二つの一人 (森山 大太)
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introduction
腕時計を確認すると、短針は五を、長針は六を指していた。この時期になると日没の時間は比較的遅くなるが、それでももう日はだいぶ傾き、立ち並ぶ家の影を東側に伸ばし、赤い光を発している。あと少ししたら、街灯がつき始めるだろう。それまでには、家につきたいものだ。俺はそう考え、自転車をこぐ速度を上げる。明日から二連休とあって、肩にかかる学校指定のバッグの重さが気にならないほどには気分は悪くない。
家までの最後の信号につかまっていると、不意にブレザーの内ポケットに衝撃を感じた。俺はそこから携帯を取り出して確認する。液晶画面には「新着メール一件」の文字。差出人はついさっき別れたばかりの明だった。文面は短く、「明日は遅れないこと!」。俺はため息とともに携帯を内ポケットにしまい直す。返信は特にしなくてもいだろう。求めてもいないだろうし。俺が明日のデート(そう、デート)に遅れなければいいだけの話だ(そう言っておきながらいつも遅刻するのは俺の方だが)。
メールの差出人、哀川明(あいかわめい)と言う名を持つ俺の彼女は、極度の美人で、天才で、天然――一言で言えば、変人である。これはおそらく、彼女と少し深くかかわったことのある人ならだれもが同様に抱く感想なのではないかと俺は思っている。いろいろあって俺には友達が少ないため実際に聞いてみたことはないが、表情を見ればなんとなくは分かる。告げてしまっているのだ。「? ゴメン、よくわかんない……」と。
ただそれでも周りから疎まれたり避けられたりしないところも合わせて――くどいようだが、彼女は変わり者である。
そしてそれは、彼女と中一から四年間付き合い続けている俺もまた、同様である。むしろ俺と明の出逢いは、俺が変わり者になったが故の出逢いともいえるかもしれない。俺は俺が普通でなくなった時のことを思いだす。ここの信号は長い。退屈しのぎにはなるだろう。
あれは――そう、今日と同じような、夕焼けがきれいな日だったと記憶している。
小学二年の秋のことだ。運動会の練習で疲れていた俺は、四時に家に帰るなり、ベットに飛び込み、そのままねてしまった。ああ、明日もまた練習だぁ……とか思いながら。
そして起きたら、目の前一面、緑だった。森の中にいたのだ。
いくら小二とはいっても、ああ俺は今夢を見ているんだなということはすぐわかった。そして俺は思った。どうせ夢だ。すぐにさめる。ならいっそ、やりたいことを、現実でできない分、思いっきりやってやろうと。
子供心に「冒険」というものに憧れていたため、とりあえず適当に、自分の向いていた進んでみることにした。「冒険」というものの醍醐味である、何かとの出会いと感動を求めて。
どんどん進んで、気づくと日が暮れかけていた。それに気づいた俺が、とりあえず一晩過ごすためによさそうな場所を探そうと、あたりを見回した、その時。
俺の目の前には、家があった。
人がいたら、一晩泊めてもらおう。もし空家だったら、そのまま使ってしまおう。
俺はそう考えて家に向かって走り出し、ドアをノックした。今思うと、ずいぶん大胆なことをしたと思う。
こじんまりした、木造の家から出てきたのは、三歳くらいのかわいらしい女の子だった。その女の子は、俺
を見るなり、悲鳴をあげて、家の奥へ走っていってしまった。みると、家の中で、両親がぽかんと俺を見ていた。
そこで俺は、そこで初めて気づいた。俺は、裸だったのだ。みるみる顔を赤くした俺をみて、母親と思しき人が服を着せてくれた。
そして、俺に向けて何か話し始めた。しかし少俺には理解できなかった。日本語とは違う、不思議な言語だった。ならばと、俺は日本語で話しかけるも、首を捻られてばかり。するとむこうは身振り手振りで何かを伝え始めた。俺の思い違いでなければ、母親は、「家で暮らさないかい?」と伝えていた。
優しいなぁ、有難いけど……迷惑じゃないかなぁ……と、俺は一瞬考えてから、思い直した。そうだ、これは「夢」なんだ。やりたいようにやってみよう、と。結局この家のお世話になると決めた時、日は暮れていた。
その後、まずは俺の名前を決めよう、という流れになったようで、父、母、そして娘が三人で話し合った結果(俺には何を言っているのかさっぱりだった)、俺の、特徴的な真っ赤な目と髪(俺はここで初めて気づいた)にちなんで、「火の神」を意味する名前が付けられた。「アールス」。それが俺が夢の世界で覚えた、最初の言葉だった。
そうこうしているうちに寝る時間になったようで、俺は、リビングに急きょ用意された布団に寝ることになった。蝋燭のようなものの明かりが消される直前、女の子に「さっきは突然ごめん」の意味で頭をさげたら、向こうも下げ返してくれた。
布団の中で俺は思った。寝たくないなぁ、と。少しでも長く、この夢のなかにいたいなぁ、と。その時俺には、寝たら夢から覚めてしまうということがなんとなくわかっていた
そして案の定、起きたら現実だった。
少しがっかりしながらも、よい夢みたなぁ、という満足感のほうが強かった。
そして、その日の夜。
寝て、起きたら、「夢の世界」の布団の中にいた。
わけもわからぬまま、一日を過ごした。
そしてまた、起きたら現実だった。
歩行者信号が点滅を始めた。俺はペダルに足をかける。頬を生暖かい風が撫でる。
そしてそのサイクルは今も続いている。信じられないかもしれないが、本当の話だ。俺は九年間、アールス・ヒュレットとして「夢」を生きてきた。そして、その「夢」を愛している。
今流行りの「転生」とは少し違う。現実の俺は、こうして生き続けているわけだから。だが、俺の九年間の夢がただの夢で片付けられるものでないことは確かだ――少なくとも俺は、そう確信している。あの世界は一高校生の夢ではなく、本物の「異世界」だと。俺は神なりなんなりの力で、異世界における生を授かったのだと。とはいっても根拠はなく――もしかしたら、俺が心のどこかでそうであることを願っているだけなのかもしれないが。
そして――それに関するいろいろがあって、出逢ったのが明なわけだが、それは、また別の話だ。俺自身、それについてはあまり思い出したくないので詳しくは言わないが、俺はあの時、明に救われた。言い過ぎでなくて、この世界の俺の全てを。そしてそれ以来、俺は明を悲しませるようなことだけはしないと心に決めて生きてきた。それだけのことをしてもらったし、してもらっている。
やっと、自動車用の信号機も赤くなった。そしてすぐに、目の前の歩行者用信号機が青になる。俺は強くペダルを踏み、自転車をこぎ出す。背中に、夕焼けの日差しを浴びながら。
自転車に張られている、「武中真琴」と書かれた銀のシールが、日差しを反射してまぶしく光った。
すでに文章はできあがっているため、どんどん更新していきます。
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cause 1
窓ガラス越しに差し込む日の光が、起きたばかりで朦朧としていた俺の意識を強引に呼び覚ます。それと同時に、昨夜「換気のために」と開けてからそのままになっていた窓から冬の朝の風が入ってきて、体が少し震える。この世界―夢の世界の朝は寒い。現実の世界ではよくテレビで「最近の冬は温暖化であったかくなりましたね」などと言っているが、この世界にはそんなものは存在しないし、いくら俺が育った場所がこの世界の北の端だからと言って、感覚的に人生の半分しかこちらで生きてない俺にとっては、なかなかこの寒さになれるのは難しい。どうしても布団から出るのが億劫になってしまう。よし、せめて隣の住人が起こしに来るまでは寝ていよう。そう心に決め、三枚重ねの布団をかけなおした、その時。
「ア―ルス?起きてるなら返事して?十数えて返事がなかったら強引に入るからね?いくよ?いーち、にーい……」
まるでタイミングを計ったかのように聞こえてくる隣の住人の声。どうやら俺の主神である火の神アーラは俺にさっさと起きろと言っているようだ。ベッドのぬくもりが名残惜しいが、扉の前で待っているだろう隣人に「今行くから少し待ってて」と返事をして、急いでベッドからでて着替える。途中風が不意にはいってきて体にこたえるが、そこは我慢。朝食は隣人と一緒に外で食べることになっているので、食べる必要はなく、そのまま玄関に向かう。それにしても俺が本当に寝ていたらどうするつもりだったのだろうか。まさかマジでドアに向かって全力で攻撃するなんてことはない……とは、残念ながら言い切れない。この世界で十八年間、体感的には九年間(夢での二年は、現実での一年に等しい)、なんだかんだいっていつも一緒にいた俺には安易に想像できてしまうのだ。隣人が玄関をけ破り、意気揚々と部屋に入ってくる姿が。
その辺の危なっかしさは、どこか明を思い出させるものがある隣人―ルーセル・ヒュレットは、俺が玄関を開けた時、やはり扉の前で、不機嫌そうに腕を組んで立っていた。なぜ朝から不機嫌なのかは俺にもわからないが……それより、驚くべきはルーセルの服装である。おそらく零度を下回っているだろう状況で、シャツにスカート、それにパーカーのようなものを羽織っているだけなのだ。おまけにそれで寒がる素振りひとつ見せない。俺なんて下二枚、上に至っては四枚きているのに。同じ場所で生まれ育ったなんてまるで考えられない。
「おはよう、ルーセル。今朝は一段と寒いね」
とりあえずあたりさわりのない挨拶をすると、ルーセルはその可愛らしい顔をしかめた。
「おはよう、じゃないわよ。早起きして街で年明けのお祝いを買って、できるだけ早くノル村にいこうって昨日いったでしょ?それなのに起きてこないなんて……どういうつもり?まさか、行きたくないなんて言わないでしょうね?」
「うん。正直、帰りたくない。寒いもん、あそこ」
「はぁ?あんたそれ本気で言ってる?せっかく故郷に帰れるんだから、寒さくらい我慢しなさい!それとも何?今ここでぶっ飛ばされたいの?ああ、もし気絶してもかついでつれていってあげるから、その辺は大丈夫よ?」
カケラも大丈夫じゃねぇよ!と心の中で突っ込んでから、俺は答える。
「わかったわかった、それだけは勘弁……にしても、よくお前はその恰好で平気でいられるよな。マジで寒くないの?」
「何言ってるのよ。ノル村なんて一年中こうだったじゃない。むしろあなたがさむがりすぎなのよ。…ああ、そういえばあなた、家に来たころからずっとこうだったわね。覚えてる?あなたが真冬に寒い寒い言って、家じゅうの布団をかぶって寝て、そのまま起きてこなかったから、寝ながら窒息死したんじゃないかって騒ぎになった時のこと。あの時は本気で心配したんだからね?」
ああ…確かにそんなこともあったなあ……今となってはいい思い出だ。しかし、俺の正体は科学文明のぬるま湯にひたった、一介の男子高校生なのだ。氷点下十度で、掛布団一枚で寝るなんて修行僧じみたまねはできない。それは分かってほしい……が、いまルーセルに「仕方ないだろ。俺は本来もっとあたたかくて便利な“ニホン”って場所に住んでんだよ」なんて言ってもまずまちがいなく頭にクエスチョンマークを浮かべられるだけだろうから、説明するだけ無駄というものだ。
「ああ、覚えてる覚えてる。おもにお前の泣き顔を、な。あの時の顔の崩れっぷりと言ったらもう……」
「なっ……あれは忘れてってなんどもいったでしょ!!!」
顔を真っ赤に染めて言うなり、殴りかかってくる。ルーセルは俺に泣き顔を見せたのが大変恥ずかしいらしく、それがトラウマになっている。俺はことあるごとにそれをネタにいじって楽しんでいるのだが…いまのは完全にルーセルの自爆である。まったく、自分で思い出させておいて何を言っているんだか。
徐々にエスカレートしてきたルーセルの攻撃をいなしつつ、俺は家族にむけてのお祝いについて考える。どんなにぐだぐだいったところで、俺に「ノル村に帰らない」という選択肢はない。俺自身たまには故郷で両親の顔を見ながらゆっくりしたいという気持ちもあるし、息子はどこにいても、一年に一度は親に顔を見せるべきだと俺は思うからだ。……そういえば昨日南の海で取れたっていう高級魚の特売をやるって言ってたな…よし、それにしよう。海産物なんて食べたことないだろうから、きっと喜んでくれるだろう。
ルーセルは俺への攻撃をあきらめたらしく、少し乱れた息を整えながら、言った。
「と、とにかく、さっさと朝ごはん済ませるわよ!誰かさんのせいで時間食っちゃったから、いそがないと!」
しれっと言われた嫌味はこの際無視することにする。
「ちょっと待ってくれ、ルーセル。二つ話がある」
「何よ」
走り出そうとしていたのをやめて、さっと振り向くルーセル。声音が「早くしなさい!」と言っているようだ。
「一つは年明けのお祝いのこと。いまふとおもいついたんだが……南海産の魚なんてどうだ?ちょうど、今日特売だって言ってたし」
「ああ、魚ね…いいわね、それにしましょ。……で?あと一つの話って?」
せかすルーセル。
「提案があるんだが…ちょっと俺が思っていたより遥かに寒いからさ…」
「もうこれ以上いろいろ言わない!本気で怒るよ!」
「話を最後まで聞けよ。最近忙しくてやってなかったし、何より体を一回あたためたいし……」
笑いながら一回そこで言葉を切ると、ルーセルは首をかしげてから、すぐに俺の真意を悟ったようで、笑ってうなずいた。
「いいわよ。そのかわり、一回だけだからね」
「オーケー。一回で十分だ。」
走って階段を下り、軍で俺が率いている部隊にあてがわれている寮の庭に下りる。思った通り、朝早いせいで周りに人の姿は見当たらない。日の光を反射して光る寮の壁が、直視できないほどにまぶしい。
「時間もないし、さっさと終わらせようか」
そう言うと、ルーセルは憮然とした表情で答える。
「それはこっちのセリフよ……今回こそは勝つからね」
「おう…やれるもんならやってみろ!!」
そういって俺は、開始の合図になる一枚のコインを、ポケットから出して上にはじく。
たがいに右手を水平につきだし、二十メートルの距離で向き合う。手のひらに意識を集中させながら、宙を舞うコインを凝視する。
コインが、落ちた。
瞬間。
「「はっ!!」」
短い気合いとともに、俺の手からは炎が、ルーセルの手からは水が吹き出し、二人の真ん中―いや、若干俺よりか―で、激しい音を立ててぶつかり合う。庭の木に止まっていた鳥たちが驚いて飛び立つ。正直、ここまで音が出るとは思っていなかった。確かにこれをやるのは一か月ぶりだが…俺とルーセルの成長速度が想像以上に早かったということだろうか。寮をみると、おそらく今の音で起きたのであろう何人かが「なんだよ……」と文句を言いたそうな目で俺たちを見ている。わるいことをしたな……後で謝らないと。
手が押し込まれる感覚が、俺の意識をルーセルとの勝負に引き戻す。初めは十メートル先にあった炎と水の境界線が五メートルの距離にまで近づいている。ルーセルの表情は「集中しなさい!」といわんばかりだ。勝ちたいなら俺が呆けている間に押し切ることもできただろうに……まったく、律儀な奴だ。思わず、笑みがこぼれる。
心の中でルーセルに一言わびてから、「よしっ」と気合を入れなおす。ルーセルの思いに答えるためにも、ここは全力を出そうじゃないか。後悔しても、しらないぞ。
そう思い俺は、再び手に意識を集中させる。
俺たちが操り、ぶつけあっているのは「神素(じんそ)」。
古代―神がまだ地上にいた時代の「名残」であり、科学のないこの世界の「全て」だ。
神素について説明しようと思ったら、遥か昔―それこそ、この世界の誕生における神話にまでさかのぼらなくてはならない。ここから先は俺もしっかりと覚えているわけではないので少しあいまいになるかもしれないが、そこは勘弁してほしい。
遥かな昔、何もなかったところに、五体の神がやってきた。炎、水、大地、空気をつかさどる神がいたとされる。残りの一体は何をつかさどっているのか、そもそも何のためにいたのかさえ分かっていないらしい。ただ、存在していたことだけは確かだそうだ。
その五体の神は協力してこの世界を創った。そしてそれぞれが気に入った場所に居を構え、長らく世界を見守っていた。やがてヒトを初めとする生物が生まれ、発展するのをみて満足した神々はどこかへ旅立った。―というのが、この世界の「始まりの神話」の大まかな流れである。ちなみに、世界の東西南北の端にある、鉱山資源が豊富な東の大山脈、西の果ての雲海、南の果てのない海、数千年前から休火山になったと言われる北の大火山は神が住んでいた場所とされ、何千年前に建てられた神殿が、今なお立っているらしい(アーラの神殿だけはいろいろあって場所を移されているが)。残りの一体の住処は、これまた分かっていない。その神の神殿は、ここ帝都セルリートにある。俺は二、三回しか行ったことはないが、なかなか壮大で優美な建物だ。いくらこの世界には地震などといった災害がないとは言っても、どうしても老朽化は起きてしまうのに……よく何千年も前にあんなものを建てて、今に残しているなと思う。古代人の努力とその成果に精一杯の拍手を……
おっと、話がそれた。神素についてだが、もともとは神々がこの世界を創るのに使ったものとされる。それが事実だとすると、この世界は五体の神がそれぞれ操っていた神素―炎素、水素(H2のことではない)、地素、風素、そしてこれまた分かっていないあと一つ―だけで出来ていることになり、俺にはそれが到底信じられないのだが……まあ、そういうことらしい。
そして世界を創り終わった後、神々は空気中に漂っていた余りの神素を、地上で唯一使いこなせそうだったヒトに使わせることにした。初めはそれぞれの住処の近くに住んでいた者に神自ら使い方を教え、その人からより世界の内側の人に、さらにより内側の人に……という風にして瞬く間にそれは広がっていった。しかしこの時も残り一つの神素は教えられなかったらしい。今でも一体の神だけが謎に包まれているのは、このためだ。
さらに地域ごとの交流によって人々は二つ目、三つ目の神素も使えるようになり、それらを使っていろいろな場所を開拓し、いろいろなものを発明していった。やがて莫大な量の神素を、同時に正確に使えるとびぬけた神素使いが現れ、その人をトップとした組織が出来上がった。その組織は徐々に拡大し、やがて世界全土を治めるようになった。そのトップは自ら「帝(みかど)」を名乗り、神々に感謝しながら政治を行った。その男の死後、帝は世襲制となった。代々の帝が立派だったのと民衆にはまったく「争い」やら「権力」というものに興味がなかったこともあり、世襲制は長く続いた。そしてこの世界における唯一の戦乱の時代を経て、政府は神素の扱いにたけた者を集め、適性を示す一神素のスペシャリストにすることで、神素を兵器として使える人材を育成するために「軍」を組織した。しかしその甲斐空しく、結局その後は何も事件は起こらず時は流れ、今に至る。―というのが、歴代の帝の記した「歴史書」から読み取れる、ヒトと神素の歴史だ。
つまり神素は、ヒトの発展の歴史そのものであり、本当に―本当の意味で世界の「全て」なのだ。
今では神素は五歳から十二歳まで通う村校の必須科目となり、政府はその役割をわずかなものにしているが、特に役目もない軍の規模は発足当初のままという、日本国民の俺からしたら不思議な現象が起きている。
俺はその軍の中で、炎素の達人として、また異例の速さで昇進していく期待の若手として、一部隊を任されている。ただ俺としては、年功序列が基本のこの世界で、たかが十八歳がなぜこんなに早く昇進していくのかがよくわからない。確かに俺は強い。それは認める。炎素を扱う人の中では五本の指に入っているという自信もある。しかし、俺より年上の人、統率力のある人だっていっぱいいる。それなのに、なぜ俺なのか?疑問は尽きない。……まあ何を言ったところで、与えられた場所で精一杯やることぐらいしか、俺にできることはないのだけれど。
俺と一緒に軍に入ったルーセルはというと、平均より少し上くらいのレベルの水素使いで、俺の部隊で副官を務めている。。これは実力に関係なく(決してルーセルが弱いと言っているわけではない。十八歳で平均以上というのは相当なものだ)、副官は部隊長が選べるという形骸化していた権限を俺が使ったためだ。経験をつんだ先輩を選ぶという手もあったが俺はルーセルを選んだ。やりやすいというのもあるし、何よりルーセルのことを信頼しているからだ。正直かなりの苦情を覚悟していたのだが、その類のものは一切なかった。やはり今もこの世界のヒトは「権力」というものに興味はないらしい。ルーセルはこのことにいたく感激したらしく―涙目で礼を言われた後帝都で一番のスイーツをおごってくれた。現実なら賄賂と解釈されてもおかしくない―、精力的に務めてくれている。働きぶりを見るに、おそらく俺よりリーダー向きだろう。ただそうはいっても実力は俺の方が今も昔も変わらず上で、今日のような神素のぶつけ合いでは俺の通算百四十九勝負けなし。今日は結構危ない試合だったが、結局勝って百五十連勝。しかし俺の目標はあくまで生涯負けなし。ここで慢心してはいけない。
そう自分に言い聞かせ、俺は地面に膝をついてうなだれているルーセルに手を差し伸べる。こういう訓練における神素の打ち合いでは、お互いの神素のぶつかり合っている位置がどちらかに近くなり過ぎないうちに押している方がやめるというルールがあるので、怪我の心配は一切ない。力量差がありすぎる人物が相手の場合、一方的にやられて直撃ということも考えられなくもないが、そもそもそういう相手には普通訓練の相手は頼まない。ゆえに、俺とルーセルはもう何百試合とやっているのだ。
「お疲れ。なかなかいい勝負だったな。おかげで体もあったまったよ。……ちなみにこれ
で俺の百五十連勝だぜ?ああ、一度くらいは負けてみたいもんだなぁ」
「くぅ~っ、悔しい!ああ、あの時全力で押し切っとけばよかったかな…まあ、いいわ。やっぱり本気のアールスに勝たないと意味ないし。今度こそ、私が勝つからね。今ここで宣言しとくわ」
「お前のその宣言は聞き飽きたよ…まあ、せいぜい頑張ることだな。いつでも相手はしてやるから」
「なによ、その言い方!なんかむかつく!」
そういうとルーセルは俺の手を握ろうとしていたのをやめ、ぴょんと飛び上がって立ち上がった。…こういう時、どうしてもスカートのすそに目が行ってしまうのは、男の性だろうか。この世界にはいない明に対して、若干の罪悪感が湧く。
自分で自分に溜息をつくと、ふと足元の芝が黒いことに気付く。どうやら木の陰に入ったようだ。日が当たらず、少し体が冷える。……あれ?ちょっと待てよ。この場所が木の陰に入ったということは……もうずいぶん日が動いた……つまり……結構時間がたった……ということにならないか……?
さっと空を見上げると、やはり日はかなり高い位置にまで上がっていた。これはまずい。ひさしぶりのルーセルとの試合でうっかりしていた。ノル村到着が遅れてしまうのもそうだが、なにより南海産の魚は美味で有名で、特売となるとすぐに売り切れてしまう代物なのだ。日の高さとあの店の開店時間から判断するに、全力ダッシュで間に合うかどうかといったところだろう。こうしちゃいられない。
ルーセルは突然焦りだした俺をよくわからないという目で見ていたが、俺の意識が日に向かっているのだと気付いた瞬間、すべてを悟ったようだ。みるみる内に顔が青くなっていく。…二人ともあほ過ぎる。もはや笑いしか出てこない。
「ルーセル。急ごうか」
笑いながら言うと、ルーセルも笑いながら返す
「うん。急ごうね」
結論からいって、魚の特売には間に合った。残っていたのは二、三匹ほどで、なかなかの冷や汗ものだったが。
あの後俺たちは急いで試合の音で叩き起こした部下たち―といってもほぼ全員年上―に謝り、ダッシュで市場へ向かった。謝っている最中に若干にやけているやつがいて、ルーセルがそれに過剰に反応していたのだが…何かあったのだろうか。
そして市場につき、人込みをかき分け進み、魚屋の前の行列にうんざりし、朝食を食べていないが故の空腹と戦い、どうにか魚を手に入れた。我ながら、よく頑張ったと思う。
しかし代償はあった。大きなマグロのような魚――確かタッキとかいったか――を俺が手に持った瞬間、ルーセルが突然ばたっと倒れてしまったのだ。市場中のひとが集まってきて大騒ぎになりかけたが、俺は冷静だった。というのも、前にもこういうことがあり、俺にはなぜルーセルが倒れたのかがだいたい分かっていたからだ。こいつは今朝朝食を食べていません。おそらく、そのせいでしょう。大事には至りません。集まってきた人たちにそう説明すると、みな笑いながら散って行った。なかには食べ物を差し出してくれた人もいたが、俺は丁重に断った。こんなくだらないことで、御厄介になるつもりはない。
そして今、俺は一人で重い魚を持ち、それより重い(当然だが)女の子をおぶって自宅に向かている。全く、倒れるくらいまで我慢しなくても、俺がいたんだから、俺にまかせて何か食べに行けばよかったのに。どうせ「迷惑をかけたくない」とでも思っていたんだろうが……こっちの方がよっぽど迷惑だよ、ちくしょう。
そんなことを考えていると、ふいにノル村での、ルーセルとのことが思い出される。初めてのあの恥ずかしい出会い、それからの家族四人での生活、村校への入学とそこでの楽しかった日々、卒業の日、軍に二人同時に入れると知った時のあの満面の笑み…すべてがいい思い出だ。もちろん軍に入ってからもいろいろと思い出はあるが、思い出した時に俺のなかで一番光り輝くのは、おそらくノル村での日常だろう。そしてそれはルーセルも一緒のはずだ。いくらノル村が、常識の範囲外で寒いといっても。
俺がルーセルのことをなんだかんだで嫌いにならないのは、いや、むしろ好ましく思っているのはそのためだろう。俺がこの世界に生まれ落ちてからほぼすべての時間と思い出を共有し、お互いには絶対に負けたくないという気持ちを持っている。それをお互い知っているからこそ、一瞬きらいになったとしても、またすぐによりを戻すことになるのだ。お互いのことが忘れられずに。
ルーセル。好きだよ。でも、万年二番手だけどな。
……なんて、本人の目の前で言える俺ではない。言えたら、苦労はしない。せいぜいできて、想うことぐらいだ。
「うぅん……」
耳元で突然、ルーセルの声(?)が聞こえた。一瞬思考を読まれたのかと思って冷や汗をかくが、そんなはずもなく。ルーセルはいまだに意識を失ったままだ。おそらく、何か食べさせるまでは起きないだろう。意識を前方に戻すと、もうあと五十メートルほどで寮につくというところまできていた。いろいろと考えていたせいで、距離感覚が少しくるったようだ。
残りを思考をやめたせいでかなり重く感じるようになった荷物と戦いながら歩き切り、どうにかして三階の俺の部屋の前につくと、意識が飛びそうになる。そういえば俺も何も食っていないんだったと、今更ながら実感する。日は空の一番高いところまで登っている。いつもなら昼を食べててもおかしくない時間だ。そりゃ腹も減るわけさ……しかし、ここまできて俺が倒れるわけにはいかない!あとは玄関を開けて、二、三歩歩くだけだ……頑張れ、アールス・ヒュレット……!
自分の心を激励叱咤し、どうにか台所に立つ。神素の一つ、水素にかなり精通した者しか作れないとされる、永久に溶けない氷―ルーセルはこの間作れるようになったばかりだ―を使った、一種の冷蔵庫のようなものから食材を取り出し、自分のご飯を簡単に作り食べてから、ベッドに寝かせておいたルーセルに何を食べさせようか考える。ルーセルはがっつり食べたい気分だろうが、そこまでの食材はないし、体に悪いだろう。ここは一つ、おかゆでも作ってみるか。
冷蔵庫もどきから米などの必要な食材を出し、鍋にかける。こういう時この冷蔵庫もどきは非常に便利だ。一般市民ではなかなか手に入れられない貴重な素材を自分たちで作り、好き勝手に使えるというのは軍のメリットの一つである。
ちなみにこの世界の生態系であったり、動植物の姿かたちは非常に地球のそれに似ている。ゆえに現実で培った料理スキルも使えるし、おかゆといったまったく同じ料理もいくつかは作れたりするのだ。これもまた、非常に便利である。
おかゆを炎素を利用したガスコンロもどきで煮ている間、ルーセルの様子を見ようと俺はベッドに腰掛ける。とりあえずゆっくりと息はしているようだ。おかゆを食べさせれば、すべて解決するだろう。
こうして寝ている分には、相当かわいいのに。一安心した俺は、ルーセルの顔をまじまじと見ながらそう思う。肩までかかる、北部特有の真っ黒な髪に、若干幼さの残る、細く整った顔立ち。普段明で美人の顔は飽きている俺の目すら、とらえて離さない魅力がある。
ついつい、見入ってしまう。
突然、ルーセルが目を開けた。無論、ルーセルの顔を覗き込んでみていた俺と目が合う。しばしの気まずい沈黙。お互い目を離したいのに、なぜか離せない。体すら動かせない。ルーセルの顔がどんどん赤くなっていく。俺の顔も赤くなっているだろうことは、鏡を見ずとも分かる。それと同時に、明への背徳感が募っていく。
ここで「ぴゅーっ」という鍋の音がならなかったらどうなっていただろうか。俺はタイミングよくなった鍋のもとへ向かう。背後でルーセルが深呼吸する音が聞こえる。
鍋の中身を確認すると、ほどよくにえていた。手袋をはめ、鍋をスプーンとともにベッドへと持っていく。
「……ほら、食べな。熱いから、気をつけろよ」
つい先ほどのことを思い出し、目を少しそむけながら言うと、ルーセルも目をそむけながら小声で「ありがと」と言った。
二度目の沈黙。こんどそれを破ったのは、ルーセルだった。鍋のふたを開けながら、「ねえ、アールス……」と、かろうじて聞き取れるかどうかの大きさの声で、俺を呼んだのだ。
「どうした?…まさか、どこか具合が悪いのか……?」
「そうじゃなくて……あ、あの、さっきのは、な、無かったことにしようって話よ……」
そうだな…それには俺も大賛成だ。自分のなかで無かったことにしないと、いつ現実の明の前でぼろが出るかわからない。それだけは絶対に避けなければいけないし、いつまでもルーセルとぎぐしゃくしたままだと、やりづらいことこの上ない。
「ああ、そうだな。うん。俺たちは、今ここでなにもしなかったし、何も感じなかった。そうだろ、ルーセル?」
「ええそうね。私たちは今ここで何もしてないし、なにもかんじてないわ。そうよ、そうそう!」
「そうだな、はははは!」
言いながら笑い出したルーセルにつられて、俺も思わず笑う。はたから見たら急におかしくなった二人組にみえるだろうが、それがどうしたというのだ。物事を忘れるのには、笑うのが一番というじゃないか。
「ところでアールス、おかわり、ほしいんだけど」
いつもの調子にもどって、突拍子もなくルーセルが言った。
「は?え、いつの間に食べたの?けっこうたくさん入れたつもりだったんだけど」
「話しながらでも、このくらいの速度でならおかゆくらい食べられるわよ。私の特技、忘れたわけじゃないでしょ?」
そうだった。こいつの特技は早食いだった。でもなルーセル。一つ言わせてもらうと、それを誇らしげに言うのは、女の子としてどうかと思うぞ。
そう心の中でつぶやき(口に出すのはやめておく)、無言で鍋を受け取り、台所へ向かう。
冷蔵庫もどきからさっきと同じ食材をとりだし、ガスコンロもどきに鍋をかける。ついでにこのまま俺も昼食にしてしまおうと思い、同じものをもうワンセット作る。
しばらくして鍋が煮上がり、ルーセルのもとに持っていくと、ルーセルはいつもの調子を完璧に取り戻したようで、ベッドの奥の方に腰掛け、雑誌を読みながら俺を待っていた。俺が隣にすわると、ルーセルは申し訳なさそうに一言言った。
「遅くなっちゃったけど、ありがとね。私がここにいるってことは、どうにかして連れてきてくれたってことでしょ?急に倒れちゃったりして、ほんっとにごめんなさい」
「気にしない気にしない。そのかわり、俺が倒れたときはよろしく頼むよ」
「ええ、もちろん。…と言いたいところだけど、あなたを持ち上げる自信が、私にはないの。そういうわけで、それは無理ね」
「何を言う!俺はそこまでおもくはないぞ!」
「そう?最近太ったように私には見えるんだけど。食べすぎなんじゃないの?」
それはお前だけには言われたくない!
「朝抜いただけで倒れるほど俺は食べ物に固執してないんだよ!たべすぎはそっちだろ!」
「なっ……そもそもあなたが寝坊したあげく、あんな提案をしたからこんなことになったんじゃない!」
「謝っといて結局俺のせいかよ!」
「そうよ!あんな謝罪撤回よ撤回!!」
身を乗り出して言うルーセル。気づくとルーセルの顔がまさしく目と鼻の先にある。ルーセルはお互いの顔がかなり近づいていることに気付いていないようだ。俺の脳裏に、さっきみた真っ赤なルーセルの顔がフラッシュバック。言い争いのことなんて頭からふっとび、思わず顔をそむけてしまう。
するとルーセルは、さらに身を乗り出して俺をにらんでくる。息が耳にあたり、かなりくすぐったい。このままでは気まずさとくすぐったさで死んでしまいそうなので、俺は覚悟を決めて口を開く。
「ルーセル。近いよ……」
ルーセルをどけるには、その一言で十分だった。ルーセルはさっと身を引き、ふらっと倒れるようにベッドに腰を下ろした。おそらく、俺と同じようにさっきのことを思い出したんだろう。俺もつられて、深いため息とともにベッドにルーセルとの距離をおいて座る。せっかく忘れかけていたというのに…もったいないことをした。
今日三度目の沈黙が、俺の家を支配する。声をかけようにも、なんと言えばいいのか。黙って考える。
しばらくして―この沈黙を破ったのは俺の言葉でも、ルーセルの言葉でも、もちろん鍋の沸騰する音でもなく、「失礼します、隊長。」と言って部屋の中に入ってきた、この部隊最年少の部下だった。
「おう。何かあったか?」
これ幸いと玄関で待っている部下のもとに向かう。基本的に軍の寮は部隊ごとに分けられているが、隊長室というものがないので有事の際は部屋を直接訪ねることになる。そしてその役割はその隊で一番若いものが務めるのが常だ。その目的はあくまで「新入隊員に早くなじんでもらうには隊長と会わせるのが一番!」というものであって決して「雑務の擦り付け」ではない。この世界の人々はみな真面目なのだ。
「いえ。封筒が届いているので届けに参りました」
そういって部下は封筒を手渡す。だが、正直俺にはまったく心あたりがない。郵便制度が発達しているのは帝都近辺だけなので両親からということはありえないし、帝都に住んでいて,手紙を送ってくるような知り合いはひとりいるにはいるが、今は忙しくそれどころではないはずだ。……いったい送り主はだれだろうか。
「ありがとう。確かに受け取ったよ」
とりあえずそう言うと、部下は「それでは」と言って帰って行った。どうやら奥の寝室にいるルーセルには気づかれずに済んだようだ。俺のベッドに腰掛けているところを見られたらなんていわれるかわかったものではない。
ルーセルを放っておくわけにもいかないので寝室に戻る。まだルーセルの頬は少しあかみを帯びている。正直、なんて言ったらいいのか全くわからない。このまま放置して、ルーセルから何か切り出すのを待てたらどれだけ楽だろうか。しかし、ここで自分から切り出してこそのアールス・ヒュレットではないだろうか。俺の心の中でそういう二つの感情が激しくぶつかり合う。
ルーセルはそんな俺の心の葛藤を知ってか知らずか、無言を保ち続けている。いつものルーセルからは考えられない姿だ。……ええい、こうなったら玉砕覚悟、こっちから話をふてみよう。
「ルーセル、あのさ……」
あえなく失敗した。言葉が続かない。頭が混乱して、何と言うべきかまともに考えることもできない。これはやってしまった。
完全にフリーズした俺を見て、ルーセルは、小さくくすっと笑ったあと、いたたまれなくなったのか、それとも俺の不甲斐なさに嫌気がさしたのかはわからないが、自分から口を開いた。
「いい?アールス。朝あなたが寝坊したことも、私が市場で倒れちゃったことも、それからさっきのことも、全部相殺し合って、みんなチャラ。それでいいでしょ?」
非常に―非常にありがたい申し出だ。
「ああ……ああ。そうしよう。これでもう、後腐れなしだな」
「ええ、もちろん。ところで、今からノル村に向かっても、今日中には着けるわよね?」
窓から確認すると、もう日は真上からかなり西に傾いていた。ただ、急いでも間に合わないというほどでもない。
「まあ、急げばな」
さっきもらった封筒を開きながら俺は答える。中に入っていたのは一枚の厚紙だ。内容は…ふむふむ…
「それなら早く出発しましょ。さっさと準備して。」
「いや、ちょっと待て」
言いながら自分の部屋に戻ろうとするルーセルを押しとどめる。俺は手紙の内容をもう一度しっかり確認してから、待たされていらついているであろうルーセルに渡し読むように促す。
「もう、手紙がどうしたっていうのよ…って、え?うそでしょ?」
目をこしって再度内容を確認するルーセル。おいおい、日にすかしたからってなにもうかんでくるわけないだろ
「読んだな。じゃあ、俺はいってくるよ。……結局、明日になっちゃったな。ノル村」
「まあ、こればっかりは仕方ないわよ。それにしても……私の見てないところで、あなた一体何したの?あの方から直接手紙が来るなんて、ただごとじゃないわよ」
「別に俺は何もしてない!」
そこは全力で訂正する。しかし…確かに、一抹の不安を持たずにはいられない。なにせ、帝宮(ていきゅう)への呼び出しを食らったのだ。しかも、送り主はヒュルト・シュバイト。……現帝だ。何の理由もなく呼び出される場所ではないし、呼び出すような人ではない。そしてその理由は、俺がやらかした何かに対するお咎めとしか考えられない。
「まあ確かに追申に「年明け休暇を一日延長する」って書かれてるから、軍を脱退させられるってことはないだろうけど……それでも、少し怖いわ」
「こうなったらなるようにしかならないさ……それじゃ、行ってくるな。できる限り早く帰ってくるから、夕ご飯でも作って、待っててくれよ」
まだ不安そうなルーセルを元気づけるために、わざと明るくふるまう。事実、もう天に身を任せるしかないのだ。それなら、より明るくふるまう方がツキもついて来ようというもの……
「…うん。わかった。待ってる。…なんて私が言うと思った?何一人で行こうとしてるのよ。当然、私もついていくわ。どーせひまだし。」
…。「どーせ」ってなんだよ「どーせ」って。しかも「ひまだし」ときた。他人事だと思ってやがるな、こいつ…さっきまでの様子は一体何だったんだ……気遣って損したな…俺のわずかな不安も吹き飛んでしまった。その一方で、そんな「他人事」のような軽い感じで「ついていく」と言ってくれるルーセルは、やっぱり頼りになるなと実感する。正直、一人であの場所に向かうのは結構心細かった。
「じゃあ、行こうか、ルーセル」
「ええ…早く帰って早く寝ないと、誰かさんが寝坊しちゃうからね」
「おい!さっき「今日のことはみんなチャラ」っていったのはお前だろ!」
「別に今日だけのことじゃないし。むしろそれが日常じゃない?」
「そこまで俺はねぼすけじゃない!」
言い合いながら玄関をでて、階段を下りる。ちょうど正面にある夕日がまぶしい。街を見ると、もう買い物客のピークは過ぎたのか、だいぶ人が少ない。そして街のずっとむこうに、帝宮と「謎の神」の神殿が並んで立っているのが見える。おそらく帝は今、あの中で俺の到着を待っていることだろう。もしかしたら、「遅い」と怒っているかもしれない。本当にそうだったら、どうやって許してもらおうか。
そこまで考えたところで、俺の脳裏に帝―ヒュルト・シュバイトの、以前軍の入隊式の時に一度だけみたあの自信に満ち溢れた笑顔が浮かぶ。
彼は三十代前半ながら、知力、神力―神素を扱う能力のことだ―、容姿、全てにおいて歴代の帝最高と言われている。しかしだからと言って生まれつき天才だったわけではないらしい。いったいどれほどの努力を積んだのだろうか。噂によると、一度三日間不眠不休で教えを乞い、教育係を寝不足で倒れさせたことがあり、そのせいで教育係が三交代制になったとか。
しかしいくら努力しても、今の帝の役割といえば、月の初めに世襲制の帝宮役員に命じてわずかばかりの税を集めるのと、軍の指揮を執るぐらいなので、あまり意味はない。だがこの世界のヒトは純粋に彼のことを尊敬し、信頼している。この間数千年ぶりに税を上げるといったときも、俺は「何に使うんだ?」と思い、当然みな反対するものと思っていたが、あろうことか民衆は「帝のいうことなら」と一切反対することはなかった。こんなことでいいのだろうか、と俺は思ったが、増税分がなぜか軍に流れてくると知ったので、黙っていることにした。…ずるいとは言うな。
ただ、だからといって疑問が消えたわけではない。そもそも今の軍がしていることと言えば、指令に従って地方の要望―例えば「この大きな石をどかしてほしい」とか、「この大木を切ってほしい」とか―に答えるためにあちこち飛び回るか、帝都の演習場で訓練するかのどちらかなのだ。予算を増やす意味はまったくない。ならば給与が上がるのか!と期待していた俺だったが、一向に上がる気配がない。……一体増税分はどこに流れているのだろうか。まさかあの帝に限ってねこばばしているということはないだろうが。いや、そもそも「ねこばば」という概念自体がこの世界のものではないのか。
ちなみにこの世界の一年は現実での半年に当たり、それで現実の年齢八歳でこの世界に生まれた俺が十八歳になっているわけだが、その分この世界の住人の寿命は長く、百五十歳を超えた人が平気で孫と遊んでいるのをよく見る。ちなみに結婚適齢期は三十~六十歳らしい。ゆえに帝の年齢を現実で換算すると、だいたい俺と同じ高校生くらいということになる。帝としては随分若いが、これには理由がある。先帝夫妻になかなか子供ができなかったためだ。帝は百歳で息子に位を譲り、自分が位についていた時のことを「歴史書」としてまとめなければいけないという決まりがあるのだが、その百歳になる直前まで子供ができず、毎日神殿に通い祈願した結果、どうにか間に合った、ということらしい。
さらにこれも余談になるが、この世界のヒトの成長の流れは少し不思議で、二十代前半までは心身ともに急激に成長し、そこからは極端に成長も老化もしなくなる。そして百歳くらいから老化が始まり、長生きのヒトでも二百歳までには死ぬ。だから帝も三十代とはいっても、見かけは二十代前半だ。
「アールス?ちょっと、聞いてるの?」
ルーセルの声がして横を向くと、ルーセルが俺をにらんでいる。どうやらだいぶ前から話しかけようとしていたらしく、かなりいらついている。
「ああ、悪い。ぼうっとしてた」
素直に謝ると、ルーセルは「はぁ」とため息をつき、あきれたように言った。
「まったく、これから帝に会おうって人が、そんなにぼうっとしていてどうするのよ。
……帝の前で何かしたら、その場で軍除名って可能性もないわけじゃないのよ。もっとしゃきっとしなさい!」
「すいません…」
これは悔しいが、ルーセルが全面的に正しい。帝には軍の全指揮権があるので、目の前で失態をおかし、それが帝の隠していた日々のストレスを爆発させ、その場で二人とも解雇……ということもあり得るのだ。
「まあいいわ……ところでアールス、一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「なんかさっきおいしそうな食べ物売ってた店があったの。おごってあげるから、ここでまってて」
「ダメ。ほら行くぞ。」
「え~。なんでよ~お願い~」
珍しくおねだり口調のルーセル。それにくわえて、頬をぷくっと膨らませている。はっきり言って、気持ち悪い。間違いなく逆効果だ。
いやいや、ダメに決まっているだろ。お前こそ緊張感をもて、緊張感を!
