ULTRAMAN・BORN IN DARK (サカマキまいまい)
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Prologue-暗黒時代ー

飢えた獣の目玉のような黄色がかった月がぼんやりと、苔で出来た木が集まった黒い森を照らしている。本来ならオオカミの遠吠えや、虫の歌で賑わうであろう森は不気味な沈黙に包まれていた。

まるで生き物達がなにかに怯えているかのように。

 

その森の下草がいきなりガサガサと動いた。

 

「はあっ!はあっ!はあっ!」

 

茂みから飛び出し、森を駆け出したのは一人の幼い少女。

 

闇の森を独り、何かに怯えながら走る幼い少女━━ペグはお婆の言いつけを破り、穴蔵から出てしまったことを後悔していた。

 

一刻も早く、自分の居場所に戻らなければならないと知りながら、ペグは何度も背後を振り向いてしまう。

 

しかし幾ら彼女が目を凝らした所で、光が届かない森の深部で蠢いているナニカを見つけることは出来なかった。

 

だが姿は見えずとも、べグの鼻をつんと刺す届く魚が腐ったような臭いが、ずりずりと地面を這う湿った音が、背後から忍び寄る影の存在を示していた。

 

くんっ!

 

突如、足がつんのめり、上半身が宙に浮く。

 

「きゃっ?!」

 

背後に気を取られていた彼女の足が粘ついた何かに絡まり、少女を引き倒した。

 

「うっ……ぐすっ、うう」

 

現代でいう所の少なくとも3キロは、彼女は幼い足を酷使して走っていた。尤も、人々から叡智が奪われたこの時代に生きるペグには、気が遠くなるほど走ったということしか分からなかったであろうが。

 

それでも、走る。━━━死にたくないから。

 

彼女の目の前で、訳も分からず笑顔のまま干からびた、彼女が大好きだった二人の親友たちのようには。

 

━━けれど。

 

5歩も歩かない内に、くらりと意識が遠のいたペグは地面に倒れ込んだ。

 

「う……。……あ?」

 

ちらりと彼女の視界に映ったのは己の足。だがそれは慣れ親しんだ細く青白いものではなく、見る間に干からび、茶色くなっていくモノだった。

 

否、そうなっていくのは足だけではない。最早彼女の体全体がそうなっていたのだ。

 

「あ、アア………」

 

 

ばきばきと乾いた枝が折れていくような音を立てながら、彼女の瑞々しかった体が縮んでいく。

 

やがておよそ人が倒れたとは思えない、かさりという微かな音と共にペグは生臭く、湿った地面に転がった。

 

ミイラのようになった少女の体の陰で、ぐぶぐぶぐぶと泥水が泡立つような音をたててペグの足にくっついていた、ぶよぶよとした触手はどくんどくんと脈打ちながら闇に消えていった。

◆◆◆

 

 

 

━━さて、今日はよう集まってくれた。今日は少しばかり、皆に老婆の話に耳を傾けて貰いたくての。

 

薄暗い穴蔵の壁に、弱い炎が老婆を照らすことで生まれた影がゆらゆらと踊る。

 

━━今日話すのは物語でも説教でもない、確かに有った事実。瑶か昔の人々の軌跡、即ち《忘却の時代》についてじゃ。

 

 

━━多くの人間は忘れておる。自分たちが嘗て築き上げてきた栄光の歴史を、嘗て自分たちが明るく暖かい世界で生きてきたことを。そして、彼らを見守る大いなる炎があったことを。

 

彼女の話す声は決して大きな声ではなく、しかし明確に人々が集まる広場に朗々と響いた。

 

彼女が言葉を紡ぐ度、人の中心でひっそりと焚かれた篝火は強さを増し、くらやみからじわじわと染み出て人々の間を這う闇は、こそこそと影へと還った。

 

 

━━遥か昔、まだあの恐ろしき山々が小さな丘ほどの高さもなく、世界が闇に覆われていなかった頃。人々は嘗て自分達を支配していた者達を忘れ、大いなる炎の下でのびのびと繁栄し文明を、栄光を築き上げた。

 

目を輝かせる子供達に老婆はその栄光の一端を語り聞かせた。

 

かつて天にも届くような塔が幾つも地上に並び立ち、今とは違う白く綺麗な雲を突きぬけていたことを。

 

かつて変わらず人々を照らし続けた大いなる炎があったことを。

 

かつて人類が更なる高みへと羽ばたく日を望み、その時が来るまで見守り続けた守護者がいたことを。

 

きっと子供達には、老婆の話の三分の一程も理解出来なかっただろう。けれど、彼らの大きな瞳に輝くものを見て、老婆は顔をしわくちゃにして微笑んだ。

 

彼女はそこで一度話を止め、差出された杯から水を飲むと重々しく続けた。

 

━━だが、そこで輝かしき人類の歴史は終止符を打たれたのじゃ。かつてこの大地を治めていた古き者共、《旧支配者》の帰還によって。

 

《旧支配者》、その言葉の響きに大人達は皆、体をぶるりと震わせた。

 

━━初めは人類は彼らとの共存を目指した。古き者共もまた、知性を持つ生き物だと知ったからじゃ。しかし、彼らは人間の理解を超えた悪意の塊じゃった。彼らの吐く息が空や海を汚し、手を差し伸べた人々を躊躇いなく喰らうその姿を目の当たりにした時、人類は彼らと対峙する道を選んだ。

 

━━旧支配者と人類の戦いは、当初は人類が優勢じゃった。今とは違い、人々は決して無力では無かった。我らよりも遥かに賢く、理性的だった人々は互いの力を合わせ、理不尽な闇の力に抗った。しかし、やがて空は旧支配者がもたらした黒く分厚い雲に覆われ、それと共に大いなる炎の加護は人々から喪われ、心に灯されていた叡智の炎も又消えた。

 

真剣に耳を傾けていた人々が息を呑む。

 

━━悲しみの歴史の始まりじゃ。人は狂気に飲まれ、理性を持たぬ獣となり、同胞を喰らい、犯した。人類はお互いを殺し合い、辱めた。狂気に飲まれた人々は闇の眷属の手に堕ち、理性を持った人々は旧支配者の奴隷となり、供物となった。人類は完膚なきまでに旧支配者に敗れ去った。

 

━━残った、辛うじて人としての境目を守った人々も受け継がれてきた叡智を失い、地上を追われ暗い穴の中へと逃げ込んだ。そうして今に至るまで、人は古き者どもに怯えながら地面の下でひっそりと生きてきたのじゃ。

 

 

 

 

老婆の話が終わった後、暫くは誰も口を開こうとしなかった。否、開けなかった。老婆を中心に輪を描くように座っていた人々は何かに怯えるように、しきりに部屋を見回し、炎に近付いてお互いに寄り添った。

 

パチパチパチと焚き火がたてる音だけが響く。

 

 

その重苦しい沈黙をパン!と乾いた音が破った。驚いた人々の視線が集まる先に立っていたのは一人の少年。

 

無造作にのばされたボサボサの黒髪を掻きながら、彼は老婆を睨んだ。

 

「チッ、おいおいお婆様よお。皆にこんな顔をさせたくてそんな詰まんねえ話をしたのかよ?」

 

「ちょっと、カリン!」

 

少年の傍に座っていた小柄で小麦色の髪をした少女が慌てて少年の服の裾を引っ張るが、彼はその少女には見向きもせず、ふんと鼻を鳴らした。

 

「うむ。皆を過度に怖がらせるつもりは無かった。しかし、ゆめゆめ忘れてはならぬ。最早、大地は、世界は、我らのものではない。一度穴蔵から出れば、我々は狩られるものとして怯えていなければならぬということを。......そして最後に皆に辛い知らせを伝えねばならぬ」

 

その言葉に空気が凍った。誰もが薄々と察してはいた、けれど受け入れたくなかった現実が突きつけられる。

 

「三日前、穴蔵から居なくなったモリー、アラネア、そしてペグーは既にこの世には居らぬ」

 

その言葉にわっと泣き崩れる数人の顔に、カリンは見覚えがあった。三人の幼い少女達の両親だ。いたたまれない気持ちになって下げた視線の先に、同じように声なくボロボロと涙を零す幼なじみの姿を見て、カリンはぎゅっと目を閉じた。

 

 

◆◆◆

 

 

「では、幼くして喪われた命の為に、祈りを捧げようぞ。巫女長は、巫女を連れて祈祷の間にて、像に踊りを捧げよ。私はここで皆と祈ろう」

 

未だすすり泣きの聞こえる広間に老婆の声が響くと、人々はその言葉に抗議することなく従い、とめどなく流れる涙を瞼の裏に押し留めると、のろのろと動き始めた。

分かっているからだ。負の感情はそれに惹かれる良くないモノを呼び、更なる負の感情をもたらすと。この時代、人間は自分の感情を開放するといった、そんな当たり前のことすら許されなかった。

「カリン……。私、行かなきゃ。カリンは此処で皆と居てね」

 

拳を握りしめ、心ここにあらずの状態だったカリンはその言葉に我に返ると、幼なじみに首を振った。

 

「いや、俺も一緒に行くよ」

「え?でも、巫女以外の人は此処でお祈りしろってお婆様も言っていたじゃない」

困ったような顔をする幼なじみの背後に周り、その小さな背中をぐいと押す。

 

「いいんだよ。人が多過ぎて祈祷の間に全員が入らないってだけだから。俺だけなら大丈夫だろ」

「え、えー。いいのかなあ?」

「大丈夫大丈夫」

「大丈夫、ではありません」

 

戯れていた二人の会話を凛とした声が遮った。

 

「げっ」

「あ、お姉ちゃん」

「アズサ、カリン、こんにちは。……ところで、何やら聞き捨てならぬ事を企んではいませんか、カリン?」

 

切れ長の目がカリンをじっと捉えた。

 

「べ、別に企んじゃいねーよ。しきたりを蔑ろにする気もない」

 

その鋭い眼光にたじろぎながら答えたカリンをじっくりと眺め、やがてふっと笑った。

 

「まあ、良いわ。私たちについてきなさい。でも服はちゃんと正装に着替えること」

「わ、分かったよクレア」

 

カリンがクレアと呼んだ、大人びた少女は微笑みながらカリンの頭を撫でると巫女長の元へ去っていった。

 

「むー」

 

撫でられた頭を抑えながら、その背中を目で追うカリンを、アズサがジト目で見つめる。

 

「な、なんだよ……」

 

その視線に気づいたカリンが若干どもりながら尋ねると、アズサはぷいと顔を背けた。

 

「別にー?私、着替えてくるから。カリンもちゃんとした服に着替えてきてよね」

「分かってるよ……」

 

トゲトゲしい雰囲気を醸し出しながら、帰っていく幼なじみの後ろ姿を見て、カリンは独り、ぼやいた。

 

「なんだってんだよどいつもこいつも………」

 

 

 

◆◆◆

 

リン、リン、リン…………

 

 

白装飾に着替えたカリンは、橋を渡って祈祷の間に入ると、自身を包んでいた空気が一変したのを感じた。

 

じめじめとした気持ちの悪い空気は、凛とした空気に一掃され、靄がかかっていたような頭が研ぎ澄まされる。

 

ドーム状の洞窟は壁に立て掛けられた僅かな明かりを、橋の下1面に広がる汚れなき水面が反射し、神々しく輝いている。

 

ここが穴蔵に住む人々の最後の安らぎの場所、祈祷の間。大地は、海は尽く古き者どもによって汚された。しかし、世界は未だ辛うじて息ずいていた。汚れた水は大地の奥深くで浄化され、再び汚染される前にその一部が、祈祷の間に満ちている。

 

それは闇に満ちた世界がまだ完全に覆われた訳ではないという希望であり、狂気に飲まれかける人々を浄化する力だった。

 

リン、リン、リン………

 

祈祷の間の中心部に続く橋を渡る巫女達が、手にした鈴を振り、巫女長を筆頭に一糸乱れぬ舞を見せる。

 

やがて中央に安置された『像』の前に辿りついた巫女たちは、一斉に膝を降り、ソレに頭を垂れた。

 

カリンもそれに倣い、形だけは示す。

 

「「古の守護者よ、大地に彷徨う我らの祈りにお応え下さい。旅立つ魂に道を示したまえ。幼子に大いなる炎の加護があらんことを。大地を彷徨う我らに導きがあらんことを」」

 

朗々と響く巫女長の声は、堂々としたものだったが、カリンには空々しく聞こえた。

 

(皆、そればっかりか。なまじ、縋る対象があるだけに。だけど、俺は違う。こんな何もしないモノに頼ったりなんかしない)

 

そうしてカリンは祈祷が終わるまでの間、ずっと部屋の中央に置かれた人々の信仰の対象を睨みつけていた。

 

 

 

今の人間の技術では到底創り出せぬ程、滑らかに彫られた、水底から天井まで届くほど大きな巨人の石像を。




 Chips

忘却の時代:人類が最も繁栄していた栄光の時代。人が旧支配者の存在を忘れていた時代であり、現在、人々から忘れられている時代であるが故に、こう呼ばれる。

暗黒時代:旧支配者が帰還した時から現在に至るまでの時代。世界の表面は全て、古き者どもに汚染され、深部が僅かに清純を保っているのみである。地表は化け物が跋扈し、人は狂気に飲まれる。それゆえに人々は穴蔵と呼ばれる居住空間を大地の下に築いている。

人間のスペック:工業的技術の殆どが失われており、生活レベルは低い。一方で、旧支配者の使う技術が流れてきており、一部の人間はそれを模倣した「魔術」と呼ばれる技能を発揮する。





文章力を鍛えたいので、批評、感想をどんどんお願いします。詳しくは活動報告にて。


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常夜を照らせ、復活の光よ(上)

どん、どん、どん…………………。

世界の終わりを思わせる赤く燃える空が徐々に気味の悪い紫へと染まり、やがて総てを覆う闇に包まれていく中、不意に穴蔵の入口を塞ぐ、3メートルほどの錆びた鉄に囲まれた巨大な木の扉が叩かれた。

