星を紡ぎ星を織る (菅原すぶた)
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棋聖逆行

囲碁をたしなむ者でその名を知らない者はいない。

そして囲碁のことを知らない者でも、彼の名前だけは聞いたことがある。

 

それが進藤ヒカルだった。

 

最年少で本因坊のタイトルを取得。

続いて七冠タイトルを全て得た後、60歳を待たずして27世本因坊を名乗ることを許される。

世界ランキングにおいても数十年に渡って頂点を独占し、正しく最強の棋士となったヒカル。

囲碁で史上、最も強い者は誰かという問いに、ヒカルの名が真っ先にあがるようになったのはいつの頃からか。

 

そのヒカルも今、臨終の床にあった。

 

妻をはじめ、かつての友人、碁敵たちも今は皆、世を去って久しい。

とりわけ思い浮かぶのはいつも生真面目な顔をした生涯最高の好敵手、そして

 

――――――そして懐かしい烏帽子をかぶった碁の神様の姿だった。

 

今でも目を閉じればはっきりと彼の姿を思い浮かべることができる。

 

ただただ碁に。

そして神の一手に邁進し続けた人生だった。

 

(なあ佐為、俺、やれるだけやったよ)

 

若い頃の口調に戻って、ヒカルは思った。

そう、やれるだけのことはやった。

 

(だけどその分、色々取りこぼしてきちまったのかもな)

 

両親や妻には心配をかけ通しだった。

後継者たちを育てあげることも不十分だった。

なにしろひたすらに自分と、そして佐為の碁を見つめ続ける人生だったから。

 

(それでも俺は。

俺はまだ、神の一手を極めていない――――――)

 

神の一手を極められずにあの世に行ったら、佐為はどんなふうな顔をするだろうか?

怒るだろうか。泣くだろうか。

 

あの世でもしお前と会えて、そしてもしお前ともう一度。

もう一度碁が打てたなら――――

 

(俺は――――――)

 

そして進藤ヒカルの意識は失われた。

 

 

 

 

「え?」

 

しかしすぐに目が覚めた。

 

(え?あれ?おれ、死んだんじゃなかったの?)

 

周りを見渡してみてひどい違和感を覚え、ヒカルは混乱した。

今まで周りにいたはずの子供たちや、碁の弟子たち、病院関係者たちの姿がない。

それどころか病院の白い壁や天井はすっかり消えうせ、板張りの床、板張りの壁があるばかりである。

 

(床?)

 

ヒカルは最大の違和感に気が付いて下を見た。

手の下に床がある。

そう、寝たきりだったはずのヒカルは、今床の上に座っているのだ。

 

(うえええええ?)

 

そして皺だらけだったはずのヒカルの手は、ぷっくりすべすべの幼児の手になっていた。

 

(は?へ?なにこれ?夢?夢か、これ?それにしちゃリアルすぎじゃねえ?)

 

あわてて顔を両手でさわってみる。

やはりふっくらもちもち、幼児の肌だった。

 

「えええええええ!?」

「どうしたの、虎」

 

かけられた声に顔を上に上げると、そこにはやはり幼い、しかし幼児であるヒカルよりは明らかに年上の男の子が立っていた。

着物をきて、片手にかごを持っている。

彼はわらじを履いて外に出ようとしているところだった。

 

「どうしたの、直太郎」

「母様、なんだか虎が変な声を出しているんです」

 

縁側から小さな女の子をおんぶ紐でおんぶした女性が顔を出した。

やはり着物。そして髪は結い上げられ、髪油でまとめられている。

 

「え?かあ?え?」

「どうしたの」

 

母様と呼ばれた女性がヒカルのそばまでやってくる。

 

「母様、また虎は碁石がほしいんじゃないんですか」

 

碁石。

その言葉に、ヒカルは思わずはっとする。

 

「碁石がないと、虎はすぐぐずるんだから」

「そうなの?碁石がほしいの?」

 

半ば条件反射でこくり、とうなずく。

すると女性は苦笑いをして押入れに向かった。

 

「いつもだったら勝手に押入れから取り出すのに。

でもきちんと断ってえらいわね。

今日は碁石で遊んでいいですよ」

 

そして押入れを開けて、中から碁石を取り出す。

その奥には碁盤が置いてあるのが見えた。

ヒカルが何か言う前に、しかし押入れの扉はぴしゃりと閉められてしまった。

 

「はい、あなたが大好きな碁石よ」

「よかったな、虎。

でも父様が桑原の本家から帰ってくる前にしまうんだぞ。

押入れにしまわれたのだって、お前が食事も無視して碁石で遊んでばかりいるからなんだからな」

「直太郎の言う通りよ。

分かったわね、虎次郎」

 

桑原。直太郎。碁石。

そして最後の呼びかけ。

 

(虎次郎。

―――――俺は、虎次郎なのか?)

