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都会の空は四角い。
誰が言った言葉だったかは分からないが、それは現代社会の孤独と冷酷さを端的に表現している。都会の人の流れの早さは、この広大な空すらをも無機質にしてしまうのだろうか。
だが見慣れれば、そんな無機質も乙なものである。四角い空を丸く切り取るのは、自分の心でやればいい。心の自由だけは、どんな支配者でも縛ることは出来ない。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
手すりにもたれ、駅のバルコニーから、古明地こいしはぼうとして見下ろしていた。駅に向かう人々の流れを。
星の瞬く夜だと言うのに、こんなにも多くの人間たちが活発に動き回っている。それが珍しいのだ。妖怪の跳梁跋扈する幻想郷では考えられない事である。
季節は移り、もう息が白む事もない。少しだけ肌寒さを残した風が、街を吹き抜けて行く。
春。
幻想郷であれば、冬の終わりに駆けずり回っていた春告精が一休みをする頃合いである。これからどんどん暖かくなってゆくのだ。
そんなウキウキする季節だと言うのに、道行く人々は皆俯き加減だ。ネオンサインに照らされながら、くたびれた顔で足早に通り過ぎて行く影たち。こいしには知る由も無いが、残業帰りで満身創痍の企業戦士達なのだから仕方も無い。だが、こいしにとっては少しばかり不満がある光景だ。外の世界はもっと煌びやかで、楽しい事に満ち溢れていると思っていたのに。早々に飽きたこいしは、帰途に着く人々の流れに逆らって、階段を降りて行った。
ふらりふらりと、こいしは気ままに歩いた。人にぶつかっても気にしない。赤信号も気にしない。クラクションだって気にしない。こいしの心を、都会のルールで縛る事は出来ない。
ふと、こいしの顔に何かがペタリと張り付いた。
手で摘んで見てみると、それは桜の花びらだった。
釣られるように上を見上げる。そこにはライトアップされた桜の木が、自慢のその花びらを満開にしていた。
その時。少し強めの春風が吹いて、花びらが空へ舞った。
武骨なビル影に四角く切り取られた夜空の、その黒をキャンバスにして、桜の花が舞い狂う。キラキラ、キラキラと、地上の光を浴びて輝きながら。
「わあ」
降り注ぐ花びらの中。こいしは思わず声を上げ、手を叩いていた。
「きれい」
道行く人の流れは止めどない。
だが、中には足を止める者もいた。こいしと同じように空を見上げ、ほっと笑みを浮かべている。ほんの束の間の出来事。だがそれだけで彼らは、きっと明日も戦える。
四角い空も悪くはない。それを切り取る、心のはさみ次第だろう。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりはパッと顔を明るくしたが、すぐに眉をくねらせてしまった。「あんた何処行ってたのよ、まったく。桜の花びらだらけじゃない」
さとりは手箒を取り出して、こいしの肩や帽子の上に積もった花びらを払い除けようとしたが、こいしは首を振った。
「お姉ちゃん違うの。これ、おみやげ」
「おみやげ」
「いいでしょ、都会の桜だよ。お姉ちゃん、おみやげは都会っぽいものが良いって言ってたもんね」
にっこりと微笑むこいしとは対照的に、さとりは困惑した。こんなおみやげ、聞いた事ない。
「あんた、ホント自由ねえ」
釈然としないさとりは、何か小言でも言ってやろうと考えたが、
「……ま、いっか。ありがとう。ポプリにでもするわ」
こいしの屈託無い笑顔を見ていたら、その気も失せたのだった。
それから暫く、地霊殿は桜の香りに包まれていた。
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スプーン
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幸せってなんだろう。一体何処に在るんだろう。
目に見えないそれを探して、誰もが日常という激流の中をもがきながら泳いでいる。
形の無いそれを探して、誰もが人生という暗闇の中を手探りで歩いている。
人は皆、幸せ探す旅人だなんて、いつかの歌でも言っている。ようやく見つけたと思っても、大抵それは、飢えた旅人の蜃気楼。手を伸ばせば霞となって消え失せてしまう。
でもきっと、童話の中でもあるように。
青い小鳥は、いつだってそばに佇んでいるのだ。
「おかわりください」
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
都会の片隅にあるうらぶれた中華飯店のカウンター席で、古明地こいしはスプーンを握りしめていた。頼んだ炒飯のおかわりを、今か今かと心待ちにしながら。
厨房に立つ初老の男性――店主だろう――はこいしの注文に黙って頷くと、手にした中華鍋を火にかけた。
「よく食べるねぇ」
三角巾をした同じく初老の女性、恐らく店主の妻がにこにこ笑っている。人の良い女性で、慣れぬ散蓮華の扱いにこいしが苦戦していると、そっとスプーンを差し出してくれたのだ。
店内にはこいしの他に客はいない。昼時をとうに過ぎた午睡時。閑古鳥の鳴く時間帯に一人でやって来たこいしが物珍しいのだろうか、女性はこいしの隣に座って、大した話をするでもなく、ただこいしを見つめている。その瞳は、孫娘を見る時のように優しい。