そう言いたいのはやまやまだったが、悲しいかな俺にそれを言う資格はないし、隠れ美食家のルーセルの目にとまったものを食べたいという気持ちもほんの少しあるので、ここは許してやることにする。
「分かった。待っててやるからさっさと行ってこい」
「え、ホント?ありがと!」
ルーセルは顔をぱっと輝かせると、ダッシュで行ってしまった。どんだけ食い意地はってんだよ……俺は適当な場所を見つけ、寄りかかる。あたりを見回すと、もうずいぶん暗い。気温も下がってきた。じきに炎素を利用した街灯もどきが光りだすだろう。南の空では一番星が光っている。
「おう、こんな時間に一人でどうしたんだい?」
声のした方を見ると、おっちゃんが一人、魚を持って立っていた。おそらくここの近くで店を開いている人で、手に持っているのは売れ残った魚だろう。家に持って帰って食べるのだろうか。
「別に…ただ食い意地のはった迷惑な女を待ってるだけですよ」
「はは、そうかいそうかい。でもこうして待ってるってことは、嫌いじゃねぇんだろ、その女のこと」
「ええまあ。むしろ好きな部類に入りますね」
「ほお…じゃぁ、あれなのか?カップルなのか?」
「ちがいますよ。俺にはもう、ほかにいますから」
「てことは、お前さんは二股かけているのかい?なかなかやるじゃねぇか!」
がはは、と笑いながら言うおっちゃん。…うーむ、否定できない。明には悪いが、俺は確かにルーセルのことも好きだ。だからといって、明を捨てるなんてできない、いや、そんなこと、俺の立場で許されることではない。うーん、悩ましい。
黙り込んでしまった俺を見て、おっちゃんはもう一度がははと笑った後、「じゃあな」といって去って行った。人騒がせな人だ。背中越しに、「若いってのはいいねぇ」という独り言になっていない独り言が聞こえてくる。
ただ、一人になって考えれば考えるほどに、誤解されても仕方ないのかもしれないと思えてくる。 どちらかをとれと言われたらもちろん明をとるし、ゆえにルーセルに告白しようとは思わない。しかしこの世界では、俺とルーセルはいつも一緒にいる。それこそ、カップルだと思われても仕方ないくらいに。それはもう、付き合っているのと同義のことのような気もする。
はぁ…思わず寒さで白くなったため息がでる。いくら考えたところで、俺には明との関係は結局きれないし、ルーセルとの仲を疎遠にすることもできない。だったらもうひたすらこの状態―明を第一にし、ルーセルとは一線を超えない関係―を維持することが一番じゃないだろうか。
自分で出した決意とも逃げともとれるような結論に再度白いため息をつきつつ、だいぶ暗くなった空を見上げる。この世界の宇宙は一体どうなっているのだろうか。これは俺がこの世界に生まれ落ちて、初めて空を見たときからの疑問だ。できることなら、生きているうちにどうにか確認したいものだ。もちろん、自分の目で。
「アールスー!」
遠くからルーセルの声が聞こえてくる。手に二つの袋をぶら下げ、こっちに全力で走ってくるのが見える。なんだかんだで、ずいぶん待たされたな。帝も俺がこんなところで油を売ってるなんて思わないだろう。今頃待ちくたびれて寝てたり……しないよな。あの完璧な帝のことだから。
「ごめん!思ったよりこんでて……はい、これ」
そういってルーセルが差し出したのは、一本の肉刺し棒だった。たれたら出る香ばしい匂いが鼻をくすぐる。ルーセルが女を捨てる勢いでかぶりついているのを見て、俺も思わずかぶりつく。うん、うまい。この歯ごたえが何とも…俺がそうやって味わっている間、ルーセルはもう食べ終わったようで、口のまわりをポケットから出したハンカチで丁寧に吹いている。
俺が食べ終わるのを待って、ルーセルは口を開く。
「さて、急ぎましょ。…早くしないと、ほんとに軍から除名されるかもよ」
「それだけは勘弁ねがいたいな……」
本当に、そうならないことを願うばかりだ。今軍を解雇されたらはっきり言っていく当てはない。ノル村には、恥ずかしくてとても帰れないしなぁ……
俺はそんなことを考えながら、ルーセルと肩を並べて歩き出す。帝宮まではあと一キロといったところだろうか。昼間の喧騒がなくなった市場をぬけ、逆に帰宅する父親たちで騒がしい住宅街へと入る。ここ帝都は簡単にいうと中心から帝宮と神殿、住宅街、市場と工房、そして軍の施設という同心円状の構造をしている。これは遥か昔に起こった戦乱のあと、万が一のためにと時の帝が整備したのをそのまま維持し続けているためだ。
ちなみに工房というのは、つねに神素を利用した発明品の開発と、すでに市場に流通したものの製造がおこなわれている場所らしい。らしいというのは、だれも工房で何が行われているのかは正確には知らないためだ。唯一はっきりしているのは、工房で働くには一度軍に入る必要があるということと、働き出したら死ぬまで働きっぱなしということだけだ。当然、俺はそんなことをやろうとは思わない。
辺りを見回しながら歩いていると、視界のはしに見知った顔をとらえる。よくみると、さっき突然話しかけてきて、突然去って行ったあのおっちゃんだ。なぜかあの時の魚を後ろ手に隠すようにして持っている。顔はなぜかむっつりしているが……必死でにやけるのをこらえているようにも見える。
そのまま見続けていると、おっちゃんは勢いよく家の玄関を開けた。なかから十歳くらいの男の子と、赤ん坊を抱っこした女の人が出てくる。子供二人に奥さんと言ったところだろうか。おっちゃんは気分よさそうに魚を二人に見せつけた。すると子供は目を輝かせ、おっちゃんの腰に抱き着いた。顔には、満面の笑みが浮かんでいる。おっちゃんもいつのまにか笑顔になっている。そして奥さんはそんな二人を温かい目で見ている。赤ん坊が奥さんの腕の中で、嬉しそうにないた。…おそらく、今日があの子の誕生日かなんかで、あの魚は店の売れ残りなんかじゃなく、奮発して買った誕生日のお祝いだろう。この世界では普通にみられる家庭の一場面だが……普通ではない俺にとっては、正直言って、羨ましい。
俺は現実で両親が共働きなため、幼少期から一人でご飯を食べるのは当たり前だった。当時は何とも思っていなかったが、夢でこの世界に来て、ヒュレット一家にお世話になってからは、それを少しさみしく感じるようになった。知ってしまったからだ。「家庭」というものを。
もちろん高校生になった今でもあんなことをしたいとはさすがに思っていない。けれど、時々思うのだ。もっと小さかったとき、ああいうことをしてもらってたら、もっと両親と触れ合う機会があったら、俺の人生もまた、違うものになっていたんじゃないのか、と。俺の十七年間がよかったか悪かったかは別として。
そういうことを踏まえても、俺はこの世界は、何度も言うようだが、本当に、素晴らしいところだと思う。現実と比べて、あるべきものが普通にあり、無い方がいいものは普通にない。戦乱なんて数千年にあったきり起っていないし、みんな笑顔で暮らし、努力した者は今の帝のように素直に尊敬される。俺が今でも現実とこの世界を等しく大事にして生きようと思っている理由は、単純に先に生まれたのが現実なのと、現実には明がいるからという、二つだけしかない。
ルーセルと現実にいるわずかな―というより一人しかいない―俺の友人には悪いが、俺が「愛して」いるのは、結局のところこの世界と現実にいる明だ。
「ちょっと、アールス、どうしたの?そんな深刻な顔して」
ルーセルが俺の前に回り込みながら尋ねてきた。声に少し心配の色が浮かんでいる。
「あっ、もしかして今さら帝宮にいくのが怖くなったとか?そんなの、笑い話にもならないわよ。ああ情けない」
「そんなんじゃねえよ。…俺はな、いろいろと考るんだよ。お前と違って」
「何それ!私だっていろいろ考えるわよ!」
一瞬でいつもの調子に戻ったルーセルに少しからかうように言うと、ルーセルは俺が本気で言っていると勘違いしたのか、今にも殴りかかろうかという勢いで怒り始めた。まったく、本気にすんなよ。知ってるよ。お前がいろいろ考えていることくらい。何年一緒にいると思ってんだ。
ただもちろんルーセルに俺の心の声が届くはずもなく、ルーセルはそのままの調子で言った。
「ああ、むかつく!こうなったら帝宮まで競走よ!よーい、ドン!!」
一人で勝手に言いだし、勝手に走っていくルーセル。帝宮までの距離は五百メートルといったところだろうか。
「おい!せこくないか、それは!」
そういいながら俺はルーセルの背中、ひいてはだいぶ大きく見えるようになった帝宮に向かって走り出す。空気がだいぶ冷え込んでいるせいで、走り出すと耳が痛い。
「悔しかったら、追いついてみなさーい」
ルーセルは振り向きながら言った。……アイツ、俺をなめてやがるな。
「すぐに追いついてやるよ!」
俺はさらにスピードを上げる。現実の俺の体では到底なしえないだろう速さに一瞬ふらつくが、どうにかこらえる。ルーセルもやばいと思ったのか前を向き全力で走り出す。
たまにはこういうのも、いいもんだな。現実だと、こんなことは絶対できないし。
俺はそんなこと考えながら、残り半分まできた帝宮への道を全力で走る。いまだルーセルには追いつかない。
星明りと街灯もどきに照らされた静かな夜の住宅街に、二人の足音だけがひびく。
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cause 2
「はぁ、はぁ……、俺の、勝ちだ、ルーセル……。」
「そんな……」
がっくりとうなだれるルーセル。地面に大の字になって寝ころぶ俺。二人とも息が上がっている。
俺は結局ラスト三十メートルほどでルーセルを追い抜き、懸命に追いすがるルーセルをおきざりにしてそのまま帝宮の門をくぐったのだ。フライングをしたのに勝てなかったルーセルは今にも泣きそうな顔をしている。…気合入れすぎだろ。ただの突発的なお遊びじゃないか。そういいながら俺も結構本気だったけど……
「「「…………」」」
自分たちにあてられた視線を感じてその方向を見ると、三人の帝宮役員が怪しむような目で見ている。当然だろう。日もくれてずいぶん経ってから若い男女が、なんといっても帝宮に駆け込んできたのだから。怪しまない方が変というものだ。
俺は立ち上がり、まだショックから立ち直れていないルーセルに手を差し伸べて立ち上がらせ、二人で帝宮役員のもとへと歩いていく。
「こんな時間に、どうされました?」
帝宮役員があきれたように尋ねる。暗に「用もないのに帝宮にくるな」と言われたような気がして少しむかっとするが、悪いのはこんな時間に帝宮にやってきた俺たちの方なので、特におもてには出さない。ルーセルも俺と同じことを感じたようで、少しむっとしたようだったが、すぐに普通の表情に戻る。
俺が帝からの手紙をポケットから出して渡すと、帝宮役員は怪しみながら手紙を読んでいたが、裏の差出人を見た瞬間、表情を一変させた。慌てて俺に向かって頭を下げる。俺が軍の部隊長だということも手紙の文面から察したのだろう。
「気になさらないでください。悪いのはこんな時間に訪ねたこちらですから」
俺が言うと、帝宮役員の一人が「いえいえ…それでは、案内いたします」と言った。どうやら帝のところまで連れていってくれるらしい。非常にありがたい。実は帝宮に入ったことないから、内部構造知らないんだよな、俺。正直、帝宮内で迷子という最悪のシナリオも覚悟していた。
「ほら、行くよ。アールス」
ほっと一安心していたところを、いつの間にか俺の後ろについていたルーセルにせかされ、俺は歩き出す。いよいよ人生初の帝宮入りだ。する必要はないと感じていても、ついつい緊張してしまう。さすがにルーセルも緊張しているだろう。そう思いふりむくと、残り二人がルーセルを後ろから見て、何か考え込んでいるようだった。互いに小声で言葉を交わしている。
「どうされました?」
俺が尋ねると、二人は少し悩むようなしぐさを見せた後、決心したように口を開いた。
「いえ…ただ、そのお嬢さんはいったいどのようなお方なのかと……」
むっとした顔でルーセルがふりむく。おそらく、当然自分も軍の関係者だと理解されているとでも思っていたのだろう。帝宮に呼ばれた軍の部隊長にここまでついてきてるんだから、それぐらいわかるでしょ、とでもいうつもりなのだろうか。今にも怒鳴りそうなルーセルに先んじて俺が答えようとした、その時。
「その人はアールス君の副官だよ」
と、突然背後から初めて聞く声が聞こえてきた。振り向くと、真っ白な髪に長身の男が一人、口元に笑みを浮かべながら立っていた。いったい誰だろうか。俺の名前と、ルーセルが俺の副官であると知っているんだから、少なくとも軍の関係者であることだけは確かだが…しかし、俺の軍での知り合いに、こんなやつはいない。ルーセルも見当がつかないようで、首をかしげている。
すると、それまで男をぽかんとした表情で見ていた帝宮役員三人が、突然男にむかって最上級の敬礼をした。あれはたしか、自分の所属する組織のトップに対してするものだったはず。俺の場合なら軍の執行部だし、帝宮役員の場合は帝だ。……ん?帝?
「あっ、あなたはもしや…」
思わずもれた声に、この場にいる全員の視線が集中する。ルーセルからの視線は「えっ、誰?」と尋ねてきているようだし、帝宮役員三人の視線は「気づいていなかったのか!」という、驚きと非難に満ちている。
そんな中男は帝宮役員三人に「いいんだ。彼と私は初対面のようなものだから」といってから、俺に向かって笑いながら言った。
「気づいたようだね。私が君を呼んだ張本人であり、帝のヒュルト・シュバイトだ。以後、お見知りおきを」
「いえいえこちらこそお初にお目にかかります気づかなくてまことに申し訳ございませんでした!」
いろいろなことを一息に言うルーセル。今帝は俺にむかっていったはずだ。いくら突然の登場だからと言ってもテンパりすぎだろう。帝宮役員三人の視線はルーセルにつきささるくらいにするどい。
帝はそんなルーセルをみてはははと笑った後、「君は確かルーセル君と言ったね?」とルーセルに確認した。
「はいその通りです覚えていていただきまことに光栄です!」
……。いい加減落ち着けよ。これ以上ルーセルをしゃべらせたらあることないこと全部暴露しそうなので、俺はルーセルのつま先をふんづけ黙らせる。ルーセルが涙目でにらんでくるが無視して、帝の方を向き、遅まきながらの敬礼をする。
「こちらもお初にお目にかかります。軍第百七十部隊隊長のアールス・ヒュレットです。」
「うむ。優秀な人物だと聞いているよ。こんな遅くに呼び出して、すまなかった。」
「いえいえ……こちらが遅れただけですから。詫びるべきはこちらです。申し訳ございませんでした」
俺がそういって頭を下げると、ルーセルもやっと落ち着いたようで、慌てて「すいませんでした!」と頭を下げた。
帝は二、三回うなずいて、言った。
「まあ、もう遅いことだしこんな謝りあいはここまでにして、私の部屋にいこうか。立ち話もなんだし、そこでゆっくり話そうじゃないか」
その言葉をきいて、黙って状況をみていた帝宮役員の一人が口を開いた。
「帝、それでは…」
「ああ。君たちは自室に戻ってくれ。お勤めご苦労だった」
「有難うございます、帝。それでは」
帝宮役員三人がそういって帰って行った後、帝は再度俺たちの方を向いた。
「さて、じゃあ、行こうか」
「はい」
俺は短く返事をして、すぐに隣にきたルーセルと肩を並べながら、歩き出した帝の後を追う。少し歩くと、らせん状の階段があった。
「この螺旋階段も含めて、ここと隣の神殿は何千年も昔に作られて以来、一度も改修どころか、修理すらされてないんだ。すごいとは思わないか?」
突然の帝の発言。確かにそれが事実ならかなりすごいことだ。現実に存在したら重要文化財になるのは間違いない。俺は素直に「そうですね」と答えた。
「ねえねえ、アールス…」
ルーセルが脇腹をつつきながら、小声で話しかけてきた。
「どうした?……トイレか?」
俺も小声で返す。
「そんなんじゃないわよッ……!」
さっきのお返しとばかりにつま先をおもいっきり踏まれた。地味ながら非常に痛い……
「冗談だよ冗談。……で?」
「いや…帝が思ったよりこう、友好的っていうか、話しやすいっていうか…予想とちがうから、アールスはどう感じてるのかなって。」
確かに……出会いがしらにしろさっきの問いかけにしろ、妙に友好的だ。俺の中の帝のイメージと真逆と言っていい。俺たちと仲良くなろうとでも思っているのだろうか。…まあそんなこと、まずないだろう。仲良くなる必要も、理由もない。
「確かに、俺もそうは感じたよ。思っていたより庶民的な感じもするしな」
「ええ……ま、いろいろ考えるだけ無駄かしらね」
自分で話を振っておいてそれはないだろ!と一瞬思ったが、ルーセルの言っていることも正しいには正しい。俺たちに帝の考えなんて読み取れるわけないのだから。なので適当にうなずいておくことにする。
「そうだな…ところで、この螺旋階段、無駄に長くないか?もう結構登っただろ?」
思わず愚痴がこぼれる。なんせ今日は今朝から騒ぎ続きなので、俺は結構疲れている。このタイミングでの螺旋階段はつらい。正直、帝なんて無視して早く帰って早く寝たい。明とのデートもまってることだし。
ルーセルもそれは感じたのか、溜息をつきながらめずらしく俺の愚痴に乗ってきた。
「まったくもってその通り。ここに螺旋階段をつけた古代人の感覚が信じられないわ」
「アールス君、ルーセル君」
突然帝に声をかけられる。ひょっとして今の会話の内容が聞こえていたのだろうか。そうだとしたら、ただ愚痴を言っただけの俺はともかく、ルーセルはかなりまずい。先ほどの発言から判断するに、おそらく帝はこの帝宮を造った人々を尊敬している。そんな人に「古代人の感覚は信じられない」などと言ったら…さて、どうなるだろうか。隣のルーセルを見ると、青ざめた顔で固まっている。……ドンマイ。
しかし幸運にもそうではなかったようで、帝は特に口調を変えることもなく、「君たちは、双子ではないんだよね?」と背をむけたまま聞いてきた。
「はい。双子ではありません」
俺は胸をなでおろしながら答える。ルーセルの顔をみると、まるで地獄から生還した人のような顔をしている。それはいくらなんでも大袈裟じゃないか?
帝は俺の答えを聞いて一度納得するようなそぶりを見せた後、再度、「だったらなんで苗字が同じなんだい?」と尋ねてきた。
俺が正直に答えるべきかどうか迷っていると、先にルーセルが答えた。
「アールスは、正しくはヒュレット家の人でないんです。私が三歳の時に、突然家にやってきて、行く当てがなさそうだったんで、私の両親がひきとって育てたんです。」
「へえ……そんなこともあるんだ。すまないね。変なこと聞いちゃって」
「いえ。俺もルーセルも一切気にしていませんから、そのことは」
俺がそう答えると、帝は「はは、そうかい」と言って笑った。
もうしばらく階段を登ると、階段の終わりが見えてきた。だいたい四十メートルくらいはのぼっただろうか。さっきルーセルも言っていたが、ここでの螺旋階段は明らかにミスチョイスだ。帝宮役員が帝を見た時、なぜあんなに驚いていたのかずっと気になっていたがこれで解決した。誰が好き好んでこの螺旋階段を上り下りしようと思うだろうか。
やっとのことで階段を登りきると、帝の部屋は目の前にあった。帝曰く、この部屋だけが際立って高い位置にあるという。「大変ですね」といったら、「仕方ないさ。もう慣れたよ」と笑いながら返された。…慣れとはおそろしいものだと実感する。人間、慣れればなんでもできるということだろうか。
帝は懐から金属製のかぎをとりだし、扉を開けた。帝に招かれるままにおずおずと部屋に入ると、俺の想像とはかけ離れた、きわめて普通の部屋の光景がそこには広がっていた。家具一つ一つのレベルや部屋の広さなどをみても、だいたい俺やルーセルの部屋より少し上ぐらいだ。目立った違いといえば、そこかしこに本が重なっておいてあることぐらいか。ルーセルも戸惑いを隠せないようで、「…どうなってるの?」とつぶやく声が聞こえる。
部屋の入口で固まっている俺たちを見て、帝は炎素を利用したランプもどきに明かりをつけながら面白そうに笑って、言った。
「やっぱ驚くよね。想像とはずいぶんちがうでしょ?」
「ええまあ…正直、もっと広くて豪華な部屋を想像していましたから」
「父上の代まではそうだったんだけどね。私が後を継いだとき、必要最低限のもの以外、
全部地下の倉庫にしまったんだ。今頃はほこりまみれになっているだろうね」
帝はそういって再度面白そうに笑った後、「そこのソファーに座って待ってて」と言い残し、部屋の奥に行ってしまった。
俺はとりあえずいまだ部屋をながめて呆然としているルーセルをソファーに座らせ、その隣に座る。それにしても……帝、あまりに砕けすぎじゃないか?確かに現実での「皇帝」やら「国王」とこの世界の「帝」は必ずしも同種のものではないだろう。ただ、どちらも「支配者」だということに変わりはない。俺がその立場の人だったら当然初対面の若い男女―俺たちのことだ―は警戒する。いくら自分から呼んだとしても、いくらこの世界には「暗殺」なんていう概念が存在しないとしても、だ。それなのに帝はわざわざあの七面倒くさい螺旋階段を下りて俺たちを出迎え、いきなり自分の部屋に招待し、砕けた言葉づかいをしている。まるで気心知れた友人を自宅に招くような態度だ。どうも何か裏がある気がするのだが……俺の気のせいだろうか。帝に信頼されていることを純粋に喜ぶべきなのか、俺は?
ルーセルはどう思っているのか尋ねようとした時、帝の「お待たせ」という声が聞こえてきた。慌てて前を向きなおす。
「とりあえず一杯飲もうじゃないか。ほら」
そういって帝はグラスに年代物の雰囲気のする酒をついで、俺とルーセルに差し出した。ちなみにこの世界にも酒の類のものは存在するが、現実のような年齢制限はないため十八歳の俺やルーセルでも飲むことはできる。実際調子に乗って以前二人で飲み比べをしたこともある。その時はルーセルがあまりに酔いすぎてどうしょうもなくなったので、それ以来ルーセルには飲ませていないし、俺も飲んでいない。三年ぶりの酒だ。
「では。いただきます」
帝は向かいのソファーに座り、もうすでに自分のグラスの酒を飲み終えている。帝に注いでもらった酒なので断るわけにもいかず、ルーセルもしぶしぶといった様子で受け取る。止めたい気持ちはやまやまだが、今回ばかりは仕方がない。「すこしずつ飲めよ、すこしずつ!」とルーセルにささやいたあと、自分は一気に飲む。うん、いい酒だ…なんて、十八が言うセリフじゃないよな。自重しよう。
「帝。それで、ご用件は何でしょうか」
酒の後味を存分にあじわった後、帝に尋ねる。窓から見える真っ暗な夜空が、もう遅い時間だと告げている。
「うむ。君たちは確か世界最北端のノル村の出身だったよね?」
「はい。…よく御存じですね」
俺もルーセルも驚きを隠せない。軍は一部隊五十人かける百七十部隊、計八千五百人のこの世界最大の組織だ。ノル村の名がすらっと出てくるということは、この帝は軍全員の出身地と名前を憶えているということだろうか。俺はこの間、ようやく自分の部下の名前を覚えたばかりだというのに。ルーセルの表情には、帝に対する尊敬の色が浮かんでいる。
「それで、もうそろそろ帰省するの?」
「そのつもりです。本当は今日そうするつもりでしたが、帝からの手紙を見て、こちらに参ったのです」
「そうだったんだ…でもそれにしては、ずいぶんと遅れたね?昼ごろまでには、手紙を届けさせたつもりだったけど」
「い、いえ…手紙に気付いたのが、遅かったもので…まことに申し訳ございません」
まさか「朝食抜かして倒れたやつの世話してました」とか「くる途中で肉刺し棒くってました」とか言うわけにもいかないので、俺はどうにか誤魔化す。あながち嘘でもないし、これくらい許されるだろう。
帝はそれで納得したようで、グラスに二杯目の酒を注ぎながら、言った。
「まあそんなことはいい。こうして夜にグラス片手に語るのもまた一興というものだ。……ほら、もう一杯」
「いただきます」
俺はなぜか酒をほしがっているルーセルを目で制してから、帝にグラスを差し出す。……もしかしてルーセル、もう酔ってるのか?顔が結構赤い。
俺が二杯目も一気に飲んだのを見てから、帝はまた話し始めた。
「さて、そろそろ本題といこうか。アールス君、ルーセル君。いや、この場合は軍第百七十部隊隊長と同副官と呼ぶべきかな。君たちに、この私、ヒュルト・シュバイトから直接の指令がある。」
急に帝が真面目な口調になった。俺とルーセルもつられて無意識に体が前かがみになる。普通、指令というものは軍執行部は軍のトップである帝から、部隊長の俺は軍執行部から、俺の副官であるルーセルは当然俺からというふうに、軍内部の上司から出されるものだ。その規則を無視して帝自ら執行部を飛ばして部隊長に指令を出すなど聞いたことがない。いったいどんな指令なのだろうか。まさか、「これが最後の指令だ。消えろ」なんてことにはならないよな…でもそうだとすると今までの妙に友好的な態度も納得がいく。あれはつまり、「最後くらい優しくしてやらないと」という感情からくるもので、この酒は一種のせんべつ……?俺の頬を冷や汗が流れる。
突然顔色を悪くした俺を見て、帝はおかしそうに笑い、口調をもとの砕けたものに戻して言った。
「そんな心配しなくても、大した指令じゃないよ。ただ、あまりおおっぴらにするのは避けたいことなんでね。もちろん、君たち二人を軍から除名しようってわけでもない」
「それで、一体何なんですか、その指令は?」
安堵のあまり少し放心してしまっていた俺を横目で見ながら、ルーセルがせかすように尋ねた。酔いは「直接の指令」という言葉によって完全に吹き飛んだようだ。いつもの鋭い目つきに戻っている。
「君たち二人に、帰省のついでにあの「異空門」の様子を確認してきてもらいたいんだ。もちろん極秘でね」
なっ……今帝はなんていった…?「異空門」だって……?なぜ今更……?ルーセルも「信じられない」といった表情をしている。
「異空門」。この世界における唯一の戦乱の原因であり、この世界の人々にとって唯一の嫌悪の対象である、ノル村よりさらに北に存在する―異世界との門だ。
数千年前、今と違いまだ軍が存在せず、帝宮役員ではなく、帝宮議会と呼ばれるものがあったころも、人々は神素を有効に使って普通の生活を送っていた。
しかしある日、突然世界の北の果てにあった村が、忽然となくなった。後に残っていたのは、燃えて炭になった家々だけだったという。
当然帝宮議会はすぐにその事件の調査を始めた。しかし当時この世界には「争い」という概念すらなかったのと、すぐそばに当時はまだ活動していた北の大火山があったため、すぐに「何らかの自然災害だろう」と結論付けられた。
そして―その結論が間違いだったと、人々は最悪の形で知ることになった。その村の跡地に突然大きな門が現れ、その中から現れた謎の軍勢が、この世界に侵攻をはじめたのだ。
当然その当時の世界に抵抗するための兵力なんてあるはずもなく、あっという間に占領されていった。人々は訳もわからぬまま土地を奪われ、挙句の果てには殺されていった。
このまま何もしなければみな殺されてしまう。そう感じた人々はまず神に祈った。しかし神はすでにこの世界を旅立った後。祈りはとどかず、それを諦めた人々は謎の軍勢に交渉することにした。土地も、わずかながらの蓄えもみんなあげますので、どうか殺さないでください、と。
しかし謎の軍勢は、話を聞こうともせず、交渉にきた人々を皆殺しにした。それも、大勢の人々の前で、見せしめとして。
ここで―ここまできてようやく、人々の心の中に「敵意」が生まれた。残酷な処刑を見せられた人々は、一人、また一人となぞの軍勢に立ち向かっていった。しかし武器が木の棒や石ころではかなうはずもなく、結局、その人々もまた、皆殺しにされた。
この世界の全住民が殺されるのも、時間の問題だった。
だがここで時の帝が思いついた。神素を、武器として使うことはできないだろうか、と。初代帝以来の神素使いと呼ばれていたその帝は、議会の反対を無視して、単身なぞの軍勢に自らが一番得意とした神素である水素を使って戦いを挑み―そして、見事に勝利した。そのまま帝は門をくぐり、なぞの軍勢の本拠地をつぶした。
その後その帝は門の半径一キロ圏内を立ち入り禁止とし、二度とこういうことのないようにと、神素を使った戦闘集団である「軍」を設立した。そしてやがて門のまわりには木が生え、門を隠すような形で森が出来上がった。これがいまのノル村の北にある「入らずの森」である。それと同時に、門にも「異空門」という名前がついた。
さらにこの話にはまゆつばものの言い伝えがある。異空門が開いてから帝が謎の軍勢を倒すまで、日が昇らなかった、というのだ。
俺は異空門の歴史についてそこまで思い出した後、帝に純粋な疑問をぶつける。
「い、いやしかし帝、なぜ今更そんなことを?もうあの門は閉ざされて数千年たつじゃないですか。今更開くとは考えられません」
ルーセルもやっと正気に戻ったようで、俺に続いて言う。
「そうですよ帝。なぜ今…まさか、またあの軍勢が攻め込んでくる兆候でも見られたのですか!?」
帝は焦る俺たちを一瞬ぽかんとした顔で見つめた後、突然笑い出した。
「や、やだなぁ。そんなんだったら、もうとっくに軍を全召集してるよ。念のための確認だよ、確認。もう最後に確認されて数千年経つんだ。一回様子をみておくべきだとは思わないかい?」
そういわれればその通りだが、あの門が開いて一番危険なのは俺とルーセルの故郷であるノル村なのだ。過剰なくらい心配するのが普通だろう。帝の笑いに少しむかっときたのは否定できない。
しかしそんなことをいっても仕方がないので、俺は気を取り直して帝に指令の詳細について尋ねることにする。
「確かにそうですが……ところで、確認といっても、何を見てくればいいのでしょうか」
「簡単なことだよ。空から門が開いているかどうかだけみてくれればいい。報告は休暇明けでいいから、それだけすませたら故郷を思う存分たのしんでおいで。でも門があいてたら休暇どころじゃないよね」
まあそんなことないと思うけど、と言って帝は笑った。
ただ正直俺には、帝の笑いなんてどうでもよかった。今帝が、よくわからないことをいったような気がしたからだ。おそらくルーセルも同じ疑問を抱いていることだろう。二人で顔を見合わせてから、代表して俺が口を開く。
「すいません帝、何か勘違いをしておられませんか?俺たち人間には空が飛べません。どうやって空から門を見ろと……?」
帝は今確かに「空から」と言った。しかしこの世界の人々も現実と同じように空を飛ぶことなんてできない。神素を全力で地面にぶつければ二十メートルくらいは浮かべるかもしれないが、上に上がるだけで前後の移動はできないし、なにより落下するときに非常に困ったことになる。ルーセルも「そうそう」という風に何度もうなずいている。
帝は俺の疑問を聞いて、今日何度目かわからない楽しそうな笑みをうかべて額を手で二、三回たたいた後、立ち上がって「ちょっと待ってて」と言って奥の部屋に歩いて行った。
しばらく無言で待っていると、奥の部屋からがさがさという音が聞こえ、すぐに帝が何かを担いで戻ってきた。
「そうだよね。説明せずに「空を飛べ」なんていってもわかるわけないよね」
帝はソファーに座りなおしてから、担いでいた物を俺たちに差し出した。受け取ってよく見てみても、何のためのものか全くわからない。金属製の水色のリュックのようだが、側面から伸びている可動式の筒のようなものがそうではないと告げている。
「これは一体……?」
ルーセルが尋ねた。
「これはね、空を飛べない我々が、神素を使って空を飛ぶためのものだよ。つい最近、完成したばかりの、ね。ただまだ軍くらいの神力でないと使えないくらいの効率だけど」
なんだって……?これだけで、自由に空を飛べるってのか……?俺とルーセルはまじまじと手元の物体を見つめる。そういわれれば確かに、側面の筒は何かの発射口、もっと言えば飛行機のゲットエンジンのようにも見える。いったいいつの間にこんな物を開発したのか。
「今日二つ目の指令だ、軍第百七十部隊隊長と同副官さん。君たちに、これの試運転を頼みたい。ここ帝都からノル村までと、ノル村から異空門上空まで、これを使って移動して、どのくらいの速度が出て、どれくらい安定するのかを調べてくれ。もちろん、あと一つも明日の朝には間に合わせる」
これは―面倒どころか、ありがたい指令だ。ここからノル村までは、ルーバ―この世界の馬のようなものだ―を使って全力で飛ばしても、六時間はかかる。空を飛んで移動するということは、大幅な時間短縮が見込めるだろう。そうでなかったら、これの存在意義がなくなってしまう。
ただ、帝はまた重要なことを忘れている。俺とルーセルは先ほどと同じように顔を見合わせた後、今度はルーセルが口を開いた。
「帝、使い方のほどは…?」
「あっ、そういえば教えてなかったね。」
私もだめだなあ。そういって帝が苦笑いを浮かべた、その時。コンコンとノックの音がして、作業着をきた男が入ってきた。俺の記憶が正しければ、あれは帝都最大の工房の作業着のはずだ。今話題になっていたものと同じものを抱えている。おそらく、あれが二台目ということだろう。
「帝。最終調整、終わりました」
「うむ。ご苦労だった」
男は帝に持っていたものを渡すと、そそくさと出て行った。…まさか、あれをもってあの螺旋階段を登ってきたのか?大変だっただろうなぁ…
俺が他人事のように考えていると(事実他人事だ)、帝は二台目を自分の目でチェックしているようで、細部をみながらしきりにうなずいたりしている。
そのチェックでは問題は見つからなかったのか、帝は満足そうに大きくうなずいた後、俺たちに向かって言った。
「さて、使い方だったが…二台そろったことだし、習うより慣れろでいこう。とりあえず、背負ってみて」
言われるままに俺が一台目を、ルーセルが二台目を背負ったところで、帝は窓を指さし、驚きの一言を口にした。
「さあ、あの窓から、飛んでみようか。まずは、どっちが行く?」
いえいえいきなりは無理です、墜落死します!と思わず叫びそうになったが、どうにかこらえて、再度冷静に尋ねる。
「帝、使い方は…?」
「だから、習うより慣れろといったじゃないか。自分の飛びたい速度、方向を想像すれば君の場合は炎素が、ルーセル君の場合は水素が左右の筒から推進力として噴出して飛べるようになるから。さっきの職人を信頼して。ほら!」
全く説明になっていない帝の説明。…想像するだけで飛べるなんて…決して帝やさっきの職人を信じていないわけではないが、ここは地上四十メートルくらいの高さはある。 試みるにはリスクが大きすぎる。
ここからでなくてはだめですか、と帝に尋ねようとした時、背後からルーセルが深呼吸する音が聞こえた。振り返って見ると、ルーセルの目には決意がこもっている。…まさか、行く気なのか?
「想像するだけで、いいんですよね?」
俺の心配をよそに、ルーセルは真剣な表情で帝に尋ねた。帝は、短く「ああ」と答える。
「帝がそうおっしゃられるなら、行きます。……もし失敗したときは……」
「任せといて」と帝が言い終わる前にもう、ルーセルは窓を開け、飛び出していた。部屋に冷たい風が入ってくる。しかし、気にならない。俺は窓まで走り、落ちていくルーセルに意識を集中させる。落下速度は緩まない。地面まであと十メートルを切った。「任せといて」といった帝はまだルーセルを見ようともしない。地面まで残り五メートル。…ルーセルッ…!
俺の必死の思いが通じたのか、ルーセルは地面すれすれで急停止した。そしてゆっくりとルーセルの姿が大きくなる。コツをつかんだようで、だんだんと上昇速度は上がっていく。
「もう大丈夫そうだね。さすがと言ったところかな。」
帝が俺の背後に来ていった。「さすが」って、もし失敗したらどうするつもりだったんだ?振り向いてそれを聞くと、笑顔で「私には確信があった。現にそれは当たったじゃないか」と返された。なんと無責任な…
ルーセルを確認しようと再度振り向くと、目の前の空にルーセルの姿があった。まだ完全にはコントロールできていないようで少しふらついてはいるが、落ちることはないだろう。
「ルーセル…よかった…」
ルーセルの顔を見てこみあげてきた安堵のあまり無意識にもれた俺の言葉を聞いて、ルーセルは何とも複雑な表情を浮かべた後、疲労が感じられる声で帝に尋ねた。
「帝…これで、よろしいで、しょうか?」
「ああ…文句なしだ。…さて」
帝とルーセルの視線が俺をとらえる。
「次は、君の番だよ。もちろん、行くよね?」
「大丈夫よ。…おっと…もし失敗しても…よいしょ…私が…あっと…助けてあげるから!」
帝はともかく、ふらふらふらふらしながら「助けてあげるから!」なんていわれてもなぁ…説得力に欠ける。むしろ不安が増幅するだけだ。
ただ冷静に考えれば、ルーセルにできて神力にまさる俺ができないはずがない。それに―俺はルーセルの目を見る。その目はただ一心に俺を見ている。瞳の奥に何を思っているかははっきりとは分からないが―ここは、行くしかないか。
帝とルーセルが見守る中、俺は窓の縁に登り、イメージ、と自分に言い聞かせてから、勢いよく身を投げる。視界の端で、ルーセルが俺の後を飛んでくるのが見える。
なかなかスピードが落ちない。地面が異常な速さで近づいてくる。俺は自分が飛んでいる姿―一度は見てみたいこの世界の宇宙に飛んでいく姿―を懸命に想像する。
すると―下から上へと視界が流れていく速さがどんどん緩やかになってきた。それと同時に、初めて感じる感覚に包まれる。これが、浮遊感というやつか。
そしてすぐ、落下が完全に止まった。ルーセルにはあった体のブレもない。地面までの距離は十メートルあるかないかといったところだろう。なんだ、いざやってみれば簡単じゃないか。さっきまでの俺の杞憂は何だったんだ。
「やっぱ、あなたには敵わないわ。悔しいけど。」
ルーセルはそういっているが、顔も笑っているし、どこか嬉しそうだ。アイツもアイツなりに心配してくれていたようで、それは――純粋に嬉しい。
とりあえずルーセルの位置まで浮上する。すると、ルーセルがどこか遠くを見ているのに気づく。俺もその方向を向くと、すぐにルーセルの真意が理解できた。
「…この先、ずっと向こうに、ノル村があるのよね」
「ああ。ずっと向こうに、な」
こうしてみると、ずいぶん遠いと改めて思う。俺たちの故郷ノル村は、帝都の一番外側の軍施設群を抜け、何個あるかわからない街や村をぬけた、さらにその先にあるのだ。
「なあルーセル、明日ノル村まで競争しないか?」
「別にいいけど……さっきまでのあなたからは考えられないセリフよね、それ」
「それを言われると……つうか、お前が躊躇なさすぎなの。怖がるべきものは怖がらないと、冗談抜きでいつかけがするぞ」
「怖がりすぎて何もできなくなるよりはましよ。……でもまあ、その忠告はありがたく受け取っておくわ。正直、結構焦ったもの」
言い合っている間も、俺たちはひたすら夜の地平線の向こうを見続けている。明日には、あそこにいるんだよな、俺たち。
「おーい!どうだい、アールス君?」
……感傷にひたりすぎて帝の存在を忘れていた。慌てて「大丈夫です!」と返事をしてルーセルとともに窓に戻ろうとすると、再度帝の声が聞こえてきた。
「君たちは、そのまま地面に下りて待っていてくれ。私が向かう。最後に一つ、お願いがあるんだ。」
お願い…?帝から俺たちに何かお願いなんてあるのか?まあ、そう言うのだから何かあるんだろう。考えたところでもう帝の姿は窓辺にないのだからどうしようもない。俺とルーセルは慎重に地面に向かう。
無事に着陸し、飛行用器具を下ろして門の前で待っていると、すぐに帝はやってきた。そうとう急いであの螺旋階段を降りてきたはずだが、一切息切れしていない。この辺はさすがといったところか。
「お待たせ。それで、お願いなんだけど……」
帝は立ち止まるなり、すぐに口を開いた。
「はい。私たちにできることなら、なんでもいたします」
ルーセルが言うと、帝は頭(かぶり)を振った後、俺を見た。
「そんな大層なことじゃない。ただ…君と手合せ願いたいんだ。アールス君」
「俺…ですか?」
思わず聞き返してしまう。なぜ、俺と?理由がわからない。この場合の「手合せ」というのは今朝俺とルーセルがやったような神素のぶつけ合いだろうが、本来あれは神力にそれほど差のない者同士でやるものだ。帝と俺では神力が違いすぎる。やる前から俺の負けが決まっているといってもいい。なにより、帝には現時点で歴代最高と言われる神力を、これ以上上げるメリットがない。
「ああそうだ。君じゃなきゃ、ダメなんだ。アールス君」
しかし―いくら謎だとしても、帝にここまで言われたら、断るわけにはいかない。俺は派手に吹っ飛ばされる覚悟を決め、帝に向かってうなずいた。
「わかりました…場所は?」
「ここでいい。」
帝の、今日一番真剣な声に少し腰が引けそうになるが、そんなことを言っている場合ではない。帝は完全に本気だ。俺の本気で、何秒もつか。五秒もてばよくやった方だろう。
一旦帝に背を向け、二十メートルの距離をとる。ルーセルとの擦れ違いざま、「…頑張って。応援してる」という声が小さく聞こえた。
言われなくてもそのつもりだ。まあ、勝てるわけないが。
「…よし。では帝、いきます。合図はルーセル、頼んだ」
ルーセルにコインをはじいて渡すと同時に、ついつい弱気になってしまう心も弾き飛ばす。帝と手合せできるなんてめったにない機会だ。どうせ負けるなら、全力で、悔いなく負けようじゃないか。
ルーセルは俺と帝を交互に確認して、コインを思いっきり高くはじいた。コインが夜空に光る。俺は帝に向かって、全力を出すために両手をつきだす。帝はただ俺の手のひらを見るだけで、一切動かない。コインが最高点に到達し、速度を上げながら落下する。コインがルーセルの頭の高さを通過したところで、帝はようやく、軽く右手を突き出した。俺は帝の手のひらに狙いを定める。チャリン。コインが静寂を破り――
バァン!!
ものすごい音とともに、俺と帝の神素がぶつかり合う。激突の中心から、猛烈な風が発生し、砂埃を巻き上げる。しかし俺は、帝の手のひらをにらみ続ける。色から察するに、帝が操る神素は水色、風素か。……と、認識した瞬間。
俺は、宙を舞っていた。空の星が勢いよく視界の下に流れていく。そして気づいた時には、地面にたたきつけられていた。ルーセルが駆け寄ってくる。
「ちょっと、大丈夫!?怪我は?」
「いてて……とりあえず、怪我はないよ」
ルーセルにはこう答えておくが、実は体の節々、特に強く打ち付けた腰が悲鳴を上げている。さすがに折ってはいないだろうが、何日かは痛みが残るかもしれない。ルーセルはそうとは知らず、俺の返事を聞いて「よかった…」とつぶやいている。……それより、
俺は今、何秒もった?五秒どころか、一秒もったかも怪しい。
俺には体の痛みよりも、その驚きの方が強かった。今確かに、俺は全力だった。帝はまだ余裕があるようだった。それで、この一方的な敗北。強すぎるだろ、ヒュルト・シュバイト……いったいどれほどの修練を積んだのか、俺にはまったく想像できない。これが、歴代の帝最高…!
とそこまで考えたところで、頬が軽く叩かれる感触。
「アールス?意識ある?」
「だから大丈夫だって。……手、貸してくれ」
ルーセルが無言で差し出した手をつかみ、起き上がる。腰の痛みはどうにか我慢して、帝のところへと歩いていく。
「すいません、帝。俺じゃ、まるで相手になりませんね」
すると帝は一瞬きょとんとした後、それこそ帝都じゅうに響くような声で笑いながら、言った。
「何で謝るんだい?君は何も悪いことはしてないじゃないか。私は単に、君の力が知りたかっただけだよ。…十代でそれだけできれば、十分すぎるくらいだよ。もっと自分に自信を持って」
「はあ…そういっていただけるのは、光栄です」
俺がそういうと、帝は満足そうにうなずき、俺の背後のルーセルを見た。
「ルーセル君も、やってみるかい?」
するとルーセルは顔を青染めさせながら、左右に激しくふった。まあそりゃ、いやだよなあ。目の前で俺が手も足も出なかったんだから。自分がやったってどうにもならないことぐらい分かっているだろうし。
帝はそんなルーセルの反応を楽しそうに見た後、くるっと振り向き、帝宮門に戻りながら、背中越しに言った。
「それじゃ、明日は、指令の完遂のほう、よろしく頼むよ」
じゃあね。最後にそう言って帝は帝宮に入って行った。
「さて、私たちも帰りましょうか。ずいぶん、遅くなっちゃったけど」
「ああ…そうだな」
俺がそう返事をしたら、ルーセルは飛行用器具をとりに行った。
ルーセルは戻ってくるなり、俺に二つともを手渡した。
「いや、ここは分担だろ、ルーセル?」
「乗って」
は……?意味が分からない。どういうことだ……?ルーセルは、俺に背を向けて少し屈んだ体勢をとっている。……あ、なるほど、そういうことか。いや、でもなぜ?