 

ヒカルはただ呆然とするしかできなかった。

 

 

 



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棋聖降臨

ヒカルは佐為が去ってから因島や秀策囲碁記念館などに何度か行くことがあった。

そのため、秀策の生涯や逸話がどのようなものであったか、後世に伝わっている程度のことは知っている。

 

(3.4歳の頃には碁石を与えればすぐ泣き止み、だったか)

 

逸話を思い出し、とりあえず石を並べてみる。

すると生粋の碁打ちの悲しさ、すぐに夢中になってしまった。

 

「虎次郎、そこまでになさい。

お父様が帰ってきましたよ」

 

声をかけられるまで熱中してしまった。

あわてて石を片付ける。

 

「今日はすぐにやめられてえらいわね」

 

母が微妙な褒め方をして碁石を押入れの中にしまい込む。

 

(いやまて、まだ分からない。

姉さんがいるんだったよな。この頃だと奉公に出てるのか。妹の名前は信。

親父さんの名前が桑原輪三、お袋さんの名前がカメだ。

もしそれが違ってたら、虎次郎は虎次郎でも別の虎次郎ってことになる)

 

「お帰りなさい」

「ああ、ただいま、カメ。

直太郎、虎次郎、信。いい子にしてたか」

「あなた、このお酒は?」

「本家が輪三にといって特別に持たせてくれた土産だ」

 

輪をかけて呆然とするヒカルを見て父、輪三が不思議そうに言った。

 

「なんだ、虎次郎。随分大人しいじゃないか。

腹でも壊したか」

「ううん、ちがうよ。

お帰りなさい、父様」

「お?随分しっかりした物言いだな。これは驚いた。

3歳になったばかりなのに。母様に教わったのか」

「いいえ、私じゃありませんよ」

「兄様の真似」

「ははは、そうかそうか」

 

食事をすませ、入浴、就寝となる。

その全てが現代の日本の生活とはかけ離れたものだった。

ヒカルは眠ることもできず、横になったままじっと天井を見つめ続けた。

 

(どうしたってこれは夢じゃない。

こんなにリアルな夢があってたまるか)

 

体に引きずられているのか、思考も精神も若返っているように感じる。

少なくとも臨終寸前の老人のものではない。

 

(一体どういうことなんだ。

虎次郎は?本当の本因坊秀策はどこに行ってしまったんだ)

 

今では進藤ヒカルの人生の方が夢であったかのようにぼんやりと感じる始末だ。

ただ烏帽子をかぶった囲碁の神様との記憶だけが鮮やかだった。

その瞬間、ヒカルは雷鳴に打たれたかのよう飛び起きた。

 

(佐為!

そうだ!佐為がいるんだ、ここには!)

 

隣で寝ていた兄が寝返りを打つ。

ヒカルはぎょっとして、起き上がったままその場に一時停止した。

兄、直太郎はむにゃむにゃと言いながらそのまま寝入っている。

 

ヒカルは迷った。

佐為のことに思い至ってしまった今では、もう絶対に寝るなんてできない。

こんな時間に、とも一瞬逡巡したが、どうしても確かめたいという欲求が勝った。

逆にこんな時間だからこそ、とも言える。

 

ヒカルはそろそろと音を立てないよう細心の注意を払って起き上がった。

兄の寝ている枕元を慎重に通り過ぎ、押入れに近づく。

 

虎次郎の生家は裕福な農家だ。

家は広く、押入れのある部屋は兄と虎次郎の二人が寝ていて両親と妹は隣の部屋だ。

押入れの戸に手をかける。

 

(げ)

 

ごとっ、と思いのほか大きな音が出た。

ヒカルは動きを止め、周りを見回す。

ほっと息をついて戸を開ける作業を再開した。

 

3歳児には思いのほか、重労働だった。

戸が重い木でできていたからだ。

 

息をきらしながら押入れから碁盤を取り出す。

部屋にひとつだけある窓の隙間から、細く月明かりが落ちてきていた。

ヒカルはその下に碁盤を置いた。

 

「………あった………」

 

月明かりの下、碁盤の上にしみが浮かんで見えた。

 

「………しみ……あった………」

 

―――――見えるのですか?

 

「うん、見えるよ」

 

ヒカルが顔を上げる。

そこには碁盤の上、月明かりの中に透き通った一人の青年の姿が浮かび上がるところだった。

 

 

「これ……お前の涙のシミだったっけか?佐為……」

 

――――――そう……それは私の涙の染み………

 

そこまで言って目の前の幽霊は不思議そうに首を傾げた。

 

――――――なぜあなたは私の名前を知っているのですか……?

 

「知ってるさ、お前のことならなんでも。

名前だって……お前の碁だって……!」

 

――――――碁………!

 

「打とうぜ、佐為!

俺、お前とずっと打ちたかったんだ!

何十年も!ずっと!これから先も!何十局、何百局だって……!」

 

――――――ああ、感謝します………!

 

そしてその後、佐為の魂の直撃をくらったヒカルの意識はブラックアウトしたのだった。

 

しかしブラックアウトしながらも、ヒカルは確かに微笑んでいたのだった。

 

 



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二人で一本の道

『ああああ~~~すみませんすみません!

まさかあなたを倒れさせてしまうなんて~~~!』

(いいからいいから。前もこんなんだったし、気にしてねーって)

 

あの後ヒカルは朝まで昏倒していた。

しかし皆が寝静まった夜のことであったし、寝相が悪いなあ、と思われる程度に留まった。

ちょうど仰向けにひっくり返ったところが元々寝ていた布団の上だったのである。

 

(しっかし碁盤を出しっぱなしにしちまったのはごまかせなかったな。

あの兄ちゃんは絶対そういうことしなさそうだから、兄ちゃんのせいにした所ですぐバレちまうと思って正直にあやまったら、めちゃくちゃ怒られちまった)

『ううう、本当にすみませんすみません』

 

食事も無視して碁石で遊んでばかりいるのをとがめられている所だったので、これは許してもらえなかった。

哀れ、碁盤と碁石は3歳児では絶対に手の届かない押入れの上段にしまわれてしまったのである。

 

(だけど、確か前に佐為から聞いた話じゃ、虎次郎は以前から碁盤のシミが見えてたって話じゃなかったっけ?それを誰に言ってもそんなの見えないって言われてたんじゃなかったっけか?でもなんか今回、虎次郎はそんなこと周りに聞いてないっぽいんだよな。