小さな店だ、夫婦二人で経営しているのだろう。手が回らないのか、お店の内装は古びて傷んでいる。元は白かったろう壁は油染みで所々黄ばんでいるし、こいしの腰掛ける小さな丸椅子もクッションが破れて中身が出ている始末。こいしの住む大きな屋敷、いつも綺麗に整えられた地霊殿とは、何もかもが違う世界。
だけれども、こいしはこのお店が好きになった。
「ごはん、おいしいし」
右手のスプーンも期待に揺れている。
こいしの瞳は店主の動きに釘付けになった。
卵を二つ、片手でボウルに割り入れると、箸で手早く溶き混ぜる。卵を片手で割るなんて、こいしには逆立ちしたって出来ない芸当。かちゃかちゃと心地良く鳴る混ぜ音に合わせて、こいしは無邪気に手を叩いた。
店主の背が揺れる。
溶いた卵を熱した中華鍋に回し入れ、その少し後にお玉いっぱい分のご飯。店主が小刻みに手首を返せば、燃え盛る炎の上で金色に輝くご飯の津波が荒れ狂う。お玉を返し、厨房に置かれたボウル達から拾い集めるのは、細かく刻んだ焼豚、人参、グリーンピースの色鮮やかな具材達。それを跳ねる鍋に落とし入れれば、店主の手首が今度は水平に揺れる。年季が入って黒光りする中華鍋の海の中を、ぐるぐると黄金色の渦が回り。刻み葱を加え、ふわりと落とした塩胡椒で味を整えると、最後にまた鉄鍋が踊った。
鍋を傾け振り向いた店主が、お皿の上でお玉を返せば、おいしい炒飯の出来上がりである。
「わあ!」
喜ぶこいしはスタンディングオベーション。大袈裟な、と店主が苦笑いして、でも少し嬉しそうにはにかんでいる。
手を合わせてから、スプーンで炒飯をすくって口に運んだ。香ばしい香りと、口の中でパラリと踊る米の舌触りが堪らない。
「おじさんのそのお鍋、好き。おたまも好き」
唐突なこいしの言葉に、店主もその妻も首を傾げた。
「なんでお鍋とおたまなんだい?」
店主の妻が聞くと、こいしはにっこり笑って答えた。
「おいしいごはん作ってくれるし」
無邪気な言葉に、夫婦はそろって微笑んだ。
こいしにとっては、おいしいご飯を出してくれる魔法の鍋とお玉なのである。
「おばちゃんのスプーンも好き」
「スプーンも?」
「うん。こんなにおいしいごはんが食べられるんだもの」
ああ……そうね、と妻は微笑んだ。
こいしは一生懸命スプーンを動かしている。皿は見る間に空になった。店主も妻も、嬉しそうにその様を見つめていた。
立ち上がったこいしは、空のお皿をかざし、スプーンを握りしめ。そうしてやっぱり、こう言うのだ。
「おかわりください」
幸せってなんだろう。一体何処にあるんだろう。
こいしも、店主も、その妻も。もし旅人がそう問えば、きっとこう答えたろう。
それは、今この時の事だよ。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あらこいし。お帰りなさい」対面式キッチンから出てきた姉のさとりは、花柄エプロンを付けながら言う。「ちょうど良かった。ちょっと遅いけどお昼ごはん、あんたも食べる? 今から簡単にチャーハンでも作ろうかと思うんだけど」
「うん!」
嬉しそうに頷くこいし。
途端、こいしは大きくげっぷをした。
「……あんた、外でなんか食べてきた?」
「チャーハン、食べる!」
「あ、ああそう。ま、いいけど」
訝しく思うさとりだったが、いつものことかと思い直して準備を始める。
卵を両手でぎこちなく割り、大きめのボウルへ落とした。その中に昨日の残りの冷やご飯を入れてよく混ぜる。熱したフライパンに油を敷き、小さくちぎったハムとピーマンを入れて少し炒め、そこへ先ほどの卵混ぜご飯を投入。薄く広げた卵ご飯を軽く叩くようにして炒めれば。
「古明地家秘伝、超簡単チャーハンの完成よ」
「またの名を雑チャーハンだね」
「お、美味しければいいのよ!」
こいしの前に盛り付けた皿を置く。マイスプーンを握りしめ待ち構えていたこいしは、先を争うように食べだした。そんなにお腹が空いていたのだろうか、さっきごっついげっぷをしてたくせに。
さとりはこいしの食べる所を見るのが好きだ。この子はどんなものでも本当に美味しそうに食べるから。見ているほうもお腹一杯になってしまうくらいである。
一心不乱に食べるこいしを見て、さとりはクスクスと笑いながら訊ねた。
「どう、こいし。おいしい?」
「べちゃべちゃしててまずい!」
即答に、ガクッと崩れるさとり。
「あ、ああそう……」
まずいと言いつつ、こいしは笑顔でもりもり食べている。どっちだよ。これじゃ悲しめばいいのか、喜べばいいのか分からない。
心を読む覚妖怪にして地霊殿の管理者、古明地さとりと言えども、妹の心だけは読めない。自由奔放な妹を見つめて、ただただ溜め息を吐くしかなかった。
不意に顔を上げたこいしは、握ったスプーンとさとりを交互に見つめて、ぽつりと言った。
「このスプーンも、好き」
そう言って、こいしはまたスプーンを忙しなく動かした。
スプーンかよ。お姉ちゃんの作ったチャーハンって言えよ。私のチャーハンは無機物に負けるんかい。
喉まで出かかった言葉をチャーハンで押し込む。
確かにべちゃべちゃしてて、つまり、いつもの味だった。
「あーもう、どうやったら美味しくなるんだろ」
さとりが溜息を吐いている間に、こいしは自分の分を平らげてしまった。
じっ、とこいしが見つめてくるので、さとりは仕方なく、自分の皿をこいしの方へ押しやった。
「いいの?」
「あんたの食べるの見てたら、お腹一杯になっちゃった」
