されど殺人者は魔法少女と踊る (お茶請け)
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序章 ザッハドの使徒
プロローグ


普段はギャグもの書いてますが、たまにはこういうのも書いてみたいなぁって。
キツイ描写があります。

■ ■ ■

 世界にはきれいでかわいい、本物だけがあればいい。
 そのきれいでかわいい本物の私たちが、バカで間抜けで貧乏で汚い偽物の人間を殺して、なにが悪いわけ?

 ペネロテ姉妹の犯行声明 皇暦四百九十六年

■ ■ ■


 ――――ある物語が紡がれていた。

 

 「名前を呼んで?はじめはそれだけでいいの」

 

 それは想いを伝える物語であった。

 

 最初は一人だった。寂しくて、苦しくて、日々を思い悩む日々。

 だが彼女はある時、素晴らしい友人を得た。時に笑い、時には喧嘩し、時には共に悲しむ事ができる友人の存在は彼女を変えた。

 勇気と希望を胸に、彼女は孤独で悲しみを背負う運命の者達と戦ってきた。己の想いを伝えるために、こんなはずじゃなかったという今を変えるために。

 想いが通じて解りあい友達となれた少女もいれば、差し伸べた手を振り払われたこともあった。解りあえたけれど、遠くへ行ってしまった人もいる。

 

 多くの決断を迫られた少女は、多くの覚悟を決めてきた。

 

 ハッピーエンドで終わる事なんて一度もなかった。

 彼女の手はあまりにも小さい。苦しむ人達と向き合い、彼女は多くの人々を救ってきた。しかしそれ以上に彼女の力では救えない人々は多すぎた。

 無力感に苛まれたことは一度や二度ではない。何度もっと自分が強かったらと彼女が拳を砕けんばかりに握りしめたか。

 

 しかし彼女の周りには多くの友人と仲間が次第に増えていった。

 そして自分の力では及ばないところを彼らは助けてくれた。自分では助けられなかった人々を彼らは助け、笑顔にしてきた。

 

 一人の力はあまりにも小さい、でもみんなが一つになればそれは大きな力になる。

 希望を胸に、彼女は歩き続ける。彼女とその仲間は多くの人を幸せにしていく。

 そう、彼女の物語は『希望』の物語であった。

 

 ――――ある物語は紡がれた。

 

 「俺にはまだ心が残っているんだよ。小さじに二杯分の心が、な」

 

 それは後悔と苦悩の物語であった。

 

 愛し、愛された。裏切り、裏切られた。殺し、殺された。

 どこまでも彼は人間であった。人間であるが故に、彼には限界が存在した。多くの命が彼の目の前で散っていき、彼は幾度となく絶望に打ちひしがれた。

 そのたびに彼を立ち上がらせたのは希望ではない。ただ立ち上がらないことが許されなかった。それだけだ。

 

 奇跡なんて存在しない、希望なんて存在しない。ただどんなにこの世が地獄だろうと、世界は常に自分を置き去りにして回っていく。自分がいなくても回っていく。

 彼の周りに現れるのはどこまでも人間であり、どこまでも化け物であり、どこまでも愚かであり、どこまでもどこまでも限りがない。

 

 だからこそ彼らは生きている。その物語に触れれば触れるほどに傷つく。吐き気がする。

 だが、どこかそれは私によくにている。当然だろう。私は人間なのだから。

 そう、彼の物語は生々しいまでの『生きる』物語であった。

 

 二つの物語は相反するように見えて、どこかよく似ていた。

 

 そして本来消えて行くはずであった少女は奇跡を起こす。

 与えられなかった機会が与えられる。それは絶望か、希望か。それは誰にも解らない。解らない方が良いのかもしれない。

 

 ――――さぁ、最後の物語を紹介しよう。

 

 彼女は死にかけていた。

 彼女は所謂大量殺人者であった。

 

 三百を超える人々を殺してきた。罪がある人間も、罪がない人間も、人間以外も、彼女は関係なく殺してきた。

 彼女の精神は我々から考えれば理解しようがないものだ。何故理解が及ばないのか。自分達ができないとんでもない事をやるとは思えないからだ。

 私たちには罪の意識がある。罰の意識がある。他の人間には想いや考えがあり、それがまた自分とは違う生き方をしていると知っている。生命の尊さと美しさを知っている。

 

 だが彼女はそれを知っているが理解が出来ない。

 

 だから彼女は取り合えず思い付いたら殺してきたのだ。

 他人の感情を犠牲にすることを楽しまず、ただ自分達にもたらされる興奮に喜んで。他人とは自分を満足させるための遊び道具でしかない。

 そもそも彼女は、他人が自分と同列であるなど考えた事すら無かった。

 

 それは彼女の姉妹も同じであった。ペネロテと名付けられた四姉妹は共に殺しを行って来た。

 しかしその間に家族の情など存在するはずがなかった。彼女らは肉親と位置づけられた存在すら、自分と同列には扱わなかったのだ。

 

 彼女は姉妹の四女を殺した。三女は強大な敵から自分達を逃すために命を散らした。だが彼女は二人に対してまったくなんの感情も抱いてはいなかった。

 あいつらは馬鹿だった、偽物だったのだ。そもそも自分以外はどうなっても良いとさえ考えていた。

 

 だからこそ彼女は死にかけていた。四姉妹の残る次女、自らの妹に殺されかけていた。仮に彼女が自らの妹の立場であったならば、喜んで妹を殺していただろう。

 私たちからすれば彼女は異常であり、信じられないほどに狂っている。しかし彼女達から見れば私たちの方が『おかしい考え』だと嘲笑うだろう。

 

 本来彼女はここで終わるはずであった。

 しかしもしここで、『希望』の物語からの手が彼女に届いていたら。彼女が希望の物語にその身を踊らせるのだとしたら。

 

 

 ――――そう、これはIFの物語だ。

 

 ■ ■ ■ 

 

 生まれたときから、世界は醜くて汚かった。

 いつからそう思ったのかは解らない。でもこれは今でも変わる事のない『気づき』であった。

 

 私は母のお腹から産まれた存在ではない。

 生まれてから母親に抱きしめられたこともないし、愛されることもなかった。そもそも、父親や母親なんて私にはいなかった。

 

 科学者達が気まぐれにお遊びで作った人型。

 容姿から性格まで彼らが遺伝子操作でそうなるよう作った存在。それが『ヒルダ』と名付けられた少女の正体。

 

 生まれながらの道化だと彼らは私を笑った。。

 他の姉妹と殺し殺される運命にあることを彼らに望まれ、私たちはその望み通りに同じ姉妹を憎み、疑い、殺した。

 

 そして殺した事で私は、私達姉妹は世界の真実を知った。

 

 世界は醜いし汚い。だけど、私達は可愛いし綺麗だって。

 だから私と姉妹達は、世界を呪って悲しむ事を止めた。だって世界は元々醜くて汚いものなのだ、何を嘆く必要があるというのだ。

 

 私達はその世界を受け入れた。姉妹に課せられた運命を受け入れた。

 

 美しく、かわいい少女として設定され、造られた姉妹。だから私達は世界で一番かわいいのだ。私たち以上に可愛くて綺麗な存在なんてあるはずがない。

 だって私たちこそは美のヒエラルキーの頂点にあるべき容姿をもって生まれたんだもの。

 遺伝子がもたらした幸運程度の馬鹿共がいう『かわいい』なんてレベルではない。そうあるべきとして生まれた『かわいい』なのだから当たり前の事だ。

 

 私はかわいい、私以外はかわいくなくて醜くて、汚くてブサイクだ。そんな事も解らないような奴らは馬鹿なのだ。

 

 醜いのにお化粧して馬鹿みたい。

 汚いのに飾り付けて馬鹿みたい。

 ブサイクなのに綺麗だと勘違いして馬鹿みたい。

 

 だから私たちは殺す。

 ただ殺すだけじゃつまらないから、楽しんで殺す。

 目を抉り、咽を裂き、鼻を切り落とし、耳を引き千切り、口腔の舌を引き抜き、皮を剥ぐ事で、あいつらが如何にブサイクで馬鹿なのかを思い出させてあげる。

 

 あいつらはそうする度に私たちにいろんな反応を返してきた。

 泣いて叫ぶ馬鹿がいた。怒り狂って何度も「殺す」と繰り返す阿呆もいた。でも最後にはみんな絶望の表情を浮かべて死んでいく。

 それが楽しくて仕方がなかった。だってあまりにもあいつらの顔は不細工だったから。

 

 かわいいのは私たちだけ、本物は私だけ。

 

 「うひゃあ、ヒルダお姉ちゃんが車に轢かれた蛙みたいになってるよ♪」

 

 なのに………どうして………。

 

 「なれ、ほんなほほお?」

 

 声がハッキリと発音できない。激痛に襲われ、目に映る視界は真っ赤に染まっている。

 網膜に焼き付く妹の姿は真っ赤に彩られていた。得意げに、楽しそうに真っ赤な顔で笑う妹に私は正確な言葉を発せられない。

 

 咽の渇きが止まらない。血泡が溢れる口からは、まるで蛙が潰れたような酷いかすれ声。

 

 体は死に瀕しているために私の意志には従わない。逃げなくてはいけないのに、体は私の言う事を聞いてくれない。

 

 理由は私の体にあった。

 

 胴体の腰から下の下半身は、糞眼鏡の咒式で炭化し消し飛んでいた。激しい火傷は胸にまで広がっている。かつて真っ白で綺麗だった肌が、いまや焼け焦げた皮膚と肉に変わっているのだ。醜くて泣きたくなる。

 

 顔は鼻骨ごと鼻梁が陥没。左目の眼球は殴られた際に破裂し、もはや今まで慣れ親しんだ視界は半分しかない。

 

 何故だ、いったいどこで私は間違ってしまったのだ。

 妹を殺した時から?ザッハドの使徒になった時から?まさか生まれたこと自体が間違っていたとでも?