どういうことなんだ?この違いって)

『あの……』

(おう、なんだ、佐為)

『あなたは本当に不思議な子ですね……いえ、子と呼ぶのもためらわれる。

ひどく大人びているどころか、私の名前も知っている。

一体どういうことなんです?』

(……佐為)

 

ヒカルは真剣な顔になり、佐為に向き直った。

 

(お前には全部話すよ。

今までのこと、おれがやっちまったこと、信じられないかもしれないけど)

 

話は長時間に及んだ。

午前中から始まり、途中昼寝をしろと厳命されて寝たふりをしながらも話は続き、全て話し終わる頃には日が暮れかける頃になっていた。

 

『そうだったのですか……そんなことがあったのですね……』

(お前、信じられるのか、こんな話)

『はい』

 

佐為ははらはらと涙をこぼしながらうなずいた。

 

『ヒカルの気持ちは聞いていて痛いほどに伝わってきました。

途中まではそんなことはありえない、と正直に言うと思いました。

でも最後のほうでは本当のことだと確信していました。

あなたの話が嘘だということの方が、私にはずっと信じられないことです』

(佐為………ありがとう。

だけどお前……俺のせいで、お前は……)

『私が消えてしまったことを言っているのですか、ヒカル?

でもそれは違うと思います。きっとそう……天命だったのです』

(天命だって?)

『聞いている時には、なぜ私が神の一手を極められないのか、と妬ましくも思いました』

(碁打ちならな)

 

ヒカルは3歳児にはとても似つかわしくない、ひどく苦い笑いをその顔に浮かべた。

 

(碁打ちなら、誰だってそうさ。高みを目指せば目指すほど、自分こそが神の一手を極めたいと思う。あの時の俺には分からなかったが、今の俺なら分かる)

『ええ、私だってそうですよ。

でもそれ以上に私は、寂しかったのだと思います』

(………………)

『あなたに会えなくなるのが寂しかったのではないでしょうか?

あなたは私の最高の弟子であり、友人であり、好敵手でした。

あなたの話を聞いていて私はそう思いました。

そんな相手と別れなければならないことほど哀しいことはありません。

なぜなら碁は…………』

(一人では打てないから)

『ええ、そう……神の一手を目指すのならば、なおさらです』

(そうだな、……その通りだ)

 

かつて佐為以外で一人だけ、ヒカルと共にそのような碁を打てたかもしれない好敵手がいた。

しかし彼は、二人がそこまで到達する前にこの世を去ってしまった。

 

『だからこそあなたにお願いしたい。私と碁を打ってほしい。

私はあなたと碁を打ちたいと思います』

 

ヒカルはわずかに目を見開いて佐為を見返した。

 

(私が打ちたい、じゃないんだな)

『ええ、そうです。

私はあなたと打ちたい。今目の前にいるあなたと打ちたいんです。

きっと私があなたの元から消えなくてはいけなかったのも、あなたがここへ来たのも、大きな意味があるのではないでしょうか』

(佐為)

 

ヒカルは自分の中から長い間消えなかった霧がはれていくような気がした。

 

(佐為……俺はお前にそう言ってもらえて嬉しい。光栄だと思う)

『そんな……ヒカル』

 

佐為はよよよ、と泣きながら首をぶんぶんと左右に振りながら照れている。

器用だな、コイツ。烏帽子も髪も崩れてねえよと思いながらヒカルは続けた。

 

(だけどな、佐為。

ここからが相談なんだが……俺は本因坊秀策っていう棋士をこの世から消したくないんだ)

『え?それは……』

(いやまあ聞けって。

秀策は本当に偉大な棋士だ。その棋譜は大勢の碁打ちに大きな影響を与え続けてる。

そんな棋譜を、碁打ちを消すなんてことは俺には絶対にできないし、したくない)

『もちろんです、私だってそうですよ』

(だから佐為、俺は虎次郎の……秀策が生きてきた通りに生きてみるつもりだ。

つまり――――――江戸にのぼって御城碁に出る!)

『………おお!』

 

佐為は涙を止め、大きく乗り出すように顔を上げた。

 

『……御城碁って?』

(………お前………いやまあ仕方がないか……

つまりだな、今は江戸の征夷大将軍が実質的に政治を取り仕切ってるんだ。その将軍の前でやる真剣勝負のことだよ)

『おお!帝の御前での御前試合のようなものですね!』

(もっと規模がでかいぜ。なにしろ家元四家が本気で競い合う場だからな。日本一の碁打ちを決めるような試合だぜ)

『日ノ本一……!?』

 

こんなことが言えるようになるなんて俺も年を食ったなあ、とひとり心の中で思うヒカルをよそに佐為の顔色が変わった。

 

(佐為、その秀策としての碁を、お前が打つんだ)

『ヒカル……?』

(元々、秀策の碁は全部お前が打ってたんだ。お前がそのまま打っていけば、秀策の碁は消えない。名局が後の時代にも残るだろう)

『待って下さい、ヒカル』

(本当の虎次郎がどうなったか、っていうのだけは気になるけど……

でもそうやっていけば、本因坊秀策は消えずにすむ)

『ヒカル!』

「おろろろろろろろろろろろr」

『えええええ!?ヒ、ヒカル!?ヒカル、どうしたんですか!?』

「いや、お前、お前のせいで落ち着けおまおろろろろろろろr」

 

「ああ!?虎次郎!?