喜色満面、こいしはチャーハンにがっついた。よく食べるな、さっきごっついげっぷをしてたくせに。妹の健啖ぶりに、さとりはただただ呆れるしかない。でも、自分の作った料理を夢中で食べてくれるのは、素直に嬉しいと思った。
あんまり美味しく作れなくてごめんね。
その台詞は、口にしたって詮無いこと。
「あーもう。ほっぺにおべんと、たくさん付いてるわよ。まったく……」
幸せってなんだろう。
さとりにとっては、妹の頬に付いたご飯粒を取ってあげる今、この時かもしれない。
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凧揚げ
「それっ!」
中指と薬指でしっかりと紐を握りしめ、そのまま素早く腕を突き出す。手首のスナップを効かせるのがコツなのよ、とは姉のさとりの言葉である。
こいしの手から放たれた独楽が美しい放物線を描いて飛ぶ。七色の渦巻き模様が描かれたそれは、カチリと音を立てて着地すると、鮮やかな虹になった。ざらざらとしたアスファルトの上で踊るせいで、不安定に揺れてカラカラ音を立てている。それがまた心地良いとこいしは思う。
「わぁ、上手だね」
小さな女の子が手を叩いた。冷たい地面におしりをペタリとつけて、虹色になった独楽を覗き込んで喜ぶ。こいしは少しこそばゆくなって、鼻をこすった。
「でしょ? お姉ちゃん直伝なんだから!」
「おねぇちゃんのおねぇちゃん?」
「うん。とっても優しくて、あったかいのよ」
「いいなぁ」
「ふふん。いいでしょ」
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
大きな川を一望する堤防の上で、古明地こいしは独楽遊びに興じていた。
堤防と言っても、子どもが遊ぶには十分すぎる広さがある。小高く分厚い堤防の上には道路が舗装され、大人が数人手を広げても余りあるほどの広さの道が、川上から川下へと延々伸びているのだ。こいしには知る由も無いが、ここは地元でも有名なランニングコースになっている。普段は散歩する人や汗を流す人々で賑わう道。とは言え、年明け早々の朝である。大人たちはこたつで丸くなる頃合い。今は風になった子どもたちの恰好の遊び場になっていた。
澄み渡る青空の下、はしゃぎ回る子どもたちの声が楽しげに響く。大人達は早々に疲れてしまったのか、堤防の端に座ってそれを眺めている。時々手なんて振って。その姿がなんとなく姉に重なる。昔はよくお姉ちゃんと羽子板勝負をしたものだわ。懐かしさが込み上げて、胸の辺りがくすぐったくなるこいしだった。
独楽に紐を巻き付けていると、何かがちらりと視界の端を横切った。誘われて見下ろした河川敷では、子どもたちが凧揚げに興じている。
凧揚げ。
そう言えば、こいしはあまり凧揚げをした事がなかった。妖怪である身上。凧を揚げるまでもなく、こいしは空を飛べる。飛ばすよりも飛ぼうと思うのは当然かもしれない。昔、姉のさとりに揚げ方を教わったけれど……。
ふと、こいしは服の袖を小さく引っ張られるのを感じた。
小さな女の子が、期待のこもった目でこいしを見上げている。
「あれやりたい。やろうよ、おねぇちゃん」
「凧揚げ、かあ。私、飛べるからなぁ……」
「おねぇちゃん、おそら飛べるの?」
「ひみつだよ?」
唇に指を当てて、ナイショのポーズ。
さぞ食い付いて来るだろうと思いきや、
「わたしは飛べないもん。やろうよ」
女の子はそう言ってなおも袖を強く引っ張ってくる。見ると、後ろ手に真新しい凧を隠していた。そういう事か、とこいしは思った。
「ん。じゃ、やろっか!」
女の子の手を引っ張って、こいしは土手を駆け下りた。
河川敷の広場に出て、両手を広げる。心地良い風が吹き抜けて、心がウキウキと弾むのを感じる。そのまま深呼吸、胸を満たす冷たくて清々しい風。なんだか身体の中からキレイになっていくよう。
赤いビニール製の凧の本体には何かの絵本のキャラクターがプリントされていた。こいしはそのキャラクターを知らなかったが、優しい絵柄が気に入った。空を見上げると、一面の青。この青の中を凧が飛び行く様を想像すると、自然と気持ちが逸る。ああ、そうかとこいしは思う。今まで凧揚げに心惹かれなかったのは、きっと地底に青いお空が足りないからなんだわ。
女の子に糸巻きを持たせてあげて、こいしは風下に立ち凧を掲げた。
「少しずつ糸を出しながら、風に向かって一緒に走るのよ。凧が風に乗ったら時々糸を引くの」
「う、うん」
「それじゃ、行くよ!」
掛け声とともにこいしと少女は走り出した。
少し走ってから、こいしが掲げた凧を放そうとしたその時。少女がすてんと転んでしまった。後ろの凧が気になって、足元がおろそかになっていたのだ。
「だ、大丈夫?」
こいしが駆け寄って声をかけると、
「うん。もう一回」
少女はにっこり笑って頷いた。
再び走り出す二人。
流れる景色。風が吹くのを肌で感じる。今だ。掲げた凧を上へ押し上げるようにして放した。
走る少女の後を追うようにして凧はしばらく滑空していたが、やがてくるりと一回転すると、地面に墜落してしまった。
「また失敗かぁ。……もう一回!」
少女はあきらめない。
走って、転んで、起き上がって、また走って。
それでも凧は揚がらない。
「せっかくパパに買ってもらったのに……」
「うーん……」
がっかりした顔で少女が言うから、こいしもすっかり困ってしまった。
所在なく凧の糸を手繰っていた時、
「あ」
こいしは不意に、姉のさとりの言葉を思い出した。