 

 「あははははは、お姉ちゃんすごいぶさいくっ!」

 

 何で、どうして?

 

 意味のない問いかけが頭の中をぐるぐると廻る。廻る。廻る。

 辿り着いた答えは単純なもの。いや、こんなこと考えなくても解る。

 

 私は一つも間違っていない。ただ周りが間違っているのだ。

 

 こんなのは絶対におかしい。私は世界一、綺麗で可愛くて完全なはずなんだ。

 ぶさいくなんかじゃない、私はかわいいんだ。私は、私は。

 

 胸の奥から込み上げる血液に、ヒルダの思考は中断を余儀なくされる。

 食道を逆流して口から溢れる胃液と血痰。破壊された顔の中心から落ちる鼻骨と涙が混じった血液。焼き切れ炭化した下半身の断面からは、黄色い体液が溢れ出る。

 

 口の端から伝う涎。声にならない声を上げながら、ヒルダは顔を妹へ向ける。

 妹へ助け乞うヒルダの顔はすぐに絶望に染まった。彼女の視線の先にあったのは、自分をまるで地を這うナメクジを見るかのように見つめる妹の姿であった。

 

 自らの妹であるヒルデは、無感情な瞳で姉であるヒルダを見つめていたのだ。

 

 肉親を見るような目ではなかった。まるで腐りきった肉の袋を見るような目。目の前の汚物を忌避するかのような差別的な視線。

 死に瀕した姉を見る妹の目は、明らかに侮蔑の意を含んでいた。

 

 故にヒルダは言葉を失った。

 正しくは言葉が見つからなかった。何を言えば自分は死ななくて済む?殺されなくて済むというのだ?

 

 利用する価値があるか、ないかで他人を判断する妹に、今の自分はどんな言葉を投げかければいいのだ?

 

 「え~、だってヒルダお姉ちゃん。眼鏡の咒式で半分になって、あの男前に顔をブッつぶされて、ちょー醜いんだもの。私、醜いの大嫌いだもの♪」

 

 ヒルデが左手に抱え持つ皮の外装で整えられた古めかしい本を満足げに撫で上げる。本の開かれたページから伸びる〇と一の数字の羅列が、妹の肩の上に続いていた。

 

 数字の羅列の先には歪に嗤う丸い毛の固まり。小動物のような小さな手足に三角の耳を持ち、毛むくじゃらのそれは一見して小型の動物のように見える。

 しかしその顔は土気色の老人の顔。ボロボロの歯の奥から、吃音と共に掠れた笑い声を発している。

 

 『菓子屋敷のポコモコ』。人ならざる非情な異貌のものどもであった。

 

 だがこのポコモコの存在、そして何よりもそれを封じる『エミレオの書』こそ彼女達が『ザッハドの使徒』である何よりの証明であった。

 世界の敵とまで称された殺人集団であるザッハドの使徒。彼らにはその殺人を手助けするように、強力な化け物が封じられ、それを使役できる道具が与えられるのだ。

 

 では、ポコモコの持つ恐るべき能力とは?

 

 モコポコの能力はお菓子の生成である。

 お菓子とは何かの隠喩ではない。お菓子とはチョコレート、スポンジケーキなどの砂糖をふんだんに使った趣向品を指す。つまり私たちの理解するお菓子そのものだ。

 一見すれば使いようのない馬鹿げた児戯の能力。脅威などまるで感じる事が無い。

 

 だがその能力は菓子のように甘くは無い。むしろ常識外の破壊と混乱の嵐を起こす。

 

 ヒルダに墓標のように突き立つ黒い数メルトルの板。これこそ彼女の生命を脅かす第一要因となっているが、その正体はとてつもない大きさのチョコレート。

 現在ポコモコによって生成され、ヒルダを大地に押しつぶしているチョコレートの固まりは、実に縦横厚さが通常の二十倍。

 通常の一万八千倍のチョコレートは四百八十キログラムルもの重量を誇る。

 それを上空から高速で放たれれば、その威力は破城槌と変わらない。普通の人間なら即死の一撃。

 

 ヒルダが生きているのは一重に普通の人間ではなく、強化骨格や咒式による臓器の補填と強化を行った攻性咒式士であるからだ。

 苛烈な戦闘を行うヒルダのような攻性咒式士にとって、腕の一本や二本。臓器の一つや二つを戦闘で失うことは決して珍しくはない。

 

 だが生命を存続する肉体の強靱さが、今のヒルダにとっては地獄変わる。

 

 ヒルダの上には、四百八十キログラムルの砲弾が四枚も落とされている。

 鎖骨や肩胛骨、背骨や右腕上腕にかけてはチョコレートの砲弾で全て砕け散った。

 

 さらに圧迫されて肋骨は粉砕、臓器は破裂していた。

 如何に通常の人間よりも衝撃や耐性に優れた攻性咒式士とはいえ、高速で放たれた四百八十キログラムルの一撃をもまともに受けてしまっては耐えられない。

 元々ヒルダは前衛ではなく後衛型。加えて敵対者から受けた瀕死の重傷に追い打ちを受ける形で、妹の奇襲を受け、ポコモコの咒式攻撃を被弾している。

 

 一刻も早い治療が必要だ。このままではすぐに死んでしまう。

 そう、死ぬのだ。いやだ、死にたくない。私はもっともっと生きるべきなんだ。私以外に死んでも良い奴なんていくらでもいるはずだ。なんで私が死ななくてはならないのだ。

 

 死ぬ、死んでしまう。

 

 ヒルダは死の恐怖に涙を流す。

 内臓破裂の出血が、口腔から漏れ落ちていく。ヒルダの焼け焦げた胴体と焼き切れた下半身から、体液と共に大量の真っ赤な血液が流れ出ていく。

 

 そんな哀れな姉の姿を妹であるヒルデは嘲笑った。

 

 「私たちはまだ甘々の甘ちゃんだったの。アンヘリオも言っていたでしょう?使徒が使徒を殺す、それこそが使徒だって」

 

 ヒルデの言葉に、彼女は自らが殺めた妹の姿を思い起こす。

 無様に死んでいった。あまりにも不細工な死に方だった。

 私はそんな死に方をしたくない。そもそも私が殺される事自体がおかしい。私は殺す側であって、殺される側ではないのだ。

 

 先に死んだ姉妹は偽物だったのだ。ペネロテ姉妹の出来損ない。私から派生したコピー製品。

 しかし私は違う、私こそは本物のペネロテなのだ。私は本物だ、私だけが本物だ。

 何故か、何故私が偽物のヒルデなんかに殺されそうになっている。

 

 四女のヒルヅは私たちが殺した。三女であるヒルドはエリダナの魔女に焼き殺された。

 ついに残るは自分と妹であるヒルデだけ。無論、私こそが完成されたペネロテであり、ザッハドの使徒であるはずだ。

 だが現実にはモコポコの咒式により死の淵に追い詰めているのはヒルデなのだ。

 

 ペネロテ姉妹は残り二人。私とヒルデだけ。残り二人のうち、一人が死ねば呪われた運命は終わりを告げる。

 忌まわしき呪いは終わりを告げ、私は真の意味で解放された存在となる。しかしそれは妹たちも同じこと。例え偽物だろうと、私を殺せばあいつらは本物を名乗れる。

 

 そこまで考えが行き着いたが故にヒルダは理解した。笑うヒルデの思考を嫌と言うほどに理解出来た。

 唇が震える。血を失った寒気に加え、押し寄せる恐怖に精神が狂いそうになる。

 