母様!虎次郎が!虎次郎が大変です―――!!」

「きゃああああ!?虎次郎!!?」

「おろろろろろろろろr」

『ヒカルうううううううう!!』

 

 

 

 

 



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「はじめての」対局

ヒカルはその後、食あたりではないか、風邪ではないかと大いに心配され、布団の中で安静にしていることを命じられた。

危うく尾道から医師まで呼び出されそうになったが、それは体調不良が一過性のものであることを強く主張し、懸命に阻止した。

 

『す、すみません、ヒカル~

まさか私の悲しみがヒカルの意識を包むことで、体調にまで影響してしまうなんて』

(勘弁してくれよ……)

『で、ですがヒカル』

 

おろおろとヒカルのそばに座っていた佐為は、心配そうにしながら、しかしはっきりと言った。

 

『ヒカルがあまりに哀しいことを言うからです。

まるでヒカルはこの先、全く碁を打たないようなことを言うから』

(全く打たないってことはないぜ。

お前と打つって言ったじゃないか)

『私とだけですか?

それではやっぱりヒカルが碁打ちとして世に出られないということじゃありませんか!』

(うぷ……)

『ああ!?す、すみません!』

(だから勘弁してくれって……あれ?そういえば)

『はい?』

(お前、俺のことヒカルって呼ぶのな。なんで?)

『なんでって……』

 

佐為はしょんぼりと、そして切々とヒカルに訴えた。

 

『あんな話を聞いてしまっては、他に呼びようがないではありませんか。

あなたは私にとって、大事な弟子で友人で碁敵、進藤ヒカルなんです。

そして今の私には、虎次郎もヒカルも、両方消えて欲しくない大切な棋士なんです』

(消えるも何も。俺はもう死んでるんだぜ、たぶん。

中身はやりつくした90過ぎの爺さんなんだぜ)

『え?い、いやです、そんな!こんなに可愛いヒカルが爺さんなんて』

(いや、何言ってんの。

とにかく爺さんなの。天寿を全うした、やりつくした爺さんなの。

俺にとっちゃ、ここに居るのは死んだ後に美味しいおまけ、褒美をもらったようなものなんだよ。だから俺が今更碁打ちとして世に出たってしょうがないんだよ)

『そんなことはありません!ヒカル!

あなたも世に出て、たくさんの人々を相手に碁を打つべきです!

あなたほどの棋士なら、そうして当然です!

それに死んでるって言ったら、私も同じじゃないですか!』

(うぷ。だから。だからお願い勘弁して、おええ)

『ああ!すみません、ヒカル!で、でも!』

 

などというやり取りを延々と二人は繰り返した。

やっと事態が変化したのは、ヒカルが寝込んで2日目に突入してからだった。

 

(だからだな。

俺は、俺自身が碁を打つようになってから結構しんどかったんだよ。誰も彼もお前の碁ばっかり見て。俺の碁なんか、かすみまくっちまって)

『そ、それは……』

(それもこれもお前の碁が凄すぎたからなんだけどな』

『え?いえいえ~それほどでも』

(調子いいなあ。

だけどな、それは今度も起こりうることなんだぞ。二人が一人として打つと、どうしても上手の碁が下手を喰っちまう。

お前の碁がかすんで、みんなが俺の碁ばかり見るような事態になったら、それは俺にとっても……)

 

ヒカルはそこで言葉を止めた。

ぴりぴりとした、張り詰めた空気を佐為から感じたからだ。

見上げると、そこには普段のものとはかけ離れた、斬れそうなほどに研ぎ澄まされた佐為の表情があった。

 

『私の碁があなたの碁に喰われる、と?

私の碁はあなたの碁に及ばないと言うのですか?』

 

ヒカルは言葉を継ごうとして、やめた。

そして少し苦笑いの混じった、懐かしさと親しみを多分に含んだ微笑を浮かべた。

 

『打ちましょう、ヒカル』

 

佐為がぴしり、と持っていた白扇をヒカルに向ける。

 

『私と勝負を。

そして私の碁をあなたに知らしめましょう。

私の碁が決してあなたに劣らないと証明できたならば、あなたも世に出るのです、ヒカル。

私とあなた、二人で共に一人の碁打ちとして世に出る覚悟をお決めなさい』

(お前、相変わらずだなあ)

 

ヒカルの声が笑っているので、佐為は反射的にとがめようとした。

しかしヒカルが浮かべている笑顔がどういう種類のものか、気付く。とがめる言葉が出せなくなった。

 

『ヒカル……』

(いいぜ、佐為、打とう。

もちろんそうさ、俺たちは碁を打たなくっちゃ、何も始まらない。

これから打つ何十局、何百局の最初の一局だ。この時代でのな)

『ええ、ヒカル。そうですとも。

打ちましょう!』

(でも)

 

ヒカルは、はーっとため息をついて軽く肩をすくめてみせた。

 

(碁盤も碁石も押入れの奥にしまわれて、手元にないんだけどな)

『あ』

 

 

 

 

 

「はーっはーっはーっ

きっちー!3歳児には土間から物を持ち上げるだけで重労働すぎるぜ」

『ヒ、ヒカル、大丈夫ですか?そんなに無理をしてどこか痛めてしまいませんか?』

「他にどうしようもねーだろーが。そして今がチャンスなんだよ!」

『ちゃんす?』

「絶好の機会ってこと!」

『ほほう』

 

家族は昼間、皆表に出て仕事をしている。

その日は父も含めて表で畑仕事をしているはずだった。

ヒカルはその隙を狙って、土間から桶やら箱やらを家の中に上げ、押入れの前に持ってきていたのだ。

 