びくりと扉の両側に立ち、外界の監視をしていた門番達の顔が強張る。持っていた槍をその穂先を門に向けて構え直し、恐る恐る誰何(すいか)した。

「何者か?」

逢魔が時、何かの陰に隠れて微睡んでいた良くないモノが蠢き始める時に訪ねてくる者など禄でもないということを彼らはよく知っていた。だが身構えていた彼らの予想に反し、返答した声はか細く幼いものだった。

『あけて……ください』

しかもその声は掠れてこそすれ、聞き違う筈のない声。恐怖に歪められた彼らの顔が驚愕で固まった。己の耳を疑う。今聞こえたのは、もう二度と聞く事は無いと思っていたものだ。思わず互いの顔を見合わせた。

土に塗れ汚れた彼らの足元で影がざわめく。

『お願い、します。ここは、寒い……』

もう一度聞こえた弱々しい声に、二人はどちらからともなく、ごくりと唾を飲み、ぐっと赤く錆びた扉の両縁に手を掛けた。

「――開けてはならぬ」

土壁に埋められた松明の火が揺らめく。その明かりの元から(おもむろ)に一人の老婆が姿を見せた。

「長よ………」

音もなく現れた村の長に驚きながらも、彼女に縋るように目を向ける壮年の男達に、老婆は静かに首を横に振った。

「既に伝えたはずじゃ。ペグは死んだ。割れた杯に酒は戻らぬ。肉体との(えにし)を強引に絶ち切られた魂は、あの際限ない嘆きの平原をその身が擦切れるまで彷徨うだけじゃ。それはどんな人間にも例外はない。ペグとて同じじゃ」

「ならば、あの声は?」

「大地に還ることなく彷徨う悪霊の類か、はたまた気まぐれな精霊か何かが、我々を嘲けり嗤っておるのじゃろうて。何にせよ、扉を開けるなどとんでもない愚行じゃ」

『お願いです。開けて……』

再び掠れた弱々しい声が聞こえたが、老婆はその声に答えることなく、閉じかけた瞼から覗かせる鋭い眼差しで門番達を制した。

枯れかけたその身から溢れ出るその威厳に、門番たちは頭を垂れ、やがて穴蔵は平穏に戻る筈だった。

「長......?こんな所でいったい何を?」

「……なんと間の悪い」

だが、偶然お婆の後ろを通り過ぎようとしていた壮年の男が老婆の姿を見とがめ、立ち止まった。眠れぬ夜を何日も過ごしたのだろう。目の下には濃い隈が浮かび、雑草のように髭がぼうぼうと生えた頬はげっそりとこけていた。

「何か問題でもあったのですか?」

何かに惹かれるように門の傍までやって来てしまった壮年の男に、村長が声を掛けるよりも早く、門の向こう側で、誰かが叫んだ。

『お父さん?!』

「ペグ?! ペグなのか?!」

その声を聞いた途端に、ペグの父親の瞳に輝きが戻り、体に活力が漲る。それを見て、長はため息を吐き言った。

「待て、既に言ったはずじゃろう。ペグは死んだと。あれに耳を貸してはならぬ。心を鎮めるのじゃ」

しかしペグの父親はその瞳に激情を宿し、叫んだ。

「私の娘の声が聞こえないのですか長よ! 間違いない、あれはペグの声です!」

「そなたは今、周りが見えておらん。落ち着くのじゃ、ペグがここを出てから一体何日が過ぎたと思っておる。我らが何度、危険を顧みず彼女たちを探しに出かけたと?辛いのは皆同じじゃ」

男を刺激しないように言葉を投げかける長だったが、男は懐をまさぐりながら老婆に詰め寄った。

「お退きください! これ以上の問答は無用。日が沈む前に娘を入れてやらねば!」

懐から狩猟用のナイフを取り出したのを見て、いよいよ門番達の顔色が変わった。門番達が長を庇い、前に出ようとするのを諫め、男が落ち着くのを待つ。

殺気だった空気がぴりぴりと肌を刺すのを感じながらも、老婆は静かに佇み、男に説いた。

「万が一、あれがそなたの娘ではないとしたらどうするのじゃ?お前の浅慮の為に、ここで暮らす人々を危険に晒すことになるやもしれんのじゃぞ」

「それでも......私は娘を助けたい」

ナイフをぎゅっと握った男の、その揺るぎない瞳を見て、長は彼の心から他者を鑑みる余裕も、それをするだけの理性も消えている事を悟った。最早言葉は通じず、これ以上留めようとすれば無意味な血が流れることになるだろう。

(それは愚かしいことじゃ......。そうなればあの方に申し訳もつかん。仕方あるまいて)

「あい解った。なれば泉におる巫女どもにその旨を伝え、泉から水を運んでこさせよ。やっと戻ってこれたのじゃ、洗い清めてやらねばな」

それを聞いて男はぱっと顔を輝かせた。

「長よ、寛大なる処置に感謝致します」

そうして揚々(ようよう)と扉に駆け寄り、(かんぬき)を門番達と共に抜き、扉を開いた。

ぎぎいと軋みながらゆっくりと開かれた先に居たのが、ひどく汚れた痩せぎすの少女だけであったことにまずはほっとし、次にその顔がひどく汚れてはいるものの、確かにペグのものであることを知って歓喜した。

「ああ、良かったペグ! ペグなんだな?!」

泥に塗れるのも構わず、己をぎゅっと抱きしめた父に、ペグも笑みを浮かべる。

「うん......。ありがとう、お父さん」

叶わぬと思っていた父と娘の再開に、強面の門番達も思わず微笑んだ。

「ペグ、よく戻って来た。そなたの帰還は儂としても望外の喜びじゃ。されどその身が汚れておっては、折角戻って来たのに安らげんじゃろう。巫女たちにそなたの身を清めさせるが故、暫し待て」

浮つく空気を諫めるようにペグにそう言った長に、ペグはその幼さからは驚くほど慇懃に頭を垂れた。

「ありがとうございます長。貴女に従います」

(邪な気配は感じぬ。体にも異常はない。この違和感がただの老人の思い過ごしであれば良いが……)

幼子の帰還の知らせは、暗く沈んでいた穴蔵を幾分明るくさせ、人々を勇気づけた。

ただ一人、村長の心に懸念を抱かせながら。

ーーーーーーーーーーーーー

ペグの帰還から三日後、彼女の傷がある程度癒えたのを見計らって、晩に彼女の無事を祝うささやかな宴会が穴蔵全体で開かれた。

剥き出しの地面を踏み固めただけの広間の中央に焚かれた火がゆらゆらと舞う。

闇にほのかに浮かぶ人々の顔は、前回よりは幾分和やかなものだった。

時折ぱちぱちと爆ぜる薪の音だけが響く中、村長がゆっくりと腰を上げ口を開いた。

「ペグの証言通り、穴蔵からそう遠くない場所でモリ―とアラネアの遺体を見つけた。彼女たちが生きて戻らなんだことは真に残念なことじゃ。されどその姿は比較的綺麗なものであった。ならば我らの手で弔ってやれば、彼女らの魂は嘆きの平原を越え、必ず永久(とわ)の安らぎの地へと至るじゃろう。そして何より、ペグが戻って来た。これほど喜ばしいことはない。今宵はその喜びを嚙み締めようぞ」

そう締めくくり長が掲げた杯を合図に、人々の輪で歓声が上がり宴が始まった。

大きな皿に盛られた大モグラの肉や、穴蔵の洞窟で釣れた魚の塩焼き、地上でしか採れない貴重な植物が盛られたサラダ。取れる素材を詰め込まれて作られたシチューなどが並べられた宴は、ささやかとは言っても、人々を浮かれさせるには十分だった。

酒に酔い、料理に舌鼓を打ち、人と語り合い、共に笑う。

ともすれば生きる価値すら見失いそうになる程に暗く苦しい生活の中で、人々は今この時だけはその幸せを噛み締めていた。

そんな賑やかな輪の一つの中にペグの姿を見つけ、カリンはそっと頬を緩めた。

「……このロリコン」

「ぶっ?!」

酒を注いだ杯を煽ったタイミングで不意に掛けられた一言に、思わず吹き出す。

「アズサ、テメエ喧嘩売ってんのか……?」

「えっ?えっ?」

カリンに顔を迫られ、赤くなったり青くなったりしながら、アズサはおろおろと戸惑った。

「だ、だってそう言ったらカリンが喜ぶから、耳元で囁いてあげなさいってお姉ちゃんが……」

「クレアぁ......」

流石に耳元で言うのは出来なかったけど、と俯きながら呟くアズサを見ないようにして辺りを見回したカリンは、にやりと酷薄な笑みを浮かべてカリン達を見つめていたクレアと目が合った。カリンが何か言う前に、びっと親指を立てて人混みに消えていく奔放な彼女に、カリンはため息を吐いた。

だがカリンの受難は終わらない。

「ね、ねえ、ろりこんってどういう意味なの?もしかしてえっちいことなのかな……?」

純朴そうな黒々とした瞳を潤ませ、白い頬を微かに上気させる幼馴染に、カリンは顔を引き攣らせる。

(言えない……。前に穴蔵を訪れたワタリガラスのおっさんがにやにやしながら押し付けてきた前時代のアレな本を必死に解読した言葉だなんて......。だが待て、なんでクレアはそんな言葉を知ってたんだ?)

そういえば最近、俺が居ない間に部屋に入り浸っていることが多いような......。

扉をノックもせずに入ってきて、俺が居たらがっかりしていたような......。

猛烈にクレアに会いたくなったカリンがそわそわとしていると、伸びてきた腕がカリンの服の裾をしっかりと掴んだ。

「……どこ行くの?」

「え?いや、ちょっとクレアに問い詰めたいことが……」

「やだ!」

がばっと顔を上げたアズサの据わった瞳がカリンを睨みつける。

「お、おいアズサ?」

「いっつもお姉ちゃんばっか見て! 胸か?! あのばいんばいんがええのんか?!」

(あのお淑やかなアズサが、ばいんばいんという日が来るとはっ! これはそそる......じゃなく、一体何が……)

まじまじとアズサを見つめたカリンと、ぼーとカリンを見ていたアズサの目が合った。

周りの音が消え、まるで二人だけの空間になったような錯覚に陥りながら、カリンはアズサを観察する。

カリンにしがみつくアズサの火照ったからだ。興奮しているかの様に赤くなった顔。カリンを見つめる潤んだ瞳。……そしてカリンの鼻にまで届くアズサの吐息。

これは……。

「お前、酔っぱらいか……」

こっそりカリンの酒を飲んで悪酔いしていたたアズサにその後も泣き付かれ、止む無く酔っぱらいの面倒を見ることに時間を費やす羽目になるのだった。

すやすやと眠りに落ちたアズサを何とか夫といちゃつく彼女の母親の元まで運び預けると、精神的な疲れで足を引き摺りながら、カリンは今回の宴の主演であるペグに会うことにした。

人々の間を縫うようにして歩きながらペグを探すカリンだったが、ふとあることを思いつく。

(折角ならなんか持って行ってやるか。酒なんか飲めないから退屈してるだろうし)

そう思ったカリンは賑やかな広間を後に、カリンの家でもあるお婆の家に向かった。

広間を出た途端に体を覆う冷たい空気も、今は酒と熱気で火照った体に心地良かった。時折すれ違う人と挨拶を交わしながら微かな灯りに照らされたうねる道を歩いて家に戻り、

そして自室に入ったカリンは絶句した。

 

 カリンの(わら)を詰めた敷物に動物の毛皮を重ねただけの簡素な寝床に、黒髪が扇のように広がり、程よく肉付いた白く艶めかしい足がぶらぶらと揺れている。

「……あ、お帰りなさいカリン。少しお邪魔してますよ」

「ぶっ殺すぞテメーーーーーーーーーーーーーー!!」

年上だということも忘れ叫ぶカリンなどどこ吹く風とばかりに受け流し、クレアはカリンの寝床に寝転がって読んでいた鮮やかな色の書物を閉じるとふわっと欠伸した。

「まあまあ、落ち着きなさい。これには深い訳があるのです」

「俺が隠してたエロ本引っ張り出してきて男の寝床でオナるお前の考えと同じくらい浅いと思うんですけどねぇ!!」

カリンの言葉にクレアは少し頬を染める。

「……エロ本?オナる?……すみませんがそのような言葉は知りませんね」

「今更カマトトぶってもおせえよ。その本にばっちり書いてあるだろ」

クレアの動揺を悟り、落ち着いたカリンが冷静に突っ込むと、彼女は忌々しそうに舌打ちをした。

「チッ……。それで、何の用ですか?」

「そっくりそのままお返しするよ?ここ俺の家なんだけど......」

余りにも堂々と尋ねるその開き直りぶりにドン引きするカリンの前で、クレアはゆったりと体を起こした。流れるように床に広がっていた彼女の黒髪がふわりと靡き、梅の花のような匂いがカリンの鼻孔をくすぐる。

「私は少しばかり体を冷やしに来ただけです。ですが逆効果だったようですね」

(そりゃそうだろ……)

そうツッコミを入れようとした言葉は、生唾と共に呑みこまれた。

クレアが暑そうに胸元をつまんでぱたぱたと扇ぐ度に、少しばかり汗に濡れた豊かな胸の谷間が露になり、そこにカリンの目は吸い寄せられてしまう。

「……ふっ」

「はっ?!」

クレアが鼻で笑う声に我に返ったカリンは、気まずさを胡麻化す為に咳ばらいをすると話題を変えた。

「ってこんなことをしてる場合じゃねーんだ。ペグにジュースでも作ってやろうと思って戻ってきたんだった」

それを聞いてクレアも興味深そうに眉を上げた。

「ほう、ジュースですか。確かに喜ぶでしょうね。ですが果実はどれも時期ではありませんよ?」

それには答えずに、床の土をくり抜いて作った保管庫からあるものを取り出しクレアに投げた。

「冷たい?リンゴが凍っているのですか。なるほど、魔術が得意な貴方だからこそ出来ることですね」

きらきらと輝く果実をしげしげと眺め感心するクレアに、カリンは少し誇らしそうに胸を張った。

「まあな。後は、《シュクレ》!」

カリンが放った言葉に従って、宙に浮いたリンゴが次々に潰れて弾け、どろどろになっていく。やがて液体状になったものが棚から取り出した杯に吸い込まれるように底に溜まった。

「おおー、素晴らしい腕前です。精神にほとんど汚染を受けずに、これほどの魔術を使える人間はそうは居ませんよ」

掛け値なしの称賛を送られ、照れるカリンだったが、少し浮かれていたのか魔術のコントロールを誤り、圧縮された空気で己の腕を裂いてしまった。

音もなくぱっくりと表皮が裂け、血が溢れる。

「痛っ」

「カリン?!」

それを見て顔色を変えたのはカリンよりもむしろクレアだった。カリンの腕を、その細い腕からは考えられないほど強く掴みあげると、懐から真っ白な布を取り出しカリンの傷口に当てて縛り上げた。手際よく応急処置を終えたクレアに、カリンは戸惑ったような声を上げる。

「おい、この布って」

「どうでもいいことです。それよりしっかりしなさい! 力あるものはそれにふさわしき覚悟を持たねば。ましてや魔術とは旧き者どもがもたらした世界を歪める技。半端な覚悟で使うべきものではありません。……いえ、貴方の技量を見て感心するばかりだった私にも責はありましたね。すみません、言い過ぎました」

カリンの腕を掴んだまま頭を下げるクレアに、カリンは慌てて否定する。

「いや、自分のミスが自分に返ってきただけだ。手当してくれた礼こそすれ、謝る必要なんか…………」

気づけばクレアの端正な顔が目の前に来ていたことに、カリンは驚き言葉を失った。

クレアも顔を背けることはせず、そんなカリンを見つめた。

二人の間にむず痒いような空気が降り—―。

コケコッコー!!!