 「だからお姉ちゃんを殺して覚悟を決めるの」

 

 妹は自分を殺すつもりなのだ。

 

「へめ、ええへっ!」

 

 血を口腔と鼻孔から漏らしつつも、ヒルデは己が武器である魔杖風琴の鍵盤に手を伸ばす。

 

 だがヒルデはそれを許さない。

 右手に持つ安っぽい宝石が嵌った、玩具のような桃色の魔杖錫が木漏れ日に反射して光る。鈍く輝く魔杖錫を高く掲げ、すかさずヒルダの手の甲に向けて勢いよく突き立てる。

 

 ヒルダの手の甲の骨が、耳を塞ぎたくなるような音と共に砕け散った。

 

 ヒルデが使役するモコポコのように、ヒルダにもエミレオの書により使役できる異貌のものどもが存在する。

 だが発動するために伸ばした手は、今や肉は抉れて神経が除いている。砕け散った白い骨が、湯気を立てて空気に晒されていた。

 

 「ぐりぐりぐりりん♪」

 

 口ずさむのは陽気な歌。

 さらに未だ突き刺さったままの魔杖錫を、ヒルデは念入りに回し始める。いたぶるように肉と骨をかき混ぜられる激痛。ヒルダは耐えきれず、空気を引き裂くような悲鳴を上げる。

 

 念入りに、念入りに。まるで恋人に送るチョコレートを作るかのように回される魔杖錫。

 ヒルデは完全に姉の手が使い物にならなくなったことを確認。ゆっくりと魔杖錫を引き抜いた。

 

 痙攣し、指一つ動かせなくなった自らの手。ネイルアートで彩ったり、爪を綺麗に整えたり、お洒落に余念無く綺麗を保ち続けた私の手。

 無惨に引き裂かれ、かき混ぜられた手にその面影は一切無い。まるで豚の内臓のような汚らしさをかもし出している。

 

 だが嘆く暇すらヒルダには与えられない。おぞましい殺気を感じ、ヒルデへ視線が動く。

 ヒルダは両手で魔杖錫を抱え上げた妹に恐怖を抱いた。彼女の目には殺気。口の端は歪み、口角筋は限界まで引き上げられている。

 振り上げた魔杖錫の落下地点にはヒルダの頭部。躊躇われることなく砕かれるであろう、凄惨な未来を幻視したヒルダの目は見開かれる。

 

 殺される。私は妹に、ヒルデに殺される。

 何故だ、どうして自分は殺されなければならないのだ?どうして私は殺されなければならないのだッ!?

 

 私は確かにこれまで多くの人間を殺してきた。老人、子供、大人、病人、妊婦、赤ん坊など区別無く殺してきた。

 無抵抗だろうが泣き叫んで助けを求めようが関係ない。無様で汚いと馬鹿にして、笑い飛ばして、楽しんで全員を殺してきた。

 

 それが間違っていたとでもいうのか?

 そいつらを殺してきたから私は今こうして、妹に殺されろとでもいうのか?

 あいつらは全員無価値だ。無価値な馬鹿共と価値ある私は違う。あいつらが例え何億人殺されたって、私一人の命には及ぶはずがない。

 

 「やめへへ」

 

 恐怖に涙がこぼれ落ちる。鼻孔から流れ出る血に透明の液体が混ざり、口からは嗚咽と共に血が混じった涎が地面に飛んだ。

 

 命が失われようとしている姉の声は哀れであった。彼女は最早抵抗することが出来ない。死の運命に抗うことが出来ない。

 結果、彼女が行ったのはこれまで自分が散々馬鹿にしてきた愚か者達と同じ行動。命を救ってくれるよう無様に懇願することであった。

 

 「わたしたち、しみゃいでしょ?」

 

 その問いかけがどれほど無意味なものか。哀願の声がもたらした結果は変わらない。

 だがそれでも縋らずにはいられなかった。己の生存権を握られ、抗う術は失われた今。ヒルダに出来ることはそれだけだった。

 

 無様に地面に芋虫のように這いつくばり、涙と涎と鼻水と血を垂れ流し、ヒルダが一番に大っ嫌いだった汚くて不細工な顔で助けを求めること。

 今のヒルダに出来ることはそれだけだった。今のヒルダはそれが全てだったのだ。

 

 ヒルデはそれに優しげに微笑む。

 ヒルダはその微笑みの意味を知っていた。

 

 ヒルダは常にその笑みを向けてたくさん、たくさん殺してきたのだから。

 

 ヒルデはヒルダの魔杖風琴を遠くへ蹴り飛ばす。もうヒルダがどう足掻こうと、魔杖風琴に彼女の手が届く距離ではない。這って数メルトル移動すれば手に出来るが、それを見逃すヒルデではない。

 

 「メトレヤーヤ実験場から続く長い問い」

 

 死の間際というものは、人を変える大きな機会だ。

 

 己がこれまで行ったきた諸行は走馬燈となって目の前を駆け抜けて行く。今のという時間の中では、現在を生きる人生のほんの一部分しか認識でない。

 だから全体を通した自身の人生を垣間見た時、真の理解を人は感じ取り受け入れることができる。

 かの大魔導師が、最後の最後に己の娘へ言葉を残したように。人は最後の最後に変わる機会が訪れるのだ。

 

 では最後の時。ヒルダいったいその胸の内に何を感じたのか。

 それは絶望ではなく――――

 

 「ペネロテ姉妹の誰が本物で、複製体じゃないか」

 

 ――――激しい怒りだった。

 

 「ここで決める」

 

 そもそもこんな汚らしい姿になっているのが、私であることがまずおかしい。

 

 結局のところは運がたまたま悪かっただけだ。

 地下迷宮の戦場で飛び出していたのがヒルダではなく、今目の前で嗤っているヒルデであったならばこの立場はまったくの真逆になっていた。

 

 ヒルデが顔面にあのドラッケン族の一撃を受けて顔面粉砕。反応が大怪我のせいで間に合わず逃げ遅れて、糞眼鏡の核咒式に下半身を焼かれて無惨に。

 そして無残になったヒルデを私が見下ろす。嗤い、踏みつける。最後には優雅に楽しくエミレオの書で窒息させてぶち殺したはずだ。

 

 そう、それこそが正しいペネロテ姉妹の結末。私が最終的に大勝利して、他の馬鹿共はみんな死ぬ。

 

 だが現実はかわいいわたしがこんなかわいくない姿で必死に妹に懇願している。哀れみを買おうともがいて、不細工な顔になってまで必死になっている。

 

 「(こんなの、ぜったいに、おかしい)」

 

 偽物だとか本物だとか、そんな話はこの際どうでもいい。

 だがヒルデがこの私を殺して、勝ち誇って、自分が本物であるという馬鹿げた妄想に取り憑かれること。これだけは我慢ならない。許せない。絶対に認めない。

 

 私はかわいいペネロテ四姉妹のヒルダ。

 我らが王、ザッハドに願うのはクソ妹共が地獄で永遠に苦しむ事。断じて、断じてゲロ妹であるヒルデに殺されることは我慢ならない……ッ!

 

 「そう、お姉ちゃんの尊い死で」

 

 動け。動くんだ。

 せめてこの愚妹だけはぶち殺してやる。その調子に乗ったツラを絶望に染め上げてやる。

 

 「私はさらに精神的に成長して本物になるの」

 

 破壊された手を必死に伸ばす。

 調子に乗って高揚したヒルデはその動作を見逃してしまった。何せ這って動くなどの大きな動きではない。まるで陸に打ち上げられた魚が、僅かに尾びれを動かすような些細なもの。

 

 ヒルダの指は地面に転がっていた石を挟みとる。掴むことは叶わないが、彼女の指は確かに石に触れていた。

 殺人者としての執念。ヒルダの強靱な精神は、死が自分を襲うその時まで他者への殺意を優先させる。

 

 その時、ヒルダの指に収まった石が僅かに発光。

 あまりにも微細な光を二人は気がつかなかった。

 

 「だからさっさと死んでね♪」

 

 何を言っているのだこいつは。

 

 呆れかえった。ヒルダの指に力が籠もる。

 ヒルダは今この瞬間まで自分が死ぬ事を恐れてはいなかった。

 

 ヒルデが上段構えに掲げられた魔杖錫は、一秒もしないうちに私の頭を打ち砕くだろう。

 強化頭蓋骨を砕き、脳は粉砕され、顔はめちゃくちゃにされる。残っていた右目すらも潰される。

 

 無様で、汚く、不細工な姿で私は息絶えるのだ。そして妹は勝ち誇ったようにして私を足蹴にして笑うのだろう。

 そんなかわいくない最後を迎える、そんなことを私は。

 

 「みとめへたはるは」

 

 願った。

 私はかわいくあるべきだと。私はかわいくない生物を全部、全部殺すのだと。

 私はこんなところで死ぬはずがない。死んで良いはずがないッ!

