の使用準備も完了し、各小隊とそれに追従する生徒たちが陣形を組む。

 陣形と言っても、各小隊同士の間隔を空けて並んだだけの、お世辞にも戦術的とはいえないお粗末なものであったが、今の彼らにはそれが精一杯だった。

 そこから待つこと数分。

 永遠に続くかと思うほどの重い静寂がおとずれ、全員が緊張しきった固い表情をしている。

 誰もが自分の生命線である錬金鋼を祈りのごとく握りしめ、じっとその時を待つ。

 

「汚染獣、ツェルニに到達ッ!」

 

 その一報が、時を止めていた外縁部の時間を動かした。

 レストレーションという錬金鋼の復元言語がそこかしこから聞こえ、各々の手に武器が握られる。

 エア・フィルターを切り裂き、3体の汚染獣がツェルニの外縁部に飛来した。

 これから始まるのだ。

 自分たちの生存を賭けた、三百秒という短いようで長い戦いが。




今回は後書きで言いたいことが結構あります。

まず、ルシフの笑い声がひらがなの時とカタカナの時がありますが、ひらがなで笑ってる時は自分を抑えてる感じ。カタカナで笑ってる時は自分の本性が滲み出してるイメージで書いてます。
今回のルシフは、ルシフの元ネタの一人である『スリーキングダム』の曹操が結構顔を出してた感じですかね。

それからマイの錬金鋼について。
マイが刃として念威端子を扱う時のイメージは、ガンダムでお馴染みのファンネルみたいなイメージです。性能的にはファングですけど。
今回登場した念威端子を空飛ぶボードにするやつのイメージは、エウレカセブンのリフボードみたいなイメージです。
ただ念威端子の集合体なので、ボードを形成している念威端子全てを一寸のズレなくコントロールする桁違いの精度が必要という設定があるため、マイがこれを出来るようになったのが数年前という裏設定があります。


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第16話 理想の形

 剄羅砲が火を噴いた。

 それは極秘で開発されていた対汚染獣兵器である。

 凝縮された剄の砲弾が青白く光り、汚染獣3体へと撃ち込まれる。

 汚染獣は砲弾を胴体で受け止め、そのまま後ろに吹き飛んだ。

 汚染獣の胴体を傷付けることには成功したが、汚染獣を倒しきれていない。

 

「……もっと威力を上げなければ、汚染獣に通用しないか」

 

 剄羅砲はつい最近使える段階になった兵器であり、前回の幼生体と合わせて2度目の使用であるが、武芸者数十人の剄を集めた程度では、汚染獣の硬度を完全に凌駕できない。

 試射すらしていない、2度の実戦投入。

 それにより、汚染獣に対してどれだけ有効なのかを結果的に知れた。

 もっと改良する余地があるなと武芸長のヴァンゼは感じ、ヴァンゼは汚染獣3体を見据えた。

 汚染獣は怒りの咆哮をあげ、低空飛行でこちらに向かってくる。

 あまりの恐怖に背筋が凍った。

 だが目は決して逸らさない。

 その目の前を、多数の念威端子とマイが乗った念威端子のボードが横切っていく。

 

『射撃部隊は汚染獣一期2体の足留めを!

私は汚染獣二期の相手をします!』

 

 通信機からマイの指示が飛ぶ。

 

「全員マイ・キリーの指示に従え!

でなければ生き残れんぞ!」

 

 ヴァンゼはマイの指示のすぐ後に通信機に叫んだ。

 マイは二年生であり、それより上の学年の生徒は命令されるのに反感を覚える可能性がある。

 こう言えばマイに従うのはヴァンゼの指示となり、年下に従う屈辱を緩和できる。

 

『ありがとうございますヴァンゼ武芸長!』

 

「礼は不要だマイ・キリー。それが正しいと俺が判断した。

俺たち第一小隊はお前の援護を可能な限り行う」

 

『助かります!』

 

 汚染獣を前にしても、マイの声から恐怖は感じられなかった。

 

「……どうしてそんなに平然といられる? 汚染獣と戦う時のコツでもあるのか?」

 

『死んでください』

 

「……何?」

 

 ヴァンゼは己の耳を疑った。

 コツを訊いただけなのに死ねとは、余りにも度が過ぎる言葉だ。

 

『生きたければ、死んでください。

死から逃げるのではなく、死を受け入れた上で死に立ち向かってください。

これが、汚染獣と戦う時に必要な覚悟です』

 

 死から逃げようとすれば、恐怖に身体が呑まれ、身体の動きが鈍くなる。

 生に執着すれば、それが隙になり身を滅ぼす。

 死人。

 生を捨てた人間だけが至る境地。

 身体は死の恐怖を感じて鈍らず、頭は常に冷静に最善手を迷いなく選べる判断力を持つ。

 そうか……。

 その覚悟こそ、武芸者が! 弱者が強者に立ち向かうために必要なものか!

 ヴァンゼは右手で持つ身の丈程の大きさの棍を頭上に掲げた。

 

「行くぞ第一小隊! 最強小隊の実力を汚染獣どもに教えてやれ!」

 

「了解!」

 

 近くにいる第一小隊の面々から力強い返事が返ってきた。

 ヴァンゼは表面上は恐怖を抑え込んだ隊員たちを誇りに思い、微かな笑みを一瞬浮かべた。

 しかしすぐに表情を引き締める。

 

「第一小隊の後方にいる武芸者たちは、第一小隊のフォローに入れ! 近付きすぎるなよ」

 

『り、了解しました』

 

 隊員とは違うぎこちない返事。

 まあ、無理もないとヴァンゼは思った。

 戦えるイメージが微塵も持てないのだろう。

 それは、自分も含めた第一小隊も同じだった。

 士気を上げるためには、自分たちも戦えるのだという自信。

 それを感じさせるものが無ければならない。

 そして、気付く。

 念威操者を最前線に行かせたルシフの真意に。

 剄で肉体強化もできない念威操者を、あえて最前線に立たせた理由を。

 

(ルシフ・ディ・アシェナ。お前は何なんだ? 何を考えている?)

 

 ツェルニを守りたいのか?

 なら何故幼生体が襲ってきた時は、己の欲望を満たすことを優先した?

 他人のことが大切なのか?

 なら何故他人の尊厳を踏みにじる?

 

「くそッ……!」

 

 ヴァンゼは余計な思考を振り払い、汚染獣に意識を集中する。

 棍を両手で持ち前方に構えた。

 

「総員! 俺たちがツェルニを守るぞ! 突撃ィィイイイイ!!」

 

 全員が各々の武器を構え、己を奮い立たせるために声を上げ、汚染獣3体目掛けて駆ける。

 あと二百七十秒、彼らだけで食い止めなければならない。

 

 

 マイ・キリーはすぐ間近まで迫っている雄性体二期を鋭い眼差しで睨んだ。

 雄性体の姿は、基本的にトカゲのような胴体に羽が生えたような姿。

 脱皮を繰り返す毎に身体は大きくなるが、そこは変わらない。脱皮で姿が劇的に変わるのは、老性体からだ。

 マイは老性体との戦闘経験はない。ルシフもそうだ。マイの汚染獣との戦闘経験は雄性体と幼生体のみ。

 その経験の中で、マイは知った。

 自分は汚染獣を殺せないと。

 マイの念威端子による斬撃は、錬金鋼(ダイト)の硬度に依存している。

 剄を流して錬金鋼を強化出来る武芸者と違い、念威操者であるマイはそれが出来ない。

 つまり錬金鋼以上の鋼度をもつ敵に対して、マイは無力になる。防御に特化した武芸者にも、同じことが言えた。

 ルシフはレイフォンを除いたツェルニの全ての武芸者を相手にできると言っていたが、それには前提条件がある。

 その条件が、この情報を知られていないことだ。

 ツェルニにも防御に特化した武芸者がいる。ニーナも防御に特化した武芸者の一人だ。

 正直、この情報さえ知っていれば、マイは恐れるに足らない相手になる。

 だからこそ、マイが汚染獣に対して攻撃できる箇所は限られている。

 間近まで迫った雄性体の死角から、念威端子の刃が襲いかかる。刃は雄性体の右目に突き刺さり、雄性体は激痛で地面に落下し、身体を起こして咆哮をあげた。

 右目を潰した時には、マイは方向転換をして、雄性体から距離をとっている。

 

「汚染獣との戦闘の時は、囮役を決めてください!

囮役が汚染獣を引き付け、その隙にアタッカーが攻撃を叩きこむ。汚染獣の標的がアタッカーに向いたら、まとまらずに散開して、標的になったアタッカーが囮役になる。

これをずっと続ければ、無傷で汚染獣を足留めできます!」

 

『了解した! 全小隊の隊長が最初の囮役になれ!』

 

『了解ッ!』

 

 マイの指示に、ヴァンゼと小隊長たちの力強い返事が返ってきた。

 マイはマイ自身を囮にして、念威端子をアタッカーにした。

 そうすることでなんとか汚染獣と戦える。

 マイの指示は明瞭であり確実だったが、それで汚染獣の脅威は消えるかと言われれば、別にそういうわけでもない。

 そもそも、汚染獣の方が動きが速いのだ。

 連繋が一瞬でも遅れ、汚染獣の動きを止められなければ、その間に近場にいる武芸者がやられるだろう。

 マイは念威で見た。

 囮役として雄性一期に近付いた隊長が、雄性一期の尻尾で吹き飛ばされるのを。

 雄性一期は追撃しようとしたが、周囲にいた小隊員が側面から剣や槍を打ち込み、それを阻止。

 しかし、今度は彼らが近付きすぎた。

 雄性一期は彼らに向かって鋭利な爪を横凪ぎに払う。

 それを各々の武器で防いだが、勢いまでは殺せず後ろに吹き飛んだ。

 彼らの身体には所々に爪痕が刻まれ、そこから血が流れている。

 幸い射撃部隊が再び集中砲火を浴びせたことで、雄性一期は彼らに止めをさせなかった。

 だが、彼らにこれ以上の戦闘はできないだろう。すぐさま隊長共々後方に下がるように指示をされ、彼らは悔しげな表情で後退した。

 他の雄性一期のところも似たような戦況だった。

 射撃部隊が集中砲火をするが、ダメージは通らず、僅かな足留め程度の効果しかない。

 その隙を突き、近距離武器の武芸者たちが一斉に攻めるも、雄性一期が暴れ出すと次々に傷を負ってその場からの撤退を余儀なくされた。

 まだ死者が出ていないのは、数の多さのおかげか。

 烏合の衆だが、仲間を死なせないという気迫だけは一人前だった。

 だからこそ、仲間が倒れれば、執念で汚染獣に対して全員で猛攻撃し、ぎりぎりのところで仲間の命を繋いでいる。

 

『あれから何秒経った!?』

 

『百秒! まだ二百秒もある!』

 

『クソッ、有効打を与えられない! このままじゃ死者が出るぞ!』

 

『今は時間など考えるな! 目の前の敵に集中しろ!』

 

 通信機からは絶えず怒号と悲鳴が聞こえてくる。

 マイは雄性一期2体の情報を得ながらも、雄性二期を注視する。

 この調子なら、雄性一期に関しては外縁部で足留めさせ続けられる。

 問題は雄性二期。

 片目を潰したとはいえ、動きは鈍くなっていない。それどころか、それに対しての怒りで最初よりも動きが良くなっている。

 ヴァンゼら第一小隊や第十小隊は奮戦しているが、それ以外の武芸者は雄性二期の激しい動きに近付けず、離れたところからその戦いを眺めるしかない状態になっていた。

 第一小隊と第十小隊にしても、優勢ではなく防戦一方であり、雄性二期の攻撃を防ぐだけで精一杯で、雄性二期に攻撃できていなかった。

 マイは念威のボードを再び雄性二期の方へと向ける。

 

「……ふー……ふー……」

 

 意識して呼吸し、冷静さを保つ。

 簡単に自分を潰せそうな巨体に心が呑まれないよう、眼前の脅威に集中する。

 禿頭の男、第十小隊隊長が雄性二期の突進で吹き飛んだ。

 

「ディンッ!」

 

 ダルシェナの悲鳴に似た叫びが聞こえた。

 しかし、そんなにディンという男を心配する必要はないと、マイは思った。

 彼は吹き飛ぶ寸前で、先端に尖った(おもり)がある幾本ものワイヤーを操り、それを自分の正面で編むようにして盾を創っていた。

 あれならば、雄性二期の突進の衝撃はだいぶ緩和されている。

 それより納得いかないのは、ダルシェナの動きである。

 ディンが吹き飛んでから、明らかに精彩を欠いていた。

 

 ――ダルシェナ様、そんなザマでは死にますよ。

 

 結局ダルシェナは、昔と本質は変わっていない。

 気丈な女に成長しても、根っこの部分は昔と同じく臆病で、誰かの安寧の元でしか自分に自信を持って振る舞えない。

 しかし、見捨てるわけにはいかない。ルシフは死者を出さないことを望んでいると、マイは確信しているからだ。

 雄性二期が、茫然自失になりかけているダルシェナに牙を向ける。

 そのままダルシェナを噛み千切ろうと、雄性二期は大口を開けた。

 マイは低空飛行でダルシェナを両腕で掴み、間一髪のところで雄性二期の牙からダルシェナを救った。

 

「……(おも)っ……」

 

「重くないッ!」

 

 マイから思わず漏れた言葉に、ダルシェナは顔を真っ赤にして反射に近い速度で返した。

 マイは雄性二期の牙から逃れたら、低空飛行の状態からダルシェナを掴んでいた両腕を緩め、地面に落とした。長くダルシェナを持てないと悟ったからこその判断だった。

 ダルシェナは危なげなく着地。

 

「マイ、すまない! 恩に着る!」

 

「いえ――ッ!」

 

 マイは反射的に自分の眼前で念威端子を組み合わせ、念威端子の盾を創った。

 雄性二期の攻撃対象が、マイに変わっていたのだ。

 雄性二期の爪が高速でマイへと振るわれる。

 

「きゃッ……」

 

 爪は念威端子が防いだが、創った盾がマイを押し潰す凶器に変わり、マイは自分が創った盾にぶつかり、念威端子のボードから落ちて、地面に尻餅をついた。

 雄性二期のもう一方の腕が、頭上からマイに振り下ろされる。

 マイの身体能力で、それは避けられない。

 

 ――私、ここまでみたい……。

 

 自分の死を確信したマイは、振り下ろされる腕をただ見ている。

 

「マイ・キリー!」

 

 ヴァンゼがマイに飛び付いてその場から退避。雄性二期の攻撃を避けた。

 ヴァンゼはマイを押し出すようにし、マイの身体が一回転して前方に転がった。

 ヴァンゼはバランスを崩したらしく、雄性二期の近くで膝をついている。

 マイはすかさず飛び起き、後方を振り返ってヴァンゼを見た。

 その表情は、助けられたことに感謝している表情……ではない。怒りと屈辱がごちゃ混ぜになったような、普段のマイからは想像できない表情。

 

「……触られた……ルシフ様以外の男に……」

 

 汚い私が、もっと汚くなる。もっと穢れてしまう。

 嫌、そんなの嫌!

 

 ――殺してやる!

 

 雄性二期の方ではなく、ヴァンゼの方に錬金鋼の柄を向ける。

 狂気に染まったマイの顔が、ヴァンゼを睨む。

 その時、錬金鋼の柄が視界に入った。

 

『……頑張ってこい。俺もすぐに行く』

 

 脳裏を、ルシフが通信で言っていた言葉がかすめた。

 そうだ。私はあの頃の、何もなかった頃の私じゃない。

 私はルシフ様の――。

 

「うわああああッ!」

 

 絶叫することで発狂しかけた自分を抑え、錬金鋼を操り念威端子を動かす。

 多数の念威端子は一直線でヴァンゼに飛来し、一斉に念威端子が起き上がる。

 それらはボードのように組み合わさり、念威端子の腹の部分でヴァンゼを雄性二期の攻撃範囲より外へと押し出した。

 それと同時に潰していなかった雄性二期の左目を、念威端子で潰す。

 雄性二期は絶叫し、激痛で身体をよじらせた。

 これで視覚は完全に奪った。

 だが、汚染獣は視覚だけでなく、嗅覚でも人間のいる場所を把握できる。

 そして、今一番雄性二期に近い場所にいるのがマイだった。

 雄性二期がマイの方を向き、口を開けてマイに噛みつこうとする。

 マイはそれを見ながら微笑した。

 

 ――私、頑張りましたよ……ルシフ様。

 

 マイに雄性二期の大口が迫る。

 雄性二期の側面を数人の武芸者が攻撃するが、雄性二期の動きを止めるほどの効果はなかった。

 マイの視界を埋め尽くす牙の大群。

 

 ――死んだら、ルシフ様は哀しんでくれるかな。

 

 そんなことを考えながら、マイは自分に死をもたらす牙をぼんやりと見た。

 しかし、マイを殺す筈だった牙は、エアフィルターを切り裂いて飛んできた紅く輝く何かに口を貫かれ、マイの眼前で雄性二期の口は閉じられた。

 それは、神が汚染獣に与えた天罰のようだった。

 雷のように一瞬で汚染獣を貫き、地面に縫い付けている紅く輝く剄の大槍。

 こんなことが出来る人物を、マイは一人しか知らなかった。

 マイの顔が満面の笑みに変わっていく。

 エアフィルターを再び切り裂き、一人の人影がツェルニに弾丸のごとく、飛び込んで来る。

 そして、マイの眼前で(こうべ)を垂れている雄性二期の頭上を踏みつけた。

 マイはあれから何秒経ったか確認する。百八十秒。

 最低でも三百秒かかるところを、ルシフは百八十秒までに縮めていたのだ。

 

「マイ、大丈夫だったか?」

 

 もう二度と聞けないと思っていたルシフ様の声。

 

「はいッ!」

 

 マイははじけるような声で、嬉しそうに返事をした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニ到着まで汚染獣が着いてから三百秒かかる。

 これは紛れもない事実だった。

 しかし、それは最後までランドローラーに乗っていた場合だ。

 ルシフはツェルニをフェイススコープ越しの肉眼で遠くに捉えた時、ランドローラーを蹴って遥か上空まで跳躍。

 そこから内力系活剄で視力を強化。

 ツェルニにいる汚染獣三体を捉え、マイが危機的状況であることも悟った。

 ルシフは剄を凝縮させて紅く輝く大槍を創る。化練剄で切れる性質を持たせて、それをマイの眼前にいる汚染獣目掛けて投擲。

 投擲したら、ルシフは身体を半回転させ、宙を舞っている汚染物質を、足下に剄を集中させて固める。

 化練剄を使い、足下の剄になんでも吸い付ける性質を持たせたのだ。

 そうして創った汚染物質の足場を思いっきり蹴り、ツェルニに迫る。

 蹴った勢いが少しでも弱まったら、また同じことをして足場を瞬時に創造し、蹴る。

 それをしたおかげで、ルシフはツェルニに着く時間を大幅に短縮させた。

 もはや化け物と呼ばれても仕方ない神業である。

 ルシフは真下にいる雄性二期を瞬時に八つ裂きにした。

 マイは起き上がって、雄性二期の残骸の中に佇むルシフに駆け寄り、ルシフの肩を右手で触れる。

 その時、ぬるっとした何かが、マイの右手に付着した。

 マイは右手をルシフの肩から離して、右手の平を見る。

 右手の平は、ルシフの血で真っ赤に染まっていた。

 

「……ルシフ……様?」

 

 マイは呆然として呟いた。

 確かに、ルシフのしたことは神業だった。

 しかし、これにはリスクがあった。

 それは、汚染物質を防いでいた剄の膜を纏いながら、この動きは出来なかったということ。

 顔や両手といった制服に隠れていない部分は、部分的になんとか剄の膜を纏えた。

 だが、制服に隠れている部分は守れなかった。服の隙間から汚染物質が入り込み、ルシフは汚染物質による全身火傷を負っていた。

 元々白と青が基調だったルシフの武芸科の制服が、今はどす黒く染まっている。

 ルシフはマイの声に耳を貸さず、マイの眼前から一瞬で消えた。

 内力系活剄、旋剄で残っている汚染獣のところに移動したのだ。

 そこからは一瞬の出来事だった。

 旋剄で雄性一期をすれ違いざまに剄の刃で切り殺し、最後に残っている雄性一期も同様に殺した。

 あれだけ苦戦していた汚染獣を瞬く間に始末したルシフに、武芸科の生徒たちは自身の無力さを感じていた。

 そしてこの男は、自分たちがどんな思いで戦ってきたかも考えず、ツェルニの武芸者をバカにするだろう。

 それだけ数がいて、こんな雑魚も倒せないのかと。

 そう考えるだけで、ツェルニの武芸者たちの気はどんどん滅入っていた。

 ルシフは無表情で、通信機に手を当てる。

 

「ヴァンゼ・ハルデイ。被害状況は?」

 

『今確認した。負傷者は多数いるが――死者はゼロだ』

 

「ほう……」

 

 ルシフは全身を襲う痛みを堪え、無理やり笑みを浮かべる。

 

「実を言うとな、俺は何人か死者が出ると思っていた。

貴様らの武芸者としてのレベルはあまりに低いと知っていたからだ」

 

 通信機から聞こえるルシフの声に、誰もが顔を歪め、悔しさをあらわにした。

 

「だが――貴様らは死者をゼロに抑えた。貴様ら一人一人が持てる力を全て出し切り、かつ強い精神力が無ければ、この結果にはならなかっただろう」

 

 あれ? と武芸者として戦った生徒たちは思った。

 てっきり汚染獣を倒せなかったのを罵倒してくると思っていたのに、これはまるで褒めているような――。

 

「貴様たち、よく頑張って戦った! 自分より強い相手に怖じけず、よく立ち向かった!

貴様たちはツェルニの誇りだ! 貴様たちの力が、ツェルニを守ったのだ!

ツェルニに住む一学生として、礼を言いたい! ありがとう!」

 

 感極まるとは、こういう気分を言うのだろうか。

 ツェルニの外縁部を、生徒たちの歓喜の雄叫びが包んだ。

 自分たちが戦ったのは無駄ではなかったと、ツェルニを汚染獣から救った男が言ったのだ。

 それも、いつも自分たちを見下している男から。

 

『何言ってんだよ! らしくねぇぞ!』

『こっちこそ、礼を言わせてくれ! 汚染獣を倒してくれてありがとう!』

『ルシフくん、カッコ良かったよー!』

 

 通信機から様々な声が聞こえる。

 

「礼を言われるほどではない。あの程度の汚染獣、俺には倒せて当然の相手だからな」

 

 出来て当然のことをした人間と、自分の力量だけでは出来ないことをやってのけた人間。

 どちらが褒められ讃えられるべきかを、ルシフはよく理解している。

 ルシフは絶対に謝罪しない。その代わり、相手を褒めたり讃えることに関しての抵抗はない。

 凄いと思ったり、頑張ったと感じれば素直に褒める。

 プライドの高いルシフがこんなことを出来る一番の要因は、そういう教育を幼い頃からされていたからだろう。

 ツェルニの生徒たちは、ルシフのことを見直した。

 前の時は自分の欲望を満たすのを優先して、汚染獣をなぶり殺していたが、今回は速攻で倒した。

 ルシフにとっても一番大切なのはツェルニを守ることであり、欲望を満たすための戦いはそれが前提での話なんだと、生徒たちは感じた。

 ルシフは普段通りの自身満々な表情を顔に貼り付け、自分の学生寮目指して歩き出した。

 身体中を襲う激痛を堪えながらも、周りに悟られないよう普段通りの立ち振舞いを意識して歩みを続ける。

 その間も周囲にいる生徒たちがルシフを褒め、ルシフに礼を言っていた。

 マイは、そんなルシフから2歩下がった後ろを付いていく。

 やがてルシフとマイの姿は、建造物の陰へと消えていった。

 

 

 ルシフがいなくなっても、生徒たちのルシフを褒め讃える声は途切れなかった。

 そんな光景を、中央部に近い外縁部後方で、生徒会長のカリアンが眺めている。

 その隣にはヴァンゼもいた。

 

「これだよヴァンゼ。彼が真に恐ろしいところは……」

 

 カリアンは静かな目で、そう呟いた。

 ヴァンゼは未だに震えている両手を握りしめる。

 

「ルシフのあの言葉を聞いた瞬間、俺の身体に震えがきた。あいつと共に戦うのも悪くないかもしれないと思った。

少し前までは、他人をなんとも思わない奴だと思っていたのにな」

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。彼のカリスマ性は群を抜いている。たとえ性格や立ち振舞いに問題があっても、彼の為す圧倒的な結果は、それらをどうでもいいものにする。

彼ならばあの態度や性格も許せると、そう思ってしまうようになる」

 

 ルシフ・ディ・アシェナが本格的に行動し始めたら、生徒会長の名など何の力もない空虚なものに成り下がるだろう。

 彼の性格からしてずっと大人しくしている筈がないと思っていたが、今回の出来事を上手く利用された。

 

 ――だがルシフ君、忘れないでくれたまえ。たとえ非力でも、ツェルニを害するならどんな手を使っても君を排除する。……どんな手を使ってもね。

 

 カリアンは微かに唇の端を吊り上げた。

 

 

 ルシフは自分の部屋の扉を開け、自分の部屋に入る。

 マイも後ろに続いて部屋に入った。

 

「はぁ……マイ、扉を閉めろ」

 

 苦しそうに息を荒くしながら、ルシフがそう言った。

 マイは部屋の扉を閉める。

 扉を閉める音が聞こえたら、ルシフはその場に崩れるように倒れていく。

 マイは急いで駆け寄り、ルシフを後ろから抱き締めて支えた。

 そして、抱き締めたまま壁を支えにして床に座り込む。

 病み上がりで体力が回復していないにも関わらず、ルシフは無茶をした。

 汚染物質で身体中に火傷を負うという重傷。それを周囲に悟らせないよう堪え続けた精神力。

 既にルシフは限界にきていたのだ。

 一体誰が想像できるだろう。

 ここまで無茶をして、誰も死なせたくないというルシフの気持ちを。

 ルシフが誰よりも人の命を大事にしているという事実を。

 しかし、マイはそれを言いふらすようなことをしたいとは思わなかった。

 ルシフはそんなことを望んでいないと知っているからだ。

 マイ自身、自分だけがルシフを理解しているという優越感に浸りたい気持ちもあった。

 マイの制服は、ルシフの制服に滲んでいる血で赤くなっている。

 それを一切気にせず、マイはルシフを抱き続けた。

 

「ルシフ様、お疲れ様でした。本当に……本当に……!」

 

 ルシフは薄れゆく意識の中で、目線だけを動かしてマイを見た。

 

 ――マイ、お前に傷一つなくて……本当に良かった。

 

 ルシフは微かに笑みを浮かべて、そのまま意識を手放した。

 ずっとルシフの傍にいるマイですら――ルシフの本心に気付けない。

 それからしばらくの間、マイは身体を壁に預けながら、ルシフを抱き続けていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 汚染獣三体と戦った次の日の昼間。

 ルシフは再び入院して、病室のベッドの上で上半身を起こしている。

 ルシフの病室にはマイと、第十七小隊の面々がいた。

 

「全く……無茶をしてまた入院するとはな」

 

 言葉ではそう言うが、ニーナの顔は微笑んでいた。

 

「ルシフ、君がいてくれたおかげで、ツェルニを守れた。僕からも礼を言わせてほしい。ありがとう」

 

 レイフォンがルシフの傍にいき、頭を軽く下げた。

 ルシフは左手で、それを鬱陶しそうに払う動きをする。

 

「やめろやめろ。俺だけではツェルニは守れなかった。アルセイフ、貴様がいたから俺はこういう無茶が出来たんだ。

だから、ツェルニを守れたのは俺のおかげじゃない。

強いて言えば、この場にいる全員のおかげだ」

 

 ルシフのその言葉を聞き、その場にいる全員が微かに笑った。

 

(僕は、戦闘狂のサヴァリスに似ていると思っていた。でも君は、ツェルニのためにこんな無茶をした。君はツェルニを守るために戦える人間なんだと、今回のことで分かった)

 

 レイフォンはルシフの左手の近くで、自身の左手をあげた。

 ルシフは少し驚いた表情をしたが、すぐにその表情は勝ち気な笑みに変わった。

 

「今回だけだからな」

 

 ルシフはそう言って、レイフォンがあげた左手と自分の左手でハイタッチをした。

 

 

 その光景を、ニーナは微笑ましそうに眺めている。

 

 ――少し前まで、あんなに仲が悪かった筈なのにな。

 

 しかし今は、あんなことができるようになるくらいまで、仲が良くなった。

 バラバラだった第十七小隊は、今回の出来事で一つにまとまれた。

 

「おい、丁度いいからみんなで写真撮ろうぜ。ツェルニを守れた記念だ」

 

「なんですか、そのセンスのないネーミングは……」

 

「たはーっ、フェリちゃんは手厳しいねぇ」

 

 最終的にシャーニッドの提案を受け入れ、ハーレイがカメラをタイマーにしてセットした。

 そのカメラに入らないよう、マイは隅の方にいる。

 

「マイ、お前も入れ。こういうのは人数がいた方がいい。別にいいだろ、ルシフ?」

 

「構わんが……俺はあまりこういうのは好きじゃ――」

 

「わがまま言うな。写真に写るくらい、いいだろう?」

 

 ニーナの言葉に、ルシフは舌打ちする。

 その一方でマイの顔はぱっと明るくなり、ルシフの下に座った。

 ルシフはそんなマイを見て、苦笑する。

 そして、カメラのフラッシュが焚かれ、その光景を切り取った。

 ニーナは現像された写真を見て、微笑む。

 レイフォンの若干呆れているような笑み。シャーニッドの楽しそうな笑み。シャーニッドの腕の中で押さえられているような格好をして苦笑しているハーレイ。無表情で写っているフェリ。ベッドの上で苦笑しているルシフ。そのすぐ下で笑みを浮かべるマイ。そして――微かに笑っている自分。

 

(きっと第十七小隊は強い小隊になる。ここにいる全員で力を合わせ、どんな脅威にも立ち向かっていける、どこよりも強い小隊に――)

 

 この時のニーナは確かに――そう思っていた。

 写真に写る光景が、ずっと続いていくものだと信じていた。

 それが幻想だとも気付かずに――。




これにて、原作2巻の内容終了です。
ツェルニの生徒が、徐々にルシフに洗脳され始めました。
言うまでもありませんが、もしマイがツェルニにいなかったら、ルシフはあんな無茶をしていません。
それを周囲の人間が、自分たちの都合の良いように解釈しています。


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原作3巻 センチメンタル・ヴォイス
第17話 魔王の戯れ


 ニーナ・アントークは内心で頭を抱えていた。

 レイフォンとルシフは仲が良くなったと思っていたが、それは自分の幻想であり、同時に願望だったと気付いたからだ。

 きっかけは、生徒会長のカリアンから第十七小隊へのある要望。

 

『第十七小隊が他の小隊と比べて桁違いに強いため、ルシフくんは他の小隊に移動するか、全ての対抗試合の出場を辞退してもらいたい。

これは全小隊が向上するために必要なことであると、私自身が判断した。何か意見があれば、私のところまで来たまえ』

 

 これが、カリアンからの要望内容だった。

 要望内容自体は、ニーナの目からみても妥当なものだと感じる。

 確かに第十七小隊は化物レベルの武芸者を二人抱えているため、他の小隊が第十七小隊と闘いたくないのは痛いほど理解できるし、敵になるのが恐ろしいという気持ちも分かる。

 特にルシフはそういう意味でいくと、他の小隊の恐怖の象徴だろう。先の汚染獣襲撃でツェルニの生徒たちに好印象を与えたが、彼の敵への容赦なさを忘れたわけではない。むしろあの出来事でその印象は強くなっている。

 だからこそ、カリアンはルシフを指名して、ルシフを対抗試合の置物にするか、それとも他小隊の増強戦力にしようとしている。

 しかしカリアンの本音は、ルシフが他の小隊にいくのではなく、対抗試合に出ないでほしいというところだろう。

 本当のところ、他の小隊は第十七小隊が恐ろしいのではなく、ルシフだけが恐ろしいのだ。

 他の小隊にルシフがいっても、恐怖の対象がその小隊に代わるだけで根本的な解決にならない。

 ニーナは、ルシフが素直にこの要望を受け入れるか心配だった。

 闘うのが好きなルシフは、他の小隊に移動する可能性はあれど、闘う場である対抗試合に出ないという選択肢は選ばないだろうと考えていた。

 

「分かった。俺は対抗試合に出ないでやろう」

 

 ニーナの懸念とは裏腹に、ルシフはそう言ってあっさりとカリアンの要望を受け入れた。

 ニーナがカリアンの要望をルシフに伝えたのは訓練後のロッカールームだったため、レイフォンやフェリ、シャーニッド、訓練の見学にきていたマイも、その内容を聞いていた。

 ルシフが対抗試合に出ないと言ったとき、マイは少し怪訝そうな顔になった。いや、その場にいるルシフ以外の全員が似たような表情になっていた。

 そう、問題はここからだ。

 ルシフがその一言だけで終わっていれば、多少納得がいかないながらも険悪な雰囲気にはならなかった。

 

「退屈な闘いは嫌いなんだよ。俺はゲテモノ好きじゃないからな」

 

 嘲笑(あざわら)いながらそう口にしたルシフに、レイフォンがキレた。

 

「そんな言い方ないだろうッ! みんな必死に頑張ってる! それを料理扱いするなんて、許されることじゃない!」

 

 レイフォンはルシフに詰め寄り、胸ぐらを掴みながらロッカーにルシフを叩きつけた。

 レイフォンはそのままロッカーにルシフを押しつけたまま、鋭い目でルシフを睨む。

 ルシフはそんなレイフォンを、一層冷めた目で見た。

 

「……貴様がそんなことを言うのか?」

 

「……え?」

 

「闇試合に出場していたとき、対戦相手をヒト扱いしていたか? 勝てば金が貰える相手――程度の認識しかなかったんじゃないか? 対戦相手が金に見えていたんだろう?」

 

「……ち、違う! 僕は……」

 

「否定するな。別に責めているわけじゃない。人など、無意識にそうやって他人に価値を付ける。

だがな、同じ穴の(ムジナ)のくせに、俺を批判するなよ」

 

 レイフォンの手から力が抜け、ルシフはそれを振り払う。

 ルシフは鼻を鳴らし、乱れた制服を軽く直した。

 

「ふん、確固とした意思もないヤツが、この俺に意見するな」

 

 そのままルシフは、ロッカールームを出ようとする。

 

「……違う」

 

 そこに、小さな呟きが聞こえた。

 フェリの声だった。

 

「レイフォンは、あなたみたいな人とは違います。あなたと違い、レイフォンは誰かのためにお金が必要だった。

自分が楽しむことしか考えてないあなたとは、天と地ほどの差があります。

あなたとレイフォンを一緒にしないで!」

 

 ルシフはフェリの言葉を呆れた表情で聞いていた。

 そして、ルシフは何も言わずにロッカールームを出ていった。

 その後ろをマイが追いかけ、ルシフのすぐ後にロッカールームから出ていく。

 ロッカールームに、重い静寂が訪れた。

 そして、冒頭のニーナに戻る。

 ニーナはため息をつき、レイフォンの肩を軽く叩いた。

 

「レイフォン、気にするな。たとえお前の過去がどうであろうと、間違っていると思うものを指摘するのは正しい行為だ」

 

「……隊長」

 

 もしかしたら、レイフォンは昔、本当に闇試合の相手をお金としか見ていなかったかもしれない。

 だが、そういう過去があると、間違っていると声に出したら駄目なのか?

 そんなことを言っていたら、誰も『今』間違っていることを正す資格がないことになる。

 それじゃ駄目だと、ニーナは思う。

 もっと柔軟に他人の意見をルシフは聞き入れるべきだとも思った。

 なんにせよ、解決したと思っていたルシフとレイフォンの関係は、その実あまり変わっていなかった。

 そのことに気付き、ニーナはもう一度、深くため息をついた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 そんな出来事があり、第十七小隊と第五小隊の試合にも関わらず、ルシフは野戦グラウンドの観客席にいた。

 ルシフの隣にはマイが座っている。

 

「ルシフ様、熱でもあるんですか?」

 

「……いや」

 

「では、何か悪いものでも食べました?」

 

「……記憶にないな」

 

「それなら、どこか調子が悪いんですか?」

 

「…………」

 

 ルシフは隣で心配そうな顔をしているマイの方に顔を向けた。

 

「さっきから何が言いたい?」

 

「いえ、ルシフ様の性格なら、第十七小隊以外の小隊に移動するかと思いまして……」

 

 ルシフは一つ息をついた。

 

「俺が好き好んで弱いヤツらと戯れるとでも思ったのか?」

 

「私が言いたいのは、どうして第十七小隊と闘える機会を捨てたのかということです。

確かに第十七小隊以外の小隊では、ルシフ様を楽しませるなどできないでしょう。

でも、第十七小隊は私が見たところ、十分にルシフ様を楽しませる要素が揃っていると思いますが」

 

 そういうことかと、ルシフは合点がいった。

 同時に、自分らしくない行動をとっていた自分の迂闊さに少し腹が立った。

 ルシフが第十七小隊に拘る理由は当然、『廃貴族』を手に入れる確率が一番高いからである。というより、第十七小隊以外で『廃貴族』を手に入れられる可能性は限りなく低いと言った方が正しいか。

 だが、それは原作知識があってこそ分かることであり、ルシフ以外の人間にその考えはできない。

 だから、ルシフに違和感を感じた。

 しかし、別にその行動に対して納得できる理由があれば、人はその人らしくない行動でも受け入れる。

 ルシフはふっと不敵に笑った。

 

「カリアンの要望――あれは選択肢があるようにみえて、実は選択肢がない」

 

「どういう意味です?」

 

 マイは困惑した表情になる。

 

「もし仮に他の小隊に移動するのを選んだら、どうなっていたと思う?」

 

「どうって……移動した小隊で闘うようになるんじゃないですか」

 

「違うな。まぁ訓練はそうなるだろうが、対抗試合の日が近付けば、また同じ内容の要望がカリアンからくるだろう」

 

「え?」

 

「ヤツは全小隊の向上が目的らしいからな。俺が対抗試合に出れば、どの小隊も間違いなく沈黙する。下手に抵抗すれば、余計痛い目に遭わされると考えているから。

つまり、俺が対抗試合に出場すること自体が小隊向上を妨げるわけだ。

あの要望は、ある意味カリアンが俺を試していたとも言える」

 

「成る程……私はそこまで考えられなかったです。流石、ルシフ様!」

 

 実はこの考えは、今咄嗟にルシフが考えたカリアンの真意だ。

 正直要望を聞かされた時は第十七小隊に残ることしか考えていなかったため、要望そのものを深く考えていなかった。

 頭に浮かんだことを話しながら、ルシフはあれ、いい線いっているんじゃないか? と、自分の頭脳の良さを再認識した。

 冷静に考えば、むしろこの選択こそ正しい。

 

 ――無意識でも俺は、正しい選択を選んでしまうのか。どこまでも神に愛された男だな。

 

 ルシフは少し機嫌を良くして、手に持っていたドリンクのストローに口をつけ、コーラを飲む。

 マイは少し不機嫌そうな表情になった。

 

「それにしても、気に入らないですね。ルシフ様を試すなんて……」

 

「カリアンはいずれ引きずり下ろす。だが、今はその時期じゃない。学園都市という特殊な都市を知るいい機会でもある。

時期がくるまでは、今見える景色を楽しませておいてやろう」

 

 ルシフはそう言って、再びストローに口を付けた。

 野戦グラウンドの方に視線を向ける。

 第十七小隊と第五小隊の激しい戦闘が続いている。

 第五小隊隊長は、ゴルネオ・ルッケンス。

 グレンダンの出身であり、天剣授受者である『あの』サヴァリスの弟でもある。

 ルシフのゴルネオに対する印象を一言でいえば、小心者。

 天才と呼ばれる兄と比べられ続けるプレッシャーに耐えられず、グレンダンから逃げ出したつまらない男。

 ゴルネオは気迫のこもった表情で、レイフォンに化錬剄の妙技を放った。

 レイフォンはそれを危なげなく回避。

 その回避した位置のレイフォンの死角から、赤い髪の少女が飛び出し、紅玉錬金鋼(ルビーダイト)の槍の穂先から剄を炎に変化させた塊が、レイフォンを襲う。

 赤い髪の少女の名は、シャンテ・ライテ。実はこの少女には秘密がある。この少女に眠る力は、『廃貴族』に匹敵する力かもしれない。

 ルシフはこの力を奪おうと思っていない。奪うためにはそれまでに必要な準備、時期、場所等の条件が多すぎて、確実に奪うタイミングをつくるのが難しい。

 そして、その力を奪うために絶対に必要な力が『廃貴族』であり、何はともあれ『廃貴族』を手に入れてからそれは考えればいいと、ルシフは考えている。

 レイフォンはコマのように身体を回転させ、膨大な衝剄を周囲にばらまきながら活剄で腕力を強化。

 レイフォンを起点にした竜巻が生まれ、レイフォンの頭上から攻撃した少女と放たれた火の玉は弾き飛ばされた。

 活剄衝剄混合変化、竜旋剄。

 レイフォンが今放った剄技。

 あの程度の剄技なら、ルシフは一目見れば会得できる。

 ルシフは空になったドリンクを隣のマイに渡し、自分の左膝に左肘をついて頬杖をつくり、それに自分の左頬を乗せた。

 そこからはあっという間の決着だった。

 レイフォンは千人衝――ルシフもアルシェイラ戦で使用した剄技――を使い、ゴルネオとシャンテに一斉に襲いかかる。

 千人衝というわりには十数人しか残像がつくれていなかったが、それでも彼ら二人にそれを防げる技量はなかった。

 ゴルネオとシャンテはその場に崩れ落ちるように倒れ、シャンテは気を失い、ゴルネオは地面に這いつくばりながらレイフォンを睨んでいる。

 そこでフラッグ破壊を知らせるサイレンが鳴った。第十七小隊は攻撃側だったため、第十七小隊の勝利だ。

 第十七小隊の作戦は、レイフォンを先行させ、シャーニッドがレイフォンを囮に殺剄で敵陣に潜入。さらにニーナはレイフォンが戦闘に入った瞬間に敵陣まで移動。そして、ニーナに釣られたフラッグ防衛の連中の隙をつき、シャーニッドが奇襲攻撃。そこから一気にフラッグを破壊するといった内容だった。

 完璧な作戦勝ちだったといえよう。流れるような連繋に目を奪われた観戦者も実際多かった。

 しかし、ルシフの表情は退屈そのもの。

 一つあくびをして、ルシフは目尻に涙を浮かべながら立ち上がる。

 

「つまらん試合だ。収穫が一切なかった」

 

 視線は野戦グラウンドに向けたまま、ルシフはそう呟いた。

 ルシフは観客席の前を歩き、野戦グラウンドから出ようとする。

 そこで視界に、禿頭の男がよぎった。

 第十小隊隊長、ディン・ディー。その隣にダルシェナ・シェ・マテルナ。

 ルシフは微かに唇の端を吊り上げる。

 

 ――いや、収穫はあったか。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 以前祝勝会をしたミュールの店。今回も第十七小隊はこの店で祝勝会をしている。

 

「三番、ミィフィ、歌います!」

 

 ミィフィがマイクを握りしめて、気持ち良さそうな歌声が店内に響き始めた。

 この店にカラオケの機材はない。誰かが持ち込んだのだろう。

 今この店は第十七小隊と、彼らの友人ばかりいた。

 

「……そうか。ルシフはまた不参加か」

 

 ニーナは残念そうな表情で、フェリの念威端子から伝えられた言葉を聞いた。

 

『一人でいるのが好きなあの男が、参加するわけないでしょう。まあ、わたしにも同じことが言えますが』

 

 フェリもこの祝勝会に参加していなかった。

 フェリの辛辣な言葉に、ニーナは思案するような表情になる。

 

「確かにそうだろう。なら、何故あいつはマイをいつも傍に置く?」

 

『あれはあの男ではなく、マイさんがあの男に付きまとうからでは? それをあの男が追い払わないだけの話です』

 

「……違和感があるんだ。あいつに対しての違和感。何かが引っ掛かる。何かズレがあるような……」

 

『そんなに真剣にあの男のことを考えても答えは出ませんよ。気になるなら直接話せばいいと思いますが』

 

「……そうだな。今考えるのはやめよう。わたしもやろうと決めていたことがあるしな」

 

 フェリの念威端子はそこでニーナから離れ、窓から外に出ていった。

 

「ルシフ君、今日来ないんだ?」

 

 ニーナの女友達の一人が残念そうな顔をする。

 

「ああ、あいつはこういう場が嫌いなようでな。それにしても、あいつと面識でもあるのか?」

 

「あ~、ニーナは知らないか。私、『ルシフ君ファンクラブ』の会員なんだ~、じゃーん!」

 

 そんなセルフ効果音とともに、彼女は一枚のカードを取り出した。

 そのカードには、『ルシフ君ファンクラブ 会員ナンバー51』とあった。

 

「ルシフ君……ファンクラブ?」

 

 ニーナの目が点になる。

 

「あー、それあたしのクラスの女子も半分くらい入会してますよ」

 

 そのやり取りを聞いていたナルキ・ゲルニが苦笑して会話に参加した。

 

「なんなんだ、これは?」

 

「その名の通り、ルッシーに気のある女子が色々情報交換したり、写真とか共有する集まりです。

実はあそこで歌ってるミィも、それに入ってるんです。それも会員ナンバー4。情報を手に入れるには実際に入会した方がいいとか言って」

 

「今何人くらい入会してるんだ?」

 

「ミィの話じゃ八十人くらいって言ってました」

 

「そもそも、そんなものいつできたんだ?」

 

「少し前の汚染獣三体との戦闘があった次の日にできたらしいですよ」

 

 ニーナは目を見開いた。

 

「ちょっと待て! まだできてから一週間も経ってないじゃないか! なのに八十人!? ルシフはそんなに人気があるのか!?」

 

 ナルキはニーナの女友達と視線を合わせる。

 

「……あの汚染獣の襲撃の日から、ルシフ君の人気はうなぎのぼりよ。この話知ってる?

ある日、ルシフ君が寮から校舎までの大通りを歩いていた。そして、その間にすれ違った女子生徒全員がルシフ君を振り返り、顔を赤くしていたって話」

 

「ミィから聞きました。確か二十人くらいその時いたって……」

 

 そんな二人の会話を、ニーナはぽかんとした表情で聞いていた。

 

「わたしには理解できないな。

あ、そうだ、ちょうどいいところにきた。ナルキ・ゲルニ一年生、少し話がある」

 

 ニーナは少し笑って、そう言った。

 ナルキは少し身体を強張らせる。なんというか、何か面倒なことになる予感をひしひしと感じていた。

 そして、ナルキのその予感は的中することになる。

 

「――小隊に興味あるか?」

 

「…………はい?」

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 すっかり暗くなった空。月明かりだけが眩しいある建造物の屋上に、ルシフは立っている。

 そのルシフの斜め後ろに当たり前のように立っているマイが、ルシフに小さく耳打ちした。

 マイの言葉を聞いて、ルシフは微かに笑みを浮かべる。

 

「――来たか」

 

 屋上への扉が唐突に開かれる。荒々しく開けられた扉からも、相手の機嫌が悪いのを察することができた。

 しかし、ルシフにそんな事情はどうでもいい。

 扉を開けた二人の男女がルシフに近付いてくる。

 第十小隊隊長ディン・ディーとダルシェナ・シェ・マテルナ。

 

「俺はディン・ディーだけを招待した筈だがな」

 

「ふざけるな! ディン一人でお前に会わせるわけないだろう!」

 

 ダルシェナが怒りで目を吊り上げる。

 ルシフはそれを無視して、ディンを見た。

 

「これはこれは……まさか本当に招待に応じてもらえるとは思わなかった」

 

 白々しく、まるで演技でもしているかのように大袈裟に両手を広げたルシフに対して、ディンは苛々しげに舌打ちする。

 

「……来なければ第十小隊の隊員を一人ずつ戦闘不能にしていくと言われたら、隊長の俺は従うしかないだろう……! この外道が……!」

 

「ふっふっふ……あはははははッ! まさか貴様にそんな言葉を言われるとは思わなかった! 対抗試合で『あれ』をしているくせに!」

 

 そう言われた途端、ディンとダルシェナの顔がみるみる青くなっていく。

 

「……なんのことだ?」

 

 あくまでしらを切ろうとするディン。ルシフは悪魔の笑みで鼻を軽く鳴らした。

 

「ふん、この俺がなんのカードもなく、この場を用意したとでも?

俺から隊員に危害を加えると言われて、隊員の方ばかりに気を取られ、自分のことは疎かになったんじゃないか? 具体的に言えば、自分の部屋とか――な」

 

 ディンは絶句している。

 まさか脅した本当の目的が、『あれ』の証拠を手に入れるためだったとは――。

 そのディンの考えを証明するように、ディンにとって見慣れたものがルシフの手に握られていた。

 

「……何が目的だ?」

 

 第十小隊を潰すのが目的なら、カリアンにその証拠を渡せば終わる。

 それをせずにこうしているということは、第十小隊を潰すのが目的ではないという何よりの証拠。

 ディンは隣のダルシェナを見る。

 ダルシェナはディンよりも青い顔をしていた。

 ダルシェナだけは、第十小隊の中で唯一『あれ』をしていなかった。いや、ディンがそれを許さなかったし、その情報もダルシェナに伝わらないよう細心の注意を払っていた。

 だが、ずっと一緒に闘っていたダルシェナは、なんとなく違和感に気付いていた。

 しかし違和感の正体を知るのが怖くなり、それより先にダルシェナは踏み込めなかった。

 ダルシェナを連れてきたのは失敗だったと、ディンは両拳を握りしめる。

 

「――勘違いしているようだが、俺は別に批判する気はない。貴様がやっていることは、常に死と隣り合わせのリスクがある『諸刃の剣』。そこまで勝利に執着できるヤツはそういない。

だがな、本来それは最後の手段だ。貴様は本当にその選択しか選べないのか?」

 

「……何が言いたい?」

 

「今、俺はニーナ・アントークを鍛えている。お前よりずっと弱い武芸者だ。いずれ第十七小隊と第十小隊がぶつかるとき、アントークと一対一で勝負しろ。もちろん貴様は『あれ』をして闘えばいい」

 

「俺があんな卑怯者に負けるかッ!」

 

 ディンが怒りで顔を歪めて叫ぶ。

 ルシフはディンに近付き、手に持っていた物をディンに返した。

 

「なら、いい。その気迫でその時も頼む。

それから――貴様、色々もったいないぞ。まだまだ貴様には()(しろ)がある」

 

 ルシフはそのまま、ディンとダルシェナの後ろにある扉に近付く。

 ディンはルシフから渡された物を手に持ち、怪訝そうな顔をした。

 

「お前、何がしたいんだ?」

 

 ルシフは振り返らず、歩くのを止めない。

 

「……強いて言えば、暇潰しだな」

 

 そのままルシフは静かに呟き、ルシフとマイは扉の向こうに消えていった。

 そして、その場には呆然と立ち尽くすディンとダルシェナだけが残った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 同時刻。ニーナが以前一人で鍛練していた外縁部にフェリが立っている。

 フェリはその手に錬金鋼を握りしめ、自分の枷を外した。

 フェリの長い髪が念威で光り輝く。

 多数の念威端子の鱗が、エア・フィルターの外に舞う。

 フェリは念威を使うのは嫌いだが、念威を使って見える景色を見るのは好きだった。

 それは念威操者の特権といってもいい。

 エア・フィルターに邪魔されて見えない満天の星空。汚染された大地でも必死に生きている生き物たち。

 フェリはもやもやしていた。

 当然レイフォンのことである。

 武芸をやめたいと言うわりに、対抗試合をみても嫌々闘っている感じはしない。

 自分は嫌々念威を使っている。

 レイフォンは自分と同じ。

 違いは、レイフォンは必要とされればそれを受け入れて力を貸すが、自分は必要とされても力を最低限しか貸さない。

 きっとレイフォンが正しい。というより、大人だ。自分のやっていることは、子供が思い通りにならないと駄々をこねているのと同じことなのかもしれない。

 

 ――それでも。

 

 こうする以外、どうすればいいのか?

 すっきりしたくて気分転換するためにこんな場所まで来たが、今のところ無駄足になっている。

 そこでふと、念威端子の一つが何かをとらえた。

 山の稜線に紛れるように何かがある。

 フェリは『それ』に念威端子を近付けつつ、光反射知覚以外の、熱、音波、電磁波知覚も起動させる。

 『それ』の距離は、都市の移動速度で二日といったところだった。

 さすがにそこまでは念威端子を飛ばせないため、望遠から『それ』の解析を進める。

 そして、フェリの複数の視界の中に浮かんだ様々なデータを見て、フェリは息を呑む。

 『それ』は傷付いた都市。そして、悪魔が心の底から望んでいるものが眠る場所。

 この都市との接触が、世界を激流に突き落とす前奏曲(プレリュード)になることを、ある一人を除いて誰も気付いていなかった。




今回は色々フラグを立てる回でした。

それから、最近この作品を読み直して、ルシフってもしかしてツンデレなのか!?と、思ってしまいました。
そう考えたら、今までのルシフの発言が一気に可愛げのあるものに……!
今、自分の中でルシフの好感度が急上昇しています。


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第18話 過去の亡霊

お気に入りの数がいつの間にか七百を超えていました。
百超えれば上出来かなと思っていたので、とても驚いています。
お気に入り登録して下さった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございます。

ちなみに、今日朝起きて何気なくこの作品のアクセス解析を見たんですけど、見たことのない状態になっていたので何度も目をこすりました。
一体何が昨日起きたんだ……?


 ツェルニがまた新たな問題に遭遇している中、グレンダンでもちょっとした出来事が起きていた。

 レイフォンと同じ孤児院で育ち、レイフォンが天剣を剥奪されても、レイフォンのやってきた罪を知ってもなおレイフォンの味方をした少女。

 茶色の髪と藍色の瞳をして、普段は明るく笑顔で周囲を和ませる少女の姿は、今の姿からは微塵も感じられなかった。

 以前レイフォンに手紙を書いた相手。リーリン・マーフェス。

 血の気が引いている彼女のすぐ前で、レイフォンとリーリンを育てた養父、デルクが血まみれで倒れている。

 

 ――どうして?

 

 リーリンが倒れているデルクに近付く。

 

 ――どうしてこんなことに?

 

 リーリンがデルクの背を軽く揺する。

 

「父さん……嫌だよ……死なないでよ……」

 

 デルクからの返事はない。

 それが更にリーリンを不安にさせた。

 

「いなくならないでよ……父さんッ!」

 

 リーリンの両目からとめどなく涙が溢れていく。嗚咽をもらしながら、リーリンはデルクの身体を揺する。

 ふと、リーリンの耳に唸り声が聞こえた。

 だが、リーリンはそちらに視線を向けず、眼前で横たわるデルクから視線を外さない。

 デルクをこんな目にあわせた元凶。リーリンが間違っていると分かっていながらも恨んだ相手。

 ガハルド・バレーン。レイフォンを脅迫し、レイフォンに右腕を切り落とされた男。レイフォンの悪行をバラし、レイフォンが天剣を剥奪されるきっかけをつくった男。

 この男が、デルクを血まみれにした。

 今も唸り声をあげ、リーリンから少し離れたところでリーリンを睨んでいる。

 この悲劇の始まりは、一月前まで遡る。

 幼生の群れにグレンダンが襲われた日、その隙を突くように老性体の変種が侵入してきた。

 当然念威操者が侵入に気付いたが、この汚染獣は人間に寄生して養分を吸い取るという変性を遂げており、天剣授受者が追いかけようとした時には人間の中に潜伏してしまっていた。

 それから数度の追跡で、汚染獣のことがいくつか分かった。

 汚染獣は養分を吸いきる前に新しい宿主に移動すること。移動の瞬間は念威操者が発見できること。寄生された人間は元来の性格に基づいた行動をすること。

 これらの情報から、サヴァリスは一計を案じた。

 念威操者を大量に動員して、新しい宿主に移動する瞬間を狙って襲撃。万が一失敗した場合に備え、行動予測をしやすい人物を囮に用意。

 その囮に選ばれたのがガハルド・バレーンであり、サヴァリスの狙い通りレイフォンの関係者を狙う行動をとった。

 実はリーリンも狙われる可能性があるということで、天剣授受者のサヴァリスとリンテンスがリーリンの護衛をしていた。

 つまりリーリンの前に立っているガハルド・バレーンは、汚染獣に寄生された人間。その実力も人間の時とは桁違い。

 デルクを倒した技は、初代ルッケンスの奥義、咆剄殺。外力系衝剄の変化であり、震動波として放たれる叫びは、分子の結合を破壊する。

 武芸者だった時のガハルドは、この剄技を使えなかった。

 デルクは活剄の威嚇術で咆剄殺の震動波を抑えたが相殺はできず、震動波の衝撃で深手を負ってしまった。

 デルク一人だったなら大した問題ではなかったが、リーリンを身体を張って守ったため、こういう結果になった。

 ガハルドの唸り声が大きくなっていく。

 咆剄殺を再び放つつもりなのだ。

 デルクが瀕死の今、咆剄殺を放たれればデルクもろともリーリンも命を落とすだろう。

 その時、不思議な光景をリーリンは見た。

 蒼銀色の毛並が美しい獣が、空からリーリンの前に降り立つのを。

 その獣の姿は犬のようだが、犬とはまるで違う姿。異様に長い耳は背中に向かって伸び、四肢の先にある五本の指は人間の女性を思わせるように長く美しい。

 その獣はまるでリーリンを守ろうとしているようだった。

 リーリンを背に、ガハルドを睨んでいる。

 しかし、ガハルドは止まらない。

 ガハルドの口から咆剄殺が放たれた。

 咆剄殺が獣ごとリーリンを破壊の震動で蹂躙する――筈だった。

 だが、何も起こらない。ガハルドの叫びが響いただけだ。

 

「――君が咆剄殺を使えるなんてね」

 

 いつの間にか、獣の前に一人の青年が立っていた。

 長い銀髪を後ろで束ね、整った顔立ちをしていて、体格は誰もが武芸者だと確信する筋肉質な体格。剥き出しの両腕は筋肉で盛り上がっている。

 サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンス。天剣授受者であり、ガハルドと同門でもある。

 サヴァリスも咆剄殺を放ち、同種の震動波をぶつけ合うことでガハルドの咆剄殺を相殺したのだ。

 サヴァリスは倒れているデルクを見る。

 

「それにしても、なかなか面白い見世物だったよ。人間相手に咆剄殺を使うとこうなるんだね。汚染獣にしか使ったことがなかったから、これは勉強になった。

今の君なら、レイフォンとそこそこの勝負ができるのかな?」

 

「……レイ……フォン……ヤツは、どこだ……?」

 

 ガハルドがこの場にきて初めて人間の言葉を発した。

 サヴァリスは笑みを浮かべる。

 

「やっぱりレイフォンを憎んでいたんだね。いやー、よかったよ。それを期待して君に寄生させたんだから」

 

「……レイ……ヤツは、俺が……!」

 

「あの時君は、本当にレイフォンに勝てると思っていたのかい? 勝って陛下から天剣を与えられ、天剣授受者になれると本当に思っていたのかい? なら滑稽だよ君は! 君ごときが天剣になれるわけないだろう! 今の君の姿こそ、君ごときが調子に乗った代償なんだよ! 天剣は運命に選ばれた者しかなれないんだ!」

 

 ガハルドが怒りの咆哮をあげながらサヴァリスに突進し、渾身の一撃を放つ。

 サヴァリスはそれを飛び越えるようにして回避。ガハルドの後ろに着地する。

 

「ははッ! 僕に勝てたら念願の天剣授受者だよ! 付いておいで! 君に相応しい戦場を用意したんだ!」

 

 サヴァリスはその場から消え、ガハルドもまたその後を追って消えた。

 

 

 リーリンは倒れているデルクを呆然と見ている。

 

「血が……止まらないよ……」

 

 リーリンの頬を涙が伝う。

 そんなリーリンを安心させるように獣が寄り添ってくる。

 リーリンは獣の方に視線を移す。

 獣の他に一人の人影が見えた。

 

「リーちゃん、もう大丈夫」

 

「シノーラ……先輩?」

 

 シノーラ・アレイスラ。リーリンの通う上級学校と同じ敷地内にある高等研究院に通う二十才くらいの女性。

 だがその名は偽名であり、本名はアルシェイラ・アルモニスといい、以前ルシフをボコボコにしたグレンダンの女王である。

 王の責務を部下に押し付け、退屈しのぎに学校に通っている。

 

「それ以上デルクを動かしちゃダメ。内臓に骨が刺さっちゃうかもしれないから。大丈夫、まだ助けられるよ。

だから――もうお休み」

 

 アルシェイラがリーリンの頭を撫でた。

 リーリンは意識が遠のき、そのまま獣にもたれるように眠りに落ちた。

 アルシェイラはリーリンをゆっくりと持ち上げ、獣の背中に乗せる。

 そして、アルシェイラはサヴァリスが去っていった方向を見た。

 

「あのバカ、わざと守らなかったな。グレンダンがいなかったらどうなっていたか……」

 

 グレンダンと呼ばれた獣は、アルシェイラに摺り寄り甘えている。

 その周囲に風が起こった。

 瞬き一つした時には、三人がアルシェイラに跪いている。

 アルシェイラは驚きもせず、三人に視線を向けた。 

 

「デルクを病院に連れていけ。この子は私が連れていく。それから万が一に備え、サヴァリスの保険に一人残れ」

 

「はっ」

 

 一人がデルクを抱え、もう一人とともにアルシェイラの前から消える。

 アルシェイラは散々壊れている建物に目をやった。

 

「都市からここに援助金を出さないといけないね。あと、デルクにも褒美をあげないと。グレンダンはレイフォンを許していると、都市民たちに分からせるためにも」

 

 残っていた一人が立ち上がる。

 その容姿は眼前に立つアルシェイラと瓜二つだった。

 

「陛下……いい加減王宮に戻っていただきたいのですが……」

 

 アルシェイラの表情が曇る。

 

「えー、わたしいなくてもグレンダンを治められてるしー、わたしいなくても大丈夫かなー、みたいな感じ? なんですけどー」

 

「……確かに陛下がいなくても都市の政治は問題ないです。ですが――天剣授受者は、陛下しか手綱を握れません。さっきのサヴァリスがいい例です」

 

 天剣授受者は変わり者が多く我が強いため、アルシェイラ以外の命令通りに動かなかったり、サヴァリスのように命令より私情を優先する場合もある。

 

「君も天剣授受者だけど、君はしっかり者だね」

 

「たくさん苦労していますから。誰かさんのせいで」

 

「カナリスは意外と毒舌だよね~。わたし傷付いちゃった」 

 

 アルシェイラはその場で泣き真似をする。

 カナリスは大きくため息をついた。

 

「……というわけですから、そんな偽名さっさと捨てて、王宮に戻ってくださいね」

 

 カナリスはそう言うと、アルシェイラの前から消えた。

 

「……戻ったところで、わたしに出来ることなんてないんだけどねぇ」

 

 アルシェイラは苦笑して呟いた。

 天剣授受者が全員揃っていないのに、自分がいても意味がない。

 アルシェイラはさっきのサヴァリスの言葉を思い出す。

『天剣に選ばれる者は運命で決まっている』

 ならレイフォンは、天剣の運命を背負っていなかったのか。

 それとも、より強い運命を持つ者が、レイフォンの運命をねじ曲げたのか。

 

 ――ルシフ・ディ・アシェナ。あの少年こそ、天剣ヴォルフシュテインが選んだ使い手なのかな。まあ、時がくれば分かるか。

 

 アルシェイラはリーリンを抱え、グレンダンとその場から離れた。

 

 

 サヴァリスはグレンダンにあるどの建造物よりも高い空中に静止している。ガハルドもサヴァリスと対峙しながら空中に浮かんでいた。

 いや、彼らは空中に張り巡らされている鋼糸の上に立っている。これこそ鋼糸を自由自在に操るリンテンスが創りあげた二人の戦いの舞台。

 

「落ちちゃダメだよ。落ちたら自分の重さで細切れになるからね。ルッケンスが君の葬儀を挙げる予定なんだ。肉片を拾い集めるのが面倒になる」

 

 サヴァリスは楽しげな笑みを滲ませている。

 

「君は汚染獣と戦えない武芸者になった。そんな存在ゴミ以下の価値しかない。そんな君が、都市を守るために死ねるんだ。これ以上の幸運はないだろう?」

 

 ガハルドが怒りの咆哮をあげる。

 サヴァリスは革手袋の甲の部分にカード型の錬金鋼を差し込んだ。同様に両足のブーツにも差し込んでいく。

 

「せめてもの情けだ。兄弟子の僕自ら引導を渡してあげるよ……レストレーション」

 

 サヴァリスの四肢が白銀の光に包まれ、見事な装飾をした手甲と足甲になった。

 ガハルドが鋼糸を蹴り、サヴァリスに渾身の突きを放つ。

 サヴァリスはそれを平然と受け止め、カウンターで右足の廻し蹴りを浴びせる。

 拳を掴まれ身動きがとれなかったガハルドはそれをまともに受け吹き飛んだ。吹き飛んでいる最中にガハルドは体勢を整え、再び鋼糸の上に乗る。

 それからもガハルドは暴風のような激しい攻撃を繰り出すが、サヴァリスは笑みを絶やさずにそれを全て受け流す。

 

「はははッ、なかなかいい攻撃だ! 同門とこうしてやり合ってみたかったんだよ! これも君を選んだ理由の一つさ!

やっぱり手の内をお互いに知っている分、いつもと違った感覚で戦えるな」

 

 サヴァリスと違い、全ての攻撃を防がれたガハルドは余程ショックだったのか、戦意を失った。

 構えが解かれ、力のない眼光でサヴァリスを唖然と見ている。

 

「おやおや、もうお仕舞いかい? 君自身の意識がまだ残っているのかな? なら分かっただろう、君の格が。汚染獣の力を足しても君は天剣に届かないんだよ」

 

「……俺は……若先生とあんな子供が一緒に並んでいるのが許せなかった」

 

「……うん?」

 

 サヴァリスは首を傾げた。

 ガハルドの眼に光が戻りかけている。人間の眼になろうとしている。汚染獣の支配から逃れようとしている。

 

 ――冗談じゃない。

 

 早く汚染獣に呑まれろ。汚染獣に身体を空け渡せ。もっと僕を楽しませろ。

 

「しかもあんな汚いことをしたヤツが、栄えある天剣授受者なんて……! 天剣授受者は誰よりも律を守らなければならないのに! だから俺が! ヤツを潰すと決めた! ヤツを天剣授受者から引きずり下ろして――」

 

「もう黙れ」

 

 サヴァリスから鋭い殺気が放たれる。

 ガハルドはそれに呑まれ、声を出すのを止めた。

 

「律を守るべきと言ったお前も、試合前にレイフォンを脅迫して、律を犯しているじゃないか。お前の言葉は重みがない上に見苦しい。

僕の弟は君を慕っているんだ。ならせめて、君はいい兄弟子だったという幻想のまま、死んでゆけ。これ以上幻滅させるな」

 

 その言葉が、ガハルドという微弱ながらも汚染獣に必死に抵抗していた存在を、粉々に打ち砕いた。

 ガハルドの眼から完全に光が消え、ガハルドの身体が膨れ上がっていく。

 身体の膨張はサヴァリスの三倍程の大きさになったところで止まり、背中から大きな翼が生え、身体中を雄性体のような硬い鱗が覆い尽くし、人間の腕から鋭く尖った爪を持つ汚染獣の腕に変化する。

 まさしく人型の汚染獣と言っていい風貌になったガハルド。

 それを見てサヴァリスは、楽しげに頷いた。

 

 ――それでいい。さあ、楽しませてくれ……!

 

 さっきより数段上の速さで、汚染獣がサヴァリスに迫る。

 そして、鋭い爪がサヴァリスを切り裂いた。

 だが、切り裂かれたサヴァリスの姿が闇の中に消える。

 

「残像さ!」

 

 汚染獣の背後に回っていたサヴァリスが、汚染獣に拳を叩きこむ。

 天剣を使用している手甲は、汚染獣の鱗の壁を容易く突き破り、汚染獣の身体に深々とめり込んだ。

 汚染獣は呻き声を漏らしながらも、何度もサヴァリスに襲いかかる。だが汚染獣が捉えるのは全て虚影。

 その度に死角に移動したサヴァリスが汚染獣に攻撃を加えていく。

 

「アハハハハッ! ハハハハハ! さぁ、クライマックスだ!」

 

 汚染獣の周囲に何百人という数のサヴァリスが現れ、それぞれ構える。

 活剄衝剄混合変化、ルッケンス秘奥、千人衝。

 技の完成度は流石本家と言ったところか、ルシフ以上の練度。

 

「ガハルド・バレーン、最期くらい華々しく散らしてあげるよ」

 

 無数のサヴァリスが汚染獣に襲いかかる。

 全方囲からの一斉攻撃に、汚染獣は為す術がない。

 汚染獣の身体は瞬く間に無数の肉片に変わり、下に落ちていった。

 

「少しやり過ぎちゃったかな。ガハルドの面影が微塵も残っていないから、棺桶の中身を見られたら汚染獣の葬式をやっているように見えるね」

 

 サヴァリスは大して後悔している様子もなく、淡々と呟いた。

 

「まあ、親父殿に任せればいいか」

 

 突如として、サヴァリスが乗っていた鋼糸が緩まり、戦いの舞台が消えた。

 サヴァリスはそのまままっ逆さまに落ちていく。

 落ちている途中、タバコを吸っている男が視界に入った。

 戦いの舞台を創った人物、リンテンス。

 

「――まったく! いきなり鋼糸を解くなんて、常識がなってないですよリンテンスさん!」

 

 リンテンスはサヴァリスの言葉に何の反応も示さず、口から紫煙を吐き出した。

 

 ――あ、やっぱり僕、この人嫌いだ。

 

 サヴァリスは落ちながらため息をつく。

 こうして、グレンダンで起きた汚染獣侵入事件は解決したのであった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニの生徒会長室。

 今その場には、カリアン・ロス、武芸長のヴァンゼ、第五小隊隊長ゴルネオ、第十七小隊隊長ニーナ、隊員であるフェリとレイフォンが集まっている。

 今は早朝であり、こんな時間に呼ばれたのを考えれば緊急事態なんだろうとロス兄妹以外察しがついていたため、誰もが固い顔つきをしていた。

 

「さて、揃ったことだし本題に入ろう」

 

 カリアンが一枚の写真をソファの中央にあるテーブルの上に置く。

 ふとレイフォンは視線を感じ、顔をあげた。

 ゴルネオが鋭い目付きでレイフォンを睨んでいる。だが、目が合うとゴルネオは写真の方に視線を逸らした。

 

「この写真は二時間前探査機が帰還した時のデータを現像したものだ」

 

 写真を一目見た瞬間に、何が問題か理解した。

 傷付いた都市が、山に寄り添うようにくっついている。

 

「で、これが都市を拡大した写真だ」

 

 カリアンはもう一枚写真をテーブルに置いた。

 その写真は凄惨の一言に尽きる。

 都市の足のいくつかが半ばから、あるいは根元から折れていて、都市を覆っている金属プレートもあちこち剥がれ、崩れ落ちていた。都市内の建物も上から押し潰されたかのように壊されている。

 

「これは汚染獣に襲われたな」

 

「私もそう思う。で、何が問題かというと……この一枚目の写真に写っている山、この山はツェルニが唯一所有しているセルニウム鉱山だ。

ツェルニがこの近くに来ているということは、近々補給するつもりなのかもしれない。

この都市の周辺を調べたが、汚染獣らしき姿は見当たらなかった。だが、我々が汚染獣を完全に理解していない以上、汚染獣が都市に罠を仕掛け、セルニウム鉱山に補給しに来た都市を狙っている可能性もありえる。

そこで第五小隊と第十七小隊はあの都市を偵察して、危険がないことを確かめてほしい」

 

「何故、この二小隊なんだ?」

 

「改良された汚染物質遮断スーツの数が少なくてね、この組み合わせ以外の小隊では全員分の数がないんだ。

まあ、この組み合わせも一着足りないんだが、ルシフくんはこれ無しでも問題ないのでね、この二小隊に落ち着いたわけだよ」

 

「分かりました。第十七小隊、都市偵察任務をやらせていただきます」

 

「第五小隊、任務了解です」

 

 ニーナとゴルネオは立ち上がって敬礼する。

 

「出発は二時間後の予定だ。それまでに隊員を揃えておくように」

 

 ニーナたちはカリアンの言葉に頷いて、生徒会長室から退室した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 フェリから念威端子で廃都市偵察任務を伝えられた時、ルシフはその場で飛び上がりたいほどの歓喜を覚えた。

 

「分かった。乗り気はしないが、俺も第十七小隊の隊員だからな」

 

『……確かに伝えましたから』

 

 フェリの念威端子が部屋から出ていく。

 念威端子が消え、一人になった部屋。誰もルシフの言葉を聞くものがいなくなると、ルシフは笑みを浮かべた。

 

「……ククク……」

 

 どれだけ今日という日を待ち望んでいたことか!

 十年前、『王』になると決めた日から、『廃貴族』を手に入れるために様々なことをやってきた。

 今まで己自身を高め続けてきたのも、気に入らないながらも父から剄のコントロールを学び、膨大な剄を一切の無駄なく使える技量を身に付けたのも、己を何度も追い込んできたのも全て全て全て全て全てッ!

 全ては今日というチャンスを逃さぬためにッ!

 

「……クックック……アハハハハ……」

 

 手に入れる。確実に『廃貴族』を!

 この俺が世界の頂点に立つためにッ!

 最強の存在となるためにッ!

 今日という日が俺を、世界の運命を決める。

 

「アーハッハッハッハッ! アハハハハッ! ハハハハハ……!」

 

 ルシフの高笑いが部屋中に響き渡る。

 

 ――待っていろよ廃貴族。誰よりもお前に相応しい存在が、お前を迎えに行くからな。

 

 ルシフが『魔王』として覚醒する瞬間が、刻一刻と迫っている。

 この世界の誰にも、その瞬間を止めるなどできない。



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第19話 廃貴族

 集合場所は都市下部の外部ゲートだった。傷付いた都市に行くためのランドローラーが何台か並んで置いてある。

 今この場にいる一人を除いた全員が、顔面蒼白になって視線を様々な方向に向けている。

 もちろん誰一人として口を開く者もいない。

 既にルシフ以外は戦闘衣とその下に着る汚染物質遮断スーツの着用を完了させていた。

 改良された汚染物質遮断スーツは薄くて軽い。故に、身体のラインが浮き出てしまう。普段のシャーニッドなら女子が着用した姿を想像して、真剣な表情で「……エロいな」とか言っていたかもしれない。

 だが、普段当たり前のように笑みを浮かべ軽口を叩くシャーニッドですら、冷や汗を浮かべて黙りこくっている。

 ニーナも同様だった。

 こうなっている原因は明白だ。もちろんルシフのせいである。

 ルシフの纏っている剄が、いつにも増して威圧的で苛烈なのだ。近付いただけで叩き潰されるような錯覚すら覚える。

 第五小隊隊長であるゴルネオを壁にして、赤い髪の少女シャンテはルシフから隠れている。シャンテは身体を縮こまらせて、ゴルネオの背にしがみつくようにしていた。

 

「ゴル……あいつ、怖いよ……」

 

「シャンテ……」

 

 声すら震わして呟いたシャンテの言葉は、ゴルネオの胸に確かな痛みを与えた。

 ゴルネオは物分かりが良い性格である。

 無謀な賭けや分の悪い賭けは避け、堅実に、確実に勝てる戦術を常に選ぶ。

 だからこそ、自分ではシャンテの心に巣食う恐怖を取り除けないと理解してしまう。

 恐怖の元凶であるルシフに、自分は立ち向かおうとする勇気も出せない。その無力さが刃となってゴルネオの心を突き刺していた。

 

『……あ、あの~ルシフ君、嫌なら君は外れてもいいよ』

 

「――は?」

 

 外部ゲートの壁に取り付けられていたモニターにカリアンが映る。

 カリアンはフェリの念威端子でこの状況を観ていた。この場にいないからこそ、こうしてルシフに意見を言えたのだろう。もしこの場にいたら、卒倒している筈だ。

 カリアンの言葉に、ルシフの纏っている剄が更に激しさを増した。

 更に気まずくなった場の空気をカリアンは察し、モニター越しに苦笑を浮かべる。

 

『いや、こうして念威端子越しに観ても、君の不機嫌さが伝わってくるからね。そんな状態で任務などこなせないだろう?』

 

 そこで初めてルシフは自分の纏っている剄が激しくなっているのに気付いた。

 

「ああ、そういうことか。別に不機嫌なわけではない。むしろ上機嫌だぞ。乗り気じゃないと通信で伝えたが、よく考えれば謎の多い都市を探検しに行くというのは、男子には堪らないシチュエーションだ」

 

 紛らわしいと、その場にいたニーナたちが呆れながら思った。

 

『……遊び気分でも困るのだがね』

 

 ルシフは纏う剄を制御し、普段と同じにした。

 圧迫感と威圧感が弱まったことで、ニーナたちは息苦しさから解放された。無意識に硬直させていた身体をほぐそうと、ルシフ以外の全員がそれぞれ身体を伸ばす。

 ニーナが軽く息をついて、ルシフに視線を送った。

 

「ルシフ、お前はもう少し他人に配慮することを覚えろ」

 

「ふん、この俺が軟弱者など構うものか。貴様らが俺の剄に慣れればいいだけの話だ」

 

「それが出来たら苦労しない。そもそもわたしたちとお前じゃ実力に差がありすぎるんだ。レイフォンは別だがな」

 

 ニーナの言葉に、ルシフは舌打ちした。

 

 ――貴様らが剄に呑まれるのは実力のせいではなく、強靭な精神力を持っていないからだろうが!

 

 その理屈が通るなら、ルシフはアルシェイラと闘うことすら出来なかった筈だ。

 だが、ルシフは闘えた。自分より圧倒的な実力を持つ強者に挑み、己に出来る全てをぶつけた。

 やはり根から変える必要がある。

 強靭な精神力を当たり前のように養える世界。それこそ人が成長し続けるために必要な土台。

 ルシフはランドローラーのサイドシートに食料を放り込み、ランドローラーに跨がる。

 次に戦闘衣のポケットからメガネ型のフェイススコープを取りだし、それをかけた。

 そして、マイの念威端子とフェリの念威端子をフェイススコープに接続。

 マイは第十七小隊でも第五小隊でもないため、ツェルニに待機する。

 しかし目的地は都市の移動速度で二日といったところにあり、マイの念威が届く範囲だったため、マイはルシフのサポートをすると決めた。

 当然ルシフしかマイはサポートしないし、マイがサポートするのを知っているのもルシフしかいない。

 念威端子の接続は有線ではなく、無線。本人から教えられなければ、誰の念威端子が接続されているか知ることは出来ない。

 ニーナたちもヘルメットを被り、ランドローラーに乗り込んでいく。

 ニーナはシャーニッドのランドローラーのサイドシートに座り、フェリはレイフォンのランドローラーのサイドシートに座る。

 第五小隊は既に全員準備が完了していた。

 ハーレイが外部ゲートを操作するボタンを押し、外部ゲートが開かれていく。

 

『十分用心したまえ。君たちから良い知らせが伝えられるのを期待しているよ』

 

 全員がカリアンの言葉を聞きながら、汚染された大地へと飛び出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 傷付いた都市に近付くのに半日かかった。

 傷付いた都市の間近まで近付いた第十七小隊の面々は、その都市の酷い有り様に顔をしかめた。

 事前に写真で都市がどういう状態か知っていたが、それでも実際に目にすると写真よりも酷く見えた。

 折れた足の断面が眼前に広がり、そこが苔と蔓で覆われている。

 

『――ルシフ様、エアフィルターは正常に稼動。外部ゲートはロックされ、停留所は完全に破壊されています。通常の方法で都市内部に入るのは不可能かと』

 

「そうか」

 

 マイから伝えられた情報と寸分違わない情報を、フェリと第五小隊の念威操者が通信で全員に伝えていた。

 

「アントーク、俺が先行して都市内部の安全を確保する」

 

「分かった。気を付けろよ」

 

「誰に向かって言っている?」

 

 ルシフはサイドシートにある食料が入ったバッグを持ち、都市の側面の僅かな凹凸を足場に上へと上がっていく。

 その姿を、シャーニッドはため息をついて眺めている。

 

「……あいつ、なんかすげぇ乗り気だな」

 

「……浮かれているようにも見えます」

 

 フェリが冷めた目でルシフが消えていった方を見ていた。

 フェリは念威で既にこの周囲が安全だと知っているし、ニーナたちに伝えてもいる。

 つまりルシフの行動は、都市に早く入りたいだけの行動。

 ニーナも一応ああ言ったが、本気で心配しての言葉ではなく、形式的に言っただけの言葉。

 その証拠にニーナは固い表情をしているが、不安そうな表情ではない。

 

「隊長、どうやらルシフはマイさんのサポートを受けているようです。マイさんのものらしき念威端子も見つけました」

 

 フェリがニーナに近付き、小声で耳打ちする。

 ニーナは軽く息をついた。

 

「あいつは全く! 邪魔してこないなら、大目に見てやれ。ただし、邪魔だと感じたらすぐに教えてくれ。その時はルシフに言ってマイのサポートを止めさせる」

 

「了解しました」

 

 フェリは無表情で頷く。

 レイフォンもニーナの方に近付いてきた。

 

「隊長、僕も鋼糸で都市に上がります。ルシフだけに任せてはおけない」

 

「レイフォン、私も一緒に上げてください」

 

 レイフォンの持つ青石錬金鋼(サファイヤダイト)が青い光に包まれ、剣身が消える。柄だけが残った錬金鋼を握りしめ、レイフォンは都市を見上げた。

 鋼糸を都市に繋ぐと同時にフェリを鋼糸で支え、ルシフに続いて都市に上がる。

 エアフィルターを突き抜け、レイフォンとフェリは外縁部の地面に着地。

 ルシフは既にレイフォンたちの前に立っている。

 レイフォンとフェリにやや遅れて、ニーナとシャーニッドもワイヤーを利用して上がってきた。

 エアフィルターで汚染物質は都市内に入ってこないため、ヘルメットを被っている者はヘルメットを外した。

 第五小隊は第十七小隊とは反対側の調査担当と決まったため、この場にはいない。

 

「状況は?」

 

「死体一つありません」

 

「人が居そうな建造物か避難シェルターは?」

 

「幾つかあります。シェルターの入り口も見つけました。

というか、調査ならこのまま念威端子で出来ますが?」

 

「フェリの能力が高いことは知っているが、実際にその場に行って確認する以上に精度の高い情報を手に入れる方法はない。

まだ十分時間はある。それは最終手段だ」

 

「……了解しました」

 

 ニーナの言葉に、フェリは渋々といった表情で頷いた。

 

「まずは避難シェルターに人がいるか調べよう」

 

 ニーナの言葉に第十七小隊の面々が頷き、フェリから指示される方向に向かって歩く。

 

 

 

 避難シェルターの中はやはりと言うべきか、腐臭が充満していた。

 だがおかしなことに、その原因ともいうべき死体がなかった。死体どころかその肉片すら見当たらない。

 

「フェリ、生命反応は?」

 

『ありません』

 

 ニーナの問いに、通信機からフェリが応える。

 フェリは腐臭が充満している場所に行きたくないとシェルター内部に入るのを拒否し、シェルターの入り口前で待機していた。

 ニーナたちは生存者がいないと分かっても、シェルターを隅々まで調べる。この任務の目的が生存者の救出ではなく、ツェルニが近付いても大丈夫かどうかの安全確保だからだ。

 

「――どうやら危険はないようだな」

 

「でも死体どころか、肉片の一つもありません。間違いなく人は此処で死んでるのに」

 

 レイフォンがところどころ壁に付着している黒い染みに視線をやる。それは間違いなく血の跡だった。

 次にレイフォンは天井を見る。天井には大穴が空いていて、あそこから汚染獣は此処に侵入し、避難した人々を殺したのだろう。

 これだけ派手に殺した跡が残っているのに、肉片が一つも残らない筈がない。誰かが死体を片付けなければ、こんなにも綺麗に死体を消すなんて出来ない。ならば、その誰かとは――。

 疑問は深まるばかりで、気味悪さが増大する。

 

 何も危険がないと確信してから、全員シェルターから出た。

 

「一体この都市はどうなっている?」

 

 ニーナが顎に指を当てて呟く。

 

「危険な反応はありませんから、ツェルニが近付いても問題ないと思いますが?」

 

「だが、死体がない理由を説明できない。これでは、この都市は安全だと胸を張って言えん」

 

「まあ、ニーナの言う通りだけどよ。今日はここらで止めにしようぜ。もうすぐ暗くなるしな」

 

 空は少し赤みがかっている。あと一時間もすれば日が暮れるだろう。

 

「第五小隊から合流場所の連絡がきています」

 

「分かった。今日はここまでにして、第五小隊と合流しよう。フェリ、座標を表示してくれ」

 

「了解しました」

 

 第十七小隊はひとまず探索を終了し、第五小隊が見つけた宿泊場所を目指して歩き出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 宿泊場所に決まったのは、都市中央近くの武芸者の待機所だった。

 この建物は電気がまだ生きているらしく、照明と空調を使えた。特に空調は建物内に充満していた腐敗臭を外に追い出し、建物内を清潔な空気に入れ替えた。それだけでも、随分居心地が良くなった。

 フェリは身体に染みついた腐敗臭を消そうとしているのか、入り口を開けてすぐの廊下の空調の風を自身の身体に浴びせている。

 ルシフはフェリの向かいの長椅子に座り、軽く両膝を揺すっていた。

 それをフェリが鬱陶しそうな表情で見る。

 

「随分今日は落ち着きがないですね」

 

「いつも通りだと思うが?」

 

「……いえ、いつもと全然感じが違います。というか、何故あなたが此処に居るんです? レイフォンたち同様周囲の安全確認にあなたも行くべきでは?」

 

 レイフォンとシャーニッドは周囲の安全を確かめるために、建物の外に出ていた。

 ニーナはゴルネオと部屋割りについて話すために、別の部屋に行っている。

 つまり今この場は、ルシフとフェリの二人きりになっていた。

 

「無駄な労力だな。念威操者に周囲の状況把握をさせればいいだけの話だ。お前もそう思うだろう?」

 

「……ええ、まあ」

 

 だが、自分の目で確認しなければ気が済まないという気持ちも、フェリにはなんとなく分かっていた。だから、別にその行為を馬鹿にする気は一切ない。

 そこで入り口が開き、シャンテが入ってきた。

 シャンテはまず目に入ったフェリを睨み、次に目に入ったルシフを見た瞬間、フェリの方に身体を寄せた。

 

「……あの、ウザいです」

 

「し、仕方ないだろ。お前しかいないんだから」

 

「……念威操者に隠れて、それでも武芸者ですか。この無能」

 

「う、うるさいっ」

 

 フェリは心の底から嫌そうに目を細めた。

 さっき感じた一瞬の敵意。

 今のシャンテからは見る影もないが、心当たりのない敵意をぶつけられて平然と流せるほど人間ができていないことを、フェリは自覚している。

 故に、言葉に容赦がない。

 

「お、おい。お前ら、あの一年生がどんな奴か知ってんのか?」

 

 シャンテが声を震わせながら問いかける。

 

「知ってるが、それがどうした?」

 

 ルシフは立ち上がり、シャンテに向けて一歩近付いた。シャンテはルシフが怒ったと思ったのか、フェリをルシフの前に出して縮こまる。

 フェリは無言。だが、額に青筋が立っているように見えた。

 

「知ってるならさ、あいつがどれだけ卑怯な奴か分かるだろ? あいつを倒すのに、協力してほしいんだ。お前の力なら、あいつを倒せるだろう?」

 

「……何も知らないくせに」

 

 フェリがシャンテを振り払い、シャンテの方に身体が向けた。

 シャンテはフェリがルシフの間にいるおかげでなんとか平静を保ち、鋭い眼差しをしているフェリを睨み返す。

 

「あんな卑怯な奴、武芸科に要らない。会長はなんであんな奴つかってんだ? あたしらはそんなにも頼りないのか?」

 

「……そうなったのは、あなた達のせいじゃないですか」

 

「――なんだって?」

 

「あなた達が二年前の武芸大会で負けなければ、あの人は一般教養科のまま、ツェルニを卒業できたんです。

守護者たりえない武芸者なんて、都市に要りません。一から出直してきなさい」

 

「なっ……て、てめぇ――」

 

 シャンテは反射的に剣帯から錬金鋼を抜き出す。

 そして起動鍵語を口にしようとした瞬間、ルシフがシャンテの首を掴み、床に叩きつけた。

 

「ぎゃんッ!」

 

「鬱陶しい」

 

「シャンテ!」

 

 そこに、別の部屋でニーナと話をしていたゴルネオが奥から現れ、シャンテの元に駆け寄った。

 

「貴様ァ!」

 

「……だ、ダメだよ、ゴル……」

 

 シャンテの言葉を聞かず、ゴルネオは錬金鋼を復元させて、ルシフに襲いかかる。

 ルシフはその場から動かず、顔面に向かって飛んでくる拳をじっと見ていた。

 ゴルネオの右拳がルシフの顔面を捉え、打撃音が廊下に響く。

 だが、ルシフは無傷。そのままゴルネオの右腕を掴み、捻りあげる。

 

「ぐあッ!」

 

 ルシフは捻りあげたままゴルネオの背を踏みつけ、床に押し付けた。

 

「……アルセイフと何があったか知らんが、いちいち癇に障る。このまま腕を折るか」

 

 ゴルネオとシャンテの顔が青くなる。

 ゴルネオの右腕を、ルシフが両手で持って力を込め――。

 

「ルシフ、止めろ!」

 

 ニーナが奥から慌ててルシフに近付く。

 ルシフの動きが止まった。

 

「コイツらが悪い。俺に武器を向けようとした。それをしたらどうなるか分からせなければ、俺の気が収まらん」

 

「……ルシフ、その腕を放すんだ」

 

 入り口が開け放たれ、レイフォンが青石錬金鋼を復元させた剣をルシフに向けて構えている。

 そのレイフォンの後ろでシャーニッドは肩をすくめていた。

 ルシフはため息をつき、ゴルネオの方を見る。

 

「お前、もういい歳だろう? 時と場所を考えろ。別にアルセイフと喧嘩しても構わんが、周囲の人間に迷惑をかけるな」

 

 この場にいる誰もがお前が言うなと心の中でツッコミを入れたが、口に出して言う者はいなかった。

 ルシフはゴルネオの腕から両手を離し、背に置いていた足をどけた。

 

「シャンテ・ライテ。貴様もだ。本能的に俺がどういう奴か分かっている貴様なら、次にこういう事をしたらどうなるか、分かるな? 今のは警告だ。次はないと思え」

 

 シャンテは身体を震わしながら小さく頷いた。

 ルシフは入り口の方に足を進め、レイフォンの横を通って外に出る。

 

「馬鹿が。あのまま外にいれば、手を汚さず奴を潰せた」

 

「……僕は、そんなこと望んでいない」

 

 レイフォンとすれ違いざま、ルシフは小さく呟いた。

 レイフォンもルシフに小声で返す。

 ルシフは鼻を鳴らし、暗闇の中に消えていった。

 ニーナがゴルネオに軽く頭を下げる。

 

「その、すまない。わたしの隊員が迷惑をかけた」

 

「いや、最初に錬金鋼を抜いたのはシャンテだった。こっちこそ、すまなかった」

 

「ゴルッ! 言葉で喧嘩売ってきたのはあっちが先だ!」

 

「……あなたの方でしょう?」

 

「なっ、このっ――」

 

「シャンテ、いい加減にしろ!」

 

「うぅぅぅぅぅぅぅッ!」

 

 ゴルネオがシャンテを叱り、シャンテは唸り声をあげて奥に走り去った。

 

「うちの隊員が迷惑かけてすまなかった」

 

 ゴルネオはフェリの方を見て、謝罪する。

 

「だが、あいつの言葉は俺の気持ちを代弁しただけだ。それだけは知っておいてくれ」

 

「なら、わたしが言った言葉も、わたしの気持ちをそのまま口にしただけです。

兄のやり方に納得しているわけではありません」

 

「承知した。

レイフォン・アルセイフ。俺は天剣授受者のサヴァリス・ルッケンスの弟、ゴルネオ・ルッケンス。いつかお前には報いを与えてやる」

 

 鋭い眼差しでレイフォンを睨みながらゴルネオはそう言い残し、シャンテの後を追った。

 

「なんか知らんが、やけに恨まれてるなぁ、レイフォン。ルシフにあそこまで言われても、まだあれだけ威勢がいいなんざよっぽどだぜ。

なにか心当たりでもあるか?」

 

「……いえ、身に覚えはないですけど」

 

 そう口にして、いや、とレイフォンはある事が頭をよぎった。

 自分を絶対に許せない人物。

 つまり、自分が傷付けたガハルド・バレーンの関係者だったとしたら――。

 レイフォンは身体が少し重くなった感じがした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 夕食の時間。

 携帯食料があったが、火を使えるならと夕食はレイフォンが作った。

 冷たい携帯食料よりはマシだろうという気持ちでやったことだが、ニーナたちに好評だったため、レイフォンも満足していた。

 ルシフは夕食になっても外に出ていったきり、戻ってこなかった。

 まあルシフに限って何かあるとは思えないし、ルシフがいる場所はフェリが把握しているため、先に食べていようと決まった。

 夕食時にニーナが今度強化合宿をやろうと考えていて、料理が出来る相手を探していたと言っていたが、レイフォンが料理を作れると知って喜んでいた。

 そして夕食後、レイフォンは応接室のソファに座っている。ニーナも一緒だ。

 フェリはあてがわれた自分の部屋に戻り、シャーニッドもどこかに行ってしまった。

 

「レイフォン、話がある」

 

「……なんです?」

 

「本当に、身に覚えがないのか?」

 

「……」

 

 レイフォンは黙り込んだ。

 

「わたしはお前の過去を知っているし、隊長でもある。わたしは何があってもお前の味方だ」

 

「隊長……危険です。ルシフが釘を刺しましたけど、何もしてこないとは言い切れない」

 

 レイフォンにそう言われて、ニーナは笑みを浮かべた。

 

「心配するな。そんなことを恐れてはいない。お前が何かしようとする時は、まずわたしに相談しろ。

わたしが一緒になって考えてやる」

 

 レイフォンは重くなっていた身体が、ニーナの言葉で軽くなったような気がした。

 レイフォンは軽く頬を指でかく。

 グレンダンにいた頃はなんでも一人で決めて、そのまま真っ直ぐ走っていた。それが正しいかどうかも興味がなく、ただ心のままに進み続けた。

 その結果が、今の自分だ。

 どんどん悪い方に進み、それに気付かず最後まで突き進んでしまった。

 でも今度は大丈夫だろう。間違った選択をしても、取り返しがつかなくなる前にニーナが正しい道に引き戻してくれる。

 そんな根拠のないことを、レイフォンは確信した。

 

「隊長がいてくれて、本当に良かったと思います」

 

「い、いきなり何を言い出すんだ」

 

 ニーナが顔を赤くして、そっぽを向く。

 レイフォンはそれがおかしくて微笑んだ。

 それから少しニーナと話をして、ニーナと別れた。

 

 

 その後、レイフォンはフェリの部屋の前に足を運んだ。

 フェリの部屋の扉をノックする。

 

「……はい」

 

「レイフォンです。ちょっといいですか?」

 

「どうぞ」

 

 レイフォンはフェリの部屋に足を踏み入れる。

 部屋に入ったら、扉を閉めた。

 

「……要件は?」

 

「さっきのことです。僕が原因でフェリに迷惑をかけてしまって……」

 

「全くです」

 

 シャンテとのやり取りを思い出し、フェリは露骨に不機嫌な表情になった。

 

「……フォンフォン。わたしは念威操者になりたくないです」

 

「知っています」

 

「でも、念威を使ってしまいます。念威を使うのが、人間が呼吸をするように当たり前のことだからです。

だから、我慢するのが疲れてきました」

 

 寂しそうな表情でフェリは呟いた。

 その感覚に、レイフォンも覚えがあった。

 入学式の時、何故武芸者になりたくなかったのに、剄を使ってしまったのか。

 レイフォンはツェルニに入学するために、勉強漬けの毎日だった。剄も一切使えなかった。

 そのせいで、剄脈が疼いていたのだ。

 剄を使うのが当たり前の身体構造をしている武芸者の身体は、剄を使わないことこそ異常。

 それを、あの時に思い知らされた。

 

「わたしたちはどうして、人間ではないのでしょう?

人間なら、こんな事で苦しまなくてすむのに……」

 

 レイフォンは何も言えなかった。

 しばらく沈んだ表情をしていたフェリだが、はっとしたように顔をあげた。

 

「外、南西二百メルに生体反応。家畜ではありません! ルシフもそこに移動を開始しました」

 

 レイフォンは内力系活剄で全身を強化し、窓から外に飛び出して座標に向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レイフォンが座標に辿り着いた。

 そこにはルシフと、放射状に伸びた角を生やした黄金色の牡山羊(おやぎ)がいた。

 ルシフの横顔をレイフォンは見る。

 ルシフは凄絶な笑みを浮かべていた。背筋が凍り付くような錯覚をしてしまうほど、その表情は恐ろしかった。

 

「アルセイフ、貴様も来たか」

 

 ルシフは視線を牡山羊から外さず言った。

 レイフォンは改めて牡山羊を見る。

 

「なんだ、こいつ?」

 

 牡山羊の大きさは、角も含めてレイフォンの身長ほどあった。

 レイフォンの身体は、汚染獣を前にしたような緊張感に支配されていた。

 直感が告げる。

 こいつはヤバい。

 何故かは分からないが、この牡山羊が放つプレッシャーは尋常ではない。

 

「……お前は違うな」

 

 ルシフでもレイフォンでもない声が、辺りに木霊した。

 この場で話した可能性があるのは、目の前の牡山羊しかいない。

 

「……今喋ったのは、お前か?」

 

 半信半疑で、レイフォンが牡山羊に問いかける。

 牡山羊からの返事はない。牡山羊の口も動いていない。だが、再び声が聞こえてくる。

 

「我が身はすでに朽ち果て、もはやその用を為さず。魂である我は狂おしき憎悪により変革し炎とならん。新たなる我は新たなる用を為さしめんがための主を求める。炎を望む者よ来たれ。炎を望む者を差し向けよ。我が魂を所有するに値する者よ出でよ。さすれば我、イグナシスの塵を払う剣となりて、主が敵の(ことごと)くを灰に変えん」

 

「差し向ける必要などないッ! 何故なら、お前を所有するに足る存在がお前の眼前にいるからだ!」

 

 ルシフが一歩前に進み出る。

 牡山羊がルシフの方に顔を向けた。

 

「お前は……面白いな」

 

 レイフォンもルシフと同じように一歩踏み出そうとして、踏み出せなかった。

 身体が硬直して、身体が動いてくれないのだ。

 考えられる原因は一つ。

 レイフォンが、牡山羊の放つプレッシャーに呑まれている。

 そんなレイフォンの姿を、ルシフは振り返って勝ち誇った表情で見た。

 

「動けんかアルセイフ! こいつの前に立つための資格は力ではなく、強い意志だからな! 貴様のようにブレている奴では動けんのも道理!」

 

「ルシフ、君はあいつがなんなのか知ってるのか!?」

 

 その言葉を無視し、ルシフは牡山羊にゆっくりと近付く。

 もしかしたらレイフォン同様動けなくなるかもしれないと考えていたが、多少プレッシャーを感じるだけで普通に動ける。

 つまり自分はこの牡山羊を手に入れる資格があるということ。

 ルシフの顔に自然と笑みが浮かぶ。

 この時を、どれだけ待ったことか。

 

「我は道具なり。故に我は何者でもない」

 

 牡山羊からの声が響く。

 ルシフは牡山羊の眼前まで近付いた。

 手を伸ばせば、牡山羊に触れる距離。

 

 ――俺以上に、お前に相応しい者はいない。お前は俺のものになるんだ。

 

 ルシフは手を伸ばす。

 そして牡山羊に手が触れる瞬間、牡山羊が浮かび上がった。

 

「……何?」

 

 ルシフは頭上を見上げる。

 牡山羊がルシフを見下ろしていた。

 

 ――一体どういうことだ!?

 

 牡山羊の身体が闇に呑まれるように消えていく。

 

「……待て……行くな」

 

 ルシフは必死に牡山羊に向かって手を伸ばす。

 お前は俺が気に入ったんじゃないのか。

 待て、行くな、行かないでくれ。俺はお前が必要なんだ。頼む、帰ってこい。

 お前がいなければ、俺は――。

 跳ぶという行為も忘れ、ルシフは手を伸ばし続ける。

 牡山羊はそんなルシフを嘲笑うように、光の粒子へと変わっていく。

 

「行くなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 

 ルシフの絶叫が周囲を震わせる。

 もう視界に牡山羊はいなかった。

 ルシフの目は牡山羊が溶けた暗闇を映し、その場で崩れ落ちるように両膝をついて座りこむ。

 

「……何故だ……条件は全て満たしていた……なのに何故……俺に憑依しない……何故俺を拒絶した……何故だ……何故……」

 

 呆然とした表情で呟き続けるルシフ。

 レイフォンはただその場で、その様子を声もなく見守ることしかできなかった。



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第20話 未知との遭遇

 黄金の牡山羊と出会った翌日、ニーナたちは第五小隊とともに黄金の牡山羊を探している。

 だが、今のところ成果はない。

 

「フェリ、ルシフはどこにいる?」

 

「わたしたちが宿泊した施設の屋上で座っています。ずっと俯いていて表情は分かりませんが」

 

「……そうか」

 

 昨夜、フェリからの連絡でレイフォンとルシフの元に駆けつけたニーナたちは、今までに見たことがないルシフの姿に困惑した。

 しばらく何かを呟いていたルシフはゆっくりと立ち上がり、ふらふらとした足取りで宿泊施設の方に消えていった。

 宿泊施設でレイフォンが「あの牡山羊はなんだ?」と聞いても、ルシフは「貴様らが知る必要はない」と牡山羊についての情報の提供を拒否。

 それ以降、朝食の時間まで自分にあてがわれた部屋にこもっていた。

 そして牡山羊を探そうと決まっても、ルシフは無反応で施設に残った。

 任務だからお前も探すのを手伝えと言っても、「無駄だから、俺は行かん」の一点張り。

 何度も探すよう言ったが効果はなく、仕方なくルシフ抜きで牡山羊を探している。

 

 ――それにしても、あんなルシフの姿は初めて見たな。

 

 ニーナは昨夜からのルシフの姿を思い出す。

 グレンダンの女王にボコボコにされた時も、ルシフは闘争心を失わず、気力をみなぎらせていた。

 だが、今のルシフから闘争心は少しも感じない。それどころか普段の威圧的な雰囲気もない。

 自分の持つ全てを失ったかのように落ち込んでいるルシフの姿。

 レイフォンに何があったと聞いたら、「黄金の牡山羊に向かって行くなと言っていました」と答えた。

 ルシフは黄金の牡山羊とやらの正体を知っていて、それを手に入れたかったのだろう。

 しかし、失敗した。だからあんな風になった。

 だが逆に言えば、『あの』ルシフがあんなに欲しがっているモノだ。

 武芸者の実力がずば抜け、力が全てと思っているルシフが欲しがる存在。

 これだけで牡山羊がどういう意味を持つ存在かなんとなく見えてくる。

 

 ――もしかしたら、ルシフが牡山羊を手に入れなくて良かったかもしれない。

 

 ニーナは胸騒ぎを感じていた。

 ルシフは間違いなく自分たちから見て異端の存在。

 武芸者の常識を悉く壊していく。

 もし今以上の力をルシフが手に入れてしまったら、ルシフはますます増長し、暴走してしまうんじゃないだろうか。

 

 ――嫌な予感がする。このまま何事も起きなければいいが……。

 

 それがただの願望であり、心の奥底で叶わないだろうと気付いていても、そう願わずにはいられない。

 しかし、いつだって願いは儚く消えていくものだと知らないほど、ニーナは子供ではなかった。

 不意にフェリから通信が入った。

 

『……昨夜と同じ反応……座標は……ルシフのすぐ傍です!』

 

 ニーナは舌打ちする。

 

「第十七小隊、ルシフの元に急ぐぞ! ルシフは現状のまま待機! 分かったな!?」

 

 ニーナが通信機に叫ぶ。

 ルシフからの返事はなかった。

 ニーナは再度舌打ちし、内力系活剄で身体能力強化。

 剣帯にある二本の錬金鋼を抜き出して、ニーナは地面を蹴った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆     

 

 

 

 ――ルシフよ、忘れるな。

 

 頭の中で、幼き日の父の言葉が再生される。

 

 ――力で人を屈服させたところで、それは表面上でしかない。そんなもの、きっかけがあれば簡単に牙を取り戻す。心だ。人を本当の意味で屈服させたければ、心で人を従えろ。

 

(理想論だ)

 

 ルシフは脳裏に流れる父の声を一笑した。

 一人一人、誰もが違った価値観を持つ。

 ある一人の価値観に合えば、ある一人の価値観から外れる。どれだけ心を他人に砕こうとも、必ず不満を持つ人間が出てくる。

 そして、それは従える人間に媚びることも意味する。

 そうやって他人に合わせて考えを変える奴なんかに、俺は従いたいなどと絶対に思わない。

 他人からどれだけ非難されても、絶対にぶれない芯。

 それがない王など、周りからいいように使われる道化同然。

 王とは人を導く者であり、人を堕落させる者ではない。

 なら、王に必要なものは何か。

 それはぶれない絶対的な価値観と、それ以外の価値観を握り潰す圧倒的な力。

 力だけは皆等しい印象を持ち、そこにズレは生じない。誰もが畏怖し、誰もが逃避する。

 しかし――。

 もし強大な力で何度も握り潰しても、折れずに歯向かってくる者がいたとしたら。

 強い信念を持ち、力に屈せず立ち塞がり続ける者がいたとしたら。

 自分は一体どうすればいいのだろう。

 今回の廃貴族は正にこれに当たる。

 力も意志も、廃貴族に分からせた筈だ。

 なのに、奴は俺に憑依せず、俺の前から姿を消した。

 そんな相手に、次はどうアプローチしたらいい?

 まるで暗闇を手探りで進むような不安感。

 今までずっと力と意志があれば、廃貴族を手に入れられると思っていた。

 だが、何かが足りなかった。

 そして、その何かが分からない。

 

 ――どうする?

 

 ルシフは苛々しげに右手で頭を掻く。

 

 ――このままでは俺の計画が全て水泡に帰す。何か手を打たなければ――。

 

『……あの、ルシフ様?』

 

 遠慮がちな声で、マイから通信が入った。

 ルシフは頭を掻くのを止め、通信機を手に持つ。

 

「なんだ?」

 

『いえ……その、私にも、あの黄金の牡山羊がなんなのか、教えてもらえないんですね』

 

「……」

 

『あんなルシフ様、私は初めて見ました。ルシフ様はいつも自信に満ち溢れて、どんな時もカッコ良くて、毅然と立つ姿にいつも勇気をもらって――」

 

「……」

 

『私では、ルシフ様の力になれませんか? 私は、少しでもルシフ様の力になりたいんです』

 

「……時期が来たら、話す」

 

『そう……ですか。私では力になれないんですね……』

 

 マイの声が沈み、明らかに落胆した声色になった。 

 そんなことはない。

 そう言うのは簡単だ。

 しかし、廃貴族を手に入れるまでは、誰にも教えないと決めている。

 余計なことをして、原作の流れを壊さないようにするためだ。

 教える気がないのに、そんな言葉を口にしたところで、マイを更に深く傷付けるだけ。

 そんな口先だけの軽い言葉を伝えるくらいなら、たとえマイを傷付けることになったとしても、はっきりと意思表示をするべき。

 本気で自分の力になりたいと思ってくれる相手には、敬意を持って接する。

 ずっと前から変わらない、自分のスタンス。

 上辺だけの言葉など、相手に失礼なだけだ。

 

『……ッ!』

 

「このプレッシャーはッ!?」

 

 ずっと屋上の床に視線を落としていたルシフだったが、突如として現れた威圧的な力の存在を感じて、顔をあげた。

 ルシフから数歩先の位置に、昨夜姿を消した黄金の牡山羊の姿があった。

 牡山羊に表情と呼べるものはなく、澄んだ青色の瞳がただルシフを映している。

 

『これって、昨夜の……』

 

 マイが驚きの声を漏らす。

 ニーナからルシフに何か通信が入ったが、ルシフの耳には届かなかった。

 それ程までに、この邂逅はルシフにとって衝撃的だった。

 

 ――なんだコイツは?

 

 この俺をおちょくってるのか。

 ルシフは牡山羊に向かって手を伸ばすことはおろか、近付こうとさえしない。

 昨夜の件で、牡山羊にどれだけ手を伸ばそうとも、どれだけ近付こうと牡山羊にその気がなければ無駄だと理解した。

 ルシフもただ牡山羊の瞳を見返している。

 そして、黄金の牡山羊は再び消えた。

 それから数秒後に、建物を駆け登ってきたニーナとレイフォンがルシフのいる場所までたどり着いた。

 ニーナとレイフォンがルシフの眼前に降り立つ。

 

「ルシフ、無事か!?」

 

「大丈夫だ、問題ない」

 

「……ルシフ、いい加減アレが何か教えてくれ。君は知っているんだろ?」

 

 レイフォンが痺れを切らしたように、ルシフに問いかける。

 ルシフは右手で頭を抑えて、レイフォンの方に視線を向けた。

 

「俺もアレに関しては混乱している。少し一人にしてくれ。考える時間が欲しい」

 

 ルシフはそう言うと、屋上の扉を開けて建物の中に入った。レイフォンが冷めた視線でこっちを睨んでいたが、別にどうでもいい。

 そして自分の部屋に戻り、備え付けられているベッドに仰向けで寝転がる。

 

 ――ああ、イライラする。

 

 右腕で両目を覆い隠し、下唇を噛む。

 廃貴族が何を考えているか、少しも分からない。

 ルシフとしては、この場所で絶対に廃貴族を手に入れる必要はない。ここで手に入れられなくても、次はツェルニに廃貴族は来る。

 廃貴族を手に入れるチャンスはまだある。

 そう考える一方で、ここで手に入れられなかったら、きっと何度チャンスがあっても駄目だろうと薄々感じていた。

 

 ――なんで俺がこんな思いをしなければならない?

 

 そして、段々と自分を混乱させイラつかせる元凶に腹が立ってきた。

 そもそも、アイツはなんで話せるのに無言なんだ?

 意味ありげに見つめてくるだけで、すぐに消える。

 間違いなくアイツはコミュ障だ。断言できる。

 何故会話をしようとしない? 目や行動で相手に伝えようとしても、百パーセントは絶対に伝わらないのに。

 ルシフはため息をついた。

 考えるだけ無駄だ。

 廃貴族がなんなのか知っていても、廃貴族の思考が今回のことで分からなくなった。

 何かを廃貴族は俺に求めている。それはきっと正しい感覚。

 ならば、冷静になって、廃貴族が再び接触してくるのを待つ。

 これが今の自分に出来る最善手だろう。

 そう結論づけて、ルシフは両目を閉じた。

 昨夜はあまりにもショックが大きすぎて、睡眠時間をあまり取れなかった。

 そのせいで、正直かなり眠い。

 そして、ルシフはそのまま眠りの海に落ちていく筈だった。

 マイからの通信が入らなければ――。

 

『……あの、私、あの牡山羊について思ったことがあるんですけど』

 

「…………言ってみろ」

 

『あの牡山羊、ずっとルシフ様を見てました。まるで、ルシフ様を見極めるように――』

 

「それは、俺も感じていた。アイツは俺を探るような目で見ていた。それが何を意味するかは分からんが」

 

『あれ、ルシフ様を試してるんじゃないかって私は思うんです。ほとんど直感というか、勘なんですけど』

 

 ――試す? 俺を?

 

 マイからその言葉を聞いた瞬間、今まで頭の中でバラバラだったパズルのピースが、次々にはまっていくような錯覚を覚えた。

 ああ、なんだ。そんな単純なことだったのか。

 ついさっきまでの苛立ちや焦燥感でいっぱいだった自分が、急にバカバカしく思えてきた。

 

「アッハッハッハッハッ! ハハハハハハ!」

 

 寝転がりながら、ルシフは高笑いする。 

 マイの戸惑う声が、耳に伝わった。

 

『ル、ルシフ様、いきなりどうされたんです?』

 

「いや、ありがとう、マイ。お前のおかげでスッキリした。俺はショックのあまり、自分視点でしか物事を考えられていなかったようだ」

 

『? よく分かりませんが、ルシフ様のお役に立てたなら良かったです』

 

 ルシフはベッドから飛び起き、乱れていた戦闘衣を直す。

 

「よし。マイ、もう一度外に出る。牡山羊の反応を感知したら、すぐに俺に伝えろ」

 

『分かりました』

 

 ルシフは部屋の扉を開ける。

 やはり答えが出ると、身体と心が一致している感じがする。

 足取りも軽く、前をしっかり見れる。

 宿泊施設の廊下には、ニーナたち第十七小隊と、第五小隊が集まっていた。

 全員の視線がルシフに集中する。

 明らかに事情を知っているルシフの黙秘が、全員に不信感を与えているせいか、その視線はどれも冷たいものだった。

 だが今のルシフにしてみれば、そんなもの更に自分のテンションを上げる薬にしかならない。

 

「なんだ貴様ら、やけに暗い表情をしているじゃあないか」

 

「お前こそなんなんだよ。ちょっと前まで落ち込みまくってたじゃねぇか」

 

 シャーニッドが呆れた表情になった。

 ルシフは不敵に笑う。

 

「男子三日会わざれば刮目してみよ、という言葉を知らんのか? いつまでも前の姿に囚われるな」

 

「いや、知らねぇよそんな言葉。それにそんな前じゃねぇし」

 

 シャーニッドの言葉に同意するように、周りの人間もうんうんと頷いている。

 

「まあ、いい。俺は外に出てくる。あの牡山羊を探しにな」

 

「ようやくやる気になったのか。なら、私たちも探すのを再開するか」

 

 壁に身体を預けていたニーナが身体を起こし、入り口の前に立つ。

 ルシフは入り口に向かって歩く。その間に第五小隊の隊員が何人かいたが、ルシフは避けようとせず、前進を続ける。

 隊員たちは、ルシフが近付くと自然に道を開けた。

 邪魔をすればルシフは容赦しないとツェルニの誰もが知っているのだから、これは仕方ないことだろう。

 誰だって、とばっちりで痛い目など見たくない。

 それを当然のような顔で受け入れ、ルシフがニーナの前の入り口を開けた。

 

「ルシフ、牡山羊とやらが出る場所の心当たりは?」

 

「ない。この都市全体がおそらくヤツの縄張りだ。ヤツはこの都市ならどこにでも出現するだろう。手分けして網を張る。それ以外に効率の良い方法はない」

 

「分かった。フェリは此処で待機し、念威で都市全体の探索。それ以外はそれぞれ別方向に行こう。私は北、レイフォンは東、シャーニッドは南、ルシフは西。

なにか異論はあるか?」

 

「……ないです」

 

「俺も」

 

「僕もありません」

 

「俺も貴様に従ってやる。今回はな」

 

 ルシフの物言いに、ニーナは軽く息をついた。

 

「……お前はもう少し丁寧に話せ」

 

「貴様は魚にえらで呼吸するなと言うのか?」

 

 ニーナは深く息をついた。

 なんだその理屈は?

 魚がえら呼吸するのと、お前が偉そうな口調で話すのが同列か?

 ここまでくると、呆れを通り越して敬意すら覚える。

 これ程までに自尊心の高い人間など、後にも先にもルシフ以外いないだろう。

 

「……もういい。あきらめた」 

 

「賢明だな」

 

 ニーナの目が据わり、ルシフを睨む。

 ニーナは何も言わず、呆れたように首を横に振ってルシフから視線を外し、正面を見た。

 

「第十七小隊、行動開始!」

 

 ニーナの声を合図に、ルシフたちが移動を開始する。

 ニーナやレイフォンたちは走って任された方角に消えていったが、ルシフはゆっくりと両サイドに潰れた建造物が並ぶ通りを歩く。

 

「さて、と――」

 

 ルシフの纏う剄が勢いを増す。

 ルシフの周囲に剄の奔流が巻き起こり、建造物の瓦礫がその影響で吹き飛んだ。

 ルシフの身体は剄の輝きで赤く発光し、圧倒的な威圧感が辺りを支配する。

 

 ――廃貴族、俺はやっとお前を理解できたと思う。

 

 ルシフの剄の勢いは未だに止まらず、ルシフの周囲の剄の奔流も更に激しくなっていく。

 なんとか原形を留めていた建造物の群れも、次々に崩壊していく。

 

 ――だから、姿を現せ! 廃貴族ッ!

 

 そんなルシフの心の叫びに応えるように、ルシフの眼前の空間が歪み、黄金の粒子が集まっていく。

 粒子は生物の姿を形作り、やがて黄金の牡山羊へと変貌した。

 瞬時に爆発する牡山羊の圧力。

 それがルシフの剄の奔流と共鳴し、圧倒的なまでの力場が互いの間で展開される。

 ルシフの前髪は力場で吹き荒れる剄の奔流で乱れ、ルシフの身体も痛いくらいに打ちつける。

 それでもルシフは口の端を吊り上げ、勝ち気な笑みを浮かべていた。

 

 ――俺はお前に力と意志を示したと思っていた。

 

 ルシフの左拳が力の限り握りしめられる。

 

 ――だが、それは俺の勝手な解釈で、お前の都合は何も考えていなかった。

 

 ルシフは黄金の牡山羊に向かって力強く一歩踏み込む。踏み込んだ衝撃で地面が砕けた。

 そして瞬く間に黄金の牡山羊に肉薄し、牡山羊の横顔を左拳で殴りつけた。

 牡山羊の顔は光の粒子に戻り、牡山羊の胴体の周りを漂っている。

 ルシフは殴りつけたら、一歩後ろに跳んで距離を取った。そこから廃貴族の様子を観察する。

 牡山羊の顔があった辺りに光の粒子が集まり、再び顔が生まれた。

 

「見事だ、意志強き者よ……」

 

 どこからともなく声が聞こえた。

 牡山羊の姿は空間に呑み込まれるように消えていく。

 だが、消えたと思ったら、ルシフから少し離れた後方に姿を再び現した。

 ルシフはそれを追いかける。

 ルシフが近付くと廃貴族は消え、また別の場所に姿を現す。

 

『我は道具なり。故に我は何者でもない』

 

 ルシフの脳裏に昨夜の廃貴族の言葉が再生される。

 

 ――嘘をつけ。

 

 ルシフが楽しげな笑みになる。

 

 ――自分を道具だと言うなら、何故道具を使う相手を選ぶ?

 

 道具に意思など存在しない。いや、してはいけない。

 何故なら、道具は生物の補助的な立場に立つ物であり、知識さえあれば誰もが使用出来る物でなければならないからだ。

 道具が主体的な立場に立つなど言語道断。そんな物、道具として失敗作。

 しかし、お前は違う。

 自分のことを道具と言いながらも、自分という道具の力を最大限に発揮出来る使い手を求めている。

 

 ――廃貴族……最高だよお前。

 

 そう思えるのは、自分に絶対の力があると信じているからだ。

 自分の力を最大限発揮出来れば、どんな相手も倒せるという自負を持っているからだ。

 道具のくせに、上から目線で使い手を選ぶ。

 どこまでも傲慢で不遜。

 だからこそ、俺に相応しい。

 俺と共に歩く存在として、ここまでの相手はコイツ以外にいないだろう。

 廃貴族は未だに消失しては顕現を繰り返している。

 イラついてた頃なら怒り狂っていただろう。しかし、今のルシフは心に余裕がある。

 廃貴族がどこかに自分を誘導しようとしているのに、なんとなく気付いていた。

 やがて廃貴族はルシフが近付いても消えなくなった。

 ルシフは廃貴族から数歩離れた位置で止まり、周囲を見渡す。

 そこはこの都市のちょうど中心の位置だった。

 少しこの場所から逸れた場所に、宿泊した施設がある。

 そのまま数十秒、二つの物体は静止したまま。

 その間に、ニーナやレイフォン、シャーニッドがルシフの元に集まった。

 ルシフの耳には届かなかったが、フェリは廃貴族が現れた時点で第十七小隊の面々に廃貴族の座標を伝えていた。

 座標がころころと変わったため、ニーナたちは少し混乱して動きが鈍っていたが、ようやく座標が固定されたため、ルシフのところまで来ることが出来た。

 

「こいつが黄金の牡山羊……」

 

 ニーナは二本の鉄鞭を構え、興味深そうに黄金の牡山羊を見る。

 ニーナの両腕は微かに震えていた。廃貴族の放つプレッシャーのせいだ。

 シャーニッドとレイフォンも、額に冷や汗が浮かんでいる。

 そうして第十七小隊が廃貴族と相対して数分後、第五小隊もこの場にやってきた。

 彼らも廃貴族のプレッシャーにやられ、身体を硬直させている。

 廃貴族は役者は揃ったと言うように、黄金の身体を更に強く輝かせ始める。

 廃貴族の圧力は更に強く激しくなり、その場の全員の全身から汗が噴き出し、全員が廃貴族を凝視した。

 ルシフですら、その圧力に僅かに身体を震わせた。

 都市そのものが、廃貴族の激しい力場で鳴動する。

 その時、異変が生じた。

 都市の地面から、人間にそっくりの四肢を持ったモノが現れたのだ。

 その大きさは数メートル。汚染獣の雄生体並のサイズ。

 人間の頭にあたる部分は潰れた肉の小山があり、その肉の中に口だけがある。

 胸の部分では打ち込まれた球体がグルグル動いている。

 そしてその巨人の手には柱を尖らせたような槍が握られていた。

 

「なんだコイツは!?」

 

 ニーナが青い顔で叫んだ。

 ルシフも驚きの表情でその巨人を見上げ、次に廃貴族の方に視線を向ける。

 廃貴族の姿は何処にもいなかった。

 

 ――そうか。これがお前が俺に課す最終試験というわけか。

 

 俺とアルセイフがいるから、コイツらを倒せると考えたのだろう。

 ルシフのコイツらというワードに反応したように、巨人は都市の地面から次々に生えてくる。

 その数はすでに十体を超えていた。

 

「なんだこれ? 汚染獣……なのか?」

 

 レイフォンが呆然と呟く。

 こんな汚染獣を、レイフォンは今まで一度も見たことがなかった。

 巨人たちが一斉に槍を構え、そのまま振り下ろす。

 ルシフは跳躍し、両手から剄を放出しながら薙ぎ払う。

 放出された剄は不可視の剣となり、全ての巨人を上下に真っ二つにした。

 崩れ落ちる肉塊。

 

「やった!」

 

 ニーナの表情がぱっと明るくなる。

 しかし、その肉塊から再び欠けた部分が生え、今度は倍の数の巨人になった。

 ニーナが驚愕の表情に変わる。

 これより彼らは、全く未知の存在と戦うことになる。自らの全てを懸けて――。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆     

 

 

 

 未知の出来事に遭遇している第十七小隊と第五小隊。

 その都市の地下深く――。

 そこで、ソレは目覚めた。

 

《識別番号XC一〇七八五三四五六七……》

 

 それは機械音声。作られた声が長く続く文字の羅列を発する。

 

《目標ノ損害レベル上昇、作戦遂行不可能ニナル確率、未ダ増大》

 

《休眠状態カラ活動状態ニ移行、作戦遂行ヲ最優先トス》

 

《擬態解除、目標ノ防衛ヲ開始シマス――――》



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第21話 巨悪の影

 ルシフは巨人一体一体に内力系活剄、旋剄で近付き衝剄で遠くに吹き飛ばす。

 巨人たちの体が建造物を巻き込み、建造物を壊していった。

 

「フェリ・ロスと第五小隊の念威操者は、すぐに巨人とこの都市の解析を始めろ!」

 

 ルシフが通信機にそう叫んだ。

 

『……分かりました』

 

『はい! やります!』

 

 ルシフは二人の返答を聞いて、満足そうに頷く。

 

「ふむ、理解が早い奴は好きだぞ」

 

『す、好きだなんて、そんな……』

 

『アンネリーゼ、お前……』

 

 ゴルネオが部下の念威操者の従順ぶりに困惑した声をあげた。

 まさかルシフに気があるのでは? と不安になっているのだろう。

 いざという時に自分ではなくルシフの言うことを聞かれたら、小隊が崩壊する。

 ルシフはそのやり取りを冷めた表情で聞いていたが、すぐに巨人の方に意識を移す。

 あの巨人たちは都市から生えるようにして出現した。

 つまり、都市を構成する物質がそのまま巨人を構成する物質になる。

 問題なのは、その物質が都市の何パーセントを占めているか。

 もし、都市の全てがその物質で構成されていたとしたら、都市そのものが敵となる。

 

『はいはいはーい! 私の方がそこの念威操者二人より早く解析出来ますよー! ルシフ様ー!』

 

「あ、ああ。お前も解析頼む」

 

『任せてください! 私が! 私がルシフ様に解析結果を必ず報告します!』

 

 ――何を張り合ってるんだこいつは……。

 

 頭の片隅でそんなことを思いながら、ルシフは際限なく出てくる巨人を絶えず衝剄を使用した打撃で殴り飛ばしている。

 この巨人は斬撃のような一部分への攻撃より、衝撃波のような一気に全身にダメージを与える攻撃の方が有効的だ。

 理由として、この巨人は一生物ではなく、構成物質が集まって生まれた集合体だからだ。斬撃で斬ったところで構成物質を消せない。どれだけ斬ろうがすぐに斬られた箇所を構成物質で埋め合わせ、元の姿に戻ってしまう。

 殴り飛ばしても殴り飛ばしても湧いてくる巨人たち。

 ルシフはいい加減イラついてきた。

 

「――ザコのくせに鬱陶しい。灰になれッ!」

 

 ルシフは左の手の平を巨人の群れに向け、膨大な剄を放出。

 更に化錬剄で剄を炎に変化させ、放出された剄が赤く輝く熱線となる。

 それが巨人の群れを焼き尽くし、一瞬で消し炭にした。

 ルシフの熱線を逃れた巨人たちが、ルシフに向けて柱の槍を構える。

 ルシフは不敵な笑みを浮かべた。

 

「余計なことを……」

 

 巨人たちが槍をルシフに突き刺そうとして、それらの巨人がレイフォンの鋼糸でバラバラになった。

 レイフォンはすかさず鋼糸の剄圧を強くし、その時に生じた熱でバラバラになった肉片を焼き尽くした。

 レイフォンがルシフの横に立つ。

 

「アルセイフ、こいつらは衝剄や分子レベルで破壊する攻撃が有効そうだ! 何かないか!?」

 

「分子レベルで破壊する攻撃? もしかしたら――」

 

 レイフォンはまた地面から生えてきた巨人を見据え、大きく息を吸い込む。

 

「かぁっ!」

 

 そして――呼気に剄を乗せ勢いよく息をはいた。

 外力系衝剄の変化。ルッケンス秘奥、咆剄殺。

 レイフォンはサヴァリスの咆剄殺を見て、その仕組みを理解し、会得していた。

 分子の結合を破壊する震動波が巨人を崩壊させる。

 まるで砂山のように崩れた巨人。それを拍子抜けした表情で見ているレイフォン。その光景の一部始終を目に焼きつけたルシフ。

 ルシフの口の端が吊り上がる。

 ルシフはレイフォンが咆剄殺を放った方向とは逆の方に身体を向けた。

 そこは咆剄殺が当たらなかったため、巨人が多数いる。

 ルシフはレイフォンと同じように息を吸い込んだ。

 

「かぁっ!」

 

 ルシフの放った咆剄殺が、巨人をまとめて消し飛ばす。

 レイフォンの咆剄殺を見て、咆剄殺の仕組みを理解したのだ。

 レイフォンは驚愕の表情でルシフを見ている。

 

「一目見ただけで咆剄殺を会得したのか」

 

「お前だって似たようなことが出来るだろう?」

 

「……そうだけど、でも、そんなすぐに会得は――」

 

「なんにせよ、これで奴らに有効な技を使える武芸者が二人になった。この戦いが楽になるのだから、問題あるまい?」

 

「……まぁ、そうだね。でも、これじゃキリがない」

 

「だから、念威操者たちにコイツらを解析させている」

 

 この巨人どもは傀儡。

 ならば、この巨人を作り出し操っているもの――制御部分が必ずこの都市のどこかにある。

 当然ルシフは原作知識でこの都市の正体と巨人のことを知っていた。知っていて、さも知らなそうに振る舞っている。

 

「――ちょっと僕は向こうに行くよ」

 

 そう口にし、レイフォンは旋剄で移動。ルシフの眼前から姿を消す。

 レイフォンの向かった先を見て、ルシフは呆れたように呟いた。

 

「……あいつは少しお人好し過ぎるな」

 

 呟いたすぐ後、マイから通信が入ってきた。

 

『ルシフ様! この都市と巨人の解析完了しました! この都市は――』

 

 その後に続くマイの報告を聞いて、ルシフは自分の知っている知識が間違っていないことを確信した。

 

 

 

 

 周囲を埋め尽くす巨人の軍勢。

 第五小隊はあまりに現実離れした展開に呆けている。

 

「ゴルッ! どうしよう!?」

 

「くっ、とりあえず一体ずつ片付けていくしかないだろう! レストレー――」

 

 ゴルネオが正面の巨人を見据え、錬金鋼(ダイト)の復元鍵語を口にしようとした瞬間、ゴルネオの横を黒い影が通りすぎた。

 その影は跳躍し巨人に接近。一瞬で巨人を八つ裂きにし、ゴルネオの前に背を向けて着地。

 その影の正体を知り、ゴルネオは剣呑な表情になる。

 

「――なんのつもりだ?」

 

「何がです?」

 

 影の正体――レイフォン・アルセイフは冷めた表情でゴルネオを見返す。

 

「罪滅ぼしのつもりか?」

 

「……」

 

 ゴルネオの声に怒気が混じる。

 

「お前が殺した! 武芸者としてのガハルドさんを! 俺は何があってもお前を――」

 

 その先の言葉は、レイフォンに突き立てられた青石錬金鋼(サファイヤダイト)に遮られた。

 ゴルネオの頭のすぐ横に剣の刀身がある。剣先はゴルネオのすぐ後ろに現れた巨人の右太股に刺さっていた。

 レイフォンは剣に剄を一段と(はし)らせ、斬線の形をした衝撃波を放つ。

 外力系衝剄の変化、閃断。

 巨人の右足が両断される。レイフォンは跳躍し、巨人の頭上から剣を振り下ろす。

 巨人の身体が真っ二つに斬られ、剣が帯びていた剄の熱で巨人の身体が炎に包まれた。

 巨人は灰に還り、静寂がレイフォンの周囲を覆いつくす。

 ゴルネオは絶句していた。

 一度ならず、二度も自分を助けたという事実に。

 

「やっぱりガハルド・バレーンの関係者でしたか」

 

 レイフォンは淡々とした口調でそう言った。

 ゴルネオは表情に怒りを滲ませる。

 

「ガハルドさんは殺そうとしたくせに、俺は助けるのか? どうして俺を殺そうとしない? 俺はお前のした過去を知っている人間だぞ」

 

 もしゴルネオがレイフォンの過去をツェルニの生徒たちに話せば、レイフォンはたちまちツェルニの生徒たちから責められ、レイフォンを軽蔑し罵倒する輩が出てくるだろう。

 そうなった時、レイフォンはツェルニから居場所がなくなる。罪が発覚した時のグレンダンと同じになる。

 だから、レイフォンは自分を殺そうとするのが普通。言ってみれば、今のゴルネオはガハルドと同じ立場に立てる人間。

 殺そうとしなくても、助ける必要はない。そして、自分を脅かす者をレイフォンは助けない。

 ゴルネオはレイフォンをそういう人間だと、グレンダンからの手紙を読んだときからずっと思っていた。

 自分のためなら、他人を平気で殺そうとする血も涙もない外道だと。

 だから、レイフォンのことが分からない。

 イメージと実物とでズレがありすぎる。

 

「……別にあなたが死のうが生きようが、僕にとってはどうでもいいです」

 

 だが、ニーナが言うのだ。

 自分は何があっても味方だと。間違えそうになっても正しい道に戻してやると。

 

「けど、あなたを助けられるのに見捨てたら、自分を信じてくれている人を裏切ることになる。

それが嫌だっただけです。

グレンダンのことを公表したいなら、好きにしてください。僕はもう、逃げない」

 

 ニーナやフェリからもらった過去を受け止める勇気。

 どこに行っても過去が付いて回るなら、逃げることに意味はない。

 腹を括り、過去と向き合う。

 一人じゃその重さに押し潰されてしまうかもしれない。

 でも、ニーナやフェリがいる。

 彼女たちがいれば、自分は耐えられる。

 ゴルネオはレイフォンを怒りに染まった目で睨んだ。

 

「……誰もが俺の兄を見ていた。俺は誰からも気にされなかった……ガハルドさん以外は! ガハルドさんは俺を唯一見てくれた人だったんだ!

お前が俺から奪った。唯一の俺の理解者を。それも保身のために。俺はそんな貴様を殺したくて仕方がない」

 

「殺されるのは嫌ですが、それ以外なら何をされても僕は抵抗しません。

ですが、僕以外の人に危害を加えようとしたら、その時は僕も黙ってませんよ」

 

 レイフォンが真っすぐゴルネオを見る。

 ゴルネオは拳を震わせた。

 

「……その覚悟が本当かどうか、この場で確かめてやる」

 

「やめろッ! 今は仲間割れをしている場合じゃない!」

 

 ニーナがレイフォンとゴルネオの間に入った。

 

「俺はあいつを仲間と認めていない」

 

「隊長、下がっててください」

 

 レイフォンがニーナの肩に触れ、ゆっくりと自分の前からどかす。

 

「これは僕がやったことの報いです」

 

「――レストレーション」

 

 ゴルネオが錬金鋼の復元鍵語を口にし、ゴルネオの四肢が赤い光に包まれる。

 光が収まった後は、赤色の手甲と足甲がゴルネオに装備されている。

 ゴルネオは右腕を思いっきり引き、躊躇いなど微塵もなくレイフォンの左頬を殴った。

 

「うぐっ!」

 

 レイフォンの顔が弾かれたように右にいく。レイフォンの口は切れ、唇の端から血を流している。

 

「レイフォンッ!」

 

「……大丈夫です、これくらい」

 

「どうやら、覚悟は本物のようだな。なら、この場を切り抜けた後、覚悟しておけ」

 

 ゴルネオは都市からまたも生えてきた巨人たちに視線を移す。

 レイフォンは口元を右腕で拭い、血を拭き取る。

 

「分かりました。この場は協力して乗り切りましょう」

 

「ふん」

 

 ゴルネオは一つ鼻を鳴らし、錬金鋼に剄を奔らせる。

 

『巨人と都市の解析、完了しました。都市の九十九パーセント以上が巨人を構成する物質になっています。つまり、この都市そのものが化け物であり、敵です』

 

 通信機から、フェリの淡々とした声が聞こえた。

 全員の顔から血の気が引く。

 都市そのものが敵――。

 そんな得体が知れず、強大な敵の存在を伝えられても、すぐには納得も理解も出来ない。

 全員が戸惑いで言葉を失っている中、力強く迷いのない声が通信機から浴びせられた。

 

『全員、俺の指示に従え! まず都市外装備を全員着用! 都市の上にずっといられるとは限らん。

次に第五小隊とアントーク、エリプソンはランドローラーの確保! 敵に移動手段を奪わせるな! この都市の化け物どもの相手は、俺とアルセイフでする!』

 

 レイフォンは内心でルシフの瞬時に導きだす判断力に感心していた。

 何も指示されず、何をすればいいか分からない状態が一番危うく、敵に付け込まれやすい。

 敵の攻勢を常に後手で対応していくことになる。

 そう考えれば、すぐさま出されたルシフの指示は完璧な対応だった。全員の動揺を抑え、恐怖をごまかす効果があった。

 

「了解した! すぐに都市外装備を着用する!」

 

「第五小隊も了解!」

 

『――早くしろ。それまで、こいつらの相手は俺がしてやる』

 

 ニーナやレイフォンたちは旋剄、内力系活剄を駆使し、宿泊した施設に急いで向かう。施設に荷物が全て置いてあるからだ。

 彼らが移動している間も熱線、咆哮、衝撃波が周囲を荒れ狂っている。ルシフが戦っている影響だ。

 

 

 施設にはすでにフェリがいた。いや、元々フェリはこの施設から念威を使用していた。誰よりも早く施設にいて、誰よりも早く都市外装備に着替えられるのは当たり前の話。

 数分かからず都市外装備で身体を包んだ第五小隊と第十七小隊は、施設を飛び出した。

 ニーナがレイフォンの方にヘルメット越しに顔を向ける。

 

「レイフォンッ! さっきルシフが指示した通り、お前はルシフと共にこの都市を叩け! わたしたちはランドローラーの元に行く!」

 

 シャーニッドがレイフォンの肩を軽く叩く。

 

「レイフォン、分かるな? ルシフの奴が、遠回しに助けてほしいと言っているのが。この敵はそれだけヤバい相手ってことだ。

俺はこの敵相手じゃ相性が悪いらしい。今回はニーナの援護に徹するぜ。

最後になるが……ルシフを助けてやんな。お前の力ならそれが出来る筈だ」

 

 レイフォンは静かに頷いた。

 青石錬金鋼を握りしめ、ルシフが戦っているところに旋剄で移動。

 レイフォンの姿が見えなくなると、ニーナたちはランドローラーを停止させた場所に移動を開始する。

 移動の間、巨人たちはニーナたちを妨害するように地面から生えてくる。

 

『巨人どもは純粋な破壊エネルギーが弱点だ! 衝剄を中心に攻めろ!』

 

 ルシフからの通信を聞きながら、ニーナは鋭い目つきで巨人を睨む。

 巨人たちがニーナ目掛けて、柱の槍で一斉に突く。

 一瞬ニーナがそれらで串刺しにされたように見えた。しかし、それは残像。ニーナが急加速で移動したことによって生まれた幻。

 ニーナは正面の巨人に肉薄する。巨人が槍を持っていない手を握りしめ、ニーナの頭上から振り下ろす。

 ニーナは最小限の動きでそれをかわし、巨人に両手に持つ二本の鉄鞭を打ちつける。と同時に、鉄鞭に纏わせていた剄を衝剄にし、巨人に放つ。

 巨人は粉々に砕け散り、砂のようなものが大気に舞った。

 ニーナはすぐさま別の巨人に向かって跳躍。巨人の頭上に鉄鞭を叩きつける。叩きつけた反動を利用し、ニーナは身体を回転させて、別方向からの巨人の攻撃をかわす。鉄鞭をくらわせた巨人は塵になった。

 多方向から迫りくる巨人の大群に一歩も退かず、ニーナはまるで舞を踊っているように巨人の間を駆け抜け、衝剄を使用した打撃で着実に巨人の数を減らしていく。

 

「なんだ、あの動きは……。あれが、本当にニーナ・アントークか?」

 

 ゴルネオが驚愕の表情をしている。

 あれだけの巨人を相手に一切慌てた様子はなく、落ち着いて巨人を潰していくニーナの姿は、少し前の対抗戦の時のニーナの姿とはとても重ならない。

 

 ――見える。

 

 ニーナは巨人を殲滅しながら、確かな手応えを感じていた。

 周りがスローモーションで緩やかに時が流れていく中、自分だけが通常の速さで動いているような感覚。

 考えてみれば当たり前かもしれない。

 毎日とは言わないが、あのルシフと組手をしているのだ。

 ルシフの速さに比べれば、巨人の動きはあくびが出るほど遅い。

 それに、ようやく錬金鋼を組み合わせた剄の制御が出来るようになってきた。内力系活剄も、今まで全体を強化していたところを、状況に応じた強化の仕方――脚力が必要な場合は脚力を、腕力が必要な場合は腕力を強化するようにし、動きも格段と良くなった実感がある。

 

 ――強くなっているぞ、わたしは!

 

 自然とニーナの顔が綻ぶ。

 しかし、そんな余裕は長く続かない。

 巨人たちに圧倒的な力を見せつけているニーナの後方で、突如としてそれは起こった。

 

「……おいおい」

 

 シャーニッドが唖然とそれを見ている。

 建造物が地面に溶けていく。建造物が消え地面と巨人の群れだけになった都市。変化はまだ終わらない。

 丁度ルシフとレイフォンがいる辺りの地面から、太いものがせり上がっていく。味方である筈の巨人を巻き込みながらも、せり上がっていくのを止めない。

 それはまるで巨大な塔だった。

 ニーナたちの足元にある地面も塔に吸い込まれるように動き、地面が斜めになる。

 

「くっ、これは!?」

 

「ニーナ! これはやべぇ! 早くランドローラーのとこに行くぞ!」

 

「しかしッ! あそこにはレイフォンとルシフが!」

 

「あいつらなら大丈夫だ! 俺たちは俺たちの役目をしっかり果たすことだけを考えりゃいい!」

 

 ニーナは一度ルシフたちがいる方を振り返る。

 もう同じ高さに二人はいない。塔の上の方に移動している。

 

 ――無事に帰ってこいよ。

 

 自分はただこうして無事を祈るしか出来ない。

 何が隊長だ。隊員に何もかも背負わせて。

 いつか自分も、あの二人の隣に立てるようにならなければ。

 まだ満足したら駄目だ。もっと、もっともっと強くなる。

 そんな決意を再びし、ニーナは正面に向き直った。 

 

「分かった。急ごう! ゴルネオ隊長も、それでいいか!?」

 

「ああ、異存はない」

 

 ニーナたちは滑り落ちないよう注意しながら、移動を再開した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは塔の側面を駆ける。

 塔の高さはエアフィルターに届くくらいの高さになっていて、天頂部分がどうなっているのかは今の場所から見ることは出来なかった。

 

『ルシフ様、何やら塔の内部に移動した物質があります。それはこの都市の構成物質と違います』

 

 少数点以下、僅かに残っているこの都市本来の物質。

 自分の物質に塗り替える力があるのに、そんなものが残っている理由。

 それは塗り替えられないか、そのまま保持していたいかのどちらか。

 いずれにせよ、それを奪うことは敵に対して大きな打撃を与えるだろう。

 

「それの位置まで誘導できるか!?」

 

『出来ます! フェイススコープに位置を示す矢印を表示!』

 

 ルシフの視界の隅に矢印が表れる。

 

「よし!」

 

 ルシフは矢印に沿って塔を蹴った。

 ルシフのすぐ後方にはレイフォンがいる。

 レイフォンもルシフ同様に塔を蹴って上に登っていく。

 

『ルシフ様! 塔内部より超高エネルギー……塔から逃げてッ!』

 

 フェリからも似たような通信が入った。

 ルシフとレイフォンは躊躇わずに塔から跳ぶ。

 レイフォンは塔にすぐに戻れるようにしようとしているのか、鋼糸を空中に漂わせていた。

 しかし、レイフォンは塔に鋼糸を巻くことをためらっているようだ。

 そして、レイフォンのその判断は正しかった。

 塔全体が激しい光に包まれる。

 

「がっ!」

 

 レイフォンが右手に持っていた錬金鋼の柄を下に落とした。

 錬金鋼は金属であり、電気を通しやすい。

 塔の外に僅かに漏れた電気エネルギーが、鋼糸を伝ってレイフォンの右腕に直撃したのだ。

 もし塔に鋼糸を巻いていたら、今頃レイフォンは黒焦げになっているだろう。

 ルシフは自分の剣帯を外し、剣帯に吊るされている六本の様々な錬金鋼を剣帯ごと下に捨てた。

 

「マイ、フェイススコープの光量調整! 塔を目視できるようにしろ!」

 

 塔はずっと帯電していて、真っ白な光が塔を覆い隠している。

 肉眼で見れば、一目で視力を数十秒奪われるだろう。

 念威操者ならフェイススコープの設定を変更し、過度な光も問題ないレベルまで減殺出来る。

 レイフォンもフェリに同じことを頼んでいた。

 塔からの攻撃はまだ終わらない。

 塔に帯電している高エネルギーが、ルシフとレイフォンの方に拡散して放たれる。

 それはルシフが前に放った熱線のようだった。白い閃光。幾重にもそれが重なり、轟音とともにルシフとレイフォンの眼前を覆い尽くす。

 

「でっ!」

 

 ルシフは近場にいたレイフォンの横腹を蹴った。レイフォンを足場に空中で跳躍。

 レイフォンは斜め下に落ちていく。ルシフは逆に上に行く。離れる両者。その間を、幾筋もの閃光が貫いていった。

 ルシフは不愉快そうに塔を見る。

 

「あまり俺を無礼(なめ)るな!」

 

 ルシフは塔目掛けて莫大な剄を放出。

 

「貫けッ!」

 

 塔の中腹部に不可視の剣が突き刺さり、塔に大穴が開く。

 

「まだだッ!」

 

 そこから横に薙ぎ払う。塔が中腹部から傾いていった。

 しかし、穴が空いている部分が徐々に修復され、塔の傾きも戻っていく。

 ルシフは舌打ちする。

 

 ――やはり、俺一人では攻めきれんか。

 

 塔を傷付けても、巨人と同じですぐに修復されてしまう。

 これでは塔の内部に入る隙がない。

 かといって近づき過ぎれば、塔が帯びるエネルギーに消し炭にされる。

 誰かと連繋して動かなければ、このまま状況が停滞する。

 そうなれば、こちらが不利。

 レイフォンと共に攻めれば、この塔を攻略できると考えていたが、あの塔のエネルギーの守りがある限り、レイフォンは攻撃出来ない。

 ルシフが空中で考えを巡らせていると、下からレイフォンが上がってきた。地面に着地してすぐに跳躍したらしい。

 

「ルシフ、君に色々言いたいことがあるけど、それは後回しにする。今はこの塔をなんとかしないと……」

 

「この塔は巨人と同じで自己修復する。内部に入るためには連繋して攻撃しなければ無理だ」

 

「成る程……。なら、僕が攻撃する。ルシフはその隙に塔の内部に!」

 

「なっ、待て! お前じゃあの塔に攻撃は――」

 

 レイフォンが何も持っていない右手を、塔に向けた。

 そして、剄を放出。

 剄そのものが破壊エネルギーとなり、塔の表面を吹き飛ばす。

 ルシフは驚きの表情でそれを見た。

 化錬剄は使っていないようだが、まさしくそれは自分の戦い方。

 

「何回君の戦い方を見たと思ってるんだ。僕だって、君の技術を盗める。

今がチャンスだ! 早くっ!」

 

 レイフォンの言葉に従い、ルシフは塔の内部に剄糸を飛ばす。

 塔の内部は空洞になっていた。その中央に太い柱が一本あるが、それ以外は何もない。

 ルシフの剄糸はその柱にくっつき、ルシフは素早く剄糸を手繰る。塔を覆っているエネルギーは穴の周囲を這うように流れていた。

 ルシフは手繰っていない方の手を塔の側面に向け、何度も剄をぶつける。その反動で、自分の身体を常に塔から遠ざけておく。手繰っていると重力の影響で剄糸が垂れ下がって、塔に触れずに侵入出来ないのだ。

 今も穴の修復がされているが、さっきより修復速度が少し落ちていた。

 塔の根元の方に視線をやると、巨人たちが塔に溶けるように消えていっている。どうやら修復出来るといっても、何も無いところから修復に必要な物質を持ってくることは出来ないらしい。

 巨人とこの塔の構成物質は同じだから、この塔は今、巨人の構成物質を修復にまわしているのだろう。

 ルシフはなんとかエネルギーに触れないで塔の内部に侵入することに成功した。

 ルシフの左手が中央にある柱を掴み、ルシフは柱に身体を寄せた。空いていた穴が塞がり、塔の中を闇が支配する。

 その光景を、ルシフは柱に掴まりながら見ていたが、すぐに頭を切り替える。

 フェイススコープに表示された矢印は上。ルシフは柱を駆け上がる。

 塔内部は外のように攻撃してこず、塔の壁が防音の役目を果たしているのか、外の音は何も聞こえなかった。

 

『ルシフ様! 目標は頂上から三百メル下方の中央部。おそらく柱の中に埋め込まれています!』

 

 柱を駆け上り、ルシフは矢印の向きが上から柱の方に変わった瞬間、左手に剄を集中させて、柱を叩く。それはまさに掌底のごとく。柱の表面が衝剄で吹き飛ぶ。

 そこには空洞があった。その空洞の中心。それなりの大きさの球体が納められている。

 

 ――サッカーボールとやらぐらいの大きさがあるな。

 

 球体を視界に収めながら、そう思った。ルシフは原作知識の他にも、その転生者が住んでいた世界の知識も知っている。

 ルシフは球体に左手を伸ばし、掴む。

 球体を掴んだ瞬間、その球体が乗っていた床から両手が生えてきた。生えてきた両手がルシフの左腕に伸ばされる。

 

「――はっ!」

 

 ルシフは鼻でそれを笑った。

 そんな単純な手に、この俺が捕まるものか。

 ルシフが球体を自分の後ろに放り投げ、左腕に纏っている剄を化錬剄で刃物に変える。左腕を掴もうとしていた両手は、ズタズタに切り裂かれた。

 ルシフは柱を蹴り、バク宙して球体を確保。バク宙した勢いを殺さず、左足に剄を集中させ、最大限まで左足を強化してから塔の壁に蹴りをいれた。

 塔の壁が突き破られるように破壊され、闇と無音の世界から、激しく明滅する光と轟音の世界に塔内部が様変わりしていく。

 ルシフは塔を蹴った反動で柱に舞い戻り、間髪入れずに柱を足場に外へ跳躍。一気に塔内部から抜け出した。

 外から内の侵入は空中を自在に移動するための足場がなかったため困難を極めたが、内から外への脱出は柱という手頃な足場があったため、ルシフにとって造作もないことだった。

 ルシフは塔の外に出て、視線を巡らす。

 どうやらレイフォンは都市の脚を利用して、鋼糸を空中に張り巡らせているらしい。

 自分の脱出経路を作っておいてくれたようだ。

 それを使わない理由はなく、ルシフは鋼糸の上に両足を乗せ、とりあえず下に移動する。

 レイフォンも鋼糸の上を疾走し、ルシフの元に近付いた。

 

「ありがとう、アルセイフ。礼として、夕食を三食分おごってやる。作ってやってもいいがな」

 

 ルシフの言葉に、レイフォンは呆気に取られたような表情をしたが、すぐにその表情をからかうような笑みに変化させる。

 

「全部フルコースでお願い」

 

「調子に乗るな」

 

 ルシフは冷たく言い放ちながら、安堵したように息をはく。

 演技だ。

 自分は油断している。とりあえず危機を乗り越えて、安心している。

 そう『敵』に誤解させる。

 油断しているように見せていても、左手に抱えた球体から意識を逸らさない。

 そして、ルシフにとっての好機が訪れた。

 球体から先程の両手が生えてきたのだ。

 正確には球体からではなく、球体に触れている部分から構成物質が人の両腕を構築していっている。

 ルシフは頭上に球体を放り投げると同時に鋼糸を蹴った。球体からどんどん人の身体が這い出てくるように見える。

 それは女性の姿をしていた。が、完全に姿が形作られる前に、ルシフの右手が女性の頭部を掴む。

 

「消えろ」

 

 衝剄で女性を構築していた構成物質を吹き飛ばし、塵に変える。

 ルシフは再び球体を左手で抱え込み、鋼糸に乗った。

 

『ルシフ様、今、この都市の構成物質と同じ物質なんですが、少し違う物質が混じったものの反応を塔内部に感知しました。どうされますか?』

 

「……それが目標だ。さっきみたく矢印でその場所に誘導しろ」

 

『了解しました!』

 

 ルシフのフェイススコープに再び矢印が表示された。

 ルシフは左手に持つ球体を、レイフォン目掛けて投げる。

 

「それを持ってアントークたちのところに向かえ! その後、ランドローラーで都市の外に移動!」

 

「君はッ!?」

 

「俺はまだコイツの中に用がある!」

 

 言うが早いかルシフは息を大きく息を吸った。

 

「かぁっ!」

 

 咆剄殺の震動波が、塔の表面を崩壊させる。

 ルシフが鋼糸を蹴り、弾丸のような速さで塔内部に侵入。やはり、足場があれば楽なものだ。

 マイが感知したものは間違いなく制御部分――構成物質を操っている核。

 矢印は下を向いている。そして、塔内部に存在。

 原作でレイフォンはその核にわざわざ近付いて、剣で破壊した。

 正直効率が悪すぎる。

 点ではなく、線。線ではなく、面。

 矢印にあるものをまとめて消し飛ばせばいいだけの話ではないか。

 この都市自体が全て敵なのだ。どれだけ破壊したところで、困りはしない。

 ルシフが矢印の方に左手を(かざ)す。

 身体中に流れる全ての剄を左手に凝縮。そして、放つ。

 暗闇を貫く巨大な紅の閃光。ルシフより下にあるものが全て、業火とも形容できる朱の光に呑み込まれ、焼き尽くされていく。

 

 ――キィィィイイイイィィィィィィ!!

 

 そんな中、ルシフは断末魔のような叫びを聞いた気がした。フェイススコープに表示されていた矢印が消失する。

 間違いなく核を破壊したと、ルシフは確信した。

 ルシフより上にあった塔が、支えを失なって真下に落ちてくる。

 だが、ルシフにとってそれは危険になりえない。

 高エネルギーを纏わなくなった塔の圧撃など、ルシフの纏う剄を化錬剄で切れる性質に変化させれば、無傷で耐えられる。

 ルシフは塔の残骸とともに地上に落ちた。

 ルシフが着地した地面は都市の地面ではなく、汚染物質に支配された大地。

 ルシフの周りは塔の残骸で埋め尽くされ、剄に切れる性質を持たせていなかったら、その場所から動けなくなっていただろう。ルシフの今の状態は、さながら壁に埋め込まれた宝石。

 ルシフは切れる性質の剄に、汚染物質を遮断する剄の膜を重ね、前方へ歩く。

 視界は塔の残骸に遮られて何も見えないが、フェイススコープにニーナたちがいる方向が表示されている。

 それを頼りに、悠然と残骸を踏みつけるように歩き続ける。

 しばらく歩くと、ランドローラーの近くで待機しているニーナたちの姿が見えた。全員がその場に揃っている。ルシフ以外はすでに都市の外に出ていたようだ。

 

「ルシフ! 無事か!」

 

 ニーナがルシフの方に駆け寄ってくる。

 

「ああ」

 

「……それにしても、とんでもない任務になっちまったな」

 

 ニーナに遅れてルシフに近付いたシャーニッドが、疲労した声で呟く。

 

「――まだ終わっていない」

 

 ルシフの言葉に、その場にいる全員の顔がフェイスフルヘルメット越しに強張る。

 

「……え?」

 

 誰もが辺りを見渡し警戒し始める。そんな彼らには目もくれず、ルシフは後方を振り返った。

 都市に動きはない。

 来た時と同じ、沈黙状態になっている。

 制御部分を潰したのだから、それは当然だ。

 だが、逆に言えば、なんらかの拍子であの都市に制御核を入れられた場合、あの都市は復活する可能性があった。

 沈黙しても、あの都市をあのまま放置するには危険が大きすぎる。

 ルシフは左手を都市に向けた。

 剄を左手に集中させる。

 汚染物質を防いでいた剄の膜が消失し、ルシフの身体を汚染物質が徐々に蝕んでいく。

 ルシフは分かっていた。たとえ自分の全ての剄を凝縮させて攻撃したとしても、都市を完全に消滅させられないことを。

 自分一人の剄では、火力が足りない。

 そして、それはお前もよく分かっているだろう――。

 

「来い……」

 

 俺は示したぞ。お前に、俺の価値を。俺の器を。

 ルシフの声を聞いた周囲の人間が、困惑した表情を浮かべる。

 ルシフは気にせず、都市を鋭い目付きで睨んだ。

 

 ――今度は、お前が俺に応える番だ。そうだろう!? 廃貴族!

 

「来いッ!」

 

 瞬間、ルシフの周囲に激しい剄の奔流が生まれる。

 剄の奔流が、ルシフの周りの汚染物質を吹き飛ばしていく。

 そして、ルシフの背後にあの黄金の牡山羊が顕現した。

 ニーナやレイフォンたちが目を見開く。

 ルシフは自分の内に流れてくる圧倒的なまでの剄の波動を感じ、その波動を自分の左手に集中させるイメージをする。

 赤く輝いている左手の剄。それに黄金色の剄が混ざり、夕焼けのような鮮やかな赤みを帯びたオレンジ色に剄の色が変わっていく。とても美しく、だが、どこか血の色を思わせる狂気がある色へ。

 左手に溜められた剄が解放される。

 前に放った熱線の何倍もの太さの閃光が、廃都市に迫る。都市はその圧倒的なまでの蹂躙する力に、呆気なく消滅した。後に残ったものは何もない。

 ニーナたちはそれを驚きと恐怖が入りまじった表情で見つめ、言葉もなく立ちすくんでいる。

 ルシフの背後にいた黄金の牡山羊は、ルシフに吸い込まれるように消え去った。

 

「……ククク……」

 

 ルシフの方から、笑い声が聞こえた。

 ニーナたちには背を向けているため、表情は分からない。

 ルシフはすでに汚染物質を遮断する剄の膜を身に纏っている。

 

「クックックック……フッフッフッフ……ハッハッハッハッハッハ、アハハハハハアハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……!」

 

 狂ったように笑い続けるルシフ。

 そのルシフの内に入った廃貴族は、ルシフの本質を理解した。

 

 ――この者、今はまだ悪ではないが、何かきっかけがあれば、簡単に……。

 

「ハハハハハ! アッハッハッハッハッ、ハハハハハ……!」

 

 ――簡単に巨悪になりえる!

 

 廃貴族がそんなことを思っている中、ニーナもまたルシフから狂気を感じとった。

 ニーナは笑い続けるルシフを、唖然とした表情で見ている。

 以前とった写真の光景。それにヒビが入ったような錯覚を、ニーナは感じた。

 

 

 

 その後、ツェルニに帰還したルシフは故郷のイアハイムに一通の手紙を送った。

 その手紙がきっかけとなり、物語はゆっくりと本来の未来からずれていく。

 これより、物語は次のステージに突入する。




主人公最強タグ「そろそろアップしますね^^」


この話で原作三巻の内容及び、第一部『廃貴族強奪編』が終了となります。
第一部終了につきまして、ちょっとした小ネタを。

ルシフには、実はイメージソングがあります。
Superflyの「タマシイレボリューション」です。
イメージソングというより、この曲のような主人公を作ってみたいと考え、生まれたのがルシフです。
歌詞とか見ても、ルシフそのものだなと、個人的に思ってます。


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原作4巻 コンフィデンシャル・コール
第22話 サリンバン教導傭兵団


アンチ・ヘイトタグを追加しました。
それから、お気に入りの数が千五百を越えました。本当にありがとうございます。
あと、廃貴族の剄の色が青色だったことに今更気付きました。
ですが、青色はルシフさんのイメージに合わないので、この作品では黄金色でお願いします。


 ツェルニがセルニウム鉱山で補給している間、授業は中止になった。下級生の授業を教える上級生が、セルニウム鉱山の採掘作業の方にいってしまうため、授業出来なくなるからだ。

 セルニウム鉱山の採掘作業は早くて一週間はかかるらしく、下級生はその間休校となり、自由に過ごすことができる。

 三日後にニーナが予定している強化合宿があるが、それ以外は小隊訓練が毎日数時間ある程度で、大した予定もない。

 つまり、何が言いたいのかというと――。

 

「ふん、カリアンめ。ようやくか」

 

 引っ越しするタイミングとしてはこれ以上ないというくらい完璧なタイミングだということ。まあ引っ越しといっても、そもそもツェルニに来た時はバッグ一つに荷物が収まっていたから、そんなにまとめる荷物はない。

 ルシフの足元には、既に荷物をまとめたバッグが置いてあった。

 ルシフが椅子に座りながら、一枚の書類に目を通している。

 それは以前カリアンに頼んでいた、引っ越し先候補のリスト。

 どうやら今頃になって、その情報をルシフに回してきたらしい。

 机に置いてあるコーラの瓶を片手で持って口を付け、ルシフは一口飲む。

 

「なんの書類?」

 

 ベッドに座っているレイフォンがルシフに尋ねた。

 

「引っ越し先のリスト。つまり、もうすぐ貴様とお別れになるわけだ。いや~、寂しくなるなぁ!」

 

「……絶対そんなこと思ってないよね」

 

 ルシフの今にも笑顔になりそうな顔を見るだけで、レイフォンは本心ではなく嫌味と分かった。

 

「それにしても、生徒会長は名前で呼ぶんだね」

 

「なんの話だ?」

 

「君はいつも名前じゃなくファミリーネームかフルネームで人を呼ぶから、珍しいと思っただけ」

 

 レイフォンの記憶する限り、ルシフから名前で呼ばれているのはマイ・キリーしかいない。

 

「ああ、成る程な。いや、面と向かえばカリアンもフルネームで呼ぶ。今はカリアンがいないから、カリアンと呼んでいるに過ぎん」

 

「マイ先輩と他の人で違いがあるの?」

 

「親しくもない奴は個人的に名前で呼びたくないだけだ。それに、友達でもないただの知り合いに名前を呼び捨てにされたら、気分が悪くなるだろう?」

 

 親しくない相手の名前を呼び捨てにすることに、ルシフは抵抗があった。

 名前を呼び捨てにする時は、自分が相手と繋がりを感じた時。

 

 ――いや、マイだけは初めて出会った日からずっと名前呼びだな。

 

 何故だろうと少し考えたが、自分でも何故マイを最初から呼び捨てにしていたか分からない。

 多分初めて出会った時に自分の目になることを了承してくれたから、自分にとってマイは最初からただの他人ではなかったということだろう。

 

「僕は別にそんなの気にしないけど。むしろ、周りのみんなが名前で呼ぶから、君だけファミリーネームだとそっちの方がなんか気持ち悪いって感じる。できれば君も名前で呼んでくれた方が違和感ない」

 

「そうか。分かった」

 

 ルシフは足元にあるバッグを左手で、机の上のコーラの瓶を右手で持ち、瓶に残っているコーラを飲みながら立ち上がる。

 

「俺はこの部屋から出ていく。じゃあな、アルセイフ」

 

 ルシフはバッグを後ろに持ち、悠然と部屋から去っていった。

 

「……うん。だろうとは思ったよ」

 

 一人になった部屋で、レイフォンは小さく呟いた。

 ルシフの荷物が無くなった自室を、レイフォンはゆっくりと見渡す。

 グレンダンの孤児院にいた時も、一人部屋ではなく誰かと共有だった。

 それに不満を感じたことはないが、一人部屋というものに多少憧れがあったのも否定できない。

 

「初めての一人部屋かぁ……」

 

 レイフォンは目を輝かせた。

 だが、その表情は一瞬で消え、レイフォンは真剣な表情になる。

 

「あの時……ルシフの身体にあの牡山羊が入っていったように見えたけど、あの後もルシフはいつも通り。あれは目の錯覚だったのか?」

 

 そこまで口にして、レイフォンはいや、と頭を振る。

 都市を消滅させたルシフの攻撃。僕の知ってるルシフの攻撃より数段上だった。

 あんな攻撃、ルシフ単体で出来るわけがない。間違いなく、何かがルシフに力を貸した。

 あの状況なら、それは黄金の牡山羊以外に考えられない。

 

 ――ルシフ。君の中に、今も黄金の牡山羊はいるのか? それとも、あれはただの錯覚で、黄金の牡山羊は姿を完全に眩ませたのか? 一体どっちなんだ、ルシフ。

 

 ルシフに対して、レイフォンは不信感と何ともいえない恐怖があった。

 まあ、ルシフは都市を消滅させた後に、そのことに関して何も説明しないのだから、それも当然の反応だろう。

 

「……隊長と、相談してみるか」

 

 レイフォンはそう結論を出すと、ベッドに寝転がった。

 ベッドの近くに置いてある目覚まし時計に手を伸ばし、訓練が始まる一時間前に目覚ましをセットする。

 そして、レイフォンは昼寝しようと目を閉じた。

 

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが選んだ部屋。

 その部屋がある建物は、カリアンやフェリが住んでいる建物の隣にあった。

 その辺りの寮は質の高い寮ばかりであり、ルシフが前居た部屋とは雲泥の差がある。

 ルシフが選んだ部屋は、当然リストの中で一番良い部屋。2LDKでエアコンと一通りの家具が完備。更に完全防音と、言うことがない部屋だ。その分、家賃も一番お高いのだが、ルシフにとってそれは些細な問題である。

 何故なら、ルシフのツェルニでの待遇は特待生。レイフォンはAランク奨学生だが、その二人の間には決定的な差がある。

 レイフォンの場合、いずれそのお金をツェルニに返さなければならない、いわば借金をしているような状態だが、ルシフはツェルニからお金を貰っている立場であるため、お金を返さなくていい。

 ルシフの入学成績はツェルニ史上最優秀であり、そんな成績を残した相手にも借金させるというのは、カリアンにとって納得がいかないことだった。

 故に、カリアンは特待生という制度を作り、ルシフが純粋な援助を受けられるようにした。ルシフはツェルニに一人しかいない特待生なのである。

 こういった事情があるため、ルシフにお金の問題は無縁といっていい。

 そもそも、何故こんなに良い部屋が中途半端な時期に空いたのか。

 理由は単純だった。

 その部屋の前の住人二人は、汚染獣襲撃の際に負傷した影響で武芸者としての自信を喪失し、ツェルニを退学して故郷で新しい道を探しにいったらしい。

 そう書類に補足で書かれている。

 だが、ルシフはそんな事情などどうでもいい。

 重要なのは、自分が気に入りそうな部屋が空いているという事実。

 ルシフは部屋がある建物に入る。

 玄関にある郵便ボックスに書かれている学年と名前を、ルシフは何気なく視界に入れた。

 見事なまでに、最上級生しかその建物に住んでいない。

 そこに最下級生のルシフが住むのだから、第三者が見れば違和感が半端ないだろう。

 そのまま書類に書かれた部屋番号に向かう。

 その部屋に行く途中は、誰とも会わなかった。

 ルシフは書類にある部屋の前に立ち、部屋番号を一度書類と照らし合わせる。

 間違いない。

 ルシフは部屋の扉を開けた。

 

「……ほう」

 

 ルシフが感嘆したような吐息を漏らす。

 扉を開けた瞬間に、前の部屋と格が違うのが分かった。

 純白とまではいかないが、白い壁。広々としたリビング。しっかりとした黒色の三人用ソファーに茶色のテーブル。

 とりあえず目に入ったのはそれだけだが、それだけでこの部屋が良い部屋だと思った。

 それとルシフが気に入ったのが、扉を空けてすぐ右側にある靴入れとスリッパ。

 前にいた部屋は当たり前のように土足で部屋に踏み入れていたが、この部屋はちゃんと靴を脱いで部屋に上がる。

 ルシフはスリッパを手にとってみた。もし使い古しなら捨てて、新品のスリッパを買ってこようと考えたからだ。

 スリッパは真新しく、使用した形跡はない。

 ルシフは手にとったスリッパを履き、部屋のリビング中央まで足を進める。

 そこから、軽く周囲を見渡した。

 部屋全体もしっかりとクリーニングされているようで、目立った汚れは見当たらない。

 

「カリアンの奴め。俺がこの部屋を選ぶと読んでいたか」

 

 ルシフは満足気に呟いた。

 こういう先回りして物事を行う人間が、ルシフは好きだ。

 この部屋にキッチン部屋はない。リビングの一角にバーのカウンターのようなお洒落な感じのU字型キッチンがある。

 そのすぐ前に茶色のテーブルと椅子が置かれていて、そこで食事が出来るようにしてあった。

 その茶色のテーブルから奥の位置にある黒色のソファーは、モニターの方に向けられている。

 奥の右側には、個室に続く扉が二つあった。

 個室の扉を開け、部屋の中をそれぞれ確認する。

 どちらの部屋も内装は同じだった。

 ベッドにタンス、机に椅子。茶色で統一されたそれらの家具が、窮屈さを感じさせないようなレイアウトで配置されている。

 

 ――良い。

 

 一通り部屋を見て回った感想がそれだった。

 一人でこの部屋を使用するのは少し広すぎる気もするが、あと少しでツェルニを出ていくのだから、その間くらい思いっきり贅沢に過ごすのも悪くないだろう。

 正直、部屋がどれだけ広いかはルシフにとってさほど重要ではなかった。

 完全防音。

 この一点こそが重要だった。

 何故なら――。

 

「これで、ようやく話ができる。そうだろう、廃貴族」

 

《……汝と話すことなどない》

 

 廃貴族と話す場合、ルシフは声に出して話さなければならないからだ。

 隣の部屋の住人からイカれた奴だと思われるのは別にどうということはないが、話の内容は聞かれたくなかった。

 だから、完全防音にこだわった。

 

「つれない態度だな。これから共に戦っていくというのに」

 

《我は汝の前に立ち塞がるものを破壊する力。それ以上でも、それ以下でもない》

 

「力でしかないから、俺たちの間に信頼関係は不要だと?」

 

《以前も言ったが、我は道具。イグナシスに関わる者どもを灰にさえできれば、それでいい》

 

「お前に名はないのか?」

 

《名など、大した意味を持たん。今まで通り、廃貴族と呼べ》

 

 その言葉を聞き、ルシフは軽く息をついた。

 

「……まあいい。これからゆっくりと打ち解けていこう」

 

《無駄だと思うが……》

 

「それから、俺の名はルシフ・ディ・アシェナだ。これからは汝ではなく、ルシフと呼べ」

 

 廃貴族からの反応はなく、声はそこで途絶えた。

 ルシフは廃貴族の本当の名を、原作知識から知っている。

 しかし、廃貴族自身から名を教えられない限り、その名は決して呼ばない。

 名は体を表すという言葉通り、名前は本人にとって特別なもの。相手から教えられて初めて、その名を呼ぶ資格が得られる。

 己の都市を滅ぼされ、滅ぼした奴らへの憎悪と怒りにとらわれた存在。それが廃貴族。

 

 ――廃貴族。常に前を見据え歩き続ける俺に、後ろしか見ていない奴は必要ない。必ずお前の目を前に向けてやる。

 

 ルシフは黒色のソファーに腰を下ろし、その後、自分の剣帯に目をやる。

 そこにはツェルニに来た時と同じように、六本の錬金鋼が吊るされている。傷付いた都市からツェルニに帰ってすぐにハーレイのところに行き、捨てた錬金鋼と同じ物を作ってもらった。

 頼んだ際、ハーレイは困惑した表情を浮かべた。今まで錬金鋼無しで戦っていたのだから、それは普通の反応だろう。それでも錬金鋼をしっかり作るあたり、ハーレイに好感が持てる。

 ルシフは六本の錬金鋼の一つ、白金錬金鋼(プラチナダイト)を抜き、それを眺めた。

 そして、悪魔のような笑みになる。

 

 ――原作通りなら、今夜は楽しい夜になりそうだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 周囲は闇に染まっていた。

 月明かりが僅かな光となっているだけで、それ以外に光源と呼べるものはない。

 ツェルニの郊外。

 この辺りは使わなくなった店で溢れている。学園都市は数年だけ滞在し去っていく特殊な場所のため、経営する生徒がいなくなった結果だ。

 此処にある多くの店は、次の住人を心から望んでいるだろう。

 レイフォンの視線の先にあるのは、その中の一つ。

 シャッターで固く閉ざされ、中の様子は分からない。

 だが、その店から挑発的とも言える好戦的な剄が放たれていた。

 レイフォンはかかってこいと言わんばかりの剄を、自身の剄を高めて相殺する。

 今日は機関掃除のバイトがなく、今夜はゆっくり寝られそうだと思った矢先、都市警察のフォーメッドからこの場所に呼び出された。

 レイフォンは臨時出動員という都市警の助っ人のような立場のため、都市警からの要請に従わなくてはならない。

 要請内容は、何でも運び屋に紛れて大量の偽装学生がツェルニに侵入し、この場所で身を潜めているという内容。

 ツェルニは学生の他に、学生相手に商売する商人が数日滞在する場合がある。

 その穴を、店に潜伏している連中に見事に突かれてしまった。

 元々、違法滞在しようとする輩は少なからずいると、フォーメッドは言っていた。

 違法酒や違法薬の販売、情報窃盗など、違法滞在しようとする目的は色々ある。

 今回の件で言えば、違法酒。

 俗に言う剄脈加速薬。

 『ディジー』と呼ばれる酒を飲むと、剄脈に異常脈動を起こし、剄や念威の発生量が爆発的に増える。

 これだけならば、武芸者は我先にと『ディジー』を飲み、都市もそれを奨励するだろう。

 しかし、剄の増大に関わる副作用も、『ディジー』にあった。

 それは、八十パーセント以上の確率で剄脈に悪性腫瘍が発生すること。少なくとも『ディジー』を飲んだ五人の内、四人は廃人となる計算。

 ほとんどの都市は武芸者の激減を恐れ、違法酒の輸入と製造を禁止。都市間で話し合って決めたわけではなく、それぞれの判断で違法酒を禁止した。

 だが、ごく一部の都市は違法にしていない。そういった場所から違法酒が製造され、違法としている都市にも秘密裏に高額で供給される。

 

「――で、いるか?」

 

 レイフォンの隣に都市警察課長のフォーメッドがやってきた。

 レイフォンはフォーメッドの方に顔を向ける。

 フォーメッドは武芸者ではなく一般人であり、剄の波動を感じない筈だが、彼は固い面持ちをしていた。

 剄を感じなくとも、あの店から溢れる異様な雰囲気を感じとっているのだろう。

 

「間違いなく。こっちを挑発しています」

 

「やはりそうか。こちらの武芸者の動きが鈍ってるからだろうとは思ったが……偽装学生の中に武芸者はいない筈なんだがな」

 

 フォーメッドは軽く頭を掻いた。

 

「課長。包囲完了しました」

 

 ナルキがフォーメッドのところに来て、そう報告する。どうやら伝令役をやらされているらしい。

 

「よし。なら、これから確保――」 

 

「……くる」

 

 フォーメッドの言葉を遮り、レイフォンが呟く。

 

「え?」

 

 その呟きを聞き、ナルキが戸惑いの表情になった。

 そんなナルキの背後で、見張っていた店が爆発した。

 固く閉ざされていたシャッターが吹き飛び、こちらに迫ってくる。

 レイフォンはナルキの腕を掴み背後に庇いながら、空いている腕で剣帯から青石錬金鋼(サファイヤダイト)を抜き、復元。闇の中に青色の輝きが煌めく。

 レイフォンは剣をシャッター目掛けて振り上げ、シャッターを斬った。

 そのシャッターの陰から一人の武芸者が現れ、レイフォンに襲いかかってくる。

 レイフォンはその武芸者の頭上からの斬撃を剣で受け止め、弾き返した。

 

「ひゃははははッ! なかなかやるさ~」

 

 襲ってきた武芸者は宙で回転しながら笑っていた。

 その武芸者の得物は鋼鉄錬金鋼(アイアンダイト)の刀。レイフォンの脳裏に一瞬、養父のデルクの姿が浮かんだ。

 その武芸者の容姿は一部しか分からない。バンダナで鼻から下を隠しているからだ。髪は燃えるような赤髪。自分と同い年くらいの少年に見えた。

 赤髪の少年が街灯に着地し、街灯を蹴って疾風となり、レイフォンの頭上を通り過ぎていった。

 

「逃がすか!」

 

 活剄で肉体を強化。レイフォンが赤髪の少年の後を追う。

 

「くそっ、突入! 突入!!」

 

 フォーメッドが必死に叫び、その声に従って包囲していた都市警察たちが店の中に突入していく。

 レイフォンはそれをちらりと横目で見、すぐに意識を正面に切り替える。

 少年の姿はもうかなり遠くに行っていた。

 道路や建物の屋根を蹴り移動する動きに無駄がない。

 レイフォンは舌打ちし、足に剄を凝縮。

 内力系活剄の変化、旋剄。

 自分の速度を一気に上げ、少年に肉薄。刀を持っている方の肩目掛けて、剣を振り下ろす。

 利き腕を壊し、無力化してから捕獲。

 そう考えての攻撃。

 だが、剣が少年に触れる刹那、少年の姿が消えた。

 

「なっ!?」

 

 こちらのタイミングを読まれた。

 レイフォンの頭上に、少年がいる。

 

 ――逃げられる。

 

 旋剄は爆発的に速度を上昇させるが、ほぼ直線にしか動けない。

 その勢いを殺している間に、少年はこの場から消え失せることができる。

 鋼糸が使えれば捕らえれたかもしれないが、鋼糸は封印されているため使えない。

 

「危なかったさ~」

 

 しかし、レイフォンの予想に反して少年は逃げようとせず、その場で剄の密度を高める。

 レイフォンは勢いを殺すのを止め、勢いのまま跳び、身体を反転させる。

 刀を構えた少年が近場の建物の壁を蹴り、姿を眩ます。

 と同時に、前方左右から攻撃的な気配がレイフォンに襲いかかってきた。

 内力系活剄の変化、疾影。

 

「なっ!?」

 

 レイフォンは驚きの声をあげた。

 相手が想像以上の実力者だったからではない。

 武器に刀。そして、この剄技。

 その動きに既視感があったからだ。

 レイフォンは直感で右の気配に向けて剣を振るう。

 刀と剣が激しくぶつかり合う音が辺りに響いた。

 

「やっぱ読まれるか」

 

 ぶつかり合った瞬間の火花の向こう、目を楽しそうに輝かせている少年の顔が見えた。少年の顔の左側には刺青が入っている。

 レイフォンの腕に重い衝撃が伝わった。

 旋剄の勢いを殺せていないレイフォンは、そのまま後方に吹き飛んだ。

 少年はレイフォンに追いすがり、連続で刀を振るう。

 レイフォンに旋剄の勢いを殺させないつもりだ。

 レイフォンは一撃一撃の重さに内心で舌を巻いていた。

 刀を防ぐたび、進路がそっちに変わる。

 もうすでにかなりの距離を打ち合っていて、現在地は分からない。

 

「はっ!」

 

 少年が気合いの声とともに、刀を斬り上げる。

 レイフォンはその斬撃を剣で防いだ。身体が地面を離れ、宙に舞う。

 空中で、レイフォンは辺りを見た。

 場所はまだツェルニの郊外。使われていない建物が多く建ち並んでいる場所。

 この場所ならば、多少建物を壊しても大丈夫だろう。

 レイフォンは空中で一回転し、体勢を立て直す。

 旋剄の勢いは完全に死んだ。これからは自由に動ける。

 レイフォンは自身の剄の密度を高め、下から追撃してきた少年目掛けて剣を振り下ろした。

 外力系衝剄の変化、渦剄。

 剄弾を含んだ大気の渦の中に、少年が飲み込まれる。

 少年が大気の流れに乗りながら剄弾を破壊し、爆発音が連続で響く。

 レイフォンもその渦の中に飛び込み、少年に斬りかかった。

 

「甘いさッ!」

 

 少年はそれを刀で防ぐと同時にレイフォンの剣に剄を流し込む。

 レイフォンは咄嗟に剄を放って対抗しようとした。だが、遅かった。

 外力系衝剄の変化、蝕壊(しょくかい)

 武器破壊の剄技により、レイフォンの持つ剣の刀身に幾つものヒビが入った。

 

「くそッ!」

 

 レイフォンは少年の腹を蹴飛ばし、距離をとる。

 少年は屋根の上に危なげなく着地。レイフォンはその間に地上に下りる。

 

「あれ? あんた、ヴォルフシュテインじゃなかったっけ? この程度なわけないよな」

 

「……グレンダンの武芸者か? こんなところに何の用だ」

 

 少年が顔を覆うバンダナをとる。

 

「まず自己紹介さ~。おれっちの名前はハイア・サリンバン・ライア」

 

 サリンバン――そのミドルネームを聞いた時、レイフォンは少年の正体を悟った。

 サリンバン教導傭兵団。

 グレンダン出身の武芸者で構成された傭兵集団であり、専用の放浪バスで都市間を移動する。

 彼らは行く先々の都市で雇われ、汚染獣の討伐や都市間戦争の助っ人、雇われた都市の武芸者の指導を主にしている。

 グレンダンが武芸の本場と呼ばれる土台を作り、グレンダンを有名にした集団。

 それがサリンバン教導傭兵団。

 

「サリンバン教導傭兵団が違法酒の売り歩き? 随分落ちぶれたんだな」

 

 ハイアの瞳に鋭い光が一瞬宿った。

 しかし、その光を紛らわすように、ハイアは笑みを浮かべる。

 

「確かにここ数年、各都市はおれっちたちと契約しなくなった。契約するのは商人やらそういうのの護衛ばかりさ~。でも、違法酒の手伝いなんかしない。あんなのは此処にくるために利用しただけさ~。だいたい、もし本気で契約してたら、護衛対象ほったらかして逃げるか?」

 

「ツェルニそのものに用があると?」

 

「サリンバン教導傭兵団が商売抜きで都市に来る理由なんて一つしかないさ~。廃貴族って聞いたことない?」

 

「廃貴族……?」

 

「あれ? あんたも接触したと情報であるんだけどな~。情報そのものが間違ってる?」

 

 ……接触?

 レイフォンの頭に黄金の牡山羊の姿がよぎる。

 レイフォンの表情を見て、ハイアは笑みを深くした。

 

「心当たりありそうさ~。けど、今はそれよりもあんたの使う技に興味あるね。あんたの師匠とおれっちの師匠、兄弟弟子だったそうじゃん? いわば、あんたとおれっちは従兄弟みたいな関係ってわけさ~。サイハーデンの一族として」

 

「聞いたことないね」

 

 しかし、それならハイアの動きに対して既視感を覚えるのも頷ける。

 ずっと見慣れた動きであり、自分の武芸の深い部分に溶け込んでいる動き。

 

「なんで刀じゃなく剣を使ってんのか知んないけど、別にいいさ~。あんたを倒せば、おれっちが一番さ!」

 

 ハイアが屋根を蹴り、レイフォンに斬撃を叩き込む。

 レイフォンはそれを剣で受け止めた。ヒビの入った剣はその衝撃で砕ける。

 青い輝きが散りばめられる中、ハイアが勝ち誇った笑みになった。

 だが、剣を砕かせることこそレイフォンの狙い。

 

「かぁぁッ!」

 

 内力系活剄の変化、戦声。

 空気を震動させる剄のこもった声が、宙に散る錬金鋼の欠片をハイアに浴びせる。

 ハイアはそれで一瞬怯んだ。

 すかさず懐に潜り込み、レイフォンはハイアの腹に拳を入れる。

 ハイアはぎりぎりのところで腕を下げ、拳を防ぐ。

 レイフォンは拳に剄を集中させ、ガード越しにハイアを吹き飛ばす。

 ハイアは建物の中に突っ込んでいった。

 レイフォンの追撃はまだ終わらない。

 レイフォンは両手に剄を走らせ、両手の指の間に剄弾を形成し、放つ。

 外力系衝剄の変化、九乃(くない)

 針のように細い剄弾の群れがハイアを追いかけ、ハイアが突っ込んだ建物を爆発させた。

 

「やったか?」

 

 レイフォンは建物の気配を探る。

 どうやら仲間がいたらしく、ハイアの他にもう一つ気配が増えていた。

 ハイアはレイフォンを襲うのを止めたようで、二つの気配がレイフォンから離れていく。

 レイフォンは自分を落ち着かせるように深呼吸し、消えていった気配の方角を見る。

 廃貴族。ハイアの目的はそれだと言った。

 もし、自分が考えているものが廃貴族なのだとしたら――。

 

「……彼らは地獄を見るかもしれない」

 

 ルシフが穏便に事を済ますとは考えづらい。

 レイフォンは彼らに少しだけ同情した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 爆音は、ルシフとマイがレストランで食事をしている最中に聞こえた。

 

「ルシフ様。これは……」

 

 ルシフは目の前の料理を手早く片付け、ふきんで口元を優雅に拭く。

 

「マイ、支払いは任せた。俺はパーティーに早く行かなくてはならん」

 

 ルシフはテーブルの上にお金を置き、立ち上がる。

 そして、レストランから悠然と去っていった。

 マイ以外、誰も居なくなったテーブル。

 マイのフォークを持つ手は震えていた。

 

「……爆発のばか」

 

 せっかく二人っきりのデートだったというのに、邪魔された。

 この恨み、爆発の元凶に直接ぶつけなければ気が済まない。

 マイも料理を残さず、しっかりと食べきる。

 ルシフは出された料理を残す人間を下品だと嫌っているし、マイ自身、食べ物を粗末に扱う人間には殺意が沸くため、残したりはしない。

 食べ終えたら、マイはテーブルの上のお金を持ち会計に向かう。

 そして、ルシフが去った数分後にはマイもレストランを出て、ルシフの後を追いかけた。

 

 

 

 ハイアがツェルニの郊外を疾走している。その表情は満足気な笑み。

 

「ヴォルフシュテイン……思ってたほどじゃなかったさ~」

 

 剣を使っているとはいえ、簡単に得物を破壊される奴が本気を出したところで大したことないだろう。

 天剣授受者といい勝負ができた。

 つまり、自分も天剣授受者になれる資格がある。

 

「――ん?」

 

 上機嫌なハイアの前方に、一人の少年が立っていた。

 剣帯に六本もの錬金鋼を吊り下げ、こちらを見て笑みを浮かべている。

 ハイアは少年から数メートル離れた場所で急停止。ハイアの後方にいた仲間も止まった。

 廃貴族に関わる情報を、脳内で確認する。

 

「赤みがかった黒髪に、赤の瞳。間違いないさ~。あんた、ルシフ・ディ・アシェナだろ?」

 

「そうだが?」

 

「はははははッ! おれっちは運がいいさ~。こんなにも早く目標を見つけられるなんて」

 

 ルシフ・ディ・アシェナ。

 この男こそ、廃貴族を持っている可能性が高い。

 この男を捕らえ、グレンダンに連行する。

 廃貴族という手土産があれば、天剣授受者任命のための試合をさせてくれるかもしれない。

 それに勝てば、晴れて自分も天剣授受者だ。

 ルシフは六本の錬金鋼の中から白金錬金鋼を抜き、復元。白く輝く刀がルシフの左手に握られた。

 

「刀か」

 

 それを見て、ハイアが楽しそうに笑う。

 ルシフも同様の表情をして、刀を構えた。

 

「さあ、この俺を楽しませてみせろ」

 

 ルシフの剄が高まっていく。

 ハイアの剄も爆発し、剄密度が一気に高まった。

 サリンバン教導傭兵団、三代目団長。ハイア・サリンバン・ライア。

 彼はまだ、ルシフの恐ろしさを知らない。




ルシフ(サイハーデンの技を全て盗んでから叩き潰そう)

ハイアが好きな方は、この先読まない方がいいかもしれません。




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第23話 甘き夢

個人的に一話あたり八千文字程度が読み応えがあり、かつだれずに読める丁度良い文字数だと思っているので、そのくらいを目安に投稿しようとしています。
ですが、切りどころがなくだらだらと書いてしまい、いつも一万文字くらいになってしまってます。
この話でいえば、一万二千文字。長くなってしまい、申し訳ないです。


 ルシフとハイアは互いに同程度剄を高め、刀を構えている。

 

「へぇ~、こんな未熟者が集まる場所におれっちと同じくらいの剄量の奴がいるか。それとも、廃貴族を手にした影響か?」

 

「さぁな」

 

「まぁいいさ~。それと一応聞いておくけど、どこの武門さ~?」

 

「サイハーデン」

 

「――サイハーデン?」

 

 ハイアの目に鋭い光が宿る。

 ルシフはハイアの変化を気にかけることなく、ああ、と言葉を続ける。

 

「同じ小隊にレイフォン・アルセイフという名の奴がいてな、そいつから学んだ剣術だ。俺の得物は刀だから多少勝手は違うが」

 

 もしこの場にレイフォンがいたら、そんなことした覚えはないと力強く否定するだろう。

 レイフォンはルシフにサイハーデンの技を教えたことも、教えようと思ったこともない。ルシフがレイフォンの動きを見て勝手にサイハーデンを学んだだけだ。

 しかし、ハイアにそれが分かる筈もない。

 

「……さすが、元天剣授受者様。もう人に教える立場でいるのかい。それも、サイハーデンを刀術じゃなく剣術として……」

 

 ハイアが顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

 レイフォンと武器を交える前ならルシフの言葉を疑っていたかもしれないが、ハイアは剣でサイハーデンの技を使うレイフォンを知っている。ハイアはルシフの言葉を一切の疑念すら抱かず信じた。

 サイハーデンは刀を使うことを前提とした武門。にも関わらず、剣術として教える。

 それはサイハーデンそのものを冒涜する行為。

 ハイアに許せる筈がなかった。

 

「サイハーデンは刀を使う武門さ~。あんたが今使ってる武器こそ、サイハーデンとして正しい。

どうやらあんたの師匠はそこんとこ勘違いしてるみたいさ~。おれっちが本当のサイハーデンってのを見せてやる」

 

 言葉こそ軽薄だが、ハイアの剄は更に高まっていた。ハイアの闘志に火がついたのだ。

 ハイアの周囲が剄の奔流で荒れ狂う。

 

「それは願ってもないことだ。俺も、覚えたサイハーデンの技を試したいと思っていたところだったからな。どっちが上か、勝負といこうじゃないか」

 

「……どっちが上?」

 

 楽しそうに言ったルシフの言葉を聞き、ハイアは手に持つ刀の柄を、怒りを込めて力強く握りしめる。

 

「あんたが覚えたのは、サイハーデンじゃない。サイハーデンもどきさ。おれっちの技と一緒にするな」

 

 怒り心頭に発し、今にも刀で斬り付けてきそうなハイアを、ルシフは満足そうな顔で眺めた。

 

 ――これ以上、怒らせる必要はあるまい。

 

 これでハイアはサイハーデンの技を惜しげなく使うようになるだろう。

 ハイアの中でレイフォンの株が大暴落しているが、そんなことを気にするルシフではない。

 ハイアは刀を斜め上段、八相に構え直す。

 その構えはサイハーデンの構えと言っていい。

 ルシフも同様に八相の構えをしてみせる。

 お互いに同じ構え。

 二人の時が止まり、空気が張り詰めていく。

 いつまでも続くと思われた静寂。

 その静寂を切り裂いたのは、ハイアだった。

 ルシフの出方を窺っていたハイアは、ルシフに攻め気がないのを悟り、先に仕掛ける。

 内力系活剄の変化、疾影。

 ルシフの前方左右から攻撃的な気配が迫る。

 ルシフは刀を迷わず右に振るう。

 鈍い金属音が響き、火花が散った。

 ルシフはハイアの刀を受け止めたまま、後ろに押し返す。

 ハイアはルシフの力に逆らわず、ルシフの力を利用して宙を一回転しながら数メートル後方に跳んだ。

 ハイアは猫のような姿勢で着地し、ルシフを睨む。

 睨んだ瞳が、全方向から来る攻撃的な気配で揺れた。

 ルシフが内力系活剄の変化、疾影を使ったのだ。

 

「――ちっ」

 

 ハイアは一瞬慌てたが、すぐに冷静さを取り戻し、ルシフが攻めてくる方向を看破。

 刀身を片手で掴み、居合い抜きの構えをとる。

 ハイアの刀は、ハイア自身が考え創った特別な刀であり、刀の柄部分に紅玉錬金鋼(ルビーダイト)が仕込んであった。言わば、鋼鉄錬金鋼(アイアンダイト)と紅玉錬金鋼を合成させた刀。

 

「見せてやるさ~」

 

 サイハーデン刀争術、焔切(ほむらぎ)り。

 居合い抜きの斬撃と、衝剄による二段攻撃。

 刀身に帯びた剄と刀身を掴んだ片手の剄がぶつかり合い、斬撃の際、炎が生じる。

 その炎が紅玉錬金鋼で更に勢いを増し、その瞬間だけ炎刀となってルシフを捉えた。

 ルシフは刀を振り下ろした両腕ごと上方に弾かれる。がら空きとなったルシフの前面。斬撃の時のハイアの衝剄がルシフに突風に似た衝撃を与えるが、ルシフはその場でこらえ、吹き飛ばされなかった。

 ハイアは勝ち誇った笑みになる。

 その場でこらえられた方が、ハイアにとって都合が良い。

 焔切りには、二の太刀がある。その名も焔重ね。

 焔切りで相手の技と動きを封じ、焔重ねで確実に深手を負わせる。正に二撃必殺。

 ハイアの炎刀の切っ先が翻り、ルシフの胸に振り下ろされた。

 それは確実にルシフを行動不能にする。

 

「おっと……危ない危ない」

 

 ――筈だった。

 ルシフはハイアの衝剄を自身の衝剄で相殺して、四肢の自由を取り戻す。そして、焔重ねの間合いを見切り、二歩後ろに下がることでかわした。

 

「まださッ!」

 

 ハイアは空いてる手の指の間に剄を集中させ、細く尖った剄弾を創り、ルシフ目掛けて放つ。

 外力系衝剄の変化、九乃。

 ルシフは刀身を片手で掴み、ハイア同様に刀を振り抜く。

 サイハーデン刀争術、焔切り。

 その一振りで剄弾の群れを消し飛ばし、流れる動作で空いてる手に剄を集中。

 お返しと言わんばかりに細く尖った剄弾をハイアに放つ。

 ハイアは飛び上がって回避。空中で剄の密度を高める。

 外力系衝剄の変化、焔蛇(ほむらへび)

 ルシフの頭上から、炎剄をまとった竜巻が放たれた。真っ暗な世界に、巨大な炎蛇が現れる。ルシフはその渦に呑み込まれた。

 ルシフの身体が宙に舞う。

 舞う瞬間、全身から衝剄を発し、竜巻を吹き飛ばす。と、同時に自らも剄密度を高めた。

 ハイアが炎刀を煌めかせ、体勢が整っていないルシフに稲妻のごとき斬撃を叩きこむ。

 ルシフはその斬撃に腕の力だけで対抗し、互いに後方に弾かれる。

 ルシフは宙で一回転しながら、ハイア目掛けて炎蛇を放った。

 再び暗闇を裂いて現れた巨大な炎蛇。

 

「なっ!? この剄技はおれっちオリジナルの筈!」

 

 ハイアは動揺したが、己が編み出した剄技。対処法も熟知している。

 炎蛇を真っ二つに切るように、衝剄を利用した刀撃を縦に一閃。

 炎蛇は裂かれ、夜闇に散る。

 闇を取り戻した世界で、二人は同時に着地。

 ルシフは刀の背で首の後ろをトントンと軽く叩く。

 

「オリジナル? 今のは蛇落としに手を加えただけの剄技。竜巻に炎剄を混ぜただけの技だ。お前しか使えないなんてことあるまい」

 

「……本気でぶった斬ってやるさ」

 

 ルシフと違い、構えを解かなかったハイアは体勢を低くする。

 内力剄活剄の変化、水鏡渡り。

 旋剄を超える超高速移動。

 瞬く間にルシフの懐に飛び込む。

 

「――は?」

 

 それは勝負している最中とは思えない、気の抜けた声だった。

 確かにハイアはルシフの懐に踏み込んだ。

 それを証明するように、周囲の景色も少し変わっている。

 だが、正面の景色は変わっていない。

 数メートル離れた場所にルシフが立っている。その光景を変えるために水鏡渡りを使用したにも関わらず、何も変わっていない。

 それがハイアを混乱させた。

 ルシフがやったことは単純なことである。

 まるで糸で繋がれていたかのように、ハイアが進んだ分だけ、ルシフは後方に下がっただけ。

 しかし、たったそれだけのことをするのに、一体どれだけの技量が必要か。

 ハイアの動きは閃光のごとく、速かった。

 その動きに合わせて下がる。

 同等以上の技量がなければ、出来る筈もない。

 ハイアは刀に纏わせる剄量を増やしながら、相手を小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

 

「急に逃げ腰になってどうしたさ。お前のサイハーデンは攻めるより逃げる方が得意みたいさ~」

 

 口にした瞬間、ハイアの顔に冷や汗が浮かんだ。

 さっきとは一転、ルシフが水鏡渡りで逆にハイアの懐に飛び込んできたからだ。

 ハイアは咄嗟に刀で迎撃。

 ルシフの下からの刀撃を、上から押さえ込むような形で防ぎ、そのままルシフの刀に剄を流し込む。

 

「……む?」

 

 ルシフの刀身に亀裂が入った。

 外力系衝剄の変化、蝕壊。

 武器破壊の剄技。

 ルシフを挑発することで攻め気を誘い、一気に得物を奪う。

 それがハイアの作戦であった。

 ルシフは身を更に屈め、ハイアに足払いをする。

 ハイアはバックステップでかわし、得意気な表情になる。

 

「レイフォン君よりは、防御がなってるみたいさ~。でも、それも時間の問題さ~」

 

 確かにルシフの刀はまだ原形を保っているが、もう一度武器破壊の剄技を使われれば、呆気なく砕けるだろう。

 その事実を前に、ルシフは勝ち気な笑みでハイアを見返す。

 

「最後までやってみんと分からんぞ」

 

「……バカな奴さ」

 

 ハイアは踏み込み、上段から刀を振り下ろす。

 ルシフも踏み込み、下段から刀を振り上げる。

 高速で互いに接近し、一際大きい金属音と火花を散らしながらすれ違う。

 両者の立ち位置は入れ替わり、互いに背を向けていた。

 ルシフはハイアに背を向けたまま、自身の刀に目をやる。

 白光に煌めいていた刀は見る影も無くし、柄だけを残して崩れ落ちた。

 対するハイアは――。

 

「あんたも中々やるけど、この勝負、おれっちの勝ちさ~。後はこのままあんたが次の錬金鋼を復元する前に、あんたを斬ればいい」

 

 満面の笑みをたたえ、ルシフの方に振り返った。

 ハイアの刀は健在である。

 ハイアは未だに背を向けたままのルシフに斬りかかり――。

 

「……ッ!」

 

 途中で動きを止め、あらぬ方向を見た。

 ハイアはルシフに背を向ける。

 

「運の良い奴さ……。次は必ずお前の身柄を押さえてやるから、首洗って待ってろさ~」

 

 しっかり捨て台詞を残しながら、ハイアはそのまま前方に躍りだしていった。

 地面や建物を蹴り、瞬く間にルシフから遠ざかっていく。

 故に、ハイアは気付かなかった。

 

「運が良い奴か……果たしてそれはどちらかな?」

 

 ルシフの表情が、今にも高笑いしそうな悪魔の笑みになっていることに。

 

《汝にしては、上手く手加減したものよ》

 

「なかなか面倒だった。相手を調子づかせるように闘うのはな」

 

《何故そんな真似を?》

 

「奴の剄技を盗むためだ」

 

《汝はあの男と同門だったのだろう?》

 

「ああ。入門して十分も経ってないがな」

 

 平然とした顔で、ルシフは柄だけになった刀に剄を流し込む。

 錬金鋼の許容量を大きく上回る剄を叩き込まれた刀の柄は、一気に膨張し爆発。

 ルシフの手から柄が消滅した。

 

《……汝という男は……》

 

 廃貴族は当たり前のように虚言を吐き、他者を貶め、他者の心を弄ぶルシフを軽蔑した。

 

《あの男を追いかけるつもりか?》

 

「いや、今日は元々挨拶がてら剄技を盗んで終わるつもりだった。少し試したいこともある。奴らにはその実験材料(モルモット)になってもらうという大事な役目があってな、叩き潰すのはその後でいい。

少しの間くらい、夢を見せておいてやらんと可哀想だしな」

 

《モル……モット?》

 

 その言葉に宿る禍々しさを、廃貴族は感じとったのだろう。

 廃貴族の声に険しさが滲む。

 ルシフは廃貴族の声を無視し、ハイアが去った方向を見た。

 原作でもハイアはレイフォンとの勝負の途中に後退している。

 都市警が本格的に動き出したのだろう。

 奴らはこの都市と戦争したいわけではないから、なるべく大事にならないようにしたい筈だ。

 それにもし違っていても、今のハイアに出来ることは何もない。

 こう考えたルシフは、ハイアがどこに行ったかなど微塵も興味なかった。

 ルシフはすぐに視線を自分の寮がある方に移し、自分の寮へと向けて歩を進めた。

 ルシフの予想に反し、ハイアの向かう先がある少女の元だと気付かずに。

 

 

 

 ハイアは疾走する。

 その動きには焦りが見える。

 ハイアがルシフを斬る絶好の機会であったにも関わらず、それを捨てその場から離れた理由。

 それはハイアの仲間からの通信が原因である。

 

『ハイア! ミュンファとフェルマウスが化け物みてぇな念威操者にやられた!』

 

 ハイアはサリンバン教導傭兵団で育った。

 ハイアにとってサリンバン教導傭兵団は戦友である前に家族。

 その家族が危機的状況に陥っているのに、助けに行かないという選択肢はハイアの中にない。

 

「待ってるさ。おれっちがすぐに行く」

 

 内力系活剄の変化、水鏡渡りを使い、ハイアは超高速で目的地に向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 少しだけ時間を巻き戻し、ルシフがハイアと向かいあっている頃、マイもまた武芸者たちと向かい合っていた。周囲の建物の上から十数人の武芸者が、マイを見下ろしている。

 マイの隣にはニーナもいる。レイフォンが誰かと闘っているのを剄の波動から感じ、レイフォンのところに向かっている最中にマイと合流した。

 武芸者の面々からは、剄の高まりと闘気を感じる。

 これ以上進むなら容赦しない。

 彼らの目と雰囲気がそう言っていた。おそらく彼らの仲間の闘いの邪魔をさせないつもりだろう。

 レイフォンとその相手の闘いが終わり、その相手はどうやらルシフと闘おうとしているらしいが、周囲の武芸者がこの場から去る様子はなかった。

 

「なっ、おい!?」

 

 マイはそんな彼らを無視し、歩みを再開。ニーナが焦った表情で呼び止めるが、もう遅い。

 周囲を囲んでいる武芸者よりも遠方でこちらを狙っていた武芸者が、マイに向けて剄の矢を射った。闇夜でそれを見ると、まるで光が飛び込んでくるように見える。

 ニーナが動き、剄の矢を叩き落とそうとする。しかし、動き出しが遅かった。動こうとした時には、マイのすぐ手前まで矢は来ていた。

 

 ――間に合わない。

 

 ニーナが愕然として、マイの身体に矢が吸い込まれるところを見ている。これから確実に起こる悲劇を、頭の中に思い描きながら。

 

「よっと」

 

 マイの前面に念威端子が瞬時に集まり、念威端子の盾が創られる。矢はその盾にぶつかると、光が辺りに飛び散るように拡散し消滅した。

 ニーナは驚愕と安堵が入り混じったような表情になる。マイに直撃すると確信していた周囲の武芸者たちから、戸惑いの声があがった。

 

「――いけませんね」

 

 マイが復元された角張った杖を握りながら、そう口にした。

 何がいけないのか分からないニーナは、怪訝そうにマイの後ろ姿を見る。

 

「狙撃者が、狙撃した後もその場に留まるのは」

 

 周囲の武芸者が顔色を変えた。

 

「はっ、ミュンファがあの女の念威端子に囲まれただと!?」

 

 彼らの一人が、通信機からもたらされた情報をおうむ返しに叫んだ。その叫びには、相手を嘲笑するような響きも混じっている。

 焦っていた彼らは、次第に落ち着きを取り戻していく。

 彼らが懸念したのは、 少女が狙撃者の情報をツェルニの武芸者たちに流し、多数の武芸者が狙撃者を狩りにくることだった。

 だが少女はそれをせず、その場で二射目を放とうとした狙撃者を念威端子で囲んだだけ。

 それにどんな意味があるというのか。そんなので勝った気になっているなら、やっぱりここの武芸者はぬるい学生の集まりか。

 彼らはそう思った。それがどれ程までに恐ろしく、絶望的な状況かを理解出来ずに。

 

「動かないでください。指一本でも動かしたら、あの子の無事は保証できません」

 

 にっこりと笑顔で、マイは建物の上にいる武芸者たちに顔を向ける。

 雄性体三体がツェルニに襲来した時の映像を観たニーナは、それが脅しではなく事実を口にしているだけだと悟った。

 

「念威端子で囲んだらもう勝ったつもりか! 調子に乗るな!」

 

「馬鹿っ、止め――」

 

 ニーナの制止の声も虚しく、武芸者の一人が建物を駆け下り、マイに襲いかかった。刀を構え、猛然とマイに突っ込んでくる。

 

「交渉決裂っと」

 

 遠くの方で、少女の絶叫が聞こえた気がした。

 きっと気のせいだと自分に言い聞かせるが、その実、予想した通りのことが起きたとニーナは確信する。

 マイに突っ込んで来た武芸者は、念威端子の刃に足を切られ、マイの眼前で前のめりに崩れ落ちていく。

 マイは両手で杖を持ち、目の前に来た武芸者の側頭部を殴る。

 殴られた武芸者は横に弾かれるように飛び、マイから少し離れた場所に倒れた。

 建物の上の武芸者たちは、今の光景と通信機が伝えてきた狙撃者の状態に絶句している。

 そして――。

 

「……ッ!」

 

 彼ら一人一人の周りが、念威端子に囲まれた。

 

「動かないでください。指一本でも動かしたら、あなた方の無事は保証できません」

 

 マイはニコニコと笑顔のまま、先ほどと同じ言葉を口にした。

 ニーナはようやく気付いた。何故かは分からないが、今のマイは物凄く怒っているということに。

 武芸者たちの顔から血の気が引いた。

 その言葉が真実だと、今の彼らには理解できた。

 衝剄で周囲の念威端子を吹き飛ばそうにも、剄を高めようとすれば念威端子の刃が飛んでくるだろう。どう計算しても吹き飛ばすより念威端子の方が早い。

 つまりは打つ手なし。

 いや、実際にはこの状況でも打つ手は一手あるのだが、マイの見たことのない闘い方に惑わされ、それに気付けないでいる。

 武芸者たちが硬直してマイを睨んでいる中、彼らのすぐ傍から強烈な光と衝撃が生じた。

 

「念威爆雷? まさか私が気付けないなんて……」

 

 マイに僅かな動揺が生まれた。

 マイは知るよしもないが、相手の念威操者は念威端子を地下から移動させ、念威爆雷を使用してそれぞれの建物内部に侵入。そこから各建物の屋上に続く扉を念威爆雷で同時に吹き飛ばし、続けて瞬く間に念威端子を彼らに近付け、同様にマイの念威端子を吹き飛ばした。

 その衝撃は武芸者たちも巻き込んだが、元々その衝撃に大した威力はない。あくまでマイから一瞬の隙を作るための一手。

 その一瞬の間に武芸者たちは衝剄で念威端子を更に遠くに吹き飛ばし、念威端子の包囲から脱出。そのままマイとニーナに襲いかかる。

 彼らはサリンバン教導傭兵団である。各都市を渡り歩き、各都市にその名を轟かせた猛者の集団なのだ。

 また、彼らはどんな戦場も団員たちと協力して乗り越えてきた経験と自負がある。今も仲間が必ずこの状況を打破してくれると信じていたからこそ、仲間が作った一瞬の隙を無駄にせず、迅速に行動できたのだ。

 ニーナは鉄鞭を十文字に重ね、攻めてきた武芸者の一人から振るわれた刀を受け止め、そのまま跳ね上げる。

 刀を止められた武芸者はニーナの力に逆らわず後ろに跳躍。その時には別の武芸者たちがニーナの左右から接近し、同時に刀を振り下ろす。

 ニーナは前方に転がるように跳び、挟撃を回避。しかし、ニーナの逃げた先には既に別の武芸者が待ち構えている。

 

 ――くそっ。

 

 ニーナはこの武芸者集団の動きと連携に、内心で舌を巻いた。

 動きに無駄と呼べるものがないのだ。

 

「確かに速い……だがッ!」

 

 ニーナが鉄鞭で正面から振り下ろされた刀を受け流し、もう一本の鉄鞭でその武芸者の腹部を強打。武芸者はよろけながら数歩後ずさった。

 

「対応できない速さでもない」

 

 ルシフと特訓を始めて二ヶ月程経ち、ようやくその特訓が実を結んできた。今のニーナの実力は、ルシフとの戦闘経験により、前の頃と比べて桁違いの実力になっている。

 相手の剄から動きを読み、こちらもそれに合わせた剄のコントロールをする。

 ニーナは無意識でそれが出来るようになっていた。

 ニーナを囲んだ数人の武芸者たちが、様々な方向からニーナに得物で攻めかかる。

 ニーナはそれらを最小限の動きで回避しながら、冷静に反撃の時を待つ。

 

  ――マイの方はどうなっている?

 

 周囲を荒れ狂う彼らの攻撃に対応しつつ、ニーナはマイの方に視線を向ける。

 マイはまるで空中に地面でもあるかのように、虚空に飛び乗る動きをした。

 普通なら、次に足が触れるものは地面だろう。しかし、マイの足は空中で時が止まったように、大気を踏んだ。実際にはマイの足の下に念威端子があり、念威端子がマイの足を空中に留めているのだが、しゃがまなければ念威端子は見えない。

 マイがいた場所に一瞬後、武芸者の一人が旋剄で飛び込んでくる。

 驚愕で目を見開きマイを凝視した武芸者。その場所に漂わせていた多数の念威端子が、その武芸者に殺到する。マイの動きに気を取られた武芸者は、自らの血の海に沈んだ。

 マイは念威端子を足場に空中を自在に駆け、まるで舞を舞うかのように華麗な動きを見せる。マイの念威でマイの髪と念威端子が青く輝き、まるで無数の青い蝶と踊っているかのようなマイの幻想的な動きに、武芸者たちは目を奪われた。

 武芸者たちが我に返った時には、彼らに無数の青い蝶が襲いかかっている。

 一人、また一人と倒れていく武芸者たち。

 

「バカな……俺たちはサリンバン教導傭兵団だぞ! それが女二人に……」

 

 信じられないモノを見ているような形相で、まだ動ける武芸者が叫んだ。

 マイはその武芸者に狙いを定め、念威端子を展開。

 そこに、マイとは別の念威端子が飛び込んだ。

 

「――え?」

 

 マイの足を受け止める筈の念威端子が軌道を変えた。

 

 ――端子を乗っ取られた!?

 

 相手の念威操者は念威端子から念威を放出し、マイの念威端子を支配下に置いたのだ。

 マイは足を踏み外したような格好になり、身体の自由を奪われる。

 マイが攻撃しようとした武芸者がその隙を突き、得物をマイに振るった。

 マイは攻撃のために展開させた念威端子の群れを自分の前に集中。それら全ての念威端子を念威爆雷にした。自分とその武芸者の間で強い青色の光と衝撃波が生まれる。

 その武芸者は衝撃波で後方に吹き飛び、建物にぶつかって気を失った。

 マイもまた衝撃波で後方に勢い良く吹き飛ばされた。ニーナがマイの方に旋剄で移動し、マイを受け止める。

 

「……ありがとうございます」

 

「……いや、気にするな」

 

 マイの身体を、ニーナは地面に下ろす。

 ニーナは周りを見渡した。

 周囲にいた武芸者たちは全員地面に倒れている。

 

『……信じられない……』

 

 二人の前に来た念威端子から、機械音声のような声が聞こえた。

 相手の念威操者が話しかけてきている。

 

「……サリンバン教導傭兵団と言ったな。凄まじい武芸者たちの集団と噂で聞いたことがある。そんな相手にわたしたちのような学生が勝ったのは、確かに信じられないだろう」

 

 ニーナ自身も、その事実を受け入れられない気持ちでいっぱいだった。

 わたしはいつの間にかそんな高みまで登っていたのかと、自分の成長が信じられない。

 

『違う。そちらではない。その念威操者の戦い方の話だ』

 

「マイの?」

 

 確かにマイの戦い方は奇抜と言っていい戦い方だ。サリンバン教導傭兵団から見ても、やはり異常なのか。

 ニーナはマイの方をチラリと見る。

 マイは氷のような冷えきった表情をしていた。

 そんなマイを見て、ニーナは冷たいものが背筋を撫でていくような感覚を覚えた。

 

『念威端子とは、念威操者にとって五感に等しいもの。それで、人を斬る。例えるなら、指を直接人の身体に突き刺し、抉りとるような感覚に近い。いや、人の肉を歯で噛み千切るような感覚か。

どちらにせよ、常人が耐えられる感覚ではあるまい。それを眉一つ動かさずに――いや、むしろ笑みを浮かべながらなど、普通の念威操者に出来るわけがない。あなたはとてつもなく異常な状態にある』

 

「余計なことをペラペラと……」

 

 マイは不愉快そうに眉をひそめた。

 

「……マイ。今の話、本当なのか?」

 

「まぁ、確かに最初はルシフ様にバレないよう振る舞うのが大変でした」

 

「ルシフ?」

 

「ええ。この戦い方はルシフ様が考案した戦い方です」

 

「あいつ……人の気も知らずに……」

 

 ニーナがそう吐き捨てる。

 マイはニーナを軽く睨んだ。

 

「ルシフ様はこの戦い方の訓練をする時に、その事を気にかけていました。私が念威端子の感覚を遮断できると嘘をついたんです」

 

 ニーナの表情が驚愕に染まる。

 

「……何故だ?」

 

「ルシフ様をがっかりさせたくなかったから」

 

 ルシフがそんなにも簡単にマイの嘘を信じたのは、マイが自分に嘘などつく筈がないという信頼からだろう。

 

「マイ、ルシフに本当の事を言おう。そんな戦い方、もう止めるんだ!」

 

 それはニーナなりの善意。

 しかし、マイにとっては余計なお世話でしかない。

 

「私のこと何も知らないくせに……」

 

「……何?」

 

「ニーナさんは犬の真似事ってしたことあります? ご飯をペット用の器に盛られて、口だけで食べさせられたことは? 動物に服はいらないと、家で服を着るのを許されなかったことは? ああ、そういえば駄犬って言われて殴られたこともありましたね」

 

「……マイ、お前は……どうして……」

 

 ニーナは悲痛な面持ちで声を絞り出す。

 マイは今の話をまるで良い思い出を話しているかのように、笑顔だった。

 しかし、今の話のどこに笑顔で話せる要素がある?

 壊れている。いや、壊されている。

 

「私は、そんなことをやらせた男どもが心底嫌いです。ですが一番嫌いなのは、我が身可愛さにそんな男どもの言いなりになっていた自分自身です。

本当に汚くて、醜い。今もルシフ様のためとか言いながら、結局自分のことしか考えられない」

 

「それは――」

 

 違うと、ニーナは口にしようとした。

 しかし、マイがうっとりと熱を帯びた表情になったのを見て、驚きで口を閉ざした。

 

「でも、そんなどうしようもなく汚くて醜い私を、ルシフ様は『美しい』って、言ってくれるんです。優しくしてくれるんです。『傍にいてもいい』って、言ってくれるんです」

 

 マイの表情が豹変する。

 怒りを顕にして、目の前を漂う念威端子を睨んだ。

 

「……もしかしたら、これは白昼夢のようなものかもしれません。本当の私をルシフ様に知られたら、簡単に覚めてしまう夢。だからこそ、夢を覚ます可能性があるものは許さない! あなたは邪魔! 一番優れた念威操者は私じゃないとダメなんです!」

 

 今まで生きてきて、念威端子を奪われたという経験は一度もなかった。

 念威の基礎能力において、相手の念威操者が一枚も二枚も上をいっているのは事実。

 ルシフ様は世界を破壊し、新世界を創造する。

 ルシフ様の性格上、より優れた念威操者を仲間に引き入れるのは必然。

 でも……そうなった時の私の価値は?

 唯一誇れる『念威操者としての私』が消えてしまう。

 ルシフ様の傍にいられなくなってしまう。

 夢のような日々が終わってしまう。

 マイにとって一番重要なのは、ルシフの願いが成就することではない。

 ずっと自分がルシフの傍にいられること。

 それこそが大事。たとえそのせいでルシフの願いが遠のいたとしても、マイとしては重要ではない。

 だから――この念威操者はここで確実に潰す。

 ルシフ様の前に現れないように。

 マイは話しながらも、相手の念威操者の居場所を念威端子で密かに探している。

 そして、見慣れない放浪バスから僅かに念威の光が漏れているのを見つけた。

 

『……これは……』

 

 相手の念威操者は自分が囲まれていることに気付いたのだろう。

 

「端子は奪えませんよ。あなたの周りにある端子にはありったけの念威を込めているんですから」

 

「マイ、よせッ!」

 

「さようなら」

 

 ニーナの制止の声もマイに届かず、マイは軽く杖を振るう。

 二人の前に漂っていた念威端子は二人の前から去っていった。

 復元された錬金鋼は剄が途切れると自動的に復元前の錬金鋼に戻る。

 マイの攻撃で相手の念威操者は気を失ったため、念威端子が相手の持つ錬金鋼のところに戻ったのだ。

 

「嘘だろ……フェルマウス……くそっ、早くハイアに連絡しねぇと」

 

 倒れている武芸者の一人はまだ意識があったらしく、横たわりながらも通信機に何か言っている。

 マイは無表情でその武芸者に杖を向けた。

 ニーナがマイの前に立ち塞がる。

 

「さっきからなんなんです?」

 

 マイはニーナの行動に少し苛立った。

 

「もう勝負はついている。これ以上傷付けるのはただの暴力だ」

 

「どうして傷付けたら駄目なんです? あの人は助けを呼んでるんですよ。まだ戦うつもりなんです」

 

「それでも、あの男が動けないのは事実だ。もしここにルシフがいたら、お前の今の行動を認めるか?」

 

「……ルシフ様の名前を使うのは卑怯です。……分かりましたよ。見逃します」

 

「分かってくれたか……ッ!」

 

 一安心して胸を撫で下ろしたニーナは、遠くから爆発的な剄を感じ、すぐさま臨戦態勢に入る。

 

「お前か!」

 

 超高速で現れたハイアが叫びながらマイに肉薄し、刀を振り下ろした。

 マイは念威端子の盾を瞬時に形成し、刀を防御。

 刀が念威端子に当たった瞬間、刀が折れた。

 ハイアの脳裏に浮かぶは、最後にルシフと刀を交わらせた光景。

 

 ――あいつ…… くそっ、やられたさ。

 

 あの時ルシフもハイアと同じように武器破壊の剄技を使用していたのだ。

 もしあのまま襲いかかっていれば今頃――。

 自らの自信の象徴とも言える刀の破損。それはハイアの心を曇らせた。

 そしてその隙を、マイは見逃さない。唇の端を微かに吊り上げ、念威端子の刃をハイアの周りに展開させる。

 

「やめろッ!」

 

 ニーナがマイの杖を持っている腕を掴んだ。

 ハイアはその隙に他の仲間に倒れている仲間を回収させ、自分も一気に後退する。

 後退しながら、ハイアは指の間に剄を集中させ、九乃をマイ目掛けて放った。

 ニーナがその剄弾を鉄鞭で弾く。

 さすがはサリンバン教導傭兵団といったところか、その時にはもう倒れている仲間を担いでこの場から後退している。

 血の跡と周囲の荒れ具合だけが戦いがあったことを如実に物語り、それ以外はいつもの風景に戻った場所。

 ニーナは後ろを振り向く。

 マイはニーナを気にすることなく、ニーナに背を向けて歩いていた。

 

「……マイ。一度、お前のルシフに対する想いをよく考えてみろ。お前のそれは好意でもなければ、愛情でもない。お前のそれはただの――」

 

「うるさい!」

 

 マイの声に含まれる怒気に、ニーナは口を(つぐ)む。

 マイはニーナの方を振り返った。その顔に不快感と怒りを滲ませている。

 

「昔、ある人にも同じようなことを言われました。もしかしたら、私のルシフ様への想いは歪んでいるかもしれません。

それでも! 私はルシフ様が好きなんです! この想いは誰にも否定させない!」

 

 マイはそう言うと、身体を正面に戻した。

 

「――ああ、そうそう」

 

 マイは顔だけをニーナの方に振り向かせる。

 

「さっきの昔私がやらされたことと念威端子のこと、ルシフ様にバラしたら、あなたのこと細切れにして殺しますから」

 

 マイの瞳が宿す殺気。

 ニーナは目を見開き、再び自分に後ろを向けたマイを愕然と見ている。

 マイの背が見えなくなり、ニーナは悲痛な表情で視線を地面に落とした。両手に持つ鉄鞭に痛いくらいの力を込めて握りしめる。

 期せずして知ってしまったマイの過去と秘密と本心。

 それらを踏まえ、今までのマイの行動をニーナは振り返る。

 ルシフの言うことに何でも笑顔で従い、人を躊躇なく平然と傷付けられる。

 誰の目にも、ルシフを一途に想い、従順で献身的な少女という印象を受けるだろう。

 だが、今のニーナはそういう風には思えなかった。

 人間が他人の言うことに対して、一切の不満や自らの感情をみせずに従えるか?

 自らを捨ててなければ、壊れてなければ、そんなことは出来ない。

 

「……わたしはどうすればいいんだ……ルシフ……」

 

 レイフォンのところに行くのも忘れ、ニーナはその場に呆然と立ち尽くした。

 

 ――たとえ歪だったとしても、本人たちがそれに満足しているなら、それでいいじゃないか。

 

 ――いや、きっちりと歪みを正して、改めて良好な関係を築いていくべきだ。

 

 ニーナの中で、二つの意見がぶつかり合っている。だが、その議論の結論は出せていない。

 ニーナは鉄鞭を握りしめ続ける。

 

「なんてわたしは……無力なんだ……」

 

 絞り出すように紡がれた言葉は、暗闇の中に吸い込まれた。

 ニーナは顔を上げる。

 月明かりも街灯もない、全く光のない世界。

 まるで自分がこれから進む先のようだと、ニーナは思った。




マイのルシフに対する感情の正体。
読者の皆様にはお分かりいただけたんじゃないでしょうか。
そして、ニーナ。
この作品でニーナは廃棄族を抱えこまないので、代わりに別のものを抱えこんでもらいました。
鬼? 悪魔? 読者の方のそんな声は聞こえません。あーあー、聞こえない聞こえない。
ニーナはなんていうか苦難を与えたくなるんですよね。
具体的に言うと、オークとかがたくさんいる部屋に入れ――。

(この先の文字は血で汚れて読めない……)


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第24話 違法酒

 サリンバン教導傭兵団の武芸者たちと闘った翌日の早朝。

 マイはルシフの新居のリビングにいた。茶色のテーブルの周りを囲むように置いてある椅子の一脚に座っている。

 初めてルシフの新居に訪れたため、マイの内心はドキドキしていた。

 

「昨夜、武芸者と一戦交えたらしいな」

 

 ルシフがオレンジジュースを注いだコップを二つ手に持ち、マイの傍にやってきた。

 マイはその姿を見て、僅かに目を見開く。

 

「あっ、ルシフ様がそのようなことを……。私がやります」

 

「いい。ここは俺の部屋で、お前は客だ。客人にそんな真似させるわけにはいかん」

 

 椅子から立ち上がろうとしたマイを、ルシフは手に持つコップをテーブルに置いた後に、片手で制す。

 マイはルシフについさっき呼び出され、身支度を慌てて整えてルシフの部屋に来た。

 招かれたという意味では、マイは客の立場。

 マイは椅子に座り直し、向かいに座ったルシフを見た。

 武芸科の制服ではなく、白色のTシャツと濃い青色のデニムパンツ。柄などは何もない無地。しかし、無地だからこそ主役の魅力を邪魔せず、引き立てていた。

 Tシャツの上から分かる、筋肉質で引き締まった肉体。厚い胸板に逞しい両腕。だが太すぎず、スリムさも兼ね備えたまるで芸術品のような肉体美。

 

 ――あぁ、朝から幸せ……。

 

 マイはうっとりとルシフの姿を眺めている。

 毎日こうして、こういう姿が見られたらなぁと、密かに願う。

 

「ん? ぼーっとして、どうした? やはり呼ぶのはもう少し後の方が良かったか?」

 

「い、いえ、そんなことありません。深夜でも喜んで行きます!」

 

「……深夜にお前を呼ぶわけないだろう。極端な奴だ」

 

 必死に否定するマイの姿を見て、ルシフは笑った。

 マイは照れ隠しにコップを両手で持ち、自分の顔を隠すようにオレンジジュースを飲む。

 

「――ん?」

 

 マイが首を傾げる。

 

「どうした?」

 

「これ……オレンジジュースですよね? オレンジジュースの味なんですけど、なんか別の味も混ざってるような……」

 

「気付いたか」

 

 マイの言葉に、ルシフは得意気な表情になる。

 

「ここのオレンジジュース――というよりオレンジは、糖度がイアハイムの物より高い。学生に好まれやすいよう品質改良されているのだろう。だから、オレンジジュースも甘い。

だが、俺には少し甘ったるくてな、オレンジジュースにレモン果汁を混ぜてみた。これが正解で、スッキリとした味になりかなり飲みやすくなった。

俺はこっちの方が良いが、お前がそのままが良いと言うなら、そっちを持ってこよう」

 

「いえ、私もこっちの方が美味しいです」

 

 お世辞ではなく、本心からそう思った。

 酸味と甘味が絶妙なバランスで絡み合い、ハーモニーを奏でている。それに加え、寝起きにこれを飲んだせいか、シャキッと目が覚めるような感じがした。

 マイは机に飲み終わったコップを置く。

 

「相変わらずですね。レイフォン・アルセイフと相部屋だった時は料理をされなかったようですが、これからは料理をされるので?」

 

 ルシフは由緒正しき武門の人間である。

 使用人が当たり前のようにいて、家事など全くする必要がない家に生まれた。

 しかし、ルシフは料理もしたし、自室の掃除も七つから自分でやっている。

 自分の身の回りすら満足に出来ん人間に、大事など到底成せん。

 これがルシフの考え方である。

 使用人を使わないと言っているのではない。使用人がいなくなったら家のことが何も出来なくなるのが駄目だと言っているのだ。

 

「前の部屋は共同キッチンだったからな。料理をしようにも、順番待ちというのがあった。そんなものを待つくらいなら、外食の方がマシだ」

 

「じゃあ、これからは料理なさるんですね!」

 

「嬉しそうだな」

 

「そりゃもう! ルシフ様の料理は天下一品ですから! 料理なさる時は教えてくださいね」

 

 ルシフはオレンジジュースを飲み干し、目を輝かせているマイをジト目で見る。

 

「……イアハイムにいた頃もそうだが、俺が料理する時はどいつもこいつも食材を持って群がるように俺のところに来たな。俺が食事をするついでにそいつらの料理も作ってやっていたが。

特にマイ。お前は毎回のようにいた気がする」

 

「ルシフ様の料理が美味しすぎるのが悪いんです。それになんだかんだ言いながらも、集まった人に料理を作って差し上げるルシフ様にも、問題はあると思いますが?」

 

「ついでに作ってやっただけだ。別にそいつらのために作ったわけじゃない」

 

 マイはルシフの目をじっと見つめる。

 ルシフはマイから視線を逸らした。

 

「……そろそろ、お前を呼んだ本題に入る。用件は二つ。一つ目は――」

 

 ルシフが右腕を真横に伸ばす。

 ルシフの右手の先に、黄金の粒子が集まる。その粒子はルシフの身体全体から出ているように見えた。

 やがてその粒子は動物の形になり、廃都市で見た牡山羊が現れる。

 マイは絶句して、口をぽかんと開けていた。

 

「こいつに関してだ。時期が来たら話すと言ったろ? お前が昨夜闘った武芸者たちとも関係あることだ」

 

「…………あの、今、その牡山羊をルシフ様の意思で出したように見えたのですけど」

 

「一晩こいつと話し合ってな、話す時はこうして出てくるよう決めたんだ」

 

「話し合いとはよく言う。道具だと言うなら主に従えと、強引に押しきった汝が……」

 

「それでも、お前はこうして出てきた。やっぱりこっちの方がいい。表情に変わりはなくとも、姿を見ながら話したい」

 

「……真に汝は変わり者よ」

 

「よく言われる」

 

「あのー……ルシフ様? 絶対今の言葉誉め言葉じゃないですよ。

っていうより、そろそろ私の質問に答えてくれません?」

 

「ああ、そうだな」

 

 ルシフは黄金の牡山羊から視線を外し、正面に向き直る。

 

「この牡山羊は、電子精霊の成れの果てだ。自らの都市を滅ぼした存在を憎み、復讐のために力そのものになった存在。呼び名は廃貴族。

だが、その力を使うには、器がいる」

 

「その器に選ばれたのがルシフ様だと?」

 

「その通り。そして、お前が闘った武芸者集団」

 

「……サリンバン教導傭兵団」

 

「そいつらの目的は、こいつの確保だ」

 

 グレンダンは力を求める。

 だからこそ、都市の中で唯一汚染獣を避けずに、逆に突っ込んでいく。

 天剣授受者も、力の一つ。

 サリンバン教導傭兵団が創設された理由も、グレンダンでは入手困難な力を手に入れるため。

 

「それに、どこで情報を入手したか知らんが、連中は俺が廃貴族を持っていると確信している。俺に力を貸しているという理由で、お前も狙われる可能性がある」

 

「了解しました。気をつけます。

で、二つ目のご用件は?」

 

 ルシフは一枚の紙を机の上に置いた。

 

「とりあえず、これを読め」

 

「はい」

 

 マイが机の上の紙を手に取り、目を通していく。目線が下にいくにつれ、マイの目が見開かれる。

 

「これは……」

 

 どうやらこの紙は手紙のコピーらしい。

 内容はこうだ。

 

『イアハイムに待機しているカラー1の中から五名選び、学園都市ツェルニに送れ。来訪理由は、学園都市の学生を指導するため。教員らしい服装を持ってくること。

なお、ヴォルゼー・エストラ。バーティン・フィアの二名はメンバーから除外』

 

 『剣狼隊』は十名で一小隊を作っている。百名現時点でいるため、隊長は十名。

 しかし、小隊を作るにあたり、問題が一つあった。『剣狼隊』は全員赤装束を着ているため、部隊が分かりづらい。

 この問題を解決するために、ルシフは小隊ごとに色違いの腕章を巻くことにした。そうすることで、一目で誰がどの小隊に所属しているか把握できるようになった。

 故に、隊長はシルバー1、スカーレット1などと呼ばれ、カラー1と呼ばれたら小隊隊長全員をさす。

 ルシフは『剣狼隊』の中でも選りすぐった実力者たちを、ツェルニに来させるつもりなのだ。

 ヴォルゼーとバーティンもカラー1の一人であるが、その二人が除外される理由はマイにもよく分かっている。

 まずヴォルゼーに教員は間違いなく無理。生徒を何人死なすか分からない。

 バーティンはルシフ様にとって、おそらく一番面倒な相手。自分の近くにいてほしくないのだろう。

 

「ルシフ様はツェルニを実験場にするつもりなんですね」

 

「今回の補給で人員が割かれ、教える人間がいないせいで休校になり、時間を無為に過ごす。実に愚かしい。俺は学園都市であっても教員は必要と考えている。

試してみる価値は十分にあるだろう」

 

「生徒会長の許可は?」

 

「これからもらってくる予定だ。なに、心配はいらん。俺には『切り札』があるからな」

 

 マイは『切り札』が何か分からず、きょとんとした。

 ルシフは立ちあがり、机の上のコップを二つ持つ。

 

「もう話は終わりだ。俺はこれから朝食を作る。暇なら食べてくか? ついでに作ってやるぞ」

 

「はい、いただきます! 私もお手伝いさせてください!」

 

「好きにしろ」

 

 マイも椅子から立ちあがり、ルシフの後ろに付いていく。

 マイは『剣狼隊』の武芸者が一人残らず嫌いであり、苦手であった。

 こうしてルシフと二人きりで穏やかに過ごすなど、彼らが来たら出来ないだろう。

 自分が言うのもなんだが、『剣狼隊』の武芸者のルシフに対する心酔っぷりはすごい。ツェルニに来たら、ルシフに付きまとうのは必至。

 ならせめて、その日が来るまで、自分はルシフ様と二人きりでいられる時間を大切にしよう。

 ルシフの隣で料理を手伝いながら、マイはそう思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ハイアは家でもある自分たちの放浪バスの上に座っていた。

 その手には錬金鋼(ダイト)が握られている。壊れていない、新しい錬金鋼。

 戦いを生業にする者にとって、武器は命そのもの。当然予備の錬金鋼はいくつも準備してある。

 サリンバン教導傭兵団の被害は相当なものであった。

 ミュンファとフェルマウスは重傷。ミュンファに関しては最低でも一週間、安静にしなければならない。フェルマウスにいたっては活剄で自然治癒力を高められない分、ミュンファより深刻だった。おそらく一、二ヶ月は動けないだろう。

 更に団員四十三名の内、約四分の一が負傷。活剄で自然治癒力を高めれば、おそらく数日で完治する程度の傷ではあるが、問題なのはそこではない。

 未熟者の集まりであろうこんな場所で、数年振り以来の被害を出してしまったこと。

 三代目団長であるハイアにとって、これが何より許せなかった。

 相手が汚染獣なら、まだ言い訳のしようはある。都市間戦争の助っ人での負傷も、戦争なのだからこんな事もあると自分を納得させられる。

 しかし、今回の被害はどうだ?

 未熟者しかいないと決めつけ、ろくにツェルニの武芸者を調べず、私情で喧嘩を売った。

 その結果がこのザマだ。自業自得。言い訳のしようがない失態。

 この失態を帳消しにし、サリンバン教導傭兵団の団員たちに再び慕ってもらう方法。ハイアの中で、それは一つしかない。

 廃貴族を確保し、グレンダンに持ち帰る。

 サリンバン教導傭兵団創設以来の偉業。幸いにして、その持ち主はもう分かっている。

 後は策を練り、身柄を確保するだけ。

 しかし、念威操者であるフェルマウスは動けず、情報収集するにも自力でしなければならない。

 負傷していない団員たちは、負傷させた武芸者を絶対に許さないと闘志に燃えている。

 これだけがハイアにとって、唯一の救いだった。

 

「とりあえず、まずは交渉からやってみることにするさ~。この都市の長に、廃貴族がどんな存在か教えてやらないと」

 

 まずは都市の長に話を通し、ルシフ・ディ・アシェナがいかに危険で不安定な存在か、嘘を混ぜて伝える。

 それで都市がルシフを排除する動きになれば、かなりやり易くなる。

 おそらくルシフと自分の実力は、そう離れていないだろう。

 都市の協力を得てルシフを孤立させれば、必ず捕らえられる。

 ハイアは放浪バスから飛び下りた。

 バスの中から数名の団員が出てくる。

 彼らは今まで負傷者の手当てをしていたらしく、その手には包帯やら消毒液が握られていた。

 

「ハイア、今後の方針は決まったか?」

 

「ああ、廃貴族を確保する」

 

 団員たちは微かに頷いた。

 

「分かった。団長のお前がそう決めたのなら、俺たちは従うだけだ」

 

 ハイアの目が見開かれる。

 団員の内の一人が、そんなハイアの姿を見て苦笑した。

 

「……なんだ? 今回のことで、団長としての人望が無くなるとでも思ったのか?

誰だって失敗はある。大事なのは、その後どうするか――だろ?」

 

 ハイアは団員たちから視線を逸らし、軽く頭を掻いた。

 

「全く、余計なお世話さ~。おれっちはこの都市の長に会ってくる。みんなは、バスを守ってくれ」

 

「了解、団長」

 

 サリンバン教導傭兵団の団員たちは、サリンバン教導傭兵団で育ったハイアにとって、年の離れた兄や姉であった。一度の失態で崩れる程、柔な関係ではない。そんな当たり前のことに、ハイアはようやく気付けた。

 彼らの信頼に必ず応える。

 ハイアはそんな決意を胸に、もう使われていない建造物がずらりと並ぶ、寂れた通りを歩き出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナとレイフォンは練武館にある、第十七小隊の訓練室にいた。

 二人の前には都市警課長フォーメッドと、レイフォンの友人であるナルキがいる。

 

「話というのは?」

 

「隊長さん、うちのナルキを小隊に欲しがっていたろ?」

 

「それは……」

 

 確かにニーナはナルキに直接勧誘したし、その後に都市警に直接出向き、フォーメッドに話もした。

 しかし、ナルキから快い返事が来なかった。今のナルキの表情を見ても、嫌だと顔に書いてある。

 フォーメッドは苦笑した。

 

「確かに、本人は小隊に入りたくないと言っている。しかし、今回の件は都市警の力だけでは解決できそうにないからな。いわゆる取引だ。

そちらが都市警に協力し、今回の件の解決に協力してもらえるなら、ナルキは第十七小隊入隊の話を受ける」

 

 そういうことかと、ニーナとレイフォンは頷いた。

 ナルキは依然として不満顔。

 フォーメッドはナルキの方に顔を向ける。

 

「ナルキ、警察の仕事には潜入捜査がある。しっかりやらなければ命を落とす――そんな危険な仕事になる場合だってある。お前がこの都市を出た後も警察を続けたいなら、今回の話は必ずお前のためになる」

 

 フォーメッドの言葉を聞き、ナルキは諦めたように顔を俯けた。

 フォーメッドがニーナたちに向き直る。

 

「さて、話を続けようか」

 

「どうぞ」

 

「まずは昨晩の話をしよう。レイフォン、昨日は助かった。おかげで偽装学生とそいつらの品を押さえることができた。

問題なのはそいつらの品だ。予想通り、違法酒だった」

 

 ニーナは少し思案顔になった後、何かに思い当たったようで、フォーメッドを見返した。

 

「……まさか、小隊の生徒が?」

 

 フォーメッドは無言で頷いた。

 ニーナは首を横に振る。

 

「バカバカしい。そんなものに小隊の生徒が頼るなど……」

 

「しかし、確実に力が手に入る道でもある。今のツェルニは崖っぷちに立たされている。今掘ってる鉱山を失えば、ツェルニは緩やかに死んでいく都市になる。ツェルニを存続させるためには、今年の武芸大会に必ず勝たなければならない。

俺は武芸者じゃないから想像でしかないが、とてつもない重圧が武芸科の生徒に、特に小隊所属者にはのしかかっているのだろう。その重圧と自らの実力の無さに耐えられず、安易に力を得る道を選ぶのは、そんなにおかしいか?」

 

 レイフォンはフォーメッドの言葉に頷いた。

 元々違法酒は、そういう時のためにあるのだ。

 ニーナは納得できないらしい。

 

「それは……だが、間違っている道だ。自己犠牲など、周りの人間からすれば迷惑極まりない」

 

「それで都市が救われるとしても?」

 

「その人間も含めて都市なのだと、わたしは考える。全員が救われる道を、わたしは行きたい。たとえ、それがどれほど困難と苦難にまみれた道であっても」

 

 ニーナは強い光を宿した瞳で、フォーメッドをまっすぐ見据えた。

 フォーメッドは面食らった表情になったが、すぐに表情を笑みに変えた。

 

「……どこまでも青い。だが、気持ちの良い言葉だ。これなら信用できそうだな。

改めて取引といこう。都市警に協力してもらえるか?」

 

「喜んで」

 

 フォーメッドは一枚の書類を胸ポケットから取り出した。

 

「品の入手経路を調べて、違法酒を買っていた人間を割り出せた。ツェルニに入ってくる荷のチェックはやっているが、個人に対して送られる荷はチェックが甘い。そうやって個人の荷に少量ずつ違法酒を入れて、偽装学生はツェルニに運んでいた。しかし、住所がデタラメでは、その荷は送り返されるだけだ。

つまり、送り先の住所は偽物ではなく、本物を使用していた。

後は荷を送られた頻度の高い生徒を調べればいい」

 

「それで、その頻度の高い生徒は……」

 

「上位にいたのは六人。全員同じ小隊に所属している。第十小隊、ダルシェナ・シェ・マテルナ。彼女以外の全員だ」

 

 ニーナは動揺で視線をさまよわせた。

 第十小隊は第十七小隊の次の対戦相手であり、ニーナは第十小隊を分析していた。

 それにニーナにとって、第十小隊とは浅からぬ因縁がある。

 シャーニッド・エリプソンは元々、第十小隊の隊員であった。

 ディン・ディー。ダルシェナ・シェ・マテルナ。シャーニッド・エリプソン。

 三人が揃っていた頃の第十小隊は、最強である第一小隊に迫る実力を持っていた。

 それが崩れたきっかけは、シャーニッドが第十小隊から抜けたからだろう。

 ニーナはシャーニッドに声をかけ、シャーニッドは第十七小隊への入隊を受け入れた。

 シャーニッドが抜けた第十小隊の弱体化は著しく、かつての強かった第十小隊は見る影もなくなった。

 彼らからすれば、ニーナは第十小隊を壊した人物と思われても不思議ではない。

 

「主犯格も見当がついている。第十小隊隊長、ディン・ディー。彼の出身地は彩薬都市ケルネス。違法酒を現在も生産している数少ない都市。彼ならば、違法酒を入手する方法を知っていてもおかしくはない」

 

 ニーナは両拳を握りしめた。

 室内に重苦しい空気がのしかかる。

 違法酒の使用は武芸大会であっても禁止されている。

 もし発覚すれば、様々な問題がツェルニに降りかかってくるだろう。

 必ず解決しなければならない。

 それが本当の意味で、ツェルニを守ることに繋がっているのだから。

 必ずディンを止めてみせると、ニーナは胸に誓った。



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第25話 繋がれる首輪

 都市中央部にあるレストラン。

 床から天井まで届くような大きい窓が印象的な店内。店内の照明はついていないが、窓から差し込む日の光が、店内を柔らかく包み込んでいるような雰囲気をつくっている。

 シャーニッドはそのレストランのテーブル席に座り、頬杖をついて窓の外をぼんやりと見ている。

 食事時なら人で溢れかえっているであろう店内も、もうピークを過ぎたらしく数人程度しかいない。

 

「……シャーニッド」

 

「お、来たか」

 

 シャーニッドが視線を外から店内に移す。

 シャーニッドに声をかけたのは、第十小隊隊長、ディン・ディーである。その隣にはダルシェナもいる。

 

「話とはなんだ? 俺たちは話などないが」

 

「そう冷てぇこと言うなよ。同じ小隊にいた時はあんなに話し合ってたじゃねぇか」

 

 ディンが奥歯をギリッと噛みしめ、ダルシェナが目を伏せた。

 

「だが、お前は俺たちを裏切った。誓いあっただろう。俺たち三人でツェルニを守ろうと。なのに、貴様は第十小隊を去った! おかげで昨年度終盤の成績は酷いものだった!」

 

「……ああ、知ってる。見てたからな」

 

 ディンがシャーニッドの胸ぐらを掴み、持ち上げた。シャーニッドはされるままになっている。

 

「見てどう思った? やっぱり俺がいないとダメだと思ったか? 無様に闘う俺たちの姿は、貴様から見たら滑稽に映っただろう。だが、貴様がのうのうとしている間も、俺たちは誓いを守るために必死に闘った!」

 

「それも知ってるさ」

 

 ディンはシャーニッドを突き飛ばした。

 

「……もうお前は俺たちに必要ない。お前がいなくても、俺たちはあの人の願いを、誓いを守ってみせる」

 

「なぁ、ディン。そんな話をするために、お前らを呼んだんじゃねぇんだ」

 

 シャーニッドはテーブル席に座り直す。

 ディンの顔が朱に染まった。

 

「……そんな話、だと?」

 

「お前らのことなら、よく知ってる。俺は狙撃手で、お前らの後ろをずっと見ていた。今更口に出して言うことじゃねぇだろ?」

 

「貴様にとって!」

 

 ディンがテーブルを殴りつける。

 

「あの誓いはそんなにも軽いものだったのか!?」

 

「……今も俺なりにあの誓いを守ろうとしてるさ」

 

「第十七小隊がそうだと言うのか!」

 

「多分、そうなんだろうな」

 

 ディンがシャーニッドを睨む。

 シャーニッドは笑みを浮かべたまま、ディンを見返す。

 

「ディン、お前はなんでも抱え込み過ぎだ。深呼吸して、周りを見てみろよ。きっと違うもんが見えると思うぜ」

 

 ダルシェナがはっとした表情で、シャーニッドを見た。

 シャーニッドはディンから視線を逸らさない。

 

「……武芸大会まで、もう時間がない。止まっていられる時間など、俺にはない。必ず俺たちの力で、ツェルニを守る」

 

 ディンは身を翻し、レストランの出入口に向かう。

 ダルシェナも少し遅れて、ディンの後ろを付いていこうとする。

 

「……シェーナ。お前はとっくに気付いてるんだろ? 気付いてて、見て見ぬ振りをしてる」

 

 シャーニッドがダルシェナにしか聞こえないよう、小声で言った。

 ダルシェナは前を歩くディンを一瞥した後、シャーニッドの方に顔を向けた。

 

「……まさかお前……」

 

「言ったろ? 俺は狙撃手だって。ちょっとした変化でも、俺にはよく分かる。ディンは間違ってるんだよ、シェーナ」

 

 ダルシェナは下唇を噛んだ。

 

「ディンは……間違ってなんかいない! 自分の意志を貫くための力を手に入れようとすることの、どこが間違っていると言うんだ!」

 

 ダルシェナは逃げるように、その場から足早に立ち去った。

 シャーニッドは去っていくダルシェナの背を見ている。

 

「……シェーナ」

 

『イアハイムの騎士は公正無私がモットーだ』

 

 シャーニッドの頭に、以前ダルシェナが自信満々に言っていた言葉がよぎる。

 

「何が公正無私だ。仲間の不正を黙認しやがって……」

 

 シャーニッドは背もたれに深くもたれた。

 両手で後頭部を抱え、目を閉じる。

 どれだけの時間、そうしていただろうか。

 時刻は夕方。もうすっかり日の光は夕焼けの色になっており、店内も朱色に染まっている。

 

 ――そうか。

 

 シャーニッドはゆっくりと目を開けた。

 

(ディン、シェーナ。それが、お前らの選んだ未来か。なら、今度は中途半端に壊すんじゃなくて、木端微塵に壊してやらねぇとな)

 

 いつか、こんな日が来ると予感していた。

 三人でした、ツェルニを守ろうという誓い。

 誓い合った時の心は、三人ともバラバラだった。

 ディンは卒業したあの人のために。シェーナはディンのために。そして、俺はシェーナのために。

 誓いは本心を隠すためのごまかしに過ぎなかった。

 いつか、ごまかせなくなる。そう思った。だから、第十小隊を抜けた。

 そうすることで、近い将来必ず訪れていた破局を、回避しようとした。

 だが、失敗だった。

 俺が消えても、お前らは愚直に誓いを守ろうとしている。それも最悪な方法で。

 もうあいつらを壊すしか、あいつらを止められない。

 シャーニッドは少し寂しそうな表情になる。

 

(きっともう……三人で笑い合ってた頃には戻れねぇんだろうな)

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 カリアンはルシフの部屋に招待されていた。

 すでに日は落ち、あたりはすっかり暗くなっている。

 茶色のテーブルの前に置かれた椅子に座り、カリアンは周囲を軽く見渡した。

 ルシフの私物はほとんど置かれていない。元々部屋に備え付けられていた家具が大部分を占めている。

 

「待たせたな」

 

 ルシフがカリアンの後ろから声をかけ、カリアンの前に紅茶の入ったカップとソーサーを置いた。ソーサーの上には角砂糖が二つと薄く切られたレモンがある。お好みでどうぞということなのだろう。

 室内に紅茶の香りが漂い始めた。甘ったるい香りではなく、爽やかな香りで無意識の内に顔に入っていた力が抜けた。

 サリンバン教導傭兵団団長と名乗る男と話した後に、ルシフに招かれた。

 偶然だったのだろうが、内心で心臓が飛び出るほどびっくりした。

 ハイアと名乗ったその男の話では、ルシフは廃貴族と呼ばれる狂った電子精霊に取り憑かれていて、いつルシフがその電子精霊に操られ暴走するか分からない危険な状態らしい。

 カリアンは目の前に置かれている紅茶のカップの持ち手をつまむように掴み、湯気が立っている紅茶の香りを楽しみながら、カップを口元に持っていく。

 紅茶を一口飲んだ後、カリアンは頷いた。

 

「うん、美味しいレモンティーだね。茶葉の香りと味がよく出ていて、それでいてしっかりレモンの味も感じられる。店で注文してもなかなか飲めない味だ。

まさか君が紅茶を入れられるとは夢にも思わなかった」

 

「お前は客人だからな。これくらいはする」

 

 意外だった。

 こういった礼儀はどうでもいいと考えていると思っていた。

 しかし思い返せば、ルシフは初めて生徒会長室に来た時、客人を座らせる椅子がないと怒った。自分はルシフを招いていなかったが。

 礼儀といったものにはうるさいのかもしれない。だが、ルシフが礼儀正しいかと言われたら、別にそんなことはない。年上や学園の先輩に対して一切敬語を使わず、見下したり嘲笑するような態度や言葉を言う。

 この男は本当に分からない。

 カリアンは心底そう思う。

 ルシフの中に、ルシフだけが持つルールがあるのだろう。

 

「で、話とはなんだい?」

 

 ルシフはカリアンの向かいに座り、自分の分の紅茶のカップに口をつける。

 この男はこういう絵も不思議と様になる。立ち振舞いや仕草が他の人間とは違い、洗練されているのだ。暴力的で傲慢な性格ではあるが、高貴な出だと感じさせられる。

 

「今回の都市の補給で感じたことがあってな」

 

「ふむ。それは?」

 

「学園都市には教員が必要ということだ」

 

 カリアンは目を伏せた。

 それは、時折自分も感じていたことであった。

 下級生に対して教えられる上級生の数がギリギリであり、不測の事態が起きると今回のように休校せざるを得ない。

 これでは、学園都市本来の目的である学ぶ場の提供が出来ていないのではないか、とたまに思った。

 しかし、学園都市は学生だけで運営していくという遥か昔からの暗黙のルールがある。教員を雇うにしても、雇うために必要な人件費は出せない。そんな余裕はないのだ。

 結局、今まで通りのやり方でやるしかないという結論になり、ずっと昔からなんの変化もない。それがこの都市だった。

 

「確かに言う通りなんだけどね。しかし、教員のあてもなく、仮に雇える教員がいたとしても、払える給料がない。それに、勝手にそんな真似をしたら学園都市連盟に何を言われるか……」

 

 ルシフは自信満々な表情を崩さず、カリアンの目を見ている。

 カリアンは緊張で汗が吹き出しそうになっていた。

 ルシフの目には、力がある。

 対峙する者を屈服させる力が。

 

「今まで学園都市に学生以外の人間が住んだ記録はない。短期間の滞在はあっても、すぐに去っていく。

学生以外の人間をツェルニに住ませるのはとても重大な問題であり、私一人で決めていいことじゃない。この件は生徒会で話し合った後でも――」

 

「カリアン・ロス」

 

 緊張を紛らわすように次から次へと言葉を紡いでいたカリアンの口は、ルシフの声で閉じられた。

 ルシフの目が更に力を増した。

 そんな感覚を覚えた。身体が小刻みに震えそうになるのを、精神力で必死に抑えた。

 

「遥か昔から受け継がれてきたものを必死に守ろうとする。美しいな、うむ、実に美しい。

だが、遥か昔と今の状況は同じか?」

 

「そんなこと、分かるわけがない」

 

 ルシフは手を叩いた。

 

「その通りだカリアン・ロス。今、最良と思うものこそが、この都市にとっても最良だ。昔がどうなど、つまらんことを言うな」

 

「……過去を抜きにしても、さっき挙げたいくつかの問題点がある」

 

「教員のあてなら俺があるし、教員に対しての人件費も俺がなんとかしよう。学園都市連盟に関して言えば、問題にすらならん」

 

「何故?」

 

 ルシフが勝ち気な笑みを浮かべる。

 

「俺は半年だけ教員をツェルニで雇い、問題があるかどうか試したいだけだ。学園都市連盟も、半年という短い期間の試みなら目を瞑るだろう。教員の人件費をよこせと要求するつもりもないしな。もしかしたら武芸大会の助っ人として呼んだんじゃないかと思う奴もいるかもしれないが、もし武芸大会に教員が出たら無条件で負けを認めると書類にしっかりと残せばいい」

 

「……成る程」

 

 カリアンは顎に手を当てた。

 確かにこれなら、自分がさっき挙げた問題点は全て解決される。

 教員を短期間ツェルニに入れるという案も、新しいもの好きで好奇心旺盛な学生の心を掴むだろうと確信している。

 流石に目の付け所と考えが違う、とカリアンは思った。この男は生まれながらにして、人の上に立つ『王』の素質があるのだろう。

 しかし――、という思いがカリアンにはあった。

 今、ルシフはかなりの学生に支持されている。これ以上勢いづかれると、ツェルニはルシフの都市になる。

 ルシフにとって都合の良い意見しか通らず、ルシフの意に反する意見は全て潰される。

 法輪都市イアハイムと同様になってしまう。

 それは避けたい。

 教員のいない今の状態でも、平時は問題ない。

 

「分かった、ルシフ君。武芸長のヴァンゼや生徒会の面々と話して決めよう」

 

 とりあえずカリアンは、時間を稼ごうと考えた。

 

 ――怒るか?

 

 カリアンはルシフの気分を害したかもしれないと、ルシフの顔を窺った。

 ルシフの表情に変化はない。いや、微かに笑ったか?

 その程度しか、表情は変化しなかった。

 

「……そうか。すぐに決められないのか。それは残念だ」

 

 ルシフはそう言うが、残念がっている様子はない。

 

「あ、そうそう。別件になるが、これを見てくれ」

 

 テーブルに一枚の写真が置かれた。

 見た瞬間に、カリアンの頭から血の気が引いていった。

 

 ――私は間違っていた。

 

 その写真は、裸の少女が円柱型の設備に捕らえられているところを斜め上から撮影した光景。

 マイ・キリーの入学。マイ・キリーがルシフがくるまで実力を隠していた理由。

 頭の中でそれらが繋がり、これこそがマイ・キリーが先に入学してきた理由だったのかと、カリアンは悟った。

 ツェルニに入学する前から、入学した時のことを考えて行動を起こしていたのである。

 この写真と現場を押さえられれば、自分の人望は一気に地に落ちる。

 生徒会長の任すら解かれかねないスキャンダル。

 カリアンはルシフの顔を見た。ルシフは悪魔のような笑みを浮かべている。

 身体中から汗が浮かびあがった。

 人の皮をかぶり、人に化けて、ここぞという時に皮を脱ぎ捨て正体を現す。悪魔の姿になる。

 この男に『王』の素質などない。あるのはひたすらに外道で鬼畜なやり方だけだ。

 

「で、これを踏まえた上で、もう一度聞こうか。一学生にすぎない俺の意見に、生徒会長のカリアン・ロスは同意してくれるか?」

 

 カリアンは下唇を噛みしめた。

 従うしかない。

 従う以外の道を選んだところで、自分は排除され、ルシフにとって都合の良い存在が生徒会長になるだけなのだ。

 どう足掻いても、ルシフのやることを止められない。

 それに、それでツェルニがマイナスになるわけでもないのも、ポイントである。

 教員が増え、教えられる幅も広くなる。むしろツェルニにとってプラスになる意見。

 この男にとって、交渉や取引は望んだ答えを相手に言わせるためのものでしかない。

 それ以外の選択肢はありとあらゆる手段で潰し、自分にとって理想的な展開を創り出す。

 そうした後で、交渉と取引を持ち掛けてくる。

 

「……分かった。教員を受けいれる準備をしておくよ」

 

 力なく呟いたカリアンの肩を、ルシフは軽く叩いた。

 

「来る予定の教員は五人。多分一ヶ月もしない内に来るだろう」

 

「もうそこまで決まっているのかい? ……本当に君という男は……」

 

 これで、ルシフが自分を承諾させられると確信して、それ前提で動いていたことが分かった。

 カリアンは自分がどれだけ甘かったか気付く。

 もしツェルニに害しようとしたら、どんな手段を用いてもルシフを排除するつもりだった。

 だが、そんなことを考えている間も、ルシフはツェルニを思い通りに動かそうと水面下で様々な行動をしていた。

 結果として、自分は弱みを握られ、ルシフの思い通りに動かなければ生徒会長を解任させられる崖っぷちにまで追いつめられている。

 格が違うと、認めざるを得なかった。

 この男をどうにかしようと考えること自体、自分の身の丈に合わないことだったのだ。

 

「では、そろそろ私はおいとまさせてもらうよ」

 

 カリアンは立ち上がり、重い足取りで扉に向かう。

 

「カリアン・ロス」

 

 その背に、ルシフが声を掛けた。

 

「良い部屋を紹介してくれたな。クリーニングも消耗品の新調もやってくれた。おかげで、気分良くこの部屋に引っ越しできた。ありがとう」

 

 カリアンは意外な言葉に驚き、振り返った。

 ルシフは椅子から立ち上がって、カリアンの方に近付いた。

 

「見送ろう、カリアン・ロス。俺はお前のように他人をよく分析し、それを元に先回りして行動できる奴は嫌いじゃないんだ」

 

 不思議と、重かった足取りが少し軽くなった。

 格が違うと思った相手に、見送ろうと言われる。

 気分は良かった。

 カリアンは少し歩く速度を速めた。

 ここに一秒でも長くいたら、この男の器に取り込まれる。

 そんなことを、カリアンは思ってしまった。



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第26話 依頼

 もう日が暮れかかり、夜の帳がおりていく中、ニーナは殺剄で気配を殺してじっと身を屈めている。

 ニーナの視線の先には、ディン・ディーと第十小隊隊員たちの後ろ姿がある。

 ニーナはディンを尾行していた。

 フォーメッドからディンの違法酒を持っているところか、明確に違法酒を使用した証拠を手に入れてきて欲しいと言われている。

 実はレイフォンもディンを尾行していてニーナの後方にいるが、ニーナは気付いていない。

 余談だが、レイフォンはこのおかしな状況に困惑し、動くに動けずただニーナの後を追うだけになっている。

 そうしてしばらく尾行していると、ディンに付いていた隊員たちが自分の寮に帰っていき、ディン一人になった。

 そうなった時を見計らったように、ニーナは殺剄を解きディンに近付く。

 尾行対象に自ら存在を明かすなど、正気の沙汰ではない。

 余談だが、この時レイフォンはニーナの行動を見てとても取り乱した。

 

「ディン・ディー」

 

 レイフォンがそんな状態であるのも露知らず、ニーナがディンの後方から声を掛けた。

 ディンは後方を振り返る。

 

「ニーナ・アントークか。何の用だ?」

 

「単刀直入に言う。違法酒に手を出すのを止めろ」

 

「……ルシフから聞いたのか?」

 

 ディンの予想外の返答に、ニーナは困惑した表情を浮かべた。

 

「何故ルシフの名前が出てくる?」

 

 ニーナの反応を見て、ディンは薄く笑った。

 

「以前奴が俺を呼び出し、違法酒のことで脅迫してきた。奴はこう言った。対抗戦で第十七小隊と当たったら、貴様と一対一で勝負しろとな。勝てば違法酒は黙認してやると言わんばかりの口振りだった。

奴の気性はシェーナから聞いている。奴に黙って勝手なことをして、都市警も貴様も無事で済むと思うか? 痛い目を見たくなければ、第十七小隊との対抗戦が終わるまで、余計なことはしない方が身のためだと思うがな」

 

 ドクンと、ニーナの心臓が大きく跳ねた。

 ルシフが違法酒の件を自分たちよりも早く知っていたのにも驚いたが、一番驚いたのは自分とディンの一対一をさせようとしている部分だ。

 一体それに何の意味があるのか。

 ディンがツェルニの武芸者の中でも上位にいるのは間違いない。

 しかし、今の自分の相手にはならないと、ニーナは当たり前のように思ってしまった。

 ニーナは次の対抗戦のために、第十小隊の今までの試合を映像で分析していた。

 違法酒をしていると聞いてから改めてその映像を確認すると、確かに大量の剄がディンの身体から漏れ出ていた。――そう。漏れ出ていたのだ。

 つまり、大量の剄を違法酒で得ていても、その恩恵をあまり受けれていない。通常よりちょっと強くなっている程度の実力。

 ルシフと鍛練している自分にとって、ルシフより遥かに実力が下の相手が弱く見えてしまうのは仕方ないことだろう。

 たとえディンが違法酒を使用したとしても、今の自分は勝つ自信がある。

 ルシフにそれが分からない筈がない。

 ディンを自分の実力を確かめる試金石にするつもりなのだろうが、ディンでは試金石にもならないと分かっている筈だ。

 

 ――ルシフ……一体何を考えている? いや、それよりも……。

 

 考えるべきはディンのことだ。

 ルシフのことは後でルシフに直接聞けばいい。

 

「違法酒は自分の身体を壊してしまう危険な物なんだぞ! 壊れてからじゃ遅いんだ! 今ならまだ間に合う! 違法酒から手を引け!」

 

「……ニーナ・アントーク。貴様には次の武芸大会でこうしたいと思うものがないのか?

対抗戦で最も成績が良かった小隊が武芸大会の核となり、武芸大会の時の発言力も大きなものになる。分かるか? 勝たなければ! 俺の作戦は他の小隊の作戦と同列に扱われ、武芸大会で使用されるかも分からない! それでは駄目だ! それでは、武芸大会に勝てない! 俺の作戦、俺のやり方で武芸大会に勝利し、ツェルニを守るのだ!」

 

「別に核とならなくても、その作戦が勝てると判断されれば、周りからも支持は得られる筈だ」

 

 ディンはニーナを嘲笑った。

 

「何を基準に判断する? 対抗戦で負けてばかりの小隊の作戦が最良と周りが思うか? 対抗戦で勝ち続けた実績こそ、周りから信用される判断材料になる。もっと現実を見ろ」

 

「お前も理想ばかり見ていないで、現実を見ろ。己の能力を磨く努力を放棄し違法酒に逃げるような行為でどれだけ勝ったところで、そんなもの何の意味もない」

 

「卑怯な手でシャーニッドを引き抜き、俺の理想を壊した奴がそれを言うか!」

 

「……わ、わたしは引き抜いてなんか……」

 

 ニーナは落雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 ニーナの瞳から力が無くなる。ディンに定まっていた視線が逸れ、叱られた子供のように見当違いな方向を視線が彷徨っている。

 ディンは力強く両拳を握りしめた。

 

「――お前には必ず勝つ。勝って、俺は悪魔の後ろ盾を手に入れる。誰も、俺の邪魔は出来なくなる。この都市を守るのは俺だ」

 

 ディンは振り返り、ニーナに背を向けてニーナの前から去っていく。

 ニーナはそれをただ見送ることしかできなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 翌日の昼。

 練武館の一室に第十七小隊は集まっていた。

 ニーナがナルキの手を引き、ルシフたちの前に立つ。

 

「新しい隊員だ。仲良くしてくれ」

 

「今日から――!」

 

 ナルキが一歩進み出て――盛大に転んだ。

 室内には訓練のために大量のボールが転がっている。そのボールにナルキは足を取られてしまったのだ。

 ナルキは顔を真っ赤にしながら、咳払いをして気を取り直す。

 

「んっ! んんん! き、今日から第十七小隊に入隊しました、ナルキ・ゲルニです。よ、よろしくお願いします!」

 

 足元にあるボールを怒りを込めて足でどかし、ナルキは一歩前に出て軽く頭を下げた。

 ニーナは苦笑して、ナルキの肩を軽く叩く。そして、ニーナも一歩前に出てナルキの隣に立つ。

 

「それから、明後日に予定していた強化合宿の件だが、諸事情により中止にする。これは決定事項だ」

 

「なんでまた……」

 

「私用が入った。強化合宿はまた別の機会に行う。

話は終わりだ。訓練を始める」

 

 室内にある大量のボールの上に全員が立ち、その上で普段通りの動きをする。

 単純だが、基礎能力をバランス良く向上させるのにはうってつけの訓練方法だ。

 ナルキは何度も転んでいたが、それ以外は全員危なげなく動き回っていた。

 そして訓練終了後、ナルキは汗だくで壁にもたれかかり座り込んでいた。どうやら動けないらしい。レイフォンがナルキにスポーツドリンクを渡している。

 そんな光景を横目に、シャーニッドは近くにいるニーナに近付いた。

 

「あの子、都市警の人間だろ? ってこたぁ、ついに都市警がディンたちに目を付けたか?」

 

「お前、気付いて……」

 

「あいつらとは長い付き合いだからな、違法酒なんざ使ってたら一目で分かるぜ」

 

「……確かにお前の言う通り、都市警は違法酒を使っている決定的な証拠を手に入れようとしているが――」

 

 ニーナの視線がルシフを捉える。

 

「ディンの話では、ルシフが既に違法酒の件で行動を起こしていたようだ。なんでも対抗戦でわたしとディンが一対一で戦い、ディンが勝てば違法酒を見逃すらしい」

 

「……なんだそりゃ」

 

 シャーニッドが眉をひそめた。

 ニーナは首を横に振る。

 

「わたしにも分からん」

 

「アントーク、ディンと接触したのか。なら、分かるな? 対抗戦が終わるまで余計な事はするな」

 

 その会話はルシフに聞こえていたらしい。

 気付けばルシフがニーナのすぐ近くまで来ていた。

 ニーナがルシフの顔を睨む。

 

「……ルシフ、一つ聞きたい。わたしとディンが戦うことで何の意味がある?」

 

「貴様なら分かる筈だ。ディン・ディーとの一対一、必ず貴様が勝つ。それは確定している。貴様が勝てば、俺は違法酒の件に関与しない。どこに問題がある? 対抗戦は明日だろう? それまでに、違法酒の決定的な証拠を手に入れられるのか?」

 

「答えになっていないぞ。お前、一体何を企んでいる?」

 

「……強いて言うなら、暇潰しにディン・ディーを利用しただけだ。それ以上の意味などない」

 

「そいつぁ、聞き捨てならねぇな。ディンの心を弄ぶような真似しやがって……許さねぇ!」

 

 シャーニッドが剣帯に吊るしてある二本の錬金鋼を瞬時に復元し、両手に拳銃が握られる。

 元々この拳銃は打撃に重きを置いた拳銃であり、銃身部分が分厚くなっている。

 その部分でルシフに殴りかかった。

 ルシフの頭に銃身が直撃。

 しかし、頭に触れた瞬間、シャーニッドの持つ拳銃にヒビが入り、シャーニッドの手の中で一気に砕けた。

 

「――なっ! うぐッ……」

 

 ルシフがシャーニッドを蹴り飛ばす。

 シャーニッドは壁にぶつかり、そのままずり落ちた。

 レイフォンは今ルシフがしたことを目を見開いて凝視している。

 一言で言えば、常識外れ。

 金剛剄は攻撃を反射させる剄技であり、触れた武器を破壊など出来ない。

 だが、今ルシフは金剛剄と武器破壊を同時にしてみせた。

 

「――剄技、金剛絶牙。俺が創ったオリジナルの剄技だ。活剄衝剄混合変化の剄技であり、金剛剄に使った剄をそのまま相手の武器に流し込み、武器破壊を行う。

俺に攻撃を仕掛けた錬金鋼は、もはや形すら留められん」

 

 まさしく悪魔、鬼畜の技である。

 錬金鋼で戦う武芸者にとって、錬金鋼は戦う術そのもの。それが、攻撃を加えた瞬間に破壊される。一撃にして、攻撃手段が砕けるのだ。

 武器を手に己に刃向かうことを許さないどころか、刃向かう者は武器を手にすることすら許さない。

 そんなルシフの心が具現化したような剄技。

 この剄技により、ルシフを傷付けられるのは天剣と呼ばれる特別な錬金鋼を持つ者だけに限定された。

 ルシフはハイアから盗んだ武器破壊の剄技を昇華させ、金剛剄と組み合わせることでこのえげつない剄技を完成。

 着実と最強への頂きに登りつめつつある。

 

「くそっ」

 

 シャーニッドが残る一つの錬金鋼を復元させ、狙撃銃を握る。そのままルシフの額目掛けて狙撃銃を構え、引き金を引く。

 放たれる剄弾。

 ルシフは羽虫でも払うように鬱陶しげに手を払い、剄弾をシャーニッドの方に弾いた。

 剄弾はシャーニッドの額に命中。

 

「つぅ~~~~!」

 

 シャーニッドは額を片手で押さえてうずくまる。

 ルシフは呆れた顔でため息をついた。

 

「何がしたいんだお前は?」

 

 そんなルシフに向かって、ようやく動けるようになったナルキが口を開く。

 

「ルシフ、あたしは都市警に所属する人間として、ディンを捕まえて助けなくちゃいけない。都市を守るためだからと言って、違法酒を黙認するわけにはいかないんだ。法で禁じられているのだから。

遊びでディンを利用しているなら、それを止めてディンを捕まえるために協力してくれ」

 

「ディン・ディーを捕まえて助ける――か。助けを望んでいない者を助けようとしたところで、何も意味はない。無駄な努力だ」

 

 ――周囲の人間にできるのは、道を示すくらいしかない。

 

 ルシフは心の中でそう呟く。

 ナルキが目を吊り上げた。

 

「なら! このまま壊れるまで何もしないと、お前は言うのか! 見損なったぞ!」

 

 ルシフはナルキの言葉を鼻で笑った。

 

「ふん、どう思われようが、俺は一切気にせん。壊れるなら所詮その程度の奴だったというだけの話だ」

 

 ルシフはボールの上をまるでボールが無いかのような自然体で歩き、扉の方に向かう。

 

「どこに行くつもりだ?」

 

 ニーナがルシフに問いかけた。

 ルシフは顔だけニーナの方に向ける。

 

「カリアン・ロスのところだ。もし誰かがカリアンの手を借りたり、都市警が勝手に動き出すと面倒なことになりそうだからな。先手を打つ」

 

「確かに、ディンたちの件はカリアンの旦那も含めて話した方が良さそうだな」

 

 シャーニッドがそう言いつつ立ち上がった。

 

「生徒会長か……よし!」

 

 ニーナは思案顔で僅かばかり逡巡した後、意を決したように鋭い眼差しになった。

 

「わたしも生徒会長のところに行くぞ。別に構わないな?」

 

「好きにしろ」

 

 こうして第十七小隊の面々は、生徒会長室へと向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「……ふむ」

 

 カリアンは執務机を前に座り、顎に指を当てて頷いた。

 

「第十小隊が違法酒を使用――ね。私のところにその話はきていないが、話は理解した。

で、わたしにどうして欲しいのかね?」

 

「武芸大会が間近に迫ったこの時期に、こんな問題が明るみになったら、武芸長のヴァンゼの旦那や、生徒会長のあんたが責任を問われてクビになるかもしれない。それはまずいだろ? できるなら、内密の処理を頼みたい」

 

 シャーニッドがここぞとばかりに、話を展開される。

 

「確かに君の言う通り、この問題が明るみになれば武芸科以外の生徒たちから非難の声が上がるだろう。私やヴァンゼの罷免もあり得る。前回の武芸大会で敗れているため、武芸科の印象も悪い。特に武芸科以外の上級生は不満がかなり溜まっているし。

かと言って放置すれば、もっと厄介な問題になる。最悪のケースは武芸大会で違法酒を使用することだ。武芸大会での違法酒の使用は禁止されている。もし学連にバレたら、来期からの援助金の問題や、学園都市の主要収入源である研究データの販売網を失うかもしれない。

事態は思った以上に深刻だね。そう思わないかい、ルシフくん?」

 

「別に」

 

 カリアンは言外にもう遊びは止めろと言っているわけだが、ルシフは大して気にもせずに言った。

 その場にいるルシフを除いた全員が顔をしかめる。

 ツェルニの一大事だというのに、この男はまだ遊びを優先するらしい。

 

「もうすぐ対抗試合で第十小隊と戦う。第十七小隊は攻め手だ。アントークがディン・ディーを倒しても、対抗試合は終わらない。そこからなら、何をしても俺は邪魔をせん。例えば第十小隊に、少なくとも半年は動けない怪我を負わせようとしても、俺は止めない」

 

「なっ……!」

 

 ルシフの言葉に、その場にいるカリアン以外の全員が絶句した。

 ルシフは意外そうに周囲を見渡す。

 

「貴様ら……一体どうやって違法酒の件を解決しようとしていたんだ? あいつらは自分の意思で違法酒を使用している。身体の自由を奪わない限り、ありとあらゆる方法で違法酒を手に入れようとするだろう。となれば、武芸大会が終わるまで、違法酒を使用している第十小隊の隊員全員を物理的に動けなくしなければならない。内密の処理を願うなら――だ。まぁ第十小隊を退学か都市外退去させる手もあるが、その場合内密の処理は無理だな」

 

 都市外退去、退学となった時点で、何かしらの罪をでっち上げなければならない。

 その場合武芸科が問題を起こしたという事実に変わりはなく、それに伴う問題も解決しない。

 ルシフを除いた第十七小隊全員が、カリアンに視線を向ける。

 カリアンは沈んだ表情で、それらの視線を受け止めた。

 そのカリアンの反応から分かってしまった。

 違法酒の件を内密に解決するための方法は、今ルシフが言った解決方法と同じなのだと。

 

「しかし、半年以上の怪我となると……」

 

 ニーナが血の気の引いた顔で呟いた。

 ツェルニの医療技術はかなり優秀であり、肉体の欠損や骨折、内臓破壊程度では半年以内に治療出来てしまう。

 半年以上となると、神経系の破壊をするしかない。

 武芸者の神経は剄路に近い位置にあり、剄路から流れる剄によって守られている。

 神経系を破壊しようとすれば、剄脈に対しても何かしらの影響が出る。その場合ほぼ確実に後遺症が残るだろう。ツェルニの医療技術では治せないほどの。

 ディンを廃人にしてしまう危険性がある。

 

「神経系の破壊……か。どうやるんだ? 頭に衝剄でもぶち当てるのか?」

 

 シャーニッドが今にも怒鳴りそうな表情になる。

 カリアンは深く息をついた。

 

「……実際問題、そうしてもらう以外に方法はない。彼らには悪いが、ツェルニの命運と秤にかけて彼らを取れる程、私は優しくないんだ。

で、神経系の破壊は可能なのかな? レイフォン君」

 

 レイフォンは表情を曇らせた。

 正直に言えば、出来る。

 サイハーデンの剄技の中に封心突という名の剄技があり、その剄技は神経系に影響を与える。

 それを使用すれば、外傷なく半年は動けなくなるダメージを神経系に与えられる。

 しかし、それにはある問題があった。

 それは、自分の得物。

 サイハーデンの剄技は刀を使うのが普通であり、剣ではサイハーデンの剄技を最大限()かせない。

 ディンたちを止めるには刀を握るのが必須。

 だが、刀は握りたくないのだ。何があっても。たとえそのせいで全力を出せずに命を落としたとしても。

 他人から見れば、「なんだその理由は?」と呆れられるかもしれない。

 自分でも、刀を握りたくない理由が意地に近いものだと思う。

 だとしても、自分はそれを貫くと天剣授受者になった時から決めたのだ。

 天剣を失っても、そこだけは失いたくない。

 

「……生徒会長、少し時間をもらえないだろうか」

 

 いつまでも口を開かないレイフォンを見かねて、ニーナが口を挟む。

 カリアンは周りの顔を見た。

 ルシフは平然としているが、他は辛そうな顔をしている。

 

「……そうだね。でも、対抗試合が始まる前までには、返事がほしい。君とディン君の一対一が終了した後、どうするかをね。

都市警に関してはこちらから言って、それまで逮捕しないようにしてもらうよ」

 

 ニーナは静かに頷いた。

 

「なら、この話は終わりにしよう。実は君たちには私からも別件で用があった。君たちが傷付いた都市から持ち帰った物の解析についてだ」

 

 第十七小隊は廃都市からツェルニに戻った時、廃都市から球体状の物を回収していた。

 それを生徒会長に渡し、どういう物か調べてもらっていたのだ。

 ニーナたちの表情が引き締まる。

 

「簡単に言えば、かなり昔――最低でも五十年以上前の戦闘記録だった。女性の形をした兵器と君たちが戦ったという巨人、それらと武芸者たちが戦っている映像。

これが何を意味するかは分からないが、とりあえずこれを持ってきた君たちには教えておこうと思ってね」

 

「分かりました。ありがとうございます。他には何か?」

 

「他には……そうだね、ルシフ君だけ話がある。他の人は外してもらえないかな?」

 

「ルシフだけ?」

 

 ニーナが眉をひそめて、カリアンの顔を凝視する。

 

「俺だけご指名だ。他の連中はとっとと出ていけ」

 

「お前は本当に……」

 

 ニーナはルシフの言い草に反感を覚えた。

 なんでこの男はこういう言い方しかできないのだろうか。

 しかし、カリアンが用があるのはルシフだけなのは事実。

 ニーナたちにその場を立ち去る以外の選択肢はなかった。

 ルシフとカリアンを除いた全員が生徒会長室から出ていく。

 

「――さて、俺に用とはなんだ?」

 

 カリアンと二人きりになったのを見計らい、ルシフが口を開いた。

 

「実は外縁部付近の郊外で、生徒が襲われ物を奪われるという事件が発生しているんだ。被害はまだ三人だが、犯人が捕まっていない以上、被害者が増大していく可能性は否定できない。

そこでルシフ君には、明日の午前中に被害があった場所を調査してもらいたい。そしてもし可能ならば、犯人も捕まえてほしい」

 

「……ほう?」

 

 ルシフの顔に笑みが浮かんだ。

 だが、目は刃物のような鋭さと冷たさを放っている。

 カリアンの身体が恐怖で強張った。

 間違いなく気分を害した。

 カリアンはそれを確信した。

 

「犯人の目星すら付いてなく、被害があった場所などという今となっては無価値な場所で、明日の午前中が間違いなく徒労で終わるのが分かっていて、そこら辺の武芸者や都市警を使えば事足りることを、あえて俺にやらせると? 頭脳も力も人類史上最も優れるこの俺に? ……その眼鏡かち割って、ついでに曇り切ったその両目も抉りとってやろうか?」

 

「まっ、待ってくれ! 君はよくその辺りに鍛練をしに行くと聞いた。だから、鍛練のついでに調べてもらいたいと考えただけなんだ。気を悪くしたなら、謝る。すまなかった」

 

 カリアンが深々と頭を下げた。

 ルシフは下げた頭を机に叩きつけようと左腕を伸ばす。

 半分ほど左腕を伸ばしたところで、ルシフは動きを止めた。

 カリアンの性格からは考えられない頼み。

 カリアンの性格からすれば、俺に対して積極的に借りを作るような真似はしない。こんな些事、その辺の奴らを使う筈だ。

 だからこそ頭にきたわけだが、逆に言えば俺でなければならない理由がある。ならば、その理由は――。

 ルシフは左腕を引っ込めた。

 

「顔を上げろ」

 

「許して……くれるのかい?」

 

 カリアンがおそるおそる顔を上げる。

 ルシフはカリアンに向けて満面の笑みを浮かべた。

 

「水臭いことを言うな。俺とお前の仲だろう。今のはお前を驚かせたかっただけだ。今住んでる部屋の礼もある。そんな些事、この俺がぱぱっと片付けてやる」

 

「え゛っ!?」

 

「心配するな。俺が必ず解決してやるから」

 

「ちょっ、ちょっとルシフ君、急にどうしたんだい!? すまない! 本当にすまない!! 私に出来る範囲で何でもしよう! だからその笑みを! その笑みを止めてくれぇ!」

 

「何を取り乱しているんだ? さては、俺に悪いと思っているのか? はははははー、お前の頼みを嫌がるわけないだろー」

 

「棒読み止めて! 気分を害したTUGUNAIならしよう! だから棒読み止めて!」

 

 身体をガタガタ震わせて、カリアンが悲痛の叫びをあげた。

 

「……話はそれだけか? なら、俺は帰る」

 

 ルシフは身を翻し、生徒会長室の扉に向かう。

 

「――ルシフ君。明日の調査にあたり、一つ言いたいことがある」

 

 カリアンが眼鏡を指先で直した。

 

「何だ?」

 

「私は、その、決して君をどうにかしようと思ったわけではなく、君なら問題ないと判断した上で、君に調査を頼んだ。そのことを、忘れないでほしい」

 

 ルシフは不敵に笑う。

 

「……ああ、分かっている」

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 次の日の朝。

 ルシフはカリアンから言われた場所に来ていた。マイには内緒で来たため、近くにマイはいない。

 だが、マイのことだから念威で見ているだろう。

 ルシフの周囲から、何十人もの剄が空に迸った。

 事前に潜んでいたのだ。つまり、待ち伏せ。

 

「さあ、楽しませてみろ! サリンバン教導傭兵団!」

 

 ルシフは勝ち気な笑みで、物陰から飛び出してきた武芸者たちを見据えた。



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第27話 実験

 ルシフに襲いかかってきた武芸者の集団。

 その中にはハイアの姿もあった。

 ハイアは一昨日、ルシフを待ち伏せしている場所に誘導してほしいとカリアンに交渉を持ちかけた。

 カリアンが交渉に乗るメリットは、いつ暴走するかも分からない廃貴族の処理と、しばらくの間サリンバン教導傭兵団がツェルニを無料で護衛することにより得られる安全の確保。

 サリンバン教導傭兵団側のメリットは何もない。言うなれば、タダ働きである。

 『善意』で厄介事に手を出した。

 カリアンから見ればそういう風に見えるよう、ハイアは交渉を進めた。

 もちろん本心は金銭など幾ら積んでも手に入らない廃貴族をグレンダンに持ち帰り、サリンバン教導傭兵団の宿願を果たすところにある。

 結果的に、カリアンはハイアとの交渉に乗った。

 ハイアと協力することで、ルシフをツェルニの外に出したかったわけではない。というより、ルシフ相手にそんなことは出来ないと、ルシフが戦う映像を何度も観てきたカリアンは確信していた。

 カリアンの狙いは、サリンバン教導傭兵団の機嫌を損ねず、ツェルニとのコネを作ることだった。

 サリンバン教導傭兵団は他都市でも名高い優秀な武芸者集団。そんな彼らと繋がりを持てれば、ツェルニが危機に瀕した際、有効なカードになると考えた。

 故に、あえてカリアンの目的をあげるとすれば、交渉に乗りご機嫌を取るのが目的だったと言えよう。ルシフがサリンバン教導傭兵団の手に落ちるかどうかはどうでもいいのだ。

 しかしハイアに、そんなカリアンの本心は見抜けない。彼はサリンバン教導傭兵団というブランドに絶対の自信を持っている。

 サリンバン教導傭兵団を敵に回すと恐ろしい。

 各都市がそういうイメージを持っているらしく、自分たちの取引を無下にされたことなど、今まで一度もない。

 カリアンも我が身可愛さで交渉に応じたのだろう、とハイアは当然のように思った。

 ハイアは内力系活剄の変化、水鏡渡りでルシフに肉薄。刀で斬りかかる。ルシフは半身になり回避。続けて別方向から襲いかかってきた武芸者の攻撃もルシフは受け流す。

 完璧な連繋で攻め続けるサリンバン教導傭兵団。

 ある一人が仕掛ければ、その一人をフォローするように複数の団員もそれぞれ少しずつタイミングをずらして攻撃を仕掛ける。フェイントを織り交ぜ、誰が本命か悟らせないようにもしている。

 世界最強の傭兵団全員の本気の連繋。

 学生都市に住む一学生にはもったいない、豪華過ぎる連続攻撃(フルコース)

 しかし、どうやら彼の口には合わなかったようだ。

 どの攻撃も彼の前ではかわされた。

 迫り来る斬撃と打撃、それらの間を縫って飛び込んでくる剄弾。

 物理的によけられない攻撃の厚さ。

 ルシフはその隙間もない程の圧倒的な手数の攻撃を、最低限の受け流しと体捌きで防ぎ続けた。

 彼の手に錬金鋼は未だに握られていないにも関わらず、サリンバン教導傭兵団の攻撃は彼の両手以外の部分に触れていない。

 ハイアも刀を振るい、何度も何度もルシフに斬りかかっているが、そのどれもが空を切った。

 

 ──な、なんさ? こいつ……。

 

 ハイアは内心で驚愕していた。

 以前刀を交えた時と動きがまるで違うのだ。以前は真っ正面から敵の攻撃を受け止める、例えるなら岩や鋼鉄のような屈強にして剛力な戦い方。

 今は水の流れのような流麗で柔軟な戦い方である。第三者が見れば目を奪われてしまう美しさも兼ね備えていた。

 不意にゾクリと、ハイアの背筋に悪寒が走った。

 

「──ッ! 全員下がれ!」

 

 直感が警鐘を鳴らし、ハイアの全身から汗が噴き出した。

 ハイアはルシフから飛びずさり、それと同時に全団員に攻撃を中断するよう指示を出す。

 その指示に従い、全団員は攻撃を止めルシフから数メートル距離を取った。

 その瞬間、ルシフから大量の剄が天に昇った。ルシフ本来の赤色の剄ではなく、黄金色の剄が。

 ハイアはルシフから視線を逸らさず、次の動きを窺う。

 ルシフの口元が微かに動いた。

 それは音としてハイアの耳に届かなかったが、口の動きで言葉は届いた。廃貴族──と。

 

「うぐっ……お前……この俺を……アアアアアッ!」

 

 ルシフが胸を掻きむしり、苦し気に呻く。

 何かを抑えるように前屈みになり、何かを堪えている。

 しかし、その抵抗も無駄だったようで、やがて掻きむしっていた両手はだらりと下がり、ルシフの身体から力が抜けた。

 そして、そのルシフの背後に現れたのは──。

 ハイアがごくりと唾を呑みこんだ。

 それは期待からではなく、恐怖と緊張からきた行為。

 

「は、廃貴族だって!? ホントに暴走したさ!」

 

 太く曲がりくねった角を生やし、人間のような瞳をして、ルシフの身長に匹敵する胴体をもつ黄金の牡山羊。

 その牡山羊がルシフのすぐ後ろに立っている。ルシフの瞳に光はなく、ルシフの顔に表情もない。

 完全に廃貴族に身体を乗っ取られた。

 サリンバン教導傭兵団はそう確信する。

 やはりこの男の身柄を確保することが、サリンバン教導傭兵団の目的を達成できる手段なのだ。

 ハイアは刀を構え、サリンバン教導傭兵団も顔に浮かんだ汗と緊張に支配されそうになる身体を必死に制御して、ルシフの動きに注目する。

 必ず捕らえる。

 サリンバン教導傭兵団の誰もがその覚悟を胸に秘めながら。

 しかし、現実は非情である。

 そんな彼らの思いなど、道端に落ちている石ころ同然の価値しかない。

 廃貴族に操られたルシフが一瞬で包囲している内の一人の懐に飛び込む。

 下から突き上げられる右拳が腹部にめり込み、血を吐き出しながら武芸者の身体が浮き上がる。浮き上がったその胴体に、もう一方の左拳が叩き落とすように上から振り下ろされた。

 武芸者の身体は左拳と地面の両方に強打され、ひび割れた地面の中心に倒れた。肋骨とあばらは粉々に砕け、口から血を垂れ流しながら全身をピクピク震わせている。

 そうなって初めて、サリンバン教導傭兵団の団員たちはルシフの方に顔を向けた。誰一人として、ルシフのこの一連の動きを捉えられていなかったのだ。団長であるハイアですら。

 しかし、彼らの視線の先にルシフはもういなかった。

 

「う、うあああああっ!」

 

 すぐ近くから聞こえた悲鳴。強烈な打撃音と一瞬よぎる影。後方にある廃ビル崩壊。人が飛んでいった。理解。打撃音がした方をハイアが見る。ルシフの姿はない。

 

「ごぶッ……!」

 

 別方向からの呻き声。

 声が漏れた方を見る。

 建造物の廃虚に人間が突き刺さっていた。

 

「がはっ」

 

「ぐっ……!」

 

「あうっ!」

 

「ぐえぇ……」

 

 兄、姉と慕っている団員たちが、次々に変わり果てた姿にされていく。

 腕や足が奇妙な方向に曲がり、白目を剥いて横たわっていく。

 視界いっぱいに赤が舞っていて、この空間を彩っている。ハイアの隣にいた団員が消えた。表情の抜け落ちたルシフの顔が間近にある。団員の顔面を殴り飛ばしたらしい。殴られて舞った団員の血が、ハイアの横顔に付着した。

 

「……え? あ……ああ……」

 

 恐怖に染まりきったハイアの口から漏れた声。

 ハイア以外の団員はものの数十秒で全員行動不能の重傷を負った。ハイア以外に立っている団員はいない。

 廃貴族を背後に控えたルシフの右手が、ハイアの首を掴んだ。

 

「……この……バケモノ……!」

 

 ルシフがハイアを頭から地面に叩き落とす。

 

「……ッ!」

 

 倒れたハイアの横腹を、ルシフがボールでも蹴るように蹴り飛ばす。

 

「げぇ……!」

 

 ハイアの身体は地面を転がりながら建造物に突っ込んでいった。

 

「……ごほっ……ごほっ!」

 

 ハイアの身体がぶつかって壊れた壁の破片。自分の身に降り注いだそれらを咳き込みながら両手でどかす。

 自分の近くに落ちている愛刀を拾い、握りしめた。

 刀を支えのように使って立ち上がる。

 ハイアは牡山羊をバックに立つルシフを恐怖に染まった瞳で見た。

 それから、ハイアは視線を周りにさまよわせた。

 地面が大量の血で赤く染まり、その上に団員たちが、家族たちが変わり果てた姿で倒れている。

 この光景を一言で表すならば、地獄絵図。

 

「……なんさ、これ?」

 

 ハイアが口から血を吐き出す。

 今のルシフの攻撃でどこかの内臓を損傷した。

 

「なんなんさこれはああああッ!」

 

 更に口から血を吐き出す。

 それでもハイアは叫んだ。

 こんな筈じゃなかった。おれっちとアイツは互角だった筈なのに……。今頃倒れているのはアイツの予定だった。それが、『廃貴族の暴走』という予想外の事態で全部狂った。

 

 ──おれっちが身動きすらできず、動きを見ることすらできずに一方的に──。

 

 ハイアの視界に捉えていたルシフの姿がぶれる。

 

「がはっ……」

 

 そう思った時には、ハイアの腹にルシフの左膝が突き刺さっていた。

 ハイアの身体が折れ曲がる。

 折れ曲がって下がったハイアの顎に、流れるような動きで放たれた下から掬い上げる左手の掌底。

 ハイアの身体が斜め上に飛ぶ。建造物の壁を頭から突き破り、ハイアの身体が建造物の内部を転がる。

 ハイアはそれでも離さなかった刀を地面に突き立て、立ち上がる。

 ハイアの視界の景色が揺れ、気付いたら地面に再び倒れていた。ルシフの掌底で脳を揺らされていたのだ。

 ハイアから数メートル離れた正面に、牡山羊を纏うような姿で跳躍したルシフが立つ。

 そこから一歩一歩確かめるように、ゆっくりとハイアに近付いてくる。

 

「ひっ……!」

 

 ハイアは倒れているため、ルシフの足しか視界に映らない。

 その足が、ハイアの目と鼻の先で止まった。

 そして──ハイアの視界は一瞬にして漆黒の闇が広がった。

 

 

 

 廃貴族をバックにしたルシフは足元を見る。

 そこには手刀を叩きこまれ気を失ったハイアがいた。

 ルシフは建造物の外に一瞬で移動。

 流れた血で赤い絨毯が敷かれたように見える地面に立つ。

 

「ご苦労だった、廃貴族」

 

 ルシフが一言そう口にした。

 ルシフの背後にいた廃貴族が空気に溶けるように消え、ルシフの正面に立つ。

 

《……我には理解できぬ》

 

 廃貴族に表情はない。

 表情のない瞳がルシフを責めるように捉えている。

 

《汝の身体を乗っ取り、あの者らを蹂躙する。それが汝が我にした命令。それに何の意味があろうか》 

 

 ルシフはハイアと初めて刀を交えた後、廃貴族と話し合った。

 その話し合いで決まったことは二つ。

 一つ目は廃貴族と話す時、廃貴族は外に出てくること。

 二つ目は次にサリンバン教導傭兵団と戦いになった時、廃貴族はルシフの身体を乗っ取りサリンバン教導傭兵団を叩きのめすこと。

 つまり、ルシフは廃貴族にわざと乗っ取られたのだ。

 

「理由は二つ」

 

 廃貴族の前で、ルシフは二本指を立てる。

 

「一つ目、お前が憑依した相手を操れるかどうか知るため」

 

 ルシフは原作知識で廃貴族が憑依した相手を操れるのを知っていた。

 それが正しいかどうか確かめるため、自分の身体を乗っ取らせ、自分は身体の力を抜いて廃貴族の好きにさせた。

 そして、原作知識は間違いないと分かった。

 廃貴族を利用し、他人を自分の思い通りにコントロール出来る可能性。

 これはルシフにとってかなり重要だった。

 

「二つ目、ある人物を徹底的に叩き潰すため」

 

 廃貴族は無表情のまま首を微かに傾げた。

 サリンバン教導傭兵団を『廃貴族の暴走』という形で叩き潰したのが、何故ある人物を徹底的に叩き潰すことに繋がるのか理解できないようだ。

 

《やはり理解できぬ》

 

「だろうな。先を読もうとせず、人間を理解しようとせん奴には一生分からんに違いない」

 

 ルシフは皮肉たっぷりに言った。

 ルシフは都市中心にある建造物の時計を見る。あと一時間もすれば、第十七小隊と第十小隊の対抗試合が始まる。

 ルシフは対抗試合が行われる野戦グラウンドに向けて歩き出した。

 その隣を廃貴族も歩いている。電子精霊が歩く必要があるのかとルシフは思った。

 そして、いつまでも自分の身体に戻らない廃貴族の様子に少しイラッときた。

 

「……分かった。お前にも理解できるよう説明してやる」

 

 廃貴族は何も言わずに隣を歩き続けている。

 その反応に気分を害した様子はなく、ルシフは口を開いた。

 

「奴ら──サリンバン教導傭兵団はお前の確保が目的だ。だが、自分たちでは確保できないと気付いた。しかし、廃貴族はサリンバンひいてはグレンダンの目標であり、容易く諦められない。

となれば、奴らは次にどう考える?」

 

《応援を呼ぶ……か》

 

「その通り。おそらくグレンダンに応援を求める。グレンダンに送られる手紙にはこう書かれるだろう。

『廃貴族の暴走により、確保に失敗した』と」

 

《まさか汝の徹底的に叩き潰したい相手とは……》

 

「察しの通り、グレンダンの女王だ。あいつだけは、死んだ方がマシだと思うような地獄を味わわせてやる」

 

《暴走したと教えることで、我を使いこなしていないように見せかけるわけか》

 

「そうだ。第三者から暴走したと伝えられることにより、信憑性も増す」

 

《そう上手くいくのか?》

 

「……何か勘違いしているようだな」

 

 ルシフは廃貴族の方に顔を向ける。

 

「俺にとってはグレンダンの女王が信じようが信じまいがどっちでもいい。そうなった時点で俺の勝ちが確定しているのだからな」

 

 廃貴族は黄金の粒子に変わり、ルシフの身体に吸い込まれていく。

 

《……それにしても》

 

 ルシフの中から廃貴族の声が響いた。

 

《我が汝の言葉を聞かず、事が終わった後も汝の身体を乗っ取り続けるとは考えなかったのか》

 

 自分の身体を完全にあけわたす。

 それは一歩間違えば、廃貴族に身体を奪われる危険があった。

 一度完全に身体のコントロールを奪われれば、それを取り返すのはルシフでも容易ではない。

 それは力ではなく精神力の問題になるからだ。

 

「なんだ、そんなことか」

 

 ルシフは大して気にもしない様子でそう言った。

 

「お前は俺を選んだ。ただの『器』ではない、存分に力を発揮出来る『器』を。ならば、乗っ取るなど考える筈もない」

 

 ──この男は我を信じたのか。

 

 廃貴族の中に、言い知れぬ感情が渦巻く。

 おそらく人間の感情に当てはめるなら困惑という感情が一番近いだろう。

 この男は初めて会った頃から、我を『道具』、『ただの力』として見ない。

 そう見ているなら、我に乗っ取らせるなど考えられる筈がない。

 そんな回りくどいことをせず、乗っ取られたように見せかけるだけで目的は果たせるのだから。乗っ取られるリスクをわざわざ冒す意味がない。

 

 ──変わり者だな、やはり。

 

 廃貴族は胸中で呟いた。

 

 

 それからしばらくして、野戦グラウンドの出入り口が見えた。

 出入り口付近にはマイがいる。

 マイはルシフの姿に気付くと、ツインテールを揺らしてルシフの方に駆け寄ってきた。

 

「こんにちは、ルシフ様。早く中に入りましょ!」

 

「ああ、そうだな」

 

 ルシフは野戦グラウンドの観客席がある方に歩を進めた。その後ろをマイがついてくる。

 第十七小隊と第十小隊の対抗試合はあと五分もしない内に始まる。

 そのためか、観客席は全て埋まっていた。

 

「席、空いてませんね」

 

 マイはキョロキョロと周りを見渡す。

 ルシフは最上段の観客席の後ろに立った。

 

「たまには立ち見でもいいだろう」

 

「そうですね」

 

 マイはルシフの隣に立ち、グラウンドを見下ろした。

 すでに第十小隊と第十七小隊は初期配置の状態で睨み合っている。

 そして、試合開始のサイレンが野戦グラウンドに鳴り響いた。



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第28話 友

 ニーナは一直線に飛び出した。

 グラウンド内に罠は仕掛けられていない。

 一騎打ちの邪魔になりそうなものは全てグラウンドから排除されている。

 向かいから、ディンが先端に(おもり)が付いた複数のワイヤーを周囲に漂わせて突っ込んでくる姿が見えた。

 周囲に他の隊員はいない。

 どうやらルシフの勝負に乗ったらしい。

 全員レイフォンやシャーニッドをターゲットにしているようだ。

 そんなことを考えていたら、いつの間にかディンのワイヤーの距離に入ったらしい。

 ディンのワイヤーが生き物のようにうねり、複数のワイヤーがそれぞれ別方向から襲いかかってくる。

 

「レストレーション」

 

 ニーナの両手に鉄鞭が握られる。

 両手に持つ鉄鞭で自分の進行方向の邪魔をするワイヤーを弾き飛ばし、ディンの懐に潜り込む。

 目を見開いたディンの顔が間近に迫った。ニーナは身体をひねり、右足での廻し蹴りでディンを後ろに蹴り飛ばす。

 

「ぐっ」

 

 小さく呻き声を漏らし、ディンはグラウンドに後ろから倒れた。蹴られた勢いはそれだけで殺せず、そのまま数メートル地面を滑る。

 ディンは跳び上がって体勢を立て直し、ニーナを見る。その表情に戸惑いの色が含まれた。

 

「こんなにも容易く一撃当てられるとは……。ニーナ・アントーク! 一体何をした! まさか貴様も──」

 

「お前とわたしを一緒にするな!」

 

 ニーナが再びディンに肉薄。右手の鉄鞭でディンの横腹を狙う。

 ディンは咄嗟にワイヤーを編んで鉄鞭を受け止めた。そのまま流す。ニーナの鉄鞭の軌道が斜め上の方に変わった。

 ディンは安堵の息をつこうとして、目の前のニーナが微かに笑ったのを見た。

 直後、ディンの横腹にニーナの右足がめり込んだ。

 ディンの身体が真横に吹き飛ぶ。

 ディンは地面をごろごろ転がった。

 

「な、なんだと……こんな、バカなッ!」

 

 ニーナが当たり前のように足技を使うところを、ディンは初めて見た。

 

「……ディン、わたしに勝ちたいんだろう? なら、もっと死に物狂いでかかってこないと、わたしには勝てないぞ!」

 

「調子に乗るな!」

 

 ディンが複数のワイヤーでニーナに猛攻撃をかける。

 そのことごとくが、ニーナの軽やかな動きにかわされる。

 かわしながら、ニーナはディンに向かって前進する。

 数秒後には、ディンの目の前にニーナが立っていた。

 

「な、なんなんだ貴様は! なぜアレ無しでその動きが──がはッ!」

 

 ニーナが右手の鉄鞭でディンの腹を突いた。

 ディンの身体がくの字に曲がる。

 ニーナが身体を半回転させ、もう一方の鉄鞭を下から振り上げた。それがディンの顎にクリーンヒット。

 ディンの身体は宙を舞った。

 ニーナは跳び、宙に舞っているディンに右の鉄鞭を振るう。

 ディンは地面に叩きつけられた。

 ニーナは更に追撃。

 ディンの腹部に一回転しながらかかと落としをする。

 

「ぐぅ……!」

 

 ディンの口から苦悶の声が出る。

 ディンは全てのワイヤーを操り、自分の上にいるニーナ目掛けて一斉攻撃を仕掛けた。

 ニーナは後方に跳躍して回避。

 

「ごほっ、ごほっ……」

 

 ディンが咳き込みながらも、ゆっくりと立ち上がる。

 後方に跳んだニーナは、二本の鉄鞭をディンに向けていた。

 

「やはりか……」

 

 ニーナが静かに呟いた。

 内力系活剄の変化、旋剄でディンに瞬く間に接近。

 

「ディン。今日は違法酒、飲んでないな?」

 

 耳元で囁かれたニーナの言葉に、ディンは目を見開く。

 ディンの脳裏に、対抗試合が始まる前に隊員たちと話し合った時のことがよぎった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 対抗試合が始まる直前、ディンは違法酒を片手に悩んでいた。

 周囲にいる第十小隊の隊員たちは訝しげにディンを見ている。

 

「隊長、早くディジーを飲みましょう。数時間後には試合です」

 

「……ああ、そうなんだが……」

 

 ディンは違法酒の栓を開け、口元に近付ける。

 

『今、俺はニーナ・アントークを鍛えている。お前よりずっと弱い武芸者だ』

 

『まだまだ貴様には伸び代がある』

 

 脳内に脅してきた時のルシフの声が甦る。

 そこで、違法酒を飲もうとする手が止まる。

 違法酒は強くなるためではなく、勝つために飲むのだ。

 違法酒には副作用がある。

 飲む回数を増やせば増やすほど、武芸者としての命が失われる可能性が高くなる。

 そのことに怖気づいたわけではないが、無駄に命を危険に晒す必要はないんじゃないかと考えてしまう。

 弱い相手に何故、リスクをとる必要があるのか。

 

「……お前たち、今日はディジー抜きで対抗試合に臨む。第十七小隊の人数はルシフを除いた四人。俺たちは七人。十分に勝算はある。

それに俺たちは守り手だ。隊長のニーナ・アントークを戦闘不能にすれば、俺たちの勝利。俺があんな卑怯者に負けるものか」

 

「……本当にそれでいいのか?」

 

 隊員の一人が尋ねる。

 ディンは静かに頷いた。

 

「分かった」

 

 そう言った隊員の顔は、少し嬉しそうだった。いや、他の隊員たちの顔にも笑みがこぼれていた。

 ディンは首を傾げる。

 

 ──こいつらは一体何を嬉しそうにしている?

 

 しかしその疑問は一瞬で霧散し、ディンは錬金鋼に視線を落とす。

 

 ──俺がこの都市を守る。この都市を守るのは俺でなくてはならない。絶対に!

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ディンはワイヤーを握る手を離し、眼前のニーナに殴りかかった。

 予想外の行動だったのか、ニーナは微かに眉を動かす。ニーナが金剛剄を使用し、その拳を受け止めた。

 ニーナの死角から、一本のワイヤーが飛んでくる。

 ニーナが横に跳ぶように移動し、ワイヤーを回避。

 ディンは踏み込み、ニーナに追いすがってワイヤーを放つ。

 ニーナが紙一重でよけた。

 ディンは手に持つワイヤーを力の限り握りしめる。

 

「俺は負けん! 負けてたまるか! 貴様のような卑怯者に!」

 

 ワイヤーによる変幻自在の攻撃。

 ニーナは最小限の動きで回避。そのまま、ディンの方に駆けてくる。

 

 ──ふざけるな! 勝つ! 必ずこいつに! 勝つ!

 

 ディンの中の全神経がニーナに集中していく。

 その時、不思議なことが起きた。

 少なくとも、ディンはそう思った。

 自分の中を流れる剄が、爆発的に増大したような気がした。

 ディンはその感覚のままに複数のワイヤーを繰り出した。

 ニーナ目掛けて鋭く飛んでいく複数のワイヤー。ニーナは少し驚いた表情をしたが、右頬に傷を作りながらなんとかよけた。

 その瞬間、時間差で放たれたワイヤーがニーナの横腹に突き刺さった。

 

「くっ……」

 

 しかし、金剛剄で防いだため、ダメージはそんなにない。

 ニーナの視線が一瞬横腹に突き刺さったワイヤーを捉える。

 そして、再び視線をディンに戻そうとして、ニーナの身体が後方に吹き飛んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 ディンが息を荒くして、呆然と吹き飛んだニーナを見ている。

 ディンは自身の剄の全てを込めた右足の蹴りを、ニーナに叩き込んだ。

 今までワイヤーでの攻撃と防御しか考えてなかった自分に、新しい可能性が見えた気がしたのだ。

 

「……今のはなかなか効いたぞ、ディン。アレ無しでも、それだけ戦えるじゃないか」

 

 ニーナが立ち上がり、鉄鞭をディンに向けた。

 

「……黙れ」

 

 ディンがそう吐き捨てた刹那、ニーナがディンに旋剄で近付き、鉄鞭を振るった。

 ディンの身体はふわりと浮かび上がり、ディンはそのままグラウンドに叩きつけられた。

 ディンは身体を震わせてグラウンドに倒れている。最後の一撃にディンは全てを賭けたため、もう起き上がる余力すらないのだ。

 この瞬間、ニーナの勝ちが決定した。

 この後、予定では第十小隊の違法酒を飲んだ面々にレイフォンが剣で封心突を使い、神経系にダメージを与える段取りだった。

 しかし、今の試合で彼らは違法酒を使用していなかったため、とりあえずそれは中断し対抗試合を普通に戦うことにした。

 結果として、第十七小隊が勝利。

 試合終了のサイレンが、野戦グラウンド中に鳴り響く。

 これで対抗試合は終わり──。

 

「試合しゅぅぅりょおおおお! 第十七小隊が見事勝利を収めました! 見応えのあった両隊長の一騎打──ち、ちょっと! 誰だ! 僕のマイク取ったや……つ……は……ル、ルシフ・ディ・アシェナ!? ひ、ひぃぃぃぃぃぃ!」

 

「この場にいる全員に、伝えたいことがある」

 

 野戦グラウンドのスピーカーからルシフの声が聞こえてきた。

 まさかルシフの奴、あの事をこの場で暴露する気か、と事情を知っている全員が思い、顔から血の気が引いた。

 そんなことをすれば、更に武芸科とそれ以外の科の溝が深まる。

 

「今、対抗試合をした第十小隊は違法酒を密輸し、前の対抗試合まで違法酒を使用していた」

 

 事情を知っている全員が頭を抱えた。

 野戦グラウンドがしんと静まりかえる。

 

「ふ、ふざけんじゃねええええええ!」

 

 数秒後、野戦グラウンドを怒号が埋め尽くした。

 

「この大切な時期に違法酒!? 武芸大会そのものが不戦敗になったらどう責任取るんだ!」

「やっぱり武芸科は腕っぷしばかりで頭が弱いわね! 本末転倒じゃないの!」

「そいつらだけじゃねぇ! 武芸科の奴らが好き勝手やるのを止められなかった武芸長、生徒会長も問題あるだろ!」

「武芸科は本当に今のツェルニの状況分かってるの!? 余計なことしないでよ!」

 

 等々、野戦グラウンドの観客席にいる生徒の声が絶えない。

 

「静かにしろ!」

 

 スピーカーから強烈なルシフの一喝。

 野戦グラウンドは水を打ったように静まった。

 

「確かに違法酒は違法だから違法酒と呼ばれる。当然ツェルニでも違法。だが、貴様らのそういう態度が、あいつらに違法酒という選択をさせた」

 

 前の武芸大会でツェルニは敗北し、セルニウム鉱山を一つ失った。

 ツェルニが所持するセルニウム鉱山は残り一つ。次の武芸大会で敗北すれば、ツェルニは補給できなくなり死ぬ。

 だからこそ、武芸大会に出る武芸科の生徒は、武芸科以外の人間からプレッシャーがあった。武芸大会に負けたのをネタに、武芸科を糾弾する輩も少なからず存在していた。

 

「違法酒を飲んだ八割以上の武芸者は、武芸者として使い物にならなくなる。そんな危険を冒してまで、第十小隊の連中は違法酒を飲んだ。

違法酒を飲むのにどれだけ覚悟が必要だったか、貴様らに想像つくか?」

 

 第十小隊の面々は俯いた。身体を震わせている者もいる。

 彼らは違法酒の恐ろしさを身を持ってよく理解している。

 

「だ、だからと言って違法酒の使用が正当化されるわけじゃない!」

 

「その通り。第十小隊もそれに気付いた。だから、今の試合で違法酒を飲まなかった。そうだな? レイフォン・アルセイフ」

 

「え、僕!? た、確かに彼らの纏う剄は違法酒の影響を受けていなかった。違法酒を飲んでいたら剄を制御できなくなるから、今も彼らの身体から剄が漏れだしてないとおかしい」

 

 レイフォンのところに一枚の六角形の念威端子が近付く。

 レイフォンは戸惑いつつも、念威端子に答えた。

 観客席の生徒たちがざわついている。

 

「分かったか? 第十小隊は違法酒が間違っていると都市警に捕まる前に気付いた。これからはそんなものに頼らず、正しいやり方で力を付けていくと彼らは決意したのだ」

 

 ディンが上半身を両肘をついて起こす。「それは違う!」とディンは叫びたかった。

 今回彼らが違法酒を使用しなかった理由は間違いに気付いたからではない。

 単純に相手が違法酒を飲まなくても勝てるくらい弱いと考えていたからだ。

 それをルシフは更正したから違法酒を飲まなかったと周りに思わせようとしている。

 

「違法酒の使用と密輸は、ツェルニの法では即退学処分。法で裁くなら、第十小隊の面々はツェルニを出ていくことになる。

自らの身体を犠牲にしてまで武芸大会に勝とうとした強い意思を持つ武芸者を、ツェルニを死ぬ気で守ろうとした武芸者を、このまま退学処分にしていいのか? それはツェルニにとって損失じゃないのか?」

 

 ルシフの言葉に、野戦グラウンドが再び静まった。

 それから数秒後、野戦グラウンドは生徒たちの声で揺れた。

 

「第十小隊! そこまでお前らが追いつめられていると知らずに、今まで酷いことを言ってすまなかった!」

「俺たちもツェルニを守るために必死に戦う! だから、お前らだけで背負いこまなくていい! 俺たちと共にツェルニを守ろう!」

「これからは違法酒なんざ絶対使うんじゃねぇぞ! もっと俺たちを信じろ! ツェルニを何がなんでも守りたいのはお前らだけじゃねぇんだ!」

 

 ディンは目を見開いた。

 俺がツェルニを守らなければ駄目だと思っていた。

 シャーニッドが俺たちの前から去り、俺自身の力しか信用できるものはないと思っていた。

 他の武芸科の奴らは、俺たちよりツェルニを守りたい気持ちが弱いと思っていた。

 しかし、そんなことはなかった。

 冷静に考えれば当たり前だ。

 自分たちが住んでいる都市を守りたくない者などいないだろう。

 俺だけじゃない、誰もが俺と同じ思いを持っていたのだ。

 それに、ニーナ・アントークと戦った時、違法酒を使用しなくてももっと自分が強くなれる可能性を感じた。

 結局ニーナ・アントークの言った通り、俺は違法酒という容易く手に入る力に逃げていただけだったんだ。

 ディンの元に、一枚の六角形の念威端子が飛んでくる。

 

『あとはお前次第だ』

 

 念威端子から微かにルシフの声が聞こえてきた。

 ディンは念威端子を凝視する。

 わざわざニーナと一騎打ちをさせた理由。

 ニーナを弱い武芸者と言った理由。

 俺に伸び代があると言った理由。

 それら全ての点が一本の線で繋がった。

 全ては、違法酒を飲まずにニーナと戦うという選択肢を選ばせるため。

 ルシフがいた実況席の方を、ディンは活剄で視力を強化して見た。

 ルシフは立ち上がって、野戦グラウンドの観客席の方を歩いている。野戦グラウンドから出ていくつもりだろう。

 ディンは隣を見た。

 ダルシェナが目に涙を溜めていた。

 

『ディン、お前はなんでも抱え込み過ぎだ。深呼吸して、周りを見てみろよ。きっと違うもんが見えると思うぜ』

 

 不意に、シャーニッドに言われた言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 ──ああ、そうか。俺は大切なものが何一つとして見えていなかったのか。

 

 ディンはゆっくりと息を吸い込んだ。

 そして、今の思いを力強く念威端子にぶつける。

 

「違法酒を使用して、みんなに迷惑をかけてすまなかった! 許してもらえるかどうかは分からんが、もし許してもらえるなら、これからは真っ当なやり方でツェルニを守りたいと思う! 俺が──じゃない、ツェルニに住む仲間たち全員で!」

 

 実況席のマイク付近に浮かんでいる別の念威端子にディンの声が伝わり、マイクを通して野戦グラウンド中にディンの声が響いた。

 ディンの言葉を聞いた生徒たちの歓声が、ディンを包みこむ。 

 ディンはゆっくりと息を吐き出し、隣にいるダルシェナを再び見た。

 

「……シェーナ、今まで心配かけて悪かった」

 

 ダルシェナの瞳がこの上なく見開かれる。

 その後、ダルシェナは視線を下に持っていき、地面についているディンの右手を包みこむようにそっと自身の両手を重ねた。

 ダルシェナは両目から涙を溢れさせつつ、ディンに優しく微笑んで小さく首を横に振る。

 それを見たディンの顔にも笑みが生まれた。

 

 

 お互いの手を重ね合わせている二人の姿を、遠目から嬉しそうに眺めている人物がいた。

 

「……ったく、あのヤロォ、はなっからこの絵が見えてやがったな」

 

 ルシフはこうなるのが分かっていて、ディンに勝負を持ちかけたのは疑いようのない事実だった。

 誰もがディンを救えないと諦め切り捨てようとしていた中、ルシフだけがディンを救うのを諦めていなかった。

 

「まったく、ルシフにも困ったものだ。『遊び』だの『暇潰し』など、そんな誤解を生む言い方をせずに、ディンたちを助ける策があると言えば良かったものを」

 

 ニーナがシャーニッドの隣で呟いた。

 

「ルシフのやつ、違法酒の責任をツェルニ全員に押し付けやがった。他にもディンの性格を考慮して、違法酒を飲まないよう言葉巧みにディンを操り、第十小隊が更正したように周りに思わせた。

ホントにどんだけだよ、あいつは! 何より気に入らねぇのは当然のような顔をしてディンたちを助けたことだ。人助けをしても、その行為に一切見返りを求めねぇ。くそっ、かっけぇじゃねぇか」

 

 本気で悔しがっているシャーニッドの様子がおかしくて、ニーナが吹き出した。

 

「ふふっ、それよりもだシャーニッド。お前はさっきルシフにはあの絵が見えていたと言ったな」

 

「ああ」

 

 シャーニッドの視線の先にはディンとダルシェナがいる。

 

「きっとまだ絵は完成していないぞ」

 

 シャーニッドの背を、ニーナが軽く押した。

 

「おわっ! いきなり何すんだ」

 

「行ってこいシャーニッド。あの二人のところに。きっとディンとダルシェナもそれを望んでいる」

 

 ニーナが再びシャーニッドの背を押した。今度は力強く。

 シャーニッドは前につんのめりながら前進し、ディンとダルシェナの前で体勢を立て直した。

 

「……シャーニッド」

 

 ディンがシャーニッドの方に顔を向けた。

 

「……すぐ熱くなりすぎなんだよ、タコ頭が」

 

「何だと!? もう一度言ってみろ!」

 

「あーあー、そんなに怒るなよ。タコっぷりに磨きがかかってるぜ」

 

「……ぐっ! この……!」

 

「……ぷ、あはははははは」

 

 ダルシェナが口元を手で隠して笑う。

 ディンとシャーニッドは顔を見合わせ、二人もダルシェナにつられたように笑った。第十小隊に入隊し、三人で笑い合っていた頃のように──。

 

 

 その後、ディンは隊員たちと共に違法酒を持って都市警に出頭。

 生徒会長のカリアンは違法酒の密輸と違法酒の使用に関しての罰として、現第十小隊の解散を指示。

 ディンはそれを快く承諾した。第十小隊は彼にとってかけがいのないものだった筈だが、彼は憑き物が落ちたような晴れやかな表情をしていたらしい。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 対抗試合があった日の夜。

 ディンとダルシェナはルシフの部屋を訪れていた。

 二人は茶色の椅子に座り、二人の前にあるテーブルには緑茶が入った紙コップが置かれている。

 

「なんの用だ? そもそも、よく俺の部屋が分かったな」

 

「……その、マイに聞いた。用があるわけじゃないが、お前はディンを助けてくれたから、礼を言っておきたいと思ったんだ」

 

「助けた? 礼? 何を勘違いしてるか知らんが、俺は勝負に勝ったから、約束通り違法酒のことを私見を交えてバラしただけだ。それのどこに助けた要素がある?」

 

「お前が助けたつもりはなくとも、俺は助けられたと感じた。だから、お前がどう思っていようが、お前に感謝する。本当に助かった。ありがとう」

 

「……ふん」

 

 ルシフはそっぽを向いた。

 自分の前にあるコップを手に取り、一気に飲み干す。

 飲み干した後、コップを静かにテーブルの上に置いた。

 

「……ディン・ディー。一つ聞くが、この世界から都市間戦争を無くせるとしたら、どうする?」

 

「……都市間戦争を無くす? そんなことできるわけがない!」

 

 セルニウム鉱山は自律型移動都市(レギオス)にとって必須のエネルギー補給場所。

 セルニウム鉱山の数が決まっている以上、奪い合いになるのは仕方ない。

 これがこの世界の人間にとって当たり前の考え。

 頭から信じないのも当然と言えよう。

 

「可能か不可能かは置いといて──だ。 もしそれが可能だったならどうするか? と聞いている」

 

「そんなもの決まっている! 俺のような人間を増やさないためにも、俺は都市間戦争を無くすために全力を尽くす!」

 

 今回のことで、ディンは身をもって知った。

 都市間戦争がもたらす恐怖。負ければ都市を失うという極限状態が、どれだけ人の視野を狭くし狂わせるのかということを。

 ルシフはディンの答えを聞き、満足そうな表情になった。

 

「俺には都市間戦争を無くす方法が分かっているし、その方法を実現させるためにずっと前から動いている。

ディン・ディー。お前が都市間戦争を無くしたいと思うなら、この俺に力を貸してくれないか?」

 

「本当にできるのか?」

 

 ディンとダルシェナが信じられないといった表情でルシフを見ている。

 

「できる。ただ、一つだけ覚悟してもらいたい。俺の都市間戦争を無くす方法は、世界中の人間から悪魔だの鬼だの罵られる、外道極まりない方法。お前が世界中を敵に回す覚悟、地獄に身を置く覚悟ができないなら、お前は必要ない」

 

「……いいだろう。俺は一度破滅しかけた身だ。大したこともできんちっぽけな力ではあるが、俺が協力することで少しでも都市間戦争を無くせる可能性が上がるなら、俺はお前に力を貸そう」

 

「──ダメだ!」

 

 ダルシェナが勢い良く椅子から立ち上がった。

 

「……シェーナ、いきなりどうしたんだ?」

 

「ディン、この男だけは信用してはいけない。この男は平気な顔をして父親を死に追いやったんだ! それも、傍から見ても我が子を大事にしていると分かるほど良い父親を! それだけじゃない! ルシフの父親は弱い人や困っている人に進んで手を差しのべる、とても素晴らしい人だった。そんな人を、こいつは!」

 

「……ホントか?」

 

「……確かに、俺が殺したようなものだな」

 

「父親が嫌いだったのか?」

 

「いや、好きだったが」

 

「なら、何故?」

 

「……一言で言えば、俺の思い描く世界には不要の存在だったから、だな。

俺を信じられないなら、別にそれでもいい。無理強いするつもりもない」

 

 ディンはしばらく顎に指を当てて考え込んでいた。

 数分後、ディンは結論が出たらしく、ルシフを見据えて口を開く。

 

「……お前がいなかったら、俺は今でも違法酒に手を出していただろう。お前のお陰で今の俺がある。俺をゴミみたいに扱おうが、俺はそれを受け入れる。

それに、お前が並外れた人物でないのは今回の件で十分に理解した。だから、都市間戦争を無くすなんて夢物語だと思う一方で、もしかしたらと思ってしまう。多分、俺はお前が何をやろうとしているか近くで見たいんだ」

 

「ディン!」

 

 ダルシェナが悲痛な面持ちで叫んだ。

 ディンはダルシェナに視線を向ける。

 

「シェーナ、お前はルシフを嫌っているようだから、俺に付き合わなくていい」

 

「……ディン、私はディンを支えるとずっと前から決めている。だから、ディンがルシフに協力するなら、私も協力しよう。

ルシフ、イアハイムの王の娘とか関係なく、私を好きなように使ってくれていい。お前のことは気に入らないが、恩もある。ただし、ディンを痛めつけたら許さないからな」

 

 ダルシェナがルシフを睨みつけた。

 

「そんなことはしない。今この瞬間から、お前たちは俺の同志なのだから。

ディン、ダルシェナ。これからよろしくな」

 

 ルシフはいつもの威圧的な笑みではなく、無邪気な少年のような笑みを浮かべた。

 それを直視した破壊力は、異性のダルシェナだけでなく、同性のディンすら顔を赤くするほどの破壊力だった。

 

「お、俺はこれで失礼する!」

 

「わ、私もだ! 夜に訪ねて悪かった」

 

 二人は慌てて椅子から立ち上がり、ルシフの部屋から出ていった。

 ルシフ一人になった部屋。

 ルシフは椅子に座り、最近買った小説を読み始める。

 そんなルシフの正面に、廃貴族が顕現した。

 

「なんだ?」

 

 本から目を逸らさず、ルシフが言った。

 

《本気か? 都市間戦争は創世以来の理。無くせる筈がない》

 

「無くせるかどうかじゃない。無くすんだよ。どんな手を使っても。だが、俺一人の力では不可能。お前の力が必要だ、廃貴族」

 

《……我はすでに汝の力ではないか》

 

「違う。お前はただ宿主が望んだから望むだけの力を貸しているに過ぎない。お前自身の意思で、俺に力を貸したいという気持ちがない」

 

《我は道具。道具に感情などない》

 

「なら何故、廃都市で死んだ奴らの墓を作った?」

 

《…………気付いていたのか》

 

「廃都市を探索した時、死体どころか肉片の欠片すら見当たらなかった。誰かが片付けなければ、そんな状態にはならない。そして、片付けた可能性のあるものはお前しかいない」

 

 廃貴族はじっとルシフを見ている。

 ルシフは読んでいた本を畳み、テーブルの上に置いた。

 

「お前のイグナシスとやらへの憎悪と怒り。イグナシスが汚染獣に関わるものだとはなんとなく理解できる。

だが、そもそも何故お前はそれ程までにイグナシスを憎む? その答えは廃都市がお前の都市で、そこに住んでいた住民を愛していたからだ。だから、その住民の命を奪ったイグナシスに関わるものが許せない」

 

 ずっと無表情だった廃貴族の表情が、少し変化した。人間の表情で例えるなら、はっとした表情にみえる。

 

「お前がイグナシスを滅ぼしたい理由。それは、死んでいった都市民の復讐。だが、もういいだろう」

 

《……何?》

 

「俺は都市間戦争を無くすつもりだ。それと同時にお前が憎むイグナシスとやらも滅ぼそう。死んでいった者たちのためではない。今を生きる者たちのために。

お前も、死んだ者たちのためではなく、この先を生きる者たちのために、その力を振るえ。

お前は優しすぎるがゆえに、大切なことが見えていない」

 

 廃貴族はルシフの顔をじっと見つめる。

 

《……メルニスク》

 

「……は?」

 

《我の名だ。汝は知りたがっていただろう?》

 

 それを聞いて、ルシフは本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。

 

「そうか。メルニスク……メルニスクか」

 

《我は力。だがルシフよ。汝が我に心を望むなら、お前の傍らにいる間は心を持とう。今生きる者のために力を振るおう。主の命ゆえに》

 

 ルシフはメルニスクの頭に手を置き、動物を撫でるように撫でた。

 メルニスクは驚いたようにルシフを見ている。

 

「……俺は誰よりも先を歩き、人類を導く『王』。故に、誰一人として、俺の隣を歩くことは許さない。だが、メルニスク。お前だけは、俺の隣を歩くことを許そう。俺の理想を実現するための力としてではなく、俺と同じ理想を追い求める友として。だから、これから俺を主と呼ぶな。お前に命令はせん」

 

 メルニスクは自分を友と呼んだ男をまじまじと見つめる。

 平気な顔で人を騙し、人を痛めつけ、他人の心など一切考えない。

 その一方で、他人を助けるために動く。

 

 ──外側は誰よりも歪んでいる。だが、その内にある芯は誰よりも真っ直ぐ……か。

 

 だから、こんなにも人を惹き付け、人外である我の心すら動かすのか。

 

 

 この時から、ルシフとメルニスクは主従の関係ではなく、対等の関係になった。ルシフにとっては唯一の──。

 

「メルニスク。ずっと同じことを繰り返す、停滞しきった世界の時を、共に動かそう」

 

 だからこそ、ルシフは心からの笑みを、メルニスクに送った。




……おや!?メルニスクのようすが……!