寝ぼけた鶏の鳴き声で、二人は我に返った。

「あ、あー。取り敢えずありがとう。とにかくこれをペグに持っていくよ」

離れゆくカリンの腕を名残惜しそうに離し、クレアも頷いた。

「そ、そうですね。行ってらっしゃい。私はここでもう少し涼んでいきますから」

「おう! また後でな!……じゃねえよ!! お前も出るんだよ!」

離れかけた手が再び繋ぎ直されクレアは満更でもない様子でカリンに引きずられていく。

しかし、浮ついていた二人は気がつかなかった。カリンの傷から零れた血が数滴、ペグに渡すはずのジュースに滴り落ちたことに。

――その血が鍵になる。中にあらゆる厄災が詰め込まれたパンドラの箱を開ける鍵に。

宴は終わり、長い夜が始まろうとしていた。

賑やかに騒ぐ人々を盛り上げる様に激しく燃え続けていた広間の火も穏やかなものになり、うとうととし始めた酔っぱらい達をゆらゆらと優しく温めていた。

クレアを引き摺ったまま広間に戻ったカリンは、毛皮の敷物の上に座り込み、そんな広間を見守っていた村長と目が合う。孫に微笑む老婆のその曲がった腰や、しわくちゃの顔を見て、カリンはどこか切なさを感じながらも寝転がる人々の間を飛び越えて、ペグを探した。

傍で騒ぐ大人たちの横で一人、詰まらなさそうに肉を頬張っていたペグは、辺りをきょろきょろと見渡すカリンを見てすっと目を細めた後、無邪気に笑ってカリンに手を振った。

「お兄ちゃん! こっちだよ!」

「ペグ、久しぶりだな。暫く会えなかったけど、元気そうでよかった」

少女の天真爛漫な笑顔に釣られて笑顔になったカリンだったが、何のために来たのか思い出し、持っていた杯をペグに差し出した。

「おっとそうだった。ほら、リンゴのジュースだ。お前、好きだったろ?酒なんか飲めないだろうからちょうどいいと思ってさ」

「わ、ありがとう!」

冷たく冷えた金属の杯をおそるおそる受け取り、すんすんと臭いを嗅ぐペグに、カリンは思わず苦笑する。

「毒なんてねえよ」

「……えへへ、冗談だよ。じゃあ頂きまーす」

誤魔化す様に笑ったペグは杯を傾けると一気に飲み干した。

形の残っていたリンゴの欠片をシャリシャリと嚙み潰しながら、ペグは大きく頷いた。

「うん! 凄くおいし……ごっ?!」

その場に崩れ落ち、激しく噎せるペグにカリンは血相を変えた。

「ペグ?! 大丈夫か!」

四つん這いになったペグに駆け寄ったカリンは幼子の顔に浮かぶ狂相を見て凍り付く。

黒い涙をどろどろと流しながらペグが睨んだ。

「き、貴様、何を飲ませた……?泉の水ではない、一体何を?」

一つの生き物のように不規則にぐりぐりと動き回ったペグの目が、カリンの腕に巻かれた血に染まった布にぴたりと留まり、ペグは忌々しそうに顔を歪めた。

「血......?そうか適合者(デュナミスト)の血か……!ぐっ」

そう言って、黒いタールのような粘液を吐き出す少女を見て、カリンはいよいよ事態が尋常ではないことを悟った。

(コイツは、何だ? 俺たちは一体何を招き入れた?)

騒いでいた大人たちも、ペグが生臭い粘液をまき散らしながらのたうつのを見て、酔いから醒め、集まってきた。ただならぬ気配に眠りに付いていた人々も覚醒していく。

何より、胸騒ぎを覚え、カリンとペグの動向をずっと注視していたお婆が、声を発する。

「その者を捕えよ! そやつはペグではない!」

だがその総てが遅い。

何が起きているのかも分からず狼狽える住人たちを前に、見えない糸で引っ張られた操り人形のように、関節を不自然な方向に曲げながらペグが立ち上がった。

「皆の者、正気に返れ!」

お婆が指示するも、ペグは年相応の不安そうな表情を貼り付けて、実の父親の首に腕を回し、縋りついた。

「お父さんっ」

「ペグ……?」

「死んで♪」

喉元に顔を埋めたペグが、父親から離れた途端、そこから間欠泉のように血が噴き出し、呆然とする人々を赤く濡らした。

顔中を血まみれにしながらペグは哄笑する。

「さあ、行けお前たち! この巣穴のどこかにヤツを祭る祭殿がッ」

阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、女たちが泣き叫ぶ中、冷静さを取り戻した穴蔵の自警団の隊長である男がペグに肉薄し、ナニカが行動を起こす前に、剣でその首を斬り落とした。

毬玉ほどの大きさのそれはころころとカリンの足元まで転がり、その醜悪な死相を晒していた首が、にたりと笑った。

同時に遺された胴体が樽のように膨れ上がり、破裂する。

「ぎゃあああああ?!」

「ぐっ……。これは!」

辺りにばら撒かれる液体、あまりの臭いに人々はえずき、嘔吐した。

余りの悪臭に痛くなる頭を押さえ蹲ったカリンは気づく。

(そういや、あいつは殺される前に、誰に叫んでいたんだ? ……まさか?!)

「お婆様! モリーとアラネアの遺体は?」

カリンの言わんとすることを悟ったお婆が頷く。

「カリン、一刻を争う。あれらも恐らくコレの擬態した姿じゃろう。奴らを泉に立ち入らせてはならぬ」

「分かった!」

「皆の者! まずは落ち着かねばならん、取り乱す時間はないぞ。穴蔵はバケモノの侵攻を受けておる。体調が優れぬ者は優先して泉へ運べ。その後に続いて泉に避難するのじゃ!!」

 

 お婆の指示を背中で聞きながら、カリンは泉に向かって走り出した。

(ペグ......。いや、今はただ急げ、手遅れになる前に!!)

胸の中で渦巻く悔恨に囚われそうになるも、太ももを殴りつけ、喝を入れた。暗がりの中を必死で走り、遂に泉の入り口が見えてくる。

集まっている人々は動揺しているようだったが、パニックにはなっておらず、内心ほっとしつつ、彼らに駆け寄った。

モリ―達を取り押さえていた衛兵がカリンに気づき、指示を仰いだ。

「カリン殿! モリー達が突然動き出したのです! これは一体?」

「ペグはバケモノだった。恐らくそいつらも仲間だ!」

「ッツ!!」

彼女達の異様さには気づいていたのだろう。

それを聞いた衛兵たちはソレらが行動を起こす前に、持っていた槍で躊躇なく脳天を貫いた。

やはりペグの時と同じように、彼らの胴体が膨れ上がる。

「皆、下がれ! 破裂するぞ、飛び散る液体には触れるな!」

それを聞いた男たちが慌てて死体から離れた瞬間、ぱんぱんに膨れ上がった皮が破れ、中に詰まっていた液体が飛び散る。

弾けた液体の腐った魚を晒したような臭いが辺りを漂い、鼻が曲がりそうな臭いに息が詰まりそうになりながらも、皆が一様にほっとした様子を見せる。

 

暫く現状についてのやり取りを交わし、お婆たちを待っていたカリン達だったが、不意に悲鳴が上がった。

 

「カリン殿、あれを!」

泉に籠っていたのであろう巫女が、地面に付着した粘液の塊を震える指で指し示した。

 

「これは……」

ただの液体と思っていたそれはぶるぶると揺れながら伸縮を繰り返し、蠢いていた。やがて突起の先端が膨れ上がると表面が部分的に剥け、真っ赤な石のようなものが露出した。

スライムのようなそれはのたうち回りながら赤い石が付いた突起をくねくねと動かし、カリンの前でぴたりと止まった。

舌で全身を舐めまわされているような気持ちの悪い感覚に、カリンの背にぞわりと悪寒が走る。

(見られている......! コイツの奥に居るナニカに俺の存在が知られた)

本能が隠れろと叫ぶ。今すぐ逃げろ、絶対に勝てない、ヒトの身では抗えぬカミに狙われてしまっては――。

けれど動けない。蛇に睨まれた蛙の様に、ゆっくりと迫りくる赤い輝きに何も出来ずに呑まれ......。

「カリン殿? お気を確かに。不気味なヤツでしたが、この程度であれば一刺しです」

髭を深く生やした男に肩を揺さぶられ、カリンは正気に返った。見れば彼の持つ槍の先に、先ほどのスライムのようなものが貫かれてぐったりとしていた。

「あ、ああ。ありがとう、もう大丈夫だ」

取り繕うカリンの心情を察してか、男は陽気に笑うとカリンから離れた。

「良かった。御身になにかあれば、長に示しがつきませんからな。......おや、噂をすればやって参りましたな」

見れば確かに、カリンの祖母が、屈強な男に背負われてやって来ていた。

だが、普段から気位が高く、自分の身の回りのことは決して誰かの助けを借りることを良しとしない老婆が、疲弊した様子で男に背負われているのを見て、カリンの胸に黒い靄が巣食う。その後ろに続く人々の不安そうな様子も、拍車をかけた。

「長よ、一体何が?貴女が連れている人々は泉に何の用で?」

泉を警備する衛兵たちも、その異様な空気を察知したのだろう。問い詰めるように長に尋ねた。

男の背から降りた老婆は暫く沈黙し、閉じていた瞼を開けるとため息と共に告げた。

「穴蔵は襲撃を受けた。連れ出せたのはこの一団のみじゃ。我らはこれより泉に籠り、現状の回復を図る」

痛いほどの沈黙が、ほのかに照らされた人々を包んだ。

壁に付けられた松明の火が、怯えるように一斉に揺らめいた。

ーーーーーーーーーーーーー

着の身着のままで泉に籠った人々は黙って、中央の台座で長と巫女が祈祷するのを見守った。少なくとも一夜はここで過ごさねばならない中、直前までご馳走を食べていたのはきっと幸運だったのだろう。少なくとも今は、衣食住が揃っているのだから。けれど考える時間を与えられてしまった人々は生き延びることに必死だった時には思い至らなかった、ついさっきまではあって、たったの数時間で失ってしまったものを思い、嘆いた。

そんな中で、カリンはアズサとクレアの共に、無事に再会できたことを静かに喜び合った。

「お前らが無事でよかった」

「うん。カリンも」

そう言ったアズサは微笑んだが、それは余りに儚いものだった。

「......辛いのか?」

「うん。皆の声が流れ込んでくるの......」

俯いて涙を流すアズサに、しかしカリンは掛ける言葉を見つけられない。

「おいでアズサ。私の心に集中しなさい。そうすれば少しは楽になるから」

横から伸びてきた白い腕がアズサを引っ張り、強引に横たわらせた。

太ももに妹の頭を載せ、彼女の髪を梳くクレアの青く透き通った瞳が責めるようにカリンを向いていた。

やがて聞こえてきた幼馴染の穏やかな寝息に、カリンはほっと息を吐くと、アズサを挟むようにしてクレアの向かい側に座った。

「全く、そんな調子ではまだまだ妹は渡せませんね」

微かに唇を歪め、そんなことを(うそぶ)くクレアに、カリンはがっくりとしながら言う。

「あのなあ、俺は――」

「気づいているでしょう? この子が本当の意味で心を開いているのは、私と貴方だけです。この子は余りにも、優しく、繊細すぎる。私はこの子が気がかりです」

カリンを遮るようにクレアが呟いた言葉が、カリンに重くのしかかる。

幼い頃には好きだと、たった一言で終わらせられた関係は、時間が歪に歪めてしまった。

カリンはまだその絡みあった糸の解き方を知らない。

そんな彼らを、水面は静かに映し、石像は沈黙を貫いたまま見守った。

カリン達だけではなく、総ての人々を。

現実を忘れように眠る者を。

家族と引き離され、独りで寂しそうに座り込む者を。

癒えぬ怪我の痛みに泣く者を。

幸運にも家族と共に逃れることができ、二度と離すまいと抱き合っている者を。

それは人々の心を落ち着かせ、泉に満ちる空気を小康状態に保っていた。

――漸く奇妙な響きの唄が終わり、舞を終えた巫女が下がると、お婆が見守っていた人々を向いた。

「祈祷の結果が出た」

「この騒動の原因はかつて我らの祖先が石の(やしろ)に封じた旧き神の一柱、シアエガ。ペグたちの正体は、彼女らの遺体から剥ぎ取った皮に潜り込んだシアエガの末端じゃった。泉の外、穴蔵内部を徘徊する人々は既に末端に寄生されるか、奴らの吐く瘴気に汚染された後じゃ。彼らを救い、穴蔵を取り戻す方法はただ一つじゃ。石の社に赴き本体であるシアエガを封印し直す」