 

 「ぶっ細工なお姉ちゃんはここでおしま……え?」

 

 瞬間、ヒルデの顔が驚愕に染まる。

 ヒルダの砕け散った手から強烈な光が放たれたのだ。薄暗い路地裏が、まるで陽の光の下にさらされたかのように照らし出される。

 

 「ッ!?」

 

 光があまりにも強すぎて何が起こっているのか把握出来ない。

 彼女が最後に見た光景は、ヒルダが光に包まれる姿。それ以降は知らない、目がやられてしまった。まずい、このままでは殺される。

 

 ヒルデは突然の事態から逃れるようにして飛び退る。目が眩んで使い物にならないものの、なんとか記憶を頼りに物陰に身を隠した。

 ヒルデが身を潜めてからも光は収まらない。ヒルデはヒルダが既に死に体であったが故に、これが外部者からの攻撃であると断定した。

 

 下手に動くわけにもいかない。舌打ちを飛ばしながらヒルダは咒式を構成していく。

 数秒後。ようやく発光が収まった事を見計らって、状況を見定めようと顔を出して窺う。

 

 「……ちょっ!?」

 

 ヒルデはつい驚きの声を上げてしまった。

 そこにはあれ程の醜態を晒し、無様な姿で瀕死に陥っていたヒルダの姿は存在しなかった。まるで何事もなかったかのように跡形もなく消え去っていたのだ。

 

 ただ彼女の存在がついさっきまで残っているかのように、ヒルダがいた位置にはチョコレートの固まりがそびえ立ち、ヒルダから流れ出た大量の血液が大きな血溜まりが残っている。

 しかしその中心に存在していたはずの、ヒルダの姿はどこにも無い。

 

 他者の存在が感知されないと知るやいなや、ヒルデは物陰から飛び出して大量の血溜まりの上を探る。

 引きずるように移動した後も見受けられない。ついでヒルダの武器である魔杖風琴も見あたらない。気配を探るも、周囲に自分以外の存在が感じられない。

 

 「……何よ、これ」

 

 理解ができない出来事に、呆然とその場に佇む。

 この日、この瞬間。ヒルダの体はエリダナの地から消え去った。いや、この世界から消え去った。




資料がまったく集まらないため、nanohawikiなどのサイトの情報を資料として使わせて頂いております。
そこのところをご了承ください。


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1話 リリカルでマジカルな世界に来ちゃったよ♪

咒力=魔力
咒式=魔法
魔杖剣(魔杖風琴)=デバイス
攻性咒式士=魔導師
後衛咒式士=シャマル、なのはタイプ
前衛咒式士=シグナムやスバル、フェイトよりのタイプ

と考えていただければ想像がつく……かも?


 夢を見ていた。

 

 ヒルダがこれを夢だと断じたのには理由がある。

 真っ暗で先が何も見えない異常な世界。にもかかわらず自分の手足がハッキリと両目で見て取れた。

 両足で空間に佇む自分は、確認するかのように手を何度も開いては握り込む。

 失った両足と、ボロボロになって目もあてられない状態になっていた手が完全に元通りになっている。

 加えてヒルダが好むゴシック式の服には傷一つ無い。体だけではなく衣類までもが再生されていた。

 

 桃色の髪をゆっくりと、確かめるように指先でとかす。

 突然手足が元に戻るなどありえない。かといって誰かが自分を治療するとは思えない。それもご丁寧に服まで直すわけがない。

 ついでにあれだけ鬱陶しくとんちんかんなヒルデの姿も消えていた。このくらい世界には私一人だけ。

 

 これは夢だ。

 頭のどこかで「ヒルダは死んだのではないか?」という、実にくだらない発想が一瞬だけ生まれた。だがすぐにそれは綺麗さっぱり忘れ去った。

 私がヒルデ如きに殺されるわけがない、あんなくだらない死に方を迎えるわけがない。

 

 私は血を失いすぎて意識がなくなったのだろう。

 強靱な精神にも限界が訪れたのだ。そもそも意識を保っていることが難しい状態であった。今の今まで懸命に意識を繋いでいたことが驚きだ。

 

 だがそうなると、私は一刻も早く目覚めなくてはならない。

 このままでは私の体は死んでしまう。悔しいが、今の私は咒式士以外でも簡単に殺せてしまうだろう。それだけ弱り切っているのだ。

 

 しかしどうやって目を覚ませばいいのか。

 試しに頬をつねってみたり、必死に起きろ起きろと心の中で念じてみるも解決する気配すらない。

 

 「あぁ、もう。どうしろっていうのよ」

 

 不毛なことを何度も試すなど自分らしかぬ行いだ。あまりにも馬鹿げている。

 ヒルダが途方に暮れながら光一つ無い上空を眺めた。

 

 ヒルダの体が一瞬、大きく震えた。

 

 何かに自分のドレスの裾を掴まれた。さらにそれは此方の気を引くように、スカートをしきりに引っ張っている。

 今のヒルダは武器であり咒式を発動するための魔杖風琴を所持していない。ザッハドの使徒の切り札であるエミレオの書もまた同じこと。

 つまり危機に抗う対抗手段を何も持ち合わせていないのだ。

 

 しばらく躊躇っていたが、慎重に目線をゆっくりと下に動かしていく。

 最初は緊張に揺らいでいたヒルダの瞳が、徐々に落ち着きを取り戻していく。気がついたからだ、これが脅威にならないことが。

 

 「何、あんた?」

 

 ヒルダは機嫌が悪いことを隠そうともしない。足下に縋るそれを睨みつけた。

 

 乱れた白髪頭から見える目元はくぼんでおり、妖しい光を放つ眼は弱々さを感じる。

 鶴のように細い首。顔から飛び出た鷲鼻。皺だらけの顔面。

 それは小さな老人であった。服を着ておらず、汚らしい老いきった体を晒しながら、ヒルダの服を引っ張っている。

 

 いつのまに現れたのだろうか。ただこいつの存在は不愉快だ。

 老人の目からつーっと赤いものが伝い落ちていく。それは血の涙であった。

 よく見れば老人の体は幻影のように絶え間なく揺らぎ、霧のように薄く消えかけていた。

 ヒルダは一目でこの老人が弱り切っていることを見抜いた。

 必死に助けを求めるように自分の体に纏わり付く老人。ヒルダは彼を一瞥すると、遠慮なく蹴り飛ばした。

 

 肉体を強化された咒式士の一撃をまともに受けた老人は、まるで羽のように舞い上がって落下。それに伴う骨や肉がひしゃげる音を聞いたヒルダは微笑む。

 苦悶の声を口内で漏らす老人へ一歩、また一歩と近づいていく。

 荒い呼吸を繰り返す老人が足音に気がつき、顔を上げるとそこにはヒルダの笑顔があった。

 

 足を振り上げ、今にも自分の頭を踏みつぶそうとしているヒルダの笑顔が。

 

 「べっつに、お前を殺せば目が覚めるとかそんなのは全然関係がないけれど」

 

 止めてくれと無言の叫びを上げながら、手で必死にヒルダの足から身を守ろうとする老人をヒルダは嘲笑った。

 

 「よわっちくて、汚いから死んで♪」

 

 ヒルダの足は老人の手を鳥の骨のように打ち砕き、白髪頭の頭部へと到達。

 そのまま頭蓋骨を粉砕し、脳まで達した一撃は老人の命を刈り取った。

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 ヒルダはゆっくりと瞼を開けていく。

 混濁した意識が明朗になっていく。激しい頭痛に苛まれながらも目を開けて状況を確認。

 だが視界は未だはっきりしておらず、現状を把握することができない。

 

 未だ夢の中にいるのかと愚考するも、酷い激痛と吐き気にこれがいやでも現実であると理解させられた。

 足は動かないどころか消失中。残った片腕も使い物にならないレベルの重傷。起き上がる気力すら残っていない。

 

 激痛に身をよじらせながらも、最後の記憶を必死に思考の奥から手繰り寄せる。

 

 あの時、ヒルデが今にも両腕を振り下そうとした瞬間。全身を覆わんばかりの激しい光がヒルダを襲ったのだ。

 本能的に両腕を動かして顔を庇おうとしたが、片腕はチョコレートの砲弾により粉砕。もう片腕はヒルデの魔杖錫によって蹂躙されている。

 とっさに目蓋を閉じるも間に合わず、光はヒルダの眼球へ直撃。目の光量調整の限界を超えた光は、ヒルダを一時的な失明に陥らせた。

 

 未だ見えぬ世界の中で、ヒルダは必死に現状を理解すべく脳を回転させる。

 今、自分ができることは考えることだけだ。生き残るために薄れゆく意識を繋ぎ止めなければならない。

 

 恐らくあの光はヒルデ以外の何者かによる咒式の発動だろう。

 少なくとも目の前で私を殺そうと、腕を振り上げて天高く掲げていたヒルデではないはずだ。

 このような無駄とも言える手間をかけずとも、ヒルデはすぐに私を殺す事は十二分に可能であったからだ。

 

 ヒルデも私も、街の攻性咒式士や他のザッハドの使徒に追われる身である。このたび行われた祝祭は完全なバトルロワイヤル形式。最後の一人しか生き残れないからだ。味方になるような存在など私たちにはいない。

 

 ヒルデは私を殺せば一人であり、今では赤毛糞眼鏡一人にすら苦戦する有様だ。ましてやパンハイマなどという化け物との殺し合いはもっての他だろう。今のヒルデはできうる限り、他の咒式士達との戦闘を避けたいはずだ。

 咒式士達に自分の発見を促す強い光を発生させる咒式を使うわけがない。ザッハドの使徒はそんな馬鹿ではない、自殺志願者とはわけが違うのだ。

 

 では同じザッハドの使徒が仕掛けたのだろうか?