『こいし。今日は風が弱いから、糸目を少し上にずらしましょう。そうすると、風の弱い日でも揚がりやすいのよ』上手く揚がらなくて泣いたあの日。そう言って糸目をいじる姉のあの手つき、あの横顔。折角教えてもらったのに……結局、別の遊びばかりやっていた。
あのときの姉も、こんな気持だったのだろうか。
「……ごめんね、お姉ちゃん」
思わず口をついて出る言葉。つぶやきは風に乗って冷たい空に散っていってしまった。
あの日には、もう戻れないけれど。
「これくらい……かな」
こいしは姉の手つきを思い出しながら、凧の糸目を少し上にずらした。
「今度は揚がるよ、きっと」
「ほんとう?」
「もちろん。お姉ちゃん直伝なんだから!」
こいしが胸を張ってそう言うと、泣きそうだった女の子も笑った。
風に向かい、もう一度走るこいしと少女。
こいしが掲げた凧を押し上げるようにして放した時。風を捉えた凧はぐんぐんと上昇し、大空高く舞い上がった。
「揚がった、揚がった!」
女の子が歓声を上げる。こいしも少女に駆け寄って、一緒になって糸を引いた。
凧はその赤い身を自慢げにひるがえしながら、悠々と風に揺れていた。
「すごいすごい、高い!」
興奮してはしゃいでいる女の子を見て、こいしも嬉しくなった。
見上げた青い空には、あの日揚げられなかった凧が元気よく泳いでいる。
こいしは、大空に向かって手を伸ばした。
「届かないものに手を伸ばすのも、楽しいね」
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりは口元に運びかけた箸を戻して、こいしに笑いかけた。「おせちあるわよ、おせち。一緒に食べましょ。栗きんとんあるわよ、栗きんとん。いやぁ、おせちの何が好きって、やっぱコレよねえ」
「お姉ちゃん、凧揚げしよ、凧揚げ」
「え、凧揚げ?」
「そうそう、お正月だし!」
こいしは興奮してバシバシテーブルを叩くのである。
「えー、でも、栗きんとん……」
「いいから、早くやろうやろう!」
こいしが手を引くものだから、栗きんとんに後ろ髪を強く引かれつつも、さとりは中庭に出やった。
「ほらほらこれこれ」
「あら懐かしい。こんなのまだ在ったのね」
倉庫から引っ張り出してきたのか、こいしは埃だらけの和凧を抱えている。
「そう言えば昔、二人で揚げたわね。あんたは揚げるの下手くそで、すぐ飽きちゃって……」
「いいからやろう!」
「分かった分かった、分かったって」
埃を払い、凧の状態を確認する。長く放置していた割にはどこも朽ちていないようだ。これならまだ十分に使えるだろう。今日は風が弱いから、糸目は上だ。クイクイと糸目を引き絞って調節する。その様子をこいしがニヤニヤしながら見ている。こんな地味な作業を見て何が楽しいのだろう。この娘は時々分からない。
風上へ向けて軽く走りながら糸を送り出す。風の手応えを感じたその時に軽く糸を引くと、凧はスルスルと揚がった。
「うわすごい。さっすがお姉ちゃん!」
こいしが手を叩いて喜んだ。尊敬の眼差しがこそばゆい。初詣のおみくじも大吉だったし、今年は良い事ありそうだ。
「うふふ。すごいでしょ。これでも昔は地底の遊戯王って呼ばれてたんだから」
「すごすぎてちょっと引くわ」
「えっ」
「貸して貸して」
こいしがせがむので糸巻きを渡すと、こいしは夢中でそれを引いていた。そのはしゃぎように、わんぱくだった幼いころの妹の姿が重なる。なんだかあの頃に戻ったみたいだなあと、ノスタルジーを感じたり。……まあ、こいしは今も十分、わんぱくだけれども。
「あら、独楽もあるのね」
これも倉庫にあったものだろうか。こいしが広げたお正月の遊び道具一式から、さとりは投げ独楽を取り出した。
「懐かしいわね。これは手首のスナップを効かせるのがコツなのよねえ」
「うんうん」
糸を巻きながら言うと、こいしはニコニコと頷いた。
独楽回しも久しぶりだ。さとりは感覚を思い出すようにゆっくり糸を巻き込むと、中指と薬指でしっかりと紐を握りしめ、そのまま素早く腕を突き出した。
「それっ! ……あ」
気合一閃、放たれた独楽は勢い余って地霊殿の窓ガラスを突き破り、派手な音を立てた。
唖然とするさとりの背中を、こいしの視線がちくちくと刺す。
「お姉ちゃん……」
「ちがうのよ、こいし、手が滑って」
「台無し……」
「こいし」
こいしの尊敬の視線が見る間に溜め息に変わった。
しかも正月早々、大掃除決定である。なんてツイてないんだろうか。何が大吉だ、博麗神社のおみくじなんてもう絶対信じないぞ。さとりはそう心に誓うのだった。
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行き先
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※置いてあるのは同じです。
下町の側溝を無邪気な雨達が流れて、小さな川が出来ている。街の片隅で起こる、そういう他愛の無い、ありふれた、ちょっとした動きを見ているのが好きだ。
この子達はどこに行くのだろう。この子達しか知らない楽しい場所がどこかにきっとあって、みんなそこを目指しているんだわ。微笑ましく思う一方、それは少し羨ましくもある。自分にはそうまでして急ぎたい場所が無いから。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
降りしきる雨の中、古明地こいしは道端に立ち止まって、雨を眺めていた。