まじないの結果に人々は呻く。

「封印? 仮にも神をですか」

老いた男が信じられないとばかりに言ったが、それが泉に居た大部分の人間の総意だった。

人の心の奥底にまで巣食う怪物、その名は恐怖。旧き者どもへの恐怖は最早形を持たないだけで確かに存在していた。

だが同じ程に年を食った男を、老婆は滲み出る威厳で以て、鼻で笑った。

「ふん、あのような醜悪なモノを儂は神とは思わなんだ。奴らは所詮、言葉を解さず人々を食い散らかし、星に悪意をばらまくだけの獣どもよ」

堂々とそう言い放って見せた長に、人々が敬意の籠った眼差しを送る。

「ですが、一体誰がその獣の元へ行くというのですか?」

尚も食い下がる老人に、長は鷹揚に頷いた。

「まずは石の社への道をよく知る者が必要じゃ。これは穴蔵周辺の遺跡を管理する役を負っている一族の者から選びたい」

逞しい手が上がった。

「ゴルギスか。ふむ、ならばそなたに任せよう」

鋭い視線を受けて、その男は黙って頭を下げた。

「次に必要なのは乙女の穢れなき血じゃ。それを祭壇に捧げ、シアエガの怒りを鎮めねばならん」

そのおどろおどろしい響きに、泉がざわめく。

「ちょっと待てよ! それは巫女を生贄にするってことか?」

いきりたつカリンを落ち着かせるように、老婆は声を張った。

「そうではない! 必要なのは文字通り血液だけじゃ。それも少量の、の。じゃが血は温かく新鮮でなければならない。つまり、選ばれた者は石の社まで行かねばならん」

巫女達がお互いに視線を交わし、俯いた。気まずい沈黙が降りかけた時、カリンの傍で声が上がった。

「私が行きましょう」

「クレアか。危険な旅になるぞ?」

その覚悟を問う長に、クレアははっきりと頷いた。

「ええ、問題ありません。元より、私たちは危機に晒されているのですから」

余りにも堂々とそう言い切ったクレアの瞳に宿っていたのは、先に待ち受ける困難や恐怖に対する覚悟ではなく、死ぬことになっても止む無しという覚悟。それに危うさを覚えたお婆が口を開こうとしたとき、少女の傍に少年が寄り添った。

「俺も行くよ」

「カリン?!」

驚いて目を見開くクレアに、カリンは不敵に笑う。

「俺は奴らの精神汚染に耐性があるし、魔術だって使える。頼りになるはずだぜ」

「そういう事を言っているのではありません。貴方にはお婆様の傍に居る義務があるでしょう?」

「いや、カリンを連れて行け。そなたの言う通り、シアエガの封印に失敗すればどのみち我らに明日はない。なればこそ、カリンはそなたの傍に居るべきじゃろう。剣を鞘に納めたまま杖の代わりにしても仕方あるまいて」

それはお婆がカリンに初めてはっきりと示した賛辞であり、信頼の証でもあった。

少したじろいだ孫に、にやりと笑って見せた後、老婆は咳ばらいをすると厳かに告げた。

「ゴルギス、クレア、カリンの三人は、夜明けとともに穴蔵を出て、石の社へ向かえ。シアエガが完全に甦る前に、奴を封印し直すのじゃ。それでよいな?」

渋々といった風に頷いたクレアだったが、お婆だけは見抜いていた。彼女の体からこわばりが解け、その表情に適度な緊張が生れたことを。

ーーーーーーーーーーーーー

夜が明けるのを待って、人々に見送られながら、泉から隠し通路を通って外に出たカリン達はゴルギスを先頭に、石の社のある山を登っていた。

まだ薄暗い森には、あちこちに旧きものどもの痕跡があり、彼らのおこぼれに預かろうと狙っている低俗な魔物どもの気配があった。

ゴルギスの持つ松明の灯りを頼りに道なき道を進む途中で、緊張をほぐそうとカリンが初対面であるゴルギスに尋ねた。

「ゴルギスさんはここら辺の遺跡総ての管理をしているんですか?」

そう尋ねたカリンに、寡黙な男は苦笑し、初めて口を開いた。

「大したことはしていない。私に出来るのは精々がこうして道を案内し、遺跡に関する資料を保管する位だ」

「それでも大切なことですよ。前時代からの知識の手がかりを保管するというのは。貴方のおかげで穴蔵を訪れたワタリガラス達はそこから知恵の欠片を見つけ、人々に伝わっていくのですから」

そうい言って微笑むクレアに、ゴルギスは赤くなってその笑顔から顔を背けた。

「他に選択肢が無かっただけさ。魔術の才能などないしな。一度覚えようと魔導書に触れてみたんだが、そのまま意識を失って終わりだった」

そのまま発狂しなくて幸運だったと自嘲したゴルギスは、カリンに探るような目を向けた。

「君は魔術が得意らしいな」

「俺の唯一の長所かな」

そうおどけたカリンを試す様にゴルギスが言う。

「ならば一つここで見せてはくれまいか?」

その時、カリン達を囲むように集まって来ていた子鬼の群れに気づいたカリンは頷き、世界の理を歪めた。

《トーカ》

ゴルギスのもつ松明の火が激しく揺らめくと、蛇が巣穴から這い出す様にその背を伸ばし、カリン達を守るように藪を燃やしながらとぐろを巻いた。

突然隠れていた草むらごと燃やされた子鬼たちは悲鳴をあげて散り散りに逃げていく。

鎌首をもたげて他の獲物を探した炎を大蛇は、主を狙う敵がもういないのを確認して元の火に戻った。

「......驚いたな。これほどの魔術を行使しながら平気なのか?」

「ええ。まあ、少し頭が痛みますし、他にもダメージを受けたかもしれませんけど、俺は副作用が少ないように魔導書の魔術をアレンジしていますから。奴らの概念で世界を把握し、理を弄るから精神が汚染されるんです。一度歪め方さえ理解すれば、後は自分の概念で魔術を行使すればいい」

そう言い切ったカリンに、ゴルギスは隠しきれない嫉妬を言葉の隅に滲ませながら言った。

「成程。君は確固たる自分の概念を持っているのか。羨ましいな。それは強者の生き方だ。私のような人間は、縋るしかないんだよ。より強い存在にね。たとえそれが何者であっても」

突然よそよそしくなったゴルギスの態度に虚を突かれ、黙ったカリンに背を向けてゴルギスは言った。

「......すまない。少し休憩を挟もう。君たちはそこで休んでいてくれ。近くに目印となるものがある筈だから、私はそれを見てこよう」

一応は通れるように配慮されているのだろう。木が伐採された後の切り株にそれぞれ腰かけたカリンとクレアだったが、二人の間に塞がる沈黙は終わらない。

穴蔵を出てからずっとカリンに視線すら合わせないクレアの感情は理解している。それでもカリンは譲るつもりは無かった。

沈黙に耐えかねたのかとうとうクレアがぽつりと零した。

「こうして穴蔵の外をカリンと歩くのも久しぶりですね」

少し泥で汚れた自分の足先を見つめるクレアに、カリンも答える。

「そうだな……。クレアも巫女の鍛錬で忙しそうだったし、俺もお婆様の手伝いがあったから」

「そうですね。もう、子供ではありませんから。......でも、こうしていると昔のことを思い出します」

くすりと笑ったクレアに釣られてカリンは苦笑する。

「俺はあんまり思い出したくないなあ」

「そうですか? ほら、カリンがおねえちゃーんって私の後ろをついて回っていた頃ですよ」

「思い出させなくていいから......」

歯切れ悪くツッコミを入れたカリンに、クレアは目を合わせた。

「……本当は、カリンが付いてきてくれるって言ってくれて嬉しかったんです。皆の手前、ああ言いましたけど。でも、アズサを看ていて欲しかったのも本当で。ああ、やっぱり私は中途半端だなあ」

そうため息を吐いたクレアを抱き寄せ、カリンは囁いた。

「大丈夫だ。お前は俺が守るし、アズサを独りで取り残したりはしない。約束するよ」

驚き硬直していたクレアの体から、ゆっくりと力が抜け、おずおずとカリンの背に腕が回された。

「カリン、今でも思いだすんですよ? 怖がりで、私の後ろに居たカリンが、前に飛び出していって私たちを守ってくれた時のことを。やっぱり私はカリン、貴方のことを—―」

クレアの鼓動を感じながら、その言葉を聞いていたカリンは奇妙な動物の鳴き声を聞き取り、ぱっとクレアから離れ、辺りの様子を窺った。

「カリン?! 何かいるのですか?」

木々の奥、闇の中に目を凝らしカリンは(かぶり)を振った。

「分からない。でも、しわがれたカエルのような声がしたんだ。......それに、誰かに見られている気がする」

クレアがはっと息を呑んだのを背中で聞きながら辺りを警戒しているとゴルギスが戻ってきた。

「待たせたな。あとはもう一本道のようだ。......どうかしたのか?」

妙に黒々と輝くゴルギスの目に違和感を抱きつつも、カリンは答えた。

「辺りをうろつく気配がする。それにカエルの鳴き声みたいな声が聞こえたんだ。旧きものどもを信仰する蛮族がいるのかもしれない」

「......そうか。ならばそいつらに邪魔される前に、一刻も早く儀式を遂げなければな」

「そうですね、急ぎましょう」

「そうだな......」

二人は頷いてゴルギスの後に続いた。彼から微かに漂う生臭い臭いに違和感を覚えながら。

ーーーーーーーーーーーーー

やがて妙に綺麗に手入れされた参道を抜け、落ち葉一つない石段に辿り着いた。

誰かが絶えず出入りしているかのようなその石段を迷いなく進むゴルギスの後に続くカリンの鼻をますます強くなってくる生臭い臭いが刺激する。

「ゴルギス、この臭いは?」

「臭い?......ああ、シアエガの封印が弱まっているからだろう。先を急ぐぞ」

余りの悪臭に苦しむ二人を、とりわけクレアを気にしながらも、せかされたように上へと登っていくゴルギスの後を必死に追い、三人は漸く石の社に至った。

「さあ、着いたぞ」

苔むした古い石段を登り終えたカリン達の視界が開ける。

「ここが、石の神殿……」

その名の通り、そこは、石棺のような祭壇がぽつりと置かれた円形の広間が巨大な石柱で囲われ、床に印が刻まれただけの簡素なものだった。

ひび割れた石畳からうねうねとヒルが湧き出すのを見て、カリンは顔を顰めた。

「気味が悪いな。早く儀式を済ませよう」

「同感だな」

「……ゴルギス。これは一体どういうつもりですか?」

咄嗟に振り向いたカリンの瞳に、目を疑う光景が映し出されていた。

寡黙な青年という顔を捨て、狂気を感じさせる笑みを浮かべたゴルギスが、クレアの白い首筋に錆びたナイフを押し当て、彼女を抱きしめている。

 

「お前、自分が何をやってるのか分かっているのか?!」

 

クレアを人質に取られ、怒鳴ることしか出来ないカリンをゴルギスが嘲笑う。

 

「勿論、分かっているとも。君こそ現実が分かっているのか?」

その後ろからぽたぽたと粘液を垂らしながら、カエル顔をした二足歩行の生物がぞろぞろと階段を上ってやって来ていた。

 

「私は大いなる神、シアエガ様に認められた。あのお方は私の苦悩を理解し、赦して下された。故に私はあのお方の神官となり、かつてシアエガを封印した忌々しい人間どもを滅ぼす!」

 

大きく開けた口の端からだらだらと涎を零しながらそう叫ぶゴルギスを、クレアは鼻で笑った。

 

「愚かな。旧きものが、人間を理解する筈がありません」

 

 感情が抜けたような、人形めいた作り笑顔を浮かべて、ゴルギスがクレアの耳に顔を寄せ、囁いた。

 

「心配しなくていい、愛しいクレア。君もシアエガの巫女となり、共にシアエガに仕えるんだ。二人で幸せになろう」

 

 そう言ってクレアの髪に顔を埋め匂いを嗅ぎ、胸元に手を入れ乱暴に彼女の乳房を揉みしだくゴルギスの眼中に、既にカリンはない。

 

ナイフを白い首筋に押し当てられ、嫌悪と狂った獣の犯されることへの恐怖に歪むクレアの顔を見て、カリンは世界が真っ赤に見えるほどの怒りを覚えた。

 

「ぎぎ、あきゅとぐん。ぼあ」

「える。ごりぎりしええが」

 

 だが、カリン達を遠巻きに眺める魚人たちの耳障りな声が、カリンを正気に戻した。

 

(落ち着け。俺が何とかしないと......。でも、魔術を使うより、アイツがクレアを殺す方が早い。一体どうすれば)

 

 

 

 