 ザッハドの使徒であればこんなわずらわしい手段は使わない。使う必要がない。

 私を殺せると踏んで油断しきったヒルデごとエミレオの書で皆殺しだ。

 

 残るは必然的にエリダナにいるどこぞの攻性咒式士の仕業。これが一番納得がいく。

 ……いや、おかしいだろ。考えろ、短絡的な思考は吐き捨てろ。考えを止めさせるな。ここで手を打ち間違えたら私は死ぬかもしれないんだ。

 

 ヒルデの隙はあまりにも大きすぎた。

 長年私達を追い詰め、苦しめていた呪縛。そこから解放されるという喜びに打ち拉がれていたからだろう。

 その喜びに浸かりきって隙だらけのヒルデ。今にも死にそうな私相手にこんな牽制咒式を放つわけがない。それこそ逆にヒルデに殺されかねない。

 

 恐らく、発動されたのは化学錬成系。

 私の下半身を焼き切った糞眼鏡が得意としていた系統の咒式のはず。

 化学錬成系が得意であれば、他にもっと状況に合った咒式などいくらでもあったはずだ。爆発、酸、ナパーム弾、液体窒素。これらの攻撃方法で奇襲すれば、間違いなく私とヒルデを同時に仕留められたに違いない。

 

 実戦経験の少ない新米攻性咒式士の単独行動?

 

 熟練の攻性咒式士が殺しに来ているのであれば、こんな絶好の好機を潰すような馬鹿なことをやらかしたりはしない。

 私達についた賞金欲しさに、身の程の弁え方を知らない馬鹿共が勝手に暴走したのだろうか。金の魔力は正常な思考を犯す麻薬だ。欲望に滾ったが故に実力を見間違って死んだ連中の話など、腐るほど世界には転がっている。

 

 だが仮にそうであったとしても、私はどうすればいいというのか。

 瀕死の重傷で逃げることもできない。ただ自分の命を握られるだけに甘んじたこの身は、この好機においても対応できるだけの能力を発揮できない。

 恐らく状況判断も碌にできない馬鹿で愚かな攻性咒式士達はヒルデに殺される。私もまたヒルデに同じように殺されるだろう。

 

 一つの答えに辿り着こうとしたヒルダ。

 だがその時、彼女の脳裏に雷が落ちる。

 

 いや、待て。もしかしたら、もしかしたらヒルデも現在の状況を把握していないのではないか?

 私は動けない分こうして全ての力を思考することに費やすことができる。しかしヒルデは私を殺そうとした一瞬でこの事態が起こってしまった。

 心理的衝撃は私よりも大きい。両腕を振り上げていたために、私と同じく光をまともに顔へ受けてしまったはずだ。

 

 長年姉妹としての関係を築いてきたのだ。今のヒルデの行動パターンは容易に推測できる。

 私たちが現在いる場所は細い裏通りの通路。恐らく事態が把握できないヒルデはとっさに物陰に隠れたに違いない。

 

 例え未熟な攻性咒式士でもいい。この状況ではヒルデが全てに始末をつけるのには、若干時間を要するに違いあるまい。その隙に私が魔杖風琴に張って辿り着き、エミレオの書を起動できれば……。

 

 あのヒルデを殺す事が出来るかもしれないッ!

 

 その答えに辿り着いたヒルダは、血と涙によって彩られた土気色の顔を歪めた。

 体は激痛が襲い、もはや死を待つばかりであった。だが殺意に飲まれたヒルダの体から急速に痛みが遠のいていく。

 強烈な殺意と怒りに満ちて興奮状態だったヒルダの脳からは、痛みを和らげる多量のアドレナリンが分泌される。この脳内麻薬はヒルダの痛みを消し去った。

 痛みを消したヒルダは、魔杖風琴の鍵盤へと腕を伸ばそうともがく。穴が空き、骨がむき出しになった手で得物をたぐり寄せようとした。

 

 だが次第に回復していく視力。そして歴戦の切り抜けてきた狩人の勘はヒルダに警報を打ち鳴らす。喜色に塗れた目は細まる。

 

 回復した視力により、視界の光景が脳に焼き付く。ヒルダは戸惑いのうめき声を上げた。 

 周辺にヒルデの姿は存在しない。先ほどの化学錬成系の咒式を発動と思わしき功性咒式士姿もない。

 ヒルデが戦闘、または逃走のために発動したと思われる咒式の痕跡もない。ましてやヒルデの死体がそこにあるわけでもなかった。

 訳がわからない、いったいヒルデはどこに消えたというのか。私を殺さずに逃げ去ったとでもいうのだろうか。

 

 ふと、ヒルデに蹂躙された手へと視線を動かす。

 

 神経等が発する激痛以外の違和感をヒルダは手の中に感じたからだ。

 残った右目で白い骨と、桜色の筋肉が空気中にされされた自身の手を確認。驚きに瞳が染まる。穴の開いた私の手の平の中には、魔杖風琴が確かに収められていた。

 

 異常はこれに止まらない。さらにヒルダを大地に磔にした、四百八十キログラムルもの重量があるチョコレートの墓標。その全てが消失していた。あれだけの質量の塊が、一瞬で消失するなどまずありえない。何者かの干渉があったことは明白だ。

 

 いったい何が起きたのか。

 強烈な光。手に握られた魔杖風琴。消失したチョコレートの塊。

 恐らく咒式の発動により何かが起こったことは間違いない。だが自分には、それがまったく解らない。理解不能だ。

 

 よってその無駄な考えの過程をすべてヒルダは破棄した。

 理解が及ばない事象にいつまでも思考を割く必要など無い。それよりも問題なのは自分の惨状だ。残された時間は少ない。

 

 下半身は焼き切れ、ヒルデのモコポコにより背中の関節は粉砕。各重要器官であった臓器はほとんど破裂している。

 左目は衝撃により破裂、顔の中心にあった鼻は鼻骨が破壊されて陥没。そして逃走の際に流れた膨大な血と、モコポコの咒式による重要な臓器の破損。それによるショック症状。

 徐々に視界は狭まり、体は凍るように冷たくなってきている。死が私を飲み込もうとしているのだ。

 

 だが立ち上がることも、論外な方法ではあるが助けを呼ぶ声もだせない。

 例え第三者が私をエリダナの闇医者が営む診療所へ運ぼうとも、既に到着した頃には息絶えているだろう有様だ。

 

 体は既に生命活動を停止しつつある。状況は絶望的だ。

 だがヒルダの目は死んではいなかった。砂漠の中にある一粒の砂金。それを掴み上げたかのような幸運を彼女は得ている。

 ならば彼女は諦めることはない。諦めるという言葉を知らない。

 

 自らのエミレオの書を起動すべく、咒力を指に込めて魔杖風琴を握りしめる。

 最大の壁であったヒルデの姿も無く、他の攻性咒式士がいない今。何としてでも、この場から離れなくてはいけない。

 そして絶対に再起する。あのヒルデを自分以上にメチャクチャに壊し尽くしてやらなければ、この殺意は到底収まるものではない。

 

 そう思い立ったヒルダであったが、ふと目にした光景に目を大きく見開いた。。

 血を流しすぎたことで視界がぶれているのか。それとも血を逃し続けた事による幻覚を、今の自分は見ているのかとも考えた。

 

 しかしそれは確かにそこにあったのだ。空中に浮かぶ複数のエミレオの書が。

 