しんかさせますか?

>しんかさせる。

 しんかさせない。

おめでとう!メルニスクはデレニスクにしんかした!


てなわけで、原作4巻終了です。


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原作5巻 エモーショナル・ハウス
第29話 教員到着


 一台の放浪バスが荒れ果てた大地を進んでいる。

 その放浪バスは誰もが一目で異常だと感じる、ある特徴があった。

 それは、車体全体が返り血でも浴びたように真っ赤なこと。

 あまりにも怪しい外観のため、都市の停留所に止まっていても誰も近付いてこないだろう。

 そんな放浪バスだが、乗客は案外普通だったりする。

 乗客は男性三名、女性二名。

 

「……ツェルニはまだか」

 

 燃えるように赤い髪をポニーテールにした女性が、膝を小刻みに動かしている。彼女の服装は動きやすさを重視したジーンズにラフなTシャツ。その右腕には黒色の布が巻かれていた。

 

「あの赤髪の方、今のセリフ何回目ですの?」

 

 胸辺りまである銀髪をストレートロングにしている女性が、髪をかきあげながら呟いた。白のブラウスに黒のストレートパンツを着て、ブラウスのボタンをきっちり留めてブラウスの中に形よく張った胸を仕舞いこんでいる。彼女の右腕には銀色の布。

 

「今ので千百九十三回目ですね」

 

 黒髪を肩まで伸ばした男性が、読んでいる本から目を逸らさずに女性の呟きに答えた。明るい色のカーディガンとグレーのパンツを着ている。彼の右腕には青藍色の布。

 

「千百九十三回!? そんなつまらないことをいちいち数えて、あなたもお暇ですこと」

 

「あなたはそのナチュラルに喧嘩売る性格、直した方がよろしいかと」

 

「私は思ったことをそのまま口に出しているだけですわ。

はぁ……あなたはともかく、あの赤髪の方は本当に鬱陶しいですわね。数分おきに同じことばかり言って……記憶障害かしら? 良い医者を紹介してさしあげましょうか?」

 

「結構だ」

 

「あら、会話できる知能はまだあるみたいですわ」

 

「お前ら、本当に仲悪いな」

 

 短めの茶髪を立たせた男性が呆れたように軽く息をついた。黒のTシャツに青色のズボンをはいている。彼の右腕には明るい黄色の布。

 銀髪の女性は当然男性の言葉に噛みつく。

 

「同じ剣狼隊だからといって仲良くする必要はありませんもの。私は愛しのルシフ様にお力添えできるだけで満足ですわ」

 

「あなたの力なんて、あの子にはいらないぞ」

 

 銀髪の女性はうんざりしたように、頭を右手で軽く押さえた。

 

「……本当、いい加減にしてもらえないかしら? その空っぽの頭撃ち抜きたくなってきましたわ」

 

「私も、あなたのあの子に対する接し方は気に入らなかったところだ。あの子の姉として、あなたを教育しよう」

 

「自称姉でしょう! そんなだからルシフ様に嫌われるのよ!」

 

「嫌われてない。照れ隠しに決まっている」

 

「……ルシフ様がイアハイムを出発した日。ルシフ様があなたを錬金鋼(ダイト)の鎖でぐるぐる巻きにして宿舎の柱に縛りつけた。

それが照れ隠しだって、あなたはおっしゃるの?」

 

「当然だ。きつく縛りつけながらも、少し動ける余裕がある。その絶妙な縛り加減に私は愛を感じた」

 

「死ね! あら、私としたことがつい低俗な言葉を……あなたの近くにいると、私の品格まであなたと同列になってしまうようですわね」

 

「……良かったな。それで少しは友人ができるぞ」

 

「……」

 

 二人とも自らの錬金鋼に手をかけた。

 放浪バス内に殺気が充満し、緊張が高まっていく。

 

「──そこまでだ、お嬢さんたち」

 

 運転席に座っている口の周りと顎に髭を生やした男性が、正面を向いたままそう口にした。革のジャケットを羽織り、薄茶色のズボンを着ている。彼の右腕には緑色の布。

 錬金鋼に手を触れさせて睨み合っている女性二人はその言葉で一時休戦し、運転席の方を見る。

 

「どうやらツェルニが近いみてぇだぜ。お出迎えも見えらぁ」

 

 運転席に座っている男性以外の全員が、その『お出迎え』を見ようと近くの窓から外に視線を向ける。

 六角形の念威端子が数枚飛んでいるのが見えた。見えている念威端子を全て足すと十枚程度になる。どうやら放浪バスを囲むように飛んでいるようだ。

 

「……ちっ」

 

 それを見た女性二人は不愉快そうに顔を歪め、同じタイミングで舌打ちした。

 放浪バスのフロントガラスからは、地を揺らしながら移動し続ける都市の姿が見えてきた。

 

『……ちっ』

 

 念威端子から聞こえた舌打ちの音は、放浪バス内にいる彼らの耳には届かない。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 マイ・キリーは自室のベッドに腰掛け、復元済みの重晶錬金鋼(バーライドダイト)の杖を右手に持っている。

 

(あの真っ赤な放浪バス……あれは間違いなく剣狼隊専用の放浪バス。ということは、ついに来ましたか)

 

 マイは深くため息をついた。

 チラッとしかバスの内部を見なかったが、剣狼隊の中でも特に嫌いな女性二人の顔が見えた。

 あの女性二人は自分を嫌っている。自分があの二人を嫌っているのと同じように。

 お互いに嫌い合っている原因はただ一つ、ルシフ様からのご厚意に対する嫉妬。

 ルシフは基本的に差別しない。

 自分の役に立ったと思えば、どんな相手にもそれ相応の報酬と礼をする。

 それをあの女性二人は独り占めしたいのだ。自分以外の女にそれをしてほしくない。勿論私も、自分以外の女にルシフ様が優しくしているところなんて見たくない。

 それらが積み重なり、今現在、顔を見ただけで舌打ちしたくなるほど嫌い合っている。一年と約三ヶ月振りの再会だが、嫌いという感情が微塵も薄れていないことに、自分自身が一番驚いている。

 

(ルシフ様に伝えないと駄目だよね……ああ、私とルシフ様、二人だけで過ごす至福の時間が……)

 

 マイの両目から一筋の滴が流れた。

 マイは左腕で涙を拭い、錬金鋼に意識を集中する。

 

「ルシフ様、朝早くに申し訳ありまぜん。聞ごえまずか?」

 

『……ああ、聞こえる。どうした? 涙声になってるぞ?』

 

「すみません。久し振りにみんなの顔が見れたので、嬉しくなってつい涙が……。教員として呼んだ剣狼隊カラー1五名、もうすぐツェルニに到着します」

 

『連中は何で来ている?』

 

「剣狼隊専用の放浪バスです」

 

『良し! 分かった。すぐに停留所に向かう。よく伝えてくれた』

 

「いえ、当然のことをしたまでです。私も停留所に行っていいですか?」

 

『好きにしろ』

 

 そこでルシフの通信が切れた。

 マイはもう一度、深くため息をつく。

 それから外に出る服装に着替え、復元済みの錬金鋼の杖を再び右手に持つ。

 そして、マイは眼前に見える扉を開けて自室の外に出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 放浪バスの停留所。

 塗装していない、車体に使われた金属の色そのままの放浪バスが数台並んでいる中、一台だけ真っ赤な放浪バスが停まっている。おそらく誰もがその放浪バスに目がいくだろう。

 ルシフはその放浪バスにゆっくりとした足取りで近付いていく。ルシフの服装は黒のTシャツの上から白色の上着を着て、明るい茶色のズボンをはいている。

 ルシフの視線の先の放浪バスから五人の男女が次々に下りているのが見えた。

 

「……は?」

 

 その内の一人の横顔を見た瞬間、ルシフの口から思わず声が出た。

 ルシフの視線の先には、二十代くらいの赤髪の女性。

 赤髪の女性はルシフの方に顔を向けた。

 

「ルシフちゃああああん!!」

 

「うぐっ」

 

 赤髪の女性が、目にも止まらぬ速さでルシフにタックルのような抱擁をする。

 ルシフは後ろに倒れそうになるのをなんとか両足で支えた。

 

「あ゙い゙だがっだよ゙お゙お゙お゙お゙お゙」

 

「……フェイルス」

 

 ルシフは抱きつかれたまま、女性の肩越しに黒髪の男を見る。

 

「なんでしょう、マイ・ロード」

 

 フェイルスと呼ばれた男性が、胸に手を当てその場で膝をついた。

 

「貴様、頭の出来は良かったよな? 俺が送った手紙の内容を言ってみろ」

 

「無視しな゙い゙でえ゙え゙え゙え゙」

 

「ああ、鬱陶しい!」

 

 ルシフが赤髪の女性を掴み、後ろに放り投げる。

 女性はルシフの後方数十メートル先まで飛んでいった。

 

「……で、言ってみろ」

 

「学生を指導するため、イアハイムに待機しているカラー1の中から五名選んで、教員らしい服装を持って学園都市ツェルニに来い。なお、ヴォルゼー・エストラ。バーティン・フィアの二名はメンバーから除外……でしたよね?」

 

「その通り。素晴らしい記憶力だぞ」

 

「照れ゙な゙ぐでも゙い゙い゙の゙に゙い゙い゙い゙い゙」

 

「ぐっ」

 

 赤髪の女性が再びルシフの後方から勢いよく抱きついた。

 ルシフは下がった身体をなんとか起こし、左手の人差し指で自分の右肩に顎を乗せている女性を指差す。

 

「──で、フェイルス。こいつの名を言ってみろ」

 

「……バーティン・フィア」

 

 ルシフはバーティンを掴み、さっきよりも力を入れて後方に放り投げる。

 バーティンは弾丸となり、遥か後方に見える古びた建造物にぶつかった。土煙が古びた建造物を覆い隠す。

 

「おかしい──」

 

 ルシフが跪いているフェイルスの頭を右手で掴み──。

 

「──だろうが! この俺をバカにしているのか!?」

 

 地面に叩きつけた。

 フェイルスは額から血を流しながら顔を上げた。

 

「いえ、バカにしてなどおりません! ただ、バーティンさんがこれは照れ隠しで来ないでほしいと書いているだけで、ルシフ様の本音は自分を送ることだと主張されまして……私も、それがこの手紙の真意か! とバーティンさんの考えが正しいように感じてつい……。

ルシフ様は常に私の思考の更に上をいく方ですから、あえて逆が正解かと」

 

「そんなわけあるか! まったく貴様らは……。この分だと教員らしい服装も勘違いしている奴がいそうだな。全員、教員らしい服装として持ってきた服を見せてみろ」

 

 ルシフの言葉で、五人がそれぞれ鞄から服を取り出してルシフに見せる。

 茶髪の男性が持ってきた服を見た時、ルシフの額に青筋が浮かんだ。

 

「レオナルト! なんだその服は!? 教員らしい服装と書いただろう!」

 

 ルシフの視線が茶髪の男性を捉える。

 茶髪の男性──レオナルトは気まずそうに頭を掻いた。

 

「いや、俺は武芸しか教えられねぇから、動きやすい服でいいかと思ってだな、嫁もこの服装なら面白くなるって言ってたし」

 

「……あの女……確信犯か」

 

 ルシフの脳裏に泣いている女性の顔が浮かぶ。剣狼隊を除隊されるのは嫌だと必死に懇願してきた女性。

 ルシフはその光景を消し去り、レオナルトを見据える。

 

「いいか、レオナルト。まず貴様らをツェルニの全学生の前で教員として紹介する。その時、学生たちがそんな気の抜けた服装を見たらどう思う? 身だしなみすらしっかり出来ん奴が色々素晴らしい言葉を言ったとして、その言葉に一体どれだけの重さがある?

身だしなみは自身の格を決める。身だしなみに気を使わない奴は、それだけで格下に見られるんだよ。よく覚えておけ」

 

 レオナルトは腰を曲げ勢いよく頭を下げた。

 

「すまなかった大将! とんだドジをしちまって……」

 

 ルシフは軽く息をついた。

 

「……はぁ、俺について来いレオナルト。俺が教員らしい服を買ってやる」

 

 レオナルトは頭を上げた。嬉しそうな表情になる。

 

「大将、俺なんかのためにそんな──」

 

「勘違いするな。別に貴様のためじゃない。

貴様らを教員として呼んだのは俺だ。貴様がだらしないと、貴様を呼んだ俺まで低く見られる。それだけの話だ」

 

 ルシフの近くにいるバーティンが、その光景を凝視していた。

 バーティンは周囲をキョロキョロと見渡し、近くにあった石に足を躓かせ転ぶ。転んだ際に手に持っていた服が地面に落ちて砂まみれになった。

 

「わー、わたしのふくがー。これはたいへんだぞーがくせいたちのまえにでれないぞー」

 

 砂まみれの服を両手で持ちながら、チラチラとバーティンがルシフの方を見る。

 

「自分のミスぐらい自分で取り返せ」

 

 バーティンの必死なアピールを、ルシフは一蹴。

 バーティンに視線すら送らない。

 

「ぞん゙な゙あ゙あ゙あ゙あ゙、おがね゙な゙い゙よ゙お゙お゙お゙お゙お゙お゙」

 

 バーティンは涙目で顔を伏せた。

 ルシフは舌打ちして、心底めんどくさそうに左手で頭を掻く。

 

「分かった分かった。お前の服も買ってやる。その代わり、その分はしっかり働きで返せ」

 

 バーティンの顔がぱっと明るくなる。

 

「ありがとうルシフちゃん! だから好き! お姉ちゃんって呼んで!」

 

「誰が呼ぶか! ふざけるな!」

 

「そんな照れなくてもいいのよ?」

 

「照れてなど──! ……もういい。お前と話していると頭が痛くなる。だから来るなと書いたのに……」

 

 ルシフは右手で荒々しく頭を掻いた。

 

「……本当に恥知らずですわね、あの赤髪の方は……」

 

 銀髪の女性がルシフの隣に立った。女性は呆れた表情でバーティンを見ている。

 ルシフが銀髪の女性の方に顔を向けた。

 

「アストリットか……お前は比較的まともだから助かる」

 

 アストリットは優雅に一礼した後、ルシフの右手を取り右手の甲に口付けをする。

 

「アストリット・ズィーベンが、ルシフ様の元に馳せ参じました。微力ながら、これよりルシフ様にお力添えいたします」

 

 少し離れたところで今まで静観していたマイが、ルシフとアストリットに近付く。

 

「アストリットさん、もういいでしょう? ルシフ様のお手を離してください」

 

 アストリットがルシフの右手を離し、視線をマイの方に向ける。

 

「──あらマイちゃん。いらしたの?」

 

「ええ。さっきからずっと」

 

「ごめんなさい。気付きませんでしたわ」

 

「いいですよ別に謝らなくて。ですが、仮にも銃を扱う方が、そんなに視野が狭くていいんですか?」

 

 アストリットの眉がピクリと反応した。

 

「いやですわ。私、撃つべき敵を見逃したことはありませんわよ。あなたの方こそ、念威端子で事が済むところをわざわざここまで足を運んで……よっぽど自分の念威が信じられないんですわね」

 

 マイの目が据わり、アストリットを睨む。

 アストリットも負けじとマイを睨み返す。

 その間に髭を生やした中年の男性が入った。

 

「二人とも久しぶりの再会だってのに、久しぶりって感じが全然しないんだもんな。いや~、変わらないっていいもんだ」

 

 気の抜けた男性の声に二人とも毒気を抜かれたのか、二人はフンとそっぽを向いた。

 ルシフは中年の男性の方を見る。

 

「エリゴか。一番まともな奴もいて良かった」

 

「会いたかったぜ旦那~。はは、会ってそうそうとんだ災難でございましたな~」

 

「ああ、まったくその通り! 心労が分かる奴がいるだけで、少し気が晴れる」

 

「……旦那、バーティンを悪く思わんでやってくれ。バーティンの奴、旦那にずっと会えなくて寂しがってたんだ。少しぐらい甘えるの、許してやってもいいんじゃねぇですか?」

 

 ルシフがエリゴの顔を凝視する。

 

「あれが少し……だと?」

 

「確かに、あれは少しというレベルを超えてますな~。ははははははっ、でもいいじゃねぇですか。可愛い女からああも猛アプローチされる男なんざ、そうそういませんぜ?」

 

「なら代わってやろうか?」

 

 ルシフが常人であれば身体が動けなくなる程の威圧的な雰囲気でそう口にする。

 ルシフのそんな雰囲気をものともせず、エリゴは笑顔で自分の胸の前で右手を振って断った。

 

「いやいやいや、俺に旦那の代わりは荷が重すぎますわ。てか、誰もできねぇわな」

 

 ルシフはふっと笑い、威圧的な雰囲気を和らげる。

 

「この俺から敵意を受けても一切動じず──か。腕は鈍っていないようだな」

 

「旦那の方こそ、随分とまあお強くなられたようで……正直冷や汗が出るかと思いました。今の旦那なら、あのヴォルゼーにも勝てそうな気がしますわ」

 

「ヴォルゼーか……今の俺ならヴォルゼーすら相手にならんな、多分」

 

 多分と付け加える辺り、ヴォルゼーがルシフにとって得体の知れない相手だと分かる。

 ルシフの周囲に全員集まった。

 ルシフがマイ以外の全員の右腕に注目する。

 

「それより貴様ら……紹介の時にその右腕の布巻くなよ?」

 

「ええっ!?」

 

 バーティンとアストリットが残念そうな表情で同時に声をあげた。

 レオナルト、フェイルスは声を出していないが、少し不満気な表情をしている。

 

「まぁまぁ、紹介の時だけだしよ、紹介が終わった後にまた巻けばいいだろ。そうですよね、旦那?」

 

 エリゴはそんな四人をなだめながら、ルシフに訊いた。

 

「まぁ紹介が終わった後ならいいだろう」

 

 ルシフの言葉に、四人が安堵した表情になった。

 フェイルスがエリゴに頭を下げる。

 

「ルシフ様への口利きをしてもらい、ありがとうございます、エリゴさん」

 

 エリゴはフェイルスの肩を軽く叩いた。

 

「堅苦しいなぁお前は相変わらず。大したことしてねぇよ。だから気にすんな。な?」

 

「はい」

 

 ルシフは横目でそんな二人のやり取りを見た。

 そして一段落ついたと判断し、中央部の方に歩き出す。

 

「とりあえず服屋にいくぞ。レオナルトとバーティンの服を見に行く」

 

「了解、大将」

 

 レオナルトたちが横一列に並び、ルシフの後ろに続く。

 そんな彼らの姿は、紛れもなく主君と配下の関係に見えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 第十小隊と第十七小隊が闘ってから、約三週間が経過していた。

 セルニウム鉱山での補給はとっくに完了し、以前のような通常の状態にツェルニは戻っている。

 ルシフは朝一で生徒会長のカリアンに教員が来たことを伝え、カリアンは授業が始まる前に大講堂に全学生は集合するよう各責任者を通じて連絡。

 カリアンは今日という日に備え、事前に教員が来ると全学生に伝えていた。

 故に学生たちは反感を持たず、混乱もせずにスムーズに大講堂に集まっていった。

 ちなみに教員が来ると聞いた時の学生たちの反応は、賛否両論であった。

 教員が来るのは新鮮で面白そうだと言う者。教員なんて不要と否定する者。

 この両極端な意見の妥協点として、教員の授業は参加制にするとカリアンは決定。

 つまりどういうことか簡単に説明すると、教員の授業を受けたい学生だけ受ければいいという単純な話である。

 これに賛成側も否定側も賛同し、カリアンの決定を支持した。

 ツェルニはすでに教員を受け入れる準備を万全にしていたのだ。

 

 

 大講堂には既に全学生が集まっている。

 椅子は出ていないため、全員立っていた。

 彼らの正面には一メートル程高くなっているステージがある。

 学年ごとで集まっているため、レイフォンの周りにはナルキやミィフィ、メイシェンがいた。

 

「それにしても教員を連れてくるなんて、ルッシーの考えは面白いね。退屈しないよ」

 

 ミィフィが目を輝かせて、ステージを凝視している。

 ナルキはそんなミィフィを見て肩をすくめた。

 

「わたしは不安だぞ。あのルッシーが連れてきた教員だ。きっとルッシーみたいなのばかりに決まってる」

 

「……そんなの怖すぎるよ」

 

 メイシェンが弱々しく呟いた。

 

「う~ん、わたしはそんなことないと思うけどな~、ルッシーってけっこう色々考えてるから。レイとんはどう思う?」

 

 レイフォンは少し思案した後、口を開く。

 

「……ルシフのことだから、ちゃんと教えられる人を連れてくるんじゃないかな? ルシフってああ見えてきっちりしてるし」

 

「レイとん……教えられる人を連れてくるのは当たり前だよ。教員なんだから」

 

「当然のことだな」

 

「……レイとん……疲れてるの?」

 

「……その可哀想な人を見る目、止めてくれないかな? いや、全然想像つかないんだよ」

 

 レイフォンはグレンダンで教育施設に通ったことは一度もなく、人に教える教員というものを見たことがなかった。

 自分に勉強を教えてくれた人は教員ではなく、同じ孤児院に住んでいたリーリンたちだった。

 だから人に教える人と聞くと、真っ先にリーリンの顔が思い浮かぶ。

 次に、勉強することを強いられていた地獄のような日々を。

 レイフォンの顔が青くなり、身体が震え始める。

 あの地獄は二度と味わいたくない。

 出来るまで、暗記するまでただひたすらノートに書き込み続ける苦痛。後ろで仁王立ちしているリーリン。間違えたら「書き取り追加!」の言葉が背後から聞こえ──。

 

「──とん? レイとーん。おーい、聞こえてるー?」

 

 ミィフィがレイフォンの顔を覗き込んでいる。

 レイフォンは慌ててミィフィから顔を遠ざけた。

 

「……はっ。えーと、何?」

 

「何はこっちのセリフだよ。どうしたの? 急に黙り込んで……」

 

「ああ、グレンダンで勉強してた時のことを思い出してたんだよ。僕、勉強は全然駄目だったから、本当にキツかったなぁ、て」

 

(そういえば、リーリン元気にしてるかな? 一応今でも手紙のやり取りはしてるけど)

 

 そんなことをレイフォンが考えていたら、女生徒たちの黄色い歓声が大講堂内に響き渡った。

 レイフォンはステージを注目する。

 ステージにはルシフが立っていた。

 ほんの一、二ヶ月前はツェルニの嫌われ者だったルシフだが、今やルシフの実質的な立場は生徒会長に次ぐとまで言われている。

 それにルシフが教員を連れてくるという情報は周知の事実のため、ルシフが教員を紹介するのはごく自然の流れ。

 ルシフがステージの上のマイクを手に持った。

 

「学生だけで運営される学園都市。しかしそれ故に、最上級生を教えられる者はなく、最上級生は一人の例外もなく自習。貴様らはそんなことをするためにツェルニに入学したわけではない筈だ。下級生に教えにいく最上級生も、教員になりたいならともかく、教員になりたくもないのに教える力を磨いても意味がないと考える者も多数いるだろう」

 

 ルシフの言葉に、最上級生の面々がうんうんと頷いた。

 

「だからこそ俺は試しに半年間教員を雇い、どの学年も授業を受けられるようにしたいと考える。教員の授業を受けたいと思う生徒は、遠慮なく教員の元に(つど)え」

 

「おおっ!」

 

 生徒たちから歓声があがる。

 大講堂は生徒たちの声で震えた。

 

「なら、これより教員を紹介する。

全員、ステージの前に横一列で並べ」

 

 ルシフの言葉に従い、ステージ脇の影に隠れるように待機していた男女五名がステージ上に姿を見せる。

 彼らの服装は黒色のスーツに白のシャツ。一分の隙もない完璧な着こなし。

 そんな彼らの姿に感心したような声を漏らす生徒も少なくなかった。

 男女五名は横一列に並び、生徒たちの方を向いている。

 生徒たちの歓声が一際大きくなった。

 「あの人可愛い」だの「あの人カッコいい」だの小声で好き勝手言っている。

 ルシフは、ルシフから一番近い位置にいるレオナルトにマイクを渡す。

 

「レオナルト・ドルイ。武芸を教える予定だ。よろしく頼む」

 

「エリゴ・ゼウス。錬金科を教える。ま、仲良くやろうや」

 

「フェイルス・アハートです。農業、医療科を教えます。これからよろしくお願いします」

 

「バーティン・フィア。武芸を教えるぞ。強くなりたい者は私のところに来い」

 

「アストリット・ズィーベンですわ。上級一般教養科を教えてさしあげる予定ですの。私の授業、楽しみにしてらして」

 

 全員の自己紹介が終了した後、大講堂は歓声と拍手の音であふれかえった。

 これからツェルニは新しい試みを始める。

 ステージ脇の影に隠れたルシフは、誰にも気付かれないように笑みを浮かべた。

 ルシフにとって、学園都市で教員を雇う試みが成功しようが失敗しようが、別にどっちでもいい。

 ルシフが彼らを呼んだ本当の目的は、そんなところにない。

 ルシフの本当の目的に気付けるのは、世界中探してもルシフただ一人だろう。唯一このツェルニの未来を知っている男しか分からない、ある出来事に対する備え。

 その出来事で有利に事を進めるため、ルシフは彼らを呼んだのだ。

 

(後は時が来るのを待つだけ……それまでは『学生』を満喫するか)

 

 世界は徐々に、だが確実に、ルシフの望む方向へとズレてきていた。




オリキャラが五名追加されましたが、モブなので別に覚えなくても大丈夫です。ルシフ様をラスボスとするなら、彼らは中ボスといったところでしょうか。
もしこの五名のキャラ設定が気になった方がいましたら、活動報告の方にキャラ設定をあげますのでそちらをご覧ください。
ついでにルシフとマイのちょっとしたキャラ設定も活動報告にあげます。
ルシフ様は原作側から見ると敵側なんで、原作キャラをちっとも出せないのがツラい……。


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第30話 女王命令

 グレンダンにある寮の一室。

 リーリンは椅子に座り、自分の前にある机の上に置いてある小さな木箱を眺めていた。

 この木箱を貰った経緯は一月前まで遡る。

 リーリンとレイフォンの育ての親であり、レイフォンにサイハーデン刀争術を教えた師匠のデルクが、サイハーデンの技を全て伝授した証として、レイフォンにこの木箱を渡してほしいとリーリンに渡してきたのだ。

 木箱の中身は鋼鉄錬金鋼(アイアンダイト)

 養父のデルクから、この木箱を渡すためにレイフォンに会いに行ってもいいと言われた。もし嫌なら郵送でツェルニに送ればいいとも。

 デルクはリーリンに選択肢をくれたのだ。

 しかし選べずに迷い、一月が過ぎてしまった。

 いや、自分が選びたい選択肢は分かっている。

 レイフォンに会いたい。とても会いたい。会いたくて仕方がない。

 しかし、移動し続けている他都市に到着する正確な時間が分からない。ある人が言うには、遅いと三ヶ月もかかる場合があるらしい。早くても数週間は確実。

 ツェルニに行ったら、今通っている学校を半年は休まないといけない計算になる。そうなれば出席日数が足りなくなり、留年してしまう可能性が出てくる。

 余分に一年学費がかかってしまう。

 レイフォンが闇試合に出てまで稼いだお金を一年無駄に使うことになる。

 それをレイフォンが喜ぶのか? 許してくれるのか?

 レイフォンが闇試合に出てまでお金に執着した理由に、リーリンは心当たりがあった。

 レイフォンが天剣授受者になる前にあった食料危機。

 グレンダンの生産プラントの家畜に原因不明の病気が流行(はや)ってしまい、食糧の生産力が一気に低下した影響で、多くの餓死者を出してしまった。あちこちで市民の暴動も起きた。食糧は配給制となり、武芸者の方がたくさんの食糧をもらえていた。当然レイフォンも武芸者だったため、孤児院の他の子よりもたくさんの食糧をもらっていた。

 一番苦しかった半年間を過ぎても、しばらく物価が高かった。

 その出来事が、レイフォンの心に何かを刻みこんでしまったのだ。

 何においてもお金が大事だと考えるようになってしまったのだ。

 そんな思いでレイフォンがなりふり構わず必死に稼いできたお金を一年も無駄にしたら、レイフォンはどう思うだろうか?

 結局、レイフォンに会った時に何を言われるか分からないから、一ヶ月も尻込みしているのだろう。

 そして、その答えはグレンダンにいる限り永遠に分からないのだ。堂々巡りをずっと繰り返して時間だけが過ぎていく。

 ずっとこの無意味に迷う時間が続くと思っていた。あの人に会うまでは──。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 

 ──何か奢るから、一緒にどこか行こう。

 

 同じ学校の先輩──シノーラ・アレイスラがそうリーリンを誘って、リーリンを半ば強制的に停留所近くの公園に連れてきた。

 二人の手の中には紙で包まれた揚げパンがある。

 一度食べてみたかったと口に出しながら美味しそうに揚げパンを食べるシノーラの姿を見て、リーリンは呆れたように息をついた。

 

 ──揚げパンを食べたことがないなんて、一体どれだけお金持ちなんだろう?

 

 リーリンはそう思いつつ、手の中の揚げパンをかじる。

 美味しい。

 口の中にパンのやわらかさと香ばしさ、そしてパンの上にまぶされた砂糖の甘さが広がっていく。

 

「美味しい。いいね、これ」

 

 シノーラは満足そうな表情でそう言った。

 そして、シノーラは一つ食べ終えたら大きな紙袋の中からすぐ次の揚げパンを取り、食べ始めた。それを食べ終わるとまた次、それも食べ終わるとそのまた次──。

 ……食べすぎじゃない?

 リーリンはその光景をぽかんと眺めていた。

 そうして、あっという間に揚げパンが無くなった。

 

「食べたりない」

 

「いや、食べすぎですから」

 

 シノーラはリーリンの二倍以上食べていた。

 それだけ食べてもまだ食べたいと言えるシノーラの抜群なプロポーションの身体を見て、リーリンはため息をついた。

 

「──で、悩みがあるんでしょ? 先輩に話してみなさい」

 

「悩みなんてそんな──」

 

「いいから」

 

「別に悩みってほどでも──」

 

「いいからいいから。話してみなさい。お姉さんがスパンと解決してあげるから」

 

 どれだけ否定してもぐいぐい押してくるシノーラに、リーリンはついに観念した。

 

「……会いたい人がいるんです」

 

 その言葉を皮切りに、今自分が抱えているものを全部シノーラに話した。

 

「──で、なんで会いに行かないの?」

 

 リーリンの現状を把握した上で、シノーラが平然と言った。

 

「……え? だって──」

 

「会いたい人に会いに行ってどう思われるか──なんて、その会いたい人しか答えを持ってないよ。考えるだけ無駄」

 

 シノーラはいつもの軽薄な笑みを消していた。

 

「なのに、君はずっと無駄なことを考えて、答えを先延ばしにしている。どうしてか分かるかい?」

 

 リーリンは言葉が出てこなかった。

 その先の言葉は聞きたくないと心が必死に叫んでいるが、言葉が喉の奥でつっかえている。

 

「君は怖がってるんだ。もう君は答えが出ている。だけど、その答えの先には想像もつかない痛みが待ち受けているかもしれない。その痛みに触れたくないだけなんだよ。痛みから逃げてるんだ」

 

「ッ!」

 

 そんなことはないと言おうとして、シノーラの言葉を否定できる材料がないことに気付いた。

 

「誰だって傷つくのは嫌だよ。でも、痛みを知らない、挫折を知らない人間ほど薄っぺらい人間はいない。

人は痛みを知り、挫折を知ることで深く、美しくなっていく生き物じゃないかな。

痛みの中に飛び込んだ人間は、きっと飛び込む前より辛い思いを味わうだろうけど、飛び込む前よりもずっと輝いているとわたしは思うよ」

 

 シノーラはそう言うと、リーリンを置いて公園を出ていった。

 

 

 その後、リーリンは寮に戻り、ベッドに倒れこんで眠った。

 リーリンの中で何かが変わっていた。

 その何かを受け入れるために、リーリンには睡眠が必要だった。

 

「ツェルニに行こう」

 

 夕方から早朝までぐっすりと眠ったリーリンは、身体をゆっくりと起こしてそう呟いた。

 身体はとても軽い。

 眠り過ぎた倦怠感もない。

 もう腹は(くく)れた。身体がそう言っているようだ。

 リーリンは静かにベッドから降りた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 シノーラ・アレイスラは今、グレンダン中央に位置する王宮にいる。それも王家が暮らす区画の一室。

 シノーラは高級そうな椅子に座り、自分の前のテーブルの上に置いてある書類の数々を気だるそうに眺めている。

 不意に扉をノックする音が聞こえた。

 

「……入れ」

 

「失礼いたします、陛下」

 

 シノーラ──アルシェイラは面倒くさそうに部屋に入ってきた人物の方に顔を向ける。

 入ってきたのはアルシェイラによく似た女性だった。

 カナリス・エアリフォス・リヴィン。天剣授受者の一人。

 黒髪を腰の下くらいまで伸ばしている美人。

 

「何、カナリス。もうこれ以上書類はいらないんだけど」

 

「サリンバン教導傭兵団三代目団長──ハイア・サリンバン・ライアから手紙が届きました」

 

「ふ~ん。で? なんて書いてあったの? あなたのことだから、内容は確認してるんでしょ?」

 

 アルシェイラは頬杖をついて、あくびを噛み殺している。

 

「ツェルニで廃貴族を発見したようです。しかし、もうすでに宿主を見つけた後だと」

 

「……何だって?」

 

 アルシェイラの脳裏に、何故かルシフの顔が浮かんだ。

 いや、それはさすがに都合が良すぎる。あり得ない。

 アルシェイラは顔を引き締めて、右手をカナリスの方に伸ばした。

 

「ちょうだい」

 

「はい、どうぞ」

 

 アルシェイラの右手に手紙が置かれる。

 アルシェイラは手紙を広げ、内容を読んだ。

 要約すると、ツェルニのルシフに廃貴族が宿り、ルシフを捕まえるためにサリンバン教導傭兵団が総力をあげて挑むも、廃貴族の暴走により捕獲に失敗した。応援をツェルニに送ってほしい──という内容。

 アルシェイラの目が大きく見開かれた。

 

「廃貴族を宿したのはあのルシフ・ディ・アシェナです。彼に関する報告は以前から聞いていますが、元々の地力ですでに天剣並みとか。

まぁわたしより、直接お会いして闘われた陛下の方がより正確な分析ができると思いますが」

 

「間違いなく天剣並みよ。それも、リンテンスをも上回るかもしれないくらいの──ね」

 

「まさか。ご冗談でしょう?」

 

 カナリスが緊張でごくりと唾を呑み込んだ。

 

「言わなかったけどわたし、この子に無傷で勝ってないのよね」

 

「………………え? 今、なんとおっしゃいました?」

 

 カナリスが信じられないという表情をしている。

 アルシェイラは軽く息をついた。

 

「だから、この子には火傷を負わされたのよ。右手の平一面に」

 

「いくらなんでも手を抜きすぎでは?」

 

「確かに手は抜いてたよ。でも、天剣三人同時にぶっ潰した時くらいの力で闘った」

 

 カナリスがあんぐりと口を開けている。

 かつてアルシェイラに牙を剥いた三人の天剣の内の一人であるカナリスには、当時のアルシェイラの実力を身をもって知っていた。

 故に、余計に信じられない。

 

「まぁ次闘う時は、無傷でボコボコにできるけど」

 

 こんなことを口にする辺り、アルシェイラはかなりの負けず嫌いだと分かる。

 

「本当ですか?」

 

 カナリスが疑いの視線をアルシェイラに送った。

 

「本当──と言いたいところだけど、百パーセントとは言えないわね。あの子は何してくるか読めない怖さがあるから。廃貴族を手に入れて、更に厄介になったし」

 

 ルシフの怖さは剄量や剄の扱いよりも、勝つために頭脳をフル活動させるところだろう。そして、勝つために手段を選ばない。

 大抵の人間には型がある。この人間がどう行動してどう闘うか、ある程度予想できる。

 しかし、ルシフには型と呼べるものがない。型破りというべきか、想像もつかない行動、闘い方を平然としてくる。

 

「ルシフは廃貴族を制御できていないので、廃貴族は戦力から外してもよろしいのでは?」

 

「なんでそう思うの?」

 

「手紙に書いてあるじゃないですか。廃貴族の暴走により、失敗した──と」

 

「ああ、それね。廃貴族に暴走されて、身体の自由を奪われる。それが本当なら、ルシフは大した脅威じゃない」

 

 カナリスがハッとした表情になる。

 

「この手紙が捏造だとおっしゃられるのですか? サリンバン教導傭兵団の名を騙り、ルシフ自身が書いたものだと? ですが、しっかりサリンバン教導傭兵団を象徴する印が押してありますし、何よりこんなものをグレンダンに送る意味が分かりません。

廃貴族がいるという嘘情報をグレンダンに伝えて、戦力を分散させるのが目的でしょうか」

 

 地力で天剣並みのルシフが廃貴族を手に入れたとなれば、同じく天剣並みの武芸者で対応せざるを得ない。

 そこを各個撃破して確実にグレンダンの戦力を削いでいくつもりか、とカナリスは考えた。

 

「……それくらい浅い考えの奴だったら楽なんだけどねぇ」

 

 アルシェイラはテーブルの端の方に置いてある透明なグラスを取り、水を飲んで喉を潤した。

 

「この手紙は十中八九、ハイア・サリンバン・ライアが書いたものだよ。だからこそ、この手紙の内容は信憑性が高まる。

仮に、わざと廃貴族が暴走したようにみせてサリンバン教導傭兵団を壊滅させたと仮定したら、どうなる?」

 

「……実際は廃貴族を使いこなせていることになりますから、油断を誘うため……でしょうか」

 

 カナリスが顎に細い指を当てて答えた。

 

「誰の?」

 

「誰ってそれは当然……まさかッ!?」

 

 アルシェイラは椅子に深くもたれかかった。

 

「……サリンバン教導傭兵団はグレンダンの命で外に出ている。自分たちの手に負えない相手がグレンダンから命じられた目標なら、グレンダンに応援を頼むのは必然。なんたってグレンダンが(ほっ)しているものなんだから、断られる可能性は低い。

ルシフはグレンダンを長年探り続けていた。これくらいの予測はサリンバン教導傭兵団と闘う前からつくかもしれない。

それに、ルシフの言葉、行動は嘘にまみれている」

 

「と、おっしゃられますと?」

 

「わたし、ルシフと闘う前に訊いたのよ。なんでグレンダンを長年探っていたのかって。あいつは平然と自分に相応しい錬金鋼がグレンダンにあると考えたから、と言った。その時は深く考えなかったけど、よくよく考えてみればおかしいのよね。この答えは」

 

 天剣の存在はグレンダンでは当たり前である。一部の武芸者しか知らないとかではなく、それこそ剄を持たない一般人ですら知っている。

 つまり、探り始めてすぐにルシフは目的の物を見つけた筈なのだ。しかし、何年間もグレンダンに人をやってグレンダンの情勢に目を向け、グレンダンに関する資料を買い漁っていた。

 これらから導き出される解──ルシフの目的は天剣ではなく、グレンダンそのものだった。

 カナリスにそう伝えると、カナリスの表情が強張った。

 アルシェイラは話を続ける。

 

「わたしはサリンバン教導傭兵団とハイアって奴がどれくらい強いのか知らないけれど、ルシフの強さはよく分かっているつもり。多分、全力でわたしに勝ちにきてたから。

そもそもの話。廃貴族無しのルシフの力で十分だと思うのよ。サリンバン教導傭兵団を壊滅させるなんて」

 

 廃貴族は宿主が危機に陥らなければ余計な手出しをしない筈だ。暴走状態になるには、ルシフは強すぎる。

 と考えていけば、自ずと廃貴族が暴走したというのがルシフの策略であり、その策略は他でもないアルシェイラ自身に向けられていると分かる。

 そして、そうアルシェイラが読むこともルシフは計算済みなのだろう。

 あえて自分を警戒させるような手を打っている。 

 これが一体何を狙っているのか。

 

「──随分と面白そうな話をされていますね」

 

 カナリスの背後から男の声が聞こえた。

 カナリスは振り返って声の主を見る。

 サヴァリス・クォルラフィン・ルッケンス。天剣授受者の一人。長めの銀髪を後ろで括った長身の男。

 カナリスは不愉快そうに顔を歪める。

 

「何の用? 用もなくこんなところに散歩しにくるあんたじゃないでしょ」

 

 アルシェイラがサヴァリスを見た。

 

「今陛下が話されていたことについてです。僕の弟はツェルニに通っていますので、弟の手紙で廃貴族がツェルニの学生に憑依したと知りまして。しかも、その憑依した学生が以前から要注意人物として名があがっている人物ならば、これは陛下にお伝えしなければとこうして陛下の元に訪れたのです」

 

 サヴァリスはニコニコとわざとらしく笑みを浮かべている。

 今のサヴァリスの話から、ハイアからの手紙はルシフの捏造ではなく本物だと分かった。

 

「……で、伝えにきただけが目的じゃないでしょ。ルシフと闘ってみたいの?」

 

「さっすが陛下! 僕のことをよく分かってらっしゃる。その通りです。僕に廃貴族の回収任務を任せていただきたいと思いまして。

ツェルニには弟がいる分、僕が一番動きやすい。それに、他の連中じゃツェルニを壊してしまうかもしれませんよ。リンテンスさんはレイフォンがいるのでやりにくいんじゃないですか? 自身の技を伝授した弟子みたいなものでしょうから」

 

「……レイフォンね。そういえばツェルニにいたね……あっ!」

 

 アルシェイラが何かに気付いたように声をあげた。

 

「どうされたんです? レイフォンに何か問題でも?」

 

「レイフォンに問題というか、レイフォンに会いにいく人間に問題がある」

 

「リーリン・マーフェスですか。陛下のお気に入りの」

 

 カナリスが微かに暗い笑みを貼り付け、唇の端を吊り上げる。

 アルシェイラはサヴァリスの方を見ていたため、気付けない。

 アルシェイラはカナリスの方に視線を向ける。

 

「友達は大事にしないとね。リーリンがツェルニに行く途中で汚染獣に襲撃されたり、都市間戦争に巻き込まれて危険な目にあったらかわいそうでしょ。

てなわけでサヴァリス。あんたに廃貴族回収任務を任せてあげるから、リーリンをしっかり守ること。傷一つつけたらあんたを潰すから。プチッと」

 

「……分かりました」

 

 サヴァリスはやや引きつった笑みになった。

 

「それとカナリス。あなたもサヴァリスと共にリーリンを護衛しなさい。正直ルシフの相手はサヴァリス一人じゃ確実といえない。そして、もし勝てそうになかったら、他の天剣囮にしてでもリーリンを連れてルシフから逃げること。いい?」

 

「陛下! 天剣授受者を二人も外に出すなんて前例がありません! それに、わたしに行く気は──」

 

「二人じゃないわ。天剣をもう一人つける。あなたに関しては女王命令。拒否権はない」

 

 カナリスとサヴァリスの顔が驚愕に染まった。

 天剣三人も一般人の護衛につける。正直、正気の沙汰ではない。

 それほどまでに、アルシェイラの中でルシフの評価が高いのだ。

 

「それで、あと一人は……?」

 

「そうねぇ。ティグ爺がいいかと思ったけど、結構年いってるし……決めた! カルヴァーンにしよう。あの性格なら断れないでしょ。

以前わたしに歯向かった天剣三人をリーリンの護衛と廃貴族の回収にあてる。あなたたちのわたしへの忠誠、しっかりと示しなさい。あと、カナリスは髪型変えて行きなさい。その髪型だとわたしだって思われるかもしれないから。

それと、天剣の持ち出しを許可する。その代わり、死んでも奪われるな」

 

 カナリスは諦めたようにうなだれた。

 サヴァリスも一人ではなく二人も余計なものをつけられて不満気な様子。純粋に戦闘を楽しめないとでも考えているのだろう。

 二人とも力なく礼をし、部屋から立ち去った。

 

 

 

 そして数日後、リーリンと天剣三人を乗せた放浪バスはグレンダンを旅立っていった。

 地平線の向こうに消えていく放浪バスを、アルシェイラは外縁部の端からずっと眺めている。

 不安要素はある。それも爆弾と呼べるほどに致命的な不安要素。

 天剣三人が護衛する一般人。

 ルシフは天剣がグレンダンにとってどういう存在か理解している筈だ。

 天剣三人に護衛されている一般人を見て、グレンダンにとって重要な存在と考えてしまったら?

 グレンダンの女王にとって有効なカードになると考え、リーリンを捕まえて監禁しようと考えたら?

 もちろん、こう考える可能性がとてつもなく低いのは分かっている。だが、(ゼロ)じゃない。

 アルシェイラにとって、ルシフは何をするか分からない怖さがある。たとえ女でも平然と人質にするんじゃないかと思わせる危うさがある。

 それに天剣授受者三人がもし負けたら、天剣を三本も奪われるかもしれない。

 

「う~ん。あの時、首根っこ掴んででもグレンダンに連れてくれば良かったかな? そうすれば、こんな風に悩まされることもなかったのに」

 

 ルシフをボコボコにしてそのまま放置したから、こんな面倒事になっている。

 あの時息の根を止めておくべきだったか?

 半ば本気でアルシェイラがそう考えていると、アルシェイラの隣に犬に似た蒼銀色の獣の姿が顕現した。

 獣の名はグレンダン。

 

「あなたの同類のせいで、もう最悪よ」

 

「我に言われても……な」

 

 メルニスクと同類の狂った電子精霊。かつて廃貴族と呼ばれていたもの。それがグレンダンの正体であった。

 

「そのルシフ・ディ・アシェナという者……興味深いな」

 

「……へぇ。あなたがそんなことを言うなんてね」

 

 アルシェイラは意外そうな表情で、隣にいるグレンダンを見下ろした。

 

「……我らは、ただ力を求める者に惹かれはしない。強靭な意志こそ、我らが望むもの。

ツェルニにいる同類はその男の心に何を見たのか……」

 

 アルシェイラは再び視線を放浪バスの方に向けた。

 ルシフはただ力だけを求める男だと思っている。

 『剣狼隊』なる屈強な武芸者集団を組織し、イアハイムの武芸者向上に力を入れていたのは、イアハイムに潜りこませていた者から聞いていた。

 しかし、そう思うのは間違いなのか。

 力を求め続ける裏には、何かとんでもない野心を持っているのか。

 

「強靭な意志……ね。力を手に入れる以外で一体どんな望みがあの男にあるのかねぇ。

なんにせよ、ルシフはまたわたしに喧嘩を売った。しっかり高値で買わせてもらうわ。いずれ────ね」

 

 放浪バスは地平線の彼方に消えていった。

 強大な力を持つアルシェイラですら、もう放浪バスは見えない。

 しかし、アルシェイラは目を逸らさずにずっと放浪バスが消えていった方向を見ていた。

 ルシフは廃貴族を事前に知っていた可能性があると手紙に書かれていた。

 もしそうなら、闘う前にルシフが言っていた『いつか力を付けて』という言葉に信憑性が出てくる。

 努力ではどうにもならない差があるのを分かっていながら、自分をいずれ超えられると考えていた。

 力を付ける手段で廃貴族を当てにしていたのだとしたら?

 

 ──まるで運命がルシフの望む形になっているようね。

 

 アルシェイラはため息をついた。

 ツェルニなどというなんの変哲もない都市を選び、そこで都合良く望む力を手に入れる。

 運命がルシフの味方をしているとしか思えない。

 

「さて、運命は次にどちらの味方をするのかな」

 

 アルシェイラは静かに呟いた。

 

「ルシフという男がお前の言う通りの者なら……荒れるな」

 

 グレンダンはアルシェイラと同じ方向を眺めながら、腹を地面につけてごろんと寝転がった。

 



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第31話 魔王として在り続けるために

 ルシフは自室の椅子に座り、テーブルの上にスケッチブックを広げていた。

 ルシフがその白紙に鉛筆を走らせる。

 ルシフの母親は画家のため、ルシフは幼いころから絵の心得があった。今でも息抜きにこうしてルシフは絵を書く。ツェルニに来てからは初めてのスケッチ。

 しばらくすると、白紙の中に龍が刃をくわえているような装飾が施された柄の長い刀が浮かび上がった。いわゆる青龍偃月刀である。

 三国志演義において、軍神関羽が使用する武器。

 ルシフは青龍偃月刀が描かれた用紙を切り取り、テーブルの端に置いた。

 テーブルには他にも様々な武器が描かれた用紙が置いてある。

 黒塗りの槍。しかし、ただの槍ではない。槍の穂先の根元に三日月状の刃が片方だけ付いている、方天画戟と呼ばれる武器。

 三国志演義において、最強の武将呂布が使用する武器。

 柄が長く、先の刃が蛇のようにくねくねと曲がっている矛。

 三国志演義において、関羽に勝るとも劣らない武勇を誇る張飛が使用する武器。

 これらの知識も別人格が持っていた知識。

 鋼殻のレギオスの世界で役立つ知識ではないが、気分転換や息抜きにはちょうど良い。

 ルシフの隣にはメルニスクが佇み、様々な武器が描かれた数枚の用紙を眺めている。

 

「汝は先程から何をしておるのだ?」

 

「絵を描いている」

 

 ルシフは鉛筆をテーブルの上に置き、ぐ~っと両腕を伸ばして身体をリラックスさせる。

 

「それは見れば分かる。何故そのような絵を描いているのか、と訊いている」

 

「俺はどんな武器でも扱える。ありとあらゆる武器の鍛練を積んだからな。だが、俺の剄を受けとめられる錬金鋼(ダイト)がなかったが故に、俺にとってこれだと言える武器がない。

これらの絵は、俺に相応しい武器はどれか決めるために描いた絵だ」

 

「……で、決まったのか?」

 

「──そうだな」

 

 ルシフはテーブルの上に置かれている数枚の用紙の内、一枚を手に取る。

 手に取った用紙には方天画戟が描かれていた。

 最強の武将が使用した武器。

 最強の自分が持つに相応しい武器だと、ルシフは感じていた。

 それに、鋼殻のレギオスの世界にこの形状の武器はない。

 この武器あるところ、ルシフありとなる。

 この世界でも、この武器を最強の象徴にしたい。

 この武器を見ただけで敵が恐れをなし、抵抗せずに屈伏するくらいにまで。

 

「それか」

 

 メルニスクがルシフの手にある用紙に視線を向けている。

 

「お前ならどれが俺に相応しいと思う?」

 

 ルシフはテーブルの上にある二枚の用紙と手に持つ用紙をメルニスクの足元に落とした。

 メルニスクは床に顔を向ける。

 

「……我は興味ないが」

 

「言え。思ったままに」

 

 メルニスクはしばらく床にある三枚の用紙から視線を逸らさなかった。

 やがて、メルニスクの右前足が三枚の内の一枚を踏む。方天画戟が描かれている用紙だ。

 ルシフはそれを見て満足そうな笑みを浮かべた。

 

「理由を聞こうか」

 

「大した理由はない。この生き物の装飾がされた武器は派手過ぎる。汝は無駄な装飾は好まないだろうと感じた。刃が曲がりくねっている武器は、汝らしくないと思った。故に、この武器が汝には一番合っていると我は考える」

 

「ふむ、良い理由だ」

 

 天剣『ヴォルフシュテイン』の形状は方天画戟にしよう。それくらいは誤差の範囲で収まる筈。

 ルシフはそう決め、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 今まで様々な誤差があった。

 アルシェイラのツェルニ来訪。

 原作にない汚染獣三体のツェルニ襲撃。

 廃都市メルニスクに擬態していた敵の起動。

 俺の存在で、世界はこれだけ大きく変化した。

 俺は元々この世界の住民。

 原作知識を得てマイに出会ったことで、この世界にあるレギオス全てを支配下にするために動くようになった。

 つまり、世界に変化をもたらしたのは俺の存在ではなく、俺の行動。

 しかし、もうどうでもいい。

 今の俺の敵になれる相手はアルシェイラ以外いないのだから。

 そのアルシェイラも、次の邂逅で徹底的に叩き潰す。

 アルシェイラは才能だけで今まで生きてきた奴だ。生まれた瞬間から最強だった。挫折も痛みも常人から見れば舐める程度しか経験していないに違いない。

 そういう奴は、一度完全に折れば二度と立ち上がれなくなる。

 俺は違う。

 廃貴族──メルニスクを手に入れるために必要なのは、強靭な意志と精神力だと思っていた。

 だからこそ圧倒的な頭脳と剄力、戦闘センスを持っていても、何度も何度も苦汁をなめた。いや、自分にできないことを見つけて挑戦し、苦汁をなめるようにした。何度も挫折を経験しようとした。率先して痛みを自分の身に引きこんだ。

 そして、最後はどれも踏み越えた。最後は必ず俺が勝った。

 

 ──アルシェイラ……俺はお前と対極に位置する。

 

 お前は口で世界を守ると言うが、その実世界を守るための具体的な行動はしない。

 俺は世界を守るなどと絶対に口にしない。

 この世界で重要なのは、善意でも悪意でも正義でも言葉でもない。

 結果。結果こそが全て。

 仮に十人見殺しにした男がいたとして、その男が「百人助けるために十人犠牲にしなければいけなかった」と口にしたらどう思う?

 この男はなんて優しくて強い、決断力のある男だろうと思うか?

 そう思うのはバカだけだ。

 どんな理由があろうと十人の犠牲を出した結果は変わらない。

 この男は善意という逃げ道を創り、犠牲にした十人の責任から逃れようとしているだけにすぎない。

 何故なら、そんな言葉を口にする意味がないから。その言葉を心に秘めておくのが男というものだろう。

 そういう選択をしなければならない時は、俺の行く道に何度も転がっているだろう。

 だが俺は、絶対にそんな言葉は口にしない。むしろふてぶてしく笑う。

 俺は自分の責任から逃げようなどと考えない。

 俺の意志は言葉ではなく、行動に宿る。

 その行動の中で生まれた犠牲や悲劇に言い訳などしない。

 周りからの罵倒も非難も怨嗟の声も、全て背負って前に進む。

 これこそが人の上に立つ者の務め。『王』が行く道。

 

「……ルシフ。汝にとってあの女はなんだ?」

 

 ルシフはまぶたを開ける。

 メルニスクが自分の方に顔を向けていた。

 

「いきなり何を言い出す? それに、あの女とは誰だ?」

 

「青色の髪の女だ」

 

「マイのことか。マイは俺にとって──」

 

 その先の言葉がすんなり出てこない。

 自分の目になれと言った。

 俺の理想を実現するための力の一つ。

 それだけじゃない。

 俺が実現した世界を一番最初に見せたい相手でもある。

 しかし、それを口にするのはためらった。

 

「俺をサポートする念威操者。それだけだ。それがどうした?」

 

「……本当にそれだけか?」

 

 ルシフはメルニスクのしつこさに苛立ち、舌打ちする。

 

「さっきから何が言いたい!」

 

「あの女と接する時、汝はどこか優しく見える。特別な存在なのではないか?」

 

「違う! 俺にとって特別な人間などいない!」

 

「ならばあの女が命を落としても、汝は変わらずにいられるか?」

 

 ルシフは目を見開いた。

 マイが……死ぬ?

 冷たいモノが体内に滑り落ちていく。

 自分が立っている土台が一気に崩れていくような錯覚を覚えた。

 血が頭に上る。頭が熱くなっていく。

 

「……黙れ」

 

「あの女がいなくなっても、今生きる者たちのために闘えるか?」

 

「黙れッ!」

 

 ルシフの周囲に剄の奔流が巻き起こった。

 部屋にある家具がその影響で全て吹き飛んだ。

 ルシフが座っている椅子以外、全ての家具が変わり果てた姿で部屋の隅に転がっている。

 メルニスクはルシフの前に佇んでいた。

 

「あまりあの女に入れこみ過ぎるな。汝自身の身を滅ぼすことになる」

 

 ルシフはメルニスクを鋭い眼光で睨んだ。

 今までルシフの前で、マイの死を示唆するような言葉を言った者はいない。

 ルシフは怒りに震えていた。

 自分でも何故ここまで頭に来ているのか理解できない。

 だが、マイのいない世界など考えたくなかった。

 

「……メルニスク。俺はお前を友だと言ったが、だからといってどんな発言も許したわけではない」

 

 ルシフは椅子から立ち上がった。

 

「次、同じ言葉を口にしてみろ。その時はお前を俺の身体から追い出す」

 

「我の力が必要と言ったのは汝ではないか」

 

「力を手に入れる当てなら他にもある。お前でなければ駄目だというわけじゃない」

 

 ルシフは自分が座っていた椅子を蹴り飛ばした。椅子が木端微塵になる。

 その後ルシフは荒々しく部屋から出ていった。

 メルニスクは無表情で部屋の中心にいる。

 

「……ルシフ、汝は危ういのだ。あの女がいなくなったら、おそらくお前は豹変するだろう。どうにかせねばな」

 

 ルシフは自分のために世界を変えたいわけじゃない。

 どんな場所でも、ルシフの才覚があれば満ち足りた人生を送れるだろうから。

 これで確信した。

 ルシフが世界を変えたいのはマイ・キリーただ一人のため。

 故に、マイ・キリーがルシフの前から消えた時、ルシフが世界を変えるために闘う理由も消える。

 そうなった時ルシフがどうなるのか、メルニスクには想像できなかった。

 だが間違いなく、今より悪くなるだろう。

 ルシフが出ていった扉をメルニスクはしばらく眺めていたが、やがてメルニスクは光の粒子に変化し部屋から消えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが中央部の通りを歩いている。

 

 ──くそっ、アホか俺は……。

 

 ルシフはメルニスクに言った言葉を後悔していた。

 確かにメルニスクに代わる力の当てはあるが、計画が大幅に遅れるのは必至。 

 それに、あそこまでキレる必要もなかった。相手にせず流せばよかったのだ。

 ルシフはため息をついた。

 

 ──とりあえず家具を新調しなければな。元々あった家具はもう使えまい。

 

 何しろ、全ての家具を見るも無残な姿にしてしまったのだ。ついでに唯一無事だった椅子も。

 必要な家具を全て買い、部屋の掃除と片付けに家具の組み立てと設置をしなければならなくなった。

 本当に無駄なことをした。

 何故、俺はあんなにもマイを失うことを考えたくなかった?

 考えるべきなのだ。ありとあらゆる可能性を。

 しかし、マイを失う可能性から目を背けている。

 

 ──何故だ? 俺は何を怖れている?

 

 考えながらも、前に進む足を止めない。

 

「あっ、ルシフ様!」

 

 ルシフは声がした方を見る。

 マイが買い物袋を片手に持って立っていた。錬金鋼(ダイト)の杖をもう片方の手で握っている。

 

「ルシフ様もお買い物ですか? ……どうされたんです?」

 

 マイが心配そうな表情になった。

 

「……何が?」

 

「何かを堪えるような、辛そうなお顔をされています」

 

「──ッ!」

 

 ルシフは不意に眼前のマイを抱きしめたい衝動に駆られた。

 すんでのところで理性がルシフの衝動を抑える。

 ルシフは自分の顔を右手で触った。

 それから、いつも通りの自信満々の表情を貼り付ける。

 

「俺がこういう顔をしていたらお前がどう言うか気になってな……別に何もない」

 

 マイはホッと胸をなでおろすと、頬を軽く膨らませた。

 

「イジワルしないでください! ホントに心配したんですからね!」

 

「ああ、わる──」

 

 反射的に謝りそうになった言葉を、ルシフは呑み込んだ。

 

「この程度でそんな大げさになる方が悪い」

 

「……もう知りませんッ!」

 

 マイはプイッとルシフから顔を背けた。

 そんな分かりやすい仕草がおかしくて、ルシフは笑った。

 

「そんなに怒らなくてもいいだろう」

 

「別に怒ってません」

 

 マイは顔をルシフから背けたままだ。

 

「分かった。そこの喫茶店で何か奢ろう。それでチャラだ」

 

 マイがバッと勢いよく顔を戻し、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

 ルシフは右手をマイの方に伸ばす。

 

「その買い物袋をよこせ」

 

「べ、別に大丈夫です。ルシフ様の手を煩わせる必要は──」

 

「やせ我慢するな。買い物袋を持っている腕が震えてるぞ。錬金鋼を剣帯に吊るして両手で持てばいいだろうに……変わったヤツだ」

 

「あ……」

 

 マイは少し顔を赤らめて、買い物袋をルシフの右手に手渡した。

 

「よし、行くぞ」

 

「はい」

 

 少し後ろから付いてくるマイの気配を感じながら、ルシフは微かに笑みを浮かべた。

 マイが俺の前から消える可能性。

 いつかは頭の片隅に常に入れておかなくてはならないもの。

 

 ──まぁ今は、そんなこと考えなくてもいいか。

 

 そんな可能性、今は微塵も感じないから。

 喫茶店でマイと一時間ほどのんびりした後、マイと別れ必要な家具を全て買った。

 山のように積まれた段ボールがルシフの頭上でふわふわと浮いている。

 剄を化錬剄で変化させ、剄に硬化と吸着の性質を持たせることで、剄で荷物を持ち上げることを可能にしたのだ。

 今の時間は三時であり、通りに学生も多くいる。

 ルシフの奇想天外な剄技の目撃者は多数いた。

 目撃した誰もが口をあんぐりと開け、目をパチパチさせていた。ごく一部の武芸科の学生は「その手があったか!」と目を輝かせた。

 ルシフはその視線を一切気にせず、寮の方に歩を進める。

 

「あ、あのっ!」

 

 ルシフの前に一人の女子が立った。

 ルシフは女子に視線を向ける。

 一ヶ月前からちょくちょく女から声を掛けられるようになった。

 

「なんだ?」

 

 女子は少し顔を赤らめて視線をさまよわせている。

 

「え、えっと……ルシフ君、こんにちは!」

 

「ああ、こんにちは」

 

 信じられないかもしれないが、ルシフは挨拶されたら挨拶をちゃんと返す人間だった。

 そういう教育を幼少から嫌というほど叩きこまれたせいで、挨拶を返さない方が気分が悪くなる。

 

「………………で?」

 

「……あぅ」

 

 女子は顔を僅かに俯けた。

 

「用がないなら俺の邪魔をするな」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 女子は慌ててルシフの前からどいた。

 ルシフは女子の横を何も言わずに通り過ぎる。

 女子は顔を俯けたままだ。

 ルシフは顔だけ振り返る。

 

「おい」

 

 女子はおそるおそる後ろを振り返ってルシフを見た。

 怒られるとでも思っているのかもしれない。

 

「な、何?」

 

「もう少し自分に自信を持て。きょどるのをやめろ。せっかく可愛い顔をしているのに、もったいないぞ」

 

「なっ!? か、かわいいなんてそんなッ!?」

 

 ルシフは勝ち気な笑みになる。

 

「自分に自信を持てるようになったら、一晩だけ相手してやる」

 

「えっ!? ~~~~~~ッ!」

 

 ルシフの言葉を聞いた女子は顔を真っ赤にして、ルシフから逃げていった。

 ルシフは逃げた女子に見向きもせず、歩みを再開する。

 

 ──ああいううぶな女もいいな。というかあの女チョロ過ぎるだろ。

 

 ルシフは自分に最初から好意を抱いている女より、自分のことなんてなんとも思ってない女を自分の虜にする方が好きだった。

 そっちの方が燃える。まぁ好意を抱いている女も、気に入った女がいたら片っ端から抱いていくが。

 四ヶ月近く女を抱いてないせいか、すぐにそっちの思考になっているのをルシフは自覚する。

 ツェルニを出たら、まず女を抱こう。

 ルシフはそう心に決めた。

 寮に着いたら寮の入り口前に段ボールを山積みし、自分の部屋に行く。

 壊れた家具を剄でまとめ、窓を開けて衝剄を利用し空に吹き飛ばす。

 ルシフが吹き飛んだ家具の方に左手をかざし、剄を火に変化させて火線を放つ。

 家具は一気に灰になった。

 ちなみにこの火線を目撃した学生も多く、何事かと大騒ぎになったが、それはまた別の話。

 それから部屋を掃除し、段ボールを部屋に運び込み、組み立てて配置。

 元々あった家具と似たような色とデザインにしたため、代わり映えはしない。

 だが、ルシフはそれで満足だった。

 

「──メルニスク」

 

 ルシフがそう口にすると、メルニスクがルシフの眼前に顕現した。

 

「なんだ?」

 

「一つやってほしいことがある」

 

「……何をすればいい?」

 

「ツェルニを暴走させてほしい」

 

 数秒間の静寂。

 

「……どういうふうにだ?」

 

「汚染獣の群れに突っ込むように。俺が連れてきた教員の実力をツェルニの学生にアピールする場がほしい。

汚染獣など今や全く脅威ではないから、別にいいだろう?」

 

「いつやればいい?」

 

「いつでも。お前が気の向いた時に」

 

「…………承知」

 

 メルニスクの姿は掻き消えた。

 ツェルニを暴走させるのは原作と同様の展開にし、あることを試すためだ。

 もしそれが成功した場合、全レギオスを支配する計画はほぼ完璧なものになる。

 

 ──この先、俺のせいで死なない筈だった人間が何人死ぬんだろうな。

 

 原作通りならば、死ななかった人たち。

 それをねじ曲げる。世界を壊すために。

 ルシフは窓から外を見る。

 珍しく夕焼けが綺麗に見えた。

 目に沁みるような赤に心を奪われ、日が完全に沈むまで、ルシフは窓際に座ってじっと夕焼けを眺めていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆     

 

 

 

 ニーナが中止にした合宿。

 しかし、結局合宿をすることにしたようだ。

 合宿場所は農業科の扱う農地の一区画で、この辺りは今作物を植えていないため、多少暴れても問題ないらしい。

 平野の中にポツリと立っている一軒家。あれが宿泊施設になる。

 その宿泊施設に今、合宿に関わる人たちが集合していた。

 第十七小隊の面々、メイシェン、ミィフィ、ディン、ダルシェナ、マイ、教員二名。

 メイシェンは合宿中の料理担当でレイフォンから頼まれた。

 ミィフィは野次馬。

 ディンとダルシェナは自分たちも参加したいと言って、合宿に参加した。

 ニーナもそれを断る理由はなく、むしろ実力のある相手の参加は願ったり叶ったりだったため、二つ返事で承諾した。

 マイは念威操者はもう一人いた方がいいとニーナに言い、ニーナもそれに同意したため合宿に参加を許可された。

 ルシフが連れてきた教員二名──レオナルトとバーティンもディンたちと似たような理由で合宿を手伝うことにした。

 

「全員、揃っているな」

 

 ニーナは集合している人たちを順番に見ていき、一つ頷いた。

 ニーナがレオナルトとバーティンの方に視線を向ける。

 

「授業は本当によろしいのですか?」

 

「大丈夫だ。一通り課題は与えといた。三日くらいなら持つ」

 

 レオナルトが答え、バーティンがレオナルトの言葉に頷いた。

 

「分かりました。なら今日は──」

 

「隊長」

 

 ニーナの言葉を遮り、レイフォンが手をあげた。

 ニーナはレイフォンの方を見る。

 

「なんだ?」

 

「個人的にやりたいことがあるんで、僕は隊長たちの訓練から外してもらってもいいですか?」

 

「……何?」

 

 レイフォンの申し出に、その場にいる第十七小隊全員が面食らった。

 レイフォンが自らこういう言葉を言うのは珍しい。

 

「別に構わないが……一体何をするつもりだ?」

 

 レイフォンはルシフの方を見た。

 

「ルシフと一対一で闘ってみたいんです」

 

「……ほう?」

 

 ルシフが興味深そうにレイフォンを見る。

 レイフォンのこの言葉には全員が絶句した。

 ルシフの実力を誰よりも分かっている筈のレイフォンが、ルシフに闘いを挑んでいる。

 間違いなく無傷で済まない。

 

「おいおいレイフォンの奴、一体何考えてんだ!? 自分から地雷原に飛び込みやがったぞ」

 

 シャーニッドが信じられないといった表情をしている。

 

「やめろレイとん! ルッシーは容赦しないぞ!」

 

 ナルキがレイフォンの右腕を軽く掴んだ。

 メイシェンはこくこくと何度も頷いている。

 

「ツェルニ最強と言われてる二人の一対一……これは見逃せないね」

 

 ミィフィは目をキラキラさせてカメラを手に持った。

 

「レイフォン、そんなことになんの意味があるんです? バカなんですか?」

 

 フェリが無表情でそう言った。

 レイフォンは困ったような笑みを浮かべる。

 

「それを言われると返す言葉もないんですけど……僕がルシフに通用するのか知りたくなって……」

 

「クッ、アハハハハハハッ! 実力を知りながら俺に挑んでくるか! いいだろう! 遊んでやるぞ、アルセイフ!」

 

 こうなってしまったら、もう誰にも止められない。

 ルシフはくいっと顔を外の方向に動かし、レイフォンに外に出ろと暗に伝えた。

 レイフォンは頷き、宿泊施設の外に出る。レイフォンに続いてルシフも外に出た。

 宿泊施設の外に出ても二人は歩き続ける。

 互いの実力はよく分かっている。

 多少離れた程度では宿泊施設を巻き込むおそれがあった。

 宿泊施設も見えなくなるほど、二人は歩き続けた。

 やがて辺り一面平野の場所に、二人は来た。

 レイフォンは足を止める。

 ルシフはそこからさらに歩き、レイフォンから十メートル離れた場所で立ち止まった。

 ルシフがレイフォンの方に向き直る。

 その二人からかなり距離をとって、合宿に参加する全員が付いてきていた。

 ニーナたちはニーナたちで本来の訓練をする予定だったが、やはりこの二人の闘いが気になる。

 そのため本来の訓練を中止し、レイフォンとルシフの闘いの観戦と、何か命に関わる事態になったら命懸けで止めようと考えた。

 

「……ふぅー」

 

 レイフォンが静かに息を吐き出し、身体を戦闘状態に切り替えていく。

 ルシフは構えず、悠然とレイフォンを眺めている。

 ツェルニ最強を争うと言われる二人の勝負が今、始まろうとしていた。



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第32話 魔王VSレイフォン

 レイフォンは両腕を前に出して構えている。

 その構えを見て、ルシフは眉をひそめた。

 

「なめているのか?」

 

「……何が?」

 

「とぼけるな。剣帯にぶら下がってる錬金鋼(ソレ)は飾りか?」

 

「ああ──」

 

 レイフォンは剣帯の錬金鋼を一瞥する。

 

「君と通常の錬金鋼で闘っても、君の触れた瞬間錬金鋼を破壊する剄技の前にはムダだろ?

なら、最初から錬金鋼無しで闘う。それだけだよ。別に手加減するつもりはない」

 

「ふむ、良い判断だ」

 

 ルシフは右手の指を二本立てた。

 

「二?」

 

 レイフォンは怪訝そうに立てられた二本の指を見た。

 ルシフは首を横に振る。

 

「いや違う、二十だ。二十手、貴様にくれてやる」

 

 ルシフのこの言葉には、レイフォンのみならず周りにいたニーナたちも驚いた。

 何故なら、攻撃回数二十回までは一切反撃しないとルシフが言っているからだ。

 レイフォンの実力を知っているツェルニの面々からすれば、「油断し過ぎでは?」と思ってしまう。

 

「まーた始まったよ、大将の悪い癖」

 

 レオナルトはルシフを半ば呆れた表情で見た。

 

「悪い癖とは?」

 

 ニーナがレオナルトに尋ねた。

 レオナルトは視線をニーナの方に向ける。

 

「大将はな、格下とみた相手にはああやって自分にハンデをつけるんだよ。より闘いを楽しむためだと思うが、やっぱり俺はあんま好きじゃねぇな」

 

「その言葉……ルシフ様への背信と考えていいか?」

 

 バーティンが殺気をみなぎらせて、錬金鋼に手をかけた。

 レオナルトは眉をひそめる。

 

「お前な……好きな部分しかない人間なんざ、全ての自律型移動都市(レギオス)探したっていやしねぇよ。忠誠と盲信はちげぇって、いい加減学べ」

 

「何を言うか! 絶対の忠誠こそルシフ様が求める──!」

 

「はいはい、今は大将の闘いを見るのが先だ。大将の闘いが終わったら話を聞いてやらぁ」

 

「……絶対だからな!」

 

 そんな二人のやり取りを、ニーナたちは唖然と眺めていた。

 

「仲……悪いんですか?」

 

「いーや、価値観の違いってヤツかな。お互いに譲れない部分がぶつかっただけだ」

 

「それならいいんですが……」

 

「そんなことよりアイツ……レイフォンっつったか? かなりつえぇ武芸者だろ」

 

「分かるんですか?」

 

「構えや剄を見ればな。大将の実力知ってて闘うヤツは大抵怯えて縮こまるか緊張するもんだが、アイツにはそれがねぇ。大したもんだ」

 

 ニーナたちの視線が再びレイフォンとルシフの方に戻る。

 レイフォンの身体全体から剄が爆発した。

 剄の奔流で地面の砂がレイフォンとルシフの周囲に舞い上がる。

 互いの姿は砂埃に遮られた。

 ルシフは衝剄で周囲に舞う砂埃を吹き飛ばす。

 砂埃は霧散し、代わりにルシフの周囲に現れたのは四十人はいるレイフォン。

 活剄衝剄混合変化、千人衝。

 

「ルシフ、一つ聞いていいかい?」

 

 そこら中からレイフォンの声が響く。

 ルシフは未だに棒立ちのまま。

 

四十人一斉攻撃(コレ)は何手になる?」

 

「それは千人衝という剄技。よって、何百人いたとしても一手だ」

 

「そう。なら、いくよ」

 

 一手目。

 四十人のレイフォンが、同時に動いた。目にもとまらぬ速さでルシフに襲いかかる。全方向から同時に放たれる拳と蹴り。それら全てをルシフは両手でパリング。パリングされた分身体が次々に消えていく。

 二手目。

 内力系活剄、旋剄で本体のレイフォンがルシフに肉薄し、勢いを殺さず右足の廻し蹴り。ルシフは蹴りを右手で左方向に弾いた。レイフォンの体勢が僅かに崩れる。

 三手目。

 レイフォンは軸足である左足一本で跳躍。弾かれた力を利用して空中で一回転しながら、ルシフの頭上から右足のかかと落とし。ルシフは左手で受け止める。

 四手目。

 レイフォンが残っている左足でルシフの右側頭部に蹴りを放つ。ルシフは掴んでいる右足を離してスウェーバック。上体を後方に反らして紙一重でよけた。

 五手目。

 レイフォンは左足を素早く地に着け、一歩踏み込んで左のボディーブロー。上体を反らしたままのルシフは軽く跳んで右足でレイフォンの左腕を叩き落とす。

 六手目。

 レイフォンは内力系活剄で脚力を強化。身体を回転させながら周囲に衝剄を放ち、レイフォンを中心にした竜巻を発生させる。活剄衝剄混合変化、竜旋剄。空中にいるルシフは竜巻に呑み込まれた。ルシフは剄の密度を高めて周囲に放出。竜巻が消し飛ぶ。

 七手目。

 レイフォンが右手に剄を集中させ、竜旋剄により更に少し身体が浮かび上がったルシフ目掛けて放つ。廃都市に現れた塔の側面を破壊した、ルシフから盗んだ剄技。ルシフも同様に左手に剄を集中させて放ち、レイフォンの剄と相殺。剄を放出した反動でルシフの身体が更に浮かび上がる。

 八手目。

 レイフォンが内力系活剄、旋剄で空中のルシフに瞬く間に接近。旋剄の勢いのまま左の肘打ち。たとえルシフでも、何もない空中で自由には動けない。前三手はこの一手を確実に当てるための布石。ルシフは凄絶な笑みを浮かべ、頭上に右手で剄を放出。その反動でルシフの身体は一つ分下に移動した。レイフォンがルシフの真上を通り過ぎていく。

 

 ──まずい……!

 

 旋剄は爆発的な速度を得るが、方向転換や急停止はできない。つまり、今のレイフォンは隙だらけであり、ルシフは確実に攻撃を当てるチャンス。しかし、ルシフの方から剄の高まりは感じなかった。

 レイフォンは身体をひねり、ルシフの方に向き直る。ルシフは着地し、レイフォンの方に右手人差し指を立てて自分の方向にクイクイッと動かし、かかってこいと挑発。

 九手目。

 レイフォンが両手の指の間に針のように細い剄弾を複数形成し、ルシフ目掛けて放つ。外力系衝剄の変化、九乃。ルシフは鬱陶しそうに左腕を払い、全て消し飛ばす。

 十手目。

 

「レストレーション02!」

 

 その間にレイフォンは剣帯に吊るされている青石錬金鋼(サファイアダイト)を右手に持ち復元。レイフォンの右手に剣の柄だけ握られる。柄の先には何百という目に見えない細さの鋼糸。すぐさま鋼糸でルシフを囲むように陣を組み上げる。そのまま何百もの鋼糸でルシフを圧撃。人間相手にはあまりにも過分な技。

 肉片一つすら残らない強力な技を、レイフォンはルシフに対し躊躇なく使用した。レイフォンにはこの技がルシフに通じないという確信があった。

 ルシフは剄技、金剛絶牙を使用。ルシフに触れた鋼糸に武器破壊の剄が流れ込み、鋼糸は粉々になった。武器破壊の剄は鋼糸を破壊しながらどんどんレイフォンの柄に収束され、レイフォンの持つ柄にヒビが入っていく。

 十一手目。

 

「レストレーション01!」

 

 青石錬金鋼を鋼糸から剣にチェンジ。レイフォンの右手に砕けた鋼糸が集まり、ヒビだらけの剣が形作られる。剣の形状をなんとか保っているボロボロの剣を、ルシフ目掛けて投擲。凄まじい速さでルシフに向かっていく。ルシフは微動だにせず、剣はルシフにぶつかっただけで粉々になった。

 十二手目。

 ルシフの周囲に舞い散る青石錬金鋼の無数の欠片に、レイフォンが莫大な剄を流し込む。レイフォンもルシフ同様、錬金鋼の許容量を超える剄量を持つ武芸者。ルシフの周囲に漂う錬金鋼の無数の欠片が一気に膨張し爆発。ルシフは爆発する寸前に全方向に衝剄を放ち、無数の欠片を吹き飛ばした。

 十三手目。

 その行動を読んでいたレイフォンはルシフが衝剄を放った時には跳躍し、ルシフの頭上にいた。レイフォンは大きく息を吸い込み、呼気に剄を乗せ勢いよく吐く。

 

「かぁっ!」

 

 外力系衝剄の変化。ルッケンス秘奥、咆剄殺。震動波で分子の結合を破壊し、物質を破壊する。この剄技は金剛剄でも防ぐのは至難。

 

「かぁっ!」

 

 故にルシフも同様に咆剄殺を放ち、レイフォンの咆剄殺を中和。

 十四手目。

 未だルシフの頭上にいるレイフォンは左手に剄を収束させ、衝剄の砲弾を放つ。外力系衝剄の変化、剛昇弾。ルシフは右手でそれを横に弾いた。遠くで爆音が響く。

 十五手目。

 剛昇弾の反動を利用してルシフの頭上から移動し後方に着地したレイフォンは身体を回転させてルシフに突っ込む。外力系衝剄の変化、餓蛇。天剣授受者、カウンティアの剄技。回転により生まれた凄まじい衝撃波が零距離でルシフに叩きつけられる。ルシフは右腕を垂直に振り、衝撃波を剄で縦に両断。衝撃波はルシフの左右を通り過ぎていく。

 十六手目。

 レイフォンは回転で生まれた遠心力を利用した渾身の左廻し蹴りをルシフの腹部に浴びせる。ルシフはその蹴りを受けて数歩分滑るように後方に下がった。しかし、ダメージ自体は金剛剄で殺したらしく、ルシフの表情は未だに楽しそうな笑み。

 十七手目。

 レイフォンは化錬剄で剄を七匹の大蛇の形に変化。化錬剄の変化、七つ牙。天剣授受者、トロイアットの剄技。七匹の大蛇が一斉にルシフに食らいつく。ルシフも剄を七匹の大蛇に変化させ、レイフォンの大蛇にぶつける。ルシフが生み出した七匹の大蛇が、レイフォンの七匹の大蛇の首に噛みつき、首を食いちぎった。レイフォンが生み出した大蛇たちが消え、数瞬遅れてルシフの大蛇たちも消える。

 十八手目。

 レイフォンは衝剄を背後に向けて放ち、自身の身体を反動で爆発的に加速させ、ルシフの顔面に向かって右拳を振るう。外力系衝剄の変化、背狼衝。ルシフは半身になり、顔面にレイフォンの右拳が当たった瞬間、レイフォンの右拳をスリッピング・アウェイ。頭部を左に背けるように半回転させ、レイフォンの右拳を右頬を滑らすように受け流すことで、レイフォンの打撃の衝撃を外に逃がして無力化。レイフォンはルシフの多彩な防御技術に驚愕し、目を見開いた。

 十九手目。

 レイフォンはルシフの顎目掛けてすかさず左のアッパーカット。ルシフはそれを左手で受け止め、レイフォンの左拳を掴む。

 二十手目。

 レイフォンは右膝でルシフの腹部に蹴りを入れる。ルシフはレイフォンの左拳を掴んだまま、まるでボールでも投げるように左腕を動かした。レイフォンの蹴りが届く前にレイフォンの身体が宙を舞う。

 二十一手目。

 レイフォンは掴まれている左腕を支点にルシフの右脇腹に左足の蹴りを浴びせる。ルシフはレイフォンの左拳を放し、レイフォンの左足を右腕と右脇腹で挟み込んだ。レイフォンの動きが封じられる。

 

「──アルセイフ。もう十分楽しんだだろう?」

 

「え? ぐっ……!」

 

 レイフォンの腹部に、ルシフが左のボディーブローを叩き込む。

 レイフォンの身体は僅かに宙に浮いた。

 ルシフは挟んでいた左足を放し、宙に浮いているレイフォンの胴体に右足で蹴りを入れる。

 レイフォンは咄嗟に両腕をクロスさせて蹴りをガード。しかし衝撃までは殺せず、後方に吹き飛んで地面を二回転がったところで跳ね起き、中腰の姿勢でルシフを睨んだ。

 ルシフは構えず、悠然とレイフォンの方に歩いてくる。

 

「アルセイーフ、まだこの俺を楽しませてくれるんだろ?」

 

 レイフォンは瞬く間にルシフに接近し、右のストレート。ルシフは左足を高く上げて上段から垂直に蹴り下ろし、レイフォンの右拳を踏みつけ地面に縫い付ける。

 その影響でレイフォンの体勢は前に崩れ、下がったレイフォンの左側頭部に右膝蹴り。身動きのとれないレイフォンは金剛剄を使いダメージを軽減させる。その時の衝撃で軸足になっている左足がずれ、レイフォンの右拳が解放された。

 レイフォンは蹴りの衝撃に抗わず、衝撃に身を任せてルシフの左に一回転しながら移動。そのままルシフの左横からルシフの顔目掛けて左拳を放つ。

 

「阿呆がッ!」

 

 ルシフは左手の甲でレイフォンの左拳を弾き、流れるような動きで弾かれた影響で前面を開いたレイフォンの鳩尾(みぞおち)に右の掌底。レイフォンは後方に吹き飛んだ。

 ルシフは一回転して体勢を立て直したレイフォンを見据える。

 

「この俺がなんの意味もなく、二十手くれてやったとでも思ったか? 貴様の技のタイミング、速度、リズムはさっきの二十手で見切った」

 

 ルシフが反撃せずに攻めさせる理由は、正にこれのためである。

 反撃しないと分かっていれば、相手は伸び伸びと自然体で攻められる。自分に馴染みきった動きで。

 その動きを学習し、相手の百パーセントの攻撃を無力化する。

 それが自身に与えたハンデの裏に隠された狙い。

 レイフォンは両腕を前に出して構え、ルシフに右拳で殴りかかる。

 

「まだ懲りないか!」

 

 ルシフはレイフォンの右拳の突きを払い落とそうと左腕を動かす。その左腕は空を切った。

 

 ──……何?

 

 レイフォンの右拳はルシフの左腕が空を切った後にルシフの胸に届いた。

 ルシフは金剛剄で受け止める。ルシフの身体が僅かに後ろに下がった。

 レイフォンはすかさずバックステップで後退。

 内力系活剄で脚力を強化したレイフォンはルシフの周囲を縦横無尽に動き回り、様々な方向からルシフに襲いかかる。

 ルシフはそれらの動きを冷静に見極めながら感嘆した。

 

(全ての動きの技のタイミング、速度、リズムがそれぞれ違っている……レイフォン・アルセイフ、貴様の戦闘センスだけはこの俺に匹敵するか!)

 

 技のタイミング、速度、リズムを見切ったと言われても、馴染みきった動きを変化させるなど、武芸を極めた者ほど難しい。

 だからこそルシフはレイフォンに見切ったことを伝えた。分かったところでどうにもならないと高を(くく)っていたからだ。

 しかし、今のレイフォンの動きは変幻自在。

 拳を足で踏みつけるなどというなめきった技は使えなくなった。

 闘い始めた当初のように冷静に対処するしかない。

 ルシフはレイフォンの様々な攻撃を掴んで受け止めるようにした。

 掴んでレイフォンの動きが一瞬鈍くなったところにカウンターで拳と蹴りを浴びせる。

 レイフォンは金剛剄でダメージを軽減させながら何十回と攻めるが、それら全てにカウンターをとられた。

 レイフォンにとって不幸だったのは、レイフォンの動きを見てから対処できるほどルシフの動きが速く、ルシフの戦闘センスがレイフォンと同等だったこと。

 

「がはっ……!」

 

 ルシフの右拳が深々とレイフォンの腹に突き刺さった。

 

「もう十分楽しめた。だから──くたばれ」

 

 ルシフから莫大な剄が迸り、その剄がルシフの右足に集中。殴った時の軸足である左足を回転させ、右足の蹴り。

 レイフォンは咄嗟に後ろに跳び、ルシフの蹴りの威力を最小に抑える。レイフォンの身体は遥か後方に吹っ飛んだ。

 レイフォンは空中で一回転して着地。そのまま数メートル後ろにずり下がる。

 身体が止まったところでレイフォンの身体は折れ、両手を地面について荒く呼吸をする。

 そのままの姿勢でレイフォンは自分の胸──ルシフの蹴りが当たった部分を見た。そこにあった服は破れ、黒く内出血している。もしまともに食らっていたら、間違いなく骨が粉々になっていただろう。金剛剄を使用し蹴りの威力を最小にしてなお、この威力。

 

「……ははは、凄いや」

 

 レイフォンは荒く息をしながらも、笑みを浮かべた。

 確実に自分を戦闘不能にする。

 そんなルシフの意思が乗り移っているかのような蹴り。

 レイフォンはふとニーナと二人で特訓していた時のことが頭によぎった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「意思を具現化する力?」

 

 あれはルシフが女王陛下に深手を負わされ、入院した次の日のこと。

 練武館にある訓練場。

 既に復元された様々な錬金鋼の武器が壁に立てかけられている。

 

「ああ」

 

 ニーナはレイフォンの問いに一つ頷いた。

 

「ルシフが言うには、剄は己の身体から生み出されている。だから、意思を剄に反映させることも可能──らしい」

 

「そんな極端な……!」

 

 レイフォンは剄をそんな風に思ったことはない。

 剄はただの力であり、自分の一部。言うならば、胃や肺と同じなのだ。人を人外の域に到達させ、敵を倒せるようにする役割を与えられただけの臓器。鍛練を積めば使いこなせるようにはなるが、意思を剄が具現化するなど考えたことがなかった。

 大体剄が意思を具現化する力ならば、もっと剄は万能な筈だ。

 だが、実際はそんなことはない。

 レイフォンは顔を俯けた。

 

「そうか?」

 

 ニーナは二本の鉄鞭を両手で持ち、レイフォンに見せた。

 

「わたしはなんとなくだが、ルシフの言うことが理解できる。何故わたしが攻めることより守る方が得意なのかもな」

 

 レイフォンは顔を上げ、ニーナを見た。

 

「わたしはこの都市を守りたい。汚染獣や都市間戦争で闘う武芸者を倒したい気持ちより、この守りたいという気持ちが先にくる。だから、その意思にわたしの剄が応えて、防御の技ばかり上達していくんじゃないかと最近思い始めた。

レイフォン。剄が人の意思を具現化する力なんて、夢があっていいじゃないか。わたしたちは可能性を、剄を持たない人たちより多く与えられたんだ。

わたしはその可能性で、たくさんの人の可能性を守りたい」

 

 ニーナはレイフォンに優しく微笑んだ。

 レイフォンは手の中にある青石錬金鋼の剣を握りしめる。剣に流れる剄を、レイフォンはじっと見つめた。

 もし剄が意思を具現化するというのなら、自分の剄は何を表現している?

 その問いに答えはなく、剣に流れている剄が陽炎(かげろう)のように剣の周りを揺れていた。

 その話を聞いてから、剄を意思を具現化する力と考えて鍛練するようになった。

 結論から言うと、楽しかった。

 剄に対してより柔軟に接するようになったからか、または別の理由があるのか。理由は分からないが、以前使えないと諦めていた剄技を会得できたり、無理だと思っていたルシフの剄技も少しだけ使えるようになった。

 そして、気付いてしまった。

 自分は別に武芸が嫌いだったんじゃない。自分が武芸をすることで傷付く人たち──リーリンや養父のデルクに迷惑をかけたくなかっただけだったんだと。周りから罵声を浴びせられたり、責められるのが嫌なだけだったんだと。

 天剣になっても、貪欲に力を求めた。他の天剣授受者から教えを受けたり、剄技も盗んだ。そして、剄はそんなレイフォンに応えた。

 レイフォンは自分の剄にどんな意思が反映されているのか、なんとなく悟った。

 

 ──誰よりも強くなりたい。

 

 それが、きっと自分の剄の根源にある。

 誰よりも強くなれば、きっと孤児院のみんなも、大切な人たちも何もかも守れると思っていたから。

 リーリンの手を、ずっと離さないでいられると思ったから。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レイフォンは身体を起こし、ルシフを見据える。

 

 ──ルシフ、君は強い。力だけじゃない。君からはいつも熱を感じる。自分にはない本気さを。

 

 レイフォンの脳裏に、ルシフがアルシェイラに放った最後の熱線の光景と、ルシフが廃都市を消滅させた光景がよぎる。

 

 ──だからこそ、君は危ない。その本気さが、君を暴走させる。君が暴走した時、止められる誰かがいなくちゃいけない。

 

 レイフォンは莫大な剄を身に纏う。

 

「ルシフ。新しく編み出した剄技で、僕は君を倒す」

 

「……ほう?」

 

 ルシフは眉を吊り上げた。

 

「この俺にまだ勝つ気か? 貴様がこの俺に勝てるものか」

 

「やってみないと分からない」

 

「やってみんと分からんのは二流レベルの雑魚だけだ。俺とお前は違う」

 

「なら、なんで君は女王陛下とあんなになるまで闘ったんだ?」

 

 ルシフが微かに目を見開いた。

 

「それでも勝ちたかったから闘ったんだろ! 理屈じゃないんだ! 君も! 僕も!」

 

 レイフォンが閃光のごとき速さで駆ける。レイフォンが通った後はまるで爆発でもしたかのように土煙が舞い上がった。

 ルシフはレイフォンを迎え撃つため、腰を落として両腕を前に出し、構える。

 レイフォンは右腕を後ろに引いた。

 

 ──剄が意思を反映させると言うなら、僕のこの意思を反映させてみせろ!

 

 レイフォンがルシフの顔面目掛けて右のストレート。

 それを見て、ルシフはレイフォンを嘲笑った。

 

 ──あれだけ大口を叩いてそれか。

 

 確かに今までの中で一番速く、剄も集中しているが、それだけだ。

 ルシフはレイフォンの右ストレートを左の手の甲で受け流す。

 レイフォンの右拳がルシフの左頬に擦れながら通り過ぎる。その瞬間、ルシフの左頬に痺れがきた。

 ルシフは驚き、顔を少し動かしてレイフォンの右拳から左頬を離した。

 レイフォンが触れたルシフの左頬は、ナイフで切られたように横一文字の切り傷が生まれていた。血が流れないほどに浅い切り傷ではあるが。

 ルシフの頭に一気に血が上った。

 ルシフはレイフォンの腹に右膝蹴りを食らわす。

 レイフォンの身体はくの字に折れ曲がった。

 ルシフは下がったレイフォンの首筋に左手で手刀を叩き込む。レイフォンの意識はその一撃で刈り取られ、地面に倒れた。

 ルシフは倒れたレイフォンを信じられないといった表情で睨んだ。

 

 ──最後の攻撃……間違いなく俺の方が剄量が上だった。なのに、俺に傷を付けた。一体こいつはあの時何をした?

 

 ただの右ストレートだった。

 目を離したのは左手の甲で受け流してから。

 その後は視界から奴の右拳が消えた。

 アルセイフの剄に変化があったとすれば、その時。

 考えられる可能性は、アルセイフが金剛剄か剄技そのものを無効化させる剄技を編み出した可能性。

 ルシフは唇の端を吊り上げた。

 

 ──なかなかやるじゃないか、アルセイフ。それでこそ、『鋼殻のレギオス』の主人公だ。

 

 ルシフはレイフォンから視線を外し、身を翻す。

 ルシフの視界にバーティンとマイがタオルを持って近付いてくるのが見えた。

 こうして、時間にして五分にも満たない勝負は、ルシフの勝利で決着がついた。




RPGでよくあるラスボスによる主人公敗北イベントです。
レイフォンが実は武芸が嫌いじゃないという根拠なんですが、リーリンからデルクに渡された錬金鋼を受け取った後に、ノリノリで闘うレイフォンの描写が原作にあるんですよね。
あっ……これ、絶対レイフォン武芸好きやん!ってその時思い、今回のような心理描写になりました。


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第33話 魔王の料理

 レイフォンはゆっくりと目を開けた。

 そのまま目だけを動かし、周りを確認する。

 ベッドは三つ並んでいて、中央のベッドに自分は寝かされている。部屋の隅にはパンパンに膨れ上がったスポーツバッグが置いてあった。

 そのスポーツバッグに、レイフォンは見覚えがある。

 それは紛れもなく自分がこの合宿のために準備した宿泊用の衣類などを詰め込んだスポーツバッグ。

 つまり、寝かされている部屋は自分の部屋。

 レイフォンは身体を起こそうとして、首筋に走った痛みに顔を歪めた。ベッドに仰向けに倒れこむ。剄を身体中に意識的に巡らせる。

 

「……あ、そうか。僕はルシフに負けたんだ」

 

 負けた悔しさは別になかった。

 やっぱりかという納得だけが心にあった。

 勝てる見込みがゼロに近かったのは分かっていたし、ルシフに勝つイメージすらできなかったのに現実で勝てるわけがない。

 これで分かった。

 ルシフはもう僕がどれだけ努力しても届かない高みに上っている。僕だけじゃルシフが暴走した時、ルシフを止められない。

 そこまで思考して、部屋の扉が無造作に開けられた。ノックも無しだ。

 レイフォンは視線を扉の方に向けた。そこにはフェリが立っている。

 

「気が付きましたか?」

 

「ええ、たった今」

 

 フェリはレイフォンが寝ているベッドまで近付いた。その手には、白い布がかけられている水が入ったバケツを持っている。

 フェリはバケツの水に白い布を浸し、ぎゅっと布を絞って余分な水を布から抜く。

 

「頭、少しいいですか?」

 

「はい」

 

 レイフォンの頭を少し上げ、フェリが首筋に布を当てた。首にひんやりとした感触が伝わってくる。気持ちいいと、素直に思った。

 布を首筋に当てたら、レイフォンの頭からフェリは手を離した。

 フェリはレイフォンの顔をじっと見つめる。

 

「……あの? 先輩?」

 

「フォンフォン。二人の時は呼び捨てで呼ぶと決めた筈ですが」

 

 確かに老性一期と戦う前の移動の時、強引にフェリがそう決めた。

 フェリも自分をあだ名で呼んでほしいと言って、レイフォンは色々あだ名を考えたが、結局最後は名前を呼び捨てで呼ぶだけでいいとなった。

 

「すいません。えーと……フェリ」

 

 身体は十二才くらいの大きさでも、フェリは自分よりも年上。

 呼び捨てで呼ぶのは未だに慣れない。

 

「あなたは本当にバカですね」

 

「いきなりそれ!?」

 

「こうなると薄々分かっていたんでしょう? それなのに、わざわざ自分から傷付くような真似をして、これがバカじゃなくてなんなんですか」

 

「むむむ……」

 

「何がむむむですか! まったく! 『僕は君を倒す』とかカッコいいこと言ってたくせに。新しく編み出した剄技は大したことなかったようですね」

 

 結果だけを見れば、レイフォンの新しい剄技はルシフの頬を浅く切っただけで終わった。弱い剄技と思われても仕方がない。

 

「ああ、実はその剄技、失敗したんです。少し剥がしただけで終わっちゃいました」

 

「失敗? なら、成功していたらルシフに勝てたんですか?」

 

「ええ、多分。ただ、ルシフとは一生成功しないと思いますが」

 

「駄目じゃないですか」

 

「まぁ、そうですね。でも、周囲に女王陛下や天剣授受者が複数いたら、ルシフに勝てるかもしれません。もっとも、彼らが僕に協力してもらうこと前提ですが」

 

 しかし、女王陛下も天剣授受者も我が強い。自分に協力する可能性は高くないだろう。良くて半々。あるいは、ルシフがお互いにとって倒すべき『敵』にならない限り。

 できれば、そんな日は来てほしくない。

 最初の頃は、なんてイヤな奴だと思った。力を誇示して周囲を威圧し、あるいは屈服させ、己の欲を通す。他人が何を思おうが、どうなろうが知ったことではないという態度。

 その印象が変わってきたのは、ツェルニに汚染獣三体が襲来した時のルシフの行動を映像で観た後。

 ルシフにも都市に住む人々を守ろうとする意思があったんだと、その時に気付いた。

 それからはそんなにイヤな奴だと思わなくなった。たまに腹が立つようなことを言ったり、他人を好き放題振り回すところに苛立ちを覚えたりしたが、それでも最初よりは印象が良くなってきている。

 

「……私には分かりません。なんであなたはルシフに勝とうとするんですか? しかも武芸で。あなたは武芸以外の道を探したかったんじゃないんですか?」

 

 フェリがレイフォンを責めるように無表情で睨んでいた。

 同じ思いを持つ者同士だった二人。

 フェリはレイフォンに裏切られたと感じているのかもしれない。

 レイフォンとて、武芸以外の道を探すのを諦めたわけではない。

 レイフォンが武芸をするのを快く思わない者はグレンダンには大勢いて、武芸以外の道を見つけるのがレイフォンにとっても、彼らにとっても最良なのだ。

 ただ、なんとなくではあるが、いつかルシフとぶつかる日が来ると思っている。

 レイフォンには一つ懸念があった。

 それは、ルシフがアルシェイラにボロボロにされたこと。

 ルシフの性格からして、負けたままで終わらす筈がない。いつか力を付けて、グレンダンに天剣を奪いに行くとも言っていた。

 今のルシフが、グレンダンを戦場に女王と天剣授受者を相手にする。

 正直な話、あの時のように都市の被害を考えず、都市そのものを消し飛ばすような技をルシフが暴走して使うイメージしか思いつかなかった。

 グレンダンには守りたい人たちがいる。

 だから、ルシフが暴走する前に倒さなければならないのだ。その日が来るまでに、武芸の実力を高めなければならないのだ。

 

「せんぱ……フェリは、ルシフのことどう思います?」

 

「力で自分のわがままを通す、最低な男だと思います」

 

 フェリの容赦ない言葉に、レイフォンは苦笑した。

 

「確かに、なんでも力で思い通りにしようとする奴です。だからこそ、僕の大事なものを力でどうにかしようとした時に、なんとかして止めたいって思ったんです」

 

「……フォンフォン?」

 

 フェリがレイフォンの顔を訝しげに見つめた。

 レイフォンはフェリの視線に気付き、いつの間にか強張っていた表情を和らげる。

 

「え~と、あくまで万が一の場合ですから、そこまで真剣に考えてるわけじゃないですけど」

 

「……そうですか。隊長から伝言があります。夕食まで安静にしていろ、とのことです」

 

「分かりました」

 

 フェリはバケツを持ち直して、レイフォンの部屋の扉に向かって歩く。

 扉の前で、フェリが立ち止まった。

 

「フォンフォン、その万が一が来ないといいですね。多分あなたでは、ルシフを倒せないと思いますから」

 

「……それは僕自身がよく分かってますよ」

 

 フェリは扉を開け、レイフォンの部屋から出ていった。

 レイフォンはなんとなく天井を眺めた。

 

 ──ルシフに『勝てない』じゃなくて、『倒せない』……か。

 

 レイフォンはしばらくそうしていたが、やがて目を閉じて自身の体力回復のために眠った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 広いキッチン。

 黒髪の少女──メイシェンがエプロンを身に付けて黙々と野菜を洗っていた。

 メイシェンの目は若干涙目。

 

 ──なんでこんなことに……。

 

 おかしい。

 ナッキとミィの話では、第十七小隊の中で料理ができるのはレイとんだけらしく、一緒に料理ができるかもしれないと教えられた。

 メイシェンはそぉ~と自分の隣にいる人物を見る。

 赤みがかった黒髪に赤の瞳──ルシフ・ディ・アシェナがメイシェンと同じように野菜を洗っていた。

 おかしい。何この状況。

 メイシェンはありったけの勇気を振り絞り、口を開いた。

 

「あの……なんでここにいるんですか? みんなと訓練……しなくていいんですか?」

 

「今日はもういい。アルセイフと闘ってそれなりに楽しめたからな。だから、今日はアルセイフに前の借りを返すために料理を作ってやることにした」

 

「借り……ですか?」

 

「ああ。廃都市探索任務の時に奴に助けられた。その時の借りだ。

それはそうと、お前は何の料理を作るつもりだ?」

 

 ルシフがメイシェンの方に目をやり、メイシェンはしどろもどろになった。目線をあちこちに彷徨わせる。

 

「え……っと、シチュー……と、鶏肉の香草蒸し……です」

 

「ふむ、シチューと鶏肉の香草蒸しか。なら俺は、オムライスとサラダを作ろう」

 

「あ……」

 

 メイシェンは涙目で顔を俯けた。

 ルシフは怪訝そうな表情になる。

 

「どうした?」

 

「……えっと、わたしだけじゃそこまで作れないって思って……パン……準備してて……」

 

 ルシフはメイシェンの言葉に合点がいき、一つ頷いた。

 

「成る程な。なら、オムライスは明日にしよう。今日はそのパンでハンバーガーを作ることにする」

 

 メイシェンは目を丸くした。

 

「……ハンバーガー……って何?」

 

「ああ、お前は知らないか。軽く焼いたパンの真ん中を切り、その間に肉や野菜を入れて挟む……サンドイッチのような料理だな。だが、ハンバーガーはその名の通り、肉をいかに美味くパンで食べるかを考えた料理。サンドイッチとはまた違った味と食感だ」

 

「へぇ~」

 

 メイシェンは見たことも聞いたこともない料理に目を輝かせた。

 

「ハンバーガーならフライドポテトもいるな。サラダはレタスサラダにするか」

 

 二人は本格的に調理に入った。

 料理ができる人間らしく、要領よく下ごしらえをしていく。

 メイシェンは鶏肉に塩をふって揉んだり、野菜を食べやすい大きさに包丁で切っていた。

 ルシフは牛肉を包丁で細かく刻んだり、トマトや野菜を薄切りにしていた。

 メイシェンはルシフの料理慣れした動きに驚いた。

 それに、料理している姿も不思議とルシフは様になっている。場違いの筈なのに、そんなこと一切思えない。

 だからこそ、メイシェンは複雑な気持ちになった。

 この動きが一朝一夕で身に付く動きではなく、料理に真剣に向き合った人間だけがたどり着ける動きだと、メイシェンは理解できるからだ。

 料理が嫌いなら、こんなにも楽しそうに料理はできない。

 

「あの……ルッシーは料理、好きなんですか?」

 

「ああ。奥が深いからな」

 

 ルシフはじゃがいもを半分に切り、それぞれくし切りで六等分していた。

 

「奥が深いから……好き?」

 

「料理には明確な正解がない分、どこまででも突き詰められる。その試行錯誤が楽しい」

 

「わたしも……好きです。美味しくしたいって気持ちを込めれば込めるほど、料理が美味しくなっていく気がするし、美味しそうに料理を食べてる人見ると、こっちも嬉しくなるから……あ、ごめん……なさい。一人で興奮して……」

 

 メイシェンは顔を赤くした。

 

「いや、いいんじゃないか。そこまで熱中できるものがあるのは素晴らしいことだと思う」

 

「……そうかな」

 

「そうだ。この俺が言うのだから、間違いない」

 

 ルシフのどこまでも自信満々な言葉に、メイシェンは微かに笑みを浮かべた。

 

「……ありがとう」

 

 それからしばらく無言で二人は調理に専念した。

 そして、もうすぐ調理が終わるところで、メイシェンは口を開いた。

 

「……今のルッシーは……怖くないね」

 

「うん? 何を言っている?」

 

「わたし、料理好きな人に悪い人はいないって思ってて……でも、ルッシーはいつも怖い雰囲気だから、なんで今みたいに怖い雰囲気を無くさないのかなって。そうやって怖い雰囲気でいても、周りの人が離れるだけだよ」

 

「別にお前には関係ないだろう」

 

「関係……あるよ。わたしだって、できたらミィみたいにルッシーと話したいもん。でも、怖いの。怖くてたまらないの。どうしてなの? どうして今のルッシーみたいに、怖い雰囲気を無くさないの? 周りの人を無意味に怖がらせるの、止めてください」

 

 メイシェンは剄を使えない。

 だから、ルシフの威圧的な剄を正確に感じられないが、それでもなんとなくは感じられる。

 メイシェンは今回料理をルシフと一緒にして、ルシフが普段身に纏っている威圧的な剄はわざとやっていると確信した。

 

「──無理だ」

 

 メイシェンは驚いて目を見開いた。

 

「……どうしてですか?」

 

「必要だからだ。俺の目指すもののために」

 

「周りから怖がられるのが必要なことってなんです?」

 

「それをお前が知る必要はない」

 

「……そう。なら……もう何も言いません」

 

 やはり、この人は好きになれない。

 メイシェンはそれきり口を一切開かず、作った料理の盛り付けを始めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 訓練が終わり、夕食の時間。

 全員が広いテーブルの席についている。彼らの前にはそれぞれシチューに鶏肉の香草蒸し、ハンバーガー、フライドポテト、レタスサラダが置かれていた。テーブル中央にはパンが盛られた皿。

 誰もがごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「え……と、シチューと鶏肉の香草蒸しはわたしが作りました。ハンバーガーっていうのと、フライドポテト、レタスサラダはルッシーが作りました」

 

「何!? ルシフ、お前料理ができたのか!?」

 

 ニーナは絶句した。

 

「俺はなんでもできるからな、基本的に」

 

「もし足らなかったら、中央にあるパンを食べてください」

 

「ああ、了解した。ありがとう。じゃあ、せっかくの料理が冷める前にいただこう」

 

 ニーナの言葉を合図に、全員が目の前の料理を食べ始める。

 ニーナは紙に包まれたハンバーガーを手に取った。肉やチーズ、野菜に黄色と赤色のソースがかけられ、パンに挟まれている。

 

(これは……サンドイッチみたいなものか?)

 

 ニーナはハンバーガーをひとかじり。

 

「んッ!?」

 

 あまりの美味しさに、ニーナは思わず声が出た。

 軽く焼かれたパンの柔らかく香ばしい食感。

 次に、肉の柔らかくもしっかりとした食感がニーナの口に広がる。脂を含んだ肉汁が口の中にとろけ、シンプルに味付けされた塩と香辛料が、肉の味を殺さず肉の旨味を更に引き出していた。

 そして、甘酸っぱいソースで味付けされた野菜が肉の味を引き立て、とろけたチーズがそれらにアクセントを加える。

 口の中で挟まれた具材が絶妙に調和し、変化していく食感と味を十分に楽しんだ後、ニーナはゆっくりと飲み込む。

 今、ニーナを満たしているのは満足感。

 こんな料理を、まだまだ楽しめる。本当に幸せだと思う。

 ニーナはちらりと周りを見た。

 誰もが最初にハンバーガーを食べたらしく、紙包みを手に持って満足そうにため息をついていた。

 やはり、誰もがこうなるか。

 正直、ここまで美味しい料理はツェルニに来てからは全く、自分が育った都市でもあるかないかといったレベルだった。

 ルシフがこれを作ったというのは信じがたいが、もし本当なら神は一体いくつ才能をルシフに授けたのか。

 ニーナはハンバーガーを皿に戻した。一気に食べてしまうのはもったいないと思ってしまったのだ。

 ニーナは箸でフライドポテトを一つつまむ。フライドポテトの皿の隅にはケチャップがある。

 

 ──さすがに、これは誰が作ろうと差はそんなに出ないだろう。

 

 ニーナはとりあえず塩だけで味付けされたフライドポテトをそのまま口に入れる。

 ニーナは数秒前の自分をぶん殴りたい気持ちになった。

 全く違う。

 最初にカリッとした食感。そして、口の中でポテトがほろほろととける。ポテト本来の甘みと塩のしょっぱさが口の中を満たしていく。シンプルであるが故に、ポテトの味と食感を存分に味わえる、素晴らしい出来のフライドポテト。

 次にニーナはケチャップを付けて、フライドポテトを食べる。

 

「ッ……!?」

 

 これは反則。

 甘みとしょっぱさに甘酸っぱさが加わり、更にポテトを味わい深いものにしている。

 これがフライドポテト……だと?

 なら、今まで食べてきたフライドポテトはなんだったんだ?

 これを食べた後に今まで食べてきたフライドポテトを思い出すと、それらがポテトを冒涜しているようにさえ思えてしまった。

 

 ──いかんぞこれは……。本当にいかん。

 

 ルシフ……なんて恐ろしい男だ。

 料理一つで価値観すら崩壊させるほどの衝撃を与えるとは……。

 瞬く間にテーブルから料理がなくなっていく。

 ルシフの料理にも負けず劣らずのメイシェンの料理も大好評だった。 

 テーブル中央にあったパンも全部無くなっていた。シチューがパンの最高の味付けになったのだ。

 テーブルの上にあった料理は全て平らげられた。

 

「ごちそうさまでした」

 

 ニーナは両手を合わせた。

 

「いや~、最高の夕食だった。ルシフ、お前がまさかここまで料理上手だとは思わなかったぜ」

 

 シャーニッドは満足そうに腹を右手で軽くさすっている。

 

「久しぶりに大将の料理を食ったが、やっぱ一番だわ」

 

「本当に美味しかったよルシフちゃん! 洗い物は私がするね」

 

 バーティンがテーブルの上の空いた皿をキッチンに持っていく。

 マイもバーティン同様に空いた皿を手に持った。

 

「私も手伝います」

 

 皿を持って奥の方に消えていく二人をナルキとミィフィはテーブルに座って眺めていた。

 

「わたしも手伝ってこようかな。色々あの二人からルッシーについて話を聞きたいし!」

 

「わたしは遠慮しとくよ。メイもいるし、あまり大人数でも手持ちぶさたになるだけだしな。シャワー浴びてくる」

 

 こうして、合宿初日は終了した。



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第34話 ハイアの心情

 外縁部近くにある放浪バス。サリンバン教導傭兵団の家でもあるそのバスに、サリンバン教導傭兵団全員が集まっていた。

 ハイアはフェルマウスに目線をやる。

 

「もう大丈夫そうさ~」

 

 ツェルニの念威操者に負わされた傷。全治一、二ヶ月の重傷状態だったフェルマウスは、ここにきてようやくほぼ完治の状態にまで回復した。

 

『心配をかけた』

 

 フェルマウスの付近に浮いている念威端子の一つから声が聞こえた。

 フェルマウスは頭から全身をフードとマントで隠しており、フードから覗く顔には硬質の仮面を被っている。手には革の手袋をはめていて、フェルマウスの地肌は一切見えない。

 フェルマウスは汚染獣の臭いを知るため、都市の外に生身でいたことがある。

 汚染獣の臭いを知れば、念威端子が届かない場所でも、臭いから汚染獣の動きを予測できる。

 その能力の代償に、フェルマウスの身体は汚染物質に侵されていた。普通の人間なら死んでいるが、幸か不幸か、フェルマウスは汚染物質に耐性があり、死ななかった。その代わり、皮膚は爛れ、声帯もない。

 故に、フェルマウスは念威端子で音声を作らないと話せない。

 

「本当さ~。次はこんな都市の念威操者に遅れをとらないでほしいさ~。あんたはサリンバン教導傭兵団の念威操者なんだから」

 

 その言葉に含まれる意味を、サリンバン教導傭兵団の団員全員が理解していた。

 サリンバン教導傭兵団は戦いを生業とし、戦いの中で生きてきた武芸者集団であり、各都市にも名が広まるほど有名。

 そんな彼らが、未熟者の集まりである学園都市の学生に負けるなど許されない。たとえ学園都市にいるのが不思議なくらいレベルの高い相手だったとしても。

 

『今まで見たことがないタイプの念威操者だったためいいようにやられたが、タネはもう分かった。もうあの念威操者の少女にやられない。ここにいる全員』

 

「やっぱりタダでやられたあんたじゃなかったか。で、あの念威操者について分かったことってなんさ?」

 

『まず前提として、念威操者と武芸者の剄は全く別物。つまり、念威操者は錬金鋼(ダイト)に剄を流して錬金鋼の能力を強化することはできない』

 

 その場にいる全員が頷いた。

 だが、実際にあの念威操者の少女は人を念威端子で切っている。

 

『この事実から、あの念威操者は念威端子そのものに殺傷力を与えている。だから、念威端子が錬金鋼以上の切れ味になることはない』

 

 おそらく錬金鋼の設定で、あの念威操者は六角形の側面全てを剣や刀の刀身のようなものにしているのだろう。上面と下面は何も手をつけず、自分が乗っても大丈夫なようにしている。

 しかし、念威操者が使う重晶錬金鋼(バーライトダイト)は念威の能力を高めるのに重点を置いており、鋼鉄錬金鋼(アイアンダイト)に比べれば切れ味など大したものではない。

 

「成る程。要は活剄で身体強化すればそれだけで切れなくなるってわけね」

 

 念威端子を武器にすることに度肝を抜かれ冷静さを誰もが欠いていたため、防御よりも回避の方に比重を置いた。

 だが、ただ剄で防御力を高めるだけであの念威操者を無力化できる。

 

「おれっちたちの剄量なら、重晶錬金鋼の硬度を上回る身体強化なんざ楽勝さ~。これで、あの念威操者はもうおれっちたちの敵じゃなくなった。

あとはルシフをどう捕らえるか、考えないとさ~」

 

 その場の全員の顔が沈む。

 一方的に蹂躙されたのを思い出し、身体を震わせている者もいた。

 

「……団長。どうしてもあの男の子を捕まえないといけないんですか?」

 

 金髪で大きなメガネをかけている少女が口を開いた。

 

「サリンバン教導傭兵団はなんのために生まれたさ~?」

 

「それは……廃貴族をグレンダンに持ち帰るため……ですけど、あの男の子はわたしたちがどうこうできるレベルじゃありません! 廃貴族なしで団長と互角なんです! グレンダンからの応援が到着してからでも──」

 

「ミュンファ、ちょっと黙るさ」

 

「ッ! ハイアちゃん!」

 

「おれっちだってバカじゃない。廃貴族が暴走する直前のあいつの言葉を思い出してみるさ~」

 

 ──うぐっ……お前……この俺を……アアアアアッ!

 

 全員の脳裏にその時の光景がよぎっていた。

 その後、ルシフは廃貴族に身体を乗っ取られた。

 

「おれっちが考えるに、ルシフと廃貴族は上手くいってない。ルシフだって早いとこ廃貴族を追い出したいと考えてる筈さ~」

 

『戦うのではなく、交渉するのか』

 

「その通りさ~。交渉が失敗したら、その時はルシフの意識を一瞬で刈り取る。ルシフの意識がなければ、廃貴族なんか檻に入れられた獣みたいなもんさ~」

 

 いかに廃貴族と言えど、死人を操ったという話は聞いたことがない。

 操れる条件は操る人間の状態が関係あるのではないか、とハイアは考えた。

 

『賢明な判断だ。交渉するという考えはな。だが、失敗したら戦闘を仕掛けるというのは考え直した方がいいと私は思う』

 

「なんでさ?」

 

『まず、限りなくルシフの意識を刈り取れる可能性が低い。瞬間的な剄量の増加も、あの男ならば咄嗟に対応してくる』

 

「だから、交渉であいつにこっちが友好的だと思わせるんさ。油断させて一瞬でも奴の反応を鈍らせれば、それでこっちの勝ちさ~」

 

『……それと、つい最近このツェルニには教員が五人きた』

 

 フェルマウスはその時には念威を使えるまで回復していたため、バスから出なくてもその情報を得ていた。

 

「知ってるさ~。生徒会長から聞いた。ルシフが教員を選んだっていうのも知ってる。けど、それがどうした? 一度も教員を見てないけど、おれっちたちサリンバン教導傭兵団を相手にできる奴がグレンダン以外の都市にそうそういるわけないさ~」

 

 ルシフに負わされた傷を癒すため、団員たちはここ一ヶ月ほとんどバスから出なかった。教員が来るという情報も、カリアンが見舞いついでに教えてくれなかったら、フェルマウスに言われるまで気付かなかったかもしれない。

 

『教員として来た五人の中に一人、私が知っている人物がいる。いや、傭兵をやっている人間ならば、大抵が知っている人物だ。もっとも、数年前に彼の噂は途絶えたから、団長は覚えていないかもしれない」

 

 ハイアは顔をしかめた。

 心当たりはない。

 ハイアは周りの団員たちに目を向ける。

 団員の内の何人かが顔を青くしているのが分かった。

 

「まさか……『人間凶器』?」

 

 団員の一人が呟いた言葉。

 フェルマウスはゆっくりと頷く。

 ハイアやミュンファといった若い人間以外は全員身体を強張らせた。

 

「なんさ? その『人間凶器』ってのは」

 

『ありとあらゆる刀術を極めた傭兵。彼の刀術は辺りに血の雨を降らし、汚染獣も武芸者も血の海に沈む。彼の味方以外立っているものはない。金次第で味方も平然と斬り殺していくところから、『人間凶器』という二つ名がつけられた』

 

「……そいつが今、ツェルニにいるのかい?」

 

『おそらく間違いない。そんな人物が、ルシフという男の呼びかけに応じ、ここまで来た。もし他の四人も同じレベルの武芸者だったとしたら、ルシフに手出しするのは危険だ』

 

「なら、どうするんさ?」

 

『とりあえず、私が念威端子で『人間凶器』と話をしてみよう。金額次第で味方に引き込めるかもしれない』

 

「……ふーん。それじゃあ、これからの行動はフェルマウスとそいつの話し合いが終わったら考えるさ~」

 

 ハイア以外の全員が頷いた。

 ハイアはバスから出て、バスの上に跳び乗った。

 周囲からの目がなくなり、ハイアは深呼吸をして身体をリラックスさせる。

 途端にハイアの身体が僅かに震えだした。

 抑え込んでいた恐怖心が、気の緩みとともに外に溢れ出す。

 ルシフへの恐怖。

 何もできず一方的に壊された恐怖が、ルシフと戦おうと考える度に暴れだす。

 

 ──大丈夫さ。廃貴族を暴走させないように戦えば、おれっちたちだけであいつを捕まえられる。

 

 ハイアはバスの上に寝転がった。

 空には星空が広がり、満月が見えた。

 汚染物質の少ないところに今いるらしい。

 

 ──見ていてくれ、リュホウ。廃貴族を手土産にグレンダンに帰って……必ず天剣を手に入れてみせるから。

 

 リュホウとレイフォンの師であるデルクは兄弟弟子だった。

 リュホウはよくハイアにデルクの話をした。

 デルクの弟子が天剣授受者になったと聞いて、リュホウは本当に嬉しそうだった。

 ハイアの顔が歪む。

 おれっちがいるのに、なんであんたは他人の弟子でそんなに喜んでいるんだと、その時感じた。

 兄弟弟子のデルクの弟子が天剣授受者になれて、リュホウの弟子であるおれっちがなれない筈がない。

 天剣授受者になれば、リュホウの方が優れていると、きっと周りに知らしめられる。

 たとえリュホウがもういなくても、リュホウの弟子としてやらなければならない。

 ハイアは自身の錬金鋼を握りしめた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 薄暗い室内。

 中央部にあるバーのカウンター席で、グラスを傾けている髭を生やした中年の男性がいる。

 

「あ~、仕事終わりのコレはやっぱたまんねぇわ」

 

 バーテンダーの女子生徒が苦笑する。

 

「先生、飲み過ぎ。もう五杯目だよ。ま、こっちは儲かって嬉しいけどね」

 

「可愛い姉ちゃんがいるから酒が進んで仕方ねぇんだわ。それに、愛想もいいしスタイルも抜群。こりゃ周りの男がほっとかねぇな」

 

「おだてても代金はまけないからね!」

 

「はははははッ、そりゃ残念!」

 

 会話を楽しみながら、中年の男性は何度もグラスを傾ける。

 

「あッ!」

 

 不意にバーテンダーの女子生徒が声を上げた。

 中年の男性はグラスをカウンターテーブルに置き、目線だけ左横に向ける。

 中年の男性から少し離れた左横の位置に、花弁のような形をした念威端子が浮いていた。

 どうやら外から入ってきたようだ。

 

『少しだけお時間よろしいでしょうか? エリゴ殿』

 

「……少し待っててくれ」

 

 エリゴはグラスに残っている酒を一気に飲み干した。

 財布から酒の代金を出しながら、席を立つ。

 

「最高の酒と時間だったわ。ありがとよ」

 

「お礼なんていらないよ。……はい、お釣り」

 

「釣りはいらねぇ。姉ちゃんにサービスだ」

 

「え? いいの?」

 

「姉ちゃんのおかげで楽しく酒が飲めたからよ、ほんの気持ちだ。悪いと思うなら、次来た時もっと俺の相手をしてくれ」

 

「あははっ、そうするよ。今日はありがとう、先生」

 

 エリゴはカウンターに背を向けた。

 

「念威端子のお相手さん、俺にどんな用があるかは知らねぇが、周りに人がいねぇほうがいいんだろ? 俺に付いてこい」

 

『分かりました』

 

 エリゴと念威端子はバーから出ていった。

 

 

 

 エリゴと念威端子は中央部から大分離れ、今は使われていない建造物が立ち並ぶ寂れた通りまできた。

 

「この辺ってとこか」

 

 エリゴが近くの段差に腰を下ろす。

 

「さて、俺に用があるんだろ? 話してみ」

 

『分かりました。話の前に、まず私の自己紹介を。私はサリンバン教導傭兵団のフェルマウス・フォーアと申します。あなたはエリゴ・ゼウス殿で間違いないでしょうか?』

 

「ああ、合ってる」

 

『『人間凶器』のエリゴ殿でよろしいでしょうか?』

 

「……そんな風に呼ばれてた時もあったなぁ」

 

『…………』

 

「なんだ? 黙っちまって……」

 

『いえ、先程のバーのやり取りを見ていたら、あなたが『人間凶器』だと信じられなくなりまして……』

 

「はははっ、それは良かった」

 

 念威端子の向こうで咳払いをする音が聞こえた。

 

『……んんっ! エリゴ殿、さっそく本題に入らせてもらいます。サリンバン教導傭兵団の仲間になっていただきたいのです』

 

「無理」

 

『即答!?』

 

「話がそんだけなら、俺はいくわ」

 

 エリゴが立ち上がり、自分の寮がある方に歩きだした。

 

『待ってください! いくら出せば仲間になってくれるんです?』

 

 エリゴの前に立ち塞がるように念威端子が移動する。

 エリゴはため息をついた。

 

「たとえ一生遊んで暮らせる額を出されても、お前らの仲間にはならねぇわ」

 

『どうしてなんです? あなたはお金次第でどの相手とも組む傭兵だったと私は記憶しています』

 

「ああ、当たってる。それが俺の生き方で、俺が出した答えだった。けど、違ってたんだよな~。俺は結局楽に生きたかっただけだったんだわ」

 

 エリゴは錬金鋼に視線を落とす。

 この世界は強い都市が生き残るようになっている。

 だから傭兵になり、各都市を渡り歩く生き方を選んだ。

 都市と心中なんて御免だ。反吐が出る。

 金さえもらえばどんな相手も斬り殺した。

 血も涙もない鬼だと、後ろ指を指されたこともある。

 そう言われた時、いつもこう思っていた。

 

 ──都市間戦争になればどんな相手でも殺そうとするくせに、自分を棚に上げて何を言ってるんだ?

 

 全く知らない、恨みもない都市の武芸者を、自らの都市の存続のために殺す。

 俺と何が違うと言う?

 お前らは自分が生きるために都市を選び、俺は自分が生きるために金を選んだ。

 たったそれだけの違いだろ。

 そんな考えは、ルシフ・ディ・アシェナという一人の子供に粉々にされたわけだが。

 

『……楽に生きる? 私の目には過酷な生き方に見えましたが……』

 

「楽だった。自分の命だけ守ればよかったもんな。けど、もうやめちまった。金よりも、自分の命よりも魅力的なもんに出会ったんだ」

 

『それは……』

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。俺はな、あの人に夢を見てる。あの人が目指すもんのためなら死んでもいいと、自分の命をあの人に預けてんだ。だからよ、俺はあの人以外のために刀は振るわねぇ」

 

『……ルシフという男は、あなたがそこまで惚れ込む程の魅力が……?』

 

 エリゴは目を細めた。

 

(とき)が来たんだと思う。この世界の在り方そのものが変わる秋が。誰もがずっと待ち望んでいた秋が」

 

『……それを成すのがルシフだと……?』

 

「俺はそう信じてる。だから、旦那の邪魔した時は──」

 

 エリゴの目に鋭い光が宿る。

 

「お前ら一人残らず斬り倒すぜ」

 

『……ッ!』

 

 念威端子だからこそ、エリゴが放った闘気に耐えられたのだろう。

 もしフェルマウスが生身でこの場にいたら、その闘気にあてられ身体をすくませた筈だ。

 エリゴは闘気を消し、ニッと笑みを浮かべた。

 

「ははっ、誘ってもらったのに悪いな」

 

 エリゴは歩みを再開させた。

 フェルマウスの念威端子はエリゴを今度は止めなかった。

 止めても無駄と悟ったからだ。

 エリゴが背をむけながら手を振っている。

 

『……あれ程の人物にああも心服されるルシフ……もしかしたら、私たちが思っている以上にあの男は深いのかもしれない』

 

 念威端子は高く浮かび上がり、サリンバン教導傭兵団のバスに向かって飛んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 放浪バスの中、ハイアは自分の場所に座っていた。

 ハイアの目の前にはフェルマウスが立っている。

 

「そうか。駄目だったかい」

 

『団長、やはりルシフに手を出すのは危険すぎる。交渉で終わるべきだ』

 

「そうはいかないさ」

 

『ハイア!』

 

「『人間凶器』なんて言われる節操のないヤツに、おれっちが負けるわけないさ」

 

 フェルマウスはハイアの両肩を掴んだ。

 

『冷静になれ、ハイア。何を焦っている? グレンダンに応援を頼んだのはお前だろう?』

 

 ハイアはフェルマウスから目を逸らした。

 

「そうさ。あれはおれっちなりの覚悟さ~」

 

 グレンダンの応援が来たら、サリンバン教導傭兵団の出る幕は無くなる。

 そうなれば、ハイアの廃貴族を手土産に天剣授受者になるという計算が崩れさる。

 しかし、それに固執し、サリンバン教導傭兵団がルシフを捕まえられなかった場合、廃貴族の宿主であるルシフを逃がしてしまうかもしれない。

 ハイアはグレンダンの利と自らの野望を天秤にかけ、グレンダンからの応援がくるまでをサリンバン教導傭兵団でルシフを捕らえられる制限時間にした。

 

「なぁ、フェルマウス。おれっちたちは戦場で生きてきた。雇われれば、どんなヤツが相手でも逃げずに立ち向かった。おれっちはそれがサリンバン教導傭兵団の誇りだって思ってるさ~」

 

 いつの間にか、ハイアの周りには団員が集まっていた。

 ハイアはその一人一人の顔を順番に確認していく。

 

「強制はしないさ~。ルシフを本気で捕まえたいヤツだけ、おれっちの力になってくれればいい」

 

 団員たちのざわめきがバスの中を埋め尽くした。

 ハイアは困惑した顔の団員たちを見据える。

 

「ただ──サリンバン教導傭兵団は弱いヤツに威張り散らし、強いヤツに怯えて震えるような駄犬の集まりじゃないと、おれっちは思ってる」

 

 ハイアはそれだけ口にすると、団員たちにあっちに行けと言うように虫を払う仕草をする。

 団員たちは固い表情をしながらもハイアの手の動きに従い、ハイアの場所から離れていった。

 

 

 

 翌日。

 ハイアは放浪バスの前に立っていた。

 これからルシフの元に交渉しに行き、失敗したら再び闘いを挑むのだ。

 ハイアの周囲にはフェルマウスとミュンファがいる。

 サリンバン教導傭兵団の団員も半数いた。

 残りの半数はまだバスの中にいるようだ。

 

「フェルマウス、ルシフはどこにいるさ?」

 

『中央部から少し離れた通りを歩いている。周囲にはルシフの他に三人。ルシフから少し離れたところにレイフォン・アルセイフと八人』

 

「オーケー、そこまでナビ頼むさ~」

 

『了解した』

 

 ハイアは剄を高めて活剄で脚力を強化し、ルシフのいるところに向けて駆ける。

 ハイアの後ろを、外に出ていたミュンファと団員の半分が少し離れてついていっていた。

 フェルマウスはその場から動かず、ハイアたちが消えていった方向に仮面を向けていた。

 

「ルシフに敵意がないと思わせるために、おれっち一人でルシフに接触する。おれっち以外は離れたところで待機さ~」

 

 ハイアは駆けながら、通信機に指示を出す。

 

『了解』

『了解です』

『了解しました』

『了解ッ!』

 

 通信機から、ついてきた彼ら一人一人の返事が聞こえた。

 ハイアは跳んで、建物の上に着地した。建物を踏みしめ、前に蹴る。その力で自分の身体を押し出し、更に加速。その後ろを団員たちが同じようにしてついてくる。

 ハイアは跳び、次の建物に着地し建物を蹴った。それを繰り返しながら、ハイアは目標の場所を目指して疾走する風となった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは不意にあらぬ方に目をやった。

 ルシフから三歩後ろを歩いていたマイ、バーティン、レオナルトも一瞬遅れてルシフと同じ方を見た。

 赤髮の少年──ハイアが建物から飛び降り、ルシフの前に着地した。

 ハイアはルシフを見た後、その後ろにいるマイを見て顔をしかめた。

 

「そこの念威操者……お前の仲間だったんか?」

 

「ルシフちゃんをお前呼ばわり!? このガキ、修正してや──」

 

「バーティン」

 

 ルシフがハイアに飛びかかろうとするバーティンを右手で制した。

 

「下がれ」

 

「でも──」

 

「聞こえなかったか?」

 

 バーティンは不服そうな表情をしながらも、飛びかかるのを止めた。

 

「確かに俺の念威操者だが、それがどうした?」

 

「そいつはおれっちの家族に重傷を負わせた。そいつがお前のなら、お前たちはサリンバン教導傭兵団を完全に敵に回したさ」

 

「何事だ!?」

 

 そこにルシフから少し離れた場所にいたニーナやレイフォン、ミィフィ、ダルシェナといった合宿に参加していた面々が騒ぎを聞きつけ駆けてきた。

 ルシフや彼らは合宿が終わり、合宿所から寮へ帰るところだったのだ。

 

「レイフォン・アルセイフ……!」

 

 ハイアはレイフォンを見ると目の色が変わった。

 ルシフに『剣』でサイハーデン刀争術を教えたのを思い出したのだ。

 レイフォンは以前ハイアと武器を交えた時のことを思い返した。

 

「君は確かサリンバン教導傭兵団の……まだツェルニにいたのか」

 

「なぁ、ヴォルフシュテイン。いくら元天剣授受者だったとしても、調子に乗りすぎさ~」

 

「……天剣……授受者?」

 

 その場にいたメイシェンが呟く。

 レイフォンは舌打ちし、ハイアを睨んだ。

 

「なんの話だ?」

 

「とぼけるなよ。ルシフにサイハーデン刀争術を教えたんだろ? 剣術として。よくもそんな舐めた真似ができるさ。お前にとってサイハーデン刀争術は、その程度のものなんか?」

 

 レイフォンはハイアの言葉に困惑した。

 レイフォンはルシフにサイハーデンの技を教えた覚えはないし、刀を使用したサイハーデンの剄技を天剣授受者になった頃から今まで一度として使ってない。

 レイフォンはルシフを見た。

 怒りがこみ上げてくる。

 この男は平気な顔をして大事なものを壊していく。

 それが堪らなく許せなかった。

 レイフォンは深呼吸し、冷静さを取り戻す。

 自分は一度もサイハーデン刀争術をルシフに見せていないのに、ハイアはルシフがサイハーデンの技を使ったと言っている。

 ルシフは一目見るだけでその剄技を理解できる、自分と似たような力を持っているのをレイフォンは思い出した。

 咆剄殺を、ルシフは一目見ただけで会得したのだ。

 

「僕はルシフにサイハーデンの技を一度も教えてない」

 

「ウソさ! 現にルシフはサイハーデンの技を使った!」

 

「そのことで一つ確認したい。ルシフは君が使った技と違うサイハーデンの技を一度でも使ったか?」

 

 ハイアはルシフと闘った時を思い出す。

 

「それは……ないさ。けど、奴はどっちのサイハーデンが上かと言ってきた。おれっちと同じ技をあえて使ってきただけだろ」

 

「なら、君より先にルシフがサイハーデンの技で仕掛けたことは?」

 

「それもないさ。ルシフはおれっちが使った技をすぐ後に使ってきた。いわば常に後出しだったさ~。けど、それがどうした? サイハーデンの技を使ったのに変わりはない。そして、この都市にサイハーデンの武門の人間がお前しかいない以上、お前以外にルシフに技を教えられた奴はいないさ~。

それに、奴はおれっちがサイハーデンの名前を口にする前に自分はサイハーデンの武門だと言った。お前が教える以外で、どうやってサイハーデンの名前を知れるんさ」

 

 レイフォンはツェルニに来たグレンダンの女王の話で、ルシフがグレンダンを毎年探っていたのを思い出した。

 もしルシフがサイハーデン刀争術の名前だけ知っていたとしたら?

 サイハーデンの技を盗むためにあえてハイアを怒らせるようなことを言い、サイハーデンの技を多用するように仕向けたとしたら?

 しかし、疑問も残る。

 どうやってハイアがサイハーデン刀争術の使い手だと分かったか。

 サイハーデンに独特の構えは少ない。構えを見ただけで特定できるほど癖がある刀術ではないのだ。

 もしかしたら、ルシフはハイアのことを事前に知っていたのかもしれない。

 

  ──ルシフ、君はサイハーデンが刀を使う武門と知っていたうえで、僕から剣術として教えられたと、そう言ったのか。ハイアを怒らせる……たったそれだけのために、僕のサイハーデンに対しての思いも決意も全て踏み(にじ)ったのか。

 

 レイフォンは両拳を握りしめた。

 

「ルシフはグレンダンの情報を長い間探っていたと、数ヶ月前にツェルニに来たグレンダンの女王が言っていた。ルシフは事前にサイハーデンの名前を知っていた可能性がある。それに、ルシフは一目みるだけで他人の剄技を己のものにできる。ルシフにサイハーデンの技を教えたのはハイア、君の方だ」

 

「ツェルニに女王が来た……? はっ、寝言は寝て言え! 女王がこんなとこに来るわけないさ~」

 

「いや、本当に来ていたぞ。ルシフにグレンダンに喧嘩売ったらどうなるか教えるとか言って、ルシフを叩きのめして去っていった」

 

 ニーナが口を挟む。

 ハイアは驚愕した。

 

「そんなまさか……なら、今ヴォルフシュテインが言った、おれっちの剄技をルシフが盗んだってのも本当なのか?」

 

「ああ、本当だ」

 

 ルシフがハイアに声をかけた。

 

「ただ、盗んだだと聞こえが悪い。ハイア師匠からサイハーデン刀争術を教えていただいた、と言うのが正しいかな」

 

 ハイアの頬に、かすかな赤みがさした。

 ハイアの纏う剄がハイアの周りを荒れ狂っている。

 怒っていると、レイフォンは感じた。

 ルシフの明らかな皮肉。もし自分が同じ言葉を言われたとしても、ハイアと同じ反応をするだろう。

 

「どこまで……どこまで人をバカにすれば気が済むんさ! お前は!」

 

「わざわざそんなことを言うためにここに来たのか? 暇なヤツだな」

 

 ハイアの中で、何かがキレた。

 ルシフと交渉するという考えは遥か彼方に吹っ飛んだ。

 ハイアは錬金鋼を抜き復元。

 ハイアの手に刀が握られる。

 ハイアは刀を上段からルシフ目掛けて振り下ろした。

 ルシフはそれを見て動こうとすらしない。

 それでも、ハイアは刀を振るう力を弱めなかった。常人なら真っ二つになるだろう。

 ルシフの首筋に刀が斜めに当たる。

 瞬間、ハイアの持つ刀が粉々になった。

 

「……は?」

 

 ハイアは呆然と刀が粉々になる様を見ていた。

 

 ──なんさコイツ……廃貴族無しのコイツはおれっちと互角以下の筈……。

 

「相手の度量も分からん二流が……」

 

「がっ……」

 

 ルシフの右拳がハイアの腹部に突き刺さった。

 

「身のこなし、反応、剄のコントロール、今まで磨きあげた技のキレ……なかなかのものではあるが、それに自惚れ自分だけにしか目がいっていない」

 

「……何を、言ってる……」

 

 ルシフがハイアを蹴りあげた。

 ハイアは空中で一回転し、受け身の体勢になる。

 ルシフは跳んでハイアの上から踵おとし。ハイアを地面に叩きつけ、そのままハイアの背を踏みつける。

 

「噛みつく相手は選べ、と言っている。身の程知らずが」

 

 ハイアは唇を痛いほど噛みしめた。噛みしめた唇から血が垂れていく。

 ハイアの胸中にあるのは屈辱。悔しさ。怒り。自身の無力さ。

 それらが混ざり合い、ルシフへの憎悪に近い感情に変化していた。

 ルシフは踏みつけていた左足で、ハイアの横腹を蹴り飛ばす。

 ハイアの身体が吹き飛び、建造物にぶつかった。

 その時にはもう、ハイアの前にルシフがいた。

 そこで、ハイアの視界は暗転した。

 ルシフはハイアに背を向け、マイたちがいる方に歩を進める。

 ルシフは自分の後方に多数の気配を感じた。

 ハイアの後方で様子を窺っていたサリンバン教導傭兵団の団員たちが、ハイアを助けるためにハイアの元に来たのだ。

 各々がそれぞれ武器を構え、ルシフを警戒している。

 ルシフにこちらを襲ってくる気がないと悟ると、彼らはハイアを連れて跳び、建物の裏に消えていった。

 ルシフは振り返って彼らが消えていった方を一瞥すると、再び前を向いて歩き始める。

 ルシフはまだ知らない。

 この時のやり取りが、後にある悲劇のきっかけになることを。



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第35話 ツェルニ暴走

 カリアンがルシフの部屋の椅子に座っている。

 ルシフに呼び出されたからだ。

 弱みを握られているカリアンに断るという選択肢はなく、ルシフの呼び出しに応じざるを得なかった。

 カリアンの前にあるテーブルには湯飲みがある。

 カリアンが湯飲みを持ち中を見ると、翡翠のような綺麗な色をしたお茶が入っていた。湯気には清らかなお茶の芳香が含まれ、部屋全体に仄かなお茶の香りが充満している。

 

「カリアン・ロス、よく来てくれた」

 

 ルシフがカリアンの向かいの椅子に腰掛けた。

 

「一体なんの用だい? 私だっていつも君の呼び出しに応じられるわけじゃないんだ。生徒会長室に来るなら話は別だけどね」

 

「……カリアン・ロス。一から十まで説明しないと分からないのか?」

 

 若干不機嫌になったルシフの雰囲気を感じとり、カリアンの身体は硬直した。

 

「まず、何故生徒会長室ではなく俺の部屋なのかは、この部屋が完全防音であり、俺とお前以外いないからだ。つまり、お前以外の人間に聞かれたくない話をするために、こうして俺の部屋に来るよう言った。それに、この寮はお前の寮から近い。

次に、いつも呼び出しに応じられないとか言ったが、だから生徒会長としての業務が落ち着く夜にした。つまり、俺はお前が来れる時間帯にしか来いと言わない。

俺はお前を買っているんだ。これくらい察しろ」

 

 カリアンはルシフを驚きの表情で見た。

 てっきり弱みを握り優位に立ったから、自分のことしか考えず自分の部屋や時間帯を選んでいると思っていた。

 まさか自分が比較的時間を作れる時間や、自分が行きやすい場所を考慮したうえで自身の部屋を選んでいるとは思いもしなかった。

 

 ──そうだ。この男はこういう男だ。

 

 自分自身のことしか眼中にないような立ち振舞いや言葉を吐きながら、その実他人のことや事情をしっかり考えている。

 第十小隊の違法酒の件でとったルシフの言動、行動こそその最たるものではないか。

 

「それはすまない。君は自分のことしか考えない男だとまだ思っていた。私は君を見誤っていたようだ」

 

「カリアン・ロス。俺は変わっていない。ツェルニに来た時から、十年前から何一つな。だが、周りの奴等は皆、印象が変わったと言う」

 

 カリアンはハッとなってルシフを見た。

 ルシフは勝ち気な笑みになる。

 

「いい、カリアン・ロス。好きなように俺を評価しろ。他人にどう思われようが、俺は一切気にせん」

 

「君は……本当に強いね」

 

 人の上に立つ者にとって一番大事なものは人望。

 故に、他人が自分をどう思っているか、それを一番気にしなければならない。

 そして、他人に好かれる態度や言動、行動を心掛ける。

 カリアンがルシフの言いなりになってしまっているのも、ルシフがカリアンの人望を地に落とせる情報を握っているからだ。

 その点、ルシフは違う。

 ルシフは他人を一切気にすることなく、自分の好き勝手に行動する。

 だが、それが結果として他人のためになり、他人から慕われるようになる。

 この男には天性のカリスマがあるのだと、ツェルニに来てからのルシフの行動を見ていてカリアンは思った。

 

「──そろそろ本題に入ろう」

 

 カリアンは自然と居住まいを正した。

 

「単刀直入に言う。俺の同志になってほしい」

 

「……同志? えっと、すまない。一体なんの話か分からないんだが……」

 

「全自律型移動都市(レギオス)を掌握する」

 

「全てのレギオスを掌握? 君でも冗談を──」

 

 言うんだねと言おうとして、カリアンは口を閉ざした。

 ルシフの表情は真剣そのもの。

 冗談で言っている雰囲気ではない。

 

「お前も夢物語だと笑うか?」

 

「いや、だってレギオスはそれぞれ不規則に移動してるんだよ? それを掌握なんてできるわけがない。できても一つのレギオスが精一杯だと私は思うんだが……」

 

 ルシフはかすかに唇の端を上げた。

 

「まぁ、そう考えるのが普通だな。お前は合理的な奴だ。まずどう俺がそれを実現するのか教えてやろう」

 

 そしてルシフは話し始める。

 どう全レギオスを掌握するのかを。

 レギオスを掌握した後どうするのかを。

 ルシフの話を、カリアンは呼吸すら忘れて聞き入っていた。

 ルシフの話を最後まで聞いたカリアンは、この男なら本当に実現してしまうのではないかと思った。

 カリアンの表情は沈んでいる。

 無理もない。カリアンは法輪都市イアハイムの現状を知っているのだ。

 カリアンはようやく理解した。

 ルシフが法輪都市イアハイムで実質的な指導者になり、様々な政策を行った理由を。

 ルシフは全レギオスのモデル都市を法輪都市イアハイムで作っていたのだ。

 

「……そんな重要なことを事前に話して、私が今君が言った計画をバラすとは考えなかったのかい?」

 

「別にバラしてもいいぞ。大した問題はない。ただ、お前ならどっちの選択が正しいか分かる筈だ」

 

 カリアンは喉が渇いていくのを自覚した。湯飲みを手に取り、お茶を飲んで喉を潤す。

 確かに計画を知られても問題はない。

 ルシフの全レギオス掌握方法を一言で言えば、力で無理矢理奪い取る、シンプルな方法。ルシフより弱ければ、計画を知っていようが何もできない。

 

「……しかし、そんなことが許される筈がない。ルシフ君、君のやり方は全てのレギオスに暴虐の嵐を巻き起こす」

 

「今までのレギオスには暴虐の嵐が吹き荒れなかったとでも?」

 

「それは……」

 

「何故お前はアルセイフを武芸科にした? 武芸大会──都市間戦争に対抗するためだろう。

今言った俺の計画が完遂されれば、セルニウム鉱山のためにレギオス同士で争うことは無くなる。定期的に行われる、不毛な争いを無くせるのだ。

お前とて、後一年もすればツェルニを卒業する。ツェルニのためにお前ができることは何も無くなる。俺に付けば、ツェルニは都市間戦争や汚染獣で滅ぼされない、ツェルニの武芸者の質に関わらず存続できる都市になる」

 

 ルシフが全レギオスを掌握すれば、弱小都市の滅亡を防げるというメリットは確かにある。それは、カリアンが心から望んでいるものでもあった。

 しかし、分からないことがある。

 何故カリアン・ロスという人材をルシフが望んでいるのか。

 ルシフの計画を聞く限り、自分が必要だと思える部分はどこにもない。

 ルシフが必要ない人材をわざわざ味方に引き込むような物好きにも見えなかった。

 カリアンは両肘をテーブルに付き、ルシフを見据える。

 

「君の言い分は分かった。ただ、一つ聞きたい。私をどうして味方に引き込む? それも、大事な計画までバラして」

 

「お前が得がたい人材だからに決まっている。

剄を持たない弱い人間でも他に光るものがあれば、俺は評価しそれに見合う地位と報酬を与える。

お前はその体現者になる。剄を持たぬ一般人に、自分もやればああ成れるかもしれないと希望を持たせる存在に」

 

 ルシフの味方は今のところ武芸者しかいない。それでは、武芸者だけが優遇される政治になるのかと、支配したレギオスの全住民が不安になる。

 そう思わせないために、剄を持たない一般人に高い地位を与え、一般人でも出世できると示す広告塔が必要。

 カリアン・ロスはその役目にうってつけの人物だった。

 

「君はもうそこまで考えて……本当に君は凄い、そして恐ろしい男だ」

 

「世辞はいい。返答を聞こうか」

 

 カリアンは目を閉じた。

 両手を握りしめる。

 静寂が部屋を包んだ。

 それから数秒後、カリアンはゆっくりと目を開いた。

 

「……分かった、君の力になろう。でも、一つ条件を付けてもいいかな?」

 

「なんだ?」

 

「全てのレギオスを掌握する時は、できる限り流れる血を少なくしてほしい」

 

「……努力しよう」

 

 カリアンは静かに笑みを浮かべた。

 

「今はその言葉だけで充分だよ」

 

 ルシフはカリアンの前に右手を差し出す。

 

「これからよろしくな、カリアン」

 

「ああ、こちらこそ」

 

 差し出された右手に自身の右手を持っていき、カリアンは握手した。

 

「では、私はこれで失礼するよ」

 

「うむ、気を付けてな」

 

 カリアンは椅子から立ち上がり、ルシフの部屋から出ていった。

 ルシフが一人になったのを見計らったように、黄金の粒子がルシフの隣に集まり、牡山羊の姿を形作る。

 

「成る程、汝はそうやって全レギオスを強奪するつもりだったか。汝にしては、少し雑な計画な気もするが」

 

「ふむ、さすがに俺をよく分かっている。雑なのは当然だ。計画の重要な部分は隠してカリアンに話したからな」

 

 メルニスクがルシフの方に澄んだ青の瞳を向ける。その瞳には少し非難めいた色が混じっていた。

 ルシフはその瞳を見て勝ち気な笑みになる。

 

「カリアンを味方に引き込むとはいえ、この俺が馬鹿正直に計画の全てを話すとでも思っていたのか? 案外、お前は甘いな。お互い腹を割って話すべきだったと思っているんだろうが、カリアンと俺は対等じゃないんだよ」

 

 ルシフは自身の前の湯飲みを手に取り、冷めきったお茶を一気に飲み干す。

 

「うん、不味(まず)い……」

 

「……ルシフ、そろそろ我はツェルニを暴走させてこよう。それが汝には必要なのだろう?」

 

「ああ、重要だ。お前には辛い思いをさせるがな」

 

「気にするな。苦難をともに分かち合う。それが、汝ら人が言う『友』の定義だと最近理解した」

 

 メルニスクの言葉に、ルシフは一瞬呆気に取られた表情になったが、すぐに愉快そうな笑い声をあげた。

 

「くくっ、ははははははッ! 友に定義などない! 人の数だけ定義があるだろう! だが、俺とお前の間ならそれが定義でいいかもしれん!

メルニスク、まさかお前にそんな洒落(しゃれ)たことが言える頭があったとは知らなかったぞ!」

 

 ルシフの言葉を不快に思ったのか、メルニスクはそっぽを向いた。

 

「……我はもう行くぞ」

 

「ああ、行ってこい。そして、必ず俺のところに帰ってこい」

 

「承知した」

 

 牡山羊の姿が霧散し、黄金の粒子が部屋をすり抜けて天に消えていく。

 その光景を、ルシフは美しいものでも見ているように視線を逸らさず眺めていた。

 部屋から黄金の粒子全てが消えると、今まで自分が感じていた別の剄の波動の感覚も消えた。

 メルニスクと一時的とはいえ、リンクが切れたらしい。

 だが、ルシフはそれで不安な気持ちにはならなかった。

 メルニスクは自分の元に帰ってくると確信しているからだ。

 

 ───『レギオス統一計画』、第二段階(フェーズ2)開始だ。

 

 

 

 その日の夜、突如としてツェルニは進行方向を変更した。

 それに気付いているのは、今のところルシフしかいない。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 慌ただしく、ニーナが廊下を駆ける。目指しているのは生徒会長室。

 目的の場所の前に到達したニーナは、ノックもせずに扉を勢いよく開けた。

 

「一体どういうことですか!?」

 

 ニーナが声を荒げながらカリアンに詰め寄る。

 カリアンはニーナの怒気に少し怯みながらも、ニーナから目を逸らさない。そして、静かに言った。

 

「ツェルニが、汚染獣の群れに突っ込もうとしている。計算ではあと半日後」

 

「ですから、何故そのようなことになっているかと聞いて──!」

 

「都市が暴走している」

 

 カリアンの一言が、ニーナを黙らせた。

 生徒会長室にはカリアンの他に、レイフォンとルシフ、フェリ、マイ、教員の五名がいる。

 

「何故……?」

 

「分からない。だが、公にこの情報は公開できない。したらパニックになる」

 

 カリアンの判断は正しい。

 自ら死地に向かうような行動を取る都市に住んでいると知れば、誰だって不安になる。

 故にカリアンは、汚染獣を倒せる武芸者だけにこの情報を伝えた。

 

「本来なら君にも秘密だったんだが、レイフォン君がどうしてもと言うんでね」

 

「レイフォン……」

 

 ニーナはレイフォンを見る。

 レイフォンは軽く頷いた。

 それだけで、ニーナはレイフォンが自分にこの情報を教えた意図を悟った。

 ニーナは電子精霊のツェルニと仲が良い。ニーナならツェルニの暴走を止められると考えたのだろう。

 

「当然だが、ツェルニが汚染獣の群れに接触するのを待つつもりはない。ランドローラーで汚染獣の群れのところに行き、接触する前に全滅させる。幸い、今のツェルニにはそれができる戦力がある。

問題は誰を行かせるかだが……」

 

 カリアンはその場にいる全員を見渡す。

 

「生徒会長さんよ、ここは俺ら五人に任せてくれねぇか?」

 

 レオナルトがカリアンに言った。

 カリアンはレオナルトの方に顔を向ける。

 

「汚染獣の数は十二。それなら、俺ら五人で殲滅できる。教員ってのは生徒を守るもんなんだろ?」

 

「しかし……」

 

「僕も行きます。ただ待ってるだけなんて性に合わない」

 

 レイフォンが口を挟んだ。

 

「生徒は大人しくしてりゃいいんだぜ?」

 

「もし一体でも逃がしたらどうするんです? 保険はあった方がよくないですか?」

 

 レイフォンの言葉に、アストリットとバーティンが不愉快そうに眉を寄せた。

 自分の力を侮られていると感じたのだろう。

 

「私の狙撃から逃げられる雄性体がいるとは思えませんが、そんなに信用できないならあなたの目の前で汚染獣を撃ち殺して差し上げますわ」

 

 アストリットが胸を張って豪語する。

 カリアンは苦笑し、口を開いた。

 

「とりあえず、ランドローラーは三台でいいのかな? ルシフ君、君はどうするんだい?」

 

「そうだな……」

 

 全員の視線がルシフに注がれる。

 

「こいつら五人とアルセイフがいれば、十二体の雄性体など相手にならんだろう。俺は都市の暴走の方に興味がでてきた。都市の機関部に行ってみようと思う」

 

 ルシフの意外な言葉に、全員が目を丸くした。

 ニーナとレイフォンは絶句し、言葉を失った。

 ニーナはいち早く立ち直り、ルシフの方に体を向ける。

 

「ルシフ、わたしも行く。お前だけに任せておけない」

 

「勝手にしろ」

 

 話が纏まったらしいと悟ったカリアンは、一度両手を叩いた。

 

「決まり……だね。なら、今からすぐに汚染獣の群れを殲滅する六人は外部ゲートに行ってくれ。君たちが行く前にランドローラーは通信で準備させておく。

ルシフ君とニーナ君は、機関部にいる生徒の移動が完了してから突入してくれ。

次に念威操者のサポートだが、ちょうど二人いるから分担してサポートさせよう」

 

「わたしがレイフォンの方をサポートします」

「私がルシフ様の方をサポートします」

 

 カリアンが言い終えたのと同時に、フェリとマイが声をあげた。

 綺麗に分かれている言い分に、カリアンは笑みを浮かべた。

 

「分かった、それでいこう」

 

 人の配置と役割は決まった。

 後は行動に移すだけである。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 そこはまるで巣だった。

 大地にすり鉢状の穴があり、その穴の斜面の地面に十二体の汚染獣が半分埋もれたような形で蠢いている。

 その姿を、ツェルニからランドローラーで来た六人の武芸者が、岩場の陰から視力を強化して確認していた。

 

「あの感じじゃ、雄性一期か二期っていったところか」

 

 錬金鋼(ダイト)を右手で弄びつつ、エリゴが口を開いた。

 その言葉に全員が軽く頷く。

 ツェルニに住む多数の人の匂いを感じ取り、汚染獣は休眠状態から目覚めようとしていた。

 

「来るのがあと少しでも遅れていたら、飛んでるあいつらを相手してましたわね」

 

 アストリットの手には身の丈程の大きな狙撃銃が握られている。

 この人は銃使いか、とレイフォンは思った。

 それもシャーニッドと同じく狙撃を得意とするらしい。

 だが、どうでもいいかとレイフォンは他人への興味を切り捨てた。

 味方がどんな武器を使い、どんな剄技を使うかなど、レイフォンには必要ない情報だった。

 いつも通り目の前の汚染獣を片付ける。自分にできることはそれだけだし、それでいい。

 

「お待ちを」

 

 岩場の陰からレイフォンが飛び出そうとして、その行く先をフェイルスが右手で遮った。

 レイフォンはフルフェイスヘルメット越しにフェイルスの方に顔を向ける。

 

「眠っている状態より完全に起きた状態の方が、汚染獣は柔らかいです。もう少し待った方が楽ですよ」

 

「……分かりました」

 

 レイフォンは再び視線を汚染獣の方に戻す。

 汚染獣は身もだえしているだけで、動き出す様子はない。

 今まで寝ている汚染獣と遭遇していなかったため知らなかったが、殻が硬い状態では動けないのかもしれない。それをああやって身もだえすることで硬度を下げ、動ける体にしているのだろう。

 完全に休眠状態から抜けきった汚染獣たちは翅を広げ、ツェルニの方向に飛び立とうとしている。

 

「──いくぞ!」

 

 教員五人の剄が爆発し、周囲に剄の奔流が巻き起こる。

 レイフォンは驚いた表情で彼らを凝視した。

 天剣には及ばないが、それでもハイア以上の剄量を全員が持っていた。

 レストレーションという声が連鎖する。

 レオナルトは二つの錬金鋼の内の一つだけを復元。

 レオナルトの手に薙刀が握られた。

 エリゴは刀。フェイルスは弓。バーティンは双剣。

 アストリットはすでに狙撃銃を汚染獣の方に向けている。

 スコープをヘルメット越しの右目で覗きながら、アストリットは引き金を引いた。

 狙撃銃から剄弾が放たれる。それは剄弾というよりレーザーだった。

 赤い閃光が直線上にいた数体の汚染獣の翅を消し飛ばす。

 アストリットの狙撃銃の先端から煙が立ち上ぼり、アストリットは狙撃銃の構えを解いた。

 

「あと何回撃てるかしら? できたら惨めったらしく逃げ回ってほしいところですけど」

 

 剄が尽きない限り延々と撃ち続けられるという銃の特性上、弾切れは存在せず、アストリットの呟きはレイフォンにとって首を傾げたくなるものだった。

 しかし、数秒後の光景を見て、レイフォンはアストリットの言葉の真意を悟った。

 汚染獣が突如の狙撃に驚き怒りの咆哮をあげた時にはすでに、レオナルト、エリゴ、バーティンは内力系活剄、旋剄で汚染獣の群れの間近まで迫っていた。

 薙刀、刀、双剣が汚染物質が充満する視界に一瞬煌めいたかと思うと、その場にいた汚染獣十二体の内、四体がバラバラになった。それも翅を傷付けられていない汚染獣を選んでいる。

 更に銀色の光が閃光を描いた。翅を傷付けられた三体の汚染獣が断末魔の叫びをあげて斜面を滑り落ちていく。

 残り五体。

 その内の一体がいち早く翅を広げ、空へと舞い上がる。

 その汚染獣の横面に剄矢が突き刺さった。

 汚染獣は悶え、そのまま下に落下していく。その汚染獣をレオナルトが薙刀で一閃し、左右に両断した。

 ここでアストリットが狙撃。

 今度は翅ではなく、頭。二体の汚染獣が赤い光に呑み込まれ、胴体だけになった汚染獣が力なく崩れ落ちる。

 

「歯ごたえなくてつまらないんですの」

 

 残った汚染獣は二体。

 ここでようやく自分たちの方が狩られる側だと気付いたらしい。

 翅を広げて空に逃げることも忘れ、脚を必死に動かして武芸者たちの逆方向を目指す。

 しかし、見えない何かに汚染獣二体は潰され、身動きが取れなくなった。

 レイフォンの鋼糸が汚染獣を縛り付けているのだ。

 エリゴとバーティンが駆け出し、弾丸のような速度で汚染獣二体とすれ違ったかと思うと、汚染獣二体はそれぞれ血を噴き出して倒れる。

 エリゴとバーティンは武器を復元前の状態にし、レイフォンたちがいる方に戻ってきた。

 

『いい援護だったぜ。ありがとな、少年』

 

 通信機からエリゴの声が聞こえた。

 

「いえ、僕の助けなんて微々たるものでした。お礼を言われるような程でも……」

 

『何謙遜してんだか……、素直に喜べよ』

 

 エリゴは笑いながらそう口にした。

 レイフォンは内心で、ここまで優れた武芸者たちがグレンダン以外にもいたのかと驚愕していた。

 いや、グレンダンでも雄性体を圧倒して殺せる武芸者は、天剣授受者を除けばそんなに多くない。

 そういう意味では、ここにいる五人はグレンダンでも一流として認められる実力があるだろう。

 それに、まだまだ彼らが実力を隠していることもレイフォンは分かっていた。

 

『残るはルシフ様の方か……』

 

 バーティンがツェルニがあるであろう方向に顔を向けている。

 バーティンに釣られるように、全員が同じ方向に顔を向けた。

 残る問題は都市の暴走だけである。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 鉄柵で囲われただけのエレベーターに乗り、ルシフとニーナは機関部に到達した。

 機関部を管理している生徒はちゃんとカリアンからの指示に従ったらしく、誰一人として機関部に人はいなかった。

 ニーナとルシフは機関部の中心に向かって駆けている。

 会話はない。

 無言で問題があると思われる、電子精霊ツェルニを探す。

 ニーナはツェルニが暴走しているなんて信じられなかった。

 ニーナはツェルニを知っている。触ったこともあるし、愛らしく笑う姿も見た。ツェルニに住む学生たちを心から好きなんだとなんとなく理解もしていた。

 そんな優しい電子精霊が、ツェルニに住む学生たちを危機に陥れている。

 

 ──とにかく、何が起きているか確かめなければ……。

 

 そして、二人は中心部にたどり着いた。

 やや曲線を描いた何枚ものプレートでできた小山が、二人の眼前にある。

 いつも、ツェルニはこの中にいる。

 しかし、中に入れそうな扉のようなものは見当たらない。

 

「ツェルニ!」

 

 一縷の望みをかけてニーナが呼び掛ける。

 だが、それに応えるものはいない。

 ニーナはプレートの周囲を歩き回りながら、再び呼び掛けた。

 

「ツェルニ!」

 

 ルシフはプレートが動かないか、プレートの様々な部分を触っている。

 それを見たニーナは、まさか隠し扉があるのかと、ルシフ同様にプレートを手で触り、扉を探し始めた。

 隠し扉はすぐに見つかった。

 ニーナが触ったプレートが内側に開き、滑り台のように斜め下に向かう急な斜面の床がニーナの眼前に姿を現した。

 

「ルシフ、ちょっと来てくれ」

 

 ニーナの元にルシフが近付き、ニーナ同様ルシフもプレートの内部に視線を向けた。

 

「暗いな」

 

 確かにルシフの言う通り光源は一切なく、斜面の床がどこに繋がっているのかここからは判別できない。

 ニーナは覚悟を決めて、暗闇の先を睨む。

 

「だが、行くしかない」

 

「そうだな」

 

 ルシフがまず先にプレート内部に入り、急斜面の床を滑り落ちる。

 ニーナもルシフのすぐ後にプレート内部に入った。

 二人がプレート内部に入ったら、まるでプレートに意思があるかのように、開いていたプレートが元に戻った。

 いきなり機関部の光が閉ざされ、プレート内部は暗闇に覆い尽くされた。

 唐突な暗闇にニーナは驚いたが戻るような真似はせず、床が続く先をじっと見ている。

 床の終点はたいして遠くなかった。長さにしてせいぜい七、八メートルといったところだろう。

 もうルシフとニーナの周りは暗闇ではなくなっていた。床の先にあった空間に、淡く輝く光源があったからだ。

 黄金と青の光が瞬き、暗闇を押しのけている。

 ニーナとルシフは光の中心にゆっくりと歩を進めた。

 そこには台座のようなものがあり、その台座に人一人入れるくらいの大きさの宝石が置かれている。宝石は水面のように澄んだ透明だった。

 それが光源の正体であり、その宝石の中にツェルニもいた。

 

「ツェルニ!」

 

 ニーナは宝石に近付いた。

 

「ツェルニ……?」

 

 ツェルニをよく見ると、明らかに様子がおかしかった。

 ツェルニは焦点のあっていない瞳をして、虚空を見ている。童女の姿をしたツェルニの体は、まるで水の中にいるかのように宝石の中で浮かんでいた。

 ニーナの瞳に困惑の光が入り、ルシフを一瞥する。

 

「なにをしている……」

 

 ルシフの声が、空間を震わせた。

 ニーナは再びツェルニが浮かんでいる宝石を見る。

 ツェルニの背後に、黄金の牡山羊がいた。

 黄金の牡山羊はツェルニとともに宝石の中にいる。

 

「なんでこいつが……。ルシフ、こいつはお前の中にいた筈じゃ……」

 

「確かにいたが、最近は反応がなかった。てっきり俺の中で寝ているかと思っていたら、まさかこんなことをしているとは……」

 

 ルシフにとってこんなやり取りは茶番だが役者になりきり、予想外の事態に巻き込まれた人間をしっかりと演じる。

 

「おい! 何勝手な真似をしている!? ふざけたことは止めて俺のところに戻ってこい!」

 

『ふむ、威勢がいいな。よかろう、汝が我が魂を所有するに足るものか、再び試させてもらおう』

 

 宝石の中から、黄金の牡山羊の姿が消えた。

 黄金の光が濁流となって空間を呑みこみ、激しい光の渦がルシフを中心に生まれる。

 

「なんだこれは……!?」

 

 ニーナは顔の前に右手を翳し、光を防ぐ。

 時間にして数秒間、光の渦は消えなかった。

 そして、ようやく光の渦が消え、ニーナの視界はさっきと同じ光景に戻った。

 さっきと違う点があるとするなら、宝石の中の牡山羊とツェルニが消え、黄金と青の光が瞬いていた空間は、青の光だけになっている。

 ニーナの表情が驚愕に染まった。

 

「ツェルニも消えた……? ルシフ、お前は何か──」

 

 分かるかと言おうとして、ニーナは固まる。

 ニーナの隣にいたルシフの姿が消えていたからだ。

 

「ルシフ……? おい、ルシフ! 悪ふざけは止めて出てこい! ルシフ!」

 

 どれだけ空間の中を呼び掛けても、ルシフの姿はおろか気配すら感じられない。

 

 ──一体何が起きた!?

 

 ニーナは空間の中を隅々まで探す。しかし、どこにもルシフの姿はない。

 空間には先がある。中枢内部と呼ばれる場所だが、そこは誰も手が出せないブラックボックスであり、迂闊な真似をすれば都市が故障するかもしれない。

 ニーナは中枢内部に足を踏み入れるのを止めた。

 下手に触って都市を壊すわけにはいかないし、ルシフがこの奥に行く理由が分からないからだ。

 

「あの光に呑み込まれて消滅したとでも言うのか。あのルシフが……」

 

 ニーナは訳が分からず、呆然とその場で立ち尽くした。

 

 

 

 ルシフとニーナを念威でサポートしていたマイは、自分の念威がもたらした信じられない情報に、唖然とした表情で床に崩れ落ちた。

 

「……ルシフ様の反応が……消えた……?」

 

 ツェルニからルシフ・ディ・アシェナ、消失。

 この出来事はツェルニを大きく揺らした。




これにて原作五巻終了になります。

原作未読の方々は「なんだこの超展開……オリジナルか?」と思われるかもしれません。

安心してください!原作通りですよ!


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原作6巻 レッド・ノクターン
第36話 あなたがいない都市


ツェルニの外部ゲートで、約三十人の人たちがそれぞれ走り回っている。

 一台のランドローラーがゲートの前に準備された。

 

「ランドローラー補給完了しました!」

 

「よし! 次はレイフォン・アルセイフ! お前が行ってこい!」

 

 武芸長のヴァンゼがレイフォンに命令する。

 レイフォンは静かに頷き、ランドローラーに跨がった。

 

「状況をもう一度確認する。念威端子の探査範囲内に幼生体の反応を感知。数は約五百。今更になるが、味方はいるか?」

 

「いりません。幼生体ごとき、何万いようがなんとかなります」

 

「ふっ、頼もしいことだ」

 

 ヴァンゼが微かに笑みを浮かべた。だが、その表情はすぐに引き締まり、左手をあげる。

 外部ゲートにいた人たちはレイフォンを残して外部ゲートから離れ、室内に移動した。

 外部ゲートを開ければ、汚染物質が外部ゲートを通して中に入ってくる。汚染物質に身体を侵されないようにするためである。

 レイフォンの前にある外部ゲートがゆっくりと開いていき、レイフォンは外部ゲートから視線を逸らさない。

 半分外部ゲートが開いた頃にはランドローラーのエンジンをかけ、レイフォンがアクセルを回す。獣の唸り声のような音が辺りに響いた。

 外部ゲートが完全に開いた瞬間、レイフォンの乗るランドローラーは汚染物質舞う大気を切り裂きながら、荒れ果てた大地に着地。勢いを殺さず、目的地に向かって走る。

 ルシフが行方不明となってから五日になる。

 ツェルニの暴走は止まらない。

 機関部から電子精霊ツェルニとルシフが消え失せても、都市の足は動き続けている。汚染獣を避けずに。

 レイフォンは何故暴走が止まらないのか分からなかった。

 ニーナの話では、廃貴族がツェルニを暴走させていたらしい。

 しかし、その廃貴族は再びルシフに憑依し、ルシフと共に消えたのだ。

 暴走させていた筈の原因が消えたにも関わらず、状況は変わっていない。いや、むしろ悪くなっている。

 どうすればツェルニの暴走を止められるか分からなくなった。

 

『もうすぐ目標地点に到達します』

 

 通信機からフェリの声が聞こえた。

 レイフォンは内にいっていた意識を外に戻し、錬金鋼(ダイト)を握る。

 

「レストレーション02」

 

 錬金鋼が柄だけの形に復元される。

 レイフォンは柄の先にある千を超える鋼糸を操り、幼生体の群れがおぼろげに見える大地に鋼糸を巡らす。

 レイフォンは柄を微かに動かした。鋼糸が跳ね上がる。

 幼生体の群れ五百が一斉に縦に両断された。

 

『……幼生体の反応、全て消滅』

 

 フェリの声には少しだけ驚きの色が含まれていた。

 レイフォンはランドローラーを停止させ、ランドローラーに跨がったまま、大地に両足をつける。

 レイフォンは数秒、遠くで動かなくなった幼生体の死体の群れを眺めた。

 レイフォンはアクセルを回し、ランドローラーをその場で半回転させてツェルニの方向に向ける。

 

『また別方向に汚染獣の反応を感知しました。雄性体の数、四。そちらには教員のアストリットさん、レオナルトさん、それから隊長が向かいました。

フォンフォンはそのままツェルニに帰還してください』

 

「隊長が!? 隊長に雄性体の相手はまだ……!」

 

『隊長の判断です』

 

「でも!」

 

 いくらあの二人がいようとも、死の危険がある。

 汚染獣──それも雄性体との戦いに、並の武芸者が絶対に勝てるという道理はない。

 一つ間違えれば確実に死に至る世界。

 ニーナはそこに自らの意思で飛び込んだ。

 

『おそらく……責任を感じているのでしょう。一緒にいながら、ルシフが行方不明になったことに』

 

 レイフォンはニーナの表情を思い出す。

 ニーナは下唇を噛み締め、両拳を震わせていた。

 

『マイさんに言われた言葉も、隊長の心にきっと深く突き刺さっているのでしょう。

なんにしても、あなたのランドローラーの燃料はツェルニに帰還する程度なら余裕でありますが、寄り道して帰還できる余裕はありません。

なので、余計なことをしようとしないでください』

 

 胸の内をフェリに見透かされたような気がして、レイフォンの顔がフルフェイスヘルメット越しに引きつった。

 ランドローラーの燃料の制限。

 これは勝手な行動ができないよう首に付けられた首輪のようなものだ。

 ルシフがいなくても、ルシフが呼んだ五人の教員は雄性体を余裕で倒せる実力がある。

 ルシフがいなくなったら、ツェルニを汚染獣から守れる者がレイフォンしかいない以前のような状況ではない。

 だからこそ、レイフォンに負担をかけさせないように物理的に無理ができないやり方をとったカリアンや武芸長のヴァンゼは正しい。正しいが……。

 

 ──どうしようもなく、もどかしい。

 

 今、ニーナは死地にいるというのに、その死地を切り拓ける力が自分にあるというのに、自分はただ待つことしか許されていない。

 

「……了解。レイフォン・アルセイフ、ツェルニに帰還します」

 

 レイフォンはランドローラーのハンドルを更にひねり、加速。

 ランドローラーは汚染物質を大気に巻き上げて、ツェルニ目指して走る。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナはランドローラーを岩場の陰に隠し、雄性体四匹を岩場に隠れて見る。

 アストリットとレオナルトもニーナ同様に雄性体を隠れて見ている。

 二人は既に復元させた武器を握っている。アストリットは狙撃銃。レオナルトは薙刀。

 

「レストレーション」

 

 ニーナは静かに復元鍵語を唱え、ニーナの両手に一本ずつ鉄鞭が握られた。

 

「あの大きさ……雄性三期が一匹、雄性二期三匹の中に紛れこんでやがる」

 

「……どうでもいいですわ。さっさとあの汚物どもをぶっ殺してやりましょう」

 

「お前、ちょっと地が出てんぞ」

 

「あぁ?」

 

 アストリットから発せられる苛立ちと怒気が、ニーナの身体をすくませた。ニーナは一言も喋っておらず、ニーナに向けられた怒気ではないが、それでも緊張が走った。

 ルシフが行方不明になって以来、アストリット、バーティン、マイの女三人は平常心を失っている。

 不意に、マイに言われた言葉が脳裏をよぎった。

 

 ──なんで傍にいながらルシフ様の行方が分からなくなるんです!? どこにルシフ様が行ったか知ってるんでしょ!? 早く教えてください!

 

 マイの顔は、わたしを見ていなかった。

 涙を必死にこらえているマイの両目が映していたのは、ルシフの幻影だった。

 ルシフの影響力はツェルニにおいて絶大。

 たった数日でルシフの行方不明はどの生徒も知った。

 レイフォンがいるのに。ルシフ自身が連れてきた五人の実力者がいるのに。カリアンもヴァンゼもいて、今のツェルニは心強い人間が多くいるというのに。

 ツェルニの生徒たちは、何か問題が起きたらどうしようと不安の声が多数あがっていた。

 ルシフさえいればどんな問題もどうにかなる。

 そんな認識が、いつの間にかツェルニに住む人々全員の頭に深く刻まれていた。

 

 ──わたしがルシフをもっとしっかり見ておけば。

 

 少なくともツェルニにいるかいないかの判断はできた筈だ。

 あの時、何かの拍子で都市の外に弾き出されたのではないか。

 この考えが、カリアンたちが出したもっとも可能性が高いルシフ行方不明の原因。

 ルシフは生身で汚染物質が蔓延する外にいられる剄技が使えるため、そうだったとしても死んではいないだろう。

 だが、未だに姿を現さないということは、何らかの理由で気を失った。そしてツェルニを見失い、帰れなくなったと考えるのが自然。

 その場合、ルシフが再びツェルニに現れる可能性は限りなく低い。

 放浪バスが無く、念威操者のサポートも無く都市を探すなど、汚染物質で覆い隠された大地から宝石一粒を見つけ出すがごとき行い。九割九分九厘は見つけられず餓死する。

 

 ──今のわたしに何ができる?

 

 どれだけルシフを見つけようとしても、見つけるための情報がない。

 ルシフを探そうとしたところで、心当たりは調べ尽くした。

 ならば、今のわたしにできることは、ルシフが帰ってくるのを願いつつ、ツェルニに降りかかる災禍を切り払う。

 それしかない。

 ニーナは両手の鉄鞭を強く握り、岩場の陰から飛び出した。

 アストリットとレオナルトは意表を突かれた素振りをみせる。

 

「いきます!」

 

 内力系活剄、旋剄で雄性体四匹の足元に近付く。

 雄性体四匹と目が合う。

 ニーナの全身から汗が噴き出した。

 ニーナの後方から火線が放たれ、雄性体一匹の頭を貫いた。

 ニーナ目掛けて雄性体の一匹が尻尾を振るう。

 ニーナは跳躍して尻尾をかわす。

 別の雄性体が跳躍したニーナに爪を振るった。

 ニーナは爪を見向きもせず、今尻尾で攻撃してきた雄性体を空中から睨んだ。

 爪がニーナを捉える瞬間、雄性体の腕が飛んだ。

 腕はニーナの頭上を舞って落ちていく。レオナルトが薙刀で雄性体の腕を斬っていた。

 

「割れろぉ!」

 

 ニーナが右の鉄鞭に全身の剄を集中させ、すぐ下にある汚染獣の頭に叩きつける。

 インパクトの瞬間、鉄鞭に集中させた剄を浸透剄として使用した。割った頭から汚染獣の体内にニーナの剄が入り込み、汚染獣を内側から破壊する。

 汚染獣は最期に咆哮し、横たわった。

 その時には、レオナルトが腕を飛ばした汚染獣を八つ裂きにしている。

 残るは一匹。

 雄性三期であり、四匹の中で一番強い汚染獣だが、三人を同時に相手にできる程の力は無かった。

 三人から一斉攻撃をされ、何もできずに汚染された大地に散った。

 大地に降る汚染獣の肉の雨の中で、ニーナとレオナルトはゆっくりと息を吐き出した。

 

「……帰るぞ」

 

「はい」

 

 二人はアストリットがいる岩場の方に歩き出す。

 

「すまないな」

 

「……え?」

 

「ウチの女ども、大将のことが好きで好きでしょうがないんだよ。そのせいで、行方不明になる直前まで一緒にいたお前に冷たい態度をとってる。そんなことしたって大将は帰ってこないっつうのに」

 

 ニーナは首を軽く横に振った。

 

「……いえ、大丈夫です。暴言を言われたわけじゃありませんし。

あなたは、わたしを責めないのですか?」

 

「責めたって何も変わらない。俺たちにできるのは大将が現れるのを信じて、今やるべきことを精いっぱいやるだけさ」

 

 ニーナは頷き、前を向く。

 アストリットが岩場にもたれていた。怒気と苛立ちは相変わらずアストリットの全身から発せられている。

 

「早く帰りましょう。こんな穢らわしい場所、一秒たりとも長くいたくありませんわ」

 

 アストリットは一秒でも早く、ルシフが現れる可能性があるツェルニに帰りたいのだろう。ツェルニで、ルシフが戻ってくるのを待っていたいのだろう。

 

「はい、帰りましょう……ツェルニに」

 

 自信満々な顔で、周囲をあらゆる意味で震えさせる男がいないツェルニへ。

 アストリットとレオナルトはランドローラーに跨がり、ニーナはレオナルトが乗るランドローラーのサイドカーに乗り込んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニ外縁部近くに停止しているサリンバン教導傭兵団の放浪バス。

 バス内部で鈍い音が響いた。

 

「一体どういうことさ……!」

 

 ハイアが横になった状態のまま、バスの内部を殴った。

 ルシフにやられた傷はまだ完治していないが、あと数日もあれば完治できるだろう。

 ハイアの傍にはフェルマウスがいる。

 

『分からない。だが、ルシフがツェルニから消えたのは事実だ』

 

「人が突然消えるなんて有り得ないさ! アイツのことだ、何かトリックを使ってこっちをからかってるに決まってる」

 

『ハイア……』

 

 フェルマウスは呆れたように首を横に振った。

 

『ルシフは私たちを相手にしていない。そんなこと無意味だ』

 

 ハイアはギリッと奥歯を噛みしめた。

 

「……おれっちたちはサリンバン教導傭兵団さ。天下に轟く、サリンバン教導傭兵団さ! そのおれっちたちが、全く相手にされてないっていうのかい!」

 

『ハイア、お前はサリンバン教導傭兵団に長くいすぎた。世の中には、サリンバン教導傭兵団など容易く潰せる武芸者が小数だがいるのだ』

 

 ハイアは深呼吸し、怒りを鎮める。傍にあったコップを右手に持ち、水を一口飲む。ゆっくり喉に水を流し込んだ後、ふぅと一息つく。

 

「……分かってる。ルシフがその気になれば、おれっちたち全員潰せることくらい。けど、弱みのない人間なんていないさ」

 

 ハイアは視線をフェルマウスに向ける。

 

「あの念威操者に、ルシフが呼んだっていう教員、五人。こいつらに気付かれないよう、こいつら六人を監視しろ。もしかしたら、ルシフの弱みをふとした拍子に口にするかもしれないさ。あんたならできるだろ?」

 

『……それで、お前の気が済むのなら』

 

 グレンダンから応援が来るまでにルシフの弱みを見つけられなければ、大人しく廃貴族の確保はそいつらに譲る。

 これがきっとラストチャンス。

 

「ルシフがまたツェルニに現れるか分からない。けど、おれっちは現れる方に賭けるしかないさ~」

 

 その日が来るまでに、やれることは全てやる。

 そして……どこまでも傲岸不遜、卑劣にして外道なあの男──ルシフ・ディ・アシェナの膝を折ってやるのだ。

 どんな手を使おうとも、あの悪魔相手なら許される。

 それに、あんな悪魔に廃貴族の力なんて持たせては、全レギオスが安心して暮らせない。

 自分のやろうとしていることは間違いなく正義だ。

 

 ──ルシフ! お前が二流と評した奴に膝を折られる! その屈辱を味わわせてやるさ!

 

『それと、これは極秘のようだが、ツェルニが暴走し、汚染獣の群れに突っ込むようになっている。私の念威端子が何度も汚染獣の反応を感知するなど普通ではない』

 

 ハイアは笑みを浮かべた。

 

「それは吉報さ~。フェルマウス、この都市の主に都市の異常を知った経緯を話し、無償でサリンバン教導傭兵団の武を貸すと伝えてくれ」

 

『無償で団員を使わせる理由を問われた場合は?』

 

「おれっちたちは同じ都市に住む運命共同体だから……とか、それっぽくて耳障りの良い理由を並べればいいさ~。信用をこの都市から得て、この都市を歩いていても違和感を感じないレベルまで溶け込めたら最上。そこまではいかなくても、あんたの念威端子が飛び回っていることが自然と思われる状況になれば良し」

 

『それで、ルシフの弱みを見つけ、ルシフが現れたら?』

 

「決まってるさ~」

 

 ハイアの目に刀剣のごとき鋭い光が宿る。

 

「一気にその弱みを攻める!」

 

 フェルマウスは念威端子にため息の音を響かせ、僅かに頷いた。

 

『分かった。だが弱みによっては、その時団員全員が協力するとは思わないことだ』

 

 弱みをつくやり方が人道に外れたことだった場合、多くの団員は是としないだろう。サリンバン教導傭兵団は金次第で誰とも戦う傭兵だが、武芸者としての誇りを持った者たちである。後ろ指を指されるようなやり方など、たとえ団長に言われてもやらないだろう。もしかしたら今のハイアのようにルシフに対する個人的な感情でやる団員はいるかもしれないが、それでも少数しかいないのは間違いない。

 

「……そんなこと……分かってるさ」

 

 ハイアは寝返りを打ち、フェルマウスに後頭部を向けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 暗闇の中で、青い光を放つ人間だけが幻想的に浮かびあがっている。

 マイ・キリーの部屋。

 明かりも付けずに、マイは杖を握っていた。

 マイはルシフが行方不明となった日から、念威と念威端子を駆使してルシフを捜索している。

 マイは一睡もせずにルシフを捜し続けていると思っているが、実は夢の中でもルシフを捜す夢を見ているため、自分がいつ眠ったかすら分からない境地にいた。

 日中は学び舎に通いながらも念威端子での捜索を止めず、学び舎から寮に帰れば自室でずっと座り込んで念威端子を操る。

 ルシフが行方不明になって以来、念威を外に発していない時間はマイが記憶する限りない。

 ツェルニは常に足を動かし移動しているため、捜索が遅くなればなるほどルシフを発見できる可能性は低くなるが、それでも今のマイは異常であった。

 

 ──ルシフ様がいない世界……。

 

 想像して、マイの全身が震え始めた。顔に汗が浮かびあがる。

 何も見えない暗闇が眼前に広がっているだけの世界。どこに自分が行けばいいのかすら分からず、ただその場で立ち尽くすしかない世界。

 マイは慌てて首を横に振り、頭の中に形成された未来を消し去ろうとする。

 

 ──ルシフ様が死ぬわけない。早く……早く見つけて念威のサポートしないと……。

 

 マイにとってルシフの喪失は、自身の存在価値の消滅である。

 ルシフが死ねば、マイはこの先なんのために生きていけばいいか分からない。

 だから、死に物狂いでルシフを捜す。

 今夜もまた、マイに安息の時間はない。

 

 

 

 翌日、マイは若干俯いて復元された杖を右手に持ち、学び舎の廊下を力ない足取りで歩いている。

 マイがこういう状況になっても学び舎に通い続けるのは、それ自体がルシフの指示であり、ルシフとの繋がりを感じられるからだろう。

 マイの向かいから男子生徒二人が談笑しながら歩いてくる。マイは慌てて男子二人から距離を取った。

 マイは男に近寄らないようにしている。ルシフが教員として呼んだマイにとって仲間である筈の人間であっても、それを徹底した。むしろ教員としてきた男たちの方を、マイは警戒している。

 エリゴ、レオナルト、フェイルスの三人はその異常なまでの警戒心から、マイに近付かないようになっていた。

 ルシフが行方不明になってから、マイの男への恐怖は膨れあがっている。

 

「ん? マイ……か?」

 

 その声に、マイは顔をゆっくりと上げた。

 ニーナが驚いた表情でマイを見ている。ニーナがマイと顔を合わせるのは六日ぶりだった。

 

「……ニーナさん」

 

「いつもツインテールなのに今は髪を結んでいないから、ぱっと見で分からなかった。

どうしたんだ? 顔色が悪いぞ。それに、その髪は?」

 

 マイは腰まである青い髪を一房手に取って見る。

 見ただけで乾燥しているのが分かった。

 ドライヤーで髪を乾かす時間すら惜しく、タオルで無理やり水分を拭って髪を纏めてタオルを頭に巻き、自然に乾くようにしていたのが原因だろう。

 しかし、別に何も感じなかった。

 良く見られたい相手がいないのに、自分を良く見せることになんの意味があるのか。

 マイにとってルシフ以外の他人など、そこらに転がっている石ころみたいなものだ。

 余裕があればそれでもルシフの傍にいる者として美しく在るよう心掛けるが、今のマイにその余裕はない。そんなものに気を配るより、やるべきことがある。

 ニーナは目の前の人物がマイだと信じられない気持ちだった。

 髪はボサボサで、清潔感がまるで感じられない。ブラッシングすらしていないその髪は、マイの印象を百八十度変えてしまっていた。

 容姿端麗で優等生という普段のイメージは掻き消され、地味で暗い劣等生のような、快活さをまるで感じない少女という印象を受けた。

 正直錬金鋼の杖がなければ、ニーナもマイと気付かず通りすぎていただろう。

 マイは目を数瞬泳がせた後、意を決したようにニーナの顔に視線を定めた。

 

「私、ニーナさんに言いたいことがあって……」

 

「……なんだ?」

 

 ニーナはまた責められるんじゃないかと思い、無意識に身体が硬直した。

 マイは静かに頭を下げる。

 

「ルシフ様が行方不明になったと聞かされた時、酷いこと言ってごめんなさい。

あの時、頭の中が真っ白になっちゃって……」

 

 ニーナは我知らず息をつき、表情を柔らかく崩した。

 

「いや、気にしていない。大切な人が急に消えれば、誰だって取り乱すのが普通だ」

 

「あ……ありがとうござ──」

 

 最後まで言えず、マイは前のめりに崩れ落ちる。

 ニーナは咄嗟にマイの身体を支えた。

 マイの意識はない。

 この倒れ方に、ニーナは覚えがあった。

 

 ──これは……剄脈疲労か!?

 

 ルシフが入院している時に、ニーナが倒れた原因。

 

「お前……まさかあの日からずっと念威を使い続けたのか!?」

 

 マイ……お前の中で、ルシフという男はそこまで大きかったのか。

 

「マイが倒れた! 手を貸してくれ!」

 

 ニーナはマイを抱きかかえながら、近くを通りがかった生徒に声をかけた。



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第37話 学園都市マイアス

 何もない暗闇に、無数の光が広がっている。

 まるで暗闇に浮いているように、俺の身体はそこにあった。

 俺はただその場に立っている。少なくとも、俺はそう思っている。しかし、まるで自分が猛スピードで暗闇を疾走しているかのような錯覚をしてしまう。

 周りの光が流星となって、彼方に次々と消えていくからだ。

 俺は視線を周囲から正面に戻す。光が溢れている扉のような形のものがどんどん近付いてきていた。

 光の扉に、自分の身体が呑み込まれる。

 瞬間、暗闇と光の線しかなかった世界に色彩が広がった。

 

 

 気が付けば、目の前に様々な料理と飲み物が置かれたテーブルがあった。

 身体がふわふわと地に足つかない心地で、まるで自分という存在がこの地に定まっていないような感覚。

 まだ借り物の力であるが故の不安定な状態。

 だが、確信がある。

 俺が試したかったことは成功した。

 電子精霊には『縁』と呼ばれる電子精霊同士の独自のネットワークがある。電子精霊と融合した人間は自身の内にいる電子精霊を通して、そのネットワークに介入できる。電子精霊同士の会話に参加することができるのだ。

 それともう一つ、『縁』を使ってできることがある。

 電子精霊から『縁』を得た人間は、『縁』に自らの存在を介入させ、『縁』がある他都市に移動することができる。分かりやすく例えるならば、別人格の知識にあった電車のようなものか。多数の駅があり、線路さえ敷けばその場所に行ける。

 当然全ての電子精霊と『縁』を持っているのはごく少数しかおらず、大抵は似たような都市との『縁』しか持っていない。

 故に、今の段階ではどの都市でも行ける万能の力ではない。しかも不完全。

 しかし、今はその力を使える資格があると分かっただけで十分。

 後は、不完全な俺を完全にする境界の繋ぎ手が現れるのを待つだけだ。

 それまでは、まどろみに身を任すとしよう。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 

 リーリン・マーフェスは不機嫌だった。

 グレンダンから放浪バスに乗り、ツェルニに向かう途中に中継した都市、学園都市マイアス。

 そこの都市の来訪者宿泊施設でくつろいでいたところ、都市警察機動部隊と名乗ったリーリンと同年代くらいの少年たちが銃を突きつけ、施設にいた宿泊客全員を無理やりロビーに集めたのだ。

 その後、一人一人事情聴取と荷物検査をされた。その際、リーリンの持つレイフォンに届ける錬金鋼(ダイト)を危険物と判断され、事件が解決するまで取り上げられてしまった。

 これがリーリンを不機嫌にしている理由の内の一つだろう。

 そして、事情聴取と荷物検査が終わって二日が経過した。未だにこの軟禁状態が続き、武装している学生の遠巻きな包囲は解かれず、自分に割り当てられた部屋とロビーを行ったり来たりするだけの日々が続いている。

 これもリーリンが不機嫌になっている理由の一つ。

 現在は昼食の時間になっている。

 

「穏やかじゃない時間が続きますね」

 

 サヴァリスがテーブルに座っている。彼の前には大量の料理が盛り付けられた大皿。取り放題形式の昼食のため、好きな料理や飲み物を好きなだけ食べたり飲むことができた。

 普段のリーリンなら喜んだだろうが、今のリーリンはこの異様な雰囲気に疲労し、食欲がない。

 リーリンは向かいに座るサヴァリスの方を見る。

 リーリンはサヴァリスが天剣だと知っている。

 

「周りを取り囲んでいる彼らから、尋常ではない緊張を感じます。おそらく、何か重大な問題が起きているのでしょう」

 

 腰まである黒髪を後ろでひと纏めにしている美人──カナリスも同じテーブルに座っている。彼女の前にも料理が盛り付けられた皿があるが、量は普通だった。

 彼女も天剣だとリーリンは知っている。

 

「しかし、こうも周りから拙いながらも闘気を浴びせられ続けると、身体が疼いて仕方ないな」

 

 短く刈り込まれた灰色の髪をし、顔に深くしわが刻まれた老齢の男性──カルヴァーン・ゲオルディウス・ミッドノットも同じテーブルに座っている。武芸の本場──グレンダンの武門の中で、最も栄えていると言われるミッドノットの創始者。

 彼の前にある皿も、カナリスと同程度の料理の量が盛り付けられていた。

 やはりサヴァリスが異常な食欲の持ち主なだけだ、とリーリンは思った。

 彼も天剣。

 彼ら三人が天剣授受者と分かったのは、放浪バスが出発してすぐのことだった。

 リーリンのすぐ近くに彼ら三人は座り、ガハルドの一件でサヴァリスの顔を知っていたため、リーリンはサヴァリスが天剣だと分かり、サヴァリスがリーリンに放浪バスに乗った目的を口にした。

 その際、カナリスとカルヴァーンがリーリンに自己紹介し、リーリンは天剣授受者が三人もグレンダンから離れることを知った。

 彼ら三人は女王の命であるものを取りに別の都市に行くらしく、途中までは同じルートを辿るため、こうして一緒に行動している。

 リーリンは三人が錬金鋼を身につけていることに、今更ながら気付いた。

 

「あの……三人とも錬金鋼は取り上げられなかったんですか?」

 

 天剣三人は互いに顔を見合わせた。

 

「まぁ、奪われそうになりましたけど、『この錬金鋼は死んでも渡すなと命令を受けているから、錬金鋼を取り上げるならまず僕を殺してほしい』って言ったら、荷物検査の学生が顔を引きつらせて『そういう事情なら……』と見逃してくれたんですよ。話が分かる人で助かりました」

 

 サヴァリスが料理を楽しみながらそう言った。

 リーリンは絶句し、言葉を失った。

 数秒後、リーリンは声を荒らげる。

 

「脅迫じゃないですか!」

 

「え? そうなんですか? 僕は事実を口にしただけなんですけどねぇ」

 

 サヴァリスは首を傾げている。脅迫したとはまるで思っていないようだ。

 リーリンは他の二人の方を見た。

 

「お二人もまさか……」

 

「似たような感じです」

 

「うむ」

 

 カナリスとカルヴァーンも平然とした表情で料理を食べている。

 リーリンは頭を抱えたくなった。

 

 ──天剣授受者ってみんな少しズレてるのかな。

 

 その話を聞けば、周りを包囲している学生たちが重度の緊張状態にあるのもこの天剣三人のせいではないか、とリーリンは思った。

 指示に従わず、武器を所持している三人が彼らにとって脅威なのは間違いない。

 

「それにしても、何がこの都市で起きてるんですかね?」

 

 この都市で事件が起き、重要な物が盗まれた。

 学生たちから伝えられたのはこれだけで、事件の詳細すら説明しない。

 いつまでこの軟禁が続くのか。

 それすら分からない現状はただ苛立ちを募らせる。

 

「何かが盗まれ、盗んだ可能性がある人間が僕たち、外から来た人間だけなんでしょう」

 

「盗まれたって……荷物検査は全員したんですから、この場にいる人間に犯人はいないんじゃ……」

 

「なら、解放されない答えは簡単です」

 

 カナリスが食事を終え、フォークを皿の上に置いた。

 

「盗まれたと分かっているけど、盗まれたものがどういうものか分かっていない。それしかありません」

 

「盗まれたものがどういうものか分かっていない……?」

 

 カナリスの言葉に、リーリンは困惑を返すしかなかった。

 盗まれたものが分からない。そんなこと有り得るのだろうか。

 

「リーリン殿」

 

 カルヴァーンがリーリンの方に顔を寄せる。

 

「この都市の足は止まっております」

 

「……え?」

 

 都市の足は都市に生きるものにとって生命線。

 だとすれば、これほどまでの用心深さも納得できる。

 つまり彼らは、都市の足を動かしていた物を探しているのだろう。事件の詳細を話さないのも当然と言える。

 そんなことを知られれば、あっという間にパニック状態になるだろう。

 そこまで考え、リーリンの頭に一つ疑問が浮かび上がった。

 

「どうやってそれを知ったのです?」

 

「施設から抜け出して」

 

 施設は見張りが巡回していて、部屋にいるかどうかの確認も逐一行われる。

 施設から抜け出したらすぐに発覚する筈だ。

 リーリンの思考を読んだのか、サヴァリスはカルヴァーンから話を引き継いだ。

 

「見張りがいるっていっても、今の彼らに人的余裕はないですよ。非常事態なわけですし。即興の見張り体制なんて、穴があって当然です」

 

「三人とも足が止まってるのを確認したんですか?」

 

 三人は同時に頷いた。

 

「なら、盗まれたものって……?」

 

「都市の足には電子精霊の意思が宿ります。つまり、この都市の電子精霊が盗まれたのでしょう。おとぎ話みたいな話ですけどね」

 

「電子精霊を盗む? そんなことできるんですか?」

 

 リーリンは電子精霊を盗むイメージが掴めなかった。リーリンは電子精霊がなんなのか知らないから、そうなるのも無理ないかもしれない。

 

「さぁ? だから彼らも困って僕たちを解放できないんじゃないですか?」

 

 頭の中を覆っていた霧が晴れたようだった。

 何故この状態が解かれないのか理由が分かり、リーリンの苛立ちは少し収まった。

 リーリンは席を立ち、食後の紅茶を取りにいく。

 紅茶を取りにいく途中、不思議な少年を見た。

 料理と飲み物があるテーブルの前で立ち尽くしている。

 リーリンが目を引いた一番の理由は、なんといっても身に付けている六つの錬金鋼。

 危険物として取り上げられる筈なのに、平然と持っている。隠す気もない。

 リーリンは眉をしかめた。

 もしかしたら、自分だけ女で一般人という理由でナメられて錬金鋼を取り上げられたんじゃないだろうか。

 そう考えたら、また腹が立ってきた。

 目を引いた理由はまだある。

 

 ──あんな男の子いたっけ……?

 

 赤みがかった黒髪。あの髪の色は初めて見た。一度でも見ていたら、絶対に頭の片隅に残る。

 リーリンたちの後にこの施設に来た人はいないから、あの少年は自分が乗っていた放浪バスに乗っていたか、元々軟禁されていた人になる。

 しかし、どれだけ記憶を辿っても少年の姿はなかった。

 リーリンの足は自然とその少年の方に向いていた。

 どこか困っているように見えるから、という理由もあるかもしれない。

 しかし一番の理由は、同い年くらいの人が軟禁されている人の中にいないからだろう。一番年が近いのはサヴァリスで、リーリンの乗っていた放浪バスは年上ばかりだった。

 

「あの……どうしたの? 料理が食べたいならあそこにある取り皿に好きなだけ取ればいいよ」

 

 少年はリーリンの方を見た。

 リーリンは少年の前で取り皿がある方に指を指す。

 

 ──きれいな男の子だなぁ。

 

 指を指しながら、リーリンは少年の顔を正面から見てそんなことを思った。

 しかも、ただきれいな顔をしているだけじゃない。しっかり引き締まった身体は、これでもかというほど少年の男としての魅力を引き出していた。

 少年はリーリンの後方に視線を向け、一瞬鋭い目になった。

 

 ──……え?

 

 リーリンの身体は何かに縛られたように硬直する。

 紛れもなく、この感覚は恐怖。

 リーリンの後方でガタッという音が三つ連鎖した。

 少年はふたたび視線をリーリンの方に向け、柔らかい笑みを浮かべる。

 リーリンを襲った恐怖は消え去り、リーリンは身体の自由を取り戻した。

 リーリンは何故恐怖を感じたのか内心で首を傾げながら、後方を振り返る。

 サヴァリス、カナリス、カルヴァーンが立ち上がって驚愕の表情でこちらを見ていた。正確にはこの少年を。

 

「ご丁寧に教えていただき、ありがとうございます」

 

 リーリンは少年の方に顔を戻した。

 少年はにこにこと愛想の良い表情をしている。大抵の女の子はこの表情で話しかけられただけで好きになってしまうかもしれない。

 しかし、リーリンには効かなかった。

 

「どういたしまして。食事の時間、もうすぐ終わりだから早く食べた方がいいよ」

 

「分かりました」

 

 少年は取り皿がある方に歩いていく。取り皿の付近に飲み物も置かれているため、リーリンも少年に付いていった。

 

「わたしはリーリン・マーフェス。あなたは?」

 

「私の名前はルシフ・ディ・アシェナと言います。リーリンさんですか。美しい響きがあるとても良い名前ですね」

 

「あ、ありがと……」

 

 リーリンは少し顔を赤らめた。

 その気はないのだろうが、ここまで素直に褒められるとさすがに照れる。

 ルシフはリーリンの目をじっと見つめていた。

 リーリンは怪訝そうな表情になる。

 

「……何?」

 

「いえ、リーリンさんの目、宝石のラピスラズリのように美しい色をしていたのでつい見入ってしまって……」

 

「……もう。あんまりそういうこと初対面の人に言わないの」

 

「どうしてです?」

 

 ルシフは首を傾げている。

 リーリンは小さく息をついた。まだ頬は熱い。

 

 ──この男の子もレイフォンと同じタイプなのかな。自覚がないままたくさんの女の子を泣かしそうね。

 

 ルシフは料理を適当に取り皿に取り始めた。

 リーリンも紅茶をカップに注ぐ。

 

「ところで、どうして錬金鋼取り上げられなかったの?」

 

「私は影が薄いせいか、荷物検査されなかったんですよ。ラッキーでした」

 

 絶対ウソだ、とリーリンは直感した。

 この少年は人の目を引き付ける。

 ありとあらゆる意味で常人の見た目と違っているからだ。

 しかし、今までリーリンがルシフに気付かなかったのは事実。

 そう思えば、気付いたら目が離せなくなるが、気付くまでは目に付かないのかもしれない。

 そんな意味不明な思考を巡らして、リーリンは無理やり自分を納得させた。

 だが、影が薄いだけで気付かないわけがない。

 

「……嘘でしょ?」

 

 リーリンがジト目でルシフを見る。

 

「バレました?」

 

「当たり前!」

 

「あははッ、ちょっとした冗談です。錬金鋼を消してたんですよ」

 

「錬金鋼を消す……?」

 

 そんなことができるなんて、リーリンは今まで聞いたことすらなかった。

 

「剄を光が反射しなくなる性質に変化させて、その剄で錬金鋼を包むんです」

 

 ルシフは錬金鋼を一つ手に取り、言った通りにやって見せる。

 リーリンの目から錬金鋼がパッと消えた。

 

「わッ、すごい!」

 

 リーリンは思わず拍手した。

 ルシフの手にふたたび錬金鋼が現れる。

 

「あ、もしかして今まで姿が見えなかったのも、その剄技で姿を隠してたから?」

 

 ルシフは笑みを浮かべたまま頷いた。

 

「ええ。ただ、この施設の外にいる学生たちもここにいる学生たちのように気を張っていて、放浪者は見つけ次第すぐに捕まりそうな雰囲気が漂っていました。行くあてもなく、この剄技にも時間制限があるので、大人しく捕まろうと姿を隠すのをやめたんです」

 

 成る程、とリーリンは合点がいった。

 それなら今までルシフの姿に気付かなかったのも納得できる。

 

「面白い剄技使うんだね。わたしはグレンダンから来たんだけど、そんな剄技見たことないなぁ。

あッ、そうだ。よかったらわたしのテーブルで食べない? わたしのテーブルにとても強い武芸者が三人いるんだけど、きっと剄技の話を聞いたら喜ぶよ。特にサヴァリス様は」

 

 ルシフの表情から一瞬笑みが消えた。

 しかし、その表情はすぐに柔らかな笑みに変わる。

 

「……とても強い武芸者ですか。それは興味深いですね。是非ご一緒したいです」

 

「ならこっちに来て。案内するから」

 

 リーリンはカップを手に持って自分のテーブルを目指して歩き出す。

 ルシフがリーリンの後ろを付いていこうとして、後方から左肩を掴まれた。

 

「…………」

 

 ルシフは無言で後方に顔だけ向ける。

 包囲している内の一人の学生がルシフの左肩を右手で掴んでいた。

 

「……あなたはまだ、事情聴取と荷物検査をしていません。私の指示に従ってもらえますか?」

 

「……分かりました」

 

 ルシフはリーリンの方に顔を向けた。

 

「リーリンさん。また今度、話をしましょう」

 

「……うん。じゃあ、また夕食の時間に」

 

「ええ」

 

 ルシフは三人の学生に連れられ、ロビーから出ていった。

 リーリンはルシフがロビーから連れ出されるのを最後まで見届けた後、自分のテーブルに戻る。

 サヴァリス、カナリス、カルヴァーンは未だに立ち上がったままだ。

 

「……三人ともどうされたんです?」

 

「あの少年、いつからあそこにいました?」

 

 サヴァリスがいつになく真剣な表情でリーリンに問いかける。

 リーリンはその雰囲気に呑まれつつも、言葉を振り絞った。

 

「今わたしも気付いたんです。なんでも彼は姿を消す剄技が使えるらしいので、それで今まで気付かなかったんじゃないですか?」

 

「姿を消す剄技? 詳しく教えてもらえますか?」

 

 リーリンはさっきルシフに説明されたことをそっくりそのまま三人に話した。

 三人は驚愕の表情で言葉を失っている。

 しばらくして、サヴァリスが笑いだした。

 

「ふふ……あはははははは! 聞きましたお二人とも! そんな剄技聞いたことも見たこともない! どうやら想像以上に楽しめそうだ」

 

「笑いごとじゃありません!」

 

「そうだ。それに、何故こんな都市にいる? 奴はツェルニにいるんじゃなかったのか?」

 

 カナリスはハッとした表情になる。

 

「もしかしたらルシフは、廃貴族を奪取するためにグレンダンが天剣授受者を何人かツェルニに送るのを読み、天剣授受者が分散したグレンダンに単独奇襲をかけるつもりなのでは?」

 

 サヴァリス、カルヴァーンの顔に驚きの色が加わる。

 

「成る程……それは十分考えられますね。ルシフは天才的な頭脳の持ち主らしいですから」

 

「となれば、グレンダンに奇襲をかけようとツェルニを出たルシフと、ツェルニを目指していた我らが同じ都市を中継し、かち合ったからこうなったわけか」

 

 そう考えれば、こんな都市にルシフがいる理由も辻褄が合う。

 三人の話し合いが熱を帯びてきたころ、リーリンが気になることを問うため口を挟んだ。

 

「三人はルシフとお知り合いなんですか?」

 

 三人の視線がリーリンに集中する。

 

「噂で知っている程度ですよ。それより、あの少年は名乗ったのですか?」

 

「ええ、ルシフ・ディ・アシェナと名乗りましたけど……」

 

 三人は顔を見合わせ、頷く。

 カナリスがリーリンを見た。

 

「リーリンさん、ルシフは危険です。あまり関わらない方がよろしいかと」

 

「危険? 少し話しましたけど、礼儀正しくて優しそうな男の子ですよ」

 

「それは上辺だけです」

 

「……なら、夕食をルシフと食べる約束をしているので、その時色々ルシフと話してみたらどうです? 話したら印象変わりますよ」

 

 カナリスとカルヴァーンはリーリンの言葉に呆気に取られている。

 サヴァリスは楽し気な笑みを浮かべた。

 

「それは良い! とても楽しい夕食になりそうですねえ!」

 

「……サヴァリス。こういう時、お主の能天気が羨ましいぞ」

 

「……本当ですね。私は楽しく夕食を食べられそうにないです」

 

 カナリスとカルヴァーンは同時にため息をついた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは三人の学生に案内された部屋に入る。

 ルシフが入室した後、三人の武装した学生が入室した。

 その部屋は椅子が一脚置かれていて、それ以外の家具は何もない。

 ルシフは感覚を研ぎ澄まし、周囲を探る。念威の波動は感じなかった。

 

「……監視カメラは?」

 

 ルシフが正面を向いたまま、すぐ後方の学生三人だけに聞こえる程度の声量でそう問いかけた。

 

「ありません」

 

 学生の一人が答えた。

 ルシフは一脚しかない椅子に座り、足を組む。

 ルシフの前で学生三人が跪いた。

 

「お久しぶりです、マイロード」

 

「うむ、数年振りだな。ガイア、オルティガ、メッシュ。首尾はどうだ?」

 

 数年振りの再会は見た目が変わっていて気付かない場合があるが、ルシフに関しては無用な心配だった。錬金鋼を六つ身に付けている少年など、ルシフの他にいないだろう。

 学生三人は跪いた姿勢で軽く頭を下げる。

 

「はっ! 武芸科の五分の一はすでにこちら側に引き込んでおります! マイロードの命あれば、今すぐにでもこの都市を内側から切り崩せます!」

 

「ほう……上手いことやってるな」

 

「お褒めいただき、光栄です!」

 

 三人は更に深く頭を下げた。

 

「あの……マイロードがいらっしゃるということは、ついに(とき)がきたのでしょうか?」

 

 三人の内の一人が顔を上げた。

 

「お前たちを他都市に追放する時、俺はなんて言った?」

 

「指示した都市に溶け込み協力者を増やしながら、合図を待て、と」

 

「合図は俺が都市に現れることだったか?」

 

「違います」

 

「なら、俺が言った合図を見るまでこの都市に溶け込め。今は雌伏の時と心せよ」

 

「はっ!!!」

 

 三人の返事が重なった。

 ルシフはそんな三人の姿に満足したように頷く。

 

「よし。なら、この都市が今どんな状況にあるか教えてもらおうか?」

 

「はっ! 現在学園都市マイアスの足は止まっており、汚染獣と遭遇するのも時間の問題かと。足が停止している原因につきましては、機関部の構造的異常はみられず、電子精霊に何かしらの問題が発生していると思われます。ですが、未だに電子精霊の所在は不明。以上です」

 

「成る程、よく分かった。下がっていい」

 

「はっ! 失礼いたします! いつでもお好きなタイミングでロビーにお戻りください!」

 

「うむ」

 

 三人の学生たちは一礼して退室した。

 今、部屋にいるのはルシフ一人。

 ルシフの隣に黄金の粒子が集まり、メルニスクが顕現する。

 

「汝がツェルニの主に隠していたのはこれか」

 

「ふん、俺は平和主義者なんだよ。正面から力で叩き潰して都市を奪ってもいいが、それでは色々面倒だ」

 

「……それが汝なりの優しさか」

 

 ルシフはメルニスクの言葉に顔をしかめた。

 

「一体どこに優しさがある?」

 

「……汝はもう少し素直になった方がいいぞ。さっきみたいにな」

 

 ルシフはリーリンと会話していた自分を思い出し、肩を震わせた。

 

「素直? あれを素直とほざいたか? お前のその角へし折るぞ」

 

「それで気が済むならやればいい。それにしても変わった男だな。自分からああいう人間を演じたくせに嫌悪するのか?」

 

 ルシフはメルニスクの二本の角を掴み、へし折った。

 メルニスクから角が一瞬消えたが、すぐに元通りになる。

 ルシフはふたたび角を掴んだ。

 

「…………」

 

「他人から好かれることしか考えず、他人に媚び下手に出る。醜悪だ。必要とはいえ、自分の顔を殴りたくなった」

 

「本当にひねくれているな、汝は。話は変わるが、そもそも何故あのような人間を演じた?」

 

「あの女の後ろにいた三人、錬金鋼を持っていたろ? 間違いない、あれは天剣だ」

 

 天剣は復元前であっても天剣以外の錬金鋼と形状が異なる。ルシフは復元前の天剣の形状を頭に叩きこんでいたため、一目見ただけで分かった。

 

「天剣授受者か……だが、天剣授受者がグレンダンを離れるなどあり得ん」

 

「あり得ん? 何を言っている、因果応報だ」

 

 メルニスクはしばらく無言になった。

 因果応報が具体的に何を指しているのかを考えているようだ。

 ルシフは暇潰しにメルニスクの二本の角をへし折る。

 メルニスクの角は一瞬で再生した。

 ルシフはメルニスクの角に興味を失い、椅子に座り直す。

 

「……サリンバンとやらを暴走にみせかけて蹂躙した結果と言いたいのか?」

 

「その通り。喜べよ、奴らは俺たちの追っかけだぞ」

 

「汝一人で喜んでおればよかろう。

成る程、さすがの汝も天剣授受者三人は怖いか? 自らの性格すら曲げて、自分は危険な人間じゃないとアピールするほどに」

 

 ルシフの眉がピクリと動く。

 ルシフの性格上、天剣授受者三人を怖がっていると思われるのは屈辱であり、我慢ならないことである。

 ルシフの表情が明らかに不機嫌になった。

 

「この俺があんなクズの下でのうのうとしている連中を怖がるわけないだろう。逆だ」

 

「逆?」

 

「突っかかってこられたら、思わず潰してしまうかもしれんからなァ。

天剣授受者を料理する舞台はしっかり考えてある。そして、その舞台はここじゃない」

 

「なら、関わり合いにならぬようにすればよかろう。何故、あえて接触した?」

 

 ルシフの顔が歪み、邪悪な笑みを形作った。

 

「奴ら、きっとアルシェイラから俺のことを聞かされている。そういう奴らにとても有効な策があるんだ。奴らを物理的に蹂躙はできないが、その代わり、精神の方を徹底的に蹂躙してやる」

 

 いいだろう? それくらい。

 俺だって反吐が出るのを堪えてやってるんだ。俺だけ気分が悪くなるのは不平等だろう?

 なァ、サヴァリス、カナリス、カルヴァーン。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 夕食の時間。

 リーリンの他に天剣三人とルシフが同じテーブルについている。

 

「…………」

 

 カナリス、カルヴァーンは無言でルシフを睨み、サヴァリスは愛想の良い笑みを浮かべている。

 

 ──何? この空気……。

 

 空気が張り詰め、重苦しい。

 一言話そうとするだけで体力を消耗してしまうような緊張感がテーブルを支配している。

 

「えっと、まだわたし料理取ってきてなかったから、料理取ってくるね」

 

 リーリンはそう口にすると、逃げるようにテーブルから去った。

 

「あの女性とあなた方三人はどういうご関係なんです?」

 

 ルシフは去っていくリーリンの後ろ姿に視線を送っている。

 

「貴様が知る必要はない」

 

 カナリスがそう吐き捨て、カルヴァーンは硬い面持ちをしている。サヴァリスは興味深そうにルシフを見ていた。

 彼ら三人の反応を見て、優しげな表情を崩さなかったルシフの表情が変貌する。

 天剣三人はルシフの纏っている雰囲気に苛烈さが加わったのを感じとり、息を呑んだ。

 

「成る程。大切な人物のようだ」

 

 サヴァリス、カナリス、カルヴァーンが天剣に触れながら同時に立ち上がる。

 リーリンに危害を加えるつもりか、と三人とも考えたからだ。

 

「座れよ」

 

 ルシフの声に威圧と覇気が加わり、三人の全身を打った。

 三人は二、三秒呆然とした。今までのルシフと全く異なる表情、口調、雰囲気だからだ。

 正体をみせた、と三人は思った。ここにいるルシフがアルシェイラから話を聞いていた危険人物だと確信したのだ。

 緊張した面持ちで、三人は天剣を抜き取る。

 

「天剣を復元させたら、天剣授受者の名が泣くぞ?」

 

「何?」

 

 カルヴァーンが困惑した表情になる。

 天剣三人ともルシフの言葉の意味が分からず、天剣を手に持ったまま固まった。

 ルシフはわざとらしくため息をついた。

 その態度がまた天剣三人の神経を逆撫でする。

 

「天剣授受者とは、グレンダンの守護者なのだろう? 守護者たるものが、ただ危なそうだからという理由で武器を振りかざし、無関係な都市を、人を巻き込むのか? それでは、そこら辺に転がっている武芸者もどきと同じだろうが」

 

 ロビーは広い空間だが、それなりに人は集中している。

 もし天剣を復元させルシフを攻撃していれば、剄の余波にロビーの人々が巻き込まれ、甚大な被害が出ていただろう。

 ルシフはそのことを非難しているのだ。

 

「まぁ、どうしても俺と戦いたいなら別に戦ってやってもいいが、その場合周りはどうなるだろうなァ、天剣授受者さんよ。あの女が死んでもいいのか?」

 

《よく言う。汝がその気になれば、周りに被害を出さず倒すなど容易いだろうに》

 

 自分の内から聞こえてきたメルニスクの声を、ルシフは無視。

 天剣三人は何も言い返せず、何もできない屈辱に顔を歪めながら席に座った。

 ルシフの言葉は正論である。

 危険人物なのは間違いないが、今この瞬間において、ルシフは周囲に危害を加えるような真似をしていなければ、周囲を挑発し混乱を引き起こそうとしているわけでもない。

 周りにいる人と同じように食事をし、話をしているだけのルシフに戦いを仕掛ける理由がない。

 廃貴族の捕獲という名目があることにはあるが、戦いを仕掛ければ待ち構えているのは、戦いの影響で破壊される都市とたくさんの学生たちが戦いに巻き込まれ死にゆく未来。

 ルシフはリーリンとこの都市の住人を盾にして、天剣三人が戦えないように枷を付けた。

 

「……どうしたの?」

 

 両手で木製トレーを持ったリーリンがテーブルに戻ってきた。テーブルに料理が盛り付けられた取り皿と飲み物が乗っているトレーを置く。

 ルシフは一瞬で仮面を付け直した。リーリンの方に視線を向けて立ち上がる。

 

「いえ、別に交流を深めていただけですよ」

 

「え? でも、サヴァリス様たちの顔、交流を深めたって顔には見えませんけど……」

 

「噂の私と実際の私が違いすぎて、びっくりしてるんじゃないですか?」

 

「あー、あるある。人の噂って案外当てにならないのよね」

 

 実際は噂以上の外道っぷりに三人とも言葉を失っているわけだが、リーリンはそんなこと思いもしない。

 リーリンのルシフのイメージは、礼儀正しく珍しい剄技が使える武芸者というイメージで固定されてしまった。

 

「リーリンさん、そいつから離れてこっちに来てください! 席、私と替わりましょう!」

 

 カナリスが必死な表情で声を出した。

 

「いいですけど……皆さん、ちょっと初対面の人を警戒しすぎじゃないですか?」

 

 カナリスが立ち上がり、リーリンはカナリスが座っていた席に座る。カナリスは空いたリーリンの席に座った。

 カナリスはルシフとリーリンの間に割り込む形になった。

 

「私は気にしていませんから大丈夫です。私もちょっと料理を取ってきますね。お三方も座ってないで、料理を取りにいきましょう。ね?」

 

 ルシフはにっこりと微笑んでいる。

 リーリンは顔を赤くして目をルシフから逸らした。

 カナリス、カルヴァーンはふざけんなこの野郎と言いたげな表情でルシフを睨んだ。

 サヴァリスは堪えきれずに吹き出した。

 

「ぷっ、あははははは! ははははははは! なるほどなるほど、これは噂以上の人物のようだ! カナリスさん、カルヴァーンさん、ここは彼が敵なのを少しの間忘れて、楽しい夕食にしましょう!」

 

 廃貴族を手に入れているルシフと、廃貴族を奪取しようとしている天剣授受者三人。

 お互いがお互いを敵と知りながらも、同じテーブルに座って食事をする奇妙な時間が始まった。




怖い……。後半の話の展開が、

ルシフ「お前の可愛いリーリンは、今は俺の腕の中にいるぞ」

レイフォン「!?」

とかになりそうで怖いです。
ルシフは私の思い通りに動かないキャラナンバーワンなので、この展開だけはしないでくれと必死に祈らないといけません。
リーリン寝取りとか私以外需要ないでしょうし。

話は変わりますが、覚醒する前(ここ重要)のリーリンはニーナの次に好きです。



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第38話 地獄行き決定

前話の感想で、リーリンNTRについて否定的なものが全くといっていいほどなく、個人的に嬉しい気持ちでいっぱいです。
感想を書いてくださるのは本当に嬉しく、頭が上がりません。本当にありがとうございます。

それから、リーリンNTRが許されるなら、ニーナNTRも許されるのでは……?と、どんどん欲が深くなってます。
IFエンドも本格的に考えるかもしれません。


 ルシフはフォークとナイフを使い、ステーキを切り分け口に運ぶ。

 一回ステーキを噛んだとき、ルシフが微かに不快な表情になったのに気付いた者は、おそらく誰もいないだろう。

 

 ──マズい……。

 

 吐き出しそうになるのを堪え、飲み込む。

 肉を焼きすぎて水分がとび、肉の旨みを完全に消してしまっていた。調味料で味をごまかそうとしているのか、ステーキの上にはブラックペッパーがまぶしてあるが、あくまで調味料は引き立て役。肉の旨みを殺したステーキがよみがえるわけがない。

 

 ──これでは他の料理も期待できんな。まぁ、無料で提供されている料理だからこんなものか。

 

 予想を上回るマズさだったが、ルシフはそれを表にほとんど出さず、料理を次々に片付けている。

 ステーキ以外の料理も美味くはない。が、マズいと思うほどの出来でなかったのは唯一の救いか。

 どうやら一番のハズレを最初に引き当てただけらしい。

 そんなことを内心で考えながらルシフが食事をしているなど、リーリンと天剣三人は思いもしなかった。

 彼女ら四人は、ルシフの食べる姿に言い知れぬ気品を感じていた。上流階級の人間特有の優雅さと洗練さが、嫌みにならない程度に滲み出ている。

 天剣三人ともグレンダン出身で名門と呼ばれる武門の出だが、それでもルシフの前には見劣りした。

 

「ルシフってなんとなく育ちが良さそうだよね。有名な武門の家の生まれだったりするの?」

 

「大した家ではありませんよ。王家候補の武門というだけです。ですが父はどうしても私を王にしたかったらしく、幼い頃から言葉使い、礼儀作法、立ち振舞いを徹底的に教育されました。その影響で、普段の食事もそういう部分が出てしまうんですよ」

 

「王? ルシフって王様になるかもしれないの?」

 

「私の出身──法輪都市イアハイムは、王の死後、民政院と呼ばれる政治家たちが、次の王を王候補の中から選出するシステムになっています。ですので、もしかしたら王になるかもしれないですね。あまり興味はないんですけど」

 

 ルシフは食事を終え、カップを優雅に口元に運んで紅茶で喉を潤した。ルシフの取り皿に料理は残っていない。

 

「へぇ~、そうなんだ。グレンダンにも三王家って呼ばれる武門があって、その中で一番強い人が王様になるらしいって聞いたことがあるけど、やっぱり都市によって一番偉い人の選び方が違うのね」

 

 リーリンもカップを手に取り、食後の紅茶を飲んだ。

 リーリンは視線を巡らし、天剣三人を見る。

 カナリス、カルヴァーンは見るからに硬い表情で、ルシフの一挙一動を見逃さまいとしているようだった。

 礼儀正しく優しそうな顔しか知らないリーリンにしてみれば、天剣授受者ともあろう最高峰の武芸者が、ルシフのような大人しそうな少年一人に何をここまで警戒する必要がある? と思わなくもない。

 その点、サヴァリスは終始楽しそうな笑みを崩さず、興味深そうにルシフを見ていた。

 天剣授受者なら、やっぱりこういう余裕がある感じの方がより天剣授受者らしい、とリーリンは考える。

 レイフォンから聞いた話だが、天剣授受者は楽しそうに闘う、楽しそうに汚染獣を殺す人間ばかりらしい。

 そんな話を聞いたことがあるからか、今のカナリスとカルヴァーンがリーリンの持つ天剣授受者のイメージから外れてしまうのだ。

 サヴァリスがお茶を一気に飲み干し、より一層笑みを深めた。狂気すら笑みに内包したサヴァリスの表情を見たリーリンは背筋が寒くなった。

 

「ルシフ君。夕食の後、僕の部屋で色々話したいと思うんだけど、どうだい?」

 

「いいですよ」

 

「サヴァリスッ!」

 

 カルヴァーンの怒気が剄に乗り、ロビーを伝播した。前触れなくロビーを襲った突風と大喝に、ロビーにいた人々はみな驚きと恐怖で口を閉ざし、怖いものでも見るようにリーリンたちが座っているテーブルの方に視線を送っている。

 サヴァリスはカルヴァーンの怒気を全く意に介さない。

 

「あ、カルヴァーンさんもご一緒にどうです?」

 

 カルヴァーンは同席するべきかどうか数秒逡巡した。

 結果、ルシフから目を離すのは危険極まりないという結論になった。

 

「……よかろう」

 

「カルヴァーンさん!?」

 

 カナリスが驚きの声をあげた。

 

「お主はリーリン殿を頼む」

 

「えっ、わたしも一緒に──」

 

 リーリンが口を挟んだ。

 

「リーリンさん! トランプしましょう、トランプ! きっと楽しいですよ!」

 

 カナリスはリーリンの腕を引っ張り、椅子から半強制的に立たせた。そのまま部屋の方に連れていこうとする。

 

「あっ、わたしが食べた皿、片付けないと……」

 

「大丈夫です。あそこにいる二人がついでに片付けてくれますから」

 

 カナリスに腕を引っ張られたまま、リーリンはロビーから姿を消した。

 

「それじゃあ、僕たちもいこうか」

 

 サヴァリス、カルヴァーン、ルシフも立ち上がり、テーブルの食器を片付けてからロビーを後にした。

 

 

 

 サヴァリスに与えられた部屋は、簡素なベッド、机、椅子くらいしか家具が置いてない。長らく置かれているであろうそれらの家具は、ところどころ塗装がはがれていた。それでも、浴室とトイレが個人の部屋にあるのは恵まれている方か。

 ルシフはサヴァリスの部屋を見渡しながらそんなことを思った。

 一つしかない窓の正面にサヴァリスが椅子を持ってきて座った。

 

「悪いけど、椅子が一脚しかないんだ。ベッドに座ってくれるかい?」

 

 ルシフはさりげなく視線を後ろにやる。

 部屋の扉の前にカルヴァーンが立っていた。

 唯一の窓の前にはサヴァリス。

 

 ──閉じ込められたか。

 

 外に出られる場所はサヴァリスとカルヴァーンに遮られた。

 だが、その程度で不安になったり恐怖を感じる人物であったならば、どんなに御しやすい人物だったろう。

 ルシフは圧倒的に不利な状況の中、むしろ楽しげに笑った。

 笑いつつ、ベッドに腰かける。

 

「それで精神的優位に立ったつもりか?」

 

 サヴァリスとカルヴァーンの視線が一瞬交錯する。

 サヴァリスは椅子に座ったまま、足を組んだ。

 

「そんなつもりはないよ。君と話したいと言ったろ? 話の途中で透明になる剄技を使われたら簡単に逃げられるから、それを防いでるだけだよ」

 

 ルシフはサヴァリスの言葉を聞き、つまらなそうな表情になった。

 

 ──こいつら、俺が透明になる剄技を使えると本気で思ってるのか。

 

 ルシフは少しだけ、天剣授受者たちに失望した。

 結論から言うと、透明になったように見せかけることはできる。光を反射しなくなる性質に変化させた剄で全身を包みこんで、相手に視覚情報を与えない。結果として、相手から見ると消える。

 だが、ここで疑問に思わなかったのだろうか?

 ルシフの視界も、当然光の反射による視覚情報で構成される。光を反射する剄で目の部分を覆えば、ルシフの目に視覚情報は一切入ってこず、ルシフの視界は暗闇になる。

 つまり、相手から見て透明にはなれるが、その場合、自分の視界も潰されてしまうという決定的な欠陥があるのだ。

 その欠陥を除いていないため、透明になる剄技は未完成で使いものにならない。

 リーリンに言った全身を透明化して見つからなかったなんて言葉は、口からでまかせを言っただけだ。信憑性を高めるため、錬金鋼(ダイト)を消してはみせたが。

 敵と定めた相手の言を疑わず信じてしまう思慮の浅さに、ルシフは残念な気持ちになった。

 天剣授受者といえど、ただ剄量が桁違いに多いだけの武芸者。それを再認識した。

 

「──で、話とはなんだ?」

 

 今のルシフの立ち振舞いや纏う雰囲気は、普段のものになっている。

 そもそも、あれほどまでに礼儀正しく温厚そうな人間を演じたのは、リーリンに近付いても警戒されないようにするためであり、今その仮面を付ける意味はない。

 

「ま、単刀直入に訊くとね、なんで君は毎年グレンダンを探っていたんだい? おっと、自分に合う錬金鋼を探すため、なんて返答はダメだよ。それはウソだって陛下もおっしゃっていたし、僕もそう思うからね」

 

 サヴァリスは軽薄な笑みを貼り付けている。だが、纏う雰囲気に抜き身の刀のような鋭さが滲んでいた。

 闘いたくてウズウズしている──そんな高揚感がルシフに伝わってきた。

 そのある意味挑発ともいえる空気がルシフを微かに刺激したが、ルシフはその空気に流されない。

 

「別に知識欲を満たしたかっただけだが? 貴様らはどうか知らんが、俺にとってグレンダンは多数の自律型移動都市(レギオス)の一つにすぎない。グレンダンだけでなく、他都市の資料や歴史書も入手させている。自惚れるな」

 

 嘘ではない。現にイアハイムにあるルシフの部屋の本棚の中は、様々な都市に関する書物が大量に並んでいる。

 

「グレンダンを潰すためとか、グレンダンを攻めるための情報収集とか、そういう理由で探りを入れてたわけじゃないんだ?」

 

「そういう理由も少なからずあるぞ。力ずくで天剣を奪うつもりなのは今も変わっていない」

 

 カルヴァーンが全身から怒りを溢れさせ、ルシフに詰め寄る。

 

「天剣は陛下の御前で天剣を与えるに相応しい者を選出する試合を行い、勝者が名誉とともに与えられるものである。力だけで奪ってよいものではないわ!」

 

 ルシフは視線をカルヴァーンにやり、嘲るような笑みを浮かべた。

 

「選出といっても、年齢、人柄は考慮されず、実力があるかどうかだけが天剣を与える選出基準。それも、ある程度は天剣になる者が最初から分かっている出来レース。そんな試合をやることに、なんの意味がある? まだ天剣授受者同士を闘わせ、誰が天剣最強か決める方が有意義だ」

 

「それ、いいね! うん、すごくいい! グレンダンに戻ったら陛下に言わないと……」

 

 ルシフの言に真っ先に賛同したのはサヴァリスだった。サヴァリスは目を閉じ、ブツブツと何か呟いている。天剣授受者同士で闘っているところを想像しているのだろう。

 

「サヴァリスッ! お主は天剣授受者をなんと心得ておるかッ! 天剣授受者の武芸を見世物にするなど……言語道断である!」

 

「別に良いじゃないですか。それで僕らがもっと強くなるかもしれませんし、何より力を持て余さなくてすむんですから」

 

「こやつは本当に……」

 

 カルヴァーンは頭痛を感じたのか、頭を軽く抱えた。

 カルヴァーンとサヴァリスはとことん相性が悪いらしい。

 

「俺からも一つ貴様らに訊きたい。何故、アルシェイラ・アルモニスに従っている?」

 

 カルヴァーンが軽く鼻を鳴らした。

 

「グレンダンの武芸者が支配者である女王陛下に従うのは当然である」

 

「僕は別に理由はないなぁ……。強いて言うなら、退屈しないから、かな。陛下の側にいれば望まなくても戦闘が向こうからやってくるからね」

 

 ルシフから表情と呼べるものはほとんど消えていた。目に落胆の光が生まれた程度の微々たる表情しかない。

 ルシフは続けて問いかける。

 

「ならば、俺が退屈しない戦闘を次々に提供するグレンダンの支配者になれば、貴様らは俺に従うんだな?」

 

 サヴァリスとカルヴァーンは絶句した。

 サヴァリスより一瞬早く衝撃から立ち直ったカルヴァーンは、ルシフに人差し指を突きつけた。

 

「貴様に従うなど、天と地がひっくり返ってもあり得ん! グレンダンは三王家に統治される都市であり、それ以外の者がグレンダンの支配者になるなど許されんのだ!」

 

 暗にカルヴァーンはグレンダンの三王家にあくまでも忠誠を貫いていると言っているが、ルシフの心に響く程の力は無かった。

 ルシフは怒りで顔を赤くしているカルヴァーンを一瞥すると、すぐに視線をサヴァリスに向けた。

 

「僕は別にどっちでもいいかな。けど、個人的に君を敬うのは嫌だね」

 

「アルモニスより俺が劣ると言うか」

 

「実際、陛下にボコボコにされたんでしょ? いくら廃貴族を宿したからって、陛下より(まさ)るとは思えない。

というか、君は僕たちを味方にしたいのかい?」

 

「当然だろう。通常の錬金鋼の許容量を超える剄量の武芸者は貴重だ。俺なら、貴様らのその力に意味を与えてやれる。俺の臣下になりたいなら、いつでも俺のところに来い」

 

 ルシフは立ち上がり、部屋の扉に向かう。

 カルヴァーンは扉の前から離れたため、そこに至るまでの妨げは一切無い。

 ルシフはドアノブに手をかける。

 

「誰が貴様のような奴の臣下になるかッ!」

 

 ルシフの背に、カルヴァーンが怒気を含ませた言葉を浴びせかけた。

 ルシフのドアノブを捻る動きは一瞬硬直したが、すぐに動きを再開させドアを開ける。そして、サヴァリスの部屋から悠然と出ていった。

 

 

 

 ルシフは昼頃に連れていかれた椅子が一つしかない部屋に戻った。

 椅子に座り、ずっと瞑目したまま動かない。

 

「……メルニスク」

 

 小さく呟かれた言葉に呼応するように、メルニスクがルシフの正面に顕現した。

 

「なんだ?」

 

「あの天剣二人について、どう思った?」

 

「心のままにただ生きている。それ以外に何も思わない」

 

「そうだろう、俺もそうだ。あいつらだけじゃない。もう一人の天剣──カナリスも、あいつらと同類に違いない。グレンダンに残っているあいつら以外の天剣も、きっと同じだろう」

 

「……?」

 

 メルニスクが首を傾げる。

 ルシフの表情が、呆れと悲しみが入り混じったような複雑な表情になったからだ。呆れるのは理解できるが、悲しみが混じるのは理解できない。

 

「なぁ、メルニスク。連中、可哀想になるくらい見事にアルシェイラの剣だよ。

アルシェイラにだけ生き地獄を味わわせて、天剣どもは一思いに潰す予定だったが、気が変わった。

アルシェイラのみならず、天剣授受者全員にも地獄へ落ちてもらう」

 

 メルニスクはじっとルシフの目を見る。

 ルシフは不思議な表情をしていた。喜怒哀楽どれもないように見えて、どれも内包しているような、なんとも言えない表情。強いて言うなら、悲しみが僅かに滲んでいるか。

 ルシフは腹の前で右拳を左手で包み、顔を俯けた。

 アルシェイラ・アルモニスは理想なく、大志なく、責任感なく、行動なく、研鑽なく、感心のない、流されるままに生きている人間であり、自らの欲求だけを優先する獣そのもの、とルシフは彼女を評している。はっきり言って、それで『王』の座についているのが、ルシフは腹立たしくて仕方がない。

 そのアルシェイラの剣たちも、アルシェイラ同様に大志もなければ、展望もない、自らの欲のまま意志統一もされずに女王に従い、見ているものは全員ばらばら。あったとしても、なんとなく漠然と世界を滅ぼそうとする敵からグレンダンを守る程度の認識しかない。

 そんなものが、王と臣下の在るべき姿か?

 王の考えに臣下は全員賛同しろなどと、ルシフは思っていない。というより、人間は十人十色なのだから、それは不可能に近い理想論である。だが、上に立つ人間が何を目指し、何をしようとしているのか理解せず、それに対しての意見もないまま従うのは臣下失格だと思うし、王の意志を下に明確にしないのは王失格。それでは王と臣下の関係と言えず、ただの烏合の衆、獣の群れである。

 アルシェイラが堕落しているから、天剣があんなつまらない人間になったのか。それとも、堕落している人間には堕落した奴しか集まらないのか。

 そんな疑問が一瞬頭によぎったが、ルシフはすぐさまその疑問を切り捨てた。

 

 ──アルシェイラ……それに天剣ども、俺が貴様らを人間にしてやるよ。耐え難い苦痛もセットでな。

 

 ルシフは深くため息をついた。

 

 ──本当に残念極まりない。俺の都市に天剣どもがいたなら、あんなつまらない人間には絶対させなかったのに。

 

 ルシフは自身をアルシェイラなど足元にも及ばない大器だと信じて疑っていない。

 臣下を輝かせるのは王の器量である。王の器量が乏しければ、臣下の輝きすら掻き消してしまう。

 天剣授受者たちは、そんな器量に乏しい王の犠牲者だった。

 そう思うと、ルシフは彼らに対して胸が締めつけられるような悲しみと哀れさが込み上げてくる。

 メルニスクは心を探るような瞳を、ルシフに向けた。

 

「……ならば、何故連中にいつでも仲間に加えてやると言った?」

 

「ああ、あれか。あれは方向性を与えるための餌みたいなものだ。食らいつくかどうかは別にして、撒いておいて損はあるまい」

 

「……汝にどこまで先が見えているか知らんが、ここには我しかいない。具体的に説明してくれてもいいだろう」

 

 ルシフはこの部屋に来て初めて楽しげに笑った。

 

「お前は俺の舞台を間近で見る、唯一の観客だからな。オチを先にバラしたらつまらんだろう?」

 

 メルニスクは拗ねるようにそっぽを向いた。

 そんなメルニスクらしからぬ可愛らしい素振りに、ルシフは尚更笑みを深くし、声を出して笑った。

 ひとしきり笑った後、ルシフは真剣な表情で立ち上がる。

 

「さ、て、と……そろそろこのプチ旅行も終わりにするか」

 

 ルシフは自分のやるべきことをなんとなく分かっている。それは、行方不明になっている電子精霊の確保。ツェルニはマイアスと同型都市だからこそ、マイアスの危機が分かり、ツェルニ自身の持つ『縁』を利用して、ツェルニはルシフをマイアスに送り込んだ。

 ルシフはマイアスを救うためにマイアスに飛ばされたのだから、マイアスを救えばルシフは用済みとなり、ツェルニに戻るだろう。

 ルシフは窓から外を窺った。外に人は見えず、気配も感じられない。

 ルシフは窓に足をかけ、窓から外に飛び出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 リーリンは部屋でぼーっとしていた。

 ふと、窓を何かが叩く音がした。

 リーリンは窓の方を向く。

 茶褐色の小鳥が窓をくちばしで叩いている姿が目に入った。

 

「入ってくるかな?」

 

 少しだけ窓を開け、小鳥が部屋に入れるようにした。

 小鳥は細い足をちょこちょこと動かし、窓の桟をジャンプして乗り越え、リーリンの部屋に入ってきた。

 そんな小鳥の可愛らしい動きに、リーリンの顔は少し緩んだ。沈鬱とした心に一涼の風が吹いたような心地よさが入り、リーリンの心を和ませる。

 小鳥の頭には冠のような金色の羽毛が突きだしていて、顔から胸の辺りに白いものが交じっている。

 

「おいで……」

 

 小鳥の前に手を伸ばす。

 小鳥はリーリンの手をじっと見た後、ジャンプしてリーリンの手に乗った。

 人懐っこい小鳥に、誰かのペットかな? と思いながら、掌の上で羽の手入れをしたり、あちこちに身体を動かす小鳥の姿を眺めてしばらく楽しんだ。

 リーリンは窓の外に手を伸ばす。

 窓の外の空に、似たような小鳥の群れが見えたからだ。この小鳥はあの群れから離れて自分の部屋に来たんだ、とリーリンは思った。

 

「仲間のところにお帰り」

 

 小鳥は周囲を窺うように様々な方向に首を向け、やがて羽を広げてリーリンの手から去っていった。

 群れの中に紛れていく小鳥を見届けてから、リーリンは窓をしめた。

 椅子に座り、机に頬杖をついてため息をつく。

 ルシフと出会ってから、六日が過ぎた。

 未だに軟禁は解かれず、食堂と部屋を往復する毎日が続いている。

 何かが盗まれた事件は少しも進展がないようだった。遠巻きに包囲している学生たちが焦っているように見受けられるのがそう感じた主な理由だが、自分だけでなく天剣授受者三人も同意見だったため、そうである可能性は非常に高い。

 この膠着状態は、リーリンにとって気を沈ませるとともに、次第に募る嫌な予感を増長させていった。

 ルシフとも、最初の夕食で一緒に食事して以来、一度も会っていない。

 食堂でそれとなく探しても、影も形も見えないのだ。

 多分また姿を消す剄技で姿を隠しているのだろうが、何かあったのかと心配になる気持ちは消えなかった。

 天剣授受者三人も真剣な表情でルシフが食堂にいるかどうか探していた。天剣授受者ほどの武芸者がそこまで本気になる相手。

 しかし、実際は闘うなんて考えられないような大人しそうな少年。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ……か。実はとっても恐い人だったりして。あはは、まさかね」

 

「──呼びました?」

 

 ガタンという窓が開く音とともに、ルシフが窓の桟に足を乗せてリーリンの部屋に入ってきた。

 リーリンは反射的に立ち上がり、身構えてしまった。

 

「ちょッ!? 女の子の部屋に無断で入ってこないの!」

 

「え? 別にお昼だから問題ないかと」

 

「お・お・ア・リ!」

 

 リーリンはルシフにずいと近付き、彼の前で指を立てた。

 ルシフは常識がどこかズレている。いい機会だから、しっかり常識を教えておこう。

 

「いい? 女の子はとっても繊細で、見られたくないところが結構あるの。たとえお昼でもちゃんとノックして、了承が得られるまで入ってきちゃダメ。

こんなの当たり前のことだからね!」

 

「はいはい、分かりました。これからは気を付けます」

 

「……あなた、ダメなの分かっててやったわね?」

 

「いえ、そんなことないです。知りませんでしたよ、女の人が繊細だったなんて」

 

「そっち!?」

 

 リーリンの身体に一気に疲労感が襲いかかり、リーリンは脱力しながらため息をついた。

 

「……はぁ、もういいわ。それでなんの用なの? ただ名前が呼ばれたから、なんて理由じゃないんでしょ?」

 

「ええ、まぁ。変わった小鳥を見かけませんでした? 今私は小鳥を探してまして」

 

「変わってるかどうかは分からないけど、小鳥ならさっきわたしの部屋に来たよ。あそこで飛んでる小鳥の群れの中に帰って──」

 

 リーリンは話しながら、小鳥の群れの方を指差す。リーリンの目が凍りついた。

 ルシフも窓の方を振り返った。

 

「罠にかかったか」

 

 今までのルシフと雰囲気も声色も何もかも違っていたが、リーリンは別のことで頭がいっぱいで、そのことに気が付かなかった。

 空を飛ぶ小鳥の群れを、稲光のような光が空に幾筋も走って捕らえている。まるで光で作られた鳥かごだった。

 その光の鳥かごの中で、小鳥たちは苦しそうにもがき、暴れている。

 

「……何、あれ?」

 

「あの中に電子精霊がいる。どうやら盗っ人は、都市の機関部から電子精霊を引き剥がすのには成功したが、手に入れる前に電子精霊に逃げられたらしい。だから、ああして機関部に戻る進路に罠を張った」

 

 リーリンの背筋に緊張が走った。

 まるで顔が同じ別人が現れたようだ。

 それほどまでに、今までのルシフの印象から外れている。

 ルシフは窓に足をかけた。

 

「どこ……行くの?」

 

 リーリンの声は微かに震えていた。

 

「決まっている」

 

 ルシフは唇の端を吊り上げた。優しげでもなく、柔らかくもなく、今までの笑みと正反対の冷徹さと鋭さが合わさったような、それでいてどこか生き生きとしている笑み。

 リーリンは我知らず息を呑んだ。

 

「ふざけたことをした奴を徹底的に叩き潰す」

 

「待ってッ!」

 

 窓を蹴ろうと身を屈めたルシフの動きが止まった。

 

「あなたは……誰なの?」

 

「俺はルシフ・ディ・アシェナだ」

 

「どうして騙したの?」

 

「お前に近付くためだ」

 

 リーリンはルシフから一歩下がった。

 ルシフは嘲るように鼻で笑った。

 

「勘違いするな。今はお前など眼中にない。天剣授受者の顔は以前から知っていた。奴らの反応からお前が役に立つと判断し、お前の近くに平然といけるよう、好ましい人物を演じただけだ。要はお前は人質だった。天剣授受者たちに対して」

 

 リーリンは混乱した。

 天剣授受者三人はリーリンと今のところ行き先が一緒だから、同郷のよしみで守ってくれているだけで、別にリーリンを重要視しているとは夢にも思わなかった。

 だが、ルシフはリーリンと出会ったあの一瞬でそこまで見抜き、一瞬で善人の仮面を被った。

 

「だが、もう天剣どもを威嚇する意味は消えた。ゆえに、仮面も外した。これで満足したか?」

 

「……出てって」

 

「言われなくても……」

 

 ルシフは外に顔を戻し、窓を蹴る。

 瞬間、ルシフの姿がリーリンの視界から消えた。

 リーリンは窓に駆けより、窓の外を見てルシフの姿を探す。ルシフの姿はどこにも見当たらない。

 リーリンの耳に、窓の外から悲鳴と怒号が飛び込んだ。

 それに合わせるように、非常事態を知らせるサイレンが都市中に響き渡る。

 サイレンが鳴っていても、外の声を完全に消すまでには至らない。

 

「汚染獣が来るぞッ!」

 

 リーリンの耳は、確かにその声を聞き取っていた。




個人的に天剣授受者は個性豊かで好きなんですが、ルシフの目から見るとああ見えるそうです。
天剣授受者が好きな読者様には不快な思いをさせたかもしれません。

余談ですが、ぱっと小説情報の合計文字数を見たら、35万を超えていました。
まだプロローグで本編に入ってすらいないんですけど、この調子だと本編開始は50万文字超えないと始まらないかも。


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弟39話 レギオスを暗躍するもの

 リーリンはいつでも動けるようにまとめておいた荷物を持って、廊下に飛び出した。

 既に廊下は荷物を持った人たちでいっぱいだった。

 汚染獣の危険が迫ったら、戦えない者はシェルターに避難する。

 どの都市もそれを徹底しているらしい。

 

「皆さん、ご安心ください! 汚染獣にはマイアスの武芸者が全力で対応します! 慌てないでください! あなた方の安全は必ず守ります!」

 

 マイアスの武芸者が大声で叫んでいる。

 叫んでいる武芸者に、リーリンは見覚えがあった。

 リーリンの事情聴取と荷物検査をした人物。名を、ロイ・エントリオと言ったか。

 

「リーリンさん」

 

 サヴァリスがリーリンに声をかけ、カルヴァーン、カナリスとともにリーリンの近くにきた。

 

「サヴァリス様! カルヴァーン様! カナリス様!」

 

「シェルターまでお送りします」

 

「え?」

 

 カナリスがリーリンの腰に手を回し、リーリンを持ち上げる。

 

「え? えっ!?」

 

 カナリスはリーリンを持ち上げたまま、跳躍した。廊下の壁に足をつく。

 そのまま、疾風となって壁をカナリスが走り出した。

 

「……ッ!」

 

 リーリンはあまりの恐怖に悲鳴をあげそうになった。

 ただ担がれて高速の世界を体験するだけでもリーリンの限界を超えるのに、今のリーリンは壁を走っていることで平衡感覚を失っている。平然でいられるわけがない。

 カナリスの後ろをサヴァリス、カルヴァーンも間隔をほとんど空けずに付いてきている。

 一息に宿泊施設の入り口に到着した彼女らは廊下に着地し、入り口のすぐ外にいるマイアスの武芸者数人の案内を受けて、宿泊施設の外に出た。

 たった十数秒の体験だったが、リーリンの精神を限界まですり減らすには十分な時間。

 リーリンはふらふらとした足取りで、シェルターがある場所へと歩いている。

 対する三人の天剣授受者は何事もなかったようなしっかりとした足取りで、リーリンを囲むように歩いていた。

 

 ──なるほど。

 

 今までは気にならなかったが、守ろうとしていると聞いた後に天剣授受者三人の一挙一動を見ると、確かにリーリンを守ろうとする明確な意思を感じられた。

 

「皆さんは、わたしを守ろうとしてるんですね」

 

 天剣三人は一瞬慌てたように見えたが、すぐに平静さを取り戻す。

 

「リーリンさんは出発した時から一緒ですし、剄を使えない一般人ですから。グレンダンの守護者たる私たちがお守りするのは当然です」

 

「はぁ。でも、わたし以外にもグレンダンから放浪バスに乗った一般人の方はいると思いますけど、その方たちはどうして守らないんです?」

 

 天剣三人は互いに顔を見合わせながら、黙り込んでしまった。

 リーリンの問いはカナリスの言葉の矛盾を的確に突いており、咄嗟に他の一般人を守らない理由が思い付かないのだ。

 

「……リーリンさんはほら、か弱い女の子だから、優先的に守らないと」

 

「……天剣授受者の方お一人いらっしゃれば十分かと思いますけど」

 

 リーリンは意を決して、天剣授受者三人の顔を真剣な表情で見た。

 

「……もう止めにしません? 誰かの指示でわたしを守ろうとしているのはなんとなく分かりました。そして、天剣授受者に指示を出せる人は、女王陛下お一人だということも分かっています。

わたしが知りたいのは、何故女王陛下がわたしを守ろうとしてくださっているか、です」

 

 カナリスは観念したように、一つため息をついた。

 

「……分かりました。正直に話します。言われる通り、私たちはリーリンさんを守るよう、指示を受けています。

守る理由につきましては、陛下は友達だからとおっしゃっていました」

 

「友達?」

 

 リーリンの頭に、シノーラの顔が浮かんだ。

 リーリンはシノーラなら女王陛下でもおかしくないと、ごく自然に納得してしまった。

 そう仮定すると、以前のガハルドの件で天剣授受者のサヴァリスを護衛として付けてくれた、女王陛下の寛大な対応も説明がつく。

 

「黙っていて申し訳ありません。陛下からはなるべく自然に、と言われていましたので」

 

「いえ、別に責めてるわけじゃないです。はっきりさせておきたかっただけで……。

ところで、電子精霊が罠にかかったらしいんです。ルシフが電子精霊のところに向かっているみたいですけど」

 

 天剣授受者三人は切羽詰まった表情になり、カナリスに至ってはリーリンの両肩を掴んで激しく揺さぶった。

 

「ルシフが現れたんですか!? いつ!? どこで!? なんのために!?」

 

「か、カナリスさん、揺さぶるの止めてッ!」

 

「はッ!? リーリンさん、申し訳ありません」

 

 カナリスはリーリンから両手を離し、頭を下げた。

 

「いえ、大丈夫です。ルシフはホントについさっき会ったばかりで……別にこれといって何かされたわけでもないです。──ただ、皆さんが言っていた通りの人物だったのは分かりました」

 

 リーリンから僅かに怒りが滲んでいるのを察知した天剣授受者三人は視線を交わし合う。話題を変えよう、とアイコンタクトで互いに意思を伝え合った。

 その重大な役目はサヴァリスに回されたらしく、サヴァリスがわざとらしい笑みで口を開いた。

 

「──それで、電子精霊はどこで罠にかかったんです?」

 

「……え? いやいや、あんなに不自然に光が走ってるじゃないですか」

 

「光?」

 

「ほら、あそこの空に……」

 

 リーリンは小鳥の群れが舞い、光が幾筋も走っている空を指差した。

 

「小鳥の群れが飛んでいますが、別におかしくありませんよ。汚染獣の接近を本能で察知し、逃避行動をしているだけです」

 

「……え?」

 

 リーリンはカナリス、カルヴァーンを見る。

 二人とも、サヴァリス同様に訝しげな表情を浮かべていた。

 

 ──あの光はわたしにしか見えない?

 

 しかし、それはおかしい。ルシフには見えていた。少なくとも、わたし一人だけが認知できる光というわけではない。

 ここで重要になってくるのは、リーリンの行動である。

 どんな理由かは分からないが、ルシフとリーリン以外にあの光は見えない。

 逆に言えば、ルシフとリーリンだけが電子精霊を助けられる人間、ということになる。

 そしてリーリンは、本性を知ったルシフに電子精霊の救出を丸投げできるほど、無関心で無責任な人間ではなかった。

 リーリンがルシフと自分しかあの光が見えないと理解した時、リーリンはマイアスの武芸者の隙を突いて走り出していた。

 まさかこの場からリーリンが離れるなんて夢にも思わなかった天剣授受者三人は、呆気に取られた。

 

「サヴァリス様、カナリス様、カルヴァーン様、後のことはよろしくお願いします!」

 

 天剣授受者三人は、リーリンの言葉にぽかんと口を開けていた。が、一瞬で頭を切り替える。

 リーリンの言葉はつまり、護衛しなくていいから汚染獣をどうにかしてくれ、という意味。

 確かに汚染獣はリーリンを傷付ける可能性の一つであるが、可能性の前に極めて低いという文字が入るだろう。

 今把握している敵対戦力の中で最も注意すべき可能性は、やはりルシフである。

 ──ゆえに、彼らの選択は正しい。

 天剣一の殺剄の使い手でもあるカナリスがシェルターに向かう人の群れから離脱し、陰からリーリンの監視と護衛をするという選択は。

 リーリンは一般人であり、内力系活剄で脚力を強化できない。

 カナリスがリーリンの姿を捉え、建物の陰から様子を窺うまで、それほど時間はかからなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 リーリンは小鳥の群れを見上げながら、建物と建物の狭い間を走り抜け、小鳥の群れの真下を目指す。

 しばらく走り続けた後、リーリンは目的の場所に辿り着いた。

 

「ルシフはどこ……?」

 

 光が当たらない安全な場所に身を寄せつつ、リーリンはルシフを探す。

 ルシフはすぐに見つかった。

 というより、リーリンの前にルシフが一瞬で現れた。

 ルシフの右手は、真っ黒な人の形をした物体を掴んでいた。

 それが人だと分かったのは、ルシフがその物体を地面に無造作に叩きつけたからだ。そのせいで、その物体の背ではなく、正面が(あらわ)になった。

 顔がある部分は、犬のような動物の顔を模した仮面。戦闘衣に身を包み、頭はフードのような黒布で覆われている。

 リーリンはルシフとその謎の人物から、咄嗟に距離をとった。

 

「……なんなの、その人?」

 

「簡単に言えば、今回の事件の黒幕ってとこか」

 

「黒幕ッ!?」

 

 つまり、この仮面をした人物こそ、電子精霊を盗もうと企み、罠を仕掛け、わたしの貴重な一週間を台無しにした元凶。

 そう思ったら、面識が無くても恨めしくなった。

 リーリンは仮面の人物を睨む。

 睨んでいると、ルシフがリーリンの視界に入った。

 

「……え? ちょっ……!?」

 

 ルシフはリーリンの視線など意に介さず、謎の人物の仮面をとった。

 リーリンの視線が、まるで引力に引き寄せられるように、仮面を外された人物の顔にいく。

 仮面の下の顔を見た瞬間、リーリンは悲鳴をあげそうになった。

 仮面の下にあると思われていた人の顔は、顔ですらない何かだった。黒い(もや)のようなものの中に、握り拳程度の大きさの光が三つ、逆三角形で配置されていた。

 ルシフは仮面の内側を見る。

 仮面を通して、ルシフの頭に直接、大量の思念が叩き込まれた。

 

「見たな」

 

 声がした。機械音声のような、作られた声。

 仮面を外された何かが起き上がり、ルシフの方に三つの光を向けた。

 

「汝は運命の輪に組み込まれた」

 

「そうとも」

 

 顔がない何かの隣に、同じ仮面、同じ服装をした別の物体が現れた。一体だけではない。四体がルシフを囲むように顕現し、ルシフは計五体の人型に包囲された。

 

「廃貴族を宿し、世界の変革を願う者よ」

 

「我らは同志だ」

 

「オーロラ・フィールドはいかなる戦士も拒絶しない」

 

「イグナシスの夢想と汝の理想は重なっている」

 

「我らの目的が完遂されれば、自律型移動都市(レギオス)そのものが必要なくなる」

 

「世界平和が実現される」

 

「醜い争いに終止符が打たれる」

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。異端の境地に立つ者よ。我らのもとに来い」

 

 ルシフは冷めた表情で周囲を見渡した。

 

「……色々教えてくれた礼に一つ、俺が心の底から嫌っているものを教えてやろう」

 

 ルシフの全身から金色の剄が迸る。

 包囲していた五体は跳びずさり、ルシフから少し距離をとった。

 

「夢や理想を語るのはいい。それは、人間だけに与えられた特権。それを除けば、人は獣に成り下がる。だがな、ただ口に出すだけで熱量が伴っていない夢や理想ほど、不愉快な気分になるものは他にない。

消え失せろ、人形ども」

 

 ルシフから迸っていた金色の剄に赤色の剄が混じり、朱色の剄に変化。

 ルシフは朱色の剄を衝剄にし、全方位に放出。放出された剄は驚くべき正確さで、五体の人型だけに猛威をふるった。

 

「がっ……! 馬鹿な……!」

 

 四体は消滅し、一体だけ残った。

 痛みで地面をのたうち回っている。

 

「まさか……すでに使いこなしているとは……」

 

「貴様らごとき何を企もうが、俺の相手にならんよ。せめて、痛みを思い出して死ね」

 

 やがて、のたうち回っている一体の全身に黒い痣のようなものが浮き上がり、絶叫して動かなくなった。

 数秒後、動かなくなったその一体が地面に吸い込まれるように、跡形もなく消えていく。

 その光景を、リーリンは声すら出せずにただ見ていた。

 あまりにも非現実すぎる。人に顔がなく、身体が地面に溶けていくなど、リーリンの理解を超えている。

 それに興味深いことを聞いた。

 世界平和。

 本性を隠していた頃のルシフならば、リーリンはその言葉を聞いても疑問に思わなかっただろう。だが、今のルシフから世界平和の言葉は疑問しか感じない。

 

「あなたって世界平和を目指してるの?」

 

「はぁ? そんなくだらんもの、誰が目指すか。平和な世界を実現したいなら、誰もが聖人にならねばならん。そこに、俺の求めるものはない」

 

「……だと思った」

 

 予想通りの答えに、リーリンは呆れ顔になる。質問したのをバカバカしく思ったほどだ。

 

「あの人たちについて何か知ってるの?」

 

「知らん。初めて見た」

 

「向こうはあなたを知ってたみたいだけど……」

 

「──リーリン・マーフェス。この世界は複雑だ。その最たるものが、奴らとの闘争。残念なことに、その闘争には因果の強い者しか参加できない。それ以外の者は傍観に徹しざるを得ないうえに、奴らを知覚すらできん。が、奴らはこちら側から知覚されずにこちら側を探れる。俺のことを知っていたのは、密かに俺を探っていたからだろう。全く忌々しい」

 

「う、うん?」

 

 リーリンはルシフの言葉の半分すら理解できず、頭の上に疑問符が浮かぶ。

 とりあえず、ルシフが何かに機嫌を悪くしたのだけは分かった。

 ふと、リーリンはルシフがわざわざ仮面を外した光景が頭に浮かんだ。

 

「……そういえば、どうして仮面を外したの? 別に外す必要なかったじゃない」

 

 ルシフが仮面を外したせいで、リーリンは見たくもないものを視界に入れてしまったのだ。その時の感情を思い出し、リーリンの口調は少し責めるような感じになった。

 

「言っただろう? 因果の強い者しか、奴らの闘争に参加できないと。奴らの仮面は奴らの親玉と繋がっている。その内側を見るとはつまり、奴らと強い因果を作るのと同義。これで俺は、奴らが何を仕掛けてこようとも知覚でき、対処できる。奴らに邪魔はさせん」

 

「……おかしくない?」

 

「何が?」

 

「だって、仮面の内側を見る前から、あなたはあの人たちと戦ってたじゃない。元々知覚できてたってことなのに、わざわざ知覚できるようにしたっていうのはおかしいわよ」

 

「……お前、なかなか頭は悪くないようだな」

 

 リーリンは頭にかっと血が上った。以前の性格が良いルシフを知っている分、その反動で余計性格が悪くみえる。

 

「じゃあ、本当のこと教えてくれる?」

 

「単純な話だ。今は奴らとの因果があるが、一時的なものでしかない。だが、俺個人が因果を強くすれば永続的になる」

 

 電子精霊は奴らを知覚できる。電子精霊の因果を一時的に取り込んでいるだけで、ルシフそのものに因果は少ししかない。

 それをルシフは嫌い、自分単体でも奴らを知覚できるようになりたかった。

 そのための行動。

 リーリンは難しい顔をしている。

 

「……眉間のしわが消えなくなるぞ。可愛い顔が台無しだ」

 

「ほんっとに腹が立つ人ねッ! 別にあなたに心配されることじゃありませんよーだッ!」

 

「うん、元気になったな。──とっとと電子精霊を捕らえている罠を壊すぞ」

 

 ルシフが頭上の光を一瞥し、頭上に化練剄で変化させた雷撃を放つ。

 

「ちょっ!? 小鳥の群れまで巻き添えにするつもりッ!?」

 

 リーリンは叫びながら、両手で頭を抱えてその場にしゃがんだ。リーリンはその雷撃を止める力も防ぐ力もない。できるのは、その雷撃の被害から逃げようとすることだけだ。

 リーリンの予想に反して雷撃は光に絡み付き、光をなぞるように走っていく。その一瞬後、激しい破壊音とともに光の檻が消えた。

 光の檻に捕らわれていた小鳥たちのほとんどは四散し、別の場所で合流して飛び去っていく。何羽かの小鳥は力尽きたようにその場に降りてくる。

 リーリンは咄嗟に両手の側面を合わせて器を作った。その器の中に、一羽の小鳥が舞い降りた。リーリンの部屋に入ってきた小鳥だ。冠のような金色の羽毛が特徴的だったため、一目で気付いた。

 

「……あれをあんな方法で壊すなんて……」

 

 リーリンは背後から聞こえた声に振り返る。

 宿泊施設でシェルターへの誘導をしていたマイアスの武芸者──ロイが息を切らせて、光の檻があった上空を見上げている。どうやらここまで宿泊施設から走ってきたらしい。

 

「マイアス……」

 

 ロイはリーリンの手に乗っている小鳥を見て呟いた。

 

「え?」

 

「その小鳥が電子精霊マイアスです。なので、早く機関部に戻さないと……ッ!」

 

 ロイがリーリンに手を伸ばす。

 ロイとリーリンの間を裂くように、雷の柱が通りすぎた。ロイは素早く一歩下がる。雷の柱は地面を抉りながら建物にぶつかり、建物を破壊した。

 ロイとリーリンは自然に雷の柱が来た方を見る。

 

「マーフェス、そいつが実行犯だ」

 

 ルシフが悠然と立っていた。

 リーリンは反射的にロイから二、三歩下がる。

 ロイは怒りの表情でルシフを睨んだ。

 

「この都市に住んでいる僕がどうしてそんなことをしなければならないッ!? 言いがかりだ!」

 

「マーフェス。小鳥の群れを捕らえていた光、お前以外の奴に見えていたか?」

 

「え? いいえ、見えてなかったと──」

 

 リーリンははっとした表情になる。

 リーリンはルシフが言いたいことを理解した。

 光は特定の人間にしか見えない。当然、その光が消えたのを視認できる人間も限られている。

 ロイは最初になんて言った?

 

「そういえばあなた、あれを壊したって言ってたわよね?」

 

 あれを壊した。

 ロイを犯人と仮定した場合、あれとは光の鳥かごを作っていたなんらかの機械をさしている。

 そうした場合、ロイの言葉はごく自然な言葉になる。

 

「──ああ、何も口に出さなければよかった」

 

 ロイの顔が歪んだ。ロイの手には、いつの間にかさっきの人型が付けていた仮面が握られていた。

 

「電子精霊が死んだら、この都市がどうなるか分かってるの?」

 

「この都市? そうですね、大を救うための小の犠牲……と言ったところですか」

 

「大を救う?」

 

「世界平和ですよ。それを実現するため、我々は仙鶯(せんおう)都市に行かなければならない。仙鶯都市との縁を繋ぐために、マイアスから縁を奪う必要がある」

 

「だから、マイアスを狙ったってわけ? 最低な人ね」

 

「……渡す気がないなら仕方ありません。こうなれば力ずくで──ッ!」

 

 ロイとリーリンの間にルシフが立ちふさがった。

 ロイは驚いたが、すぐに歪な笑みに変化させる。

 

「はっ、知っているぞ。君はしょせん、縁を使ってやってきた仮初めの旅人。同じ位相の奴らなら倒せるかもしれないが、最初からここにいる僕には手を出せな──」

 

 ロイが話している途中、ルシフの右拳がロイの顔にめり込み、ロイの身体が飛んだ。後方の建物にぶつかり、前のめりに倒れる。

 

「手をだせな……なんだ? その先を言ってほしいな」

 

「な、何故だッ!? 何故僕にダメージを与えられる!?」

 

 ロイが殴られた顔を押さえて立ち上がった。その表情には明らかにルシフに対する恐怖が見える。

 

「何度も確認した」

 

 ルシフはこの都市に来てから扉を開けたり、食事もした。サヴァリスやカルヴァーンといった、この都市に元々いる人間が自分を認識できることも確認した。

 もし自分が仮面の奴らと同じ位相にしか立っていないなら、サヴァリスやカルヴァーンに自分を認識できるわけがない。食事や扉を開けるにしても、位相が違えばルシフが食事をしていたり、扉を開けたりする姿が見れるわけがない。

 これらの情報が一体何を示しているか?

 簡単な答えだ。

 自分は元々の位相に干渉している。

 

「俺はお前と別の位相に立っているんじゃない。別の位相に立ちながらも、同じ位相に立っている。つまり、俺は境界線をまたぐ者だ。どちらの位相も選べる。お前を潰すなど容易だぞ」

 

「ひぃッ!」

 

 ロイはルシフに背を向け、姿を消した。強風が一瞬吹き抜ける。

 

「バカが……」

 

 ルシフもその場から姿を消した。

 数秒後、リーリンの前に再びルシフが現れる。右手はロイの首を掴んでいた。地面にロイを叩きつける。

 

「ぐぅ……!」

 

「さて、これからお前を思う存分殴りたいと思うんだが……言い遺す言葉はあるか?」

 

 ルシフがこれ見よがしに拳をロイの眼前に突きつけた。

 

「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だイヤだイヤだイヤだイヤダイヤダイヤダッ!! やめてっ、やめてくれぇ……!」

 

「……おいおい、仮にも武芸者がお漏らしか」

 

 ロイは失禁していた。

 殴られる痛みを想像し、殴られる前に白目をむいて気を失っている。

 

「殴る価値もないゴミが。目障りだから消えろ」

 

 ルシフはロイの身体を軽く蹴り飛ばした。身体がくの字に曲がり、後方の建物にぶつかる。おそらくロイの身体は全身骨折しているだろう。ルシフにとってはどうでもいい話だが。

 

「マイアスを機関部に戻すぞ」

 

「あ、う、うんッ!」

 

 唖然としていたリーリンは、ルシフの言葉で我に返った。

 機関部目指して走る。

 ルシフは何も言わず、リーリンより少し前を走っている。

 リーリンは運動が得意な方ではなく、足もそんなに速くない。しかし、ルシフはリーリンとの距離を一定に保っている。

 冷たい人間に、この気配りができるだろうか。

 機関部に辿り着くまでの途中、何度も仮面の奴らが襲ってきた。

 しかし、襲ってきたと思った時には、ルシフが衝剄で倒している。どれだけ数で攻めてきても戦闘は一瞬で終わった。まるで無人の野を行くように、走りが乱れることは一切なかった。

 機関部に到達した時には、もはや誰も襲いにこなくなっていた。ただ被害を増やしていくだけと悟ったのだろう。

 

「マーフェス、あれにマイアスを戻せ」

 

「分かった!」

 

 ルシフを横切り、リーリンは機関部の中心部に行く。リーリンの手の器に乗っているマイアスはぐったりとしていた。

 早く戻さなければならない。

 リーリンがそう決意しながらマイアスを見ていると、マイアスはゆっくりと目を開いた。

 

「……え?」

 

 マイアスの瞳に何かが映っている。

 小鳥の瞳に何が映っているかなど、人間の目に見える筈がない。だが、リーリンの目に映った。まるでマイアスの瞳に吸い込まれ、マイアスの瞳の中を拡大して見ているようだ。

 映っているのはルシフだ。

 黄金の雄山羊と長い髪の童女と黒い影がルシフに被さっている。

 

《ルシフ・ディ・アシェナ……異端の存在》

 

 声が聞こえた。リーリンは周囲を見渡すが、誰もいない。

 

「誰……? もしかしてマイアス?」

 

《そう》

 

 リーリンは手の器に乗るマイアスを見つめる。

 

「ルシフが異端の存在ってどういう意味?」

 

《そのままの意味。他の人と根本的に違っている。だから、とても不安定》

 

「……そうだったとして、わたしに何ができるのよ?」

 

《逆。あなたにしかできない。あなたはルシフの暴走を止められる唯一の存在になり得る》

 

「わたしにそんな力はないわ」

 

《いいえ、忘れているだけ。魂の奥深くに刻まれた因子を》

 

 リーリンは困惑した表情になる。

 ルシフの強さは間近で見た。それも、少しも本気でやっていないだろう。

 あの強さに対抗できる強さを自分が持っている。

 とても信じられない。

 

《今は覚醒の時じゃない。この会話もすぐにあなたは忘れてしまう。でも、覚醒すれば思い出す。その時のために、一つだけ言わせて。──ルシフに気を付けて》

 

 それだけ話すとマイアスは光に包まれ、機関部に戻った。

 

「…………え?」

 

 リーリンは呆然と機関部の前に立っている。

 

「わたし……なんでこんなとこにいるんだっけ?」

 

 ここまで来た理由をリーリンは思い出せない。大事なことがあった気がするが、思い出すとっかかりすら見つからない。

 必死に思い出そうとしていると、振動音が周囲を震わせた。機関部が動き出したのだ。

 

「これで……マイアスの足が動く」

 

 汚染獣に襲われる可能性が格段と低くなる。マイアスの危機は去ったのだ。

 

「やった!」

 

 リーリンは振り返り、呆然とした。

 誰かにこの喜びを伝えようと思ったのだ。

 だが、後ろには誰もいない。誰かが後ろにいると確信して振り返った筈だった。

 リーリンは自分の行動に更に頭を抱えることになった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは物陰に隠れて、リーリンの姿を見ていた。

 

 ──やはり、強い因果がなければ別の位相に関することは全て忘れるか。

 

 ルシフの身体は徐々に消えていっている。

 この都市に呼び出された役目を終え、この都市に存在する意味が消えた。

 ルシフは再び電子精霊の縁を利用し、別の都市に行くだろう。それがツェルニか、それとも別の都市か、ルシフに知る術はない。

 

 ──あいつら、ああ見えて過保護だからな。ツェルニで大騒ぎしているかもしれん。俺を心配するなど、俺を侮辱するのと同義。それをいい加減理解してほしいものだ。

 

 ルシフはツェルニにいる人間の顔を思い出し、軽くため息をついた。その顔が少しも不快そうでないのは、周りに誰も人がいないせいかもしれない。

 やがて、ルシフの姿はマイアスから完全に消えた。



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第40話 絆

 マイアスに襲いかかってきた汚染獣は、外縁部に設置された剄羅砲の集中砲火を浴びた。

 だが、やはり汚染獣の外殻は硬く、鱗をいくつか弾きとばすだけに留まっている。それでもやはり痛みはあるらしく、汚染獣は怒りの咆哮をあげた。

 汚染獣は速度を下げず、剄羅砲をものともせずにマイアスのエアフィルターを突き破った。

 

「……ふむ」

 

 サヴァリスとカルヴァーンは外縁部近くの建物屋上に立っていた。もしマイアスの武芸者が汚染獣を倒せそうにないなら、密かに汚染獣を倒そうと考えたからだ。

 

「雄性一期、しかも成り立てですか。つまらない相手ですね」

 

 サヴァリスにかかれば──いや、天剣授受者ならば一撃で殺せる雑魚。やはり、リーリンを傷付ける脅威には逆立ちしてもなれない。

 リーリンの護衛の方が楽しめそうだったと残念そうな表情のサヴァリスに、カルヴァーンは深くため息をついた。

 

「戦いに楽しさなどいらん。勝つことこそ重要だと何故分からんのか」

 

「カルヴァーンさんはもう少し気を抜いた方がいいですよ」

 

「余計な気遣いをするな。それより、マイアスの武芸者は未熟ながらも闘志は失っていない。武芸者の質はともかく、心構えはグレンダンの武芸者に引けを取らんな」

 

 サヴァリスは視線を汚染獣からマイアスの武芸者に移した。

 二人がいる建物のすぐ近くで、マイアスの武芸者たちが隊列を組んでいる。確かにカルヴァーンの言う通り、汚染獣に恐怖しながらも戦意は失っていない。何かを期待しているような光が彼らの瞳の中にある。

 

 ──何が彼らの支えになっている?

 

 サヴァリスは少し興味を持った。

 マイアスの隊列の中から、赤装束に身を包んだ三人が出てくる。

 彼らは隊列から離れ、汚染獣の進路上に立った。どうやらあの三人が汚染獣の相手をするらしい。確かに学園都市にいるのが不思議なほど実力が高い武芸者だと、サヴァリスは一目で見抜いていた。

 成る程。彼らなら汚染獣を倒せると考えているから、希望を失わず戦おうと思えるのか。

 

「これは……僕たちの出番はありそうにないですね」

 

「良いことだ」

 

 二人は完全にただの観戦者になっていた。

 赤装束の三人は突っ込んでくる汚染獣を見据え、それぞれ錬金鋼(ダイト)を復元。槍や剣、戦斧が握られる。

 隊列から遅れてもう一人、ガタイの良い男が出てきた。その男の錬金鋼はすでに復元されており、両手に手甲を付けている。

 彼は三人より前に立った。

 

「ガイア、オリティガ、メッシュ! ジェットストリームアタックを仕掛けるぞ!」

 

「おうッ!!!」

 

 四人が旋剄で汚染獣に突撃。縦一直線に並んで駆ける。独特の装束、その連携技の姿から、彼らは赤い三連星と呼ばれた。

 ガイアは先頭から二番目を走りながら思う。

 目の前を走っているこのガタイの良い男はなんなのだろう、と。名前がアフロ・レイということだけは知っている。

 だが、ジェットストリームアタックは三人での連携技。こいつはいらない。

 そう思う一方で、ジェットストリームアタックの新しい可能性を見出だせるかもしれないという期待感もあった。

 汚染獣が咆哮し、先頭を駆けるアフロに爪を振るった。アフロは手甲で受け止め、その場でこらえた。

 ジェットストリームアタックは対武芸者用の連携技である。縦一直線で攻撃を仕掛けるため、相手にこちらの動きを読ませない幻惑効果を与え、錯乱している間に倒す。

 しかし、汚染獣に対しては全く効果がない。何故なら汚染獣は巨大であり、俯瞰的にジェットストリームアタックを捉えられるからである。

 だが、彼らはジェットストリームアタックを選んだ。効果があるかないかではない。そこにロマンとノリがあるかどうかこそが、彼らにとって重要なのだ。

 ガイアは目の前で爪を受け止めているアフロの背を踏みつけ跳んだ。

 

「俺を踏み台にしたぁ!?」

 

 ガイアは槍を汚染獣の頭目掛けて突く。汚染獣がガイアを払い落とそうともう一方の腕を振るった。その腕を左右に散開したメッシュが剣で切り落とし、逆側からオルティガが汚染獣の横腹を戦斧で切った。

 汚染獣は一瞬で殺到した三連撃に対応できず、断末魔をあげて地に突っ伏した。

 マイアスの武芸者たちが歓喜の雄叫びをあげる。歓喜の渦の中で、受け止めた際に腕を負傷したアフロと赤い三連星が手を取り合い笑みを浮かべた。

 こうして、マイアスに襲いかかった危機は去った。

 天剣授受者二人は効率を考えないロマン戦闘に呆れた表情になっていたが、そんなものは彼らにとってどうでもよかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ツェルニが暴走状態であることを知っているのはごく一部の生徒しかいなかったが、大半の生徒はツェルニの置かれている状況を異常だとなんとなく感じていた。

 授業の欠席が急激に増えた一部の武芸科の生徒。教員五名が教える授業の不定期な中止。慌ただしい生徒会長や武芸長。

 これだけ重なれば、誰もが何か問題が起きていると察することができる。生徒たちの間に不安が募り、それを誤魔化そうと根拠のない楽観視をして、彼らは日々を乗り切っていた。

 そんな彼らの必死な思い込みによって得られていた仮初めの安心は、脆くも崩れさることになる。突如として現れた空からの汚染獣によって。

 ツェルニのエアフィルターの内側の空を裂き、老性体並みの巨大な汚染獣が現れた。トカゲに似た胴体に大きな翼が生え、頭部には天を衝く角。

 この時ツェルニの外に出ていた武芸者は一人もおらず、現戦力としては万全に近い状態で汚染獣の出現に対応。

 レイフォンは空に居座る汚染獣を見て直感した。この汚染獣には勝てないと。以前戦った老性一期など、この汚染獣と比べれば赤子のように見える。老性何期かすら判別できないほどの古びた体躯は、汚染獣経験の多いレイフォンに絶望を与えるには十分な威力を誇った。

 レイフォンだけではない。剣狼隊小隊長の五人も空を悠然と旋回する汚染獣に、普段の余裕な態度はとれなかった。

 レイフォン以外の第十七小隊も、レイフォンと教員五名のところに集まってくる。

 

「レイフォン、倒せそうか?」

 

 ニーナが問いかけた。レイフォンは黙るしかなかった。

 

「……そうか、分かった」

 

 ニーナはレイフォンのその反応で全て悟ったらしく、悔しそうに拳を震わせた。

 

「おいおい。勝てねぇからって、まさか戦わねぇなんて言うつもりじゃねぇよな?」

 

 レオナルトは錬金鋼を復元し、薙刀を手にしている。

 レイフォンは顔を俯けた。

 

「けど……あの汚染獣はきっと、僕が今まで出会った中で最強の汚染獣です。あんなのに勝てる気しません。レオナルトさんだって分かるでしょう?」

 

「ああ、分かる。けど、戦わねぇ理由にはならねぇな。どれだけ相手が強大だろうと都市を守るために戦う。それが武芸者ってもんだろうが」

 

「勝てないのに戦って、なんの意味があるんです?」

 

 レオナルトがレイフォンの胸ぐらを掴んだ。

 

「……いい加減にしとけよ。てめぇはこん中で一番強ぇけど、覚悟の方はまるでなってねぇな。勝てる勝てねぇじゃねぇんだよ。都市を守るために全力を尽くしたかどうかが大事なんだよ。 そうすりゃ、希望が見えてくるかもしんねぇだろ」

 

 乱暴にレイフォンを放すと、薙刀を握り直して汚染獣の方に向けた。

 ニーナがレイフォンに近付く。

 

「レオナルトさんの言う通りだ。無駄な足掻きかもしれないが、何もしなければ勝率はゼロ。ならば全力で戦い、千回に一回、もしかしたら一万回に一回の勝利を掴んでみよう。そのためにはお前が必要だ」

 

 レイフォンは数秒沈黙したが、ゆっくりと頷いた。

 それを見て、ニーナは笑みを浮かべた。

 

「……あの汚染獣、おかしくありません? ちっとも餌を食べに来ないですわ」

 

 アストリットが狙撃銃を肩に預けながら言った。汚染獣は未だに空を飛び回り、襲ってくる気配がない。

 

「餌が多すぎて、どれがうまそうな餌か選り好みしてんじゃないっすかね」

 

 シャーニッドが言った可能性も否定できない。

 なんの前触れもなく汚染獣が現れたせいで、一般人の避難は全くできていなかった。動いたら汚染獣に目をつけられると考えたのか、汚染獣を前に誰も動けなくなっている。彼らはその場で泣くしか選択肢が残されていなかった。それ故に、汚染獣から見れば多数の獲物が抵抗もせずに喰われるのを待っているように見えるだろう。

 

「いやしかし、分の悪ぃ戦いだなこりゃ。旦那がいないのが悔やまれるぜ」

 

 エリゴは刀を構えつつも苦笑いしていた。

 

「ルシフ様は必ず帰ってくる。私たちが今すべきことは、ツェルニを全力で守ること。私たちは『剣狼隊』だぞ。弱音を吐くな」

 

 バーティンが銃を両手で持ち汚染獣に向けている。バーティンは双剣だけでなく、銃も扱えた。

 

「『剣狼隊』?」

 

「法輪都市イアハイムに百名ほどいる、ルシフが指揮する武芸者集団の総称だ。様々な都市の武芸者が集まっていて、一人一人が鬼のように強い」

 

 レイフォンの呟きに、ダルシェナが答えた。

 

「シェーナ、それでもあの汚染獣には敵わないのか?」

 

「わたしには分からない。だがディン、わたしたちも全力で戦おう」

 

「当然だ」

 

 レイフォンたちを中心に、ツェルニの武芸者が集まってきていた。カリアンやヴァンゼも集合している。話している間にフェリが念威端子で全武芸者に集合する座標を伝えたからだ。

 レイフォンが所属する十七小隊、それと教員五名は、ルシフがいない今、ツェルニの最大戦力になっている。彼らを中心として、汚染獣に対して策を考えるのは至極当然の動き。

 

「人よ……境界を破ろうとする愚かなる人よ。なにゆえこの地に現れた?

足を止め、群れの長は我が前に来るがよい。さもなくば、即座に我らが晩餐に供されるものと思え」

 

 唐突に声がツェルニを震わせた。

 どこからの声か理解した時、ツェルニに住む全員が驚愕した。

 声の主は汚染獣だ。汚染獣が人語を話したのだ。

 

「……汚染獣がなんか言ってんぞ?」

 

「気持ち悪い。早く戦いましょう」

 

「そうだな。汚染獣と交渉など無駄に決まってる。とっとと殺すぞ」

 

 アストリット、バーティンが銃を汚染獣に向けて構えた。それにつられ、シャーニッド含むツェルニの銃使い、弓使いも一斉に構える。

 

「アストリットさん、バーティンさん、お待ちを!」

 

 フェイルスが二人の前に立った。

 

「……なんですの? まさか汚染獣とおしゃべりでもするつもりなのかしら?」

 

「その通りです!」

 

「フェイルスさん、あなたは汚染獣に媚びを売ると言うのか。そんなやり方、ルシフ様は認めまい」

 

「そうは言いますが、勝算はあるんですか? 何か策は? マイロードは常に策や勝算を考えたうえで戦います。なんの策も勝算もなく戦うのは、勇気ではなくただのやけくそです」

 

「……そこまで言うなら、あなたは策があるのか?」

 

「言葉から察するにあの汚染獣、ツェルニが何故ここに来たのか知りたがっているようです。そこで、汚染獣と話をして、汚染獣が油断したところを全力で頭を潰します」

 

「何を大層なことを言い出すかと思ったら、ただの不意打ちじゃありませんこと?」

 

「これが一番勝機を見出だせる策です。レイフォン君の言う通り、勝たなければ戦いは意味がない。全力で勝ちにいくなら、この場の攻撃は愚の骨頂ですよ」

 

「──フェイルスさんの言う通りだ!」

 

 生徒会長カリアンの力強い声が周りに響き渡った。

 全員がカリアンの方を見る。

 

「だがフェイルスさん、不意打ちをするというのも止めていただきたい! あの汚染獣に対して攻撃を加えようとするな! これは会長命令である!」

 

 誰もが形はどうあれ戦おうとしているところに、この指示は眉をひそめる指示だった。当然周囲から戸惑いの声が次々に生まれる。

 

「まずは武芸者全員銃と弓を下ろせ! 従わない者は学生、教員問わず厳罰に処す!」

 

 カリアンの放つ覇気と語気の強さに気圧され、学生たちは次々にそれぞれの武器を汚染獣に向けるのを止めた。教員五名もとりあえず武器の構えを解いた。

 カリアンは全員が自分の指示に従ったことに対して、内心ホッとした。教員五名が指示に従うか不安だったからである。厳罰に処すなどと言ったが、教員五名に罰は与えられない。というより、罰を与えた後に何かの拍子でルシフが現れた場合、ルシフの怒りを買うのは必至。

 そんなリスクを冒そうとする者など、ツェルニに誰一人としていないだろう。

 

「……生徒会長さんよ、その指示はあの汚染獣の言いなりになるっつう意味でいいのか?」

 

「言いなりになって我々の命が助かるなら、私はそちらを選ぶ! 勝てるかどうかも分からない戦いなんて、避けるに越したことはない!」

 

「……仲間の群れに私たちを誘い込むために、あの汚染獣が話しかけてきたのだとしたらどうします? 状況は今より悪化しますよ」

 

「その懸念は問題ない筈だ。なんせ優秀な念威操者がこちらにいる。仲間の群れに誘い込まれる前に、事前に情報は得られる。その場合は、容赦なく戦ってもらって構わない。

だがッ! 今この場は私を信じ、私に全てを任せてもらいたいッ!」

 

 教員五名はカリアンからルシフのようなカリスマ性を感じとった。

 並の人物なら、この絶望的な状況に右往左往するだけだろう。しかし、現状を打開するための最善をカリアンは必死になってやろうとしている。何より、剄を持たない一般人がこれだけの武芸者を前にしてここまで言いきる度胸。

 これだけの覚悟をぶつけられ、教員五名はそれを無下にしようなどと思わなかった。

 教員五名は静かに下唇を噛み締めた。

 あの強大な汚染獣に敵わないと内心痛いほど理解している。己の無力さに腹が立ち、命を汚染獣に見逃してもらうために汚染獣の言いなりになる情けなさが許し難かったのだ。

 

「なら早速、あの汚染獣に了承の意を──」

 

 突如として、ツェルニが再び揺れた。

 頭上を飛んでいる汚染獣が吹き飛び、外縁部に叩きつけられた衝撃が原因だった。

 莫大で威圧的な剄がツェルニ全体を支配する。

 

「この剄はまさか……!」

 

 レイフォンが心当たりのある剄の波動に目を見開いた。

 教員五名の顔が笑みに変わっていく。彼らはこの剄の主をよく知っていた。

 

「ルシフ様が……ルシフ様が帰ってきた!」

 

 ルシフは汚染獣を殴り飛ばした後、レイフォンたちの近くにある建物の屋上に着地していた。

 

「帰って早々これか。退屈せんな」

 

 ルシフは屋上から顔を出してレイフォンたちの方を見る。

 

「奴はこの俺が倒す。貴様らは俺の邪魔にならんよう退避しろ!」

 

 それだけ言うと返事も聞かず、旋剄で外縁部に向かった。建物を次々に蹴り、あっという間に外縁部近くにある建物の屋上に到着。

 そこから、ルシフは外縁部を見据える。老性何期かも分からない古びた巨躯。別人格の知識にあった生物の中で、一番その見た目に近いのは竜。汚染獣は怒りの咆哮をあげていた。

 ふと、ルシフは自分の内から湧き上がってくる感情を自覚した。自分に一時的に憑依しているツェルニの感情である。

 その感情にあるのは、自分の勝手な判断のせいでツェルニに住む人々を危険にさらしてしまった自責と後悔。

 

「ツェルニ、お前の思いは伝わった。安心しろ、お前の選択は間違ってなどいない。俺が今からそれを証明してやる」

 

 ルシフはツェルニの感情が徐々に変わっていくのを感じた。

 ルシフから緑色の粒子が溢れ、粒子が髪の長い幼女の姿を形作る。ルシフの眼前にツェルニが浮かび、明るい笑顔で小さく礼をした。

 ルシフはそれを見て微かに笑った。

 

「礼などする暇があったら、とっとと機関部に戻って機関部の連中を安心させてやれ」

 

 ツェルニは頷くと、機関部がある方に向かって消えていった。

 ルシフは笑みを消し、汚染獣を鋭い表情で睨む。

 

「──やるぞメルニスク! ヤツにツェルニの土を踏んだことを後悔させてやるッ!」

 

《おうッ!》

 

 ルシフは膨大な剄を肉体強化に使用し、一瞬で汚染獣のところに移動。汚染獣の腹に拳を入れる。

 汚染獣の身体は浮かび上がるが、ルシフが行く手に先回りし、かかと落としで地面に叩きつけた。

 汚染獣は身悶えしてルシフを睨みつける。

 

「愚かなる人よ……我に刃向かえば、この都市にいる人々は悉く我らの晩餐になるぞ」

 

「黙れ」

 

 ルシフは汚染獣の頭部を殴りつけた。汚染獣は地面に倒れる。

 ルシフは倒れた汚染獣の腹に乗り、そこから何度も何度も腹を殴り続ける。汚染獣の鱗を砕き、腹に穴が空いて血が噴き出そうとも拳を止めない。

 腹が穴だらけになった汚染獣をルシフは軽く跳んで蹴り飛ばした。汚染獣の巨体が外縁部の端まで吹っ飛んでいく。

 ルシフは悠然と汚染獣に向かって歩く。汚染獣は咆哮する力も無くしたようで、倒れたまま起き上がろうともしない。

 ルシフが汚染獣の頭部に手を置き、そのまま地面に叩きつけた。汚染獣の頭部に顔を近付ける。

 

「縄張りかなんか知らんが、この都市で晩餐したいなら勝手にすればいい。だが、ここでの晩餐は高いぞ。貴様の仲間全員の命を懸けても足りないくらいに。

分かったら、とっとと失せろ。人語を解するなら、ほんの少しだけ情けをかけてやる」

 

 ツェルニが進行方向を変化させた。電子精霊が機関部に戻ったことで、ツェルニ本来の行動領域に戻ろうとしているのだろう。

 それはこの汚染獣も気付いたようで、汚染獣はツェルニの進行方向が変わってすぐ、巨躯をゆっくりと起こした。

 そして、大きな翼を広げた汚染獣は一度だけルシフの方に目を向ける。

 

「調子に乗り、晩餐にすると言ったことを謝罪する」

 

「……許してやるよ。俺は寛大だからな」

 

 汚染獣は一度だけ頷くと、ツェルニから弱々しく飛び立った。汚染獣の姿はみるみる小さくなり、汚染された大気の中に消えていった。

 汚染獣がツェルニから消えると、いつの間にか外縁部付近に集まっていた武芸者や一般学生が歓声をあげた。

 

「ルシフー! よくやってくれた!」

「さすがルシフ! 俺たちにできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれる!」

「ルシフ君カッコよすぎ……!」

 

 ルシフは外縁部の方を振り返ると、左拳を天に突き上げて歓声に応えた。歓声が一際大きくなる。これはパフォーマンス。こうすることで民衆は指導者との一体感を感じ、感動と興奮で熱がさらに上がる。ルシフはそれをよく理解していた。

 ルシフの元に十七小隊と教員五名が近付いてくる。

 

「ルシフ、本当に帰ってきたんだな」

 

 ニーナが嬉しそうに言った。

 

「ああ。俺がいなくて寂しかったか?」

 

「……そんな軽口が叩けるなら、体調も問題なさそうだな」

 

 ニーナはジト目になる。

 ルシフの正面からバーティンが抱きついた。

 

「ルシフちゃん……よかった、よかったよぉ。もう二度と会えないかと思ったぁ」

 

「大げさな奴……俺が消えるわけないだろう」

 

「うん……うん……!」

 

 ルシフはバーティンを引き剥がし、集まってきた面々を見渡す。その中に、見知った顔がないことに気付いた。

 

「……マイがいないな。どこにいる? そういえば、マイの念威端子も見なかったな」

 

 場の空気が固まったのが分かった。誰もがルシフから視線を逸らし、言葉を詰まらせている。

 

「マイは、どこだ?」

 

 自分の声が鋭くなったのを自覚した。自身を纏う剄もそれに呼応するように威圧さを増す。

 やがて、エリゴが口を開いた。

 

「旦那、マイは──」

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 マイは病院の個室でゆっくりと目を開けた。目の動きだけで周囲を見渡す。

 マイのベッドのすぐ右隣にルシフがいた。背もたれがない椅子に座っている。ルシフ以外に、十七小隊の面々と教員五人もいた。

 

「ルシフ……様?」

 

「マイ、お前は『俺の目』だぞ。一流の俺の目だ。それが、限界を超えて剄を使用し倒れるなどというバカみたいなミスをするな」

 

 マイは静かに笑みを浮かべた。

 

「……なら、ルシフ様も私と同じバカです。以前に無理をして入院したのをお忘れですか?」

 

 空気が、凍りついた。

 その場にいたルシフ以外の全員の身体が強張り、ルシフの怒りに備える。

 しかし予想に反し、ルシフは微笑んだ。

 

「……ああ、そうだったな」

 

「そうですよ」

 

 その会話を最後に、ルシフはマイの隣にしばらく無言で座っていた。

 五分ほど経ち、ルシフは立ち上がった。

 

「もう俺は行く」

 

「はい」

 

「忘れるな、マイ。お前は俺の物だ。お前に手を出す奴など誰もいない」

 

「はい」

 

 ルシフはマイの右頬を左手で優しく撫でた。マイは気持ち良さそうに目を細める。

 

「じゃあな」

 

「はい。おやすみなさい、ルシフ様」

 

 ルシフはマイから左手を離し、病室から出ていく。

 その光景を信じられないような目で十七小隊の面々が見ていたが、すぐに我に返った。ルシフの後に続いて退室する。

 全員がマイの病室から廊下に出た。

 ルシフが振り返り、ニーナの方に視線を向ける。

 

「アントーク、お前がマイを病院まで連れてきてくれたと聞いた。ありがとな」

 

「い、いや、気にしないでくれ」

 

 普段のルシフらしからぬ優しげな表情に、ニーナは戸惑った。

 ルシフは正面を向き、いつも通り悠然とした足取りで歩き出す。

 

 それら一部始終を、念威端子で見ていた者がいた。

 窓の陰から念威端子が離れ、夕焼けの空に溶けていく。サリンバン教導傭兵団の放浪バス目指して。




ハルペー涙目。書いてる時、ルシフが再三「イライラするからこいつ殺したい」と言ってきましたが、頼むからやめてくれと拝み倒して回避。本作品でのハルペーの出番はここだけなので、ハルペーの生死はストーリーに一切関係ありません。でも、このままルシフに殺されるのはあまりに不憫な気がして生かしちゃいました。

今回で6巻終了。次巻の話は個人的に書きたくないです。超がつくほど重要な話になるので、気合い入れて書きますけど。


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原作7巻 ホワイト・オペラ
第41話 逆鱗


 ルシフがツェルニに戻ってきたことで、ツェルニの学生はどんな問題が起きてもなんとかなると喜んだ。

 実際、信じられないほど巨大な汚染獣を一人で撃退する離れ業をやってのけているから、あながちその考えは間違っていない。

 一部の学生はルシフから統治者の風格を感じ、ルシフがツェルニに戻ってきたことを『王の帰還』などと言っていた。当然大多数の学生はカリアンの立場を考慮し、ルシフを王などと表立って言わなかったが、誰もが心の内に抑え込んでいる言葉がある。それは、ルシフこそツェルニの実質的な統治者──という言葉。

 今のところルシフの意見は全てツェルニに反映され、新入生以外はルシフが入学する前と今のツェルニの変わりように動揺を隠せない。

 だが、確実にツェルニは良くなったと彼らは断言する。

 年々の武芸科の質の低下。様々な都市の人間が集まるからこそ起きる喧嘩。年頃の子供ゆえの暴力沙汰や脅迫。

 年々人が入れ替わり、学生だけで運営していく学園都市は、その特殊性ゆえに通常都市に比べて治安の変化が激しい。

 だが、ルシフがツェルニに来てからは驚くほど治安が良くなった。

 理由は単純である。

 ルシフはそういった争いや脅迫を目にすると、良い獲物を見つけたとばかりに介入し、相手をボコボコにしてしまうからだ。

 ルシフの強さを目の当たりにした後は、暴力沙汰を起こす学生は激減していた。

 さらにルシフの教員雇用に関しては、上級生は独学で学ぶしか選択肢がなかったところを、しっかりその分野を理解した相手に教えられるという選択肢が増えたうえに、教員の教え方も良いことから大多数の学生が好評価だった。

 ヴァンゼは生徒会長の執務机に、こういった学生からのルシフに対する声をまとめた資料を広げ、仏頂面をしている。

 カリアンは苦笑した。

 

「機嫌悪そうだね」

 

「当たり前だろうがッ!」

 

 ヴァンゼが勢いよく執務机を叩いた。置かれていた資料が一瞬浮き上がる。

 

「いいか? これは深刻な問題だぞ。もしお前が何かやれと言ったとして、ルシフがそれをやるなと拒否した場合、学生たちはどっちを選ぶ?」

 

「十中八九、ルシフ君の言うことを聞くだろうね」

 

「ヤツが入学してまだ半年も経ってないんだぞ! だが、多数の学生はルシフに従ってもいいと思っている! このままではツェルニは、ヤツに私物化されてしまう恐れがある! なんとかして学生たちの信頼を取り戻さなければ……!」

 

「私たちの信頼は別に落ちてないよ」

 

「お飾りの長になるなら同じことだ」

 

「なら聞くけど、ルシフ君が今までツェルニでしたことの中でマイナスになったものがあるかい?」

 

「それは……」

 

 ヴァンゼが言葉を詰まらせた。

 ルシフはツェルニで様々なことをやった。それら全てがツェルニをより良くし、ツェルニに住む学生を成長させた。

 無理やりマイナス点をあげるなら、ルシフに賛同する者にしか安らぎがなく、ルシフの敵にならないようルシフの機嫌を常にうかがう息苦しさ、窮屈さがそこはかとなくツェルニ全体に感じられる点。

 しかし普通に生活していれば、今のところルシフから制裁はない。

 

「ルシフ君のやっていることがツェルニにとってプラスになっている以上、その信用を落とそうとすれば、こっちが逆に返り討ちに遭う。今はルシフ君の行動を支持していればいい。

もうルシフ君に関する話もいいだろう。そろそろ本題を聞かせてくれないかい? 武芸大会の件について」

 

 ヴァンゼは感心と呆れが混じったようなため息をつく。

 

「言わなくても本題を分かってるじゃないか」

 

「私のはあくまで予想だよ」

 

「全く……。今までの傾向から、そろそろ武芸大会が始まる頃だと思ってな、最終的な部隊編成とそれぞれの役割を決めるべきではないか?」

 

「確かに一理ある。でも、例年通りならその役目は小隊対抗戦一位の君だけじゃなく、同率一位のニーナ君にもあるんじゃないのかな?」

 

 全ての小隊総当たりで行われた小隊対抗戦は全試合を終了していた。

 その結果、一敗した第十七小隊が一位。武芸長のヴァンゼ率いる第一小隊も一敗で同率一位という大番狂わせが起こった。

 

「ニーナにはまだ荷が重すぎる。武芸大会の経験も浅いし、指揮官としての信頼も低い」

 

 第一小隊は第十七小隊に負けた。そのせいで、勝率は同じでも、第十七小隊の方が第一小隊より強いという声が少なからずあった。ヴァンゼはそれが悔しくて仕方ないのだ。

 

「君はニーナ君が能力不足と言ったけど、十七小隊にはさっき話があがったルシフ君がいるよ」

 

「だから、深刻な問題だと言ったんだ。どちらに従うべきか、武芸者たちが迷う。こんな状態では、とてもじゃないが一丸となって闘うなどできん」

 

「それで、どうするんだい?」

 

「全小隊長の純粋な実力査定……すなわち、小隊長同士の総当たり戦をやってみようと思う。これの結果で、小隊長に合った最終的な陣形配置を決めたい」

 

 カリアンは納得したように頷くと、ヴァンゼが執務机に並べた小隊長同士の総当たり戦に関しての書類に承認の判を押した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ヴァンゼが発案した全小隊長の総当たり戦。その舞台は体育館に決定した。

 この体育館は運動クラブが試合で使用する場合もあるため、観客席が作られている。観客席にはそれぞれの小隊員がちらほらと座っていた。十七小隊も例に漏れず観客席にいる。

 

「なーんでルシフはいないのかねぇ。あいつも十七小隊の隊員だろ、一応。我らが隊長どのを応援しなくていいのかよ?」

 

「……お腹痛いから休むと連絡してきましたが」

 

 シャーニッドの呟きに、フェリは無表情で答えた。

 シャーニッドがため息をつく。

 

「あいつが腹痛で休むタマかよ。ぜってぇめんどくせぇとか思って仮病使ったんだぜ。ったく、あいつは協調性ってもんがねぇ。なぁ、レイフォン?」

 

「それは、否定できませんけど……正直、ルシフの気持ちも少しは分かります」

 

 レイフォンは対抗戦が行われていた間、なるべく他小隊の試合や情報を見ないようにしていた。

 ツェルニの武芸者のレベルは低い。それを視覚で直に理解してしまえば、そんな気なくても対抗戦に身が入らなくなるかもしれない。

 要は、見たところで自分のプラスにならないのだ。

 ルシフにとって、目の前で繰り広げられている試合は見る価値がないのだろう。自分もニーナが出なければここにいなかったかもしれない。

 

「それにしても驚いたよねぇ。まさかルシフがあんな顔するなんてさ」

 

 ハーレイが何気なく言った。

 みな、ハーレイが何のことを言っているか気付く。病院でのやり取りをハーレイは言っているのだ。

 

「先輩はどう思います? 恋愛経験多そうですけど」

 

 ナルキがシャーニッドに尋ねる。

 シャーニッドは難しい顔で唸った。

 

「う~ん、ルシフがマイを好きなのは確かだな。そこは間違いない。だが、恋愛感情があるかどうかっつう話になると、難しい話になる。

シェーナから聞いたんだが、マイとルシフは幼い頃からずっと一緒にいたらしい。それこそ、一つ屋根の下で暮らしていたんだと。色々二人にしか分からん事情はあるんだろうが、それを考慮すると恋愛対象というよりは家族愛のようなものなのかもな。

まぁ、喜ばしいことじゃねぇか。あのルシフにも、俺らみてぇな部分があって」

 

 その通りだ、とレイフォンは思った。

 どこまでも傍若無人のルシフが、マイ・キリーという存在の前に立つとたちまちその姿を崩す。自分たちと同じようにただ相手を案じ、相手のために何かしようと考え実行する。

 正直な話、レイフォンは何故ルシフがツェルニやツェルニに住む人々を守ったり救ったりするのか理解できなかった。他人を一切気にしていないのに、他人が死なないよう闘ったり、違法酒で道を踏み外した人を正しい道に戻したり……。そういうある意味でルシフの在り方と正反対の行動が、ルシフという存在を計り知れないものにしていた。

 だが、病院でのルシフを見た時、それらの点が線で繋がった気がしたのだ。ルシフには元々自分たちと同じ相手を思いやる心があり、それがあの傍若無人な振る舞いの中に隠れていただけだと。

 

「ルッシーファンクラブの会員が知ったら阿鼻叫喚の嵐でしょうけどね」

 

「はは、ちげぇねぇ! そんときゃ俺が慰めてやるか」

 

 軽口を叩くシャーニッドに、ナルキとフェリが汚らわしいものを見るような視線を向けた。

 

「最低ですね」

「死ねばいいのに」

 

「……ジョウダンニキマッテンダロ? レイフォンなら分かるよな?」

 

「ならなんで棒読み?」

 

 レイフォンは呆れている。間違いなく本気で言った筈だ。

 シャーニッドは視線をあらぬ方に向けた。

 

「あー……マイ・キリーは結構可愛いから口説き落とせるなら落としたかったが、ルシフのあれを見た後じゃそんな気にならねぇな。地獄を見せられそうだ」

 

 シャーニッドは話題を変えるために深く考えないで言ったのだろう。

 しかし、レイフォンはシャーニッドの言葉にぎくりとした。

 自分のことしか考えない人物なら、自分に害が及ばない限り暴走することはない。では、他人を思いやる心を持っている人物は……? 心を寄せる相手が傷付いたら……?