梅雨にはまだ少し早いこの季節、暑さと寒さの入り混じった風に雨の匂いが乗って。春でもなく夏でもない、このぽっかりと穴が空いたような宙ぶらりんの季節に、少し心がそわそわとざわめいていた。「滅びろ梅雨、滅びろ湿気」なんて姉のさとりは毒付いていたが、こいしは雨も好き。雨の香りは今まで気付かなかった街の新しい顔を教えてくれるし、何よりお気に入りの傘を堂々と差せるから。姉に買ってもらった水玉模様の桃色傘を差すのが、雨の日の一番の楽しみである。
細い道路の向こうには公園があって、子供たちが喜声を上げている。色とりどりの雨合羽を着た男の子達が、ぬかるんだ地面の上を縦横無尽に駆け回って、雨などまるでおかまいなし。滑って転んで泥だらけになってもまた立ち上がり、元気に駆けて行く。何だか見ているこっちの方まで駆け出したくなってしまう。
ふと視線を上げると、十字路の角に朽木色をしたお店が建っているのが見えた。駄菓子屋だ。かなり年季の入った店のようで、柱など少し傾いているし、屋根も所々剥げていた。店の前に置かれたベンチはすっかり錆び上がって背もたれなど無く、自動販売機のウインドウにもヒビが入っている。
それでも、大きく開かれた引き戸の向こう側には、様々な種類のお菓子がひしめき合っているのが見えた。
「わぁ」
人間の里にある駄菓子屋ならこいしも行った事がある。そこは、沢山の色あざやかなお菓子に囲まれた、子供達の桃源郷。
外の世界でも幻想郷と同じお店に出会えた事で、こいしは嬉しくなった。
傘を畳んでさっそく店の中に飛び込むと、まずこいしを出迎えたのは、山盛りになったキャンディ、風船ガムなどの小さなお菓子。どれもこれもカラフルな包装につつまれ、様々なキャラクターがプリントされている。そう言えば、姉が風船ガムをふくらませるのが上手くて、子どもの頃に何度も真似しようとしたのを思い出す。結局、上手く出来なかったんだっけ、リベンジのチャンス到来である。
こいしも大好き、チョコレートはすぐ隣にあった。一文銭みたいに穴の開いたチョコレートや、パイプの形をしたもの、中には金の延べ棒を模した金ピカのチョコまである。食べるだけでなく、手にとって一つ一つ眺めているだけでも楽しい。他にも、定番のソースせんべいだとか、ミニドーナツだとか、スナック菓子などが置かれている。里の駄菓子屋よりも数も種類も圧倒的に多い。
奥の棚には瓶詰めにされた酢だこやイカ串が置かれていた。壁際には木刀みたいに長い麩菓子が圧倒的な存在感を放っていたが、さすがのこいしもあれを食べきる自信は無かった。
小さな籠を抱えて狭い店内を行ったり来たりする。あれも欲しい、これも欲しい、ああ、おこずかい足りるかしら? 悩むのもまた楽しいのだ。
「お嬢ちゃん、駄菓子、好きなの?」
一杯になった籠を会計机に置くと、ニコニコ顔の老婆が語りかけてきた。
「うん。好きだよ。だって楽しいじゃない?」
買ったスナック菓子をさっそく口に入れながら、こいしは頷いた。
「うれしいねえ。近頃の子どもはこういうお菓子なんか食べなくて。子どもより大人のお客のほうが多いくらいさ」
「そうなんだ。こんなに楽しいのにね」
「好き嫌いって奴が変わってきてるのかね。子どもも、大人も。昔はよく売れてたそのお菓子も、今じゃ販売中止になっちまって」
「えっ?」
こいしは思わず、手に持っていたスナック菓子を見つめた。いびつに巻いたその形がとても貴重なものに思えて、なんだか食べるのがもったいなくなってしまう。
「こんなに美味しいのになあ……」
こいしの閉じた瞳では、人の心を見ることは出来ない。ましてや、時代の流れなど。
「また来るね、おばちゃん」
こいしがそう言って手を振ると、店主の老婆は静かに微笑みながら言った。
「今月で店、閉めるんだ」
「……そう、なんだ」
寂しさだけを残して。
いつか必ず、終わりは来る。
幕が降りたなら、こいしはどこへ行けばいいのだろうか。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりは櫛を片手に髪を梳かしながら、イライラと眉をくねらせていた。「あーもう、雨は嫌ねえ。髪が巻いちゃうじゃない、もうっ。滅びろ湿気!」
「お姉ちゃん、天パーだもんね」
「あんたストレートよね、ちくしょう、うらやましいわ。なんで私だけ呪われてんのよ。姉妹なのにずるいじゃないの」
さとりは帽子を胸に抱いたこいしを見やって、首を傾げた。
「……なんかあったの?」
「ううん」
こいしは首を振って否定した。
だけれども、さとりにはお見通しである。たとえ妹の心の声は聞こえずとも、それくらいは分かる。こいしはさとりの妹なのだから。
こいしは昔から、そういうところがあった。奔放そうに見える妹はその実、内に抱えこむ癖を持っている。つらいことがあっても、ひとりでじっと耐えてしまうのである。
「こいし。おやつ食べましょ、おやつ。こういうときは食べて忘れる、古明地家秘伝の気分転換術よ」
さとりは言うがはやいか、机の中をごそごそと漁った。
「面白いのが入ったのよ。外の世界のおやつなんだけどね、なんか最近、幻想郷に大量入荷されたみたいで。めっちゃ安かったから、死ぬほど買ってきてやったわ」
取り出したそれを皿に移して、こいしの前に置いた。
こいしはそのコーンスナックを手に取ると、しげしげと眺めた。
「……そっか。ここが、その先の場所なんだね」
そう言って、こいしは笑った。
なんだかよくわからないが、元気が出たようで何よりである。流石は古明地家秘伝、ご先祖さまありがとう。さとりは心の中で手を合わせつつ、スナック菓子をつまんだ。
さくさくさく。
「私、これのカレー味めっちゃ好きなのよねえ」