「ルーセル、気持ちはありがたいけどさ、別に俺は一人で歩けるから、おぶってくれなくても大丈夫だよ?」
「腰」
「え?」
「腰、痛いんでしょ。歩き方が変だから、すぐわかったわ」
ルーセルは少しとがった口調で言った。隠されたのが不満なのだろうか。それとも―単なる、照れ隠しか。
まあどっちでもいい。ばれているんなら、甘えるのもたまにはいいだろう。
「ばれたか……それじゃ、お言葉に甘えて。」
俺は飛行用器具の一台を背負い、一台をかかえてルーセルの背中に飛び乗った。「う……」というルーセルのうめき声は聞こえなかったことにして、俺は軽い口調で言う。
「さあいこーか、ルーセル」
「……落とされたいの?」
「……ごめんなさい」
即座に謝ると、ルーセルもそこまで鬼ではないのか、ゆっくりとだが歩き出した。ザッ、ザッ。ルーセルが一歩踏み出すたび体が揺れ、背中ごしにルーセルの心地よい体温が伝わってくる。
そのまま何メートル歩いただろうか。ふいにルーセルが口を開いた。
「どうだった、帝?」
その問いがさっきの手合せについて聞いているものだということぐらいは分かる。
「純粋に、強かったよ。……多分、「神卸(かみおろし)」くらいしないと絶対に勝てないと思う。」
するとルーセルは歩を止め、真面目な声でいった。
「…お願いだから、早まらないでね?」
「もちろんそんなことするつもりはないさ。……俺がやったって失敗して死ぬだけだしな。」
「神卸」。自分の最も得意とする神素を司る神を、一時的にその体に卸し、神のごときヒトになるという儀式のことだ。儀式といってもやることは簡単。意識して、神の名を呼べばいい。しかし、今まで失敗した人はいくらでもいるが、成功した人はいない。神が体に宿った瞬間、体が負担に耐えられなくなり、跡形もなく消え去ってしまうらしい。そんな物騒なことは絶対にやりたくない。
「でも……」ルーセルが歩きを再開させながら言った。
「どうした?」
「あなたなら……もしかしたらできるかもね。なんか、そんな気がする」
「いや、無理だっ……」
ぎゅるる。
突然どちらかのおなかが鳴った。
「……ルーセル?」
「仕方ないじゃん、夕ご飯食べてないんだもん!」
「それは俺も同じ」
「うう…」
思い切って開き直ったルーセルだったが、あっさり返されて撃沈。ただ、確かに俺も空腹を感じる。ただこんな時間に店は開いているわけはないし、俺の家にももう食材はない。さあ、どうしようか……あ。
「なあルーセル」
「何よお」
「帰ったら、夕飯、作ってくんね?」
「え?私が?」
「ああ。頼むわ」
ルーセルは俺と違って料理があまりできないため、いつもは俺が作るのだが…今日ばかりはルーセルに頼もう。正直、今日はもう何もする気になれない。たとえそれで料理で無い「料理」がでてきても、仕方ない。
「いいわ。この機会に、私なりに研究した新作料理を食べさせてあげる」
おいおい……まずは基礎からだろ?何段とばしてんだ、コイツ?
「いいかルーセル、料理というものは、まず基本があって…」
「そんなの、もう聞き飽きたわよ。私には、必要ないわ」
「言ったな!これでまずかったら責任とれよ!」
「ええいいわよ。帝都最高級パフェ食べ放題くらいつれてってあげるわ。おごりで」
「マジで!?もう絶対まずいしか言わない!」
「それはなしよ、なし!」
言い合いながら、俺は思う。結局俺は、この世界を愛しているのだ、と。明には悪いが、やはり自分の気持ちに嘘はつけない。しかし―そんなことはないだろうが、もし明とこの世界の二択を迫られたら、俺はどっちをとるのだろうか。明となら、どこでも生きていけるし、この世界のヒトなら、だれとでも仲良くしていける。それなら俺は、一体どちらをとるべきなんだろうか?
多分、その問いの答えは出ない。なぜなら俺は、どちらを選んでも、後悔するだろうから。どちらを選んでも、涙を流すだろうから。
一話あたりの文字数が多くなりがちですが、ご容赦ください
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ルーセルに背負われて自宅にかえり、基本ガン無視なのになぜかおいしい料理に驚き、ドヤ顔で謝罪を要求するルーセルにひたすら謝り、明日は起きてくるようにと散々いわれてげんなりし、そのテンションのままベッドにもぐりこみ、寒さに震えながら眠りにおち、現実の朝の心地よい温かさに感動しつつ起き、時計を見て七時だということに再度感動し、ひさしぶりにデートの朝ゆっくり支度をし、待ち合わせ場所である駅に約束の十五分前につき、自然と落ち合う場所になったベンチに座って明を待ち始めた。そこまではよかった。だが、明が、
「来ない……」
こんなこと、付き合い始めて五年、今まで一度もなかった。遅れるのはいつも俺のほうで、明はいくら天然だといっても、こと約束について言えば一度たりとも破ったことはなかった。いったい明は、どこで何をしているのか。あたりを見回して明を探すが、いつもの休日に比べてだいぶ少ない駅の人影の中に、明の姿は見当たらない。
考えられる可能性として、実は明はもう駅にいて、俺の居場所がわからない、というのがあるが、そうだったらまずこのベンチに来るだろうし、携帯になにかしら連絡が入るだろう。それなのに連絡が来ないどころか、こちらから連絡しても何の音沙汰もないのだ。電話は何回かけてもつながらないし、メールの返信も来ない。これはどう考えてもおかしい。
その次に考えられるのは、明はもう今日のデート目的地に向かっている、というものだが、これもおかしい。そもそも俺は今回の行先を教えてもらっていないからだ。いくら明でも、俺をおいて一人だけでいくなんていうミスはしないだろう。
そして最後に、明が駅までの道中で事故、あるいは何らかの事件にまきこまれたという可能性。これは正直考えたくないが、これが一番可能性が高い。駅に来ないのも、連絡が一切つかないのにも合点がいく。いってしまう。
そわそわしながら携帯で時刻を確認すると、すでに九時半。約束の時間を三十分もオーバーしている。メールボックスと着信履歴を確認するが、明からの連絡はやはりない。…やはり、明の身に何かあったんじゃないだろうか。脳裏に浮かぶのは―駅までの道、スキップしているところを車にはねられ、吹っ飛ぶ明の姿。そしてそのまま電柱にぶつかり、頭からは血がだらだらと……
「…ッ!」
自分の頭で作り出した勝手な想像―そうであってほしい―に身震いしつつ、俺は立ち上がり、自転車置き場に向かう。この際、明が使いそうな道を逆走してみよう。明が単に寝坊しただけなら途中で確実に出会えるし、もし―もし事故に巻き込まれていたなら、事故処理車なんかがいるだろうから分かるはずだ。そうでないことを切に祈るが。
無意識に駆け足になっていたのを意識的に速め、自転車置き場につき、ポケットから鍵を取り出した、その時。背後から、肩に手がかけられた。……まさか、明か?
さっと振り返り……その淡い希望は打ち消された。
「なんだ、向江か……」
俺の現実での唯一の友人である、向江 真生(むこう しんや)は、俺の嘆息交じりの言葉を聞いて、少し苦笑した。
「いきなりそれはないよ、真琴君……」
「ああ、悪い。明かと思ってさ。今日会う約束なんだけど、アイツ珍しく約束の時間になっても来ないから……」
「それで、心配で探しに行こうとしたところに、僕が来た、ってところかな?」
向江が俺の心をくみとって言う。
「まあ、そんなとこ。…ところで向江はなんで駅に?」
自転車のかぎを外しながら、なんとなく思った疑問をぶつける。確か向江は以前、休日はほとんど家にいて寝ていると言っていた。それなのに、比較的朝早くに、街の中心である駅に顔を出すなんて。ライフスタイルの改善でも始めたのだろか。そうだとしたら、友人として素直に嬉しいのだが。
向江は少し考え込む素振りをみせてから、言葉の端々に迷いの感じられる口調で言った。
「ちょっと、遠くまで買い物にね。」
「へえ…何を?」
興味本位で聞くと、向江は「うーん…」と小さくうなった後、微笑みながら答えた。
「ゴメン、今はちょっと…機会が来たら、いろいろと教えてあげるよ。」
「そう……じゃ、いつか教えてくれよ。」
向江が言いたくないなら深追いはしない。俺も向江と同じように少し笑みを浮かべて答える。そもそもほぼ反射的に出たような問いなのでそこまでこだわることもない。
「まあ、すぐに教えてあげられると思うけど」向江はそこまで言ったところで右腕のシルバーの腕時計を確認し、「あっ」と小さく声を上げた。
「ごめん真琴君。電車の時間だ。それじゃ、またね」
「ああ、またな。」
俺はうつむいていた顔を上げて別れを言う。走って改札への階段に向かう向江の背中を眺めながら、ポケットから携帯を取り出す。……やはり、明からの連絡はない。
いったいどこにいるんだ、明?マジで事故とかやめてくれよ……
胸のなかで再度湧き上がってきた不安をおしつぶしながら、最後にもう一度だけ明に電話を掛ける。ワンコール、ツーコール、スリーコール。…出ない。そういえば、昨日の明も俺を待っている間こんな気持ちだったのだろうか。結構悪いことをしたなあと、今更ながらに思う。やはり人間、やられる側にならないと分からないものだ。
そのまま辛抱強くかけ続けても、やはり明が電話に出ることはない。もう何回目のコールか数えるのも面倒になってきて、諦めて電話を切ろうとして―
「ゴメーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!」
と、かなり甲高い大声が耳元で響いた。音が漏れたのか、周囲の人の視線が俺に集中する。俺の耳もまだキンキンいっている。
しかし、そんなことはどうでもいい。
「明?明でいいんだよな?」
「そうそう。何回も電話くれてたのに出れなくて、ホントにごめん!」
ふぅー。思わず大きなため息が出る。どうやら明は元気なようで、俺の心配は杞憂に終わったようだ。…しかし、だったら明は今どこで何をしているんだ?
それを聞くと、明は声のトーンを若干落として答えた。
「実は駅には八時についてて、コンビニとかでぶらついてたんだけど…」
「だけど?」
「そこで八時半くらいに財布忘れたことに気付いて、急いで家にもどったの。」
なんだ…単に忘れ物か…明らしいといえば明らしい。しかし、明の家と駅は往復でだいたい三十分くらいだからそれだったら九時くらいには駅に着けたはずだし、携帯に連絡がつかなかった理由にもならない。どういうことだろうか。
さらにそれを聞くと、明はさらに声のトーンを落として答えた。
「その後また駅の近くまで来たんだけど、九時を少し過ぎてたから真琴に一回連絡しようとして…」
…なるほど。だいたいわかったぞ。
「それで家に携帯も忘れてたのに気づいて、また家に戻ったんだな?」
「うん…」
しゅんとした調子で言う明。確かにそれだったらいくら電話したって出ないわけだ。
明は続けて言う。
「それで家について、急ぎ過ぎてて携帯チェックするの忘れてて、信号待ちで慌てて見たら着信すごい入ってて、どうしよう!て思ってたらこの電話が来たの」
「なんだ…俺明が事故にでもあったんじゃないかって思って…」
「心配かけて、本当に、ごめんなさい!」
そんなに謝られてもなぁ…俺自身毎回のように遅刻しているため、明を責めることなんてできないし、明が無事であることに越したことはない。
「いいよいいよ。無事で何より。それより、今どこにいる?」
明は九時ごろ家に引き返したと言った。それならそろそろ駅に着くころのはずだが…
「今私から真琴が見えるよ~」
明が突然いつもの少しふわふわした調子に戻って言う。俺は辺りを見回してみるが、明の姿は見えない。
そんな俺の様子をどこかから見ているのか、明は少し笑いながら、俺を試しているかのような口調で言った。
「ほら、早く見つけてよ。どんどん近づいてあげてるんだから」
そういわれても…前にも左にも右にも明は発見できない。すると後は…背後、か。
ゆっくりとふりむくと、五メートルくらい先に明がいた。電話を耳から離し、逆の手で小さく手を振っている。
「おはよ、真琴。遅れちゃって、ゴメンね」
「おはよ、明。…気にすんなって。俺なんて毎回のように遅れてんだし」
すると明は、少し微笑んだ後、俺に向かって歩き出しながら言った。
「でも、これはこれでよかったかもね。真琴にも、いつも私がどういう気持ちでいるかわかったでしょ。……これでもまだ、遅刻しようと思う?」
まさか。たかが三十分待つだけで、あんなに不安になるとは思ってもいなかった。俺は
毎回明にあんな思いをさせていたのだと思うと―純粋な反省と後悔と謝辞しか出てこない。
「今まではすいませんでした。次から無遅刻無欠勤を目指します……」
本心のまま素直に謝ると、明はまだどこか不満そうな表情を浮かべた。
「目指すんじゃなくて、実行するんだよ?そこ、重要だからね?」
言いながら少し背伸びをして、俺の眼を正面から覗き込んでくる。うつむこうにも目が
離せず、そのまま「ハイ…」と答えても、まだしばらく明はそうしていたが、やがてすっ
と身をひいた。
「まあいいや。次回、楽しみにしてるからね。…それより、早くいかないと。もう時間もだいぶ遅れてるし」
腕時計を確認しながら改札口へ早歩きで向かう明。いやいや、ちょっと待てよ。俺は走
って明の前に回り込む。
「おい明。いったい今日はどこへ行くんだ?そろそろ教えてくれよ」
この期に及んでもまだ、明は今日のデートの場所を告げていない。明を全面的に信頼して言われるがまま電車に乗るという手もあるが、それでも行先は気になるというものだ。
俺の問いを聞いて、明は歩を止め、笑いながら一言、「佐志の湖ショッピングモール」と言った。
佐志の湖ショッピングモールというのは最近できた県下最大のショッピングモールで、
ここからは最寄駅まで電車で二十分といったところだ。そういえば近いうちに行ってみたいと以前明がいっていたのを今更ながらに思い出す。おそらく、いま俺たちの横を通り改札に向かっている二、三人の主婦たちも、目的地はそこだろう。
「うん、悪くないな…じゃあ、確か四番線だったか?」という俺の言葉は、明の「…にするつもりだったんだけど」という言葉に遮られた。
「するつもりだったって……じゃあどこに行くんだ?」
俺がよくわからないといったような口調で言った疑問に対して、明は少し申し訳なさそうな顔をして、言った。
「ゴメン。予定変更。久しぶりに杜氏川自然公園に行きたいなー、なんて」
今耳に入ってくるのは、ガタンゴトンとひたすらに繰り返される、電車の走行音だけだ。俺も、隣に並んで座っている明も、電車に乗ってからは一切口を開いていない。他のわずかばかりの乗客もほぼ老人で、みな窓の外の緑一色の景色を眺め、物思いにふけっている。時間を確認すると、十時四十五分。電車に乗ってから、いつのまにか約三十分が過ぎていたようだ。杜氏川自然公園には、あと十分くらいでつけるだろう。
それにしても―こうしてこのローカル線のおんぼろ車両に明と乗っていると、否が応で
も八年前の明との出会いが思い出される。それは何回乗っても変わらない。さっきから俺
の頭の中ではその思い出がひたすらぐるぐると再生され続けている。もしかしたら、明もそうなのかもしれない。明はさっきから一切体勢を変えることなく、前方の虚空をひたすらに見続けている。もし仮に明があの時のことを俺と同じように思い出しているとして―いったい、どんな感情とともにそうしているのだろうか。懐かしさ?愛しさ?恥ずかしさ?
それとも、後悔の念?俺にはとうていわかりかねる。ただはっきり言えるのは―少なくと
も今の俺にとっては、何物にもかえがたい思い出だ、ということだ。
八年前―俺は突然、クラスのほぼ全員に、ハブられた。いじめ、とは少し違う。俺の存在が、文字通り、空気のようなものになったのだ。
原因は俺にあった。
俺は、その当時も数少なかった友人たちと話していて、ふと夢の話になった時に、俺の身に起こっていること―俺の「夢」について、熱心に、それこそ全身全霊を込めて話し「てしまった」のだ。
今考えると、我ながら滑稽な話だと思う。この現象は俺だけのもの。何があっても、秘密にして生きていくべきだ、なんてことくらい、少し考えれば分かったはずなのに。あるいは、一通り説明した後の友人たちの、あのぽかんとした表情を見て、自分で自分にストップをかけるべきだったのに。
そしてその翌日から、俺は四年二組の教室において空気になった。俺がものにぶつかって机から落ちたら、それは風に吹かれたのと同じ。黙って自分で拾いに行く。俺の呼びかけは、背後で鳴っている風の吹く音と同じ。誰も反応しない。……決して、言いすぎなんかではない。れっきとした、俺の体験談だ。
当時の俺はもちろん戸惑った。まったく心当たりがなかったからだ。その日、何度自分の頭の中で「なぜ、俺が?」と繰り返されたかわからない。
しかしそのころから内気だった俺は、怒ることも、問い詰めることもできずに、悶々としたまま学校に通った。結局、俺がその理由―「自分は夢で生きているんだ」なんて訳が分からないことを言ってるやつのことなんて明日から無視しようぜ、とみんなの意見が一致したという、至極ありがちなもの―を知ったのは、だいぶあとになってのことだった。
俺はその後一、二週間くらいは、無視されるのを承知で学校に通い続けたが、ある日からぱったり行かなくなり―いままでどおり、優しく俺に接してくれる、「夢」の世界のとりこになった。両親が共働きで、一人っ子である俺にあまり興味がなかったために、朝一言「今日は休みたい」といえば休ませてくれた。そしてその時間以外はひたすら寝て、「夢」の世界を生き続けた。食事は買い込んだゼリー飲料でどうにかした。
そのまま十日くらいが過ぎたころだろうか。十時ごろたまたま起きていたら、突然「ピンポーン」と玄関から音がした。普段なら無視するところだが、きまぐれで玄関を開けてみた。
玄関口に立っていたのは、四年一組の、あまりかかわりのなかった女の子―つまり、明だった。
俺がそう認識したのと同じタイミングで、明は俺の手をつかみ、「いこっか」とだけ言ってずんずん道に沿って歩き始めた。
行くって、どこに?お前、学校は?なんでこんなことを?俺のことはほっといてくれ。言いたいことが多すぎて頭の中がごちゃごちゃしている間にも、明は俺を引っ張ってとにかく歩き続けた。そして俺は、腕をつかんでいる明の手の力の強さに、このまま、なるようになってみようという気持ちに、なぜかさせられた。
その後俺は、自分が数日間着替えていないパジャマを着ていることも、冬の日がどんどん西に落ちていくことも気にせず、明につれられるままに、いろいろなところに行った。足を使い、バスを使い、電車を使い、ときにはタクシーを使い。よく小四でそこまでしたと思う。あのころから、明はやはり明だった。
そして最後に、杜氏川自然公園についた。
閑散としている公園内を駆け足で進む明につられるように、何週間ぶりかの駆け足でついていくと、小さな湖と、ベンチがあった。明に促させるまま隣り合って座った。そこで明はいろいろな話を、取り留めもなくひたすら話し続けた。俺は適当にうなずいたりしながら、目の前の水面に落ちていく夕日、映る月をひたすらに見続けた。
そうして何時間がたっただろうか。辺りも真っ暗になったころ、突然、明が「あ…」と言った。俺が訝しむような目で見ると、明は、
「……終電、乗り遅れちゃうかも……って、言ったんだっけ」
は?
俺は隣に座っている明を見る。今のは俺の思考ではなく、明の口から出た言葉だ。ここまでタイミングが一致するなんて…明が俺の思考を読んだのか、単に偶然か。恐らく後者だろう。
明は俺の視線を感じ取ったのか、こちらを向いて、首をかしげながら「どうしたの?」と聞いてきた。
「いや…俺も今まったく同じ場面を思い出してたから。俺の頭の中の明と、隣の明のセ
リフが見事にかぶってさ。結構、驚いた。」
「はは、そうだったんだ…でもあの後真琴ひどかったよね。「実は哀川って天然?」って
突然言われた時は本気で怒ろうと思ったもん。」
「それは……あのころから明のイメージって「完璧な人」だったから。あんな凡ミスするなんて思ってなかったんだよ。まあすぐに、重度の天然さんだってわかったけど」
「ひどい!私は重度の天然なんかじゃないよ!」
明はそういうと、ふくれっ面をしてそっぽを向いた。しかし、「重度の」天然ではないと
いうあたり、自分が天然だということは理解しているらしい。まああれで自覚していなか
ったら救いようがないか。そして、今の明の言動を「かわいい」と感じてしまう以上、俺
もかなり明に汚染されてきていると認めなければならなさそうだ。
明はそのまま黙り込んでしまった。必然、俺も黙り込む。再度の沈黙。そしてそれが呼
び起こすのは、思い出の続きの情景以外にない。
あの後俺と明は、何で気づかないのよ、いやそっちこそ、とお互いをなじりあいながら
猛ダッシュで駅に向かい、どうにか終電には間に合った。結局家に帰ったのは八時を回る
かどうかくらいだったと思う。幸い、両親はまだ家に帰っておらず、何も怒られることは
なかった。ごはんを食べている最中に明から電話がかかってきて、「あなたのせいで…親か
ら締め出されてるのよ…」と言われたのには、思わず笑ってしまった。
そして布団にもぐってふと、俺はこの世界でいったい何日ぶりに外に出て、走って、言い合いをして、ご飯を食べて、笑ったのだろうか、と思った。
その翌日から、俺は時々学校に行くようになった。なぜだかはいまでもわからない。も
しかしたら、明に会いたかったからなのかもしれない。
学校でも明は、ふと見つけて話しかければ、周囲の視線なんて気にすることなく答えて
くれた。何日か経つと、俺よりずっと前から無視されていた少年が俺に話しかけてくるよ
うになった。それが向江だ。向江とは気が合い、休み時間は常に話すようになった。学校
に行く頻度も上がり、ついには毎日になった。
明と向江のおかげで、小四の俺は救われた。断言してもいい。特に明には、いくら感謝
してもしきれない。
しかし、この思い出を思い出せば思い出すほどに、一つの疑問が俺の頭をもたげる。
どうして、明はあの時俺の家を訪ねてきたのか?
この問いは今まで聞いたことがない。何度かのど元まで上がってきたことはあるが、そのたびに飲み込んできた。怖いからだ。それを聞くことで、何かが変わってしまいそうな気がして。
別にそれで、実際に何かが変わる確率なんてほとんどないだろう。しかし、俺は現状に文句はないし、できることなら永遠にこの日常が続いてほしいと思っている。だったら、わざわざ聞くことはない。毛の太さほどの危険性は、確かに存在するのだろうから。逃げているといわれてもいい。逃げることで守ることができるのなら、俺は死ぬまで逃げ続けてやる。
そう思いながら明を見ると、まだ少し不機嫌なようで、腕を組んで、眉を少しよせている。少しの間なんとなく見続けていると、明は突然俺の方に体を向けて、「何?」と少しとがった口調で聞いてきた。いくらなんでも、ひきずり過ぎだろう。ひょっとして、明にとって天然って結構なコンプレックスだったりするのか?そうだとしたら、俺にとってそれ以上の笑い話はない。
俺が小さく、「なんでもない」というと、明も小さく、「そう」と言って、体も元の向きに戻した。俺も前を向きなおす。できれば電車から降りるまでには、機嫌を戻してもらいたいものだ。
電車が揺れ、俺達も揺れる。その音が、俺と明の沈黙を強調しているかのように感じる。
「ところで真琴さ」
少しして、明が俺の方を向くことなく呼びかけてきた。電車が大きくガッタンと揺れた。
明はそのまま続ける。
「真琴って、七年前のあの時、なんで私が真琴の家に行ったか気になったことないの?」
ドックンと、心臓がさっきの電車のごとく大きくはねた。
「な、ないよ。あんま気になんない。今があれば、俺はそれで満足だから」
大して考えもしないうちに口が開いてしまった。
明は唇を尖がらせて「ふーん」と音を出した後、小さく笑った。もしかしたら、全て見透かされているかもしれないと俺は感じた。
「じゃあ、いいや。真琴が気になるなら教えてあげてもいいかなーと思ったけど。私も、あんまり言いたくないし」
明は一切俺と目を合わせることなくそう言い切ると、電車の備え付けのテーブルの上に置いてあったペットボトル他色々を片付け始めた。俺がなんでだろうと思ったその時、「次は杜氏川自然公園前です」というアナウンスが入った。
明は電車に乗ってから初めて、俺の目を見て一言言った。
「もう着くから、準備しないとね?」
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next to 2
杜氏川自然公園とは、俺が住んでいる県とその南の県との県境にある、県内では最古の自然公園のことだ。
ただそうはいっても、一時間に一本しか電車が通っていないド田舎にあり、なおかつこれといった景勝地でもないため、訪れる人は少ない。そのため高度経済成長期以降、いくどとなく開発やゴルフ場化の話が持ち上がってきたらしい。事実、県内にはそれで消えてしまった公園が何個もある。
それでもこの杜氏川自然公園は消えることはなかった。なぜなら、祖父父息子と、三代連続で県議会議員を輩出している、県きっての名家である哀川家―明の家のことだ―が、そのたびごとに強固に反対してきたからだ。
これは明から聞いたことだが、哀川家はもともとこの公園の近くに居を構えていたそうで、この公園での思い出を消されたくない、という思いから初代の県議会議員が反対運動を起こし、それから県の中心部に引っ越してもなお、何代にもわたって反対運動の旗頭であり続けているんだそうだ。もちろん他の自然公園の開発にも反対してるんだけど、全部が全部撤回させられないんだって、とも明は言っていた。
そういう家の出身ということもあって、明は県内の自然公園には一通りいったことがあるらしい。中でもやはり杜氏川自然公園はお気に入りで、家族で何回も来たことがあると言っていた。あの時、俺を最後に連れてきたのも、自分の一番好きな場所だったからだろう。今でも、今日のように突然行きたいと言い出す時がある。俺もこの公園は決して嫌いではないので、そういわれたら異論は言わずに、日々のストレスやら疲れやらをいやすために使っている。…もっとも、毎回明がなにかしらやらかすせいで、帰るときの方が疲れています、ということも少なくないのだが。今日は、そうならないことを祈りたい。
「じゃ、行こ」
明は杜氏川自然公園駅の改札を出るなり、すぐに入園口に向かって歩き始めた。杜氏川自然公園駅というのは文字通り杜氏川自然公園の目と鼻の先にある駅なので、歩いて一分とかからない。駅自体が公園の敷地内にあると言ってもいいくらいの距離だ。
俺は前を行く明に駆け足で追いつき、並んで歩く。建物の中でとても退屈そうにしていた管理人のおっちゃんに入園口で軽く会釈して、木々で空がおおわれた公園内に入る。木漏れ日の光の線が、おぼろげながら見える。静かだ。周りには、もちろん他の人は誰もいない。鳥のさえずりがわずかに聞こえるばかりだ。俺か明か、どちらからともなく手がつなげられる。そのままのゆっくりとしたペースで、一本道を歩く。
お互い言葉を交わしてこそいないが、目的地は共有している。この道をひたすら行った先にある、池のほとりのベンチだ。ここに来た時はいつも、そこまでお互い無言で、一面の緑をかみしめながら歩き、ベンチでとりとめのない話をし、帰り道では、ほぼ毎回明のトラブルに巻き込まれる。例えば―あの時のように、終電に乗り遅れそうになったりとか。
俺は心のどこかで、今日もそうなるだろうと確信していた。緑の中を無心で歩き、水色のそばで明といろいろ話し、帰りには何かが起こる。そんな、分かりきっていて、いつも通りすぎて、それでいて幸せな時間になるだろうと。だから、左から「ねえ」と明の声が聞こえてきたのには、少なからず驚いた。
「どうした?」
思わず立ち止まって答えると、明は「歩きながらでいいよ」と、俺の左手を軽く引きながら言った。二、三歩歩いてから、明は再度口を開いた。
「真琴にとって、ここってどんな場所なの?」
どういう場所…か。そんなこと、考えたこともなかったな……。憩いの場所、ともいえるし、個人的に気に入ってる場所、と言っても間違いではない。でも、何より俺にとっては、
「やっぱり、思い出の場所、かな。明との、さ。それが、一番大きいよ」
そう答えると、明は「そう……」とだけ言って、黙ってしまった。沈黙を埋めるように、突然の風が木々で音を出す。十羽くらいの小鳥が枝から飛び立っていく。木漏れ日の光が踊る。
会話が途切れたまま十分くらい歩いたころだろうか。明が、また唐突に、口を開いた。
「私にとってはね……」
それがさっきの会話の続きだと気付く前に、明は言葉をつなぐ。
「私にとってここは、決意の場所なの。もちろんほかにもいろいろあるけど、私にとっての一番はそれ。あなたに会う前にした、一つの決意の場所。それだけ、覚えていてほしいの。理由なんて、意味なんて、特にないけど」
妙に真剣な調子の明の言葉に少し戸惑いながらも、俺の脳裏に様々な疑問が浮かぶ。決意って?いつしたの?俺と会う前に何があったの?
しかしそれを聞かれることを、明は望んでいないだろう。それぐらいのことは、俺にだってわかる。
「分かった。覚えとく」それだけ言うと、明は小さく微笑んだ。
今日の明は、どこかおかしい。俺は池までの最後の上り坂を登りながら思う。朝の遅刻の件はともかく、電車の中といい今といい、いつもの振る舞いからかけ離れた、深刻さを感じさせる言動ばかりだ。もし明が悩むような何かあったのだとしたら、力になってやりたい。支えてやりたい。かつて明が、俺にそうしてくれたように。危なっかしくて、どうしようもないくらいの天然さんだけれど、俺の愛する女(ひと)だから。明の右手をにぎる左手に、思わず力が入る。すると明もまた、強く握り返してくる。心臓の鼓動まで伝わってくるようだ。
視界が開けた。目の前に、決して大きいともきれいともいえない池と、茶色の、ぽつんとあるベンチという、見慣れた光景がある。明はいつもそうするように駆け足でベンチに行き、座る。俺もいつも通りの明の姿に若干安堵しながら、明の隣に腰を下ろす。ほどけていた手を再度つなぎ直し、二人の間に置く。
いつもならこのタイミングで明が何かしら話し出すところだが、明はただ遠くを眺めるばかりで、しゃべりだす気配はない。
仕方ない。たまには俺からしゃべってみるのもいいだろう。
「明って、進路とかどうすんの?やっぱ、東大行きたいとか思ってたりする?明なら、受ければ受かるだろ?」
背もたれによりかかりながら聞くと、明は一瞬俺の方を向いて、足をぱたぱたと揺らしながら答えた。
「行きたいって気持ちがないわけじゃないけど……多分、行かないと思う。私もう、行きたい大学あるから」
「どこ?できれば、教えてほしい。俺もそこ行けるように頑張るから」
東大でなければ、学力の高くない俺でも、まだ希望はある。どうにかして、明が行きたい大学に一緒に入る、というのが俺の当面の目標だ。高校に続けて、大学まで俺にあわせるわけにはいかない。
明は足を動かすのをぴたっと止めた。
「私の行きたい大学はね…」
「行きたい大学は?」
下を向き、少し間をおく明。もったいぶってないで、教えるなら早く教えてくれ。
「真琴が行きたい大学。」明はそう言うと、さっと顔を上げ、俺の顔を覗き込んだ。
「もう、決めたことだから。議論の余地はないよ?」
思わず、絶句してしまう。正直、願ってもない言葉だ。俺が望む大学を明も受けてくれるというなら、ほぼ確実に俺の望みは達成されるだろう。
しかし、それでいいんだろうか。いつまでも、明にあわせてもらってばかりで。心の中で、明の申し出に甘えたい気持ちと、申し訳なさ、わずかばかりのプライドがぶつかり合う。
黙り込んだ俺の思考を読んだのか、明は「私がそうしたいんだから、いいでしょ」と少し怒ったように言ってから、「それに」と、そこで言葉を切って、
「真琴は、もう十分すぎるくらいに頑張ってるよ。そばで見てる私からしたら、なんで成績が上がんないのかわかんないもん」
と言った。
確かに、俺はかなり勉強している方だと思う。明が俺の成績が上がらないのを不思議がるのもわかる。
それでも俺の成績が上がらないのは―一言で言ってしまえば、「夢」のせいだ。
たとえば、テスト前日に、夜中の二時まで勉強したとする。公式や暗記事項を必死に覚えて、寝て起きて、さあ本番だ!…と普通ならなるだろうが、俺の場合は起きたら夢だ。当然テスト勉強なんてできずに、詰め込んだ知識がかたっぱしから剥がれ落ちていく。少しでもそれを阻止しようと部屋にこもっていると、ルーセルあたりが訪ねてくる。結局、覚えたことの半分くらいは忘れた状態で、テストを受けることになるのだ。感覚としては、二日に一回日帰り旅行に行っているようなものだろう。もちろん、点数なんて上がるわけがない。
ならばと徹夜をしたこともあるのだが、あやうく夢での俺が殺されそうになったので、やったのはその一回きりだ。どうやら現実で一日寝ないと夢では一日中起こしても起きない状態になるようで、そのせいで死んだと思われたのだ。あの時は、本当に危なかった。
英語が極端にできないのも、夢での生活が関係している。夢の世界には夢の世界の言語があるため、俺にとって英語というのは第二外国語に等しい。これがまた、なかなかキツイのだ。
そこまで考えて、自らの境遇と、なにより全てを「夢」のせいにしようとしている自分
に、思わずため息が出る。しかし明は何を勘違いしたか、笑顔で俺の肩をたたきながら、
「頑張ってできないなら仕方ないじゃない。私にできることだったらなんだってしてあげるから、遠慮なくいってよ。」と、励ましてくれた。
「ああ…でも、できるかぎり一人でやりたいから。本当に困ったときだけ、お願いするよ」
「分かった。じゃ、互いに頑張ろうね」
明は再度俺の肩をたたくと、前を向きなおした。俺も、しばしすべてを忘れて、目の前
の景色を眺め―ようとして、腹から小さい音が鳴った。よくよく考えると、もうお昼時じ
ゃないか。
「明、お昼ってどうすんの?」
ここで明がさりげなくバックからお弁当を出すのを期待した俺だったが……やはり明は明
だった。明は一瞬固まってから、俺の方を向いて両手を合わせて頭を下げた。つまりは、
考えていませんでした、すみません!ということだな。
「じゃあ、今日はもう帰るか」
「うん。…ごめんね」
「ふう…けっこう、食べたな」
「そうだね……なんか最近太ったような気がしてたから、おさえてたんだけど……結局、食べちゃうんだよね」
「……明も、体型って気にするんだ……」
「ひどい!その言い方はひどいよ、真琴!!」
ここは、駅のファミレス。時刻は午後三時ちょうど。注文した品を食べ終わって、しばし休憩中。
午後二時という遅い時間の昼食だったのと、なし崩しとはいえ久しぶりの外食だったせいで、俺も明も若干食べ過ぎた。ダイエット中だったらしい明は、俺の向かいの席でしきりに脇腹あたりの肉を気にしている。今更遅いだろ。というかそもそも、その体でダイエットする必要あるのか?
「明、そろそろ大丈夫?」
「あ、うん」
胃のもたれが消えるまで待って、明を連れて会計へと向かう。その途中でも、明は体中あちこちを、肉がついていないか入念にチェックしている。はたからみたら、あてつけにしか見えないだろう。
会計を割り勘で済ませて、店の外に出る。朝もそうだったが、今日はいつもの休日に比べて、なぜだかはわからないが駅にいる人数がだいぶ少ない。今俺の視界にいるのは、だいたい二十人前後といったところか。帽子をかぶった初老の男性、赤いハイヒールを履いた、三十過ぎくらいの女性、ひときわ目立つ大きな紙袋を持った、高校生くらいの少年……向江?