「俺とお前の場合、目隠し碁でもそれなりに打てるけど、やっぱこの時代での最初の一局だ。ちゃんとした碁盤で打ちたいからな」

『ヒカル……!な、なんて嬉しいことを言ってくれるのですか!』

「これを積み上げれば……」

『おお!その上に乗って押入れから碁盤と碁石を取り出そうという算段なのですね!』

「ふっふっふ、俺の計画は完璧だぜ、ほら、なんとか届きそうだぜ!」

 

しかし哀しいかな、3歳児の体では押入れの奥深くにしまいこまれた碁盤を一度で取り出すのは不可能だった。持ち上げるには重すぎたのである。

 

「くっ、お、重い」

『ヒカル!がんばって!もう少しです!がんばれ~がんばれ~』

「も、もうちょい……」

「何してるんだ、虎次郎!!」

「わあ!!?」

『あ!ああああ!?』

 

突如かけられた父、輪三の声に、ヒカルは碁盤ごとひっくり返った。

 

『あああ~!ヒカルうううう!』

 

そしてその拍子に勢いよく縁側から外へ飛び出した桶は、ものの見事に石にぶつかって粉みじんに吹き飛んだのだった。

 

「なんてことだ!寝ているかと思えば、こんないたずらをして!」

 

父は怒り狂った。

尾道から医者を呼ぼう、と一番あわてふためいたのは、この父だったのだ。

しかも心配して様子を見にきてみれば、この始末である。

 

(いやあーそうだよなあー怒るよなーいたずらにしか見えないもんなー

しかも躾が現代よりも厳しいだろうこの時代だもんなー)

「虎次郎!父様にあやまりなさい!」

 

何事かと駆けつけてきた母もさすがに厳しく言う。

しかしヒカルは何も言葉を口にしなかった。かわりにムスッとした顔を作る。

 

『ちょ、ちょっと、ヒカル!?あやまった方がいいですよ。素直にあやまれば、きっと父御も許してくれますよ!』

「虎次郎、あやまりなさい!」

 

それでもムスッとふてくされているようにしか見えない息子を前に、ついに父の堪忍袋の緒が切れた。

 

「そんなに押入れが好きなら、こもっていろ!」

 

ぽいっと押入れに投げ込まれた。

そしてぴしゃり、と戸がしめられる。

ごと、と音がした。ご丁寧につっかえ棒までしてくれたらしい。

人が遠ざかる気配がそれに続く。

聞こえるものは、遠くで響く鳥の声ばかりとなった時に佐為がおずおずと言った。

 

『ヒカル……すみません。私のために……』

(んー、いいって。俺のためでもあるし)

『でも……どうしてあやまらなかったんです?

すぐにあやまればきっと許してくれたのに』

(ふふん)

 

ヒカルは佐為を横目でながめ、もったいぶった笑い方をした。

 

(計画は完璧だって言ったろ?

これで誰にも邪魔されない個室が手に入ったぜ。

そして俺たちの手元には何がある?)

『!!』

 

転がり落ちたときに、一緒に碁盤と碁石も床に落ちていたのだった。

そして押入れに押し込められるときにも、一緒に。

ヒカルが押し込められた押入れの下段には、碁盤、そしてばらばらではあったが碁石が転がっていた。

 

『ヒカル!すごいです!本当に完璧な計画ですね!』

(へっへー……っつっても、カンニングだけどな。

虎次郎は小さい時にいたずらをして、罰として押入れに閉じ込められたことがあったんだよ。で、許してやろうと戸を開けたら、一心不乱に中で石を並べてたってな)

 

ヒカルは碁石を丁寧に拾い集めた。

そして戸の隙間から差し込む何本かの光の前に碁盤を置いた。

逸話のように、その光は細くとも碁を打つには十分な明るさがあった。

 

『これで碁が打てますね』

「お前、その持ってる白扇で打ちたいところを差せよ。俺たちは先の時代じゃずっとそうやって打ってたんだ。その方が俺も打ちやすいからな」

『ええ!それはいいですね!』

 

佐為は喜びに満ちた表情で答え、しばらく碁盤を見つめていたが、すっと身を翻し、ヒカルの向かいに腰を下ろした。

 

『さあ、ヒカル。打ちましょう。

私は強いですよ』

「知ってるよ。だけどお前、忘れてるんじゃないか。

お前の目の前にいるのが誰なのか」

 

碁盤から顔を上げた佐為は、そこに静かに微笑むヒカルを見た。

 

「佐光。

27世本因坊佐光、だ。――――――倒せるものなら倒してみな」

 

 

 



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フラグ?

平安時代と現代では、碁のルールが違う。

基本は同じだが、大きく違うのは対局前に両者が盤上にあらかじめ石を置いておくことにある。安土桃山時代、本因坊算砂の頃に石を置かずに打ち始める方式への移行があった。従ってそれ以降の江戸時代のルールも平安時代とは異なっている。

ごく簡単にルールのすり合わせをした後、ヒカルが佐為に合わせる形で、両者、石を置いての対局となった。佐為が黒石、ヒカルが白石である。

開始直後、二人の間に漂う空気は比較的おだやかなものだった。

気安い相手が相手である、ということも大きかったのだろう。

だがそれはごく短い時間で途絶え、空気は急速に緊迫したものとなった。

 

―――――これほどとは……!