「わたしいちご味すき」
「えっなにそれ、そんな味あんの? マジで?」
さくさくさくさく、姉妹二人で。
早くも一袋食べ終わってしまったので、さとりは次の袋を開けた。
「雨だから。早く食べないと湿気っちゃうから」
誰に宛てたのか、言い訳しながら。
「お姉ちゃん」
「なぁに、こいし」
「ちょっと太った?」
スナックくずが気管に入り込んで、さとりは盛大にむせた。
「ちょちょちょ、何言ってるのよこいし。地霊殿の主は少女なのよ、そのプロポーションは完璧、鉄壁、絶壁……」
「おなかぷにぷに」
こいしに腹をつつかれ、さとりは早くも前言をひるがえしてご先祖さまに罵詈雑言を浴びせた。
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紅葉
あのネーミングはどうなんだろーってちょっと思いますよねえ。
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※置いてあるのは同じです。
展望台代わりに無骨な鉄塔がぽつりと立つだけの味気ない山頂を後にして、山特有の急階段を下る。
知らず、溜め息。
姉のさとりの為に買ったお土産のサイダーを無意識に開けてしまって、仕方無しに口を付けた。爽やかな甘味が口の中で広がって、何だか申し訳ない気持ちになってしまう。思う。ああ、汗ばむ体の上を冷えた心が上滑りして行く。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
アスファルトに刻まれる喧騒を離れ、古明地こいしは小高い山を登っていた。初冬、吐き出す息が白み始めるこの頃。深紅に染まる木々に囲まれて、姉の編んだ同じくらいに赤いマフラーと手袋とを着けて。
目的はこの秋色に色付く山々、それ自体。そう、紅葉狩りである。だが、待ち望んでいたはずの景色を前にしても、こいしは寒さを覚えるばかりだった。マフラーがあって良かった、心からそう思う。
風景は確かに美しい。我先にと天へ手を伸ばす木々の、枝元から枝先にかけ緑から黄、黄から赤へとうねり行く色の波は見応えがある。差し掛かった眼鏡橋の上から山並みを見下ろせば、さんざめく緑と黄と赤の斑らと青い空のコントラストが見事だ。
それでも何故か、こいしは満たされなかった。首に下げたカメラもあまり使っていない、折角知り合いの天狗に貸してもらったのに。自分でも分からぬ飢えに心戸惑いながら、こいしは山を下った。
下り道の途中に立つ看板をふと見やると、渓流沿いの散策路が示されている。どうせなら少し道を変えようと、こいしは道を曲がった。
尾根伝いに歩いて行くと、次第に土が粘り気を帯び始めた。山道だから当然とはいえ、道は整備されておらず、剥き出した木の根の間に詰まった土を踏み固めただけのもの。その勾配は急というよりむしろ壁のようで、こいしは仕方無く手袋を外した。先を歩いた誰かの跡に靴を合わせると、胸がどきりとする。腰を落として、木の幹に捕まり、足を伸ばして、身体全部を使い慎重に下って行く。
進むに連れ、転がる石ころが増える。川が近いのだ。木々の目隠しを超えた先に、果たして谷の狭間を走る小さな水の流れが見えた。
こいしはてっきり川沿いの道が続くものだとばかり思っていたのだが、どうやら散策路にはこの川自体も含まれているようだ。道は小川と思い切り交差を繰り返し、その度に水面から突き出た石の上を飛び跳ねて川を渡る。河原と云うべきなのかどうか迷うような、小川のすぐ脇を走る粘土質の道に何度も出くわした。この道、雨が降ったら水底に沈んでしまうんじゃないかしら? 視線は足元に釘付けとなり、周りの景色を見やる余裕など無い。靴の間に泥が詰まって摩擦を奪い、何度も転びそうになってしまった。
こいしは歩くことに集中してしまって、ほとんど無意識に足を動かしていた。視界は次に踏むべき足場を探し、耳に届くのは遠くで聞こえる滝の音だけ。泥だらけになってしまって手袋をつけるわけにも行かず、冷たい外気が手指の骨にまで染み入るよう。
ああ、これじゃあ郷にいるときと変わらないわ。
心の片隅でそう嘆いた。
その時、道から外れた川の対岸で三脚付きのカメラを構える人を見つけた。こいしに向かって何事か言っているのだが、それはこいしの聞いたことのない言葉だった。カメラをこちらに向けて手を振っているので、察したこいしは慌ててカメラの画角を空けた。
彼の人がカメラを向けていたほうを見上げると、切り立つ崖に幾筋もの縞模様が見えた。白、茶、灰、黄、色とりどりの線が何筋も並行して走る。
「この辺りで新しい地層が見つかったとかで」途中の茶屋で老婆が話していたのを思い出す。「何千、何万年前の地質がどうだとかで、学者連中が来るようになってね」
ああ、あれが地層というやつか。土に囲まれた地底に住んでいながら、こいしは今まで地層の事などまるで興味がなかった。今、こうして見上げてみると、地層というのも紅葉に負けないくらいに美しい。幾筋も走る縞模様、壁面を覆う苔の青、崖上にたくましく育つ赤黄に色付いた木々。その上に輝く空は、きっとこの縞が刻まれ行くその時も蒼かったのだろう……今、この瞬間のように。誰かの跡に靴を合わせときのように、胸がどきりとする。これが歴史というものなのかとも思う。
そして新たな発見。地層の隙間から水が染み落ちて、それが川に注いでいる。見回すと、この谷のそこかしこで同じ様に水が染み出していた。ああ、さっき滝の音だと思っていたのは、この音が連なったものだったのか。地面を向いているだけじゃ気付けない。やっぱり人は、青いお空を見上げなくちゃ。