 普通なら怒る。傷付けた相手を許したりしない。必ず罰や報いを求める。

 ルシフも同じじゃないだろうか。そして、その時は一体どれだけの罰と報いを求めるのだろう。傷付けた相手だけで終わるのか。それとも、傷付ける原因を作った全てに報いを求めるのか。

 審判が高らかに勝利を告げる声で、レイフォンは現実に引き戻された。

 次の試合はニーナが出る。

 思い思いの会話をしていた十七小隊の面々は自然と口を閉ざし、試合会場に注目する。

 ニーナは第十四小隊隊長と対峙していた。

 第十四小隊隊長の名はシン・カイハーン。

 ニーナが第十七小隊を立ち上げる前、ニーナは第十四小隊にいた。その時の隊員にシンもいた。シンはニーナの練習に付き合ってくれたりした世話好きな性格だった。

 言ってみればこの試合は師弟対決のようなもの。

 

「お前が小隊長で、しかも戦績が一位とはな。正直、今でも信じられないが」

 

「優秀な隊員たちのおかげです」

 

「とは言うが、ルシフなしで一位だ。ルシフの扱いも上手くやってるように見えるし、隊長としてよくやってると思うぜ」

 

「ありがとうございます!」

 

 ニーナは素直に嬉しくなり、軽く頭を下げた。

 ニーナをよく知っている相手だからこそ、純粋にその言葉を受け取れる。

 

「それじゃ、やるか。遠慮なく来いよ」

 

「言われなくても、手なんて抜けませんよ」

 

 審判が開始を告げる。

 お互いにバックステップして距離を取った後、二人は錬金鋼(ダイト)を復元。ニーナは黒鋼錬金鋼(クロムダイト)製の鉄鞭を両手に構え、シンは碧宝錬金鋼(エメラルドダイト)製の細身の剣を構える。

 シンの剣に剄が流れ込み、シンの周囲に風が起こった。

 碧宝錬金鋼は剄の収束率に優れている。突きを主体とするシンの戦い方に碧宝錬金鋼はうってつけの錬金鋼だった。

 シンが先に行動を起こす。

 剣に収束させた剄を衝剄にし、突きの動作で放つ。

 ニーナもよく知っているシンの得意技。外力系衝剄の変化、点破。

 剣より放たれた衝剄の雨をニーナは足さばきだけでかわし、その内の一つだけ右の鉄鞭で防ぐ。右の鉄鞭が衝剄の威力でビリビリと震えた。ニーナは衝剄の威力がどれ程のものか知るため、あえて鉄鞭で防いだ。

 衝剄が放たれる方向は剣筋により決められる。どこに衝剄がくるか剣が教えてくれる点破は、今のニーナの脅威にならない。以前のニーナならなんとかかわすかいなすのが精一杯の剄技だったが、ルシフとの組み手経験により、構えも剄の動きも丸見えな剄技には余裕で対応できるようになっている。

 シンが驚きで目を見開いた。

 

 ──点破……以前より速さと威力が上がっているが、溜めが長い。これなら問題ないな。

 

 ニーナは自身の成長をかつてのチームメイトに見せられたことに内心喜びを感じつつ、頭は冷静にシンを分析する。

 ニーナはシンの懐に飛び込み、まず左の鉄鞭を振ってみせる。シンが剣でいなそうとするのが分かった。ニーナは更に剄を高め、左の鉄鞭を振る力を強める。途中で急に速度が上がった鉄鞭にシンは驚き、歯を食い縛りなんとか剣で鉄鞭を防いだ。タイミングを外されてもなんとか防いだシンは、やはりツェルニの武芸者の中でも上位の実力者である。

 しかし、いつの間にかニーナはシンを軽く追い越していた。

 シンが鉄鞭を防ぐ動きをしていたときにはすでに、ニーナは次の攻撃に入っていた。そもそも今の鉄鞭の攻撃は、シンに防がせるためにしたのだ。ニーナの予想通りの動きをシンがなぞり、ニーナはがら空きの腹に左膝蹴りを入れた。

 

「ぐっ……」

 

 シンは腹部を抱え、うずくまるように床に両足をついた。

 そこで審判が笛を吹き、ニーナの勝利を告げる。

 シンは深く呼吸して息を整えると、ゆっくり立ち上がった。

 

「お前、強くなりすぎだろ……ったく、これじゃ先輩として面目が立たんぜ」

 

「先輩も、ルシフと組み手すれば嫌でも強くなれますよ」

 

 シンはニーナの急成長の理由が分かった気がして、苦笑した。

 

「やっぱりルシフか。お前がそこまで頑張るのはあいつらのためか?」

 

 シンの視線が観客席にいる十七小隊に向けられる。

 ニーナは誇らしそうに頷いた。

 

「ええ。わたしは隊長ですから。いつまでも隊員におんぶにだっこではダメなんです」

 

 第十七小隊の隊員たちはみな優秀な武芸者ばかりだ。特にレイフォンとルシフはずば抜けている。だからこそニーナは自分にできるだけの努力をして、少しでも二人に近付きたいと決意した。今はお飾りの隊長なのかもしれない。しかし、いつか胸を張って第十七小隊の隊長だと言えるように。

 

「ニーナの奴も、ずいぶん強くなったな」

 

 観客席では、ニーナの闘い振りにみな嬉しそうな表情をしている。

 レイフォンもニーナの闘い方が自分ではなく相手を意識した闘い方になっているのを感じられ、ニーナが強くなっていると確信した。

 自分だけで完結している闘い方をするのは二流以下。相手をよく分析し、相手に合わせて有利な闘い方をするのが一流の武芸者だとレイフォンは思っている。そういう意味でいえば、ニーナは一流の世界に足を踏み入れる資格があるのだろう。

 もっとも、ルシフ相手に闘えば誰もが嫌でも相手を意識して闘うようになるだろうが。

 

「なぁレイとん。わたしも、ルッシーと組み手すれば隊長くらい強くなれるんだろうか?」

 

「う~ん、どうかな?」

 

 ナルキの問いに、レイフォンは言葉を濁した。

 間違いなく強くはなれる。しかし、その代償は大きい。何百回と地面をなめる苦痛と屈辱、ルシフからの容赦ない言葉に打ちひしがれない忍耐力、常にルシフに勝とうとする向上心。それらを持ち続けなければ、強くなる前にギブアップしてしまう。

 たまたまニーナは強い意志と持ち前の忍耐力が上手く合致したため、ルシフとの組み手と鍛練であれほどの強さになるまで成長したのだ。

 ルシフのやり方は一人の強者を生み出すが、その影で九人──いや、九十九人が脱落する超スパルタ。できれば友だちでもあるナルキに、そういう鍛練はしてほしくない。

 小隊長総当たり戦は次々に試合を消化していく。元々一日しか時間をとっていないため、直撃を一発でも与えたら勝ちという単純明快かつダメージをなるべく持ち越さないルール。

 試合は目まぐるしく進み、すぐにニーナの出番になる。

 今のニーナの実力はツェルニ屈指。更に防御が得意で金剛剄を会得しているニーナにとって、今日の試合の勝敗条件は有利だった。

 ニーナは破竹の勢いで勝ち続け、未だに負けはない。

 次のニーナの対戦相手は第五小隊隊長、ゴルネオ・ルッケンス。

 ゴルネオは両拳をコンパクトに構え、ニーナを見下ろしている。

 ゴルネオは巨体のため、ニーナから見てかなりの圧迫感と威圧感があった。

 しかし、ニーナはそれに呑まれず、平常心でゴルネオを睨み返した。こういう胆力もルシフとの組み手で鍛えられている。ルシフの相手ばかりしていれば、大抵の相手は可愛く見えるようになった。それはゴルネオでも同様だ。

 審判の開始の合図とともに、ゴルネオがニーナに接近する。

 ゴルネオは巨体に見合わず、隙が少なく威力よりも速さに重きを置いた拳打を連続で放つ。さすがのニーナもこれを回避するのは難しく、両手の鉄鞭で打ち落とすように拳打の連続突きを防いだ。

 ふとニーナの背筋に悪寒が走り、その場から後ろに跳ぶ。ニーナの眼前を、見えない剄の塊が通り過ぎていった。剄の塊は止まらず、試合用に設置された壁の一ヶ所に穴を開けた。観客席がざわつく。

 ゴルネオの剄技、外力系衝剄の変化、風蛇。拳から放った衝剄を曲げ、予想外の方向から撃ち込む剄技。

 ゴルネオは連続突きの中に風蛇を紛れ込ませ、連続突きに気をとられた隙にニーナの横腹に直撃させるつもりだった。試合ルール上、一撃でも直撃させればそれで勝負は決まる。そう考えると、ゴルネオの攻撃は理にかなっていた。

 ニーナは軽く息を整え、ゴルネオの動きを注視する。

 ゴルネオは今の攻撃で決められなかったことに落胆している様子もなく、落ち着いて再び構えた。

 

 ──よくわたしの実力を分かっているな。

 

 ニーナはゴルネオの慎重ともいえる堅実な構えと攻撃に感心した。

 いくら攻撃の威力が高くとも、ダメージが通らなければ意味はない。見え見えの攻撃はニーナに攻撃箇所を予測させることになり、金剛剄で防がれる。ならば攻撃箇所を予測させない奇策をもって、確実なダメージを与えにいく。

 ニーナの実力を冷静に分析しているからこその戦法。それは、ニーナの心を熱くさせた。

 本気で自分に勝とうとしている。自分より実力が上だと思っている相手が、自分を対等と認めている。

 ニーナの両鉄鞭に力がこもった。内力系活剄の変化、旋剄でゴルネオに近付く。ゴルネオはニーナを迎え打ち、ニーナが振るった左の鉄鞭をゴルネオは右の手甲で弾いた。

 弾かれた影響でニーナの体勢がわずかに崩れ、ニーナは体勢を整えるため距離を取る。しかし、その動きを読んでいたゴルネオはニーナの右側面に移動し、左拳を振るった。

 ニーナは左拳を右の鉄鞭で防ぐ。体重差と空中ということもあり、ニーナの体勢が更に崩れた。

 すかさず放たれた左の蹴り。ニーナは腹部に迫った蹴りを金剛剄で防ぎ、続けざまの背中への打撃も左の鉄鞭で受け流した。

 唐突に、ニーナの身体が真横に吹き飛ぶ。ゴルネオが風蛇を放っていたのだ。当然ニーナの頭にその剄技の存在はあったが、畳みかけるようなゴルネオの猛攻に、ニーナはそれを防ぐのでいっぱいいっぱいだった。

 ニーナは床を転がりながらも受け身をとって、片膝をついている。まだまだ闘えるというアピールも兼ねて、ニーナはなんでもないという風に立ち上がった。

 しかし審判はこの攻撃を有効と認めたらしく、ゴルネオの勝利を告げた。

 ニーナは悔しそうに顔を歪めながらも、充実していたゴルネオとの試合に満足していた。

  ニーナのもとにゴルネオが近付いてくる。

 

「あそこで熱くなり、自分から攻めにいったのが裏目に出たな。防御が得意なお前が俺相手に接近戦で勝てると思ったのか?」

 

 もしニーナが今まで通り、相手の攻撃を防ぎつつ相手を分析し、相手の隙を狙う闘い方だったならば、ゴルネオにも勝てたかもしれない。

 

「いえ……ですが、こちらから攻めてみたくなったのです。今の試合でわたしはまだまだ未熟だと思い知らされました。次は必ず勝ってみせます」

 

 ニーナがそう意気込むと、ゴルネオは苦笑した。

 

「正直、今の勝利はこの試合ルールだからこそだ。どちらかが倒れるまで闘うのが試合ルールだったら、お前が勝っていたかもしれない。だが、勝ちは勝ち。そう簡単に勝ちをお前に譲るつもりはない。次闘う時は、俺も強くなっているぞ」

 

 ゴルネオは去っていき、ニーナはその後ろ姿に軽く一礼した。

 小隊長総当たり戦は全ての試合を終え、ニーナはゴルネオ以外の相手には全て勝った。

 ゴルネオは全勝のため、一位。ニーナは次いで二位。三位は二敗のヴァンゼと、試合前に学生たちが予想していた順位とはかなり違う結果になった。

 ヴァンゼが生徒会長室で膝を抱えながら「そろそろ武芸長の座を譲るべきかもしれんな」と呟いていたが、そのことを知っているのはカリアンしかいない。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ハイアはサリンバン専用の放浪バスの屋根に座っていた。その右手には手紙が握り潰されている。

 手紙の送り主は、グレンダンの女王──アルシェイラ・アルモニス。

 手紙の内容を要約すれば、天剣授受者を三名ツェルニに送るから、後はそいつらに任せろという内容。サリンバン教導傭兵団のお役目は済んだから、もう廃貴族に関わらなくていいという女王の慈悲深いお言葉に、ハイアは手紙を握り潰した。

 

 ──ふざけるな。

 

 ハイアの心中を怒りが支配していた。まるで自分たちの存在など眼中にないと言われているようで、ハイアは屈辱に顔を歪めた。

 その一方で、ハイアはルシフをある程度客観的に評価できている。

 ツェルニが暴走している最中、サリンバン教導傭兵団はツェルニに協力した。その際、 ともに戦う相手の情報を要求し、カリアンは今までのルシフが戦っているのも含めた記録映像をハイアに渡した。

 その記録映像を見たサリンバン教導傭兵団の面々は、顔を青くしていた。無論、ハイアもその一人だった。

 ルシフの圧倒的な実力と容赦のなさは映像の中で際立ち、レイフォンすら超える実力を持つルシフに戦いを仕掛けるのは無謀の極みと言えた。

 グレンダンの女王が天剣授受者を三名もよこしたのも、過剰ではなく妥当だとハイアは思う。いや、それでも足りないかもしれない。

 だが、だからこそ、ルシフをグレンダンに連行できれば、サリンバン教導傭兵団は大きな手柄を立てたことになる。そして、女王はハイアを必ず天剣授受者にするよう動くだろう。それだけの価値が、ルシフにある。

 ルシフと戦おうなどとハイアは思っていなかった。

 戦わずして、ルシフに言うことを聞かす。それをするためには、ルシフの弱みをこちらが握らなければならない。

 

『ハイア』

 

 すぐ側の念威端子から聞こえてきた声に、ハイアは軽く周囲を見渡す。ハイアの斜め後方──放浪バスの車体の近くに、フェルマウスが佇んでいる。

 

『本国からの手紙の内容はなんだったのだ?』

 

 手紙はハイアが一番最初に読み、そのまま握り潰した。ハイア以外、手紙の内容を知っている者はいない。

 

「グレンダンから応援がくるって。それだけさ」

 

『そうか』

 

 ハイアは放浪バスの屋根から飛び下り、フェルマウスの前に立つ。

 

「それより、ルシフの弱点か弱みは何か分かったんさ?」

 

『……いや、分からなかった。もう、これ以上探ったところで意味ないのではないか?』

 

 フェルマウスは若干身体を緊張させていた。

 無理もない。フェルマウスはルシフの弱みらしきものを知った。しかし、ルシフと争う愚を理解しているフェルマウスは、それを絶対にハイアに悟られてはならないのだ。

 だが、長年一緒に過ごしてきた家族のような存在だからだろう。ハイアはフェルマウスにかすかな違和感があるのに気付いた。

 ハイアが不敵な笑みを浮かべる。

 

「時間はまだあるさ~。なのに、もう止めるって言うのかい? あんたが?」

 

 フェルマウスはハイアからフードごと顔を逸らした。

 あんたがという言葉に隠れた真意。優秀な念威操者が何も得られずに途中で情報収集の切り上げをする筈がないと、ハイアは言外に言っている。

 

「分かったんだろ? ルシフの弱みが。だから、そんなことを言ったんさ。これ以上続けて他の奴にそれを知られたら困るから」

 

 フェルマウスは言葉を失っている。

 図星だからだ。

 ハイアは言葉を続ける。

 

「で、こっからが本題。ルシフの弱み、それは何さ? ルシフ自身が持ってる弱みじゃないよな? なら、隠す必要はない。力ずくで奪えないとあんた自身よく分かってるだろ。となると、力ずくで俺っちたちが奪えるところに、ルシフの弱みはあることになるさ~」

 

 ハイアの目が捕食者のような光を放って、フェルマウスを見ている。その光の中に狂気の影が混じっているのに気付いた。

 いつから、ハイアはこんな目をするようになったのだろう。

 フェルマウスは自問する。だが、答えは見つからなかった。

 フェルマウスは意識的にハイアの顔を見ないようにした。こんな目のハイアは見たくない。

 

「……あの念威操者の女か?」

 

 ハイアが低く呟いた。

 フェルマウスの身体が急激に重くなる。

 ハイアが言った条件で一番可能性があるものは、いつもルシフの側にいる念威操者の少女しかいない。

 その答えにいつか行き着くと考えていたが、あまりにも早すぎる。もしかしたら弱みとかそういうの抜きで、ハイアはあの少女に報復をしたかったのかもしれない。以前、ミュンファや団員たちを傷付けた報復を。

 フェルマウスの反応に、自身が正解を言い当てたのを悟ったハイアは心を躍らせた。

 ようやく、溜まりに溜まった屈辱と憎悪、怒りを吐き出す時が来たのだ。

 

「これから作戦を立てるさ~。フェルマウス、あんたも来い」

 

 ハイアは放浪バスの入り口を開け、中に入っていく。

 放浪バスの入り口付近は灯りが付いておらず、真っ暗だった。

 ハイアの姿が暗闇に消えていくのを見て、フェルマウスは恐ろしい予感に背筋を冷たくした。



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第42話 暗雲

 リーリンは苛立ちを隠しきれず、宿泊施設にある自室の机を指でトントンと何度も叩く。

 

「いったい、どうなってるのよ……」

 

 何度も何度も口にした言葉。

 口にしたところで何も変わらないと頭で理解していても、吐き出さなければ自分の中で荒れ狂う毒が自身を蝕むような気がした。

 リーリンは未だに学園都市マイアスにいた。

 汚染獣をマイアスの武芸者たちが退治し、マイアス自身の問題も解決して都市の足も通常通り動いている。

 だが、待てども待てどもリーリンの待つ放浪バスが来ない。

 何日もトラブルでマイアスに釘付けにされ、トラブルが解決した後も放浪バスの影響でマイアスから出発できないでいる。リーリンでなくとも、この状況は毒づきたくなるのが普通だろう。

 リーリンは双眼鏡を首からぶら下げ、もはや日課になっている外縁部端から放浪バスを探す作業をすることにした。今は別に軟禁されているわけではないため、いつでも好きな時に外出できる。

 リーリンは部屋を出る直前に振り返り、長い付き合いになった部屋を見た。部屋に私物はほとんど出ていない。いつ放浪バスが来てもいいように、私物は鞄にまとめてある。

 もし放浪バスが来たら、今まで世話になったお礼にこの部屋をピカピカに掃除しよう。

 そんなことを考え、リーリンは部屋を出る歩みを再開させた。

 

 

 リーリンは外縁部端に立ち、いつものごとく双眼鏡を覗き込んで放浪バスを探している。

 リーリンから数歩後ろに下がった位置に、サヴァリスら天剣授受者三人が立っていた。

 

「リーリンさん。そんなことをしても、放浪バスは早く来ませんよ」

 

 サヴァリスが相変わらず軽薄な笑みを浮かべて言った。

 リーリンはむっとするも、サヴァリスの言葉は正論のため、言い返せなかった。

 だから、口にしたのは正論に噛みつく言葉ではない。

 

「他にやることがないから、やってるだけです」

 

「そうですか。僕は鍛練した方が有意義だと思いますけどねぇ」

 

 サヴァリスが理解できないと言いたげに首を軽く横に振った。

 カルヴァーンが固い表情で口を開く。

 

「リーリン殿、あれからルシフはあなたの前に現れましたか?」

 

 リーリンは振り返り、きょとんとした目でカルヴァーンを見た。

 

「前も言ったと思うんですけど、ルシフって誰です?」

 

「少し前にあなたと行動を共にしていた赤みがかった黒髪の少年ですよ」

 

「一緒に行動……?」

 

 カルヴァーンに説明されても、リーリンは首を傾げるばかりで心当たりがない様子だ。ふざけている様子もなく、本気でルシフを忘れてしまっているらしい。

 三人は顔を見合わせ、小さく息をつく。

 もしこれをルシフがやったのだとしたら、ルシフは他人の記憶を破壊する剄技が使えることになる。

 それはこの上なくやっかいであり、更に新たな疑問も生む。

 ──何故、リーリンから記憶を奪ったのか?

 何か知られるとマズい情報をリーリンが知ってしまったのか。

 リーリンの記憶は汚染獣襲撃の前後とルシフに関係する部分がまるごと抜け落ちている。

 リーリンがその時のことを思い出そうとしても、まるで深い霧が頭にかかったようにぼんやりとしか出てこない。

 気持ち悪い感覚だった。今までこんなもやもやとした気分になったことはない。誰かに指摘されるまでもなく、自分の記憶に何かされたと直感した。

 もしこれをやったのがサヴァリスの言う通りルシフという少年の仕業なら、リーリンは絶対に許さない。いつの日かルシフに出会った時、彼が記憶を戻せないなどとのたまったら、平手打ちを両頬にしてやる。

 

「──おや?」

 

 サヴァリスが外に視線を向け、地平線の彼方に興味深いものを見つけた。

 

「リーリンさん。放浪バスを探すより、別のものを探した方がいいと思いますよ」

 

「別のもの?」

 

 リーリンは双眼鏡のダイヤルをいじり、倍率を上げながら地平線に何かあるか探す。

 しばらくそうやっていると、自律型移動都市(レギオス)らしき物体がまっすぐこっちに向かってきているところを見つけた。

 

「あれは……?」

 

「どうやら、放浪バスを待つ必要はなさそうですね」

 

 リーリンはレギオスに翻っている旗を注視する。幼い少女がペンを持っている模様が旗に刺繍されていた。その旗を、リーリンは一度見たことがある。レイフォンの合格通知で。

 

「ツェルニ……? え、嘘……」

 

 リーリンは信じられない思いで、双眼鏡越しに旗を凝視した。

 もしかしたら、あれは自分の願望が見せた幻ではないか。

 そんなことさえ思ったが、サヴァリスも見えている以上、自分だけの幻覚ではないようだ。

 

「ルシフはツェルニに戻ったのでしょうか?」

 

 カナリスもツェルニがある方向を見ている。

 リーリンは双眼鏡から目を離し、肉眼でツェルニを見ようとしたが、地平線が広がるばかりでツェルニらしき影すら見えなかった。

 天剣授受者レベルの武芸者ともなれば、活剄による視力強化で地平線のはるか彼方まで見れる。

 

「……分からん。ツェルニに行く放浪バスは来ておらぬから、戻れる筈がないのだが」

 

 カルヴァーンも同様に視線を向けながら、カナリスに応えた。

 マイアスの問題が解決したと同時に、ルシフの威圧的な剄も消え、カナリスはいつの間にかルシフを見失っていた。それから、ルシフの姿も剄も一切現れなくなっている。

 天剣授受者三人は、もうマイアスにルシフはいないのではないか、と結論づけ始めていた。

 しかし、そうなると新たな疑問が出てくる。

 一体どうやってマイアスを去ったのか──その方法についての問題。

 これに関しては全く分からなかった。もっとも、彼らは都市間を移動する方法は放浪バスしかないと決めつけているし、それ以外の方法も知らないから、分からないのも当然といえる。

 天剣授受者三人がルシフについて思考を巡らせる中、リーリンだけは別のことを考えていた。

 

 ──あそこに行けば……レイフォンに会える。

 

 デルクとレイフォンの軋轢も、胸の内に抱えるもやもやとした想いにも、全てに決着がつく。

 そして──もし叶うのならば、闇試合が発覚してレイフォンがグレンダンから追放される前の毎日に戻ってほしい。

 デルクやレイフォン、孤児院のみんながいる毎日に。

 その願いが叶うことを祈り、胸の内で育っていく感情から目を背け、リーリンはもう一度双眼鏡でツェルニを見た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ツェルニは対都市戦に向けて様々な訓練をしていた。

 非戦闘員の避難訓練もその一種。

 対汚染獣戦と違い、対都市戦は都市内戦闘が基本となり、都市に設置されている防衛兵器や罠も動く。

 この訓練は自都市の防衛兵器や罠に引っ掛からず、非戦闘員は迅速にシェルターに避難し、武芸者はあらかじめ決められた集合地点に行くのを目的としている。

 武芸者はそれぞれ役割によって外縁部に集合する者や、都市の防衛のために都市内部に設定された各所に集まる者がいる。

 念威操者がその訓練の映像をカリアンの周囲に浮かび上がらせていた。

 カリアンは外縁部で前線部隊の武芸者たちと共にいる。本番は一般人のためシェルターに避難することになっているが、これは訓練のため、カリアンはシェルターに向かわなかった。

 

「ヴァンゼ、今までと比べてどうかな?」

 

「はっきり言って、段違いだ」

 

 ヴァンゼはこれまで二回武芸大会を経験した。

 その時の訓練の士気や熱気はそれなりに高かったが、動きが気持ちについてこず鈍かったし、一部の生徒はふざけていたりした。

 だが、今の訓練は熱気や士気も高く、本番さながらの緊張感があった。ふざけたり気を抜いて訓練をしている者は一人もおらず、動きもきびきびとしている。

 本当に同じ都市の訓練か? と疑いたくなる程、訓練の質が違った。

 

「……やはり、あれが効いたのかな」

 

「……うむ」

 

 二人とも沈んだ表情になる。

 訓練初日、以前のように訓練中にふざけたり、だらだらと動いている一部の生徒がいた。

 今回の武芸大会で負けても、あと一年くらいはツェルニはもつ。そのため、都市がどうなろうが自分には関係ないと考える上級生がどうしても出てくる。限られた期間しか留まらない、学園都市という特殊性ゆえの問題。

 そんな彼らも、今の訓練は別人のように全力で取り組んでいた。

 何が彼らを変えたか?

 その答えは恐怖。

 ふざけている生徒たちの中で特にひどい一人を、ルシフが徹底的に壊した。壊された者は少なくとも半年、立つことすらできない重傷を負わされた。幸い後遺症は残らないらしいが、もう武芸者としては使いものにならないだろう。

 ルシフはそうやって一人病院送りにした後、ふざけてたりだらだらしていた者を一ヶ所に集めた。

 そして、問いかけた。

 

「訓練はなんのためにやるか知ってるか?」

 

 誰も、その問いに答えられなかった。誰もが顔を俯けて身体を震わせ、次の犠牲者にならないように祈っていた。

 ルシフは返答を聞かず、話を続ける。

 

「さっきみたいなヤツのようになる確率を減らすためだ。だから、それをふざけてやるなら、ヤツみたいになっても文句なんかないよな?」

 

 それが決定打だった。

 彼らは二度と気の抜けた動きはしないから助けてくれとルシフに懇願し、ルシフはそれを受け入れた。ただし、次ふざけたらさっきのヤツよりひどい目にあわすとしっかり釘をさして。

 その効果は劇的で、ふざけていた生徒のみならず、普通に訓練していた生徒もより真剣に訓練するようになった。

 故に、これほどまでに質の高い訓練ができたのだ。

 今回のルシフの行動について、やりすぎじゃないかという声は少なからずあったが、最終的にほとんどの生徒から受け入れられた。ルシフのやったことを痛快だと内心喜んだ生徒もいた。

 誰もが真剣に一つのことに取り組もうとしているのに、それを台無しにするようなことをするヤツが悪い。

 そういう理屈でルシフの行いは正当化された。

 カリアンとヴァンゼはそれを喜ぶべきなのか迷っている。

 ルシフのやったことは、ツェルニの法に当てはめれば退学でもおかしくない。罪のない生徒を一方的に暴行し、重傷を負わせたのだから。

 だが、その後を考えると、罪と呼ぶにはあまりにも良い影響がありすぎる。

 結局、ルシフに罰は与えられなかった。意味ある暴行──そうカリアンとヴァンゼが暗に認めた証拠である。

 もちろん、誰もがルシフの行いを許したわけではない。

 ニーナはルシフのしたことを強く非難していた。

 ニーナら第十七小隊は前線部隊に編制されたため、カリアン同様に外縁部の集合地点に集合している。

 ニーナは少し離れた場所にいるルシフにちらりと目をやり、ため息をついた。

 ニーナが暗い表情をしているのに気付いたレイフォンが声をかける。

 

「どうしたんです、隊長?」

 

「……なぁ、レイフォン。今さら言うのもなんだが、訓練初日のルシフの行い、どう思う?」

 

「……まぁ、やり過ぎだとは思いますけど、悪いとも言えないです」

 

 レイフォンに言わせれば、ルシフの気性を知っているツェルニの生徒に見せしめは必要ないと思う。言葉で脅すだけで、同等の効果を得られた筈だ。

 だが、一人を犠牲にして見せしめにしたことで、確実に効果が得られた。言葉だけでは確実性がない。

 そう考えれば、ルシフは残酷といえるまでの合理性を躊躇なく実行できる冷徹さがある。

 それが悪かどうか判断するのは、悪行の中に利がある分とても難しい。

 

「わたしは、間違っていると思う」

 

 ニーナは意志のこもった強い語気で断言した。

 

「武芸者は誇りで武器を取り、覚悟をもって戦うべきだ。ルシフのやり方は、身体に恐怖という名のムチを打ち、無理やり戦わせるようなもの。それを正しいと呼んでいいのか? そんな我が身可愛さで戦うような者が、戦場で敵に臆さず戦えるか?」

 

 ニーナは武芸者を、自らの全てを懸けて都市を守る誇り高き守護者だと思っている。

 だからこそ、戦う理由を保身にすり替えるルシフのやり方に反感を覚える。武芸者そのものを貶められている気がするのだ。

 

「──つまらんことを考えるんだな」

 

 ニーナの言葉が聞こえたらしく、ルシフが口を挟んだ。

 

「誇りや覚悟、それで戦える者はいい。だが、それで戦えない者もいる。そういう連中は恐怖で縛りつけるのが手っ取り早いし、よく仕事する」

 

「『仕事』……だと?」

 

 ニーナはルシフを睨んだ。

 ルシフはニーナの肩を軽く叩く。

 

「心配するな。今だけだ。才なく、己を磨かず、心構えすらできてないヤツが戦場に立つのは」

 

「ルシフ……?」

 

「世界はもうすぐ(くつがえ)る。そして、人類は進化のステージに立つのだ」

 

「……覆る? 進化のステージ? お前は何を言っている?」

 

 ルシフは困惑しているニーナに背を向けた。

 

「分からないなら、それでもいい。何も分からないまま、審判の日を迎えるんだな」

 

 ニーナがルシフを問いただそうとして、訓練終了のサイレンが都市中に響き渡った。

 サイレンの音にニーナが空を仰ぎ、ルシフに視線を戻した時には既に、ルシフはいなくなっていた。

 

「なんなんだアイツは……言ってる意味がまるで分からんぞ」

 

「もしかしたら、ルッシーは世界征服を企んでるんじゃないですか?」

 

 ナルキが冗談混じりに言った。

 

「ははっ、いくらアイツが桁外れの天才だからって、世界征服なんざできるわけねぇだろ……できねぇよな?」

 

 話している途中、ルシフならやれるかもしれないと不安がよぎり、シャーニッドが周囲に同意を求めた。

 レイフォンが思案顔になる。

 

自律型移動都市(レギオス)なんで、一つの都市を支配するだけならできると思いますが、全レギオスはどう考えても無理だと……」

 

「だよなあ……」

 

 それぞれバラバラに移動しているレギオスを全て支配するなど、物理的に無理なのだ。

 だが、ルシフは今までの常識では考えられない発想と頭脳で、何度も信じられないことを実現してみせた。

 だから、全レギオスを支配する方法が何かあるのではないか──と頭の片隅によぎってしまう。

 その場の誰もが難しい顔で黙りこんだ。

 

「──そんなに気になるなら、聞けばいいんじゃないですか?」

 

 フェリが無表情で彼らに言った。

 

「聞くって、誰に? ルシフ本人に『世界征服するつもりか?』なんて言いたくないぜ、俺は。やぶ蛇はごめんだ」

 

 フェリが呆れた口調になる。

 

「ルシフにそんなこと聞くわけないでしょう。聞いても先程みたいに、自分しか分からない言葉で答えるに決まっています」

 

「なら、マイに聞くのか?」

 

「違います」

 

 ニーナの言葉に、フェリは軽く首を振った。

 

「マイさんは、ルシフから話してもいいと言われない限り、絶対に話さないと思います。あの『剣狼隊』とかいうのに入ってる教員五人の内の誰かに聞くんです」

 

「なるほど」

 

 先の巨大な汚染獣が襲撃してきた際、バーティンが自分たちを『剣狼隊』と呼んでいたのを、その場にいた十七小隊全員が聞いている。ダルシェナから『剣狼隊』が何かも知った。

 ルシフ直属の武芸者集団。

 ルシフが本気で世界征服を企んでるなら、何か知っている可能性は高い。

 

「で、誰に聞くんだ? フェリちゃんはもう結論がでてんだろ?」

 

「レオナルト先生です」

 

「理由は?」

 

「一番バカだからです」

 

 フェリが平然と言い、周りにいる面々がぎょっとする。

 

「エリゴ先生はだらしなく見えますが、締めるべきところはちゃんと締めるしっかり者なので、何も言わないでしょう。フェイルス先生は物腰柔らかく訊きやすそうに感じますが、口が上手く頭も良いためきっとはぐらかされます。バーティン先生とアストリット先生はルシフに心酔しているため、問答無用で除外。消去法で残ったのが、レオナルト先生です」

 

「僕も、レオナルト先生が一番話しやすいかな。いつも自然体だからだと思うけど」

 

 レイフォンがフェリの言葉に同意した。

 

「決まり……だな。レオナルト先生なら近くにいるし、今からすぐ話を聞きに行こう」

 

 その場の全員がレオナルトのところに向かった。みな、ルシフの言葉の真意や、ルシフが何をするつもりなのか知りたいのだろう。

 レオナルトはエリゴやフェイルスと一緒にいる。何か話しているようだ。

 フェリがレオナルトの背に声をかける。

 

「レオナルト先生、話があるのですが」

 

「おう、なんだ?」

 

 レオナルトは話を中断し、振り向いた。

 フェリが視線をエリゴとフェイルスに向ける。

 

「お二人がいると話しづらいので、外してもらっていいですか?」

 

「ああ、そういう話か」

 

「……は?」

 

 レオナルトは納得したように頷き、フェリは怪訝そうな表情になった。

 

「俺、結婚してんだよ。わりぃけど諦めてくれ」

 

「違います」

 

 フェリは自分の目に狂いはなかったと確信した。

 少し考えれば、これだけの人数で告白話なんてするわけないと気付く。やはり思慮が浅い人だ。

 愉快そうに笑っていたエリゴが、フェイルスの首に右腕を回す。

 

「俺たちはお邪魔みてぇだし、邪魔者は邪魔者らしくあっち行ってるわ。──フェイルス、行くぜ」

 

「……ええ」

 

 フェイルスはレオナルトを軽く睨んでいたが、エリゴが歩き出すと自分も同じように歩き始めた。

 フェイルスがエリゴに顔を近付け、ささやく。

 

「……エリゴさん、レオナルトさんを一人にして本当にいいんですか? あの人はウソを吐けないんですよ? 余計なことをあの学生たちに漏らしたらどうします?」

 

「ははははッ、お前さんの言う通り、レオナルトはウソを吐けねぇ。けど、約束も破らねぇ。旦那からは、(とき)が来るまで具体的なことは言うなって言われてっから、心配すんな。

それに、もし漏らしたとしても、アイツらん中で手こずりそうなんはレイフォンだけだ。それ以外は物の数に入らねぇよ」

 

「……そう、ですね。少し神経質になりすぎていたようです」

 

 フェイルスが表情を和らげた。

 エリゴがフェイルスの背を豪快に何度も叩く。

 

「それでいいんだ、それで。さぁ、メシ食いに行こうぜ。最近なかなか美味いところを見つけたんだよ」

 

「はい、ご一緒させていただきます」

 

 エリゴとフェイルスは中央部の方に去っていった。

 レオナルトの周りは十七小隊しかいない。

 

「──で、話ってのは?」

 

「先程ルシフからこう言われたんです。『世界は覆る。人類は進化のステージに立つ』と。だから、ルシフが何か企んでるんじゃないかと思ったんです。レオナルト先生は『剣狼隊』というルシフが指揮する武芸者集団の一人らしいですから、情報を持っているかと思い、話をしに来ました。ルシフの企みについて、何か知りませんか?」

 

 フェリの問いかけに応えず、レオナルトは背中のカバンに入っている飲み物のボトルをおもむろに手に取ると、ボトルのキャップを開けて飲み始めた。

 

「レオナルト先生?」

 

 再度フェリが声をかけても、レオナルトはあさっての方を向いてドリンクを飲み続けている。

 

「……そうしていれば話さないですむとでも?」

 

 フェリの声に刺々しさが加わった。

 レオナルトはボトルを口から離し、ばつが悪そうに頭をかく。

 

「あー……お前ら、もう昼休憩だ。午後もハードだから、休憩時間はしっかり休んでおけよ」

 

 それだけ言うと、レオナルトは旋剄でその場から消えた。後に残ったのは、ぽかんと口を開けた十七小隊のみ。

 

「……とりあえず、ルッシーが何か企んでるのは分かりましたね」

 

「それも世界規模でな」

 

 ナルキがぽつりと呟き、シャーニッドがやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 夕方。

 訓練も一通り終了し、マイは寮への帰路を歩いていた。いつものように錬金鋼(ダイト)を復元した杖を持っている。

 周囲に人影はなく、いくつもの寮がずらりと左右に並んでいた。

 マイの近くには多数の念威端子が舞い、この場からツェルニ中の視覚的情報を得ている。

 

 ──今日はサリンバンの傭兵をよく見るなぁ。

 

 いつも自分たちの放浪バスを根城にし、買い出しやら訓練の手伝いやらでしか外に出てこない連中が、今日に限って十人ほど外にいた。

 前方三百三十メートル地点に二人、後方二百メートル地点に三人、自分から一つ右の街路を三人、自分から一つ左の街路を二人。

 遠巻きにマイを包囲しているような位置関係だが、全員の進行方向はバラバラで、今だけ包囲が成り立っている状態だった。

 だからこそマイは大して気にせず、警戒せずに歩みを続けた。一度サリンバンの傭兵を圧倒していたのも、マイがサリンバンの傭兵を脅威に感じない要因の一つだろう。

 その油断こそが、マイの命運を分けた。

 突如として十人の傭兵の剄が高まり、前後にいた五人の傭兵は旋剄で、瞬く間にマイから目視できる位置まできた。建物を挟んで左右にいる傭兵も跳躍して、建物の屋上に立つ。

 その間に、マイは念威端子の刃を前後の五人に殺到させた。五人は念威端子をよける動作すら見せず、ただ愚直にマイの方に前進してくる。

 念威端子の刃が五人をそれぞれ囲み、一斉に襲いかかった。だが、念威端子は彼らに傷一つ付けられずに、彼らの身体から弾かれた。

 

「切れないッ!?」

 

 マイの表情が驚愕に染まった。

 が、すぐさま次の一手を打つために、念威端子を自分の周囲に戻す。

 念威端子を念威爆雷にし、その光を目眩ましに念威端子のボードでその場から離脱。それが、マイの考えた次の一手。

 しかし、サリンバンの傭兵もマイがそうしてくるとあらかじめ読んでいたのだろう。

 前後にいる五人の内の二人が、マイの頭目掛けてナイフを軽く放った。マイは咄嗟に念威端子の盾を前後に展開し、ナイフを防ぐ。

 その時にはもう、ナイフを投げていない三人がマイに肉薄していた。

 今のナイフによる攻撃はダメージ目的ではなく、念威爆雷を使用する時間を一瞬遅らせるため。その一瞬で彼らにとっては十分だった。

 三人の内の一人が、マイの首に手刀を叩きこむ。

 

「あ……」

 

 マイは糸の切れた操り人形のように、地面に崩れ落ちた。

 すかさず建物の屋上にいた五人がマイに近付き、手に持っている大きな袋にマイを入れようとする。

 薄れゆく意識の中でそれを見たマイは、最後の力を振り絞り、傍に落ちた錬金鋼の杖に手を伸ばした。

 だが、錬金鋼の杖が誰かの足に蹴り飛ばされる。杖が建物の壁にぶつかり、キーンと甲高い音が響いた。

 

「ル……フさ……たす……て……」

 

 かすれた声は誰にも届かず、マイの視界は暗闇に包まれた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 フェリが寮の入口を開け、寮の廊下を歩く。

 

「あんたが、生徒会長の妹さん?」

 

 フェリのすぐ後ろから声がした。

 フェリは錬金鋼を復元させ、杖を握りながら勢いよく振り返る。

 フェリの前に、赤髪で顔の左半分に刺青が入った男が立っていた。確かハイア・サリンバン・ライアという名前で、サリンバン教導傭兵団の団長。

 そんな男が一体なんの用?

 フェリはハイアを念威爆雷で囲んだ。

 なんの目的かは知らないが、気配を絶っていきなり話しかけてくるような人間に、礼儀は必要ない。それに、警戒しておいて損はないだろう。

 

「おっかないさ~」

 

 ハイアは苦笑した。

 

「あなたの言う通り、わたしはカリアン・ロスの妹ですが、それが何か?」

 

「個人的にあんたに恨みはないさ。けど、ツェルニの武芸者に交渉の邪魔をされたくない。だから──」

 

 ハイアが動いた。

 フェリは反射的に念威爆雷を起爆させた。が、一瞬タイミングが遅かった。襲ってくる可能性は頭にあっても、襲ってこないとたかをくくっていたのだ。

 ハイアがフェリの背後に回り込み、首への手刀でフェリの意識を断ち切る。

 

「少しの間だけ、あんたには人質になってもらうさ」

 

 フェリが倒れ、ハイアは背負っていた袋にフェリを入れた後、袋を背負い直した。それからハイアは軽く周囲を見渡し、何事もなかったように寮から立ち去った。

 ハイアは一度、背負った袋に目をやる。背負った袋が重くなった気がした。

 

「仕方ないさ……もうこのやり方しか、廃貴族を手に入れられないんだから」

 

 ハイアは自分に言い聞かせるように呟いた。袋は重いままだった。



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第43話 散花

 フェリはゆるゆると目を開けた。

 どこかの室内らしかった。

 それなりに広く、ベッドが二つ向かい合って置いてある。ベッド以外の家具は一切なく、少し上に窓があった。立てば、問題なく窓の外を見れるだろう。

 窓からは日の光が差しこみ、外の明るさから朝か昼のどちらかだと悟った。

 自分がハイアに会い、意識を失ったのが夕方。そこから計算して、半日以上経っていることになる。

 ハイアのことを考えると、苛立ちが身体を支配していった。

 暴力による誘拐。

 交渉がどうのこうの言っていたが、そんなものはハイアの都合であって、フェリからすればとばっちりを受けたという気持ちが強い。

 フェリはベッドから起き上がり、ベッドを椅子代わりに座った。

 向かいのベッドに誰か寝ている。マイ・キリーだと、青い髪で気付いた。

 マイはゆっくり起き上がり、目をこする。何度も何度もこすり、完全に目が覚めた後、マイは周囲を見渡した。

 フェリの姿は目に入らないらしく、フェリを見ても何も反応しなかった。

 マイの目が、唐突に見開かれる。

 布団をひっくり返し、自分のベッドの下に潜り込み、さらにはフェリの布団もひっくり返した。

 

「いきなり何するんです?」

 

 フェリはベッドから立って、不快そうにマイを見た。

 

「ない……ないないないないないッ! ないのッ! 錬金鋼(ダイト)が!」

 

 なるほど、とフェリは合点がいった。

 いつも持っているあの杖の錬金鋼を、マイは探しているのだ。

 

「あれがないとダメなの、わたしぃ……」

 

 マイの身体が、小刻みに震えている。

 マイが室内に一つだけある鉄製の扉を開けようとするが、びくともしない。

 マイが取り乱し、室内の壁のあらゆる場所を拳で叩き始めた。

 

「いやッ! いやッ! いやいやいやいやいやぁ!!」

 

 念威操者の、それも女の力で、壁に穴は開かない。

 マイはやっとそれに思い当たり、念威でこの部屋の外を探ろうと決めた。

 マイの青い髪が輝き、念威を部屋の外に放つ。

 

「つぅッ!」

 

 外に出ようとした念威は、見えない壁に阻まれた。見えない壁から思念のようなものが溢れ、マイの念威を逆にたどってマイの頭に直接流れ込んでくる。それは頭痛という形で、マイに存在を強調した。

 念威妨害だ。サリンバン教導傭兵団のフードの人物──あの念威操者がやっているのだろう。

 

「あのとき……ころしておけばよかった」

 

 マイは悔しげに、唇を噛みしめた。

 重傷を与えれば、こちらに敵対しようと思わなくなるだろうと考えていた。しかし、今自分の敵として立ち塞がっている。

 

 ──ネ!

 

 マイの身体が、ビクリと大きく震えた。

 フェリは不思議そうにマイを見る。

 今のマイに、フェリは見えていない。見えてはいるが、全く意識していない。意識しないのなら、いないのと同義だろう。

 マイは座り込み、両手で両耳を塞いだ。

 

 ──シネ!

 

「いやぁ! ききたくないききたくないッ!」

 

 マイはぶんぶんと首を横に振った。

 フェリは慌ててマイに寄り、耳を塞いでいる右手をはがす。

 

「どうしたんですか?」

 

「こえがぁ! こえがきこえるのぉ!!」

 

「……声?」

 

 フェリは耳を澄ます。

 マイの声以外、何も聞こえない。

 

「何も聞こえないですよ?」

 

 ──シネ! シネ! シネ!

 

「ウソよッ! ほらッ、いまだってこえがしてるじゃないッ!」

 

 マイは扉を激しく叩き始める。

 

「だしてッ! はやくここからだしてッ! だしてよぉ!!」

 

「マイさん、落ち着いてください」

 

「どうしてあなたはおちついていられるのよッ!?」

 

 マイがフェリをきっと睨んだ。

 対するフェリは困惑した。

 どうして落ち着いていられると訊かれても、むしろ落ち着けない理由の方が分からない。

 室内に閉じこめられているとはいえ、身体の自由は奪われていない。誘拐した相手が、自分たちに危害を加えるつもりがないのは明白だろう。

 それに、取り乱したところで何も変わらない。冷静に現状を把握してこそ、打つべき手も考えられる。

 こういう思考こそ念威操者の思考、とフェリは思っていたのだが、マイは違うようだ。

 マイの顔は青ざめ、怯えるように小刻みに身体を震わせている。

 

「何を怖がってるんです?」

 

「なにいってるのよッ! いまからわたしたちはいぬのマネとかさせられるのよ!? おとこのオモチャにされるのよ!? そんなのいや! もういやぁ!」

 

 何度も、何度もマイが扉を叩く。

 フェリは絶句していた。

 サリンバン教導傭兵団は傭兵である前に武芸者だ。武芸者は誇り高く、そういう欲のために剄を使うのを嫌っている者が多数いる。

 世界にその名を轟かせるサリンバン教導傭兵団が、そんな下劣で低俗なことをしようなど、考える筈がないではないか。

 マイは涙を流して、今度は窓を必死に叩き始める。

 

「ルシフさまぁ……はやくきてよぉ……ルシフさまぁ!」

 

 フェリは信じられない気持ちで、マイを凝視した。

 

 ──泣き叫び、暴れまわるこの少女が、マイ・キリー?

 

 フェリが知っているマイは、いつも落ち着いていて、ルシフのそばで笑い、自分の念威に絶対の自信を持っている少女だった。冷静に物事に対処し、どんな危険や恐怖にも屈しない強い少女だった。

 それが、今はどうだ?

 子どものように癇癪を起こし、思い通りにならないと暴れる。まるで幼児化してしまったようだ。

 フェリは知る(よし)もないが、マイの精神的成長はルシフに出会った六才の時点で止まっていた。マイの心は壊れたままだった。今まではルシフという接着剤で、壊れた心を繋ぎ止めていた。接着剤が消えれば、当然心は再び壊れる。

 マイにとって世界とは、常にルシフというフィルターを通して見るものだった。必要な物は全てルシフから与えられ、ルシフという庇護の籠から出ず、ルシフによって全てが完結していた。

 何かルシフの存在を感じられるものがあれば、そのフィルターは外れなかった。ルシフからもらった錬金鋼の杖は、マイにとって武器であると同時に安定剤なのだ。自らがルシフと繋がっていることを示す、とても重要な物。

 それがあったから、ルシフと離れた一年間も、マイは平常心で過ごすことができた。常に杖を常備し、肌身離さず持つことでルシフの存在を近くに感じ、フィルターの中で生きられた。ツェルニの武芸者が軒並み自分より弱かったのも、マイが平常心でいられた要因の一つ。

 だから、ルシフが近くにおらず、ルシフと自分とを繋ぐ唯一の物を持っていないマイの世界は、崩壊した。マイをいままで守ってくれていた殻は砕け散ったのだ。

 マイは窓を何度もがんがん叩いていたが、鉄製の扉の鍵が外れる音で叩くのを止めた。

 マイは扉付近に転がるように近付く。

 扉が開けられ、トレイを持った眼鏡の少女が顔を出した。

 

「あのう……きゃッ!」

 

 マイがその脇をすり抜けようと身を低くして駆ける。マイの腕をハイアが掴んだ。ハイアは眼鏡の少女のすぐ近くに潜んでいた。

 

「はなしてッ! はなせッ! この、けだものッ!」

 

 マイは必死に暴れるが、武芸者の力を、一般人の力しか持たないマイがどうにかできるわけがなかった。

 ハイアは室内にマイを無理やり入れる。その時の勢いで、マイは尻餅をついた。

 

「あ……ああ……!」

 

 マイは尻餅をついたまま、自分を見下ろすハイアの目に釘付けになった。

 ハイアは哀れみの視線をマイに送っていたわけだが、マイにはそう見えなかった。

 今の自分の行動が、ハイアの気分を害した。マイはそう考えた。

 マイは身体を震わせながら、両腕で自分の身体を抱く。両手は、叩きまくった影響で痣だらけになっていた。

 

「ぼうりょくは……ぼうりょくはやめて……なんでもいうこときくからぁ! いたいのやだぁ! なにしてほしいかいって! いわれたとおりにやるからぁ!」

 

 その場にいた三人は絶句していた。

 あまりの痛々しさに、ハイアと眼鏡の少女はマイから目を逸らした。

 眼鏡の少女はトレイを室内に置く。二人分の料理がトレイにのっていた。

 

「何もしません。食事を持ってきただけですから。それに、その……犬のマネとか、オモ……オモチャとかにもしませんから、安心してください」

 

 眼鏡の少女が、真っ赤な顔で恥じらいながら言った。

 どうやら室内の声は外にも聞こえるらしい。フェリはそう思った。

 

「ウソよ……そうやってよろこばせたあと、どんぞこにつきおとすつもりでしょッ! もうだまされないからッ!」

 

 マイは眼鏡の少女を睨みつけている。

 ハイアは眼鏡の少女の肩に手を置いた。

 

「ミュンファ、出るさ。おれっちたちにできることは何もない」

 

 ミュンファは悲しそうに頷き、震え続ける少女から目を逸らした。

 室内から出たら、扉の鍵を閉める。

 閉めてすぐ、室内を叩く音が響き始めた。

 

「ルシフさまぁ! ルシフさまぁ! たすけて、ルシフさまぁ!」

 

 扉越しに、少女の絶叫が聞こえた。

 扉の外は、気まずい沈黙が流れている。

 サリンバン教導傭兵団の放浪バスの中だ。団員はほとんど揃っている。

 

「……本当に、あの女がお前らに重傷を負わせたのか?」

 

 青髪の少女と闘っていない団員の一人が、不審げに周りの団員たちを見た。

 

「フェルマウスとミュンファに重傷を与えた。俺だってやられた。間違いない。しかし……冷酷な少女だと思っていたが、まさかあそこまで豹変するとは……」

 

 苦い顔で一人が呟いた。

 どういう経緯や理由があれ、あの少女をあんな風にしたのは自分たちだ。それが罪悪感を覚えさせ、いやでも気持ちが暗くなった。

 

「わたし……許せません! ルシフって人」

 

 ミュンファは両膝の上で拳を握りしめた。

 

「きっと自分以外外道ばかりだってあの女の子を洗脳して、自分の言うことをなんでも聞くようにしたんです。暴力されたとか言ってましたけど、それだってルシフが命令してやらせたのかも……」

 

「本当に畜生以下だぜ、あの男は! あんな男に廃貴族なんて力を持たせちゃいけねぇ!」

 

 それが、サリンバン教導傭兵団を納得させた原動力だった。

 ハイアはルシフが廃貴族の力を持つことの危険性を、団員たちに必死に説いた。結果として、廃貴族を捕らえた報酬目的ではなく、全レギオスの平和のために、団員たちは今回の人質作戦に参加した。

 かなり誇張して、ルシフが廃貴族を持っているとこういう危険があると想像に任せて言いたい放題言った。その虚言が、今回の少女の件で現実味を帯び始めていた。

 後ろめたさは、もちろんあった。よく知らないルシフを徹底的な悪者にして、戦意を煽ったのだから。

 だが今は、後ろめたさはほとんどない。ルシフは想像通りの外道だったのだから。

 少女を自分無しでは生きられないよう徹底的に洗脳して、自分の命令をなんでも聞く人形にする。

 そんなヤツが、廃貴族などという強大な力を使いこなせるようになったら、一体何人の犠牲者が生まれる?

 ハイアは廃貴族に魅力を一切感じなかった。力は自分の内から生まれ、腹に蓄積されるものだと、師のリュホウから教えられたからだ。

 廃貴族は所詮、外から人の内に入り、入った身体を食い破る力。凡人に許される力ではない。

 ならば、ルシフは凡人か? 違う。ヤツは、傑物だ。ヤツならば廃貴族に食われず、逆に廃貴族を食い尽くすかもしれない。

 ルシフの性格は最悪と思っているが、ルシフの能力の高さは痛いほど理解していた。正直、その恵まれた能力が何故自分に与えられなかったのか、と嫉妬している部分もある。

 廃貴族など、あの男は持ってはいけないのだ。ルシフという男は外道らしく、それなりの力でそれなりに生きればいい。

 

 ──全レギオスの平和のために。

 

 心の中で、そう呟いてみる。驚くほど、何も感じなかった。

 結局、自分は武芸者ではなく、傭兵なのだ。目先の利や物で戦う、欲に生きる者なのだ。天剣という物に動かされ、自らの心を満たすためだけに戦う。なんとも小さい男ではないか。

 だが、天剣さえ手に入れることができれば、自分は大きくなれる。今とは違うところにいける。

 そんな気がしていた。

 廃貴族を見つけ、回収するという任務を終えれば、きっとサリンバン教導傭兵団は解散するだろう。サリンバン教導傭兵団は、ハイアにとって家族であり、家だった。

 サリンバン教導傭兵団の解散は目前まで来ている。ルシフを捕らえようが失敗しようが、どちらにせよサリンバン教導傭兵団は無くなる。帰る家も家族も、何もかも消える。

 戦いだ。ルシフとの戦いでもあるが、それ以上にサリンバン教導傭兵団にしがみついている自分との戦いだ。サリンバン教導傭兵団が無くなるのを嫌がっている自分を倒す。

 大きくならなければならない。今の自分を倒す力を、手に入れなくてはならない。今の自分を倒す力こそ天剣だ、とハイアは信じている。

 ハイアのそばで、念威端子が舞った。

 

『ハイア。他都市との接触まで、あと四時間』

 

 他都市がツェルニに近付いている。だから、ハイアは行動を起こした。都市間戦争を利用し、ツェルニの武芸者がこちらに来ないように。

 ハイアはズボンのポケットから手紙を取り、団員に渡した。カリアン宛の手紙だ。それと、剣帯に吊るしていた錬金鋼も一緒に渡した。

 手紙と錬金鋼を持った団員は、バスの外に出ていく。

 

「はやくここからつれだしてぇ! ルシフさまぁ!」

 

 少女の悲痛な叫びはまだ続いていた。

 少女の声の刃が扉を越え、ハイアに突き刺さる。

 ハイアは放浪バスから外に出た。少女の声が届くところにいたくなかった。

 

 

 

 フェリは扉を叩いて叫び続けるマイを、ベッドに座って見ていた。視線を移動させる。床に、料理とフォークとナイフがのっているトレイ。

 

「マイさん、食事にしましょう。そうしていても、ルシフに声は届きません」

 

 マイは振り向き、フェリを睨んだ。いつもの大人しめで清純そうな顔の面影が、全くなかった。獣のように目をギラギラさせつつも、顔色は蒼白だった。

 

「うるさいッ!」

 

 フェリはマイの剣幕に、一瞬怯んだ。再び口を開く。

 

「……とにかく、食事をして一旦落ち着きましょう」

 

 マイは床のトレイを見た。生唾を飲み込む。視線を、トレイから逸らした。

 

「いらない」

 

「どうしてです? お腹すいてないんですか?」

 

「すいてない」

 

 タイミング悪く、マイのお腹が鳴った。マイは気まずそうな表情になる。

 

「すいてるじゃないですか。食べましょう」

 

「いらないっていってるでしょッ! なにがたべものにはいってるかわからないものッ!」

 

 フェリは、マイが頑なに食事を拒む理由を理解した。

 食事に、毒か何かの薬を入れられているかもしれないと疑っているのだ。

 フェリは少し悲しくなった。過去に、一体どれだけひどいことをされたのだろう。

 危害を加えられたわけではないし、拷問されてるわけでもないから、食事に何か入れるなどあり得ない。

 フェリはそう確信している。

 フェリが床に座り、ナイフとフォークを手にとった。マイがじっとフェリを見ている。フェリは野菜炒めの人参にフォークをさした。食べる。人参の甘みと味付けの塩が口の中にひろがった。なかなか美味しい。

 フェリがマイを見た。

 

「大丈夫です。変な物は何も入ってません」

 

「……あなたのほうにだけ、はいってないかもしれないでしょ」

 

 料理は左右対称に分けられていた。フェリは自分の方に近い右側の料理を食べた。

 フェリは左側の料理にナイフとフォークを伸ばす。豚肉ステーキの左端にフォークをさし、ナイフで切った。一口サイズになった小さな肉を、フォークで口に運ぶ。甘辛いタレが、豚肉本来の味によくからんでいた。これも美味しい。

 フェリがトレイにのっているふきんで、口元をぬぐった。

 

「……こちらも、何も入っていないようです」

 

 マイは驚いた表情で、フェリを数秒凝視している。無言で、マイはフェリの向かいに座った。ナイフとフォークをフェリと同じように持ち、左側の料理を食べ始める。フェリは微かに表情を緩ませた。

 食事を食べ終わり、マイが口をふきんでぬぐった。

 フェリは再びベッドに座る。

 マイが視線を逸らしながら、口を開いた。

 

「……あの、えっと、ありがとう」

 

「お礼を言われるようなことは、していませんが」

 

 フェリは照れくさくなり、目をふせた。

 

「あなたのとなりに、すわってもいい?」

 

 マイのすがりつくような目が、フェリを捉えている。

 

「どうぞ」

 

 マイはフェリのベッドに座った。寄り添うように、身体をフェリに預けてきた。身体が震えているのが分かった。

 だから、少しでも安心させようと、フェリは口を開いた。

 

「きっと、すぐにルシフが助けにきてくれますよ。ルシフはあなたを、とても大切に想っているようですから」

 

「……そうだと、いいな」

 

 マイの呟きが聞こえた。

 

「こえがね、ずっときこえるの。シネ、シネって。でも、ルシフさまがいるときこえないの。きっとわたしのいのちのかちは、ルシフさまのそばにしかないの。だから、ルシフさまにすてられたらわたし、どうすればいいかわからないの」

 

 フェリは言葉が出てこなかった。黙ってマイの肩を抱き、自分の方に寄せた。下手な言葉をいくつも並べるより、こっちの方がマイには良いと思った。

 しかし、フェリの身体が小さすぎてマイはバランスを崩し、ベッドの方に身体が転がった。

 寝転がったマイは、フェリと目を見合わせる。フェリの顔はわずかに赤くなっていた。マイはここにきて、初めて笑みを浮かべた。フェリは無表情のままだった。本当は、マイのように笑みを浮かべたかった。念威操者なのに感情表現が上手いマイを、少しだけ羨ましく思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 カリアンは深刻な表情で、生徒会長室の椅子に座っている。前にある執務机の上に、錬金鋼と折り畳まれた手紙が置かれていた。

 カリアンは深くため息をついた。

 おかしいとは、思っていた。部屋に帰ったときにフェリの姿がなく、朝になってもフェリが帰ってきていなかったからだ。

 フェリも年頃の女の子だから、たまには友だちの部屋で一晩過ごすこともあるだろう。校則違反だが、そういうのをしたくなる時もある筈だ。

 そう自分を納得させ、動揺しないよう心掛けた。朝一番に、他都市接近の報を受けたからだ。もしその報告がなければ、都市警か念威操者に、フェリを探す依頼をしていただろう。

 結果的に、フェリを探さなかったことが事態を更に悪化させた。誘拐されているなど夢にも思わなかったのだ。

 折り畳まれた手紙を見て、もう一度深くため息をついた。

 フェリだけでなく、マイ・キリーも誘拐した、と手紙に書かれていた。そっちが本命だった。

 サリンバン教導傭兵団が、ルシフの中にある廃貴族を狙っているのは知っていた。ルシフが廃貴族のせいで危険だと、団長のハイアがたびたび言ってきたからだ。

 ハイアは、なんとかしてルシフの身柄を拘束しようとする傾向があった。拘束作戦の手助けを陰ながらしたこともある。ルシフをツェルニから追放するためではなく、サリンバン教導傭兵団とのパイプを得るために。

 しかし、それも考え直さなければならないかもしれない。自分たちの手に負えないからと、平気で弱者を人質にするような集団など、信用できない。

 カリアンが唸っていると、部屋の扉がノックされた。

 

「十七小隊、ニーナ・アントーク以下六名、教員五名、ただいま参上いたしました。入室してもよろしいでしょうか?」

 

「どうぞ」

 

 カリアンは十七小隊と教員全員を、生徒会長室に呼んでいた。

 カリアンの気が一気に重くなる。これからルシフに、マイが誘拐されたことを伝えなければならないからだ。

 

「失礼します」

 

 ニーナが最初に部屋に入り、後ろから続々と人が入ってくる。生徒会長室はそれなりに広いが、十一人も入ると少し窮屈な印象を受けた。

 

「一体どのようなご用件でしょう? 十中八九、武芸大会に関することだと思いますが」

 

 他都市が接近中なのは、全生徒が知っていた。他都市の名前がマイアスなのも、すでに掴んでいた。

 小隊員にはいつ武芸大会が始まってもいいよう、練武館に集まるよう指示も出していた。

 武芸大会について呼ばれた、と考えるのが自然だった。

 カリアンは首を振った。

 大小の違いはあれ、だれもが驚いた表情をしている。

 

「では、どのようなご用件でしょうか?」

 

「フェリとマイ君が、サリンバン教導傭兵団に誘拐された」

 

 部屋にある花瓶が全て同時に割れた。ルシフの苛烈な剄が部屋中を駆けめぐったからだ。花瓶に入っていた水が床に滴り落ちていく。

 ルシフの方に全員顔を向けた。ルシフは無表情だった。

 

「確かか?」

 

「これを……」

 

 カリアンが執務机の上の手紙と錬金鋼をルシフに渡した。

 ルシフは錬金鋼を顔に近付けた。紛れもなく、ルシフがマイに渡した錬金鋼だった。次に手紙を広げ、手紙の内容を読む。

 

「……ハハ、ハハハハハッ! アハハハハハハッ! ハハハハハハハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……!」

 

 手紙を読み終えた後、ルシフは腹を抱えて笑った。高笑いが部屋に響き続けた。

 

「……ルシフ、一体何が書かれていたんだ?」

 

 ルシフは笑いながら、手紙をニーナに渡した。

 ニーナは手紙に目を通す。ニーナに顔を寄せるようにして、周囲の者たちが手紙を覗きこむ。

 手紙に書かれていたのは、ルシフに対する指示と、ツェルニの武芸者は一切関わるなという内容。もし言うことを聞かない場合、自由意思で人質二名を処理するとも書かれていた。処理──とぼかして書いてあるが、要は殺すということ。

 ニーナは怒りが沸き上がった。ニーナだけではない。その場の全員がサリンバン教導傭兵団の卑劣なやり方に反感を覚え、それぞれの剄が部屋を荒れ狂った。

 

「女を人質にするなんざ、男の風上にも置けねぇ!」

 

 レオナルトが怒りをあらわにして吐き捨てた。

 

「こんなやり方、武芸者がすることか! 恥知らずどもめッ!」

 

 ニーナが手紙を握り潰した。ニーナに共感するように、何人も頷いている。

 ルシフは壁に左手を置き、右手で腹を押さえて未だに笑っていた。どこに笑える要素があったのか分からない周囲の者は、困惑した表情でルシフを見ている。ルシフの性格なら、マイに手を出したサリンバン教導傭兵団に対して怒り狂うと全員が思っていた。

 ようやく落ち着いてきたのか、ルシフの笑いがおさまった。乱れた呼吸を整えている。

 

「旦那、何がそんなにおかしかったんです?」

 

「ハイア・サリンバン・ライアが、まさかここまで身体を張ったギャグをしてくるとは思わなかったからな」

 

「ギャグ……?」

 

「ヤツは俺が手に負えないから、マイを人質にした。そのマイを排除してみろ。俺を遮るものは何もないぞ。こんなバカげた茶番、滅多にお目にかかれん」

 

 手紙に殺すではなく、わざわざ処理と回りくどく書かれているのも、ハイアが内心報復を恐れているからこそだろう。マイとフェリを殺す覚悟も度胸も、ヤツらには一切ないのだ。

 

「それで、どうするんだい? 言うことを聞くのかい?」

 

 カリアンが慎重に言葉を選んで言った。

 

「命令された時間まで、あと一時間を切っている。おそらく人質を救出する作戦を考える時間を、俺に与えたくなかったんだろう。命令を守らざるをえない状況を必死に作ったつもりのようだ。それに、念威端子が俺たちを監視している」

 

 ルシフが窓を指さした。

 窓の外に、花びらのような形の念威端子が浮かんでいた。念威端子は、指をさされたら移動し見えなくなった。バレないように監視しろと、ハイアに命令されているのだろう。

 

「こちらの動きは全て筒抜けか……!」

 

「こっちの動きが念威端子で監視されている以上、ヤツらにバレずに救出するのは無理だ。念威端子を壊してもいいが、壊した時点で救出行動してくると読まれ、人質の警備は厳重になるだろう。端子を壊すと同時に人質を救出となると、色々面倒な策を使わなければならない。ここは言うことを聞いた方が楽だ。俺に命令した落とし前はいずれつけさせてもらうがな」

 

「分かった。なら、ツェルニの武芸者は手を出さないよう指示を出そう。君たちもルシフ君を信じて、勝手な行動はしないでくれ」

 

「……はい」

 

 ニーナは不服そうな顔をしながらも頷いた。次に、ルシフの方に顔を向ける。

 

「フェリとマイを頼んだぞ。こんな卑怯な手を使ったヤツらを、絶対に許すな」

 

 レイフォンがルシフの肩に手を置く。

 

「僕からも頼む。フェリ先輩を助けてほしい。君なら、きっとやれると信じている」

 

「私からも頼むよ。問題は色々あるけど、大切な私の妹なんだ」

 

「分かった、任せておけ。俺はこいつら五人を引き連れて、指定された場所に向かう」

 

 ルシフが視線を教員五人に向けた。教員五人は頷く。

 カリアンを残して生徒会長室を出て、ルシフと教員五人は駆け出した。

 指定された場所は、武芸者の足でなければ絶対に指定された時間に間に合わないほどの距離があった。

 建物の屋根に跳びのり、屋根の上を駆ける。次々に屋根に跳び移りつつ、まっすぐ駆け続けた。後ろから、念威端子が距離を空けてついてくる。

 アストリットは錬金鋼を復元し、駆けながら銃のスコープを覗きこんだ。念威端子を狙い撃つ。念威端子から念威の光が溢れ、剄弾を弾いた。端子は逃げるように建物の陰に移動。

 アストリットは少し感心した。

 

「なかなか腕の良い念威操者のようですわね。まぁ、一人くらい優秀な人物がいていただかないと期待外れですが」

 

 並の念威操者ならあの場面、射線から端子を移動させようとするが、間に合わず端子を破壊される。

 一瞬で回避は無理と判断し、念威で受け流すようにした。優秀と呼んでいい能力がある。

 

「……アストリット」

 

「はい」

 

「お前はこの辺りで狙撃ポイントを見つけ、合図したら狙撃できるようにしておけ」

 

「了解いたしました!」

 

 アストリットが集団から離れ、跳躍してこの辺りで一番高い建物の屋上に立った。

 ルシフたちはアストリットが離れても、駆ける速度を落とさない。

 

「フェイルス」

 

「はっ!」

 

「指定された場所から西に四百。古びた建物がある。お前はそこを狙撃ポイントとし、待機」

 

「了解しました!」

 

 フェイルスが集団とは別方向に進路を変え、離脱。瞬く間に姿が見えなくなった。

 更に駆ける。

 指定された場所には、サリンバン教導傭兵団の放浪バスがあった。バスの外に、四十人ほど人がいる。

 

「バーティン、レオナルト、エリゴ。お前らはここで待機」

 

「了解!」

「了解!」

「了解した!」

 

 ルシフの後ろをついてきた三人が足を止めた。ルシフは駆け続ける。

 ルシフはバスから二百メートル離れた地点で、ようやく足を止めた。

 バスの外に出ている四十人は一斉に身構えた。

 ルシフはゆっくりと歩いて近付いていく。外に、マイとフェリの姿は見えない。

 ルシフの後方に、ニーナたち十七小隊が姿を見せた。必死にルシフの後を追ってきていたらしい。

 ルシフは呆れた表情で振り返る。

 

「お前らな……」

 

「邪魔はしない。武芸大会が始まったら、そっちに向かう。だが、それまでは成り行きを見守らせてくれ」

 

 マイアスはすでにツェルニに接触していた。武芸大会が始まるまで、後三十分もないだろう。

 それでも十七小隊全員、フェリやマイが心配で仕方ないのだ。

 

「それ以上、こっちに来るな。とりあえず、ヤツらの出方を見る」

 

「……分かった。お前に従う」

 

 十七小隊はバスから二百メートル離れた地点で待機した。その場所からでも、内力系活剄で視力を強化すれば十分見える。

 ルシフは歩みを再開した。四十人はルシフを半円で囲むようにじりじりと動いていた。ルシフはそれを気にも留めず、歩き続ける。

 ルシフは努めて冷静を装いつつも、腹の中は怒りで満ちていた。ハイアの出方によっては、この場にいる全員を痛めつけようと決めている。

 

「止まれ!」

 

 バスとの距離が三十メートルになった時、遠巻きにルシフを囲んでいた団員の一人が言った。

 ルシフは大人しく従い、足を止めた。バスを見据える。バスから、人が降りてきた。二人。ハイアとマイだった。マイの首に、刀が添えられている。

 

「……ルシフ……さまぁ……」

 

 マイの声が、震えていた。

 ハイアが刀を握る手に力を込め、低く呟く。

 

「勝手に喋るな」

 

 一気に頭に血が上った。剄が溢れ、周囲を竜巻のように荒れ狂う。

 

「ルシフ、剄を抑えろ。驚いて手元が狂うかもしれんさ」

 

 ルシフは舌打ちし、剄を抑えた。

 ハイアは満足そうに笑みを浮かべる。

 

「それでいいさ」

 

「ハイア・サリンバン・ライア。貴様があまりにも稚拙な手を打ってくるから、笑い転げてしまったぞ。可哀相だから、少しくらいなら言うことを聞いてやろう」

 

 ルシフが一歩、踏み出す。

 

「動くな!」

 

 団員の一人が声をあげる。

 ルシフは足を止め、ハイアの周囲を注意深く見た。

 

(アストリットにハイアを狙撃させるか? アストリットの狙撃を陽動に、フェイルスでハイアを狙撃するか? 逆の方がいいか? 足元に石。蹴り飛ばしてハイアに当てるか?)

 

「バスに近付かないで、どうやって俺をグレンダンに連れていく? ハイア・サリンバン・ライア。お前もマイの身体で自分の身体をぴったり隠して……そんなに俺が怖いか?」

 

 ハイアの顔に、僅かに動揺がはしった。

 

(ハイアが挑発に乗り、少しでもマイから身体を離したら、二人に狙撃させるか? 距離は三十。剄糸も届く。剄糸でマイの首の刀を奪うか? 一か(ばち)か、衝剄で刀を弾くか? いや、それはマイも危険)

 

「それ以上、恥を上塗りするな。傭兵なら傭兵らしく、己の力を頼れ。本当に見下げ果てたヤツだ」

 

 ハイアを挑発しながらも、ルシフはいくつもマイ救出の策を考えた。だが、どれもしっくりこなかった。ハイアの実力が中途半端にあるからだ。

 強者なら、人質を傷付けずに自身を守れるだろう。弱者なら、攻撃に反応できず人質を危険に晒さないだろう。

 しかし、ハイアは違う。ほんの一瞬、こちらの攻撃に反応できてしまう実力があるかもしれない。その一瞬は反射に近い動きになるため、マイの首元の刀が動いて、マイの首を切ってしまう可能性がある。

 ハイアが反応できない速度でハイアを殴り飛ばすことはできるが、近付いた時に生まれる衝撃の余波でマイを傷付けてしまうだろう。

 マイは絶対に傷付けない。傷付けさせない。

 その信念にも似た意志を守るため、ルシフは今まで全力を注いできた。

 ルシフが頭脳をフル回転させていると、ハイアがルシフを睨みつけた。

 

「お前のような外道が、偉そうなことを言うな!」

 

 ハイアがマイの方に一瞬、視線を送った。

 

「この女の子。軟禁した部屋を叩きまくりながら、お前の名を必死に呼んでたさ!」

 

「……叩きまくる?」

 

「やめて! いわないで!」

 

 マイが悲痛な表情で叫んだ。

 ハイアはマイの言葉を無視した。ルシフの印象を悪くしないために、自分の醜態を隠そうとしていると思ったからだ。

 ルシフの評価を下げたら、罰を与えられる。きっとそういう風に刷り込まれているのだろう。

 

「この女の子の両手を見てみるさ! 青痣だらけになってるだろう! それが証拠さ! それだけじゃない! 暴力されるくらいなら、なんでも言うこと聞くとも言ったさ! 自分がいないと精神が崩壊するようこの女の子を洗脳した外道に、何か言われる筋合いはない!」

 

「いっちゃだめぇ!」

 

 ──洗脳……? 精神崩壊……?

 

 ルシフは、ハイアが言ってる意味が分からなかった。

 マイを洗脳など、していない。しようと思ったこともない。

 なら、今のハイアの発言はなんだ? 何故、マイはこの世の終わりに遭遇したような顔をしている?

 

「あ……ああ……」

 

 マイの眼から、涙が流れていた。

 何故、涙を流す、マイ? 怖いのか? 安心しろ。すぐに助けてやる。

 しかし何故、それが言葉として出てこない? 言葉で伝えなければ、意味ないではないか。

 

「ルシフさま……だいすきです」

 

 マイは涙を流したまま、笑みを浮かべた。

 マイにとって、ルシフは世界そのものである。ルシフのところ以外に、マイが生きたい場所はない。

 十年前から始まった夢は終わったんだ、とマイは思った。

 

「は……?」

 

「……いままで、ありがとうございました」

 

 どうしようもなくきたなく、醜い私を知られてしまった。ルシフ様から幻滅されるのは耐えられない。

 ルシフを見た瞬間に、マイはルシフのいる世界しか考えられなくなっていた。

 その世界から否定される恐怖が、生への渇望を上回った。

 

「マイ!? よせッ!」

 

 ルシフが咄嗟に手を伸ばす。

 マイは刀の刀身を両手で掴み、首筋を深く切った。

 ルシフの視界で、紅が舞った。

 その紅が、マイの首から噴き出しているものだと理解した時、ルシフの中の何かが壊れた。頭が割れるように痛くなり、右手で頭を軽く押さえる。

 スローモーションの世界にいた。

 ハイアが驚き、刀を引こうとしていた。マイの涙が散っている。救いを求めるように伸ばされる手。

 それらの情報が目から体内に入り、ルシフ自身気付いていない何か、しかし確かに存在していた何かを徹底的に壊した。

 それがなんなのか。ルシフには分からない。分かりたくもなかった。一つ分かったのは、マイに死を選ばせたのは自分、という事実だけだった。

 世界がどうこう考える前に、そばにいたマイをもっと理解しようと努力するべきだったのではないのか。もっとマイと分かり合おうとするべきだったのではないのか。

 後悔の泡が生まれては、弾けた。

 

『……わたしは、ずっとそばにいていいの? めいわくじゃない?』

 

 幼い少女の声が、脳裏に再生された。

 そばにいろ。そう言った。その約束を、ずっと守るつもりだった。

 

『ルシフ様!』

 

 マイの笑顔が浮かびあがり、砕けた。表情が豹変する。絶望に染まった表情に。

 マイと目が合った。蒼い目。光は消えていない。まだ、生きている。

 身体の奥底に、微かな火が灯った。

 助けられるか? 分からない。そばにいこう。そう思った。たとえ命の灯火が消えるとしても、マイのそばで最期を見届けよう。助けられるなら、どんな手を使っても助けよう。

 そばにいこう。とにかくそばにいかなければ、何もできない。

 ルシフは動こうと身体を低くした。視界の端を、何かがよぎった。花びらか。そう思った。花びらの形をした念威端子だった。

 何度散っても、根さえあれば、花はまた咲く。人も、同じだ。きっとそうに違いない。根さえあれば、また美しい花を咲かせられる筈だ。ならばマイにとって、根とは何か。自分ではないのか。そういう根に、自分がしてしまったのではないのか。だとすれば、助けたところで──。

 ルシフはそれ以上、考えるのを止めた。

 力強く踏みこみ、ルシフは紅に染まった世界へ飛び込んだ。



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第44話 業火

 ルシフが瞬く間にマイに近付いた。まっすぐ近付かず、半円を描くように近付くことで、近付いた際の剄の余波がマイに当たらないようにした。

 サイレンが鳴っている。武芸大会という名の都市間戦争が始まった合図。しかし、今のルシフは一切興味なかった。

 ルシフが刀を引こうとしているハイアの顔面を裏拳で殴り飛ばしながら、マイの後ろに立つ。首から噴き出している血が、ルシフの顔を赤く染めた。

 ルシフが左手で制服の右腕部分をちぎり、右手首をそれでぐるぐる巻きにする。

 マイの正面に回り、ルシフは左手で傷口を無理やり押さえた。噴き出している血が行き場を無くし、マイの全身が血まみれになった。

 次に布で巻いた右手首を強引にマイの口に突っ込み、噛ませる。

 左手の剄を、化練剄で熱に変化させた。熱で傷口を焼き、止血する。原始的な方法だが、それ以外ルシフは思い付かなかった。鋼糸を武器にするリンテンスなら、鋼糸で傷口を縫うことができ、痛みも最小限に抑えられただろうが、ルシフは鋼糸に設定した錬金鋼(ダイト)を持っていない。

 こういう万が一に備え鋼糸の錬金鋼を持つべきだった、とルシフは後悔した。剄糸では一時的に傷口を縫い付けておくことしかできず、傷口を焼いて止血できない。あの血の勢いで剄糸による止血が正確にできる、確固とした自信もなかった。

 肉が焼ける嫌な音とにおいがしだす。

 マイは苦痛に顔を歪ませながら暴れた。

 マイの身体を首に置いている左手で押さえる。

 マイに噛ませている右手首の布が噛み切られ、右手首にマイの歯が食い込んだ。歯の隙間から血が滴り落ちる。

 剄による防御は最低限しかしていなかった。マイの歯をボロボロにしないためだ。

 激痛だった。声が出そうだった。表情が苦悶に歪みそうだった。しかし歯を食い縛り、それらを強靭な精神力で全て抑えこんだ。

 血に染まったルシフの顔では目立たないが、ルシフの顔や身体は我慢している証拠のように、多数の汗が浮かんでいた。

 マイの身体を押さえても、暴れる力は弱まらない。

 首を焼いている左手を引き剥がそうと、マイの両手が左腕を力いっぱい掴んだ。服の左腕の部分が、マイの両手の爪でズタズタになった。それで終わらず、マイの両手の爪が左腕に幾筋も引っ掻き傷を遺していく。多数の引っ掻き傷から血が流れた。

 防御しようと思えば、余裕でできる。しかし、ルシフは最低限しかしなかった。

 防御することは、転じてマイの身を傷付けることになるからだ。鋼鉄に爪を立てるのと人肉に爪を立てるのでは、当然鋼鉄に爪を立てた方が爪を傷付けやすい。

 これらのマイの行動は全て、本能と苦痛からの逃避による無意識下で行われていることであり、力加減すらできていない。

 ルシフは必死になって、火事場の馬鹿力による反動でマイの身体がこれ以上傷付くのを防ごうとした。たとえ、自分がどうなろうとも。

 

 ──死ぬな。

 

 声にならない声をあげ、真っ赤に染まっているマイの苦痛に歪みきった顔。まるでマイの顔でなくなってしまったようだ。

 マイの爪が左腕をえぐる。左腕の肉が軽く削ぎ落とされた。血が溢れだす。

 それでも、ルシフは静かな表情でマイの顔を見続けた。

 

 ──死なないでくれ。

 

 ルシフの脳裏に、アルシェイラの顔がよぎった。

 

  ──嫌だ。ああなるのは嫌だ。

 

 ルシフにとってアルシェイラは、マイに出会わなかった自分の姿だと思っている。

 夢も理想もなく、力に溺れ、今さえ楽しければいい、本能にまかせた獣のような生き方。

 アルシェイラと昔の自分が重なるが故に、ルシフはアルシェイラを徹底的に嫌う。見下す。こきおろす。ルシフの異常なまでのアルシェイラ嫌いは、同族嫌悪のようなものに近い。

 マイを喪ったら、自分はアルシェイラのようになってしまうのではないか。ただ今だけを楽しむ、獣に成り下がってしまうのではないか。

 身体が震えた。今も襲い続けている、灼熱に身を投じているような苦痛からではない。今の自分が消えてしまう。そんな恐怖からだった。

 それと、マイを喪えば、自分はただの獣に戻ることすらできないだろう、と漠然と予感している。きっと、深く心に傷を負った手負いの獣になるのだ。今までよりも暴力的になり、一切の慈悲もなく、余裕すら無くし、生き急ぐように周りに当たり散らす獣に。

 ルシフはマイの顔に再び意識を戻した。

 マイの目は涙で滲み、歯を右手首に食い込ませながら、必死に声なき叫びをあげていた。聞こえるのは言葉でも、声でもない。ただの音だ。だが、言葉よりも声よりも、ルシフの心に響くものがあった。

 ルシフは左腕を見た。引っ掻き傷が左腕を根のように張り巡っている。ところどころ、白いものが見えた。骨だ。右手首からは血が流れ続けている。

 ルシフは食い縛る顎に力を込めた。

 こんな痛みがなんだ。マイは、これ以上の痛みを感じた。今も、自分よりも辛い痛みに耐えている。それに比べれば、自分の痛みなど大したことはない。

 ふと、自分はなんでこんなことをしているのだろうと、疑問に思った。

 マイは自ら死を選んだ。それはマイの選択であり、理不尽な死ではない。マイ以外だったなら、こうして助けようなど一切していない筈だ。相手の意思を、受け入れただろう。

 ずっと自分の内に埋もれていたものが形になっていくような感覚を、ルシフは感じた。それは王にとって必要な人材とか、自分が新世界を見せる最初の相手などという、思惑とかけ離れたもの。ただ純粋な、好意。だが、ルシフは信じられなかった。

 

 ──俺は……お前に惚れているのか? いや、そんなのあり得ない。多分、家族愛のようなものだ。

 

 ルシフはそう結論づけた。

 それでも、マイが大切な気持ちは変わらない。

 ルシフはマイに向けて、微かに笑みを浮かべてみせた。

 

「お前がどう思おうとも、俺はお前に生きていてほしい。それじゃダメか? マイ」

 

 マイの目に、光が灯った気がした。

 もしかしたらそれは、自分の願望が見せた幻覚かもしれない。それでもいい。たとえ幻覚でも、助かる可能性を信じられるなら。

 取り返しのつかないことをした。

 だからこそ、このまま終わりなど、許せる筈がないのだ。

 

「旦那ぁ!」

 

 エリゴの叫び声が耳に入った。

 左頬を何かがかすめ、横一線の傷が生まれた。傷口から血が流れる。

 ルシフは傷を一瞥したが、なんの感情も湧いてこなかった。再びマイに視線を戻す。

 今はマイの身の方が大事。自分のことなど、二の次でいい。

 ルシフの意識はマイにしか向いていない。

 しかし、ルシフの意識の外側では、ルシフが死にかねない状況になっていた。

 

 

 

 ほんの少し時を遡り、マイの元にルシフが駆け寄った直後。

 サリンバン教導傭兵団の団員たちは、予想外の展開に数秒唖然とし、それを過ぎたら慌て始めた。

 予定では、マイに武器を突きつけ続けてルシフに言うことを聞かせ、ルシフをグレンダンに連行するつもりだった。

 しかし、人質のマイは自ら命を断とうとし、今はルシフのそばにいる。

 マイが生きようが死のうが、もうルシフを脅せる人質じゃない。この一件が、ルシフを激怒させる可能性もあった。

 現状はマイをルシフが必死に助けようとしているが、それが一段落ついたら、こちらに牙を剥くだろう。そうなれば待っているのは、確実な死。

 助かりたければ、死にたくなければ、マイに気をとられている間に、ルシフを殺す。または行動不能の重傷を与えなければならない。

 故に、サリンバン教導傭兵団の次の行動は、いわば必然だった。

 銃や弓を使う団員たちがルシフに照準を合わせ、撃った。ルシフの左右前方から、剄弾と剄矢が襲いかかった。

 エリゴ、レオナルト、バーティンが旋剄で射線上に割り込み、剄弾と剄矢を弾く。エリゴは刀で。レオナルトは棍で。バーティンは双剣で。

 剄弾と剄矢は全て弾いたが、エリゴが弾いた幾つかの剄矢の内の一矢、それがルシフの方に向かっていた。

 三人は突然のサリンバンの攻撃に対応が遅れ、最初からルシフを守る体勢になっていなかった。全てを完璧に弾くまではできなかった。

 

「旦那ぁ!」

 

 エリゴが叫んだ。

 剄矢がルシフの左頬をかすめた。横一線の傷が生まれる。ルシフは微動だにしない。

 三人は愕然とした。ルシフが一切反応しなかったことに、じゃない。ルシフの頬に傷が生まれた事実に。

 いつものルシフなら、あの程度で傷など負わない。自身の防御を捨てて、マイを救うことに全力を注いでいる。その事実に、三人は思い至った。

 ルシフの両腕は、マイの歯と爪で傷まみれになっている。それでも表情一つ変えず、静かな表情でマイを見つめているルシフ。

 その光景は、美しかった。人が人を想い、助けようとする姿。そこには、人の持つ光が凝縮されているような気がした。

 そして、その姿に武器を向け、あまつさえ撃ったサリンバン教導傭兵団に対し、エリゴは怒りを覚えた。

 剄弾と剄矢の雨は未だに止むことはない。三人は各々の武器で弾き続けた。今は完全に防御の体勢になっているため、全て防ぐことができている。

 

「人間相手に薙刀使いたくなったのは久しぶりだぜ」

 

 レオナルトが険しい表情で吐き捨てた。

 エリゴは弾きながら、レオナルトの武器を見る。棍だった。

 レオナルトの元々の得物は薙刀。だが、汚染獣相手にしか薙刀は使わなかった。

 以前、それを不思議に思い、何故武芸者相手に薙刀を使わないのか、と訊いた。レオナルトは笑みを浮かべ、たとえ殺されても人殺しはもう嫌だから、と答えた。そんな男が、人間相手に薙刀を使いたがっている。相当頭に来ているのが分かった。

 

「ルシフちゃんの……ルシフちゃんの顔に傷を……許さない。許さないッ!」

 

 バーティンの横顔を一目見るだけで、激怒しているのを悟れた。

 バーティンはルシフを弟のように想っている。普段は堅苦しく真面目なくせに、ルシフの前に立った途端甘えた顔になるのだ。その豹変ぶりを、剣狼隊の仲間と笑って眺めていた。

 刀を握っている手に、力がこもった。

 不意に、光の筋が二本、射撃しているサリンバン教導傭兵団の団員たちに吸い込まれた。二人の団員が吹っ飛んでいく。アストリットとフェイルスの狙撃だと、瞬時に理解した。

 

 

「不愉快ですわ……ほんっとうに不愉快ですわ」

 

 アストリットは狙撃銃のスコープを覗きつつ、呟いた。

 もし自分が自殺を図ったとして、もしくは瀕死の重体になったとして、ルシフはあそこまで必死に自分を助けようとしてくれるだろうか。

 サリンバン教導傭兵団には殺意しか湧かない。一番見たくないものを見せたという理由で。

 さらに、弱者を守るべき武芸者が弱者を盾にし、挙げ句の果てに弱者を傷付けてしまうなど、ゴミクズ以下の所業。これがアストリットの不愉快な気分に追い打ちをかけた。

 

「……腐りきったゴミクズども……後で撃ち抜かさせていただきますわ」

 

 アストリットの狙撃銃が再び火を吹いた。

 

 

 フェイルスは弓の構えを解いた。

 内力系活剄で視力を強化し、ルシフを見ている。

 フェイルスは呆れた表情でため息をついた。

 

「あれがマイロードの欠点なんだよなぁ。あれさえなければ完璧なんだけどなぁ……」

 

 たかが一人の女に自分の全てを投げ出す。

 そんな人間が、人の上に立てるか?

 ルシフは理で動いているように見えて、その根本に情がある。

 人の上に立つ人間に、情など不要。そんなもの、支配される側を甘やかす毒にしかならない。

 しかし、その欠点も含めて、自分はルシフという男が好きなのだ。

 情があるから、考えもつかない内政や、信じられない理想や信念を持つ。

 汚れ仕事は自分がやればいい。ルシフはただ思うまま突き進めばいい。

 フェイルスの顔が鋭くなった。

 

「……あいつらみたいなバカは、やっぱり社会に要らないなぁ」

 

 さっきの欠点の話は、あくまで臣下としての感情。個人としての感情は、いずれ頂点に立つ男の心を深く傷付けたサリンバン教導傭兵団に、報いを与えてやりたい。

 フェイルスが弓を構えた。

 

 

 エリゴが後方を確認すると、多数の光の線が向かってきていた。それらはエリゴを通り過ぎ、サリンバン教導傭兵団に襲いかかる。サリンバン教導傭兵団は射撃を止め、アストリットとフェイルスの射撃の回避に専念した。誰一人、当たった者はいない。世界で一番優秀な傭兵集団なだけあって、射撃される方向さえ分かっていれば回避できるらしい。まぁ、今の射撃は当てるよりも射撃を止めさせるのに重点を置いていたから、連中にもかわせたわけだが。

 射撃が止むと、レオナルトとバーティンが動こうとした。

 

「レオナルト! バーティン! おめぇら二人は旦那を守ってくれ!」

 

 二人の動きが止まり、顔だけエリゴの方に向ける。表情は不満そうだった。

 

「こいつらごとき、俺一人で釣りがくるぜ。アストリット、フェイルスの援護もあるしな。だから、おめぇらは動かなくていい」

 

「だったらあんたが守りゃいいだろ。俺があいつらをぶちのめす」

 

「その役目は、この中なら私が一番適任だろう。私があいつらの身体をズタズタにしてくるから、あなた方はルシフ様の守りを」

 

「二人の気持ちも分かる。ただ、この場は俺に譲ってくれや。頭にきてんだよ」

 

 ピリッとした殺気が、二人を打った。二人は驚いている。

 エリゴは滅多に怒らない。それが今、怒りを隠そうともせず、殺気が駄々漏れになっている。

 レオナルトとバーティンは間隔を置いて襲ってくる剄弾と剄矢を弾き落とした。回避しながら撃ってくる奴らがいるのだ。

 二人は渋々頷いた。

 エリゴも頷き返し、サリンバン教導傭兵団を見据える。

 

「俺言ったよな? 旦那の邪魔したら、斬り倒すってよ」

 

 エリゴから放たれる怒気に、団員たちが身体をすくませた。

 

「てめぇらは、やっちゃなんねぇことをやっちまったんだ! 覚悟できてんだろうな!?」

 

「エリゴ」

 

 ルシフの声が、後方から聞こえた。

 

「旦那、待っててくだせぇ。すぐにこいつら片付けますから」

 

「そんなことどうでもいい。それよりも、水だ。バケツ一杯の冷水を早く持ってこい」

 

「……旦那?」

 

「レオナルトとバーティンもだ。一刻も早く持ってこい。これは命令だ」

 

 三人は言葉を失った。

 今のルシフを無防備にすれば、サリンバンの奴らに確実に殺される。

 レオナルトとバーティンは剄弾を弾きつつ、エリゴの方を窺った。

 エリゴは一度深呼吸した。

 

「……聞けねぇ」

 

「何?」

 

「旦那、その命令は聞けねぇよ。今のあんたを放っておけねぇ」

 

 ルシフがようやく顔をマイから逸らし、エリゴの方に向けた。血まみれだった。無表情なのも相まって、人でない何かに見える。

 

「俺に、逆らうのか?」

 

「今、あんたから離れたら、あんただけじゃなくマイも死ぬ。あんただって分かってんだろ」

 

「こいつらに俺は殺せんし、マイは殺させん。体内の強化はしている。どの攻撃も、身体のなかばで止まる」

 

「止まるからなんだってんだ。接近して旦那の首を直接落としにくるかもしんねぇ。今のこいつらなら、それくらいやりかねねぇよ」

 

「……頼むから、早く冷水を持ってきてくれ。俺は剄を水に変化させれるが、水を冷たくするのはまだできない」

 

 火傷の応急処置は、流水で患部を冷やすのが最善であり、早く処置すればするほどいい。

 それは、エリゴも理解している。

 

「それでも、あんたから離れられねぇ」

 

「エリゴ! いい加減にしろ!」

 

「あんたこそ、いい加減にしろよ! あんたがマイを大事に思っているのと同じように、俺たちはあんたを大事に思ってんだよ! 命令違反の責任なら、あんたを守りきった後に、自分からこの首を落とす。それで文句ねぇだろ!?」

 

「エリゴさん!」

 

 レオナルトとバーティンが制止の声をあげた。

 死ぬな、と暗に言っているのが分かった。

 昔は、死ぬことが何よりも怖かった。自分さえ生きられればそれでいい、と思っていた。

 だが、今は違う。こんなちっぽけな命一つで、世界そのものを変える男の命を救えるなら、それも悪くないと思った。

 『人間凶器』という名前は好きじゃなかったが、武器と呼ばれることには納得していた。俺に、主体性はない。使い手あってこそ、俺は生きられる。使い手を助ける武器に、俺はなりたくなったのだ。

 一陣の、風が吹いた。

 瞬く間に、二人の気配が近付く。エリゴは反射的に刀を向けそうになった。気配の主を確認する。レイフォンとニーナ。

 武芸大会は始まっているのに、何故この場に? という疑問はあった。

 レイフォンとニーナが、周囲の団員たちを蹴散らした。ナルキとシャーニッドは、水の入ったバケツを持っていた。

 

「ルシフたちは僕らが守ります! 三人は早く水を! あれだけじゃ足りないかもしれない」

 

「ここからなら、農業区画が一番近いです!」

 

 レイフォンとニーナが言った。

 色々言いたいことや、聞きたいことはあった。

 しかし、ここに来たというだけで、それらの答えは出ていた。

 エリゴはレオナルト、バーティンと視線をかわす。

 二人はすぐに農業区画がある方に走った。

 

「おめぇら、ありがとよ! 恩にきるぜ!」

 

 二人より一瞬遅れて、エリゴも農業区画に駆けていった。

 

「レイフォン! お前はフェリの救出を! きっと奴らの放浪バスの中にいる!」

 

「はい!」

 

 レイフォンが、放浪バス目指して駆けた。

 教員たちと入れ違いになったニーナは、ルシフに襲いかかってくる剄弾を鉄鞭で弾いた。ニーナの顔が怒りで滲む。

 ナルキとシャーニッドは、ルシフにバケツを渡した。その後、ニーナと同様にルシフの近くに立ち、ルシフを守る。

 

「お前ら、ありがとう」

 

 ルシフがマイから目を逸らさず、呟いた。

 ルシフはマイの火傷した首に衣服の千切れたものをあて、その上から水をかけている。ルシフの両腕が、ニーナの目に入った。ニーナは言葉を無くした。

 

 レイフォンが立ち塞がる団員たちを吹き飛ばす。放浪バスの内部に飛びこんだ。一つ、鍵がかかっている扉があった。鍵を壊す。扉を蹴る。

 銀髪が、目の前で揺れていた。フェリが、レイフォンの胸に抱きついている。

 

「えっ……フェ、フェリ先輩!?」

 

「遅いです」

 

 抱きついたまま、フェリが呟いた。

 

「すっ、すいません! でも、あの、これは……」

 

「あなたはわたしに、武芸者が多数いる戦場を自分の足で突っ切れと言うのですか?」

 

 レイフォンはようやく、フェリが抱きついた意味に気付いた。

 一般人と同程度の身体能力しかないフェリが、サリンバンの武芸者相手に自力でここから逃げれる筈がない。

 レイフォンはホッとしつつも、どこか寂しい気分になった。

 レイフォンはすぐに気持ちを切り替え、放浪バスから出ようと考えた。

 レイフォンがフェリをお姫様だっこする。

 レイフォンはもうフェリの顔を見ず、サリンバンの武芸者の方ばかり意識を向けていた。故に、フェリの顔に微かに赤みがさしていたことには、一切気付かなかった。

 

「いきます。しっかり掴まっててください」

 

「はい」

 

 レイフォンが放浪バスの外に出た。

 サリンバンの武芸者が四人、一斉に襲ってくる。レイフォンは高く跳躍してかわした。視線の端を、光の筋がかすめる。四つの光が、足の下で弾けた。レイフォンに気を取られた隙を見逃さず、アストリットとフェイルスが狙撃していた。四人は放浪バスに叩きつけられた。四人はかろうじて生きている。

 元々、フェイルスとアストリットは殺す気がないのだろう。威力を抑えているように感じた。

 レイフォンはそれが意外だった。てっきり殺してくると思っていたのだ。

 レイフォンはサリンバンの連中に対し、余計なことをしてくれた、という言葉しかない。

 マイはルシフにとって大切な相手だと、病院でのルシフとマイのやり取りで気付いた。そんな相手を、死の境に追いやった。

 これからルシフがどう動くのか、だいたい予想はつく。

 ため息が出てくる。もしとばっちりでツェルニに住む人も危険になったら、全力で止めなければならない。本気で怒ったルシフを。

 止められるか? おそらく、無理だ。だから、ため息が出てくる。

 

 ──サリンバンの連中で満足してくれたらいいけど。

 

 サリンバン教導傭兵団はグレンダンが結成した。団員に、グレンダン出身の者も多くいるだろう。しかし、同郷ゆえの同情などは一切なかった。マイだけでなく、フェリも目的のために誘拐した。そんな奴ら、ルシフにボコボコにされようが、最悪殺されようがどうでもよかった。

 レイフォンは着地すると同時に旋剄を使用。ニーナたちのところまで移動した。

 サリンバン教導傭兵団の中に、ルシフを射撃してくる武芸者はもういなくなっていた。武器をこちらに向けながらも、こちらの動きを窺っているようだ。

 レオナルトたち三人が遠くから走ってきているのが見えた。両手にバケツを持っている。

 ルシフに近付いた三人はバケツを渡した。

 ルシフはバケツの水を、マイの首にかけ続ける。

 マイが、激しく咳き込んだ。口から血が吐き出される。

 

「ルシフさまぁ……」

 

 マイが、うっとりとした表情で、ルシフを見た。

 

「わたし、こんなにみにくいのに、きたないのに、ルシフさまはいきてほしいって、おもってくれるんだぁ」

 

 吐き気がした。

 マイの目の光は、濁っている。

 マイは、こんな目だったか?

 

「いいんだよね? わたし、ずっとルシフさまのそばにいていいんだよね?」

 

 気持ち悪い。

 人間は、心が壊れたらどうなるか。その答えの一つが、ここにある。

 心は、本性を隠す鎧でもあるのだろう。心が壊れたら、本来の自分しか出てこれなくなる。

 本来のマイはきっと臆病で、さみしがりやで、自分に自信が持てない人間なのだろう。しかし、その姿を見せてしまえば、俺に嫌われる。マイはそう思った。自立している人間を俺が好んでいるのを、マイはなんとなく分かっていた筈だ。

 だが、本性を知ってなお俺が助けたことで、本来の自分でも俺に受け入れてもらえると気付いたのだ。

 

 ──ダメになる。

 

 ここでマイを受け入れてしまったら、マイの世界はさらに閉塞してしまう。それは、マイのためにならない。

 

 ──言え。『今のお前に、俺のそばにいる資格はない』と言え。言わなければ、マイは確実に堕ちる。

 

 マイの顔は、汚れを知らない無垢な子供のような、純粋な笑み。拒絶されるなんて、微塵も考えていない。

 

 ──言えよ! 俺は『王』だろ! 私情を殺して、本当の意味でマイを救え!

 

 脳裏で、マイの笑顔が絶望に染まった。

 ルシフは、両拳を握りしめた。

 

「……言っただろ、マイ。俺のそばに……いろって」

 

 ──何を言ってるんだ、俺は。

 

「うんッ!」

 

 マイがルシフの背中に両腕をまわした。

 

 ──何故だ……。

 

「ずっと、ずぅっとわたしは、ルシフさまのそばにいるよ」

 

 抱きついてきたマイの身体は柔らかく、あたたかかった。

 

 ──何故俺は……こんな風にマイに必要とされるのを、少し嬉しいと感じているんだ。

 

 頭の中に手を入れられ、脳をぐちゃぐちゃに掻き回されているような感じだった。

 

「お前の錬金鋼だ」

 

 マイの身体を引き剥がした。マイの手に錬金鋼を置き、握らせる。

 

「ルシフさまがとりかえしてくれたんだね。ありがとう!」

 

 ルシフが立った。マイも立ち上がろうとする。

 

「……あれ……?」

 

 しかし、マイは立ちくらみでもしたのか、後ろに倒れそうになった。ルシフが咄嗟に支える。

 おそらく血を流しすぎた影響で、貧血状態になったのだ。

 

「マイ。そこで休んでいろ」

 

「……はい」

 

 ルシフがゆっくりと歩きだした。

 

「……最悪な気分だ……」

 

 頭が痛い。

 くらくらする。

 吐きそうだ。

 なんで、俺がこんな気分を味わわないといけない?

 誰のせいだ。

 顔に付着した血が、目に入った。視界が真っ赤になる。近くのバケツを掴み、残っていた水を頭からかぶった。顔の血が、きれいになくなった。

 ありとあらゆる感情が、身体の中で暴れ狂っている。

 何も考えず、ただ暴れたい。そう思った。

 ハイアの赤髪が、視界に入る。そうだ。こいつだ。こいつのせいだ。

 暴れ狂っている感情が、さらに激しくなった。

 ルシフは腹の底から()えた。それは言葉ではなく、感情のままに吐き出しただけの音だった。声に呼応するようにルシフから莫大な剄が発せられ、莫大な剄が声とともに二つの都市を震わせた。二つの都市の住民誰もが、金縛りにあったように動けなくなる。

 怒っている。かつてないほどに、怒っている。

 言葉ですらない音から、全員がそう感じた。しかし、ルシフと長い付き合いの教員五人は、ルシフがまるで哭いているような気がした。

 教員五人は、ルシフの後ろ姿から目を離せなくなっている。ルシフの後ろ姿に、怒りだけでなく悲しみも滲みでていた。

 どこか胸を衝くルシフの姿に、教員五人は胸が苦しくなった。




余談ですが、あの時もしルシフがマイに「そばにいる資格はない」と言っていた場合、翌日自分の部屋で自殺しているマイを、ルシフは目撃していたでしょう。マイはちょっと選択肢間違えるだけで死にます。


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第45話 血涙

 ルシフがハイアに向かってゆっくり歩く。旋剄を使うまでもなく、一般人の足でも逃げれるくらい、その足取りは遅い。しかし、ルシフは確実にハイアに接近していた。

 ハイアはルシフの莫大な剄と殺気にあてられ、蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなっている。

 

「……おれっちは、悪くない……そうさ、おれっちは悪くない!」

 

 どうやら口だけは動くらしく、ハイアは硬直したまま叫んだ。

 ルシフは反応せず、足を止めない。

 

「おれっちは事実を言っただけさ! こんなことになったそもそもの原因は、お前にある!」

 

 一歩。

 

「お前が廃貴族を素直に渡せば! お前があの子を洗脳しなければ! お前があの子を連れてこなければ!」

 

 二歩。

 

「あの子を、誘拐しなかった! あの子に武器を突きつけなかった! あの子は自殺しようなんて思わなかった!」

 

 三歩。

 

「全部! なにもかも! お前が悪いんだろうがッ! おれっちのせいじゃない!」

 

 四歩。

 確実に近付いていくルシフ。

 

「……それだけか?」

 

 ルシフが足を止めず、口を開いた。

 

「……え?」

 

「言いたいことは、それだけか?」

 

 ハイアの顔が青くなった。

 

「お前の言っていることが正論だろうが、ただの言い訳だろうが、俺への罵倒だろうが、どうでもいい。お前は罪を犯した。お前の罪はたった一つ……」

 

 ルシフの脳裏に、マイの首を焼いた光景がよぎった。マイの苦痛に歪みきった顔。声にならない絶叫。苦痛から逃れようと必死に左腕をはがそうとしていた、マイの行動。

 奥歯を、ギリッと噛み締める。纏う剄が、更に激しくなった。

 

「俺にマイを、傷付けさせた」

 

 絶対にマイを傷付けない。傷付けさせない。

 そう心に誓った俺自身の手で、マイを傷付けさせ、苦痛を与えさせた。

 その直接的な原因を作ったのはハイアだ。

 これだけで十分だろう? こいつに報いを与える理由など。むしろ、それ以外に何かいるのか?

 ハイアは言葉すら出せなくなったようで、口を開けたまま固まっている。

 とりあえず、腹をぶん殴った。

 ハイアは口から血を撒き散らしながら、遥か後方のマイアスまで吹き飛んでいった。

 ルシフは活剄で脚力を強化し、ハイアを追いかける。ルシフの両腕の傷は、剄によりすでに止血されていた。

 ハイアがマイアスの外縁部付近の建物にぶつかる。周囲のマイアスの武芸者が驚く中、ハイアの身体は壊れた建物の破片に埋もれた。

 

「……ごほっ……ごほッ!」

 

 ハイアが破片をどかし、必死に起き上がった。咳込んだ際に、血が地面を彩る。

 

「こいつ……ツェルニの方から来たぞ!」

「ならこいつは、ツェルニの武芸者か!?」

「どうする!? やっちまうか!?」

 

 マイアスの武芸者たちが口々に叫んだ。

 彼らの後方に、莫大な剄と威圧感をもったルシフが現れる。

 彼らが振り向きルシフの姿を視認すると、彼らは二歩後ずさりした。

 ルシフの放つ気配は、剄を感じない筈の一般人をも何か感じさせる、強大で苛烈なもの。

 剄を漠然と感じられる武芸者が受ける衝撃と恐怖は、一般人と比べものにならないだろう。

 ルシフは彼らなど一切意識せず、ハイアを見据えた。

 ハイアが刀を構える。刀は震えていた。

 

「やって……やるッ! やってやるさ!」

 

 ハイアがルシフ目掛けて刀を振るった。

 ルシフは右手で刀をさばいた。ルシフの左手はハイアの首を掴んでいる。

 

「……かはッ」

 

 ハイアの身体がそのまま持ち上げられ、地面に叩きつけられる。

 ルシフがハイアを仰向けで地面に押さえつけた。

 ルシフは右手で、ハイアの左手の中指を掴む。そのまま、逆方向に曲げた。

 

「……ぐッ!」

 

 折れた音は聞こえなかった。ハイアの呻き声に掻き消されたのかもしれない。

 骨を折れば情けなく悲鳴をあげると思ったが、ハイアは必死に我慢していた。武芸者が骨を折られた程度で泣き叫ぶのは、武芸者失格とでも思っているのだろう。

 ルシフは次に人差し指を逆方向に曲げた。続けて薬指。小指。親指。

 

「ああああああああああぁぁぁぁあああぁぁぁッ!!」

 

 ハイアが絶叫した。

 ルシフは一度、ハイアの左手に視線をやる。人の手には見えない形になっていた。

 ルシフはハイアの左腕を地面に押さえつけ、左手首を砕いた。

 ハイアの絶叫は終わらない。

 ハイアの左腕を両手で支え、そこに右足で蹴りをいれた。左腕がありえない方向に曲がった。

 あまりの痛みに、ハイアの悲鳴は弱々しくなっていた。

 ルシフがハイアの右手に触れる。

 ハイアの身体が見てわかるほど跳ねた。

 右手にも、同じことをされる。ハイアはそう思ったのだろう。

 少し前の威勢はすっかり消え失せ、今はもう狩られるだけの小動物のように震えていた。

 弱者を必要以上に痛めつけるのは、気分が悪くなるものだとずっと思っていた。だから、肉体的に蹂躙するのはできる限りしないようにしていた。

 だが、実際に痛めつけてみると、とても気分が良かった。

 相手の意思も思いも一切気にせず、自分の意思と欲望を力に乗せ、一方的に叩き込む。煩わしいものは全て排除した、シンプルな世界。自分の方が上と確信できる優越感。

 剣と槍が、ルシフの背に突き立てられた。刃は金剛剄により、ルシフの表面で止まった。

 ルシフがゆっくり顔だけ振り返った。マイアスの武芸者が二人、唖然とした表情で固まっている。ダメージを与えられないのが信じられないらしい。

 ルシフは剣と槍を掴み、剄で破壊した。立ち上がる。片方の右足に蹴りを入れ、折った。悲鳴が心地よく耳を通り過ぎた。もう片方が逃げようとする。右腕を掴み、右膝蹴りをした。当然折れた。二人がその場に崩れ落ちる。

 二人の後ろに、銃を向けているマイアスの武芸者四人がいた。銃は恐怖でどれも震えている。

 後方で、剄が迸った。マイアスの武芸者に気を取られた隙に、ハイアが内力系活剄の変化、水鏡渡りで逃走したのだ。水鏡渡りは瞬間的に旋剄を超える超高速移動ができる剄技。逃走にはもってこいの剄技だ。

 ハイアは全力で逃げた。

 

「……ッ!」

 

 ハイアの正面に、ルシフが立っていた。

 水鏡渡りは確かに速いが、直進しかできない。移動方向が限定される剄技は、ハイアより遥かに速いルシフにとって効果はない。

 

「逃げられると鬱陶しいな」

 

 ルシフがハイアの右足を蹴った。ハイアの右足は膝から逆方向に曲がる。次は左足。ハイアの悲鳴が轟いた。

 ハイアの身体が崩れ落ちていく。倒れるのを待たず、ルシフがハイアの顔を右手で掴み、地面に勢いよく押さえつける。ハイアの後頭部から血が流れた。

 そのまま、ルシフは馬乗りになる。

 

「ハイア・サリンバン・ライア。良い刺青をしているじゃないか」

 

 ハイアの左目付近には、刺青があった。ハイアは激痛のため、ルシフと会話できる余裕はない。

 ルシフは返事がなくても気にせず、ハイアの左目を右手の薬指で何度も軽く突く。ハイアの左目が充血してきた。

 

「どっちの目を残してほしい?」

 

 ハイアの目がこれ以上ないほど見開かれた。

 ルシフの指が、ハイアの左目に深く入った。ハイアの左目から血が溢れる。ハイアは絶叫した。絶叫は途切れない。

 

「時間切れだ」

 

 絶叫の中、ルシフが笑った。まるで残虐行為に酔っているような、楽しげな笑み。

 ハイアは残された右目でその顔を見た瞬間、全身に悪寒が走った。

 ルシフは顔をハイアの耳に近付ける。

 

「俺はお前を殺さない」

 

 ハイアの耳元で、ルシフがささやいた。

 

「お前の右腕だけは、絶対に傷付けない。お前が右手に持っている刀で自ら首を切るまで、俺は痛みを与え続ける」

 

 終わらない。自ら命を絶つまで、この地獄は終わらない。

 ハイアの右目から涙が溢れた。完全に心が折れたのだ。

 

「……ろし……くれ……」

 

「あ?」

 

「殺して……くれ……」

 

 ルシフの顔から笑みが消えた。興醒めしたような冷たい表情で、ハイアを見下ろす。

 もう抵抗する気力も無くしたようで、ルシフが馬乗りを止めて立ち上がっても、ハイアはぴくりとも動かなかった。ハイアの左目からは血が流れ続け、ハイアの右目は焦点が合っていない。まるで魂が抜けてしまったように、ハイアは虚ろな表情をしている。

 

 ──つまらんヤツ。

 

 ルシフは舌打ちした。

 こんなんじゃ、ちっとも足りない。満たされない。もっと暴れさせろ。もっと痛めつけさせろ。もっと血を見せろ。

 ズキリと、心の奥底に痛みが一瞬走った。頭痛が激しくなる。罪悪感と嫌悪感がほんの少し浮かび上がったが、すぐに心の深層に沈んだ。

 どうすれば、もっと暴れられる? どうすれば、力だけの世界に浸り続けられる?

 ふと、ルシフは顔を上げた。マイアスの旗が、目に入った。

 ルシフの顔が歪む。

 あれを目指して歩けば、マイアスの武芸者が止めようと必ず攻撃してくるだろう。旗を取られたら、セルニウム鉱山を取られてしまうのだから。

 ルシフはハイアを一瞥した。もはや動くことさえできないらしい。

 ハイアに背を向け、ルシフは悠然と歩き出した。

 もはやルシフにとって、ハイアなどどうでもよかった。ルシフはただ、痛めつける相手がほしいだけなのだ。

 ルシフの予想通り、マイアスの武芸者が立ち塞がる。数は数十。もしかしたら百に届くかもしれない。

 ルシフは凄絶な笑みを浮かべた。ルシフを取り囲んでいる武芸者全員が、息を呑んだ。

 マイアスの武芸者の誰かが、ルシフに向かって攻撃指示を出した。一斉にルシフに襲いかかる。ルシフは武器を潰しながら、マイアスの武芸者たちを暴虐の嵐に招き入れた。

 指を折り、腕を折り、足を折り、肉を貫き、骨を砕く。血が舞い、悲鳴と怨嗟の叫びが撒き散らされ、絶望が彼らの心を塗り潰す。

 

「アハハハハハハハハ! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ! ハハハハハハハハアハハハハハハハハッ! アハハハハハハハハハハハハ……!」

 

 高揚感が、全身を支配していた。

 思うがままに力を振るい、壊す。たったそれだけのシンプルな行為が、カタルシスを感じさせる。

 自分は今まで、何を考えていたのだ。

 こいつらが百人死のうが千人死のうが、世界にとって何も変わらない。塵のような命の価値。こんな無価値な命を、救ってやる意味などあるのか。

 ルシフの拳がマイアスの武芸者の腹にめり込む。武芸者は血を吐きながら吹っ飛んだ。

 

 ──足りない。

 

 ルシフの蹴りが、マイアスの武芸者の骨を砕く。武芸者は悲鳴をあげて、地面に倒れた。

 

 ──まだまだ足りない。

 

 まるで底のぬけた柄杓で快楽の水を(すく)い続けるような、不毛な行い。

 ほんの僅かな時だけ快楽に心を満たされるが、すぐに消えてしまう。どれだけ力のまま暴れても、高揚感は一瞬で薄れていった。

 おそらくこの都市の人間全員壊そうが、心が本当の意味で満たされることなどないのだろう。

 だが、ずっとこの快楽に、身体を任せていたい。

 この都市にはサヴァリス、カナリス、カルヴァーンがいる。あいつらなら、少しは満足できる時間も長くなるのだろうか。あいつらをハイアのように壊せば、俺は抜けられるのだろうか。この快楽の海から。マイのことを考えなくてもいい、この世界から。

 頭痛が、僅かに理性を取り戻させた。血の宴に酔っている自分に、吐き気がしてくる。

 誰のせいで、マイはあんな風になった。

 ハイアに言われなくても分かっている。

 自分のせいだと。自分に全ての責任があるのだと。罰を受けるべきは自分なのだと。

 こうして暴れ続ければ、きっと誰かが俺を壊しに来てくれる。壊しにこい。誰でもいい。俺に罰を与えにこい。

 

「ハハハハハハハハッ! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ! ハハハハハハハハ……!」

 

 マイアスの武芸者たちが血の海に沈んでいた。絶叫の歌が聞こえる。阿鼻叫喚の渦。その中心で、ルシフは(わら)い続けた。ルシフの顔には返り血がついている。両目から流れる血は、涙を流しているように見えた。

 

 ──誰カ……俺ヲ壊シテクレ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 外縁部接触点付近でぶつかったツェルニ、マイアスの第一陣。

 数は互角で戦力も均衡していた。どちらも隊列を乱さず戦っている。どこかを突破されることもなかった。

 武芸長ヴァンゼは第一陣が疲れる前に、第二陣と交代させようと考えている。交代する際は砲撃部隊がマイアスの武芸者を牽制することで、交代の隙を突かれないようにしようとしていた。

 変化は唐突に起きた。

 ツェルニの武芸者を突破しようとしていたマイアスの第一陣が、ツェルニに背を向けた。そのまま、彼らは自都市の旗がある中央部の方に移動し始めた。

 ツェルニの武芸者は、そのあからさまな敗走に「罠か?」と疑い、追撃するかどうか迷った。ヴァンゼも同様である。

 ここで、ヴァンゼや各小隊長に念威操者から情報が映像とともに入った。

 その映像を観たヴァンゼやツェルニの武芸者は言葉を失った。

 その映像には、笑いながらマイアスの武芸者を痛めつけているルシフの姿があった。倒した相手を必要以上にいたぶり、壊している。

 

「ヴァ、ヴァンゼ武芸長。私たちは、マイアスに近付いても大丈夫なのでしょうか……?」

 

 ルシフに近付いたら、自分たちももしかしたらあんな目に遭わされるかもしれない。

 そんな疑念が、ツェルニの武芸者の中に生まれていた。ルシフのあんな姿は、今まで見たことがない。片っ端から否応なく壊していく、まさに汚染獣のような見境のなさ。

 ヴァンゼは返答に困った。

 明らかに今のルシフは通常の精神状態ではない。マイ・キリーとフェリ・ロスがサリンバン教導傭兵団に誘拐されたのは知っている。そのことで、何かあったのか。

 

「……我々はルシフと反対方向から、マイアスの旗を目指して進軍する。第一陣と第二陣にそう伝えろ」

 

「了解しました!」

 

 通信機により、ヴァンゼの指示は全員に伝わった。ツェルニの武芸者全員が安堵したような表情になる。今のルシフに近付くのが怖かったのだ。

 ヴァンゼは心の底から、ルシフが味方側の人間で良かったと思った。同時に、ルシフの敵となってしまったマイアスの武芸者に同情した。

 

 

 

 ニーナは念威操者が伝えてきた映像を、信じられない思いで観た。

 

「なんだこれはッ!?」

 

 ハイアは、百歩譲って因果応報といえる。ルシフにとって大事な人間に手を出したのだから。それでも、左腕はぐちゃぐちゃにされ、左目まで潰されたのをやり過ぎと感じてしまうわたしは、甘いのだろうか。

 マイアスの武芸者に関しては、あそこまで痛めつけられる理由は皆無。完全にルシフの感情の捌け口にされただけ。あんなものは八つ当たりであり、ルシフに対して怒りが込み上げてくる。

 

「止めなくては……」

 

 ニーナが呟いた。

 周りにいる第十七小隊の隊員たちはぎょっとする。

 

「隊長、本気ですか!?」

「俺は嫌だぞ! アイツに銃を向けるなんざ、同じ目に遭わせてくれって言ってるようなもんだ」

「あたしも、今のルッシーを止めようとするのはちょっと……」

「……無用な犠牲が増えるだけだと思いますけど」

 

 ニーナは鋭い表情で隊員たちを睨んだ。

 

「なら、ルシフの暴走を何もしないで見てろと言うのか! アイツはわたしの隊員だ! 間違ったことをしているなら、隊長のわたしが正さなくてはならない! アイツはバカじゃない! 話せばきっと分かってくれる!」

 

 ニーナは旋剄でマイアスの方に向かった。

 

「隊長!?」

 

「あの猪頭は本当に……!」

 

「ど、どうします!?」

 

「……いくっきゃねぇだろうが! あ~くそッ、こんなことならデートしとくんだった!」

 

 ニーナの後をレイフォン、シャーニッド、ナルキが追いかけた。

 

 

 教員五人はサリンバン教導傭兵団の団員を一人残らずボコボコにしていた。

 彼らは今、マイの近くに集合している。

 そこで、ルシフの暴走を知った。

 彼らの気持ちは複雑だった。

 ルシフでなければ、迷うことは何一つない。弱者を蹂躙する悪を、徹底的に叩き潰すよう動く。

 だが、ルシフだ。自分たちが主と定めた相手であり、同志。そんな相手に、武器を向けるべきか。

 だから、彼らは結論が出せない。

 

「……止めるべきだ」

 

 レオナルトが言った。

 

「ルシフ様に、武器を向けるのか?」

 

 バーティンがレオナルトを睨んだ。

 

「俺たちはなんだ?」

 

 レオナルトの言葉に、全員が口を閉ざした。

 

「俺たちは、『剣狼隊』だ。己の欲望のまま、力を振るう狼の群れじゃねぇ。心に信念という名の剣を持つ、誇り高き狼の群れだ」

 

 その言葉は、ルシフが『剣狼隊』を結成した時に言った言葉だ。全員の胸に、その言葉は深く刻まれていた。そして、『剣狼隊』であることに誰もが誇りを持っている。

 

「だからこそ『剣狼隊』として、俺たちは大将の目を覚ましてやんねぇといけねぇんじゃねぇのか? 完璧に見えても、大将はまだ十五才だ。不安定な時もある。そんな時は、大人である俺たちがしっかり支えて、時には叱ってやんねぇといけねぇだろ。違うか?」

 

 レオナルトはもう覚悟を決めていた。ルシフに武器を向ける覚悟を。

 レオナルトは返事も聞かず、マイアスの方に駆けていった。

 教員四人は視線を交わし合う。

 バーティンの視線が、不意に外れた。

 

「私はルシフ様に武器など、向けられない。マイの護衛もある。だから、私は行かない」

 

「私も……行きませんわ。ここでマイちゃんに付いてます」

 

 アストリットは痛みをこらえるような表情をしていた。

 アストリットは弱者を守るのは強者の務めと考えている。強者が弱者をいたぶるなど言語道断と、普段から自信満々に言っているような人間。

 その信念とルシフへの想いが、アストリットの中でせめぎあっていた。

 

「俺はいくぜ。レオナルト一人に全部背負わせるわけにはいかねぇからな。フェイルス、お前は?」

 

「マイさんはあの二人がいれば大丈夫でしょう。私もエリゴさんに付き合いますよ」

 

「そうか」

 

 フェイルスとエリゴもレオナルトの後に続いた。

 

「……ふふふ……あはははは……」

 

 バーティンとアストリットが笑い声に驚き、視線を笑いの主に向けた。

 マイが座りながら錬金鋼の杖を持っている。念威端子は展開されていた。

 ルシフの姿を端子越しに見て、マイは笑っていた。

 

「……ハイアを許さないで……もっと痛めつけて……ルシフ様……」

 

 マイは笑い続けた。

 バーティンは唇を噛みしめる。

 

「マイ……ルシフ様があのまま変わってしまわれてもいいのか?」

 

「変わる? ハイアを徹底的に痛めつけたら、いつものルシフ様に戻りますよ」

 

「絶対にそうだと言い切れるのか? 私は、ルシフ様をあのまま放っておいたら、いつものルシフ様に戻ってこられないような気がする。

そして、悔しいが、私じゃ戻すのは無理だ。私だけじゃない。お前以外の誰にも、ルシフ様を戻せないだろう。念威端子で声を届かせるだけでもいい。ルシフ様に、もう大丈夫だと。自分の気は済んだと、言ってくれないか?」

 

 マイは念威端子でルシフの姿を再度見た。

 血の海の中で、笑っている。今までに見たことがない狂気に満ちた表情。

 私のために、あんなにも怒ってくれている。他の女じゃルシフ様をあそこまで怒らせるなんてできない。私を想ってくれているから、ルシフ様は我を忘れて暴れている。

 自分はルシフにとって大事な人間という満足感。他の女より自分の方がルシフから想われているという優越感。

 マイの心は今、その二つの感情に満たされている。

 ふと、マイの脳裏に幼少の頃に世話になっていた叔父の顔がよぎった。

 今まで笑みを浮かべていたマイの表情が強張る。

 叔父も、私が優れた念威操者と分かるまでは、とても優しかった。でも、分かった途端豹変した。周りからバカにされ続けた鬱憤を、自分より優れている私にぶつけることで悦びを感じる、最低な男になった。

 人はきっかけがあれば、容易く今までの自分を壊せる。

 よく、分かっていた。

 もしルシフも叔父のように豹変してしまったら、今までのように私に優しくしてくれるだろうか? もしかしたら叔父と同じく、私を玩具にして楽しむ男になってしまうかもしれない。

 ハイアなど、死のうが生きようがどうでもいい。ニーナ、フェリ、ダルシェナ、剣狼隊五人、それ以外のツェルニとマイアスに住む全員が死のうがどうでもいい。

 だが、そんなゴミみたいな命に影響され、ルシフが豹変するのは耐えられない。今のルシフがいいのだ。周りからは傲慢で鬼畜で外道と呼ばれるけれど、その中に優しさがあり、誠実さがあり、本当の意味での男らしさがある男。自分の全てを捧げたいと思えるルシフがいいのだ。

 

「バーティンさん。お願いがあるのですが……」

 

 そのためならば……。

 

「なんだ?」

 

「私を、ルシフ様のところに連れていってください。私、ルシフ様を止めてみようと思います」

 

 大嫌いなこの女の手を借りることも許せる。

 

「分かった」

 

 バーティンは嬉しそうな笑みになった。

 バーティンがマイをお姫さまだっこし、ルシフがいる方向に駆けた。

 

「え~、結局ルシフ様のところに行くんですの~? 肉眼で今のルシフ様見たくありませんのに」

 

 アストリットが不満そうな表情で、バーティンの後ろに付いてきた。

 絶叫がマイアスの方から聞こえた。

 絶対に、いつものルシフ様に戻してみせる。

 マイはふと、首に手をやった。

 首の火傷がジンジンと痛む。空気に触れるせいか。

 一瞬痛みでマイは顔をしかめたが、すぐに表情を戻し、マイアスを見据えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ニーナら第十七小隊は地面に横たわる多数のマイアスの武芸者を見て、血の気が引いた。身体は微かに上下しているから、息はある。だが、どこかしらに酷い傷を負っていた。

 辺り一面、血で彩られている。

 

「アハハハハハッ! ハハハハハハ……!」

 

 その中心で、笑いながらマイアスの武芸者の足を折ったルシフの姿があった。

 ルシフが第十七小隊に気付いた。振り返る。ニーナたちが息を呑んだ。返り血で、ルシフの顔が染まっていた。

 

「よぉ、アントーク。貴様もやるか?」

 

「やるわけないだろう! わたしはお前を止めにきたんだ!」

 

「止める? ハハハハハハッ! 面白い冗談だ! お前らにはさっきの借りがある。だから、一度だけ警告してやる。俺の邪魔をするな」

 

 ルシフの剄が烈火の如く激しく荒れ狂い、殺気が一際大きくなった。

 ニーナは一瞬怯んだが、きっとルシフを睨みつける。

 

「どう見てもやり過ぎだろう! マイが傷付いて怒るのも分かるが、マイアスの武芸者に八つ当たりするのは止めろ!」

 

 ルシフの姿が消えた。

 ニーナの腹に、ルシフが膝蹴りを入れる。金剛剄は間に合わず、ニーナは痛みでうずくまった。

 

「ルシフ!」

 

 レイフォンが叫び、ルシフに殴りかかった。

 ルシフは左手で拳を捌き、右の突きを放つ。レイフォンはかろうじてよけた。

 レイフォンはニーナを抱え、ルシフから距離をとった。

 

「いきなり何するんだ!?」

 

「この俺に意見など、百年早い。それに、警告もしただろ?」

 

 ルシフが再び消える。

 レイフォンの右腕を、ルシフが掴んでいた。そのまま右腕に蹴りを入れ、レイフォンの右腕を折った。

 レイフォンは激痛に顔を歪めながらも、左手で衝剄を放つ。ルシフは衝剄による衝撃で後方に飛んだ。危なげなく、後方の建物に着地する。

 

「アルセイフ。マイアスの武芸者など、どうなろうがどうでもいいだろう? そんな奴らのために、痛い思いをするのか? 俺は別にどっちでもいいが」

 

「……ッ!」

 

 レイフォンが右腕を押さえた。

 いつもと同じに見えて、全く違う。

 いつものルシフなら、なんだかんだ言っても最後の一線は越えない。だが、今のルシフは躊躇なく一線を越えてくる。邪魔しようとする相手は、味方だろうが徹底的に排除してくる。

 

「確かに、マイアスの武芸者なんてどうでもいいっていう思いはあるよ。でも、僕は隊長の力になりたい。僕を信じてくれている隊長の心を、裏切るわけにはいかない」

 

「そうか。なら次は、左腕を折ろう」

 

 ルシフがレイフォンに肉薄した。

 レイフォンは後方に跳んだ。ルシフがレイフォンを追いかけようと姿勢を低くする。

 ルシフの横腹に、ニーナが鉄鞭を叩きこんだ。ルシフは微動だにせず、逆に鉄鞭が壊れた。

 ルシフは鬱陶しそうに左足の廻し蹴りをする。ニーナは金剛剄で防御するも、後方の建物に吹き飛んでいった。

 ルシフの視線がナルキとシャーニッドを捉える。二人の全身から汗が噴き出した。ナルキとシャーニッドはルシフに武器を向けられず、棒立ちしていた。それが良かったのだろう。ルシフは視線をレイフォンの方に戻した。地を蹴り、レイフォンを追いかける。

 レイフォンは防御に専念しようと決めていた。

 ルシフは今の状況じゃ倒せない。ならば防御で時間稼ぎし、マイアスとの武芸大会を終わらせるしかない。武芸大会が終われば、マイアスは敵じゃなくなる。ルシフが痛めつける建前も消える筈だ。

 レイフォンは全力でツェルニの方に逃げた。

 レイフォンの前方に、ルシフが立っている。レイフォンの逃走ルートを予測し、先回りしたのだ。

 

「ほんとうに君は、敵にしたくない相手だよ」

 

「敵にしたのはお前自身だろう?」

 

 ルシフが衝剄を放った。レイフォンは左に跳びよける。その時にはもう、ルシフはレイフォンの眼前に来ていた。

 レイフォンは咄嗟に身体を回転させ、竜巻を起こした。外力系衝剄の変化、渦剄。ルシフは大気と剄の渦に巻き込まれ、上空に浮かび上がった。

 レイフォンはその間に旋剄でツェルニがある方向に移動した。ルシフは竜巻を剄で縦に真っ二つに斬り、建物の屋上に着地する。そのまま屋上を蹴り、レイフォンにすかさず追いついた。レイフォンの背を後方から蹴る。レイフォンは前のめりで建物に突っ込んだ。

 そこにレオナルト、エリゴ、フェイルスが到着し、レイフォンとルシフの間に入った。

 

「大将、もう止めろ! それくれぇで十分──」

 

「レオナルト、エリゴ、フェイルス」

 

 レオナルトの必死な叫びを、ルシフは途中で遮った。レオナルトは思わず黙る。

 

「俺にとって、貴様らは必要で特別な人材だ。傷付けたくない。だが、俺の前を遮るなら、たとえ貴様らといえど、容赦せん」

 

 ルシフの言葉が本気だと、纏う殺気から伝わってきた。

 三人は緊張で唾を飲み込む。

 その三人に遅れて、マイを抱えたバーティンとアストリットが姿を現した。

 

「バーティンさん、下ろしてください」

 

 バーティンが頷き、マイをゆっくり下ろした。

 

「……マイ?」

 

 ルシフが驚いた表情で呟いた。マイはまだ動けないと思っていたからだ。

 マイはルシフの方に走った。途中で何度もふらつき、転びそうになった。それでも、マイは頑張って走り続け、ルシフの胸に飛び込んだ。その体勢のまま、マイは上目遣いでルシフの顔を見た。

 

「私の気は……十分晴れました。これ以上、ルシフ様が人を傷付けるところは見たくありません。それに、今のルシフ様は怖くて少し嫌です」

 

 ルシフは数秒、無表情でマイを見つめた。

 

「……やはりお前か」

 

「……何がです?」

 

「なんでもない。痛い目にあったのはお前だ。そのお前が気は済んだと言うなら、このくらいにしてやろう」

 

「ルシフ様……!」

 

 マイの表情が明るくなった。

 ルシフは後方を振り返る。マイアスの旗が見えた。剄糸を飛ばす。剄糸はマイアスの旗に絡み付いた。ルシフが剄糸を引っ張る。マイアスの旗が、ルシフのすぐ後ろの地面に突き刺さった。

 ルシフが旗を掴む。

 

 ──こんなものが、都市に生きる人々の生死を決めるか。やはり、早急にこのシステムは破壊せねばな。

 

 武芸大会終了のサイレンが鳴った。

 ツェルニの勝利。

 しかし、誰一人として、歓喜の声をあげなかった。

 

 

 

 ルシフたちと第十七小隊の面々はマイアスから歩き、ツェルニの外縁部付近にいた。

 会話は一切ない。

 ルシフを先頭にし、その後ろを他の面々が歩いている。

 一人の少女が前方から走ってきて、ルシフの前を遮った。その勢いで、ルシフの右頬を平手打ちする。

 乾いた音に驚き、全員が平手打ちした少女を見た。

 

「……え?」

 

 レイフォンは、夢でも見ている気分だった。

 ルシフを平手打ちした少女を、レイフォンはよく知っている。リーリン・マーフェス。同じ孤児院で育った女の子だ。

 そのリーリンが、何故ツェルニに? なんでルシフにビンタを? そもそも何しに?

 レイフォンの頭は疑問符がたくさん浮かんでいた。

 

「あなた、自分が何をやったか分かってるの!? あんなに大勢の人を傷付けて! レイフォンまで! そんなことして、何か得るものあった!? 答えなさい!」

 

「……俺の前を塞ぐな。その両目、抉り出すぞ」

 

 リーリンの顔は恐怖で血の気が引いた。

 しかし、両目に涙を溜めながらも、ルシフを睨んだ。

 

「やれるものならやってみなさいよ!」

 

「リーリン!」

 

 レイフォンがリーリンとルシフの間に立った。

 

「ルシフ。リーリンに手を出したら、絶対に許さない」

 

「邪魔だ」

 

 ルシフが右手を伸ばす。レイフォンの肩を掴み、真横に投げた。レイフォンは横に転がる。

 ルシフがリーリンを見据えた。

 リーリンは震えながらも、ルシフから視線を逸らさない。

 

 ──この場合、両目を抉れば俺の勝ちか?

 

 だが、それは勝ちと呼べるものなのだろうか。

 

 ──ならば、力ずくで正面からどかせば勝ちか?

 

 それも、ある意味相手から逃げたことになるのではないか。

 どちらにせよ、両目を抉られる覚悟をリーリンが決めた瞬間、自分は負けた。何に負けたかは分からない。だが、負けたと感じた。

 ルシフは舌打ちし、リーリンをよけて歩いた。

 リーリンの前からルシフがいなくなると、リーリンはその場にへたりこんだ。

 レイフォンが起き上がり、リーリンに近付く。

 

「リーリン。どうしてツェルニに?」

 

「レイフォン……良かったぁ!」

 

 リーリンがレイフォンに抱きついた。

 

「わたし、あの人にレイフォンがボロボロにされちゃうかと思って、怖かったの」

 

 リーリンの腕がレイフォンの折れた右腕を締めつけて、レイフォンの右腕に激痛が走っているが、レイフォンは男として我慢した。

 

「……色々、話すことがありそうだね」

 

「うん」

 

 リーリンの身体は震えていた。ルシフへの恐怖がまだ残っているのか。それとも、自分に会えて喜んでいるのか。

 レイフォンには分からなかった。

 だが、自分はリーリンに会えて嬉しいと感じている。

 レイフォンはリーリンの背に左腕をまわした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 マイは自室に戻った。

 ルシフから病院に行けと言われたため、それの準備で一時的に帰ってきたのだ。

 マイの手には錬金鋼の杖が握られている。

 

「……ふふっ、あはははは」

 

 私の言葉で、ルシフ様はいつものルシフ様になった。

 やっぱり、ルシフ様は私を大切に想ってくれてる。

 

「見たか。バーティン、アストリット。ルシフ君ファンクラブとかいうのに入会している女全員」

 

 自然と笑みになる。

 自分がルシフから一番想われていると確信できたのだ。

 

「ルシフ様は、絶対に渡さない」

 

 そばにいろと、言ってくれた。

 どうしようもない私を知っても変わらず、そう言ってくれた。

 

「私は死ぬまで、ルシフ様のお傍にいるんだ」

 

 ──その通りだ、マイ。俺の傍にずっといればいい。

 

「ふふっ、これが以心伝心ってヤツなんだね。離れてても、ルシフ様の声が聴こえるよ」

 

 ──ずっと一緒だ、マイ。

 

「うん……うん! 私はずっと一緒にいるよ」

 

 マイは幸せそうに笑った。堕ちているのにも気付かずに。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフは自室の扉を開け、自室に戻った。

 冷蔵庫まで歩き、冷蔵庫からペットボトルの水をとって飲んだ。

 頭痛は激しさを増すばかりで、治まる気配はない。

 ルシフは左手で頭を押さえた。

 

「……間違いない。俺は、マイに惚れている」

 

 吐き気がしてきた。

 マイに惚れている。

 なら自分は一体、いつ惚れた?

 心当たりは、一つしかない。初めて出会った時。つまりは一目惚れ。

 だから、俺はマイに一緒に行こうと言ったのか。そばに置いていたのか。

 優秀な念威操者だからとか。世界を変えるために必要な人材だからとかではなく。ただ好きだったから、そばに置いていたのか。

 

「許されない……それだけは、絶対に許されない」

 

 ルシフは奥歯を噛みしめた。

 だが、それが真実。マイが念威操者と分かる前に、ルシフはマイに手を差し伸べていた。

 王になるために必要という理由は、後付けでしかない。もしマイが念威操者でなくても、ルシフは新世界の目撃者にするなどとそれっぽい理由を並べて、自身の傍に置いていただろう。

 

「マイ。俺はお前の大事な十年を、俺の私情で台無しにした」

 

 ずっとそばに置き、一緒にいた。

 家に連れ帰ったあの時、そばにいろと言わず、孤児院かどこかの施設に預けていたら、マイはもっとマシな人生を送れていた筈だ。友だちもたくさん作れて、痛い思いもしなかっただろう。

 ずっと、気付かないようにしてきた。気付いてしまえば俺は、お前と正面から向き合えなくなると分かっていたから。

 

「そんな俺に、お前を好きになる資格など……!」

 

 頭痛が、更に激しさを増す。

 自分の意思と無関係に、右腕が動いた。

 

 ──返セ。

 

 ルシフは慌てて剣帯の錬金鋼を手に取り、復元。左手に刀が握られる。

 

「やはりそうだったか……!」

 

 勝手に動く右腕目掛けて、刀を突いた。刀は右腕を貫き、右腕は壁に縫いつけられた。

 

 ──身体ヲ返セ……!

 

 右手がもがくように動く。

 ルシフは柄から左手を離した。台所から包丁を取る。包丁で、右手の甲を何度も刺した。

 数回刺したら、右手と右腕は勝手に動かなくなった。

 ルシフは息をつく。

 ルシフの眼前に、メルニスクが顕現した。

 

「ルシフ。まさかお主、魂を二つ──」

 

「メルニスク」

 

 メルニスクの言葉を、ルシフが遮った。

 

「頼みがある……!」

 

 血を吐くように紡がれた言葉に、メルニスクは話すのを止めた。

 そして、その後に続いたルシフの言葉に、メルニスクは衝撃を受けた。

 

 

 

「ルシフ……本当に、それでいいのか?」

 

 ルシフの頼みを聞き終えた後、メルニスクが問いかけた。

 

「ああ」

 

「しかし……」

 

「メルニスク。俺は間違っていた。ただ世界を壊すだけじゃダメだ。本当に壊さなければならないのは、世界じゃなかった」

 

 ルシフはメルニスクを静かな表情で見ている。

 

「俺は、誰もが自由に羽ばたける空を創ろうと思う。心一つで、どこまでも行ける空を。そして、そんな空を創れたら、ずっと籠に入れていたマイを、解き放ちたいと思う」

 

「ルシフ……」

 

「この世界を統一し落ち着いたら、俺はマイの前から姿を消す。そう決めた。俺に、マイのそばにいる資格はないんだ」

 

 メルニスクはルシフから床の方に、視線をやった。

 

「汝はそうやって、大事なものは何もかも遠ざけていくのだな」

 

 ルシフは勝ち気な笑みになる。

 

「そんな荷物、俺はいらない。それに、俺が進むのは道じゃない。道を切り拓きながら進む。その過程で、時には傷付き、時には道に咲く花の蜜を吸う。そして最期は、全身に傷を浴びて前のめりで死を迎える。そういう生き方こそ、ルシフ・ディ・アシェナの生き方だと、俺は決めた」

 

「なら我は、せめてお前の最期を見届けるまで、共にいるとしよう」

 

 ルシフは左手でメルニスクの頭を撫でた。

 

「誰もが一人で死ぬ中、俺はお前に見守られて死ぬか。それも悪くない」

 

 メルニスクが一歩踏み出し、ルシフに近付いた。

 

「我は汝のことが分かってきた。汝は、涙の代わりに血を流す。危なっかしくて、放ってはおけぬ」

 

 ルシフはメルニスクと視線を合わせる。そして、ルシフが嬉しそうに笑った。

 

「お前がいてくれて、本当に良かった」

 

 メルニスクはじっとルシフの笑顔を見た。

 返り血は、まだ顔に付いている。笑顔だが、泣いているように見えた。

 おそらく、この時本当の意味で、ルシフとメルニスクはパートナーになったのだろう。

 ルシフは全身の血を洗い流すため、風呂場に向かった。




ようやく、原作七巻終了。精神的にかなりキツかった。

いつも感想をクリックする度に、「〇〇〇ってもしかして生きてる?」という感想が書かれているかもしれないと思い、クリックするのが怖かったです。ですが、ようやく解放されました。

何故、〇〇〇が生きてるかは色々理由があります。〇〇〇が生きてると知った上で今までの話を読み返してみると、また違った発見ができるかもしれません。


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間章 嵐の前
第46話 魔王の決意


少しエロティックな描写があります。
苦手な方はご注意ください。


 拝啓。

 夜が涼しくなり、過ごしやすくなってまいりました今日この頃、親父様はいかがお過ごしでしょうか。私はと言いますと、狭い部屋に三人押しかけてきてくっそ暑いです。なんで私はいつも貧乏くじを引かされるのでしょうか。

 ゴルネオは自分の不幸を呪いながら、強張った表情で床に正座していた。グレンダン出身の武芸者なら、当然の行動である。

 天剣授受者が三人、ゴルネオの部屋にいた。その内の一人はよく知る人物だが、ゴルネオにとってそれは幸運ではない。むしろ不運といってもよかった。

 

「やぁ、ゴル。大きくなったねぇ」

 

 親戚の叔父が言うような言葉を、サヴァリスは言った。

 ゴルネオの顔に汗の玉が浮かぶ。

 

「兄さん。どうしてここに?」

 

「ゴル、何を言ってるんだい? 君は手紙になんて書いた?」

 

 ゴルネオははっとした表情になる。

 

「まさか、廃貴族を手に入れるために? ルシフと、闘うのですか?」

 

「ま、そうなるかなぁ。ただ、どうも僕の予想以上に手強そうなんだよ」

 

 サヴァリスは楽しそうに笑っている。他の二人は深刻そうな顔をしていた。

 

「手強いどころではあるまい。我ら三人が束になっても捕らえられぬかもしれん」

 

「それどころか返り討ちにされるかも……」

 

 ゴルネオはサヴァリス以外の二人の顔にも、見覚えがあった。女王陛下と並んで立っている姿を、遠目から見たことがある。女がカナリス。男がカルヴァーン。確か、それで正しかった筈だ。遠い昔の記憶のため、確信は持てなかった。

 

「兄さん。俺は見た。ルシフが、都市を一撃で消滅させるのを。それも、ツェルニほど大きな都市だ。兄さんが化け物みたいに強いと思っているのは今も変わらない。しかし、兄さんに同じことができるとは思えない」

 

「確かに僕にはできないなぁ。やったことないけど、半分くらいが限界だと思うよ。そうか、ルシフは都市を消滅させられるのかぁ。想像を絶するほど強いんだろうなぁ。闘うのがとても楽しみだ」

 

 サヴァリスは強がりではなく、本心でそう思っているようだった。

 ゴルネオには、何故負けると分かっている闘いを楽しめるのか理解できなかった。

 

「五体満足でいられないかもしれません。ルシフと闘えば。最悪、殺されるかも。兄さんに、そんな目に遭ってほしくない」

 

「あはは、ゴルは優しいねぇ。兄らしいことはしてこなかったから、嫌われてると思ってたけど」

 

「……別に、嫌ってなどいません」

 

 嘘ではなかった。自分は兄を嫌っていない。苦手なだけだ。

 

「ルシフから廃貴族を回収する。これは陛下直々の命なんだよ。何故、陛下がこの任務に天剣を三人もあてたか分かるかい?」

 

「……いえ」

 

「カナリスさん、弟に説明してあげてください」

 

 カナリスは不愉快そうにサヴァリスを睨んだ。サヴァリスは笑みを浮かべたままだ。兄のことだ。話すのが面倒になってきたのだろう。こういうところは昔と変わらない。

 カナリスがため息をついた。

 

「あなたは陛下がツェルニにいらっしゃったのを知ってる?」

 

「知りません」

 

「ルシフが入学してそれほど日が経っていない頃、ルシフが重傷を負ったときがあった筈よ」

 

「……そういえば、ルシフが入院していた時がありました。ルシフに個人的な感情をもっている他都市の武芸者がやったと生徒会長は言っていましたが、陛下だったのですね」

 

 女王陛下ならば、ルシフに重傷を負わせるのも容易いだろう。陛下の強さは今のルシフと同じく、底が見えない。

 

「ここでのポイントは、陛下がルシフに重傷をお与えになったことじゃないの。ルシフがグレンダンを探っていたのは、諜報員からの報告でずっと前から分かっていた。にも関わらず、陛下はわざわざツェルニに入学するのをお待ちになった。意図的に、戦場をルシフの出身都市であるイアハイムでなく、ツェルニにしたのよ。それがどういう意味か分かる?」

 

「イアハイムで陛下がルシフと闘われた場合、陛下が負ける可能性があったということですか?」

 

 信じられない話だが、ルシフの制裁を待った理由はそれ以外考えられなかった。

 カナリスは呆れたように首を振る。

 

「違うわ。陛下が負けるわけないでしょ。陛下がイアハイムを戦場にしなかった理由は、イアハイムが壊れるほど激しい戦闘になると予想されたからよ。陛下は無関係な人まで巻き込むつもりはなかった」

 

「周りを気にする余裕がなさそうだった、というわけですか」

 

「ここ数年、イアハイムは優秀な武芸者を積極的に集めてる。グレンダンに次ぐ武芸の都市、とまで言われるようにもなった。諜報員から、ルシフ以外にも天剣並みの剄量をもった武芸者が二人いるらしいと報告も受けている。更に、天剣に及ばないまでも、それに迫る実力がある武芸者が百人近く。陛下がその気になれば倒せるでしょうけど、都市に甚大なダメージを与える可能性が高い、と陛下は判断されたの。都合の良いことに、ルシフがツェルニに入学する情報は手に入れていた。だから邪魔が少ないツェルニで、ルシフに制裁を与えることに決めたの。レイフォンという不確定要素はあったけど、レイフォン一人程度なら、ルシフの味方をしても都市に被害を出さずに倒せる計算だった」

 

「そういうことですか」

 

 わざわざイアハイム以外の都市で闘うほど、イアハイムは闘いづらい都市と陛下が判断されている。その判断は、陛下が脅威と感じている裏返しでもあった。

 

「さて、ここからが本題」

 

 カナリスが仕切り直しの意を込めて、一度手を叩いた。

 

「イアハイムに今どれだけ戦力が集まっているかは理解できたわよね? それに加え、陛下に匹敵する力とまで言われている廃貴族の力を、ルシフが使いこなしたらどうなるか……分かるでしょ?」

 

「グレンダンにとって無視できない脅威になると?」

 

「その通り。万が一、ルシフが陛下より強くなってしまった場合、イアハイムがグレンダンを蹴落とし、武芸者の集まる都市になる可能性がある。詳しくは言えないけど、それは世界そのものが危うくなるくらいの緊急事態なの」

 

 話が見えてきた。

 ルシフが廃貴族を手に入れると、都市のパワーバランスが崩れるおそれがあり、それを陛下は快く思っていない。

 だから、勝てないからと逃げるわけにいかないのだ。何がなんでも、ルシフから廃貴族をうばわなくてはならない。

 

「生け捕りが難しそうなら、殺してもいいって私は考えてるわ。ルシフ以外なら、廃貴族を手に入れても脅威になる可能性は低いしね。ルシフさえ排除してしまえば、後はこっちのものよ」

 

 ゴルネオは絶句した。

 ルシフを殺す。いくらなんでも極端過ぎないか。

 確かにルシフは、危うい性格をしている。だが、バカじゃない。世界が危うくなると知れば、ルシフは協力する筈だ。敵対することにメリットはない。問題はただ一つ。世界が危うくなるなどという突拍子もない話を信じるか。そこだけがネックであり、同時に一番難しいところでもあった。

 

「ちなみに、ルシフを殺す方法は考えているのですか?」

 

「一番確実なのは毒ね。食べ物か飲み物に毒を入れるの」

 

「それはさすがに……」

 

 卑怯、というより外道すぎないか。

 武芸者と思えない発言に、ゴルネオは嫌悪感を覚えた。

 それに、一体どうやって毒を入れるつもりなのか。

 おそらく三人とも、ルシフと面識がない。そんな人物から理由もなく食べ物や飲み物を渡されるのは、不自然極まりない。

 

「一人の命で世界が安定するのよ。迷う必要なんてないわ。ちなみに、毒入りの食べ物か飲み物を渡すのはあなたの役目よ」

 

「え゛っ!?」

 

「何驚いてるの? 私たちの存在をツェルニの住民に知られるわけにはいかないから、あなたしかいないじゃない。安心して。あなたは立派だったって陛下にちゃんとご報告するから」

 

 ゴルネオは最後の言葉を聞かなかったことにして、思案する。

 天剣三人はどうも、正規のルートでツェルニに来ていないようだ。違法滞在という形になっているため、存在がバレれば即ツェルニから退去するよう命令されるだろう。

 ツェルニの住民たちとなるべく波風立てないようにしたい、と天剣三人は考えているようだ。

 

「そう言われましても……兄さんからも何か言ってください」

 

「正直、僕も毒なんてやり方は反対だけどねぇ。でも、ルシフが死ねば廃貴族はフリーになるわけじゃない? 陛下に匹敵する廃貴族の力、使ってみたい気持ちもあるんだよ。だから、別にどっちでもいいかなぁ。どっちも面白そうだし」

 

 ゴルネオは頭を抱えた。

 そうだ。兄はこういう人間だった。

 サヴァリスがゴルネオの肩をぽんと叩いた。

 

「ま、いつまでになるか分からないけど、僕たちはそれまでこの部屋に厄介にならせてもらうよ。別に構わないよね?」

 

「……ハイ」

 

 断るという選択肢はなかった。

 親父様。もう二度と、私は親父様の顔を見れないかもしれません。

 追伸。

 私の胃がストレスでマッハです。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 リーリンは病院にいた。

 レイフォンの右腕骨折の治療のためだ。

 レイフォンの右腕はギプスに固定され、包帯でぐるぐる巻きにしてある。

 リーリンとレイフォンは待合室のソファに隣同士で座っていた。

 

「そういえば訊きそびれてたんだけどさ」

 

「何?」

 

「いつ、リーリンはツェルニに来たの? 武芸大会が近いから外の警戒はしっかりやってたし、他都市や放浪バスの情報も生徒会長が教えてくれたけど、マイアス以外にツェルニに接近した都市や放浪バスは聞いてないんだよね」

 

「そ、そうなんだ」

 

 リーリンはニコニコと演技のようなあからさまな笑みをしている。

 リーリンの内心は複雑だった。

 リーリンがツェルニに来た方法は、通常の方法ではない。極一部の武芸者しかできない方法だった。

 その方法とは、マイアスからエアフィルターすれすれまで跳び、自由落下でツェルニに着地する方法。

 武芸大会の真っ只中だったため、念威端子は飛び交っていたが、さすがにエアフィルターすれすれのところまで探査しようとは思わない。誰にも気付かれず、天剣三人と自分はツェルニに入れただろう。

 天剣三人から、存在は秘密にしてくれと頼まれていたため、天剣三人についてリーリンは一切話すつもりがなかった。

 天剣三人の情報を抜き、かつ辻褄が合うようにレイフォンに説明しなければならない。

 

「実はツェルニに向かう途中、マイアスに滞在することになったの。レイフォンも知ってると思うけど、行きたい都市に行くためには都市をいくつか中継しないといけないから」

 

 レイフォンは頷いた。

 レイフォン自身、ツェルニまで行くのに交通都市ヨルテムと二、三別の都市を中継している。

 

「それで、マイアスに滞在している時にツェルニと武芸大会が始まったの。ツェルニがわたしの行きたい都市だったから、このチャンスを逃して何週間も待つのはバカらしいって思って、マイアスからツェルニまで走ってきたの」

 

「武芸者同士で争う中を突っ切ってきたの!? 無茶するなぁ。怪我したらどうするのさ」

 

 リーリンは、たまに驚くほど強情で大胆な行動をする時がある。ルシフをビンタしたのもそうだが、もう少し自分の身を大切にしてほしい、とレイフォンは思う。

 

「ご、ごめん」

 

「まぁ、怪我がなくて良かった」

 

「うん」

 

 リーリンは申し訳なくなり、顔を俯けた。

 少しの間、沈黙が訪れた。

 

「ねぇ」

 

 リーリンがずいっとレイフォンに顔を近付けた。

 

「手紙に書いてあった人たちのこと、教えてよ」

 

「ああ、うん。分かった」

 

「あっ、その話する前に一つ訊きたいんだけど」

 

「何?」

 

「どうして手紙に書かれている人全員、女の子なのかな……?」

 

「えっ!? べ、別に深い意味はないよ!」

 

「女の子はべらせて、楽しい?」

 

「そんなんじゃないってばッ!」

 

「あはは、冗談冗談。それじゃ、教えてね」

 

「うん。まずは──」

 

 レイフォンの話を聞きながら、リーリンは迷っていた。

 養父のデルクから預かった錬金鋼を渡すために、ここまで来た。

 しかし、渡してしまえば、自分はツェルニにいる理由が無くなる。

 もっとレイフォンの近くにいたい。

 そんな思いが、錬金鋼を渡すのを躊躇わせた。

 まだ、覚悟もできていない。

 もしレイフォンが錬金鋼を受け取らなかったら。レイフォンが今さらなんだと怒ったら。自分はそれを、受け止められるか。

 自信は全くない。だから、自信がつくまでは、このままで。

 それが逃げと理解しつつも、リーリンは逃げ道を走った。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは部屋のリビングのソファでくつろいでいた。

 今は武芸大会翌日の夜。

 頭痛は未だにおさまらない。マイが自害しようとした瞬間を見た時からずっとだ。

 ルシフがコップを手に取り水を飲んでいると、部屋の呼び鈴が鳴った。

 ルシフが玄関を開けると、マイが立っていた。

 ルシフの目が凍りついた。

 

「ルシフ様、こんばんは。部屋にあがってもよろしいですか?」

 

「あ、ああ」

 

 マイがテーブルの椅子に座る。

 ルシフも向かい合わせで座った。

 

「マイ、一つ訊きたい」

 

「はい」

 

「首の火傷の跡、消せなかったのか?」

 

 ルシフが驚いたのはそこだった。

 ツェルニの医療技術なら、火傷の跡を消すくらいできる筈なのに、消えていない。これは一体どういうことなのか。

 マイは笑みを浮かべた。前と全く同じ笑顔の筈なのに、どこか陰がある。

 

「いいえ、私が消さなくていいって言ったんです」

 

「何故だ?」

 

「だって、この火傷の跡は、ルシフ様が私を必死に助けようとしてくださった証です。消すなんて、そんなことできませんよ」

 

「そんな跡がなくても、俺はお前を大切に想っている」

 

「ルシフ様。この火傷の跡は、ただルシフ様から助けられた証というだけじゃないんです。私はルシフ様のものなんだと、この火傷の跡を見るたびに実感できるんです」

 

 マイの火傷の跡は、正面から見ると赤い首輪のように見えた。手で首を掴んでいたから、そういう形の跡になってしまった。

 以前のマイだったなら、火傷の跡を消していただろう。自分の身に傷跡を残すなど、許せなかった筈だ。

 やはり、どこか違和感がある。

 

「ルシフ様……私を抱いてくれませんか?」

 

 甘い吐息が耳を突き抜けていった。

 

「…………は?」

 

 ルシフは自分の目を疑った。目の前で起こっていることが理解できない。

 マイが服を脱いでいた。下着も何もかも全て。

 マイは一切身体を隠していなかった。色白で綺麗な身体をしている。女の裸は見慣れていたが、それでも頭に甘い痺れのようなものがはしった。

 ルシフは咄嗟に視線を逸らした。

 ルシフの方に、マイが歩み寄る。

 ルシフの右手を取り、マイは自分の胸を触らせた。

 柔らかいが、しっかりとした弾力がある。

 頭に血が上っていくのを自覚した。

 

「私がルシフ様のものだと、今度は私の中に刻みつけてほしいんです。それに、ルシフ様も四ヶ月以上溜め込んでお辛いでしょう? ルシフ様はお一人でできないって聞きましたから」

 

「……ちょっと待て。誰がそんなこと言った?」

 

 確かにルシフはマスターベーションというものをしたことがない。

 理由は至ってシンプルで、女が都市にいるのになんで一人でやらないといけないのか、という大半の男が嫉妬で怒り狂う理由。

 だが、これは誰にも言ったことがない。他人が知れる筈がないのだ。

 

「細かいことは、別にいいじゃありませんか。さあ、ルシフ様も早く脱いで……」

 

「マイ、ツェルニは学園都市だ! そういう行為は固く禁じられている! 子供ができたら困るからだ! だから無理だ! 分かったら、服を着ろ!」

 

 マイは首を傾げた。そして、頷く。

 

「ああ、そういうことですか。でしたら、子供ができないやり方ならよろしいですね?」

 

 マイの両手の指が、太ももから股間へと這っていく。

 

「私が、口と舌でします。ご安心ください。お部屋は汚しません。出されたモノは全部飲みます。ですから、ルシフ様は私に何もかも任せてください」

 

 ルシフはマイの両手を掴み、股間からどけた。

 立ち上がり、上着を脱いでマイの頭から被せる。

 

「とりあえず、それで身体を隠せ。女が自分を安売りするな。俺は恥じらいのない女は嫌いだ」

 

「あ……ご、ごめんなさい、ルシフ様! 私、ルシフ様にもっと必要とされたくて……。お願いですから、嫌いにならないでください」

 

 ルシフはため息をついた。

 

「マイ。そんなことをしなくても、お前は俺にとって必要な存在だ。嫌いにもならない。

火傷の跡を消したくないのも分かった。だが、人前に出る時は布か何かで隠せ。跡が見えると、周りに余計な気を使わせる」

 

「分かりました」

 

 マイはうなだれている。落ち込んでいるように見えた。

 ルシフの視線が、自然と下にいく。ちらちらと見えるマイの裸がルシフを刺激した。

 ルシフがマイに背を向ける。

 

「俺はちょっと出かけてくる。落ち着いたら、自室に帰れ」

 

「はい」

 

 ルシフは玄関を開け、自室から消えていった。

 マイ一人になったルシフの部屋。笑い声が響いた。

 

「ふふふ……やっぱり、ルシフ様は他の男どもと違う」

 

 マイは顔を上げた。嬉しそうな笑みをしている。

 

 ──すまないな。本当はお前を抱きたかったが、お前を大切にしたいんだ。

 

「分かってるよ、ルシフ様。また今度……ね」

 

 マイは右手の人差し指の先端を舌で軽く舐めた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフがツェルニの外縁部を走っている。外縁部に沿って走っているので、大きな円を描いているような形になっていた。殺剄で剄を極限まで抑え、内力系活剄による肉体強化は一切していない。鍛えるためではなく、疲れるために走っていた。

 マイの身体ととろけるような言葉が、脳に焼き付いて離れない。

 感情が昂っている。あのまま部屋にいたら、興奮がいつまでも冷めず、眠れなかっただろう。

 走りながら、色々なことを考えた。

 マイは元に戻ったように見えて、何かがおかしくなっている。以前にも遠回しに何度か誘惑してきたことはあるが、返事を聞く前から服を脱ぐなんてしなかった。誘惑の仕方も冗談を言うような軽さがあり、断るのが容易だった。

 しかし、さっきのマイは冗談交じりに誘惑するのではなく、ストレートに誘惑してきた。本気で言っていた。

 これは自分の予想でしかないが、マイはずっと昔から自分と関係を持ちたかったのだろう。しかし、本気で誘惑すると、俺との関係が悪くなってしまうかもしれないと不安だった。そういう理性が働き、軽い冗談で終わっていた。いわば、欲望を吐き出す前のブレーキがあった。

 今のマイは、そのブレーキが壊れていると感じる。欲望を、欲望そのままに吐き出すようになっている。

 おそらく、理解したからだ。汚ない部分や醜い部分をさらけだしても、俺から嫌われないと。今の関係が良くなりはしても、悪くはならないと。

 正直、本心で言ってしまえば、マイを抱きたい。自分の内に燃え上がる情欲の全てをマイに叩きつけ、滅茶苦茶にしてみたい。

 しかし、もしそれをしてしまったら、マイはどうなる? もっと自分に依存する。もっと自分から離れられなくなってしまう。それは、自分が望んでいる関係じゃない。

 それと、マイを抱いたら、自分はマイがいるだけで満足するような、小さい人間になってしまうのではないか。昔の自分に逆戻りしてしまうのではないか。そんな不安もある。

 マイに出会うまで、自分から苦労するのはバカがやることだと思っていた。勝てないものにぶつかっていって何が手に入ると、全力で生きている人間を嘲笑っていた。

 その考えが壊れたのは、マイに出会った瞬間だった。

 全力で生きている人間を、初めて想像ではなく実際に見た。全身を何かで打たれたような衝撃があった。

 必死にもがき苦しむ姿を、羨ましいと感じた。自分も本気で生きてみたいと思った。マイは、確かに自分が持っていないものを持っていた。

 出会った時のマイは、もっと強さがあった。何がなんでも自分一人の力で生きていこうとする覚悟のようなものがあった。世界という強大な敵に、全力でぶつかってやるという気概があった。

 そんなマイを、俺は美しいと思った。そんなマイに、俺は惚れたのだ。

 しかし、今のマイからそんな強さは微塵も感じない。

 マイから強さを奪い、堕落させた。それをしたのは自分だった。マイに優しくしても、厳しくはしていなかった。だから、マイから牙が抜けてしまった。その他大勢の人間と同じになってしまった。

 優しさしかマイに与えてこなかった。優しいだけでは、何も成長しないのだ。心を殺し、嫌われる覚悟を持って厳しくしなければ、心は弱くなるばかり。本当の意味で心が成長しない。

 

 ──取り戻す。

 

 心から惚れた女を。自分が殺してしまった強さを持つ女を。

 ならば、どうやって取り戻す?

 全ての自律型移動都市(レギオス)を掌握し、自分が望む世界を実現すれば、マイは戻ってくれるだろうか。媚びるような笑みを浮かべるのではなく、心からの笑みを浮かべるようになってくれるのだろうか。

 今まで、自分がやろうとしたことに疑問を持ったことはない。世界を手に入れた先に、自分の望むものがあると信じていたからだ。それが揺らぎ始めていた。本当に望むものが、世界を覆した先にあるのか。自分はこのまま最後まで突っ走っていいのだろうか。

 マイだけにルシフが力を注げば、マイを救うのも難しくないだろう。だが、ルシフにその発想はできない。

 ルシフの不幸は、自身が誰よりも優れていると信じ込んでいる傲慢さにある。彼の強大すぎる才と自尊心は、たった一人に自身の全てを注ぎ込むことを是としない。何故なら、たった一人を救うことはその辺の凡人でもできるからだ。

 一人だけを救うなどと小さいことは考えられず、どうせなら同じ境遇にいる全ての人間を救おうと考えてしまう。彼のスケールが大きすぎるからこそ生じる、途方もない理想と満たされない心。それが、本当に救いたい人や手に入れたいものを曇らせている。

 自分は一体どれだけ走ったのか。

 ルシフはそれすら分からなかった。ただ黙々と走り続けた。脳から、マイの裸と言葉は消えていない。消えろ。そう強く思えば思うほど、より鮮明に脳に描き出された。

 ルシフは走るのを止めて、ゆっくり歩く。歩きながら、荒くなった呼吸を整えている。

 しばらく歩くと殺剄を解き、剄を解放した。強大な剄が、外縁部から波紋のようにツェルニに広がった。

 ルシフが目を閉じた。仮想敵に、自分を選択する。真っ暗な空間に、自分の影が浮かび上がった。

 目を閉じたまま、イメージの自分と素手で闘い始める。鋭い突きを払い、蹴りをくり出す。蹴りをかわし、ひじ打ちをする。

 ルシフは激しく動きつつも、目を開けた。イメージで創り出した自分は消えていない。そのまま闘いを継続する。目にも止まらぬ速さで動くイメージの自分に、付いていく。

 本来の自分を壊したかった。人を傷付けて悦ぶ自身の性情を、打ち倒したかった。獣から人になりたい。人として、『王』として生きたい。ずっとそう思いながら生きてきた。

 目の前の自分のイメージが別の何かに掻き消された。エリゴが正面にいる。拳を振るってきた。右手で払う。

 エリゴの攻撃は終わらない。防いでも、連続で攻撃がきた。それらをよけ、あるいは防ぐ。別方向から気配。咄嗟に頭を下げる。頭があったところを、右足が通り過ぎた。レオナルトだった。

 エリゴとレオナルトの二人を同時に相手をする。前後左右上下と、変幻自在の連携攻撃を防ぎ続けた。唐突にまた別の気配。二人と違う方向から、三人がタイミングをずらしてそれぞれ襲いかかってきた。一撃、防ぎ切れなかった。後ろに吹き飛ぶ。空中で一回転して体勢を整え、着地。顔を上げる。フェイルス、バーティン、アストリットが立っていた。近くにレオナルトとエリゴもいる。

 会話はなかった。いや、言葉など必要なかった。

 五人が再び素手で攻めてきた。見事に連携した、隙のない連続攻撃。足捌きと体捌きでかわしながら、かわせない攻撃を両手で払い落とす。

 時間にして三十分、五人からの攻撃を防ぎ続けた。何度か防ぎきれず、体勢を崩した時もあった。

 五人は攻撃してくるのを止めた。

 

「余計なお世話でしたか?」

 

 エリゴが汗を浮かべて訊いてきた。

 

「いや、いい運動になった」

 

 五人とも、組み手の相手をしてくれたのだ。おそらく自分の剄を感じて、ここまで来たのだろう。

 イメージで組み手をするのもいいが、イメージ故のパターンがあり、複雑さが足りない。組み手相手がいた方が相手の動きに複雑さがあり、充実した時間を過ごせる。

 そういう意味で、ルシフは五人に感謝していた。

 マイアスで暴れた光景が脳裏によぎる。

 どこか気まずい気持ちになった。

 

「まさかお前たちが、俺に力を貸してくれるなど思わなかった」

 

「何言ってんだよ、大将。俺たちは好きであんたに力を貸してんだ。貸さないわけないだろ?」

 

「私情を抑えず、欲のまま力を振るった。俺がお前たちに禁じたことを、俺は破った。幻滅されても、不思議じゃない」

 

 口にした後、少し弱気な発言をしてしまったのを後悔した。もしかしたら、かなり精神的に追い詰められているのかもしれない。

 五人が顔を見合わせた。

 呆れたように首を振るエリゴとレオナルト。アストリット、バーティン、フェイルスは笑みをうかべた。

 

「マイアスでのことを言ってんのか?」

 

 ルシフは反応しなかった。ただ黙って五人を見た。

 

「大将、一つ訊かせてくれ。自分がマイアスでしたことを思い返して、どう思う? 正しかったと今も思ってるか?」

 

「いや……マイアスの武芸者に関しては、やり過ぎたと思っている。あそこまで、する必要はなかった」

 

 マイアスで暴れていた時に感じていた高揚感も優越感も嗜虐心も、今となっては消えていた。何故自分がそんなことで満足していたのか、説明も理解もできなかった。残ったのは、やり過ぎたという罪悪感と自己嫌悪だけだった。

 レオナルトが嬉しそうに笑った。

 

「そんでいいよ、大将。大将はまだ若い。感情を抑えられない時だってあるさ。大事なのは間違いを素直に認め、反省することだろ。それが、人の生き方じゃねぇか」

 

「レオナルトの言う通りだぜ、旦那。人間なんざ、間違うのが普通だ。間違いながら、成長していくもんだ。何をするにも完璧な人間、なんてヤツは人間じゃねぇ」

 

「間違うのが普通か」

 

 ずっと前から、俺のすることは正しいと思っている。

 先頭に立つ者が間違ったり迷えば、後ろを歩く人間が戸惑うからだ。

 間違いながら、進んでもいいのか。正しいと常に思いながら進むのが、『王』の道ではないのか。

 

「迷い始めている。本当に俺のやろうとしていることは正しいのか。俺の望む形が、進む先にあるのか。こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ」

 

「……旦那。一つだけ確かなことは、あんたがどんな答えを出したとしても、俺はあんたに付いていくってことだ。俺にはそんくれぇしか言えねぇ」

 

「俺もエリゴさんと同じだぜ。たとえ世界の全てが大将の敵になったとしても、俺は大将の力になる。あんたはただ前だけ見てりゃいいんだ」

 

「私はマイロードこそ世界の頂点に立つお方だと思っております。その手助けなら、喜んでやらせていただきますよ」

 

「ルシフちゃん。私はいつだってルシフちゃんの味方だからね!」

 

「私も、どこまでもルシフ様にお供いたします」

 

 ルシフは五人に背を向け、寮がある方に歩き始めた。ルシフの後ろを五人が付いてくる。

 

「お前ら、魔王って分かるか?」

 

「娯楽小説とかによく出てくるヤツですよね。悪役で」

 

 フェイルスが答えた。

 ルシフはある結論が出ていた。世界も、人の心と同じではないかという結論。

 世界も優しさだけでは成長しない。それだけでは、駄目になっていくのではないか。成長させるためには、厳しさが必要なのだ。たとえ周りから嫌われようと、恐れられようと、それを体現する存在が。

 だから、娯楽小説で出てくるような悪役──魔王が現実でも必要なのではないか。

 

「俺は魔王を目指そうと思う。それでも、お前らは付いてくるか?」

 

「別に魔王を目指すのはいいが大将、一つ訊きてぇ。理想は変わってねぇか?」

 

「ああ」

 

 世界から汚染獣の脅威を無くす。都市間戦争を無くす。治安を良くする。無駄に人が死なない、人が人らしく生きれる世を創る。その理想を揺るがせるつもりは一切ない。

 

「なら問題ねぇ。俺たちはあんたの部下である前に、同じ志を持った同志だ。それさえ分かれば、どこまでだって付いていけるぜ」

 

 ルシフは振り返り、五人の顔を見た。

 五人は笑って頷いている。

 

「……そうか」

 

 ルシフは再び前を向いた。

 いつの間にか、脳からマイの裸が消えていた。

 今夜はよく眠れそうだ。

 寮に向かいながらそう思った。

 

 おそらくルシフはこの時、決意したのだろう。魔王を目指し、魔王として生きる決意を。




これにて、原作八巻終了です。原作八巻は短編集みたいな感じなんで、章に原作八巻は入れません。


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第47話 赤の誓い

 ニーナは練武館にある第十七小隊訓練室の扉の前に立っている。

 ちなみに今日、訓練の予定はない。ルシフに今の時間に一人で来るよう呼び出されたから、ここに来た。

 ニーナは通路にある時計を見る。待ち合わせ時間十分前になっていた。

 ニーナが隣に視線をやる。リーリンが立っていた。

 リーリンはツェルニ滞在三日目だった。生徒会長の計らいで、リーリンはツェルニに一時的に入学した。問題は学費だったが、リーリンの学力は申し分ないものだったため、学費は免除されたらしい。

 短い付き合いだが、明るく活発的な性格のため、すぐに仲良くなれた。レイフォンという共通の話題があったのも、すぐに打ち解けることができた要因の一つだろう。

 そして、ルシフと一人で会うことをちょっとした話題で出した。別にルシフから、口止めされてもいない。その話を聞いたリーリンはとても驚いていた。

 リーリンは、ルシフと一人で会うのを心配していた。マイアスで暴れたルシフしか知らなければ、そう思うのも無理はない。

 その後、リーリンが自分も付いていくと言って付いてきたため、一人で来るよう言われているのに二人で来てしまった。

 ニーナは軽く息をつき、気持ちを切り替える。

 ルシフはマイアスとの武芸大会終了後、感情に任せて暴れていない。武芸大会が始まる前のルシフに戻ってきていた。だから、二人で会っても激昂しないだろう。……多分。

 ニーナが扉を開ける。

 両脇に様々な武器が立て掛けてあり、部屋の隅には沢山の錬金鋼(ダイト)が入れられた箱や、訓練用の鉄球が入ったかごが置いてある。

 ニーナの視界にそれらは入らなかった。部屋の中心。普段は組み手やら訓練を行う位置に、ルシフが立っていた。両拳を握りしめている。

 ルシフが先に部屋に来ているのに、ニーナは驚いた。待ち合わせ時間丁度に来るイメージがなんとなくある。しかし、今までの訓練やら集合を思い返してみると、ルシフは時間に理由なく遅れたことが一度もない。仮病かもしれないが、休む時も休む理由をしっかり連絡してくる。無断欠席は絶対にしなかった。

 ルシフは自分がルールと言わんばかりの行動や立ち振舞いをしているような感じがするが、実際はルールを堅実に守る。制服だって常にきちんと着るし、錬金鋼を所持する許可も生徒会長からもらっていた。

 おそらくこういう部分が、ルシフがどんな人間か掴めなくなる一番の理由なのだろう。ニーナ自身、未だにルシフがどういう人間か断言できない。

 

「来たぞ。話はなんだ?」

 

「もう少し待て。まだ全員揃っていない」

 

「他に誰が来るんだ?」

 

「……どうやら来たみたいだぞ」

 

 ルシフの言葉で、ニーナが後ろに振り向いた。

 ニーナの後ろにフェリが立っている。無表情だが、少し不機嫌そうに見えた。

 フェリは部屋に入ると、扉を閉めた。

 

「これで全員か?」

 

「ああ。余計なのが一人いるようだがな」

 

 ルシフがリーリンの方に視線をやった。

 

「あなたのような人と友だちを二人きりで会わせるわけないでしょ。一体何を企んでるの?」

 

「だらだら話すつもりはない。単刀直入に言わせてもらう。マイと仲良くしてやってほしい」

 

「………………は?」

 

 三人の声が重なった。

 なんというか、拍子抜けしたというのが正直な感想だ。

 

「ただそれだけを言うために呼んだのか? そんな話なら、訓練の後にでも話せばよかったじゃないか」

 

「アルセイフやエリプソンに聞かれたくなかった。分かっていると思うが、マイは男を極端に嫌っている。男にこの話をしても意味がない。面倒が増えるだけだ」

 

「……そもそも、そんな話をいきなりしたのは何故だ?」

 

 ルシフの表情が微かに暗くなった。そんな気がした。

 

「マイは俺に依存している。マイには、俺無しでも強く生きられるようになってほしい。初めてマイに出会った時、マイは身体中に打撲傷があり、服すら着ていなかった。マイにとっての世界は、そういった恐怖が支配する世界なんだろう。しかし、その認識は間違っていると。世界はそれ以外のものもちゃんとあるのだと、教えてやってほしい」

 

「……お前がマイに教えてあげればいいだろう」

 

「俺が教えても、マイの依存が悪化するだけだ。なんの解決にもならん」

 

 ルシフの両拳は、握りしめられたままだ。微かに震えている。かなり強く握りしめているようだ。

 

「そもそも、マイの依存に気付かなかったのか?」

 

「マイが俺に依存しているかもしれないと、疑ったことはある。だから、マイをツェルニに入学させた。もし俺に依存しているなら、ツェルニで一年間も過ごせないと思っていた。だが、マイは何事もないかのようにツェルニで一年過ごし、俺が与えた任務も難なくこなした。それで俺の思い過ごしかと思い、マイの依存を疑わなくなった」

 

「そうか」

 

 ルシフはずっと前からマイの依存を疑っていたのだ。だが、その疑いが晴れたことで、依存の可能性がルシフの頭から排除されてしまったのだろう。

 

「ねぇ、ニーナ」

 

 リーリンが小声で声を掛けてきた。小声といっても他に音を立てているものがないため、フェリやルシフにも聞こえているだろう。

 

「なんだ?」

 

「あの人って双子? とてもよく似た兄弟がいるのね。わたし、びっくりしちゃった」

 

「……リーリン。目の前にいる男は、お前がビンタした男と同一人物だ」

 

「…………じゃあ、多重人格なのかな? なんて名前の人?」

 

「ルシフだ。多重人格でもないと思うぞ」

 

 リーリンはルシフをしばし凝視した。

 

「………………えー」

 

 リーリンにとって、ルシフの第一印象は最悪だった。今のルシフが、リーリンの第一印象から外れすぎている。それが、リーリンには納得できないらしい。

 ルシフの方に視線を移すと、眉がピクピクと動いていた。必死に表情を崩さないようにしようとしているようだ。

 こうして観察すると、なかなか面白い。

 

「リーリン。お前が最初に会ったルシフは、今までで最悪のルシフだった。そっちの方が異常で、普段のルシフはこんな感じだ。早くルシフのイメージをこっちにしろ。でないと、毎回混乱することになるぞ」

 

「……努力するわ」

 

「さっきから随分な言い草だな、おい」

 

 ルシフが口を挟んだ。我慢できなかったらしい。

 

「わたしはおいじゃありませんよー。リーリン・マーフェスっていう、ちゃんとした名前があるんですー」

 

 ルシフは言葉を失っていた。あまりに幼稚な返しに、呆れ果てているのかもしれない。

 リーリンは、頑なにルシフの印象を良くしたくないらしい。何故かは分からないが、リーリンの全身から、ルシフと仲良くするものかという意思のようなものが滲み出ている。

 ルシフは軽く頭を掻いていた。イラつくと頭を掻く癖があるのかもしれない。

 

「……もういい」

 

 ルシフはリーリンとの会話を諦めた。面倒になってきたからだろう。

 

「ルシフ」

 

 フェリが口を開いた。

 

「なんだ?」

 

「自分じゃ何もできない。だから、わたしたちに問題を丸投げして、マイさんの依存を治そうとする。今まで好き放題やってたくせに、少し虫がよすぎるんじゃないですか?」

 

「フェリ、少し言い過ぎだ」

 

 ニーナがたしなめた。

 フェリは止まらない。

 

「……マイさんは、自分の命の価値はあなたのところにしかないと言っていました。分かりますか? マイさんにとって、あなたは自分の居場所そのものなんです。マイさんの依存を治すとか言ってますけど、本当にそれは治さなくちゃいけないものですか? あなたが傍について、ずっと守っていればいいだけの話じゃないですか。

わたしの目には、その重圧から逃げようとしているように見えます」

 

 ルシフはしばらく口を開かなかった。ただ床を見つめて、両拳を握りしめ続けているだけだ。両拳の震えは、さっきより大きくなっている。

 

「……逃げてなどいない。俺はただ、マイが心から笑えるようになってほしいだけだ。今のマイの笑顔は、どこか陰がある」

 

 ルシフが床を見つめたまま言った。

 

「わたしが見た限り、あなたといる時のマイさんは、心から笑っているように見えますが? マイさんの笑顔に違和感があるのは、あなたがそう思い込んでいるだけではないですか? マイさんがずっと隠していた部分を知って、あなたが戸惑い拒絶しているだけなのでは?」

 

「違う。言っただろ? 俺はマイに、一人でも生きられる強さをもってほしいだけだ」

 

 だんだん、ルシフが何を考えているか分かってきた気がする。

 そもそも、マイの依存を手っ取り早く治すなら、ルシフがマイを一時的に突き放せばいい。そうすれば、マイは自分の存在価値を、自分一人で認められるようになる筈だ。荒療治かもしれないが、この方法が一番依存を治せる可能性が高い。

 それを選ばず、ルシフはわたしたちに協力を頼んで様々な経験をマイにさせることで、マイの世界を拡げるやり方を選んだ。

 つまり、ルシフは依存を治したいと思いつつも、今のマイとの関係を壊したくないと考えているのだ。だから、こんな遠回しなやり方になってしまう。

 しかし、ニーナは知っている。以前、サリンバン教導傭兵団と闘った時に気付いた。マイの心は壊れていると。

 ルシフと一緒にいるためならなんでもするし、ルシフからの命令はなんでも喜んで従う。ルシフさえ世界にいれば、それ以外の人間はどうでもいい。

 そんな狂気と危うさがあるのを、ニーナは知っていた。

 もしそういう風に思える相手に拒絶されたら、マイは一人でも生きていこうと思えるだろうか。拒絶された次の日、自らの念威端子で首を切り、自殺している姿が寮の部屋で見つかるのではないか。

 ニーナは自分の想像にゾッとした。

 だが、絶対にこうならないとは言い切れない。

 

「それはあなたのわがままでしょう? マイさんの気持ちは確かめたんですか?」

 

「確かめるまでもないだろう。一人で生きていけるようになることに、デメリットが何かあるのか?」

 

「あなたはそうやっていつも人はこうあるべき、こういう考えが正しいと決めつける。そういうところがあなたのダメなところです。もっと他人の意見や考えを聞こうとするべきです」

 

「俺より劣っている奴らに、俺よりいい意見などあるわけないだろう? 聞くだけ時間の無駄だ」

 

 フェリがため息をついた。

 フェリのその気持ちはとてもよく分かる。

 ルシフは自分が一番優れていると信じきっている。だから、自分より優れた意見を他人から聞けるわけがないという単純な思考回路になっているのだ。ルシフにとって意見を求めるとはつまり、自分が相手より劣っているのを認めるのと同義。

 ゆえに、ルシフは相談を絶対にしない。今回も、マイと仲良くしてくれと一方的に言ってきた。何故、『マイの依存を治したいと思うが、どうすれば治せると思うか意見がほしい』と言えないのだろうか。

 こういう部分がルシフの短所だと、ニーナは思う。逆に言えば、この傲慢ささえなければ、ルシフはかなり好感の持てる人間になる。

 

「フェリ、とりあえずそこまでだ。話がズレてきている。

わたしは、マイの依存を治せるなら治したい。わたしにできる範囲で、力になりたいと思う。フェリ、お前はどうだ?」

 

「……わたしも、マイさんの依存は治したいと思います。あんな姿は二度と見たくありません。ですが、努力するべきなのはわたしたちではなく、依存対象のルシフでしょう?」

 

「確かにお前の言う通りだが、ルシフの言い分も間違いとは言えない。結果的に依存がひどくなったら本末転倒だからな。

とりあえず、買い物とかちょっとしたお出かけにマイを呼ぶようにして、親しくなろうと思う。フェリとリーリンにも付き合ってもらうことになるかもしれないが、どうかな?」

 

「わたしなら大丈夫。ツェルニのお店とか色々見てみたいって思ってたし、そのついでだと思えば全然迷惑じゃないよ。むしろこっちからお願いしたいくらい」

 

 リーリンは明るく笑っていた。

 ニーナは少しホッとして、表情を和らげた。

 

「……毎回は無理かもしれませんけど、たまになら」

 

 フェリが無表情のまま、淡々と言った。

 

「それだけで十分だ。ありがとう」

 

「……いえ」

 

 フェリはニーナから顔を逸らした。

 ニーナがルシフの方を見る。

 

「とりあえずこれでやってみる」

 

「ああ。ありがとう、お前ら。恩にきる」

 

 ルシフの表情が少し柔らかい表情になった。

 ニーナら三人は部屋を出ていく。ニーナが最後だった。

 部屋を出る直前、ニーナは一度振り返った。ルシフがこちらを無表情で見ている。両拳は握りしめられたままだ。結局最後まで、ルシフの両拳がひらくことはなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフと話をした三日後。

 ニーナはフェリ、リーリン、マイと一緒に中心部に来ている。今日は授業がないので、一日休みだった。

 休みの日は店を経営している学生も店の方に力を入れられるため、いつもより店に活気がある。お菓子やケーキなどを売っている店には、『バンアレン・デイの贈り物はここで決まり!』『意中の男子のハートを甘いプレゼントでゲット!』と書かれた宣伝ポスターが貼られていた。似たような内容の宣伝ポスターは至るところに貼られている。

 バンアレン・デイとは、気になる異性にお菓子を贈ることがそのまま自分の好意を示すことになる、特別な日。

 発端はツェルニではなく、その風習がある元の都市。そこの住民がツェルニに入学し、一種の販売戦略としてバンアレン・デイを利用したことで、ツェルニにもその風習が一気に広がった。ツェルニは多感な時期の人間ばかりが集まる学生都市である。恋愛に関わるイベントのウケが悪い筈がない。

 もうすぐそのバンアレン・デイの日になるため、様々な店がその日に向けた多様な宣伝を行っている。闘いはすでに始まっているのだ。

 

「こんなイベントがあるんだ。グレンダンじゃなかったな」

 

 リーリンが左右の店を見ながら言った。

 

「そうなのか?」

 

「うん。というか、イベント自体ほとんどないかも。武芸大会とかならしょっちゅうやってるけど」

 

「さすがに武芸の本場と言われるだけはあるな」

 

 ニーナは苦笑した。

 ニーナ自身、お菓子を渡すことが何故そんなに重要な意味を持つのか、いまいち理解できない。ここら辺はグレンダンと同じく、バンアレン・デイのようなイベントが出身都市のシュナイバルにないからかもしれない。

 

「それで……ニーナは誰かに渡す予定あるの?」

 

 リーリンが悪戯っぽい笑みで尋ねた。

 

「いや、別に誰にも渡すつもりはないが」

 

「どうして? 好きな人、いないの?」

 

「それもあるが……うーん、お菓子を渡すことが特別な意味を持つということに、ピンとこないからかな」

 

「別に深く考えなくてもいいじゃない。好意とかじゃなくて、ちょっとした感謝の気持ちとかであげてもいいと思うよ」

 

「そういう考え方もあるか。一応考えておこう」

 

 ニーナがちらりとマイを見た。

 マイは私服ではなく、いつもの武芸科の制服を着ていた。火傷の跡がある首は包帯が巻かれており、右手は錬金鋼(ダイト)の杖を持っている。

 おそらくこの錬金鋼の杖を手に持たなくなった時が、マイの依存が治った時なんだろう。

 首の包帯はマイと今日会った時に訊いた。それで、火傷の跡がまだ残っているのを知った。火傷の跡に関しては、消せる筈なのに何故消さなかったか、ニーナは分からなかった。マイにとって重要な意味を持つのかもしれない。

 

「マイ。お前は誰かにお菓子を贈るか?」

 

「はい。もちろんルシフ様に」

 

 マイは柔らかな笑みを浮かべている。

 

「あの人のどこがいいの? わたしはツェルニに来て一週間くらいだけど、あの人のことを悪魔とか鬼とか言ってる陰口を聞いたよ」

 

 リーリンの言葉に、マイは笑みを消した。

 

「あなたは確か……リーリンさんでしたっけ? ルシフ様をビンタした……」

 

「え、ええ、そうよ」

 

「じゃあ、逆にリーリンさんに訊きます。『人間』ってなんですか?」

 

「……え?」

 

「どういう生き方をしていたら、『人間』なんです?」

 

「ええと……」

 

 リーリンは言葉を詰まらせた。

 普段当たり前すぎて全く意識しないことを何かの拍子に意識すると、上手く言葉で説明できない。そんな感覚に襲われた。

 

「分かりませんか? なら、教えて差し上げます。『人間』とは強者に媚びへつらい、弱者に威張り散らして好き放題する生き物です。『人間』は誰一人として私に優しくしてくれませんでした。私からすれば、『悪魔』の方が何百倍も良いです。次ルシフ様のどこがいいとか訊いてきたら、八つ裂きにしますからね」

 

 リーリンが身体を強張らせた。

 マイにとって、ルシフが他人からどう思われようが知ったことではない。だが、ルシフのどこがいいなどと訊かれるのは、とても不快だった。

 

「マイ、あまり怖がらせないでくれ」

 

 ニーナが言った。

 マイはからかうような笑みになる。

 

「ふふ、冗談ですよリーリンさん。本気にしないでください」

 

「な~んだ、おどかさないでよ」

 

 リーリンの緊張が解け、表情が和らいだ。

 それから製菓関係の店を色々見て回った。

 今は喫茶店で軽食をとっている。テーブルには紅茶とケーキがそれぞれの前に置かれていた。

 

「スイーツを食べるこの時間は、最高の贅沢だと思います」

 

 マイはチョコレートケーキを一口食べる度にうっとりとした表情になっている。どうでもいい話だが、錬金鋼の杖を持ちながら食べている姿は違和感しかない。

 

「私、実は料理とかお菓子作りとか全然したことないんです」

 

 マイが紅茶で一息入れて言った。

 フェリは無表情だったが、ニーナとリーリンは意外そうな顔をする。

 

「え、そうなんだ。なんとなく、料理とか得意そうに見えるけど」

 

「わたしも意外に思うな。ルシフに自分の料理を食べさせているイメージがどことなくある」

 

 マイは少し暗い表情になった。

 

「今まで、ほとんど念威の鍛練に力を注いでいましたから。掃除や洗濯は人並みにやれる自信はありますが、料理は全然手をつけてないんです。ルシフ様の料理の腕が超一流というのも関係あるかもしれませんが」

 

「えッ!? あの人って料理できるの!?」

 

 リーリンが驚いている。

 

「ああ。一度だけ、ルシフの料理を食べる機会があった。はっきり言って、今まで食べてきた料理の中で一位、二位を争う美味しさだった」

 

 ニーナは合宿で食べた料理を思い出して、懐かしい気分になった。

 確かにあれほどの料理の腕があるなら、料理で喜んでもらおうとはなかなか思えない。

 

「プレゼントのお菓子は、手作りしたものをルシフ様にお渡ししたいと思ってるんです。ここにいる誰かに手ほどきを受けたいと思うんですが、皆さんはお菓子作れますか?」

 

「「…………」」

 

 ニーナとフェリが視線を泳がし沈黙する。そんな二人の様子を見て、リーリンは察した。

 

「わたしはお菓子作れるよ。って言っても難しいのは作れないけど」

 

「じゃあ、時間がある時に教えてもらってもいいですか?」

 

「うん、いいよ。わたしも手作りのお菓子をプレゼントにしようって思ってたところだから、その時に一緒に作ろうよ」

 

「はい。ありがとうございます」

 

「……あの」

 

 フェリが口を挟んだ。

 全員の視線がフェリに集中する。

 

「……いえ。やっぱりなんでもないです」

 

 フェリは顔を伏せた。

 三人の視線が重なり合う。

 

「 もしかして……一緒にお菓子作り、したいの?」

 

 フェリは顔を伏せたまま、少し顔を赤くした。そして、小さく頷く。フェリ以外の全員が微笑んだ。

 

「じゃあ、一緒にお菓子作りしようね」

 

「……はい」

 

 フェリは返事をし、窓の外に視線を向ける。

 フェリの表情が微かに変わった。

 

「マイさん」

 

「はい?」

 

「あれを見ても、あなたの心は変わりませんか?」

 

 フェリの視線の先に、三人とも顔を向けた。

 ルシフがいる。武芸科の制服ではなく、私服を着ている。ルシフを囲むように、三人の女子がいた。ルシフは三人の女子と楽しそうにしている。

 三人の女子の内の一人が、さりげなくルシフと腕組みしようとした。ルシフは鬱陶しそうにそれを振り払う。腕組みをしようとした女子は落ち込んだらしく、表情が暗くなった。

 喫茶店の向かいの店は、女子向けの小物や服を扱っている店だった。

 ルシフと三人の女子は店の前に並んでいる商品を見ながら色々話していたが、すぐに店内に入っていった。

 ニーナたちのいるテーブルは気まずい空気になっている。マイがあれを見て不機嫌になるのは分かりきっていたからだ。

 

「あれが、どうかしたんですか?」

 

 しかし予想に反して、マイの雰囲気は変わらなかった。

 ニーナとリーリンは意外そうな表情になった。フェリは無表情のままだったが、微かに目を見開いていた。

 

「……なんとも思わないのか? ルシフがその、他の女子と仲良くしているのに?」

 

 ニーナの言葉に、マイは合点がいったというような感じで頷いた。

 

「ああ、そういうことですか。ルシフ様はツェルニにいらしてから、女遊びは全くされていませんからね。まぁ、ツェルニは不純異性交遊禁止だからだと思いますけど。イアハイムにいた頃は当たり前のように目にする光景でしたよ」

 

「……あの人は本当に……!」

 

 リーリンは女の心を弄ぶルシフに怒りを感じて、拳を握りしめていた。

 ニーナもリーリンと同じ気持ちだった。おそらくフェリもだろう。

 

「……そろそろ、わたしは帰りますね」

 

 マイが立ち上がった。テーブルに自分が注文した分の代金を置く。紅茶はケーキを頼めば無料で付いてくるサービスだったため、実質ケーキの代金だけでよかった。

 

「今日はとても楽しかったです。本当にありがとうございました。リーリンさん、フェリさん。また近い内によろしくお願いしますね。ニーナさんも興味があったら一緒にお菓子作りを学びましょう」

 

 マイは深く一礼した後、喫茶店から出ていった。

 喫茶店から出ると、マイは向かいの店を一瞥した。しかしそれはほんの僅かな時間だけで、すぐに寮がある方向に歩いていった。最後まで、マイの手には錬金鋼の杖があった。

 窓越しにマイの姿を見ていた三人は視線を交わし合い、ため息をついた。

 慣れているからといって、気のある男が他の女と一緒にいることを快く思える筈がない。マイは、ずっとその感情と闘ってきたのだろう。

 ルシフとマイ。

 とても近いようで、とてつもなく遠い二人の関係。

 どちらも、内に溜め込んでいるものがある。それら全てを吐き出し、本当の意味で二人が付き合っていけるようになるためにはどうすればいいのか。

 ニーナは頭が痛くなった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナたちと過ごした日の夜。

 マイはルシフに呼び出され、ルシフの部屋に来ていた。テーブルの椅子に座っている。向かいにルシフも座っていた。

 

「なんのご用です? こんな時間にお呼びになって。私といかがわしい関係だと噂されたら、ルシフ様はお困りになられるんじゃないですか?」

 

 マイはそっぽを向いていた。

 ルシフは怪訝な表情になる。

 

「何を怒ってるんだ、お前は?」

 

「……別に、怒ってなんかいません」

 

「まぁいい。お前に渡したいものがあってな」

 

 ルシフがテーブルにピンク色の袋を置いた。

 マイは袋をじっと見つめる。 

 

「なんですか、これ?」

 

「中を開けて見た方が早い」

 

「分かりました。開けますね」

 

 マイは袋を開けて、中身を取り出す。袋の中身は、赤色のスカーフだった。赤の濃淡で模様が描かれ、所々に黒の線が入っている。

 

「わぁ……!」

 

 マイは目を輝かせた。

 マイの表情を見て、ルシフは表情を和らげた。

 

「いつまでも、そんなもので火傷の跡を隠しておくわけにもいかんだろう。このスカーフで、火傷の跡を隠せ」

 

「巻いてみてもいいですか!?」

 

「ああ」

 

 マイは首に手を持っていき、首に巻いている包帯をとった。

 赤色のスカーフを首に巻く。スカーフの長さは短めだった。首の周りだけで収まり、動いたりすることへの悪影響は全くと言っていいほどない。

 

 ──そうか。ルシフ様は昼間、あの店にこれを買いにいってたんだ……!

 

 マイの気分は一気に晴れていった。同時に、ルシフを少し困らせようとしていた自分の浅はかさが嫌になった。

 

「こんな素晴らしいものを私に与えていただき、本当にありがとうございます! 大切に使わせていただきます!」

 

 ルシフの表情が引き締まる。

 

「マイ、勘違いするなよ。そのスカーフは、ずっと火傷の跡を残したままにしていいという意味で渡したわけじゃないぞ。火傷の跡を消した際に返せとは言わん。だが、そのスカーフを本来の用途で使えるようになってほしいと思う」

 

「ルシフ様……」

 

 マイは顔を伏せた。

 しばらく二人とも無言だった。

 マイが意を決したように顔をあげた。

 

「ルシフ様……私、ルシフ様のためだって言いつつも、いつも自分のためにしか生きられません。いつだって私の中心にあるものは、私の心なんです。私は、そんな私が本当に嫌いです。私も、世界の人々のために生きるルシフ様のように、心から誰かのために生きられるようになりたい。変わりたいんです、どうしようもない私から。私は……たとえあなたが『悪魔』と呼ばれようとも、あなたのように生きたいです。あなたのように生きられるようになったら、この火傷の跡を消そうと思います」

 

 マイの両目から涙が溢れていた。スカーフに涙が吸い込まれていく。それが嬉し涙なのか、それとも悲しみの涙なのかは、ルシフに判別できなかった。

 ルシフがマイの涙を指先でぬぐう。

 

「……そうか。大丈夫だ、お前ならきっとそう生きられる。自分に自信を持て」

 

「はい……!」

 

 両目から涙を流しながら、マイは満面の笑みを浮かべていた。その笑みからは、いつもの陰のようなものは一切感じなかった。

 俺はこの笑顔をいつも見ていたいから、この世界を壊したいのかもしれない。

 ルシフはそう思った。



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第48話 バンアレン・デイ

今回、とんでもないネタバレがあります。
ネタバレが嫌な方はAmazonマーケットプライスより、原作全二十五巻が二千三百九十七円(二千十八年二月十八日時点)から販売されていますので、お買い上げしてもらって読破していただいた後に今回を読んでください。


 女子が丁寧に包装されたプレゼントを前に出し、頭を下げていた。

 

「あのッ! ルシフ君……これ、受け取ってください!」

 

 ルシフは正直うんざりしていた。頭痛が激しくなり、顔をしかめる。

 今日はバンアレン・デイ。気になる男にお菓子を渡すことが、好意があることを伝える手段になる日。ルシフからすれば、お菓子を渡すのと告白が同義なら、お菓子が必要か? という疑問がある。だが、そういうのが勇気を振り絞るきっかけになるのかもしれない。

 ルシフの頭上には、同じように丁寧に包装されたプレゼントが十数個浮かんでいる。

 朝、寮を出て学び舎に向かう途中の道。似たようなシーンが十数回とあった。

 多分朝から寮の外で待ち、プレゼントを渡すタイミングを窺っていたのだろう。自分の住んでいる部屋と寮は、ツェルニ中の話題になったことがある。知らぬ者はほとんどいない筈だ。今も、横にいる女子以外の人の気配をそこら中から感じる。こんなやり取りがまだ続くかと思うと、いくら女が好きでも気が滅入ってきていた。

 

「ああ、ありがとう」

 

 それでも、受け取らないという選択肢はない。何故なら、勇気を出して俺の前に立ち、玉砕を覚悟して渡しにきているからだ。そういう女は好感が持てる。

 ルシフはプレゼントを片手で受け取った。

 女子は顔を真っ赤にしつつも、にやけている。受け取ってもらえただけで満足したのだろう。

 ルシフは無言で止めていた足を動かし、学び舎目指して歩みを再開させた。

 

「……あッ! ルシフ君、待って!」

 

 後方から、今プレゼントを渡しにきた女子が言った。

 

「なんだ?」

 

 ルシフは振り返る。ルシフの声には若干イラつきが混じっていた。

 女子は機嫌を損ねたのを察したらしく、ビクッと身体を強張らせた。

 

「……えっと……これ、使って……」

 

 女子はおずおずとルシフに近付き、ルシフに折り畳まれている物を渡した。ルシフが広げる。大きな袋だった。

 

「その……ルシフ君、モテるから、プレゼントたくさん貰うだろうなって思って、それで……」

 

「袋を用意していたのか? 俺のことを考えて?」

 

 女子は顔を伏せた。耳まで赤くなっている。

 

「はははははッ! お前、なかなか面白いな! 気が少し晴れたぞ!」

 

 女子は顔を上げた。ルシフの笑顔を見て、はっとしたような表情になった。

 

「ありがたく、使わせてもらう。機会があれば、また会おう」

 

 女子は顔を真っ赤にしたまま、一目散に走り去っていった。途中一度転んでスカートの中が丸見えになっていたが、ルシフは見て見ぬ振りをした。

 袋の中に頭上に浮かせておいたプレゼントの数々を入れる。三分の一くらい埋まったが、まだまだ入りそうだった。

 ルシフが三歩歩くと、さっきと違う女子が小走りで近付いてきた。

 

「ルシフ君、ちょっと時間……いい?」

 

 ルシフはため息をつきたくなるのをぐっと抑えた。頭を袋を持っていない手で軽く掻く。

 ルシフはふと、マイを思い出した。

 

 ──そういえば……マイに会ってないな。

 

 いつもなら寮の入り口にいて、すぐ後ろを付いてくる。しかし、今日はいなかった。

 どこか残念な気持ちにルシフはなっていた。もしかしたら、マイからプレゼントを貰えるのを期待しているのかもしれない。マイが料理やお菓子を作っている姿は見たことないから、貰えたとしても店で売っているやつだろうが。

 ルシフはプレゼントを受け取りながらも、今プレゼントを渡した女子の顔すら見ていなかった。

 そんなやり取りをずっと繰り返しながら、学び舎に近付いていく。

 

 ──これは間に合わないな。

 

 このペースだと、完全に遅刻だった。遅刻は一度もしたことがなかった。

 

 ──まぁ、今日くらいはいいか。

 

 女が勇気を出し、覚悟を持って自らの想いを形にする日だ。それにしっかり応えるのが、男というものだろう。

 ルシフはゆっくりと歩き続けた。

 

 

 そんなルシフの姿を、遠目から見ている人物がいた。マイだ。首に赤のスカーフを巻いている。

 建物の陰に隠れつつも、マイはルシフの姿を追っていた。寮の入り口からずっと。

 マイの右手には錬金鋼(ダイト)の杖。たすき掛けしたカバンの中には、リーリンに教えてもらいながら作ったチョコレートが入っていた。

 普段であれば、寮の入り口でぱぱっと渡せた筈だ。それができなかった原因は、私より先にルシフ様に近付き、プレゼントを渡した女子がいたせいだ。そのせいで、ルシフ様に近付くタイミングを逃してしまった。

 それからルシフ様にチョコレートを渡そうと考えるだけで、身体が震えるようになっていた。ルシフ様にプレゼントを渡す女子が増えれば増えるほど、震えは大きくなった。

 何故、こんなにもプレゼントを渡すのが怖くなっていくのか、マイは理解できない。いつも通り渡せばいい。それだけの話。簡単な筈だ。なのに、ルシフ様に近付くのを躊躇している。マイは自分が信じられない。ルシフ様に近付くのに抵抗があるなど、今まで一度としてなかった。

 マイはカバンを開け、中から一冊の本を取り出す。タイトルは『これで気になる男はイチコロ!? 男の心を鷲掴みにする女性になれる!』。

 この本は、マイの知らない扉を開けた。私に足りなかったものが、この本を手にしたことで満たされた。そんな気さえした。

 

 ──え~と、プレゼントする時の言葉は……。

 

 マイは目次を見て、ページをめくる。目的のページで止めた。『あ、あなたのためとかじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!』と書かれている。

 目から鱗が落ちる。初めてこのページを読んだ時の感想はその一言に尽きた。こういう駆け引きのようなものが、私にはなかった。いつも押してばかりだった。

 マイは他のページも熱心に読み始めた。そんなことをしている間にルシフはどんどん先に行ってしまい、ついにマイは渡すタイミングを逸してしまった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは一限目の授業が終了した時間に、教室に到着した。貰った袋はプレゼントでいっぱいになっている。

 ルシフが教室の扉を開けた。自分の机に、プレゼントが山のように置かれている。下駄箱がないから、学び舎での自分の場所は教室の机しかない。だから、必然的に全てのプレゼントがそこに集まる。

 大抵の男はこのプレゼントの山を見た瞬間、戸惑いつつも喜ぶのだろう。だが、ルシフは違った。むしろ、気分が悪くなった。

 教室にいる半分くらいの女子は、自分の反応を窺っているようだ。なんとなく分かる。それも、ルシフの感情を逆撫でした。

 

「うわ……ルシフ、そんなに貰ったの?」

 

 レイフォンがびっくりしていた。

 

「さすがルッシー、モテるねぇ」

 

 ミィフィが悪戯っぽい笑みで言った。

 だがルシフは一切反応せず、まっすぐ自分の机にいった。自分の机の隣に立つ。

 

「おい、ここにいる男子全員」

 

 教室の空気が凍った。レイフォンとミィフィも表情を強張らせた。言葉の中に不機嫌な響きがあるのを感じたからだろう。

 教室にいる男子全員が、ルシフの方に顔を向けた。何人かは、視線をルシフから外している。

 

「俺の机にあるコイツら、好きに持ってっていいぞ」

 

 教室にいる全員が絶句した。

 男子が女子の反応を窺う。彼らはルシフの机にプレゼントを置いた女子たちを知っている。自分たちがプレゼントを持っていって、彼女たちが傷つくかもしれないと考えているのだ。

 結局、誰一人としてルシフの机に来なかった。

 

「なんだ、いらないのか。それなら、ごみ箱に捨てるしかないな」

 

「ルシフ、それはいくらなんでも酷いんじゃないかな。心がこもってるんだから」

 

 レイフォンが言った。

 ルシフは冷めた目でレイフォンを見据える。

 

「お前は、この無造作に置かれた箱に心がこもっているように見えるのか。俺は全くそう思わないな。本当に相手を想っているなら、こんな渡し方はできない。ただ恋愛している自分を楽しんでいる自己満足女の妄想に、俺が付き合うわけないだろう。

そもそも、贈り物は基本的に相手の顔を見て渡すものだ。渡す相手が遠くにいたなら話は別だがな。そんな簡単な礼儀すら分かっていないヤツのプレゼントなど、受け取る気にすらならん」

 

 ルシフは教室にあるごみ箱を見た。ごみ箱の容量を、プレゼントの山の方が明らかに上回っている。どう入れても全部入らない。

 

 ──燃やすか。

 

 ルシフが右手の平を上に向けた。化錬剄により剄を火の性質に変化。手の平に小さな火の玉が現れる。

 悲鳴があちこちからあがった。

 

「……待って!」

 

 クラスの女子の一人がルシフに向かって叫んだ。

 ルシフの手の平の火の勢いが弱まる。

 叫んだ女子は立ち上がり、ルシフの机にあるプレゼントの山から一つ取った。

 

「これ……受け取って、ルシフ君!」

 

 プレゼントをルシフに差し出した女子の手は微かに震えていた。

 ルシフは手の平の火を消した。プレゼントを受け取る。

 女子はホッとしたように息をついた。

 

「あの……よかったら後で、食べた感想教えてね」

 

「ん? 感想を聞きたいのか?」

 

「あっ……」

 

 ルシフは包装をはがし、箱を開ける。中にはハートの形をした小さいチョコがたくさん入っていた。

 ルシフはチョコを一つ取り、口の中に放る。女子は緊張した表情をしていた。

 

「うん、なかなか美味いぞ。アーモンドを甘くしたから、チョコの方は甘さを抑えてくどくなり過ぎないようにしているだろ?」

 

「う、うん。ルシフ君って甘いものあんまり好きじゃないかなって思って。チョコは少し苦いヤツにしたの。振りかけたココアは甘めだけど、食べている内に甘さが緩和されて、残らないようにしたつもりだけど……」

 

「アーモンドは砂糖と絡めながら焼いたな」

 

「そうなの! アーモンドチョコはやっぱりアーモンドが美味しくないとダメだって思って、グラニュー糖を溶かした水にアーモンドを絡ませながら、じっくり焼いたの! ルシフ君って結構詳しいのね!」

 

 ルシフは力説しだした女子を見て、勝ち気な笑みになる。

 

「やっぱり手間と心がこもったものは美味い。ありがとな」

 

「ふぇッ!?」

 

 女子は顔を真っ赤にして、ぽーっとしている。

 

「おい、どうした?」

 

 ルシフが声をかけても、女子は一切反応しない。

 それを見たクラスの男子が次々に声をあげる。

 

「おちたな」

「はぇ~すっごい手並み」

「自分拍手いいすか?」

 

 ルシフと女子のやり取りを見ていたクラスの他の女子たちが次々に立ち上がり、ルシフの机に殺到した。元々ルシフ以外のクラスメイトには見られている。ルシフに好意を知られるデメリットしか、彼女たちにはなかった。お菓子にそれなりの手間をかけていたのも、彼女たちの行動の原動力になったのだろう。

 ルシフの机に積まれているプレゼントが、四分の一ほどなくなった。まだ四分の三残っている。他クラスや他学年の女子の分だろう。

 ルシフはたくさんのプレゼントを化錬剄で浮かし、無造作に窓の外へ放り投げた。ルシフが窓から左手を(かざ)す。火線が左手から放たれ、放り投げられたプレゼントは全て塵になった。

 クラスの女子たちはそれを見て、プレゼントを取りにいって良かったと思った。中身すら見られずに焼き払われるなど、精神的にかなりキツい。

 クラスの全員が驚愕の表情でルシフを見つめている中、ルシフは無表情で椅子に座った。

 チャイムが鳴り、二限目の授業を教える上級生が教室に入ってきた。騒然としていた教室は静まり、普段の落ち着きを取り戻す。

 授業は半日で終了し、午後からは休みになった。

 ルシフは袋をもう一つ女子から受け取り、両手に袋を持って学び舎から出た。両方の袋は、プレゼントでいっぱいになっている。ルシフが机に積まれていたプレゼントを全て焼き払ったことはすぐさまツェルニ中に広がり、休み時間に女子がルシフのところにやってきてプレゼントを絶えず持ってきていた。後でルシフの寮に置いておこうと考えていた女子たちである。バーティンとアストリットもプレゼントを渡してきた。

 ルシフは倉庫区にある食糧庫に向けて歩く。

 原作通りなら、ハトシアの実を利用した騒動がある。違法酒にも使われている果実。剄脈加速に興奮作用、神経を過敏にさせたりと効能は様々あり、使い方によっては違法酒以上に強力な剄脈加速薬や媚薬を作れる。武芸者の一部か恋人がいる中には、喉から手が出るほど欲しいヤツもいるだろう。

 このハトシアの実関連の騒動は、マイアスでの滞在時にもいた仮面を被った連中が暗躍している。というより、ヤツらが黒幕でツェルニの生徒を操りやらせた。

 ルシフはまずフェイルス、レオナルト、エリゴの三人に二日前の夜から交替で食糧庫を警備させた。バンアレン・デイで製菓関係の店が使う材料を保存している食糧庫だ。

 警備のことを知っているのはカリアンくらいしかいない。カリアンは何故急に食糧庫を警備させるのか訊いてきたが、ハトシアの実の効能を教えると納得した。ハトシアの実の効能は世に出ておらず、興味を持って熱心に調べなければ分からない。そんな果実がリンカという製菓店の注文で、バンアレン・デイに向けて大量に生産された。使い方を一歩間違えれば、ツェルニが大混乱に陥る可能性があった。

 カリアンはすぐにリンカを密かに調べさせ、ハトシアの実の効能を知っていて注文したのか、それともただ噂で聞いたから注文したのかを知ろうとした。結論は後者になった。リンカの背後関係や店の運用におかしな点や不審な点はなかったのである。

 それでもハトシアの実は放っておけない。そう判断したカリアンはリンカに対してハトシアの実の使用を禁止し、ルシフにハトシアの実の処分を頼んだ。ルシフはこれからハトシアの実を処分しに行く。

 ハトシアの実の騒動を仮面の連中が起こした理由は、シャンテ・ライテを火神として覚醒させ手中に収めるため。元々シャンテ・ライテは仮面の連中が作ったものだが、教育する前に奪われ、奪った人物が森海都市エルパに置いていった。

 ルシフはシャンテを火神として覚醒させないと決めた。火神の力は奪えない可能性が高いと考えたからだ。

 元々仮面の連中のものなら、ルシフ自身も連中側にいなければならないのではないか。ルシフはそう思った。

 以前は廃貴族さえいれば奪えると考えていたが、よくよく考えれば廃貴族は仮面の連中と対立している力。確実に奪える手段や方法も不明。ならば覚醒させず、面倒を増やす可能性を潰す。

 ルシフは目的の食糧庫に到着した。鍵はカリアンから渡されている。食糧庫の中はハトシアの実しかない筈だ。それ以外の食糧は全て別の食糧庫に移動されているか、製菓関係の店に出荷されただろう。

 ルシフが食糧庫のシャッターの鍵を開けて中にはいると、ハトシアの実が大量に置かれていた。空調が効いていて涼しい。ハトシアの実はすぐに移動できるよう、すべて台車の上に置かれている。

 ルシフは両手の袋を倉庫の隅に置き、台車を移動させた。全ての台車を外に出す。

 すると、ルシフの遥か後方から剄が高まり、何かが一気に近付いてきた。

 ルシフはそれを鼻で笑った。

 

「フン、読み通りだ。レオナルト、エリゴ!」

 

 ルシフの前に呼ばれた二人が現れる。高速で移動したため、二人が現れた後に突風が一度吹いた。ルシフの髪が風に遊ぶ。レオナルトとエリゴは倉庫の近くに待機させていた。

 

「これらの台車を生産区の処分場に持っていけ!」

 

「了解!」

「了解した!」

 

 エリゴとレオナルトが台車を押して、生産区に向かう。生産区と倉庫区はその関係性から隣接していた。だからこそ、カリアンはルシフただ一人に処分を依頼したのだ。

 後方から近付いてきた気配はルシフを素通りし、台車の方に向かう。ハトシアの実にしか興味がないらしい。

 ルシフは自分の真上を気配が通り過ぎた瞬間、跳躍。

 気配の真下から接近し足を掴むと、そのまま地面に投げつけた。

 

「ぎゃんッ!」

 

 気配の主がうめき声を漏らして、地面を転がる。気配の主はシャンテだった。赤い髪が揺れた。ルシフがシャンテの頭の前に着地する。

 

「おい」

 

「ひっ……!」

 

「次俺に喧嘩売ったらどうなるか、前に警告したよな?」

 

「べ、べつにお前に喧嘩なんて売ってないッ! あたしはただ匂いを追ってきただけだ!」

 

 シャンテが立ち上がり、及び腰でルシフと向かい合う。

 

「ハトシアの実か? それは全て処分して、肥料にする。俺はその役目を生徒会長から任じられた。要するに、ハトシアの実を狙うなら、それすなわち俺に喧嘩を売るのと同義」

 

「そんなの無茶苦茶だッ!」

 

「しかし、理解はしたよな? 知らなかったから、今の襲撃はさっきので許そう。だが次に襲撃してきたら、分かるよな? 殺してくれと懇願したくなるほど、酷い目にあわせてやる」

 

「なんでそんな酷いんだよ!? ちょっと、ちょっとだけ! 五個だけ! いや、一個でもいい! なんなら一個の端っこ! 端っこだけ!」

 

「ダメだ。あまりしつこいようなら、痛めつけるぞ」

 

「うぅ、うぅぅぅぅぅぅッ! ケチ! 鬼! 悪魔! ルシフ!」

 

 シャンテは捨て台詞で悪口を言って逃げた。

 

「……この俺をケチだと?」

 

 ルシフは少しも頭にこなかった。近場に落ちていた石ころを蹴りで粉砕したが、それは誰かが石ころに躓いて転ばないようにという、ルシフの優しい配慮である。

 ルシフは倉庫の隅に置いた二つの袋を乱暴に掴むと、荒い足取りで次の目的地──寮に向かった。

 寮に着くと自分の部屋までいった。両手の袋をリビングのソファーに置く。ついでに私服に着替えてルシフは再び外に出た。

 原作通りならば、シャンテを仮面の連中から奪ったヤツがニーナに接触する。廃貴族をニーナが宿していたからか、電子精霊ツェルニとニーナの仲が良いからなのか、はっきりした理由は分からない。ルシフはおそらく前者だと考えている。ツェルニとの仲の良さなど、事前に知ることは至難。廃貴族なら、分かる者は一目見ただけで憑依を見破るだろう。

 ルシフは機関部を目指して歩く。

 しばらく歩くと、視線を感じた。今朝感じていたような視線に近いが、少し違う。どこかまとわりつくような気持ち悪さがある。

 視線の主の場所は見当がすでについていた。ルシフは一瞬で視線の主の背後に回る。そのまま左腕を掴もうと左手を伸ばした。相手の剄が急激に高まり、左手を振り払う。次に前に跳びながら身体をひねり、ルシフと相対した。

 

「待て待て、危害を加えるつもりはねぇよ」

 

 両手をあげて、視線の主は言った。

 癖のある赤髪をした青年。武芸科の制服を着ていて、剣帯の色は六年生の色。つまり、ツェルニの最上級生。

 

「何者だ?」

 

 ルシフは一切警戒を解かず、剣帯の様々な錬金鋼の内、一つを右手に取った。

 青年は楽しげに笑う。

 

「用心深いヤツは長生きする。お前、見所あるぜ」

 

「何様のつもりだ? あぁ!? ズタズタにするぞ」

 

「おいおい、褒めたのになんで不機嫌になんだ? それと、先輩への口の聞き方がなってねぇな。まぁ、おれは心が広い。そんくらいで怒ったりはしねぇよ。けど、おれ以外にはちゃんと気をつけろ。剣帯の色を見たところ、お前一年だろ?」

 

「……俺が誰か知らずに付けてきたのか?」

 

「こっちにも色々事情がある。そのせいで、最近のツェルニには疎い。おれ以上の問題児がツェルニに入学していたなんて知らなかったぜ。

さっきも言ったが、敵対するつもりはねぇ。だから、錬金鋼を剣帯に戻してくれ」

 

「いいだろう」

 

 ルシフは右手の錬金鋼を剣帯に戻した。別に錬金鋼などいらないが、これで青年が本当に自分を知らないと確信できた。青年が警戒を緩めたのが目に見えて分かったからだ。自分を知っているなら、錬金鋼が戻ったのを見て警戒を解くなどしない。

 青年はルシフにゆっくりとした足取りで近付く。

 

「おれの名前はディクセリオ・マスケイン。ディックと呼んでくれ。で、お前は?」

 

「俺の名はルシフ・ディ・アシェナ。いずれ王となる男だ」

 

「成る程、イアハイムの侯家出身か。幼い頃から王にするべく育てられたんなら、お前のその態度も納得がいく。

さて、お互い名が分かったところで、一つ頼みを聞いちゃくれねぇか?」

 

「言ってみろ、マスケイン。聞くだけ聞いてやる」

 

「ディックって呼べ。ま、突っかかっても話は進まねぇ。

ツェルニに会わせてくれ。分かると思うが電子精霊の方な」

 

 ルシフが腕組みをする。

 

「マスケイン。一つ、条件がある。会わせたら、俺の頼みも聞いてほしい」

 

 ディックはにやりと笑った。

 

「いいぜ。交渉成立、だな。あと、おれのことはディックって呼べ」

 

「分かった。マスケイン、行くぞ」

 

 ルシフが機関部を目指して歩き始めた。

 

「……お前、周りからぜってぇ嫌われてるだろ」

 

「さてな。細かいところにこだわる男よりはマシだと思うが」

 

「言うねぇ。確かにおれも嫌われ者だわ」

 

 ディックがルシフの歩く速度に合わせてルシフの後方を歩いた。

 ディクセリオ・マスケイン。この男こそ、シャンテを仮面の連中から強奪し、シャンテが物心つく前に森海都市エルパに置いていった。原作では重要人物。

 機関部の入り口に到着した。普段なら警備員がいるのに、今は誰もいない。だが、何かがいる。何もない空間なのに、張り詰めた緊張が支配していた。

 

「よう、そんなもんでおれが気付かないと思うか?」

 

 何もない空間に、仮面の連中が顕現した。

 

「……貴様、何故ここにいる? それと、貴様もいるか。ルシフ・ディ・アシェナ。頭痛が辛そうだな。それも仕方あるまい。同化が始まっているからな」

 

 頭痛は大小の差はあれど、頭痛そのものはいつまでも治らない。やはり、この頭痛はそういうものだったか。

 

「お前ら、知り合いか? まぁ、どうでもいいか。おれのやることは変わらねぇ」

 

 ディックが剣帯から錬金鋼を抜き、復元。金棒のように巨大な鉄鞭が一振り、ディックの両手に握られる。

 

「ルシフ、お前は機関部の入り口を守れ!」

 

 ディックが叫ぶ。ルシフは無言で脚力を強化し入り口前に移動。進行方向を遮っていた仮面の影の何人かを吹き飛ばした。

 ディックは剄を集中。脚力を活剄で強化しつつ、鉄鞭に衝剄を凝縮。そして、一歩踏み出す。ディックの姿が消え、一瞬で前方に移動していた。移動中鉄鞭から雷光が漏れ、まるで鉄鞭が雷を引き連れているように見えた。前方にディックが出現した後、轟音が遅れて聞こえた。ディックの進行方向にいた仮面の奴らは全て粉々になっていた。

 活剄衝剄混合変化、雷迅。ディックの必殺剄技。ルシフはその光景の一部始終を視界に収めていた。

 仮面の奴らはまだいた。

 ルシフは剄を集中。ディックと全く同じように剄をコントロールしたが、鉄鞭は持っていないため、自身の両腕を鉄鞭とみなし、両腕に衝剄を凝縮。そしてディックと同じように、一歩踏み出す。ルシフの姿が消える。前方にルシフが現れた際、ルシフの全身から雷光が発生し、ルシフは全身に電気を纏っているような姿だった。遅れて、轟音が響く。ルシフの進行方向にいた仮面の奴らは粉々になった。

 

「……マジかよ。おれの雷迅を一目で……」

 

 ディックが驚いた表情でルシフを凝視している。

 これで、仮面の連中全てを片付けた。空間を支配していた緊張も消えている。

 

「さて、これで機関部に入れるな」

 

「いや、もういい。おれはあいつらからツェルニを守りたかっただけだ。あいつらを退けたから、目的は達成した」

 

「そうか」

 

「ああ、助かったぜ。どうやらお前は生まれながらの強者らしいな。力の使い方、よく考えろよ。先輩からのアドバイスだ」

 

「余計なお世話だ。それより、案内した条件を覚えているか?」

 

「ああ。頼みがあるんだろ? おれにできることなら、なんでも協力するぜ」

 

「そうか」

 

「……ぐっ……! なんで、だよ……!」

 

 ディックの目が見開かれている。ディックはそのまま、視線を下に向ける。ルシフの右腕が、ディックの胸を貫いていた。ディックの背中からルシフの右手が出ている。

 ディックはルシフを一切警戒していなかった。どれだけ実力者でも、闘う準備も剄を高める準備もしなければ雑魚と同じ。

 

「実はな、俺は人殺しをしたことがない。だから、人を殺したらどんな気分になるのか知りたかった。マスケイン、俺に殺されてくれ。それが、俺の頼みだ」

 

「……ふざけ……んな! おれが……お前に何したって……」

 

 その先の言葉は聞こえなかった。

 ルシフが剄を化錬剄で切れる性質に変化させ、ディックの身体を細切れにしたからだ。血が弾け、血の雨が降る。ルシフは血の雨を衝剄で吹き飛ばした。機関部の入り口周辺が赤く彩られる。

 ルシフは自身の右腕を見た。ディックの血で肘から指先まで紅く染まっている。

 

「……こんなものか」

 

 人を殺した感想はそれだけだった。別に何も感じない。もしかしたらディックを人ではないと知っているからこそ、何も感じないのかもしれない。

 原作のラスボスに変貌する存在。これで殺せたら、後顧の憂いは消える。だが、原作知識では自分が死んだことを受け入れなければ死なないとあり、これで殺せたかは疑問が残る。ルシフは本当に死なないかどうか試してもみたかった。

 ルシフは血溜りに背を向け、寮を目指す。空は赤く染まってきていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 自室の椅子にルシフは座っている。テーブルには貰ったお菓子が盛られた皿が置かれていた。ルシフはそれを箸で食べつつ、本を読んでいる。もう夜も更けてきていた。

 自室の呼び鈴が鳴った。

 ルシフが立ち上がり、部屋の扉を開ける。マイが立っていた。

 マイが丁寧に包装されたプレゼントをぶっきらぼうな感じで差し出した。

 

「あな、あなたのためとか別にじゃないですわよ!」

 

 ──何言ってるんだ、こいつは……。

 

 マイは顔を真っ赤にして、俯いた。

 数秒沈黙が流れた後、マイが勢いよく顔をあげた。顔は真っ赤なままだ。

 

「その、もう一回! もう一回チャンスをください! 次こそは間違えずに言ってみせます!」

 

「とりあえず却下する」

 

「なんでですか!?」

 

「要はプレゼントを俺に渡したいんだろ? 言ってる意味は分からなかったが、雰囲気で分かった。だから、もう一度やる意味はない」

 

「意味あります! 一+一は二になります! つまり、プレゼントと渡し方の相乗効果により、より高い満足感と幸福感を相手に与えられるという、私の頭が弾き出した完璧な式が成り立つんです!」

 

「マイ、お前は少し疲れてるんだ。早く寮に帰って休め」

 

「私は全然大丈夫ですよ! なんならダッシュ百本しましょうか!? してもいいんですよ!? ダッシュ百本!」

 

「しなくていい。とりあえず、部屋に入れ。あと、その変なテンション止めろ」

 

「……努力します」

 

 ルシフとマイは向かい合わせで椅子に座った。テーブルの皿に盛られたお菓子を見て、マイが微かに表情を曇らせた。

 

「その、ルシフ様、これ……」

 

 マイがさっきとは打って変わって、弱々しくプレゼントを差し出した。

 

「ああ」

 

 ルシフがマイからプレゼントを受け取る。

 

「開けてもいいか?」

 

「……はい」

 

 マイは弱々しく頷いた。テーブルのお菓子を見てから、さっきのテンションの高さはどこかにいってしまったようだ。

 ルシフは包装を破り、箱を開ける。中には大きなハートの形をしたチョコが入っていた。

 ルシフは一口、チョコをかじる。とても苦かった。その後、ほんの少し甘さが口に広がる。だが、苦みを消すには程遠い。

 

「……苦いな」

 

「はい、苦いです。忘れられない味にしたいとずっと考えていたら、自然とそうなりました。でも、やっぱり甘くて食べやすい味の方が良かったですよね。たとえすぐに忘れ去られてしまう味でも」

 

 マイは落ち込んでいるようだ。うなだれていて、顔をあげようとしない。

 ルシフはマイのチョコをもう一口、かじった。

 

「……苦い」

 

「……はい。ルシフ様、ごめんなさい」

 

「だが、嫌いじゃない苦さだ」

 

 ルシフはしっかり噛みながら、マイのチョコを完食した。

 

「マイ、なかなかいけたぞ。ありがとな」

 

「ルシフ様……!」

 

 マイの顔が笑みに変わっていく。

 本音を言ってしまえば、甘めのお菓子と一緒に食べたかった。だが、苦行の先にあるものがマイの笑顔なら、ルシフは耐えられた。

 ルシフは口の中にテーブルのお菓子を放り込みたい気持ちを抑えて、本を再び読み始める。

 マイはにやにやと緩みきった表情で、ルシフの本を読む姿をじっと見つめていた。

 ルシフとマイのバンアレン・デイはこうして終わった。




これで、原作十巻終了です。
原作主人公のレイフォンの話が読みたい方は、原作十巻の方を読んでください。

次回は今から約二ヶ月半時間を進めて話を書きたいと思っています。


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原作9巻 ブルー・マズルカ
第49話 決別の花火


 サリンバン教導傭兵団の放浪バス。カリアンはその搭乗口の前に立っていた。ちょっとした果物が入った袋を片手に持っている。

 サリンバン教導傭兵団は約三ヶ月前にマイ・キリーとフェリを誘拐し、マイ・キリーを自殺に追い込んだとしてルシフと教員たちに制裁を加えられ、重傷を負わされた。

 マイアスとの武芸大会が終了した後、マイアスにいたハイアをツェルニが引き取り、つい最近まで団員全員がツェルニの病院で治療を受けていた。全員が退院したのは約一週間前。

 カリアンは搭乗口をノックする。一人団員が出てきた。

 

「……なんだ?」

 

「団長のハイア君はいるかな? 退院祝いで来たのだけれど」

 

 明らかに団員の顔つきが変わった。

 

「アイツを団長と呼ぶな。アイツのせいで、俺たちはこんな災難に遭っちまった。そんな奴を団長にしとくわけにいかねぇ。今、団長はフェルマウスになっている」

 

「……そうですか」

 

 報告では、誘拐に団員たちも関わっているとあった。だからこそ、団員全員が制裁を受けた。しかし、全ての責任をハイアに押し付け、被害者面をしている。それに対して少し不快な気分になったが、表情には出さなかった。

 

「では、団長のフェルマウスさんとハイア君に会わせてほしい」

 

「ついてこい」

 

 団員がバスの中に消えていった。カリアンはその後ろを付いていく。

 案内されたのは、バスの中にある部屋だった。室内に大きなソファーが二つあり、間に台が設置されている。おそらくこの部屋は応接室であり、商談する部屋でもあるのだろう。

 片方のソファーにフェルマウスとハイアが座っている。ハイアの左目は黒の眼帯で隠されていた。

 

「退院おめでとう。フェルマウスさん、ハイア君」

 

 カリアンが果物が入った袋をフェルマウスに手渡す。

 

『わざわざありがとうございます』

 

 念威端子から機械音声が聞こえた。フェルマウスがカリアンから袋を受け取った。

 カリアンは向かいのソファーに座る。意外と座り心地は良かった。

 

「……何しに来た。おれっちを(わら)いにきたのか?」

 

 ハイアは不機嫌なのを隠そうともせず、ソファーに深くもたれている。

 

『ハイア、失礼だぞ』

 

「ふん、さすがは団長さま。どんな客にも愛想良くする精神力は素直に尊敬するさ~」

 

 ハイアはフェルマウスからそっぽを向いた。

 

『申し訳ありません。団員たちから団長に相応しくないと責められ団長の任を解かれてから、ずっとこんな感じなのです』

 

「いえ、お気になさらず。別に気にしてないですから」

 

 部屋の扉が開き、眼鏡の少女が三つのカップをトレーで持ってきた。眼鏡の少女がそれぞれの前にカップを置く。置いた後、ハイアの方を少女はちらりと見たが、すぐに視線を戻して部屋の扉の前にいった。そこで一礼し、部屋を出ていく。

 カップに入っているのは紅茶だった。

 カリアンは一口飲み、カップを戻す。

 

「フェルマウスさんよ。あんたは本当にコイツが退院祝いで来たと思うのかい? その気持ちが少しでもあれば、入院中に見舞いくらい来るもんだろ? けど、コイツは一度も来なかった。何か裏があるに決まってるさ」

 

『ハイア!』

 

 いい線をいっている。

 確かに退院祝いなどという理由は、建前だった。これっぽっちも、退院を祝うつもりはなかった。自業自得で入院した奴らに、可哀想なんて感情は一切湧かない。コイツらは、妹を目的のために誘拐したのだ。

 カリアンはそれらの思惑を、柔和な笑みで隠す。

 

「そう思われても仕方ありません。それに、ハイア君は間違っていません。退院祝いはついでなのです。実は、ビジネスの話が本題でして」

 

「そら見たことか! あんたは人を信じすぎさ~」

 

『何かあるのは分かっていた。退院一週間後に祝いをしにくる時点で、それは明白だった。だが、相手が心の内を晒す前に警戒した態度をとっていたら、相手も用心してくる。とりあえず相手に合わせた態度をとるのも、上の人間に必要なものだ』

 

「要は媚びて、隙を見せたら一気に攻めるってことだろ。そんなのが最強の傭兵団の団長でいいのか? おれっちは媚びることだけはしなかったさ」

 

『だから、ルシフから徹底的に痛めつけられた。お前は少し傲慢で、軽率なところがある。そこを直していかないと、団員たちからの信頼は取り戻せないぞ』

 

「……ふん。どうせ、もうすぐサリンバン教導傭兵団は解散さ。とりあえず創設目的の廃貴族の発見はしたんだから。今更信頼を取り戻して、何が変わるって言うんさ?」

 

 相当、ハイアの心の傷は深いようだ。事あるごとにフェルマウスに突っかかっている。

 フェルマウスは軽く首を横に振ると、仮面で隠れた顔をこちらに向けた。

 

『見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。それで、ビジネスの話とは?』

 

「ビジネスの話をする前に一つ、あなた方にお礼を言わせていただきたいことがあります」

 

 フェルマウスとハイアは顔を見合わせた。礼を言われる行いが何か、心当たりが思いつかないようだ。

 

『……それは?』

 

「マイ・キリーを、生死の境まで追い詰めてくれた。あなた方は、ツェルニの誰にもできないことをやってくれた。その事に関して、礼を言わせていただきたい」

 

 ハイアは明らかに不愉快そうな表情になった。フェルマウスの感情は分からないが、纏った雰囲気から嫌悪感のようなものが滲んでいる。

 

「それのどこに、礼を言うところがある? 嗤いにきたなら、素直に嗤えよ。あ?」

 

 ハイアから殺気に似たものを感じた。おそらく剄を感じられたなら、剄が荒れ狂っているのが分かっただろう。こういう時、自分は一般人で良かったと思う。剄を感じて震え上がらなくて済む。

 

「嗤うなど、とんでもない。私の中で、決心をつけることができたきっかけになりました。あなたたちはルシフ君をどう思っています?」

 

「……ルシフ?」

 

 ハイアの顔が青ざめ、身体をガタガタと震わせ始めた。ルシフがトラウマになっているようだ。まぁあんな目に遭わされたら、無理もない。

 

「おい、お前。二度と、ルシフの名を口にするな」

 

「天下のサリンバン教導傭兵団が、たかが一人の少年を恐れるのですか?」

 

「お前はいままで何を見てきたさ? アイツは少年じゃない。気に入らないものは全て痛めつける化け物さ。もう二度と、アイツに関わるのはゴメンだね」

 

「……関わらざるを得ない……と言ったら?」

 

「……何?」

 

「ルシフ君の力をハイア君はよく知っている。そして、ルシフ君が一つの都市だけで一生を終えるような人間に見えますか?」

 

「さっきから回りくどい。何が言いたい?」

 

「ルシフ君の息がある限り、あなたは死ぬまで恐怖にとらわれるということですよ」

 

 ハイアが右目を見開いた。

 

『ルシフに関することで、我々に依頼があるのですか?』

 

「はい、そうです。依頼内容は──」

 

 カリアンが依頼について話し始めた。

 

『……それだけでよろしいのですか? それだと報酬が多すぎる気がしますが』

 

 全ての話を聞き終えると、フェルマウスは思ったより難しくない依頼に拍子抜けしたようだ。

 

「報酬は私の気持ちの表れです。私の家はそれなりに稼ぎがあるので、ちゃんと全額払います」

 

「……本当に、お前が言うような状況がくるのか?」

 

 ハイアが疑り深そうにカリアンを見ていた。

 

「はい、必ず」

 

「なら、選択肢なんてないさ。そうだろ、団長さんよ」

 

『……ああ。この依頼、引き受けさせていただきます』

 

「感謝いたします。よろしくお願いします」

 

 カリアンは立ち上がり、頭を下げた。

 

「では、私はこれで失礼します」

 

 カリアンが扉に向かう。途中で振り返り、ハイアを見た。

 ハイアが不愉快そうにカリアンを睨む。

 

「なんさ?」

 

「何故、義眼を左目に入れないのです? ツェルニは義眼を入れる医療技術がありますし、手術代も余裕で払えるでしょう?」

 

 ハイアがカリアンから顔を逸らした。

 

「……あの化け物を潰すためなら、何をしても許されるって思ってた。けど、違うってことに気付いたんさ。卑劣で外道な手を使った時点で、おれっちも同じになる。この左目は、その教訓を忘れないための戒めさ」

 

「ということは、一生眼帯を?」

 

「おれっちのせいで、女の子が一人死ぬところだった。入院していた二ヶ月半で、そう思うようになった。女の子の一生を奪いそうになった罪にしては、軽すぎる罪さ」

 

 ハイアは顔を逸らしたままだった。そのため、表情は分からない。だが、誘拐したのを心から恥じているように感じた。

 これなら、自分の思い描いた通りの展開になるかもしれない。

 カリアンは身体が重くなった気がした。ルシフに対して、ひどいことをしようとしている。その自覚があった。

 カリアンは部屋を出て、サリンバン教導傭兵団の放浪バスを後にした。

 カリアンが訪れた日の夜。サリンバン教導傭兵団の放浪バスが動き出し、何も言わずにツェルニから去っていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 一ヶ月程前から、ツェルニは夏季帯に移行していた。夏の地域にツェルニが移動してきたのである。

 その関係で、養殖湖の中に遊泳解放区というものができた。これは今年だけでなく、毎年夏季帯に移行すると養殖湖の決められた区画をプールのように使う慣習がツェルニにあった。

 養殖湖の遊泳解放区は砂浜があるため、年中使用されている室内プールと違った開放感があり、夏はプールより養殖湖の遊泳解放区の方が人気がある。特に、今日の混み具合は異常と言っていいほど、たくさんの人で溢れていた。

 理由はルシフとマイと教員四人が遊泳解放区の一部の場所を借り、パフォーマンスをするからだ。本来なら教員全員出演予定だったが、フェイルスが辞退していた。フェイルスはそういう目立つことが苦手なのだ。

 そもそもの発端は、シャーニッドの一言だった。休みが欲しいとニーナに言い、ニーナも最近訓練ばかりで休暇がほとんどなかったのを考慮し、一日休暇を増やした。

 シャーニッドは更に一言、休暇の日は第十七小隊全員で養殖湖に遊びに行こうと言い出した。ニーナは遊びという言葉に抵抗があったが、シャーニッドに説得され、最終的に承認した。そして、その場にいたルシフが言った。どうせなら、忘れられない程充実した休暇にしてやると。

 その話が一ヶ月前。それからルシフは音楽関係の活動をしているグループに接触し、ステージの音楽の演奏を頼んだ。滅多にない機会のため、相手側も快く引き受けた。ルシフとマイと教員五人が完全防音の一室を頻繁に借り、夜その一室にこもるようになったのもその頃からだ。二週間前からは音楽を担当する学生たちも、楽器を抱えてその部屋に入っていく姿が多数目撃されていた。完全非公開で窓も常にカーテンで覆われているため、何をしているか外からは分からないようになっていた。

 更にルシフは美術関係の活動をしているグループに接触し、一緒になってポスターを作った。休暇の一週間前にはツェルニの至るところに貼られ、ほとんどの学生がルシフたちのパフォーマンスの場所と日時を知った。ちなみにポスターにはキャッチコピーとして『誰も見たことがない最高のエンターテイメント!』と書かれていた。

 バンアレン・デイから今日までの二ヶ月半。ルシフは様々な場所に顔を出した。医療関係や錬金鋼(ダイト)関係、芸術関係から飲食店関係まで幅広く接触した。誰もが最初、ルシフの来訪に驚いたが、ルシフの態度が不愉快なものではなかったため、受け入れた。ルシフの傲慢さは、そういう場では抑えられていたからだ。ルシフ自身、武芸と頭脳は誰よりも優れていると思っているが、そういった方面はまだまだ学ぶところがあり、その分野に関しては誰よりも優れていると今は言えないことを理解しているからだろう。それから彼らは何度もルシフと行動する内に、ルシフとの壁のようなものがなくなり、ルシフへの感情が好意的なものになっていった。

 そういう背景の中、ルシフや人気のあるマイと教員たちがパフォーマンスをする。情報ではパフォーマンスに向けた練習も熱心にしているらしい。これは絶対にすごいパフォーマンスになる、とポスターを見た学生たちは確信し、どうせならそのついでに養殖湖で泳ごうという流れができた。だから、今日の養殖湖の遊泳解放区は今までにない程混んでいたのだ。

 

「すっげぇ人だぜ。なぁレイフォン、ルシフ、ハーレイ!」

 

「そうですね」

 

 興奮しているシャーニッドの気持ちが分からず、レイフォンは適当に相づちを打った。

 

「馬鹿野郎! なんだそのやる気のない返事は!? そんなだから水着もやる気ないのか!?」

 

「水着のやる気って、先輩は何を言ってるんです?」

 

 レイフォンの水着はトランクスタイプの水着だった。

 

「男は、こうあるべきだ!」

 

 シャーニッドの水着はビキニタイプ。ぴったりとしていて、とても窮屈な印象だった。

 

「周りを見てみろ! 女性たちの熱い視線を感じるだろ!?」

 

「はぁ」

 

 レイフォンは軽く周囲を見渡す。シャーニッドの言う通り、遠巻きにたくさんの女子が集まっていて、熱っぽい視線をこちらに向けていた。

 

 ──でも絶対視線の先はルシフなんだよなぁ。

 

 レイフォンはちらりと横を見る。ルシフが水着で立っていた。

 ルシフの水着もレイフォンと同じく、トランクスタイプだった。ルシフは普段きっちりと制服を着ているため、肌の露出は少ない。しかし、今は水着一枚。鍛え上げられた逞しい肉体があらわになっている。そういう普段見られない隠れた一面が、女子たちの心を鷲掴みにしているのだろう。

 実際はレイフォンにも熱い視線を向けている女子たちがいるのだが、レイフォンは気付かない。シャーニッドもモテるため、視線を向けている女子はいた。だが、ルシフと比べたら視線の数の桁が違う。

 

「ルシフ、お前は俺から離れろ。俺の輝きが陰っちまう」

 

「お前はそれで満足なのか? 小さい男だ」

 

「ぐっ……モテてぇんだよ! 女子の視線を独り占めしてぇんだよ! それをお前……お前は! お前がいると俺が引き立て役にしかならねぇ!」

 

 ルシフは呆れた表情でため息をついた。シャーニッドへの視線がそこら辺に落ちている石ころを見る目になっている。

 

「こんな卑屈な奴といたら、気分が悪くなる。アルセイフ、サットン、あっちに行くぞ。エリプソンは一人が良いようだ」

 

 シャーニッドがレイフォンとハーレイの腕を掴んだ。

 

「お前らは俺と一緒にいてくれ! 俺の引き立て役になってくれよぉ!」

 

「うわぁ……」

 

「ちょっと先輩が壊れてますね」

 

 レイフォンとハーレイはシャーニッドのなりふり構わない姿にドン引きしていた。

 ルシフはシャーニッドを無視して、教員のエリゴ、レオナルト、フェイルスがいるところに行った。その辺りも女子が少なからず集まっている。レイフォンたちの周りにいた大半の女子たちも、ルシフの移動に合わせて移動した。残った女子は十人程度だった。シャーニッドは涙目になる。

 

「ルシフ! やっぱり俺と一緒にいてくれぇ!」

 

 シャーニッドがルシフを追いかける。それに釣られるように、レイフォンとハーレイもシャーニッドの後ろに付いていった。

 そうこうしている間に、女性陣が更衣室から出てきた。ニーナ、ナルキ、フェリの第十七小隊の面々と、ダルシェナにマイ、メイシェン、ミィフィ、リーリン、教員のアストリットとバーティンの計十名。

 

「……うわ、何あれ?」

 

 リーリンがルシフたちの方を見て目を丸くしている。あまりの女子の多さと熱気に戸惑っているようだ。

 

「ルシフのファンクラブの女子たちだな」

 

「……カメラのフラッシュすご……」

 

 メィシェンが眩しそうに目を細めて呟いた。

 ミィフィがルシフに駆け寄る。小さなボイスレコーダーを右手に持っていた。

 

「はい! 週刊ルックンのミィフィ・ロッテンです! 今回は何故ルシフ・ディ・アシェナはモテるのか!? そのモテる秘訣を本人からどどんと答えてもらっちゃいます! また、女子に対する好みにも急接近!」

 

 周りの女子たちが拍手し、拍手の音が響いた。ノリが良くて、ミィフィは気分が良くなった。

 

「いきなりなんだ?」

 

「インタビューだよ、インタビュー! ルッシーはツェルニ中の人に注目されてるから、記事にするだけで売り上げの数字がものすごいことになるんだよ!

てなわけで、ルシフ君に訊きます! 女の子から絶大な人気を誇っていますが、何か努力しているところとか気にしているところはありますか?」

 

 ルシフがため息をついて、ミィフィを見た。

 

「……お前は太陽に何故輝いているのかと訊くのか?」

 

「え~と、ルシフ君がモテるのは当然で、別に努力はしてないという意味でしょうか?

ちょっとルッシー、ちゃんと答えてよ。数字取れないじゃない」

 

 後半は小声でミィフィが言った。

 

「モテてない時がないからな。正直どうしたらモテるとかは分からん。分かっているのは、俺より良い男は存在しないということだけだ」

 

「あ、はい、そうですか。もういいです。次の質問にいっちゃいます! ルシフ君の好きな女の子のタイプはなんですか?」

 

 今まで興味なさそうにしていたマイ、バーティン、アストリットがミィフィの声に反応した。ルシフの返答に全神経を集中している。

 ルシフはちらりとマイの方を見たが、すぐに視線をミィフィに戻す。

 

「強いて言えば、自分をしっかり持ってる女だな」

 

「成る程! おどおどしていたり弱気な女の子はタイプじゃないということですね! ツェルニの女子には嬉しい情報をいただきました! じゃあ、どんどん質問しちゃいます! デートはどこがおすすめですか? 女の子へのプレゼントは何が一番良いですか? 告白された時、一番心にくる言葉はなんですかね?」

 

 ルシフは軽く頭を掻く。ミィフィに背を向けた。

 

「付き合ってられん。レオナルト、エリゴ、フェイルス、向こうで泳ぎの勝負をしよう」

 

「おう。相手が大将でも負けねぇからな」

 

 ルシフら四人は砂浜の方に行った。

 

「あ~ここまでかぁ。ま、楽しかったからいいや」

 

 ミィフィは残念そうな声を出しながらも、表情は満足気だった。

 そこからいくつかのグループができ、泳ぎにいくグループがいたり、遊泳解放区の遊具で遊ぶグループがいたりした。

 遊泳解放区の一部は柵で囲われ、水の上にステージが作ってあった。ルシフたちがパフォーマンスするステージである。ルシフが水の上にステージを作るよう言い、ステージを作る学生たちと一緒になってステージを作った。

 マイとフェリはパラソルの中で座りながら、棒アイスを食べている。女性陣の荷物番をしていた。二人とも上に白のTシャツを着ている。Tシャツの下には水着。マイは首に赤のスカーフを巻き、もう一方の手に錬金鋼の杖を持っていた。

 泳ぎに行っていたニーナとダルシェナが二人のところに戻ってくる。遊具で遊んでいた他の女性たちも少し後に来た。

 

「二人とも水に入らないのか? フェリはともかく、マイは入ると思っていたんだがな」

 

 ニーナはここ三ヶ月、マイやフェリと一緒にいる機会が増えた。その時に、マイは念威操者には珍しい高い身体能力を持っているのを知った。もっとも剄で身体強化をできる武芸者には当然及ばないが、身体強化無しなら武芸者と遜色ないレベル。身体を動かすことも、マイは好きなようだった。だから、ニーナはマイがパラソルの中で大人しくしているのに疑問を持った。

 

「ルシフ様だけが入った水ならいいですが、ルシフ様以外の男が入った水はちょっと……」

 

 マイの男嫌いは異常なレベルだった。近付くことはおろか、近付いてくるのも許さない。男に対して、極度の反感を抱いている。それだけに、何故男のルシフを慕っているのか、ニーナは不思議だった。好きだから、の一言ですますことのできない、何か別の理由があるのではないか。ニーナは内心そう考えている。

 

「ルッシーとパフォーマンスするんですよね? 具体的に何をするかちょっとだけでいいんで教えてもらえないですか?」

 

 ミィフィがマイに訊いた。

 

「音楽に合わせて踊るだけですよ」

 

「……それだけですか?」

 

「ええ。その練習しか、今までしてません」

 

「なんていうか、普通。拍子抜けした」

 

「こら、ミィ。いきなり冷めるな。お前の悪いところだぞ」

 

「だってナッキ! ポスターには『誰も見たことがない最高のエンターテイメント』って書かれてたんだよ! それが何!? 音に合わせて踊るだけって! アホか! 最高のエンターテイメントとやらを最高の画質で撮影するために、機能が良くて値段も高いカメラを買ったわたしがバカみたいじゃん! あ、元々バカだった……ってやかましいわ!」

 

「……ナッキ、ミィがいつもよりおかしくなってる」

 

「暑さのせいかな」

 

「ちーがーうー! なんていうかこう、ルッシーらしくないじゃん! ルッシーは型破りにみえて型があったり、型があるようにみえて型破りだったり、とにかくどっかをセオリーと外してくるじゃん! それがないのが本当にガッカリしちゃって……」

 

「それは私も疑問なんですよね。なんていうか、ルシフ様らしくないというか、遊びが無さすぎるというか」

 

 マイもミィフィに同意し、頷いた。

 

「ですよね! ですよね!! 一応最前列はキープしてありますから、見るだけ見てみます。マイ先輩、頑張ってください」

 

「ありがとうございます、ミィフィさん。私はそろそろあっちに行きますね。もうすぐパフォーマンスの時間ですから」

 

 マイはそう言って、白のTシャツを脱いだ。ビキニタイプの白の水着があらわになる。こうして見ると、マイの胸は大きい方だろう。しっかり谷間があった。しかし大きすぎず、くびれもちゃんとある。女が目指す理想的な体型かもしれない。

 バーティンはその姿を羨ましそうに見ていた。バーティンは全くと言っていいほど、胸のふくらみがない。

 アストリットはマイよりも大きな胸をしていて、しまるところはしまっているモデルのような体型。

 アストリットがバーティンに近付いた。

 

「バーティンさんは相変わらず完璧なプロポーションですわね」

 

「あぁん!? 誰が完全な壁だコラァ! 凹凸くらいあるわ! その胸に付いてる二つの饅頭切り取って口にねじこんでやろうか!?」

 

「あらイヤだ。褒めてますのに。これだからネガティブな方は嫌いですの。もっとポジティブに言葉を受け取れません?」

 

「……絶対いつか泣かす。泣きながら謝らせてやる」

 

「その願い、叶うといいですわね」

 

 アストリットはステージの方に歩き始めた。

 バーティンはアストリットの後ろ姿をしばらく睨んでいた。かろうじて頭が見えるところまでアストリットが離れたら、アストリットと同じ方角に歩き出した。

 マイは二人のやり取りを冷めた表情で静観していたが、バーティンが歩き出したらそのすぐ後ろに付いていった。

 ルシフたちのパフォーマンスの時間が近付いてきた。学生たちは自然とステージの周囲に集まり始める。ニーナたちは最前列を確保できた。

 砂浜の上に板が敷かれていて、それぞれの楽器を持った学生たちが板の上に椅子を置いて座っている。指揮者らしき学生は台の上に立っていた。全員強張った表情をしている。これだけの人数の前で演奏したことがないのだろう。

 ステージにルシフたちが砂浜から跳び乗った。マイは念威端子を足場にしてステージに乗った。ステージは砂浜から三メートル離れていて、水に囲まれているからだ。フェイルスの姿はステージにない。演奏する場所の近くにいた。裏方に徹するらしい。

 歓声が支配する中、ステージに立ったルシフたちは無言で立ち位置につく。指揮者がそれを見て、右手に持つ指揮棒を上げた。指揮棒を持っていない左手は人差し指だけ立てている。演奏隊がいつでも楽器を演奏できる体勢になった。次に指揮者の指を見て、全員軽く頷いた。

 ルシフはパフォーマンスの前に何も言うつもりはないようだ。指揮者が振り向いてルシフを見た。ルシフはただ頷く。

 指揮者が指揮棒を振り始める。騒然としていた遊泳解放区が音楽の波に包まれ、観客は口を閉ざしていった。音楽は軽快でノリが良く、自然と身体が動いてしまうような躍動感があった。

 ルシフたちの踊りはキレがあり、周りとしっかり踊りを合わせられていて、見ているだけで楽しめた。ルシフが踊っている姿はどうなるかと思っていたが、杞憂だった。不思議と違和感は感じない。ルシフの表情は普段通りの勝ち気な表情。

 歓声はなかったが、観客の誰もが楽しそうな表情をしていた。それに何か別の色が混じっている。なんの色が混じっているかニーナは考え、答えらしきものにたどり着いた。

 それはルシフに対する期待感。あのルシフが、このまま終わる筈がない。何か想像もつかないようなことをやってくれる。どんなすごいことをやるつもりなんだ。そういう観客たちの思いがこの場所に満ち、妙な空気ができ上がり始めている。

 ニーナは彼らを少し可哀想に思った。マイから、ただ音に合わせて踊るだけと聞いているため、これ以外何もないと知っている。

 指揮者の左手の立っている指が、一本から二本になった。音楽がガラリと変わる。躍動感のある感じから、心に沁みるようなゆったりとした感じになった。どうやら指揮者の立った指の数に応じて、どの曲を流すか決められているようだ。

 音楽に合わせて、ルシフたちの踊りも激しいものから静かで抑揚のあるものに変わっていた。この踊りの変化も完璧で、一切周りとズレがなかった。相当踊りの練習をしていたのが分かる。

 しばらくは音楽と踊りの変化を楽しむステージだった。意外性はないが、安定して楽しめる。それだけに、観客たちの感情の爆発のようなものはない。

 ステージに異変が訪れたのは、三番目の音楽の途中からだった。

 ステージを囲っている水から一つ、水球が浮かび上がった。水球はルシフの胸の前に浮かんだまま、静止している。ニーナは剄を目に集中し、水球に注目した。ルシフから剄があふれている。剄で水を操って水球を作り、浮かばせているらしい。ニーナは知る由もないが、ルシフは化錬剄で剄を吸着する性質に変化させ、水を剄に吸着させて操っている。

 ルシフ以外の踊りが少し乱れた。

 

「おい、大将! そんなの聞いてねぇぞ!」

 

 レオナルトが困惑した表情で言った。レオナルトだけでなく、全員知らされていないようだ。ルシフ以外の踊りは、精彩を少し欠いている。このまま予定通り踊っていいのか。そんな迷いが踊りに出ていた。

 

「お前ら、ウォーミングアップは終わりだ!」

 

 ルシフがそう言うと、ルシフの前に浮かんでいる水球が形を変え、犬を模した形になった。水でできた犬が、水面でぎこちなく踊り始めた。

 歓声が上がる。

 

「まだまだいくぞ」

 

 円を描くようにステージの周囲から次々に水球が浮かび上がり、それぞれの水球が別々の形に変化していく。猫。うさぎ。豚。牛。虎。熊。猪。馬。ねずみ。猿。象。ニーナに分かるのはデータベースの情報も合わせてそれだけだったが、多数の動物の形を模しているのは明らかだった。それらの動物がステージの周囲の水面で踊り出す。歓声が更に大きくなった。音楽が聞こえなくなるほどだ。

 ニーナ自身、あんぐりと口を開けてしまっていた。こんな剄技は見たことがない。更に驚くべきところは、ルシフは踊りを全く乱さずにたくさんの動物の形にした水を操っていることだ。

 

「旦那。俺たちは一体どうすりゃいいんですか?」

 

「心のまま踊れ。悔いのないようにな」

 

 ルシフの言葉で吹っ切れたのか、ルシフ以外の踊りから迷いが消えた。ただ、さっきまでのズレがない踊りではなく、それぞれが踊りたいように踊っている。全員水面で踊る動物たちを見ながら笑みを浮かべていた。

 

「指揮者よ!」

 

 ルシフが叫んだ。指揮者がルシフの方を振り返る。

 

「お前も好きに音楽の物語を紡げ! 俺たちがその物語に色をつけてやる!」

 

 指揮者は熱を帯びた表情で大きく頷いた。自分が考える最高の音楽の構成をしていいと言われたのだ。これで燃えないわけがない。左手の指が四本立つ。音楽がまた変化した。

 

「演奏隊!」

 

 ルシフがまた叫んだ。演奏隊は視線だけルシフに送る。

 

「失敗を恐れるな! 自分のやりたいように音を生み出してみろ!」

 

 演奏隊の表情が変わった。制限のない自由な音を好きに出していい。失敗しても怒られない。それは演奏する者にとって、とても魅力的な響きだった。

 音に演奏隊の気持ちが乗る。まるで生き物のように、音楽が様々な表情を見せ始めた。

 さっきまでのパフォーマンスとはうって変わり、調和は一切なくなっている。まるでお祭り騒ぎだ。統一感も協調性もない。しかし、さっきより楽しい気分になってくるから不思議だ。

 ルシフは動物たちの形をした水を集め、大きくて長いものを作り始めた。それは娯楽作品でよく目にする架空生物──龍だ。そういった方面に疎いニーナですら知っている、超メジャーな架空生物。龍の形をした水が、ルシフの周りをとぐろを巻くように動く。水龍の胴体の渦の中で、ルシフは踊り続ける。

 観客のボルテージは最高潮だった。ミィフィは興奮しながら、カメラで写真を撮りまくっていた。

 それからレオナルトが化錬剄で火の輪を作り、ルシフが水の動物に火の輪をくぐらせたり、マイが念威端子を利用して空中で踊ったり、アストリットが化錬剄で水の動物たちを凍らせて氷像にしたりしていた。暑いため、すぐに水に戻ったが。

 そういう感動があれば、笑いもあった。大きな虎の形をした水にエリゴが襲われ、エリゴが食べられないよう必死に抵抗する場面があった。その時のエリゴの動きがコミカルで、自然と笑えた。アドリブでそういう動きができるあたり、ルシフと本当に仲が良いと感じた。

 ルシフはそんなステージで、少年のような無防備で楽しそうな笑みをしていた。

 

「こんなの、ダメだ」

 

 ニーナが声がした方を見た。ナルキだった。ナルキは身体を震わせている。

 

「剄はこの世界で人が生きるために与えられた、神様からの贈り物なんだ。こんな風に見世物にしちゃダメなんだ。

なのにわたしは、これを見て身体が震えてる。間違ってるのに、否定できない。理屈じゃなくて、心がこれは正しいんだって認めてる。隊長、わたしはおかしくなってしまったのでしょうか?」

 

「……いや、おかしくない。今までの剄の認識が間違っていると、わたしは思い始めた。剄を戦いの道具としか、世界は見ていない。剄が人に与えられた贈り物なら、人らしく剄を使えばいい。そんな当たり前の考えを、この世界は否定してきた。剄に対する視野を狭め、剄が持つ可能性を潰し続けた。このステージを見ていると、わたしもそう思ってしまう」

 

 この世界の価値観では、こんな剄の使い方は非難される。軽蔑される。見下される。だが、今ここに集まっている人の中に、ルシフたちに嫌悪感を抱いている者はいなかった。剄が見せる様々な変化を純粋に楽しんでいる。

 ニーナの視線はルシフを捉え続けた。言葉では表現できない熱を、ルシフの全身から感じる。

 ニーナの目から、涙が流れた。何故、涙が流れる? 分からない。嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。それなのに、涙が止まらない。

 ルシフは一瞬一瞬に自身の熱を凝縮させて生きているような気がした。まるで命を燃やして生きている。ルシフ以外の人間は、明日もいつも通りいると思う。しかしルシフは、明日はふといなくなっているような感じがなんとなくする。だからか。だから、こんなにもルシフの姿に心を打たれるのか。

 観客の中に、泣いている人間も少なからずいた。

 

「……隊長。教員が来てから、今何ヶ月か分かりますか?」

 

 フェリがニーナに言った。ニーナははっとした表情で、フェリを見た。無表情だが、両目から涙が流れている。

 

「ちょうど五ヶ月くらいだろう。それがどうした?」

 

「あと一ヶ月で、教員はツェルニからいなくなります。このステージは、彼らが最後にツェルニの学生たちと心から楽しむ機会でしょう」

 

「……ルシフはそこまで考えて、パフォーマンスすると言ったのか」

 

 教員たちがツェルニを離れる前に、学生たちと一緒に思いっきり楽しむ。ルシフは、そんなことまで考えていたのか。そう考えると、ルシフがいきなりパフォーマンスすると言った真意が分かった気がした。

 

「あくまでもわたしの予想ですが。勘の良い観客はそう予想して、泣いている人もいるようです」

 

 水面に無数の鳥の形をした水が生まれた。水鳥の群れが、天に向かって一斉に飛び立つ。どっと歓声があがった。天に羽ばたいた鳥の群れはかなりの高さまで飛ぶと、水に戻った。シャワーのように水が観客たちに降り注ぎ、楽しそうな悲鳴があがる。ニーナもずぶ濡れになった。そうなっても演奏隊の方は全く水がかかっていないあたり、ルシフの配慮が感じられた。

 その後、大きな虹が空にかかる。観客たちはほぅとため息をついた。

 ルシフたちのパフォーマンスはポスターのキャッチコピー通り、一生心に残るような衝撃的なパフォーマンスだった。

 まるで夢の中にいるような、幻想的な空間と時間がステージを支配していた。あっという間にパフォーマンス終了の時間がきた。空はもうすでに少し暗くなってきている。

 ルシフが右手をまっすぐ頭上にあげ、指を鳴らした。

 ヒューという音に合わせ、光の玉が養殖湖の空に上がっていく。そして、轟音とともに光の花が咲いた。花火だ。次々に光の花が咲き、クライマックスに相応しい幻想的な光の魔法に、観客たちは酔った。

 花火が終わると、ルシフはステージの一番前に立った。

 

「お前ら、楽しかったか? 俺は楽しかった。見にきてくれて、ありがとな」

 

 地を揺るがすほどの拍手が、養殖湖を包みこんだ。誰も言葉を口にせず、両手を叩いた。今見たパフォーマンスを言葉で表現するなんてできない。それほどまでに、凄まじいパフォーマンスだったのだ。

 こうして、ルシフたちのパフォーマンスは終了した。

 ちなみにこのパフォーマンスがあった次の日、ルシフのファンクラブのメンバー数は一気に二倍になり、六百人を超えた。

 マイの方も普段見られない貴重な笑顔が見られたということで男の人気が爆発しファンクラブができたのだが、それはまた別の話である。

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 パフォーマンスをした日の夜。教員五人とマイはルシフの部屋に来ていた。ルシフから来るように言われたからだ。

 リビングのソファーや椅子にそれぞれ座っている。

 

「お前ら、今日はどうだった?」

 

「すっげぇ楽しかったぜ。疲れたけどな」

 

 レオナルトの言葉に、全員が頷いた。

 

「そうか。なら、もう心残りはないな?」

 

 教員五人は頷く。あと一ヶ月でツェルニを離れるのは、教員五人が一番分かっていたのだ。

 

「俺もお前らと一緒にツェルニを離れる」

 

「えっ、マジですかい?」

 

 エリゴが驚いた表情で言った。それ以外も驚いている。

 

「もう十分学園都市は堪能したからな。これ以上滞在する必要はない。退学してイアハイムに戻り、少し休養してから本格的に全レギオスを支配していく」

 

 ごくりと、全員生唾を飲み込んでいた。待ちわびた時が、もうすぐ来る。

 

「マイ。お前も退学して、イアハイムに来てもらう。いいか?」

 

「はい。ルシフ様がいないツェルニなんて、私にとって無価値ですから」

 

 世界が覆る。

 その瞬間は刻一刻と確実に近付いてきていた。



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第50話 呪縛からの解放

 重苦しい空気が室内に充満している。

 少なくともゴルネオはそう感じた。

 カルヴァーンやカナリスはともかく、いつも笑みを崩さないサヴァリスでさえ、今は笑みを消していた。

 何故こんな空気になっているのか、ゴルネオには分からなかった。

 ルシフのパフォーマンスを見終わり部屋に帰ってきたらこの状態だから、やはりルシフが関係しているのか。天剣三人は基本部屋から出ないが、もしかしたらどこかに隠れてルシフのパフォーマンスを見たのかもしれない。

 

「兄さん、何かあったのですか?」

 

「ゴル、君はルシフのパフォーマンスを見てどう思った?」

 

「どうもこうも、凄まじいパフォーマンスだったとしか言えないです」

 

「その通り。多分全自律型移動都市(レギオス)を探したって、あんな剄技を使える武芸者はルシフだけだろうね。そもそも、敵を倒すのに直結しないあんな剄技を覚えようなんて、武芸者は基本考えない」

 

 剄は、都市を守るために使うもの。それが武芸者にとって常識であり、剄技も戦闘に関連しているものしか覚えようとしない。

 ルシフのした剄技は、ただ水を剄で操る剄技。ただの水を操って戦闘が有利になる状況は、本当に稀だろう。前提条件であれだけの水が必要になるのも、戦闘に向いてないと言わざるを得ない。

 

「……しかし、それがどうしてこんな重苦しい空気になるのです?」

 

「言っただろ? あんな剄技を使えるのはルシフしかいないって。ルシフはあんな奇想天外な剄技を、いくつも持ってるんだろうねぇ。剄量が元々でも僕らと同じくらいあるのに、あれほど剄のコントロールを身につけている。才能だけじゃたどり着けない境地にルシフはいるんだ。だから、同じ武芸者としてちょっと敬意のようなものを感じてさ」

 

 ゴルネオは思わず吹き出しそうになった。あのサヴァリスの口からまさか敬意などという言葉が出てくるとは。

 サヴァリスは戦闘にしか興味のない人間で、自分の戦闘欲を満たしてくれるかどうかでしか、他人を評価しない。そんな人間ですら、ルシフに対しては認める部分がある。

 

「ルシフは一刻も早く始末するべきです」

 

 カナリスが言った。

 全員がカナリスに視線を向ける。

 

「一度毒殺を試みましたが、ルシフは運良く免れました 」

 

 バン・アレンデイの日。カナリスは殺剄を使って早朝に教室に忍び込み、毒入りのチョコレートをルシフの机に置いた。その時にはもうルシフの机にプレゼントが幾つも置かれていたため、カナリスのチョコレートは違和感のない状態だった。

 しかし、知ってか知らずかルシフは机のプレゼントの山を見もせずに全て燃やし尽くした。カナリスの計画は呆気なく失敗した。もしかしたら、ルシフはそういう刺客から狙われるのに慣れているのかもしれない。だから、直接渡してきたプレゼント以外は受け取らない。

 カナリスが生まれた家は、グレンダン王家の暗部を担う家だった。カナリスはアルシェイラの影武者となるべく幼い頃から育てられ、整形手術をしてアルシェイラと似た容姿にもされた。そういう家のため、カナリスは毒の心得があった。

 カナリスは失敗した後も毒殺するタイミングを窺っていたが、ルシフに隙は無かった。いや、隙はあった。あったが、それは誘いの隙だと、カナリスは気付いていた。もしその隙をついて毒殺しようとしたら、逆にこちらの存在が浮き彫りになり返り討ちにされただろう。

 

「……カナリス。お主のその頑なにルシフを排除しようとする意思。それは女王陛下のためか? それとも、その身体の震えのせいか?」

 

 カルヴァーンが言った。

 カナリスは両手で自身の身体を抱き、身体の震えを抑えつけようとする。

 カルヴァーンはため息をついた。

 

「……お主の気持ちも分かる。あの剄技を見て、心を動かされん者はおらんだろう。特に武芸者にとって、あの剄技は衝撃的な筈だ。

三ヶ月、ルシフを監視しておったが、奴は殺すまでの悪ではないと私は思う」

 

「カルヴァーンさんはマイアスでルシフがしたことを忘れたんですか!?」

 

「無論、覚えておる。だから、奴から廃貴族は必ず奪い、グレンダンに連行する。廃貴族を奪い監視下におけば、ルシフといえど何もできんだろう。要は、ルシフが暴れても抑えつけられる状態にしておけばいい」

 

 カナリスはしばらく沈黙していた。顔は俯けている。身体の震えは今もおさまらないようで、両手で身体を抱き続けていた。

 

「……私は、反対です」

 

 カナリスが顔を俯けたまま、呟いた。

 

「あの男は殺すべきです。グレンダンに連行して、グレンダンの民が奴を支持するようになれば、とても厄介なことになります」

 

 サヴァリスとカルヴァーンは無言でカナリスの言葉を聞いていた。

 カナリスは今までアルシェイラのために生き、アルシェイラのために生きることが自身の存在意義だと思っている。ルシフは、そんなカナリスを壊す可能性があった。ルシフの異常だが惹き込まれる価値観に触れ続ければ、アルシェイラに対して疑念を抱き、アルシェイラは間違っていると考えるようになってしまうかもしれない。

 カナリスにとって、それは死より耐え難いもの。

 

「ルシフは殺します、必ず。どんな手を使っても」

 

 カナリスの呪詛のような言葉だけが、室内に響いた。

 

「マイ・キリー。あの少女を上手く利用すれば、きっと……」

 

 カナリスの呟きが再び室内に響いた。

 ゴルネオの心臓がどくんと跳ねた。もしかしたら天剣授受者たちはマイアスでのルシフの暴走をどこかで見ていたのかもしれない。

 確かにマイ・キリーはルシフにとって弱点であるのは間違いない。だが、弱点に手を出したサリンバン教導傭兵団はどうなった? その時たまたま敵だったマイアスの武芸者は?

 マイ・キリーは弱点であるのと同時に、ルシフの怒りの起爆剤でもある。手を出せば最後、無事では済まない。ルシフを確実に殺さない限り。

 そもそも、ルシフのマイを想う心は弱点と言っていいのか。それはルシフが人の心を持っているという何よりの証ではないのか。それを奪えば、ルシフは人でなくなる。弱点のない正真正銘の悪魔になってしまう。

 自分はこのまま黙っていていいのか。最悪な事態に向かおうとしているのではないか。

 ゴルネオはそう思ったが、口から言葉は出てこなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 剣を振るう。ただひたすら縦横無尽に動きまわり、剣に剄を乗せ、型をなぞり続ける。

 レイフォンは都市外縁部で剣の鍛練をしていた。無性に鍛練をしたくなったのだ。

 養殖湖でのルシフのパフォーマンス。頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

 水を動物の形にし、踊らせる。一つだけではない。周囲をぐるりと囲んでいた。動物の数は二十以上いただろう。しかもそれぞれ違う動物だった。

 一体どれだけ才能があれば、一体どれだけ努力をすれば、あれができるようになるのか。自分には到底できないことだし、できるようになりたいとも思わないが、それでもルシフとの差を見せつけられたような感じだった。

 水でできた動物も動物の特徴をよく捉えていて、シルエットだけでもどの動物を模しているか分かる程、完成度が高かった。ルシフはポスターを美術関係の生徒と一緒になって作っていた。もしかしたらルシフは絵の心得があるのかもしれない。絵が描けるからこそ、ルシフは剄を通してイメージを表現する力がずば抜けているのか。

 レイフォンは剣を振るい続けた。様々な斬線が空中に刻まれる。

 自分がやる鍛練はこういうものしかない。剣の型の鍛練か、基本的な剄の扱いの鍛練か、鋼糸の鍛練。自分にとっての鍛練は、自分の今ある技術を更に向上させるためのもの。

 だが、ルシフは違う。ルシフは自分にできないことを常に鍛練しているのだろう。いわば、自分にない技術を身に付けるための鍛練。そして、ルシフは剄でできないことが鍛練をする度に無くなっていく。

 自分のやっている鍛練が無駄とは思わない。今ある技術を更に磨きあげるのは、そのまま自身の強さに直結する。ルシフのように手当たり次第新しいものを身に付けようとすれば、必ずどれも中途半端になって実戦で役に立たない技術、身に付ける必要の無い技術が出てくる。普通ならば。

 しかし、ルシフは手当たり次第新しいものを身に付けて、その完成度も高い。あの水を操る剄技を見れば、戦闘で使わないあんな剄技すら完璧に使いこなしているのが理解できる。ルシフの天性の戦闘センスと、絵描きで養われた表現力。それらが合わさり、本来なら効率の悪い鍛練がとても効率の良い鍛練になっている。

 外縁部を駆け回りながら、様々な型を繰り出し続ける。身体は休まず動き続けているが、頭は鍛練と関係ないことをずっと考えていた。

 

 ──なんでこんなに焦ってるのかな?

 

 早く強くなりたい。ルシフに少しでも近付きたい。そんな思いが心の底で燻っている。その燻りが身体を支配し、鍛練させるのだ。

 自分は武芸を捨てたいんじゃないのか。それが何故、こんなにも必死に鍛練している?

 

 ──リーリンが持ってきた錬金鋼は、間違いなくサイハーデン刀争術の皆伝の証。

 

 レイフォンが鍛練している理由はルシフだけが原因じゃなかった。

 ルシフのパフォーマンスが終わり、養殖湖から寮への帰り道。

 リーリンが錬金鋼の入った箱を渡してきた。

 レイフォンはその箱を受け取るのを拒否した。

 リーリンはその返事を聞いて怒り、最終的には自分も感情的になっていた。お互いの言い分をぶつけ合い続け、リーリンが耐えきれなくなって走り去り、その場はおさまった。

 

養父(とう)さんはもうあなたのことを許しているよ。むしろ、申し訳なくさえ思ってる。だから受け取って欲しいって』

 

 錬金鋼の箱を渡す時に言ったリーリンの言葉が、頭から離れない。

 その言葉を聞いた瞬間、全身がかっと熱くなるのを感じた。身体に震えがきた。

 分かっている。その言葉は、とても嬉しかったんだと。

 サイハーデン刀争術の門下でありながら闇試合に出場し、サイハーデン刀争術を金儲けの道具にした。

 天剣授受者に任命された時、天剣は剣の形にしてもらった。サイハーデン刀争術の技術もその時封じた。闇試合に関わったのは自分だけの問題であり、サイハーデン刀争術は関係ないと暗に示すために。

 それでも、養父に対して後ろめたさが消えることはなかった。どれだけサイハーデン刀争術を封じても、やはり自分の武芸の土台はサイハーデン刀争術なのだ。剄技を使わなくとも、動きにそれはどうしても出てしまう。

 闇試合が発覚し天剣授受者の地位を失った時、養父から何を言われるのか、養父がどんな顔をするのか知るのがたまらなく怖かった。

 孤児院の仲間たちはリーリンやごく少数を除き、誰もが非難し責めてきた。養父はいつもの厳しい表情をしていた。非難も責めも謝罪も何もなく、ただ黙っていた。

 許されないことをしている。その思いは闇試合に関わろうと決めた時からずっとあった。だが心の底では、みんなは自分のやったことを理解してくれる。許してくれると期待していた部分もあった。孤児院の仲間に責められて当然と思いながらも、孤児院のみんなのためにやったのになんで責められないといけないんだと、理不尽にも思った。

 今なら分かる。その考えは傲慢だと。孤児院の仲間たちは、孤児院のために金を稼いでほしいなんて一言も言わなかった。天剣授受者である自分を闇試合が発覚するまで、ずっと慕ってくれた。誇らしそうに友だちや近所の人たちに自慢していた。

 間違えた。今ならはっきり言える。自分は間違いを犯した。今もサイハーデン刀争術を使わないのは、いわばその間違いに対する罰なのだ。私欲のためにサイハーデン刀争術を利用した自分に、サイハーデン刀争術を名乗る資格はない。

 しかし、迷惑をかけたと思っていた養父のデルクは、もう自分のしたことを許すと言っている。

 本当だろうか? 心を砕き、厳しくも真剣に鍛えてきた教え子が、不純な目的で教えられた技術を使ったら、それを許すなんてできるのだろうか? それも、あの潔癖な養父が。

 リーリンが持っていた箱。中身は錬金鋼ではなく、絶縁状や恨み辛みが延々と書かれた手紙じゃないのか。自分をぬか喜びさせて、どん底に突き落とす。そういう復讐を、リーリンはしにきたのではないのか。

 リーリンの今までの接し方や性格から言ってその可能性は限りなく低い。が、ゼロではないのだ。

 もしあの箱に絶縁状のようなものが錬金鋼の代わりに入っていたら、自分は耐えられない。心が完全に折れてしまう。だから、あの箱を受け取るのが怖かった。

 身体を動かそう。考える余裕が生まれないくらい。

 レイフォンは外縁部を駆け回り続ける。

 考えれば考えるほど、悪い方向に向かっていく。考えないようにするやり方が、レイフォンはこれしか思い付かなかった。

 レイフォンは機関掃除のバイトの時間になるまで、鍛練を続けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 何を言っているか分からなかった。

 言葉は理解できるし、言葉の内容も理解できる。だが、何を言っているか分からなかった。

 生徒会長室にニーナはいた。ニーナの他に生徒会長のカリアン、武芸長のヴァンゼ、ルシフ、マイがいる。

 ルシフから生徒会長室に来るよう言われ、ニーナは生徒会長室にやってきた。

 そして、そこで衝撃的な言葉を、ルシフの口から聞いたのだ。

 

『俺とマイは教員がツェルニを去るのに合わせて、退学する』

 

 ニーナの脳裏にルシフに言われた言葉が再生された。

 この言葉が何を意味しているか、分からないわけがない。しかし、内容は理解できても納得はできなかった。

 ニーナの頭の中を何故? という疑問が埋め尽くしている。何故今なのか。何故いきなりそんな話になるのか。何故退学するのか。

 カリアンとヴァンゼも衝撃が大きかったようで、目を見開き言葉を失っている。

 ルシフとマイは別にいつも通りだ。別れを告げても悲しげな表情は一切していない。ルシフは自信満々な表情、マイは無表情。

 

「生徒会長であるお前と、一応俺の隊長であるアントークには、事前に退学の話をしておこうと思ってな、こうして集まってもらった」

 

「……他に退学の話をする相手はいるのかい?」

 

 カリアンが執務机が前に置いてある椅子に座りながら、ルシフの目を見て言った。

 

「別にいないな。マイ、お前は別れを告げておきたい奴はいるか?」

 

「いません」

 

 マイは即答した。

 ニーナはマイを見る。首に赤のスカーフ、右手に錬金鋼の杖。

 ルシフにマイと仲良くなるよう頼まれて二ヶ月半経ち、マイとなるべく出掛けたり遊んだりしたが、ルシフへの依存を軽くするほどの信頼は得られなかった。

 結局自分が二ヶ月半マイに対してやってきたことは、無駄だった。そう思わざるを得ないのが、ニーナは悲しかった。マイはリーリンとフェリとも仲良くなった筈なのに、彼女ら二人と別れるのをなんとも思っていない。もちろん自分とも、マイは別れるのに抵抗や悲しさはない。

 カリアンは意外そうな表情でルシフを見ている。

 ルシフは少し眉をひそめたが、しばらくして合点がいったのか表情が元に戻った。

 

「なんだカリアン。俺が講堂に全学生を集めて、別れの挨拶でもすると思ったのか?」

 

 カリアンは目を見開いた。図星か、とニーナは思った。

 ニーナ自身、ルシフは退学の前に全学生にスピーチするんじゃないかと、思っていたところもある。そういう支配者のような行動をしても、ルシフに違和感を感じないからだ。

 ルシフはカリアンの反応を見て、愉快そうに笑う。

 

「俺だって分をわきまえる。たかが一学生が退学の時に全学生を集めて別れの挨拶など、恥ずかしくてできんよ」

 

 よく言う、とニーナは思った。

 今まで分をわきまえず好き放題してきたくせに、今更分をわきまえると言っても説得力が無さすぎる。

 つまり、ルシフにとって別れの挨拶をするのは無意味なのだ。だが、生徒会長や武芸長、ルシフの隊長をしている自分はルシフの退学で色々手続きやら段取りをする羽目になるため、こうして退学の話をしたのだろう。

 ルシフはこういう気配りをさりげなくする男だと、ニーナは違法酒の件の時に気付いた。自分のことしか考えていないように見えて、相手のことを考えている。そんな男だからこそ、多数の学生から支持を得られるのだろう。

 

「お前とマイ・キリーが退学する話は、ここにいる俺たちしか知らないのか?」

 

 ヴァンゼがルシフに訊いた。

 

「お前らの他に教員五人も俺たち二人の退学を知っている。別に秘密の話にするつもりもないから、他の奴に喋りたいなら好きにすればいい」

 

「……何故なんだ、ルシフ?」

 

 ニーナは我慢できなくなり、問いかけた。

 

「何故というのは、何故退学するか、という意味か?」

 

「それもある! それだけではなく、何故今のタイミングで退学の話が急に出てくる!? お前が何を考えているか、わたしには全く分からない! お前がいなくなったら、わたしを誰が鍛えてくれるんだ!? わたしはまだお前にわたしを隊長だと認めさせていない! わたしの成長を見せれていない! お前は、わたしにとって大事な隊員であり、わたしを鍛えてくれる先生でもあるんだ! まだツェルニに入学して一年も経ってないじゃないか! 二人とも、ツェルニを退学するな! まだお前たちとは一緒に──」

 

「アントーク」

 

 ルシフが口を開き、ニーナの言葉を遮った。

 ニーナは思わず黙る。

 ルシフは勝ち気な表情になった。ルシフはちらりと左肩の辺りに視線を向ける。ニーナもルシフの視線につられ、ルシフの視線の先を見た。

 ニーナははっとした表情になる。ルシフの視線の先にあるのは、銀色で丸く、ⅩⅦと彫られた小さなバッジ。第十七小隊に所属しているという何よりの証。

 

「俺は対抗試合には一切出なかったし、マイアスとの武芸大会の時も、第十七小隊として行動していない」

 

「それはサリンバン教導傭兵団がマイを誘拐したからだ。お前のせいじゃない」

 

「俺が第十七小隊にいなくとも、お前らはちゃんとやれた。闘えた。そうだろ?」

 

「お前がいたからだ!」

 

 ニーナは声を荒らげた。

 

「お前がいたから、わたしたちは情けないところを見せてたまるかと、本気になって真剣に闘えた。お前がはっきりとどこがダメか言ってくれたから、わたしは……第十七小隊は変われた。わたしはそう思っている。言っただろ? お前はわたしの大事な隊員だと。だから、退学するな。お前が必要なんだ」

 

「アントーク、お前の気持ちは分かる」

 

 ルシフの表情から笑みが消えていた。

 

「だが、もう決めた。そもそも、俺のような学ぶ必要など全くない優れた男が、何故ツェルニのような未熟者ばかりが集まる学園都市に入学したと思う?」

 

「それは……」

 

 確かに言われてみれば、ルシフがツェルニに入学する理由は思い付かない。

 レイフォンのように住んでいる都市で問題を起こして都市を追放されたなら、優れた人間が学園都市に来るのも分かるが、ルシフに関してはそういう話を一切聞かなかった。

 もしかして自分が知らないだけで、ルシフは住んでいた都市で何か問題を起こしていたのか。ルシフの性格なら、十分あり得る。

 ニーナはカリアンに視線を送る。カリアンはニーナの視線に気付き、静かに首を横に振った。生徒会長のカリアンでさえ、ルシフがどういう理由でツェルニに入学したのか分かっていないようだ。

 ニーナ、カリアン、ヴァンゼは息を呑み、ルシフの言葉を待っている。何故ルシフがツェルニに入学したのか、気になるのだ。

 

「単純な話だ。学園都市というものがどういうところか知りたかった。それだけだ。そして、もう十分学園都市という都市を学び、理解した。これ以上いたところで、俺にとってなんの得もない。だから、退学する」

 

 学園都市がなんなのか。そんな好奇心だけで、ツェルニに入学していたのか。ツェルニに入学している学生は卒業を目標に入学してくるが、ルシフは違った。学園都市を知り尽くすことが、ルシフにとっては目標だった。その目標が達成された今、ルシフを引き留められるものは何もない。

 ルシフの退学が決定的だと理解した時、ニーナは頭の中が真っ白になった。

 ルシフとマイはそれ以上何も言わず、生徒会長室から出ていく。

 ニーナは二人の後ろ姿に何も言えなかった。

 顔を俯け、両拳を握りしめる。その時ニーナにできたことは、それだけだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レイフォンは病室にいた。

 以前のニーナのように、無茶な鍛練をしすぎて入院したからではない。

 レイフォンが病室にあるベッドに視線を向ける。

 リーリンがベッドで寝ていた。レイフォンはリーリンのお見舞いで病室に来ていたのだ。

 医師の話では、たまった疲れが一気に出て倒れたということらしい。数日安静にして休めば、すっかり元気になるとも言われた。

 自分のせいだと、レイフォンは思った。

 自分に錬金鋼を渡す。その一心でリーリンは危険極まりない放浪バスで荒れ果てた大地を移動し、はるばるツェルニまでやってきたのだ。そんな辛い思いをしてまで渡しにきた錬金鋼を、自分は断った。気力でごまかされていた疲労が一気に襲いかかっても、不思議ではない。

 リーリンが人の気配に気付いたのか、目を開けた。

 今は深夜で、真っ暗だった。

 リーリンは何度か目をこすり、レイフォンをじっと見ている。

 

「……レイフォン?」

 

 ようやく暗闇に目が慣れたのか、リーリンはレイフォンの顔が見えるようになっているようだ。

 

「……わたし、余計なことしたのかな?」

 

 リーリンが何を言いたいのか、レイフォンは悟った。リーリンはレイフォンがグレンダンのことなんて考えたくないのかもしれないと思っているのだ。自分の行動が、そう思わせてしまった。グレンダンなんてどうでもいいと、感じさせてしまった。

 

「そんなことない。絶対に許してくれないと思っていた養父さんが、許してくれた。こんなに嬉しいことはないよ」

 

 レイフォンは首を横に振った。

 嘘ではない。本音だ。本当に嬉しかったのだ。

 

「じゃあ、どうして受け取ってくれなかったの?」

 

「……本当に、養父さんは許してくれたの? 僕は本当に刀を握ってもいいの?」

 

 自分の声が、どんどん震えていく。

 リーリンから否定されたら、自分はこの場でショックのあまり倒れてしまうかもしれない。

 

「養父さんが言ってたの」

 

 リーリンの声も、震えていた。

 涙が、リーリンの頬を濡らしている。

 

「レイフォンはこれから過酷な道を進むだろうから、せめて過去から解放してやりたい。何も与えてやれなかったから、せめて自由を与えてやりたいって」

 

 リーリンの言葉が、心にずっと巻きついていた鎖をほどいていく。

 涙が両目から流れる。

 自分は、養父さんとまだ呼んでいい。リーリンと縁を切らなくてもいい。

 

『武芸者になりたいのか?』

 

 幼少の頃、道場で木刀を振っていた養父。その姿をじっと眺めていると、養父からそう言われた。

 その頃は、武芸者がなんなのか分からなかった。分からなかったが、頷いた。

 その日から、養父との稽古が始まった。

 最初は上手く木刀を振ることすらできず、転んだ。養父は転んだ自分を抱き上げ、言った。

 

『お前が大きくなるまでは、私が守ってやる。その後はお前が、院のみんなを守る番だぞ』

 

 その時から、自分は刀を握ろう、と決めたのだ。養父のようになりたいと、心から思ったのだ。自分がみんなを守ろうと、自分自身に誓ったのだ。

 

「わたしたちのこと、忘れないで」

 

「忘れるもんか」

 

 リーリンの言葉が、身体を熱くさせた。

 レイフォンは目の前のリーリンがいとおしくなり、リーリンを抱きしめた。

 リーリンもレイフォンの背に両腕をまわし、抱きしめ返してくる。

 

 ──守る。

 

 この温もりを、家族を守る。それが、自分が武芸者になりたい原点だったのではないのか。

 しばらくの間、レイフォンとリーリンは涙を流して抱き合っていた。




原作だと、抱き合った後にレイフォンとリーリンはキスをするのですが、どうしてここで恋人ではない相手とキスする流れになるのかどれだけ考えても分からず、抱き合うだけで終わらせました。そっちの方が自然な感じがしたのです。
それに個人的な意見ですが、ここでキスするとデルクとレイフォンの話が台無しになるというか、リーリンとレイフォンがキスするための踏み台にされたような感じがして嫌なので、無しにしました。原作好きの方には申し訳ありません。


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第51話 武芸大会

 レイフォンが錬金鋼(ダイト)を抱えて駆ける。

 身体が軽い。身体に今まで巻きついていた重りが無くなったようだ。

 これから練武館で小隊の訓練があるため、レイフォンは練武館に向かっていた。

 練武館に着くと、練武館の前にフェリが立っていた。

 

「おはようございます、フェリ」

 

「……おはようございます」

 

 フェリは何故か不機嫌そうだった。

 

「あの、何かあったんですか?」

 

「ええ、ありました」

 

「何があったんです?」

 

「武芸者になるのが嫌だと言っていた人が、錬金鋼を嬉しそうに抱えて走ってます」

 

「あ……」

 

 レイフォンはツェルニに、武芸者以外の道を探すために来たのだ。フェリはそのことを知っている。

 フェリもレイフォンと同じく、念威操者以外の道を探すためにツェルニに来た。

 

「裏切り者」

 

「うっ」

 

 フェリの言葉が突き刺さり、レイフォンはフェリに対して何故か申し訳ない気持ちになった。

 目に見えて落ち込んだレイフォンを、フェリはじっと見ている。

 フェリは軽く息をついた。

 

「冗談です。あなたがどういう選択をしようが、わたしになんの関係もありません」

 

 そうはっきり言われると、どこか寂しい気分になる。

 

「それでも、フェリの気を悪くしたみたいですから、謝ります。すいません」

 

「……いえ。わたしも、あなたは刀を持つべきだと思っていました」

 

「えっ、そうなんですか? どうしてです?」

 

 レイフォンは意外に思った。フェリの性格からして、レイフォンに刀を持つのを許さないか、どっちでもいいと無関心な反応をするかどちらかだと思っていた。

 

「あなたが闘うのを止めないからですよ。あなたは気が進まなくても、誰かのためなら闘ってしまう人です。なら、少しでも自分が強くなれる武器を使うのが正しいと、わたしは思います」

 

 それは自分の身を案じてくれているのだろうか。

 そう考えるとレイフォンは嬉しくなり、笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます、フェリ」

 

「……別に、お礼を言われるほどのことではありません」

 

 フェリと並んで歩き、第十七小隊の訓練場に入る。

 訓練場はもうレイフォンとフェリ以外全員揃っていた。

 

「おはよう、レイとん」

 

 ナルキが声をかけてきた。

 

「おはよう、ナッキ」

 

 挨拶を返しながら、訓練場の隅のほうにいるハーレイのところに向かう。

 

「僕の持ってる錬金鋼、全部刀にしてほしいんですけど」

 

「えっ、全部!?」

 

 ハーレイは目を丸くした。ハーレイはレイフォンに刀を握った方がいいと、レイフォンに言ったことがある。錬金鋼技師ともなれば、錬金鋼を見るだけで使い手がどういう使い方をしたのか分かる。

 レイフォンは剣のような重さで潰すように斬る得物を使う動きではなく、刀のような武器そのものの切れ味で斬る得物を使う動きだ、とハーレイから指摘された時もあった。実際はハーレイと同室にいる相方がそれを指摘し、ハーレイに伝えるよう言ったらしいが、大した違いはない。

 レイフォンはそう言われる度に、断る理由も言えず「剣の方がいい」の一点張りで刀にするのを拒んできた。そんな自分が、嬉々として刀にしてくれと頼んでいる。驚いて当然だろう。

 

「できませんか?」

 

「いや、できる、できるよ。でも……いいの?」

 

「はい」

 

「そう。なら、要望があるならなんでも言って。できる限り錬金鋼に反映させるから」

 

 ハーレイが錬金鋼にコードを繋ぎ、端末のキーを叩き始めた。

 レイフォンはハーレイの横で一緒になって端末を見ながら、様々な要望を口にする。

 ハーレイは要望一つ一つに頷き、錬金鋼をレイフォンの望む形に変えていく。

 

「はい。ちゃんとできてると思うけど、復元してみて」

 

 全ての錬金鋼を刀にし終わり、ハーレイがレイフォンに錬金鋼を渡した。

 レイフォンは起動鍵語を呟く。

 鋼鉄錬金鋼(アイアンダイト)青石錬金鋼(サファイアダイト)簡易型複合錬金鋼(シム・アダマンダイト)複合錬金鋼(アダマンダイト)を次々に復元しては、錬金鋼状態に戻す。その作業を繰り返した。

 青石錬金鋼が刀の刀身が一番短く、脇差し程の長さ。次に短い刀身が、リーリンから受け取った鋼鉄錬金鋼。それでも、レイフォンの肩からつま先までくらいの長さがある。簡易型複合錬金鋼と複合錬金鋼の刀身は同じ長さで、レイフォンの身長よりも少し長い。

 レイフォンはそれぞれの錬金鋼を見終わると、ハーレイの方に顔を向ける。自然と笑みになった。

 

「全部要望通りです。ありがとうございました!」

 

「そう? なら良かった」

 

 レイフォンとハーレイのそんなやり取りを、遠くから眺めている者がいた。ニーナだ。

 

 ──刀を握ることを決めたんだな。

 

 ニーナはレイフォンが嬉しそうに刀を見ているのを見て、胸のつかえが一つ下りたような感じがした。

 リーリンがレイフォンに錬金鋼を渡そうとした際、ニーナも近くにいた。

 レイフォンがそれを断り、二人がどんどん感情的になって言い争うのを、ニーナはその場で見ていることしかできなかった。

 あの時以来二人がどうなったかずっと気になっていたが、どうやら上手くいったようだ。

 

 ──残る問題は……。

 

 ニーナはルシフを見た。ルシフは眠たそうにあくびをかみ殺している。その顔を、全力で張り飛ばしたいと思った。

 ルシフが勝手な都合で退学を決めたから、これから第十七小隊は弱体化し、新たな隊員の補充や役割決め、新たな隊員を含めた、場合によっては一名減の連携訓練をしなければならない。

 そんな迷惑をかけておきながら、当の本人は知らん顔。正直、腹が立つ。

 

「全員、集合」

 

 ニーナの号令で、ニーナの周りに隊員たちが集まる。

 ニーナは少し逡巡してから、口を開く。

 

「訓練を始める前に、話がある。突然だが、ルシフが退学することになった」

 

「えっ!?」

 

 ルシフ以外の隊員全員の声が重なった。その反応は当然の反応。

 ルシフが軽く睨んできた。余計なことを言って、と目が言っている。

 知ったことかという意味を視線に込め、睨み返した。

 ルシフが舌打ちして、視線を逸らした。

 

「なんだって急に……」

 

 シャーニッドが困惑した表情を浮かべている。

 

「ルシフはもうツェルニにいるメリットが無くなったそうだ」

 

 ニーナは吐き捨てるように言った。イラついている響きが、言葉に宿っている。そのことにニーナ自身、驚いた。何故イラついているのか分からないが、間違いなくイラついている。ルシフに裏切られたと思っているからか。

 

「それで、ツェルニを退学した後はどうするんだ? グレンダンを襲撃して天剣を奪う気かい?」

 

 レイフォンがルシフを鋭い目付きで見た。

 

「それもある……と言ったら、どうする? 貴様も退学してグレンダンに行くか?」

 

 レイフォンが絶句した。ニーナたちも言葉を失う。

 レイフォンまで退学したら、第十七小隊の弱体化は深刻なレベルになり、もはや小隊として存続する価値があるのかという話になってくる。

 ルシフは嘲笑するような笑みを浮かべた。

 

「冗談だ。優柔不断で決断力も度胸も覚悟もない貴様が、退学などできるわけがない。そもそもの話、何故お前はツェルニに入学した?」

 

「何故って……武芸者以外の道を探すために──」

 

「違う」

 

 レイフォンの言葉をルシフが遮った。

 レイフォンは一瞬戸惑ったが、すぐに怒りを表情に滲ませる。

 

「君に僕の何が分かる!? 入学した僕が入学した理由を間違えるわけないだろ!」

 

「ハハハハハハッ! それが間違える。時として、他人の方が己をよく理解するのだ」

 

「なら言ってみるがいいさ。どうせ、見当違いに決まっている」

 

「いいだろう。言ってやる。お前は『グレンダン』でやり直すために、ツェルニに入学したのだ」

 

「そんな──!」

 

 声を荒らげたレイフォンを、ルシフが手で制す。レイフォンはぐっと押し黙った。

 

「何故そう思うか? 理由は三つ。

第一に、学園都市を選んだこと。他都市で生きていこうと思うなら、学園都市などいかん。

第二に、武芸科で入学せず、一般教養科を選んだこと。見た限り、お前は武芸が嫌いというわけじゃなさそうだからな。お前の武芸が許されないのはグレンダンだけだ。

第三に、今のお前の顔だ。リーリン・マーフェスとなんの話をしたか知らんが、憑き物が落ちたような清々しい顔をしている。お前が犯した罪を、親しい者たちに許されでもしたのだろう。つまり、グレンダンでやっていけそうな希望が見えたから、そんなにも喜んでいる。違うか?」

 

「……君はそうやって、人を決めつける。いつか足を掬われるよ」

 

「ククク、『見当違い』から『決めつける』になったぞ。俺の言ったことが的を得ているからだ。心は行動に表れる。俺はその行動から、他人を分析する。だから、間違えない。他人の心を、他人よりよく理解できる」

 

 ルシフの言っていることは、間違いではない。

 レイフォンはルシフに言われて、自分はもしかしたら無意識の内に、グレンダンに戻りたいと考えていたのかもしれないと思った。

 だが、不愉快な気分だ。お前はこういう人間だろうと決めつけられる。頭を押さえられて何か言われるような、そんな屈辱的な感覚に襲われた。

 

「話を戻そう。ツェルニで卒業証明書も資格も得られていないお前が、今ツェルニを退学できるわけがない。グレンダンを出た時とお前は、何も変わってないのだからな。退学してグレンダンに行ったとして、待ち受けているのは都市民の罵声や女王が与えた罰から逃げた制裁、武芸者たちの軽蔑と敵意。

それらを浴びてもグレンダンの人々を守りたいという強い覚悟はあるのか? ツェルニでの日々を断ち切る決断力はあるのか? 第十七小隊が崩壊しても構わないと思える度胸はあるのか?」

 

 レイフォンは拳を握りしめた。

 頭にくる。ルシフの言っていることが正しいからだ。正しいだけならいいが、それに嘲笑するような響きが含まれているのが、イライラする。

 レイフォンの苦い表情を見て、ルシフは楽しそうに唇の端を吊り上げた。

 

「断言する。お前にそんなものは微塵もない。あったら、そもそもカリアンに言われた程度で武芸科に転科せん。状況に合わせて動くことしかできず、どうしようもないというところまで追い詰められて、ようやく腹を括れる。お前はそういう奴だ。俺の敵ではないし、グレンダンにきたところで何も変えられん。大人しくツェルニで学生をやってろ」

 

 今日のルシフは、いつもより挑発的だった。普段は他人にここまで言わない。というより、他人に興味を示さない。

 多分、自分はルシフの憂さ晴らしにされたのだ。ルシフはニーナが退学の話をした際、不快そうに表情を歪ませていた。そのストレスを、自分を完膚なきまでにこき下ろすことで解消した。そのこき下ろしも筋が通っている。余計にたちが悪い。

 

「ルシフ、それ以上──!」

 

 ニーナが黙って聞いているのに耐えられなくなり、声をあげた。だが、ニーナの声はサイレンの音で掻き消された。

 サイレンが鳴り響いている間、全員が黙って意識をサイレンに向ける。

 サイレンが鳴り止むと、無意識に強張らせた身体をほぐすように、全員楽な姿勢になった。

 

「緊急招集? このサイレンの鳴り方は、他都市が接近したのか?」

 

 シャーニッドが固い表情で言った。

 サイレンの鳴り方で、どういう脅威が迫っているか教えられる。汚染獣が接近した場合、サイレンは今回とは違う鳴り方になる。

 

「訓練通り、外縁部に行くぞ。状況は、生徒会から念威端子を介した通信機で教えてもらえる手筈だ」

 

 ニーナが指示を出し、全員軽く頷く。

 隊長のニーナを先頭にし、訓練室を次々に飛び出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは外縁部付近で一番高い建造物の屋根に、右膝を曲げて座っている。

 外縁部がぶつかり合う音が響き、ツェルニ全体が揺れた。移動しながら他都市と正面衝突したのだ。正直、ただの事故にしか見えない。しかし、これが戦争の狼煙。こうなったら都市は脚を止める。都市の象徴である旗を奪うまで、戦争は終わらない。

 

「ルシフ様、どうなさいます? ツェルニに勝たせますか? それとも、ファルニールを?」

 

 マイが後ろから耳打ちしてきた。マイの他にも教員五名が後ろに控えている。

 学園都市ファルニール。この都市が、今回の都市間戦争の相手。

 

「ファルニールに潜ませている者と連絡は取れたのか?」

 

「はい、取れました」

 

 グレンダンとツェルニ以外の全自律型移動都市(レギオス)に、剣狼隊に所属していた武芸者や念威操者を潜り込ませている。合図を見たら、俺が与えた役目をこなす手筈だ。それ以外にも、都市間戦争をコントロールさせ戦争の犠牲者を最少に留めさせたり、都市のセルニウム鉱山を把握し、少ない方が勝つようにさせたりしている。

 そうやって都市が汚染獣や都市間戦争で滅びないよう、ルシフは陰でバランスを取っていた。

 

「ファルニールのセルニウム鉱山の数は?」

 

「三つと」

 

「ツェルニは二つ。ここは、ツェルニに勝たせる」

 

「はい。そう伝えておきます」

 

「ツェルニやファルニールの念威操者から、バレてないか?」

 

 ルシフは振り向き、マイを見た。マイは笑みを浮かべる。

 

「はい。どちらも、内に内通者がいるなんて微塵も考えていません。まぁ、自分の住んでる都市を危険に晒すメリットなんてありませんし」

 

 どの都市と戦争するか分からない状態で、都市間戦争の時に裏切る取引など、成立する可能性はかなり低い。今回のファルニールに関しても、ツェルニは過去に一度も都市間戦争をしていない。内通者など、考えようがないのだ。

 基本的にこの世界で、内通者は生まれにくい。そんな回りくどいことをするくらいなら、その都市に移り住もうと考える。そっちの方が確実だからだ。

 

「ファルニールの者から、返答がありました。『了解。右翼に隙を作るので、右翼を攻めてくれ。衝剄をぶつけられたら、できる限り自然な形で陣形を崩す』と」

 

 五分ほど経つと、マイが再び耳打ちしてきた。

 ルシフは右手に持つコーラの瓶に口を付けて一口飲むと、立ち上がる。ニーナが下で何か怒鳴っているのが見えたからだ。

 

「右翼を攻めよう。お前らは留守番だな」

 

 ルシフの視線が教員五名を捉えた。

 

「ご武運を。ま、旦那にこんな言葉は不要でしょうが」

 

 エリゴがそう言って笑う。

 

「大将。いきなり言うのもなんだが、あんたに付いてきて本当に良かったよ」

 

 レオナルトが言った。ルシフは眉をひそめる。

 

「本当にいきなりだな」

 

「こうやって今の都市間戦争は、大将のお陰で最少の犠牲で済んでいる。本当にあっという間に終わるんだと、ツェルニにきた一年生が言っているのを聞いたんだ。俺の目は正しかった。やっぱあんたの行く道には、光が満ちてる」

 

 ルシフはレオナルトから正面に顔を戻した。レオナルトたちからは後頭部しか見えない。

 

「レオナルト。お前は嘘をつけない。それでいい。自然体で飾らず、俺に力を貸せ」

 

「言われなくても!」

 

 レオナルトはぐっと握り拳を突き出した。他の教員たちは笑っていた。

 

「隊長はまだお怒りのようだ」

 

 ルシフは下を見る。ニーナがまだ何か怒鳴っていた。

 

「さて、行こうかマイ。勝ちに」

 

「はい」

 

 ルシフとマイは飛び下りる。マイの念威端子が集まり、ルシフとマイの足元に念威端子のボードが現れた。それに乗り、ルシフはニーナを置き去りにして、集合地点に向かった。

 鬼のような形相をしたニーナが旋剄で追いかけてくる。ルシフは一笑すると、顔を正面に戻した。

 

「マイ、お前がたまに羨ましくなる」

 

「何故です?」

 

「こうして、自由に空を飛べる。ここから見える景色はどこも素晴らしい」

 

「あなたが望むなら、いつでも私たちは鳥になれますよ」

 

 隣を移動しているマイの顔を見る。マイも、こちらに顔を向けていた。笑顔が心に突き刺さる。

 頭痛が激しくなり、ルシフは顔をしかめた。

 ルシフは空を見上げる。

 俺は『王』という鳥かごに。マイは俺という鳥かごに囚われている。

 いつか、お互い自由に飛べる鳥になれるだろうか。それともマイの言う通り、俺が望めばいつでもそれが叶うのだろうか。

 そこまで考えて、ルシフは首を横に振りそうになった。

 『王』として生き、『王』として死ぬ。それがルシフ・ディ・アシェナだと、己自身で定めたではないか。

 なにものにも縛られない生き方に憧れを抱いたところで、意味はない。

 集合地点に到着した。ボードから下りる。武芸長のヴァンゼや各小隊の隊長たちが集まっていた。

 ニーナがルシフに少し遅れて、集合地点に来た。

 

「ルシフ! お前という奴は勝手に集合地点を離れて……。それに加え、呼びに行ったわたしを無視するなんて、人として最低だぞ!」

 

「コーラやるから、ちょっと黙ってろ」

 

 ニーナに手に持っているコーラの瓶を渡す。

 ニーナはルシフの予想外の返しに戸惑い、差し出されたコーラを反射的に取った。

 

「む……しかし、ちょっと飲んでるぞ」

 

 ニーナが少し顔を赤らめて、コーラの瓶の口を見ていた。このまま飲めば間接キスになると気付いたからだ。

 

「……アントーク。お前は中学生か? それに、そんなに嫌なら、瓶の口を布か何かで拭えばいいだろう」

 

「それは……その通りだが」

 

「今はお前の相手をしている時間はない。ヴァンゼ・ハルデイ、一つ提案がある」

 

「なんだ?」

 

 ヴァンゼがルシフに顔を向けた。ニーナは瓶の口を念入りにハンカチで拭いた後、コーラの瓶に口をつけている。

 

「中央突破が第十七小隊の役目だが、俺とアルセイフは両翼につき、相手の両翼を崩した方がいい。そっちの方が、勝率は更に高まると思うが?」

 

「……ふむ、一理あるな。お前とレイフォンは離して使った方が、効果的かもしれん。その提案、採用しよう」

 

 中央に戦力を集中させるが、突出した戦力を両翼に配置することで、相手戦力を分散させられるかもしれない。そうすれば中央突破しやすくなるし、そうならなかった場合は、レイフォンかルシフのところが突破しやすくなる。

 

「俺は左翼を攻め、アルセイフは右翼を攻める。アルセイフ、それでいいか?」

 

 ルシフが通信機に向かって言った。

 

『いいけど、君の言う通りに攻めるのは気に入らない。僕が左翼を攻めるから、ルシフは右翼を攻めて。それで何か問題あるかい?』

 

 ──読みやすい奴。

 

 ルシフはレイフォンの言葉を聞いて、高笑いしそうになった。

 予想通り、突っかかってきた。自分の命令通りに動きたくないだろうと考え、あえて都合の悪い配置を言った。そうすれば、最終的に自分の望んだ配置になると読んだからだ。

 

「……別に何もない。お前が左翼を攻め、俺が右翼を攻める。それでいこう」

 

『了解した』

 

 レイフォンとルシフが動き、両翼を攻める予定の部隊の先頭に行った。レイフォンとルシフの実力は誰もが知っているため、部隊から非難の声はあがらない。それどころか歓声をあげて、レイフォンとルシフを受け入れた。

 すでに生徒会長同士の協定確認は終了している。後は始まりの合図を待つだけだ。

 ツェルニ、ファルニールの武芸者たちは緊張した面持ちで、復元した武器を握っている。

 今日は雲がなく、汚染物質も少ない。そのため、日光を遮るものは何もなく、とても暑い日だった。それが両陣に苛立ちをもたらしていた。舌打ちしながら汗を拭う武芸者が多くいる。

 ルシフ一人だけ、武器を持っていなかった。構えすらせず、悠然と相手の右翼を見据えている。

 相手の右翼の先頭に、見知った男が二人見えた。エルマー、イグナーツ。剣狼隊で徹底的に調練した覚えがある。

 ツェルニ、ファルニールから同時にサイレンが鳴った。戦争開始の合図。

 

「突撃しろッ!」

 

 ヴァンゼが叫んだ。その声を通信機が拾い、ツェルニ陣全体にヴァンゼの声が響き渡る。

 ルシフは活剄で脚力を強化し、相手陣形に向かって駆ける。ルシフの後ろを部隊全員が付いてきた。部隊が付いてこられるよう、ルシフは駆ける速度をゆっくりにしていた。

 相手陣形が近付いてくる。相手陣形の先頭にいる男二人と目が合った。武器を構えたまま、二人が頷く。

 ルシフは左手をかざす。左手に集中した剄を衝剄に変化させ、放出。

 外力系衝剄の変化、烈風波。

 突風と空気の塊がぶつかったような衝撃が相手陣形を襲う。相手陣内の武芸者たちは吹き飛ばされる者、その場でこらえたが体勢を崩した者の二種類しかいない。明らかに効果的な一撃だと誰の目にも分かった。

 ルシフが相手陣形とぶつかる。エルマー、イグナーツとすれ違う。

 

「そのまま駆けてください」

 

 すれ違いざま、イグナーツが小声で言った。

 ルシフは反応せず、突っ込む。ルシフが相手陣内に入っても、抵抗らしい抵抗はない。たまに攻撃を仕掛けてくる者もいるが、一撃で地に沈めた。

 ルシフが近付くだけで、面白いくらいに相手が狼狽え、道が開く。その道を駆ける。ルシフの後ろを付いてきている部隊がその道を更に広げていく。

 やがて、右翼攻撃部隊は相手の右翼を両断し、突破した。

 

「こちらルシフ。右翼突破。これより旗の確保に向かう」

 

『えっ、もう!?』

 

 通信機からレイフォンの驚きの声が聞こえた。レイフォンだけでなく、驚きのざわめきが通信機から絶えず聞こえる。

 

『了解した! 第二陣を右翼に突っ込ませる! 第二陣、いけぇッ!』

 

『了解!』

 

 了解という声が重なり、ルシフの後方から雄たけびが聞こえた。

 ルシフは前を見据え、駆け続ける。途中、旗の防衛部隊がいた。

 

「嘘だろ!? 右翼にはあのエルマーとイグナーツがいるんだぞ! あいつらを破ったってのか!?」

 

 防衛部隊の隊長らしき男が叫びながら、武器をこちらに向けた。

 ルシフは駆ける速度を緩めず、防衛部隊と真正面からぶつかった。ルシフが腕を振るうと、防衛部隊の武芸者たちが宙を舞いあがっていた。防衛部隊は一瞬の足留めすらできず、地面に倒れる。

 ルシフは防衛部隊が宙を舞っている間を抜け、旗がある建物に辿り着いた。跳躍する。旗の周辺に武芸者が集結していた。多数の銃口がルシフを捉えている。

 

「撃てッ!」

 

 相手武芸者の一人が合図を出した。

 剄弾の雨がルシフに襲いかかる。ルシフは衝剄で剄弾を全て弾き返した。自らの剄弾で、銃撃した武芸者たちはその場にうずくまる。

 ルシフは旗のある建物の屋上に着地。瞬間、周囲を囲まれ、次々に武器を突きだされた。

 ルシフは武器を両手で払いながら、カウンターで確実に倒していく。やがて、屋上に立っている者はルシフ一人になった。

 ルシフが風に翻る旗に手を伸ばす。風を切る音がした。

 咄嗟にルシフは伸ばしていた手を引っ込め、振り返る。巨大な塊が空から降ってきているのが見えた。跳ぶ。剄を迸らせ、巨大な塊を八つ裂きにした。

 ツェルニの方向にも巨大な塊は降ってきたが、それは教員の五人が対処してツェルニに落ちる前に粉々にしている。

 ツェルニ、ファルニールからサイレンが鳴った。

 金切り声のようなサイレン。電子精霊の悲鳴。そのサイレンが意味するものは一つしかない。

 汚染獣襲来。

 旗を確保する直前で都市間戦争を中断された怒りはなく、ルシフは楽しそうに笑った。

 空を仰ぎ見る。再び、巨大な塊が降ってきていた。



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第52話 超遠距離戦

 カリアンは生徒会棟の会議室にいた。生徒会のメンバーや各科の長が集まり、突如として現れた汚染獣の脅威にどう対処するか話し合っている。

 彼らの顔に不安そうな色はあまりなかった。ルシフやレイフォンに加え、雄性体を軽くひねれる教員五名の存在。ツェルニの武芸者の質の向上。勝算は十分ある。

 

「彼らさえいれば、質量兵器の出番はありませんな」

 

 商業科の科長が安堵した表情で言った。

 質量兵器──ミサイルの使用。剄羅砲は武芸者の剄を砲弾にするため、資源的な損失は生まれない。損失は莫大な剄の消費だが、武芸者が休息して剄を回復すれば回収できる。

 対して質量兵器であるミサイルは金属や燃料などを大量に消費し、消費した資源を回収できない。その損失は、都市にとって無視できない問題。ツェルニは資源が有り余っているような現状ではない。セルニウム鉱山で補給したのも数ヶ月前。次の補給がいつになるか分からない以上、安易な資源の消費は都市の首をしめて資源の枯渇を招く可能性がある。ミサイルの使用は最終手段でなければならない。

 

「都市の防衛装置の起動を行い、いつでも質量兵器が使用できる状態にしておきます。状況次第で使用もやむを得ないと、思っていただきたい」

 

 ざわめきが室内を支配する。商業科の科長が笑い声をあげた。

 

「生徒会長は深刻に考えすぎです。頼もしい武芸者が今のツェルニには多数います。特にルシフは、以前ツェルニに襲撃してきた巨大な老性体を軽く一蹴しました。今回の事態も武芸者の力だけで十分ですよ」

 

「そうです。防衛装置など起動の必要はありませんよ」

「起動するのにも多少の資源を消費します。無駄に消費するのはバカらしい」

 

 商業科の科長に続き、二人が口を開いた。

 

「バカらしい……ですか」

 

 カリアンはにやりと笑った。しかし、目は笑っていない。

 どことなく凄みのあるカリアンに、会議の面々は自然と口を閉ざしていった。

 カリアンの顔から笑みが消え、鋭い顔付きになる。

 

「防衛装置は起動します。これはもう私の権限でやらせてもらう。あなた方の承認など待つ余裕はない」

 

 カリアンの言葉に含まれる微かな苛立ち。それを感じとった面々は身体を強張らせた。

 

「あなた方はもう勝った気でいる。まだ汚染獣の場所さえ特定できていないのに」

 

 巨大な塊を飛ばしている汚染獣を念威操者に探させているが、百キロ以内にはいないと報告がきていた。

 

「私も、今のツェルニの戦力ならば勝てるだろうと考えています。ですが、汚染獣という未知で強大な相手に絶対勝てる確信はありません。もしかしたら、ランドローラーの移動範囲に汚染獣がいないかもしれません。その場合、一方的に攻撃されることになります。それだけでも厳しいのに、今幼生体にツェルニは攻撃されています」

 

 巨大な塊は何度も飛んできた。二度目の投擲でツェルニの足の一つに当たり、折れた。なんとか他の足で支えることで傾かずに済んでいるが、修復が終わるまでツェルニは動けない。

 そんな状況で、幼生体がツェルニの足に取り付き、外縁部に上ってきた。四十程度の数だったためすぐ殲滅できたが、巨大な塊が飛んでくる度に幼生体は出現していた。

 

「武芸者も人です。疲れ知らずというわけにはいかない。疲労が蓄積され、被害が出てくるかもしれない。そこを見計らい、投擲している汚染獣が直接攻めてくるかもしれない。百キルメル以上の距離からあれ程までに巨大な塊を投擲できる汚染獣が至近距離から投擲してきたら、どれ程の速さになると思いますか? 少なくとも人が対応できる速度ではないと、私は考えます。あなた方はそうなっても言うのですか。『質量兵器の出番はない』と」

 

 カリアンは会議に出ている者の顔を順々に見ていく。カリアンと目が合うと、武芸長のヴァンゼを除いて誰もが目を逸らした。

 

「都市に生きる人々を一人でも失ってしまわないよう、最善の防衛態勢を整えておかなくてはなりません。出し惜しみをして都市に甚大な被害が出たら、どう取り返すのですか?  資源ならば、まだ回収できる。人の命は回収できません。だからこそ、防衛装置を起動させるのです。どうかご理解いただきたい」

 

 カリアンの言葉に、ヴァンゼは頷いた。他の面々も頷いている。

 商業科の科長が軽く息をついた。

 

「……生徒会長。自分は思い違いをしていました。資源より人の命ですな。すぐに防衛装置の起動の準備をさせます」

 

「お願いします」

 

 カリアンは商業科の科長に向かって、頭を下げた。

 

『報告します。汚染獣の位置が特定できました』

 

 花弁のような形の念威端子が窓から入ってきて、フェリの声が会議室に響いた。

 会議室にいる者は息を呑む。カリアンも同様だ。

 

「……それで、汚染獣の位置は?」

 

 カリアンは一つ深呼吸して自分を落ち着かせ、念威端子に問いかけた。

 

『百五十キルメルの地点です』

 

「百五十キルメル!?」

 

 会議室にいる一人が驚きの声をあげる。口には出さなかったが、カリアンも同じ気持ちだった。

 そんな遠方から巨大な塊をここまで届かせられる投擲能力。間違いなく老性体。それも、老性体の中でも強力な個体だろう。

 

『映像出します』

 

 会議室のモニターに、念威端子が見ているものが映し出される。

 全員が椅子から立ち上がった。

 

「……あれはなんだ……?」

 

 モニターに映し出されたものを見て、誰もが目を離せなくなった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 外縁部に武芸者たちは集まっていた。

 会議室のモニターに映し出された映像が、外縁部近くの建造物に取り付けられた簡易的な巨大モニターにも映し出されている。

 モニターは離れた場所にいる敵の情報を視覚的に全員が共有できるようにするためという理由で、カリアンが命じて設置させた。

 汚染獣は四足の獣のような体躯をしている。老性体は巨大になればなるほど、翅を捨てる傾向があった。巨大な体躯を飛ばすには大きな翅がいる。もしかしたら翅に体積が大幅に割かれるのを嫌って、翅を捨てるのかもしれない。今は腹を地面につけて休んでいるようだ。その姿は巨大な像のように見えた。背中には太い煙突のような筒があり、そこから巨大な塊を飛ばしているのを、一度観た。

 敵の投擲攻撃は八を数えている。最初の攻撃はツェルニの都市の頭上に落ちてきたが、それ以降はツェルニ周辺に着弾している。そして地面に落ちた巨大な塊が割れて、中から幼生体が出てきていた。

 念威操者は巨大な塊は汚染獣の卵であると分析。巨大な塊を『卵』と呼ぶようにした。『卵』が割れたのは二つ。五つは不発で、割れなかった。割れていない『卵』は今もツェルニの周辺に放置されている。

 ツェルニと隣接していたファルニールの姿はもうない。ツェルニが『卵』の投擲攻撃と幼生体の襲撃を受けている間に、止まっていた足を動かし地平線の向こうに消えた。都市の移動の判断は電子精霊がするため、そこに人の意思が介在する余地は無い。だが、ファルニールはツェルニを囮に逃げた格好であり、ツェルニの大多数の武芸者は彼らに罪は無くとも怒りを覚えた。

 

 ──あれはなんだったのかな?