俺が向江に呼びかける前に、向江も俺たちに気付いたようで、驚いたような様子を見せていたが、すぐに駆け寄ってきた。隣で明も、「あっ、向江君」と声を上げた。
「よう、向江。偶然だな。約束もしてないのに、二回もあうなんて」
「こんにちは、真琴君。哀川さんは、無事だったみたいだね」
俺と向江で話していると、会話についていけない明が、「どういうこと?」と聞いてきた。
「朝明から電話がくる直前に、駅で向江に会ったんだよ」
俺が説明すると、向江も「そういうことだよ」と言った。
「ところで、君たち二人はどこへ行ってたの?」
向江の問いに、明が答える。
「ここから電車で四十分くらいのところに、杜氏川自然公園ってところがあるんだけど、そこに行ってたの」
「だけど明が昼飯のことを考えてなくて、帰ってきてファミレスで食べてたんだ。久しぶりに杜氏川自然公園に行ったっていうのに、まったく。」
横目で明を見ながら言うと、明はしょぼんとして、「ごめん」と小さくつぶやいた。そんな明をみて向江と二人で笑う。明の「笑うことはないでしょ!」という声が聞こえてくるが、その声がさらに笑いを誘う。
向江と二人で散々笑った後、俺は向江に「お前はどこに行ってたの?」と尋ねようとして、思い直す。そういえば朝、遠くまで買い物に行くとか言ってたっけか。大きい紙袋の中には何が入っているのか気になるが、朝、言いたくないと言っていたのを思い出して、、これも思い直す。
その後少し、他愛もない話をした後、向江は帰宅のためバスターミナルに向かった。別れ際に向江が何かを言ったような気がしたのだが、聞き取ることはできなかった。
「向江君って…なんか、変わってるよね。」
突然、二人に笑われてしょげ込んでいた明が口を開いた。「どこが?」と聞き返すと、
「どこって言われても……雰囲気とか、立ち振る舞いとか。なんか雰囲気は、真琴に似てるような気がする」
と答えた。それって、俺も変わってるって暗に言ってるよな。まあ、否定はしないが。
向江については俺も知らないことの方が圧倒的に多い。例えば、なぜ小三の時点で、すでに一人で、周りに壁のようなものを作って生きていたのか。あるいは、なぜあの時突然俺に話しかけてきたのか、といったようなことを、俺は一切知らない。
俺が黙っていると、明は少し考え込むそぶりを見せながら言った。
「今持ってた紙袋だって、隣の件にある、日本最大のプラモデル販売店のだもん。私には、向江君がそんな趣味を持ってるなんて、考えられないよ」
向江が、プラモデルか…確かに、想像できないな。俺も感じていることだが、アイツは俺以上に、どこか浮世離れしている。そういう意味では、確かに変わっているのかもしれない。
「確かに、アイツは変わってるかもな…」と思わずつぶやくと、「でしょ?」という明の声が聞こえてきた。
と、ここで疑問が一つ。
「てかさ、明。なんでプラモデル販売店の袋なんて知ってんの?」
「明日役立つムダ知識。知っといて、損はないよ」
…損はないけど、おそらく得もないんだろうな。
そんなことを考えていると、明が、この後どうするかと聞いてきた。今日はもう帰ろう。俺がそう言うと、明は、うん、そうしよっか。バイバーイ。と言って、手を振りながら帰って行った。後姿が階段で隠れて見えなくなってから、俺は振り向き、自転車置き場へと歩き出す。なんだかんだで、今日も一日、他愛もない日常だったなあと、夕焼けで茜色に染まった空を眺めながら思う。明と、ルーセルと。二人の女の子とともに生きる、永遠に続く退屈しない日常が、一日過ぎて行ったのだと、実感する。
ただ―この時にはもう、その日常の歯車は、狂い出していた。そしてその狂いがどうしようもないくらい大きくなり―この世には、永遠なんてものはない。あるとすれば、それはもうすでに終わってしまった、過去の思い出の中にあるだけなのだと、俺がそう気づくのは、死ぬ間際か、五十年後か、十年後か。それとも、
もうすぐなのか。
家までの帰り道。バスの中で、向江真生は、さっき、この世界で唯一の友人に向かって別れ際に発した言葉を、無意識のうちにつぶやいていた
「真琴君。一緒に―
世界を、変えよう」
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encounter 1
九年間の生活で気づいたことだが、この、「夢の」世界と、現実世界は根幹のところでかなり似ている。
まず世界そのものだが、この世界についてはよくわかっていない。現実と同じように球体なのかもしれないし、天動説よろしく平面の果てに突然世界の終わりがあるのかもしれない。しかし、どちらにしても現実と同じように日は登り、夜には月と星が空にある。地面は土でできているし、水が流れる川や湖、俺は見たことはないが海もある。もちろん、空気もある。雨や雪だって降るし、ノル村のような寒い地域に行けば、ドカ雪だって珍しくない。
次に生き物。人間に関しては外見はまったく同じだし、歩き方、話し方、感情表現、はては一日の生活リズムに至るまで、図ったかのように一致している。この世界には病気というものがほとんどないため、医学も存在せず、それゆえ体内の構造まではわからないが、俺は多分同じようなものだろうと考えている。動植物についても、それぞれの名前こそ違えど、姿形は現実とよく似ている。例えば馬に二本角が生えたような姿のラーバであったり、まん丸い実を作る、コメのような植物であるマコであったり。料理の食材にできるものも少なくない。
そしてそんな環境にあるため、当然人間が作り出すものもそっくりである。スプーン、フォークと言った小道具、タンス、テーブルと言った家具から、家や軍の訓練場、帝宮と言った大掛かりな建設物の構造まで、俺の見た限りではほぼ同じものだと言っていい。
しかし、もちろん違いもある。
神素については省略。
例えば人間性。構造がいくら同じだと言っても、内面はだいぶ違っていると俺は感じている。この世界の人々は、現実の人間と違って「野心」や「欲」といった感情をまったくと言っていいほど持っていない。ひたすらに「協調」や「平和」といったものを望んでいるのだ。ゆえに世襲制の帝の統治が何千年も、何の問題もなく続いているのだし、それ以前まで含めて考えても、この世界の中での戦争は、一度も起きていない。異空門が開いた時に確かに戦争は起きたが、あれはあくまで異世界の軍勢というイレギュラーなものがこの世界に侵攻してきたために起きた戦争だ。この世界の人々が望んで起こしたものではない。
そしてなにより、みながのどかなのだ。この世界の人々は、野心や欲―つまり、もっと儲けてやろう、とか、むかつくあいつを蹴落としてやろう、とかいう、いうなれば負の競争を引き起こす感情を持っていない。一人一人が自分の仕事をこなし、時には助け合い、時々の休暇を楽しむ、という日常を死ぬまで繰り返すことが、この世界で生きる人々にとっての、最低かつ最高の生活であるために。
そして俺がこの世界を愛する理由も、ここにある。
現実のように、生まれてから死ぬまで競争で、それに勝ったものが幸せを手にできる世界の方がいい、という人もいるだろう。俺も、それを否定はしない。
しかし、そもそもその競争は幸せを求めるためのものであるはずだ。それならば、競争せずとも、周りのみなを敵だと思って日々を過ごさずとも、心の温かい人々に囲まれて、笑顔で生まれて笑顔で生きて笑顔で死ねるような、そんな「幸せ」な生活を送れるこの世界の方を好きになっても不思議じゃない―いや、そうなって当然だと俺は思う。
だが、俺には現実に、哀川明という彼女がいる。
明は俺に手を差し伸べてくれる。
明は俺に競争を求めない。
明は俺に笑顔をくれる。
明は俺に「幸せ」をくれる。
そんな、まるでこの世界をそのまま人間にしたかのような明のことを、俺は絶対に裏切れない。だから俺は、いくらこの世界の方が現実より好きでも、明に会う前の俺のように、現実での生活をないがしろにはできない。そうしたら、明が悲しむだろうから。
そんなことを考えながら―俺は昨日の昼間より二回りくらい小さい鍋で作ったおかゆを二セット、ルーセルが待っているテーブルに持っていく。気温はまだ、相当低く、鍋から出る蒸気が心地よく温かい。
今朝、俺は今年一番じゃないかと思うくらいの寒さにどうにか打ち勝ち、起きて支度を始めた。震えながら着替え、いざ朝食を作ろうとして―食材の残りがないことに気付いた。どうしたもんかと悩んでいると、昨晩ルーセルの部屋に行ったときに、かなりの量の食材が置いてあったことを思い出した。ルーセルの部屋を訪ねるとちょうどルーセルが起きたところで、
「きゃー!幽霊よー!」
「何言ってる!俺だよ、アールスだよ!」
「嘘!アールスが私より早く起きるなんてありえないもの!さては、アールスの幽霊ね!」
「勝手に殺すな!」
…というくだらないやりとりを繰り広げた後、話し合った結果、ルーセルの「食材は提供するから、私の分も作って」という提案を俺が吞んで、今に至る。
「お待たせ。ほら。」
「ありがと」
短いやりとりとともに、ルーセルに鍋を渡し、自分はテーブルの反対側に座る。二人でそろって「いただきます」と言ってから、無言で蓋をあけ、食べ始める。ちょうどいい熱さ加減と、適度なしょっぱさ。我ながらうまい。ルーセルは紅白のスカートに薄いブラウスだけという、見ているこっちが震えてくるような薄着で、黙々とスプーンを動かしている。その速度のはやいことはやいこと…
「なあルーセル。もう少し味わって食べてくれないか…」
思わずつぶやくと、ルーセルは手を休めることも、顔をあげることもなく答えた。
「いいじゃない。…もぐもぐ…その、…もぐもぐ…おいしいんだから…」
おいしいんなら、もっとゆっくり食べてくれ……
という俺の心の叫びが届くはずもなく、ルーセルはそのままの速度で食べ続ける。俺も溜息をつきながら、自分の分がルーセルに比べて全然減っていないことに気付き、慌ててスプーンを動かす。
「ねえアールス。」
先に食べ終わったルーセルが不意に口を開いた。
「どうした?」
「後で、この料理の作り方教えてくれない?私も、作れるようになりたいから。」
「いいけど…代価は?」
突然の要求に少し驚きながらも、軽く応じる。しかし代価の要求も忘れない。俺は頼みごとに関しては、基本ギブ&テイク主義だ。
ルーセルは、ちょっとしたドヤ顔をしながら言った。
「かわりに、昨日私が作った料理を教えてあげるわ。私の料理の技術に感嘆しなさ……」
「却下」
「何で!?昨日おいしいって言ってたじゃない!」
俺の完璧な拒絶にうろたえながらも、心底不思議でならないといった調子で返すルーセル。昨日の料理…確かにおいしかったけどさ…鍋の汁がマニーデ―この世界のマヨネーズのようなもの―を溶かした水で出来ているなんていうゲデモノ料理、もう食べる気にはなんないよな、普通……
俺が「それじゃ、代価はいいや。今度時間のある時に、教えてやるよ。」と言うと、ルーセルはまだ不機嫌そうだったが、「分かったわよ……」と言った。
少ししてようやく俺も食べ終わり、ルーセルの鍋も持って、台所へ向かう。これから二日三日ノル村に泊まる以上、洗物など、やるべきことはしておかないといけない。この家の主人であるルーセルも当然手伝うべきであるはずだが、あろうことか椅子に座ったままテーブルの上に置いてあった雑誌に目を通し始めた。その雑誌の題名は「ぬくもりとやさしさに満ち溢れた台所料理百選」。…その雑誌を読んでいながら、どうしてあんなゲデモノ料理を作れるのか。あの料理に対して「ぬくもりとやさしさ」なんて、対極にあるような言葉だろうに。
あきれつつ台所にはいり、桶からためてある水を少しくみだし、奥に置いてあるスポンジをぬらして鍋をこする。この世界では下水道はともかく、下から上に水を送らなければならない上水道はまだ整備されていない。そのため、一家に一つくらいは水をためておく桶があり、そこから水を取り出して使うことになる。だいたいの家庭ではかなり大きい桶を家の外に置き、一週間に一回、川から水を桶に組み入れている。帝都の場合は例外で、軍の水素使いが当番制で各家庭を回って水を入れることになっている。そのことからもわかるように、水素使いであれば自分で水を好きなだけ生み出せるため、桶はなくてもすむ。実際に桶に水をためている水素使いなんてルーセルくらいじゃないだろうか。
ちなみに、使われて下水道を流れる水の行先はというと、ため池でも、もちろんハイテク浄水場でもなく、そのまま川だ。「環境汚染だ!」というなかれ。この世界には環境を汚すような科学物質は存在しないのだ。
一つ目の鍋をこすり終わり、食器棚に戻す。この世界には病原菌というものがいないので、水で濡らしてこするだけで十分だ。
同じように二つ目の鍋も洗い終わり、棚からタオルを取り出して手を拭いていた、その時。突然、玄関がノックされた。こんな朝早くに、いったい誰だろうか。振り返ってルーセルと顔を見合わせる。するとルーセルはジェスチャーで俺に出るように指示してきた。確かに台所にいる俺の方が玄関には近いが…アイツ、俺のことを召使かなんかだと思っているのか?顎で使いやがって。
はぁー、と大きく息を吐いてから玄関を開ける。
するとそこには、昔から―それこそ俺がこの世界に生まれ落ちてすぐからの付き合いである男が立っていた。ルーセルと同様、見ていて鳥肌が立つくらいの薄着だ。
「お、ギアか。なんだ、こんな時間に」
俺が男―ギア・カイトにそう尋ねても、ギアは返事をする気配を見せない。俺より頭一つ高い位置にある目で、俺を不思議そうに見つめている。すると今度は、部屋の奥にいるルーセルを同じように見つめ始めた。いったい、どうしたというのか。
「おい、どうしたんだ?」と俺が尋ねる前にはもう、ギアは部屋の前からはしり去って行った。
「邪魔したなッッ……!!」
「「違う!」わよ!」
俺とルーセルの声が重なった。
「アールス!」
「分かった!」
全力でギアの背中を追う。
階段の直前でどうにかギアに追いつき、事情を説明すると、ギアは一言、「なんだよ…」とつぶやき、こんな時間に来たのだから何か用事があったのだろう、もう一度ルーセルの部屋に向かって歩き始めた。
俺がギアの隣に並ぶと、ギアは不意に、あきれたような口調で言った。
「なあ…お前らさ、結局いつになったらくっつくんだよ?どうせ将来そうなるんだから、早いなら早い方がいいと思うぜ、俺は。」
ルーセルが聞いたら顔を真っ赤にして騒ぎ出しそうなセリフだが、幸いここにはいない。俺は内心の若干の動揺を隠すように、自然体を装って返す。
「あのなあ……勝手に決めつけんなよ。少なくとも俺には、そういうつもりはないし、ルーセルだって告白してこないんだぜ?だったら、そういうことだろ?……てか、俺たちってやっぱそういう風に見えんのか?」
そういえば昨日も見知らぬおっちゃんにそんなようなことを言われた気がする。確かにいつも一緒にいるし、俺はルーセルのことを「好き」だ。しかしそれは決してラブではなくてライクだし、なにより俺とルーセルの間の雰囲気は、カップルのそれとは全然違うものだと思うのだが。
それを聞いてギアは一瞬まじまじと俺を見つめた後、心底おかしくてたまらないといった調子で、頭をかかえながら言った
「お前なあ……そう見えるか?じゃねえよ。どう見たって、そうにしか見えねえよ。少しは自覚しろ。ああ、いいなあ、こういう余裕のある奴は!」
「ああ、そういえば、お前、例のあの子に告白して、即フラれたんだっけ。出会って一年、思い続けて一年。勇気ある告白を「ごめんなさい」で一蹴した、あの子の名前は、確か…」
「それ以上言ってみろ。二度と日の目を見れなくしてやるからな!」
ギアはそういうと、俺を射抜き殺そうというような視線でにらみつけてきた。ただ、会話の内容が内容なので、まったく怖くない。むしろ笑いが出てきそうだ。しかしここで噴出そうものなら本気で殺されかねない。どうにか、こらえる。
それにしても―久しぶりに会ったが、相変わらずだ。この、ギア・カイトという男は。
ギアは今二十二歳。俺やルーセルの四つ年上に当たる。世界最北端、ド田舎のノル村のさらに北のはずれに住むヒュレット家とカイト家の、しかも年も離れていない子供同士ということで、小さい時からお互い、一緒に遊んだり、助け合ったりしてきた。ルーセルは何かと相談相手にしていたようだし、俺はこの世界の言語を教えてもらった。ルーセルにとっても俺にとっても、兄貴のような存在だった。
そして今から十年前、ギアは「ノル村史上最高の天才」という看板を引っ提げて、軍の下部組織である軍校に、一人入学していった。
その四年後、俺とルーセルが二人そろって軍校に入り、三年の軍校生活を終えて軍に入ると、すでにギアは軍第百七十部隊の隊長だった。十九歳での隊長就任は、その当時の最速記録だったそうだ。
そして今年の初めの人事移動で、ギアはこれまでの最年少記録を五十歳ほど更新して、軍の執行部となった。俺がギアの記録をぬりかえて十八歳で隊長になれたのは、ギアが俺を後釜に指名した、というのもあるらしい。
ギアは、俺が軍校に入学してからは常に目標であり、超えていきたい壁だった。それは今でも変わらない。いくら俺の方が若くして隊長になったといっても、神力、行動力、その他全てにおいて俺はまだギアには及ばないのだから。……まあそうはいっても、いじると面白いのは事実なので、いじるときはいじるが。
ギアとの久しぶりの軽口を楽しみながら部屋に戻ると、玄関にルーセルがむっつりとした顔で仁王立ちしていた。ギアが「久しぶりだな、ルーセル」と何事もなかったかのように言うと、ルーセルは「違います!」と一言言って、ぷいっと振り向いて部屋の奥へと入って行った。いくら恋愛感情はないといっても、あそこまで否定されると…少し、心が痛む。
なぜだかにたにたと笑うギアをひじで制しながらルーセルの後を追っていまに入ると、テーブルの上に二杯の飲み物が準備されていた。俺とルーセルがしれっとその席に座ると、ギアは愕然とした顔で「俺の分は?」と言った。ルーセル曰く、「変なからかいをする人の分はない」そうだ。おお、怖い怖い…
ルーセルは、自分の分の飲み物をくみに行ったギアが席に着くや否や、まだ少しとがった感じの残る口調で言った。
「で?ギア、何の用よ?こんな朝早くに。」
ギアは、腕を組みながら返した。
「さっきアールスから聞いたけど、今日お前らノル村に行くんだろ?だったら…」
「だったら?」
ルーセルがせかす。
「俺の親父とお袋に、悪いけど、俺は今年は帰れねえって言っといてくんねえか。年明け休みだってのに、どうにもこうにもやることが多すぎてな…。」
「おいギア、軍の執行部ってのはそんなに忙しいのか?」
「いや、先輩の話を聞く限り、今年だけ異常にやることが多いらしいんだよ。南の果ての村出身の先輩も、もう先が長くない両親の顔が見たいって嘆いてたしな。なんでも、帝から今現在この世界に住んでいる人の数と名前、性別から職業に至るまで全てをまとめた「セキ」なるものを作れって指令がきたんだとよ。おまけに、これは一年ごとに更新するそうだ。そのせいで俺らはあちこち飛び回って村ごとの人数を確認したり、来年の更新のために制度を整えたり、もう、使われたい放題だよ、こんちくしょう。」
「それは…帝も、大変なことをするものね。この世界の人の数なんて、考えたこともなかったわ。」
もはや笑みすら浮かべているギアに、ルーセルがあきれた声で言った。確かに、この世界の全ての人の個人情報を手作業で集めようとしたら、とてつもない時間と労力がかかるだろう。年明け休みがなくなってもおかしくない。よく帝も、こんなことを思いついたものだ。
あと、その名称が少し不思議だ。「セキ」なんて…現実でも、この手のものは「戸籍」というじゃないか。なかなか、面白い偶然だ。
だが他の二人はそんなことを思いつくはずもなく、黙っている俺を差し置いて会話は続く。
「あれ?今思ったけど、その「セキ」ってやつを毎年更新するってことは、ギアって来年以降もうずっとノル村に帰れなくなるってこと?」
「いや…しっかりした制度ができれば、ずいぶん楽になるから、来年は一日二日は帰れるはずだ。…でもマジで、今年だけはどうにもなんねえんだよ…はあ…」
「私からはもう、頑張ってとしか言いようがないわ。まあこれも、軍八千五百人のトップに立つ者の運命だと思って。」
「その通りだ、ギア。頑張れ。ノル村から応援してやる。」
ギアは突然声を発した俺を睨み付け、音が聞こえてきそうなくらいの歯ぎしりをした。
「この野郎…!他人事だと思いやがって…!今度執行部に人を入れるってなったら、真っ先にお前を推薦してやるからな。覚悟しとけよ。」
「何言ってんだ。ぶっちぎって最年少のお前に、そんな力あるわけないだろ。」
「チッ…ばれたか」
ギアは本気で悔しそうな顔をしている。ふう。なかなか、危なかった。
不意に訪れた、一呼吸ほどの沈黙の後、ギアはそれまで一切手を付けていなかった飲み物を一気に飲み干し、さっと立ち上がった。
「悪いな。俺としてはもう少し話したいところだが、もうこれ以上作業から抜けるわけにはいかねえからな。じゃあ、親父とお袋に、よろしく伝えてくれ。あ、あと……」
ギアは右のポケットに手をつっこむと、何か取り出し、それをルーセルに手渡した。覗き込んでみると、首にかけるタイプのアクセサリーだった。窓からの光を浴びて、きれいな水色の光を発している。
「それは、クウィナへの……まあ、お詫び、か。クウィナに会ったら、渡してくれ。帰れなくてゴメンな、とも言っといてくれ。頼む」
クウィナというのは、ギアが溺愛(?)している、十歳年下の妹のことだ。十歳差もあって、シスコンなのかと思うかもしれないが、この世界では一年が現実の二倍の早さで過ぎていくため、当然兄弟姉妹の年の差もつきやすくなる。十歳、十五歳差なんてざらにいるし、俺は実際、三十歳差の兄妹を見たことがある。
「ああ。確かに頼まれた。あとな、ギア……」
「ん?どうした?」
「いや、やっぱいいや」
一瞬でもギアに「モテないのはそのシスコンのせいじゃないのか?」と言おうとした自分が恐ろしい。火事を油で消そうとしたような状態になるのは目に見えているというのに。
ギアは首をかしげていたが、たいしたことではないと判断したのか、それとも本気で時間がないのか、「じゃ、よろしくな」と言って、玄関の方に歩いて行った。
「待って、ギア!」
すると、しばらく口を開いていなかったルーセルが突然、ギアを呼びとめた。ギアは居間の扉から顔だけ出して、「なんだルーセル?」と言った。
「ギアって、誰に告白してフラれたの?」
そのセリフに、俺とギアが固まる。ルーセルがそれを知っているということは…つまり、さっきの会話が、ルーセルに聞かれた?
「ルーセル…どこから聞いてた?」
ギアの問いに、ルーセルは「いいなあ、こういう余裕のあるやつは!から。」と答えた。
俺はほっと胸をなでおろす。それ以前の会話を聞かれていたら……
しかし、それでもギアの表情はひきつったままだ。どう答えるか迷っているのだろう。
「ああ、わかったよ、教えてやるよ!」
少しの沈黙の後、ギアはやきが回ったかのようにいった。勢いそのままに、全てを暴露する。
「俺が好きだったのは、帝都北ブロック三丁目の八百屋の一人娘の、ジャイカ・ペルシュさんだよ!告白して、即フラれたんだよ!思い出させるなよ、もう!」
ギアはそのまま「ああ…」というネガティブモードに入ったが、ルーセルには気にならないようだった。しきりに「ジェイカ……ジェイカ・ペルシュ……」とつぶやいている。
「あっ、そうだ!」
突然ルーセルが、何かを思い出したようなしぐさとともに叫んだ。
「その子、この間アールスに「二年間ずっと好きでした!」って告白してきた子でしょ!私、知ってるんだからね!」
「なっ・・!」
なんでルーセルがそれを…俺は誰にも言っていないのに、なぜ?
「アールス?本当か?それは、本当なのか……?」
声のした方を向くと、ギアが俺をにらんでいた。主に「怒り」や「憎しみ」で、ひきつった顔で。こめかみに、青い筋が浮かんでいるのが見える。
「……ギア。その…ゴメンな」
「……ッ!アールスの、このくそ、腹立つ▼*◎□●◇…!!」
最後の方は、言葉になっていなかった。 ただ、俺をねたんでいるだろうことだけは、どうにか理解できた。
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encounter 2
ギアはその後ひとしきり俺に罵詈雑言を浴びせていたが、「あっ、やべえ!」と突然叫ぶと、ものすごい勢いで玄関から出て行った。「じゃあな、二人とも!」という言葉に、若干ドップラー効果が発生していたような気がする。まあ実際、気のせいだろうが。
「なんか…嵐が過ぎ去ったあとみたいだな……」
俺がギアが開けっ放しで出て行った玄関を眺めながらつぶやくと、隣に立つルーセルも「同感……」とつぶやいた。ヒュー、と、冷えた風が入ってくる。もうだいぶ日は登っているというのに、空気はまだだいぶ冷え込んでいる。
少し肌寒いが、心地よい冷気を味わっていると、ルーセルは首だけ俺の方に向けて言った。
「さて…じゃあ、私たちも出発しましょうか。アールス、飛神、準備できてる?」
飛神というのは、帝からもらったあの「空を飛べる機械」に、俺が昨日の晩につけた名称のことだ。由来は、「神」素で「飛」ぶことから来ている。
「ああ。それは大丈夫だ。ただ……」
「ただ?」
「昨日買った魚、どうやって持ってく?あれを抱えて空を飛ぶってのは、なかなか無理があると思うんだが」
昨日買った魚は、少なくとも俺の片腕の長さくらいはあり、その上、かなり重い。いつもならラーバに乗せればいいので苦労はないが、今回ばかりは別だ。
俺の言葉を聞いて、ルーセルは「そういえばそうね」と言った後、少し考えてから、「二人で抱えて持っていくってのはどう?」と提案した。
「うーん、それは結構危険じゃないか?俺たちにはまだそこまでの飛行技術はないと思う。もし途中で落っことして、歩いてる人の頭にあたったら……」
「まず間違いなく、死んじゃうわね」
ルーセルは俺の言わんとするところを察して、また考えこみ始めた。
しばらく二人で考えていたが、なかなかいいアイデアは出ず、結局あきらめることになった。ノル村に何も買って帰れないのは残念だが、俺たちは軍に所属している以上、帝の指令は絶対だ。両親も、話せばわかってくれるだろう。
一回自分の部屋に戻り、朝の段階で用意していた飛神とその他いろいろを詰めたバックを手に取る。泥棒なんてものがこの世界にはいないとは分かっていても、窓や玄関の戸締りを気にしてしまうのはかぎっ子の性だろうか。
俺が部屋を出た時にはもう、ルーセルは飛神をしょって、俺のより一回り大きいバックを肩にかけていた。俺が「飛神は隠しとけよ。一応、機密事項だろ」と指摘すると、あわてて飛神を下ろそうとした。しかしあわてすぎてバックと絡まったようで、なかなか進まない。思わず笑ってしまうと、若干涙目で、恨めしそうに睨まれた。
やっとのことでそれが終わると、ルーセルは「行くよ」とだけ言って、ずんずん歩き始めた。
昨日相談して、この寮の屋上から飛び立とうということは決まっている。飛び上がらなくて済む分だいぶ楽だろうし、なにより人目を避けることができるからだ。…何?それが昨日あんなビビってた奴の台詞かって?
さっさといってしまったルーセルを追って小走りで屋上に着くと、ルーセルはすでに飛神をしょって、俺を待っていた。
「さっさと準備して。競争、するんでしょ」
「え?俺、そんなこと言ったっけ?」
「言ったわよ。昨日。腑抜けたこと言ってないで、早くしなさい!」
そういえば…確かに昨日、調子に乗ってそんなことを言ったような気がする。だが、今は正直、そんな気分じゃないな…。どちらかというと、まったり、景色を楽しみながら飛んでみたい。
その旨もルーセルに伝えると、ルーセルは一瞬むっとした顔になったが、すぐに、完璧なまでの無表情になり、無機質な声で言った。
「ふうん、そうやって逃げるんだね……」
あからさまで、幼稚な挑発。……しかしながら、それだからこそ妙に腹が立つ時もあるし、相手もいる。今が、その良い例だ。
「ほお…よほど、自信があるようで。……負けたら、何してくれるのかな?」
「そうね。帝都で一番のパフェは食べたから、今度はケーキなんてどう?」
よし、乗った!
「じゃあ……よーい、ドン!」
自分でも驚くような速さで飛神をしょって、フライングを決める。
「あっ、ずるい!」
「お前だって昨日、フライングしただろ!お返しだよ!」
「くぅーっ!」
ルーセルも屋上から、全力で飛び立つ。
俺も、ルーセルも、のっけから全力で、ノル村を目指す。
が。
ノル村までの半分も行かずに、二人ともばてた。
「なによこれ…めちゃくちゃ効率悪いじゃないの……」
「まあそういうなよ。まだ試作品なんだろ、これ。」
最初の十分くらいは、俺もルーセルも、快調に、今まで感じたことのない感覚を楽しみながら、抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り広げていた。
しかしあまりに必死になり過ぎた。神素は、自然のものを自分の神力で集めて使うため基本上限はないのだが、人それぞれに一定時間に使える神素の量には限度がある。その上限を、俺とルーセルは無自覚のうちに超えてしまったのだ。
そして当然、神素が使えなくなれば飛べなくなってしまう。俺もルーセルも、あと少しで墜落の憂き目にあうところだった。競争なんて言っている余裕もなく、肩で息をしながらどうにか協力して体勢を整え―今はしごくゆっくり飛んでいる。
考えてみれば、帝はあくまで「競争のため」ではなく「試作品」の「最終テスト」として俺とルーセルに飛神を渡したのだ。ルーセルが言うように、俺たちが思っていたよりもかなり対神素効率が悪いというのも確かに事実だが、それは俺たち二人の高望みのせいだ。むしろ、何も考えずに全力で飛んで一時間持ったことを賞賛すべきなのかもしれない。この世界における最速の移動手段であるラーバと比較しても、おそらく倍くらいの速度は出ていただろう。ゆっくり飛んでいるはずの今でさえ、ラーバより遅くない。
もしかしたら―この「飛神」なるものは、この世界で、何か、現実で言うところの産業革命のようなものを引き起こすきっかけになるかもしれない。天啓が下りてきたかのように、俺はふと思った。おそらく帝が一人で考案、設計しただろう(いかな帝都最大の工房の技術長といえど、これは作れないと思う。失礼だが)飛神の内部構造やロジックは俺には分からない。だがこうしてここに二台あるのだから、三台目、四台目も作れるだろう。やがて、何年かかるかは分からないが、量産できるようになれば、飛行以外にも、使い道はぐっと広がるはずだ。これまでできなかったことを可能にする様々な方法が、世界各地で同時多発的に生まれていくに違いない。そしてその発明を、今よりもっと対神素効率が良くなり、一般人でも使えるようになった飛神が北から南、西から東へと運び―発明と発明の邂逅がさらなる発明を呼び、技術がものすごい勢いで発達し――そうすれば、もしかしたら――
「あっ、見てアールス。もうアーラベラクが見えるわ」
俺の、荒唐無稽な思考を中断させるかのように、ルーセルが叫んだ。かなり大きい声だったため地上に聞こえていないか心配になったが、運よく視界の範囲に人はいなかった。
空から見ると―地上から見上げるよりも、何倍も壮観だ。北都アーラベラク。
この世界は、分かっている限りでは帝都を中心とした円状の構造をしている。だがすべての地域を帝が直接支配しているわけではなく、その円を、北に九十度、東に九十度、南に…という風に分けていってできた四地域に、退役した軍の執行部を「候」として、その地域における地方領主のようなことをさせている。
その候がいる場所が、東西南北プラス都で呼ばれる、その地域最大の都市なのだ。例えばこの北都アーラベラクには、おととし就任したばかりの北候アニアート・スエナがいて、北宮のなかでわずかばかりの仕事をこなしている。
俺とルーセルが軍校時代の三年間を過ごしたこの都市は、ほかの三都―東都ガテンベラク、南都アンナ―カベラク、西都フイリナベラクの、どの都市よりも栄えていて、かつ美しいと言われている。栄えているのは、あの戦乱の後、ただの原っぱになってしまった北地域復興の中心都市として多くの人が訪れ、多くのものが流通した名残だと、軍校の教師から教わった。
美しいと言われるのには、火の神アーラの神殿が存在するというのが大きい。
本来神の神殿というものはそれぞれ東西南北の僻地にあり、アーラの神殿も昔はノル村よりもさらに北にあった。
しかし、あの戦乱の折、不幸にも異空門がその神殿より南に開いてしまった。すべてが終わった後時の帝が異空門周辺を立ち入り禁止にし、神殿もまた、その領域に入っていた。
このままでは神殿が、神を祀る場所が忘れ去られてしまう。そう危惧した当時の神殿の管理人が帝に移転させてほしいと直訴し、それが認められてアーラベラクに移ってきたんだそうだ。
それゆえアーラベラクには他の三都にはない美しさと、どこか荘厳とした雰囲気がある。俺が他の三都に行ったのは指令で何回かだけだが、それでも断言できる。建物一つで街全体の雰囲気まで変わるか!と思うかもしれないが、それならこう考えてほしい。もし東京からスカイツリーが、あるいは大阪から通天閣がなくなったとして、その街が一切変わらないなんてことがあるだろうか、と。この世界における「神殿」とは、あらゆる意味で「象徴」なのだ。
だいぶアーラベラクが近づいてきた。周囲の建物の二倍近くの高さのある神殿の真っ赤に染められた壁が、赤いと認識できる。ルーセルはもう競争なんて忘れているのか、俺の右隣をゆっくりと飛んでいる。二人とも、もはや飛ぶことに何の不安も感じていない。
「ねえアールス」
不意にルーセルが言った。
「どうした?まさか……」
言いかけて、左足で脇腹をけられた。ゴスッ。体勢が崩れかける。
「お、お前な、いきなりは危ないから」
「それ、昨日もやったでしょ。三度目は、容赦しないからね」
俺の言葉にまったく反応せず、こめかみをひきつらせてルーセルが言った。こうなったらどうしようもないのは、長年の経験から分かっている。
「分かった分かった。もうやんないから、このネタ。それでいい?」
ルーセルはまだ何か言いたそうな感じだったが、「…次はないからね」とだけ言ってから、表情を落ち着かせて、「あのさ」と言った。そこで言葉を切る。
「帝って昨日、「試運転してくれ」って言ってたじゃない?だったらもっと、何というか、変な飛び方で飛んでみない?どうせやることないしさ、ただ飛んでるだけじゃつまんないわ。」
「変な飛び方って……例えば?」
「そうね…こう、くるくる回ってみたり、円を描きながら飛んでみたり…」
身振り手振りでルーセルが説明するのを見る限り、どうやら現実でいうアクロバティック飛行をしたがっているようである。確かに面白そうな提案ではあるが……
「危なくないか?」
ルーセルはなぜか胸を張った。「大じょーぶよ」言いながらもう、くるくると回り始めている。
「そんなはしゃいで、墜落しましたじゃ話になんないぞー」
あまりのはしゃぎぶりを俺が見かねて言っても、ルーセルは「だから大じょーぶよー!」とかえすばかり。高速で回転しているせいで、声の響き方すら、おかしくなっている。
どうせなら…あのまま、神殿の壁にでもぶつからないかな……
俺がそんなどうしようもないことをふと思った瞬間。俺の思いが別の形で天に通じたのか、それまで高速旋回しながらの高速回転という無謀飛行をしていたルーセルが、視界の中から消えた。下を見ると、俺の予想通り、地面へ重力そのままに落ちていっている。何故だかはわからないが、飛神が使えなくなったようだ。
「アールスー!助けてー!」
自力で立て直すのは無理だと判断したのか、ルーセルが叫んだのが聞こえた。結局、大丈夫じゃないじゃんか。まあ、予想はしてたけど。
俺の神力はだいぶ回復していて、今はほぼマックスの状態だ。ルーセルの落下速度や地面との距離から判断しても、余裕で助けられる。
よし、ちょっと、懲りてもらおうか。
その余裕を使って、俺は少し意地悪をすることにする。具体的には―
「ルーセル!」
と叫んで、
全力で助けにいくそぶりを見せ、
実際に少し下降してから、
ぴたっと、止まって、
ルーセルを「お前なんて知らない」という目で見て、
ついでに、あきれたように首を左右に振る。
さて…これで怖がってくれれば、あの見ているといらいらする無謀飛行もしなくなるだろう。
そう思ってルーセルを再度見ようと下を向き―見た瞬間にはもう、俺は全力でルーセルに向かっていた。
一秒かからず、俺はルーセルに追いついた。背後にまわり、徐々に落下速度を遅くしていく。
なぜ俺は、悠長に意地悪なんかしていながら、慌ててルーセルを追いかけたのか。
そうしなければ間に合わなかったから、ではない。
ルーセルの目から流れた、一粒の滴を見たからだ。
「ごめん。ふざけすぎた」
両腕でルーセルをかかえ、顔を正面からとらえる。ルーセルの頬には、滴の垂れた跡が、しっかりと残っている。
「ごめん、じゃないわよ……」
ルーセルは顔を上げると、自分から俺の首に手をまわした。そのまま、体をあずけてくる。俺もルーセルの体を支えるために、ルーセルの背中に手をまわし、抱きかかえる。脳裏に明の顔が思い浮かぶが、今回ばかりは仕方がない。その画像を脳裏から消し、顔を俺の右肩に乗せているルーセルの嗚咽と体温に意識を集中させる。辺りには、怖いほどに何もない。風の音さえも、小鳥のさえずりさえも、ここには存在しない。
しばらくして、ルーセルの呼吸から乱れがなくなった。これで離れてくれるだろう。そう思った矢先、ルーセルはあろうことかさらに俺にしなだれかかってきた。
「ルーセル?」
呼びかけても、反応がない。ならば今の俺にできることはただ一つ。ルーセルが何かアクションを起こすまで、このまま無言を貫くことだ。いくら原因がルーセルの無謀飛行といえど、悪いのは間違いなく俺なのだから。仮にも何か間違えれば死人が出るという状況でふざけて、あのルーセルを泣かせた、俺が。
お互い抱き合ったまま、ルーセルは、動かない。俺は、動けない。時間ばかりが、過ぎていく。
「本気で、怖かった」
耳の後ろから聞こえてきたルーセルの声は、いまだ震えていた。しかしそれでも、ルーセルは言葉をつなぐ。
「いつも何故か一緒にいて、偉そうにしてるのに、何で勝負しても勝てなくて、結局全部あなたに頼って、迷惑かけ通しの私のこと、本気で、見捨てられた、と思った」
その発言の内容は、看過できなかった。
「ルーセル、あのな」「でも」。ルーセルの言葉が、俺の言葉を遮った。
ルーセルは俺の首に腕をからめたまま、顔だけ上げた。俺の顔の、真正面から、俺の瞳の奥まで見通さんかというまなざしで、俺を見る。
「でも、あなた、アールス・ヒュレットに見捨てられたなら、私、ルーセル・ヒュレットも、これまでかな、仕方ないかなって、思ったりもした」
言葉が、言いかけていた言葉が、のど元で止まる。今のは、嘘偽りのないルーセルの本心だろう。俺が、ルーセルにとって、そこまでの存在だったなんて、知らなかった。だとしたら、俺は―
「助けてくれて、ありがと。」それだけ言うと、ルーセルは、強引に俺の手をほどき、いつのまにか再稼働していた飛神で、宙に浮いた。「にしても、不思議なものね、これ」様子はもうすでに、いつものルーセルのそれに戻っている。
「ほら、いつまでも呆けてないで、行きましょ。お昼までには、ノル村につきたいわ。」
いまだ動けない俺を見て、ルーセルが微笑んで、言った。ルーセルの、こういう後腐れがないというか、ひきずらないところは純粋に好きだ。ルーセルが空中なのに差し出した手を握りながら、俺はさっき言いかけた言葉をようやく口に出す。
「ルーセル、あのな」
「何?」
「俺は、お前のことを、何があっても、見捨てないよ?」
ルーセルは―顔を赤くした。我ながら、言っていて恥ずかしい。でも、これは伝えなくちゃいけない。
「それ、本気で言ってる?」
ルーセルは、赤くなった顔を隠すかのように、そっぽを向きながら言った。
「もちろん。他の何を信じなくてもいいから、これだけは信じてくれ」
「約束よ?」
「ああ。約束だ」
お互い顔を見ないでの会話。それでも、伝わってほしいことは、伝わったはずだ。俺は逆に固まってしまったルーセルを引っ張るように動き出す。ルーセルもすぐに俺の横に並んだ。何事もなかったかのように、再び一路、ノル村へのフライトを再開する。
無言で飛びながら、俺の頭に、ルーセルの言葉がよぎる。聞いてしまった、ルーセルの本心。俺に見捨てられたなら、しょうがない―つまりルーセルにとって俺は、この世界の何よりも信頼でき、失うことのできない存在だということになる。それはすなわち―俺のことが、この世で一番大事ですという宣言ではないのか?
だとしたら俺は―ルーセルに、伝えなくてはいけないのかもしれない。俺にはもうパートナーがいるんだ。だから、決してお前のことは、「愛せない」よ、と。
何が起きるわけでもなく、残りの飛行をルーセルとの取り留めのない会話をしながら過ごし、ついにノル村が見えるところまで来た。やはり空を飛ぶというのはよいものだ。景色を楽しみながら、移動にかかる時間を大幅に短縮できる。いまだ日は、天頂付近にある。
周囲を森で囲まれたノル村の家々がはっきり見えるようにまでなったころ、隣を飛んでいたルーセルが不意に止まった。
「アールス、どこに降りればいいと思う?」
「どこって、もう少し飛んでから、適当な場所で降りればいいんじゃないか?」
ルーセルは少し考え込んでから返した。
「私もそう思ってたけど、それだと歩いてノル村に入っていくことになるでしょ?……それって、絶対怪しまれると思うんだけど。」
確かにその通りだ。いつも俺たちは、ラーバに乗ってノル村に入っていたため何も怪しまれることはなかったが、今日は違う。堂々と歩いて行ったら―まさか帝都からここまで歩いてきたわけではないだろう、でもラーバを使ったのならここまで乗ってこない理由はない、いったい、どうやってここまで来たのか、ということを聞かれるに違いない。そうなったら、だいぶ面倒だ。まさか飛神のことを話すわけにはいかないし。
「それもそうだな。……ルーセルは、どうすればいいと思う?」
「私としては、いっそのこと私たちの家まで一気にいっちゃって、さりげなーく過ごしてさりげなーく帰るってのが一番だと思うんだけど」
「うーん、そうだな、そうしよう。どうせ、荷物おいたらすぐ異空門まで飛ばなきゃいけないしな」
「そういえば、そんな指令も出てたわね……さっさと済ませて、ゆっくりしましょ」
「全面的に賛成」
再度、並んで動き出す。ここまで来ると、もう辺りは一面雪景色だ。照り返しの光がすごい。空気もだいぶ冷え込んでいるはずだが、しばらく神力を使い続けて体があったまっているため、あまり気にならない。むしろ、心地いいくらいだ。ルーセルにいたっては途中で上着を脱ぎ、今は腰に巻いている。
見慣れたはずの我が家も、空からだとだいぶ違って見えた。ノル村の中心から離れ、森の中にギアの家と並んでぽつんと立っているその姿は、どこかノスタルジックだった。いるかもしれない両親とカイト夫妻に見つからないように、慎重に近くの森の中へ着陸する。飛神をちょうど積もった雪で隠れるような位置に置き、荷物だけ持って自宅に向かう。
森から出てくるところを見られないように恐る恐る歩いて家に着くと、幸か不幸か、両親はどちらも不在だった。おそらく、そろって村の中心へ買い出しにでも行っているのだろう。鍵なんてものが存在しないのが当然のことのように勢いよく玄関を開けたルーセルに続き、俺も中に入る。視界に入るのは、いつ来ても変わることのない、光景。
「帰って、きたね。今年も」
靴を脱いで家に上がっていたルーセルがつぶやいた。
「ああ」
俺も靴を脱ぎ、ルーセルの隣に立つ。俺がここにきてから、常にそうであったように、左隣に。
「まあ今年は、だれかさんのせいで一日遅くなっちゃったけど?まったく、迷惑なことだわ」
「お前…帝に対して、そんなことを言っていいと思ってるのか?失礼だぞ!」
「は?いや、帝のことなんて言ってないし。あなたのことだし。昨日寝坊したの、もう忘れたの?」
「お前こそ、昨日「チャラにしよう」って言っただろ。忘れてるのはそっちだ!」
「あれ?そんなこと言ったっけ?」
はあ…思わずため息がでる。こいつ、完全にとぼけてるな。せっかく感慨に浸ってたというのに、台無しだ。変わってないのは、この家だけではないということか。俺とルーセルもまた、何も変わっていない。
「あ!やっぱり!アールス兄にルーセル姉だ!久しぶり!」
突然、背後から声が響いた。この声、もしかして――
「クウィナ!久しぶり!」
予想たがわず、声の主はギアの妹、クウィナだった。玄関の戸の隙間から除くように見ていたのが、俺たちを確認するなり、勢いよく入ってきた。クウィナのテンションの高さにつられるように、ルーセルのそれもまた上がっている。
「一年ぶりか、クウィナ。元気にやってたか?」
「うん、アールス兄!ずっと元気だったよ!」
満面の笑みで言うクウィナ。その笑顔を見て、帰りを喜んでくれる人がいることは幸せだと実感する。
クウィナはその顔のまま、さらに続けた。
「ねえねえ聞いて!私、軍入隊決まったんだ!」
「「ホントに!?」」
俺とルーセルの驚きの声がきれいに重なった。
クウィナが言っていることは、正確には「軍校入学が決まった」だが、意味はほとんど同じだ。
この世界には二種類の学校が存在する。一つ目は、どこの村にも存在し、その年齢になったら入学が義務付けられている村校である。イメージとしては、寺子屋に近いかもしれない。クウィナは、今年村校を卒業する年齢だ。
そして二つ目が、村校の「神素」科目において優秀な成績を残した人だけが入学できる、いや、しなくてはいけない「軍校」だ。軍校は北都、南都、西都、東都の四都にそれぞれ、計四校ある。人選については、まず村校が「この子なら」と思った人の成績を各地域の軍子に送り、そこで選ばれた二十五人だけが、軍校に入学できるという制度をとっている。つまり世界全体で二十五かける四の百人しか入ることのできない、超エリート校なのだ。
軍校という名前からもわかるように、卒業したら軍に入隊することになる。そのため軍校では三年間、ひたすらに神素の扱いを学ぶ。一年目は自分が最も適性を示す神素を見極め、二年目は座学と訓練。三年目になると、もうただひたすら訓練をし続けるだけの日々になる。俺の経験からすると、一、二年目はともかく、三年目は結構つらい。
それでも子供たちみんなが軍校入学を目指しているのは、ひとえに軍に入隊することが「名誉なこと」とされているからだ。
しかしクウィナの場合は少し違う。どうやらクウィナは俺とルーセルに対して憧れのような感情を持っているらしく、アールス兄とルーセル姉に追いつきたい!という一心で軍校を目指している―と、カイトおばさんから聞いた。その夢が、ついに達成されようとしている。憧れの対象として、一人の友人として、純粋に嬉しい。
クウィナは驚いた俺たちをみて、心底嬉しそうな表情をした。
「ホントホント!あと三年待ってて!絶対、アールス兄の部隊に入るから!」
……それは……
「クウィナ。水を差すようで悪いが、残念だけど、部隊は自分では選べないぞ?」
「え!?そうなの!?」
クウィナの顔が突然陰った。横から向けられる、ルーセルの視線が痛い。分かってるよ、俺だって。今余計なこと言ったってことぐらい。
「え……軍って、確か百七十部隊あったよね……百七十分の一……無理だよ、そんなの……」
つぶやきながら、どんどん表情を曇らせていくクウィナ。今にも泣きだしそうだ。なんとかしなければ……
するとルーセルが突然「はあ」と肩をすくめて、一歩前に出ると、クウィナの目の前で屈んだ。クウィナを見上げるような体勢になり、右手でクウィナの頭を撫でている。
「そんな心配しなくても大丈夫よ。どうにかなるわ」
「ホント?
クウィナが顔を上げた。
「ホント。私に任せて」
「……!ルーセル姉ぇー!」
クウィナは叫びながら、ちょうど顔の高さにあったルーセルの胸に飛び込んだ。ルーセルはクウィナの背中に左手を回し、右手で頭を優しくなでている。
俺は抱き合う二人の間に入って行けず、このまましらばっくれていようと思っていたが、ルーセルの鋭い視線が俺に向けられ、そういうわけにもいかなくなった。いまだルーセルにひしと抱き着いているクウィナの肩に手をかけて、一言
「クウィナ。悪かった」
と言った。しかし、クウィナは返事をしない。ルーセルもクウィナを注視している。
「クウィナちゃん?」
何秒か経って、見かねたルーセルが呼びかけて、ようやくクウィナは顔を上げた。ゆっくりと顔を俺の方に向け、少しうるんだ眼で見て一言、
「アールス兄なんて、大っ嫌い!」
「「アールス兄なんて、大っ嫌い!」ですって。クウィナちゃん、やっぱりかわいいわぁ…ああ、あんな妹がほしい!」
「おいおい、それはもう無理な話だろ。諦めろ。父さんと母さん、もうどっちも八十歳超えてんだぞ」
サクサクと、歩を進めるごとに、森に雪の音が響く。「異空門の調査」という正直ばっくれてもいいような指令を完遂しにクウィナと別れてからもうしばらく歩いた。そろそろ飛神の置き場所に着くはずだ。俺としてはまだクウィナに許してもらっていないのが心残りだが、それは指令を終えてからでも遅くはない。クウィナならきっと許してくれるはず。
「それはそうと、お前あんな無責任なこと言って大丈夫なのか?軍の新入隊員の所属、帝が一人で決めているって噂、知らないわけじゃないだろ」
軍の配属場所の決定方法は一切明かされていない。それゆえいろいろな可能性が論じられている。帝の独断であるとか、執行部が話し合って決めているとか、部隊の戦力が等しくなるようにされているとか。もしかしたらギアなら知っているかもしれないが、聞いたところで教えてくれないだろう。ああ見えて、律儀な奴なのだ。
「なあに、どうにかなるわよ。いや、どうにかするのよ。あなたが、ね」
「おい、無責任すぎるぞルーセル。俺にどうしろってんだよ。帝に「かわいい知り合いをぜひ自分の部隊に」って、直訴しろってか?」
自分でも意識しないうちに、少し語調が強くなっていた。ルーセルは少し驚いたようだったが、すぐに返した。
「ちょっと、本気にしないでよ。あなたに任せたってどうにもならないことくらいわかってるわよ」
「じゃあどうすんだ」
「ギアに頼みましょうよ。かわいいかわい妹のためだもの。あの手この手で、どうにかしてくれるんじゃない?」
なるほど。
「確かに執行部にいるギアなら、できるかもしれないな…それも「クウィナのため」だし…帝に土下座とかしてもおかしくないな」
「ええ…その図が、頭に浮かんでくるようだわ」
二人して、ギアの土下座姿を想像する。なんか笑えるな。ギアには悪いが。それはルーセルも同じなのか、口元に、ほんのわずかだが笑みが浮かんでいる。
「あ」ルーセルがはっとしたように言った。
「そういえば、ギアからもらったアクセサリー、クウィナちゃんに渡すの忘れてたわ」
「あ…まあ、指令が終わってからでもいいだろ。カイトさんにギアが帰ってこれないってのも言わないとだし、俺も謝んないとだし。一気に済ませちゃおうぜ」
「そうね。今度は忘れないようにしないと…。ところでアールス、飛神置いたの、この辺だったわよね?」
「いや、もうすこし向こう、ほら、あの木の下だっただろ」ちょうど視界に入った木を指さす。
「え?そうだっけ?」
「そうだったよ。……しっかりしてくれよ、副隊長さん。」
ルーセルはまだ解せない顔をしていたが、俺が雪の中から一発で飛神を取り出すと、なんとも言えない表情をしてポリポリと頭を掻きはじめた。「あれ…?」俺が二台目を手渡すと、「ありがとうございます、隊長さん」とおどけた感じで受け取った。
慣れた手つきで飛神を背負い、周りに人がいないことを確認して、林冠まで慎重に浮上する。ルーセルと呼吸を合わせて、
「せーの!」
ビューン。一気に最高高度まで到達する。地上を見下ろして確認するが、やはり見られた様子はない。ふう。
「さて……ルーセル、どうやって異空門を探す?」
ルーセルは少し考えてから答えた。
「とりあえず低空飛行で、北に向かってみましょう。案外、あっさり見つかるんじゃない?」
「そうだといいけどな…」
二人並んで、北へと向かう。見渡す限りの、雪、雪、雪。そしてわずかばかりの、木の緑。目を凝らして門のようなものを探すが、なかなか見つからない。せめて色や大きさが分かっていれば楽なのだが、今となってはそれは誰にもわからない。帝も言ったように、最後に確認されたのは数千年前なのだ。もしかしたらもう、さびたり腐ったりで、門自体がなくなっている可能性もある。そうだったら素直に「すいません、発見できませんでした。」と報告するしかないよな……。
しかし…このだだっ広い北の森の中で一つの建造物を何の手がかりもなく探すなんていう指令、今更だが無茶ブリが過ぎる気がする。いくら空を飛べるからって、限界というものは存在する。そんなこと、あの帝なら分かっていないほうがおかしい。
それでも、昨日の帝の口調には、俺たちは絶対に異空門を発見するという確信が感じられた。俺とルーセルがすんなり指令を受けてしまったのも、帝の調子に乗せられたからかもしれない。
ならば帝の確信はどこから来たのか。俺たちに対する信頼?飛神という、新たな移動手段の性能?どれも、しっくりこない。考えるだけ無駄だろうか。
もうしばらく飛んでも、門らしきものはまったく視界に入ってこない。いい加減目も疲れ、集中力も切れかかっている。隣のルーセルも、ものすごくげんなりしているように見える。
「ねえ、一回引き返さない?これきっと、すごく時間かかるわよ。飲み物とかないと、やってられないわ」
ルーセルがだいぶ大きいため息をついてから言った。もういやだあ!とでも言いたそうな表情だ。俺もルーセルに負けないくらいの溜息をつく。はーあ。
「そうだな。昼ごはんも食べてないし。そんな急ぐこともない……」
偶然視界に入ったものに、思わず目を奪われる。ここからちょうど北西に少しいったところ、探している異空門が直接見えたわけではないが、あるとしたらそこだろうと思える場所があった。
「ルーセル、あそこ見てみ。変に木が生えてないとこがある。ひょっとしたら、門があるんじゃないか?」
「え?どこよ?」ルーセルは目を細めて必死に探しているが、なかなか見つけられないようだ。
「ほら、あそこ。木がないせいで、丸く地面が見えてるだろ?」
「あ!分かった分かった!確かに変ね。門の周りには木が生えないなんて話は聞いたことないけど、期待は持てそう」
「だろ?村にもどるのは、あそこを確認してからでいいよな」
「ええ!アールス、よく見つけたわ!これさえ終われば、家でのんびりできるのね!……そうと決まれば、さっさと行くわよ!ほら!」
ルーセルはものすごいスピードで飛び出した。相当な鬱憤がたまっていたんだろう、かなりの速度が出ている。これでもし異空門がなかったら……? ルーセルに言う前に、一人で確認した方が良かったかもしれない。
そんなことを考えている間に、ルーセルはもう確認できる位置までついたようで、止まっておそらく下を見ている。
ただ妙なことに、ルーセルはそれを何秒も続けている。門があったならすぐに笑顔でこっちにすっ飛んでくるはずだし、もしなかったら、考えたくはないが、憤怒の形相でこちらに向かってくるだろう。どちらにせよ、とどまっている理由はない。ひょっとしてあまりのショックに放心状態にでもなったのか?