 

佐為は慄然とした。

ついぞ感じたことのない、恐怖にも似た感覚が襲ってくる。

決してあなどっていたわけではない。

心のどこかで幼い姿への緊張のゆるみがあったのかもしれないが、それもごくわずかなものだったはずだ。なにしろ自分はヒカルが歩んできたこれまでの軌跡を話に聞いて知っていて、それを真実だと確信していたのだから。

 

――――平安の時代では全く考えられない打ち方。

それに加え、この読みの深さは――――

 

全く知らない碁の形が、目の前にある。

序盤から石の形、その流れに得体の知れない感覚を覚え、中盤になる頃には全く戦える気がしなくなっていた。

 

――――これが数百年の時を経た囲碁。

私が今までに見てきたものより、もっと深い、深遠を見定めるまでに至った碁の行く末……!

 

勝てない、と思ってからも佐為は悔しさをわずかしか感じなかった。

悔しさより焦燥、そして憧憬に似た感動が強く、今目の前に繰り広げられている碁をもっと見たい、もっと打ちたいと思う気持ちだけが大きくなっていく。

 

――――もっと、ずっと打ち続けていたい。

ヒカル、あなたの碁は――――

 

この先に求めてやまない一手がある。

そう感じながら打つ碁は、佐為にとって確かに幸福以外の何ものでもなかった。

 

 

 

 

しかしやがて終わりがやってくる。

石を置く手が止まる。盤上をただ眺めるだけになっても、二人はしばらく一言も言葉を発しなかった。

 

―――ヒカルは失望したのではないでしょうか?

 

なおも沈黙が続いてようやく、佐為の胸に苦い思いが強くこみ上げてきた。

ヒカル、と呼びかけようとした佐為の声にかぶせて、ヒカルが静かに言った。

 

「………お前はやっぱり凄いなあ、……佐為……」

『え?』

 

現代で会った時には140年ぶり。

そして江戸時代の今では、さらに数百年の歳月が碁と佐為を隔てていた。

もちろん今の佐為は現代まで研究され続けてきた定石も知らない。それどころか算砂の頃にようやくできた布石という概念すら、まだ知らないのだ。

 

「……それなのに、ここまで打てるんだなあ……」

 

佐為が碁の未来に感動したのならば、ヒカルは碁の過去に感動していた。

本流、原石だけが持つ真実の美しさ。

これからどのように輝き大きくなるか、知り尽くした原石。根源を見出した感動は、むしろヒカルの方が大きかったのかもしれない。

ヒカルは指先で目頭を押さえた。

そしてごまかすようにぶんぶん、と頭を大きく振り、身を乗り出して佐為に言った。

 

「なあ佐為、お前はこれから俺とも、この時代の人たちとも、もっともっと、どんどん打つんだ。布石を知って。定石を知って。この先の未来の碁も、全部。

俺が教えてやる。そうすればお前はもっと強くなる。どんどん、俺よりも、誰よりも強くなっていくぞ、絶対だ」

『ヒカル……』

 

佐為は思わず涙ぐんだ。

ヒカルが感じていたのは、自分が心配したような失望などではない、遠くかけ離れたものだったのだ。

ヒカルと違って涙ぐんでいるのを隠そうともせず、佐為はヒカルの顔を見つめて真剣に言った。

 

『ヒカル、さっきの言葉、取り消します。見ていてください。

私は必ず強くなります。そして私があなたと並び立てるほどに強くなれたらその時こそきっと、あなたと私の二人、一人の碁打ちとして他の人たちと相対しましょうね』

「そこはお前、俺よりも強くなるって言えよ」

『碁は一人では打てないんですよ』

 

そう、同じくらいに強さを知る打ち手が二人。

その向こうにこそ、きっと神の一手が。

 

『そういうことなんですよ、ヒカル』

 

強く言う佐為に、ヒカルはやれやれと肩をすくめてみせた。

 

「おまけのつもりの人生だったのに、精一杯、前のめりに頑張らなきゃいけなくなっちゃったみたいだなあ」

『もちろんですよ、ヒカル。

一分一秒だって無駄にはできません。

さあ、さっそくもう一局、打ちましょう』

「まあまてまて、せっかくだから検討しようぜ」

『おお!それは良いですね!そうしましょうそうしましょう、さあ今すぐにそうしましょう』

「よしよし、そうこなくっちゃ。んじゃ、ま、最初の一手から……」

 

ヒカルと佐為は、再び一心不乱に碁盤に向かい始めた。

 

 

 

「あなた、虎次郎は」

「ずいぶん静かにしているな」

 

畑仕事を終えて家に戻ってきた父、輪三と母、カメは押入れを眺めていた。

 

「もうすぐ夕飯です。あなた、そろそろ出してやってくださいな」

「……………」

「きっと泣きつかれているんです。一日中押入れの中に入っていたのですから、虎次郎も反省したでしょう」

 

父はため息をついて言った。

 

「出してやってもいいが、きちんと謝れなかったら許さんからな」

「………!ええ、それじゃあ」

 

母はほっと息をついて、押入れの戸に手をかけた。

 

「虎次郎、反省しましたね?お父様にあやまりなさい……」

 

がらりと開いた戸を前に、父と母はぽかんとして言葉を失ってしまった。

 

「だからそこはノビると上手くないんだって…………いやいや、それだと右辺が……いやまて、ここでハネると…………ふむふむ」

 

三歳児の息子はぶつぶつと独り言をいいながら、碁盤にかじりつくようにして石を置いていた。

しかも戸が開いたことにすら気が付かないほどの熱中ぶりである。

 

「虎次郎」

「白が弱いように見えるけど、先に進むとそれほどでもないんだよ……その前にここで………」

「虎次郎!」

「!!?うわああ!?」

 

まさに飛び上がって驚いた虎次郎は、あわてて碁盤の上に並べられていた石をがちゃがちゃとかき回した。

すがるように碁盤に抱きつきながら、おそるおそる両親の顔を見上げる。

 

「虎次郎……お前ったら……すっとそうやって碁を打っていたの?」

「ごめんなさい!」

 

虎次郎は押入れの中から転がり出ると、ずざざざざ、と音が出るほどに床の上に滑り出て、そのまま頭を下げた。

 

「ごめんなさい!もういたずらしません!