 

 レイフォンはファルニールが離れる前に見た不思議な光景を思い出す。

 逃げ出す直前、ファルニールの電子精霊とツェルニの電子精霊が都市の頭上に出現した。ファルニールの電子精霊は成人した男性の姿だった。ファルニールは目を閉じ、ツェルニが頷く。ファルニールとツェルニの胸から光が飛び出した。光がぶつかり、ツェルニの姿が童女から少女の容姿に変わる。それが終わると、ファルニールは地平線の彼方に消えていった。

 ニーナもその光景を見ていた。あれはきっとファルニールが武芸大会の勝ちを譲ってくれたのだと、言っていた。

 あの時点でどちらも旗を確保していない。電子精霊の話し合いで勝ちが決まるのなら、人が争う意味はあるのか。

 思考が袋小路に入っていく。レイフォンは首を振って現実に意識を戻す。モニターに映る汚染獣を睨んだ。

 

 ──前に戦った老性体に成り立てのやつとは格が違う。下手したら『名付き』レベルかも……。

 

 グレンダンでは、天剣授受者が仕留めきれず逃げられた汚染獣に名前を付ける慣習があった。天剣授受者が天剣を使用しても倒しきれない老性体。その強さに敬意を表してである。しかし、ここはグレンダンではない。相手の強さを称える余裕はないのだ。

 

 ──確実に倒せると思えるのはルシフ。僕じゃ倒せる自信はない。

 

 レイフォンはルシフに近付く。ルシフはフェイススコープをはめたゴーグルのようなものをかけていた。それにより、念威端子で得た情報を視覚でも得ることができる。

 

「君ならあの汚染獣を倒せると思う。君が倒しに行くべきだ。その間のツェルニの守りは僕らに任せて」

 

「お前の言う通り、ヤツに近付けば確実に勝てるだろう。だが、どうせならもっと楽しく殺したい」

 

「……どういう意味?」

 

 レイフォンは首を傾げた。

 ルシフは右足で地面を抉り、横線を一本引く。次に、そこから数メートル後方まで移動。

 

「俺の前後から離れろ」

 

 ルシフの前後にいた武芸者たちは怪訝そうな顔をしながらも、ルシフの前後から左右に散らばった。

 ルシフは前後から人が消えたのを確認すると、右手に剄を集中させた。赤く輝く剄の槍が右手に握られる。

 レイフォンがまず驚いたのは、その剄の槍の大きさである。軽く十メートルを超えていた。その槍をルシフは地面と水平に持ち、ルシフの前後に槍が数メートル出っぱっているような状態になっている。

 次にレイフォンが驚いたのは、その槍の使用目的である。あの槍を投げて、百五十キロメートル離れる老性体を倒そうとしているというのは、誰もが予想できた。

 老性体にできて、自分にできないわけがない。ルシフはそう考えているのかもしれない。

 

 ──バカげてる。

 

 レイフォンはルシフの浅はかさに心底呆れた。

 きっとこの男は、自分にできないことは何もないと信じきっているのだろう。その盲信が、目を曇らせる。現実的に考えて、絶対に倒せない。何故なら、相手は汚染獣だからだ。動かない的ではない。槍が落ちてくれば回避しようとするだろうし、そもそも一撃であの巨体を殺せる威力を出せるのかという疑問もある。

 

「ふむ、とりあえずこの長さでいくか 。念威操者たちに伝える。老性体周辺に置く端子はマイ・キリーのもののみとし、他の念威操者はツェルニ周辺か五十キルメル以内に端子を移動させろ」

 

『何故です?』

 

 フェリの声が通信機から聞こえた。

 

「勝負の邪魔をされたくない」

 

 ルシフの返答が耳に入り、レイフォンは頭が熱くなった。

 勝負と言ったか、今。ツェルニに住む全員が投擲される『卵』や『卵』から出てきた幼生体、圧倒的な強さをもっているであろう老性体が自分たちを狙っている事実に怯えているというのに。この恐怖を早く除いてくれとお前に願っているのに。お前は遊び気分か。

 

『……分かりました。マイさん以外はツェルニ周辺か別の方向を探らせることにします』

 

 フェリのため息をつく音が通信機に触れた。

 ため息をつきたくなる気持ちは痛いほど理解できる。ルシフは絶対に自分の意見を曲げない。何かルシフに対して言ったところで徒労に終わる。そのくせ、言う通りにしないと怒るのだ。言い合ったところで気分が悪くなるだけなら、さっさと言う事を聞いてしまった方がいい。

 ルシフの右手にある剄の槍が通常の槍と同じ長さになった。剄が圧縮されたように、槍は輝きと威圧感を増している。

 そのまま三十分、ルシフは目を閉じ動かなかった。

 

『ルシフ様、念威端子を配置し終わりました』

 

 マイ・キリーの声が通信機に響いた。

 ルシフが目を開く。

 

「少し老性体から遠いな。端子を五枚老性体に近付けろ」

 

『はい』

 

『あなたは何を言っているのですか。あの距離からどれだけ近付けても老性体から端子を破壊される可能性が高まるだけで、情報解析の質は全く上がりません。やってもリスクが増えるだけで、メリットは皆無です』

 

 フェリが口を挟んできた。

 

「端子を破壊するなどという知能が、老性体にあるものか。ヤツの目からは空中を飛んでるゴミにしか見えん筈だ。メリットがあると判断したから、やらせる。黙って見てろ」

 

『……もう何も言いません』

 

 その通信を最後に、フェリの声は聞こえなくなった。

 ルシフの全身を莫大な剄が包み込み、身体に剄が吸い込まれる。活剄で肉体強化したのだ。

 ルシフが剄の槍を頭上で水平に右手で持ち、目にも止まらぬ速さで走る。横線の場所で踏み込み、剄の槍を投げた。

 レイフォンの目にも、槍が飛んでいったところを微かにしか捉えられなかった。ただ風が吹き荒れ、エアフィルターに一瞬大きな穴があいた。

 

「マイ、予測飛距離は?」

 

『八十二キルメルです』

 

 老性体が映っているモニターの隅に別枠が出て、飛んでいる剄の槍が断続的に映る。槍は小さくする前の長さになっていた。自分の手から離れたら元の長さに戻る。剄の槍にそういう意思を込めていたのだろう。

 そら見たことか、とレイフォンは思った。

 そもそも百五十キロ先に届かせること自体、至難。それに加え、目で見えない老性体をピンポイントで当てるなど、無謀もいいところ。やはり、ルシフが老性体の元にランドローラーで行くしか、あの老性体を確実に殺せる方法はない。

 今度のルシフは、横線から前の倍の距離の位置に立った。再び剄の槍を創り、同じように縮め、頭上で水平に右手で持つ。

 レイフォンはイライラしていた。

 まだ懲りないのか。諦めて倒しに行け。

 ルシフが走る。横線で踏み込み、剄の槍を投げた。さっきよりも、吹き荒れる風は強くなった。エアフィルターに一瞬あいた穴はさっきよりも大きかった。

 

『予測飛距離、百五十八キルメル』

 

「助走をつけすぎたか」

 

 その場にいる誰もが、驚きで口を開いていた。

 レイフォンは思ってしまった。この男なら、百五十キロ離れた老性体すらここから倒せてしまうかもしれないと。

 ルシフはさっきよりも少しだけ助走の距離を短くした。槍を投げる。

 

『予測飛距離、百五十三キルメル』

 

 今よりも少し助走の距離を短くし、投げる。

 

『予測飛距離、百五十一キルメル』

 

 今よりも僅かに助走距離を短くし、投げる。

 

『予測飛距離、老性体より手前に二百メルトル。老性体、反応せず』

 

「よし、だいたい分かった」

 

 ルシフは剄の槍に込める剄量を増やした。およそ天剣授受者並の剄量。ルシフの剄の槍は赤色の輝きから朱色の輝きに変わっていた。メルニスクの剄が混ざった影響である。

 ルシフは助走距離を一歩分長くし、右足で地面に横線を引いた。この横線をスタートラインとし、槍を構えて走る。次の横線で踏み込み、投げた。

 モニターに映る老性体の背中に剄の槍が突き刺さる。剄の槍が瞬時に爆発的なエネルギーに変化し、老性体を爆発で包み込んだ。

 外力系衝剄の変化、爆裂槍。

 モニターを観ていた武芸者たちが歓声をあげる。しかし、歓声はすぐに静まった。

 老性体の咆哮が汚染された大地を震わす。老性体はまだ生きていた。背中の外皮を抉られ肉が露出しそこから緑の体液が流れていても、致命傷は与えられなかった。

 お返しと言わんばかりに、背中の筒から『卵』が投擲される。

 

「総員、また幼生体がくるぞ! 構えろ!」

 

 ヴァンゼの声が外縁部に響いた。武芸者たちは各々の武器を構える。

 

『ルシフ様』

 

「なんだ?」

 

『老性体のいる場所の地中に大きな空洞があり、雄性体がいます。老性体の腹からパイプのようなものが伸び、雄性体に突き刺さっているのも確認しました。おそらく打ち出している『卵』は雄性体のものかと』

 

 つまり地中にいる雄性体を殺せば、この投擲攻撃を不可能にできる。

 しかし、ルシフは雄性体を殺そうとは微塵も思わなかった。ちょうどいい練習台をわざわざ送ってきてくれているのに、それをさせない理由はない。ツェルニの武芸者はますます幼生体を殺すコツが掴めるだろう。

 ルシフは助走距離を変えず、槍を投げた。剄の槍はさっきの倍以上の剄量が込められている。

 老性体は剄の槍を目視すると、回避行動をとった。剄の槍は元々老性体がいた地面に突き刺さり、大爆発を起こす。

 

「よけた……!?」

 

 レイフォンやニーナが驚愕の表情でモニターを凝視する。

 先程投擲された『卵』はすでにツェルニ近辺に落ち、割れていた。幼生体がツェルニの足を上ってきている。

 レイフォンはあらかじめ残しておいた鋼糸を操り、全ての幼生体を両断した。ツェルニの足から幼生体の肉片が緑の体液とともに地に落ちる。

 その間にもルシフは間髪入れずに剄の槍を投擲していた。ルシフは完全に百五十キロメートルの投げる力の感覚を掴んだらしく、マイから微調整の指示を受けながら正確に老性体を捉えていた。しかし、老性体はその槍を全てよけている。

 ルシフの顔から大粒の汗が浮かび上がっている。肩で息をしていた。

 

「マイ、少し休憩する。念威端子を老性体から見えない位置まで離せ」

 

『はい』

 

 モニターに映る老性体が遠ざかる。しかし念威端子の倍率を上げたらしく、老性体の姿が近くなった。これなら、老性体の動きをなんとか把握できる。

 三十分程休憩したら、念威端子を老性体の近くに移動させ、ルシフはまた同じように槍を投げ続けた。今回は槍の剄量はばらばらで、極端に少なかったり多かったりした。そのどちらも、老性体はよけ続けている。

 老性体が回避しながら『卵』を投擲し始めた。位置が少しズレるため、ツェルニから離れた場所に落ちるが、幼生体の脅威は消えない。

 

『雄性体五体、ツェルニ上空に出現』

 

 フェリの通信が聞こえた。

 フェリの情報によると、今まで沈黙していた五つの『卵』が割れ、そこから雄性体が飛び出してきたらしい。『卵』の中で共食いをして成長した。この結論が一番現実的だった。

 ツェルニの武芸者は落ち着いている。通常なら絶望的な状況であるが、今のツェルニは雄性体を軽くひねれる武芸者が十人程度いた。雄性体が何体いようと負けない要素が揃っている。

 雄性体がいる上空を見上げていると、一瞬光の柱が立った。アストリットが狙撃銃で狙撃したのだ。一体の雄性体が光の中に消える。外縁部から歓声があがった。

 残り四体。このままエアフィルター付近を飛んでいても不利だと悟った雄性体全てがエアフィルターに突っ込み、エアフィルターの膜を破ってツェルニに飛来した。

 

「射撃部隊! 撃ち落とせ!」

 

 ヴァンゼの指示が飛び、射撃部隊が一斉射撃をした。

 しかし雄性体四体に対して効果はほとんど無く、地上に引きずり込めなかった。

 レイフォンは鋼糸を展開して全ての雄性体を拘束し、地面に叩きつけた。

 ニーナ、エリゴ、レオナルト、バーティン、ツェルニの各小隊長が身動きできなくなっている雄性体に殺到する。雄性体は断末魔の叫びとともに死んだ。雄性体の死体は何かにすり潰されたようにぐちゃぐちゃになった。

 その間にさっきの『卵』が割れて幼生体がツェルニの外縁部に到達していたが、ツェルニの武芸者は周囲と上手く連携して、幼生体をひっくり返しては外殻に覆われていない裏側を攻撃し、頭を潰して殺していた。すでに全ての幼生体を殲滅している。

 ツェルニの武芸者は幼生体なら協力して軽く殺せる程度の実力を身に付けていた。以前ルシフにツェルニにいる武芸者を成長されたところで無意味だと言った覚えがある。しかし、幼生体に怯まず適切な動きをするツェルニの武芸者を見ていると、たとえ弱くても成長させた方が得と言ったルシフの気持ちが分かった気がした。

 ルシフの投擲攻撃は四度目になっている。休憩する時は必ず念威端子を老性体から遠ざけ、攻撃を始める時は念威端子を老性体に近付ける。その形は崩していない。

 ツェルニの武芸者は最初の頃はここから老性体に攻撃できるルシフに歓声を送ったが、今はずっと同じことを繰り返して進展のないルシフに飽きたのか、歓声は無くなっていた。

 既にルシフが投擲攻撃を開始してから二時間半が経過している。その中で老性体に当たったのは一度だけ。当たってからは老性体が回避行動をとって、全てかわしていた。

 変化が訪れたのは、五度目の投擲攻撃を開始しようとする時だった。

 老性体が跳躍し、攻撃のために近付けた念威端子を右前足で叩き落とした。念威端子が粉々になるところを別の位置の念威端子が捉えている。

 

「マイ! 念威端子を退避させろ!」

 

『は、はい!』

 

 老性体に近付けていた念威端子は五枚。残るは四枚。それらが老性体から離脱を始める。

 老性体は念威端子が離れていくのを見ると、すぐさま追いかけて全ての念威端子を破壊した。

 モニターが砂嵐になり、すぐに老性体から見えないところに待機していた念威端子にモニターがリンクし、老性体がかろうじて映っている映像になった。

 

『ルシフ様。老性体近くに置いていた端子五枚、全て破壊されました。端子の残り枚数は二十五枚です』

 

「端子を一枚、老性体に近付けろ」

 

『はい』

 

 念威端子が近付く。老性体は念威の光に反応し、すぐさま接近。念威端子を破壊。

 明らかに老性体は念威端子を狙うようになっていた。

 レイフォンは右腕で汗を拭っているルシフに近付く。

 

「ルシフ。君の判断のせいで、老性体に念威端子の役目を気付かれた。これからは正確な老性体の位置が分からないぞ。近付ければ破壊され、遠ければ正確な距離を掴めないんだから。あの跳躍力と機動力は予想以上だよ。かなり広範囲の念威端子を破壊できる」

 

「ハハハハハハッ!」

 

 ルシフはこの状況において、愉快そうに笑った。こちらが不利になったにも関わらず。

 ルシフがレイフォンを右手で指差した。

 

「貴様の言う通りだ! ヤツは一つこちらから利を得た! だがアルセイフ、よく覚えておけ。利を得るということは、それにともなう害も得るということ。常に利害は表裏一体なのだ」

 

 レイフォンはルシフが何を言っているのか分からず、首を傾げた。

 

「マイ。俺が端子を移動と言ったら、念威端子をヤツの正面二百メルトル前に移動させろ」

 

『はい』

 

 レイフォンを無視して、ルシフが指示を出した。

 指示を出した後、ルシフはレイフォンに向かって右手を払った。あっちに行けと暗に言っている。

 レイフォンは納得できなかったがどうすることもできないため、大人しくルシフから離れた。

 ルシフは左手に剄の槍を持った。剄の槍に今までより桁違いの剄量が込められているのが伝わってくる。

 レイフォンが驚いて目を見開いた。

 それを見たルシフは不敵な笑みを浮かべる。

 

「俺は左利きなんだよ。物を投げるのも左投げだ」

 

 ルシフは助走距離を念入りに測り、フェイススコープの映像を注視しているようだ。

 ルシフが剄の槍を投擲。

 投擲した後、ルシフは息をつきながらモニターに映っている現時刻のデジタル表示をじっと見ている。

 

「……よし。念威端子を移動しろ」

 

 念威端子が老性体に近付き、二百メートル前で停止した。

 老性体が気付く。

 老性体が念威端子に近付き跳躍して端子を破壊。と同時に剄の槍に貫かれ、大爆発を起こした。モニターが砂嵐になる。

 しばらくしてから、モニターに老性体がいた場所が映る。

 爆発の影響で大地は広範囲に深く抉れ、ところどころに老性体の肉片が転がっている。

 間違いなく老性体を殺した。百五十キロメートル離れたところから。

 レイフォンはルシフを驚愕の表情で凝視した。

 

「獣は餌で釣って殺すのが一番だ」

 

 ルシフは苦しそうに息をしながらも、満足そうに笑っている。

 念威端子で釣って、老性体の位置を誘導し、跳躍して身動きが取れなくなったところを、剄の槍で射抜く。

 確かにこれなら、老性体がどれだけ速く動けたとしても、無意味。確実に殺せる。

 

「もし念威端子に釣られなかったら、どうするつもりだったんだい?」

 

「その時は槍が届く前に念威端子を念威爆雷にしてヤツの視力を奪うつもりだった。まぁ最初にそれで殺しても良かったんだが、どうせなら難しい方で殺そうと思ってな」

 

 レイフォンはぞくりと背筋に悪寒が走った。

 ルシフが何を考えているのか全く理解できず、ルシフの心が読めないからだ。

 外縁部は武芸者の歓声で埋め尽くされていた。

 ルシフは息を整えている。疲労の色は濃い。大量の剄をあれだけ何度も放出していれば、疲れるのは当然。

 今なら、殺せる。

 レイフォンは復元済みの大刀の柄を握った。握った両手は汗ばんでいる。

 

 ──こんな得体の知れない考えのヤツがグレンダンに行ったら、何をするか予想もつかない。グレンダンで被害を出した後に陛下に殺されるか、今僕に殺されるか。それだけの違いじゃないか。

 

 殺せばツェルニの住民から非難され、ツェルニを強制的に退去することになるだろう。それでもグレンダンを悪魔の手から救えるなら、やるべきじゃないのか。

 そんなことを考えていると、ルシフと目が合った。

 どくんと、心臓が跳ねる。

 不意にルシフは、いつも通りの勝ち気な笑みを浮かべた。

 お前に俺を殺す度胸などないだろ。

 そう目で言っているような気がした。

 レイフォンは舌打ちし、柄から両手を離す。

 理屈では殺すことが正しいと分かっているが、その一方で自分は斬る直前に刀を止めてしまうと確信してしまったからだ。

 レイフォンは下唇を噛んで、両手を握りしめた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 机の周りの床には大量の書類がばらまかれていた。

 

「あ~、しんど~」

 

 アルシェイラが机に突っ伏している。

 グレンダンの女王であるアルシェイラはカナリスが不在のため政務を押し付ける相手がおらず、仕方なく政務の一つである書類の処理をしていた。

 様々な施設や道場などから寄せられた要望事項や、資金援助を希望する施設経営者のリスト、この人物に武芸者の地位を与えてほしいという希望書などなど。

 一つの書類にかかる時間は、可か不可か保留のいずれかを決定するだけなので、そんなに時間はかからない。しかし塵も積もればなんとやら、膨大な数の書類があるためちっとも終わらない。それに加え、アルシェイラはこういった政務が嫌いだった。単純に退屈で面白くないからだ。

 

「今分かったわ。カナリス、あなたの大切さが。あなたはこんなことを毎日愚痴をこぼしながらやってたのね」

 

 カナリスをグレンダンから出したのは失敗だったかもしれない。

 だが、リンテンスはグレンダン以外のぬるい都市に興味はなく不潔だし、カウンティアとリヴァースはコンビを組ませないと動かないし、ルイメイは細かいことは不向きで勢い余ってリーリンを怪我させる可能性があるし、トロイアットは軽薄でリーリンに悪い影響を及ぼすし、ティグ爺は歳だし、バーメリンは口が悪いからリーリンの口も悪くなるかもしれない。そうやって護衛の候補者を除外していき、消去法で残ったのがあの三人だった。

 アルシェイラは机から起き上がり、伸びをする。

 リーリンと天剣授受者三人がグレンダンを発ってから、約半年。その半年間の半分くらいは政務をしなくてはならず、退屈な時を過ごさざるを得なかった。

 アルシェイラは気分転換しようと、グレンダン王宮にある空中庭園に足を運んだ。

 空中庭園からはグレンダンの都市を一望でき、外縁部の更に向こうにある汚染されている大地の地平線まで見えた。

 

「……ん?」

 

 アルシェイラは地平線の先にこちらに向かって来ている都市を見つけ、両目をこする。疲労で幻覚を見ているんじゃないかと思ったからだ。

 

「いやいや、え~と、確かにね、いつまで夏季帯続くのかな~、グレンダンで夏季帯は珍しいな~って思ってたのよ? これはホントにホント。いやでも、え~」

 

「何を一人ではしゃいでいる?」

 

 アルシェイラの隣にいつの間にかグレンダンがいた。犬に似た蒼銀色の獣。

 ウキウキしだしたアルシェイラの方に頭を向けている。

 

「あら、ちょうど良いところに来たわね。あれ見て、あれ」

 

「都市が見えるな」

 

「そんなことはどうでもいいのよ。その都市がどこなのか、そこが重要なの。あの旗、ツェルニの旗よ! 間違いないわ! リーリンのために覚えておいたもん!」

 

 近付いてくる都市の旗は、ペンを持った幼い少女が刺繍されている。その旗が意味するは、学園都市ツェルニ。

 アルシェイラは知るよしもないが、ツェルニはルシフが老性体を殺してから移動を再開し、一日経過していた。そして、何故かグレンダンの方に直進しているのだ。

 

「う~ん、悪の手に囚われたお姫さまを救い出し、悪を討つ! なんて刺激的で面白そうなシチュエーション! 気分はまさにお姫さまを救うナイト! 面白くなってきた~!」

 

「遊び気分でルシフとやらに足を掬われんようにな」

 

 グレンダンが忠告するが、アルシェイラは聞く耳を持たない。

 

「ルシフ? あんなヤツ今回もボコボコよ~。待っててリーリン! 今あなたを助けに行くからね!」

 

 グレンダンとツェルニの接触。

 それはもう間近に迫っていた。

 そして、ツェルニとグレンダンが接触した時、グレンダン史上最悪の一日が始まることになるとは、今のアルシェイラは夢にも思わなかった。




これにて、原作九巻終了です。
次章はこの作品を構想してからずっと書きたかった話です。とても楽しく執筆できそうでワクワクしてます。


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原作最終章 鋼殻のレギオスに魔王降臨
第53話 覚醒少女


 ほんの少し時間を遡り、ルシフと老生体が戦っている最中。

 リーリンは地下シェルターの隔壁の前で立ち尽くしていた。

 そもそもリーリンが避難しているシェルターから出た理由は、メイシェンが発熱したからだ。レイフォンと友だちであるメイシェンとミィフィとナルキは、リーリンとすぐ面識を持ち仲良くなった。シェルターに避難した時もミィフィとメイシェンが一緒だった。リーリンは給湯室で飲み物をもらってくると二人に言って、シェルターから出てきた。

 しかし、今リーリンが立っている場所は地下シェルターの入口であり、隔壁の先は地上に出る。給湯室の位置は全く別方向。

 リーリンは給湯室の位置が分からず、迷ってしまってここに来たわけではない。給湯室に行こうと思っていたが、途中で無性にここに来たくなったのだ。

 

「……何してんだろ、わたし」

 

 リーリンがここに来た理由は、レイフォンが気になったからだ。レイフォンは怪我をしていないか。レイフォンは大丈夫なのか。そういった不安が、リーリンの目的地を変えさせた。

 当然ながら、隔壁の前に立っても隔壁は開かない。隔壁に向こう側を見れるカメラのようなものも付いてないから、リーリンの目に映るのは隔壁の白い壁だけ。

 要するに、リーリンのこの行動は無意味で無駄な行動だった。そして、リーリンは無駄足で終わるのを分かっていた。分かっていたのに、ここに来てしまった。

 リーリンはため息をついた。

 

「……給湯室に行かなきゃ……ッ!」

 

 リーリンはその場に座り込む。

 右目が痛い。涙が右目からあふれて止まらない。まるで目を針で貫かれたような激痛。右目が突如として自分から切り離されたような違和感。

 リーリンは右手で右目を押さえる。

 

 ──どういうこと?

 

 リーリンは隔壁が見えている。試しにリーリンは左目を閉じた。隔壁が見えている視界は暗闇に包まれない。隔壁は見え続けている。右目は右手で覆われ、左目は閉じているのに。

 この右目が、右手を通り抜けて隔壁を映している。そう結論付けるしかない。

 自分の身に何が起こっている?

 いつの間にか、隔壁の前に少女が立っていた。黒い服に黒い髪。まるで葬儀に出向くような服装。全く生気が感じられない。

 少女の輪郭はぼやけている。右目にしか少女の姿が映っていないからだ。

 

 ──あなたはなに?

 

 涙が止めどなく流れる。少女を見てから、涙は更に勢いを増して流れているような気がした。

 この涙が痛みからきているのか。それとも自分でも理解できない感情によるものからなのか。

 分からない。

 少女は隔壁の方をじっと見つめ──消えた。比喩とかではなく、本当に煙のように消えた。今の少女は幻だったのか?

 

 ──戻ろう。

 

 独りでいるから、こんな現実離れしたことが起きる。メイシェンとミィフィのところに戻れば、こんな悪夢のような出来事からきっと抜け出せる。

 リーリンは立ち上がって振り返り、きた道を戻ろうと一歩踏み出した。

 ぐにゃり、という音がした。硬い床を踏んだつもりなのに、床はゴムのような弾力のある何かに変わっていた。

 顔だ。床、壁、天井のいたるところが目を閉じた顔で埋め尽くされている。

 

「なんなのよ……」

 

 自分に今何が起こっているのか。右目は相変わらず痛い。目を開けていられない。

 ふと、全ての顔の目が一斉に開いた。瞳孔が動き回り、リーリンのところで止まる。

 

「……ミつケタ」

「滅ビアレ、ツきの影ヨ」

「ワれラをカコうキョコウの支配者ヨ」

 

 顔が次々に言葉を発した。奇妙な抑揚で、怨嗟が内包された声で、リーリンの全身を打った。

 

「なに、言ってるの……あなたたち、なんなのよ!」

 

 リーリンが怒気を込めて叫んだ。

 これは幻覚なのか。しかし、幻覚にしては存在感がありすぎる。

 

「おヲオおおお……ワレらを虚構に戻ソウというか」

「そうハイかヌぞ、月の子よ」

「ワレらが呪ヒにテ……」

「貴様のタマしイ、暗こクの無間にヲとさン」

 

 右目が痛みを増した。右目を押さえる力を強くする。全身を刺すような悪意が包み込んでいた。

 周囲の顔の瞳孔はリーリンを捉えて動かない。

 恐怖が全身を支配していく。

 

「呪い、ですって?」

 

 声が背後から聞こえた。

 

「そんなものに頼る。いつまでもいつまでも、変わりのない惰弱(だじゃく)さ。群れて、腐って、消えるしかない愚かさ。愚劣極まりない連中ね」

 

 リーリンは振り返る。

 黒服の少女がいた。しかし、その少女は生気があった。嘲笑するような表情を浮かべている。そして、同性の自分すら惑わせる色気があった。

 

 ──さっき見た女の子じゃない。

 

 直感でリーリンは確信した。

 周囲を覆い尽くしている顔がしきりに何かを叫んでいる。

 少女が鬱陶しそうに右手を振った。

 すると、リーリンの世界から音が消えた。顔は口を動かしているから、叫びは続いている筈だ。

 まさか自分の耳は聴こえなくなってしまったのか。

 

「叫ぶだけの能なし」

 

 少女の声が耳に聞こえ、リーリンはほっとした。自分の聴覚はおかしくなっていない。

 

「でも、そんな能なしまでも顔を出せるとなると、そうとう弱っていると考えるべきかしら?」

 

 リーリンは少女の一語一句を聞くごとに、頭がくらくらするような快感にも似た熱を感じた。何もかもがどうでもよく、ただ少女の言いなりになるだけでいいんじゃないだろうか、と思考放棄して少女に従いたくなる。一度も会ったことがなく、こんな異常な状況なのに。

 右目の痛みが、リーリンの意識を正常に引き戻す。

 自分は今、何を考えていた?

 そんなリーリンを、少女は微笑して見つめていた。

 

「あら、耐えたの? 一応は末なのね。いえ、もしかしたら、一応どころかあなたこそ正統かもしれないわね」

 

 少女の声が、リーリンを甘くとかしていく。リーリンは首を振って、理性を取り戻す。

 

「何が起こってるの?」

 

「知ったところで、もう遅いわ。あなたは何もできないもの。あなたがあなたである前から、何もできないことは決まっていたもの。そういう流れの中で、この世界はできてしまったの。何もできなかったからこの世界ができて、何もできなかったからこの世界はこうなってしまうのだもの。全ては自動的で順通り」

 

「何……言ってるの?」

 

 リーリンは少女の言葉を何一つ理解できなかった。

 

「始まりの鐘が鳴るのよ、もうすぐ。何もできない世界が必死になって何かしたいと考え、産み落とされたものが世界に牙を剥くの。ふふっ、皮肉よね。結局この世界は変革の戦火に包まれるのを見てることしかできないもの」

 

 少女はリーリンの頬を撫でた。少女の指はぞっとするほど冷たい。

 

「あなたの覚醒が、全ての始まりの幕開けになる。さあ、世界に、イグナシスに、リグザリオに知らしめなさい。欠片は揃ったと、解放の戦いが始まるのだと」

 

 少女の手がリーリンの頭を押さえ、無数の顔がある方にリーリンを向けさせた。

 少女の指がリーリンの右目付近に食い込む。そして、閉じられている右目を指で無理やり開けた。

 リーリンの右目に無数の顔が映る。無数の顔は次々に眼球に変わり、床に落ちた。石が落ちたような硬質の音が連鎖する。

 リーリンは立ち尽くしていた。

 

「うふふふ……あははははは! 始まるわ。世界の根本を揺るがす戦いが」

 

 少女はリーリンの視線の先にあるものを見て、狂ったように笑っていた。

 リーリンの眼前の床を、眼球が埋め尽くしている。眼球の一つがリーリンの方に転がり、足に当たった。

 柔らかくない。まるでガラス玉で作られたような作り物めいた硬さがある。

 少女の手がリーリンの頭から離れた。

 リーリンは荒く息をつき、座り込む。右目を押さえた。右目を押さえても、眼球は消えない。

 

 ──これをやったのが……わたし?

 

「……ッ!」

 

 激しい頭痛がリーリンを支配した。リーリンの顔が苦痛に歪められる。

 

『今は覚醒の時じゃない。この会話もすぐにあなたは忘れてしまう。でも、覚醒すれば思い出す。その時のために、一つだけ言わせて。──ルシフに気を付けて』

 

「……あっ」

 

『いいえ、忘れているだけ。魂の奥深くに刻まれた因子を』『逆。あなたにしかできない。あなたはルシフの暴走を止められる唯一の存在になり得る』『そのままの意味。他の人と根本的に違っている。だから、とても不安定』『ルシフ・ディ・アシェナ……異端の存在』

 

 ルシフの手により忘れさせられたと思っていたマイアスの出来事が、巻き戻しの映像を観るように脳裏に流れていく。

 ルシフがマイアスに現れたこと。ルシフが自分を偽り接触してきたこと。ルシフとともに電子精霊マイアスを救出したこと。それらの映像が流れ続ける。

 リーリンは消されたと思っていた記憶の全てを思い出した。

 

「……ルシフ……マイアスにいた……でも、ツェルニにいる……どういうこと……?」

 

「あら、あなたはあの滑稽な存在を知っているの? いえ、あなたもあれの一部だから、知ってて当然なのかしら」

 

「ルシフが、滑稽な存在?」

 

「あれは面白いわ。犬猫のくせに、自分を狼とか虎だと信じ込んでるの。多分、本能で知ってるのね。自分が犬猫だと気付いてしまったら、自分は弱者になると」

 

 リーリンは少女が何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 少女は無邪気な笑みを浮かべた。

 

「あれこそ、この世界が運命の支配から逃れようと生み出した存在。まあ、時がくれば自ずと理解できるわ。今はそんなことより言いたいことがあるの」

 

 少女がしゃがみこみ、リーリンを抱きしめた。

 

「……お帰りなさい」

 

「え……?」

 

 リーリンは戸惑った。少女の姿は呟きとともに消えていた。

 残っているのは、床を埋め尽くす眼球。

 

「……ッ!」

 

 自分は一体なんなのだろう。本当に普通の人間なのだろうか。自分は人間じゃないから、両親に捨てられ孤児になったのではないだろうか。

 

「……レイ……フォン」

 

 リーリンはここにはない温もりを求めた。

 レイフォンに、傍にいてほしい。レイフォンがいれば、自分は自分でいられる。リーリン・マーフェスでいられる。

 そこまで考え、リーリンは首を振った。

 レイフォンは今も頑張っている。それなのに、自分がそんな弱気でどうする。

 強く在る。誰にも心配をかけさせない。周りの人を不安な気持ちにさせない。それが、幼い頃から決めていた生き方ではないか。

 リーリンは立ち上がった。

 

「あ、リーリン」

 

 声が聞こえた。正面を見る。ミィフィがいた。

 おそらくなかなか戻ってこない自分を心配したのだろう。

 

「どうしたの? こんなところで」

 

「ちょっと気晴らしに散歩してたの。ごめんね、飲み物持っていくって言ったのに」

 

「いいよいいよ。それより、何かあった? 顔色が悪そうだけど」

 

 リーリンは反射的に床に視線をやった。ミィフィもリーリンの視線の先を見る。

 リーリンの視線の先には無数の眼球がある。ミィフィはただ首を傾げた。

 

「……別に、何もないよ。シェルターに戻ろっか」

 

「う、うん」

 

 リーリンはシェルターに向かって歩き出した。ミィフィが後ろを付いてくる。

 ミィフィはリーリンの顔色には気付いたのに、リーリンが右目を閉じていることには一切触れない。

 つまりこの右目は、そういうことなのだ。

 それからしばらくして汚染獣を倒したという放送があった。

 シェルターに避難していた住民は喜び、これで外に出れると思った。

 しかし、約一日の行動範囲内にファルニール以外の他都市がいて、ツェルニに向かってきている。そのため、その都市と接触し戦争になる恐れがある。だから、ツェルニが安全と判断できるまではシェルターに避難していてほしい、と続けて生徒会から放送があった。

 シェルターに避難していた住民は不満を口にしたり、それが表情に出ていたが、仕方ないと自分を無理やり納得させた。

 この時点で近付いてきている都市がどこなのか生徒会は分かっていたが、シェルター内の混乱を考慮して知らせなかった。

 都市間戦争の相手が学園都市ですらなく、武芸の本場と言われるグレンダンなど、冗談にもならない。伝えれば必ず不安になる。

 すでにツェルニの一部の者は対グレンダンに向けて動き出していた。

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 老性体を倒した夜。

 ルシフの部屋のリビングに十人集まっていた。ルシフ、マイ、教員五人、ダルシェナ、ディン、カリアンの十人だ。

 老性体を倒した直後、マイが老性体周辺の探査を念威端子でして、都市を発見していた。グレンダンの旗はルシフから散々言われて覚えていたため、近付いてくる都市はグレンダンだとすぐに分かった。

 そして、ルシフはここにいる者たちに、夜部屋に来るようマイの念威端子を介して伝えていた。

 現在のツェルニはグレンダンとの戦いに備え、武芸者に休息を指示してある。

 ニーナ、フェリ、シャーニッドなどはグレンダンが近付いてくると聞いて唖然とし、次にルシフを複雑な表情で見た。レイフォンに至っては「嘘だ!」と取り乱したが、近付いてくる都市をモニターに映すとようやく冷静になり、ルシフの反応を窺ってきた。

 リビングにある机の上には、一枚の紙が広げられている。それはグレンダンを上から見た簡単な見取り図。ルシフが書いたものだ。グレンダンから得た書物で、グレンダンの地理は全て頭に入っていた。

 その机を中心にして、十人が立っていた。

 

「最初に言っておく。お前たちはツェルニの一員としてではなく、俺の同志としてグレンダンと戦ってもらう。当然、ツェルニの武芸者の出方によっては、ツェルニとも戦う」

 

 その場の全員が絶句した。すでにルシフの中で、ツェルニは味方として見ていない。

 

「ちょ、ちょっと待ってほしい。ツェルニの武芸者や念威操者の力を借りず、この場にいる十人だけでグレンダンを倒すつもりなのかい? 武芸の本場と言われるグレンダンを?」

 

「そうだ」

 

「一体どれだけ数と質に差があると思ってるんだい? いくらルシフ君が強くても、さすがにそれは……。ダルシェナ君とディン君には申し訳ないが、この二人は良くてグレンダンの一武芸者レベルだろう。もちろん私は戦力にならない。マイ君の念威の腕は素晴らしいかもしれないが、グレンダンには天剣を持つ念威操者がいる。

あなた方教員五名は天剣に一対一で勝てるのですか?」

 

「多分、無理だな。レイフォンにも一対一(サシ)じゃ勝てねぇと思うぜ」

 

 エリゴがカリアンの問いに答えた。

 カリアンは小さく息をついた。

 

「ルシフ君一人で天剣十人と女王を相手にしなくてはならない計算になる。それに加え、グレンダンには優秀な武芸者が多数。戦うべきではないと、私は思うが。分が悪すぎる」

 

「カリアン、そこだよ」

 

 ルシフはにやりと笑った。

 

「グレンダンの連中はツェルニが接近してきたのを知って、こう思うだろう。俺とアルセイフ以外は相手にならない。俺とアルセイフにだけ注意すれば、ツェルニなど雑魚だと。そこに、付け入る隙がある。奴らはツェルニから俺とアルセイフ以外の奴が攻めてくるなど、思いもしないだろう。

だからこそ、俺以外の奴らがグレンダンに攻め込む」

 

 ルシフが周りの顔を順々に見る。

 

「いいか? 俺たちの戦闘目的はありとあらゆる点でグレンダンに勝利することだ。そのために達成すべき四つの目標がある。

一つ目、全天剣の強奪。

二つ目、グレンダンの女王と天剣授受者全員の戦闘不能。

三つ目、グレンダンの旗を一度確保。

四つ目、リーリン・マーフェスのイアハイム連行」

 

 ルシフが右手の人差し指で見取り図を指差した。

 

「エリゴ、フェイルス、レオナルト。お前らはランドローラーを二台使い、外部ゲート付近でランドローラーを乗り捨て、ツェルニとグレンダンの接触した部分と反対の外縁部から潜入しろ」

 

「了解した」

 

 エリゴが返事をし、レオナルトとフェイルスは頷く。

 

「アストリット、バーティン、ダルシェナ、ディン。お前らはランドローラーを二台使い、外部ゲートからグレンダンに潜入」

 

「承知しました」

 

 アストリットは軽く頭を下げ、バーティンは頷く。ディンとダルシェナはぽかんと口を開けたままだ。

 

「ディン、ダルシェナ。本当に理解したか? 気を抜くと、死ぬぞ。学園都市同士の戦争もどきではなく、正真正銘の戦争をするのだからな」

 

「俺たちは、必要なのか?」

 

 ディンが不安そうな表情で言った。

 

「別にいなくてもいいが、お前たちがいた方がグレンダンを混乱させられる。今まで黙っていたが、ツェルニにはすでに天剣授受者が三人潜入している」

 

「……それは本当の話かい?」

 

 カリアンが信じられないといった表情をしていた。カリアンだけではない。他の者も似たような表情をしている。

 

「疑うなら、ゴルネオの部屋から出るゴミの量を確認してみろ。とても一人の量じゃないぞ。おそらくリーリン・マーフェスに付いてきたのだろう。天剣授受者三人の目的はこいつだ」

 

 ルシフは左手を横に伸ばす。左手の先から黄金の粒子があふれ、牡山羊の姿をかたどった。マイ以外、目を点にしている。

 

「ちなみにこいつも同志だ。メルニスク、挨拶しろ」

 

「……必要ない」

 

 メルニスクはそれ以上何か言うつもりはないようで、黙りこんだままだ。

 ルシフは気分を害した様子もなく、メルニスクを左手で指差した。

 

「こいつが廃貴族。グレンダンがツェルニに向かってきているのも、こいつを手に入れるためだろう。グレンダンの連中は必ず俺を捕まえようとするか、殺そうとする筈だ。

話を戻そう。つまり、天剣三人は教員としてツェルニに来た五人が俺の味方だと知っている。逆に言えば、教員五人とマイ以外、俺に味方はいないと思っているに違いない。

ディン、ダルシェナ。お前らはそういう意味で、ある種の切り札になりえる」

 

 成る程、とディンとダルシェナは理解した。つまり自分たちは存在していない筈のルシフの戦力になるのだ。

 

「私はどうすれば?」

 

「カリアン、お前はまず秘密裏にツェルニの外部ゲートから人を遠ざけろ。

それと、グレンダンから何かしらの交渉や要求があった場合、それらに従いつつもツェルニの住民の安全の保障をくどいくらいに懇願しろ。謙虚で怯えてる姿勢を忘れるなよ。ツェルニは戦う前から負けを認めている。俺以外は問題じゃないとグレンダンに思わせ、グレンダンの慢心を助長させろ。ツェルニから武芸者が攻めてくるなど考えられない思考状態にするのが、お前の役割だ」

 

 カリアンは内心でルシフの指示に舌を巻いていた。

 まるでこの場からグレンダンの人間の心を読んでいるようだ。

 圧倒的な剄量とありとあらゆる策を用いるところがルシフの強さだと誰もが思っているが、そこは表面上の強さでしかない。ルシフの本質的な強さは、この分析力と対応力にある。相手を分析し、相手の弱点や弱みを見つけ出し、相手がどう出てくるか読み、それに対する策をあらかじめ準備しておく。

 

「私は何をすればいいですか?」

 

「マイ。念威操者で天剣授受者のデルボネを潰してから、お前には本格的に動いてもらう。グレンダンの念威操者の念威端子を次々に奪い、グレンダンの索敵能力と通信システムを無力化しろ。

グレンダンの念威操者は優秀だが、デルボネという精神的支柱が常にある。その支柱さえ崩してしまえば奴らは動揺し、デルボネがいない場合誰がまとめ役になるのか、連絡体制をどうするか、誰がどこを索敵すればいいかなどが分からなくなる。本来ならデルボネが潰された場合の対応策を考えておくべきだが、あの女王にそこまで考える頭はない。デルボネが潰されないという絶対の自信があるからだろうがな。

それからもう一つ。グレンダンの動きがどんなものか後々も分析できるよう、俺が合図したら念威端子で俺の周辺を撮影しろ。俺が再び合図するまで撮影を続けてくれ」

 

「分かりました」

 

「さて、大まかにお前らの役割を言った。これからは質問タイムだ。質問タイムが終わったら、お前たちがグレンダンと戦う際にどう動くか、細かく教えていく」

 

「ルシフ様」

 

 アストリットが手をあげた。

 

「アストリット、なんだ?」

 

「作戦目標の三つ目までは理解できます。しかし、四つ目のリーリン・マーフェスのイアハイム連行だけは、どれだけ考えても理解できません。何故、リーリンをイアハイムに?」

 

 それはもっともな疑問だった。誰もがその部分を質問したかった。

 

「リーリンがツェルニに来る際、おそらく天剣授受者三人が手を貸している。天剣授受者に指示を出せるのは女王しかいない。つまり、女王の指示で天剣授受者はリーリンに手を貸したことになる。リーリンは女王にとって特別な存在である可能性が高い。だから、リーリンをこちらの手中に収めておく」

 

 ルシフのこの返答は建前である。ルシフはリーリンが『茨の目』を持っていることを原作知識から知っている。

 『茨の目』とは、見たものを眼球に変える力。最終的には眼球に変えた相手を取り込み、相手の力を吸収できるようになるという反則的な能力に昇華する。そんな力を使えるリーリンが自由に動けるのは、ルシフの計算を大きく狂わせるという意味で脅威だった。

 フェイルス以外、苦い表情になっている。ルシフに心酔しているマイですら、何か言いたげな視線をルシフに送っていた。

 それでいい、とルシフは思った。命令だからといってなんでも賛同するような人形などいらない。

 フェイルスは徹底した合理主義であり、必要ならば卑劣な策を用いることも許容できるタイプだった。ルシフの思考と近いものがあるかもしれない。

 

「……しかし、それはサリンバン教導傭兵団がルシフ様を脅迫するためにマイさんを誘拐したのと同じじゃありませんか?」

 

 アストリットは不満そうな表情のままだった。アストリットは弱者を虐げたり、利用するのを許せないタイプだった。弱者は武芸者である自分が守るべきだという矜持を持っていた。

 

「俺とサリンバン教導傭兵団で違うところが二つある。それは、リーリンは何があっても傷付けんし、自由も与えるというところだ。俺は脅迫するためにリーリンを誘拐するんじゃない。グレンダンの女王がリーリンを特別視しているかどうか。もしそうならどう特別なのか知りたいだけだ」

 

「……私は、どんな時もルシフ様の力になりたいと思っております。どんなに気が進まなくても、ルシフ様が望むなら、心を殺して従います」

 

「心を殺してまで、俺に従うな。自分自身が納得したうえで、従え。思考放棄して楽に生きようとするな」

 

「も、申し訳ございません!」

 

 アストリットが頭を深く下げていた。

 酷いことを言っている自覚はあった。だが、俺に従い続ける限り、その葛藤は絶えず存在する。そこでしっかり自分の意思で決断するか、全て他人任せにするかでは人として強くなれるかどうかという話になる。アストリットには武芸者としての矜持を持ちつつも、場合によっては小を犠牲にして大を救う決断ができるようになってほしいと考えている。

 

「……他に、何かあるか?」

 

 手をあげる者はいなかった。ルシフは順番に周りの顔を見て、質問がないことを確認した。

 その後、ルシフはグレンダンに潜入してからどう動くか。潜入が失敗した場合はどう動くかなどといった細かい指示について、話し始めた。

 話が終わる頃には、カリアンとディンとダルシェナは驚いた表情になっていた。

 

「ルシフ君。君はこの場からグレンダンの人間全員の心を読んでいるようだ」

 

「カリアン。相手が何を考えているのか分からないのに、どう策を巡らす。どうやって戦術を考える。相手の目的や思考を読むなど、戦ううえで基本中の基本だ」

 

「……確かにその通りだね」

 

 ルシフは全員の顔を見る。

 

「最後に言っておく。これから始まるグレンダンとの戦いは、勝利か敗北か、ではない。勝利か死だ。敗北は許されん。敗北して生きながらえるくらいなら、戦って死ね。俺はどんな状況になっても、命ある限り戦う」

 

 マイと教員五人は頷いた。カリアン、ディン、ダルシェナは困惑した顔になっている。

 

「それから、教員五人が去る時に合わせて俺とマイもツェルニを去る予定だったが、気が変わった。グレンダンとの戦いに勝ったら、即ツェルニから去る。教員五人とマイは今夜の内にツェルニの人間に気付かれないよう、荷物を放浪バスに入れておけ」

 

 ルシフの言葉に皆面食らったが、数十秒時間をかけて受け入れた。

 

「分かりました」

 

 教員五人とマイの声が重なる。

 

「カリアン。お前はツェルニに残って今まで通りツェルニを治めろ。

ディン、ダルシェナ。お前らはどうする? 俺たちとくるか? それとも、ツェルニに残るか?」

 

 ディンとダルシェナは難問にぶち当たったような、難しい表情をしている。

 しばらくして、ディンが口を開いた。

 

「……もしこの戦いで死ななかったら、俺もツェルニを退学する。言っただろ? お前が何をやるのか見てみたいと。

シェーナ、お前は俺に付き合わなくていい。シャーニッドと共にツェルニを守ってくれ」

 

「バカを言うな。わたしもディンとともにイアハイムに行く。わたしはディンの力になりたいんだ」

 

 ダルシェナは微笑んだ。

 ダルシェナの笑みを見て、ディンも笑った。

 

「決まりだな。よし、今の内に赤色の放浪バスに荷物を入れてこい。荷物を入れ終わったら、俺の指示通りに動け」

 

 ルシフの言葉に頷き、全員ルシフの部屋から出ていった。

 一人になった部屋で、ルシフは寝室にいった。私物は寝室にほとんど置いてある。

 寝室にある私物をバッグに入れていく。机の上の写真立てを手に取った。自分が入院した時に撮った写真。自分とマイ、ニーナ、レイフォン、シャーニッド、フェリ、ハーレイが写っている。

 ルシフはしばらくその写真を眺めると、机の上に写真立てを戻した。

 

「あら、持っていかないの? 名残惜しそうにしてるけど」

 

 ルシフの背後から、声が聞こえた。女の声。振り返る。黒服の少女が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 全く気配を感じなかった。こいつが俺を殺す気なら、俺は死んでいた。

 ルシフは右手で頭を押さえる。頭痛が痛みを増した。吐き気がしてくる。

 ルシフは右手で頭を押さえながら、少女から目を離せなくなっていた。

 美しいと思っている。熱が全身を駆け巡り、理性を壊していく。

 

「ふふっ、人間は誰もが器を一つ持ち、器にある物を一つだけ入れているの。その器は一つの重さしか耐えられない。無理やり二つ入れれば、必ずどちらかが器からこぼれる」

 

 少女が空気を震わせるたび、頭がとろけていくようだった。何もかもを少女に委ねてしまおうとさえ考えている。

 ルシフは左手で左足をつねった。痛みで意識を正常に戻す。

 

「でも、何故かあなたはこぼれない。器に二つのっかったまま。いずれ器そのものが耐えきれなくなり、壊れる。あなたの器はあと何年耐えられるかしら」

 

「俺の寿命は長くない、と言っているのか?」

 

「残念ね。でも、それがあなたの運命。選択肢は二つ。受け入れるか、抗うか。といっても形はないから抗いようがないのだけれど」

 

「確かに、残念だ。やりたいことはたくさんある。だが、たとえ明日死んだとしても、悔いはない。俺の人生において、無駄な時間など一秒も存在していないからだ」

 

 人はどれだけ長く生きるか、ではない。どう生きたか、どう死んだか。それだけで十分だ。明日死なないと思っていても、呆気なく明日死ぬ。それが人だ。寿命の長さなど、どうでもいい。

 

「あら、つまらない。もっと取り乱してほしかったわ」

 

 口ではそう言いつつも、少女は笑みを崩さない。

 少女がスカートのポケットに右手を突っ込んだ。ポケットから右手を抜く。右手には黒いものが握られていた。

 

「これ、あげるわ。あなたには必要でしょ?」

 

 少女が右手を差し出した。右手が広げられる。黒い眼帯があった。

 ルシフは驚いた。確かに、リーリンの右目を覆う眼帯は欲しかった。

 だが、ルシフがこれを必要としていると気付くためには、ルシフがリーリンの秘密を知っていること前提の話になる。しかし、リーリンの秘密はまだどこにも出ていない。

 

 ──こいつ、俺に原作知識があるのを知ってる?

 

 ルシフが少女を睨む。

 少女は楽しげな笑みのままだった。

 ルシフはとりあえず、少女の右手から黒い眼帯をとった。

 

「あなたには期待してるの。わたしを楽しませて」

 

 そう言うと、少女は消えた。

 ルシフはしばらく眼帯を手に持ち立っていたが、荷造りの準備を再開する。

 黙々とバッグに荷物を入れていると、メルニスクが横に顕現した。

 

「……なんだ?」

 

 ルシフが尋ねても、メルニスクは沈黙している。

 ルシフは舌打ちし、メルニスクの方に視線を向けた。

 

「なんだよ。何かあるから、出てきたんだろ」

 

「……汝は生きたくないのか?」

 

「その話か。死ぬ最期の瞬間まで、俺は俺らしくいられればいい。いつ死ぬかなど、どうでもいい」

 

「……ここには我しかいない。汝が『王』の仮面を外しても、誰も気付かない。『王』としてではなく、汝自身の心はどうなのだ?」

 

 ルシフは黙り込んでいる。

 メルニスクも黙り、ただルシフの横に佇んでいた。

 

「……生きたいに、決まっている」

 

 数分の沈黙の後、ルシフが呟いた。

 

「俺はまだ何も成し遂げていない。死んでたまるか。何もできずに、終わってたまるか」

 

 口に出すと、心に炎が燃え上がった。無意識の内に、少女の言葉に怒りを感じていたことが、ここでようやく分かった。

 何に対しての怒りか、ルシフははっきりとは分からない。自分にこんな運命を与えた神への怒りか。それとも、すぐに燃え尽きる己に対しての怒りか。

 しかし、怒りだけでなく、そんな運命とも思う存分にぶつかってみよう、という気にもなっていた。もしメルニスクがいなかったら、自分はこんな風に思えなかっただろう。

 

 ──情けない。

 

 ルシフは両拳を震えるほどに強く握りしめる。

 自分一人で、その境地に立てなければならないのだ。他のものに支えられてその境地に立つなど、恥でしかない。

 そう思う一方で、メルニスクなら支えてきても許してやるか、という気持ちも多少あった。

 

「……そうか」

 

 メルニスクはまだ横に佇んでいた。

 メルニスクに、礼を言おう。

 

「メルニスク。お前がいれば、俺はどんな相手にも負けん自信がある」

 

 出てきた言葉は、礼ではなかった。礼の言葉は喉元まできていたのに、何故か口に出せなかった。

 ここで礼を言ってしまえば、己の弱さも認めることになる。それが、本心では許せないのか。

 

「グレンダンに勝つ」

 

 たった十人。その内三人は戦力として計算できない。そんな無謀とも思える状況で、武芸の本場といわれるグレンダンを倒す。

 考えるだけで血が(たぎ)り、わくわくしてきた。

 

「グレンダンに勝つぞ、メルニスク」

 

「おう」

 

 メルニスクは黄金の粒子に変わり、ルシフの身体にとけていった。

 グレンダンにどれだけ力があるのか試し、完膚なきまでに叩き潰す。

 それができてようやく、俺はスタートラインに立てるのだ。

 ルシフは荷造りの準備を終えると、バッグを手に持ち部屋から出た。



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第54話 都市潜入

 ツェルニを囲む無数の鉄柱の一つ。大体エアフィルターの膜から半分ほどの高さの鉄柱の上に、フードを被り全身を黒の戦闘衣で包んだ人型が立っていた。

 その人型の顔は仮面で隠されている。犬のような動物を模した仮面。

 人型は戦闘衣の中から錬金鋼(ダイト)を取り出す。復元。人型の手に、長大な杖が握られた。先端に巨大な飾りがある杖。

 

「目覚めたか……」

 

 人型が杖の底で一度足元の鉄柱を叩く。飾りが音を鳴らした。

 いつの間にか人型は増えていた。杖を持つ人型の後ろに、同じ仮面をした者たちが集まっている。

 

「これで全て揃った。始めよう」

 

 仮面の者たちが粒子となり、空に吸い込まれていく。

 その間、杖を持つ人型は何度も鉄柱を杖の底で叩いた。

 

「束縛より解放される(とき)がきた」

 

 杖を持つ人型も粒子となり、空に吸い込まれる。持ち主を失った杖はそれでも倒れない。天に向かって直立している。

 やがて杖も粒子に変わり、空に吸い込まれていった。

 鉄柱の上にいた存在と杖は消滅し、ツェルニはいつも通りの風景になった。

 しかし、ツェルニの空には大穴が開いていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆  

 

 

 

 カリアンは慌てていた。

 突如としてツェルニの頭上に大穴が開き、大量の汚染獣が空から降ってきたのだ。

 汚染獣の姿は従来のトカゲに翅が生えたような姿ではなかった。五メートル程ある巨人の姿だった。頭の部分は肉のような小山の中に口しかなく、胸の辺りには六つの赤い珠が埋め込まれている。

 カリアンはこの汚染獣を観たことがあった。以前第五小隊と第十七小隊が廃都市探索をした時の映像。その時に遭遇した汚染獣。それから、第十七小隊が廃都市から持ち帰った玉を解析して得られた映像の中にも、この巨人はいた。

 ツェルニにとって幸運だったのは、グレンダンに接近中という状況だった。グレンダンに接近中だったために、非戦闘員の住民全員がシェルターへの避難を完了させていたし、戦闘員である武芸者もいつグレンダンとの戦闘が始まってもいいよう戦闘配置も終わって戦闘準備を万全にしていた。

 いわばツェルニにとっては最上の状態で、大量の汚染獣との戦闘に臨むことができたのだ。

 グレンダンから接触があったのは、汚染獣が現れてから三十分程経った頃だった。

 グレンダンの念威操者はまずフェリに接触し、フェリを介して生徒会長である自分に接触してきた。カリアンの眼前には蝶型の念威端子と花弁の念威端子が一つずつ浮かんでいた。

 カリアンは地下会議室にいた。机を前にした椅子に座っている。シェルターの中にある部屋の一室。ここは武芸者の隊長たちやそれぞれの科の科長が集まり脅威に対する対応策を話し合う部屋であるが、今はカリアン一人しかいない。

 

「交渉内容を確認しますが、グレンダンがあの巨人の大群を引き受けてくださるという内容でよろしいですか?」

 

『ええ。もしかしたら余計なお世話かもしれませんけど。ですが、若い子を見るとおせっかいを焼きたくなるのです』

 

「はぁ……?」

 

『若さは可能性の原石そのものだとわたしは考えていましてね、歳を重ねるにつれて人はどんどん保守的になってしまうものです。若いというだけで、大抵の困難は乗り越えられると思っていますのよ』

 

 ──やりづらい。

 

 カリアンはデルボネの話を聞きながらそう思った。

 ルシフと似たタイプで、自分のペースを相手に合わせて崩さない。カリアンにとって苦手な部類の相手である。

 

『そういう意味でいくと、若い内はどんどん積極的に挑戦するべきです。特に恋愛ですわね。殿方はやはり少し強引な方が、女性は好印象を持つものですの。

あらあら、そういえばこの会話を繋いでくれている念威操者の子は、あなたの妹さんでしたね』

 

「はい。そうですけど……」

 

『あの子はとても素晴らしい念威操者ですね。どうです? あの子をグレンダンの殿方とお見合いさせるのは。わたしが良い人を紹介してさしあげますよ』

 

『……は?』

 

 もう一方の念威端子から、フェリの戸惑ったような声が聞こえた。

 

『わたしも歳ですから、そろそろ天剣授受者を引退しようと思っているのですよ。あなたなら、十分天剣授受者になれる素質があります。グレンダンで良い人を見つけて、グレンダンに住んでみてはどうですか?』

 

『あの……』

 

『あらあら、あまり乗り気ではないようですね。心に決めた殿方でもいらっしゃるのかしら?』

 

『……兄さん。どうにかしてください』

 

「デルボネさん。その話は今は止めましょう。あなた方にとってはこの状況など造作もなく切り抜けられるかもしれませんが、我々にとっては都市が滅ぶかもしれないほどの絶望的な状況なのです。余計な話をする余裕はありません」

 

『確かに汚染獣と戦い慣れていない都市にとって、あの巨人の大群は恐いですわよね。ごめんなさいね、そういうところまで気が回らなくて。とても優秀で可愛らしい念威操者を見つけたので、嬉しくなってしまって今しなくていい話をしてしまいました』

 

「それで話を戻しますが、こちらとしては願ってもない交渉です。武芸の本場と名高いグレンダンの協力が得られれば、こちらとしても心強い。こちらの武芸者も奮起するでしょう。

問題はその後です。ツェルニとグレンダンは進行方向を変えていません。ほぼ確実にグレンダンとツェルニは衝突します。それがどういう意味を持つか、お分かりですよね?」

 

『都市間戦争になりますね。ツェルニとグレンダンで。正直に申し上げますと、そちらは全く問題にしていないのですよ。グレンダンがツェルニに向かっているのは、ツェルニに欲しいものがあるからだと、陛下は申しておりました。そして、それはセルニウム鉱山ではありません』

 

 そうだろう、とカリアンは軽く頷いた。

 おそらく今まで負け無しのグレンダンは、セルニウム鉱山を多く所有している筈だ。貪るようにセルニウム鉱山を奪いに来るほど、困窮しているわけがない。

 

「グレンダンの目的は分かりますか?」

 

『廃貴族、という存在は知っていますか?』

 

「名前は知っています。サリンバン教導傭兵団の団長から、その名前を聞きました。その廃貴族というものが、我が都市の生徒の一人に取り憑いているという話も。なんでもルシフに取り憑いていると、その時団長は言っていましたが」

 

『そうですか。わたしたちもその団長の情報から廃貴族を持っている方の見当をつけていますの。となりますと、その学生をグレンダンに連行しなければグレンダンはツェルニから離れないでしょうね』

 

「……グレンダンに去ってもらうために、我が都市の住人を一人生贄にしろと?」

 

『別にそういう意味で言ったわけじゃありませんよ。ですが、ツェルニがグレンダンに太刀打ちできると思っていますか? グレンダンからルシフという男の子を守りきれる自信はあるのですか?』

 

「……それは……」

 

 ここが正念場だ、とカリアンは思った。

 ルシフに言われた謙虚で怯える姿勢を見せるのは、このタイミングしかない。

 

「……優れた武芸者を多く抱えるグレンダンにツェルニの武芸者が敵うわけありません。ルシフを守ることはできないでしょう。

……分かりました。ルシフの身柄に関しましては、グレンダンのお好きなようにしてください。ですが、条件があります」

 

『聞きましょう』

 

「もし我々の武芸者の中にツェルニを守りたいという意志が強い者がいた場合、私が指示を出しても乗り込んできたグレンダンの武芸者に攻撃を仕掛ける可能性があります。その場合、ツェルニの住民を一切傷つけるな、とは言いません。ただ、一人も殺さないでほしいのです。つまり、我々学園都市が都市間戦争をする場合のルールに従ってほしいと言いますか、殺さないよう配慮してもらいたいのです。あ、当然これは命令ではありません。最強と名高いグレンダンに命令なんて、できません。これは私の願いです」

 

『敵わないなら、最小限の損失で終わらせたい。あなたは都市長として、素晴らしい能力を持っていますね。少しお待ちになってください。陛下に確認しますから……』

 

 カリアンは緊張を和らげるように、息を吐き出した。

 上手く相手を油断させられたかどうか。それは今後のグレンダンの出方で決まる。もし油断していないのなら、もっとへりくだってグレンダンに媚びる姿勢を見せなければならない。

 

『陛下から、一つ確認したいことがあると言われました』

 

「……それは?」

 

『リーリン・マーフェスという名前の子はいるか、と』

 

「リーリンならいます。なんでもレイフォンと幼なじみだとか。今は特別にツェルニの一学生として滞在してもらっていますけど……」

 

『……陛下はその子もグレンダンに連れていく、と言っています。迎えに行くんだと張り切ってますの。どうも陛下のお気に入りの子みたいですから』

 

「リーリンは元々グレンダンの住民ですから連れて行くのは構いませんが、本人の意思があります。本人が行くのを拒否した場合、私にはどうすることも……」

 

『そこは考えてなくてもよろしいです。こちらでなんとかしますので。それから、死者を一人も出さないでほしいという条件ですが……』

 

 カリアンはごくりと唾を飲みこみ、デルボネの言葉を待つ。

 

『保証はできない、とのことです』

 

 ツェルニを甘くない相手と考えているのか。それとも、ただ単に手加減することができないのか、するのが面倒くさいだけか。

 今の段階ではどういう思惑で条件をのまなかったか、分からない。

 

「そこをなんとかお願いします。ツェルニの武芸者にグレンダンの相手は無謀です。私は我が都市の武芸者が無駄に死んでいくのを望んでいません。どうか……どうか情けをかけてください」

 

『勘違いしないでほしいのですけどね、ある一人を除いては絶対に死なせない、と陛下は言っておりました。ある一人とは当然ルシフ・ディ・アシェナのことです。彼の場合、彼の出方によっては殺さざるを得ないかもしれないと』

 

「……そういう、ことですか」

 

 カリアンは眉間にしわを寄せて黙り込んだ。当然演技である。

 自分の役割はグレンダンを油断させ、ツェルニの武芸者が攻めこんでくるなど考えられないようにすること。

 自分は苦渋の決断を強いられている。そういう印象を相手に与えられれば上出来。ルシフからグレンダンの要求は全て承諾するよう言われているから、そもそも迷う必要などないのだ。

 

「分かり……ました。ルシフはツェルニで色々好き放題やって混乱させている問題児でもありました。これもルシフ自身が招いたことだと、自分を納得させます。ですが、ルシフ以外の住民はどうか一人も殺さないでください。この通りです」

 

 カリアンは念威端子に向かって深く頭を下げた。

 

『あらあら、そんな怯えなくてもよろしいのに。別に戦争するわけではありませんから。それでは、失礼しますね』

 

 蝶型の念威端子は部屋から去っていった。

 カリアンは椅子に深くもたれ、息を吐き出す。

 

 ──相手を上手く騙し、自分の思い通りに動かす。なかなかどうして楽しいものじゃないか。

 

 カリアンの顔は微かに笑っていた。

 

 

 

 デルボネは念威端子をシェルターの僅かな隙間から外に出した。シェルター内にいても外と連絡が取れるよう、シェルターには念威端子の通り道が造ってある。フェリに案内されてシェルターに侵入したため、デルボネはその通り道を知っていた。

 デルボネはツェルニ上空からツェルニ全体を見渡す。巨人の大群がツェルニのいたるところに出現しており、ツェルニの武芸者が必死に戦っている。

 目を引くのは三人。レイフォン、金髪の少女、赤みがかった黒髪の少年の三人である。赤みがかった黒髪はルシフの特徴として聞いていたため、この少年がルシフだとすぐ分かった。

 彼らが巨人の大群の大多数と戦っていて、他の武芸者は完全にフォローする側にいる。

 

 ──他に気になるところはありますかね?

 

 念威端子を様々な場所に移動し、ツェルニの情報を集めていく。

 停留所に放浪バスは四台停まっている。埃よけのためか、全ての車体は布で覆われていた。次に古びた建造物が立ち並ぶ通りを見た。最後は、様々な建物が密集している中央部。

 

 ──あら?

 

 建物の陰。息を潜めるように隠れている三人の姿を見つけた。天剣授受者のサヴァリス、カナリス、カルヴァーン。

 蝶型の念威端子は彼らのところに近付いていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 アルシェイラは天剣授受者をグレンダン王宮の謁見の間に集合させた。グレンダンにいる天剣授受者はすでに全員揃っている。

 アルシェイラがツェルニを眺めていると、突如としてツェルニの空に大穴が開いたのだ。

 アルシェイラはデルボネの念威端子にツェルニと交渉してくるよう言い、謁見の間に行った。

 ツェルニとの接触は時間の問題であるため、民間人は全員地下シェルターに退避させていた。都市間戦争と汚染獣に襲撃された場合、非戦闘員は速やかにシェルターに避難するよう決められている。

 蝶型の念威端子がアルシェイラの近くに飛んでいた。デルボネの念威端子。

 

「都市との予想接触時間は?」

 

『あと一時間ぐらいですねぇ』

 

 おっとりとしたデルボネの声が念威端子を通して聞こえた。

 アルシェイラは頷き、改めて謁見の間にいる天剣授受者を見る。

 髭を撫でているティグリス。三人掛けのソファーを一人で占領しているルイメイ。その隣の椅子に座って足を組んでいるトロイアット。トロイアットと反対側の椅子に座っているカウンティア。カウンティアの膝の上に人形のように乗せられているリヴァース。他の天剣授受者と距離を置いて椅子に座っているバーメリン。窓際に立ち煙草を吹かしているリンテンス。やはり三人も天剣授受者がいないと、謁見の間も広く感じた。

 

「すでに知っていると思いますが、グレンダンは現在他都市に接近中です」

 

「んなもんグレンダンの住人全員が知ってますよ。俺が戦う価値のある都市かどうか。重要なのはそこだ」

 

 ルイメイが言った。

 

「接近している都市は、学園都市ツェルニです」

 

「学園都市だぁ?」

 

 ルイメイが不満そうな表情になった。

 

「陛下はまさか、俺たちにそんな雑魚の相手をさせるつもりじゃないでしょうね。未熟なガキどもをいじめるなんざ、気分が悪くなる」

 

「学園都市にはルシフ・ディ・アシェナがいます」

 

 アルシェイラがそう言うと、大なり小なり不満そうな表情をしていた天剣たちの顔が引き締まった。

 ルシフがグレンダンにとって脅威なのは、すでに天剣全員に説明してある。ルシフの実力が天剣でも上位に入ることも伝えてあった。

 

「ルシフは廃貴族を手に入れた可能性が高く、実力は廃貴族により底上げされていると思われます」

 

「おれらの役目は、そいつの確保ってことですか?」

 

 トロイアットがつまらなそうに言った。トロイアットは女好きであり、女が絡んでこないとやる気が出ない。

 

「生け捕りが理想。それが厳しかったら殺してもいいわ」

 

「あまり気は進まんな」

 

 ティグリスが言った。まだ髭を撫でている。

 

「ティグ爺。ルシフは甘い相手じゃないの。手加減したら、返り討ちにあうわよ」

 

 いつになく真剣な表情に、ティグリスは内心驚いた。アルシェイラはもっと楽観的に物を見る人間。それなのに、表情から余裕はあまり感じられない。

 

「わたしたちの敵はルシフだけじゃありません。デルボネ、映像を」

 

『はいはい。今出しますよ』

 

 蝶型の端子とは別の端子が謁見の間に来て、その端子を介してデルボネが得ている念威情報が映像として宙に浮かびあがる。

 映像では、巨人の大群がツェルニを覆い尽くしていた。ツェルニの武芸者が必死になって戦っている。

 

「おお、あのガキがいるじゃねえか。ちったぁ楽しめるか?」

 

 ルイメイが巨人と戦うレイフォンを見つけて、残虐さを感じる笑みを浮かべた。

 

「旦那、あんたじゃツェルニを壊しちまう。それじゃあいけねえよ。いたいけな少年少女が必死に群れて生きてるんだ。重要施設はなるべく壊さんようにしんとな」

 

「うるせぇよトロイアット。面倒くせぇが、そのくれえ配慮してやらあ」

 

「待った。あんたらの相手はレイフォンじゃないわ。

デルボネ、ツェルニの都市長との交渉内容も映像で流して」

 

『はいはい』

 

 端子がもう一つ謁見の間にきて、巨人が映っている映像の隣にツェルニの都市長と交渉している映像が流れた。

 交渉している映像を観終わると、全員拍子抜けした表情になった。

 

「何こいつ。ショボッ」

 

 バーメリンが悪態をつく。バーメリンは口を開くと八割罵声の言葉しか出てこない。

 

「なんつーか、典型的な頭脳タイプって感じだな。観る限り、武芸者でもねぇ」

 

「つまらん野郎だ。男が戦う前から屈しやがって。情けねえったらねえぜ」

 

 トロイアットとルイメイが口々に言った。

 アルシェイラはティグリスが思慮深い表情をしているのに気がつく。

 

「ティグ爺、どうかした?」

 

「なんというか、あっさりしすぎているように見えましてな。普通ならもっと抵抗の意思を見せるのでは? 向こうにはレイフォンとルシフがいるのですぞ。万が一に賭けてもおかしくないと思うが」

 

「俺たちをよく知るあのガキがいる。ヤツから俺たちの情報を知っていれば、コイツの対応は妥当だ」

 

 リンテンスはそう言うと、煙草をくわえた。煙草の先で鋼糸が擦れ、その時に生じた火花で煙草に火を点ける。

 

「それもそうだな。上手くいきすぎていると、なんとなく疑ってしまう。わしも歳をとったか」

 

「何も上手くいってないっての。最初(はな)っからツェルニの武芸者なんて物の数に入ってないんだから。抵抗してこようが抵抗してこなかろうが結果は一緒。

問題は二つ。一つ目はルシフをどう捕らえるか、又は殺すか。二つ目は我らが姫をどうグレンダンに連れてくるか。

わたしたちはその二つだけ考えればいいの」

 

「姫とかいってはしゃいでるのは陛下だけだがな」

 

「あ?」

 

 アルシェイラがトロイアットを睨む。

 トロイアットは視線を逸らした。

 

「それで、何か作戦はあるんですかい?」

 

「ないわ。邪魔するヤツは片っ端からぶっ潰して。ただし、殺さないように。それくらいの頼みは聞いてあげなきゃね」

 

『陛下。カナリスさんたちと接触できましたわ。あの方たちはあの娘さんの居場所を知っているようで、三人で娘さんをグレンダンに連れていくと言っていました』

 

「いいじゃない! さすがわたしの影武者。たまには役立つわ」

 

 アルシェイラはこの場に集まる天剣授受者全員を見据える。

 

「さて! わたしたちはまず巨人を殺し尽くす。その後はただルシフを潰せばいい。でも、ルシフを侮るな。油断すれば、あんたたちは逆に殺されるかもしれない。それくらい能力のある相手よ」

 

「あのガキを随分買ってるな。少しは楽しめればいいが」

 

 リンテンスは口から紫煙を吐き出した。再び煙草をくわえる。

 アルシェイラは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「下手したらあんたより強いかもね」

 

「それは楽しみだ」

 

 リンテンスは煙草の吸殻を灰皿に捨てた。灰皿はすでに煙草の吸殻で山盛りになっている。

 

「天剣授受者以外の武芸者の配置とか、念威操者の索敵範囲とかはいつも通り適当でいいわ。わたしたちだけでかたをつけるから、そいつらの仕事なんて何もないし」

 

「……やれやれ。たまには都市の長らしい指揮をしてほしいものだ」

 

 ティグリスが呆れた表情をしている。

 

「だって面倒くさいもん」

 

 アルシェイラは悪びれず即答した。

 天剣授受者たちはただ息をついた。アルシェイラのこの性格にはもう慣れてしまっているため、何も言う気にならない。カナリスがいれば小言の一つもあったかもしれないが、今は不在。

 

「ツェルニと接触したら地獄が始まるわ。しっかり地獄を楽しんできなさい。それまでは好きに過ごしてていいから」

 

 アルシェイラはそう言うと、謁見の間から出ていった。

 

「地獄……ね。可愛い女の子がいれば地獄でも問題ないがな」

 

「サングラス割れて失明しろ。ナンパ野郎」

 

「安心しろ。お前は頼まれたって相手してやらねえ」

 

「むか。キ⚪タマ破裂して死ね。キモキザ男。性病で苦しんで死ね」

 

 バーメリンとトロイアットが言い争いを始めた。

 他の天剣授受者は二人を無視してとっとと謁見の間から去っていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 息を殺していた。

 殺剄で剄を抑え、更に気配も極力消している。

 教員五人とダルシェナ、ディンの七人が外部ゲートで待機している。

 ランドローラーはすぐに出せる場所にあるが、今は出していない。

 七人は外部ゲートを操作する制御室にいた。物陰に隠れ、念威端子でもすぐに見つからない場所にいる。もしグレンダンの念威操者にバレた場合の言い訳として、外部ゲートの制御ボタンを壊しておいた。今はボタンを直す作業をエリゴが気配を殺してやっている。他の六人はエリゴの護衛ということで、敵の目を逃れるつもりだ。

 アストリットは腕時計を見る。接触予定時間は十五分を切っていた。

 アストリットはエリゴの肩を叩き、他の五人と視線を交わし合う。全員小さく頷いた。

 全員素早く戦闘衣に着替えてフルフェイスヘルメットをかぶった。汚染物質対策を万全にしておく必要がある。

 次にランドローラーを四台素早く外部ゲート前に並べた。四台の内三台のランドローラーにはサイドカーが取り付けられている。

 ディンとダルシェナはポーチを腰に付けていて、教員五人は何も持っていない。ただ剣帯に錬金鋼が吊るされているだけだ。

 ランドローラーにレオナルト、フェイルス、バーティン、ディンが跨がる。サイドカーにはアストリットとダルシェナが乗り込んでいた。

 エリゴはまだ制御室にいる。ボタンに右手を触れさせて、緊張した面持ちをしていた。制御室を出る時にボタンの修理は終わったとエリゴから合図があったため、ボタンはもう問題ない筈だ。エリゴはただ待っているのだ。

 アストリットは腕時計を何度も見る。予定の時間は刻一刻と迫っていた。

 腕時計の時計の針が接触予定時間をさした。瞬間轟音が響き、ツェルニが前後に激しく揺れる。

 エリゴはすかさずボタンを押した。

 外部ゲートが開いていく。

 エリゴは走り、残っている最後のサイドカーに乗り込んだ。

 全員が外部ゲートの外を見据えた。グレンダンの足と地盤の裏が見え始める。グレンダンと接触しているのだから、念威端子が都市の下にでもこない限り、自分たちの動きは掴めない。

 ランドローラーのアクセルを回し、四台のランドローラーが外に飛び出した。

 汚染された大地に着地し、グレンダンの外部ゲートがある辺りまで移動。フェイルス、レオナルト、エリゴはそこで跳躍し、グレンダンの地盤の裏側に張り付く。

 エリゴが外側から外部ゲートを開けるボタンを押した。

 

「な、なんだ? 外部ゲートが勝手に……」

 

 外部ゲートのすぐ近くにいた男の呟きは、そこで途絶えた。

 エリゴが首に手刀を叩き込み、意識を奪ったからだ。

 

「なッ!? し、侵入者だ! 早く連絡……!」

 

 レオナルト、フェイルスが外部ゲートに飛び込み、外部ゲート内にいた三人も瞬く間に倒した。

 三人は制圧完了の合図を残りの四人にした。四人は頷く。

 その後、エリゴ、レオナルト、フェイルスの三人はツェルニと接触した外縁部と反対の外縁部を目指して移動を開始。

 アストリット、バーティン、ダルシェナ、ディンが乗るランドローラー二台は外部ゲートに乗り込んだ。

 乗り込んだらすぐに制御室にバーティンが行き、ボタンを押して外部ゲートを閉めた。

 

「こいつらの服を奪いとる。ちょうど四人いる」

 

 バーティンの呟きに、アストリットは頷く。ディンとダルシェナは渋々といった表情で頷いた。

 四人はヘルメットを外し、戦闘衣を脱いだ。昏倒している武芸者たちの服を脱がし、着る。汚染物質遮断スーツを下着の上に着ているため、下着姿にならずに着替えることができた。

 

「第一段階は完了。次は第二段階開始の合図まで待機」

 

 バーティンがそう言い、他の三人は頷いた。

 四人は外部ゲートに倒れている武芸者四人を運び、制御室に縛りつける。

 そのまま四人は制御室に隠れた。



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第55話 難所突破

 エリゴ、フェイルス、レオナルトの三人はツェルニとグレンダンの接触点の反対側の外縁部までたどり着いた。都市の地盤の裏側に張り付くようにしている。

 外縁部には人影を遮る障害物はない。元々外縁部は汚染獣が都市に侵入した場合の戦場である。そんな場所に建造物を造るわけもなく、また岩や木といったものもない。だから三人は外縁部に立つようなことをせず、地盤の裏で待機している。外縁部に立てば目立ってすぐに見つかる恐れがあるからだ。

 都市に潜入する場合の一番の難所がこの外縁部から障害物があるところまでの移動であり、逆に言えばこの難所さえ乗り越えてしまえば後は楽になる。

 障害物まで気付かれずに移動する際、旋剄や内力活剄で脚力を強化して一気に外縁部から移動するのがセオリーである。しかし、それをすると殺剄で抑えられていた剄が大なり小なり体外に溢れ出てしまう。実力のある武芸者ならば、漏れた剄を感知し、念威端子の目が無くとも潜入されたことに気付く。ましてや、潜入している都市はグレンダン。誰一人として気付かないのはあり得ない。

 更に、グレンダンは他の都市に比べ外縁部が広い。汚染獣から逃げず、むしろ汚染獣を狩るように移動するグレンダンにとって、戦場は広い方が都合が良い。そういう意味でいくと、グレンダンは汚染獣を狩る都市として世界から生み出されたのかもしれない。

 外縁部が広いとはつまり、剄を抑えられない時間も通常より長くなるということ。それは他都市と比べ数秒程度の違いしかないが、その数秒が潜入の難度を桁違いに上げる。

 こうして外縁部から気付かれずに移動する際の問題点をあげると、潜入が不可能なように思える。

 しかし、フルフェイスヘルメット越しに見える三人の顔から、見つかることの恐れや迷いは感じられない。彼らはやるべきことをしっかり頭に入れているからだ。ルシフへの信頼が絶大なのも理由の一つ。

 ルシフの指示通り動けば、どんな状況も打開できる。三人ともその思考回路を疑ったことはない。当然ルシフからこの後どう動くかの指示を受けており、三人はただその通りに動けばよかった。

 エリゴは地盤の裏に両手でしがみついていたが、しがみつくのを片手にする。そして、戦闘衣の胸ポケットの辺りを二回空いた手で叩く。その位置には念威端子があった。

 

 

 

 ルシフは眼前を埋め尽くす巨人の群れを薙ぎ払いながら、念威端子からゴッゴッという音を聞いた。エリゴからの合図。位置についたことを報せる打撃音。

 ルシフは跳ぶ。建物の上に立つ巨人を蹴り飛ばし、その建物の屋上に立った。

 意識を外に拡げる。アルシェイラと天剣授受者たちはツェルニの外縁部にすでに踏み入れていた。二人一組で四組作り、外縁部の様々な場所で巨人の群れの相手をしている。動きに焦りや乱れはない。時折彼らから視線や殺気を感じるが、今は巨人に敵を絞っているようだ。

 もし潜入がバレたのなら、こうはならない。予想外の事態に戸惑うか、楽しさを感じるか、いずれにせよそれに対応した動きが目に見えて分かる。潜入させた自分を攻撃もしてくる筈だ。

 ルシフは予定通り、剄を一気に開放した。その剄にメルニスクの力は含まれていない。純粋な己自身の剄を最大限まで高めた。ルシフの剄の波動がツェルニのみならずグレンダンまで伝播し、両都市をルシフの剄が包み込む。

 それを挑発と感じたのか、アルシェイラと天剣授受者たちの剄も高まり、ツェルニとグレンダンの中を荒れ狂った。レイフォンの剄も同様に増大し、両都市を駆け巡る。

 様々な武芸者の剄が入り混じり、あるいはぶつかり合い、両都市は突風にも似た衝撃が絶えず起こっていた。ほとんどの武芸者はその突風に含まれた剄に当てられ、身動きすらできなくなっている。それは仕方がない。天剣授受者以上の剄が十人分両都市を包んでいるのだ。それらの剄を感じ、平常心を保てという方が無理がある。

 ルシフは退屈そうな表情になっていた。

 

 ──予想通りすぎてつまらん。

 

 剄密度を限界まで高め、開放する。そうすればルシフの動きに対応するため、レイフォンやアルシェイラ、天剣授受者たちも同様の行動をすると考えていた。しかし、自分の予想を超えるような行動をしてほしいと密かに願ってもいた。

 

 ──武芸の本場グレンダン。この程度か?

 

 深く考えることもせず、相手の意図を考えようともせず、ただただ相手に合わせる。真っ向から叩き潰してやるというアルシェイラたちの意思すら荒れ狂う剄から感じられた。

 そんなだから、お前らは今日、負けるんだよ。

 

「かぁっ!」

 

 ルシフは高めた剄を体内に凝縮させ、呼気とともに吐き出す。

 外力系衝剄の変化。ルッケンス秘奥、咆剄殺。

 分子結合を破壊する震動破が放たれる。

 震動破はルシフを起点に膨らむように突き進み、ルシフの眼前を埋め尽くす巨人の大群を一瞬で崩壊させた。ルシフの正面だけ巨人の姿が消え、まるでそこだけぽっかりと穴があいたように、何も無い空間が生まれた。グレンダンに震動破が到達した時にはすでに破壊力が失われていたが、呼気に乗った剄の残滓がグレンダンに充満した。

 アルシェイラたちはルシフの剄技を見て、驚いた表情をしている。咆剄殺はサヴァリスしか使えないと思っていたから、その驚きは当然といえた。

 咆剄殺を使用した後、ルシフの剄は通常に戻った。威圧的な剄の奔流は霧散し、アルシェイラたちはルシフの剄のプレッシャーから開放された。

 それに少し遅れて、アルシェイラたちやレイフォンも剄技を使用して巨人の大群を蹴散らした。剄のプレッシャーが弱くなっていく。ルシフが剄を高めたのは咆剄殺の威力を最大限まで上げるためだったと判断したのだろう。事実、そういう目的もあった。だが、ルシフが剄を高めた目的はそれだけではない。その分かりやすい目的に隠れた、本命の目的があった。

 

 ──動かしやすい連中だ。

 

 ルシフは退屈そうな表情のままだった。

 

 

 

 バーティン、アストリット、ダルシェナ、ディンは外部ゲートの制御室で、ルシフの威圧的な剄を感じた。

 弾けたように制御室からバーティンとアストリットが飛び出し、ダルシェナとディンが続いた。

 これが第二段階開始の合図だった。

 ルシフの剄に対抗するように、全く別の武芸者の剄が膨れ上がり、四人の全身を打った。その剄の波動は一人ではない。ルシフに匹敵するどころかそれを超える剄量の武芸者を含め数人以上の剄がグレンダンを覆っている。

 四人の肌が粟立ち、汗が吹き出した。敵が強大なのは頭で理解していた。だが、この剄の圧力により実感を得た。どれだけ自分たちが無謀な闘いを挑んでいるか分からせるように、否応なく現実の刃を喉元に突き付けてきた。

 ディンとダルシェナは金縛りにあったように、外縁部に続く扉の前で動けなくなっている。

 アストリットとバーティンはそんな二人を責めなかった。心に信じられるものを持っていない者は、死の恐怖に屈する。この闘いは都市を守る闘いでも大事な人を守る闘いでもなく、ただ相手を倒すだけの闘い。二人にはそういう考えしかないから、死を怖れてしまう。自身の死より大事なものがないからだ。

 アストリットとバーティンは違う。相手の強大さを怖れながらも、身体はいつも通り動く。死を隣に置いて一緒に駆けるような気楽ささえあった。

 

 ──ルシフ様のために死ねればそれだけで満足。

 

 と、アストリットは思い、バーティンに至っては、

 

 ──ルシフちゃんが死ぬ時は、お姉ちゃんの私が代わりに死ぬ。

 

 と思っていた。

 彼女ら二人は自身の死より大事なものが確かにあった。

 

「ディン、ダルシェナ。私の手にそれぞれ掴まれ」

 

 バーティンがディンとダルシェナに背を向けて、両手を後ろに伸ばした。

 ディンとダルシェナが戸惑った表情になる。二人分の体重を加算されたら、バーティンも遅くなって三人とも見つかるのではないか。そう思ったからだ。

 

「大丈夫ですわ。この人、こう見えて筋肉ダルマですから」

 

 アストリットが二人の表情から思考を読み、そう言った。

 バーティンは隣のアストリットを睨む。

 

「言葉は正確に言え。私は内力系活剄が誰よりも優れているだけだ。決して、女を捨てているわけではない」

 

「ですが、あなたにはそれしか能がないじゃありませんか。それならば、筋肉ダルマと同じなのでは?」

 

 バーティンは舌打ちし、正面に顔を向けた。

 アストリットが本当に嫌いだった。いつも癪に障るような言い方をしてくるし、何よりルシフに気がある。後半だけでも嫌いになるのに、更に口が悪いという部分はバーティンの中で上位にくる嫌悪感だった。

 眼前の扉を開け放つ。地平線が盛り上がり、街並みが一つの山のように見えた。

 グレンダンは中央部に行くほど高くなっていく。王宮はその頂点に位置し、四人はその王宮を見上げた。とてつもなく高くて厚い壁が立ち塞がっているような気がした。

 ルシフが咆剄殺を使用した余波で、グレンダンはルシフの剄の波動で満ちている。その剄に移動する際に生じる剄を隠す段取りだった。

 予定ではルシフの剄のみが目眩ましとなる筈だったが、天剣授受者たちやレイフォンの剄も目眩ましになる状況になったのは良い意味で誤算だった。剄が入り混じっている方が、潜入はやりやすい。

 アストリットは内力系活剄の変化、旋剄で数瞬で外縁部から建造物がある場所まで移動。

 バーティンもアストリットに一瞬遅れて、移動。しかし、建造物に到着したのは同時だった。バーティンの手に掴まっているディンとダルシェナは信じられないといった表情をバーティンに向けている。アストリットは舌打ちした。

 バーティンは今の移動で旋剄を使わなかった。旋剄は高速移動を可能にするが、ほぼ直線の移動しかできない。いわば、旋剄とはロケットのようなものである。剄を燃料として、移動速度と移動距離を決める。途中で方向転換もできなければ、止まることもできない。

 バーティンはそれが不満だった。行きたいと思う場所に、どんな時も行ける。そういう移動剄技が欲しくて、色々考えた。

 そして、今の移動でバーティンなりの答えを凝縮した移動剄技を使用した。

 内力系活剄の変化、瞬迅。どんな場所にも、迅さをもって瞬きの間に行く。そんな意志を、瞬迅という名前に込めた。

 旋剄をロケットに例えるなら、瞬迅は舟である。剄を移動エネルギーに変換するのではなく、剄を瞬発力に重きを置いた脚力強化に利用し、舟を(かい)で漕ぐように両足で地を蹴って移動速度を上げる。このため、咄嗟に足で移動する方向をコントロールでき、複雑な移動を可能にした。方向転換する場合は慣性の負荷を一瞬で殺せるような身体強化もしなければならないため、内力系活剄の技量が最上レベルでなければこの剄技は使えない。未熟な者が使えば、方向転換した瞬間に身体が慣性に持っていかれ、体勢を崩す。

 

「ほんと、それしか能がないですわ」

 

「これさえあればいい」

 

 この辺りにグレンダンの武芸者はいない。汚染獣とツェルニからの武芸者に備え、ツェルニの方に向けて武芸者は配置されているようだ。これもルシフの読み通り。

 しかし、それはこの場所が外縁部の近くであり、かつ接触点から遠いせいである。中央部に近付けば近付くほど、グレンダンの武芸者は増えてくるだろう。

 

「ここからはあなたと別行動だ。私たち潜入組の中で、おそらくあなたが一番死ぬ確率が高い役割を与えられている」

 

「それだけルシフ様から頼りにされてる証明でもありますわ。あなたには私に与えられたような重要な役割は与えられないでしょうね」

 

「ほざくな。ヘマをして、ルシフ様に迷惑だけは絶対にかけるなよ。あなたが死んだら骨くらいは拾ってやる」

 

「それはどうもありがとうございます」

 

 バーティンは中央部の方に向かわず、外縁部付近のこの辺りを円を描くように移動しだした。

 ディンとダルシェナはバーティンに付いていこうとする。

 

「お二人とも」

 

 アストリットが二人に小声で声をかけた。

 ディンとダルシェナは振り返る。

 

「心配なさらなくてもよろしいですよ。バーティンさんは私たち五人の中で、多分一番強いですから」

 

 アストリットは優しげな笑みを浮かべていた。

 ディンとダルシェナの懸念を取り除こうと考えたのだろう。事実、ディンとダルシェナは少し気が楽になった。

 アストリットは殺剄を使用し、王宮目指して駆けていった。

 ディンとダルシェナはその後ろ姿が見えなくなるまで視線を送った。

 アストリットが見えなくなると、二人は急いでバーティンの後を追った。

 

「どうした? アストリットが死ぬかもしれないと心配なのか?」

 

 バーティンが振り向き、ディンとダルシェナを見た。バーティンの顔が笑みに変化する。

 

「大丈夫だ。あいつの殺剄と銃の腕は剣狼隊一だからな。そう簡単に死ぬ女じゃないよ」

 

 バーティンの言葉を聞いて、ディンとダルシェナは吹き出した。面と向かうと相手の悪口しか言わないのに、離れたらお互い相手を称賛する言葉を口にしている。

 バーティンは困惑した表情になった。

 

「どうした? 何がおかしいんだ?」

 

「いえ、二人とも仲が良いと思っただけです」

 

 ダルシェナの言葉を聞き、バーティンは不愉快そうに顔を歪める。

 

「仲が良い? 私とアストリットがか? あり得ないな」

 

 おそらくアストリットに言っても、バーティンと似たような反応をするだろう。

 そう考えるとまたおかしくなり、ディンとダルシェナは笑った。

 三人は予定通り移動を開始。

 ディンとダルシェナは囮役となり、まばらにいるグレンダンの武芸者の気を一瞬引く。二人はグレンダンの戦闘衣を着ているため、相手もすぐ敵とは気付かない。

 相手が二人を敵だと判断した時には、バーティンが相手の背後をすでにとっていて、瞬く間に武芸者の意識を次々に素手で奪った。錬金鋼は潜入任務が終わるまで使わない。錬金鋼は復元すると剄を常に纏い続けるという特徴があり、錬金鋼の剄で敵に気付かれてしまう可能性があるからだ。

 ディンとダルシェナはバーティンの動きに目を奪われていた。

 気付けば建物の屋上付近から壁を蹴って急降下していたり、相手がバーティンの姿を捉えようとした時にはもうそこにはいなかったりする。

 相手からしてみれば、姿の見えない暗殺者に狙われているような気分になるだろう。

 周囲のグレンダンの武芸者を全員倒すと、バーティンは近くの建物の扉の取っ手を壊して扉を開け、建物の中に倒した武芸者を全員放り込んだ。念威端子から少しでも見つかりにくくするためだ。

 そうやってグレンダンの武芸者を処理しながら、移動を続ける。

 バーティンは次々に建物の扉の取っ手を壊し、武芸者を放り込んでいく。そんなバーティンの姿を、ディンとダルシェナは納得できないといった表情で見ていた。

 やがて目標のポイントの内の一つに、三人は到着した。

 近くの民家の扉の取っ手を壊し、鍵がかかっていた扉を開ける。

 ようやくバーティンの動きが止まったため、ディンが口を開いた。

 

「あの……」

 

「なんだ?」

 

「建物を壊すことに何も感じないんですか? 人が住んでいるんですよ」

 

「武芸者同士の戦闘でも建物は壊れる。戦闘の不可抗力で壊れるのも、武芸者を隠すために建物を壊すのも同じだろう」

 

 バーティンは何が悪いのか分からないといった表情で、首を傾げた。演技とかではなく、本当に何が悪いか分からないという表情をしている。

 

「ですが、そこに住んでる人が地下シェルターから帰ってきたら、自分の家の有り様を見て悲しむと思います。だから、なるべく建物を壊さないように配慮するべきだと俺は思うのですが」

 

「ディン、忘れるな。ここは敵対都市だ。敵対都市の住民が悲しもうが、知ったことではない」

 

 バーティンは無表情でそう言った。

 ディンとダルシェナは絶句している。

 バーティンはため息をついた。

 

「住む人間がどうのとか考えていたら、都市間戦争の時、全力で闘えないだろう。そういうことを考える奴が、戦闘の時にそのことを意識しない筈がないしな。甘い考えをしていると、逆に自都市の建物が壊される。それが都市間戦争だ。それに、見ろ」

 

 バーティンは壊した扉の取っ手部分を指差した。

 ディンとダルシェナは自然とその部分に視線がいく。

 

「私はこの部分しか壊してない。たいして修理代もかからんよ」

 

 バーティンは得意気に笑った。

 そういう問題なのだろうか、とディンは思ったが、口には出さなかった。

 

「いいか、二人とも。私たちは無駄に建物を壊しているわけではない。私たちが勝つ確率を少しでも上げるために、建物を壊している。それを肝に銘じて、迷うな」

 

 ディンとダルシェナは無言で頷き、ダルシェナだけが民家の中に入っていった。

 民家の中に入ると、ダルシェナは一度振り返る。視線の先にはディン。

 

「シェーナ、俺も役割をしっかり果たす。だからお前も、頑張れ」

 

「ああ、分かっている」

 

 ディンがダルシェナに背を向け、民家から立ち去ろうと足を動かす。

 

「ディン!」

 

 その背に、ダルシェナは声をぶつけた。

 ディンは顔だけ振り返り、肩越しにダルシェナを見る。

 

「絶対死ぬなよ。いいか、絶対だぞ」

 

「俺はこんなところで死なん。心配するな」

 

 目に涙を溜めているダルシェナに向けて、ディンは微かに笑った。

 止めていた足を動かし、二人は再び移動した。

 ダルシェナは民家のリビングで壁に背をもたれさせて座り込む。

 ダルシェナの視界に写真立てが入った。家族写真のようで、両親と幼い娘が写っている。両親の間に娘は立ち、三人とも満面の笑み。

 ダルシェナはこれから自分がすることを考え、身体が震えた。

 両腕で自分を抱くようにして、震えを抑えようとする。それでも、震えは止まらなかった。

 

 

 

 バーティンとディンは次の目標ポイントに到達した。

 途中に武芸者が多少いたが、自分たちの情報を伝える前に全員倒し、建物の中に隠した。

 これ程までに存在を気付かれずグレンダンの武芸者を各個撃破できるのは、二つの理由がある。

 一つ目の理由として、グレンダンは敵に対して一丸となって戦うことがない。というより、グレンダンの女王と天剣授受者が強すぎるため、その必要がないのだ。

 だから、グレンダンの武芸者は必然的に勝利のために戦うのではなく、それぞれ戦闘での手柄を競って戦うようになっている。

 二つ目の理由として、グレンダンは武芸の本場といわれる程に、武芸が盛んな都市であること。それだけ多数の武門があり、グレンダンの武芸者はいずれかの武門に所属している場合がほとんどである。その影響で派閥のようなものができ、同じ派閥の武芸者以外を敵視したり、出し抜こうと考える武芸者が多かった。そのため、自分の派閥以外の武芸者の配置や動きを把握しておらず、また念威操者に伝える情報を偽ったりした。武芸者の位置や数を偽れば、それだけ他の派閥を出し抜いて手柄を立てる機会を得やすくなるからだ。

 つまり、派閥を越えて連携をとることがほとんどなく、初めから各個分断されているような状態だった。こうなった原因は武芸者の指揮や部隊編成を面倒だと言って周りに丸投げし、周りもグレンダンが最強なのを疑っていないため、手っ取り早い武門での武芸者選別をおこなったからだろう。

 さっきと同じように民家の扉の取っ手を壊し、扉を開けた。

 民家の中にディンが入る。

 

「しっかりな」

 

「はい」

 

「私も私に与えられた役割を果たしにいく。また生きて会おう」

 

 ディンは無言で頷いた。

 バーティンはそれを見ると一瞬微笑み、ディンの前から消えた。

 民家の中で、ディンは犬と猫のぬいぐるみを見つけた。こども部屋らしかった。ベッドの上には可愛らしい女の子の人形が置かれている。

 ディンはこども部屋の扉を閉めた。

 これから自分がすることを考えると、この情報は邪魔だった。

 ディンは玄関に腰を下ろした。ここが一番人の空気を感じない。

 役割を果たす時が来るまで、ディンはそこから動けなかった。

 

 

 

 レオナルト、エリゴ、フェイルスの三人も外縁部から旋剄を使用し、建物がある場所まで気付かれずに移動できた。

 建物の付近にグレンダンの武芸者が数人集まり、雑談をしている様子が見える。

 三人は瞬く間に近付き、素手で全員倒した。倒したら、武芸者たちの身体を引きずり、建物の扉前まで移動させる。

 扉の取っ手を壊し、建物の中に武芸者の身体を掴んだまま入った。建物の中で倒した武芸者の内の三人の服を脱がし、着ていた戦闘衣を脱いでグレンダンの戦闘衣に着替える。

 三人はグレンダンの戦闘衣を着たら、再び王宮目指して移動を再開した。

 なるべく武芸者に気付かれないように移動し、どうしても気付かれてしまう場合は素手で倒して進んだ。倒した武芸者はそのまま置き去りにして、王宮にいち早く到着することを第一に行動した。

 潜入組は着実にルシフから与えられた役割をこなしていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 グレンダンをルシフの別動隊が食い散らしているなどとは夢にも思っていないレイフォンにとって、今一番の問題はリーリンのことであった。

 カリアンがグレンダンと交渉した。その結果、ツェルニに突如として現れた巨人の大群の殲滅を、グレンダンの武芸者が手伝ってくれることになった。

 そこに異論はない。ツェルニの戦力だけでこの万を超えるかもしれない巨人を殲滅し尽くすのは、ルシフがいても困難だとレイフォンは考えていたからだ。巨人を倒して終わりならツェルニの戦力だけで殲滅できるが、倒しても倒した分だけ巨人が再び出現する。要はいたちごっこになっていて、ただツェルニの武芸者が疲労していく不利な状況に追い込まれていた。

 

 ──そういえば、教員の五人は何してる。

 

 いつもなら、前線に立ちツェルニの武芸者を指揮しながら戦っているのに、今に限って教員五人が巨人と戦っているというフェリからの情報はない。教員五人の剄もレイフォンは感じなかった。

 平常心を持ちながら戦っていたならば、レイフォンは教員五人のこれまでと違った動きに違和感を感じ、その違和感がルシフの思考と結びつき、教員五人を天剣の奪取に向かわせたということくらいは察せたかもしれない。

 しかし、レイフォンは冷静ではなかった。

 カリアンとグレンダンの交渉で決まった二つ目は、ルシフをグレンダンに引き渡すこと。

 これについても異論はない。ルシフが人外の力である廃貴族とやらを手に入れているのは今までのルシフの戦闘から確信しており、グレンダンに行くことでルシフからその力を奪い取れるなら、その方がレイフォンも安心できるからだ。廃貴族とやらがルシフから離れれば、ルシフの暴走でグレンダンが消滅するといった危険も無くなる。

 問題はルシフが間違いなく大人しく連行されないことだが、グレンダンは女王と天剣授受者七人をツェルニに投入している。ルシフにとって、これは絶望的な状況だろう。それでももしルシフの確保に手こずるようなら、自分がグレンダンに助太刀すればいい。

 レイフォンから平常心を奪ったのは、フェリの念威端子から伝えられた最後の交渉内容である。

 リーリン・マーフェスもグレンダンに連行する。

 レイフォンは耳を疑った。そんなバカな話があるか、と念威端子に怒鳴りそうにもなった。

 客観的に見て、リーリンはきっちりしていて真面目なただの一般人。そんな普通の少女を、グレンダンがルシフ同様連行しようとしている。

 にわかに信じられる話ではなかった。グレンダンにとってリーリンは重要な存在なのか。だとすれば、どういう意味で重要なのか。

 レイフォンの思考はそちらにばかりいってしまい、ツェルニの武芸者だけが気付けた違和感を意識の奥に押し込んでしまった。もしその違和感をグレンダンの誰かに伝えていれば、結果は違うものになっていたかもしれない。

 レイフォンは念威端子から、リーリンと天剣授受者三人が接触したとの情報を聞いた。

 レイフォンは天剣授受者が三人もツェルニに潜伏していたことに驚いた。てっきり残りの三人はグレンダンの守備に回したのだろうと考えていたから、天剣授受者全員がツェルニにいるとは思わなかった。ふと、リーリンがどうやってマイアスからツェルニに来たのか、その疑問の答えを掴みかけたが、そんなもの今のレイフォンにとってどうでもよかった。

 情報の衝撃は一瞬でしかなく、その後のレイフォンの動きは早かった。

 巨人の大群を鋼糸で薙ぎ払いつつ、内力系活剄の変化、水鏡渡りでリーリンと天剣授受者三人の場所まで高速移動。

 リーリン、サヴァリス、カナリス、カルヴァーン。四人の眼前に立ち塞がるように立つ。

 リーリンの表情が驚きに変わり、次いでレイフォンから視線を逸らした。

 天剣授受者三人はそれぞれ天剣を手に持ち、いつでも復元して戦闘できる体勢になっている。

 

「リーリンさんはグレンダンに連れていく。それはグレンダンとツェルニの交渉で決まったことでもあるんだよ。その意を無視するとはつまり、グレンダンにもツェルニにも背くということ。ちゃんと自分の行動を理解しているのかな?」

 

 サヴァリスが楽しげな笑みを浮かべ、挑発するように剄の波動をぶつけてくる。

 

「知ったことか、そんなもの」

 

 レイフォンは鋼糸から刀にし、構える。

 グレンダンとツェルニの交渉など知ったことではない。重要なのはリーリンの意思だ。リーリンが拒否しているのに無理やり連れていくなら、たとえグレンダンの天剣授受者でも斬る。

 

「レイフォン、やめて。いつかはこうなっていたことなの。わたしはわたしの意思でグレンダンに帰るわ」

 

 リーリンが視線を逸らしたまま、そう言った。

 それは本当にリーリンの意思か。自分の身を案じてそう言ったのではないのか。

 レイフォンはリーリンの本心が聞きたかった。そして、リーリンの本心を聞くためには、レイフォンの身を危険にさらすもの、つまりは女王と天剣授受者全員を戦闘不能にする必要があった。それができて初めて、リーリンは何にも縛られず、意思を伝えられる。

 ここで仮定の話として、天地がひっくり返るような奇跡が起きて、女王と天剣授受者全員をレイフォンが排除できたとする。そうなった時、リーリンの口から紡がれるのは本当に純粋で何にも影響されていないリーリンの意思なのだろうか。おそらく、違う。自分のためにそこまで頑張ったレイフォンを悲しませないように、傷つけないように、リーリンはレイフォンが求める言葉を口にするだろう。

 もう一つ仮定の話として、天剣授受者に囲まれながらもリーリンが「ツェルニにいたい」と口にしていたら、レイフォンはその言葉をリーリンの本心じゃないと否定しただろうか。絶対にしていない。断言できる。

 レイフォンはリーリンの本心なんて本当はどうでもよかった。

 ただグレンダンより自分と一緒にいることを選んでほしいと、レイフォンですら気付いていない心の奥深くに埋もれている何かが、必死に叫んでいるのだ。

 レイフォンはその何かをリーリンの本心じゃないとか、リーリンが自分をかばって意思を曲げているなどと都合の良いものに無意識の内に変化させ、自分は自分のために戦おうとしているのではなく、リーリンのために戦おうとしているんだと自分のエゴを正当化させた。

 単純な言葉で今のレイフォンの心を表すなら、ただの男の意地である。好きな女に自分を選んでほしいという、男として誰もが抱く願望を無意識の内に叶えようとしているのだ。

 

「カナリスさん、カルヴァーンさん。リーリンさんを陛下のところに連れていってください。レイフォンは僕が止めますよ」

 

 サヴァリスの言葉に二人は頷き、リーリンを左右から挟むようにして、レイフォンの眼前から去っていく。

 

「リーリン!」

 

 レイフォンはリーリンを追いかけようとする。レイフォンの前をサヴァリスが遮った。

 

「どけよ。お前じゃ僕に勝てない。殺したくないんだ」

 

 レイフォンは今まで仮想敵をルシフにして、鍛練してきた。ルシフに比べれば、サヴァリスなど小物にしか見えなかった。

 

「なかなか言うようになったじゃないか。でかいだけのヤツよりは楽しめそうだ」

 

 レイフォンから殺気を浴びせられ、サヴァリスは笑みを深くした。




この作品だと、レイフォンのパートナーはリーリンになりそうですね。

フェリ「…………」

すまぬ……すまぬ……。


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第56話 四面驚歌

 リーリンはカナリスとカルヴァーンに連れられて、アルシェイラの下に来た。アルシェイラの近くにはリンテンスもいる。リンテンスは相変わらず煙草を吹かしていた。

 

「リーちゃん、久しぶり! 会いたかったよ!」

 

「……シノーラ先輩」

 

「あのね、実はリーちゃんにずっと隠していたことがあるの」

 

「……なんです?」

 

「わたし、グレンダンの女王なの!」

 

「そうですか」

 

 リーリンは普段通りの顔のままだ。右目は閉じられている。

 アルシェイラは拍子抜けした。「え!? 本当ですか!? そんなのウソに決まってます!」みたいな返答を期待していただけに、アルシェイラは納得いかなかった。

 そもそも、リーリンにとってこの事実はもっと心を揺さぶられるべきだ。でなければ、この事実を伝えた時のリーちゃんはどんな顔するかな~、と妄想していた自分がバカみたいではないか。

 

「あの……陛下。その……わたしが陛下が誰かをリーリンさんにお教えしまして……」

 

「カナリス、お前のせいか! リンテンス、こいつの首を斬れ!」

 

「お前は何を言っている?」

 

「何って処罰よ、処罰。わたしの楽しみを潰したんだから。万死に値するわ」

 

「えぇ……」

 

 カナリスは何がなんだか分からないといった表情をしている。

 

「カナリス様に教えられなくても、だいたい察しはついていましたけど? 天剣授受者が三人もわたしの護衛をしていると気付いてから」

 

「そう。なら、カナリスの首を斬るのはやめるわ。リンテンス!」

 

「元々斬るつもりはなかったが。お前の言葉をいちいち真に受けていたら、首がいくつあっても足りん」

 

「一言余計なのよ、あんたは。で、リーちゃん。本当にいいの? このままグレンダンに帰っても」

 

 アルシェイラがそう言った瞬間、二つの剄が膨れ上がり、ぶつかった。レイフォンとサヴァリスが闘い始めたのだ。

 アルシェイラや天剣授受者たち、リーリンの視線が剄を感じた方向に向けられる。

 

 ──あら?

 

 アルシェイラはリーリンを横目で見た。

 リーリンは一般人であり、剄を感じられない。にも関わらず、剄の波動が広がったのに合わせて、発生場所の方に視線を向けた。つまり、剄を感じられているということ。つまり、一般人では無くなった証拠。

 リーリンは数秒剄を感じた方向を見た後、アルシェイラに視線を戻した。

 

「答えがあると思ったから」

 

「答え?」

 

「リーリン・マーフェスは本当は誰なのか。その答えです」

 

「答えはいつも優しいとは限らない。残酷な真実を知ってしまうことになるかもしれないわ」

 

「それでも、一歩前に進めます。何も分からず振り回されているよりは、ずっとマシだと思います」

 

「レイフォンはいいの?」

 

 リーリンは痛みを堪えるような顔になった。

 

「レイフォンはいつもわたしの力になってくれようとします。何も分からないままレイフォンの傍にいたら、レイフォンまで訳の分からない状況に巻き込んでしまうかもしれない。それは嫌なんです」

 

 成る程、とアルシェイラは思った。だからリーリンは、抵抗せずに大人しくグレンダンに帰るのを了承したのだ。

 なんにせよ、ルシフにリーリンを人質に取られることを一番懸念していたアルシェイラは、リーリンが自分の手の内に収まったことで一安心した。あとはルシフを捕らえるか殺せばいい。リーリンは天剣授受者に護衛させて、グレンダンの王宮に連れていけば、ルシフにリーリンを奪われる可能性も消える。

 巨人の数もかなり減ってきていた。この分なら十分もかからないだろう。

 ルシフは建物の屋上に立ち、衝剄を中心とした攻撃で着実に巨人の数を減らしていた。廃貴族の力は感じない。

 

 ──迂闊に近付けないわね。

 

 廃貴族の力を使わないのは、そうやって自分が廃貴族を上手く扱えないよう見せかけて、ハイアからの手紙に書いてあった内容に信憑性を持たせるためだろう。サリンバン教導傭兵団を廃貴族の暴走で倒した情報をこちらが持っていることを、ルシフは確信している筈だ。

 そうやって廃貴族の脅威はないとこちらに思わせ、油断したところを廃貴族の力を使って潰す。それこそルシフがあんな目立つ場所にいて、まるで攻めてこいといわんばかりにこちらの意識をしていない狙いだろう。だが、こちらはルシフが廃貴族を使いこなしている前提で動いている。いや、もしかしたらハイアの手紙の情報を罠だと見抜いていると読んだうえで、あえて廃貴族の力を使わないのか。だとすれば、ルシフの目的は自分を警戒させることでグレンダンの攻めの手を止めさせ、時間稼ぎをすることではないか。時間稼ぎをして、得をするのはどんな場合だ。別動隊によるグレンダンへの直接攻撃。グレンダンになにかしらの罠の設置。どちらにせよ、グレンダンが関わる。

 

「デルボネ」

 

 アルシェイラの傍に蝶型の念威端子が寄ってくる。

 

『はい、なんでしょう?』

 

「グレンダンの方をちょっと見てくれない? 確かめたいことがある」

 

『分かりました、少しお待ちください……あら? これは……』

 

「どうしたの?」

 

『どうやらお相手の武芸者がグレンダンに紛れこんでいるようですわ。それも、かなり手練れの武芸者が三人。あちらさんの都市長は抵抗する素振りも見せなかったのに、あの交渉の時の姿勢は演技だったのかしらねぇ』

 

「それか、ツェルニの都市長の交渉はウソがなくて、ルシフの独断でこれをやったかね。なんにせよ、ルシフの策は破った。グレンダンを甘くみてもらったら困るわ」

 

「あの、陛下」

 

「何カナリス? ちょっと今取り込み中だから、黙ってて。

グレンダンにいる武芸者に指示を。その三人は囲んで潰せ。生かして捕らえるのが一番だけど、別に殺してもいいわ」

 

『はいはい、伝えますよ。それより、これはグレンダンの旗を取りに来ているのでしょうか?」

 

「だとすればツェルニの都市長の策になるけど、今旗取っても無駄よ。ちょっと短絡的すぎるわ。

ルシフの指示なら、王宮から天剣ヴォルフシュテインを奪うのが目的ね。こっちの方が現実味がある。まあ、王宮にはもう近付けないけど」

 

 アルシェイラは頭上を仰ぎ、ルシフを見据える。

 ルシフはこちらが策を看破したことも知らず、未だに道化を演じていた。

 間違いなくルシフに勝った。後はルシフを捕らえるか殺せばいい。ツェルニの頭上の大穴は閉じていないが、巨人の数は増えない。だから、巨人の問題は後数分で片付く。

 アルシェイラは勝ち気な笑みを浮かべた。

 

「ルシフ、あなたの負けよ」

 

 アルシェイラとルシフの距離はかなりあった。だが、ルシフの顔はアルシェイラの方に向いた。内力系活剄で聴力が強化されているから、アルシェイラの声が聞こえたのだろう。だとすれば、自分がグレンダンに出した指示も聞こえた筈だ。

 

「俺の負けか。で、俺を殺したらどうする?」

 

 ルシフの頭の中に生け捕られるという選択肢はないようだ。それでこそルシフだ、と思った。ツェルニに来てルシフをボコボコにした時も、ルシフは自分が殺されるまで闘おうとしていた。

 

「どうするも何も、別に何もないわ。今まで通り、時が来るのを待つ。時が来たら、グレンダンを守り、敵を殺し尽くす」

 

「クックックッ……フハハハハハ……ハァーッハッハッハッハッ! ハハハハハッ!」

 

 ルシフはアルシェイラの言葉を聞いて笑い声をあげた。

 

「何笑ってんのよ。どっか面白いところでもあった?」

 

「陛下、一つ申し上げたいことが……」

 

「カナリス、そんなの後にしなさい。今はあの道化の言葉が聞きたい」

 

「俺を殺した後を考えていない。それが人の闘い方か! 恥を知れ!」

 

「……人の闘い方?」

 

「お前は獣の王だ。自由気ままに生き、その時の感情に従って牙を剥く。だから、いつまで経っても状況が変わらず、闘っても得るものもない。

俺は違う。俺はお前らを完膚なきまでに叩き潰した後も、どう行動するか頭に入っている。それが、お前と俺の決定的な差だ」

 

「この絶体絶命の状況下でよくそこまで言った。そこは褒めてやってもいい。でも、負け惜しみにしか聞こえないわ」

 

「絶体絶命?」

 

「そう。あなたの策は破った。あなたがそこで突っ立ってても何も得られなくなったのよ」

 

「あの、陛下!」

 

 カナリスが声を荒げた。

 アルシェイラは鬱陶しそうにカナリスを見る。カナリスは必死の形相をしていた。

 

「何よさっきから。言いたいことがあるなら早く言いなさい」

 

「五人! 五人いる筈なんです! グレンダンに潜入した武芸者は!」

 

「……は?」

 

 アルシェイラが勢いよく顔をルシフに向けた。ルシフが微かに笑っている。そう見えた。

 

「カナリス。詳しく言いなさい」

 

「はい。ルシフは教員として五人ツェルニに呼んだそうです。五人ともかなりの武芸の腕前があり、わたしは剣狼隊の武芸者を呼んだのだろうと考えました。巨人の闘いに教員は介入していません。グレンダンの潜入を命じられたのだと思います。とすれば、グレンダンから三人しか見つからないのはおかしいかと」

 

「なぁ、アルモニス」

 

 ルシフが声をかけてきた。

 

「この俺が意味もなく、戦闘中に会話など乗ると思ったのか?」

 

 自分との会話に応じたのは、時間稼ぎのため。つまり、看破した策とは別の策が進行している。

 

「……ッ! デルボネ!」

 

 アルシェイラは近くに浮かぶ念威端子に怒鳴った。

 

『これは……わたしも老いましたかね。接近してくる武芸者に気付けなかったなんて……』

 

「デルボネ?」

 

 まさかルシフの狙いは最初から天剣ではなく──。

 

『陛下。ごめんなさいね。わたしはここまでのようです。最期に、わたしを攻めてきた武芸者は一人──』

 

 デルボネの声が途切れ、蝶型の念威端子がアルシェイラの指示も聞かない内にグレンダンに向かった。アルシェイラ付近のものだけでなく、ツェルニのいたるところから端子が浮かび上がり、グレンダン王宮目指して飛んでいく。それは光る蝶の群れのように見えた。

 最初からデルボネ狙いだった?

 だとすれば、今まで天剣をしきりに力で奪うと言っていたのは、こちらに本当の狙いを悟らせないためか。

 

 ──ルシフ。あなたは一体いつから……。

 

 グレンダンを倒すために罠を仕掛けていた?

 ルシフの胸ポケットから、六角形の念威端子が空中に浮かび上がった。いや、ツェルニ中から六角形の念威端子が浮かび上がってくる。

 アルシェイラはグレンダンの方を振り返った。グレンダンの方からも、いたるところで六角形の念威端子が浮かび上がっている。

 六角形の念威端子が青く輝く。ツェルニにある端子がまず青く輝き、線と線を結ぶように青い光が近くの端子と触れて、青い光に触れた端子からどんどん青く光っていく。この念威操者は端子を中継にして、自らの念威をツェルニとグレンダン両都市の隅々まで拡げようとしているのだろう。

 青い光はグレンダンにある端子まで到達し、青い光がグレンダンを覆い被さるようになった。

 そこで、アルシェイラは信じられない光景を見た。

 六角形の念威端子が次々に別の形の念威端子に近付いたと思ったら、その念威端子も六角形の念威端子に従うように青く輝き、六角形の念威端子のすぐ近くを飛び回り始めたのだ。

 

 ──グレンダンの念威操者の端子を奪ってる? ルシフの奴、最初からこっちの情報・通信ラインをズタズタにし、そのまま自分の情報・通信ラインとして掌握することが目的だったのか!

 

 しかし、他人の端子を奪うなど、相当の技量がなければできない芸当。ルシフが抱えている念威操者の中に、そこまでの念威操者がいるとは夢にも思わなかった。

 

 ──どうする?

 

 おそらくデルボネはもう生きていない。こんな形で天剣授受者を失うとは思ってもいなかった。

 もはやグレンダン王宮はルシフの仲間に潜入された。安全な場所とは言いがたい。リーリンを天剣授受者に護衛させてグレンダン王宮に連れていき安全を確保する方法はもうとれない。

 

 ──どうする?

 

 どう動くべきだ? グレンダン王宮に向かうべきか? だが、グレンダン王宮を目指そうとすれば、ルシフに背を向ける。その隙をルシフは待っているに違いない。これ以上ルシフの思い通りに動くのは自分自身が許せなかった。

 グレンダンの方を見ていると、外縁部に近い建物から火の手が上がった。一ヶ所だけではない。左右対称に反対側の建物からも火の手が上がっている。まるでグレンダンの両端に火の玉が現れたように見えた。

 

「陛下、あれを!」

 

「見えてる!」

 

 カナリスがグレンダンの町を指差し、アルシェイラはカナリスに怒鳴った。

 潜入したルシフの別動隊は五人じゃなかったのか。デルボネが見つけたのが三人。デルボネを殺したのが一人。残り一人が火を建物につけたとして、もう一ヶ所の火は誰がつけた? ほぼ同時に火がついた。二人いなければおかしい。つまり、最低でも潜入した人間は六人いなければ計算が合わないのだ。

 

 ──カナリス。ルシフに踊らされたか。

 

 ルシフが教員を五人呼んだというのは事実で嘘はないだろう。だが、自分が入学する前に自分の仲間をツェルニに入学させ、何かあった場合の戦力を用意していたのではないか。そうしておいて自分の戦力にするために教員を呼べば、教員しかルシフの戦力はいないように見える。カナリスが騙されたのも無理はない。

 

 ──それか、グレンダンにルシフと内通している武芸者がいて、潜入したルシフの仲間と接触し、合図に合わせて火をつけたか。そのどっちかね。

 

 グレンダンは武芸の本場として名高いため、他都市から優れた武芸者がよく来る。その中に、ルシフと通じ、ルシフから何かしらの命を受けて来た者がいたかもしれない。ルシフはいずれグレンダンを攻めるつもりだったから、そのための下準備をしておくというのはルシフらしいやり方ではないか。

 

「陛下! 旗を! 旗をご覧になってください!」

 

 二つの火の玉がグレンダンの建物を次々にのみこみ、徐々に大きくなっていくのを見ていたアルシェイラは、カナリスの声でグレンダンの旗を見た。

 グレンダンの旗。獅子の身体を持つ竜が剣をくわえた刺繍がしてある旗。その旗竿の隣に、グレンダンの戦闘衣を着た銀髪の女が立っていた。

 銀髪の女の戦闘衣の剣帯には様々な錬金鋼が吊るされている。アルシェイラは吊るされている錬金鋼の内の二つを見て、怒りで身体が震えた。

 

「……ヴォルフシュテイン……キュアンティス……!」

 

 レイフォンが以前持っていて、レイフォンから離れた後は王宮に保管していた天剣ヴォルフシュテイン。そして、デルボネが持っていた天剣、キュアンティス。あの女が、デルボネを殺したのか。

 銀髪の女は旗竿を両手で掴み、抜く。両手で持ったまま、旗竿を大きな∞の字を描くように振った。こちらに向けて振られている。いや──。

 アルシェイラは振り返り、ルシフを見る。

 ルシフは銀髪の女に向けて、右手の親指を立てた。

 アルシェイラが視線を旗に戻すと、銀髪の女は旗をより一層激しく振り回した。まるで喜びを表現しているようだ。

 ルシフに向けて、あの女は旗を振っているのか。グレンダンの旗を。我が物顔で。

 アルシェイラは歯ぎしりした。

 都市間戦争ならば、この時点でツェルニの勝利が確定し、戦争が終わる。しかし、この場合は違う。都市間戦争の始まりの合図は、両都市から同時にサイレンが鳴ること。それがまだないのに、旗を取った。

 サッカーで例えるなら、この行為は試合開始のホイッスルが鳴る前にボール回しをしてゴールするようなもの。当然、点は入らない無意味な行為だ。

 しかし、もしホイッスルが鳴る前も相手側はしっかりディフェンスをしていて、キーパーも立っているなかゴールされたら、点なんて取られてないと思えるだろうか。たとえルール上は点を取られなかったとしても、試合しているのと同じ状況で点を取られたら、点を取られたと誰もが思うだろう。グレンダンはまさにこの心理状態だった。

 旗はグレンダン王宮の頂上に立ててあった。グレンダンの都市の構造上、旗を振っている女の姿はどの場所からも見えた。

 旗を見たグレンダンの武芸者は指を差しながら叫び、近くの武芸者に旗が取られたことを教えた。そして、教えられた武芸者も旗を指差して叫び、その近くにいる武芸者に伝える。そういう動きがグレンダンのいたるところで起こり、波紋のように拡がった。旗を取られてから数十秒足らずで、グレンダンの武芸者全員が旗を取られたことを知った。誰もが愕然として、女が旗を勢いよく振っているのを見ている。

 

 

 

 アルシェイラと別行動している天剣授受者たちも、グレンダンの旗が振られていることに気付いた。

 巨人の殲滅はたった今完了した。ツェルニの頭上の大穴は消えていないが、増援の気配はない。しかし、今の天剣授受者たちにとってそんなのはどうでもよくなっていた。

 念威端子は無くなり通信ができず、グレンダンの建物が焼かれ、旗を取られた。この状況を打開するのが先決である。

 

「ナメた真似しやがって。潰してやる、あのガキ」

 

 ルイメイがルシフを睨んだ。鎖のついた鉄球を頭上で回している。

 

「落ち着けよ旦那。とにかく、これは異常事態だ。陛下の指示を仰ぐ必要があると思うぜ」

 

 トロイアットが杖を持ち、帽子を被り直した。

 ルイメイが舌打ちする。

 

「指示なんざいらねえ。気に入らねえヤツは俺様が一人残らず叩き潰す。あのガキだけじゃねえ。旗振ってはしゃいでるあの女もだ」

 

 ルイメイが旗を見る。怒りが顔を覆っていた。

 

「旦那、あの女性はルシフに言われて仕方なく旗を取ったんだ。命令したルシフに罪があり、あの女性に罪はねえ。男を憎んで女を憎まず、だ」

 

「けっ。トロイアット、お前のくだらねえ考えはいつ聞いてもうぜえ。敵に男も女も老人も子供もあるか。向かってくるヤツは全員潰しゃいいのよ。めんどくせえ」

 

「とにかく、陛下のとこに行こう。勝手に行動して八つ当たりされるのもかなわん」

 

 グレンダンがこんな状況になったことなど初めてであり、ルシフにいいようにしてやられたアルシェイラが冷静でいられる筈がない。そんな精神状態のアルシェイラの意に背けば、いらぬ罰を受ける可能性があった。

 

「ちっ、手間のかかる。陛下はどんと構えてりゃいいってのにガキみてえなことやって、結果がこれとあっちゃあ、陛下の地位を狙ってやがる三王家がうるさくなるかもしれねえな」

 

「そこは俺たちの出る幕じゃないだろう。それに、陛下はご健在だ。出し抜かれたってだけで負けたわけじゃねぇ」

 

 トロイアットの言葉に、ルイメイはイラッときた。

 デルボネはやられ、念威操者は軒並み無力化され、町を焼かれ、天剣は奪われ、旗を取られた。

 これが負けじゃねえだと? どこまでお気楽な考えしてやがんだ!

 

「……トロイアット、あんまナメたこと言うなよ? 殺すぞ」

 

「旦那。どうしたんだ、急に?」

 

「陛下んとこ行くぞ。くそめんどくせえけど」

 

 ルイメイとトロイアットはアルシェイラの剄を感じる方に走り出した。

 二つの巨大な剄がぶつかり合っているのを感じる。レイフォンとサヴァリスの剄。

 

「あのバカども、まだ遊んでんのか」

 

「しょうがない奴らだねぇ、まったく」

 

 二人は足を止め、剄を感じた方向を見た。

 

 

 

 リヴァースとカウンティアは振られる旗を二人並んで見ていた。リヴァースは全身を鎧で包んだような姿になっている。

 

「旗が取られた。天剣も取られた。これって、グレンダンは負けたってことだよね?」

 

「そう決めるのはまだ早計だよ。陛下はまだ生きているし、僕らだって生きてる」

 

「でも、ばあさんはやられたよ。天剣授受者が、他都市の武芸者に負けたんだよ。それとも、今からあのルシフってヤツとグレンダンに潜入したヤツを狩れば、負けが勝ちに変わるのかな?」

 

「……ティア」

 

 カウンティアは凄絶な笑みを浮かべていた。剄がカウンティアの周りを荒れ狂い、近付く者を切り刻んでしまうような殺気を帯びていた。

 笑っているが、怒ってもいる。いや、怒りが頂点に達し、その反動で笑っているような状態。

 これはとても危険だと、リヴァースは思った。何故なら、カウンティアが全力で研ぎ澄ました剄は都市を破壊してしまうかもしれないからだ。たとえ他都市でも、ここには人がたくさん住んでいる。都市が破壊されれば、シェルターに避難している人も一人残らず死ぬ。

 

「まだ、デルボネさんが死んだかどうか分からないよ。僕たちはデルボネさんの姿を見てないんだから」

 

「でも、あの女はばあさんの天剣を持ってるじゃない!」

 

 カウンティアの剄が鋭さを増し、地面の石が空に舞っては砂に変わる。

 

「デルボネさんの状態なら、殺さなくても天剣を奪えるよ。それなら、あの人から二本天剣を取り返せば、元通りになる。建物だって、また建てればいい。旗が取られても、今はなんの意味もないよ。都市間戦争になってないからね。だから、僕たちは負けてないんだ。僕たちや陛下が生きている限り、負けじゃないんだよ、ティア」

 

 リヴァースから諭されるように言われ、カウンティアの剄は弱まった。カウンティアの表情は不愉快そうに歪められる。

 

「でも、やっぱりムカつく」

 

「その気持ちは、僕もちょっと分かる」

 

 カウンティアは不愉快そうな表情から一転、楽し気な笑みになった。青龍偃月刀を地面と垂直に立てて持つ。

 

「なら、狩りにいこうよ」

 

「まだダメだよ。陛下のところに行かなきゃ。通信できなくなっちゃったんだから、指示をもらわないと。勝手に行動して、陛下から罰を受けたくないでしょ?」

 

「しょうがないなぁ。まあ、今度の獲物は逃げられないから、少しくらいは狩り始めるの、遅くなってもいいか」

 

 青龍偃月刀を一度回してから肩に預け、カウンティアはアルシェイラがいる方向を向いた。リヴァースがアルシェイラの方に歩き始める。リヴァースに合わせて、カウンティアもリヴァースの隣を歩いた。

 

 

 

 銃口と弓が、旗を振る女に向けられていた。

 

「ああ、なんなのアイツ。ウザッ」

 

「念威操者! 念威端子を奪われたなら錬金鋼を復元前の状態に戻せ! くそッ、聞こえんか」

 

 ティグリスは舌打ちした。

 錬金鋼を戻せば強制的に敵の念威も遮断できるのに、念威操者たちはデルボネの死と端子が奪われたことによるショックで正常な思考ができなくなっている。

 

「嫌な予感というのは、当たるものだな」

 

 バーメリンが銃を構え、ティグリスが弓を構えている。

 

「デルボネが逝くとは。ルシフ・ディ・アシェナ。陛下が警戒する男だけはある」

 

「感心してんな、クソジジイ。撃ち殺してやる、あのウザガキ。調子乗りすぎ、あのクソ女。まずあのクソ女から撃ち殺す」

 

「まあ落ち着け。あの女を殺すのは容易い。先に殺すならやはりあやつの方だ」

 

 弓をルシフの方に向けた。

 

「殺せんの? 老いぼれジジイのくせに」

 

「まだまだ若いもんには負けんわい」

 

「そういうのがジジイくさい」

 

 バーメリンが銃口をルシフに向け、撃った。一発ではなく、六発。装填された弾丸は空になり、銃口から煙が出ている。

 刹那の間に撃たれた六発の弾丸は、それぞれ僅かに軌道がずれ、ルシフの頭から腹までを風穴にしようと飛んでいく。

 ルシフはその六発の弾丸を一瞥しただけで、回避行動を一切しない。ルシフに当たった弾丸は跳ね返り、バーメリンの方に戻ってきた。バーメリンはサイドステップをして余裕を持って回避。しかし、バーメリンの表情は不機嫌そのもの。

 バーメリンは自分の全身に巻きついている鎖に剄を通した。鎖の一部が弾け、宙に舞う。この鎖は錬金鋼製であり、剄を通せば実弾に変化するのだ。

 宙に舞う弾丸を流麗な動作で拳銃に装填。一瞬で攻撃体勢を整えた。

 

「何よあいつ、金剛剄使えんの? ウザッ、メンドッ。てか、それじゃ天剣使うしかないじゃん」

 

「そう簡単にはやはりいかんのう。難儀なことじゃ」

 

「ジジイ、どうする?」

 

「すぐに陛下も動くじゃろ。わしらは陛下に気を取られて隙を見せたところを撃ち抜けばいい」

 

「何それ、ダサッ」

 

 バーメリンの悪態に苦笑しながら、ティグリスが髭を撫でた。

 

 ──それにしても、あやつは何故動かない? 今が攻める絶好の好機。ペアを組んでいるとはいえ、天剣授受者は分散しているというに。

 

 まだ何かあるのか?

 ティグリスはルシフから視線と弓を逸らさなかった。

 

 

 

 

 ──なんなのよ、これは。

 

 アルシェイラは旗が振られているのを見続けている。

 ルシフの策を看破したと思った。ルシフに勝ったと思った。そう思ったら、畳み掛けるように次々に信じられないことが起こり、あげくのはてには都市間戦争で絶対に奪われてはいけない都市旗まで取られた。

 アルシェイラはふと、ルシフとツェルニで闘った時のことを思い出した。あの時も、千人衝を目眩ましにした頭上からの攻撃を防ぎきった時、勝ったと思った。後は空中にいるルシフを痛めつければいいと思い、殴りにいった。しかし、実際は罠であり、ルシフはそうしてくると読んだうえで回避の方法をあらかじめ用意しておき、カウンターでより激しい攻撃を叩き込んできた。あの時の代償は、戦闘で初めて傷を負わされるという結果で終わった。

 そうだ。これが、ルシフだ。勝ったと思った時には、こちらが不利になっている。

 

 ──これからどう動く?

 

 グレンダンに内通者がいるなら、即捕らえて罰を与えなければならない。潜入したルシフの仲間も全員殺すかグレンダンから叩き出さなければならない。ルシフは問答無用で殺す。

 潜入したヤツらの位置はどの辺りだ? そもそも、デルボネを襲った奴は、何故デルボネが襲ってきた武芸者の数を言うまで何もしなかった? デルボネが情報を言う前に殺せば、それだけで何人がデルボネを襲ったのか分からなくなり、もっと混乱させられた筈。もしかして、わざとデルボネにそう言わせたのでは? 実際は二人以上が王宮に侵入しているのを悟られないように。

 疑問が疑問を呼び、何が正しい情報なのか、アルシェイラは分からなくなっていた。ルシフの言動も行動も、今グレンダンで起こっていることも、何が嘘で何が本当なのか。真実なのか、真実に見せかけた罠なのか。

 銀髪の女は旗竿を戻し、旗を再びグレンダンの王宮に立てた。旗竿の隣に立ったまま、剣帯から錬金鋼を一つ取り復元。狙撃銃がその手に握られた。右目でスコープを覗き込む。銃口はアルシェイラの胸に照準されていた。




次回はグレンダンで何が起こったのか各視点ごとに時系列順で書いていこうと思います。
あと、次回はクラリーベルちゃんが出ます。覚醒前リーリンと同じくらい好きなキャラです。


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第57話 作戦成功

 グレンダン王宮の空中庭園に、一人の少女が仏頂面で立っていた。

 少女の名前はクラリーベル・ロンスマイア。グレンダン三王家の一つ、ロンスマイア家の血をひき、天剣授受者ティグリス・ノイエラン・ロンスマイアの孫でもある。

 少年らしい服装を好み、今も剣帯を下げた短ズボンをはいている。しかし、顔と身体は誰が見ても女であり、顔に関しては美しいといっていいほど整った顔立ちをしていた。長くて癖のない黒髪をポニーテールのように後ろで結んでいる。少女の髪は奇妙なところがあり、黒髪の中の一部分だけ白い。何故かは分からないが、生まれた時からそうだった。

 少女は剣帯から錬金鋼(ダイト)を取り、手の中で弄ぶ。

 少し前、とてつもなく巨大な剄がグレンダンを駆け抜けた。天剣授受者や女王と違う、感じたことのない剄の波動。

 この剄の持ち主がルシフ・ディ・アシェナか、とクラリーベルは確信した。女王が要注意人物として警戒していると、祖父のティグリスから事前にルシフのことは聞かされていた。だから、すぐに結びついた。

 しかし、その思考は次に感じた剄にたちまち吹き飛ばされた。クラリーベルがよく知る剄。レイフォン・アルセイフの剄。

 レイフォンがあの都市にいるのか、とクラリーベルはその場で跳び跳ねたい気持ちになった。

 クラリーベルはレイフォンを倒すことを一つの目標にしている。レイフォンだけが同年代で天剣に手が届いたからだ。つまり、レイフォンを倒せる実力があれば、天剣に相応しい実力がある、ということになる。本当はそれ以外にもレイフォンを意識しているところはあるが、その感情もレイフォンに自分の実力を見てもらいたいという感情に変化し、レイフォンと闘いたい欲求ばかりが高まっている。

 しかし、彼女に下されている命は王宮警備。王宮から離れてレイフォンと闘いに行くことは命に外れる。

 

「暇です。暇すぎます。そもそも、グレンダンの王宮まで相手の武芸者が到達できるわけないじゃありませんか。ここに到達するまで何人の武芸者が配置されてると思ってるんですかね。いえ、陛下のことですから、何人配置されてるか気にもしていないかもしれません。絶対そうです。そうに決まってます。つまりわたしの配置は戦略的にも戦術的にも意味がなく、適当に配置されたことになります。そう考えれば、グレンダンのより確実な勝利のために、王宮警備を放棄し敵武芸者の殲滅に行くべきではないでしょうか。はい決まりました。今決まりました。わたしはグレンダンのために、己の身を(かえり)みず闘います。グレンダンのために闘って罰を受けるなら本望です」

 

「おい止めろ。それっぽいこと言って自由行動しようとするんじゃない。後で面倒なことになっても知らんぞ」

 

 黒髪を長く伸ばした端正な顔立ちをしている男が、移動しようと軽くかがんだクラリーベルに声をかけた。男は前からクラリーベルの近くにいた。

 男の名はミンス・ユートノール。クラリーベルと同じ三王家の一人であり、過去にレイフォンから痛い目にあわされ、レイフォンの闇試合が発覚した時には民衆を煽動し、レイフォンの印象を悪くした犯人でもあった。

 

「グレンダンのために行動して何が悪いんです?」

 

「本当にグレンダンのためか?」

 

「はい。全てはわたしの欲求を満たす(グレンダンの)ために」

 

「……そう言えば何やっても許されると思うなよ」

 

「思ってませんよ。だから、罰を覚悟してるんじゃないですか」

 

 デルボネから指示がきたのは、そんなやり取りをしている時だった。グレンダンに敵の武芸者が三人潜入し、王宮に近付いてきているらしい。指示の内容は『潜入した三人の武芸者を倒せ。生死は問わない』だった。

 デルボネの念威端子が空中に敵の武芸者の座標を示したマップを投影。だいたい王宮まで後半分の距離といったところまで来ている。

 

「成る程。今までの相手よりは多少楽しめるようですね」

 

「おい。まさか王宮警備を放棄してそっちに行くんじゃないだろうな」

 

「陛下の指示です。陛下の意に従うのが武芸者の務めでしょう」

 

 クラリーベルは地を蹴り、跳躍した。もう王宮ははるか後方にある。移動する瞬間ミンスの舌打ちの音が聞こえたが、別に何も思わなかった。

 クラリーベルは建物の屋根を蹴り、どんどん加速していく。同じように移動している武芸者は多数いた。

 誰もが退屈していた。例えるなら、近場で盛大なお祭りをしているのに参加できない気持ちだろうか。近場だから、当然お祭りの楽しそうな気配が漂ってくる。しかし、その空気を感じることしか許されていない。そんな中、敵の潜入を察知したのだ。誰もが祭りのおこぼれにあずかろうとした。敵の武芸者に殺到したのは、グレンダンの武芸者の性質上、至極当然の結果だった。

 クラリーベルは三人の武芸者の前に降り立った。クラリーベルは知る由もないが、エリゴ、フェイルス、レオナルトの三人である。

 三人とも、グレンダンの戦闘衣を着ている。これでは、すぐに潜入に気付かなかったのも無理はない。彼らが敵だと分かる証拠は、彼らの後ろで倒れている武芸者くらいしかない。彼らの通った道を示すように、武芸者が道に何人も倒れている。

 エリゴたちはクラリーベルが眼前に立っても慌てなかった。クラリーベルが到着した後、彼らを囲むようにグレンダンの武芸者が次々現れても、彼らの表情に怯えはない。静かに剣帯から錬金鋼を取り、復元。彼らの手に各々の武器が握られる。棍、刀、弓。隠密行動は止め、戦闘体勢になった。グレンダンの武芸者に囲まれようとも戦意を失わず、闘おうとしているのだ。

 

 ──そうこなくては。

 

 面白くない。三人の武芸者を片付けたらレイフォンのところに行こうと思っているが、その前のいいウォーミングアップくらいにはなりそうだ。

 クラリーベルは手の中にある錬金鋼を復元。柄の部分にある四つの輪に指が通され、柄の外側に棘が打たれ、柄の反対側に刺突用の小さな刃がある刀。その武器はどんな時も攻撃するというクラリーベルの意思が凝縮されている。クラリーベルはこの武器を胡蝶炎翅剣(こちょうえんしけん)と名付けた。

 クラリーベルがグレンダンのどの武芸者よりも早く、動く。一瞬でエリゴに接近し、横凪ぎに刃を振るった。刃の軌道は正確に首を捉えていた。生死は問わないと言われている。最初から、クラリーベルに生かして捕らえる選択肢はない。クラリーベルが求めているのは()るか()られるか、その緊張感のもとで思う存分闘う。それだけだった。

 刃がエリゴの首にくいこみ、斬り落とした。歯ごたえのない。そう思った。クラリーベルの全身に悪寒が走る。刃を振るった勢いを殺さず回転し、右に刃を振るった。響き渡る金属音。エリゴが死角から刀を振るってきていた。

 クラリーベルは視界の端で今首を斬り落としたエリゴを見る。エリゴの身体は斬り落とされた首ともども消えていた。

 質量を持った残像か。サヴァリスの千人衝と同じく、剄で生み出した分身を自分は斬らされた。

 クラリーベルは後方に跳躍。クラリーベルの身体があった場所を棍が突いた。いつの間にかエリゴと挟むようにレオナルトがいた。

 あと一人。弓。クラリーベルの視線がせわしなく動く。右斜め上。宙にいるフェイルス。剄矢がクラリーベルの右斜め上から迫ってくる。胡蝶炎翅剣を振るい、剄矢を弾きながら着地。

 フェイルスは三角跳びの要領で建物の壁を蹴り、エリゴとレオナルトの後方に着地。

 一連のやり取りを見て驚いたのは、囲んでいるグレンダンの武芸者だった。

 グレンダンの武芸者はクラリーベルの実力が飛び抜けているのを理解しており、三人がかりだとしてもクラリーベルと闘えているのは相応の実力があることになる。

 グレンダンの武芸者の剄が研ぎ澄まされ、殺気と混じって空気を震わせる。緊張がエリゴたちを支配していく。

 ボーナスゲームだと浮かれるグレンダンの武芸者はもういない。潜入してきた三人を実力のある武芸者として認めた。グレンダンの武芸者は全力で闘うだろう。

 

「いいです……いい感じです」

 

 クラリーベルは構えながら、声をあげて笑っていた。無邪気といってもいい曇りのない笑みが三人の武芸者に向けられている。

 正直、あまり期待はしていなかった。レイフォンを倒す前の遊び程度の価値しか、彼ら三人から見出だしていなかった。

 だが、僅かな油断が、一瞬の判断ミスが敗北に繋がる。それだけの実力を三人の武芸者それぞれが持っていた。

 身体が熱っぽくなっていく。血が全身を駆け巡り熱くなっていく。高揚感が剄を暴れさせる。これから、命をかけた勝負が始まるのだ。クラリーベルはそう思った。

 故に、この後のエリゴたちの行動は、クラリーベルと囲んだ武芸者の意表をつく行動だった。彼らはあろうことかクラリーベルに背を向け、王宮と反対方向に逃げ出したのだ。

 逃げ出した先には当然グレンダンの武芸者が人一人通る隙間もなく、包囲している。しかし、その包囲を瞬く間に突破して、クラリーベルの視界からどんどん遠ざかっていく。

 

「いやいやいやいやいや……それはないでしょ。子どもの頃言われませんでした? 火をつけたら消えるまで責任持てって」

 

 クラリーベルは下唇をなめた。

 

「わたしの心に火をつけたんですから、ちゃんと消えるまで付き合ってくださいよ!」

 

 クラリーベルは楽しそうにエリゴたちを追いかけた。グレンダンの武芸者もクラリーベルに続いて一斉に移動した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 クラリーベルが王宮から離れるところを隠れて見ていた者がいた。アストリットだ。

 息を殺し、建物の陰からじっと王宮に目を向け、王宮から続々と武芸者が飛び出していくのを最後まで見届ける。

 グレンダンの王宮警備の命を受けた武芸者は、クラリーベルを責任者としてみていた。クラリーベルが王宮警備の武芸者の中で誰よりも強く、家柄も三王家と申し分ないものだからだ。故に、クラリーベルに付いてゆくように王宮警備を放棄して、彼らも潜入した武芸者のところに移動を開始した。

 王宮から武芸者が出ていく気配を感じなくなったら、アストリットは王宮に向けて動いた。当然、殺剄は使用している。

 王宮警備をしている武芸者が誰一人いないわけではなかった。少数だが、ちらほらといる。しかし、アストリットにとってその人数は警備などしていないのと同じだった。

 視線を掻い潜るように身を低くして王宮の壁に張り付き、開いている窓から王宮内部に侵入。

 殺剄をしたまま広い廊下を駆ける。初めて来た場所なのに、アストリットの移動に戸惑いは一切ない。アストリットはルシフが描いた見取り図を完璧な形で頭に入れていた。当然目的地が分かっているうえで移動している。

 途中にいる武芸者は素早く倒して意識を奪いながら、移動を続ける。アストリットはいくつも階段を下りた。都市旗のある王宮の頂上を目指さず、地下を目指して駆けた。

 目的の部屋を見つけたアストリットは勢いよく扉を開ける。室内は病室のようだった。白く統一された壁やベッド。そして、アストリットの目的の人物がベッドで寝ていた。

 アストリットが大きく目を見開く。彼女はベッドの人物を見て、衝撃を受けた。

 ベッドに寝ているのは老婆だ。公園のベンチでのほほんと笑って座っているような、穏やかな雰囲気さえ纏っている。

 アストリットは情報として、念威操者であり天剣授受者であるデルボネが、高齢でベッドに寝たきりだと知っていた。しかし彼女は、たとえベッドで寝たきりだったとしても、天剣授受者と呼ばれるに相応しい風格を持っているものだと思っていた。

 

『デルボネッ!』

 

 デルボネのすぐ傍を飛んでいる蝶型の念威端子から、女の怒鳴り声が聞こえた。

 

「これは……わたしも老いましたかね。接近してくる武芸者に気付けなかったなんて……」

 

 デルボネは顔をゆっくりとこちらに向けた。その表情に怯えや怒りはない。覚悟を決めた表情をしている。

 アストリットの身体は震えていた。デルボネの覚悟に呑まれたわけではない。アストリットは弱者に攻撃するのが死ぬほど嫌だった。

 

「貴方は天剣授受者……貴方は天剣授受者……」

 

 自身を洗脳するように、アストリットは何度も繰り返し呟いた。弱々しい老婆の姿をしているが強者なのだと、自身の意識に刷り込もうとした。

 

「……あら?」

 

 デルボネはアストリットが震えているのに気付いた。

 

「あなたのような方にわたしを殺すよう指示を出すなんて、ルシフは陛下の言う通り、ひどい男のようですね。仕方ありません。あなたの背中を押してあげましょう」

 

 アストリットは怪訝そうな表情になる。

 アストリットの表情の変化を気にせず、デルボネは手にもつ杖を握りしめた。

 

「陛下。ごめんなさいね。わたしはここまでのようです。最期に、わたしを攻めてきた武芸者は一人──」

 

 デルボネの念威端子への言葉は途中で止まった。

 アストリットが叫びながら、デルボネの首を絞めて気を失わせたからだ。

 ルシフからはデルボネが情報を口にする前に意識を奪えと言われていた。

 アストリットは荒く息をつく。涙目になっていた。

 

「ごめんなさい、ルシフ様。敵に情報を与えてしまいました」

 

 実際のところ、情報を与えたことでアルシェイラは余計に混乱したのだから、結果オーライである。ルシフが情報を与える前に意識を奪えと言ったのも、アストリットの性格を考慮していたが故の指示だった。デルボネが情報を話さない筈がない。絶対に襲撃者の情報を伝える。ルシフにはその確信があり、弱者を傷付けられないアストリットの一線を越えさせるのに利用した。ルシフからすれば、デルボネが情報を与えようが与えまいがどちらでもよかった。

 

 ──私のルシフ様への想いはまだまだ足りません。

 

 そんなルシフの思惑も分からず、アストリットは自分を責めた。

 アストリットはデルボネの手から杖を取る。意識を奪われているのに、なかなか手から離れなかった。天剣授受者としての矜持を感じた。

 アストリットは左手に杖を持ちながら、病室を出る。

 

「貴様、デルボネ殿に何をした!」

 

 病室の廊下に黒髪を伸ばした男が立っていた。ミンスである。

 アストリットは問いに答えず、ミンスの背後に一瞬でまわる。

 ミンスは錬金鋼を復元する間もなく、アストリットに杖で首を殴られた。ミンスは前のめりに倒れる。

 アストリットは素早く錬金鋼を剣帯から抜き、復元。右手に拳銃が握られ、火を吹く。ミンスの右手に持っていた錬金鋼が剄弾ではじき飛ばされた。

 ミンスが目を見開きアストリットを睨んだ。怯えの色が表情にある。

 アストリットの持つ杖に蝶型の念威端子がどこからともなく集まり、杖から錬金鋼の形になった。

 アストリットはミンスから目を離さず、剣帯に天剣を吊るす。

 

「天剣ヴォルフシュテインはどこにありますの? 教えてもらえます?」

 

「誰が貴様のようなヤツに──ああああああッ!」

 

 ミンスの言葉は途中で叫び声に変わった。アストリットがミンスの右足を拳銃で撃ち抜いていた。ミンスの右足から血が流れた。

 

「もう一度訊きます。ヴォルフシュテインはどこ?」

 

「う……ううっ……あああああッ!」

 

 今度はミンスの左足を撃ち抜いた。左足からも血が流れ、廊下を真紅に染め上げていく。

 アストリットはミンスの右腕に拳銃を突きつける。

 

「ヴォ・ル・フ・シュ・テ・イ・ン・は?」

 

 アストリットの表情は恍惚としていた。

 アストリットの悪癖というべきか、アストリットは弱者を痛めつけるのは死ぬほど嫌だが、強者を痛めつけるのは快感を覚えるくらい大好きだった。ここでいう強者とはアストリットから見てではなく、一般的に見た強者である。つまり、武芸者や悪人を痛めつけるのが好きで好きでたまらなかった。武芸者や悪人を痛めつけられる自分は強い武芸者であり、都市の守護者としてより相応しいと確かめられるからだ。

 

「……謁見の間……謁見の間にッ!」

 

 そんな感情をミンスは敏感に察知したのだろう。ミンスの表情の恐怖の色が濃くなり、ついに折れてヴォルフシュテインの保管場所を言ってしまった。ここで嘘を言えばよかったのだが、恐怖に支配されたミンスにそこまで頭は回らなかった。

 アストリットの表情に残念そうな色が加わる。

 

「ご丁寧にありがとうございます」

 

 ミンスの頭を拳銃のグリップで殴る。ミンスは意識を失い、真紅に染まった廊下に崩れ落ちた。

 アストリットは拳銃を錬金鋼に戻して剣帯に吊るし、殺剄を使用して駆ける。謁見の間の場所は頭に入っていた。

 アストリットの胸ポケットから六角形の念威端子が浮かび上がり、一度デルボネの病室の方に戻ってから、王宮の外を目指して飛んでいく。端子は病室に入っていった時と何も変わっていなかった。

 おそらくグレンダン中で六角形の念威端子が浮かび上がっているだろう。王宮までの移動中に端子を何枚も町に置いてきた。潜入した他の人間もそうしている筈だ。

 

 ──念威と容姿しか取り柄のない女。ルシフ様もあんな女のどこがいいんですの。

 

 何故マイが病室に端子を戻したか、アストリットはその理由に察しがついていた。

 

 ──ほんと、最低な女ですわ。

 

 アストリットは不愉快そうに遠ざかっていく端子を一睨したが、すぐに移動を再開した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 真っ暗な空間の中で、マイは目を閉じていた。杖を右手に持っているが、暗いせいで見えない。

 剣狼隊専用の放浪バスの中である。赤い車体は布で隠されているため、中に人がいるなど思いもしないだろう。真っ暗なのも布で隠されている影響だった。

 念威端子に念威は最低限しか使っていない。念威端子による念威妨害はルシフにやるなと言われていたので、念威を最低限にすることで端子の存在を隠した。念威を多く端子に注ぎ込めば、それだけ多くの情報を得ることができるが、敵に端子の位置をバレやすくなる。故に、今までルシフや潜入組が持っていた端子は通信機程度の性能しかない。しかし、デルボネの念威は端子越しにずっと感じていた。

 

 ──念威の拡がり方がすごい。

 

 マイは戦慄していた。初めて、念威操者として一生勝てないと思った。ルシフが念威妨害をやるなと言ったのも、デルボネ相手に念威妨害をやったところで簡単に見破られ、逆にこちらの位置や考えを読まれる危険があったからだろう。

 デルボネの念威がさっきまでとは明らかに形が変わり、端子を介して両都市を包み込むように拡がっていく。おそらくルシフがグレンダンに何か策を仕掛けたと考え、潜入者を見つけ出すよう指示をされたのだろう。

 念威の量が圧倒的なのもそうだが、念威の制御も寸分の狂いなくできている。もしエリゴたちがデルボネの目を引き付けるよう、倒したグレンダンの武芸者を何人も道に転がしていなかったら、他の潜入者たちもすぐに見つかっていただろう。

 マイは目を閉じ、端子に意識を集中させる。

 デルボネの念威を端子越しに感じなくなった。デルボネから天剣を奪う役目はアストリットが与えられていた。

 

 ──あの性悪媚売り女も、たまには役に立ちます。

 

 マイはアストリットが大嫌いだが、心の中で褒めた。

 マイは念威を最大限開放させ、杖に念威を叩き込む。念威の青い光がマイの身体を包み込み、真っ暗な空間の中でマイの姿を浮かび上がらせた。美少女が青い光にライトアップされている光景は幻想的であり、神秘的ですらあった。

 ツェルニに隠してあった端子にまず念威が通り、その端子を起点に次々に念威をツェルニに拡げていく。瞬く間に念威はグレンダンに隠していた端子まで到達し、グレンダン内の端子を念威で繋ぎ続ける。そして、グレンダンの王宮までマイの念威が食い込んだ。

 アストリットの胸ポケットにあった端子を操り、浮かび上がらせる。予定ではすぐに王宮の外に端子を移動させ、グレンダンの念威操者の端子を奪っていくように決められていた。

 しかし、マイは端子をデルボネの病室に移動させた。ベッドで気を失っている老婆が見える。老婆の首筋に端子をもっていく。

 

 ──殺さなきゃ。この人が心変わりしてルシフ様の力になったら、私はルシフ様の傍にいられなくなっちゃう。

 

 一生勝てないと思った念威操者は、デルボネただ一人だけである。フェリは才能があれど努力が足りず、フェルマウスは才能も経験もあるが、追いつけないとは思わなかった。

 全自律型移動都市(レギオス)の中で最強の都市に君臨する世界最高の念威操者デルボネ。彼女さえ殺せば、マイは自分が念威操者として世界最強になれると考えた。

 世界最強の念威操者になれば、ルシフにもっと必要としてもらえる。褒めてもらえる。マイにとってルシフ以外の命など塵芥も同じであり、迷う必要などない。それに、デルボネを殺したら、その罪をアストリットになすりつけようとすら思っていた。

 アストリットの証言とマイの証言。ルシフはどちらを信じ、どちらを庇い、どちらを切り捨てるか。

 マイは自分を選んでくれると確信していた。約十年前から一緒に暮らし、更に優秀な念威操者なのだ。念威操者は特殊であり、武芸者と比べて圧倒的に数が少なかった。アストリットなどいくらでも代わりがいるが、自分の代わりなどいない。もし代わりがいたなら、どんな手を使っても排除する。

 しかし、殺した後のことをそこまで考えていても、マイはデルボネを殺せなかった。

 この闘いで一人も殺すな、とルシフから言われていたことが一番の理由だが、もう一つの理由として、そんな自分が嫌で嫌で仕方なかったというのもある。

 マイは自分が大嫌いだ。醜く、きたなく、自分さえよければ他人なんてどうでもいい。そんな自分を変えたい。ルシフに相応しい女として、ほんの少しでもルシフに近付きたい。ここでデルボネを殺したら、ルシフが表面上は許しても、内心で醜い女だと軽蔑するんじゃないか。

 そう考えたマイはデルボネを殺すのを断念し、予定通り端子を王宮の外に移動させた。

 グレンダンの念威操者たちの端子が都市全体に散らばっている。

 マイは端子をグレンダンの念威操者たちの端子に近付け、念威を相手の端子に同調させた。

 どうすれば他人の念威端子を奪えるのか。マイは以前フェルマウスに端子を奪われた際、そのやり方を体験している。

 

 ──私より弱い念威操者は、全員私にひれ伏しなさい!

 

 相手の念威に同調し、念威を通して自らの意思を相手に叩きつける。デルボネという精神的主柱を失い、命令系統をズタズタにされて茫然自失となっていたグレンダンの念威操者に、マイの意思をはね飛ばせる程の強い抵抗力を持てる筈もなく、グレンダンの念威端子は次々にマイに屈服した。最終的にはグレンダンにある全ての念威端子がマイの制御下におかれた。

 これにより、グレンダンの武芸者は情報と通信を遮断され、逆にルシフ側はどんな情報も手に入り、通信もできる状況になっている。

 ツェルニの念威操者はといえば、悲惨な現状になっていた。マイの念威端子が一枚そばを舞い、自分の邪魔かグレンダンの味方をすれば痛い目に遭わすと脅されていたからだ。フェリに至ってはマイの端子六枚に囲まれ、少しでも妙な動きをしたら半殺しにするとマイに言われていた。マイの後ろにはルシフがいるので、ツェルニの武芸者も助けられない。

 故に、この闘いでツェルニの念威操者は傍観することしかできなくなっていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 念威端子が自分から離れた時、行動を開始した。

 ポーチの中から容器を取り出し、容器の蓋を開ける。容器の中には液体が入っていた。酒である。しかし、ただの酒ではない。高アルコール度数の酒だ。

 民家の中で、ディンは容器の液体を見つめていた。容器を持っている手は震えている。それは当然の反応といえた。これから恨みも無ければ関わりもない人間の家を焼くのだ。何も感じずにこれを実行できる方がおかしい。

 しかし、ルシフなら平然と焼くだろう。教員五人もそれぞれ何かを思いつつ、実行するだろう。

 

『世界中を敵に回す覚悟、地獄に身を置く覚悟ができないなら、お前は必要ない』

 

 ルシフの力になると決断した時、ルシフに言われた言葉が脳裏をかすめた。

 あの言葉を、自分は受け入れた。ならば、やらなければならない。口先だけの覚悟ではなく、本当の意味で覚悟を決めなくてはならない。

 容器に入っている酒を床に撒き散らした。マッチに火をつける。マッチの火がディンの顔を赤く照らしていた。

 ダルシェナはまだ火をつけていないだろう。自分がやらなければ、ダルシェナも腹を括れない。

 マッチを落とす。ディンはマッチが酒に火をつけるのも見ずに、玄関から外に飛び出した。

 ディンは後方を振り返る。酒が燃えていた。火は家に燃え移り、どんどん火が大きくなっていく。間違いなく全て燃える。何もかも灰燼に帰す。

 ディンは下唇をかんだ。ディンの持っている念威端子から空中に映像が展開される。グレンダンの全図であり、どこにグレンダンの武芸者がいるのか光点で表されていた。そして、逃走ルートらしき光の線がディンを起点に引かれている。ディンはただ光の線に従って移動すればいい。

 

 ──すまない。

 

 ディンは光の線を横目で見ながら駆け出す。後方の家からは火と煙が出ていた。

 

 

 

 念威端子が一枚離れた瞬間に、ダルシェナは外に飛び出していた。ディンがいるであろう方向から目を逸らさない。ダルシェナの手は震えていた。

 煙が見える。ディンが火をつけた。

 ダルシェナは慌ててポーチから容器を取り出すと、玄関に容器の中身をぶちまけ、マッチに火をつけた。マッチを持つ手は震えている。

 しかし、ディンは決断し、ルシフとともにこの先を行くことを選んだ。ルシフは信用ならない。自分がディンに付いてルシフの毒牙から守る。ディンがルシフの性情に染まらないようにする。そのためには、自分もディン同様(よご)れる必要がある。

 マッチを手から放す直前、家族写真が頭によぎった。両親の間に娘が立っている写真。三人とも満面の笑みで幸せそうな写真。その空間を自分は今から破壊するのだ。

 マッチが落ちる。ダルシェナは振り向き、玄関から飛び出した。ダルシェナの両目から涙が散っている。

 後はディンと同じように端子の視覚的情報を頼りに走った。振り返る。煙がダルシェナを追いかけるように動いていた。まるで、自分を捕らえて犯した罪を裁こうとしているように見える。

 ダルシェナは走る速度を上げた。涙が道しるべのように地面に吸い込まれていく。後方の火は家を覆って燃え盛っていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 アストリットは旗竿の隣に立っている。王宮の頂上部だが、内側に螺旋階段があり、旗竿のところまで苦もなく来れた。

 天剣ヴォルフシュテインはすでに確保し、剣帯に吊るしてある。天剣は謁見の間に隠されていたわけではなく、透明な箱のようなものに入れて飾られていた。そのため、労せずして天剣を手に入れられた。

 アストリットは旗竿を両手で掴み、台から抜く。

 不安はある。自分は情報を伝える前にデルボネの意識を奪えなかった。ルシフの命令を忠実にこなせなかったのだ。旗をとっても、ルシフから怒られるかもしれない。旗を振っても、ルシフは見向きもしないかもしれない。

 アストリットは視線を彷徨わせてルシフを探した。アストリットに限らず狙撃に長じた者は、内力系活剄で視力を強化するのに長けている。米粒程度の大きさであっても、一挙一動を見れた。

 アストリットの視線が定まる。いた。無表情でツェルニの建物の屋上にいる。

 

「ルシフ様! 旗、取りました! 私、やりましたわ!」

 

 声を出して不安を吹き飛ばし、アストリットは旗をルシフに向けて振った。

 それを見たルシフの反応は、アストリットの予想外の反応だった。悪い意味で、ではない。良い意味で、である。

 ルシフがアストリットに向けて右手の親指を立てたのだ。よくやったという声無き言葉が、アストリットに伝わった。

 

 ──ルシフ様が私を褒めてくださっていますわ! 無様な失敗をした私をお許しになられたうえに、私の働きを認めてくださっています! あの親指は私だけに向けられたサイン! 私だけに! 私だけに!! 私だけに!!!

 

 アストリットは人に向けて親指を立てる行為が嫌いだった。品がないように感じるからだ。しかし、ルシフがやれば嫌いな行為ですらとてつもなく魅力的に見え、満足感と高揚感が全身を支配した。

 アストリットはバサバサと勢いよく旗を振る。否! 旗を振っているのではない! これは旗を使った喜びの舞いだ!

 感情のままに旗を振り続けていたアストリットはふと我にかえり、顔をほのかに赤くした。ルシフからは三十回旗を振ればいいと言われていたのに、五十回も振ってしまった。

 幸いにして、グレンダンの武芸者から攻撃されなかった。それだけ旗を取られた衝撃が大きく、また攻撃した際に旗を壊してしまうのを怖れたからだろう。

 アストリットは旗竿を台に再び立てた。

 予定通り、剣帯から錬金鋼を抜いて復元。狙撃銃を構えた。右目でスコープを覗く。アストリットの右目とその周辺が剄の光を放ち始めた。

 内力系活剄の変化、照星眼。

 遠くの相手を鮮明に捉え、相手の弱点を確実に見抜く剄技。遠距離射撃をする武芸者は絶対に覚えなければならないとさえ言われる基本の剄技。

 アストリットは照星眼でアルシェイラを見て、何も見えてこないことに内心驚愕していた。どこに撃てば確実に当たるか。そんなことすら見えない。

 それでも、アストリットはアルシェイラの心臓に狙いを定めた。

 たとえ命中率がゼロでも、ルシフからやれと言われたらやる。ルシフは無意味なことをやらせない。絶対何か意味がある。

 そう信じて、アストリットは狙撃銃の引き金をひいた。



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第58話 惨劇開幕

 アストリットの狙撃銃から放たれた剄弾は、ダメージの有無は置いといて、アルシェイラの胸に確実に当たる弾道だった。横やりさえなければ。

 アストリットの剄弾の真横から銃弾が飛んできてぶつかった。剄弾は爆発し、爆風がツェルニの外縁部を吹き抜ける。

 

「ほんとウザッ!」

 

 バーメリンが不愉快そうに銃を構えていた。銃から煙が上がっている。アストリットの剄弾を撃ち落としたのはバーメリンだった。

 バーメリンがアストリットの方向に身体を向ける。

 

「バーメリン。お前、何をするつもりじゃ?」

 

「あのウザ女、撃ち殺してくる。クソムカツクから」

 

「おい!? 待つのだ!」

 

 ティグリスの制止の声も聞かず、バーメリンは内力系活剄で脚力を強化し、目にもとまらぬ速さでグレンダンの方に向かった。

 

「馬鹿者が、頭に血をのぼらせおって……。わしが補助に行かねば……ッ!」

 

 ティグリスはとてつもなく巨大な剄が現れたのを感じ、身体を剄を感じた方向に向けた。

 青白い光が眼前を覆い尽くす。都市が大きく揺れた。ティグリスはバランスを取りながら咄嗟に右手を(かざ)し、光を遮った。

 青白い光は一瞬で消え、さっきと変わらぬ光景になる。

 ティグリスは翳した手を下ろした。

 

「……何が起きた?」

 

 ティグリスはバーメリンではなく、青白い光が生じた方に駆ける。その方向はアルシェイラの剄を感じる方向でもあった。

 都市が再び揺れた。

 

 

 アストリットはバーメリンが射撃の邪魔をしたのを見た瞬間、王宮の頂上部から螺旋階段に走り、駆け下りた。

 バーメリンが自分の方に身体を向けたのを、アストリットは見逃さなかった。間違いなくこっちに来る。

 

 ──ルシフ様から言われていたパターンの一つ。天剣三つ目ゲットですわ。

 

 しかし、そのためにはいくつか問題をクリアしなくてはならない。全ての問題をクリアするまで生きられるか。それとも、その前にあの銃使いに撃ち殺されるか。

 ここがアストリットにとって、一番の正念場だった。

 アストリットは空中庭園にたどり着く。そこでハッとした表情になり、アストリットは前転した。一瞬前自分がいた場所に、銃弾が六発撃ち込まれる。上。アストリットは片膝を立てたまま、頭を上げる。

 さっきまで自分がいた頂上部。そこに不機嫌そうな顔をして銃を構えた女が立っている。バーメリン・スワッティス・ノルネ。唯一銃器を使用する天剣授受者。世界最強の銃使い。

 

「ウザ女、死ぬ覚悟はできたか?」

 

「……殺せるんですの? 私を」

 

「ショタコンのくせに、調子乗りすぎ。絶対殺す!」

 

「ショ、ショ、ショタコン!? 訂正なさい! 私はショタコンではありませんわ!」

 

「あんなガキの言うこと聞いて悦んでるくせに。キモッ!」

 

「はぁ!? あなたの方こそ、化粧は女を輝かせるためにするのに、わざわざ暗いメイクをされて、女として終わってますわよ!」

 

「わたしのメイクをバカにするな! クソホルステインのくせに!」

 

「ホルステイン!? ほんと、口の悪い方ですわね! そんな調子では、友人の一人もいないのではなくて!」

 

「そんなクソウザイ存在、こっちからお断りしてるわ!」

 

「…………」

 

「…………」

 

 アストリットとバーメリンの目が据わった。銃の引き金にお互い指をかける。

 

「どうやら、あなたとは仲良くなれそうにないですわね」

 

「そこだけは認めてやる」

 

「……貧乳が。この私を簡単に殺せると思うなよ」

 

「ウザッ。死ね!」

 

 バーメリンが引き金を引いた。六発の銃弾が降り注ぐ。

 アストリットは銃弾を撃ち落とそうとせず、ステップで回避行動をしながら引き金を引いた。剄弾が一発、バーメリンに飛んでいく。

 しかし、撃った瞬間にバーメリンの姿は頂上部から消えた。アストリットの横にバーメリンが現れ、銃を構える。いつの間にか両手に拳銃を持っていた。

 

 ──速い!

 

 アストリットは拳銃を後ろに放り投げ、剣帯から錬金鋼を取る。復元。散弾銃が両手に握られた。構えて撃つ。バーメリンの撃った銃弾と至近距離でぶつかり、爆発が起きた。空中庭園の地面がえぐれ、土埃が舞った。

 アストリットは身をかがめ、後方に走る。散弾銃を地面に向けて構え、二回撃った。それぞれ別の場所を撃っている。土埃が更に舞い、視界が真っ白になった。

 視界を遮られても、バーメリンの銃撃は止まらない。土埃の動きからどこにアストリットがいるか予想し撃ってくる。バーメリンの銃弾がアストリットの頬をかすめ、血が流れた。

 アストリットは散弾銃を錬金鋼に戻して剣帯に吊るしつつ、後方に投げた拳銃の錬金鋼を拾い復元。撃つ。バーメリンと違い、アストリットは念威端子によるサポートを受けているため、視界が遮られていてもバーメリンの正確な位置を把握できた。

 アストリットは拳銃を撃ちながら殺剄を使用し、少し離れたところにある柱に身を隠した。しゃがんで後頭部を柱につける。

 

 ──威勢のいいことを言いましたが、さすが天剣授受者。剄量の差が大きすぎますわ。それに、こちらは剄弾なのに対し、あちらは実弾。剄の消費もこちらが上。

 

 剄弾を使用するメリットはリロードしなくていい点である。剄を込める限り、撃ち続けられる。だが実弾に比べると、実弾の方が貫通力があるため、殺傷力は実弾の方が上だった。

 土埃が晴れていく。バーメリンは立ったまま動かない。若干俯いている。

 

 ──地面を見ている……? まずい!

 

 アストリットは柱から飛び出す。飛び出した直後、柱が穴だらけになった。バーメリンが銃を柱に向けて構えている。銃口からは煙が上がっていた。地面の荒れ具合から、アストリットがどう動いたのか読んだのだ。

 

「わたしの目から逃れられると思ったか? クソ女」

 

 バーメリンが飛び出したアストリットに銃の照準を合わせる。アストリットも転がりながら、バーメリンに照準を合わせた。

 バーメリンの目が細められ、剄の光を放つ。アストリットも同様に目に剄を集中させた。内力系活剄の変化、照星眼。この剄技をお互いに使っている。

 バーメリンが引き金を引く。刹那の間に十二発。アストリットは動きながら、引き金を引き続ける。バーメリンの一発の銃弾に剄弾を二発当て、相殺していく。相殺できた銃弾は六発。残りの六発は体捌きでかわす。しかし一発かわしきれず、左肩をかすめた。

 

「……ふ~ん。クソ面倒」

 

 バーメリンは身体に巻きついた錬金鋼の鎖の一欠片を銃弾に復元し、装填行動をしている。

 実弾のデメリットは弾切れがあり、装填作業を挟まなくてはならないところである。しかし、バーメリンの装填作業は瞬きの間に完了する。隙と言える隙は生まれない。

 

 ──悔しいですけど、やっぱり私だけじゃ勝てそうにないですわ。

 

 アストリットは王宮に沿ってひたすら走り、バーメリンから逃げる。バーメリンの姿が消えた。気付けば、アストリットのすぐ横にいる。同時に銃を構えた。バーメリンの銃弾を撃ち落とし続ける。両者の間で爆発と火花が散った。爆煙から二筋の光。右肩と左脇腹を銃弾が貫いていった。

 

「……つぅッ!」

 

 アストリットは歯を食い縛りながら、走るのを止めない。アストリットの戦闘衣が赤く染まっていく。

 バーメリンは急所を狙うのを止め、絶対に撃てば当たる部分を狙うようになった。アストリットは銃弾を全て撃ち落とさなくてはならない。回避行動をしても、身体のどこかに必ず風穴を開けられる。

 しかし、アストリットにバーメリンの銃弾を全て撃ち落とすのは無理だった。剄弾と実弾の殺傷力の差。銃の技量が互角であるがために、剄量がそのまま実力差につながっていた。

 装填作業が完了したバーメリンは、背を向けて走るアストリットに銃を向けた。アストリットも半身になって銃口をバーメリンに向けた。右肩を撃たれた影響か、右腕は震えている。

 

「死にぞこない。さっさと死ね」

 

 同時に銃を撃つ。再び爆発の花がいくつも咲いた。爆煙を切り裂き、一発の銃弾がアストリットの右太ももを貫く。アストリットは右足をもつれさせ、前に転がった。その拍子に銃が手から離れた。

 アストリットは転がり仰向けになる。バーメリンが跳んでいた。爆煙で視界を遮られたからだ。空中で銃を構えている。銃を拾う暇はない。錬金鋼を剣帯から取り、復元する時間もない。 

 

 ──ああ……私じゃここまで……。

 

 全てがコマ送りのように見えた。バーメリンの指が動き、引き金を引こうとする。バーメリンのすぐ近くの王宮の壁が壊れた。バーティンが飛び出してくる。バーメリンがバーティンの方を見た。バーティンの右肘がバーメリンの頭を捉える。完璧な不意打ち。更に追撃の踵落としでバーメリンを地面に叩きつけた。バーティンは空中で姿勢を制御して左膝を突き出し、仰向けで地面に倒れたバーメリンに全体重が乗った左膝を垂直にぶつける。

 

「がっ……!」

 

 バーティンは跳ね上がったバーメリンの頭を殴り、バーメリンは気を失った。天剣授受者といえど、完全に不意を突かれてダメージが通るなら倒せる。

 バーティンはゆっくり立ち上がる。バーメリンの身体を包むように巻かれている剣帯には多数の錬金鋼がぶら下がっていた。その中の一つ、白銀に輝く錬金鋼をバーティンは抜き取る。天剣スワッティス。

 

「てっきり……私が撃ち殺されるまで傍観しているかと思いましたわ」

 

「見捨てるわけないだろう。あなたのことは嫌いだが、同志だ。もし逆の立場だったら、私をあなたは見捨てたか?」

 

 おそらく見捨てていない。ルシフの理想を実現するためには優秀な武芸者が一人でも多くいた方がいい。バーティンも同じ考えだろう。

 アストリットが半身を起こした。転がっている錬金鋼を拾い、剣帯に吊るす。

 バーティンは気を失ったバーメリンの関節を次々に外していた。

 

「ちょっ!? 気を失った相手になんてことをしてるんですの!? 靭帯切れますわよ!」

 

「アストリット。あなたは二つミスをした。

何故旗を予定より多く振った? そのせいで予定よりグレンダンの武芸者の包囲がきつくなっている。

それから、何故さっさと待ち伏せしているポイントに誘い込まなかった? そのせいでさらに時間をロス。グレンダンの武芸者がすぐここに来る。一人で天剣授受者を倒せるか試したかったのか?」

 

 アストリットは黙り込む。

 天剣授受者を一人で倒したかった。バーティンの手を借りずに倒したかったのだ。しかし、無理だった。だから、予定通り自分が囮になり、バーティンが不意打ちで天剣授受者を倒す作戦に切り替えた。

 

「天剣授受者の強さをグレンダンの武芸者はよく知っている。天剣授受者の変わり果てた姿を見れば、私たちを恐れ、追撃をためらうだろう。もしあなたが予定通りやっていれば、こんなことをしなくても包囲を余裕で抜けられた」

 

「そうですけど、でも気を失った方に──」

 

「グレンダンの医療技術は高いと聞いている。後遺症は残らん。それとも、天剣授受者の四肢を切り落とした方が良かったか? そうすれば、グレンダンの武芸者は天剣授受者を救うのにてんてこ舞いで、私たちを追撃する余裕は無くなるぞ」

 

 バーティンの言葉に、アストリットは絶句した。言外で、マシな方を選んだのだからごちゃごちゃ言うなと言っている。

 バーティンがアストリットの前に左手を差し出す。アストリットはバーティンから顔を背けながらも左手を掴み、立ち上がった。右足の痛みで少しふらつく。

 

「その身体で包囲を抜けられるか?」

 

「余計な……お世話ですわ」

 

 バーティンがアストリットに背を向けしゃがんだ。

 

「私の背に乗れ。乗らないなら、天剣二つを私に渡せ。ここで死ぬか、恥を忍んで生きるか、選ばせてやる」

 

 アストリットの顔が屈辱と恥辱で真っ赤になった。しかし、天剣二つを渡してしまえば、天剣二つを手に入れた手柄はバーティンのものになってしまう。それでは、ルシフから褒めてもらえない。

 

「……分かりました。お願いします」

 

 アストリットは錬金鋼を復元して拳銃を左手に握り、バーティンの背に両腕を回す。

 

「おい、こっちだ!」

 

 グレンダンの武芸者の集団が空中庭園に乗り込んできた。

 バーティンは跳躍し、壁を乗り越える。アストリットが振り向いて、武芸者たちの足元周辺に剄弾を撃った。彼らの足が止まる。その時には、バーティンの姿はすでに壁の後ろに隠れていた。

 

「くそッ!」

 

 武芸者の集団の一人が苛立たしげに吐き捨てた。

 

「おい、あれ見ろ」

 

「バーメリン様だ! バーメリン様がやられてる! あいつら、なんてことしやがる!」

 

「天剣授受者様が……こんな……!」

 

 武芸者たちはバーメリンの姿に驚愕し、各々の感情を言葉に乗せて騒いだ。

 

「追いましょう!」

 

 別の一人が隊長らしき男に言った。

 

「そうだ! 追撃しよう! 追撃してバーメリン様にしたことを後悔させてやろう!」

「やりましょう、隊長!」

「俺たちの力を見せてやろうぜ!」

 

 他の武芸者たちもその言葉に賛同した。

 

「……待て」

 

 隊長は手の平を隊員たちに向けた。隊長の右頬からは一筋の汗が流れている。

 

「相手は天剣授受者様を倒せるほどの実力者だ。それに、まだ王宮内に敵が潜んでいるかもしれない。我々はバーメリン様を病院に連れていく組と、王宮を隅々まで確認し敵が潜んでいるか調べる組とで分ける。王宮の外には他の隊がまだ多数ある。我々が追撃する必要はない」

 

「しかしッ!」

 

「相手は天剣授受者様に勝てる相手だぞ! それに、組織的な行動をしてくる! 振り回されるな! ここで追撃して、背後から攻められたらどうする!?」

 

「それは……」

 

「まずはバーメリン様の安全確保と、王宮内の安全確認だ! 追撃なんてものは他の隊に任せておけ!」

 

「……了解」

 

 武芸者の集団は即興で部隊を二つに分け、バーメリンを抱えて空中庭園から去った。

 隊長の判断は合理的であった。しかし、その判断はバーティンによって与えられた判断材料によって下された。彼らは自ら選択したように見えるが、操り人形のようにバーティンに動かされただけだった。少し考えれば、何故バーメリンがあんな姿にされていたか、気付けただろう。

 グレンダンの武芸者は女王と天剣授受者という最高の盾に守られていた。危機的事態など想定して訓練などしていないし、予想外の事態に対する免疫も作られていなかった。故に、予想外の事態が起きるとパニック状態になり、思考停止するか深くものを考えずに行動してしまうところがあった。

 ルシフはグレンダンを分析してその弱点を見抜き、ルシフたちはそこをまっすぐ貫いたのだった。

 

 

 

 壁を乗り越えた先は、建物の屋根がずらりと並んでいた。煙と火の手が二ヶ所見える。ダルシェナとディンはやってくれたか。

 グレンダンの中心にある王宮は山の頂上のような場所にあるため、駆け下りる感じになる。構わない。どんな場所だろうと、どんな状態だろうと、私の速さは変わらない。変えさせない。

 アストリットが拳銃を乱射している。闇雲に撃っているのではなく、正確にグレンダンの武芸者の身体と足場を撃って道を切り拓こうとしている。

 バーティンの視界には多数の武芸者が剄で光り輝き、殺気丸出しで武器を向けて屋根を駆け上ってくる光景が映っていた。

 グレンダンよ。最強の都市の武芸者たちよ。私の速さについてこれるか。

 内力系活剄の変化、瞬迅。剄が足に集中する。視界の端で幾筋もの光線が屋根と武芸者を捉えて吹き飛ばしていく。

 屋根に足が触れた。蹴る。間近まで迫ってきていた三人の武芸者を置き去りにした。屋根。蹴る。更に速度が上がる。その間も光線は次々に生まれ、光の舞踏が武芸者を弾き飛ばしていた。屋根。蹴る。屋根。蹴る。蹴る。蹴る。蹴る。周囲の景色も武芸者たちの動きも何もかもが、スローモーションで見えていた。

 この瞬間が、バーティンは好きだった。どこに手を伸ばしても、手から逃げる前に掴めるような、そんな感覚。進行方向を遮るものは、人だろうが容赦なくぶっ飛ばした。

 瞬迅は蹴って加速する。目的地までの距離があればあるほど、速度は際限なく上がっていく。だから、瞬迅なのだ。近くだろうが遠くだろうが、到着した時の時間差はほとんどない。

 バーティンは外縁部付近まで移動していた。後方を見る。グレンダンの武芸者たちが必死に慣性を殺して、こっちに身体を向けようとしているのが分かる。蹴った屋根はめくれ上がっていた。

 

「バーティンさん。ずっと訊きたかったことがあるんですけど、どうして都市間戦争になるとそんなにも冷酷になられるんですの?」

 

「都市間戦争を憎んでいるからだ。憎む理由はなんてことない、よくある話だ。都市間戦争で弟が死んだ。私を庇ってな」

 

 アストリットのハッと息を呑む気配を感じた。

 

「……ごめんなさい。余計なことを訊いてしまって」

 

 バーティンはアストリットの方に顔だけ振り向いた。

 

「別にいい。昔のことだ。今はそんなに気にしていない。弟そっくりな人に出会ったからな。その人のためにこうして力になれる今の私は幸せだ」

 

 あの時の自分は本当に愚かだった。防御してきても、防御ごと潰す力があれば、どんな相手にも勝てると思っていた。

 しかし、戦闘において一番重要なのは力でも技でもなく、速さだと気付いた。どれだけ力があろうとも、当たらなければ意味がない。どれだけ技があろうとも、捉えられなければ意味がない。

 そう。どれだけ力と技があろうとも、手が届かなければ何も掴めない。それが分かっていなかったから、弟の命を繋ぎ止めることができなかった。

 あんな思いは二度とするものか。助けを求めるなら、必ず駆けつけその手を掴んでやる。

 念威端子が脱出ポイントを映像で表示していた。バーティンは脱出ポイント目指して駆ける。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 エリゴたちも脱出ポイントに向かって都市部を駆けていた。こちらは一筋縄でいかない。何故なら──。

 

「これでどう!」

 

 クラリーベルの剣が振るわれる。剣から無数の炎の蝶が出現し、エリゴたちを包囲。エリゴたちは一角の蝶の群れを掻き消して、包囲から脱出。炎の蝶は次々に爆発し、視界を真紅で埋め尽くした。

 

「ったく! しつこいお嬢ちゃんだな!」

 

「むむむ、これでもダメですか。それならッ!」

 

 クラリーベルや他の武芸者たちにしつこく追われていたからだ。

 包囲から脱出した先、武芸者が数人襲いかかってくる。エリゴ、フェイルス、レオナルトはそれぞれ攻撃を体捌きでかわした。さすがはグレンダンの武芸者。念威操者の助けがなくとも、しっかり追ってきている。

 刀を構えた武芸者が横から躍り出てきて、エリゴに肉薄。攻撃的な気配が満ち、エリゴを一瞬混乱させた。内力系活剄の変化、疾影。エリゴは刀を左に振るう。金属音。つばぜり合いの最中、蹴りがきた。身をひねって回避。勢いを殺さず、一回転しながら反撃。刀を振り下ろす。相手はバックステップでやりすごし、後退。武芸者たちの中に消える。今エリゴに斬りかかったのはレイフォンの養父、デルクである。

 

 ──さすがに最強の都市だけはあるぜ。個々の実力なら、俺たちと互角のヤツがそれなりにいんな。

 

 再びデルクがエリゴに斬りかかってきた。エリゴに狙いを絞っている。斬り合う。刃が煌めき、火花が散った。デルクの斬線は全て死を飼っていた。くらえば致命傷。

 エリゴがぶるりと身体を震わせた。懐かしい、この感覚。死が蔓延する中を斬り裂き、その先の生を掴む感覚。自分が生きていると実感できる、最高の空間。

 

 ──いや、いけねぇ。感覚にひっぱられるな。

 

 デルクの他にも、襲いかかってくる奴らは多数いた。ここは相手にダメージを与えるよりも、逃げに徹するべきだ。

 クラリーベルがレオナルトと壮絶な闘いを繰り広げている。フェイルスが弓でクラリーベルに剄矢を射った。

 

「ととっ」

 

 クラリーベルは剄矢に反応し、離脱。クラリーベルがいたところをレオナルトの棍が横凪ぎに通過する。

 レオナルトがデルクに接近。横から棍を突く。デルクは半身でかわし、棍を掴んだ。砕ける。外力系衝剄の変化、蝕壊(しょくかい)。エリゴの刀がデルクに向けて振り抜かれた。刀の剄が衝剄に変化し、衝撃波となってデルクを後方に吹き飛ばす。

 レオナルトはすぐに剣帯から錬金鋼を取り、復元。薙刀が握られる。

 人間相手に薙刀を握ったレオナルトを初めて見た。薙刀の方が強いのだろうが、意地でも人間相手に使わなかったのだ。武器が他になかったとはいえ、レオナルトの心情は複雑だろう。後で声をかけよう。

 グレンダンの武芸者は個々なら互角か下手したらそれ以上の実力者がいた。しかし、連携がまるでなってない。それぞれタイミングも何もかもバラバラで、攻撃を仕掛けて相手の隙を誘ったり、相手の動きを誘導したりといった献身的な役割を果たす人がいないのだ。

 グレンダンの汚染獣討伐やら都市間戦争は参加型だった。闘いたい人間だけが戦場に出ればいいというところがあり、女王の指示で闘いに行くのはほとんどない。天剣授受者だけが女王の指示で動いていた。

 そのせいで決まった部隊に所属することはなく、常に所属部隊は変化した。連携を高める以前に、連携を高めたところで徒労に終わるのだ。連携よりも己の実力の向上に力を入れ、自己中心的な闘い方になってしまうのも仕方ない話である。

 エリゴたちは違った。それぞれ闘いながらも、時には仲間のフォローにいった。協力して嵐のような攻撃を耐え、グレンダンの連携が甘いからこそ生まれる穴を広げ、着実に外縁部に近付いていた。

 エリゴがレオナルト、フェイルスを見る。二人は頷いた。跳ぶ。地面が広範囲で次々に爆発した。

 エリゴたちは爆発の海になる前に抜けていた。どうやら上手くいったようだ。追ってくる武芸者の気配はない。

 エリゴたちは脱出ポイントを目指して走り続けた。

 

 

 

「念威爆雷ッ!? やられた!」

 

 クラリーベルが後方に跳ぶ。

 

「下がれ! 下がれッ!」

 

 デルクが刀で爆風を斬り裂いて叫んだ。デルクもまた跳んだ。

 爆発は一方向を除いた全方位で起こった。必然的に、爆発がない方向に武芸者たちは退避した。

 敵は念威爆雷の罠の中に、グレンダンの武芸者を誘い込んだのだ。こちらの方が圧倒的に優勢だったのに、たった一手でひっくり返された。

 やはり、念威サポートがないのはキツい。

 武芸者たちは悔しそうに舌打ちしたり、逃がした怒りで顔を歪めている。

 クラリーベルは王宮を見た。旗はある。取られていない。ということは、相手は旗を取るのが目的だったのではなく、旗を取ったという結果だけが欲しかったのだろう。

 だが、分からないことがある。

 ここまで、十分すぎる時間があった。しかし、倒すどころか深手も与えられなかった。

 なんというか、闘い辛かったのだ。ここだと思い勝負を仕掛けても、必ず別の相手が邪魔に入った。味方であるグレンダンの武芸者たちもまとまりなく好き勝手に動いていたから、動きも制限された。

 しかし、今まではこれでなんとかなっていたのだ。波状攻撃を最後まで耐えきった相手は今まで一人もいなかった。

 今までの相手と今の相手。一体何が違うのか。何故仕留められなかったのか。

 

「う~ん、なんかスッキリしませんね。もっとこう、互いの生がぶつかり合うような熱い激闘を期待していたんですが」

 

 クラリーベルの近くに念威端子が来る。クラリーベルは反射的に武器を構えた。

 

『念威端子、奪還しました。大急ぎで念威サポートを再構築します』

 

 念威端子を奪われてから、体感で十分といったところか。それだけの時間があれば、パニック状態から脱し、冷静に対応できるようになれただろう。

 これからは相手と五分になる。

 

「……デルボネ様は?」

 

『気を失っていますが、心臓は動いています。デルボネ様は生きています』

 

「それは良かったです」

 

 後は天剣を取り返せばいい。もしかしたらヴォルフシュテインも奪われているかもしれないが、まとめて取り返せばいいだけの話だ。

 これから、グレンダンの反撃の狼煙が上がる。陛下や天剣授受者たちと攻勢に出るのだ。

 

『……嘘、こんな……こんなことって……ああ……悪夢だわ。いえ、もしかしたらこれは本当に夢……?』

 

「しっかりしてください! 何か分かったんですね! 情報を、情報をください!」

 

 念威操者は無言で映像を展開させる。ツェルニの外縁部。陛下や天剣授受者たちがいるところ。

 

「……え?」

 

 クラリーベルは流れている映像が理解できず、ぽかんとした表情で映像を眺めている。その映像は至るところで展開され、グレンダンのほとんどの武芸者が同時に見ていた。表情もクラリーベルと全く同じ。

 反撃が……グレンダンの反撃がこれから始まるのだ。これから……。

 

 

 

 脱出ポイントは外部ゲートだった。

 エリゴたちが最後で、すでにディン、ダルシェナ、バーティン、アストリットがいた。

 アストリットは壁にもたれて、荒く息をついていた。

 自分たちが乗ってきたランドローラーは入り口付近に置いたままにしていたので、向きを変えるだけでよかった。

 

「アストリット、よくやった」

 

 エリゴが親指を立てた。

 アストリットは不愉快そうに顔を歪める。やる人間が違うだけで、こうも与える印象が変わるのか。

 

「私は当然のことをしただけです。それより、早く脱出しましょう」

 

「傷は?」

 

「どうってことはありません。この程度」

 

 全員フルフェイスヘルメットをかぶる。

 アストリットは戦闘衣の下から布で傷口を巻いていた。汚染物質の進入を防ぐためだ。

 

「わざわざランドローラーを回収して脱出するルートを選ぶなんざ、大将は案外律儀だよな」

 

 ツェルニとグレンダンの外縁部は今繋がっている。わざわざランドローラーで脱出しなくても、外縁部を走り抜ければツェルニにいけたのだ。ランドローラーを無くして借りを作りたくない。そんなルシフの思考を脱出ルートから読み取れる。

 

「案外は余計だ、レオナルトさん。その口塞ぐぞ、物理的に」

 

「まあ、落ち着けよバーティン。レオナルトだって旦那を悪く言ったつもりはねえ。旦那は誤解されやすいタイプだって言ってんだよ。そうだよな、レオナルト」

 

「お、おう」

 

「行きましょう、皆さん。なるべく早く脱出を、とマイロードから言われています」

 

 アストリット、バーティン、ディン、ダルシェナがランドローラーに乗った。

 外部ゲートを制御するボタンをエリゴが押した。外部ゲートが開かれる。

 外部ゲートのすぐ下、ランドローラーが二台乗り捨ててある。エリゴ、レオナルト、フェイルスは外部ゲートから飛び下り、大地にあるランドローラーに乗り込んだ。

 ツェルニの外部ゲートは閉じられていない。ランドローラーに乗ったまま、ツェルニに入ることができた。

 ツェルニ目指して、ランドローラーが四台走りだす。

 作戦は完了した。後はルシフのところに帰るだけだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが腰に右手をあてたのを念威で見た時、マイはこの先念威で見る視覚的情報を保存するために端子を移動させた。そもそも念威端子で見た情報は全て保存されるようになっている。だから、マイがやっているのはどういうアングルで映像として残すかという映画監督のようなことだった。

 ルシフに言われていた通り、まずグレンダンの旗をアップで映す。そこから端子を切り替え、ルシフのすぐ近くからルシフの姿を映すようにした。

 マイは杖を両手で握りしめる。その姿はまるで祈るようだった。

 

 ──ルシフ様、勝って。

 

 端子でルシフの姿を見つつも、マイはルシフの勝利を願い続けた。

 

 

 

 旗をアストリットが振っている。

 ルシフは振られている旗を見ながらも、頭では別のことを考えていた。放浪バスに荷物を置いて、放浪バスから出ようとした時のことである。

 

 

 

「ルシフ様!」

 

 放浪バスの出入口に向かった時、マイに声をかけられた。振り返る。マイの瞳は不安気に揺れていた。

 

「あの……こんなこと言ったら怒るかもしれないんですけど、ルシフ様は負けても死なないでください。何がなんでも生き抜いてください。ルシフ様なら今日負けたとしても、明日勝ちます。ルシフ様が死んだら、私は……私は……!」

 

「マイ。それはこの俺を心配しているのか? ふざけるなよ」

 

 イラついた。マイの言葉にではなく、マイの言葉を聞いて一瞬喜んだ自分にイラついた。

 

「ご、ごめんなさい、ルシフ様! 出過ぎた真似をしました」

 

 マイは顔を俯け、しょんぼりとした。

 俺はマイに近付き、マイの頭を撫でる。

 マイは驚いた様子で顔をあげた。

 

「心配するな。俺は負けん。誰にも。そのことを、お前の端子の前で証明してやる」

 

「……はい、分かりました」

 

 再び俺は出入口にいった。

 

「ルシフ様」

 

 またマイに声をかけられ、振り返る。

 

「あんなことを言いましたが、私はルシフ様が必ず勝つと信じています。頑張ってください」

 

 マイは透き通るような笑みを浮かべていた。数秒間、視線を外せなくなった。

 眩しい。だが、すぐに消えてしまうような儚さがある。だから、俺は惚れたのかもしれない。この眩しい光が、いつまでも輝けるように。そんなことを思い、世界の全てを敵に回す覚悟を決めたのかもしれない。

 正面に向き直り、出入口に足をかける。

 

「グレンダンを、ぶっ倒してくる」

 

「はい。いってらっしゃいませ」

 

 マイの声を聞きながら、出入口の扉を閉めた。

 

 

 

 現実の世界に意識を戻したルシフは、アストリットが狙撃銃を構えたのを見た。狙撃銃が火を吹く。アストリットの剄弾に、銃弾がぶつかり爆発した。バーメリンがグレンダンに向かって駆けていく。アルシェイラも天剣授受者もリーリンも、意識が一瞬剄弾の方にいった。

 

 ──やるか、やられるか。勝負だ、アルモニス。

 

 ルシフは腰に右手を当てる。撮影開始の合図。

 

 ──ルシフ様、勝って──。

 

 マイの声が聴こえた気がした。

 建物を蹴る。蹴る直前、メルニスクの力が全身から湧き上がった。言葉で指示しなくても、メルニスクはいつ力を解放するべきか理解していた。

 意識がアストリットの銃撃にいっていたアルシェイラと天剣たちは、突如として巨大な剄が現れたのに気付き、ルシフに意識を戻す。

 ルシフの進行方向に、網の目のように鋼糸が張り巡らされた。リンテンスの鋼糸。天剣最強と噂される天剣授受者。

 

 ──天剣最強? 俺からすれば天剣最弱なんだよ、お前は。

 

 ルシフの全身から青白い光が放たれ、鋼糸に絡みつく。化練剄で纏う剄を電気に変化させたのだ。

 化練剄の変化、雷綱(イズナ)

 

 ──お前を倒すために編み出した剄技だ。存分に味わえ。

 

 鋼糸に絡みついた青白い光が、一瞬にしてリンテンスのもとに餓狼の如く殺到した。鋼糸の元は全てリンテンスに収束している。何千本、何万本、何億本操れようが、それは変わらない。

 リンテンスは電撃を全身に受け、その場に倒れた。いつも両手を突っ込んでいるポケットの片方から、天剣が地面に転がる。

 原作でレイフォンや他の連中は、何故か鋼糸に向かっていってリンテンスに勝とうとした。はっきり言ってアホだ。鋼糸の利点を最大限に活かした距離で闘うなど、愚の骨頂。

 どんな武器にも弱点はある。リンテンスは鋼糸に拘りすぎた。拘るのはいいが、弱点を攻められた場合の対応を考えていなかった。

 リンテンスはかろうじて生きているだろう。電撃の加減はしておいた。

 ルシフの眼前から鋼糸が消えた。アルシェイラとリーリンのところまで遮るものはない。

 地面を蹴る。蹴った衝撃で都市が揺れた。

 ルシフはリーリンの方に向かった。アルシェイラがリーリンを押して、ルシフの進行方向に立ち塞がる。

 メルニスクの力と自身の剄を足に凝縮させた移動。反応できるのはアルシェイラしかいない。天剣授受者は微かに見えたとしても、身体がついてこない。

 ルシフはアルシェイラに肉薄した瞬間、右手をあげた。右手は手刀の形。足に凝縮させていた剄を右手にもっていき、化練剄で斬れる性質に変化。

 アルシェイラはリーリンを押すという余計な行動を挟んでいるため攻撃体勢になれず、ルシフの攻撃を防ごうと左腕を出した。

 ルシフが右手を振り下ろす。アルシェイラの左腕が飛んだ。血飛沫が上がる。振り下ろした右手を水平に動かし、アルシェイラの右足も斬り落とす。

 これらの動きはすれ違う一瞬で行われた。

 ルシフがアルシェイラの後ろに背を向け立っている。地面に触れた瞬間、都市が再び揺れた。

 

 ──勝った。

 

 全身を駆け巡る高揚感。しかし、一瞬で消えた。失望と怒りが湧き上がってくる。

 

「……慢心……した……」

 

 アルシェイラは前のめりに崩れ落ちていった。アルシェイラが地面に倒れた時、飛んでいた左腕も地面に落ちた。

 

「あ……ああ……きゃああああ!」

 

「陛下ぁ!」

 

 リーリンがアルシェイラの近くに倒れながら悲鳴をあげ、カナリスが叫んだ。

 全て頭に描いたシナリオ通りだった。リーリンをあえてアルシェイラに確保させたのも、わざわざ廃貴族の暴走をサリンバン教導傭兵団を利用してアルシェイラに伝えたのも、別動隊にグレンダンをひっかき回させたのも全て、アルシェイラに考えて闘うよう仕向けるためだった。アルシェイラに頭脳戦や駆け引きをさせるためだった。

 手に入れた情報は多ければ多いほど、選択肢が増える。選択肢が増えれば、迷いも生じやすくなる。アルシェイラはただルシフを倒しにくればよかった。そうすれば、こんな結末にはならなかった。しかし、ありとあらゆる情報とルシフへの警戒心が守備的な思考にしてしまった。つまり、ルシフが何かを仕掛けてきても対応できるように、ルシフの動きを待ってしまった。ルシフにとって、アルシェイラの思考時間こそが最大の狙い目だった。獣は獣らしく力に任せてぶつかってこればよかったのに、中途半端に人の真似事をした。

 それと同時に、アルシェイラが部下である天剣やグレンダンの武芸者を信頼していなかったことも、アルシェイラの敗因の一つである。アルシェイラが天剣とグレンダンの武芸者を信頼し適切な指揮を執っていれば、リーリンに構わずルシフを倒すことに専念できていただろう。だからルシフは、獣でありただ強いだけの愚か者とアルシェイラを評している。

 ルシフはゆっくりと振り返った。天剣授受者たちが集まってきている。アルシェイラは血溜りに沈み、リンテンスは倒れたまま動かない。

 

「武芸の本場グレンダン。この程度か」

 

 ルシフの呟きは、近くにいたリーリンとカナリス、カルヴァーンには聞こえただろう。

 リーリンは恐怖で顔を引きつらせ、カナリスとカルヴァーンが怒りで顔を歪ませている。

 

「カナリス様!?」

 

 カナリスがリーリンを抱え、駆け出した。リーリンを守るために、リーリンを離れたところに移動させるのだろう。

 

「待ってください! 陛下が! 陛下が!」

 

「その陛下をお救いするためには、あなたは邪魔なんです」

 

 カナリスが冷たい表情で、腕の中で騒ぐリーリンを見た。リーリンは息を呑む。カナリスの双眸は稲妻に酷似した輝きをはらんでいた。

 カナリスがどんどんルシフから遠ざかっていく。

 カルヴァーンが天剣を復元。幅広の剣が握られ、ルシフに向かって上段から振り下ろす。ルシフは右手をあげ、受け止めた。その時、ルシフの視界の端をよぎった影があった。

 ルシフの視線が動き、影を捉えた。鉄球。左方向から脇腹の位置に飛んでくる。ルシフが左手で鉄球を受け止めた。ルイメイが鉄球の鎖を握っている。

 

「お前を倒すッ!」

 

 正面から青龍偃月刀を突き出して、カウンティアが突っ込んできた。

 ルシフは左足で青龍偃月刀の腹を蹴った。カウンティアが体勢を崩す。残る右足でカウンティアの腹を前蹴りし、カウンティアは後方に吹き飛んだ。リヴァースが受け止める。

 

「カウンティア!」

 

 カルヴァーンの叫びを聞きながら、ルシフは左手で掴んでいる鉄球を持ち主のルイメイに向かって弾く。ルイメイは鉄球を両手で受け止めながらも、そのまま数メートルずり下がった。

 ルシフはカルヴァーンに視線を移し、空いた左手でカルヴァーンの腹に掌底。カルヴァーンは左手で掌底を防ぐが、衝撃は殺せなかった。

 カルヴァーンは衝撃に逆らわず、後ろに跳んだ。幅広の剣はルシフの右手が掴んだままだ。カルヴァーンが着地したのを見計らい、ルシフは右手に持つ幅広の剣を投げた。カルヴァーンの左太股を貫く。

 

「ぐっ……」

 

「武芸の本場グレンダン。この程度か」

 

 今度のルシフの呟きは、その場にいる天剣授受者全員に聞こえただろう。

 天剣授受者たちが剄を一層奔らせ、練り高める。各々の武器をルシフに向けた。

 そこに割り込んでくる影。

 

「お前たち、少しは落ち着かんか! 天剣最強のリンテンスと陛下を一撃で沈めた奴じゃぞ!」

 

 ティグリスが弓を持って合流してきた。

 ティグリスの言葉にルシフは苛立ちを感じ、険しい表情になる。

 確かに一撃だ。だが、ただの一撃ではない。十年以上己を研ぎ澄ませ続けて放った一撃なのだ。強さに慢心し武芸の練磨を怠ったコイツらと俺では、一撃の切れ味が、重さが違う。

 

「全員まとめてかかってこい。遊んでやるよ」

 

 ルシフが一歩踏み出す。アルシェイラが作った血溜りが跳ね、蒸発した。赤く彩られた地面が割れ、都震のごとく揺れる。

 

「……ッ!」

 

 アルシェイラの呻きが聞こえた。

 ルシフは足元を見る。アルシェイラが苦痛に耐えながら、ルシフを睨んでいた。

 ルシフは少し感心した。てっきり激痛で絶叫すると思っていたからだ。『王』たる者、情けない姿を見せてはならない。獣といえど、王としてのプライドは最低限あるらしい。

 もう一歩踏み出す。都市が再び揺れた。

 己の剄とメルニスクの力を一滴すら逃がさず、全身に凝縮させているからこそ生じる、圧倒的なまでの破壊エネルギー。それが動く度にわずかに漏れ、周囲に影響を与える。周囲の空気は熱で陽炎のように揺らいだ。ルシフの呼吸の息すら、高温の熱を帯びている。

 地獄の門は今ここに開かれた。魔王が満足するまで、閉じられはしない。



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第59話 天剣蹂躙

 レイフォンとサヴァリスは闘い続けていた。

 レイフォンの刀とサヴァリスの手甲、足甲がぶつかり、火花を散らす。

 お互い剄技も惜しみなく使用し、下手したら殺しかねない気迫で攻撃していた。

 サヴァリスは強かった。楽に勝てるとは思っていなかったが、苦戦はしないだろうと思っていた。とんでもない勘違いだった。

 やはり一番の問題はサヴァリスが天剣を使用していることだった。レイフォンは錬金鋼(ダイト)を使わない闘い方をルシフから盗み、会得しつつあるが、今のところは錬金鋼を使って闘った方が強かった。この部分の差がそのまま、サヴァリスとの差になっていた。

 サヴァリスの蹴りが側頭部目掛けて放たれる。頭を下げてかわす。下からアッパーカット。レイフォンは横に転がるようにして無理やりよけた。片膝立ちの体勢のまま、刀を横に振るう。サヴァリスが足甲で刀を受けた。サヴァリスが軽く跳び、受け止めていない方の足でレイフォンの刀を持つ両腕目掛けて蹴る。レイフォンは蹴りが来る一瞬だけ柄から手を離して引っ込め、蹴りが通りすぎたら柄を掴み直した。柄を捻り、刀身を上向きにする。そのまま斬り上げた。

 サヴァリスはバックステップで斬撃をかわした。表情は最初と変わらず楽しそうに笑っている。

 

「錆びついてなくて良かったよ。天剣レベルの相手とやり合う機会はそうそうないからね」

 

「無駄口を叩くな。お前を斬れれば、錆びていようがいまいがどうでもいい」

 

「ははは、確かにその通りだ。なら、再開しようか」

 

 レイフォンとサヴァリスが同時に地を蹴ろうと体勢を低くした。その時、巨大な剄が現れ、青白い光が空を埋め尽くし、都市が揺れた。

 レイフォンとサヴァリスは動けなかった。何かが女王のところで起きた、と一連の事象から結びつけるのは難しくない話だったからだ。

 

「一時休戦としないかい? あっちが気になるんだ」

 

「僕は別に構わないけど」

 

 レイフォンとサヴァリスは体勢を自然体に戻して、青白い光が見えた方向に身体を向ける。

 リーリンは女王のところに連れていかれた筈だ。女王に何かあったとしたら、リーリンの身にも何かあったかもしれない。

 レイフォンはいきなり現れた巨大な剄がルシフのものだと気付いていた。ルシフが本格的に動き出した。こうなっては、サヴァリスなどに構っている時間はない。

 レイフォンとサヴァリスは巨大な剄が現れたところに移動する。

 その場所にはレイフォンが予想していた通り、ルシフがいた。レイフォンは目を離せなくなった。サヴァリスもこの時ばかりは笑みが消えていた。

 女王とリンテンスが倒れている。女王に至っては左腕と右足がない。女王が倒れている近くに両方落ちている。

 一体何がどうなってこんなことになったのか。ルシフは何をした。リーリンはどこだ。

 レイフォンは縫い付けられた視線を意識して逸らす。あの光景は視線が釘付けになる魔力を秘めていた。普段簡単にやっていることが、今はとても難しく感じた。

 女王とリンテンスがルシフに負けた。これはとてもシンプルな答えを弾き出す。グレンダンは狩る側から狩られる側になった。早くリーリンを見つけて、安全なところへ避難させなければ。

 リーリンは楽に見つかった。カナリスが外縁部の建造物にリーリンを下ろしている。リーリンを下ろしたら、カナリスはルシフの方に向かって駆けた。隣にいるサヴァリスも、ルシフの方に走りだす。

 レイフォンはリーリンのところに走った。

 リーリンは怯えた表情で女王を見ていた。涙が頬を伝っている。

 

「リーリン」

 

 リーリンの身体がビクリとして、レイフォンの方に顔を向けた。声をかけられて初めて、レイフォンの存在に気付いたようだった。

 

「レイフォン……レイフォン!」

 

 リーリンはレイフォンに抱きついた。レイフォンは突然のことに驚きつつも、振りほどくような真似はしなかった。

 

「わたしの……わたしのせいで、陛下が! 陛下がぁ!」

 

「落ち着いて、リーリン。君のせいじゃないよ」

 

「違う! わたしのせいよ! 何が起こったのか分からなかったけど、陛下はわたしを押した。それだけは分かったの。それだけが分かれば、あの時何が起こったかなんとなく想像できる。ルシフはわたしを狙ったのよ! 陛下はわたしを守ろうとして……!」

 

 その先は言葉になっていなかった。涙を流して嗚咽する声だけだった。

 レイフォンは何故女王が一方的に倒されたか理解した。おかしいとは思っていた。女王ほどの実力者が、大して抵抗もできずにやられるなど、考えにくいことだった。ルシフと女王にそこまで差が開いているのは現実的ではなかった。女王が何故命をかけてリーリンを守ってくれたかは分からないが、そこをルシフに突かれた。実力者同士の闘いでの一瞬の隙は、致命的な結果を導き出す。

 なら、リンテンスもリーリンを守ろうと鋼糸を張り巡らせたところを狙われたのか。しかし、これは無理がある気がした。リンテンスなら、リーリンを守りながらルシフと闘うなど朝飯前だった筈だからだ。とすれば、純粋な実力差でリンテンスはやられたのか。しかし、あのリンテンスが一方的にやられるなど有り得るのか。自分は勝てる気すらしないのに。

 

「レイフォン!」

 

 ニーナら第十七小隊がレイフォンに駆け寄ってきた。レイフォンはニーナたちに顔を向ける。フェリはいない。念威操者が前線に出ないのは普通なので、あまり気にならなかった。他のツェルニの武芸者は外縁部付近の建物に隠れるようにして様子を窺っている。

 ニーナたちはレイフォンから遠く離れたルシフの方に顔を向け、固まった。ニーナたちの目が大きく見開かれる。

 

「何が起こったんだ……? ルシフは一体何をしたんだ!?」

 

「隊長。ルシフを止めるなんて言わないでくださいよ」

 

「ぐっ……! いや、言う! ルシフを止めなければダメだ! これ以上犠牲が出る前に!」

 

 ニーナの予想通りの言葉に、その場にいる隊員全員がため息をついた。言ってることは正しいが、どうやってルシフを止めるか具体的な作戦か策はあるのか。

 こういうところがニーナの悪いところだった。無謀でも心のまま突っ込んでいく。そのせいで生まれる犠牲は考えない。

 

「どうやってルシフを止めるってんだよ。あいつは止まらねえぞ、何を言っても。目的を達成するまでな」

 

 シャーニッドが言った。

 ニーナはシャーニッドの方に顔を向ける。

 

「言って止まらないなら、力ずくで止めるしかない」

 

「力ずくなんてもっと無理だぜ。ルシフを前瀕死にしたグレンダンの女王が負けてんだ。ルシフはあの時より遥かに強くなってるって何よりの証拠だろ」

 

「それでも、黙って見ていられない。グレンダンの女王と天剣授受者たちは、巨人の大群と闘ってツェルニを守ってくれた。そんな彼らが受けていい仕打ちじゃない」

 

 ニーナの言葉に、レイフォンは驚いた。

 ニーナはそんな風に思っていたのか。

 レイフォンは女王や天剣授受者たちの性格をよく知っている。彼らがツェルニを守るために闘うなんてあり得ない。ただ目についたから倒しただけだろう。

 

「お前たちが来ないというなら、わたしだけでも──」

 

 ニーナの言葉は途中で途切れた。レイフォンがニーナの脾腹(ひばら)を右拳で打ったからだ。

 ニーナの身体は折れ曲がり、そのまま前に倒れる。レイフォンはニーナの身体が地面に触れる前に支えた。ニーナは気を失っている。

 ニーナのこの無鉄砲さはどこからくるのだろう。何故、ルシフの周りの状況を見て、躊躇なく闘うなどと思えるのだろう。

 

「レイフォン、お前……いや、ありがとよ。辛いことさせちまったな」

 

「こうでもしないと隊長は止まりませんからね。ルシフと闘うよりはマシだと思ってやりました。けど、嫌な感触でした」

 

「レイとん。これからどうしようか?」

 

 ナルキが不安そうに訊いてきた。ナルキの身体は震えている。

 それが普通の反応だ。ルシフに攻撃しようなんて考えられる方が異常なのだ。

 

「とりあえず、ここで様子を見よう」

 

 もしルシフが女王と天剣授受者たちを倒して天剣を奪うだけなら、何もしない。天剣を奪われることに屈辱的な気持ちを感じるが、どうにもできない。

 だが、グレンダンの武芸者を全員倒そうとするなら、どうにもできなくても闘う。グレンダンの武芸者にデルクもいるのだ。守らなくてはならない。

 レイフォンたちはルシフを見る。ルシフの周囲の空気は熱で歪んでいるように見えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 天剣授受者たちは武器を構えたまま、攻めてこようとしなかった。じりじりとすり足で近付いてくる。

 天剣授受者たちはお互い顔を見合わせながら、近付くのを止めない。

 ルシフは何故攻めてこないか理由が分かっていた。

 天剣授受者は個々の実力が高すぎるが故に、集団戦を得意としていない。一人いれば、大抵の問題は解決できてしまっていた。連携など、考えたこともない奴もいるかもしれない。

 

「ティア、全力でいこう」

 

「この都市はどうなるの?」

 

「僕が外縁部で食い止める」

 

「分かった!」

 

 リヴァースとカウンティアが剄を更に練り始めた。

 リヴァースとカウンティアだけは常にコンビで闘っているので、連携が苦手ではなかった。その二人にしても、それ以外の天剣授受者と連携はできないだろうが、それでもこの場にいる天剣授受者の中で一番厄介ではある。

 ルシフは瞬きの間にリヴァースに接近した。

 

「リヴァ!」

 

 リヴァースの背後で青龍偃月刀に剄を込めていたカウンティアが叫んだ。

 

「ッ!」

 

 ルシフがリヴァースの鎧の腹部辺りに掌底。リヴァースは練っていた剄で金剛剄を使用。

 ルシフの掌底が金剛剄により防がれる。

 ルシフは掌底の剄を浸透剄にし、リヴァースの鎧の内部に破壊エネルギーと化した剄を流し込む。リヴァースは浸透剄を防げず、鎧の中で吐血した。

 弱点のない防御剄技に見える金剛剄。しかし、当然弱点はある。金剛剄は攻撃を受ける場所に剄を集中することで肉体強化をし、同時に衝剄で攻撃を弾く剄技。つまり、外部への攻撃には隙がないが、内部破壊の浸透剄は衝剄で弾けず、ダメージが通るのだ。

 リヴァースが後方にゆっくり倒れていく。

 

「リヴァ!」

 

 カウンティアが叫んだ。しかし、倒れるリヴァースを受け止めはしない。いや、すでに青龍偃月刀に剄を込めて攻撃態勢になっているため、受け止めたくてもできないのだ。

 ルシフの左右から細剣と拳が迫る。ルシフは剣身を右手の指三本で掴み、左手で拳を受け止めた。サヴァリスとカナリス。

 サヴァリスが身体をひねり蹴りをしようとしている。

 ルシフは掴んだサヴァリスの拳を利用し、前方に投げ飛ばした。サヴァリスの身体がルシフとカウンティアの間に入る。

 サヴァリスのせいでカウンティアが攻撃をためらっている間、ルシフはカナリスに蹴りをいれる。カナリスは細剣を手放し、素早く後退してかわした。

 ルシフは掴んでいる細剣をカナリスに投げた。カナリスの左肩を貫く。カナリスが顔をしかめ、ルシフを睨んだ。細剣をカナリスが引き抜く。

 澄んだ音が響き、一瞬この地獄とも言える戦場の時間を止めた。ティグリスがルシフの周囲に天剣がいなくなったのを見計らい、剄矢を放った音。

 外力系衝剄の変化、迷霞(まよいがすみ)

 放たれた瞬間は一本の矢だった。しかし、一瞬後には無数に増え、降り注ぐ雨のような激しい攻撃に変化。迷霞の名の通り、直進せず不規則に動きながら、それでも最後は標的を捉える。

 ルシフは剄雨に呑み込まれ、爆発した。爆煙がルシフの姿を覆い隠す。地面は巨大なナイフで無造作に切りつけたようにズタズタになっていた。

 これで倒せたと誰一人思っていない天剣たちは、高めた剄を維持しながら爆煙を観察する。爆煙の中から一筋の朱色の光。爆煙を抜けた直後に朱色の光が分裂し、多数の光に変化。

 

「これはッ!」

 

 天剣たちは一斉に回避行動を取る。朱色の光の群れは不規則に動き、天剣授受者たちを追いかけ回した。間違いなくそれは今ティグリスが放った剄技、迷霞。

 逃げ切れないと悟った天剣授受者たちはそれぞれ衝剄を放ち相殺。激しい爆発が到るところで起き、戦場が爆煙でかすむ。

 ティグリスの左横、爆煙がゆらめく。ルシフが現れた。ティグリスは弓をルシフの方に向ける。だが、そこまでが限界だった。ティグリスの腹部を左拳が打つ。ティグリスの身体は僅かに浮かび上がった。続けざまに右足の廻し蹴り。吹き飛ぶ直前、右手はティグリスの弓を掴んでいた。

 ティグリスの身体は遥か後方に転がり、動かなくなった。

 ルシフは右手の弓が錬金鋼に戻るのを一瞥すると、ティグリスの天剣ノイエランを剣帯に吊るした。

 爆煙が晴れていく。

 ルシフは近くに倒れているリンテンスを見つけ、リンテンスの傍に転がっている天剣を右手で拾う。リンテンスがいきなり動き、倒れたまま天剣を拾った右手首を掴んだ。ルシフはリンテンスの横腹に左足で蹴りを入れた。

 

「ぐっ……!」

 

 リンテンスの手はルシフの右手首から離れ、半回転して吹き飛んだ。ルシフはそれを見ても表情を変えず、リンテンスの天剣サーヴォレイドを剣帯に吊るした。

 

「ティグリス様! リンテンス!」

 

 カナリスが倒れているティグリスと蹴り飛ばされたリンテンスを見て悲鳴をあげた。

 

「もう、全力でやる。この都市がどうなろうが知ったことか」

 

 カウンティアが青龍偃月刀に剄を凝縮させ、ルシフに襲いかかる。凝縮させた剄を衝剄に変化させ、純粋な破壊エネルギーを纏った刃にし、頭上から一閃させた。

 カウンティア以外の天剣授受者たちは倒れているティグリス、リンテンス、リヴァースを抱えながら退避した。カウンティアの攻撃に特化した剄の威力をよく理解しているからこその行動。カウンティアも他の天剣授受者が倒れた仲間たちを安全なところまで退避してくれると信じての全力攻撃。この一瞬において、天剣授受者たちの心は一つになっていた。

 ルシフが頭上からの一閃を右手で受け止める。カウンティアとルシフの間で光が広がり、破壊の余波がルシフの周囲の地面を抉り取っていく。

 

「ぐぎぎ……!」

 

 カウンティアの身体は宙で静止したまま、刃をルシフに届かせようと剄を流し続ける。ルシフの右手を斬り裂き、その勢いで身体を両断しようと剄を刃に収束させ続ける。

 眩い朱色の光と白い光が二人を包んでいた。その二つの光が合わさり、跳ね返る。カウンティアの全身に切り傷が生まれ、そのまま後ろに舞った。

 

「金剛剄……リヴァ……ごめ……」

 

 最後まで言葉にできず、カウンティアは全身から血を溢れさせて倒れた。

 青龍偃月刀が宙で回転し、ルシフの近くに突き刺さる。青龍偃月刀の柄を掴み、抜いた。青龍偃月刀が輝き、錬金鋼に戻る。ルシフはカウンティアの天剣ヴァルモンを剣帯に吊るした。

 残る天剣授受者は五人。サヴァリス、カナリス、カルヴァーン、トロイアット、ルイメイ。

 

「いやいや、参ったねこれは。陛下の言った通り、地獄だわ」

 

 トロイアットが杖を片手に苦笑していた。

 杖を振る。ルシフの周囲から光の球体が現れた。

 

「こんなガキ一人にやられてちゃあ、天剣授受者の名折れだ。灰にしてやるよ。熱は金剛剄じゃ防げんだろ」

 

 伏剄と呼ばれる技術がある。文字通り剄を任意の場所に待機させ、後は術者の意思であらかじめ決めていた剄技となって敵に襲いかかる。いわば任意で発動する設置罠のようなもの。

 トロイアットは回避行動をしながらも伏剄を到るところでしていた。ルシフの周囲に現れた光球は高熱を放ち、まさに小さな太陽と言っていい。光球とルシフの間には化練剄による大気のレンズがあり、高熱を収束させ破壊エネルギーを増幅させる。凝縮された高熱と破壊エネルギーは熱線となって、ルシフを焼き尽くさんと迫る。

 それに対し、ルシフがやったことは一つ。左腕を水平に一振り。たったそれだけで大気のレンズは霧散し、周囲の光球は弾け、熱線は歪んで大気に溶けた。桁違いの衝剄を左手から周囲に放ったのだ。衝剄はルシフの周辺だけを蹂躙し、離れたところにいた天剣授受者に被害はない。

 

「はぁ!? そんなのアリかよ……ッ!」

 

 ルシフはトロイアットに迫る。

 トロイアットは化練剄により、剄を七匹の大蛇に変化。化練剄の変化、七つ牙。七匹の大蛇の牙の大群が、ルシフを細切れにせんと殺到した。

 ルシフも化練剄で剄を七匹の大蛇に変化。トロイアットよりも大蛇は大きい。ルシフの七匹の大蛇はトロイアットの七匹の大蛇に食らいつき、噛み千切った。以前レイフォンと闘った時にこの剄技は会得していた。

 そのまま大蛇はトロイアットに襲いかかり、トロイアットを捕らえる。

 

「俺の剄技を……ふざけやがって!」

 

 ルシフはトロイアットの言葉を無視し、右腕を引いた。右横から鉄球が飛んでくる。トロイアットを殴ろうとするのをやめ、鉄球を弾いた。その間にトロイアットは全身から衝剄を放って大蛇を掻き消し、ルシフから距離を取っていた。

 トロイアットと入れ替わるようにルイメイが動いた。

 防御にはそれを超える攻撃を叩きこめばいい。そう考えるルイメイにとって、相手の防御力が高いのは不利ではない。むしろ己の力を思う存分叩き込めるという点で好ましいものだった。

 

「おおおおおおおおおッ!」

 

 ルイメイの上半身の戦闘衣が焼失する。

 活剄衝剄混合変化、激昂。

 ルイメイの身体と鉄球が真紅に輝き、灼熱を纏う。触れるもの全てを焼き尽くす弾丸となって、ルシフにぶつかる。地面が割れた。衝撃がツェルニを震わし、倒壊していく建物もあった。

 ルシフは真っ向からルイメイの全力を受け止めた。それどころか剄を上手く制御し、ルイメイの剄を上方向に逃がして極力ツェルニに被害がでないようにしていた。もしそうしていなかったら、ルシフとルイメイの接触点でツェルニは深く抉れていただろう。

 ルイメイはその(ほか)を気にかけるルシフの余裕が気に食わない。

 

「そんな余裕あるのかよ、ええ!? 俺様の全力は温くねえぞ!」

 

 ──全力? せいぜい八割だな。

 

 ルシフはルイメイの鉄球を受け止めながら、そう思った。全力なら、火傷くらいはしたかもしれない。都市での闘い方が染み込んでいるため、全力でと思っていても、無意識の内に都市を全壊しないように力をセーブしてしまうのだ。半端な覚悟で抜いた刃。そんななまくらで、俺を斬れるか。

 

 ──そんなに燃えたいなら手伝ってやるよ。

 

 ルイメイの周囲に光球が現れた。上方向にただルイメイの剄を逃がしていたわけではない。上方向に逃がすよう制御された剄がルイメイの剄と高熱を呑み込んで光球に変化し、攻撃に転じる。いわば攻撃の前準備の役割もあった。

 周囲の光球とルイメイの間に化練剄による大気のレンズが生まれ、光球が放つ高熱を凝縮させる。それは幾つもの熱線となり、灼熱と同化したルイメイを激しく燃やした。ルイメイは体表で灼熱を留めていたから今まで火傷すらしなかったのだ。熱線は体表を覆う剄の膜を突き破っていた。

 

「ああああああああああ!」

 

「旦那!」

 

 トロイアットやサヴァリスが衝剄で全ての光球を吹き飛ばした。熱線は消失。

 ルイメイは全身に火傷を負っていた。それでも倒れず、立っている。

 

 ──今、楽にしてやる。

 

 ルシフがルイメイの首に手刀。ルイメイはルシフの足元に倒れた。手刀の剄は斬れる性質に変化させなかったため、首は飛ばなかった。

 ルイメイが握っている鎖と鉄球が錬金鋼に戻る。ルシフはルイメイの天剣ガーラントを拾い、剣帯に吊るした。

 ルシフはカルヴァーンに視線を移す。全身が真紅の輝きを放ち、灼熱を身に纏う。

 活剄衝剄混合変化、激昂。

 

「なにッ!? こいつ、ルイメイの剄技を!」

 

 殺気を感じ取ったカルヴァーンは剄を変化させる。黄金色の剄が無数の刃を織りなして、カルヴァーンを包む。

 外力系衝剄の変化、刃鎧。防御と同時に刃が敵を貫く攻防一体の剄技。

 ルシフが赤い光を引き連れ、カルヴァーンに突進。針鼠のようになっているカルヴァーンの剄の上から拳を叩き込む。黄金色の鎧は砕け、カルヴァーンの全身に火傷が刻まれた。さらに衝撃で口から血を吐き、後方に吹き飛ぶ。

 ルシフがカルヴァーンを追撃してくると考えた残りの天剣授受者たちは、ルシフとカルヴァーンの間に入って構える。

 

 

 

 カルヴァーンがよろめきながらも立ち上がった。

 

「カナリス」

 

「なんでしょう?」

 

「ヤツに会話が伝わらないようにできるか?」

 

「できますけど、しかし……」

 

 カナリスがルシフの方をちらりと見た。

 この会話を聴かれていたら、意味はない。声の振動を剄による振動で相殺させようとしても、そうはさせまいと妨害してくるだろう。

 カルヴァーンはそんなカナリスの懸念を読んだ。

 

「妨害してくる可能性は極めて低い。ヤツは遊んでいるからな」

 

 口に出して、怒りが全身を沸騰させる。天剣授受者を相手に手加減して闘っているのだ。これほどまでの屈辱は生まれて初めてかもしれない。

 

「分かりました」

 

 カナリスが細剣を振る。攻撃的ではない。さながら音楽を奏でる指揮者のような優雅で柔軟な振り方。細剣を振るたびに音を切り、カナリスの望む形に並び替え、ルシフを隔離するように音の結界が形成されていく。その影響による風切り音がルシフの周囲に満ちていた。

 結界といっても音の振動で創られているため、視覚的には何も変わっていない。だから、攻撃しようとしても簡単に悟られる。この結界は音を遮断することしかできない。しかも、出ようと思えば簡単に出られる。

 しかし、ルシフは結界から出ようとしないどころか、一歩も動かなかった。

 

「やりましたよ、カルヴァーン」

 

「うむ。サヴァリス、あの話を覚えているか?」

 

「あの話と言われても、僕には全く分かりませんね」

 

「マイアスでルシフが我ら二人にした話だ」

 

「ああ、臣下になれって話のことですか」

 

 トロイアットとカナリスは驚いた表情になる。

 

「なんだよ。お二人さんはあのガキから勧誘されてたのかい」

 

「わたしも初耳です。何故、黙っていたのです?」

 

「ヤツの臣下など死んでもごめんだからな。分かりきったことをわざわざ話す必要もないだろう」

 

「それでは、何故今そんな話を?」

 

「なるほど、そういうことですか。ですが、リスクは高いですよ」

 

 サヴァリスはカルヴァーンが何を言いたいか悟り、楽しそうに笑った。

 カナリスとトロイアットは戸惑いの視線を送る。

 そんな視線に気付いたのか、サヴァリスが言葉を続ける。

 

「騙し打ちですよ、一言で言えば。ルシフに寝返ったと見せかけて、隙だらけのところに必殺の一撃を当てる。まあ、信用されるためにこの中の誰かを少なくとも一人戦闘不能にしなければいけないでしょうが」

 

「……騙し打ちねえ。気は乗らねえな」

 

「しかし、今となってはそれしかルシフを倒す方法が……」

 

 そこで間が生まれた。

 もはやルシフに勝つためにはこれしかない。しかし、誰かがルシフに信用されるための人柱にならなければならないのだ。誰が犠牲になるかの話など、誰も進んでしたくない。だから生まれた間だった。

 

「寝返りができるのはサヴァリスと私だけだ」

 

 曖昧なことが嫌いなカルヴァーンは、まず決定事項を口にした。

 

「そして、私のこの身体の傷では、必殺の一撃など放てんし、まともに闘うこともできん。この二つのことから、導かれる答えは一つ。

サヴァリス。お前が私を倒してルシフに寝返ったように見せかけろ。攻撃するタイミングはお前に任せる」

 

「……ふむ。分かりました。手加減しませんから、覚悟していてくださいね」

 

 カルヴァーンはカナリスとトロイアットを見る。

 

「お前たち二人はサヴァリスが本気でルシフに寝返ったと思え。当然サヴァリスに攻撃を仕掛けねばならん時もあるだろうが、手は一切抜くな」

 

「分かったよ。あんたの覚悟、無駄にはしねえって」

 

「必ず、ルシフを倒してみせます」

 

 カルヴァーンは口から血を吐きながらも、黄金色の剄を纏って一歩踏み出す。

 それに続くように、他の三人も武器を構えた。

 

 

 

 ルシフはカルヴァーンたちの雰囲気が変わったのを感じ取り、右腕を一振り。音の結界は崩壊した。

 

 ──作戦会議は終わったようだな。

 

 一体どんな手でくるのか。

 ルシフは少しだけ胸が高鳴っていた。

 頭の中では、様々な手が浮かんでいる。予想を裏切る、又は上回るような手できてくれ。

 カルヴァーンは黄金色の剄を纏いながらも、それを鎧にできないでいた。ただ剣を構えて突っ込んでくる。カナリスは細剣を振り、音の刃をルシフに放つ。トロイアットとサヴァリスに動きはない。いや、剄を練るのに集中している。それはつまり、近い内に大技がくるぞと伝えているようなものだ。

 音の刃を剄の波動で掻き消し、ルシフは向かってくるカルヴァーンを見据えながら思案する。

 重傷のカルヴァーンは敵ではない。あとで楽に潰せる。となれば倒すべきは──。

 ルシフはカルヴァーンを無視し、トロイアットに向けて動く。無数のサヴァリスが間に出現。全員が同じ構えをしている。ルシフは黄金色の剄を全身に纏い、無数の刃を持つ鎧にした。外力系衝剄の変化、刃鎧。鎧の針が伸び、黄金の刃が無数のサヴァリスをそれぞれ貫く。全てのサヴァリスが消えた。本体は黄金の刃を拳で叩き折って防いでいる。少し距離があった。

 邪魔者を排除したルシフは、トロイアットに接近し蹴りを入れる。トロイアットは防げず、前のめりで倒れた。トロイアットの手から杖が離れる。ルシフは杖を手に取り、トロイアットの天剣ギャバネストを剣帯に吊るした。

 ここでサヴァリスがカルヴァーンの背後に立ち、カルヴァーンの背に拳を叩きこんだ。

 

「がはッ……」

 

 カルヴァーンが血を盛大に吐き出し、うつ伏せで倒れた。地面に転がった幅広の剣が錬金鋼に戻る。

 

「カルヴァーン様!? サヴァリス! あなたは……!」

 

 サヴァリスは刹那の間にルシフの眼前に立っていた。ルシフに背を向け、カナリスの方に構えている。

 

「こっちについた方が楽しそうだからね。悪いけど僕はこっちにつかせてもらうよ」

 

 後はカナリスとある程度全力で闘い、ルシフからさらに信用を得た後、ルシフに騙し打ちをすればいい。

 サヴァリスとカナリスはそう考えており、カナリスもサヴァリスと戦闘したらどこかに怪我をしようと決めていた。

 しかし、彼ら二人の思惑は脆く崩れ去る。

 背後から、サヴァリスのがら空きの背中にルシフが掌底を食らわせたのだ。

 信用を得るためにルシフへの警戒を解いていたサヴァリスにとって、この攻撃は決め手となった。

 全身の骨が折れ、サヴァリスは地面に倒れ込む。

 

「なぜ……バレた?」

 

 地面に這いつくばりながら、サヴァリスが悔しそうに尋ねた。

 

「なんだ、騙し打ちするつもりだったのか」

 

 ルシフは別に偽りの裏切りだと思ったから、サヴァリスを攻撃したのではない。本気で仲間になるつもりかどうかはこの際関係ない。

 

「なら、何故……?」

 

「バカは俺の臣下にいらんよ」

 

 サヴァリスの最大の失敗は、カナリスと闘おうとしたところにある。

 この状況において、ルシフに加勢する意味はない。加勢しなくとも、ルシフはカナリスを軽くひねれるだろう。サヴァリスはグレンダンの都市に移動してグレンダンの武芸者を倒しに行った方が良かった。こちらの方がルシフの仲間になる行動として正しい行動だろう。

 そんな簡単な状況把握と当たり前の選択ができないヤツは必要ない。サヴァリスはルシフの眼前に立った瞬間から、運命が決まっていたのだ。

 ルシフは地面に倒れるサヴァリスの背中に左手を当てる。左手からサヴァリスに剄を流し込み、浸透剄からの衝剄によってサヴァリスの意識を断ち切った。サヴァリスの手甲と足甲が光を放ち、光が集まって一本の錬金鋼に変化。ルシフはサヴァリスの天剣クォルラフィンを剣帯に吊るした。

 ルシフはかがんでいた上半身をゆっくりと起こす。カナリスが睨んでいた。細剣を振るい、音を操り、次々に音の刃を生み出して放ってくる。

 ルシフもカナリス同様に剄で音の振動を操り、振動を斬撃へと昇華させて相殺させ続けた。相殺させても、ルシフの音の刃は完全に消失はせず、カナリスに迫る。

 カナリスの身体に次々に切り傷が生まれていく。ルシフの音の刃がカナリスを上回っている何よりの証拠として、カナリスの身体に刻まれていく。

 カナリスは下唇を噛んだ。それでも、音撃の舞いは止めない。頬に、腕に、足に、肩に、切り傷が次々に生まれようとも、屈したりはしない。

 それは悲壮的な光景であり、見る者が見れば自然と涙が流れるかもしれない。しかし、ルシフの心には響かない。

 一際大きい音の刃がルシフから放たれた。細剣が宙を舞う。右腕を連れて、宙を舞う。カナリスの右肩の付け根から先は何もない。音の刃によって右腕を切り離された。

 

「くっ……!」

 

 カナリスが激痛に顔を歪め、宙を舞う右腕を拾おうと身体をひねって左手を伸ばす。視界の端に影。ルシフが動き、カナリスの右腕を掴んでいた。

 カナリスの腹部に右足で蹴りを入れる。カナリスは吐血しながら、前のめりで倒れていく。

 

「……陛下……申し訳……ありま……せ……」

 

 カナリスが意識を失った。

 ルシフはカナリスの右手を開かせ、細剣を握る。用済みになったカナリスの右腕は、カナリスの上に放り投げた。

 やがて細剣は錬金鋼に戻った。ルシフはカナリスの天剣エアリフォスを剣帯に吊るす。

 ルシフはカルヴァーンのところに歩き、カルヴァーンの傍に落ちている天剣ゲオルディウスを手に取る。そして、剣帯に吊るした。

 最後にリヴァースに近付き、リヴァースの天剣イージナスを手に取って、剣帯に吊るす。

 これで、ここにいる天剣授受者全員から天剣を奪った。ルシフの剣帯は普段吊るしている六本の錬金鋼と、天剣九本が並んでいる。

 剣帯はその名の通り、ベルトのように腰に巻いている。ルシフの腰をぐるりと錬金鋼が囲んでいるため、民族衣装のように見えなくもない。

 ルシフは周囲を見渡す。アルシェイラも天剣授受者たちも倒れたままだ。

 

 ──これでグレンダンは問題なくなった。原作通りならば、これから先の問題は──。

 

 ルシフはグレンダンを見る。ツェルニの真上にあった大穴は、いつの間にかグレンダンの方に移動していた。

 大穴から黒い霧のようなものが吹き出され、グレンダンを覆っていく。

 原作において、天剣授受者二人を死に至らしめた怪物。それがグレンダンに牙を剥こうとしていた。




次回よーこく(劇場予告風)。


グレンダンを漆黒の怪物が覆い、絶望が人々の心を塗り潰す。

「メルニスク。この絶対絶命の危機はお前が招いた」

空は暗闇に呑まれ、地は倒れ伏す女王と天剣授受者たち。
誰であってもこの窮地は打破できないと思われた。

「我は力として、復讐の刃として、憎悪の炎として生きてきた。だが、ルシフのおかげで、大切なものを取り戻した」

黄金の煌めきが闇を裂き、地を震わす。その光は闇を討ち滅ぼす救済の光か。それとも────。

「俺にとって最高の武器だ」

さらなる絶望の闇を創り出す破滅の光か。

「一つ訊くぞ。貴様を今ここで殺すべきだと思うか?」

「あの時……殺しておけばよかった」

「アハハハハハハ! あの日からずっとその言葉が聞きたかった!」

それぞれの思惑。それぞれの選択。

「ふざけるな! 絶対にそんなことさせない!」

「舌を噛み切って死ぬわ」

「なに? 天剣が光って──ッ!」

「ルシフ! わたしも一緒に連れてってくれ!」

「わたしもグレンダンに行きます」

「今度は立ち向かえるように強くなりてえ。だからよ、俺もグレンダンに行くぜ」

「この闘いで確信したよ。私は正しい選択をした」

「せいぜい足掻いてみせろ」

それぞれの想いは収束し、惨劇の幕は下ろされる。

「これが……これが人間のやることかよおおおおおおおおおお!」

深い爪痕を残して。


次回「勝者魔王」


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第60話 勝者魔王

 黒霧と黒い雲のようなものがグレンダンに覆い被さっていく。エアフィルターは抜けられないらしく、エアフィルターにへばりつくような感じになっていた。

 ツェルニの方に、この怪物は来ていない。故に、ツェルニにいる者には怪物の外観を見上げる形で把握できた。

 蛇のような頭を乗せた首が次々に黒雲から生える。蛇よりも雄々しく禍禍しい頭が天に伸びていく。雲のように見えるこれは、怪物の体表であった。

 つまり、この怪物はグレンダンを丸呑みしたのだ。

 ルシフは原作知識から、この怪物の名を知っている。ドゥリンダナという名前である。

 原作では統率機関の位置を念威で正確に特定し、アルシェイラが統率機関を破壊して倒した。

 ルシフは怪物の首がどんどん増えていっているのを見ていたが、すぐ近くに圧倒的な威圧感と存在感を感じた。視線をそちらにやる。蒼銀色の毛並を持つ犬に似た獣がいた。廃貴族のグレンダンである。

 

「世界を滅ぶ瀬戸際に立たせたな、ルシフ・ディ・アシェナ。いや、根本的な原因はお前ではない」

 

 グレンダンの威圧感が更に増した。目が怒りで燃え上がっているように見える。

 

「メルニスク。この絶対絶命の危機はお前が招いた」

 

 正しくグレンダンの言う通りである。もしメルニスクがルシフに力を貸さなければ、アルシェイラを真っ向から叩き潰すなんてことはできなかった。以前のようにルシフは敗者となっていた筈だった。そういう展開だったならば、グレンダンの戦力を全く低下させずにこの怪物に立ち向かえた。

 グレンダンの陥落はすなわち、世界の終焉を意味する。世界は崩壊し、イグナシスの思惑通りになる。

 

「グレンダンがどれだけ重要かお前は知っている。知らないわけがない。にも関わらず、結果的にお前はイグナシスの味方をした」

 

 ルシフから黄金の粒子が溢れ、牡山羊の形になる。

 グレンダンの正面にメルニスクが現れた。

 

「イグナシスの味方などしておらん」

 

「ならば何故この男に力を貸した!? グレンダンを狙うこの男に! イグナシスへの憎悪を、怒りを忘れたか!?」

 

「一瞬たりとも、忘れたことはない」

 

「ならば、何故この男に力を貸した!?」

 

 メルニスクは首をめぐらせて、ルシフの方を見た。

 ルシフはいつも通りの勝ち気な表情をしていた。

 メルニスクは正面に頭を戻す。

 

「我は力として、復讐の刃として、憎悪の炎として生きてきた。だが、ルシフのおかげで、大切なものを取り戻した」

 

「……何を言っている? イグナシスを滅ぼす以外に大切なものなど何もないだろう」

 

「だから、お前は都市を汚染獣の群れに突っ込ませ続けることができる」

 

「強き者は戦いの中にしか生まれん。イグナシスを滅ぼす素質を持つ者が生まれたら、我らの勝利なのだ。勝利とはすなわちこの世界を守ることに繋がる。都市民が何人死のうと、それは必要な犠牲なのだ。弱者が死ぬは当然の定めであろう」

 

 メルニスクはグレンダンに嫌悪感のようなものを感じた。

 ルシフに出会う前だったなら、その考えに賛同していた。イグナシスを滅ぼせる強い意志を持つ存在を得るために、グレンダン同様都市を暴走させたりして都市民を追い詰めようとしただろう。

 

「グレンダン。そこで我らがヤツを滅ぼすところを見ておれ」

 

 メルニスクはグレンダンからルシフの方に身体の向きを変えた。ルシフの方に頭が向き、グレンダンの方に尻が向いている。

 メルニスクの身体が黄金の光を放ち始めた。

 メルニスクはルシフを見ている。

 

『お前の力が必要だ、廃貴族』『この先を生きる者たちのために、その力を振るえ』『お前だけは、俺の隣を歩くことを許そう』『メルニスク。ずっと同じことを繰り返す、停滞しきった世界の時を、共に動かそう』『誰もが一人で死ぬ中、俺はお前に見守られて死ぬか。それも悪くない』『お前がいてくれて、本当に良かった』『メルニスク。お前がいれば、俺はどんな相手にも負けん自信がある』

 

 それは声という名の焔だ。メルニスクの中でメラメラと燃え上がり、メルニスクの凍てついたところを溶かす焔だ。

 電子精霊として都市を守護していた時、確かに持っていた己の心。都市を滅ぼされ廃貴族となった時、消えて無くなったと思っていた己が己であるためのもの。

 

 ──ルシフ。汝は我の心を掬い上げ、我に電子精霊としての誇りを思い出させてくれた。

 

 故に、我は汝に応えよう。主従関係からではなく、心を取り戻してくれた汝への感謝の印として。

 

「ルシフよ受け取れ! 我が魂の刃を!」

 

 メルニスクの身体が更に輝きを増し、ツェルニの外縁部に黄金の光が満ち溢れる。メルニスクから光の玉が弾き出され、ルシフの眼前で形を変化させていく。

 ルシフは光に左手を伸ばし、掴んだ。光が長い棒状の形になり、光が消えていく。光が消えた後、黒色の柄をした槍のような武器が残った。

 ルシフは驚きの表情で左手に掴んでいる武器を見た。この武器を、ルシフはよく知っている。槍の穂先の根元に三日月状の刃が片方だけ付いているこの武器は、間違いなく方天画戟。三国志演義において、最強の武将呂布が使っている武器。

 ルシフは方天画戟を地面と垂直に立てた。衝撃で都市が震える。槍の長さはルシフの身長を超え、二メートルを少し超えるくらいあった。

 

 ──メルニスク。お前はなんてヤツだ。

 

 歓喜に身体が打ち震える思いで、ルシフは方天画戟の穂先をまじまじと見る。三日月状の刃が付いている穂先の部分の柄だけ、鮮やかな赤で彩られていた。赤は自身の髪や瞳にもある、自分を象徴する色だとルシフは思っている。その赤が柄に含まれている事実は、ルシフに確かなメッセージを浮かび上がらせる。

 そのメッセージとは、『この武器はお前専用の武器だ』というメッセージ。すなわち、魂を預けるのはお前だけだという、メルニスクの信頼の形として、その赤はあるのではないか。

 

 ──素晴らしく、そして美しい武器だ。

 

 ルシフは今までメルニスクに対し力としてではなく、人となんら変わらない存在として接してきた。

 友と呼んだのは、自分が行く道にメルニスクの存在は不可欠だったからであり、同時に背中を預けるような存在を無下に扱いたくなかったというルシフの心の表れである。

 

「俺にとって最高の武器だ」

 

 ルシフが呟いた。

 メルニスクがいれば、どこまででも俺は行ける。この見事な武器を持っていると、その気持ちがどんどん強くなった。

 ルシフが惚れ惚れと方天画戟を眺めていると、グレンダンの声が響いた。

 

「メルニスク、正気か。お前はこんな男のために自らの魂を削ったというのか」

 

「削ったのではない、託したのだ。我が魂とともに我が心も」

 

「物質化したエネルギーは、もう二度とお前に還元できぬのだぞ」

 

「悔いはない」

 

「腑抜けたな、メルニスク。牙を抜かれたお前はもはや廃貴族ではない」

 

「我は廃貴族ではない。メルニスクだ。至極当然なことすら忘れたか」

 

「いや、お前はメルニスクですらない。我らを裏切った電子精霊の恥だ」

 

「お前ごときがメルニスクを侮辱するのは許さん」

 

 グレンダンがルシフの方に顔を向けた。

 ルシフの周囲で剄が荒れ狂っている。

 ルシフは本気で頭にきていた。グレンダンを方天画戟で八つ裂きにしたくなるほどだった。

 

「来い、メルニスク。アレを黙らせてやろう」

 

「おう」

 

 メルニスクの身体が黄金の粒子となって、ルシフの身体に溶けていく。ルシフの剄が爆発的に増加した。

 柄を握りしめ、グレンダンに覆い被さる怪物を見据える。

 ルシフがエアフィルターすれすれまで跳躍した。

 方天画戟に剄を流し込む。通常の錬金鋼なら耐えきれず自壊する剄量を込めても、方天画戟は壊れる兆しすらみせない。いや、これは武器の形をしたメルニスクの魂なのだ。どれだけ剄を込めても、たとえメルニスクと合わせた全ての剄量を注ぎ込んだとしても、方天画戟が壊れる筈はない。メルニスクの魂の欠片が砕ける筈がない。

 ルシフはメルニスクの力も合わせて、全ての剄を方天画戟に叩き込んだ。方天画戟が剄を纏って輝く。壊れる気配はなく、壊れる気もしない。

 ルシフが勝ち気な表情を浮かべる。

 

 ──ここまでされて応えなければ、男じゃないな!

 

 全剄量を方天画戟に収束させ、横に薙ぎ払う。方天画戟から衝剄が放たれた。しかし、地上でルシフの衝剄を見ていた者は、それを衝剄と断じることはできなかった。衝剄というには、あまりにスケールが違いすぎる。

 赤みがかっていた空が、眩い光で埋め尽くされた。閃光が怪物を呑み込んでいく。衝剄の余波でツェルニはビリビリと震えていた。エアフィルターすれすれから横に放った衝剄の余波が、地上まで届いている。信じがたい事実だった。

 太く強烈な光が怪物の大部分を消滅させた。その破壊エネルギーの余波で、エアフィルターに一番近い場所にあったグレンダン王宮は無惨にも崩壊した。王宮だけでなく、中央部の建物も余波に耐えられず亀裂が生まれ、崩壊していく。

 救いだったのは、一般人が全員避難していたことと、建物しか壊れなかったところだろう。

 グレンダン王宮の地下室にいたデルボネは周囲をシェルター同様の厚い壁に守られ、瓦礫の下敷きになるようなことはなかった。

 グレンダンの武芸者にしても、瓦礫が頭上から降り注いできたが剄を使用して吹き飛ばし、死人は一人も出なかった。

 この一撃で怪物の統率機関を破壊したらしく、怪物の崩壊が始まった。まるで霧が晴れるように、怪物は赤い空に消えていった。グレンダンの頭上にあった大穴も空に溶けていく。

 ルシフは空を仰ぎ見る。巨大な白い月が浮かんでいた。

 

《おお! デュリンダナをこうも容易く打ち滅ぼすか!》

 

 ルシフの内から、メルニスクの声が響いた。歓喜の色が含まれている。

 

「俺とお前が揃えば、勝てるヤツなどどこにもおらん」

 

 ルシフの身体が落下していく。

 

「メルニスク。お前が俺に魂を預けると言うなら、俺もお前に魂を預ける。俺が間違っていると思ったら、いつでも俺を殺してくれていいぞ。お前に殺されるなら気分良く死ねそうだ」

 

《それも、汝の頼みか》

 

「頼みじゃない。俺なりの、お前の信頼に対する覚悟の形だ」

 

 いつも本気で生きているルシフらしい言葉だと、メルニスクは思った。

 要するに、メルニスクとルシフは対等の立場であり、メルニスクがルシフの下というわけではない。メルニスクの自由意志を認め、いついかなる時も受け入れると言っているのだ。裏を返せば、常にメルニスクの期待に応え続けるというルシフの意思表示でもある。

 

「なんにせよ……これからもよろしくな、相棒」

 

《相棒?》

 

「気にするな。俺がそう呼びたいだけだ」

 

 自由落下に身を任せて、ルシフは地上を見た。グレンダンの武芸者の剄が、都市上に煌々と輝いている。

 

「下を見ろよ、相棒。ここから見ると、武芸者の剄も都市に光の花が咲き誇っているようだ」

 

 ルシフの内で、メルニスクは声を殺して笑った。

 剄を光の花と例える人間など、ルシフくらいだろう。

 これだから、この男は面白い。どんな道を進むのか、興味がつきない。力を貸してほしいと願うなら、貸してやりたくなる。

 ルシフはツェルニの外縁部に着地した。方天画戟を左手で横向きに持ち、グレンダンを見据えている。

 ルシフは右手を腰に当てた。撮影終了の合図である。

 グレンダンは言葉なく、ただルシフの方に顔を向けていた。

 突如として巨大な剄の波動を感じ、ルシフがそっちの方を見る。

 アルシェイラが倒れたまま、拳を振るうように右腕を動かした。右手に凝縮された剄が青白い光線となってルシフに迫る。光線が通った後の地面は巨大な蛇が這ったような跡ができた。

 アルシェイラとて、倒れている間何もしていなかったわけではない。止血のための剄を最低限残し、残る剄は全て右手に集中させていた。ルシフと違って瞬時に集中できないため、今のタイミングになった。

 ルシフは方天画戟を一度回し、縦に切り上げる。光線は星を散らしたように霧散した。方天画戟が光線の威力に震えた。

 ルシフは痺れている左手から右手に方天画戟を持ち替え、アルシェイラのところに疾走。走る勢いのまま方天画戟を振り下ろし、アルシェイラの右腕を切り落とした。アルシェイラの右肩の付け根辺りに、方天画戟が突き刺さっている。血が噴き出し、ルシフの右頬に血が付いた。

 

「……!」

 

 アルシェイラが苦悶の表情になる。口はぐっと閉じられていた。強い意思を持って、必死に力を入れて口を閉じているのは傍から見ても明らかだった。

 方天画戟を地面から抜くと、穂先が血で染まっていた。アルシェイラの首を左手で掴み、頭より高く持ち上げる。少しだけ開いた蛇口のように、切り落とされた部分からポタポタと血が落ちて地面に吸い込まれた。

 切り落とした直後でほとんど止血が完了している。それだけの剄量と技量があると確信しているからこそ、躊躇なく四肢を切り落とせる。

 

「一つ訊くぞ。貴様を今ここで殺すべきだと思うか?」

 

 アルシェイラの目が大きく見開かれた。

 

『一つ聞いていい? あんたを今ここで殺すべきだと思う?』

 

 数ヶ月前、ルシフをボコボコにした時に言った言葉が、脳内に響く。

 アルシェイラは激痛と屈辱に顔を歪め、ルシフを睨んだ。しかし、言葉は何も出てこなかった。

 命乞いはしたくない。だが、強がって殺せと口にすれば、ルシフなら本当に殺しそうな雰囲気がある。まだ何も成し遂げていない。今ここで死ぬわけにはいかない。だからこその沈黙。

 ルシフはそんなアルシェイラの心情を正確に理解していた。

 

「どうした? 殺せと言ったら殺されそうで、何も言えないか?」

 

「……ッ!」

 

「図星か。つまらんヤツ」

 

「あの時……殺しておけばよかった」

 

 アルシェイラが悔しそうに口を開いた。

 その言葉が電流のようにルシフの全身を駆け抜け、快感に似た感情が溢れ出す。

 

「アハハハハハハ! あの日からずっとその言葉が聞きたかった!」

 

 ツェルニに来てすぐ、アルシェイラに徹底的に痛めつけられ、さらにはお情けで生かされた屈辱。生かしたことを後悔させてやると胸に強く刻み、今日まで生きてきた。

 アルシェイラの言葉を聞き、ルシフは己自身を完全に取り戻した気がした。

 

「なあ、アルモニス。お前にはこれのためなら死んでもいいと言えるものがあるか?」

 

「……?」

 

 アルシェイラはルシフの瞳を見返した。

 アルシェイラにそんなものはない。何故なら、アルシェイラは生まれた瞬間からこの世界における役目を与えられ、そのためだけに今まで生きてきたからだ。決められたレールをただ歩かされたアルシェイラに、情熱なんてものは一切ない。それが大事だと思ったこともない。

 

「俺にはある。それが俺とお前の決定的な差であり、お前より強くなれた理由だ。今のお前は俺の敵ですらない」

 

 ──コイツは本当に何を言ってるのよ?

 

 アルシェイラはルシフの言葉に困惑するばかりである。強い者は強い。弱い者は何をやっても弱い。例えば犬が強い意志と情熱を持って日々生きたとして、虎に勝てるのか。強さは運命によって決められているのだ。そこに情熱なんてものが加わったところで、微々たるものでしかない。

 それに今回ルシフが勝てたのは、自分より強くなったからではなく、リーリンを利用する卑怯な手を使ったからだ。強さでいえば、自分の方がルシフより強い。正々堂々一対一で闘っていたら自分が勝つ自信がある。

 そういうアルシェイラの思考も、ルシフはなんとなく読めた。

 

 ──救いようがないな。

 

 ルシフはため息をつき、左手に持つアルシェイラを地面に放り投げた。

 

「ぐっ……!」

 

 アルシェイラはうつ伏せで倒れ、苦悶の声が漏れた。

 アルシェイラへの興味を失ったルシフは周囲を見渡し、リーリンを探す。見つけた。レイフォンやニーナたちと一緒にいる。

 ルシフは方天画戟を右手に持ちながら、レイフォンたちの方に悠然と歩く。レイフォンたちから見たら、恐怖でしかない。無手でも圧倒的な実力を誇るルシフが、見たこともない凶悪な武器を手に近付いてくるのだ。レイフォンたちはその場から逃げるという選択肢も思い浮かばず、金縛りにあったように硬直した。

 

「リーリン・マーフェス。俺と共に来てもらおうか」

 

 その場にいる全員が驚き絶句した。

 

「なんであなたと一緒に行かないといけないのよ!?」

 

 リーリンが怒りをあらわにして言った。

 ルシフは鼻で笑う。

 

「お前の意思は関係ない。お前の存在そのものが重要なのだ」

 

 ルシフが自分の右目のまぶたを左手の人差し指でトントンと軽く叩いた。

 レイフォンたちにはその行動の意味が分からないだろう。しかし、リーリンは違った。

 

 ──もしかしてルシフは、わたしが右目を閉じているのが分かるの?

 

 リーリンはずっと右目を閉じたままだった。しかし、レイフォンたちには右目が開いて見えているようだった。ルシフがリーリンを見たら右目が閉じているのが分かるということは、ルシフはリーリンと同じ境界に立っていることになる。

 

「なんでそうなるんだ!?」

 

 衝撃から立ち直ったレイフォンが怒鳴った。

 

「グレンダンの女王が命がけで守ろうとしたからな。リーリン・マーフェスには何か秘密があると考えるのが普通だろう。もし何もなかったとしても、アルモニスに対して有効なカードになるのは間違いない。だから、連れていく」

 

「ふざけるな! 絶対にそんなことさせない!」

 

 レイフォンが簡易型複合錬金鋼(シム・アダマンダイト)を振り下ろした。ルシフが方天画戟を振り上げる。金属音とともに簡易型複合錬金鋼が弾かれた。レイフォンの両腕が頭上に跳ね上がる。

 

「レイフォンを傷付けないで!」

 

 返す刀で方天画戟を振り下ろそうとしていたルシフは、リーリンの言葉で蹴りに攻撃を切り替えた。レイフォンはがら空きの腹部を蹴られ、後ろに転がった。

 ルシフはリーリンに視線を移す。

 

「わたしが生きてないと都合が悪いんでしょ? レイフォンを傷付けたら、舌を噛み切って死ぬわ」

 

 嘘じゃないと証明するように、リーリンの唇の端から血が垂れてきた。舌を血が出るくらい強く噛んだのだろう。リーリンは痛みで涙を左目に浮かべていた。

 この行動はルシフにとって予想外だった。ここでリーリンに死なれるのは困るし、犠牲は無しでこの戦闘に勝つと決めていたから目標も達成できなくなる。

 

「聞いたか、アルセイフ。舌を噛み切って死ぬとよ。健気な女よのぉ」

 

 方天画戟をレイフォンに向けて構える。

 

「リーリン! そんなことしちゃダメだ!」

 

 簡易型複合錬金鋼をルシフに向けて構え、レイフォンはリーリンを見た。

 リーリンはレイフォンに向けてぎこちなく笑みを浮かべた。

 

「わたしの決意は変わらない。レイフォンにはあんな目にあってほしくない」

 

「アルセイフ、どうする? リーリン・マーフェスの生死を決めるのはお前自身だ」

 

「何!?」

 

 レイフォンとリーリンは驚きの表情でルシフを見た。

 

「俺の性格を知っているだろう。歯向かってくるヤツは、完膚なきまでに叩き潰さないと気が済まないんだ。お前が攻撃してくるなら、それ相応のペナルティを与えないとな」

 

「その時は本気で死ぬわよ?」

 

「できれば生かして連れていきたかったが、その場合は仕方ない。死にたかったら死ね。止めはせんよ、お前の人生の選択だ」

 

 リーリンは当てが外れて、内心これからどうしようと考えた。ルシフの力ならばリーリンを軽く殺せるのに、殺さなかった。だから自分が生きてなければルシフは都合が悪いと考え、賭けに出た。しかし、ルシフは自分の死をなんとも思わないようだ。

 なら、この状況を打破するためにはどうする? ……右目を使うか?

 見たものを眼球に変える力。ルシフといえど、眼球に変えてしまえば何もできない筈だ。しかし、眼球から元に戻すやり方が分からない以上、それは殺人と変わらない。

 リーリンの脳裏に、マイや教員五人の顔が浮かぶ。ルシフを殺せば、彼らに深い哀しみを与えることになる。その業を、自分は背負いきれるのか。

 レイフォンも自分も助かり、ルシフを殺さなくていい道。一本だけなら、ある。最初から自分の前にその道はある。

 

「……分かったわ。ルシフ……あなたについていく」

 

「リーリン!?」

 

「ごめんレイフォン。でも、多分これが一番正しい選択なのよ」

 

 リーリンがルシフに従わなくても、おそらくルシフは気を失わせて無理やり連れていくだろう。

 リーリンが連れていかれないためにはルシフを倒さなければならず、今それができる可能性があるのはリーリンの右目の力だが、リーリンはその力を人に向けて使う覚悟を決められない。となれば、被害を最小限に抑える選択が最善。その選択こそが、ルシフに従うことなのだ。ルシフに上手く誘導されて選ばされた感はあるが、これでレイフォンがルシフと闘う理由は消える。

 少なくともリーリンはそう思っている。

 だが、実際のレイフォンの思考は違う。レイフォンはリーリンの言葉を聞いても闘わないという考えは思い浮かばなかった。

 レイフォンの懸念は、ルシフを倒せるかどうかの一点だけである。ルシフを倒すためにはどうすればいいか、今必死に考えを巡らせている。そして出た結論は、今の条件ではどう足掻いても勝てないという無慈悲なものだった。

 立ち向かい負ければ、ルシフに痛めつけられる。それは恐れていない。恐れているのは、その時にリーリンが自殺する可能性だった。リーリンなら本気でやりかねない。そうすれば、レイフォンがルシフに立ち向かう理由を根本的に無くせるからだ。自分を犠牲にレイフォンを救う。リーリンなら有り得そうなことである。

 だからこそ、レイフォンはルシフに斬りかかれない。ルシフの言う通り、リーリンの命はレイフォンの手の中にあった。

 

「リーリン、ごめん」

 

 レイフォンは両手に持つ簡易型複合錬金鋼を地面に捨てた。こんなもの、ルシフの前ではなんの役にも立たない。

 ルシフは放浪バスがある方向に歩き始めた。リーリンは何度も振り返りながら、ルシフの後ろをついていく。レイフォンは両拳を握りしめた。

 何かないのか。ルシフを倒せる方法。ルシフに立ち向かえる武器は。なんでもいい。このまま何もできずに終わるのは嫌だ!

 

 

 

 教員五人がツェルニの外部ゲートから出て、ルシフのところに向かって走っている最中、アストリットの剣帯に吊るされている天剣ヴォルフシュテインに異変が起こった。

 

「なに? 天剣が光って──ッ!」

 

 アストリットの剣帯のヴォルフシュテインが光に包まれ、光球となってどこかに飛んでいった。

 教員五人は呆然とその光景を見ていた。

 

「ああーッ! ルシフさまに怒られてしまいますわ! 皆さん、早く取り戻しましょう!」

 

 アストリットが痛む身体を気合いで抑えこんで、本気で光球を追いかけた。その影響で止血していた剄の制御が甘くなり、血が戦闘衣に滲む。

 出遅れた教員四人も、アストリットの後ろについて疾走した。

 

 

 

 夢かと思った。

 光球がルシフの向かっている方向から飛んでくる。ルシフの頭上を通りすぎ、まっすぐ自分の方に迫ってくる。

 ルシフが光球を目で追い、レイフォンの方に顔を向けた。リーリンも同様だ。レイフォンは光球に手を伸ばした。不思議と自分を害するものと感じなかった。光球を掴む。手の中に、以前見慣れていたものが収まっていた。天剣ヴォルフシュテイン。お前か。捨てたお前が僕の力になるというのか。

 

「レストレーション」

 

「レイフォン、やめてぇ!」

 

 天剣を授けられた時に設定した武器と全く同じ武器がレイフォンの手に握られる。すなわち剣。構わない。天剣なら、ルシフも壊せない。天剣を奪うのが目的なのに、壊すわけがない。

 疾走する。リーリンを瞬きの間に抜き去り、ルシフに肉薄。

 

「おおおおおおおおおッ!!」

 

 斬線は正確にルシフの首すじを捉えていた。数瞬後、ルシフの首から血が噴き出す。その光景がレイフォンの脳内で描かれていた。それでも躊躇いはなく、迷いもない。

 ルシフは方天画戟を両手で掴み、ぶん回す。レイフォンの剣を上に弾き飛ばした。レイフォンの体勢が崩れる。

 

 ──やっぱり僕だけじゃ君には届かないのか。

 

 ルシフが方天画戟の三日月状の刃をレイフォンに向け、振るう。

 

 ──アルセイフ。そういえばお前には借りがあったな。

 

 マイが首を切り、マイの首を焼いて止血した際、お前はマイのために水を持ってきてくれた。なら、今その借りを返す。

 ルシフは途中で柄を半回転させ、三日月状の刃をレイフォンとは反対側にもっていった。赤い部分の柄がレイフォンの横腹にめり込み、レイフォンは横に吹き飛んだ。

 ルシフのすぐ傍の地面に剣が突き刺さる。天剣ヴォルフシュテイン。

 レイフォンはうずくまり、起き上がれないようだ。怒りの表情で睨んでいる。

 

「レイフォン!」

 

「マーフェス。お前の覚悟に免じて、少しだけ情けをかけてやった。次攻撃してきたら、アルセイフの両腕をもらう」

 

 リーリンが涙を左目に溜めて、ルシフを睨んだ。

 ルシフは意に介さず、突き刺さっている剣の柄を握って抜いた。手の中で錬金鋼に変化。天剣ヴォルフシュテインを剣帯に吊るす。

 ルシフは再び放浪バスの方に身体を向け、歩みを再開した。正面から、教員五人が走ってくる。ルシフの持つ方天画戟に驚いていたが、聞いてくるようなことはしなかった。

 アストリットが片膝をつき、天剣をルシフに差し出した。

 ルシフはそれに目もくれず、アストリットの差し出した手を掴んで立たせた。

 

「……ルシフさま?」

 

「アストリット。傷は大丈夫か?」

 

「ええ……ええ! 大丈夫です! ご心配には及びません!」

 

「そうか。これからもお前には力になってもらうからな、簡単に死ぬなよ。それから、よくやってくれた」

 

 ルシフはアストリットの手から天剣を取り、剣帯に吊るした。アストリットは幸せそうな表情でルシフを見つめている。

 その一部始終を見ていたバーティンはエリゴの陰に隠れて錬金鋼を剣帯から一つ取り復元。剣で右腕を切った。バーティンの右腕から血が(したた)り落ちる。

 

「ルシフちゃん! 私も天剣取ってきたよ! あーいたたたたた!」

 

 バーティンが右腕を押さえながら、天剣を右手に持って差し出した。

 ルシフは冷めた目でバーティンの方に視線を移す。

 

「ふむ、当然だな。お前にはおいしい役目を与えていたのだから」

 

 バーティンの右腕の傷には全く関心を示さず、ルシフはバーティンの天剣を取って剣帯に吊るした。

 

「その反応はあ゙ん゙ま゙り゙だよ゙お゙お゙お゙お゙お゙お゙!!」

 

 バーティンが涙目で叫び、アストリットは勝ち誇った笑みをバーティンに向けた。

 ルシフは舌打ちし、袖を少し千切ってバーティンの右腕の傷口に巻いた。

 

「ルシフちゃん……?」

 

「うるさい。これで黙れ」

 

「うん! 黙る!」

 

 バーティンが右腕に巻かれた袖だったものを緩みきった表情で見ている。

 アストリットは舌打ちし、ルシフと教員の男三人はため息をついた。

 

「バーティン。リーリン・マーフェスの気を失わせて担げ」

 

「え!?」

 

 リーリンがルシフの言葉に驚愕した。

 バーティンは無言で頷き、一瞬でリーリンに接近。リーリンの顎をかすめるように左拳を振るって脳を揺らした。リーリンはその場に倒れそうになるが、バーティンが支えた。そのままおんぶする。

 こうすれば途中で気が変わって逃げ出すこともできない。

 これで後は放浪バスに乗り、ツェルニを去るだけである。

 ルシフの全身から黄金の粒子が溢れ、牡山羊の姿になる。

 ルシフは気にせず前に進む。ルシフの後ろでメルニスクはグレンダンを見つめていた。グレンダンもメルニスクを見つめている。言葉はない。これは決別なのだ。電子精霊たちとの。

 やがてメルニスクは振り返り、ルシフを追いかけた。ルシフに追いついたら、隣を歩く。

 

「どうした?」

 

「我が同胞たちと決別してきた」

 

「お互い嫌われものだな」

 

「望むところ」

 

「ハハハ! それでこそ、俺の相棒に相応しいな!」

 

 ルシフとメルニスクのやり取りを、教員五人は羨望と嫉妬の眼差しで見ていた。

 ルシフがこんなにも生き生きとしているところは見たことがない。自分もルシフとこういうやり取りをしたいという願望を、教員の誰もが抱いた。

 ルシフの身体に黄金の粒子が溶けていく。

 

「ルシフ!」

 

 女の声。ルシフが振り返る。ニーナが離れたところで叫んでいた。いま意識を取り戻したようだ。叫んだ後足がふらつき、ニーナは前に倒れこんだ。

 

「なんでだ! なんでこんなことをする!? リーリンを返せ!」

 

 倒れながらも頭を上げて、ニーナが言葉を続ける。

 ルシフはニーナの言葉を無視し、剣帯を外してレオナルトに渡す。その後、着ているツェルニの制服を脱いだ。ルシフの上半身は白のTシャツ一枚になる。

 言葉で言ったところで、ニーナは納得しない。ならば、行動で示す。

 ルシフは剄を化練剄で変化させた火を使用して、制服に火をつけた。

 制服に火をつけた後は、空に向かって放り投げる。両袖の部分が翼のごとく広がり、まるで火の鳥が天に向かって飛翔したように見えた。

 もうツェルニに戻らないし、ツェルニの味方でもない。そう暗に伝えたのである。

 ルシフたちはそのまま砂塵の中に消えていった。

 

 

 

 ニーナは火の鳥が飛翔するさまを唖然と見ていた。一気に燃え上がり、灰となって消える。その光景が、まるでルシフの未来を表しているように見えたからだ。

 キン、という澄んだ金属音が聞こえた。ニーナの持つ鉄鞭に何かが当たった音だ。ニーナは鉄鞭を見る。鉄鞭の近くに、十七小隊に所属している証である小さなバッジが落ちていた。おそらく燃やした制服に付けられていたものだ。

 ニーナはバッジを拾い、握りしめた。

 ニーナは周囲を見渡す。レイフォン、シャーニッド、ナルキ。しばしの逡巡。

 

「シャーニッド、すまん。わたしはルシフと一緒に行く! わたしのいない間、十七小隊を頼む!」

 

「はぁ!? なんでそうなるんだよ!」

 

「ルシフが何をするつもりなのか、確かめたい」

 

 ここでルシフについていかなければダメだという感情だけが、ニーナの中にあった。ルシフは絶対にこれから世界を揺るがすようなことを始める。それがなんなのか、理解したい。

 それに、ルシフは勝つ段取りを整えてから、闘いを挑んでくる。だからこそ、勝つ段取りをしている最中にルシフに近付き、何をするつもりか見極めなければいけない。でなければ、またルシフに主導権を握られ、なす術なくやられる。

 とにかく、ここでルシフについていかなければ、何も分からず、何もできずに自分はルシフに屈する。それだけは嫌だった。

 それにもしルシフが間違ったことをしようとしているなら、自分が正さなくてはならない。ルシフは自分の隊員なのだ。たとえルシフがそう思っていなくとも。

 ニーナはルシフが消えていった方に走った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 グレンダンの武芸者は外縁部に集まり、倒れている天剣授受者やアルシェイラを病院に運んだ。

 グレンダンの武芸者の一人がグレンダンの都市を振り返る。王宮や建物が無惨に壊れていた。

 

「……ひでぇ……あんまりだぁ……」

 

 なんでこんな目に遭わなければならない。陛下や天剣授受者は全員潰され、グレンダンの象徴ともいえる天剣を全て奪われた。建物と王宮も破壊された。

 

「これが……これが人間のやることかよおおおおおおおおおお!」

 

 グレンダンの武芸者の一人が叫んだ。

 グレンダンの武芸者たちは両手両膝を地面につき、声をあげて泣いていた。

 俺たちが何をした!? こんな仕打ちをなんでされないといけない!?

 グレンダンの武芸者たちが惨状に打ちひしがれていると、六角形の念威端子が近付いてきた。

 これが敵の念威端子だと理解している。咄嗟にグレンダンの武芸者たちは身構えた。

 

『グレンダンに言っておく。今日は宣戦布告だ。近々、俺が支配する都市をグレンダンにぶつける。電子精霊を狂わせてでも、必ず』

 

 グレンダンの武芸者のどよめきが外縁部を支配する。まだ奪い足りないか。 まだ破壊したいか。

 

『その日まで、せいぜい足掻いてみせろ。次はもっと歯応えのある闘いを期待する』

 

 その言葉を最後に、六角形の念威端子は離れていった。

 絶望がグレンダンの武芸者を塗り潰す。こんなヤツと、また闘わなくてはならないのか。

 その日、グレンダンは確かに思い出した。力により蹂躙される恐怖を。

 

 

 

 

 ルシフたちは放浪バスに乗った。ディンとダルシェナは最初から放浪バスに行っていたため、すでに放浪バスにいる。教員五人だけがルシフのところに向かっていたのだ。

 放浪バスに被せていた布はとられていて、いつでも出発できる。放浪バスを遠巻きにツェルニの武芸者たちが囲んでいた。

 

「ルシフー! 行くなー!」

「頼む! ツェルニに残ってくれ!」

「ルシフくん! お願い! 行かないで!」

 

 こういった声が止むことなく浴びせ続けられている。

 ルシフは反応せず、窓から夕焼けを眺めていた。ルシフの左手には方天画戟が握られている。

 

「旦那、何か言葉を返してやらないんですかい?」

 

「すぐ再会する。俺の敵としてな。言葉など不要だろう」

 

 ルシフは囲んでいるツェルニの武芸者たちに視線を移した。

 

「願わくば……正しい選択を選んでほしいものだ」

 

 殺気すら滲ませたルシフの言葉に、放浪バスにいる誰もが背筋を凍らせた。

 ルシフの視線が、こちらに向かってくるニーナの姿を捉える。ニーナは放浪バスの出入口前まで来ると足を止め、荒く息をつく。

 

「ルシフ! わたしも一緒に連れてってくれ!」

 

 ニーナが言った。

 ルシフに視線が集まる。

 ルシフは席から立ち、出入口を開けた。

 

「いいだろう。だが、覚悟しておけ。地獄を見る覚悟をな」

 

 ニーナはごくりと唾を飲み込んだ。そして、ゆっくりと頷く。

 

「分かった」

 

 ニーナが放浪バスに乗り込み、ルシフも席に座った。

 

「マイ、念威端子をグレンダンの武芸者が集まっているところに移動させてくれ。伝えたい言葉がある」

 

「はい」

 

 放浪バスの窓から念威端子が飛んでいった。

 

「移動完了しました。ルシフさま、どうぞ」

 

 ルシフは念威端子に都市をぶつけることを言った。

 言い終えると、念威端子をズボンのポケットにいれた。念威端子が外から戻ってくる。

 

「エリゴ、出せ」

 

「了解!」

 

 放浪バスが動き出した。囲んでいた武芸者の人だかりが割れる。そこに生まれた道を進み、外部ゲートを通って汚染された大地に飛び出した。

 ルシフはずっと窓の外を見ている。

 

 ──ありがとう原作知識。そして、さらば。これから先にそんなものは必要ない。この先の物語は俺自身の手で描く。

 

 物語は新たなステージに突入する。




今回はルシフさまとメルニスクがおイチャつきになられていただけの話だったような…………き、気のせいやんな!

それはともかくとしまして、今回で第二部『天剣強奪編』及びプロローグ終了となります。プロローグで約六十万文字とか、長すぎですね。

第二部終了につきまして、またまたちょっとした小ネタを。ルシフ、マイ、メルニスクのキャラクター設定の元ネタを書きたいと思います。

ルシフは今回でお分かりになられた読者さまも多数いらっしゃるでしょうが、『スリーキングダム』の呂布をベースに同じく『スリーキングダム』の曹操やら、『ゼオライマー』の木原マサキやら、『バキ』の範馬勇次郎やら、『コードギアス』のルルーシュやら、そういった傲慢キャラをパーツのようにくっつけました。それ故に能力がとんでもないことになったのですが、傲慢さも一緒にプラスされてしまったせいで傲慢さもとんでもないことになりました。
ルシフという名前もルシファーからとったというのもありますが、呂布と響きが似てるからというのが一番の決め手だったり。

マイは『スリーキングダム』の貂蝉をベースに人間らしい醜さと心の傷をプラス。貂蝉は舞が上手いっていうところからマイって名前にしました。

メルニスクは赤兎馬的立ち位置。やっぱり呂布をベースにしたキャラなら赤兎馬がいないとね。

次回からはようやく本編に入ります。


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RE作戦開始
第61話 魔王の帰還


 甘かった。何も切り捨てずに倒そうと考えていた時点で、自分はルシフに負けていた。

 ルシフを倒すためには、それ以外を切り捨てる覚悟がなければならないのだ。ルシフとて、あっさりとツェルニを切り捨て、グレンダンから恨まれることも恐れず徹底的に蹂躙した。だからこそ自分もその境地に立たなければ、ルシフと闘えるわけがない。

 

「レイフォンくん。いくらなんでも極端すぎではないかな?」

 

「何がです?」

 

「これだよ、これ」

 

 カリアンが執務机の上に一枚の紙を置いた。それはレイフォンが出した退学届けであった。

 レイフォンは退学届けを一瞥する。表情は変わらない。無表情のままである。刃のような冷たい瞳の輝きだけが、レイフォンの感情を表現していた。

 

「ルシフはグレンダンに自分の都市をぶつけると言いました。ツェルニにいては、ルシフがグレンダンと戦争する時、参戦できません」

 

「だから退学すると?」

 

「ここにいても強くなれません」

 

「君は強さを求めてここにきたわけではないだろう?」

 

 確かにそうだ。むしろ真逆のものを求めて、ここにきた。自分から強さを取り除いて残るものが何かないのか。その残ったもので新しい人生を歩めないか。ツェルニにはそれを探しにきたのだ。

 だが、リーリンをルシフが連れ去ったことで吹っ切れた。

 リーリンは闇試合に関わったことを知っても態度を変えなかった、数少ない家族である。リーリンの存在が、レイフォンにとってどれだけ救われたか。リーリンがいなければ、自分はふてくされ立ち直れなかったかもしれない。

 

「助けたいんです、リーリンを」

 

「だからグレンダンに行くと?」

 

「はい」

 

 グレンダンは未だに動かず、ツェルニも寄り添うようにグレンダンの隣にいる。今グレンダンに行くのは容易だった。

 

「君はグレンダンの女王から追放されて、ツェルニにきた。グレンダンが君を受け入れるかね?」

 

「どうでもいいですよ、そんなの。周りから何を言われようが、知ったことじゃない。それに、今は僕が疎ましくても拒否できないと思うんですよ。ルシフとの再戦に向けて、一人でも戦力が必要でしょうから」

 

「最強の都市がたった数人に何もできず敗北するとはね」

 

 そこには苦笑の響きがあった。カリアンの表情も笑っている。笑うしかないといった感じだ。

 

「確かに結果は圧倒的な敗北でしたが、実力差はそこまでないと思います」

 

「ほう?」

 

 レイフォンは戦闘のセンスが高い。故に、カリアンよりも深くグレンダンとルシフの戦闘を分析できた。

 あの戦闘の明暗を分けたのは、一言で言ってしまえばアルシェイラとリンテンスを一瞬で戦闘不能にしたところだと、レイフォンは考えている。あそこでアルシェイラとリンテンスが耐えていれば、まだ勝敗は分からなかった筈だ。逆に言えば、ルシフはその部分を確実に成功させるために、自身の能力の全てを注ぎ込んだのだろう。どうすればグレンダンに圧倒的な差をつけて勝てるか。その条件がルシフの頭の中に明確にあったからこそ、ルシフは勝てた。

 そのことをカリアンに言うと、カリアンは感心したように頷いた。

 

「しっかり考えて闘えば次は勝てるってことだね」

 

「今までのグレンダンが考え無しすぎたんです」

 

 グレンダンの戦力は圧倒的であり、考えなくてもごり押しで圧勝していた。もしかしたら、頭を使って闘うのは弱者のすることと見下していたのかもしれない。しかし、今回の敗北でその考えを改めるだろう。

 

「それでは、生徒会長。お世話になりました」

 

 レイフォンがカリアンに背を向けた。部屋を出ていこうと歩き出す。

 

「レイフォンくん」

 

 その背に、カリアンの声がぶつけられた。レイフォンが足を止める。

 

「これは退学ではなく、休学届けとして受理しておくよ。君の帰るところはしっかり守る」

 

 レイフォンは目を見開いた。カリアンの心遣いが身に沁みた。

 レイフォンは振り返り、一礼する。

 一礼したら、部屋を出ていった。

 

「さて、と……」

 

 カリアンは執務机の上に三枚紙を置いた。それらも退学届けである。

 その中の一枚をじっと眺めていると、ノックの音が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 カリアンの声に応じ、扉が開けられる。ヴァンゼが入ってきた。

 ヴァンゼは扉を閉め、カリアンの前に立つ。

 

「ルシフくんとマイくん、教員五名がいなくなった影響は?」

 

「ちらほらと、下級生や女生徒に突っかかる上級生が増えてきた。突っかかる大半の理由はルシフを支持していたからだそうだ」

 

「上級生から見たら、ルシフくんは疎ましい存在だっただろうね。しかし、いなくなった途端にたがが外れるとは、よっぽどフラストレーションが溜まっていたってことかな?」

 

「おかげで都市警はてんてこ舞いだ」

 

「そうか」

 

 ルシフは意識してないかもしれないが、弱者にとってルシフの存在は強者の攻撃から身を守る傘であった。ルシフの存在が抑止力になっていた。

 

「都市警から要望があがっている。都市警の増員と、治安を乱した生徒を厳しく罰してほしいと」

 

「ルシフくんの代わりに罰則を重くすることで抑止しようってことだね。しかし、ここは学園都市だ。重罪を犯した者はともかく、多少の暴力行為や恐喝は更生の可能性を残さなければならない。学園都市は人として正しく成長させるのも目的だからね。罪を犯せば即排除では、学園都市の体裁が整わないよ」

 

「奴らもそういう部分だけは気にしているようだ。軽く小突いたりする程度で、怪我は軽度しかいない。錬金鋼は使用せんし、重傷も負わせん」

 

「小賢しいね」

 

 カリアンは少しイラついた。それはつまりナメられているということであり、統治者としての能力がないと住民に思われる。

 

「どうする?」

 

「都市警に、捕まえる際は好きなだけ鬱憤を晴らしていいと伝えてくれ」

 

「分かった」

 

「他に何か影響は?」

 

「ルシフのファンクラブとやらに入っていた女生徒がひどく落ち込んでいる。ルシフの写真を手に号泣している女生徒も少なくないらしい」

 

 カリアンは笑い声をあげた。

 

「かわいそうだが、それが青春というものだよ」

 

 ヴァンゼは深くため息をついた。

 

「どうしたんだい?」

 

「俺はルシフに幻滅した。下手したらツェルニを滅亡させるところだったかもしれん」

 

「ああ、ルシフくんが独断でグレンダンと闘ったことかい?」

 

「勝てたから、まだ良かった。負けていたら、ルシフのとばっちりでツェルニがグレンダンに攻められていたかもしれん。

何を考えていようと、ツェルニを危険に陥れるような真似はせんと思っていた」

 

「それは違うよ」

 

 ヴァンゼがカリアンを睨んだ。

 

「何が違う?」

 

「グレンダンと闘った者たちの中に、ツェルニの学生は一人もいない。あの時点でルシフくんもマイくんもツェルニの人間ではなくなっていた」

 

 グレンダンと闘う前に、ルシフ、マイ、ダルシェナ、ディンの退学処理は完了していた。グレンダンと闘う前までにやれとルシフに言われたからだ。

 

「それと、明らかにルシフくんは我々ツェルニと敵対していた。ツェルニ側の武芸者を傷付けたり、念威操者を脅迫したりもしていた。ツェルニがルシフくんの味方をしていたなど、グレンダンは思わないだろう」

 

 ヴァンゼは唸った。

 

「もし負けていたとしても、ツェルニがグレンダンに攻められる理由を潰していたと?」

 

「……なんでルシフくんがツェルニの人間に何も伝えず、グレンダンを攻めたのか? 彼ほどの指揮能力があれば、ツェルニの武芸者もグレンダンに勝つのに役立たせられただろう。ルシフくんたちだけで闘った今回より、勝率を数パーセントあげられた筈さ。ツェルニの武芸者も、ルシフくんがグレンダンと闘うといえば従っていた。勝算なく闘う男じゃないと誰もが知っているからだ。しかし、彼はより確実にグレンダンに勝利する闘い方を放棄し、ツェルニを一切頼らなかった」

 

 ヴァンゼが言葉を失っていた。

 

「……単純にツェルニが邪魔だっただけじゃないのか?」

 

「じゃあ、なんで念威操者をわざわざ脅す必要があるんだい? ツェルニの人間でグレンダンに味方する武芸者がいるとでも?」

 

 ヴァンゼは目を見開いた。

 

「そこまでルシフは考えていたと言うのか? 勝利した場合だけでなく、敗北した場合も考えていたと」

 

「ルシフくんは数パーセントの勝率の上昇より、敗北した場合のツェルニのリスクを重視した。ルシフくんの恐ろしいところはこういう部分なんだよ。勝つことしか考えていないわけではない。負けても最小限の犠牲で済ますようにする。

まあ、私の深読みかもしれないけどね」

 

 カリアンは最後の言葉だけ冗談混じりに言った。

 しかしヴァンゼは、正しくルシフを分析していると思った。

 もしこのことをルシフに言ったら、ルシフはなんと言うだろうか? 「はぁ? 勘違いするな。貴様らなどいても邪魔どころか、俺の完璧な作戦を台無しにする可能性すらあった。だから、余計なことをせんよう敵対したにすぎん」とか言うのだろうか。

 そう考えると、ヴァンゼは愉快な気分になった。くっくっと声を抑えて笑う。

 

「ルシフはそういう男だったな。自己中心的に見えても、しっかり周囲のことを考えるような憎らしい男だ」

 

「憎らしい?」

 

「男としてどうしても惹き込まれてしまうところがある。それが悔しい」

 

「ルシフくんが入学した当初はあんなに危険視して嫌っていたのに、今は真逆だね」

 

 ヴァンゼは豪快に笑った。

 確かに、いつの間にかルシフのことが気に入っていた。危険視しているのは変わらないが、好きにもなっていた。裏切られたと思ったから、幻滅したのだ。それは好意の裏返しでもある。

 ヴァンゼが部屋を出ていった。

 

 ──ヴァンゼもまさか私がルシフくんの協力者とは、夢にも思わないだろうね。

 

 第三者の目には、ルシフと敵対しているように見えていた筈だ。このあたりのルシフの人の使い方はさすがとしか言いようがない。

 今回のルシフとグレンダンの闘いをカリアンは振り返る。結果はグレンダンに一人の死者も出さず、目的を達成した。

 

「この闘いで確信したよ。私は正しい選択をした」

 

 正しい選択をしたと確信したのに、気分は晴れない。むしろどんどん気持ちが沈んでいく。

 カリアンは頭を切り替えるため、引き出しの中から一枚の書類を取り出す。それは建築材料のリストである。

 カリアンは建築材料の一つ一つに値段を書いていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 レイフォンは大きなバッグをたすき掛けにして、ツェルニの外縁部を歩いている。

 

「どこ行くんだ?」

 

 レイフォンの後方から声をかけられた。振り返らなくても、誰の声か分かった。

 

「グレンダンですよ」

 

 レイフォンは振り返らず、グレンダンを見ながら言った。

 レイフォンの隣にシャーニッドが立った。レイフォン同様大きなバッグを持っている。それだけで、シャーニッドの考えていることを悟った。

 

「そうか」

 

 シャーニッドがレイフォンに顔を向けた。

 

「俺は今回何もできなかった。今度は立ち向かえるように強くなりてえ。だからよ、俺もグレンダンに行くぜ。

俺だけじゃねえみてぇだがな」

 

 シャーニッドが笑って、後ろを見ろというように頭を動かした。

 レイフォンは振り返る。フェリとハーレイがバッグを持って立っていた。

 

「わたしもグレンダンに行きます」

 

「僕も行くよ。グレンダンで錬金鋼について学べば、もっとみんなに合った錬金鋼にできると思うんだ」

 

「でも、いいんですか? いつツェルニに戻れるかも分かりませんよ?」

 

 シャーニッド、フェリ、ハーレイは顔を見合わせる。シャーニッド、ハーレイは笑った。フェリは無表情のまま。

 

「俺たちは十七小隊だぜ。ニーナは多分ルシフを止めたいって思ってる筈だ。なら、隊員の俺たちもニーナの力になれるところにいなきゃダメだろ。ナルキは都市警に戻るって言ってたから、こねぇけどな」

 

 元々ナルキは小隊に乗り気ではなかった。メイシェンやミィフィもいる。退学するリスクを冒してまでルシフと闘おうなど考えられないだろう。

 シャーニッドとハーレイがグレンダンに向かって歩き出した。その後方で、レイフォンとフェリが並んで歩いている。

 

「フェリがグレンダンに行くなんて口にするとは思いませんでした。あんなに念威操者になりたくないと──」

 

「フォンフォン」

 

 フェリの言葉がレイフォンの言葉に被せられた。

 レイフォンは思わず黙る。

 

「わたしは腹が立って腹が立って仕方ないのです」

 

 フェリは無表情である。怒っているようには見えない。

 

「今回の闘い、わたしは何もできませんでした。マイさんの端子で囲まれ、妙な動きをしたら切り刻むと脅され、わたしは指一本すら動かせませんでした。そんな自分が、情けなくて情けなくて許せないんです」

 

 フェリは淡々と話していたが、その端々にフェリの自分自身に対する怒りを感じた。

 フェリは念威操者として優れていると自負している。だが、一般人のように戦場の後方でただ縮こまっていただけという屈辱を受けた。

 

「ここで逃げたら、わたしは何か困難が降りかかってもすぐ逃げるような臆病者になる気がしました。困難に立ち向かう勇気がほしいのです」

 

 レイフォンは無言でフェリの隣を歩いた。

 フェリはマイに勝ちたいのだ。勝って自信を取り戻したいのだ。そうすれば、念威操者以外の道を踏み出す勇気が得られるかもしれないと思っているのだ。

 

「ルシフに勝つためには、優秀な念威操者が必要でしょう。わたしがあなたの力になります」

 

 レイフォンはフェリの横顔を見る。フェリが不意にレイフォンの方に顔を向けた。微かに笑っているように見える。

 レイフォンの胸に何かが込み上げてきた。しかし、言葉では出てこなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 法輪都市イアハイム。

 赤装束に身を包んだ一人の女が、旗竿の隣に座って空を眺めていた。満天の星が煌めいている。旗は盾と剣を持った青年男性が刺繍されていた。

 女は星を見るのが好きだった。星を見ていると、心に火が灯る。

 女の後ろには、女と同じ赤装束の男が立っていた。二メートル近い大男である。ガッチリとした体格をしていて、まるで熊のようだ。

 女はふと、視線を正面に向けた。威圧的な剄を微かに感じたからだ。

 旗竿の立っているところは基本的に都市の中で一番高い場所である。女のいる場所からは、都市の外の景色までよく見えた。

 

「サナック、ルシフが帰ってくるわ」

 

 サナックと呼ばれた大男は喋らない。無言で女の隣に立ち、女と同じ方向を見た。

 念威端子が二人の近くに飛んで来る。

 

『お二方、剣狼隊の放浪バスがこちらに向かってきています。到着は約半日後かと』

 

「ルシフがいるわね?」

 

 念威操者は女の言葉に驚いたようで、息を呑んだ。

 

『……はい、連絡はつきました。ルシフさんの他にはマイちゃんもいます。

ここから放浪バスが見えたのですか?』

 

「見えないわよ。でも、ルシフの剄を感じたの。地平線の向こうからビシビシ伝わってくるわ。ホント迷惑」

 

『迷惑……ですか?』

 

「良い気分で星を眺めていたのよ。せっかくの気分が台無しになったわ」

 

 そう言いつつも、女は笑っていた。

 

『とにかく、お二方とも宿舎にお戻りを。ルシフさんの歓迎の準備をしなければいけません』

 

「ルシフがそんなこと言うわけないわ。あなたの判断でしょ?」

 

『そうですが……』

 

「なら、歓迎なんてしなくていいわ。他の剣狼隊にもこう伝えて。『職務をほっぽりだして歓迎なんてしにいったら、雷が落ちる』ってね」

 

 女の言葉で、念威操者は自分の判断の浅はかさに気付いたようだ。

 

『分かりました。その通りに』

 

 念威端子が二人から離れていく。

 女の隣にいた大男が動いた。

 

「帰るの?」

 

 女の問いかけに、大男はスケッチブックを取り出してペンを走らせた。書き終わると、スケッチブックを女に向ける。《帰る》と書かれていた。星明かりで普通に読める。

 

「一つ疑問に思ったのだけど、あなたは真っ暗な場所でどうやって自分の意思を伝えるの?」

 

 大男はポケットから小型の懐中電灯を取り出し、チカチカと電源のオンオフを繰り返した。そして、ニッと笑う。

 

「用意周到ね」

 

 女は笑い声をあげた。

 大男は女に背を向け、飛び下りた。

 女は気を取り直し、再び星を眺め始める。女の表情は楽しそうだ。

 しばらくすると、女の表情が豹変した。口を右手で押さえ、激しく咳き込む。

 咳がおさまると、女はゆっくりと右手を口から離した。右手を見る。血がべっとりと付いていた。

 

「甘いスイーツ、今の内にたくさん食べとこうかな」

 

 女が右手をハンカチで拭き、苦笑した。

 日が昇る方角はすでに白くなってきており、夜が明けようとしていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 剣狼隊の放浪バスが、法輪都市イアハイムに帰ってきた。

 バスから次々に人が降りる。

 

「ここがイアハイム……」

 

 ニーナはリーリンの横顔をちらりと見る。リーリンは意外と落ち込んでいなかった。周囲を物珍し気に眺めている。

 まぁ、三週間も放浪バスで移動していれば現状を受け入れられるか、とニーナは思った。一週間目は本当に沈んだ表情をしていたのだ。交通都市ヨルテムを経由してヨルテムで一日滞在した時も、リーリンの元気はなかった。

 リーリン同様、ニーナも興味深そうに周囲を見渡す。

 ツェルニもヨルテムもそうだが、停留所は外縁部付近にあるため、建物や人は少ない。しかし、ここは違った。まるで中心部の中に停留所があるような錯覚をしてしまうほど賑やかだった。周囲を忙しく人が歩き、活気に満ち溢れている。

 ニーナの目を引いたのはそれだけではない。武芸者と思わしき人が屋根を走っていた。何人もいる。何かを右手に持っていた。はっきりとは分からないが、封筒ぽかった。ということは、彼らは配達をしているのか。しかし剄を戦闘以外に使うなど、非難されて当然の行いだが……。

 

「あっ、ルシフさま!」

 

 幼い子どもたちがルシフに気付き、声をあげて駆けよってきた。

 ルシフは方天画戟を立て、しゃがんだ。近寄ってきた子どもたちの頭を順になでる。

 

「元気だったか?」

 

 全員の頭をなで終えた後、ルシフが言った。

 

「はい!」

 

 子どもたちの元気の良い返事が重なる。

 

「ルシフさま、そのぶきカッコいいね!」

 

「分かるか。なかなかセンスあるな」

 

 幼女が一人、ルシフに抱きついた。

 

「おっきくなったらルシフさまのおよめさんにして~」

 

 ルシフはぽかんとした表情になった。どう返答しようか迷っているようだ。

 

「今は誰かを嫁にするつもりはない」

 

「なら、わたしがおっきくなったらおよめさんほしくなる?」

 

「…………」

 

 ルシフは苦虫を噛み潰したような表情になった。不愉快な気分になったが、この程度で子どもに怒れない。そんな葛藤が表情に表れていた。

 エリゴが堪えきれず、大笑いした。それを皮切りにその場にいた他の教員四人とマイが笑い声をあげた。さすがにこんな幼い子どもに対しては嫉妬しないようだ。

 ルシフがエリゴたちを無言で睨んだ。エリゴたちの笑い声はおさまらない。

 

「ね~、ルシフさま~、どうなの~?」

 

 幼女がゆさゆさとルシフの服を引っ張った。ルシフが視線を幼女に戻す。

 

「……ああ、そう言えば面白いモノを捕まえてきた。見るか?」

 

「おもしろいモノ?」

 

「メルニスク、出てこい」

 

 ルシフから黄金の粒子が溢れ、牡山羊の形になった。子どもたちは目をキラキラさせて見ている。

 

「ルシフ、何故我が出る必要が──」

 

「メルニスク、この子らと遊んでいろ」

 

「……は?」

 

「いいから、遊べ。都市民との交流だ」

 

「ルシフさま、ルシフさま。これってでんしせいれい? さわってもだいじょうぶ? ビリビリしない?」

 

 子どもたちの視線はメルニスクに集まっていた。

 

「ああ、大丈夫だ。好きにすればいい」

 

「ルシフ……汝、我を囮に──」

 

「メルニスク、後は任せた」

 

 メルニスクの周りに子どもたちが集まる。子どもだけでなく、大人たちも興味深そうに近付いていった。数分の間で人だかりができ、メルニスクの姿は見えなくなった。

 ルシフは息をつくと、中心部に向かって歩みを再開した。

 もしかしたらルシフは子どもが苦手なのかもしれない、とニーナは思った。というより、子どもの純粋でまっすぐな言葉に対し、いい加減に返せないというべきか。

 ルシフが歩くところ、人が集まった。頭を深々と下げる者もいれば、果物や野菜、花を渡してくる者もいる。タダでいいと言っているのに、ルシフは渡してきたものに見合った金を律儀に払っていた。多数の女性からデートの誘いも受けていた。そのたびにバーティン、アストリット、マイは不機嫌そうな表情になっていたが。

 ルシフが中心部に到着した時には、もらい物が山のようになっていた。エリゴとレオナルト、フェイルスが大きな紙袋を抱えている。

 

「何がどうなっているんだ……?」

 

 ダルシェナが呟いた。

 

「何かおかしいのか?」

 

 ディンが言った。

 

「おかしいなんてものじゃない。私がイアハイムを出発した時は、今と真逆の反応だったぞ。誰もルシフに近付かず、時には罵声を浴びせていた。物を渡すなんて一度も見たことがなかった」

 

「ダルシェナの言う通りだ。大将が慕われ始めたのは三年前くらいからさ。それまでは本当に酷いもんだった」

 

 つまり、ルシフは都市民の好感度が最低の状態から、数年で最高近くまで高感度をあげたということになる。もしかしたらツェルニも、あと数年ルシフが滞在していたらイアハイムと同じになっていたかもしれない。一年も経ってないのに、ルシフはあんなにも慕われたのだ。可能性はある。

 ルシフの正面から赤装束の女が歩いてきた。その後ろに十人程度同じく赤装束をした者を連れている。

 女はルシフの眼前で立ち止まった。

 

「げっ……」

 

 アストリットが嫌そうな声をあげた。女はアストリットを見て不愉快そうに目を細めるが、すぐに視線をルシフに戻す。深く一礼した。

 

「おかえりなさい、マイロード」

 

 ルシフ、マイ、教員五人は呆気に取られた表情をしている。

 

「どうした。お前が意味もないところで頭を下げるなど、明日雨でも降るんじゃないか?」

 

「わはははは、驚いたか皆の衆!」

 

 女は頭をあげ、楽しそうに笑った。視線がニーナとリーリンを捉える。

 

「あら、お客さん? それとも、今夜の相手?」

 

「客みたいなものだ」

 

「なら、自己紹介するわね」

 

 女がニーナとリーリンの前に立った。

 

「剣狼隊最強の武芸者、ヴォルゼー・エストラです。よろしくね」

 

「ニーナ・アントークです」

 

「リーリン・マーフェスです」

 

 ニーナとリーリンはなんとなくだが、眼前の女がヴォルゼーという名前だと知っていた。会ったことが一度もないのに名前が分かった理由は、ヴォルゼーの服である。赤装束の胸の辺りと背中に、黒い糸で『ヴォルゼー』と縦にでかでかと刺繍されている。はっきり言ってダサい。ニーナとリーリンはそう思ったが、口に出しては言わなかった。ちなみに腰の辺りには、酒を入れる銀色のボトルが括りつけられている。

 それよりもニーナが気になったのは、剣狼隊最強という言葉だった。誰も否定しないどころか、不満そうな表情すら見せない。つまり、それだけ圧倒的に強いということである。

 ニーナはヴォルゼーをまじまじと見た。

 長い黒髪を二房に分け、肩の辺りから緩めの三つ編みにして前に垂らしている。瞳は薄い赤茶色で瞳孔がはっきりと見え、猫の眼のように少しつり目で丸い。活発的で自由奔放な印象を見た目から受けた。

 ヴォルゼーがニーナの視線に気付いた。

 

「何? かわいい?」

 

「え? はい、かわいいと思いますが……」

 

「そう。ヴォルゼーをかわいいと思うなんて、ニーナは見る目があるわ! あとでご飯行こ! それに引きかえアストリットときたら、初対面でヴォルゼーになんて言ったと思う?」

 

 どうでもいいが、ヴォルゼーの一人称はヴォルゼーらしい。二十代前半に見えるが、もしかしたら十代なのかもしれない。

 

「……なんて言ったんですか?」

 

「『男性のようなお名前ですわね』って言ったの! 信じられる!? ヴォルゼーはどこから見ても女よね! 思わず殴っちゃった! イエーイ!」

 

 ヴォルゼーがピースした。何故ピースサインしたのかニーナには理解できなかった。

 アストリットはその時のことを思い出したのか、右頬をさすっている。

 ヴォルゼーと会話していると、二十歳くらいの女性がルシフに近付いた。赤ん坊を抱いている。かなりの剄が赤ん坊から漏れているため、武芸者の子どもだろうとニーナは思った。

 

「おかえりなさい、ルシフさま。あの……今日少しだけお時間をいただけないでしょうか? この子の名前を付けていただきたいのです」

 

 ルシフは赤ん坊の命名まで住民から頼まれるのか、とニーナは驚いた。

 ニーナは赤ん坊を見る。ニーナの目が固まった。ニーナが赤ん坊を見た時、赤ん坊が目を開けたのだ。赤ん坊の瞳の色はルシフと同じワインレッド。

 布にくるまれた赤ん坊の頭に、ニーナは何気なく視線を向ける。布から僅かに見えた赤ん坊の髪は、赤みがかった黒髪だった。




他の方の二次小説は全然読まないんですが、結婚するつもりもないのに種付けするオリ主とかいるんですかね……。

ルシフさま的には、最高の遺伝子が増える方が人類にとって得やん!って考えてます。世界創り直そうって考える人はやっぱ違うなあ(思考停止)。

一つ思いましたが、後継者問題でめっちゃもめそう。


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第62話 女王乱心

 ツェルニと別れてから三週間という時間が流れた。

 壊れた王宮は元通りになったが、王宮付近の建物の修繕は今も行われている。ほぼ全壊のため、建て直しという言葉の方が正しいだろうが。

 建て直しをしているのはグレンダンにいる建築士たちで、武芸者は一切手を出していない。

 グレンダンにとって救いだったのは、ツェルニが安値で建築に必要な材料を売ったことだろう。このおかげで予定よりもずっと早く作業に取り掛かれた。

 レイフォン、シャーニッド、ハーレイ、フェリはレイフォンが育った孤児院の世話になっている。孤児院の責任者であるロミナは快く彼らを受け入れてくれた。レイフォンの養父のデルクもちょくちょく孤児院に顔を出した。決して愛想の良い人物とは言えなかったが、血も涙もない冷血漢でもなかった。

 レイフォンにとって、孤児院は居づらい場所だ。軽蔑と怒りが混じった視線が針となって心を突き刺す。家族だった者たちからの敵意が身体を萎縮させる。

 しかし、それはレイフォンのネガティブ思考のせいでそう感じるだけであり、実際にレイフォンに敵意や軽蔑、怒りをぶつけていたのはごく少数だった。

 ほとんどの孤児院の家族たちは何をレイフォンと話していいか分からず、話すきっかけも掴めずにただレイフォンに視線を向けることしかできなかった。三週間経ち、ぽつぽつと話すようになったが、それでもよそよそしさというか、気まずい空気がいつも充満する。

 孤児院の家族たちはレイフォンに謝ろうと考えていた。闇試合が発覚し天剣授受者を剥奪された時、ひどい態度をレイフォンにしてしまった。裏切られたと感じたからしたことだが、時が経ち、レイフォンが闇試合に手を染めた事情というものを考えられるようになった。レイフォンは言い訳をしなかった。ただお金が欲しかったからやったのだと言っただけだ。孤児院の家族たちは理解していた。お金が欲しかったのは、私腹を肥やしたいからではない。闇試合で稼いだお金はグレンダン中の孤児院に寄付されていた。その事実は誰もが知っている。

 稼ぐ方法は許されるものではないが、稼いだお金の使い方は賞賛されていいものだ。レイフォンは単純に武芸でお金を一番稼げるやり方を選んだ。そこに後ろめたさがあったのは、天剣の武器が剣だったことからも読み取れる。サイハーデン刀争術は刀を使う流派であり、剣を使う流派ではないからだ。もし闇試合が発覚しても、養父のデルクを巻き込まないようにするための苦肉の策として、天剣の武器を剣にした。

 当然のことだが、デルクはレイフォンに対して問い詰めた。レイフォンはただ剣が良かったと言っただけだった。闇試合が発覚した時、デルクは何故レイフォンが頑なに剣を武器として使ったのか悟った。そして、己を責めた。何故発覚する前に気付けなかったのかと。デルクは責任を取り、孤児院をロミナという女に譲った。ロミナは孤児院で育った女だった。

 もうレイフォンは罰を受けた。ならば、許してあげるのが家族ではないのか。レイフォンの気持ちを考えられなかったことを謝るのが家族ではないのか。

 しかし、きっかけはなかなか掴めない。

 孤児院の敷地にある遊具などが置かれている一角。塀に沿うように植えられた常緑樹の陰。そこでアンリという名の十歳くらいの少女が黙々とスコップで土を掘っている。

 

「何やってるんだよ?」

 

 アンリのところに十二歳の少年トビエと、同じく十二歳のラニエッタがやってきた。

 

「探してるの。おもちゃを入れた缶を。確かこの辺だった──」

 

「なんでそんなモン掘り出してるのかって訊いてんだよ!」

 

「トビー、何をそんなに怒ってるの?」

 

 トビエの激怒した様子に、ラニエッタは戸惑った。

 ここにきたのは晩ご飯の準備ができてみんなを呼んだ際、アンリだけがいなかったから探しにきたのだ。勝手な行動を叱るのにしても、少し度が過ぎている。

 

「お姉ちゃん。トビー兄はおもちゃの缶を見たくないんだよ」

 

「アンリ!」

 

 トビエがアンリを睨んだ。それ以上話すなと眼が言っている。アンリはトビエに負けじと睨み返した。

 

「あたしは、レイフォン兄に謝りたいんだ! 今も大好きだって言いたいんだ! あたしだけじゃない! お姉ちゃんも、トビー兄も、みんなそうでしょ!?」

 

 トビエとラニエッタは言葉を無くして立ち尽くした。

 アンリは止めていたスコップを持つ手を動かし、また土を掘り始める。

 スコップが何か固いものに当たった。スコップを持つ手が速くなる。銀色の缶がどんどん浮き彫りになっていく。缶の周囲をひたすら掘った。

 アンリはスコップを横に置いて、缶を両手で掴んで抱えた。

 トビエは缶から目を逸らしている。

 

「トビー、ラニエッタ、アンリ」

 

 後方から聞こえた声に、三人は振り返る。

 三人の後ろにレイフォンが立っていた。レイフォンは視線を三人から逸らしている。

 

「二人が遅いから呼んでこいって言われて。それで、その……」

 

 レイフォンの瞳がせわしなく動いている。

 アンリは胸がきゅ~っと締め付けられるような感覚に襲われた。そうだ。この感じだ。さっきは言葉にできたのに、レイフォンを前にするとその言葉が喉の奥で塞き止められる。

 これが嫌で、アンリはおもちゃの缶を掘り出した。そもそもレイフォンを一番憎んでいるのはトビエだった。レイフォンに怒りの視線を向けているトビエ以外の者も、トビエがレイフォンを憎んでいるからという者ばかりだった。だから、レイフォンとトビエが仲直りできれば、この締め付けられる感じが消えるんじゃないかと思った。この缶に、トビエが大切にしていたおもちゃを入れていたのをアンリは見たのだ。

 

「レイフォン兄、これ──」

 

「やめろ!」

 

 アンリがおずおずとおもちゃの缶をレイフォンに渡そうとして、トビエがアンリを突き飛ばした。アンリはおもちゃの缶を持ったまま、尻餅をつく。

 

「トビー!」

 

 レイフォンが怒鳴った。瞳は定まっている。

 トビエはビクリと身体を硬直させた。しかし、それも僅かの間だけだった。

 

「……なに家族みたいなツラして、おれたちの前にいるんだよ」

 

 今度はレイフォンが身体を硬直させた。定まっていた瞳が揺れ動く。

 

「おれたちを捨てたくせに、今更家族(づら)してんじゃねえよ!」

 

「……捨てたつもりはないよ」

 

「闇試合に出て、グレンダンにいられなくなったじゃないか!」

 

「お金が欲しかったんだ。トビーは覚えてないかもしれないけど、昔食糧危機があって。みんなは食べられないのに、武芸者だった僕だけ食べ物を貰って。お金さえあれば、そんなことにはならないと思ったんだ。ここの孤児院だけなら天剣でいることで貰えるお金でなんとかなったけど、全ての孤児院をお金に困らなくするのには全然足らなかった」

 

「でもおれは! おれたちは! 金なんて欲しくなかったんだ! レイフォン兄さえいてくれれば、それで良かったんだ! それなのに、闇試合なんかに出やがって……」

 

 二人とも言葉が無くなった。俯き、突っ立っている。

 

「わたしも兄さんがいてくれた方が良いよ。アンリが兄さんのために一生懸命掘り出したものがあるんだ」

 

 ラニエッタがアンリの両肩を掴み、アンリを自分より前に出した。

 そこでアンリは自分が抱えていた缶のことを思い出し、缶を開けた。

 缶の中には剣と盾を持った木製の人形が入っていた。あまり良い作りとはいえない、不恰好な感じがある。

 アンリはこの人形がなんの人形なのか知らないが、トビエがいつも大事にしていたことは知っていたし、レイフォンから貰ったものだということも知っていた。

 レイフォンはその人形を見て目を丸くしている。

 

「まだ持ってたんだ」

 

「持ってねえよ。土に埋めて捨てたんだ」

 

「ごめん。ちゃんとしたものを買えれば良かったんだけど売ってなかったから……」

 

「けど、レイフォン兄はこいつを作ってくれた。おれはこういうので良かったんだよ!」

 

 この人形はレイフォンが手作りしたものらしい。そう知ってから人形を見ると、確かに色々雑な部分がある。しかし、温かさのようなものも感じた。

 トビエが動き、いきなりレイフォンの頬を殴った。レイフォンならよけられた筈なのに、レイフォンはよけなかった。

 

「これでもうなんもなしだからな」

 

「うん」

 

「次また謝ったら許さないからな」

 

「うん」

 

 トビエは少し涙目になっていた。肩が震えている。涙を見せまいと、必死に我慢しているのが分かった。

 レイフォンは無言でトビエの肩に手を置いた。

 ラニエッタとアンリは男特有の殴って和解が理解できないためぽかんとした表情だったが、これで昔のような関係に戻れると確信し笑顔になった。

 

「……リーリン姉もここにいたら良かったのにね」

 

 アンリがぽつりと呟いた。

 レイフォンの表情が変化していく。和らいだ表情が消えていく。

 

「大丈夫。必ず連れ戻すから」

 

 レイフォンがアンリを見た。

 とてもこわい顔をしている、とアンリは思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 これはもう駄目だな。

 両腕を左右の男たちに抑えられ、無理やり跪かされている二人の武芸者を見ながら、リンテンスはそう思った。

 グレンダン王宮の謁見の間。玉座があり、玉座の前に赤い絨毯が敷かれている。

 アルシェイラが玉座に座り、天剣授受者や三王家の人間が赤い絨毯に沿ってずらりと並んでいた。まるで赤い絨毯が道のように見える。跪かされた二人の武芸者はその道の中にいた。

 ルシフと闘ってから三週間が経過した。王宮の外観はほとんど元通りになったが、調度品や内観までは手が回っていない。アルシェイラの座っている玉座も、前と比べればはるかに安っぽいものになっていた。玉座だけでなく、全てが質素なものになっている。

 

「間違いないのね?」

 

 玉座からアルシェイラが言った。

 

「はい」

 

 取り押さえられた二人の背後にいるカナリスが頷いた。

 そもそも、何故この二人が罪人のように取り押さえられているのか。理由はルシフと闘った日まで遡る。あの日、グレンダンの建物に何者かが火をつけた。ルシフの手の者であるのは間違いないが、それがツェルニにいた者なのか、それともグレンダンにいた者なのかは分からない。この二人はここ数年の間にグレンダンに来た者たちであり、火の手が上がった場所の近くにそれぞれいた。彼らにはルシフと内通し、建物に火をつけた容疑がかけられているのだ。

 

「陛下! おれはルシフなんて男は知らないし、建物に火もつけていません!」

「おれだってそうだ! なんでおれが放火なんかしなくちゃならないんだ! おれは無実だ!」

 

 そうだろう。どっちにしろ、認めるわけがないのだ。

 アルシェイラの目がすっと細くなった。全身から圧倒的な剄が放たれる。アルシェイラの切り落とされた両腕と右足はくっつけられていた。切り落とされた痕もない。

 

「誰が口を開くのを許可した」

 

 跪かされた二人はアルシェイラの放つ剄に呑まれ、口を閉じた。

 

「最初から素直に認めないのは分かってる。だから、あなたたちをこれから拷問する」

 

 二人の顔が青くなった。リンテンスは舌打ちする。謁見の間がざわついた。アルシェイラは不快そうに顔を歪める。

 

「何? 文句あんの?」

 

 アルシェイラから放たれる剄が更に威圧感を増した。謁見の間が凍りつく。言葉はおろか、指一本動かすことすら困難な緊張感がある。

 

「ツェルニの戦闘衣が外部ゲートに四着。外縁部付近の建物の中に三着捨てられていた。普通に考えたらツェルニの人間七人がグレンダンの武芸者から戦闘衣を奪ったことになる。でも、あのルシフがわざわざこんなにも分かりやすい手がかりを残させると思う? 脱いだ後の戦闘衣なんて持っていこうと思ったら簡単に持っていける。

わたしはこれで確信したのよ。これはグレンダンにいる内通者から目を逸らさせるための策だって。実際は剣狼隊の五人しかグレンダンにきてなかったのよ」

 

 確かにこの情報をなんの疑いもなく信じれば、グレンダンに内通者はいないことになる。そうすることで内通者の可能性を潰し、次の決戦の時に内通者を動きやすくしておくというのは、ルシフらしいとも言えるのかもしれない。

 だが、たとえアルシェイラの考えが正しかったとしても、内通者の疑いがある者を捕らえる必要はない。だってそうだろう? あのルシフが、グレンダンという最強の都市に送り込んだ内通者だ。どれだけ拷問されようとも、たとえ殺される寸前までいったとしても白状しない人間を送り込むに違いない。そこをアルシェイラは分かっていない。

 アルシェイラは余裕が無くなっていた。ルシフが何をしてくるのか。あるいはすでに何かを仕込んだのか。どれだけ考えても答えが分からず、頭の中が霧で包まれたようにモヤモヤする。そして、アルシェイラは考えるのを止めた。考えても正しい選択肢が分からないなら、思いついた選択肢を一つ一つ確実に潰していく。

 アルシェイラにとって、取り押さえた二人が内通者でなくても別に構わない。内通者はグレンダンにいない。ルシフは内通者をグレンダンに送っていない。その是非が分かるだけでいいのだ。

 ルシフの厄介なところは、ありとあらゆる計算をしているように見えるところだ。今回の戦闘衣のことでもそうだが、これが罠なのか、それとも単に回収するのを忘れていただけなのかの判断ができない。何か狙いがあるんじゃないか。ルシフの全ての行動が作為に満ちていて、常にその疑惑が頭の片隅に生まれる。

 実際のところ、グレンダンに内通者などルシフは送っていない。簡単にデルボネに見破られると考えていたし、見破られて他の都市にも内通者を送り込んだと考えるようになるのは都合が悪かった。ルシフがわざとツェルニの戦闘衣をグレンダンに残した理由は、これでグレンダンが混乱すれば儲けもの程度の理由しかない。まあ、予想以上だったわけだが。ある意味、ルシフは誰よりも他人に自分がどう思われているか理解している人間なのかもしれない。

 アルシェイラが右手を前後に振った。下がれという意味だ。

 カナリスは頷き、取り押さえている男たちに指示を出す。

 

「陛下! おれはグレンダンを裏切ってなどおりません! 陛下! 陛下!」

「拷問は嫌だああああ! なんでおれがこんな目にあわねえといけねえんだ! ふざけんじゃねえよ! お前ら全員あのガキに痛めつけられちまえ!」

 

 二人は引きずられるようにして謁見の間から連れていかれた。悲痛の叫びが謁見の間に響いている。謁見の間からいなくなっても、二人の叫び声は聞こえた。

 謁見の間に重苦しい沈黙が訪れた。

 

「もしあの二人がルシフの内通者じゃなかったらどうします?」

 

 カナリスが言った。

 

「ここをどこだと思ってるの? グレンダンよ? 拷問の後遺症なんて残らないし、別にあの二人が失うものなんて何もないわよ。違ってたら違ってたでいいの」

 

 グレンダンは汚染獣と頻繁に戦うため、医療技術は全レギオス一である。たった三週間で負傷した者全員が完治したのもこの高い医療技術のおかげであり、後遺症や痕が残ってないのも医療技術が高いためである。

 

「しかし、拷問で感じた痛みは──」

 

「武芸者たる者が痛みを嫌がるのか?」

 

 リンテンスはため息をついた。列から外れ、無言で謁見の間から出ていこうとする。

 

「リンテンス。どこに行くつもり?」

 

「もうここにいる意味がない。だから帰るだけだ。問題あるか?」

 

 確かに天剣授受者や三王家の人間が呼ばれた理由は、さっきの内通者の疑いがある者たちを見るのと、意見があれば発言することだけであった。肝心の捕らえられた二人が謁見の間からいなくなったら、天剣授受者や三王家の人間がいる意味は無くなる。

 

「わたしが出ていけと言ったら出ていきなさい。それまで勝手な行動するな」

 

「ふん。最強の都市の長が、随分と小さくなったものだ」

 

「……なんですって?」

 

「内通者がどうした。策がどうした。向かってくるなら、小細工ごと圧倒的な力でねじ伏せればいい。俺が知っているアルシェイラという女は、こういう考えをする女だった。それが今じゃ見る影もないな」

 

「出ていきなさい」

 

「ああ、出ていく。二度とこんなつまらんことに俺を呼ぶな」

 

 リンテンスは煙草をくわえ、煙草に鋼糸で火をつける。天剣に慣れすぎたせいか、火をつけたら鋼糸が赤くなって砕けた。錬金鋼(ダイト)が壊れない剄量がまだ正確に掴めない。

 アルシェイラはルシフを怖れている。いや、また負けるのを怖れている。アルシェイラ自身、それは戸惑う感情に違いない。今まで生きてきて、恐怖など一度も感じたことはない筈なのだ。

 だからこそ、アルシェイラは未知の感情から逃れようとルシフに関するものを近くから排除して、安心を求めている。

 リンテンスは違った。むしろルシフに感謝していた。極めたと思っていた鋼糸の技術をもっと向上できる可能性を教えてくれたからだ。次ルシフと闘う時に、あの澄ました顔を歪ませたい。それを考えるだけで充実した気分になる。

 武芸者とはこうあるべきだ。恐怖は逃げるものではなく、立ち向かうものなのだ。

 

 ──これはもう駄目だな。

 

 だからこそ、今のアルシェイラを見てリンテンスはそう思ったのだ。

 

 

 

 それから三日後、リンテンスが自室のソファに寝転がりながら煙草を吸っていると、蝶型の念威端子が開いている窓から入ってきた。

 

『二人ともルシフの協力者であることを認めました。建物に火をつけたことも認めています』

 

「そうか」

 

 煙草を吸い、口から紫煙を吐き出す。

 これであの二人が内通者でないことを、リンテンスはますます確信した。拷問に耐えられなくなり、認めてしまったのだろう。

 

『リンテンスさんはどうお考えで? ルシフって子の協力者だと思う?』

 

「あんたはどう思ってるんだ」

 

『わたしですか? わたしは限りなくシロだと思いますがねえ。でも陛下が荒れてらっしゃるから、下手なこと言えませんよ』

 

「俺もあの二人は内通者ではないと考えている。それで、アレはその報告を聞いてどうした?」

 

 念威端子越しに、デルボネがため息をつく音が聞こえた。

 

『今度はルシフって子の情報を洗いざらい吐いてもらう、ですって。拷問も続けるとおっしゃったわ』

 

 リンテンスは舌打ちする。

 ルシフの高笑いが聴こえた気がした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフとマイはアシェナ家に帰ってきた。

 剣狼隊、ニーナ、リーリンは剣狼隊の宿舎の方にいかせた。

 

「マイ。お前は今日から別の場所で暮らせ」

 

 マイは目を大きく見開いた。ルシフの言葉が信じられないようだ。

 

「何故ですか?」

 

「お前もそろそろ一人で生活ができるようになっていい頃だ。安心しろ。お前の希望通りの屋敷をやる」

 

「私は立派なお屋敷も庭もいりません。広いお部屋もいりません。ルシフさまと一緒に暮らせるなら、たとえ路上暮らしでも文句ありません」

 

「これはもう決めたことだ。屋敷は手配しておく。それまでに私物をまとめておけ」

 

「ルシフさま!」

 

 マイは今にも泣きそうな顔になっていた。

 

「いいな?」

 

「……はい」

 

 マイはしょんぼりとうなだれた。

 悪いことをしたと思ったが、これは必要なことである。

 アシェナ家の玄関の扉をルシフが開ける。

 使用人が小走りで駆け寄ってきた。

 

「おかえりなさい、若さま」

 

「その若さまという呼び方はやめろ。今は俺が家主だ」

 

「私にとってはいつまでも若さまです」

 

 この使用人はルシフが産まれた時からアシェナ家の使用人をしていた。年齢も今年で四十になる。母ととても仲が良く、母と楽しそうに家事をしていた。

 この使用人だけは辞めなかった。それ以外の使用人は父が死に、母が出ていってからどんどん辞めていった。最終的にこの使用人一人になった。もっとも、都市民から慕われるようになってから再び使用人として働きたいと言ってきた者も多くいたが、全て断った。一人いれば不自由しなかったからだ。マイも家事を手伝ってくれていた。

 

「お前に言っておくことがある。今日で解雇だ。一年は働かなくても暮らしていける金をやる」

 

「何を言われているのか分かりません」

 

「解雇すると言っている」

 

「嫌です」

 

「何故そうも俺の使用人をやりたがる? 俺より待遇の良いところは探せばいくらでもあるぞ」

 

「あなたがジュリアさまのお子だからです」

 

 ルシフは訝しげに使用人を見た。ジュリアの子だからなんだというのか。

 

「私がいなくなれば、誰があなたの成長を見届けますか。誰がジュリアさまにあなたの成長を伝えられますか」

 

「母は俺と親子の縁を切った。毎年会いに行っても、会話もない。何かに取り憑かれたように父の肖像画を描いているだけで、俺の顔を見もしない。俺のことなどどうでもいいのだ」

 

「それでも、あなたはジュリアさまが辛い思いをしてお産みになった子どもです。ジュリアさまもいつかアゼルさまの死を受け入れ、あなたと向き合える時がくると私は信じております」

 

「母と俺の橋渡しのために俺の使用人を続けるというのか」

 

「ジュリアさまは私の親友でもあられます。親友の笑顔を取り戻したい。そのためには、息子であるあなたが必要だと思います。私はジュリアさまとあなたが笑い合っているところを眺めているのが好きでした」

 

 こんな決意をして、この使用人は自分に仕えていたのか。

 ルシフは自室に戻った。あっという間に使用人を解雇する書類を書き上げる。

 自室から出て、使用人にその書類を渡した。

 使用人は書類を信じられないといった表情で見つめている。

 

「お前は解雇だ。今日でもうここには来なくていいぞ」

 

 使用人は何も言わなかった。

 ふらふらとした足取りで廊下の奥に消えていく。

 

「今までありがとう」

 

 ルシフはぽつりと小さく呟いた。

 使用人が声に反応し、振り返る。

 

「……今何か言いました?」

 

「何も」

 

「そうですか」

 

 使用人の姿は見えなくなった。

 ツェルニに持っていった荷物を片付けたら、念威端子でフェイルスを呼び出す。

 フェイルスはすぐに来た。自室のソファに座っているルシフの前に立っている。マイは部屋の隅の方にいた。

 

「この都市の王になる。そのための段取りを全て整えておけ」

 

「いつまでにやれば? それと何を合図に?」

 

「今日中に終わらせておけ。合図は黒のマントを羽織った時だ」

 

 ルシフが剣狼隊の指揮官として動くときの服装にマントはない。ちなみに、ルシフの場合は赤装束ではなく黒装束である。マイも黒装束だった。黒装束は剣狼隊を統率する者の証であり、剣狼隊は黒装束の人間に従う。マイは剣狼隊念威操者の統率者のため、黒装束を着ていた。

 

「了解しました」

 

 フェイルスが出て行った。

 マイを自室に戻らせ、ルシフは夕食までソファで読書を始める。

 夕食を食べ終わってしばらくすると、玄関の呼び鈴が鳴った。

 ルシフが玄関を開けると、赤ン坊の名前を付けてほしいと言った女性が立っていた。



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第63話 解き放たれる本能

今回、エロティックな描写があります。苦手な方はご注意ください。


 ルシフは女性を自室に招きいれた。マイには絶対に部屋にくるなと言っておいた。マイは不機嫌そうにそっぽを向いて、自分の部屋に戻っていった。

 女性は腰まである艶やかな黒髪で、瞳も黒曜石のように深い黒の瞳をしていた。落ち着いた印象を容姿から受ける。年齢は二十歳。マリア・ナティカという名前だった。

 

「赤ン坊は?」

 

「養父に預けてきました」

 

「そうか。何か言ったか?」

 

「この子はルシフさまの子ではないかと、何回も訊かれました」

 

 マリアは痛みを堪えるような表情になった。

 

「私は違うと答えました。ルシフさまが私のような者を抱くなどあり得ない、ましてや子を宿してくださるわけがないと」

 

「それでいい」

 

「あの子はあなたの子でございます。ですから、名前くらいは父親であるあなたに付けてもらいたく思い、昼間にあなたに会いにいきました」

 

 ルシフがマリアに子を宿した条件は、何があっても父親をルシフと認めないことと、ルシフに父親らしいことを期待するなということであった。当然結婚もするつもりはない。はっきり言って最低な条件である。

 そういった条件を突きつけられ、マリアはそれでもルシフの子が欲しいと願い、ルシフはマリアに種付けをした。

 マリアだけではない。ルシフは子が欲しいと言ってきた女全てに、この条件を突きつけた。その条件を呑めない女もたくさんいた。最終的にマリアも含めて五人がその条件を受け入れたため、もし全員種付けが成功していたら、この時点でルシフには五人の子どもがいることになる。

 

「子どもの性別は?」

 

「男の子でございます」

 

「……リット、リットと名付けよう」

 

「リット……それが、あの子の名前……」

 

 マリアは感慨深そうに呟いた。

 それから数分の間、会話はなかった。

 ルシフはソファに座りながら本を読んでおり、マリアは椅子に座って若干俯いている。たまにチラチラとルシフの方を窺った。その視線にルシフが気付かないわけがない。元来ルシフは、曖昧な態度をとる相手を好ましく思わない。

 

「さっきからなんだ?」

 

「……あの、ルシフさまに、一つだけお願いがありまして……」

 

「なんだ?」

 

「ルシフさまの子と言えなくてもいいです。子育ても私一人で頑張ります。ただ……」

 

「ただ?」

 

「数ヶ月に一度……いえ、数年に一度でもいいです。あなたの温もりを感じさせてもらえないでしょうか?」

 

 ルシフは本を閉じ、ソファに置いた。立ち上がり、マリアの前までいく。

 

「そんな約束はできん」

 

 マリアの表情がかげる。

 

「だが、今なら感じさせてやれる」

 

 マリアの表情がぱっと明るくなり、ルシフの首に両腕を回した。ルシフはマリアを持ち上げ、お姫様抱っこする。そのまま、寝室に行った。ルシフの部屋は二部屋あり、寝室と書斎のような部屋があった。

 ルシフはマリアをベッドに寝かすと、寝室の扉を閉めた。

 上を脱ぎ、上半身があらわになる。そのまま両手をベッドにつき、マリアに覆い被さった。

 マリアは両腕を首に回し、上半身を起こした。唇と唇が触れ合う。一瞬マイの泣き顔が頭をよぎったが、すぐ次の快楽で消えた。

 

 ──いい女だ。

 

 自分の胸に顔をうずめながら、甘く呻いているマリアを感じながらそう思った。

 抱けばとろけるような快感が押し寄せてくる。それだけではない。凛と咲く花のような強さがあり、それが気分を良くさせる。

 行為が終わった後、マリアは床に座り服を着ていた。

 

「……もう帰ります」

 

 マリアが顔を真っ赤にしながら呟いた。乱れた姿をルシフに見られたことに対して、恥ずかしく思っているのだ。

 

「送ろう」

 

「本当によろしいんですか?」

 

「ああ。この都市で何かする度胸がある奴はいないだろうが、真夜中だからな。一般人のお前が一人で帰るのはよくない」

 

「ルシフさまとまだ一緒にいられるなんて夢のようです」

 

 二人で部屋を出た。廊下は誰もいない。マイの部屋はすぐ近くにあるが、部屋から音は何も聞こえなかった。元々アシェナ邸の部屋を仕切る壁は厚く、防音性は高い。扉を閉めると扉の隙間も無くなるため、部屋の光が外に漏れることもないのだ。扉を開けるかノックしなければ、部屋の中にマイがいることは確かめられない。

 ルシフはまっすぐ玄関に行く。そこから外に出て、マリアが住んでいる集合住宅へと向かった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 次の日、朝六時。ルシフは武芸者が集まる建物にいた。黒装束を着ていて、マントは羽織っていない。

 イアハイムの武芸者には二つの所属がある。すなわち、ルシフが指揮する剣狼隊と、ダルシェナの兄ミッターが団長を務める宝剣騎士団。どちらも定員は百名であり、合わせて二百人の武芸者がイアハイムにいる。

 ルシフがいるのはその建物の中の、錬金鋼(ダイト)技師が集まり錬金鋼のメンテナンスや開発をしている部屋である。

 部屋を囲むように置かれている電子機器に、つなぎを着た十数人の技師たち。

 彼らに天剣十二本を渡した。

 

「これがグレンダンにある最高の錬金鋼……」

 

 恍惚とした表情で、技師たちのまとめ役である無精髭の中年の男が呟いた。名をハント・ヴェルといった。

 すぐさま技師たちに指示を出し、天剣の解析を始める。

 

「素晴らしい!」

 

 ハントが歓喜の雄叫びをあげた。

 

「気にいったか?」

 

「そりゃもう! 色々いじくりましたが、これは様々な錬金鋼の良いところを集めた傑作ですよ! 剄の粘度、伝導力、保有力、放熱力、収束力、変化の柔軟性……どれをとっても他の錬金鋼を遥かに凌駕しています! それだけじゃあない! 復元した際の重量設定も自由自在! もちろん破壊力や切れ味、密度、硬度といった武器そのものの性能も極限まで追求できる! この錬金鋼なら、武芸者は一切妥協しなくていいんです! 武芸者が望む武器が実現できるんです! 素晴らしい! なんて素晴らしい錬金鋼なんだ! おお神よ! この素晴らしい出会いを与えてくださりありがとうございます!」

 

 両腕を天井に向けて伸ばし、両膝を床につけてハントは感涙していた。ルシフはハントから二歩距離をとる。

 

「まだありますよ! この錬金鋼の素晴らしいところは!」

 

 ハントが急に立ち上がり、ルシフに詰め寄った。ルシフは近付いてきたハントの顔から逃れるように頭を引いた。目の前にハントの顔がある。くさい息が顔を撫でた。

 

 ──これさえ無ければな。

 

 ルシフは内心でそう呟いた。興味の対象の話になると、ハントは周りが見えなくなるタイプだった。

 

「天剣は念威操者も扱えるんです! 実に! 実に興味深い! ご存知の通り、武芸者の剄と念威操者の念威は全く別の系統です! 簡単に言えば、念威操者には念威が通る素材の錬金鋼でなければならず、武芸者の錬金鋼は全く扱えないのです! しかし! 天剣は念威の設定に変更することができるんです! 一体どんな素材をどういった比率で合成すれば、このような錬金鋼が生まれるのか……。今必死に天剣の素材の解析を始めていますが、エラーが表示されます! エラー! つまり、データベースに存在しない素材が使用されてるんですよ! ああ! 今日にまだ我々の知りえない素材がこの世に存在するとは……。ありがとう! 本当にありがとう! 俺を産み、育ててくれた両親! 今まで俺を生かしてくれたたくさんの命! まだ探究の余地がある世界! 感謝しかねえぞおい!」

 

 ルシフは唾を飛ばして喋りまくるハントの右頬を殴った。ハントは横に吹っ飛び、壁に叩きつけられた。

 ルシフはハンカチで唾がついた顔を拭い、ハントに近付く。そして、胸ぐらを掴んで持ち上げた。

 

「本題に入っていいか?」

 

「……はい(ふぁい)

 

 ハントの顔は腫れ上がっていて、上手く話せないようだ。

 

「この天剣に復元鍵語を追加したい」

 

 様々なコードがくっついている天剣の一つを取り、ハントに渡した。天剣ヴォルフシュテインである。

 

そりゃ構いませんけど(ほりゃはまいまふぇんふぇど)武器の設定はどうします(ぶふぃのふぇっふぇいはほうひまふ)?」

 

「なんて言ってるかまるで分からん」

 

「武器の設定はどうするって訊いてますよ」

 

 技師の一人が言った。

 

「なるほど、そう言われれば確かにそう言ってる気がするな。武器は元のままでいい。あくまで天剣は保険だ。俺にはコレがあるからな」

 

 ルシフが方天画戟に視線を向けた。

 ハントがうっとりとした表情で方天画戟を見つめている。

 それからルシフはヴォルフシュテインにメルニスクの力を込め、レストレーションとルシフの音声で設定した。

 これで天剣ヴォルフシュテインはレイフォンだけでなく、メルニスクの力を使えるルシフも復元できるようになった。

 天剣の解析が一通り終わったら、ルシフは天剣を全て剣帯に吊るした。部屋から出ていこうとする。

 

「ルシフさん。あんたのその武器も解析しがいがありそうですねえ」

 

 舌なめずりをして、ハントが言った。顔の腫れはひいていて、普通に話せるようになっている。

 

「この武器に触ったらその汚れた手を斬り落とす」

 

「いやあ、それは困る。技師にこの手は必要なんでさあ、斬り落とすなら足にしてもらえねえですかね?」

 

 ルシフはため息をついて首を振った。

 

「触るなと言ってるんだよ」

 

「……ルシフさん、それは無理な相談です。目の前にいい女がいたら、ルシフさんはどうします?」

 

「抱く」

 

「でしょう!? 俺にはね、その武器がパーフェクトボディの美女に見えるんですわ! そんな美女が腰振ってアピールしてるんですよ! もうイくしかないでしょ、そんなんされたらァ! たとえ斬られようとも、それは本望ってヤツでさあ!」

 

 ダメだこいつ。

 ルシフは自分を棚に上げてそう思った。

 ルシフは無言で扉を開け、部屋から立ち去った。時刻は九時になっていた。

 ルシフが建物の廊下を歩く。ルシフとすれ違う者は一礼したり、声をかけてきた。ルシフを見てなんの反応もしない者など、誰一人としていなかった。

 ルシフは自分の指揮官室の前で足を止め、指揮官室の扉を開ける。

 

「開けちゃだめー!!」

 

「あ?」

 

 内側から強い力で扉を押している。しかし、ルシフの前では無力。無理やり開けた。金髪の女が尻もちをつく。

 

「あ、ルシフさんでしたか。おはようございます」

 

「おはよう。久しぶりだな、ラウシュ」

 

 金髪の女はずれたメガネを直して、笑みを浮かべる。

 

「えへへ、本当にそうですね。えーと、えーと、約十一ヶ月振りくらいでしょうか」

 

 ルシフが室内に入ると、女は素早く扉を閉めた。

 この女の名はゼクレティア・ラウシュという。年は二十五歳。元武芸者で、イアハイムの王からルシフの秘書として派遣された。故に、剣狼隊に関わる全ての事務を担当しているが、剣狼隊に所属しているわけではない。金髪を肩の高さで切り揃え、瞳も同じく金色。伊達メガネをかけている。

 ルシフは室内を見渡す。

 自分が使っている大きな執務机。その上には書類が山のように大量に置かれている。ルシフの眉がピクリと動いた。まずは執務机のこの状態を見て、ルシフはイラッとした。

 次に執務机と直角に置かれているゼクレティアのデスク。それも書類が山積みで、ゼクレティアの椅子の前だけ、なんとか作業できるスペースが確保してある。ルシフの表情に険しさが追加された。ゼクレティアはあらぬ方向に顔を向けている。

 指揮官室には扉がいくつもあった。トイレやバスルーム、寝室といった生活できる環境も指揮官室には確保してあるのだ。有事の際はこの部屋に泊まり、問題に対処する。

 ルシフは寝室の扉を開けた。ベッドの周りにたくさんの空のペットボトルや食べ終わったインスタント食品の容器を入れたポリ袋が散乱し、日用品や女物の衣類が置かれている。ルシフの表情が鬼の如く恐ろしくなった。剄が威圧感を増し、部屋全体が震えた。

 ルシフはゼクレティアを見る。ゼクレティアはルシフから顔を背けていた。

 

「おい。なんだこの有り様は?」

 

「ワタシチガウワタシチガウ」

 

「じゃあ誰がこんなところに寝るんだ?」

 

「よ、妖精さんかな……いたいいたいいたいいたい!」

 

 ルシフがゼクレティアの右腕を掴み、関節技を決めた。ゼクレティアは左手で床をバンバン叩いている。

 

「俺はそういうしょうもないこと言う奴が嫌いなんだよ。腕、折ろうか?」

 

「わたくしが! わたくしがやりました! ですが! わたくしめの言い分を聞いていただけないでしょうか!?」

 

 ルシフはゼクレティアの右腕を離した。ゼクレティアはホッと息をつく。

 

「聞こう」

 

「ありがとうございます。

ルシフさんがいない間、わたしはルシフさんの仕事と合わせて二人分の仕事量だったんですよ。そりゃ無理ですって。深夜までやっても終わらなかったんですから」

 

「俺がいた頃は二人で三時間かからなかった筈だが? 俺の仕事だけなら三十分で終わった」

 

「ルシフさんとわたしの処理能力を一緒にしないでくださいよ。本のページをめくるように書類を処理できませんって。そのせいでどんどん書類たまっちゃって……」

 

「で? それが寝室の惨状となんの関係がある? そもそもこの部屋の寝室は俺のだぞ」

 

「家に帰る時間も惜しくてルシフさんの寝室使っちゃいました、てへっ……いたいいたいいたいいたい!」

 

 コツンと右拳で頭を叩き、ペロッと舌を出したゼクレティア。その右腕を掴み、ルシフが再び関節技を決めた。ゼクレティアは左手で床をバンバン叩いている。

 

「人の物を使ったら元に戻す。常識も分からないのか」

 

「掃除する時間が無かったんです!」

 

「使用人に掃除させればいいだろうが」

 

 武芸者が集まるこの建物にも使用人はいた。掃除、食事の用意といった家事をしてくれる。

 

「あんなところを使用人に見られたら、わたしの女としてのイメージが終わるじゃないですか!」

 

「……朝、書類をこの部屋に持ってくるのも使用人の仕事の筈だが? その際の指揮官室の掃除も含めて」

 

「書類は扉の前に置いてもらってたんです! そっから自分で部屋に運んで……」

 

 ルシフは呆れた。

 ゼクレティアはポンコツである。ポンコツな彼女が何故ルシフからクビにされなかったか。理由はゼクレティアの記憶力だけは抜群だったからだ。一度見たものは忘れない。書類が山のように置かれているこの部屋でも、どこにどの書類があるか把握しているだろう。

 他にも秘書候補としてあげられた者はいたが、将来性をとってゼクレティアを秘書にした。ツェルニに行くことでゼクレティアを成長させようともした。どうしようもないほど追い詰められれば、嫌でも周りを頼るようになると考えていた。だが、結局ゼクレティアは自分だけで抱え込み、周囲から駄目な女と思われたくない一心がどんどん膨張しただけだった。

 ルシフは関節技を解いた。ゼクレティアはおそるおそるルシフの方を見る。

 

「だ、大体、ルシフさんも悪いんですよ!?」

 

「あ?」

 

 ゼクレティアがルシフから視線を逸らした。右手と左手の人差し指同士をこすり合わせている。

 

「だって、建物の建築、修繕とか、労働環境の改善とか都市民の要望とか、本来なら執政官がやるべき仕事まで全部こっちに回ってきてるし……。剣狼隊に関する事務だけだったらわたしだって……」

 

 確かにルシフのところには、政務に関わるほぼ全ての仕事がきていた。現王よりルシフの方に持っていった方が適切な判断で処理してくれる、と都市民たちが考えているからである。

 そこはルシフ自身、是正しなければならない点だと思っていた。仕事の線引きを曖昧にしていては、内部から腐っていく。組織とはそういうものであり、誰が何を担当しているかは明確でなければならない。

 ルシフとしては今のところは政務も自分が処理した方が都合が良いから放っておいたが、自分が王になったら真っ先に改善しようと考えていた。

 

「わたしはやっぱりクビでしょうか……?」

 

 ゼクレティアは俯いて、小さく呟いた。

 

「毎日深夜まで仕事する職を辞めたくないのか?」

 

「確かにめっちゃキツかったですけど、それだけ自分が必要とされてる感じがして、気分は悪くなかったんです。それに、給料も良いし、ルシフさんと仕事するのは怖いですけど楽しくもありますから」

 

 その言葉が、ルシフの男に火をつけたようだった。昨夜のマリアとの行為が、ツェルニにいる間ずっと眠らせていたルシフの男を覚醒させたらしい。

 

「ラウシュ、仕事の進捗は置いといて、働きづめだったようだな。息抜きしないか? ストレス発散になる」

 

「『息抜き』……『ストレス発散』……」

 

 ゼクレティアはハッとした表情になり、次に顔をほんのり赤くしてジト目になる。

 

「ルシフさん……まさかえっちなこと考えてません?」

 

「嫌か?」

 

「嫌に決まってますよ! まだ仕事中で、仕事も残ってますし!」

 

「休憩時間ということにすればいいだろう」

 

「寝室も汚ないですし!」

 

「ベッドの周りはな。ベッドの上はきれいだ」

 

「で、でも! ずっと働いてて手入れする暇も無かったから、人様に見せられる身体じゃないですし!」

 

「手入れする時間くらいやるよ」

 

「……うう……う~~~~!!」

 

 結局ゼクレティアは生理用品などが入った小さなポーチを持って、バスルームに駆け込んだ。

 

 

 

 ゼクレティアはベッドに寝たままゆっくり目を開けた。上半身を起こす。服は何も着ておらず、裸だった。

 ぼんやりとした頭のまま、ゼクレティアは右手でがしがしと頭を掻いた。それから、ゆっくりと室内を見渡す。室内に散乱していたペットボトルやゴミの袋はきれいに片付けられ、脱ぎ捨てたままになっていた自分の衣類もない。日用品はベッドの横にある引き出しがいくつもついた小さな机の上にまとめて置いてある。

 つまり、寝る前にしていたことは夢じゃない。

 

 ──また抱かれちゃった。噂になったらどうしよう。マイちゃんあたりに知られたら刺し殺されるかも……。

 

 ゼクレティアは深くため息をつく。ルシフがツェルニに行く前も三日に一度くらいのペースでこういう日があった。その時はいつも仕事は全て終わっていたが。

 別にルシフに抱かれたくないわけではなく、むしろ抱かれたいが、仕事のついでのように抱かれるのはちょっと不満だった。プライベートでルシフに抱かれたことは一度もない。

 日用品と一緒に置かれている伊達メガネを手に取り、かける。当然視界に変化はない。周りから頭良さそうだなと思われさえすればいいのだ。

 時計を見る。昼の一時になっていた。

 

 ──抱かれた時間が九時四十三分。終わった時間が十時三十七分。それから疲れてすぐに寝ちゃったから、睡眠時間はえーと、えーと……何時間だろう。二時間半くらいかな?