ひらひらと舞い落ちてきた紅葉の葉を取り、ハンカチでそっと包んだ。姉へのお土産にしよう。きっと喜ぶわ。
赤いマフラーを巻き直すと、こいしは再び歩き出した。その足取りは軽やかで、いつの間にか、身体は温まっていた。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりはこいしの首元にマフラーがあるのを見やると、ほっと胸を撫で下ろした。「ああ、あんたが持って行ってたのね。失くしたのかと思って探しちゃったわ」
「ごめん。勝手に持って行っちゃって」
「いいのよ。元々、あんたの為に編んだやつだし」寒い思いをしていないか心配だったが、杞憂だったようだ。「それよりあんた、泥だらけじゃないの。早くお風呂に入ってらっしゃいな」
こいしにそう言ってから、立ちかけた安楽椅子に再び腰を深く埋めると、さとりは編み物の続きに戻った。今はセーターと格闘中なのだが、こいつが中々厄介なのだ。冬本番が来る前に仕上げてしまいたいので、実は割りと焦っている。
こいしは風呂に向かわず、トコトコとさとりのほうへやってくると、桃色のハンカチを開いた。
中には、真っ赤な紅葉が一葉。
「お姉ちゃん、はい、お土産」
「お土産」
「綺麗でしょ?」
「……あー。紅葉狩り行ってたのね」
「地層も見てきたよ。綺麗だった」
「そういや、外の世界ではなんか猫の妖怪みたいな名前の地層が有名になってるらしいわね。私もいつか行ってみたいわ」
「お姉ちゃん、そういうのに興味あるの?」
「あるわよー、ありまくりよ」ちくちくと編み物を勧めながら、さとりは言った。「私、恐竜とか昔のものが好きなのよね。古代のロマン、いいじゃない。恐竜ザウルスとかめっちゃ読んでたし」
「なら行けばいいじゃない?」
「まあ、今は急いでこれ仕上げないと。あんたが寒い思いしちゃうでしょ」
「我慢することなんてないわ」
「でもわたしゃ、お姉ちゃんだから。遥か昔に生きてた恐竜とか、土くれとかなんかより、目の前のあんた達の方が大事なの」
少しの間、暖炉の火が跳ねる音と、編み針の動く音だけが部屋を満たした。
「こいし?」
何も言わない妹を訝しく思って見上げるが、こいしは帽子の奥に視線を隠してしまった。
その花のように愛らしい唇をそっと動かして、こいしが言う。
「……お姉ちゃんて、時々すごく格好良いよね」
「な、何よ唐突に。照れるじゃないの、もっと言って」
「お風呂入ってくる!」
くるりと背を向けると、こいしは部屋を出ていってしまった。ドタドタと派手な音を立てながら。相変わらず自由奔放な妹である。残された赤い紅葉の葉を取って、ポケットにしまう。後で栞にでも使うとしようか。
しかしやべえよ、まだ後ろ身頃すらも出来てない、こいつは徹夜も覚悟せねば。さとりは袖捲りして気合を入れると、再び編み針を取った。
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記憶
そそわはこちら→http://coolier.dip.jp/sosowa/ssw_l/225/1570344899
※置いてあるのは同じです。
「えー……」
こいしは思わず声を漏らした。肯定的な意味ではなかった。おかしいな、有名な観光スポットだって聞いていたんだけれど。地図が指し示すのは、がらんとした広い駐車場のその隅っこにある、ただの草薮だ。あまりに予想外過ぎて、手にしたガイドブックを二度見する。地図は間違っていないみたい、何度確認しても方角は合っているし、よく見れば草薮で埋もれた地面は舗装されていたから。
ふらりふらりと、幻想の檻を抜け出して。
夕暮れ近づく逢魔ヶ時。古明地こいしは地図を片手に途方に暮れていた。旅館の女将に聞いた地元で有名な橋とやらを見に来たのだが、その場所があまりに寂れていたからだ。なんというか、博麗神社へと続く山道にそっくりである。本当に観光スポットなのか疑いたくなるほどだ。
「うーん……」
流石のこいしも腕組みして迷ってしまった。引き返そうかしらん。しかし、折角だからと草薮に分け入った。その決意を固めるのに、たっぷり二分はかかったが。
道はおしゃれな紅色のアスファルト塗装で、所々に道幅を示すポールも立ててある。だがそれ以上に草木の繁殖力が強く、紅色は緑色で覆い隠されてしまっていた。自己顕示欲の高いぺんぺん草共が、こいしのふくらはぎとふとももとをチクチク刺してきてこそばゆい。まさか、いつものスカート姿でやって来た事を後悔する羽目になるとは。
道を曲がると、沼にかかる一つ目の橋に出くわす。欄干と床板が木造だが橋脚は鉄筋で補強されており、ほとんど揺れることはない。ガイドブックにあるとおり、沼の向かいには目的のもう一つの橋がその美しい姿を見せている。しかし風情はあまり無い。この橋の鉄で出来た塔が上に張り出して、強烈な自己アピールをしているからだ。実はその鉄塔こそがこの橋の名の由来になっているのだが、知らぬこいしには景色に割り込む邪魔者でしかなかった。
橋を渡り終え少し歩くと、ちょっとした広場に突き当たった。ブランコやローラー付きの滑り台、ジャングルジムなどのアスレチック施設が見える。きっと地元の子供達の遊び場なのだろう。
だが、近づいたこいしはすぐさまその認識を訂正することになった。