クレアを人質に取られ動けないカリンの前で、彼女は動いた。

素早くゴルギスの鳩尾に肘鉄を入れると怯む男の中から抜け出し、距離を取ろうとする。

だがその前に振り下ろされたナイフが鈍く輝き、避けられぬと悟ったクレアの左頬肉を抉り、頬骨に深く突き刺さった。

「ぐっ......。あう」

悲鳴を押し殺しカリンの元まで走り出したクレアが呆然とするカリンの腕を掴み、祭壇に向かう。

「クレア!!」

「づあいじょうぶ。かりん、あとはこのちをささげどうだけでじゅ」

しゃべる度に痛みで顔を歪めながらも、クレアは血でぬらぬらと光る美しい顔にナイフの取っ手を生やしたまま、とめどなく流れる血を掬ってカリンに見せた。

謝罪の言葉を呑み込んでカリンはクレアと共に走る。

だがその背にカエル人間たちの怒声が響き渡った。

怒りに駆られたカリンが呪文を唱える前に、握っていた手から、そっと柔らかな手が引き抜かれた。

凛々しい声が響く。

「ガキテシュフー」

クレアを起点に生じた白銀のオーラが宙を漂い、蜘蛛の巣のようにもがくナガアエ達を絡めとった。

そして自分の頬に突き刺さったナイフの柄に手を掛けると引き抜いた。

噴き出す血が辺りを濡らす中、ぱっくりと空いた傷口を晒しながらクレアは叫んだ。

「いって!」

叫びと共に渡された血で濡れたナイフを握りしめたカリンはその強い眼差しに頷き、振り返らずに走った。

 

 

辿り着いた祭壇の上に置かれた鈍く輝く杯は黒ずんでおり、それが幾度となく乙女の血を呑んできたことが察せられた。

カリンがクレアの血をそこに注ぐと、石の祭壇がぐらぐらと激しく揺れた。

床の下に潜むナニカの怒声が辺りに響く。

カエル人間やゴルギスが許しを請い叫ぶ中、地面に描かれた文様の溝に血が流れ込み、文様を深く刻み直すと、ぴたりとその怨嗟の声は止んだ。

「よしっ! ここから逃げよう、クレア!」

達成感に笑みを浮かべながらそう言ったカリンに対し、クレアはただ静かに首を横に振った。

「ごめんなさい。私はいけないわ」

「なっ?!」

信じられないと首を振るカリンにクレアは尚も告げる。

「……行きなさい」

「何を言ってるんだ、クレア、お前とじゃなきゃ意味がない!」

「この魔術は術者を基点に展開されるの。私はもう、動けない」

「そんな......!」

先ほどまではクレアを守る頼もしい糸だと思っていた思っていた、クレアの手首から伸び、カエル人間達を絡めとるそれが、彼女を捕えて離さない鎖に見えた。

今なら、ペグを失くした彼女の父の思いが分かる。

理屈をこねる理性などどこかに吹き飛んでいた。頭が現実の理解を拒む。ただ認めたくなくて、俯いたまま尚も何かを言い募ろうとしたカリンの名を、クレアが叫んだ。

「カリン……!!」

「……ッツ!」

その声に思わず顔を上げたカリンを、青く澄んだ瞳が射抜いた。それは諦めた者の瞳だ。あらゆる雑念を捨て、たった一つの願いだけを抱く覚悟を決めた者の瞳だった。その目を前に、叫ぼうとしていた言葉は口の中で溶けて消えた。阿呆のように口を呆然と開いたまま、

「アズサを頼んだわ」

とん、と優しく突き飛ばされたその行為の意味は、明白な拒絶で。

不思議な力によって強められたその突きは、カリンを容易に石の社の端へと飛ばした。

バランスを崩したカリンは崖のように切り立った祭壇の端から暗い海へ、真っ逆さまに転がり落ちていった。



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常夜を照らせ、復活の光よ(下)

 


 ざーんと引いては寄せる波が何度もカリンの顔を打つその冷たさで、カリンは意識を取り戻した。

(ここは......! そうだ、行かないと。クレアを助けないとッ!!)

クレアの思いを踏みにじってでも、彼女を諦める訳にはいかなかった。

明るくなってきた周囲の遥か先に見える石の社に目を細めると、カリンは海から這い出て、邪神の待つ神殿へ向かった。

 限界に近い肉体と精神に鞭打ち、再び辿り着いたカリンを出迎えたのはカリンの予想よりもはるかに最悪の景色だった。

自分の目が信じられず、隠れていた柱から身を出してカリンが見たのは、獣どもの狂乱の宴。

 ここで、シアエガの話をしよう。シアエガとは闇の丘に封印されていた旧神の一柱だ。かつてシアエガを封印した人々は清らかな乙女を生贄にし、その清浄なる血を以て、荒ぶる神を讃えその怒りを鎮めていた。

自分たちの神が封じられ嘆き悲しんだカエル人間、ナガアエたちは考えた。

どうすればその封印は解けるのか、そしてこれが彼らが出したその答えだ。

守護者に仕えた由緒ある一族の血を引く優秀な巫女を徹底的に穢し、その尊厳を貶める。美しきもの程、汚された姿はより無残に映える。

巫女としての彼女を飾る総ては剥ぎ取られ、四肢をぶよぶよの触手に縛られたその白い裸体の上に獣のようなニンゲンが覆いかぶさって揺れていた。

それをカエルの鳴き声のようなだみ声ではやし立てながら、ナガアエ達が酒を楽しんでいる。

ぶちりとカリンという人間を縛り、維持する鎖が粉々に千切れたような音がした。

「お前らああああああああああああああアア!!!」

両手の平に渦を巻いて生じた紅蓮に燃える火球を、漸くカリンに気づき立ち竦むナガアエのガマのような口に放り込む。

くぐもった呻き声をあげて崩れ落ちるそれらには見向きもせず、今なお、贄が捧げられる壇に乗せられ犯されているクレアの下に向かう。

だがそれを黙って見過ごすほどナガアエ達は甘くない。仲間を殺されたことに怒りの声を上げて、その巨体に見合わぬ素早さで飛び掛かってきた。

それをちらりと見たカリンの傍で、龍の唸り声のような、重く低い轟きが響いた。それと共にカリンの周囲に風が渦巻き始め、主に害意を持つ敵を見定める。カリンを捕えようとしたナガアエは触れることすら能わず、四肢が不可視の刃に切り裂かれ、吹き飛んだ。

それを見たナガアエ達は慌ててカリンから距離をとり、クレアまでの道が開けた。

視界がざあざあと霞む。

(まだ持ってくれ。今たどり着けるなら、後はどうなったっていい――!)

あと少し、汚れた尻を盛んに振っていたゴルギスが漸くカリンに気づき、怯えたように顔を引き攣らせた。だが、クレアの頭はゴルギスの動きに合わせてかくかくと揺れるがまま、その表情は影になって見えない。

あと少し――。

全身が痙攣し足がよろめく。そこで遂に視界が途切れ、勢いよく地面に倒れた拍子に耳から脳髄が零れた。

世界を己の認識する型にはめ込む為のトリガーもなしに魔術を行使した代償だ。

「わ、あぐ……」

不明瞭な意味を成さない発音が零れる。わっと群がったナガアエ達が、カリンの頭を地面に打ち付け、胴に蹴りを入れた。だが、その痛みさえ正しく認識出来ない。

「殺セ! 俺の弟を焼きやがっタ!」

本来なら理解出来ない筈のナガアエ達の言葉がすんなりと頭に入ってくる。

「待ってクださい。主はその男を生かすことを望んでおられまス」

そして同族である筈のゴルギスの言葉は所々が不明瞭に。

それは、カリンが「魔」に近づいた証か。或いはゴルギスがヒトではなくなっていっているのか。若しくは、そのどちらもか。

「そうか。ならば、この男に見せつけよう。我らノ神が甦るその時を」

見るも無残な、それでいてその顔だけは彼女だと解る程度に原型を留めたクレアの裸体が、シアエガの末端達によって高く高く吊り下げられた。

そこで、ゴルギスが呆気に取られたかのように、ぽかんと口を開けた。

「えっ......?ちょっと」

やがて勢いよく印が刻まれた床に叩きつけられた。

ぐしゃり。

全身が粟立つような音とともにソレは弾けた。床に黒い液体がてらてらとぬめる臓器とともにぶちまけられる。

ずっと前にカリンは一度、草原に晒されていた大蛇の死体を見たことがあった。普段は人間すら喰らう捕食者の亡骸はまだ新しく、開かれた瞼の下で何も映さず虚ろに輝くその瞳だけがそれがただの肉塊であることを示していた。

それを見た時、カリンの心にふと魔が差した。光の当たらぬ蛇の腹がどうなっているのか無性に気になったのだ。

鱗で滑る蛇の腹に爪を立て、その身体をひっくり返し──。

「うっげえええええええ」

──あの時の光景が頭にフィードバックする。裂けた腹から、臓物が零れ、生きている間に喰らった様々な物がどろどろに腐敗し液状化したモノが流れ出す。バケツを勢いよくひっくり返したかのように地面に広がる黒い血の海を夥しい数の蛆虫が泳いでいた。

ただあの時と違ったのは、蛆虫に犯され、その骸を晒していたのは、誰よりも守りたかったヒトで。

「ええええええええええええええええええええ?」

クレアの遺体に駆け寄り、辺りに散らばった臓物をかき集め、肉の山を築きながら、ゴルギスが叫ぶ。

「なんでですかっ?! 封印を解けば、私とクレアは助けて頂けるのでは? 私をシアエガの神官に、クレアを巫女にしてくれるとおっしゃっていたではないですか」

地面にへたり込み、そう叫んでいたゴルギスの周りに集まったナガアエ達が、口をぱくぱくと開きながら出っ張った眼球をぐるぐると回転させ、ゴルギスを見遣り、黙って首を刎ねた。

それをただ見つめることしか出来ないカリンの前で、地面に落ちて弾けたザクロのような穢されたクレアだった残骸から溢れた血が、床に刻まれた溝に流れ込んでいく。

それはカリンとクレアが必死になって刻み直した文様を穢していく。

封印を行う為に必要だったのは穢れなき血だった。それを上塗りするかのように用いられたのは白無垢の成れの果て、手折られ踏みにじられ、穢された百合が流す血。因果は逆転し、封印が解かれる。

床に蜘蛛の巣のような亀裂が走った。精巧な文様が刻まれていた由緒ある床は単なる石の塊となり、吹き飛んだ。暗い穴の空いた底から増殖を繰り返す、不定形の黒い触手が海のように流れ出した。

「く、れぁ......」

黒い波は、一斉に(かしず)いていたナガアエ達の何匹かを連れ去り、邪神に捧げられた巫女を呑みこんでいった。

カリンは好きだった人の開かれた目がぼんやりと暗い空を見ながら溶けてゆくのを、震える手を中途半端に伸ばして見ていることしか出来なかった。彼女の姿が消えたのと同時に、自分の中の大切な何かが消えたのが分かった。これまでカリンを支え、そしてここまで導き、更に先へと進んでいくための力が。

力を失った手がだらりと地面に伸びた。

その腕の先で、湧き出す泉のように、幾つも泡を吐きながら、海が盛り上がっていく。

やがてこんもりと小さな山ほどにまで大きくなった黒い泥の中から浮かび上がった塊が宙に押し上げられ、遥か見上げる位置まで上がるとぱっくりと二つに裂け、中にあった赤い宝石が剥き出しになった。

ごろごろと宝石が回る度に、ぎらぎらと半壊した石の社が照らされる。

黒い膜の中でごろごろと動き回った宝石が、ちょうどカリンの正面に中央の黒い丸が来て止まると、カリンは自分よりもずっと高みに居るナニカが、己の心に触手をはい回らせ、隅々まで探り回っている感覚を覚えた。その感覚には既視感がある。

穴蔵で、スライムのような不定形のバケモノと対峙した時、カリンを知覚した存在。

漸くカリンはその宝石の正体に気づいた。

瞳だ。余りにも、余りにも巨大な。

《#$%’=!#&3346......。うン、これでa,ニンゲンの意c識に分かるように→なったカn?さア、ゆこうかキミの故郷へ》

その頭に直接語り掛けて来るような言葉と共に伸びてきた、石の柱よりも太い触手がカリンの足首に絡まり、ずた袋を持ち上げるように、無造作に宙へ運んだ。

世界が反転し、遠くなる。

何時もとは違う見え方だからだろうか?カリンの瞳に映る世界はどこか色あせて、歪んでいた。

悲鳴や呻き声一つ上げずに黙っているカリンを、自身の一つしかない目玉の前に持ってくると、邪神はその大きな目玉でカリンをねめつけた。

《?&%3?まさカ、コレで終わったと思っているんじャないだろうne?いやnいやnいや、いまィましい巨o人を信奉し、わたしォふうじこめたそのをかえしだ。まだfおわらなfいよ?じごくハこれからだ》

その眼光は、睨まれた者に、頭の裏側を貫くような感覚を与える筈だった。本来なら発狂しても不思議ではないにも関わらず、黙ってぶらぶらと揺れているカリンからつまらなそうに目を背けたシアエガは、森の木々を押し潰し、進む先にいた生き物を呑みこみながら、穴蔵へと向かい始めた。

水が広がるように、シアエガが大地を移動するおかげで、カリンにさほどの衝撃は無かった。なのに胃は激しく震え、何もかも吐き出したくなったから、カリンは口を開き、零れるがまま、遥か先の大地に向けて、昨日の宴で口にした、村の人々と交わした酒やシチューを総て吐いた。

吐しゃ物はあっという間に点となり、体のあちこちに傷を作りながら歩いてきた道のりが所々見える森に消えた。

見る間にシアエガは森を抜け、見覚えのある場所に辿り着いた。

毒々しい色をした草原に向かってぽつりとあるカリンの故郷は、余りにも寂しかった。

まるでアリの巣穴だ。凸凹の大地に、不器用に開けられた穴。そこから出てきた正気を失くしたのであろう村人が、シアエガに気づき叫んだ声は不明瞭で、キーキーと喚く猿の鳴き声のようだった。

《余りにも矮小だ。君もそう思うだろう?》

食事時の会話のような気安さで、カリンにそう言った邪神は立ち竦んでいた村人を一顧だにせず呑みこむと、無造作に下に人々が暮らす大地に触手をドリルのように突き立て、地面を剥ぎ取り、カリン達の村を晒した。

巣の上にある石がひっくり返された時のアリ達のように、わらわらと右往左往する人々がよく見えた。

聞こえてくる悲鳴が遠く聞こえる。

「はははははははははっはははっはははっはははっはっはっハハハハハハハッハハッはははあはっはっははあはっはははははhっはははははあはははははははははははははははははははっはあははっははははははははははははっははははははあはっはっははははははっはははあっはははははっは」

ぞっとするほど人間らしく、それでいて人間のあらゆる感情を剝ぎ取ったような笑い声が大地に響いた。

《見つけタ》

逃げ惑う人々には目もくれず、全身の触手を泉に次々と浸らせる。

泉の浄化の力によって触手は煙を上げて溶けていくが、それに構わず邪神が次々に新たな触手を生やしては鎮める度に、泉はより黒く濁り始め、遂にはどろどろの何かが浮かぶ沼に変わった。

仕上げとばかりに、泉から触手を引き上げ、人々の目の前で中央に鎮座していた石像を押した。

たったそれだけで、ヒトが縋り、祈ってきた「神」は斃れ、沼に呑まれる。

ずぶずぶと沼に沈んでゆく石像を見て、人々が絶望の呻き声を上げた。

《ふむ。詰まらんほどに呆気なかったな。まあいいか。ここで君の役目は終わりだ。果てでご先祖と共に沈むがいい》

カリンを縛っていた触手が糸を引いて離れた。たった一人空に放り出され、一瞬の浮遊感の後に残酷なまでに厳格なこの世の法則に従い、沼に落ちていった。

見る間に、黒く淀みきった泉が迫る。

最期にちらりと見えたのは、カリンに気づいた人々の悲痛な顔。けれどなぜか、同じような表情を浮かべている筈の幼馴染の顔がやけに印象的だった。

(......あれ?俺、誰かに何かを託されていたような......)