 ザッハド王が使徒達に贈るエミレオの書は、原則として一人一冊。

 アンヘリオは何故か複数所有していたが、通常は一冊しか与えられない。だがその一冊が恐るべき力を秘めている事を、使徒であるヒルダは知っている。

 

 しかしヒルダの目の前には、確かにエミレオの書が複数存在していた。

 訳が解らない。僅かばかりの咒力で操作を試みれば、全ての書に自分の咒力が浸透していく。これらの書は全て私のものだ。

 信じられない。何度目の奇跡を起こしたのだろうか。やっぱり私は本物なのだろう。

 

 「ひ、ひひひ」

 

 ヒルダの唇は三日月のような弧を描いた。

 

 すぐさま空中に浮遊している複数のエミレオの書から、膨大な情報を読み取り始める。

 既に限界を迎えつつあったヒルダの脳は膨大な情報量に悲鳴をあげ、視界が徐々に歪んでいく。

 猛烈な吐き気に一際大きな血痰を嘔吐し、さらにヒルダの目からは血の涙が零れ落ち続ける。

 それでもヒルダはエミレオの書の操作を止めない。鬼気迫る表情で咒力を操り、エミレオの書を解読していく。

 

 意識が一瞬飛ぶ。ヒルダ意識を明白にするべく自らの唇を食い破った。真っ赤な血が唇から流れ落ちていくが、今の自分の惨状からすればこの程度は軽いものだ。

 精神力が失いつつある。脳の回路は焼き切れ、未だに生きていることが自分でも信じられない。

 いっそ楽に死なせてほしい。そんな考えが頭をよぎるが、強靭な殺人者としての精神がそれを許さない。

 

 ここで動きを止めて諦めれば、私は死ぬ。私という存在が消える。

 生きるべきチャンスを掴んだ。最大ともいうべき幸運を掴んだ。今の私が死ぬはずがない。ここまで愛されている私が死ぬはずがない。

 

 ヒルダが元々所有しているエミレオの書は、この状況でまったく役に立たない。

 だがこの複数あるエミレオの書の中には、治療を行える異貌のものどもが封印されている可能性が高い。実際に多くのザッハドの使徒が、エミレオの書により治療を行って来たのを私は見た。

 

 普通の咒式士なら匙を投げるような状態であることは解っている。しかし彼らは人の理の外に生きる化け物どもだ。必ず咒式の常識を覆すような何かを行使できるはず。

 

 「しんてたまるひゃ」

 

 もはや『何故なのか』やら『どうして』などという疑問の答えを考えている時間は無い。一秒一秒、自分の命は体から抜け落ちていく。

 残る僅かな咒力を総動員させ、エミレオの書の解析に努めた。

 

 『大喰らい○○○』

 

 ……違う。

 

 『寂寥の○○○○○』

 

 ……これも違うッ!

 

 『毒針の○○○○』、『耳食い狐○○○○』、『菓子屋敷のモコポコ 』

 

 どれも違うって言っているだろうがッ!

 

 僅かだった咒力も尽きかけ始める。これ以上はエミレオの書の制御はおろか、起動すらできなくなるだろう。

 死の足音が聞こえ始めた。体温が失われ、徐々にあらゆる感覚が鈍っていく。いやだ、私は本物なんだ。こんなところで死ぬはずがない。なのに、なのにどうして……。

 絶望を感じ始めるヒルダの両目から、生命の光が失われつつあった。だが突如ヒルダの目に消えかけ手いたはずの生命の炎が、再び激しく燃え上がった。

 声にならない歓喜の叫びを上げる。

 

 見つけた。見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけたぁぁぁぁぁッ!

 

 ヒルダは興奮を抑えきれず、崩れた顔は破顔した。

 

 『天秤のキヒーア』

 

 エミレオの書の中でも珍しい治癒咒式を得意とする異貌のものどもだ。

 

 生体生成系の第四階位である『胚胎律動癒(モラツクス)』は未分化細胞による肉体の修復を行える。加えて化学錬成系第一階位の『殖血』は糖蛋白質骨髄中の赤芽球系前駆細胞に作用し、赤血球への分化・増殖を促進する造血咒式。

 

 それらの治療咒式を一定の代償を支払う形で同時に発動。または人知を超えた未知の咒式を発動する事で、欠けた四肢や臓器すら生成できる。

 つまり代償さえ払えばどんなに重傷だろうと瀕死だろうと、それ以前の状態にまで瞬く間に回復することができるのだ。

 

 そう、代償を支払うことができればの話だ。

 

 エミレオの書の異貌のものどもは、全て最高にぶっ壊れている。それは性能だけではなく、精神面でも同様だ。彼らに人に対する配慮など欠片も存在しない。何せ同族すら躊躇わずに惨殺する連中だ、人間など言わずもがな。良心などあろうはずがない。

 エミレオの書に封印され、使役されているからこそ言う事を聞くのだ。万が一にでも、こいつらが人間に従順になる事は無い。

 もし書から解放されれば、一秒も待たずに使用者を殺しにかかるだろう。

 

 このままでは例え起動させても意味がない。なんせ代償が払えないからだ。

 例え召喚に成功しようとも、召還した異貌のものどもに笑われながら私は失意の中で死ぬことになる。

 

 手は、何か手はないのか?

 

 無理な咒力の使い方をしたせいで、もう数分も体が持たないだろう。既に脳が悲鳴を上げている。血が大量に流れ出たせいで意識をつなぐ事すら困難だ。

 代償だ。代償を用意できなければ、例えキヒーアを呼び出したところで意味は無いのだ。 

 ここまで足掻いて見つけ出した活路であるというのに。なにもできずに私は死ぬというのか。

 歯を砕かんばかりに噛みしめた。そうしたところでまったく現実の問題は解決しないが、それでも悔しさを押しのけて冷静さを取り戻すほかに道は無い。

 

 それでも涙が込み上げ、彼女の頬を流れ出た涙が伝った。その時であった。

 

 遠くから何者かが走る音。これが複数近づいてくることにヒルダは気がつく。

 足音は複数、それらがこちらに向けて一直線に駆け寄ってくる。

 ヒルダの閉じつつあった目が見開かれた。地面から反響する足音は、彼女を覚醒させるのに十分なものであった。

 魔杖風琴を微々たる力で握り込む。ああ、やっぱり私はついているとヒルダは嗤った。

 

 「おい、ここだっ!ここで膨大な魔力エネルギーが……っ!」

 

 「大変だ……誰かが巻き込まれているぞ!酷い出血だっ!おい、しっかりしろッ!」

 

 駆け付けたのは数人の男達であった。

 全員同じ背広で身を固めており、恐らく何かの組織に勤めていることが解る。皆一様にヒルダの無残な姿を見て驚愕し、顔を青くしながらも側へ駆け寄った。

 ヒルダを取り囲む男達から外れて、一人が何やら端末機材に向けて叫ぶ。切迫した様子で通信機器の向こうへ叫ぶ男の顔からは、余裕というものがすっぱりと抜け落ちていた。

 

 「ええ、重傷者が一人!下半身が消失、臓器が外部に露出しており、片腕は完全に潰されちまっているっ!残る手の甲もぐちゃぐちゃだっ!……ああくそったれっ!生きているのが不思議なぐらいだ!早く医療班を……」

 

 そうだ。私には一刻も早い治療が必要だ。

 だがその医療班とやらをまってやる必要は無い。

 

 「もう大丈夫だ、だから死ぬなっ!死ぬんじゃないっ!すぐに……」

 

 私へ向けて何かを行う男達。

 全員が私を心配していた。助けようと必死になっていた。馬鹿だ、最高に馬鹿な連中が飛び込んできた。

 

 エリダナを騒がし、賞金を賭けられた大量殺人者を救おうと必死になっている。

 大量にゴミ虫共を殺してきた私を、ゴミ虫が不細工な顔して助けようとしている。駄目、笑いが止まらない。

 

 ああ、やっぱり可愛い私は最高に『ついている』。

 

 ヒルダは自らに男達を笑顔で迎えた。

 その笑みを救助に来た隊員たちは安心からくるものだと思ったが、彼らはあまりにも優しすぎた。故に、その笑みに隠された真の意味に気が付くことができなかった。

 

 そこで無残な姿で血と体液をまき散らして横たわる彼女こそが、連続大量殺人集団の中心的な存在であることに。

 三百三十三人もの人間を殺害。今この瞬間、瀕死である理由も殺人を喜び勇んで実行しようとした末路であるということに。

 

 ヒルダの手には革表紙の書物。

 

 その錠前の鎖が解き放たれ、0と1の数列が絡まった二重螺旋の青白い咒印組成式が微かに空中に湧きあがった。

 管理局の心優しく誇り高い彼らは、瀕死のヒルダを必死に生かそうとするが故。そのことに気が付くことが出来なかった。

 