ここにとどまっていてもどうしようもないので、俺もルーセルのもとへと向かう。どうやってルーセルを立ち直らせるか考えながら。
「ルーセル、あったのか、無かったのか、どっちなんだ?」
背後から俺が尋ねても、ルーセルは下を見続けたまま動かない。
「あったにはあったわ。それらしいものが」
「なんだ、じゃあこれで指令は終わったな。さっさと帰ろうぜ。」
拍子抜けした。あったならそれでいいじゃんか。何かほかに問題が?
「待って」
「どうした?」本当にどうしちまったんだルーセル?そんな深刻な声で。
「門の中が緑色に見えるのは、私の気のせいかしら。そうだと信じたいんだけど」
は?門の中が「緑色」だって?
慌てて俺もルーセルの横に並び、下、丸く、茶色に染まった地面を見る。確かにそこには、結構な大きさの門のようなものがあった。遥か昔から存在しているはずなのに、鮮やかな色をしている。風化の跡もない。
問題は、門の扉に当たる部分が、際立って鮮やかな緑色をしていることだ。伝承にしたがうならば、異空門には開け閉めをする扉の部分は存在せず、異世界とつながっていないときは単なる空洞だということになる。上から見ている今だったら当然茶色であるはずだ。それが緑色ということは―
「いやルーセル、お前の見間違いじゃない。確かに緑だ。それはつまり、」
「門が、開いた、ってことになるわね」
そういうことだ。数千年ぶりに、異空門が開いた。今度ここから出てくるのは、災禍だろうか、それとも幸福だろうか。きっと、前者だ。
「もっと近くで確認してみよう。いろいろ、調べないと」
地上に向かおうとした俺のコートを、ルーセルはつかんだ。
「待って。落ち着いて。危ないわよ。昔みたいに、門の中から敵が出てくるかもしれないのよ。ここは、まず帝に」
「それじゃ遅い」俺はルーセルの言葉を遮った。
「ここから帝都まで行く間に、昔みたいに門の中から軍隊が出てくるかもしれない。そうなったら、まず間違いなくノル村は壊滅する。その危険を覚悟で帝都まで戻るっていうんじゃ、俺は止めないから、一人で行ってこい。俺は残る」
ルーセルははっと息をのんだ。「落ち着いて」なんて自分で言っておいて、かなり動揺している。だがそれは仕方のないことなのだろう。伝承の中の「異世界」というものを実際に見たのだから。俺がそれでも落ち着いていられるのは、自分自身が「異世界」の証明だからだ。一つと二つは違うが、二つと三つ以降はあまり変わらない。単数か複数かは大きい。
「いいかルーセル。俺たちは軍だ。ここに来たのだって帝の指令を受けたからだ。こういう時に矢面に立たなくて、いつ、何をするんだ?」
俺らしくもない説教じみたことを言ってルーセルの手を払い、再度降下をする。
地面に降りたち、改めて門を眺めると、思ったよりの大きさに圧倒された。三階建ビルと同じくらいだろうか。門の中は森のようで、木々が生い茂っている。こちらとの違いは雪が積もっているかどうかだけだ。
「ちょっと、置いてかないでよ」
背後からルーセルの声が聞こえた。さっきの声とは同じようで違った。
「なんだ、結局来たのか」
「もちろん。あなた一人残して逃げるわけにはいかないわ」
そういって笑うルーセル。
「ところで、何を調べるの?」
「本当に門が開いているのか、門の向こう側はどうなっているのかはもう見たから……誰かががこっちに入ってきた様子もないしな……あとはそうだな、向こう側に入ってみるか?」
「こんな時に冗談はやめて。そこまでする必要は……」
「……!!危ない!」
「は?」
反射的に体が動いていた。きょとんとした顔で立っていたルーセルを抱きかかえて、全力で横っ飛び。
「ちょ、何すん……」
ルーセルの声は、俺たちの横をかすめるように飛んできた「何か」、その着弾音によってかき消された。周囲に土煙が巻き上がり、視界が遮られる。
「何!?何が起きたの!?」
俺の懐からはい出たルーセルが言った。勢いよく地面にぶつかったせいで、顔や服、あらゆるところが土で汚れている。
「俺にもよくわからない。……それより今は、次の攻撃に注意しろ」
「え?攻撃って……?」
「ああ。多分、異世界軍からの攻撃だ」
あの時、俺は見た。この世界には存在しないはずの、現実世界で言うところの戦車のようなものの主砲が、俺たちに向けられていたのを。それが確かなら、おそらくあれは異空門の向こう側から来た敵の軍隊だろう。もう異世界の侵攻は始まっていたということだ。
俺は油断していた。いくら異空門が開いたからと言っても、いきなり戦争なんてことにはならないだろうと勝手に思い込んでいた。今俺とルーセルが助かったのは、単なる幸運でしかなかった。
繰り返されてしまうのか。何千年か前の、あの悲劇が。
それだけは、防がなければ。この世界の住人として。
視界が晴れた。ルーセルと背中を合わせ、周囲を警戒する。言葉を交わすことなく意思疎通ができるのは、十八年間ともに過ごし、訓練してきたからこそだ。
「丸い筒がこっちを向いてるのが見えたら、迷わず全力で攻撃してくれ」
「丸い筒?……よくわかんないけど、分かったわ。あと」
「あと?」
「背中は任せたわ。……一度言ってみたかったのよ、この台詞」
「……後ろから攻撃されたい?」
「……ゴメン」
お互いの声はいつになく真剣だ。内容は置いといて。
まるで砂時計をにらんでいるような感覚。警戒し始めてから何秒たっただろうか。実際は一分ないだろうが、感覚的には遥かに長い。しかしここで、集中力を切らすわけには―
「そこッ!」
突然ルーセルが叫んだ。背後で、神素を固めるときに生ずる特徴的な音がし、すぐに遠くで爆発音。
今ルーセルが放ったのは、おそらく神素玉だろう。神素を好きな大きさに固めて打ち出す、攻撃手段の基本中の基本だ。それでも、まさか実戦で使う日が来るとは思っていなかった。
「やったかルーセル?」
「多分。確信はないから、どうにかして確認しないと」
「分かった。じゃあ、このまま、ゆっくりと見に行こう。前はルーセル、後ろは俺で。案内頼む」
「了解」
二人で背中を合わせたまま、ゆっくりと歩き出す。ルーセルに遅れないように後ろ向きで歩いて行くのは大変だが、死ぬよりはましだ。
俺が思ったよりも早く、ルーセルは歩を止めた。
「確認完了」ルーセルが一転、朗らかな声で言った。「もう前向いていいわよ」
言われるがままに前を向くと、真っ白な雪の上に、黒い物体がいくつも転がっていた。中には相当な大きさのものまである。
「これが、残骸ってことか?」
「多分。そうとしか考えられないわ」
近くにあったそれの一つを拾い上げながら尋ねると、ルーセルは自慢げに答えた。しかしすぐに真剣そうな表情になり、足元の残骸を拾い上げて言った。
「それにしても、一体どういう技術でできてるんでしょうね、これ。残骸見たってただの黒い塊だし。まさか生き物ってことはないわよね?」
「当たり前だ。生き物じゃないだろ、どうみても」俺は答えて、残骸を投げ捨てる。
「こういうのは、カガクって言うんだ、多分」
「カガク」という部分だけ日本語で言ってみると、ルーセルは案の定眉をひそめた。
「カガクって、何?」
「便利なものだよ。すごく。でもこの世界には必要ない物だ」
俺の答えはルーセルを混乱させるだけだった。
「ますますわかんない。てか何でアールスはそんなものを知ってるの?」
「いろいろとあるんだよ、俺にも。それ以上は聞かないでほしい」
「……あなたがそう言うなら……分かったわ。聞かない」
真面目な面持ちで言うと、ルーセルは意外とあっさり納得してくれた。根掘り葉掘り聞かれるものと思っていたが。
「というよりルーセル、俺たちこんなとこでゆっくりしてるひまはないぞ。早くノル村に帰って報告しないと。」
「そうね。後のことは、それから考えましょ。……ねえアールス」
ルーセルはごくわずか―長年一緒にいた俺にしかわからないくらい、表情を曇らせた。
「今度は、大丈夫よね。私たちは神素を武器として使えるようになったし―数千年前みたいには、ならないわよね?ノル村が焼け野原になるとか、そんなことはないわよね?」
「ルーセル」
俺はうつむくルーセルの頭を手のひらで二回ほどたたいた。
「ならないんじゃなくて、俺たちで守るんだよ」
「うん……そうだね、そうだよね。そのための軍だものね。信頼してるわ、隊長さん」
「こちらこそ、副隊長さん」
そういうと、ルーセルの顔に笑顔が浮かんだ。
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encounter 3
まさか―もう、こんなことになっているなんて。
俺は目の前の光景を見てそう思った。
なにが「俺たちで守るんだよ」だ。自分が、どうしようもなく憎たらしい。できることなら、俺の神力を全力で使って、目の前の光景を、全て燃やし尽くして―なかったことにしてしまいたい。
ただそれでも、その光景を見ることができている俺の方が、受けたショックは少ないだろう。ルーセルはもう、両手で顔を覆い、自分の視界を遮っている。聞こえてくる嗚咽の中に時折、「うそよ…」とか「いや…」という言葉が聞き取れる。
俺たちの目の前にあるはずのもの―ノル村は、俺たちがたどりついたときには、もうほとんどなかった。消されていた。建物、自然、ヒト関係なく。
異世界軍の手によって。
村全体が破壊され、村人の姿も見えない。逃げ延びてどこかに隠れているか、考えたくはないが―死んでしまったかの、どちらかだろう。こうしている間にも、空に浮かんでいる俺たちを尻目に、さっき撃破したのとおそらく同じものであろう異世界軍の戦車のようなものが、村の外側をかこうように存在する森に砲弾を撃ち込み、爆音とともに壊していく。俺たちの家はもちろん、跡形もない。いつも活気に満ちていた村の中心にある市場は、その面影もない。
完全な破壊。
一方的な蹂躙。
そして―それに対抗する、小さな影。
「クウィナ……?」
最初に見た時はわが目を疑った。しかし、クウィナは確かに、村の南で、戦車四台の前に立ち、戦っていた。覚えたばかりであろう、まだ俺から見たらあまりに未熟な神素玉を使って、必死に。
だが、俺が呆然とその戦いを眺めているうちにも、やはりというべきか、クウィナはどんどん劣勢になっていった。最初のうちは単発だったためよけられていた相手の攻撃が、連携して行われるようになり―始めてクウィナの袖をかすめた、その瞬間。
「クウィナちゃん!」
いつの間にか目を開き、クウィナの状態を認識していたルーセルが、猛然と、クウィナの戦っている場所へと向かった。
強い……やっぱり私ひとりじゃ……
次々と飛んでくる相手の攻撃を懸命にかわしながら、クウィナは考えた。
軍の指令があると森に向かっていったアールスとルーセルを見送り、ああ、アールス兄にちょっとひどいことしちゃったかなー、帰ってきたら許してあげないと、と思いながら家の洗濯物を取り込んでいた時のこと、突然村の方から異様な音が聞こえてきた。何だろうと向かってみると、そこには初めて見る黒い物体と、混乱し、逃げ惑う村人たちの姿があった。
クウィナも最初は混乱した。それでも、どうやらあの黒い物体が何か変なことをしたんだろうということくらいは見当がついた。
どうにかしなくちゃ。まずは現状を、しっかりと把握しないと。
クウィナは自然とそういう思考に至った。得体の知れない物への恐怖は、自分でも気づかないうちに「私は軍に入るんだから」という使命感のようなものでかき消されていた。
と、ここでようやく、最後まで残っていた村人がクウィナの存在に気付き、声を上げた。
「君!早くこっちに!」
そのあまりの焦り様に、クウィナは戸惑った。よく考えてみれば、なんでみんなこんなおびえてるんだろう。さっきから黒い何かはまったく動いてないし。そこまで怖がる必要もないよね。
何があったんですか?と、クウィナが黒い物体に背を向け、村人に尋ねようとした時だった。突然背後で大きめの音がしたかと思うと、ほんの数十メートル先にいた、あの村人のもとで爆発が起こった。村人は二、三メートル浮き上がり、力なく地面に落ちた。
クウィナは慌てて村人のところへ向かった。地面に膝をついて抱きかかえ、意識の有無を確認する。
「大丈夫ですか!?いったい何が!?」
私のことはいいから…早く逃げなさい…
かすれるような声だった。
え?
さっきのは、あの黒いのの攻撃だ…あの丸い筒から、何かを打ち出しているんだろう…
クウィナはさっと顔を上げ、黒い何かを見た。確かに、筒状のものが上部に取りついていた。
村のみんなは一回目の攻撃を受けた時点で避難を始めていたよ。君にも聞こえたろう?あの轟音が。もしかしたら…開いたのかもしれない。あの、異空門が…また、異世界の敵がやってきているのかもしれない…
異空門。クウィナはこの単語を聞いた瞬間、反射的に「嘘、ありえない」と思った。しかし、そう考えればすべての説明がつくこともまた、クウィナには分かった。目の前の黒い何かは異世界からの侵略者で、手始めにノル村を攻めたのであるということ。軍の指令と言ってなぜか北に向かっていったアールスとルーセルの目的が、異空門に関する何かだということ。
そこまで考えて二人のことが気になったが、クウィナはすぐにそれをやめた。心配しなくても、二人なら大丈夫。それより、今は自分のことを。目の前の、名も知らぬ村人のことを。
今からでも急げばみんなに追いつけるかもしれない。早く南へ逃げなさい…
そこまで言って村人の意識は途切れた。
私のせいだ
クウィナは思った。
私が出しゃばらなければ。私が忠告を聞いていれば。私がもっと警戒していれば。
この村人はこうならずに済んだ。
助けなきゃ。
私は手当なんてできないけど、南へ向かっていったみんなに追いつければ。
そう思うといてもたってもいられなくなり、自分よりはるかに背の高い村人を担ぎ、クウィナは一路南へと向かった。
しかし途中で、四つの黒い物体に道をふさがれてしまった。そもそもクウィナが村人を担ぎ、走り出したのは村のだいぶ北に当たるところだったのだ。このころにはもう村の大部分が壊され、クウィナも涙を必死にこらえながら、みんなの無事を祈りながら進んでいた。
諦めるもんか。
背中に乗せていた村人を優しく地面に置き、クウィナは四つの敵と向き合った。私だって、必死になれば、足止めくらいはできる。してみせる。軍校新一年生だもん。
必死に戦ってれば、きっとアールス兄とルーセル姉が来てくれると、信じて。
ただ、思い通りにいかないのが現実というもの。互角だったのは戦い始めてからわずかの間だけだった。四台の連携攻撃に押され、神力を消耗し、かといって引くこともできないクウィナには、もうアールスとルーセルに頼る以外、道は残されていない。その可能性だけが唯一、クウィナの心を支えている。
強い……やっぱ私ひとりじゃ無理……でも……
クウィナは森の中に寝かせているあの村人のことを考える。もしかしたらもう死んでいるかもしれない。今生きていてももう助からないかもしれない。でも、見捨てられない。
二人が来てくれるまでは、絶対に耐えてみせる。
「…ッ…」
初めて敵の攻撃が当たった。袖をかすめただけだが、心にくらった衝撃は大きかった。生まれて初めて敵の攻撃を体に受けたのだ。ちぎれて宙に舞う袖から、どうしても目が離せない。ここにきて、クウィナは初めて恐怖を実感した。足が一瞬すくんで、止まった。致命的な停止。敵の四つの主砲が同時にクウィナに向けられた。
避けられない。
そう悟ったクウィナが行ったのは、悲鳴を上げることでも、諦めて脱力することでも、それ以外のいろいろなことでもなかった。
ただ、祈ること。目をつむり、手を合わせ。
……アールス兄……ルーセル姉……
目を開けたら、空の上だった。
「クウィナちゃん!」
ルーセルがクウィナを助けに向かっている間、俺は生まれて初めて「もどかしい」という言葉の意味を実感した。先を越されたルーセルを追い抜くことはできないし、かといってクウィナに向けられた戦車の砲弾を打ち落とそうとしても、距離的にクウィナを巻き込む可能性もあり、そうなっては元も子もない。
しかしそんな中でも俺は、心配はしていなかった。ルーセルなら大丈夫だろうと信じ切っていたから。
「ルーセル姉……」
「クウィナちゃん……」
そんな俺の期待にたがえることなく、ルーセルはクウィナを助け出し、今、俺の眼の前で抱き合っている。二人とも、目に涙を浮かべているが、口元は綻んでいる。どうにも二人の輪に入れず、ここはそっとしておこうと考えた矢先、「アールス兄……」とクウィナが小さく俺の名前を呼んだ。
「異空門が開いたって、本当なの…?」
「……ああ……そうだ。本当だ」
クウィナがそれを知っていることに驚きつつも、俺は素直に認めた。こうなったらもう、隠す必要はない。これからは、この世界全てをあげての戦いになってしまうだろうから。
クウィナは「そう……やっぱり」とつぶやいてから、「あと一つ……」と続けた。
「あの……あの林の中に、私の……私のせいで大けがしちゃった人がいるの。助けたいの……どうすればいいかな…」
そう言ってクウィナは、かろうじて残っている林を指さした。クウィナが戦っていた場所にほど近く、そのせいでまだ四台の戦車がうろついている。
「その人は、今どういう状態なの?」
ルーセルが尋ねた。
「意識がないの…もしかしたら、もう死んじゃってるかもしれない……」
答えるクウィナの声は暗い。状況は よくわからないが、急を要する事態なのは確かなようだ。俺はルーセルと目を合わせ、意志を確認しあう。ルーセルの眼は、「任せる」と言っていた。
俺は少し考えてから、口を開く。
「じゃあ……俺が敵の注意を引くから、その間にルーセルはクウィナを連れてそのけが人を助けて、安全な場所で治療して、終わり次第合図をくれ」
「どうやって?」
「空に向かって、神素玉でも撃ってくれ。なるべく大きいやつ」
「分かった。その後はどうするの?」
「俺はそのまま帝都に向かう。ルーセルは近くの村の人達に、アーラベラクまで避難するように言ってまわってほしい」
「分かったわ。じゃあ、さっそく」
「ああ」
「あ……ちょっと!」
「クウィナ?」
クウィナはルーセルに抱かれたまま、慌てたように声を上げた。そしてそのままうつむき、声を絞り出すように言った。
「その……ゴメンね、迷惑ばっかりかけて……」
その言葉を聞いて、ルーセルはクウィナを強く抱きしめなおしたようだった。クウィナの顔がルーセルの体にうずもれ、見えなくなる。
「違うよ……クウィナちゃん……」ルーセルはそこで一回言葉を切った。
ルーセルが思っていることは、だいたいわかる。そしてそれは、俺が思っていることと違わないはずだ。
クウィナ、俺達に謝ることなんてない。なぜなら――
「謝るのは、私たちの方なんだから……」
その通り。異空門を確認したあと、俺たちがもっと早くノル村に戻ってさえいれば、もっと被害を抑えられた。あの、いつも年始に帰るたびに温かく迎え入れてくれた村人たちを、守ることができた。ただ俺達は大して急ぎもせず、最悪の結果を招いてしまった。
反省いているし、それ以上に後悔している。ただそれでも、俺たちが後ろばかり見ているわけにはいかない。心の底から悔やんで、涙を流すのは、全てが終わったあとでも、決して遅くはない。
だから今は、あったことは考えない。前を見ながら後ろを考えられるほど、俺もルーセルも器用じゃない。
「ルーセル、行くぞ」
「うん……」
ルーセルはようやく、クウィナの肩から顔を上げた。ゆっくりと、俺の隣へやってくる。クウィナは、ひしとルーセルに抱き着いたままだ。
「俺が先に行く。後の判断は任せる」
「了解。…ねえ」
「どうした?」
背を向けているせいで、ルーセルの表情は見えない。
「死なないでよ」
俺は背を向けたまま答える。
「もちろん……じゃあな」
言い終わるかどうかのうちに、俺は最大速度で、四台の戦車に向かって急降下する。ルーセルはああ言っていたが、面と向かっての戦闘なら、いくら実戦経験がないとはいっても、俺が負けることはないだろう。神力を全力で使えば、一撃で全てを灰にすることもできる。ただそれをするとルーセルたちも巻き込む可能性があり、この後帝都まで全速力で向かわなければいけないことを考えるとできる限り神力をとっておきたいため、ルーセルが合図をくれるまではちょっかい程度の攻撃をしながら適当に逃げるつもりだ。
俺が降下をやめ戦車に攻撃をあて、敵の注意がすべてこちらに向いた瞬間、ルーセルが林に向かって動き出したのが視界の端で確認できた。そう時間が立たないうちに、ルーセルは林から、ふらふらと妙に不安定に飛びながら出てきた。よくよく考えると、ルーセルは今、クウィナとけがをした村人を抱えながら飛んでいるのだ。総重量はかなりのものだろう。一瞬助けに行こうかと思ったが、飛べてるしまあ大丈夫だろうと結論付け、目の前の敵に集中する。
しかし、どうもおかしい。何がって、目の前の敵が、だ。さっきから何十発と俺に向けて砲撃していて、俺も神素でバリアのようなものを作って防いでいるのだが(神素は一定のレベルの神力を得ると自分で形状を思うがままにコントロールできる)一発も俺に当たる弾道をたどっていない。最初は精度が悪いのかと思っていたが、よく観察してみると、狙っているところがそもそも俺のいるところではないのだ。かといって、俺の後ろに何かあるというわけではもちろんない。これはもう、わざとはずそうとしているとしか考えられない。ただ、それはそれでおかしい話だ。なぜ、戦争において目の前の敵を倒そうとしないのか?俺には理由があるが、相手側には恐らくない。現に村人一人は重傷を負わされている。
いやまてよ……本当に、敵には理由がないのか?もしあるとすれば、俺には時間稼ぎくらいしか思い当たらないし、そんなことをする必要は……もしかして狙いは、ルーセルたちなのか?いや、そこまでしてルーセルたちを狙う必要はない、とはいいきれない。もし治療に集中しているところを狙われたら……?
はっとしてルーセルが飛んで行った方向を見て、その瞬間、俺の心配は杞憂に終わった。ちょうど、合図である神素玉が空に打ち上げられたところだった。俺の注文通り、だいぶ大きいものだった。
よし。
俺はひとりでにうなずき、目下俺に当たるわけのない攻撃をしている戦車四台を見下ろす。ルーセルには黙っていたが、俺は最初からこの四台は壊すと決めていた。今後のために、どの程度の攻撃まで耐えるのか調べておきたいというのもあるし、単純に―憎い。こいつらが。
まず手始めに、右手の手のひらで小さい神素玉を作り、一番遠くの戦車に投げつける。すると、その戦車はあっさりとひしゃげてしまった。予想外の弱さ。拍子抜けした。今の一撃で壊せるのなら、正直恐れる相手ではない。
そのせいか、余計に腹が立った。この程度の敵にノル村を壊されたことに。この程度の敵からノル村を守れなかった自分に。
そして気づいたら、いつの間にか俺は村にいた敵の戦車全てを壊していた。怒りで我を忘れるというのはこういうことを言うのだろう。驚いたが、悪い気はしなかった。
「さて、そろそろ行かないと……」
神力の回復のため腰掛けていた岩から立ち上がり、飛神を背負う。今更だが、戦車の中に人が入っていたとしたら、俺は今日いったい何人殺したんだろう。考えると、少しぞっとする。けれど、それ以上は何も感じなかった。感じる必要もないと思った。
ふと、ひしゃげてもう動かなくなった戦車が目に入った。形といい色合いといい、見れば見るほど、現実の戦車にそっくりだ。
そして戦車についたマークのようなものに目が行ったとき、俺は唖然とした。
そこにあったのは、日本国民ならだれでも知っている、見慣れた星条旗―アメリカ合衆国の国旗だった。
「帝は今、どこにいる?」
肩で息をしながら尋ねる俺に対して、声をかけられた帝宮役員はしばらく口をあんぐりと開けたままだった。その心中は察するに余りある。なにせ、人が空からものすごい速度で飛んできたのだから。ただ、それに付き合っていられるほど俺の心に余裕はなかった。「早く答えてくれ!」とせかすと、帝宮役員はまだ意識ここに非ずというような状態だったが、どうにか口を開いた。
「え、ええと、帝は朝から自室にこもっておりますが、誰も入らないようにというお達しが……」
後半は、正直どうでもよかった。俺は帝宮役員を無視して、帝の部屋の窓に向かって、飛神を使って一気に飛び上がる。もう機密も何もない。
運よく、帝は窓を開けていた。俺はそのまま帝の部屋へ入る。
帝は読んでいた分厚い本から顔を上げ。完全に平静をたもったまま、いまだ宙に浮いたままの俺に向かって言った。
「どうしたんだい、アールス君?」
そこから先は、当然のことながら大騒ぎになった。
帝は俺から詳細を聞くや否や全帝宮役員を、長らく使われていなかった会議室に集め、全てを説明した。俺も同席したが、最初の帝宮役員のあわってぷりはすさまじいものだった。それが収まるのを待って、帝はものすごいスピードで指示を飛ばし始めた。帝宮役員は四つのグループに分かれ、それぞれ北地域、南地域、東地域、西地域に里帰りしている軍関係者に事態の報告をして、北地域の者はノル村に、それ以外は北都アーラベラクに大至急集まるように、また執行部の者は地域に関係なく帝都に集まるように伝えてくれ。あと、帝都での執行部の会議が終わり次第私は北都に移るから、そのつもりで、と、まるで事前に決めてあったかのように的確で、素早い判断だった。
その会議が終わり帝宮役員が各地へ散って行ったかと思うと、帝は今度は帝都に残っていた軍の人員を集めことを説明し、帝都の者全てにこの事実がいきわたるようにしてくれと指令を出した。そしてその足で帝都最大の工房に向かい、飛神を急ピッチで作り、出来上がったら北都に届けてくれと頼んだ。俺は終始帝について回っていたが、帝の手際の良さに、ただ舌を巻くばかりだった。
そんななかでも、どうしても俺の脳裏から離れないものがあった。戦車についていた、あの星条旗のマーク。偶然だと願いたいし、そっちの可能性の方が圧倒的に高いだろうが、あそこまで酷似していると、どうしても気になってしまう。俺が見たところ、違っている部分は一つもなかった。
仮に、異空門の向こうの異世界が、俺が本来いるべき世界だとしたら―俺はいったい、なにをどうすればいいのだろう。攻めてきた軍を撃退する分には、俺は現実の軍とやりあうのにまったく抵抗はない。むしろ未知という怖さがない分、楽だとさえ感じる。あの門から出てこれるのは、せいぜい大型戦車レベルだ。それならどうにでもなる。
問題なのはその先―現実の軍をこの世界が撃退した後に、この世界が現実世界に侵略を始めた場合だ。この世界の人の考え方からしてありえないとは思うが、三度目の侵略を未然に防ぐために、敵に我々の強さを思い知らせておきたいという動機のもとでは、ひょっとしたらあり得るかもしれない。そうなったら、俺にとってそれほどつらいことはない。軍の部隊長として先陣切って現実世界に―明のいるところに攻め込んでいくなんて論外だし、かといってこの世界の軍を俺一人で食い止めるなんていくらなんでも無理がある。つまり、断腸の思いで現実に攻め込むか、この世界の軍と戦って一人死ぬかの二択。どちらに転んでも、二人の俺のうち一人は死ぬ。
まさに生き地獄。この表現がぴったりくる状況に、ほんの少しだが、俺は追い込まれたのかもしれない。俺にできることと言ったら、そうならないように願うことくらいか。まあ大丈夫だろう。この世界の人々が、自分たちからの侵攻なんて思いつくわけがない。
「さて、じゃあ始めようか」
今俺は、帝都での執行部の会議に特別に参加を許され、その席についている。俺が報告をしてわずか二日で執行部が集まりきるとは思っていなかった。さすが、というべきか。俺としては早くアーラベラクに向かい、ルーセルやクウィナ、両親や他の村人の安否を確認したいのだが、帝に「現場を知る君にいてほしい」と言われれば、断るわけにはいかない。
こうして卓上の机に座ってみると、あらためて軍の執行部一人一人に、強烈な存在感があるのがわかる。誰しも、神力は信じられない程に高い。戦争においては、現実で言う核爆弾と同等か、それ以上の戦力になる。ひときわ険しい表情をしているギアでさえ、例外ではない。
「現状は知ってのとおりだ。異空門が開いて異世界軍の侵攻が始まり、それによってノル村が壊滅した。」
淡々とした帝の口調。静かな会議室に響く歯ぎしりの音は、おそらくギアのものだろう。
「現在、北都アーラベラク以北に住んでいる人々全員の避難は完了している。軍も今は全員が北地域に集結していて、北候アニアート・スエナの指揮のもと、一日三交代で異空門を監視している。…ここまでで何か気になることは?」
帝の問いに、だれも声を発しない。帝は一度「よし」とうなずいた後、続けた。
「では本題に入る。これからのことだが、まずは一旦、首都を北都に移したいと思う。異存は?」
全員が首を横に振った。
「そしてだ」
帝は少し間を開けて言った。
「これはまだ機密事項にとどめておいてほしいんだが……私は現時点で、異空門の向こうへの、こちらからの侵攻を考えている」
……なんだって?
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decide 1
俺が北都に到着してから、速い物でもう丸一日たった。帝都でのあの会議から今までは、思い出してもまるで一瞬のことのように感じられる。
帝が侵略計画をぶちまけた時、場は一瞬静まり返った。そしてすぐに、あらゆる声が決して広いとは言えない会議場に響き渡った。「そこまでしなくても」「異空門そのものを壊してしまえばいいんじゃないか」という消極的なものから、「そうだ、今すぐ攻め込んでしまえ」という積極的なものまで。
しかしその騒ぎも、帝の「静かに」という大して大きくもない声で収まった。帝はそのまま、この作戦に関しては北都で軍全体の話し合いの場を設けるから、心に留めておいてくれ、という趣旨のことを言うと、あとはそれぞれ、今日中に北都に向かうようにとだけ言い残し、足早に会議室から出て行った。執行部のお歴々もここで話しても仕方ないと感じたのか、それぞれ退出していった。
俺はそんな中、一人会議室に残り、考えにふけっていた。これから、俺はどうするべきか。もし異空門の向こうが現実世界であったら、いったい――
しばらく考えて、俺は一つの結論に至った。ここで悩んでいても仕方ない。とにかく、異空門の向こうを確認しないとどうにもならない。どうにかしてこちらからの侵略が始まる前に、異空門をくぐらなければ、と。そして飛神を背負い、一人北都へと向かった。
北都についてからは、衝撃の連続だった。
まずルーセルと再会し、「遅い!」と喝を食らった。それはあんまりだろうと俺も反論しようとしたが、ルーセルに涙目で抱き着かれては、何も言えなかった。
ルーセルはそのまま、ノル村の人々は無事に避難していて、死者どころかけが人すらいなかったこと、クウィナが言っていた村人も無事助かったこと、今北都には全世界の軍の人員がすべて集まっていて、もう心配することはないということを、こつこつと俺に教えてくれた。その最中周りの一般市民の視線がかなり恥ずかしかったが、ルーセルを引き離そうという気にはならなかった。俺もそのまま、俺の知っていることで話せることは全て伝えた。
飛神で飛んできた俺に遅れて、帝や軍執行部が北都に到着すると、北都はあっという間に騒ぎになった。誰も、帝自らが北都で指揮を執るとは考えていなかったようだ。
しかし帝は市民の騒ぎは気にせず、相変わらずの手際の良さで指示を出していった。
帝が軍全員のねぐらと食糧を確保し、軍全員がそれぞれあてがわれた部屋に入った時には、すでに日は暮れていた。
ひとまず落ち着いて、ここ最近の疲れが一気に出たのか、俺は部屋に入るなり夕食も取らずベッドに倒れ、そのまま眠りに落ちた。現実世界は日曜日だったため、これ幸いと俺は一日中布団から出なかった。明にすべてを聞いてもらおうか、そうすれば何か楽になるかもしれないと考えたが、何年か前のことが頭をよぎり、怖くなってできなかった。
そしていつのまにか寝て、起きて、今俺は軍の会議に参加するために、ルーセルとともに会議が行われる予定のアーラの神殿に向かっている。帝都での会議と違って、今度は軍百七十部隊の隊長副隊長全員が参加する大掛かりなものだ。ノル村の辺りを交代交代で見張っている出身が北地域の軍の人員も、これのために北都にやってくるらしい。
おそらくこの会議で、帝は自らの侵略計画を説明し、是非を問うだろう。俺は反対するつもりだが、大勢が賛成に向かった場合、俺にそれを覆すだけの力はない。仮にそうなってそのまま侵略が決まったら、ルーセルの目を盗んで、どうにか異空門を確認しに向かおうと思っている。かなりリスクがあるのは承知の上だが、やらないとどうにもならない。確認して、異世界が現実とは別の世界だったらそれでよし。俺は軍の一員として、帝の指令に従う。ただ、異世界が、もし現実世界だったら……?俺は……
いや、きっとそんなことはないはずだ。俺をこの世界に招き入れた神なりなんなりが、そこまで残酷なわけがない。そう結論付け、伏せていた顔を上げる。
「は?」
すると目の前に、ルーセルの顔があった。俺の顔を、じーっと覗き込んでいる。
最近、ルーセルとの距離感がつかめない。以前なら、見つめただけで顔を真っ赤にしていたのに。目の前の顔はけろっとしてるし、この間も抱き着かれたし。いつからか、と言ったら、やはりノル村への往路、ルーセルが墜落死しかけた時だろう。それからは事件続きだということを考えると、一種のつり橋効果のようなものだと思える。
ただあの時ルーセルはこうも言った。「あなたに見捨てられたなら仕方ない」と。…それが一種の告白のように聞こえてしまうのは俺の考え過ぎだろうか。俺の考えが正しいとすると、ルーセルは直截的ではない言い方ではあるが、告白をしたことによってどこか吹っ切れたような状態になっているとも考えられる。
まあどちらにせよ、俺としては早く元通りの関係に戻りたいと思うばかりだ。何かあるたびに何かあると、明への罪悪感で心苦しいことこの上ない。
「大丈夫?疲れてるとか?」
「大丈夫。心配されなくても」ルーセルの問いに、俺は距離を置きつつ頭を振る。
ルーセルは「そう」とだけ言うと、屈み気味だった体勢を直して、普通に歩き出した。
だんだんと、視界の中のアーラの神殿が大きくなってくる。今からの会議で、俺のこれからが決まる。そう考えると、どうしても緊張してしまう。
すー、はー。深呼吸一つ。
ほどなくして、神殿に到着した。会議の行われるのは、部屋というには大きすぎる部屋だった。その中に、おそらく百人程度の人が、すでに円卓の机に座っていた。自分たちの席を見つけ、腰掛ける。
少しして始まった会議は、最初は特に問題もなく進行していった。まず帝の近くに座っている執行部の一団から一人立ち上がり、これまでの経過と現状の説明が行われた。俺もここで初めて知ったのだが、異世界軍は最初の侵攻以来、まったくこの世界には入ってきていないらしい。それについては憶測、例えば敵はもう侵攻の意思を失ったのかもしれないし、逆に次の侵攻のための準備に集中しているのかもしれないなどがいろいろと考えられるが、引き続きいつ戦いになってもいいような心構えをしておくように、ということだった。
執行部の長広舌が終わり、場に一瞬弛緩した空気が流れたタイミングで、帝が立ち上がった。みなの視線が一気に帝に集中する。
皆はおそらく、帝から激が飛ばされるとでも思っているのだろう。その証拠に、皆の顔にはそこまで深刻さが浮かんでいない。気の早い何人かはすでにこぶしを握り締め、いつでも振り上げられるようにしている。俺の隣のルーセルもその一人だ。これから帝が言うことの内容にだいたい予測がつく執行部の面々は、あるものは目をつむり、あるものは頭を抱え、深刻な表情で、何かを考え込んでいるようだった。間違いなく、帝の意見に賛成するか反対するかの最終決定をしているのだろう。そしてこの場の唯一の異端児である俺は、静かに会議の動向を見守ろうと、腕を組んで帝を見つめる。
帝は一つ咳払いをし、ゆっくりと、語りだした。
「君たちは今回のことを、どう感じる?死者こそ出なかったものの、異世界の軍に我々の土地を荒らされて、このままでいいと思うか?」
場の空気が変わった。若干の高揚から、不審、そして若干の憎悪へと。この場にいる誰だって、自分たちの世界が理不尽に荒らされて、少しの憎しみは感じているのだ。単にそれが、形として出てこないだけで。そしてそこが、この世界と現実の一番の差でもある。
「みんな知っていると思うが、われわれは遥か昔にも、異世界の侵攻をうけた。その時は、当時の帝が神素を武器として使うという画期的な発想を思いついたために撃退することはできた。その経験から軍は整備され、何千年という時を経て、われわれはこうして会議をしている」
帝には今、六百を超える鋭い視線が集まっているはずだ。それでも帝は、堂々と話し続ける。
「軍は、この世界を異世界軍から守り抜くためにある。それはこの数千年間、変わらずに来た。……ここで、私は君たちに問う」
帝は机に両手をつき、前かがみになった。
「本当にこの世界を守るためには、それだけでは物足りなくはないか?」
……は?
机を囲む、ほぼ全員がそういいたげな表情になった。帝が何を言おうとしているのか、まったくわかっていないようだ。だがそれはこの世界の人々の普通の感覚からして、当たり前のこと。あの帝が、ただ異質なだけ。
さあ、ここからだ。その異質に、普通がどういう反応を示すか。
「守るためには、守っているだけではいけない。なぜなら攻め込まれるたびに防いでいるのでは、敵の初撃は絶対に防げないからだ」
皆の理解が追いつく前に、帝はどんどん話を進めていく。もしかしたら、狙ってやっているのかもしれない。
「敵に、もう二度と攻撃をさせないためにも、ここで、敵を完璧にたたいておきたい。だから私ヒュルト・シュバイトは、こちらからの、異世界への侵攻を提案したい」
場が一瞬にして凍りついた。みな唖然としてしまい、だれも言葉を発しない。いや、発せないが正しいか。
帝はそんな反応も予期していたのだろう、かまわず話し続ける。
「攻め込むなら、敵が動きを見せていない今が狙い時だ。急だとは思うが、この場で全員一票の多数決で、決定を出してしまいたい。ただ今すぐとは言わない。考える時間を今からとる。相談しても構わない。自分なりの決定を出してくれ」
帝は皆を見渡し、座った。皆もやっと理解が追いついたのか、近場同士で相談し始めた。喧騒が辺りを満たす。
「なんか大変なことになってきたけど…どうする、アールス?」
隣に座るルーセルからの問い。比較的、落ち着いているように見える。
「そっちは?」
「もちろん、賛成するに決まってるわよ。ノル村をあんなにされたんだから。あなただって、賛成するでしょ?」
予想できた答えではあった。ただそれでも、実際に聞くとつらいものがある。俺は今から、この世界のためでも、ノル村のためでもなく、この世界にはいない武中真琴のためだけに、この世界の人々を説得しなければならないという事実が、改めて自分の心にしみこんでくる。
「でもルーセル、実際相手の戦力がどれくらいのものか、まったくわからないんだぞ?それはわかってるのか?」百パーセントの建前。
ルーセルは驚くようなそぶりを見せ、俺を見た。
「ずいぶん弱気ね。意外。……私はそれに関しては、一切心配してないわ。どのみちそんなに戦力差があったら、すぐにやられちゃうわよ」
……うむ。たしかにそれもそうだ。やはり建前で説得するのは無理なのか。
「……もしかして、あなた反対なの?」
少しの沈黙の後発せられたルーセルの声からは、否定してほしいという意思が強く感じられた。
ただそう分かっていても、俺は肯定するしかない。嘘の上に嘘を重ねるような真似だけは、ルーセルにはできない。
「ああ。俺は、反対だ。…賛成できないんだ、俺の立場じゃ。」
「なんで?」間髪入れずに、ルーセルが無表情で言った。
「言えない」
「私にも?」
「……ああ。本当に悪いと思ってる。けどこればっかりは……」
「なんでよ!」
ルーセルが突然、声を荒げた。周囲の視線が集中する。
「私のこと、信用できないの?」
「いや、そんなことは……」
「だったら教えてよ!ノル村を、故郷をめちゃくちゃにされて、あなただって悔しいでしょ?憎いでしょ?やり返したいって思うでしょ?その感情を抑えてまで、何のために帝の意見に反対するのか、言ってみなさいよ!!」
ルーセルは今まで俺が見たこともないほど激高し、一息に言い切った。
ルーセルの言っていることに、間違いは一つもない。ルーセルからしたら、俺の言葉は信じがたい物だろう。当たり前だ。俺だって、悔しい、憎い、やり返したいと、心のどこかでは思っているに違いないのだから。実際に俺はノル村で、我を忘れて敵を全滅させている。その点に関しては、俺とルーセルは何も変わらない。
違いは一点、素直にその感情に従っているかどうかだけだ。そしてその差異だけは、どうしようもない。万が一のことを考えると、俺は侵攻作戦には絶対に賛成できない。そうしてしまったら、結果はどうあれ、武中真琴は死んでしまう気がする。
明の涙だけは、絶対に見たくない。
「何とか言ったらどうなのアールス!」
ルーセルは立ち上がり、俺の両肩をつかんだ。思考から引き上げられる。
何て答えればいいんだろう。分からない。何を言っても、嘘になる。
「時間だ。静かにしてくれ」
……何てタイミングだろう。帝の指示に、俺は文字通り救われた。ルーセルも帝の命に逆らうことはできず、しぶしぶとだが席につき、視線を俺から帝に移した。
場が静まるのを待って、帝は口を開いた。
「では多数決をとる。言っておくが、ここで反対したからといって何も咎めることはない。自分の気持ちのままにきめてほしい」
皆がうなずく。俺は目を閉じる。
「では、私の提案を是とし、危険を承知で異世界に侵攻する意思のあるものは、手を挙げてくれ。」
緊張する。ゆっくりと目を開ける。祈りながら。
目に入ってきたのは―手を挙げているみなと、うなずく帝。場を見渡すと、執行部を含めて俺以外全員が挙手していた。
そんな、まさか、ここまでとは……俺は愕然とした。俺は、この世界の、争いごとを好まない、自分たちから攻勢に出ようなんて考えもしない人々のことだから、僅差にはなるだろうが、最終的には反対多数になると思っていた。一人二人の差ならともかく、何百対一ではもう覆すことなどできない。
そこまでに、憎しみが深いのか。みんな。その事実は嬉しいが、結果はけっして喜べたものじゃない。
こうなったら、異空門の向こうが、現実で無いことを祈る以外ない。あの星条旗は、単なる偶然であったと、確認しにいかなければ。できるだけ早く。すべては、それからだ。
一人考える俺をよそに、場は進行していく。
「この時点で決まった。賛成多数により、私の提案は認められ、近いうちに、こちらから異空門の向こうへと侵攻する。異存のない者は拍手を」
帝の要求に答え、皆が拍手をし始めた。
その時だ。
視界が黒に染まった。
「は……?」
まだ日が暮れる時間ではないはずだ。仮にそうであっても、ここまで突然暗くなるわけがない。いったい何が起きたんだ?皆も混乱しているのか、喧騒が場を支配する。
若干、視界が明るくなった。光源を見ると、この場にいる炎素使いのだれかが、気を利かして松明代わりの役割をしてくれているようだった。それにつられるように、新しい光源が二、三個生まれた。
「慌てることはない」
まだざわついていた場が静まった。普段と変わらない帝の声。ここから帝のいる席までは遠く、表情までは見えない。
「数千年前のいわくつきの言い伝えが事実であり、それが再現されたというだけのことだ。時が来れば、また日は戻る」
数千年前のいわくつきの言い伝えと言えば――一回目の異世界軍の侵攻の時、異空門が閉じられるまで、日が昇らなかったというやつの事か。なるほど確かに、状況は酷似している。異空門が開かれ、それによって戦争が始まろうとしている点で。
ただそれでは、肝心のことが説明されていない。
なぜ、争いが起きるたびに、日は昇らなかったり、消えたりするのか。
うーん、分からない。謎だ。
しかし皆はとりあえずそれで納得したのか、場の雰囲気が落ち着いたものへと変わっていく。この状況で、発言一つで混乱を鎮められる帝。どれほどの信頼を受け、尊敬を集めているのかがよくわかる。
「このまま会議を続けたいと思う。……松明代わりになってくれている者には悪いが、頑張ってくれ」
帝の発言を受け、「大丈夫です」と言わんばかりに、炎が少し大きくなった。おかげで、俺の位置からも、帝の表情が読み取れる。
「ここからは、攻撃作戦について、具体的に決めていきたいと思う。隊長副隊長は問わない。これという案があったら、どんどん出してくれ」
そこから先は、本当に階級、年齢関係なく意見が発せられる、活発な議論が展開された。いつ行うのか、どの部隊が参加するのか、異世界にわたってからどうするのか、長距離移動手段はどうするのかといったことが、どんどん決まっていった。特に移動手段を決める際には、ついに飛神が公の場に出され、帝自ら使い方を実演するにおよび、場の高揚は最高潮に達した。帝曰く、すでに飛神――正式名称は人翼(じんよく)――は数千個完成しているらしい。帝都の工房が、帝の想像以上の速度で大量生産しているそうだ。
そんな中俺は、一人会議には参加せず、今後の、俺なりの計画を考えていた。
まず、今日の夜、みんなが寝静まったのを見計らって、異空門へ、異世界が現実かどうか確認しに行く。これは確定。
問題はその次だ。異世界が現実で無かったのなら、帰ってきて眠りにつく。さぞかし、ぐっすり眠れるだろう。
万が一、考えたくはないが、異世界が現実であるという確信が持ててしまったら―?