だが、カリンがそのことについて考える前に、彼の体はカリンを待ちわびていた沼に呑まれた。

沼の水は溶けた飴のように粘性が高く、反射的にもがくカリンに絡みつき、彼を執拗に水底に誘った。目から、鼻から、口から、毛穴から、尿道口から、肛門から、体の穴という穴から入り込んでくる粘液がカリンという人間の存在を辱めた。

 

邪神の声がカリンの脳を焼き、シアエガに喰われた人々の声なき怨嗟は、カリンの全身を犯した。

カリンという存在がばらばらに、ぐちゃぐちゃに壊されていく。

 

 (......あ――)

 

やがてカリンの魂が、個を失い、邪神の外法に囚われかけた時、邪神の手から、地の底から噴出した奔流がカリンを浚った。

 

 

 

 

 

「ここは……?」

気が付けば、カリンは霧の立ち込める密林の中にいた。といっても、そこはカリンの良く知る、魑魅魍魎どもがじっと息を潜めているような不気味な気配の漂う空間ではなく、この世ではないような神秘的な静寂を保つ場所だった。

無性に心細くなったカリンは、ふと何かに呼ばれた気がして森の奥に歩き始めた。

自分が真裸であることに途中で気づいたが、やがてそれも気にならなくなった。

地面を踏むたびに、そこを覆う落ち葉はふわふわとカリンの足を柔らかく押し返したから、靴は必要なかったし、カリンを見ている者は居なかったから、着飾る必要なんてなかった。

身を守る武器は自分にはもう必要ないと、カリンは既に悟っていた。

やがて視界の先で木々が無くなっているのに気付いたカリンは歩を進める速度を上げて森を抜け、その先に広がった景色を見てため息をついた。

「きれいだ......」

シアエガと同じくらい大きな建造物が見える。石で出来た幾つものパーツが組み合わさってできているように見えるが、誰が造ったものなのだろう? 今の時代の建築物よりははるかに精巧であるとは言え、鉄などの金属で出来ていることが多い前時代の遺跡にしては異質だった。その建物もカリンの目を十分に惹くものだったが、カリンを何よりも惹きつけたのは、その遥か先でゆっくりと地平線の彼方に沈んでいく、熟した柿のような色をした輝く大きな半円だった。

それが放つなにかが、カリンを照らし、冷えた体を温めた。

「温かい......」

なぜかとめどなく流れる涙をそのままに、じっと沈みゆく円を見ているとどこからか声が聞こえてきた。

『あれの名は太陽』

突然聞こえてきた感傷的な色を帯びた声に、カリンは飛び上がって驚いた。

「誰だ?」

『今の私に相応しい名は無い。だが君が分かるように言えば、私は君と共に沼に沈んだ石像に宿っていた意識だ』

「それって......!」

かっとカリンの頭に血が上った。

「じゃあ、お前は全部見ていたのか! 毎日欠かさず巫女達が祈りを捧げている時も、誰かが死んで家族が泣きながら祈った時も、昨日皆が眠れぬ夜を過ごした時も、ついさっき村がシアエガに襲われた時も全部!!」

『......ああ』

怒りに我を忘れそうになるカリンに、あくまで冷静に返事をする声の主に、カリンはますます怒りが増した。

「じゃあなんで助けてくれなかったんだよ!! お前は神様なんだろう?! みんなの守り神じゃないのかよ?! なんで、なんでクレアを助けてくれなかったんだよ!!」

感情が昂ったカリンが、先ほど流した涙とは別の涙を零す。

『済まない』

ただそれだけを言って黙った声に返す言葉が分からず、カリンはただ泣き続けた。

(皆が石像に祈ってるのを馬鹿にしていたけど、結局俺も同じだったな......)

やがて涙が止まるとそう自嘲したカリンは声の主に、ずっと聞きたかったことを聞くことにした。

「なあ、ここは何処なんだ?死後の世界とか?」

『いや、君の肉体は今もまだ、沼の底へ沈んでいっている。シアエガの吐く粘液に君の心が壊される前に、私が自分の意識の中に君の精神を取り込んだのだ』

「え、でも俺はもう何時間もここに居ると思うけど」

『君が体感する時間は私の意識の中でのものだ。例えば会話に言葉が必要ないとすれば、人との会話はずっと短く終わらせられるだろう? 君は私の心の中を目まぐるしく流れるイメージを直接受け取っているんだよ』

「それってつまり、まだ穴蔵は襲われているのか?!」

(そうだが、私たちにはどうすることも出来ない。せめて君だけでも助けてやりたかったが……。元より抜け殻であるこの身が、光届かぬ沼の底に沈んだ以上、最早それも叶わぬ)

「そんな......」

俯くカリンを照らすものがあった。ふと顔を上げた先に見えるのはあの半円の輝き。

(タイヨウ。何故だろう、俺はこの光を知っている気がする)

ぼんやりとカリンがそう思った時、辺りの景色が歪んだ。

『これは心象風景の逆流現象(オーバーフロー)......』

空間が捻じれながら、白く染まってゆく。辺りにあったものは総て片づけられ、白い砂が一面に散りばめられただけになった。

 

どこか遠いところで、自分の名前が呼ばれた気がした。

(カリン......)

「カリン……。カリン......」

 

 

その声の方を見ると、幼子が砂を弄って遊んでいる。それを微笑んで見守っていた男が、ふと子供の名を呼んだ。

 

『自分の名前が嫌いか、カリン?』

男がそう尋ねると、幼子は拗ねたようにぷいとそっぽを向いた。

『嫌いだよ、女っぽいし』

気がつけばカリンは苦笑した父親に頭を撫でられていた。子ども扱いされて怒るカリンをあやしながら白い砂で覆われた床に、父親が指で何かを書いた。

――火輪

 

 

『これ何?』

白い砂に刻まれた奇妙な模様をしげしげと見つめるカリンに男が言う。

『これはな、ずっと昔に人々が使っていた文字の一つ、漢字という文字なんだ。ホノオを表す【火】とワッカを表す【輪】。この二つを組み合わせて火輪(カリン)。それがお前の名前だ。私たちがお前に託した想いだ』

 

 

見慣れない小難しい文字を、何故だかカリンは一目で気に入った。とってもかっこいいとそう思ったのだ。

 

目を輝かせる息子を見て、男は少しだけ口角を上げると話を続けた。

 

『今は厚く消えない天蓋に一面覆われた空だが、かつては青い空の向こうには真っ赤に燃える星が輝いていた。それが太陽、又の名を火輪』

――カリン………。

口の中で、丸くつるつるとした小石を転がすように、その言葉を味わった。そして、空を見上げる。そこは見渡す限り、雲が覆っていて、ホシなんてどこにもなかったけれど、彼はその穢れを知らない瞳で、厚い雲の向こうで輝く光を幻視した。

『そんな人間になりなさい。この暗い世界で、自らが輝き、周りの人々を照らす。そんな人間に――』

そこで景色は途切れ、世界は再び歪む。

暗転、そして目を開けば、そこはもう、白く穏やかな世界などではなく、暗く深い沼の底で。これがきっと今まさに石像が見ている風景なのだと悟った。

(カリン......)

やがてカリンはその景色に向かって歩き出す。一歩歩くごとに、体は水を被ったように冷えていく。頭はがんがんと痛み始め、視界は霞んでいく。

それでも歩みを止めようとはしないカリンに後ろから声が掛けられた。

『どこへ行く?君の肉体は既に沼の底だ。戻った所で彼らの体液の混じった水に溺れ、君の精神は崩壊するだろう。ならばせめて、肉体が朽ちるまで私と共に居た方がいい』

「どうせ死ぬなら穏やかな方をってか」

『そうだ』

「それでも、俺は行くよ。忘れてた。まだやり残したことがあったんだ。まだ体は動く。心は燃えている。なのに今何もしなかったらそれは死んでいるのと同じだから。俺は生きる。誰かに願いを託された、この命が果てるまで」

そう言ってぎゅっと腕に巻かれた布を握りしめたカリンの瞳にはもう、迷いなど無かった。

(あの昏い世界へどうやって戻るつもりだ。道は険しく、己の足先すら判然としないのに)

尚も問い掛ける声に、カリンは笑って答えた。

「この世界が暗くて、照らすものが何もないなら、俺が道を照らす光になるよ。たぶん、それだけでいいんだ」

そして目を開けたカリンは余りの苦しさに肺に残っていた空気を総て吐きだしてしまった。沼の水は、まるで悪意を持つ生き物であるかのように、カリンの体に纏わりつき、深淵へ運ぼうとする。それでも必死に手を伸ばし、限界まで伸ばし、もがき、足掻く。

(届け! 守れるかは分からない。愛した人さえ守れずに、目の前で死なせてしまった。自分が憎い、アイツが憎い、世界が憎い。悲しくて、苦しくて堪らない。でも今は、そんなことよりも、何よりも! アズサ! ただ君だけを守りたいッ)

求めるように開いた手のひらは、何も掴めず。けれど、ほんの微かに光が宿った。

(――ああ。永い間、忘れていたな。光という狭い概念に縛られすぎていた。この身はとうに石であったというのに)

そこが限界だったのか、ゆったりと沈み始めたカリンを、小さな光に誘われるように底から浮かび上がってきた大きなナニカが呑みこみ、泡立ち粘る水面を突き抜け天に昇った。

 

 

 

 

 

大地を覆う黒い海のような触手がある1点を中心に消えていく。

シアエガの気味の悪い嗤い声も、泣き叫ぶ人々の悲鳴も、黒い泉を割り、天に昇る(いかずち)の轟きが搔き消した。

 

「何だト......」

 

巣を壊されたアリのようにわらわらと逃げ惑っていた人々は、突然の轟音に思わず足を止め、黒い水面を突き抜けてゆったりと昇っていく球を見上げた。

《馬鹿ナ......》

シアエガすら叫ぶことを忘れ佇む中、空に浮かんでいた球は上下に伸び、四肢を生やした。

変化が終わったそれがずんと大地を揺らしながら降り立ち、もうもうと立ち上る砂煙が晴れた時、人々は息を呑んだ。

何故なら、砂のカーテンが開かれたその先で、ゆっくりと立ち上がったその姿は、彼らがよく知るものだったから。

 

ずっと目にしていた。大切な誰かを失った時や大切なものを失った時、或いは日々の鬱屈とした生活の中で心の底に溜まった澱を吐き出す代わりに祈る時に。

 

ずっと、ずっと救ってほしいと祈っていたのだ。

 

だからその姿を見間違える筈が無かった。

 

以前と違ったのは、そのガラスの様に透明な瞳と、胸に飾られた宝石だった。

 

 

 

人々に背を向け、遥か高みを見上げた石像の前で、山のように高く、大きく群がった触手たちが嗤う。

《......フフフフフフ。まさか底から甦ってくるとワ。久しぶりだナ、光の巨人。だが貴様、随分とみすぼらしくなったジャないか。それではまるで石のゴーレムだぞ》

その言葉と共に殺到した触手が津波のようにうねりながら石像を浚い、人々の前で、彼らが狩りをする時に訪れていた緑の山に叩きつけた。

 

《hhhhhhっはああああああああ!!!!! 貴様に味合わされた屈辱! この300年の間に、一瞬たりとも忘れたことは無かったぞ! そら踊れ、私を楽しませて見せろ》

シアエガの哄笑に大地が揺れる。空気がびりびりと震え、人々の耳からは血が吹き出た。

 

耳を抑えて蹲る人々の前で、砂に塗れた石像がふらふらと立ち上がった。その姿のなんと頼りないことか。確かにヒトよりはずっと大きい。大人10人ほどの高さはあるだろう。

だがシアエガを見よ! 