 

 どうりで身体がダルいわけだ。

 そこで仕事が山積みだったことに思い至り、ゼクレティアの顔が真っ青になる。

 

 ──やっばぁ! 仕事早くやらないと徹夜コースになっちゃうよ!

 

 ベッドから跳ね起き、慌てて指揮官室に続く扉を開けた。

 ルシフが執務机を前にした椅子に座り、書類を次々に処理していた。すでに書類の量は僅かになっている。

 ゼクレティアはホッと息をついた。ルシフのこういうところがゼクレティアは好きだった。自分の仕事が終わってもこっちが終わってなかったらいつも手伝ってくれる。それも恩着せがましくない。

 ルシフがゼクレティアの方に顔を向けた。ゼクレティアは照れ笑いになる。さっきの行為が脳裏にちらつき、普段通りの顔にできない。

 

「あ、あの、ルシフさん。ありがとうございます」

 

「それはいいが、服くらい着て出てこい」

 

「え……?」

 

 ゼクレティアは下を見る。一糸纏わない身体。隠しもしていない。

 

「ああああああああ!」

 

 ゼクレティアは顔を真っ赤にして寝室に駆け込み扉を閉めた。 

 それから二、三分後に寝室の扉をちょっとだけ開き、顔だけ扉から出す。ルシフを睨んだ。

 

「わたしの服全部片付けちゃってるから、そもそもわたしの服が無いじゃないですかぁ!」

 

「ベッドの下に置いといたぞ」

 

「え!?」

 

 ゼクレティアは慌ててベッドの下を見る。服が畳んで置かれていた。

 服を着て指揮官室への扉を開け、ルシフの前に立つ。

 

「イジワルしないでくださいよ!」

 

 ルシフは愉快そうに笑い声をあげた。ひとしきり笑うと、真剣な表情になる。

 

「それはそうと、書類の整理をしていて気付いたんだが……俺がツェルニに旅立ってすぐ、お前自分の給料二十パーセントアップさせたな?」

 

 ゼクレティアの顔に汗の粒が浮かぶ。

 確かに自分の給料は真っ先に増やした。

 

「……てへっ!」

 

 ゼクレティアはかわいらしく笑みを浮かべた。

 ルシフが無言で立ち上がる。

 

「ルシフさんの仕事もやってるんだから、少しくらい給料アップさせてもいいかな~って思ったんです! 別にいいじゃないですか!」

 

「それで仕事を終わらせてるなら文句は言わんよ。だが、実際は仕事を溜めに溜めただけ。成果をあげてないのに報酬だけしっかり貰うのはおかしくないか?」

 

「……うう」

 

 ルシフは徹底した成果主義であり、働いている時間は給料と一切関係ない。月で支払われる給料は基本的に決まっているため、早く仕事を終わらせれば終わらせるほど得をする。もちろん時給制のところもあるため、そこならば働いた時間で給料が決まる。

 

「まあ溜まっていた書類のほとんどは簡単な処理で問題ないものばかりだったから、及第点は与えてやる。だが、もっと処理能力を上げるよう努力しろ」

 

「はい!」

 

 給料がカットされずにすんだ喜びで、ゼクレティアはぱあと笑顔になる。

 ルシフは軽く息をついた。

 安心して気が緩んだせいか、ゼクレティアのお腹がくぅ~と鳴った。ゼクレティアは顔を赤らめる。

 

「そういえば昼食がまだだったな。昼食にしよう。一緒に食うか?」

 

「食べます!」

 

 ルシフが指揮官室の扉を開けた。

 指揮官室の前にはマイが立っていた。念威操者の指揮官室は隣にある。

 

「どうした?」

 

「ルシフさまと昼食を食べようと思って待ってました」

 

「それは別に構わんが、いつから待ってたんだ?」

 

「一時間くらいだと思いますけど、ルシフさまとご飯が食べられるなら全然苦じゃないです。私だけじゃないみたいですけど」

 

 ルシフとゼクレティアが廊下に出る。二十人くらいの赤装束の武芸者たちがいた。若い男女、中年の男など年齢層はバラバラだ。それぞれ腕に様々な色の腕章を巻いている。

 

「じゃあ、全員で食いにいくか」

 

 ルシフがそう言うと、その場にいた者たちの表情が明るくなった。

 ルシフが先頭で廊下を歩き、その後ろにみんなが付いていく。

 

「ゼクレティアさん」

 

 マイがゼクレティアに顔を寄せ、小声で言った。

 

「なに?」

 

「ルシフさまとのアレ、気持ち良かったですか?」

 

「ぶっ!」

 

 ゼクレティアが吹き出した。

 

「え? え? な、ななな、なんのことかな? まさか念威で寝室、見たの?」

 

 マイが無言でこくりと頷いた。

 ゼクレティアの顔が真っ赤になる。

 

「ち、違うの! いつも断るの! でも、断る理由をどんどん潰されて仕方なく……。わたしから誘ったわけじゃないから!」

 

「……いつも?」

 

 マイの表情が氷のごとく冷たくなる。

 

「ゼクレティアさん。端子も無しに相手に気付かれずに念威で盗み見るなんて無理です」

 

「……え?」

 

 つまり、ルシフとの寝室での行為は見られてなかったのか。マイははったりを言って、かまをかけただけだったのだ。

 ゼクレティアの身体がガタガタと震えだす。

 マイは冷笑を浮かべていた。目は全く笑っていない。

 

「私がいなかった一年間、ルシフさまが何をしていたか話を聞く必要がありそうですね。二人きりで。事細かに」

 

「お、お手柔らかにお願いします……」

 

 マイは止めていた足を動かした。

 マイのツインテールが揺れるのを後ろから見ながら、ゼクレティアも歩き始めた。

 全て話し終えた後、細かく切り刻まれて豚の餌にされるんじゃないか。

 ゼクレティアはそう思い、食堂に向かう足が重くなった。




どんどん新キャラが出てきますが、ルシフとマイ以外はモブキャラなので覚えなくても大丈夫です。
マリア=男の理想
ハント=変態技師
ゼクレティア=ポンコツだけど周りから有能だと思われたい
みたいなイメージでキャラ設定しました。

それはそうと今回、何も良いタイトルが思いつかなかったとはいえ、このタイトルは本当にひっどい。何か良いタイトルが浮かんだら、タイトル変更します。

─追記─

タイトル変更しました。前のタイトルは探さないでやってください。


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第64話 魔王との付き合い方

 ルシフが昼食を食べているのと同じ頃、ニーナとリーリンも飲食店でヴォルゼーとともにご飯を食べていた。ヴォルゼーの他にも二メートル近い大男が一緒にいる。赤装束で、腕に茶色の腕章を巻いていた。

 ニーナとリーリンの後ろにも、剣狼隊の同い年くらいの女がそれぞれ二人ずつ控えている。彼女らはルシフの指示でニーナとリーリンの侍女のようになっていた。部屋の掃除から洗濯といった家事全般、果ては風呂場での身体洗いまで、まるでおとぎ話のお姫様のような扱いをされている。さすがに風呂場での身体洗いは二人とも断ったが、それ以外はどうしてもやらせてほしいと譲らなかった。同じ女ということもあり、他人に身体を洗われる抵抗は理解してもらえたようだが、それ以外は聞く耳をもたない。

 彼女らにとって、自分たちの主張は得である。仕事が減るのだから。だが、彼女らはやると言い張るのだ。何故かと尋ねると、ルシフから怒られたくないからだと言った。しっかり仕事をこなせば、ルシフは褒めてもくれる。だから、仕事を奪うようなことは言わないでと。

 

「ニーナ、リーリン。ここの料理はどう?」

 

 ヴォルゼーが言った。その後、ラーメンの麺をすする。

 料理はラーメンやチャーハン、焼売など、中華料理ばかりだった。大きい器にそれぞれ盛り付けられていて、手元にある器に好きなだけ取って食べる。そういう食べ方だった。

 

「おいしいです」

 

「わたしも、おいしいと思います」

 

 ニーナとリーリンが言った。

 リーリンの右目は黒の眼帯で覆われている。交通都市ヨルテムに滞在中、ルシフと二人きりで話していた時間があった。何を話していたかは知らない。部屋から追い出されてしまったからだ。その話が終わってからリーリンに会うと、黒の眼帯をしていたのだ。一度だけ眼帯の下を見せてもらったが、なんともなっていなかった。リーリンに何故眼帯をしているのか訊くと、この方が良いからだと言った。ルシフと何を話したか訊いても、大したことじゃないからとはぐらかされた。何か隠し事をしていると直感で感じたが、リーリンはそこに干渉してくるのを拒絶している。それも話の中で感じた。

 リーリンには何かある。だからこそ、グレンダンの女王はリーリンをグレンダンに連れ帰ろうとしたのであり、ルシフがリーリンに興味を持つきっかけになってしまったのだ。

 

「そう。それは良かったわ。ヴォルゼーが頑張って選んだ甲斐があったわね」

 

 ヴォルゼーは嬉しそうに笑った。

 

「ニーナ。どうしてルシフに敵意があるの?」

 

 いきなり、真正面から斬りつけられたような感じだった。

 ニーナの瞳が揺れ動く。ニーナとリーリンの後ろに立つ四人の女が、僅かに殺気を放った。

 

「わたしは別にルシフを敵視なんてしてません」

 

「嘘ね。ニーナがルシフを見る時、いつも剄がほんの少し乱れてるもの。ヴォルゼー、そういうの感じるの得意なのよ。

ツェルニでルシフが何をしたか、話してみてくれないかしら?」

 

 ヴォルゼーに尋問されてるという感じはしなかった。何故ニーナがルシフを敵視しているのか。純粋な好奇心で訊いているだけのようだった。

 ニーナの顔をリーリンが見ていた。ルシフがどういう男なのか、知りたそうな表情をしている。

 体感で数分は黙っていたと思う。だが、実際は一分も経ってないかもしれない。

 ニーナはぽつりぽつりと話し始めた。ルシフが入学してきた時のこと。小隊での出来事。汚染獣の幼生体が襲撃してきた時のこと。グレンダンの女王にボコボコにされた時のこと。老性体、雄性体三体と闘った時のこと。廃都市での出来事。違法酒の件。サリンバン教導傭兵団との争い。それによるマイの瀕死と暴走のこと。ファルニールとの都市間戦争と、その時に現れた老性体との激闘。グレンダンとの闘いでグレンダンに勝ったこと。思いつく限りを全て話した。

 ヴォルゼーはニーナの話を真剣に聞いていた。ニーナの話に頷き、たまに笑い、たまにちょっとした質問をしてきた。

 そのせいか、最初の方にあった話す時の緊張は解け、途中からは自然体でただ頭に浮かんだことを話すようになっていた。

 

「ルシフは冷酷すぎるんですよ。平気な顔をして、相手を痛めつける。手段も選ばない。利用できるものはなんでも利用する。そういうのが、わたしは許せない」

 

 こんなことまで、ニーナはヴォルゼーに言ってしまった。

 ヴォルゼーがマイ、バーティン、アストリットのようにルシフに心酔していないように感じるから、こういうことが言えるのだろう。もしマイたちにこれを言ったら猛反発されるのは、火を見るより明らかだった。

 ヴォルゼーはなんというか、ルシフから一歩引いた場所でルシフを見ているような感じがある。だから、ルシフのことを話しやすいのかもしれない。

 

「じゃあ、ニーナはどうすれば良かったって思う?」

 

「……え?」

 

「あなたが話してくれたルシフの話。その中で、ルシフはたくさんの選択をしてきた。ニーナがルシフの立場だったらその時、どういう選択をするのがベストだったと思う?」

 

「それは……」

 

 そういうことを、ニーナは考えたことがなかった。ただルシフのやり方は非情すぎると思っていただけだった。

 

「そういうのを考えて相手を非難しないと。ただあのやり方はダメだって言うなら、子どもだって言えるのよ」

 

 その通りかもしれない、とニーナは思った。

 ルシフのやり方はダメだと思う。だが、ならどうすれば良いかというところまで考えなければ、ルシフに言葉は届かない気がする。

 

「ニーナに一つ、ルシフとの付き合い方を教えてあげるわ」

 

 ルシフと上手くやっていくコツのようなものか、とニーナは思った。ならば、知っておいて損はない。

 

「それは?」

 

「ルシフを好きになることよ」

 

 ニーナは吹き出した。リーリンも食べ物を喉に詰まらせたのか、激しく咳き込んでいる。

 

「いきなり何言ってるんですか!?」

 

「好きになるって言っても、別に結婚したいとか、恋人になりたいとか、そういう感情じゃなくてもいいのよ。ただ好意的にルシフに接する。それだけであの子は随分変わるわ」

 

「……本当ですか?」

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。あの子はね、鏡なのよ」

 

「鏡?」

 

「好意的に接すれば好意的に。敵意を持って接すれば、ルシフも敵意を持って接する。好意が上がれば上がるほどルシフの接し方も柔らかくなり、逆に敵意を強めれば強めるほど、ルシフも冷酷になる。まあ、例外もあるけどね」

 

「例外?」

 

「ルシフ自身が気に入った相手は、たとえ相手に敵意があっても好意的に接するのよ。でも、基本は鏡。ルシフが気に入る相手なんてそういないから」

 

 ルシフの態度が相手によって決まる。そんなものは嘘だと思った。ルシフに好意を抱いていた教員たちがルシフの暴走を止めようとした時、ルシフは平気で排除しようとしていた。

 

「ルシフはそんな男じゃありませんよ。どれだけ好意的でも平気で傷つける奴です」

 

「厄介なことに、あの子は目的のためなら私情を殺すことができるの」

 

 ヴォルゼーは苦笑した。

 

「どれだけ好意的に接しても、目的を達成するのに邪魔な障害物と判断されれば、問答無用で敵にされる。でもね、そこでルシフに屈すれば、別に痛い目には遭わないの。つまり、常にルシフに好意的に接し、ルシフが敵対してきても抵抗せずに屈服する。これがルシフとの付き合い方よ」

 

 ニーナの中で、怒りに似たものが膨らんでいる。

 それはつまり、ルシフにとって都合の良い人間だけが生きやすく、ルシフを嫌いな人間は生きづらい、ルシフ中心で回っている世界だ。ルシフの意はなんでも反映され、ルシフの好きなように創られる世界だ。そんなことが許されていい筈がない。

 

「わたしには無理です」

 

「そう。厳しい生き方になるだろうけど、頑張ってね。でも忘れないで。ルシフの敵になるということは、ヴォルゼーの敵になるということ」

 

 ヴォルゼーの表情が凄絶な笑みになる。

 ニーナは金縛りにあったように動けなくなった。

 

「ヴォルゼーの前に立つ時は、今より少しでも強くなっててね。あなたとの闘いを楽しみたいから」

 

「ヴォルゼーさんは、どうしてルシフに従ってるんですか?」

 

 リーリンが訊いた。

 

「退屈しないから、かな。それと、いつかルシフを殺したいのよね」

 

 ニーナとリーリンはぎょっとして、周囲の他の剣狼隊を見る。一緒に食事をしている大男はただ苦笑しているだけだ。後ろにいる侍女のようになっている女たちは、ただ困惑した表情を浮かべていた。

 ヴォルゼーは楽しげな笑みになる。

 

「勘違いしないでよ。ルシフのことは気に入ってるんだから」

 

「なら、なんで殺したいんです?」

 

「なんでって言われても、ちょっと説明できないのよね。殺したくなる魅力があるとしか言えないわ。今は全然殺す気ないけど。まだ早いのよね、殺すのは。もっと大きくなってからじゃないと」

 

 殺したい相手なのに、気に入っていて仕える。ニーナとリーリンにその感覚は理解できなかった。

 

「あなたはどうしてです?」

 

 リーリンが大男に訊いた。

 大男はスケッチブックを取り出し、ペンを走らせる。書き終えた後、スケッチブックをニーナとリーリンに見せた。《世界を壊してみたいから》と書かれている。

 ニーナとリーリンはゾッとしたようなものを感じた。自分が何を書いたか分かっていないのか、大男は照れたような笑みを浮かべている。

 

「じゃあ、そろそろルシフのところに行きましょうか。多分、今の時間ならプエルのところにいると思うわ」

 

ヴォルゼーは会計を済ますため、店員を呼んだ。会計を済ますと、全員席を立った。

 

「あ、そうだ。ニーナ、リーリン。二人にあげたいものがあるの」

 

 ヴォルゼーは懐から銀の首飾りを二つ取り出し、ニーナとリーリンに渡す。首飾りの先端には、小さなルビーの宝石が丸い形をした銀の中にはめられていた。かなり高い首飾りだろう。

 

「いいんですか? もらっても」

 

「ええ。気に入った相手にはあげることにしてるの。ヴォルゼーの手作りよ」

 

 ニーナはルビーの装飾がある部分の裏を何気なく見てみる。裏には小さく『ヴォルゼー・エストラ』と刻まれていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 午後二時十五分。

 中央部にある公園の広場。大きな木が一本少しだけ盛り上がった丘のようなところにあり、辺り一面が芝生で覆われている。

 その木の下、茶髪の少女が座って琴を弾いていた。胸まである茶髪の一部をサイドテールにしている。茶色の瞳に抜けるように白い肌。赤装束を身に纏い、右腕にオレンジの腕章。

 少女の名はプエル・フェ・チェンといった。ルシフやダルシェナと同じ、候家の人間である。年齢は十九歳。

 プエルの休憩時間はいつも二時から三時の一時間であり、晴れの日はいつもこの場所で琴の練習をしていた。

 琴を弾いていると、ルシフが方天画戟を手に持ち足音を立てずに近付いてきた。当然プエルはルシフに気付いているが、琴を弾くのを止めなかった。

 ルシフは静かにプエルの隣に座り、後ろにある木に頭をもたれさせて目を閉じた。

 琴の音色が響き続ける。心の隅々まで沁み渡り、優しく癒していくような音色だった。

 プエルはチラリとルシフを見た。

 ルシフは目を閉じたままだった。琴の音に全神経を集中させている。

 

 ──おかえりなさい、ルっちゃん。

 

 プエルは微かに笑い、琴を弾き続ける。

 お互いに無言だった。

 琴を弾き、ルシフがそれを聴く。ただそれだけの時間がプエルは好きだった。お互いに別の相手と結婚して、子どもができたとしても、この時間がいつまでも続いてほしいと願う。

 プエルは別にルシフを異性として好きではない。友だちとして好きなのである。だが、プエルに異性として好きな相手は今までできたことがない。というより、プエルはルシフ、マイとよく一緒に行動した。あるきっかけでルシフに興味を持ち、ルシフのことをいつも見ていた。そのせいか、いつの間にかプエルの中の男の基準はルシフになっていた。ルシフと比べると、どんな男も色()せ、物足りなく感じた。

 人が集まってきていた。赤装束を着ている者が大半だったが、公園に遊びに来た親子などもいた。

 全員音を立てないように近付き、芝生に立ったままだったり、座ったりして琴の音を聴いていた。

 ルシフがいると、人が集まる。それも好きだった。こうしてずっとみんなで穏やかな日を過ごしたい。

 琴を弾く指が震えてきた。ここにいる全員が、自分の生み出す音を聴いているのだ。

 また誰かが近付いてきた。ヴォルゼーやニーナたちだった。

 

「素晴らしい音色だッ!?」

 

 ニーナの呟きは、方天画戟の柄を脳天に叩き込まれて途切れた。ルシフが片目を開けている。不機嫌そうな表情だった。

 ニーナは両手で頭を押さえてうずくまる。涙目でルシフを睨んだ。

 

「いきなり何を……!」

 

 ルシフに怒鳴ろうとしたニーナの口を、侍女の仕事をしている剣狼隊の女たちが慌てて手で塞いだ。ニーナはもごもごと何か口を開いているようだが、音にはなっていない。

 ルシフはこういうのにとてもうるさかった。音を聴いているのに雑音を入れたり、食事をしているのに口に物を入れて喋ったりすると、烈火の如く怒るのである。前にも剣狼隊のある一人が食事中に口に物を入れて喋ったため、ルシフが食事の席から追い出したことがある。

 プエルの指の震えはどんどんひどくなっていた。琴を弾く指が自分の意思と無関係に動くような感覚になっている。やがてプエルは琴の音を外してしまい、そこで琴を弾く指が止まった。

 音が無くなると、大きな拍手がプエルを包み込んだ。

 

「今日はここまでか。相変わらず、プレッシャーに弱いな」

 

 ルシフがプエルの隣に立っていた。

 

「……ルっちゃん」

 

「だが、一人の時に弾いているお前の琴は最高だ。心を揺り動かす力が音に宿っている」

 

「褒めすぎだよ」

 

 プエルは顔を赤くした。照れているのだ。

 ルシフはプエルに背を向ける。

 ルシフの前の人だかりが真っ二つに割れた。

 

「俺はイアハイムに帰ってきた。お前の琴を聴いたら、それを実感した。最高のひとときだったぞ」

 

 ルシフは人だかりが割れてできた道を歩き、プエルの前から去っていった。

 琴を片付け、立ち上がる。

 周囲に集まっていた人も、どんどんいなくなっていた。

 プエルはルシフが去っていった方向を見た。

 

「あたしも、最高のひとときだったよ。ありがとね、ルっちゃん」

 

 プエルは呟き、琴をしまったケースを抱えて歩き出した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはプエルのいた場所からまっすぐ王宮に向かった。黒装束で、マントは羽織っていない。

 ルシフの後ろからはマイ、ヴォルゼー、ニーナ、リーリンが付いてきていた。大男と女四人も一緒である。

 王宮の入り口には番兵が二人左右に立っていた。赤装束ではない。白を基調とした戦闘衣を着ている。王宮の警護は宝剣騎士団に一任されていた。

 

「ルシフ殿。錬金鋼(ダイト)は我々に預けてください」

 

 番兵の声は震えていた。

 緊急時以外は、王宮に錬金鋼を持って入るのを禁止されている。間違いが起きないようにするためである。

 ルシフは方天画戟を番兵に渡した。番兵はホッとした表情で方天画戟を受け取り、すぐに驚いた表情になる。

 

「ルシフ殿。これは錬金鋼ではないのですか?」

 

「錬金鋼だ」

 

「しかし、ルシフ殿の手を離れても錬金鋼に戻りません」

 

「俺の手から離れても、その武器は俺の剄を帯びているからな」

 

 ルシフは常に方天画戟を持ち歩き、尋常ではない剄を注ぎ続けていた。そのせいか、ルシフの手を離れても方天画戟の剄が途切れることが無くなったのだ。

 ルシフが番兵二人を正面から見る。威圧的な剄が更に勢いを増した。番兵二人は顔を青ざめて後ずさりした。

 

「いいか? よく覚えておけよ。俺の方天画戟を少しでも汚したら、お前らは明日から両手無しで生きてもらうからな」

 

「は、はい! 分かりました! 細心の注意を払い、ルシフ殿の武器を扱いたいと思います!」

 

「それでいい」

 

 ルシフは王宮に悠然とした足取りで入っていった。

 マイやニーナ、女四人も錬金鋼を番兵に渡す。ヴォルゼーと大男は番兵を無視して王宮に入った。ニーナが不思議そうにヴォルゼーと大男に視線をやった。

 ニーナの視線にヴォルゼーは気付き、笑みを浮かべる。

 

「ヴォルゼーとサナックは錬金鋼、持ってないのよ。ヴォルゼーたちの剄に錬金鋼が耐えられないから」

 

 ニーナとリーリンは驚いた。それはつまり、この二人は天剣授受者に匹敵する武芸者ということ。次グレンダンと戦闘した時、間違いなく脅威になる。

 ルシフたちが王宮に入ると、宝剣騎士団の一人がルシフたちの前に立った。錬金鋼を剣帯に吊るしている。王宮警護の武芸者は特例として、錬金鋼の所持を認められていた。

 

「謁見の間まで案内いたします」

 

 宝剣騎士団の武芸者がルシフの前を歩く。ルシフたちはその後ろを無言で付いていった。

 

「ねえ見て、ルシフさまがいるわ」

 

「相変わらず美しいお姿。たまらないわね」

 

 王宮にいる使用人らしき若い女たちが、ルシフの姿を見て騒いでいた。

 ルシフはそちらにチラリと顔を向ける。女たちからかん高い歓声があがった。

 ルシフはすぐに顔を正面に戻す。いつも通りの勝ち気な表情で歩いていた。今のはルシフなりのサービスなのだろう。なんとなく腹が立つが。

 ニーナは王宮を歩きながら、周囲を見渡す。

 一目で高いと分かる調度品がそこかしこに置かれていた。都市で一番偉い人が住む場所なのだ。どの都市でもこれは当たり前のことなのかもしれない。

 大きな扉の前で、武芸者は立ち止まった。

 武芸者が扉をノックすると、内側から扉が開いた。

 

「中にどうぞ」

 

 武芸者が扉の方に腕を伸ばした。

 ルシフは武芸者を横切り、謁見の間に踏み入れた。続いて、ニーナたちが謁見の間に入る。

 玉座に中年の男が座っていた。

 玉座の前には階段のような段差が五段あり、灰色を基調とした絨毯が玉座から扉の前まで敷かれていた。絨毯には汚染獣を殺している騎士や王冠、盾、剣、王宮などが刺繍されている。

 玉座は高い位置にあるため、誰もが見上げるようにして玉座に座る男を見なければならない。

 謁見の間の段差に近い方には、執政官らしき人物や民政院の政治家たちが並んでいる。

 更に、謁見の間には宝剣騎士団が数十人といた。全員それぞれの武器をすでに復元している。玉座の後ろに二人立ち、謁見の間の絨毯から少し離れたところで絨毯と平行に整列していた。左右対称に整列しているため、謁見の間に閉じ込められたような印象を受ける。

 ルシフは左右に並ぶ宝剣騎士団を全く気にせず、歩き続ける。マイ、ヴォルゼー、サナック、侍女四人も左右に誰もいないかのように自然体で歩いた。

 ニーナとリーリンにはそれができなかった。左右に並んでいる宝剣騎士団と呼ばれる武芸者一人一人が、かなりの強さであると感じたからだ。

 ニーナとリーリンはおそるおそるという感じで、ゆっくりとルシフたちの後ろを歩いた。

 段差の前でルシフが立ち止まった。マイたちも止まる。

 

「ルシフ、陛下の御前であるぞ! 跪け!」

 

 玉座の後ろにいる金髪の若い男が叫んだ。ミッター・シェ・マテルナ。宝剣騎士団団長であり、王の息子でもある。

 ルシフは不愉快そうな表情になり、一歩踏み出す。段差に右足が乗った。

 ミッターは明らかに動揺した。周囲にいる宝剣騎士団の面々に視線を飛ばすが、宝剣騎士団はそれに気付かない振りをしている。

 宝剣騎士団といえど、ルシフの恐ろしさはよく理解していた。ルシフの機嫌を損ねたら、どんな場所であろうと惨劇が幕を開けるのだ。これだけの人数がいようとも、ルシフはものともしないだろう。それに加え、ヴォルゼーとサナックがいる。錬金鋼の有無など、この三人に関係ない。

 

「よい、ミッター。そんな些事、私は気にせん」

 

「しかし、面目というものがあります」

 

「ルシフは私にとって頭脳のようなものだ。頭脳に頭を下げさせるのか?」

 

 玉座に座った男は笑い声をあげた。それにつられ、宝剣騎士団の何人かも笑った。ミッターが笑った団員を睨むと、団員たちは真顔に戻った。

 ルシフが一礼する。

 

「陛下。イアハイムに帰還した挨拶と、連れてきた客人たちの待遇に関して、話をしに参りました」

 

 ニーナはルシフが丁寧に話しているのに驚いて、ルシフの方を凝視した。後頭部しか見えないが、それでも見た。

 ルシフが丁寧に話すなど、ツェルニでは一度として無かった。どんな相手にもタメ口、上から目線は当たり前だった。

 ルシフも王の前となると、多少は立場をわきまえるらしい。

 

「私には昨日の昼に君が帰ってきたという情報が入っていたのだが、丸一日遅れるとは……」

 

「色々忙しかったんですよ」

 

「だろうな。君がいるのといないのでは、都市の活気がまるで違う。君には色々苦労をかけて、申し訳なく思うこともある」

 

「気にしないでください。俺も好きでやっていることです」

 

「そう言ってもらえると気分が晴れる。それで、客人とはその二人かね?」

 

 玉座の男がニーナとリーリンに視線をやる。

 ニーナとリーリンは反射的に軽く頭を下げた。

 

「はい。彼女ら二人は今、剣狼隊の宿舎の空き部屋にそれぞれ住まわせています。滞在中の費用は全て俺が出します。陛下は滞在許可証だけ発行していただければ」

 

「君が連れてきた人物だ。間違いなどなかろう。すぐに滞在許可証を発行し、剣狼隊の宿舎に届けさせよう」

 

「感謝いたします。では、これにて失礼させていただきます」

 

 ルシフは再び一礼し、回れ右をする。マイやニーナ、リーリンを横切り、謁見の間の扉の方へ歩いた。

 その後ろをニーナたちも付いていく。

 

「ルシフ君」

 

 玉座の男が声をかけた。

 ルシフは立ち止まり、振り返る。

 

「これからも私の力になってくれ」

 

「俺はいつでもあんたの力になります」

 

 ルシフが再び歩き、謁見の間の扉に近付く。近付くと、扉の前にいる宝剣騎士団の二人が扉を内側に開けた。

 ルシフたちは謁見の間を出る。謁見の間に出ると、案内をした宝剣騎士団の武芸者が再び先頭に立った。

 

「入り口まで案内いたします」

 

 その武芸者の後ろを歩き、王宮から出た。

 

「どうぞ。あなた方の錬金鋼です」

 

 王宮から出ると、番兵が錬金鋼を渡してきた。ルシフは方天画戟を手渡されている。

 ルシフは方天画戟をじっと眺めた。緊張した表情で番兵二人は立っている。

 

「きれいなままだな」

 

「はい。汚さないよう心がけました」

 

「よくやった」

 

 ルシフは懐から金を取り出し、番兵二人に渡した。番兵二人は周囲を軽く窺ってから、金を受け取る。表情は嬉しそうだ。

 番兵二人は頭を軽くさげた。

 

「ありがとうございます、ルシフ殿」

 

 ルシフは番兵に軽く手を振り、王宮を後にした。

 王宮の敷地を抜けると、ルシフは振り返ってニーナたちを見た。

 

「俺はこれから行くところがある」

 

「お供いたします、マイロード。ヴォルゼーたちはいつでもあなたの力になりますので」

 

 そう言うと、ヴォルゼーは笑い声をあげた。サナックも笑みを浮かべ、マイと侍女四人もくすりと笑う。

 ルシフは舌打ちし、そっぽを向いた。

 ルシフのそんな子どもっぽい仕草に、ニーナとリーリンも思わず笑ってしまった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフたちは大きな屋敷の前に来ていた。

 

「このお屋敷は?」

 

「ジュリア・ミューエさまのお屋敷です」

 

 ニーナの問いに、マイが答えた。

 

「以前はジュリア・ディ・アシェナという名でした」

 

 マイが表情を暗くした。

 それだけで、ジュリアという人間とルシフがどういう関係なのか、察しがついた。

 

「俺の母だった人だ。縁を切られたが、毎年生活費を渡している。俺を産み、十年間育ててくれた人だからな」

 

 ルシフはただ屋敷を見ていた。ニーナはルシフの後ろにいるため、表情は分からない。

 ルシフが振り返る。いつも通りの表情だった。

 

「見たくないものを見るかもしれん。ここで待っていてもいいぞ」

 

 見たくないものではなく、ルシフが見せたくないものなんだろうとニーナは思った。だからこそ、見なければならないと感じた。それに、ルシフの母親なのだ。ルシフについて、深く知れるかもしれない。

 リーリンも同じ考えのようで、黙ってルシフを見ていた。

 ルシフは軽く息をつく。

 

「絶対に取り乱すなよ」

 

 ニーナはギクリとした。ルシフがここまで言うということは、本当に見たくないものがこの屋敷にあるのかもしれない。だが、今さら後に引けない。

 ルシフが呼び鈴を鳴らす。

 扉が半分開き、使用人らしき女が顔を出した。

 

「お前は……」

 

「若さま……」

 

 その使用人は昨日ルシフが解雇した使用人だった。解雇された後、すぐこの屋敷に雇われにいったらしい。

 

「若さま、私は今まで知りませんでした。ジュリアさまが、ここまで変わり果てておられるとは……」

 

 使用人が両目から溢れる涙をハンカチで拭っていた。

 

「開けてくれ。母の様子が見たい」

 

 使用人が無言で扉を全開にした。

 ニーナとリーリンは口を両手で押さえた。叫び声をあげそうになったからだ。

 ヴォルゼーやマイも悲しげな表情で視線を屋敷から逸らした。ルシフだけは屋敷の中を直視している。

 顔である。床、壁、天井まで、隙間なく同じ顔が描かれている。短い赤髪をオールバックにし、赤い瞳をした男。顔つきから、かなり体格が良かったのだろう。その顔が、ずっと廊下の奥まで連なるようにして描かれているのだ。

 

「アゼルさま……」

 

 マイが視線を逸らしながら、そう言った。

 ニーナとリーリンがマイに視線を向ける。

 

「ルシフさまのお父さまです」

 

 二人の視線に気付き、マイが続けて言った。

 ルシフは何事もないように、屋敷の中に足を踏み入れた。父親の顔を踏みながら、屋敷の奥に進んでいく。

 ニーナたちもためらいながら、なるべく顔を踏まないように歩いた。

 ルシフが一番奥の部屋の扉を開けた。そこで立ち尽くしている。

 ルシフの後ろにくるようにして、ニーナたちは部屋の中を見た。

 女性が座り、黙々と大きなスケッチブックに男の上半身を描いていた。おそらくルシフの父親の肖像画なのだろう。戦闘衣を着て、威厳のある顔をしている。

 女性は痩せ細り、黒髪もボサボサだった。頬も痩せこけている。ルシフの母親なら四十前後の年齢だろうが、五十代、下手したら六十代と言われても違和感がないほど老けていた。

 

「ジュリアさまは、本当に美しいお方だったんです」

 

 マイが呟いた。

 使用人は数人いた。絵を描く女性の後ろに控えている。おそらく食事も排泄も全て使用人の手に任せているのだろう。部屋の床は描き終わった絵で埋め尽くされていた。部屋の壁と天井も、廊下と同じ惨状だった。顔で囲まれている。

 ルシフが部屋にいる使用人に向かって手招きした。使用人がルシフに近付く。

 

「生活費を渡しにきた。一年は暮らせる」

 

「ルシフさま。そんなものはいらないと、毎年言っております。今まで受け取った生活費も、全く触っておりません。ジュリアさまは絵で充分稼がれておりましたし、遺産も残っております」

 

「それでも、受け取ってほしい。別に許してほしくて渡しているのではない。俺自身に刻んだ約束を果たしているんだ」

 

 使用人はため息をつき、ルシフから渡されたカードを受け取った。おそらく生活費を渡す度にしているやり取りなのだろう。

 ルシフはチラリと一度女性を見ると、無言で玄関に向かった。ルシフの声が響いても、女性はルシフに一度も視線を向けず、ずっと絵を描いていた。

 屋敷を出ても、ルシフはずっと無言で歩いた。何かを話せる空気でもなく、誰もが無言で歩いていた。

 しばらく歩くと、ルシフがニーナたちを見た。

 

「ひどいものだったろ。あんなのが、俺の母だ」

 

 表情はいつもと変わらない。

 

「ルシフ、一体何があったんだ?」

 

「俺が壊した。背負うべき(もの)の一つだ」

 

 日の光が、ルシフを照らしている。

 ルシフの表情がほんの少しだけ、寂しそうな表情になった気がした。



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第65話 存在価値

 レイフォンはグレンダン王宮に来ていた。フェリとシャーニッドも一緒である。

 レイフォンがここに来た理由は、念威端子でデルボネに呼び出されたからだ。何故呼び出されたかは知らない。ただ呼び出されたから行く。それだけだ。理由はどうでもいい。

 フェリとシャーニッドは別に呼ばれてない。勝手に付いてきた。どうやらフェリはデルボネに、シャーニッドはバーメリンに師事したいようだ。

 グレンダン王宮の天剣授受者が集まる詰め所。そこが、呼び出された場所だった。

 レイフォンが詰め所の扉を開ける。リンテンス、サヴァリス、リヴァース、カウンティア、バーメリン、ティグリスが円卓の椅子にそれぞれ座っていた。

 円卓の椅子は十席しかない。レイフォンがいた時は十一席あった。デルボネはそもそも病室から動けないため、デルボネの席がないのは当然だった。現天剣授受者の数しか席を用意しないのは、レイフォンが天剣授受者になった時からあった。

 レイフォンは当たり前のように、空いていて一番近い椅子に座った。円卓にルイメイというプレートが置かれている。

 ルイメイの席に座ったことに嫌悪感を感じたが、一度座った以上今さら席を移すのはばつが悪く、席を立たなかった。

 シャーニッドとフェリは席に座る勇気を出せず、レイフォンの後ろに立つ。

 

「何故僕を呼び出したんです?」

 

 レイフォンが訊いた。

 蝶型の念威端子がレイフォンに近付く。

 

『あなたが長くルシフの近くにいたからですよ』

 

 ルシフの情報を引き出すためか。

 レイフォンは円卓を見渡す。リンテンスはいつも通り煙草を吸っていた。リヴァースとカウンティアは隣同士でいる。サヴァリスは退屈そうにあくびを噛み殺していた。ティグリスは髭を撫でながらも、レイフォンを真剣な表情で見据えている。バーメリンはイライラしていた。舌打ちし、貧乏ゆすりをしている。

 

「ルシフの情報なんて、そんなものないですよ。ルシフは僕と同じように一目見た剄技を理解し、自分のものにしてしまうほど武芸のセンスが高い。廃貴族というものを手に入れたため、陛下並の剄量がある。頭が良く、手段も選ばない。行き当たりばったりではなく、しっかり計画を練ってから行動に移す。敵をよく知ろうとする。冷酷に見えるが、甘さもある。その程度です、僕に言えるのは」

 

「なるほど。確かに情報でもなんでもないな。ただの噂話と変わらん」

 

 リンテンスが灰皿に吸い殻を入れ、新たな煙草を吸い始めた。

 

「ルシフの情報なら、一週間前に捕まえた二人から引き出せなかったんですか? ルシフと内通した容疑で捕らえられたと聞きましたけど」

 

 これはグレンダン中の話題になった。だが、その後どうなったかは徹底した情報統制により、表に出てこなかった。

 

『たくさんルシフの情報を吐きましたが、どれもあなたと似たように曖昧なものでした。そもそもわたしたちはルシフの内通者ではないと確信していたのですがねえ』

 

「陛下は?」

 

「部屋にこもり、酒に溺れ、自堕落に過ごしておる」

 

 ティグリスが言った。苦い表情をしている。

 

「アレを当てにするな。もう使いものにならん」

 

「リンテンス、そういう言い方は止めよ。陛下がおらねば、次も負けるぞ」

 

「あんな年増どうでもいい、クソジジイ。ずっと腐らせとけ」

 

「バーメリン、お前もだ。ルシフの部下のようなヤツに負けたからといって、いつまで引きずっておる?」

 

 バーメリンの顔が怒りに染まった。

 バーメリンだけがルシフ以外の武芸者に倒されたのだと、レイフォンは今さら気付いた。バーメリンの自尊心は深く傷付けられた筈だ。

 

「あのクソ女二人、次は絶対撃ち殺す!」

 

「やれやれ。皆さん、随分と荒れてますね」

 

 サヴァリスが軽薄な笑みを浮かべている。

 全員がサヴァリスの方を向いた。

 

「なんで僕はそんなにもイラついているのか分かりませんね。ルシフは最強の相手ですよ? 老性体のように力に任せて闘うのではなく、こちらをしっかり分析したうえで確固とした勝算を叩き出し、最も効果的な作戦で勝ちにくる。まさに知と武の全てを凝縮させて闘うような相手だ。勝つためにはこちらも全て出し切らないといけない、そんな相手ですよ? ワクワクしませんか?」

 

 その場にいる天剣授受者全員が顔を見合わせた。リンテンスは微かに笑い、リヴァースとティグリスは苦笑する。カウンティアは勝ち気な笑みを浮かべた。バーメリンだけが不機嫌そうな表情のままだった。

 

「心が躍らんと言えば、嘘になる。だが、二度負けることは許されんのだ。グレンダンは最強の都市なのだぞ。ならばこそ、陛下にはしっかりしてもらわねばならん。ルシフに勝つ鍵は間違いなく陛下が握っておられる」

 

 ティグリスの言う通りだと、レイフォンは思った。アルシェイラの力無くして、ルシフに勝てるわけがない。地力でルシフと互角の筈なのだ。天剣授受者も全員揃っている。天剣は無いが、十分勝ち目はある。

 

「サヴァリスさん、ティグリスさんの言う通りだと思います。ただ、次も闘うと決めていたうえで、ルシフは僕らだけでなく、陛下も生かした」

 

 リヴァースが言った。

 

「ルシフにとって僕らと陛下は、殺すに値しない障害物程度の価値しかなかったってことです。次闘っても勝てるって自信があるからこそ、僕らと陛下は生きている」

 

 その通りかもしれなかった。

 殺す価値のない相手だったからこそ、ルシフが殺さなかったのは十分有り得る。

 

「ルシフのその自惚れを、次闘った時にたっぷり後悔させましょう」

 

「うん! リヴァ、やろう!」

 

「ははは! なかなか面白いこというじゃないですか!」

 

 サヴァリスが愉快そうに笑った。

 リヴァースが沈んだ表情になる。

 

「天剣を奪われたと聞いた時、今まで積み上げてきたものが全て崩れ落ちたような気がしました」

 

 それは誰もが感じていることだろう。

 自分は天剣授受者ではないが、それでも天剣が奪われたことに悔しさと憤りを感じた。現天剣授受者が天剣を奪われて何も感じないわけがない。

 

「必ず天剣を取り戻しましょう。今も『天剣授受者さま』と呼んでくれる都市民たちのために」

 

 そこだけは、全員揃って頷いた。

 話が終わると、シャーニッドはバーメリンのところにいった。

 

「俺を鍛えてくれ! 頼む!」

 

 シャーニッドはバーメリンに頭を下げた。

 

「ウザッ! どっかいけ!」

 

 バーメリンはシャーニッドを足蹴にした。シャーニッドは横に吹き飛ぶが、受け身をとってまたバーメリンの前に立った。再び頭を下げる。

 

「強くなりてぇんだ! 立ち向かえるようになりてぇんだよ!」

 

 バーメリンは不機嫌な表情のままだったが、何か思いついたのか、表情が少しだけ柔らかくなった。

 

「ウザガキ、名前は?」

 

「シャーニッド・エリプソン」

 

「死んでも文句言うなよ、ウザガキ。サンドバッグにしてやる」

 

「……死んだら文句言えなくね?」

 

 バーメリンは再びシャーニッドを足蹴にした。シャーニッドは壁に叩きつけられて気を失った。

 バーメリンはシャーニッドの首根っこを掴む。そのまま詰め所を出ていった。

 フェリは蝶型の念威端子に向かって軽く頭を下げている。

 

「私に念威を教えてもらえませんか?」

 

『よいですよ。いつから始めましょうか?』

 

 話がトントン拍子で進むので、フェリは逆に戸惑ったようだ。

 視線を泳がせながら、言葉を探している。

 

「……今からでお願いします」

 

『まあ! 素晴らしいですわ! 明日からなんておっしゃったらお説教するところでしたよ』

 

 フェリは無表情だが、ホッと息をついていた。

 フェリは念威端子に誘われるまま、部屋から出ていった。

 

 ──さて、ここからだ。

 

 レイフォンは自分に気合いを入れた。

 席を立ち、円卓の周囲に座る天剣授受者たちを見据える。

 

「ルシフに勝てるかもしれない剄技があります」

 

 全員が、大なり小なり驚いた表情をした。

 

「本当か?」

 

 リンテンスが紫煙を吐き出して言った。

 

「はい。ただし、天剣授受者であるあなたたちの協力が必要です」

 

 ──ルシフを倒し、リーリンを必ず取り戻す。

 

 レイフォンはルシフを倒せる剄技について、詳しいことを話し始めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフと闘ってから一ヶ月が経とうとしていた。

 怪我が完治してから、アルシェイラは最低限の政務しかせず、遊びふけっていた。酒を飲み、面白そうな書物やエンターテイメント作品に手を出し、寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。そんな生活だった。

 今日もアルシェイラは自室で酒を飲んでいた。酒の瓶が二本床に転がっている。かなり酔いが回っているようで、顔がほんのりと赤くなっていた。美しい容姿をしているため、それでも色っぽく見える。着ている服はTシャツに短パンで、とても女王には見えない。

 部屋の扉をノックする音が聞こえた。

 

「陛下、カナリスです。入室してもよろしいでしょうか?」

 

「入りなさい」

 

「失礼します」

 

 カナリスは扉を開けて部屋に入り、部屋の惨状に慌てて扉を閉めた。こんな部屋を誰かに見られたら、何を言われるか容易に想像がつく。

 

「陛下」

 

「座れ」

 

 アルシェイラは机を前にしたソファに座っていた。机には酒の瓶とコップ、つまみがある。その近くに書物を書いたりするのに使う引き出しつきの机があり、椅子が置いてある。

 アルシェイラはその椅子を右手の人差し指で指差した。

 

「しかし──」

 

「座れ。そんで、こっちにこい」

 

 カナリスは仕方なくアルシェイラの言う通りにした。アルシェイラと机を挟んで向かいの位置に椅子を置き、座る。

 アルシェイラがコップをカナリスに投げた。カナリスは反射的に受け取る。

 

「陛下、これは……」

 

「コップを出せ」

 

「何故ですか?」

 

「いいから、出せ」

 

 カナリスがコップを差し出す。アルシェイラは酒の瓶を持ち、コップに注いだ。注いだ後は、酒瓶に口をつけて酒を飲んだ。

 

「わたしの酒に付き合え、カナリス」

 

「何をおっしゃってるんですか!? 今はまだ昼間で、わたしは政務に関することで陛下の部屋を訪れたのですよ! お酒なんて飲みません!」

 

「いいから、飲め。わたしの酒が飲めないのか?」

 

「そういう問題ではなく……!」

 

「飲まないのなら、殴り殺してやろうか?」

 

 アルシェイラから殺気と圧倒的な剄が放たれた。それだけでカナリスの全身が震え、動けなくなる。手に持つコップも震え、酒が少しこぼれた。

 カナリスはコップを持つ手を震わせながら口元に運び、口に酒を含む。飲んだ振りをした後、咳が出た演技をして口に当てた布に全て吐き出した。

 

「これは強いお酒ですね。思わず咳き込んでしまいました」

 

「お前はいつも肩に力が入っている。たまには羽目を外すことも必要だと思わないか?」

 

「息抜きなら充分しているつもりですが……」

 

「ダメよ、全然ダメ。酒に酔っ払ったこともないでしょ?」

 

「確かにおっしゃる通りですが、わたしはそれでいいと思っています。酔いたいと思ったこともありません」

 

「だからお前はそんなに堅苦しいんだ。たっぷり飲んで、酔え。酔えばお前も少しは親しみやすくなるかもしれない」

 

 アルシェイラが念威端子につまみを持ってくるよう言った。

 十分ほど経つと扉が開き、侍女が入ってきた。侍女が机に皿を置く。皿には牛肉を干したものが切られて山のように盛られていた。

 

「食え」

 

「あの、陛下。わたしは今陛下の代わりに政務をしております。大臣や官僚たちとの会議や報告も控えております」

 

「大臣? 官僚? そんな連中がどうした。今すぐそいつらもここに連れてこい。天剣授受者にも武芸者にもなれない負け犬どもの面をしっかり拝んでやる」

 

「陛下、酔いすぎです。そんなの無理に決まってるじゃないですか」

 

 アルシェイラから、いつもの軽い感じがなくなっていた。女らしい喋り方も鳴りを潜め、地に近い喋り方になっている。

 

「何が無理だ」

 

「大臣と官僚を呼ぶ理由がないから無理だと言っております」

 

「いいから、呼んでこい」

 

 ここでカナリスは閃いた。これを上手く利用すればこの場から逃げられると考えたのである。

 

「では、大臣と官僚たちを呼んできます」

 

 コップを机に置き立ち上がったカナリス。その腕を、アルシェイラが掴んだ。無理やり椅子に座らせる。

 

「一体なんなんですか!?」

 

「念威端子がある。それで大臣と官僚を呼べ。お前はここで酒に付き合え」

 

「そんな無茶苦茶な……。大体、近い内にルシフが攻めてくるんですよ。こんなことやってる場合じゃないとわたしは思いますが」

 

「ルシフがなんだ。あんな姑息で小賢しい闘い方しかできん男に、わたしが負けるか。そもそも前の闘いにしても、わたしは負けたと思ってない。リーリンがそばにいなかったら、ルシフなんぞわたしがひねり潰していたわ」

 

 アルシェイラは、真っ向勝負ならルシフを圧倒できたと今も信じている。

 

「陛下、お酒を止めてください。お酒に溺れるなんて、陛下らしくありません」

 

「何を言ってる、カナリス。わたしはいつもこうだっただろ。政務はお前に任せ、わたしは自由気ままに生きてきた」

 

「それでも、お酒を浴びるように飲まれるのは初めてです」

 

「わたしは今まで通りだ」

 

「ルシフに負けてから変わられました」

 

「わたしは負けてない!」

 

 アルシェイラが机を蹴り飛ばした。机に置かれていたコップやつまみが盛られた皿が床にぶち撒けられる。

 

「政務は全てお前に任せている。お前の判断で政務を処理しろ」

 

 アルシェイラが立ち上がり、椅子に座ったまま動けなくなっているカナリスを見据えた。

 カナリスの椅子から液体が垂れている。どうやらビックリしすぎて失禁したようだ。顔を真っ赤にして涙目になっている。

 カナリスはアルシェイラと瓜二つの容姿である。情けない姿を晒しているカナリスと、四肢を切り落とされ地面に這いつくばるという醜態を晒していた自分とが重なった。

 カナリスの顔が、この上なく目障りに感じる。

 

「もういい。出ていけ」

 

「……わ、分かりました。失礼いたします」

 

 カナリスは腰を抜かしたのか、中腰の姿勢でぎこちなく部屋の扉までいく。その間も股からポツポツと液体が垂れていた。

 

「カナリス、侍女を呼んで部屋の掃除をさせろ。あと、新しい酒を持ってこい。ティグ爺も呼べ。酒の相手をさせる」

 

「……はい」

 

 カナリスは部屋からでて、扉を閉める。

 アルシェイラは手に持っている酒瓶に口をつけて飲んだ。

 アルシェイラはアイレインの完全な模倣品となるべく生まれた。グレンダン三王家同士で常に結婚してアイレインの因子を強め、最強の存在を意図的に創る。グレンダンはずっとそうやってイグナシスの侵攻に備えてきた。

 そんな存在が、イグナシスではなくグレンダンのような業を犯していない他都市の単なる武芸者に負ける。たかが廃貴族の力が加わった程度で。許されない。そんなことは許されない。許してしまったら、今までグレンダン三王家が積み重ねてきた業はなんだったのだ。なんのために近親相姦に近いことをしてきたのだ。ただ廃貴族を手に入れていれば、それで良かったのか。

 

 ──負けたことを認めたら、わたしの今までの人生はなんだったのよ。わたしの存在価値は……。

 

 アルシェイラは再び酒瓶に口をつけた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 マイはマリア・ナティカが住んでいる集合住宅に足を運んでいた。左手に錬金鋼(ダイト)を持ち、赤のスカーフを首に巻いている。かなりの年数が経った集合住宅らしく、ルシフの屋敷に比べれば雲泥の差がある。

 マリアの部屋番号は予め調べておいた。そもそもマイが何故マリアに会いに来たかといえば、マリアと話がしたかったからだ。

 昨日、ゼクレティアと色々話をした。その中で、マリアがルシフとの子を宿し、産んだという噂があると聞いた。マリアは一言もルシフの子どもだと言わないようだが、見る者が見れば一目でルシフの子どもだと分かる。だが、ルシフはマリアのところしか通わないわけではない。それどころかマイの知っている限り、一度しか会ってない。

 イアハイムに戻ってきて、今日は五日目だった。

 イアハイムに帰ってきてからルシフは遊び呆けていた。剣狼隊指揮官の職務は毎日二、三時間ほどで、それ以外の時間は書物を読んだり、暇な相手を見つけては食事を共にしたりしていた。女に関しては、毎日別の女を抱いているようだった。一日一人というわけでもないらしい。一日四、五人抱くのもざらのようだ。

 ルシフが女と話し、寝室に連れていくのを念威で見る度に、マイの中でどす黒いものが湧き上がった。その先を見たことはない。バレるだろうし、自分以外の女を抱いて快楽を貪っているルシフも見たくなかった。

 マリアがどう思っているのか、気になった。子を産んだのに、他の女ばかり抱かれることをどう感じているのか。知ればどこか親近感のようなものが湧くかもしれない。

 マイはマリアの部屋の呼び鈴を鳴らした。

 

「はい?」

 

 扉が開く。長くきれいな黒髪を流しながら、マリアが顔を出した。女の目から見ても嫉妬するような美貌だった。その美貌に強い意志のようなものが宿っている。男が声を掛けにくいタイプの美人という感じがした。

 

「マイ・キリーです。少しあなたとお話がしたくて来ました。お時間ありますか?」

 

 時間があるのは知っている。マリアがどこで働き、いつ休みなのかは調べてあった。マリアは今日、休養日なのだ。

 

「ああ、ルシフさまといつも一緒におられる女の子ですね。中にどうぞ。散らかっているので見られるのはお恥ずかしいですが、立ち話よりは良いかと思います」

 

 マリアに案内され、マイはマリアの部屋に入った。

 散らかっていると言っていたが、部屋の中はきれいに片付けてある。家具はどれも安っぽいものばかりで、最低限しか置いてない。アシェナ家の豪邸に住んでいた自分から見たら、物置小屋のような印象を受けた。マイはマリアの収入も知っている。もっと贅沢に暮らしても十分やっていける筈だ。

 部屋の奥にいくと、寝室が見えた。普通のベッドと柵に囲まれた小さなベッドが置かれている。小さなベッドだけは、お金がかかった良いベッドだった。

 リビングにある椅子に座るよう促され、マイは椅子に座った。

 マリアがキッチンからお盆を持って出てくる。テーブルにお茶が入ったコップ二つと、クッキーが盛られた皿が置かれた。

 

「遠慮なさらず、どうぞ召し上がってください」

 

「ありがとうございます。いただきます」

 

 マイはクッキーを右手でつまみ、食べる。甘い味が口の中に広がった。甘いものは好きなので、自然と表情が緩んだ。

 

「おいしいクッキーですね」

 

「お口にあったようで何よりです」

 

 それからマリアと他愛ない雑談をした。

 マリアは孤児で、孤児院は個人経営だったためとても貧乏だった。そこをルシフが援助してくれたお陰で、人並みの生き方ができるようになったという。だからルシフにはとても感謝していて、自分にできることならなんでもしたいと考えているようだ。

 それらのこともマイは事前に調べあげていた。ルシフが孤児院に援助したのも、記憶にしっかり残っている。知らなかったのは、ルシフに感謝していてどんなことでも力になりたいと考えていることだけだった。

 自分と境遇がどこか似ている、というのも話をしてみたいと思った理由の一つだった。

 念威をさりげなく強める。髪が蒼い燐光を放ち始めた。マリアの目にその光は見えないようで、無反応だった。

 念威がリビング全体に拡がり、寝室まで及ぶ。小さいベッドで気持ち良さそうに寝ている赤ン坊が見える。赤みがかった黒髪が僅かに生えていた。間違いなく、ルシフの遺伝子が受け継がれている。ルシフの遺伝子を受け継いでいるのに、好感は全く感じない。むしろ忌々しくて見るに耐えない存在だった。

 

「あそこに寝ている赤ちゃんの、父親は誰ですか?」

 

「とても素晴らしい方です」

 

「ルシフさまですね?」

 

「違います」

 

「ルシフさまでしょう?」

 

「ルシフさまが私のような者の相手をされる筈がありません」

 

 マリアはルシフが父親だと絶対に認めないようだ。多分そういう約束で、子を宿したのだろう。

 マイはため息をついた。

 

「分かりました。もう訊きません」

 

「助かります」

 

 マイは間を取るように、コップを手に取ってお茶を飲んだ。少し苦いが、甘いクッキーには合う。マイはクッキーを口に放り込む。

 

「ルシフさまのことは好きですか?」

 

「はい、大好きです」

 

「でも、ルシフさまは様々な女性のところに行きます。自分以外の女性ばかり相手にして、つらくないですか?」

 

 自分はつらい。そういうところを見る度、胸が張り裂けそうな気持ちになる。

 マリアは微笑んだ。

 

「つらくありませんよ」

 

 マイは驚いた。自分と同じ境遇からルシフを好きになったのなら、ルシフが他の女といて平気な筈がない。

 

「何故です?」

 

「ルシフさまは鳥なんですよ。大空に雄々しく羽ばたく鳥です。でも、鳥もずっと飛んではいられません。止まり木で休む必要があります」

 

「その話が今の話となんの関係があるんですか?」

 

「鳥はたまたま目にとまった止まり木で休むものです。私は止まり木の一つであればいいと思っています」

 

 マリアは様々な女性のところに行くのがルシフだと受け入れ、その上でたまに構ってくれればいいと考えているのか。自分以外の女の相手ばかりするのも、ルシフだから仕方ないで負の感情を相殺しているのか。

 マイはマリアに嫌悪感のようなものを感じた。親近感が湧く? とんでもない勘違いだった。親子揃って腹立たしい。

 ルシフが一人の女にとらわれない。だからなんだ。だから他の女と仲良くしていても何も感じないとでもいうのか。そんなものは負け犬の考え方ではないか。

 

「私はそう思いません。自分以外の他に止まり木があるから他の止まり木で休むというなら、自分以外の止まり木全てへし折ってやります」

 

 止まり木が一つしかなければ、嫌でもそこで休むしかない。

 マイは別にそれが悪いことだと思わなかった。ルシフのそばで生きるのは自分の存在価値なのだ。ルシフのそばで生きられないなら、自分は死んだも同然である。つまり、ルシフを誘惑する女は自分を殺しにきているのであり、殺しにきた奴を逆に殺してやろうと考えているだけなのだ。罪悪感など、生まれる筈もなかった。

 

「マイさま。私はルシフさま以外の殿方を好きになったことはありません。ですが、普通の殿方と暮らす一生よりも、ルシフさまと過ごすひとときの方がずっと充実していると思うのです。すでに私は至福の時間を過ごしました。たとえルシフさまとの時間がもう無かったとしても、不満はありません」

 

 マリアの言葉を聞くと、マイはくすくす笑った。

 マリアは首を傾げ、不思議そうにマイを見つめている。そういう仕草もどこか男の心をくすぐるような色気があり、マイは無性にこの顔を傷付けたくなった。

 

「嘘つき。ルシフさまが訪ねるのを期待しているくせに」

 

「それは……」

 

「もう訊きたいことは聞けました。そろそろ帰りますね」

 

 これ以上ここにいたら、本当にマリアを傷付けてしまうかもしれない。顔に大きくバツ印を刻み、両耳を削ぎ落として、両目を潰す。そういう妄想をするだけで、胸がすっとした気持ちになる。しかし、そんなことをしたらルシフに嫌われてしまい、念威ですら他の人間を頼るようになるだろう。

 マリアはもしかしたら自分が理想としている女かもしれない。好きな男にすべて捧げ、見返りを求めない。力になれることが幸せ。だが、理想の自分である筈なのに、そんな生き方はバカバカしいと思っている自分がいる。自分のすべてを捧げるのだ。それなのに報われないのは、あまりに苦しく、悲しい。そんな生き方は嫌だ。

 

「マイさま、今日は話せて良かったです。またお暇でしたらいつでもいらしてください」

 

「ありがとうございます」

 

 二度とこない。

 心の内でそう呟き、マイはマリアの部屋から出ていった。

 マイは今、ルシフの豪邸に住んでいなかった。ルシフから与えられた、一階建ての小さな一軒家に住んでいる。

 ルシフは最初、庭がある豪華な屋敷を与えようとした。使用人も雇おうとしたくらいだ。しかし、マイは一番安い家で結構ですと言い、使用人もいらないとも言った。ルシフはマイの意思を尊重した。

 

「……ただいま」

 

 家の扉を開けて家に入っても誰もいない。虚しく自分の声が響くだけだった。

 錬金鋼を左手に持ったまま、リビングの床に座りこんだ。マイの両目から涙が溢れて止まらない。やがて声もあげてマイは泣いた。

 ルシフはイアハイムに帰ってきてから変わってしまっていた。自分がツェルニに行く前もルシフはよく他の女といたが、自分を邪険にしなかった。他の女といるのに腹が立ったが、二人で過ごす時間はちゃんとあった。その時間があったから、自分はルシフの女好きを赦せていた。ツェルニにいた時も一年間は独りだったが、こんな風に悲しくなることは一度も無かった。ルシフが必ず来てくれると信じられたからだ。ツェルニでルシフと過ごした日々は、宝石のようにキラキラ輝いていた。ツェルニでは、ルシフの女好きが抑えられていたからだ。久しぶりにルシフと二人きりで過ごす時間をたくさん取れた。

 しかし、今は屋敷を追い出され、剣狼隊の念威操者のまとめ役として、仕事する部屋も別々。ルシフと二人で過ごす時間は全く無くなったのだ。

 胸が苦しい。ルシフといる時間はとても甘い。その甘さの虜になっている。だから、こんなにも苦しい。他の女がその甘さを享受しているのが、憎くてたまらない。

 自分の価値は、念威だけだったのか。念威の力だけあればいいのか。ルシフにとって、それ以外に価値のあるものはないのか。

 

『わたしは、ずっとそばにいていいの? 迷惑じゃない?』

 

『──ああ、迷惑なものか』

 

 過去の記憶がよみがえる。

 それはとても甘い約束。あの時、自分は人間になれたと思った。

 

 ──そばにいろって言ったのはルシフさまなのに……。

 

 なのに、この仕打ちはひどい。ひどすぎる。

 マイは涙が枯れるまで泣き続けた。

 マイの顔には涙の跡がくっきりと残っている。生気のない顔でただ正面を見ていた。いや、正面を見ているが何も見ていない。

 この先、ずっと毎日自分はこの苦しみを耐えなければならないのか。

 ルシフに言いたいことはたくさんある。ずっと私のそばにいて。他の女を構わないで。ずっと私だけを見て。私を抱いて。私を離さないで。私の恋人になって。

 ずっと心の内に溜めに溜めてきた言葉。しかし、それを口にした時、ルシフから否定されるのが怖くてたまらない。否定されて今の関係が壊れるくらいなら、ずっとこのままでいいと思っていた。

 

 ──もう、なんか疲れちゃったな。

 

 マイはキッチンに行き、包丁を手に取った。

 何もない世界にいこう。苦しみも悲しみもない、真っ白な世界にいこう。

 

「……ルシフのばか。女たらし。鈍感」

 

 私の声なき叫びに気付いてほしいのに、全然気付かない。もういい。こっちから別れてやる。そして、一生癒えない心の傷を負えばいい。ずっとずっとずっと、女と会う度に私を思い出せ。ずっと、私の存在がルシフの中に残りますように。ルシフの中で生き続けますように。

 包丁を左手首に当て、深く切った。鮮血がどくどくと手首から流れてくる。気分が悪くなり、床に倒れた。視界が白くなっていく。やっぱり真っ白な世界にいくんだ。

 枯れたと思っていた涙が溢れてくる。イヤだ。死にたくない。もっともっとルシフといたい。

 

「……まだ生きたいよ、ルシフさま……」

 

 錬金鋼を持つ左手にぎゅっと力を入れる。視界が真っ白に染まった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 目を開けたら、真っ白な世界が広がっていた。

 なんだ。死後の世界はあるとよく聞くけど、やっぱり何もないんじゃないか。

 そこでズキリと左手首に痛みが走った。

 戸惑いつつ左手首の方に顔を向けると、布団が自分に掛けられているのに気付いた。周囲を見渡す。ルシフ、レオナルト、ヴォルゼー、ニーナ、リーリンがいた。真っ白だったのは天井の色だった。

 

「気がついたか」

 

 ルシフがそばにある椅子に腰かけている。本を閉じて、マイを見た。近くの机には本が積み上げてある。

 どうやら病室に寝かされているようだった。ということは、自分は助かったのか。

 

「ちょっとアレ取ってくる」

 

 ヴォルゼーはそう言って、部屋から出ていった。

 

「全く! 心配したんだぞ! これに懲りたら、包丁を扱う際は十分気を付けて使うように。でも、死ななくて良かった」

 

「……心配かけてごめんなさい」

 

 マイが寝ているベッドに近付いて怒った後、ニーナは笑顔になる。その笑顔を、マイは直視できなかった。視線をニーナから逸らす。

 自分は包丁を使う時にヘマをして、たまたま切ったところが悪くて倒れた。自分が倒れた理由はそうなっているようだ。

 それから数分後にヴォルゼーが部屋に戻ってきた。両手で皿を持っている。皿には生クリームでデコレーションされ様々なフルーツがのっているケーキとフォークが置かれていた。

 ヴォルゼーがマイに皿を差し出す。

 

「病院の冷蔵庫借りさせてもらったの。どうぞ好きなだけ食べて」

 

 マイが皿を両手で取り、フォークでケーキを切って口に運んだ。口いっぱいに生クリームの甘さとフルーツの甘酸っぱさが広がる。

 

「おいしい?」

 

 ヴォルゼーの言葉に、マイは無言で頷いた。実際、とてもおいしいケーキだった。かなりの値段だっただろう。夢中になってマイはフォークでケーキを食べた。

 

「マイ、生きてて良かったでしょ」

 

 マイはハッとした。死んでいたら、こんなにもおいしいものを食べられなかったのだ。

 涙を堪える。ヴォルゼーに泣かされてたまるか、と思った。

 ヴォルゼーはマイの顔を覗き込むと、笑みを浮かべた。

 

「ヴォルゼーたちはもう行くわ。他のみんなにマイは無事だって知らせないとね。レオナルト、ニーナ、リーリン、行くわよ」

 

 三人は頷き、ヴォルゼーが部屋を出たのに続いて部屋から出ていった。

 自分なんかの心配をしてくれる人が、剣狼隊にもいるのか。そう思うと、どこか不思議な気持ちになった。剣狼隊の武芸者は全員嫌いだが、嫌な気分ではない。

 ルシフと、二人きりになった。数日ぶりである。

 ルシフは椅子に座ったまま、少しかがんだような姿勢になっている。

 

「本当に心配したぞ。アントークも言っていたが、包丁を握る時は気を抜くな」

 

「……はい。ごめんなさい」

 

「……ちゃんと分かっているのか? 顔がにやけてるぞ」

 

「え?」

 

 マイは皿を机に置いて、自分の顔を触った。気持ちが表情に出ていたのか。

 

「もうこんな失敗はするなよ」

 

「はい」

 

 それから会話は無かった。ルシフは積み上げてある本を黙々と読んでいた。おそらく自分が寝ている間に買ってきた本だろう。ルシフは面白そうな本を書店で大量に購入する時がたまにある。

 そんなルシフを寝ながらずっと見ていた。幸せだった。会話は無くても、空気があたたかいのである。こんな何気ない時間が、自分の心に彩りと安らぎを与えるのだ。ここ数日の不満も全部吹っ飛んだ。

 やがて日も暮れ、外も暗くなった。

 ルシフは大量の本を化練剄で頭上に浮かし、立ち上がる。

 

「明日には退院できるだろう。それまで安静にしていろ」

 

「はい」

 

「退院したら付き合ってほしいところがある」

 

「どこです?」

 

「父の墓参りだ」

 

「分かりました」

 

「じゃあ、俺は帰る。明日、また来る」

 

「はい」

 

 ルシフは部屋を去っていった。

 マイは上半身を起こす。

 

「アハハ、アハハハハ」

 

 声を出して笑った。

 

 ──なんだ。簡単なことだったんだ。

 

 思い返せば、自分が死の危機に(ひん)した時は、いつもルシフが駆けつけてくれた。ルシフは何もかも犠牲にして、自分を救ってくれようとした。

 最初から、答えは目の前にあったのである。自分が傷を負えば、ルシフは自分の心配をしてくれる。自分を見てくれる。

 ルシフと二人きりの時間が欲しければ、血を流せば良かったのである。血なんてものは、致死量を失わなければいい。すぐにまた回復する。切る時の痛みも、ルシフに会えると思えば快感に変わるだろう。

 まるで世界がこうなる前に存在していたとされる、黒魔術のようだ。血を捧げ、悪魔を召喚する。周囲から悪魔と呼ばれるルシフらしいといえば、ルシフらしい。

 

 ──なんだ。簡単なことだったんだ。

 

 マイは笑い続けた。頬が濡れている。自分は今とても幸せで満たされているのに、涙が何故流れるのか。これが嬉し涙なんだ、とマイは自分に言い聞かせた。




これからは毎週土曜日(もしくは日曜日)投稿を目標に頑張って執筆したいと思います。


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第66話 魔王の涙

 レオナルトはイアハイムにある自分の家で暮らしていた。嫁と一緒である。ツェルニに行っている間に子どもも産まれたので、赤ン坊もいた。

 暇さえあれば、レオナルトは嫁の腕の中で眠る赤ン坊を見ていた。今日は休養日だったため、朝から嫁と一緒にいた。

 赤ン坊の手を軽くつつくと、指を握ってくる。そんなことが嬉しくて、飽きもせずにずっとやっていた。

 

「全く、いつまでやってるんだい」

 

 嫁が呆れていた。しかし、顔は笑っている。

 

「俺の子が産まれたのが嬉しくてな。見てみろ、将来美人になるぞ」

 

「あたしとあんたの子なんだから、当たり前だろ」

 

 産まれた子どもは女の子だった。別に性別は気にしていなかったから、男の子じゃなくてもとても嬉しかった。

 そんな時、呼び鈴が鳴った。

 レオナルトが玄関の扉を開けると、ルシフが立っている。オムツやら粉ミルクといった日常で使用するベビー用品が入ったポリ袋を右手に持っていた。いつも通り方天画戟も左手に持っている。

 

「お、大将か。どうしたんだ?」

 

「用がないと訪ねてはいけないのか?」

 

「そんなことはねえよ。歓迎するぜ」

 

 レオナルトはルシフを家に招き入れた。

 ルシフはポリ袋を嫁に渡した。

 

「ありがとう。感謝するよ」

 

「別に気にするな。そんなもの、大した価値もない」

 

「価値は関係ないね。その気持ちが嬉しいんだから」

 

「そういうものか」

 

 嫁は赤ン坊を小さなベッドに寝かし、キッチンに行った。

 ルシフとレオナルトはリビングにある椅子に座る。テーブルがあり、ルシフとレオナルトは向き合う形になっていた。

 嫁がキッチンから出てきて、テーブルにお茶が入ったコップを三つ置いた。その後、嫁はレオナルトの隣に座った。

 

「あんた、噂になってるよ。毎日色んな女を抱きまくってるようだね」

 

「事実だな」

 

「どうしちまったんだい? あんたは昔から女好きだが、溺れるように抱くのはあんたらしくない」

 

 嫁は自分と似ていた。嘘が苦手だし、思ったことははっきり言う。似たもの夫婦と周りからよく言われた。

 

「今しか考えずに思いっきり心のまま楽しむ、ということをしたかった」

 

「それで何か収穫はあったのかい?」

 

「毎日楽しかったが、寝る前に一日振り返ると虚しい気持ちになる。何もない。ただ時間が無為に過ぎていっただけだった」

 

 ルシフにしては珍しい発言だった。ルシフはあまり消極的なことは言わない。

 

「大将。いつでもいいぜ、俺は。いつでもあんたのために働く覚悟はできてるよ」

 

「妻の方を取ってもいいんだぞ」

 

 レオナルトは隣に座る嫁を見た。嫁は勝ち気な表情をしていた。元剣狼隊のため、肝は据わっている。男勝りな性格のため、男女どちらからも好かれていた。

 レオナルトはルシフの方に視線を戻し、笑う。

 

「冗談は止めてくれ。俺はこの世界を今より良くしてえと思ってる。子どもには、争いのない世界で生きてほしい」

 

「争いを無くす気はない。争いのない世界は外敵に脆くなる」

 

 ルシフとしては、ただ理不尽な人死にを少なくするだけなんだろう。今まで以上に傷付けあう世界になるかもしれない。それでも、都市間戦争が無くなるのは人類にとって大きな一歩だろう。

 

「武芸者同士で殺し合わなきゃいいさ。俺は、そんなもの実現できないと思っていた。この世界が武芸者同士争い殺し合うようにできているからだ。世界そのもののルールを破壊するなんざ、俺には思いつきもしなかった。だから、俺は今最高の気分で武芸者として生きている」

 

 ずっと生まれた都市で武芸者をやってきた。武芸者は都市の守護者だと教えられ続けた。ずっとそう思って闘った。その日々は今と同じく充実していた。その教えが揺らいだのは、都市間戦争に勝ち相手の武芸者を見た時だった。負けた都市の武芸者が涙を流して都市に引き上げていくのだ。その時に死んだ仲間の死体も担いでいた。恨みのこもった眼をこちらに向ける者もたくさんいた。今思えばあの都市は、所有しているセルニウム鉱山が少なかったのだろう。

 それ以来、武芸者として生きることに疑問を感じた。薙刀ではなく棍を使うようになったのもこの頃からだ。都市の守護者と呼ばれているが、他都市は破滅に導いてもいいのか。それで守護者などと呼べるのか。

 胸を張って武芸者だと、言えなくなった。綺麗事を並べたところで、他都市の破壊者であることに変わりはないのだ。せめて人を殺さない武器で闘うのが、都市の守護者に相応しいと思った。

 そして、生まれた都市の武芸者を辞めて各都市を旅するようになった。自分に与えられた力はどう使えばいいのか、答えが欲しかったのだ。胸を張って自分は武芸者だと言いたかった。そういう心境でたどり着いたのがイアハイムで、ルシフに出会った。

 ルシフに出会い、まずは手合わせをした。ルシフが挑んできたのだ。当然ボコボコにされた。何度も手合わせする内に親しくなり、話をした。

 ルシフの話は正に自分が求めていた答えそのものだった。自分の命をかけて、ルシフの夢の力になりたいと思った。

 

「なあ、大将。あんたは何があっても俺が守る。俺の命にかえても、必ず」

 

「お前は俺におもりが必要だと思うのか? この俺を守るなどと二度と口にするな。お前の命は妻と子に使ってやれ」

 

 レオナルトは嫁と顔を見合わせた。お互いに笑う。確かに嫁と子が一番大切である。だが、ルシフのためなら死んでもいい。そうも思っている。それは嫁も同じだった。今も、剣狼隊に復帰してルシフの力になりたいとよく口にする。まだ産まれたばかりだから駄目だと返すと、嫁は不満そうな表情になる。

 ルシフにはそういう魅力があった。生きている意味、命の価値というものを見いだしてくれる存在だった。ルシフの理想にはどこまでも希望の光が広がっているのである。その礎になれるのなら、いくらでも命を差し出せた。

 

「以前は真っ暗闇にいた。今は違う。見えるんだ、希望の光ってやつが。だからあんたは最後まで生きてなきゃならねえんだ。死んじゃいけねえ人間なんだよ。必ず俺が守ってみせる」

 

「レオナルト。お前じゃ俺を守るなどできんし、必要ない。家族がいるのに、軽々しい言葉を吐くな」

 

 ルシフのこういうところを気にいっていた。なんだかんだ言って、こっちのことを考えてくれる。だからこそ、命をかけて守りたいと思うのである。

 

「……分かったよ。もう口には出さねえ」

 

 そこからルシフと軽く雑談した。

 その最中、念威端子が窓から入ってきた。

 

『ルシフさん、マイさんが家で倒れています。一刻も早く病院に連れていかなければなりません』

 

 ルシフの眼の色が変わった。勢いよく立ち上がり、玄関から飛び出していく。レオナルトも少し遅れてルシフを追った。

 ルシフにはつらい思いをしてほしくない。

 もう見えなくなったルシフの背中を追いかけながら、レオナルトはマイが助かるのを願った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 マイの負傷。そこには不自然な点があった。

 それは、包丁で切ったのは間違いないが、まな板や食材を用意していなかったこと。包丁を手に取る理由がないのである。

 ならば故意に手首を切ったということになるが、自殺のために切ったとしたら詰めが甘すぎる。風呂に入って身体を温め、血流を良くしてから手首を切らなければ死ぬ確率は低い。今回マイが助かったのは死ぬ努力が最低限だったからだった。

 そういうことを医者から聞かされた。医者は更に衝動的な自殺をしようとする人間は、心を深く病んでいるとも言った。

 外には出さなかったが、内心ルシフはショックだった。

 マイの心が壊れているのは知っていた。自分に依存しているのも理解していた。しかし、錬金鋼(ダイト)は持っていたから、問題ないと考えていた。それのおかげで、ツェルニでは独りでも何事もなく生活できていたのである。何故今回に限り自殺したのか。今までと何が変わったのか。

 ツェルニに行く前に比べれば、マイ以外の女と会う回数は増えていた。もしかしたら、それが孤独感を助長させたのかもしれない。

 マイの依存を治したいと思っていた。色んな女といれば、愛想を尽かして自分で自身の価値を見つけると思っていた。それでマイから恨まれたり嫌われても仕方ないと覚悟していた。マイが他の男を好きになっても、そっちの方が幸せだと自分を納得させようと思った。

 だが、そのやり方は間違っていたのかもしれない。何か別の方法で依存を治さなければならないが、自分が何か直接やれば依存が悪化する可能性がある。かといって他の人間に頼んでも駄目だろう。以前ニーナやリーリンに頼んだが効果は無かった。

 袋小路に入っていた。自分は天才なのに、何故惚れた女一人救えないのか。何故、どうすれば救えるかさえ思いつかないのか。才がどれだけあろうが、それを生かせなければ無能である。自分は無能なのか。

 頭が痛くなる。頭痛は常にあった。軽い時と重い時があり、大抵は気にならない程度の軽い頭痛だが、たまにひどく痛む時がある。

 ルシフは右手で頭を押さえた。

 

「ルシフさま、どうかしましたか?」

 

 ルシフは振り返る。

 マイが後ろに立っていた。花束を抱えている。左手首には包帯が巻かれていた。

 

「なんでもない」

 

 翌朝ルシフはマイの病室に行き、マイと墓地に来ていた。

 退院する際、医者からは激しい運動や重いものは持たないようにと言われた。血をかなり失っているため、失神などの危険があるからだと。

 ルシフとマイは墓地にある多数の墓に順々に花を供えていく。抱えていた花束はすぐに無くなった。

 最後の一輪を父の墓に供え、ルシフはその前に座った。マイはルシフの後ろで立ったままである。両手を合わせて眼を閉じていた。

 ルシフも眼を閉じた。

 ここにくると思い出す。父との最期を──。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ──六年前 法輪都市イアハイム 王宮──

 

 

 王と謁見していた。自分の後ろにはレオナルトやエリゴ、ヴォルゼーといった客が百人ほど連なっている。

 周囲は多くの宝剣騎士団がいて、軽く百人を超えていた。

 

「ルシフ、今なんと言った?」

 

「弱い武芸者など必要ない、と言いました。俺の見る限り、この場にいる九割は武芸者に相応しくない」

 

「ガキが何言ってやがる!」

 

 周囲にいた宝剣騎士団が顔を怒りで赤くし、一斉に錬金鋼を抜いた。復元して、襲いかかってくる。標的は自分だけで、後ろにいる連中には攻撃しなかった。

 後ろにいる連中は攻撃態勢にならない。俺が一切手を出すなと事前に言っておいたからだ。俺が選りすぐった連中だが、この都市での扱いは武芸者ではなくただの旅行者だった。

 襲いかかってくる武器を全て両手で弾く。それなりにできるヤツがたまにいたが、大抵は雑魚だった。襲いかかってきたヤツから叩き潰していった。

 襲いかかってきた宝剣騎士団を全員倒したら、王に接近して喉元に右手を突き出した。寸前で止めている。王は顔から汗を噴き出し、必死に身体を引いていた。玉座が傾き後ろに倒れかかっているのを、俺は左手で玉座を掴んで倒れないようにした。

 

「ルシフ……いや、ルシフ君。落ち着こう。とりあえず落ち着いて話し合おう」

 

 王の顔が恐怖に支配されている。情けない。こういう場合でも相手に屈しない強さというものを、王は持つべきだ。

 

「たった一人にいいようにされ、命を握られる。これもあんたを守る宝剣騎士団が弱いからだ。武芸者は強くなければならない」

 

「それは分かった。武芸者である以上、都市から援助もしている。使えない武芸者に援助をするのは、都市民からの税収の無駄遣いでもある。だが、どうやって強い武芸者を選別するのだ? キミが強いと思った者を武芸者にするというなら、公平性を欠くではないか」

 

 王の喉元から右手を引く。左手で玉座を元に戻し、一歩下がった。段差がある手前に立つ。

 王はほうと息をつき、安堵した表情になった。

 

「アレを持ってこい!」

 

 後ろに連なっていた者の一人が黒い塊を手に持ち、段差を上がった。黒い塊を差し出してくる。俺はそれを片手で受け取った。王に見せる。

 

「それは?」

 

「以前俺があんたに言ったことを思い出してください」

 

 王はしばらく唸っていたが、心当たりを思い出したようにハッとした顔になった。

 

「汚染獣の身体の一部か!」

 

「その通りです」

 

 数年前、王に研究のために殺した汚染獣は回収した方が良いと言った。今まで殺した汚染獣はただ廃棄するだけだったのだ。それはもったいない。

 王はあまり乗り気ではなかったが、その研究資金や場所の提供などといった全ての資金をアシェナ家が持つという条件を出すと、喜んで承諾した。アシェナ家の力を削ぐいい機会とでも思ったのかもしれない。父であるアゼルは都市民からとても慕われているため、目障りに感じているのだろう。

 

「手段は問いません。剄でこの塊にヒビを入れることができたら、その者を武芸者と認める。これでどうです?」

 

「成る程、さすがルシフ君。それは名案だ。日時を決め、剄がある全ての者にやらせよう。キミが言い出したのだから、キミが全ての責任をもちたまえ。段取りから指揮まで、キミの好きにやるといい」

 

「分かりました」

 

 俺は謁見の間から出ていった。

 

 

 

 それから三日後、王宮にある宝剣騎士団の訓練場で武芸者の試験を行うことにした。

 黒い塊は拳二つ分くらいの大きさのため、十分な数を揃えられた。

 制限時間は三十秒である。時間をかけなければ成功できないなら、実戦で使いものにならない。

 広い訓練場のため、二十人同時にやった。

 俺は真っ先にやり、黒い塊を木端微塵にした。だが、大抵のヤツは駄目だった。「こんなのインチキだ!」と叫ぶ者もいた。そういうヤツを一人殴ると、叫ぶヤツはいなくなった。

 やがて、父の番がやってきた。

 父は三十秒必死に黒い塊に剄技を叩き込み続けた。終了した時、黒い塊にヒビの一つも入っていなかった。

 訓練場にいる者たちが固唾を呑んで、俺の方を見てくる。子である俺が父にどういう判断をするのか、気になるのだろう。

 

「武芸者失格です、父上」

 

 父が憤怒の形相で俺を睨んでいる。

 

「私から全て奪うか、ルシフ!」

 

 候家という武門に生まれた父は、武芸者として認められるために血を吐くような努力をしたのだ。父にとって武芸者とは、自らの存在価値なのである。

 

「ルシフ、止めて!」

 

 見学にきていた母が立ち上がって悲痛の叫びをあげた。見学席を設け、試験が気になる都市民は好きに見学していいと事前に告知しておいた。

 

「決まりです、父上、母上。アゼル・ディ・アシェナの武芸者の地位は剥奪します」

 

 母が力なく椅子に座りこんだ。父は復元した剣を握りしめている。

 

「私は武芸者では無くなるのだな」

 

「はい。ですが、父上は指導するのが上手いです。アシェナ家には道場もありますし、指導者として第二の人生を生きるのはどうです?」

 

 父は笑みを浮かべた。いつもの父らしくない、力のない笑みだった。

 

「私にとって、武芸者であることが全てだったのだ。剄量の問題で武芸者になれないのなら、私に再起の可能性はない」

 

 ふと、今までの父との日々を思い出した。どんな無理を言おうと、笑って通してくれた。俺のために、アシェナ家の金を湯水のごとく使った。各都市に人を送り、優秀な武芸者をスカウトしてくれた。俺が見込んだ連中のために集合住宅を幾つか買い、住む場所の提供をしてくれた。父、母、使用人、マイ、客たちがよく集まって楽しく食事や話をしていたのは、良い思い出である。

 

「ルシフ、私は信じている。お前が最高の王になることを。お前は私の自慢の息子だからな。だが、力で強引に進めるのが、お前の悪いところだ」

 

 父は剣を首に当てた。

 母の悲鳴があがり、訓練場がざわつく。

 

「それでは痛みが生まれる。最期に私自身の命で、お前にそれを教えよう」

 

 涙が溢れてきた。父はもう死を決断してしまった。何を言っても、父を救うことはできない。

 父は俺の顔を見て、鬼のように険しい表情になる。

 

「王が他人に涙を見せるな。いかなる場合も毅然としていろ」

 

「はい」

 

 それでも涙は止まらなかった。声を出して泣くのだけは必死に堪えている。

 父が優しげな笑みを浮かべた。

 

「ジュリアを、母を頼む」

 

「はい」

 

 父が自ら首を剣で切った。首から血が溢れ、床に倒れる。

 訓練場中から悲鳴が上がった。

 

「あなたは……!」

 

 母の声が後ろから聞こえる。振り返った。涙を流して、俺を睨んでいる。

 

「あなたは魔王よ! どうしてアゼルのことをよく知っててそんなことが出来るの!? もうあなたは私の子じゃありません! さようなら!」

 

 母が走り去っていくのを、俺はただその場で見ていることしかできなかった。

 隣にマイが来た。不安そうに俺の顔を見ている。俺はマイの頬に右手で触り、マイの瞳を覗き込んだ。

 きれいで透き通った青い瞳。この瞳に誓ったのだ、俺は。何があっても全ての都市の支配者になり、全てを管理すると。理不尽な死をこの世界から無くすと。そのためなら、どんな犠牲も覚悟している。

 涙が止まらない。悲しい気持ちにならないのに、涙が溢れてくる。

 

 ──父上。俺はもう二度と涙を見せません。ですが今日だけは、今だけは許してください。

 

 マイから視線を外した。

 周囲にいるヴォルゼー、レオナルト、エリゴといった俺の客たちは、俺の顔を見ては視線を逸らした。

 

「何をしている? 早く死体を片付けろ。試験を再開するんだ」

 

「……いいのか?」

 

 レオナルトが聞いてきた。

 

「早くやれ!」

 

 莫大な剄が訓練場を駆け巡った。レオナルトを睨む。レオナルトは金縛りにあったように動けなくなっていた。

 涙が止まらないが、試験は続けなければならない。

 俺は涙を流したまま、試験を再開した。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフは立ち上がり、父の墓に背を向けた。

 マイは黙ってルシフの顔を見つめている。

 

「いこうか」

 

「はい」

 

 ここに毎年来て、ルシフは自分が背負っているものを忘れないようにしていた。この墓地にあるほとんどの墓は、自分のせいで死んだ者たちである。

 ルシフとマイは朝の柔らかな日差しに包まれながら、墓地を歩いた。

 

「ルシフさま」

 

「なんだ?」

 

 ルシフは振り返り、マイを見た。

 

「何か良いことでもあったのですか?」

 

「別にないな。何故だ?」

 

「さっきお墓で振り返った時、笑みを浮かべていました。今も笑っています」

 

 ルシフは自分の顔を触った。

 マイが念威端子を展開させ、ルシフの顔を映す。

 確かに自分は笑みを浮かべていた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 剣狼隊が集まる詰め所。そこにニーナとリーリンはいた。ディンとダルシェナもいる。

 今ここには剣狼隊の小隊長が全員集まっていた。

 エリゴ、レオナルト、フェイルス、バーティン、アストリットはツェルニから顔見知りのため、紹介されるまでもない。

 残りの五人については、ヴォルゼーとサナックはよく知っている。イアハイムに来てから、大抵この二人が案内役のようについた。ヴォルゼーは特によく一緒にいたため、仲良くもなっている。

 残る三人は、顔を見たことがあるという程度の関わりしかなかった。

 茶髪の一部をサイドテールにしている茶色の瞳の少女。腕章はオレンジである。名をプエル・フェ・チェンといった。ダルシェナと仲が良いのか、今は楽しそうにダルシェナと話している。

 次に短い黒髪をしている黒の瞳の男。腕章の色はマゼンタ。赤紫だった。名をハルス・ネイトといった。落ち着かない性格なのか、詰め所の中をぐるぐる歩き回っていた。

 最後は、白髪が交じった頭をオールバックにしている男。五十代か、もしかしたら六十代かもしれない。腕章は灰色。名をオリバ・ヒューイといった。椅子に座って目を閉じている。

 小隊長の年齢層はバラバラのようだった。だが、二十代と三十代が多いようだ。

 

「一体ルシフはイアハイムで何をしたのですか?」

 

 ニーナは訊いた。ずっと気になっていたことだ。

 詰め所の中にいた者全員がニーナを見た。

 

「そうだな。ここにはあの時いなかったヤツもいる。話してもいいかもしれねえな。アストリット、ハルス、オリバさんも聞きてえだろ?」

 

 レオナルトが言った。

 

「兄貴の話なら、喜んで聞くぜ」

 

 ハルスが言った。ルシフを兄貴と呼んでいるようだ。だがハルスの年齢はどう見ても二十代後半で、ルシフより年下ではない。

 

「どうしても話したいとおっしゃるなら、聞いてあげないこともないでしてよ」

 

 アストリットはそう言うが、顔にはっきり聞きたいと書かれていた。ウキウキした表情をしている。

 

「別にわしはルシフ殿の過去に興味はないが、まあ知りたくないわけでもない」

 

「なら、話そう。今からちょうど六年前のことだ。その時大将は武芸者の選別をした。汚染獣の身体の一部を利用してな。汚染獣は雄性二期のものだった。それを傷付けることができたら、武芸者の地位を与える。そういう試験だった」

 

 確かにそれならば、雄性体と闘える武芸者を選別できる。しかし、雄性体と闘える武芸者など多くはいない筈だ。

 

「それで?」

 

「その時イアハイムの武芸者の数は千五百二十七人いた。試験後、武芸者の地位を剥奪されなかった者は八十三人だった。そこに当時武芸者じゃなかった俺たちが試験に合格し、約百人武芸者に加わった。イアハイムの武芸者の数は百八十三人になったのさ。千五百人からな」

 

「そんなに減って大丈夫だったんですか?」

 

 リーリンが訊いた。リーリンはグレンダンの出身のため、武芸者の数が少ないことに不安を感じたのだろう。どの都市にも最低千人くらいは武芸者がいるから、二百人以下というのはあまりに少ない。

 

「戦力的には問題なかった。むしろ今までより圧倒的に強くなった。問題はそこじゃねえ。その試験で武芸者の地位を剥奪された人間の中に、自殺するヤツが多数でてきた。大将の父親も武芸者の地位を剥奪され、その場で首を切って死んだ」

 

 ニーナ、リーリン、ディンは絶句した。アストリットも悲しそうな表情をしている。

 

「何人死んだのですか?」

 

「四百六十四人」

 

「四百六十!?」

 

「ああ。それだけの人間が次の日、一斉に死んでいた。家にある刃物で切って死んだり、首を吊って死んだり、中には一家心中するヤツもいた。多分家族を養っていけないと判断したんだろうな」

 

「だからルシフは信用できないんだ! それだけの人間の死を当たり前のように招いたんだぞ!」

 

 ダルシェナが口を挟んだ。

 それだけの人間を死に追いやったのなら、都市民から嫌われても仕方がないだろう。

 武芸者は幼い頃から武芸者として生きるよう、都市から徹底的に教育される。そうやって生きてきた武芸者が地位を剥奪されれば、他にどう生きていいか分からず死に逃げるというのは十分考えられた筈だ。ルシフとて、武芸者の地位を剥奪すればこうなると理解していただろう。だが、やった。そこにルシフの恐ろしさがあるような気がした。

 

「ダルシェナ、お前も知っている筈だぜ。その後大将は剄を戦闘ではなく都市民の生活に活かせるように力を注いだ。都市開発をしたり、剄を持つ者が肉体労働をした場合、剄を持たない者より給料を多くしたり、剄を持つからこそできる職というものもどんどん作った。郵便配達なんかもそうだな。そうやって武芸者でなくても生きられるよう、大将は最大限の努力をしてきた。死んだ奴らは分かってなかったんだ。武芸者で無くなっても、それはただ剄を持たない人間と一緒になっただけだってことを」

 

 レオナルトが顔を俯けた。

 

「父親が自殺した時、大将は涙を流していたよ。両目から涙を溢れさせて、試験を続けていた。目を真っ赤にして、鬼みたいな形相だった。見ちゃいけねえモンを見ている気がして、直視できなかった。あの日から、俺は大将の涙を一度も見てねえ」

 

 ルシフが涙を流す姿を、ニーナは想像できなかった。父親に死んでほしくなかったのか。なら何故止めなかった。ルシフの力なら、自殺を防げた筈なのに。

 それからは無言の時間が続いた。

 しばらくすると、六角形の念威端子が詰め所に入ってきた。

 

『指揮官室に集まってください。ルシフさまの指示です』

 

 それだけ言うと、念威端子は戻っていった。

 全員が詰め所を出て、指揮官室に向かった。

 途中ですれ違う者たちは一礼したり、挨拶をしたりしてきた。隊長格が集まっているのだ。それくらいは当然だろう。

 指揮官室に入ると、金髪で眼鏡をかけた女性が部屋の隅に立っていた。マイはルシフの机を前にして立っている。後ろ姿だった。

 指揮官室の一番奥、ルシフが背を向けて立っている。ルシフは窓の外を見ているようだ。いつもと違い、黒のマントを羽織っていた。

 その姿を見て、剣狼隊の隊長たちはハッとした表情になった。

 黒のマントを翻らせ、ルシフはこちらに向きを変えた。いつも通り、左手に方天画戟を持っている。

 

「今日がなんの日か知ってるか?」

 

 静かにルシフが問いかけた。



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第67話 血宴

 指揮官室は静まり返っていた。

 ルシフは呆れた表情になる。

 

「なんだ。誰も今日がなんの日か分からないのか?」

 

「ルシフさまの誕生日ってことしか知りませんが……」

 

 マイが言った。今日ルシフが誕生日なのはルシフに気のある女性陣全員が知っていたが、あまりにも個人的なため、それは間違っていると思ったのだ。

 

「その通り!」

 

 ルシフが力強く机を叩いた。その場にいた者たちは叩かれた音にビクッとした。ここで彼らは気付く。ルシフの機嫌がとても良いことに。

 

「今からやるぞ」

 

 マイと剣狼隊の小隊長たちが頷く。ニーナ、リーリン、ディン、ダルシェナ、ゼクレティアは意味が分からず、戸惑いの視線をルシフに向けた。

 ルシフはゼクレティアの前まで歩く。

 

「ラウシュ、今までよくやってくれた。お前のお蔭だ」

 

「なんのことですか?」

 

「お前、王からの監視役だろ」

 

 ゼクレティアの顔から血の気が引いた。ルシフの言う通り、ゼクレティアはルシフに怪しい動きがあれば王にすぐ報告するという役目も与えられていた。

 

「お前のお蔭で王の警戒が甘くなり、色々裏工作しやすかった。

今からクーデターを起こす。玉座に座るべき人間が座り、相応しくない人間は引きずりおろされるのだ。

ラウシュ、お前はどちらに忠誠を誓う? 小心者で度胸のない今の王か? それとも史上最高の能力と強靭な精神力を兼ね備える次の王か?」

 

 ゼクレティアは絶句した。ニーナたちも絶句している。ダルシェナに至ってはあまりのショックで顔面蒼白になっていた。

 正気を取り戻したゼクレティアは片膝を屈し、頭を下げた。

 

「『陛下』にわたしの全てを捧げます」

 

 ゼクレティアがルシフの秘書に立候補したそもそもの理由は、ルシフが憎かったからである。こちらの言い分を一切聞かず、ルシフはゼクレティアから武芸者の地位を剥奪した。だから、自分は有能で使える女であるとルシフに思い知らせてやるために、王のスパイのような役目であっても引き受けた。しかし、いつの間にかルシフへの憎しみは消えていた。ルシフのやったことは正しかったのだと、数年の年月を費やしてやっと自分を納得させることができた。そして今、ルシフの役に立てることが純粋に嬉しくなっている。

 正直ここ一、二年は似たような報告しか王にしていない。

 

「それが正しい判断だ」

 

 ルシフは笑い声をあげ、マントをはためかせて部屋の扉へと歩く。ルシフより先にダルシェナが必死の形相で指揮官室を出ていった。

 

「プエル、ダルシェナを止めろ」

 

「暴力はダメだよ?」

 

「お前が止めれば何もせんさ」

 

 プエルはレストレーションと呟き、錬金鋼を復元。しかし、プエルのどこにも武器らしきものは現れない。それもその筈で、プエルの武器は十指にはめられた指輪だった。指輪には小さく穴が空けられていて、そこに剄を流せば鋼糸が出てくるようになっている。

 プエルは全ての指輪に剄を流し、鋼糸を操る。プエルを中心に蜘蛛の巣のような形で剄が輝いていた。それは扉の外まで、いや、廊下も鋼糸による剄の光で満ちている。

 ルシフたちは指揮官室を出ると、外への扉まで歩く。ニーナやリーリンは他都市であってもクーデターを阻止したいと思ったが、何か良い案があるわけでもないので仕方なくルシフの後ろを大人しく歩いた。

 しばらく歩くと、蜘蛛の巣に捕らわれた虫のような姿で動けなくなっているダルシェナがいた。

 

「くそッ! 私は早く行かなければ! 父上に知らせなければならないのに!」

 

 ダルシェナはプエルの姿を見つけると、怒りに燃えた瞳で睨みつけた。

 

「プエル! 貴様の仕業だな!? 早くほどけ!」

 

「シェナちゃん、落ち着いて。終わったらほどくから」

 

「それじゃダメなんだ! 頼むから私を行かせてくれ!」

 

 プエルは困った様子でルシフの方を見た。

 ルシフはダルシェナに近付く。ダルシェナから怒りの視線を向けられようとも動じない。

 

「お前が行けば、お前の家族は死ぬぞ」

 

 耳元で囁かれた言葉に、ダルシェナの表情は凍りついた。ダルシェナが事前にクーデターがあると伝えれば、当然王は備えるだろう。闘いは避けられなくなり、血が流れる。もはやクーデターの成功は決定的であり、最小限の犠牲で終わらせることが自分の責任だとルシフは思っていた。

 ダルシェナも自分が伝えれば余計混乱して犠牲が増えることに思い至り、もがくのを止めた。下唇を血が伝うほど噛みしめ、涙を浮かべてルシフを睨んだ。

 

「ハハハハハ!」

 

 ルシフはそんなもの意に介さず、楽しげに笑いながらダルシェナの横を抜けた。ずっと待ちわびた時なのだ。ダルシェナにはつらいだろうが、身体の昂りは抑えられなかった。

 ニーナが錬金鋼を復元し、ダルシェナを捕らえている鋼糸を緩めるべく、両手の鉄鞭で攻撃を仕掛ける。これ以上黙って見ていられなかった。ダルシェナに届く直前で、不可視の壁に鉄鞭を防がれた。火花が散り、鉄鞭に衝撃が返ってくる。ニーナは両腕を頭上に弾かれた。驚きながら目を凝らすと、ニーナの前に鋼糸が張り巡らされていた。

 

「鋼糸を攻撃したら、シェナちゃんに衝撃が伝わって危ないよ。だから、止めて?」

 

 プエルは申し訳なさそうに身体を縮こませている。本当にこの人が鉄鞭を止めたのかと疑ってしまうほど、態度が弱々しい。殺気も闘気もまったく感じなかった。その姿に戦意を削がれ、ニーナは鉄鞭を振るう気力がどこかにいってしまった。

 

「あたしもこんなことしたくないけど、でもそれで誰も傷付かないならやらなくちゃいけないから」

 

 ニーナはダルシェナを見る。もう抵抗する気力も失ったようで、鋼糸に身を任せて声も無く涙を流していた。

 ルシフや周りに何を言っても、無駄なのだろう。彼らは目的を見据えて動いているのだから。

 ニーナは自分の無力さに怒りを感じながら、ダルシェナの横を歩いて通りすぎた。

 外に出て、王宮へと歩く。黒装束でマントを揺らめかせるルシフを先頭に、黒装束のマイと赤装束の剣狼隊小隊長たちが続いた。最初はルシフの後ろに続くのはニーナたちも含め三十人程度だった。しかし、ルシフの姿を見た剣狼隊の武芸者が次々に列に加わり、一般人らしき人間も加わってきた。この一般人は民政院の政治家や官僚たちであり、マイがニーナたちを呼んだ際に同時進行で『クーデターを開始する』と彼らに念威端子で伝えていたのだ。

 王宮へと続く大通りを歩き続ける。正面からそれを見たら、とてつもなく荘厳で威圧的であった。方天画戟を持つ先頭の男は迷いのない力強い足取りで、その男に続く者たちも六列に並び規則正しく、ただ正面を見据えて歩いている。まるで王の行進だ。その行進を邪魔すればただではすまない。そう本能的に直感した都市民たちは慌てて道の端に移動し、彼らを見送った。何かこの都市そのものを揺るがすことが起きる。都市民たちはそう思い、みな異様な空気を感じとっていた。

 王宮に来た時、ルシフの後ろには剣狼隊の隊員百人が勢揃いし、ルシフに味方する政治家や官僚も半分以上いた。

 王宮の入り口に番兵が二人立っていた。ルシフが大勢を引き連れた行進をしていても、慌てたりせず落ち着いている。ルシフが番兵たちを一瞥した。番兵二人はルシフを咎めるどころか、頭を下げた。ルシフは方天画戟を持ったまま、王宮に足を踏み入れる。続く者たちも錬金鋼を所持したまま王宮に入っていく。番兵二人もその列の最後尾に加わり、復元した武器を持ったまま王宮に入った。

 

「ルシフ殿! これは一体どういうことです!?」

 

 案内役で以前ルシフについた武芸者が、錬金鋼を復元しルシフの前に立つ。

 ルシフの返答は言葉ではなく、後方のバーティンを一瞥するだけだった。バーティンは頷き、目にも留まらぬ速さで武芸者に接近する。武芸者は一瞬の抵抗すらできずに意識を奪われ、隅の方へと無造作に放り投げられた。

 ここでようやく異常事態と悟った王宮の使用人と官僚が悲鳴をあげて隅に移動し、しゃがんで縮こまった。彼らには一切危害を加えず、謁見の間を目指して行進する。宝剣騎士団の武芸者も、ルシフに立ち向かおうとするのは少数だった。大多数は行進を無抵抗で見送った。ルシフに立ち向かってくる者は剣狼隊小隊長たちが列から進み出て一撃で倒した。ルシフは全く手を下さず、また進む足を一瞬たりとも止めることもない。自分を邪魔するものが何もないかのように、同じ速度で歩き続ける。

 

 

 謁見の間内部は今、王と宝剣騎士団が慌てふためいているところだった。理由は二つ。

 一つ目の理由は今異常に気付いたから。宝剣騎士団にも念威操者がいるが、事前にマイたち剣狼隊の念威操者に脅され無力化されていた。

 二つ目の理由は、緊急時の抜け道など謁見の間にないから。そもそも緊急時の抜け道自体、自律型移動都市(レギオス)においては無意味。都市そのものが檻となるからだ。王宮から脱出したところで安全な場所は無く、力を蓄える時間稼ぎもできない。

 王や宝剣騎士団とは対照的に、官僚たちは何故か落ち着いて直立していた。

 謁見の間が勢いよく開かれる。ルシフが謁見の間に入ってきた。多数の人間も続いて入ってくる。

 

「い、一体何事だね!?」

 

 玉座から立ち上がって玉座を盾のようにしながら、王が言った。ルシフは何も答えない。ルシフの後ろの列を掻き分け、一人の男が前に出てくる。その男は民政院の政治家だった。一枚の紙を広げ、読み上げる。

 

「現王ナール・シェ・マテルナに告ぐ! 貴殿はここ数年政務を押し付け、怠惰に日々を過ごし、王としての責務はまるで果たしておらぬ!」

 

「なっ……!」

 

 王は怒りで顔を紅潮させた。男の読み上げは続く。

 

「今の貴殿に王としての素質と風格無し! よって、貴殿から王の地位を剥奪し、同時にマテルナ家も王家ではなく侯家に格下げとする!」

 

「……な、なんだと!? そうか! 貴様らはこうなることを知っていたな!?」

 

 王は謁見の間に最初からいた官僚たちを睨んだ。官僚たちは口を開かない。ただ王から顔を背けている。読み上げが更に続く。

 

「その点、ルシフは政務によく励み、都市民の生活水準を向上させ、都市の治安を改善、その状態を維持した! その功績はこれまでの王たちの偉業を上回っている! よって、本来ならば現王の死後に次王を即位させるが、特例として現王が健在であっても王の交代を認める! 次王にはルシフ・ディ・アシェナが即位し、アシェナ家を王家に格上げとする! これは民政院の総意であり、決定である!」

 

 読み終えると男は横に歩き、最初からいる官僚たちのところに並んだ。

 王は愕然とした表情でルシフを見た。

 

「何故だ! 何故こんなことをした! お前には政務を任せていたではないか! 王にならずとも、お前が実質的な都市の支配者だった! お前という人間はそれで良かった筈だ!」

 

「何故人は服を着ると思う?」

 

「……は?」

 

「寒さをしのぐ。羞恥心から。職業のシンボル。理由は色々あるが、それは実体があって初めて意味がある。貴様は王の衣を纏っていたが、その衣は透明で誰の眼にも映らなかった。俺はその無意味な衣を剥ぎ取ってやっただけだ。多少は身体も軽くなるだろう?」

 

 ルシフがゆっくりと段差を上がる。

 上がるにつれ、王の顔に恐怖が滲んでいく。

 

「お前は言ったではないか! いつでも私の力になると! その言葉は嘘だったのか!?」

 

「嘘ではない。力にはなるさ。だがそれは……別に貴様が王でなくてもいい」

 

 段差を上がりきり、ルシフは玉座の前に立った。

 

「下りろよ、段差を」

 

「ルシフ、貴様ァ!」

 

 王の後ろにいたミッターが細剣を突き出した。ルシフは方天画戟で払いのける。細剣が弾かれ、床を滑り落ちていく。

 

「ミッター・シェ・マテルナ。貴様はこの俺に言ったな? 『陛下の御前だから跪け』と。同じ言葉を返してやる。王の前だ、跪け」

 

「貴様を王などと認めるものか!」

 

 武器が無くなり、顔が恐怖に支配されていても、口だけは立派である。

 ルシフはミッターの膝に蹴りを入れた。ミッターの膝が曲がる。更に方天画戟の柄で上半身を折り曲げさせた。ミッターは土下座の姿勢になる。

 

「なら、無理やり跪かせるまでだ」

 

 ミッターは屈辱に顔を歪め、両手を力の限り握りしめた。

 方天画戟でミッターを押さえつけたまま、ルシフは王を見据える。段差を下りろと言うように、顎を段差の方にしゃくった。

 王は周囲を見渡す。護衛である筈の宝剣騎士団はミッター以外抗う様子すらみせず、中にはルシフの味方をするかのように列に並んでいる者もいる。ルシフは民政院を味方につけているため、官僚や都市民の支持も得られない。

 王は段差を下りるべく、ゆっくり歩いた。

 ミッターがそれを横目で見た。

 

「父上……」

 

「ミッター、もうよい。私は負けたのだ。民政院の意に従うぞ」

 

 王はルシフを一瞥し、ルシフの横を通りすぎる。

 

「まさか民政院を味方につけるとは……」

 

 通りすぎる瞬間、ルシフに向かって呟いた。

 

「貴様が王になった時と同じことをしたまでだ」

 

 王は明らかに動揺した。

 そもそも、都市民に支持された者を王にするなら、何故民政院などを挟むのか。そのまま選挙で王を選べばいい筈である。そこに民政院を創った者の意図がある。簡単に言ってしまえば、王は次王を生前にある程度決めることができるのだ。金を渡すことで。都市民に悟られないよう続けて同じ侯家から次王が選ばれることはないが、王が親しくしている侯家から王を選ばせれば、結果的に権力を握り続けることができる。

 現王が即位した時、ルシフの父のアゼルは都市民から現王をしのぐ人気があった。しかし民政院は、アゼルは武芸者としての力に乏しいという理由で選ばなかった。

 父は純粋すぎたのだ、とルシフは思う。都市民全員の総意を民政院が体現していると全く疑いもしなかった。どれだけ誠意と仁義を尽くして生きようが、金をちらつかせたヤツには勝てないのである。人間はそういう生き物であり、自分を得させてくれる人間を立てる。それを拒否できるのはごく少数だろう。

 ルシフも民政院に金を渡し、民政院を味方につけた。しかし、民政院などというものには前から虫唾が走っている。

 

 ──貴様だけを叩き潰しはせん。腐りきった民政院も後で叩き潰してやる。

 

 王は段差を下りた。それでミッターも諦めたらしく、方天画戟に抵抗する力が伝わってこない。

 ルシフは押さえつけるのを止めた。ミッターが起き上がり、ルシフをひと睨みしてから段差を下りた。

 ルシフは後ろを振り返る。たくさんの人が整然と並び、ルシフを見ていた。

 ルシフが玉座に座る。並んでいる者は一斉に跪いた。ニーナ、リーリン、ディンは呆気にとられて跪こうとしなかったが、近くの剣狼隊の者に腕を引かれ、数瞬遅れて跪く。

 

「陛下。ご即位、誠におめでとうございます! ルシフ陛下万歳! イアハイムに永遠の繁栄あれ!」

 

「ルシフ陛下万歳! イアハイムに永遠の繁栄あれ!」

 

 跪きながら、全員が何度も復唱した。謁見の間を熱気が包んでいる。

 ルシフは玉座の座り心地を確かめながら、謁見の間を見下ろした。

 

 ──なるほど。ここからの景色は悪くない。

 

 ルシフは立ち上がった。

 

「我、ここに誓う! 諸君らと心を一つにし、力を合わせ、更なる繁栄をイアハイムにもたらすことを!」

 

「我らもお誓いいたします! 陛下と心を一つとし、粉骨砕身して陛下のお力になることを!」

 

「お誓いいたします!」

 

 全員が復唱した。

 

「立て」

 

「ありがとうございます」

 

 全員が跪くのを止め、立った。

 ルシフが段差を下りてゆく。列が左右に真っ二つに割れ、絨毯の道ができた。

 

「マイ」

 

「ここに」

 

 マイが列から一歩前に進み出て、跪いた。

 

「剣狼隊、宝剣騎士団の念威操者を指揮し、『ナールは王位を退き、ルシフが民政院の総意で王に即位した』と都市民全員に伝わるようにしろ」

 

「御意」

 

 ルシフが段差を下りきった。

 

「ヴォルゼー、サナック」

 

「ここに」

 

「お前たちに天剣を授ける。明日朝十時、錬金鋼メンテナンス室にこい」

 

「御意」

 

「ミッター・シェ・マテルナ」

 

「……ここに」

 

「宝剣騎士団から王及び王宮警護任務を外す。代わりに調練の時間の増加と都市内巡回警備の任務を追加する。明日の昼までにシフト、人員配置を決定し、書類にまとめて俺に見せろ」

 

「……御意」

 

「ゼクレティア・ラウシュ」

 

「ここに」

 

「お前を俺の秘書官に任ずる」

 

「はっ」

 

「最初の仕事だ。玉座を今より硬い材質のものにしろ。座り心地が良すぎて怠け者になりそうだ」

 

「御意」

 

「執政官」

 

「ここに」

 

「明日の昼までに、法律に関する全ての書類を持ってこい」

 

「御意」

 

「以上だ」

 

 ルシフは絨毯の道を歩き、謁見の間から出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 都市民たちは王の交代に大いに動揺したが、事実を受け入れた後は喜びにわいた。しかし、都市民全員ではない。「こんなことは許されない。ルシフは簒奪者だ」とルシフを非難する者も少数だがいた。その言葉に対し、「民政院の総意で決まったことに異を唱えるのか。民政院は我々都市民の意思そのものだぞ」と他の誰かが返すと、ルシフを非難した者は黙りこんだ。

 その反論は、事前に金を握らせてルシフが言わせたことだった。非難があるのは分かりきっていたため、手を打っていたのだ。自分の即位を悪く言う者に対して、その者たちの方が間違っているという印象を都市民に与える。不思議なもので、初めはそう反論する者は少数だったが、最終的には誰もがその反論を言うようになった。反論を真似しだしたのである。これで非難している者はどんどん口を閉ざし、都市民たちはルシフの即位を祝って至るところで宴を開いて騒いでいた。

 ルシフもまた例外ではない。

 王宮の大広間を貸し切り、剣狼隊、ゼクレティア、ニーナ、リーリンと立食パーティーを開いていた。ダルシェナは参加を辞退しマテルナ家に帰った。ディンもダルシェナに付き添い、参加を辞退していた。

 様々な料理が用意され、取り皿に好きなものを取って食べるため、誰もが満足できるようになっている。飲み物も水からジュース、コーヒー、紅茶、アルコール類と揃えていた。

 食事用のテーブルもあり、椅子も隅の方に置かれている。でかい水差しもあった。三十リットルは入りそうな大きさで、下の方に蛇口がついている。一般人が持ち歩くのはキツいが、剄が使える武芸者にとっては軽く持ち上げられた。

 大広間にいる全員が料理を取り終え、飲み物のグラスを持つ。

 ルシフが全員の前に立った。

 

「お前たちの働きのおかげで、何事もなく上手く進んだ。今日は好きに飲み、食べ、思いっきり楽しもうじゃないか。乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 その場にいる全員がグラスを掲げた。そして、グラスの飲み物を飲み干す。大広間に笑い声が響いた。

 料理を取りながら、様々な人と交流する。ニーナは仙鶯(せんおう)都市シュナイバルの武芸の名門の出のため、こういった食事に慣れていたが、リーリンは違った。グラスと料理を持ちながら歩き、食べる時は食事用のテーブルにグラスを置き、料理を食べる。食べ終わった取り皿は使わず、新しい取り皿にまた料理を盛りつける。こういう食べ方に戸惑っていた。ニーナがリーリンと一緒に食べているため、色々教えた。リーリンはすぐに覚え、少し時間が経った頃にはぎこちなさは無くなっていた。

 それをニーナは内心嬉しく思い、大広間に充満する歓楽と歓喜の空気を満喫した。ニーナ自身剣狼隊たちやゼクレティアと様々な話をし、そこから伝わってくる剣狼隊たちやゼクレティアの人間性を感じとった。弱者を救いたいだの、汚染獣の脅威を未来永劫無くしたいといった素晴らしい心意気を持っている。

 

 ──何故そう考える人たちが、ルシフに従うのか。

 

 ニーナから見れば、ルシフは弱者を蔑ろにし、強者を生かす人間である。弱い者は弱いから死ぬと言って、手を差し伸べぬ人間である。武芸者の選別が良い例ではないか。あらかじめ弾き出した武芸者の受け皿を作ってから選別すれば、自殺者は少なかった筈だ。

 ニーナは楽しい気分の中にいながらも、心の底から楽しめていない自分に気付いた。胸にしこりのようなものがあり、楽しい気分に浸る自分を現実に引き上げているような感覚がある。しこりとはすなわち、クーデターの件。ルシフは公には王位の譲渡を受けた者であるが、その実、手を四方八方に回して無理やり即位した。それは誰もが心中で分かっていた。また、無理やり王位を剥奪された前王やダルシェナの気持ちを考えると、楽しい気分にも暗い影がかかってしまうのである。

 

「何故あなた方はルシフに従うのか」

 

 ニーナはアストリット、ヴォルゼー、バーティン、エリゴ、レオナルトに訊いた。

 アストリットとバーティンはニーナに不愉快そうな視線を向けた。言わなければ分からないのか、と眼が言っている。

 

「ニーナ。旦那は不思議な方なんだよ」

 

 エリゴが言った。

 

「どこがです?」

 

「この中にいる全員、最初は旦那を嫌ってたってことさ」

 

 ニーナとリーリンは驚いた。

 アストリットやバーティンはその時を思い出したのか、苦い表情になっている。

 

「特にヴォルゼーは酷かった。昔はヴォルゼーの方が旦那より強かったから、何度も旦那は血まみれにされ、重傷を負わされた。腕や足を飛ばされたこともある」

 

「そんな時もあったわね。あの時は本当にムカついたから。年下が偉そうにヴォルゼーを使いたいなんて舐めた口聞いて、不愉快ったらなかったわ」

 

 アストリットがヴォルゼーに怒りを滲ませた顔を向けた。アストリットは新参の方であるため、その事を知らなかったのだ。

 

「旦那は最初は誰からも嫌われるが、付き合う内に好きになっていく、そういう稀有な方だと思うね。付き合えば付き合うほど良いところが見えてくる。ニーナもそうじゃねえか?」

 

「初対面よりは、好意を感じています」

 

 ニーナは初めてルシフに会った時を思い出した。確かにあの時はルシフに嫌悪感しか抱かなかった。それから接していく内に、ルシフの中に優しさや心の強さのようなものを見つけた。だが、ルシフの傲慢さや尊大な物言い、配慮の無さは今も嫌いだ。ルシフを気に入っているかと訊かれれば、気に入っているが嫌いな部分もある、と答える。

 それから時間が過ぎ、お開きの時がきた。

 ルシフは最初と同じく、前に立った。

 

「明日から、本格的に行動を開始する。その前に一つ言っておく。剣狼隊である諸君らは俺の剣であり、手足であり、頭脳である。つまりは俺の一部だ」

 

 ルシフがナイフを掲げた。肉厚なステーキを切り分ける時に使用するような、切れ味の鋭いナイフである。

 ルシフはナイフで自らの右手の平を横一文字に切った。手の平から血が滴り落ちる。大広間が悲鳴とどよめきの声で埋め尽くされた。

 

「お前たちが傷付くとはこういうことだ」

 

 ルシフは血が滴り落ちる手の平を見せた。大広間がしんと静まる。

 

「剣狼隊の諸君らが傷付けば俺も傷付き、諸君らの内の誰かが死ねば、俺の手足をもがれるも同然である。だからと言って、生きろとは言わん。何度も死地に送り、何度も傷付けるだろう。だが、容易く死ぬな。生きて生きて生き抜け。最期まで生ききって死ね」

 

 大広間が熱気と歓声に満ちた。ニーナとリーリンは愕然とその熱気の中にいた。

 

「大将! 今は大将に傷を付けることを許してくれ!」

 

 レオナルトが叫び、ルシフと同じように右手の平をナイフで切った。それを見た剣狼隊が次々にナイフを取り、右手の平を切る。マイもナイフで右手の平を切った。

 剣狼隊全員が手の平を切った後、右手を天に向けて上げた。まるでルシフに見せるようだった。

 

「お前ら、アレに血を入れろ」

 

 血が滴り落ちる多数の手の平を見ていたルシフは、水を入れていた巨大な水差しを指差した。

 剣狼隊は疑問に思いながらも、水差しの蓋を取って血を入れた。水はすでに三分の一程度しか残っていない。百人近くが血を入れても溢れなかった。

 ルシフは水差しにコップを持って近付き、蛇口をひねる。コップに真っ赤な液体が注ぎ込まれた。透明なコップのため、外からも分かる。

 そこでルシフの真意を理解した剣狼隊たちが「あっ」と口にし止めようとするが、一足遅かった。

 ルシフがコップに入った真っ赤な液体を飲み干したのだ。

 ルシフの唇が真っ赤になった。笑みを浮かべる。歯も真っ赤だった。

 

「これでお前らは正真正銘俺の一部になった。お前らが死んでも、俺の血肉として生き続ける」

 

 もしかしたらそれは、たとえ血だけでも共に生きたいという、ルシフの情の深さなのかもしれない。もしくは、自分のために同じように手の平を切った者たちに対して、ルシフなりの感謝と誠意を表したのかもしれない。あるいは、たとえ死んでも、自分はずっと覚えているという覚悟かもしれない。

 剣狼隊全員が身体を震わせていた。

 

「旦那。旦那の血を水差しに入れてもらえないでしょうか」

 

 エリゴが言った。

 ルシフは無言で手の平から流れる血を水差しに入れた。

 エリゴはコップを取り、コップを血水で満たした後、飲み干した。たがが外れたように、剣狼隊全員が水差しに殺到し、コップに血水を注いで飲み干した。当然アストリットやバーティン、プエルといった者たちは飲むのを躊躇ったが、最終的には覚悟を決めて飲んだ。

 飲み干した後、唇と歯が真っ赤になっているのをお互いに指差して笑い合った。

 マイだけは、その血水を飲まなかった。

 

「ルシフさま。右手をお貸しください」

 

 ルシフは右手をマイの方に伸ばし、マイは両手でルシフの右手を掴んだ。顔を近付け、右手の平にある横一文字の切り傷を舐める。丁寧に舐めた後、傷口を吸った。

 ルシフはなんとも言えないような感情に襲われるが、耐えた。マイはそんなルシフの僅かに戸惑っている顔を見て、快感を感じていた。

 マイが右手を離す。

 

「私はルシフさまだけで充分です」

 

 マイはそう言って、妖艶さを感じさせる笑みを浮かべた。

 大広間の熱気はしばらく収まりそうになかった。

 

 

 

 ニーナは走っていた。口を手で押さえている。

 トイレを見つけると迷わず入った。便器に顔をうずめる。

 トイレの便器に向かって、思いっきり吐いた。胃液しか出なくなるまで吐き続けた。

 高貴な家に生まれたニーナにとって、血を飲むあの光景が耐えられなかったのだ。

 

 ──人間ではない。

 

 ニーナは吐き終えた後、そう思った。人間ではない境地に、ルシフだけでなく剣狼隊も立っている。それはつまり、非情なことも躊躇なく実行する強さがあることになる。そんな連中と対面して、話し合いなど意味があるのか。ルシフのやることを正せるのか。

 リーリンが来て、ニーナの背中をさすった。

 ニーナはトイレの扉も閉めていなかった。

 

「ニーナ、大丈夫?」

 

 ニーナは涙が溢れた。リーリンに抱きつき、声を殺して泣いた。リーリンだけが自分と同じ人間であり、自分が狂気に染まらないよう優しく導いてくれる光だった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 パーティーが終わった後、ルシフは父の墓に来た。もう既に辺りは真っ暗である。花は朝供えたため、何も持っていない。

 父の墓の前に座る。

 

 ──父よ。俺は王になったぞ。史上最高の王になれるかどうかは分からんがな。

 

 ルシフは内心で父にそう報告すると、墓を去った。

 墓を去ると、ルシフはアシェナ邸に向かった。

 アシェナ邸、道場、庭に液体を撒き散らしていく。

 そして、敷地外からアシェナ邸に化錬剄で剄を変化させた火を放った。撒き散らした液体は油であり、アシェナ邸は瞬く間に火の柱となった。中にある山のような書物や家財が何もかも灰となる。全財産はカードに移動させているため、金だけは無事だ。

 異常事態に気付いた剣狼隊や都市民たちがアシェナ邸に集まった。火はとても大きかったため、たとえ外縁部でも見えた。

 ルシフは敷地の外で火を眺めていた。今まで過ごしてきた家が無くなる。そこに悲しさはあったが、同時に自分がやろうとしているのはこういうことなのだと再認識した。

 ルシフのところに剣狼隊の面々が集まってくる。誰もが「何故?」と訊きたげな表情をしていた。

 

「気紛れに王になったなどと、思われたくはない」

 

 確かにルシフの言う通り、アシェナ邸が無くなれば、最期までルシフは王として生きるつもりだと都市民は思うだろう。

 ルシフの本心としては、都市民がどう思うかなどどうでも良かった。

 ルシフは今まで自分をルシフたらしめていたものを全て破壊した。人は逃げ道があると弱くなる。こうすることで、ルシフは『王』として生き続けなければならなくなった。また自分がこの先恨まれた時のために、繋がりを全て断っておくことも重要だった。腹いせで害が身内に及ぶかもしれないからである。

 

 ──不死鳥という存在が、転生者の記憶にあったな。

 

 ルシフはふと、そんなことを思い出した。寿命が近づくと炎に身を投じ、灰の中から新たな不死鳥が生まれるのである。

 これも同じだ、とルシフは思った。ルシフ・ディ・アシェナは死ぬが、新たに『王』が生まれる。

 都市民が必死になって火の柱にバケツの水を浴びせている。ホースを持ってきて放水もしていた。

 ルシフはそれでも動かず、火の柱をじっと眺めている。

 背後から、すすり泣く声が聞こえた。

 ルシフが振り返ると、マイや剣狼隊の何人かが涙を流して泣いていた。彼女らはルシフの覚悟を感じ、もう二度と今日までのルシフに会えないんじゃないかと不安と悲しみに支配されているのだ。

 

「何を泣く?」

 

 ルシフがマイに訊いた。

 

「ルシフさまが涙を流されないから、私が代わりに泣いているのです」

 

 ルシフはマイの右頬を左手で撫でた。

 

「今まで言わなかったが、お前は泣き顔も美しいな」

 

 マイはぽっと顔を赤らめた後、顔を軽く俯ける。

 

「私以外の女も同じように褒めるくせに……」

 

 それがマイにとって、ルシフに対する精いっぱいの反撃であった。

 

「確かにお前以外の女も褒めるが、美しいと褒めるのはお前だけだよ」

 

 ルシフにそう言われ、マイは更に顔を赤くして俯いた。ルシフの顔は見えず、地面しか見えない。だから、マイは気付かなかった。燃え盛る火を背後に、優しげな笑みをルシフが浮かべていたことに。



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第68話 RE作戦

 翌日朝十時。錬金鋼(ダイト)メンテナンス室。

 天剣が十一本全て復元され、それぞれの武器が床に並べられていた。残る一本はルシフが所持している。

 ヴォルゼーとサナックしかルシフは呼ばなかったが、剣狼隊の小隊長全員がこの部屋に来ていた。並べられた武器を興味深そうに見ている。

 

「このまま使いたい武器はあるか?」

 

 ルシフがヴォルゼーとサナックに訊いた。別に武器と設定は好きに変えられるため、このまま使う必要はない。ルシフは黒装束を着ている。

 

「わたしはこれがいいわ」

 

 ヴォルゼーはカウンティアの天剣ヴァルモンに手を伸ばす。カウンティアの武器は青龍偃月刀である。柄を握り、垂直に起こす。更に最大剄量を青龍偃月刀に流した。室内に剄の奔流が巻き起こる。

 

「やっぱりこれがいい」

 

 青龍偃月刀を上から下までまじまじと眺めて、ヴォルゼーは頷いた。青龍偃月刀の長さはヴォルゼーの身長を頭二つ分超えている。さすが天剣と言うべきか、全力で剄を込めても壊れる気配はない。

 ヴォルゼーはそこで周囲から驚愕の視線を向けられていることに気付いた。ルシフも呆気に取られたような顔でヴォルゼーを見ている。

 

「何? 試し斬りしてほしいの?」

 

 不快感を隠そうともせず、ヴォルゼーは青龍偃月刀を構えた。

 ヴォルゼーに視線を向けていた全員が視線を逸らした。

 

「そういうわけじゃない。本当にちょっとしたことだ」

 

「ま、許してあげる。今のわたしは機嫌良いから」

 

 ヴォルゼーは鼻歌交じりで、錬金鋼技師のまとめ役であるハントのところに行った。復元鍵語の音声と剄の登録、武器の細かい調整をするためだ。

 ヴォルゼーが去ると、その場にいる全員が顔を見合わせた。

 

「やっぱりおかしいよなあ」

 

 レオナルトがヴォルゼーの後ろ姿を見て言った。周りもうんうんと頷いている。アストリットは「明日は雨かしら?」と呟いていた。

 次はサナックが天剣を選ぶ番である。

 サナックは砲を片手で脇に抱えた。バーメリンの天剣スワッティス。

 

「それがいいのか?」

 

 ルシフが訊くと、サナックは頷いた。

 サナックもハントのところに向かった。

 

「私たちには天剣与えてくださらないのですか?」

 

 アストリットが少しがっかりした様子でルシフに尋ねた。

 

「俺は通常の錬金鋼では耐えきれない剄量があることを天剣を渡す条件にした。あの二人以外は通常の錬金鋼で問題ないから、お前らは無しだ」

 

「残念です」

 

「剄量の問題は努力では基本的にどうにもならないからな。だからこそ、選ばれた者だけに天剣を渡さなければ、天剣の価値が下がる」

 

 それから三十分ほど経つと、ヴォルゼーとサナックが戻ってきた。

 ヴォルゼーが持っている青龍偃月刀は少しだけ長くなっていた。身長の一.五倍の長さになっている。

 ルシフの前で跪く。

 

「天剣を与えてくださり、感謝いたします、陛下」

 

「ここには第三者はいないから、別にいつも通りでいいぞ。それは前から言ってるよな?」

 

 ヴォルゼーは立ち上がった。喜びの色が顔一面を包んでいる。

 

「はい、心得ています」

 

 ルシフは内心で戸惑った。ヴォルゼーは自由奔放な猫のような人間であり、従順な態度はらしくない。

 昨日の宴が終わってから、ヴォルゼーはルシフを殺したいという気持ちがすっかり消え失せていた。ルシフや剣狼隊と共に生きたいと考えるようになっていた。

 サナックは両腕に白銀に輝く手甲を付けている。

 

「わざわざ一から設定せずとも手甲ならあったろ? サヴァリスのやつが」

 

 サナックはスケッチブックを取り出し、ペンを走らせる。書き終えたら、スケッチブックを見せた。《この天剣が一番危ないから》と書かれている。確かに砲なので、他の天剣に比べたら威力の調整もできず、常に最大火力での攻撃になるだろう。しかし、それが選ぶ理由になるのがルシフには分からない。危ないから、使わないように自分が確保したということだろうが、そもそも天剣はこちらの手にある。グレンダンにいる天剣授受者に使われる心配はない。

 なんにしても、二人に天剣は与えた。

 

「ハント・ヴェル」

 

「はい」

 

「錬金鋼状態に戻せ」

 

「はい」

 

 ハントが復元された武器を抱え、電子機器が置かれているところに持っていった。それぞれの武器に何本もコードが繋がれ、ハントがキーボードを叩く。すると、錬金鋼状態になった。

 ルシフはそれら全てを剣帯に吊るした。ルシフの持つ天剣は全部で十本になる。

 

「一時間後に剣狼隊全員、詰め所に集まれ」

 

「ニーナとリーリンはどうするの?」

 

 ヴォルゼーが言った。

 

「そいつらは呼ばんでいい。ディンとダルシェナもだ。詰め所で話す話はとても重要だ。できれば心から信用できる者だけに話したい」

 

 ニーナもディンもダルシェナも、地獄を見る覚悟があるかと訊いたら頷いていたが、たかが王を引き摺り下ろすのを見ただけでかなりのショックを受けていた。結局覚悟は口だけだったのだ。そんな連中に重要な話を聞かせれば、口止めしていても何かあった時に話すかもしれない。

 ルシフたちは錬金鋼メンテナンス室を出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 剣狼隊の全員が、武芸者の施設の詰め所に集まっていた。時刻は正午になっている。

 ルシフは全員の前に立った。

 

「今日から他都市を制圧し、支配下においていく」

 

 室内に緊張が走る。

 ルシフの言葉は常に断定している。そこに他者の意思が介入する余地はない。故に、ルシフと話し合いになることは絶対にないのだ。

 

「その場合、俺が支配者になるわけだが、お前たちは俺に仕える臣下となる」

 

 剣狼隊全員が頷く。そこは全員が納得していることだった。

 

「ここからが重要なルールだ。俺が命令した際、もし右手が顔のどこかに触れていたら反論しろ。逆に、左手が顔のどこかに触れていたら命令に同意しろ。いいな?」

 

 また剣狼隊全員が頷いた。

 ルシフは剣狼隊の行動や言動もコントロールしたいのだ。それがこれから都市を支配していく上で重要なのだろう。

 誰も何故そうしなければならないのか訊かなかった。そもそもルシフは、一から十まで説明するのを嫌う。説明するのは絶対に失敗できない場合くらいだ。そこにはルシフの思惑もある。やる事に何もかも説明していては、自分で思考する能力が養われない。やる理由を最低限にしか言わないことで相手に理由を考えさせ、思考能力を鍛えているのである。

 

「……俺から見て、この世界はマイナスだ」

 

 ルシフが眼を細めた。どこか遠くを見ているようだった。

 ルシフが自律型移動都市(レギオス)の世界を考えると、欠点が多い世界となる。セルニウム鋼山は限られていて、都市の移動には大量の燃料を消費する。ルシフがまず思うのは、移動の必要性である。都市が移動するのは汚染獣から逃げるため。ルシフが全都市を管理すれば汚染獣など脅威にはならないし、都市の住民が食い殺されて汚染獣の養分になることもなく、汚染獣は急成長できない。そうなれば汚染獣は弱い個体しかおらず、脅威が消える。移動などする必要が無くなり、セルニウム鋼山のエネルギーももっと有用に使える。都市間戦争も同じ人間の管理下にあれば起きず、人間同士の無意味な殺し合いを無くせる。

 そもそも汚染獣から逃げ回ることを前提とした世界であることが、ルシフは気に入らないのだ。初めから人類は汚染獣に敵わないと決めつけ、汚染獣に怯えながら日々を過ごす。それをこの世界は何百年と続けてきた。なんと愚かで、進歩のないことか。

 

「まずマイナスをゼロにする。つまりはこの世界をリセットする作業が必要になる。そのリセットする作業こそが全都市の制圧であり、旧体制の破壊である。これら一連の作戦を『RE作戦』と名付け、何があっても完遂させる」

 

「『RE作戦』……」

 

 剣狼隊の誰かが呟いた。

 世界を白紙に戻し、そこから新たにルシフが望んでいる絵を描いていく、ということなのだろう。世界という家は一つしかなく、また一つしか建てられない。新しい家を建てようと思ったら、元々ある家を破壊して更地にしなければならない。それと一緒である。

 

「お前たちは俺と志を同じくする同志だと思っている。理想に殉じ、自分の命より信念を選べ」

 

 剣狼隊全員がルシフの言葉に頷いた。

 ルシフはその光景を満足げに見た後、表情を引き締める。

 

「お前らだけに言いたいことはこれだけだ。午後二時に謁見の間に集合しろ。

マイも念威操者を指揮し、官僚や主要な役職にある者を同じ時間同じ場所に集合するよう伝えておけ」

 

「はい」

 

 マイは念威端子を展開させた。他の念威操者も端子を展開させる。ルシフが入り口の扉を開くと、それらの端子がそこから出ていった。

 全て出ていくのを見届けた後、ルシフは剣狼隊たちに向き直る。

 

「集合まで自由時間だ。それまで好きに過ごせ」

 

 ルシフは真っ先に詰め所を出て、昼食を食べようと外に出た。今日は外食にする予定である。

 そうして迷いなく歩くルシフの後ろにマイが続き、更にルシフと一緒に食事したいと考える剣狼隊の隊員たちが列をなして追いかけてきていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 王宮にある一室。

 ヴォルゼーはテーブルを挟んだ椅子に座っている。ヴォルゼーの向かいにはフェイルスが座っており、他には誰もいない。この部屋は防音壁となっており、話が外に漏れぬようフェイルスが配慮したのだろう。昼食後、フェイルスから話があると言われ、ヴォルゼーはこの部屋にきた。

 

「前王を内密に処理したいのです」

 

 フェイルスの声は静かであったが、その分殺気を感じた。処理などというが、前王を殺したいと言っているのは疑いようもない。

 「何故?」などとヴォルゼーは訊かなかった。フェイルスの心中を読めたからだ。フェイルスは、前王を担ぎ上げルシフに敵対する勢力が出てくるのを懸念しているのだろう。ルシフの政権がひっくり返されることはないだろうが、多少目ざわりになる。そういう些事でルシフを煩わせるのをフェイルスは嫌がっているのだ。内密にということは、ルシフに話をせず、許可ももらわず独断で動いている証拠。

 

「……なんでわたし?」

 

「あなたなら、やってくれると思いまして。これは陛下のためです。陛下には大事を成すため、全力を注いでもらいたい。小事など、先に潰しておかねばなりません。理解してもらえますね?」

 

 ヴォルゼーは哄笑した。フェイルスも笑い声をあげる。しばらく室内に二人の笑い声が響いた。

 

「断る」

 

 真っ先にヴォルゼーは結論を言った。

 確かに前王が生きていれば、反対勢力が生まれるかもしれない。しかし、その時はその時で叩き潰せばいいのである。もっと言えば、反対勢力はルシフの政治に少なからず不満があるから生まれるのであり、ルシフのどこに不満があるのかを知るきっかけにもなる。それを知れば、ルシフはより都市民が満足できる政治ができるかもしれない。

 そんな理由はさておき、フェイルスの言葉にはヴォルゼーの癪に障るものがあった。

 

 ──このわたしを刺客扱いするなんて、馬鹿にするにも程がある!

 

 ヴォルゼーは殺すにしても、隠れて殺すような真似だけは死んでも嫌なのである。殺すなら堂々と真正面から、相手も自分を殺そうとしている中で殺したい。

 フェイルスが怪訝そうな表情でヴォルゼーを見ている。それも不快感を助長させた。フェイルスにとって、自分はなんでもするような人間に見えていたらしい。

 

「後々面倒になると、あなたなら分かっていただけると思ったのですが……」

 

「刺客はやらない。暗殺もしない」

 

「あなたなら陛下さえもお気付きにならず、マイさんや念威操者の眼を掻い潜り、前王を殺せま──」

 

「黙れ!」

 

 室内をヴォルゼーの剄が荒れ狂い、殺気が室内に充満する。フェイルスの顔から生気が引いていく。

 

「わたしは刺客はやらない。やらないのよ」

 

「……陛下が煩わされてもいいと? あなたしか内密に処理できる人間は──」

 

 ヴォルゼーが動く。フェイルスの首を左手で掴み、頭上に持ち上げた。フェイルスは両足をばたつかせながら、両手でヴォルゼーの左手を必死に引き剥がそうとしている。

 

「いい加減にしろ。あなたは虎に鼠になれと頼むの? 頼まないわよね。頼まないでしょう。あまりわたしを馬鹿にするな」

 

 ヴォルゼーはフェイルスの首を離した。フェイルスは首に右手をあて、激しく咳き込んでいる。

 ヴォルゼーはその姿を冷たい眼で見下していた。

 

「あなたも剣狼隊の一人で、わたしより年上だから今回は見逃してあげるし、ここでの話も忘れてあげる。

でも今度その話をわたしにしたら、その首で青龍偃月刀の試し斬りをするわよ」

 

 ヴォルゼーは荒々しく部屋を出ていった。

 フェイルスはその後ろ姿を見届け、扉が閉められると心底おかしそうに笑った。

 

「自由気ままな猫のくせに、自分を虎に例えるか。笑わせてくれるよ、ホント。せっかく陛下のお役に立てる役割を与えてあげようって思ったのにさ」

 

 フェイルスは乱れた椅子とテーブルを元に戻し、部屋から出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 午後二時、謁見の間。

 剣狼隊、宝剣騎士団、官僚、政治家などが集まっている。秘書官であるゼクレティアも段差がある手前に立っていた。

 ルシフは玉座に座っている。すでに玉座は金属でできた硬い玉座になっていた。

 

「交通都市ヨルテムを攻める」

 

 開口一番、ルシフは結論を言った。

 宝剣騎士団、官僚、政治家はお互いに顔を見合わせ、困惑している。剣狼隊はそういう覚悟を事前に決めているため、平然としていた。

 

「あの……陛下、ヨルテムを攻めるとは?」

 

 官僚の一人が尋ねた。

 

「そのままの意味だが?」

 

「攻めて、どうなさるおつもりです?」

 

「俺の支配下に置く」

 

 そこら中から笑い声があがった。官僚、政治家の面々の笑い声だった。

 

「都市は常に移動しております。支配下など、おけませぬ」

 

「ヨルテムを剣狼隊に武力制圧させる。その後、俺が直々にヨルテムに行き、政治を行う。その間、お前たちにイアハイムの政務を任せることにする」

 

 官僚や政治家たちは顔面蒼白になり、絶句していた。ルシフは冗談ではなく本気だと、ようやく気付いたのだ。

 

「この際、はっきり言っておく。俺は一都市の長で終わる気はない。全都市を武力制圧し、管轄下とする」

 

「なっ……!」

 

 剣狼隊以外の者たちが明らかに動揺した。そんなことを強行すれば、イアハイムは全都市から非難されることになりかねない。他都市からの商人や流通も無くなるのではないか。そういう懸念を誰もが胸に抱いた。

 その懸念を見透かしたように、ルシフが玉座で勝ち気な笑みを浮かべる。

 

「だからこそ、ヨルテムの制圧は確実かつ迅速に行わねばならない」

 

 ルシフにとって、ヨルテムの制圧こそ最も重要であり、全都市を制圧していくうえで必要だと考えている。

 何故なら、交通都市ヨルテムだけが全都市に通じている窓だからである。どの都市から放浪バスに乗っても、最初は必ず交通都市ヨルテムを経由する。それはサリンバン教導傭兵団の放浪バスも剣狼隊の放浪バスも同じであり、ヨルテムを経由することで目的地までどの都市を通ってゆけばいいか分かるのである。

 つまり何が言いたいかと言うと、ヨルテムを掌握すれば、物流も人の流れも何もかも支配でき、全都市を完全に孤立させることができるのだ。また、こちらはヨルテムから他都市に兵を送り放題なのである。このアドバンテージは大きい。

 ヨルテムが唯一電子精霊のネットワークで全ての都市の位置を把握、それに基づいた放浪バスの統制をしているため、ヨルテムが滅んだら別の都市が役割を代行するのではないかという意見がある。しかしルシフの場合、支配者が代わるだけなのでヨルテム自体は滅亡しない。ヨルテムの都市機能全てを乗っ取るだけなのだ。

 ルシフに言わせれば、何故イグナシスの手先である汚染獣や仮面の連中がヨルテムを真っ先に攻略しようとしないのか、理解に苦しむ。

 イグナシスはグレンダンや電子精霊が生まれるシュナイバルといった都市を狙い、暗躍しているが、まずヨルテムを奪い、ヨルテムを利用して他都市を滅ぼしていく方が確実に世界を崩壊させられる、とルシフは考えている。将棋で言えば、イグナシスはいきなり王を取りにいっているようなもので、上手くいく筈がない。

 もっとも、ルシフはそんなイグナシスの愚かさに感謝している。イグナシスがもっと賢ければ、ルシフが生まれる前にこの世界は滅んでいた筈だ。

 

 ──これが初手にして王手だ。

 

 ルシフはそう思った。

 ヨルテムを取れば、『RE作戦』は成功したも同然である。

 

「サナック、エリゴ、レオナルト、ハルス、バーティン」

 

「はっ」

 

 呼ばれた五人が絨毯の上に進み出て、跪いた。

 

「お前たち五人を隊長とし、剣狼隊五十人でヨルテムを制圧しろ」

 

「お待ちを」

 

 ヴォルゼーが前に出て跪く。

 

「わたしにやらせてください。わたし一人でヨルテムを制圧してみせましょう」

 

 謁見の間がざわついた。

 ヴォルゼーの後ろで跪いている五人は、ヴォルゼーに役目を奪うなと言いたげな視線を向けている。

 

「絶対に遵守しなければならないルールがある。それを守れるなら、お前でもいい」

 

「お聞きします」

 

「まず抵抗してくる武芸者は一人も殺すな。四肢の欠損も許さん」

 

 これはルシフの掲げる理想に基づいている。ルシフは理不尽な死をできる限り無くすことを理想としている。今回のヨルテム制圧は汚染獣の襲撃と本質的な違いがない。どちらも闘わなければ死ぬか奪われるだけであり、選択肢など初めから存在していないからだ。理不尽な死を無くすとマニフェストで掲げているのに、理不尽な死を許容することはできない。

 ヴォルゼーは明らかに動揺した。

 ヴォルゼーは戦闘になるとスイッチが入り、歯止めがきかなくなってしまうのである。そのせいで、訓練中に何人もの剣狼隊の人間を瀕死の状態にし、病院送りにした過去がある。

 殺すことはなんとか自制できるだろうが、四肢の欠損は勢いでしてしまうかもしれない。ヴォルゼーは命のやり取りをする戦闘で手を抜くのは戦闘への冒涜だと考えているため、どうしても力が入ってしまうのである。

 

「例外もある。ヨルテムを攻めた際、その混乱に乗じて盗みや性的暴行をする奴は問答無用で殺していい。そんな連中、俺の都市にいらん」

 

 盗みや性的暴行といった私欲を満たそうとする人間を殺すのは、別に理不尽ではなく当然の報いである。殺さない配慮をしてやる必要はない。

 ヴォルゼーは言葉が出てこなくなっていた。

 

「どうした? それができないのなら、今回のヨルテム制圧だけでなく、他の都市の制圧も任せられん」

 

「……分かりました。精いっぱい努力したいと思います。では、わたし一人でよろしいですか?」

 

 ルシフは腕組みをし、足を組んだ。

 

「情報では、ヨルテムの武芸者の数は二千人はいると聞いている。お前一人で制圧できるか?」

 

「ヨルテムに内通者もおります。一、二割は我々の味方となるでしょう」

 

「ふむ……」

 

 ルシフは眼を閉じた。

 今ルシフの頭の中では様々な可能性が弾き出され、それに対する対抗策と最良の選択が計算されている。

 一分間程度の沈黙の後、ルシフはゆっくりと眼を開けた。その眼光に迷いは無い。

 

「ヴォルゼーだけに任せるのは不安が残る。ヴォルゼー、サナック、プエル、バーティン、レオナルト、エリゴ、フェイルス、アストリット、ハルス、オリバ」

 

 ルシフに呼ばれた者たちが絨毯の上で跪いた。

 

「お前たち剣狼隊小隊長十人と、念威操者のヴィーネ」

 

「はっ」

 

 一人の女が新たに絨毯の上に進み出て、跪く。

 

「合わせて十一人で、ヨルテムを制圧しろ。出発は今から三時間後とする。俺はお前たちが出発してから四時間後に出発する。遅くても三時間でヨルテムを制圧しろ」

 

「御意」

 

 跪いた全員が頭を深く下げた。

 

「これで解散とする。ヴィーネだけは残れ」

 

 謁見の間から人がどんどん去っていく。

 やがてヴィーネと二人きりになった。ヴィーネは肩で切り揃えた黒髪と、黒の瞳が印象的だった。無表情でルシフの顔を見ている。

 

「マイから映像データを受け取り、いつでも映像を流せるようにしておけ」

 

「なんの映像データですか?」

 

「俺がグレンダンの武芸者たちと戦闘している映像だ。マイにそう言えば、映像を念威端子に記憶させるだろう」

 

「分かりました」

 

 ヴィーネは一礼すると、謁見の間から出ていった。

 ルシフは玉座に座ったまま、しばらく眼を閉じていた。この先起こることを脳内でシミュレートしている。

 

 ──ヨルテム制圧を失敗する可能性が見えないな。

 

 ルシフはシミュレートでヨルテム制圧の失敗が脳内に浮かばず、がっかりした。ヨルテム制圧が失敗するとしたら、ルシフの想像を超える要因が無ければならない。それはそれで、ルシフにとって望むところ。退屈な作業が面白くなる。その程度の認識しかない。

 ルシフは心のどこかで、ヨルテム制圧を失敗するのを願っているのに気付いた。自分の才能を全部絞り出し、自分の限界が見たい。だからこそ、世界に喧嘩を売ろうとしているという自覚もあった。

 ルシフはため息をついた。しばらく退屈な日々が続きそうだ。

 

 

 

 それから三時間後、剣狼隊小隊長全員と念威操者一人を乗せた剣狼隊専用の放浪バスが、イアハイムを旅立った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 交通都市ヨルテムはいつも通り、賑わっていた。物流と人の中継点のため、放浪バスの停留所から少し行くと繁華街があり、旅行者や商人を狙った歓楽街もある。娯楽施設も多数あり、外縁部付近であるのに人がごった返していた。

 ヨルテムの都市民は旅行者や商人に寛容だが、同時に常に警戒し、用心している。

 治安維持にあたる武芸者の数も多く、停留所や外縁部付近にも不審者や危険人物はいないか見回りをしている武芸者がいる。

 当然放浪バスが停留所に着いたら、放浪バスに乗っている人間を一人一人確かめ、荷物検査をして爆発物などの危険物を持ち込んでいないかのチェックもする。

 停留所には多数の放浪バスがずらりと並んでいた。その中にはサリンバン教導傭兵団の放浪バスもある。そこに真っ赤な放浪バスが走ってきて、停車した。

 武芸者の数人がその真っ赤な放浪バスに気付き、近付いていく。彼らは客を迎えるような笑みを浮かべている。

 彼らには油断があった。警備しているが、ここ数年以上問題が起きたことは無いのだ。また三、四週間前、これと同じ放浪バスが来たのを彼らは覚えていた。真っ赤な放浪バスは珍しく、どうしても記憶に焼きついてしまっていたのだ。その放浪バスに乗っている人物というのも、こんな珍しい放浪バスに乗っていたということで強く印象に残っていた。金払いがよく、付き合いやすい人たちだった。

 そう思いながら、武芸者数人は真っ赤な放浪バスから降りてくる者たちを出迎えた。放浪バスから降りてくる者たちは全員赤装束を着ている。

 本当に一瞬の出来事だった。出迎えた武芸者たちを無表情で見下ろし、全員が同時に「レストレーション」と呟いた。錬金鋼が光り輝きそれぞれの武器となる。ヨルテムにおいて、旅行者の錬金鋼の復元は禁止されている。出迎えた武芸者たちがおかしいと思った時には、降りてきた剣狼隊に叩きのめされていた。

 その光景を見ていた旅行者や商人、都市民がしんと静まる。数秒後、地を震わすような怒号と悲鳴をあげ、シェルターを目指して走り出した。

 今日という日はヨルテムにとっても、鋼殻のレギオスという世界にとっても特別な日となる。後世において、『暴君が誕生した日』と歴史書に刻まれた日であり、交通都市ヨルテムという都市が世界から消えた日でもあった。



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第69話 ヨルテム強襲

「何が起きているか、状況説明しろ!」

 

 交通都市ヨルテムの都市長は念威端子に向かって怒鳴った。

 赤装束を着ている者たちが停留所付近で巡回中の武芸者を倒し、そのまま都市中央部に進撃中であると念威操者は都市長に伝えた。襲撃者の数は十一人。

 この時点で、都市長は襲撃者の目的が読めずにいた。都市長の在任期間は長く、今回が初めての襲撃ではない。しかし、今回の襲撃は今までと毛色が違っていた。今までの襲撃全て、停留所付近の商人たちから商品を奪い、放浪バスで他都市に逃亡しようとする動きをしていたのだ。だというのに、今回の襲撃は商人には目もくれず、都市の中心を目指している。当然都市深くに入り込めば入り込むほど、武芸者に包囲され逃亡が困難になる。

 

 ──襲撃者たちは何を考えておる。

 

 都市の中央部に行けばもっと商人がいるし、高価な商品を扱う店も多く並んでいる。そこへの強奪を考えているのか。

 しかし、こちらの武芸者の数は二千を超える。逃げられるわけがない。こういう場合は焦らず、着実に相手を追い詰めるよう指示を出すべきだ。

 

「交叉騎士団を出動させ、都市中央部の防衛をさせろ! それから、非戦闘員は速やかにシェルターに避難するよう合図を出せ! 外縁部付近の武芸者に誘導と警備をさせる!」

 

『了解しました』

 

 念威端子が都市長室の窓から去っていった。

 時計を見る。ちょうど十一時。

 都市長は立ち上がり、窓の外を見た。都市中央部はいつも通りの光景で、襲撃されているなどとは考えられない。だが、視線を外縁部の方に向けると、武芸者たちが慌ただしく外縁部の方に移動しているのが見えた。

 サイレンが都市中に響きわたる。都市が攻撃を受けている時になるサイレンの鳴り方。これで、非戦闘員は避難を始めるだろう。

 

「どこの誰かは知らんが……ヨルテムを襲撃したのを後悔させてやる」

 

 都市長はぎりっと歯を噛みしめた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 剣狼隊は放浪バス付近の武芸者を倒した後、散開して都市中央部を目指して移動していた。

 サイレンが鳴り響いている。逃げ惑う都市民は多い。巻き込まれないよう、剣狼隊から反対方向に誰もが逃げていた。

 エリゴはフェイルスと組み、都市中央部に向かって直進していた。建物が左右に立ち並ぶ大通りで、正面には多数の武芸者。左右の建物の屋上にも銃や弓を使う武芸者たちが、こちらに武器を向けて雨のような激しい攻撃をしている。

 エリゴはそれらの攻撃を刀で弾きながら進み、フェイルスは建物の屋上に移動して、建物の屋上にいる武芸者たちを細剣で次々に倒していた。

 正面から旋剄で瞬く間に肉薄してくる武芸者たち。それぞれ武器を構え、エリゴに殺意のこもった攻撃を仕掛けてくる。

 エリゴはそれらの攻撃を全て刀で受けきり、刀の剄を衝剄に変化させて身体を回転させる。攻撃を仕掛けた武芸者全員衝撃波を食らって吹き飛んだ。

 その間に足を前に進めるが、すぐに第二段がきて正面が塞がれる。エリゴは舌打ちした。数が多すぎて、なかなか前に進めない。フェイルスもてこずっているようで、進む速度は自分と同じくらいだった。

 エリゴの周囲から一斉に武器を突き出される。それらの武器が、エリゴに届く前に静止した。いつの間にかエリゴの周囲に鋼糸が張り巡らされ、鋼糸が武器に絡みついて動きを封じていた。武芸者たちは誰もが驚愕した表情になっている。

 エリゴは口元だけ笑った。

 

 ──プエルか。

 

 プエルは遠く離れた場所にいるようだが、念威操者ヴィーネのサポートにより、念威端子を通してこちらが見えているのだろう。

 エリゴは跳躍し、動けなくなっている武芸者を後にした。また正面に武芸者が立ち塞がってくる。武芸者の攻撃をカウンターで倒しながら、武芸者たちの僅かな隙間を通って抜いていく。

 フェイルスもプエルのサポートでかなり動きやすくなったらしく、進む速度が速くなった。

 しかし、向かう方向にはまだまだ多数の武芸者たちがいる。一筋縄ではいかなそうだ。しかも、こちらは殺すことを禁止され、相手は容赦なく殺そうとしてくる。まさに地獄。生き残るためには己の全てを出し切らなければならない。

 そんな絶望的な状況が、エリゴは心地よかった。ルシフの言っていることは理想と綺麗事にすぎない夢物語だと、言う者は多くいるだろう。だが、だからこそそれを全力で実現しようとするルシフに魅力を感じるのだ。命をかけても実現してみたい。そんな気分にさせるのだ。

 建物の屋上で、フェイルスは弓と細剣を持ちかえながら道を切り拓いている。

 それを一瞥した後、エリゴは刀を構えて正面に突っ込んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ハルスは大刀を構えて薙ぎ払った。周囲にいた武芸者たちは大刀を各々の武器で防ぐが衝撃は殺せず、背後に吹っ飛んだ。

 ハルスも都市中央部に向かって別のルートで直進している。ハルスの隣にはオリバがいて、大きな鎚を振り回して武芸者を倒している。オリバの動きは老年とは思えないほどキレがあり、ハルスはそれを見て自分も負けていられないと思った。

 ハルスたちがいるところも大通りの一つであり、商店が多く建ち並んでいる。非戦闘員と思われる民衆が悲鳴をあげて逃げていた。

 武芸者は二つの集団があった。民衆を背にし、護衛するように武器を向けてくる武芸者の集団。逃げる民衆には目もくれず、まっすぐハルスたちを殺そうとする武芸者の集団。

 ハルスとオリバの眼前には武芸者が一斉に襲いかかってきている光景が広がっている。ハルスは雄叫びをあげた。声に剄を乗せ、大気を震動させて威嚇する。

 襲いかかってきた武芸者たちはびくりと身体を一瞬硬直させた。その一瞬の隙を突き、大刀の峰で全員打った。スローモーションのように、武芸者たちはゆっくりその場に崩れ落ちた。

 大刀を使っているのに斬ってはならないのはハルスにとって苛ついたが、ルシフの指示なら仕方ない。こういう苦痛に耐えてこそ強い男になれるのだ、と自分に言い聞かせた。

 

「相変わらず凄まじい一閃よ。敵にしたくない」

 

 オリバが鎚を振り回す腕を止めずに言った。

 

「俺はあんたと闘いてえな。爺さんのくせにそこまで動ける奴はそういねえよ」

 

「わしはごめんこうむる」

 

「つれねえよな、あんた」

 

 ハルスは笑い、正面を見据える。

 武芸者の集団はハルスとオリバを遠巻きに囲み、出方を窺っている。二人が並の武芸者ではないと理解したらしい。

 こうしている間も、武芸者の数はどんどん増えている。左右の建物からこちらに銃や弓を向けている武芸者も多くいた。

 ハルスはふと、ルシフの言葉を思い出した。交通都市ヨルテムには二千を超える武芸者がいるという話だ。

 ハルスはそれを聞いても、別になんとも思わなかった。こちらの戦力は十人。ならば、一人当たり二百人倒せばそれで問題ないなと思っただけだった。

 俺は何人倒した? 三十人くらいか? なら、あと百七十人倒せばノルマ達成か。

 突如として、建物の屋上にいた武芸者たちに異変が起こった。身体の自由を何かで奪われたのだ。それがプエルの鋼糸によるものだと気付いた時、二人は視線を一瞬だけ交錯させてすぐに正面に戻した。

 ハルスは大刀を下段で構え、オリバは鎚を肩に預けるようにする。

 二人同時に地を蹴り、武芸者の集団に飛び込んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 バーティンとアストリットの間はかなり離れていたが、それでも二人はコンビだった。二人に「コンビか?」と尋ねれば、二人とも「こんなのとコンビなんて組むわけない!」と答えただろう。しかし、実際二人はお互いの存在を意識しながら闘っていた。

 バーティンは双銃で遠方の武芸者を撃ち落とし、武芸者が接近したら素早く双剣に持ちかえて倒した。バーティンが倒しそこねた武芸者を、アストリットが後方から撃ち抜く。威力調整はしているため、死にはしない。後方に吹っ飛んで気を失うだけである。

 アストリットは殺剄の達人であるため、障害物に身を隠しながら進む彼女をヨルテムの武芸者は捉えられなかった。必然的にバーティンに攻撃が集中するが、バーティンはバーティンで内力系活剄の達人で高速移動を得意としている。バーティンの姿を見た時にはこちらが倒されているという中で有効な攻撃ができる筈も無く、ヨルテムの武芸者は面白いくらい二人に翻弄されていた。

 それにバーティンを捉えたとしても、バーティンとの間に鋼糸が一瞬で張り巡らされて武器をことごとく弾かれる。

 バーティンは内心でプエルの技量の高さに舌を巻いていた。バーティンの動きとヨルテムの武芸者たちの行動を先読みしなければ、こんな真似はできない。バーティンから見てプエルはどこまでも夢見がちな甘いお嬢さまという印象だったが、改めなければならないようだ。

 それはアストリットも同感で、アストリットは内心で何故プエルが小隊長に選ばれたのか理解できなかった。プエルは消極的すぎるのだ。相手を一切傷付けない。相手を拘束するか、相手の攻撃を防ぐ。それしかやらない。そんな甘さで部隊を指揮できるかと心の内で非難していたが、それは間違いだったかもしれないと思った。

 ルシフの見る眼は確かだったと、この時ようやく二人はプエルを小隊長として認めた。

 二人はどんどん都市中央部に食い込んでゆく。

 逃げ惑う非戦闘員を見て、アストリットは顔をしかめた。ひどいことをしているという自覚はあった。だが、これは必要なのだ。誰かが立ち上がらなければ、世界は一向に変わらず、無駄な犠牲を払い続ける。それに、ルシフに比べればこんな痛み、蚊に刺されたようなものだろう。ルシフは常に先頭に立ち、矢面に立たされる。その苦痛に比べれば、こんな痛み耐えなければならない。

 アストリットは建物を蹴り上がり、建物の屋上に移動した。

 そこで信じられない光景を目にする。

 

「……あれはなんですの?」

 

 都市中央部、その中心に黒く蠢く集団がいた。それがヨルテムで名高い精鋭中の精鋭──交叉騎士団だと知ったのは、襲撃が終わった後だった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 プエルの周囲は念威端子による映像が多角的に投影されている。それぞれ剣狼隊小隊長の周辺の映像であり、プエルがヴィーネに頼んで展開させたものだ。

 ヴィーネはプエルの隣に立ち、プエルに尊敬の眼差しを送っている。

 ヴィーネは念威操者のため、自分を武芸者から守れない。ヴィーネの護衛としても、プエルは存在していた。

 プエルは他の者たちと違い、外縁部付近からほとんど動いておらず、また動こうともしていなかった。

 ヴィーネは周囲を見渡す。多数の武芸者が包囲し、二人に向けて何度も武器を振るっている。銃弾、剄弾、剄矢も嵐のごとく放たれているが、不可視の壁に阻まれていた。いや、鋼糸が全ての攻撃を弾き、攻撃を防いでいるのだ。凄まじい音が響き続けているが、二人の周囲はその轟音とは対照的な空間だった。どこまでも静謐だった。

 ヴィーネは、まるで自分が別空間の中にいるような錯覚を覚えた。必死に攻撃している武芸者たちは、誰もが悔しさと怒りを滲ませた表情をしている。

 

「どうしたの? ヴィーちゃん」

 

 プエルはヴィーネの方に視線を向けた。

 

「……ヴィーちゃん……」

 

 ヴィーネは自分がそう呼ばれたことに照れくさくなったが、悪い気分ではなかった。プエルの方が年下なのだが、ヴィーネはプエルの呼び方に親しみを感じたのだ。

 

「いえ、別になんでも……」

 

 そう言いつつも、ヴィーネは周りの武芸者が気になり視線を周囲にさまよわせた。

 プエルはヴィーネの視線に気付き、合点がいったように一つ頷く。

 

「怖いよね。もう諦めてくれないかなぁ。お腹がキリキリするよ……」

 

 本当に参ったという表情で、プエルはため息をついた。その間も、何十、何百という武芸者の攻撃を防ぎ、更には他の剣狼隊小隊長たちのフォローもしている。

 

 ──とんでもないお方だ。

 

 ヴィーネは信じられないものを見るような眼でプエルを見た。

 プエルは鋼糸の設定で鋼糸の先端以外、殺傷能力を無しにしていた。もし殺傷能力を付けていたなら、周囲一面武芸者のバラバラ死体で埋まっているだろう。

 プエルはヴィーネがじっとこちらを見ているのに気付き、もじもじし始めた。顔もほんのり赤くなっていく。

 

「あの、ヴィーちゃん、そんな、見ないで」

 

「え?」

 

 まるで壊れる寸前のロボットのようなぎこちなさで、プエルがヴィーネから顔を背けた。

 そこで、今まで防げていた攻撃がいくつか鋼糸の防御を抜け、ヴィーネとプエルに迫った。

 ヴィーネは息を呑み、プエルはしまったという表情で鋼糸を操る。二人に触れる直前でなんとか鋼糸の防御が間に合い、迫ってきた武芸者を弾き出した。

 しかし、一度綻びが生まれた鋼糸の結界は、もはや効力を無くしていた。鋼糸と鋼糸のすき間が大きくなり、武芸者はそこを掻き分けて結界の中に踏み込んでくる。もはや静謐な空間は壊れ、剄の奔流と武器が暴れまわる無法地帯となった。

 プエルは慌ててヴィーネを抱えた。

 

「え? プエルさま?」

 

「よい……しょっ!」

 

 プエルは高く跳躍し、全方位から迫ってきた武芸者の攻撃を回避した。武芸者は武器の刃先を一斉に空中に向け、落ちてきたところを突き刺そうとする。しかし、武芸者の思惑通りにはいかなかった。

 プエルは空中で静止した。正確にはプエルの足元に鋼糸があり、鋼糸の上に乗っているわけだが、鋼糸の武器を使う者がいないヨルテムの武芸者は気付かなかった。驚愕した表情でプエルたちを見ている。

 ヴィーネは口元を両手で押さえていた。杖を持っているため、口から杖が生えているように見える。

 ヴィーネは口元を両手で押さえるのを止めた。プエルの肩にヴィーネのお腹があり、そこを支点として二つ折りされているような体勢になっている。

 

「プエルさま、これからどうします?」

 

「逃げるよ!」

 

 言うが早いか、プエルは空中に張り巡らした鋼糸を駆けて、周囲を包囲している武芸者たちから逃げた。

 

「ええ!? 逃げるんですか!? さっきみたいに鋼糸でかっこよく防いだりしないんですか!?」

 

「陣を鋼糸で創ってないのにそんなの無理だよ~! だいたい、ヴィーちゃんだって悪いんだかんね! あたしをじっと見つめるから! 鋼糸の操作ミスっちゃったじゃん!」

 

「わたしのせいですか!?」

 

 プエルは鋼糸を駆け続けた。自分とヴィーネを守ることで精一杯で、もはや他の剣狼隊小隊長のフォローはできていない。バーティンとアストリットは遠く離れたところで、やっぱりプエルはまだまだだわ、とため息をついているのだが、プエルはそんなこと知る由もない。

 

 

 

「隊長、襲撃者二人が逃げていきます! どうします?」

 

 ヨルテムの武芸者たちが隊長のところに集まった。

 

「ふむ……」

 

 隊長は逃げていく二人の赤装束の女を眺めた。

 

「いい女だな。特に念威操者じゃない方。あの胸はGカップ以上だ、間違いない」

 

「……隊長?」

 

 周囲の武芸者が訝しげな視線を向ける。隊長は視線に気付き、咳払いした。

 

「オホン! えー……逃げている襲撃者二人を捕らえ、徹底的に調べる! 何か危険物を持っているかもしれないからな! 誠に不本意ではあるが……身体の隅々まで調べなならんし、情報を吐かせるために拷問もせんといかんだろう……誠に不本意だがな!」

 

 そこで隊長の考えていることに察しがついた武芸者たちは、にやにやといやらしい顔になる。

 

「おっしゃる通りであります! すぐさま捕らえ、徹底的に調べ尽くしましょう! ヨルテムの平和のために!」

 

「ヨルテムの平和のために!」

 

 その場にいる全員が拳を天に掲げた。

 逃げていった二人の女を捕らえるため、隊長を先頭に隊列を組み、追いかける。

 こんなにも迅速かつ整然と動けたのか、こいつら。隊長は追いかけながらふとそう思った。

 

 

 

 ヴィーネは追いかけてくる武芸者たちの顔を見てゾッとした。眼は爛々と輝き、口元には下卑た笑みを浮かべている。ヴィーネはすぐに武芸者たちが何を考えているか悟った。

 

「プエルさま、ヤバいですよ! あれは野獣の眼光です! 捕まったらあんなことやこんなこと……もしかしたらそんなことまでされちゃうかも……!」

 

 プエルの顔からさっと血の気が引いた。

 

「そんなのヤダよ~! 初めては好きな人とって決めてるのに~!」

 

「いるんですか、好きな人?」

 

「……これから見つけるもん!」

 

 プエルは当てもなく逃げていたわけではない。自分たちの身を守りながらも、鋼糸の結界を行く先に創っていた。

 プエルは鋼糸から飛び下り、地面に着地。着地した衝撃がお腹に伝わったヴィーネは「ぐえっ」と声を出す。

 プエルはヴィーネの様子に気付かず、再び駆けて鋼糸の結界の中に飛び込む。中に入った瞬間結界が力を発揮し、プエルの後方から追いかけてきていた武芸者たちの侵入を防いだ。武芸者たちは悔しそうに顔を歪め、各々の武器で攻撃してくる。それら全ての攻撃を鋼糸の結界は防いだ。

 プエルはヴィーネを地面に下ろす。

 

「これでなんとかなったかな」

 

「……」

 

 ヴィーネは無言で口元を押さえ、吐きそうなのを堪えている。お腹も痛く、顔をしかめた。

 

「ヴィーちゃん、どうしたの?」

 

 プエルが首を傾げた。ヴィーネの中で何かが切れた。

 

「……別に何も。あと、ヴィーちゃんって呼ぶの止めてもらえます? 周りから親しいとか思われたくないんで」

 

 プエルは目に見えて動揺した。

 

「え? な、何? 本当にどうしちゃったの?」

 

「自分の胸に手を当てて考えてみたらどうです?」

 

「胸に手を……」

 

 プエルは胸に右手を当てた。ついでに豊満な胸も揺れた。ヴィーネも同様に胸に手を当ててみる。悲しいほどに、全く揺れない。何故か、イラッときた。

 

「あ、もしかして鋼糸の陣を失敗しちゃったことかな。やだな~、ヴィーちゃんのせいなんてもう思ってないよ~。陣の失敗はあたしの実力不足のせい」

 

 ヴィーネがプエルにずいと顔を近付けた。呼吸する息がかかるほど近い。

 

「ヴィー・ネ・さ・ん」

 

「……はい?」

 

「これからはわたしのこと、ヴィーネさんって呼んでくださいね、プエルさん」

 

「どうして急に冷たくなったの!?」

 

 プエルはヴィーネになんて言葉をかけようか考え、おろおろしている。

 ヴィーネはそんなプエルの姿を見て、ふんとそっぽを向いた。そっぽを向いた先では、激しい攻撃を防いでいる鋼糸が耐えず火花を散らしている。

 プエルを横目で見ると、まだおろおろしていた。ヴィーネに許してもらおうと四苦八苦している。

 

 ──とんでもない人……なんだろうけどなぁ。

 

 全然そう見えないのは、プエルのこの性格のせいだろうか。

 プエルがあたふたしている様子が面白いので、ヴィーネはしばらく放っておくことにした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 女が無人の野を行くがごとく、優雅に歩いていた。足取りは軽く、今にもスキップしそうなほどに気分が良いのは一目瞭然だった。

 女の容姿は長い黒髪を肩の位置で二房にわけ、緩やかな三つ編みにして前に垂らしている。猫のような丸いつり目を光らせ、獲物の味を想像して舌なめずりする女を見て、ヨルテムの武芸者たちは一斉に襲いかかった。

 女に近づいた時、風が彼らの一部を打った。ある者は顔を。ある者は腕を。ある者は足を。ある者は胸を。ある者は腹を。まとめて吹き飛び、風に打たれた場所は潰れていた。

 武芸者たちの絶叫が響きわたる。女はそれでも笑みを崩さずにいた。焼けつくような痛みに身をよがらせている武芸者たちの横を歩き、その手に持つ武器と呼ぶには装飾過多すぎる偃月刀を地面に滑らせながら、悠々と歩き続ける。

 この辺りの避難は済んだらしく、女以外は武芸者しかいなかった。

 無機質な建物が立ち並ぶ間の大通り。女を武芸者たちが囲み、女が一歩歩けば武芸者たちも一歩歩く。そのため、いつまでも女と武芸者たちの距離は変わらない。

 武芸者たちは女を恐れていた。

 女と歩幅を合わせながら、武芸者たちは女を観察した。腰には酒を入れるような銀色のボトルが括りつけられ、着ている赤装束の胸と背中には『ヴォルゼー』と黒糸ででかでかと刺繍してある。

 ヴォルゼー……それがこの女の名前か、と武芸者たち全員が理解した。

 ヴォルゼーの後方は蟻の大群のごとく、痛みで地面に転がる武芸者で覆い尽くされている。近付けば一瞬で立つこともできない激痛に貫かれ、這いつくばってしまうのだ。

 ヴォルゼーは楽しげに青龍偃月刀を見た。

 武芸者たちは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

 

 

 ヴォルゼーは青龍偃月刀を気に入っていた。その時の衝撃を、ヴォルゼーは運命だったというありきたりで面白みのない表現しかできなかった。

 青龍偃月刀を見た瞬間、『わたしを使って!』と雷鳴のように脳天から響いたのだ。

 迷いなくヴォルゼーは青龍偃月刀を手に取り、全ての剄を叩き込んだ。今までの錬金鋼と違い壊れず、壊れる気配もなかった。

 『どう? すごいでしょ』と自慢気な声が聴こえた。

 『ええ、すごいわ』とヴォルゼーは心の内で聴こえた声に答えた。

 その日から、ずっと待っていたのだろう。青龍偃月刀とともに闘う時を。世界を、歴史を変える瞬間を。

 何故、この武器に惹かれたか。答えは分かりきっていた。この武器の装飾があまりにも素晴らしく、見る者の目を奪い惹き付けるからだ。当然、それを扱う自分の姿も強く印象に残る。ヴォルゼーは自身を青龍偃月刀に重ね合わせていた。自分と同じで装飾過多だ。必死に人の目を引こうと、少しでも長く人の心に残ろうときらびやかに着飾る。

 ヴォルゼーは青龍偃月刀から正面に視線を移した。

 いつの間にか都市中央部深くまで入り込んでいたらしい。

 ヴォルゼーを囲む武芸者たちの後方から、重装備で身を固めた集団が現れた。全員が黒々とした鎧を鳴らし、槍を頭上に掲げながら進んでくる。囲んでいた武芸者は恐れをなしたように左右に広がり、黒鎧の集団はそこを食い破るように前進した。ヴォルゼーと黒鎧の集団が相対する。この黒鎧の集団こそ、ヨルテムにおいて精鋭中の精鋭──交叉騎士団である。

 交叉騎士団はエリート意識が強く、都市の治安維持などをする武芸者を見下す傾向があった。また、交叉騎士団は都市内でしか闘わない。汚染獣を発見しても、都市外に出て汚染獣と闘うのは交叉騎士団以外の武芸者であり、外縁部で闘うのも交叉騎士団以外の武芸者である。言ってみれば、交叉騎士団はヨルテムの最後にして最強の矛であり、また最強の盾であった。

 

「構え!」

 

 交叉騎士団の団長が声を張り上げた。頭上に掲げられている槍が一斉に正面に向けられる。交叉騎士団は騎士式という、槍を構えて集団で突撃する戦法を用いる。

 何十、何百という槍の穂先がヴォルゼーに突き出され、陽光が穂先を照らしているため銀色の眩い光が大通りに溢れた。

 美しさとは裏腹に、身の毛もよだつ光景であろう。重装備に固めた武芸者の集団は衝剄では吹き飛ばせず、かといって逃げようにも、逃げ場のない移動都市の上である。じわじわと重囲を狭め、圧殺されるのが関の山。

 しかしヴォルゼーはそんな恐ろしい光景を見て、笑みを深くした。

 頑丈そうな鎧に包まれている。なら、少しくらい強くやっても死なないだろうし、四肢の欠損もしない筈だ。

 ヴォルゼーはそう考えた。

 交叉騎士団の不幸は、彼らの前に立つ女が彼らを超える実力と攻撃性があったことだった。

 ヴォルゼーは青龍偃月刀を構える。

 

「わたしは剣狼隊最強の武芸者、ヴォルゼー・エストラ。わたしを殺せれば、他の連中も殺せるわよ」

 

 ヴォルゼーは内から込み上げてくるものを感じ、ぐっと堪えた。喉から津波のごとく押し寄せてくるものがある。意を決して飲み込んだが、僅かに口の中に残った。口の端から紅いものが一筋垂れる。

 

 ──お願いだからもう少しもってよ。

 

 口の笑みは崩さなかった。

 口元を拭い、青龍偃月刀を構え直す。

 ここでこの集団を破れば、歴史に自分が加わる。そんな確信がヴォルゼーを貫いていた。歴史を意識して、ヴォルゼーは現在この場所に立っていると言ってもいい。

 

「突撃!」

 

 黒鎧と地面を楽器に変えて演奏される死の行進曲。聴いた者は恐怖に支配され、立ち向かう気力を奪われ、虫けらのごとく蹂躙される。

 しかし、聴いている女は演奏が正しく伝わらないのか、恐怖で逃げようとせず、武器を手放そうとせず、強い抵抗の意思を赤茶色の瞳に宿らせている。

 煌めく刃の大群が間近まで迫ってきていた。地鳴りは都市全体を震わせ、鎧がぶつかりあって生まれる音の奔流に呑み込まれる。

 

 ──歴史に名を刻みに行きましょう。

 

 ヴォルゼーはその演奏で舞踏するように、軽やかに刃の大群の中に入った。

 青龍偃月刀を振るう。穂先が跳ね上げられ、黒鎧の上から叩き込む。うめき声を上げ、ヴォルゼーの周辺にいる黒鎧の武芸者たちが倒れた。

 まだ死の行進曲は続いている。ヴォルゼーから離れた場所にいた先頭は向きを変え、槍の穂先をヴォルゼーに向けた。後続も同様にしたため、瞬く間にヴォルゼーは槍の穂先に包囲された。そもそも数で圧殺する戦法。多少の犠牲は計算に入っている。

 ヴォルゼーはステップを踏んだ。演奏に応えるダンスを踊る。蹂躙のダンス。青龍偃月刀が弧を描いて振り回され、ヴォルゼーの衝剄で槍が次々と折られ、ヴォルゼーから放たれる化錬剄の鞭が黒鎧を砕き、地面に黒鎧の武芸者たちが転がっていく。

 簡単に圧殺できると思っていた交叉騎士団は、予想外の展開に困惑した。女に槍を届かせるどころか、近付くこともできない。すでに地面に転がった黒鎧の武芸者の数は五十を超える。

 交叉騎士団は今まで全くと言っていいほど、実戦を経験していなかった。訓練と模擬戦をやって練磨する毎日だった。黒鎧の中から響く絶叫。倒れていく仲間。情け容赦なく痛めつけてくる女の楽しげな表情。振るわれる死神の鎌のようにインパクトのある凶悪な武器。立ち向かう仲間が少なくなっていく状況。

 それらは恐怖となって交叉騎士団を蝕み、槍を女に向ける者は徐々に少なくなっていった。槍を錬金鋼に戻すのも忘れ、槍を投げ捨てて女から逃げる者が出てきたのだ。それを見た他の交叉騎士団も次々に槍を投げ捨てて逃げ始める。

 今やヴォルゼーが狩る側になっていた。背を向けて逃げる交叉騎士団の背後から、青龍偃月刀を叩き込む。その場に崩れ落ちた。それを横目で見た交叉騎士団はもっと必死に逃げた。都市中央部から離れる方向だ。

 逃げたところで、安寧の場所などない。痛めつけられるのが遅くなるだけだと分かっていても、逃げずにはいられなかった。それだけ女が圧倒的かつ容赦が無かった。

 ヴォルゼーは追うのを止めた。さっきまで規則正しい行進と動きで見事な音楽を奏でていたのが、今は誰もが適当に音を奏で、演奏ではなく雑音となって耳に入ってくる。

 ふと、全員殺したくなった。わたしを殺しにきといて、いざとなったら殺されたくないと逃げる。そんな道理が通るか。

 身の内から燃え上がる狂暴性。逃げるヤツも、地面に倒れているヤツも、息があるヤツは全員殺したい。殺して殺し尽くしたい。なんのために自分がここに立っているかさえ、頭から消えた。

 ヴォルゼーの元に念威端子が飛んできた。

 

『ヴォルゼーさま。都市長室まではあと一キルメルもありません。制圧に向かってください』

 

 青龍偃月刀を手に、逃げていく黒鎧の集団を見据えていたヴォルゼーは、念威端子の声にハッとした表情になった。

 ヴォルゼーは何度か深呼吸すると、念威端子に向かって手を振った。

 

「オッケー。ありがと、ヴィーネ」

 

『いえ』

 

 念威端子はヴォルゼーの頭上に飛び、そこで静止した。ヴォルゼーが歩くのに合わせて、念威端子も動く。

 ルシフはヴォルゼーの狂暴性を理解していたため、ヴィーネにヴォルゼーの様子がおかしくなったらフォローするよう、出発前に頼んでいた。

 ヴォルゼーは都市長室に向けて歩き続ける。

 

「あの交叉騎士団が……」

 

 惨状を見ていた武芸者の一人が呟いた。

 武芸者たちは交叉騎士団がいるからこそ、圧倒的に強いヴォルゼーの包囲を止めなかった。交叉騎士団と力を合わせて戦えば勝てると信じていたからこそ、戦意を持っていられた。

 それなのに、交叉騎士団のこの醜態である。

 交叉騎士団の前にヴォルゼーを包囲していた武芸者たちは、交叉騎士団が負けたという事実に戦意を喪失していた。ヴォルゼーが都市長室に向かっていくのを、ただ立ち尽くして見送った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 (とき)がきた。

 念威端子から伝えられた言葉に、ヨルテムに潜入していた剣狼隊の武芸者たちは歓喜に震えていた。

 ここ数年ヨルテムの武芸者として闘い続け、都市長から信頼も勝ち取り、それぞれヨルテムの武芸者を率いる隊長にまで昇り詰めている。実力はとてつもなくあるのだから、都市長の判断は正しい。また全員人格者であったため、武芸者や都市民からとても慕われた。

 無論、そうして溶けこむのが彼らがルシフから与えられた仕事だった。自分に共感する武芸者にルシフの思想をそれとなく伝え、協力者にするのも怠らなかった。

 それらがついに報われる。

 都市制圧の合図は、赤装束の武芸者たちが来ることだったからだ。

 念威操者の一部も味方につけ、もし赤装束の人間たちが来たら真っ先に教えるよう言ってあった。

 潜入した一人であるレラージは、都市中央部から少し外れた場所の治安維持を任されていた。五十人の隊員がいる。

 念威端子が近付いてきた。

 

『レラージ隊長、襲撃者です。数は十一人。現在は散開し、それぞれ都市中央部を目指して進撃中。ただちに都市中央部に行き、襲撃者を殲滅してください』

 

「了解した! 今すぐ向かう!」

 

 念威端子はレラージから離れていった。

 レラージは率いている武芸者たちを見る。全員顔の血の気が引き、身体を震わせていた。

 無理もない。今まで育ち、守ってきた都市を裏切ろうとしているのだ。何も感じない方が信用できない。

 

「お前ら、分かるな。俺たちは、ヨルテムの犠牲者を一人でも少なくするため、襲撃者に力を貸すんだ。遅かれ早かれ、必ずヨルテムは制圧される。あと、絶対に都市民は殺すなよ」

 

 震えながらも、武芸者たちは頷いた。

 レラージ隊は移動を開始する。他の武芸者の一隊がレラージ隊の前を横切った。レラージ隊に気付き、彼らが立ち止まる。

 

「レラージさん、良かった。念威操者の情報では、襲撃者はとてつもない強さらしい。我々だけでは心細いと思っていたところです」

 

 隊長がレラージに親しげに近付いてきた。レラージも近付く。

 

「がっ……!」

 

 隊長の腹にレラージの拳がめり込んだ。隊長はゆっくりと倒れていく。異常に気付いた武芸者たちは困惑と恐怖が入り混じった表情になる。

 

「レラージ隊長、あんた……」

 

 武芸者の一人がそう呟いた時には、レラージ隊の全員が動いていた。錬金鋼を復元し、全員を倒す。

 

「駆けるぞ!」

 

 レラージが叫び、駆け出した。隊員が続く。

 今の行為は念威端子に見られているだろう。すぐさま自分が裏切ったという情報が他の武芸者に伝達される。

 時間はない。手間取れば手間取るほど、犠牲者は増える。迅速に都市長室を制圧しなければ。

 レラージ隊は駆け続ける。

 その頃、レラージ隊だけでなく他の隊も次々に裏切っていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 都市長室。

 念威端子から様々な情報が休むことなく届けられていた。

 

『都市南西部、二人の襲撃者に突破されました!』

 

『都市西部、都市南部、都市北西部も襲撃者に突破され、都市中央部に襲撃者が接近!』

 

『交叉騎士団の一部が襲撃者一人に敗れ、逃走中!』

 

『レラージ隊、別の隊を無力化し、都市中央部目指して前進中!』

 

『サレス隊、ナベリース隊、マルシア隊、フォーカル隊もレラージ隊同様別の隊を無力化し、都市中央部目指して前進中!』

 

『交叉騎士団の一部、今度は襲撃者二人に敗北! 襲撃者の進撃を止められません!』

 

「ええい! 一体何がどうなっておる! たかが十人程度にいいようにされおって! それと、レラージ、サレス、ナベリース、マルシア、フォーカルが仲間を倒してこちらに向かってくるとはどういうことだ!?」

 

『彼らは襲撃者の圧倒的な実力に屈し、ヨルテムの敵となったのです! 状況から考えて、それしかありません!』

 

「あり得ぬ! 断じてあり得ぬ!」

 

 都市長は念威操者の言葉を一喝した。

 

「あの者たちは交叉騎士団より個々の実力は上だ! どんな相手でも臆さず戦う強靭な精神力もあり、何よりヨルテムを愛してくれていた! あいつらがわしを、ヨルテムを裏切るものか!」

 

『しかし! 現に彼らは味方である武芸者を倒し、ここに向かってきています!』

 

「何かの間違いだ! そうだ、倒された隊の方がヨルテムを裏切ろうとしていた武芸者なのだ! 彼らはそいつらを裏切る前に倒し、襲撃者たちからわしを守るため、わしのところに向かってきているに違いない!」

 

『都市長! 早くこの場から避難してください! もうヨルテムが襲撃者の手に落ちるのは時間の問題です!』

 

「あり得ぬ、そんなことはあり得ぬ」

 

 都市長は都市長室を忙しなく歩き回っている。

 

「襲撃者はたったの十人程度だぞ。わしには交叉騎士団があり、武芸者の数も二千人以上いる。ヨルテムが落ちるわけがない、落ちるわけが……。そうか、これは夢か。こんな現実、あってたまるか」

 

 都市長は念威操者の声も聴こえなくなっていた。

 都市長室の扉が、ノックも無く唐突に開かれる。

 赤装束に身を包んだ女二人が乗り込んできた。片方は双剣を握り、もう一方は銃を肩に預けている。

 都市長は足をもつれさせながら、窓際まで後退した。身体が壁に当たり、都市長はそのまま力無くずり落ちる。

 都市長はチラリと時計を見た。十二時十七分。

 

「バカな……。このヨルテムが、たった一時間十七分で落ちるとは……」

 

 いや、こんなことはあり得ない。夢なら早く覚めてくれ、早く……。

 都市長は近付いてくる女二人を見ながらそう思った。




活動報告に、残りの剣狼隊小隊長五人のキャラ設定をあげました。気になる方はどうぞ。


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第70話 新時代の幕開け

 都市長にとって、近付いてきた後の女二人の行動は予想外だった。

 都市長まで数歩というところまで近付いたら、女二人が武器を錬金鋼(ダイト)状態に戻したのだ。

 そして、片方の女が都市長に向かって軽く頭を下げた。赤髪をポニーテールにした女の方だ。

 

「手荒な真似をして申し訳ありません。ご安心してください。あなたに危害を加えるつもりは一切ありません」

 

「……何が目的だね?」

 

「この都市を暴威から守ることです」

 

 よくそんな言葉をぬけぬけと言える、と都市長は思った。

 暴威から守る? お前たちこそが暴威そのものではないか!

 都市長はそう言いたかったが、怒らせることを怖れて言えなかった。

 赤髪の女は都市長の心を読んだようで、愛想のいい笑みを浮かべる。

 

「不審に思われるのも仕方ありません。私たちのしたことは、ヨルテムの都市民からしたら決して許されることではないでしょう。しかし、これをやらなければならない理由があったのです」

 

「一体どんな理由かね?」

 

 都市長は立ち上がった。どうやら危害を加えるつもりはないという言葉は本当のようだ。

 

「まず、この映像を観てもらえますか?」

 

 赤髪の女の言葉に反応して、念威端子が都市長室に入ってきた。

 念威端子から映像が展開される。

 初めに旗が映った。どこかで見たことがある旗。都市長は記憶を掘り起こす。確か、武芸の本場として有名なグレンダンの旗だった筈だ。

 次に、一人の美しい少年がグレンダンの武芸者相手に立ち向かっていく映像。いや、立ち向かうという言葉は正確ではない。一人の少年がグレンダンを一方的に蹂躙していく映像というのが、この映像の内容として正しい。最後に、跳躍した少年が武器から凄まじい衝剄を放って化け物を消滅させるところを地上から撮っている映像。化け物を消滅させて地面に着地したところで映像は終わった。

 映像で繰り広げられている戦闘はあまりに現実味がなく、都市長にとってショックを受けるような映像ではなかった。戦闘のレベルが違いすぎて理解できなかったと言ってもいい。

 だが、それでもグレンダンの武芸者たちがとてつもなく強いのは分かったし、そんな彼らを蹂躙できる少年の強さはより際立って映っていた。

 

「この映像が……どうかしたのかね?」

 

「あと数時間後に映像の男がここに来ます」

 

「ヨルテムにこの少年が来ると?」

 

 赤髪の女は頷いた。

 都市長は喉が渇いていく感じがした。グレンダンを蹂躙できる男が、一体なんの目的で?

 いや、分かっている。こいつらがヨルテムを強襲した理由。この映像。最低限しか危害を加えない闘い方。それらは一本の線で繋がる。だが、分かりたくない。それはつまり、自分の地位が失われることを意味しているからだ。

 

「私たちはこの男の臣下です」

 

「……だろうな。どういう男だ?」

 

「力こそが全て、と考えている男です。女好きでもあり、今いる都市の若い女二百人以上、この男の毒牙にかかっています」

 

「絵に描いたような暴君だな」

 

「この男はヨルテムを支配しにいくと言い、先にヨルテムを落としておくから、三、四時間遅れて出発してほしいと私たちが懇願したところ、了承しました。もしこの男がヨルテムを支配しようと攻めこんでいたら、ヨルテムはどうなっていたと思います?」

 

「……考えたくないな」

 

 都市長は映像を観て身震いした。

 刃向かう者は容赦なく痛めつけ、立ち向かう手足を切り落とす。間違いなく地獄絵図となっていただろう。

 

「つまりお前たちは、この男がヨルテムを攻める代わりをして、ヨルテムの犠牲者を最低限にしたということか?」

 

「……時間がほとんど残されていなかったため、話し合いをする余裕がなく、また話し合いをしたところで、都市を渡すなどという選択肢をあなた方が選ぶとも思えませんでしたので、このような凶行を犯しました」

 

 なるほど、と都市長は頷いた。

 確かにあの映像無しにヨルテムを渡すなど考えられないし、攻める前にあの映像を見せたところで、どうせ加工して創られたエンターテイメント作品だろうと思われるのがおちだ。

 ヨルテムを十人程度で攻め落とし、あの映像を見せる。攻め落とした時点でこちらを圧倒できる実力を示せたことになるから、映像を使用したハッタリなど必要ない。映像は真実味を帯び、信じやすくなる。

 

「それで、私にどうしてほしいのかね?」

 

「武芸者たちに抵抗を止めさせてください。それと、私たちの念威操者に、あなた方の念威操者が協力するようにもしてください。ヨルテムを血で染めたくなければ」

 

 赤髪の女の鬼気迫る雰囲気に呑まれ、都市長は赤髪の女の言葉を信じた。

 隣にいる銀髪の女は不機嫌そうな表情を隠そうともせず、舌打ちした。

 それを都市長は、やりたくもないことをやったから機嫌が悪いのだと決めつけた。実際は違う。銀髪の女は赤髪の女の言葉が気に障ったのだ。

 

「分かった。言われた通りにしよう」

 

「助かります。ありがとうございます」

 

 赤髪の女は一礼した。

 

「では、広い部屋を確保しておいてください。そこに映像の男を案内しますから」

 

「ああ。それもやっておく」

 

「では、失礼します」

 

 赤髪の女は都市長室の扉に向かう。

 銀髪の女も赤髪の女をひと睨みしてから扉に向かった。そして、二人は扉から出ていった。

 都市長は力が抜け落ちたように椅子に座りこむ。

 

「私の都市では、無くなるのか」

 

 都市長の両眼から涙が一筋流れた。十年以上大切に守ってきたこのヨルテムが、あんな暴力的な男に奪われる。許せることではなかった。

 

 ──何か手を打たなければ。

 

 そこで都市長はあることを思いつき、念威端子を通じて一人の男と会うことにした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 バーティンの後ろをアストリットが歩く。

 アストリットは燃えるように赤い髪のポニーテールを睨みつけ続けている。当然のように殺気も放たれていた。

 バーティンは立ち止まる。殺気には最初から気付いていた。アストリットも立ち止まる。バーティンが振り返った。

 

「いい加減にしてくれないか」

 

「よくも……よくもあんな言葉を口にできましたね。ヨルテムを血で染めたくなければ、などと。ルシフさまがそのようなことをするとお思いで?」

 

「……機嫌が悪いのがお前だけだと思うなよ」

 

 バーティンから殺気が溢れ出し、剄の光で身体が輝いた。

 

「ルシフさまの命令でなければ、誰があんなことを言うものか。それに加えルシフさまを男呼ばわりなど、私が内心どれだけ苦痛だったか、貴様に分かるか? いや、分かる筈がないな。分かっていたら、殺気を放って睨まない」

 

「私が怒っているのは、血で染めるという言葉です。ルシフさまからは敵対しているように演技しろと言われましたが、血で染めるという言葉を使うようには言われていません。つまり、その言葉はあなたの心から出てきた言葉です」

 

「アストリット。本気で泣かすぞ」

 

 バーティンの殺気が激しくなり、アストリットは息を呑んだ。

 

「私はあの映像から連想されるイメージを口にしただけだ。それを貴様は、私の本心から出た言葉だと? 我慢にも限界があるぞ」

 

「分かりましたわ。そういうことなら、納得できます」

 

 二人は再び歩き始めた。

 しばらく歩くと、他の剣狼隊小隊長と合流した。全員いる。一人も欠けていないことに、二人は内心喜んだ。

 ヴィーネはヨルテムの念威操者たちにさっきの映像データを渡し終えていたため、現在ヨルテムの至るところでルシフがグレンダンを蹂躙している映像が展開されている。

 その映像を観たヨルテムの武芸者たちは抵抗の無意味さを悟り、戦意を失っていた。

 これこそ、ルシフがグレンダンの蹂躙を映像で記録させていた理由である。ルシフがマイに映像を記録する理由として、グレンダンの分析をするためだと言ったが、それは表向きの理由である。

 そもそも、グレンダンと闘ったことはルシフが一番分かっているのに、何故旗を映像に入れるよう指示を出したのか。何故グレンダンと闘う最初から記録するのではなく、途中からなのか。何故分析すると言っているのに映像が俯瞰的なものではなく、ルシフ中心のものなのか。何故天剣授受者たちを秒殺せず、ある程度の見せ場を与えたのか。分析するための映像としては、欠点がいくつもある。

 ルシフはそもそもグレンダンを分析するつもりなど最初から無かったのだ。記録されていることを意識してからは、ルシフは容赦が無くなり、口数も少なくなる。撮影を終える合図の後は口数も増え、痛めつけるレベルも軽くなる。

 どうすればなるべく抵抗されず、少人数で都市を奪えるか。

 ルシフはずっと考えていた。

 そして、原作知識からグレンダンと確実に闘えるツェルニに行き、グレンダンを蹂躙する映像で戦意喪失させる方法を考えた。いってみれば、グレンダン蹂躙映像は戦略兵器なのだ。都市の重要施設は破壊しないが、戦闘のうえで一番重要な相手の心をへし折る。

 戦意を失ったヨルテムの武芸者は都市長の命令もあり、戦闘を止めた。

 ヴィーネからヨルテムの念威操者に指示が伝わり、そこからヨルテムの武芸者に実質剣狼隊小隊長の指示が届く。

 ヨルテムの武芸者に届いた指示は、掃除だった。ヨルテムの武芸者だけでなく、念威操者、剣狼隊小隊長たちも一緒になって都市全体を隅々まで掃除した。

 シェルターに避難していた非戦闘員も避難解除されたため、シェルターから出てきた。当たり前だが、ヨルテムの念威操者は非戦闘員全員にルシフのグレンダン蹂躙映像を見せた。あと一時間もしないうちにヨルテムに映像の男が来ることも伝えた。

 都市民たちは絶望の悲鳴をあげ、これからヨルテムがどうなってしまうか不安になった。

 放浪バスに乗り逃げようとした商人や旅行者が多数いたが、放浪バスがヨルテムから出ていくのは禁止された。彼らから不満の声があがったが、時間的にもう無理だった。ヨルテムの武芸者や念威操者を納得させ、シェルターに避難していた非戦闘員全員をシェルターから出し、映像を見せるまででかなりの時間が経過していたのだ。もうすぐルシフがヨルテムに到着する時間であり、ルシフからは放浪バスを一台も出すなと指示を受けているため、もし今ヨルテムから放浪バスが出れば、ルシフに見られてしまうかもしれない。

 そうなればルシフは怒り、ヨルテムの都市民が犠牲になる可能性もある。

 そういうリスクを伝え、商人や旅行者には無理やり納得してもらった。都市民など知ったことか、と怒鳴った商人や旅行者もいた。そういう相手には、ルシフが見せしめに出ていった放浪バスを乗っている放浪バスから破壊する可能性もある、と伝えた。怒った商人や旅行者はその言葉で顔面蒼白になり、渋々といった様子で納得した。

 実際にはルシフは見せしめに放浪バス破壊などやらないが、映像のルシフ像しか頭にない商人や旅行者は、この男ならそれもやりかねない、と思ったのだ。

 もうすぐ映像の少年がこのヨルテムに来る。

 ヨルテムにいる住民全員が恐怖に震えながら、その時をただ待つことしかできなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 少し時間を遡り、武芸者総出で掃除している頃。

 都市長は都市長室のある立派な建物を出て、ある大きな屋敷に行った。

 屋敷に行くと話が通っていたらしく、すんなり奥の部屋に案内された。奥の部屋にはすでに人がいた。老人だった。

 都市長は老人の向かいの座布団の上に座る。すぐに艶やかな黒髪をした美しい少女が、お茶が入った湯飲みをお盆に載せて入ってきた。湯飲みを二人の前に置いたら、一礼して出ていく。

 都市長は湯飲みを持って、お茶をひと口飲んだ。渋味があるが、嫌な味ではない。

 老人も同様にお茶を飲み、湯飲みを見ながら一つ頷いた。

 

「こんな一商人の家に都市長どのがお越しになるとは、周りに自慢できますな」

 

「これが初めての訪問ではあるまいに」

 

「そうですな。今回で五回目でございますな。そして、決まって難しい品をご注文される」

 

 老人は笑い声をあげた。

 

「何故来たか分かるか?」

 

 老人は眼を細める。

 

「今、ヨルテムを震撼させている情報がございます。とてつもなく強く、容赦のない少年がヨルテムに来ると。先の赤装束の者たちの強襲は、少年に抵抗してヨルテムの犠牲者を出させないためだとか。

となりますと、都市長どのがお求めのお品は、少年を制するもの、でございますか?」

 

「さすが商人。するどい」

 

「私のところに来たということは、表では取り扱えない品物をおもとめになっていらっしゃる」

 

 この老人はヨルテムの中で一、二位を争う大商人であり、金さえあればどんな物も手に入る。他の都市にも支店のような形で売り場を持っており、ヨルテムだけでなく全都市を相手に商売をしている。

 

「男は女好きらしい。男の臣下からの情報だから、まず間違いない。若い女を十人、男の侍女として仕えさせたい」

 

「や、それは、厳しい」

 

「だが、できなくはないのだろう。時間がない。お前しか、用意できる商人は思いつかなかった」

 

 老人は腕組みをした。

 

「確かに用意はできます。ですが、こちらも商売。儲けが無ければ、売れませぬ」

 

「いくらでも、言い値で払おう」

 

「都市長どの、お訊きしたいことが二つあります。よろしいですか?」

 

「言ってみろ」

 

「まず、侍女にした者たちはただあの少年の身の回りの世話をすればよいのですか?」

 

「そうだ。だが、嫌々やってもらうのは困る。仕えるのが嬉しくて仕方ないというような感じで、世話をしてほしい。あとは、休みをもらった日は私のところに一度顔を出してほしい。男がどういうことをしたか、どういうことを考えているか、少しでも情報が欲しい。それを知れば、私も男に気に入られるよう立ち回れる」

 

「なるほど。侍女を与えて、良い待遇を得たいというわけですな」

 

 都市長はむっとした。確かに今の話を要約すればその通りだが、はっきり言われると気分が悪い。

 老人は都市長が不機嫌になったのに気付き、紛らわすように笑った。

 

「どうかお怒りにならないでくださいませ。売る相手の目的を知らねば、売れないのです。人を売るのですから、私は幸せなところに買われてほしいと思うのですよ。大切に育ててきた孫のような者たちが、外道に好き勝手扱われるのは我慢できませぬ」

 

「嬉々として男に仕えれば問題ないだろう。反抗的な態度をすれば、酷いことをされる危険はあるが」

 

 老人は眼を閉じ、数十秒無言になった。老人の考える時の癖なのだ。

 老人はゆっくりと眼を開けた。

 

「まあ、そのことはよろしいでしょう。

では、二つ目の質問にいかせていただきます。都市長どの自ら、女たちを少年に献上しに行かれるのですかな?」

 

 都市長は苦渋に満ちた表情になった。

 

「……無理やり地位を奪われた私がすぐに贈り物をすれば、いらぬ誤解を招こう。お前が渡してほしい。商人ならば、変な勘繰りもされんだろう。一年ほど時間を置いてから、実は私が贈らせたものだと男に言ってもらえばいい」

 

 表面上は柔和な笑みを浮かべているが、老人は内心何やら胸騒ぎがした。

 しかし、ここで都市長の頼みを断るのも、後々面倒になる可能性がある。

 

「分かりました。十人、ご用意しておきます。代金は後日いただかせてもらいます」

 

「分かった。では、私はこれで帰らせてもらう」

 

「お見送りしましょう」

 

 老人は立ち上がろうとする。都市長はそれを右手で制した。

 

「いや、いい。親しいと奴らに思われたくない」

 

「ははあ、そういうことでしたら、私はここでお見送りしましょう」

 

 都市長が出ていく方に老人は身体を向けた。

 都市長は立ち上がり、部屋から出ていく。玄関の扉が開けられる音を聞いて、老人は静かに息をついた。

 扉が再び開き、先ほどお茶を持ってきた少女が入ってきた。湯飲みをもらいにきたらしく、両手にそれぞれ湯飲みを持つ。

 少女はそのまま部屋を出ていき湯飲みを片付けてから、また老人のいる部屋に戻ってきた。老人の向かい──都市長が座っていたところに座る。

 老人は眼を閉じていた。

 

「きな臭い話じゃ。お前も聴いていただろう?」

 

「はい、旦那さま」

 

「わしはあの映像の少年を知っておる。ルシフ・ディ・アシェナという方だ。イアハイムの候家出身で、次期王候補の一人。赤装束の武芸者たちは剣狼隊と言って、少年に絶対の忠誠を誓っておる」

 

 老人は様々な都市に行き、気になった相手を調べることを怠らなかった。そういう人物は後々重要な取引相手になる場合もある。

 

「ですが、赤装束の方たちは映像の少年を快く思っていないように見えます」

 

「芝居だろうよ」

 

「何故対立しているように見せる必要があるのでしょう?」

 

「私たちヨルテムの味方のように感じるだろう? 彼らこそ都市を力ずくで奪った強奪者だというのに、映像の衝撃に全て持っていかれた。彼らのしたことは本来ならば決して許されぬが、今回に限ってはヨルテムの犠牲を減らすための善行と都市民から思われている」

 

「そこまで読んで、ルシフというお方は対立の芝居を?」

 

「善悪が絶対的なものではなく、相対的なものと理解していなければ、こんなことは決して思いつかん。大したお方じゃ」

 

「政治はどのようになさると思われますか?」

 

「もし善政をしようとするなら凡人じゃな。長続きせんから、早々に付き合いを絶つべきじゃ。逆に悪政や暴政をしようとするなら、何年も先を見て行動しておる証拠。大器と呼ぶに相応しいお方じゃろう」

 

「何故悪政をすれば大器となるのですか?」

 

 少女は首をかしげた。

 

「ふふふ、善手がいつも正しいとは限らん。時には、悪手を打たねばならん場合もある。商売と同じでな。悪手を打つべきタイミングで打てることこそ、大器の証よ」

 

「よく分かりませぬ」

 

「これから分かるようになる。お前は賢いが、穢れを知らなすぎる」

 

 少女は無言になり、何やら思案している。老人は眼を閉じたままなので、少女の表情は分からない。

 

「年頃の女を十人用意なさるのですか?」

 

「そのつもりじゃが……正直人選が難しい。軽々しいことはできん、重要な取引じゃ」

 

「わたしが行き、他の女たちの指揮をします」

 

 老人は眼を開け、少女を見る。少女は覚悟を決めた表情をしていた。

 

「……わしはお前を孫娘だと思って育ててきた。お前はよく気がきき、賢明で純真無垢。お前をこのような博打に出したくはない。女は自らの命を資本にして、幸せを勝ち得ねばならん。ルシフさまのもとへ行けば、莫大な幸せを得られるかもしれん。じゃが、幸せなど一滴も無く、貪り食われるだけの人生になるやもしれんのじゃ。そうなっても後悔はないか?」

 

「わたしが選んだことです。後悔は……しないと、思っております。他都市を奪おうと考えるお方がどのようなお方か、知りたくなったのです」

 

 少女は自らの心を探りながら、そう言った。

 老人は真剣な表情で少女を見据える。

 

「ルシフさまを愛せるか?」

 

「旦那さまが愛せと仰せならば、愛す努力をいたします」

 

「純潔を捧げることになるやもしれんぞ」

 

「わたしももう十八。男を知ってもよい年頃です。それに映像で観たルシフさまは、目を奪われるほどお美しい容姿をしておられました。交わっても、嫌な気はしないと思います」

 

「そうか」

 

 少女の両目は潤んで光を放っていた。

 老人は少女の強がりを見抜き、少女の頭を撫でた。

 少女の頬に涙が一筋伝っていく。

 

「お前をルシフさまのところにやることにする」

 

「はい。お元気で、旦那さま」

 

 少女は部屋から出ていった。

 

 ──まるで今生の別れのように言いおる。

 

 老人は再び眼を閉じた。

 

 ──シェーンを守るために、わしも最善を尽くすとしよう。

 

 老人は立ち上がり、部屋を出た。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 放浪バスの中、ニーナは息が詰まる思いをしていた。ルシフから放たれる苛烈で威圧的な剄を全身に浴びているからだ。

 ニーナがルシフのヨルテム行きを知ったのは偶然だった。たまたま外で鍛練していた時に、通りすがりの人々が噂しているのを聞いたのだ。

 ニーナはリーリンと一緒になってルシフに会い、ルシフにヨルテム行きの真意を尋ねた。ルシフは平然とヨルテムを奪うため、と答えた。

 当然だが、ニーナはルシフを怒った。力で他都市を奪うなど、許されることではないと叫んだ。しかしルシフは聞く耳を持たず、ニーナも説得を諦めた。

 その後ニーナは、ルシフに付いていってルシフが非道なことをしようとすれば、何がなんでも止めようと考えた。

 今放浪バスにはニーナ、リーリン、ルシフ、マイ、剣狼隊三十人、ゼクレティアが乗っている。

 ニーナの隣にリーリンがいて、通路を挟んだ座席にルシフが座っていた。

 

「アントーク、マーフェス。一つ、警告しておく」

 

「なんだ?」

 

「俺と剣狼隊、イアハイムの都市民以外の者が一人でもいる場合は、俺に敬語を使え。もし使わなかったら、その場で痛めつける」

 

「何故わたしがお前に敬語など使わなければいかんのだ」

 

「お前の感情はどうでもいい。俺は支配者で、お前たちは支配される側の人間。対等な口をきけると思うな」

 

 ニーナは思わず立ち上がり、通路を挟んで隣にいるルシフを睨んだ。

 

「お前はそういう考えしかできないのか!?」

 

「俺は事実を言っているだけだ。貴様は都市長にため口をきくのか?」

 

 ニーナは立ったまま黙りこんだ。都市長とため口など、今まできいたことはない。ニーナが会った都市長は全員年上だったから、敬語を使うことに違和感は感じなかった。

 しかし、ルシフは年下。今までため口で話してきただけに、敬語で話そうと思えない。

 ニーナは静かに座席に座る。

 ルシフから放たれる苛烈で威圧的な剄は、時間が経つにつれて激しさを増していく。

 そもそもニーナは、ルシフに会った時から違和感を感じていた。ルシフが王になる前と比べて、ルシフの雰囲気がピリピリしているのだ。何かルシフの癪に障ることをすれば即叩き潰されるような、そんな危うさを纏っている。

 

「……ルシフ、知っているだろう? ヨルテムはナルキ、ミィフィ、メイシェンの出身都市だ。力ずくで奪えば、多くの血が流れる。彼女たちに申し訳ないと思わないのか。お前の友人だろう?」

 

「俺に友人はいない」

 

 ルシフが不愉快そうにニーナを睨んだ。放たれる剄が方向性を持ち、ニーナを激しく打つ。唇が震えそうになるのを気力で抑え込み、ニーナはルシフを睨み返した。

 

「剣狼隊十一人を数時間前にヨルテムに送ったらしいが、たった十一人でヨルテムが奪えるはずがない。流れなくてもいい血を流しただけだ。もしかしたら、送った十一人全員今頃殺されているかもしれないんだぞ」

 

「そうだったならば、俺が直々にヨルテムを奪うだけだ」

 

「ヨルテムは治安も良く住みやすそうな都市だった! そんな都市を無理やり奪う必要なんてない! ヨルテムの人々を不幸にするだけだと分からないのか!?」

 

「お前の意見など知ったことか。俺の邪魔をすれば、叩き潰す。お前はそれだけ頭に入れておけばいい」

 

 ニーナは怒りを覚え、ルシフから視線を逸らした。

 邪魔してやる、という思いはさらに強くなった。

 

「ニーナ、ルシフの邪魔はしない方がいいと思う」

 

 隣に座るリーリンが微かな声で言った。

 ニーナはリーリンの方を見る。

 

「何故だ? じゃあお前はヨルテムが蹂躙され、ルシフの都市となることを見て見ぬ振りをしろと言うのか」

 

「忘れたの? ルシフは十人にも満たない人数で、グレンダンを倒したのよ。そのルシフが勝算もないのに、十一人だけ先に戦力を送るなんてすると思う?」

 

「たった十一人に、しかも数時間でヨルテムが陥落すると言うのか。そんなバカげたこと、起こるものか」

 

「それを起こすのがルシフでしょ。わたしはニーナが傷付けられるのを見たくない。ニーナだって分かるでしょ? さっきの言葉は脅しじゃない。本気の言葉だって」

 

 ニーナは唇を噛みしめ、ルシフを横目で一瞥した。再び視線をリーリンに戻す。

 

「屈しないぞ、わたしは。力の恐怖に屈し、正しいと思うことができなくなるのは、わたしにとって死ぬより怖い。わたしがわたしで無くなる」

 

「ニーナ……」

 

 リーリンが心配そうにニーナの顔を見つめた。

 

「きっと何も変えられないのに、どうしてそこまで……」

 

「わたしが、ルシフのやることを間違っていると思うからだ。隊員を正しい道に導くのも、隊長であるわたしの役目だ」

 

 ニーナはポケットからⅩⅦと彫られたバッジを取り出す。ルシフの制服に付いていたバッジ。手の中にあるバッジを見つめ、強く握りしめる。

 ニーナにとって、ルシフはずっと自分の隊員である。自分が責任を持ってルシフに正道を歩かせるべきだ、という使命感を抱いていた。

 放浪バスはヨルテムに到着した。

 ニーナが驚いたのは、以前来た時とヨルテムの雰囲気が一変していたことだ。放浪バスを降りればいつも武芸者が簡単な荷物検査をしに来るのだが、一人も近付こうとしない。

 ニーナが放浪バスを降り、周囲を見渡す。ヨルテムの都市民たちが恐怖に染まった表情でこちらを見ていた。遠巻きに囲むように集まっている。

 ルシフが放浪バスから降りてくると、あちこちから悲鳴が聞こえた。

 ルシフから放たれる剄は尋常ではなく、放浪バスがヨルテムの停留所に入った時から、ヨルテムの武芸者はルシフの威圧的な剄を感じていただろう。

 方天画戟を手に、ルシフは歩き始める。

 ルシフの行く手に赤装束の者たちが十一人、跪いた。レオナルトやエリゴといった、先にヨルテムに攻めに行った者たちだ。

 

「陛下。ヨルテムはこの通り、制圧いたしました」

 

「ふむ、よくやった。俺がいるべき場所に案内せよ」

 

「御意」

 

 赤装束の者たちは立ち上がり、ルシフの前を歩く。ルシフたちはその後ろを付いていく。

 ニーナは信じられない気持ちでいっぱいだった。剣狼隊が圧倒的に強いのは、ツェルニに教員として来た五人でよく知っている。しかし、ヨルテムは交通の要所で大都市なのだ。たった十一人で陥落させる方法が、どう考えても思い付かない。

 

「あ」

 

 リーリンが声を出し、ニーナの肩を叩いた。

 ニーナはリーリンを見る。

 リーリンは通りから少し外れたところを指差した。

 ニーナはリーリンが指差した方に視線を滑らせる。

 そこには念威端子から映像が展開されていた。ルシフが天剣授受者たちを蹂躙している映像。

 ニーナはレイフォンの手で気を失っていたため、ルシフとグレンダンの闘いの子細をこの時初めて知った。

 天剣授受者たちの実力を発揮させながら、痛めつける。ルシフの強さがより際立つ。グレンダンの女王やリンテンスも容赦なく倒しているから、抵抗すれば痛い目に遭わされると思う。

 

 ──まずい。

 

 ニーナの頭の中で、繋がっていくものがある。パズルのピースがどんどんはまり、見えなかった絵が見えてくるような感覚。

 どうやって少人数で都市を奪うのか、ニーナは思いつかなかった。今この瞬間、ニーナは答えらしきものを手に入れた。

 

 ──まずいまずいまずいまずいまずい!

 

 グレンダンはサリンバン教導傭兵団の功績と、今まで都市間戦争をした相手都市の情報から、最強の都市として全都市に認知されている。たとえ知らなかったとしても、あの映像を観ればグレンダンが圧倒的な強さを持っているのが分かる。

 その都市をルシフは、更なる圧倒的な力で何もさせず、一方的に蹂躙した。

 あの映像を観て、蹂躙した男が都市に来ると言われ、都市を守るため立ち向かおうと思える武芸者が果たして何人いるのか。

 

 ──あの映像は、武芸者一万人に勝る。

 

 グレンダン以外の都市は、ルシフの圧倒的な力に刃向かう気力も根こそぎ刈られ、都市を渡すだろう。結果が分かりきっている闘いをしようと思える者はそういない。

 強敵の闘いは他に汚染獣がいるが、汚染獣の襲撃は話が別。汚染獣は人間を食べるため、抵抗を止めても待っているのは死のみ。だがルシフは人間だ。抵抗しなければ、生き延びることができる可能性が高い。

 

 ──グレンダン接近の報を聞いた時、ルシフはここまで考えていたのか……。他都市を奪うための手段として、グレンダンを完膚なきまでに叩き潰すと決めていたのか……。

 

 ニーナは意識を取り戻した時、ルシフに向かって叫んだ。『なんでこんなことをする!?』と。今考えれば、ツェルニを巻き込まずルシフの勢力だけでグレンダンを圧倒したのは、ルシフの強さと恐怖を強調するためだったのだ。

 ニーナは前を歩くルシフの後ろ姿を見る。

 確かにあの映像があれば、最小限の犠牲で都市を奪える。だが、そのためにはグレンダンを徹底的に蹂躙し、グレンダンの犠牲者を多く生み出す覚悟が必要だった。ルシフはその覚悟を決め、見事に誰もが恐れる最強の暴君となった。

 ツェルニでのルシフを知っているニーナは、何故かルシフに怒りと同時に哀れみを感じた。ルシフは誰からも内心恨まれ、罵倒される。悲しい生き方しかできない。

 

 ──こんなのは間違ってる。わたしたちは話し合える。世界を変えたいと思うなら、力ではなく言葉でお互いを理解し、手を取り合って変えていくべきだ。そうして一歩一歩、着実に前に進めばいいじゃないか。それなら、ルシフだって悪者にならずにすむ。隊長として、ルシフを救わなければ。

 

 ニーナは歩く速度をあげた。ルシフの隣にいく。

 

「ルシフ。とりあえずその放つ剄を抑え──」

 

 乾いた音が通りに響き渡り、ニーナは倒れ込んだ。ニーナは右頬を右手で触っている。乾いた音は、ルシフの右手がニーナの頬を平手打ちした音だった。遠巻きに見ていた都市民から悲鳴があがる。

 

「無礼者」

 

 ルシフが倒れたニーナの前に立つ。

 ニーナに方天画戟を突き付け、右手であごをさすった。

 

「王たるこの俺になんという口のきき方か! この女の首をこの戟ではねてやる!」

 

「お待ちください!」

 

 エリゴ、レオナルト、フェイルス、ハルスがニーナを庇うように後ろにやり、方天画戟の前に跪く。

 

「この少女にはしっかり言い聞かせ、二度とこのようなことのないようにいたします。今日はヨルテムが陛下のものとなった良き日。そのような日に、陛下の戟を汚したくありません」

 

「……ふむ。確かに、こんな女の血で戟は汚したくない。どけ」

 

 跪きながら、エリゴたちはどいた。ルシフがニーナに近付き、胸ぐらを掴んだ。

 

「今日は気分が良い。よって、貴様の死は免じてやる。今夜俺のところにきて、その罪を償え」

 

「だれが──!」

 

 ニーナの口を近くにいたアストリットが塞いだ。

 

「お認めなさい」

 

 アストリットがニーナの耳元でささやく。

 口が塞がれているため、ニーナはアストリットを横目で睨むことしかできない。

 

「これ以上の無礼は、あなたの首をルシフさまがはねねばならなくなるのですよ」

 

 アストリットは必死の形相をして、ささやき続けている。

 ニーナの両眼から涙が溢れてきた。悔しさと怒りが、自分の内で荒れ狂っている。

 ニーナは僅かに頷いた。アストリットは両手をニーナの口からどかす。

 

「分かり……ました」

 

 そう言った後、ニーナは下唇を強く噛んだ。唇が裂け、血が溢れている。

 

「それでいい」

 

 ルシフの顔がニーナの耳に近付く。

 

「俺に女を殴らせるな」

 

 蚊の鳴くような小さな声でルシフがそう言い、すぐニーナから離れた。先ほどと同じように歩みを再開する。

 ルシフたちが離れても、ニーナは倒れたまま右頬をさすっていた。真っ赤な手の跡が右頬にできている。

 

「ニーナ、大丈夫?」

 

 リーリンがニーナの両肩を抱いた。

 ニーナの両眼から涙が流れていく。ニーナの眼はリーリンを見ておらず、ルシフの後ろ姿を見ていた。

 ルシフと自分の間には、透明な壁がある。声が届き、触れると思っても、現実は声届かず、触れもしない。

 わたしはこのまま空気のような存在になり、何も変えられないのか。

 そう考えただけで、震えがくる。自分はなんのためにルシフに付いてきたのか。ルシフの間違いを正すために付いてきたのではないのか。たとえルシフに自分を斬らせたくなかったとしても、命惜しさにルシフに屈したのは事実なのだ。

 

「あの男、映像通りのひどい男だ」

「あんな男がヨルテムを支配するなんぞ、悪夢でしかない」

「これでヨルテムは終わりだ。あの男のために絞り取られるだけの都市になってしまう」

「あんな子に手をあげるなんて、本当にサイテーね」

 

 都市民が小声でそう言い合っている。

 ルシフは自分のイメージを壊さないために、あのように苛烈で威圧的な剄を放っているのだと、ニーナはここでようやく気付いた。

 

 ──本当に、悲しい生き方しかできん男だ。

 

「リーリン、心配してくれてありがとう。わたしは大丈夫だ」

 

 ニーナは立ち上がった。リーリンも立つ。

 

「分かったでしょ。ルシフと敬語で話したくなかったら、黙っているべきよ」

 

「嫌だ」

 

「ニーナ!」

 

「わたしの声がルシフに届くまで、わたしは何度でも叫び続けるぞ」

 

 それはニーナの覚悟であった。意地、と言ってもいい。

 ニーナは歩き出した。リーリンはため息をつき、ニーナのすぐ後ろを歩いた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが案内されたのは、都市長室もある中央部の立派な建物だった。その中に広い部屋があり、イアハイムの謁見の間のように立派な玉座が奥に置かれている。

 ルシフは玉座に座った。

 ルシフ以外の者たちは玉座の正面を空けて左右に並ぶ。剣狼隊だけでなく、ヨルテムの都市長や武芸長といった、ヨルテムの重要人物たちもいる。

 

「ヨルテムの住民情報、税、法、財政、公共施設の管理等、すべての情報を渡してもらおう」

 

「……後で必ず渡します」

 

 ヨルテムの都市長が一歩横に出て、跪いた。これも剣狼隊のルシフへの接し方を見て覚えた礼儀作法である。

 

「ゼクレティア」

 

「はっ」

 

 列からゼクレティアが一歩横に出て、跪く。

 

「情報をもらったら、すべて頭に叩き込め」

 

「御意」

 

 ゼクレティアは頭を下げた後、列に戻った。

 そこで一人の老人が部屋に入ってくる。老人の後ろには白装束を纏った少女たちが十人いた。少女たちは皆顔を俯け、顔ははっきり見えない。

 ルシフは列にいるエリゴやバーティンといったヨルテムを制圧した者たちをちらりと見る。その者たちは全員僅かに首を振った。老人が少女を連れて入ってくるのは予定外、とルシフに伝えたのだ。

 ルシフはそれを見届けると老人に視線を戻した。

 老人は玉座の前で跪き、十人の少女たちも同様に跪く。

 

「なんだ?」

 

「私はベデ・ヘンドラーと申します。商売を生業としている者ですが、今日新たな指導者が立たれるということで、ささやかではございますが、私の方からお祝いの品を献上したく存じます」

 

「ほう、なかなか殊勝な心がけだぞ。それで、祝いの品とは?」

 

 老人は横にどいた。少女たちが十人前に進み出る。その中の一人が他の者より一歩前に出て、深く頭を下げた。後ろの九人も深く頭を下げる。

 老人は跪いたまま、左手を少女たちに向けた。

 

「ここにいる十人の女でございます」

 

「人が『品』とは、さすがヨルテム。商売の中心なだけはある」

 

 ルシフはそう言いつつ、面倒なことになったと思った。

 おそらく制圧した内の誰かがルシフは女好きだという情報を出し、それで女を準備したのだろう。

 だが、力ずくで奪った直後にこのようなことをしてくるのは違和感がある。

 

 ──俺を毒殺するためか。

 

 少女たちの中の誰か、それとも全員が刺客であり、親しくなって警戒しなくなった頃を見計らって、食べ物か飲み物に毒を入れ、俺を殺す。そう考える方がしっくりきた。

 だとすれば、この老人は単なる使い走りだろう。この老人を操る黒幕がいるはずだ。俺が死んで得をする人物……すなわちヨルテムの都市長。

 

 ──俺がヨルテムの都市長なら、こういう手を打つ。

 

 見え透いていてつまらない手だが、ルシフを殺せる可能性がある唯一の手でもある。

 

「ベデと言ったな。一つ、訊きたいことがある」

 

「なんなりとお訊きください」

 

「お前は商人だろう。一人や二人献上してくるなら、まだ話は分かる。だが十人も献上しては、お前にとって多大な損失を出していることになる。商人らしくないのではないか?」

 

「つまり、この十人の女を私から買った者がいて、私はその方の代わりに献上しに来ているのではないかと、そうおっしゃりたいのですね?」

 

「そうだ」

 

 ルシフはヨルテムの都市長を一瞥した。ヨルテムの都市長は顔が青ざめ、唇を震わしている。

 

 ──分かりやすいヤツ。

 

 ルシフは視線を老人に戻した。

 

「陛下、この女たちは私のほんの気持ちにございます。それに、確かに多大な損失ではありますが、そのおかげで陛下が私の品をお買い求めになられる可能性もあるわけでして、必ずしも損失だけということはございません」

 

「お前は誰かの代わりに来たのではなく、お前自身の意思で女を献上しに来たということか」

 

「その通りでございます」

 

 ルシフは玉座から立ち上がり、方天画戟を老人に突き付けた。部屋にいる者たちが息を呑む。老人は方天画戟を突き付けられても涼しい顔をしていた。

 

「もし偽りを言っているなら、首を落とすぞ」

 

「どうぞ、お好きなようになさってください。ですが、私の言ったことは真実です」

 

 ルシフは内心、この老人に好感を覚えた。

 胆力があり、ルシフの殺気に当てられても平然としている。また言動も知性を感じられ、意思を貫き通す強さを持っている。

 明らかに都市長の差し金なのだ、この老人は。

 それでも認めない。

 こういう人間は面白い。

 

「いいだろう」

 

 ルシフは方天画戟を引き、玉座に座る。

 

「お前たち、顔をあげろ」

 

 ルシフの声に従い、少女たちは顔をあげた。

 ルシフは内心とても驚いた。全員が艶やかな黒髪を後ろでひと纏めにしていたのだが、瞳の色から髪型、体格まで、ありとあらゆるものが大体同じなのだ。遠目から見れば、同じ女が十人いるように見えるだろう。もちろん近くで見れば若干の違いがあるが、見分けづらいのは変わらない。

 

「陛下。わたしが女たちの長でございます。何か御用の時は、わたしにおっしゃってください」

 

 一番前にいる少女が言った。

 

「お前の名は?」

 

「シェーンと申します」

 

「シェーン。この場から下がり、隣の部屋で待機していろ」

 

「承知しました」

 

 シェーンは深く頭を下げると、部屋から出ていった。他の少女たちもシェーンと同様にして、部屋から出る。

 

「ベデ、よくやった。後で褒美をやろう」

 

「ありがとうございます」

 

「うむ、下がれ」

 

「失礼いたします」

 

 老人は一礼し、部屋から出ていった。

 ルシフは玉座に座ったまま、部屋全体を見渡した。

 ここから始まるのだ。全自律型移動都市(レギオス)の制圧が。

 ルシフは玉座から立ち上がった。

 

「俺はこれからヨルテムを本拠地とし、全自律型移動都市を我が手中に収める」

 

 ルシフの言葉に、部屋はざわめきで埋め尽くされた。

 そんな雑音、ルシフの耳には入らなかった。

 ルシフは遠くを見ている。

 今頃グレンダンの連中は俺の言葉を真に受け、俺との再戦のために力を蓄えているところだろう。

 今さら情報収集のための密偵を放ったところで遅い。これから先、俺と闘うまで放浪バスはグレンダンに一台も行けないからだ。

 グレンダンと再戦する頃には、世界は何もかも変わっている。

 

 ──さあ、停滞している世界の時を動かそうか。

 

 ここから全自律型移動都市に響かせにいくのだ。破壊と変革の歌を。




これにて『RE作戦開始編』終了です。
次話から『破壊と変革の歌編』始まります。

最後に、ルシフさまに一つだけ言わせてください。ニーナ痛めつけるのほんとやめて。


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破壊と変革の歌
第71話 暴政


 レイフォンはデルボネとカナリスを除いた天剣授受者十人と鍛練していた。

 鍛練している場所はグレンダン王宮にある訓練場である。室内だが、とてつもなく広い空間で天井も高い。余計な物も何一つ置いていないため、存分に暴れても問題ない部屋だった。

 三人一組を三組作り、その内の二組が闘う。余った一組は休憩と観戦。一人余るが、余った一人は個人で鍛練をする。今日はルイメイが個人鍛練の日だ。

 レイフォンはカルヴァ―ン、リヴァースと組んでいた。

 相手はリンテンス、トロイアット、バーメリン。

 全員錬金鋼(ダイト)は使っておらず、素手。これはレイフォンの提案だった。レイフォンはルシフの戦い方を間近で見て、錬金鋼に頼らなくても十分戦えることを理解していた。天剣を失った今、剄を抑えて通常の錬金鋼を使用して戦うよりも無手で闘った方が強くなれる。というより、そうでなければルシフに勝てる可能性が無い。

 天剣授受者たちはレイフォンの提案に異を唱えなかった。ルシフが無手で闘っているのを見ていたから、すんなり受け入れられたかもしれない。

 レイフォンの眼前にリンテンスが迫る。鋼糸でその場から動かず闘っている姿を見慣れているレイフォンは、リンテンスが自ら動いて闘うことに違和感を感じた。

 レイフォンはリンテンスから振るわれた拳を受け流し、カウンターで肘打ちを腹に食らわそうとする。リンテンスは体捌きでかわし、逆に蹴りを入れてきた。レイフォンは後ろに跳ぶことで蹴りをかわした。

 リンテンスは鋼糸で剄の制御を極めていたため、無手でも天剣最強と言っていいほど強い。リンテンスと互角なのは手甲と足甲を武器に体術で闘うサヴァリスくらいだった。

 

「死ね、クソガキ」

 

 バーメリンがレイフォンが跳んだ先に回り込んでいた。バーメリンも比較的強い方だった。銃使いはただ銃に剄を込めればいいため、戦闘で活剄を中心に使う。銃を使わない以外で異なる動きはほとんどない。

 バーメリンが右足でレイフォンに蹴りを放つ。レイフォンは空中にいるので、方向転換できない。

 レイフォンとバーメリンの間にリヴァースが割り込み、金剛剄を使用。バーメリンの蹴りが弾かれる。

 

「ちッ」

 

 バーメリンは舌打ちし、片足一本でその場から離脱。一瞬遅れて、カルヴァーンの拳がその場所を打った。

 カルヴァーンはバーメリンの動きを視線で追いかける。

 

「はい、ごくろーさん」

 

 レイフォン、カルヴァーン、リヴァースはこの一瞬、固まっていた。

 トロイアットの剄が周囲に立ちのぼり、瞬く間に大蛇の形を創る。八つの大蛇の頭が一斉に三人に襲いかかった。三人は衝剄で大蛇たちを消し飛ばす。レイフォンの視界の端で、リヴァースが吹っ飛んでいく。レイフォンは眼球を動かしてリヴァースが何故吹っ飛んだか知ろうとしたが、殺気と莫大な剄を感じ、そちらに意識を移す。バーメリンが間近まで迫っていた。バーメリンの拳がレイフォンの顔面を捉える。バーメリンの拳が弾かれた。レイフォンもさっきのリヴァースのように金剛剄で防いだのだ。

 

「金剛剄ほんとウザッ!」

 

 バーメリンは捨て台詞を言いながら、その場から消えた。レイフォンはリヴァースがいた方に身体を向ける。リンテンスがいた。おそらくトロイアットの剄技は決め手に見せかけた囮だったのだ。大蛇を消す前から二人は動いていた。防ぐのを前提に。リヴァースは大蛇を消し飛ばした一瞬の隙を狙われ、リンテンスにやられたのだろう。

 リンテンスは鬼気迫る、ピリピリとした雰囲気を全身から発していた。こんなにも戦闘でやる気になっているリンテンスも、レイフォンは見たことなかった。鋼糸で闘っていた時はつまらなそうに煙草をくわえ、冷めた目で戦場を眺めている印象だった。こんな風に目をギラギラさせて闘う男ではなかった。

 ルシフがリンテンスをこうも変えたのか。

 刹那の思考と戸惑い。リンテンスの気迫に呑まれたことによる萎縮。それらが決定的な隙となり、リンテンスが放った右拳を防げなかった。胸に拳が当たり、レイフォンは後ろに吹き飛び壁にぶつかった。

 カルヴァーン一人で三人を相手できるわけもなく、攻撃を数回防いだ後、カルヴァーンは直撃を食らい、その場に倒れた。

 

「次は僕たちの番ですね」

 

 壁にもたれていたサヴァリスがもたれるのを止め、身体を起こした。

 サヴァリス、カウンティア、ティグリスの三人で一組になっている。

 

「リヴァといつになったら組めるの?」

 

 カウンティアが不満そうに呟いた。

 

「おそらく一度も組めんな。これはわしらの連携を高めるための試合でもある。連携が完璧なおぬしら二人は組む必要がないからの」

 

「連携とかそんなのどうでもいいから、リヴァと組ませろ」

 

「カウンティアさんはそのストレスを存分に目の前の相手で発散されては? 僕も楽しみで仕方ないんですよ。あのリンテンスさんを殴れる機会なんてそうありませんからね。僕は楽しいですよ、これ」

 

「逆に一億発、お前に拳を叩き込んでやろう」

 

「ははは! さすがに体術でリンテンスさんに──いや、この場にいる誰にも負けるつもりはありませんよ。これでも、体術には自信がありますからね」

 

 サヴァリスが口元だけ笑った。目は笑っていない。挑戦的な光が眼に宿っている。『僕に勝てるか?』と言っているようだ。

 サヴァリスの言葉を聞いた天剣授受者たちはサヴァリスを鋭い眼で睨んだ。天剣授受者は大なり小なりはあれど、負けず嫌いが集まっている。挑発されたら「絶対勝ってやる!」と熱くなる者ばかりなのだ。それだけ自分の実力に自信があるという証明でもある。

 レイフォンは天剣授受者たちを見て、予想通りだと心の内で笑った。

 彼らは今まで試合どころか、鍛錬も一緒にやらなかった。誰もが個人個人思いのまま鍛錬していたのだ。しかし鍛錬を共にし、試合をするようになれば、嫌でも相手を意識する。相手に勝ちたいと思い、個人で鍛錬するより鍛錬の効果は出る。

 天剣授受者たちのほとんどは剄の制御というものに重きを置いていなかった。レイフォンとて、ルシフに出会うまではそうだった。剄の制御などは一切考えずに、刀剣や鋼糸を使った動きや剄技に対しての剄の使い方を極めていただけだった。天剣授受者は皆、圧倒的な剄量のため、剄の細かい制御なんてできなくても問題なかったのだ。ある意味、剄量の多さに慢心していたと言ってもいいかもしれない。それが、慢心できるような状況で無くなった。ルシフという圧倒的な剄を持ちながらも細かい剄の制御ができる敵が現れたからだ。勝つためには、ルシフ同等かそれに近い剄の技量まで向上させなければならない。

 

 ──まず、そこからだ。

 

 そうなってようやく、自分が編み出したルシフを倒す剄技を成功させられる。

 レイフォンは壁にもたれて座りながら、視線を正面に向けた。

 サヴァリスの組とリンテンスの組が動く。室内に打撃音が響き始める。

 

 ──リーリンは辛い目に遭っていないだろうか。

 

 打撃音を聞きながら、レイフォンはリーリンに思いを馳せた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 アルシェイラの部屋。

 アルシェイラはソファに座り、アルシェイラの右斜め後ろにはカナリスが立っている。

 室内では蝶型の念威端子が飛んでいて、映像が展開されていた。ルシフがツェルニを去る部分だ。

 

『グレンダンに言っておく。今日は宣戦布告だ。近々、俺が支配する都市をグレンダンにぶつける。電子精霊を狂わせてでも、必ず』

 

『その日まで、せいぜい足掻いてみせろ。次はもっと歯応えのある闘いを期待する』

 

 ルシフの言葉を聞きながら、カナリスは右腕を触った。屈辱を思い出し、顔を歪めている。

 アルシェイラは無表情で映像を観ていた。

 映像が終わったところで、映像は空中から消えた。静寂が訪れる。

 

『陛下、ここまでですわ』

 

「うん。ありがと、デルボネ」

 

「陛下、どうされたのです? いきなりルシフの宣戦布告の言葉が聞きたくなったなんておっしゃって……」

 

 カナリスが背後からアルシェイラの後頭部を見る。アルシェイラは肩越しにカナリスの方に視線を送った。

 

「単純な疑問。ルシフはなんでまたグレンダンと闘う必要があるのか」

 

「それは……」

 

 カナリスは答えられなかった。

 都市間戦争に無理やり持ち込み、グレンダンのセルニウム鉱山を奪うためか。しかし、セルニウム鉱山を奪うためなら、もっとグレンダンより奪いやすい都市はいくらでもある。グレンダンは最強のため、都市間戦争で確実に勝てるとはルシフとて思わないはずだ。それ以外の可能性。グレンダンにしかないもの……それは天剣だが、天剣はすでにルシフが全て奪っている。天剣以外でグレンダンにしかない物など思い付かない。

 武芸が盛んで道場は多数あるから、多くの剄技を得るためか。ルシフはレイフォンのように見た剄技を理解し、己のものにする才能があった。カナリス自身、自分の剄技をルシフに奪われたため、よく分かっている。だが、それなら単身グレンダンに乗り込もうとするのではないだろうか。都市を巻き込んで闘っても、何の得もないように感じる。

 この世界を維持している核を破壊するためか。しかし、それをすればこの世界は崩壊し、イグナシスの望み通りとなる。カナリスはアルシェイラから、世界を破滅に導こうとする敵の情報をある程度教えられていた。そもそもグレンダンが力を求めるのも、イグナシスの脅威から世界を守るためなのだ。ルシフがイグナシスの味方──いや、手先になったのか。だがそれならば、そもそも再戦する理由はない。グレンダンを蹂躙した時に、そのままグレンダンを滅ぼせばいいからだ。こちらの回復を待つなど無意味。

 

「わたしたちはルシフの言葉を信じ、再びルシフが攻めてくると思って、今必死にグレンダンを立て直して以前より強くなろうとしている。ルシフの『近々』って言葉もポイント高いわよね。すぐに万全の状態にしなければって思うもん」

 

 カナリスははっとした表情になる。

 

「……グレンダンの目を内に向けさせることが目的……? ならルシフは、自都市で一体何をするつもりなんでしょう?」

 

「分からない。前から放っている密偵からも連絡ないし。ルシフには密偵送ってたのバラしちゃったから、イアハイムの放浪バスが規制されてて出れなくなってるのかもね。手紙もグレンダン行きのは止められてる可能性がある」

 

 アルシェイラの言葉に、カナリスは二度頷いた。

 

「なら、ルシフはグレンダンに攻めてこないとお考えで?」

 

「まあね。でも、ここだけの話にしときましょ。もしかしたら攻めてくるかもしれないし、武芸者が強くなろうと死ぬ気で努力してるって聞いてるし。それはグレンダンにとって都合が良いから」

 

「はっ、分かりました」

 

 アルシェイラはカナリスから正面に顔を戻した。

 

「……この思考が一ヶ月前にできてればね……」

 

 ルシフが去ってから、約一ヶ月と一週間が経過していた。アルシェイラは今日、ふとルシフがグレンダンと戦う必然性がないことに気付き、デルボネに宣戦布告時の映像を流させてルシフの真意を見抜こうとしたのだ。

 疑いを持ってルシフの宣戦布告を聞くと、グレンダンの戦意を明らかに煽っている。それだけではない。ルシフはリーリンを連れ去った。リーリンが重要人物で人質になり得るとルシフが考えたから連れ去った、と思っていた。だが本当の理由は、そうして宣戦布告の信憑性を高めることだったのかもしれない。リーリンを連れ去れば、誰もグレンダンと戦わないなど考えない。

 

「ねえ、カナリス。あなたも強くなろうと鍛錬してるんでしょ?」

 

「はい」

 

「なんで?」

 

「なんでとおっしゃられても……。次ルシフに負けないため、ですかね」

 

「負けるわ、あなたがどれだけ頑張っても」

 

 カナリスはぐっと下唇を噛んだ。

 

「それでも、たとえルシフに勝てる可能性が微塵も無くとも、強くなる努力を怠りたくありません」

 

「ルシフを倒せるのはわたしだけよ」

 

 アルシェイラは正面の机の上にある酒に手を伸ばし、酒瓶に口をつけてひと口飲んだ。

 

「どれだけ努力して強くなったところで、ルシフに勝てないなら無駄なのにねえ。意味が分からないわ」

 

 アルシェイラの呟きに対して、カナリスは何も言わなかった。何も言えなかった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 室内のざわめきが収まってきた。

 

「手始めにヨルテムの都市旗を変更する。新しい都市旗を持ってこい!」

 

 ルシフの言葉で剣狼隊の一人が列から進み出て、跪いた。両手を差し出していて、両手の上に四角く折り畳まれた旗がある。変更する都市旗は放浪バスに載せていて、放浪バスから降りた時に剣狼隊がルシフの指示で持ってきていたのだ。

 部屋にいるヨルテムの者たちはお互いに顔を見合わせ、ぼそぼそと小さな声で何かを話し合っている。

 

「ヨルテムの都市旗を降ろし、その都市旗にかえてこい」

 

 ルシフが玉座に右肘を置いて頬杖をつくり、右手に右頬を乗せながら言った。

 旗を差し出して跪いていた隊員は、首を左右に振って頭を床にこすりつける。

 

「陛下! どうか……どうかご再考を! そんなことをすれば、ヨルテムの都市民の心を深く傷付けることになります!」

 

 ルシフはたちまち不機嫌そうな顔になった。

 荒々しく立ち上がり、跪いている隊員のところに足早に近付くと、ルシフは横腹を蹴った。

 隊員はうめき声をあげ、横向きにうずくまるようにして倒れた。

 

「ここは俺の都市となった! 俺のものだと一目で分かる目印があった方がいい! 違うか!?」

 

 横向きにうずくまった隊員は身体を起こし、再び跪いて頭を下げた。

 

「されど、ヨルテムの都市民は都市旗と共に生きてまいりました。もし都市旗をかえれば、とてつもない怨みと怒りを陛下に抱くでしょう」

 

 頭を下げている隊員の横っ面を、ルシフは右手で殴った。

 隊員の顔は弾かれたように横に飛び、再び倒れた。

 

「それがどうした! 都市民が怒りと怨みを抱いたところで、俺に何ができる! この俺を馬鹿にするのか!?」

 

「陛下!」

 

 レオナルト、バーティン、アストリットが列から外れてルシフのところに行き、跪く。

 

「ここはかえない方が賢明でございます」

 

「黙れ!」

 

 ルシフは三人の顔を一発ずつ殴り飛ばした。

 

「俺の命令に異を唱えるとは、なんという不遜な態度! いいか!? これは決定だ! 次異を唱えてきたら、首をはねる!」

 

「……御意」

 

 レオナルト、バーティン、アストリットの左頬には赤くて丸い跡が残っている。旗を持っている隊員が起き上がった。四人揃って跪き、頭を下げる。

 

「分かったら、行け」

 

「……はっ」

 

 隊員は旗を持って部屋から出ていった。

 ルシフは玉座に座り直す。

 

「次に、俺はここを本拠地と決めたのに、俺に相応しい建物が無い。そこでヨルテムの消費税を一割上げ、王宮の建築費とする」

 

 ルシフは右手を額に当てている。

 室内がうるさく感じられるほど、大きなざわめきが起こった。

 エリゴ、サナック、ハルス、オリバが列から進み出て跪く。

 

「陛下! それだけはなりません! そんなことをすれば、ヨルテムの都市民の不満が増大します! 何かきっかけがあれば、陛下に楯突くかもしれません!」

 

「さっきも言ったが、都市民など恐れん! 俺のために生きられるのだ! むしろ喜ぶべきであろう!」

 

「では、もし重い税に耐えかね、都市民が買うのを控え始めたらどうなさいます!? 消費税が税の半分以上を占めているのに、それは致命的となります!」

 

 ルシフは眉間に皺を寄せた。

 

「……それはまずいな。それでは本末転倒となる。分かった、一割の増税はやめ、二パーセントの増税としよう」

 

「賢明なご判断でございます」

 

 エリゴら四人は跪いたまま、深く頭を下げた。

 ルシフは顎に右手を当て、考えを巡らす。本当に考えているわけではなく、演技である。周囲から考えているように見えればいい。

 ルシフの唇の端が吊り上がる。

 

「次は……そうだな、無駄なところに使っている税金を無くそう。ヨルテムの元都市長」

 

「……はい」

 

 不満そうな顔を前面に出しながら、都市長は列から外れて跪いた。元と言われたのが不愉快だったのだ。

 

「ヨルテムの武芸者の数は?」

 

「二千百二十二人です」

 

「それだけの武芸者全員に武芸者の資格があるとは思えんな。弱い武芸者を武芸者として認めてしまえば、武芸者の価値が下がる。そうは思わないか?」

 

「ルシ──!」

 

 部屋にいたニーナがルシフを咎めようと叫び、途中で近くにいた誰かがニーナの口を手で塞いだ。

 

「ニーナ、本当にやめて。次は殺されるわよ」

 

 ニーナが横目で口を誰が塞いだか見る。ヴォルゼーだった。

 

「あなたが何を言っても、何も変わらない。それが現実よ。ルシフに人殺しをさせないで」

 

 耳元でささやかれた微かな声に、ニーナは動揺した。自分がルシフを咎めれば、ルシフは自分を殺さなくてはならなくなる。しかし咎めなければ、武芸者選別が行われ、イアハイムのように武芸者の地位を剥奪された者が自害するかもしれない。

 ここでニーナは、前提が間違っていることに気付いた。ルシフはニーナが咎めたところでやめない。ニーナの言葉など雑音のごとく、聞き流される。ルシフを止めたければ、力ずくで無理やり止めるしかないのだ。

 

「……おっしゃる通りでございます。ですが、どのようにして基準を作られるのです?」

 

 都市長は軽く頭を下げ、言った。

 

「良い質問だ。俺が乗ってきた放浪バスにその基準となるものがある。剣狼隊に命ず! すぐに武芸者選別の準備に取りかかれ! 場所は中央部にある広場で行うこととする! 今から一時間後だ! 遅れるなよ!」

 

「御意」

 

 赤装束の者たちが一斉に跪いて頭を下げた。彼らはすぐ立ち上がり、部屋から出ていく。その光景を彼ら以外の者たちが怯えた表情で見ていた。彼らがいなくなっては、この暴君の手綱を握る者がいない。そういう思考からの恐怖だった。

 

「とりあえずこんなところか。貴様らも一時間後に中央広場に集まれ。それまでは自由時間とする」

 

「はい」

 

 部屋にいた者たちが一斉に跪く。ニーナは跪こうとしなかったが、リーリンがニーナの右手を引っ張って暗に『跪いて』と伝えた。リーリンも率先して跪いていたため、ニーナも数瞬遅れて片膝を床につける。

 

「下がれ」

 

「失礼いたします」

 

 口々にそう言い、部屋から出ていく。やがて残ったのはルシフ、マイ、ニーナ、リーリン、ゼクレティアの五人となった。

 

「マイ。ヨルテムにいる武芸者全員に一時間後、中央広場に集まるよう伝えろ。来なかったら、無条件で武芸者の地位を剥奪するということも加えてな」

 

「はい。ルシフさま、少しお耳を貸していただいても?」

 

「なんだ?」

 

 マイがルシフの耳元に顔を近付けた。口元を隠すように手で筒を作るようにし、声が漏れないようにしている。

 

「サリンバン教導傭兵団二人、ヨルテムにいます」

 

 マイが小声で言った言葉に、ルシフは僅かに眉をひそめた。

 ルシフはニーナとリーリンに視線を移す。

 

「ゼクレティア。マーフェスは客室に案内しろ。アントークは牢屋があればそこに入れておけ。無ければ適当に粗末な部屋に閉じ込めろ」

 

「はい」

 

「なんでわたしが牢屋に入れられなくてはならない!?」

 

 ニーナが咄嗟にそう叫び、同時にしまったと思った。ルシフに敬語を使うのを忘れたからだ。

 しかし、ルシフは気にした素振りを見せなかった。平然と話を進める。

 

「貴様は不敬罪を犯したのだぞ。どこかに捕らえておかなければ不自然だ。安心しろ、今夜俺のところに来て数時間付き合えば、解放してやる」

 

 ニーナの顔が赤くなる。

 

「……バッ、バカなことを言うな! わたしはやらないからな! 絶対やらない!」

 

 ルシフは軽く息をついた。

 マイが殺意のこもった目でニーナを見ている。

 ニーナはマイの視線に気付き、気まずそうに顔を逸らした。

 

「もうやれ、ゼクレティア」

 

「はい」

 

 ゼクレティアが一瞬で剄を全身に巡らせた。

 

「これは……!」

 

 ニーナはゼクレティアが剄を持っている人間だと知らなかったため、予想外のことに反応が一瞬遅れた。

 ゼクレティアはニーナの脾腹(ひばら)を右拳で打つ。ニーナは気を失い、前のめりに倒れた。ゼクレティアは打った際にずれたメガネを右手の人差し指で直す。

 

「これで良かったですか? ルシフさん」

 

「ああ」

 

 ゼクレティアはニーナを抱えた。

 

「マーフェス、ゼクレティアに付いていけ」

 

「……一つ、訊かせて」

 

「なんだ?」

 

「なんでこんな回りくどいことするのよ? 剣狼隊と対立しているように見せかけて」

 

「それが必要だからだ。もう行け」

 

 リーリンはルシフをひと睨みすると、その場で回れ右をした。

 ゼクレティアがニーナを抱えたまま、部屋から出ていく。リーリンはその後ろを付いていった。

 ルシフとマイだけになった部屋。

 

「近くには他にいないな?」

 

「はい。隣の部屋に女が十人いますが、声は聞こえません」

 

「サリンバン教導傭兵団の者が二人いると言ったな、誰か分かるか?」

 

「片方の名は知りません。メガネをかけた少女です。もう片方は……よく知っております。ハイア・サリンバン・ライア」

 

 マイは絞り出すように言った後、ギリッと奥歯を噛んだ。

 

「ハイア・サリンバン・ライアがヨルテムに……」

 

 となると、メガネの少女はミュンファだろう。原作知識から、ルシフはそう判断した。

 確かに原作でもサリンバン教導傭兵団は解散してバラバラになる。正直に言うと、ヨルテムに来たときからサリンバン教導傭兵団の放浪バスに気付いていた。だが、取るに足らない団員だろうと思っていたのだ。

 

「そいつら二人にコンタクトを取れ。俺に会うようにと。承諾したら、詳しい日時と場所を伝える」

 

「承諾しなかったらどうします?」

 

「ほっとけ。俺の敵にはなれんよ、その二人は」

 

「はい」

 

 ルシフは玉座から立ち上がり、部屋を出ていく。マイはその三歩後ろを歩いた。

 その頃にはヨルテムの都市旗は降ろされ、新しい旗が翻っていた。剣と盾を持った青年男性が刺繍された旗。イアハイムの都市旗。イアハイムの都市旗と違う点は、旗の色が赤を基調としている点である。イアハイムの都市旗は白を基調としている。

 交通都市ヨルテムは、交通都市ヨルテムで無くなった。

 その事実を、都市民たちは刃で貫かれるような思いで受け止めた。

 都市旗を見た都市民は、悲哀と怒りの叫びを必死に押し殺した。押し殺した叫びは口内に収まりきらず、僅かに口の端から漏れて、都市内に悲哀と怒りの嗚咽が充満した。




『剣狼隊』という名を『劇団ルシフ』に改名するべきかなぁとか、最近思ってます。芝居やりすぎぃ……。


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第72話 揺れ動く心

 中央広場にヨルテムの全武芸者が集まっている。中央広場に収まりきらず、中央広場の外にも多くの人がいた。

 ヨルテムの武芸者は二つのグループがあった。ヨルテムを攻められた際、ヨルテムを裏切ったグループと裏切らなかったグループ。

 ヨルテムを裏切ったグループには、ルシフが剣狼隊に裏で命じて褒賞を与えた。表向きの褒賞の理由は、ヨルテムを守りたいという我々の意思を汲み取りよく決断してくれた、というもの。裏切ったグループを指揮していたのは元剣狼隊の人間のため、事情を知っている者が見たら茶番なのだが、こういう茶番が政治には必要なのだ。民は見える部分しか見ない。逆に言えば、見せたい部分を見せ続ければ民をコントロールすることだってできる。

 中央広場に多数の台が並べられ、その上に拳大の大きさの黒い物体が置いてある。汚染獣の身体の一部。

 ヨルテムの武芸者はそれを困惑した表情で一瞥したあと、周りの武芸者と視線を交わし合っていた。

 ルシフが中央広場に設置してある台の上に立つ。台の上に立ったルシフはその場にいる者たちより頭一つ分高くなっていた。

 

「武芸者の地位を守るのは簡単だ。目の前にある物体にヒビを入れさえすればいい。三十秒の間にな」

 

 武芸者選別が始まった。

 中央広場に剄が吹き荒れる。ヒビを入れられる武芸者はやはり皆無に近かった。

 剄量が足りなくても技量が高い武芸者のところに置く物体は、剣狼隊がルシフにバレないように置く瞬間だけ指先に剄を凝縮させて事前にヒビを入れた。ヒビが入ってないか確認するため、たとえヒビが入ってなくても全て回収されるのだ。そしてまた台に置いていく。そういう流れだから、できた不正だった。

 誰がその条件に当てはまるかは、ヨルテムに潜入していた剣狼隊からリストを密かにもらっていたため、迷うことはなかった。

 その不正は当然台の前にいる武芸者は気付いたが、知らぬ振りをした。発覚しても罰せられるのは試験官の剣狼隊である。武芸者にデメリットはない。バレなければバレないで、武芸者の地位を失わずにすむならわざわざ不正を公表する必要はない。

 はっきり言ってしまえば、これもルシフの指示である。試験をやる前、剣狼隊にマイの念威端子を使ってそういう指示を出したのだ。剣狼隊はルシフの指示に従い、不正をやっているにすぎなかった。

 試験も中盤に差し掛かったが、明らかにイアハイムの時より合格者が多かった。千人終えて、二百人の合格者が出ていた。

 

「……ちょっと待て」

 

 今の組の試験を始める直前、試験の様子を見ていたルシフが試験を中断した。

 タイマーを押す役目をしていた剣狼隊の隊員はタイマーを押そうとした手を止める。

 

「もう一度回収しろ」

 

「陛下、それは置く前にもやったではありませんか」

 

 台に物体を置いていた剣狼隊の何人かが顔色を悪くしながら言った。

 

「少し気になることがある」

 

「さっきと何も違いなどありません。やっても時間の無駄で、陛下の大切なお時間が失われてしまうだけかと……」

 

「そんなのどうでもいい。早くやれ」

 

「……御意」

 

 剣狼隊の数人が回り、全ての物体を回収した。

 ルシフは回収された物体一つ一つを確認していく。ヒビが入っている物体が三つ出てきた。物体を置いていた剣狼隊の隊員たちはルシフから顔を背けた。

 ルシフは合点がいったように頷く。

 

「やけに合格者が多いと思ったら……なるほどな、道理で合格者がぽんぽん出ていたわけだ。こんな不正をやっていれば当然だな」

 

 ルシフは物体を置いていた剣狼隊の隊員一人に方天画戟を突き出した。穂先にある両刃の槍が隊員の右肩あたりを貫き、槍の先端が背中を突き破った。周囲から悲鳴があがる。方天画戟が突き刺さっている隊員は激痛で顔を歪めていた。

 ルシフは方天画戟を引いた。穂先の槍が抜け、隊員の肩から血が溢れ出す。隊員はその場に膝をつきながら、右肩の傷を左手で押さえた。

 

「ふざけた真似をするな! ザコを武芸者にしていたところで害しかないのが分からんのか!」

 

「申し訳……ありません」

 

 ルシフは物体を置いていた他の隊員たちも方天画戟で斬りつけた。横腹を切られた者。胸から斜め一文字に切られた者。太ももを貫かれた者等、そのどれもが重傷でもないが、軽傷でもない傷だった。

 試験のために台の前に立っているヨルテムの武芸者は恐怖で顔が青ざめ、眼前で行われている制裁から目を背けられないでいた。

 ルシフが合格者が集められている方を見て、舌打ちする。

 

「本当なら合格者全員再試験したいところだが、それをすれば試験に使う汚染獣の肉片が足りなくなるかもしれん。だから、とりあえず最後まで試験をやり、肉片が残っていたら再試験をやるとする。残っていなければ、不本意だが一時的に不正で受かった奴にも武芸者の地位を与える」

 

 今まで台に物体を置いていた隊員は全員制裁を受けて変更された。制裁を受けた隊員は他の隊員の手を借りながら、中央広場から去り病院に行った。

 新たに命じられた隊員が物体を台に置いていく。ルシフがその光景に目を光らせているため、不正はできない。

 ヨルテムの全武芸者の選別が終了した。最終的に合格者は約三百三十人で、試験で使用していた汚染獣の肉片もそんなに多く残らなかったため、再試験は中止になった。不合格になった武芸者の大多数が絶望に染まった顔になっている。

 試験終了後、ルシフはレラージ、サレス、ナベリース、マルシア、フォーカルの五人を名指しした。

 ルシフの前に五人の男女が片膝をつく。

 

「試験を見ていたが、貴様らは合格者の中でも飛び抜けて優秀なようだな。強襲された際、俺の方に真っ先に味方したところを見ても、物事を大局的に判断する頭もある。よって、俺直属の部隊『剣狼隊』への入隊を許可する」

 

「ありがとうございます!」

 

「お前たちの赤装束は数日でできあがるだろう。赤装束を受け取ったら、それを常に着用していろ」

 

「御意!」

 

 五人は頭を下げる。

 五人は元々剣狼隊にいた者なので、再び赤装束を着れることへの喜びを隠しきれず、声にも喜色が含まれていた。

 

「こんなの納得できるか!」

 

 武芸者では無くなった一人の男が、試験に使っていた台を蹴り飛ばした。周囲の者が驚き、怒鳴った男から少し距離を取った。ルシフは方天画戟を左手に持ちつつ、冷めた目を怒鳴った男に向ける。

 

「何が納得できないんだ? 弱いヤツが武芸者のままでいられると思ったのか?」

 

「クソガキがッ! 大人しくしていればつけあがりおって! 俺が一体どれだけの間、このヨルテムを守ってきたと思っている! 俺だけじゃない! 失格になった全員がそうだ! 武芸者に必要なのは強さではない! 都市を守りたいと思う心だ! 俺たちの苦労も分からん若造が、それらしいことを並べて決めつけるな!」

 

 失格となった者のほとんどが内心でその言葉に賛同した。あまりにも情が無さすぎる。今までの働きや武芸者として持ち続けた矜持を加味してもいいだろう。失格した誰もがそう思い、もっと言えと怒鳴った者を心の中で応援した。

 ルシフの目が、据わった。威圧的で暴力的な剄が暴れ狂う。剣狼隊全員、ルシフの剄に呑まれて身体を硬直させた。剣狼隊だけではない。その場にいる剄を感じられる者全てがルシフの剄に圧倒された。指一本すら動かすのが困難な緊張に包まれた。

 ルシフはその場で右腕を振るう。怒鳴った男の右腕が血を引き連れて舞った。剄を放出して不可視の刃とし、男の右腕を付け根から斬り落としたのだ。男は右肩から噴き出る血を左手で押さえながら絶叫した。中央広場にいた者が一斉に逃げようと走り出す。その進行方向に向けてルシフは再び右腕を振るい、中央広場にあった木の一本を斬り倒した。

 目の前で木が斬り倒されたところを見て、逃げ出した者は足を止める。

 

「逃げたら、その男と同じ目に遭わすぞ」

 

 ルシフが周囲を睨む。中央広場の全員が金縛りにあったように動けなくなった。

ルシフは両膝をついて苦しそうに息を荒げている男に近付いた。男の顔には汗が浮かびあがっていて、恐怖で身体を震わせている。

 

「貴様は飲食店でマズい飯がでてきたらどう思う? 飲食店を続けてほしいと思うのか?」

 

 男はただ顔を歪めるだけで、何も言葉を発しない。

 

「答えろよ」

 

 ルシフは右手の人差し指を突き出した。まるで槍のように男の右肩を貫く。男は激痛で悲鳴をあげた。ルシフが指を抜くと、血が衣服を染めあげていった。

 

「貴様が言っているのはそういうことだ。マズい飯を出す飲食店の店長が『美味い飯を作ることを心掛けています!』と立派なこだわりをもっていたところで、マズければその飲食店になんの価値もない。都市を守る? 笑わせるなよ弱者が! 力無くして都市を守れるものか! 社会において、貴様のような無能な働き者こそ害悪だ! 害だと思ってないところが悪人より(たち)が悪い!」

 

 ルシフは方天画戟で男を後方に吹っ飛ばす。男は地面を転がりながら台に突っ込んで動かなくなった。

 ルシフはそのまま周囲を見渡す。誰もが息を呑み、ルシフの言葉を待っていた。

 

「これで武芸者選別試験は終了とする。合格者が減ることはあっても、増えることはない。よく肝に銘じておけ」

 

 ルシフが振り向き、歩き始める。ルシフの前を埋め尽くしていた群衆が割れた。ルシフは人が割れてできた道を歩いて中央広場から出ていった。その陰で剣狼隊の隊員が倒れている男を抱えている。病院にこれから連れていくためだ。

 残された中央広場の者はルシフの気分を害する恐ろしさを十分に思い知って、それぞれ去っていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 剣狼隊はルシフと同じく都市長室がある建物の中の部屋をそれぞれ与えられていた。

 有事の際に官僚、武芸者が使用する客室だけを集めた階がいくつもあるが、普段は使用していないため空き部屋同然だったのだ。そこを隊員の部屋として割り当てたのである。剣狼隊は今の時点でマイ含め四十二名いるが、全員に一室与えてもまだまだ部屋には余裕があった。

 それぞれの階には食堂のような広い部屋もあり、今はそこに剣狼隊の十人程度が集まって再び剣狼隊に入隊した五人の歓迎会を開いた。来ていない剣狼隊の隊員はある三人を除いて都市の警備をしている。

 歓迎会では泥酔しない程度に酒も飲んでいた。

 少し酔ったのか、再び入隊した五人の顔は僅かに赤くなっている。

 

「ルシフはどうしちまったんです?」

 

 歓迎会が始まって一時間半が経った頃、レラージがエリゴに尋ねた。入隊した他の四人も気になった話題らしく、談笑するのを止めてエリゴの顔を見る。

 エリゴは周囲にいる隊員と視線を交わした。エリゴ以外に歓迎会に参加した隊長はヴォルゼー、フェイルス、プエル、オリバの四人。あとの五、六人はいずれかの隊に所属する隊員が参加していた。

 

「答えてくれよ! ルシフは反抗的な者に容赦ない性格だが、あそこまですぐ暴力を振るう男じゃなかった。それも剣狼隊でも構わず痛めつけて……。あんたらもルシフに指示されているのだろうが、反抗的な立場を取っている。何がどうなってるんだ?」

 

「分かった。お前らがイアハイムを追放されてから、何があったか全部話す」

 

 エリゴは話し始めた。彼らがいなくなった後のルシフと剣狼隊の話を。ルシフがイアハイムの王となり、その時イアハイムにいた剣狼隊全員の血が入った水を飲んだことや、ルシフが顔にどちらの手で触れているかで剣狼隊の行動が決まることなど、包み隠さず全てを話した。

 話は三十分を超えたが、五人とも真剣に聴いていた。

 

「そういうことですか」

 

 話を聞き終えた後、五人は納得したように頷いた。

 

「今の旦那と剣狼隊の関係は旦那が望んでいることだ。俺だって旦那と対立するようなことしたかねえけど、旦那の命令なら従わねえとな」

 

 エリゴの言葉は剣狼隊全員の本音だった。たとえ芝居だとしても、剣狼隊の誰もがルシフと対立するのは苦痛なのだ。願わくば、ルシフと好意的に接したい。だが、今の彼等に許されているのはルシフの悪口を言うことで、ルシフを褒めるような言葉は公では禁止されている。

 その場の全員が沈んだ表情になる。

 暗くなった場を吹き飛ばすように、再び談笑が始まった。笑い声が室内に響く。

 そんな空気の中、プエルはジュースで満たしているコップを両手で持ちながら、今にも泣きそうな顔になっていた。

 

「プエルさん、どうかしました?」

 

 フェイルスが怪訝に思い、プエルに訊いた。

 プエルは弱々しい笑みを浮かべて見せる。

 

「不合格になった武芸者の人たちのことを考えていたんです。どうか自殺しませんように、って」

 

 今日の試験で約千八百人が武芸者の地位を剥奪されたのだ。イアハイムで多数の自殺者が出たのを思えば、その懸念は当たり前かもしれない。

 

「実は俺、そのことについて旦那から指示受けてんだよなあ。自殺した武芸者の葬儀金やら遺族への弔慰金を王命で手配しろってよ。まあやるけど、手配すんのは少ねえ方がいいよな」

 

「……それ、わたしにやらせてくれない?」

 

 ヴォルゼーが少し考える素振りをした後、そう言った。

 

「ヴォルゼー、俺の仕事取んなよ」

 

「いいじゃない。別に誰がやったって。わたしたちは同じ剣狼隊でしょ?」

 

「そりゃそうだけどよ……」

 

「じゃあ、決まりね」

 

「くっ、ははははは! 分かった分かった! なら今度飲みに行こうぜ! 一杯おごるわ!」

 

 エリゴは豪快に笑い声をあげた。

 

「期待して待ってるわね」

 

 ヴォルゼーも笑う。

 そんなヴォルゼーを硬い表情でフェイルス、プエル、オリバが見ていた。

 

 

 

 歓迎会もお開きになり、与えられた部屋に皆帰っていった。

 ヴォルゼーも自分の部屋を目指して廊下を歩いている。

 その後ろを赤装束の三人が追いかけてきた。フェイルス、プエル、オリバである。

 

「ヴォルゼーさん。私たちもさっきの仕事、協力させてくれません?」

 

 フェイルスが言った。

 

「心配しないで。わたし一人で大丈夫よ」

 

「あたし、覚悟できてます! ヴォルちゃん一人に背負わせたくない! ヴォルちゃんも大事な仲間だから!」

 

「プエル……あなたたち、気付いてたの?」

 

 三人は同時に頷いた。

 ヴォルゼーはため息をつく。

 

「試験の不正であそこまでの制裁をルシフ殿はされた。今度の王命での遺族への金のばらまきは、その比ではない。あの制裁がかわいく思えるような重い制裁となるじゃろう」

 

「……オリバの言う通りよ。この仕事、やれば過酷な制裁を受ける、絶対。だから、わたしだけでいいって言ってるの。そんな制裁、受ける人間は少ない方がいい。ルシフがエリゴを選んだのも、エリゴなら一人でやると考えたからでしょう」

 

「ですが、あなた一人では信憑性がありません。今回の仕事はとても大がかりなものですから、複数の人間が協力してやったという方が自然に感じませんか?」

 

「それは、一理あるわね」

 

 フェイルスの言葉は核心を突いていた。確かに、協力してやったという方が芝居っぽくない。本気でやったと都市民に思わせられる。ルシフもそれはよく分かっているのだろうが、首謀者だけ裁けばいいと考えているだろう。王命で動いた人間は一切罰せず、王命を出した人間に全ての罪を被せる筈だ。

 だが、複数人が王命を利用してやったという方がより違和感を感じにくくなる。

 ヴォルゼーは三人の顔を見た。三人とも真剣な表情をしている。

 

「分かった。あなたたちがそれでもいいって言うなら、わたしもあなたたちの意思を尊重する。一緒に地獄に堕ちましょう」

 

 三人が力強く頷いた。

 

「──おかしいって内心思ってたが、そういうことだったのかい」

 

 廊下の陰から声がした。

 四人は声がした方に視線を向ける。エリゴが歩いていた。

 

「わりぃ、気になってお前らをつけた。けど、俺がつけてるのに気付かねえなんざ、よっほど心が乱れてたんだな」

 

 四人は声がでてこなかった。

 そんな四人を見て、エリゴは笑みを浮かべた。

 

「俺も付き合うぜ。地獄で一杯やろうや」

 

 四人は数秒唖然としていたが、微笑へと表情が変化していった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナはアストリットとバーティンに両端を固められ、ルシフの部屋へ連行されていた。ニーナが閉じ込められていたのは普通の客室でベッドや椅子があり、ニーナはベッドに座って大人しくしていたら、アストリットとバーティンが来たのだ。

 ニーナは緊張していた。もしかしたらルシフが無理やり身体を求めてくるんじゃないかと考えているからだ。その時は絶対身体を許さない、と心に決めている。

 ルシフの部屋に入ると、十人の少女が一礼した。ルシフに献上された少女たちだ。ルシフの部屋はとても広く、リビング、キッチン、ダイニング、大浴場、トイレだけでなく、寝室、書斎の二部屋もある。

 少女たちは掃除やら食事の片付けやら家事全般をやっていた。

 三人は寝室の扉を開け、中に入ったら扉を閉めた。

 寝室にはルシフの他にマイとゼクレティアがいる。部屋の隅の方で立っていた。

 二人を見て、ニーナは我知らず息をついた。緊張がほんの少しだけ和らぐ。

 

「その椅子に座れ」

 

 ルシフがそう言い、ニーナはルシフの前にある椅子に座った。その椅子の下一面に厚めの紙が敷かれている。

 ルシフも椅子に座っていて、椅子の周りには女性が使うようなメイクセットがいくつも並べられていた。

 アストリットとバーティンはその間にマイの隣に立った。

 

「動くなよ」

 

 ルシフが指にメイクで使う赤色のクリームを付け、ニーナの顔を触り始める。ニーナは思わず顔を引いた。

 

「いきなり何をする!?」

 

「罰ゲームだ。お前の顔を使ってメイクで遊ぶ」

 

「……はぁ?」

 

 ニーナはルシフが何を言っているか意味が分からなかった。ルシフはこんな子供のようなことを言う男ではない筈だ。

 

「ただメイクするだけだ。メイクが終わればマーフェスのいる部屋に行けばいい。メイク自体も顔を洗えば簡単に落ちる」

 

「……本当にそれで終わりなんだな?」

 

「ああ」

 

 ニーナは納得できなかったが、メイクくらいで終わるなら別にそれでいいと思った。ただ座っているだけで終わる。

 

「黙々とメイクしていてもつまらんから、無駄話でもしながらやろうか」

 

 ルシフの指が再びニーナの顔に触れ、ニーナの顔に丁寧に赤色のクリームを塗っていく。ニーナは目を閉じた。

 

「お前は俺に対して、言いたいことがあるようだな」

 

「ああ、山ほどな。お前は平和だった都市を奪い取り、好き放題にやっている。弱者の気持ちや虐げられる者の気持ちを考えたことが一度でもあるのか?」

 

「逆に訊くが、俺が何故今好き放題やっているか分かるか?」

 

「何を言っている? 他人の気持ちが分からないから昼間のような暴政ができるんだ。お前が好き勝手やりたい以外の理由などないだろう」

 

 ルシフはがっかりしたように軽く息をついた。ニーナの顔をメイクしている指は止まらない。

 

「よく聞けよ、アントーク。俺が暴政をしている理由は六つある。すべて答えてみろ。答えられたら、お前は多少頭が良いと認め、お前の話も少しくらいは聞いてやってもいい」

 

 ニーナは驚いた。

 暴政に理由があるのもそうだが、その理由が六つもあるのが信じられない。ルシフは何も考えず私欲に任せて暴政を行ったのではなく、あえて暴政をしたというのか。

 ニーナは考える。人に恐怖と怒りを感じさせるような政治のメリットを考える。

 

「……都市民に恐怖を植えつけて、反抗する気力を無くすためだろう」

 

「うむ、それが一つだな。あとは?」

 

「あとは……自分の好きに政治できるから……か?」

 

「その回答は半分正しいが、半分間違っている。テストなら三角だな。考え直せ」

 

 話している間もメイクは続いている。ルシフはスポンジにアイシャドーのカラーの一つである黒色をつけて、ニーナの顔にぽんぽんとしていく。

 ニーナはもう理由が出てこなかった。他人を害するメリットなど、六つもあるわけがない。

 ルシフは次に濃い緑色のアイシャドーカラーをスポンジにつけて、ニーナの顔にぽんぽんしていく。

 ニーナの額に青筋が浮かびあがった。

 

「気が散る!」

 

「我慢しろ。罰ゲームなんだからな」

 

 ニーナは憤然とし、目を開けた。ルシフの顔がすぐ間近にある。目が合った。顔が熱くなっていく。照れくさくなり、顔を少し伏せることで目を逸らした。

 ルシフがニーナの顎を右手で掴み、顔を上げさせる。

 

「勝手に動くな」

 

「お、お前が近すぎるのが悪い!」

 

「は? 近づかなければどうやってメイクができるんだ? お前、メイクとかしたことないのか?」

 

「うるさい! 今のところは必要ないからしないだけだ!」

 

 ニーナは横目で部屋の隅に立つ四人の女を見た。

 誰もが面白くなさそうな、敵意を感じる表情をしている。マイに至っては今にも歯ぎしりしそうな表情だ。

 ニーナの顔から血の気が引いていく。早くこの時間が終わってほしいと思った。

 ルシフはアイシャドーカラーの様々な色をスポンジにつけて、ぽんぽんとし続けている。真剣な表情で。

 

 ──なんなのだ、こいつは。

 

 ルシフと出会ってからもうすぐ一年が経つが、未だにどういう男か掴めない。優しい面があれば、冷酷な面もある。大人っぽい面もあるし、年相応の子供っぽい面もある。どれがルシフ・ディ・アシェナという男の本質なのか。

 

「……もう理由は答えられないのか?」

 

 ニーナはただ黙るしかない。考えているが、出てこないのだ。

 

「なら、質問を変えよう。何故この部屋にお前以外の四人の女がいるか、分かるか? 簡単な問題だぞ」

 

 ニーナは四人の方を再び見る。これにも理由があるというのか。

 彼女らはニーナと視線が合うと、気まずそうにすぐ視線を逸らした。

 ルシフは黒色のクレヨンのようなものを取り出し、ニーナの顔に何かを描き始めた。描き終わると、それを消すように指でこする。

 

「わたしが逃げても捕まえられるように、か?」

 

「俺から逃げられるとでも?」

 

「なら、わたしがお前に危害を加えるのを防ぐためか?」

 

「はっ、貴様なんぞ耳元でうるさく飛び回る蚊みたいなものだ。寝言は寝て言え」

 

「……それじゃあ、これが終わったらリーリンの部屋に案内させるためだろう」

 

 ニーナはリーリンがどこの部屋を与えられたか知らなかった。誰かの案内が必要なのだ。

 ルシフはつまらなそうな表情になる。がっかりしたという感じだ。

 

「案内なら、別に寝室にいなくてもいいだろう。リビングで待たせておけばいいだけの話だ」

 

「……」

 

 分からない。何故この部屋にマイたちがいるのか、ルシフの視点になって考えても分からない。

 ルシフは再びスポンジを手に取り、様々な色を顔にぽんぽんしていく。

 ルシフがスポンジをメイクセットの上に置いた。

 

「よし、できた。アントーク、話は変わるが、服を破っていいか?」

 

「………………は?」

 

「だから、服だよ。破ってもいいかと訊いてるんだ。肌と下着が少し見えていた方が完成度が高くなる。できれば露出した肌にもメイクをしていきたいが──」

 

 ルシフの言葉を聞いているうちに、ニーナは自分の身体を抱くようにして、椅子に座りながら身体を引いた。必死にルシフから距離を取ろうとしている。

 ルシフはそんなニーナを見て苦笑した。

 

「まあ、そこまではしなくてもいいか。これで終わりだ。アストリット、バーティン」

 

 アストリットとバーティンはルシフに近付く。

 

「アントークをマーフェスの部屋に連れていけ。ゆっくり、のんびりとな」

 

「はい」

 

 バーティンとアストリットはニーナに近付く。ニーナは立ち上がった。

 前をバーティン、後ろをアストリットがつき、前後から挟まれるような感じでニーナは寝室から出ていった。

 リビングから少女たちの悲鳴が響く。

 扉が閉められると、悲鳴は聞こえなくなった。寝室は完全防音なのだ。

 

「アントーク、あいつはやっぱり蚊だな。鬱陶しく飛び回られると思わず潰してしまうかもしれん」

 

「潰してしまえばよろしいじゃありませんか」

 

 マイが言った。

 

「そうは言うがな、無駄に犠牲者を増やす必要もあるまい」

 

「無駄ではありませんよ。徹底的に痛めつけられたニーナさんを都市民が見れば、よりルシフさまの恐ろしさが伝わります。それとも、ニーナさんはルシフさまにとって『特別』なんですか?」

 

 マイの全身から不機嫌そうな気が発せられていた。

 

「……アントークを殺したいのか、マイ」

 

「はい、とても。できればすぐに殺さず、じわじわと絶望を身体に染み込ませて殺したいです。口を開けばルシフさまの非難や悪口ばかり。きれいごとばかり言って否定しても、どうすればきれいごとを実現できるかは分からない。光しか知らず、闇を受け入れていない。見ててイライラします」

 

 ハイアに誘拐される前のマイなら、こんなことは言わなかっただろう。本音を隠し、あいまいな返事をした筈だ。今のマイは本音を抑えるブレーキが壊れている。

 

「ルシフさん。マイちゃんの感情は剣狼隊の半数以上が抱いている感情です。あの子はでしゃばって、こちらに苦労ばかりかけますし、マイちゃんの言った通りルシフさんを知ったような顔で非難しますし、わたしも聞いてて不愉快です」

 

「マイ、念威端子を通じて剣狼隊全員にこう伝えろ。『ニーナ・アントークが余計な真似をしようとしたら、速やかにおさえつけろ』とな」

 

「分かりました」

 

「もうお前たちに用はない。部屋に戻って休め」

 

「あ、あのッ、ちょっと民政について気になったことがあるんですけど!」

 

 ゼクレティアが言った。

 

「分かった、聞こう。マイは休めよ」

 

「……はい」

 

 マイは部屋から出ていった。

 ルシフとゼクレティアは部屋にあるメイクセットや椅子を片付けつつ、政治について色々話をした。

 三十分が経った頃には片付けも終わり、政治の話も一段落した。

 ルシフはベッドの上に座り、右手で頭を押さえる。頭痛が酷い。頭も少しくらくらする。

 

「ルシフさん、お疲れですね」

 

 それを疲れていると見たのか、ゼクレティアがルシフの顔を覗き込む。

 

「……かもな」

 

 ルシフは適当に返事をした。会話するのもダルい。

 

「ルシフさん、『息抜き』しません? ストレスも解消できると思いますよ」

 

「……前のお返しか」

 

 ルシフは以前ゼクレティアと似たような言葉を言って、ゼクレティアを抱いたことがある。

 

「ふふふ……」

 

 ゼクレティアは眼鏡を机に置き、ベッドの上で膝立ちになる。そのまま両手でルシフの両頬を包んだ。顔を近付け、ルシフの唇に自身の唇を重ね合わせる。そのままゆっくりとルシフをベッドに押し倒した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ニーナは廊下をゆっくり歩いている。前後にはバーティンとアストリット。

 すれ違う人はニーナの顔を見てぎょっとした表情をする。その後に小声で、

 

「かわいそうに……」

「ひどい仕打ちを……」

「女の子の顔になんてことを……」

 

 などと言っていた。

 ニーナ自身、どんなメイクをされたか気になるが、リーリンの部屋に行けば鏡くらいあるだろう。

 だからニーナは、メイクについて考えるのはやめた。今考えているのはルシフの暴政の理由と、部屋に四人の女を入れていた理由。

 しかし、やはり出てこない。

 ニーナはバーティンとアストリットに訊いてみることにした。

 

「バーティンさん、アストリットさん。訊きたいことがあるんですが」

 

「なんだ?」

 

 バーティンが言った。

 

「何故ルシフはあなた方も含めた四人を部屋に入れていたのでしょう?」

 

「そんなこともお分かりにならないんですの? あなたを安心させるために決まってますわ」

 

「……わたしを?」

 

 ルシフはわたしのことを考えて、部屋に四人の女を入れていた? にわかには信じられない。

 

「ニーナ、部屋で私たちがいるのを見てどう思った? ルシフさまから身体を求められることはないと思わなかったか?」

 

 確かに部屋に入ってマイとゼクレティアを見た時、安心したのだ。何に安心したのか。今バーティンが言った通り、ルシフから強引に関係を迫られないと確信したから安心したのではないのか。

 

「わたしの、ために? あのルシフが?」

 

「あなたはいい加減前提が間違っていることに気付くべきですわ。ルシフさまは自分のために行動されないの。常に他人のために行動されてますのよ」

 

 ニーナは言葉が出てこなかった。前提が間違っている。ルシフは常に誰かのために動く。本当にそうなのか? なら何故武芸者選別を強行したり、民を蔑ろにしたような政治をするのか。

 

「ニーナ、正直に言うが、私はお前を今すぐ痛めつけたい。ルシフさまに対する数々の暴言、その報いを受けさせたい。だが、ルシフさまは別になんとも思われていない。だから私は耐えられる。いいか、よく頭に入れておけ。ルシフさまが何をしようとしているか理解もせずに、偉そうに非難するな」

 

 前を歩くバーティンの殺気に呑まれ、ニーナの身体は強張った。後ろからアストリットがニーナの身体を押す。

 

「ちゃんと自分の足で歩きなさい」

 

 アストリットも不機嫌そうだった。

 ニーナは気合いで恐怖を相殺し、前を向いて歩く。

 すれ違う人は誰もがびっくりしている。構わず歩き続けた。

 やがてリーリンの部屋に到着した。

 

「ここがリーリンの部屋だ。これからはこの部屋で過ごせ」

 

「はい、分かりました」

 

 バーティンが扉を開けた。ニーナは部屋の中に入る。

 ニーナが部屋に入ると、扉が閉められた。アストリットとバーティンは本来の仕事の方に戻ったらしい。

 リーリンはニーナを見ると悲鳴をあげた。慌てて詰め寄ってくる。

 

「ど、どうしたの!? ルシフに何されたの!?」

 

「何って……メイクだが」

 

「…………メイク?」

 

 リーリンは訝しげな表情でニーナに顔を近付け、ニーナの顔を指で触った。

 

「なるほど、そういうこと」

 

 触った指の先を見ながら、リーリンが呟いた。ニーナは首を傾げる。

 

「何がだ?」

 

「とりあえず洗面所で鏡、見てきたら?」

 

 ニーナはリーリンの言葉に従い、洗面所に行った。

 

「なんだこれはッ!?」

 

 洗面所の鏡を見て、ニーナは叫んでいた。

 ニーナの顔中に青アザや打撲傷が浮かんでいるのだ。一体どれだけ殴られたらこんなアザになるのか、と思うほどに。

 ルシフはメイクでニーナの顔中に青アザと打撲傷を作っていたのだ。

 

「ルシフって案外優しいのかもね」

 

 洗面所にリーリンが来て言った。

 ニーナは洗面所で顔を洗い、きれいにメイクを落とした。タオルで顔を拭く。それから、リーリンの方に振り返った。

 

「リーリン、お前まで何を……」

 

「だってそれ、無礼な口をきいた罰なんでしょ? 本当にニーナを殴って青アザや打撲傷を作ればよかったのに、メイクで許してくれたのは優しいって言わないの? 多分ルシフは酷い罰を受けたって周りが思いさえすれば良かったのね。ニーナが本当に殴られたかどうかは重要じゃなかった」

 

「……ルシフは、正しいのだろうか? 間違っているのはわたしの方なのだろうか?」

 

「どうしたの、急に?」

 

「ルシフがどういう人間なのか、何を考えているのか、わたしには全く分からないんだ。それなりに長い付き合いになるのに、分からないんだ。今の暴政も六つの理由があってやっていると言っていたが、わたしは一つしか分からなかった」

 

「暴政に六つの理由? ルシフがそう言ったの?」

 

「ああ」

 

「……そう。わたしも考えてみようかな」

 

「リーリン?」

 

 リーリンがはっとした表情になり、首を横に振った。

 

「なんでもない。夕食は食べた?」

 

「そういえばまだ食べてないな」

 

「なら、今から準備するね。ニーナが戻ってくるって聞いてたから、夕食食べずに待ってたんだ」

 

 リーリンがキッチンの方に向かった。

 ニーナはポケットからルシフの第十七小隊のバッジを取り出し、夕食ができあがるまでずっと眺めていた。



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第73話 雷光

 絶望が心を包んでいた。

 今まで光に溢れていた世界が闇に呑み込まれていくような錯覚すら感じた。

 剄という力が自分にあると両親が知ってから、武芸者になるための鍛練を始めた。まだ幼かった頃だ。それからずっと武芸に明け暮れ、当たり前のように武芸者となり、ヨルテムという都市や民を守るため、都市の警備や都市間戦争に参加した。

 自分は武芸とともに生きてきたのだ。都市の守護者──武芸者であることが何よりの誇りであり、生きがいだった。

 だが、それも今日までの話だ。ルシフという男がヨルテムを力で強引に支配し始めたのだ。抵抗するのもバカらしくなるほど、圧倒的な力を持っていた。その男が武芸者選別試験などというものを行い、自分は不合格だった。

 ずっと頭に響いている言葉がある。弱者は都市を守れない。無能な働き者は害悪。そんなことはない。心の中でそう叫んだ。数人がかりだったが、悪人を捕まえたことがある。都市民から感謝の言葉だって言われたこともある。都市間戦争で相手の武芸者を引き付ける囮部隊として戦い、勝利に貢献したことだってあるのだ。自分の存在は決して害悪などではない。

 しかし、今さら何を言ったところで現状は変わらないのである。ルシフは合格者は増えないといった。またいつ試験をするかは分からないが、それまで自分は武芸者ではないのだ。それが一体何年続く? 一年か? 二年か? それとも五年か? 再試験があったところで、同じ試験内容ならば合格できる気がしない。努力でどうにかなる試験ではなく、ある程度の剄量という名の才能が必要だった。剄量は修行してもほとんど増えない。再起は望めないのだ。

 それを頭で理解したとき、涙が両眼から流れた。今まで築き上げてきた自分が粉々に砕け散った。その事実に直面したからだ。

 家族がいた。妻と子供二人。武芸者である自分を誇りに思い、自分のことのように自慢していた。自分は武芸者だったから、妻ができ、子に恵まれたのではないのか。武芸者で無くなった自分になんの価値がある。妻と子も、周りから嘲笑されるようになるかもしれない。それは耐えられなかった。

 妻はリビングの床に座って泣いていた。あなたが武芸者じゃ無くなるなんて信じられない、と言った。武芸者だったからこそ、あなたは価値があったのだ、と暗に言われた気がした。

 自分の部屋に置いてある錬金鋼(ダイト)を取りに行き、再び妻がいるリビングに戻った。錬金鋼を復元。剣を握り、座っている妻に近付く。妻は驚き、背を向けて逃げようとした。それを後ろから斬った。妻の背中に斜め一文字の傷が生まれ、血が噴き出し、悲鳴をあげてリビングに倒れた。

 倒れた妻にまたがるように立つ。剣先を下に向けた。この先、妻は自分のせいで辛く、苦しい目に遭う。それなら、いっそ今楽に死なせた方が妻も幸せな筈だ。妻の心臓を狙い、剣で突き刺した。妻は絶叫した後、動かなくなった。

 妻の死体に向けて、すまぬ、と言った。許せ、とも言った。こうなったのは全てルシフという奴のせいだ。あいつが全て壊した。

 妻を殺すところを、二人の子供が見ていた。声もあげず、目を見開いて、何が起こっているかわからないという表情をしている。

 子供たちの方に近付いた。子供たちは抱き合いながら、動かずに自分の顔を見ている。

 この子たちも、未来はない。ずっと周りからバカにされ、虐げられる日々を生きることになるだろう。そうなるくらいなら……。

 剣を二度突いた。二人の子供は抱き合ったまま、床に倒れた。涙が溢れた。罪悪感が冷たい刃となり、心を深く貫いてきた。両膝を床につき、剣を放り捨てて慟哭した。自分は取り返しのつかないことをしてしまった。殺してから、それに気付いた。

 真夜中になるまで泣き続け、涙も枯れ果てた。

 自分も妻と子供のところに行こう。

 だが、この場所で死ぬのは違う気がした。自分は妻と子のためだけに戦ってきたのではない。ヨルテムに住む全ての都市民のために武芸者として戦ってきたのだ。

 家を出て、都市旗が翻っている建物の前まできた。そこには錬金鋼を復元した多数の人間がいた。全員同じことを考えている。そう直感した。

 周囲に立ち並ぶ建物の屋上に赤装束を着ている者の姿が見える。遠巻きにこの場を囲むよう、十人程度が武器を構えて立っているのだ。この場にいる者たちが一斉に反乱するのではないか、と警戒しているのだろう。

 都市旗を仰ぎ見る。見慣れた旗ではなく、見たこともない旗が風で揺らめいていた。この都市はヨルテムでは無くなった。自分は守れなかったのだ。

 剣を首に当てた。当てながら、周囲を見渡す。集まった者たちも自分と同じ行動を取った。銃、弓、刀、剣、槍など、各々の武器を自分の首や胸に向けている。

 

「なんで死のうとするんだ?」

 

 建物の上に立つ赤装束の一人が言った。短い茶髪の男だ。

 集まった者たちは視線を交わし合う。

 

「今日魂が死んだ。ここにいるのは抜け殻しかいない。抜け殻が生きられるか?」

 

 集まった者の一人が銃の引き金を引き、自らの頭を撃ち抜いた。そのまま後ろに倒れる。血が地面に流れていった。

 それを見ても、悲しみも恐怖も感じなかった。羨ましい、と思っただけだ。最期まで武芸者として生き、死んだ。

 

「確かにあんたらは、武芸者として終わったのかもしれねえ。けど、新しい人生の始まりでもある。様々なことに挑戦してから死ぬ選択肢を選んでもいいじゃねえか」

 

 何も分かってない。

 武芸者で生きるために自分の人生全てを捧げたのだ。武芸者で無くなるのは死と同義。他の人生など考えられない。

 赤装束の者たちが叫んでいる。

 考え直せ。武芸者だけが人生じゃない。死んだら悲しむ人がいる。そういう言葉を何度も言っていた。強引に止めにくる者はいない。彼らは理解しているのだ。強引に止めたところで意味はない、と。そこだけは正しい。

赤装束の者たちの言葉もむなしく、次々に集まった者は死んでいく。槍を胸に突き刺し、剣で首を斬り、銃で額を撃ち抜き、地面に倒れていった。

 

「死にたきゃ死ねや、弱者ども。お前らみてぇな腰抜け、これからの世界に必要ねえよ」

 

 赤装束の者の中でただ一人、説得しようとせず、むしろ自殺を煽る者がいた。黒髪の男だ。

 

「ハルス! なんてことを言うんだ!」

 

 茶髪の男が黒髪の男に怒鳴った。

 

「うるせえな。気分悪くなってきたんだよ。こんなつまらねえモン見せられてよ」

 

 集まった者はもう生きている方が少なくなっていた。地面が見えないほどに人が倒れていて、真っ赤に染まっている。

 首に当てた剣を引いた。血が噴き出す。倒れている人の上に倒れた。目に血が入り、視界が赤く染まった。

 もう身体に力は入らない。死ぬのだ、自分は。死んで、妻や子と同じ場所に行くのだ。

 最期の力を振り絞り、仰向けになった。旗が視界に収まる。知らない旗。ヨルテムは滅んだ。都市の守護者が都市を守れなかったのだ。ならば、都市と運命を共にするのが武芸者として相応しい。

 脳裏に、選別試験を合格した連中の顔が浮かぶ。

 貴様らは武芸者の恥だ。裏切者だ。俺を見ろ。武芸者を貫いた、俺を見ろ。俺を……。

 そこから先は何も見えなくなった。

 

 

 

 都市旗がある建物の前の広場が、自殺した武芸者たちで埋まっていた。おそらく数百人という数が集まり、一斉に死んだのだ。大量自殺したのはこの場所だけで、他の場所は数人程度が固まって自殺している、と念威端子で伝えてきた。

 レオナルトは建物から飛び降り、着地。レオナルトに続いて他の剣狼隊も建物から飛び降り、レオナルトの横に一列で並んだ。眼前には大量の武芸者たちの死体がある。

 それぞれがもつ武器を立て、一礼した。彼らは最期まで自分の生き方を貫いたのだ。愚かかもしれないが、同時に尊敬もできる。

 ハルスだけは礼をせず、身体を起こしたままだった。

 

「ハルス、敬意ぐらい見せたらどうだ? 彼らは武芸者であることを貫いた、誇り高き人たちだぞ」

 

「はっ」

 

 ハルスは鼻で笑った。

 

「誰もが必ず死は経験する。早いか遅いかの違いだ。武芸者を貫いた? それは立派さ。だが、自分を殺す度胸をなんで俺たちや兄貴に向けねえ。自殺なんざ弱者で腰抜けがやるこった。死のうと考えたんなら、自殺の原因を潰しにいけや。それで死ぬなら強者として認めてやるよ」

 

 ハルスは強さを求める男だった。力とか知能とか、そういう具体的なものではなく、本当の意味での強さがなんなのかを常に考え生きている。そして、その強さをルシフに見出だしたのだ。だからハルスはルシフを兄貴と呼び、慕っている。

 レオナルトに念威端子が寄ってきた。

 

『ここから五百メル東にあるバーで、合格した武芸者と不合格の武芸者たちが争っているようです。理由は合格した武芸者がルシフさんを褒めたからだとか。それで周りで飲んでいた不合格の武芸者たちが怒りだし、争いに発展したとのこと』

 

 合格した武芸者が何を言ったかは想像がつく。給金が同じくらいだったのが気に入らなかった。強い者が武芸者にならなければ、武芸者の価値が下がる。こういうことを言ったのだろう。

 

「現状は?」

 

『合格した武芸者が突っかかってきた不合格の武芸者たちを一方的に暴行しています』

 

 当然の結果だ。気紛れや遊びで武芸者を選別したわけではない。合格した武芸者に不合格の武芸者が勝つためには十人、二十人で束になって襲いかかるしかないだろう。

 

「すぐ現場に向かう」

 

『お願いします』

 

 レオナルトはバーに向かった。レオナルトの後方から、さっきの場所にいた剣狼隊の半数くらいがレオナルトに付いてきた。残りはハルスに従っている。

 

 ──明日は嫌な日になりそうだ。

 

 駆けながら、レオナルトはそう思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 血の臭いが充満していた。何十、何百という死体が眼前に横たわっているから、当然の臭いだ。

 都市民も大勢この場所にいる。沈痛な表情で痛哭の涙を流していた。慟哭している者もいる。

 ニーナはただ眼前に広がる光景に立ち尽くしていた。リーリンがニーナの震える手を握っている。

 ニーナは今帽子を被り、金髪を帽子の中にまとめていた。大きなマスクもし、どこまでも透き通る蒼い瞳が見えているだけだった。部屋の前に剣狼隊の隊員が一人立っていて、外に出るなら顔をできるだけ隠してくれ、と言われたからだ。

 イアハイムで武芸者選別を行った次の日は大量自殺者が出たと聞いていたから、ニーナは居ても立ってもいられず、朝一で部屋を飛び出した。そして、この凄惨極まる光景を見たのだった。

 ニーナがただ立ち尽くしていると、ルシフがやってきた。ルシフの後ろには多数の剣狼隊隊員が従っている。

 ルシフのところに元々ここにいた隊員が近付き、手に持つ書類を渡していた。

 ニーナは周囲を見渡す。直前まで泣き声で溢れていたのに、ルシフが姿を現した途端に泣き声がしなくなったからだ。

 都市民は誰もが歯を食い縛り、怒りと恨みのこもった目でルシフを睨んでいた。睨まれているのはルシフなのに、止められなかった自分も責められている気がして、ニーナは顔を俯けた。

 全身に火が灯っている。怒りの火だ。むごい仕打ちに対する憎悪の火だ。

 

「自殺した人数は五百二十四。殺された家族の人数が八十二か。思ったより少ないな」

 

 ルシフは書類を見ながら、そう呟いた。

 ルシフの言葉を聞いた瞬間、全身に灯っていた火が炎になった。思ったより少ない。たしかに、そう言った。人の命をなんだと思っている。

 

「ねえ、どうして?」

 

 六、七歳くらいの男の子が隣の女性の袖を引いている。おそらく男の子の母親だろう。

 

「どうしておとうさん、ぶげいしゃじゃなくなっちゃったの? おとうさん、なにもわるいことしてないよ?」

 

 母親は感極まったのか、涙を流して子どもを抱きしめた。

 

「どうしておとうさん、しんじゃったの……? なにもわるいことしてないのに……!」

 

 男の子は両目いっぱいに涙を溜めていた。母親はただ子どもを抱きしめ続けた。周りの都市民は涙で顔を濡らし、痛みを堪えるような表情をしている。

 男の子の目が何かを探すように動く。ルシフを捉えると、目の動きが止まった。

 

「……おまえのせいだ」

 

 母親の腕を払いのけ、男の子は駆け出した。

 書類を見ているルシフの右横まで行き、ルシフを右手の人差し指で指さした。

 

「おまえがおとうさんをころしたんだ!」

 

 周りの都市民の顔が青ざめた。母親は子どもの名を叫んでいる。ルシフは書類から男の子の方に視線だけ向けた。無表情だった。

 

「かえせ! おとうさんをかえせ! かえしてよぉ!」

 

 男の子の叫びは収まらない。周りにいる剣狼隊も顔から血の気が引いていた。

 突然のことに唖然としていた母親が我に返り、転がるように男の子のところまできた。男の子とルシフの間に滑り込み、男の子を庇うようにしながらルシフに頭を下げる。

 

「も、申し訳ございません!」

 

「おかあさん、こんなやつにあやまらないでよ!」

 

「静かにしなさい!」

 

「おかあさんだっていってたじゃん! このとしからでていってほしいって!」

 

「お願いだから口を閉じなさい!」

 

「おまえなんかこのとしからでてけ! でてけよぉ!」

 

「いい加減にしなさい!」

 

 母親が男の子の頬を平手打ちした。乾いた音が響く。男の子は頬を手でさすり、目を見開いていた。

 母親は男の子の様子を気にする余裕もなく、両膝を地につけて頭を深く下げた。

 

「本当に申し訳ございません! これは我が子へのしつけが足りなかった私の責任です! どんな罰も私がお受けします! ですから、この子だけは見逃してくださいませ! この子だけは許してください!」

 

 母親は地に額をこすりつけていた。

 プエルがそっとルシフに近付く。

 

「へ、陛下。子どもが言った言葉です。それを本気で相手にしてしまえば、陛下の器量の狭さを都市に知らしめるのと同じではありませんか?」

 

 母親は頭を上げた。光が灯った目でプエルを見ている。

 

「プエルの言う通りです。子どもの言うことにいちいち本気になっては大人げないですぞ」

「陛下の偉大さは子どもには理解できません。あと少し時が経てば、この子どもも陛下の偉大さにひれ伏しますよ」

「許してあげるべきです。それでも罰を与えたいならば、陛下の偉大さを子どもに伝えられなかった私の罪です。私が罰を受けましょう」

 

 プエルの他にも剣狼隊の面々がルシフに近付き、口々にそう言った。

 ルシフは、無言だった。未だに信じられないという表情で頬をさすっている男の子を見ている。

 ルシフの視線に誰もが気付き、口を閉ざした。重苦しい沈黙。

 ルシフは一歩踏み出した。母親のすぐ横にくる。母親は横からルシフの腰に抱きついた。

 

「お、お願いします! この子は許してください!」

 

 ルシフは母親の腕を振り払った。衝撃で母親は地に倒れる。男の子はそれを見て、顔を紅潮させた。

 

「おかあさんをいじめるな!」

 

 男の子の全身から剄が発せられ、子どもとは思えぬ勢いでルシフの腹を殴った。すると男の子の拳が弾かれ、男の子は体勢を崩して地に倒れた。

 周りにいる者は全員息を呑んだ。ルシフの一挙一動に意識が集中する。

 

「俺が憎いか?」

 

 ルシフは倒れた男の子を見下ろしていた。

 

「にくい!」

 

 男の子は怒りを収めず、ルシフを睨んでいる。

 ルシフが男の子の顎を右手で掴み、顔を近付けた。

 

「ならばよくこの顔を覚えておけ! お前の父を殺した顔だ! 強くなり、必ず殺しにこい! その時に、お前を父のところに連れていってやる!」

 

 男の子は両眼に涙を溜めつつも、ルシフから視線を逸らさなかった。

 ルシフは方天画戟を地に叩きつける。地にヒビが入り、一気に百メートル先まで吹き飛び抉れた。その方向には人がいなかったため怪我人は出なかったが、都市民は恐怖に支配され、叫び声もあげずに立ち尽くしている。

 

「この光景を、よく目に焼きつけておけ。並の強さでは、俺に近付くこともできんぞ」

 

 ルシフはそう言うと、男の子の顎から右手を離した。男の子はぺたりと両膝を地に付け、吹き飛び抉れた地面をじっと見ている。

 ルシフは抉れた地面の上を歩き始めた。

 

「行くぞ」

 

 周りの剣狼隊がルシフの後ろを付いていく。

 ニーナはその場から動けなかった。男の子の言葉はルシフを止められなかった自分も責めている気がしたからだ。

 ルシフの後ろ姿はかなり遠くなっている。

 

「かならず、おまえをころしてやる!」

 

 男の子が立ち上がり、叫んだ。周りにいる者はぎょっとした表情をし、母親が男の子を前から抱きしめた。

 男の子の両眼から涙がこぼれている。

 

「かならずころす! ころしてやる!」

 

 泣きながら男の子は叫び続けた。

 都市民が再び号泣し始めた。泣き叫んでいる者も大勢いる。

 ニーナはリーリンが手を握っていることも忘れ、握る手に力を込めた。

 

「いたッ」

 

 リーリンはニーナから手を離した。ニーナはリーリンの声でリーリンの手を握っていたことを思い出した。

 

「すまん、リーリン」

 

「ううん、大丈夫。それよりニーナ、落ち着いて」

 

 ニーナの両拳が強く握りしめられ、両腕は震えている。炎が全身を暴れ狂っていた。

 聞こえるだろう、ルシフ。都市民の悲痛な叫びが。都市民の怒りの咆哮が。

 ニーナの全身から剄が発せられ、ニーナを黄金の輝きが包んだ。

 

「ニーナ、ダメよ。やめて、今度こそ死ぬわよ」

 

 リーリンが横で必死にニーナを説得しようとしている。リーリンの背後にいる剣狼隊の剄が高まっているのを感じた。

 

「すまん」

 

 リーリンへの別れの挨拶のつもりだった。殺されてもいい。ここで立たなければ、自分が自分で無くなる。ニーナではない誰かとして、一生生きていくことになるだろう。それは死んでも嫌だ。

 全身が熱い。内で燃え上がっている炎が実体をもっているようだ。

 だが、この熱に身を任せたい。

 そう思った瞬間、ニーナを包んでいた黄金の輝きが更に強さを増し、剄が爆発的に増加した。普段の剄量からは考えられない量だ。

 全身が焼けているように熱い。剄脈が暴走しているのか?