その時は、その時だ。
……って、これじゃ計画も何もないな、と思った時には、いつの間にか会議が終わっていた。会議の内容を一応確認しておこうと思い隣の席を見ると、そこにはルーセルの姿がない。やっぱり、怒らせてしまったのだろうか。いつもなら、俺をおいて一人で帰るなんてことはないのに。さみしさのようなものが、なぜかこみあげてくる。
ルーセルには、言うべきなのかもしれない。俺の全てを。アーラの神殿を後にしながら、俺は考える。
言うべきだ。きっと。
しかし怖い。言ってどうなるかのことを考えると。また、いつかみたいにゲテモノ扱いされてしまうのではないかと、どうしても考えてしまう。
やめておこう。やっぱり怖い。
そこまで考えて、怖さを感じるということは、俺がルーセルのことを信じ切れていないのだと気付かされる。
言うべきだ。ルーセルなら、きっと信じてくれる。
いや、でも―
やめておこう。
言うべきだ。
やめておこう。
言うべきだ。
やめておこう。
……
……
そして結局、答えが出ぬまま、宿についてしまった。
日が消えてしまったせいで、時間感覚が狂う。真夜中に異空門に行けば誰にも気づかれずに済むと思ったのに、これじゃいつが真夜中かわかったもんじゃない。俺は部屋に入り、飛神があるのを確認して、ベッドにダイブする。
目の前の壁のすぐ向こうに、ルーセルがいる。そう認識すると、またさっきの無限ループが再開される。
言うべきだ。
やめておこう。
言うべきだ。
……
ああ、ムカつく。何がって、自分がだ。俺はベッドから起き上がり、飛神を背負う。真夜中も今も変わらないのなら、さっさと確認してしまおう。
ベランダから、勢いよく飛び出す。
はあ……
ベッドに横になってから何度目かわからない溜息を、ルーセルはついた。
両手で投げ上げた枕が、重力に従って落ちてくる。両手でしっかりキャッチして、また投げ上げる。
自室にこもって一人悩んでも、どうにもならないことぐらいルーセルにも分かっている。ただ、どうしても最初の一歩が踏み出せない。だからこうして、ベッドの上でぐずっている。
さっきから何度も自分に言い聞かせて、一旦は決意するのだ。ただ隣の部屋を訪ねて、アールスとさっきの会議での話の続きをする、それだけの事じゃないの。さあ行きましょう、と。
ただそのたびに、会議でのアールスの、何か迷ったような様子が脳裏をよぎる。
よく考えると、ここ最近のアールスはどこか変だった。いつも何か考え込んでいるようだった。うまく言えないが、アールスらしくないとルーセルには感じられた。
極めつけが、今日の会議だ。
ルーセルは、アールスも賛成するものとばかり思っていた。ともに先陣切って、異世界に攻め込んでやると意気込んでいたのだ。
しかしアールスは反対したいと言った。しかも、理由は「言えない」ときた。
直後は腹も立った。怒っていると知らせるために、初めてアールスを会議室においてきもした。ただいま落ち着いて考えると、私にも言えないくらいなんだから、無理に聞かずに、そっとしておいてあげる方がいいかもしれない、と思うのだ。
ルーセルとしては、アールスには一人で悩まず、私くらいには話してほしいと思うし、そうしてくれないことが悔しくもある。
しかし、それも仕方がないかもしれないとも、思ってしまう。
なんたって―私だって、もう十年近くも、想いを告げられずにいるんだから。
「あっ……」
投げようとした枕が指に引っかかり、あさっての方向へ飛んで行った。ため息をつきつつ、目で追う。
「は?」
するとその先には、今まさにベランダから飛び立とうとしているアールスの姿が。
「どこいくのよ!」
しかしその声は、アールスには届かず、アールスはそのまま、ものすごい勢いで北へ飛んで行った。
追いかけよう。ほっとけないわ。
ルーセルはベッドから起き上がり、飛神を背負う。
星明りを頼りに、思いのほか、異空門は簡単に見つけられた。
異空門の周りは、ノル村が焼け野原になってしまっていることを除いては、前に見た時と何も変わっていなかった。あえて言うなら、少し遠くに、異空門を見張る軍の野営地があったことぐらいか。
万が一、敵がタイミング悪く攻め込んできていた時のことを考えて、慎重に異空門へと降下する。幸い、敵の気配は一切ない。この一週間くらいでさらに積もった雪を踏みしめつつ、異空門の中を覗き込む。
最初に見た時と同じように、異空門の向こうは森が広がっているようだった。それだけでは、現実世界であるかどうかの判断はつけられない。
決心し、一回深呼吸。門をくぐる。
異世界もまた、夜のように暗い。おそらく、本当に夜なのだろう。俺は辺りに気を回しながら、木の根ででこぼこの道を、慎重に歩いて行く。
なかなか、視界が開けず、じれったいなあと思った矢先、視界が開けた。
目の前に広がるのは、決して大きくない池と、そのほとりに小さなベンチがある光景。
「う、そ、だ、ろ……」
考えるまでもない。
間違いない。
ここは。
俺と明のお気に入りの場所。
杜氏川自然公園。
ならばここは。
現実世界だ。
そう認識した瞬間。
意識が飛んだ。
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decide 2
気付くと、俺はベッドの上に横になっていた。かけ毛布から出ている顔だけ動かして辺りを確認する。目に入ってきたのは、決して整理されているとは言えない木製の机と、若干漫画よりも小説の割合が高い本棚。
間違いない。「現実世界の」俺の部屋だ。眠るだけでなく、気絶しても俺の意識は異世界から戻ってくるということらしい。
とりあえず上半身だけ起こし、気絶する前、俺は何を―と考え、一瞬にして思い出した。
俺は異空門を向こう側からくぐり―現実世界に来た。そしてなぜか、突然目の前が真っ暗になった。
悪い夢だと思いたいが、事実だ。俺は確かに、ついこの間行ったばかりの杜氏川自然公園の景色を見た。
しかし、おかしい。異空門が現実世界と夢の世界をつなぐものだとしたら、夢の世界における数千年前の一回目の戦争の時も、現実世界と夢の世界の戦いだったということになる。いくらなんでも、その当時に時空をつなぐ門なんてものを現実世界で作れたとは思えない。それに、今の技術で、異空門をつなぎなおせるとも思えない。あれは、科学でどうこうなるものではない。
その上、なぜ杜氏川自然公園かも解せない。
あの公園は比較的歴史があるといっても、二百年前からあったなんてことはないだろう。ならば、それ以前は異空門は野ざらしになっていたということになってしまうし、公園を作った際、処理されなかったということにもなってしまう。いくらなんでも、ありえない。
そう考えると、異空門は、仮に現実世界に異空門を作れるだけの技術があったとしてだが、今回の侵攻作戦のために場所を移された、あるいは新しく作られたと考えるのが妥当だろう。なぜそこで、森の中という不便な場所をチョイスしたのか。利便さを追求するなら軍事施設のそばでいいし、目立たせたくないのならサハラ砂漠のど真ん中でいい。その辺が、まったく理解できない。しかも門を日本に開いておいて、実際に攻めてきた戦車はアメリカ軍のものだ。
なぜ今、わざわざ異世界に侵攻するのかもわからない。
あまりに、謎が多すぎる。
しかし――いくら考えたところで、異空門が開き、現実世界の軍が夢の世界に攻め込み、夢の世界が反撃に出ようとしている事実は変わらない。
俺は、この後、どうすればいい?胸の奥から疑問が湧き上がってくる。
このまま、何もせずに一日ここで過ごすか?それは論外だ。
この体で、異空門をくぐり、あちらの世界の住人として生きる?それもだめだ。明は見捨てられない。
ならば明も一緒に連れて行く?それは―明が納得するとは思えない。
じゃあ、今から日本政府に連絡して、杜氏川自然公園の周りに自衛隊を配備してもらう?そんなこと、できるわけがない。一般市民の俺が要請したところで、怪しまれるのがおちだ。
残った選択肢は?
…ない。なにも、残っていない。
この世界とむこうの世界の時間がどのように相関しているかわからないために、一体いつ向こうの侵攻が始まるかもわからない。まだ先のことかもしれないし、今すぐかもしれない。
確実なのは、その時は確実に訪れるということだ。そうなってからでは遅い。
しかしそう分かっていても、俺には何もできない。武中真琴にも、アールス・ヒュレットにも。「その時は、その時だ」なんて、そんなこと言っておいて、どうしようもない。結局、結論から逃げていただけだ。
俺は今、とてつもなく――これ以上ないくらい、無力だ。絶望感が、脱力感が、全身に遍く(あまねく)行き渡る。
ふと壁にかかったカレンダーが目に入った。今日は月曜日。いつも通りに学校がある日。しかし、学校に行く気にはなれない。この期に及んで、学校に行ったところで何になる?
何にもならな――くは、無いか。自分で出した結論を、自分で修正する。
学校に行けば――少なくとも、明に会える。話せる。
明に頼ろう。不意にそう思った。明なら、全てを話せば、きっと信じてくれる。きっと、俺には思いつかないような、いい案を考えてくれる。少なくとも、俺一人で悩むよりはましだ。それは間違いない。
そう考えるだけで、全身に、動こうという意思に答えられるだけの力が湧く。つくづく、明の存在は大きいと、実感する。
明は太陽―それは、あの、明が突然訪ねてきた日以来、いろいろなものが変わっていった中で、唯一変わらない、変わってほしくない、俺にとってだけの事実。
急いで支度をし、学校へ向かう。
しかしいざ学校についてみると、必ずいつも俺より早く教室にいて、必ず「おはよー」といって迎えてくれる明の姿はなかった。
この間といい、最近遅刻がちだなぁアイツ、と自らを省みず考えながら、俺は教室の窓側一番後ろ、俺的にはベストポジションにある明の席のそばで、明を待った。
だが結局、明は今日に限って、始業のチャイムが鳴っても、教室に姿を見せなかった。
呆然とする俺をおいていつも通り―羨ましいくらいにいつも通りにホームルームは進行し、教師から「今日は哀川と向江は欠席だ。二人とも風邪をこじらせたらしい」という連絡がされた。
そこから先は、ほとんど覚えていない。気づいたら、いつのまにか明の家に来ている俺がいた。
明の家の庭を歩きつつ、明の風邪、そこまでひどくないといいが、と考え、そんなことを心配してる場合かと苦笑いをする。
俺は、これから、どうにかして現実世界と夢の世界の、真の意味での邂逅を防がなくてはならない。二つの世界がお互いに傷つけあっても、悲しみや憎しみを生むだけだ。夢の世界の人々でさえ、自ら戦争に向かわせるほどに、強い。
だが、俺一人ではできない。現に今朝も、くじけかけた。
だから明、力を貸してくれ。
俺は、明を信じてる。
心でそう念じながら、ピンポンを押す。
すぐに、「はーい」という声が聞こえ、誰かが玄関に向かってきているのが感じられた。そのまますぐ、鍵が中から開けられる音。
しかし、扉の向こうのだれかはそこで動きを止めた。向こう側がはっきり見えないガラス越しにでもわかる。
「……どちらさま?」
いや、それを聞くなら鍵開ける前だろ。変な奴だ。
間違いない。明だ。確信する。風邪のせいか、声がいつもと違う。少しいがらっぽい。
「真琴。武中真琴。話があるんだ」
すぐに扉は開けられた。「とりあえず、入って」
明に言われるがままに中に入る。すると、明はなぜか扉の隙間から顔だけ出して辺りを確認した後、勢いよくそれを閉めた。
「今の、何?」思わず訪ねてしまう俺。
「いや、男の子家に入れてるところ近所の人に見られたら、けっこうやばいからさ……」
「なんで?」
「ほら、うちの親って意外と近所付き合い大切にしてる人たちだから…そっち経由で親に伝わっちゃう可能性が怖くて……」
「…まさかお前、俺とのこと……」
「うん。……言ってない。言う気もないし。」
はあ…俺達、付き合って何年だよ。そこまで秘密にする理由ってあるのか?そう尋ねると、明は「じゃあ真琴は親に言ってあるの?」と逆に聞き返してきた。そう言われると、確かに俺も言ってなかったな。言う必要も感じない。
俺が靴を脱ぎ、きちんと揃えるのまで待ってから、明は「話があるって言ったけど、私の部屋でいいよね」と言って、俺に背を向け、階段を登って行った。いつもと違う、明の背中。服は特に代わり映えのしない黒いジャージで、肩甲骨を覆い隠すかのように、いつもは結ばれている茶色がかった髪が下ろされている。
ただそれでも、俺にとっては変わらず大きくて、まぶしい。
俺が目を離せないでいると、明は突然止まって振り返った。風邪で体調が悪いとは思えないほど可愛らしく微笑む。「どうしたの?ほら早く」。
歩き出す俺。「ああ、ゴメン」。
明は、俺が部屋に入ってくるまで、立って待っていてくれたようだった。俺には自分の机の椅子を差し出し、ベッドにすとんと腰かける。
しばし、沈黙が流れる。
それを破ったのは明の方だった。
「で?真琴、話ってなんなの?お見舞いに来てくれたってだけなら私もうれしいだけだけど、そうじゃないよね。なんか深刻そうだし」
やはり明は話が早い。
「ああ……ちょっと――いや、かなり深刻な話なんだ。長い話になると思う。―だから、先に聞いときたいんだけど、大丈夫、体調?」
明は一瞬、らしくないぽかんとした表情をした後、急に吹き出した。
「え、どうした明?」戸惑う俺。結構真剣に聞いたつもりだったのだが。
「いや…だって、深刻な話なんだ、って言っといて、体調どう?ってくるとは思ってなかったから…ゴメンね、笑っちゃって。あと、ありがと。心配してくれて。もうだいぶ治ったから、大丈夫だよ」
明は笑うのをこらえているようだったが、謝ってくれた。
「そう……よかった。でも、もしきつくなったらいつでも言ってくれ」
俺が真面目にそういうと、明は首をかしげ、俺の目を覗き込むようにして言った。
「え……?そんなに、深刻な長話なの?」
不思議でたまらない、早く聞きたいという明の意思がひしひしと伝わってくる。俺は深呼吸を一つして、口を開く。
「信じられないかもしれないけど、冗談抜きで俺にこの世界の未来がかかってるんだ。でも、俺一人じゃ、どうしていいかわからない。だから、明にも、俺の話を聞いて、考えてほしい。俺がこの先、何をどうすればいいのかを。巻き込むようで悪いけど、頼む。明が、俺の中の最初で最後の砦なんだ」
明は俺の顔を、よそ見することなく、ただ一心に見ている。完全に、聞き入る体に入っている。
もう一回、大きく息を、すって、大きく、吐く。
明、信じてくれ。
「俺は―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――………」
俺がすべて―夢の世界に行くようになった時のこと、現実で空気扱いされ、明が訪れてくるまでふさぎ込んでいたわけ、その後の楽しい非日常な日常、そして今、現実と夢がつながり、戦争が起きようとしていること―を懇切丁寧に説明し終わるまでには、俺が思っている以上に時間がかかった。話し始める前は西日が差しこみ、明るかった部屋はどんどん暗くなり、今は完全に日は沈み、部屋の天井の中央にある電球が存在感を放っている。
明は話の最中、電気をつけるために二、三歩歩いた以外はまったくと言っていいほど動かず、しゃべらず、ひたすら俺の目を見続けていた。まるで、俺の感情から何から全てを見透かそうとするかのように。
今俺は、しゃべりすぎたせいで口がだいぶ乾いているのを意識しながら、明のリアクションを待っている。明は、話が終わった後も全く動いていない。膝の上に頬杖をついたままだ。
なんでこんなに緊張するんだろう。明なら信じてくれると思ったからこそ、俺は明にすべてを話したのに。明の最初の反応がどういうものか、気になってしょうがない。心臓の鼓動が、どんどん強く、速くなっていく。頭の中に、その音が早鐘のように鳴り響く。
「正直…」
やっと、明が口を開いた。見えない何かから解放されたような感覚が全身を覆う。
「正直、信じられないような話だね。まあ、異世界があるってのはともかくとして、夢で異世界にわたるなんて、その世界とこの世界が現在形で戦争してるなんて、私の理解できる範疇を軽く超えちゃってる。真琴には悪いけど、小四の時、真琴が空気扱いされちゃったのもわかるよ。普通、信じないよ、そんなの。いくら説明したって」
…え?
頭の中が真っ白になった。明にも、信じてもらえないのか。そう思うと、もう何も考えられない。もう何もかもどうでもいい。
「でもね」
明が何か言っている。もういい。どうでも。だから黙ってくれ。
「私は信じるよ。真琴が、そこまで真剣に言うんだったら」
ワタシハシンジルヨ………わたしはしんじるよ………私は信じるよ………
え…?
俺ははっとして明を見た。明はそんな俺を見て微笑んだ。
「本当だよ。信じるよ。私は。真琴を。私が信じなくて、他のだれが信じるの?」
今、この瞬間ほど、明が美しく見えたことは今までにない。
やっぱり、信じてよかったよ。明。
急に涙腺が緩むのを感じた。どうにかしてしめなおそうとするが、無理だった。涙を流すなんて、いったい何年振りだろう。そして明が俺の頬を伝うそれに気付くのに、そこまで時間はかからなかった。
「ちょっとぉ、泣かないでよ。なんか私、悪いことしたみたいじゃん」
そう言って楽しそうに笑う明。
「悪いことしたじゃん実際。あんなだますようなこと言ってさ」
俺も涙をぬぐいながら、感情のままに笑う。
しばらくそうやって二人で笑い合っていたが、俺の心が徐々に平常に戻っていき、それどころではないということを思い出した。緩んでいた口元を引き締め直し、明を見つめる。すると明の顔からも、笑みが消えた。
「で、ここからなんだ。本当の問題は。俺は今起きてる戦争を、どうにかして止めたいんだ。でも、方法がわからない。……明、いい案ないか?」
明は一瞬だけ、なぜかはっとした表情を見せたが、すぐに考え込み始めた。
少しして、明はゆっくりと口を開いた。
「うーん……私には、その……夢の世界?の様子とか、詳しくわかんないから何とも言えないけど……その作戦を発案した人、帝とかいったっけ?その人を説得すればいいんじゃないかな?というか、それしか方法がない気がする。真琴は夢の世界で、そこそこ地位高いんだよね?それを利用して、どうにかして頼み込んでみれば?」
「それなんだけど……俺も、それは考えたんだ。でも、帝を止めるだけの口実がない。帝は頭が異常なくらいいい上に、芯も多分強い。理由もなく「やめてください」って頼み込んだって、間違いなく聞き入れてくれない。最悪、その場で反逆者扱いされて、本当に何もできなくなる」
俺の言葉を聞いて、明はまた少し考え込んでから口を開いた。
「いっそのこと、「自分は今あなたが攻め込もうとしている世界の人間なんです」って暴露しちゃうとかは?」
「そうしてどうする?情に訴えて頼み込むか?そんなことしたら、反逆者扱いどころか、その場で殺されかねないぞ?」
「違うよ。そうじゃなくて、「自分の世界には時空をつなぐだけの力はありません。今回のことは、そもそも何かの間違いなんです」って言うの。そうすれば頭がいい人なら、頭ごなしに否定するようなことはないと思うけど」
「でもな明。現に時空をつなぐ門は開いて、アメリカ軍は攻め込んできたんだぞ?俺も今でも信じられないけど」
「そこなの」明は確信をついたかのように言った。
「真琴の話の中の、一番の疑問点はそこ。まず、一から整理してみるけど……真琴は、なんでアメリカ軍が攻め込んできたって判断したの?」
「アメリカの国旗が、攻め込んできた戦車についてたから。この目でしっかり確認したよ」
「じゃあ、戦車の中に乗ってる人を見たわけじゃないんだね。…じゃあ二つ目。その時空をつなぐ門は、ずっと昔に一回開いてるんだよね。そしてその時も、開いた先はこの世界だったと思われる……その時は、どっちが門を開けたの?」
「それは、間違いなくこの世界だと思う。一回目の戦争のときは、夢の世界側は最初一方的にやられてたらしいから」
「そしてその戦争が終わった後、数千年間その門はなくなることはなかった?」
「誰も確認したことがないから確実じゃないけど、多分……」
「ふむふむ…ところで、その一回目の戦争があったことは、夢の世界側の人はみんな知ってるの?」
「うん。基本教養」
「ふーん……じゃあ三つ目。真琴がその門をわざわざ確認しに行ったのは、前日に帝に呼び出されて、極秘で任務を受けたからでいいんだよね。そしてその門は、森の中にあった。」
「うん。」
「そしていざ確認してみたらその門が開いてて、侵攻が始まってた……その時、奇跡的に誰もけがをしなかったんだよね?」
「うん。……それは本当に良かったと思う」
「その後、真琴はその戦車と戦った?」
「……気づいたら、全滅させてた」
ためらいながら言ってみたが、明は俺の態度にも言葉の内容にも反応を見せなかった。
「その時、何か感じたことは?」
「そういえば、敵の攻撃が、一回も俺に命中する弾をたどってこなかったな。それくらいかな」
「じゃあ最後に……帝はとても立派な人で、常に皆のことを考え、頭もよく、侵攻作戦の発案者である?」
「その認識で間違いはないよ」
さっきから明の問いに答えてはいるが、一体どういう意図なのか俺にはさっぱりわからない。聞かれている内容にも一貫性はないし、そもそも聞かれていること自体、何も疑いようのない事実だ。
一人混乱する俺を差し置いて、明は一人考え込んでいる。
「一応、仮説はたったよ。」少しして、明は平然とそう言い放った。
「仮説って、なんの?」
「もちろん、今起きている戦争についての、だよ」
「……はい?」
信じられない。今の会話を通して、一体何がわかったというのか。
驚愕する俺に対して、明はまだ自分の世界から抜け出せていないのか、独り言のように淡々と言葉を並べていく。
「私の仮説が正しいとすると、多分さっき言った方法で説得すれば、うまくいくはず……」
「さっき言ったって…門の向こうは実は自分の本来いる世界で、その世界には異空門を開く力はありません、って理論的に訴えるやつのこと?」
「そう。それで、たぶん大丈夫。……あと問題は、真琴が本当に異世界の住人だと、信じてもらえるかどうかだけ」
やはり、問題はここだ。一番の難所。どうやって自分が異世界の人間だと信じさせるか。正直、俺には自信がない。今日信じてもらえたのだって、相手が明だからだ。それ以外の人間になんて、信じてもらえないに決まっている。また、いつかみたいになるのがおちだ。
「大丈夫」
突然の明の声。思わずうつむいていた顔を上げると、すぐ近くに明の顔があった。文字通り、目と鼻の先に。
「私が保証する。真琴なら、絶対できる。私は信じてる」
明はさらに身を乗り出してきた。
「あとは、自分で自分を信じ切れるか。それだけ」
明の体温を感じる。
「信じればどうにかなるとかいう夢物語を言うつもりはないし、報われない努力は努力でないとかいう、勝ち組の身勝手な理屈を言うつもりもないけど――」
明の体が俺の体に触れた。
「信じようと、努力しようとしなければ、どうにかなるものも、どうにかならない。これだけは、心に留めておいて――」
明の唇が、俺の唇に重なった。
いわゆる、ファーストキス。
何秒、そうしていただろう。俺は全く動けなかった。
一瞬とも永遠ともいえる時間の後、明は静かに後ずさり、微笑んだ。平静を装っているように見えて、頬をかなり赤らめている。ただ、それ以上に俺の頬は赤いことだろう。それは疑いようがない。
「どうしたの?固まっちゃって。なんか言ってよ。なんならもう一回……」
……明ってこんな積極的だったか?
「いや、それは…」反射的に否定する。
明は若干口をとがらせた。「いやだった?」
「そうじゃなくて…びっくりした。突然だったから。一回目だったし」
「そういえばそうだね、初めてだったね。何年目の、だろうね?」
「何年目……中一からだから、四年目の、か。考えてみると、比較的遅いよな。」
「比較的じゃなくて、普通に遅いよ。私、結構待ってたのに。真琴、そういう気配全くないんだもん。」
明はそう言ってふふと笑い、少し間を開けて、「あのさ」と床に片腕で頬杖を突き言った。
「真琴って、門限とかある?」
「いや、ないよ。そもそも、親が帰ってこないから。何時に帰っても、まったく問題ない」
「じゃあさ、じゃあさ」明は上目づかいで俺を見た。
そして、衝撃の一言。
「今夜、泊まってかない?」
はあ……
明の家の風呂場で出た溜息は、すぐに風呂場特有の靄(もや)の中に消えて行った。
どうして、こうなったんだろう。初めてキスした日にそのままお泊りなんて、展開があまりに早すぎる。
もちろん、いやなわけではない。むしろ、うれしい。若干、緊張もしている。それが自然で当たり前のことなんだろう。
ただ一つわからないのは、明の真意だ。明曰く、「真琴のこと、一晩中見守っててあげるからね!」とのことで、それは気恥ずかしくもあり、頼りになるようでもあり、嬉しくもあるのだが、何か、それだけではない気がする。あくまで、俺の直感だが。
考えるだけ、無駄か。
俺はしばらく湯船の中で考えた後そう結論付け、湯船から出る。寝間着は明が用意してくれたもので、サイズから察するに、おそらく明の父親のものだろう。俺にはだいぶ大きいが、きれないほどではない。さっさと着替えを済ませ、明の部屋へと向かう。明は俺より先に風呂を済ませた(当然だが)ので、今は風呂上りの一杯とか言って、牛乳でも一気飲み……はしてないだろう。明はそこまで、じじくさくはないはず。
俺の予想たがわず、明は俺が部屋に入った時、さっき俺が座っていた椅子に、何をするわけでもなく腰掛けていた。椅子がかなりベッドよりに動かされている。
「あ、真琴」明は俺に気付いたようで、右手を軽く上げて言った。そのまま手招きする。
「ほら、こっち来て」
俺が無言のまま明に近づくと、明はベッドに座るようにとジェスチャーで促した。
俺がそうするのを待って、明は逆に立ち上がり、言った。
「じゃあ、電気消すからね」言い終わる前に、視界がブラックアウト。
「明、あのー」
「なに?」気配とわずかな明かりから、明が座りなおすのが分かった。
俺は少しためらいを感じながら、口を開く。
「俺は、このベッドで寝ちゃっていいの?」
「もちろん」明はあっさりと答えた。
「じゃあ明はどこで…?」聞くのが怖い。
「私今夜は寝ない」
「え?なんで?」
「言ったじゃん。一晩中真琴を見守っててあげるよって。」
…マジか。
呆然とする俺に対して、明は一人でどんどん進めていく。
「ほら、早くベッドに入って」
言われるがままに――というより何も考えられずにベッドに入る俺。
しばし、沈黙。
ふう。落ち着いた俺は、一つ息を吐いて、おぼろげな輪郭しか見えない明に尋ねる。
「明、帝に、理論的に訴えれば、どうにかなるんだよな?」
「うん。私の仮説が正しければ、だけど。…まあ正しくても正しくなくても、真琴しだいっけことだけは確かだよ。私は、疑ってないけどね」
明はいま微笑んでいるかもしれない。それが見えないのが、少し残念だ。
「そう言ってくれると、嬉しい。……ところで、明の仮説って、何?俺には、まったく想像つかないんだが。」
明は少し間を開けて答えた。
「多分、真琴は知らない方がいいと思う。……そもそも、あってるかどうかわかんないし。うん、知らない方がいいよ」
そう言われても、気になるものは気になる。俺はもう一回聞こうと思ったが、それより先に明が「あのさ」と言った。
「真琴、眠い?」
「いや……緊張しちゃって、当分寝れそうにない」
「じゃあ、真琴が眠くなるまで、私の話、聞いてくれない?」
なんだろう。明の雰囲気が、少し変わった。こんな風に語りだすことなんて、初めてじゃないだろうか。
「いいよ。話してくれ。明の話なら、いくらでも聞くさ」
「ありがと」
明はそう言った。
不思議だ。辺りが暗闇のせいで、声が頭の中で独りでに響いているような錯覚を覚える。明も、きっと似たような感覚に襲われていることだろう。心の中から、独りでに声が出てくるような錯覚、とでもいえばいいのか。
「この間も、少し話したことなんだけど…なんで四年前のあの時、私が真琴の家を訪ねたかについてのこと。…真琴は、なんでだと思う?」
それはこの間、明自身が「話したくない、封印したい」と言っていた話じゃないか!…とのど元まで出てきたが、どうにか呑み込んだ。俺からそこに突っ込むべきではない。そんな気がしたから。
「うーん、俺には、まったくわかんない。なんで?」
「もう、ホント昔の話なんだけど…真琴さ、竹下奏音(かのん)って覚えてる?小四の時、転校しちゃった子なんだけど。」
話が急にとんだ。竹下奏音……確かに、覚えている。同じ小学校に小四の時までいた女の子。俺は一緒のクラスになったことはなかったため詳しくは知らないが、異常な―それこそあらゆる点で明をしのぐほどの能力を持っていたらしい。
「覚えてるよ。なんでか印象に残ってる」
「じゃあ、奏音がいじめられてたって知ってる?」
「それも…なんとなくは、聞いたことある。竹下奏音には近づくなって、俺のクラスでも少し話題になったこともあるし。」
「ふーん……そうなんだ……まあいいや。それでね」
明はこつこつと話し続ける。
「実はね、二年生くらいまでは、奏音も、周りとうまくやれてたの。周りも、なんでもできる奏音を尊敬してた。私も、そのうちの一人だったんだ」
明の話し方から、続きは何となく予想できる。
「でも、私も何があったか知らないんだけど、三年生になってから、急に奏音、変わっちゃったんだ。急に、周りに冷たくなった。それまでは、例えば友達に算数の問題の質問をされた時も親切に答えてたのに、無視するようになって。しつこく聞かれて、こんなのもわかんないのって、怒ったことも、一度や二度じゃなかったっけ」
明の声は、どこか切ない。
「人間ってさ、信用を築くのには時間がかかるけど、その逆って、やっぱりあっという間なんだよね。奏音の態度が変わってから、一か月もしないうちに、奏音を尊敬する人は一人を除いて誰もいなくなった。二か月たったら、奏音はいじめの対象になった。あからさまなやつじゃなくて、陰湿なやつ。今思うと、小学校三年生がやるレベルをはるかに超えてたよ」
明は、今何を思っているんだろう。
「それを見ていてもたってもいられなくなった奏音の最後の友人―まあ、私の事なんだけどね。私は、先生に相談したの。このままじゃ奏音がかわいそうだから、どうにかしてください、って。でも、先生は結局何もしてくれなかった。もしかしたら、先生自身、周りに冷たい奏音を嫌ってたのかもしれない。とにかく、先生は見て見ぬふりを決めこんだ」
明は今、怒っているのか?そんな気がした。
「当時の私は、それにものすごく腹が立って。一人で決意したんだ。私だけは、絶対に奏音を裏切らないって。でも、その決意も逃げでしかなかった。結局、いじめに立ち向かおうとしなかったんだから。それだけの勇気が、私にはなかった」
明は、確実に何かに腹を立てている。
「奏音へのいやがらせはそのまま続いて、四年生になった。奏音も嫌がらせに負けることなく、学校にき続けた。私も、誰に何と言われようと、奏音のそばを離れるつもりはなかった。そして、一学期もだいぶ終わりに近づいたあの日、放課後の教室で二人きりになった時、私は奏音に突然こう言われたんだ。「私が、悪いのかな」って。私は、何て答えたと思う?」
明は尋ねてはいるが、答えを求めてはいない。
「何も、答えられなかった。私も心のどこかで、あんなに人に冷たくした奏音が悪いんだって、思ってたんだろうね。慌てて答えようとした時には、もう遅かった。奏音はもう、無理に作ったのがバレバレの笑顔で、「いいよ明。ありがとう。あなたがいてくれて、よかった」って言ったんだ。奏音のありがとうなんて初めて聞いたから、私呆然としちゃって。その間に、奏音は一人で帰っちゃった」
わかった。明が今、何に腹を立てているか。
小四の時の、自分自身だ。
「そして次の日、奏音は学校に来なかった。転校しちゃったんだ。遠い遠い、どこかに。場所は分かんない」
明の表情は見えないが――いや、だからこそ、感情は手に取るようにわかる。
「すっごく、後悔した。すっごく、泣いた。なんで、あの時すぐに、嘘でもいいから、「そんなことないよ」って、答えられなかったんだろうって。それで、決めた。今度、男女問わず、誰かいじめられてる人がいたら、絶対に、私が助けてあげようって。おごがましいかもしれないけど、奏音にできなかったことを、その人にはやってあげようって」
もうわかった。明が何を言おうとしているか。
「そしてすぐ、隣のクラスで、突然無視されて学校に来なくなった人がいるって聞いた。どうにかして調べて、学校さぼって家まで行った。そしてピンポン押して、出てきたのが真琴だった」
なるほど。全て、腑に落ちた。
「最初は、変な人だなと思った。「この世界の事なんて、もうどうでもいい」とか、じゃあ二つ目の世界でもあるのって話じゃん?まあ実際、真琴にはあったわけだけどさ。
明は語り始めてから初めて笑っているように思えた。
「だけど話してるうちに、なんか面白い人だなーって思ってきて。だんだん、義務じゃなくて権利で接するようになっていって。さすがに告白された時はどうしようかと思ったけど、ふったらこれまで通りには接せないし、それじゃだめだと思ってオーケーしたの。でもすぐに、ああ、よかったって思った。それで初めて、人を好きになるってこういうことなんだって理解した。理由も動機も世間体も関係なしに、ただ心が欲するままに、何てね」
明はここで初めて「はは」と声を出して笑った。俺もつられて笑う。
「以上。私があの時、真琴の家を訪ねたのは、義務感と自責の念からでした。でも今は、純粋に真琴のことが好きです」
……こういうセリフを平然と言ってのけるところも、明の長所と言えば長所なのかもしれない。
俺は声が上ずらないように意識しながら、口を開く。
「明の話は、これで終わり?」
明はすぐ「ううん」と答えた。
「真琴、ちょっと体起こして」
「なんで?」
「いいから。早く」
なんでだろう。疑問を心の中に抱えながらも、言われた通りに上半身を起こす。
ボフッ
明が抱き着いてきたのだと認識できたのは、音がたってからだいぶ経ってからだった。
「明?どうした?」
「嬉しかった。」明の手は、俺の首に強く巻きついている。
「真琴、今日言ったよね。家に引きこもってたのは、夢の世界が好きすぎて、この世界がどうでもよくなったからだって」
「ああ……言ったな。確かに」
「その時、私少し怖くなった。もしかしたら、今もそうなんじゃないかって。天秤は少しはこの世界側に傾いたかもしれないけど、まだ夢の世界側に傾いているんじゃないかって。だったら、私のこの四年間は、一体何だったんだろうって。私ばっかり真琴を好きになっても、真琴の中では私は結局どうでもいい世界の中の一人にすぎないんじゃないかって。」
明、お前はとんでもない誤解をしてる。そう言おうとしたが、あえて黙っていた。いや、明の雰囲気に黙らされた。
明の腕の力は、さらに強くなった。体を押しつけられ、俺の全身に明のほのかなぬくもりを感じる。
「でもその後、真琴は、「今起きている戦争を止めたい」って言ったよね。それってつまり、この世界と夢の世界両方を守りたいってこと。そう思った時、私はっとした。さっき感じたことは、全部杞憂だったんだって。私の四年間は、私の想いは、無駄じゃなかった、真琴を変えられたんだって、確信できた。本当に、嬉しかった。これで、奏音に顔向けできるかなって……あれ……なんで……なんで、ほっぺを水が流れてるんだろ……?」
俺の肩にも、そこに押し付けられている明の頬から、水滴が流れてくるのが分かった。とどまることなく、ずっと。
ついに明は、声を上げて泣き出した。俺も、明の背中に手を回す。
俺は、明には絶対に涙を流させないと思って生きてきた。それは、俺が絶対にやってはいけないことだと。
ただ、今、明が流している涙だけは、全肯定しよう。全部、俺が受け止めよう。
この涙は、明の四年間の想いそのものなのだから。
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truth 1
起きてすぐ、俺は疑問を感じずにはいられなかった。
なぜ、俺は室内にいる?俺が気を失ったのは、異空門をくぐった先、現実世界の森の中のはず。なのに今俺はベッドに横になっている。部屋の細かい構造や、天井の色合いから、ここが夢の世界であるということも明らかだ。いったいどういうことだろうか。ひょっとして、誰かが異空門をくぐって、魂の抜けたアールス・ヒュレットをここまで運んできたということか?