首が痛くなるほど見上げてもなお高く、頂きで一つだけ鎮座する赤い瞳が小さくひ弱な生き物たちを睥睨していた。そして内側から更に多くの触手が生まれ、その巨体をますます盛り上げていく。その姿はまるで、こんこんと怨念を吐き出し続ける黒い泉のようだった。

 

それと比べれば、神だと信じ、崇め続けた存在は余りに小さかった。

 

《見ろニンゲンども。これがお前たちの「神」だ。この哀れな姿を見ても尚、お前たちは儚い■■■に縋るのか?》

 

誰も、何も言えなかった。それこそが答えだった。

 

「......みんな駄目だよ。カリンとお姉ちゃんが命がけで戦ったのに、諦めるなんて」

 

震える声が、息が詰まりそうな沈黙を破った。

 

《ほう?》

 

邪神の瞳が少女を射抜いた。たったそれだけでアズサは倒れ嘔吐した。

 

《......お前、いい匂いがするな。その血、その純潔、その魂。我に捧げよ》

 

凍り付いていた人々の間で動揺が走る。

 

《......もちろん、ただでとは言わない。代わりに、我が加護を授けよう。私の眷属となり、お前たちは力を手にすのだ。もう、暗闇に怯えることはなくなる。欲望を抑え、誰かの顔色を窺う必要もない》

 

人々が応えるべき答えなど決まっていた。だから、言わねばならない。だから、誰か言ってくれ。

 

言わなければ、「人間の誇り」の為に、地を這い、泥を啜ってきたこれまでの日々には、一体何の意味があったのだろう。それを抱いて散っていった者たちの無念は、何処に流せばよいのだろう。

 

けれど、誰もが皆、じっと俯くばかりだった。ただ時が過ぎ去るのを待つばかり、自分から何かを為すことは無く。

 

その時、ずずと地面が揺れた。

 

ウジの様に(たか)る触手に絡まれながら、それでも地面を這いながら進む石像の音だった。

 

 

氷漬けになったかのように動かない人々から目を外し、シアエガは小馬鹿にするように赤い目を細めた。

 

やがてふらふらと立ち上がった石像を睥睨し、シアエガが言った。

《どこまでも哀れで、愚かな存在よ。今まで通り、期を待っていればまだ勝機があったものを。そんなにニンゲンが大事か?余りにも矮小で、愚かな生き物。ならば、そら守って見せろ?》

今まで石像にのみ的を絞っていた触手の一団は、シアエガの要求によって差し出されようとしていたアズサの方を向いた。

彼女の泣き腫らした顔がはっきりと見えた。

助け出すことは間に合わない――――。

ずんと大地が揺れた。

 

ーーーーーーーーーーーーー

(あれ?ここは……?)

気が付けば、私は暗くて、頭がくらくらする生臭い空間にいた。

(なんで、私、こんな所に…………ッ!!)

手探りで様子を探っているうちに記憶が戻ってくる。

(そうだった。お姉ちゃんが生贄にされて、シアエガが蘇って、村を襲ったんだ。巨人像が沈んで、カリンが私の目の前で汚れた泉に落ちていって。私、なんにもできなくて)

ずずと重いナニカが這う音に怯えながらも、アズサは現状を理解していく。

(それで邪神が私を見て、『いいにおいがする』って。私を差し出せば他のみんなは見逃してくれるって。......だったら仕方ないよ。皆死ぬのはこわいもん。でも私にはもう、お姉ちゃんもカリンもいないから)

辺りは真っ暗で、群れた魚が岸辺に打ち上げられ、何日も日に晒され続けたような、生臭い臭いがしていた。落ち着こうと呼吸を整えてみても、息をする程に吐き気がこみ上げる。

(それでも、やっぱり怖くて何度もカリンの名前を呼んだ。何時かみたいに、助けてくれないかなって......。そしたら、泉からあの石像が飛び出してきて。助かるかもって思った自分が少し浅ましく感じた。でも、結局は助からなかったけど)

そこでふと疑問に思う。

(あれ?でもなんでまだ生きているんだろう?)

これが現実であることは不気味な音や、頭がおかしくなりそうな臭い、そして体の痛みが証明していた。

けれど息をするたびに、恐怖や悲しみといった負の感情が作る渦巻きがどんどん大きくなり、私という意識を飲み込んで、暗く暗い海の底に引き摺り込んでいってしまいそうだった。

とうとう頭を抱え、目を覆う。どうせ、こんな暗闇では何も見えないと分かっていたけれど。それでも何も見たくなくて、自分から世界を隠した。

ピコン......。

そんな私の耳に、不思議な音が聞こえてきた。

ピコン、ピコン、ピコン……。

――また何か、怖いことが起きるのだろうか?

 

もう、嫌だった。苦しいことも、悲しいことも。生きることがこんなにも苦しいと分かっていたなら、私はきっと生まれてはこなかった。いつ終わるとも知れない狂気に塗れた世界で足掻くことがヒトの定めならば、人間になんか生れたくなかった。

 

殺すなら、さっさと殺してくれ。

 

ピコン......。ピコン......。ピコン......。

 

投げやりな気持ちで俯いたままの私を終わらせるものは無く、ただ鳴り続ける無機質な音が、何かを伝えようとしている気がした。

 

現実を見るのは怖い。もし振り向いたその先にあるのが、恐ろしいナニカだったら?

 

でも変わらず鳴り続ける音は、どこか必死そうで。

 

その頑張りに勇気づけられて、そっと顔を上げた。

 

「......あ」

 

 

黒い天蓋を背中で支えた石像が私をじっと見つめていた。石像の胸の宝石が点滅する度に発する赤い光が、くっきりと石像の姿を顕わにする。

 

石像の体に圧し掛かっている天蓋の正体は、夥しい量の触手だった。触手が石像の体をはいずり回り、体を縛り上げていく。

 

触手が這った場所は黒く穢され、締め付けられた拍子に、石像はひび割れた。

 

《......!!》

 

石の顔に変化は無かったけれど、石像の声なき悲鳴が聞こえた気がした。

 

首を他の触手よりも一際大きく太い触手で締め上げられ、吐き出される黒い粘液を浴びた時、とうとう石像は一瞬頭をのけぞらせ、項垂れた。

 

がくんと石像の膝が折れた。

 

「あ――」

 

終わる。そう思った私の前で、崩れ落ちかけた石の体が静止する。

 

いや、小刻みに震えていた。重みに耐える石像の足がぶるぶると震えていた。

 

その振動は地面にまで伝わり、しゃがんでいた私をぐらぐらと揺さぶった。

 

揺さぶられながら思う。

 

なんでこの石像はこんなに必死なんだろう。

 

きっと苦しい筈だ。巨人が全身に絡まる触手を振りほどこうともがく姿は、蜘蛛の糸に絡めとられた哀れな虫のようだった。

 

さっきからなっている不思議な音は、きっと声を上げられぬ石像の悲鳴なのだ。

 

それなのにどうして、石像は耐えているのだろう。そうぼんやりと考えていた私の前で、俯いていた石像の頭が持ち上がった。

 

透明な瞳が私を見た。

 

石像は邪神に犯されながら、私を案じていた。

 

「あっ――」

 

――私を守るためだ。今もこうして、触手が与える苦しみから逃れようとしないのは、自分が倒れてしまえば、私も死んでしまうから。

 

奇怪な音はそんな彼の胸元でずっと鳴り続けていた。

それは本当に苦しみに悶える悲鳴なのだろうか?

 

捕食者に牙を突き立てられた獲物の断末魔だろうか?

 

違う、そうじゃない。この音が止まないのは、彼がまだ足掻いているからだ。

この音は生命の音だ。心臓が足掻いている音。生きたいと、叫ぶ音。ピンチの時でも諦めずに踏ん張っている証。

その姿をどこかで見た気がした。ずっと見ていた彼の姿と石像がぴたりと一致した。

「カリン……?」

ーーーーーーーーーーーーー

(私は、誰だ?)

目の前に居座る奇怪な生物が操る触手に打ちのめされながら考える。

(私は、何のために存在する?)

大地を転がり、それでも何かに突き動かされるように立ち上がる。

(何故、私はこの怪物に挑んでいるのだろう?)

目の前で何かを喚く生物に興味は無かった。いや、持てなかったと言った方が正しいか。

何もかもが分からないのだから、理解のしようが無い。

それでも、目の前で殺されそうになっている少女を見過ごすことは出来なかった。

彼女に覆いかぶさるようにして、黒い触手の海を背で受けた。

圧し掛かってくるそれらの余りの重みに屈しそうになったが、眼下で震える少女を見て、踏ん張る。戦う理由など、どうでもよくなっていた。

 

それでも限界は訪れ、胸の宝石が赤く輝きながら、何やら奇怪な音を出し始めた。

 

《ふふふ。もう限界か?》

 

邪神の嘲るような声が、頭に直接響いてきた。その声を無視し、体から抜け行く力を振り絞った。

やがて恐る恐るこちらを見上げた少女と目が合う。少女の瞳が丸く見開かれ、そして少女は言った。

「カリン......?」

『......!!』

――そうだ。俺の名はカリン、父さんたちから託された名前。君はアズサ。俺が立ち上がる理由。

『君は、俺が守る』

濁ったガラスのような瞳が青い輝きを灯した。

石の体の亀裂が広がり、修復不可能なほど石像の体が深く抉れる。だが恐れることなくぐんぐんと巨大化し、やがてシアエガよりも頭一つ大きくなった石像が内側から輝いた。

ばらばらと石が剥がれ落ち、巨人の滑らかな肌が明らかになる。

だが変化はそれのみで終わらない。胸に青く輝く宝石、カラータイマーを基点に発された紫と赤の輝きが時に混ざり、時に別れ、うねりながら全身を走り、巨人の姿に彩りを加えていく。

黒い繭を散り散りに引き裂き溢れた余りの輝きに、怯えながら見守っていた人々が目を閉じ、そして再び目を開いた時、黒い繭が覆われていた場所に堂々と立っていたのは鮮やかな色をした巨人だった。

人々がこれまで見てきた、知性を持たぬ欲望のままに生きる獣とは違うことを、巨人から溢れ、漂う輝きの粒が証明していた。

その一粒一粒を、先ほどまで泣いていた幼子が見て笑う。

「わあ。炎でいっぱい!」

「いや、炎ではない」

「えー?だってくらやみと全然違うよ?お祭りの時の村よりもっともっと明るいよ?」

幼子を抱きしめていた老婆が共に巨人を見上げながら語る。

 

「......そうじゃったのう。もう二度とこの言葉が使われることはないと思っておった。これはのう光と、そう呼んでおったのじゃ」

 

「ヒカリ......じゃああの巨人は」

《光の巨人ッ......!!》

吹き飛ばされた触手を根元から再生しながら、シアエガが中央の目玉に、びきびきと赤い血管を幾つも浮かび上がらせ、光の巨人に尋ねる。

《一体どうやって復活を果たせた?光を失い、ただの石の塊だったお前に、そんなエネルギーはどこにも残っていなかった筈だッ?!》

怒り狂う邪神を静かに睨み据え、巨人は伝えた。

『お前は人間の力を軽んじすぎている』

《あのデュナミストか! だがやはりおかしい。あれはその輝きを失っていた筈ッ》

(それでも、立ち上がると決めた。愛した人を守れず、目の前で殺されて、死にたくなっても。あの子の為に。あの子に、泣いていて欲しくなかったから)

『強大な闇に立ち向かえる力など無くても、たった一つの愛が、立ち向かう理由になる。立ち上がる力になる。お前たちになく、私が忘れていた力。それがお前が下らぬと蔑んだ人の持つ力だ』

押し黙るシアエガを前に、気づけば周りを光の膜で包まれていたカリンが、傍に居る気配に尋ねる。

 

 

 

(ところで俺は、一体どうなっている? なんで俺がシアエガを見下ろしているんだ?)

『それは君が私と一つになったからだ。君は今私の目を通じて世界を見、私の足で大地に立っている』

信仰していた神と一つになったことに、目を白黒させるカリンだったが、巨人の意識が鋭い声を上げた。

『来るぞ!!』

(ぐっ......!!)

鞭のようにしなる触手の束に打ち据えられ、巨人は膝をついた。

(なんでだ?体が異様に重い......)

『元々、私は地上でそれほど長くは活動出来なかった。その上、星が食い荒らされ、天からの光も届かない今、巨人として戦うことが出来るのは最高で3分だ』

何も知らされていなかったカリンはその事実に呻く。

慣れない体を必死に動かし、向かってくる触手の何本かを引きちぎった所で、全体の数からすれば焼け石に水だった。

(やっと、誰かを守れる力を手に入れることが出来たのに、このままじゃ......)