具合がよくなって、周りに誰もいなかったから寂しくなっちゃって!碁石で遊びたくなっちゃったんです!今度からは絶対に勝手に道具を出したりしません!散らかしたりしません!お手伝いもするから許してください!」

「手伝いってお前」

 

父はあきれて母と顔を見合わせた。

3歳児で手伝いも何もあったものではない。

 

「……手伝いはできるようになってからでいい。

今言ったように、道具を使いたいときにはきちんと断ること。散らかさないこと。

それから言われたら、碁石で遊ぶことはすぐにやめること。守れるか?」

「守ります!本当にごめんなさい!勝手なことをしてすみませんでした!」

「分かったなら、いい」

「それであの……ご不浄……」

「!?早く行きなさい」

「はい」

 

ご不浄、つまりトイレである。

息子が部屋の外に向かう背中を見送りながら父は再びため息をついた。

 

「……3歳らしくないせがれだな……?」

 

一方、ヒカルの方はと言えばますます3歳児らしくないことを頭の中で考えていた。

 

(くううう、検討し足りねえ。後で寝る前に頭の中でもう一度検討するぞ、佐為)

『はいヒカル、ですがさっきの謝り方はすごかったですねえ、父御も母御も驚いてましたよ』

(ふっふ、必殺スライディング土下座だぜ!)

『おおお、かっこいい!』

(とにかくだ、いい子にしてれば碁盤と碁石を使わせてもらえそうだぜ、これからは極力いい子のふり作戦でいくぜ)

『ヒカル……!いい子のふりなんて……!いけませんよ!』

(だって中身じいさんだし)

 

しかしこの時、久しぶりの対局で、やはり二人とも浮かれていたのだ。

母が、父とは異なった目で自分を見ているのに気が付かなかったのだから。

 

「虎次郎、お座りなさい」

 

次の日、縁側に碁盤と碁石を置いて、母が言い放った。

 

「今日からお母様と碁を打ちますよ」

(え!?あれ!?母ちゃんが碁を教えてくれるのって5歳位からじゃなかったっけ??フラグ前倒しで立てちゃったか??)

『ふらぐって何ですか、ヒカル?』

 



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天賦の才

その日から母子の囲碁教室が始まった。

とはいえ、母は日々の家事や仕事で忙しく、余暇などないも同然の人である。

最初の日こそ基本中の基本、碁の一般的なルールを通して教えてくれはしたものの、それから後は一手打っては畑仕事に、一手打っては家の裏へ回って薪割り、水汲み。ほとんど席を温める間もなく、碁盤の前に座っているのはヒカルただ一人というやや珍妙な形での対局となった。

 

(まあお前と打つときはいつもこんななんだけどな)

『でも母御はなかなか強いですよ』

 

母が戻ってきて次の一手を打つまで、ヒカルたちは時間を持て余してしまう。

 

(そりゃあ、母ちゃんは虎次郎の最初の碁の師匠なんだからな。

この時代はアマもプロも区別がなかったし、全体的に碁のレベルが高いんだろ)

『あま?ぷろ?れベる?』

(あー……つまり碁を仕事にして報酬をもらってる連中がプロ。お前も帝の囲碁指南役だったんだから、そうだろ)

『ほー、私もですか』

(アマはそれ以外の碁を打つ連中のことさ。レベル云々はこの時代の碁を打てる人たちはみんな現代よりも平均的に見て強いんだろうってこと。囲碁を打つ人の数は、現代よりもずっと多いだろうからな)

 

佐為は扇を口元に当て、ほくほくと喜んだ。

 

『平安の御世よりもですよ、ヒカル。

囲碁はあくまで貴族たちのたしなみでしたからね』

(だけど母ちゃんの一手を待つ間は、ちょっと暇だなあ。

一手一手を検討していくのにも限度があるし)

『母御はお忙しそうですし、無理を言ってすぐに打ってもらうわけにもいかないですしね』

 

そんなに忙しいのになぜ打ってくれるのか、とも思う。

もしかすると、長男と末っ子に挟まれて、どうしてもほったらかし気味になってしまう次男と接する時間を、なんとかして作ろうとしてくれているのかもしれない。

 

『きっとそうですよ。

……でもそれだと一層、無理は言えないですね。母御と碁を打つのはやめておいた方がいいんでしょうか?』

(んー……それもなあ……

俺、現代で碁を誰に教わったかって色々な人に聞かれて凄く困ったんだよ。

幽霊に教わったなんて言えないだろ)

『……ああ、それは……』

(だから今、前倒しで母ちゃんに教わっとくのは後々のことも考えると、悪くないと思うんだよな。俺がお前と打ってる所をついうっかり見られても、誰かに教わってれば言い訳できるだろ、ちょっと苦しいけど。それに何より、この時代の人たちがどんなふうに碁を打つのかも見れるし)

『ではやはり、もうしばらくこのままで?』

(うん……お前には悪いんだけどな。

でもなーあんまり暇でもあれだなーあれだから、するか、佐為。目隠し碁)