さらに、なぜか右手が何かに圧迫され、ひどく蒸している。これは…手か?そうだとしたら、だいぶ長い時間、強く握っていたんだろう誰だ?思わず、視線を天井から自分の右手に移す。
俺の右手を握っていたのは、白い、きれいな両手だった。その両手から腕、肩へと、俺はゆっくりと視線を移していく。その途中で、右手にかかる力がさらに強くなったのを感じた。
視線の先が首から顔にいたった時、俺の疑問はだいたい解決した。なるほど、考えてみれば、こいつしかいないよな。
「なんだ、お前か、ルーセル」
おそらく俺を現実世界からここまで連れてきて、今までずっと傍らにいてくれたであろう少女―ルーセル・ヒュレットは、ベッドの近くにある備え付けの椅子に座っていた。前かがみになって呆然と俺を見るルーセルの目の中には、いろいろなものが現れては消えているように俺には見えた。
「ア、アールス、で、いいんだよね……?」
ルーセルは呆然としたまま尋ねた。変なことを聞くやつだ。俺がアールスじゃなくて、誰がアールスなんだ?俺は起き上がりながら答える。
「ああ、そうだけど。それより、ルーセルが俺をここまでつれ……」
「バカッ!」
ドン!ボフッ
音で表現すればこんな感じだろうか。あまりに突然のこと過ぎて、俺には最初何が起きたかわからなかった。
少しして、いつの間にか立ち上がっていたルーセルと、ベッドにあおむけになっていた俺、そして俺の胸に残るかすかな痛みから、ルーセルが俺を突き飛ばしたのだと気付いた時には、ルーセルはすでに椅子に座りなおしていた。俺は再度体を起こす。
「ルーセル、お前いきなり何を…」
「あなたが悪いのよ!」
ルーセルは勢いよく叫んだ。思わず、俺は口をつむぐ。
「なんで一人で勝手に異世界に行っちゃうのよ!私が偶然気づいて追いかけてたからまだよかったけど、あのまま異世界に倒れてたら、間違いなく殺されてたわよ!それに慌てて連れ帰ってきても、何したって目覚まさないし!その上やっと目を覚ましたと思ったら平然と「ああ、そうだけど」って!何よそれ…ふざけんじゃないわよ…このばかぁ…」
最後の方は、どうにか言葉を絞り出したというような感じだった。ルーセルはうつむき、手を当てて顔を隠そうとしている。ただ、指の隙間から途切れることなくこぼれる滴が、全てを物語ってしまっている。
ああ。俺はこの瞬間、二つのことを理解した。
一つ目は、俺がルーセルに、とてつもなく心配をかけてしまったこと。
異空門をくぐった先で意識が飛ぶという想定外はあったが、それ以前に行為自体がそもそも危険すぎた。ルーセルの言うように、せめてルーセルにはどうにかごまかしてでもついてきてもらうべきだった。
そして二つ目。ルーセルの気持ち。
少し前から、ルーセルの俺に対する態度が妙に積極的(と言えばいいのか?)になったことは感じていた。
ただそれでも、俺は「つり橋効果のせい」と決めつけたり、わざと気にしないようにしたりしてしてきた。
ただ今、確信が持てた。
起きてすぐ感じた、あの手のぬくもり。そして、今の涙。奇しくもそれは、ついさっきまで現実世界で感じたり、見ていたりしていたはずの、明のそれにそっくりだった。
根拠はない、ただの感覚の話だが、俺には分かる。
ルーセル、お前はやっぱり…
おっと、ルーセルには悪いが、そんなことを考えている場合ではない。
「ルーセル、心配かけて、悪かった。泣いてるのは分かってるから、顔をあげてくれ。」
ルーセルはふるふると首を振った。「やだ。ほっといて」声はまだ震えている。
このままでは話が進まない。俺は再度言う。
「頼むルーセル。大事な話がある。」
「何よ、その話って…」
「今起きようとしてる戦争に関する話。いままでルーセルに隠してたこと全部話すから。」
「ホント?私の疑問に、全部答えてくれる?」
「ああ。」
「…分かった。ちょっと待って」
ルーセルはそう言って、顔を手で覆ったまま後ろを向いた。そこで右腕の袖で顔を強くぬぐい再度振り返った時には、もう顔には笑顔が浮かんでいた。目元は赤く、なかなかひどいことになっているが、そこは今突っ込むべきではないだろう。
「じゃあ、聞かせてもらいましょうか。……あ、言うの忘れてたけど、無事で何より」
「ありがと。……改めて、心配かけてごめん。」
「まったくよ…まあ、良しとするわ。……じゃあ、改めて。話って何?」
「いや……その前に、こっちから聞きたいことがいくつか」
ルーセルは若干眉をひそめた。「なんだかんだ言って、逃げる気?」
「まさか。ちゃんと約束は守るさ。俺が聞きたいのは、侵攻作戦について。今決まってることを、全部教えてくれ。」
ルーセルはしばらく無言でいたが、俺が「頼む」と言うと、「しょうがないわね」と切り出した。
「ええと…まだ決まってないことがほとんどね。帝も言ってたけど、異世界がどんなものなのかわかんないと、どうしようもないし。それを調べるための先遣隊は、確かもうすぐここ北都を出発するって話だったけど、私たちの部隊は関係ないわ。」
…聞き間違いだと信じたいが、そうではないだろう。今日のうちに、戦争が始まってしまうのか。急がないと。正直、ここまで早いとは思っていなかった。
一人考えていると、胸に軽い衝撃を感じた。ルーセルの右手によるものだった。
「ほら、次はあなたの番よ。今まで私に隠してたこととか、全部言ってくれるんでしょうね?」
…ふう。明の時にそうしたように、一回息を吐く。
今日のうちに戦争が始まるとなると、ルーセルの協力は必須だ。それを得るためには、すべてを話し、俺を信じてもらうしかない。
しかし不安はない。なんたって、明に信じてもらったのだから。
俺は正直、まだ自分を信じ切れない。だったら俺は「真琴を信じる」と言った明を信じよう。それで十分だ。俺にとっては。
「ルーセル、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
「うん」
「俺は―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
話している最中の、ルーセルの表情の変わりようはとても愉快なものだった。言葉で表すなら、最初は「はい?」途中から「冗談はやめて」、それから「本気…なの?」、最後は「うーん…」…と、いったところだろうか。
話し終わってかなりたったが、ルーセルの表情はいまだ「うーん…」のままだ。
信じてくれよ、ルーセル。今俺が言ったのは、全部本当の事なんだから。
「仮に…」
ルーセルがやっと口を開いた。
「仮にアールスが言っていることが全部本当だとしたら、今までのアールスの行動は、全部納得いくわね」
「全部って?」
「最近ずっとなんかアールスらしくなかったこと。侵攻作戦に反対したこと。一人で勝手に異世界に行ったこと、全部」
「……じゃあ、信じてくれるのか、ルーセル?」
ルーセルは何かにあきれたように大きく息を吐いた。
「信じるしかないわよ。そんな真面目に話されたら。一応、つじつまもあってるし。」
ほっ。それが正直な感想だ。案外、あっさりと信じてもらえたな。とりあえず、第一関門は突破した。
本当の問題は次だ。俺はベッドの上で、若干前かがみの体勢をとる。
「それで、俺は今から帝に、今ルーセルに行ったこと全てを話して、侵攻作戦を中止してもらうように頼んでくる。それで、ルーセルに頼みがあるんだ」
ルーセルも椅子に座ったまま、前かがみになった。
「とりあえず、聞くわ」
「俺としては、先遣隊が門の向こうに行ってしまう前に帝との話をつけたい。もし先遣隊が気づかれたら取り返しのつかないことになるからな。…でも、このままじゃ間違いなく間に合わない。もう先遣隊は出発してる頃だろ?」
「ええ。もうここを出てるでしょうね。」ルーセルは即答した。
「だからルーセル。いまから全力で異空門まで向かって、先遣隊をどうにかして止めておいてくれないか」
………。
「……私に、軍に反逆しろってこと?」
少しの沈黙の後、ルーセルは静かにそう答えた。
「そういうことになるのかもしれないな。でも、きっと後悔はさせない。」
無茶なことを言っているという自覚はある。ルーセルにとって、それは死んで何回生まれ変わっても自発的には生まれない選択肢だろうから。
それでも今の俺には、ルーセルに頼る以外道はない。
「ダメか?」
俺が尋ねても、ルーセルは一切反応しない。自分の心の奥深くで、考えにふけっているのかもしれない。
仕方ない、か。こうなったら、手段は択ばない。
「分かったよ。もともと、無茶なお願いだもんな。俺の話を最後まで聞いてくれただけで、俺は感謝するべきなのかもしれない。俺は今から一人で帝のとこまで行ってくる。ルーセルは、ここで待っててくれ」
俺は静かに、ベッドから出て立ち上がる。そしてルーセルに背中越しに言う。
「俺の荒唐無稽な話、信じてくれてありがとな。」
じゃあ。そう言って、俺は扉に向かって歩き出す。一歩、二歩。
「ずるいわよ。」
背後から聞こえる、ルーセルの声。
「ずるいわよ、そんな言い方。あなたにそんな言い方されたら、頼みを受けないわけには行かないじゃないの」
ルーセルが立ち上がったのが気配で分かった。
「何?私は、あなたが帝を説得して、異空門に意気揚々と来るまで、先遣隊を足止めしとけばいいのね?」
「ああ……頼む。もし……もしだいぶ時間がたっても俺が現れなかったら…」
「やめて」ルーセルは俺の言葉を遮った。
「そこから先は、考えても意味ないでしょ?私はどうにかして先遣隊を止めておく。そこにあなたが笑顔でやってくる。それ以外の未来なんて、存在しないんだから。」
急いだ方がよさそうだから、私もう行くわ。そう言い残し、ルーセルは足音とともに、部屋の奥の方の扉から出て行ったようだった。決して建てつけがよいとは言えない扉の開閉音が、部屋の中に響く。
ずるい、か。
俺は一人部屋の中で、ルーセルの言葉を反芻する。まったくもって、その通りだ。俺は、こういう言い方をすればルーセルは必ず頼みを受けてくれると確信したうえで言ったのだから。
それについては、なんと罵られてもいい。最悪、ルーセルに嫌われても仕方ない。覚悟はできている。
俺は、二つの世界を守らなきゃいけない。
多分、それが、俺が武中真琴であり、アールス・ヒュレットであり続けてきたゆえの宿命だろうから。
心の中で、唱える。
俺の全ては、明のために、この世界のために。
覚悟は、できている。
ふう。
一つ息を吐き、目の前の扉を、ゆっくりと開ける。
ルーセルが飛神を抱えて建物の屋上についたとき、やはりまだ、日は消えたままだった。ここ何日かは、昼夜問わずの星空である。星を見るのが好きなルーセルでも、いい加減に飽きが来つつある。
はあ…早く戦争が終わって、日が戻ってこないかな‥‥
と考え、ルーセルは今、自分が戦争を終わらせようとしているということに気付いた。そして脳裏に浮かぶのは、自分をそうさせている張本人――失いかけたが故に好意がより一層強まった人の顔。
その人アールスの話は、ルーセルにとって信じがたいものだった。曰く、「異空門の向こうこそ俺が本来いるべき世界なんだ」だの「異空門の向こうには異空門をつなぐ技術なんてあるわけがないから、今回の事件は何かの間違いだ」だの。さらには、「軍を裏切って、俺に協力してくれ」とまで言いやがった。
最初は疑った。疑って疑って疑った。ただそれでも最終的に信じてしまう理由は、語り手がアールスだからだということに他ならない。好きな人を信じないで、他の何を信じるのよ、と言う話である。ゆえに今、一人飛神を担いで屋上まで登ってきたのだ。軍の先遣隊を、どうにかして異空門よりこちら側で足止めしておくために。
しかしその一方で、ルーセルの胸の中には、新たな疑念も生まれた。
もしアールスに、異空門の向こう側の世界に彼女でもいたらどうしよう、という。
自分で考えて苦笑してしまうような問いではあるが、結構深刻な問いでもある。アールスはこの世界のことを、「俺にとって二番目の世界」と言った。一番目の世界に彼女がすでにいたとして、二番目の世界の住人を、一人の女性として見てくれるとは思えないのだ、ルーセルには。
「…って、今こんなこと考えてどうするのよ、まったく。少しやきが回ったかも。」
ルーセルは自制の意味を込めて頬を軽くつねり、飛神を背負う。先遣隊はラーバで移動しているはず。十分追いつける。
ルーセルは一回深呼吸して、心の中の不純物を全てここにおいていくつもりで勢いよく空に飛びだした。
軍に一時的とはいえ反逆するのにも。
全部終わったらアールスに告白するのにも。
両方とも、覚悟はできたんだから。
見飽きたはずの星の光が、自分を応援してくれているように見えたルーセルだった。
…よし。
飛神を使って、帝の自室であるアーラの神殿の最上階、礼拝堂のような場所を目の前に見ることのできる位置まで移動した俺は、心の中でワンテンポおいて、開いていた窓から部屋の中に入る。
礼拝堂とはいっても、現実世界のそれとはだいぶ様子が違う。狭いし、暗いし、もちろん十字架があるわけでもない。その上、異常なまでの量の神素が密集している。それはおそらく、俺が炎素使いだから分かることなのだろう。その証拠に、軍校時代初めてここを訪れた際には、ルーセルは何も感じていないようだった。やはり神殿の最上階と言うだけあって、火の神アーラの、加護とでもいうべきなのか、そういうものが強いのだろう。
その中で帝は、窓に背を向ける形で置かれている机に座り、左手でコーヒーカップのようなものを持ち、啜っていた。帝宮の部屋と同じように、ここにもそこかしこに分厚い本が積み上げられている。
俺は静かに着地し、飛神を肩からおろす。帝はまだ、俺のことに気付いていないようだ。「帝。アールス・ヒュレットです。突然窓から入ってきたりして、申し訳ございません。至急の話が……」
「君なら……」
帝は、振り返ることなく俺の言葉を遮った。そこで間を開け、左手に持っていたカップをゆっくりと机の上に置いた。
「君なら、きっと来ると思っていたよ。アールス君。いや……」
帝はここで、やっと振り向き、俺を見た。
その顔は、気味悪いほどに、喜びで満ちていた。
「真琴君」
……は……?
帝は今、何て言った?真琴君?ありえない。それは、現実世界での、俺の名前だろ?
「え…?み、帝…?なぜ、その名を…?」
呆然とする俺に対して、帝の表情は、相変わらず鳥肌が立つくらいに笑顔だ。
「考えてみれば、すぐわかるよ。僕が一体、誰なのか。」
帝が一体、誰なのか?そんなの、ヒュルト・シュバイト以外の答えなんて…待てよ…あの「真琴君」という呼び方、聞き覚えがある。いや……そもそも、俺のことを「真琴君」なんて呼ぶのは…親と明は「真琴」だし、それ以外は基本「武中」だ…だったら…あっ。
一人、いた。俺をフラットで、「真琴君」と呼ぶ人間が。
「まさか……向江、なのか……?」
帝は、満足そうに何度もうなずきながら―あっさりと、肯定した。
「そう。その通りだよ。真琴君。ぼくは、ヒュルト・シュバイトであり、向江真生でもある。君が、武中真琴であり、アールス・ヒュレットであるのと、同じようにね」
ごくん。向江の言葉を飲み込むのに、だいぶ時間がかかった。
「本当か……向江、帝がお前だったなんて……一応聞くけど、俺の彼女の名前は?」
気がまだ動転しているのか、思わず変な質問をしてしまった。
しかし、帝改め向江は顔こそ笑っていたが、真面目に答えてくれた。
「もちろん、哀川明さん。……だから、本当だって。僕は、向江真生だよ。」
「別に疑っているわけじゃないよ。信じるさ。…ところで、至急の話なんだけど」
俺がそう言うと、向江は「なんだい?」と言った。
「向江、今この世界が侵攻しようとしている世界が……その、現実世界だって、知ってるか?」
帝が向江と同一人物であるということは、案外俺にとっていいことなのかもしれない。向江だって、侵攻先が現実世界だと知れば、すぐに作戦を中止するだろう。ひょっとしたら、ルーセルが異空門につく前に先遣隊が引き返すという事態になるかもしれない。それはそれで怒らえそうな気もするが、いいことなのは変わらない。何かしら食べ物でもおごれば、解決するだろう。
そんなことを考えながら、俺は向江の返事を待つ。向江の表情は、さっきから一切変わらない。俺としては、もっと驚いたり、慌てふためいたりするのを期待していたんだが。
「ふふ」
突然、不思議な音がした。向江は―なぜか、笑っていた。
「ふふふはははははははっはっはっはっはっは!クゥーッッッ!」
向江の中で何かが壊れたのか、笑い声はどんどん大きく、笑い方はどんどん奇妙になっていった。
呆然と立つ俺に、向江は脇腹を抱えながら言った。
「ま、真琴君、冗談は、よしてよ。僕がそんなことも知らないと、本気で思ってたのかい?」
向江の言っていることが、俺にはよく理解できない。そのまま理解すると、向江は異空門の向こうが現実世界だと理解したうえで、侵攻作戦を提案したことになってしまう。
「ど、どういうことだよ向江。知ってるんなら、早く計画を中止して……」
「向江じゃない」
向江は俺の言葉を、初めて聞くような強い口調で遮った。
「僕は向江じゃない。この世界の指導者、ヒュルト・シュバイトだ」
「お前、何言って……」
狂っている。ヒトが狂っていると、生まれて初めて感じた。
「分かってないなあ!」
目の前の誰かは叫んだ。
「いいよ。僕と同じ君には、全てを教えてあげる。」
「いや、そんなことより早く作戦を中止してく……」
ヒュン。何かが俺の頬をかすめて通り過ぎ、窓から外へ出て行った。ツーと、かすめたところから何かが流れる感触。手をあててみると、指先が赤くなった。この独特の感触と臭い。血だ。
「聞こうよ。僕が、全部教えてあげるって言ってるんだからさ」
そう言う向江の手のひらは、俺に向けられていた。今のは、向江の攻撃だったのか。何も見えなかった。外れた―いや、外してくれたからいいものの、あれが当たっていたら…?
間違いなく、死んでいただろう。それに、攻撃が来ると分かっていたとしても、俺には防げなかったはずだ。俺と帝の神力には、差がありすぎる。それはこの間の手合せで実感した。
認めよう。今この場をコントロールしているのは向江だ。俺には向江に抗う術がない。今は黙って、向江の話を聞くしかない。
ルーセル。少し、時間がかかりそうだ。だから頼んだよ。
俺は、お前を信じてる。
ルーセルは、一人異空門へと飛びながら、考えていた。
アールス。あなたを、信じてるからね。あなたが来るまで、絶対に、異空門はくぐらせないから。だから。
あなたも、私を信じてね。
そろそろ、ノル村の辺りまでは来たかしらね。高度を、少し下げよっと。
「さて……じゃあ、まずは君の一番聞きたそうなことから話すよ。立っているのもなんだから、座れば?」
向江にそう促されたが、俺は首を横に振った。座って、のんびりと話を聞くような気分ではない。
向江は俺の返事を大体予想していたのか、二、三回小さくうなずいて「そう」と言っただけだった。向江は机に置いていたカップを手に取り一口飲んでから、少し間を開けて言った。
「君ももう気づいてるかもしれないけど、言っておくよ。今回の、異空門が開いてからこれまでの事件は、全て、僕の自作自演だ」
いきなりの衝撃発言。ただ、ここまで来ると俺ももう驚けない。ここ何週間かで強い衝撃を受けすぎて、ついに神経がマヒしてしまったのかもしれない。
「……なんで、そんなことをした?あと、全てってのは、どこからだ?まさか、異空門まで自分で開けたわけじゃないだろ?」
向江の目に少しだけ優しさが戻った気がした。
「そんなせかさないでよ。物事には、順番ていうものがあるんだよ」
そんなことはお前に言われないでも分かってる。そう言おうとしたが、やめておいた。無駄に向江を刺激する必要はない。
「ただまあ、二つ目の質問には答えてあげるよ。異空門も、僕が開けたんだ。」
「……どうやって?」
一瞬の沈黙。それを破ったのは、向江の深い嘆息だった。
「それを話そうとしたら、それこそ僕がこの世界に生まれた時のことも交えて話さないといけないんだけど……いいのかい?急がなくて」
「どうせ俺が何と言ったって話すんだろ?」
「はは。まあ、そうなんだけどね」
向江はそう言って笑い、語りだした。
「真琴君、君はもちろん、「始まりの神話」は知ってるよね」
いきなり何を言いだすんだ?
「ああ。遥か昔、何もなかったところに神々がやってきてこの世界を創って、しばらく見守った後に人に神素を授け、どこかへ消えて行ったっていう話だろ」
「それであってるよ。ちなみに、神はどうやってこの世界を創ったんだっけ?」
「それは…それぞれが司る神素を使って、だろ」
「じゃあ、神話の中に神々は何体でてきた?」
いよいよ質問の意味が分からない。異空門を開ける方法と、何がどう関係するというのか。
「火の神アーラ、水の女神アンカーナ、地の神ガテン、空気の神フイリナの四体だろ」
向江は俺が言い終わった瞬間、「はあ」と大袈裟にため息をついた。
「やっぱりか。一体忘れてるよ真琴君」
ん……?あと一体……?まさか。
「お前が言ってるのは、あの「謎の神」の事か……?」
謎の神。この世界の創造には関わったとされているが、何の神素を司っていたのかも、ほかの四神と同じようにこの世界から去って行ったのかどうかも分からない、全てがあやふやな神のことだ。
向江は満足そうにうなずいた。
「そう。他の四神と違って謎が多すぎる上に、司っていた神素を人に授けていないから、忘れられてしまうのも仕方のないことだけどね。……さて真琴君」
向江はここで、かなり真剣な表情になった。
「この世界を構成している神素は、創世の五神が司っていた五種類だ。そして、人々が使える神素は、そこから謎の神の神素を引いた四種類だ。ここまではいいよね?」
「ああ」
なんでだろう。いつの間にか向江の話に引き込まれている俺がいる。
「よし。…じゃあ聞くけど、五種類と四種類の、最大の差は何だと思う?」
差…?そんなものがあるのか?俺にはまったくわからない。
俺が素直にそう答えると、向江は「まあ、仕方ないね」と言ってから、再度語りだした。
「四種類だとできないことが、五種類だとできるようになるんだよ。ここまで言ってあげたんだから、君には分かってほしいな。」
四種類だと―つまり普通の人だとできないことが、できるようになる?いったい、何が?
「いや……さっぱりだ」
「そうかい。……まあいいや。教えてあげるよ。五種類と四種類の、最大の差はね…世界創造ができるかどうか、なんだよ」
は?世界創造?世界を、創造する?そんなもの、神の所業だろ?それが、人にできるようになる?
向江はさらに続ける。
「考えてみてよ。さっきも言ったけど、この世界のすべては五種類の神素で構成されている。だったら、五種類すべての神素をすごく高いレベルで扱えれば、この世界の全てを生み出せるってことにならない?」
……うーん、聞く限り、一応、理屈は通っているように思える。しかし、それはどこまで行っても机上の空論であり、夢物語でしかない。なぜなら。
「だけど向江、実際俺たちが使える神素は四種類だ。それに、そんな高いレベルまで操れるようになるのは、一人につき一種類だけなんだぞ。そんなことを考えて、何になる?」
そう。現実として、俺達には四種類の神素しか与えられていない。どこまで神素の道を極めたとしても、しょせん人は人。神にはなれないということだ。
しかし、向江はここで、なぜか微笑んだ。
「何かになるんだよ、それが。……真琴君、あそこを見て」
そう言って向江が指さしたのは、何があるわけでもない、ただの空間だった。
俺が「なんだよ」と言おうとした、その時だった。
何もなかったはずの場所に、コーヒーカップが突然出現した。それも一個ではない。二個、三個と次々に現れては、床に落ちて、そのほとんどが無残に割れていく。
「話の流れを考えれば、もうわかるでしょ?」
あっけにとられる俺の背後から、向江の声が聞こえてくる。
「今君が見ているコーヒーカップは、幻想なんかじゃない。僕が作り出したものなんだよ」
お前……まさか!
「君言ったよね。「俺たちが使える神素は四種類だ」って。それ、訂正してほしいな。僕がここに至るまで、どれほどの鍛錬を積んできたか知りもしないでそう決めつけられるのは、とても腹が立つからね。」
向江が話している間にも、コーヒーカップは際限なく現れ、際限なく割れ続けている。
「僕は謎の神の神素を含め、五種類の神素全てを使える。そして、謎の神の正体にも、だいたい見当はついている。…さあ、改めてゆっくり話そうか、真琴君?」
星明りの中、ルーセルが異空門の全容を確認できるところまで来たとき、ルーセルの予想に反して、先遣隊は異空門に到着していた。ざっと二百名くらいが、異空門の周りの開けた部分に集まっている。
やばいやばいやばい!
ルーセルは心の中で叫びながら、異空門へと急降下する。
しかし先遣隊の面々はルーセルには気づかず、いよいよ門に向けて隊列をなし始めた。大勢いる割には、なかなかの速度である。
このままじゃ間に合わない。なんでこんな早いのよ。ルーセルは心でぼやきながら、大きく息を吸い込む。
そして叫ぶ。
「先遣隊のみなさん、まってくださーい!」
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truth 2
「ちょっと待ってくれ……じゃあ、お前はその力で、異空門を新しく作り、あの戦車も作ったってことか?」
振り返りながらの俺の問いに、向江は苦笑を返した。
「まあ…そういうことに、なるね。正確には、少し違うけど。」
「どういうことだ?」
「新しく作ったんじゃなくて、「前ひらいていた時の異空門」を作ったんだ。それに戦車は、向江真生が形から何から必死で記憶した物をこの世界で再現して、少し改造したものだよ。そっちの方が、圧倒的に楽だからね」
もう、なんでもありだな。あきれてものも言えない。二つの世界をつなげ、大量に兵器を作るのが、「楽」だって?
もしかしたら――向江はもう、俺とは違う次元の人間なのかもしれない。いや、「人間」と言うくくりに入れること自体、間違いではないのか。
もはや、「神」に近い。
「……どうやって……どうやって、そこまでの力を手に入れたんだ?」
当たり前の疑問を口に出すのにも、かなりの精神力が必要だった。
「どうやって…か。長話になるね」
向江は、どこか昔を懐かしむような目をして言った。
「君も知っているように、僕はこの世界で三十四年前、この世界に生まれ落ちた。先代帝の、待望の後継ぎとしてね。でも、君がそうであるように、僕も、人から生まれたわけではないんだよ。」
え?
「いや、お前は、子供ができずに焦った先代の帝夫妻が必死の祈願をした結果、どうにか生まれた後継ぎじゃないのか……?」
「それは間違いだよ。世間的にはそういうことになってるらしいけどね。……正しくは、先代の帝によって拾われた子どもなんだ、僕は。」
拾われた?俺と同じような境遇ってことか。
「ここから先は帝の位を継ぐときに先代から聞いた話なんだけどね…先代夫妻、つまり僕の父さんと母さんが、何度目かわからない祈願をしに、帝都の「謎の神」の神殿の最上階、普段なら誰も入れない礼拝堂に行ったとき、赤ちゃんがそこにいたんだってさ。それで僕の父さんは「神が応えてくれた」と思って、その子を連れて帰って、自らの子供として育てた。それが僕だ。このことを知っているのは、帝宮役員のなかでも、ほんの一握りだよ」
……そんな事情があったとは。ただ―
「それが、俺の質問の答えと何か関係するのか?」
向江は小さく笑った。
「関係するよ。もちろん。むしろ、今の話がけっこうキモだったりするんだけどな」
向江は続ける。
「この間ルーセル君が話してくれたけど、君は北の果てに生まれ落ちた拾われ子なんだよね?そしてこの世界にもめったにいない赤髪で、優れた炎素使いである。…この三つの事実にはある共通点があるんだけど、分かる?」
急に話が飛んだ。正直、訳が分からない。俺の異質な点にある共通点?
「いや、分からない」
向江はため息をついた。
「仕方ないなぁ…教えてあげるよ。どれも、火の神アーラに関係しているんだよ。北の果てってのは、もともとアーラがいた場所だ。そして赤は、アーラを象徴する色である。炎素使いであるってのは言わずものがな。……そう考えると、君は生まれもって、アーラの加護を受けていた、もっと言えば、君をこの世界に連れてきた張本人が、アーラだって考えることはできないかな?」
…うむ。若干の発想の飛躍は必要だが、あながち間違っていない解釈だと思える。
だが。
「それが、俺の質問の答えと、どう関係するんだ?」
さっきから、同じようなことしか言っていない気がする。しかし本心だ。仕方ない。
向江はにやりと笑った。
「同じことが、僕にも言えるんだよ。僕が生まれ落ちたのは、謎の神の影響力がこの世界で最も強い神殿の礼拝堂だ。そして僕の髪は、この世界にはほとんどいない白髪。白は、謎の神の色だ。……だったら、使える神素は?」
「謎の神の……神素?」
信じられないが、それしか答えがない。
否定してほしいという俺の気持ちをあざ笑うかのように、向江は声を張って「その通り!」と言った。さらに続ける。
「僕は、生まれつき、謎の神の加護を人より強く受けていた……つまり、この世界の人々が使えるはずもない第五の神素を使えるようになる土台を持っていたんだよ」
「お願いします!今しばらく、待ってください!」
ルーセルは、地上に降り立った瞬間ちょうど目の前にいた、隊長格と思える男にそう叫んだ。それとともに、ざわついていた周りの視線が一気に自分に集中するのを感じた。
隊長格の男は一瞬あっけに取られたようだったが、すぐに冷静さを取り戻し、ルーセルに尋ねた。
「君は、誰だね?」
よし。
ルーセルは心の中でガッツポーズ。相手にされないという、最悪の事態は避けられたみたい。とりあえずゆっくり話して、時間を稼ぎましょう。
「軍第百七十部隊の副隊長、水素使いのルーセル・ヒュレットです」
隊長格の男は首をかしげ、何かを考え込み始めた。いつの間にか、周りに人の輪ができている。
少しして、隊長格の男は「うーん」とうなってから、はっきりしない口調で言った。
「もしかして君は、この事件の最初の発見者という、ノル村出身の者か?」
ルーセルは少し驚いた。私ってこんな有名だったけ。アールスならわかるけど。
「ええ…その通りです。あなたは?」
「ああ、私は…」
「ごくろうさん。後は俺が話す」
隊長格の男の声は、奥から発せられた声に遮られた。あれ?この声…どっかで聞いたわね。確か…
「まさか、ギアなの?」
ルーセルが発した声は、周りのざわつきを、さらに大きくした。
そしてすぐ、奥からさらに大きい声が聞こえてきた。
「ああ。その通りだ」
奥からゆっくりと歩いてきたギアは、隊長格の男の肩をたたき、「下がってくれ」と言ってから、ルーセルの顔を改めて見た。
「どうも。先遣隊隊長、ギア・カイトです。……どうした、ルーセル?」
「おい、ちょっと待ってくれ。土台があったってだけで、使えるようになるのか?それに、ほかの四つの神素を、どうやって使えるようになった?」
「四つの神素を使えるようになったのは、途方もない鍛錬の成果だよ」
俺の疑問の半分に、向江は即答した。
「君も知ってると思うけど、帝っていうのは、この世界の指導者であると同時に、軍の最高責任者でもあるんだ。だから将来帝になるものには、当然高い神力が要求される」
「だからって、本来自分に適性がある一つで十分なものを、五つもマスターしたって言うのか?」
そうだとしたら、悪いが俺には考えられない。本来神素というものは、一人一つしか適性を示さないものなのだ。その一つを極めることでさえ難しいのに、三十年で、五つを極めるなんて…不可能だ。実際に一つを極めようとしてきた俺から言わせれば。
あきれる俺をよそに、向江は笑った。
「その適性が、最初僕には見つからなかったんだよ」
適性がない?そんなことがあるのか?
「それは、どういうことだ?」
「単純なことさ。僕に適した神素は、謎の神の神素だったんだ。それなのに、帝宮直属の神素の先生が調べたのはそのほかの四つだけなんだもの。見つかるわけがない。…まあその当時は、謎の神の神素なんて考えたこともなかったから、すごく焦ったけどね。……そう、焦ってさ。僕自身が「やっと生まれた待望の後継ぎ」って立場だったからその分周囲の期待も大きくてね…寝る間も惜しんで、四つ全部の神素を闇雲に練習しまくったんだ。そのせいで、先生が倒れたこともあったっけ。まあそのおかげで、四つの神素の先生が交代交代できてくれるようになったから、それはそれでよかったかもだけど」
「……そのおかげで、四つの神素をあやつれるようになった、ってことか?」
「そういうこと。努力して努力して力をつけて、周りの目が失望から羨望へと変わった時は、本当にうれしかった。努力すれば……そう、努力すれば絶対に認めてくれるんだって、あの時初めて思ったよ。だからその後も、一人で修練をつづけたんだ。より高みへ、より高みへってね。もちろん座学もしっかりやったよ。そのおかげで、歴代最高という肩書までもらえた」
「じゃあ、五つ目の神素は、どうやって?」
「きっかけは、始まりの神話について詳しく書かれた本を読んだ時だったと思うけど…そこで、謎の神について興味を持ったんだ。この神だけなんで正体がわかってないんだろう、なんでこの神だけ何で人に神素を授けなかったんだろうって。でもその時は、そこまでだった。ちょうど神素の鍛錬が一番大変な時期だったし」
向江は少し切って、続けた。
「その二年後かな。そのころにはもう四種類の神素を一通り使えるようになってたから、ふと思い出して、少し調べてみたんだ。驚いたよ。調べれば調べるほど、謎しか出てこないんだもの。分かっていることなんて、「確かに存在した」ってことだけ。なんだよそれ、って思ったよ」
そりゃそうだろう。あの神には、謎が多すぎる。
「さすがに諦めようと思ってね。それで僕は最後に、ダメもとでやろうとおもってさ。本で読んでからずうっと、胸の奥で考えていたことを」
だいたい、見当はついた。
「まさかお前…そこで…?」
向江は二、三度、小さくうなずいた。
「そう。多分今考えてるのであってると思うよ。僕はその時、謎の神の神素を使えないかどうか試してみたんだ。確か、月のきれいな夜だったと思う。一人でこっそり、訓練場に行ってね」
向江は視線を上に向けた。
「結構、自信はあったんだ。僕自身、すでに四つの神素を習得してる身だったし。それに、この世界に存在している以上、使おうとすれば必ず使えるはずだと思ってたから。訓練所の的に向かって、「謎の神、力を貸してください」って思いながら、右掌をむけてみたんだ。すると、ものすごくあっさり、できちゃってさ。威力もなかなかのもので、的が軽く吹き飛んで行ったんだ。あの時の感動は、今でも忘れないよ。」
向江は今、すごく嬉しそうだ。何故だかはわからない。
「そこで僕は気づいたよ。ああ、僕はこの神素に適性があったんだなって。それで、このことは人には黙っていようとも思った。この力は、僕だけのものにしたいと思ったからね。その後すぐだったよ。先代が僕の出生の秘密を教えてくれたのは。確信したよ。謎の神の神殿に生まれ落ちた僕は、生まれながらにして謎の神の加護を受けていたんだって」
「……そこでもまた、特訓に明け暮れたのか?」
「いや」向江は首を横に振った。
「その時点で適性のない神素を使えるようになってたことからもわかるように、僕の神力のポテンシャルはもともとかなり高かったんだ。君と同じようにね。だから、そこまで苦労はしなかったよ。うん、楽だった」
向江はああ言っているが、一般的な視点から見たら考えられないほどの努力を積んだのだろう。独力で神素を極めるということは、決して簡単なことではない。
俺は半ばあきれつつ――核心に迫る。
「じゃあ……そうして五つの神素を極めたお前が世界創造の可能性に気付いて、今回の、地球への侵略作戦を思いついたきっかけはなんなんだ?」
やっと、ここまで来た。俺が一番聞きたいこと。
なぜ向江は、今回の事件を起こしたのか。
向江をにらむ俺。俺を眺める向江。つかの間の沈黙。
「逆だよ」
それを破ったのは向江だった。
「逆って、何が?」
「世界創造を思いついたから地球への侵攻を考えるようになったんじゃなくて、地球への侵攻を考える過程で、世界創造を思いついたってこと。……真琴君さあ、五つの神素を使えるってことと、世界創造ができるってことは同じことだって思ってるでしょ」
図星だった。
「……違うのか?」
向江はおかしくてたまらないというように笑った。
「違うにきまってる。あまりふざけたことを言わないでほしいな」
笑いながらの言葉なのに――思わず冷や汗をかくほどの何かがあった。
「いいかい。無から何かを作り出すには、五つの神素を同時に、繊細に扱う必要がある。それも、自分のイマジネーションだけを頼りにね。少しでもずれが生じれば、それは創造物の崩壊に直結する。もうわかったと思うけど、ものすごい集中力がいるんだよ」
五つの神素を同時に、完璧に扱う……確かに、五つの神素を個別に使うのとは、次元が違う営みだ。なんでそんなことに気付かなかったんだろう。
向江は続ける。
「僕も、途中で何度も諦めかけた。やっぱり無理だって、投げやりになった。……でも、僕はどうしても地球への侵略がしたかったし、そのためには異空門をつなぐことができる世界創造の力が必要だってわかってたから、必死に努力して、どうにかできるようになったんだ。まあ、まだマスターには程遠いけど」
やっぱり……分からない。分からないよ向江。俺には。
「そこまでして、どうして…どうしてお前は地球との間に戦争を起こしたがるんだ?俺たちの、あと一つの世界だろ、あそこは!」
「どうして……か」
向江はそう言い、小さく笑った。
「君なら、分かるんじゃないかな……いや、哀川さんというパートナーができた今の君にはもう分からないか。僕はね、あの世界がいやでいやで仕方ないんだよ。君だって、そう思ったから小四の時、家に引きこもったんだろ?」
「お前……なんでそれを……」
それを知っているのは、明だけのはずだ。なぜ向江が?
「君が友達にしたっていう話の内容は、学校で話題になってたからね。ああ、武中真琴も僕と同じなんだなって気づくのはそう難しいことじゃなかった。だから僕は君とだけは話そうと思ったんだ。僕と同じ、君とだけは!」
今の向江の言葉は、今までに聞いたどの言葉よりも重く、強かった。
「この世界の人は、努力すれば認めてくれる。でもあの世界の人間は違う。僻む。妬む。挙句の果てには嫌って攻撃する。しかも、それを容認する!竹下奏音は、その被害者のいい例だ!」
竹下奏音。転校していったという、明の過去の親友。何故ここで出てきた?
「彼女と僕は、同じクラスだったことがあってね。ものすごい努力家だった。あまり知られてないけどね。彼女の背中を見ていたから、僕はこの世界での神素の鍛錬も、逃げずにやれたんだ。計り知れない勇気をもらった」
向江が言っているのは、小二の時の事だろう。ならばこの先は、明の話と照らし合わせれば大体予想できる。
「でも学年が上がって違うクラスになってすぐ、彼女が嫌われ始めたって聞いた。見に行って愕然としたよ。僕には、彼女の行為のどこがいけないのかわからなかった。まともに考えもせずに質問に来る無知蒙昧な連中を拒絶したって、彼女に罪はないじゃないか。それだけの努力を、彼女は積んでいたんだから。能力ってのは、義務じゃなくて権利を生み出すものだ。勉強ができるからって、他人の質問に答える義務はない。あるのは、質問に答える権利だけ。そうじゃないか真琴君!」
俺はうなずかない。ただ黙っている。
「でもまあ、遠ざけるだけなら、それは個人の自由だ。だからそこまで腹は立たなかった。幸い、哀川さんっていう理解ある人がそばにいてくれてたしね。僕も、次のクラス替えで同じクラスになることを願っただけだった」
明の話を思い出す。確かその後、竹下奏音は――
「でもしばらくして、彼女に対して陰湿ないじめが始まったって知った時、僕はさすがにおかしいと思った。だって、嫌いなら近づかなきゃいいだけの話じゃないか。それなのに自分から近づいて行ってからかって、キャーキャー言いながら逃げていく。あほくさい。そんな奴ら、いるだけマイナスだと思った」
向江の言っていることは少し過激だが、間違っているとは思わない。むしろ、賛成だ。
「そのころから、向江真生の世界は陰り始めた。ちょうどこっちで四種類の神素を使えるようになってきて、周りの目が変わりつつあったときだったからね。君も見ていたと思うけど、僕は周囲の人間と距離をおくようになった。……それでその陰りは、強くなっていくばかりだった。最終的に竹下奏音が転校したと知って、向江真生の世界は闇に沈んだんだ。そして僕は決めた。この世界で生きて行こうってね」
「お前は……そんな簡単に、自分の一つ目の世界を捨てたのか!?」
捨てかけて止められた俺だからこそ、言えることがある。伝えたいことがある。
向江、その決断は早すぎる。世界を語れるほど、俺達はまだ世界を知らないんだぞ。
「一つ目?ははっ」
しかし向江は、俺の言葉を鼻で笑った。
「年齢を考えてごらんよ。向江真生の年齢は十七。ヒュルト・シュバイトの年齢は三十四……もう、分かったよね?」
年齢を考えろ……?十七と、三十四…?あっ!
「向江、お前には、生まれながらにして、世界が二つあったのか……?だから」
「そう。その通りだよ。僕には一つ目も二つ目もない。君と違って、あの世界に執着なんてないんだ」
それならば――仕方ないのかもしれない。俺が向江の立場だったらと考えると、俺には何も言えない。
向江は黙り込んだ俺を見て少し笑った後、口を開いた。
「話を元に戻そうか。向江真生の世界が終わって少しの間は、あの世界にいる間もこの世界の事だけを考えて暮らす生活に、僕は満足してたんだ。どうでもいいって考えたら、すごく楽になったよ。君も経験あると思うけど」
「ああ……否定はしない」
「でもそのうち、耐えられなくなってきてね。まあ当たり前だよね。人生の半分が、退屈でしかないんだもの。それに、どうしても雑音ってものは耳に入ってくるからね。あの人がうざいだの、あの人は気持ち悪いだの、本当にうっとうしく感じちゃってさ。ああ、この世界なんか、無くなっちゃえばいいのにって思うようになった。そのころだよ。僕が君の境遇を知ったのは」
少しは分かる。向江の言っていることは、前の俺が考えていたことだから。
「僕は決めたんだ。どうにかしてこの世界の君とこの世界の中で知り合い、協力して、一緒に地球に攻め込もう、そして、どちらの世界の方が優れているか証明してやろうって」
だが共感はできない。今の俺には、失いたくないものが現実世界にはある。
「それからの僕は人生のすべてをそのために捧げてきた。まず、二つの世界をつなげるにはどうしたらいいかを考えた。そこが最大の問題だったからね。そしてすぐ、異空門を使うしかないという結論に至った。どうやれば異空門を再度開けることができるのかを知るために、帝宮にある本という本は全部読んだよ。世界創造の可能性に気付いたのはその時だ」
人生のすべて……か。
「ある程度まで世界創造をマスターするのに、十年近くかかったよ。そして僕は試しに異空門まで行って、実際に開けてみたんだ。でも開かなかった。だから僕はそこにあった異空門を壊して、さっきも言ったように「開いていた状態の異空門」を同じ場所に作った。もちろん成功したよ。そして幸運なことに、その先はいきなりあの世界だった。その時ほど、神に感謝したことはないよ」
向江は嬉々として話す。
「一旦そこで門を閉めて、それからはひたすら具体的なプランを考えた。どうやってこの世界の人々に戦争を認めさせるか。移動手段はどうするのか。実際に攻め込んで総力戦になった時に、この世界は勝てるのか。……すべてに納得できる答えがでるまでに、二年かかった。いろいろと調べながら一人でやってたからね。ちなみに人翼も、この時僕が作ったのを改良したものなんだよ。まあそこから量産体制に至るまでに、いろいろとお金はかかったけどね」
向江は今、本当にうれしそうだ。こんな向江、現実世界では見たことない。
「それであとは武中真琴はこの世界のだれなのかを調べるだけになったわけだ。でもこればっかりは神に祈るしかなかった。調べようがないからね。まさかこの世界の人々一人一人に聞いて回るわけにもいかないし」
確かにそうだ。俺がここに来たとき、向江は俺が話す前に、俺を「真琴君」と呼んだ。向江がそれを知る方法なんて、あるはずもないのに。
「でも、やっぱり神は僕の味方だった。忘れもしない、あの日、そう、君の軍入隊式の日だよ。前で演説していた僕の目に、異様なほどに真っ赤な髪の毛を持った少年がいた。この世界における君の年齢は逆算で分かってたから、かけてみようと思ってね。調べてみたんだ。したら、僕との共通点は何個もあった。唯一の懸念は君が姓を持っていたことだけど、それもこの間ルーセル君が話してくれたことで無くなった。君が僕と同じ拾われ子だって確認できたからね」
すごい。そう思わずにはいられなかった。向江が言っていることがすべて事実なら、向江のこれまでは、たとえるなら途方もなく巨大なジグゾ―パズルを組み立てるようなものだっただろう。あるいは、規格外の長編小説を書きあげるようなものと言ってもいい。
先の見えない、孤独な戦いだ。
「やっと見つけた。そう思った僕は、すぐに温めていた計画を実行に移すことにした。まず異空門の近くの村へ里帰りする君とルーセル君に、異空門を見に行かせ、その際に、侵攻には必要不可欠な移動手段である人翼のテスト飛行を行わせる指令を極秘扱いで出す。そして君の実力を調べるために手合せをする」
だが――向江は孤独であるがゆえに、間違った方向へ進んでしまったのかもしれない。
「君たちが次の日の朝帝都を出発するより先に、僕は隠し持っていた人翼を使い、異空門跡地に向かう。そこで「開いていた状態の異空門」を新たに作り、近くの林の中に攻撃装置を一つセットしておく。確認しに来た君たちに、危機感を持たせるためにね」
「……それで俺たちが死んだらどうするつもりだったんだ?」
あの時は運よく避けれたが、それはつまり、運が悪かったら当たっていたということだ。その可能性は、考慮に入れなかったのか、向江?
「死ぬわけがない」
向江はあっさりと言い切った。
「なんたって、そもそも人には当たらないように作ったんだから。実際にノル村に攻め込ませた戦車を含めてね」
そういわれれば、確かにあの戦車と戦った時も、攻撃は一発も俺に当たる弾道をたどっていなかったし、ノル村の住人にも死者は一人も出ていない。その時は少し気になっただけだったが、そういうことだったのか。……いや待て。
「それはおかしい。ノル村の住人で一人、 砲撃の直撃を食らって死にかけた人がいるんだぞ。どういうことだ?」
「ああ、あの人ね。僕その時空から見てたけど、あの人はもう不運としか言えないよ。一切警戒することなく近づいてきた少女に警告の意味で打ったのが、偶然当たっちゃったんだからね。……そうか……あの人、死んでなかったんだね。よかった」
少し、カチンときた。
「お前、そんな他人事みたいに「黙って」」
向江の凄んだ声。思わず、口をつむぐ。
向江は続ける。
「僕はこの世界を戦争に導こうとしてる身だ。そのための肩書も持ってるし、努力もしてきた。運の悪い一小市民の死なんて気にしてられないんだよ。分かった?」
俺は答えない。
向江はそんな俺を見て溜息を一つついた。
「まあいいや。……それでその後、君たちが帝都に戻ってくる前に急いで帝宮の自室に戻って、君たちの報告を受ける。後は君も知ってのとおりだ。事前に決めておいた通りに素早く指示を飛ばし、行動する。「セキ」の作成もそのためさ。軍を動かすのに、執行部は必要だからね。誰がどこにいるか確実に分かっていた方が、帝都に集合させるには都合がいい。そこで一時的な遷都を発表し、北都での軍の会議で侵略作戦をぶち上げ、皆に多数決をとる。」
「それが通らなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「それは考えてなかった。というより、考える必要がなかったんだ。この世界の人々はみな真面目で無垢だからね。だから少しつよい口調であおるようなことを言えば、確実に乗ってくる。ましてや信頼する帝に言われればなおさらだ。そして可決後、僕の予測通りに日は消え、僕の仮定は確信に変わった」
は?「予測通りに日が消え」、「仮定が確信に変わった」?
戸惑う俺を見て、向江は察したようだった。「ああ、なんだかんだで言ってなかったね」と言ってから、笑みとともに口を開いた。
「さっき言ったよね。「謎の神の正体にもだいたい見当はついている」って。そのことだよ。あのタイミングで日が消えたから、謎の神の正体に確信が持てた。そして、なにを司っているのかにもね……ねえ真琴君、古代ギリシャで考えられていた、世界を構成する四大元素って何か知ってる?」
いきなり、何の話だ?戸惑ったが、答えておく。
「火、水、土、大気だったか?それがどうかしたのか?」
「じゃあ、この世界の、一般的な神素四つは?」
ん……?そんなの、炎素、水素、地素、風素…あっ。まさか。
「分かったでしょ。見事に、対応しているんだよ。そしてこのことと、一回目の異空門戦争の時の終結の仕方を考えれば、ある一つの事実が浮かび上がってくる」
何を言っているんだ、向江は?