必死に立ち上がりながらもそう呻くカリンに、黙っていた石像の意志が声を掛けた。

『やはり……。この世界で私の力を発揮することは難しいようだ』

「それでも、頼む!助けたい人が、目の前にいる。諦めたくないんだッ」

『いいのか?私が死ねば、同化している君も運命を共にすることになるんだぞ?』

「そんな未来のことはどうでもいい!ただ今は、あの子だけは守りたい!」

『......そうか。そんな君なら、託すことが出来る』

試す様にカリンに問い掛けていた石像の意志は最後に安心したようにそう言った。

カリンを包んでいた壁から泡がぽこぽこと湧き出し、光となって消えていく。

「これは、どうなっている?」

『心配するな、君に害はない。光の集合体としての私を分解し、純粋なエネルギーに変えているだけだ』

「それって......」

カリンを遮り、「光」は願った。

 

『君の守りたかったものを守ってやれなくて済まない。君に過酷な運命を背負わせてしまうことを申し訳なく思う。それでも君の今日は必ず守る。だから、恥を承知で頼もう。どうかこの光を受け取ってはくれまいか』

皆まで聞く必要もなかった。コレは逝こうとしている。悠久の時を過ごし、恐らくはこの世界の有り様まで深く理解している大いなる時代の、英知の残り火は。聞きたいことは山ほどあった。何故古代の民は滅んだのか。この力の意味。これからどうすればいいのか。

だが、その役目を果たし、解放されようとしている先達に、その終わりに掛ける言葉は、そんなものではないと解っていたから。

「ああ。だったら俺達の明日は俺が守る。貴方がこれまで受け継いできた光、確かに受け取った」

「......ありがとう、カリン。私の最後の友よ」

カリンを包んでいた、深い森のような意識が、その存在が光となって解けてゆく。

そっと目を閉じ、その光を受け入れる。カリンを覆い、守っていた膜は剥がれ、剥き出しになったカリンの意識が光の泡に呑まれていく。

(一時は憎んですらいた石像から礼を言われ、あまつさえ友とまで呼ばれるなんてな)

奇妙な感じだったが、それでもカリンは笑った。ほんの少しとはいえ、共に戦った友の魂が安らげるように祈りを込めて。そして、これからの決意を胸に。

シアエガから伸びた無数の触手が巨人に迫る。だが彼はただ前に歩を進めるだけだった。黒い海に呑まれるように、姿が消えた。

《ハハハ、あっははははははは......は?》

 

夥しい量の触手で巨人を呑みこみ、己のものにしようとしたシアエガは、その光景に呆気にとられた。

 

黒い海が割れる。その威光に畏れたように、黒い波は道を譲り、そして塵へと還っていく。

 

海の真ん中から堂々と姿を見せた巨人の体は燦然と光り輝いていた。

再び姿を現した光の巨人に驚き、怯んだシアエガをひたと睨み据えて、再び巨人が歩き出した。

その一歩で山を越え、大地をずんと揺らし、堂々と歩く様は正しく神だった。

怒りを戦意に変え、再び触手を駆り立て、今度は巨人の四肢を縛って動きを止めようとしたシアエガだったが、巨人に触れた途端、触手は溶けて消えていく。

旧きものの中では比較的下位に位置する復讐に狂う神とはいえ、触れた先から浄化させるとは尋常ではない。しかも光の消えた世界で。

驚愕の叫びを上げるシアエガ。

《バカな………?!貴様にそれ程の力は無かった筈》

【そうだ。俺に大した力はない。これは託された力だ。これが、これまで紡がれてきた光なんだ】

触手に巻き付かれたまま、巨人は歩を進める。呆気なく触手はボロボロと崩れ落ちた。

ぞくりと、シアエガが震えた。今まで一方的に、人々を狩り、喰らい続けていた強者が初めて、恐怖を知った。

自身が畏れを巨人に抱いたことを否定するために、シアエガは最後の手段に出る。

触手の根の中心にあるシアエガの目が大きく膨らんだ。びきびきと血管が赤く浮き出る。

《この世界は最早、我らの物だ!消えろ光の巨人!》

伸ばしていた触手の総てを地面に突き刺し、自身の巨体を支えると、体に流れる血を圧縮し、瞳から勢いよく吐き出した。

それを見て、巨人もまた構えた。

真っ直ぐ前に出した両手をクロスさせ、開く。

【集え、光よ。私は常夜を照らす者】

霧のように淡い光が巨人の胸の中心で輝く青い石に集まった。

L字に構えた右手から光が無数の矢のように放たれ、シアエガの出した血をシガエアごと呑み込み、貫いていく。

【愚かな……。闇の眷属は既に蔓延っているというのに。貴様を待っているのは果て無き闇よ。終わらぬ苦しみの中で自らを呪い続るがいい......】

後に残されたのは、静かに暗い空を見上げる巨人と、彼を呆然と見上げる人々だけだった。

やがて人々が我に帰り、こみ上げる畏怖の念に駆られ、膝を折ろうとした時、静かに巨人が彼らを見下ろした。

乳白色の、静かな瞳が彼らを見詰めた。

その時、人々の心に残っていたあらゆる負の感情は癒され、深い安らぎを覚えた。

涙を流す人々にゆっくりと頷くと、巨人は大地を蹴り、空に消えていった。

それを見送ってから巫女の一人が長に尋ねた。

「御婆様、あの巨人もまた、古き者どもの1柱なのでしょうか……?」

空を仰いでいた老婆はほう、とため息を吐くと尋ね返した。

「お主はどう思った?」

「偉大でした。我々の矮小さが恥ずかしくなるほどに。まさしく神、けれど、古き者には無い深い優しさがあるようにも……」

「......遥かなる昔、人類が生まれて間もない頃。地球に飛来したバケモノから人々を守った巨人が居たという。あの巨人は、その巨人の生まれ変わりなのかもしれん」

大いなる守護者に出会った人々は次々に大破した穴蔵を飛び出し、巨人が去っていった方角を見てはしゃいでいた。

そんな彼らを横目に、カリンはそっと穴蔵の門をくぐった。

ふと胸に圧迫感を覚え、胸元を探ると冷たい感触に触れた。掴んだ手のひらをを広げたそこにあったのは、カリンの手よりも少しだけ大きいステッキのような道具。

それが何かは分からなかったが、何を意味するのかは分かっていた。

(ああ。分かっている、俺は確かに受け継いだ。これから俺は、シアエガのような化け物達と戦っていかなければならないんだ。でも今は、少しでいいから眠りたい......)

自分が人々を守ってやったんだという誇りなど無かった。

ましてや今まで自分たちを虐げてきた邪神を殺した達成感など。

失くしたものは余りにも大きく、背負わなければならないものは余りに重い。

ふらつく足で踏みだした一歩が限界だったのだろう。そのまま地面に倒れていくカリン。

その体を柔らかな感触が覆った。

「おかえり、カリン......」

ただ、カリンの頬を濡らす誰かの暖かな涙が。

衣服越しに伝わる確かな胸の鼓動が。

鼻が埋まった収穫前の小麦畑のような色の柔らかな髪の匂いが。

カリンが確かに守れたものを教えていた。

「......ああ、ただいまアズサ」

寒々としていた若者の心に新たな火を宿して。

ーーーーーーーーーーーーー

【適合者《デュナミスト》の発現を感知】

黒いツタに覆われた天まで届く塔の中で、その光を見ていた少女が持っていたぼろぼろの書物のページが開かれた。

『獣が跋扈し、世に嘆きが満ちる時、空より舞い降りし光、巨人となりて、常夜を照らす』

小鳥が囁くように、少女はそこにある一節を歌う。

「永い時間を待ちました。さあ、世界を取り戻す物語を始めましょう」

壁一面に張られたガラスに映る、ヒトが様々な獣に蹂躙される悲劇を背に、少女は笑う。

「どうか私の元へおいで下さいませ。光の巨人、或いは――」

とある宇宙の中心で、白痴の創造主に代わり、世界を治めていた形のない肉塊は、かの巨人の復活を察知し、嗤った。

───TIGA……。

 




Tips

 ワタリガラス:前時代の遺跡を巡り旅する者たちのこと。無知な人々に過去の英知のかけらを授けるが、時に盗賊まがいの盗掘や、遺跡の破壊を行うため、嫌う民族も多い。

 シアエガ:かつてティガに敗れ、彼を信仰する人々の手で封印された旧き神々の一柱。封印されている間、その意識は明瞭であり、彼を戒める床の下で、延々と呪詛を叫び続けていた。この神が封印されている間も、その末端や、ナガアエ達が封印を解くべく暗躍していた。

 ナガアエ:シアエガを信仰する悪しき知性を授けられた邪悪なカエルの一族。シアエガの加護が失われたことにより、彼らは単なる獣に戻りゆくことに怯えながら、森を抜け嘆きの平原へと身を隠した。


 次回予告

 ティガの復活の光は星を駆け巡り、旧き者どもの影に怯える人々を照らした。ティガの伝説を求めて穴蔵に絶えず訪れるワタリガラスに、穴蔵は活気を取り戻していく。
 そんな中、そこへ訪れた巡礼者の一団はティガを紛い物だと叫び、彼らの信仰する神に仕えるよう村長に迫る――。
 次回、「傲慢なる救済」


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夜明けは未だ薄明りに過ぎず

――その日、世界は「光」を思い出した。

復活した巨人が放った光は遍く大地を駆け巡り、海を越え、空を突き抜け、あらゆるものを照らした。どんな者にも分け隔てなく降り注いだ光に、或る者は跪いて涙を流し、また或る者は忌々しそうに眼を細めた。

卑しい化け物たちは慌てて巣穴に逃げ、悲鳴交じりの呪詛を這いた。

次元の狭間で魂の奔流を茫洋と見ていた邪神は唇の無い口を三日月のように歪め、

絶え間なく波打つ剣が突き立てられた木乃伊の、干し柿のように萎びた心臓は不気味に蠢き、

地下深くに建造された建物の中、鉄の棺の中で完成された美貌の少女は澄んだ目をゆっくりと開いた。


種族も、年齢も、善悪すら問わず、光は総てに与えられた。


――そして穴蔵の背後に聳える恐ろしき山々の一つにぽつんとある村にも.....。



 「......うむ」

 

 穴蔵に住む村人たちの誰よりも早起きした儂は、簡素な寝床から抜け出し、若き頃に比べてすっかりやせ細った枯れ木のような体でゆっくりと静かな村を抜け、村はずれに新たに作られている積み上げられる途中の堤防に辿り着いた。

 

 まだ鮮やかな朱色をしたレンガの階段を昇り終えると、眼前に広がる景色にほうと息を吐く。

 

 地平線の彼方、草原の向こうから微かに現れる光を受けて、穴蔵を守るように囲む湖は水面をゆったりと波打たせながら輝いていた。

 

 ひと月前の動乱。

 

 古代の封印から復活したシアエガによって穴蔵は狂気に満たされ、そして破壊された。誰もが絶望する中で、祭られていた石像より遂に我らが守護者、光の巨人は復活した。

 

 そうして我々の目の前で、神話に語られるような神々の戦いは繰り広げられ、大地を揺らし、山を削るような戦いに、苦しみながらも光の巨人は勝利した。

 

 崩壊した穴蔵を囲む湖は、その時にシアエガが這いずり回って削り取られた大地の窪みに、シアエガに汚染され、そして巨人復活の光によって浄化された祈禱の間を満たしていた水が注ぎこまれた結果生まれたものだった。

 

 この湖の水は高い浄化効果を持つらしく、のこのこと姿を見せた地下に隠れ住んでいた獲物にありつこうと、黒い森からやってきた異形どもは湖の岸辺で立ち往生し、宵頃にうらめしげな雄たけびを上げていた。

 

 それだけではなく、綺麗な水は動物たちを呼び、人々の貴重な資源にもなったし、人々の精神を癒した。

 

 だが受けた傷は決して安くない。

 

 こんな朝っぱらから起きだしているのは己だけだと考えていた老婆だったが、堤防の向こうの岸辺に座り込んでいる人影を認めて目を細めた。

 

 「おぬし、カリンか?」

 

 祖母の声に振り向いた孫の顔はどこか儚げだった。悪く言えば腑抜けているような、すっぽりと何かが抜け落ちた顔をしていた。だが祖母の顔を見て勝気そうな表情を浮かべて笑った。

 

 「お婆か。こんな朝早くからどうしたんだよ?」

 

 「なに、この村の長としてこの美しい景色を暫し独占するのも悪くないと思ってのう。まさかカリンが居るとは思わなんだ。どれ、こちらに来なさい」

 

 大人しくやって来て堤防に腰かけた孫の横顔を眺める。

 

 ーーこの子はあの時、確かに汚染された祈祷の間に堕とされた。夥しい量のシアエガの触手に埋められ、石像の沈んだ沼に。

 

 二人の村人を伴い穴蔵を出たカリンが、たった一人シアエガに捕まっていた。片足を触手に絡めとられ、人形のようにプラプラと浮いていた孫の表情が、遠くからであったのにやけにはっきりと見えた。あの時の絶望を、怒りを、老婆は二度と忘れないだろう。

 

 封印の地で起きたことは、あの後奇跡的な生還を果たしたカリンに聞いていた。カリンの言葉を疑うものなどおらず、ただ一人生き残ったカリンには「光の巨人の加護」があるに違いないと人々はあやかりたがった。

 

 

 

 だが、そんな筈はない。

 

 邪神がそう甘い筈はない。

 

 

 

 邪神が、この星を荒らし尽くした旧き神々の一柱の呪いが、たかが石像如きの加護を貫けぬ筈がない。

 

 

 だからこそ、まだ光の巨人たりえなかった石像は確かに一度沼に沈んだのだ。

 

 そしてそののちにカリンが沈められた後、沼の底から光の奔流が駆け上がった。

 

 老婆の目には、今も尚、カリンの胸でゆっくりと脈打つ光が見えていた。

 

 光の巨人は復活した。穴蔵に伝わる予言通りに。

 

 儂の孫は、カリンはーーーーーーー。

 

 

 「どうしたんだよ、ぼんやりして」

 

 はっと顔を上げると怪訝そうな顔をしたカリンがこちらを見ていた。

 

 「......いや、なんでもない」

 

 孫は死の淵より甦った。総ては穴蔵が造られた目的通りに、人類最後の希望、光の巨人、ティガとして。

 

 だがそれを安易に喜ぶことは出来ない。カリンは余りに若く、止む無いことだが受けた傷に立ち直れないでいる。

 

 カリンは嘗て味わった喪失の苦しみに、再び向かい合わされた。

 

 こんな世界で尚、世界の優しさを信じていた孫は、神々の畏ろしさだけではない、人間の脆さ、汚さを知った。

 

 孫の優しさは知っている。

 

 巨人がその身を挺してアズサを庇った時の優しさに、穴蔵の人々は知ったのだから。世界に確かにある、理由なき愛を。

 

 だがこの戦いには強さが必要だ。

 

 世界の、人間の醜さを知ってなお、立ち上がる強さが。

 

 「カリンよ、おぬしが図り切れん苦悩を抱えておるのを知っておる」

 

 孫の表情が動揺に揺れる。

 

 「クレアのことは残念じゃった。ゴルギスの内なる邪悪を見抜けんかった儂の責任じゃ。なんとでも罵ってくれ」

 

 「もう言ったろ? あれはお婆のせいじゃない。人の心は誰にも見抜けないんだから。悪いのは俺のーー」

 

 そう自嘲しようとしたカリンの冷えた手を包んだ。

 

 「それでも世界を愛しなさい。世界とはお主自身なのだから」

 

 

 どうかこの子に大いなる導きがあらんことを。この子を選んだ巨人の御加護を。

 

 老婆はただ、運命を背負った孫の身を案じていた。

 

 

 

 

 




短いですが、リハビリがてらに投稿します。

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