『おおおおお!いいですね!やりましょう、待っている間!目隠し碁!』

 

そういうわけでヒカルと佐為は母の一手を待つ間に目隠し碁をすることにした。

始めのうちは、これはなかなかうまくいくような感じがした。

なにしろ母の仕事はどれもすぐに終わるようなものではなかったので、かなり待つ時間が長かったのである。

しかし破綻は早々にやってきた。

 

「とらーなにしてるんだー」

「え」

 

まずその日は、近所の子供たちがやってきてしまったのである。

なにしろ狭い島でのこと、子供はみんな友達、遊び仲間なのだ。

いずれも虎次郎とほぼ同い年の子供たちである。

 

「具合が悪いの治ったんだろ?遊ぼうぜ!」

「え?いや、ごめん、おれ、碁を打ちたいから」

「えー。碁ー?」

「おれ、鬼ごっこがしたい。虎、鬼ごっこの方が楽しいぜ、鬼ごっこしよう!」

「ええ!?」

 

(くわーなんでだよ!現代よりも碁が盛んって話したばっかだろ!

老いも若きも碁を打てよ!90過ぎの爺に鬼ごっこは辛いよ!)

『ヒ、ヒカル!がんばってください、せめてこの一局だけ!

まだ私たち、数手しか打ってませんよ!』

(分かってるよー!)

 

ちょうどそこへ次の一手を打ちに母が戻ってきた。

 

(やった、母ちゃん、グッドタイミング!)

『ああ、母御!追い返してください、私たちは碁を打ちたいんです!』

「あらあら、お友達が来てくれたのね」

「虎といっしょに鬼ごっこしようと思って」

「とら、行こー」

「虎次郎、行ってらっしゃい。良かったわね」

「え!!?」

『ええ!!!?』

 

まさかの母の反応にヒカルたちは大いにあわてた。

ヒカルは一生懸命子供らしくしながら訴えた。

 

「や、やだよ、母様!囲碁が途中だもの!もっと打ちたいよ!」

(こ、こんなんでいいのか?)

『なかなかだと思いますよ、ヒカル!

母御!鬼ごっこじゃなくて碁が打ちたいんです、もっと打たせてください!』

「虎次郎」

 

母はしげしげと虎次郎を見つめ、やや困惑気味につぶやいた。

 

「やっぱり、そんなに碁が打ちたいの……」

「うん!」

 

ヒカルはここぞとばかりにぶんぶんと首を縦に振った。

もちろん横では佐為も同じ勢いでぶんぶんとうなずく。

 

「……虎次郎」

「はい!」

「……ええ、そうね、やっぱりそうなのかもしれない……」

「?」

「分かったわ。やっぱり最後まで打ちたいものね。

じゃあこうしましょう、母様がしてるように打ちなさい。みんなと遊びながら、母様が打った時だけ戻ってきて打てばいいでしょう。すぐそこの庭や梅林で遊べばすぐ戻ってこられるわ」

「え」

 

(えええ~!?なんだよそれ?滅茶苦茶めんっっっどくさっ!)

『ヒカル、ヒカル。母御の言う通りにしましょう』

(佐為?)

『母御としては狭い島でのこと、あなたの友達との関係を大事にしてやりたいのでしょう。それにこれ以上私たちが我を通すと、囲碁を教えて下さらなくなるかもしれませんよ』

(……う~ん……お前はそれでいいの?)

『はい、ヒカル。私は碁さえ打てれば、それで』

 

ヒカルはため息をつきながら苦笑いをした。

 

(分かったよ。お前がいいんなら、それで)

「分かった、母様。そうする」

「ええ、虎次郎」

「虎ー!じゃあ鬼ごっこだ!はやくはやくー!」

 

(ああ、鬼ごっこか……ううう……孫としてるつもりでいけばなんとか……)

『ヒカル!がんばってください、今日一日を耐え忍べばなんとか!』

「虎が鬼だー」

「わーい」

「わ、わーい……」

 

しかし駆け回る息子を見ながら、母は思っていた。

 

(やっぱりこの子は普通の子とは違うのかもしれない)

 

兄弟の中で虎次郎の時だけ、なぜか悪阻がひどく、母は碁を打ちながら気を紛らわせていた。生まれた後も、ごく小さな赤子だった時から碁石を好み、どんな食べ物よりも、玩具よりも、側に碁石を置きたがった。

 

(それに……)

 

たった今も。少し基本を教えただけだ。

入門が最も難しいとされる碁。それなのに「まるで始めから碁を知っていたかのよう」。

ありえない、と思いながらも考えずにはいられない。

 

(やっぱり私のおなかの中で、あの子は碁を覚えたのではないかしら?

それにあの子の具合が悪くなった前の夜に見た夢。白蛇に乗った光り輝く人が虎次郎の中に宿ったあの夢はやっぱり、ただの夢ではなかったのでは?

あの白蛇は、梅林にお祀りしている天白竜王様だった……?)

 

人間が遠く及びもつかない事などを思うだけで、恐ろしいような気がした。

ただ、もし自分が考えていることが見当違いのことでも何でもないのだとしたら。

 

(あの子が健やかに、まっすぐ育ちますように。

あの子が持っているかもしれない天賦の才を、私が上手くのばしてやれますように)

 

早くもそんな覚悟を決めようとしている母の前で、虎次郎――ヒカルは、友達たちと声を上げながら庭を駆け回っていた。

 

(ぐおおお、きっちー!体力的にはともかく精神的にきっちー!)

『ヒカルーがんばってー!がんばってーヒカルー!』

 

 

 

 



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