 ニーナの背後にいた剣狼隊の隊員が襲いかかり、ニーナを押さえつけた。その間に前と左右にいた隊員もニーナを取り押さえようと動く。

 かっと頭に血が上った。剣狼隊の隊員とは色々話した。立派な志と思いを持っているのを知っている。だからこそ、怒りが燃え上がる。

 

「恥知らずどもがッ!」

 

 更に剄が増加した。ニーナの全身から放たれる剄が衝剄となり、押さえつけている隊員と接近した隊員を吹き飛ばした。隊員は空中で体勢を整え着地。ダメージは全くないが、驚愕した表情になっている。

 ニーナは二本の錬金鋼を復元。鉄鞭を両手に握りながら、顔だけ隊員の方に向けた。

 

「目の前で失われていく命すら救えないのに、世界を変えられるものか!」

 

 隊員はニーナの言葉に唇を強く噛み、悔しげな表情になった。

 ニーナはルシフの方に顔を戻す。距離は約四百メートル。その間には剣狼隊が二十人ほどいた。ニーナの剄に気付き、ニーナを無力化しようと向かってくる隊員も数人いる。

 ルシフ、お前は正しい。武芸者は強くなければならない。明確な基準を設定するのは良いことだ。だが、やり方が急すぎる。武芸者で無くなった者も生きやすい社会を構築してからでも、武芸者選別は遅くなかっただろう。

 ルシフがそれに気付いていない筈がない。気付いていて、強行したのだ。

 ルシフは自分を蚊だと言った。たとえ蚊だとしても、蚊の一刺しをルシフにやれたら。自分を全く意識しないあの男に、ほんの少しでも自分を意識させられたら。自分の声がほんの少しでも届かせられたら。

 ニーナの脳裏に、組み手中にルシフが一度だけ使用した剄技がよぎる。

 その剄技を思い出しながら、ニーナは剄を更に練り上げる。脚力を活剄で強化しつつ、鉄鞭に衝剄を凝縮。

 一歩、踏み出す。ニーナの姿が消えた。向かってきていた隊員たちは衝撃波で吹っ飛んだ。

 ニーナが持つ両鉄鞭から雷光が漏れ、全身に雷気を纏ってニーナは駆ける。あと三百五十。隊員を三人、突き飛ばす。あと三百。エリゴ、オリバ、アストリットが立ち塞がる。跳躍。一回転して着地。瞬間、地面を蹴り、三人を置き去りにして直進。あと二百五十。隊員が五人、振り向こうとしている。その間を駆け抜けた。駆け抜けた際の衝撃で五人が吹っ飛ぶ。あと二百。バーティン、レオナルト、サナックが各々の武器を構えている。前方の地面を両鉄鞭で叩いた。地面が割れ、土埃がニーナを覆い隠す。貫く雷光。鉄鞭を左右に振った。レオナルトが棍、バーティンは双剣を交差して鉄鞭を防いだ。衝撃は緩和できず、二人とも後ろにずり下がった。ニーナは足を止めない。雷気を纏い、鉄鞭に雷光を帯びさせたまま駆け続ける。あと百五十。プエルが鋼糸を展開させようとして、ニーナの姿を見てやめた。ニーナは電気を纏っている。鋼糸に電気が伝わるのを懸念したのだ。あと百二十五。ハルスが大刀を振るう。ニーナは地に伏せる程に体勢を低くし回避。前転。ハルスが舌打ちしたのが聞こえた。すかさず地を蹴る。あと百。隊員が三人進行方向にいる。構わず突っ込んだ。隊員はニーナの圧力を殺せず、後方に吹っ飛ぶ。吹っ飛んだ隊員を抜き去り、駆けた。あと五十。あと少しで、ルシフに届く。正面にヴォルゼー。大薙刀を持ち、悠然と構えている。表情は楽しげな笑み。剣狼隊最強。知るか、そんなこと。ヴォルゼーを抜けば、ルシフまで遮るものはない。

 

「突き破れ!」

 

 剄が極限まで高められた。熱が全身を支配している。鉄鞭の雷光が勢いを増し、ニーナの全身が眩いばかりの紫電に包まれた。

 活剄衝剄混合変化、雷迅。剄技を使用したあと、ルシフは確かにそう言った。両手を鉄鞭とみなし、ニーナなりのアレンジを加えて完成させた剄技。

 ヴォルゼーの姿がぶれた。右側頭部に衝撃。身体が地面を転がる。遅れて、ニーナが通ってきたところから轟音が響き渡り、踏みしめた地面が砕けて舞い上がった。

 ニーナは地面に倒れた。両手の鉄鞭が転がり、帽子が宙を舞う。ニーナは右側頭部から血を流しながら、右腕を伸ばした。あと二十五。ルシフまで、もうすぐそこなのだ。ルシフは振り返らない。

 ルシフ、こんなやり方は間違っている。たくさんの人の悲しみを生むだけだ。みんなで一緒に考えよう。人を死なせない世界を。お前は急ぎすぎてるんだ。

 こういう風に世界を考えられるようになったのは、紛れもなくルシフのおかげだった。以前は都市間戦争を肯定し、仕方がない犠牲と割り切っていたのだ。ルシフのおかげで希望が見え、ルシフの思い描いているであろう理想よりもっと良い理想を実現したくなった。どうすればその理想が実現できるかは分からない。だが、ルシフがいる。たくさんの人がこの世界に住んでいる。全員で知恵を出し合えば、きっと理想の世界が実現できると信じている。

 視界が暗くなっていく。目の前に誰かの足。しゃがんだ。ヴォルゼー。胸の前の三つ編みにした黒髪が揺れる。

 

「まだまだ足りないわよ、力が。それじゃ届かない。もっと強くなりなさい」

 

 そこでニーナの意識は飛んだ。

 

 

 

 倒れているニーナを遠目から見た都市民が騒いでいる。

 

「おい、あの金髪の子って……」

「間違いない、不敬罪で罰を受けた子だ」

「痛い目にあったのに、またこんな……」

 

 都市民の声を聞きながら、フェイルスは錬金鋼を復元。細剣が握られる。フェイルスの近くにはニーナが倒れていた。

 細剣を握る腕を、ヴォルゼーが掴んだ。首を振る。

 フェイルスは細剣を握ったまま、ヴォルゼーを見た。

 

「ニーナさんは殺しておくべきです。このタイミングで剄脈拡張が起こるなんて、運が良いだけでは説明できない何かを、この少女は持っています」

 

 剄脈拡張とは、剄脈が今までよりも剄を多く扱えるように発達することである。ごく稀にそういう武芸者がいる。

 普段のニーナからは信じられないほどの剄量から、フェイルスは剄脈拡張が起きたと確信していた。

 

「それだけの理由で殺すの?」

 

「まだあります。ニーナさんは陛下を怖れず、何度も歯向かってきました。都市民からも支持されるでしょう。反乱勢力の旗印として、利用される可能性があります。将来、陛下を脅かす存在になるかも……」

 

「フェイルス、陛下を脅かす存在が生まれることは人類にとって良いことよ。陛下も喜ぶ。それに殺しは、剣狼隊のイメージから外れるわ」

 

 剣狼隊はルシフに従っているがよく思っていない、というイメージを都市民に植え付けている。剣狼隊がそんなことをしては、都市民に不信感を与えることになり、今までのことが無意味になる。

 フェイルスは細剣を錬金鋼に戻した。ヴォルゼーの手が離れる。

 

「……分かりましたよ。ですが、ニーナさんは我々と絶対に相容れない。それだけは頭に入れておいてください」

 

 フェイルスは錬金鋼を剣帯に吊るした。

 ニーナは大のための小の犠牲を許せないタイプなのだろう。救急要請を受けたのに目の前で苦しむ人を無視できず、そっちを助けた後に現場に向かうような、そういう人間なのだろう。

 確かにそれは美しく、立派な行為だ。だが、世界はきれいにできていない。一人残らず人間を救うなど、土台無理なのだ。

 感情に流され冷静さを失う人間が主導権を握り、都市が良くなった例など皆無。周りの人間に利用し尽くされて、最後は全ての責任を取らされる。ニーナのような人間は部隊長クラスに置いておけばいい。

 

 ──ニーナさん、知っていますか? あなたが考えているような段階、マイロードは六年も前に通過しましたよ。

 

 イアハイムの武芸者選別試験。父親を死に追いやった時に。

 ニーナは思い違いをしているのだ。ルシフは別になるべく多くの人間を救いたいわけではない。本気で生きたい、本気で生きようとする人間が生きられる世界。生まれた都市や場所に左右されず、誰もが等しく生きるチャンスを与えられる世界。逆に言えば、生きる努力をしない、生きる才能がない者は淘汰していく世界。

 そうやって人類の純度を高め、生きる価値のある人間しかいない世界へと昇華させる。それらを導き、頂点に君臨するのは世界最高の人物。

 考えただけで、フェイルスは歓喜に震えた。ゴミのような人間が淘汰され、知性のある人間だけが生きている。なんて素晴らしい世界なんだ! くだらない人間ばかりが跋扈している今の世界なんか反吐が出る。守る価値もない。

 ニーナのところにリーリンが駆け寄ってきた。

 それを一瞥し、フェイルスはルシフの後を追った。



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第74話 魂の慟哭

 気付いたら、真っ暗な空間が広がっていた。前後左右どこを見ても何もない暗闇。

 

「なあ、いつまで演じ続けるつもりだ?」

 

 いつの間にか影が正面に立っていた。ルシフの影を切り取った姿だった。口がある部分だけ、口の形をした白いものが貼り付けられている。この空間に光は全く無く、通常なら影も闇の中に呑まれている筈だが、影の輪郭は闇に浮かび上がっているようにはっきりとしている。

 

「何を言っている?」

 

 ルシフは影に逆に訊き返した。

 影が大口を開いて笑いだした。

 

「いつまで演じるつもりだ、って訊いてんだよ、このなりすまし野郎」

 

「なりすまし? はっ、俺は元からルシフだ。演じているわけじゃない。そんな戯れ言信じんぞ」

 

「ほんとにそうかな?」

 

 影がにやりと笑った。

 

「別人格の記憶と知識、持ってんだろ? なのに別人格の意識は持ってないなんて、そんな都合の良いことあるのかな?」

 

 影の口はにやにやとした形のままだ。

 イラついた。怒りが全身を沸騰させている。

 

「その身体は俺のなんだよ。いい加減返してくれよ」

 

「俺の前から消えろ!」

 

 ルシフが叫んだ。

 ルシフの言葉に応えるように、真っ暗な空間の崩壊が始まる。影も足から徐々に消えていく。

 

「時間切れか」

 

 影は自身の姿を確認するように俯いた。もう足は全て消え、今は腹部が消えていっている。

 

「まぁ今回はこれでいいか。最後に一つ言っておく。世界は都合良くできていない。どこまでも残酷で無情だ。真実を知った時のお前の顔が(たの)しみだよ。ははははは……!」

 

 完全に消えるまで影は笑い続けていた。

 真っ暗な空間が砕ける。真っ白な光に呑み込まれた。

 

 

 

 ルシフはベッドで勢いよく身体を起こした。周囲を視線だけで見渡す。いつもの寝室。自分以外誰もいない。

 

 ──夢……か。

 

 夢にしては鮮明な夢だった。起きた今でも、夢の内容を全て思い出せる。

 

「……ッ!」

 

 激しい頭痛。頭を右手で押さえ、眼を細めた。頭がくらくらする。

 ベッドの横に置いてある机の引き出しから温度計を取り、脇に挟んだ。数分そうしたあと、温度計を脇から出して見た。三十八度五分だった。

 あの日から、ほぼ毎日頭痛と熱があった。マイがハイアに誘拐された日から。

 頭痛はあんまり痛くない時と頭が割れるように痛くなる時があり、熱もたいてい七度五分前後くらいで、八度を超えるのは稀だった。

 何もしていない時が一番辛かった。政務をしている時、闘っている時、女を抱いている時など、何かをしている時は頭痛も熱も和らいでいく気がした。逆に剣狼隊を痛めつけたりすると、頭痛が更に激しさを増し、耐え難い苦痛に襲われた。

 俺は『王』だ。王が情けないところなど見せてたまるか。何度も自分にそう言い聞かせ、気力で耐えてきた。

 夢で影が言っていた言葉が再生される。

 

 ──俺はルシフだ。俺の人格が本当はルシフじゃない? そんなことはありえん。

 

 ありえないのに、不安になる。自分が本当は自分じゃない。考えただけで震えそうになるほどの恐怖に襲われた。死ぬより恐ろしい。

 時計を見た。もうすぐ朝の七時になるところだ。

 武芸者選別試験から四日が経っていた。その間、都市中央部にある建造物を破壊し、王宮を建てる準備をしたり、外縁部付近の農業区画や工業区画を外縁部を潰して広げるよう動いた。何度かヨルテムの武芸者だった者が集まって自分を倒すために暴れたが、自分のところまでたどり着く前に剣狼隊が潰した。捕らえた反逆者全員の右腕を切り落とし、解放した。切り落とした右腕は解放する時渡してやったから、病院に行けば元に戻る。

 ルシフはベッドから下りて着替えた。黒装束に黒のマントを羽織り、立て掛けてある方天画戟を左手で取った。

 

《ルシフ、どうかしたのか? うなされているようだったが》

 

 メルニスクの声が自身の内から響いた。

 

「なんでもない」

 

《……そうか》

 

 メルニスクの声はそれっきり聴こえなくなった。

 寝室を出ると、黒髪の少女十人が家事をやっていた。

 

「おはようございます、陛下」

 

 少女の一人が頭を下げた。それにつられるように残りの九人が頭を下げる。声を出して挨拶したのは最初の一人だけだ。

 

「ああ、おはよう」

 

 挨拶を返しながら、声を出した少女を見た。この女がシェーンの筈だ。全員が同じ髪色、髪型、体型、服装をしているため、未だにシェーンが誰なのかはっきり分からない。

 体型についてはわざと合わせている。風呂に入った時に気付いた。風呂に入ろうとすると、身体を洗うと言っていつも少女たちが裸にバスタオルを巻いて入ってきた。その時、明らかに胸の大きさが違っていたのだ。普段はパッドやら小さめの下着を付けることで、全員同じくらいの胸の大きさにしていたらしい。

 それで確信した。たまたまではなく、わざと全員似たような容姿にしていたと。何故か? 決まっている。毒殺を成功させた後、誰が殺したか分からなくするためだ。

 ますます少女たちを警戒した。出された料理も少女たちに分け与え、飲み物や食べ物を少女たちが躊躇いもせず食べたところを確認してから、出された料理や飲み物を口に入れた。当然十人分も料理はないから、足りない分は食材を持ってこさせ、自ら料理を作って少女たちに振る舞った。殺したい相手の料理を食べることに抵抗があるかどうか確かめるためであり、媚びてくるかどうか試すためでもあった。

 少女たちは驚いただけで作った料理を抵抗も無く食べた。シェーンが満面の笑みでおいしいと言った。他の少女たちも媚びるような笑みは浮かべず、純粋に食べるのを楽しんでいた。予想外の反応に、こっちが困惑した。媚びるには最適の機会の筈だ。なのに、媚びてくる少女は一人もいない。

 

「朝ごはんならすぐ用意できます。どうされますか?」

 

「後でいい」

 

「分かりました」

 

 シェーンがルシフの顔をじっと見ている。シェーンはよくああして顔を見つめてきた。自分の心の底を見透かそうとしているようで、ルシフは苦手だった。

 ルシフは気付かない振りをして、黙って部屋を出た。

 

 

 

 不思議な方だ。

 ルシフが部屋から出ていくのを見届けた後、シェーンはそう思った。

 武芸者選別試験。増税。旗の変更。都市開発。反逆者への徹底した制裁。ルシフがヨルテムに来て五日が経過し、それだけのことをやった。

 休憩時間に都市を歩くと、都市民のルシフに対する陰口や罵倒が聞こえた。ヨルテムを私物化している。自分が好きに生きることしか考えてない。私たち住民を蔑ろにしている、といった言葉だ。

 シェーンは主人だったベデからルシフの暴政はわざとだと言われていたため、ルシフに対する怒りは感じなかった。ただやったことの意味を一つ一つ考えた。

 武芸者選別試験の後、都市中央部の建物を破壊すると決定し、今は建物を壊している最中だった。外縁部も工場や農地にするため、多くの人が働いている。その多くは武芸者選別で不合格だった者だった。肉体労働ができる労働者が急遽必要になったため、剣狼隊が労働者を募集した。それに武芸者で無くなった者が飛びついたのだ。

 ルシフは武芸者という地位の大量剥奪の応急措置のような意味で、都市開発を推し進めているのではないか。確かに暴政と呼ばれる行為だが、働き口が増えるという意味では都合が良い。

 都市民にそう言えば、あの男がそこまで考えてやっているものか。たまたまに決まっている、と言われるだろう。確かにそうかもしれない。しかしシェーンは、狙ってやったと思うことにした。

 部屋にいる時のルシフは恐ろしくなかった。誰一人として、ルシフから酷いことや痛いことは未だにされていない。むしろ優しいとさえ感じた。料理を運ぶと、いつもお前らも食べろと言って、料理を分けてくれた。料理が足りないと、暇潰しだと言って料理を作ってくれた。

 自分たちにも与えられた部屋があった。五人で一部屋で、合わせて二部屋。ベッドと最低限の家具しか置いてない部屋だが、それで十分だった。

 ルシフがいない場所なら、自分以外の少女も話す。むしろ饒舌だった。シェーンもなるべく少女たちと話そうと、与えられた二部屋を交互に使っていた。

 少女たちとは様々な話をした。思ったより怖くない。身体を求めてこないから、仕えるのも苦痛じゃない。仕えるのが楽しくなってきた、という少女もいた。三人の少女はルシフが好きになったとさえ言っていた。

 料理の話もたくさんした。ごはんの時間が実は楽しみ、とみんなが言っていた。シェーンもあんなにおいしい料理を食べたことなんてほとんど無かったから、少女たちの言葉に同意した。

 風呂場での話もした。そもそも男性経験が全くない少女ばかりだったから、ルシフの裸を見ただけで顔を真っ赤にする有り様だった。自分たちはバスタオルで身体を隠していたが、ルシフは一切隠していなかった。当然男の部分も丸見えだったため、初めて身体を洗った時は直視できず、顔を背けながら洗った。今は慣れたため、むしろ男の身体はこうなっているのか、という目で見る余裕もできた。あの時間が至福、と顔を赤らめながら言った少女も何人かいた。興奮したらどうなるのか見てみたい、という少女も二、三人いた。ルシフは見られることや女の身体を見ることに何も感じないらしく、男の部分はずっと通常のままだったのだ。

 シェーンは料理を振る舞ってくれた時のルシフの顔が、頭からずっと離れなかった。とてもおいしいです、と自分が言った時のルシフの顔が。

 驚いたような、戸惑ったような、普段からは考えられない隙のある無防備な顔だった。あの顔を見てから、もっともっとルシフのことを知りたいと思った。一体この人は何を考え、何をやろうとしているのか、ますます興味が出てきた。

 ルシフのあの顔を見て一つ、シェーンは確信したことがある。

 

 ──わたしはルシフさまを愛せる。

 

 それが分かっただけでも、シェーンにとっては収穫だった。

 普段は恐ろしいことを平然とするのに、時折優しさのようなものを感じる。それが不思議で、ルシフの内面を見ようといつもルシフの顔を見つめていた。

 剣狼隊はルシフに絶対の忠誠を誓っている、とベデは言っていた。剣狼隊は事あるごとにルシフに痛めつけられている。ルシフにとって剣狼隊は大切な部下のはず。なのに、痛めつけなければならない。内心でルシフはとても傷つき、苦しんでいるのではないだろうか。

 

「シェーン、どうしたの? 掃除しよ?」

 

 少女の一人がシェーンに言った。

 シェーンは現実に意識を戻す。

 少女の言葉に頷き、シェーンは掃除用具を取りにいった。

 

 

 

 ルシフは部屋を出ると、まっすぐマイの部屋に向かった。

 別に用事があるわけでもない。マイに会いたいだけだ。

 頭は今も激しく痛み、くらくらする。しかし、平常と同じ顔と仕草を意識して歩いた。

 マイの部屋の前に来ると、扉をノックした。

 

「……ル、ルシフさま!? い、今すぐ開けます!」

 

 念威の波動を扉越しに感じ、その後少ししてから扉が開いた。

 マイの部屋に入る。マイは赤のスカーフを首に巻き、錬金鋼(ダイト)の杖を持っていた。

 

「あの、何かご用ですか?」

 

「用がないと、来たら駄目なのか?」

 

「用がないのに、私に会いに来てくださったのですか!」

 

 マイは嬉しそうな笑みを浮かべた。

 ルシフは左手でマイの右頬を撫で、顔を近付けた。マイの透き通った青い瞳を覗き込む。

 この瞳が好きだった。この瞳を見ていると、王になりたいと思った原点を思い出せる。自分が何者なのか、確信することができる。

 

 ──俺はルシフだ。ルシフ・ディ・アシェナだ。

 

 頭痛が和らぎ、くらくらしていた感じも収まった。マイを見ていると、安心するからなのか。

 

「ルシフさま、何かありました?」

 

「どうしてそう思う?」

 

「何かあると、いつもこうして私の顔をじっと見てきますから。私はもちろんとても嬉しいですけど」

 

「別に何もない」

 

 そうして数分間、お互いを見つめあった。

 頭痛はほとんど消え、頭もくらくらしなくなった。

 

「そろそろ行く」

 

「はい。来てくださってありがとうございました」

 

 マイの部屋を出た。

 それから自室に戻って少女たちと朝ごはんを食べ、謁見の間に行った。

 玉座に座り、様々な報告を聞いた。都市開発に関することや都市の警備状況、武芸者の訓練など。

 警備体制については、以前は武芸者千人以上の人数で警備していたところが、今は剣狼隊と合格した武芸者を含めた五十人程度で十分になった。都市全体に散らすように詰所を設置し、三人で一つの組を作ってそれぞれ配置。念威操者が都市全体の情報を得て、何か問題が起こりそうなら近くの詰所にいる武芸者に伝達。それだけで、治安を維持するどころか見違えるほど良くなったのだ。いかに武芸者と呼ばれた者たちを遊ばせていたか、よく分かる。

 報告を聞いている最中、剣狼隊が一人謁見の間にやってきて、ルシフの前で片膝をついた。

 

「陛下。王命により、先の大量自殺及び大量殺人で犠牲になった者の葬儀金、遺族への弔慰金の手配完了いたしました」

 

 おおッ、と謁見の間にいたヨルテムの者たちが歓声をあげた。

 これも計画通りだ。後は王命と偽って指示を出したエリゴに罰を与えればいい。

 ルシフの顔は不機嫌そうに歪められる。剄が謁見の間を暴れ回った。

 謁見の間にいる者は恐怖で顔をうつむけた。

 

「……今、なんて言った? 俺はそんな命令だしていないぞ」

 

 ルシフは玉座から立ち上がった。

 片膝をついている剣狼隊は怯え、尻もちをついた。

 

「し、しかし! 確かに王命での指示を……!」

 

「その王命を出したヤツは誰だ! 今すぐ捕らえ、この場に引きずってこい!」

 

「りょ、了解しました!」

 

 報告にきた剣狼隊が慌てて謁見の間から出ていく。謁見の間内の者たちは無言で視線を交わし合っていた。

 十分ほど経つと、五人の剣狼隊がそれぞれ剣狼隊二人ずつに捕らえられて連れてこられた。すでにヨルテムにはイアハイムにいた剣狼隊全てが来ていて、錬金鋼技師たちも同じようにやってきていた。

 五人の剣狼隊を見て、ルシフは内心で困惑した。エリゴ一人の予定が五人いる。エリゴ、フェイルス、オリバ、ヴォルゼー、プエルの五人。しかし、予定通り全員に罰を与えなくてはならない。

 

「この者たちでございます!」

 

「言い訳を聞くつもりはない。お前たちは王命を偽った。万死に値する。そいつらの首を即刻はねろ!」

 

 ルシフは右手でこめかみの辺りを触っている。

 捕らえていた剣狼隊十人と謁見の間にいた剣狼隊全員が跪いた。

 

「陛下! この五人は今まで多大な功績をあげてきました! それに免じ、なにとぞ死刑だけはご容赦を!」

 

「お願いします、陛下!」

 

 跪いた者全員が頭を下げ、取り乱しながら許しを懇願していた。

 これでいい。

 ルシフは自分が落ち着いたように見せるため、息をついた。

 

「確かにお前たちには功績がある。また、実力のある武芸者を五人も失うのは痛い。いいだろう、死刑だけは免じてやる。今から三時間後、中央広場でお前らを処罰する。それまでその五人は拘束しておけ」

 

「御意!」

 

 エリゴら五人は両腕を捕まれ、謁見の間から連れ出された。

 

「偽の王命による葬儀金、弔慰金はどうなさいます?」

 

 剣狼隊の一人が跪き、訊いた。

 

「たとえ偽だったとしても、それは王命として周知されてしまった。いいか、王命は絶対だ。それを容易く取り消してしまっては、王命が軽くなる。それに、これからは今までとは比べものにならんほどの金が得られるようになるだろう。ならばその程度の出費、認めてやってもいいかと考えた」

 

「素晴らしい判断でございます、陛下!」

 

 ヨルテムの者たちが頭を下げた。ルシフはそいつらなど見ていなかった。

 

「今後、先の王命を偽物だと戯れ言を触れ回るヤツがいたら、捕らえて俺の前に連れてこい。厳罰を与える」

 

 王命を取り消すより、偽の王命を出された方が問題だった。王の権威を軽く見られているのと同義だからだ。

 

「分かりました」

 

 剣狼隊が頭を下げた。

 これから、あの五人に厳罰を与えなければならない。それを考えると気分が滅入った。

 その感情を周りの者に勘づかれないよう、ルシフは無表情で玉座に座り直した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 中央広場にステージのようなものが作られていた。

 ステージには台が五つ置かれていて、それを前にしてエリゴら五人が両腕を左右の剣狼隊に拘束されている。台の上には親指ほどの大きさの黒い塊が十八個置かれていた。

 ステージの周りと中央広場には大勢の人がいた。不敬罪で処罰する、と都市全体に伝えられていたのだ。言ってみれば公開処刑のようなものだった。

 ルシフがステージに立つ。いつも持っている方天画戟は、ステージの端に立つサナックが大事そうに抱えていた。代わりに、ルシフの左手には黒い錬金鋼が握られている。

 

「ここにいる五人は俺に対し、許しがたい大罪を犯した。この俺に命令したのだ! 本来ならば首をはねて晒し首にしたかったが、それはやめた! やめたが、厳罰は与える! 貴様らもよく見ておけ!」

 

 ルシフはレストレーションと呟き、左手に持つ錬金鋼を復元。大工が使うようなハンマーが握られた。

 ルシフがプエルの横に立つ。

 

「左腕を押さえつけろ」

 

 プエルの左右に立っている剣狼隊が頷き、プエルの左腕を台に押さえつけた。

 

「今からこいつらの片手の爪を全て剥ぎ、指毎に釘を三本打ち込む。それが終わったら手の甲に一本、手と肘の間に一本、肘の関節に一本打ち込んでいく」

 

 集まった民衆から悲鳴があがった。押さえつけている剣狼隊二人も驚いていた。プエルの顔は青ざめている。

 ルシフがプエルの親指の爪を親指と人差し指でつまむようにした。プエルの左手は震えている。

 本当に、これをやることが必要なのか。心の奥底で叫ぶ声が聴こえる。

 

「いいよルっちゃん、やって」

 

 微かな声で、プエルが言った。顔は青ざめているが、ルシフに向かって微笑んでいる。

 

「あたし、ルっちゃんのこと、信じてるから。ルっちゃんなら、人が争わなくてもいい世界にできるって、信じてるから」

 

 プエルの声は震えていた。プエルの左手も相変わらず震えている。

 やれ。やるんだ、俺。

 缶の口を開けるように、つまんでいる人差し指を起こした。プエルの親指の爪が上に飛んでいく。プエルは唇を噛んだ。残りの爪も同じように剥いでいく。集まっている民衆は顔を背けたり、目を手で覆ったりしていた。

 プエルの五指の爪を剥いだ部分から、血が滲んできている。

 まだ、これからだ。ここからが本番だ。

 台の上に置かれている黒い塊を一つ取り、レストレーションと呟く。黒い塊は一本の太い釘になった。

 これは、錬金鋼技師としてヨルテムに来たハントに作らせたものだ。

 釘を親指の爪を剥がした部分に持っていく。

 本当にこれを打ち込んでいくのか、やり過ぎじゃないか。奥底からの叫び声は途切れない。うるさい、やると決めたらやる。それが王だろ。

 ハンマーを持つ手が微かに震えた。プエルと目が合う。プエルは堪えているような表情をしながら、僅かに頷いた。

 ハンマーで釘を親指の先に打ち込んだ。プエルが絶叫した。

 ルシフは次から次に黒い塊を釘にし、指毎に三本ずつ釘を打ち込んでいく。打ち込む度に左手がビクンと跳ね、プエルの絶叫がこの場を震わせた。

 指に釘を打ち込み終わったら、次は手の甲に釘を打ち込んだ。その次は手と肘の間。最後は肘の関節部分。

 全てが終わった後、プエルは荒く息をつき、ぐったりとしていた。しばらくすると釘が錬金鋼状態に戻り、プエルの左手と左腕から血が溢れだした。

 頭が痛くなってきた。あと四人、これをやらなければならない。

 次はフェイルス。

 

「やってください、マイロード。必要なことなんでしょう?」

 

 フェイルスもプエル同様左手の爪を全て剥ぎ、釘を打ち込んだ。フェイルスも絶叫し、終わった後はぐったりとした。

 頭が更に痛くなってくる。もういいだろう! 誰かが内側から叫んでいる。聴くな。聴けば『王』では無くなる。

 次はオリバ。

 

「ルシフ殿、わしはあなたと地獄を行くと決めました。この程度、なんてことはありませんぞ」

 

 オリバの左手の爪を全て剥ぎ、釘を打ち込む。オリバのうめき声が聞こえた。終わった後、オリバは荒く息をついていた。

 こいつらは大切な同志だろう! 家族同然の奴らじゃないか! 内からの叫びが更に大きくなる。うるさい、黙れ。俺は『王』だ。やらなくてはならないんだよ。

 頭がくらくらしてきた。頭痛と合わさり気持ち悪くなってくる。表情には出さないよう、気力で抑えた。

 次はエリゴ。

 

「ガツンとやってくれや、旦那。許しちゃ周りに示しがつかねえもんな」

 

 エリゴの左手の爪を全て剥ぎ、釘を打ち込んだ。エリゴは歯を食い縛り、うなり声を歯の隙間から漏れさせていた。釘を全て打ち込み終わると、エリゴは何度も深呼吸していた。

 もうやめよう! これで十分だ! 必死に叫ぶ声。誰の声だ。

 ステージは処罰されている者以外の音が無くなっていた。目の前の残虐な光景に悲鳴も出ず、顔を背ける者ばかりだった。

 激しい頭痛。反射的に頭を押さえた。

 辛いなら、やらなくてもいい。もう目的は達成した。声が響いてくる。大切なものであろうと必要ならば壊す。それが『王』だ。臣下は使い潰す。それが『王』だ。

 最後はヴォルゼー。

 

「ルシフ、あなたが選んだ道よ。やらなくちゃ」

 

 ヴォルゼーの右手の爪を全て剥がした。釘を打ち込んでいく。最後まで、ヴォルゼーは悲鳴もうめき声も出さなかった。顔を僅かにしかめただけだった。

 全員の処罰が終わった。

 ルシフは両手を見る。両手は五人の血で真っ赤に染まっていた。

 

 ──何をやってるんだ、俺は。

 

 そう思った瞬間、頭が割れるほどに激しい頭痛がルシフを襲った。

 考えるな、そんなこと。俺の計画に必要だった。だから、これは意味のある行為だ。無意味なんかじゃない。

 

「これで処罰を終了とする!」

 

 ステージの前方に立って、ルシフはそう言った。

 ステージの端に立つサナックから方天画戟を受け取り、ルシフは中央広場から去っていった。

 中央広場で処罰を見ていたレオナルトは、両拳を握りしめていた。

 

「なぁ、ハルス。本当にこれが必要なのか? 俺たちは仲間だろ。なんで大将は仲間を傷付けるんだ?」

 

「俺には兄貴の考えていることなんてどうでもいいよ。兄貴と一緒に生きられれば、俺はそれでいい。どれだけ痛めつけられようが、たとえ殺されようが構わねえ」

 

「俺は……お前みてぇに考えられねえよ。剣狼隊の奴らはみんな、俺の大切な仲間だ。あんな風に痛めつけられているのを見て、怒りを感じねえなんて無理だぜ」

 

 ハルスがレオナルトの右肩を軽く叩いた。

 

「落ち着けよレオナルト。信じようぜ、兄貴を」

 

「…………」

 

 ハルスは軽く息をついた。

 

「これから警備任務だ。持ち場に行くぞ」

 

「……ああ」

 

 レオナルトは頷く。両拳は握りしめられたままだった。

 

 

 

 ルシフは自室に戻ってきた。

 頭が痛い。目眩がしそうなほど、頭もくらくらしている。

 

「お帰りなさい、陛下」

 

 リビングに少女が集まり一礼したが、無視して寝室に行った。

 寝室には誰もいない。寝室のベッドに座り、頭を押さえた。

 何故か無性にマイに会いたくなった。

 寝室の扉が開く。一人の少女が入ってきて、すぐに寝室の扉を閉めた。

 少女は驚いた表情でルシフを見ている。

 苦しそうなところを、見られた。どうする? この女の舌を引き抜き、言葉を話せなくするか。

 そう考えて、首を軽く振った。残酷な思考に引っ張られるな。他のやり方がある筈だ。

 

「苦しいのですか、陛下」

 

 少女が口を開いた。喋るということは、この女はシェーンか。

 シェーンはルシフに近付き、首に触れた。シェーンがはっとした表情になる。

 

「すごい熱です! 横になってください!」

 

 ルシフはシェーンの言葉に従い、横になった。横になる際、シェーンの頭を掴み、シェーンも倒れた。

 ルシフの目の前にシェーンの顔がある。シェーンの顔はほんのり赤くなっていた。

 

「あ、あの、陛下? いけません、お休みになっていただかないと……」

 

 ルシフはシェーンの言葉など聞いていなかった。

 

「陛下、ずっとわたしが陛下の傍にいます。精いっぱい、陛下を癒します」

 

 シェーンがルシフを見つめてくる。

 ルシフはシェーンの瞳を覗き込んだ。シェーンの黒く深い瞳。しかし、何も感じない。

 こんな女の瞳じゃ駄目だ。あの瞳がいい。マイの瞳が。どこまでも透き通っていて力強い光を放つ青く澄んだあの瞳が。

 

 ──どこにいるんだ、マイ。今すぐ俺のところに来てくれ。俺の存在を確かめさせてくれ。お前の瞳で……。

 

 シェーンは起き上がり、寝室から出ていった。数分後、シェーンは再び寝室に戻ってきた。氷水が入ったバケツとタオル、コップを持っている。

 シェーンが氷水にタオルを浸し、絞った。

 ひんやりとしたタオルが額に乗せられる。ルシフは両目を閉じた。警戒は解かない。何か不審なことをしたら、シェーンの両腕を切り落とそう。そう簡単に殺せると思うな。

 ルシフはしばらくの間、シェーンの看病を受けていた。

 

 

 

 シェーンはルシフの看病をしながら、ルシフの顔を見つめていた。

 処罰は爪を全て剥ぎ、釘を打ち込むという残酷なものだった。

 剣狼隊はルシフにとって大切な存在だったから、こうして精神的に弱り、熱が出てしまったのではないか。

 そこまでして、何を目指しているのか。

 

 ──もっとあなたを教えてください。もっともっと深いところまで、あなたを。

 

 ルシフがうなされている。水、と小さく呟いた。

 シェーンは机に置いてある水が入ったコップを手に取った。水を口に含む。そのまま自身の唇とルシフの唇を重ね、口移しでルシフに水を飲ませた。

 初めてのキスだったが嫌な気分にはならず、むしろ少し嬉しかった。




今年も終わりですね。一年間お付き合いくださり、本当にありがとうございました。

今はクライマックスに向けての舞台作りとフラグ立てを行っている最中でございます。作者が何らかの理由で死なない限り、来年完結します。あと少しの間だけ、お付き合いしてもらえると嬉しいです。皆さまの来年が今年より良い年になることを願っています。


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第75話 女王覚醒

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


 レイフォンと天剣授受者たちの訓練に、クラリーベルが加わっていた。

 全員錬金鋼(ダイト)を使わず、無手で闘っている。クラリーベルは最初、その闘い方でなければ訓練に参加させられないとレイフォンに言われ、とても戸惑った。しかし、強くなるのに必要ならば、クラリーベルは今までの闘い方を捨てることができた。

 クラリーベルの右横に、レイフォンが現れる。右膝蹴り。クラリーベルはそれを受け流し、そのままカウンターで左肘打ち。レイフォンが消える。

 

「あら?」

 

 レイフォンはすかさずクラリーベルの足を払った。クラリーベルは転倒し、尻もちをつく。

 

「大丈夫?」

 

 レイフォンが右手を差し出していた。

 

「はい、平気です」

 

 レイフォンの右手を掴み、クラリーベルは立ち上がった。

 クラリーベルは訓練場内を見渡した。デルボネ、カナリスを除いた天剣授受者全員がいる。女遊びが好きなトロイアットも毎日のように訓練場に顔を出した。それがクラリーベルは信じられなかった。三度の飯より女と過ごすのが好きなあのトロイアットが訓練に熱中しているなんて、明日は天変地異が起こるのではないか、とクラリーベルは本気で心配したほどだ。それだけルシフという男に負けたのが悔しかったのだろう。

 いや、トロイアットだけではない。天剣授受者全員の目の色が変わっていた。

 

「師匠、女遊びはやめたんですか?」

 

 クラリーベルはトロイアットに近付き、言った。トロイアットはクラリーベルに化練剄を教えている。

 トロイアットは顔の汗を右腕で拭いながら、クラリーベルに顔を向けた。

 

「やめたつもりはねぇよ」

 

「ですが、毎日訓練場にいます」

 

「取り戻したいものがあるんでな、それまで我慢だ」

 

「天剣ですか?」

 

 ルシフから天剣を取り戻す。それまで自分を鍛え続けるつもりか。

 

「ちょっとちげぇな」

 

 トロイアットは笑った。

 

「何が違うんですか?」

 

「天剣を奪われた時な、俺は男の誇りと武芸者の誇りも一緒に奪われた気がした。だからあのガキを倒し、天剣を取り返して、誇りを取り戻さねえといけねえ。じゃねえとダサいだろ? 今の俺じゃダサすぎて、女の前に顔なんか出せんよ」

 

 トロイアットの言葉は訓練場にいる全員が聞いていた。誰もが同意している、という雰囲気だった。

 男としての、武芸者としての誇りを奪われた。まさしくその通りなのだろう。

 クラリーベルもレイフォンと一緒に訓練したいという気持ちがもちろんあったが、それ以上に強くなってルシフを打ち負かしたいという感情の方が強かった。それはやはり、あの闘いで自分も武芸者としての誇りを奪われたと感じたからなのだろう。

 毎日へとへとになるまで訓練していた。こんな風に自分を極限まで追い込む訓練は最近まったくやっていなかった。いつも剄技の訓練と化練剄の訓練ばかりで、一通りやって満足すると訓練を終わっていたのだ。マンネリ化していて強くなっている実感が得られなくなってきたから、訓練にもなんとなく身が入らなくなっていた。

 今の訓練は、疲れるが充実したものが身体に残り、気持ちが良い。久しぶりに訓練が楽しいと思った。

 

 ──レイフォンにももっと接近したいですが……。

 

 クラリーベルはレイフォンの方を見る。フェリがレイフォンに飲み物のボトルとタオルを渡していた。

 まさかあんな強敵がいたとは……。レイフォンもまんざらではない様子なので、これは実に緊急事態だった。

 しかし、クラリーベルは毎日楽しかった。天剣授受者レベルの実力者と組み手ができ、レイフォンとも近くにいれる。

 一つ懸念なのが、レイフォンが鬼気迫る雰囲気を纏っていることだ。訓練中は笑いもしない。訓練以外は笑みを浮かべるが、その笑みもどこか暗い光がある。

 やはりリーリンがルシフに連れ去られたのが、レイフォンにとって深い傷になっているらしい。

 クラリーベルはレイフォンとフェリがいる方に近付いた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 グレンダン王宮、アルシェイラの部屋。

 アルシェイラは眼を閉じ、ソファに座っている。あの日を何度も思い出していた。ルシフに天剣全てを奪われた日。アルシェイラの人生一番の屈辱の日。

 部屋の扉を誰かがノックした。カナリスだろう。少し前にカナリスから来ると念威端子で通信があった。

 

「陛下、カナリスです」

 

「入れ」

 

「失礼します」

 

 カナリスが部屋に入り、扉を閉めた。カナリスが部屋を見る。

 

「もうお酒は飲んでいないようですね」

 

「飽きたのよ」

 

 今のアルシェイラの部屋に酒は何も置かれていない。カナリスが少しだけ頬を緩ませた。

 

「それは良かったです。それで、どうなさいますか?」

 

「どうって、何を?」

 

「ルシフのことです」

 

「グレンダンは大丈夫だって、わたし言わなかったっけ?」

 

 ルシフはグレンダンに攻めてこない。アルシェイラはそう確信している。

 

「まだ分かりません。万が一、言葉通り攻めてくるかもしれませんし」

 

「ルシフにとって攻めるメリットが無いと思うけどねえ。でも、百パーセント攻めてこないとは言い切れないわね」

 

「攻めてこなかったとしても、こちらから攻めに行く必要があります」

 

「なんで?」

 

「なんでって……天剣をルシフから取り返さないと駄目じゃないですか」

 

 カナリスが呆れた表情になる。

 

「天剣……か」

 

 アルシェイラはなんとなく天井を見た。

 

「カナリス、正直に答えて」

 

 十数秒間無言で天井を見た後、その体勢のままアルシェイラが言った。

 カナリスの表情が硬くなる。

 

「天剣、いる?」

 

「……はい?」

 

「だから、天剣が必要かって訊いてんのよ」

 

 初めてルシフと闘った時、ルシフは天剣なんて使用しなくても、天剣授受者上位の実力を持っていた。天剣があればもしかしたらもっと強くなっていたかもしれないが、アルシェイラの目から見ればそんなに変わらない気がする。

 カナリスが視線を揺らした。室内を見ていないのははっきりと見破れた。

 

「……今、レイフォンや天剣授受者は錬金鋼無しの闘い方を会得しようとしています。もちろんわたしも。それを会得できれば、戦力的には天剣は不必要なものになるかもしれません。ですが、戦闘は素手に限定されるため戦闘の幅が無くなり、得物で今まで闘ってきた者は闘い辛いです。また、天剣はグレンダンのシンボルのような意味もあります。極論を言ってしまえば、天剣が存在しないグレンダンはグレンダンとしての価値を失っているように感じるのです」

 

「あんたの言葉を要約すると、天剣が無いグレンダンはあり得ないってことかしら?」

 

「そうです。取り返さないなんて指示、天剣授受者の誰も従いません。わたしもです。わたしたちは天剣授受者なんですから」

 

 アルシェイラはため息をついた。眼を細める。

 

「正直な話、わたしは天剣にはあまり拘ってないのよ」

 

「何を言い出すんですか!? あんなにも天剣授受者を揃えようとしていたじゃありませんか!」

 

「通常の錬金鋼じゃ満足できない奴らに、余ってる天剣やってただけでしょ? わたしから天剣授受者を探した覚えは一度も無いわよ」

 

「それはそうかもしれませんが……」

 

「わたしさ、何もかも一人でけりをつけたかったの」

 

 アルシェイラの眼は遠くを見るように細められたままだ。

 

「イグナシス、汚染獣、グレンダンの運命、この世界の運命、グレンダンが何百年と繰り返してきた業とか、何もかもわたし一人で解決したかったわけ」

 

「陛下……」

 

 カナリスが心配そうにアルシェイラの方を見てくる。

 

「まあ、わたしの元婚約者の大馬鹿野郎が浮気して別の女に子を宿したりして、わたしの計画の一部は破綻したんだけどさ」

 

 元婚約者の浮気相手の子。それがリーリンだった。本来ならアルシェイラの子にアルシェイラが持つ因子と婚約者の因子が集まり、アイレインの完全な模造品が生まれる計画だった。それはアルシェイラの計画ではなく、グレンダンが何百年と続けてきた計画なのだ。その最終段階でズレが生じた。

 

「何が言いたいかって言うと、わたしはずっと一人でけりをつけようって考えてたから、天剣授受者とかグレンダンの武芸者を強くするとか正直どうでもいいのよ。天剣もそう。わたしにとってはどうでもいい錬金鋼。あったら良いけど、無いなら無いでいい。協力して闘うとか、他人に合わせて闘うとかも全く考えたことないわ。だって必要ないもの」

 

「──それがお前の本音か」

 

 部屋にリンテンスが入ってきた。

 アルシェイラは眼を見開いた。

 

「リンテンス? なんでここに?」

 

「申し訳ございません、陛下。もし陛下が天剣を取り返しに行かないと言われた場合、リンテンスに陛下の説得の手助けをしてもらおうと思いまして、外で待機させていました。会話は鋼糸を通じて聴いていたと思います」

 

 カナリスが顔を僅かに俯け、弱々しく言った。

 

「ルシフが攻めてこないと思っているようだな」

 

「ええ、メリットが無いもの」

 

「メリット? お前はヤツの本質をまるで理解していないな」

 

 リンテンスが軽く息をついた。アルシェイラは少しイラッとした。

 

「ルシフの本質って何よ?」

 

「俺と同じだ。人生が退屈で仕方ない。充実した時間ってのを求めてる。この都市は今なお最強の都市だ。こんな遊び場、ルシフが手を出さないわけがない」

 

「それは全部あなたの勝手な妄想。ルシフは理で動く奴よ、間違いなく」

 

「どうだか。案外ああいう奴は感情に理を結びつけてくる。理なんてものは言い換えれば自分の物差しだからな、やりたいことを縛る鎖にはならないと俺は思うが。

まあ、そこは問題ではない。実際ルシフが攻めてきた場合、お前はどうするつもりだ?」

 

「ルシフに一騎打ちを申し込む」

 

「一騎打ち? 乗ると思うか?」

 

「乗るわ、間違いなく。一度だけど、わたしを出し抜いたし」

 

 ルシフは一騎打ちに乗ると確信している。何故なら、乗らないのは負けと同義だからだ。勝つ自信が無いから逃げたということになり、ルシフはそれを許せない性格だろう。

 

「お前が負けたら、どうする?」

 

「その時は、煮るなり焼くなり好きにしろってヤツ? もしグレンダンを支配したいって言ってきたなら、グレンダンをルシフの手に委ねてもいい。最強の者が最強の都市を治めることは当然のことだしね。わたしが生きてたら、の話だけど」

 

「そうか、グレンダンの住民の意見は無視か。全くお前らしいな」

 

 リンテンスは軽く笑った。

 リンテンスのポケットから蝶型の念威端子が羽ばたく。デルボネの念威端子。

 

「……何?」

 

「今から展開される映像を観ろ」

 

 アルシェイラは仏頂面で念威端子から展開され始めた映像を観る。

 映像はリアルタイムらしく、武芸の訓練を行っている武芸者たちの映像だった。

 

『いいか! 下を向くな! 前を向き、闘い続けろ! 今度こそ、あの男を倒すのだ!」

『我々には陛下と天剣授受者さまがついている! 次は必ず勝つぞ! 我々はその手助けができるよう、少しでも今より強くなれ!』

『この都市を脅かそうとする奴に屈するな! 陛下や天剣授受者さまと共に闘うぞ! 今は鍛練あるのみ!』

 

 映像が次々に切り替わるが、内容は似たようなものだった。ルシフに勝つことを信じ、鍛練を続けている。

 アルシェイラの目から見れば、どれも砂粒のようなレベルの武芸者だ。ルシフの足元どころか、天剣授受者の足元にも届かない武芸者ばかりだった。

 なのに、何故あんなにも必死に鍛練するのか。何故諦めず、希望の光を見続けることができるのか。アルシェイラには理解できなかった。

 

「……何よこいつら。バカじゃないの? ルシフに勝てるわけないのに、無駄なことに必死になって、意味が分からないわ」

 

「分からないか? こいつらはな、俺たち天剣授受者が、お前がルシフに勝つことを信じ切ってるんだよ。その過程で自分たちが何かの役に立てるように、もしくは足手まといにならないようにしようとしてるんだ」

 

「……わたしを、信じる?」

 

 アルシェイラは眼を見開いていた。

 

「お前の治政は正直褒められたものではないが、それでも天剣授受者を多く生み出し、長い間グレンダンを脅威から守ってきた。ルシフなんて男に屈して生きるくらいなら、お前と共に死んだほうがマシ。そう考えている住民は大勢いる。この都市はお前だけの都市ではない。この都市に住む者全員の都市でもある」

 

 住民なんて、気にしたことはなかった。

 支配者が代わったところで、住民は興味が無いと思っていた。

 

「言っとくが、俺たち天剣授受者はお前の剣だと思っている。剣は主と共に闘うものだ。剣だけが闘いにいくなどしないだろう?」

 

 リンテンスは天剣授受者もアルシェイラと一緒に闘うつもりだ、と言っている。

 協力とか、連携とか、考えようと思ったことはないのだ。一人で闘うことしか頭に無かった。

 

「……ちょっと、外出てくる」

 

 アルシェイラは部屋を出ていった。

 

 

 

 リンテンスとカナリスはアルシェイラの部屋を出て、天剣授受者の詰め所に来た。二人だけしかいない。

 蝶型の念威端子が二人のところにやってくる。

 

『あれはどちらかと言えば、ルシフって子のやり方ではありません?』

 

「結果が大事だろう。過程なんぞ気にして意味があるか?」

 

「一体なんの話ですか?」

 

 リンテンスとデルボネの会話に、カナリスが割り込む。

 

『簡単に言えば……先の映像は《やらせ》だったんですよ』

 

「え!?」

 

 デルボネとリンテンスはあらかじめ武芸者たちに話を通していたのか。

 

「お前が気付かないとは意外だった、カナリス。べらべら話して鍛練しているところが都合良く映像に出てきたと信じたのか?」

 

「……陛下が知ったら怒りますよ」

 

「知るか、そんなもの。簡単に騙されるということは、それだけ民を見ていないということだ」

 

 リンテンスが煙草を吸い始めた。

 

「それに、あの映像は嘘でもない。本音だからな。心の内で抱えていたものを外に出させた。それのどこが悪い?」

 

 カナリスがリンテンスをまじまじと見つめた。

 リンテンスがそれに気付き、不愉快そうに顔をしかめる。

 

「なんだ?」

 

「なんていうか……リンテンス。あなた、天剣を持っていた頃と比べて、今は生き生きしているように見えます」

 

「充実した時間ってヤツを過ごしているからな。あのガキのおかげで」

 

 カナリスはくすりと笑った。

 リンテンスは無言で紫煙を吐き出す。リンテンスの唇の端は微かに吊り上げられていた。

 

 

 

 アルシェイラは外縁部の端に立っていた。そこはリーリンが乗った放浪バスを見送った場所。

 アルシェイラの傍に、蒼銀色の犬に似た獣が顕現する。廃貴族のグレンダン。

 

「ずっと考えないようにしてきた。ルシフがわたしより強い可能性を」

 

 グレンダンは話さない。アルシェイラの隣でじっとしている。

 

「ルシフは姑息で卑怯なことを考える頭脳はあるけど、真っ向勝負ならわたしの方が上だってずっと思ってた。リーリンを狙ってわたしに隙を作らせたのも、そうしないとルシフはわたしに勝てないからだって、ずっと自分を信じ込ませてきた」

 

 アルシェイラは両拳を握りしめた。

 都市の外は相変わらず汚染物質が舞い、砂嵐のようになっている。

 

「本当は、分かってた。ルシフに、完膚なきまでに負けたんだって。それどころか、ルシフの相手にもならなかったんだって」

 

「アルシェイラ、お前……」

 

 アルシェイラの両目から、透明な液体が流れていた。握りしめている両拳からは血が滴り落ち、アルシェイラの莫大な剄が外縁部を荒らし回っている。

 

「悔しさで涙が流れるなんて、嘘だと思ってた。本当だったとしても、わたしには縁のないものだと思ってた」

 

 アルシェイラはずっと遠くを睨んでいた。まるで遠く離れたルシフを睨むように。

 

「泣けばいい。我はずっとお前を見てきた。お前の前に困難などというものは存在していなかった。ルシフ・ディ・アシェナ。奴こそ、お前にとって最初の壁よ」

 

 アルシェイラは声をあげて泣いた。遠く離れたルシフに聞かせるように、号哭した。グレンダン中を吹き荒れる剄に声はほとんど紛れたが、天剣授受者や優れた武芸者は聴力を強化してアルシェイラの慟哭を聞いていた。

 

「必ず次はルシフに勝つわ。わたしが勝つことを信じてくれてる人たちがいるから」

 

 ずっと交わらないと思っていた。住民は脅威を排除することなど考えず、グレンダンで暮らしていればいいと思っていた。自分がこの都市に降りかかる脅威を何もかも排除するのだと、決めていた。

 しかし、グレンダンは彼らの都市でもあるのだ。彼らにもこの都市を守る権利があり、守りたいと思う心がある。

 ルシフにわたし一人で勝てるかどうか、それは分からない。だが冷静に考えれば、あの戦闘でルシフは仲間を誰よりも信頼し、一丸となって戦闘を挑んできていた。

 こっちは天剣授受者レベルの武芸者が十二人。それに近い武芸者もそれなりにいる。完璧な連携ができるようになれば、ルシフと剣狼隊が攻めてきても間違いなく勝てる。

 勝つための最大限の努力をする。それが今の自分に必要なのではないか。自分が最強だと信じてくれる者たちのために。今までの自分は堕落し、現実から逃げていただけだった。

 

「そうか……ならば!」

 

 グレンダンの体躯が輝き、光輝く球体がグレンダンから弾き出された。

 球体はすぐに形を変化させ、長い棒状のものがアルシェイラの後方に突き刺さる。

 アルシェイラは振り返った。そこには二叉の槍。アルシェイラの身長を超える長さがあり、柄はまるで二匹の蛇が絡み合うようにして作られている。先端には穂先が二つ。

 

「グレンダン、あなた……ルシフの廃貴族と同じことを」

 

「我はずっとグレンダンにいた。お前が王で無くなれば、次の王に力を貸す。それが我の運命であった。しかし、我もお前の勝ちを信じてみたくなった。運命を選びたくなったのだ」

 

 アルシェイラはグレンダンの方を見た。グレンダンは頷いた。

 

「あなたの魂、受け取るわ」

 

 アルシェイラは柄を掴み、地面から引き抜いた。アルシェイラの顔には涙の跡がある。

 アルシェイラは二叉の槍をじっくりと眺めた。

 

「今なら、メルニスクがルシフに武器を渡した気持ちが多少理解できる気がする」

 

「不思議ね、グレンダン」

 

 アルシェイラは二叉の槍から、グレンダンの方に顔を向けた。

 アルシェイラは楽しそうに笑っていた。

 

「とても悔しいのに、今まで感じていた退屈がどこかにいっちゃったわ」

 

 ずっと目的もなく、ただなんとなく生きてきた。運命が何もかも決めるものだと思って、自分から動くことなんて全くなかった。

 もしかしたらそんな考え方に嫌気が差して、あの時グレンダンを飛び出してルシフと闘いにいったのかもしれない。

 あれが運命の出会いだったのだろう。あの日から、アルシェイラにとってルシフの存在は退屈な日々を破壊する起爆剤になったのだ。

 

「どうやってルシフを倒そうか、わくわくするわね」

 

 乗り越えるべき壁。

 アルシェイラの人生において、初めて立ち塞がった障害物。しかしそれは、一人で乗り越えなくてもいいのだ。グレンダンにいる武芸者たちと、乗り越えればいい。

 負けを認めたら、一気に世界が拡がった。モノクロだった世界が鮮やかに彩られたような、そんな気分だった。

 アルシェイラは二叉の槍を右手に持ち、王宮へと歩き出す。蒼銀色の獣もアルシェイラの隣をとことこ歩いていた。

 

「ルシフに勝つ」

 

 歩きながら、アルシェイラが呟いた。

 グレンダンは相変わらず隣を歩いている。

 

「ルシフに勝つわよ、グレンダン」

 

「うむ」

 

 彼女らの眼前には、グレンダンの都市部がある。まるで巨大な山が立ち塞がっているように見えた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはハイアとミュンファが住んでいるサリンバン教導傭兵団の放浪バスに来ていた。頭痛と熱はあるが、今日は軽い。ルシフの他にはマイ、サナック、バーティンが護衛役として付いてきている。

 意外なことに、ハイアはルシフと会うことを承諾した。そこでルシフがハイアが住んでいる場所で会うと決め、ハイアがこの放浪バスを指定してきた。

 応接室のような場所に案内され、ルシフは座った。ルシフの後ろのスペースに、残りの三人が横一列で立っていた。ハイアは片膝をつき、頭を下げている。顔は見えないが、両手は強く握りしめられていた。かなりの屈辱らしい。

 

「ハイア・サリンバン・ライア。向かいに座れ」

 

「……ありがとうございます」

 

 ハイアはルシフの向かいのソファに座った。ルシフの顔を直視しようとしない。顔を少し俯けている。

 扉が開き、ミュンファがお茶の入ったコップをお盆に載せて持ってきた。ルシフとハイアの間にある台に二つ置く。コップを置く際、ミュンファの手が震えていたのをルシフは見逃さなかった。

 ミュンファが一礼し、部屋から出ていく。

 ルシフはコップを手に取り、ためらわず一気飲みした。苦めのお茶だが、冷えていて飲みやすい。

 

「なかなかいけるな」

 

「おれっち……私たちに何か用ですか?」

 

「ライア、他人行儀な話し方はやめろ。普通に話すことを許可する。用件はただ一つ。俺に服従し力を貸すか、服従しないか。それを訊きに来た」

 

「服従しないを選んだら、どうなるさ?」

 

 ハイアは顔をあげていた。左目は黒の眼帯に隠されている。だが、不愉快そうな表情は隠しきれていない。

 

「別にどうも。自分で仕事を見つけ、好きに生きればいい。服従するなら、こっちから仕事を回してやってもいい」

 

 ハイアがマイをちらりと見て、また顔を俯けた。

 

「おれっちはあんたの念威操者を誘拐し、死んでもおかしくない傷を与えた。それでも、おれっちたちを潰さないって言うんか?」

 

「それに対する罰はもう与えた。それで貴様と俺のわだかまりは消えた。俺はそう思っている」

 

「ルシフ……お前は、不思議な奴さ。暴政でヨルテムを抑え込んでいるが、こうして向かい合っていると微塵もそう感じない。けど、おれっちはお前のことが心底嫌いなんさ」

 

「なら、服従しないってことか?」

 

「当たり前さ。おれっちは飼い犬にはならない。エサくらい自分で調達するさ」

 

「いいだろう。犯罪行為に手を染めたら、即叩き潰す。よく覚えておけ」

 

 ルシフは立ち上がった。ハイアも腰を上げる。

 

「お前がそれを言うんか? ヨルテムを武力掌握しているお前が?」

 

「俺が法だからな。せいぜい頑張れよ」

 

「お前に言われるまでもないさ」

 

 ルシフたちは応接室から出た。

 出入り口までの通路でミュンファがいた。通路の端に身体を寄せ、道をあけている。

 ルシフは歩き続け、ミュンファとすれ違う。ミュンファの身体は震えていた。しかし敵意を感じる眼。言葉で言われなくても自分を嫌っていると分かる。

 ハイアたちの放浪バスを出て、都市長室のある建物に帰ろうと歩き出す。

 道行く人々はルシフの姿を見ると顔を強張らせ、一礼した。ルシフの邪魔にならないよう、ルシフの行く手を遮っていた人は慌てて道の端に寄った。

 エリゴら五人を公開処罰してから三日が経っていた。今も王宮の建設と工業区、農業区の拡大は進められている。合格した武芸者は剣狼隊が厳しく鍛えていた。警備の数が遥かに少なくなったため、そちらに重点を置くことができるようになったのだ。武芸者は強く在り続けなければならない。赤装束の者が指導する側というのも重要だった。武芸者の中でも剣狼隊は特別ということになり、剣狼隊になるのを目標とする武芸者も多く生まれるからだ。もちろん、選ばれた者にはそれ相応の報酬を与える。武芸者になろうと必死に努力する人間も出てくるだろう。

 反乱を起こす者も全くいなくなり、たまに強盗や暴行といった軽犯罪をしようとする奴がいるくらいだった。

 ルシフは道の途中、小物を売っている店を見つけた。その店に立ち寄る。マイたちは疑問に思ったが、無言でルシフと同じく店に行った。

 ルシフは赤のヘアピンを手に取り、レジに行った。

 

「お、お金は結構でございます。陛下に差し上げます」

 

 レジの店員の女性は震えた声で言った。

 

「いや、ちゃんと金を払う。売り物に金を払うのは当たり前だ」

 

 店員はぽかんとした顔になった後、花が咲いたように笑みを浮かべた。しかしそれは一瞬で、すぐにしまったというような表情になった。

 金を払い、赤のヘアピンを小さな紙の袋に入れてもらった。

 紙袋を右手に持ち、店を出た。

 

「一体誰にプレゼントなさるおつもりですか?」

 

 店を出てすぐ、マイがジト目で言った。

 

「お前には関係ないだろう」

 

「ええ、関係ありませんとも。でもいいなー、羨ましいなー」

 

 ルシフは舌打ちした。

 

「分かった、分かった。ちょっとそこで待ってろ」

 

 ルシフは店に戻り、黒のヘアピンを買ってきた。

 店の入口に立っているマイに、黒のヘアピンが入った紙袋を渡す。マイの表情はぱっと明るくなった。

 

「ほら、これで文句ないだろ」

 

「はい! ありがとうございます、陛下!」

 

 マイは嬉しそうに胸の前で紙袋を抱きしめていた。

 ルシフは軽く息をついた。だが、マイの嬉しそうな姿を見て、思わず表情が緩んだ。

 バーティンが物欲しげな視線を送ってきていたが、気付かない振りをして都市長室のある建物に帰ってきた。

 帰ったら、謁見の間で報告を聞いた。

 夜になって自室に戻ると、少女たちが一礼した。

 

「おかえりなさいませ、陛下」

 

 少女たちの一人が、そう口にした。

 

「お前がシェーンか?」

 

「はい」

 

「お前と二人きりで過ごしたい」

 

「……陛下がお望みなら、いつまででも」

 

 シェーンはぽっと顔を赤らめていた。

 寝室にシェーンと行き、シェーンを抱いた。シェーンの裸を見ると、この女はシェーンだと確信した。

 公開処罰の後、激しい頭痛と高熱に寝込んでしまった。幸い一晩で軽くなったため、ヨルテムの住民に余計な思考をする隙は与えなかった。

 その中で、シェーンは一生懸命看病してくれた。自分を殺せる絶好の機会だったのに、ルシフを殺そうとしなかったのだ。意識が飛んだ時もあったから、殺そうと思えば殺せた筈なのに。

 あの日から、ルシフはシェーンに心を開き始めた。

 毎晩シェーンを抱き、今回は三度目だった。

 シェーンが裸のまま、ベッドに横たわっていた。荒く息をついて身体を上下させ、顔を紅潮させている。

 ルシフは下着を穿いてベッドに座り、シェーンを見ていた。

 

「陛下に抱かれるのが幸せになってきました。陛下の役に立っていると思えるのが、とても嬉しいです。陛下に抱かれるのが気持ちいいから、というのもありますが」

 

 ルシフは机の上に置いていた紙袋を手に取り、シェーンに渡した。

 

「これは?」

 

「俺の看病をしてくれたからな、その礼みたいなものだ」

 

「わたしは当然のことをしただけです」

 

「とにかく、お前にやる。貰っておけ」

 

「……そこまでおっしゃるなら……。あの、開けてもよろしいですか?」

 

「ああ」

 

 シェーンは紙袋を開けて、中身を取り出した。赤色のシンプルなヘアピン。

 

「わぁ……!」

 

 シェーンは嬉しそうにヘアピンを見つめた。

 

「常にそれを髪に付けろ。喋らなくてもお前だと分かるようにな」

 

「これからは喋らなくてもわたしだとバレてしまうんですね。欲が出てきてしまうかもしれなくて、少し怖いです」

 

「どんな欲だ?」

 

「陛下にもっと自分を知ってもらいたい、という欲です。他の少女たちと仲間離れし、自分が個別化してしまったせいだと思いますが」

 

 今までシェーンは他の九人の少女たちの中に溶け込んでいた。しかしヘアピンを付けてしまえば、シェーンは少女たちの中から弾かれ、シェーンという一個体になってしまうのだ。またそれ故に、もっと自分を出したいという衝動にも襲われるのである。

 シェーンはそういう自身の感情をよく理解していた。

 

「お前という人間を俺に見せてくれ。そっちの方が面白い」

 

「陛下の仰せ通りにいたします。このような物を与えてくださり、ありがとうございます」

 

 シェーンは裸のまま正座し、丁寧に頭を下げた。前髪に付けた赤いヘアピンがきらりと光る。

 その赤がまるで自分の所有物だという証のように見えて、ルシフは赤色を選んだことを内心後悔した。

 

 

 

 シェーンを抱いた後は風呂に入り、風呂から出たら寝ずに部屋を出た。

 今の時刻は午前三時である。

 ルシフとマイは建物から出て、外縁部近くの停留所に向かった。

 放浪バスは日が経つにつれ増え続け、乗客も別の都市に行くことを許していないため、住民も増え続けていた。乗客については補助金という形で援助し、金が無いから滞在できないなどという事態にはならないようにしていた。

 ルシフは車体を赤く染められている放浪バスの前で立ち止まった。バッグを右手に持っている。

 

「ルシフ、どこに行くつもりだ!?」

 

 ニーナが息を切らして走ってきていた。

 ニーナは剄脈拡張の影響で高熱が数日間続き、ずっと寝込んでいた。リーリンがニーナの看病をしていた。

 ニーナは眠れず、気分転換に窓から外の景色を見ていた。すると建物からルシフが出ていく姿が見え、慌てて追いかけてきたのだ。

 ニーナの後ろから、リーリンが遅れてやってきた。

 周囲は警備している剣狼隊とマイしかいない。ルシフにため口を聞いたところで、ルシフは気にしなかった。

 

「──シュナイバル」

 

「……何?」

 

仙鶯(せんおう)都市シュナイバルに行く」

 

「なんだと!?」

 

 ヨルテムですることはもう無くなっていた。都市内も落ち着き、安定している。

 自分はヨルテムにいると住民を騙し、他都市を奪いに行く。

 ルシフはそれを実行しようとしている。

 

「……シュナイバルに行き、何をするつもりだ?」

 

「何をするかなど、分かりきっているだろう?」

 

「わたしも行く」

 

「お前がいたところで何も変わらんぞ」

 

「それでも、行くんだ。シュナイバルはわたしの故郷なんだぞ!」

 

「勝手にしろ。お前はどうする?」

 

 ルシフがリーリンの方に視線を向けた。

 

「わたしも行くわ」

 

 僅かに逡巡した後、リーリンは言った。

 ルシフ、マイ、リーリン、ニーナの四人は放浪バスに乗り込む。

 放浪バスは剣狼隊以外の者からは誰にも見られることなく、ヨルテムから飛び出して汚染された大地を進んでいった。

 放浪バスの向かう先からは太陽が僅かに顔を出し、金色の剣を何本も空に突き刺していた。



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第76話 すべての電子精霊の母

 放浪バスが汚染された大地を進んでいる。

 放浪バスを運転しているのはルシフだった。ルシフが運転席を離れる時はマイが運転席に座った。

 ニーナとリーリンは運転席のすぐ後ろの座席に座っている。

 ルシフは片手でハンドルを握りながら、もう一方の手で水が入ったペットボトルを取った。ペットボトルに口を付け、水を飲む。飲んだら、ペットボトルを運転席にある置き場に置いた。

 

「ルシフ、考え直してくれないか?」

 

 背後からニーナの声が聞こえた。

 ニーナはずっと同じことを言っていた。

 だから、ルシフは無視した。

 ルシフが無視していても構わず、ニーナは話を続ける。

 

「シュナイバルにはリグザリオ機関というものがあり、電子精霊の子どもたちが生まれるんだ。まともな形を持っていない小さな電子精霊たちが空を泳ぎ、夜になればそれらが星よりも明るく輝いて、空を飾る。そんな幻想的な都市だ」

 

 ニーナからすれば、ルシフの心に訴えかけるしかない。故に、ルシフがシュナイバルへの攻め気を無くすような話をしだしたのだろう。

 

「シュナイバルには大樹が何本もあるんだ。それは電子精霊の巣で、昼間でも淡く輝いて、夜になれば街灯など必要ない。大樹がある公園を電子精霊たちが踊るように舞って、祭りがあればいつも公園に人が集まった」

 

 ニーナは思いつくものを思いつくまま話していた。

 必然的にニーナは心に深く根づいているものに段々と近づいていく。

 

「シュナイバルにある大樹は液化したセルニウムを吸って育っているから、大樹の樹液にはセルニウムが混じる。電子精霊は一人前になるため、その樹液を吸って育つ。都市民は電子精霊と共に生きるのが当たり前だ。だが……」

 

 ニーナの声が暗くなった。

 リーリンとマイもニーナの話に耳を傾けている。

 

「電子精霊を研究するため、電子精霊の子どもたちを盗もうとする奴らがいつもいた。それを知っている奴らが研究機関や他都市に売る目的で盗みにもよくきた。武芸者はそういう犯罪者から電子精霊を守るのも仕事の一つなんだ。電子精霊は友だちだと、幼い頃から言われ続けて住民は大人になる。だというのに、シュナイバルの武芸者の中にも、電子精霊を盗もうと考える奴がたまにいるんだ」

 

 ニーナは怒りで声を震わしていた。話している内に、ニーナは記憶の扉を完全に開け放っていた。

 

「わたしが十歳の頃、シュナイバルの武芸者が電子精霊を盗んだ。その時のわたしは父と喧嘩して、家出しようと都市をさまよい歩き、公園でこれからどうするか考えていた。そこで、男が小さな電子精霊を盗むところを見てしまったんだ。周りにはわたし以外誰もいない。今にして思えば、大人の武芸者に盗まれたことを伝えるべきだった。だが、当時のわたしは自分が犯人を捕まえてみせるという正義感に支配されていた」

 

 ニーナの声が震え始めた。

 

「結論を言えば、男を捕まえることはできなかったが、電子精霊を取り返して逃がすことはできた。しかし、その時の男の衝剄が原因で、わたしは外縁部の外に放り出された。わたしは無我夢中でなんとか外壁部分を這うパイプに着地したが、その時に両足を骨折した。両腕は衝剄を防ごうと交差させた時に骨折していた。わたしの身体はパイプから動けなくなっていた。このまま死ぬ、と思った。助けた電子精霊はずっとわたしの周りを飛んでいた」

 

 ニーナの声が涙声になっていく。

 

「意識を失い、再び意識を取り戻した時には、もうすっかり夜になっていた。電子精霊シュナイバルと、たくさんの電子精霊がわたしの眼前にいた。嬉しかった。自分は電子精霊を守り、こうして電子精霊たちに見守られて死ぬ。本当はもっと生きたかったけど、このまま死んでもいいと思った」

 

「でも、ニーナは生きているわ。その状態からどうやって助かったの?」

 

 リーリンが訊いた。

 ニーナの両目からは涙が流れていた。

 

「助けた電子精霊がわたしの身体に飛び込んできた。熱が全身を焼いているような錯覚すらあった。何故電子精霊を助けたのに、こんな仕打ちをするのか。シュナイバルに本気で怒ろうと思った。だが熱が無くなると、四肢の骨折は治り、身体中のあざも消えていた。わたしは気づいてしまった。わたしが助けた電子精霊が、わたしを助けるために命を投げ出したんだと。その日から、わたしは心に誓った。誰よりも強くなり、誰も犠牲を出さずに守れるようになろうと。電子精霊は絶対に死なせないと」

 

 ニーナは両拳を握りしめた。

 

「ルシフ、頼む。やめてくれ。シュナイバルを血で染めないでくれ。シュナイバルはいい都市なんだ」

 

「……アントーク。お前の代わりに電子精霊を守ってやるよ、この俺が。電子精霊を死なせないとか考えている奴が、電子精霊を死なせる都市間戦争を許容していたんだろ? 俺の方がお前より電子精霊を死なせない自信がある」

 

 ニーナは絶句していた。

 確かにそうだが、それは都市間戦争を無くせる筈がないと思っていたからだ。いや、今も本当に都市間戦争が無くせるのかは半信半疑。ルシフが余計なことをしたせいで悪化する可能性もある。

 ルシフはシュナイバルを奪い取るのを考え直すつもりはないらしい。これだけシュナイバルについて話しても、ルシフの心に届かないのか。

 ルシフは運転を続ける。

 

《……電子精霊が、命を捨てて人間を助けるか》

 

 ルシフの内からメルニスクの声が聞こえた。周りに人がいるため、ルシフは内から聞こえた声に反応しなかった。

 

「ルシフ。わたしは武芸者選別試験で不合格だった者がどうすれば自殺しないか、ずっと考えていた。不合格だった者にも半年、いや三ヶ月援助を続けるのはどうだろう? そうすれば次の職を見つけるのに集中できるし、現実を受け入れる余裕もできて自殺者が減るんじゃないか?」

 

「却下。真面目に考えて発言しろ」

 

 ニーナのこの案は、下策もいいところだった。

 そもそも、蓄えが一切ない武芸者など少数だろう。彼らは武芸者じゃ無くなったから死ぬわけで、金が貰えなくなるから死ぬわけではない。ニーナの案を採用しても自殺者は減らず、自殺しなかった不合格の者が私腹を肥やして堕落する。良い点が何一つ見当たらない。ニーナは人を死なせないようにとそればかりを考えているから、浅い部分までしか思考できないのだ。

 ニーナの要望を満たしつつ、武芸者選別試験をする。結論を言ってしまえば、できる。武芸者選別試験で武芸者にランク付けをすればいい。不合格の者は当然下位のランクになるが、武芸者というカテゴリーからは外れない。更に働き次第ではランクアップも有り得ると一言言ってやれば、自殺を考える者は格段に減る。あとは徐々に下位ランクに武芸者以外の名前を付けていき、武芸者ではなくランク名で呼ぶようにする。そうすれば早くて数年後には、犠牲を払わず武芸者選別を完了させられるだろう。

 しかし、ルシフにそれをする気はなかった。どれだけ言葉を変えようと、与えられた仕事をこなす能力が乏しいのに変わりはないのである。成果をあげられるからこそ、報酬を与える。それが道理。無能に税を使うより、貧しい養護施設への援助や、工業区や農業区といった都市の開発のために税を使った方が、何倍も有意義な税の使い方だとルシフは思う。それが数年後の都市の住民を生かすのだ。

 それにしても、ニーナは何故気付かないのだろうか。ルシフはわざと武芸者選別試験で不合格になった者を見殺しにするやり方を選んでいることに。ヨルテムで不合格になった者たちが大量自殺する時、剣狼隊が必死に説得していたらしいが、ルシフにとってそれは都合の悪い行為だった。剣狼隊もルシフを完全に理解できておらず、ただルシフに付いてきているだけなのだろう。

 武芸者で無くなった者が大量に自殺する。それはこの世界そのものの罪と言っていい。

 この世界は剄を持つ人間を都市を守る兵器として見てきた。剄を持っていると分かれば、武芸者として都市に命を捧げられるよう、洗脳に近い教育を施す。

 武芸者で無くなっただけで、死を選ぶ。剄を持つ人を自覚のないまま兵器として扱っていた事実に、人々を直面させるのだ。そうして初めて、人々の意識が変わる。また剄を持つ人間の大多数が一般人同様の仕事をやるようになることで、剄を持つ人間と一般人との溝のようなものを埋めていく。剄を持っているから武芸者になるのが当たり前という思考から、剄を持っていても一握りの者しか武芸者になれないという思考に変化させる。

 武芸者で無くなった者が大量自殺するのを見殺しにするのは、剄を持つ人間を兵器から人にするために必要な犠牲なのだ。今更ニーナの望むぬるいやり方など、できる筈もない。ニーナのやり方では剄を持つ人間への人々の意識を変えるのに長い年月が必要になるし、最悪また元通りになってしまう危険性もある。

 それに、すでにイアハイムとヨルテム合わせて千人以上死んでいる。今やり方を変えてしまえば、それだけの犠牲が無駄死になってしまう。なんのために自分は父を死なせたのか。なんのために千人以上見殺しにしたのか。その意味が消えてしまう。

 今は世界を破壊するとともに、膿を全て外に出す段階だった。

 ルシフは今暴政をしているが、これは当然の流れだった。例えば、理由もなくいきなり殴ってきた相手が優しくしてきたら、殴られた相手はどう思うか。ほぼ間違いなく、不信感を抱く。不快感も抱くだろうし、『こっちのご機嫌取りのために優しくしている』と思うだろう。

 今善政をしたところで、それは力で無理やり都市を奪ったことに対してのご機嫌取りにしか見えず、住民から慕われることはない。だからこそ暴政をやり、ついでに破壊すべきところを破壊していく。そうして破壊し尽くした後、少しずつ善政に変えていく。じわじわと良くしていくようにし、住民から『ルシフは力で暴政していた頃から成長して名君になった』と思わせる。今暴政をして住民の好感度を最低まで下げておくことで、三、四年後には住民の誰もがルシフを慕い、従うようになる。アメを与えてからムチで叩くより、ムチで叩いてからアメを与えた方が人は喜ぶのだ。人心掌握の基本である。

 ルシフにも、暴政に対する言い分があるのだ。

 

 ──だが……それをニーナに言ったとして、意味があるか?

 

 ニーナに理解できるよう一から十まで懇切丁寧に説明したとしても、『お前の言いたいことは分かるがな、人を死なせなくても同じ効果が得られるやり方がきっとある筈だ。それを一緒に考えよう』とか言うに決まっている。人の死という一点だけに拘り、その死がもたらす意味や利という深い部分まで考えられない。死を利用するなど許されないなどと、ニーナはきっと叫ぶのだろう。

 そういう目先のことでしか物事を考えられない人間に、ルシフを理解することは一生無理である。

 ルシフはニーナの一緒に考えるという意見も嫌いだった。自分の目指す理想を確固とした意見もなく、他人任せで実現させようとする。ニーナが自分で色々考え、様々な意見を言ってくるのなら、まだマシな馬鹿だった。ただ現状を否定するだけで、理想を実現するための意見は他人任せというのは、救いようのない馬鹿だとルシフは思っている。

 

「アントーク。ヨルテムの集団自殺の光景をよく思い出して、覚悟しておけ。シュナイバルだけではない。全都市で同じことが起きるぞ」

 

「人を死なせると分かっていて、なんでやろうとするんだ!? わたしはお前のやろうとしていることが間違っているとは思ってない! ただ、人を死なせるような政治はやめるべきだと言ってるんだ! どうして分かってくれない!? 人を死なせない政治の方が良いに決まってるじゃないか!」

 

 その死が人柱となり、新世界の礎になる。今までの価値観を破壊するために必要な犠牲。

 ルシフはそう思ったが、口には出さなかった。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 真っ赤な放浪バスはシュナイバルの停留所に到着した。一週間程度の日数だった。

 ルシフら四人が放浪バスから降りる。ルシフとマイはいつもの黒装束ではなく、赤装束を着ていた。到着する寸前で二人とも着替えたのだ。ルシフの持っていたバッグには赤装束も入っていた。

 ニーナにとっては懐かしい光景だった。だが、居心地は悪い。もうすぐツェルニの四年生となる。シュナイバルを家出同然で飛び出してから四年が経っていた。

 父からは一度だけ手紙がきた。シュナイバルまでの放浪バスの代金分だけ使えるカードも同封されていた。手紙には短く、『帰る時はこれを使え。これ以降援助は一切しない』と書かれていた。だからバイト代のいい機関掃除のバイトをやって金を稼ぎ、電子精霊ツェルニにも出会えた。もし援助されていたら、自分はそれに甘え、あの愛くるしい電子精霊に卒業まで出会えなかったかもしれない。

 ルシフは都市中央部に迷いなく歩みを進めている。その後ろを三人がついていく。ニーナの姿を見ると、都市民たちの中には声をかけてくる者もいた。アントーク家は代々武芸者を輩出している名門だったので、ニーナのことを知っている住民は大勢いたのだ。ルシフを連れているため、「恋人を連れてきたの?」とからかってきた者もいた。

 ニーナは適当に返事をして、都市民たちの言葉を軽く流していた。そもそもシュナイバルに帰ってきたわけではない。またすぐ離れなければならないのだ。

 都市中央部にはニーナの実家もある。覗いてみたい気持ちはあったが、我慢した。今はルシフの一挙一動に注目して、シュナイバルで余計なことをさせないようにするのが大事。

 ルシフはシュナイバルの武芸者から警戒されていた。それは当然と言えば当然の話で、方天画戟を左手に持ちながら歩いているからだ。

 シュナイバルの武芸者はルシフの見たことがない武器に困惑している様子だったが、手を出さないでいる。

 おそらく自分の存在のせいだろう、とニーナは思った。ルシフはニーナが連れてきたという解釈をされているらしく、アントーク家のニーナが連れてきた人物なら間違いないだろうという判断をしてしまっている。

 それでもルシフから放たれる威圧的な剄は莫大で、凶悪な武器を手にしているため、完全に警戒は解けないのだ。

 ルシフはニーナの案内など無くても、目的地まで迷わず行けた。シュナイバルに放っていた者がシュナイバルに関する書物を買い漁ってルシフに渡していたからだ。

 ルシフが目指しているのは都市の機関部だった。

 ルシフは都市の機関部に入る扉の前で立ち止まる。

 十人程度の武芸者が警備していた。

 そこは入れない。シュナイバルの心臓とも言える場所だ。シュナイバルの住民でもない旅行者のルシフが入れる筈がないのだ。

 そこでニーナは信じられないものを見た。

 警備していた武芸者の一人が扉の前をあけるよう残りの武芸者に指示を出し、ルシフに機関部に入れと言うようなジェスチャーをしたのだ。

 ルシフは頷き、機関部への扉を開ける。

 ニーナは警備していた武芸者を睨んだ。

 

「この男はシュナイバルと関係ない放浪者だ! なぜ機関部への立ち入りを認める!?」

 

「シュナイバルにとって正しい選択だからですよ、お嬢さま」

 

「……何?」

 

 ルシフを警戒して遠巻きに付いてきていた武芸者たちが叫び声をあげ、剄を練る。内力系活剄でルシフに近付き、一斉に襲いかかった。

 ルシフは振り返らない。扉の奥に足を進めた。

 警備していた武芸者十人が動く。ルシフに襲いかかった武芸者全員を後方に弾き飛ばした。

 リーリンが悲鳴をあげた。リーリンを庇うようにしながら、ニーナは機関部に入った。ニーナの後ろにマイも続く。機関部に入ると、マイは扉を閉めた。

 ニーナは振り返り、閉じられた扉を見た。

 明らかにシュナイバルの武芸者同士が敵対している。更に、先の武芸者の言葉。これだけ情報が揃えば、ニーナにも予想はつく。簡単な話だ。ルシフは何年も前から自分の仲間をシュナイバルに送り込み、シュナイバルの武芸者の一部を同調させて味方につけていたのだ。

 ニーナはルシフを追いかけた。

 

「お前はどこまで卑劣なんだ! 仲間割れさせるなんて! あの騒ぎで都市全体が大混乱に陥るぞ!」

 

「構わん。そんなものは些事だ。死人が出なければいい」

 

 背後から怒鳴ってきたニーナの言葉に、ルシフは振り向きもせずに返した。実際、ルシフにとってニーナはいないも同じだった。

 ルシフは機関部の中心にきた。振動音がうるさいほど聞こえた。ここには都市の足を動かしている動力があり、ライフラインに直結するエネルギーもここから供給している。一言で言ってしまえば、ここを破壊すればシュナイバルは滅びるのだ。

 電子精霊を生み出すリグザリオ機関も、機関部にあった。破壊すれば電子精霊の総数はもう増えず、減っていくだけになる。

 ルシフは目を閉じた。メルニスクにはやるべきことを伝えてある。

 ルシフの精神はメルニスクとともに仮想世界に運ばれた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフとメルニスクが行った仮想世界は『縁』と呼ばれる。

 電子精霊独自のネットワーク。相互情報通信網。

 仮想空間内で、ルシフとメルニスクは形を得た。

 ルシフは現実世界同様の赤装束を纏い、左手に方天画戟を持っている。メルニスクは金色の牡山羊の姿。

 

「ルシフ・ディ・アシェナですね?」

 

 ルシフとメルニスクに向かい合う形で、もう一つ存在があった。

 半人半鳥の姿をしている。美しい女性の顔と女の上半身だが、翼があって下半身は鳥。別人格の知識の中なら、ギリシア神話のハーピーに似ていた。

 

「そういうお前はシュナイバルだな」

 

 仙鶯都市に宿る電子精霊にして、すべての電子精霊の母。シュナイバルこそ、電子精霊の頂点に立っていると言っていい存在。

 

「あなたの行動は読めません。何を考えているかも、何を手に入れたいかも、何一つ」

 

「分からないか? なら、教えてやる。欠点だらけの今の世界を破壊しにきた。そして、新世界を創造する」

 

「神にでもなるような物言いですね。あなたのような存在が、世界を破滅に導くのです」

 

「俺は神になる気はない。人として、人類を導く。そのために、俺に協力してほしい」

 

 シュナイバルは怪訝そうな表情をした。人の顔をしているせいか、メルニスクより感情の起伏が分かりやすい。

 

「意味が分かりません。(わらわ)は電子精霊で、人類とは関係ありません。電子精霊は世界という器を守り、人が住む器を守る存在。人は自分の足で立つもので、妾たちの助けを借りながら立つ生き物ではありません」

 

「その線引きを取っ払おうと言いたいわけじゃない。心配せずとも、人類は自らの足で立つさ。そうではなく、共存してやっていこうと言っている」

 

「共存? 今も共存して生きていますが」

 

「だが、人間の意思や意見を一度でも聞いたことがあるか? 人間の意思とは無関係に都市を移動させ続け、他都市に行くためには必ずヨルテムを経由しなければならない。人類からすれば、この上なく不便だ」

 

「それは仕方ありません。すべての電子精霊との『縁』を持っているのがヨルテムだけなのですから。それはこの世界が誕生してからずっと変わらない理」

 

 ルシフは不敵に笑った。

 シュナイバルの顔に不快さが滲んだ。ルシフがシュナイバルを馬鹿にしたような雰囲気を出したからだ。

 

「なんでそういう考え方しかできないんだろうな、お前らは」

 

 ルシフのこの言葉は、シュナイバルだけでなく自分以外の全ての存在に言っている。

 

「逆に考えればいい。全都市がヨルテムとの『縁』を持っている。そして、都市の移動を決めているのは電子精霊」

 

「あなたはまさか……」

 

 シュナイバルは明らかに狼狽した。メルニスクはルシフの隣でシュナイバルに視線を向けていた。

 ここまで言えば誰もが分かる。ヨルテムへの『縁』を辿り、全都市がヨルテムを目指して移動しろ、とルシフは言っているのだ。

 確かにそれをすれば、ヨルテムの周囲に全都市が集結することになり、都市間の移動など一日もかからないでできるようになるだろう。

 

「お前の意思一つで、俺の思い描く新世界の形を実現できる」

 

「…………」

 

 シュナイバルは沈黙した。ルシフに協力すべきか、それとも否か。利と損を考え、世界にとって善手か悪手か見極めようとしている。

 もうあと一押ししてみるか、とルシフは思った。

 

「なあ、シュナイバル。お前は考えたことがあるか?」

 

「……何をです?」

 

「都市がそれぞれ特色を持っている理由だ」

 

 例えば、学園都市ツェルニ。若者の教育に特化した都市。槍殻都市グレンダン。武芸に優れた都市。法輪都市イアハイム。民政院という都市民の意を代弁した政治家たちが支配者を決める都市。

 このように、都市にはその都市ならではと呼べるものがあった。

 

「それのどこに問題がありますか?」

 

「問題? 問題なんてものはない。だが、都市間戦争で強い都市を生き残らせるという土台を考えれば、不自然だ」

 

「不自然とは?」

 

「パワーバランスというものが都市毎にすでに決まってしまっている。学園都市など最低レベルだろうな。つまり、都市間戦争で勝つ都市はある程度決まっている。出来レースだ。似たような都市と都市間戦争をやるらしいが、それも絶対じゃない。

もし俺が世界の創造主なら、特色など与えず、全ての都市を同一化させる。特に、学園都市なんてものはいらないな。都市にそういった区画を作ればいいし。都市を一つでも多く生き残らせるつもりなら、そもそも学園都市なんて作らない。滅びてくださいと言っているようなものだ」

 

「…………」

 

 都市間のパワーバランスの崩壊。それは実際、この世界では問題だ。単純に武芸者が優秀な都市しか生き残らず、武芸者の育成が充実している都市が勝つ。特色があるからこそ、特色が武芸以外の都市は滅びの道を進む。

 

「だが都市単位として考えず、世界という視点から見れば、都市に特色があるのは興味深い。つまり互いに協力しあえば、それぞれの特色を活かし合える。学園都市でいえば、全ての都市で学びたい者はそこに集結させる。そうすれば、全都市に教育区画のようなものは必要ない」

 

「あなたという人は、存在も思考も異常ですね。この世界の人間にそういった思考はできません。住んでいる都市だけが彼らにとって一つの世界ですから。それ以外の都市は自らの都市を滅ぼしにくる敵か、ただ存在しているだけの都市。協力しようなど、考えられる筈もありません」

 

「都市間戦争がありながら、都市に特色を与える。俺はその不自然さにこの世界の創造主の声を聴いた。『都市間戦争で互いを敵対し合う関係でも、戦闘ではなく対話をしてほしい。武器を下ろしてお互い相手に歩み寄り、手を取り合ってほしい。強い者が弱い者に思いやりをもってほしい。そうすれば、世界はもっと良くなっていく』という声」

 

「……」

 

「お前は電子精霊の頂点に立つ。つまりは創造主の代弁者だ。創造主の願い、俺とともに叶えてみないか? お前たち電子精霊が物理的に人との距離を縮め、俺がそれを繋ぐ。もう人間と電子精霊を犠牲にするのはやめるべきだ。この世界はもう十分すぎるほどの都市と人を犠牲にした。その犠牲を糧に前に進まなければ、それらの犠牲は全くの無駄死になる。人類と電子精霊は次のステージに行かなければならない」

 

「…………」

 

 シュナイバルは困惑していた。内から熱が燃え上がってくるような感覚。世界が新たな形となって、進化する。その明確なビジョンを捉えたからこその思いが、内から溢れている。こんな気持ちを感じたのは、シュナイバルにとって初めてだった。

 

「強い武芸者も、都市毎で散らばりすぎている。全ての都市が武芸者を共有し、高め合う。それで今より人類はもっと強くなれる。お前たちの最終目的であるイグナシスの打倒にも大きく近付く」

 

 シュナイバルはしばらく無言でルシフを見ていた。

 シュナイバルの中で燃え上がるものはどんどん大きくなっている。

 

「……いいでしょう。あなたのやろうとしていることは、妾たちの目的とも重なります。しかしその場合、あなたは人類の導き手とならなければなりません。妾にその資格があると証明してください。弱者を導き手にはしたくありません」

 

「お前らは試験が好きだな。メルニスクの時もそうだった」

 

 試す側に立つ、というのが電子精霊にとって重要なのだろう。人間にはあくまで力を貸してやる関係であり、人間の下に付くことを是とするほどプライドが無いわけではない。

 

「試験内容は簡単です。これから無人の都市がシュナイバルに来ます。その都市で、こちらが指定した人物と闘ってもらいます。その人物に膝をつかせれば、あなたの勝ちです。ただし、殺害や再起不能の重傷はやめてください」

 

「いいだろう。それまで待つ」

 

 ルシフはシュナイバルに背を向けた。ルシフの姿が消える。

 その場には、シュナイバルとメルニスクが残った。

 

「恐ろしい人間ですね、あなたが選んだ男は。人外である妾たちすら、 力を貸したくなるような魅力があります。それ故に、とても残念でもあります。あの者は今はいいですが、いつ裏返ってもおかしくない不安定な存在です。もしあの男が裏返った時、あなたはどうしますか?」

 

「その場合は、我がルシフを殺さなければなるまい。ルシフとそう誓約したからな」

 

「そうですか。それならば、安心ですね。あなたが力を貸しているからこそ、あの男は圧倒的な存在として君臨できますから」

 

「……偉大なる母よ。ほんの僅かだけ、弱音を吐いてもよいだろうか?」

 

 シュナイバルがメルニスクに意外そうな表情を向けた。しかしその表情は数瞬で変化し、柔らかな笑みになる。

 

「構いませんよ。あなたも妾の子ですから」

 

「我はルシフに好意を抱いている。それに、ルシフに救われたとも感じている。我自身の感情としては、ルシフを殺したくない」

 

「……」

 

「ルシフを殺さなければならない。そのような状況、永遠にこないでほしいと、我はそう願っている」

 

「……メルニスク。あなたは都市を滅ぼされ、憎悪と怒りで廃貴族に変貌しました。しかし今のあなたは、妾たち電子精霊と同じ心を取り戻しています。在り方も、電子精霊にまた変貌したようです。憎悪で世界の刃となるのではなく、自ら望んで世界の刃となっています」

 

「……」

 

「あなたがそう願うなら、妾も同じことを願いましょう」

 

「感謝する、偉大なる母」

 

 メルニスクが消えた。シュナイバルはメルニスクがいた場所を見ている。

 

「……以前のあなたなら、そのような言葉は言いませんでした。本当に電子精霊の心を取り戻したのですね」

 

 シュナイバルは微笑んだ。

 視線を正面に向け、笑みを消す。

 

「ジル、やってもらいたいことがあります」

 

 シュナイバルしかいない空間に、一つの人影が顕現した。




今回の話の『都市同士が協力し合えば人類はもっと繁栄できると暗に伝えるために、都市にそれぞれ特色があるようにした』という部分は、私の独自解釈です。原作にレギオスが多様化している理由は描写されていなかったと思います。個人的にはこう解釈した方が、物語として違和感が無くなると感じました。

あとは、ルシフさまはもう少し無能に設定すべきだったと後悔しています。敵役なのに正論しか言わないじゃないですかやだー。


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第77話 シュナイバルの守護神

 『縁』から現実世界に戻ると、ルシフは悠然と機関部の外に向けて歩き出した。マイ、ニーナ、リーリンがその後ろを付いていく。

 ルシフが扉を開け、外に出る。

 外は凄まじい戦闘になっていた。十人だったルシフの味方も百人程度に膨れ上がっていて、相手にしている武芸者の数は軽く五百人はいる。

 マイが念威端子を展開させた。シュナイバル全体を把握するためだ。

 

「ルシフさま。非戦闘員はシェルターに避難している最中で、武芸者の半数はその護衛と誘導をしているようです。戦闘はこの場しか起こっていません。この場にいない武芸者は遠くから包囲するように立っています」

 

 許可なく機関部に入るのは大罪。下手すれば都市そのものが壊れる可能性があるため、軽い罰では住民が納得しない。シュナイバルの武芸者は、この場所から逃がさない構えなのだろう。

 ルシフは方天画戟を手に、周囲を注意深く見渡す。多数の剄が吹き荒れ、付近の建物は武芸者たちの攻撃の余波で崩れ、地面は抉れて土埃が舞い続けている。

 ルシフの姿が消えた。土埃が真っ二つに割れ、武芸者の一人が轟音とともに地面に叩き潰された。

 何事かと戦闘中の武芸者は戦闘を中断し、轟音の方に視線を向けた。土埃が晴れていく。ひび割れた地面に武芸者が口から血を吐いて倒れていた。そのすぐ近くに佇む見たことのない凶悪な武器を持つ赤装束の少年。

 

「た、隊長が……。隊長が一瞬で……」

 

 ルシフの姿が再び消える。消えたと思った時には、一人の武芸者が今度は建物にめり込んでいた。建物との直線上にルシフがいる。その武芸者も隊長だった。

 ルシフは周囲を見渡し戦場を確認した際、隊長が誰かを動きで見極めていた。

 ルシフの姿が見えなくなる。音しかない世界の中、次々に隊長格が地面に叩き伏せられ、あるいは吹っ飛ばされて壁や建造物に突き刺さった。

 シュナイバルの武芸者は反応すらできず、ただ隊長格が倒されていくのを見ているだけだった。隊長格の中には狙われているのを悟り、逃げ出した者もいた。しかしルシフには無駄な行動で、すぐに追いついて他の者たちと同じように倒した。

 ルシフは三十人ほど目についた実力のある武芸者を倒すと、機関部の扉の前に再び現れた。ニーナの表情が悲しみで歪み、リーリンは息を呑んでいる。マイは念威端子からの情報も処理しているため、無表情。

 

「抵抗は止めろ! このお方には勝てない! 犠牲を増やすだけだ!」

 

 ルシフの味方についていた武芸者の一人が叫んだ。

 シュナイバルの武芸者たちが叫んだ者を悔しげに睨む。

 

「この裏切り者! 恥知らず! 何が抵抗を止めろだ! ふざけたことぬかすな!」

 

 叫び返した武芸者が槍を構え、ルシフに突っ込んでいく。

 ルシフは方天画戟で槍を弾き、体勢を崩した武芸者の腹に方天画戟を打ち込む。武芸者は後ろに吹き飛び、気を失った。

 

「くそッ、圧倒的すぎる! こんな時、ジルドレイドさまさえおられれば、こんなヤツにシュナイバルを好き勝手にさせないものを……!」

 

 その時、シュナイバル全体を衝撃が襲った。崩れかけた建物が壊れ、地面が揺れる。

 シュナイバルにいる全員が支えを咄嗟に探し、掴まった。口を閉じ、何が起きたか把握しようとする。

 

「ルシフさま、シュナイバルに別の都市がぶつかりました。調べる限り、一人しかその都市の住民はいません。建造物も無く、外縁部しかないようです」

 

 マイの声は僅かに困惑の色があった。

 レギオスとは、人が汚染物質の中で生きるための居住空間である。にも関わらず、宿泊施設はおろか、工業区も農業区もない。レギオスではあり得ない都市構造なのだ。マイが困惑するのも当然だろう。

 同じ情報をシュナイバルの武芸者たちも念威操者を介して手に入れたらしく、顔に喜色が浮かび上がっていく。

 

「……間違いない。ジルドレイドさまの都市だ……ジルドレイドさまがお目覚めになられた!」

「これでシュナイバルはあの男の毒牙から救われるぞ!」

 

 花びらの形をした念威端子が二十枚程度、ルシフたちのところに等間隔で舞い下りた。

 

『ジルドレイドさまからの指示です! 全武芸者はただちに停戦し、戦闘態勢を解除! そこにいる少年はルシフ・ディ・アシェナか!?』

 

「そうだ」

 

『ジルドレイドさまが貴様と一騎打ちを希望している! 隣の都市に行き、完膚なきまでに倒されてきなさい!』

 

 その言葉はシュナイバル全体に響いていた。

 ニーナは唖然とした表情でその言葉を聞いていた。

 

「……大祖父(おおおじい)さまが、ルシフと闘う……?」

 

 ジルドレイドのフルネームは、ジルドレイド・アントークといった。ニーナと血縁関係にあるが、通常と違う部分もある。ジルドレイドは人工冬眠を繰り返し、はるか昔からアントーク家に君臨していた。その年数は百年とも二百年とも言われている。

 ニーナは二、三度しか会っていないが、ジルドレイドを忘れたことは一度もない。稽古と称し、アントーク家全員が一斉にジルドレイドに闘いを挑んだことがあった。それら全てをジルドレイドが防ぎ、弾き飛ばした光景は今もニーナの脳裏に焼きついている。

 ニーナの父はジルドレイドのことをこう言った。大祖父さまはシュナイバルの守護神だ、と。

 

「マイ、マーフェスを守れ。万が一に備えて」

 

「はい」

 

 マイの返事を聞いた後、ルシフが跳躍した。建物の上に着地。付近にいる武芸者がぎょっとした表情になり、一歩後ずさる。ルシフは彼らを一瞥しただけで何もせず、建物を蹴ってジルドレイドがいる都市に向かった。

 ニーナはその光景を見て、いても立ってもいられなくなった。

 

「リーリン、ここでじっとしていてくれ。わたしはルシフと大祖父さまのところに行く」

 

「待って! ニーナが行って何ができるの!?」

 

「止めようとは、思ってない。それが無駄なのは、二人を知っているわたしがよく分かる。だが、一騎打ちを見届けることなら、わたしにもできる」

 

 ニーナはルシフ同様に跳躍し、建物を蹴ってルシフの後を追った。

 

「……ニーナ……」

 

「心配しなくても死にませんよ。ニーナさんは」

 

「どうして言い切れるの?」

 

 マイがリーリンの方に顔を向けた。

 

「私がルシフさまのことをよく分かっているからです。あなたもわたしが守りますから、死にません」

 

 リーリンは意外そうな表情になる。

 

「わたしを守ってくれるの?」

 

「それがルシフさまの命令なら」

 

 リーリンを囲むように、六角形の念威端子が舞った。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが平面の都市に立つ。後方から見知った剄が近付いてくるが、無視して都市の中央を見た。

 都市の中央には、一人の老人が瞑目して立っている。白髪を後ろで束ね、白い顎髭があった。服装は武芸者の制服ではなく、茶色のスーツ。両手にそれぞれ鉄鞭を持っている。

 ルシフが老人の数メートル前まで移動する。

 老人は静かに眼を開けた。

 

「……なるほど。若造にしては、良い眼をしておる」

 

「ジルドレイドとは貴様のことか?」

 

「いかにも。儂の名はジルドレイド・アントーク。お前を倒す者だ」

 

「俺を倒す? ぜひ、倒してもらおうか。最近退屈でしょうがなかったんだ」

 

 ジルドレイドの眼が鋭さを放つ。

 

「ルシフ・ディ・アシェナ。シュナイバルはお前に期待しているようだが、儂はお前のやり方など認めん。運命に選ばれた者だけが、イグナシスへの打倒をなし得るのだ。お前のやり方は無力な者も無理やり運命の輪の中に引きずり込み、余計な恐怖心を与える。覚悟のできていない者など、何人集まったところで邪魔なだけだ」

 

「ふん、まだ分からんのか」

 

 ルシフが方天画戟をジルドレイドに向けた。

 

「時代が変わったのだ。貴様など、時代に取り残された遺物にすぎん。せめてこの俺が、引導を渡してやるよ」

 

「ほざくな、若造が!」

 

 ジルドレイドが莫大な剄を全身から発し、ルシフに迫る。鉄鞭が振り上げられ、渾身の力で振り下ろされた。

 ルシフは方天画戟で鉄鞭を防ぐ。ルシフの身体が鉄鞭の圧力で軋み、地面にヒビが入った。

 もう一方の鉄鞭。横から振るわれる。方天画戟を回し、頭上の鉄鞭を弾きながら横からの鉄鞭を受け止めた。

 そこからはどちらも一歩も退かぬ攻防だった。お互いの得物を目にもとまらぬ速さで振るい、間に無数の火花が散り、ぶつかりあった金属音が都市を震わせた。

 ニーナはかなり離れた場所から内力系活剄で視力を強化し、その攻防を息を呑んで見ていた。

 ルシフが方天画戟に剄をより一層注ぎ、振り抜く。ジルドレイドは鉄鞭を交差させ、方天画戟を防いだ。だが方天画戟の剄が衝剄に変化。衝撃波となり、ジルドレイドを吹き飛ばした。

 

「むうッ……」

 

 ジルドレイドは体勢を空中で整え、着地。軽く息が上がっていた。

 

「大口を叩くだけの実力はあるか」

 

 ジルドレイドが息を整え、眼を閉じる。

 

「アーマドゥーン」

 

 ジルドレイドの纏う剄が爆発的に増加し、剄の圧力だけで周囲の地面を削っていく。

 これだけでは終わらない。

 

「ジシャーレ、テントリウム、ファライソダム」

 

 次々に名を呼び、その度に爆発的に剄が増大する。ジルドレイドが立つ場所は震え、地面が抉れて宙を舞っていた。

 ジルドレイドは四体の電子精霊と融合し、その力を己のものにしていた。剄量だけならば、ルシフを上回るかもしれない。

 

「アーマドゥーン、戦場強化」

 

 ジルドレイドの剄によって崩壊していた地面が光の波を打ち、急速に修復していく。数秒経つ頃には元通りとなり、更に都市全体を光が駆け抜けて地面に吸い込まれていった。

 ルシフは淡く輝く地面に、方天画戟を突き刺す。だが地面に穂先は刺さらなかった。表面で止められている。

 

「ここからが本番ということか」

 

 ルシフは地面からジルドレイドの方に視線を戻す。

 ジルドレイドは先程とは比べものにならない剄を纏い、二本の鉄鞭を下ろしたまま、ルシフの方にゆっくり歩いてくる。

 

「見せてやろう、極限まで高めた意思の力を。全てを犠牲にしても目的を達成すると決めた覚悟の力を」

 

 ジルドレイドの纏っている剄が凝縮し、身体が黄金の輝きを放つ。

 ジルドレイドが消えた。そう思った時には、ルシフの右横に潜り込んでいた。

 ルシフは咄嗟に方天画戟を右に振るう。打撃音。衝撃は殺せず、ルシフが後方に吹き飛んだ。

 ルシフの左腕は鉄鞭の衝撃でビリビリと震えていた。空中で体勢を立て直す。前方から気配。ジルドレイド。追ってくる。

 ルシフは口元に笑みを浮かべた。そうだ。これだ。この緊張感がほしかった。しくじれば、死ぬ。それだけの実力をジルドレイドは持っていた。

 方天画戟で地面を突き、身体を上昇させる。ジルドレイドはルシフの下を通りすぎたが、すぐさま身体を反転させ、地面を蹴って方向転換した。

 

「メルニスク、最大開放」

 

《おう》

 

 ルシフの全身から黄金の剄が放たれ、赤色の剄と混じって朱色の剄に変化していく。

 

「遅いわ!」

 

 ジルドレイドが鉄鞭をルシフ目掛けて振るう。ルシフの右手が剄糸を掴み、引っ張った。ルシフの身体が移動し、ジルドレイドをかわす。方天画戟で地面を突いた際、方天画戟の剄の一部を剄糸にして地面に張りつけておいたのだ。

 真下からジルドレイドを蹴り上げる。ジルドレイドは鉄鞭で蹴りを防いでいた。空高く、ジルドレイドが舞い上がる。

 ルシフは地面に着地し、ジルドレイドに向けてすかさず右手をかざした。右手に剄が集中していく。

 化練剄で火の性質に変化させつつ、衝剄に火を混ぜ込んでいく。そのイメージを脳内で思い描き、右手から放つ。赤く輝く真紅の閃光がジルドレイドに牙を剥く。

 

「むんッ!」

 

 ジルドレイドは回避行動せず、真っ向から鉄鞭で閃光を受け止めた。閃光が幾筋にも分かれ、ジルドレイドの横を突き抜けて消えていく。

 ジルドレイドは閃光が放たれた元を見据える。ルシフはそこにいなかった。

 ジルドレイドは意識を集中。ルシフの気配を捉えるため、全身の感覚を研ぎ澄ます。

 

「上か!」

 

 ジルドレイドは真紅の閃光が消えていった空を見る。ルシフが方天画戟を構えて向かってきていた。閃光を放った瞬間に跳躍していたのだ。

 ルシフが頭上から方天画戟を振るう。ジルドレイドは鉄鞭を交差させて防ぐが、勢いは殺せない。ジルドレイドは地面に叩きつけられた。

 

「むう……!」

 

 ルシフはジルドレイドから数メートル離れた場所に着地した。

 

「遊びはもう終わりだ、ジルドレイド・アントーク」

 

「……何をぬかす? 本気でやっていなかったとでも言うのか?」

 

「そんな身体のヤツに、俺が負けるか。確かに剄量は凄まじいが、身体が剄量に付いてこれていない。三十年前に闘えばもっと楽しめただろうが、今のお前は残りカスのようなものだ。俺の強さには到底届かん」

 

 ジルドレイドが身体を起こし、立ち上がる。憤怒が全身から溢れ出ていた。

 

「貴様に何が分かる!? 儂の代でこの呪われた運命に終止符を打つという確固たる意思を持ち、覚悟を決め、儂の全てを捧げたのだ! 貴様のような若造が知ったような口を叩くな!」

 

「はッ、笑わせてくれる。貴様はな、手段が目的になってるんだよ」

 

「……何を言う?」

 

「始めは世界を守るためにイグナシスを打倒しようと考えていたのだろうが、今はイグナシスを打倒することしか頭にない。だから、それだけの力を手にしても動かず、ただ時を待った。レギオスは時間が経てば経つほど減っていくというのに、見て見ぬ振りをした。レギオスを束ね、イグナシスなど問題ではないレベルまで人類を強くする時間は十分に与えられていたのに、何も行動を起こさなかった」

 

 ルシフが悠然とジルドレイドに近付く。

 

「覚悟? 意思? それがどうした。人生を振り返り、何をなし遂げたか、数えてみろ」

 

 ジルドレイドは憤怒の表情のまま、ルシフを睨んでいる。

 ジルドレイドは今まで来たるべきイグナシスの侵攻に備え、力を高めていた。それだけしか人生でしていない。シュナイバルに危険が迫れば排除したが、それもシュナイバルの武芸者だけでなんとかなった問題だったのかもしれない。

 

 ──儂は、何をなし遂げたのだ?

 

 いや、何もなし遂げていない。なし遂げるための力をずっと求めていた。力が無ければ、何もなし遂げられないからだ。

 

「目的のために力を高めるのは正しい。だが力とは、目的を達成するための手段にすぎない。手段が目的となり、本来の目的を見失うようなヤツが、俺に意見するな。身の程を知れ」

 

「貴様……!」

 

 ジルドレイドの鉄鞭を持つ両手が怒りに震える。

 ルシフは唇を歪め、その姿をさも愉しそうに眺めた。

 

「貴様に力を貸し、全てを捧げた電子精霊たちが哀れで仕方ない。俺を選んでいたなら、電子精霊の覚悟を無駄にはしなかった。上に立つ者が下の働きを無駄にして、恥ずかしくないのか」

 

「黙れ……」

 

「貴様には意思と覚悟はあっても、責任がない。だから漫然と待ち続けるなんてことができる」

 

「黙れ!」

 

「否定したいなら、何十年、何百年と磨いてきた貴様の力を見せてみろよ」

 

 ジルドレイドの剄が圧力を増した。全身から剄が噴き出しているように見える。

 二本の鉄鞭を構え、ルシフに突っ込む。地を蹴った瞬間、爆煙が巻き起こった。

 ルシフも剄を解放し、方天画戟で鉄鞭を受け止めた。二人を中心に剄の力場が形成され、暴風が都市を荒れ狂う。眩い閃光が都市全体を照らした。

 閃光の中、打ち合い続ける。ジルドレイドの猛攻を全て、ルシフの戟が防ぎ続けた。

 こんなものなのか。

 ジルドレイドは自問する。

 何十年と積み上げてきた力は。研ぎ澄ませてきた意思は。燃やし続けた覚悟は。

 鉄鞭を振るい続ける。ルシフの涼しい顔が眼前にあった。その顔を歪めようと、全身の剄を鉄鞭にのせて打撃を与え続ける。表情は変わらない。

 十数年しか生きていない小僧に、傷一つ付けられないのか。

 奥歯を噛みしめる。

 否! 断じて否ッ!

 ジルドレイドの剄が更に膨れ上がり、爆発した。身体をひねりながら鉄鞭を振るう。ルシフが後方に弾かれた。身体の動きを止めず、剄を鉄鞭に集中させ、一回転しながら再度振るう。鉄鞭の剄が衝剄となり、白銀の閃光となって弾かれたルシフを呑み込んだ。その反動に耐えきれず、ジルドレイドの全身から血が噴き出した。己の限界を超えた剄量だったのだ。三十年以上前の身体ならば耐えられただろうが、今の死ぬ寸前の老体には厳しかった。

 荒く息をつきながら、膝を屈した。一方の鉄鞭を杖のように使いながら、爆煙を見据える。

 爆煙が揺らめいた。ルシフが平然と出てくる。ルシフの両頬と全身に切り傷が刻まれ、血が流れていた。赤装束もボロボロになっている。

 

「その執念だけは見事だ」

 

 言葉が聞こえた時には、ルシフは目の前にいた。方天画戟がジルドレイドの右肩を打ち、ジルドレイドは地面に倒れ伏した。右肩の骨は折れただろう。

 

「見せてもらった、貴様の力を」

 

 ルシフが両頬から流れる血を拭った。傷口はすでに塞ぎかけている。

 マイの念威端子がルシフに近付いてきた。

 

『ルシフさま。都市の足が止まっているせいか、汚染獣の群れが接近しています。数は五体。全て老性体と思われます』

 

 念威端子から映像が展開され、汚染獣のいる位置も出ている。

 ルシフはその方向に視線を向けた。確かに地平線の果て、汚染獣が群れをなして近付いてきている。

 

「今度は貴様が見ろ」

 

 ジルドレイドは顔を上げ、ルシフを見た。ルシフは歩き、都市の端に立つ。ジルドレイドに背を向けていた。

 この瞬間、がら空きの背中に攻撃を加えれば、ルシフを倒せるかもしれない。だが、ジルドレイドに攻撃するという選択肢は思い浮かばなかった。

 

「人類を導く者の力を」

 

 方天画戟が朱色の光を放ち、剄が凝縮される。

 ルシフが方天画戟を横一線に振るった。朱色の光が閃光となり、大地を抉りながら突き進む。汚染獣五体は為す術もなく、圧倒的な剄の暴力に呑み込まれた。

 閃光が収まった後、ジルドレイドの視界に飛び込んできたのは何も無い更地だった。

 大地はばかでかい蛇が這ったような跡ができていて、途中にあった岩や石すらも閃光の中に消えていった。都市に向けて放ったならば、跡形も無く消し飛ばせる威力。

 ルシフがジルドレイドの方に振り返った。

 

「見たか、これが史上最強の力だ」

 

 抵抗するのもバカらしくなるような、圧倒的で慈悲の欠片もない力。イグナシスの打倒も、この男一人いればどうにかなるような気がしてくる。

 

「ジルドレイド・アントーク。貴様の願いは叶わん。叶えるには老いすぎた。イグナシスと戦えば死ぬ」

 

「ならば、戦って死ぬまで」

 

「イグナシスは俺が倒す。お前はイグナシスを相手にするには力不足だが、それ以外であればいくらでも使い道がある。死ぬ覚悟があるというなら、その覚悟を俺に使え」

 

「なんだと?」

 

「俺の臣下になれ、と言っている。強制はせん。臣下になるというなら、俺に傷を付けたその力を存分に使わせてもらいたい。俺と共に新世界を切り拓く礎となるか、生きる屍のまま寿命を迎えるか。好きな方を選べ。だが最後に一つ言っておく。時代はもう変わった。この激動の流れは止められんぞ」

 

 ルシフがジルドレイドの横を通り抜け、シュナイバルに向かった。

 ジルドレイドは右肩を左手で押さえながら、地面に視線を落とした。

 

「……儂は、イグナシスに勝てんか」

 

「大祖父さま!」

 

 ニーナがジルドレイドに駆け寄ってきた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「……ニーナか。身体は問題ない。あの男はお前が連れてきたのか?」

 

「いえ、ルシフがシュナイバルに行くと言ったので、何か止められるかと思い、付いてきただけです。何もできませんでしたし、何も変えられませんでしたが」

 

 ニーナが悔しげに顔を歪めた。

 

「あの男、儂が鉄鞭を握る理由を軽く踏み潰していきおった」

 

「そうです! ルシフは他人の気持ちを考えず、平然と大切なものを──」

 

「……しかし、世界が拡がったような気がする。今までは使命に囚われ、世界を狭く見ていたのではないかと思う」

 

 ニーナの言葉を遮り、ジルドレイドは言った。

 ルシフが粉々に希望を壊したからこそ、新たな希望を見いだし、光を見つけることができるのではないのか。相手に同情し中途半端に壊せば、ありもしない希望にすがり続けることになる。

 

「……大祖父さま?」

 

 ニーナが当惑し、ジルドレイドをただ見つめた。

 ジルドレイドの視界の端にニーナの顔がある。澄んだ青い空がどこまでも広がっていた。

 

「……世界はこんなにも美しかったのか」

 

 もう死にかけの老いぼれだ。

 なのに、なんでもやれそうな気がしてくるのは何故だろうか。

 イグナシスを倒せないと思い知った悔しさはある。だが未練はない。ならば、どうこの力を使おうか。気持ちはもう一歩前に進んでいた。

 

 

 

      ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはマイたちがいる場所に戻った。

 シュナイバルの武芸者は皆信じられないものを見たような顔をしている。ルシフとジルドレイドの戦闘映像は、念威端子でシュナイバルの至るところに展開されていたのだ。

 武芸者たちがざわめいた。

 ジルドレイドがボロボロの身体をひきずるようにして、ルシフのところまで来たからだ。

 シュナイバルの武芸者は内心、ジルドレイドがルシフに牙を剥き、ルシフを倒すことを期待した。

 彼らの意に反し、ジルドレイドは片膝を屈した。

 

「これよりジルドレイド・アントークはあなたの力となります」

 

「大祖父さま!」

 

 ジルドレイドの隣にいたニーナが叫んだ。

 

「……ニーナよ。今の世界に必要なのは、こういう男かもしれん。儂はこの男の下で、この男が何をなし遂げるか、命尽きるその日まで見届けようと思う」

 

「そんな……」

 

 ニーナは視線を彷徨わせる。父の顔を見つけた。

 

「お父さま! このままではシュナイバルはルシフに屈してしまいます! そうなれば、また多数の人の命が……!」

 

「お前の言いたいことはよく分かる。だが、大祖父さまはシュナイバルの守護神だ。大祖父さまの決定はすなわち、シュナイバルの決定。悔しくはあるが……」

 

「このままではいけません! 大祖父さまを説得しなければ──」

 

 言葉の途中で、ニーナは口を閉じざるをえなくなった。武芸者も皆口を閉じ、雑音の一切が消える。

 ルシフの隣に黄金の粒子が集まり、何かを形成していく。人の姿だが、腕ではなく翼があり、足は鳥。半獣半人。シュナイバルの都市旗に似た姿。

 シュナイバルに住む誰もが分かる。ルシフの隣に顕現したのは、電子精霊シュナイバル。そのシュナイバルがまるでルシフに従うように、ルシフの隣に静かに佇んでいる。

 

「……シュナイバル? 嘘だ、そんなの……シュナイバルはルシフのやり方を認めるというのか!」

 

 ニーナの肩に父が手を置いた。ニーナが父を見る。父は静かに首を振った。

 

「ニーナ、分かるだろう。シュナイバルは電子精霊と共に生きてきた都市。シュナイバルが決めたことならば、我らは従わねばならん」

 

 父がルシフに向かってゆっくりと膝を屈した。一人、また一人と次々に膝を折っていく。数分後には、シュナイバルの全武芸者がルシフに向かって跪いていた。

 ニーナは立ったままだった。両拳を握りしめている。

 この瞬間から、ルシフは電子精霊の長すら味方とし、自らの理想を掴み取るための力とした。

 これより、恐るべき速度で世界がルシフの色に塗り替えられていく。それを阻める唯一の都市であるグレンダンは、ルシフの策略により己の都市しか見えていなかった。



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第78話 優しさの答え

 ルシフは『縁』の空間内にいた。

 メルニスク、シュナイバルもいる。

 

「シュナイバル。電子精霊にヨルテム目指して移動するよう指示を出せ。ただし、グレンダンだけは除く」

 

「何故です?」

 

「グレンダンは今の状態では従わないだろう。アルシェイラに情報を与えるだけで、こちらに利が無い。グレンダン以外の都市を奪い、古い政治は何もかも破壊し、新たな民政に移行し安定させて初めて、グレンダンやアルシェイラが抵抗する無駄を悟り、こちらに従うようになる」

 

「そう上手くいきますか?」

 

「まあアルシェイラの性格上、一騎打ちぐらいは仕掛けてくるかもしれん。自分より弱い奴をグレンダンの支配者にできない、などと言って。だがアルシェイラは政治に興味が無い。代わりに政治をやる奴が出てこれば、喜んで王の座を譲るだろうよ。それがアルシェイラという女だ」

 

「分かりました。しかし(わらわ)も全ての電子精霊と通信できません。ヨルテムだけが全電子精霊と通信ができるので、まずヨルテムに伝えた後、ヨルテムからグレンダン以外の全都市に移動するよう伝えるようにしましょう」

 

「それから、メルニスクが全都市に『縁』で行けるようにしてもらいたい。そうすれば俺は放浪バスを使わず、一瞬で他都市に行けるようになる」

 

「それも、ヨルテムがメルニスクに協力すれば可能でしょう」

 

「頼んだぞ」

 

 ルシフとメルニスクは『縁』の空間から消えた。

 星を散りばめたような空間の中、シュナイバルだけがいる。

 

「ヨルテム」

 

 シュナイバルが呟くと、電子精霊ヨルテムが空間内に顕現した。

 

「グレンダン以外の全電子精霊に伝えてください。あなたの都市を目指して移動するように、と。それから、メルニスクにあなたの『縁』を利用できるようにもしてください」

 

 顕現した電子精霊ヨルテムは驚いたような雰囲気を出したが、シュナイバルの言葉を理解した後は頷いた。

 電子精霊ヨルテムが消える。

 

「……世界が全く別の形に変わる。見せてもらいましょうか、あなたの答えを」

 

 シュナイバルの姿が消えた。

 数分後、グレンダンとヨルテム以外の都市が本来の進路から外れ、ヨルテムを目指し始めた。その変化に気付いている者は誰もいない。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは剣狼隊専用の放浪バスに乗ってヨルテムに戻らず、シュナイバルに留まった。今シュナイバルはヨルテム目指して移動しているため、言ってみればシュナイバルそのものが放浪バスのようなものになっている。放浪バスに乗る理由が無かった。

 シュナイバルでもヨルテム同様の民政を始めた。都市旗の変更。武芸者選別。増税。外縁部を潰しての工業区、農業区の拡大。とりあえず今はこれだけでいい。グレンダン以外の全都市がヨルテムに集結したら、役人も選別して無能な者は全員辞めさせる。とにかく都市が管理する人材から無能を取り除いていかなければならない。

 武芸者選別試験をやって三日が経っていた。

 武芸者選別試験は元々シュナイバルに潜伏させていた剣狼隊五人とジルドレイドが中心となってやった。ジルドレイドが指示に従っているせいか、シュナイバルの武芸者は協力的で試験がかなり楽だった。

 試験を始める直前、ニーナがまるで汚染獣の前にでも立ち塞がるように、ルシフの前で両手を広げてきた。言葉は無く、ただルシフを睨んでいた。

 ルシフは容赦なくニーナの頬を平手打ちし、ニーナの身体は横に転がった。

 ニーナが痛めつけられた姿に怒ったのか、試験を受ける武芸者たちが錬金鋼(ダイト)を復元し、ルシフに襲いかかってきた。五十人はいただろうが、数十秒後には全員地に倒れていた。その後はルシフの強さを再認識したらしく、抵抗は無かった。

 シュナイバルの武芸者は約千七百人いて、その内の約百五十人が合格した。千五百人以上が武芸者の地位を剥奪され、武芸者は一気に今までの一割にも満たない数に減少した。

 試験の次の日、ヨルテムと同じく大量自殺があった。人数は四百人に近い数だった。一家心中などを含めると五百人を超える。自殺者の中に、アントーク家の者もいた。

 大量自殺があった都市旗がある建物の広場の前で、ニーナはずっと泣いていた。ニーナだけでなく、何百人という都市民が集まって泣いていた。

 痛みを知って、人は成長する。この痛みは、人類が成長する糧となる。いや、糧にするのが指導者の役目だ。

 ルシフは与えられた部屋の椅子に座っている。

 部屋にはルシフの他に、マイとジルドレイドがいた。

 

「俺はこれから『縁』を利用して次々に都市を制圧していこうと思う」

 

 『縁』についての説明は、すでにしていた。マイはしばらく困惑したが、なんとなく理解したようだった。

 

「儂らの役割は、お前がいなくともいるように見せることか」

 

「そうだ。俺は自室で自堕落に過ごしているという内容の噂でも広げておけ。なんなら女を利用してもいい。剣狼隊に二人女がいた。

マイ、ジルドレイドに協力するよう二人の女に言っておけ」

 

「分かりました」

 

 ルシフは椅子から立ち上がる。左手には方天画戟。

 

「行くのか?」

 

「ああ。あとは任せたぞ。……言い忘れていたが、帰ってくるまでにお前の孫娘をどうにかしておけ」

 

 ルシフの姿が光に包まれ、消えた。

 部屋にはジルドレイドとマイが残り、二人きり。

 気まずい空気になった。

 

「……では、私はリーリンさんとニーナさんの監視がありますので」

 

 マイは逃げるようにさっさと部屋から出ていく。

 

「……前途多難だな」

 

 ジルドレイドが呟いた。

 マイが出ていって数分後に、ジルドレイドも部屋の外に出た。

 

 

 

 ニーナはリーリンと同じ部屋にいた。

 シュナイバルはニーナの出身都市であり実家もあるが、ニーナとリーリンは今まで通りルシフから与えられた客室で過ごした。

 ニーナはツェルニを卒業するまで、実家に帰らないと決めていた。今はツェルニを離れているが、いずれはツェルニに戻り卒業する。ツェルニに留年はないため、どんな生徒も六年で卒業できるのだ。

 ニーナは自分のベッドの上で膝を抱えて座っている。親戚の武芸者だった人が一人自殺したのだ。何故とめられなかったのか。今のニーナは自責の念に駆られていた。

 リーリンはメモ帳にシャーペンで何かを書きこんでいる。

 ニーナはリーリンのベッドの方に移動し、リーリンが何を書いているか盗み見した。メモには『暴政の理由』とタイトルが書かれ、その下に理由らしきものが書かれている。

 一つ目。恐怖を植えつけ、反抗する気力をなくすため。

 二つ目。平和だった都市を力で奪って善政したところで、都市民から慕われないため。

 三つ目。税収を増やし、ルシフ自身が使えるお金を増やすため。

 四つ目。最初に最低な暴政をして、それから少しずつ善政に変えていけば、都市民はルシフが良くなったと錯覚して慕うようになるため。

 そこから先は何も書かれていない。

 リーリンはシャーペンのノックボタンの部分で、こめかみの辺りをぐりぐりしている。その時にニーナがメモを盗み見ているのに気付き、苦笑した。

 

「四つまでしか分からないや。ルシフは六つあるって言ったんだよね?」

 

「……ああ、確かに六つあると言っていた。だが、この四つ目は間違っている。あれだけのことをしでかしたルシフが、都市民から慕われるようになるものか」

 

「……そうかな? ルシフは何のために剣狼隊と対立しているように見せかけていると思う?」

 

「都市を少人数で制圧する際、都市民の味方に見えるようにするためだろう。実際ルシフのグレンダン蹂躙映像を見た後、彼ら剣狼隊の言葉は都市民にとって真実に聞こえた筈だ」

 

「それだけじゃないよ。ルシフは暴政だけじゃなくて、善政もしてる。暴政の部分はルシフが強引にやって、善政の部分は剣狼隊に言われて仕方なくやるか、剣狼隊が独断でやってる。つまり都市民は、『ルシフは危険だけど剣狼隊の言うことも多少聞くから、剣狼隊がいればそんなに酷くならないな』と思う。そこからルシフ自身も少しずつ善政をするようになれば、『剣狼隊から学んでルシフは成長した。力ずくで無理やり都市を奪っていた時のルシフじゃなくなったんだ』ってきっと思うようになる」

 

「そんな都合良くいくわけが……」

 

「誰だって過去より現在の方が大事だよ。現在が良くなってきたら、その流れに逆らう人は本当に少ないんじゃないかな?」

 

「じゃあなんだ、ルシフは今さえ乗り切ってしまえば、あとは楽に世界中の人々に自身を認めさせることができるというのか! そんな理屈──」

 

「誰だって善政になったら敵対しなくなるよ。敵対する理由がないもん。今暴政してるのは普通に政治していた都市を力ずくで奪ったから。善政しても、『ただのご機嫌取りでまた自分の好き勝手やるんじゃないか』って都市民が不信感を抱いて警戒するだけだろうし。今の暴政には、数年後に都市民の不信感や警戒心を完全に無くすための下準備のような役割もあると思うんだよね」

 

 数年後を見据え、数年後に世界をどういう形にもっていくか決めたうえで計画を考え、計画通りに事を進める。もしそうなら、ニーナとは次元の違う場所に間違いなく立っている。少なくとも、彼女にそんな生き方はできない。後々良くするからといって、今の人々を苦しめたり見殺しにはできない。ルシフは自分が望む世界を創造し、その世界に付いていけない者は知らないと切り捨てていく。世界はルシフだけのものじゃない。世界に生きる全ての人のものだ。

 そもそもルシフのやろうとしていることは、例えるなら水の中に突き落としておいて助けに行くようなやり方であり、自作自演。たとえ正しくても、最適解だとしても、ニーナは認めたくない。

 それに、それはルシフが世界の全てを一人で背負い込むのと同じだ。ルシフ自身の幸福や人生を犠牲にして得られる平和。ルシフは最低でも数年間誰からも恐怖され、忌避され、嫌悪され続ける。それは本当に正しいのか。

 

「たとえ狙いがあったとしても、冷酷すぎる。武芸者選別試験の不合格者には何の救済策もないし」

 

「ほんとに、ルシフは冷酷なのかな?」

 

 リーリンはメモに視線を落とした。

 ニーナは意外に思い、リーリンを凝視する。

 

「どう考えても冷酷だろう。不合格だからといって容赦なく切り捨てる。人の心があったらできないことだ」

 

「でも、本当にルシフが不合格者のことを考えてないなら、今まで不合格者が武芸者として受け取っていた給金だって不当なものだから、財産の半分もしくは十分の一でも奪い取ってもおかしくないのに」

 

「……何?」

 

「でもルシフは一切不合格者の財産に手を付けてない。それってつまり、『今まで武芸者だったことは認めるけど、これからは新たな基準で武芸者を選出する』っていうメッセージでもあると思う。そもそもほとんどの不合格者の人には蓄えがあると思うから、それがニーナが言うところの援助金になるんじゃない? あからさまじゃないだけで、人の心はあると思うな、わたしは」

 

「……リーリン」

 

 ──一体いつからだ? 一体いつからお前は……ルシフの思想に惹かれていたんだ?

 

 ルシフの暴政の理由を考えている内にルシフに共感したのかもしれない。

 リーリンの右目の黒い眼帯が急に存在感を増した気がした。眼帯をする前のリーリンと、今この場所にいるリーリンが全く別人だと感じるような違和感。

 二人はそれからしばらくの間会話もなく、部屋で過ごした。

 

 

 

 

 リーリンは眼帯を右手で撫でた。

 眼帯はイアハイムに行く前に中継したヨルテムでルシフに与えられたものだった。

 その時に大まかにルシフから教えてもらった。この世界そのものを滅ぼそうと考える敵──イグナシスという存在がいて、以前見た仮面の人型はその手先。リーリンに宿った右目は剄と同じでイグナシスに対抗するための力。

 それらを知ってからしばらくして、リーリンの脳裏に浮かび上がる光景があった。

 レイフォンの身体に棘が吸い込まれていく光景。赤ん坊の頃、レイフォンと一緒に助けられた時からレイフォンがグレンダンを追放されるまで、ずっと繰り返されていた光景。

 何故レイフォンが莫大な剄を持っていたか。単純な答え。リーリンの右目に剄を増幅する力があり、無意識の内にリーリンの守護者としてレイフォンを選んでいたから。

 棘がレイフォンに吸い込まれていく光景はずっと見えなかった。いや、見ようとしなかっただけなのかもしれない。レイフォンを武芸者という過酷な道に引きずりこんだ事実を。

 もし自分がレイフォンを選ばなければ、レイフォンが闇試合に出てグレンダンから追放されることも、闘って傷つくこともなかった。自分のせいで、レイフォンは傷つく道に進んでしまった。

 だがルシフがヨルテムの支配者になった時に宣言していた全レギオスの支配が実現し、ルシフが支配者になったらどうなるか。ルシフを中心に全レギオスの武芸者が結集し、イグナシスや外敵に備えるようになる。

 そうなればレイフォンはもう傷つかなくてもいいし、無理して闘わなくてもいい。レイフォンが戦闘を選んでも、負担はかなり減る。レイフォンの代わりに闘える人はたくさんいるから。

 ニーナの言っていることも分かるが、リーリンとしてはルシフの目指す世界の方が自分の望みに近かったのだ。

 

 ──もしルシフがニーナの言う通り人の心を無くしたなら……。

 

 リーリンの右目の能力である、見たものを眼球に変える力。この能力を使い、ルシフを殺す。その覚悟の刃を、リーリンは今も密かに磨き続けている。

 リーリンは再び眼帯を右手で撫でた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフがヨルテムを出発した後、放浪バス五台ほども日数を置いて出発した。その放浪バス一台一台に剣狼隊の一小隊──十人程度が乗っている。

 これらの放浪バスの目的は他都市の制圧である。ルシフがシュナイバルにいつ到着するかは逆算できるため、ルシフがシュナイバルに到着した次の日に他都市に到着するよう計算して、放浪バスを出発させた。

 一気に多数の都市を同時制圧する急襲作戦。当然だがルシフが作戦計画を立て、実行を決定した。

 今ヨルテムの反乱分子は無いに等しい状態になっているため、警備する剣狼隊の数は少なくとも問題無くなった。ましてや都市民に、ルシフはヨルテムにいるように思わせている。ルシフがいると思っていて、勝ち目の無い闘いを仕掛ける者は少数だろう。

 放浪バスに乗っている間、剣狼隊の小隊長たちはルシフとの出会いから今までのことを思い出していた。

 

 

 プエルは放浪バスの中で目を閉じていた。

 思い出しているのは、初めて都市間戦争に参加した時のこと。

 

 

 

『……はぁ……はぁ……』

 

 走りながら、後ろを見る。敵の武芸者が数人追いかけてきていた。

 初めて都市間戦争に参加した時は十歳だった。前の都市間戦争で五歳のルシフが参戦していたのが父としては気に入らなかったらしい。父はルシフの父にいつも対抗心を燃やしていた。

 だから、今回の都市間戦争に参戦してきなさい、と父に言われ、十歳で都市間戦争に参加することになった。

 闘うのは嫌いだった。人を傷つけるのも嫌いだった。鋼糸という特殊な武器で闘う武門だったから、鋼糸の残酷さはよく理解できた。それ故に、鋼糸の扱い方や闘い方を覚える気にならず、家族や親戚から「何故こんなこともできないんだ!」とよく叱られた。陰で『もっと才能のある子が生まれてほしかった』と父がぼやいているのを聞いたこともある。

 それに対して申し訳ない気持ちに何度もなった。どうして自分は闘うことが嫌いなんだろう。武門の人間なのに、どうして闘うことに抵抗がない人間として生まれなかったのだろう、と何度も自分を責めた。

 でも、人殺しなんてしたくない。相手は人間。心がある。闘わなくても、相手と分かり合えればいい。そうすれば、お互い痛い思いをしなくてすむ。

 走りながら、鋼糸で陣を組み上げる。簡単な陣なら体得していた。鋼糸は切断力があるから、相手を傷つけないよう配慮しなければ。

 おそらくその甘さが陣の構築を僅かに遅らせ、陣も隙がある不完全なもので終わったのだろう。

 武芸者たちはたやすく陣を掻い潜り、あたしの眼前まで接近していた。武芸者たちの剣や刀が振るわれる。

 どうして、顔も名前も知らないのに殺し合うのだろう。

 死ぬ間際に思ったのはそれだった。だが、死は訪れなかった。突風のような衝撃が眼前の武芸者たちを吹き飛ばしたのだ。とてつもない衝剄が放たれたと気付いたのは、それから二、三秒後のことだった。

 衝剄を放ったのは誰か知ろうと、視線を動かす。赤みがかった黒髪で、赤い瞳の男の子が立っていた。ルシフ・ディ・アシェナ。アシェナ家の問題児と言われているアシェナ家の長男。確か七歳だった筈だ。顔は当然知っていたが、好戦的なところが苦手だった。人を傷つけることも平然とやる。そこが嫌いでもあった。

 ルシフの数歩後ろには、青い髪の女の子がいる。こちらはよく知らない。倒れていたところを助け、そのままルシフの使用人としてアシェナ家に住まわせるようになったという話は聞いたことがある。

 まともにルシフと会話をしたことはない。たまに交流があっても、いつも避けていた。でも、今助けてくれたのだ。お礼は言わないと。

 

『……あ、あの……あり、ありが──』

 

『口を動かす余裕があるなら闘え。闘えないなら、そこで倒れていろ。相手は見逃してくれるだろう』

 

 かちんときた。誰もが、キミのように闘えると思ったら大間違いだ。闘いなどしたくない、相手を傷つけたくない人だっている。

 

『キミの方こそ、なんで顔も名前も知らない人を傷つけられるの!? 相手もあたしたちと同じ人間だよ! 言葉だって通じる! 傷つける必要なんてない! 相手に諦めてもらうまで、攻撃を防ぐだけでいい! そうすればきっと相手も分かってくれる! 武器を錬金鋼に戻して、手と手を取り合える!』

 

 気付けば、ずっと心の内で溜め込んでいたものを吐き出していた。 

 攻めてくる相手に応戦してしまえば、闘いは終わらなくなる。どちらかが死ぬか戦闘不能になるまで闘い続けることになる。防御だけで攻撃はしない。そうすれば、どちらも傷つくことなく戦闘を終わらせられる。

 ルシフはあたしの顔をじっと見据えていた。

 

『……それが、本当に優しさか?』

 

『……え?』

 

『それは人を傷つけたくないという貴様の独善的なものにすぎない。相手が攻めてこないと分かったら敵はどうするか。もっと深く攻めてくる。傷つけられる危険がないからな』

 

『それでも! 闘ったらダメだよ! もっと酷い闘いになっちゃう!」

 

『違う!』

 

 ルシフが一喝した。威圧的で暴力的な剄が激しさを増し、金縛りにあったように身体が動けなくなった。

 

『貴様のやり方はいたずらに戦闘を長引かせ、最終的に傷つく人数を増やすだけだ! 傷つく人数を減らしたいなら、まず戦闘そのものを終わらせる方法を考えろ! 速戦即決こそ、戦闘の基本! こちらから攻めずして、犠牲者を減らすことなどできない! そこで貴様はよく見ていろ!』

 

 ルシフの姿が消えた。

 数分後には敵対都市の武芸者が悲鳴をあげている念威端子の映像が浮かび、あっという間に敵の都市旗をルシフが取った。

 戦闘理由が無くなったお互いの武芸者は武器を錬金鋼に戻し、自分の都市に戻っていった。

 あとに聞いた話では、今回の都市間戦争の両都市合わせた犠牲者の数は普段の二割程度だったらしい。

 

 

 

 プエルは現実に意識を戻した。

 あの日から、ずっと考えている。本当の優しさとは何か。

 闘わなければ、犠牲者が逆に増え続ける。それを思い知った瞬間でもあった。

 あの都市間戦争の後、鋼糸の設定を変更した。鋼糸の先端以外から殺傷力を無くしたのだ。先端だけ殺傷力を残した理由は、味方が傷を負ったら鋼糸で傷口を縫合しようと考えたからだ。

 あの日以来ルシフに対して見る目が変わり、興味をもった。父から親しくするなと言われても聞かずに、時間があればルシフのところに行ってルシフやマイと一緒に過ごした。鋼糸の技も積極的に覚えるようになり、いつの間にかツェン家一の天才と呼ばれるようになった。

 プエルは左手を見る。包帯が巻かれていた。包帯は左肘から左手の爪先までぐるぐる巻きにされていた。ルシフからの罰による爪剥ぎと釘打ちの傷はまだ完治していない。

 プエルは知っている。ルシフが優しいことを。残酷に見えるが、結果を見ると犠牲者が極端に少ないのだ。それが、本当の優しさなのではないのだろうか。

 だからプエルはルシフを信じ、ルシフのためならば自分の全てを捧げようと決めた。ルシフがどれだけの苦痛と重圧に苦しんでいるかは、簡単に想像ができる。それに比べれば、自分が傷つくことや痛めつけられることなど楽なものだ。

 

「隊長、もうすぐ都市につく」

 

 隊員の一人が声をかけてきた。

 正直な話、自分なんかが剣狼隊の隊長をやっていいのだろうかと今も悩んでいる。剣狼隊に入隊できたこと自体が奇跡のようなものだし、自分より強い隊員はいくらでもいる。

 

「ありがと」

 

「隊長、都市を制圧したらデートしましょう! デート! おごりますよ!」

「あっ、抜け駆けはずりぃぞ! プエルちゃん、俺とデートしよう!」

 

「……えっ、ええッ!?」

 

 隊員たちが近寄ってきた。

 プエルは顔を真っ赤にして身体を縮こませた。

 

「こらッ! プエルが困ってるじゃない! 座ってなさい!」

 

 女の隊員が怒鳴った。

 近寄ってきた隊員たちは慌てて自分の座席に戻っていった。

 

「……あの、ご飯一緒に食べてもいいよ? でもデートとかじゃなくて、ここにいる全員一緒でいいならだけど」

 

 プエルの言葉に、隊員たちは顔を見合わせて笑った。

 

「いいっすね、それ。全員生きてたら、そうしましょう」

 

 これから攻める都市にも、多数の武芸者がいる。内通者がいるといっても、相手の数が圧倒的なことに変わりはない。

 

「誰も死なせないよ。あたしがみんなの盾になる。だからみんなは、重要施設と都市長室の制圧を迅速にやって。ただし必要最低限の攻撃しかやっちゃダメだよ。必要以上に攻撃したら怒るからね」

 

 隊員たちは笑みを浮かべた。彼らはプエルのこういう部分をよく理解し、慕ってもいた。

 プエルは戦闘が必要だとしても、相手を傷つけない闘い方を貫いていた。

 

「了解であります! 期待してますよ、隊長!」

 

「ふえッ!?」

 

 プエルが途端に落ち着きを無くし、視線を至るところにさまよわせる。

 

「……で、できれば、あまり期待しないで自分の身は自分で守ってほしいな」

 

 プエルが周囲の期待といったプレッシャーに弱いことは全隊員が知っていた。

 隊員たちは笑い声をあげた。

 プエルは顔を真っ赤にしたまま、咳払いをする。

 

「んッ! んんん! 無駄話はおしまい!」

 

 都市の放浪バス停留所に到着した。

 全隊員の表情が引き締まる。

 プエルは左腕を見た。オレンジの腕章が巻かれている。全隊員も同様にオレンジの腕章を巻いていた。

 

「オレンジ隊! 今から都市制圧作戦を開始するよ!」

 

「了解!」

 

 プエルの号令で全員が錬金鋼を復元した。



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第79話 進撃の魔王

 ハルスは放浪バスの座席に座り、目を閉じていた。思い出しているのはルシフと出会った日。

 

 

 

 いつもイライラしていた。

 武芸者だった頃はそんなことはなかった。

 何も守れなかった。セルニウム鉱山が一つしかない状態で都市間戦争に敗北し、故郷は死を待つ都市となり、必死に闘った戦友たちのほとんどは故郷と運命を共にすると言って故郷に残った。

 俺は放浪バスで故郷から出ていった。俺が弱かったから、故郷は滅びた。ならば武芸者として強ければ、故郷を守れたのか。多分、守れた。だが、他都市に今の俺と同じ苦痛を味わわせるだけだろう。ならば何が本当の強さなのか。どういう武芸者が都市の守護者と胸を張れるのか。その答えを知ってから戦友たちの後を追ってもいいと思った。

 生まれた都市では、武芸者としての実力は五本の指に入った。都市間戦争でも、多数を相手にしなければ苦戦しなかった。だから強さへの答えを探しながら、傭兵として生きていくと決めた。

 傭兵となり一人で生きるようになると、武芸者というより男としてどう生きるのが強い男なのかを考えるようになった。仕事で護衛をしたり武芸大会に出場したりしながら、恐喝や強盗、弱者への暴行をやっている奴を見つけると積極的に倒しにいった。どんな相手にも立ち向かい、苦しむ人を助ける。これこそ強い男の生き方だと思ったからだ。だが、いつもイライラしていた。心のどこかでこれは本当の強さじゃないと否定する自分がいる。何故なら、事が起こってからでないと助けらないからだ。被害は軽微だったとしても、傷ついてはいる。それで本当に助けたと胸を張れるのか。事前に助けるのは至難で、怪しい奴を見つけて尾行しても結局何もしないというパターンも多かった。

 毎日イライラしながらも傭兵として各都市を巡り、イアハイムに来た。

 イアハイムの地に立った瞬間、他都市とは全く違う雰囲気に圧倒された。他都市とは活気が違っていた。

 驚いたのはそれだけではない。犯罪をする者は本当に極少数で、怪しい奴すらほとんど見なかった。

 だからこそというべきか、傭兵の仕事は全く無かった。ここまで治安が良い都市を出ていこうと考える者は少ないし、商売時の護衛もこの都市の武芸者が遠回しにやっているような状態なのだ。

 武芸大会は毎月のようにやっていたから、それに出場して金を稼ぐようにした。武芸大会の賞金は面白いもので、優勝者には何も無く、準優勝者に大金が用意されていた。つまり決勝戦に出て闘い負ければ大金が貰え、勝つと何も得られないのである。

 武芸大会で優勝するのはいつもルシフだった。ルシフは常に武芸大会に出場していて、毎回圧倒的な強さを見せつけながら、優勝をかっさらっていく。

 武芸大会に出ていた当時の俺は、ルシフのことが大嫌いだった。毎試合何かしらのハンデをつけて闘うからだ。五分間一歩も動かなかったり、腕一本だけで闘ったり、挙げ句の果てには逆立ちのまま闘ったりなど、ふざけた闘い方で本気で頭にきた。剣狼隊に入ってそれが相手を怒らせ全力で闘うよう仕向けるためと分かってからは、別に気にならなくなったが。

 イアハイムで過ごすようになって数ヶ月経ったある日、都市間戦争があった。イアハイムが勝ち、死傷者は両都市ともいなかった。

 誰も死なずに都市間戦争が終わる。到底信じられないことだった。セルニウム鉱山は奪っているから敵対都市の滅亡を早めたのは確かだが、何か強い意思のようなものを感じた。

 ルシフが何を考えているのか知りたくなり、武芸大会で負けた後に少し話したいと言った。ルシフは承諾し、ルシフの家で色々話した。今の世界を破壊し、都市間戦争も汚染獣の脅威も無くす。生まれた場所や都市に振り回されない世界。そのために今も色々動いていることまで話してくれた。

 ルシフと話した後、熱が全身を支配していた。何が強さか。自分は枠の中でしか生きてなかった。枠が気に入らないなら、その枠を壊せばいい。そんな発想はできなかった。

 ルシフと話した次の日、ルシフのところに会いに行った。剣狼隊の詰め所で、赤装束を着た剣狼隊員も多くいる。

 

『惚れた! あんたに心から惚れた! あんたの手伝いをさせてくれ!』

 

 俺は頭を床にこすりつけ、土下座のような姿勢になって叫んでいた。

 ルシフはまだ十二歳で見た目も子どもだった。だが、そんなものは俺にとって些細なものだった。本当の強さとは何か。誰もが無理だと諦めてしまうような夢を抱き、その夢を実現するために己の全てを懸けて立ち向かっていく。これこそ本当の強さではないのか。

 

『旦那! 女からだけでなく男からもモテモテですなぁ!』

 

 ルシフの周囲にいた一人が笑みを浮かべて言った。詰め所にいた隊員たちがどっと笑う。笑われたことに対して、別になんとも思わなかった。

 俺は頭を上げて、ルシフを見る。ルシフはじっと俺の顔を見ていた。

 

『生半可な覚悟では、俺に付いてこれんぞ』

 

『必ずあんたに付いていってやる! それから、あんたに頼みがあるんだけどよぉ……』

 

『なんだ?』

 

『あんたのこと、兄貴って呼ばせてくれ!』

 

 ルシフは俺より十二も年下だった。だが、関係ない。今まで出会った男の中で誰よりも強い、理想の男。俺も、こんな男になりたい。

 ルシフはぽかんとしていた。詰め所にいる隊員たちは腹を抱えて爆笑している。ルシフが睨むと、詰め所は静かになった。

 

『……まあ、好きに呼べばいい』

 

『ありがとよ、兄貴! お前らもこれからよろしく頼むぜ!』

 

 詰め所は隊員たちの歓声で埋め尽くされた。

 

 

 

 ハルスは目を開け、現実に意識を戻した。

 剣狼隊に入り、剄のコントロールを磨き続けた。今の俺は数年前より遥かに強くなっていると確信している。

 俺には世界を破壊する能力も無いし、新たな世界を創造する能力も無い。だが、ルシフならばできる。そう思える意志と能力がある。

 だとすれば、途方もない夢を実現しようとするルシフの力になるのが、俺の夢。心から惚れた男を支え、どこまでも付いていく。いつか自分もルシフのような男になれると信じて。

 放浪バスが都市に到着した。

 ハルスは右腕を見る。赤紫色の腕章が巻かれていた。放浪バスに乗る隊員全員が赤紫色の腕章を巻いている。

 

「マゼンタ隊! 兄貴のためにこれからひと仕事するぞ!」

 

「おうッ!」

 

 錬金鋼(ダイト)を復元しながら、全員が一斉に放浪バスの外に飛び出した。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 サナックが腕を組み、座席に座っている。目を開けているが、視界は全く見ていなかった。

 サナックはルシフと出会った日を思い浮かべている。

 

 

 

 お前が殺した。

 幼少の頃、父からいつもそう怒鳴られ、まともな食事も与えられなかった。

 俺は莫大な剄量だった。それ故、生まれてまもなく剄が暴走し、母を死なせたらしい。

 当然そのことは覚えていないが、そう父に怒鳴り声で教えられた時、自分は生まれてはいけない子どもだったのだと思った。自分は死ぬべきだと、数日何も口にしなかったこともある。

 そんな時父は、無理やり俺に食わせてきた。食事ともいえない食事だったが、涙を流しながら父は料理を作っていた。

 お前が死んだら、妻の生きた証が無くなる。妻が生きた意味が無くなる。だから、お前は殺したいほど憎いが生きろ。

 衰弱死しそうな状態の時に、父はそう言った。

 父は必死に俺を愛そうとしていた。最愛の妻を殺した仇で殺したい筈なのに、歯を食い縛って育ててくれた。

 幼少の頃は声を出しただけで剄が声に乗り、前方の物を破壊した。父や武芸者の誰もが俺を恐れた。俺は初めて声を出して物を破壊した時、二度と声は出さないと決めた。家はボロボロだった。赤子の頃、泣き声にも剄が乗って家を破壊していたらしい。声を出さず、身振り手振りで意思の疎通を図り続けた。

 それから成長して文字を覚えた。嬉しかった。これで声を出さなくても紙に文字を書いて意思の疎通ができるようになる。そう思ったからだ。

 それからはスケッチブックとペンを常に持ち歩き、話したい時はスケッチブックに文字を書いて、相手に見せた。

 どれだけの剄量か、錬金鋼技師が錬金鋼に様々な機器を繋ぎ、テストしたことがある。結果は測定不能。錬金鋼の許容量を上回る剄量だということだけ分かった。錬金鋼が壊れるなど前代未聞だったため、都市全体にそのことが広まり、俺は誰からも遠ざけられ、親しくしてくれる者は誰もいなかった。父すら、最低限の生活を与えてくれるだけでそれ以外は関わろうともしなかった。

 俺は自らに宿った剄を心から憎んだ。壊すことしかできない力。こんな力に、なんの意味があるのか。

 それでもこの破壊の力を何かに役立てようと、武芸者に志願した。都市民は驚いたが圧倒的に強いことは確信していたため、武芸者として生きることを許してくれた。

 それから錬金鋼を手甲にし、都市間戦争で闘った。錬金鋼は枷であり、自分が武芸者として生きるという覚悟でもあった。

 そうして闘ううちに少しずつ武芸者や住民たちと打ち解けていった。

 武芸者になって数年経ったある日、汚染獣三体が都市を襲った。武芸者が総出で汚染獣を迎えうち、闘った。

 俺も必死に闘った。だが汚染獣は強大で武芸者が束で闘ってもなかなか倒せなかった。俺だけが一撃で汚染獣を倒していた。

 二体の汚染獣を倒し三体目を倒そうとした時、三体目の汚染獣が武芸者数人を殺そうと爪を払っていた。その攻撃は間違いなく武芸者数人を殺す攻撃。走っても間に合わない。咄嗟にそう判断し、剄を衝剄に変化させて汚染獣を遠距離から倒した。周りにいた武芸者数人も巻き添えにして。幸い、武芸者数人の命は助かった。

 汚染獣戦が終わった後、俺は拘束され、裁判にかけられた。裁判の判決は都市追放。汚染獣よりお前の方が恐ろしい化け物だ。裁判官にそう言われた。

 荷物をまとめて放浪バスに乗る間際、父がやってきて『二度と俺の前に顔を見せるな。死ぬことも許さん。俺の知らないところで精いっぱい生きろ』と言われた。

 父は言い終えると背中を向けて去っていった。一度も振り返らなかった。

 放浪バスに乗り、都市を当てもなくめぐった。その旅の途中、自分に宿った剄を心から憎み、怒りを覚え続けた。

 どれだけ言い繕ったところで、これは破壊する力だ。壊して何もかも無にする力だ。こんな力に何の意味があるのか。

 ずっと悩みながら、イアハイムにたどり着いた。

 剄を使わず生きていこうと考えながらイアハイムを歩いていると、ルシフが立ち塞がった。当時は八歳くらいで、マイも一緒にいた。

 腕試ししようといきなり言われ、スケッチブックを取り出して『断る』と書いた。

 闘いたくなかった。壊したくなかった。剄なんて力を使いたくなかった。

 そこからは一瞬の出来事だった。とてつもない剄がルシフから放たれ、あっという間に地面に倒されていた。

 感覚的に同程度の剄量を持っていると理解し、またここまで精密に剄を制御できていることに驚いた。

 

『この程度じゃない筈だ。本気を見せてみろ』

 

 自分と違い、ルシフは声を出すことを怖がらなかった。

 不思議と親近感が湧いた。自分と似たような境遇なら、自分の気持ちを理解してもらえるかもしれない。

 仲間が欲しかった。自らを蝕む苦しみを吐き出し、楽になりたかった。

 スケッチブックに今まで悩んでいたことを書き、ルシフに見せた。三十近い男がこんな子どもに何を期待しているのかと自虐的な気分になりながらも、ルシフの言葉を待った。

 

『くだらん。剄は剄。使う者が剄に意味を与える。例えば俺が〝剄は人を救う力だ〟と言ったとして、お前は納得できるのか?』

 

 納得できる筈がない。救ったどころか、苦しませてきただけだった。

 

『お前の気持ちも多少分かる。強大な力は、それ相応の責任がともなう。どんなに嫌でもな。お前は剄の制御をできるようになれ』

 

 確かに言う通りだ。莫大な剄量があるというだけで、周囲に迷惑をかけ続けてきたのだ。剄を抑える努力はしても、剄を細かく制御する努力はしなかった。だから感情が高ぶったあの瞬間、汚染獣だけでなく武芸者も巻き込んでしまった。

 だが、剄の制御など覚える気にならない。誰がなんと言おうと、こんな力は壊すだけの力だ。壊して、何か残るものがあるのか。何か生み出せるのか。

 黙ったままでいると、ルシフが愉快そうに笑った。

 

『そういえば、俺も壊したいものがあるんだ』

 

 スケッチブックに『何を?』と書き、ルシフに見せた。

 

『世界』

 

 ルシフの返答に、ぎょっとした。世界を壊す。そんなことができるのか。

 

『なあ、俺とともに世界をぶっ壊してみないか? ぶっ壊して、都市間戦争や汚染獣の脅威のない世界を新しく作ろう』

 

 俺は戸惑っていた。

 世界を壊して、何が残るのか。世界を壊して、新たに何かを作れるのか。こんなただ破壊して無に返すだけの力に、意味を見出だせるのか。

 不思議と、身体は熱くなっていた。都市間戦争や汚染獣の脅威がない世界。そんな世界を作るために破壊が必要だというなら、自分の力が役に立つ。こんなどうしようもない力で大勢の人を救えるのなら、この力を好きになれるかもしれない。

 俺は頷いた。

 

『おい、こういう時ぐらい返事をしろよ。喋れないわけじゃないだろ?』

 

 ルシフが不愉快そうに言った。

 俺は数秒ほど声を出すのを躊躇ったが、覚悟を決めた。

 

『はいッ!!』

 

 俺の声は雷鳴のように都市全体に響き渡り、剄が声に乗って都市全体に衝撃波が走る。

 その衝撃波をルシフの剄が都市上空に逃がした。上方向の風が吹き荒れる。

 俺はぽかんと口を開け、その光景を見ていた。

 

『安心しろ。破壊してはならないものを破壊しそうになった時は、俺がお前を止めてやる。だがお前もそれに甘えずに、剄の制御ができるようになれ』

 

 ふと、心にくるものがあった。誰も自分を止めてくれようとはしなかった。誰もが俺を遠ざけ、まるで腫れ物にでも触るような扱いをしていた。武芸者になってからも、どことなく距離を置かれていた。

 俺もいつか、同じ言葉をこの子に言えるようになりたいな。

 涙が両目に溜まっていた。

 この子と共に歩けば、ただ破壊するだけの力に意味があるのかどうか、答えを見つけられるかもしれない。

 ルシフは風に髪を遊ばせ、笑みを浮かべる。

 

『なかなか気持ちの良い返事だったぞ。これからよろしくな』

 

『はいッ!!』

 

 再び都市全体に声が響いた。

 衝撃波をルシフが上空に逃がす。

 逃がした後、ルシフが俺を睨んだ。

 

『……おい、いい加減にしとけよ』

 

『はいッ!!』

 

 再び起こった剄の衝撃波。それをルシフがまた逃がす。

 そんなバカらしいやり取りが、何故かとても心地よかった。

 

 

 

 現実に意識を戻し、サナックは微かに笑みを浮かべた。

 剄の制御はできるようになったから、スケッチブックはもういらない。声で会話できる。しかし、スケッチブックでの会話が癖になってしまっているため、今も声ではなくスケッチブックに文字を書いて会話をしている。

 放浪バスが都市に到着した。

 

「サナックさん! 都市に到着しました!」

 

 サナックは腕章を一瞬見る。少し暗い茶色の腕章だった。放浪バスに乗っている全員が同じ色の腕章をしている。

 サナックはスケッチブックにペンを走らせ、到着を伝えた隊員に見せる。

 

「バルザック隊! 戦闘開始!」

 

 隊員はスケッチブックを見て頷いた後、そう叫んだ。

 

「行くぞ!」

 

 隊員たちの声を聞きながら、サナックが先頭に立って外に飛び出していった。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 オリバが放浪バスの中、瞑目している。思い出すのはルシフと初めて出会った日。

 

 

 

 地獄を生きている。

 自分のやっていることを思い返しながら、そう思った。

 都市は汚染獣の脅威もあるが、一番の脅威は都市間戦争だった。汚染獣は五十年以上生きてきて一度も見たことがないが、都市間戦争は数年ごとに必ず起きるのだ。

 都市間戦争は敵対都市の旗を奪えば終わるが、わしは敵都市の優秀な武芸者を優先的に殺していた。将来的に強くなりそうな武芸者を見つけても、同じく殺そうとした。

 都市間戦争は似たような特色の都市が基本的に相手となるため、再戦しやすい。脅威になりそうな武芸者を殺しておけば、再戦した時の勝率は高くなる。

 武器は鎚を使っていたのと、将来有望な武芸者を殺して出る杭を打っていた事実から、都市民に『釘打ちのオリバ』と呼ばれた。

 自分のやっていることは自都市を長く存続させるために必要なことだ。やりたくないが、仕方ない。これこそ武芸者として、都市の守護者として正しい在り方。

 だが敵対都市の滅びを早め、将来有望で未来のある若者の命を潰しているのも事実。

 自分の進んできた道を振り返り、叫び声をあげたくなる時がある。若者の血で濡れた道。可能性を潰し続けた道。そしてこれからも、若者の血で濡らしていく道。

 自分の生きる道は地獄だ。きっとろくな死に方をしないだろう。

 ある日、イアハイムと都市間戦争になった。

 イアハイムは優秀な武芸者がそれなりにいる都市だったと何十年も前の記憶から引っ張り出した。

 イアハイムとの都市間戦争で一番驚いたのが、武芸者の少なさである。こちらの十分の一程度しかいなかった。その内の半分は赤装束を着ていて、黒装束を着ている少年もいた。

 こちらの武芸者はイアハイムを舐めていた。敵があまりに少なく、見た感じ子どもも交じっている寄せ集めに見えたからだ。

 だが都市間戦争が始まったら、そんな感情はどこかに吹っ飛んでいた。赤装束の一人一人がとてつもなく強い武芸者で、一人に十人の武芸者が束になってかかっても倒せないのである。そんな猛者が完璧な連携をして闘うのだから、到底こちらに勝ち目はなかった。

 勝ち目は無くても、次勝つために優秀な武芸者は殺さなければ。

 敵には優秀な武芸者しかいなかった。殺す相手を見つけるのは簡単だった。

 だが深手は負わせても、止めを刺す前に連携で防がれた。

 そうこうしている内にいつの間にか周囲にいる味方は全員倒され、自分も囲まれて叩き伏せられてしまった。

 今度は、自分の番か。

 そう思った。今まで自分がやってきたように、再戦した場合の勝率を上げるため、自分を殺すだろう。

 悔いはなかった。自分のやってきた報いがきた。ただそれだけの話だ。やっと楽になれる。

 しかし予想に反して、殺されなかった。倒れている間に都市間戦争終了のサイレンが鳴り響き、イアハイムが勝った。

 周囲にいた赤装束の者たちはサイレンを聞くと、錬金鋼を戻してイアハイムの方に歩き出した。

 彼らの後ろ姿を唖然と見送っていると、念威操者が被害を知らせてきた。

 

『負傷者は多数いますが、死者は両都市とも出ていません』

 

 その報告を聞き、耳を疑った。

 相手の死者はともかく、こちらに死者が出ていないのは不自然だった。相手の武芸者の実力なら、こちらの武芸者三割を死者にかえてもおかしくなかったのだ。

 気付いたら、走り出していた。

 走って赤装束の者たちを追いかけた。

 誰かの指示で意図的に殺しを禁じなければ、こんな結果にはならない。一体誰がどういう考えでこんな指示を出したのか。

 自分とはまるで正反対。そんな相手の思考を知りたくなった。

 赤装束の者に話しかけて不殺の指示を誰がしたのか訊いた。

 赤装束の者は困ったような顔をしながら、指を差した。指を差した先には、黒装束の少年がいる。こちらの都市旗を持っていた。

 黒装束の少年に近付く。

 少年はとてつもなく威圧的で暴力的な剄を纏っていて、少年の前では平常心でいることすら体力が必要だった。

 

『一つ、お訊かせ願いたい』

 

『なんだ?』

 

『何故不殺の指示を出されたのか。殺さなくても勝てるという自信からですかな? それとも、もうわしらの都市との再戦はないと判断したからですか?』

 

『旗を取れば戦争は終わるのに、何故殺さなくてはならない?』

 

 かっと頭に血が上った。

 その旗は都市の生命線であるセルニウム鉱山の所有権でもある。だからこそ武芸者は死ぬ気で旗を守るのだ。旗を取れば戦争は終わりなどと、軽々しく口にするものではない。

 少年の言葉に心底がっかりした。もしかしたら、地獄から抜け出すきっかけが掴めると思ったのに。

 少年に背を向け、歩き出した。

 

『待てよ、オリバ・ヒューイ。いや、《釘打ちのオリバ》と言ったほうがいいかな?』

 

 背後から聞こえた少年の声に、思わず振り返った。

 わしを知っている? 都市の情報が漏れたのか? そういえば、数年前に都市の資料を買い集めて去っていった旅行者が何人かいた。

 

『貴様は優先的に優秀な武芸者を殺しているそうじゃないか。楽な生き方でさぞ退屈な人生なのだろうな』

 

『楽な生き方? 何を抜かす!? 何も知らん子どもがしたり顔で言いおって!』

 

 どれだけ苦痛にまみれて生きてきたと思っている。どれだけ悪夢を見てきたと思っている。わしのことを何も知らんくせに、偉そうに。

 

『楽だろ? 自都市の武芸者を育てなくても、敵都市が弱くなればいい。それで敵都市が滅びても、都市間戦争する相手が少なくなるだけで好都合。そうやって自都市のことしか考えなくていいんだからな』

 

『それの何が悪いという!? 武芸者とは自都市を守る存在なのだ! 他都市のことなど考えていては、こちらが滅ぼされる! そういう世界でわしらは生きておるのだ!』

 

『だったらその世界を破壊するために闘えばいいだろう!』

 

 少年の強烈な一喝。

 それは血が上っていた頭を急速に冷やした。

 

『……なんと言った?』

 

『耳が遠いのか? 何度でも言う。世界を破壊するために闘えばいい』

 

『都市間戦争を無くすとでも言うのか? バカバカしい夢を見れるのは子どもの特権じゃな』

 

『無くせる。俺にはその自信がある』

 

 戸惑った。

 真っ直ぐな目をしている。からかっている様子も、夢想に囚われている様子もない。確固とした自信に満ち溢れた目。

 本気で、そんなバカげたことを言っているのか?

 

『オリバ・ヒューイ。貴様は平凡でつまらん生き方しかしていない。人として生まれたからには、とてつもない理想を抱き、全力で生きてみたいと思わないのか? 楽な道より、苦しい道こそ行くべきだろう?』

 

 心が動いた。

 理想。そんなものは無かった。あったのはただ自都市を存続させたいという執念のようなものだけだった。

 歳をとればとるほど、執念に囚われたような気がする。犠牲にしてきた若者たちの命を無駄にしないように、より一層自都市の存続に囚われていった。

 だが、少年の見下したような言い方は腹が立った。だから、少し嫌味を言おうと思った。

 

『よく楽な道には罠があるというが、苦しい道にも同様に罠があるとわしは思うがな』

 

 少年は不敵に笑った。

 

『楽な道に罠があれば罠があったと騒ぎ、他人のせいにして歩みを止めてしまうだろう。だが苦しい道に罠があったところで、それがなんだ? それも道の一つとして、乗り越えようと考える。いいか? 心構えの問題なんだよ、これは。予期せぬ問題に目を閉じ耳を塞ぐか、立ち向かっていくか。だからこそ、苦しい道を選べる人間は精神的に成長するのだ』

 

 苦しい道にある罠も、道の一つ。

 そんな考え方ができるのか。

 今までの人生で、わしはどうだった? 世界はこうだから、自都市を守るためには仕方ないから。そう言って自分のやっていることを正当化し、世界のせいにしていなかったか。苦しい道を選んだつもりでも、楽な道に逃げていなかったか。

 

『……あなたの名前は?』

 

『ルシフ・ディ・アシェナ』

 

『ルシフ殿。老骨ではあるが、貴殿のために闘わせてくれぬか?』

 

『俺が行く道は地獄の道。覚悟を決めてから来い』

 

 ルシフの言葉がおかしくて、微かに笑みを浮かべた。

 ルシフが怪訝そうにわしの顔を見る。

 地獄なら慣れている。ずっと地獄の中を生きてきたのだ。だがルシフの地獄の方が魅力的に見えた。

 

『お供いたす。地獄の果てまで、ルシフ殿にお供いたす』

 

『そうか。これからよろしくな』

 

『はっ』

 

 片膝をつき、頭を下げた。

 結婚はしていなかった。妻や子どもを悪く言われるかもしれない。もしかしたら他都市の武芸者が報復にくるかもしれない。そう考えたからだ。

 今までずっと、可能性を潰す闘いをしてきた。これからは違う。可能性を育てる闘いをしよう。それこそ本当の意味での罪滅ぼしであり、自分のような武芸者を作らない方法でもある。

 イアハイム目指して、ルシフや赤装束の者たちの後ろを歩く。何故か世界に色彩が満ちたような錯覚をした。

 

 

 

 オリバはゆっくりと目を開けた。

 ルシフを信じ、どこまでも付いていく。地獄だろうがそんなものは関係ない。

 昔より今の方がずっと生きがいがある。それだけでも、ルシフに出会って良かったと思う。

 放浪バスが都市に到着した。

 オリバの腕章は灰色だった。全員が灰色の腕章をしている。

 オリバはまだ完治していない左腕に意識をやった。まだ左手は痛む。が、武器を握れないほどの痛みでもない。

 錬金鋼を剣帯から取り出し、立ち上がる。

 

「グレイ隊! 地獄にゆくぞ!」

 

「はい!」

 

 隊員たちの返事が重なった。

 オリバは錬金鋼を復元しながら、都市の地面に立った。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 予定外の事態が起きた。

 ヴォルゼーは眼前に立っている男を楽しげに見ながら、そう思った。

 この都市も計画通り、楽に制圧できる筈だった。

 内通者も五人潜り込むことに成功し、味方を増やしていた。

 ましてや自分率いるスカーレット隊がこの都市の制圧任務をやるのだ。苦戦など、起きうる筈もない。余談だが、スカーレット隊だけは腕章をしていなかった。腕章をしていないことこそが目印なのだ。

 苦戦する筈がないのに、実際は苦戦していた。潜りこんでいた内通者は上手く誘い出されて捕らえられ、内通者が味方にしていた者たちも全員拘束されていた。

 全て、眼前にいる男の指示だったようだ。

 エルラッド・エリプソン。傭兵。ヴォルゼーは知る由もないが、シャーニッドの父親である。

 顔は整っていて、長身で筋肉質な肉体をしている。汚れた旅衣を纏っていた。

 この都市がたまたまこの男を武芸者の指導と都市の防衛のために雇ったのが、計画が崩れた始まりだった。

 内通者が殺されなかったのは、本当に悪いのかどうか判断できなかったからだ。内通者は別に思想を口にするだけで、しっかり働いていた。その思想に感化される武芸者が出始めていたため、エルラッドはきな臭いものを感じてなんとなく捕らえただけだった。

 

「なあ、姉ちゃん。とりあえずここは退いた方がいいんじゃねえか? 勝ち目ねえぞ」

 

「退く場所、あるかしら?」

 

 ヴォルゼーたちは十人程度で固まって外縁部付近にいる。その固まりを千人以上の武芸者が包囲していた。

 絶体絶命の死地の中にいる形なのだ。逃げられる状況ではないし、逃げるつもりもない。

 

「錬金鋼を捨てて地面にひれ伏せば、このままあの放浪バスで帰してやるよ。都市を奪いにくるなんて考える奴がいるとは思わなかったが、その人数でできると思ったのか? なんというか、若いな」

 

「へぇ、錬金鋼を捨ててひれ伏せば逃がしてくれるのね」

 

 ヴォルゼーは手に持つ青龍偃月刀を放り投げた。偃月刀が宙を舞う。武芸者たちの視線が偃月刀を追いかけた。エルラッドだけが、ヴォルゼーから視線を逸らさない。

 地面にしゃがむように動きながら、剄を解放した。剄の鞭が全方位に放たれ、包囲していた最前列は吹き飛んだ。

 

「あー……こいつ、やべえな」

 

 エルラッドだけが後方に跳躍し、剄の鞭をかわしていた。武芸者の肩の上に乗っている。

 エルラッドはそのまま殺剄を使用し、気配を消した。

 ヴォルゼーは放り投げた偃月刀を掴み、一閃。刀身の剄を衝剄に変化させ、衝撃破を放った。ヴォルゼーの前方にいた武芸者が軒並み吹っ飛ばされていく。

 殺気。

 ヴォルゼーは偃月刀を振るい、殺気を弾いた。弾丸。弾丸が飛んできた先にはエルラッドが狙撃銃を構えている。再びエルラッドは殺剄を使用し、武芸者の集団の中に紛れていった。

 ヴォルゼーの攻撃を合図に、隊員たちも攻撃を始める。そもそも何故わざと包囲させたのか。そうした方が一度に闘う人数を減らせるからだった。

 攻撃を続ける合間合間に、エルラッドは銃撃をしてきた。攻撃後の僅かな隙を正確に突いてくるため、隊員たちも鬱陶しそうにしている。

 ヴォルゼーはもうエルラッドの剄を記憶していた。剄の感知力には自信がある。

 

「聞きなさい! 武芸者たち!」

 

 ヴォルゼーの叫びに戦闘の音が消え、全員がヴォルゼーに視線を向けた。

 

「わたしはヴォルゼー・エストラ! 剣狼隊最強の武芸者よ! わたしを殺せる自信がある者は、早く殺しにこい!」

 

 剄を全身から迸らせ、雷に変化させる。

 青龍偃月刀を振るう動作に合わせて、雷を刃に乗せた。

 全方位に雷の狼が放たれたように雷は武芸者の集団の中に食らいつき、昏倒させ、また次の獲物を探して外縁部を突き抜けた。

 突き抜けた後は、何百という武芸者が倒れていた。立っている武芸者は包囲の後列にいた武芸者だけで、彼らの前方が倒れた武芸者で埋まっているような状態だった。

 

「ひっ……!」

 

 一気に恐怖に支配され、後列の武芸者たちは二歩、三歩と後ずさる。

 

「おいおい、あの姉ちゃん化け物かよ。やってらんねえな、こりゃ」

 

「そう? もっと楽しませてよ」

 

「……ッ!」

 

 外縁部付近の建物に身を隠していたエルラッドが、勢いよく距離を取って振り返る。

 ヴォルゼーが楽しげな笑みを浮かべながら、青龍偃月刀を肩に預けていた。雷の光に紛れて移動したのだ。

 

「これは驚いた。よく分かったな」

 

「あなたの剄は覚えたもの。殺剄でも、全く剄を感じさせなくすることはできない。本当に少しだけど剄の気配があるのよ」

 

「あー……そうか」

 

 エルラッドはこの瞬間、凄まじい速さで思考していた。

 エルラッドは倍力法という、違法酒のように剄脈を一時的に暴走させて、一定時間爆発的に剄を増幅する技が使えた。

 だが倍力法を使ってこの場から逃げたところで、殺剄で殺した気配すらも感知できるとなると、逃げ切れない。

 都市外に逃げようと思っても、放浪バスに乗ることが必須で逃げるのに手間取る。

 あれだけの人数で囲んでダメだった時点で、戦闘行為は論外。

 となれば最適解は──。

 エルラッドはおもむろに狙撃銃を錬金鋼に戻し、両手をあげた。

 ヴォルゼーが僅かに不機嫌そうな表情になる。

 

「なに? 降参ってこと?」

 

「そう。これ以上やっても無駄だ。姉ちゃんの実力を見誤ったおれのミス。素直に負けを認めるぜ」

 

「つまらないわね」

 

 青龍偃月刀でエルラッドを打った。エルラッドは意識を失い、その場に倒れる。

 その後は迅速に都市を制圧し、捕らえられていた仲間や武芸者を解放した。

 次にルシフのグレンダン蹂躙映像を都市民に観せ、抵抗する気力も完全に奪った。

 ヴォルゼーは都市旗のある建物の屋上から、遥か遠くを眺めている。ヴォルゼーの隣には都市旗が立てられていた。

 ヴォルゼーはルシフの同志になった時を思い出していた。

 何度ボロボロにしても完治すると挑戦と勧誘をしてくるルシフに根負けして、三つの条件を受け入れるなら仲間になってやってもいいと言った。

 一つ目は、わたしが望んだらいつでも本気の殺し合いをすること。

 二つ目は、本気の殺し合いの決着はどちらかが相手を殺すこと。

 三つ目は……。

 ヴォルゼーの脳裏に、ルシフに言った言葉が甦る。

 

『ヴォルゼーを、お星さまにしてくれる?』

 

 ルシフはその言葉を聞き、少し考えた後承諾した。

 適当に承諾したなら殺そうと思って、どういう意味か分かるか、と尋ねた。

 それに対するルシフの返答を聞いて、この子になら力を貸してもいいかな、と思った。

 ヴォルゼーは夜空を見上げる。

 きらきらと星の光が煌めいていた。

 わたしもああなれるだろうか。夜空を照らす星の一つに。

 気配がヴォルゼーの背後に現れた。

 

「今度は何?」

 

 振り向きもせず、ヴォルゼーは言った。

 気配の主はエルラッド。

 

「おれを雇ってみないか? サービスしとくぜ。今ならおれとのデート付きだ」

 

「とりあえずここから飛び降りて頭をぶつけてくれない? 話はそれからね」

 

「冷てえな。ま、冗談はさておき、どうよ?」

 

「考えておくわ。わたしだけじゃ決められないから。だけど、あなたの実力なら雇う価値はあるかもね」

 

「期待して待ってるぜ、姉ちゃん」

 

 エルラッドの気配が遠ざかった。

 ヴォルゼーはしばらく夜空から視線を逸らさなかった。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 学園都市ツェルニはルシフ入学前の状態に戻りつつあった。

 武芸科の上級生は偉そうに歩き、ちょっとしたいざこざが頻発しながらも、学生たちはツェルニで暮らす時間を満喫していた。

 カリアンも生徒会長室で雑務を片付けている。平和な時間を過ごしていると言ってもいい。

 そんな時間を、一瞬で破壊する出来事が起きた。

 ツェルニ上空から、生体反応が突然現れたと念威操者から報告があったのだ。

 カリアンは窓を開けた。都市長室前にある建物の屋上に人影が着地。見たことのある顔。

 

「まさか……」

 

 カリアンは己の目を疑った。幻にしか見えなかった。

 

「久しいな、カリアン」

 

 偉そうな物言いに、この声。

 間違いない。戻ってきたのだ。ルシフ・ディ・アシェナが。このツェルニに。

 念威操者が都市全体にルシフの来訪を知らせた。

 ツェルニの学生たちはルシフの姿を見ようと次々に外に出てきた。ルシフのいる建物の周りにはもう学生たちが集まっていた。

 ルシフは建物から飛び降り、地面に着地。

 学生たちから歓声があがる。

 

「おい、久しぶりじゃねえか!」

 

 学生たちは次の瞬間起こったことを理解できなかった。

 馴れ馴れしく話しかけた男子生徒がルシフに殴られ、建物に叩きつけられて気を失ったのだ。

 歓声が消える。

 その場に集まった学生たちから血の気が引いていく。

 以前のルシフなら、馴れ馴れしく声をかけられたくらいで殴らなかった。一体ルシフはどうなってしまったのか。

 

「貴様らの選択肢は二つ」

 

 しんと静まった空間の中、ルシフが口を開いた。

 

「俺に服従するか、服従するまで痛めつけられるか。どちらでも好きな方を選べ」

 

 ルシフの全身から威圧的で暴力的な剄が放たれている。

 ツェルニの全学生が、この時理解した。自分たちはいつの間にかルシフの敵になっているのだと。

 ルシフの敵になったものの末路は、ツェルニの学生誰もが知っている。

 ルシフの周囲に集まった学生たちはガタガタと身体を震わせた。

 

「ルシフくん! 学園都市ツェルニは君に服従する! それでいいだろう!」

 

 生徒会長室の窓からカリアンが顔を出し、必死に叫んだ。

 ルシフは唇を歪める。

 

「ああ、それでいい」

 

 ルシフは僅か数分足らずで、学園都市ツェルニを服従させた。もう誰もルシフの進撃は止められない。



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第80話 世界への答え

 窓から差し込む日の光が眩しかった。

 ルシフは起き上がり、辺りを見渡す。アシェナ邸の自室だった。

 

 ──……違和感があるな。

 

 どこに、と訊かれたら答えられないが、確かにこの光景には違和感がある。何か忘れているような……。

 

「ルシフさん! おはよう!」

 

 寝室の扉が開かれ、マイが入ってきた。マイの弾けるような笑顔を見て、ルシフも微かに笑った。

 

「おはよう、マイ。やけにご機嫌だな」

 

「当たり前! 忘れたの? 今日は私たちの結婚記念日よ!」

 

「ああ、そうか。今日は結婚記念日か。……ん? そう言えば、今日って何日だ?」

 

 何故か、結婚記念日が思い出せなかった。結婚記念日を忘れるなど、夫として最低だな。待て、俺は結婚していたか?

 

「今日が何日かなんてどうでもいいでしょ! ご飯できてるから、一緒に食べよ?」

 

 マイがルシフの手を引っ張った。ルシフはマイに引っ張られるがままにベッドから降りた。

 

「そうだな、今日が何日かなんてどうでもいいな」

 

 広間に行き、ルシフはマイとテーブルに座った。ルシフの両親のアゼルとジュリアも座っている。

 

「ルシフ。お前はいつまでマイに迷惑をかけるつもりだ? いい加減一人で起きれるようになれ」

 

「うるさいな。別にいいだろ」

 

「お義父(とう)さま、いいんです。私が好きでルシフさんを起こしてるんだから」

 

「そうよ、アゼル。ルシフはマイに起こしてほしくてわざと起きないだけよ。ねえ、ルシフ?」

 

「そんなんじゃない」

 

「あらあら、素直じゃないわね。誰に似たのかしら?」

 

「誰だろうな」

 

 そこでテーブルに笑いの渦が生まれた。マイも、父も、母も、そして俺も。みんなが笑っている。

 楽しい時間。いつも通りの日常。なのに、何故違和感を感じる? 何故涙が出そうになる?

 

「ん? どうしたんだルシフ? 全然食べてないではないか」

 

「……ちょっと考え事をしてた。何か忘れているような気がするんだ」

 

「忘れてるって何を?」

 

「分からない。分からないが、忘れてるってことだけは分かる」

 

 何かがおかしい。何かが決定的に違う。思い出せ。何が違う?

 

「ルシフさん、忘れてるってことはどうでもいいってことでしょ? 今が幸せならそれでいいじゃない。四人で幸せに暮らしていれば、それで」

 

「それもそう……ッ!」

 

 ルシフは頭を右手で押さえた。

 思い出した。父アゼルは死に、母ジュリアには絶縁された。

 ルシフはテーブルに座っている両親を見た。二人とも笑みを浮かべている。

 だとすれば、これは夢か?

 ルシフは顔を俯けた。夢なら、謝れる。

 

「父上、母上。ごめ──」

 

 途中で、口を閉じた。謝って、なんになる? ずっと背負っていくと決めた罪じゃないか。謝って、許してほしいのか? それは違うだろ。

 両親は何も言わない。ただ笑みを浮かべたまま、ルシフを見つめている。

 

「ルシフさん、いきなりどうしたの? 熱でもあるのかな?」

 

 マイがルシフの額に右手を当てた。

 次に、マイがルシフの額と自身の額を合わせる。

 マイの体温を感じた。夢なら、あと少しだけこのまま……。

 

「ごふッ!」

 

 マイがいきなり口から血を吐き出した。

 ルシフの右手がマイの身体を貫通している。

 

「ああああああああッ!」

 

 ルシフが叫び声をあげながら、右手をマイの身体から引き抜いた。右腕から右手の指先まで血で染まっている。

 引き抜いた右腕がまるで別の生き物のようにルシフの意に反して動き、再びマイの身体を貫通した。

 

「ああ……ああ……」

 

 マイの身体から血が流れていく。顔から生気が失われていく。

 ルシフは右腕を引き抜き、マイの身体を両腕で抱きしめた。

 

「……守る。俺が守る、必ず」

 

「……ウソつき」

 

 ぐったりとしているマイの首から炎が噴き出した。

 ルシフは思わずマイから離れる。

 マイの首から噴き出した炎が、マイの全身を包んだ。

 

「守れなかったくせに……傷つけたくせに……」

 

「……やめろ」

 

 マイがルシフに詰め寄り、ルシフの両肩を掴んだ。

 

「ルシフさまは私を守ってくれなかった!」

 

 マイの全身を包む炎がルシフにも燃え移り、ルシフの全身も炎に包まれた。全身に激痛が走る。

 

「やめろおおおおおおッ!」

 

 マイの顔が炎で崩れ、頭蓋骨が見えてくる。

 

「ああああああああッ!」

 

 

 

 ルシフはベッドで勢いよく上半身を起こした。

 荒く何度も呼吸する。左手で右腕を押さえた。右手の五指をゆっくりと動かす。

 自分の意思通り動くのを確かめると、ルシフは再びベッドに寝転がった。激しい頭痛に顔をしかめる。

 目覚まし時計が鳴った。

 

「おはようございます、陛下」

 

 シェーンが入ってきて、ルシフに近付いてくる。

 

「近寄るな!」

 

 ルシフが怒鳴り、シェーンがびくりと身体を硬直させた。

 ルシフはハッとした表情になり、シェーンから視線を逸らした。

 

「もう起きている。ここでお前がやることは何もない。外で待っていろ」

 

「……はい、失礼をいたしました」

 

 シェーンが部屋から出ていった。

 

《ルシフ、どうした? 毎日のようにうなされておるぞ》

 

「なんでもない。心配するな」

 

 激しい頭痛があるが、頭は押さえなかった。右腕をちらりと見る。何度も自分の意思通り動かせると確かめたから、問題ないはずだ。

 

《汝がそう言うなら、我はもう何も言わん》

 

 それから朝食を食べ、書斎に行った。

 僅か数日でグレンダン以外の全都市を支配下に置いた。『縁』を移動に利用していたため、移動時間は無いに等しかったのだ。

 グレンダン以外の全都市が支配下になっていることは、少し前までは自分しか知らなかった事実だが、今は違う。ヨルテムに従うように、ヨルテムを多数の都市が群れをなして追従しているのだ。

 ヨルテムの都市民が外縁部に集まり、その光景を愕然と見ている、と念威端子から報告があった。彼らはその瞬間、理解したのだろう。他都市も自都市と同様に制圧され、奪われたのだと。

 学園都市連盟や民政院といった、都市を越えて影響を及ぼす組織や政治に介入してくる組織はすべて解体した。民政院を解体した時は「誰のおかげで王になれたと思っている」などと言ってきた奴がいたが、気にも留めなかった。都市民の意思を体現するのなら、都市民に直接選ばせればいい。わざわざ政治家を選び、政治家が集まって王を決めるという時点で、誰を王にするかコントロールしやすくしているのは分かり切っていた。そんな組織はいらない。

 使っていない天剣は錬金鋼メンテナンス室に保管した。毎日ハントがよだれを垂らして解析しているだろう。

 学園都市以外の各都市でヨルテムと同様の民政をやり、各都市で武芸者でなくなった者の大量自殺が相次いで起こった。一家心中したところも多数あった。

 武芸者でなくなった者が死ぬのは因果応報だと思うが、一家心中に巻き込まれて死んだ家族には申し訳ない気持ちになった。彼らは理不尽に殺されたのだ。もしかしたら自分の意思で共に死ぬことを選んだ家族もいたかもしれないが、大半は一方的に殺された家族だろう。

 無論剣狼隊が独断でやったという形で、弔慰金や葬儀金の手配をした。各都市で貧窮している孤児院や養護施設への援助も剣狼隊が勝手に動いてやったことにしている。

 当然その罰として、剣狼隊を激しく痛めつけた。エリゴなど一部の剣狼隊に対しては片腕を切り飛ばした。切り落とした腕は消滅させなかったため、その後病院に行って元通りになった。

 エリゴが腕を切り落とされたのを見て、激怒した者がいた。レオナルトだ。

 レオナルトは「いい加減にしろよ、この野郎!」と謁見の間の多数の人が見ている前で怒鳴り、「もう剣狼隊なんざやってられるか!」と叫びながら赤装束を脱いで床に叩きつけた。

 王としての威厳がある。多数の人が見ている中で反抗的な態度をとったなら、罰を与えなければならない。

 レオナルトを徹底的に痛めつけた。周りで見ている者の顔が青くなっているのも気にせず、痛めつけ続けた。途中で周囲の剣狼隊が割って入り、必死に許しを請うてきたので、そこで痛めつけるのは止め、レオナルトに剣狼隊からの除隊を命じた。周囲の剣狼隊が必死に取り消してほしいと嘆願していたが、無視した。

 レオナルトは一言も反論を言わず、ボロボロの身体を引きずって謁見の間から出ていった。

 あれがレオナルトの良いところだ、とルシフは思った。レオナルトは嘘をつけない実直な男で、裏表が無い。本音を口にする。あれを見て、都市民は演技をして対立しているよう見せかけているとは思わないはずだ。

 レオナルトの除隊は痛いが、ここで耐えきれなくなるなら剣狼隊は荷が重すぎる。

 夜誰にも見られないように注意しながら、エリゴや腕を切り落とした隊員のところに見舞いに行ったりもした。そこでエリゴや隊員たちの採寸を取り、新しい装束を作らせるよう手配もした。

 毎日激しい頭痛と高熱があった。ときどき猛烈な吐き気に襲われ、トイレで嘔吐した時もある。その度にメルニスクが心配してきたが、なんでもないといつも言い返した。

 誰かに心配されるのは腹が立った。何故史上最強で最高の人物が心配されるのか。他人に気遣われるほど、俺は弱くない。俺は強く在らねばならない。

 書斎で書類を片付けていると、念威端子が飛んできた。

 

『陛下! マイちゃんがまた血を流して床に……!』

 

「なんだと!?」

 

 勢いよく椅子から立ち上がった。頭痛が更に激しくなり、一瞬立ちくらみを起こした。執務机に右手を置き、倒れないよう身体を支えた。

 

『陛下!? 大丈夫ですか!?』

 

「俺を気遣うな!」

 

『……も、申し訳ありません』

 

「……剣狼隊にマイを病院に運ばせろ。俺は人目が無くなったら見舞いに行く、とマイに伝えろ」

 

『はい、分かりました』

 

 念威端子が去っていく。

 ルシフは書斎の扉を閉めた。

 剣狼隊と対立しているよう見せかけているのに、表立って見舞いに行ったら台無しになる。誰からも剣狼隊を気遣っているのを見られないように、誰からも剣狼隊と親しくしているのを見られないように。

 すぐにマイのところに行けないもどかしさや苛立ち、そういう感情がルシフの中で暴れ回っている。

 執務机の上に透明のコップが置いてあるのが視界に入った。

 ルシフはコップを右手で取り、感情に任せて床に叩きつけた。コップは粉々になり、床に透明な破片がばらまかれた。

 

《ルシフ……》

 

「なんだ? 何か言いたいことでもあるのか!?」

 

《……いや、何もない》

 

「何もないなら話しかけてくるな!」

 

《すまん》

 

 ルシフは視線を床に落とし、粉々になったコップを見た。

 何をやっているのだ、俺は。メルニスクにも当たり散らして、情けない。

 だが、メルニスクに対して謝罪の言葉はどうしても口にできなかった。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レオナルトはイアハイムにある自宅に戻っていた。

 以前はヨルテムからの都市間移動を禁止されていたが、ヨルテムにグレンダン以外の全都市が集結したら、グレンダン以外の都市への移動が許可された。それにより、増え続けていたヨルテムの宿泊者も一気に減り、通常の住民数に戻っていた。

 ボロボロの身体で帰ってきた時、嫁は激怒した。一体何をやったのか、何故赤装束を着ていないのかなど厳しく問いただされた。

 それらの問いに対して正直に答えると、嫁は黙りこんだ。

 ルシフと喧嘩してから、もう二週間が経過していた。

 その間、剣狼隊の連中が日に何人か訪れて、剣狼隊に復帰するよう説得してきた。すべての誘いを俺は断った。

 毎日二時間程度鍛練しては、家でぼんやりと窓から外の景色を見ている。自分の魂が無くなってしまったようで、毎日が空虚だった。

 

「……あんた、本当は剣狼隊に戻りたいんだろ?」

 

「戻りたいさ! 当たり前じゃねえか! けど、今の大将の力にはなりたくねえ!」

 

 平気で仲間を傷つける。レオナルトには理解できなかった。その傷つけられる原因はルシフの指示によるものなのだ。こんなことに何の意味があるのか。

 エリゴの腕がルシフに切り飛ばされたとき、そのストレスが一気に爆発した。ずっと溜め込んできたものを全て吐き出していた。

 呼び鈴が鳴った。

 レオナルトは嫁と顔を見合わせる。

 

「またか」

 

「あたしが出るよ」

 

「いや、どうせ俺に用だろ。俺が出る」

 

 嫁を制して、玄関に向かった。

 

「わりぃな、剣狼隊に戻る気は──」

 

「よう、レオナルト」

 

 玄関の扉を開けながら喋っていたレオナルトを遮り、訪問者が言った。

 レオナルトが目を見開く。

 

「あんたは……」

 

 エリゴが手にもつ色々入った袋を見せて、ニッと笑った。切り落とされた腕の方だ。しっかり腕は元通りくっついている。

 

「とりあえず上がらせてもらっていいか? 話は中でしてえんだ」

 

「いいぜ、あんたなら」

 

 レオナルトはエリゴをリビングに案内した。

 リビングのソファに座るようレオナルトが促すと、エリゴは一言礼を言ってソファに座った。

 レオナルトはテーブルの椅子に座り、嫁がお茶とお菓子が載ったお盆を持ってリビングに来た。

 お茶とお菓子をそれぞれの前に置いたら、嫁もテーブルの椅子に座った。

 

「ありがとよ」

 

「お礼なんていいよ。あたしの方こそ、色々貰っちまって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ありがとう、エリゴさん」

 

「気にすんなよ。赤ン坊が産まれて大変な時なんだから、これくらいなんてことねえ。むしろ育児の邪魔しちまって怒られるんじゃねえかとヒヤヒヤしてたぜ」

 

「変わらないね、エリゴさんは」

 

 エリゴと嫁が笑い声をあげた。レオナルトは笑えなかった。

 

「エリゴさんよ、俺を剣狼隊に連れ戻しに来たんだろうが、俺は戻らねえぜ。今の大将には付いていけねえよ」

 

「レオナルト、俺たちも長い付き合いだよな。もうあと二、三年経ちゃあ十年になる。今まで色々あったよな?」

 

「覚えてるよ、エリゴさん。けど、もう限界なんだ。これ以上仲間が傷つけられんのは見てられねえんだよ」

 

「甘えんなよ」

 

 エリゴの纏う雰囲気が変わった。刀剣のような鋭さを帯びている。

 エリゴの気迫に一瞬呑まれたが、レオナルトはすぐに平常心を取り戻した。

 

「甘えてねえよ! 仲間傷つけられて怒って何が悪い! 黙って受け入れられるあんたらの方が異常なんだ!」

 

「おめぇ、今まで旦那の何を見てきたんだ?」

 

「大将のやってることが間違ってるとは一度も思ったことはねえよ! けど、やり方が酷すぎじゃねえか! 俺には今の大将に従えるあんたらの方が異常に感じるぜ!」

 

 エリゴがゆっくりと息を吐き出した。

 

「レオナルト、覚えてるか? イアハイムで旦那が王になった日、旦那は俺たち剣狼隊全員の血が混じった水を飲んだ」

 

「覚えてる!」

 

「ならその時、旦那が言った言葉は覚えてんな?」

 

「覚えてるさ! 忘れるわけねえだろ!?」

 

「だったらなんでおめえは仲間が傷ついて耐えられねえなんて言ってんだ!?」

 

 レオナルトはエリゴの怒気に呑まれ、身体を硬直させた。

 エリゴはレオナルトを見据える。不意に、エリゴが表情を和らげた。

 

「旦那が言ってたろ? 剣狼隊は旦那の剣であり、手足であり、頭脳である。剣狼隊が傷つくのは、旦那が傷つくのと同義だと」

 

「……しっかり、覚えてるよ。覚えてるから、腹が立つんだ。それだけ大切に思ってるなら、傷つけなくてもいいじゃねえか」

 

「それが甘えだって言ってんだよ。俺らを痛めつける時の旦那の気持ち、考えたことあんのか?」

 

「……大将の……気持ち?」

 

「イアハイムで王になる前の旦那は、よく笑ってた。けど王になってからの旦那の笑顔はほんの少し表情を和らげるだけで、全く見てねえ。おめえはどうだ?」

 

 ルシフの笑顔。

 思い出す。だが、王になる前の笑顔しかなかった。王になってからはいつも険しい表情か無表情で、表情を緩めることもほとんど無かった。

 剣狼隊を傷付けながら、ルシフも苦しんでいたのか? やりたくないことをやらなければならない苦痛にずっと耐えていたのか?

 

「傷つく? そんな痛み、旦那の苦しみに比べりゃどうってことねえよ。俺だけじゃねえ。痛めつけられた全員がそう思ってる。旦那の苦痛に比べりゃなんでもないってな。おめえの同情は俺ら剣狼隊をバカにしてんだよ。そんなことも分かんねえのか?」

 

 レオナルトは顔を俯けた。

 仲間を傷つけられて怒りを覚えるのは、間違っているのか? 傷つけられた本人が納得しているなら、怒るのはお門違いなのか?

 

「……わりぃ。けど、やっぱ無理なんだ。仲間痛めつけられて何も感じねえなんてよ」

 

「俺らは旦那を信じてる。何十、何百回と腕を切り落とされようが、殺されようが構わねえ。それが旦那の道の助けになるなら本望ってやつだ。おめえはどうだ、レオナルト? そうやって家で力を持て余して、自分を偽って生きていくのか? グレンダン以外の全都市がヨルテムに集結した。数年前じゃ考えられねえし、実際に目にした今も信じられねえだろ。それを旦那は実現してみせた。都市が集結したところを見て俺は心から思ったね、旦那に付いてきて良かったって」

 

 レオナルトはぐっと両手を握りしめていた。

 

「……俺は……俺は……」

 

「おめえはやさしすぎる。だが強い、優秀な武芸者だ。このままその力を使わず遊ばせるのか、旦那のところで活かすのか、それはおめえ次第だ」

 

 エリゴが立ち上がり、玄関の方に歩き始めた。

 

「邪魔したな、二人とも。あ、そうそう」

 

 エリゴが振り返り、笑みを浮かべた。

 

「俺が腕をくっつけるために入院してた時、旦那が見舞いに来てな、俺はさりげなくお前のことを訊いた。そしたら旦那、なんて言ったと思う?」

 

「……剣狼隊として相応しくねえとか、使えない奴だったとか、そういうことをどうせ言ったんだろ? 確かに俺は剣狼隊に相応しくねえよな」

 

「裏表無く、自分の感情を正直に曝け出す部分がレオナルトの良いところだな、だってよ」

 

「……それ、本当に大将が言ったのか?」

 

 耳を疑った。てっきり失望されたと思っていたのだ。

 

「本当さ。信じるか信じないかはお前次第だけどな。それじゃあ、そろそろ戻るわ。待ってるぜ、レオナルト」

 

 エリゴは玄関から外に出ていった。

 レオナルトはリビングの椅子に座ったまま、動かなかった。

 ツェルニでルシフに言われた言葉が頭をよぎる。

 

『レオナルト。お前は嘘をつけない。それでいい。自然体で飾らず、俺に力を貸せ』

 

 大将。俺は、俺のままでいいのか。ありのままの俺であんたに従ってもいいのか。

 顔を上げた。嫁が赤ン坊を抱いている。嫁と目が合った。嫁の表情が綻ぶ。

 

「どうしたんだい? やりたいことを我慢するなんて、あんたらしくないじゃないか。心のままに、突っ走りなよ。あたしはあんたのそういうところを好きになったんだからさ」

 

「……ありがとよ」

 

 レオナルトは赤ン坊を見た。この子には、都市間戦争のない、人間同士で殺し合わない世界を見せてあげたい。以前、そう思った。

 自分に約束した。ルシフを守ると。ルシフの力になると。何があっても自分はルシフの味方になると。

 椅子から立ち上がった。

 

「……ったく、何やってんだろうな、俺は」

 

「いってらっしゃい。今度は途中で戻ってくるんじゃないよ」

 

「ああ!」

 

 錬金鋼を剣帯に吊るし、玄関から外に飛び出した。

 俺はルシフの行く道に希望の光を見た。だったら、最後まで信じ抜けばよかったんだ。ただそれだけの話だったんだ。

 眩しい光の中をレオナルトは走り続けた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 シェーンはヨルテムの元都市長のところに訪れていた。元都市長がシェーンら十人の少女を買った際、休みの日は一度訪れるようにと決めていたからだ。そしてルシフが何をやったか、何を話したかを教える。いってみれば内通者のような仕事を与えられていた。

 シェーンは誤魔化さず、正直にルシフのことを話した。話したところで、別に問題ない情報ばかりだった。

 元都市長はシェーンの話を聞きながら、何度も頷いていた。

 

「ふむ、なるほどな。暴君に見えるが、その実しっかり考えられた民政をしていると」

 

「はい」

 

「だが、私ならもっと優れた政治を行える。ヨルテムの都市民たちも、私が再び都市長となるのを待ち望んでおるはずだ」

 

「あの、おっしゃられている意味が……」

 

「もう十分すぎるほど時が過ぎた。そこで少し待っていなさい」

 

 元都市長は部屋から出ていき、しばらくすると小さなビンを持って戻ってきた。

 シェーンの前に元都市長がビンを置く。ビンは透明で、中身が見えた。白い粉が半分ほど入っている。

 

「これはなんですか?」

 

「毒だ。ビンに入っている量の三分の一でも摂取すれば、確実に殺せる」

 

「毒……! まさか!?」

 

「そのまさかだ。お前はかなりあの男に気に入られたらしいな。この毒を飲み物に入れて、あの男を毒殺しろ」

 

「そんな……!」

 

「いいか、これは正義の鉄槌だ! 神の天罰だ! お前の行為は誰からも賞賛され、支持される! 誰もお前を責める者などいないし、お前を怨む者もおらん!」

 

 シェーンは顔を青くして、ビンを見つめた。

 ルシフを殺す。そんなことは考えたこともなかった。

 

「お前がやれんというなら、無理にとは言わん。別の者にやってもらうだけだ。だがその場合、お前はここで事が終わるまで拘束させてもらうぞ」

 

 自分がやらなくても、自分以外の九人にやらせると言うのか。この人はなんてひどい人なんだろう。

 シェーンは少し逡巡した後、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……わたしが、やります。わたしが毒を陛下に飲ませます」

 

 元都市長がにやりと笑った。醜悪な笑みだった。

 

「よし。当たり前の話だが、監視はつけさせてもらうぞ。裏切られたらマズイのでな」

 

「はい」

 

「用はこれだけだ。戻っていいぞ」

 

 シェーンは小さなビンをスカートのポケットに入れた後一礼して、部屋から出ていった。

 シェーンがヨルテムの中央部を歩く。後ろから二人の男が付いてきていた。

 

 ──そうか。

 

 ルシフの世話をしていた時、ルシフがわたしたちに自分の食事を分け与えたり、逆に料理を作って振る舞ったりしたのは、ルシフがやさしいからではなかったのだ。ルシフはわたしたちが毒殺するための刺客ではないかとずっと疑っていたのだ。

 シェーンは軽くお腹をさすった。もしかしたら、ここにルシフの子どもがいるかもしれない。いつの間にか本気でルシフを愛していた。ルシフの子どもが欲しいと、本気で思ったのだ。ルシフは自分が父親と認めないことと、父親らしい援助は期待しないことが条件だと言い、わたしはそれでもいいと言った。

 

 ──あの人は、毒を飲んだら死ぬのでしょうか?

 

 正直死ぬイメージは思い浮かばない。

 シェーンは歩き続け、ルシフが住んでいる建物に入った。扉越しに振り返る。付けてきた男の一人が通信機のようなものに何か言っていた。

 シェーンは扉を閉めた。エントランスを抜けようと歩き出す。

 

「シェーン」

 

 前方から自分と全く同じ髪型、瞳の色、服装をしている少女が歩いてきた。

 

「一緒に陛下の部屋に行こう。ね?」

 

 そこでシェーンに電流に似た衝撃が走った。

 

「はい」

 

 そうか。この子が建物内での監視役か。

 シェーンは少女と並んで歩いた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは真夜中、マイの病室に見舞いに行った。

 マイは病室のベッドで横になっている。

 

「マイ、これで何度目だ。もっと自分の身体を大事にしろ」

 

「ごめんなさい、ルシフさま。でも気付いたらやっちゃうんです」

 

 ルシフはため息をついた。

 グレンダン以外の都市を制圧し支配下に置き、民政をやり始めてから三週間が経っている。

 マイは一週間経ってから四、五日ごとに手首を切って倒れていた。

 民政をやり始めてから、全くマイには会わなくなっていた。それがマイにとってストレスになり、自傷行為をしているらしかった。

 マイに人を付けているが、少し目を離した隙に端子で手首を切ってしまうらしい。

 ストレスで何故手首を切るのか、ルシフには分からなかった。マイは死ぬことを望んでいるとでもいうのか? いや、自分が時々会いに行っていた頃はそんなことなかったのだ。ならば、俺がいない時は存在価値を見出だせず、それに耐えきれなくなって死にたくなる、ということか。

 ルシフはマイの頭を優しく撫でた。

 

「マイ、お前はもっと自分に自信を持て。お前は優秀な人間だ」

 

「はい」

 

 それからしばらく無言で、マイの病室にいた。

 不思議とマイのそばにいると、頭痛や熱が無くなった。

 一時間ほど過ごした後、マイの病室から出た。

 

「ルシフ……」

 

 病室を出たところで、声をかけられた。

 ニーナだった。

 

「お前なら、必ずマイの見舞いに来ると思っていた。少し話がある」

 

「いいだろう。場所、変えようか」

 

「分かった」

 

 ルシフが歩き始める。ニーナがその後ろを付いていった。

 

 

 

 マイは病室のベッドで上半身を起こしていた。

 錬金鋼の杖を握っている。

 

「ルシフさま……違うんだよ。自分に自信があっても、意味ないよ。だって、どれだけ自信があったって、ルシフさまは私のそばに来てくれないもん」

 

 錬金鋼を握る手が震えた。

 どうして? どうして言えないんだろう? 自分だけを見てほしいって。自分以外の女に構わないでほしいって。ずっと自分のところだけにいてほしいんだって。

 マイの両目から涙が溢れた。

 どうして私は、こんなやり方でしかルシフさまに伝えられないのだろう? ずっと昔から一緒にいたのに、どうしてこんな……。

 涙が頬を伝い、錬金鋼の杖に落ちた。

 

 

 

     ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが選んだ場所は、都市旗がある建物の屋上だった。この建物は一番高く、外縁部の外まで見渡せる。

 

「話はなんだ?」

 

「お前に、訊きたいことがあった。お前は今のやり方が正しいと思っているのか?」

 

「正しいと思っている」

 

「一体お前のせいで何人死んだ!? これが正義だとでも言うのか!?」

 

 ニーナの全身から剄が迸り、黄金の輝きを放つ。

 

「正義? 俺は一度も正義などと言った覚えはない。自分のやっていることを正義などと言って、やっていることの責任から逃げようなどと思わない」

 

「……何? どういう意味だ?」

 

「正義ということは、間違った義が存在しているということ。正義とはすなわち間違った義を滅する行為を正当化する言葉だ。俺はそんな言葉で自分の背負うべき罪をごまかさないって言ってんだよ」

 

 ルシフが不愉快そうな表情でニーナを見据えた。とてつもなく暴力的で威圧的な剄がニーナの全身を激しく叩いている。ニーナは気力を振り絞り、必死に立っていた。

 

「……お前なら、死なせないようにできただろう? なのに、お前は……!」

 

「俺は新しく世界の枠を決めただけだ。その枠から弾かれ、生きていけないと思った奴は一人残らず死ねばいい。そんな弱者、俺の世界に必要ない」

 

「お前だけの世界じゃない! わたしの世界でもあり、生きているすべての人の世界でもある! お前は他人の意見を一切聞かず、圧倒的な力を背景に強引に物事を進める! 世界はもっとたくさんの人の意見を取り入れていくべきじゃないのか! それが自由と平等に繋がっていくはずだ!」

 

「自由? 平等?」

 

 ルシフが歩き、屋上の端に立つ。

 

「見ろ」

 

 ルシフが外縁部の方を指差した。光の群れがヨルテムに付いてくる。光の群れの正体は、多数の都市。大地を光球が埋め尽くしている。外縁部の部分は光がないためそこは真っ暗だが、各都市の形はなんとなく分かった。

 ニーナは圧倒されるような気分で、その光景を見た。

 たくさんの都市がまるで協力し合っているように、寄り添い動いている。まるで夢の中にいるような、信じられない光景だった。

 

「これが俺の世界への答えだ。お前が自由や平等などと叫ぶなら、お前の答えを見せてみろ」

 

 言葉が、出てこなかった。

 自分でもどうすればいいのか分かっていないのに、答えなど見せられるわけがない。

 

「ルシフ、一つ訊かせてくれ。お前はどんな世界にしたいんだ?」

 

「都市間戦争や汚染獣の脅威がなく、治安の悪化もない世界。理不尽な死を極力無くした世界。本気で生きたい者が生きられる世界だ」

 

 ──……ん?

 

 ニーナは今のルシフの言葉に微かな違和感を感じた。

 

「何故本気で生きたい者が生きられるようにする世界なのに、厳しく基準を決めていく? それでは、本気で努力しても基準に達しなかった人間はどうなるんだ?」

 

「それはそいつの努力が足りなかっただけだ」

 

 ルシフの言葉を聞き、ニーナはガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。

 いや、まさか……そんな人間がこの世に存在するのか?

 

 ──ルシフはすべての努力は報われると信じ切っているのではないか?

 

 ルシフはおそらく今まで努力が報われなかったことがないのだ。どんな技術も、剄技も、知識も、努力すれば遅かれ早かれ自分のものにしていたのだ。

 だから、本気で努力すれば努力が必ず報われると考えている。努力して報われないのは、努力が足りないか努力の仕方が間違っているのか、そういう努力する人間自身の問題で、才能とかそういうものは関係ない。

 もしかしたら、ルシフの思考も真実なのかもしれない。努力が報われないのは途中で諦めたか、努力のやり方が間違っているだけかもしれない。

 だがそれでも、ルシフの思考は異常。

 ニーナはルシフが創造する完璧な世界に、僅かな綻びを見つけた気がした。

 

 

 

 ニーナが屋上から去っても、ルシフは屋上の端に立って付いてくる光の群れを眺めていた。

 ルシフの隣にはメルニスクが顕現している。

 

「見ろよ、メルニスク。まるでグレンダンの方が世界の敵のようじゃないか」

 

 もうすぐだ。もうすぐ世界の全ての破壊が完了し、新たな世界へ、次のステージに行くことができる。

 

「さあ、新世界の扉を開きに行こうか」

 

 その時激しい頭痛が起こり、ルシフは左手で頭を押さえた。視線を右手に持っていく。勝手に動き出しそうな気がして、左手を右腕の方に移動させた。

 メルニスクはルシフの方に顔を向ける。ルシフは無表情だった。

 

 ──以前の、王になる前の汝ならきっと、この場所で高笑いしていただろうに。

 

 いつから、ルシフの笑顔は消えてしまったのか。ルシフの笑顔を、取り戻せる時は来るのだろうか。

 メルニスクは顔を正面に戻した。光の群れが少しずつ消えていく。各都市が灯りを消し始めたようだ。




これにて『破壊と変革の歌編』終了です。
次話から本当の最終章『新世界の扉編』が始まります。

ここまで執筆できましたのも、たくさんの方がお気に入り登録をしてくださったり、評価してくださったり、感想を書いてくださったり、何より星の数ほど作品がある中、この作品を読んでくださった皆さまのおかげです。本当にありがとうございました。
なんとか百万文字以内に完結させようと思っていますので、あとほんの少しだけお付き合いくださると嬉しいです。


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最終章 新世界の扉
第81話 変化


 アルシェイラはただ剄量が桁違いなだけの凡人だったようだ。

 グレンダン王宮のいつもの訓練場に、レイフォン、フェリ、シャーニッド、ハーレイ、クラリーベル、アルシェイラ、デルボネを除いた天剣授受者全員がいる。

 アルシェイラは二週間ほど前から訓練場に来るようになった。初めてこの訓練場にアルシェイラが来た時、アルシェイラは見たこともない二叉の槍を持っていた。それがルシフ同様にアルシェイラの剄量に耐えられる武器であることは一目瞭然だった。

 訓練中、アルシェイラは二叉の槍を使わず錬金鋼(ダイト)状態に戻し、他の者同様素手で組み手をした。それが二週間続いている。

 レイフォンがアルシェイラは凡人ではないかと思った理由は、剄技や体捌き、戦闘の動きや技の組み立て方、そういった戦術に直結する能力が極めて低いからだ。

 アルシェイラは驚くべきことに、剄技を一つも持っていなかった。体捌きや動きも戦闘に特化したものではなく、戦闘をしたことがない者が闘う動きに近かった。

 しかし、それも仕方がないことかもしれない。アルシェイラは生まれながらに莫大な剄量を持ち、最強だった。

  戦術とは、言い換えれば敵を倒す術である。狼が自らを鍛えないように、生まれながらに敵を倒す術を持っていれば鍛える必要はないし、鍛える意味もない。戦術などというものを覚えなくとも敵を倒せるのに、戦術を覚える気にはならないのだろう。

 だが、そうも言ってられなくなった。今度の敵は、何も考えずに勝てるほど甘い相手ではない。アルシェイラといえど、戦闘技術を磨く必要がある。

 組み手は必然的にアルシェイラ対それ以外の全員となった。アルシェイラはルシフに匹敵するかそれに近い実力があるため、対ルシフ戦を想定した場合、都合の良い相手だった。

 レイフォンが渾身の右ストレートを放ち、アルシェイラが後ろに吹っ飛んだ。訓練場の壁にぶつかり、そのまま床に倒れる。床に倒れる直前に右手で身体を支え、片膝をついた体勢になった。

 レイフォンの近くにはリンテンス、サヴァリス、リヴァースがいて、サヴァリスは楽しそうに、リヴァースは嬉しそうに笑った。組み手に参加していたそれ以外の面々の中には、歓声をあげている者もいる。

 

「レイフォン。あんたのその剄技は反則よ、反則。認められないから今のは無効!」

 

 アルシェイラが悔しげにレイフォンを睨んでいた。

 レイフォンの顔に冷や汗が浮かび、困ったような笑みになる。

 

「そうは言われましても、ルシフとの戦闘はなりふり構っていられないですし……」

 

「十回中五回は成功するようになってきたね」

 

 リヴァースが言った。

 

「レイフォン、君の編み出した剄技はいってみれば剄技の革命だね。正直、誰にも思いつかないと思うよ。ねえ、リンテンスさん?」

 

 サヴァリスがリンテンスに視線を向ける。リンテンスは無表情でサヴァリスと目を合わせた。

 

「確かにな。あのルシフでも、きっと思いつくまい。こんな情けない剄技は誰も考えんからな」

 

「情けないって言い方はやめてくださいよ。どうすればルシフを倒せるか、必死になって考えて編み出した剄技なんですから」

 

「わたし相手じゃ駄目なのよね?」

 

 アルシェイラが立ち上がり、レイフォンたちに近付いた。

 

「はい。陛下は剄量は桁違いにありますが、剄の扱い方はその辺の武芸者にも劣ります。今の組み手で陛下は本気だったようですが、何割くらいの実力ですか?」

 

「うーん……三割……いや、二割くらいね、多分」

 

 アルシェイラは顎に手を当てた。

 レイフォンは思わずため息をつく。

 アルシェイラは剄の扱いが絶望的に下手だった。それでも美貌を維持するための内力系活剄の技量はあるが、美貌方面に全振りした技量である。アルシェイラは自分に興味があるものにしか力を入れないし、努力もしない。

 もしアルシェイラがルシフ同様に剄の制御をマスターしたなら、七、八割……もしかしたら十割で闘えるかもしれない。だが今のアルシェイラは三割が周囲に影響を及ぼさないで闘える限界だろう。剄の制御に十分程度時間をかければなんとか六割で都市を破壊せずに闘えるようになるが、それでもルシフ相手には力不足に感じた。せめて集中する時間が必要だったとしても、七割の剄量で戦闘ができるようになってほしい。

 それからしばらくアルシェイラ相手に全員で組み手をした。剄の制御ができなくてもアルシェイラはとんでもない強さであり、守りを固めて闘わなければどんどん戦闘不能にされた。

 組み手が終わると、シャーニッド、フェリ、ハーレイと一緒に孤児院に帰ってきた。

 孤児院で暮らすようになってから二ヶ月近くになるため、シャーニッドたちも孤児院の子どもたちとかなり親しくなっている。

 夕食の後、広間にシャーニッドたちが集まった。

 

「女王さん、だいぶ変わったなぁ。一ヶ月前と同一人物とは思えねぇ」

 

「確かにそうですね」

 

 シャーニッドの言葉にレイフォンが頷いた。

 二週間ほど前の話になるが、ルシフとの内通を疑われ捕らえられた二人に、アルシェイラ自ら謝りに行って解放したのだと言う。さらにアルシェイラは都市の金ではなく自腹でその二人に多額の慰謝料を払ったようだ。リンテンスに聞いた話ではかなり酷い拷問をしていたらしいから、それに対する慰謝料だろう。以前のアルシェイラなら絶対にそんなことはしなかった。ただ謝って終わりか、謝りもしなかったはずだ。アルシェイラが都市民を意識するようになったのは疑いようもないことだった。

 アルシェイラはルシフに初めて負けたショックを乗り越え、一皮むけた。レイフォンにとって、それは喜ばしいことだ。ルシフに勝つためにはアルシェイラの力は必ず必要になる。

 

「それにしても毎日キツいぜ。キツいのはいいんだが、女の子と遊べないのが一番こたえるな」

 

「……先輩は毎日遊んでるじゃありませんか。女の子と」

 

 フェリが冷たい視線をシャーニッドに向けた。

 

「女の子って、バーメリンさんか? いやいや、あれを女の子の括りにいれたら他の女の子がかわいそすぎんだろ。バーメリンさんが女に見えねえって言ってるわけじゃなくて、バーメリンさんは女とかそういう俗物的なものを超越した何かと言うか……」

 

「今の言葉、しっかり録音してますから」

 

 シャーニッドはフェリの付近を飛んでいる一枚の端子を見つけ、顔から血の気が引いた。

 フェリはマイ同様、常に錬金鋼を復元状態にして身体のどこかに身に付けていた。デルボネからそうするよう言われたらしい。デルボネ曰く、そうすることで睡眠中といった無意識下でも情報を収集できるようになるとのこと。慣れれば自分の意識と端子をリンクさせ、欲しい情報が手に入ったら目を覚ますようにしたりとかもできるようになると言う。

 

「フェリちゃんは相変わらずきっついねぇ。そういやぁ、ハーレイは最近収穫あったのか?」

 

 シャーニッドがハーレイに視線を送る。ハーレイは小さく首を振った。

 ハーレイは錬金鋼技術を磨くため、グレンダンにある様々な錬金鋼技師のところを訪ねていた。そのどれもが空振りに終わっている。

 

「そうか、また収穫無しか。なんのためにグレンダンに来たのか分かんねえな」

 

「僕もこれは予想外。武芸の本場だから錬金鋼技術も高いかと思ったんだけど、錬金鋼自体の関心はあまりないみたい。武芸者の要望に合わせた錬金鋼選びや設定はきっちりやるけど、新錬金鋼の開発は全くやってないし。多分天剣があったから、新錬金鋼の必要性を感じなかったんじゃないかな」

 

 天剣は最高峰の錬金鋼であり、天剣があるがために新錬金鋼の開発に意欲的でないのは有り得る話だった。どんな要望も、天剣なら叶えてくれる。

 

「成る程な。なら、こっちから技術提供するのはどうだ? レイフォンの持ってる複合錬金鋼(アダマンダイト)簡易型複合錬金鋼(シム・アダマンダイト )はグレンダンにはないだろ?」

 

「うーん、それも難しい話なんですよ。複合錬金鋼や簡易型複合錬金鋼はキリク、レイフォン、僕で開発した錬金鋼ですけど、それはツェルニの錬金鋼技術になるから、生徒会長の許可なく勝手にツェルニの錬金鋼技術を教えるのは犯罪になる可能性があります」

 

「グレンダンの錬金鋼技師たちもお前同様に技術を隠してるかもな」

 

「そうだと嬉しいけど、グレンダンの武芸者が身に付けていた錬金鋼に目新しさを感じるものは無かったし、その可能性は低いと思いますね。今は天剣授受者が少しでも満足できる錬金鋼を、って新錬金鋼の開発に躍起になってるようですけど、収穫はないみたいです」

 

「順風満帆ってわけにはいかねえか」

 

「すみません。僕、ちょっと外の空気を吸ってきます」

 

「おう、風邪ひかないようにしろよ」

 

「はい」

 

 レイフォンは立ち上がり、広間から出た。

 二階のベランダに行き、柵に両肘を乗せた。空を見上げる。グレンダンは汚染物質が多いところを通っているらしく、月と星は見えなかった。ただ暗闇があるだけだ。

 レイフォンはゆっくりと深呼吸する。何度も何度も、深呼吸を繰り返した。

 直感が囁きかけてくる。ルシフと闘う時はもうすぐそこまで迫ってきていると。新しく編み出した剄技も成功率は五割まで上がった。天剣授受者たちは精力的に鍛練し、女王もやる気になって強くなるための努力をするようになった。以前よりも、ルシフに勝てる確率は間違いなく上がっているのだ。

 レイフォンの身体が微かに震え出す。両手で両肘をぎゅっと握った。

 怖い。ルシフと闘うのが、心から怖い。勝てると思い続けても、圧倒的な強さでグレンダンを蹂躙したルシフの姿がその希望を打ち砕く。ツェルニでルシフと一緒にいた時は、危ない奴だと思いながらも、心のどこかでは頼りにしていた。嫌っている部分もあったが、羨ましいと思う部分もあった。ルシフが味方なら、どんな敵も倒せるんじゃないかと心強く感じたこともある。そのルシフの敵に、自分は望んでなった。敵に対して容赦しないルシフの敵になったのだ。

 ベランダの扉が動く音が聞こえた。次に足音が響き、レイフォンの隣まで来た。

 レイフォンは顔を空から隣に向けた。フェリがまっすぐレイフォンを見ている。

 

「……怖いですか? ルシフが」

 

「そりゃ怖いですよ」

 

「わたしがいます」

 

「……フェリ?」

 

「わたしが全力であなたの力になります。ルシフのどんな手も、わたしが念威で見破ってみせます。それでも、怖いですか?」

 

 フェリの真剣な表情に、レイフォンは吸い込まれた。孤児院で一緒に暮らすようになってから、フェリとの距離はかなり近くなった気がする。たまにフェリが気になり、視線で追いかけてしまったりもした。自分はフェリにどういう感情を抱いているのか。この感情はなんなのか。自分自身も分からない。

 レイフォンは軽く笑みを浮かべた。

 

「フェリが全力で力になってくれても、怖いものは怖いですよ」

 

「……そうですか」

 

 フェリの瞳に微かに落胆の色が混じる。

 レイフォンは両手に伝わっていた震えが止まったのを感じた。再び空を見上げる。

 

「でもフェリの言葉から、その恐怖に打ち克つだけの勇気と強さをもらいました。思い返せば、僕が闘う時はいつもフェリが一緒に闘ってくれた気がします。今更かもしれませんけど、ありがとう、フェリ」

 

「……お礼を言われるほどでもありません」

 

 フェリの頬に赤みがさす。

 心臓の音がうるさいくらいに聴こえた。思いっきり抱きしめたい衝動が身体を突き抜ける。

 リーリンを大切に想っている気持ちは変わらない。フェリに対して感じている想いも似たような気持ちなのかもしれない。しかし、リーリンへの想いとは何かが決定的に違う。何が違うのか、自分自身も分からないが、違うことだけは確信できる。

 フェリと無言で見つめ合った。自然とお互いの顔が近付く。

 

「あー! レイフォン兄がちゅーしようとしてる!」

 

 アンリの声。

 慌てて顔をフェリから離し、扉を見た。透明な扉のため、閉まっていてもベランダは見える。

 アンリが笑顔で指をさしていた。周囲にはハーレイやシャーニッド、トビエ、ラニエッタがいる。シャーニッドの口が『静かにしろって言ったのに』と動いた。どうやらずっと見ていたらしい。

 レイフォンは後方の気配に気付かなかった。それだけフェリに意識が向いていたということだ。フェリも、同じかもしれない。同じだったらいいな、と何故か考えた。

 フェリは無表情だが、顔は赤いままだった。気まずい空気を紛らわそうと、視線が泳いでいる。

 

「……フォンフォン」

 

「は、はい!」

 

「ルシフを殺す覚悟はできましたか?」

 

 冷や水を頭からかぶせられたようだった。もしかしたらフェリはこれを訊きたかったのかもしれない。廃都市探索の時にも、同じようなことを言われた。あなたではルシフを倒せない、と。

 

「……ルシフは、誰よりも強い。そう信じることにしました。だから、全力でルシフを殺します。ルシフなら、上手く防いで致命傷にならないと信じて」

 

「……敵が防御するのを信じる、ですか。なんていうか、本当に甘いですね、あなたは」

 

「でも、これが僕です。いまさら変われませんよ」

 

「それでいいと思います」

 

 どうして自分はルシフと闘い、あまつさえルシフを殺そうと考えているのか。ふと、頭に疑問が浮かんだ。

 その回答は一瞬で思いついた。深い理由なんてない。グレンダンへの攻撃を実行しようとしていて、殺さないと止まらない相手だから。ただそれだけしかない。

 ルシフは何故グレンダンに拘り、攻撃しようとするのだろう。もう天剣はすべて奪ったのだ。ただの暇潰しなのか、それとも自分では思いつかない深い理由があるのか。

 扉が開けられ、アンリ、トビエ、ラニエッタが笑顔でベランダに入ってきた。

 もうすぐ深夜になる。寝るよう言わなければと考えつつ、レイフォンは笑いの輪の中に入った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 いつもの鍛練が終わった後、アルシェイラは謁見の間に行き玉座に座った。

 カナリスや大臣、官僚もいる。これから政務についての報告や会議をするからだ。

 アルシェイラは数週間前から、カナリスに丸投げしていた政務を自らこなすようになっていた。都市民が自分を信じてくれているのに、その期待を裏切ることはできない。そう考えるようになったからだ。

 そういう思考になると、今までカナリスに政務を押し付けて遊んでいた自分がどれだけ女王としての責任を放棄していたか、よく分かった。人の上に立つという意味をどれだけ考えていなかったか痛感した。

 

「ここ一ヶ月、放浪バスの運行頻度が低くなっています。今は一台の放浪バスすら来なくなっています」

 

 カナリスが書類を見ながら言った。

 

「放浪バスが来なくなってから何日?」

 

「今日で七日目です」

 

「過去に同じ事例は?」

 

「二回あります。ただし、十日を超えたことはありません。八日目で過去の二回とも放浪バスが来ています」

 

 何か妙な胸騒ぎがした。これは偶然の出来事ではなく、作為的に引き起こされた問題のような気がする。

 

「これはわたしの推測ですが……」

 

 カナリスも同じものを感じているようで、そこで言葉を一旦切って謁見の間にいる者たちを見渡した。最後にアルシェイラを見る。

 アルシェイラは無言で頷き、先を促した。

 

「もしかしたらルシフがヨルテムに何かしたのかもしれません」

 

 謁見の間がざわつく。大臣や官僚が小声で話し始めた。

 アルシェイラもカナリスと同じ懸念を抱いていた。

 ルシフの出身都市はイアハイムだが、ルシフには百名の武芸者集団がいて、イアハイムはルシフの傀儡のようなもの。イアハイムは誰かに任せ、全ての都市に通じる玄関でもあるヨルテムの武力制圧に乗り出すのはあり得ない話では無かった。そして、ヨルテムの制圧に成功したルシフが情報を漏らさないために、グレンダンに向かう放浪バスを禁止する。

 放浪バスが来ない原因として、それが一番現実味があるし、ルシフがツェルニを離れた時期とも重なる。

 

「こうして疑われるのは悪手だと感じるけどねえ」

 

「疑われるのもルシフの計算の内、なのでしょう。それか、疑われたところで問題がない段階まで達したか」

 

「陛下、お話があります」

 

 大臣の一人が一歩前に進み出た。

 

「言ってみなさい」

 

「……ルシフに降伏はできませんか?」

 

 カナリスが話している者をきっと睨んだ。口を開いた者は慌てて顔を俯ける。

 武芸者は打倒ルシフに燃えているが、逆に大臣や官僚はルシフに降伏すべきとの意見が強かった。

 

「降伏の理由は?」

 

「二つあります。一つはルシフに勝てる気がしないからです。もう一つは、前のルシフの襲撃による被害が甚大で、都市の資源が少なくなっているからです。ルシフとの戦闘は苛酷で激しいものになると思います。たとえルシフに勝っても、グレンダンの建造物を破壊され多大な損害を被るのなら、闘わず屈した方がグレンダンの住民のためだと感じるのです」

 

 前のルシフの襲撃による損害はある程度回復したが、完全に元通りとまではいっていない。元々グレンダンの資源の備蓄は少なかったため、資源も枯渇寸前になった。ここで再び前のような損害を出せば、ルシフに勝ったところで共倒れになる、と考え始める者が出てきたのだ。

 その流れは都市民にも伝染し、都市民の中にも少数だが、『闘わず降伏すべき!』とプラカードを掲げて演説のようなことをしている。演説の内容を要約すれば、無駄死にするくらいなら膝を屈して生きようという内容。これをありとあらゆる方面に絡めて主張してくる。

 やめさせるべきだ、と天剣授受者や武芸者は怒りを滲ませて言ってきたが、放置させるよう命令した。それだって都市民の声だ。その声に都市民の大多数が靡き、抗戦派から降伏派に変わるのなら、それは戦闘をする自分たちが都市民から信用されていない表れでもある。

 それに、力ずくでやめさせようとすれば、都市民からの不満も出てくるだろう。抑えつければより反発したくなるのが人の性というもの。暴動にならない限りは放っておいた方が正解な気がする。

 正直、どういう対処が正解なのか、アルシェイラには判断できなかった。今回のデモのようなものへの対処も、カナリスとデルボネの二人と話し合って決めたことなのだ。

 人の上に立つというのはこんなにも大変なことなのか、と実感した。今まで都市民を意識すらしていなかったから、自分は責任を放棄して遊ぶことができたのだ。都市民を意識すると、面倒くさいと政務を投げ出して遊んでいた自分がどれだけ最低な都市長だったか思い知った。

 

「……一つの意見として聞いておく」

 

「ありがとうございます、陛下」

 

 降伏を主張した者が頭を下げた。

 カナリスが物言いたげな視線をアルシェイラに向ける。

 謁見の間での会議と報告が終わり、アルシェイラはカナリスと自室に戻った。

 アルシェイラは椅子に座る。

 侍女が水の入ったコップを机に置いた。アルシェイラは一言礼を言った後、コップを手に取って水を飲んだ。

 

「陛下は変わられました。以前の陛下なら、降伏と言ってきた者たちを問答無用で抑えつけたと思います」

 

「……ルシフから襲撃を受けた時、ルシフに言われた。『お前は獣の王だ』と。その時は何言ってるのこいつ程度にしか思わなかったけど、今ならその言葉の重さが分かる。確かにわたしは獣の王だった」

 

「陛下……」

 

「カナリス、わたしは人の王になれると思う?」

 

「もう人の王に陛下はなられています」

 

 カナリスが微笑んだ。

 アルシェイラはカナリスから視線を逸らした。

 

「今更だけど、今までわたしの代わりに政務をやってくれてありがとね」

 

「ッ! そんなッ、もったいないお言葉です! わたしはただ影武者としての役目を果たしただけです!」

 

 カナリスの頬が濡れていた。

 そういえば誰かを労うことを今までしてこなかったな、と唐突に思った。

 これからは労うようにしよう、とアルシェイラは心に決めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 グレンダン以外の全都市が集結したことで、都市を移動する者が増えた。

 ツェルニに入学していたナルキ、ミィフィ、メイシェンの三人もツェルニからヨルテムに移動していた。ヨルテムは彼女らの故郷なのだ。

 ナルキが沈んだ表情で喫茶店の椅子に座っている。四人テーブルで、ミィフィとメイシェンも座っていた。メイシェンは涙を流しすぎたせいか、眼が赤くなっている。

 

「……まさかツェルニを出ていった後、ルッシーがこんなことをするなんて思いもしなかったなー! あ、今は『陛下』か!」

 

 明るい声でそう言った後、ミィフィはあははと笑った。二人は沈んだ表情のまま。

 

 ──何この空気の重さ。どうすればいいの!?

 

 ミィフィはこの空気を打開するため、とても面白いギャグを言おうと口を開く。

 

「ふとんが──」

 

「父が武芸者ではなくなった」

 

 ミィフィの言葉を遮り、ナルキが呟いた。ミィフィは思わず口を閉じる。

 

「ナッキ……」

 

 メイシェンが心配そうにナルキを見た。

 

「今の父は建築現場で肉体労働をしている。家族を養うためにはそれしかなかった。現場から家に帰ってきた父の表情と言葉が忘れられない。父は笑顔でわたしにこう言った。『住民を守るために働くのも良かったが、住民の生活を良くするために働くのもいいな』と。わたしは武芸者の父が誇らしかったし、尊敬していた。でも、今の父は武芸者の頃より生き生きとしている気がする。きっと父は幸せなのだろう。だが、わたしにとっての父は武芸者なんだ」

 

「……ナッキは怒るかもしれないけど、わたしはルッシーの武芸者選別には賛成してる。わたしみたいな剄を持たない一般人は、剄を持つ人イコール都市を守るために闘う人ってどうしても思っちゃう。剄を持つ人は誰もが特別なんだって。剄を持つ人からしたらとてつもない重圧を、一般人のわたしたちは無意識に与えていたんだって思うんだ。

でもルッシーは武芸者選別をして、剄を持つ人間の中でも一握りの人間だけを武芸者にした。つまり、剄を持っているから特別じゃなくて、剄を持っている中でも優れた人が特別だって表面化させた。きっとこの選別が、一般人と剄を持つ人の境界線みたいなものを少しずつ取っ払っていくんじゃないかな」

 

「ミィ、お前の言いたいことは分かる。でも、やっぱり悲しいんだ。認めたくないんだ」

 

 ナルキの表情は暗いままだ。メイシェンはおろおろしている。何を言うべきか考えているようだ。

 ミィフィは外の方に視線を向けた。

 

「……ナッキ、ルッシーに会ってみる?」

 

「え?」

 

 ナルキが顔を上げた。

 

「あれ見て、あれ」

 

 ミィフィが外を指さした。ナルキとメイシェンの視線が自然と指をさした方に向く。指をさした先には、見た目が全く同じ少女二人が買い物していた。片方は赤のヘアピンを付けている。

 

「あの二人、間違いないわ。ルッシーの侍女みたいな人たちよ。わたしの情報網、甘くみないでよね!」

 

 ミィフィが胸を張ったが、誰も見ていなかった。

 

「ミィ。お前の考えではつまり、あの二人に頼んでルッシーに会わせてもらうということか?」

 

「そっ。そうと決まれば早く行こ!」

 

「誰も行くとは──」

 

「いいから! 早く早く!」

 

 ミィフィたちは会計を手早く済ませ、向かいの店に駆け込んだ。

 ヘアピンを付けた少女は調味料を片っ端から買い物かごに入れている。

 

「シェーン、調味料はまだあったよね?」

 

「ええ、知っています。でも、一応予備で買ってもいいかと思って」

 

 ミィフィはさりげなく買い物かごを覗いた。塩、胡椒、砂糖、唐辛子、醤油など、様々な調味料が入れられていた。どれも詰め替え用ではなく、ビンに入っていてそのまま使えるタイプだ。

 

「あの~すいませーん。ルッシーのお付きの方ですよね?」

 

「ルッシー?」

 

 ヘアピンの少女が首を傾げた。

 

「ルシフのことです。ルシフ・ディ・アシェナ」

 

 ミィフィの言葉を聞いた瞬間、二人の少女の顔がさっと青ざめた。店内にいた人たちも会話を中断し、ミィフィを注目した。

 ミィフィら三人は店内の異様な雰囲気に戸惑った。

 

「……あなたのお名前はなんですか?」

 

「ミィフィ。ミィフィ・ロッテン」

 

「ミィフィさん。どれだけ陛下と親しかったか知りませんが、陛下をそのような呼び方で呼ぶのはやめた方がよろしいかと。痛い思いをされても何も言えないですよ?」

 

「は、はい! 以後気をつけます!」

 

 ミィフィは頭を下げた。

 ヘアピンの少女も頭を下げ、会計しにもう一人とレジに向かって歩いていった。

 顔を上げて、ミィフィは二人の後ろ姿を眺めた。

 

「二人とも、ルッシーに会うのやめよう」

 

「なんでだ!? そもそもお前が会うと言ったんだろうが!」

 

 ナルキが怒鳴った。メイシェンも困惑した表情をしている。

 ミィフィはナルキたちの方を見た。

 

「多分、会ってもルッシーじゃない。ルッシーの姿をした別人に会うだけだよ。『陛下』って人にね」

 

 三人は結局ルシフに会わず、ツェルニに戻ることにした。



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第82話 油断

 ルシフが書斎の机で書類を書いている。ルシフが横目で時計を見ると、ちょうど午前三時になったところだった。

 ずっと激しい頭痛と熱がある。それも毎日だと慣れてきた。辛いが、我慢できるようになっている。

 ルシフの意識が一瞬飛び、大きく船を漕いだ。頬を叩いて目を覚まさせる。

 

 ──眠い。

 

 ルシフは目を最大まで開けようとするが、まぶたが意に反して下りてくる。まぶたが重い。

 

《ルシフ、寝たければ寝た方がいい。ここ二週間ほど、二、三時間程度しか睡眠時間を取っておらぬのだからな》

 

 メルニスクの言葉を無視し、書類を書き続ける。やらなければならない政務は探せばいくらでもあった。それぞれの都市が独自の政治体制で、まずそれを全て統一化されなければならないから、問題は山ほど出てくるのだ。それに加え、今後の数年どう動くか、自分が死んだ場合の遺書なども書いた。

 忙しいから寝る時間がない、という理由で睡眠しないわけじゃない。寝ると、必ず夢を見る。最初はマイと楽しく過ごしているが、いきなり自分の意思と無関係に身体が動き、最後はマイを殺す夢。マイを殺したところで絶叫し、いつも目が覚めた。

 マイの殺し方は多種多様で、撲殺、刺殺、斬殺、絞殺、溺殺、焼殺等、場面に合わせた殺害をした。夢だと気付くのはいつもマイを殺した後で、マイを殺す感触に慣れることは全くなかった。

 寝るのが怖くなっていた。マイを殺す感触は現実そのもので、自分が眠る度に壊されていっている気がする。寝て次起きた時には自分ではなくなってしまうような恐怖にずっと囚われている。それでも、寝なければならない。

 ルシフは午前四時になるまで書斎で政務をし、寝室に行ったのは四時半頃だった。

 ベッドに横になる。重かったまぶたが更に重さを増した。閉じていく世界。また俺は、マイを殺す夢をきっと見る。

 午前六時頃、ルシフは勢いよくベッドから起き上がった。かなり汗をかいたらしく、ルシフの着ているシャツはベタついていた。ルシフは不快そうに眉をひそめ、シャツを掴んでパタパタと動かした。空気がシャツの中に入り、ひんやりとして気持ちがいい。

 またマイを殺す夢を見た。今回の舞台はイアハイムの公園で、公園をマイとのんびり散歩していたところ、急に自分の右手が意に反して動き、公園にあった木に思いっきりぶつけてマイの頭を潰した。頭が潰れてもマイは動いていた。両手で俺の両肩を掴み、潰れた頭を俺の顔に近付けてきた。そこで目が覚めたのだ。

 ルシフは服を着替え、いつもの黒装束になる。

 寝室から出たら、シェーンら十人が掃除と朝食を作っていた。ルシフの顔を見て、頭を下げ挨拶してくる。ルシフは挨拶を返すだけでそれ以上の会話をせず、そのまま書斎に行った。

 書斎にある執務机を前にした椅子に座り、政務を再び始めた。政務を始めて三十分ぐらいしたら、シェーンともう一人の少女が朝食をお盆に載せて持ってきた。ルシフの邪魔にならないよう、執務机の端の方に朝食を置く。

 ルシフは書類を見ながら、置かれた朝食を食べ始めた。シェーンは不安そうな表情で朝食を食べるルシフの姿を見ていた。

 ルシフがシェーンの表情に気付く。

 

「なんだ?」

 

「いえ、なんでもありません。美味しそうと思っただけです」

 

 シェーンは隣に立っている少女をチラチラ横目で見ながらそう言った。

 ルシフは怪訝そうな顔になる。

 

「何言ってる。お前らの分もあるだろ」

 

「はい、あります。陛下が朝食を食べ終わったら食べようと思います」

 

「もう食べた」

 

 ルシフは朝食が載っていたお盆をシェーンに渡した。味は分からなかった。

 

「えっ、もうお召し上がりになられたのですか!?」

 

 シェーンがお盆を見ると、朝食はきれいに無くなっていた。

 シェーンはそれを見て表情が一層暗くなる。

 隣に立っている少女がシェーンの肩を叩いた。

 シェーンは小さく頷く。

 

「では、失礼いたします、陛下」

 

 シェーンがお盆を持って書斎からもう一人の少女と出ていった。

 

 

 

 シェーンは朝食が無くなったお盆をじっと見ながら、リビングに続く廊下を歩いている。

 

「今日もなんの疑いもせず、陛下は召し上がられたわね、シェーン」

 

 少女の言葉に、シェーンは小さく頷く。

 

「今夜、飲み物を運ぶ時に決行しましょう」

 

 シェーンは唇を噛みしめ、少女の言葉に再び小さく頷いた。

 少女はスカートのポケットに手を突っ込み、ゆっくり引き上げる。その動作にシェーンの視線は釘付けになった。

 スカートから刀身を革に包まれた短剣が半ばまで出てくる。

 もし毒殺のことを誰かに話したり妙な動きをすれば、シェーンを毒殺を企んでいる刺客として殺すつもりなのだ。毒は常にシェーンが持ち歩いているため、証拠もある。シェーンにすべての罪をかぶせ、自分は逃げる。少女の思考は明確に分かったが、気分は沈んだ。この少女とはルシフに仕える前から仲良くしている。それが何故こんなことになってしまったのか。

 少女は短剣をスカートのポケットの中に戻した。今短剣を見せたのは、シェーンに対しての脅し。

 シェーンは顔を正面に戻し、暗い表情で歩いた。

 

 

 

 書斎にゼクレティアとマイが入ってきた。時刻は九時五十分。

 書斎で政務を続けていたルシフは二人を一瞥するだけで、すぐ政務を再開した。

 ゼクレティアとマイは無言で顔を見合わせる。表情はどちらも沈痛としていた。彼女らはルシフが異常と気付いているが、ルシフの性格を考慮して言葉に出してルシフを案じることができないのだ。

 マイが一歩前に出た。

 

「定期報告です。サリンバン教導傭兵団の団員たちにおかしな動きはありません」

 

「そうか」

 

 グレンダン以外の全都市を掌握した時に気付いたのだが、サリンバン教導傭兵団の団員がツェルニ、マイアス、ファルニールといった学園都市以外の都市に最低一名存在していたのだ。サリンバン教導傭兵団が解散したというのは原作の流れであり、元々サリンバン教導傭兵団は廃貴族の確保のために作られたもの。力不足と分かれば解散するのも道理。ルシフもそこは疑っていなかった。

 ルシフが疑問に感じた部分は、学園都市以外のどの都市にも団員が一名以上存在している、という部分だった。何かが引っ掛かる。というより、自分が都市掌握を迅速に行うために追放に見せかけて他都市に剣狼隊を潜伏させたやり方に酷似しているのだ。

 ハイアは自分に恨みを抱いている。サリンバン教導傭兵団の団員たちも痛めつけられた恨みがあるだろう。彼らが均等に分散したのは、自分に復讐するためではないか。仲間を増やし、いずれ時機を見計らって決起する。そういった目的に従い、分散したのではないか。

 だから剣狼隊に所属している念威操者に、サリンバン教導傭兵団の団員たちを監視させた。正直警戒する価値もない道端に落ちている石ころ程度の障害だが、暇潰しにはなりそうと考えてのことだ。

 

「具体的に団員たちは何をしている?」

 

「ハイア・サリンバン・ライアとやっていることは変わりません。サリンバン教導傭兵団に所属していたと明かした上で仕事が何かないか、都市の中央部あたりで都市民たちに話しています。サリンバン教導傭兵団に所属していたと聞いて共に仕事をしたいと頼む元武芸者が数人出てくる時もありますが、分け前が減るだの信用できないだの言ってすべて断っています」

 

「全員が同じ対応か?」

 

「はい」

 

 団員がこちらの動きを読み、監視されていることを考慮した上で行動しているのだとしたら、息抜き程度の価値はありそうな問題だった。それも団員たちの行動にしっかり統率がとれている。ハイアかフェルマウスか。予想ではフェルマウスが考え指示した対応法なのだろう。ルシフに反抗の意思があると思われないように。

 ほんの少しだけ、心が躍った。激しい頭痛と高熱に襲われている中、サリンバン教導傭兵団の行動は一種の清涼剤のような効果があった。

 

「引き続き監視を行え」

 

「はい、続行いたします」

 

 マイが一礼し、書斎から出ていった。出ていく時、一度だけ心配そうに振り返った。マイの左手首に巻かれている包帯が黒装束の下からチラリと見え、ルシフの視線は固まった。マイが書斎からいなくなっても、ルシフは視線をそこにずっと固定したままだった。

 

「陛下? どうされました?」

 

「……なんでもない」

 

 ゼクレティアの声で我に返り、ルシフはごまかすように執務机の書類を読み始めた。

 

「陛下に報告があります」

 

 ゼクレティアは書類を一切持っておらず、手ぶらだった。

 だが、淀みなく話を続ける。

 

「本当に小さな暴動は頻発しておりますが、剣狼隊と武芸者がすべて素早く処理しています。負傷者は少なからず出ていますが死者は出ておらず、物損も軽微。正確な被害者の数と物損の詳細な内訳を口頭で伝えられますが、どういたしましょう?」

 

「数だの損害だのは別に重要ではない。重要なのはそれらの対応だ。対応について俺は指示を出したが、それはどうなっている?」

 

「はっ。陛下の指示通り、被害者全員の医療費の負担と物損の弁償は加害者の財産を使い、足りない分は剣狼隊が自腹を切るか、陛下の蓄えを無断で使用しています」

 

「無断で俺の管理する金に手を付けた剣狼隊隊員を五人、捕らえろ。全都市民に大々的に公表し、公開処罰を行う」

 

「処罰は誰が?」

 

「俺が直々に手を下す」

 

 剣狼隊の処罰は数日に一度程度の頻度で、処罰していない剣狼隊は念威操者以外いない。念威操者以外の剣狼隊隊員は一人残らず一度は痛めつけていた。何度痛めつけても、気分が悪くなる。慣れてはくれなかった。

 ゼクレティアの表情が暗くなった。

 

「他の方では駄目なのですか?」

 

「俺がやるからこそ、意味がある。都市民からの剣狼隊の評判はどうだ?」

 

「かなり良いですね。都市民の立場になって色々考えてくれるし、傷つくのを恐れず行動する。ボランティアも積極的にやりますし、お金を取らずに都市民の助けもやるため、剣狼隊に陛下に対する不満や頼み事を打ち明ける都市民も多数出てきています」

 

「俺の指示通り、上手くやっているか」

 

「剣狼隊が力ずくで都市を制圧したのも陛下が暴れて大きな被害を出さないための苦肉の策、と都市民は考えているようですね。都市民の印象操作は陛下の予定通り進行している、と判断してよろしいかと」

 

「そうか。話は変わるが、そろそろ新たな発表をしたいと思う」

 

「なんでしょう?」

 

「グレンダン以外の全都市が集結し、それら全ての実質的な権力を握っているのは俺ただ一人。これは新しい支配体制と言っていい。この形に名を付ける。自律型移動都市(レギオス)が存在する以前に使用されていた支配地域の名前」

 

「汚染物質が蔓延する前は都市だけでなく国というものがあったというのは存じておりますが、まさか……」

 

「そのまさかだ。俺はこの支配体制を国と名付ける。これからは都市の前に国名を付け、都市は国に属していることを明確化する。発表は明日の正午。それまでに全都市長にヨルテムの謁見の間に来るよう伝えろ」

 

 都市を制圧した後、ヨルテム以外の都市長は元々の都市長をそのまま任命した。イアハイムの都市長には前の都市長を任命した。つまりダルシェナの父親が再び都市長になったのだ。

 しかし彼らは傀儡であり、近くには剣狼隊とルシフの息がかかった役人がいる。ルシフの意に反することは何もできないし、何かやろうにも必ずルシフの承認が必要だった。

 

「はっ。間違いなく伝えます」

 

「それから発表を念威端子の映像で都市民が見られるよう、全都市に手配しておけ。念威操者が全員協力すれば楽な仕事だ。全都市民に明日正午に重大発表があることを伝えるのを忘れるなよ。何故都市旗が全てイアハイムの刺繍に統一され、区別は旗の色だけになったのか。都市民は理解するだろう」

 

「御意」

 

 ゼクレティアが一礼し、扉を開けて書斎から去っていく。

 扉が閉められると、ルシフは頭を右手でおさえた。幼い頃はこの頭痛に最後まで負けなかったのだ。あの頃より俺は強くなっている。負けてたまるか。

 ルシフは歯を食い縛り、執務机の書類を睨んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ニーナは自室の椅子に座り、机に置いてある写真立てを両手で持ちながらじっと写真を眺めていた。この写真は老性一期と雄性体三体からツェルニを守り切ったあとの、ルシフが入院した病室で撮った写真。ツェルニとはすぐに行き来できる距離になったため、ニーナは一度ツェルニに戻って私物を色々持ってきたのだ。写真もその時持ってきた。

 写真に写る面々を見てニーナは微笑む。しかし、その表情はすぐに曇った。

 あの頃は写真の中の光景がずっと続いていくものだと信じていた。色々苦労はするだろうが、楽しく充実した学生生活が送れるだろうと淡い期待感があった。だが、写真を撮ってから一年も経っていないのに、状況は激変した。

 ルシフは電子精霊すら従え、レギオスの移動をコントロールして集合体を作り、グレンダン以外の全都市の実質的な支配者となっている。

 レイフォン、シャーニッド、フェリ、ハーレイはグレンダンに行ったらしい。ツェルニに行った時、ナルキやカリアンに教えてもらった。何故とは訊けなかった。ルシフからグレンダンを守る、もしくはリーリンをルシフから連れ戻すためだということは訊くまでもなく分かり切っていたからだ。

 ニーナは写真から視線を外し、後方を振り返る。

 リーリンもニーナ同様椅子に座り、頬杖をついて顔を俯けていた。リーリンもニーナと共にツェルニに行ったため、レイフォンたちの情報を手に入れていた。

 リーリンはかなりの衝撃を受けたらしく、それからは口数が極端に減り、毎日何かを考え込んでいるようだ。

 扉を叩く音が響く。

 ニーナとリーリンは顔を見合わせ、椅子から立った。

 ニーナは扉を開け、リビングを横切って玄関に向かった。リーリンも後ろから付いてくる。

 玄関の扉を開くと、赤装束の二人が立っていた。常時、剣狼隊二名の監視が付いている。この二人が今日の監視役のようだ。ツェルニに行く時も剣狼隊二名は付いてきたため、監視体制は徹底していると考えていい。仮に窓から抜け出して監視の目から逃れようとしても、念威端子の網に引っ掛かるだろう。一応この部屋はプライベートが守られているようだ。ルシフはニーナらが都市民に会って余計な行動をされるのを嫌っているらしく、都市民に会わなければ何を企んでいようがどうでもいいのだろう。

 

「なんですか?」

 

「面会を求める者が来ています。ジルドレイド・アントークさんです。お会いになられますか?」

 

「わたしの大祖父(おおおじい)さまです。当然会います」

 

 赤装束の二名がどいた。陰からジルドレイドが現れる。

 

「ニーナ、久しいな。元気にしていたか?」

 

「はい。大祖父さまこそ、お元気そうでなによりです」

 

「立ち話もなんだ、上がってもよいか?」

 

「どうぞ」

 

 ニーナが玄関の扉が開け放ち、室内の方に右手を伸ばして入っていいと暗に伝えた。

 ジルドレイドが部屋に入ると玄関の扉を閉め、ジルドレイドにリビングの椅子に座るよう促した。

 ジルドレイドは頷き、リビングのテーブルの椅子に座る。ニーナもジルドレイドの向かいの椅子に座った。

 二、三分後にリーリンがお茶の入ったコップをテーブルに置き、同じくテーブルの椅子についた。

 ジルドレイドはコップを持って半分ほどお茶を飲むと、ゆっくりとコップをテーブルに置いた。ニーナも気まずさを紛らわせるため、コップを手に取りお茶を飲んだ。

 

「なかなか美味い茶だ」

 

「ありがとうございます」

 

 リーリンが軽く頭を下げた。

 

「大祖父さま、一体何の用ですか?」

 

「用がなければ孫と話せんのか?」

 

 予想外の返しに、ニーナは言葉が詰まった。そんなニーナの様子を興味深そうにジルドレイドは眺めている。

 

「いえ、そんなことはありませんが……」

 

「ルシフが全都市を掌握してから、そろそろ一ヶ月になる」

 

 ニーナとリーリンの表情が引き締まった。

 

「ニーナよ。未だにルシフに対して反感を抱いておるのか?」

 

「……はい」

 

 小さな声だが、ニーナははっきりと返事をした。

 

「ここ一ヶ月で、都市間戦争は二度あった。知っているな?」

 

「はい」

 

 ヨルテムに付いてきていた都市の内の二つが急に進路を変更し、ぶつかったのだ。両都市は足を止め、都市間戦争開始のサイレンが鳴った。ヨルテムら無関係の都市は少し進んだところで足を止め、戦争の成りゆきを見守るように動かなくなった。これは念威操者が全都市民に伝えたため、誰もが知っている事実。

 当然だが都市間戦争に巻き込まれた都市民はパニックになり、どうすべきか迷った。ルシフは両都市のセルニウム鉱山の数を把握していたため、その間にセルニウム鉱山の数が少ない方が勝つよう指示を出し、少ない方が何事もなく旗を確保して戦争が終了した。死者どころか負傷者もいない、前代未聞の決着だった。その決着が二回続いた。

 

「都市民はな、支配者は最低だがこの都市同士の関係は良い、と考えておる。都市間戦争で滅ぼされる可能性が無くなったのだから、それは当然の思考だな。

ニーナよ、どうだ? これでも今の体制に反感があるのか?」

 

「わたしはその部分に関しては、反感はまったくありません。むしろルシフに感謝し、この体制を続けていきたいとも考えています」

 

 この部分に反感など感じるはずがない。何百年と繰り返されてきたこの世界の悲劇を、ルシフは打ち壊したのだ。ルシフ以外の誰にも、この偉業は達成できなかったどころか思いつきもしなかった。

 ジルドレイドはゆっくりと頷く。

 

「次の話をしよう。一週間ほど前になるが、汚染獣の大群と戦闘した。おそらく人類が集中しすぎたため、汚染獣も集まったのだろう。雄性体はもちろん、老性体も数体おったとてつもない脅威だった。ルシフだけでなく、多数の剣狼隊や武芸者がランドローラーに乗って迎撃した、凄まじい激戦だった。この時はさすがに負傷者ゼロとはいかず、武芸者がそれなりに負傷したが、それでも死者はゼロ。ルシフは武芸者選別に使用する肉片が手に入ったと口に出すほど、余裕のある戦いだった。

何故汚染獣の大群だったにも関わらず、余裕があったか? それは全都市の武芸者が一丸となり、脅威に立ち向かったからだ。これも前代未聞の出来事である。気に入らない部分があるか?」

 

「ありません。全武芸者が都市を守るため力を合わせて闘えるのは、素晴らしいことだと思います」

 

「剣狼隊や武芸者の規律は徹底され、不正は厳しく取り締まられて、各都市の治安は限りなく良くなっている。暴動を起こす輩も日に日に減っていっておる。これがお前は気に入らないのか?」

 

 ニーナは首を横に振った。

 治安が良くなり、不正が無くなって何故不満が出るのか。そこもルシフの手腕だからこそできることであり、感謝はすれど不満など生まれるはずがない。

 

「では、お前は一体何が気に入らないのだ?」

 

「……ルシフが、弱者を省みないところです」

 

 ジルドレイドはため息をついた。

 

「基本的な都市の支配体系はすべて、成果主義なのだ。都市の役に立つ者を優遇する。逆に訊くが、都市にとって得にならない者を何故都市が守らねばならん? ルシフはすべてに基準を作り、また仕事を分析して役人から無能を徹底的に排除した。都市が管理する金は元は都市民のものなのだから、役に立っていない者に給金は出せん。出せば都市民から不満が噴出する。ルシフは支配者として至極合理的に政治をしているにすぎん」

 

「しかし、極端すぎます」

 

「極端かもしれんが、孤児院や養護施設といった場所には剣狼隊がしっかり手回しして援助できている。ルシフの極端な思考に剣狼隊の情が上手く噛み合っているのだ。剣狼隊がいれば、老後働けなくなったとしても、都市に尽くしていたのならしっかり保障してくれるだろう。分かるか? 弱者にも色々ある。剣狼隊は救うべき弱者を見極めておるから、そこに対しての心配はあるまい」

 

 ニーナはテーブルの下で両拳を握りしめた。

 違う。本当に言いたいのはそんな部分ではない。問題なのは、何もかもの中心にルシフがいることだ。

 確かに今は、間違っていないのかもしれない。だが、この先ずっとルシフは間違わずにいられるのか。ルシフが心変わりをして、自分の幸福だけを考えるようになったらどうなる? 剣狼隊は所詮、ルシフの手足。ルシフという頭がおかしくなれば、正常な判断ができなくなる可能性が高い。

 ルシフを今まで見てきて、よく分かったことがある。彼は、情を政治に挟まない。情を徹底的に排除し理に適った部分だけを抜き出していく。誰に対しても公平であり、無駄がない。もしかしたら支配者として理想的かもしれないが、ニーナはツェルニのルシフを見ているから知っているのだ。ルシフは情の人間であることを。情がまず先にあり、それから理が生まれる。

 情の人間がいつまで情を殺して政治をできるのか。耐えきれなくなって暴走した時、一体誰がルシフを止められるのか。

 問題はそこだった。ルシフを止められる人間が誰もおらず、ルシフに心酔している。ルシフの圧倒的なカリスマ性に惹かれ、心酔する者は日が経つにつれ増えていくだろう。

 なんとかして、ルシフを周りの意見が聞ける人間にしなければならない。そのためにはルシフに勝たなくてはならない。誰よりも優れていると思い込んでいるから、意見を聞かないのだから。

 それに人類全体を考えても、ルシフに何もかもおんぶに抱っこの今の状態が本当にベストと言えるのか。ルシフが何かの拍子で死んでしまったら、ルシフに依存しきってきたこの世界はどうなってしまうのか。ルシフの座をめぐって争ったり、思考停止してしまったり、前以上に酷くなってしまうのではないか。ルシフの圧倒的なカリスマ性が、人類を家畜化してしまうのではないか。

 様々な懸念がニーナの頭の中で暴れていた。

 

 ──それに……。

 

 ニーナはルシフを思い浮かべた。

 いつも険しい表情をしていて、ツェルニで見たような年相応の笑顔や楽しそうな顔は最近一度として見ていない。

 今の形は、何もかもをルシフに背負わせてしまっているのではないのだろうか。それは間違っている。一人に押しつけるのではなく、皆で乗りこえていく。そんな世界の形の何が悪いのか、ニーナには分からない。ルシフとて、周りと協力して政治を行った方が楽になるだろうに、頑なに協力しようとしない。

 だから、ルシフに対してどの部分に反感があるのか、と訊かれれば、周りを一切頼ろうとしない部分だ、とニーナは自信を持って言える。

 

「ニーナ、あの男に歩み寄ろうなどと考えるなよ」

 

 心を読まれたような気がして、ニーナは身体を強張らせた。

 ニーナの様子を見て、ジルドレイドは図星だと見抜いた。

 

「あの男にとって他人とは、自分の意に従い動くか、それとも否か。その二種類しかおらん。共に歩く者など求めておらず、自分の後ろを付いてくる人間しか認めん。自分の前を歩きたければ、自分を倒して前に出ろ。そういう人間だ。間違っても協力など求めてはいかんのだ」

 

 ジルドレイドは立ち上がる。

 ジルドレイドは自分に忠告しにきたのだと、ここでようやく気付いた。

 

「もしかしたらお前はルシフが何もかも背負ってかわいそうだと考えておるかもしれんが、それがヤツの選んだ道よ。同情などして余計な真似をすれば地獄を見るぞ」

 

 ジルドレイドは玄関に向かい、玄関の扉を開けた。

 ニーナは椅子に座ったまま、顔を僅かに俯けている。

 玄関の扉が閉まっていく。

 

「……それでも、諦めません」

 

 玄関の扉が閉まる直前、ニーナは静かに、それでもはっきりと言った。

 ジルドレイドに聞こえたかどうかは分からない。だが、意思表示ははっきりとした。今はそれでいい。

 ニーナはコップを手に取り、残っていたお茶を一気に飲み干した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 シェーンが温かいお茶をコップに入れている。

 シェーンの後ろには、同じ容姿をした少女が立っていた。他の少女たちは別の仕事をしている。

 お茶を入れ終わった後、シェーンはポケットから小ビンを取り出した。蓋の部分を掴んでいるため、ビンの中身しか見えない。ビンには白い粉が半分ほど入っている。

 素早く蓋を開け、シェーンは三分の一ほど白い粉をお茶の中に入れた。

 蓋を締めようとビンを蓋を掴んでいる手に近付けると、ビンを持っている手の手首を掴まれた。

 

「駄目よ、それじゃあ。致死量ギリギリじゃ死なないかもしれないじゃない?」

 

 少女がシェーンの手を無理やり動かし、お茶の中に白い粉を入れた。ビンの残りが三分の一程度になったところで、シェーンの手首から手を離した。

 

「……なんてことを……」

 

 シェーンの顔から血の気が引いていった。

 

「殺すなら確実に殺さないと。中途半端が一番駄目なんだから。ほら、陛下に運びましょ」

 

 お盆に毒入りのお茶を載せ、シェーンがお盆を持って歩く。お盆は震えていた。

 

「こぼさないでよ。こぼしたらあなたを殺さないといけなくなっちゃうんだからね。できればあなたを殺したくないのよ」

 

 少女はシェーンの後ろを付いてくる。

 

「一つだけ、教えてもらってもよろしいですか?」

 

「何?」

 

「どうして、こんなことに協力を?」

 

「自由のため。誰かに買われて人生を決められるなんてうんざり。自分の生き方くらい、自分で決めたいのよ」

 

 それからは無言で書斎まで行った。

 書斎の扉を開けると、ルシフが書類に何かを書き込んでいるところだった。

 お盆の震えが大きくなり、シェーンの息が荒くなった。ただ運ぶだけなのに、とても激しい運動をさせられているような苦しさがある。

 ルシフはシェーンを一瞥したが、すぐに書類に視線を戻した。異変に、気付いてもらえない。

 お盆からコップを取り、執務机の端に置こうとゆっくり右手を伸ばす。右手は震え、お茶はコップからこぼれんばかりに揺れていた。

 シェーンはルシフが気付くことを願ったが、ルシフは書類に夢中でシェーンを見もしなかった。

 執務机にコップが置かれると、ルシフは書類を見たままお茶を一気に飲み干した。

 ルシフの顔が歪められる。

 

「……おい、なんだこの茶は……ッ!」

 

 ルシフが右手を口に押さえ、激しく咳き込んだ。右手の隙間から赤いものが垂れてくる。

 シェーンは二歩、三歩と後退りした。シェーンの後ろにいた少女が走って書斎から出ていく。

 シェーンは悲鳴をあげた。

 

「……ごめんなさい……! ごめんなさい、陛下……!」

 

 悲鳴を聞きつけ、他の少女が何事かと書斎に顔を出す。

 ルシフは再び咳き込み、血の塊を吐き出した。

 それを見た少女たちの悲鳴が連鎖し、書斎は悲鳴の渦に包まれた。

 

 

 

 茶が信じられないほど不味かった。

 そう思ったら、茶がまるで生き物のように体内で暴れ、内蔵を食い破っている。そんな錯覚を覚えた。

 ルシフは身体の奥から這い上がってくるものを何度も吐き出した。ぱっと真っ赤な花が開いたように、床が赤く彩られていく。

 書類だけは汚さないようにしようと、顔は横を向いていた。

 シェーンが涙を流し、悲鳴をあげ、謝っているのが見える。

 茶に毒を盛られた。シェーンが盛ったのだ。

 始めから分かっていたはずだった。シェーンらは毒殺するための刺客として、自分のところに送られたのだと。

 分かっていたはずなのに、いつの間にか警戒を解いていた。シェーンのまっすぐな想いに感化され、疑わなくなっていた。

 これは自分の甘さが招いた事態だ。何を企んでいるのか、面白そうだから放っておこうと考えた結果だ。

 胸のあたりが破れているような感じがした。再び咳き込む。今度は血が口から滝のように流れた。まるで嘔吐しているようだった。床に血溜りができていく。

 視界が、滲み始めた。

 このまま俺は、身体中の血を吐き尽くして死ぬのか。

 悲鳴を聞きつけ、赤装束の者たちが書斎に踏み込んでくる。赤装束の者たちは揃って絶叫していた。

 視界が滲んで何も見えない。誰かに腕を掴まれ、椅子から無理やり立たされた。

 戟。咳き込みながら、そう叫んだ。声になったかは分からない。戟。もう一度叫んだ。

 ルシフの左手に何かが握らされた。ずっと持ち歩いていた、方天画戟。たとえ見えなくても、間違えようのない柄の感触。長さも形状も何もかも頭の中に入っている。

 方天画戟の穂先で、左足のももを貫いた。周囲の怒号や悲鳴が大きくなる。

 死んでたまるか。意識を失ってたまるか。意識を失ってしまえば、このまま死ぬ。意識があれば、俺なら抵抗できる。打ち勝てる。俺は史上最高の男だぞ。

 自分に言い聞かせる。自分の前に影が現れた。視界は見えないのに、影ははっきりと見える。自分の影を切り取ったような形だった。

 

 ──なあ、死にたくないなら身体を返せよ。そうすれば死なないよ。

 

 影がにやりと笑って囁き、手を差し伸べている。

 ルシフは影をじっと睨み、手を払いのけた。

 

 ──阿呆が! 俺で無くなって生き延びるくらいなら、俺のまま死ぬ!

 

 影は悔しげに舌打ちし、消えていく。

 飛びそうになる意識。方天画戟の柄を動かし、左足のももを抉った。激痛が、意識を掴む。

 誰かに方天画戟を掴む手を無理やり開かされた。方天画戟が左足から抜かれる。そのままルシフは身体を何かに支えられ、書斎から連れ出された。




読者さまにお知らせがあります。
プライベートが多忙になってきたため、ゴールデンウィークまでは最速でも隔週で投稿させてもらいます。気長に待ってもらえると助かります。


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第83話 建国宣言

隔週が最速と言いながら、感想をいただけたことによってモチベーションが上がりまくり、命を削る禁断の奥義(ただの早起き)を使用して一週間で書き上げることができました。嘘ついてスイマセンでしたー!


 夜といっても、まだ都市全体が寝静まるには早い時間だった。特に商店が多く立ち並ぶ中央部は街灯がこれでもかというほどつけられ、昼間と遜色なく大通りを浮かび上がらせている。人通りも多く、大通りは人でごった返していた。以前は命に関わる危険な旅を何日もして都市間を移動していたが、今は都市間の移動は一日もかからなくなっており、ちょっとした旅行気分で他都市に行けるようになったため、外の世界に興味を持っていた人が多く旅をするようになっていた。特にヨルテムは交易の中心であるために豊富な物資があり、商業も盛ん。旅の人を楽しませる歓楽街も充実していて、人が集まるのも至極当然だった。

 その人だかりに何度もぶつかりながら、走っている少女がいた。目の前を邪魔する人を突き飛ばし、あるいは身体をひねってかわし、ぶつかった相手には謝りもせず、一心不乱に走り続けている。

 やがて少女は、一際大きな屋敷の前で足を止めた。休まずここまで走ってきたらしく、息を荒くついていた。両膝の上に両手を置いて、何度も深呼吸する。息を整えたら、屋敷の上部をひと睨みし、屋敷の中に入っていった。

 少女が案内されたのは、応接室のようだった。ソファが対面で置かれており、間に透明なテーブルがある。元都市長が座っている奥には床まで届いている黒いカーテンが閉められていて、部屋の周囲には本棚や陶芸品、動物の剥製などがあり、動物の突き出した角は雄々しく、目は少女を責めるように真っすぐ少女の方を向いていた。

 応接室の扉から使用人らしき女性がお盆を持って入ってきた。お茶の入った湯のみと茶菓子を、少女と対面に座っている元都市長の前に置いた。お盆に何も無くなると、お盆を抱えるようにして一礼し、応接室を出ていった。出ていく時は扉を閉めるのを忘れず、しっかり扉を閉めた。

 少女は茶と茶菓子を睨んでいた。別に嫌いではないが、ついさっき見た光景をどうしても思い出してしまって、手をつけられずにいるのだ。

 そんな心情を察したのか、元都市長は茶を美味そうに飲んだ後、すぐに本題に入った。

 

「シェーンを連れずここに来たということは、奴の毒殺に関して何か進展があったのか?」

 

「毒殺は成功しました。陛下が血を吐いたのをはっきり見ました」

 

「ほう。ならば何故シェーンを連れてこなかった? シェーンが我々のことについて話したらどうする?」

 

「あ……」

 

 毒殺が成功したのを確信したら、自分が逃げることしか頭になかった。逃げ切る自信はある。シェーンに似せた容姿をずっと続けていたから、髪の色や髪型、カラーコンタクトなどの部分を元に戻してしまえば、まったくの別人になる。

 それに、一刻も早く報告して自由になりたい、という気持ちもあった。

 

「でも、陛下の書斎は上層部にありますし、それも奥の方ですから、もしシェーンと逃げていたら二人とも捕まっています!」

 

「……まあ、よい。赤装束の連中は嫌々奴に従っている。奴が死ねば喜びこそすれ、シェーンを捕らえて殺すなどやるはずがない。あの毒で死なん人間などおるはずないからな」

 

 元都市長は小さなフォークに刺さった一口サイズの黒い羊羹を口に放り込んだ。

 少女はじれったくなり、透明なテーブルを両手で叩く。

 

「とにかく! 約束通り陛下を毒殺できたのです! 早く契約書をください!」

 

「ふむ……」

 

 元都市長は少女の言葉に耳を傾けつつも、別の言葉も意識を集中して聞いていた。

 元都市長の右耳には、マイクが内蔵されたワイアレスの黒いイアホンがつけられており、通信機の役割を果たしている。少女との会話はすべてマイクで拾って、通信先に聞こえているのだ。

 少女との会話を聞いた通信先の相手の声がイアホンから聞こえる。ルシフがいる都市長室がある建物をさりげなく見張らせている者からの通信。

 

『都市長。建物の出入口を赤装束の者たちが慌ただしく出入りしています。いつもの雰囲気とはまるで違い、異様な雰囲気もあります。何かあったのは間違いないかと』

 

「分かった」

 

 元都市長は小声で呟いた。何を言ったかは分からないが声だけは聞こえた少女が、訝しげな視線を元都市長に向ける。

 元都市長は少女の視線に気付き、軽く咳払いをした。

 

「オホン! よかろう。お前の契約書を渡す」

 

 元都市長がソファから立ち上がり、少女の横に移動する。懐から一枚の折り畳まれた紙を取り出し、少女に差し出した。

 少女はひったくるように紙を取り、広げていく。その紙は紛れもなく自分の人身売買に対しての契約書だった。

 両手で契約書を持ち、目を輝かせて読むのに夢中になる少女。

 

「お前に自由を与えてやろう」

 

 元都市長がそう言うが、少女は耳に入っていないようで、まるで反応しない。

 少女にとってこの契約書は自由への切符なのだ。この契約書がこれからの自分の未来を自分だけのものにする。

 異変は突然だった。

 契約書を何かが貫いたと思ったら、自分の身体が持ち上げられ、自分の胸を斜め上に貫かれた。

 少女は視線だけを彷徨わせる。ゆれるはずのない黒いカーテンが揺れていて、契約書の向こうに見知らぬ男。契約書からは白銀に煌めく剣が突き出ており、自分の右腕の腋を見知らぬ男の手が持ち上げ、契約書から突き出た剣は斜め上に自分の胸を貫いている。

 

「これでお前は自由だ。良かったな」

 

 少女は元都市長が何を言っているのか理解できなかった。自由……? これが、親友を売ってまで手に入れた自由……?

 少女の目から光が失われた。

 すでに事切れている少女を、元都市長は感情のない目で見る。死んでも契約書を両手で持ったままだった。自由の切符も今となっては紙屑同然であり、少女の姿はどこか滑稽な気分にさせる。

 少女の胸から赤い染みが広がっていくが、血は飛んでいないため部屋はどこも汚れていない。それも元都市長の機嫌を良くした。

 少女はもう用済みであり、生きていても自分にとって不利益しかもたらさない。だからこその口封じだった。

 

「死体を処理しておけ。細かく刻んで池の魚の餌にでもすればいい」

 

「はっ」

 

 剣を持つ男は剣が少女に突き刺さった状態のまま、身体を起こした。少女から突き出ている白銀の刀身には血が伝っている。

 剣を抜けば血が噴き出し部屋が汚れ、元都市長の機嫌を損ねる。男はよくそれを理解していた。

 

「あと私の関与に気付く者はベデがおる。急ぎ部下を引き連れ、ベデの屋敷に行け」

 

「標的はベデだけで?」

 

「いや、身内の誰かに私のことについて口を滑らせておるかもしれん。屋敷にいる者は全員始末しろ。始末したら、屋敷に火をつけて焼き払え」

 

「分かりました」

 

「それから、ルシフが侍女に毒殺されたという噂もそれとなく流しておけ。信憑性はどうでもいい」

 

「部下にやらせておきましょう」

 

 元都市長が扉を開く。男は一礼して、少女を持ち上げながら外に出ていった。

 

「くはははははは!」

 

 ソファに元都市長は腰掛け、笑い声をあげた。

 ルシフは明日の正午、全都市長を謁見の間に集め、重大な発表をするという。しかし、ルシフは死んだ。正義の鉄鎚により、魔王を滅ぼしたのだ。

 各都市長が集まっている謁見の間に、悠然と踏み入れる。各都市長からルシフを殺したことによる感謝と自分への臣従の言葉を浴び、赤装束の者たちと武芸者が自分に跪く。念威端子の映像でその光景を観ていた都市民は、暴政からの解放と人徳ある新王の戴冠に沸きに沸く。

 元都市長の頭の中には、明日の正午での謁見の間の甘美なイメージができあがっていた。客観的に見れば、そのイメージにはいくつもの矛盾点や都合の良い解釈が多分に含まれているが、元都市長にとっては明日の正午に実現される未来であった。彼は気付きすらしていない。彼の行動は明確なルシフへの敵対行動だということに。

 

『都市長。ベデの屋敷はすでに赤装束の者らに押さえられており、任務達成は極めて困難です』

 

 イアホンから、さっき出ていった男の声がした。

 もしかしたら、赤装束の者たちの中にもルシフを慕う者と敵対する者の二種類がいるのかもしれない。ルシフを慕う勢力からの復讐を防ぐため、ルシフに敵対している勢力がベデの屋敷を押さえ警護しているのではないか。むしろ無理に殺そうとすれば、こちらの身が危うくなる。

 そう考えた元都市長は、ベデ殺害を諦めた。

 

「分かった。とりあえず戻ってこい」

 

『了解』

 

 それっきり声がしなくなると、元都市長は少女が食べる予定だった羊羹に刺さっている小さなフォークを手に取り、そのまま口に入れた。

 羊羹を食べ終わると、元都市長は声をあげて笑った。叶わぬ幻想に酔いしれながら、ずっと笑い続けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 謁見の間にある玉座は金属製で、宝石が装飾された正に支配者が座る椅子という印象だった。

 この部屋には段差が無く、玉座に座れば誰よりも目線が低くなるのだが、支配者は段差を作らせなかった。いや、あえて作らなかったのだ。もうすぐ王宮が完成しそうだという噂を聞いた。あくまでこの建物は仮で使っているに過ぎず、王宮が完成すればそちらに支配者と主だった者たちが移動するだろう。

 カリアンは視線だけで謁見の間を見渡す。念威端子が数枚室内を舞っていて、謁見の間を囲むように赤装束の者が配置されていた。彼らは普段と違い、落ち着きが無いように見える。

 謁見の間はざわめきに支配されていた。時刻は正午を五分も過ぎている。時間にうるさい支配者が遅刻など、考えられない事態。

 ざわめきの内容は噂に関することだった。

 

「時刻を過ぎても陛下がお越しにならぬが、まさか噂は本当なのか?」

「陛下が侍女に毒を盛られ殺されたという噂か? 私もここに来る途中、ヨルテムの都市民が小声で話しているのを聞いたが、さすがにあり得ん話だろう。陛下がこれほどあっさりお亡くなりになるなど、信じられん」

「分からんぞ。陛下はとても好色らしいからな。侍女とお楽しみされていて警戒が緩くなったところを狙われれば、成功──」

 

 会話している男の一人が、赤装束の者の睨むような鋭い視線に気付き、戸惑いつつも口を閉ざした。会話していた他の者も黙り込む。

 

「ヴァンゼ、どう思う?」

 

 カリアンは顔を僅かに後ろに向け、錬金鋼(ダイト)を右手で弄ぶヴァンゼに訊いた。

 

「ルシフがあっさり死ぬとも思えんが、来ないところを見ると、何かあったのは確からしいな」

 

「私も同じ見解だよ」

 

 各都市長は最も信頼できる武芸者を護衛として一人連れてきていた。カリアンはもうツェルニを卒業したのだが、ツェルニの都市長としてツェルニに留まっている。ツェルニの生徒会長の座はサラミヤ・ミルケという名の少女に譲った。ヴァンゼもツェルニを卒業したが、ツェルニの武芸教官としてツェルニに滞在している。

 その会話を最後に、謁見の間に沈黙の帳が下りた。

 それから五分ほど経ち、沈黙の帳は意外な形で上げられた。謁見の間に見知らぬ中年の男がふんぞり返って入って来たのだ。ざわめきが再び謁見の間の支配者になる。

 中年の男は派手で高そうな服装をし、自信に満ちた顔がその上に乗っていた。

 ひと目見て中年の男の意図に察しがついたカリアンは、あまりの滑稽さと浅はかさに思わず吹き出しそうになったが、なんとか我慢して口元の変化だけに留めた。

 

「お集まりの諸君! 私は以前ヨルテムの都市長だった者である! 暴王ルシフは正義の鉄鎚が滅した! よって、新たなヨルテムの都市長は経験のある私が適任であるとの判断から──」

 

「誰が滅したって?」

 

 元都市長の背後から浴びせられた声に、元都市長は身体を強張らせた。

 謁見の間にいる者全員の視線が元都市長の背後に集中し、元都市長は慌てて振り返る。

 そこには死んだはずのルシフが立っていて、その後ろには金髪でメガネの女性が控えていた。ルシフは黒装束を着ていて、見たこともない凶悪な武器──確か方天画戟と言ったか──を左手に持っている。余談だが、その凶悪な武器ゆえに、『ルシフは罪人を毎晩手に持つ武器でいたぶり、愉しんでいる』というような根も葉もない噂が後を絶たない。こういう適当な話を作る輩は常日頃から一定数存在するが、都市民のルシフへの恐怖がその噂に信憑性を与えていた。

 ルシフを見た元都市長は信じられないという表情になる。

 

「……いや、その、だから、噂で陛下が毒を飲まされたと聞き、お亡くなりになられたのかと……」

 

「確かに毒は飲んだ。なかなかの苦痛で意識が飛びそうになり、左足のももをこれで突き刺したりして大変だったぞ」

 

 ルシフは右手の人差し指で左足のももを指差した。おそらく服を着替えたため、左足のももの部分は破れていない。

 謁見の間は支配者の登場で凍りついた。誰もが支配者の機嫌を損ねて罰を受けないよう、細心の注意を払っている。身じろぎすら、緊張感を持ってやらなければならなかった。

 ルシフが不愉快そうに目を細め、元都市長を睨む。

 

「で、貴様はなんだ?」

 

「わ、私は……」

 

「関係者以外は出ていけ。それとも、俺が直々に放り出してやろうか?」

 

 元都市長の顔が青ざめた。

 

「けっ、結構です! 自分の足で出ていきます!」

 

 なりふり構わずというのを体現したような走り方で、元都市長は謁見の間から出ていった。

 ルシフは一度だけ振り返り、元都市長の無様な姿を見たが、すぐに正面に顔を戻し、悠然と歩き出した。

 もしかしたらルシフは、あの元都市長が謁見の間にのこのこやってくるのを待っていたのかもしれない。タイミングが良すぎる。

 ルシフは玉座に座った。その場にいる全員が跪く。

 

「世界は汚染物質に蹂躙され、錬金術師たちは自律型移動都市(レギオス)を創造し、人類はレギオスという名の殻の中で、それぞれ生存してきた。不変なる絶対の摂理がこの世界にはある。すなわち弱肉強食! 弱きは必ず滅び、強きは更なる繁栄を築く! しかし、世界の絶対的な摂理すら超越した人類社会が今ここに誕生したのだ! 弱くとも強き者に保護され、生を謳歌できる社会である! これは汚染物質が蔓延した後の人類史にとって未踏の偉業であり、また外敵の多い世界に対する人類の反撃に他ならない! レギオス同士が協力し合い、お互いに繁栄をもたらし、人類が進化の道を突き進む! 統治者である我にはその責任と義務がある! いずれはグレンダンも我が支配下に置くが、すでにグレンダンも我が手中に収めたも同然であるため、我はこの新たなる社会体制、政治制度を今までとは別の枠に収めることを決定した! 今ここに、我は建国を宣言する!」

 

 跪いている各都市長は、頭を下げながら身体を震わせている。ルシフの演説を聞いた彼らの動揺は計り知れなかった。

 演説ではなるほど、良いことを言っている。確かに都市間戦争、汚染獣といった外敵からの脅威は無くなったと言っていい。だが、中央集権化を遂げたルシフの政治に各都市の自治権は存在せず、各都市が何百年と築きあげてきた伝統や倫理観、法律制度は徹底的に破壊、淘汰された。ルシフの政治はアップデートではなくシステムの再構築、リフォームではなく建て替え、なのである。更に増税や王宮の建造、都市民の声を聞かずに独断での都市開発等、自分にとって得になることしかやっていない。武芸者選別や役人の選別も徹底され、無能の烙印を押された者は一片の慈悲すら無く排除された。物資の価格統一も実施され、今までの感覚で売買してきた都市民は大きな混乱に陥り、抗議の声は武力による徹底的な弾圧によって潰された。

 ルシフの演説を念威端子で観ていた都市民の大多数は、『新たな社会体制? 要は外からではなく内からの恐怖政治になっただけだろ』と冷めた目で思った。極少数の者はルシフの演説を聞き歓喜の声をあげたが、周囲の冷たい視線にあげた拳を下ろした。

 ルシフは自分に酔い、自分にとって都合の良い部分しか見ない独裁者を上手く演じている、という印象をカリアンは跪きながら覚えた。

 

「国名はフォルトとする! これからは都市名の前にフォルト国と入れることを通例化し、首都はヨルテムに置く!」

 

「おめでとうございます! フォルト国万歳!」

 

 歓声が謁見の間を包んだ。各都市長が拍手しながら、口々に祝福の言葉を口にしている。心の奥底で唾を吐きかけながら。

 

「以上をもち、建国宣言を終了する!」

 

 ルシフが玉座から立ち上がった。各都市長は拍手をやめ、口を閉ざし、再び頭を下げる。

 ルシフは謁見の間から出ていった。その後ろを金髪でメガネの女性が付いていく。

 ルシフが謁見の間からいなくなっても各都市長はしばらく謁見の間にいて、小声でひそひそと話し合っていた。

 

 

 

 謁見の間から出て、広い廊下をルシフが方天画戟を手に歩いている。ゼクレティアはルシフの後ろを付いてきていた。

 

「陛下! わたしは感動いたしました! 新たな歴史の一歩が今日ここから始まる実感に、心が今も躍っています!」

 

 興奮気味に話すゼクレティア。

 

「こんなもの、通過点に過ぎん」

 

 ルシフは振り返りもせず、口を開いた。

 

「確かに今までの問題のほとんどはこれで解決する。しかし、これにより新たな問題も生まれる。脅威が無くなれば、人類は加速度的に増加し、居住地区の拡大をせねばならなくなる。セルニウムも有限な資源であるため、セルニウムの消費量削減とセルニウムに代わる新たな資源の確保、開発をせねばならん」

 

「あ、もしかして外縁部を潰して農業区、工業区を拡大したのは、人口増加を見越したうえでの対策ですか?」

 

「それでも一時しのぎにしかならんがな。限られた居住空間ではどうしても限界がくる。その限界が何百年後、何十年後かは分からんが、いずれ人類は汚染された大地の開拓に乗り出さねばならなくなるだろう」

 

「陛下……」

 

 普段通りに歩いているように見えるルシフの後ろ姿を、ゼクレティアは心配そうに見た。

 ルシフの身体の毒の爪痕は完治していないどころか、応急処置が済ませてあるだけなのである。本来ならば寝て休んでいなければならない重症なのだ。それを普段通りに見せる精神力と忍耐力は、ゼクレティアにもっと深い尊敬と忠誠心を感じさせた。

 話しながらも、足は止めていない。ルシフが来ると、廊下にいる者たちは左右にきれいに分かれ、頭を下げて道を創った。

 

「問題は山積みで、やることはまだまだたくさんある。浮かれるな」

 

「はっ」

 

 ルシフが見ていないにも関わらず、ゼクレティアは足を止めて一礼した。一礼している間にルシフと距離が開いてしまったので、小走りでルシフを追いかけた。

 ルシフは階段を何階か下り、目的の部屋にたどり着いた。部屋の前には赤装束の二人が立っている。ルシフに気づくと二人は一礼し、扉の前からどいた。

 ルシフは扉の前に立ち、扉を開いた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフの建国宣言から少しだけ時間を戻した一室。室内には黒色の長椅子以外、何も無い。その長椅子も別の部屋から持ってきた物のため、この部屋にある物は実質何も無いと言ってよかった。壁は白く塗られており、埃っぽくも無く、電灯も点いた。使用されてはいないが、毎日掃除はされているのだ。

 その黒色の長椅子に、赤のヘアピンをつけた少女が座っていた。涙目で顔を俯けている。

 少女の他には、赤装束十人、黒装束一人が同じ室内にいた。剣狼隊小隊長全員とマイである。

 少女の周囲にはマイ、バーティン、アストリット、ハルス、フェイルスが立ち、殺気と冷気がふんだんに盛り込まれた視線を少女に向けている。

 レオナルト、プエルも離れた場所から少女に視線を向けていた。レオナルトは険しい表情をしていて、普段全く怒らないプエルも眉をひそめている。

 エリゴ、オリバ、サナック、ヴォルゼーはそんな彼らを見て、やれやれという表情をしていた。

 エリゴがプエルに近付き、プエルの額にデコピンした。プエルの頭がのけ反り、額を押さえる。

 

「……つぅッ! な、何?」

 

「お前にそんな顔は似合わねえよ。『守護天使』らしくいつもみたいな穏やかな顔をしてるべきだぜ」

 

「しゅ、守護天使!? そんな、天使なんて、あたしにはもったいない言葉ですぅ!」

 

 プエルは顔を赤くしながら、両手で顔を覆った。プエルの鉄壁な防御と聖母のような優しさから、プエルをそう呼ぶ隊員がけっこういるのだ。プエルの反応が面白いからからかっているだけだが。

 マイ、バーティン、アストリットは同時に舌打ちした。

 

「エリゴさん。この子はルシフさまを殺そうと毒を盛ったのですよ! 険しい表情になるのは当たり前ですの! むしろ表情が変わらないあなた方の方がおかしいのではなくて!?」

 

 アストリットがエリゴを睨んだ。エリゴは肩をすくめるだけで、反論しなかった。

 

「早く殺しましょう。ルシフさまに死を感じさせた罪と苦痛を与えた罪は万死にあたります。楽に殺してはあげませんから、覚悟してくださいね」

 

 マイが無表情で杖を振った。六角形の念威端子が少女を囲む。少女の両眼から涙がこぼれた。

 

「わたしが許されない罪を犯したのは自覚しています。助けてほしいと命乞いするつもりもありません。ですが、一年だけ待ってもらえませんか?」

 

「……なんでです?」

 

「それは……」

 

 少女の右手が無意識の内にお腹にいき、軽くさすった。周囲にいた女性三人はその動きに気付く。三人の額に青筋が浮かび上がったのに気付いたのは少女だけだった。少女がビクリと身体を硬直させた。

 

「子どもがお腹にいるのか?」

 

 バーティンが不機嫌そうに言った。

 

「まだ……分かりません。でも、もしかしたらいるかもしれないのです。お願いします。子どもがいるかどうか分かるまで、子どもがいたら産むまで待ってほしいのです」

 

 少女は必死に頭を下げた。

 マイは天使のような微笑をたたえ、少女の肩に手を置く。

 

「誰の子どもです? ルシフさまの子どもですか?」

 

「ち、違います。別の方との子どもです」

 

「……ヘアピン、付けてますね。私も付けてるんですよ、ほら」

 

 マイが自身の前髪を指差した。黒のヘアピンが付けられている。少女はおそるおそる顔を上げ、ヘアピンを見た。

 

「分かります? 色違いなだけでお揃いなんですよ、このヘアピン。なんでルシフさまからいただいたヘアピンと同種類のヘアピンをあなたが付けてるんです? 教えてもらえませんかねえ?」

 

 マイの口元は笑みの形をしているが、目は人を殺せるほど冷たく研ぎ澄ました刃のような輝きを放っている。

 

「……うぅ、それは……」

 

「ほらほら、もういじめるのはその辺にしときなさいよ」

 

 部屋の隅の方にいるヴォルゼーが言った。全員の視線がヴォルゼーに集まる。

 

「考えてもみなさい。ルシフは死ななかった。その子の持ち物の毒を調べた結果、使用された毒はかなり強力だと分かったの。なのに、ルシフは死ななかったのよ。意味分かる? これはルシフに強い抵抗力があったとかそれ以前の理由なの。つまり、その子にルシフを殺すつもりは全く無かったのよ」

 

「うっ……」

 

 少女の両眼から再び涙がこぼれた。

 

「ねえ、あなた。よければ毒を盛った時の状況と理由を教えてもらえないかしら?」

 

「……はい」

 

 少女は意を決し、話し始めた。

 監視されていても、誰かに話すことばかりに監視者の意識がいっていたため隙があり、買った予備の調味料の塩のビンを密かに盗んだ。そして夜寝ている時、布団の中に隠しながら塩を半分ほどスカートのポケットの中に捨て、毒を四分の一塩のビンに入れた。

 あとは蓋を手で隠しながら蓋を開いてお茶に毒が混じった塩を入れ、ルシフの元に運んだ。つまり、ルシフが飲んだのはほとんど塩で、毒は少量しかお茶に入っていなかったのだ。

 話を聞き終えて真相を知ると、その場にいる者のほとんどが怪訝そうな顔になった。そこには矛盾が存在した。

 ルシフを殺したくないなら、何故塩にすり替えるだけにしなかったのか。塩に毒を混ぜる理由は全くないし、余計な手間にしかならない。

 

「いくつか質問、いい?」

 

 ヴォルゼーが代表して口を開いた。少女が涙目で頷く。

 

「どうしてルシフを殺したくないなら、毒を盛る役目を放棄しなかったの?」

 

「……わたしがやらなくては、別の方がやることになってしまうから」

 

「どうして塩に毒を混ぜるなんて面倒なことしたの?」

 

「……わたし、思ったのです。これからもありとあらゆる手段で陛下に毒を飲ませようとする人が出てくるんじゃないかと。ですが、陛下に毒を飲ませても殺せない、無駄だと分からせれば、そんなことを考える人はいなくなります! 陛下にはそんなことを気にせず政務に集中なさってほしいのです!」

 

「なるほどね。毒を飲む前に毒に気づけば、警戒心が強くて返り討ちに遭うと考え、万が一毒を飲んでしまっても毒ではルシフを殺せないと考えるようになる。どちらにせよあなたは捕まるけど、ルシフを毒殺しようと考える者はこれでいなくなるってわけね」

 

「……ううっ、ごめんなさい」

 

 涙を両手で拭いながら、少女は頭を下げた。

 そんな少女の態度に毒気を抜かれてしまい、殺気立っていた者たちはいつもの態度に戻った。マイだけは変わらず、少女を睨んでいる。

 ヴォルゼーが少女に近付き、頭を優しく撫でた。

 

「あなたはよく闘ったわ。あなたにできることの全部を使って、ルシフの毒殺を企んだ者と闘った。ありがとう。あなたじゃなかったらルシフは命を落としていたかもしれない」

 

「……わたし、わたしは……うわあああああ!!」

 

 ヴォルゼーに抱きつき、少女は号泣した。ヴォルゼーは優しく少女の頭を撫で続ける。ヴォルゼーは戦闘は苛烈だが、戦闘以外は面倒見も良く何かと力になってくれるため、剣狼隊都市民問わず人気があった。

 そこで部屋の扉が開いた。

 ルシフとゼクレティアが部屋に入ってくる。

 

「シェーン」

 

「へ、陛下!?」

 

 シェーンはヴォルゼーから離れ、ルシフに向かって深く頭を下げた。

 

「申し訳ございませんでした。どんな罰もお受けいたします。ですが、願わくばあと一年ほど時をいただけないでしょうか?」

 

「俺はお前に罰を与えるつもりはない。そのかわり、俺の周りにはもう侍女は一人も置かん。お前ら十人全員ベデに送り返す」

 

「旦那、それが……」

 

「なんだエリゴ。何か不都合でもあるのか?」

 

「残りの侍女は別の部屋に集めてあるんだが、八人しかいないんだよ。多分この子を監視してた子が逃げたんだと思うけどなあ」

 

「なら九人でいい。それから、シェーンの前だぞ。親しく話しかけてくるな。バレるだろうが」

 

「わ、わりぃ、旦那」

 

 エリゴが頭をかきながら、頭を軽く下げた。

 

「陛下、剣狼隊の方々と本当は仲がよろしいことは、初めから分かっておりました。わたしの育て親であるベデは各都市から情報を集めておりまして、陛下が重要な取引相手になるかもしれないと目をつけていたらしいのです。それでイアハイムでの陛下と剣狼隊との関係を知り、今は芝居をしているとはっきり言われました」

 

「ふむ、さすが商人だな。それだけの情報網があるなら、お前らも上手く匿ってくれるだろう。すでに屋敷は剣狼隊に確保させてある。お前ら侍女九人はそれぞれ時間をずらし、それぞれ別のルートでベデの屋敷に向かえ。護衛は二人付ける。時間がくるまでは軟禁しておけ」

 

「はい、分かりました」

 

 シェーンはバーティンとアストリットにがっちりと挟まれ、部屋から連れ出された。部屋の扉が閉められる。

 

「で、どうするの? あの子に毒を盛るよう命令した奴。目星はここにいる全員ついてるけど」

 

「捕らえてこい。証拠なら念威端子の映像からいくらでも出てくる。ヤツに地獄を味わわせてやる」

 

 ルシフの言葉に、全員が頷いた。全員が頭にきていた。元都市長の運命は決定したのだ。




ルシフさまのやっていることは『ポケモン』が『ドラクエ』になってるみたいな、そういうレベルです。いやドラクエもいいけど、ポケモンがやりたかったんだよと思う人は多分大勢います。


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第84話 管理者

 ツェルニにあるカフェテラス。様々な色の大きなパラソルが開き、その下にオシャレな白い椅子とテーブルが置かれている。

 その中の一つの赤いパラソルの下で、ナルキ、メイシェン、ミィフィはケーキと紅茶を楽しんでいた。

 

「建国宣言かぁ。ルッシーはあれだね、止まることを知らないね。これからはフォルト国学園都市ツェルニって言わなくちゃ……」

 

「ミィ、なんでお前はそんなに平然と受け入れられるんだ?」

 

「え、ナッキはなんか引っ掛かるとこある? こんなたくさんの都市のそれぞれに自治権なんて与えたら、すぐバラバラになっちゃうよ? ルッシーのやったことは多数のレギオスをまとめて統治していくうえで必要だと思うけど」

 

「そうじゃない! わたしたちの故郷のヨルテムも、わたしたちが出ていって一年しか経ってないのに、まるで別の都市のようになってしまった。わたしの周囲が、わたしの都市が、わたしの世界がどんどんルッシーに壊されていく。わたしだけが、世界に取り残されていくような気がする。それがとても怖いんだ」

 

「……わたしも、ナッキと同じ」

 

 メイシェンは顔を俯け、ティーカップを両手で持って紅茶をじっと見つめている。

 

「ねえ、ミィはどうしてそんなに平然としていられるの?」

 

「だって、ナッキとメイっちがいるもん」

 

「えッ……!?」

 

 ナルキとメイシェンの戸惑いの声が重なった。

 

「わたしも、世界が急速に変わっていく不安はあるよ。でも、二人がいる。どれだけ世界が変わっても、わたしたちは、わたしたち三人の関係は変わらない。世界が変わっても、そこに住む人は変わらない。だから、どんな世界になったって、わたしたち三人が一緒なら大丈夫だよ」

 

「……まったく、ミィは楽観的というか、前向きというか……」

 

 ナルキは呆れたような笑みを浮かべていた。

 

「でも、ミィの言う通り、だね。わたしたち三人一緒なら、きっと大丈夫」

 

 メイシェンはぱっと花が咲いたように笑った。

 

「ていうかさ~、ルッシー毒を飲まされたって建国宣言の映像で言ってたじゃん? 毒飲ませた人は何考えてたのかな? もしかして、ルッシーの地位を奪えるとか考えてたのかな? あり得なくない?」

 

「何があり得ないんだ?」

 

 ナルキが内心でまた始まったかと思いながら、ミィフィに相槌を打った。

 

「ちょっと考えてみてよ! レギオスの移動を決めているのは人じゃなくて、電子精霊っていう話じゃん? つまり、ルッシーは電子精霊の協力を得て、今の状況が作れてるわけ。ルッシーを殺しちゃったら電子精霊とのコンタクトが消えちゃうわけだから、また前みたいに各レギオスが適当に動き回る世界に戻るだけじゃん! そこら辺まで想像力働かなかったのかなあ?」

 

「……ルッシーの地位しか見えてなかったんだろ、たぶん」

 

「それに、今の仮説を正しいとすると、ルッシーは電子精霊と何かしら接触できる手段を持ってるはず。う~、気になる~! ルッシーに取材したい~! でもな~、今のルッシーはルッシーじゃないしな~」

 

「……なあ、メイっち。ミィはさっきから何を言ってるんだ?」

 

「……さあ?」

 

 悶絶しているミィフィを見ながら、ナルキとメイシェンは小声で会話し合う。

 

「あッ!」

 

 ミィフィがすぐ近くの通りを歩いているディンとダルシェナを見つけ、声をあげた。

 ディンとダルシェナはこそこそと歩いていて、ミィフィの声を浴びせられると目に見えて動揺した。

 

「ディン先輩! ダルシェナ先輩! お久しぶりです!」

 

「ああ、ミィフィか。まあ、変わりない」

 

 ミィフィの言葉に、ダルシェナが答えた。ツェルニにいた時、強化合宿で一緒に過ごしたため、彼らは多少の交流があった。

 

「お二人とも、ツェルニを退学されたと噂されていましたが……、そこら辺りの真偽はどうです?」

 

「確かに、わたしたち二人は退学し、ルシフに付いていった。だが、ルシフがわたしの父を強引に都市長の座から引きずりおろした辺りから付いていけなくなってな、ずっとイアハイムにいたんだ。それからしばらくして、ルシフがまた父をイアハイムの都市長にすると言い出して、父はまたイアハイムの都市長になった。もしかしたら、ルシフは最初からそうするつもりだったのかもしれない。でも、今さらルシフのところに戻れるはずもなく、未練がましくツェルニに来たというわけだ」

 

「なるほど、そういう事情が……。話は変わるんですが、ルッシーはどうやら電子精霊とコンタクトができるようなのです。何か心当たりはありませんか?」

 

「心当たりも何も……」

 

 ディンとダルシェナが顔を見合わせ、ディンが口を開く。

 

「ルシフは廃貴族と呼ばれる電子精霊をその身に憑依させている。そのおかげで圧倒的な力を手にし、ついにはグレンダン以外の全レギオスを支配するに至った。電子精霊とのコンタクトも、その廃貴族が仲介に入ったのだろう」

 

「ふむふむ、なるほどなるほど」

 

 ミィフィはいつの間にかメモ帳を開き、ペンで何かをメモしていた。

 

「それじゃあ、俺たちは都市長と生徒会長にまたツェルニに通えるか相談してくるから」

 

「はい! 吉報をお待ちしてます!」

 

 ミィフィがビシっと敬礼した。

 ディンとダルシェナは苦笑する。

 

「ああ、じゃあな」

 

 ディンはそのまま通りを歩きだし、ダルシェナはミィフィたちに手を振って、そのあとディンの後ろを付いて歩いていった。ミィフィも大げさだと言いたくなるほど、大きく手を振っていた。

 

「あ、そうだ!」

 

「……今度はなんだ?」

 

「ルッシーのことを取材した本とか出したら大ヒット間違い無しじゃない!? タイトルはそうだな~、『レギオスに暴王君臨』とか、どう? 読みたくならない?」

 

「それだとルッシーだってタイトルで分かるから、規制されるかもだぞ」

 

「う~ん、それなら『レギオスに魔王降臨』ってタイトルにして、主人公をルッシーに似たキャラで物語にするとか? でもわたしは小説家じゃなくてジャーナリストになりたいんだよね」

 

「そんなの二人とも知ってるよ」

 

「あ、そう? そうだよね、ずっと一緒にいるんだから」

 

「うん、そうだよ」

 

「うむ、ミィのことなら大体わかるぞ」

 

 三人は何故かおかしくなり、笑い声をあげる。

 暖かな風が吹き抜け、三人を祝福するように優しく包み込んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ニーナとリーリンはヴォルゼーとサナックに先導され、ルシフの書斎に向かって歩いていた。

 そもそもこうなっている理由は、ニーナにあった。

 ニーナはルシフの建国宣言の映像を観て血相を変え、見張りの剣狼隊にルシフに会わせてほしいと頼んだのだ。剣狼隊は困惑しつつも念威端子でルシフにその旨を伝えると、ルシフは許可した。そのため、ニーナは見張りの剣狼隊と共にルシフのいる建物まで来て、そこからはヴォルゼーとサナックに案内される形になった。リーリンも気晴らしでニーナに付いてきた。ルシフに言いたいこともある。

 書斎の扉を開けると、ルシフが執務机を前にした椅子に座り、書類に目を通しているところだった。ルシフの斜め前にはゼクレティアが控えている。

 全員が書斎に入ると、サナックが扉を閉めた。声を外に漏らさないようにするためである。

 

「陛下、ニーナ・アントーク、リーリン・マーフェスをお連れしました」

 

「おい! 一体お前は何を考えてる!?」

 

 ルシフの返答も待たず、ニーナがルシフに詰め寄った。

 

「……あ?」

 

 不機嫌そうな声がルシフから漏れた。それに呼応するように、ルシフの威圧的な剄も激しさを増していく。

 

「何を考えてるとは、一体何のことだ?」

 

「とぼけるな! 建国宣言のことだ!」

 

「ああ、なんだ、国名が気に入らなかったのか? なら別に他の国名でも──」

 

「国名? お前は何を言ってる!? そんなことはどうでもいい! 毒を飲まされたと言っていたな!? こんなところに座ってないで、早く病院に行け! 後遺症が残ったらどうするんだ!?」

 

「…………は?」

 

 ニーナが必死の形相で怒鳴っている姿に、ルシフは唖然としていた。

 ニーナの背後にいたヴォルゼーが堪えきれず、クスッと笑い声も漏らす。

 

「は? じゃない! 事の重大さを理解しているのか!? 殺されそうになったんだぞ! それをお前は何を呑気に書斎でやってるんだ! まずは身体を治すことが先だろう!」

 

 ルシフはニーナを不機嫌そうに睨んだ。

 

 ──なんだこいつ……。

 

 俺のやり方に不満を持っていたんじゃないのか? それがなんで俺の身の心配をしてくる? この俺を馬鹿にしてるのか?