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2話 三百三十七人目の犠牲者

 第XXX管理世界の都市XXXXにて、小規模範囲における莫大な魔力を観測。

 原因は不明。原因を解明するべく、現地に滞在する時空管理局員は直ちに出動せよ。

 

 「本当にそんなことがあったんですかね、隊長」

 

 「解らん。ミッドチルダみたいに、区画毎に正確なセンサーが設置されているわけじゃないからな」

 

 「はぁ。勧誘はうまくいかないわ、突然の任務は舞い込んでくるわで……」

 

 時空管理局。

 

 次元世界から質量兵器、つまり魔法や科学など問わず大量破壊を生み出す兵器を根絶するために作られた組織。

 

 しかし現在では各管理世界において、世界を移動する犯罪者を取り締まることや、現地の政治及び戦争における和平交渉の仲介役などを執り行っていた。管理局の権威が及ぶ管理世界は百を超え、その行動範囲は実に幅広い。

 

 各次元世界の管理を始めたのは凡そ百五十年前。そこからやがていくつもの組織が吸収、統合されて七十五年に成立。ついには現在の管理局システムが完成された。

 

 時空管理局の現場は、ほぼ完全な実力主義とされている。

 

 いくつもの次元世界にはそれぞれ文化と歴史があり、その影響を管理局発揚の地として本部が設置されているミッドチルダは盛んに受け入れたのだ。

 その結果、例え年齢が一桁であろうと実力があれば構わない。逆に言えばそうまでしなければならないほどに組織が増大したともいえよう。

 

 常に慢性的な人手不足に陥った管理局は、管理世界に優秀な人材を求めていた。

 

 男達はそのためにこの管理世界へと、優秀な人材を管理局に取り組むべく足を運んでいた。

 結果から言えば任務は失敗。例え十分な報酬や権威が約束されようとも、優秀な人間はあえて残ることも多い。それぞれが守る物がその世界にあるからだろう。

 

 下手に交渉を続けても管理局側の印象が悪化するだけだ。

 ただでさえ引き抜きを仕掛けることで有名になったしまっているのだ、管理局は。優秀な人材を引き抜かれる事に、良い思いをするものなどいない。

 日常的に行われる管理世界への引き抜き行動は、現地の一部から大きな批判の声が上がっている。

 

 無理をして話をこじらせるわけにはいかない。印象を悪化させてしまっては、来る者も来なくなる。下手に粘っても、返って状況は悪くなる一方だと判断。

 男達はミッドチルダへと帰還しようとした矢先、突如現地管理局支部から舞い込んだ指令。明らかに面倒そうな任務を任されてしまったと、男達は肩を落として愚痴を述べる。

 

 「たまたま近くにいたのが俺達だからな、仕方ないだろう。これはあくまで様子見だ」

 

 「じゃないと困りますよ。武装だって大したもの持ってきてないっていうのに、これがロストロギアだった日には……」

 

 ロストロギア。

 

 過去に何らか原因で消失した世界や、滅んだ古代文明で造られた遺物の総称である。

 多くのロストロギアは現在技術で解明できぬほどの高度な技術で造られている。

 使い方によっては一つの世界を滅ぼすどころか、世界をいくつか巻き込んで消失させる事も可能だ。

 

 危険なロストロギアの存在を確保・管理する事こそ、時空管理局の掲げている最大目標の一つなのだ。

 

 「ロストロギアにしては、随分と平和な気がしますが」

 

 怪訝な顔をする局員に、壮年の男が笑う。

 

 「街の中心部でのロストロギア級の魔力が確認された、だがその割に建物一つ、区画一角吹き飛んだわけでもない。だが行くしかないだろう。むしろ平和だったら万々歳だ」

 

 「早く確認して一杯やりたいもんだ。隊長、そこの区画を右に曲がってください」

 

 局員の一人がデバイスに地図を表示させ、それを元に隊員達を誘導する。

 

 デバイスとは魔導師が魔法使用の補助として用いる機械である。咒式士が魔杖剣を使うように、魔導師はこのデバイスを使用するのだ。

 

 インテリジェンスデバイスと呼ばれる人工知能を有したデバイスも存在するが、彼らが所有しているのは管理局員の大半が所有しているストレージ型のデバイスである。

 ストレージデバイスは人工知能が搭載されていない分、処理能力はインテリジェンスよりも高い。

 何より安価で使い勝手が良いため、時空管理局の局員は基本的にこのストレージ型を採用、支給されている。

 

 「よし、急ぐぞ。もしかしたら巻き込まれた民間人がいるかもしれない。そこを右か?」

 

 「はい、観測から一分と二十五秒で到着っと」

 

 駆け込むように若い局員が角を曲がる。

 

 「おい、ここだっ!ここで膨大な魔力エネルギーが……っ!」

 

 先行していた隊員の一人が声を上げると共に硬直。

 横から見える顔は青く染まり、額からは一筋の汗が流れ出ている。異常を察知した二人が角を曲がるとそこには。

 

 「おい、いったいどうし――――なっ!?」

 

 「大変だ……誰かが巻き込まれているぞ!酷い出血だっ!おい、しっかりしろッ!」

 

 三人の男達が目撃したい光景は想像を逸脱したものであった。

 

 一人の少女が、血の海に沈んでいた。

 左手は完全に潰れており、下半身は消失。腰の断面は焼け焦げて炭化している。

 さらに少女の周りには一目で重体と解るほどの黄色い体液と、多量の血液の絨毯が広げられていた。

 

 すぐさま一人が報告と共に医療班を要請するべく、通信を開始。加えて残りの二人がすぐさま少女へと駆け寄り、状態を改めて確認する。

 近づけば近づくほど、如何に酷い傷を負っているかが詳細に確認出来る。

 状態を確認する局員の顔は悲痛なものに変わっていた。生きている事が奇跡だと言っても、過言では無い姿だ。

 

 意識があるのか、管理局員達に向けて安堵の笑みを浮かべる少女。

 

 だがその体は見れば見るほどに痛ましいものであった。

 呼吸は既に弱く、楽器が握られていた右手も手の甲が空洞。左腕は欠損、引き千切られるように分断されている。傷口からは神経や骨が露出し、桃色の筋肉が湯気を放っている。

 さらに腹部から腸などの臓器が露出。背中の骨は粉砕されているのか、まるで潰された蛙のように少女は地面に伏していた。

 

 「ええ、重傷者が一人!下半身が消失、臓器が外部に露出しており、片腕は完全に潰されちまっているっ!残る手の甲もぐちゃぐちゃだっ!……ああくそったれっ!生きているのが不思議なぐらいだ!早く医療班を……早く!」

 

 「もう大丈夫だ、だから死ぬなっ!死ぬんじゃないっ!すぐに医療魔法が使える者が来る!」

 

 予めデバイスにインストールされていた医療魔法を発動させる。

 だが本職ではない彼らの医療魔法では、最早どうしようもないレベルの重体。経験上、この距離では医療班も到着には五分以上かかるだろうと推測する。

 恐らくそれまでにこの少女は……。

 

 男は馬鹿な事を考えるなと、必死に頭からその結論を振り払う。自分が諦めてしまったら、一体誰が彼女を救ってやれるのか。

 

 苦しむ人々を救うために、自分は管理局員になったのだ。

 そして今、目の前で必死に死と戦っている少女がいる。恐らく自分の一人娘と同い年ぐらいの年齢だろう。

 彼女を救えずして何が管理局か、正義か。

 

 己の娘の姿を目の前の少女に重ね合わせ、男は再度この少女を救う決心を固める。

 

 「た、隊長。駄目です、このままでは――――」

 

 「黙れっ!黙って発動し続けろっ!トレミス、医療班の到着予想時間は!?」

 

 「医療班の到着予定は現在時刻から五分二十三秒かかりますっ!くそ、既に致死量に近い出血が確認されているんだ!だからもっと早く医療班を――――」

 

 瞬間、背後から何かが崩れるような音。

 ちょうどそれは通信を行っていた男の重量ほどの肉塊が倒れ伏したような音であった。

 

 不自然な声の途切れ、そして一瞬の静寂。

 

 「おい、どうしたんだ……ひっ!?」

 

 位置的に振り返るのが自分よりも早かった局員が、短い悲鳴を上げた。

 何事かと首を素早く動かす。

 

 「何が――――なっ!?」

 

 彼は驚愕し、大きくその目を見開いた。

 

 通信を行っていたトレミスはそこに存在していた。

 口を大きく開き、涎の飛沫を飛ばして、地面を何度も何度も壊れた玩具のように転がりながら。

 

 眼窩や口、鼻孔や耳孔から血が噴出。

 何度も転がっているために顔と服は血液により赤く染まっている。

 