滑り台のローラーの隙間からは草がはみ出していて、長いこと使われていないように見える。階段も錆びついて、こいしはおろか小さな子どもでさえも登るのは危なそうだ。ジャングルジムは近くの木が枝を伸ばして半分隠れてしまっているし、ブランコに至っては座席のすぐ前に背の高い草が伸びて、花までつけている始末である。あれでは遊べそうもない。
そして、さっきから人の気配がまるで無い。聞こえるのは葉擦れの音と、こいしのため息ばかりだ。
おかしいな、有名な観光スポットだって聞いていたんだけれど。思考が巻き戻ってしまって、歩みも止まる。やっぱり引き返そうかしらん。その誘惑と、折角だからという思いがぶつかり合いせめぎ合い。結局、旅先で出る冒険心が勝って、こいしは重い足を再び持ち上げた。その決意を固めるのに、たっぷり五分はかかったが。
続く道は先程の広場よりももっとジャングルしていて、大量の草と蜘蛛の巣と倒木とが盛大にこいしを歓迎してくれた。草を払い、蜘蛛の巣をくぐり、倒木を飛び越えて進む。気分は探検隊だ。その間も草はチクチクふとももを刺し、羽虫がぶんぶんこいしの周りを踊る。ああもう、虫よけスプレー持ってくればよかった。口を尖らせ、過去の自分を責め立てる。まあ、こんなの予想出来るわけないのだけれど。
そうして、ようやくこいしは橋へとたどり着いた。
それは、大きな屋根付き木橋。薄く青みを帯びたトタン屋根が特徴で、橋の間には二つの建物があり、展望デッキになっているようだ。大きな沼の中に夕日を浴びて悠然と建つ姿は、確かに美しい。橋の向こうを側見通せば、まるで千本鳥居のように折り重なった梁が幻想的な雰囲気を醸し出している。
こいしは橋の中へと足を踏み入れた。
整然と並ぶ柱が不思議な安心感を与えてくれる。屋根が創る優しい薄闇、その間を吹き抜ける風。欄干にはすべすべとした上品な木材が使われていて、まだその白さを残している。橋は意外と新しいようで、掛けられてからそう長い年月は経ていないようにも見えた。往時はさぞ心地よい香りがしたに違いない。
だが、橋は鳥の糞で汚され、蜘蛛の巣が張り、青い黴がはびこって、歪な斑模様になってしまっていた。しばらく人の手が入っていないことは明らかだった。
二階へと続く木造の階段を登り、展望デッキに出てみる。静かな沼を一望出来る風情は素晴らしいが、吹き抜ける風がこいしに寂しさを与えた。
新しいはずなのに、ここは既に人々の記憶から忘れ去られようとしている。そう感じる。時間の流れには、どんな素敵なものだって太刀打ち出来ないのだろうか。
きっと、昔は。
でも、今は。
打ちつけるような静寂に、身を任せて。遠く斜陽を浴びて回る風車の回転を一人、こいしはただ見つめていた。
「ただいま、お姉ちゃん」
「あら、こいし。お帰りなさい」姉のさとりは眉を吊り上げて、珍しくぷりぷり怒っていた。「あんたちょっと、お燐とお空見なかった?」
「ううん」
「そう。まったくあの子達、どこに逃げちゃったのよ、もうっ」
そうして爪を噛むさとり。足はイライラと貧乏ゆすり。わりと短気な所があるさとりだった。
こいしは首を傾げた。
「どうかしたの?」
「いや、あの子達、これから橋の大掃除だってのに逃げちゃってね。まったく」
「橋って、あの橋姫のいる?」
「そ」橋脚の一つ一つに百鬼夜行図を彫るという凝った造りになっている、嫉妬が専売特許のはずの橋姫でも自慢するほどの芸術品だ。「旧地獄で唯一のまともな観光スポットだもん。綺麗にしとかなきゃ。それに私達地霊殿がやらないとだぁれも整備しないでしょ、あんなでっかい橋。橋姫だけじゃ過労死しちゃうわよ」
それなのに、お燐にお空ときたら。
最近、ペット達のさぼりグセがひどい気がする。もしかして舐められてるのだろうか? 飼い主として、ここらで一つビシっと言ってやったほうが良いのかもしれない。
「でもさ」
こいしは帽子を胸に抱えた。
「そんなことしても意味無いかもしれないよ。旧地獄のことなんて地上の人はもう忘れてるだろうし、どうせ橋もいつか無くなっちゃう」
さとりは溜息を吐いた。
またどこかでセンチメンタルにかぶれて来たのか、この妹は。
毎度毎度仕方の無い子だが、放ってもおけない。
「馬鹿ね、あんたは」さとりはこいしの髪を撫ぜながら、優しく言った。「自分の存在価値ってのは自分で生み出すモンなの。そうしないと、誰からも忘れられちゃうわ。いくら待ってたって、路傍の小石に蜘蛛の糸を垂らしてくれる奴なんて現れない。誰かに見てもらうためには、自分から輝かないと」
「輝く」
「それに。あんな素敵な橋が腐っちゃうなんて、もったいないでしょ? ご先祖様に申し訳が立たないわ」
「……うん!」
さとりがウインクしてみせると、こいしはパッと顔を輝かせた。
「お姉ちゃん、私もお掃除、手伝う!」
「あらそう?」
こいしがそんな事言うなんて珍しい。今日は槍でも降るのだろうか。
だが、妹がようやく地霊殿の活動に興味を示してくれたこと、さとりは素直に嬉しく思った。
「じゃ、お願いしちゃおうかしら」
さとりはこいしに仕事道具一式を手渡した。
「……何これ」
「何って、水着だけど」
「水着」
「それ着て橋の掃除するの。もちろん通行料とってね。作業着も要らないし、見物客も集められるで一石二鳥でしょ。それで橋脚掃除すれば、上から見下ろしても下から見上げても絶景って寸法よ。きっと橋を往復する客が続出するわね。これで外貨もがっぽりよぉ!」
そうしてさとりはガッハッハと笑った。
こいしは水着を投げ捨てた。
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