 

「別に大したことないから、こうして書斎にいる。なにか文句あるのか?」

 

「お前は分かっているはずだ! そもそもお前のやり方が反感を買い、殺そうとした動機に繋がってると!  もっと他者に理解のある政治をしなければ、お前はこの先も何度も……」

 

 その先の言葉を言えず、ニーナは黙ってしまった。黙っても、言いたかった言葉くらい察することはできる。ニーナは危険な目に遭うぞと言いたかったのだろう。

 ルシフはいい加減うんざりしていた。

 

「その程度のことを言いにきただけなら、とっとと帰れ。政務の邪魔をするな。お前と違って、俺は忙しいんだ」

 

「なんだと!? まだ政務を続けるとか言ってるのか!? 能率の面から考えても、しっかり病院で治してから仕事をした方が結果的に早く仕事は終われるんだぞ! お前が今一番すべきなのは書斎の椅子に座ることではなく、病室のベッドで横になることであって……」

 

 堂々巡りだった。

 何かルシフが政務に関することでニーナたちを追い払おうとすると、追い払うことに噛みつくのではなく、政務をしようとする事実に噛みついてくる。

 ルシフの頭に血がのぼっていく。

 横に立て掛けている方天画戟を素早く左手で掴み、椅子を倒しながら立ち上がる。

 

「貴様、いい加減に──」

 

 そこでルシフが右手を口にあて、軽く咳き込んだ。右手を口から離すと、血がべったりと付着している。イラついたせいで剄の制御が甘くなったか。

 ルシフはニーナに気付かれないよう、執務机の上にあったティッシュで拭こうとした。だが、そもそもニーナは今のルシフの体調に疑問を抱いており、咳などをすれば当然そちらに注意がいく。ルシフの右手の血に気付いたのは一瞬だった。

 

「ほら見ろ! やっぱり大丈夫じゃないじゃないか!」

 

 ニーナはルシフの右手を指差しながら、必死な顔で怒鳴った。

 ルシフはいい加減頭にきた。

 彼の強大な自尊心にとって心配されることはつまり、自分の能力と力を低く見ているという侮辱に繋がる。その苦難を乗り越える能力が無いから心配されるのだという理屈になる。

 ルシフは方天画戟をニーナの鼻先に突きつけた。

 

「出ていけ」

 

「嫌だ! お前が病院に行くまでは──」

 

 ニーナの右頬に、横一文字の切り傷が生まれた。頬から血が出てくる。ニーナに突きつけていた方天画戟の穂先でニーナの頬を切ったのだ。

 

「出ていかないなら、次はもっと痛い目に遭わす」

 

 これは脅しではない。というより、ルシフは脅しを言わない。従わなければ、言った通りのことをする。

 ニーナはルシフの説得が駄目だと悟ると、今度はルシフの周囲にいる者に対して矛先を向けた。

 

「そもそもこんな状態のルシフに政務をやらせていることに問題がある! どうして剣狼隊のあなた方やそばにいるあなたはルシフを病院に連れていかず、黙って許しているのか!? そんなのおかしい! そんなのは本当の優しさじゃない!」

 

 ニーナの言葉はヴォルゼーとサナックには大した影響を与えなかったが、ゼクレティアには絶大な効果があった。

 ゼクレティアの顔が怒りで紅潮していく。

 

「簡単に言わないで! わたしたちがどんな思いでここに立っているかも分からないくせに!」

 

「サナック、扉を開けろ」

 

 サナックが扉を開けたと同時に方天画戟が空に円を描き、ニーナの身体は方天画戟の柄で扉の外に弾き飛ばされていた。

 書斎の正面にある壁に叩きつけられ、ニーナは前のめりに倒れる。金剛剄は間に合ったため気絶はせず、すぐに起き上がった。

 ニーナはルシフを睨んだが、立ち上がっているルシフの剣帯に目が行き、眉をひそめた。剣帯にあるのは白銀の錬金鋼(ダイト)一つ。ならば、残りの天剣十一本は一体どこにいったのか。

 

「はい、面会はこれで終わりね」

 

 ヴォルゼーがニーナの前に立ち、廊下に続く扉の方に手を向けた。

 ニーナは渋々ヴォルゼーに従い、歩き出すヴォルゼーに付いていく。

 

「ちゃんと病院に行くんだぞ!」

 

 付いていく直前、ニーナはルシフに向かって叫んだ。しっかり火に油を注ぐことを忘れず、ニーナは去っていった。

 ルシフはニーナの最後の言葉を聞いて更に不機嫌になり、乱暴に椅子に座った。まだ書斎にいるリーリンを鬱陶しそうに見る。

 

「まだいたのか。お前も出ていけ」

 

「うん、出ていく」

 

 リーリンは素直に扉に向かった。

 部屋を出ていく直前で扉の(ふち)に手を置き、リーリンは振り返る。

 

「ニーナじゃないけど、あなたが死ななくて良かった」

 

「あ?」

 

 リーリンはルシフに言葉を返さず、サナックに先導され廊下に出ていった。

 

「なんなんだ、一体……」

 

 ルシフは頭痛が更に激しさを増した気がして、左手で頭を押さえた。

 

 

 

 ニーナはリーリンと合流し、サナックとヴォルゼーに先導されながら歩いている。

 ニーナは注意深く、サナックとヴォルゼーを見た。二人の剣帯にはルシフ同様白銀の錬金鋼が一本吊るされている。

 

 ──天剣二本はこの二人……。

 

 ならばあと九本は?

 

「ヴォルゼーさん、ルシフは天剣をあなたたち剣狼隊に配ったのですか?」

 

「ん? 違うわよ。わたしたちは通常の錬金鋼じゃ物足りなかったから、天剣を与えられただけ。他の連中は通常の錬金鋼で十分満足してるしね。残りは全部錬金鋼メンテナンス室に預けてあるわ」

 

 残りの天剣は全て錬金鋼メンテナンス室……。

 ニーナの思案顔に気付いたヴォルゼーは、楽しげな笑みを浮かべる。

 

「なに? もしかして天剣盗もうとか考えてる?」

 

「別にそういうつもりで訊いたわけじゃ……」

 

「一応言っとくけど、錬金鋼メンテナンス室はわたしの警備エリアだからね、無理だと思うわ」

 

「そもそも、盗むつもりはありません」

 

「そう、つまらないわね」

 

 四人は建物から出た。ヴォルゼーとサナックは見張りの剣狼隊と引き継ぎ、建物に戻っていく。

 ニーナとリーリンは見張りの剣狼隊の視線を背後から浴びながら、自室に戻った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 元都市長は困惑していた。

 薄暗い闇の中で、人が数人倒れている。全員絶命していた。おそらく床には血溜りができているだろう。

 

「何故だ……何故……」

 

 元都市長は尻もちをついていた。その体勢のまま、必死に後ろに下がっている。

 

「何故剣狼隊である君が、私に武器を向けるのだ!?」

 

 赤装束に身を包んだ男が、元都市長の前に立っていた。彼こそが屋敷にいた護衛を一人残らず殺し尽くすだけに飽き足らず、家内や使用人に至るまで皆殺しにした張本人である。

 男は長い黒髪を左手でかきあげつつ、右手に持つ細剣を元都市長の喉元に突きつけた。

 

「あなたが招いた結果ですよ。まさかこうなることも読めず、マイロードを殺そうとしたのですか? それはそれはますます生かしておけない……」

 

「お前たち剣狼隊はルシフが憎かったのではないのか!?」

 

「憎い? 剣狼隊の感情など、どうでもいいでしょう? 別に慕っていようが憎かろうが、あなたの行動には些かの変化もない。問題なのは、マイロードを殺せばマイロードの地位を得られると考えた点」

 

「わ、私はヨルテムの都市長だった男だぞ! 当然の帰結ではないか!」

 

「何をもって当然なのか、私には理解できませんが、一つ分かったことがあります」

 

 細剣が元都市長の首を貫き、元都市長は血の泡を吐いて動かなくなった。

 男──フェイルスが細剣を錬金鋼状態に戻すと、支えが無くなった死体はうつ伏せで倒れた。

 

「あなたのようなゴミ、廃棄処分が適当だとね。まったく、これだから知性のない人間は困るよ。早く絶滅させないとなぁ」

 

 フェイルスはキッチンに行き、油を屋敷中に撒くと、屋敷を裏手から出ていく。出ていく際、フェイルスは手の平を屋敷に向けた。手の平の剄が化錬剄で火に変化し、フェイルスは火球を屋敷に投じる。

 屋敷は可燃物がまず燃え、その火で油が引火点に到達した瞬間、一気に燃え広がり、街灯の光も炎に呑み込まれてしまった。夜に現れた炎の柱は目立つには十分なインパクトがあり、都市民の悲鳴が通りに響きわたった。赤装束の者や武芸者がすぐさま駆けつけ、消化活動を行っている。

 フェイルスは一気に燃えるまでの時間を利用して闇に身を任せ、炎の屋敷から消えていた。剣狼隊がルシフの命令より私情を優先したのはこれが初めてのことだった。

 

 

 

 大火事騒動にそんな事情があるとは知らず、慌ただしくなっている大通りから少し裏に入った通り。

 そこを二人の赤装束の女とフードを被っている人物が歩いていた。赤装束がアストリットとバーティンで、フードを被っている人物はシェーン。

 彼女らはシェーンをベデの元に送り届ける最中だった。幸いにも大火事騒動で大通りばかりに都市民の注意はいっていて、外れた通りを行く都市民はまばらだった。この通りは商店がなく住宅街に面する通りで、街灯も最低限しか無い。普段なら薄暗い通りなのだが、今は夜空を朱色に染める火柱が月明かりや街灯を押しのけ、昼と変わらぬ明るさだった。

 アストリットとバーティンは歩きながら、静かに剣帯から錬金鋼を抜き、復元した。バーティンの両手に双剣、アストリットの右手に拳銃が握られる。シェーンは前後を挟まれるような形のため、気付かない。

 バーティンの双剣が宙にきらめき、アストリットの拳銃が火を吹いた。

 真っ二つに切られた何枚かの六角形の端子が地面に落ち、剄弾で撃ち抜かれた端子もヒビを作りながら落ちた。シェーンが驚きで目を見開く。

 周囲に人は誰もいない。いや、誰もいない時を狙って攻撃してきたのだ。シェーンの命を奪うために。

 

「マイ、いるんだろう? 出てこい」

 

 バーティンが双剣を構えながら、周囲を注意深く見渡す。

 建物の屋上から、ツインテールの少女が顔を出した。その手には杖が握られ、首には赤のスカーフを巻いている。

 

「……なんで邪魔するんですか?」

 

「私たちはこの少女の護衛を陛下から任されているからだ」

 

「でも! そいつはルシフさまに毒を盛った! ルシフさまから優しくされておきながら、その好意を踏み躙り、ルシフさまを苦痛の中に突き落とした! 許せない! たとえルシフさまが許しても、私は許せない!」

 

 シェーンがマイの言葉に衝撃を受け、身体を縮こまらせた。

 マイが杖を振るう。六角形の端子が渦を巻きながらシェーンに襲いかかった。それら全てを、バーティンとアストリットは破壊した。

 マイが悔しげに顔を歪める。

 

「なんで邪魔するんですか! あなたたちもそいつを殺したいくせに!」

 

 シェーンがビクリと身体を震わせ、アストリットとバーティンを交互に見た。二人とも無表情で見上げている。

 

「陛下が許したのなら、私にこの子を殺す理由はない」

「殺したら陛下に怒られますもの。任務失敗で」

 

 マイは杖を力の限り握りしめた。

 マイの心は怒りと嫉妬心に支配されている。何故私はちっとも抱いてくれないのに、シェーンは抱き、あまつさえ子どもができるようなことをしたのか。何故毒を盛られて裏切られたのに、シェーンに罰を与えず、それどころか匿う手助けのようなことをするのか。何故シェーンには優しくして、私には優しくしてくれないのか。

 

「……そんな理由で我慢できるんですか! そいつはルシフさまと付き合いも短いのに優しくされて、私たちは別にそうでもない! それでいいんですか! 私は嫌です! そんな奴に優しくするくらいなら、私にも優しくしてほしい! もっと優しくされたい!」

 

「……いい加減にしとけよこのクソガキが」

 

 アストリットが殺気を滲ませながら、そう呟いた。

 殺気を当てられたマイは驚き、黙り込む。

 

「おいアストリット。お前地が──」

 

「いつまでルシフさまに甘えてんだよコラ。優しくされたいだぁ? あのなぁ! 優しくされたかったら、まずテメェが優しくしろよ! 虫がよすぎるだろ、なぁ!? もうテメェは子どもじゃねえんだからよ! 思い通りにならないと駄々こねて、いつもルシフさまを困らせやがって……。頭撃ち抜いてアイスクリームの型に──」

 

「アストリット! おい! アストリット!」

 

 バーティンがアストリットの腕を引っ張る。

 アストリットはハッとした表情になり、頬を軽く染めた。

 

「あ、頭をアイスクリームの型にして差し上げますわよ」

 

 もう色々手遅れである。

 シェーンは恐怖のあまり顔が青ざめ、マイもアストリットの殺気に呑まれて動けなくなっていた。

 バーティンがため息をつき、マイを見る。

 

「そう思ってるなら、陛下にそう言えばいいだろう」

 

「簡単に言うな!」

 

 マイはバーティンをキッと睨んだ。怒りでアストリットの殺気を克服したようだ。

 

「あなたたちと私じゃ……ルシフさまと過ごした時間の重さが違うのよ!」

 

 マイは建物から飛び降りた。跳んだ瞬間に念威端子のボードが出現し、それに乗ってどこかに飛んでいく。

 アストリットとバーティンはマイが消えていくのを眺めている。

 

「なぁ、アストリット」

 

「なんです?」

 

「本当にマイの頭をアイスクリームの型にするのか?」

 

 アストリットは心外だと言いたそうな表情で、バーティンに顔を向けた。

 

「まさか。弱者にそんなことはしませんわ」

 

「それなら良かった」

 

 二人のやり取りを、シェーンは困惑しながら聞いていた。とりあえず自分の頭でアイスクリームは作られないようである。今はそれさえ分かればいいと思った。

 再び三人は歩き出した。シェーンだけが二人への恐怖で身体を震わせていたが、それ以外は問題なかった。

 

 

 

 マイは自分に与えられた部屋に帰ってきた。誰もいない一人部屋である。マイの護衛がいたが、マイは念威爆雷の光で護衛をまいてシェーンを殺しにいった。今頃は中央部を探し回っているだろう。

 アストリットの言葉が頭の中でぐるぐるめぐっている。

 

 ──優しくされたかったら優しくしろって、ルシフさまはなんでもできるんです。念威以外で助けることなんて何もないじゃないですか。

 

 アストリットもルシフに優しくされないから気が立っているのだ。いい気味だと思う。

 そもそも、優しくするとはどういうことなのか。料理を作ったり、プレゼントをしたりすれば、それは優しさなのだろうか。

 しかし、優しくするためには何にしてもルシフのことを知っていなければならない。長年ルシフとは一緒にいる。ルシフのことならなんでも分かる自信がある。

 

 ──ルシフさま、絵を書くのは好き……だよね? それから、料理を作るのも……。

 

 あれ? とマイは思った。

 確かにルシフの好きそうなことは大体分かる。だが、それが本当に好きなのかという確信は持てない。全てマイの中だけで完結している答えだからだ。

 

「……あれ? ……おかしいな……」

 

 マイは頭を押さえた。

 あんなにもルシフと一緒にいたのに、何が好きで何が嫌いか、自信を持って言えない。

 

「もしかして私……ルシフさまのこと何も分かってない?」

 

 嘘だと叫びたかった。

 しかし、それ以外ルシフの好きなことがはっきりと出てこない理由は無い。

 

 ──心配するな。これから知ればいいだろう。

 

 ルシフの声が、頭に聴こえた。

 取り乱していた心が急速に冷静さを取り戻していく。

 

「うん、そうだね。ルシフさまの言う通りだよ」

 

 マイは胸に杖を持つ手を当て、しばらく座ったままだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 大きなベッドが一つ、置いてある。それはまるで空間に浮かび上がっているようであり、空間にアクセントを加える唯一の物だった。それ以外にこの空間は何もない。ただ薄暗くて広いだけの空間。

 その空間の中に、一人の女性が入ってきた。アルシェイラ・アルモニス。二叉の槍を持っている。

 ベッド以外の物が無くとも気にせず、ベッドのところまで歩いていく。他は誰もいない。ここは王宮の地下にある場所で、人はまったく来ない場所だった。

 アルシェイラがベッドの前に立つと、ベッドがもぞもぞと動いた。やがて布団が持ち上がり、一人の少女が出てくる。

 少女は黒い服に黒髪。まるで葬儀に出向くような服装をしていた。

 

「おはよう、サヤ」

 

「おはようございます」

 

 サヤと呼ばれた少女は無表情でアルシェイラを見た。

 

「寝起きで悪いんだけど、お願いきいてくれない?」

 

 アルシェイラはサヤの前で両手を合わせた。槍は自分の身体を支えにして置いてある。

 

「お願いとはなんですか?」

 

「ルシフがグレンダンを攻めてきた時、王宮を包むように結界を張ってほしいのよ。ほら、あんたが死んだらまずいし。この世界、崩壊しちゃうじゃん」

 

 サヤという少女こそ、この世界を創り、レギオスを造った神であり、世界の管理者でもあった。

 

「それなら、問題ありません」

 

「ん? 問題ないって何が?」

 

「ルシフ・ディ・アシェナはわたしが死ねば世界が崩壊することを理解しています」

 

「はあ!?」

 

 サヤの言葉が出てくるためには、二つの条件を満たしていなければならない。ルシフがこの情報を知っていること。ルシフが知っていることをサヤが知っていること。でなければ、そんな言葉は出てこない。

 

「サヤ、あなたルシフに関して何か知ってるわね?」

 

 サヤは少しの間、思案するように口を閉じた。

 結論が出たのか、サヤは再び口を開く。

 

「……分かりました。ですが、一つだけ条件を付けさせてください」

 

「何?」

 

「他言無用でお願いします」

 

「オッケー、オッケー。じゃあ、話して」

 

「はい。そもそもの発端は、わたしの実行した計画にあります」

 

「そんな計画、わたしは知らないわよ」

 

「伝えなかったので、知らなくて当然です。計画名は『サルベージ計画』」

 

「サルベージねぇ。聞いた感じ、何かを引き上げて再利用するって印象だけど」

 

「その認識で間違っていません。この世界はゼロ領域と呼ばれる次元にある魂を、わたしが創ったこの世界に入れることで、魂が肉体に宿り、生物として存在するようになります。まあそれ自体はこの世界を創り上げた段階で自動に行うようにしてありましたから、わたしが眠っていても問題はありません」

 

「今の話とルシフがどう繋がってくるのよ?」

 

 アルシェイラはすぐに本題に入らないサヤに不満を持ち、退屈そうに言った。

 

「わたしはこの世界を管理しながら、この世界を滅ぼそうとする脅威──イグナシスに確実に勝てる手はないか、模索し続けていました。

そんなある時、見つけたのです。この世界を物語として語った世界の存在に」

 

「物語って、嘘でしょ?」

 

 アルシェイラは信じられないという表情をしている。

 

「嘘のような話ですが、実在したのです」

 

 サヤは無表情。

 

「ゼロ領域には無数の世界が存在しています。その中にそういった世界が誕生する可能性は零ではありません。

ですが、わたしに分かったのはわたしたちの世界を物語として語っている世界があるというところまでで、どういった内容かは把握できませんでした」

 

「なるほど。だからこその『サルベージ計画』」

 

 アルシェイラにもある程度全貌が見えてきた。

 物語として語られている世界から、物語を知っている自我のある魂を見つけ出し、こちらの世界に魂を入れる。そうすることでこちらの世界に物語の知識を持っている魂を転生させ、物語の知識を語らせることでイグナシスがどう動くか事前に情報を手に入れる。それこそが『サルベージ計画』の目的。

 

「でも、ゼロ領域は絶縁空間で閉ざされているはずだけど」

 

「その通りです。それがこの計画の一番の懸念要素でした。ですが幸か不幸か、イグナシスは絶縁空間を突破してこの世界に干渉しています。絶縁空間に綻びが生まれているのです。だからこそ、物語として語られている世界を見つけられたとも言えます」

 

「それで、実行したわけね」

 

「はい」

 

 サヤは頷いた。

 

「絶縁空間を突破し、別世界を隔てる絶縁空間も突破して魂を引き寄せ、戻る時も絶縁空間を突破する。能力を解き放つだけでしたので、実体はこの世界に存在し続けていました。それで物語の知識を持った自我の魂ですが、結論を言えばこちらの世界まで連れてくることができました。ですが、問題も発生しました。こちらの世界に連れてくるまでの度重なる絶縁空間の突破は凄まじいほどに力を消耗し、魂を入れる器──肉体を創る力が残されていなかったのです。やむを得ず、わたしはすでに存在し、魂が定着していた肉体に別世界の魂を入れました」

 

「まさかそれが……」

 

「はい、ルシフ・ディ・アシェナです。わたしは問題無いと判断していました。自我のある魂とまっさらな魂、優位性は決定的なものだったのです。すぐに自我のある魂がまっさらな魂を呑み込み、一つに統合されると考えていたのです」

 

「されなかったの?」

 

「どうやらそのようです。わたしは管理者ですから、魂がどうなっているかは知ることができます。今もなお、魂が二つある器があるのです。ここで問題なのは、自我のある魂は圧倒的な優位性にも関わらず、まっさらな魂を呑み込んで肉体に定着しなかったことです。今はもうルシフに自我が存在していますから、優位性はほとんど無くなっています」

 

「……つまり、ルシフはこの世界の知識と未来を知っている状態で生きているということ?」

 

「はい。信じられませんか?」

 

 アルシェイラは今までを思い出す。

 ルシフはツェルニという何の変哲もない都市で、一番欲しい力である廃貴族を手に入れた。あまりにも都合の良い展開。そして、毎年のようにグレンダンを探っていた理由。もしかしたら、物語の未来と現実の未来が正しいか、ずっと照合していたのではないか。

 

「いえ、信じるわ。それで、結局どうなったの?」

 

「……わたしは能力による消耗が激しく、眠りについて回復する必要がありました。また、わたしの行動は大規模すぎて、イグナシスに勘づかれていたのです。よって『叡智の器』であるルシフの存在に気付き、ルシフになんらかの干渉を試みたようです。またわたしの能力のコピーである電子精霊にもその情報は伝わっていました。残念ながら廃貴族といった電子精霊から外れた存在までは伝わらなかったようですが」

 

 もし廃貴族に伝わっていたなら、グレンダンがルシフの秘密に気付いただろう。グレンダンは廃貴族なのだ。

 

「なるほど。つまり、別世界の知識を得ようと転生させるも肝心なところで力尽きて知識を得られず、眠りについたためにイグナシスの動きが活性化して、結局何もできないどころか状況を悪くしただけだと。

なんていうか、間抜けねえ」

 

「言わないでください」

 

「ていうか、一度目覚めたよね? なんでまた眠ってたの?」

 

「デュリンダナがグレンダンに攻めてきた日、覚えていますか?」

 

「……忘れるわけないじゃない」

 

 その日はグレンダンがルシフに蹂躙された日でもある。忘れられるわけがない。

 

「わたしはその日に目覚めました。そして、デュリンダナを滅ぼした衝剄からグレンダンを守るために能力を使用したのです」

 

「……あ」

 

 確かにあの時、山頂部にある王宮から麓の建造物までルシフの衝剄で破壊されたが、地盤にはヒビ一つ入っていなかった。麓まであの衝剄が届いていたなら、山頂部の地盤も抉れるのが普通なのに。

 

「ていうと、何? それで回復した体力と気力を使い果たして、また睡眠してたってこと?

なんていうか、間抜けねえ」

 

「言わないでください」

 

 アルシェイラは少しだけ、ルシフに親近感が湧いていた。

 滅びて消えゆく運命だったルシフ。その運命とルシフはずっと闘ってきたのだろう。自分は運命を受け入れることしかしてこなかった。

 

「サヤ、教えてくれてありがと。ルシフと闘うのが余計に楽しみになってきたわ」

 

「わたしもできる範囲で協力します」

 

「うん、お願いね」

 

 アルシェイラとサヤは薄暗い空間から去っていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 建国宣言があった次の日の昼間。

 ヴォルゼーは数人の剣狼隊を引き連れ、商店が並ぶ大通りを歩いていた。

 ふとヴォルゼーは、身体の奥から込み上げてくるモノを感じた。いつもとは決定的に違う感覚。

 ヴォルゼーは口元を押さえながら、込み上げたソレを吐き出した。血の塊が口元から噴き出し、ヴォルゼーの意識が遠のいていく。周囲からは怒号と悲鳴。

 

 ──あぁ、タイムリミットがきちゃったか……。

 

 ヴォルゼーは地面に横たわりながら、暗くなっていく視界をぼんやりと見ていた。

 これでは死なない。それは直感で分かる。だが、残された時間も本当に僅かしかない。

 周囲は大騒ぎになっているはずなのに、ヴォルゼーは不思議と静寂の中にいた。




サヤ関連の話は独自解釈とオリジナル設定を詰め込んであります。ですがこんな設定はルシフを舞台にあげるための単なる舞台装置です。物語の本筋にはあまり関係ありませんので、ルシフはこういう経緯で転生者の魂を持ってたんだ~程度の軽い認識で問題ありません。


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第85話 星に憧れた狼

 ルシフは診察室の椅子に座っていた。

 ルシフの正面には白衣を着た赤髪の女性が座っている。眼鏡をかけていて、肩で切られた赤髪は毛先が外側にはねていた。この女医はイアハイムから連れてきた医師だった。

 

「毒の影響で内臓がいくつか損傷してるわ。しばらく流動食ね」

 

「分かった」

 

「こういう場合はなるべく早く来ることが大切なのに、来たのは毒を飲んでから二日も経った後。自分の身体は大切にしなきゃ。ルシフくんは毒もそうだけど、高熱が出てるんだから。政務は休めないの?」

 

「無理だな」

 

「ならなるべく睡眠時間取ってね。あまり最近休めてないようだから」

 

「俺のことはいい。マイとヴォルゼーについて何か分かったか?」

 

 女医の表情が曇った。この病院はマイが最近入院するようになった病院であり、今ヴォルゼーが入院している病院でもある。

 

「マイちゃんは総合失調症の可能性が高いわ。陽性症状の方。幻覚や幻聴、妄想など。ここでいう妄想は被害妄想とか、いわゆる思い込みが激しくなっている状態って理解して。診察したところ、今は急性期ね」

 

「なら、マイが何度も手首を切ったのは……」

 

「多分、あなたに興味を持たれてないとか、あなたから必要とされていないとかそういう思い込みをしたのでしょうね。自傷行為はあの子にとって、あなたの思いを感じるための手段。あなたに自分を見てほしいっていうメッセージでもある。あなたがお見舞いにくれば、あの子は自分は必要とされているんだと安心するの」

 

「それを治すためには?」

 

「マイちゃんのそばにいて、根気よく自分は必要としていることを感じさせてあげること。それでいて、甘やかさないこと。甘やかすと逆効果になる場合があるわ。しっかり自分でやるべきところはやらせる。なんでもかんでも世話を焼いていたら、何もできない人間になってしまうから」

 

「……念威端子で会話するだけじゃ駄目か?」

 

「確かに今のあなたは剣狼隊と敵対関係を演じているわけだし、多数のレギオスを束ねる統治者だから、マイちゃんと一緒にいる時間がなかなか作れないのは理解できる。それでも、時間がある時は端子の会話だけでなく、しっかり存在を感じられるくらい近くにいてあげて。端子の会話だけだと、妄想で悪い方向に考えてしまう可能性があるから」

 

「心の病気は難しいな」

 

「未だにこれだけは治療法が確立されてないわ。私に言えるのは回復した例が多い治療法だけ」

 

 ルシフは拳を握りしめた。

 何のために俺は、世界を壊そうと思ったのか。マイが笑って幸せに暮らせる世界を作りたいからじゃないのか。だが、マイだけのためではない。理不尽な死をこの世界からできる限り無くし、人間らしく死ねるために。そのために、俺は立ち上がったのだ。マイは大切だが、マイの存在に囚われれば、『王』になった目的を見失ってしまう。

 

「時間がある時はマイに会うようにするよ。で、ヴォルゼーは?」

 

「ヴォルゼーは肺を患っているわね。もう限界がきてて、いつ病死しても不思議じゃない。今まで定期検診すらしなかった理由が分かったわ。誰にも病気に気づかれたくなかったのね」

 

「……水くさい奴だ」

 

 病気に気づけなかった情け無さが全身を蝕んでいたが、表面には出さなかった。

 女医は少し考える素振りを見せる。

 

「……診察した時、ヴォルゼーに言われたの。『治せないでしょ? これは不治の病だから』って。確かに悪化しすぎてて、もう移植するしか手はなかった。でも、数年前なら治せた病だった」

 

「ヴォルゼーはずっと不治の病だと信じていたのか?」

 

「多分ヴォルゼーが産まれた都市は医療技術がそれなりに高かった都市だったんだと思う。だから、ヴォルゼーは疑わなかった。私は……言えなかった。数年前に病院に来てたら治せたって」

 

「……そうか。多分、それで良かった。不治の病だと思って死んだ方が、きっと救われる」

 

 女医は顔をうつむけた。

 ルシフは椅子から立ち上がり、診察室から出ていこうと女医に背を向け、歩き出す。

 

「ルシフくん!」

 

 女医が顔をあげて言った。

 

「あの、各都市の住民たちはあなたを悪く言うけど、私はあなたのしていることを支持する。あなたが各都市を掌握して、各都市が培った技術を共有し合うことで、全体が成長してる。医療技術だって、医療技術が進んでないところに医療技術が高い医師たちを派遣して育て、その都市では不治の病だった者がどんどん救われてる。あなたじゃなかったら、きっと各都市の技術は独占された。その技術で甘い汁を吸う奴らのせいで、救える命がたくさん失われていたはずよ。あなたのしたことは甘い汁を吸う連中からしたらたまったもんじゃないけど、それで死ぬわけじゃない。人を治す医師の立場から、あなたにお礼を言いたいの。各都市の格差を無くしてくれてありがとう。きっと各都市の住民も、いつかあなたのやっていることを理解してくれる」

 

「勘違いするな」

 

 ルシフは振り返った。女医は身体を強張らせ、息を呑む。

 

「俺ではなく、剣狼隊が勝手に動いてやったことだ。俺は関与していない」

 

 ルシフは診察室から出ていった。

 ルシフが出ていった後、女医はくすっと笑う。

 

「どちらでも結果は同じだから、どうでもいい。子どもの頃から、そういうところは変わらないよね」

 

 女医は机の上を整理し始めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ヴォルゼーは入院していた。

 今ヴォルゼーの病室にはサナックがお見舞いに来ている。

 ヴォルゼーは白色の病院服を着ていて、ベッドから半身を起こしていた。

 ヴォルゼーはベッドに置いてある銀色のボトルを手に取り、サナックに放り投げた。サナックは片手で捕る。

 

「あなたにあげるわ。わたしはもう闘えないから、これからはあなたが剣狼隊最強。もし勝てない相手がきたら、それを使って」

 

 サナックはボトルを腰に吊るし、スケッチブックを取り出した。ペンを走らせる。書き終わったら、ヴォルゼーにスケッチブックを見せた。

 スケッチブックには『分かった』と書かれている。

 その文字を見て、ヴォルゼーは頷いた。

 

「最強なのに負けたら許さないわ。負けるなら死を選ぶくらいの覚悟で闘ってね」

 

 サナックは頷いた。

 それから少し話をして、サナックは帰っていった。

 ヴォルゼーは中断していた首飾りの製作を始める。

 咳が出た。血が吐き出される。咳が出る瞬間、首飾りを頭上にあげたため、首飾りに血は付かなかった。布団が赤く染まっただけだ。

 赤く染まった布団を、ヴォルゼーはただぼんやりと見る。生まれた時から、不治の病をもっていた。長く生きられないことは生まれた時から知っていた。

 ノックの音が響いた。

 

「入っていいわよ」

 

「失礼します」

 

 水色の髪をした二十代前半の女性が入ってきた。

 ヴォルゼーを見るなり、悲鳴をあげる。

 

「ヴォルゼーさん、ちょっと! 血が布団にべっとり付いてますよ!」

 

「ああ、ごめん。考え事してたから」

 

「考え事? なんです?」

 

「剄を宿した人間──武芸者がいるじゃない? なんで武芸猫や武芸犬はいないのかなって」

 

「……はあ?」

 

「もし武芸猫がいたら、内力系活剄の変化、旋剄(にゃにゃにゃにゃにゃにゃ、にゃんにゃ)って鳴きながらものすごい速さで移動するのかな? ふふっ、かわいい」

 

「…………はい、かわいいですね。そんなことより、頼まれてた首飾りの材料買ってきましたよ。ここ置いときますね」

 

 水色の髪の女性は持っていた袋をヴォルゼーの隣に置いた。

 

「ありがとう」

 

「いえ、お礼を言われるほどでもないです。で、次の命令はなんですか? わたしにもっともっと命令してください」

 

「……フォルはその性癖だけがネックよね。実力は隊長格なのに」

 

 この女性はフォル・ニルという名前で、スカーレット隊の中でのヴォルゼーの副官のような立ち位置にいる。

 フォルは命令されることに至極の悦びを感じるという性癖をもっており、命令される回数を増やしたいという理由だけで隊長になろうとせず、隊員の立場に甘んじていた。

 

「わたしは小隊長に向いていませんよ。そんなことより命令、命令」

 

 フォルはリズム良く命令、命令とずっと口ずさんでいる。早く命令してほしくてたまらない様子。

 

「なら、イアハイムにあるケーキ屋『クリムゾン・ドロップ』のストロベリータルト買ってきて。あそこのストロベリータルト好きなのよ」

 

「分かりました! すぐ買ってきます!」

 

 フォルは上機嫌で病室から出ていった。

 ヴォルゼーは中断していた首飾り製作の作業を始めた。

 ルビーの装飾がされた部分の裏に、剄を集中させた指で文字を刻む。終わったら、銀の鎖にルビーのエンドチャームを付ける。それで終わりだ。それを剣狼隊全員分揃うまで、繰り返していく。

 今剣狼隊の人数は内通のために隊を追放した者も全員加え、二百四十五人にまで増えている。しかし暇な時に作っていた首飾りのストックはたくさんあるから、あとは今ある材料を使い切れば完了する。

 首飾りの製作を続けながらも、ヴォルゼーは首飾りを見てはいなかった。今までの人生を振り返っていた。

 ヴォルゼーという男の名前を付けられた理由は、男のように強く生きてほしいという父の願いがこめられていた。

 両親は不治の病があると医者から知らされてから、わたしに謝り続けた。「健康な子どもとして産めなくてごめんね」と母は涙を流しながら繰り返し言った。「残された時間を精いっぱい生きよう」と父は母を励ますように言い続けた。

 幼い頃から、両親は罪悪感のようなものを持っているのに気付いていた。だから不治の病を患っていても、明るく生き続けようと心に誓った。自分は幸せなのだと両親に分かってもらうために。

 父に連れられ、外縁部付近の建物の屋上に幼い頃行ったことがある。その時は夜で、大きな月と煌めく星々が夜空一面に散りばめられていたことを覚えている。

 

『ヴォルゼー、お前には月になってほしい。闇に安らぎを与える存在になってほしい。私たちの生きる世界には希望がなさすぎる』

 

 父が月を指さし、言った。

 月とは何か、と父に訊いた。月は太陽の光を反射させて輝いているんだよ、と父は優しく答えた。なら、星はと訊いた。あの星の光は長い年月を旅してここまで届いているんだよ、星自体が滅んでも光は旅した年月だけ残り続けるんだよ、と父は答えた。

 それを聞いた時、わたしはお月さまよりお星さまになりたい、と叫んだ。自分が死んでも、いつまでも自分が残り続ける。それならきっと、両親を哀しませなくてすむ。

 父は驚いたように目を見開いたが、すぐに眩しそうに目を細め、わたしの頭を優しく撫でた。

 

『そうか、ヴォルゼーはお月さまよりお星さまになりたいか。お前なら誰よりも輝く星になれるよ』

 

 それからの毎日は楽しく、幸せな日々だった。

 肺が悪いため武芸の鍛練はあまりさせてもらえなかったが、両親と様々な場所に行った。一日一日が、自分にとってかけがいのない宝物だった。

 一つ、決めていたことがある。最期に死ぬ時は、両親に産んでくれた感謝と幸せな人生だったことを伝えて笑顔で死のうと。両親の罪悪感が消えるなら、そんな最期でいいと思った。

 十二歳の時、初めて都市間戦争に参加した。初めてということで、激戦区にならない場所にいる念威操者の護衛を任された。

 護衛している最中、念威端子から敵対都市に攻めいった両親の部隊が壊滅したという通信が入った。

 頭が真っ白になった。念威操者の護衛も忘れて、叫び声をあげながら都市に攻めてきていた敵の武芸者の集団に突っ込んだ。気付いた時には、四百人近くの武芸者の死体が背後に転がっていた。

 敵対都市に突入すると、敵対都市の都市長らしき中年の男がやってきて、わたしの目線に合わせるように両膝を地面についた。そして、もう我々の負けでいいからこれ以上殺さないでくれ、と泣きながら懇願してきた。

 わたしは目の前にある男の頭を衝剄で消し飛ばした。血煙となって眼前を赤く彩った光景を見た瞬間、唐突に理解したものがあった。死なんてものは誰にでも唐突に訪れるものだと。そこに病の有無は些細な問題だった。

 敵対都市の武芸者が恐怖に支配され、都市旗をわたしの方に投げ渡したことで都市間戦争は終わった。両親の死体も引き渡された。両親は優れた武芸者で敵対都市の武芸者を何人も殺していたせいか、両親の身体は刺し傷や切り傷が三十ヶ所以上もあり、腕や足が千切れそうになっていた。

 自都市に両親の死体を連れ帰ると、両親の死体の前で声を出して泣き続けた。ずっと自分が先に死ぬものだと思っていた。両親に見守られながら笑って死んでいくのが自分の人生だと考えていた。

 それから一年経ち十三歳になったら、都市を出た。自分にあるのは誰よりも輝く星になるという、父とした約束とも言えない約束しかない。それを実現するためにはより多くの人間に会い、自分という存在を刻みつけていく必要があった。

 ヴォルゼーと名前を付けた服を着て、様々な都市を巡り、便利屋のような仕事を始めた。人助けが自分の存在を相手に刻みつける最も有効な方法だと考えていた。

 宿は一度も借りなかった。眠りたくなったら通りを歩く男に声を掛け、泊めてもらった。その度に当たり前のように身体を重ねた。恋愛感情など全く介在しない交わりだったが、不思議と安心できた。抱かれている時は、確かに自分は相手の心にいるのだ。自分は独りじゃない。今死んでも、この男の中に残る。自分にとってそれは自慰行為だった。相手がいないとできない自慰行為をやり続けた。

 ぽっかりと心に穴が空いていた。そこからどくどくと黒いものがこぼれ、自分を侵食していた。

 本当は分かっていた。血の繋がりもなく、恋人のような深い情愛で結びついているわけでもない。便利屋も交合も、事が終われば他人。一ヶ月もすれば──いや、一週間で自分の存在など薄れ、消えてしまう。自分が死んでも、一年後に一体どれだけの人間が覚えているのか。

 どうすれば自分は誰よりも輝く星になれるのか分からないまま便利屋を続け、いろんな男に抱かれ、各都市を放浪した。イアハイムに行ったのはそんな時だった。

 便利屋をイアハイムでしながら、面白い子どもを見つけた。都市民の誰もが天才か問題児か分からないと、その子どもをさして言っていた。確かに馬鹿のようなことをその子どもはよくやったが、その行為の意図が明らかになると、天才と言われるのが理解できた。常人ではできない発想、柔軟性をその子どもは持っていた。

 ある時、その子どもが声をかけてきた。一勝負したいと言ってきたのだ。剄は抑えていたが、実力を見抜いたのだろう。

 勝負はすぐについた。確かにその子どもは自分に匹敵する剄を持っていたが、自分も日中は鍛練していたのだ。時間の差は簡単に埋められるものではない。

 勝負が終わった後、その子どもが自分と世界を変えないかなどと言ってきた。それは別になんとも思わなかった。世界を変えて何の意味があるのか。ただ死ぬ人間がかわるだけで、何も変わらない。

 頭にきたのは、その後に続けられた言葉だ。お前の力を使いたいなどとほざいたのだ。

 生意気な年下は嫌いだった。自分より闘ってないのに、自分より闘い抜いた相手を見下す。年上は、年が上の分だけ多くこの世界と闘い、勝ち抜いてきた者。生きているだけで尊敬に値する。

 その子どもを半殺しにして、その場を立ち去った。

 それからというもの、子どもは傷を癒すと、毎回自分の前に現れ、勝負しろと言ってくるようになった。そして勝負が終わると、その力を有用に使わないのなら凡人と変わらないとか、そんな言葉を決まって吐いた。当然半殺しにした。殺しは何故かしなかった。その子どもはあくまで勝負を仕掛けてきたため、命のやり取りは勝負の外にあった。殺しにきてない者を殺す気にはならなかった。それに、この子どもと自分の間には今までの誰とも違う繋がりがあった。その繋がりを断ってしまうのが嫌だったのかもしれない。

 何度もその子どもに誘われる内に、子どもの言う世界を変えるというものに興味を持ち始めた。この世界の環境は苦しい。それを一変させることができたとしたら、誰の心にも残り続ける存在になれるのではないか。

 だが自分を知らない者に、力を貸す気にはならなかった。

 その子どもに力を貸す三つの条件を言った。

 一つ目、殺し合いを望んだら殺し合うこと。

 二つ目、殺し合いの決着は必ず相手を殺すこと。

 三つ目、わたしをお星さまにすること。

 その子どもは少し考えてから、分かったと言った。

 頭にきた。簡単に自分を理解できるはずがない。仲間にしたくて適当に言ったに違いない。

 そう考え、子どもに三つ目の意味は分かるかと訊いた。

 子どもは平然と『星は壊れても、光は残る。つまり、自分が死んでも名前が残るようにしたいんだろ? いいだろう。必ず歴史にお前の名を刻んでやるよ』と言った。

 その言葉を聞いた時、身体が震えたのを覚えている。まるでずっと求めていたものを与えられたように、心が躍った。力を貸してやってもいい、と思った。

 それからは男の家に泊まって寝る生活をやめ、その子どもの屋敷に居候として暮らすようになった。

 その時の仲間は二十人にも満たなかった。ルシフの父であるアゼルがルシフに頼まれて各都市に人を派遣し、有力な武芸者の引き抜きを始め、人数が徐々に増えていった。

 それが百人になった頃、クーデター紛いのことをやって剣狼隊を結成した。

 剣狼隊として、過ごした日々。

 それは以前の自分の生き方とは比べものにならないほどの充実感を感じさせた。

 同じ理想を抱き、互いに力を合わせながら突き進む。こんな繋がりがあるのか、と思った。血よりも濃い繋がり。心の深い部分で結びついていると強く感じられる。自分は独りではなくなった。自分が死んでも、ルシフと剣狼隊の中に自分の存在は残る。そう確信して生きることができるようになった。

 ヴォルゼーは現実の世界に意識を戻した。

 現在の剣狼隊の人数は二百四十五人。大きくなった。しみじみとそう思う。

 毎日、起きている時は首飾りの製作をした。

 見舞いにはたくさんの隊員が来た。スカーレット隊は毎日病室に来て、何も言わずに首飾りの製作を見ていた。フォルだけが命令してと口にし、ヴォルゼーは命令を与え続けた。フォルは嬉々として動いた。時おり血を吐き出すと、スカーレット隊の隊員が口元を拭ってくれた。

 最後に作ったのは、金の鎖にルビーの装飾を付けた首飾りだった。

 作った全ての首飾りを小箱にそれぞれ入れ終えると、病室を見渡した。スカーレット隊全員がいる。他の者は誰もいない。

 

「……フォル」

 

「はい、なんですか? なんでも命令してください」

 

「わたしの後任として、スカーレット隊の隊長になりなさい」

 

 フォルは絶句した。

 病室にいた隊員全員が目を見開く。

 

「……その命令は、きけません」

 

「やりなさい」

 

「嫌です」

 

「あなたがやるのよ」

 

「そんなの嫌です! もっともっとヴォルゼーさんに命令してもらうんです、わたしは!」

 

 ヴォルゼーはため息をついた。

 

「今夜、わたしはルシフと殺し合いをする。そう決めた。わたしの命は今日までよ」

 

 隊員は狼狽しだした。フォルも潤んだ目でヴォルゼーを見つめる。

 ヴォルゼーは微笑んだ。

 

「なんてことはないわ。生きているものはいつか死ぬ。あなたたちもそう」

 

 花は枯れ、月は欠け、風は止み、生物は死ぬ。だがしかし、再び花は咲き、月は満ち、風は吹き、生物は生まれる。永遠に繰り返される摂理。死などどうということはない。ただ自分が土に還る時がきただけだ。

 

「フォル・ニル」

 

「はい」

 

「スカーレット隊の隊長をやりなさい。スカーレット隊隊長として、最期の命令よ」

 

「……分かりました。しかし、ルシフがわたしを任命するかどうかは分かりません」

 

「なら任命したら、やってね」

 

「はい」

 

「それから、最後にわたし個人としてのお願い。わたしが死んでも覚えててくれる?」

 

「お願いは嫌いです。命令してください」

 

「あなたは命令に拘るわよね」

 

「お願いってつまり、わたしの代わりがいるってことですよね? でも命令は違います。わたしにやらせたいこと、つまりわたしの代わりはいない」

 

「そんなに他人に自分の存在を認めてもらいたい?」

 

「いけませんか?」

 

「……いえ、そんなことないわ。なら、命令する。わたしを一生覚えていなさい」

 

「その命令、魂に刻みます」

 

 フォル以外の隊員も頷いた。全員涙を堪えている。

 念威端子を呼び、ルシフに今夜指定した場所に来るよう伝えた。

 土に還ろう。人間の良いところは、土への還り方を決められるところだ。

 ヴォルゼーはそう思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 夜、ルシフは病院の屋上に来ていた。ルシフの他にも剣狼隊全小隊長、マイ、隊員四十名程度がいる。剣狼隊総員の四分の一程度がこの場に集結していた。

 ルシフは方天画戟を手に瞑目していた。ルシフの全身からピリピリとした緊張感が放たれ、その場にいる者たちもひと言も話さず、ただ時間が流れるのを待った。

 集まってから十五分後、屋上の扉が開かれた。

 ヴォルゼーが青龍偃月刀を手に、悠然と歩いてくる。白い病院服ではなく、赤装束を着ていた。

 

「みんな、これから始まる殺し合いを見に来てくれたのね」

 

 ヴォルゼーの言葉に、その場にいた面々は苦い顔をした。別に殺し合いが見たくて、ここに来たのではない。

 ヴォルゼーがルシフと相対する。ヴォルゼーが全身から剄を走らせると、都市全体に剄の波動が届いた。

 ルシフはゆっくりと目を開く。方天画戟を握る左手に力がこもった。剄が解き放たれ、ヨルテムの都市が震える。

 

「さあ、やりましょう」

 

 ヴォルゼーが青龍偃月刀を構える。

 

「メルニスク」

 

《なんだ?》

 

「この戦闘、お前の力は借りん」

 

《承知》

 

 ルシフも方天画戟を構えた。

 ここ二、三年はずっとヴォルゼーと互角で、負けなかったが勝てもしなかった。最後くらい、自力でヴォルゼーに勝ちたい。

 屋上は病院の敷地分の広さがあり、十分に戦闘できるスペースがある。

 同時に高速で前に出て、方天画戟と青龍偃月刀がぶつかった。闇に火花が散る。

 そのまま二人は打ち合い続けた。瞬く間に十合を超えた。打ち合うたび、都市全体が震動する。

 ヴォルゼーの空いた手から剄が放出され、化錬剄により不可視の鞭がルシフに襲いかかる。ルシフは剄の動きを見極め、戟で鞭を消し飛ばした。

 その隙にヴォルゼーがルシフの懐に潜り込み、右足で鋭い蹴りを放つ。ルシフも同じく蹴りを放って相殺。お互い体勢が僅かに崩れた。

 互いに相手を睨みつけながら、いち早く体勢を立て直そうとする。そこでヴォルゼーが口から血を吐き出した。肉体の限界がきたのだろう。

 必然的にルシフの方が体勢を早く立て直し、戟を振り上げる。きれいにヴォルゼーの胴体に柄がめり込み、バキバキと骨を折る音をさせながら上空に吹き飛ばした。

 ヴォルゼーは空中で体勢を立て直すこともできず、そのまま落ちてくる。勝った。

 そこから先は、ほとんど無意識に身体が動いた。落ちてくるヴォルゼーの落下点まで移動し、受け止める。お姫さま抱っこのように抱えた後、ゆっくりとしゃがみ、片膝の上でヴォルゼーの頭を支えて横にする。

 ヴォルゼーが咳き込む。血が吐き出され、ルシフの黒装束に染みを作ったが、ルシフはヴォルゼーから離れようとしなかった。

 

「……あなたに出会ってから今日まで、とても楽しかったわ。ありがとう」

 

「……」

 

 ルシフは何も言わず、ただヴォルゼーの髪を撫でた。

 

「みんながいる前でこんなこと、言いたくなかったけど、最期まで力になれなくてごめんね」

 

 せめてルシフがグレンダンを陥落させ、全レギオスを支配する基盤を作るまでは力になりたかった。

 ルシフはただ無言で首を横に振った。

 ヴォルゼーが再び血を吐く。胸のあたりに穴が開いているようだ。全身を激痛が襲い、ヴォルゼーの顔には汗の玉が浮かび出した。

 

「……このまま放っておけばすぐに死ぬから、別に約束は守らなくていいわよ」

 

 殺し合いをしたら、必ず相手を殺すこと。あの時は病死だけはしたくないという一心で、そんな条件を出した。闘いで死にたかった。

 

「約束は、守る」

 

 ルシフが方天画戟の柄を強く握るのが分かった。

 

「ヴォルゼー。たとえお前が死のうとも、お前の血は、心は、思いはずっと俺たちの中で生き続ける」

 

「……あなたのそういうところ、大好きよ」

 

 俺ではなく、俺たち。つまりは剣狼隊全員で一つ。ルシフがそういう気持ちでずっといるからこそ、剣狼隊の誰もが慕い、付いていく。

 ヴォルゼーは横たわりながら、視線をめぐらす。集まった者は泣いているか、涙を堪えている。大嫌いなアストリットの頬が濡れているのが目に入った。何故か、とても嬉しくなった。

 

「最後の条件、覚えてる? お星さまになりたいって。でもわたし、それはもういいわ」

 

「……約束は守ると言ったろ」

 

 ルシフの表情がほんの少しだけ歪んだのを、ヴォルゼーは見逃さなかった。

 そういえば、いつから自分の一人称は『ヴォルゼー』から『わたし』になったのだろう。思い返す。ルシフがイアハイムで王になった時、みんなでみんなの血水を飲んだ。多分、その時からだ。なるべく多くの人に見える星ではなく、ルシフと剣狼隊にだけ見える星でいいと思えるようになったのは。

 星自体は滅んでも、星の光は何十年、何百年、何千年と見える。自分もそうなりたかった。自分が死んでも、何十年、何百年、何千年となるべく多くの人に覚えていてほしい。そうすれば、自分はその人の心の中で生き続けることができる。ヴォルゼーという一人称も、赤装束の前後にでかでかと名前の刺繍をしたのも、気に入った相手にヴォルゼーと刻んだアクセサリーを渡したのも、青龍偃月刀という派手な武器も、すべては人の心に強く自分の印象を残し、忘れないようにさせるため。長く生きられないと分かっていたからこそ、たくさんの人の心の中で生きたかった。でも、今はルシフと剣狼隊の心の中で生き続けるだけでいい。自分の血が彼らの中に流れているだけでいい。

 ヴォルゼーが咳き込んだ。さっきまでの血の量とは段違いの量が吐き出される。視界が霞み始めた。もう死ぬ。

 

「……ルシフ、剣狼隊のみんな……先、逝ってるね」

 

「俺も後でいく。あの世で待ってろ」

 

「わたしの唯一の心残りは……グレンダンも従えて全レギオスを掌握したあなたの姿が見れないこと」

 

 もしそれが実現した暁には、最近全く見ていなかったルシフの弾けるような笑顔がきっと見れただろう。それを見られないのが、本当に残念。

 集まった者が声をあげて泣き出した。身体を震わせている者もいる。マイだけは普段通りの無表情だったが、それもいい。

 ルシフが方天画戟を振り上げる。

 ヴォルゼーは正面に顔を向けた。

 夜空に星々の煌めきが連なり、まるで星の絨毯が敷かれているようだ。その中で星の光を浴び、白銀に輝く戟の穂先。風になびく赤みがかった黒髪。星よりも輝く二つの赤い瞳。赤い瞳が光を放っているように見えるのは、目の錯覚だろうか。なんにしても……。

 

 ──美しい眺め。まるで絵画みたい。

 

「さらばだ、ヴォルゼー。我が同志」

 

 方天画戟が振り下ろされる。

 

 ──お父さん、お母さん。わたしは幸せだったよ。

 

 両刃の穂先はきれいにヴォルゼーの首をはねた。血が大量に噴き出され、ルシフの黒装束全体に染みを作る。ルシフの顔にも血飛沫がまだら模様で付着した。周囲から悲鳴が聞こえた。

 ルシフは右手でヴォルゼーの頭を掴んでいた。そのままゆっくりと立ち上がる。ヴォルゼーの首から血が滴り落ちた。

 ヴォルゼーの髪を掴んで頭を持ちながら、頭が無い胴体を見る。手に持っていた青龍偃月刀が錬金鋼状態に戻っていく。ルシフは化錬剄で剄を吸着する性質に変化させると、天剣を剄で吸着し、両手を使わずサナックの方に投げた。サナックが右手で捕る。サナックの顔は濡れていて、腰には銀色のボトルが括りつけられていた。

 ルシフはヴォルゼーの頭を持ったまま、屋上の端を目指して歩き始めた。誰も何も言えず、ただルシフが何をするつもりか見守っている。歩いたところは首から血が落ちて道のようになった。

 

「マイ、念威操者に映像を都市の各所に展開させるよう指示しろ」

 

「はい」

 

 マイが念威端子で念威操者に指示を出す。

 ルシフの周囲に六角形の念威端子が舞った。都市のいたる所でルシフがヴォルゼーの頭を持って歩いている映像が展開される。

 ルシフは屋上の端に立つと、ヴォルゼーの頭を高く掲げた。

 

「住民たちよ、騒乱の原因たるヴォルゼーは俺が討った! ヴォルゼーは俺から報酬と信頼を受けていながら、俺に反旗を翻し、俺を殺しにきたのだ! このような裏切り者にはお似合いの姿にしてやったぞ! 安心して休むがいい!」

 

 ルシフがチラリと背後を見る。

 マイは頷き、ルシフの周囲の端子のリンクを切断した。展開されていた映像も消える。

 ルシフは撮影が終わっても、ヴォルゼーの頭を高く掲げたままだった。ルシフの背後では、集まった剣狼隊隊員が目を見開いている。そして、彼らは気付いた。今までのルシフと剣狼隊の関係性から、こういう行動をルシフはとらざるをえなかったのだと。

 ルシフは高く掲げたヴォルゼーの頭に視線をやる。

 

 ──ヴォルゼー……初めて殺した人間がお前で良かったよ。こんな感触、当分味わいたくないと思えたからな。

 

 ルシフは屋上から見える景色に視線を向けた。目を見開く。ヴォルゼーが星を見るのが好きだったことを思い出した。

 

 ──見えるか? ヴォルゼー。

 

 星空が一面に広がり、都市の灯りも次々に点いていっている。

 

 ──星の空と星の大地だ。

 

 この場所から見ると、都市の灯りも星の光のように見えた。外縁部は暗いが、それが都市の光球を際立たせている。

 ルシフはヴォルゼーの頭を下げ、振り返った。

 剣狼隊の面々が何か言いたそうな顔をしているが、誰も何も言葉を口にしない。

 ルシフは無言で歩き、ヴォルゼーの頭を持ったまま、屋上から去っていった。結局誰もルシフに声をかけられなかった。

 屋上にヴォルゼーの胴体が横たわっている。剣狼隊数名が両膝をついて泣き崩れた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフは病院でヴォルゼーの頭部にエンバーミングをしてもらってから、自室に戻ってきた。エンバーミングとは死体が腐らないよう防腐処置をすることである。

 ルシフは寝室の椅子に座り、黒色で正方形の箱を膝の上に置いた。エンバーミングをされた後、ヴォルゼーの頭部は黒色で正方形の箱に入れられた。

 時刻はすでに零時をまわっていた。ルシフはずっと顔を俯け、箱の上面を見ている。

 コンコン、と寝室の扉をノックする音が響いた。

 

「……入れ」

 

 寝室の扉が開かれる。

 澄みきった空がそのまま髪を染めたような、水色でまっすぐな髪をショートヘアにした女性が寝室に入ってきた。眼は赤く充血している。フォル・ニル。ヴォルゼーの副官のような立ち位置だった者。実力だけなら隊長格だろう。彼女にその気がないだけで。

 

「ヴォルゼーさんから預かり物。あなた宛に」

 

 フォルは手に持つ白い小箱をルシフに渡した。

 ルシフは小箱を開け、中身を取り出す。金でできた首飾りだった。エンドチャームには丸い形をした金の中にルビーがはめ込まれている。

 何気なくルビーがはめ込まれている装飾の裏を見ると、『ずっとあなたらしく在れ』と文字が刻まれていた。

 ルシフは刻まれた文字をじっと見つめる。

 

「……俺以外の奴にもあるのか?」

 

「あるよ、剣狼隊全員分。でも、金の首飾りはあなただけ。他は全部銀の首飾り」

 

 フォルの首から銀色の鎖が見えていた。おそらくヴォルゼーからもらった首飾りを身に付けている。

 

「そうか。話は変わるが、ヴォルゼーが死んだことで、スカーレット隊の隊長がいなくなった。お前にスカーレット隊の隊長を任せたいと考えているが、お前はどう思う?」

 

「……何、その言い方。あなたらしくない」

 

 フォルは不満そうに目を細めた。

 

「相手の都合なんか考えず命令すればいい。あなたの命令なら、どんな命令もわたしは従う」

 

 ルシフは軽く息をついた。面倒くさい女だ。

 

「……フォル・ニルにスカーレット隊隊長を命じる」

 

「フォル・ニル! スカーレット隊隊長の任につきます!」

 

 フォルが跪き、頭を下げた。顔を上げる。恍惚の表情をしていた。

 

「……おい」

 

「すいません、イキかけました」

 

「言わんでいい」

 

 フォルがいきなり表情を歪め、涙をこぼした。

 

「本当にヴォルゼーさんは亡くなられてしまったのですね」

 

 自分が隊長になったことで、ヴォルゼーが死んだという実感が湧いてきたのだろう。

 フォルは跪いたまま、泣き出した。

 

「もう帰れ」

 

「……はい、失礼します。おやすみなさい、陛下」

 

「ああ、おやすみ」

 

 フォルは寝室から出ると、扉を閉めた。

 ルシフは椅子に座ったまましばらく動かなかった。首飾りに刻まれた文字を見続けている。

 ルシフから金色の粒子があふれ、メルニスクが顕現した。

 ルシフはメルニスクをチラリと一瞥するが、すぐに視線を首飾りに戻した。

 

「……ルシフよ」

 

「なんだ?」

 

 ルシフが顔を上げ、メルニスクを見た。

 

「今、この場には我しかいない。誰も、汝を見る者はいない」

 

「だから?」

 

「……『王』の仮面を外しても、誰にも気付かれない。汝自身の心を晒しても、何も影響はない。たまには、本来の汝に戻ったらどうだ?」

 

 ルシフの表情が驚愕の色に染まった。それから数秒おいて、自分を落ち着かせるようにルシフはゆっくり息を吐いた。

 

「……そうか……今だけは、ヴォルゼーの死を哀しめるのだな」

 

「ルシフ……汝はそこまで……」

 

 ルシフの両目から涙があふれ、頬を伝っていた。

 ヴォルゼーと出会った日から今日までの様々な出来事が、ルシフの脳内で再生されている。

 ヴォルゼーは絵空事のような理想を実現できると信じ、力を貸してくれたかけがえのない仲間の一人だった。血よりも強い、心の結びつきがあった。

 メルニスクはルシフの今の姿に驚いていた。ルシフがどこか落ち込んでいるように見えたからあんなことを言ったのだが、ここまで感情を殺しているとは思わなかった。

 

「汝と共にいて気付いたのだが、汝は『王』に向いてないな。汝は感情を爆発させる人間だ。感情を殺し、常に合理的に決定を下さなければならん『王』とは相性が悪い」

 

「……『王』に向いていたら、『王』で在り続けようなどと考えるものか。だが、仕方あるまい。誰よりも優れ、全レギオスを支配できる器の持ち主が俺以外にいないのだからな」

 

 メルニスクは言い知れぬ感情を抱いた。

 もしかしたらルシフは、自分より優れた人間が現れるのをずっと待ち望んでいるのかもしれない。

 ルシフの目からは涙が流れ続けている。

 ルシフは孤独なのだ。誰にも本心を見せてはならず、ずっと独りで世界と向き合い、闘い続けている。

 

「ルシフ、たとえ世界中の人間が汝の敵になったとしても、我はずっと汝の味方だ。汝と共に在る。ずっと汝と歩き続けよう」

 

 父を死なせた日、二度と涙は見せないと決めていた。

 涙を見せるのは『王』として失格だと今も思っている。

 にも関わらず、涙があふれて止まらない。

 メルニスクの言葉が温かく心に染み込み、凍らせた心を溶かしていっているようだ。心を塞き止めていた堰が壊れ、洪水のごとく流出している。ならば、目からあふれ流れているのは心なのだろうか。

 以前の自分ならば、誰に何を言われようとこんな醜態を晒さなかった。『王』である自分を貫けた。

 それが、今はどうか? メルニスクに優しくされたくらいで、こんなにも簡単に仮面が外れてしまった。

 もしかしたら、自分は弱くなってしまったのかもしれない。

 

「……メルニスク、俺は……俺は……」

 

 弱くなったのだろうか、と言葉を続けようとして、自分を戒めた。

 弱くなったかと訊いて何の意味がある? そんなことはない。お前は強いとでも言ってほしいのか? 甘えるな。覚悟を貫き通せ。

 そもそも、強い人間とはどういう人間をいうのだろう? 理想を目指して全身全霊で突き進む人間を強い人間だとずっと思い、自分は『王』なのだから誰よりも強く在ろうと心に決めた。だが、それは転じて理想に縛られ本来の自分らしく在れない弱さでもあるのではないか。

 心のまま生きるのは獣のすることだとずっと軽蔑してきた。弱い人間の生き方だと思っていた。だがそれも突き抜ければ、いついかなる時も本来の自分を見失わない強い人間ではないのか。

 誰よりも強く在りたい。だが、どうしても弱さが顔を出す。この弱さを潰すためにはどうすればいいのか。

 

「我は汝のことを理解している。汝の好きなように突き進めばよい。だが、今は休息するべきだ」

 

 ルシフは頷いた。

 メルニスクに感謝の言葉はどうしても出てこない。自分の弱さを完全に認めてしまう気がするのだ。

 ルシフが視線を落とし、ヴォルゼーの頭部が入った黒い箱を見る。

 

 ──ヴォルゼー……もしこれから俺がすることをお前が知ったら、俺を許して──いや、許してほしいなどと思わない。俺はただ約束を守るだけだ。今までありがとう。ゆっくり休んでくれ。

 

 涙はまだ止まらず、透明の滴がぽつぽつと黒い箱に染みを作り続けている。

 ルシフは首に金の首飾りを身に付けた。

 

 

 

 ルシフが泣いている。涙を流して、椅子に座っている。

 リーリンは布団に潜り込んだ状態で、右目を押さえていた。なのに、見えるのだ。まるで誰かの視界をそのまま右目に持ってきているような、そんな感覚。

 

 ──何? なんなの?

 

 ルシフが言葉を話している。その言葉も何故か聴き取れた。

 

 ──誰か知らないけど、こんなもの見せないでよ……!

 

 冗談じゃない。

 ルシフは残酷非道で自分勝手で暴力的な人間でいい。こんな一面は見たくない。殺さなければならない可能性のある人間に顔なんかいらない。顔を知ってしまったら……。

 

 ──いざという時、ルシフを殺せなくなってしまう。

 

《今あなたに観せているのは、メルニスクの視界です》

 

 声がどこからともなく聴こえた。

 リーリンは右目を押さえながら、左目を動かす。

 いつの間にか緑色の光に包まれた長髪の幼女が布団の中にいた。ニコリとリーリンに幼女は微笑んだ。

 この幼女はどこかで見たことがあった。ツェルニの都市旗に刺繍されていた女の子に似ている。ということは……。

 

「……電子精霊ツェルニ?」

 

 ツェルニは微笑んだまま頷く。

 

「……なんでわたしにこんなもの見せるのよ?」

 

《力になってほしいからです。ルシフの》

 

「なんであなたがそう思うの? もうルシフはツェルニの学生じゃないのに」

 

《短い間でも、ルシフはわたしのところにいました。わたしの子どものような存在です。助けてあげたいと思うのは当然です》

 

 幼女の姿なのにルシフを子ども扱いするのはどこかシュールだが、考えてみれば電子精霊として長年生きているのだから、別におかしくもない。

 

《ルシフは『王』という殻にずっと自分を閉じ込めています。そんな時、本当の自分を知っている相手が一人でもいることは、きっとルシフの心の助けになるでしょう。あなたに強制はしません。ですが、わたしはあなたがルシフを助けてくれるのを願っています》

 

 ツェルニが緑色の粒子となり、リーリンの視界から消えた。視界も元通りになり、リーリンの右目は布団の中を映している。

 

「勝手なことばかり言って」

 

 リーリンは起き上がった。向かいにはニーナのベッドがあるが、ニーナはいない。凄まじい剄のぶつかり合いを感じた途端、窓から飛び出していった。

 リーリンは右目を押さえる手を離した。

 

 ──ルシフ……あなたはそんなにも剣狼隊の人間に愛情を抱いていたの?

 

 その瞬間、リーリンに電流に似た衝撃が走った。

 

 ──もしかして、暴政をした残り二つの理由って……。

 

 今観た光景と、ルシフの今までの行動を思い返す。

 

 ──そうか……そういうことだったんだ。

 

 答えはすべて、それらの中にあった。

 リーリンの左目から涙がこぼれた。涙がシーツに落ち、染みを作る。リーリンは口を押さえ、涙を流し続けた。ルシフという人間を理解してしまったから。

 

 

 

 星を散りばめたような空間。

 二つの存在が向かい合っている。片方は半人半鳥の姿をしており、もう片方は長髪の幼女の姿。シュナイバルとツェルニ。ここは『縁』の空間の中。

 

「余計なことをしてくれましたね、ツェルニ」

 

「余計なことをしたとは思っておりません、お母さま」

 

 シュナイバルはツェルニがリーリンにどんなことをしたかは分からなかったが、何かをリーリンにしたのは分かった。それがリーリンの覚悟を揺るがすことであることも、ツェルニの性格から察しがついた。

 

「リーリン・マーフェスの持つ力は、ルシフが万が一変貌した場合の切り札となりえる力。彼女自身もその覚悟を胸に秘めていたはずです。いかなる方法でリーリンの覚悟を揺るがしたかは存じませんが、妾たちにとって都合の悪い方にしかいかないと分かるでしょう?」

 

「わたしは、ルシフを信じます。ルシフが必ず内なる敵に打ち克つと。可能性を信じることこそ、わたしの性質ですから」

 

 確かにツェルニは学園都市という可能性を信じて集まる者の都市を任されている。より良い未来への可能性を信じるのは学園都市らしいと言えるかもしれない。

 

「あなたは見た目にそぐわず、頑固ですね。以前にも闇の側に立つ彼女を自身のエネルギーを分け与えて助け、今も世界の敵になりえる者を助けようとしている。しかし、あなたが助けた彼女はあなたの都市に住む者を操り、怪しげな計画を実行していました」

 

 今はないが、少し前までツェルニには研究施設のような場所が密かに存在し、その中に円柱のような装置に入った黒髪の少女がいた。シュナイバルはその人物のことを言っている。

 

「あなたは目先のことしか見ない。だから結果としてより悪い方向にいくのです。もっと大局に立って行動するのです」

 

「わたしは可能性を信じ続けます。たとえお母さまに逆らうことになったとしても」

 

「……確かに妾は伝えましたからね。あなたの選択が世界にどのような結果をもたらすか、最後まで見届けなさい。あなたにはその責任があります」

 

 シュナイバルの姿が消えた。

 ツェルニは少しだけ寂しそうな表情になる。

 ルシフがツェルニにいた時、ツェルニはルシフに憑依していたことがあった。その時メルニスクも憑依していたため、ツェルニとメルニスクはお互い知らぬ内に『縁』が深まって同調し、感覚を共有できるようになっていたのだ。メルニスクの視界を共有できたのも、ツェルニがメルニスクと同調しているが故のことだった。

 やがてツェルニの姿も『縁』の空間から消失した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 翌日の朝。

 ルシフが建物から出てきて、出入口の前の地面に銀色の棒を突き刺した。棒はルシフの身長ほどの長さがあり、その先にヴォルゼーの首が突き刺さっている。りんご飴のような感じだ。

 ルシフはもう一本銀色の棒を、ヴォルゼーの首が刺さっている棒の隣に突き刺した。その棒の先には木でできた板が固定されており、『王を裏切り、歯向かった者の末路』と太字で書かれている。

 ルシフはそれが終わったら念威端子を介してグレンダン以外の全都市に、ヴォルゼーを見せしめとして晒し首にしたことを伝えた。

 一時間も経たない内に、ヴォルゼーの首の周りに人が集まった。変わり果てたヴォルゼーを見て悲鳴をあげた者は大勢いた。『ルシフは血も涙もない非情で最低な奴だ』などと心の内で都市民の大多数が罵っていた。

 ニーナも端子の映像を観て、ヴォルゼーの晒し首がある場所まで走ってきた。ヴォルゼーの首が切り落とされ、晒し首にされたのを知ったのは今の映像を観てからだ。昨日はヴォルゼーとルシフを夜通し探したが、剣狼隊の隊員に捕まってしまって動けなくなっていたのだ。

 ニーナは人ごみを掻き分け、最前列に立つ。少し見上げたところに、ヴォルゼーの首はあった。

 ニーナは息を呑む。ヴォルゼーは悔いなく死んだような穏やかで優しい微笑みのまま、棒に突き刺さっていた。

 

「……ッ!」

 

 ニーナは思わず目を背けた。ポケットからヴォルゼーに貰った首飾りを取り出し、手の中にあるそれを見つめる。『ヴォルゼー・エストラ』と刻まれた文字。ぎゅっと首飾りを握りしめた。

 この出来事は都市民のルシフへの恐怖を増大させたが、穏やかな表情で死んでいるヴォルゼーの姿が都市民にそれ以上の別の感情を芽生えさせた。都市民の心に恐怖に立ち向かうだけの勇気の火種を灯した。

 ちなみにこの出来事は『暴王の首打ち』と呼ばれ、後世の歴史書に刻まれることになる。暴王を正そうとした武芸者……ヴォルゼー・エストラの名とともに。



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第86話 ギフト

 勢いよく書斎の扉が開けられ、ニーナが飛び込んできた。いつも案内している剣狼隊隊員はいない。どうやらヴォルゼーの死の動揺はまだ収まっていないようだ。

 ルシフは執務机を前にした椅子に座り、いつも通り書類を読みつつ、書類に指示を書いている。

 今の時間はヴォルゼーを晒し首にしてから、二時間程度時間が経った頃。ニーナはヴォルゼーの晒し首を見た後、その足でルシフのいる書斎に衝動に任せて行ったのだ。

 ニーナの背後からバーティンとエリゴが慌てた様子で現れた。

 

「ニーナ! 勝手にルシフちゃんの部屋に入るな! 罰を与えられても文句言えないぞ」

 

「いい。お前らは下がれ」

 

 バーティンとエリゴは目を瞬かせ、ルシフをつかの間凝視した。以前のルシフならアポを取らずに来たニーナに怒り、追い返した筈だ。エリゴとバーティンは、ルシフがほんの少し王になる前のルシフに戻った気がした。

 

「分かったよ、旦那。外で待ってるぜ」

 

 どことなく嬉しそうに二人は書斎から出て、書斎の扉を閉めた。

 ニーナはそのやり取りを無言で見ていたが、二人がいなくなると執務机を両手でバンと叩いた。ずいっとルシフに顔を近づける。

 

「お前は何をやったか分かっているのか!? ヴォルゼーさんはお前のために、今までずっと力になってきた大切な仲間だろ! それを、あんな……! あんなむごいことを……!」

 

「死ねば肉塊だろ。人間じゃない。肉塊をどう扱ったところで、非難されるいわれはない」

 

 ニーナの顔から表情が消えた。様々な感情を呑みこみ、必死に抑えつけている。

 

「……本気で……本気で言ってるのか?」

 

「ああ」

 

「なら覚えておけ。人間は死んでも肉塊にはならない。それまで生きてきた人生が肉体に宿ってるんだ。だからこそ誰もが死を悼み、死体ですらある種の敬意をもって扱うんだ。人間の死は動物の死とは違う!」

 

「死んだ人間を利用することで生きている人間のためになるなら、別にいいだろ」

 

「生きている人間のため? 違うだろう! お前は自分のためにヴォルゼーさんの死を冒涜し、弄んだんだ! なんとも思わなかったのか!? ヴォルゼーさんの首を切り落とした時に! ヴォルゼーさんの首を棒に突き刺した時に! ヴォルゼーさんの首を突き刺した棒を地面に突き立てる時に! お前は何も感じなかったと言うのか!?」

 

「別に何も感じなかった」

 

「……ッ!」

 

 ニーナがルシフの左頬を平手打ちした。乾いた音が書斎に響く。

 

「……」

 

 ルシフは平手打ちされた影響で、ニーナから見て横顔になっていた。そのまま左目だけを動かし、ニーナを見る。左頬に紅葉のような赤い手形ができていた。

 ニーナは涙を両目に溜めたまま、ルシフを睨んでいる。

 

「……お前はひねくれた奴だ。口ではそう言いつつも、内心は引き裂かれそうなほどの激情が渦巻いているのかもしれない。だが、内心どうだろうと、結果としてお前は人の死を家畜のように扱った。目的のために人間の死体すら道具にする最低な人間だ、お前は!」

 

 ニーナは涙をこぼしながら書斎から出ていった。バンと勢いよく書斎の扉を閉めた音がする。もしこの時ニーナがルシフに平手打ちが当たったことに違和感を感じていたら、未来は変わっていたかもしれない。だが結論から言ってしまえば、今のニーナはそんなことに気付ける余裕がなかった。

 ルシフは左頬を左手でさすっている。執務机に置いてあるティッシュを右手で取り、口からぺっと血を吐き出した。ティッシュに赤い花が咲く。ニーナに平手打ちされた時に口の中のどこかを切ったらしい。

 

「……最低な人間、か。知ってるよ、ずっと前から」

 

《……ルシフ》

 

 内から、メルニスクのどこか心配しているような声が聴こえた。

 

「お前には今まで言ったことはなかったが、俺は都市間戦争や汚染獣の脅威を無くして、犬猫のように死ぬのではなく、人間らしく死ねる世界を創りたいんだ。

人間の尊厳を踏み躙るような奴は、俺にとって最も憎く怒りを感じる人間なんだよ」

 

 人間は死んでも肉塊にならない。そんなことはずっと前から知っている。人間には人間らしい死に方があり、人間としての尊厳がある。

 その一方で、人間の死に意味を与えるのが指導者の責務だとも思っている。無駄死にさせず、生きている人間のためにどれだけ死を利用できるか。その思考が指導者には重要なのだ。

 そして、この二つは両立できない。常に人間の尊厳を守りつつ、死に意味を与えることなどできないのだ。どちらかを優先しなければならない。ルシフは後者を優先し、選択した。非難される覚悟ならずっと前からできている。

 そんな自分が、ルシフは大嫌いだった。目的のために必要だと分かっていても、人間の尊厳を踏み躙る自分に嫌悪感が湧いてくる。

 

《我にはよく理解できぬが、本当に死を利用することに何も感じていない者ならば、汝のような思考はせぬと思うがな》

 

 ルシフは目を丸くして、左手を胸に当てた。微かに唇の端を吊りあげる。

 

「……お前が俺の心を知っている。それで俺はいいよ」

 

《なんというか、汝は少し変わったな。いや、『王』になる前の汝に戻ってきたというべきか》

 

「相変わらず頭痛は酷いし、頭はくらくらするがな。だが、何故か今は心に余裕があるんだ」

 

 もしかしたら、今までずっと耐えに耐えてきた涙を流したことが、張り詰めていた身体と心をほぐしたのかもしれない。イライラしていた頃の自分が嘘のようだ。

 ルシフは政務を再開した。

 政務をしている間、大した用事もないのに剣狼隊の小隊長が次々に書斎に現れた。用事が終わっても、書斎から出ていこうとしない。実は小隊長はヴォルゼーを晒し首にしたルシフが心配になり、様子を見に来たのだ。用事は無理やり作ったような本当に些細なものだった。

 彼らと同じ理由で来ていたマイは、書斎からこっそりと出ていった。それから十五分後にマイが書斎に再び戻ってきた。お盆を両手で持っていて、お盆にはコーヒーが入ったカップが書斎の人数分と透明な砂糖壺が載っている。

 

「はい、ルシフさま。コーヒーをどうぞ。角砂糖は二つでよかったですか?」

 

「ああ。ありがとう、マイ」

 

 マイは執務机にお盆を載せ、カップの一つに角砂糖を二つ入れて差し出した。

 ルシフはカップを受け取り、ひと口飲んだ。温かいコーヒーが身体に染み渡っていく。毒の影響でまだ固形物は食べられないが、飲み物は飲める。

 マイは執務机にお盆を置いたまま、その場にいる小隊長に角砂糖の数を訊いて、訊いた数だけ角砂糖を入れた後、コーヒーのカップを手渡した。どの小隊長も意外そうな顔をしながら、マイからコーヒーのカップを受け取っている。実際、マイがルシフ以外の人間に世話を焼くのは珍しい。

 

「はい、アストリットさん」

 

 マイが最後のカップをアストリットに渡した。

 

「あら、ありがとうございます。珍しいこともありますわね。そういえば、私には角砂糖の数をお訊きにならないんですの?」

 

 アストリットは笑みを浮かべているが、それが敵意のある笑みであることはその場の全員が分かった。

 

「アストリットさんのコーヒーは私特製のブレンドコーヒーなんです。角砂糖で味をおかしくしたくありません」

 

「あら、何をブレンドしたのかしら?」

 

「たっぷりのカラシとワサビです」

 

 マイが愛想の良い笑顔で胸を張った。

 

「あらあらまぁまぁ、それはそれはありがとうございます、マイちゃん。うふふふふ」

 

 アストリットは変わらず笑みを浮かべているが、額に血管が浮かびあがっていた。

 

「えへへへへ、一滴も残さず飲んでくださいね、私特製のブレンドコーヒー」

 

 マイはニコニコと天使のような笑顔だった。

 アストリットはコーヒーを見つめた後、チラリとルシフの方を見た。ルシフが食べ物や飲み物を残すことを嫌っているのは剣狼隊の誰もが知っている。

 アストリットは腹を括り、コーヒーを一気に飲み干した。

 

「う~~~~!」

 

 アストリットは両手で口を押さえたまま、声にならない声を出しながら書斎を飛び出していった。カラシとワサビでくちゃくちゃになった顔を見られたくなかったのだろう。

 

「ククッ……」

 

 ルシフが笑い声を漏らした。

 それを合図に、書斎にいた小隊長たちも笑い声をあげる。

 小隊長たちはルシフの雰囲気にピリピリとしたものが無くなっていることに、書斎に来た時から気付いていた。だからこそどこか居心地が良くて、書斎から離れられなかったのだ。前は剣狼隊だけの時でもピリピリとした雰囲気があり、こういったふざけることもはばかられた。

 マイもそういうルシフの雰囲気を感じたからこそ、こうしてちょっとしたいたずらをアストリットに仕掛けられたのだろう。

 数分後、アストリットがクッキーの盛られた皿を二つ持ってきた。片方は普通のクッキーだが、もう片方のクッキーはその上にかけられたたっぷりのカラシに呑みこまれている。

 

「ルシフさま、クッキーをどうぞ」

 

「ありがとう」

 

 アストリットが執務机の上にクッキーが盛られた皿を置いた。その後、マイを見る。

 

「さっきはありがとうございます、マイちゃん。お礼に、私も特製のクッキーをご用意させていただきましたわ、おほほほほ」

 

「わぁー、いいんですか貰ってもー。ありがとうございます~」

 

 マイとアストリットのどちらも満面の笑顔だが、その間は目に見えない火花が散っている。

 

「全部食べてね、マイちゃん」

 

「もちろんいただきますよ」

 

 そう言いつつも、マイはなかなかクッキーに手を出せない。

 そんな時、横から手が伸びてきて、クッキーを一つつまみ上げた。ルシフの手だった。

 

「あッ……!」

 

 アストリットが驚きの声をあげ、ルシフがクッキーを口に運ぶのを止めようとするが、ルシフはさっさとクッキーを口にいれてしまった。

 食べた後、ルシフの表情は僅かに歪んだが、コーヒーで流し込んだ後は表情が戻った。

 

「……ふぅ」

 

 ルシフがひと息ついた。それから、アストリットに視線を送る。

 

「アストリット」

 

「は、はい!」

 

 アストリットの声が上ずった。

 

「なかなか刺激的な味のクッキーだな。目が完全に覚めた」

 

「……あの、ご不快になられてないでしょうか?」

 

「別に」

 

 ルシフはアストリットからマイの方に視線を移した。マイは目を丸くしてルシフを見つめている。

 

「マイ。食べられないなら、俺のと交換しようか?」

 

 ルシフの言葉に、マイは微笑んだ。嘘のない本当の笑みだった。

 

「いいえ、大丈夫です」

 

 言うが早いか、マイは一気に全てのクッキーを口に入れ、コーヒーをイッキ飲みした。

 

「う~~~~!」

 

 飲み終わったカップはドンという音を立ててお盆に置かれ、マイは先程のアストリットと同じく口を両手で押さえて声にならない声をあげながら、書斎から出ていった。

 ルシフはそんなマイの後ろ姿を見て苦笑し、小隊長たちも笑った。書斎を笑いの渦が包み込む。

 小隊長たちは笑いながら、ルシフの心を癒してくれた誰かに心から感謝した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 もう日も暮れ、カーテンが閉められた窓からは街灯の光しか見えなくなっている。

 ニーナはルシフの書斎から帰ってきた後、ずっと深刻な表情で椅子に座り、机に両肘をついて両拳を額に当てるようにしていた。

 リーリンはそんなニーナの様子に声をかけることができず、暇潰しにツェルニから持ってきた参考書で勉強している。

 ニーナはリーリンが勉強していることも目に入らなかった。そもそも机と椅子は左右対称に置かれているから、お互い椅子に座れば背中合わせになるのだが、そういう意味での目に入らないではない。今日のニーナはリーリンのことを一瞬たりとも意識しなかった。

 朝食も昼食も摂らず、ただじっと椅子に座っている。ニーナが今日一日考えているのはルシフのことだ。

 そんな時、玄関の扉をノックする音が聞こえた。

 ニーナとリーリンはお互い振り向いて目を見合わせる。

 

「誰か来たみたい」

 

「わたしが出る」

 

「うん。ありがとう」

 

 ニーナが立ち上がり、玄関に行った。玄関の扉を開け放つ。監視役の剣狼隊隊員が二人立っていた。朝はヴォルゼーが死んだことによる混乱でいなかったが、夜になるまで時間が経てばさすがに混乱から抜け出したようだ。

 

「ジルドレイド・アントークさんが面会を求めています。お会いしますか?」

 

「もちろん会います」

 

 何故大祖父さまが来るのか疑問に思ったが、数瞬考えただけで会うと決めた。ルシフのことに対する話し相手が欲しいのかもしれない。今のリーリンとはどこかよそよそしさがあり、話しづらく感じる。

 ジルドレイドをリビングの方に案内した。

 リーリンが部屋から出てくる。

 

「来たのはジルドレイドさんだったんですね。こんばんは」

 

 リーリンが軽く頭を下げた。

 

「うむ」

 

 ジルドレイドは小さく頷いた。

 

「あの、リーリン」

 

 ニーナが目を泳がせつつ、言った。

 

「何?」

 

「大祖父さまと二人きりで話したいんだ。悪いが席を外してくれるか?」

 

「全然いいよ。血の繋がった家族だもんね。他人を気にせず話したいって気持ちはわたしも分かるから」

 

 リーリンはもう一度ジルドレイドの方に頭を下げてから、部屋に引っ込んでいった。

 ニーナはリーリンが口にした他人という言葉に内心ショックだった。だが、リーリンは悪くないし、正しい。ニーナもリーリンを他人として扱ってしまったのだから。

 リビングにあるテーブルの椅子に向かい合わせで座る。

 

「どうされたのです?」

 

「今日の朝、ヴォルゼーが晒し首にされた。そのことでお前が馬鹿なことを考えていないか気になってな」

 

「馬鹿なこととは?」

 

「ルシフに表立って歯向かうことだ」

 

 ニーナはテーブルの下で両手を握りしめた。

 

「ルシフを頂点とし、支配する今の世界は本当に正しいのでしょうか?」

 

「客観的に見れば、都市間戦争が無くなり、汚染獣も敵ではない。治安が悪くなっているわけでもない。この現状が悪いとでもお前は言うのか?」

 

「いえ、以前に比べれば格段に良くなっていると思います。全都市民の中にルシフに対する恐怖と憎悪はありますが、実際に罰を受けるのは剣狼隊ばかりですし」

 

「ならば、何が気に入らんのだ?」

 

「確かにルシフは偉大なことをしました。ですが、ルシフだけにしかできないことでもなくなりました」

 

 もっとも偉大なのは発見することであり、発見してしまえば誰もが理解できる。ルシフは全都市を支配する方法を発見した。それを真似すれば同じことができるのなら、ルシフが頂点に立ち支配する必然性はない。

 

「ルシフ以外の誰にこんなことができる?」

 

「別にルシフでもいいですが、今のルシフに全都市を支配させ続けるのは、わたしには危ういように感じます。今日ルシフに会ってよく分かりました。ルシフとしての感情は全て王という器に覆い隠されてしまっています」

 

「別に悪いことでもあるまい。私情を挟まないというのは、指導者にとって重要な資質でもある」

 

「それに加え、ルシフの性格である傲慢さは微塵も変わっておらず、他人の言葉には耳も貸しません」

 

「剣狼隊の意見を多少は聞いているだろう」

 

「あれはマッチポンプでしょう。剣狼隊は単にルシフの指示で動いているだけです」

 

「……まぁ、そうだな」

 

 ジルドレイドも内心そう理解していたに違いない。ルシフは他人の意見を聞いているとニーナに思わせるために、剣狼隊はルシフの意思と関係なく動いているような言い方をわざとしていたのだろう。

 

「……このままいけば、グレンダンにもルシフの手が伸びるのは必然です。グレンダンが陥落すれば、ルシフはまた武芸者選別をやるでしょう。グレンダンは武芸の本場と言われるほど武芸に盛んな都市。不合格者が自殺する確率は他都市と比べれば高いと思います。人がたくさん死ぬと分かっているのに、何もせずただ黙って見ているのは正しいのでしょうか?」

 

「……」

 

「わたしは武芸者選別で死を選ぶ人を助けたいのです。それに、ルシフは一方的に自分の意見を押しつけているだけで、世界にいる一人一人の意見は踏み躙る。世界はルシフ一人のものではなく、世界に住む一人一人のものです。お互いに相手を尊重し合い、より良い世界になるよう意見を擦り合わせていくのが大切なのではないでしょうか?」

 

「それで、どうするつもりだ? 話し合いではなく、力で対立するつもりか?」

 

 ニーナの表情が歪んだ。涙が頬を伝い、握りしめた拳の上に落ちる。

 

「……仕方ないじゃないですか! わたしがどれだけ言葉を尽くしても、ルシフは少しも耳を貸さないんです! わたしの言葉をルシフに届かせるためには、どんな形であれルシフに勝たなければならないのです! グレンダンを陥落させてない今しか、ルシフに勝つチャンスはありません! でも、わたしは無力です! 何も変えられず、何もできません! それが本当に悔しい!」

 

 ジルドレイドは黙ってニーナを見つめていた。

 沈黙はほんの数分だっただろうが、ニーナにとっては何十分という時間に感じられた。

 

「……最後に問う。ルシフの才覚と統率力、カリスマ性はおそらく世界中の誰よりも優れていると言っていいだろう。奴にこのまま任せておけば、以前と比べて格段に人類にとって住みやすく安全な世界になる。それは断言できる。それでもお前は、ルシフと対立するというのか?」

 

「今のルシフとは対立しかないと思っています。ルシフに勝つことでルシフの傲慢さが薄れ、他人の意思を尊重できるようになるなら、わたしはルシフのサポートとして力になりたいと考えています」

 

「お前の行こうとしている道は、はっきり言うがルシフが進んでいる道より厳しく、険しいぞ。ルシフは人間同士の意見の擦り合わせなどという不安定なものは最初から切り捨てている。人間の感情に、もっと言えば住む人間に左右されない安定した土台を創ろうとしておる」

 

「その世界にルシフの安住はありません。何もかもルシフに背負わせ、決断させる世界。わたしはルシフも救いたいんです。命だってルシフは狙われていました。わたしは誰も犠牲にしない道を行きたいんです」

 

「……そうか」

 

 ジルドレイドは目を瞑り、ゆっくりと頷いた。剣帯から二本の黒い錬金鋼(ダイト)を抜き、テーブルに置く。

 

「大祖父さま?」

 

「この錬金鋼はルシフが持っているものと同じ、電子精霊のエネルギーの結晶。通常の錬金鋼では耐えられない剄量も耐えきれる。これを、お前にやろう」

 

 ニーナは驚き、テーブルに置かれた錬金鋼を凝視した。そのまましばらく固まったが、やがて小さく首を振った。

 

「嬉しいですが、いりません。わたしの剄量なら、今の錬金鋼で十分です」

 

「無力で悔しいと、お前は申したな?」

 

「……はい」

 

「ならば、儂の力をお前に託す」

 

 ジルドレイドの身体が黄金の輝きを放ち始める。

 ジルドレイドの身体から四つの黄金の球体が弾き出された。

 四つの球体は、それぞれ別々の形に変化していく。

 花弁の衣を纏った少女。生意気そうな少年。勝ち気そうな青年。落ち着いた雰囲気の妙齢の美女。

 四体とも、無表情ではなかった。花弁の少女は涙をこぼれさせ、生意気そうな少年は拳を握りしめて顔をうつむけ、勝ち気そうな青年は下唇を噛みしめ、妙齢の美女は口元を手で押さえている。

 そんな四体を見て、ジルドレイドの表情が優しく綻んだ。

 

「アーマドゥーン」

 

 花弁の少女が頷く。

 

「ジシャーレ」

 

 生意気そうな少年が顔を上げる。

 

「テントリウム」

 

 勝ち気そうな青年がジルドレイドの目を見る。

 

「ファライソダム」

 

 妙齢の美女が口元を手で押さえたまま頷く。

 

「お前たち、儂と共に歩いた戦友たちよ、孫娘の力となってくれるか?」

 

「大祖父さま!?」

 

 ニーナが叫ぶが、ジルドレイドの耳には届いていないようだった。

 四体は小さく、だが確かに頷いた。

 ジルドレイドがニーナに視線を向ける。

 

「こやつらはな、一人にして一人ではない。シュナイバルで都市になろうとせず、イグナシスと戦うと決めた電子精霊が結集した姿。お前次第で、どれだけでも力を引き出すことができる。だが、覚悟せよ。半端な覚悟では、こやつらの力と覚悟を使いこなすことなどできぬぞ」

 

 四体は再び黄金の球体となり、ニーナの身体に飛び込んできた。

 一瞬だけ異物感に全身が支配されたが、すぐに違和感は消えた。ニーナは自分の身体をまじまじと見るが、別に変わったところもない。

 しかし、確かに身体の最奥と呼べる部分には、熱い脈動のようなものを感じる。

 テーブルがガタッという音を立てた。

 ジルドレイドが片膝をつき、苦しそうに息をしている。

 

「大祖父さま! どうされたのです!? 大祖父さま!」

 

 ニーナがジルドレイドに近寄った。

 ジルドレイドの右手が、ニーナの頬を撫でる。

 

「……ずっと、儂の代で全てにけりをつけようと思い、生きてきた。息子や孫たちには、平和な世界を生きてほしいと願っていた」

 

「やめてください、大祖父さま! そんな言葉、まるで! まるで……!」

 

 まるでこれから死ぬようなもの言いではないか。

 

「儂の、この世界の運命を背負わせまいと、戦い続けた。だがルシフに出会い、敗北し、あらたな時代の息吹が感じられた。儂は、お前に重荷を背負わせるのではない。ニーナよ、我が孫娘。お前を信じ、お前の行く道に光が差すことを願い、儂の思いもお前に託すのだ」

 

「大祖父さま!?」

 

 ジルドレイドの身体が崩れていく。まるで砂でできていたかのように、身体が粉状に変化していっている。

 

「今度ルシフに会ったら伝えてくれ。背負わせるのと託すの違いがよく分かった。儂の人生はろくでもない人生だったが、最期だけは誇れるものだったと」

 

 ジルドレイドは優しく微笑み、全身が砂のような物質になった。

 ニーナはただ呆然と、ジルドレイドだった物質の砂山を見ていた。

 何がどうなって、ジルドレイドはこんな状態になったのか。

 あまりにも衝撃的な展開に頭がついてこず、涙もでてこない。

 

《ジルドレイドは私たちと融合していたため、人間の生では考えられないほどの時間に耐えられたのです。私たちとの融合を解けば、ジルドレイドの身体の限界はとっくの昔に迎えているわけですから、壊れるのは当然です》

 

 ニーナの内から、少女のような声が聴こえた。

 

「……大祖父さまは人工冬眠で生を永らえているのではなかったのか」

 

 言われてみれば、ジルドレイドは人工冬眠では説明できないほど長命だった。

 電子精霊と融合し、人ならざる存在になってまで、ジルドレイドには貫き通す意志と覚悟があった。自分には、あるのだろうか。人間でなくなっても貫き通したいと思える意志と覚悟が。

 身体が震えた。ようやく、ジルドレイドの死を頭が理解してきた。

 

「うぅぅぅ……大祖父さま……」

 

 ニーナは床に両膝をつき、涙を流した。

 わたしのような未熟者に力を託し、命を絶ってしまった。

 長い時間、ニーナはそのまま泣き続けた。

 しばらくして、ニーナはゆっくりと立ち上がった。

 箒とちりとりを持ってきて、床の砂山を掃除する。ジルドレイドだったものにこういう扱いをするのは心が痛むが、これしかきれいにこの砂山を回収する方法はない。

 一粒残らず取り終わると、袋にちりとりの物質を入れた。入れ終わったら、袋の口を縛る。

 ニーナはテーブルの上に置かれた二本の錬金鋼をじっと見つめる。両手で錬金鋼をそれぞれ掴み、剣帯に吊るした。

 これは大祖父さまの形見。大切に使わせてもらおう。

 そんな思いを込め、吊るした二本の錬金鋼を何回か撫でた。

 ニーナは自室に戻り、袋を自分の机の隣に置いた。

 リーリンは机の椅子に座り、本を読んでいる。

 

「ジルドレイドさん、帰ったの?」

 

「……うん。かえった」

 

 ジルドレイドが死んだとは、リーリンに言い出せなかった。余計な心配はさせたくない。

 ニーナは手紙を書き、封筒に手紙を入れて袋に貼り付けた。

 ニーナの心臓はドクンドクンと大きな音を立てている。当たり前だ。行動を起こせば、ルシフと完全に対立することになる。後戻りはできない。

 ニーナはもう一度、自分のやろうとしていることは本当に正しいのか確かめる。自分はルシフに対する私情で動いていないか。しっかり自分なりの考えがあるのかどうか。

 ルシフの創る世界では、ルシフ以外の人間はただ支配されるだけの自由のない存在になってしまう。人民の合意などはなく、ルシフの独断で決定される世界。そんな世界が実現してしまったら、ルシフが死んだ後はどうなってしまうのか。ルシフの座を奪い合う争いが発生してしまうのではないのか。ルシフだって人類のために己を犠牲にして生きていくことになる。このままではルシフに負担ばかりかける世界になる。グレンダンの武芸者たちも、このままではたくさん死なせることになるかもしれない。

 ニーナは心で頷いた。少なくとも、ルシフが気に入らないとか、そんな理由でルシフと対立するわけではない。

 ならば次だ。ルシフに勝つために必要なことは何か。言うまでもなく、グレンダンと協力することだろう。だが、それだけでは駄目だ。もっと勝率を上げるためには……。

 ヴォルゼーとサナックが剣帯に吊るしていた白銀の錬金鋼を、ふと思い出した。

 

 ──……天剣。

 

 ルシフの持つ天剣とサナックが持つ天剣は諦めるにしても、それ以外の十本の天剣を取り戻すことができたら、グレンダンの勝率はかなり上がるのではないか。やるからには、勝たなければ出さなくてもいい犠牲を出すことになる。

 天剣が保管されている場所なら把握している。

 

「……リーリン」

 

「何?」

 

「わたしは決めた。ルシフと真っ向から対立する。そのために、天剣を取り戻してくる。リーリンは荷物をまとめておいてくれ」

 

「えっ!? ちょっと……!」

 

 リーリンが慌てて椅子から立ち上がる。その時には、ニーナは窓を開けて外に出ていた。

 ニーナは走った。いつも通りの剄量でだ。アーマドゥーンたちの力を借りれば、ルシフに感づかれ、剣狼隊の警戒心も高める。直前まで、剄量はなるべく通常の方が都合が良い。

 錬金鋼メンテナンス室はルシフがいる建物の近くにある。

 ニーナは錬金鋼メンテナンス室の前まで、殺剄をせずにきた。

 ニーナの背後から数人の剄の気配がある。剣狼隊の隊員がニーナの行動を監視しているのだろう。

 錬金鋼メンテナンス室の前にも、赤装束の二人が立っている。片方は水色の髪をショートヘアにした女性だった。

 

「錬金鋼メンテナンス室に何か用?」

 

 水色の髪の女性がニーナに近付いてくる。

 

「はい。この錬金鋼の設定をお願いしたくて……」

 

 ニーナは剣帯から二本の錬金鋼を抜き出し、女性に見せるようにした。

 

「ああ、そう。なら入って──」

 

 ニーナの全身から黄金の剄が解き放たれた。それは天剣授受者に匹敵する剄量で、ニーナの前にいる二人と背後の少し離れた場所にいる隊員たちの目の色が変わる。

 ニーナは両拳で目の前の二人を横に殴り飛ばした。水色の髪の女性は拳を防いでいたが、もう片方は不意をつかれてもろに拳をくらった。

 二人ともそれぞれ左右に吹き飛んでいく。水色の髪の女性が体勢を整える頃には、ニーナは錬金鋼メンテナンス室に侵入していた。

 

「あぁ~、最高だよ~」

 

 錬金鋼メンテナンス室の中央、天剣に囲まれ恍惚の表情を浮かべている中年の男が座っていた。

 

「これぞ我がハーレム! 我が世の春が来た! 新しくハーレムに加わった娘を今日は思う存分可愛がっちゃうぞ~」

 

 中年の男は天剣の一本にスリスリと頬ずりしている。

 ニーナはこの意味不明な状況に困惑したが、焦りがニーナに正気を取り戻させた。もう行動を開始した。ルシフにも気付かれた筈だ。時間はない。

 ニーナは中央にいる男から天剣を奪い取り、周囲に置かれている九本の天剣も次々に剣帯に吊るしていく。

 水色の髪の女性が室内に踏み込んでくる。

 ニーナは室内を素早く見渡した。窓。駆け出す。

 

「マイハニーたちぃぃぃいいいいい!!」

 

 中年の男の絶叫がニーナの背後から聞こえた。

 ニーナはとてつもない罪悪感に襲われたが、振り向かない。

 窓を蹴破り、外に出た。

 剣狼隊が続々ニーナのところを目指して近付いてきている。

 ニーナは剣狼隊に追われながら、リーリンのいる自室を目指した。

 地面を蹴り、自室の窓まで跳ぶ。窓の桟に足を乗せた。リーリンが両目を見開いている。

 

「リーリン! わたしの手を掴め! グレンダンに行くぞ!」

 

 ニーナがリーリンに向かって右手を伸ばした。ジルドレイドが死んで泣いている時、四体の電子精霊たちが『縁』の移動について教えてくれたのだ。グレンダンと『縁』があるから、一瞬でグレンダンに移動できるということも言っていた。そして、ニーナはその言葉を信じた。

 リーリンはあまりの衝撃にどう行動していいか分からず、固まってしまっている。

 自室の扉が開かれ、赤装束の者たちが踏み込んできた。

 

「リーリン! レイフォンたちのところに行こう!」

 

「……レイ……フォン?」

 

 リーリンがニーナの伸ばす手を見つめた。

 この手を掴めば、レイフォンに会える。

 半ば無意識で、リーリンは手を伸ばす。

 不意に、椅子に座って涙を流しているルシフの姿がフラッシュバックした。

 リーリンは思わず手を引っ込め、胸の前で伸ばした手をぎゅっと握る。涙が流れた。

 

「……ごめん。行けない」

 

「リーリン!」

 

「わたしはルシフの世界を選ぶ!」

 

 都市の格差がない世界。お互いを助け合える世界。こんな世界がグレンダンでの食糧危機の時に実現していたら、あんなにもたくさんの餓死者は出さなかった。レイフォンだって、お金に取りつかれたようにお金を稼ごうとしなかった。

 誰がなんと言おうと、ルシフの世界では人が死ななくなるのだ。それの何が悪いのか。ルシフにはちゃんと人を思う心がある。なら、周りの者はしっかりサポートすればいい。

 赤装束の者たちがリーリンに触れるくらい近付いてきた。

 ニーナは舌打ちし、黄金の光に包まれる。

 黄金の光が収まる頃には、ニーナの姿は影も形もなくなっていた。

 リーリンは顔を両手で覆った。あの時とは違う。自分の意思でルシフを選んだ。つまりは、グレンダンの敵になったのだ。

 

 

 ルシフが室内に踏み込んだ時、ニーナの身体は黄金に包まれ消えた。

 ルシフの纏う剄が激しさを増し、殺気とともに都市全体を呑み込んだ。

 剣狼隊の誰もが身体を強張らせる。

 ルシフはリーリンがいることに疑問を感じたが、それよりもニーナだった。

 余計なことをして、計算を狂わせる。それが本当に腹立たしい。

 

「時代の流れどころか空気も読めん、時代に取り遺された遺物が! 今度会ったら、ダルマにして博物館に展示してやる!」

 

 心が凍りつき、鋭さを増していく。その一方で心の奥底、グレンダンとの再戦が面白くなりそうだと歓喜の音を小さく鳴らしているのも事実だった。



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第87話 疑惑の檻

 ルシフは勢いよくベッドから身体を起こした。着ていた服が汗でびっしょりになっている。

 ルシフは浴室に入り、シャワーを浴びるためシャワーのコックをひねった。熱いシャワーが身体にまとわりつく不快感を洗い流していく。

 毎晩のように悪夢は見ていた。ヴォルゼーが死んで涙を流した夜も悪夢は見た。だがその時だけは、その夢を現実とシンクロさせて恐怖を感じるなんてことは無かった。

 今は違う。マイを殺す夢が現実になるのではないかという不安感と恐怖がある。

 シャワーを浴びながら、自分の身体が自分の意思通り動くか確かめていく。悪夢から覚めた後のこの作業はもはや恒例となってしまった。これで安心しても、頭痛と高熱は無くならない。

 浴室から出て、黒装束を纏った。方天画戟を手に書斎に向かう。

 以前は十人の侍女に何もかも任せていたが、今は一人もいない。静かな部屋だ。ルシフにとっては、誰かに自分の世話をされるより自分でやる方が気に入っていた。何もかも世話されるとぬるま湯に浸かっているような気分がして、自分の中にある刃が錆びついていくような錯覚をしてしまう。

 書斎に行くと、エリゴに念威端子を通じて書斎に来るよう伝えた。伝えたら、書斎の隅の方に置いてあった黒い袋を取って執務机に置く。

 エリゴは三十分もしない内に書斎に来た。人払いをしたため、秘書官であるゼクレティアもおらず、二人きりである。

 

「何の用です? 旦那」

 

「まずこれを受け取ってくれ」

 

 執務机に置いた黒い袋を手に取り、エリゴに渡す。

 エリゴは怪訝そうにしながらも受け取り、上から袋の中を覗いた。エリゴの目の色が変わる。

 

「こいつは……!」

 

 エリゴは慌てて黒い袋を執務机に戻そうとする。

 

「これは俺には荷が重すぎますぜ」

 

「駄目だ。拒否は許さない。これは剣狼隊の指揮官としての命令だ」

 

 エリゴは戻そうとする手を止めた。

 

「……旦那、俺は以前『人間凶器』と言われた男ですぜ? こんな大役務まりませんて」

 

「レオナルト、ハルス、アストリット、バーティンは自分の感情優先で動くところがある。サナック、オリバ、フォルは逆に私情が無さすぎる。フェイルスは頭は良いが冷酷すぎる部分がある。プエルは逆に甘すぎる。と考えていくと、お前が一番適任なのだ」

 

「それでも嫌だぜ、俺は。こんな役必要ねぇだろ、旦那がいるんだから」

 

「お前が心に抱いた剣はなんだ?」

 

「それは、旦那とともに都市間戦争も汚染獣の脅威もない世界の実現を──」

 

「そんな剣、今すぐ捨ててしまえ。お前には幻滅した、出ていけ」

 

「……旦那」

 

「出ていけ」

 

 ルシフからとてつもない剄と怒気が放たれる。エリゴの身体はすくんだ。本気でキレている。エリゴは震える両手を握りしめた。

 

「……旦那、絶対に必要なんだな? この役が」

 

 エリゴの声は震えていた。恐怖でではなく、ルシフに幻滅したと言われたショックが原因である。

 

「ああ、万が一に備えてな」

 

「……なら、やるよ。やってみせる。俺の全てを懸けて」

 

 書斎に充満していたルシフの怒気が薄れ、剄も収まっていく。

 

「それでいい」

 

 エリゴは黒い袋を両手で抱えながら、重い足取りで書斎の扉に向かう。

 書斎の扉の前で、エリゴは振り返った。執務机を前にした椅子に座り、政務である書類の処理をこなしているルシフの姿。もうエリゴの方は見ていない。また以前のようなピリピリとした雰囲気になっている。

 昨夜、ニーナが天剣十本を奪って消えた。

 それがルシフから安らぎを奪った原因なのだろうか。

 片手で黒い袋を持つようにし、扉を開ける。

 書斎から出て扉を閉めた後、エリゴは剣帯に吊るしている錬金鋼(ダイト)を無意識の内に触れていた。

 

 ──ぶった斬ってやる。旦那の邪魔するヤツは一人残らずぶった斬ってやる。ニーナも、次立ち塞がったら容赦しねえ。

 

 ずっと自分はルシフと同じ剣を心に抱いていると思っていた。一体いつからルシフと自分が心に抱いた剣は違っていたのか。

 だが、ルシフの邪魔をするヤツを一人残らず斬り捨てれば、ルシフと同じ剣のままなのだ。

 なら、やることは決まっている。この命尽きるまで、ルシフの剣として在り続ける。それが俺の人生だ。

 エリゴは自分の担当している巡回場所に戻っていった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 突如として、グレンダン上空にとてつもない剄が出現した。

 念威操者からの報告がなくても、グレンダンの女王と優れた武芸者はその剄に気付き、すぐさま剄が出現した場所まで移動した。

 その場所は外縁部で、周りに何もないところだった。金髪の少女が片膝を地面について着地姿勢をとっている。この少女には、見覚えがあった。ツェルニの第十七小隊とやらの隊長だ。

 アルシェイラは少女の剣帯を見て目を見開いた。天剣が吊るされているのだ。しかも十本。

 天剣はルシフが奪っていった。ならば、この少女はルシフの仲間か。いきなり現れたところを考えると『縁』を利用して移動したに違いない。つまり電子精霊を憑依させている。ならば、天剣授受者以上の実力者になっているだろう。

 

「動くな」

 

 アルシェイラが二叉の槍を少女の鼻先に突きつけた。

 

「なっ、何をする!?」

 

 少女は驚きつつも、怯えてはいなかった。

 

「隊長!?」

 

 レイフォンが水鏡渡りによる超高速移動で現れた。フェリを抱きかかえている。

 フェリを下ろして、レイフォンは少女に近付いた。

 

「レイフォンか!? ということは、グレンダンに来れたのか」

 

「やっぱり……! 隊長!」

 

 少女の顔に安堵の色が生まれた。それでもアルシェイラは、二叉の槍の構えを解かない。

 天剣授受者や優秀な武芸者がこの場所に次々に集まってきている。

 ただでさえルシフとの再戦のためにピリピリと緊張がグレンダンに満ちていたのだ。それに加え、放浪バスももう二週間、一台もグレンダンに来ていない。その不安感が武芸者の警戒心を強くもしている。

 今グレンダンを刺激するようなことはできるだけ避けたい。

 

「あなたの名前は?」

 

「ニーナ。ニーナ・アントークです」

 

「ニーナね。色々訊きたいことあるけど。その剣帯に吊るされているモノとか。それはとりあえず置いといて、王宮に来てもらおうかな?」

 

 アルシェイラから威圧的で圧倒的な剄が解き放たれた。柔らかいもの言いとは裏腹に、ニーナに選択肢を与えていない。もし王宮に行かないなどと口にすれば、力ずくで連れていくだろう。

 

「……分かりました」

 

 周囲に集まった武芸者には後で必ずニーナとの内容を伝えると言って納得させ、解散させた。

 王宮に行くことを許したのは天剣授受者とレイフォンやフェリといったツェルニ組だけだった。

 

 

 

 ニーナを案内した場所は王宮にある訓練場だった。

 ニーナ、レイフォン、フェリ、シャーニッド、クラリーベル、アルシェイラ、デルボネを除いた天剣授受者全員が訓練場にいる。デルボネの蝶型の念威端子が一枚訓練場内を舞っているため、実質天剣授受者全員がこの場にいるのと同等だった。

 

「まず、どうして天剣を持っているのか説明してもらえるかしら?」

 

「はい」

 

 アルシェイラの問いに、ニーナは答えた。

 ニーナがルシフに付いていった日から今までのことを順番に話し始める。

 長い長い話だった。それもまるでエンターテイメント作品の物語のような話だった。

 ニーナが話している間、誰も何も言わなかった。質問する者もいない。おそらくニーナの話していることに現実味が無さすぎて、誰も理解が追いついていないのだ。

 

「あなたの話を要約すると──」

 

 ニーナの話を聞き終えた後、アルシェイラが口を開いた。

 

「ルシフはまずイアハイムの都市長となり、そこからヨルテムを武力制圧し、ヨルテムを武力制圧した後は本拠地をヨルテムに移して、各レギオスに剣狼隊を派遣して武力制圧、電子精霊までも味方につけてレギオスの移動もコントロールしていると」

 

「はい」

 

「更には武芸者の選別やら、全都市の法制度の統一やら、各レギオスの技術共有もして、ヨルテムに豪華な王宮を建築したり、各レギオスの外縁部を潰して都市開発もしていると」

 

「はい」

 

「えぇ……」

 

 アルシェイラはドン引きしていた。アルシェイラだけではなく、その場の全員があまりの衝撃的な速度のルシフの侵攻に、驚きを通り越して呆れていた。

 まだ三ヶ月ちょっとしか経っていない筈だ。にも関わらず、異常すぎる侵略速度。

 

「わたしが話した内容は事実です」

 

 周りのどこかしらけている空気を察知し、ニーナはむきになった。

 

「分かった分かった。とりあえず信じてあげるから、天剣を渡してくれる?」

 

 アルシェイラからピリッとした雰囲気が放たれ、訓練場内に緊張が走る。

 ニーナは表情を強張らせたが、アルシェイラから目を逸らさなかった。

 

「一つ条件があるのですが……」

 

「何?」

 

「ルシフと決戦した時、ルシフ側の人間を一人も殺さないように戦ってほしいのです」

 

「……ふ~ん?」

 

「ルシフはこれまでの武力制圧で、ただの一人も死傷者を出していません。ルシフ自身の口から、ルシフの目的はこの世界から理不尽な死を無くすために全都市を支配するという言葉も聞きました。たとえ戦いになったとしても、相手を殺さなければいつか和解できる筈です」

 

「うん、いいよそれで。じゃあ、天剣ちょうだい?」

 

「……分かりました」

 

 ニーナは剣帯から十本の天剣を抜き、各天剣授受者に渡した。天剣が渡されなかったのはバーメリンだけである。

 

「わたしの天剣は!?」

 

 バーメリンがニーナに詰め寄った。ニーナは及び腰になる。

 

「すいません。ルシフとサナックさんが所持している天剣を取り返すには危険すぎて、持ち主のいない天剣だけに狙いを絞っていましたので、取り返せませんでした」

 

「なんでよりによってわたしの天剣を諦めるのよ、このクソガキ! マジウザッ!」

 

「そう言われても……」

 

「あれ? 復元できないなぁ」

 

 ニーナに一方的に突っかかっているバーメリンの横で、カウンティアは首を傾げていた。何度起動鍵語を口にしても、天剣が青龍偃月刀に復元できないのだ。他の天剣授受者は全員天剣を武器状態に復元できていた。カウンティアの天剣はヴォルゼーが設定をいじくったため、カウンティアの復元鍵語は消去されていたのだ。

 

「天剣戻ってきた連中は明日の早い時間に錬金鋼メンテナンス室に行って天剣の設定の確認と、もし何か変更されていたところがあったら修正しておくこと。

天剣戻ってきてないヤツは……終わるまで隅の方で踊ってれば?」

 

「んだとこの年増ァ!」

 

「はい侮辱罪で極刑」

 

 アルシェイラがバーメリンを殴り飛ばした。

 バーメリンが目にも留まらぬ速さで吹っ飛び、遥か向こうの訓練場の壁にぶつかった。そのまま前のめりで倒れる。

 ニーナはいきなりのデンジャラス体験に固まっていた。

 

「ニーナ、あなたは王宮に住みなさい。もう夜も遅いから休むといいわ」

 

「でも、わたしはレイフォンたちのところが……」

 

 ニーナはレイフォンの方を横目で見る。

 

「ダメダメ。あなたは天剣をルシフから十本も取り返してくれた。あなたに対する恩は山のようにあるから、おもてなしもしたいし。良い部屋用意するから。ね?」

 

「……分かりました。ご迷惑をおかけします」

 

 ニーナは深く頭を下げた。

 

「迷惑とかそんなの気にしなくていいから。自分の家だと思って気楽にして」

 

「努力します」

 

 それで会話は終わりになり、うつ伏せで倒れているバーメリンを放置して解散した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 星を散りばめたような空間の中で、二体が対峙していた。電子精霊グレンダンと電子精霊シュナイバルである。

 

「母よ」

 

「……」

 

「グレンダンにニーナが来た。ニーナからルシフが何をやったかも聞いた。何故だ、母よ」

 

「…………」

 

「何故ルシフに協力するのだ? ヤツが危険人物であることくらい、グレンダンがヤツに蹂躙された時に気付いた筈だ。なのに、何故?」

 

「どう答えても、あなたは納得しません。違いますか?」

 

「確かにそうだろうな。だが、それは答えなくてもいい理由にはならん」

 

「グレンダンの女王に真偽を確かめるよう、頼まれたのですか?」

 

「だったらどうだと言うのだ?」

 

「……妾に答えられることは何もありません。妾はただ、世界の行く末を見守るだけです」

 

「ふん、電子精霊が人間の下について良しとするとは、電子精霊も堕ちたものだな」

 

 グレンダンは不機嫌な雰囲気を隠そうともせず、『縁』の空間から消え去った。

 

「ごめんなさい、グレンダン。ですが、今のところはグレンダンの方が妾たちにとっては障害なのですよ。たとえサヤがいたとしても」

 

 シュナイバルも『縁』の空間から消えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「ふむ、シュナイバルは答えるのを濁したか」

 

「ああ。だが逆に、ニーナの話に信憑性を持たせている」

 

 アルシェイラの自室。

 アルシェイラ、廃貴族のグレンダン、カナリス、リンテンスがいる。デルボネの蝶型の念威端子も一枚舞っていた。

 

「しかし、まさかルシフがこの短期間でここまでやるとは……」

 

「グレンダンに宣戦布告をした理由はわたしたちの意識を内に向けさせ、他都市に余計なことをしないようにする目的もあったのでしょう。本当にルシフは抜け目がないと言うか、あの性格なのに堅実に攻めてくるわね」

 

「というか、ニーナの話した内容は本当に事実なのでしょうか? 事実というにはあまりにも現実味がありませんが」

 

「でも筋はしっかり通っていたでしょ。その事実を裏付ける根拠がある。信じられない気持ちは分かるけど、わたしは逆にだからこそ事実だと感じた」

 

「あいつはまさにこの世界の劇薬というわけか」

 

 リンテンスが煙草をくわえようとして、アルシェイラが煙草を奪い取った。

 

「次煙草吸おうとしたら、その汚い顔をもっと汚くしちゃうぞ?」

 

「顔と言動が合ってないな」

 

「うっさい」

 

 アルシェイラの言葉に、リンテンスは軽く息をついた。

 

「陛下……それで、どうしましょうか?」

 

「何のこと? カナリス」

 

「客観的にルシフの行動を見れば、バラバラだった各都市を集結させ、都市の格差や武芸者の良し悪しを無くし、都市間戦争をあってないようなものにした」

 

「汚染獣も各都市が武芸者を共有して戦えば、危険でもなんでもないな」

 

 リンテンスが口を挟んだ。

 

「ルシフに従い任せておけば、今までの絶望的な世界が壊れ、誰もが都市間戦争や汚染獣に怯えずに暮らせる世界になる。客観的に見て悪者はわたしたちになるのかしらね?」

 

「ニーナの話では、ルシフは各都市の技術を全て共有し、各都市に今まであった法や制度をイアハイムのものに強引にしていて都市民が怒っているという話でした。また武芸者選別をやり、多数の武芸者が武芸者ではなくなり、その中の約四分の一が自害。この選別によって出た死者は一万人を超えています。ルシフのやっていることがそのまま都市民に望まれていることではありません」

 

「つけいる隙はある……か。もし仮に武芸者選別をグレンダンでやったら、どうなると思う?」

 

「不合格になった武芸者の七、八割は自害するだろうな」

 

「やっぱそれくらいの割合になるか」

 

 アルシェイラがテーブルに置いてあるグラスを手に取り、水を飲む。

 

「……ただ一番の問題は、これらの情報源がニーナだってことね。シュナイバルに訊いてもはぐらかされた以上、ニーナの真偽を確かめる術はない」

 

「ああ、だからおもてなしがしたいと言って、レイフォンのところに行かせず、王宮に留めたのか」

 

「今はニーナに与えた部屋の前に二人武芸者を立たせてるし、念威操者に監視もさせてる。不審な動きをすればすぐ分かるわ」

 

 アルシェイラはニーナが実はルシフの手先なのではないかと疑っていた。

 理由は都合が良すぎるから。天剣を十本も取り返して、更に電子精霊を憑依させた天剣授受者以上の実力者が味方になる。これは考えうる中で最も理想的な展開。

 だからこそ、疑う。もしかしたら、これはルシフの罠なのではないかと。天剣を十本も取り返したニーナが、まさか内通者などとは誰も思うまい。

 

「……こうして考えると、ルシフという男は本当に厄介だな」

 

 ルシフが少しでも関わっていると、それがルシフにとって予定外の出来事なのか、それともルシフに仕組まれた出来事なのか分からなくなる。こちらにとって都合の良い出来事をあえて起こすことで、こちらの行動を誘導する餌という可能性もあるのだ。例えばニーナを味方だと信じ込ませて警戒を解かせ、決戦の時にニーナを寝返らせてアルシェイラか天剣授受者を騙し打ちで倒すなんてことを企んでいるかもしれない。

 

「ルシフを相手にする場合は、警戒しすぎて損はないわ。あの男は餌に食いついたところを一気に叩き潰す天才だからね。わたしはそれで二回とも出し抜かれたし」

 

 もっともその内の一回はルシフの剄量が足りず、勝敗を覆すほどの効果は無かった。だが廃貴族を手に入れ剄量を圧倒的に増大させた今の状態では、ルシフに出し抜かれることは致命傷に近い。実際、一瞬で戦闘不能にされた。

 

「それなら、ニーナが天剣を渡す条件で出した、ルシフとの決戦の時に死者を一人も出さないっていうのは……」

 

 カナリスがアルシェイラに訊いた。

 

「あんなの適当に言ったに決まってんじゃん。もしかしたら本当にルシフは今まで死者を出さずに戦ったのかもしれないけど、グレンダンに比べれば他の都市なんてザコだかんね。そうやってニーナに死者は出さずに戦うって思いこませて、こちらに手を抜かせる策かもしれない。そもそもあのルシフがニーナみたいな脳筋に天剣を十本も奪われるなんて失態を招いたこと自体、どこかきな臭いのよね。ニーナはルシフに都合よく泳がされてるだけじゃないかしら」

 

「ニーナの警戒は怠らないよう、内密に武芸者と念威操者に伝えておきます」

 

「レイフォンとかツェルニから来た連中には教えないようにね。ニーナに余計な情報を与えたくない」

 

「分かっています」

 

 天剣は十本も戻ってきた。だがしかし、素直には喜べない彼女らだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 『縁』の空間にシュナイバルとルシフとメルニスクがいる。

 

「先程グレンダンが、何故あなたに協力するのか訊いてきました」

 

「ふむ、なるほど。アルシェイラのヤツ、ニーナが俺の内通者じゃないかと疑ってるな。おそらくニーナは軟禁状態にされ、従者という名目で監視も付けられるに違いない。グレンダンに行っても俺のところにいた時と扱いが変わらぬとは、ニーナも運のない」

 

 ルシフは顎に指を当てて頷いている。

 

「……ルシフ、あなたはどこまでも恐ろしい男ですね」

 

 そんなルシフの姿を、シュナイバルは呆れたような表情で見ていた。

 

「は?」

 

「妾はただグレンダンが協力する理由を訊いてきたと言っただけです。たったそのひと言で、あなたはそれだけのことを瞬時に洞察した。常人では有り得ない洞察力です」

 

「何を言ってる? もしニーナの言葉を信じたのだとしたら、シュナイバルに訊いてくるなんてことはしない。シュナイバルは俺と協力関係にあるのだから、訊けば当然俺にその情報が伝わり、俺がグレンダンを今より警戒して攻めるようになるかもしれない、と奴らは考える。だったら訊くなんてリスクを冒さず、俺に何を考えているか悟らせない方が良い。しかし、グレンダンは俺に知られるリスクを冒してまで、お前に状況を確認しにきた。つまり、リスクよりニーナの話の真偽を優先してきたということ。それはそのままニーナの不信に繋がる」

 

 シュナイバルは内心で目を見張る思いだった。

 これだけの思考を、あのひと言を訊いた瞬間に巡らせたというのか。やはりこの男は常人離れしている。

 

「……ニーナが警戒されているのだとすれば、ニーナ宛の手紙も内容を確かめてから渡すだろうな。

よし、アルシェイラとニーナに手紙でも書いて送ることにしよう。もっともニーナに送ると言っても、グレンダンの連中に読ませたい内容だが」

 

 ニーナが警戒されていることを上手く利用すれば、アルシェイラや天剣授受者を罠に陥れることができるかもしれない。天剣を奪われても、やはり何かしらのメリットはあった。

 

「シュナイバル、電子精霊ヨルテムに伝えろ。進路をグレンダンに向けろとな」

 

「では、いよいよ……」

 

 シュナイバルが呟いた。

 シュナイバルがもし人間だったら、ゴクリと唾を飲み込んでいるだろう。

 

「ああ」

 

 ルシフがほんの少しだけ表情を緩ませた。

 

「最終決戦といこうじゃないか。アルシェイラを再び完膚なきまでに叩き潰してくれる」

 

 もうグレンダン以外の全レギオスの旧来の法と制度の破壊は完了している。グレンダンとの決戦前にやるべきことは全て終わった。

 残るはアルシェイラを力でねじ伏せ、全レギオスを統一するのみ。グレンダンを無視して今の状態で妥協することもできるが、ルシフの辞書に妥協は存在しないのである。

 

「分かりました。伝えましょう」

 

「頼んだぞ」

 

 ルシフが『縁』の空間から消えた。

 

「メルニスク」

 

「なんだ、偉大なる母よ」

 

「万が一の場合は……分かっていますね」

 

「……ああ、理解している」

 

「あなたがしくじらなければ、双方が共倒れになるという最悪の事態を避けられるはずです。この決戦で戦力を大幅に削られることだけが妾の懸念です」

 

「少なくとも、ルシフはグレンダンとの決戦の時、一人も殺さんよ」

 

 その言葉には、ルシフに対するメルニスクの絶対的な信頼が宿っていた。

 

「理不尽な死を無くすというのが、ルシフの目指す理想。だが、今ルシフがやっていることは無理やり都市を奪い取る理不尽な行動。その中で相手を殺すのは、ルシフの理想に反する。己の命や利得より、理想と信念に生きる男だからな」

 

「どれだけ危機的な状況になっても敵を殺さない、とあなたは信じるというのですか?」

 

「邪魔者を殺して都市を奪うなど、凡人でも力があればできることだ。ルシフは自分こそ人類史上最高の人間と自負している。やり方も凡人では考えもしない、前人未到のやり方を貫く」

 

「あえて困難な道を進む、という人間ですか、ルシフは」

 

「というより、我の目には不器用に生きたいだけのように見える。誰よりも器用に生きられるだろうに」

 

「自分を追い込むように生きなければ、人生が退屈なのでしょう」

 

「……だろうな。平凡な生き方では満足できぬ人間だ。まあそもそも、ルシフはグレンダンとの総力戦になるとは考えておらぬが」

 

「と言いますと?」

 

「ルシフはアルシェイラは政治に関心のない人間だと考えている。代わりに政治をする者がいれば喜んでその座を渡すと。グレンダンを統治する以上、アルシェイラを上回る武力を示さねばならぬが、それは双方の武芸者をぶつけての総力戦ではなく、ルシフとアルシェイラの一騎打ちでの決着。アルシェイラも武芸者を無駄に犠牲にする愚は犯さない。ルシフはそう読んでいる」

 

「なるほど。グレンダンの女王の性格なら、確かにその可能性が高いかもしれませんね」

 

「……そろそろ我も戻る。さらばだ、偉大なる母よ」

 

 メルニスクが『縁』の空間から消える。

 シュナイバルは何かを思案するように目を閉じた。



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第88話 たとえ肉体が滅ぶとも

 書斎に剣狼隊の全小隊長、ゼクレティア、マイが集まっている。

 ルシフは執務机を前にした椅子に座り、封筒を二つ執務机に置いた。アルシェイラとニーナに向けた手紙である。

 ルシフは迷っていた。手紙を書いたはいいが、手紙をどうグレンダンに届けるか、その方法がなかなか決まらないのだ。

 一番手っ取り早いのは『縁』を利用してルシフ自身が届け、届けたらまた『縁』を利用して帰ってくる方法だが、この方法は選びたくなかった。

 

「グレンダンに行きたいと希望する者に、手紙を渡して届けさせるのが無難か」

 

 都市民の中でルシフの政治に耐えられない者に報酬を与えて、手紙を届けさせる。無論届けた後はグレンダンに留まればいい。グレンダン側が受け入れてくれるかは置いといて。

 

「このような重要な任務に、信用できない者を使うのは反対です。確実に手紙を届ける人物を選ぶべきでは?」

 

 バーティンが言った。

 バーティンに賛同するように、何人かが頷いている。

 手紙が届くのは確実だとルシフは考えていた。何週間振りかの放浪バス。グレンダンは必ず万全の状態で対応するだろう。その時に手紙の存在に間違いなく気付く。

 

「いや、やっぱり手紙を届けるのはやめよう。危険すぎる。もしグレンダンが排除しようと考えたら、間違いなく死ぬ」

 

 手紙を渡すことによる効果は、グレンダンの人間の心を揺さぶり仲間割れをさせる程度。剣狼隊は間違いなく信用できるが、ルシフの手先と分かっている者をグレンダンは生かして返さないかもしれない。もしただ手紙を届けた者を始末しようとするならグレンダンの器量も知れたものだが、こんなことで剣狼隊の隊員を失いたくはない。

 

「マイロード。私にその任をやらせていただけませんか?」

 

 フェイルスが言った。

 フェイルスに視線が集中する。

 

「グレンダンの連中に殺される危険があるぞ。連中には小者しかおらんからな」

 

「死など怖れていません。それは私だけでなく、剣狼隊全員の心情です。マイロードの助けとなって死ぬなら本望です」

 

「はっきり言うが、この手紙を利用した策はあまり有効的な策ではない。無視されれば何の効果も期待できないからな。そんな策で同志を失うわけにはいかん」

 

「いえ、私に行かせてください。今のマイロードの言葉を聞いてますます決意が固くなりました」

 

 フェイルス以外の小隊長たちも名乗り出たい気持ちはあったが、早い者勝ちということでフェイルスの気が変わるまでは静観していようと考えていた。

 ルシフは軽く息をついた。

 

「……分かった。お前に手紙を届ける任務を与える。もしグレンダン側から何か訊かれたら、包み隠さず答えればいい。情報を与えても今の段階なら問題にならん」

 

 ルシフが懸念しているのは、フェイルスが捕らえられて拷問される可能性だった。ニーナがグレンダンに行った状態で情報を隠してもあまり意味はない。そんなことでフェイルスが拷問されるのは馬鹿らしい。

 

「分かりました」

 

「それからグレンダンの女王に会ったら、俺に降伏する合理性と利点を説け。降伏しない場合において、考えられる危険性もな」

 

「しっかり説いてみせます」

 

「よし、行け」

 

 フェイルスに二つの封筒を渡した。

 フェイルスは封筒を受け取ると深く頭を下げ、書斎から出ていった。エリゴ、レオナルトがフェイルスに続いて出ていく。

 

 

 

 ルシフから任務を言い渡されてから一時間もしない内に、フェイルスは停留所に来ていた。エリゴとレオナルトが見送りに来ている。

 

「エリゴさん、これを」

 

 フェイルスが剣帯から二本の錬金鋼(ダイト)を取り、エリゴに渡した。

 

「丸腰でグレンダンに乗り込む気かよ?」

 

「私は闘いに行くのではありませんからね。丸腰なら相手にもそれが伝わるでしょう」

 

「グレンダンの奴ら、俺ら剣狼隊の情報を多分持ってるぜ。剣狼隊の全員が錬金鋼無しで闘えるって情報をな。不意打ちを狙っているんじゃないかと逆に警戒されるかもしれねえぞ」

 

「私は一人で行くのです。もし私一人すらも恐れるようなら、グレンダンも高が知れています」

 

 フェイルスのところに、六角形の念威端子が飛んできた。

 

『フェイルスさん。ルシフさまから、この端子を一枚隠し持って行くように、と。グレンダンとは距離がありすぎるため念威サポートはできませんが、端子の反応の有無だけは分かります。万が一の場合は端子を壊してください』

 

 マイの声を聞き、フェイルスは飛んできた端子を掴んだ。

 

「この通信は陛下も聞かれていますか?」

 

『いいえ』

 

「なら、陛下にお伝えください。お心遣い感謝いたします、と」

 

『必ずお伝えします』

 

 それを最後に、端子の念威は霧散した。端子から念威を全く感じない。だが、杖に戻ろうとはしていないから、休眠に近い状態になったのだと悟った。

 フェイルスが放浪バスの運転席に乗り込み、ヨルテムから飛び出していった。

 フェイルスの乗る放浪バスを、エリゴとレオナルトの二人は外縁部からずっと見送っていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 フェイルスが書斎を出てしばらくしたら、リーリンが面会を申し出ているという報告が念威端子越しに届いた。

 ニーナが消えた後、部屋の中は徹底的に調べた。ジルドレイドの遺体と書かれた紙の入った封筒が貼り付けられた袋も見つけた。それは封筒ごとシュナイバルのアントーク家に届けさせた。

 リーリンの処遇に関しては拘束せず、今まで通り軟禁状態にして部屋に置いておいた。今回がニーナが消えてから最初の接触。

 正直な話、リーリンが何故ニーナとともにグレンダンに行かなかったのか、ルシフは疑問に思っていた。

 グレンダンに行けば故郷に戻れ、レイフォンといった家族に会え、完全な自由を手に入れられた。自分から離れるデメリットはない。

 なのに何故、リーリンは自分のところに残ったのか。本音を言えば、直情的に行動するニーナなどより、リーリンの方が厄介な存在だった。『茨の目』のこともある。

 『茨の目』などという強大な能力を手元に置いて監視できるのはルシフにとって好都合だったが、不安もある。リーリンが何を考えてルシフ側に残ったのか、全く理解できないからだ。

 ルシフは面会を許可した。

 三十分後、リーリンは監視役の剣狼隊員二名に連れられ、書斎に姿を現した。

 書斎にはゼクレティア、マイがすでにいる。

 リーリンを連れてきた剣狼隊員二人には外で待機するよう言い、二人とも軽く一礼して書斎から出ていった。

 

「あなたの下で働かせて」

 

 リーリンが開口一番でそう言った。

 ゼクレティアとマイが驚いた表情でリーリンを凝視している。ルシフも内心で驚いていた。てっきりもう監視はやめてほしいだの、自分はニーナと無関係だの言ってくると思っていたのだ。

 

「理由は何かあるのか?」

 

「あなたの力になりたいから、じゃダメ?」

 

 マイが不機嫌そうにリーリンを睨んだ。

 リーリンはそれに気付かず、ルシフだけをまっすぐ見ている。

 

 ──理解できない。

 

 何がリーリンにそう思わせるのか。口からでまかせを言っている可能性もあるが、リーリンはでまかせでもこんな言葉を吐かない性格の筈だ。

 

「監視されて軟禁状態なのが嫌だからとか、そういう理由じゃないのか」

 

「それもあるわ。頼めばなんでも用意してくれる何不自由ない生活で、わたしは何もしなくていい、子どもが夢見るお姫さまのような生活。その生活がわたしには全く合わないことが分かったの。しっかり対価を払って報酬を得たいのよ、わたしは。

でも一番の理由はそれじゃない。あなたのやろうとしている新体制での統治を実現させたいの」

 

「……その理屈だとグレンダンはお前の敵になるが、それでいいのか?」

 

 リーリンは唇を噛みしめた。

 

「……仕方ないでしょ。わたしはあの人たちのことをよく知っているもの。あの人たちにこんな政治はできない。今の安定していない状態で統治できるのは、多分あなたくらいしかいないのよ」

 

「なるほどな」

 

 リーリンの過去は知っている。グレンダンで起きた食糧危機。更には汚染獣との戦闘ばかりで常に貧窮している現状。グレンダンの施政に対して不満を感じていた部分があったのかもしれない。

 それがルシフの施政を見たことで助長され、グレンダンの状況を変えられると希望を抱いたのだとしたら。

 ルシフへの協力も不自然なものではなくなる。

 

「一つ、お願いがあるの」

 

「なんだ?」

 

「グレンダンと決戦する前、わたしにグレンダンへの降伏勧告をさせてほしい」

 

 リーリンに対して、ルシフは一気に見る目が変わった。

 ニーナとリーリンの違いは、ルシフを頂点として世界を変えていくか、ルシフだけを頂点とせず世界を変えていくかという違いしかない。そしてリーリンのやり方は、一人も犠牲者を出さずに世界を一つにできる可能性を秘めている。だがそれと同時に、リーリンはグレンダンの人間から裏切り者と罵られ、拒絶される可能性もある。リーリンは私情を殺して、世界をどうしたいかという大局に立てているのだ。

 ニーナのような考え無しより、リーリンの方が好感を持てる。

 ルシフは今、そのことをはっきりと自覚した。

 リーリン・マーフェスという人材を使ってみたい。そんな欲のようなものが出てきたのだ。

 

「いいだろう。お前に仕事も与える」

 

「ルシフさま!?」

 

 マイが声をあげる。

 ルシフは右手でマイを制した。

 マイは不満そうにしながらも、口を閉じた。

 

「ゼクレティア」

 

「はい」

 

「お前の補助として、リーリン・マーフェスをつける。まずは書類の仕分けからさせろ」

 

「分かりました」

 

 ゼクレティアの下にリーリンをつけたのは、自分の目の届くところでなおかつ、人手が不足しているところだからだ。ゼクレティアは記憶力は抜群に良いが、処理能力が低い。そのせいでルシフが多少仕事を手伝う必要があった。

 

「とりあえず一ヶ月はあの部屋で暮らしてもらうぞ。その代わり、金をやる。俺についた褒美としてな。これから欲しい物は言っても出てこないぞ」

 

「そっちの方がいい」

 

 その時から、リーリンはゼクレティアの補助員として働くことになった。

 リーリンが想像以上に使える人間だと分かったのは、それから数日経った後だった。

 最初はゼクレティアから一から十まで教えられつつ書類の仕分けをしていたのだが、数日経った今ではゼクレティアに教えられずともテキパキと書類を仕分けできるようになっている。

 書類を仕分けると簡単に言っても、実際は簡単ではない。グレンダン以外の全都市から必要な書類が集まってくるのだ。それら全てを担当している部署ごとに振り分けるのである。建築関係、医療関係、福祉関係、財務関係、行政関係、軍事関係など部署は多岐に渡り、全ての書類に目を通し、どの部署が適正か判断したうえで振り分ける。振り分けた後は優先順位の高いものからルシフのところに書類を持っていく。

 その仕事をリーリンは要領よくこなした。要領よくこなしすぎて、ゼクレティアから「相対的にわたしが無能に見えるから、もっとゆっくりやって!」と怒られもしたらしい。

 無論振り分けられた書類は全てゼクレティアがチェックし、リーリンが何か書類を改竄していないか確かめるのだが、今のところそういうものはない。

 ゼクレティアはルシフが尋ねれば、欲しい情報をその場で口にできる。それにリーリンの処理能力を合わせれば、今までの何倍も効率良く書類の処理ができるようになった。

 リーリンが書斎に書類を持ってきた際、ルシフはコーヒーを作っている最中だった。

 ルシフは二つカップを用意し、コーヒーを入れた。

 

「リーリン、そこに座れ」

 

 ルシフがリビングの椅子を顎で示す。

 リーリンは何も言わず、ルシフの言葉に従った。

 リーリンの前にあるテーブルにカップを置く。

 

「……なんであなたがコーヒーを用意してくれるの?」

 

「お前がよく働いているからだ。お前のおかげで随分助けられている」

 

「別に当たり前のことをしてるだけよ。給料はちゃんと貰えるんでしょうね?」

 

「ああ、当然出すよ」

 

 ルシフは自分のカップをテーブルに置き書斎に行ったが、すぐに一枚の書類を持って戻ってきた。

 リーリンが読めるように、リーリンに向けて書類をテーブルに置く。

 

「……えぇ!?」

 

 書類を読んでいたリーリンから、驚きの声が出た。それはリーリンの雇用に関する書類だった。

 

「ちょ、ちょっと!? 金銭感覚おかしいんじゃない!? これ月給なの!?」

 

「当然月給だが? 何か問題でもあるのか?」

 

「問題も何も、一年働いたら十年は遊んで暮らせる額じゃない! こんなに貰えないよ!」

 

「客観的に自分を見てみろ。お前は王の秘書官の補助員だ。待遇が破格になるのは当然だろう」

 

「それにしたって多すぎるような……」

 

「そう思うなら、お前が世話になった孤児院などに使ってやればいいだけの話。要は使い方だ」

 

 リーリンが驚きの表情でルシフを凝視した。やがて、表情が柔らかい笑みに変化する。

 

「……ありがとう、ルシフ」

 

 リーリンはルシフの心遣いを察した。グレンダンと決別しても、また交われる。そういう意図を、この月給から感じたのだ。

 

「別に対価への報酬を用意しただけだ。礼を言われることではない」

 

 ルシフが椅子に座り、カップに口を付けている。

 

「やっぱりあなたって損な性格してるわよね」

 

 リーリンはクスッと笑い、ルシフと同じようにカップに口を付けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 グレンダンに一台の放浪バスがやってきた。三週間ぶりのことである。放浪バスの車体は真っ赤に染められていて、ルシフ直属の武芸者集団の放浪バスだと一目で分かった。

 当然多数の武芸者が放浪バスを取り囲む形で、乗員が出てくるのを待った。

 放浪バスから降りてきたのは、赤装束を着た長い黒髪の青年だった。グレンダンの武芸者はその青年を知っている。以前、グレンダンに潜入し天剣を奪おうとした一人。ルシフの手先。

 青年の剣帯に錬金鋼は吊るされていなかったが、関係なかった。剣狼隊は錬金鋼無しで闘えることは周知の事実だったのだ。すぐさま囲んでいる武芸者たちに取り押さえられ、女王のいる謁見の間まで引きずり出された。

 青年は一切抵抗せず、武芸者たちにされるがままに任せていた。

 アルシェイラは剣狼隊員を捕らえたという報告を受けた時、信じられない気持ちでいっぱいだった。

 殺したならまだしも、捕らえた。ルシフに絶対の忠誠を誓う剣狼隊が敵の捕虜になることを是とするなど、考えられなかったからだ。

 アルシェイラは謁見の間の玉座に座り、左右の武芸者に無理やり跪かされている青年を興味深そうに眺めている。

 カナリスがアルシェイラに近付き、二つの封筒を手渡した。

 

「この男が持っていた物です。一つは陛下に。もう一つは……」

 

 カナリスはチラリと青年を見たあと、アルシェイラの耳に顔を近付ける。

 

「ニーナ・アントークです」

 

 ──仕掛けてきたか。

 

 これが間違いなくルシフの策であることを、アルシェイラは確信した。

 ニーナに天剣を奪われてすぐ、ニーナと接触しようとする。実際のニーナがルシフの味方かどうかはともかく、ニーナに対する疑心を深めることはできる。

 

「女王陛下」

 

 跪かされている青年が声を出した。

 すぐさま隣にいる武芸者が青年の顔を殴った。

 

「許可なく口を開くな」

 

「いい。お前たちもその男を放せ」

 

「お言葉ですが陛下、この男は間違いなくルシフの手先なのですぞ! 自由にすれば何をやるか……!」

 

 殴った武芸者の言葉を聞き、青年は口の端から血を垂らしつつ笑った。嘲笑するような笑みだった。

 

「何を笑うか!?」

 

 その笑みに気分を害したのか、もう一方の武芸者も青年の顔を殴った。青年が床に倒れこむ。

 

「やめろ」

 

「しかしこの男は立場というものを……」

 

「わたしが物理的に動けなくしてやろうか」

 

 武芸者二人の顔から血の気が引いた。舌打ちし、青年から少し離れた後ろに待機する。

 

「フェイルス・アハートだな? お前の情報は掴んでいる。剣狼隊のインディゴ小隊隊長」

 

「お会いできて光栄の至りです、アルシェイラ女王陛下」

 

 フェイルスは起き上がり、恭しく一礼した。

 

「何の用でグレンダンを訪れた?」

 

「手紙を届けるためです。一つは女王陛下に。もう一つはニーナさんに」

 

「今そちらとわたしたちがどういう関係なのか、分からない筈はあるまい。この状況でよくぬけぬけと手紙を届けに来たなどと言えたな」

 

「……フフフ……」

 

 フェイルスは笑い声をあげた。本当に楽しそうに笑っている。

 

「何がおかしい!?」

 

 フェイルスの背後にいる武芸者の一人が怒鳴り声をあげた。

 フェイルスは謁見の間内を見渡す。武芸者や大臣や役人が多数いて、天剣授受者もデルボネ以外全員いる。

 

「槍殻都市グレンダン。武芸の本場で、優れた武芸者も多数抱えている。私など足元に及ばない実力者も大勢いるでしょう。それに加え、私は仲間も連れず、錬金鋼も持たずにグレンダンに訪れました。にも関わらず、武芸の実力に慢心せず、まるで危険物に触るような細心の注意を払う慎重さに感心しているのです。たった一人に対しても全員で寄ってたかって事に当たる。まさに獅子欺かざるの力、ということですね」

 

 謁見の間内を険悪な空気が満たしていく。

 最後の言葉は獅子はどれだけ弱い獲物でも全力で狩るという意だが、この場合は暗に臆病者と蔑んでいる。

 武芸者たちは次々に錬金鋼に触れた。

 アルシェイラが目配せで武芸者たちを制止する。

 アルシェイラの視線に気付くと、武芸者たちは苛立たしそうに錬金鋼を一度弾いて錬金鋼から手を離した。

 

「お前は本当に手紙を届けるためだけにグレンダンに来たのか?」

 

「実は、それだけではございません」

 

「ほう」

 

「とりあえず陛下からの手紙をお読みになってください」

 

 アルシェイラは憮然とした表情で、封筒を開けて手紙を取り出した。手紙を読む。謁見の間内の者は黙ってアルシェイラの姿を見ている。

 手紙を読み進めていく内に、アルシェイラの顔がどんどん紅潮していく。手紙を読み終えた後、隣に立つカナリスに乱暴に手紙を渡した。

 アルシェイラの激しい剄が謁見の間内を暴れ回り、謁見の間にいる者の身体が強張った。フェイルスは表面上は涼しい顔をしているが、内心は強大な剄への恐怖があった。

 

「読んだぞ。さあ、言ってみろ」

 

「女王陛下の武芸者としての実力は、陛下に迫るものがございます。また控えている天剣授受者の方々も、素晴らしい実力の持ち主です。武芸者としての質の面で申し上げましても、どの都市とも比べものにならないほど高く、武芸の本場という名に恥じない武力をお持ちになられています。

一方我が主であるルシフ陛下は目下電子精霊の協力の下、各都市を一ヶ所に集結させようとし、見事にグレンダン以外の都市の集結に成功いたしました。今はグレンダン以外のどの都市も数時間あれば行き来できる状況でして、汚染獣の襲撃も各都市が協力しあって迎撃できる体制が整っております。ここにグレンダンの武力が加わればまさに向かうところ敵無しになります」

 

「ふむ、それで?」

 

「またこちらが独自に調べたところによりますと、グレンダンは武芸者の育成が盛んではありますが、農業や工業、畜産業の技術は高いとは言えず、過去には農業システムに不備が生じ、食糧危機となって餓死者も出したとか。

ルシフ陛下はそのような各都市ごとの技術水準の差に心を痛め、各都市の得意分野の技術を互いに共有し合うことで各都市の技術水準の向上を推進しておいでです。もちろんグレンダンがルシフ陛下に従うなら、各都市の農業、工業、畜産業といった技術を余すところなくお伝えできます。その代わり、グレンダンの高い医療技術や武芸を各都市と共有させていただくことになるかもしれませんが、それはお互いさまでしょう」

 

 アルシェイラは表情は変えずとも、力の限り拳を握りしめていた。

 これは完全に外堀を埋められた形なのだ。選択肢など、あるように見えて実はない。

 

「またルシフ陛下に従うといっても、女王陛下の地位は侵害しません。現に一つの都市を除き、ルシフ陛下の勢力下となった都市の長は以前のままで統治しています。無論ルシフ陛下の意に従ってはもらいますが、従うからといって貧しい暮らしになったり幽閉されるということはありませんのでご心配なされぬよう」

 

「例外となった都市は?」

 

「交通都市ヨルテムの都市長でございます。ご存じの通り、ヨルテムは全ての都市に通じる門であり、物流や人の流れの中心です。この都市だけはルシフ陛下が直接治めなければならないため、都市長を罷免しました。グレンダンはそのようなことはありません」

 

「従わないと言ったら?」

 

「従わない理由を教えていただけないでしょうか? その理由がいかに蒙昧で合理的でないか、一から十まで説明させていただきたく存じます」

 

 大局に立って考えればルシフへの降伏が最善であり、反抗するのは私情に囚われた愚者のやること、とフェイルスは暗に言っているのだ。

 アルシェイラは謁見の間内を見渡す。武芸者は今にもフェイルスに襲いかかりそうな雰囲気を誰もが纏っているが、大臣や役人といった者はフェイルスの言葉に感心するように頷いていた。そんな大臣や役人を睨んでいる武芸者も少なくない。

 正直、ルシフに従うなど考えたこともない。だが、グレンダンの都市長という立場を考慮すれば、ルシフに従うのが最善なのかもしれない。

 さっきのルシフの手紙には、降伏した場合の条件が事細かに書かれていた。一言で言ってしまえば、降伏した場合自分の地位は名ばかりとなり、権力や権限は全てルシフのものになるということだった。

 

「もういい。用はそれで終わりか?」

 

「はい。では、ニーナさんへの手紙を返していただけますか? 私が直接届けたいのです」

 

「こちらがしっかりと手紙は届ける」

 

「陛下から命じられたことなのです。確実に届けたと分かるよう、自分の手で届けたいのです」

 

「ニーナ・アントークをここへ連れてこい」

 

 アルシェイラが念威端子に怒鳴った。

 十分もしない内に、ニーナは謁見の間にやってきた。武芸者を二人連れている。

 

「フェイルスさん!? 何故グレンダンに!」

 

「ニーナ、ルシフからあなたに手紙よ」

 

 カナリスがニーナに手紙の入った封筒を渡した。

 

「……ルシフが?」

 

 ニーナは明らかに動揺した。ルシフに対して後ろめたさのようなものがあるのかもしれない。

 

「ほら、ちゃんと手紙を渡したでしょ?」

 

「……そのようですね。では、私はこれで失礼させていただきます」

 

 フェイルスは一礼し、謁見の間から去っていった。

 

「このまま行かせてよろしいんですか、陛下!?」

 

「……なんで?」

 

「なんでって、あれはルシフ直属の武芸者です。殺すか、最低でも拘束し捕らえておくべきではないでしょうか!?」

 

「一人で、それも錬金鋼も無しに来た相手に対し、そのような真似をするの? そんな情けない真似はできない。グレンダンの名が地に堕ちる。このまま行かせてあげなさい」

 

「……はっ」

 

 カナリスは唇を噛みしめながら、アルシェイラに一礼した。

 

 

 

 フェイルスは堂々とした足取りで王宮から停留所に続く道を歩いていた。

 今歩いているところは中心部に近いため、建造物が所狭しと建ち並び、商店も多数あって活気に満ちている。

 至るところから殺気混じりの視線を感じるが、フェイルスは気にした様子もなく歩き続けた。

 それからしばらく歩き続け人通りも疎らになってきたところ、いきなり十人程度の武芸者がフェイルスに襲いかかってきた。

 フェイルスは足捌きと体捌きだけで全てかわした。襲いかかってきた武芸者たちが同時に離れる。周囲を遠巻きに囲んでいる武芸者たちが一斉砲火を行った。剄弾、剄矢の雨。全てはかわせず、右脇腹と左太ももを剄弾が貫き、右肩と左腕に剄矢が突き刺さった。

 フェイルスは被弾箇所から血を溢れさせながら駆けた。

 そんなフェイルスの姿をスコープ越しに覗き込んでいる者がいた。王宮の最上部。都市旗が立っている場所。バーメリン。

 バーメリンは照星眼の影響で眼を光らせながら、無表情で狙撃銃を構えている。

 

「どこまでもバカにして。マジウザッ」

 

 バーメリンは以前剣狼隊の二人にしてやられ、耐え難い屈辱を味わっていた。その怒りがフェイルスをこのまま見逃すことを許さなかった。

 バーメリンが引き金を引く。

 超長距離から放たれた銃弾はフェイルスの胸を貫通し、地面に突き刺さる。

 フェイルスが地面に前のめりで転がった。

 地面に血溜りができていく。

 フェイルスは考えた。何故自分は死ななければならないのか。

 一瞬でグレンダンに来てから今までのことを思い出す。

 

 ──そうか。

 

 グレンダンは抗戦派だけでなく、降伏派もいたようだった。

 ここで明確なルシフの仲間である自分を殺すことにより、降伏したところでルシフに酷い目に遭わされると説き、降伏派を黙らせようという魂胆なのだろう。

 不思議とグレンダンを恨む感情は無かった。今は激動の時。どうしても犠牲が多く出る時期なのだ。

 だがこれで、ますます確信した。そもそもこの事態は、答えを先延ばしにして都市内の意思統一を図らなかったアルシェイラの無能さにある。抗戦であれ降伏であれ、しっかり自分の意思を示していれば、都市内が分裂しているなどという状況にはならないのだ。

 ルシフと比べて、グレンダンは愚者の集まりでしかない。必ず決戦はルシフが勝つ。

 流れていく血。

 武芸者たちの足音がどんどん近付いてくる。

 フェイルスは荒く息をしながら、赤装束の内ポケットに手を伸ばした。六角形の念威端子。取り出す。

 震える手で、ゆっくりと自分の頭の前に端子をもってきた。

 愚者ばかりのこの世界で、自分の全てを捧げたいと思える相手に出会った。

 ルシフを全都市の王にするため、今まで生きてきた。なんと充実した人生だったか。

 

「……申し訳……ありません、陛下。フェイルス・アハート……帰還……できず」

 

 震える手に剄を込めた。六角形の念威端子が砕け散る。

 

 ──陛下、ご武運を。

 

 足音はもうすぐそこまで来ていた。

 

「……私は剣狼。死すとも……我が剣はあの方とともに」

 

 視界が霞んできた。

 唐突に、地面が浮かびあがる。いや、自分の身体が浮かびあがっているのだ。

 そう思った時には、真っ暗な闇の中にいた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 剣狼隊の念威操者が、それぞれの場所で一斉にはっとした表情になった。すぐに沈痛な表情に変化する。中には涙を流している者もいた。

 念威端子のリンクは全ての念威操者がしていたため、全員がフェイルスに渡された端子の反応が無くなったことを悟ったのだ。

 すぐさまルシフにフェイルスの端子の反応が無くなったことが報告された。

 ルシフは書斎の椅子に座っていた。報告を聞いた時、激情が体内を暴れ回り、毒の影響で損傷していた内臓に負担がかかって吐血した。

 

「陛下!?」

 

 ゼクレティアが必死の形相で近寄ってくる。リーリンは両手で口元を押さえていた。

 

「大丈夫だ」

 

 ルシフは口元を右手の甲でぬぐった。

 

「ゼクレティア、フェイルスの部屋から紅茶の茶葉を持ってこい。あいつは紅茶を飲みながら読書するのが好きだった」

 

「はい、分かりました」

 

 ゼクレティアが書斎から出ていく。

 ゼクレティアが戻ってくるまでの間に、次々に剣狼隊の隊員が書斎に来た。誰もが痛みを堪えるような表情をしている。

 ゼクレティアが紅茶の茶葉が入った袋を抱えて戻ってきた。

 

「それでこの場の人数分の紅茶を作ってくれ」

 

「はい」

 

 ゼクレティアが紅茶を人数分作り、それぞれにカップを手渡す。

 ルシフは紅茶の香りを楽しんだ後、ゆっくりと紅茶を飲む。

 

「……うまいな。いい紅茶だ」

 

「でも、よろしいんですか? フェイルスさんの許可なく勝手に使ったりして」

 

「もしフェイルスが帰ってきたら、詫びとして十倍にして返してやるよ」

 

 その場の全員がルシフを凝視した。

 まだ念威端子が壊されただけで、万が一フェイルスが生きている可能性がある。ルシフはそれを信じているのだ。

 ルシフ以外の者がそう思う中で、ルシフの思考は違っていた。ここで重要なのは、フェイルス自身の手で端子を破壊したであろうということだ。グレンダンの人間がフェイルスから端子を発見したとしても、優れた念威操者のいるグレンダンなら、その端子が何の力もない端子だと理解できる。まだグレンダンは遠く離れた場所にあるから、考え無しに破壊する可能性は低い。

 にも関わらず、フェイルスの予定到着時間からあまり誤差のない時間に端子が破壊された。

 フェイルスが端子を破壊したのはほぼ間違いない。つまりそれは、自分は生きて帰らないというメッセージ。

 

「あの野郎、こんなうまい紅茶を隠し持っているなら、俺たちにしっかり教えてから行けってんだよ、水臭え」

 

 エリゴが言った。涙が溢れている。

 それからしばらくの間、交替で剣狼隊の隊員が書斎に現れ、フェイルスの紅茶を堪能して去っていった。最終的には剣狼隊の全員がフェイルスの紅茶を飲んでいた。



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第89話 届かぬ願い

 フェイルス・アハートがたった今、死んだ。

 何故、こんなことになってしまったのか。

 アルシェイラはフェイルスの死体の前で考えていた。

 多数の攻撃的な剄を感じ、慌てて王宮から飛び出したところ、王宮の最上部から一筋の光が駆け抜けるのを見た。

 光が接触した場所に天剣授受者を引き連れ駆けた。ニーナも付いてきていたが、ニーナの行動を制止するという思考は思い浮かばなかった。

 光が接触した場所に近付くにつれ、錬金鋼を復元した武芸者が増えてくる。とりあえず全員捕らえるように指示を出しながら、駆け続けた。

 光が接触した場所に辿りつくと、倒れているフェイルスに武芸者たちが次々に武器を突き立てようとしているところだった。

 やめるよう怒鳴り、リンテンスに鋼糸で傷口を塞ぐよう指示を出したが、風穴が大きすぎて塞ぐのに時間がかかるとリンテンスは言った。

 仕方なくサヴァリスにフェイルスの身体を病院に運ぶように言い、病院に運ばせた。

 それから色々手を尽くしたが、銃弾は正確に心臓を抉り貫いており、もうどうしようもなかった。

 アルシェイラは自室に戻り、十五分後にカナリスがやってきた。蝶型の念威端子がカナリスに付いてくるように、続いて自室に入ってくる。

 

「フェイルス・アハートに対し、攻撃を加えていた者でよろしかったですね?」

 

「そうだ」

 

「捕らえた武芸者は五十名近くになります。それから、天剣授受者のバーメリン」

 

「やはり王宮からの狙撃はバーメリンだったか」

 

「バーメリンは激しく抵抗しましたが、今はリンテンスの鋼糸で身動きが取れなくなっています」

 

「捕らえた連中の中に負傷している者はいるか?」

 

「誰一人。かすり傷すらありません」

 

「命を下す。捕らえた者全員の心臓を撃ち抜け」

 

「陛下!?」

 

 カナリスの表情が驚愕に染まった。

 

「わたしは行かせるよう言った。そいつらはまずわたしの命令違反をした。次に丸腰の相手に攻撃を加えるという、武芸者らしからぬ行為をした。明らかにフェイルスに闘いの意思は無かった。わたしたちを良く思っていないのはよく伝わったけど、敵意は感じなかった。そんな相手を多勢で襲撃するなど、言語道断」

 

「バーメリンも、ですか?」

 

「バーメリンは心臓に小さな穴を開けて、じわじわと殺してもいい。天剣授受者は都市長の剣。都市長の意を無視した罪は重い。今までは大目に見てきたけど、これは許せない」

 

『あらあら、随分とお怒りですね』

 

 念威端子からデルボネの声が聞こえた。カナリスとの会話は天剣授受者全員が聞いている。無論、天剣授受者に聞かれていることを意識して話していた。

 

「お怒り? 当たり前でしょうが! この際わたしの命令を無視したとかは正直なんとも思ってないけど、錬金鋼を持たず反撃もしてこずただ回避するだけの相手を容赦なく攻撃し、あまつさえ殺したのよ? いくらルシフが憎いとはいえ、ここまで見境が無くなるなんて考えもしなかったわ!」

 

 剣狼隊の小隊長ともなれば、錬金鋼を使わなくてもかなりの実力だろう。もし反撃すれば、多勢で襲いかかっても何人かは負傷した筈だ。だが、一人も負傷していない。つまりフェイルスは最期まで話し合いに来たというスタンスを貫いたのだ。自分の命が危うくなっても、信念と使命を貫き、そして死んだ。敵だったが、尊敬に値する誇り高き武芸者だった。

 それに比べて、こちらの武芸者のなんと浅はかなことか。今まで武芸者の育成に関わったことは一度もない。道場が山のようにあり、武芸者になりたい者はまず道場に行って強くなる。故に、武芸者の信念や心構えといった部分も全て各道場に任せっきりだったのだ。自分も内面など重視せず、ただ強ければ武芸者にした。信念や誇りといったものより、各道場が強さを優先するのも当然だった。素晴らしい武芸者一人を育成したという実績より、何人武芸者を道場から輩出したかが道場としての価値を高め、人が集まるようになるのだから。

 

「陛下、どうかお気を鎮めてよくお考えになってくださいませ。あのルシフが、今のグレンダンの対ルシフ感情を予想できないはずがありません」

 

「……つまりあなたが言いたいのは、ルシフはフェイルスが殺されると想定したうえで、フェイルスにグレンダンを訪問させたと?」

 

「客観的に見れば、フェイルスは錬金鋼を持たない丸腰で、グレンダンをただ説得しにきただけに見えます。ですが、グレンダンの人間からしたらどう見えるでしょうか?

以前グレンダンに壊滅に近い損害を与え、グレンダンの象徴を奪い、我らの誇りを徹底的に蹂躙した男の手下であり、また天剣強奪に力を貸した男。

錬金鋼を持たないのも、これなら闘えないだろうと我々を嘲笑っているように感じました。我々にとって挑発行為だったのです、丸腰は」

 

「なら、フェイルスが錬金鋼を持ってグレンダンに来ていたら、襲わなかったとでも言うのか?」

 

「……それは」

 

 カナリスが黙りこんだ。

 

「違うよね? その場合も『一人でグレンダンと闘えると考えてるなんて思い上がっている。挑発行為だ!』ってなるよね?」

 

「……」

 

「もう分かったでしょ? 丸腰だとか、そんなのは今回の件と関係ない。ルシフの手先がグレンダンに来た。たったその一点だけで、フェイルスを襲撃したのよ」

 

「確かに陛下のおっしゃる通り、丸腰かどうかは結果に何も作用していないかもしれません。ですが、重要なのはそこではなく、ルシフの思惑通りに我々が動かされているのではないか、という部分でしょう」

 

「わたしが丸腰のフェイルスを殺した武芸者たちに罰を与え、死刑にするのをルシフは狙っていると言いたいの?」

 

「まさしく。陛下のそういう性格を読み切った策ではないかと、わたしは思っています」

 

 アルシェイラはため息をつきたい気持ちになったが、堪えた。

 ルシフがアルシェイラの性格とグレンダンの対ルシフ感情を読み切り、フェイルスを死兵として使うことで労せずしてグレンダンの武芸者を罰で殺させる。

 確かに可能性としてはあるかもしれない。しかし、策として見れば荒が多く、お粗末すぎる。こんなもの、策とも言えない運任せではないか。そんな策に剣狼隊の、しかも小隊長格を犠牲にするか? あのルシフが? あり得ない。

 

「なら、処罰はどうする?」

 

「とりあえず死刑はルシフとの決戦後まで延期とし、決戦での活躍次第で免除もあり得るとしましょう。暫定的な処罰としましては、バーメリンからは天剣授受者の資格を剥奪。他の者は部隊を預かる者なら一武芸者に降格。一武芸者なら罰金。それならばグレンダンの戦力を低下させず、陛下の権威を民衆に示すことができます」

 

 天剣を持っていないバーメリンから天剣授受者の資格を剥奪したところで、問題はない。バーメリンのプライドはズタズタになるだろうが、それは別にいいだろう。

 

「捕らえた者の中で部隊長だった者は何人いる?」

 

「陛下の命令に反した者たちです。中途半端に実力があり、驕っている者ばかり。部隊長は二十二名。それ以外の者も部隊長の隊員です」

 

「カナリス、お前の意見を採用する。即刻処罰の内容を公開し、執行しろ」

 

「はっ」

 

 カナリスが一礼し、部屋から出ていった。

 それから一時間後には処罰内容が民衆に伝えられ、処罰が執行された。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 グレンダンの王宮にある客室。

 王宮に泊めるのはグレンダンにとって重要な客人である。よって、客室にある家具や調度品はそこそこ質の良い物で統一されていた。ルシフがグレンダン王宮を破壊する前まではもっと質の良い物だったのだろうが、それを差し引いても上等な部屋であることに変わりはない。

 ニーナはベッドの上に、膝を抱えて座っていた。

 フェイルスが死んだ。

 ニーナはフェイルスのことを思い出している。ツェルニで教員としてやっていた頃、フェイルスは人当たりが良く誰とも親しくなったが、特別親しくなった者は一人もいなかったようだった。広く浅く付き合うようなタイプだったのだろう。だが、それだけが原因でもないと、ニーナは思う。フェイルスの瞳の奥には、どこか相手をゾッとさせるような冷たい光があった。まるで相手を品定めするような、冷酷な部分。ルシフと同じように、他人を能力で決めつけ、価値を弾き出すというところがあったような気がする。

 しかし、間違いなく一方的に殺されるような悪人ではなかった。

 

 ──わたしの、せいなのだろうか。

 

 自分が天剣をルシフから取り返したから、ルシフが焦り、選択を誤ったのか。

 そもそも天剣を渡す条件として、『ルシフ側の人間は一人も殺さないように』とした。

 フェイルスが死んだ時、アルシェイラにそのことを言ったら、アルシェイラの隣にいたカナリスが「決戦時に死者を出さないようにしてほしいという条件だから、これは条件に当てはまらない」などと口にした。

 正直な話、グレンダンに幻滅したところがあった。不安も感じる。明らかに闘う意思のない者を勢いで殺してしまうような武芸者を抱えているグレンダンに、決戦時ルシフ側の人間を殺さないなんてできるのだろうか。そういう不安である。

 ニーナは神経を研ぎ澄ました。客室の外、武芸者が二人立っている気配を感じる。アルシェイラは「彼らは従者で、ニーナの要望をなんでも聞く」と言ったが、この感じは覚えがある。ルシフに軟禁状態にされていた状況と酷似しているのだ。

 アルシェイラを始め、グレンダンの人間が自分をルシフの内通者ではないかと疑っていることを確信したのは、ルシフの手紙について問いただされた時だった。

 ルシフの手紙はジルドレイドの遺体の袋をアントーク家に届けたとか、あの後どうなったかといった現状報告で、天剣を奪ったことに対する罵倒や非難は一切書かれていなかった。最後の方には、意味ありげに例の合図と同時に作戦を決行してほしいと書かれていたが、ニーナには全く思い当たる節が無かった。

 カナリスやアルシェイラに問いただされたのは、特に最後の作戦の部分で、前半の部分の単なる報告に関しても、何かしらの暗号になっているのではないかと疑っていた。

 当然ニーナには何も心当たりが無いから、何も答えられない。それで、ますます疑念が深まる。

 とりあえず今の状況は、ニーナにとって想像していない状況だった。

 ニーナの頭の中では、天剣十本を取り返したことでグレンダンの戦力が増し、グレンダンと協力して闘うことでルシフを負かす。そして、ルシフが他人の意見を認められるようになってみんなでレギオスを変えていく、という流れになる想定だったのだ。

 それが、グレンダンは一人で来たフェイルスすら容赦なく攻撃し、共に闘う予定が疑われている。

 

 ──わたしの選択のせいで、もっと酷い結末になってしまうのではないか。

 

 思わずそう考えてしまい、ニーナは首を振った。

 

 ──ダメだダメだ! そんな風に考えては……! わたしはグレンダンを信じ、協力して闘うと決めたじゃないか!

 

 最も想定外だったのは、天剣十本を取り返しているにも関わらず疑われていることだった。グレンダンにとって、どれだけルシフが規格外の人物であり、危険視されているかよく分かる。

 だからこそ、グレンダンはルシフに勝たなければならない。勝って王者の余裕と自信を取り戻し、ルシフを疑い警戒して接するのではなく、ルシフと堂々と腰を据えて話し合えるようになってほしい。

 もう決断し、行動してしまった。

 今更やめるなんてことはできないし、ルシフに寝返ることもできない。とにかくグレンダンを信じて闘い、ルシフに勝つ。自分に残された道はそれだけだ。

 ニーナの脳裏をフェイルスの姿がかすめる。

 死んだフェイルスの表情はヴォルゼーと同じように、満足気で柔らかい笑みを浮かべていた。そこにグレンダンを恨んでいる憎悪も、死ぬことによる恐怖も介在していない。自分の人生に満足し、希望を持って死んだ。おそらくルシフと剣狼隊がいるから、彼らは笑って死ねるのだろう。

 なら、自分はどうなのだろう? 今度のルシフとの決戦の時に死ぬことになったとして、自分の歩んできた道に満足し、笑って死ねるだろうか?

 空が赤く染まるまで、ニーナはそんなことを考え続けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 フェイルスが訪れた翌日。

 念威操者がグレンダンに向かってくる都市の群れを発見していた。

 その報告はアルシェイラに瞬く間に伝わり、アルシェイラは謁見の間に官僚や天剣授受者といった重要な立場にいる者を集めた。

 今、謁見の間では念威端子が都市の群れが迫ってくる映像を展開している。

 頭の中では、当然都市が集結して行動しているという情報があった。だが実際その光景を見ると、圧倒された。

 アルシェイラだけでなく、他の者もそうだった。誰もが信じられないという表情で、映像に見入っている。

 地平線を都市の群れが埋め尽くし、移動してくる光景。それは正しく、新たな世界の形だった。都市同士で争い奪い合う時代に決別し、どんな困難も一丸となって立ち向かっていく時代。この映像を見ていると、グレンダンが時代に逆行しているような錯覚に陥る。

 あの都市の集団の長にルシフが君臨している。約四ヶ月前は、ルシフはただの一学生だった。それがたった三、四ヶ月で前人未踏の偉業を達成し、頂点にまで上り詰めた。

 ルシフの頭の中は本当にどうなっているのか。どういう頭をしていればこの発想ができ、実現するまでのプロセスを導き出せるのか。

 この映像を見るまでは、ルシフに徹底抗戦しようと考えていた。その考えが揺らいでいる。もう何もかもルシフに任せてしまえば、勝手に新世界が構築され、新たなステージに人類を連れていくのではないだろうか。

 謁見の間の誰も声を出せなかった。

 映像は次第に都市の外観から内観へと変化していく。どの都市も活気は満ちているが、民衆の誰もがどこか困惑しているような表情をしている。例えるなら迷子になった子どものような、自分の立っている場所が分からない者の表情。

 いきなり世界が百八十度変われば、そうなるだろう。誰もルシフの起こした変化に付いていけないのだ。

 剣狼隊の念威操者の妨害は今のところない。グレンダンの念威端子に寄り添うように近付くだけで、念威妨害はしてこないのである。

 ルシフが、よく見て考え、抗戦か降伏か決断しろ、と暗に言っているような気がした。考えれば考えるほど、降伏の方が正しいのではないか、という思考に呑まれていく。ルシフもそれがよく分かっているからこそ、グレンダンの念威端子を好きにさせているのだ。

 当然の話だが、ルシフ側からもグレンダンの方に念威端子が来ていた。六角形の念威端子である。それに関してはデルボネが対処しているから、グレンダンの情報がルシフに漏れることはないはずだ。

 

「……見ての通り、ルシフに従う都市の群れがグレンダンに向かって来ている。この速度ならあと二日で接触する、と念威操者から報告もあった」

 

 謁見の間がざわめきの声で埋め尽くされた。

 

「やはりここは怨恨を抑え、ルシフに降伏するべきではないでしょうか」

「貴様! それでもグレンダンの官僚か! 闘わずして降るなど恥を知れ!」

「あなた方こそ、現実を直視すべきだ! 闘って何が得られるというのです! ただいたずらに我が都市を疲弊させるだけではありませんか!」

「それは貴様が負け腰だからだ! 我々は最強の都市なのだ! 二度は負けん! 我々には陛下と天剣授受者の方々が付いておられる!」

「勝敗の問題ではなく、戦闘における被害を問題視しているのです! 勝ったらどうするのです? 武芸の本場である誇り高いグレンダンが、あの都市の群れに攻め入り略奪の限りを尽くすのですか!」

「我ら武芸者を見くびるな! そんなことは断じてするつもりはない!」

「ならば何のために闘うのですか! 勝っても何も得られず、勝ったとしても辛勝でしょう! 互いに消耗し、共倒れてしまっては元も子もないのですぞ!」

「何を思い違いをしている!? 我々はただグレンダンを侵略しにくる外敵に当然の対応をしようとしているだけだ! あのルシフがグレンダンを支配下に入れた後、グレンダンのために政治をするなどとお思いか! 断じてあり得ん! ただルシフに搾取されるだけの都市に成り下がるというなら、力の限り闘って死ぬ方がマシだ!」

 

 官僚と武芸者が口論している。

 その熱気が伝播し、謁見の間の至るところで抗戦派である武芸者と降伏派の官僚が怒鳴りあっていた。

 アルシェイラはその口論を聞きながら、単純な結論にたどり着いた。

 総力をあげて闘おうとするから、戦闘そのものが損のように感じる。ならばルシフに一騎打ちを希望し、それで決着をつけるのはどうだろう。それなら、一人の犠牲だけで戦闘が終わる。都市が疲弊し、都市力が低下することはない。

 そんなことを考えていると、アルシェイラに蝶型の念威端子が近付いてきた。

 

『陛下。相手の念威操者より、通信がありましたわ。明日、降伏勧告をする、と。それまでしっかり現状を把握し、意見をまとめておけ、とも』

 

 謁見の間はデルボネの言葉を聞き逃すまいと、静寂を取り戻していた。

 

「意見をまとめる時間をくれるなんて、ルシフは随分余裕じゃない」

 

 アルシェイラは不機嫌さを隠さずに言った。

 

『それから、相手側から要求がありました』

 

「何?」

 

『フェイルス・アハートの生死の情報。もし生きているなら身柄の返還を。死んでいるなら遺体の引き渡しを、と』

 

「……そう」

 

 謁見の間の空気が重くなった。

 一方的に殺した後ろめたさのようなものが心中を支配している。大半の武芸者も一部の武芸者がフェイルスを殺したと聞いた時、彼らの所業に呆れているようだった。フェイルスがどうと言うより、アルシェイラの意を無視して動いたことが武芸者としてあるまじきことと思っているらしい。

 

「相手の念威操者に伝えなさい。フェイルス・アハートは死んだ。遺体の引き渡しは今すぐにやらせる、と。あと遺体は腐らないよう、防腐処置をしっかりやらせろ」

 

「陛下、それは危険です! 遺体の引き渡しに行った者が帰ってこられません!」

 

 カナリスが口を挟んだ。

 

「ならば、どうしろと?」

 

「互いの関係が落ち着いたら引き渡すと言うべきです。ルシフも今の関係が緊張状態であることを理解しているはず。まさかこちらの申し出を断るなどするわけがありません」

 

 アルシェイラは謁見の間を見渡した。

 官僚は苦い顔をしているが、武芸者はカナリスに賛同するように頷いている。

 

「バーメリンを呼んでこい」

 

 アルシェイラがそう口にすると謁見の間がざわめき、武芸者の何人かが謁見の間から飛び出していった。

 十五分後、不機嫌そうな表情をしたバーメリンが武芸者に囲まれながら、謁見の間に現れた。

 

「バーメリン、お前に命を下す。フェイルスの防腐処置が終わったらすぐフェイルスが乗ってきた放浪バスに乗り、フェイルスの遺体をルシフのところに引き渡してこい」

 

「なんでわたしが!?」

 

「あんたが殺したからに決まってんでしょうが! 分かったら、さっさと行け! 放浪バスなら、往復二日で帰ってこれる」

 

「陛下!? それではバーメリンが殺されてしまいます!」

 

「カナリス、わたしね、怒ってるのよ? 今回の件に関しては」

 

 謁見の間が一気に凍結したかのように、冷たい殺気にさらされる。誰も身じろぎすらできない。

 

「バーメリンが殺される? 別にいいんじゃない、殺されれば。自業自得でしょ。違う?」

 

 カナリスはうつむいた。バーメリンの顔は怒りで紅潮している。

 

「分かったわよ! 行きゃいいんだろ、行きゃあ! 連中にあいつの死体を見せて、怒り狂った顔をしっかり見てきてやる!」

 

 バーメリンは荒い足取りで謁見の間から去っていった。

 

「デルボネ」

 

『はい』

 

「聞いての通りよ。今からフェイルスの遺体を引き渡しに行かせる、と相手の念威操者に伝えて」

 

『はい、承知いたしました』

 

 その後は明日の朝に再び謁見の間に来るようこの場にいる全員に伝え、解散した。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 真っ赤な放浪バスがヨルテムの停留所に停車したのは、グレンダンと念威端子でのやり取りをした翌日の早朝だった。

 サナック、フォル、オリバが迎えに行った。フェイルスの死体はオリバが抱え、サナックとフォルがグレンダンからきた使者を案内した。

 バーメリンは目ざとくサナックの剣帯に吊るされている天剣を見つけ、案内の最中サナックに何度も突っかかったが、サナックは軽く流して案内の任をまっとうしていた。

 三人ともバーメリンに対してはらわたが煮えくり返る思いだったが、ルシフから丁寧に接しろと命令されていたため、表面上は人当たりの良い顔でバーメリンに接した。

 バーメリンが案内されたのは、グレンダン以上に荘厳であり、威風堂々とした広大な王宮だった。

 実は昨日、ようやく王宮が完成し、総出で引っ越しを終えたのだ。今日からルシフとフォルト国の重臣はこの王宮で暮らすことになったのである。

 王宮の謁見の間。ルシフが玉座に座り、剣狼隊の全小隊長、ゼクレティア、役人が集まっている。

 サナック、フォルが先に謁見の間に入り、続いてバーメリンが仏頂面で謁見の間に入ってきた。オリバはフェイルスの遺体を抱えて、一番最後に来た。

 フェイルスの遺体を見た時、その場にいた剣狼隊小隊長たちが悔しげに顔を歪めた。役人は遺体から目を背けている。

 ルシフはフェイルスの遺体をじっと見ていた。無表情である。

 

「ほら、お望み通り遺体は引き渡してやったぞ、クソガキ」

 

 ルシフは右手で頬を撫でつつ、方天画戟を振るった。

 ルシフとバーメリンの間にサナックが身体を潜り込ませ、方天画戟を手甲で防ぐ。

 

「無礼者! 首を切り落としてくれる!」

 

「陛下! 相手は遺体を返しに来た使者です! 傷付けてはなりません!」

 

 オリバが叫んだ。

 バーメリンが素早く剣帯から錬金鋼を抜き、復元しようとする。

 バーメリンにエリゴとプエルが近付き、逃げろと扉の方を指さしてジェスチャーした。

 バーメリンはこの場で暴れることの不利を悟り、謁見の間の扉へ駆け出す。

 ルシフは追おうとするが、次々に剣狼隊の小隊長たちに行く手を邪魔され、方天画戟で打ち倒しながらバーメリンを見据えた時には、すでにバーメリンは謁見の間から逃げていた。

 すぐさま念威操者から剣狼隊の全隊員にバーメリンを逃がさないよう指示が飛んだ。

 だが隊員たちは明らかにバーメリンを捕らえる気がなく、バーメリンは放浪バスのある停留所まで逃げ切っていた。

 

「この放浪バスを使いなさい」

 

「……クソホルステイン」

 

「あ?」

 

 放浪バスの近くにいたアストリットがバーメリンを睨んだ。バーメリンも負けじと睨み返す。

 バーメリンが復元済みの拳銃をアストリットに突きつけた。アストリットは復元せず、冷めた目で銃口を見ている。

 

「絶対殺すって前に言わなかったか?」

 

「覚えていますわよ。ですが、今は戦闘中ではありません。闘う意味はありませんわ」

 

「……本当、クソムカツク連中。武芸者のくせに戦闘を避けるなんてアホクサッ。そういうのが癪に障る」

 

「まあ、あなたのような方には私たちを理解するなど到底無理でしょうね」

 

 バーメリンは舌打ちし、銃口を下ろした。

 

「今は生かしておいてやる。けど忘れるな。戦闘が始まったら、わたしがあんたを撃ち殺す。あの男と同じように」

 

「……あの男?」

 

「フェイルスとかいうクソ男に決まってんだろ。無様に逃げ回り、地に這いつくばって死んだ。武芸者の恥さらし」

 

 アストリットは怒りを顕にしたが、すぐに表情を殺した。

 

「……そうですか。それで、あなたはフェイルスさんを殺して満たされたんですの?」

 

「は?」

 

「気分は良くなったかと訊いてるんです」

 

「そんなの知るか。ムカついたから撃った。そんだけ」

 

 アストリットのバーメリンを見る目が哀れみにも似たものに変化した。

 

「かわいそうな方。それだけの力を持ちながら、そんなつまらないことにしか使えないなんて」

 

「は?」

 

「それから、よく聞きなさい。武芸者は弱者を守る盾であり、弱者を虐げる存在を滅する剣。無様に逃げ回る弱者に銃口を向けたあなたこそ、武芸者の恥さらしです」

 

「……ふん!」

 

 バーメリンは鼻を鳴らし、放浪バスに乗り込んだ。停留所から放浪バスが出発する。

 放浪バスが汚染された大地を進んでいるのを、外縁部からアストリットが睨んでいた。その頃には、アストリットのところに剣狼隊の面々が集まってきている。

 

「……アストリット、血が出てるぞ」

 

 アストリットの隣にバーティンが来た。バーメリンから見えないところで、アストリットは血が出るほど拳を握りしめていた。今も握りしめ続けている。

 

「あの方がフェイルスさんを殺したんですって」

 

「……そうか」

 

「今あの放浪バスを撃ち抜けば、あの方もフェイルスさんと同じ気持ちを知れるでしょうか?」

 

「忘れたのか、ルシフさまのお言葉を」

 

「まさか。忘れるわけがありません」

 

 グレンダンからフェイルスは死んだと通信が来た時、剣狼隊の誰もが怒った。その中でもレオナルトの怒りは凄まじいものだった。レオナルトはフェイルスが何があろうと闘わないと確信していた。そんな仲間を容赦なく殺したのだ。怒らない方がおかしいだろう。

 そんな中、ルシフは言った。「私情に任せて闘えば、グレンダンと同レベルになる。死んだフェイルスにそんな姿を見せられるのか」と。

 ルシフとて、怒り心頭だった。それをぐっと抑えて、その言葉を言ったのだ。

 だから、死体を届けにきてルシフに無礼な態度をとったバーメリンに対し、助けるような行動を剣狼隊はしたのだ。我々剣狼隊はグレンダンとは違う。その意思表示をはっきりと示した。

 バーティンが握りしめているアストリットの手を優しく包むように両手で触れた。

 アストリットは驚いて隣のバーティンの方を一瞥したが、すぐに視線を放浪バスの方に戻す。

 

「……何の真似です?」

 

「相手が大嫌いでも、手を取り合って笑い、励まし合える。それが人間だろう」

 

「今の私とあなたのように?」

 

「ああ」

 

「あなたに慰められるほど、私は落ちぶれていません」

 

 アストリットはバーティンの手を振り払った。

 バーティンは肩をすくめ、去っていく。アストリットは振り返り、バーティンの去っていく姿をしばらく見ていた。

 

 

 

 フェイルスの死体を前に、人が集まっていた。

 フェイルスの死体はルシフの書斎に寝かされている。前の書斎は一室の中にある一部屋を使用していたため狭かったが、現在の書斎は元々書斎として設計されていた部屋であり、前の書斎の三倍以上の広さがあった。

 今書斎にいるのは、ルシフ、ゼクレティア、マイ、エリゴ、レオナルト、ハルス、オリバの七人。

 ルシフはフェイルスの死体に触れた。まるで精巧な人形のように冷たい。死体は腐っていないため、グレンダンは防腐処置をしっかりしたようだ。

 

「フェイルス、俺は知っていた。お前がヨルテムの元都市長とその身内を一人残らず殺し、家を焼き払ったのを。念威操者やお前の隊員の証言を照合すると、そうとしか考えられない。だが、証拠は何一つ無かった。お前にそのことを訊いても、ずっと否定し続けただろう。何故か? 剣狼隊が暴王と都市民から恨まれている人間を排除しようとした人間を報復で殺せば、俺が今まで築き上げてきた剣狼隊のイメージが崩れるからだ。だからお前は認めるわけにはいかない」

 

 ルシフの周囲の人間はフェイルスの死体に視線を落として、黙ってルシフの言葉を聞いていた。

 

「お前はそういうところがあった。俺の代わりに手を汚して、俺のやれないことをやってやろうとするところだ。それを考えれば、随分とお前には苦労をかけただろう」

 

 六角形の念威端子も書斎には舞っていた。剣狼隊の誰もが、フェイルスの死体を前にルシフが何を言うか、興味があるのだ。念威端子を通じ、書斎での言葉は剣狼隊全員に届いている。

 ルシフがフェイルスの頬に右手で触れた。

 

「お前の顔を見れば、最期まで信念と誇りを持って生ききったのがよく分かる。お前の血と信念は、ずっと俺たちと共にある。だから、安らかに眠れ。さらばだ、我が同志」

 

 ルシフが立ち上がる。

 エリゴ、レオナルト、ゼクレティアは涙で顔を濡らしていた。それ以外の者は涙は流しておらずとも、悲痛そうな表情。ルシフ以外の全員がルシフの立ち上がりと同時に姿勢を正す。

 

「フェイルスを丁重に埋葬しろ。お前ら剣狼隊が全て手配しておけ。俺は都市民から、臣下の死に何も感じていない王に見えるようにする」

 

「……はっ」

 

 ルシフ以外の全員が跪き、頭を下げた。頭を下げつつも、剣狼隊の人間はルシフへのより深い忠誠を誓っていた。

 剣狼隊の誰が死んでも、ルシフは死を悲しむだろうし、ずっと死んだ者を覚えていてくれる。

 不思議なことにたったそれだけのことで、剣狼隊の誰もがルシフのためなら死んでも構わないと思えるのだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 バーメリンがヨルテムから去って数時間後。

 現在の時刻は午後四時。

 ルシフと剣狼隊の全員が王宮の屋上に集まっている。これからグレンダンに降伏勧告を行うためだ。なおこれから行うグレンダンとのやり取りは、都市民には見せない完全非公開と決定していた。理由は都市民に余計な情報を与えないためである。

 ルシフが最前列に立ち、その後ろで剣狼隊の全員が整列している姿は、すでにデルボネの念威端子を通してグレンダンの王宮の謁見の間に映し出されている。

 グレンダンの謁見の間にはアルシェイラや天剣授受者たち、官僚や大臣が集まっていた。レイフォンやフェリといったツェルニ組とニーナも、アルシェイラに頼み込んで謁見の間にいることを許してもらった。

 これはルシフとの交渉の機会でもある。レイフォンやニーナがそれを見逃すわけがない。

 

『回りくどいことを言うつもりはない。すでにフェイルスが降伏する利を説いた。俺が言う言葉はたったひと言。俺に降伏して跪け』

 

「……断る!」

 

 アルシェイラが玉座に座りながら、端子に怒鳴った。

 降伏か抗戦か。前日、アルシェイラは大臣や官僚だけでなく、武芸者や民衆にも意見を求めた。すると驚くべきことに、降伏派は大臣や役人を除くとごく少数しか残っていなかったのだ。グレンダンの大多数の民衆と武芸者は徹底抗戦という意見だった。

 理由はただ一つ。前にグレンダンの都市にある建造物を破壊しまくったような人間に従うなど、彼らは我慢できなかったのだ。住居や王宮をあれだけ破壊しておいて、何が降伏だ。ふざけるな。という都市民感情がアルシェイラを突き上げ、抗戦以外の選択肢を奪ってしまったのである。もし降伏などと言えば、その矛先はアルシェイラに向き、クーデターが起こりかねない。そうなればグレンダンの生産力と経済力は低下してしまう。

 アルシェイラはグレンダンの長として、都市民の意に合わせなければならなかった。一騎打ちも、今の武芸者や天剣授受者が納得するはずがない。

 ルシフは軽く息をついた。

 

『俺は慈悲深い。もう一度チャンスをやろう』

 

 映像に映る王宮の屋上にある扉が開き、一人の少女が歩いてくる。

 謁見の間の誰もが少女を観て絶句した。少女が映像に映ったことではなく、まるで協力者のようにルシフの隣に立ったことに驚愕した。少女はリーリン。ニーナからリーリンの話は聞いていたが、ルシフに積極的に協力しているとは思わなかった。

 リーリンが意を決したように、端子をまっすぐ見た。黒い眼帯が右目を隠している。

 

『陛下、お久しぶりです。わたしはリーリン・マーフェスです』

 

「……よく知ってるわ、リーリン。何があったの? というより、なんでその場所にあなたは立っているの?」

 

『陛下にお願い事があるからです。ルシフと闘わず、降伏してください』

 

 謁見の間がざわついた。リーリンは正真正銘グレンダンの人間である。それが降伏を勧める。まさしくグレンダンへの裏切り行為。

 

「リーリン! 何を言ってるんだ!?」

 

 レイフォンが叫んだ。

 リーリンは視線を動かし、レイフォンを見る。

 

『……レイフォン』

 

「なんでルシフに協力するんだ、リーリン!?」

 

『あなたには見えないの? 世界中のレギオスが集まっているこの光景が。世界がより良い方向に変わりつつあるの。あとはグレンダンが協力してさえくれれば、わたしたち人類は協力して助け合えるようになる』

 

「リーリン! 忘れたのか!? ルシフはマイアスでただの武芸者たちを一方的に痛めつけていたことを!」

 

『それは……』

 

「ルシフは危ない男だ! 信用できない!」

 

「その通りです! リーリンさん、あなたの方こそよく考えなさい!」

 

 カナリスが口を挟む。

 

「ルシフは人類が協力して助け合えるなどと言っていますが、それは自分に従う人間を増やすための方便かもしれません! そう言えば誰もがルシフに従うのが正しいと思うでしょう、あなたのように! ですがグレンダンを降伏させて力を削がれたら、ルシフを止められる者は誰もいません! ルシフの意のままに全都市が動かされ私欲を肥やされても、どうしようもできなくなるのですよ!」

 

『……でも、上手くいけば、グレンダンは今よりずっと良くなる! 前みたいに食糧危機になっても、他の都市が助けてくれる! レイフォンだって、闘いたくないのに戦力がないから闘わないといけない、みたいな状況が無くなるんだよ! 分かるよ、みんなの気持ちは! わたしだってグレンダンの人間だもの! ずっと慣れ親しんできたグレンダンが変わるのは辛いし、ましてや降伏して他都市の人間にグレンダンを好きなように弄くられるなんて許せないよ! グレンダンの武芸者、天剣授受者さまたち、女王陛下……みんな強い方たちばかりで、闘わないでグレンダンを渡すなんて屈辱、我慢できないのも理解できます! でも、そこをぐっと堪えて、降伏してほしいんです! そうじゃないと、いつまでもグレンダンは前に進めず、ただの一都市のままで終わってしまいます!』

 

「リーリン、本当にどうしたんだ!? まさかルシフに右目を潰されて脅されているのか!?」

 

 レイフォンの言葉に、リーリンはムッとした。

 しかし、それを当たり前のようにすると思われているのがルシフなのだ。目的のためなら手段を選ばない。

 リーリンは右目の眼帯を外した。

 右目があらわになる。瞳に十字の刻印がある、異形の右目。

 映像の向こうで、レイフォンが目を大きく見開いている。

 

「……レイフォン。もうわたしはレイフォンの知ってるわたしじゃないんだよ」

 

『リーリン! ルシフは危険で不安定な人間だって、君も知っているはずだろう!?』

 

「それでも……わたしはルシフを信じる!」

 

『……リーリン……』

 

 レイフォンが信じられないという表情をしている。ズキリと、心が痛んだ。

 

『……リーリン・マーフェス。言いたいことは分かった。だが、グレンダンの誇りにかけて、降伏はできない』

 

 アルシェイラが言った。

 

「そんな……! お願いします! 考え直してください!」

 

『黙れ、この裏切り者が!』

『この恥知らず! もう二度とグレンダンの土を踏むな!』

 

 ルシフが指先から剄を凝縮させた朱色の光線を放った。

 デルボネの念威端子が破壊される。それを合図に剣狼隊で銃と弓を扱う者が一斉にデルボネ以外の念威端子を破壊していく。

 

「交渉決裂だな」

 

 リーリンは両ひざを地につけて、顔を俯けた。

 

「ごめん……ごめん、ルシフ。わたしじゃダメだった。わたしじゃ陛下やみんなの心を説得できなかった」

 

「お前は力を尽くした」

 

「でも結果が伴わなければ何の意味もないよ!」

 

「確かに結果が全てだ。だが失敗があるから、成功も生まれる。挑戦したお前は挑戦しない者よりマシだ」

 

「……何よ、きっぱり使えない奴だって言えばいいじゃない」

 

「お前にそんな言葉は言えん。後ろを見てみろ」

 

「……後ろ?」

 

 リーリンは座り込んだまま、後ろを振り返る。

 剣狼隊の全隊員が親指をリーリンに向かって立てていた。笑顔で。あるいは無表情で。あるいはそっぽを向いて。一人一人表情は違うが、親指を立てていない者はいなかった。リーリンの頑張りを認めているのだ。

 ルシフの手伝いをするようになるまでは、剣狼隊はルシフに心酔する堅苦しい人の集まりだと思っていた。

 しかしルシフの手伝いをするようになって、彼らが感情豊かで良い人ばかりだと思うようになった。リーリンを仲間として彼らは認めたのだ。

 リーリンはいつの間にか、ルシフや剣狼隊の人たちと一緒に行動することが居心地良くなっていた。

 グレンダンとの決戦は最も激しい戦闘になるだろう。剣狼隊の人間もたくさん死ぬかもしれない。

 それでも彼らは最期まで信念を貫き、満足して死んでいくのだろう。

 だからリーリンは心の内で願った。

 

 ──どうか誰も死にませんように。

 

 それがたとえ届かない祈りだとしても。

 

「貴様ら、明日だ。明日、新世界の扉を開き、新たな時代にアイサツしに行くぞ。グレンダンという時代遅れの門番をぶっ倒してな」

 

「おおーッ!」

 

 ルシフの言葉に、剣狼隊の全隊員が拳を天に向かって突き上げた。



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第90話 決戦前夜(グレンダンサイド)

「一体どういうことなんですか!?」

 

「なにが?」

 

 アルシェイラの自室。

 レイフォンが入室を許可された途端に入室してきて、アルシェイラに詰め寄ってきた。

 

「リーリンの右目です! あれは一体なんです!? 陛下なら分かるでしょう!?」

 

「……そうね。あんたには教えてやってもいいかもしんないわね」

 

「教えてもらえるんですか?」

 

「うん。まず言っとくけど、剄はある人間の持つ力を模倣した能力なのは知ってる?」

 

「…………はい? ちょっと言ってる意味が……」

 

「要すんに、この剄という力はその人間の影響を受けていればいるほど、能力が強くなんのよ。で、その人間の持つ力は『剄』だけじゃなかった。リーリンのあの右目。『茨の目』もその人間の持っていた力なのよ。『茨の目』は見たものを眼球にし、己に取り込む力」

 

「……はぁ」

 

 レイフォンは知恵熱が出たのか、右手で頭を押さえた。

 

「で、ここからが本題。その人間の影響が強くなればなるほど、強力な力を宿した人間が生まれる。なら、どうすれば影響を強くできるでしょうか?」

 

 まるでクイズでも出しているような口調でアルシェイラが言った。

 

「そもそも、その影響が具体的に何か分からないことには、答えなんて出せません」

 

「まあはっきり言ってしまえば、遺伝情報みたいなものよ。強い武芸者と強い武芸者の間に生まれた子は、より強い武芸者になる。剄は子に遺伝する力なのよ。なら簡単な話よね。強い武芸者で子どもをつくり続ければいいわけだから。これを実際にやったのが、グレンダン三王家」

 

「なら、陛下が圧倒的に強いのは……」

 

「何百年っていうグレンダン三王家の努力の結晶。そして、わたしの子どもがわたしの剄量と今リーリンの持つ『茨の目』を宿して、その人間の完全な模倣品になる計算だった。でも、最後の最後で計算が狂ったのよ。事もあろうに、わたしの婚約者は浮気をして、わたし以外の女に子を宿して消えた」

 

「まさかその子どもがリーリンだって……そう言うんですか?」

 

「リーリンの髪の毛から、DNA鑑定はした。その結果、リーリンはグレンダン三王家のDNAを持っている」

 

「そんな……」

 

 レイフォンはあまりのショックに放心に近い状態になっていた。

 

「もっと正確に言うと、ユートノール家のDNA。つまり、リーリンの本当の名前はリーリン・マーフェスではなく、リーリン・ユートノールとなる」

 

「……なら、僕は誰なんです!? リーリンと一緒に捨てられていた僕はなんなんですか!?」

 

「知らない。調べてないから」

 

「頭がグチャグチャで、何も考えられません! リーリンがグレンダン三王家の人間? 『茨の目』とかいう力を持つ異能力者? 知りません、そんな人間は! 僕の知ってるリーリンはいつも明るくて、世話好きで、頭が良くて、しっかり者で……けど、時々怖くて、本音を隠して強がって、悲しい時や寂しい時は隠れて涙を流す、そんな普通の女の子で、僕の大切な……大切な……!」

 

「レイフォン・アルセイフ」

 

 アルシェイラの声に威圧的な響きが加わった。レイフォンは思わず口を閉ざし、背筋を伸ばす。

 

「リーリンは自らの意思でルシフに付いたと考えられる。それと、降伏勧告の件も合わせると、リーリンはグレンダンに戻る気はないかもしれない。言っている意味が分かるか?」

 

「……分かりませ──」

 

「明日ルシフとの決戦に勝っても、リーリンは手に入らない」

 

「……ッ!」

 

「今一度問う、レイフォン・アルセイフ。お前は明日、何のために闘う?」

 

「……何の……ために?」

 

「お前はツェルニの人間。わたしから命令はしない。お前自身が選ばなければならない」

 

「僕は……」

 

 レイフォンは拳を握りしめた。

 

『もう! さっきやったとこじゃない! なんでまた間違えるのよ、レイフォン!』

 

 懐かしいリーリンの声と、眉を吊り上げているリーリンの顔が頭によぎった。

 

「僕……は……」

 

『わたしたちのこと、忘れないで』

 

 養父の錬金鋼をリーリンに渡された時、リーリンを抱きしめた。あの温もりは今も覚えている。この温もりを守ると心に決めた。

 

『心配かけないでよね!』『あ、レイフォン! ちょっとご飯の準備、手伝って!』『もう、だらしないなぁ。掃除くらいしてよね!』『ありがとう、レイフォン』

 

 懐かしいリーリンの声が次々と耳の奥で弾け、笑顔が蜃気楼のように視界に映る。

 守ると、決めていた。必ずリーリンをルシフから取り戻すと決めていた。

 レイフォンはアルシェイラの顔も見ずに扉の方に駆け出し、アルシェイラの部屋から出ていった。

 

「……逃げたか。まあ、無理ないわね」

 

 アルシェイラは頬杖をつき、ため息をついた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 王宮にある訓練場。

 リンテンス、サヴァリス、カルヴァーン、ルイメイ、ティグリスが組み手をしている。天剣が戻ってきても、組み手は無手でした。

 五人はバトルロイヤル形式でぶつかっていた。訓練場内は剄が荒れ狂い、疾風にも似た衝撃波が生まれ続けている。

 全員気持ちが昂っていた。今だかつてない最強の相手との決戦。老性体ですら倒せてしまう彼らにとって、ルシフの台頭はある意味喜ばしいことだった。圧倒的な実力があるのに、それを発揮する機会のない平凡な毎日など、武芸者にとっては死も同じ。不謹慎かもしれないが、より強い相手と闘えるのは武芸者の本懐なのである。

 拳と拳。足と足。全身をぶつけ合いながら、相手を睨み合う。実際は相手を睨んでいるのではなく、ルシフの幻影を睨んでいた。

 

「いよいよ明日、ですね!」

 

 サヴァリスがリンテンスに蹴りを放ちながら言った。

 

「ああ」

 

 リンテンスはサヴァリスの蹴りを防ぐ。横からティグリスが殴りかかってきていた。サヴァリスの足を掴み、ティグリスの方に投げ飛ばす。

 サヴァリスは回転しながら、ティグリスの方に廻し蹴りを放った。ティグリスは紙一重でよける。

 

「うらあ!」

 

 ルイメイがサヴァリスに右ストレートを放った。サヴァリスは受け止めるが、衝撃で後方に吹っ飛ぶ。

 ルイメイの攻撃後の隙をついてカルヴァーンが肉薄し、蹴り飛ばした。ルイメイは壁に叩きつけられる。

 

「だあぁ! 鬱陶しいぞテメェ!」

 

「隙を見せる方が悪い」

 

「ふむ、そろそろ休憩にするのはどうじゃ?」

 

 ティグリスがそう言い、他の者も異論が無かったため、組み手を中断して休憩をとった。

 訓練場の中央付近に各々適当に座り、 ペットボトルの水を飲んでいる。

 

「明日は前ルシフに蹂躙された時より、激しい戦闘になるじゃろう。なんせ前はルシフ一人、剣狼隊五人、念威操者一人だけが相手だった」

 

 逆に言えば、ルシフはたったそれだけの戦力でグレンダンを蹂躙した。指揮官として、非凡なものを持っていると認めざるをえない。

 

「明日の決戦はおそらく剣狼隊という武芸者集団全員が相手でしょうからね。面白くなりそうで今からワクワクしていますよ」

 

「しかし、本当にこれで良いのか?」

 

「何がだ?」

 

「ルシフのやり方はともかく、ルシフのやっていることは理に適っている。ここは降伏し、 もしルシフがグレンダンで好き放題やって私欲を満たすようになったら、その時は全力で倒すという選択もあった。感情がその選択を邪魔するがな」

 

「そんな選択はねえ。温いこと言ってんなよ、カルヴァーン。シンプルに考えりゃいいんだ。このグレンダンを侵略しようとするヤツがいる。ぶっ殺すだろ、普通。ヤツの方が正しいなら、明日ヤツが勝つ。逆に俺らが勝つなら、ヤツはこの世界を変えられるだけの器じゃ無かったっつう、それだけの話じゃねえか」

 

「ルイメイ、お前はシンプルに考えすぎだ。大臣や官僚も言っていたが、闘い方を考えなければグレンダンの資源が戦闘で失われ、勝ったとしても窮地に陥ることになりかねない」

 

「けっ、速攻でケリつけりゃいいだけの話だろ。資源がどうとか、そんなもんは役人の仕事で、俺らが考えることじゃねえ」

 

「ルイメイの言葉にも一理ある」

 

 リンテンスが口を挟んだ。

 

「俺たちは闘うことしかできん。ならば、その枠組みの中で全力を懸けるしかない」

 

「その通り! リンテンスさんの言う通りです!」

 

「……俺はあいつに地獄を見せてやると言われたから、天剣授受者になった」

 

 リンテンスが煙草を口にくわえ、火をつけた。天井を見上げている。

 そもそもリンテンスは、平和な故郷で自分の技や力が錆びついていくのが許せず、自分の力や技を存分に発揮できる環境を求めて旅に出た。その旅の果てにたどり着いたのがグレンダンであり、天剣授受者だった。

 

「明日は今までとは比べものにならん地獄を味わえるだろう。世界とか、客観的に見て正しい選択とか、俺にはどうでもいい。俺の力がどれほどのものか、試したい。今も昔も、俺にはそれしかない」

 

「いいんじゃないですか、それでも。純粋な武芸者って感じがして好感が持てますよ」

 

「お前に好感を持たれても気持ち悪いだけだ」

 

「ははは、そういうことです、カルヴァーンさん。僕らは武芸者。武芸者なら、強い相手と闘いたいと思うのは当然。僕らはただ敵を倒すことだけを考えてればいいんですよ」

 

「……お前らの言う通りかもしれんな。今さら後戻りはできん。ならば、選んだ選択に対して全力を尽くす。それしか、我らにできることはない」

 

 休憩を終えると、彼らは立ち上がった。

 それから夜遅くまで、彼らはずっと組み手を続けていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 王宮のとある一室。

 リヴァースとカウンティアが隣同士で座っていた。

 リヴァースの浮かない顔を、カウンティアは横から覗き込む。

 

「リヴァ、どうしたの? 元気ないみたいだけど」

 

「あぁ、ごめん。ヨルテムは僕の故郷だからさ、話は見る前から聞いてたけど、やっぱり実際目にするとキツいよ」

 

「ルシフの奴! リヴァの故郷をメチャクチャにするなんて許せん! それだけじゃなく、アイツには借りもあるし!」

 

「借り?」

 

「そう! アイツ、金剛剄でわたしを倒したのよ! 前の襲撃の時! ホント許せない! 明日必ず切り刻んでやる!」

 

「張り切るのはいいけど、あまり頭に血をのぼらせて突っ込んじゃダメだよ。僕のために怒ってくれるのは嬉しいけど、僕はやっぱりティアの方が大切だから……」

 

「リヴァ……!」

 

 カウンティアが目を潤ませて、リヴァースを見つめる。

 

「……ティア?」

 

「あーもう、かわいいぃぃぃぃぃ!」

 

「むぐぅ」

 

 カウンティアに力いっぱい抱きしめられ、リヴァースはカウンティアの胸に埋もれた。別に嬉しくはない。それどころか死の危険すらある。

 

「明日は絶対勝とう! ね、リヴァ!」

 

「ふむぅ」

 

 抱きしめられる圧力でリヴァースは言葉がまともに喋れなかったが、そこは恋人同士、通じるものがあるらしい。

 

「リヴァもそう思ってくれるんだ! 嬉しぃぃぃぃぃ!」

 

「むぅぅぅぅ!」

 

 より強く抱きしめられ、リヴァースはもがいた。しかし、カウンティアが逃がすはずもない。そして、なんだかんだ言ってカウンティアのこういう部分もリヴァースは好きだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

「先生、こんな場所で何やってるんです?」

 

 トロイアットが王宮の空中庭園に座っていると、後ろから声をかけられた。

 トロイアットは振り返る。

 

「……お前か」

 

 声をかけてきたのはクラリーベルだった。

 クラリーベルは軽く一礼した後、トロイアットの隣に座る。

 

「意中の彼にアプローチしてると思ったが、ここにいるとは意外だな」

 

 クラリーベルの意中の彼とは、レイフォンのことである。クラリーベルはレイフォンに勝って自分を認めてほしいという気持ちをずっと持っていて、それが恋愛感情に似たものになっている。

 

「いやー、あんなにも強力なライバルがいたとは思わなくて。正直、何歩もリードされちゃってるんです、その人に」

 

「で、気分転換にここに来たと。師弟ってヤツは似るのかねえ」

 

「なら、先生も女性へのアプローチが失敗したのですか?」

 

「アホ。お前と一緒にすんな」

 

 トロイアットがクラリーベルの頭を軽く叩いた。クラリーベルは悪戯っぽい笑みになる。

 

「明日は今までとは比べもんになんねえ、でっけえ祭りがあるだろ? その景気付けに可愛い子と寝ようと思ったんだけどな、なんか声かける前にやる気が失せちまうんだ。天剣は戻ってきたけどな、やっぱ俺の男の部分は、ヤツを倒さねえと戻ってこねえらしい」

 

「それはそれは、グレンダンの女の子たちに朗報ですね。先生の毒牙の餌食にならずにすむんですから」

 

「……言っとくが寝るのは毎回合意の上だからな」

 

「男はみんなそう言うのでは?」

 

「けっこう毒吐くよな、クララは」

 

「あなたに師事していますので」

 

「そういうとこだ、そういう」

 

 何気ない会話をしながらも、ピリピリした緊張感がこの場に充満してきている。

 

「あー、やっぱダメだわ。空中庭園で景色を見てたら落ち着くかもとか思ってたが、気の昂りが抑えらんねえ」

 

「わたしもです。今すぐ錬金鋼(ダイト)に剄を注ぎ込みたい……そんな焦れったさが全身を支配しています」

 

 なんと言っても、明日はルシフという女王すらも地に這いつくばらせた最強の敵と闘えるのだ。そんな祭りを前にして落ち着いていられるほど、二人は精神的に大人ではなかった。二人とも武芸者気質だというべきか。

 

「おいクララ、ちょっとここで組み手やろうぜ。もちろん錬金鋼は使わず、無手で」

 

「大丈夫ですか? ここは陛下のお気に入りの場所なのに、もし組み手でメチャクチャにしてしまったら、陛下にかなり怒られてしまうのでは?」

 

「心配すんな、そんな組み手にはなんねえからよ。お前の相手を誰だと思ってんだ? この俺だぞ」

 

「先生こそ、いつまでもわたしを弟子だと甘く見ていると足を掬われますよ」

 

「……言うねえ、面白くなってきたじゃねえか」

 

 トロイアットとクラリーベルは立ち上がり、距離を取った。

 互いに剄を練り高め、ぶつかる。

 空中庭園内に剄の奔流が生まれた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 様々な場所から剄の高まりを感じ、アルシェイラは顔をしかめた。明日の決戦を前にして、グレンダン中に好戦的な空気が蔓延している。剄が荒れ狂い、ひどいところでは戦闘音だけでなく破壊音も聞こえた。

 アルシェイラは自室の椅子に座り、ぼんやりと様々なことを考えていた。カナリスはアルシェイラの背後で直立し、デルボネの念威端子も舞っている。

 

「うるさいわね。まるでお祭り騒ぎだわ」

 

「ルシフとの決戦を前に、じっとしていられないのでしょう」

 

「武芸の本場らしいと言うべきか、未熟な精神の集まりと言うべきか……」

 

「仕方ありません。皆、決戦を楽しみにしつつも、不安なんです」

 

「不安?」

 

「今まで負けるかもしれないという緊張感の中での戦闘はありませんでした。我々は常に必勝の戦闘しか闘ってこなかったのです。というより、我々が強すぎて負ける要素がある戦闘が無かったと言うべきでしょうか。ですが、ルシフは我々に敗北の味を教えました。ルシフ相手に必勝はあり得ません」

 

 負ける可能性がある戦闘。そのことを事前に頭に入れて闘うのは、確かにこれが初めてだろう。グレンダン以外の都市ではむしろその精神状態は当たり前にあるものだが、グレンダンでは異常な精神状態と言える。

 

『天剣授受者の皆さんも組み手をやってますねえ。空中庭園でもトロイアットさんとクラリーベルさんがやり始めましたよ』

 

「どうりでうるさいはずだわ。てか、空中庭園を元通りにするの苦労したんだかんね。その辺、しっかり二人に伝えといて。ぐちゃぐちゃにしたらお前らもぐちゃぐちゃにするからって」

 

『はいはい、ちゃんと伝えておきますよ』

 

 アルシェイラは頬杖をついた。

 世界はルシフを中心に急激に変化している。そしてその変化は、全体として見れば悪い変化ではない。

 それでも、その変化にグレンダンは逆らっている。いや、そもそも世界とか本心ではどうでもいいと誰もが思っているのだ。ただ自身の信じるもののままに、抗おうとしている。

 アルシェイラ自身、このグレンダンを守ることが世界の崩壊を防げると言われ続けたからグレンダンを守っているだけで、その世界に住む人々というものは意識の外にあった。

 ルシフは一体何を考え、あの変化の激流を引き起こしたのか。それを知れば、ただ運命の流れに身を任せるだけの自分を変えられるのだろうか。

 グレンダンの武芸者や天剣授受者と同じく、アルシェイラも内心では圧倒的な強敵であるルシフとの再戦に胸を躍らせていた。ワクワクしている。あの日、無様に地を這いつくばってから、自分はどれだけ強くなったのか、ようやくその答えが出る。

 

「明日、勝てるかしら?」

 

「勝ちます。グレンダンの威信にかけて」

 

 アルシェイラはそんな抽象的なものより、もっと現実的で具体的な勝算を聞きたかったが、諦めた。

 そもそもグレンダンは今まで小細工無しの真っ向勝負で闘ってきた。ルシフのように奇策に頼るようなことはしていない。

 そう言った意味でも、明日のルシフとの決戦は実になるものがあるだろう。

 

「明日、ルシフに勝つ」

 

 ルシフに勝てば、今まで見えてこなかったものが見えてくるかもしれない。

 

「はい」

 

 カナリスが返事をした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 レイフォンは王宮を出てから、養父であるデルクが経営している道場に寄った。

 レイフォンがそっと道場に足を踏み入れると、道場の中心に人影があった。

 デルクが復元済みの刀を握り、様々な型を繰り出している。

 レイフォンがゆっくりとデルクに近づくと、デルクの動きが止まった。

 デルクが額の汗を手の甲で拭い、レイフォンに向き直る。

 

「……養父さん」

 

「お前か」

 

 デルクは刀を上段に構え、そのまま素振りを始めた。

 レイフォンは横にどく。

 

「リーリンのことは聞いた」

 

 素振りをしながら、デルクが言った。レイフォンは顔を伏せる。

 

「陛下が、リーリンはグレンダンに戻る気はないかもしれないって、言ってた」

 

「……そうか」

 

「養父さん、もう昔みたいには戻れないのかな?」

 

「昔というのは、いつのことだ?」

 

「え?」

 

「お前が天剣授受者になる前か? それともお前が闇試合に出ていた時か? あるいはお前がツェルニに入学した時か?」

 

「それは……」

 

「レイフォン、よく聞け。時間はただ流れるだけで、戻りはしない。今ある現状を、まずは受け入れろ。そこから自分の望む未来を手にするためにはどうすればいいか、考えるのだ」

 

「それが分からないんだ。どうすればリーリンは戻ってきてくれるんだろう? 明日、ルシフに勝てば戻ってくるのかな? それともルシフの方に協力すれば、いつか気が変わってグレンダンに帰る気になるのかな? 考えても考えても答えが出ないんだ」

 

「それはお前一人でどうにかできる問題ではないから、答えが出ないのだ」

 

「養父さんは、何のために闘うの?」

 

 デルクの素振りする腕が止まった。

 レイフォンの方に顔を向ける。

 

「私はリーリンの意思を尊重しようと思っている。リーリンはもう、子どもではない。おそらくグレンダンに戻らないという選択も、血を吐くような苦痛の中で選んだのだろう。あの子なりに考えて選んだ選択だ。育て親の私が味方にならないで誰が味方になる?」

 

「リーリンの……意思?」

 

「私にできることはリーリンを信じ、もしリーリンが戻って来たくなった時のために、その居場所を守ることだ。グレンダンのためでもあるが、リーリンの居場所を守るために、私は闘う」

 

 デルクの表情は決意に満ちていた。

 レイフォンは直視できず、視線を逸らした。

 

「ところで、ルシフという男はお前にとってどういう男だ? ツェルニで一緒にいたのだろう?」

 

「ルシフ? あいつは僕にとって……」

 

 なんなのだろう?

 友だちではない。というよりルシフに友だちはいないだろう。自分と対等な相手など、ルシフはいないと信じている。

 ならば、赤の他人か? そうでもない。全く意識していないわけでなく、むしろ常に意識している。

 友だちでも無ければ、興味が無いわけでもない。ルシフには憧れのようなものを感じている。周囲に流されず自分を持ち続けられるのは、素直に尊敬していた。それと同時に、こんな男にはなりたくないと嫌悪している部分もあった。

 自分にとってルシフとはどんな存在か? 答えは出ない。そもそもルシフがどういう人間なのかもはっきりとは掴めていないのだ。

 

「こんなことを言うとお前は驚くかもしれないが、リーリンが付いていきたいと思った男だ。悪い男ではない気がする」

 

「それは……知ってる」

 

 そう。それだけは知っている。ルシフは危ない男だが、悪い男ではないのだ。ただやり方が外道で苛烈すぎる。そして悪い男ではないからこそ感情が暴走し、マイアスの時のような悲劇を生み出す。

 ルシフは目的のためなら、勝つためならどんな手段も使う。その結果、グレンダンで大勢の犠牲者が出るかもしれない。最悪、グレンダンが消滅する可能性もある。

 そうはさせないために、自分がルシフを倒そう。そう思ってグレンダンに来たはずだった。

 レイフォンはデルクに軽く頭を下げ、道場から出ていった。

 

 

 

 孤児院にレイフォンが帰ると、ニーナが来ていた。護衛なのか従者なのかよく分からない武芸者二人が、ニーナから少し離れた場所に立っている。

 もうすっかり夜になっていて、孤児院の子どもたちは寝てしまっていた。

 大広間にはニーナ、シャーニッド、ハーレイ、フェリがいる。レイフォンと端の方に立っている武芸者二人を合わせれば七人。

 

「すまないな。孤児院に行きたいと言ったら、同行すると言って譲らないので一緒に来てしまった。一人で迷惑をかけずにしたかったのだが」

 

 レイフォンはチラリと武芸者二人を見ると、二人は申し訳無さそうにしていた。彼らも任務だから、彼らを責めるわけにもいかない。

 

「そんなことはどうでもいいだろ。ようやくニーナとこうしてゆっくり話せる時間が取れたんだ」

 

「シャーニッド、お前は明日のルシフとの決戦、どう思う?」

 

「お前はどう思ってんだよ。明日、ルシフと闘うつもりなんだろ?」

 

「ああ、確かにそうだが……」

 

 ニーナが武芸者二人を一瞥した。それだけで、ニーナが言いたい言葉は分かる。明日自由に闘うことを許可してもらえるかどうか、ニーナは不安なのだろう。

 

「俺はな、ルシフのやろうとしていることは正しいと思うぜ。けどなあ、それを他人に強要すんのはどうよ? ルシフのやり方が気に入らねえんだよな。目的は正しいかもしんねえが、手段が許せねえ」

 

 その場のツェルニ組の面々はシャーニッドに同意するように頷く。

 ここにいる全員がそう思っている。ルシフのやろうとしていることは正しいが、やり方が間違っていると。

 しかし、ならば一つ一つの都市に同意を得ていくやり方が正しいのだろうか。やり方としては正しいかもしれない。だが、実現するまでに一体どれだけの時間と手間がかかるのだろう。どれだけ話し合って協力を求めても、都市を渡すなどという選択は難しいはずだ。

 そう考えれば、ルシフのやり方は外道で卑劣だが、最適解であるのは間違いない。時間も手間も最小限で済む。

 

「わたしはルシフに勝ちたい。勝って、ルシフの傲慢な性格を矯正したい。だが、色々不安もある。女王陛下が初めてツェルニでルシフと闘った日を覚えているか?」

 

 その日はルシフがアルシェイラにボロ負けし、病院送りにされた日だ。

 

「あの時、ルシフは闘えるような状態ではなかったにも関わらず、女王陛下に立ち向かっていった。おそらくわたしたちが間に入らなければ、死ぬか意識を失うまで闘い続けただろう」

 

「ああ、なるほど。ニーナはルシフが死ぬまで闘い続けるんじゃないかと不安なんだね」

 

「それだけじゃないんだ、ハーレイ。グレンダンに来たフェイルスさんが命を落とした。それは様々な要因が重なりあった不幸な事故のようなものだったかもしれないが、その事故が明日の決戦でも起きるかもしれない」

 

 女王の息がかかった武芸者二人がいる手前、ニーナは回りくどい言い方をしたが、言いたいことは全員に伝わった。殺す気は無くても、何かの拍子で殺してしまうようなことが起きるかもしれない。ニーナはそう表面上は言ったのだ。

 ニーナの本音としては、ルシフ側の命などグレンダン側はなんとも思っていないかもしれない、というところだろう。

 

「でも、今さら他の選択肢があるわけでもない。わたしはグレンダンを信じてルシフと闘うしか、道はない。きっと明日の決戦が終わった後は互いの手を取り合い、協力して世界をより良くしていけると、わたしは信じる」

 

「ニーナ、お前は隊長だ。お前が信じるというなら、隊員の俺らが信じねえわけにはいかねえよな」

 

 シャーニッドはその場を見渡す。ハーレイとレイフォンは頷いた。レイフォンとて、明日ルシフに勝ってルシフの性格が丸くなるというなら、それに越したことはない。

 フェリだけは頷かず、無表情で座っていた。

 ニーナは目を大きく見開き、顔を俯ける。

 

「ありがとう、お前たち」

 

 透明な滴が頬を伝い、ニーナの戦闘衣に吸い込まれていった。

 

 

 

 それからニーナとしばらく話すと、ニーナは王宮に戻っていった。

 レイフォンはベランダでなんとなく空を見上げている。今日は汚染物質の濃度が高い場所を都市が移動しているらしく、星も月も見えない。

 レイフォンの背後のベランダの扉が音を立てて開かれ、足音が聞こえた。

 足音の主は扉を閉めると、レイフォンの隣に来てレイフォンと同じように空を見上げた。レイフォンは隣を見る。フェリだった。

 

「どうされたのです?」

 

「……星を見ていました」

 

「星? わたしの目には真っ暗な空しか見えませんが。そうですか、レイフォン。あなたはとうとう頭だけでなく、目も悪くしてしまったのですね。これはいけません。すぐに眼科に行きましょう」

 

「だ、大丈夫です。今のはちょっとした冗談で……」

 

「知ってます」

 

「はぁ」

 

 なんなんだ一体、という思いを込めて、レイフォンは力のない返事をした。

 

「悩み事ですか?」

 

「まあ、多分そうなんですかね?」

 

「なんですかその歯切れの悪さは」

 

「悩みっていう割には、もうどうするかは決めちゃってるんです。でも、なんでそうするのか、そうしたいのかが分からないって感じで……」

 

「……一つ、お聞きしたいことがあるのですが」

 

「なんです?」

 

「あなたはリーリンさんをどう思っているのですか? 異性として」

 

「え、ええ!?」

 

「彼女にしたいですか? 結婚したいですか? 友だちのような関係を望んでいますか? それとも家族として大切ですか?」

 

「え、えーっと……」

 

 リーリンを彼女にしたい? 考えたこともないし、ましてや結婚なんて意識すらしたことはなかった。

 考えてみれば、自分はリーリンを異性として見ていないのではないのだろうか。リーリンは自分にとって姉のような存在に近いのかもしれない。

 

「多分、異性として見たことはないです、リーリンを」

 

「……そうですか」

 

 フェリがホッとしたような表情を一瞬だけ見せたような気がした。

 

「フェリは明日、何のために闘います?」

 

「グレンダンに来る時に言いました。マイさんに勝ちたいと。それからあなたの力になる、とも」

 

「あ……」

 

「明日、あなたは闘うのでしょう? なら、わたしはあなたのサポートを全力でします。ご心配なく。元々天才であるわたしが、デルボネさんに師事して更に才能に磨きをかけたのです。マイさんや他の念威操者なんて圧倒しますよ」

 

 思えば、ツェルニに入学してから今日まで、闘う時はいつもフェリが力になってくれた。フェリがいてくれたから、自分は今まで闘ってこられたんじゃないのか。

 フェリがレイフォンの方を見ていた。フェリの顔が輝いて見える。

 込み上げてくる想いが、言葉がある。しかし、言葉は形になる前に霧散した。この想いを表現する言葉はなんなのだろう。

 

「……レイフォン。あなたは、わたしをどう思っていますか?」

 

 フェリがまっすぐレイフォンの目を見ている。

 表現できないと一度は諦めた想いが、言葉として可視化されていく。

 この想いはなんなのか、今なら口にできる。口を開いた。フェリの人差し指が、レイフォンの口に押しつけられる。しーっていう意味のサイン。レイフォンは思わず口を閉じた。

 

「やっぱり、今は聞きたくありません」

 

 フェリの指が口から離れた。

 フェリがベランダの扉に向かって歩き出す。扉の前で振り返った。

 

「明日の闘いが終わった後、今の答えを聞かせてください。ずっと、待っていますから」

 

 フェリがベランダの扉を開き、出ていった。

 何のために自分は闘うのか。グレンダンを、フェリを、リーリンの居場所を守るために、明日は闘おう。フェリが自分の力になると言ってくれた。それだけで、自分はどんな相手とも闘える気がした。



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第91話 決戦前夜(ルシフサイド)

 カリアンは執務机を前にした椅子に座り、窓の外を眺めていた。

 今カリアンがいる部屋は都市長室。ルシフに支配される前のツェルニは生徒会長室がその役目を果たしていたが、今は部屋の一つを都市長室にしたのだ。これは生徒会長が都市長も兼任しなくなったためである。ルシフの政策により、どの学園都市も教員が常在することになった。

 これは学生が教員も兼任すると学生によって提供する講義の質がバラけてしまうからであり、安定した講義の質を提供するためである。

 以前は学生だけで学園都市を運営していて、そこに何も疑問は無かったが、いざ教員を入れて学園都市を運営すると、運営が円滑に進んだ。講義のスケジュールも立てやすいし、純粋に学力の向上に集中できる。

 ルシフのやっていることは、間違っていない。時が経てば経つほど、余計なものは排除され、不足なものは追加され、無駄なものは削ぎ落とされていくだろう。現に学園都市連盟といった独立勢力は全て解体されている。

 都市長室の扉がノックされた。

 

「どうぞ」

 

 扉が開かれ、ヴァンゼが入ってくる。

 

「お前に言われた通り、指示は出しておいた。放浪バスの移動禁止。明日一日はツェルニから移動しないよう呼びかけもやった」

 

「ありがとう」

 

 明日グレンダンと戦闘があるため、他都市への移動は禁止するという指示が剣狼隊の念威操者からきた。ヨルテムだけは主戦場になる可能性があるので、非戦闘員のシェルターへの避難の指示が追加されている。ヨルテム以外の都市は別に避難指示は受けていない。

 

「いよいよ明日、か」

 

「ああ」

 

「ルシフが勝つか、グレンダンが勝つか、お前はどっちだと思う?」

 

「さぁ、私は戦闘は専門外だから分からないよ」

 

「俺は戦闘が専門だが、俺にも分からん。十中八九ルシフが勝つと思うが、グレンダンも最強の都市。ルシフに勝つ可能性はある」

 

「一つ、確かなことがあるよ」

 

「なんだ?」

 

「明日勝った方が世界の主導権を握るってことさ」

 

「違いない。ルシフは入学してきた時から他の連中とは決定的に違う異端の存在だったが、世界の在り方そのものさえ変貌させてしまうとは思いもしなかった。そして明日グレンダンを屈服させれば、世界の全てを手に入れる。ルシフの能力を考えればそれは喜ばしいことのはずなのに、俺は恐ろしいという感情が勝ってしまう」

 

「私もだよ」

 

 ヴァンゼは意外そうな表情になる。

 

「お前も? こう言ってはなんだが、お前はルシフと気が合っていると思っていたが」

 

「ルシフくんの政策に好感は覚えているよ。でも、本能的な恐怖というか、それはいつまでもぬぐえない」

 

 ヴァンゼが同意するように頷いた。

 ツェルニの学生はルシフに対し、あまり反感を感じていないようだった。ルシフの暴政は学園都市では鳴りを潜めていたからだ。せいぜい外縁部を潰して工業区、農業区を広げる都市開発くらいだろう。未だにルシフのファンクラブも残っている。もっともファンクラブ名は『ルシフ陛下をお慕いする会』に改名されているが。

 

「明日の戦闘で世界の行く末が決まるか」

 

「……ああ、そうだね」

 

 カリアンは再び窓の外を見た。星明かり一つない、真っ暗な夜空。まるで自分の心のようだ、とカリアンは思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 

 ベランダに座り、真っ暗な夜空を眺めていた。

 本当は立って夜空を眺めていたかったが、誰かに姿を見られるのはルシフの温情を無駄にする結果に繋がりかねない。表向きはルシフの毒殺を企んだとして、重い罰を侍女だった九人全員が受けていることになっているからだ。

 

「シェーン、ここにおったか」

 

「旦那さま」

 

 ベデがベランダに入ってきて、シェーンの隣に腰かけた。

 

「ルシフさまのことを考えておったのか?」

 

「はい」

 

「明日、世界が完全に生まれ変わる。そんな気がしておる」

 

「わたしもです」

 

「ルシフさまは千年に一人の天才だと思っているが、早く生まれすぎたな。誰も付いていけぬ」

 

「……そうでしょうか? わたしは短い間でしたが、ずっと陛下の近くにいました。あの方は傲慢で他の方の意見は聞かず、他人を無視して強引に政策を進めます。そういった部分を見て、『ルシフは他人の気持ちが分からない自己中心的な人間で、上に立つ人間として失格だ』と言う民も大勢おります。ですが、あの方は他の方が思うより無神経でもなければ、鈍感でもありません。むしろ敏感すぎるくらいだと思います。あの方は誰よりも強いように見えて、時おり弱さと脆さが顔を出すのです。もちろん民衆の前に出る時は欠片もそのような部分は見せませぬが、自室におられる時は他の方と同じ精神を持つ人間なんだと感じる時がありました」

 

「だから愛せたか」

 

「はい」

 

 そういった人間味のような部分があったからこそ、どんどんルシフという人間に惹き込まれていき、この方の子どもが欲しいと思うところまで愛することができた。

 

「ルシフさまやグレンダンの女王には境界線がある。ルシフさまはグレンダンの女王の境界の中で生きたくないと思われておるだろうし、逆もまた然り。しかし、商人である我らに境界線は存在せん。世界がどちらの境界になろうが、商品を売って生き延びられる。じゃが……」

 

 ベデは隣に座るシェーンの頭を撫でる。

 

「ルシフさまの境界になってほしいのう。お前のためでもあるが、ルシフさまの引き起こす予想できぬ流れを必死に読み、商品を売るあの感じは商人魂を刺激されて楽しいものがある。ルシフさまの世なら、わしは十年若返りそうじゃ」

 

「……妊娠検査薬を使いました。その結果によると、わたしは妊娠しているようです」

 

 シェーンは真っ暗な夜空を眺めたままだった。

 

「もし子どもが産まれたら、一目でも陛下にお見せしたいと思います。陛下のお子ではありませぬが」

 

 実際はルシフとの間にできた子だが、父親をルシフだと公言しないという条件で子を宿した。その条件はずっと守ろうと思っている。

 ベデは夜空を眺め続けるシェーンを見た。はっとするような美しさを滲ませていた。以前は無かった色気が全身から醸し出されている。

 ルシフと過ごし、人間として、女として深くなった。

 

「お前をルシフさまのところにやって、心から良かったと思っておる」

 

 シェーンはベデの方を向き、目を潤ませつつ微笑んだ。言葉では再会を願いつつも、ルシフにはもう会えないときっと確信しているのだろう。何故なら、ルシフ自身がシェーンを手放したのだから。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 王宮の大広間は今、お祭り騒ぎになっていた。決戦の前夜祭と王宮の引っ越し祝いをしているのだ。

 大広間にいるのはルシフ、マイ、ゼクレティア、リーリン、剣狼隊全員である。今夜に限り、剣狼隊は巡回任務や訓練を部下の武芸者に任せ、この大広間に集まっていた。総勢二百四十三名。都市を要領よく奪うために内通者をやらせていた元剣狼隊全員を剣狼隊に戻したら、それだけの人数になっていた。

 大広間は豪華に飾り立てられている。絵画、彫刻などといった高額な美術品。無論家具やテーブル、椅子、テーブルクロス、カーテン……そういった調度品も最高級の贅を尽くした限りの品になっている。もちろん大広間だけでなく、全ての部屋、廊下、中庭、広場、正面玄関、裏門から城壁のブロックまで、安い物は何一つ置かれていない。全てグレンダン以外の全都市から集まった税収でやったことだ。ルシフ個人の金は一切使われていない。

 これだけ聞くととんでもない暴君だろう。さらにルシフは、政務は剣狼隊に任せっきりで一日中美女と遊んでいるという噂も絶えなかったし、ルシフ自身基本書斎に一日中こもっていたため、その噂の信憑性は高かった。

 ルシフにも言い分はある。まず税収で贅の限りを尽くしたことだが、そうすることで巻き上げた税金を民衆に返したのだ。高級品を扱う商人たちに金がいき渡り、その商人たちがその金で物を買う。その連鎖が次々に起こり、結果として税収は民衆に分配される。これは王宮の建築費や都市開発の費用にも同じことが言える。そもそも税金は民のために集めるものであるから、民のために使用するのが当たり前。だからと言って、税金は集めただけ使い続けるというのも間違っている。公共施設の補修、道路の舗装や制度のために必要な資金等、貯めなければならない税金もある。しかしそれも最終的には民衆に還元される金。一番やってはいけないのは、税金を懐に入れて私腹を肥やし、あまつさえそれを後生大事に貯金することである。それでは市場に金が回らない。その影響で巻き上げた税金が民衆に還元されず、民衆が金を出し惜しみするようになれば、更に経済は悪化する。

 そういった事情があるが、表面上を見れば、ルシフは最低最悪の暴君であり、自分だけが美味い汁をすすっているように感じるのは普通の感覚。そして、ルシフも高級品を周りに置いて気分良く生活しているのは事実なのだ。非難されても当然だろう。

 次に一日中書斎にこもっていたことだが、各都市の様々な法制度や慣習の破壊、新たな法制度の整備、各都市の技術水準、施設、住民情報の調査、それに基づく人の配置、新たな税制の構築、各都市の都市開発における設計等……やるべきことがありすぎて、ルシフの能力をもってしても一日中政務に忙殺されざるをえなかったのだ。だが表向きは自堕落に過ごしているという噂を流させているから、民衆はその噂をそのまま信じた。民衆には支配者の苦労など理解できないし、どうでもいい。支配者はただのクズだと思っている方が楽だし、そっちの方が話の種にもなる。

 大広間にいくつもの大きな円形のテーブルが設置され、テーブルの上には豪華な料理が所狭しと並べられていた。それを囲むように置かれている椅子に面々は腰かけている。

 このお祝いパーティーはルシフに近しい者しか参加を許されなかったため、料理を作ったのも剣狼隊の女たちだった。

 ルシフが大広間の一番奥の場所に立つ。他は全員椅子に座り、ルシフの方に顔を向けた。

 

「この場にいるほぼ全員が知っているだろうが、六、七年前には世界がこういう形となり、グレンダンと最終決戦をすると予期していた。実際俺はそう言って、諸君らに任務を与えた。諸君らは半信半疑だったがな」

 

 大広間が笑い声に包まれた。そういう時もあったな、という過去を懐かしむような笑い声である。

 

「実は六歳の頃から、俺はこの日が来ることが分かっていた。今から約十年前にはこの日を夢見て、どう闘おうか考えたものだ。明日、今までの世界は終わりを告げる。今までの世界とは何か。汚染獣という脅威からは逃げ回り、限られた人類の生存環境であるレギオスを都市間戦争などというもので滅ぼし合い、自都市以外の都市には無関心な世界である。武芸者は都市の守護者とどの都市も教えてきた。自都市を守るためならば、他都市を滅ぼしてもいいと。そんな時代からはそろそろ決別しなければならない。汚染獣の脅威からは逃げずに立ち向かい、セルニウム鉱山をどのレギオスも確保できるよう協力し合い、他都市にも関心を持つ時代へと人類は行かなければならない。

明日、グレンダンが一騎打ちを申し込んでこなかった場合、総力戦となるだろう。諸君らにも力を尽くしてもらうことになる。ならば明日の決戦のため、今夜は思う存分楽しもうではないか!」

 

 ルシフがコップを掲げた。他の者も椅子に座りながら、テーブルのコップを手に取り掲げる。

 

「乾杯!」

 

「かんぱーい!」

 

 周囲の者とコップを打ち鳴らし、コップに入った飲み物を飲み干した。成年は酒だが、未成年はジュースだったりお茶だったりする。

 サナックとオリバが飲み干したコップに酒を注ぎ合った。彼らの隊員たちも同じようにしていた。

 

「ここまで長かったような、短かったような、不思議な気分だ。老い先短い命で、まさかこんな日を迎えられるとは思わなかった」

 

 サナックがスケッチブックにペンを走らせ、オリバに見せる。『俺もです』と書かれていた。

 

「僕もっすよ、オリバさん」

「辛く苦しい日々でしたけど、報われたって感じがしますね。まだ最後の仕上げが残ってるのに気が早いかもしれませんけど」

 

 一緒に飲んでいる隊員たちもそう言い、その通りだと言わんばかりに他の隊員も頷いていた。

 

「可能性を潰す闘いから、可能性を育てる闘いになった。ここにいる者、みなわしより年下じゃ。いや、剣狼隊全体を見てもわしが最年長者。だから、お前たちを命懸けて必ず守る。それが年長者であるわしの務めじゃ」

 

 サナックと隊員たちは目を丸くしたが、すぐに笑みに変わった。

 サナックがスケッチブックにペンを走らせた。『年長者を労るのは年下の務めです。俺があなたを守りますよ』と書かれている。

 隊員たちは書かれた文字を読み、嬉しそうに頷いた。

 

「まったく。わしを年寄り扱いするでないわ。まだまだ現役じゃぞ」

 

 オリバの言葉を聞き、周囲の者たちは笑い声をあげた。

 

 

 プエルはコップを両手で持ち、ジュースをちびちびと飲んでいた。

 さっきから一緒に飲もうと誘ってくる男隊員が何人もいたが、プエルはすべて断り最初のテーブルに座ったまま動かなかった。プエルの周囲にも隊員たちはいるが、プエルの両隣の席は空いている。

 何故か今のプエルには近寄り難い雰囲気が滲み出ていた。

 プエルの眼前に横からコップが突き出される。プエルはびっくりして頭を少し引いた。

 

「隣、いいですか?」

 

 プエルはコップを突き出してきた相手を見る。肩で切り揃えた黒髪と黒の瞳の女性。ヴィーネだった。

 

「……ヴィーちゃ、いや、ええと、ヴィーネさん」

 

「ヴィーちゃんでいいですよ」

 

「えっ、いいの?」

 

 ヴィーネは無表情で頷いた。ヴィーネは念威操者のため、表情の変化が乏しい。

 ヴィーネがプエルの隣にコップを持って座る。

 

「……何か嫌なことでも?」

 

「え?」

 

「さっきから心ここにあらず、って感じでしたよ」

 

「……ねえ、ヴィーちゃん。明日の夜も、誰一人欠けずにみんなでこうやって騒いで、笑って、楽しく過ごすことができるのかな? 明日の相手は最強の都市、グレンダン。ルっちゃんも手強いって分かってるから、最後の相手に回しただろうし。あたしもルっちゃんがグレンダンの相手を容赦なく倒してる映像観たけど、映像の印象ほど戦力差があるわけじゃないと思う」

 

「プエルさん……」

 

「不安なんだ。ヴォルちゃんが病気で死んじゃって、フェイちゃんはグレンダンの人に殺されちゃった。剣狼隊の人間が立て続けに二人も死んじゃったんだよ。今までこんなことなかった。なんていうか、今まで順調だった流れが悪い流れになってきてるって感じるんだ。明日の決戦、誰も死なないって信じてるんだけど、ヴォルちゃんとフェイちゃんの死に顔が頭をよぎって……」

 

 プエルが辛そうに顔を俯けている。

 プエルの肩をヴィーネがぽんぽんと叩いた。

 

「大丈夫ですよ、プエルさん。剣狼隊に所属している武芸者はみんな超一流です。わたしたち念威操者も全力で皆さんのサポートをします。勝てます、今まで通り。ルシフさんを信じて、明日頑張りましょう」

 

「うん……! ありがと、ヴィーちゃん!」

 

 プエルはヴィーネの方を向き、弾けるような笑みを浮かべた。

 

 

 アストリット、バーティン、フォル、ゼクレティアが同じテーブルを囲んでいた。

 

「明日、ルシフさまの理想が実現するんですわよね。くぅ~、今から気合い入りますわー!」

 

「落ち着け。RE作戦……世界をリセットする作業が終わるだけだ。明日の決戦が終われば、プラスにしていく作業をやらねばならん」

 

「それでも一区切りつくのは確かでしょう? 嫌ですわね、こういう水差し女は」

 

「ルシフちゃんにとってはな、明日は通過点に過ぎないんだ。ルシフちゃんの理想が実現するのはまだまだずっと先の話だと何故分からない?」

 

「そんなこと分かってますわよ! もう、ホントに空気読めない方ですわね! 明日でルシフさまの重荷が下ろせる、ルシフさまが楽になると思った方がモチベーションが上がるでしょう?」

 

「む、それは……そう、だが」

 

 アストリットが勝ち誇った表情になる。

 

「そうでしょう? 次からはそういうところもしっかりお考えになってから発言してくださいませ」

 

「めっちゃ殴りたくなる顔してるな」

 

 アストリットの顔がさっと青ざめた。

 

「な、ぼ……暴力反対!」

 

 二人のやり取りを見ていたフォルがため息をつく。

 

「アストリットは相変わらずよね。殴られるのが嫌なら煽らなければいいだけの話なのに」

 

「煽ってなんかいません! 私はただ思ったことを口にしてるだけですわ! ていうか、あなたのようなドMを小隊長と私は認めてませんから!」

 

「ドMじゃない」

 

「命令されて悦ぶ変態じゃありませんか」

 

「命令されて悦ぶ変態だけど、ドMではない。それは虎をネコと言ってるようなもの」

 

「虎もネコ科なんですけど……」

 

 ゼクレティアが口を挟んだ。

 フォルはゼクレティアを睨む。

 ゼクレティアは慌てて顔を伏せた。

 

「冷静に考えたら、あなたにドMと思われようがどうでもよかったわ」

 

「フォルさん、ここで犬の真似してみてください。三回回ってワン! ってやつですわ」

 

「殺すぞ」

 

 フォルから尋常ではない殺気が放たれた。

 アストリットの顔が青ざめる。

 

「ぼ、暴力反対! ていうか、命令されたら悦ぶんじゃなかったんですの!?」

 

「ルシフの命令ならやったけど、あなたの命令じゃ従う価値もない。そこに愛がないもの。それにわたし、あなたのこと嫌いだし」

 

「というか、アストリットを好きな奴なんて極少数だがな」

 

「私はルシフさまのお力にさえなれれば、それで満足です。嫌われ者でも構いませんわ」

 

「……まあ、誰からも助けられないのも哀れだから、私くらいはお前を助けてやろう。大切な同志の一人には変わりないしな。泣いて喜べ」

 

「わたしも助けてあげる、大嫌いだけど」

 

「わー、二人にそう言ってもらえてとても嬉しいですわー。いつか地獄までの駄賃を渡してやるから覚悟しとけよ。明日だけはお前らを援護してやる」

 

「わたしは一生懸命応援しますね!」

 

 ゼクレティアが胸の前でぐっと拳を握ってみせた。

 三人は互いに目を見合わせ、呆れたように同時にため息をついた。

 

「……実は私、ルシフさまの理想を実現する、ルシフさまと結婚する、以外にもう一つ、夢がありますの」

 

「お前の夢など、どうせ誰からも共感されんしょうもなくてくだらん夢だろうが、話のタネくらいにはなるだろう。言ってみろ」

 

「ルシフさまに可愛い女物の服を着せてみたいですわ」

 

「分かる」

「分かる」

「分かります」

 

 バーティン、フォル、ゼクレティアが頷く。

 この流れならもっと踏み込んだことも言えるのでは? とアストリットは思った。

 

「正確に言いますと、可愛い女物の服を着て屈辱と羞恥にまみれているルシフさまのお姿が見たいのです」

 

「分かる」

「分かる」

「分かります」

 

 バーティン、フォル、ゼクレティアが頷く。

 

「私も就寝前と起床後に一回ずつ、可愛いワンピースを着て真っ赤な顔で『お姉ちゃん』と言ってくるルシフちゃんを妄想することが、最近のルーティンになっているぞ」

 

「妄想のマンネリ化を防ぐために、妄想の中でたまにルシフにボンテージ服着せてる」

 

「わ、わたしはえーと……特に具体的な妄想はしたことないですね」

 

 これはいわゆるギャップ萌えである。女装させるというのはあくまで普段と全く違うルシフを引き出すためのツールの一つにすぎない。

 

「アストリット、お前の夢は極めて建設的で魅力に溢れている。溢れている、が! その夢を叶えるためには命を懸ける覚悟が必要になる!」

 

「命を懸ける覚悟……?」

 

 アストリットがごくりと唾を飲み込んだ。

 

「もし可愛い女物の服を持って、ルシフちゃんに『これを着てください!』などと言ってみろ。どうなると思う?」

 

「ど、どうなるんですの?」

 

「きっとこうなる。ルシフちゃんが薄ら笑いになり、『ほう、そうか。お前らの眼にはこの俺が女に見えるか。その腐りきった両眼を抉り取ってやろう。ありがたく思え』というような意味合いの言葉を言うだろう」

 

 バーティンの言葉を聞いた三人は顔を青ざめた。バーティンも身体を震わしている。

 

「いいか? 世の中には触れてはいけないものがあるんだ。あのお顔立ちならとてつもない美少女が生まれるだろう。しかし、極めて残念なことではあるが、涙を呑んでその夢は妄想で終わらせておくべきだ」

 

「はい、分かりましたわ!」

 

 アストリットがバーティンに向かって敬礼した。バーティンはうんうんと頷く。

 ちなみに彼女ら四人は小声で話していたわけでなく通常の声量だったため、周囲の隊員たちにも話の内容は聞こえていた。聞こえていた隊員たちは四人から身体ごと逸らしながら、聞こえていない振りをして酒や料理を楽しんでいた。彼女ら四人にとって幸運だったのは、ルシフの耳には届かなかったことだろう。もし届いていたら、大惨事になっていた。

 

「それにしても、咄嗟にあれだけのことを考えるなんてやるわね」

 

 アストリットが席を立ってルシフの方に近づいていったのを見計らい、フォルはバーティンに耳打ちした。

 

「どういう意味だ?」

 

「アストリットのアホみたいな話を盛り上げるために合わせてあげたんでしょ? 作り話までして」

 

 バーティンの頬を汗の玉が一筋流れていく。

 

「も、もちろんだぞ! 私があんなことを毎日考えてるわけないからな!」

 

「バーティン。あんたまさか……」

 

 フォルも薄々嫌な予感はしていた。ルシフにボンテージ服を着せていると言ってツッコミが入らなかった時から。

 

「ちょっと飲み物を取ってくる。別に今の話との関連性はなく、ただなんとなく喉が渇いたから取りにいくだけだからな!」

 

「う、うん。行ってらっしゃい」

 

 バーティンが慌てて席から立ち、飲み物が置いてある方に行った。

 フォルはチラリとゼクレティアを見る。

 

「わ、わたしも話を合わせていただけで……」

 

 真っ赤な顔でモジモジしているゼクレティア。

 

「ルシフに近付く女は変態しかいないみたいね」

 

 フォルは深くため息をついた。

 

 

 

 宴も終盤に差し掛かった頃、大広間の中央に隊員の何人かが巨大な水差しを置いた。

 水差しを用意した隊員はそのままルシフのところに近付いてくる。

 

「話は聞いたぞ、ルシフ。イアハイムの王になった時、その時いた剣狼隊全員の血を混ぜた水を飲んだらしいじゃないか」

 

「ああ」

 

 ルシフが口の中のものを飲みこみ、そう言った。ルシフは椅子に座り、のんびりと食事を続けていた。

 

「なら、気持ち悪い話かもしれないが、俺たちの血も飲んでくれないか? 出張組は仲間外れじゃ、なんか嫌だぜ」

 

 ルシフは近くにいる隊員たちを見渡した。確かにどの顔も、他都市への潜入任務でイアハイムにいなかった者ばかりだ。

 

「別に構わんぞ。俺も剣狼隊内で差別などしたくないからな」

 

 隊員たちの顔がぱっと明るくなり、水差しの周りに次々に集まってくる。潜入任務でいなかった元剣狼隊の隊員数は百四十五名。その内の一人が錬金鋼を復元し、両刃の剣が水差しの真上で握られる。剣先は下。別の隊員が水差しの上蓋を外した。隊員たちは剣身を次々に握る。両刃の剣なので、握れば手が切れる。流れた血は上から剣身と手を順番に伝って垂れ、最終的には剣身を握った全ての者の血が混ざり合って水差しに入った。それを人を入れ替えて何度も繰り返していく。それは出張組だけでなく、イアハイムに残っていた隊員全員も加わり、結局マイ以外の全隊員の血が水差しに入った。最後にルシフが真っ赤になっている剣身を握り、剄を抑えて手を切った。ルシフの血が剣身を流れ、赤い水玉となって水差しに落ちる。

 その後蓋を閉め、巨大な水差しごと回して血と水をよく混ぜた。

 混ぜ終わると、下部についている蛇口をひねって一人一人コップに血水を入れていった。二百四十三人分の血が混じった血水である。

 ルシフはそれをなんともないような感じで普通に飲んだ。その姿を見た隊員たちも覚悟を決め、一気に飲み干した。

 飲んだ後はお互いの手を取ったり、肩を組んで笑い合った。

 

 

 血水を飲んだ後、レオナルト、ハルス、エリゴは再び椅子に座り、飲み直していた。

 

「明日勝てば、この世界から都市間戦争が無くなって、俺たち武芸者は胸を張って都市の守護者だと言えるようになるんだな」

 

「そうだぜ。やっぱ兄貴はすげえ! そんな夢物語の実現がもうすぐそこなんだからよ!」

 

「そうだよな。大将はすげえよ。俺みたいなバカには逆立ちしたって思いつかねえことを、小さい子どもの頃に思いついて、実現できる計画を立てたんだもんな」

 

「ああ! 兄貴に付いていけば最強の都市だろうが問題ねえ! なんたってあの天才の兄貴が六年は下準備をして実行した計画だからな!」

 

「なあ、お前ら。お前らの信念ってなんだ?」

 

 酒瓶に口をつけてらっぱ飲みしていたエリゴが口を挟んだ。

 

「んなもん決まってんぜ! 兄貴と共に都市間戦争も汚染獣の脅威もない世界を実現するんだ!」

 

「俺も同じさ。大将や剣狼隊の仲間と共に都市の守護者だって武芸者が胸張れる世界を創る。人間同士で争わない世界にする」

 

 レオナルトとハルスは目を見合せ、目を丸くしながらも答えた。

 二人の顔が眩しいものであるかのように、エリゴは目を細めて見た。

 エリゴは顔を僅かに俯ける。両目から涙が溢れてきていた。

 

「……ああ、そうだよな。俺も、そうだったよ」

 

「おいおい、いきなり何泣いてんだよ」

 

「泣いてねえ!」

 

「いやいや、泣いてるって。俺でも分かるぜ」

 

「これは酒が目に入っただけに決まってんだろ!」

 

「いやいやいや、だってエリゴさんらっぱ飲みして──」

 

「酒が目に入ったって言ったら入ってんだよ! いいな!?」

 

 エリゴは涙を流しながら、酒瓶に直接口をつけて一気飲みしている。

 レオナルトとハルスは苦笑して、そんなエリゴに付き合うようにコップに入った酒を飲み始めた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 前夜祭が終わり、ルシフは書斎で残っている書類を片付けていた。

 扉をノックする音が響く。

 

「リーリンだけど、今大丈夫?」

 

 扉を少しだけ開いて、リーリンがそう言った。完全防音のため、そうしないと書斎に声が届かないのだ。

 

「ああ、入れ」

 

 リーリンは扉を半分まで開き、書斎に入った。書斎の扉を閉める。実はこの時、リーリンのポーチの隙間に六角形の念威端子が音も無く滑り込んだのだが、リーリンはもちろんルシフも気付かなかった。閉められた書斎の扉を廊下の陰から無表情で見ているマイの存在も、当然リーリンは分からなかった。

 リーリンは数分間、何も言わずに突っ立っていた。

 ルシフはリーリンを気にせず、書類を片付ける作業を続けていたが、やはり数分間も何も言わずに立っていられるのは気が散る。そのうえ、チラチラと物言いたげに視線を送ってくるから、鬱陶しくて仕方がない。

 

「何か言いたいことがあるならさっさと言え」

 

「……明日、グレンダンとの決戦に負けたら死ぬつもりでしょ?」

 

「何を当たり前のことを……。俺は下げる頭は持っているが、跪く膝は持ってないんだよ」

 

「……」

 

 リーリンが黙りこんだ。ルシフから目は逸らさない。

 

「そんなことを言うためにここに来たのか? 別に俺が死んだら死んだで、お前にとって都合が良いだろう? グレンダンが世界の主導権を握ることになるのだから」

 

「この……バカッ!」

 

 リーリンが拳を握りしめて、眉を吊り上げた。

 いきなりの剣幕に、さすがのルシフも一瞬驚いた。

 

「なんであなたはいつもそうなの!? 自分の命に無頓着で! あなたを嫌っている人は大勢いるけど、あなたを大切に想っている人もたくさんいるんだから!」

 

「……何をいきなり怒ってるんだ? 意味が分からん」

 

「分かってるんだよ、わたしは。明日のグレンダンの決戦、どちらが勝っても結果はある程度同じなんだって」

 

 書類を片付けていたルシフの手が止まった。

 

「何を言ってるか、俺にはさっぱりだ」

 

「明日の決戦はあなたにとっては消化試合だって言ってんのよ」

 

「…………」

 

「あなたがどれほどの天才だったとしても、確実にグレンダンに勝てるとは言い切れない。だから、負けても結果的に勝てるように手を打った。あなたが暴政をして民衆から意図的に恨まれるようにしたのも、グレンダンが力を付ける前に攻めず、グレンダン以外の全都市を破壊して安定させてから攻めたのも、全部負けた場合も考慮しての行動だったんでしょ?」

 

「……いつから気付いていた?」

 

「あなたの下で働きたいって言った時からかな」

 

 グレンダンの決戦前までに、ルシフは二つのシナリオを準備していた。グレンダンとの決戦に勝った場合と負けた場合のシナリオである。

 グレンダンの決戦に勝った場合、暴政から徐々に善政に切り換えていくことで、暴君から史上最高の名君へと成長していくように見せかけるシナリオ。

 逆にグレンダンに負けた場合、史上最低の暴王はグレンダンによって倒され、グレンダンを中心に人類が一つにまとまっていくシナリオ。

 どちらも結果としては全都市が一つにまとまる。ルシフを中心にするか、グレンダンを中心にするかの違いだけである。

 もしこれがルシフを主人公にした物語だったとしたら、とんでもない駄作だろう。世界の行く末を決める最終決戦で勝てるかどうかも分からない、物語としては一番盛り上がる場面である。それを「勝てるかどうか分からないから、負けても結果的に目的を達成できるようにした」というのは、物語としてはやってはいけないタブー。上等な料理にハチミツをブチまけるがごとき所業。もしこの物語に作者がいたら「空気読めや! 主人公のクズがこの野郎!」と叫んだだろう。というか、実際叫んだ。

 しかし、ルシフにとってこれは現実であり、物語として面白いかどうかなどどうでもいい。この計画は確実に完遂しなければならないのだ。そのためならば、打てる手はすべて打っておく。世界を創り直していく作業において、一番難しくて反感を買う旧世界をぶっ壊して安定させるという部分は暴政と絡めて終わらせておいた。グレンダンはただルシフの地位を乗っ取るだけである程度の統治はできるはずだ。

 

「明日の決戦はつまるところ、二つある玉座を一つにする作業。俺が勝てば、今の集権制のまま、全都市を統治していくことになる。グレンダンがもし勝ったなら、おそらく分権制での統治になるだろう」

 

 グレンダンが勝った場合、今までルシフが支配してきた都市は自治権を叫ぶだろう。だが、今の世界の形は崩したくないと考える筈だ。となれば、彼らにとって都合の良い部分は残し、都合の悪い部分をきっと戻そうとする。今の利便性と安全性を捨ててまで以前の世界に戻りたいと考えるほど、人類は愚かではないはずだ。

 

「よく気付いた、褒めてやる。俺の目的が全都市を統治して汚染獣の脅威や都市間戦争を無くすことだと思っていたら、絶対に辿り着けん答えだ」

 

 ルシフにとって、全都市を支配することはあくまで目的を達成するための手段の一つにすぎない。だが、誰もが全都市を支配することこそルシフの目的だと考えている。だからルシフの思考を読み切れないのだ。

 

「あなたはとてつもない天才だって、わたしは思う。でも、だったら! 負けた場合、死んだように見せかけて陰から政治を助けるという方法もきっと見つけられたはずでしょう!?」

 

「俺が賽を投げた。俺がやったことで一体どれだけの人間が死に、苦痛を味わったと思っている。誰かがこの戦いの責任を取らなければならない。俺が敗北した場合、俺が死なずして民衆が納得するとでも思ってるのか?」

 

「だから! 例えば、あなたに忠誠を誓っている剣狼隊の一人に身代わりになってもらったりすればいいじゃない? あなたの命を助けられるなら、剣狼隊の人たちだって──」

 

「黙れ」

 

 殺気の混じったルシフの言葉に、リーリンは思わず口を閉じた。

 ルシフはイラついた。リーリンの言葉にではなく、明日身代わりを立てて裏から世界を統治していくということを面白そうだと思った自分にイラついた。

 

「……なによ。今まで騙しに騙してきといて、自身の死だってやろうと思えばあなたなら欺けるでしょう! それをやらないのは、あなたがただきれいに死にたいだけじゃない! きれいに死ぬことなんか考えないで、泥臭くても最期まで生きてたくさんの人を助けることを考えなさいよ! それがあなたが壊してきたものへの本当の意味での償いになるはずよ!」

 

「……別にお前に言われることじゃない。だいたい、何をそんなに必死になってるんだ? 俺が死んでもお前にとっては大して変わらんだろう? グレンダンじゃ今の状態でも統治するのも四苦八苦するだろうから、その負担がお前にいくくらいか?」

 

「あなたが王とかそんなのは関係ない。ただあなたに生きていてほしいだけ」

 

「…………はぁ?」

 

 ルシフは本当に理解できなかった。何故リーリンがこんな言葉を言ってくるのか。だから、単純にからかっているだけだと思った。

 

「まあ、口先だけならなんとでも言えるからな」

 

「このッ……!」

 

 リーリンが乱暴にルシフに近付き、ルシフの右頬にキスをした。

 ルシフは驚き、頭を引いてリーリンから逃げた。

 

「……なんなんだ、お前」

 

「……」

 

 リーリンは顔を真っ赤にして、三歩後ずさった。

 マイアスでルシフをビンタした時もそうだが、リーリンは普段わりと合理的に物事を考えて行動するが、感情が昂ると頭より先に身体が動くタイプだった。このあたりはルシフと似た者同士かもしれない。

 リーリンは孤児院のために闇試合に出ていたレイフォンと今のルシフが重なって見えていた。全然性格は違うが、根っこの部分だけは同じだと感じていた。リーリンは闇試合をしていた頃のレイフォンを救えなかった。だからこそ、世界のために死を選ぶかもしれないルシフを救いたいと思った。

 

「……これでどう? これなら、冗談じゃなくて本気で死んでほしくないって思ってること、信じてくれるよね?」

 

「ああ」

 

 ルシフからすれば、頬へのキスなど誰だってできると思っているが、言えばまた面倒なことになりそうなのでやめておいた。

 リーリン自身も、正直自身の行動に驚いていた。あんなにも嫌いだったはずなのに、電子精霊ツェルニから涙を流しているルシフを見せられた時から好意のようなものを感じている。だがこの感情が、純粋に人としての好意なのか、それとも異性としての好意なのかは分からない。

 

「それじゃあ、わたしはもう行くね」

 

「リーリン。俺の思考を読んだのは褒めてやるが、明日の決戦が消化試合などと誰にも言うなよ。誰もが明日は勝つつもりで闘う。当然俺も。そんな中、消化試合などと言われたら士気が乱れる。負けた場合の策はあくまで万が一の保険にすぎん。理想の臣は主の考えを読んでも口にしないものだ」

 

「あなたにとって、わたしは臣?」

 

「何か問題が?」

 

「別に何もございません、陛下」

 

 リーリンは深く一礼し、ふんと鼻を鳴らして書斎から出ていった。

 ルシフ一人になった書斎。

 リーリンはレイフォンに好意を抱いているはずだ。異性としてではないが。それが何故、勢いでもあんなことをしたのか。

 

「……本当に何を考えてるか分からん」

 

 女の思考はいつも完璧には読めない。しかし、だからこそルシフは女が好きだった。一緒にいて退屈しない。

 中断していた書類の整理をしようと、ルシフは書類に視線を落とした。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ルシフは書類を片付け、寝室に行った。

 これから寝る。そのことを考えるだけで、今まで何十回と見てきたマイを殺す夢が頭をよぎり、身体が震えてきた。初めてマイを殺す夢を見た日から今日まで、毎日その夢を見ているのだ。

 しかし、明日はグレンダンをぶっ潰さなければならない。睡眠不足では不覚をとる可能性もある。

 寝室の扉をノックする音が聞こえた。

 以前の部屋のように大きな部屋の中にいくつか部屋があるという構造ではなく、寝室は寝室で独立した一部屋だった。

 

「……マイです。入ってもいいですか?」

 

「ああ」

 

 マイが寝室に入ってきた。ツインテールではなく、髪を下ろしている。腰まであるまっすぐな青髪が歩く度に揺れた。おそらく入浴後だから、ツインテールではないのだろう。髪型が違うだけで、随分と印象が変わる。

 

「あの、ルシフさまに訊きたいことがあるんです」

 

「なんだ?」

 

「ルシフさまの好きなこととか、好きな食べ物とか、そういうルシフさまご自身について、たくさん私に教えてください」

 

「マイ……」

 

「私、ルシフさまのことはなんでも分かってるって、ずっと思ってました。でも、本当は何も分かってなかったんだって、最近気付いたんです。だから、教えてください。いっぱいルシフさまのこと、知りたいんです」

 

「ああ、いいとも」

 

 ルシフは好きな食べ物とか、好きなこととか、そういうことを色々話した。その話一つ一つにマイは頷いて嬉しそうに聞いていた。

 

「あ、ルシフさま。口に何か付いてます」

 

 マイはハンカチを取り出し、ルシフの口を拭いた。実際は何も付いていなかった。もしかしたらリーリンがルシフにキスをしたのでは? と考えたからこその行動だった。

 

「はい、きれいになりましたよ」

 

「ありがとう、マイ──」

 

 ルシフが言い終える直前、いきなりマイがルシフの唇に自身の唇を重ねた。唇を通して、電流にも似た感情がルシフの全身に駆け抜ける。

 

「えへへ、隙あり、です。ルシフさまとキスしちゃいました」

 

 マイはすぐにルシフから顔を離し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 そんなマイの姿を見た瞬間、ルシフの中の理性と心の鎧が吹っ飛び、衝動的にマイを抱きしめた。

 

「……え? ルシフ、さま?」

 

 マイは一瞬困惑したが、すぐに眼を閉じてルシフの背に腕を回して抱き合った。

 そこでマイはルシフに違和感を感じ、眼を開く。ルシフの身体が震えているのだ。

 

「ルシフさま……お身体が震えて……」

 

「怖いんだ」

 

 抱きしめたまま、ルシフが呟いた。声も少し震えている。

 

「明日、グレンダンに負けて死んでしまうかもしれないからですか?」

 

「違う。死など、怖れていない」

 

「なら、何が怖いんです?」

 

「朝起きたら、俺が俺で無くなっているかもしれない。それが怖いんだ。いつかこの手でお前を殺してしまうんじゃないか。そう考えてしまうんだ」

 

「ルシフさま……」

 

「マイ、お前がいれば、俺はずっと俺のままでいられる。俺の傍にいてくれ。俺を独りにしないでくれ」

 

 ルシフの身体の震えは止まらない。

 マイはルシフの背中を優しくさすった。

 

「たとえルシフさまに殺されても、私はルシフさまを恨みません。ルシフさまに殺される原因があった私が悪いんですから」

 

 ルシフとマイは抱き合うのをやめ、身体を離した。

 

「私はルシフさまに殺されても構いません。でも、ルシフさまは万が一明日敗北したとしても、生きてください。私の心の中では、全都市民の命を全部足しても、あなたの血の一滴分の価値もないのですから」

 

 ルシフは親指に剄を集中し、人さし指を少し切った。人さし指の先端から血が溢れる。

 ルシフは溢れる血をじっと見つめた。

 

「こんなものが、お前にとって全都市民の命より価値があるか」

 

「はい」

 

 マイはルシフの人さし指をくわえ、溢れてくる血を吸った。

 ルシフはマイが指を口から離すのを待つと、剄で人さし指の切り傷を塞ぐ。

 マイは透き通るような笑みを浮かべている。今度はルシフの方からマイの唇に自身の唇を重ねた。頭痛も高熱も、何もかもが溶けて消えていく。

 ゆっくりと、マイの唇から自身の唇を離した。

 マイは名残惜しそうに唇を指でなぞる。

 

「……あ、あの、ルシフさま。今晩、ルシフさまと一緒に寝てもいいですか?」

 

 ルシフは静かに頷く。

 お互いに身体を横にして向かい合うようにしながら、ベッドに入った。マイの顔が目の前にある。

 

「ルシフさま。幼い頃からずっと一緒にいましたけど、こうして一緒のベッドで寝るのは初めてですね」

 

「ああ、そうだな」

 

 マイに出会った日から今日まで、ずっと自分勝手な都合にマイを付き合わせてきた。マイと出会った日から今日までの時間を俺はずっと奪い続けてきた。そんな俺に、お前を愛する資格なんてきっとないのだろう。だが、それでも俺はマイを愛している。

 

「……このままずっと時間が止まればいいのに」

 

 マイが涙目で呟いた。

 それは停滞であり、ルシフにとっては許してはならないことである。だが、それも悪くないと思う自分がいる。

 毎日毎日、大した変化もない退屈な日常を、マイと一緒に過ごし、いつかマイとの子どもが生まれて、温かな時間を……。

 

 ──何を考えてるんだ、ルシフ。お前が今までやってきたことを思い出せ。その未来はお前自身の手で潰した未来だろ。

 

 大勢の人間から恨まれているのにマイを近くに置けば、マイにとばっちりで危害が及ぶ可能性がある。そうなる前に、マイは遠ざけなければならない。

 

 ──誰かに壊される前に、俺自身の手でこの関係を壊してしまえ。今までだってそうやって壊してきただろう。

 

 父も、母も、産まれた時から一緒にいた使用人も、家も、大切なものは何もかも、自分から壊してきた。

 それに、マイと平凡な日常を生きることは凡人の生き方である。天才とは結果を出し続ける者を言うのであり、天才には天才の生き方がある。史上最高の才能を持っている自分は、誰よりも険しく厳しい道を行くべきなのだ。それでこそ、史上最高の人間だと胸を張って言える。

 

「ルシフさま、ずっと私がルシフさまの傍におります」

 

 それに対する言葉は出てこなかった。だから、口にしたのは別の言葉だった。

 

「……寒いな」

 

 別に、寒くはなかった。むしろ暑いくらいだ。だが、心が凍てついている。こう言えば、もっとマイが傍に来てくれるのではないか。そういう期待を込めた言葉だった。

 

「こうすれば、寒くないですよ」

 

 マイがルシフの方に身体を寄せ、ルシフの胸に顔を埋めた。

 

「ああ、そうだな」

 

 ルシフはマイの頭を優しく撫でた。髪からシャンプーの匂いがする。

 マイの温もりで凍てついた心の緊張がほどけ、癒されていく。

 この関係は終わりにしなくては、俺もマイも先には進めない。でも、一方的にマイに別れを告げるのはやめよう。しっかりマイと話し合って、マイに理解してもらえるよう努力しよう。

 

 ──マイ……お前が笑って幸せに暮らしてさえくれれば、俺は何も手に入らなくていい。何も残らなくていい。

 

 でも今日だけは、今晩だけは、この温もりを抱きしめることを許してもらえますように。

 それは誰に対する許しなのか。きっと『王』としての自分に対する許しなのだろう。

 少年は少女の一生懸命生きる姿に憧れ、少女は他人のために手を差しのべる少年の優しさに憧れた。お互いがお互いの足りない部分を求め合った。

 第三者から見れば、そんなものは愛と呼べないかもしれない。

 しかし少年と少女からすれば、どれだけ歪でおかしくても、それが愛の形だった。

 ルシフとマイはそのまま眠りに落ちた。

 その日だけはマイを殺す夢を見ず、ルシフは久し振りの快眠だった。



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第92話 開戦

 剣狼隊の各小隊長、マイが書斎に集まっている。現在剣狼隊の小隊長は二十四人いた。

 ルシフは呼び出した全員が揃ったところを見て、執務机を前にした椅子から立ち上がる。

 

「これから対グレンダン戦に向けた作戦会議を始める」

 

 会議と言っているのに会議室を使用しないところが、実際はルシフの作戦をただ伝えるだけの場だということを暗に伝えている。

 しかし、その場にいる者はそれに関して不満は無かったし、ただルシフの作戦を聞ければ良かった。

 

「まずはマイ、グレンダンとの接触予定時刻と接触予定場所に関しての情報を」

 

「はい。接触予定時刻は午後一時二十二分。接触予定場所に関しては、汚染物質の濃度が低く、雲もほとんどない快晴です」

 

「天運われにあり、か」

 

「は?」

 

 ルシフの呟いた言葉に、その場の者たちが怪訝そうな表情になる。

 

「別になんでもない。作戦を説明する。といっても、単純な作戦だ。グレンダンは前の失敗から、間違いなくアルシェイラを守ってくる。そのため、俺の狙いがアルシェイラではなく別にあると思わせて隙を作る必要がある。

まず俺がグレンダンに衝剄を放つ。それを合図に、準備していたランドローラーに乗った四小隊が出陣。グレンダンの撹乱、陽動が目的であり、無理をする必要はない。サナック、オリバ、フォル、マルシア」

 

「はい」

 

「お前ら四小隊がランドローラーでの陽動部隊だ」

 

「了解しました」

 

 四人が一礼する。

 

「残りの剣狼隊はグレンダンとヨルテムが接触次第、グレンダンに乗り込み、戦闘開始。一つ、全隊員に周知させておいてほしいことがある」

 

 ルシフが右手の人さし指を立てた。視線がそこに集中する。

 

「この戦闘、グレンダンとヨルテムの都市間戦争という形になっているが、勝利条件はグレンダンの旗を取ることでも、グレンダンの武芸者を全滅させることでもない。これは俺とグレンダンの女王の闘い。つまり勝利条件とは、グレンダンの女王を戦闘不能にすることだ。次点で天剣授受者全員の戦闘不能。常にそれを頭に入れ、闘え」

 

「グレンダンの武芸者を何人倒すかを考えるのではなく、グレンダンの女王と天剣授受者だけを標的にすればいいのですね?」

 

 バーティンが言った。

 

「極論を言ってしまえばそうなる。だが、それに囚われるな。場合によっては、グレンダンの武芸者を五十人倒すことで楽にグレンダンの女王や天剣授受者を倒せるかもしれない」

 

 剣狼隊の小隊長の面々は納得したように頷いた。

 

「いいな? 実質グレンダンの女王を倒せば、俺たちの勝利だ。逆に俺が死ねば、グレンダンの勝利となる。頭の取り合いだということを忘れるなよ」

 

 ルシフの俺が死ねばという言葉にもの申したい小隊長は何人もいたが、ぐっと堪えて頷いた。ルシフはいつだって自身の命を懸けて闘う。剣狼隊の小隊長にできるのはそれを止めることではなく、共に命を懸けて闘うことだけだった。

 それから細かい指示を各小隊長にし、指示を受けた小隊長は慌ただしく書斎から出ていった。

 リーリンが書斎に書類を抱えてやってきたのは、ルシフが一人になって十五分後だった。

 

「はい、今日の書類」

 

「ああ、そこに置いといてくれ」

 

 ルシフが執務机の隅の方を持っているペンで示す。

 リーリンはペンが示しているところに書類の束を置いた。

 

「いよいよなのね」

 

「この決戦が終わった瞬間、世界は生まれ変わる。歴史的瞬間に立ちあえることを誇りに思え」

 

「わたしはあなたが勝った方が理想的な新時代の幕開けができると思ってる。グレンダンが負けたり、痛めつけられるのは嫌だし苦しいけど、この世界がより良く生まれ変わるにはきっと必要なことだと無理やり自分を納得させるわ」

 

 ルシフは書類にペンで指示を書いてサインしては次の書類にいくということを繰り返している。

 

「あなたはたくさんの人を死なせて、苦痛を味わわせた。都市の従来の法制度を全て破壊して、法制度も統一させた。言ってみればあなたは、世界に突きつけられていた銃の引き金を引いた。でも原因を辿っていけばそれは今まで世界が放置し続けていた問題を表面化させただけで、銃を突きつけていたのは世界そのものだったと思う」

 

「例えば、包丁を指に当てる。その包丁を誰かが触って指を切ったら、誰が悪いか。当然一番悪いのは包丁を触って傷を負わせた人物になる。その前提で、包丁を指に当てていた人物も落ち度があると非難される。それと同じで、やはり銃の引き金を引いた者が一番悪い。そして、今までの世界の常識が見直される。俺は別に他人からどう思われようが気にせん。世界の常識、道徳観念に人々が少しでも疑問を持つようになる。これこそが重要であり、世界をより良く変化させるために必要な段階だ。その一点だけで、俺は誰よりも正しい行動をしたと思っている。どれだけの犠牲と損失があったとしてもな」

 

「もしグレンダンに負けたら、あなたは今まで放置し続けてきた世界の問題の全ての責任を背負い、史上最悪の人間として歴史に名を刻むことになるのね」

 

「俺にどういう価値をつけるかは歴史が決めるだろう。どんな価値をつけられようとどうでもいいが」

 

「こんな言葉、本当は言いたくないけど、グレンダンに勝ってね」

 

「……お前、もしかして俺に惚れてるのか?」

 

「バッ、バッカじゃないの!? あなたみたいな、片っ端から女の子と寝るような女たらし、好きになるわけないじゃない!」

 

 リーリンは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 

「分かってる、分かってる。最初はみんなそう言う。だが一度抱いてやると、そんなことどうでも良くなるらしい」

 

「あんたねぇ……よくそんな言葉平然と言えるわね」

 

「女の命は短い。せいぜい二十年くらいだろう。その短く儚い時間に彩りを与えてやるのは、史上最高の男である俺の責務と言ってもいい」

 

 ルシフのこの言葉は、どの女も自分に抱かれたら悦ぶという、圧倒的な自信からきている。普通なら鼻で笑われて終わる痛い言葉だが、ルシフが言うと何故か現実味を帯びてくる。

 今は激動期でルシフのやることはたくさんあった。だから女遊びも全くしていないが、安定して暇になってきたら何百人、何千人と女の子を抱くようになるかもしれない。その展開はあまり考えたくない。

 

「やっぱグレンダンが勝った方がいいかも……」

 

「意見がころころ変わるな」

 

「誰のせいよ!」

 

「冗談はさておき、そろそろ朝飯にするか」

 

 ルシフは書類を片付け、椅子から立ち上がる。

 

「冗談ってあなた……」

 

「抱かれたくなったらいつでも言ってこい」

 

「バカ! 最低! 女たらし! 誰があんたなんか!」

 

 リーリンの罵倒など意に介さず、ルシフは書斎から出ていった。

 

「誰が……あんたなんかに……」

 

 リーリンは閉められた書斎の扉をじっと見続けている。ルシフの幻影を扉に映していた。

 

「死んだら許さないんだから……」

 

 リーリンの目尻に涙が溜まっていた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 グレンダン王宮にある天剣授受者の詰め所。アルシェイラ、天剣授受者全員、レイフォン、ニーナが集まっている。ニーナは半ば強引にこの場にいることを許可してもらっていた。

 

「ルシフとの決戦、どう闘うべきか意見を言って」

 

 アルシェイラは集まった者を見渡す。

 カナリスが挙手した。

 アルシェイラがカナリスと視線を交わし、微かに頷く。

 

「ルシフには、決定的な弱点があります」

 

「それは?」

 

「有能すぎるところです。あの男は無駄を極力排除し、最適解で目的を達成しようとします。つまりルシフの目的さえ分かれば、必ずそこを狙ってくるので闘いやすくなります」

 

「それでルシフの戦闘での目的は?」

 

「陛下の戦闘不能。それしかないでしょう。実際前の戦闘では、陛下を戦闘不能にすることに全力を注いできました。今回も陛下の戦闘不能が勝敗を決定づける鍵であることはルシフのみならず、グレンダンの誰もが理解しております」

 

 カナリスに同意するように、天剣授受者の何人かが頷いた。

 

「わたしの意見は、陛下の護衛に天剣授受者を六人つけ、ルシフから陛下を守ることが重要だと思います。天剣授受者が六人護衛すれば、前のように陛下が隙をつかれて一瞬で倒されるというのは避けられると考えます」

 

「駄目だ、それでは」

 

 ニーナが言った。

 カナリスがニーナを睨む。

 

「部外者は黙っていてもらえますか?」

 

 カナリスは未だにニーナはルシフの内通者かもしれないという疑惑を消せずにいた。この場でのことは監視をつけて行動を制限すればルシフに漏らさないようにできるが、作戦そのものに関わってくると話は違ってくる。

 

「確かにわたしはグレンダン出身でもないし、グレンダンの武芸者でもないから、そういう意味では部外者だ。しかし、ルシフに勝って世界をより良い方向にもっていきたいと思っている」

 

「あなたは自分の立場が分かっていますか? 何故あなたに従者がついているか、本当は分かっているでしょう?」

 

「従者は監視役で、わたしがルシフの手先だと疑っているからだろう」

 

「その通りです。現状ではあなたの意見の良し悪しに関わらず、すべて却下させてもらいます」

 

「カナリス」

 

「はい?」

 

「いつからあなたが作戦の決定権を持ったの?」

 

 カナリスの顔から血の気が引いた。

 

「も、申し訳ございません! 出過ぎた真似をいたしました!」

 

「ニーナ、続けなさい。カナリスの意見のどこが駄目なの? わたしの実力に合わせて天剣授受者の護衛もあれば、万に一つもルシフにわたしを倒せる可能性はない」

 

「ルシフは間違いなくグレンダンが陛下を護衛してくると読んでいます。前はそれでやられたのですから。グレンダンが同じ轍を踏むとは考えていないでしょう」

 

「ふむ……」

 

 確かに一理ある。そういった敵の心情を読み、裏をかいてくるのはルシフの十八番と言ってもいい。

 

「ルシフの厄介なところは、ルシフ自身が最強の戦力であり、そのことを客観的に把握できているところです。自身の存在が相手にどういう影響を与えるか、ルシフは理解しているどころかそれを利用して相手を自分の思惑通りに動かしてきます」

 

 ニーナはルシフのやり方をずっと身近で見てきたし、軟禁状態だったから考える時間もたっぷりあった。

 

「なら、こいつを餌にするのはどうだ?」

 

 リンテンスがアルシェイラを指さす。

 

「ルシフはおそらく俺たちの意識を逸らして、女王を倒す以外の目的があると思わせようとしてくるはずだ。ルシフの狙い通りに俺たちが動いたと見せかけて、ルシフを罠に嵌める。ルシフにやられたことをそっくりそのまま返してやればいい。お前もそう言おうと思っていたのだろう?」

 

「はい、実はその通りです。もし陛下の防御を固めれば、それだけグレンダンの戦力はムラができます。多分ルシフはグレンダンの武芸者を次々に戦闘不能にしていくはず……。そうやって着実にグレンダンの戦力を削りながら、陛下への強力な一撃を狙ってくるような気がするのです。カナリスさんの作戦は、例えるなら急所を守って手足を切られることを我慢するような作戦です。最初の方は耐えられるかもしれませんが、いずれ限界がきて手足を守ろうとする。その瞬間をルシフが狙っているのにも気付かず。だから、手足を切られ始めてからわざと急所を晒して、攻撃を誘うのです。そうすればルシフにグレンダンの戦力をあまり削られず、頭脳などほとんど関係ない純粋な武力戦に引きずり込めるかもしれません」

 

 ニーナの言葉に、その場にいる者は唸り声をあげた。

 つまり、ニーナはルシフから頭脳を取り上げようとしているのだ。ルシフの厄介さはとてつもない力がありながら、頭を使って戦略をしっかり立ててくるところ。

 だから、戦略など立てようのない純粋な力勝負に引きずり込む。戦略を潰したルシフであれば、等身大の相手になる。それならば、勝機はある。

 

「しかし、そう上手くいくでしょうか? あのルシフが相手なんですよ」

 

「カナリスさん。あなたはさっき、ルシフの弱点は有能すぎるところだと言いました。確かにこちらの分析をしっかりしていれば、ルシフの狙いは読めるでしょう。でも、ルシフの決定的な弱点はそこじゃありません。誰よりも傲慢なところです」

 

「と、言いますと?」

 

「もしこちらがルシフの動きに呼応して、陛下の防御を手薄にしたとしても、ルシフはそれを罠とは考えません。自分の思惑通りに相手が動いた、としかきっと考えない。何故なら、自分が一番有能であり、自分の行動は誰にも読めないと考えているから。だから、罠に嵌めやすい。あの傲慢さが、ルシフ自身の首を絞めている。そのことに、ルシフは気付いていないのです。もしルシフから傲慢さが消えれば、一体どれだけの人物になるか……」

 

 ニーナが俯いた。

 ルシフが傲慢であることを悲しんでいるようだ。

 

「ニーナ、あんたに戦闘を許可する。後方部隊と最初は一緒にいなさい。そうすればきっとルシフはあんたを疑って戦闘に参加させなかったと考える。ここぞという時、あんたは前線にまっすぐ来なさい」

 

「陛下、それは……!」

 

「カナリス。わたしはニーナの言葉に一つ閃いた。ルシフは最強の戦略家であることを、まず認めなければならない。同じ舞台に立っては、いいようにやられるだけよ。あの男はいくつもの仕掛けをばらまき、その仕掛けに食いついたらその仕掛けに合わせた策を使ってくる。だから、わたしたちが仕掛けについて考えれば考えるほど、答えが出せなくなってどつぼにはまり、ルシフに負けるのよ。だったら最初から策略勝負は捨て、ルシフに付き合わなければいい」

 

「ですが、もしニーナがルシフの手先だったら……?」

 

「だから、そういうところがルシフにとっては狙い目なんだって。仮にニーナが手先だったとしても、わたしへの不意打ちは防ぐ自信がある。天剣授受者を倒そうとしても、天剣授受者を単体で配置するつもりはない。必ず複数で連携して闘うようにする。問題はないわ」

 

 そこからは具体的な指示に入っていった。

 ルシフを誘い込んだ時にどういう攻撃をどういう順番でするかという細かい部分もしっかり決めた。

 

「いい? 全員、必ずルシフがわたしへの全力攻撃を仕掛けてくることを頭に入れておいて。何があっても頭からそのことさえ消えなければ、ルシフを逆に潰せる」

 

 会議の終了間際、アルシェイラがそう言った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 ヨルテムの外縁部。

 ランドローラーで突入する四小隊以外の剣狼隊が整列していた。最前列に方天画戟を持ったルシフが立っている。

 ヨルテムの民は武芸者以外全員シェルターへの避難が完了していた。ヨルテム以外の都市は戦場ではないため、避難指示は出さず、実際誰も避難していなかった。

 ルシフの眼前、念威端子が映像を展開していた。グレンダンの外縁部が映し出されている。グレンダンもすでに戦闘準備は終えているようだった。

 

「一騎打ちをする気はないのか?」

 

『わたしたちは全員でグレンダンを守る。それがグレンダンの総意よ。見なさい』

 

 映像の中、アルシェイラが二叉の槍を頭上に掲げる。それに呼応するように、天剣授受者や武芸者の身体が剄の影響で光を放つ。グレンダンの外縁部が剄の輝きで埋め尽くされた。

 ルシフは眩しいものでも見るように目を細める。

 

「一騎打ちを選ばないとは、愚かにもほどがある。だが、貴様らみたいな時代遅れの愚者にはもったいない、美しい輝きだ」

 

 今までの世界の最後を締めくくるには、相応しい輝きかもしれない。

 もし自分がグレンダン三王家に生まれ、グレンダンの統治者になっていたら、あんなつまらない戦闘集団にはならなかっただろう。世界を守るという理想を掲げるに相応しい都市になったはずだ。

 しかし逆に考えれば、グレンダンに生まれなかったからこそ困難な道だった。グレンダンに生まれていたら、世界を生まれ変わらせるなど容易にできただろう。それはつまらない。

 

『必ずわたしたちが勝つ』

 

「今度は幻滅させないでくれよ、グレンダン」

 

 ルシフは方天画戟を握る手に力を込めた。

 頭痛も高熱も吐き気も、今日は無かった。何ヶ月振りかと思うくらい、身体の調子が良い。きっとマイと添い寝したからだ。

 あの時、確信したことがある。

 自分はマイと出会う前の自分より弱くなっている。いや、マイと出会って己の弱さを知ったのだ。弱さを知ったからこそ、強くなろうと思えた。弱さを知らなければ、強くなろうとも思わない。

 グレンダンが決死の覚悟で都市を守ろうとしているのは痛いほど伝わってくる。

 ルシフは身震いした。この瞬間がたまらない。勝てるかどうか。自分の思惑通りに事が進むかどうか。自分の敵になれるか。自分の思惑を超えられる相手か。自分の才能を絞り出してくれる相手か。そういう期待がどんどん高まってくる。そしていつも、自分の思惑通りに事が進み、思惑通りの展開と勝利に失望してきた。

 唯一自分の思惑が裏切られたのは、アルシェイラがツェルニに来た時だった。あの時は何の準備もしていないところに現れたから、完全に後手に回ってしまった。だが、楽しかった。圧倒的な実力差の中で頭脳も武芸も何もかもを振り絞り、闘えた。

 あの時のような絶体絶命の窮地に立てれば、自分は今よりもっともっと才能を引きずり出し、更なる高みへと登れるはずだ。自分の可能性をもっと、もっと見てみたい。

 

 ──やるか、やられるか。勝負だ、グレンダン。

 

 ルシフは映像の中のグレンダンを見据えた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆   

 

 

 

 グレンダンの外縁部。

 誰もが緊張した面立ちをし、復元した武器を握りしめていた。武芸者のほとんどはルシフとの戦闘に恐怖を隠せず、身体を震わせている。

 

「ルシフを恐れるな!」

 

 アルシェイラが武芸者たちの方に振り向いた。武芸者たちはアルシェイラに視線を送る。

 

「お前たちは、グレンダンの武芸者である! 誇りで恐怖を克服し、前を見ろ! お前たちには天剣授受者と、なによりこのわたしがついている! わたしがお前たちを死なせはしない!」

 

 アルシェイラの言葉に、武芸者たちの身体の震えは止まっていた。次々に雄叫びをあげ、グレンダンが武芸者たちの雄叫びに震えた。

 そんな中、レイフォンは何かを見落としているような、そんな感覚に包まれていた。

 

『どうした、レイフォン。浮かない顔をしているが。いや、当然か。これからルシフと闘うのだからな』

 

 念威端子からニーナの声が聞こえた。

 

「隊長……」

 

『大丈夫だ、自信を持て。きっと作戦通りにいく』

 

 ──……ん?

 

 レイフォンの顔から血の気が引いていく。

 

 ──まずい……!

 

 レイフォンは何を見落としていたか、ニーナの声で気付いてしまった。

 

「陛下!」

 

 レイフォンは雄叫びに負けないくらいの大声で、アルシェイラに怒鳴った。

 

「何よレイフォン? いきなり大声出して」

 

「今すぐ防御態勢を!」

 

「はあ? いきなり何言ってるのよ? ヨルテムと接触するまで予定ではあと五分あるのよ」

 

「たいちょ──ニーナ先輩がグレンダンにどうやって来たか思い出してください!」

 

 そこまで言われて、アルシェイラと天剣授受者たちははっとした。

 ニーナは電子精霊の『縁』を利用し、一瞬でグレンダンに移動してきた。そして、ルシフは電子精霊の協力を得ている。ニーナと同様のことができるのだ。今までルシフが放浪バスを使ったり、グレンダンとヨルテムの接触を待って闘うように見せていたのは、『縁』が使えることからグレンダンの意識を逸らすため。

 ここでの問題は、そういったグレンダンの動きは念威端子を通してルシフに筒抜けだったこと。

 

「リンテンス! 早く防御陣を──」

 

 映像に映っているルシフが光に包まれ、消えた。

 瞬間、グレンダンの上空にとてつもない剄が出現する。

 グレンダンにいる者全員が上を見た。しかし、頭上に輝く太陽に目が眩み、思わず目を逸らした。太陽を背に受けているルシフの姿は逆光となり、見えなくなっている。

 

 ──ルシフの奴、太陽を利用して……!

 

「リンテンス!」

 

「駄目だ、間に合わん!」

 

 手で陽の光を遮りながら、上を見る。ルシフが方天画戟に剄を集中させているのが分かった。

 

「総員! 防御態勢──!」

 

 上空より、ルシフの方天画戟が振るわれた。

 方天画戟に集中していた剄が衝剄となり、頭上からグレンダンの外縁部を呑み込んでくる。

 武芸者たちの怒号と悲鳴を内包しながら、グレンダンの外縁部は爆煙に包まれた。



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第93話 作戦

 ルシフの強大な衝剄による衝撃が来ず、武芸者たちは困惑しながらも上を見る。

 頭上に光が膜のように展開されていた。その光の膜がルシフの衝剄を相殺したのだ。

 リヴァースが盾を頭上に突き出している。全身が鎧に包まれていた。

 活剄衝剄混合変化、金剛剄・壁。

 金剛剄の発展型であり、剄の膜が衝剄を放つことによってぶつかったものを弾き返す。

 剄がぶつかりあったことで爆煙が生まれ、外縁部を爆煙が包んだ。

 

「ナイス! リヴァ!」

 

 カウンティアがリヴァースに向かってガッツポーズをした。

 

「でも、半分しか守れなかった。残り半分を誰かが守ってくれてるといいけど……」

 

 リヴァースが荒く息をしながら、盾を地につけて片膝をつく。

 

『リヴァースさん。残り半分も他の天剣授受者の方たちが守りましたわ。ルシフの衝剄に衝剄をぶつけて相殺しました』

 

「そうですか……良かった」

 

『ええ、本当に……。ですが、一番の功労者はレイフォンですわね。レイフォンがルシフが仕掛けるより前に気付いてくれたおかげで、わたしたちは一瞬ですがルシフの攻撃に備える時間がありました』

 

 ルシフの予定では、もっとグレンダンに近付きなおかつ無防備な状態のところに一撃くらわせたかったのだろう。だがレイフォンが防御の指示を出したのを観て、攻めざるを得なかった。

 

「でも、相手はあのルシフ……これで終わりのはずがない」

 

 そもそも、何故防ぐことができたのだ? ルシフの方が剄量は遥かに上。剄を練っていない剄技に相殺されることが有り得るのか? ルシフはグレンダンが慌てて防御態勢をとろうとしたのを観て、作戦を少し変更したのでは?

 リヴァースは天剣授受者の中で一番臆病だった。だがそれ故に、リヴァースが戦場に立つ時は己の臆病さを克服し、覚悟を決めて立っている。誰よりも彼は冷静だった。

 

「デルボネさん。ルシフの位置は?」

 

『それが……この爆煙で見失ってしまいました。剄も入り乱れて、ルシフの剄を特定できませんし』

 

 グレンダンの武芸者が外縁部に多数いるため、剄の反応が多すぎて個人の特定は難しい。ルシフは衝剄を放った後、剄を纏わず剄を抑えたまま爆煙に突入したようだ。

 

「ルシフはこっちにいるぞー!」

「こっちだ! こっちに──がはッ!」

「ここにいる! ルシフはここ──ぐッ!」

 

 爆煙の中からグレンダンの武芸者の叫び声が聞こえ、リヴァースとカウンティアは声がする方に顔を向けた。

 爆煙が不自然に揺らめく。黒い影が飛び出してきた。

 リヴァースが咄嗟に盾を構え、黒い影が振るったモノを防いだ。見たこともない武器。だが、知っている。これはルシフの得物。

 リヴァースは凄まじい圧力に体勢を崩すまいと、両足に力を込めて踏ん張る。両足が地についたまま数メートルずり下がった。

 ルシフが瞬く間にリヴァースに肉薄する。リヴァースはルシフの全身から発する気迫ともいうべきものに畏れを感じ、一歩下がろうとした。

 

「リヴァはやらせないッ!」

 

 カウンティアがルシフの横から青龍偃月刀を振るった。ルシフは方天画戟の標的をリヴァースからカウンティアに変え、方天画戟と青龍偃月刀がぶつかり合う。ぶつかり合った瞬間、ルシフはその場で踏ん張り、方天画戟を力任せに振り抜く。カウンティアは踏ん張り切れず、青龍偃月刀で防御した体勢のまま後方に転がった。

 その時にはリヴァースも畏れを抑え込み、ルシフがどう攻めてきても対応できるよう神経を研ぎ澄ませていた。周囲のグレンダンの武芸者たちもルシフを囲み始めている。

 ルシフは不利と見たか、後方に跳び、爆煙の中に消えていった。ルシフの剄はすぐに並の武芸者程度まで抑えられていた。これではルシフの居場所を探し出すのは至難。

 基本的に戦闘は数が多い方が有利とされる。しかし、この場合は敵の数が少なすぎる。なんせ一人なのだ。ルシフからすれば周囲全員敵なので思う存分闘えるし、逆にグレンダン側は味方が周りにいすぎて同士討ちを警戒し、どうしても慎重に攻めなければならない。

 

「厄介だなあ……」

 

 この爆煙を衝剄で吹き飛ばそうとすれば、味方も一緒に吹き飛ばすことになる。味方に被害を出す覚悟を決めなければならない。

 

「でも、わたしたち天剣授受者を狙ってきた」

 

 カウンティアがリヴァースの隣に戻ってきて言った。

 

「うん、予想通り。あとは合図を待って指示通り動けばいい」

 

 リヴァースはカウンティアの方に兜を向け、頷く。

 リヴァースはルシフが消えていった方を見た。そっちの方向からは怒号と悲鳴が絶えない。通りすがりにそこそこ実力のある武芸者を倒しているようだ。

 リヴァースはルシフが迫ってきた時のことを思い出し、全身が粟立った。

 あの気迫と全身に纏う攻撃的で威圧的な剄。覚悟を決めて戦場に立ったらどんなことがあっても呑まれない自分が、ルシフに呑まれかけた。あれでまだ十六歳。成長期なのだ。三年後。五年後。今よりルシフが成熟したら、一体どこまでの高みに上っている?

 

 ──あまりにも彼の存在は大きすぎる。この決戦でルシフに勝ち、従えたとしても、更に厄介な存在となって数年後反旗を翻すのでは?

 

 やはり、ルシフを殺す以外の道はない。生かしておくには危険すぎる。

 まだ十六歳。

 リヴァースは心の中で反芻した。

 

 

 

 アルシェイラは神経を研ぎ澄まし、爆煙の中を注意深く見据えている。

 

『陛下。ヨルテムからランドローラーが発進されています』

 

「数は?」

 

『全部で二十台。一台につき二人乗っていますので、四十人が都市同士がぶつかる前にグレンダンに乗り込んでくるでしょう』

 

「どこから来る?」

 

『五台ずつで分かれてそれぞれ別の方向から来るものと思いますわ』

 

「分かった。来る方向にいる部隊に襲撃に備えるよう、指示だしといて」

 

『分かりました』

 

 来る方向がそれぞれ違う。それは味方が近くにいないということ。ルシフ側は味方を気にせず闘える。

 さすがにルシフだった。おそらく防がれた場合の二の手として、爆煙に紛れての奇襲を考えていたのだろう。

 それから二分後、グレンダンの外縁部に多数の新たな剄が外から入ってくるのを感じた。さっきの奇襲部隊が到着したのだ。

 その頃になると、爆煙もかなり薄れてきている。しかし、味方が密集している中にルシフの奇襲部隊が入り込んでいるので、闘い辛さは変わらない。

 アルシェイラの近くにはリンテンス、カナリス、サヴァリス、ティグリス、トロイアット、レイフォンがいた。彼らはアルシェイラを護衛しているように見せかける役割があった。強大な剄が固まっていれば、ルシフはそこにアルシェイラがいると確信する。ルシフをエサで釣るのが、この作戦で重要なところだった。

 あとはルシフの思惑通りに動いたと見せかけるため、ルシフの思惑通りのタイミングで動く必要がある。それは一体いつか、読み切らなくてはならない。

 そのタイミングを読む役目は、合図を出す相手に任せていた。

 緊張で、心臓がドクンドクンと大きな音を出しているような気がする。

 アルシェイラは殺剄や剄を抑えるという技量が乏しいため、どうしても目立ってしまう。

 アルシェイラは何度も深呼吸し、自分を落ち着かせた。ルシフは勝負を一気に決めるため、必ず自分を攻めてくる。その時、ルシフの襲撃を防げなければ、作戦は音を立てて崩れてしまうだろう。

 

 ──いつ来る?

 

 アルシェイラも、護衛として周囲にいる天剣授受者やレイフォンも、合図を待ちながら周りを見渡した。

 

 

 

 ルシフがグレンダンに現れ爆煙に突入した時、ニーナは外縁部付近の建造物を駆け上がっていた。

 ニーナは後方部隊に配属されていたため、ルシフの衝剄の影響は小さかった。定石通り、ルシフは前線への攻撃を優先したのだ。

 ニーナは二本の鉄鞭を両手にそれぞれ持ち、屋上に立つ。そこからはこちらに向かってきているヨルテムも、ヨルテムから発進したランドローラーも、ルシフがどこで暴れているのかも、ありとあらゆる戦況を目視で確認できた。

 ランドローラーで接近していた剣狼隊はランドローラーを蹴り、グレンダンの外縁部に突入してきた。十人一塊となり、各々の武器を扱いながら着地する。

 当然グレンダンの武芸者たちが迎撃するが、剣狼隊の連携の練度はグレンダンとはレベルが違った。一人一人の攻撃の隙をカバーしながら爆煙に突き進んでくる。遠目だと、まるで一つの大きな赤色の生物のように見えた。

 ニーナはじっと戦況を窺っていた。鉄鞭を握る両手はじんわりと汗をかいている。瞬きするのも忘れて、グレンダンの外縁部を俯瞰し続ける。

 ニーナがアルシェイラと天剣授受者たちへの合図役だった。ニーナを合図役にするなど正気の沙汰ではないと反対する者(主にカナリス)もいたが、アルシェイラは意見を曲げなかった。

 ニーナを合図役にしたのはいくつか理由があった。

 一つ目は、ルシフがニーナに不信感を抱くように色々手を打ってきていること。だからこそ後方に配置して戦闘に参加させないようにするのは、ルシフから見て自然だし、戦況を冷静に分析させることができる。

 二つ目は、ニーナに合図役を任せることでルシフの内通者かどうか見極めるため。もしニーナがルシフの内通者であった場合、合図を出さないか適切なタイミングで合図しないだろう。ルシフの内通者でなければ、適切なタイミングで合図を出す。逆に言ってしまえば、ニーナが内通者でなくても適切なタイミングで合図を出せなければ内通者という烙印を押されることになる。だから、ニーナの緊張はとてつもないものだった。

 重要なのは、天剣授受者たちが女王の守りから武芸者たちの救援にいつ変更するか。ルシフの読み通りに動いたと思わせること。

 ヨルテムがグレンダンにぶつかった。

 グレンダンが大きく揺れ、ヨルテムから剣狼隊が続々とグレンダンに突入してくる。

 グレンダンの武芸者たちは怒涛の展開にパニック状態になっていた。今回の作戦は女王、天剣授受者、バーメリン、クラリーベル、デルクといった実力があり信頼できる最低限の武芸者しか伝えられていない。大半は作戦を知らないのだ。だからこそ、作為的ではない自然なリアクションをする。

 ルシフに不意打ちされ、剣狼隊の奇襲部隊が動揺を更に誘い、とどめと言わんばかりに都市同士の衝突に合わせて剣狼隊の全員をグレンダンに投入。グレンダンの動揺は最高潮になっている。

 

 ──ここだ。

 

 ここしかない。グレンダンの武芸者の犠牲者を最小限にし、ルシフに思惑通りに動いたと錯覚させるタイミングは。

 

「アーマドゥーン、ジシャーレ、テントリウム、ファライソダム」

 

 ニーナの剄に電子精霊の力が加わり、爆発的に剄量が膨れ上がる。

 鉄鞭を握る手に力がこもった。

 

 ──大祖父さま、わたしに力を……。

 

 ニーナは鉄鞭に剄を集中。この錬金鋼はジルドレイドの形見のため、通常の錬金鋼の許容量を超える剄を注いでも壊れない。

 ニーナが屋上を蹴り、突撃。両鉄鞭からは雷光が漏れている。活剄衝剄混合変化、雷迅。

 ニーナの向かう先にはルシフはおらず、剣狼隊の一小隊がいた。

 

 

 

 ルシフが方天画戟を振るった。

 カルヴァーンが幅広の剣で防ぐが、ルシフに力負けして後方に吹っ飛ぶ。

 

 ──これも。

 

 ルシフがカルヴァーンに追撃しようと地を蹴る。横からルイメイが飛び出し、鉄球を投げてきた。鉄球を方天画戟でルイメイの方に弾く。ルイメイは両足を踏ん張り、鉄球を受け止めた。その一瞬、ルイメイの視界は鉄球で遮られている。

 ルシフは死角を利用し、ルイメイに接近。

 

「ルイメイ! 右!」

 

 カルヴァーンが怒鳴った。

 ルシフは舌打ちしたい気持ちになりつつも、ルイメイの右に出て、方天画戟を横凪ぎにする。ルイメイは鉄球の鎖で方天画戟を受け止めつつ、そのまま横転した。

 

 ──これもだ。

 

 リヴァース、カウンティア、カルヴァーン、ルイメイ。天剣を使っていなければ、もうこの四人は倒せていた。天剣のせいで方天画戟の攻撃を防ぐ術を持っている。

 それに、さっきから天剣授受者たちは攻撃に力を入れていない。防御を第一に考え、攻撃する時は他の天剣授受者を救うためといったやむを得ない事情がある。その隙をついて攻撃してきた者を攻撃しても、二人一組でいるため、攻撃されなかった方が援護してきてこの上なく面倒だった。

 

 ──天剣が無ければ。

 

 何度もそう思った。

 ルシフの計算では天剣を奪うことによって天剣授受者を無力化し、アルシェイラが一騎打ちを提案してくる可能性を高めるはずだった。

 だが、ニーナが天剣を強奪したことにより、天剣授受者が力を取り戻した。以前闘った時より剄の制御もできるようになっており、戦闘力も上がっている。

 グレンダンの外縁部にニーナの剄が駆けめぐった。

 ルシフはチラリと上を見る。ニーナが屋上に立っていた。電子精霊の力をニーナが解放した。

 ニーナは雷迅でルシフがいる方向とは別の方向に突っ込んでいった。

 その時、アルシェイラの周辺で変化が生まれた。ルシフはアルシェイラを奇襲する機会をずっと窺っているため、護衛をしていない天剣授受者と闘いつつもアルシェイラに対する意識はずっと頭にあった。それはすなわち眼前の戦闘に集中していないことになる。片手間で相手をしているような状態だったからこそ、リヴァースら四人の天剣授受者は倒れなかったのだろう。

 アルシェイラの周辺にいた護衛役の天剣授受者たちが一斉にアルシェイラから離れようとする。グレンダンの武芸者たちを剣狼隊から守ろうとする動きに感じた。

 ルシフとアルシェイラの間に一本の道ができた。遮るものは何もない。この道を行けば、アルシェイラに奇襲できる。

 絶好の好機。しかし、ルシフは幾つか引っ掛かりを覚えた。

 まずニーナが剄を解放していなかった理由。ニーナの性格なら、戦闘が始まった直後に剄を解放しているはずだ。もしかしたらルシフの内通者と思われて戦闘に参加しないよう後方に置いていたかもしれないが、ニーナの周囲にニーナを止められるだけの実力がある武芸者はいなかったから、戦闘に参加してきても構わないというスタンスだったのだろう。

 ニーナは都市同士が衝突し、ヨルテムの剣狼隊がグレンダンに突入してきてグレンダンの武芸者の混乱が最大になったところで剄を解放した。

 やはり引っ掛かる。何故ニーナは戦況を見極めるように高い場所に行った? ニーナの性格なら、戦闘直後に前線に突っ込んでくるのが自然では?