「当時の帝は、一人で異空門の向こう側に攻め込み、水素で敵の本拠地を滅ぼしたとされているよね。つまり、神素は地球上でも使えるということだ。ならば……地球を構成しているのも神素だと考えることはできない?」
ガツーンと、後頭部を殴られたくらいの衝撃が俺を襲った。現実世界も、神素で出来ているだって?信じられないが……反対できるだけの理屈がない。
「仮にそうだとして……そのことがどう、謎の神と結びつくんだ?」
向江は嬉しそうに笑った。
「これらのことを考えると、謎の神が司るものは、この世界にはあって、地球上にはないものだと予測できる。古代ギリシャの四元素の中に、対応している物がないからね。だったらもう、一つしかないじゃないか。」
向江は一回切り、続けた。
「謎の神が司っている物はね、平和、譲り合い、協調、持続……一つにまとめて言うなら、現状維持、とでもいえるかな。まあ、そういうものだよ。おそらくね」
現状維持……言われればたしかに、この世界にはあって、現実世界にはない物だ。それどころか、世襲制の帝の統治が何千年と続き、人々には出世欲なんてものはなく、戦争も起こらないこの世界を端的に表したような言葉だとも思える。
「さらに、その現状維持が失われた時が、長い歴史の中で二度だけある。そう。異空門が開き、戦争となった時だ。そしてその二度とも、同じように起きた現象がある」
「日の……消失……?」
「その通り。そして、ここから導き出される事実は一つ。謎の神の正体は、日だ」
「は……?日って、毎日登っては沈んでいく、あの日のことだよな……?」
「そうだよ。それしかないじゃないか」
唖然とする俺をおいて、向江は意見を述べていく。
「五番目の神素が人々に伝えられなかったのは、僕のような人間がたくさん現れるのを防ぐためだったんだろうね。多分、神たちはこの世界に、発展よりも永続を望んでいたんだよ。だから現状維持を司る神が人々を照らす日になったんだ。他の四神がこの世界を去った後の、この世界の唯一の管理者として、この世界を維持させ、見守り続けていくために」
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truth 3
「……て、そういうことなのよ。お願い。少し、待ってくれない?」
ルーセルは手を合わせ、表情を変えることなくすべての話を聞ききったギアに頼み込んだ。
ルーセルだって、信じてもらえることを期待して全て――アールスから聞いた全てを話したわけではない。もちろん信じてくれれば御の字だと思っているが、そんなことはまずないだろうとも考えていた。あんな話、信じる私の方がどうかしてる。恋は盲目って、こういうことかしらね。それより、私が狙っているのは――
「そんな話、信じられるか!嘘をつくにしても、もっとまともな嘘をついたらどうだ!」
「そうだ!いったい、何が目的だ、答えろ!」
これよ。やっぱり、食いついた。周りをかこっていた軍人からの怒声に、ルーセルは内心ほくそ笑んだ。
ルーセルはもともと、これを狙っていたのだ。先遣隊になるくらいなんだから、その意気込みは相当のはず。その人達に対して信じがたい話を根拠に侵攻の延期を要求すれば、間違いなくののしり合いの状態になる。かといって、一部隊の副隊長である私は無視できない。それでとりあえず時間を稼げれば……というルーセルの考えは見事にはまった。我ながら天才的!と、ルーセルは罵られているにも関わらず、少し誇らしくなった。
ルーセルがわざと黙っている間、どんどん周りからの不平不満の声は大きくなっていく。しかしその一方で、ギアは未だ顎に手を当てて、考え込んだままだ。ルーセルの聞く限り、周りからの声にはまともに考え込んでいるギアに対する文句も、少しだが混ざっていた。それにはギアも気づいているはずだ。なのに動かないことを、ルーセルは不思議に思った。
まさかギア、信じようとしてるの?
ルーセルがそう期待した瞬間だった。ギアはうつむきがちだった顔をさっとあげ、「静かに!」と叫んだ。年若くても一応隊長だと認知されているためか、周りの声もすぐおさまった。
ギアはルーセルの目を見て、言った。
「分かった。お前の話は信じがたいが、だからって無下に否定もできない。だったら、帝から連絡が来るまでここで待機するというのは、極めて正しい選択だ」
ギアの言葉に、ルーセルも周りも驚いた。そしてすぐ、周りからより一層の不平不満が発せられる。ルーセルはそれでやっと、自分の役割が果たせたのだと――アールスの役に立てたのだと気付いた。思わず、涙がこぼれ―
「ただし!」
―る前に、ギアは逆説の言葉を、力強く叫んだ。周りの声も、再度収まる。ルーセルの涙腺も閉まった。
「ここにいる俺達だって、みな並みじゃない覚悟できている。それを止めようってんだから、お前にも相当な覚悟があるんだろうな?」
「ええ。……アールスのためだから」
ルーセルの即答にギアは小さく笑い、言った。
「だったら、その覚悟を見せてみろ……俺と勝負して、お前が勝ったら、お前の言うようにしてやるよ。文句はねえよなルーセル?」
俺も向江も、話し始めてから一切体勢を変えていない。俺は立ったままだし、向江は椅子に深く腰掛け、若干前かがみになったままだ。
しかし、疲れは一切感じない。それほどに、向江の話は衝撃的なものだ。
向江は言う。
「戦争が起きたからって神が消える理由は、僕にもはっきりとは分からないけど……多分、神様としても、悠然と空の上から眺めている場合じゃなくなったんだろうね。それでどこに行って何をしてるかはわからないけどさ」
「お前は……一人で、そこまでの結論に至ったのか?」
向江はあっさり「そうだよ」と答えた。
「もっと言えば、この話をしたのも君が初めてだよ。だから聞きたいんだけど……僕の解釈に、何か間違っていると感じた点とか無い?参考までに、教えてくれないかな」
間違った点?そんなもの……
「そんなもの、俺には分からない。分からないが……矛盾してる点は、少なくともない。俺はそう感じた」
いきなり「謎の神の正体は日だ」なんて言われても、俺にはそれが正解か間違いかはわからない。ただ少なくとも理論に筋道は立っていた。若干の発想の飛躍は必要だが。
「そうか……うん、そうだよね。いきなり聞いたって、わかんないよね。……だけど、僕は君に否定されなかったってことだけで満足だ。とりあえず、間違いはないってことだからね」
向江は笑ってそう言った。そして――射抜くような目で、俺を見た。
「だから……あとは君だけだ。真琴君、いや、アールス君。僕、ヒュルト・シュバイトと一緒に――世界を、変えよう」
「世界を、変える?」
「ああ、そうだよ!」
向江は高らかに叫び、続けた。
「言ったじゃないか!僕は人生のすべてを、この世界の君と一緒にあのくそったれな世界に侵攻して勝利する、そのためだけに費やしてきた!そして、そのために立てた作戦、その過程で得た仮定、全ては完璧で、正しい!現に、ここまでは全て僕の予定通りに進んでいる!」
向江は勢いよく立たがった。
「だから、あとは君だけなんだ。君があの世界を見捨て、この世界の人間アールス・ヒュレットとしてあの世界と戦って初めて、僕の目的は達成される!あの世界に見限りをつけてからの、この世界での十四年間の日々を、意味あるものにすることができる!」
俺は向江の勢いに?まれて、何も言えない。
「君だって一度はこの世界だけで生きて行こうと決めたんだろ?だったら分かるはずだ。この世界がどんなに素晴らしいか!その気持ちに、素直になればいい!君が望むなら、哀川さんをこの世界に連れてきたって良い。親戚みんな連れてきたって良い!君が望むことはすべてかなえると約束しよう!だから!」
向江は体をいっぱいに使って話している。いや、叫んでいる。
「一緒に戦おうよ。アールス君。この世界はあの世界よりも優れていると、証明しよう」
最後の言葉だけは、いつも通りの向江のものだった。それでも俺は、答えられない。向江の気持ちも、理解できてしまうから。明と一緒にこの世界で暮らせたら、どれほどいいことだろうと、考えてしまった自分がいるから。
しかしそれでは、今現実で待っている明を裏切ることになる。結果的に、明の四年間を、無に帰すことになる。
ふう。少し考えて、結論を出す。
「……お前は、この世界が勝てると本気で思っているのか?」
向江は悠然と座りなおしながら答えた。
「もちろん。そうじゃなきゃ戦争はしかけないよ。……まあ確かに、最初のうちは苦戦するだろうね。でも、何も地球全てを征服しようってんじゃない。僕はそもそも日本としか戦うつもりはないし、いざとなったら僕が攻め込んでいけばいい。そうしても負けるほどこの世界は弱くないことくらい、君にだってわかるよね……あれ?それを聞くってことは……決めたのかい?」
俺はうなずく。「ああ。決めたよ」
向江はがばっと立ち上がった。
「よし!それじゃあ……」
「いや。そうじゃない」
俺は静かに首を振り、続ける。
「俺はお前に賛同できない。俺じゃなく、俺を信じて待ってくれてる明のために。……お前の考えてることも確かに分かる。俺もそう思ったことがあるから。だから、お前のやろうとしてることを否定はしない」
「え……?だったら、だったらなんで拒否するんだいアールス君!?」
向江の声、顔に初めて必死さが浮かんだように感じた。
しかし俺は、その思いには答えない。
「俺の中での優先順位の一番上は、お前でも、この世界でもなく、明なんだ。俺はお前を否定したいわけじゃない。ただ、ただ明を、明のためになる行動を肯定したい。それだけだよ、向江」
俺の思いのたけは全て伝えた。後は、向江を説得できるかどうかだけ……
「僕はもう、向江じゃない……」
俺ははっとして、向江を見た。今の声、ほんとうに向江が発した物なのか?冷え切っているようで、強く燃えていた。うまく言えないが――思わず体が震えるほどに、荒々しかった。
「僕はもう、向江じゃない!ヒュルト・シュバイトだ!この素晴らしき世界の、素晴らしき指導者だ!世界創造という、神の業を習得した者だ!僕の誘いを断るということは、何を意味するか分かっているのか、アールス君!」
「アールスじゃない」
激高し、眉間に深いしわさえ浮かべる向江に対して、俺はあくまで冷静に返す。
「俺はアールス・ヒュレットだけじゃない。武中真琴でもあるんだ」
俺は気づいた。もう向江は向江じゃない。心の奥深くから指先に至るまで、完全にヒュルト・シュバイトになってしまっている。説得するのは、おそらく無理だろう。
「……いいよ。いいよ。いいだろう!君がそういうなら!」
だからこれから俺たちは、武中真琴と向江真生としてでも、アールス・ヒュレットとヒュルト・シュバイトとしてでもなく、武中真琴とヒュルト・シュバイトとして接していかなければならない。そして。
「僕も譲る気はない!それで君も譲らないなら!」
知らない者同士――本来関わるはずのない者同士が、お互いに譲れない道の上で出会ってしまったら、起こることは一つ。話し合いでもなく、馴れ合いでもなく。
「殺し合いだ、真琴君!どっちの方が意志が強いか、証明しようじゃないか!」
「ああ……望むところだ!それでしか、お前は止められそうにないからな!」
とうに、覚悟はできている。俺がここで、逃げるわけにはいかない。
「じゃあ……正々堂々と、神素のぶつけ合いっこと行こうか。好きなだけ、距離をとっていいよ。合図は……そうだな、あの時と同じように、コインでいいや。君の好きなタイミングで投げ上げてくれ」
そう言ってヒュルト・シュバイトは一枚のコインをポケットから取り出し、俺に弾いて渡した。俺はそれを受け取り、背を向けてゆっくりと歩き出す。
この間の手合せで感じた、圧倒的な実力差。それを考えれば、無謀な挑戦だ。くわえて帝はあの時、おそらく全力を出していなかった。それに対し、俺は全力だった。
部屋の端につき、振り返る。ヒュルト・シュバイトの表情には、心なしか余裕が見える。
「二つ、確認しておきたいんだが。お前が死んだら、異空門はどうなるんだ?あと、この世界で死んだ魂は、あの世界へ戻るのか?」
「異空門は消えるよ。僕の死とともにね。魂がどうなるかは僕にはわからない」
ヒュルト・シュバイトは端的にそう答えた。もし先遣隊がすでに侵攻してしまっていたらと一瞬考えたが、ルーセルならきっと大丈夫だと思い、それをやめる。そして、目をつむり精神を集中させる。コインを左手の親指に乗せ、右手を突き出す。
ふう。一つ息を吐き、
コインを、弾く。目を、開く。
これは、はたから見れば確かに無謀な挑戦だ。まともにやったって、俺に勝ち目なんかない。ヒュルト・シュバイトも、それをわかって言ったんだろう。
だったら、どうするか。まともに、やらなければいい。
ヒュルト・シュバイトには決してできずに、俺にはできる裏ワザが一つある。生まれながらにして火の神アーラからの加護を強く受けているらしい俺が、アーラの影響力の強い神殿の礼拝堂にいるからこそ、期待できるほどには成功の可能性が高くなる、裏ワザが。そしてそれは。
今まで誰も成功したことのない、禁断の業でもある。
コインが俺の視線のラインを通過した。今だ。直感した。
体中の力を全て腹に込め、叫ぶ。
「アーラッ!どっかで見てるなら、俺の体に降りて来いっ!」
そう。
神卸(かみおろし)。
ギアの予想だにしない言葉にルーセルはかなり驚いたが、周囲の驚きようはルーセルの比ではなかった。「本気ですか!」「相手にしなくてもいいですよ、こんなやつ!」といった言葉が、雪崩のように押し寄せてくる。さすがにルーセルも少し腹が立ったが、これ以上刺激したらそれはそれで面倒なことになりそうと考え、無言でルーセルを見続けているギアと同じように、沈黙を決め込むことにした。
ルーセルにとって最大の問題は、相手がギア・カイトであるということである。仮にも元「ノル村の天才」であり、現軍執行部である。幼いころから近くでその力を見て、実感したことのあるルーセルだからこそ、その実力は人一倍分かっている。
今の私じゃ、絶対に勝てない。どうすればいいの……
ルーセルは考える。どうしても、弱気になってしまう。
でもいや。
ルーセルの心が悲痛に叫ぶ。
アールスの信頼にこたえられないのは、いや。いやいやいや!そんなの、絶対にいや!
そして、アールスとの最後の会話を思い出す。
あんなこと言っといて私の方が失敗して……これからどの面下げてアールスに会えばいいのよ!アールスがここに来たとき、笑顔で迎えるって、その後告白するって、決めたんだから!
ルーセルは、自分の心を奮い立たせる。
だったら……やるしかないわ!ギアに……私の想いの強さを、思い知らせてやる!
「……いいわ。あなたとの一対一の勝負に、勝てばいいのね?」
ルーセルはわざと不敵な笑みを作り、ギアに言った。
その言葉に最初に反応したのは、ギアではなく周りだった。「マジで言ってんのか、アイツ?」というような声が、ルーセルの耳に届く。
ええそうよ。マジよ。ルーセルは心の中で、そう返す。私の覚悟を、なめないでよね。
「外野は黙れ!」
突然ギアは叫んだ。一瞬にして、周りは静かになる。
「みてりゃ分かると思うが、コイツは俺の個人的な知り合いだ。俺の立場も神力もお前らよりはよくわかってる。その上で、俺の申し出を受けたんだ。バカにだけはすんじゃねえ。勝敗関係なくな」
ギアは周りを強烈な眼光とともに見回した。それによって、まだ少し聞こえていたつぶやくような話し声も完全になくなった。風が木々を揺らす音が、自然とルーセルの心の奥まで染み入ってくる。
ギアはルーセルをその真っ黒の瞳でとらえた。
「じゃあルーセル。どっちが勝っても、恨みっこなしだ。合図は……そうだな、そこのお前、三秒カウント頼めるか?」
ギアは近くに立っていた一人を指さし、尋ねた。その男は反射的に「は、はい!」と答えた。ギアは軽くうなずき、視線をルーセルに戻す。
「よし……じゃあ、ルーセル、準備はいいか?」
ルーセルは構えながら答える。「ええ」。ギアも一瞬にして真剣な表情になり、構えた。
「じゃあ……行きます。三」
カウントが始まった。ルーセルは突き出した右手によりいっそう力を込める。
アールス、今あなたは何してるの?帝には、あの話、信じてもらえた?それとも今、必死に説得してる最中なの?どうなのか、答えなさいよ。
「二」
ルーセルは左手を右手の甲にそっと添える。
こっちは今、かなりやばい状況になってるわ。なんたって、ギアとの真剣勝負に勝たなきゃいけないんだもの。正直、不安しかない。でもね。
「一」
ルーセルは意識を、右手のひらに集中させる。
どんな無茶であろうと、どれほどの無謀であっても、私はあなたのためなら、できる。やってみせる。だって、私はあなたのことが――好きなんだから!
「ゼロ!」
ルーセルは水素を力強く右手のひらから打ち出した。そして同時に、ギアの手のひらからも、力強く地素が打ち出される。
コンマ一秒たつか経たないかの間に両者のそれはちょうど両者の真ん中でぶつかり合った。思わず耳をふさぎたくなるほどの爆音と、辺りの砂をまき散らす爆風。相まって、周囲に混沌をもたらす。
しかしそんなことは、右手にすべての意識を集中させているルーセルにはまったく気にならなかった。ルーセルはただ一心に、徐々に砂埃から晴れてきた視界の先、ギア・カイトをにらむ。
視界が完璧に晴れて――ルーセルには、ギアが少し笑ったように見えた。そしてその瞬間、ルーセルの右手に強くかかっていた圧力がなくなった。視界から地素の茶色が消え、水素の青だけになる。ギアの体を青が直撃し、ギアが後方へ吹っ飛んでいく。ルーセルは反射的に、水素の放出にストップをかける。
「え……?私が、勝った?ギアに?」
ルーセルは戸惑い、右手で目をこすってみるが、何度やってみても、元いた場所より相当向こう側に吹き飛んでいるギアの姿と、ざわざわと慌てたようにざわめくほかの軍人の姿はどちらも消えない。
「やった……」
やっと実感がわいたルーセルは、思わずそうこぼしていた。周囲のざわめきも、ギアの安否の確認すら、今のルーセルにはどうでもいいと思えた。ただ胸の奥から湧き上がる感情を、思う存分感じていたかった。
「やったよアールス……私やったよ……」
全身から力が抜け、膝から崩れ落ちてしまう。無性に地面に大の字になって寝ころびたいという衝動に駆られたルーセルは、そのいきおいのまま背中から地面に寝ころんだ。視線の先にある数多の星の輝きが、ルーセルにはとても美しく見えた。
あとはあなただけよアールス。これでもう、先遣隊が異空門をくぐることは絶対にないもの。
私は、あなたを信じてる。だから、あえてすべて終わった後のことを考えとくわね。
まず、笑顔のあなたを、問答無用で思いっきり抱きしめる。そしてそのまま、……告白する。私、もう逃げないから。それで……まあ、あなたはオーケーする。これ、確定事項だからね。
そしたら……あなたと一緒に、こうやって大の字になって、星を眺めるの。
日が戻ってくるまで、ずっとね。何日でも。何か月でも……って、それはいいすぎかな。
とにかく、待ってるよ、アールス。だから、あんまり私を待たせんじゃないわよ。
大好き。
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truth 4
叫んだ瞬間、目の前が真っ暗になった。さらに、浮遊感が全身を覆う。いや、浮遊感しか感じない。何もないところに、魂だけ浮いているような、たとえるならそんな感覚。
俺は――死んだのか?結局、神卸には失敗してしまったのか?
思わずそう考えてしまった、その時だった。
――違う。お前は死んではいないし、神卸にも失敗していない。
魂の中に、直接声が届いたように感じた。
――誰だ?俺は今、どうなっている?
考えただけで、それが自然と音に変わった。不思議だ。
――誰?自分で呼んでおきながら、それを聞くのか?
――……もしかして、火の神アーラ様で?
――その通り。そして今お前は、魂と肉体が乖離した状態になっている。私がそうしたのだ。少し、話があってな。何、心配するな。ここでいくら時間を使ったところで、ヒュラトニアの時間は進まん。
――ヒュラトニア?
――ああ、ヒュラトニアとは、今の今までお前がいた世界のことだ。そしてそれと兄弟の関係にあるのがアルグニア。お前が、本来いるべき世界のことだ。
――兄弟……?じゃあヒュルト・シュバイトが言っていたことって……
――ああ……全て、真実だ。何から何までな。ヒュルト・シュバイト……人の身にて、よくあそこまで至ったものだ。まさか、世界創造まで会得するとはな。
――そういえば……なぜ俺やシュバイトは、二つの世界を行き来するようになったんだ?神様になら、分かるだろ?
――うむ……それを話すために、お前をここに呼んだのだが……すべてのきっかけは、アイリスの気まぐれだった。
――アイリスってのは?
――ああ、ヒュラトニアにおける最大の謎であり、皆を照らす日でもある、維持の神のことだ。先ほどヒュルト・シュバイトから聞いたと思うが。
――それで、気まぐれってのは?
――本来アルグニアに生まれるはずだった魂に自分の力を授けて、ヒュラトニアにおける生を与えたのだ。それで生まれたのが、ヒュルト・シュバイトだ。今さっき本人に聞いたばかりだが、単なる好奇心によるものらしい。まったく、勝手に世界をつないだときに、あんなに言って聞かせたのに……懲りないやつだ。
――勝手に世界をつないだときって……数千年前の、一回目の異空門戦争のときを言っているのか?
――ああ。あの時は、二つの世界が共存できないか試してみたんだよぉ!とか言ってたが……ちなみに、戦争が起きるたびに日が消えるのは、俺がアイリスを呼び出して説教してるからだ。いらん不安を与えてすまないとは思っているが、分かってくれ。
――なんか……がっくりきたよ神様さん。
――……こほん。さて、話の続きだが……私の方も、ヒュルト・シュバイトの異質には気づいていた。ただ、放っておいた。神というのは基本、一度離れた世界には手出しをしないものだからな。その原則をやぶってまで、対処することもない問題だった。しかし……私は気付いたのだ。彼には、私たちがあえて人類には与えなかった世界創造の力を手にする可能性があるとな。だからもしもの時のことを考え、アルグニアの一人の少年に、暴走したヒュルト・シュバイトを止める役割と私の力の少しを授け、ヒュラトニアに送り出した。
――それが……俺か。じゃあ……俺がヒュラトニアに生まれ落ちてからの全ては、定められた運命だったのか?ルーセルと出会うことも、学校で嫌われることも、明と出逢うことも、全て?
――ああ。そうだ。神が与えた運命とは、全てを超越するものだからな。……まあとにかく、そういうことだ。これで君たち二人が二つの世界を行き来するようになった理由は伝えた。後は……確認だ。アールス・ヒュレット。君が殺され、ヒュルト・シュバイトが生き残るという状況を避けるには、君は私を体に卸す必要がある。君もそれをわかって私を呼んだのだろうし、私もその思いに答えるつもりでいる。神卸は成功するだろう。しかしその後、君は自分がどうなるかわかっているか?
――どうなるって……?
――君の体は普通とは違い、大部分が炎素を基にして構成されている。私が生を与えたのだから当たり前の話だがな。そして神卸というのは、体内の神素を膨大な量必要とする。だからこれまで挑戦してきたあらゆる人間は、体が崩壊して死んでいったのだ。……もう分かっただろう。どうなるか。それでも君は、やるのか?
――……ああ。やるしかない……やるしかないさ。やらなくたって、最終的には同じことだろ。
――うむ。確かにその通りだな。では、魂を肉体に戻すぞ。……と、その前に。最後に、言いたいことがある。
――なんだ?
――こちらの事情に巻き込んで、悪かった。アイリスが気まぐれを起こさず、私が君を選ばなければ、君はずっと、アルグニアで幸せに過ごせたことだろう。その未来を壊し、挙句の果てにこのような結果をもたらした私を、許してくれ。
――何言ってる。神様が、謝るなよ。
――は?
――俺は、今感謝してるんだよ。だってさ、今の俺には考えられないから。今あんたが言った、「幸せな暮らし」ってやつが。明のいない「幸せな暮らし」?この世界を知らないでの「幸せな暮らし」?そんなもの、ほしくない。
――……
――だから、ありがとな。今の俺の暮らしをくれて。
――……そうか。お前はそう考えてくれるか。じゃあ……こんどこそ、行くぞ。私もすぐ、お前に降りる。
――ああ。
――じゃあ行くぞ……三、二、一、ゼロ!
カウント終了とともに、浮遊感が消え、視界に色が徐々に戻っていく。まず最初に突き出していた右手が見え、その後に宙を舞うコインが見えた。体の感覚も、徐々に戻っていく。頭から首、肩、腹や二の腕、そして全身へと。そして視界の先には、帝の姿と、ゆっくりと落ちていくコインが映る。
――行くぞ!
アーラの声が、脳内で響いた。
――ああ……来い!
瞬間、体の芯が「燃えた」。体中の炎素が、異常な勢いで消費されていくのが自分でもわかる。全身から、真紅の炎が勝手にゆらゆらと立ち込めていき、俺の体を覆う。熱い。とてつもなく熱い。
しかし、心地よい。もっと熱く、もっと熱く!そう念じるたびに、全身から勢いよく炎が吹き出し、さらに熱く、心地よくなる。湧き上がってくる、無限とも思える力を感じる。
ヒュルト・シュバイトは一瞬驚愕の表情を浮かべたが、すぐにそれを狂気の笑いに変えた。
「いいねえ真琴君!いやアーラ!神になった人と、人に降りた神の戦い!最高じゃないか!……この戦いに勝利して、僕は本当の神になる!いや、神を超えた人になる!」
「やれるもんなら……」
――やれるもんなら……
奇しくも、俺とアーラの声が重なった。
「やってみろ!」
――やってみろ!
コインが、落ちた。
俺は全力を込めて、右手からありったけの神素を打ち出す。普段の俺とは比べ物にならないほどの、莫大な量。視界を、一瞬にして赤で埋め尽くす。発射時の爆音と反動で気が飛びそうになったが、気合でこらえる。
明……ルーセル……俺を信じてくれてありがとう。お前ら二人には、迷惑かけたな。
特にルーセル。お前には、本当に世話になった。最初の出会いはなかなか衝撃的だったけど、それもふくめていい思い出ばっかりだ。私生活でも、軍の隊長と副隊長として接した時も、お互い助け合って今日まで来れたことを、俺は幸せに思う。その日々の集大成が、多分今日なんだよな。お互いに姿は見えないし、連絡も取れない。でも信じあえるってのは、積み上げてきた日々がなくてできることじゃない。
本当に、お前みたいなパートナーを持てたことが、俺は幸せでならないよ。でも悲しいかな、お前とは、今日で一旦お別れだ。
だから――だからこそ俺は、お前の想いに答えたい!絶対に!
お前とは、笑顔で別れたいから!
ついに、俺の赤とシュバイトの白がぶつかった。圧倒的な神力を得た者同士の、全力の打ち合い。どちらが勝ってもおかしくない。
だが俺は、負けられない!
シュン
双方の神素が一点に集約した。その点が、二、三回チカチカッと光った。
直後、轟音と共に、視界を完全な赤が閉ざした。
あまりに激しい爆発のせいで、何がどうなってしまったのか全くわからない。神殿の上部は丸ごと吹き飛び、下部は見るも無残な廃墟に成り下がってしまっている。礼拝堂が高い位置にあったため街への被害はないようにも見えたが、詳しいところは分からない。
だが確かなのは一つ。
こうして俺は地に足をつけて立っているのに対して、ヒュルト・シュバイトはどこにもいないということ。
「やった……のか?」
――ああ。ヒュルト・シュバイトの気配が消えた。おそらく、体が崩壊して、魂がアルグニアの肉体のもとへ戻って行ったんだろう。お前は、やったんだよ。
俺の疑問に、アーラが答えてくれた。
「そうか……実感、わかないな。なんか」
これで、全て終わったはず。アーラの言いようから考えると、ヒュルト・シュバイトは死んでも、向江真生は死なないと判断できる。とりあえず、よかったとすべきだろう。ただ、これから向江真生が生きていけるかどうかは、また別問題だが。
――それよりお前、ルーセルとやらのとこに行かなくていいのか?もうお前に残された時間は少ないんだぞ?
神様が、俺を気遣っている。その事実に少しおかしみを感じながら、俺は答える。
「そんなことは分かってるさ。でも、飛神はさっきの爆発で吹き飛んだから、移動手段がないんだよ。ルーセルには悪いけど……」
――ははっ。
アーラは俺の言葉を遮るかのように笑った。
――お前、神の力ってやつをなめてないか?空を飛ぶなんて、神卸をした身だったら簡単にできるぞ。方法?簡単だ。飛びたいと願ってくれれば、俺がお前を飛ばしてやる。
チートだな。そう感じずにはいられない。さすがは神だ。俺はその申し出を快く受ける。
「分かった。本当は泣きたいくらいに悔しかったんだ……頼む。俺を、異空門跡地まで飛ばしてくれ!」
――了解した。じゃあ行くぞ!
アーラがそう言った途端、景色がすごい速度で下へ流れて行った。速い。飛神なんて比べ物にならない。そう感じている間に、今度は景色が横に流れ出した。
このペースなら、もしかしたら間に合うかもしれない
俺の体が消えてしまう前に、ルーセルに会えるかもしれない。
え…?
地面に寝転がったまま星を眺めつづけていたルーセルは、視界の隅に不思議なものをとらえた。思わず、見とれてしまう。
ルーセルの視線の先には、異様な速度で動く、赤い流れ星があった。周りの星々には一切興味を示さず、ただ一直線に進むそれが、ルーセルには際立って美しく見えた。
ルーセルの視界の中で、その星はだんだんと大きくなっていった。その存在を認識させたいという意思がひしひしと伝わってくる。
なんだろう、この感じ。少し変だわ。心がざわつく。
ルーセルは起き上がり、首を捻って考えた。しかししばらく考えても、何も思い当たらない。結局あきらめ、再度ルーセルは地面に寝転がった。まったく、アールス遅いわね……って、もしかして!
ルーセルは反射的に跳ね起き、立ち上がって赤い流れ星を確認した。
目が、合った。
「アールス!」
間に合った。
俺は高速で動きながらどうにか大きく息を吸い、叫ぶ。
「ル――セ――ル!」
「アールス!」
ルーセルが俺の名前を呼んだ。俺は勢いをあえて殺すことなく、ルーセルに向かって急降下する。
「え!?ちょっとアールススピード落とさないと危な……」
――お前何するつもりだ!?
……と言うルーセルとアーラを無視して、俺はルーセルとの擦れ違いざま、左腕一本でルーセルを抱き上げる。呆然と俺を見ている周りの先遣隊の方々は放っておいて、視界に入る木の中で一番高いものの、一番高い位置にある丈夫そうな枝めがけて再度飛び上がる。腕の中で暴れるルーセルは、強引に抑え込む。
枝の根元に腰掛け、ルーセルを腕から解放する。するとルーセルは、さっと俺から離れた場所に座りなおした。
「何するのよ!いきなり女の子を強引に抱き上げるなんて……」
ああ。この声だ。俺が聞きたかったのは。いつもの、少しとがったルーセルの声。この声と会話できるのも……今日で、最後か。そう考えると、言葉の一つ一つがとてもいとおしく感じられる。
するとルーセルは慌てたように首と手を小刻みに振った
「……ちょっと、どうしたの、そんな暗い顔して。い、今のは別にそんな気にしてないから、大丈夫よ!?」
「いや……少し、思うところがあって。それよりさ、ルーセル。あそこに倒れてるのは、ギア、だよな?」
俺が指さした先には、ギアと思わしき人物があおむけに倒れていた。そしてその周りには、先遣隊の隊員が集まって輪を作っている。いったい、何があったのだろうか。
「ああ、そうそう!聞いてアールス!私ね、ギアに勝ったの!」
テンションを突然あげたルーセル。意味が分からない。
「状況説明から、詳しく頼む」
「ああ、えっと……まず私がここについたとき、先遣隊が出発する直前でさ。そのまま突っ込んでったらギアが「俺が隊長だ」っていいながら出てきて、そこでアールスの話を全部したのよ。そしたらギアが「俺との勝負に勝ったらお前の言うようにしてやるよ」って言ったから、私戦って……」
「それでお前が、ギアに勝ったってことか!?」
ルーセルは胸を張った。
「ええ。そういうことよ。感謝しなさい。あなたのために、ギアを一瞬で蹴散らしてあげたんだから」
一瞬で?それはいくらなんでもあり得ないだろう。だったら……あっ、もしかして。
「ルーセル。あくまで俺の予測だが……ギアは、手加減してくれたんじゃないか?もしくは、最初からやられるつもりだったか」
ルーセルは文字通りビクッとして、俺をまじまじと見つめた。俺はその反応を十分楽しんでから、ギアの倒れている方に向かって、思いっきり声を張る。
「ギアーッ!起きてるかー!」
「おーっ!起きてるぞー!やられたふりってのも、案外疲れるもんだなーっ!」
俺の予想通り、すぐにギアは起き上がり、元気のいい返事を返してくれた。ギアの周囲にいた二、三人の反応が滑稽で、思わず笑ってしまう。
俺は半ば放心状態のルーセルの肩に左手を乗せ、言う。「そういうことだ」
ルーセルはしばらく呆然としていたが、俺が肩をさらに二、三回叩くと、急に暴れ出した。
「なによ……なによなによなによ!そういうことは、あとになってから言えばいいでしょ!なんで今なのよ!少しくらい満足感にひたらしてよ!」
後……か。その後が、俺にはないんだがな……そう思っても、当たり前だがルーセルには通じない。俺は心の中で、アーラに尋ねる。
――あと、どれくらい持つかな?
――アルグニアの時間表現が便利だからそれで言うが……あと二、三分、持っても五分と言ったところか。あと……私はそろそろ離れたほうがいいか?二人で話したいから、わざわざここまで来たんだろう?
さすがは神様。よくわかってらっしゃる。
――ああ。頼む。……ありがとな。
――それはこっちの台詞だ……じゃあ、私は消える。アイリスにも説教しないといけないのでね。……汝に、幸あらんことを。
最後だけ神様らしいことを言い、アーラは俺の体から抜けていった。とたんに、全身から力が抜けていく。正直、こうして座っている体勢を維持するのが限界だ。
後五分。それがこの世界における、俺の命の期限。だったらもう、ルーセルにすべてを伝えよう。
俺はまだ「むー」といった表情をしているルーセルを左手で手招きする。ルーセルも素直に近づいてきてくれた。「……まあいいわ」。
「それより、あなたの話も聞かせて?ここに一人で来たってことは、成功したんでしょ?……まあさっき突然異空門が消えちゃったから、あなたの苦労は無駄だったわけだけど?」
「あのなルーセル」
「うんうん」
身を乗り出し、目を輝かせてうなずくルーセルを見ていると、事実を伝えるのがいやになる。ただ、伝えないわけにはいかない。
「落ち着いて聞いてほしいんだけど……詳しくは言えないけど、帝は俺と同じような立場の人だったんだ。それで、この戦争は全てそいつの自作自演だった。説得しようとしたけど途中で無理だって気づいて……俺が、帝を殺した」
「は、はい?アールス、どうしちゃったの?」
ルーセルはぽかんとしている。いつもならゆっくり待ってやるところだが、今は時間がない。
「本当だよ。さっき異空門が消えたのは、帝が死んで、その力で作られたものもまた壊れたためなんだ。信じてくれ」
ルーセルは首を捻りしばらく考え込んだ後、ひとりでに二、三回うなずいた。
「まあここまで来てあなたが嘘をつくとは思えないから信じることにするけど……って、わわわっ!?」
もう、限界だった。俺は枝から落ちるよりはましだと思い、ルーセルの体に自分の体を預けた。もう体に力が残っていない。よく意識が持っているなと自分でも思う。
「ちょ、ちょっとアールス!?どうしたの……?」
ルーセルが戸惑うのも当然だ。俺は全てを伝える。
「さっき、帝を殺したって言ったろ。その時に、神卸を使ったんだよ。そうでもしなきゃ勝てなかったから……そういえば、いつかも俺、お前にこんな話したよな」
ルーセルは顔を少し赤らめていた。それでも、口ぶりだけはしっかりしていた。
「確かに聞いた覚えあるわ……それであなたは無事成功して、ここまで飛んできたはいいけど、疲れてもう動けませんってこと?だったら……」
ギュッ。実際にそう音がでるくらいに、ルーセルは俺を抱きしめた。俺の顎が、ルーセルの肩に乗っかる。
「ルーセル?」
「あなた今、何もできないんでしょ?だったら、なんでもし放題じゃないの。こんなうれしいことないわ。……ねえあのね。聞いてほしいことがあるんだけど。……私、ずっとあなたのことが」
「待ってくれ」
俺はルーセルの言葉を遮った。ルーセルが戸惑ったのが顔を見なくても分かった。
「ルーセル。お前が今何を言おうとしてたかは分かる。俺、気づいてるから」
ルーセルの体が震えた。
「え……?いつ、から……?」
「今日俺が起きた時だよ。ルーセルの流してくれた涙を見て、確信が持てた。……だから、言ってくれなくていい。いや、言わないでほしい。俺はもう……この世界から、消え去る身だから……」
ルーセルの震えが強くなった。
「え?消える身って、どういうこと……?」
「神卸ってのは、体内の神素を大量に使うものだろ?だから大半の人はそれが足りなくなって失敗する。だが、もともと異世界の人間だった俺をこの世界に連れてきたのはアーラなんだ。だから俺の体は普通と違って、主に炎素で構成されているらしい。だからアーラを卸しても、とりあえずは大丈夫だった。でも、体を主に構成するものを異常に消費したら、どのみち体は崩壊してしまう。ほら、俺の右手を見てみ」
そう言って俺は、ルーセルの顔の位置に右腕を持っていく。
「あ……うそ、嘘でしょ!?」
俺の感覚が正しければ――もうひじより先は消えてしまっているはずだ。支えられるものを失った袖が、ものさみしげにぶらついていることだろう。それを見れば、ルーセルなら理解するはずだ。
「だからルーセル、消える身の俺に告白はするな。したってつらくなるだけだ」
ルーセルの反応はない。俺は続ける。
「でも返事は気になるだろうから、俺はこれだけ言っとく。……俺にはもう、異世界の方に彼女がいる。彼女を唯一無二の存在として愛してる」
言いながら、何度も意識が飛びかけた。だが必死にこらえた。まだ伝えなくちゃいけないことがある。
「でもルーセル、お前とあえて、ホントよかったよ。それは胸を張って言える。明――あ、俺の彼女の名前な。明がいなかったら、お前のことを好きになってた。間違いない」
「そんなのいや!」
ルーセルの声は甲高く、震えていた。
「二番手なんていや!あえてよかったなんていう、別れる時の常套句で別れるなんていや!それに……」
俺の背中に回されたルーセルの腕に力がこもった。
「あなたと別れなきゃいけないのが、一番いやなのぉ……なんでこんな結末を迎えなきゃいけないのよ……十年来の恋はハッピーエンドで終わるって、相場はきまってるのに……」
ルーセルは涙声でそう言った。俺も残された力を左手に込めて、ルーセルを強く抱きしめる。
「ルーセル……お願いがあるんだ。最後のお願い……聞いてくれないか……?」
もういつ意識が飛んでもおかしくない。右手の感覚は肩までなにもないし、両足も膝から先の感覚がない。まともに働いているのは、ルーセルを引き寄せいている左手だけだ。
ルーセルは鼻をすするような音とともに「うん。いいよ」と答えた。
「約束してくれ。三つ」
「……言ってみて?」
「やっぱりその前に、離してくれないか。お前の顔が見たい」
「……分かった」
ルーセルは、そっと俺の体を、自分の体から遠ざけた。支えを失った俺の体はふらつき、枝から落ちそうになったが、そこはルーセルがしっかりフォローしてくれた。
俺はルーセルの目を真正面から見て、一つ一つかみしめるように言う。
「じゃあ……一つ目。あのひどすぎる料理の腕をどうにかすること。あれじゃ、お嫁に行けないぞ」
「うう…善処します……」
ルーセルはそう言いながら、涙を懸命に袖で拭いている。いくら拭いてもきりがないことくらい分かっているはずなのに。
「二つ目。飛神をもっと発展させて、誰でも好きな時に好きなだけ飛べるようなものを作って……それで、空の終わりを見ること」
「空の……終わり?」
「そう。地面からずっと空高く昇って行った先にある、青と黒の境界線。そこが、空の終わり」
「ふうん……ずいぶんと難しそうだけど……覚えておくわ」
ルーセルは小さく笑った。
「最後。よく聞けよ。……絶対に……絶対に、生きてるうちに俺ともう一度会うこと。そして、俺においしい料理をふるまい、俺をこの世界の空の終わりまで連れて行くこと」
「え……?……うん……うん、分かった……!」
ルーセルはあっけにとられたようだったが、最後には柔らかく微笑んでくれた。俺も微笑む。
「以上三つ。約束したからには、絶対守れよ。……あと、最後にお願いがある。聞いてくれないか?」
「え……じゃあ、私のお願いも、聞いてくれる?」
俺は小さく笑ってうなずく。「もちろん」
「ふふ……じゃあ、あなたのお願いから、どうぞ?」
ルーセルに促され、俺は答える。
「最後に……この世界で最後に見るのはお前の笑顔がいい。見せてくれ」
やっぱり、別れは笑顔がいい。涙の別れなんて、悲劇にしかならないじゃないか。
「そう……じゃあ……笑いながら、キスして別れましょうか。それが、私のお願い」
ルーセルは微笑んで言った。
「本気か?」
「本気よ?」
俺は小さくため息をつく。仕方ないか。迷っている時間はない。もう腹の感覚すら、無くなりつつある。ここでキスしなかったら、後々絶対後悔する。そんな気がした。
「分かった。でも俺もう動けないから……ルーセル、あとは好きにしてくれ」
「ふふ。最初で、最期のキス……笑顔で、ね?」
俺はおぼろげな意識の中、どうにか答える。
「ああ……笑顔で、な……」
ルーセルは、ここでやっと、俺に飛び切りの笑顔を見せてくれた。俺はその宝石のような輝きをしっかりと脳裏に焼き付け、どうにか、笑顔を作る。
「じゃあ……アールス、ずっと、好きだったよ……」
「ああ……俺も……好きだったよ。世界で、ぶっちぎって二番目に、な……」
俺を引き寄せるルーセルの柔らかな力を感じ。
「さよならは……」
「言わないから……」
ルーセルのあたたかい吐息を感じ。
「「また逢う日まで」」
ルーセルの唇を感じた、ちょうどその瞬間。
意識が、溶けた。
最期の空は、透き通るほどに青かった。
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eternal separation
温かい。鼻孔をくすぐる、良い匂いがする。全身を、程よい圧迫感がつつんでいる。
これらの情報から導き出される事実は一つ。
「明!?」
明の話の後、俺達は無意識のうちに二人くっついたまま眠りに落ちてしまっていたらしい。いろいろと、あられもないことになっている。俺は気持ちよさそうに寝る明を起こさないように気を付けながら、ゆっくりとベッドから上半身を起こす。
戻ってきた。やっと、そう実感した。そして、もう戻れないのだとも、感じた。
全てを終わらせたと喜んで胸を張っていいのかもしれないし、全てが終わってしまったのだと悲しんで落ち込んでいいのかもしれない。その辺は、俺には分からない。
ただ、終わらせたことを後悔することだけは許されない。それは確かだ。なぜなら、俺が悔やむことは、俺のために行動してくれた明やルーセル、命を懸けて侵攻作戦を進めてきた向江を侮辱することになってしまうから。俺の悩みで振り回しておいて、結局ああしとくべきだったなぁなんて、俺が考えていいはずがない。
しかし――やっぱり、悲しい。夢の世界が俺から離れていってしまうのは。
ルーセルには「絶対会おう」なんて言ったが、実際に会おうとしたらそれこそ奇跡に頼る以外手はないだろう。おそらく、もうルーセルには会えない。あの世界で得た多くのつながりを再び感じるときは、永遠に来ない。
あの世界はずっと、俺にとってのユートピアだった。そしてそれは、失った今も変わらない。むしろ失ったがゆえに、より一層の思慕を感じる。
だが俺は悲しんでばかりはいられない。前に進まなければならない。あの世界で見て、聞いて、感じた全ては本物だ。ならばそれを未来への糧にしよう。そうして初めて、アーラに与えられた以外の、俺があの世界を生きた意味が生まれるのだから。幸いなことに、現実世界での俺の隣には明がいてくれる。迷った時に、俺の目の前を照らしてくれる存在がいる。明がいる限り、俺は前を向いていられる。
このまま、進んでいこう。明と、二人で。俺の新しい「日常な日常」を。いつかルーセルに再会できる日が来ると、心の隅期待しながら。
「え……?」
そう決めた。そう決めたのに――なんで今更になって目が潤むんだろう?必死に涙腺を閉めようとするが、どうしてもできない。
ルーセルの前では、結局流さなかった涙が、なぜ今更?分からない。分からないけど――
俺も、泣いていいかな。ルーセル。無性に、泣きたいんだ。こんな俺を、お前は情けないと笑うかな?ああ、でも、それもいいな。お前に会えるなら。
今すぐ会いたいよ、ルーセル。できることなら、明とお前と、三人で暮らしたい。永遠に。
ついに、俺の目から涙があふれた。とどまることなく、頬をつたっていく。
そして、窓から差し込む朝日に光りながら、天使のような微笑みを浮かべて寝る明の頬に落ちていく。
一粒、
また一粒と。
完結しました
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