 次に、アルシェイラを護衛する天剣授受者たちとレイフォンの動き。

 ルシフの予想では、こんなにもきれいにアルシェイラの護衛が釣れるとは思っていなかった。何人かはグレンダンの武芸者を守ろうとするだろうが、一人か二人はアルシェイラの護衛に徹するんじゃないかと考えていたのだ。それが全員同時にグレンダンの武芸者を守ろうとする動きをする。予想と違う。

 

 ──これはニーナを合図として、俺を誘い込む作戦ではないか?

 

 ニーナはルシフの思惑通りに動けばルシフは疑いもしないと読んだが、それは間違っている。

 ルシフは戦闘中、自分の思惑通りに動いたというような曖昧なことは考えない。常に相手を分析し、相手の行動を合理的に判断する。自分の思惑通りだったと思うのは勝負がついた時、つまりは戦闘後の話なのだ。

 これが自分を誘い込む作戦だと仮定した場合、ルシフがアルシェイラに奇襲をかければ、グレンダンの武芸者を守ろうとする動きをしている護衛がすぐさまルシフに攻撃目標を変えるだろう。そういう目で護衛を見れば、アルシェイラに攻撃したらすぐさま駆けつけられる絶妙な距離を保っているように見える。

 ルシフの頭はもうこれが自分を誘い込む作戦であると確信していた。

 そう考えると、アルシェイラを奇襲した場合、ルシフに攻撃してこれる護衛は位置関係からしてリンテンス、サヴァリス、ティグリス、レイフォンの四人。

 誘い込むからにはルシフを倒せる火力が出せる者がいなければならないが、この四人が一斉に攻撃してきてもルシフは防ぎきる自信がある。だが相手も勝算があるからこその作戦。ルシフの防御を上回る攻撃を用意していなければ、理に合わない。

 しかしルシフには、どうすれば自分の防御を上回る攻撃ができるのか思いつかなかった。

 頭が警鐘を鳴らし始める。誘いにのるな。痛い目にきっと遭うぞ。ルシフの慎重な部分が危険を感じ取っている。

 だが、一瞬とはいえ誰にも邪魔されずにアルシェイラを倒す機会でもある。これは魅力的な状況だった。

 速戦即決が戦闘の基本だと思っているルシフにとって、ここで仕掛けずに持久戦となるのは避けたい。

 

 ──もし、万が一の場合は……。

 

 ルシフは自身の防御を上回る攻撃をされた場合の対応も事前に想定した上で、誘いにのることを決断した。

 ここまでのルシフの思考は現実世界ではほんの瞬きの間に行われた。

 ルシフがアルシェイラに向けて駆け出す。遮るもののない道。やるかやられるかの大勝負。気分はとても高まっていた。

 

 

 

 ──ルシフが来た!

 

 作戦に関わる者、全員が同時にそう思った。

 アルシェイラは凄まじい速さで向かってくるルシフを見据える。ニーナの予想通り、ルシフの思惑通りに動いたことでルシフは隙を作ったと信じた。それが誘いの隙だとも読めずに。

 ここで自分が倒れたら、せっかくの作戦も水の泡。

 アルシェイラの二叉の槍を持つ手に力が入る。

 ルシフが雄叫びをあげ、方天画戟を振るった。

 アルシェイラが二叉の槍で防ぐ。防いだ瞬間、方天画戟の剄が斬性を帯びた衝剄に変化し、突風に似た衝撃とともにアルシェイラの腕や足に次々に切り傷を生んでいく。

 アルシェイラは後ろに跳んだ。踏ん張れば、八つ裂きにされる。逃げるのは癪だったが、戦闘不能になるよりはマシ。

 ルシフの右横に影が現れる。

 

 ──頼んだぞ、レイフォン!

 

 

 

 レイフォンはルシフがアルシェイラに駆け出したのに一瞬遅れて、ルシフの方に駆け出した。

 リンテンス、サヴァリス、ティグリスが剄を解放し、レイフォンに放った。ルシフの顔に僅かな困惑が見える。

 

「おおおおお!」

 

 レイフォンの全身が剄の輝きに包まれる。

 その剄がリンテンスら三人の剄を吸収し、取り込んだ。

 レイフォンの剄量が一気に倍加する。ルシフが目を見開いた。

 これこそレイフォンが編み出した剄技。化練剄の変化、連輪閃。剄に吸収の性質を加え、吸収した剄を自身の剄に混ぜ合わせる形で使用できる剄技。ただし、吸収された相手が拒絶しなかった場合しか、吸収した剄は使えない。つまり相手がレイフォンに剄を使わせたいと思わなければ、この剄技は相手の剄技を吸収して無効化するだけの剄技。ツェルニでルシフと闘った時、ルシフの方が剄量が多かったのに傷をつけれたのは、この剄技でルシフの剄を吸収して無効化したからだ。だがルシフはレイフォンに協力する気など全くないため、吸収した剄を自身の剄として使うことはできなかった。

 レイフォンがルシフの右横から肉薄する。ルシフは方天画戟を振っている影響で、その場で踏ん張っていた。隙ができている。

 

 ──いける。

 

 ルシフの予想を超える速度で接近したため、ルシフの計算が狂っている。

 レイフォンは右拳を引いた。確実に当たる。

 ルシフはアルシェイラが逃げたのを見て、レイフォンの攻撃を防御しようと右腕を動かす。右腕を下げて防ぐつもりか。だが遅い。

 レイフォンの脳裏に、マイやリーリン、エリゴら教員四人、ルシフを慕うツェルニの学生たちの顔がよぎる。

 もし、万が一、防御が間に合わなかったら、ルシフは死ぬ。たくさんの人がルシフの死を悲しむ。

 いや、迷うな。ここまできて、迷ったら取り返しがつかなくなる。

 レイフォンは渾身の右ストレートをルシフの脇腹に放つ。しかし、右ストレートを放つタイミングが一瞬遅れたせいで、ルシフの右腕での防御が間に合った。

 ルシフの身体がとんでもない勢いで左に吹っ飛ばされていく。

 

 ──くそッ。

 

 レイフォンは自分が情けなくなった。あれだけ闘う前に覚悟を決めていたはずだったのに、直前で迷って攻撃を一瞬躊躇してしまった。

 あの感触。あれはクリーンヒットしてない。ルシフは右腕で防ぎつつ、踏ん張っている足で地を蹴り、自分から左に跳んだ。威力を殺された。自分が一瞬迷っただけで、千載一遇の好機を無駄にしてしまった。

 遥か遠く、ルシフが立ち上がった。爆煙はもう完全に晴れている。

 

「アルセイフ、貴様は甘いな。もし躊躇しなかったら、俺の右腕一本消し飛ばせていただろうに」

 

 ルシフの右腕は右ストレートを防いだ影響で裂け、血が滴り落ちている。骨は折れていない。

 ルシフは万が一自分の防御を上回る攻撃がきたら、迷わず反対方向に跳んでよけると決めていた。もしレイフォンが迷わず攻撃したとしても、右腕に剄を集中する時間がなかっただけで右腕の防御は間に合った。その場合は右腕を犠牲に防ぐつもりだったが、レイフォンが迷ったため、右腕を犠牲にせずにすんだ。

 

 ──それにしても……。

 

 レイフォンのあの剄技。他人の剄を吸収し、自身の剄と混ぜ合わせて剄量を増やす。正気で思いつく剄技ではない。他人の剄など、爆弾のようなものだ。もしそこに攻撃的な意思が含まれていたら、防ぐこともできない。

 確かにルシフもメルニスクの力を自身の剄に加えて使っている。理論的には剄の吸収もできるだろう。しかし、電子精霊と人間では信用に大きな差が生まれる。電子精霊の目的は明白だが、人間はそれぞれ違うのだ。

 ルシフは凄絶な笑みを浮かべた。

 ルシフの笑みを見たアルシェイラやレイフォン、天剣授受者たちは息を呑んだ。ルシフの全身から放たれる気迫と闘気。その威圧感とプレッシャーはやはり最強の風格を漂わせている。

 ルシフは無意識の内に勃起していた。

 命を危険にさらされて生存本能が子孫を遺したいと考えたのか、それとも予想外の攻撃によって分泌された脳内物質ドーパミンの快感を性的快感と結びつけたか、長い間射精していなかった影響か、理由は不明だが、とにかくルシフは勃起していた。だがルシフはそのことに気づきもしない。

 実はルシフは、痛めつけられることに快感を覚えるのだ。しかし、それには前提条件がある。それは最終的に立場が逆転し、痛めつけられる側から痛めつける側になること。自分を痛めつけてきた相手を、才能を解放して立場を逆転させ痛めつけることがとてつもない快感なのだ。つまりはサディストゆえのマゾヒズム。

 ルシフは右腕を軽く動かし、右手の指も動かす。問題なく動く。

 

 ──面白い奴だな、アルセイフ。

 

 だが、もうタネは見切った。それとも、まだ隠し玉があるのか。

 ルシフは方天画戟を構えた。ここから先、策の挟みようがない。純粋な武力勝負。それでも、ルシフの気分は高揚していた。




>つまりはサディストゆえのマゾヒズム。
ちょっと何言ってるか私にもよくわかんにゃい。

この作品についてですが、完結まで何話か計算すると101話になりました。なんとか圧縮して100話で完結を目指したいと思います。100話で完結した方が物語構成をしっかり考えて執筆した感が出ますので。


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第94話 弱者の矛、魔王を突き刺す

『私たちに協力してくれませんか?』

 

 フェリのいるグレンダン王宮の一室。花弁の形をした念威端子が端子用の隙間から入ってきて、そう伝えてきた。機械音声のような、作られた声だ。

 フェリの表情は無表情だったが、内心はとても驚いていた。フェリだけではない。その部屋は念威操者の待機場所であり、デルボネやグレンダンの念威操者もいる。デルボネはあらあらと口に手を当てて嬉しそうに微笑んでいるが、それ以外の念威操者全員微かに目を見開いて花弁の念威端子を凝視していた。

 この花弁の念威操者は、デルボネを除いた全ての念威操者に見つからずにここまで念威端子を移動させたのだ。それをやるためには無数にある念威端子の索敵範囲を把握し、その僅かな死角を念威妨害を駆使して端子を隠しつつ移動させる必要がある。とてつもない技量の念威操者だと、その場の誰もが理解した。

 

「協力……とは?」

 

『あのルシフを出し抜けるかもしれない作戦があります。その作戦を確実に成功させるためには、優秀な念威操者である皆さんの協力が必要です』

 

「デルボネさん……」

 

 フェリは車椅子に乗っているデルボネの方を見る。デルボネは笑みを深くして何度も頷いていた。

 

「面白そうじゃありませんか。今陛下に念威端子でこのことを伝えたらルシフの耳にも届いてしまうかもしれませんので、秘密裏にやりましょうねぇ。それでよろしいですか? 謎の念威操者さん」

 

『……はい。協力、感謝します』

 

 それから秘密の作戦の内容を聞き、グレンダン側の念威操者は作戦に向けて密かに動き始めた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはかなり後方まで跳んだため、アルシェイラたちとはかなり距離が開いていた。当然ルシフの周囲には今、多数のグレンダンの武芸者がいる。

 ルシフの後方にいる武芸者二人が身体を震わせて、それぞれの得物──刀と槍をルシフに向けた。刀と槍を持つ手も震えている。

 

「……やァアアアアア!」

 

 恐怖を殺すべく叫び声をあげて、二人が同時に得物をルシフの背中に突き出した。ルシフは振り向きもしない。刀と槍がルシフに触れた瞬間、どちらも粉々に砕け散った。

 

「……ッッッッッ!?」

 

「逃げろォッ!」

 

 レイフォンが思わず叫んだ。

 ルシフは背を向けたまま、右の裏拳で一人の顔面を殴り、更に左の後ろ蹴りがもう一人の腹を直撃した。顔面を殴られた方は気絶しながら後ろに転がり、腹を蹴られた方は両手で腹を抱えてうずくまった。

 

「ルシフの相手はわたしと天剣授受者、レイフォンがやる! あんたらは剣狼隊と闘いに行きなさい! あんたらにルシフの相手は荷が重すぎる!」

 

「りょ、了解しました! 女王陛下ッ!」

 

 ルシフの周囲にいた武芸者は一斉に散り散りになっていった。武芸者と剣狼隊が入り乱れている外縁部で、ルシフとアルシェイラたちの周辺だけはぽっかりと穴が空いているように空間ができている。

 アルシェイラ、リンテンス、カナリス、ティグリス、サヴァリス、トロイアット、レイフォンは互いに目配せした。全員小さく頷くと、散開しつつルシフとの距離を詰める。

 アルシェイラや天剣授受者、レイフォンは誘い込んでの奇襲でルシフを戦闘不能にできるなどという甘い考えはしていなかった。ニーナはルシフを出し抜いた時点でルシフは自分たちを対等な相手と認め、戦闘を中断するのではないかという希望的観測が多分に含まれている説を主張したが、誰からも同意は得られなかった。

 つまり何が言いたいかといえば、グレンダン側は作戦後のルシフとの戦闘も見据え、しっかり戦術を決めていたということ。

 

「ッラァッッ!」

 

 アルシェイラが二叉の槍をルシフに思いっきり叩きつける。ルシフは方天画戟で防いだ。ぶつかりあった衝撃が波紋のように拡がり、衝撃波となって外縁部を蹂躙する。その強烈さは誰もが戦闘を中断し、踏ん張らなければ吹き飛ばされてしまう程。

 ルシフは防ぎつつ、自身の周囲に鋼糸が張り巡らされているのに気付いた。すかさず纏う剄を化練剄で電気に変化。鋼糸に放つ。化練剄の変化、雷綱。電気が鋼糸に絡みつく。その瞬間、鋼糸の剄が衝剄となり、絡みついた電気を弾き飛ばした。鋼糸の剄技は継続される。

 

 ──リンテンス。己の技を磨いてまで鋼糸にこだわったか……いいぞ! それでこそ天剣最強と呼ばれるに相応しい!

 

 ルシフを閉じこめるように、鋼糸は三角錐の形に組み上げられた。アルシェイラが槍でルシフを上から押さえつけているため、ルシフは圧力で逃げられない。

 繰弦曲・崩落。鋼糸による衝剄を内向きに放ち、更に結界を維持することで衝剄の威力を内側に凝縮。結界内にあるもの全てを圧殺する剄技。

 アルシェイラは三角錐が完成した直後、二叉の槍を三角錐内から引き抜いた。三角錐に組み上げられた鋼糸の剄が衝剄に変化し、ルシフの全方位から強力な圧力を加える。ルシフも全身から衝剄を放ち、リンテンスの剄技に対抗。三角錐内は衝剄によるとてつもない光で外から見えなくなっている。

 そのまま十秒後、三角錐の結界が解かれる。解いたのではない。三角錐内の圧撃を維持できる時間がリンテンスをもってして十秒なのだ。

 ルシフの姿が見える。ところどころ黒装束は破れているが、目立った傷は見当たらない。

 

「あれを相殺したのか……化け物だな」

 

 リンテンスが目を見開き呟いた。リンテンスの剄技の中で最も破壊力のある剄技なのだ。それに真っ向なら対抗し、勝つ。三角錐の一部をこじ開け逃げるという選択もあった筈だ。だがルシフは逃げなかった。

 一陣の風が戦場を吹き抜けた。ルシフが咄嗟に方天画戟を払う。巨大な剄矢が方天画戟の穂先にぶつかっていた。剄矢の後方。ティグリスが弓を構えている。

 ルシフは方天画戟を振り抜き、剄矢を消し飛ばした。

 ルシフの気が一瞬逸れたのを見計らい、サヴァリスがルシフの背後に顕現。

 剛力徹破・咬牙。強力な衝剄と浸透剄で内外から同時に相手を破壊する剄技。これなら金剛剄でも防げまい、とサヴァリスは考えた。

 サヴァリスの拳をルシフは右手で受け流し、同時に左足の蹴り。

 

「そうくると……思ってたよ!」

 

 サヴァリスは回転しながら半身となって蹴りをぎりぎりかわし、逆の拳で再び剛力徹破・咬牙を放つ。その間もアルシェイラ、レイフォン、カナリスがルシフの死角から間合いを詰め、リンテンス、ティグリス、トロイアットは後方で剄を練り、ルシフの隙を窺っている。

 

「オオオオオオッッッ!!」

 

 ルシフがいきなりとてつもない雄叫びをあげた。その雄叫びはグレンダンだけでなくヨルテム全体まで届くかと思う程である。アルシェイラ、レイフォン、カナリス、リンテンス、ティグリス、トロイアットは思わず耳を塞いだ。その雄叫びにより、外縁部にいる武芸者と剣狼隊は数瞬戦闘を中断し、身体を硬直させていた。

 サヴァリスの拳はルシフの背中に当たる寸前で方天画戟に止められていた。サヴァリスの両耳からは血が流れている。攻撃的な剄が混合された音に、声量だけでも鼓膜が破れるのに十分な大きさ。ルシフと触れ合うほど接近し攻撃の体勢をとっていたサヴァリスに、耳を塞いで防御する時間は無かった。

 

「サヴァリスッ!」

 

 アルシェイラが叫んだ。

 サヴァリスは反応しない。サヴァリスの両耳の鼓膜はルシフの雄叫びで破られている。今のサヴァリスは聴力を失っていた。にも関わらず、凄絶な笑みをサヴァリスは浮かべている。

 

 ──音が消えた……? ハハッ、それがどうした!

 

 ルシフの右足の蹴りがサヴァリスの左腕を捉える。サヴァリスの左腕は直角に曲がり、骨が折れた。構わず、サヴァリスはルシフの眼前まで迫っている。

 千人衝。しかし、サヴァリスは一人。いや、千人のサヴァリスが重なっていた。つまり、これから放つ攻撃は千倍の威力をもつ。

 サヴァリスの左膝蹴り。ルシフの腹部を捉える。ルシフの身体が粉々に吹き飛んだ。サヴァリスが目を見開く。サヴァリスの背後にルシフが現れた。ルシフもサヴァリス同様千人衝で質量のある残像を創っていたのだ。

 耳が聴こえないサヴァリスは、背後にルシフが現れたことに気付かない。

 ルシフの周りに円形のレンズが創られる。トロイアットの伏剄が起動し、トロイアットが剄技を放つための剄を練り終えたのだ。

 サヴァリスは振り返り、そのまま後ろに跳躍。

 同時にレンズが太陽の光を浴び、輝き出した。熱線がルシフに集中する。ルシフは方天画戟を横に一薙ぎ。周囲のレンズが破壊され、熱線が消失。

 トロイアットの唇の端が吊りあがる。

 

 ──このおれがよォ、二度も同じミスをするわけねェだろ。

 

 熱のこもった壊れたレンズ。それがトロイアットの剄により、息を吹き返した。壊れたレンズの破片同士を繋ぎ合わせ、網のような形にしてルシフの頭上からルシフをすっぽり包みこもうとする。灼熱の檻。

 ルシフが灼熱の檻を掴むように右手を開いて突き上げた。衝剄が右手から放たれ、灼熱の檻が完成する前に止める。

 ルシフの左横からカナリスが体勢を低くして肉薄してきた。カナリスは音の斬撃を生み出すため、細剣を振ろうとする。そこでルシフは思いがけないことをした。方天画戟をカナリスに向かって放り投げたのだ。穂先を突き刺すように投げたのではなく、受け渡すような優しいパスだった。カナリスは当然、方天画戟を投げて攻撃してくる可能性もあると考えていた。故に、もしルシフが敵意を持って方天画戟の投擲をしていたら、反射的に対応しよけるか防ぐかできただろう。しかし、パスはカナリスの頭に無かった。あくびが出るほど遅いパスに、カナリスの頭は混乱した。何故なら、選択肢が増えたから。方天画戟はルシフの強さに直結する武器であり、奪うことができれば有利になる。その希望が、カナリスから回避と防御の選択肢を奪い、手を伸ばして方天画戟を掴むという選択肢を選ばせた。

 

「誘いだ!」

 

 ルシフがパスをした瞬間、レイフォンは叫んでいた。ルシフが方天画戟を簡単に渡すはずがない。隙を作らせるための罠。レイフォンは直感でそう思った。

 レイフォンの声が聞こえ、カナリスが手を引っ込めてルシフの攻撃に備えようとする。が、パスを受け取ろうとする際に生じる隙をルシフは狙っていたのだ。見逃すわけがない。

 ルシフが右手をあげたまま灼熱の檻を防ぎつつも、目にも留まらぬ速さで左足の蹴りを放つ。

 

「くッ!」

 

 レイフォンが右手を剣のように振り上げた。右手の剄が衝剄となり、カナリスに向かって襲いかかる。カナリスは突然のレイフォンからの衝剄に対応できず、吹っ飛ばされた。ルシフの左足の蹴りはカナリスの腹部を直撃するはずだったが、カナリスが吹き飛ばされたことでずれ、カナリスの脇腹を僅かに抉っただけだった。カナリスは脇腹から血を溢れさせつつ一回転し、ルシフの後方に着地。顔をあげ、ルシフを見る。ルシフの左手はパスした方天画戟の柄をすでに掴んでいた。間違いなく誘いのパスだった。

 ルシフは灼熱の檻に集中できる時間をコンマ数秒手に入れた。右手の衝剄の強さが増大する。右手に触れていた灼熱の檻が浮かび上がり、粉々になりながら天へ消えた。光の欠片が青空に溶けていく。ルシフは右手の指先を見る。五指の先だけ火傷していた。

 レイフォンがルシフの右斜め前方から接近。レイフォンは左手を背後に回し、人差し指を立てた。これは連輪閃をするという合図。後方にいたリンテンス、ティグリス、トロイアットがレイフォンに向けて剄を放つ。レイフォンの全身が輝き出した。

 それに対し、ルシフもレイフォンに向かって剄を放った。レイフォンは目を見開き、慌てて連輪閃を中断する。レイフォンは中断する前に取り込んだ剄の全てを右手に集中し、衝剄として前方に放った。青白い閃光が外縁部を抉りつつ、ルシフに迫る。ルシフは方天画戟を振り上げた。閃光と方天画戟がぶつかり、爆発音とともに閃光が霧散する。ルシフの左手は閃光の威力でビリビリと震えた。

 レイフォンの右腕は衝剄を放った後、無数の切り傷が生まれた。どれも浅いが、血が出ないほど浅いわけでもなく、レイフォンの右腕は血まみれになる。

 

 ──ルシフ、なんてヤツなんだ。連輪閃を一目見ただけで弱点に気付くなんて。

 

 連輪閃の弱点。それは取り込む剄を取捨選択できないことである。連輪閃の剄に触れた剄は全て取り込む。だから、攻撃的な意思を含んだ剄を取り込ませれば、勝手に自滅する。本来なら連輪閃で剄量を爆発的に増やした少しの間、身体能力を向上させてより確実な攻撃をしたかった。しかし、ルシフの剄を取り込んでしまったことで、即刻取り込んだ剄を技で発散して自滅を防ぐ必要があった。それでも、右腕をズタズタにされた。おそらく斬性を帯びた剄をルシフは取り込ませたのだ。もし即発散していなかったら、全身がズタズタにされていただろう。

 レイフォンは右腕を左手で押さえた。戦闘衣の左腕の部分が赤く染まっていく。レイフォンはルシフを睨む。ルシフはさっきからずっと楽しそうな笑みを浮かべたまま、表情が崩れない。

 ルシフとレイフォンの攻防の間、アルシェイラが左斜め前方からルシフに一瞬で接近していた。アルシェイラが二叉の槍をルシフの胸目掛けて突き出す。ルシフが右手で二叉の槍を横から払って軌道を変えた。二叉の槍はルシフの左脇腹に突き刺さり、そのまま肉を抉り取った。同時にルシフも方天画戟をアルシェイラに突きだしており、方天画戟の穂先はアルシェイラの右肩に突き刺さっている。アルシェイラは穂先を抜こうと後退しつつ、制御できるだけの剄を突き刺さっている部分に集中させた。アルシェイラは次にどうなるのか本能とも呼べる部分で読んでいた。穂先の剄が化錬剄により火に変化。穂先が爆発した。アルシェイラが爆風により吹き飛ぶ。

 化錬剄衝剄混合変化、爆裂槍。穂先の剄を化錬剄で火の性質に変化させ、同時に衝剄を混ぜ合わせることで爆弾のような効果を創り出す。

 アルシェイラは難なく空中で体勢を立て直して着地。右肩を見る。右肩の肉が抉れていた。血は出ておらず、赤黒い穴が右肩に空いているようだ。その周辺は焼かれていて重度の火傷をしているため、それが血止めとなっている。アルシェイラは凄まじい激痛に、歯を食い縛って耐えた。右手の指、動く。右腕、動く。神経は切れてない。だが、右腕を上げる時はとてつもない激痛が伴う。これがもし以前の自分なら、右肩が吹き飛ばされて右腕が宙を舞っていただろう。たとえ少しだとしても、剄を制御して防御に回せたことで、爆発のダメージを軽減させることができたのだ。

 ここでようやくグレンダン側の攻撃が一段落つき、仕切り直しとなる。ルシフを囲むようにアルシェイラ、レイフォン、カナリス、サヴァリスがいて、構えながらジリジリとルシフを中心とした円を描くように動いている。リンテンス、トロイアット、ティグリスは剄を練り上げながら、攻撃のタイミングを見計らっていた。

 

 ──ああ……強いわ、この子。

 

 アルシェイラは痛みを我慢して二叉の槍を構えつつ、そう思った。

 最強の力を持つ自分と天剣授受者レベル六人が束になって闘い、ようやく互角か少し有利程度の差しかない。それもルシフが手加減している状態で、だ。もしルシフが全力なら、カナリスとサヴァリスあたりはもう死んでいるだろう。自分だって右肩ではなく心臓のある胸を狙われていたら死んでいた。こちらはルシフを殺す覚悟で闘っているのに対し、ルシフは不殺を常に頭に置いて闘っている。

 ルシフは別に不殺を心掛けているわけではないのだろう。ニーナから聞いた話によれば、この世界から理不尽な死をできる限り無くしたいらしい。今ルシフがやっているのは侵略行為であり、理不尽なことである。故に信念に従えば、結果的に不殺しなければならないのだ。もし違う信念に従えば、虫ケラのようにあっさり自分たちを殺してくるかもしれない。

 アルシェイラや天剣授受者、レイフォンはルシフに対し敵意だけでなく、敬意も抱き始めていた。武芸の道を生きる者ならば、ルシフの圧倒的な強さが才能だけで得られないことを十分に理解できる。無論才能も必要だが、途方もない努力と試行錯誤、研鑽が無ければ天剣授受者一人にも及ばない。まだ十六年しか生きてない少年。十六年の内の何割を武芸に費やし、向上心を失わずに己を磨いてきたのか。アルシェイラや天剣授受者、レイフォンには予想もつかない極限の境地の中を歩んでこなければ、こんなにも高みには至れない。ルシフにとって、それは別になんでもないことなのだろう。己の才能を開花させ、磨き上げるなど才ある者の当然の義務だと考えているに違いない。

 ルシフの右腕と左脇腹からは血が流れ続けている。黒装束が更に黒く染まり、右腕から右手に伝った血がポタポタと落ちては地面に吸い込まれていく。内力系活剄による肉体活性化を優先しているため、血が止まるどころか血液の循環が良くなり吹き出るように血が溢れてくるのだ。

 ルシフは凄絶な笑みをしている。ゾクリ、とアルシェイラの背筋を冷たいものが撫でた。

 

「ルシフ、一つ訊いてもいい?」

 

 アルシェイラが口を開いた。戦闘中に会話など基本成り立たないが、こうして双方相手の出方を窺っている時は会話が成り立つ可能性がある。

 

「なんだ、もう息切れか? もっと俺を楽しませてくれよ」

 

「あなたにとって、強さって何?」

 

「己の意思を貫くための手段」

 

「だからあなたは最強になりたいの? 自分以外の全ての意思をねじ伏せたいから」

 

「ハハハハハハハハッ!」

 

 ルシフの纏う剄が凝縮されていく。右腕と左脇腹の出血がもっと激しくなる。

 

「俺は俺より強いヤツの存在が許せないんだよ」

 

 ルシフが瞬時にアルシェイラの眼前に移動した。アルシェイラに方天画戟を叩き込む。アルシェイラは二叉の槍で防ぐが、体勢を崩された。

 リンテンスの操る何千、何万という鋼糸の先端がルシフに襲いかかる。鋼糸による刺突。まともにくらえば、文字通りの穴だらけになる。リンテンスの巧妙なところは何百本という鋼糸を絡ませ束ね、攻撃の手数は少なくする代わりに一撃の威力の増大をさせたところだった。一本ずつきたのならルシフの皮膚すら貫けないため防御の必要もないが、何百本と絡めて剄量を増大させた鋼糸は剄の壁だけでは無傷にできない。また鋼糸に皮膚を破られるとそこから肉体内部に入り込み、無防備な内部から破壊される恐れがある。

 ルシフはアルシェイラへの追撃を諦め、方天画戟で鋼糸を全て弾いた。

 そこから再び八人入り乱れての戦闘が始まる。

 基本的にアルシェイラがルシフの相手をし、レイフォンと天剣授受者たちがフォロー。基本戦術はこれだった。

 グレンダンとヨルテムは八人の強大な剄に包まれ、あちこちに暴風にも似た突風が吹き荒れている。

 七人から攻められても、ルシフは軽く全身のどこかに傷を負うだけだった。それどころか、闘えば闘うほどルシフに負わせる傷が減っていっている。成長しているのだ。闘えば闘うほどアルシェイラやレイフォン、天剣授受者たちの動きを分析し、見切り、取り込む。彼女らの動きを自らの動きに取り入れ、自然な形で昇華させていく。それに負けじとアルシェイラたちも自らの動きや技術を昇華させ、ルシフに立ち向かっていく。

 好敵手同士の戦闘の場合、戦闘中に互いが強くなっていく場合がある。鍛練では決して得られない実戦での経験値が潜在能力を引きずり出していくのだ。今のルシフとアルシェイラたちの戦闘は正にこれだった。

 ルシフが笑みを浮かべている。アルシェイラたちもいつの間にか笑っていた。戦闘が楽しい。ルシフと闘うのが楽しい。

 ルシフはどれだけ血を流そうとも、笑って攻撃してくる。当然こちらも無傷ではない。ルシフに蹴られ、殴られ、方天画戟に薙ぎ払われ、化錬剄で焼かれ、衝剄で吹き飛ばされた。しかし、戦闘不能になる者はいない。サヴァリスは両腕を折られている。カナリスは右腕をへし折られた。リンテンスは全身に軽度の火傷を負わされた。ティグリスは肋骨が折られ、どこかの内臓が損傷した。トロイアットは右肩から左脇腹まで斜め一文字の切り傷が刻まれている。レイフォンは骨は折れていないが、打撲傷が上半身の至るところにあった。アルシェイラは裂傷が全身に刻まれ、打撲傷もやはり全身にあった。右肩の傷は未だに塞がってない。

 それでも、誰も戦意は喪失しなかった。ルシフとの戦闘が楽しくなってきたからだ。ルシフとの攻防の読み合い。どうすればこの最強の敵を倒せるのか。思考を研ぎ澄まし、実際に実行するという充実した時間。今まで会得してきた剄技を存分にぶつけられる至福。コンマ数秒で繰り広げられる力と力の応酬。そのどれを取っても今まで味わえなかった緊張と興奮があった。

 未だにルシフの攻撃には殺気が無く、急所も狙ってこない。だからこそ戦闘不能が一人もいないと言ってもいい。

 

 ──頭イっちゃってるわ、この子。

 

 アルシェイラはそう思う。

 まともな神経をしているなら、発狂してもおかしくない状況。痺れを切らして、殺したくなる。だが、ルシフはこの状況を心から楽しんでいるのだ。それに自分の命が奪われるかもしれないのに、相手を殺さないように倒すなんて考えられるのは普通ではない。ルシフは己の命より己の信念を大事にしている、とここでようやくアルシェイラは確信した。アルシェイラだけでなく、レイフォンら闘った者たちもそう確信する。

 

 ──でも、悔しいけど、カッコいいわね。

 

 ルシフの一貫された強さと精神力、強靭な打たれ強さはある種の美しさをはらんでいた。

 そんな、ボルテージが最高潮に達している時だった。花弁の形をした念威端子が戦闘に割り込んできたのは。

 いきなりの乱入に、戦闘が中断される。念威端子を境にルシフとアルシェイラたちが分かれて立った。どちらも訝しげな表情になる。この念威端子はルシフ側のものでもグレンダン側のものでも無かった。

 念威端子から映像が展開される。

 カリアンがツェルニの都市旗のある場所に立っていた。ヴァンゼも背後に控えている。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 カリアンは念威端子と通信する前までは身体が小刻みに震えていたが、通信する時には覚悟を決めていた。身体の震えは止まっている。

 カリアンの周囲に多数の映像が展開されていた。同時に、全都市のありとあらゆる場所で、念威端子によるカリアンの映像が展開されている。たくさんの人が多数の映像を通して、何のつもりか怪訝そうな顔でカリアンを凝視していた。カリアンの正面にはルシフ周辺を映した映像があり、ルシフやアルシェイラ、レイフォンといった人たちが見える。彼らも同様に怪訝そうな顔をしていた。

 

「こんにちは、全都市の皆さん。フォルト国学園都市ツェルニ都市長、カリアン・ロスです。

ルシフ・ディ・アシェナが武力をもって全自律型移動都市(レギオス)を制圧、掌握してはや一ヶ月が経ちました。その一ヶ月で、ルシフは暴政の限りを尽くしました。私たちにとって馴染みのある従来の法制度の廃止と新たな法制度の施行。何百年と積み重ね続けてきた伝統と慣習の破壊。厳しい基準による武芸者選別。それが原因で命を絶った元武芸者の自殺の増加。無理矢理な都市開発。学園都市連盟といった独立勢力の解体。逆らえば、徹底した残酷な制裁が下されました。

しかし、ご覧ください。ルシフはグレンダンの女王陛下と天剣授受者、優秀な武芸者の活躍により、苦戦を強いられています。今この瞬間しか、私たちこの世界に住む全ての人間が自由を取り戻す機会はないのです。暴政と弾圧から抜け出し、ルシフに飼われる人間ではなく、人間としての尊厳を取り戻すまたとない機会が、私たちの前にあるのです。

ルシフの政治を望むというのなら、私はそれを否定しません。しかしルシフの政治を望まないというのなら、私たちは今この瞬間に立ち上がり、闘うべきだ」

 

 カリアンがチラリと後ろを見る。ヴァンゼと目が合った。カリアンが小さく頷くと、ヴァンゼは掲げられているイアハイムと色違いの都市旗を外し、ペンを持った少女が刺繍された都市旗を新たに掲げた。

 

「フォルト国学園都市ツェルニは今この瞬間より、フォルト国からの独立を宣言します! この闘いに勝利すれば、今日という日は私たち人類が自由と尊厳を取り戻した記念すべき日となります! 共に闘い、暴力による支配を打ち破り、話し合いで互いを尊重しあえる新しい世界を私たち自身の手で掴み取りましょう!」

 

 映像越しに見る人々は歓声をあげ、拳を天に突き上げていた。

 

『闘おう! 自由と尊厳を取り戻そう!』

 

 イアハイム、グレンダン、ヨルテムを除いた全都市の映像から、そういう声があがっていた。

 念威端子に合図して、通信を切る。通信を切っても、周囲に展開された映像は消さなかった。

 大きく深呼吸し、カリアンは頭を右手で押さえた。身体が再び震え始めた。

 

「……私にできることはもう、ルシフくんを読み違えていないと信じることだけだ。読み違えていたなら、大量の血が流れることになる」

 

 カリアンの肩をヴァンゼが軽く叩いた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 

 まずカリアンの演説に飛びついたのは、武芸者選別試験で不合格になった元武芸者と、無能という烙印を押されて解雇された役人だった。

 彼らはルシフの支配下では栄華を望めない。故に真っ先に声をあげ、ルシフと闘うために錬金鋼を持ち出した。武芸者でなくなった時に錬金鋼は返す決まりだったのだが、ほとんどの人が武芸者を捨てきれず、一つだけ家に隠していたのだ。剣狼隊も家の隅々まで錬金鋼を探し回って回収しなかった。錬金鋼を持っていたところで脅威ではなく、緩めに確認して剣狼隊の評価を上げておくことを優先するようルシフに指示されていたからだ。

 

「俺たちもルシフと闘い、この都市に自由を取り戻そう!」

「電子精霊がルシフの言うことを聞いているのも、きっと俺たち都市民の命を使って脅迫したからだ! 従わなかったら都市民を次々殺していくと言われて、電子精霊は仕方なくルシフに協力しているんだ! 電子精霊もルシフから救い出そう!」

「この都市のために、暴王ルシフに正義の鉄槌をくだしてやろう!」

 

 そのどれもが建前だった。本音はルシフから都市を取り戻すことに尽力したことを手柄として、武芸者に返り咲くことを考えている者。ルシフの持っている利権、財産、そういったものをそっくりそのまま奪おうとする者。ルシフがいることで損をしていた商人や技術者による現状の打破。私欲にまみれて拳を突き上げる者ばかりであった。だが、建前の言葉が波紋のように広がり、一般人も感化されていった。私欲にまみれた者に釣られて次に拳を握りしめたのは、善良で臆病な民衆であった。

 そんな中、彼らの前に立つ者がいた。

 

「俺はサリンバン教導傭兵団の傭兵であり、グレンダンから派遣された別動隊だ! あなたたちのサポートをするため、ずっと都市に潜入していた。ここは俺の指示に従ってもらい、都市をルシフから取り返したいと思うのだが、異論がある者はいるか!」

 

 元武芸者、元役人、商人、技術者、民衆は互いに目配せした。

 目の前にたつ者がサリンバン教導傭兵団なのは、ずっと前から都市内でサリンバン教導傭兵団で仕事が欲しいと言っていたことから知っていた。サリンバン教導傭兵団がグレンダンに所属しているのは周知の事実である。また今ルシフを苦戦に追い込んでいるグレンダンと協力し味方になっておけば、ルシフを倒した後も色々有利になるかもしれない。

 無論、そういう結論になるよう、サリンバン教導傭兵団の傭兵はサリンバン教導傭兵団の名は頻繁に出しても闘ったりして実力を明らかにするようなことは一切しなかった。つまり、実力を隠すことで強さを判断する基準をサリンバン教導傭兵団というネームバリュー一点に絞ったのだ。サリンバン教導傭兵団はとてつもない武芸者の集団として、各都市から恐れと尊敬を集めている。その風評を上手く利用した。

 いってみれば、どの都市も火薬が詰まっている火薬庫だった。カリアンはそこに火を投げ入れることで、一気に爆発させた。そして爆発の方向をコントロールするための指揮者として、サリンバン教導傭兵団の傭兵が各都市に配置されていた。

 そこからは都市長室を制圧して都市旗を前の旗に戻すまであっという間だった。そもそも剣狼隊の全隊員はグレンダンとの戦闘に全て投入されている。都市の治安維持を任されていたのは、武芸者選別試験に合格した武芸者だったのだ。

 一斉に反乱が起こった時、反乱側に寝返る武芸者はそこそこいた。彼らとて好きでルシフに従っていたわけではなく、仕方なくルシフに従っていたのだ。きっかけができれば、裏切るのはごく自然な行動だった。従っている内にルシフや剣狼隊に心服した武芸者もいるが、反乱側から「今まで育ててもらった恩を仇で返すのか!」「この裏切り者! 武芸者の恥晒し!」などという言葉を浴びせられると、苦渋の表情を滲ませながら反乱側に立った。そう言われても頑なにルシフに味方する武芸者はいたが、本当にごく少数の数だった。彼らは圧倒的な数で囲まれ、全身を武器に貫かれて殺された。

 都市旗が以前のものに戻ると、それを見た都市民は歓声をあげて、拳を突き上げた。嬉し涙を流している者もいる。

 

 

 

 イアハイム、ヨルテム以外の都市が一斉に反旗を翻した。

 ハイアはヨルテムの王宮目指して走っていた。ヨルテムは非戦闘員の避難をしていたため、都市の上にいるのは武芸者と剣狼隊の念威操者だけだった。

 ハイアはツェルニでカリアンに仕事を依頼された時のことを思い出していた(※第49話でのカリアンとのやり取りの部分です)。

 

 

 

 サリンバン教導傭兵団の放浪バスの応接室。

 カリアンがソファーに座り、台を挟んだ向かいのソファーにハイアとフェルマウスが座っている。

 

『ルシフに関することで、我々に依頼があるのですか?』

 

「はい、そうです。依頼内容はグレンダン、学園都市以外の全都市に最低一人ずつ潜伏し、サリンバン教導傭兵団だということを宣伝すること。ただし、決して闘わず、実力を隠してください」

 

「……なんさ、その依頼」

 

「おそらくですが、ルシフ君は全都市を制圧していくでしょう。私の予想では、一番厄介なグレンダンを最後に制圧すると考えています。ルシフ君がグレンダンを制圧しようとした時、他の都市はきっと無防備になる。そこを上手く一気に奪い返すためには、奪い返す時機を一致させ、都市をルシフ君から取り返す民衆の指揮と誘導が必要になります。これは私の仮説である、全都市が念威端子の範囲内にあることが前提となっています。もしルシフ君が念威端子の届かない範囲で全都市を支配する方法を取った場合、どうしようもありません」

 

「……何言ってんさ? いやホントマジで」

 

「グレンダンとの戦闘でルシフ君が苦戦しない場合もアウトです。フェルマウスさんはグレンダンとルシフ君の戦闘中、グレンダンの念威操者と接触し、こちらの協力をお願いしてもらうのと同時に、ルシフ君が苦戦しているようなら私との通信を開き、全都市にグレンダンの念威操者と協力してルシフ君の苦戦している姿と私を映像で展開してもらいたい。それが上手くいって各都市で反乱が起こったら、潜伏していた団員がグレンダンの別動隊と声を上げ、自分に従うよう言って民衆を誘導して都市を取り返してほしい。依頼金はこれでどうです?」

 

 カリアンが制服のポケットから折り畳まれた紙を取り出し、台に置いた。

 紙を広げて中を見ると、団員一人一人に分配しても数ヶ月遊んで暮らせる金額が書かれていた。

 色々難しいことを言っているが、要は団員たちを各都市にそれぞれ潜伏させて、ルシフがグレンダンと闘う時にそのどさくさに紛れてグレンダンの念威操者に協力を依頼し、各都市でルシフとカリアンの映像を展開させる。それで反乱が起これば、潜伏していた団員が反乱した民衆の誘導をする。これだけの仕事である。ルシフが全都市を制圧していくなどという事態を前提にしているが。

 

『……それだけでよろしいのですか? それだと報酬が多すぎる気がしますが』

 

 

 

 ハイアはそこで意識を現実に戻した。

 ヨルテムの王宮前には、ヨルテムの武芸者が集まっていた。都市にまんべんなく配置されていたが、各都市が次々に反乱を起こしていく映像を観て、一番優先順位の高い王宮の守護に来たのだろう。

 

「何やってるさ、お前ら? 映像を観たろ? もうルシフの負けさ。ルシフに恩があるわけでもあるまいに、ルシフのために闘う意味、あるか? ないなら、おれっちと王宮を制圧するさ。ヨルテムをあんな暴虐非道な男の手に渡したままでいいんか? 闘え! ルシフと闘え! ルシフのために王宮を守るってんなら、一人残らずサリンバン教導傭兵団が相手になってやるさ!」

 

 ミュンファはハイアの後方の建築物の屋上に隠れて、弓で王宮前の武芸者を狙っている。

 王宮の前にいる武芸者はみな逡巡しているようだったが、数秒後叫び声をあげてハイアの方に寝返った。一人がハイアに付くと、次々に寝返りが加速する。三百人近くいたヨルテムの武芸者が、一気に五十人にまで減っていた。

 

 ──もう決まりさ。

 

 王宮の前に立つ武芸者の一人が剣を震わせて、ハイアに斬りかかった。ハイアの斜め後方から剄矢が迫る。ミュンファの剄矢。武芸者が斬りかかった剣で防御した。

 その瞬きのやり取りの間に、ハイアは錬金鋼を復元。その手に刀が握られ、一閃する。武芸者の首が飛んだ。

 それを皮切りに、王宮を守る武芸者に寝返った武芸者が殺到。優れた武芸者といえど、同等の実力者たちに囲まれ一斉に攻められてはどうすることもできない。全身にこれでもかというほど傷を負い、あるいは全身をバラバラにされ、絶命した。

 元都市長室から以前の旗を武芸者は持ち出した。ハイアは都市旗のある建造物の前で都市旗を見上げている。武芸者たちが掲げてある都市旗を取り外し、ヨルテムの都市旗を取り付けた。武芸者たちは歓喜の雄叫びをあげる。喜びに湧く武芸者たちの中で、ハイアは微かに笑みを浮かべた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

『映像妨害、できません!』

『グレンダンの念威操者のものと思われる端子が、各都市で映像を展開し続けています!』

『各都市が次々に反乱……ッ! 都市旗も以前の都市旗にされています! 念威端子に向かっての独立宣言が絶えません!』

 

 怒濤の展開に、グレンダン側とルシフ側の戦闘は休戦状態だった。

 ルシフは周囲に展開されている都市旗を取り外して以前の旗を取り付けている各都市の映像を、どこか冷めた目で観ていた。

 ルシフは各都市にサリンバン教導傭兵団がいた理由を味方を集めて反乱を企んでいるとしか考えていなかった。サリンバン教導傭兵団というブランドが持つ力を無視していたといってもいい。団員は敵ではない武芸者しかいないから、放っておいたところで脅威にはならないと判断していたが、まさかグレンダンの別動隊という形でサリンバン教導傭兵団を活かしてくるとは考えもしていなかった。

 その手があったか、という心地の良い驚きが胸を支配している。

 だが、それにしてもガッカリするのは各都市で反乱を起こした者たちだ。結局はぬるま湯に浸かって生きていく怠惰な人生を望んでいるのか。俺のやっていることを理解せず、ただ安定を求める。民衆とは愚者の集まりなのだろうか。

 そんなことより、今一番知りたいのはカリアンが何故裏切ったのか、だった。それもこの様子だと、サリンバン教導傭兵団がツェルニを離れる前までに裏切ることを決断していたようだ。その時、カリアンは俺が電子精霊に指示を出して全都市を一ヶ所に集めるという計画も知らなかった。つまり、全都市を一ヶ所に集めるという俺の計画を読み、その前提でサリンバン教導傭兵団に指示を出していたことになる。

 ルシフの正面に花弁の念威端子が現れ、映像を展開した。カリアンが映っている。ここだけしかカリアンとの通信は繋がっていないようだ。

 

「……やっぱりそうだったか」

 

『やっぱり、とは?』

 

「貴様は知らないだろうが、俺はお前を一番と言ってもいいくらい評価していた。グレンダンの女王よりもな。だから、俺にとって最大の敵はグレンダンの女王ではなく、貴様かもしれないと考えていた。積極的に貴様を勧誘していたのも、貴様が俺の味方になれば心強いと思ったからだ。

カリアン、訊かせてくれないか? 何故、俺を裏切った?」

 

『私は、君を信じきれなくなったんだよ。マイくんが傷つけられ、暴走した君を見た瞬間に。君にとって人類は、別に大した価値もない存在だと気付いたんだ。

今はまだいい。でも、君はふとした拍子に人類のためではなく、自分のために支配するようになるかもしれない。それがいつかは、分からない。数年後、あるいは数十年後かもしれない。でも、その時には君を止められる者はきっと誰一人残っていない。今日、この瞬間しか、君を止められるチャンスは残ってないのだよ。君が統一を成し遂げる前。君が妥協できるようになる前。君が自らの理想に命を懸けられる今しか、無かったんだ。勝つ機会は』

 

 カリアンの声が震えていた。恐怖で震えているのではない。カリアンの目には涙が溜まっている。

 

「別にお前を怒る気も、恨む気もない。俺は他人の意思をねじ伏せ、正しいと思うことを強要した。お前も俺と同じことをしただけだ」

 

『ルシフくん! 私は、君が嫌いなわけでもなければ、君のやり方全てを否定するつもりもない! むしろ、君のやっていることの殆どは私も好感を覚える! でも君は……君のやり方は急すぎるんだ! それじゃ誰も付いてこれない! 君はきっとなんだってできるのだろう。だからといって、なんでもしていいわけじゃないんだ! 本当にすまない、ルシフくん。心から、そう思う。そして、私は最期の最期まで、今の君のままでいることを望む』

 

「カリアン。お前はただの一度だが、俺を出し抜いた。その頭脳、これからも人類のために使えよ」

 

『ルシフくん……ありがとう』

 

 カリアンの頬を涙が伝っていた。

 カリアンの映像が消える。

 ルシフはこれからどうすれば自分が勝利するか、シミュレートを始めた。

 まずアルシェイラといったグレンダン側の武芸者の戦闘不能。それが終わったら、ヨルテムにいる反乱者を全員殺す。その後、各都市で反乱に加わった者を全員殺し、場合によっては反乱者の配偶者や子、親も見せしめで殺さなければならない。別に殺したいわけではないが、暴王ルシフとしてはこの選択しかない。部下である筈の剣狼隊に残虐な罰を与えておいて、部下でもない人間の反乱に手心を加えるなど今までのイメージからあってはならないのだ。

 それをすれば、また次々に反発し反乱が起こるかもしれない。また以前のように制圧した都市を鎮火させるまでには、以前とは比べものにならない時間を要するだろう。

 

 ──これは、駄目だな。

 

 勝てる目はゼロではない。だが辛勝になる。それも大量の犠牲者を出し、完全に鎮圧するまでにはとてつもない時が必要になる。泥沼の闘いに突入することになるのだ。お互いが疲れ果てる。そこをイグナシスという世界そのものを滅ぼそうとする勢力に狙われたら? 共倒れになる。

 カリアンの最期の言葉の意味を理解した。カリアンは分かっているのだ。まだルシフに勝てる可能性が残されていることを。しかしそれを選べば、犠牲者の数ははね上がる。ルシフが妥協せず、理想に命を懸けているなら、この先の戦闘を読み、負けを認めるとカリアンは信じている。カリアンは妥協できないルシフの傲慢さに力の限り弱者の矛を突き刺してきた。

 ルシフは静かに息をついた。

 念威端子を手に取り、口に近付ける。

 

「剣狼隊全隊員に、剣狼隊指揮官として最後の命令だ。これより、グレンダンへの降伏を許可する。グレンダンに降伏し、全都市を暴虐の渦に叩きこんだ暴王を討て」

 

『なッ……!』

 

 通信機越しに、隊員たちの驚愕に染まった声が聞こえた。

 

「聞こえなかったか? お前たちは俺を踏み越え、新たな世界の扉を開け。それが、最後の命令だ」

 

 念威端子から多数の悲鳴にも似た声が聞こえてくる。

 

「……今までずっと言えなかったが、お前らが俺の馬鹿げた理想を本気で信じ、全力で尽くしてくれたからこそ、俺はここまで来れた。本当にお前らには感謝している。今まで力を貸してくれて、ありがとな」

 

 暴政をした理由の一つとして、負けた場合自分一人の犠牲で戦闘を終わらせられるためというものがあった。

 上に立つ者は、臣下を無駄死にさせてはならない。ルシフはずっとそう思って闘いに臨んできた。

 

『ルシフさま! 嘘だって言ってください! ルシフさまぁ!』

 

 マイの声が端子から聞こえた。

 

「マイ、約束守れなかった。お前は強く生きてくれ」

 

『そんな!? ルシフさま! ルシフさまぁ!』

 

 

 

 

 ヨルテムの外縁部。

 剣狼隊の念威操者がいる。

 マイはルシフの言葉を聞き、いてもたってもいられず六角形の念威端子に跳び乗ってグレンダンの外縁部に移動を始めた。

 

『マイさん! グレンダンの外縁部は激戦区です! そんな場所に念威操者がいったら確実に死にます!』

 

「なら、このままルシフさまを見殺しにしろとでも言うんですか! 私は行きます! ルシフさまの気を変えてみせます!」

 

『本当に死んじゃいますよ!』

 

「それがどうした! お前らが着ている赤装束はなんだ! ルシフさまと共に生きるという誓いの証じゃないのか! ルシフさまを助けないというのなら、その赤装束脱ぎ捨てなさいよ!」

 

 念威端子から声が聞こえなくなった。すすり泣くような声が微かに聴こえた気がしたが、マイはどうでも良かった。

 

 

 

 

 ルシフは方天画戟を構えず、だらりと両腕を垂らして立っている。

 アルシェイラ、レイフォン、天剣授受者たちは唖然とした表情をしていた。さっき出したルシフの指示が聞こえたのだろう。

 

「メルニスク。ここから先は、俺のわがままだ。それでも、俺に付き合ってくれるか?」

 

 座して、死を待つつもりはない。力の限り闘い、潜在能力を一滴残らず絞り出し、自分がどこまで行けるのか、最期に知りたい。

 

《付き合うとも、最期まで》

 

 メルニスクの声が、ルシフの心に焔を灯した。メルニスクが協力してくれなければ、思う存分闘うこともできなかった。メルニスクにも、心から感謝する。だが、喉まできているのに、メルニスクには感謝の言葉が言えなかった。

 ルシフがアルシェイラたちを見据える。

 

「貴様らにはあと少しだけ、俺のわがままに付き合ってもらうぞ」

 

 自分以外の全員が束になって俺を殺せなければ、イグナシスからこの世界を守るなど無理な話。俺の跡を継ぐのだから、力でも俺を超えてもらわなければ困る。これが貴様らへの最終試練だ。




ここから分岐になります。

剣狼隊がルシフの命令に従い、ルシフを殺そうとした場合。

次話『ベストエンド 理想の結末』へ。

剣狼隊がルシフを救おうとした場合。

次々話『第95話 破滅のパレード』へ。


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ベストエンド 理想の結末

 念威端子から響くルシフの言葉が信じられなかった。

 おそらく実際は数秒の間だっただろうが、何時間という長い時間ショックで動けなかったような錯覚をした。

 

「暴王を討て! 暴王を討て!」

 

 剣狼隊の誰もがショックで硬直している中、声が聞こえた。男の声。エリゴだった。

 エリゴは刀を持つ手を何度も突き上げ、暴王を討てと繰り返し叫んでいる。

 ハルスは一気に頭に血がのぼった。

 

「おいエリゴ! てめぇふざけんじゃねぇぞ! 兄貴を見捨てる気か!」

 

「落ち着け、ハルス」

 

「落ち着けるか馬鹿野郎!」

 

「旦那の覚悟と男気を無駄にする気か!? なんで旦那があんな命令を言ったか少し考えれば分かんだろ!?」

 

 ハルスは唇を噛んだ。

 ルシフの命令を聞いた時、何故ルシフは剣狼隊と対立しているように見せかけていたのか、その理由に剣狼隊の全員が気付いた。全ては剣狼隊の命を救い、剣狼隊の立場を悪くしないため。

 分かっているのだ、本当は。エリゴの選択が正しいと。だが、納得できない。ルシフは大切な家族のような存在。家族を見捨てるような奴が、ルシフの理想を実現できるのか。

 

「……クソッタレが! おいエリゴ! これが終わったらぜってえてめぇをぶっ殺してやる! 覚悟しとけ!」

 

「ああ、やってくれ! そっちの方が俺も気が楽だぜ!」

 

 エリゴ、ハルスの小隊がルシフの方に移動を開始した。

 

 

 

 ルシフが方天画戟を構えた。

 向かい合っているアルシェイラ、レイフォン、天剣授受者たちも反射的に構える。

 

 ──……降伏だって?

 

 レイフォンは拳を構えながらも、ルシフが小声で念威端子に言った言葉を脳内で繰り返していた。

 まず真っ先に考えたのが、何かの合図ということ。剣狼隊に予め何かしらの作戦が用意してあり、その作戦を開始するキーワードが降伏だった。このキーワードなら相手を油断、混乱させられる。実にルシフらしいチョイスではないだろうか。

 そう考えなければ、この衝撃的なルシフの言葉に冷静でいることなんてできなかった。

 本当は分かっている。ルシフが降伏などと言う言葉を口にするのは、たとえ嘘でも嫌だと。あの言葉は真実だと直感が叫んでいる。

 勝ったのか? あのルシフに? 本当に? 何かこの状況をひっくり返す策をいつものように準備しているんじゃないか?

 次々に言葉が浮かんでは消える。それくらい、ルシフに勝ったのが信じられない。

 アルシェイラや天剣授受者たちも同じ気持ちなのだろう。誰もが驚きの表情をしている。

 多数の剄がここに近付いてきているのをレイフォンは感じていた。

 

「暴王を討て!」

 

 赤装束の武芸者がそう叫びながら、ルシフに向かって剣を振り下ろした。その武芸者の表情は苦しげに歪んでいる。

 ルシフが方天画戟を薙ぎ払った。振り下ろされた剣が砕け、柄の部分で武芸者の胸を打つ。武芸者は後方に転がり、動かなくなった。気を失ったのだ。

 この一連のやり取りでレイフォンは、さっきのルシフの指示はそのままの意味で捉えていいと確信した。本気でルシフに斬りかかり、ルシフも動けなくなるほどの強打をした。演技でもそこまではやらない。

 

「ルシフ、武器を置け! お前は負けを認めたじゃないか! どうしてまだ闘おうとする!? まだやり直せるんだ、お前は! 死を選ばないでくれ!」

 

 ニーナが電気を全身に纏ってルシフの前に現れ、そう叫んだ。

 

「貴様が望んだ結末だろう?」

 

「こんな結末、わたしは望んでない! わたしは、わたしはただ……」

 

 ニーナの頭に一枚の写真がフラッシュバックした。老性一期と雄性体三体の襲撃を防いだ後、入院したルシフの病室で撮った写真。十七小隊の面々も、ルシフも、マイも、みんなが笑みを浮かべ写っている。あの光景が、ツェルニを卒業するまで続いていくと信じていた。

 

「あの写真の時のような関係を取り戻したかっただけだ! お前と笑い合い、なんだかんだぶつかりつつも、同じ方向を向いて協力していたあの時を!」

 

「貴様が自分から顔を背けた。俺に付いてくれば、その未来は有ったかもな」

 

「お前のやり方は苛烈で非情すぎるんだ! なんで分からない!? お前はもっと情のあるやり方ができるだろうに、それをやらなかったんだ!」

 

「痛みを伴わない変化に、真の変化はない。痛みがあって初めて、人類は自らの価値観、倫理観が間違っていることを自覚する」

 

「そういうところだ! お前の悪いところは! 同じ人間なのに、自分以外の全ての人間を見下す! お前の価値観が絶対正しいなんて、なんで言い切れるんだ!?」

 

「なあ、ニーナ・アントークよ。貴様は産まれてくる時、どうだった?」

 

「……は?」

 

「血まみれで、産まれてきただろう? 血にまみれながら、新しい世界で生きたいともがき、叫び声をあげながら飛び出したんだろう? きっとそれが真理だ。新しいものはきれいに生まれてはこない。血にまみれ、もがき、苦しみながら、それでも新しいものを生み出そうとする意志を失わず、声を出し続けてようやく、新しいものは生み落とされる。新しいものが生まれる時はなぁ、色んなものでドロドロになりながら生まれてくるのだ。それを理解せん、愚か者が。綺麗事だけで先へ進めるわけないだろ」

 

「新しいものを生み出すためならどれだけ犠牲を払っても()いと言うのか!?」

 

「それがより良い未来に繋がるのなら」

 

「ッ……!? やっぱりお前は間違ってる!」

 

「なら俺を打ち殺せ! 勝った者が正しい! それも真理だ!」

 

「なんでお前はそう極端なんだ!?」

 

 その時、ニーナは後方から気配を感じた。肩越しに振り返る。レイフォンがルシフに殴りかかろうとしていた。

 

「やめろッ!」

 

「隊長!?」

 

 ニーナがレイフォンとルシフの間に割って入り、レイフォンの拳を鉄鞭で受け止めた。ニーナはルシフに背を向けている。言葉だけでなく行動で死なせたくないと示せば、ルシフも気が変わるんじゃないか。ニーナはそう思った。背後で不愉快そうな表情をしているルシフに気付かずに。

 

 ──この、救いようのない大馬鹿が。

 

 ルシフが方天画戟でニーナを薙ぎ払うべく、方天画戟を横にしつつ引く。

 レイフォンはルシフのその動きでルシフが何を考えているか察した。

 

「隊長、危ないッ!」

 

「え?」

 

 ニーナが振り返った時、方天画戟の柄はニーナの背に当たる直前だった。

 ニーナと方天画戟のその間に、刹那で割り込んだ影がある。赤髪をポニーテールにした女性──バーティンだった。

 双剣を十字に重ね、方天画戟を防ごうとする。バーティンが間に入っても、方天画戟の動きは鈍らない。勢い変わらぬまま、バーティンの双剣も巻き込んで薙ぎ払った。バーティンの双剣は砕け、柄がバーティンの胸を打つ。バーティンが真横に吹き飛んだ。ニーナもバーティンの身体に押される形で同様に吹き飛ぶ。

 ニーナは地面にぶつかる直前で鉄鞭の先を地面に突いた。それがブレーキとなり、ニーナは止まった。

 

「バーティンさん、大丈夫ですか!?」

 

 ニーナはすぐに身体を反転させ、自分の背にもたれるようにしているバーティンを抱いた。バーティンをゆっくりと仰向けで地面に寝かせる。バーティンが咳き込んだ。血が吐き出される。どうやら骨折した骨が内臓を傷付けたらしい。

 

「なんでわたしなどを庇って……」

 

「別に、お前を守りたかったわけじゃない」

 

 バーティンがまた咳き込む。血は口から溢れるばかりだ。

 

「私は、ルシフちゃんに武器を向けることができなかった。私は、私たちは、思い違いをしていた。私はただ倒れる口実が欲しかっただけだ」

 

 ルシフに武器を向ける。それは明確な敵対行為。ルシフと敵対することが、バーティンには耐えられなかった。

 

「何故、ルシフと敵対する必要があるのです? 剣狼隊のあなたたちはルシフを心から慕い、失いたくないという気持ちは誰よりも強い。ルシフを救うために闘えばいいでしょう?」

 

「……青いな」

 

 バーティンの両頬を涙が伝った。

 

「私は、この装束を纏った。指揮官の命令は遵守せねばならない。たとえどれだけやりたくないことでも、やらなければならないのだ。お前のように、心のまま闘うことはできん」

 

「……バーティンさん」

 

「ニーナ、お前にもいずれ分かる。心のまま闘いたくても、鎖で雁字搦めにされて身体が重くなるような感覚。好きなように動けない苦痛。だが、それが組織に属するということだ」

 

 そこまで言うと、バーティンは気を失った。

 ニーナはバーティンの左手首に指をもっていき、脈に触れた。脈はある。死んでない。

 

 ──何故、ルシフを救いたいのに、敵対しなければならない? 何故、願いはみな同じなのに、争わなければならない?

 

 ニーナの前には究極の選択肢がある。ルシフを救うか、ルシフを殺すか。だが、ルシフを救おうとしたところで、ルシフは味方だと思わない。剣狼隊ですら、平然と倒しているのだ。ルシフはもう自分以外の全てを敵だと思い定めてしまった。

 どう足掻いても、自分の望む未来はない。

 その現実を突きつけられたニーナが選んだ選択は、両手に握る鉄鞭を地面に落とす、という選択だった。ニーナの心は、戦意は粉々に砕かれた。

 ニーナはそのまま膝を曲げて座り、顔を俯ける。膝の上には涙が落ち続けていた。今のニーナは武芸者では無くなった。汚染獣が来ると知らされ、シェルターに逃げ込んで汚染獣に殺されないことを祈る一般人と同じ、確実に訪れる未来と理解しながらも、目を閉じ耳を塞いで怯えるただの少女になった。事の成り行きを他人に委ねたのだ。

 轟音が、剄の奔流がニーナの全身を叩く。しかし、ニーナは座り込んだままだった。

 

 

 

 ルシフは戟を振るい、襲いかかってくる剣狼隊やグレンダンの武芸者を次々に戦闘不能にしていた。

 シャーニッドが遥か遠くから、狙撃銃のスコープを片目で覗いている。

 

 ──ルシフ、お前には感謝してるんだぜ。お前がいたから、ディンとシェーナは救われた。もう二度と取り戻せないと思っていたものを、お前が掬い上げてくれた。けどよ、もうお前は決めちまったんだよな。なら俺は、お前の選択を尊重するぜ。

 

 シャーニッドが引き金を引いた。銃弾が撃たれる。更に引き金を引き続けた。六発の銃弾がルシフ目掛けて飛んでいく。

 その銃弾に合わせて、バーメリンも狙撃銃の引き金を引き、六発撃った。

 シャーニッドの銃弾とバーメリンの銃弾は同速ではなく、バーメリンの方が少し速い。ルシフの手前で互いの銃弾がぶつかり合い、それぞれ軌道を変えた。ルシフは金剛剄を使い、銃弾を全て弾く。

 その時、アストリットが動きを止め、狙撃銃を構えた。スコープを覗き込む。ルシフの顔が間近に見えた。アストリットは咄嗟に銃口を下げた。

 

 ──やっぱりルシフさまに銃は向けられませんわ! ごめんなさい、ルシフさま。

 

 アストリットは涙を溢れさせつつ、引き金を引いた。放たれた銃弾はルシフの前の地面を抉り、砂塵を巻き上げる。

 ルシフの視界は砂塵で妨げられた。念威操者のサポートは無くなっているため、砂塵の中では敵を正確に把握できない。

 ルシフの全身から放たれた剄が化練剄によって不可視の鞭となり、円を描くように振るわれた。砂塵もろとも、全方位から襲いかかってきた武芸者を吹き飛ばした。

 その不可視の鞭を跳躍してよけ、サヴァリスがルシフの真上から蹴ろうとする。鞭を放ちながらもルシフは方天画戟をサヴァリス向かって突き上げていた。穂先と足甲がぶつかり合い、凝縮された剄が混じり合って外縁部を駆けめぐる。

 その時生じたルシフの一瞬の隙。リンテンスが鋼糸を密かに操る。鋼糸はルシフの右腕に殺到し、皮膚を破った。

 これで体内で鋼糸を移動させ、ルシフの意識を奪うことができる、とリンテンスは考えたが、ルシフはリンテンスの思いもしない行動に出た。

 ルシフは化練剄で剄に斬性を帯びさせ、再び不可視の鞭として自らの右腕を肩の付け根から切り落とした。噴水のように右肩から血が噴き出される。

 さすがに右腕を切り落とすのは激痛だった。もはや痛みだけでなく、灼熱に似た熱さも感じる。ルシフの顔に汗の玉が浮かんだ。それでもルシフは笑みを崩さなかった。

 確かに鋼糸が体内に侵入した以上、侵入元である右腕を切り落とすのは確実な対処法と言える。しかし、やらなければ意識を失うと理解していても、それをやれる武芸者が一体何人いるのか。

 ルシフの右肩に焔が出現した。剄に火の性質をもたせ、右肩に纏わせたからだ。切り口を焼くことで、止血をする。肉が焼けるにおいがたちこめ、周囲の者は顔をしかめた。

 とてつもない苦痛。

 

「ははッ!」

 

 しかし、ルシフは笑い声を漏らした。顔中に汗をかいているが、表情は楽しそうなまま。

 次々に剣狼隊の隊員がルシフに襲いかかる。エリゴ、ハルス、レオナルト、オリバ、フォル、サナック。それぞれが叫び声をあげて向かってくる。どの顔も表情が歪んでいた。

 ルシフは方天画戟と化練剄による攻撃を駆使し、それらの攻撃を防ぎ、倒していく。だが、やはり片腕。防御も一人ならばともかく、複数で同時に攻められては防御する部分を全て剄の膜だけで防ぐのは無理だった。全ての剄を集中させる技術を剣狼隊の全員が会得しているのだ。剄の膜ならば、なんとか突き破れる。

 サナックの拳、オリバの鎚、フォルの鞭、レオナルトの棍は方天画戟で防いで弾き飛ばしたが、エリゴの刀、ハルスの大剣はそれぞれルシフの右足と右肩から少し下の部分を切った。切り傷が生まれ、血が流れる。

 ルシフは離脱を許さなかった。不可視の鞭で二人を打ち、二人とも地に転がった。

 更に方天画戟を振り回し、サナックら四人を狙う。サナックに方天画戟が当たる直前、方天画戟の勢いが弱まった。方天画戟に鋼糸が巻きついている。プエルの鋼糸。その時のプエルは涙が止めどなく溢れていた。

 方天画戟に凝縮させている剄を鋼糸に流し、鋼糸は剄量に耐えきれず砕け散った。

 トロイアットが伏剄で複数のレンズを創り、太陽光を集めた熱線を集中させる。ルシフは方天画戟に剄を乗せ、レンズを全て破壊。

 その瞬間、クラリーベルがルシフの懐に潜り込み、体勢を低くしながらすれ違いざまに左脇腹を切ってそのまま駆け抜ける。駆け抜けたクラリーベルの身体は恐怖と興奮で震えていた。

 カナリスが細剣を振るい、音の刃を生み出す。

 ルシフは方天画戟を振り回して同様に音の刃を生み出して相殺するが、その間にサヴァリスが背後に回って剛力徹破・咬牙を放つ。金剛剄で防ぐが、浸透剄による内部破壊は防げない。

 ルシフは内臓の損傷により、口から血を吐き出した。吐きつつも、すぐさま左足の後ろ蹴りをサヴァリスに叩き込み、サヴァリスも血を吐きながら地面を転がった。

 

《ルシフ、もうよい! もう楽になれ! 汝はよく闘った! 世界の理不尽に真っ向から立ち向かい、世界の在り方そのものを変貌させたのだ! たとえ誰がなんと言おうと、我は汝を誰よりも偉大な人間だと考えておる!》

 

 メルニスクの声が聴こえた。

 サヴァリスに蹴りを入れようとした時には、右からルイメイの鉄球が迫ってきていた。サヴァリスを蹴り飛ばしたのとほぼ同時に、鉄球がルシフの右からぶつかった。

 ルシフは足を踏ん張り、鉄球の直撃を受けても倒れず、吹き飛びもしなかった。

 

《ルシフ! もう汝は死に体なのだぞ! それ以上抵抗してもその先は苦痛しかないのだ!》

 

 メルニスクの声がどこか遠くに聴こえていたが、すぐに鮮明に聴こえるようになった。意識が飛びかけていたらしい。

 

 ──うるさいな。今、いいトコなのに。

 

 メルニスクの言葉はルシフを不愉快にさせた。

 身体を回転させ、鉄球を方天画戟で弾き飛ばす。鉄球は凄まじい勢いでルイメイに正面からぶつかり、ルイメイは地面に仰向けで倒れた。

 右腕を失い、口からは血を吐き出し、全身に傷を浴びながらも愉しげな笑みを崩さないルシフの姿。その姿は全員に畏怖にも似た感情を抱かせた。

 

 ──俺は、あの時の俺より少しはマシになれたのだろうか。

 

 マイに出会う前。全力で生きる人間を嘲笑い、ただやりたい事をやる人生こそ最高だと思っていたあの頃。なんでも好きなことをやれる人生が中身のない人生だと分からなかったあの頃。

 苦難が人生に彩りを与える。苦難のない人生など、炭酸の抜けたコーラも同じ。甘いが、どこか物足りない。

 ルシフが苦難を味わうためには、世界の全てを敵に回すスケールの大きさが必要だった。いや、違う。スケールの大きい理想が、必然的に苦難も運んできたのだ。

 この世界から、理不尽な死をできる限り無くそう。生まれた場所も親も関係なく、精いっぱい生きられる世界にしよう。人間が、人間らしく死ねる世界を。犬猫のように人間が死なない世界を。

 ティグリスが剄矢を放った。方天画戟で弾く。カルヴァーンが肉薄し、幅広の剣を薙いだ。左足で剣の腹を蹴る。幅広の剣が真上に飛んだ。カウンティアが背後に回り、青龍偃月刀を頭上から振り下ろした。半身になってかわす。

 

 ──本当に、馬鹿な夢をみた。

 

 誰が聞いても、そんなことはできないと指差して笑うような、馬鹿な理想。だが、そんな理想だからこそ、本気で実現させる価値がある。叶えがいがある。

 リンテンスの鋼糸が全方位から天剣授受者たちの間を縫って襲いかかってきた。方天画戟を回転させて全て弾く。レイフォンが、凄まじい速度で左側面から接近してくる。連輪閃により、剄を吸収した後の状態。レイフォンがいたところにはリヴァースとトロイアットがいた。彼ら二人の剄を吸収したらしい。

 レイフォンはルシフの心臓目掛けて、右手の貫手。ルシフが左腕を動かし、左腕で防ぐ。左腕が貫手に貫かれ、そのまま切断された。方天画戟を持った左腕ごと、宙を舞う。

 レイフォンは苦痛にまみれた表情をしていた。ルシフは左腕を犠牲にすることで得たほんの数瞬の時間で身体を捻り、レイフォンの貫手を身体で受け流した。そのまま左足の廻し蹴り。レイフォンの背を蹴り飛ばす。

 

 ──どいつもこいつも、それが勝者の顔か。

 

 ルシフに向かってくる者のほとんどが、表情を苦しげに歪めていた。まるでルシフを討つことを嫌がっているように。何故暴王を討つのに、表情を苦痛そうに歪めるのか。

 

 ──笑えよ! 暴王を討つのだぞ! 笑え!

 

 アルシェイラが雄叫びをあげ、二叉の槍を構えて正面から突撃してくる。アルシェイラの表情も歪んでいた。

 

「やめてええええええッ!」

 

 アルシェイラの背後から、念威端子に乗って移動しているマイの悲痛な叫び声がした。

 アルシェイラはその叫び声に覚悟を揺さぶられたか、ルシフの心臓を貫く筈だった二叉の槍は僅かに軌道を変え、ルシフの心臓の少し下を貫いた。穂先がルシフの身体を貫通し、背中から穂先が見えている。

 アルシェイラは息を荒く吐きつつ、二叉の槍を抜いた。

 ルシフの胸と背中から血が噴き出され、ルシフの身体はふらついた。霞んでいく視界の中で、ルシフは視線を動かす。切断された左腕と方天画戟。次に自分の身体。右肩と左肘の先はない。

 

 ──これではもう、方天画戟は持てんぞ。

 

 夥しい血が、自分の身体から流れていく。これは致命傷だ。どう足掻いても、この状態から生は掴めない。

 もうルシフに攻撃してくる者はいなかった。誰もが、ルシフの死を確信していた。

 

「ルシフ。あなたは誰よりも強く、誰よりも偉大だった。たとえやり方が苛烈で残虐でも。最期に言い遺したい言葉があるなら、聞いてあげる」

 

 アルシェイラが痛みを堪えるような表情で、そう言った。

 ルシフが殺す気で闘ったならば、たとえ人類全員を敵に回しても殺し尽くせただろう。ルシフの戦力は全人類を加えた戦力をも上回っている。だが、ルシフは理想のために自身の命すら度外視する覚悟を決めており、信念を貫き通す強靭な精神力があった。ルシフに対する憎悪はもう消え去り、今はただルシフの生き様に感服していた。

 アルシェイラの言葉を聞き、ルシフは鼻で笑った。

 言い遺したい言葉。そんな言葉はない。人として生まれ、男として生まれた。ただやりたいことをやるために魂を燃やして生き、死ぬ時は前のめりで死ぬ。男の人生など、それでいい。俺を偉大だと言ったが、別に偉大なところなどない。俺はただ、進み続けただけだ。もっと高みへ。もっと先へ。もっと、もっと、どこまでも先へ。

 空を見上げた。雲一つない、どこまでも澄んだ空。

 

 ──マイの色だ。

 

 今日は、死ぬには良い日だ。

 空。誰もが空を思い、空を見上げる。だが誰も、空が何を思っているのか、真意は掴めない。空よ、お前も孤独か。唐突に、空に親近感が湧いた。

 

 ──いや、俺は孤独じゃなかった。

 

 マイが、メルニスクが、剣狼隊がいる。俺が死んでも、俺の意志は彼らの中に残り続け、また次へと継承されていくだろう。そう信じられるからこそ、こんなにも清々しい気分になれるのだ。

 

 ──空よ、俺が一瞬でもお前に寄り添おう。気にするな、俺の心はお前と同じくらい広いんだ。

 

 空が暗くなっていく。視界が黒く塗り潰されていく。最期に、暴王らしい言葉を吐かなければ。

 

「よく聞け! 貴様らが取り戻したい世界は俺が徹底的に蹂躙し、破壊した! 貴様らは俺の創りあげた世界の枠組みの中で、この先を生きていくしかないのだ! ざまあみろ! ハハハハハハハハハ……!」

 

 ルシフの全身から凄まじい剄が天に向かって迸った。それは天を衝く巨大な光柱に見える。と同時に、斬性を帯びた不可視の鞭がうねり、ルシフ自ら自身の首をはねた。

 光柱が収まると、ルシフの頭は地面に転がっていた。頭を失ったルシフの胴体も、前のめりで地面にうつ伏せで倒れた。

 

「あ……ああ……! そんな……」

 

 念威端子から降りてルシフの頭を見たマイは、あまりのショックに気を失って地面に倒れた。

 剣狼隊も次々に武器を手から落とし、その場で顔を俯けた。涙を流しているところや、哀しんでいる表情を見られないようにするためである。

 世界を恐怖に叩き込んだ暴王を討ったのだから、むしろ喜ぶのがルシフの願いであろう。しかし、剣狼隊の誰もが笑顔を見せられなかった。

 アルシェイラは二叉の槍を持ったまま、言いようのない後味の悪さに沈んだ表情になった。

 初めからこうなると分かっていたのに、この後味の悪さはなんなのか。きっとルシフと闘ったことでルシフという人間に触れてしまったからだ、とアルシェイラは思った。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフの死体は棺に入れられ、イアハイムに送られた。そのことに対し、『ルシフの死体など野晒しにしとけばいい』と大勢の人間が言ったが、アルシェイラは『死んだ者を鞭打つような真似をすれば、ルシフと同じになる』と言って却下した。アルシェイラの強さを理解しているため、そう言われてしまえば民衆は何も言い返せない。

 その後、アルシェイラ、レイフォン、ニーナ、天剣授受者、剣狼隊の小隊長らがマイアスの王宮に向かって歩き出した。それ以外の武芸者は混乱を鎮圧するために各都市に行った。どの都市もお祭騒ぎだった。都市民が嬉しそうに踊ったりしている。

 向かう途中、リーリンとゼクレティアが彼らに合流した。シェルターから出てきたのである。

 

「……リーリン」

 

 レイフォンがリーリンの顔を見て驚いた。リーリンの両目は涙で溢れている。

 

「レイフォン。どうして最期の最期で、ルシフは自害したと思う?」

 

「……誰からも、殺されたくなかったんじゃないかな。あの傲慢さが誰かに殺されるのを許せなかったんだよ」

 

「そうかな?」

 

 リーリンは僅かに顔を俯けた。

 

「じゃあリーリンはどう思う?」

 

「誰にも、自分を殺した罪を背負ってほしくなかったんじゃないかな。自分一人でけじめをつけたかったんだと思う。誰にも借りを作らずに」

 

「……そう言われれば、そうかもしれない」

 

「レイフォンの言ってることも、きっと間違ってないと思う。あの人は自分を最高に能力の高い人間だと信じて疑ってなかったから。誰かに殺されることは、きっと言い訳のしようのない敗北だろうし」

 

「なんていうのかな、ずっとこうなるって、分かってたんだ。分かってたのに、なんか後味がとても悪い。各都市の人たちはみんなたがが外れたように喜んでるのにさ、気分は沈んだままなんだ」

 

「ねえ、レイフォン。こんな結末しか、なかったのかな?」

 

 リーリンの言葉に、その場にいる全員が黙り込んだ。

 マイアスの王宮に入り、ルシフの寝室に入った。何かルシフが遺しているかもしれない、と考えたからである。

 寝室にある机の引き出しの奥の方、隠すように二つの封筒が入れられていた。片方が『グレンダンの女王へ』と外に書かれ、もう片方は『剣狼隊へ』と書かれている。

 ルシフの遺書。

 そう判断した彼らは書かれた通り、剣狼隊へと書かれた封筒はエリゴに渡し、アルシェイラはグレンダンの女王へと書かれた封筒を開けた。五枚も入っている。

 アルシェイラは遺書を読み始めた。

 

『これを読んでいるということは、俺は負けたということだろう。どう負けたかは想像がつかんが、想像もつかぬ展開でしか俺は負けんから、貴様らグレンダンは俺を一時でも超えたということになる。俺を殺せて貴様らは喜んでいるだろうな。好きなだけ喜べ。この俺に勝ったのなら、どれだけ喜ぼうが恥ではない。ただし、同情だけはするな。俺自身が選んだ道。後悔などしていない。

そろそろ本題に入らせてもらうが、俺を殺した後世界がどうなるか、これからどう動くべきか、この先二年間の計画をここに記しておく。活用したければすればいい』

 

 アルシェイラの視線は遺書に釘付けになった。

 この先二年間の計画。それは計画というには、あまりにも複雑だった。まずルシフ同様の中央集権制にしたい場合、分権制にしたい場合で分かれ、それぞれ実現するための計画が細かく記させていた。またこれをやったら情勢がどう動くか、民がどう考えるかありとあらゆる可能性が記され、その可能性ごとに対処法が書かれている。またそこから考えられる全ての可能性を羅列され、また全ての可能性に対しての対処法が書かれている。そしてまたそこから考えられる可能性を……という具合に、矢印を多用して書かれ続けているのだ。

 アルシェイラは驚愕した。この遺書はありとあらゆる未来を実現する計画書なのだ。この中から望んだ未来を選び、書かれた通りのプロセスを踏めば、確実に実現できるだろう。

 こんな人間によく勝てた、とアルシェイラは心から思った。いや、実際カリアンがいなかったら勝てなかっただろう。

 アルシェイラは読み終わった後、震える手でレイフォンに渡した。

 レイフォンはみんなが読めるよう机の上に遺書を広げる。遺書を読んだ者はみな、感心して唸り声をあげた。

 

「まるで予言書だな。どれも実現するまでのイメージが明確に浮かぶ」

 

「……やっぱりルシフは天才だ。ルシフと争わず、ルシフに従っていた方が良かったかもしれない」

 

「なんていうか、すげえガキだな。ここまでのモン、あのガキ以外には作れねえだろうぜ」

 

 リンテンス、ニーナ、トロイアットが呟いた。

 

「……いっつも、それ」

 

 彼らの背後から声が響いた。開けられた寝室の扉にマイがもたれている。

 

「いつだってそう。ルシフさまが何かやり始めた時は馬鹿だの、イカれてるだの言って、結果を目の当たりにした途端に天才だの、すごいだの褒め称えて……もうウンザリなのよ! そういうの! すぐ手の平かえして、何がルシフに従えば良かった、よ! 殺す! お前ら一人残らず殺してやる! 全員震えて眠れ!」

 

「マイ、少し落ち着け」

 

 バーティンがマイに近付こうとする。

 マイがバーティンをキッと睨んだ。

 

「仲間面して話しかけるな! この裏切り者ども! 恥知らずの死に損ないどもが! さっさと死ね! 二度と私の前に顔を見せるな!」

 

 それだけ言うと、マイはどこかに駆け去っていった。

 寝室内がしんと静まり返る。

 エリゴが無言で封筒を開け、遺書を取り出した。

 エリゴが遺書を読み始める。

 

『同志諸君。これを読んでいるということは、俺はグレンダンに負けたのだろう。だが、俺は何も心配していない。何故なら、俺の遺志はお前たちに継承され、お前たちが理想の実現に邁進すると信じられるからだ。

これから本題に入るが、今から書くことは命令ではない。ただお前たちに頼みたいことだ。

一つ、俺の葬儀は絶対にするな。民衆が死体を切り刻めというなら、切り刻めばいい。野晒しで放置してもよい。とにかく、俺の死を最大限に利用しろ。俺も今までそうしてきた。自分は他人の死を利用し続けたのに、自分の死は汚してほしくないとか、そんな虫のいいことは言わん。

二つ、自分の財産を秘密裏に自分の子を産んだ可能性のある女性に分配してほしい。マリア・ナティカ。サラ・ゼーロバー。レリーナ・アルツト。ジョセイヌ・ディプロ。ナーデル・ベシュテルグ。シェーン・ヘンドラー。ゼクレティア・ラウシュ。この七人だ。それから、俺の子という情報は絶対に公開するな。

最後になるが、この世界が何百年と積み上げてきた負の遺産、膿、汚濁は全て、俺が死とともに背負い、持っていく。これから先、今までの世界より良くしていけるかどうかは、諸君らの働きにかかっている。理想に向かい、進み続けてくれ。

それから、できる限りマイを気にかけ、助けてやってほしい。これは志とは関係ない、俺の純粋な頼みだ』

 

 遺書にポタリと涙が落ちた。

 エリゴが顔を手で覆いつつ、遺書を他の者に渡す。遺書を読み終わったら、誰もが涙を目に溜めていた。本当にルシフが死んだのだという実感。そして、死に向かってもなお、ルシフはルシフであった。

 

「すまねえ……すまねえ、兄貴! 俺が弱いばっかりによお……。グレンダンの奴らを俺が倒せてれば……!」

 

「あ? そいつは聞き捨てならねえな。今あのガキのところに送ってやろうか?」

 

「やってみろや! その腹、ぶった切ってやらあ!」

 

 言い争いを始めたハルスとルイメイ。

 その間にプエルが割り込む。

 

「二人とも落ち着いて! これからは一緒に世界を良くしていく仲間なんだから、仲間割れは駄目だよ!」

 

「仲間ぁ? こいつらみたいな、兄貴のこと何も理解しなかった、しようとしなかった奴らの力になるなんざ俺はごめんだぜ! そもそもこいつらは大局が見えず、ちっせえ私情を優先して兄貴に逆らったから兄貴は死んじまったんだ! 兄貴に降伏してりゃあ、円滑に世界を良く変えていけたってのに」

 

「俺もな、あのガキに好きで従ってた時点で、お前らを仲間だとはぜってえ認めねえ! こいつらと一緒に闘うなんざ、考えただけでヘドが出る」

 

「やめてったら!」

 

「そう言うプエルも、心の底じゃグレンダンと一緒に闘うなんざ嫌なんだろ?」

 

 プエルがギクリと表情を強張らせた。すぐに作り笑いを浮かべる。

 

「な、何言ってるの、ハルちゃん。そんなわけないでしょ。グレンダンの人たちと協力しなかったら、ルっちゃんの理想を実現するのは無理なんだよ? あたしは剣狼隊だ。私情を殺して、信念のために闘う。それこそ、ルっちゃんがあたしたちに望んだものでしょ」

 

「俺は兄貴のために闘ってきた。兄貴がいなくなったこの世界がどうなろうと、知ったこっちゃねえ」

 

 そう言うと、ハルスは寝室から出ていった。バーティンとアストリットもハルスに続き、出ていく。

 

「あーもう、バラバラだよぅ……。ルっちゃんがいた時はあんなに一つに纏まってたのに」

 

 プエルはため息をついた。

 

「それだけルシフ殿の存在が大きかったのじゃ。プエル、お主もやせ我慢するな。今日くらいルシフ殿の死を哀しんでも、ルシフ殿は怒らんよ」

 

 オリバの言葉を聞き、プエルの脳裏に自分の琴を気持ち良さそうに聴いていたルシフの姿がよぎった。

 

 ──もう二度と、あの時みたいな時間は取り戻せないんだよね。

 

 プエルの目からみるみる涙が溢れた。

 

「……ごめん……ごめんねルっちゃん! あたしが弱かったから……! う、うわああああああん!」

 

 プエルは両手で顔を覆い、泣いていた。他の剣狼隊小隊長たちも涙を堪えている。

 

「……その、プエルさんはルシフのこと、好きだったのですか?」

 

 ニーナがおそるおそる訊いた。

 プエルは必死に涙を我慢し、ニーナの方を見る。

 

「ニーちゃん。そういうとこだと思うな、あたし。ニーちゃんの悪いところ。空気、読もう?」

 

「す、すいません!」

 

 ニーナが頭を深く下げる。

 その姿にプエルは一つため息をついたが、すぐに表情を緩ませた。

 

「ルっちゃんのことは大好き。でも、勘違いしないでね。異性として好きとか、家族として好きとか、そんな薄っぺらい好きじゃない。ルっちゃんはあたしの人生そのものだった」

 

「それはつまり、ルシフを助けられるなら命を捧げても構わないと?」

 

「もしルっちゃんを生き返らせられるなら、あたしは何百回地獄の苦しみを味わって死んでも構わない」

 

 プエルの全身から放たれる静かで凄まじい気迫にニーナは呑まれ、息を呑んだ。

 プエルはニコリとニーナに笑いかけた後、剣狼隊小隊長たちの方に視線を向ける。

 

「ごめん、みんな。今日はちょっとイアハイムに帰るね。心の整理をしたら、必ず剣狼隊に戻ってくるから」

 

 プエルの言葉を聞き、剣狼隊小隊長たちは小さく頷いた。

 プエルは目尻を指で拭いながら寝室から出ていった。おそらくルシフの死を哀しんでいると都市民に思われないようにするため、涙を拭ったのだろう。

 

「プエルは自分に自信がなくてよくおどおどするし、争いも嫌いだけど、剣狼隊の中で一番気高いかもな」

 

 エリゴがそう呟いた。

 

「グレンダンの人たちに言いたいことがあるんだけど、いい?」

 

 フォルが涙を拭って言った。

 この場にいるアルシェイラ、レイフォン、ニーナ、天剣授受者たちがフォルに視線を向ける。

 

「わたしはあなたたちを責めない。ルシフのやり方は強引で暴力的だった。抵抗できるだけの力があるなら、抵抗するのは普通。けど、あなたたちが負かしたルシフって男は、たとえやり方がどれだけ外道で鬼畜だったとしても、この世界から汚染獣の脅威と都市間戦争を無くして理不尽な死をできる限り減らす、って信念をもってたんだ。それだけはずっと忘れないでよ! わたしたちはその信念と熱に惚れて、この赤を着たんだ!」

 

 グレンダン側の返事も聞かず、フォルが涙を散らしながら駆け出し、寝室から出ていった。

 

「フォルとプエルは俺たちの心を代弁した」

 

 レオナルトが言った。

 

「もしあんたらがこれから大将の信念を引き継ぎ、都市間戦争と汚染獣の脅威を無くして各都市の治安を良くしていくと言うなら、俺たちも積極的に協力する。けど、もし以前のような人間同士で殺し合う状態に戻そうってんなら、圧倒的な実力差があったとしてもあんたらと敵対し、殺してでも止める。俺は殺さずに倒そうと考えられるほど、強くねえからよ」

 

 剣狼隊小隊長たちはレオナルトの言葉に頷いた。

 エリゴはレオナルトの横顔をじっと眺めた。ルシフが死ぬ前にはなかった色が加わっている。

 

 ──自分の命を守るより人殺しが嫌いだったお前が、殺すなんて言葉を口にするとはな。それだけ旦那の存在が大きかったってことか。

 

 寝室から剣狼隊小隊長たちが去っていく。

 寝室に残ったのはグレンダン側の人間とレイフォン、ニーナだけだった。

 アルシェイラは机の上に置いてある遺書に視線をやる。

 

「闘う前から、ニーナの情報でルシフが都市間戦争と汚染獣の脅威を無くそうとしていることは知っていた。けど、それは仲間を集めるための建前だって思ってた。そうやって仲間を増やして自分の立場が絶対的なものになった時、私欲のままに権力を使うようになると。でも、違ってた。ルシフは建前じゃなく本気で都市間戦争や汚染獣の脅威を無くそうとしてたことは、さっきの戦闘でよく伝わってきた」

 

「では、これからどうなさいます?」

 

 カナリスが尋ねた。

 

「この計画書通り、事を進めましょ。わたしより半分も生きてない子が、これだけの覚悟と熱意をもって今までずっと闘ってきたのよ。怠けたり、どうせ無理って諦めたりするのはもうできないわよね」

 

「はい」

 

 カナリスが返事をし、他の面々も頷いた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 『縁』の空間。闇に星を散りばめたような空間に、電子精霊が集結していた。メルニスクに全ての電子精霊が向き合っている。ここだけ見ると、メルニスクとそれ以外の電子精霊で敵対しているように見えた。

 

「メルニスクよ。妾ら全員に話があると言いましたね。聞きましょう」

 

 シュナイバルが一歩前に出た。

 

「重要な場合以外は、我に接触しないでほしい」

 

「それはどういう意味ですか?」

 

「我はイアハイムの機関部で、イアハイムを見守ろうと考える。ルシフが生まれた都市を、ずっと。我が消滅するその日まで」

 

「イグナシスの襲撃で世界が窮地に立っても、傍観に徹すると?」

 

「その時は、我の全てを懸けてイグナシスを滅ぼそう。だが平時は、我を放っておいてくれ」

 

「ルシフと共にいた時とは随分な変わりようですね」

 

「我は暴王と人々に呼ばれた男に力を貸したのだ。我はあまり表に出ない方が良いだろう。それに、ルシフは我の救世主であり、友だった。あの男以外の者と共に闘う気にはならん。少なくとも今は」

 

「いいでしょう。それから、ルシフの死後もグレンダンの女王が今の状態を希望したため、妾たちはこれからもこうして一緒に行動することになりました。人間の努力次第になりますが、上手くやれば都市間戦争も汚染獣の脅威も無くなるでしょう」

 

「それも、ルシフがいたからこそたどり着けた解答だ」

 

 シュナイバルが静かに頷いた。

 盾と剣を持つ青年の電子精霊に、メルニスクは顔を向ける。

 

「そういうわけで、これから滞在させてもらう。よろしいか?」

 

 青年の電子精霊は嬉しそうに頷いた。

 

「そう言えば、あなたの魂の欠片──ルシフが使っていたあの武器はどうします? 今はグレンダンの手に渡り、厳重に保管されているようですが」

 

「好きにすればよい。願わくば、ルシフの理想を継承した者に使用してもらいたいが」

 

「分かりました。そのようにグレンダンの女王には伝えておきましょう」

 

「母よ、感謝する」

 

 メルニスクの姿は『縁』から消失した。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 人類の命運を決める最終決戦があった次の日の夜。

 カリアンはツェルニの都市長室にいた。執務机の上は大量の手紙が置かれている。

 カリアンは執務机を前にした椅子に座り、深く息を吐き出した。カリアンのその姿には疲労の色が見える。

 それもその筈であり、カリアンに対して『ルシフに立ち向かう勇気をもらった』とか『ルシフの世界にならなかったのは君のおかげだ』というような意味の言葉と賛辞を伝えてくる訪問者が大量にやってきて、その相手を朝から今までやっていたのだ。訪問者の大半は役人や武芸者といった役職を持っている者だった。

 彼らの言葉を聞くたび、罪悪感が胸に突き刺さった。もしルシフの死が数年後だったならば、世界の反応は真逆になっていただろう。ルシフが史上最悪の暴王であった時点で、ルシフを死に追いやってしまった。ルシフの評価を現時点で永遠に止めたのだ。

 訪問者はルシフが本当は何を狙って今までの暴政をやっていたか、理解すらしていない。ただ自分の好き勝手に動いた暴王という印象しか持っていない。

 カリアンが執務机に積まれている手紙を見て、もう一度深く息を吐き出した。読む気にならない。大量の賛辞の言葉が皮肉に感じてしまう。

 しかし、読まなければ、と思う。読んで返事をし、さりげなく世界をどうしていくべきか匂わす。そうすることで、今後の世界を良くしていく地ならしのようなものができるはずだ。

 

『カリアン。お前はただの一度だが、俺を出し抜いた。その頭脳、これからも人類のために使えよ』

 

 最期に言われたルシフの言葉が頭から離れない。ルシフを殺した自分は、ルシフの理想を引き継ぎ実現する責務がある。休んでいる時間はない。自分の全てを懸けてでも、より良い未来へ邁進しなければ。ルシフがそうしていたように。

 室内が異常事態に陥ったのは一瞬だった。

 窓が外側から割られ、無数の念威端子が室内に入ってくる。六角形の念威端子。迷わずカリアンに殺到する。

 その時、扉が勢いよく開かれ、レイフォンとニーナが室内に踏み込んできた。念威端子を全て二人が破壊し、端子の破片が大量に床に落ちた。

 フェリが廊下から顔だけを不安そうに出している。ほぼ無表情だが、カリアンには微細な表情の変化でもフェリの感情を読み取れた。

 実は朝一番にフェリ、ニーナ、レイフォンが来て、もしかしたらマイに命を狙われるかもしれない、と言われた。そう言われても、驚きはしなかった。むしろ当然の行動だと思った。それでずっと三人は近くの部屋に待機し、フェリが念威でツェルニ全体を見張ることになり、マイが現れたらすぐさまニーナとレイフォンに伝える段取りになっていた。

 窓の外。念威端子のボードに乗っているマイがいた。ツインテールを風に遊ばせている。無表情だった。

 

「マイ、もう止めてくれ! そんなことをしても、ルシフは喜ばない!」

 

「ニーナ・アントーク。本当にお前は人の神経を逆撫でするのが上手いな」

 

「……マイ?」

 

 以前のマイとはまるっきり違っている。まるでルシフがマイに憑依しているような……。

 

「ルシフさまは喜ばない? なんでそんなこと分かるのよ」

 

「マイくん! もしルシフくんが今の君の姿を見たら、きっと悲しむ──」

 

「今、なんて言った?」

 

 カリアンの言葉を遮り、マイが言った。

 

「ルシフさまの代弁をしたな。ルシフさまのことを裏切っておいて、さもルシフさまの心を理解しているかのように話したな!? 今、ルシフさまがどこにいるか知ってる? 土の下よ。お前らがそこに追いやったくせに、なにがルシフくんが今の君の姿を見たら悲しむ、よ! ふざけるな! いつかお前ら全員土の下に送ってやるから覚悟しろ!」

 

 マイの念威端子のボードが動いた。マイの姿が暗闇に溶けていく。

 

「本当にあれがマイさんなのですか?」

 

 フェリが僅かに目を見開いて言った。

 

「おそらくだが、マイくんはルシフくんの模倣をしている。それが自身の感情の暴走を助長しているんだ。私のせいだ。私がマイくんをそういう人間にしてしまった。私の命で償いたいと思うが、ルシフくんの理想を実現するまでは、死ぬことはできない」

 

「兄さん……」

 

 フェリがうなだれるカリアンの姿をじっと眺めた。

 レイフォンが無言でフェリに近付き、待機していた部屋に戻るとジェスチャーで伝えた。

 

「兄さんはルシフを裏切ったことを後悔しているのでしょうか?」

 

 部屋に戻ったら、フェリがそう言った。

 

「後悔してるかどうかは分からないけど、負い目は感じてると思う。それから、ルシフの存在が大きかったからこそのプレッシャーも」

 

「……なんで、こんなことになってしまったのかな。わたしはただ、ルシフやマイと以前のような関係に戻りたかった。ルシフと敵対しても、お互いに認め合い、助け合って世界をより良くしていける時がきっとくる、と信じていた。もし、だ。もしわたしが天剣を奪い返してルシフと敵対なんてしなければ、ルシフがグレンダンに苦戦することはなく、誰も犠牲者を出さずに終わっていたのかな。わたしのしたことは、本当に正しかったのだろうか……!」

 

 ニーナの目から涙が溢れ、嗚咽を漏らした。

 

「……隊長。ルシフと決戦する時までは、ルシフが世界をどうしたいか、何を本当は考えているのか分からなかった。でも今は、ルシフが本気でこの世界から理不尽な死を減らそうとしていた、という思いを理解できた。今の僕らにできることは、その思いに報いることだけです」

 

 レイフォンの言葉に、ニーナは涙を流しながら何度も頷いた。

 

「……そう言えばレイフォン。あの時の返事、今できそうですか?」

 

「今って、ここでですか? 隊長もいるし、恥ずかしいんですけど……」

 

「わたしがいると都合が悪いなら、部屋から出るが。いや、わたしがいたら迷惑にしかならないか」

 

「隊長。らしくないですよ、そういうの。てか、そういう隊長本当にウザいので、早く立ち直ってもらえません? あと、隊長はこの場にいてもいいです」

 

「フェリ。お前はいつも辛辣だな。少しは慰めてくれてもいいじゃないか」

 

「誰かに優しい言葉を言われたら簡単に癒える傷なんですか?」

 

 ニーナはフェリの問いに思わず黙り込む。癒える筈がない。心を深く抉ったこの傷は。分かっている。この傷は自分の力で受け入れ、乗り越えていくしかないのだと。

 

「それでレイフォン、早く返事を言ってください。ちゃんと立会人もいますよ」

 

「立会人て……。結婚するわけでもないのに……」

 

「ふーん。わたしのことは遊びだったんですね。散々弄んでおいて、飽きたらさっさとポイですか。この人でなし」

 

「ちがッ! 人聞きの悪いこと言わないでくださいよ! 隊長のあの顔を見てください! めっちゃ動揺しちゃってるじゃないですか!」

 

「だったらいい加減、腹を括ってください。どうなんですか? どんな返事でも、わたしは受け入れるつもりです」

 

 レイフォンはチラリとニーナを見る。

 ニーナはハラハラと成り行きを見守っていた。どうしたらいいか分からないらしい。

 レイフォンは深呼吸し、覚悟を決めた。

 

「僕は、フェリといる時が一番僕らしくなれると思う。だから、ずっと傍にいてほしい」

 

 言い終えるかどうかというところで、フェリがレイフォンの胸に飛び込んだ。レイフォンが優しく抱きしめる。ニーナはこの展開に頭がついてきていないようで、ポカンとした表情をしていた。それが何故かおかしくて、レイフォンは笑った。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「ルシフくんが死んじゃってから三日。どう、そっちは?」

 

 赤髪の女医が正面に座っている。ここは診察室だが、診察するためにこの場にいるのではない。話をしたいと言ったら、この部屋に案内された。

 

「どうもこうもありませんよ。剣狼隊八十二名が除隊届けを提出。そのまま除隊。その中には隊長格のアストリット、バーティン、ハルスもいます。なお、彼らはみな、除隊しても助けが必要ならば必ず力になると約束しています。除隊届けを出さなくても、無期限の休みを希望してきた隊員が九十六名。今現在の剣狼隊の人数は六十五名。ルシフさんがいた時の約四分の一の人数です。また、各都市に派遣されていた役人も続々とイアハイムに戻ってきています」

 

「そういうあなたはどうなの、ゼクレティア? ていうか、妊娠してたのね。いきなり妊娠検査の結果を持ってきて話がしたいなんて、びっくりしちゃった」

 

「ルシフさんがヨルテムを制圧したすぐ後に、お願いしちゃいました」

 

「あら? それを口にするのはルシフくんとの約束を破るのではなくて?」

 

「ってことは、あなたもそうでしたか。レリーナさん。一年前に出産したとは聞いていましたが、誰の子かは言いませんでしたね」

 

「医者の私に話っていうのは、やっぱりその関係?」

 

「我が子の出生届けの偽造をお願いしたいんです」

 

「まあ、お金払ってくれたらやるわよ? それが患者のためになるなら」

 

「あれ? ルシフさんの遺産を受け取らなかったのですか? あれだけのお金があれば、困りませんよね?」

 

「ああ、あのお金? 医療施設と医療設備が不足してる色んなところに寄付してばらまいちゃった。全部すっからかんよ。だからいっぱい働かなくちゃ」

 

「わたしも孤児院に全部寄付しましたよ。わたしたち二人だけでなく、受け取った人全員が福祉関係や医療関係に寄付してます」

 

「あらやだ。全部知ってた上でここに来てたのね、この確信犯」

 

「こう見えても剣狼隊の秘書をやらせてもらっていたので」

 

 ゼクレティアが胸を張る。二人は吹き出し、笑い声をあげた。

 

「なんていうか、ルシフくんに気にかけてもらえたってだけで満足しちゃったのよね。ルシフくんの子を授かる時に、自分の力だけで育てるって決めてたから、援助をそのまま受けるのは裏切りになるって考えたの。たとえルシフくんからの援助でもね」

 

「わたしも、似たような感じです」

 

「マイちゃん、どうしてる?」

 

「剣狼隊の兵舎には一切顔を出さず、毎日ルシフさんのお墓の前にいますよ。朝から夕方まで、ずっと」

 

「ルシフくんが死んだ時、マイちゃんは気を失ってたからイアハイムに連れて帰ったの。私はルシフくんがいたからヨルテムで働いてもいいと思ってただけだし、マイちゃんもヨルテムに未練なんてないと確信してたから。

マイちゃんは目覚めると、ひどく取り乱して病室を出ていったわ。一心不乱に走る彼女を追いかけると、ルシフくんの棺がちょうど埋められるところだった。マイちゃんは周囲からの制止の声も聞かずに棺を無理やり開けた。そしてルシフくんの頭を持ち上げてその口に口づけを──」

 

「もういいです!」

 

 レリーナの言葉を遮り、ゼクレティアが怒鳴った。

 

「わたしは一度聞いた話は忘れられません。それ以上は聞きたくありません」

 

「あの子の心は粉々に壊れたわ。世界を閉じて、世界の全てを拒絶してる」

 

「それだけ、ルシフさんの存在が大きかったんです。わたしも、以前は仕事をしっかり頑張ろうと思えたのですが、今は何もやる気にならなくて……」

 

「ルシフくんのために生きることを目的にしていた人たちは、生きる目的を失った今、何に対しても無気力になっているでしょうね。剣狼隊しかり、役人しかり。ルシフくんの死を受け入れ、乗り越えていくか。それとも乗り越えられず、潰れていくかは当人次第ね。あ、そういうこと」

 

「何がです?」

 

「あなたがここに来た理由よ。偽造だけじゃなくて、入院したくて来たんでしょ?」

 

「そこまでお見通しですか。もうなんか疲れちゃったんです。ルシフさんに仕えていた頃のお金はたくさん残っていますし、一年くらいは出産に専念しようかと。その後、ルシフさんのいない世界でも、ルシフさんの理想のために頑張れるかどうか、ゆっくり決めていきたいと思います」

 

「いつまでも居てくれていいわよ。お金は取るけどね。それが医者と患者のルールだから」

 

「お世話になります」

 

 ゼクレティアはレリーナに深く頭を下げた。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 マイはルシフの墓石の前に座っていた。

 殺しに行っても全て防がれてしまうため、マイはとりあえず警戒が弱まるまで大人しくしようと考えた。

 

 ──死ね! 死ね! 死ね!

 

 頭に響き続ける声に、マイは顔をしかめた。

 声が聴こえる。私の死を願う世界の声が。

 ルシフの声はノイズが酷く、よく聴き取れない。

 今のままじゃ、ルシフの声は世界の声に掻き消されてしまう。

 

 ──ぬいぐるみ! ルシフさまが憑依できるぬいぐるみを買ってこよう!

 

 素晴らしいアイデアだと自分を褒めながら、ぬいぐるみを売っている店に行った。

 店内を歩いてぬいぐるみを見て回ってみたが、しっくりくるものがない。ルシフさまの依り代になるものだ。しっかり選ばなければルシフさまが不機嫌になってしまう。

 イアハイムではなく、物流の中心であるヨルテムならば、運命の出会いがあるかもしれない。

 そう考え、マイはヨルテムに行った。まだルシフから解放されたことを祝福するお祭騒ぎは収まっておらず、大通りを大勢の人が踊りながら歩いている。

 道行く人々の中には笑い声をあげながら、ルシフについての悪口を言っている者もいた。

 一気に気分が悪くなる。

 だからヨルテムに来るのは嫌だったのだ。イアハイムだけはルシフの死を哀しみ、悪口を言う者もいない。居心地は一番良い都市だった。

 全ての人間が汚なく見える。醜悪な笑みを浮かべ、ルシフを罵っている。マイは人間という種そのものに絶望し、心の底から憎悪するようになっていた。

 

「お前らみんな滑稽な生きものだ! どの生きものよりも汚なくて醜いのに、誰もそれに気付きもしない! 一人残らず死ね! 人間なんて絶滅しろ!」

 

 いきなりそう叫んだマイに、周囲の人たちは冷ややかな視線を浴びせる。

 

「いきなり何言ってるの、あの子?」

「あの女、ルシフに従ってた念威操者じゃね? ルシフに感化されて頭イっちまったんだよ。ほっとけ」

「ままー、あのお姉さんいきなりどうしたのー?」

「しっ! 指さしてもいけません! さ、早くあっち行くわよ」

 

 私がイカれてる? 違う。イカれてるのはお前らの方だ。

 好奇の視線に晒されながら、マイは足早にその場から立ち去った。

 ぬいぐるみが売っている店に入る。イアハイムの店とは種類も量も比べものにならないほど多かった。

 人の形をしたぬいぐるみは論外。動物のぬいぐるみにしようとずっと決めていたが、ルシフは動物で例えたら何になるだろう、と動物のぬいぐるみを眺めながら考える。

 どこか犬っぽいところもあれば、猫っぽく感じる時もある。どの動物がルシフに当てはまるというより、どの動物もルシフに当てはまるが、単体でルシフを表現できる動物はいない、と言う方が正しいだろう。

 これでもないあれでもないと視線をキョロキョロさせていると、一つのぬいぐるみに目が留まった。

 様々な動物の特徴を混ぜ合わせたぬいぐるみである。値札のところには『合成獣キメラちゃん!』と書かれていた。

 

 ──キミにしよう。運命の出会いはやっぱりあった。

 

 マイはレジに合成獣キメラちゃんを持っていき、会計を済ませた。

 機嫌を良くしたマイはすぐさまイアハイムに帰り、墓石の上に合成獣キメラちゃんを置いた。

 

「ふふっ、これでいつでも話せるね、ルシフさま!」

 

 マイは屋敷に帰る時も合成獣キメラちゃんと一緒に帰り、お風呂以外は寝る時でさえ合成獣キメラちゃんを持ち歩いて傍に置くようになった。

 日が昇るのと同時にルシフの墓まで合成獣キメラちゃんと出かけ、日が落ちると合成獣キメラちゃんと一緒に帰る。いつしかマイは合成獣キメラちゃんをキィーちゃんと呼ぶようになった。

 

「ルシフさま、どうかな? 綺麗なドレス着てみたんだけど。ルシフさまって赤が好きだよね。え、似合う? 本当に? やったぁ! ルシフさまのために着てきた甲斐があったよ!」

 

「ルシフさま、美味しいスイーツを買ってきたよ。上にのってるイチゴが甘くて美味しいの。え、食べたいの? もう、ルシフさまの食いしん坊! あげない! ふふふふふふ」

 

「ルシフさま、見て見て! 白い薔薇の花をお花屋さんで買ってきたの! 珍しいよね! うん、やっぱりルシフさまもそう思う? とっても綺麗よね! 今供えてあげるからね! あははハハハ」

 

「ルシフさま、どうこのイヤリングと指輪? キラキラしてて、まるで別人になったみたいでしょ? ああ、そうだったんだ。ルシフさまってキラキラしたアクセサリーが嫌いだったんだね。ううん、気にしてないよ。ルシフさまが喜んでくれるアクセサリー探すの楽しいから。また見せてあげるよ。ふふっ、アハハははハ」

 

「ルシフさま、素敵な時計を買ったの! えっ、時計なんてどれも一緒? 時間がわかればいい? もうっ、ルシフさまったら! 同じ時計でも可愛いのとか色々凝ったやつとかあるんだから! えっ、今度見たいって? うん、今度来る時に持ってくるね! アハハハハハ」

 

 合成獣キメラちゃんを買ってから五日後の夜。

 マイは合成獣キメラちゃんを抱きしめながら、ルシフから与えられた屋敷に帰っていた。

 

「今日もキィーちゃんのおかげでいっぱいルシフさまと話せたよ。ありがとお」

 

 屋敷の扉を開けて、中に入る。

 扉を閉めた瞬間、誰かがマイを通路に押し倒した。

 

「ぐっ……!」

 

「よう。久しぶりだなあ」

 

 ボサボサの髭をした中年の男がマイの上に乗っている。

 

「叔父さん!?」

 

「おうよ、感動の再会ってやつだ。お前が家出した時は探したんだぜ。それをお前、あろうことかアシェナ家に逃げ込みやがって。お前の親権をかけた裁判も、俺には養育していく能力がねえって、アシェナ家に親権を持ってかれちまった。けどよお、今となっちゃアシェナ家も絶えた。あの忌ま忌ましいガキも死んだ。俺がこの十一年、どんな思いで生きてきたか知ってるか? 屈辱的な扱いをされながらも、いつかお前を取り戻してやるって毎日思ってたんだぜ? つうか、なんだこのぬいぐるみ? 気持ち悪い見た目しやがって」

 

 叔父がひょいと合成獣キメラちゃんをつまんだ。

 

「やめて! キィーちゃんに触らないで!」

 

 マイが涙目で叫んだ。

 叔父が下品な笑みを浮かべる。

 

「なんだよ。お前こんな化け物にお熱なのか? 化け物の下僕だったからって化け物を好きになっちまうとか、もう調教済みかよ。けど、随分『遠回り』したが、やっぱりお前の人生は男に寄生し、男を悦ばせるだけの人生なんだ。ほら、ぬいぐるみ千切ってほしくなかったら、俺の言うこと聞きな」

 

「なんでも言うこと聞くから! キィーちゃんを返して!」

 

「返しちまったら言うこと聞くか分かんねえだろ? そうだな、まず服を全部脱いでもらおうか? お前の叔父だからな、お前がどれだけこの十一年で成長したか見てやんねえと」

 

「……分かり……ました。上からどいてください」

 

「おう」

 

 叔父が上から身体をどかした。

 叔父は逃げ道を塞ぐように玄関の前に立っている。

 マイは立ち上がり、ゆっくりと服を脱いでいく。叔父は鼻息を荒くして、マイを舐めるように見ている。

 下着一枚になった瞬間、マイの全身から念威が迸った。念威が叔父を包み込み、ノイズと頭痛を誘発させる。念威妨害。

 

「がああああああッ! マイ、お前──」

 

「レストレーション」

 

 念威はマイの服も覆っていた。錬金鋼は念威と声があれば復元できる。身体に身につけている必要はない。

 六角形の念威端子が襲いかかり、叔父の腕を突き刺す。叔父は激痛で合成獣キメラちゃんを床に落とした。

 下着一枚で隠しもせず、マイは叔父に近付いて合成獣キメラちゃんを拾い上げた。叔父の血がべったりと付いている。

 

「まっ、待ってくれ! 久しぶりに姪と会えたから舞い上がっちまったんだ! 俺が悪かった!」

 

 叔父は恐怖で顔を引きつらせていた。

 

「犬の真似をしろ」

 

「は? 犬?」

 

 六角形の念威端子が再び叔父に殺到する。叔父の全身に端子が突き刺さった。

 

「ぎゃああああああッ!」

 

「犬の真似をしろって言ったのよ、叔父さん?」

 

「し、したら助けてくれるのか!?」

 

「さあ? それは分からない。でも、やらなかったら絶対に殺す」

 

 叔父はマイの殺気に当てられ、顔を青ざめながら四つん這いになった。

 

「おすわり!」

 

 叔父が犬のおすわりのポーズをする。

 

「フフフ、アハハハハハははははハハハははハハハハハハ!」

 

「……これで助けてくれるんだな!?」

 

「駄犬は死ね!」

 

 端子が叔父の首を切り裂き、叔父はそのまま玄関で息絶えた。

 マイが血の付いた合成獣キメラちゃんを抱えて屋敷を見て回ると、窓の一つが外側から割られていた。どうやら叔父は窓を割って屋敷に侵入していたらしい。

 マイは服を着て、真っ暗になった外に出た。走り続け、ルシフの墓の前に行き、正座する。墓石の上に血塗れの合成獣キメラちゃんをのせた。

 

「ルシフさま、わたしにはわからないよ。強く生きるって何? どういう生き方が強い生き方なの? ルシフさまのように生きようとしたけど、やっぱり私の人生は男にずっと弄ばれるだけの人生なのかな?」

 

 ──マイ、辛いのか?

 

「うん。辛いの。とっても。こんな世界にいたくない」

 

 ──マイ、俺も寂しい。お前に傍に来てほしい。

 

「えっ? ルシフさま、寂しいの? なら早くそう言ってくれれば良かったのに。約束したよね? ずっと傍にいるって。今、ルシフさまのお傍に行くからね」

 

 マイが錬金鋼を復元し、マイの全身に六角形の念威端子が突き刺さった。

 世界が真っ白になっていく。真っ白な世界の中、マイの目の前でルシフが両手を広げていた。マイはルシフの身体に抱きつく。ルシフの身体はびっくりするほど冷たかった。

 

 ──そうだよね。こっちの世界の身体が温かくても、向こうの世界が温かいとは限らないもんね。

 

「フフッ、アハハハハハ……」

 

 そんな当たり前のことがおかしくて、マイは涙を流しながら笑い続けた。

 

 

 

 

 深夜、イアハイムにてマイ・キリーの死体発見。発見当時、マイ・キリーはルシフ・ディ・アシェナの墓石に抱きついたまま死んでいた。失血死である。この凄絶な死は瞬く間に全都市に伝わり、民衆の話の種になる。

 それから三日後、全都市長会議がヨルテムの王宮にて行われた。各都市の自治権が認められるが、人類全体を考えて決める組織が必要との声も多数上がり、人類守護会が設立。各都市からそれぞれ人員を選抜し、会長にはカリアン・ロスが就任。

 二週間後、外界調査隊が各都市で創設される。実際は念威操者に任せれば外の調査は問題ないため、実質的な目的としては武芸者を増やすための口実である。

 一ヶ月後、それぞれの分野でコミュニティが結成される。各コミュニティへグレンダンは内密に人を派遣し、内通者を通してコミュニティの動きをコントロールするようになる。

 二ヶ月後、各都市の道徳の教科書にルシフのことが書かれる。こんな人間を二度と出さないよう、ルシフがどれだけ人間として悪だったか悪行と合わせて書かれ、反面教師として使われる。イアハイムの人々はルシフのその扱いを強烈に非難し、教科書からルシフの部分を削除するよう要請。署名活動をして一万人以上が集まるが、それを提出しても教科書からルシフの部分を削除することは却下された。

 三ヶ月後、ミィフィ・ロッテンが『暴王の素顔』という、ルシフに関することで様々な人からのインタビューの内容をまとめた本を自費出版する。批判の嵐を巻き起こしたが本は飛ぶように売れ、増刷を繰り返し、ベストセラーとなる。

 その後、ルシフ名君説と呼ばれるものが生まれた。実はルシフは名君だったのではないかという論理を展開する者が現れ始める。ルシフが暴君か名君かは長い間決着のつかない問題となった。

 半年後、イグナシスがグレンダンを襲撃。全都市にも大型の巨人が多数出現。イグナシスの軍勢を率いていた首領はレヴァンティンという人型で、強大な力を持っていた。だがルシフという史上最悪の災禍を倒し、また一丸となった人類の敵ではなく、極僅かな犠牲でレヴァンティンを撃破。この時の避難誘導と民衆の守護でハルス、オリバ、バーティンが戦死。

 イグナシス襲撃から数日後、天剣授受者は目覚ましい活躍をして人類を守護したとして、天剣授受者を全武芸者の頂点に君臨する十二人に与えられる最高の栄誉にしようという声が多数あがる。グレンダン都市長アルシェイラがそれを容認したため、天剣授受者は人類にとって最高の守護者という意味へと変貌した。

 八ヶ月後、デルボネが老衰死。天剣授受者の後任として、フェルマウス・フォーアが任命される。

 二年後、全都市で協力し、足並み揃えてこれからやっていこうという目的から、レギオス同盟が締結。盟主には、多大な功績をあげてきたグレンダン都市長アルシェイラが選出され、各都市に対しての発言権を得た。

 

 

 

   ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 レギオス同盟が締結された日。

 すでに日は西に傾き、空を赤く染めている。

 

「いつ来ても、お前の墓は花で溢れてるな」

 

 金髪を肩より少し下まで伸ばした女性が、ルシフの墓の前に立った。ルシフの墓の隣にはマイの墓がある。

 金髪の女性の後ろには様々な立場の人間が立っていた。

 

「お前のおかげだ。お前がわたしたちに現状から逃げても何も変わらないと教えてくれた。立ち向かう勇気と強さをもらった。お前が立ち上がったその日から、人類には新しい風が吹き始めた。これからもお前の勇姿と思いを胸に、より良い未来へ進み続けよう。お前も見守ってくれると嬉しい。いや、お前ならこう言うか。『こんなところに来る暇があったら、理想に向かってやるべきことをやれ』と。その通りだ。返す言葉もない。だが、ここに来たくなるんだ。また、来る」

 

 金髪の女性がルシフの墓に背を向けた。

 瞬間、強風が背後から吹き抜ける。

 強風はルシフの墓に供えられていた花の花びらを巻き込み、花吹雪が夕焼けの空いっぱいに乱れ舞った。

 金髪の女性は空を見上げ、その光景を目に焼きつけながら微笑んだ。




こんな結末じゃ納得できねえ!と言う方は次話以降も読んでもらえると嬉しいです。
逆にこの結末でこの物語を締めていいわと言う方は、今まで読んでくださりありがとうございました。
個人的には、この結末で終わらせたくありません。転生者関連の伏線丸投げだし、あれだけルシフに心酔していた剣狼隊があっさりルシフに敵対するのも、作者の駒として動かされた感じがします。


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第95話 破滅のパレード

『暴王を討て』

『俺を踏み越え、新たな世界の扉を開け』

 

 頭にガンガンと響く声がある。

 ルシフ・ディ・アシェナの声。いつか自分が支えたいと思った男の声。あなたが望むなら、俺はどんな場所にも行こう。どんな命令にも従おう。どんな相手とも戦おう。

 だが、たった一つだけ、受け付けない命令が俺にあった。いつもなら命令通りに動けるのに、まるでバグに遭遇して処理に困っているプログラムのように、身体が動かない。

 

『本当にお前らには感謝している。今まで力を貸してくれて、ありがとな』

 

 また、端子から声が聞こえた。

 ルシフ様、何を言ってるんだ。感謝しているのは俺たちの方だ。あなたがいたから、俺たちはこの理不尽な世界に真っ向から戦いたいと思った。この理不尽な世界を変えていきたいと思えた。

 

《なあ、俺とともに世界をぶっ壊してみないか? ぶっ壊して、都市間戦争や汚染獣の脅威のない世界を新しく作ろう》

 

 ルシフと出会った日の懐かしくも輝かしい記憶。そこから次々にルシフや剣狼隊のみんなで過ごした日々の記憶が浮かんでは消える。

 

 ──俺は、何を求めて剣狼隊に入隊した?

 

 確かに、この世界から都市間戦争と汚染獣の脅威を無くしたいという信念がある。だが、その世界の前提条件はルシフが存在していることだった。ルシフ無しでその世界を実現するなど、微塵も考えていなかった。

 チラリと腰の辺りに視線をやる。銀色のボトル。

 

《もし勝てない相手がきたら、それを使って》

 

 ヴォルゼーの声が脳裏に再生された。

 ヴォルゼー。お前なら、どんな選択をする? いつものように愉し気に笑いながら、ルシフ様に武器を向けるだろうか? それとも、ルシフ様を救おうとするだろうか?

 

 ──俺は……俺の選択は……!

 

 腰に括りつけてある銀色のボトルを取り、キャップを開ける。ボトルに口をつけて、中に入っている酒を飲んだ。ほとんどの都市で製造、販売が禁止されていた違法酒ディジー。剄脈加速薬。剄を爆発的に増大させる効果がある。

 

 ──すいません、ルシフ様。俺はあなたを救います。あなたの力になりたくて、俺はあなたに付いてきたんだ。

 

 今までずっと剄をどれだけ制限して闘えるかということばかり考えていた。だが、生まれて初めて、どれだけ剄を解放して闘えるかということを考えている。

 俺は腹の底から雄叫びをあげた。とてつもない音と音に乗った剄がグレンダンとヨルテムを震わせ、双方の武芸者はそれに呑まれ、身体を一瞬硬直させた。

 

 

 サナックが吼えていた。

 初めてサナックがスケッチブックを使わず声を出しているのを見たが、良い声してるじゃないかとハルスは思った。腹にズシリと響くというか、その声を無視できない力強さがある。

 ハルスは遠目でサナックがグレンダンの武芸者を蹴散らしている姿を見た。身体が熱くなる。

 

 ──そうだよ、そうだ! ここで兄貴を切り捨てるなんざ、男のやることじゃねえ!

 

 眼前のグレンダンの武芸者を大刀の峰で打ち払った。武芸者はうつ伏せで地面に叩きつけられる。

 

 ──兄貴の本音が聞きてえ……。

 

 ルシフは本当はもっと生きたいはずだ。ルシフの嘘偽りない言葉を聞き、俺たちは正しい選択を選んだと思える自信を手に入れたい。

 ハルスは通信機として使っている念威端子を口に近づけた。

 

「兄貴! 本当はもっと生きたいんだろ? 生きたいって言えよ! 俺たちがぜってえ助けてやる! 兄貴!」

 

 このハルスの言葉は剣狼隊全員に届いていた。

 大刀を振り回しグレンダンの武芸者を次々に叩き伏せながら、ハルスはルシフのところ目指して走った。ハルスの周囲にはハルスの隊員たちが揃っており、ハルス同様グレンダンの武芸者を吹き飛ばし、あるいは昏倒させている。

 

「ハルス! 俺たちもこの命燃え尽きるまで闘うぞ! 俺たちが露払いをする! お前は一直線でルシフのところへ行け! ルシフは俺たちを救ってくれた! 今度は俺らが恩返しする番だ!」

 

「おう!」

 

 ハルスの前に隊員たちが出た。襲いかかってくるグレンダンの武芸者たちを連携で片っ端から倒していく。ハルスの目の前に道ができあがった。その道をハルスが駆け抜けた。

 

 

『兄貴! 本当はもっと生きたいんだろ? 生きたいって言えよ! 俺たちがぜってえ助けてやる! 兄貴!』

 

 ルシフは苛立っていた。通信機から聞こえたハルスの言葉が苛立ちを助長する。

 お前たちは俺と同じ信念を持っていたんじゃなかったのか? 俺の存在など、理想を実現するための部品みたいなものだ。俺でなければならない理由など、今となってはもうない。

 結局こいつらも他の奴らと同じく、俺に依存してただ俺に付いてきただけの存在だったか。

 失望が心を打ち抜く。

 俺が確固とした自分を持っているように、あいつらも確固とした自分を持っていると思っていた。自立したお互いが協力し、同じ理想を追いかけているものだと思っていた。

 急速に冷めていく心がある。

 もう剣狼隊は同志でもなんでもない。俺前提の世界しか見えてない奴らがどうなろうがどうでもいい。

 ルシフは念威端子を口に近づけた。

 

「お前らには失望した。ここで無駄死にしたいなら、勝手に死ね」

 

 その時、剣狼隊のみんなで過ごした日々がフラッシュバックした。心の奥底でモヤモヤしたものが生まれる。なんだろう、この感情は? どうでもいい奴らが何人死のうが、何も感じないはずだ。なのに、何かが湧き上がってくる。なんだ、これは?

 ルシフは胸に右手を当て僅かに首を傾げた。アルシェイラたちの姿が視界に入る。アルシェイラたちは今のルシフの返事に衝撃を受けたのか、構えているだけで攻撃してこない。

 

「おい、このノロマども! 早く俺を殺してみせろ! できんのなら、貴様ら全員ダルマにしてやる!」

 

 アルシェイラたちはハッと我に返り、ルシフへの攻撃を再開した。

 

 ──それでいい。

 

 激しい攻撃に晒されながら、ルシフは安堵した。だが何故安堵したのか、ルシフには分からなかった。

 

 

 

 勝手に死ねと言われたことより、失望したと言われた方が心に突き刺さった。

 俺たちのしていることは結局ルシフに対する裏切り行為なのだ。

 レオナルトはそれでもグレンダンの武芸者に向かっていくのを止めなかった。

 確かにルシフから失望されたのは辛い。だが、覚悟していたことでもある。たとえどれだけ失望されようが、ルシフにとってどうでもいい人間に成り下がろうが、そんなものはルシフを喪うショックに比べれば屁みたいなものだ。

 

 ──大将……あんた分かってねえよ。あんたがいたことで、俺たちがどれだけ救われたか。

 

 都市間戦争と汚染獣の脅威を無くす。

 武芸者ならば、誰だって一度は夢見る。しかし、現実の残酷さにその夢は儚く消え、今まで通りという名の殻に閉じこもった。

 

 ──誰もが殻に閉じこもっている中、あんただけが殻を破り、未知の世界へ飛び出そうとした。その一歩が俺たちに力をくれた。俺たちも殻を破って飛び出したいと思った。

 

 あんたに出会った時、真っ暗な闇が穿たれ、ほんの少しだけ光が見えた。あんたと一緒にいればいるほど、その光は眩しく大きくなっていった。

 ルシフが一年生きれば、人類は十年先へ行ける。ルシフが十年生きれば、人類は千年先へ行ける。俺たち全員の人生を足し合わせても、あんたの生きる一年にすら敵わない。俺はそう信じている。

 

 ──俺たちはあんたに依存してるんじゃねえ。あんたが誰よりもすげえんだってことをよく知ってるんだ。だから、助ける。こんなとこで死んでいい人じゃねえ!

 

 レオナルトが棍を振り回し、隊員たちと連携してグレンダンの武芸者を倒していく。視界いっぱいにグレンダンの武芸者が群がる。レオナルトは雄叫びをあげた。全身に気迫をみなぎらせ、打ちかかる。グレンダンの武芸者は気迫に呑まれたのか、抗う間もなく叩き伏せられた。

 ふと、レオナルトは死角から気配を感じた。振り向くと、その気配の主は剣を鋼糸に弾かれたところだった。プエルの鋼糸。理解。鋼糸が生きもののように動き、レオナルトの攻撃を当たるようにする。そこに棍を滑らせ、グレンダンの武芸者を吹き飛ばした。

 

 

 

《フォル、命令に従え! フォル!》

 

 ルシフの最期の命令とやらを念威端子越しに聞いた時、頭に響く声があった。

 

《しかし……! わたしの別動隊が大量の幼生体に襲われています! 今すぐ救援に向かうべきです!》

 

《そんなことをすれば、防衛線が崩壊し、中央部への汚染獣の侵入を許すことになる! 目的を見失うな! 防衛線を維持しろ!》

 

《わたしの隊ならば……わたしの隊ならば大量の幼生体を瞬く間に殲滅できます!》

 

《おい、行くな! 戻れ! 命令違反だぞ! フォル! フォル!!》

 

 故郷が汚染獣の襲撃にあった日。雄性体が数体に、千を超える幼生体の群れ。初めての汚染獣襲撃において、自分は部下の命を救うため、指揮官の命令に従わずに別動隊の救援に行った。

 結果は部下の命は一つも失わなかったが、綻びが生まれた防衛線を雄性体の一体が突破。念威操者の三分の一と護衛の半数が死亡。

 その後なんとか汚染獣の襲撃を退けたわたしに待っていたのは、命令違反による裁判だった。隊長の地位は取り上げられ、一武芸者となった。死刑にならなかったのは単純に自分が武芸者として優れていたからだった。命令に背き甚大な被害をもたらした武芸者を排除できないほど、我が都市の武芸者の損失は大きかった。

 助けた部下からは唾を吐きかけられた。「俺たちは都市のために死ねるなら本望なのに、何故それを邪魔した!」と胸ぐらを掴まれながら怒鳴られた。

 そんな失態をしても、隊長や指揮官は自分という戦力を使ってくれた。命令されるのはこんなにも嬉しいんだと自分に言い聞かせ続けた。二度と命令に背かないよう、命令に従うことが至高の喜びだと自分に刷り込ませ続けた。

 どう考えても、ルシフの命令は正しい。従わなくては。ルシフの命令通り、ルシフを殺さなければ……。

 ルシフと敵対し、殺す。考えただけでとてつもないショックに包まれた。

 念威端子からはルシフの命令に反抗する言葉が聞こえてくる。

 

 ──ルシフ……ずっと自分を騙し続けたけど、やっぱ駄目みたい。あんたを失うくらいなら、死んだ方がマシ。

 

 フォルは後方を振り返り、スカーレット隊の面々を見る。スカーレット隊の隊員の誰もがフォルの意図を読み、小さく頷いた。フォルも頷き返す。

 

「スカーレット隊、これよりルシフの救援に向かう」

 

「了解!」

 

 隊員たちが一斉に返事をし、ルシフがいる方へスカーレット隊全員が駆け出した。

 

 

 

 プエルの顔には汗が大量に浮かび、息を荒くついている。それでも見る者を萎縮させてしまうような気迫を纏っていて、プエルに声をかけることすら隊員たちは憚られた。

 プエルの周囲にはグレンダンの外縁部の様々な戦場の映像が多角的に展開されている。

 

「エリちゃん、アナちゃん、もっと端子からの情報早くして! 数瞬ズレがあるよ!」

 

『ズレなんてありません。全てリアルタイムで映像を出力しています。プエルさまの気のせいです』

 

「嘘ッ! ズレてるよ!」

 

『あり得ません』

 

 映像がズレてない。つまり、鋼糸の防御が間に合わないのは完全に自分の実力不足が原因になる。本当にそうなのだろうか?  もしそうなら、どれだけ頑張っても今の実力では守れないことになる。

 

「お願いだから正直に言って! 怒らないから! 映像にズレがあるよね!?」

 

『最初から正直に言ってます。ズレはありません』

 

 プエルは心を落ち着かせるために深呼吸して、無理やり息を整える。

 今やることは守れない理由を他人に押しつけることか? 違う。大好きなみんなを守るため、たとえ実力不足でも全力を尽くす。それこそ、今やるべきこと。

 

「……ん、分かった。ごめんね、怒鳴ったりして」

 

『いいえ、気にしていません。要望があるならなんでも言ってください』

 

「ありがと、エリちゃん」

 

 もう一度、プエルは深呼吸した。

 周囲に展開している多数の映像を俯瞰するように観ながら、鋼糸を操る。

 完全に守れないなら、直撃しそうな攻撃だけ見極めて防ぐ。それならばどの戦場でもなんとかなりそうだった。そういう読みだけは得意なのだ。外したことは一度もない。

 無心で鋼糸を操り続けた。考えてから鋼糸を動かしているから、ズレが生じたように感じるのだ。考えるな。ただ視覚から入った情報に反射で動け。見極めも反射でしろ。みんなの役に立て。死ぬならあたしが最初だ。

 その瞬間、プエルは不思議な感覚に落ちた。全ての戦場の動きがまるでスローモーションのように見える。グレンダンの武芸者の様々な武器や、剄弾剄矢の軌跡すら知覚され、知覚したと思った時にはもう鋼糸を最適な陣に組み上げている。

 

「エリちゃん、全ての戦場の視覚情報を展開して!」

 

『……はい?』

 

 何を言っているのか理解できないという雰囲気を滲ませている声に、プエルはイラッときた。

 

「早く! 今なら全部守れる気がする!」

 

『プエルさま、今の時点で戦場の三分の一を網羅しています! 単純計算でプエルさまの負担は三倍になるのですよ! しかも全てをカバーなんて、そんなの無茶です!』

 

 プエルの苛立ちが加速していく。こうしている間にも、剣狼隊の仲間が死ぬかもしれないのだ。焦燥が更に苛立ちを助長する。

 

「あたしのことはいいから! 早くやって!」

 

『…………』

 

 ため息をつく音が念威端子越しに響いた。

 プエルの周囲に映像が追加される。プエルの全方位が映像に囲まれているため、どこを見ても映像しか見えない。つまり今のプエルは自分の周囲を視覚で判断することができない状態だが、展開されている映像の外にはプエルの隊員たちがいて、プエルを守りながら戦っている。

 プエルの鋼糸は全ての戦場に及び、危機に瀕していた剣狼隊の命を救い続けた。しかし、戦域の拡大は必然的にプエルの存在を多くの敵に知らしめる結果となる。

 

「……ほう?」

 

 リンテンスがプエルの操る鋼糸に興味をもち、ルシフからプエルの鋼糸に視線を移した。

 戦場に張り巡らされた鋼糸の量はレイフォンの比ではない。

 

 ──俺と同じ、蜘蛛か。

 

 レイフォンは蜘蛛の才能がないのに蜘蛛の真似事をしているが、この鋼糸の主は違う。本能で鋼糸を操る術を理解している。

 

「念威操者、この鋼糸を操る奴が見たい」

 

『はいはいただいま』

 

 デルボネのおっとりした声が聞こえ、リンテンスの近くに小さく映像が展開された。女が大量の汗を浮かべながら、周囲に展開された映像に見入っている。

 

 ──これは長くはもたんな。

 

 このまま放っておいても、この女は勝手に自滅する。鋼糸の量に対して、剄量が少なすぎるのだ。鋼糸の一本一本全てに剄が行き渡っているから、並の剄量では鋼糸を維持できない。だからこそ、鋼糸は選ばれた者にしか扱えない武器となる。

 

 ──だが、自滅を待つ間が面倒だ。

 

 今、この女の鋼糸の技量は神がかり的なレベルまで昇華している。このまま放っておけば、自滅するまでグレンダン側が劣勢に立たされる可能性があった。

 リンテンスはルシフの方を見る。アルシェイラやレイフォン、天剣授受者たちの激しい攻撃に晒され、攻撃してくる奴らの対処で手いっぱいのようだ。今なら、あの女を倒す余裕がある。

 リンテンスは鋼糸を女の鋼糸使いがいる方に張り巡らせた。

 当然、リンテンスの矛先がプエルに向いたことは、プエル自身真っ先に悟っていた。

 

「展開している映像、全部目線より下に移動させて!」

 

『はい、今すぐやります』

 

 プエルの周囲を取り囲むように展開されていた映像が、端子の移動で下の方に動いた。周囲の様子が肉眼で見える。隊員たちが必死にグレンダンの武芸者たちの攻撃から自分を守ろうと戦っていた。

 プエルはそんな彼らに感謝しつつ、意識の外に彼らを置いた。リンテンスとの戦闘に集中するためである。

 プエルの頭には、リンテンスの情報があった。リンテンス・サーヴォレイド・ハーデン。最強の鋼糸使い。剄量も技量も間違いなく格上。

 だが、だからといって最初から負けを認めるのはあり得ない。剣狼隊のみんなを守る邪魔をするなら、どんな相手でも防ぎ切ってみせる。

 リンテンスは鋼糸で陣を次々に構築し、鋼糸をプエルに届かせようと攻める。プエルはそれらの陣が完成する前に自らの鋼糸を介入させ、陣の構築を妨害した。

 鋼糸で構築する陣には、いわゆる主軸がある。その主軸を肉付けしていくのが陣構築のプロセスであり、陣を崩すなら主軸を潰せばいい。剄量で劣るプエルは鋼糸を束ね、主軸の鋼糸に的を絞って鋼糸を操った。主軸の鋼糸に自身の鋼糸を絡めて、陣が完成する前に主軸として機能しなくするのだ。

 幾重にも構築していく陣を無力化していくプエルの技量と読みの鋭さに、リンテンスは内心感心した。リンテンスとは対極に位置する鋼糸の技術。すなわち、相手を潰す攻撃の技術ではなく、自分を守る防御の技術。戦闘過程を見る限り、女の鋼糸の切断力は無しに設定されているらしい。防御に特化した鋼糸というのはここまで厄介になるのか、と一つ学んだ気分だった。更に危険を察知する能力もずば抜けて高い。

 

 ──だが……所詮は小蜘蛛。

 

 様々な陣の構築という大技の連続の裏で、地面を鋼糸で貫き、密かに地面の中を移動させていた。

 プエルがそのことに気付いたのは、地面から鋼糸が突き出てきて自身の身体に触れた時だった。

 鋼糸が皮膚を突き破り、体内に侵入してくる。プツッ、と自分の中で音がした。強制的に電源をオフにされたように、意識が遠のいていく。

 

 ──……守るんだ。あたしが、みんなを。こんなとこで気を失ってたまるか。

 

 プエルは鋼糸を自身に殺到させた。全身を鋼糸が貫く。鋼糸の先端だけは殺傷力を残していた。本来は傷を縫うための治療目的だが、気付けにも使えるようだ。

 全身から血が噴き出す。意識は鮮明になった。

 

「あたしは、剣狼隊だ」

 

 リンテンスは意識を奪って戦闘を終わらせようとした。そんな温いやり方であたしたちを止められるものか。

 

「止めたかったら、殺す気でこい。剣狼隊(あたしたち)をなめるなッ!」

 

 全身から血を流しながら、プエルが鋼糸を操る。様々な戦場で鋼糸の陣が構築され、剣狼隊の窮地を救っていく。

 

 ──あたしが、みんなの盾になる……!

 

 剄を大量に使用している影響か、血が止まらない。

 

『もう止めてください、プエルさん! もう、もうこれ以上あなたのそんな姿は見たくありません!』

 

「……心配しないで、ヴィーちゃん。あたしが……誰も死なせないから。またみんなで楽しく過ごせる日々がきっと……」

 

 リンテンスの鋼糸が鞭のようにプエルに襲いかかってきた。プエルの両腕を切り落とす軌道。両腕を切り落とすことで鋼糸を操れなくしよう、とリンテンスは考えていた。切り落とす瞬間に切り口を剄の熱で焼き、止血をすることで失血死させないようにしようとしている。

 プエルはリンテンスの鋼糸を防ごうと鋼糸を操るが、間に合わない。両腕を切断される、とプエルが確信したその時、プエルの周囲を守っていた男の隊員がプエルを横から突き飛ばした。

 

「……ッ! クラちゃん!」

 

「隊長、生き……」

 

 隊員は首と腹部を切断され、臓物をぶち撒けて地面に落ちた。

 

 ──あたしが、守る。あたしが、みんなの盾に……。

 

「ああああああああッ!」

 

「隊長、危ない!」

 

 発狂したプエルを隙ありとみたグレンダンの武芸者の一人が、プエルに斬りかかった。間に女の隊員が割り込む。斜め一文字に斬られた。大量の血が噴き出し、仰向けに倒れる。他の隊員たちが斬ったグレンダンの武芸者を叩き伏せた。

 

「フラちゃん!」

 

「たい……ちょ……ルシ……さんを……た……け……」

 

「フラちゃん!? フラちゃん! 死んじゃやだよぉ!」

 

「しっかりしろ、隊長! もうフランツィスカは死んでる!」

 

 再び、リンテンスの鋼糸がプエルに迫った。

 怒鳴った隊員がプエルの腕を掴み、引き寄せる。反動で隊員はプエルがいた位置になり、右腕が鋼糸で切断された。

 グレンダンの武芸者たちがプエルに槍や剣を突き出してくる。隊員はプエルの前に出てそれらを防ぐが、一本の剣と槍が胸と腹を貫いた。貫かれたまま、隊員は左手に握る刀で周囲の武芸者たちを吹き飛ばした。

 

「ア、アレちゃん……」

 

 隊員は口から血を吐き出し、崩れ落ちた。

 プエルの両目に涙が溜まっていく。

 

「これ以上、誰も死なせるもんか──!」

 

 プエルが更に剄を鋼糸に込めようとした時、プエルに異変が起こった。

 剄が練れなくなり、鋼糸に剄を送ることができなくなったのだ。剄脈疲労。過度の剄の使用は武芸者の機能を停止させ、武芸者として正しい状態に戻すために休ませようとする。

 プエルがどれだけ指を動かそうとしても、指は動かない。両手に付けている指輪が光を放つ。剄の供給が無くなった鋼糸は自動的に錬金鋼状態に戻った。

 プエルは両膝を地面につき、そのままうつ伏せで倒れた。全身から流れる血が血溜りを作っていく。

 プエルは必死に頭を起こした。周囲にいる隊員たちが、リンテンスの鋼糸により意識を奪われていく光景が視界に映る。

 プエルは唇を血が滲むほど噛んだ。

 

「この……役立たずッ」

 

 まぶたが重い。暗闇の世界へ連れていかれる。

 

 ──ルッちゃん、みんな……お願いだから死なないで……。

 

 プエルの意識はそこで途切れた。

 

 

 

 戦場に張り巡らされていた鋼糸が光となり、消えていく。

 

『プエルさま、戦闘不能! クラウス、フランツィスカ、アレクシス戦死!』

 

「未来ある若者が死んでしまったか」

 

 念威端子から響く言葉に、オリバの顔が苦渋にまみれた。

 戦死した三人と親しくしていたわけではなかったが、気持ちの良い人間だったことは確かだ。

 鋼糸という防御が無くなったことで、これからは更に戦死者が増えるだろう。

 オリバは走りながら大きな鎚を振り回し、グレンダンの武芸者を叩いていく。叩かれた武芸者は血を吐き、地面に沈んだ。

 

「おおおおおおッ!」

 

 オリバの周囲にいる隊員たちも雄叫びをあげながら、鬼神のごとき強さをもってグレンダンの武芸者たちを倒していた。

 今までは一応体裁のようなものを取り繕って戦っていたし、極力相手を苦しめずに倒すという気高い理想を汚さない戦い方をしていた。それがルシフの危機という想像だにしない事態に剥がれ落ち、なりふり構わず戦うようになっていた。腕の一本平気で切り落とし、あえて激しい痛みを与えることで動きを封じる。

 グレンダンの武芸者たちにしても、ルシフから負けを認めるような意味合いの言葉を聞き、気が緩んでしまった部分もある。そこに剣狼隊のとてつもない気迫と闘気をぶつけられれば、浮き足立つ。

 しかし、その効果も切れようとしていた。逆に剣狼隊の気迫と闘気がグレンダンの武芸者に元々備わる武芸者気質に火を点ける結果となる。そして、剣狼隊の桁外れの気迫と闘気はグレンダンの武芸者に恐怖と不安を植えつけ、グレンダンの武芸者の頭から不殺の二文字はすっかり消えてしまっていた。これが剣狼隊が死んでいる理由である。

 オリバの斜め前をハルスが駆けていた。ハルスの側面にデルクが回り込んでいる。

 オリバは鎚を構えながらデルクに体当たりした。デルクの身体がよろめき、オリバを睨む。

 

「爺さん!?」

 

「ここはわしに任せて行け! ルシフ殿を頼む!」

 

「……ああ!」

 

 ハルスが隊員たちを引き連れ、ルシフがいる方向に駆けていった。

 デルクはハルスを追わず、オリバに向かって刀を構えた。デルクの周囲にはデルクの隊員らしき武芸者たちが大勢いる。

 

「……死ぬつもりか? ルシフという少年の覚悟と決断、無駄にするでない」

 

「我ら剣狼隊、常に死を覚悟し戦場に臨んでおる。気遣い無用」

 

「あくまで地獄を行くか」

 

「地獄しか知らぬ」

 

「ならば、せめて同じ武芸者として、死をもって地獄より救おう」

 

「お主にそれができるか?」

 

 オリバとデルクが同時に踏み込む。鎚と刀がぶつかり合い、火花を散らした。オリバがインパクトの瞬間に力を込めると、デルクは後方に吹っ飛ばされた。空中で体勢を立て直し、危なげなく着地。

 二人の戦闘をきっかけに隊員たちとグレンダンの武芸者たちも戦い始める。

 デルクが三人に分身し、前方左右から同時に斬り込んできた。内力系活剄の変化、疾影。オリバは左に鎚を振るう。金属同士がぶつかり合う音が響いた。

 デルクは止められるのを読んでいたため、防がれた時には地面を足で抉り、そのまま蹴り上げた。土がオリバの顔目掛けてかけられる。オリバは不意をつかれ、頭を右に傾けてよけた。殺気。オリバの右から銃弾が迫っている。後方に跳んで回避するしかない。オリバは後方に跳んだ。

 オリバが後方に跳ぶよう仕向けていたデルクは、当然オリバが跳ぶ瞬間に剄を練って剄技を使用。内力系活剄の変化、水鏡渡り。瞬く間にオリバに肉薄。

 デルクが刀身を片手で掴み、居合いの構えをする。サイハーデン刀争術、焔切り。居合いによる抜き打ち。オリバは鎚で防御するも、空中のため踏ん張りがきかない。焔切りは二段攻撃であり、斬撃を防いでも衝剄が残っている。オリバの身体は衝剄で吹き飛んだ。

 オリバはすぐさま体勢を立て直す。周囲では鬼神の強さを見せてグレンダンの武芸者を倒していくも、圧倒的な数に囲まれ、あるいは剣狼隊以上の実力者とぶつかり、息絶えていく隊員たち。オリバは今まさにとどめをさされんとする隊員の姿が目に入った。咄嗟に鎚を投げる。鎚はとどめをさそうとしていた武芸者に直撃し、とどめをさされそうになっていた隊員が起き上がって武芸者を昏倒させた。その隊員は片腕を失っていた。

 

「ありがとうございます、たいちょ……あ、ああああああ!」

 

 オリバの方を見た隊員は、オリバの身体から刀が突き出ているのを見て絶叫した。

 デルクは苦い表情で刀を引き抜く。オリバはそのまま両膝をつき、そのままうつ伏せで倒れた。血溜りに沈んでいく。

 

「見事な生き様、敵ながら感服させられる」

 

 ──見事? わしの生き様が?

 

 都市を守るため、都市間戦争では大勢の未来ある若者の命をずっと奪ってきた。自分の人生はこの程度かと、自分の人生に絶望もしていた。

 だが、ルシフに出会い、本当の意味での生きがいを見つけた。この歳になっても人生が輝きに満ちるとは思いもしていなかった。

 

 ──ルシフ殿。

 

 どこまでもあなたにお供いたします。老い先短い命、悔いはありませぬ。

 

《俺が行く道は地獄の道。覚悟を決めてから来い》

 

 出会った時に言われたルシフの言葉が鮮明に脳内再生された。

 確かに辛く苦しい日々だった。だが、剣狼隊というかけがえのない仲間と共に世界そのものを変えていく日々は、人生はこんなにも楽しく光に満ち溢れたものだったかと教えてくれた。

 

「ルシフ……殿……」

 

 視界が霞み始めた。

 

「地獄にしては……ここはとてもあたたかですぞ」

 

 ──ルシフ殿、どうか生きてくだされ。

 

 オリバは自分が笑ったのが分かった。

 背中に熱い何かが入ってくる。オリバはただその熱さに身を任せた。

 

 

 

 ハルスが駆けていると、レオナルトの隊と合流した。

 グレンダンの武芸者たちは前方に立ち塞がっている。その中には天剣授受者のカルヴァーンもいた。

 ハルスは雄叫びをあげ、カルヴァーンに斬りかかる。ハルスの隊員たちもグレンダンの武芸者にぶつかっていった。

 

「ハルス! 俺が援護に──」

 

「そんなもんいらねえ! お前は兄貴んトコ行ってくれ! 俺の隊が足留めする!」

 

 ハルスは大刀を薙ぎ払い、大刀に纏っていた剄を衝剄にして放った。

 カルヴァーンとグレンダンの武芸者たちは吹き飛ばされないよう、その場でこらえた。

 レオナルトはハルスに何を言っても無駄だと悟り、視線をハルスから正面に向ける。

 

「分かった! お前も必ず後から来い!」

 

 レオナルトの隊はハルスの隊が作ったほんの僅かな隙をつき、前方のグレンダンの武芸者たちの壁を突破した。

 突破されたグレンダンの武芸者たちがレオナルト隊を追いかけようとする。

 その背後からハルスの隊員たちが襲いかかった。グレンダンの武芸者たちはレオナルト隊の追撃を諦め、ハルスたちの方に身体を向けて構えた。

 ハルスはカルヴァーンと斬り合っている。しかし、互角ではない。カルヴァーンは幅広の剣でハルスの斬撃を受け流している。

 カルヴァーンが剄を高め、剣を下から斬り上げた。ハルスは大刀で防いだが衝撃は殺せず、後方に吹っ飛ばされる。ハルスは空中で体勢を立て直し、片膝をついて着地した。大刀を地面に突き刺し、杖のようにしている。

 

「さすがは天剣授受者……一筋縄じゃいかねえか」

 

 大刀に指を当てる。指の先から焔が出現し、刀身にまとわりついた。

 

「化錬剄の変化、業火招来」

 

「炎刀か。そんな小手先の剄技でどうにかできると考えているのか? がっかりさせてくれる」

 

「やってみなきゃ……分かんねえだろうが!」

 

 ハルスが刀身を身体で隠しながら、居合い抜きのように斬りかかる。カルヴァーンが剣で炎の刀身を防ぐ。炎の刀身は剣に触れた瞬間霧散した。

 業火招来時の型、幻影斬。炎で刀身を創り、実際の刀身は炎の刀身を隠れ蓑に別の斬線を描く。

 刀に限らず、殺傷力の高い武器は急所をいかに破壊できるかが重要である。故に相手の呼吸を乱したり、隙を作る技が大量に生まれる。派手な攻撃技などいらない。急所さえ捉えればそれで勝てる。ハルスはそういった派手な剄技で陽動し、堅実に急所を斬る戦法が得意だった。

 実際の刀身はカルヴァーンの剣をよけ、カルヴァーンの横腹を斬り裂く斬線だった。カルヴァーンに刀身が迫る。

 

「……ッ!」

 

 刀身はカルヴァーンの腹部で止められた。服に傷すら付いてない。よく刀身を見ると、黄金の剄膜が刀身と服の間にある。どうやらこの剄膜が斬撃を防いだらしい。

 外力系衝剄の変化、刃鎧。

 カルヴァーンの全身が瞬時に黄金色の剄に包まれ、その黄金の剄の鎧から黄金の細い剣が伸びた。ハルスは後方に跳躍していたが、右肩をその黄金の細剣に貫かれ、身動きが取れなくなっていた。

 カルヴァーンが黄金の剄の鎧を纏ったまま、幅広の剣で袈裟斬りをした。ハルスの左肩から右腹まで斜めに斬線が刻まれ、血が噴き出した。

 ハルスの右肩を貫いていた黄金の細剣が引っ込む。支えを失ったハルスはそのまま仰向けに倒れた。

 

「……ちく……しょう」

 

 天剣授受者に勝つ気で挑んだが、傷一つつけられなかった。あまりの悔しさと無力さに、ハルスの表情は歪んだ。兄貴を救うことも、兄貴の役に立つこともできねえ。俺はなんて弱い男なんだ。

 

「分からんな。何がそこまでお前を駆り立てる? そうまでしてルシフのために闘う理由はなんだ? 敗北をルシフは暗に認め、お前たちを救おうとした。その決断を無にしてまで、何故?」

 

 カルヴァーンが幅広の剣を持ち、ハルスを見下ろしている。

 

 ──小難しい理屈を並べやがる。

 

 ハルスはカルヴァーンの言葉を鼻で笑った。

 

「……惚れた男の力に……なりたかった」

 

 自分の夢や信念は全て、ルシフという存在に重ねてきた。だからこそ、俺の夢や信念はルシフの力になることなのだ。

 

「……ふむ、至極明快。腹に落ちたわ。人に夢を託して闘う。そんな武芸者もいるのだな」

 

「……なあ……天剣授受者さんよ。一つ訊いても……いいか……?」

 

「なんだ?」

 

「俺は……強い男……だったか?」

 

「ああ。もし同じ剄量だったならば、私の横腹が切り裂かれていただろう。剄と大刀の技量、そのどちらも一流であったぞ」

 

「はは……そうか。俺は……強かったか……」

 

 ハルスは笑みを浮かべた。

 ハルスの目にはもう自分を見下ろしているカルヴァーンの顔など入らなかった。ただ澄んだ空だけが見える。

 

「……兄貴……先に逝って……待ってんぜ。兄貴は……ゆっくり……来て……くれ……や……」

 

 その時、ハルスの胴体を熱いものが貫いてきた。

 

 ──気分良く死ねそうなのに、余計なことしやがって。

 

 しかしハルスには文句を言う気力も、抵抗する体力も残っていなかった。

 

 

 

 剄脈加速薬ディジーを飲んだサナックは、天剣授受者を超える実力者になっていた。元々天剣授受者並みの剄量があるのだ。そうなるのは必然だった。

 サナックの右ストレートがカウンティアに放たれた。カウンティアは青龍偃月刀で防ぐ。手甲と青龍偃月刀がぶつかり、大きな火花が散った。カウンティアは力負けし、後方に吹き飛ばされる。

 

「ッ! こいつ!」

 

「ティア、逃げて!」

 

 カウンティアを追撃してきたサナックの前にリヴァースが立ち塞がり、そう叫んだ。

 サナックがリヴァースに勢い任せの右フックを振るう。リヴァースは金剛剄で真っ向から対抗。サナックの剄量はリヴァースを上回っていたため、リヴァースは攻撃を無効化できなかった。威力を軽減させはしたが、鎧を纏った身体が横に吹っ飛んでいく。

 

「リヴァ!」

 

 カウンティアが叫び、そして見た。サナックに襲いかかるグレンダンの武芸者たちが、サナックの放つ圧倒的な衝剄で空へと舞い上がっていくのを。

 サナックは再び走り出す。サナックはルシフを目指して走っているが、進行方向にいる天剣授受者を無視して進むほど、周りが見えていないわけではなかった。なんせサナックの後ろからは剣狼隊員たちが付いてきているのである。天剣授受者は行動不能にしなければならない。

 その時、サナックに鉄球が迫った。サナックが右の手甲で鉄球を弾き、鉄球が飛んできた方を見る。ルイメイが鉄球の鎖を握っていた。

 

「お前らは、危険すぎんだよ。生かしておくにはな」

 

 剣狼隊の誰もがまるで何かにとり憑かれたように死を恐れず、尋常ならざる闘気と気迫を纏い、鬼神のごとき無類の力を発揮している。グレンダンの精鋭が次々に倒れていく。たった一人の男を救うために、その救う男の願いも踏みにじる。ある種、彼ら剣狼隊は狂信者の集団なのかもしれない。宗教というものがあった頃の神を崇める信者のように。彼らもまたルシフという神に囚われ、ルシフという神を敬虔し、ルシフという神に傾倒している。神のためならばどんなことでもやる集団。

 放置できるはずがない。こんな危険極まりない集団は。早急に彼らが傾倒する神を殺す必要があるが、神を殺したら正気に戻るなんて誰が言い切れる? 神を殺された怒りで、不殺の信念さえほっぽり出してグレンダンで暴れまくり、甚大な死傷者と被害を出すかもしれない。故に、今は剣狼隊を殺さず倒すなんてことは考えてはいけない。殺してでも止める。あるいは、立ち上がれないほどの重傷を与える。

 そして、現時点のサナックの脅威レベルは天剣授受者を上回っていた。殺さずなどという甘い考えで闘える者は誰一人としていなかった。

 ルイメイの身体と鉄球が真紅に輝き、灼熱を纏う。活剄衝剄混合変化、激昂。触れるもの全てを焼き尽くす弾丸となって、サナックに突撃する。サナックが吼えた。凄まじい声量と音に乗った衝剄がサナックの前方を薙ぎ払う。サナックの前方に展開していたグレンダンの武芸者が根こそぎ飛ばされていった。ルイメイは吹き飛ぶのを覚悟した。

 ルイメイに衝剄が届く直前、光の膜が前方に展開された。光の膜はサナックの衝剄を無効化するまでには至らなかったが、ルイメイが突撃を維持できるレベルまで威力を軽減させた。活剄衝剄混合変化、金剛剄・壁。リヴァースの防御が間一髪間に合ったのだ。

 

「おおおおおおおおおッ!」

 

 ルイメイがサナックの衝剄を突き破り、灼熱の弾丸のままサナックに正面からぶつかる。その衝撃とルイメイの剄技により、サナックの後方にいた隊員たちは灼熱の突風に呑み込まれ、全身火だるまとなって地面に倒れた。

 サナックは焔に包まれてなお、健在であった。ルイメイ同様全身を覆う圧倒的な剄の膜が、サナックを火の脅威から守っていた。

 サナックがルイメイを掴んだまま、地面に投げ飛ばす。ルイメイが横向きで地面に叩きつけられた。ルイメイを包んでいた火が消える。

 投げた後の僅かな隙を突き、グレンダンの武芸者たちは旋剄でサナックの周囲に近付き、各々の武器を突きだした。サナックが全方位に衝剄を放ち、攻撃を仕掛けた武芸者はルイメイもろとも吹き飛んだ。

 

「このぉ!」

 

 跳躍しながら青龍偃月刀を振るってサナックの衝剄を相殺したカウンティアはその勢いのまま、サナックの頭上から青龍偃月刀を振り下ろした。サナックが頭上に向けて右ストレート。カウンティアの青龍偃月刀に当たり、そのまま宙に舞い上げた。

 しかし、カウンティアは最初からそれが狙いだった。空中で身体を捻って紙一重で自身はサナックの攻撃をかわし、着地と同時にサナックの腹部に容赦ない蹴りを叩き込んだ。青龍偃月刀が宙に舞う直前、できる限りの剄を足に集中させていたのだ。

 剄脈加速薬で剄を爆発的に増大させていたサナックですら、カウンティアの蹴りは脅威となり得た。サナックは内蔵の損傷により口から血を吐き出し、後方に滑るように下がった。そこを狙いすましたようにグレンダンの武芸者たちが各々の武器をサナック目掛けて突き立ててくる。サナックの胴体にあらゆる角度から多数の武器が侵入した。

 サナックは更に血を吐き出した。さっきの吐血とは比べものにならない量である。地面が真っ赤に染まっていく。

 カウンティアはサナックのその姿を見ても、攻撃を止めなかった。カウンティアの脇腹からは血が出ている。さっきの攻撃がかすっていたのだ。

 カウンティアは落ちてきた青龍偃月刀を掴み、多数の武器が突き刺さったままのサナックに突撃。

 サナックの身体に青龍偃月刀が吸い込まれ、そのまま背中を突き破った。

 

「はぁッ……はぁッ……」

 

 カウンティアが荒く息をついている。

 サナックはゆっくりと自分の胴体を見た。

 壊すことしかできない剄という力が大嫌いだった。壊しても残るもの、新たに生まれるものがあるのかと、ずっと自分に問いかけ続けた。

 しかしルシフや剣狼隊と共に過ごし、壊れても残るもの、新たに生まれるものがあることを知った。剄という破壊の力を少しだけ誇りに思えた。少しだけ自らに宿った剄の力を好きになれた。

 

 ──ルシフ様……俺なりの答えが出せました。

 

 一斉にサナックから武器が引き抜かれる。全身から血が噴き出した。

 

 ──生きてください、ルシフ様……。

 

 サナックはそのまま両膝をついた。

 別に、死など怖くはない。

 生きるものはいつか死に、作られたものはいつか壊れる。なんてことはない。ただ自分の番が来ただけだ。

 視界が闇で染め上げられた中、サナックはそう思った。

 

 カウンティアは絶命したサナックの前に立っている。サナックは死んでも地面に倒れず、まるで座っているような姿勢だった。死んでも倒れずというのは、武芸者であれば誰もが畏敬の念を抱く。

 カウンティアの傍にリヴァースが立った。

 

「……リヴァ。強かったよ、この巨漢。本当に、強かった」

 

「うん」

 

「なんでかな、少し羨ましいって思っちゃった。最期の最期まで、あるがままの自分を貫いた気がして。こいつのこと、何も知らないのにさ、そう思ったんだ」

 

「うん、分かる気がする」

 

 カウンティアとリヴァースは周囲を見渡す。サナックが率いていた隊は全滅していた。

 

 

 

 レオナルトは走り続けていた。

 もう隊員は三人しかいない。他の隊員は死んだか、重傷で倒れてしまったのだろう。後ろを振り返る余裕なんて無かった。一秒でも早く、ルシフのところへ。それしか考えていなかった。

 向かう途中、ニーナが呆然と立ち尽くしているのを見た。おそらく思い描いていた展開と違う現実にショックを受け、現実を受け入れられない状態に陥っていたと考えられる。何故なら、まるで怯える子どものように、鉄鞭を持つ両手で耳を押さえていたから。

 おそらく、俺たちがやっていることも本質的にはニーナと変わらない。現実を認めたくなくて、なんとかして変えてやろうとありもしない希望的展開を夢見て、じたばたもがいているだけ。

 卑怯なやり方だとも分かっている。俺たちの死で、俺たちの死を無駄にできないとルシフが考え直すことを狙っているのだから。それは新たな鎖でルシフを縛りつけるのと同義と理解していても、俺たちはこうするしかできなかった。ルシフの故郷であるイアハイムだけは反乱が起きなかったため、イアハイムに逃げればまだルシフに再起の可能性は残されている。あのルシフが、その可能性に気付いていないはずがない。しかし、ルシフは自分から逃げるという選択を絶対に選ばないだろう。

 それでも、たとえそうだとしても、俺たちに他に何ができるんだ? ルシフがいたから、俺たちは自分の力の使い方が分かったんだ。前を向いて闘ってこれたんだ。ルシフがいたから……。偉大な救世主がいたから、俺たちは……。

 ルシフの姿が見えてきた。周囲を女王や天剣授受者、レイフォンに囲まれている。四方八方からの攻撃を防ぎつつ反撃しているが、そのどれもが防御されている。戦力が拮抗しているため、互いに決定打を与えられないのだ。

 レオナルトは足に剄を更に集中させた。ここまで来たら、もうやることは一つだけだ。

 

 ──俺は約束したんだ。俺自身に。どんなことがあっても、大将を守るって!

 

 ルシフに向かって、女王が二叉の槍を突きだした。ルシフは他の連中の対応で女王に対応できていない。

 横からルシフを突き飛ばした。こっちが思わず驚いてしまうほど、ルシフは簡単に突き飛ばされた。それだけ限界ギリギリの勝負をしていたのだ。ルシフがこっちに顔を向けた。呆気に取られた表情だった。

 女王や天剣授受者、レイフォンもルシフと同じで、ルシフのことしか頭に無かったようだ。

 ズン、と腹の辺りに衝撃が来た。槍が身体を突き破った衝撃だ。間一髪というタイミングでの乱入だったため、女王は槍を止められなかったのだ。

 

「なんてことしてんのよ! ようやくこの闘いを終わらせられると思ったのに!」

 

 女王の声が耳に響いた。槍が引き抜かれる。血が溢れていく。

 レオナルトはそのままうつ伏せで倒れた。地面が赤く染まり、血溜りができていく。

 

 ──大将。俺の、希望の光。どうかいつまでも、消えないでくれ。

 

 身体から力が抜けていく。

 脳裏に妻と子の姿が浮かんだ。

 

「……わりぃ……イザベル……リリー……」

 

 ──人間同士が争わない世界で、二人が生きられますように。

 

 背中から熱い何かが体内に侵入してくる。

 レオナルトは抗えず、ゆっくりと眼を閉じた。

 

 

 

 アストリットは自分の隊を引き連れ、襲ってくるグレンダンの武芸者たちを着実に倒しながら、少しずつ前に進んでいた。

 しかし徐々にその足も止まらざるを得なかった。進めば進むほど、グレンダンの武芸者が増えていくからだ。

 圧倒的な数の暴力により、アストリットの隊は瞬く間に壊滅寸前になっていた。

 そこにフォルの隊が現れ、包囲網の外から包囲の一角を崩した。

 

「逃げて! アストリット!」

 

 アストリットは頷き、包囲が崩れたところから包囲網を脱出した。アストリットと共に脱出できた隊員は半分だった。

 

「フォルさん、あなたも──」

 

 アストリットが走りながら振り返る。フォルの身体に刀と槍が突き刺さっていた。フォルはアストリットの視線に気付くと、笑みを浮かべた。

 

「……ッ!」

 

 アストリットは顔を正面に戻し、走った。

 その時、遥か遠くにいるバーティンの姿が視界に入る。

 

「あの方、何を考えてますの!?」

 

 アストリットは舌打ちした。

 バーティンは襲いかかってくるグレンダンの武芸者たちを無視して、姿勢を低くしていた。内力系活剄の変化、瞬迅。しかし、あまりに無防備。あれでは、加速する前に潰され──。

 不意に、遥か遠方にいるバーティンと目が合った。バーティンは一瞥しただけで、視線はすぐに外され、正面を向いた。

 信じているというのか。私が援護射撃で、障害を全て排除してくれると。

 アストリットは錬金鋼を復元。狙撃銃を構え、スコープを覗き、連射した。バーティンに襲いかかっていた武芸者たちは横からの射撃で吹っ飛んでいく。バーティンが加速していく。それを阻もうとする武芸者たちに射撃を続けた。もう当たらなくなっていたが、それでもバーティンから意識を逸らすことはできた。バーティンの姿はすでに消えていた。

 その時、一筋の光がアストリットの胸を貫いた。

 アストリットはゆっくり光が来た方向を見る。バーメリンが狙撃銃を構えていた。

 

「……迂闊……でしたわ」

 

 アストリットは狙撃銃を杖のようにして、身体をなんとか支えた。

 バーメリンが活剄で身体強化をし、一瞬でアストリットの前に現れる。

 

「撃ち殺すって言ったよな、クソ女」

 

 アストリットは血を吐き出しつつ、バーメリンを見据えた。

 

「……武芸者が戦場で死ぬは本望……」

 

 銃の支える力が無くなり、アストリットはそのままうつ伏せで倒れた。

 

「なんであんなガキのために命捨ててんだか。ほんと、バカみたい」

 

「かわいそうな方……愛した人に尽くす幸せも知らないなんて……」

 

 視界が霞んでいく中、遠くにルシフの姿が見えた。

 

 ──私のことなど気にせず、前に進み続けてくださいませ。そんなあなたの姿に、私は惹かれたのですから。でも……本当に、たまにでいいですから、私のこと、思い出してくださると嬉しいですわ。

 

 熱い何かが胸を貫いた。

 アストリットの視界は暗転し、何も聴こえなくなった。

 

 

 

 バーティンは瞬迅により、一気にルシフのところまで移動していた。

 レイフォンがルシフに肉薄し、右拳を引いているのが見える。ルシフはリンテンスの鋼糸やティグリスの剄矢を方天画戟で弾いていて、レイフォンの攻撃を防御する余裕は無さそうだ。

 バーティンは刹那という時間でレイフォンとルシフの間に飛び込んだ。レイフォンの右拳がバーティンの胸を貫く。

 

「……え? あ、ああ……」

 

 レイフォンが取り乱しながら右拳を引き抜いた。真っ赤に染まった右腕を見て、表情を苦し気に歪める。

 ルシフは右手でバーティンを支えつつ、方天画戟を薙ぎ払った。ルシフの周囲にいたレイフォン、サヴァリス、カナリスは跳躍して退避。

 その時、アルシェイラから放たれた衝剄──青白い閃光がルシフに迫ってきていた。それはレイフォンが攻撃を仕掛けた時から放たれていて、もしルシフがレイフォンの攻撃を防いだ時の追撃の役割を担っていた。

 そこからのルシフの行動は無意識であった。考えるより先に身体が動いた。いわば反射的行動。

 ルシフはバーティンの身体を抱き、自身の背中を青白い閃光に向けるようにしてバーティンを庇った。ルシフの背中に閃光が直撃し、ルシフの黒装束の背の部分が消し飛び、肉が裂けて骨まで見えるようになる。

 ルシフは歯を食い縛って激痛に耐え、バーティンの身体をゆっくりと寝かせた。膝の部分をバーティンの頭の下にやり、枕のようにしている。

 バーティンの胸には風穴が空けられていて、致命傷だった。もう一、二分もすれば死ぬような、そんな手の施しようがない状態。そんなことはルシフには最初から分かっていた。ルシフはただバーティンの身体が死後も存在できるようにするためだけに、バーティンを庇っていた。何故どうでもいい人間にそんなことをしたのか、今のルシフは内心で首を傾げている。

 

「……ルシフちゃんはやさしいね……」

 

 バーティンが微笑み、小さく言った。

 ルシフは何も言わず、ただバーティンの顔を見つめた。

 

「ルシフちゃんならきっと、誰よりもやさしい王になれるよ。誰よりも……やさしい……王に……。だから……泣かないで。誰よりもあなたは強く在らなきゃ」

 

 バーティンがゆっくりと右腕をあげ、指先でルシフの目尻を拭った。

 ルシフは必死に感情を殺した。何故震えが来るのか分からない。

 バーティンの右手首を掴み、ルシフはゆっくりとバーティンの腹部につけるようにした。

 

「俺が泣くか、お前らごときで」

 

「……ふふ、そうだね。ルシフちゃんは強いもの」

 

 バーティンが咳き込んだ。血の塊が吐き出される。

 バーティンはルシフから視線を逸らし、どこまでも澄んだ空を見た。

 都市間戦争で自分を庇って死んだ愛しい弟の顔が空に浮かぶ。

 

「……セーレ……お姉ちゃん……あなたと同じ死に方……できた……よ」

 

 ──あなたと同じ死に方をしたから、きっとあなたと同じところに行けるね。

 

 ずっと弟と同じように大好きな人を庇って死にたかった。死に場所を本当は求めていた。

 ようやく……願いが叶う。

 バーティンの瞳から光が消えた。

 

 

 

 もうすでに絶命しているバーティンの頭を持ち上げ、ルシフは膝をどかした。そのままゆっくりとバーティンの頭を地面に寝かせ、開いたままになっているバーティンの眼を、まぶたを右手で触れて閉じた。

 

「バーティン……」

 

《ルシフちゃん!》

 

 脳裏にそんな明るい声が響く。

 ルシフはゆっくり立ち上がり、辺りを見渡した。

 アルシェイラやレイフォン、天剣授受者たちは身を呈して他人を庇ったルシフの姿が信じられず、あまりの衝撃で攻撃するのを忘れているようだ。

 ルシフの目には、そんな彼らの姿は映らない。映るのは倒れている剣狼隊の面々だった。

 

《ルっちゃん、暴力はダメだよ?》

 

「プエル……」

 

《どこまでもお供しますぞ、ルシフ殿》

 

「オリバ……」

 

《俺に任せてくれ、兄貴!》

 

「ハルス……」

 

《はい!》

 

「サナック……」

 

《大将、あんたは希望の光だ。あんたは必ず俺が守る》

 

「レオナルト……」

 

《命令して、ルシフ。どんな命令だって、わたしは従うから》

 

「フォル……」

 

《ルシフ様、いつも私がお力になります》

 

「アストリット……」

 

 そして、それ以外の剣狼隊の隊員たちの名前と顔が次々に浮かんでは消えていく。

 頭が痛い。

 なんでこんなに頭が痛くなる?

 こいつらはどうでもいい連中なのに、なんでこうも感情を揺さぶられる?

 ルシフの脳裏に、剣狼隊と共に過ごした日々がフラッシュバックした。

 そうか。俺はいつの間にか、信念とかそんなものがどうでも良くなるくらい、お前らの存在そのものが大切になっていたんだな。

 腹の底からルシフが雄叫びをあげた。

 ビリビリと大気を震わせ、暴力的ともいえる剄が暴れ狂う。

 アルシェイラやレイフォン、天剣授受者たちはある種の恐怖を覚えた。ルシフはかなり傷を負っているが、それはこちらも同じ。もし剣狼隊の隊員が殺された怒りで我を忘れて殺す気できたら、この圧倒的優勢をひっくり返されるかもしれない。

 雄叫びの後、ルシフは深呼吸した。自分の内に溜まる感情を吐き出したことで、ルシフは怒りに身を任せそうになる自分を鎮めた。

 

「役立たずどもが」

 

 ──お前らは、武芸者の中の武芸者だ。

 

「どいつもこいつも潰されて精々した! 愚かなゴミどもだ! ハハハハハハ……!」

 

 ──悪名なら全て、俺が背負う。その代わり、お前らの死後の名誉は汚さない。最期まで俺への忠誠と民への博愛を貫いた最高の武芸者として、お前らは歴史に名を刻め。それが今の俺にできる、たった一つの恩返しだ。

 

《ルシフ……》

 

 内側からメルニスクの心配そうな声が聴こえた。

 ルシフは無視して笑い続ける。頭痛はどんどん激しくなっていった。



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第96話 転生者

 エリゴは刀を握りしめた。

 エリゴだけはがむしゃらにルシフのところに突っ込むのではなく、冷静を保って部隊を指揮し続けた。隊員は「一刻も早くルシフを助けるべき」と口を揃えて言っていたが、エリゴは「この場で陽動を続けることが他の隊を助けることになり、結果として旦那を助けることに繋がる」と言って隊員たちを抑えこんだ。事実、エリゴの隊の方にもグレンダンの武芸者の集団が襲いかかってきていたので、その分他の隊が楽になっていた。

 エリゴも内心では、他の隊のようにルシフのところへ突っ走りたかった。だがあることがしこりのようにつかえ、その気持ちにブレーキをかけている。そのブレーキも、今となってはきかなくなりつつあるが。

 原因は念威端子からのルシフの声。

 

『どいつもこいつも潰されて精々した! 愚かなゴミどもだ! ハハハハハハ……!』

 

 ──旦那、あんたって人は……。

 

 エリゴは身体を震わせていた。隊員もエリゴと同じく、身体が震えている。

 ルシフに罵声を浴びせられたことに対する怒りではない。それなりにルシフと長い付き合いであるエリゴら剣狼隊は、罵声を口にするルシフの真意を察したのだ。

 ルシフは自身に忠誠を誓って働き続けた剣狼隊すらただの道具としてしか見ていない最低な王をあえて演じることにより、剣狼隊がルシフを救おうとしたのはその忠誠心からだと第三者に印象づけ、剣狼隊がルシフ個人を慕っているから助けたという印象を薄くした。死後も剣狼隊は民から慕われる存在でありますように。そんなルシフの言葉なき願いを、まだ生き残っている剣狼隊は罵声の裏に感じていた。

 剣狼隊は更に目がギラつき、気迫と闘気を充実させ、襲い来るグレンダンの武芸者たちと闘う。グレンダンの武芸者たちは誰もが困惑し、剣狼隊の猛攻に後手に回っていた。

 

「何故貴様らはあんな言葉を言われ、より一層気を昂らせているのだ!? ルシフなど、最低な奴ではないか! 貴様らがそこまでして奴のために闘う必要はない!」

 

「そうやって上辺しか見ないから、お前らはダメなんだ!」

 

「真意も察しろと? それが傲慢だと何故分からん!」

 

「真意を察しようとしないくせに、偉そうに──!」

 

 グレンダンの武芸者と剣狼隊が言い争いながら、お互いの武器を交え続ける。

 

 

 

 マイは念威端子のボードに乗って移動していた。マイにとって幸運だったのは、剣狼隊が突撃を開始したことによるグレンダンの武芸者の迎撃だった。ルシフのいる場所は激しい攻防が繰り広げられているため、アルシェイラたちしか近くにおらず周りは空白地帯のようになっていたが、その外円を囲むようにグレンダンの武芸者たちは動いたのだ。

 グレンダンの武芸者たちが剣狼隊と闘っている上空をマイは通り抜けていた。無論マイに気付き、弓や銃で攻撃してきた者もいるが、それらはマイの念威端子の盾に防がれ、効果は無かった。

 天剣授受者やバーメリンならばマイを余裕で倒せるが、彼らはマイに対して一切攻撃を加えなかった。彼らはレイフォンやマイアスでのルシフの暴走を見ていたカナリスらの情報により、マイに危害を加えることによる危険性を把握していた。それでもその情報を武芸者全員に周知させていないところを見ると、万が一その情報が漏れてルシフに利用されたら、という恐れも窺える。ルシフがマイを前線に送るなどよっぽどのことがなければやらないが、グレンダン陣営にそれが分かろうはずもない。

 マイは念威端子のボードから飛び降り、笑い続けているルシフに駆け寄った。アルシェイラたちはこれで下手に手を出せばマイの身が危ういと考え、攻撃するのをためらっている。

 そうしている間に、剣狼隊の何人かがグレンダンの武芸者による防衛線を突破し、ルシフの元に駆けつけた。それぞれ武器をアルシェイラたちに向けて構え、見据える。

 

「ルシフさま! この場は撤退しましょう! ルシフさまがその気になれば撤退できるはずです!」

 

「……撤退?」

 

 ルシフが笑うのを止め、そう呟いた。

 

「俺に逃げろと言うのか!」

 

 マイは涙目になり、両膝を地につけてルシフのボロボロの黒装束にすがりついた。

 

「ルシフさまに生きてほしいんです! ルシフさまがお亡くなりになられたら、誰がルシフさまの理想を実現できるのですか!?」

 

 上目遣いで見上げてくるマイを見て、頭痛が激しさを増した。熱も出てきたようで、クラクラする感じもある。自分自身が揺らいでいるから、ヤツが俺の身体を乗っ取れると張り切っているのだ。思い通りになどなるものか。

 

「ルシフさまを誤解している連中も、いつかルシフさまの思いと信念を必ず理解します! ルシフさまが犬猫のように人が死なない、人間らしく自分の未来を選んで生きられる世界を実現しようとしていることも! ですから、今は生きることを何よりも優先してください!」

 

 マイの最後の言葉は、ルシフの耳に届いていなかった。

 

「……人間らしく……自分の未来を選んで生きる……?」

 

 転生者の記憶が甦る。

 この人間の人生には、選択肢が無かった。だから、死の間際に力を望み、選択肢のある人生を望んだ。

 その願いを俺は無意識の内に叶えようとしていた?

 ルシフは頭を右手で押さえ、顔をしかめる。頭痛が今までの中で一番激しい。

 

 ──俺が、生まれた場所や親に関係なく誰もが未来を選んで生きられる世界に執着していたのは、本当はマイのためではなく、ヤツの願いだったからなのか?

 

 なら、俺は何なのだ? 俺は本当にルシフなのか?

 今まで生きてきた記憶が走馬灯のように駆け巡る。

 

 ──そう言えば、何故俺は力無き弱者を痛めつける時、あんなにも不快な気分になった?

 

 元々俺は、どんな人間だろうが痛めつけたところで不快な気分になど、ならなかった。それがいつの間にか、弱者を痛めつけることがたまらなく嫌になり、痛めつけたら嫌悪感が生まれるようになった。それは本質の部分であり、信念を強く抱いていたとしてもそこまであからさまに変貌するだろうか?

 

 ──まさか、俺は思い違いをしていたのか?

 

 転生者に身体を奪われる時はコインの裏表のように入れ替わると考えていた。だが、白紙に墨を塗るように人格を侵食して最終的に転生者の人格に形成されるのが真実なのだとしたら……。

 

 ──だとしたら、今の俺は誰だ……?

 

 頭痛が今までで一番と言っていいほど酷くなる。頭が割れるかと思うほどだ。

 

「がッ……!」

 

 ルシフは頭痛の酷さに耐えきれなくなり、両膝を地につけた。顔を俯ける。

 

「ルシフさま! どうされました!?」

 

 マイが心配そうにルシフの顔を覗きこもうとする。剣狼隊の隊員たちもルシフの異常に気付き、ルシフに駆け寄った。

 

「あ……あああ……ああぁぁぁッ!」

 

 ルシフが叫び声をあげた。

 その後、信じられないことが起きた。誰もが何が起きたか理解するのに数秒を要した。

 ルシフがいきなり立ち上がり、目にも留まらぬ速さで剣狼隊の隊員二人の首をはねたのだ。

 

「……え?」

 

 首をはねられた隊員の近くにいた他の隊員たちは、血が噴水のように噴き出ている胴体を唖然とした顔で見ている。いや、その隊員たちだけではない。マイも、アルシェイラたちも、誰もが同じ顔で血が噴き出ている光景を凝視していた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 真っ暗な空間が広がっていた。周囲のどこを見渡しても闇しかない。だが不思議なことに自分の手や身体は闇に浮かび上がっているようにはっきりと見えた。

 ルシフは歩いてみると、地面と思っていたものが揺らめいた。どうやら自分が立っているところは地面ではなく、液体の上らしい。

 

「よう。また会えたな」

 

 唐突に声が聴こえ、ルシフは正面に顔を戻す。ルシフの姿を切り取ったような影が立っていた。口の部分だけが光で表現されている。光は笑っているように三日月型になっていた。

 

「貴様がいる……? どういうことだ? 俺は貴様と同化が進んでいたはず……」

 

「うーん、まあいいか。もう俺の身体になったし、種明かししてやるよ。

はーい、ではここに、ミルクとコーヒーが入ったグラスがありまーす」

 

 影が両手を前に出すと、それぞれの手にミルクとコーヒーのグラスが形成された。右手にミルクのグラスを持ち、左手にコーヒーのグラスを持っている。ここは精神世界であり、望むものを具現化できるのだ。

 

「このコーヒーが、お前の魂。で、こっちのミルクが俺の魂。では、ここで問題。コーヒーにミルクを入れたらどうなるでしょうか?」

 

 影がミルクのグラスをコーヒーのグラスに近付け、ミルクをコーヒーのグラスに少し注いだ。コーヒーに白が混じり、黒から茶色に変化していく。

 

「……嘘だ……」

 

「もう解るよな? お前はコーヒー牛乳になったんだ。お前本来の魂に俺の魂が少しだけ混じった存在。それがお前の正体。良かったな、最期に自分自身の真実が知れて 」

 

「嘘だ!」

 

「嘘なんか言うもんか。お前自身、心当たりがあるんじゃないか? 何かなかったか? 今まで生きてきて、自分自身が壊れたような錯覚をした時があったんじゃないか?」

 

「……自分が……壊れた……?」

 

 ルシフの脳裏に思い浮かぶのは、マイと初めて出会った日。あの日、自分が壊れるような感覚を確かに感じた。

 

『どうして、ないてるの?』

 

 幼いマイの声が再生される。

 あの時、何故泣いていたか分からなかった。いや、そもそも泣いていることにすら気付いていなかった。あの涙は、本来の俺の魂が別のものに変貌していくことへの怒りと悲しみ、悔しさからきた涙だったのか。

 

「心当たりがあるようだな。上手くやれて良かったよ。この際だから、もう一つ正直に言おうか。実はお前の身体はお前が生まれた時に奪えたんだ。少なくともそれから三年以内なら、いつでも奪えたんだよ」

 

 影がにやりと笑った。

 

「なら何故奪わなかった!? こんな回りくどいことをするくらいなら、即身体を奪うべきだっただろう!」

 

「おーおー、そんな興奮すんなよ。今からその理由を教えてやるからさぁ。よく考えてみな、鋼殻のレギオスの世界に行くんだぜ。俺はその知識があったから、はずれの場所に転生されられるんじゃないか不安だった。レギオスの世界は生まれた場所で人生が決まると言っても過言じゃないからな。確かに転生して新しい人生を歩んでみたいという気持ちは大きかった。けどそれ以上に、過酷で苦しい思いをして死ぬくらいなら、このまま痛みを感じずに死にたいと思ったわけだ。で、思いついたのが身体を奪う時期の変更。お前がそれなりに長く生きたなら、そこは少なくとも死が蔓延している場所じゃない。なんならグレンダン以外で武芸が盛んな都市に放浪バスで逃げればいい。例えば法輪都市イアハイムとかな。だが、時期を変更すれば身体を奪えなくなるというリスクも高くなる。お前の自我が形成され、身体に定着しちまうからだ。だから俺は考えた。自我が形成されるのを止められないなら、壊れやすい自我にすればいいってな」

 

「壊れやすい自我……? そうか、そういうことか。だから貴様は、俺の身体を奪おうとしても奪えないという茶番をし、俺が逆に貴様を取り込んだと思うようにいつの日かピタリと身体を奪おうとするのを止めた」

 

「人格ってのは環境が大きく影響するらしいからな、神の意思すらねじ伏せられる選ばれた人間だとお前を思い込ませたわけだ。だが、それだけじゃ確実に自我が壊れるとは言い切れない。だからお前がもっとも衝撃を受けて自我が揺さぶられた時、俺の魂の一部だけでもお前の魂にねじ込んだ。そうすれば、本来のお前であろうとするお前の自我と、実際の思考や性格にズレが生じる。いつか確実にお前の自我がぶっ壊れるってわけさ。どうだ? なかなかの計画だろ? 色々不確定要素の多い計画だったが、失敗したところで俺は一度死んだ身だからな。そん時はそういう運命だったと諦めてたさ。まあ結果として身体を手に入れたんだから、めでたしめでたしハッピーエンド! あ、お前からすればバッドエンドか。ハハハハハハ!」

 

 影にルシフの姿が嵌め込まれるように、影からルシフへと姿が変化していく。逆にルシフは闇に呑み込まれるように、身体が足から消えていっている。

 ルシフの姿になった影だったモノが、消えていくルシフの肩をぽんぼんと叩く。ルシフは茫然自失といった感じで、表情が抜け落ちていた。

 

「そう気を落とすなよ。人生なんてそんなもんさ。手のひらの上で人を転がしていたと思っていても、ふと下を見ると誰かの手の上だった、なんてことはざらだぜ。まあ、なんだ、それでも今まで楽しかったろ? 今まで俺の身体で楽しんできたんだから、次からは俺の番だ。たくさんの女をはべらせてさぁ、自分の好きに生きてやるんだ。異世界転生したヤツってのはみんなそういう生き方してるからな。俺だってできるさ」

 

 転生者はルシフとすれ違い、振り返る。

 ルシフの姿は完全に闇に呑み込まれていた。

 

「ククク、アハハハハハハッ!」

 

 ルシフの姿をした転生者は笑い続けた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

「ああああああ! 身体中いてえええええッ! 何やってたんだよ、あのボケ!」

 

 急に絶叫し意味不明なことを言ったルシフを、誰もが呆けた顔で見ていた。

 ルシフはそんな視線もお構い無しに、頭を二、三度右手で叩く。

 

「あー、クソ、今まで何やってたか全然思い出せねえ。まだ身体が馴染んでねえからか? そういやあ、俺の名前ってなんだったかな?」

 

「……ルシフ……さま?」

 

 マイが呆然と呟いた。

 転生者はマイの視線に気付く。

 

「ねえ、そこの可愛いお姉さん、俺の名前を言ってみてよ」

 

「え? ええ? ル、ルシフさま!? 一体どうしちゃったんです!? また何かを狙っての演技ですか!?」

 

「ルシフ、ルシフね。そういやそんな名前をアイツが言ってた気がするなあ。つーか、マジ身体いてえな。本当になんなんだよ」

 

 そこで転生者はアルシェイラたちが武器をこちらに構えていることに気付いた。

 転生者の顔が青ざめる。

 

 ──オイオイオイ、死ぬわ俺。

 

 そもそも、何故アルシェイラたちと敵対しているような空気になっているのか。ていうか、なんだあのアルシェイラの持ってる武器? 女王は素手専だろ。あの槍は確かデュリンダナにぶん投げた槍じゃねえか? てことは今はデュリンダナ襲撃時? いやいや、あの時アルシェイラは王宮にいただろ。それに空も晴れ渡ってるしよお、ああ! もう! 何がなんだかまるで理解できねえ! そもそも原作知識があってなんでアルシェイラに──というかグレンダンに喧嘩売ってんだよ! 勝てるわけねえだろうが! アイツのバカさ加減だけが計算外だったわ! と、とにかく謝ってこの場を乗り切ろう。

 

「女王陛下、私が愚かでした! ごめんなさい!」

 

 転生者が土下座した。

 その姿を見て、マイの表情が冷たくなる。マイは演技でもルシフが土下座しないことをよく知っていた。

 アルシェイラの眉がピクリと動いた。不愉快そのものといった表情になっている。

 あまりに今までのルシフとはかけ離れている。そもそも剣狼隊の隊員を殺した時点で、このルシフはもう完全な別人になっているとアルシェイラは確信していた。サヤからルシフは転生者の魂を持っていると聞いていたため、アルシェイラはとうとうルシフの身体が転生者に乗っ取られてしまったのだと察した。

 

「……あんた、自分が何やったか覚えてないの?」

 

「お、覚えています! 覚えていますとも! ですが、私の過ちにたった今気付いたんです! 心を入れ替えました! これからは女王陛下の力になり、女王陛下と共に敵を倒したいと思います!」

 

 アルシェイラが深くため息をついた。

 

「……もう謝って済むような次元じゃないのよ。わたしたちが許しても、民が許さない。それから、それ以上、その姿で醜態を晒してルシフを汚すな。ルシフに身体を返せ」

 

「……やだなあ、ルシフは俺ですよ。身体を返せって言われても、どうすればいいのか……」

 

 アルシェイラは転生者である俺を知ってる? あー、サヤがいるからか。そもそも俺はサヤに会ったから鋼殻のレギオスの世界に行くって確信したわけだしな。それはさておき、クソ面倒だ。このままじゃハーレムライフを漫喫できねえじゃねえか。

 

「あの、陛下。さっきから何を言ってるんです?」

 

 レイフォンが困惑しながら訊いた。

 

「細かい話は省くけど、ルシフは魂を二つ持って──ああ! めんどくさッ! 要すんにルシフは二重人格なのよ。今はルシフとは別の人格がルシフの身体の主導権を握ってる」

 

 普通なら、誰もがアルシェイラの頭がおかしくなったと思うところだろう。

 だが、誰もがアルシェイラの言葉を抵抗無く受け入れた。ルシフという男はそれくらい強烈な存在感を放つ男だった。今のような全く気概もプライドもないルシフなど、演技だとしてもやらないし、命乞いなどもってのほか。ルシフが命乞いしないのはアルシェイラと第十七小隊なら皆知っている。

 アルシェイラたちが剄を高め、気迫のこもった目で土下座している転生者を睨む。

 彼らの目を見て、転生者は謝っても無駄だと気付いた。

 転生者は立ち上がり、ぎこちなく方天画戟を構える。彼は前世でこのような武器を使ったことはなく、武術の心得もない。映画やドラマ、アニメの知識から見よう見まねで構えるのは当然だった。

 

 ──ああ、クソいてえなちくしょう! この身体の痛みだけでもどうにかなんねえのか?

 

 転生者がそう思った途端、転生者の身体を巡る剄が肉体を活性化させた。身体の傷がみるみる塞がっていく。

 

「お? おお?」

 

 転生者が驚きの表情で自身の身体を凝視している。

 しまった、とアルシェイラたちは思った。図らずも回復する余裕を与えてしまっていた。

 アルシェイラたちが一斉に攻撃を開始した。剄矢、衝剄が放たれ、鋼糸がうねり、アルシェイラ、レイフォン、サヴァリス、カナリスが襲いかかる。

 その光景を見た剣狼隊の女隊員がマイを抱き抱え、転生者のいる場所から後方に跳んだ。他の隊員たちも全員同様の動きをしている。原因は分からないが、ルシフが今までのルシフと全く違う人間になっているのは疑いようのない事実であり、たとえルシフの姿をしていても仲間を平気で殺すような奴の力にはなりたくないという思いが、彼らに転生者への助太刀ではなくその場からの離脱という選択を選ばせた。

 

 ──あ、死んだ。

 

 転生者は眼前に広がる攻撃密度の高さに、自身の死を予感した。

 そこで再び自身の身体が転生者の意思に反して動く。方天画戟に剄を一瞬で集中させ、横に一薙ぎ。方天画戟からとてつもない衝剄が放たれ、転生者に襲いかかったありとあらゆるものが吹き飛ばされた。

 

「ぐッ、これは……!」

 

 アルシェイラは転生者の衝剄を二叉の槍で防いだが、後方に吹き飛ばされた。宙で体勢を立て直し、着地。他に襲いかかった者たちも同様に着地している。戦闘不能になった者はいない。いないが……。

 

 ──もしルシフの技量をアイツが受け継いでいるのだとしたら、ヤバイわね。

 

 ルシフは信念を優先していたから、自らの圧倒的な戦闘技術を制限していた。化錬剄で剄に斬性を持たせての斬撃も、衝剄に火を混ぜ込んでの熱線もやってこなかった。急所も狙わなかった。

 だが、アイツは違うだろう。信念などない。死にたくないから、自分を脅かす存在はなんだろうと殺す。それにルシフが今まで研ぎ澄ませ続けた技量という名の刃を持たせたらどうなるか。考えたくもない。殺人鬼の完成だ。

 

「おお! なんだこれ! すっげえ!」

 

 転生者は今の一薙ぎに目を輝かせていた。どうやら命の危機にさらされると身体が反射的に最適な行動を選択するらしい。そうなるほどに何度も何度も身体に染み込ませ続けたルシフの努力の結晶。

 

 ──はーん、なるほど。アルシェイラぶっ殺せる力があったから喧嘩売ったのか。やっぱ異世界転生はこうじゃなきゃいけねえよな!

 

 他人の努力や力をそのまま横取りし、当人はその貯金で遊びまくる。これこそ、転生者の望んだことであった。できれば苛酷な環境を生き抜くために努力した成果を身体を奪う時に一緒に奪えたらいいな、と思っていた部分もあるから、そういう意味でルシフは最高の踏み台だったと言える。

 そうと理解した転生者が起こした行動は単純。ただアルシェイラに突っ込む。構えも何もない。ただ方天画戟を持って走る。誰もこの走りが戦闘中の走りだと思わないだろう。

 アルシェイラが二叉の槍を突き出す。それを反射的に方天画戟で防ぎつつ、転生者は蹴りを放った。アルシェイラが身体をひねり、蹴りをよける。アルシェイラの脇腹が切られ、血が溢れた。蹴りの延長線上にいたグレンダンの武芸者たちは左右に真っ二つにされた。

 

「……ッ!」

 

 アルシェイラは蹴りから放たれた斬性を帯びた衝剄の爪痕を見て、戦慄した。少なくとも数百メートルという距離の間にいた全ての人間の身体が縦に切られている。腕を、足を、胴体と頭を切り裂かれ、悲鳴が外縁部に満ちた。

 幸運だったのは、まだ縦方向による斬撃だったことだ。これが横方向の蹴りで放たれていたなら、死者は何百人と増えていただろう。

 

「ははッ、たまんねえ! 人がゴミのようだ!」

 

 転生者は自身の起こした惨劇を見てはしゃいでいた。笑い声をあげ続けている。

 

「一刻も早く殺す……」

 

 レイフォンの目が据わっていた。レイフォンだけではなく、全員の表情が鋭くなった。被害が増える前に速攻でけりをつけなくてはならない。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

『何を考えているのです!?』

 

 メルニスクのところに『縁』を通してシュナイバルの声が聴こえた。

 

『メルニスク! しっかり役割を果たしなさい! ルシフの身体にはもう一つの魂が定着しました! ルシフの魂は呑み込まれてしまったのです! あなたの力はもう貸さなくてよいのです!』

 

 メルニスクが転生者に力を貸さなければ、ルシフの地力は天剣授受者レベルのため、アルシェイラは容易くひねり潰すことができる。それに、ルシフともしこうなった場合に備えて、どう行動するべきか事前に話をしていた。

 それでも、メルニスクは転生者に力を貸すことをやめなかった。やめてしまえば、転生者は確実に死ぬ。ルシフの身体とともに。そうなれば、もうルシフが身体を奪い返す機会は永遠に来ない。

 

「ルシフよ……汝はそんな者に負けてしまうほど弱くないはずだ。早く身体を奪い返せ。それまで、汝の身体は死なせはせぬ」

 

『ああ……メルニスク。あなたもまた、ルシフに魅いられてしまっていましたか……』

 

 ルシフの圧倒的なカリスマ性が、ルシフならば最終的にどんなことも乗り越えてくると疑いもせず信じてしまう。ルシフの在り方が、ルシフに多大な期待感と全能感を抱かせる。それはまさにどんな相手も魅了する武器であると同時に、どんな相手も盲目にさせる凶器だった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 真っ暗な闇を漂っていた。

 何も無い。何も見えない。何もできない。

 この場所では剄が使えない。どれだけ頭を使おうと、頭脳も活かせない。

 ルシフはこの空間において、無力な存在であった。

 ルシフの目は開いているが、何も映していない。

 

 ──剄も頭脳も、この場所では無価値。

 

 何故なら、後天的なものだから。魂となった自分にそれらは宿らない。ならば、何をもって自分はルシフと言えるのか? 力と頭脳を俺から取り除いたら、何が残る? 何も残らない。俺には、何もない。力と頭脳しかない。

 だがどれだけ力と頭脳を磨いても、結局神には──運命には勝てなかった。どれだけ努力しても、俺は自分の運命を変えられなかった。

 

 ──もういい。もう疲れた。

 

 さっきから、眠くて仕方ないのだ。もうこのまま眠気に身を委ねて寝てしまおう。寝ればおそらく二度と目覚めないだろう。もうこんなことを考えなくてもいい。この息苦しい檻から解放される。

 ルシフの意識は深淵の闇へと堕ちていった。



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最終話 あふれる心

 転生者が方天画戟の穂先をアルシェイラに向ける。

 

「アルシェイラ。『鋼殻のレギオス』を読んでる時、あんたが羨ましかったよ」

 

「『鋼殻のレギオス』? 何よそれ?」

 

 そう言った後、アルシェイラはサヤに言われたことを思い出した。この世界が物語として書かれている世界から、魂を連れてきたと。つまり『鋼殻のレギオス』とは、この世界の物語のことを意味しているのだろう。

 

「他人なんか気にせず、自分の好きなように生きて、どんな困難だろうが己の力一つで踏み潰す。人生、さぞ楽しいんだろうなぁ。憧れるよなぁ、そういう自由奔放な人生」

 

「……何が言いたいの?」

 

「要点はこうだ。あんたがこの世界で一番強い。つまり、あんたをぶっ殺せれば、俺の自由を阻める邪魔者は誰一人としていなくなるってわけよ! 俺の自由のために死ねや、クソババア」

 

 転生者がアルシェイラに向けて走り出した。

 レイフォン、サヴァリス、カナリスが前と左右から同時に攻撃を仕掛ける。

 転生者はそれら全てを防ぎ、全身から電気を放出した。閃光の乱舞。化練剄で剄を電気に変化させた剄技。

 錬金鋼(ダイト)を持っていないレイフォンは後方に跳躍しつつ、衝剄で閃光を相殺した。だが、サヴァリスとカナリスは天剣に閃光が絡みつき、衝剄で相殺する間もなく電撃が全身を打った。二人は全身に火傷を負いながら、その場に倒れた。死ななかったのは咄嗟になるべく多くの剄を防御に回せたからだった。そういう咄嗟に剄を制御する技量を向上できていたのは、ルシフを倒すための特訓によるところが大きい。

 転生者はそんな二人を見てニヤリと笑い、方天画戟を倒れた二人に向ける。完全に息の根を止めるためだ。

 転生者は方天画戟を反射的に横に薙いだ。ビリビリと方天画戟を持つ左手が震える。アルシェイラが放った衝剄を防いだ影響だ。

 

「はっ、手下をやられて怒ったのかよ?」

 

 アルシェイラは転生者を憤怒の形相で睨んだ。二叉の槍を持つ手は怒りで震えている。

 

「美しくてスタイル抜群のわたしのどこがクソババアだ!」

 

「そういうとこだよ。若い女にババアって言っても怒らないだろ?」

 

「ぐぬぬ……」

 

 アルシェイラが歯ぎしりしていると、リンテンスの鋼糸が全方位から転生者に襲いかかった。転生者は方天画戟を回転させて防ぎ、リンテンスを見据える。

 

「大分わかってきたよ。この身体の使い方ってヤツがさあ……。天剣最強、コイツが防げるかな?」

 

 方天画戟に剄を集中し、リンテンスに向けて振り抜く。方天画戟の剄が衝剄となり、閃光がリンテンスに迫る。

 リンテンスは鋼糸を網状に張り巡らせた。閃光が鋼糸の網にぶつかる。すると、鋼糸で切られたように閃光が細切れになった。まるで針のような形状となった無数の閃光がリンテンスに直撃。リンテンスは遥か後方まで吹き飛んだ。

 

「はッ、鋼糸じゃ面での攻撃は防げねえよなあ? 何が天剣最強だよ、笑わせてくれる。けど……あぁ、まだ息あんな、あのニコ中」

 

 周囲の鋼糸が消えずに漂っているのを横目で見つつ、転生者はため息をついた。

 ティグリス、トロイアットがそれぞれ弓と杖を転生者に向けている。アルシェイラも二叉の槍を転生者に向けて構えていた。レイフォンは転生者の動きを観察するように少し離れた場所にいる。

 

「よく漫画とかで悪役が言うだろ? 簡単に殺しちゃつまらないとかさ。読んでる時は『いやさっさと殺しちまえよ』って思ってたんだけど、実際その立場になってみるとさ──いやいや、俺は主人公だからむしろ悪役はお前らなんだけど、そこは今の話で重要じゃない。つまり、要点はこうだ。殺すより生かしつつ痛めつけた方が自分に対する恐怖を感じられていいなあ!」

 

 嬉々として話す転生者の姿。

 ルシフの容姿をしているのに、別人のように醜悪な顔に見える。表情にルシフにはない闇があるからだ。

 

「狂ってる」

 

 レイフォンが呟いた。

 

「人間なんざ誰もが狂ってるだろうが。真人間ぶるなよ。真人間に見える奴らってのは弱い人間さ。弱いから敵を作らないように欲望を制御するんだ。そいつらに力を与えてみ? あっという間に狂った人間ができあがるぜ」

 

 転生者のレイフォンに噛みつく言葉に、その場にいる者はため息をつきたくなった。こいつの思考は偏見で凝り固まっており、何を言ったところで無駄だと悟ったのだ。

 転生者が右手の平をティグリスとトロイアットの方に向ける。

 

「吹っ飛べ」

 

 右手の平から凄まじい衝剄が放たれた。それは衝撃波をともなった閃光となり、周辺のものを吹き飛ばしながら突き進む。

 ティグリスとトロイアットは回避しようとして、その後ろに多数の武芸者と都市部があることに気付いた。回避すれば多数の武芸者はあの衝撃波に耐えられず、身体がバラバラになるかもしれない。下手すれば、都市部も壊滅的な損害を被る可能性もある。そうなってはグレンダンは立て直せない。グレンダンの備蓄資源は先のグレンダン崩壊の復興でほぼ使ってしまっているのだ。

 ティグリスとトロイアットは回避せず、その場で剄を高めて防御態勢をとる。衝撃波をともなう閃光に向かって衝剄を放出して少しでも威力を軽減させつつ、きたるべき衝撃に備えるべく剄による身体強化を最大限にした。

 閃光が二人に直撃した。二人は吹っ飛ばされ身体のいたるところの骨が砕けたが、なんとか一命はとりとめた。閃光は二人に直撃した時点で消滅。

 転生者は不思議そうに首を傾げる。

 

 ──なんでこうも簡単に攻撃が当たった? 防げるという自惚れ? いやいや、 それはないだろ。俺が女王に匹敵するほど強いことは最初の攻防で分かってんだ。ん~……。

 

 ティグリスとトロイアットが吹っ飛ばされた背後。転生者は剄を眼に集中して視力を強化。

 グレンダンの都市部と多数の武芸者の存在が確認できる。

 

 ──はーん、なるほどね。そういうこと。

 

 転生者がニヤリと笑った。

 

 ──どうやらこの身体は宿主の望むことを反射的に実現するようだからな、面白くなりそうだ。

 

 実のところ、転生者は剄を制御しているわけではない。リンテンスの時はただ面での攻撃を望み、ティグリスらへの攻撃は吹っ飛ばすことを望み、今も視力を良くすることを望んだ。そういう望みをこの身体が受信し、その望みを叶える剄の制御を自動で行うのである。更に命の危機が迫れば、最適な防衛行動をする。防御行動でないことが、転生者は気に入っていた。攻防一体であり、防いで敵を倒すところまでがワンセットなのだ。防いで終わりではない。

 方天画戟を横にしつつ後ろに引く。転生者の身体はティグリスとトロイアットがいた方向に向けられている。

 

「全部消し飛べや!」

 

 方天画戟に瞬時に剄が集中し、振る動作に合わせて閃光が放たれた。先程よりも太くて強力な閃光であり、破壊力も衝撃波も前よりも上。

 その閃光を横から直視したアルシェイラの脳裏に、ルシフのデュリンダナへの攻撃で王宮と中央部が崩壊していく光景がまずよぎった。次に、決戦が始まる前にグレンダンの武芸者に対して死なせはしないと言った時の彼らの顔。

 

「やら……せるかぁ!」

 

 アルシェイラが駆けた。その速さは稲妻のようであり、一瞬で閃光の前に立ち塞がった。二叉の槍を前方に構える。白い閃光が二叉の槍と衝突。凄まじい衝撃波がグレンダンの外縁部を駆け巡り、並の武芸者は吹っ飛ばされた。アルシェイラは槍と足に剄を集中させ、その場で踏ん張っている。

 そこで、閃光に変化が起きた。閃光が更に強烈な光を放ちつつ爆発したのだ。どうやら内部を化練剄で火の性質に変化させていて、それが衝剄と混じったことで爆発を引き起こしたらしい。なんにせよ、その爆発を至近距離で浴びたアルシェイラは後方に転がるように吹き飛んだ。身体中に火傷を負い、ルシフにつけられた傷も含めて重傷だった。爆発による衝撃により、全身のいたるところを骨折もした。簡潔に言ってしまえば、アルシェイラは戦闘不能になった。

 

「ハハハハハハッ! ザマァねぇなあ! ええ!? アルシェイラよお! あんたの強さは何にも縛られず、好き放題に力を振るうところだったはずだろうが! それがザコと都市を守ろうなんざ考えるから、弱くなっちまったんだ! あんたが守ろうとしたモンを見てみな」

 

 アルシェイラが転生者の言葉で、首を必死に動かして後ろを見た。爆発の衝撃波はアルシェイラだけでなく、アルシェイラの背後にいる者たちにも及んでいたため、全員アルシェイラより後方に吹っ飛んでいたのだ。

 

「あああああああ! あちぃ! 誰か! 誰か火を消してくれえ! あああああああーッ!」

 

「ッ!」

 

 アルシェイラの視界に飛び込んだのは、爆風の炎に全身を包まれ、絶叫しながら地面を転げまわっている何十人もの武芸者の姿。やがて彼らは動かなくなり、叫ばなくなった。

 

「アッハハハハッ! 見たかおい! あんたが守ろうとしたやつの末路をよお! ああ、たまんねえぜ! これだよ俺が求めていたモンは! お前らが俺に選択肢を与えるんじゃない! 俺がお前らに選択肢を与えてやんだ! 思い違いをするんじゃねえよ! クソどもが!」

 

 後半の言葉はここにはいない誰かに向けて言われているようだった。

 それにしても皮肉なのは、不殺の信念を貫き闘っていたルシフはなかなか相手を倒せなかったのに、殺すつもりで戦った転生者が結果として命を奪わず女王と天剣授受者たちを戦闘不能にできていることだ。ルシフも不殺など考えず闘った方が結果として理想通りの勝ち方ができたかもしれない。しかし、『殺すつもりで戦ったけど殺せませんでした』と、『最初から殺すのではなく倒すつもりで闘い殺しませんでした』では意味合いが違ってくる。殺すつもりで殺せなかったというのは、ルシフにとって敗北と同義である。掲げた目的を達成できなかったのだから。

 さて、話を戻そう。ついに転生者よりスペック的には上の女王まで倒れてしまった。事実として、今まで拮抗していたパワーバランスは崩れてしまったことになる。女王がいたからこそ、ルシフも天剣授受者たちを戦闘不能にする余裕が無かった。女王がいなければ、何人天剣授受者が集まろうとルシフは次々に戦闘不能にできただろう。

 転生者は勝ち誇った表情で周囲を見渡す。天剣授受者で残っているのはバーメリン、リヴァース、カウンティア、ルイメイ、カルヴァーン。レイフォンもいるが、所詮レイフォンなど主人公になれなかった奴だ。実力も天剣授受者レベルだから、脅威にはならない。あと原作で天剣授受者レベルだったのはニーナだが、今の時系列がどの時点か分からない。もしかしたら今のニーナは電子精霊を憑依させていないかもしれない。まあ憑依していたとしても、ニーナの未熟な技量では天剣授受者レベルまでしかいかなかったのだから、敵ではないが。

 

 ──ならやるべきことは……。

 

 転生者はまだ息があるアルシェイラに顔を向けた。正直転生者はアルシェイラを殺そうか迷っていた部分があった。レヴァンティンの襲撃において、アルシェイラの死はグレンダンの致命傷になるからだ。グレンダンが崩壊すれば、この世界そのものが終わる。それがこの世界のルールなのだ。

 だがレヴァンティンだろうが、アルシェイラを圧倒したこの力があれば軽くぶっ殺せるのではないだろうか。ここでアルシェイラを殺せば、世界の全てを好きにできる。その誘惑は、転生者にアルシェイラを殺す決断をさせた。

 倒れているアルシェイラに向けて、転生者が歩き始める。

 その後ろ姿をじっと見つめている少女がいた。マイだ。

 マイは現在の状況を分析し、計算していた。倒すことに拘ったが故に倒せなかった女王は倒れた。つまり、ここでルシフの人格が戻ってこれば、逆転勝利でこの決戦を終わらせることができる。ルシフの別人格はもう用済み。それにマイ自身、今のルシフからは恐怖と絶望しか感じられなかった。時折見える愉しげなルシフの表情がとても醜悪なものに見えてしまう自分が、嫌で嫌でたまらなかった。早くいつものかっこよくて、強くて、優しいルシフに会いたい。そんな想いが恐怖を相殺し、絶望に希望を添えた。震えていた身体を動かす原動力となった。

 マイは駆け出し、転生者の腰に抱きついた。

 

「もうやめて! ルシフさまに身体を返して!」

 

「あぁ?」

 

 転生者がマイを振り払いつつ、肩越しにマイを見た。

 マイは振り払われた反動で尻もちをついたが、すぐに起き上がる。

 

「なんべん言わせるのかな? 俺がそのルシフなんだって。てかさ、さっきはなんとも思わなかったけど、『さま』づけしてるね、俺を。メイドかなんか? いや、異世界転生つったら、奴隷の購入がセオリーだからそっちか? ううーん……まあ、どっちでもいいか。要点はそこじゃないな。要点はここだ。キミを俺のハーレム第一号にしてやる。そう今俺が決めた」

 

「……は?」

 

 あまりの衝撃的な言葉に数秒マイの思考は停止したが、言葉の意味を理解するとマイの身体は恐怖で再び震え始めた。

 転生者はマイの顔に恐怖に支配されたのを見て、唇の端を吊り上げた。マイの方に向き直る。

 

「聞こえたろ? 俺の世話をさせてやるっつってんだ。主に夜の。今までも毎日のようにやってきたんだろ? キミみたいな美少女を侍らせて何もしないなんて男として有り得ないからね」

 

「何もやってません! ルシフさまはそういう目で私を見ませんでした!」

 

「はあ!? 有り得ねえ……男として終わってやがる。けど、まあ、そこは別にいいか。要点はこうだ。調教済みより調教前の方がそそる」

 

「……気持ち悪い。吐きそう」

 

 マイが嫌悪感を顕にして吐き捨てた。

 

「言っとくが、一方的にやらせるつもりはないぜ? 豪華ででかい屋敷、高価な宝石や装飾品、高級で美味い食事、キミが望むものならなんだってあげるよ。それだけの力が、今の俺にはあるんだ。な? 悪くない話だろ?」

 

 マイの脳裏をかけ抜けるは、ルシフと今まで過ごした日々。

 

「豪華で大きいお屋敷……良いですね」

 

「だろ?」

 

「高価な宝石や装飾品……良いですね」

 

「だろ!」

 

「高級で美味しい食事……良いですね」

 

「だろお!!」

 

「でも、あなたに従うつもりはありません。それよりもっと良いものを、ルシフさまは私に与えてくださいました」

 

「はあ? なんだよそりゃ?」

 

「心」

 

 確かに転生者が例としてあげたものはどれも良い。だがルシフの場合、それらのものが無くても、ルシフさえいればいい。ルシフの傍にいられるなら、他に何もいらない。どんな場所だって、ボロボロの服だって、粗末な食事だって、ルシフと一緒にいられさえすれば最高の一時になるのだ。

 転生者から笑みが消えた。

 

「……心? ナメてんのか? そんなモン、なんの価値もねえガラクタ同然のモンだろうが。それからよお……お前に選択肢はねえんだよ。分かるだろ? あぁ!? お前が拒否しても、無理やり連れていくに決まってんだろうが! 俺がそう決めたんだから、俺の思う通りにならないとダメなんだよ!」

 

 転生者の全身から凄まじい剄と殺気が放たれた。

 

「……あ……ああ……」

 

 マイはあまりの恐怖に失禁していた。腰が抜けたのか、力無くその場に両膝をついた。

 

「俺に付いてくるよな?」

 

「……あぅ……ぅぅ……」

 

 マイの身体は更に震え、歯も噛み合わずに何度も何度もガチガチと音を鳴らしている。全身の穴という穴から汗が噴き出し、涙と鼻水がダラダラと流れていく。

 

 ──怖い。

 

 ここで拒否したら、どんな目に遭わされるか。幼少の時に思う存分経験してきた。

 

 ──怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!

 

 屈してしまえば、痛い目に遭わなくてすむ。苦しまなくていい。

 

「わ……わた……わたしは……あなたに……し、したが──」

 

《マイ、お前は俺の『目』だ》

 

 ルシフの声が、マイの耳に響いた。

 ルシフと過ごした日々。どんな相手にも恐れず立ち向かったルシフの姿。ルシフに言われた言葉。それらが頭をぐちゃぐちゃにかき回す。

 

 ──そうだ。私は、ルシフさまの『目』で、ルシフさまの一部。ルシフさまの一部なのに、情けないことできないよ。

 

「……うとでも……言うと思った?」

 

 マイは必死に身体の震えを抑えこんだ。両足に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。

 

「なんだって?」

 

「お前なんかに屈してたまるかああああああ!!」

 

 腹の底から、喉が潰れるほど思いっきり全力でマイは叫んだ。叫ぶことで恐怖を抑え込む。

 

「無理やり連れていかれる前に死んでやる! 私を犯したかったら、私の死体を犯せ!」

 

「……そうかよ。もういいや。そんなに死にたきゃ、俺が死なせてやる。お前が慕う男の身体に殺されるんだ。悪くはないよな?」

 

 方天画戟が振りかぶられた。

 マイの青い瞳が方天画戟を映し、次に転生者の赤い瞳を映す。

 

「ル……ルシフさまああああああ!」

 

 マイの絶叫とともに、方天画戟が振り下ろされた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 

 ──ルシフさまああああああ!

 

 暗転した世界に意識が溶けきる直前、誰かの絶叫が聴こえた。

 

「……マ……イ……?」

 

 意識が急速に暗闇から浮上した。

 暗闇に漂いながら、ルシフは目を開けた。

 そうだ。今この瞬間にも、あの転生者が、俺の身体を使って悪行の限りを尽くしているかもしれない。メルニスクに万が一の場合に備えて頼んでおいたが、それも確実とは言えない。

 

 ──何をやってるんだ俺は……。何を考えていたんだ……俺は!

 

 神に勝てなかった? 運命に勝てなかった? 違うだろ! まだ俺はこうして思考できている。まだ死んでない。死ぬまで、絶望などしている暇はない!

 

 ──勝てなかったら、勝つまでやる! それこそ! ルシフ・ディ・アシェナだろうが!

 

 ルシフの身体が光り輝き、周囲の暗闇を押し潰していった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 マイの首すじで、方天画戟が止まった。

 

「……え?」

 

 マイは首すじの方天画戟を横目で見る。

 

「な、なんだこりゃ……身体が……あ、ああああああ!」

 

 方天画戟はそのままで、転生者が右手で頭を押さえた。

 苦しげな叫び声はしばらく続き、叫びが唐突におさまる。

 

「……マイ?」

 

 ルシフが呟いた。

 

「ルシフさま? ルシフさまですか!」

 

 マイが正面からルシフに抱きついた。

 ルシフはマイを引き剥がし、マイの全身を見る。傷は無さそうだ。良かった。

 

「ぐっ……!」

 

 方天画戟を持つ左腕が勝手に動き、マイを再び殺そうとする。ルシフが右手で左腕を打ち、軌道を逸らした。

 

 ──身体の主導権は完全にヤツにもってかれている……!

 

「マイ、俺から離れろ!」

 

「は、はい!」

 

 マイが慌ててルシフから距離を取る。

 ルシフは周囲をゆっくりと見渡した。倒れているアルシェイラや天剣授受者、黒焦げになっている多数の人だったもの、両断された人々。

 ルシフの表情が歪む。

 この事態は、俺の弱さが招いた。俺の責任だ。

 

 ──俺自身の手で、この事態の収拾をつける!

 

 剄を制御し、化錬剄で剄に斬性をもたせ、その剄で首をはねようとする。剄が不可視の鞭となり、首をはねる直前、不可視の鞭は消滅した。不可視の鞭へ衝剄がルシフの意に反して放たれたからだ。

 ルシフが右手に斬性の剄を集中させて首を切ろうとしても、やはり首に触れる直前に止まる。方天画戟で身体を貫こうとしても、やはり戟を操っている左腕が硬直する。

 どうも死の危険がある行動は反射的に防ぐようになっているらしい。

 

《この死にぞこないがぁ! さっさと身体を返せや!》

 

 頭にヤツの声が響く。

 ルシフは無視して、自分を殺そうと色々試し続ける。

 

《分かってんだろ!? もう優劣は決まったんだ! すぐにまた俺の身体になる! 無駄な足掻きはやめちまえ!》

 

 ──……最悪だ。

 

 思いつく限りの自殺方法を試したが、全て無駄だった。

 自分を殺すことはできない。

 ルシフは視線を巡らせる。レイフォン。目があった。様子のおかしいルシフから距離を取って注意深く様子を窺っている。

 

 ──ああ……本当に最悪だ。まさか、自分の尻を拭くのに他人の手を借りることになるとは……。

 

 だが、背に腹はかえられない。この場合の犠牲はルシフのプライドである。それだけのものを犠牲にしてでも、コイツだけは確実に今殺さなくてはならない。

 

「アルセイフ!」

 

「ルシフ……か?」

 

 ルシフの声に、レイフォンが冷静さを保つよう努めつつ問いかけた。ルシフはもちろんレイフォンの心情などどうでもいい。

 

「アルセイフ! 俺を殺せ!」

 

「……なんだって?」

 

「俺がこの身体を抑え込む! 俺が抑えている内に殺せ!」

 

 レイフォンは明らかに動揺した。

 ルシフは舌打ちする。

 

「グレンダンやフェリ・ロス、リーリンなど、お前の大切なものが傷つけられてもいいのか!? 殺さないなら俺自らお前の大切なものを壊して回るぞ!」

 

「キミはホントに狂ってるよ!」

 

 たまらずレイフォンは叫んだ。

 まったくもってメチャクチャな理屈である。要は殺す気になるまで破壊、蹂躙し続けるとルシフは言っているわけだが、そもそもそうさせないために殺せと言っているのにそれを実行してしまったら本末転倒である。意味が分からない。だが極めて残念なことに、ルシフは本気かつ真剣であった。ルシフはやると言ったことは必ずやるのだ。まさしく有言実行の塊のような人間。

 ルシフは百人傷つけることで千人助けられるなら、笑ってそれを実行できる人間である。この場合の理屈もこれと同様であろう。

 レイフォンは迷いが表情に出ていたが、やがて消えた。覚悟を決めた顔つきになる。

 ルシフは左手を開き、方天画戟を下に落とした。鈍い音が響く。

 レイフォンがルシフに向けて走り出した。

 ルシフはすかさず剣帯から天剣ヴォルフシュテインを抜き取り、レイフォンの方に放った。

 レイフォンは驚きつつも天剣を掴み、レストレーションと呟き復元。復元できたことにより、レイフォンは確信に至る。

 

 ──ルシフ……キミは怖れていたんだな。いつかこんな日が来るかもしれないと。だから、自分を殺すための武器を肌身離さず持っていたんだ。

 

 レイフォンが剣を構えて迫るにつれ、ルシフの内からの転生者の声が必死さを帯びてくる。

 

《やめろぉ! ホントに、ホントに死んじまうぞ! 分かった! この力は人助けにしか使わない! 目が覚めた! 俺は聖人になる! だからやめろォ!》

 

 ルシフは鼻で笑った。

 

《転生者……お前には怒りもあるが、感謝もしている。お前の知識のおかげで、この世界を効率良くぶっ壊すことができた。だから……俺もお前とともに死んでやる。俺みたいな史上最高の男が心中してやるんだ。感謝しろ》

 

《誰が感謝なんかああああ! 嫌だ! せっかく楽しく生きられそうなのに、死ぬのは嫌だああああ!》

 

 レイフォンは剣を振りかぶる。

 

「斬らないでええええええ!」

 

 マイの絶叫がレイフォンの耳を突き刺した。レイフォンが横目で声がした方を見ると、マイがルシフの方に走っている姿が見えた。ルシフまでの距離は四、五メートル。

 レイフォンの頭にルシフとともにいた日々や、ルシフを慕う人々の顔が次々に浮かぶ。最後に、悲しげな顔をしているリーリンが浮かんだ。

 レイフォンは振りかぶった剣を下ろそうとする。しかし、ここでレイフォンは気付いた。あのルシフのこと。自分の優柔不断さは計算に入れているに違いない。

 レイフォンが天剣に意識を集中すると、目に見えないほど細くて、微かな剄しか感じない剄糸が天剣に張りついていた。どうやらルシフはこの剄糸で天剣を操り、レイフォンの意を無視して自分を斬ろうと考えているらしい。レイフォンはただ天剣を復元し天剣の間合いまで持ってくる役割に使われただけ。

 レイフォンは天剣から剄糸を引き剥がし、天剣も錬金鋼状態に戻した。これで、万が一にもこの天剣でルシフを斬れない。

 ルシフは驚愕の表情でレイフォンを見ている。ズキリ、とレイフォンの心が痛んだ。

 

「ルシフ、僕の知ってるキミならあんな人格に負けない。殺すなんてしなくても──」

 

 不意に、ゾクリとレイフォンに悪寒が走った。ルシフの唇の端が吊り上げられ、勝ち誇ったような表情をしたのだ。

 レイフォンの背後、黄金の粒子が瞬時に集まり、牡山羊の姿を形作る。レイフォンは身体の内側から、何かの力が止めどなく溢れてくるのを感じた。

 その力はレイフォンの全身を包み込み、天剣まで達する。

 

「レストレーション」

 

 レイフォンの声ではない。ルシフの声である。

 ルシフの声に反応し、天剣が再び大剣へと復元。どうやらルシフは、この牡山羊の力とルシフの声を復元鍵語として追加していたようだ。

 斬る直前での逡巡。天剣への剄糸の察知。その対処と錬金鋼状態への移行。そして、そうした対応を経て生まれた安堵と油断。これら全て、ルシフに読まれていた。

 

 ──何もかも……キミの手の平の上か!?

 

 レイフォンは必死に身体をコントロールし、黄金の牡山羊を自身の身体から引き剥がそうとする。

 

 

 

 ──全て、計算通りだった。

 

 メルニスクに身体の自由を奪われたレイフォンを見て、ルシフの笑みは深くなった。

 レイフォンが優秀な武芸者であることは、ルシフも認めていた。また殺す度胸がないこともよく理解していた。故に必ず剣は斬る直前で止まり、またルシフという人間を知っているなら、必ず何か天剣に仕掛けをしたはずという答えに達する。バレないように付けられた剄糸に気付き、また万が一に備えて錬金鋼状態に戻す。ここまですればもう大丈夫だろう。そう思って気を抜いた一瞬。そこが、ルシフにとって狙い目だった。

 レイフォンをもし身体が奪われ自殺できなかった場合の保険として選んだのは、原作知識が主な理由であった。

 レイフォンは主人公として原作では書かれているが、後半の扱いは不遇と言ってもいい。まるで邪魔者のように扱われ、物事の中心には関われない。だが主人公として書かれているためか、重要な場面には必ずと言っていいほど姿を現す。またレイフォンの行動理由も、リーリンのためとかニーナのためとか言っているが、別に深いものは何もない。

 この原作知識を以てすれば、レイフォンの脅威度はかなり低いと言わざるを得ない。レイフォンを味方につけるのも簡単だ。故に、転生者はレイフォンの殺害をしないか、殺害するにしても後回しにするのではないか、とルシフは考えたのである。

 メルニスクに身体を乗っ取られたレイフォンが、悔しげな表情で大剣を再び振りかぶった。

 メルニスクはこの計画についてルシフが話していた時のことを思い出していた。マイがハイアに誘拐され、マイアスの武芸者をルシフが蹂躙した後。

 『頼みがある……!』と言った後、ルシフは頼みの内容を話した。もし別の魂にこの身体を奪われた時、そいつに力を貸すな。俺の意識が残っていて身体の自由がきかず、自分の殺害を他人に任せるしかできなかった場合、レイフォンが殺そうとしてきた時は、レイフォンに俺は奪う予定の天剣を渡す。レイフォンは必ず直前で斬れない。天剣も錬金鋼状態に戻す。その油断をつき身体を奪い、以前俺にやったように身体を操れ。天剣は復元できるよう手を打っておく。復元した天剣で俺を殺せ。レイフォン以外の者が殺そうとしてきた場合は、そいつに力を貸してやれ。身体は奪わなくていい。レイフォン以外の奴なら、俺を殺すのに躊躇はしないだろう。

 頼みを聞いた後、『本当にそれでいいのか』とメルニスクは問い掛けた。ルシフはああ、と肯定した。

 その時から、メルニスクは決めたのだ。もしそんな時が来たら、自分がルシフを殺すと。他でもないルシフが、血を吐くようなすがる声で頼んできたのだ。これに応えるのが、ルシフに電子精霊として救い上げてもらった自分にできる恩返しではないか。どれだけ殺すのが嫌でも、もう共にいられなくなるのが辛くとも、ルシフの願いを叶える。それが、自分の為すべきこと──。

 しかし、振りかぶった大剣をなかなか振り下ろせない。メルニスクの記憶が掘り起こされ、ルシフと共にあった日々がフラッシュバックする。不快な気分になった時もあるが、新鮮で充実し、何より温かかった日々。自分を友と呼び、相棒と呼んでくれた変わり者との光溢れる日々。

 

「斬れ! 相棒!」

 

 ルシフの怒鳴り声。

 メルニスクはハッとした。ルシフはレイフォンではなく、その背後にいるメルニスクを真剣な表情で見つめていた。

 大剣を振り下ろす。大剣はルシフに当たる直前で一瞬止まり、また振り下ろす動作を再開した。

 ルシフの身体に斜めで深く斬線が刻まれた。 メルニスクの力と黄金の粒子が傷口から侵入してくる。

 

《ああああああ! いてえ! いてえよ! こんなの死んじまう! 死んじまうよおおおお!》

 

 身体の主導権は転生者が持っていたため、痛覚も共有していた。

 ルシフは自分の身体を必死に動かないよう抑えていたが、勝手に身体を動かそうとする力はきれいさっぱり消えていた。どうやら死を確信したことと激痛で精神が崩壊し、肉体がまだ死んでないのに転生者の魂が離れたらしい。痛みに慣れてないから、そうなるのだ。ざまあみろ。

 

「ははははは……」

 

 ルシフは乾いた笑いをあげながら、膝をつきそうになる自分を気力を振り絞って支えた。

 目の前にいるレイフォンはすでにメルニスクの支配から脱していた。メルニスクはレイフォンの斜め後方に静かに佇んでいた。

 レイフォンは悲しげに目を細めていた。幾重にも策を巡らし、そこまでしてでもあの別人格を殺そうとしたルシフの世界を、人の命を救おうとする意志を明確に感じとったからだ。

 レイフォンと目が合うと、ルシフは微笑んだ。レイフォンがハッとした表情で、ルシフを見返す。

 

「すまん、アルセイフ」

 

「……は?」

 

「本当は自分で何もかもケリをつけたかったんだが、お前の手を借りなければならなかった。俺の命を、お前に背負わせることになる。本当にすまない」

 

「謝るな! ルシフ・ディ・アシェナが、他人に謝るな! キミはいつだって謝らなかった! 自分は間違えないし、失敗もしない! それがルシフの在り方だったじゃないか! だから謝るな! 謝るなんて、まるで──」

 

 死を受け入れているようじゃないか。

 理解したんだ。ルシフという男を。先入観や偏見を無くして、これから仲良くなれそうな気がするんだ。友だちに、なれる気がするんだ。たとえキミがそう思ってくれなくても。

 ルシフは目を丸くしたが、すぐに笑い声をあげた。笑ってる最中に咳き込み、血を吐き出した。

 

「ルシフ!?」

 

 吐血したことに驚き、より接近しようとしたレイフォンを横からマイが突き飛ばした。

 レイフォンは思いがけない方向からの衝撃にバランスを崩し、二歩、三歩と横によろめく。

 

「ルシフさま! ルシフさま!? 死なないでください! ルシフさま!」

 

 マイがルシフの身体に刻まれた斬線を見て悲鳴をあげた。切り口はとても深く、内臓まで見える始末だった。まだルシフに意識があり、生きているのは一重に剄による延命が優れているだけであり、常人なら即死である。

 ルシフは震える左腕をゆっくり上げ、マイの右頬を優しく撫でた。マイはその手に右手を重ね、ルシフを見つめた。

 

「マイ……この世界に、俺よりいい男はいない」

 

「当然です!」

 

 一瞬の迷いすらなく、マイが即答した。

 ルシフは嬉しさと悲しさが同時に襲ってきたような複雑な感情に襲われた。

 

「だが、俺よりお前を大事にしてくれる男なら、腐るほどいる」

 

「……え?」

 

 マイが困惑し、泣きそうな顔になる。

 

「ルシフさまより大事にしてくれる人なんていません! 嫌です! そんなこと言わないでください!」

 

 マイの瞳に涙が浮かび、叫んだ。

 

「マイ、よく聞け。怖がらずに世界に飛び込むんだ。世界はお前が思っているより、お前に優しいんだ」

 

 唐突に、ルシフは悟った。

 自分はマイにこの一言が言いたくて、世界をぶっ壊したかったんだな、と。

 全く滑稽な話だ。たかがそんな一言のために、世界の全てに喧嘩を売り、世界のシステムそのものをぶっ壊したのだから。

 だが、それが人間の強さだ。力でも、頭脳でも神と運命には勝てなかった。強靭な意志こそ、神をも超える人間の武器なのだ。力も知恵も、その意志の付属品でしかない。

 マイもルシフの言葉を聞き、ルシフが今まで世界を破壊して新世界を創ろうとしていた理由は自分のためだったと悟った。

 マイの目から涙が止めどなく流れ落ちる。

 世界なんて、どうでもよかった。ただルシフが傍にいてさえくれれば、それでよかった。

 

「私はそんなの──!」

 

 望んでない、と言おうとして、マイは黙り込んだ。

 もう、ルシフは助からない。それは痛いほど分かる。これが最期なのだ。その最期に、ルシフの想いを否定して何になる。

 

 ──笑うんだ。

 

 いつも、自分のために笑っていた。いつも、自分のために生きてきた。純粋にルシフさまのためにやれたことなんて、何一つない。

 

 ──最期くらい、笑え。自分のためじゃなく、ルシフさまのために笑え! 汚なくて醜い私にだって、ルシフさまのために何かできるんだって、最期の最期に証明しろ!

 

 マイは必死に泣き顔を笑顔にした。

 何も言葉は言えなかった。口を開けばたちまち泣き顔に戻ってしまうと確信していたからだ。

 ルシフもマイのぐしゃぐしゃな笑顔を見て、笑みを浮かべた。左手は優しくマイの右頬に添えられている。

 

「お前に出会えて本当に良かった」

 

「……ッ!」

 

 マイの顔が歪み、涙が次々に溢れていく。唇が震えていた。それでもマイは、必死に笑顔を崩さないようにしている。

 ルシフはマイの右頬から左手を離し、地面の方天画戟を掴んだ。方天画戟を地面に突き刺し、それを身体の支えにし、膝を伸ばして立つ。

 正面には、メルニスクが佇んでいた。

 

「他ならぬ、汝の頼みだ。汝と共にある存在として、汝を斬った。だが我は……そんな頼み聞きたくなかった」

 

 メルニスクは頭をルシフに向けているが、感情は読めない。

 ルシフはメルニスクに向かって微笑んだ。

 

「それでも……お前は頼みを聞いてくれた」

 

 今回だけではない。メルニスクにはずっと助けられてきた。メルニスクのおかげで、俺はここまで来れた。

 今まで、自分の弱さを認めるようで、どうしてもメルニスクに感謝の言葉を言えなかった。でも今なら、素直に言える気がする。

 

「今までありがとう、相棒」

 

 メルニスクはルシフを見つめていた頭を地面に向かって下げた。電子精霊なのに、まるで草を食む草食動物のような動きをしたことがおかしくて、ルシフは笑った。

 別れの言葉は言わない。死んでも自分の一部はメルニスクの中に残り、これからも共に生きていけると信じているからだ。メルニスクがそう思っているかどうかは置いといて。

 戟を支えている左手から力が抜けていく。最期の力を振り絞り、方天画戟を地面により深く突き刺した。

 やがて力が完全に抜け、ルシフの瞳から光が消えた。それでも方天画戟が支えとなって、ルシフは倒れず立ったままだった。

 

 

 

 マイは顔を俯けていた。

 マイの視界には、方天画戟とルシフの下半身が見えている。

 

「人間なんて、醜い生き物じゃないですか……」

 

 小さく、マイが呟いた。

 

「人間なんて、愚かな生き物じゃないですか……」

 

 マイは今までルシフに対して好き放題言ったりやったりしてきた人間たちを思い出していた。

 

「人間なんて、自分と自分に近しい人以外はどうでもいい、自分勝手な生き物じゃないですか!」

 

 ルシフの思いも分からず、理解しようともせずに踏みにじった民衆。ルシフに構ってもらうために今まで自分がやってきたこと。それらが次々に脳裏をよぎる。

 

「そんな生き物が支配する世界のどこに、優しさなんてあるんです!? 答えてください! 答えてよ! ルシフさまああああああ! うわああああああ!」

 

 マイが両膝を地面につき、号泣した。何度も涙を拭っている。

 レイフォンは静かにルシフに近付き、開いたままの目のまぶたを指で下ろして閉じさせる。

 レイフォンは背後に気配を感じた。振り返りはしなかった。その者が纏う剄で、背後の相手には察しがついていた。

 

「ルシフが、死にました」

 

 レイフォンの背後にいる者──ニーナは息を詰まらせた。それでも、ニーナの目に涙はない。

 決めたことがある。自分は絶対に泣かないと。泣いてルシフの死を悲しむ資格など、自分にないのだと。自分が勝手なことをしてしまったから、きっとルシフは死んでしまったのだ。そんな自分が、涙など見せてはいけない。

 ニーナは涙が出そうになるのを必死に我慢した。泣くな、と自分に言い聞かせ続けた。

 

「隊長……こんな結末しか、なかったんですかね?」

 

「……ッ!」

 

 レイフォンの言葉が、必死に塞き止めていたニーナの心の堤防を破壊し、心が氾濫した。ニーナの両目から涙があふれる。

 この物語は、誰よりも雄々しく、誰よりも激しく、誰よりも熱く、誰よりも美しく生きた魔王の物語。

 一人の少女のため、世界の全てに喧嘩を売った少年の物語は、今ここに終幕する。




ルシフ死亡ルート(通常ルート)の場合。

次話『エピローグ 心ある魔王』へ。

ルシフ復活ルートの場合。

次々話『アナザーエピローグ 二人手をつないで』へ。

本音を言えば、ルシフを生き返らせるルートというのは、一切考えていませんでした。この物語は魔王ルシフが目覚めてから死ぬまでの一生を描く物語であり、ルシフが死んでこそこの作品は完成すると思っていたからです。
ただ読者さまのルシフへの反応が予想に反して好意的であり、また私も最初はルシフのことが大嫌いだったのですが、書いていく内に大好きな主人公になったので、今まで作者の無理難題に付き合ってくれたルシフへの感謝を込め、ルシフ生存ルートを書こうと思いました。ただこの生存ルート、いつにも増してご都合主義が多くなってしまう予定です。そこだけはご勘弁を。


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エピローグ 心ある魔王

 この世界の人間には魂がある。

 なら、魂は身体の何に宿る? 心臓? 脳? 違う。全然違う。臓器に魂が宿るわけがない。血だ。全身を巡る血が止まった時、人は死ぬ。それだけじゃない。血には遺伝子情報が凝縮されている。

 

 ──ルシフさま。

 

 ルシフの胸に抱きつき、傷口に口を当ててルシフの血を飲み続けた。もう飲めなくなるくらい、ルシフの血を飲んだ。

 

 ──ルシフさまと私の魂よ、混ざれ。混ざり合って一つになれば、来世でもあなたと一緒にいられるよね。

 

 ルシフから顔を離し、杖を剣帯に挟み、首の赤いスカーフを外し、六角形の念威端子を首に当てる。

 ふと、ニーナと目が合った。悲しそうに涙を流し、顔を歪めている。

 確かに私はこれから死のうとしている。でも、この世界に絶望したから死ぬんじゃない。ルシフと来世も一緒にいられると信じて、希望を持って死ぬんだ。

 だから笑った。自分は希望を持って死ぬんだと分からせるために。同情なんかさせないために。

 六角形の念威端子で首を深く斬った。ちゃんとルシフに私の血がかかる位置で斬ったため、首から噴き出した血はルシフの全身に浴びせられた。

 

 ──今、ルシフさまは私の魂に包まれてるんだ。

 

 そう考えただけで、とても嬉しい気分になった。

 血を噴き出しながらも、ルシフに抱きつく。

 

 ──ルシフさま。ずっと私が傍にいます。独りになんかさせません。来世でも私とルシフさまはずっと一緒だからね。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフ死す──。

 この事実は瞬く間にグレンダン外縁部のみならず全レギオスに伝わり、それぞれのレギオスの民は恐怖からの解放に喜んだ。

 生き残っていた剣狼隊の面々は次々に武器を手放し、地面と武器が衝突する音が響く。

 

 ──何故だ。

 

 ニーナは両鉄鞭を握りしめた。

 マイの顔が真っ赤になっている。死んだルシフの身体に抱きつき、その胸に顔をうずめたからだ。そんなことをすれば、当然血が顔につく。しばらくそうした後、マイは顔を離し、今のルシフの血にまみれた顔がある。

 

 ──何故なんだ。

 

 ニーナの全身を悲しさと虚しさが包んでいた。

 マイは杖をそのまま剣帯に挟みこみ、六角形の念威端子を一枚両手で持って首すじへと当てていた。首すじには火傷の跡がある。いつも付けている赤いスカーフは地面に落ちていた。端子を首に当てる時外したからだ。

 マイと目が合った。両目から止めどなく涙を流しながらも、透き通るような笑みを浮かべる。血まみれの顔なのに何故かとても美しく、とても悲しくなる笑顔だった。

 これからマイがしようとすることに、ニーナのみならず他の誰もが察しがついていた。しかし、誰もマイを止めない。いや、止める気力がマイの姿を見ると消えてしまうのだ。ここで止めても、自由を取り戻せばまた同じことをやる。それが痛いほどにその姿から伝わってきた。

 

 ──何故お前も死ぬ必要があるんだ、マイ?

 

 ルシフは最期までお前の幸せを願っていたじゃないか。自分以外の男を好きになってくれてもいいから幸せに生きてくれ、というルシフの想いがお前には届かなかったのか。

 

「やめてくれ、マイ!」

 

 ニーナが泣きながら叫んだ声も虚しく、マイが六角形の念威端子で首すじを深く斬った。血が噴き出し、正面にいるルシフに大量の血がかかった。マイは血を噴き出しながらルシフに再び抱きつき、そのまま動かなくなった。

 

 ──もう嫌だ。

 

 夢なら早く覚めてくれ。

 ニーナは心からそう願った。これ以上友人や知人が死んでいくのは耐えられない。

 

『……ぅッ』

 

 念威端子から、フェリの何かを堪えるような声が聞こえた。

 

「フェリ?」

 

 ニーナが念威端子に呼びかける。

 

『なんでも……ありません』

 

 明らかにいつもと違う、苦しそうな声だった。

 

「フェリ、ルシフとマイが──いや、たくさんの人が今日亡くなった。その死をお前は念威端子で全て見てきたんだ。気分が悪くなってもおかしくない。我慢するな。休んでいろ」

 

『……はい』

 

 フェリが素直に返事をしたことに、ニーナは驚いた。ニーナの予想以上にフェリのショックは大きいのかもしれない。

 ニーナは流れ落ちる涙を右腕で拭った。

 

 

 

 エリゴは刀を力の限り握りしめている。

 

 ──旦那、俺にやれって言うのかよ。

 

 赤装束の腹の辺りを刀を持っていない手で押さえた。そこにある物の重量が増した気がする。この重さがあったから、エリゴは命を投げ捨ててルシフの救出に積極的に行けなかった。

 エリゴは赤装束を脱ぎ、その裏に縫いつけておいた袋を刀で斬る。エリゴの周りにいた剣狼隊の隊員たちはエリゴの気が触れたかと思ったが、その袋から出てきた物を見て驚愕の表情になった。

 袋から出てきたのは黒装束である。それもルシフの黒装束と全く同じ作りにデザイン。剣狼隊は厳密には黒装束の者を指揮官とし従うというルールが決められている。つまりルシフ亡き後の剣狼隊指揮官はエリゴになったのだ。剣狼隊の誰もがエリゴの性格を知っている。剣狼隊の次期指揮官を狙って黒装束を作らせておくなんて真似、エリゴはしない。この黒装束はルシフから託されたのだと誰もが悟った。

 エリゴはこの黒装束をルシフに渡された時から、ルシフが負けた場合も考えて今まで動いていたことを理解していた。

 やらなければならない。ルシフの想いを無にするようなことだけはしてはいけない。

 

「暴王が死んだぞ!」

 

 エリゴは拳を天に突き上げ、叫んだ。剣狼隊の誰もが不快そうな顔でエリゴを睨む。

 

「暴王が死んだ!」

 

 それでもエリゴは叫び続け、何度も拳を天に突き上げた。エリゴの脳裏にはルシフと過ごした日々が駆け巡り、涙となって外にあふれてくる。

 

「暴王が死んだ!」

 

 剣狼隊の一人がエリゴと同様に拳を突き上げ、叫んだ。

 

「暴王が死んだ!」

 

 また一人、また一人と拳を突き上げ叫ぶ隊員が増えていく。

 

「暴王が死んだ!」

 

 最終的にはルシフの想いとエリゴの決意を受け入れ、生き残った剣狼隊員全員が暴王が死んだと叫ぶようになっていた。

 

「暴王が死んだ! 暴王が死んだ! 暴王が死んだ!」

 

 そう叫びつつも、エリゴや剣狼隊員たちは心の中で別の言葉を叫んでいる。

 

 ──ルシフ陛下万歳! ルシフ陛下万歳! ルシフ陛下万歳!

 

 剣狼隊の姿を念威端子で見た民は、ルシフを守ろうとしたのは忠誠心からであり、ルシフの思想に染まっているわけではないと思わされた。

 後日の話になるが、剣狼隊はルシフが引き起こしたこの一連の事態に対する責任を追及されず、剣狼隊は解散させられることなく、剣狼隊として行動することを許された。

 

 

 アルシェイラはゆっくりと身体を起こした。

 剄を全て治療に回したため、倒れてから十数分で起き上がれるくらいまでは回復できた。全身の火傷や肩の傷など、医療施設で処置してもらう必要はあったが、それは一段落ついてからだと決めた。

 アルシェイラは倒れているリンテンスに近付いた。

 リンテンスは身体の至るところを骨折したらしく、起き上がることができないようだ。

 

「どう? 彼らを救えたの?」

 

「隊長格は……手遅れだった」

 

 リンテンスは即死ではない剣狼隊の傷に鋼糸を潜り込ませ、止血と応急措置をして死なせないようにしていた。だが、剣狼隊の小隊長たちは助けられなかった。

 

「……そう」

 

「お前は早く病院に行け。酷い見た目だ」

 

「行けないわよ、まだ。勝った代表として、けじめをつけてないもの」

 

 アルシェイラはカナリスに近付いた。カナリスは起き上がっている。同じように火傷を負っていた。

 カナリスはアルシェイラの姿を見て、視線を逸らした。

 

「ここで死んだ者全員をそれぞれ棺に入れなさい。敵味方関係なく、よ。棺が足りなければ他の都市に頼んで買うか、譲ってもらいなさい」

 

「……はっ。必ず」

 

 カナリスは跪き、頭を下げた。

 

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 翌日、多数の棺とそれを運ぶ武芸者たちとともに、アルシェイラは法輪都市イアハイムの外縁部付近の道を歩いている。道の両側には建造物が立ち並び、イアハイムの民が両端に並んでいた。歓声をあげる者は誰一人おらず、恨みと怒りのこもった目でアルシェイラを睨んでいる。

 この辺りか、とアルシェイラは思った。これ以上進んだところで警戒心を強めるだけだ。

 アルシェイラは右手をあげた。武芸者たちが運んでいた棺を次々に地面にゆっくりと置く。

 

「これらの棺はルシフと剣狼隊に所属する者たちの棺です」

 

 アルシェイラの言葉を、イアハイムの民は黙って聞いていた。

 

「わたしはわたしの信念に従い、ルシフと敵対しました。ですが、ルシフという人物の願いや思い、信念、誇りなどを闘いの中で理解したような気がします。わたしはルシフに勝利しました。そして、ルシフの願いはそのままわたしたちの願いとして、この世界で実現してみせます。それこそがルシフという偉大な男に勝利した者の務めであり、この世界の理不尽と真っ向から立ち向かったルシフの死を無駄にしない唯一の方法だと考えています」

 

 理不尽の権化が何を言っているという思いはあった。ルシフの本心を理解できず、ルシフの前に立ち塞がった最大の障害が言うべき言葉ではない。

 しかし、ルシフは恥も外聞も何もかも受け入れ、理想のために突き進んだ。たとえ最低最悪の暴王と言われようとも、自身を信じ、自身のやり方を貫き通した。

 それこそ、王の生き方なのだ。自分も自尊心を殺し、過去に縛られず未来のために生きるのだ。たとえ虫がいいと言われようとも、ルシフと同じように世界全体を考えて行動してみせる。それこそ、ルシフが自分に望んだものではないか。

 

「わたしはこの世界の頂点に君臨します。してみせます。あなたたちもわたしに協力してほしい。ルシフが実現しようとした理想を現実のものにするために。どうか、よろしくお願いします」

 

 アルシェイラが深々と頭を下げた。

 髪はところどころ焼け焦げ、全身に火傷の跡が残っている。勝者だと言われなければ敗者と見間違うほど、その姿は痛々しかった。

 アルシェイラの前に赤装束の者たちが立った。黒装束を着ているエリゴが先頭に立っている。

 エリゴは片膝をつき、アルシェイラに向けて頭を下げた。エリゴと同様に赤装束の者たちも片膝をついて頭を下げる。

 

「我ら剣狼隊、あなたの力になることをこの場で誓います」

 

「誓います」

 

 エリゴの言葉に続き、跪いた者全員が声を揃えて言った。

 イアハイムの民はアルシェイラを睨むのを止めない。

 ズシリ、とアルシェイラの身体が重くなった気がした。王の責任。命を奪ったという罪。犠牲を払ってでも進み続ける辛さと難しさ。この重さが、ずっと自分が逃げてきたものなのだ。

 ルシフはこの重さと辛さにずっと耐え続け、弱音など吐かずに常に堂々と生きた。ルシフと同じ立場になり、初めてルシフの本当の凄さと強さが理解できた。

 アルシェイラはエリゴらに背を向け、放浪バスがある停留所に向かう。

 

「ルシフさん!」

 

 女性の声が聞こえ、アルシェイラは振り返った。

 ゼクレティアが涙を流してルシフの棺に抱きついている。イアハイムの民も悲しげに顔をうつむけていた。涙を流している者も少なくない。

 これが自分の今までの怠慢の罪であり、背負わなくてはならないものだ。

 アルシェイラは正面に向き直り、歩みを再開した。

 

 

 

 ルシフやマイの遺留品は唯一の親族であったルシフの母ジュリアに渡された。剣狼隊が直接渡しに行ったのだ。

 使用人はジュリアにルシフとマイの遺留品を渡した。ジュリアは絵を描き続けていたが、ルシフとマイが死んだことを聞かされると、筆を止めた。

 

「あの子が……死んだ?」

 

「……はい、ジュリアさま」

 

 使用人は両目に涙を溜めている。

 

「そう……あの子が……」

 

 ジュリアの口が歪んだ。

 使用人は背筋を撫でられるような寒気を感じた。

 

「ウフフ……天罰よ! これは天罰だわ! アハハハハハ! 聞いたアゼル!? あの子が死んだって! あなたを死に追いやったあの子が死んだのよ! アハハハハハ!」

 

「ジュリアさま!? そのような言い方、あんまりでございます! 若さまはいつも母であるあなたを気にかけておられましたのに!」

 

 ジュリアは使用人の方に顔を向けた。ジュリアの両目から涙が伝っていく。

 

「ならどうして父のことは気にかけなかったの!? あの子はとても賢い子よ! 分かっていたはずだわ! アゼルから武芸者を取り上げたらああなることくらい! なんでお父さんを殺したのよ! ルシフ! なんで……どうして! どうしてそんなことをする必要があったの! 分からない……あの子が何を考えているか分からない!」

 

 ジュリアは首を左右に振って取り乱した。使用人はかける言葉も見つからず、黙り込んでいる。

 ふと、ジュリアは遺留品の中に日記を見つけた。マイが書いた日記。マイがアシェナ邸に来てから、決戦のあった一昨日まで。約十一年間の日記計十一冊。

 ジュリアはその日記を最初から読んだ。

 日記を読んでいく内、ジュリアの顔に生気が戻っていく。

 全ての日記を読み終えたジュリアは、ゆっくりと最後の日記を閉じる。

 

「そう……そういうことだったの。だからルシフは、アゼルを見捨てなければならなかったのね。バカな子……本当にバカな子。強がらずに、全部抱え込まずに、事前に言ってくれれば良かったのに。そうすればアゼルも、きっとあなたの思いに応えただろうに。私だって……覚悟を決められただろうに。あなたのために、頑張れたかもしれないのに」

 

「ジュリアさま……」

 

「今、ルシフは世界中の人からどう言われているか、分かりますか?」

 

「それは……その……」

 

「はっきり、正直に言って」

 

「さ、最低最悪の……暴王だと……」

 

「……私も同じだった。今までずっと本当のあの子を見なかった。でも、これからはあの子のために生きる。だって私は……あの子の母親だもの」

 

「ジュ、ジュリアさま?」

 

 使用人が困惑した表情でジュリアを見る。

 ジュリアは涙を流しつつも、柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ──暴虐王ルシフの死から二年後──

 

 

 

「ほら! そんなんじゃ汚染獣に殺されちゃうよ! 足を止めない! 動き続けて!」

 

 プエルが赤装束を着て武芸者たちの訓練をやっていた。

 剣狼隊はアルシェイラの勢力にそのまま吸収され、アルシェイラの指示や命令に従っていた。無論剣狼隊指揮官であるエリゴが従っているから、隊員たちも従っているのである。もしアルシェイラがルシフの理想から反するようなことをすれば、すぐに反旗を翻すだろう。

 

「よう。精が出るな、プエル」

 

「エっちゃ──いえ、隊長! 顔を出していただき、光栄です!」

 

 プエルが直立した。

 黒装束を着たエリゴは苦笑する。

 

「気を張りつめすぎだぜ。もっと肩の力抜きな」

 

「まだまだ、ルっちゃんの目指す理想には遠いです。生き残った私たちがルっちゃんやみんなの意志を受け継いでいかないと……そのためには、休んでいる暇はありません」

 

「……やっぱ変わったな、プエル」

 

「あれから二年経ったんです。変わって当然です」

 

「俺たちはあれから訓練や治安維持に回された。そんで、あの襲撃があった」

 

 一年前、イグナシスという勢力の大規模侵略が起きた。凄まじい戦闘になったが、人類は一丸となって立ち向かい、撃破に成功した。あの時、剣狼隊の隊員が何人も死んだ。

 

「……俺もそうだが、どこかで死にたがってた。死んで楽になりてえって、毎日のように思っていた。けど、その度に旦那の顔が頭に浮かんでよ、生きて頑張らねえでどうするって自分を鼓舞し続けた。プエル、お前もそうだぜ? 死ぬために戦うんじゃない。生きるために戦うんだ」

 

「努力します!」

 

 そう言いつつも、プエルは誰かの盾になり続けるのだろう。戦闘で死ぬなら、自分が最初だと決めているに違いない。

 

「お、そうだ。最近こんな本が流行ってるらしいぜ。ビックリして衝動買いしちまった」

 

 エリゴがバッグから本を取り出し、プエルに渡す。

 プエルはまじまじと本のタイトルを見た。

 

「……『心ある魔王』……これって……!」

 

 プエルの目が見開かれた。

 

「ああ。お前の想像通りだろうぜ」

 

 エリゴは嬉しそうに笑った。

 

 

 

 グレンダン王宮。

 アルシェイラが執務机で書類を処理している。

 ルシフとの決戦後、各都市の自治権を認めつつも発言権は手放さなかった。各都市はある程度自由に政治ができつつも、根本的な部分はアルシェイラの指示に従わされた。だが、そのことに対して文句や不満を言う者はほとんど存在しなかった。アルシェイラは常に弱者の視点に立った政治を心掛けていたからだ。無論それはアルシェイラの知恵ではない。ルシフの遺書に書かれていたやり方をそのまま採用していた。

 故にアルシェイラのところには、グレンダンだけでなく全都市の政務が集まっていた。アルシェイラは全都市を支配している王というよりは、全都市のアドバイザーのような立場になっている。

 

「そろそろ休憩しますか?」

 

 カナリスが問いかけた。

 

「ん~、あとちょっとやったらね」

 

「陛下、いつ見ても感動いたします! 陛下がこのように熱心に政務をされているなんて、まるで夢のよう──」

 

 カナリスの顔目掛けて、アルシェイラが机に置いてある本を投げつけた。カナリスの顔面に本が当たり、カナリスは後ろに倒れる。

 

「鬱陶しい」

 

「すいません、陛下」

 

 カナリスは本をどけつつ立ち上がり、頭を下げた。

 何気なくどけた本を見る。本のタイトルには『心ある魔王』と書かれていた。

 

「……この本は……まさか……」

 

「最近流行りの絵本……みたいよ? でも、モデルは間違いなくあの子ね」

 

「この本の作者は……!」

 

 カナリスが目の色を変えた。

 

「うん、そういうこと。やるべきことは分かるわね?」

 

「すぐに、護衛を手配いたします」

 

「よろしく頼んだわよ」

 

「はっ」

 

 カナリスが一礼し、部屋を出ていった。

 アルシェイラは再び執務机に視線を落とした。

 

 

 

 法輪都市イアハイム。ルシフの墓の前。

 レイフォン、フェリ、シャーニッド、ニーナ、リーリンが集まっていた。

 ルシフの墓の前で全員が黙祷している。

 

「それじゃあ、わたしは行くね」

 

 黙祷を終えたリーリンが歩き出した。

 

「リーリン、いつでも孤児院に戻ってきていいから」

 

 レイフォンがリーリンの後ろ姿に声をかけた。

 リーリンは振り返り、笑みを浮かべた。

 

「うん。ありがと、レイフォン」

 

 リーリンは一度手を振り、去っていった。

 リーリンはイアハイムの孤児院で働いていた。なぜグレンダンではなく、イアハイムの孤児院で働くことにしたのか、レイフォンには分からない。グレンダンに降伏勧告をした手前、帰り辛くなっているのか。それともルシフに何かしら影響されたのか。

 それでも、レイフォンは寂しくなかった。今となっては、会おうと思えば数時間で会える世界になったのだ。以前の世界を知っていたら、信じられないことだった。

 

「……ニーナ。今まで、黙っていたことがある」

 

「なんだ、シャーニッド?」

 

「ルシフの血を、マイちゃんは飲んでいた」

 

「……は? な、何を言っている!? 悪い冗談だぞ! 確かにエンターテイメント作品でたまにそういうシーンがある時があるが、あくまでエンターテイメント作品の話だ。現実に起こるわけが……!」

 

「シャーニッドさんの話は本当です。わたしも念威で見ました」

 

 フェリが顔をうつむけながら言った。

 

「フェリ、お前まで……」

 

「なあ、ニーナ。きっとマイちゃんは信じたんだ。俺たち人間には魂があるって。ルシフとは全く別の人格がルシフの身体に存在していた事実を知ってな。なら、魂ってなんだ? そうやって突き詰めていった結果、血に魂が宿ると考えたんじゃないか?」

 

「……ちょっと待て。そういう仮定だとすると、血を飲んだり、血をルシフに浴びせたのは……」

 

 ニーナの顔から血の気が引いた。マイが死ぬ時何故笑みを浮かべたのか、分かったような気がしたからだ。

 

「マイちゃんはきっと幸せだったんだろうよ。来世も一緒にいられると希望を持って死んだんだからな」

 

「シャーニッド、何故そんな話を今する?」

 

「これだよ、これ」

 

 シャーニッドが一冊の本をニーナに渡した。

 タイトル『心ある魔王』。作者『ジュリア・ディ・アシェナ』。

 

「ジュリア……。まさかルシフの母親が描いた絵本か? しかし、ルシフの母親は、その、通常の精神状態じゃなかったが」

 

「読んでみな」

 

 ニーナは本を開く。

 話の内容はこうだ。とても悪い魔王がいました。ある日、魔王は少女に出会いました。少女と出会い優しい心が生まれた魔王は、少女のためにこの世界から少女を苦しめるもの全てを無くそうとしました。でも最後の最後、魔王に元々あった悪い心が魔王を支配し、悪逆の限りを尽くし始めました。少女は悪さをする魔王を止めようと魔王の前に飛び出し、魔王に殺されてしまいました。しかし、少女を殺してしまったことで優しい心を取り戻した魔王は、自らを勇者に斬らせました。

 最後のページは、魔王と少女が笑顔で手を繋ぎ、天へ召されていく絵。

 

「……こうだと、良いな」

 

「ああ。俺もそう思ったぜ。せめてあの世でくらい、幸せになってほしいってな」

 

 それからしばらくは無言だった。

 

「そろそろ、行くか」

 

「すいません。僕はもう少しここに」

 

「そうか。またな、レイフォン」

 

「はい、また」

 

 ニーナとシャーニッドが去っていく。

 残ったのはレイフォンとフェリの二人。

 

「出てこい、メルニスク」

 

 ルシフの墓の隣、黄金の粒子が集まり、牡山羊の姿になる。

 

「何か用か?」

 

「お前の力を、僕に貸してくれないか?」

 

「……なぜ?」

 

「僕は、ルシフを斬った。ルシフの意志を受け継ぎ、この世界から理不尽な死をできる限り無くすため、この先も戦いたい。それには、お前の力があったほうが良い」

 

「ふむ、以前と違い、心が定まったか。今の汝なら、力を貸してやってもいい」

 

「ありがとう、メルニスク」

 

 レイフォンの顔がぱあっと明るくなる。

 メルニスクの身体が黄金の粒子に変化し、レイフォンの身体に溶け込んでいく。

 

「メルニスク。ルシフのこと、暇な時にでも色々教えてくれ」

 

《ああ。分かった》

 

 レイフォンとフェリはその場から歩き出した。

 

 

 

 全レギオスは今、足を止めていた。

 一つのセルニウム鉱山の周りを円陣を組むように並び、セルニウム鉱山の補給が必要になったら円陣から外れて補給しに行く、という形になっている。

 汚染獣に怯え、逃げ回り、他都市との接触を避け、殻に閉じこもって生きていた鋼殻の自律型移動都市(レギオス)の時代は終わった。これからは汚染獣を恐れず、立ち向かい、人類が手を取り合い協力して困難を乗り越えていく、新たな時代を人々は生きることになる。

 そしてルシフは、最低最悪の暴虐王として、あるいは心ある魔王として人々の記憶に、歴史に刻まれた。

 しかし、忘れてはいけない。ルシフがいたからこそ、人類は前に進むことができたということを。



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アナザーエピローグ 二人手をつないで

 ルシフの身体はグレンダンの病室に寝かされていた。

 その周りをアルシェイラ、動ける天剣授受者たち、レイフォン、ニーナ、マイ、生き残った剣狼隊小隊長たちが囲むように立っている。

 何故、今こんな状況になっているのか?

 答えはルシフが死んだ直後のメルニスクの言葉にある。

 メルニスクはまず念威操者に『この場の情報をどこにも漏らさないでくれ』と言い、他都市や他のグレンダンの者たちに情報がいかないようにした。そうした後で、メルニスクはこう言ったのだ。『まだ完全に死んでない』と。

 当然の話だが、心臓が止まり、全く剄が感じられないならその人間は死んでいる。武芸者として生まれた者は剄を扱う臓器を持っていて、肺や心臓と同様に無意識下でも機能を発揮している。寝ている時も微弱な剄を武芸者からは感じられるのだ。それがない。つまり、間違いなく死んだ。

 なのに、メルニスクは死んでいないと言う。それどころか、生き返らせるからグレンダンの病室にルシフを連れていってくれとアルシェイラたちに頼んだ。生き返らせると聞いたアルシェイラたちが驚愕したのは言うまでもない。

 そして、今に至る。周りの人間からはルシフの死体を運んでいるようにしか見えなかったため、何かしらの疑念は抱かれなかった。まあ実際死体を運んでいたのだから、それ以外の疑念など抱きようがないが。

 病室に黄金の粒子が集まり、牡山羊の姿を形作る。メルニスクはちょうどルシフの頭の後ろに顕現した。

 

「さあ、あんたの言った通り連れてきたわよ。詳しい話を聞かせなさい」

 

 アルシェイラが全身火傷を負った身体で言った。アルシェイラは火傷に対し、最低限の処置しかしていない。髪も焼け焦げてボロボロだ。

 

「ルシフを斬った際、我の力をルシフの身体に流しこんだ。その力でルシフの身体機能を停止させていった」

 

「? ようは死んだってことでしょ?」

 

 剣で貫かれようが、炎で焼かれようが、身体の機能を停止させたら死ぬ。原因が何かなどは問題ではない。身体の機能が停止した。その結果が全てなのだ。

 

「否。重要なのは我の力が停止させたという事実。故に、我が再び力を使えば、身体の機能を再開させられる」

 

 つまり、メルニスクはルシフを仮死状態にしたのだ。

 

「でも、身体の機能を再開させたところで……」

 

 レイフォンが呟いた。

 そう。仮に身体の機能を再開させたところで、ルシフの今の身体の状態ではすぐに死んでしまう。仮死から死に移行するだけだ。治療しようにも、その場合はメルニスクの力で停止させた臓器に手を加えるわけだから、手を加えた時点でメルニスクの力が消えてしまうかもしれない。仮死状態が解けてしまう可能性があるのだ。

 メルニスクはニーナの方に頭を向ける。

 

「ニーナ。汝は放浪バスの中で言っておったな。電子精霊に救われたと」

 

「シュナイバルに向かう途中にした話のことか? 確かにわたしは電子精霊に救われた。その電子精霊がわたしに命をくれたおかげだ。 ……ん? まさか……!」

 

 ニーナは沈んだ表情でメルニスクに応えていたが、話していく内に目を見開いた。メルニスクの意図を察したからだ。

 

「汝の話を聞き、ずっと思考していた。ルシフから異世界の魂だけを消滅させ、ルシフの魂だけを救う方法を」

 

 病室に蒼銀色の粒子が集まり、電子精霊グレンダンが顕現した。続いて緑色の粒子が集まり、電子精霊シュナイバルも顕現する。

 

「メルニスク……お前は自身の命と引き換えに、ルシフを復活させるつもりか。そんなことをすれば、半永久的に生存できなくなるぞ。ルシフがいずれ死ぬ時、お前の存在も消滅することになる」

 

「グレンダンよ。それは覚悟の上だ」

 

「妾からも一つ訊かせてもらってもよいですか?」

 

「なんだ? 偉大なる母」

 

「何故、自身の命を犠牲にしてまで、ルシフを救おうとするのです? 確かにルシフの死は残念ではありますが、それがルシフの運命だったのです。メルニスク、あなたはただルシフを喪失した衝撃から逃避しようとしているだけではありませんか?」

 

 メルニスクはルシフの死体の方に頭を向けた。

 

「偉大なる母よ、これがルシフの運命と発言したか? 我らの勝手な思惑で異世界の魂を押しつけられ、イグナシスに対抗するための情報欲しさにルシフの消滅を望んだ。我はずっと見ておった。身体を別の魂に奪われまいと、高熱や頭痛に襲われながらも必死に耐え、表にそれを一切出さず、堂々と振る舞うことを心掛けていたことを。身体を奪われる恐怖に怯えながら、身体を奪われた場合の対策もしっかり準備して、万が一に備えていたことも。それがどれだけ覚悟のいることであったか、汝らに理解できるか? これら全て我らの勝手な都合が与えた苦難だ。我らが強要した運命だ。これをルシフの運命などと発言するのは、我は断じて許容できん」

 

 メルニスクの威圧的な力が病室を支配する。

 メルニスクは怒っていた。自らも含めた電子精霊と創造主であるサヤに対して。

 

「我は命を犠牲にするのではない。我自身の意思で、そうしたいのだ。我の命で捻じ曲げられたルシフの運命を修正し、ルシフ本来の運命を生きてほしい。そう思ったのだ。だから我はルシフに命を捧げる。誰がなんと言おうと、必ず実行する」

 

 メルニスクはルシフの死体を見つめたままだ。

 シュナイバルとグレンダンはメルニスクから視線を逸らさない。

 

「分かりました。あなたが望んで命を捧げるというのなら、妾はあなたの意思を尊重します。グレンダン、あなたはどうです?」

 

「どうも何も、我が認めなかったところでメルニスクは決断したのだ。好きにすればよかろう」

 

「さらば、同胞たちよ」

 

 メルニスクがルシフの死体から視線を逸らさず、そう言った。

 シュナイバルとグレンダンは頷く。病室にいるアルシェイラらやニーナたち、マイや剣狼隊小隊長たちは口を挟めず、ただ黙りこんで電子精霊たちの会話を聞いていた。

 メルニスクは笑っているように見えるルシフの顔を見つめ続ける。

 

 ──ルシフよ。もし汝が我のしたことを知ったら、汝は激怒するであろうな。汝の決断を許容できなかった我の弱さを許せ。そして……。

 

「戻ってこい……友よ」

 

 メルニスクの身体が徐々に黄金の粒子となり、黄金の粒子がルシフの身体に吸い込まれていく。

 

 ──我の命を汝に与えよう。だから……戻ってこい。

 

 やがてメルニスクの身体が全て黄金の粒子となり、病室からメルニスクの姿は消滅した。ルシフの死体は黄金色の光に包まれている。病室にいる者はただその光景を見ていることしかできなかった。

 黄金色の光に包まれながら、ルシフの身体は回復していく。損傷していた臓器がきれいに元通りになり、胴体に斜めに刻まれている剣の傷が塞がっていく。剣の傷だけではない。全身に刻まれた全ての傷が治っていった。

 やがてルシフの身体を包み込んでいた黄金色の光が消えた。ルシフの身体は見た目的には決戦前と同じ、傷一つない身体になっている。その場の誰もがゴクリと唾を飲み込んだ。

 ルシフの目が開かれ、右手で頭を掻きながら上半身をゆっくり起こした。

 マイが感極まり、涙を浮かべてルシフの上半身に抱きつく。しかし、返ってきた反応は予想外であった。

 

「いきなり何するんだ!?」

 

 ルシフはそう言って、マイの身体を振り払ったのだ。

 マイはバランスを崩して床に倒れたが、すぐに両手で身体を支え、上半身だけ起こした。呆然とした表情でルシフを凝視している。

 

「ぼくが誰だか知っての行いか!?」

 

 ルシフはそんなマイに不機嫌さを隠そうともせず怒鳴った。

 ここで病室にいた者全員があれ? と内心首を傾げる。ルシフの一人称は俺であり、ぼくという一人称は使わない。ならば今のルシフは別人格かといえば、それも疑問が残る。別人格ならおそらく、女に抱きつかれていたら喜ぶはずだからだ。

 

「名前も知らない女がぼくに馴れ馴れしく触るな!」

 

 マイはガツンと頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けた。名前も知らない女と、間違いなくそう言った。

 

「ルシフさま! 私はマイです! マイ・キリー! あなたの『目』で、あなたの一部で、あなたの物です!」

 

「知らないって言ってるだろ。勝手なこと言うな」

 

 ルシフの冷たい目が、マイを見下ろしている。その目にあるのは無関心。マイに対して何も思っていないし、感じてもない。それが演技ではないのは長くルシフと一緒にいたからこそ、マイは見抜けた。

 マイの両目から涙が溢れた。床に両手をついて上半身を起こしたまま、嗚咽を漏らす。

 

 ──ルシフさまは死んだ。

 

 ルシフの身体は生きてはいる。だが死んだ。マイが生きていてほしいと願ったルシフは死んでしまった。

 マイのこの考えは極めて暴論であった。マイにとってルシフとは、自分を大切に思ってくれて優しくしてくれる人間なのだ。逆に言えば、たとえマイを知っているルシフであっても、何かの拍子でマイに冷たくすれば、マイのルシフへの愛情は一瞬で消える。

 ルシフは病室を見渡した。

 

「で、この部屋はどこだ? ぼくの部屋じゃないし、父上の書斎でもない。なんでぼくはここにいる? そもそもここはイアハイムか? まあいいや。家に帰る」

 

「何を言っているんですか……。ルシフさまの家なら自ら焼き払ったではありませんか」

 

 マイが嗚咽混じりに言った。

 ルシフがマイを睨み、目を吊り上げる。

 

「自分の家を焼き払うだって? ぼくがそんなことをするバカに見えるか? 冗談だとしても言って良いことと悪いことがあるぞ」

 

 病室にいた者はますます困惑した。だが、答えらしきものも朧気ながら浮かび上がっている。

 

「マイ・キリー。あなたがルシフと初めて出会った日はいつ?」

 

 アルシェイラが問いかけた。

 

「私が六歳の時……ですけど」

 

「てことは、もしかしたらあなたと出会った日より後の記憶が失われているのかもしれないわね。一体どれだけの記憶が失われているかは分からないけど、あなたと出会った後の記憶は間違いなく失ってるはず」

 

 アルシェイラの結論は、この場にいる全員が考えたことだ。

 マイの顔がますます歪み、涙は止まることを知らない。マイはとうとう大声をあげて泣き出した。

 そんなマイの右頬を優しく撫でた手があった。ルシフの手である。マイはきょとんとした表情で顔をあげた。ルシフは自分の左手を凝視し、驚愕の表情をしている。

 

「な、なんだ? どうしてぼくはこんなことを……」

 

 マイの脳裏にルシフと過ごした日々が流れる。初めてあった日も、辛いことがあった日も、何かあった時はこうしていつもルシフさまは私の頬を優しく撫でてくれた。

 マイはルシフの左手に右手を重ねた。

 

 ──まだ……ルシフさまの魂の欠片がこの身体に残ってる。

 

 ルシフがまだこの身体に生きていることを、マイは確信した。希望がマイの心に光を灯す。

 なら私は、どんなことをしても私の知るルシフさまを必ず取り戻そう。

 

「初めまして。私はマイ・キリーです。これからよろしくお願いします」

 

 マイは微笑み、そう言った。

 ルシフは困惑した表情のままだった。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「で、実際はどうだったの?」

 

「ありとあらゆる検査の結果、ルシフの記憶喪失は間違いないものと。死のショックによる一時的なものかどうかはまだ分かりませんが」

 

 アルシェイラの問いに、カナリスが若干疲れた様子で答えた。

 アルシェイラがいるのはグレンダン王宮の自室。アルシェイラは机の前にある椅子を反対にして座っている。そのアルシェイラの前にカナリスが立っていた。

 

「元気ないわね」

 

「検査しようとする度にルシフが暴れるので、なかなか検査が進まなくて……」

 

 カナリスがため息をついた。

 検査すると言っても、『自分はまともだから検査なんてしない』と言って聞かず、検査で使う道具も放り投げたりして検査を妨害してきたのだ。その場にルシフの監視役としていたカナリスも巻き込まれたのは想像に難くない。

 また、ルシフは家に帰ると譲らず、グレンダンの王宮に留めておくのも大変だった。しかし、イアハイムに──というより、外に出られるわけがない。公にはルシフは死亡したと発表しているのだ。もしルシフが生きているとバレれば、ルシフの命のみならずグレンダンも信用を失う。

 

「それでもルシフに検査を受けさすことができたのよね?」

 

「はい」

 

 カナリスが力強く返事をした。

 

「……てことは、やっぱりルシフの剄は失われていたのね?」

 

「原因は不明ですが、剄脈に異常が発生しており、いわゆる休止状態になっています」

 

 厳密に言えば、完全に剄を発生できなくなったわけではない。生命維持のための必要最低限の微弱な剄は発生させている。ただ、内力系活剄や外力系衝剄、化錬剄といったものに剄を変化させようとしても、剄量が少なすぎて変化させても効果が無い。だから、ルシフは武芸者として完全に終わった。

 剄が使えないことに気付いた時のルシフの取り乱しようは尋常なものではなかった。病室にあったあらゆる物に当たり散らし、病室にいた一人一人を罵倒しまくり、まるで幼い子どものようだった。

 ルシフは今、グレンダン王宮の一室に軟禁状態にしている。部屋から出ることは一切禁止しているが、食事や欲しい物があれば聞くようにしている。

 

「陛下。このままルシフを匿い続けるのも、限界があります。そう長くは隠し通せません。ルシフ自身、何度も脱走を試みておりますし」

 

 実際ルシフの機転で何度も部屋から抜け出されたことがあるが、念威操者の監視を一般人となったルシフが掻い潜れるはずもなく、すぐに天剣授受者かアルシェイラが捕まえた。

 

「それに……自殺を試みる頻度は脱走の比ではありません」

 

 アルシェイラはため息をついた。

 まだ三日しか経ってない。アルシェイラの全身火傷と抉れた右肩の傷も完治していないのだ。しかし、ルシフの自殺試行回数は三十回を軽く超える。そのせいで全く目を離せず、いつも部屋の外の扉近くに天剣授受者、レイフォン、ニーナ、シャーニッド、剣狼隊の内の誰かを立たせなくてはならない。

 

「わたしの個人的な意見ですが、そんなに死にたいんなら死なせてやればいいと考えます。そちらの方が我々としても厄介事がなくなりますし。記憶を失う前のルシフならまだ協議する意味がありますが、今のルシフではデメリットしかありません」

 

「……ルシフの記憶に関しては、あの子になんとかしてもらうしかないわね」

 

 アルシェイラは天井を見上げ、青髪の少女を思い浮かべた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

「アシェナさま、お食事です」

 

 マイが料理の載ったトレーを両手で持ちながら、ルシフの部屋の扉を開けた。

 部屋は散らかり放題であった。大量に散乱している本。机や壁、カーテンといった家具も殴られた跡や刃物でズタズタになっている。そこそこ質の良い家具で統一された部屋が、今では見る影もない。

 部屋の奥。ルシフが不機嫌そうにベッドから身体を起こした。

 マイが床に散乱した本を避けつつ、ルシフに近付いていく。ルシフの眼前にトレーを差し出す。

 ルシフは右手を払い、トレーを吹っ飛ばそうとした。その瞬間、トレーが空中を浮かんで上昇し、天井すれすれで止まった。トレーの下には念威端子が組み合わされたボードがある。

 ルシフは舌打ちした。

 

「もう二ヶ月もこうして一緒に生活しているんです。あなたのやりそうなことは分かっています」

 

 決戦から二ヶ月が経過していた。ルシフの記憶はまだ戻らない。

 

「……なら、ぼくが今食欲が無いのも分かるだろ? 吐き気がするから、さっさと下げろ」

 

「そうもいきません。しっかり食べていただかないと、お身体を崩してしまうかもしれませんので」

 

 天井すれすれのトレーが下降し、再びマイの両手に収まる。当然ルシフの目の前に料理がきた。

 ルシフはマイを睨む。

 

「それを望んでるってなんで分からない!? ぼくは一秒でも早く死にたいんだよ! こんな惨めな生活をずっとさせられ、現状を打開する力も無く、ただ飼われているだけの人生になんの価値がある!? 早く殺せよ、ぼくを!」

 

「あなたは絶対に死なせません」

 

「本当になんなんだよ、キミは!? なんでずっとぼくと同じ部屋で暮らしてるんだ!? 早く出てけ!」

 

 マイはルシフが軟禁された日からずっとルシフの部屋で暮らしていた。アルシェイラにマイが頼み、マイが寝るベッドもルシフのベッドの近くに置かれている。

 

「出ていったら自殺するつもりでしょう? 絶対に出ていきません。さあ、お食事にしましょう」

 

「嫌だって言ってるだろ!」

 

「ならまた前みたいに、無理やり食べさせられたいですか?」

 

 ルシフの顔に不快感が充満する。

 あまりにもルシフが食べなかったから、ニーナやレイフォン、シャーニッドが無理やりルシフの口を開けさせ、料理を食べさせたのだ。

 ルシフにとって、あれほどの屈辱は初めてと言っていい。

 

「……くそッ」

 

 ルシフは仕方なくトレーのスプーンを取り、トレーの料理を食べ始める。フォーク、箸、ナイフは用意されておらず、スプーンで食べられる料理しかない。もちろんこれも自殺させないためだ。

 マイも自身の後ろに浮かんでいたトレーを掴み、食事を始めた。マイの料理も全てスプーンだけで食べられる料理になっている。

 食事を終えると、マイはルシフと自分のトレーを扉付近に念威端子で持っていった。扉が半分開き、誰かの手が二つのトレーを回収していく。回収し終わると、扉は閉じられた。

 

「料理、残さず食べてくれましたね。ありがとうございます、アシェナさま」

 

 マイが笑みを浮かべた。

 ルシフはその顔を見てイラッときた。

 

「……本当にキミはなんなんだ? 分かった。絶対に自殺しない。だから、部屋から出ていけ」

 

「嫌です。あなたの傍にいます」

 

「だからッ! それが鬱陶しいんだよ! お前、内心でぼくのこと嘲笑ってるんだろ!?」

 

「そんなこと、思ってません。私はあなたのお力になりたいだけです。私に心を与えてくださり、人間にしてくれた恩返しがしたいだけです」

 

 ルシフはマイの腕を掴み、ベッドに押し倒した。

 

「ぼくの力になる? ふざけるな! キミみたいな凡人にぼくの何がわかるんだ! えぇ!? 何がわかるんだよ! ぼくは誰よりも優れた人間だったんだ! それが今やくそ弱い落ちこぼれの武芸者にすら勝てなくなったんだぞ! この苦痛が、惨めさがキミなんかにわかるって言うのか!」

 

 そこでマイの身体がルシフの視界に入った。服が乱れ、スタイルの良い魅力的な身体が顕になっている。

 ルシフは唇を吊り上げた。

 

「……そんなにぼくの力になりたいって言うなら、このままぼくの好きなように抱かせろよ」

 

 こう言えばマイは自分を軽蔑し、部屋から出ていくだろう。

 ルシフはそう考えていた。

 マイの目が見開かれる。涙が溢れ、頬を伝っていく。両手をぎゅっと握りしめた。

 

「……いい、ですよ」

 

 消え入りそうな微かな声で、マイが言った。

 ルシフは拒絶されると考えていたため、内心とても驚いている。もっと酷い言葉を言う必要があるとルシフは考えた。

 

「本当にいいの? これからただの性処理の道具として犯されるんだよ?」

 

 マイの握りしめる両手に更に力がこもる。

 

「大丈夫……です。あなたのお好きなように抱いてください。一度で満足できなければ、何度でも。それであなたの心の傷が癒やされるのなら、あなたの気が済むのなら、私は構いません」

 

 ルシフはいつの間にか掴んでいたマイの腕を離していた。

 マイは逃げようとすれば逃げられるのに、逃げない。それどころか、自由になった手で服を脱いでいく。

 

「……やめろ」

 

 ルシフは吐き気がしていた。

 マイは無視して、服を脱ぎ続ける。

 

「やめろって言ってるだろ! やめろ! やめてくれ! これ以上ぼくを惨めにするな!」

 

 ルシフはベッドから転げ落ちるように離れ、扉に駆け出した。扉を開けようとドアノブを捻るが、外側から鍵がかけられているため、開かない。

 ルシフは苛立たしげに何度も扉を蹴った。

 そんなルシフを、後ろからマイが抱きしめた。

 

「アシェナさま、どうか落ち着いてください。私はあなたが誰よりも強く、優しいことを知っています。あなたならきっとどんなことも乗り越えていけます」

 

「優しくするな! そういうのが一番頭に来るんだよ!」

 

 ルシフは抱きついているマイを引き剥がした。振り向き、マイを平手打ちしようとする。しかしその手は、マイの頬に当たる直前で止められた。

 

「くそッ! なんなんだよ!? なんでキミに暴力を振るおうとすると身体の言うことが聞かなくなるんだ!?」

 

 ルシフは振り上げた手をおろし、力の限り握りしめた。悔しげに顔が歪んでいる。涙すら目に滲んでいた。

 マイは今度は正面からルシフを抱きしめた。ルシフは振り払えなかった。

 

 

 

 もうすっかり夜になっていた。

 ルシフは顔を壁側に向いて寝ている。

 マイはベッドから起き上がり、ルシフのベッド横の床に座った。散乱していた本は日中に片付けている。

 マイの目は虚ろで、焦点は定まっていない。

 

「マイ、いつもありがとう」

「別に感謝されることじゃありません。ルシフさまのお力になれれば、私はそれで幸せです」

「そうか。これからも俺の傍にいてくれ」

「はい。ルシフさまが望むなら、いつまでもお傍にいます」

「マイ、お前に出会えて良かった」

「私もです、ルシフさま」

 

 マイはぶつぶつと一人で呟いた後、ベッドに戻っていった。ベッドに寝るとすすり泣く声が微かに聞こえる。

 ルシフは壁を向いたまま、ゆっくりと目を開けた。

 

 ──毎日毎日、飽きもせず一人芝居か。ぼくの名前はいつも呼ばないくせに、芝居の時は呼ぶんだよな。けど、『俺』なんて一人称は使わない。

 

 ルシフの表情が暗くなる。

 

 ──マイ・キリー。あの女とぼくはどういう関係だったんだ?

 

 ただマイの顔を見ると、胸に込み上げてくる何かがある。マイが悲しい表情や辛い表情をしていると、自分も同じ気分になってくる。なんにせよ……。

 

 ──キミはぼくを見ていない。記憶を失う前のぼくを見ている。

 

 それが何故か無性に腹立たしかった。

 記憶が戻ったら今の自分はどうなるのか。消えて、マイが好きな自分になるのだろうか。それとも、今のままいられるのだろうか。

 そんな考え事をしている内に、ルシフはいつの間にか本当に眠りに落ちた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフが目をゆっくり開けた。誰かの自分を呼ぶ声が聴こえたからだ。

 

 ──……ここは?

 

 ルシフは辺りを見渡した。何も無い。闇があるだけだ。

 その空間で、膝を抱えてうずくまっている者がいた。ルシフと同じ姿形をしている。違うのは身体の大きさで、五歳児くらいの身体だった。

 ルシフは幼い自分の前に立つ。

 

「ぼくは誰よりもすごいんだ! 誰よりも優れてるんだ! ぼくより優れた人間なんてこの世にいないんだ! なのにッ、なんでぼくがこんな目に……!」

 

 幼い自分は膝を抱えて泣き叫んでいた。

 ルシフは状況がよく理解できていない。いったいこの幼い自分は何を嘆いているのか。

 幼い自分の叫び声が止まり、膝を抱えたままゆっくりと頭を上げた。ルシフの顔を見上げている。幼い自分の顔が憎悪に染まった。

 

「キミのせいだ!」

 

 幼い自分は目の前のルシフを指さした。

 幼い自分が立ち上がり、ルシフの右足にしがみつく。そのまま、何度も何度もルシフの右足を叩き出す。

 

「キミが何かしたせいで、ぼくの剄が失われたんだ! 返せ! ぼくの剄を返せ!」

 

 ルシフはここでああ、と合点がいった。幼い自分は剄が使えなくて嘆いていたのか。

 しかし、それは当たり前だ。自分は死んだのだ。死後の世界で剄が使えるわけがない。ならばここは地獄であり、こうして過去の罪を責め続けられる場所なんだろうか。だが、何かが引っ掛かる。

 ルシフが首を傾げて思考を巡らせている間も、幼い自分の右足への執拗な打撃は続く。

 

「なんで誰よりも優れたぼくがこんな目に遭わないといけないんだ! ふざけるな! お前に分かるか!? 足元にも及ばない他人より弱くなった屈辱が!」

 

「……ククク」

 

 ルシフは思わず笑ってしまった。

 幼いルシフはそれに気分を害したらしく、ますます表情が厳しくなる。

 

「何がおかしい! 何笑ってるんだよ! ぼくをバカにしているのか! こんな屈辱を味わっているそもそもの原因はお前なんだぞ! 早くぼくに剄を取り戻させろ!」

 

「アハハハハハハ!」

 

 幼い自分が必死になればなるほど、笑いが込み上げてしまう。ルシフは高笑いした。

 自分は誰よりも器量が大きい人間だと信じて疑わなかった。

 だが、この姿はどうだ? 剄という力を奪われ、自我を揺さぶられた途端、情けなく他人に当たり散らし、見苦しく泣き喚き、まるで自分こそがこの世で一番不幸な人間だと思っている。他人は自分の下位互換でなければならず、自分より上にいくことは何よりも許せない。

 こんなもの、笑うしかないではないか。誰よりも器量が大きいと考えていた自分はその実、誰よりも器量が小さかったのだ。自分の才能や力に執着し、他人を受け入れる度量もない。自分が中心で、自分だけで世界を完結させている。

 ルシフは自分の今までの勘違い振りと滑稽さを嗤っていたのだ。

 ルシフは右足を叩き続ける幼い自分を引き剥がした。

 

「なんでこうなったか教えてやるから、そこに座れ」

 

 幼い自分はその言葉を聞くと、すぐに泣き止み静かになった。ルシフに言われた通りにルシフの向かいに正座する。幼い頃は座る時、正座で座れと父から叩き込まれていた。

 ルシフもそのままあぐらをかいて座った。そして、話し出す。マイと出会ってから死ぬまでを。

 幼い自分は、話し終わるまで黙って聞いていた。表情が怒りに染まることはあっても、声には出さない。

 

「……なんでそんなバカになったんだ、ぼくは」

 

 話を全て聞き終えた後、幼い自分が呟いた。

 

「王なんてくだらないものだと分かっていただろう! 都市なんかの、世界なんかのために自分の人生を捧げて生きるなんて、苦しいことばかりで楽しいことなんて一つもありはしないこと、ぼくはよく分かっていたはずじゃないか! 自分のためだけに生きることこそ楽しい人生に決まってる! 他人なんてどうでもよかったじゃないか! ぼくは強者なんだ! どんな世界でも生きられるのに……!」

 

 幼い自分は顔をうつむけている。

 

「お前も俺だから、正直に言おう。俺も他人なんて初めはどうでも良かった。マイさえ幸せに生きられるなら、それで良かったんだ。けど……分かるだろ? お前は俺なんだ。たった一人のために生きるなら、凡人でもやっている。俺は選ばれた人間だとその時思っていた。ならば、マイと同じ境遇にある全ての人間を救うために生きる生き方こそ、選ばれた人間の生き方だと思ったんだ」

 

「……」

 

「マイは、俺が初めて惚れた女だ。一目惚れだった。アザだらけで泥まみれの顔を、美しいと思ったんだ。強い意思を秘めた青い瞳が、俺の心を打ったんだ。俺もこんな風に生きてみたいと思ったんだ」

 

「なら……キミが責任を取れよ。キミの行動の報いなんだ。ぼくじゃなく、キミが苦しむべきじゃないか」

 

「もう苦しめない。俺は死んだんだから」

 

「死んでない。どんな方法かは分からないけど、グレンダンの奴らが復活させたんだ」

 

「……は? 復活?」

 

 ルシフは不機嫌そうに顔を歪めた。

 どれだけ医療技術が進んでいようと、復活なんてできないと思っていた。だがもし復活させたと言うなら、愚策と言わざるを得ない。俺を復活させれば、世界の人々はどう思うか、分からないはずがあるまいに。グレンダンも非難の対象にされるだろう。

 だが、仮にそうだとすれば、この状況はなんなのか。夢か、別人格と話した時のような精神空間なのか。

 幼い自分が立ち上がった。ルシフも立つ。

 

「ぼくはこんな人生耐えられない。だから、キミにぼくの身体を渡す」

 

 幼い自分の足が光の粒子となり、ルシフに吸い込まれていく。

 

「それに、マイって女はキミが好きみたいだし。毎晩毎晩ルシフさまルシフさまって枕元で言われて、鬱陶しくて仕方ない。けどさ、泣いてるんだよ。毎晩毎晩、泣いてるんだ。それでもぼくが起きてる時はそんなところ一切見せずに、笑うんだ。笑って、ぼくの傍にずっといてくれるんだ。

キミはマイのために闘い、全てやり切って死んだ。でもぼくの目には、マイは楽しそうに生きてるようにも、幸せそうに生きてるようにも見えない。マイは今でも苦しんでるんだ。キミは一番救いたい女を救えなかったんだ。だから今度こそ、マイを幸せにしてやれよ。……誰よりも優れたぼくが、惚れた女だ。誰よりも幸せに生きるべきじゃないか」

 

 ルシフは消えていく幼い自分をじっと見た。

 この幼い自分も、いつの間にかマイに心を惹かれていたのだ。

 

「ああ、約束する。マイを誰よりも幸せにしてみせる」

 

 幼い自分は消えていく最後に笑みを浮かべ、そのまま光の粒子となった。

 闇の中に、一筋の光が差した。

 ルシフはその光に向かって歩き出す。やがて、光がルシフを包んだ。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフは眩しさに目を開けた。日の光が窓から差し込んでいる。

 その日の光がマイの顔に遮られた。

 

「アシェナさま、おはようございます」

 

「……マイ。なんだその他人行儀な呼び方は?」

 

「私のような者が、アシェナさまをお名前で呼ぶわけにはまいりません」

 

「ほう……? 俺と初めて出会った日から一度も『アシェナ』とは呼んでないはずだが?」

 

「……『俺』?」

 

 マイの目が見開かれた。ルシフの記憶が戻ったかどうか半信半疑らしく、ルシフの顔を凝視している。

 ルシフは一つため息をついた。

 

「マイ、覚えているか? 初めてお前に錬金鋼を与えた時、お前は喜びのあまりその場で錬金鋼を復元した。そしたら端子が暴れ回って……」

 

「アゼルさまに、止めてもらいました」

 

「バケツに入った大量の砂を、俺にぶっかけてたよな? なんでだ?」

 

「ルシフさま! うわああああん!!」

 

 マイがルシフに抱きついて、泣き出した。

 ルシフはマイの背中をぽんぽんと軽く叩く。

 

「色々、迷惑をかけたようだな」

 

 マイは泣き続けている。

 

「マイ、俺は死んだはずだ。お前が知っていることを俺に教えてくれ」

 

 マイはルシフからゆっくり身体を離し、涙を拭いながらコクリと頷いた。

 

 

 

「……メルニスクのバカが。余計なことを……」

 

 全てを聞き終えたルシフは不機嫌そうに吐き捨てた。

 

「私は、感謝します。またこうしてルシフさまと一緒にいられるんですから」

 

 マイはそう言って、身体をルシフに寄り添わせた。

 そんなマイを見て、ルシフは柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 ルシフはグレンダンの旗が立っている塔の頂上に立っていた。マイも隣にいる。

 ルシフの容姿はまるっきり変わっていた。赤みがかった黒髪は茶色に染められ、肩付近まであった髪も刈り上げられて短髪になっている。本来の赤の瞳はカラーコンタクトにより、黒になっていた。

 マイの容姿も変わっている。首にあった火傷の跡はグレンダンの医療技術できれいに消え、腰まであった長い髪は肩付近でバッサリ切られていた。青い髪も黒に染められているが、毛先に近付くにつれ赤色になっている。毛先は完全に赤色だ。

 これはアルシェイラや天剣授受者たちから事情を聞いた結果だ。ルシフやマイの顔は世界中の人間に知られているし、ルシフに関して言えば世界中の人間に恨まれている。もし生きていくなら、完全な別人として生きていくしかない。

 別にマイはやらなくてもよかったのだが、マイもルシフに付き合い、別人のような容姿になった。

 ルシフが唐突に頂上から飛び下りた。

 マイは悲鳴をあげ、慌てて念威端子のボードを組み上げる。

 ルシフの足元に念威端子のボードが現れ、ルシフを下から持ち上げた。また元の高さまで浮かび上がってくる。マイとルシフの目線が同じになった。

 マイはホッと息をつき、次にルシフを睨んだ。

 

「何やってるんですか!? 今のルシフさまは剄が使えないんですよ! こんな高いところから落ちたら死にます!」

 

「だが、死んでない」

 

 ルシフはつま先でコンコンと念威端子のボードを軽く叩いている。

 

「それは私が足場を創ったからです!」

 

「うん、そうだ。そういうことだよ」

 

 マイはルシフの言いたいことが分からず、首を傾げた。

 

「俺はな、これを自分ができなきゃ駄目だとずっと思っていた。自分ができて初めて、それを他人に命令できるのだと。自分にできないことは命令する資格がないと、思ってたんだ。それは俺の弱さだった。他人を頼る強さが、俺にはなかった。いつも俺は他人を自分の手足としか、見ていなかった。マイも、剣狼隊も、俺にとってはどこまでも自分の一部で、本当の意味で相手を見ていなかったと思う」

 

「……ルシフさま。私、ルシフさまの傍にいられるなら、ずっと『ルシフさまの目』で、『ルシフさまの一部』でいいと、そう思っていました。だけど、記憶を失ったルシフさまと一緒にいてこう思いました。私はいつもルシフさまに頼ってばかりで、知らず知らずの内にルシフさまの大きな負担になってしまっていたんじゃないかって。

ルシフさま……。ルシフさまは私を美しいと言ってくれますけど、私、全然そんなことないんです。嫉妬深いし、ルシフさまの気を引くために色々やっちゃうし、自分のことしか考えられない、わがままで汚なくて醜い女なんです。だから、これから言うわがままを聞いてください!

私、『ルシフさまの一部』として、あなたの傍にいたくありません! マイ・キリーという一人の人間として、あなたの傍にいたい! 私以外の女の隣であなたに笑っていてほしくない! この世界の誰よりも、私は──」

 

 ルシフが念威端子のボードから跳び、マイの口を右手で塞いだ。マイの言葉は途中で遮られる。

 マイは驚いて目を見開き、ルシフの顔をじっと見つめた。

 

「……こういうのは、男の方が言うべきだ」

 

 ルシフはマイの口から右手を離す。

 マイは黙ったまま、ルシフの顔を見つめ続けた。

 

「マイ。俺も、ずっと『王』として、お前と接してきた。本来の俺でお前と接したことなんて、多分数えるほどしかない。だから今、一個人として、ありのままの自分として、お前に言いたい。この世界の誰よりも、お前を愛している」

 

 マイの目が更に見開かれ、涙が溜まっていく。

 

「……やっ……たぁ!」

 

 マイは思わずグッと握り拳を作っていた。

 ルシフは気まずそうに、マイから視線を逸らす。

 

「だが、俺はお前の傍にいる資格がない」

 

「えっ……? なんでですか!?」

 

 マイの表情が満面の笑みから一転、悲しそうに歪められる。

 

「お前に出会ってから今日まで、俺のわがままにお前を付き合わせた。今までのお前の時間を俺は奪ってきたんだ。そんな俺に、お前の傍にいる資格はない」

 

「……は?」

 

 マイの目が据わり、顔から表情が消える。握りしめられた拳はぶるぶると震えていた。

 

「ルシフさま、最初に謝っておきます。ごめんなさい」

 

「は?」

 

 ルシフがそう返した瞬間に、マイがルシフの右頬を思いっきり殴った。ルシフの身体が吹っ飛ぶ。頂上をぐるりと囲んでいる石積みにぶつかった。

 ルシフは身体を半分起こし、マイを見上げた。マイは涙目だが、顔を紅潮させ怒っている。

 

「ルシフさまのバカ! 私にとってルシフさまと一緒にいた人生は、宝石みたいにキラキラ輝いていて、とても幸せで楽しい時間でした! その時間を不幸な時間なんて決めつけるのは、たとえルシフさまでも許さない!」

 

「……え? 俺に嫌々付き合っていたんじゃ……」

 

「私は好きであなたの力になることを決めたんです! 自分の人生をあなたに奪われたなんて思ったことは一度もありません!」

 

 ルシフはぽかんと口を開けていた。

 なんだそれは? つまり、俺は勝手にマイの気持ちを分かった気になっていて、勝手に判断していたと。

 

 ──……ただのアホじゃないか。

 

「……ククク……」

 

 自分のアホさ加減に笑いが込み上げてくる。

 

「アハハハハハ!」

 

 結局自分はマイの気持ちを何一つ理解しようとしていなかった。マイという人間と向き合って生きていなかったのだ。

 ルシフは笑い続けた。

 マイの顔は不愉快そうに歪められる。

 

「何がおかしいんですか……? もう一回殴ってもいいです?」

 

 そうマイに言われても、ルシフは今までの自分を笑うしかない。

 ルシフはなおも笑い続ける。やがてマイはため息をつき、笑い続けるルシフを呆れた表情でずっと眺めていた。

 なお、このルシフとマイのやり取りは当然念威端子に監視されていたため、アルシェイラや天剣授受者、ニーナ、レイフォン、シャーニッド、リーリンといった面子に観られていた。リーリンがいる理由は、決戦から一ヶ月後に、レイフォンがルシフのことを教えていたからだ。

 

「……お熱いことで……」

 

 念威端子の映像を観ながら、リーリンが呟いた。

 リーリンの傍にいるニーナ、レイフォン、フェリはどことなくピリピリしているリーリンの癪に障らないよう、リーリンをそっとしておいた。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 グレンダンの外縁部付近。放浪バスの停留所前。

 ルシフとマイが隣同士で立っていた。その背後には剣狼隊小隊長であるエリゴ、プエル、レオナルト、ハルス、オリバ、アストリットがいる。赤装束ではなく各々の私服だ。彼らは死ぬ直前にリンテンスの鋼糸による応急処置が間に合ったため、死なずに済んだ。

 ルシフが振り返る。短めの茶髪に黒の瞳。ルシフだと知っていなければ、誰も分からないだろう。

 

「今の俺は武芸者じゃない。それに、剣狼隊はすでにエリゴ、お前に任せてある。お前らが俺に従う理由は無くなった」

 

 小隊長たちは顔を見合わせた。はぁ、と全員ため息をつく。

 

「なら旦那、俺の決断を聞いてくれ。剣狼隊は旦那の力になり続ける」

 

 ルシフが驚きで目を見開く。

 

「……俺はもう武芸者ではなくなったんだぞ」

 

「関係ねえな、兄貴。俺は……いや、俺たちはあんたの力に惚れたんじゃねえ。あんたの心に惚れたんだからさ」

 

「ハルスの言う通りだぜ。あんたが武芸者じゃなくなったところで、あんたへの尊敬は消えない。俺たちは仲間だろ? お互い足りないもんを補い合えばいいじゃねえか」

 

「そうだよ、ルっちゃん。剄がない人だってたくさんいるし、ルっちゃん頭すごく良いじゃん。ルっちゃんの力が必要になること、きっとこの先もあると思うな!」

 

「ルシフ殿。ルシフ殿がなんと言おうと、わしはルシフ殿に命続く限りお供いたしますぞ。今のあなたに護衛がいないのは万が一があるかもしれませんしのう」

 

「ルシフさま。私もルシフさまのためならどこまでだって付いていきますわ。ただ、私に会いに来てくださる時はマイさんは外してくださいね」

 

「ルシフさまはもう私の恋人だからだめー」

 

 マイが勝ち誇った顔でアストリットを見ている。黒髪に赤色を混ぜたショートヘアと、青い瞳。この容姿もマイと知っていないと気付かないだろう。

 アストリットは不愉快そうに舌打ちし、そっぽを向いた。

 そんな彼らの更に背後には、アルシェイラや天剣授受者たち、レイフォン、ニーナ、シャーニッド、フェリ、リーリンが立っている。

 彼らはルシフの見送りに来たのだ。あの決戦から、アルシェイラや天剣授受者たちはルシフを認めていた。

 

「……陛下。監視は本当に付けなくてよろしいので?」

 

 カナリスが尋ねる。

 

「構わない。ただ、どの場所にいるかは教えて。何か政務でアドバイスが欲しい時があるかもしれないしね」

 

 これはルシフと事前に話し合って決めたことで、ルシフも承諾した、いわば契約のようなものだ。ルシフとしては、アルシェイラが中心にまとまっている今の世界の状況は壊すほど悪くないのだろう。

 

「女王陛下」

 

 ルシフが声を張り上げた。少し距離があるため、声を多少は大きくする必要があった。

 全員がルシフに注目する。

 

「もしまたこの世界を破壊しなければと感じたら、その時はまた俺たちが立ち上がり、全力をもってぶっ壊してやるからな。肝に銘じておけ。それから、今まで世話になった。感謝する。ありがとう」

 

 カナリスは顔を紅潮させていたが、アルシェイラは苦笑した。なんともルシフらしいというか、物事をしっかり別々に考えている。普通ならあの流れで感謝の言葉など言えない。

 リーリンは、ぎゅっと握り拳を作っていた。

 自分もルシフの旅に同行したい。そう思っているがなかなか言い出せない。そんなジレンマが苛つきを加速させている。

 そんな時、レイフォンがリーリンの肩をぽんと叩いた。

 リーリンがレイフォンの方を見る。

 

「ルシフたちに付いていきたいんじゃない? 行ってきたら? 後悔するくらいなら、そっちの方が絶対いいよ」

 

 リーリンは微かに笑みを浮かべる。

 

「レイフォンのくせに、なかなか鋭いじゃない?」

 

「まあ、一応弟みたいなもんだし。姉の気持ちくらいはね」

 

 その姉の気持ちを長年分からなかったのはどこのどいつだ、とリーリンは言いたかったが、レイフォンの優しさに感謝した。

 リーリンは駆け出す。ルシフの前まで一息できた。

 

「ルシフ、わたしも──」

 

「リーリン。お前も一緒に来るか? 世界を見に行こう」

 

 リーリンの言葉を遮り、ルシフが言った。

 リーリンはぽかんと口を開けたが、すぐに微笑みへと変化する。

 

「うん!」

 

 この気持ちが恋愛感情かどうかは分からない。ただもっとルシフを知りたい。ルシフたちと一緒にいると楽しい。その気持ちは本当だ。

 そんな自分をマイがじっと見つめているのに気付き、リーリンはばつが悪そうに視線を泳がせた。

 

「それじゃあ、行くか」

 

「はい」

 

 マイがルシフと手を繋いだ。

 ルシフは驚いたが、振り払いはしなかった。もし『王』として生きていた時だったならば、振り払っていただろう。人類の先頭に立ち、導き続ける者に隣を歩く人間は許されないからだ。実際、ルシフにとってこれが初めての手繋ぎだった。

 しっかりとマイの体温が感じられる。自分が歩くとマイも隣を歩く。こんな当たり前のことがとても新鮮で、嬉しかった。これからは『王』としてではなく、ルシフとして生きていく。

 

「なあ、マイ。俺は決めたよ。俺のせいで一万人以上が死んだ。どんな理由があろうと、その罪は消えない。だから、俺はこれから人を助け続ける。この命尽きるまで。それがルシフとしての生き方だと、俺は決めた」

 

「私もお傍で力になります」

 

「ああ、頼む」

 

 ルシフは後ろを振り返る。

 

「お前らも、俺を助けてくれると嬉しい。友人として、な」

 

 背後にいた面々はそれぞれ笑顔で頷いた。

 そして、彼らは放浪バスに乗り込んでいく。

 

 

 

    ◆     ◆     ◆    

 

 

 

 それから数日後。

 ルシフが珍しく一人で座っていた。一人で過ごしたいと言ったからである。

 もうすっかり夜で、街灯だけが都市を照らしている。

 ルシフは高い建物の屋上にいて、空を見上げていた。

 ルシフは書物でしかほとんど知らない都市を巡ることで、よりその都市を理解しつつ改善案などを考えていた。

 

「メルニスク。いい加減にしろ。いつまで応えないつもりだ」

 

 ルシフはさっきから一人でずっと話しかけていた。

 

《……ルシフ……すまぬ》

 

 ようやく聴こえてきたメルニスクの声は、どこか元気がなかった。

 

《汝は人間であることに拘っておったのに、我はそんな汝の思いを踏み躙った。汝を……人間ではなくしてしまった》

 

「電子精霊と融合したことを言っているのか?」

 

《以前のような憑依とは違う。汝の体組織の大部分を我が補ったのだ。もはや切り離すことはできん。汝は人間の理から外れた。老いにくく、人間の身体では考えられないほどの長い時間を生きることになるだろう。本当にすまぬ》

 

「……一つ訊きたい。それは俺を哀れんでやったことか?」

 

《断じて違う。汝が決断したように、我も我のやりたいように決断した。汝がどう思おうとも、汝に生きてほしかったのだ》

 

 ルシフは夜空を見上げたまま、笑った。

 

「だったら、もうこの件に関して、ぐだぐだ言うつもりはない。俺も好きなようにやり、お前も好きなようにやった。ただそれだけの話だ。だが、やっぱりまた生きることができて嬉しい気持ちはもちろんある。死ぬ前には気付けなかった俺の器の小ささも分かった。

だから今は、お前にどれだけ感謝と謝罪をしてもし足りないと思っている。メルニスク、お前の決断と思いに心からの感謝を。そして、半永久的に生きられた命が、俺の死と共に消滅してしまうことに対して、心からの謝罪を。俺が決戦に勝っていたら、お前がそんなことやる必要はなかった」

 

《ルシフ、よいのだ。先に言ったであろう。我はそうしたくてやったと。我はお前と共に生き、お前と共に死ぬ。それ以上何も望まぬ》

 

「そうか。俺のことが嫌になっても、ずっと一緒にいるしかないからな。覚悟しとけよ、相棒」

 

《おう》

 

 ルシフは立ち上がった。

 

「それから、俺には一つ確信がある。俺の剄は失われたわけじゃない。眠っているだけだ」

 

《……!》

 

「電子精霊の力はそのまま剄に通ずる。電子精霊と融合したら使えなくなる? そんなのは原因と結果が噛み合ってない。そう思わないか、相棒?」

 

《……ルシフよ。我には汝の言葉がよく理解できん。必ずしも原因と結果が噛み合うとは限らないのではないか?》

 

 事実を言ってしまえば、メルニスクがルシフの剄脈を制御し、剄を使えなくしていた。今まで世界のために戦い続けたルシフには休息が必要だと考えたからだ。

 ルシフはしばらく無言になった。

 やがて、笑みを浮かべる。

 

「まあいい。また世界に俺みたいな奴が必要になったら、その時は俺の剄が目覚めるだろう。それまでは剄無しで生きてみるさ。その時が来たらまた頼むぞ、相棒」

 

《……うむ》

 

 そこで屋上の扉が開かれ、マイがやってきた。

 

「もう夜も遅いです。そろそろ寝ませんか?」

 

「ああ、そうしよう」

 

 マイが引き返し、その後ろにルシフが続く。マイの黒と赤が混じったショートヘアの髪が揺れている。

 

「マイ、なんでその髪の色にしたんだ?」

 

「私、今の茶髪のルシフさまも大好きですけど、やっぱりあの赤みがかった黒髪のルシフさまが一番なんです。だから、髪色を似せて本来のルシフさまの髪色を忘れないようにしたかったんです。ルシフさまの髪色に比べれば、この髪色なんて全然きれいじゃないんですけど」

 

「その気持ちだけで嬉しいさ。俺も自分の髪色は気に入ってるしな」

 

 マイは歩くペースを落とし、ルシフに並んだ。ルシフの手を握り、ルシフの方に顔を向けてにこりと笑う。ルシフも微笑み返し、手を繋いで歩き続けた。




このアナザーエピローグは個人的に色々つっこみどころがありますが、読後感はラノベっぽくて良いと思います。

長々と書いてきましたが、これにてこの作品は完結です。ここまで書き続けてこれたのもお気に入り登録、評価、感想をくださった方のおかげであり、何より読んでくださった読者さまのおかげです。この場を借りて、心からの感謝を。本当にありがとうございました。
色々テーマを詰めこんで書いたつもりですが、何をテーマにしていたか書くつもりはありません。それは読者さまの受け取り方に委ねます。ただ読後に何かを心に刻み込んでやりたいという気持ちで書いてましたので、何かを感じてもらえたなら作者冥利に尽きます。
あと、この作品はぶっちゃけ鋼殻のレギオスの世界で水滸伝のようなストーリーを書きたかったというのがあります。はい、水滸伝のパク……オマージュです。作中にも水滸伝のようなシーンをこれでもかと入れています。水滸伝みたいな構成がとても好きなんですよね、私。

最後になりますが、もしよろしければ、3つのエンディングの内どれが一番良かったかとか、いやいやこういうエンディング、展開が良かったとか、作品全体のことでもなんでも良いので、感想をいただけると泣いて喜びます。

重ね重ねになりますが、最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。


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