 トレミスは目を大きく見開き、咽を掻き毟っていた。

 何度も何度も口を金魚のようにパクパクと動かし、まるで酸素を得られないかのように苦痛に悶えながら地面を何度も左右に転がり続ける。

 

 そしてついには体を投げだし、四肢を痙攣させたトレミス。彼の目は既に焦点が合っておらず、顔は死人のように蒼白。トレミスは明らかに死に瀕していた。

 

 「おい、どうしちまったんだトレミスっ!」

 

 同胞の危機に少女の治療途中であった局員、クリフは治療を中断。堪らずトレミスへと駆け出した。

 

 「止めるんだクリフっ!下がれっ!」

 

 任務の中心であった壮年の男は、瞬時にこれが正体不明の何者かによる攻撃であること理解した。

 しかしまだ若く経験が薄いクリフは、それが理解できなかった。

 

 いや、理解したとしても彼は動いていただろう。仲間のことを見捨てることが、心優しい青年であるクリフには出来ない。

 

 そして――――。

 

 「ぐはぁッ!?」

 

 僅か数メートル進んだクリフの口から血が噴出。口の端から血が服に伝い落ちる。

 クリフの内臓と肺が破壊されたのだ。

 

 「――――ッ!――――ッ!?」

 

 トレミスと同じように、大地に崩れ落ちるクリフ。

 

 そしてその光景を見て理解した、トレミスへの攻撃は既に終わったのではない。継続して行われているのだと。

 恐らくある一定の範囲にのみ作用する魔法なのだ。それも一歩踏みいれば、死に瀕すほどの凶悪なものであることは間違いない。

 

 「くそったれがぁっ!」

 

 既にトレミスは生きてはいない。痙攣していた動きは完全に止まっている。

 顔を苦悶の表情に歪めたまま、トレミスは光のない瞳孔が開ききった目で虚空を見つめていた。

 

 トレミスを横目に、即座にバインドと呼ばれる目標を捉える魔法を発動。

 クリフの腕を捕らえると共にその体を自分の場所まで引きずり戻す。

 

 これで魔法の発動範囲内からは脱出できたはずだッ!

 

 「おい、しっかりしろっ!クリフっ!」

 

 「――――ッ!」

 

 クリフは死んだトレミスと同じように咽をひたすらに掻き毟っていた。

 さらに顔は青白く、耳と目と鼻からは血が溢れ出ている。顔はぱんぱんに腫れ上がり、舌は肥大して外へ伸びきっていた。

 

 「範囲から救出してもこの魔法の脅威は失われないというのか!?」

 

 トレミスもクリフも外部に損傷は見られない。

 症状から重度の酸素欠乏症だと判断できるが、ならば何故目や耳から出血しているのだッ!?

 

 クリフと目が合った。

 

 死にたくない、助けて欲しい、苦しいという感情が見て取れる。

 涙を流し、自分へと手を伸ばすクリフ。だがその手は空を掴み、地面へと落ちた。

 脈は無く、呼吸は停止。涙が伝う瞳は、虚ろなものへと変わり空を見つめていた。

 

 男はクリフの最後を見取るや、その目蓋を素早く閉じさせた。すぐさまバリアジャケットを展開する。

 

 あの最悪の魔法が展開された範囲が不明な点や、その対処方法が未だ確立されていない今。

 自分は下手にこの場を動く事が出来ない。いや、動く事が出来なかった。

 

 背後には死に瀕した少女がいる。

 

 体を移動させて退避させようにも、少女は背中から肋骨にかけて押しつぶされている。医学の知識がない自分では、下手に動かす事が出来ないのだ。

 もし心臓などの重要な臓器にその砕けた骨が突き刺さってしまえば、彼女を殺す事になるだろう。ならばこの身が出来る事は、一つしか為し得ない。

 

 男は改めて、死ぬ覚悟を固めた。

 

 例え自分が死んでも彼女を守り抜こうという、悲痛な覚悟を決意したのだ。

 そしてそれと同時に冷静になった頭が彼に思考を促し始める。

 

 もしやこれが観測された膨大な魔力の原因なのか。ロストロギアの未知の魔法が原因なのか。

 

 いや、そうであれば最初にトレミスがいた場所を通過した自分やクリフが殺されていたはずだ。にもかかわらず、背後で通信を行っていたトレミスが殺されている。

 

 これは明らかに自分たちを狙い、殺しにかかっていた。

 

 「(すまないな、エリナ。俺はここで死ぬかもしれない)」

 

 愛する妻の顔を心に思い浮かべる。

 

 無念の死を遂げたトレミスには、老いた母がいたはずだ。

 彼は自らの母を楽にさせるために、管理局に入ったのだと恥ずかしそうに頬をかいていたことを覚えている。

 

 自分の側で倒れ伏しているクリフには恋人がいた。

 写真を見せながら、今度の日曜日には彼女の家族に紹介してもらえるのだ。そう言って酒を飲みながら、嬉しそうにトレミスと自分に語っていたのはつい先日のことだ。

 

 二人は死んだ。

 

 もう戻っては来ない。

 母親思いのトレミスは死んだ。心優しいクリフは死んだ。母を、恋人を残して死んだ。殺されたのだ。

 

 そして、自分も愛する妻と娘の下にはもう戻れることは無いのかも知れない。

 

 だが最後の一矢、この事態を巻き起こした存在に一矢だけでも突き立てててやらねば気が済まない。何としてでも、彼らの犠牲に報いなければならないのだ。

 そう思い周囲を絶え間なく確認し続けた彼は、トレミスの遺体の方角で視線を止める。

 

 トレミスの頭上には一冊の本が浮遊していた。

 それは突然粒子と共にトレミスの頭上に出現したのだ。

 

 「(ロストロギア!?)」

 

 彼の目はその異常を確認したことで大きく見開かれる。

 

 古い皮仕立ての本。

 本という言葉で思い浮かべるロストロギアは『夜天の書』。

 多くの悲劇を巻き起こし、『闇の書事件』を巻き起こしたそれを思い浮かべ、彼は歯を噛み締める。

 次に起こった現象は、彼の精神をさらに追い詰めるのには十分であった。

 

 トレミスの体が0と1の数字羅列に分解されて、そのロストロギアと思わしき本に吸収されていく。

 

 思わず呼吸が止まる。

 息を吸うことを忘れてしまった。それ程にその光景は衝撃的なものであった。

 

 倒れ伏したトレミスの体は髪、手、足、胴体と次々に0と1の二重螺旋となってロストロギアに取り込まれていく。

 

 あの悪名高い夜天の書でさえ、魔道師が持つ魔力の源であるリンカーコアを取り込むのみであった。命を奪うことがあっても、その体は残されて遺族の下に送られたのだ。

 だがあのロストロギアはトレミスの体ごと吸収している。トレミスを量子化し、自らに取り込んでいる。

 

 その事実に身の毛がよだった。カチカチという音が聞こえた。自らの歯が鳴る音だと知るのに、総時間はかからなかった。

 

 呆然とする男を余所に、ロストロギアは最後の指先までトレミスの量子化を完了。

 トレミスがそこで死んだ痕跡を最後までを完全に取り込み、後には何も残らない。

 

 次の瞬間、ロストロギアと思われる本の錠前と鎖が解除。

 空中に魔法のような組成式が0と1の二重螺旋で構成され、繭のような球体を形成する。

 

 瞬時に己の得物をそれに向けて警戒。

 だがその体は、知らず知らずのうちに恐怖で震えていた。今まで感じた事のない恐怖が彼を襲っていた。

 

 球体に亀裂が入り割れる。

 内部から現れたのは鱗粉を伴って広げられる蝶のような羽。白い素肌に額と、整った鼻先。そして甘い吐息を吐き出す蕾のような唇が後に続く。

 

 繭の中からは美しい全裸の少女が生まれていた。

 

 それはとても幻想的な光景で、神秘的な美しさがあった。

 まるで神話のような生誕。見惚れるような美。だが彼はさらにその身を恐怖で震わせることとなる。

 

 その少女の体が、鉄格子で構成されていたのだ。

 

 そう、少女の体は鳥籠であった。

 巨大な鳥籠は乳房と細い腰となり、体の中心には止まり木が用意されていた。その止まり木には黄色いカナリヤがとまっている。

 

 そしてその籠の上、美しい少女の顔に収まるのは……。

 

 「マサカ、アンヘリオデハナク異ナル者ニ呼バレルトハ」

 

 昆虫の複眼であった。

 数百もの赤い目が自分を見つめている。

 

 嫌悪感と恐怖に咽は渇ききり、手に持つ杖が震える。

 今まで様々な次元犯罪者や事件に関わってきた。中には竜と呼ばれる存在や、人と異なる生態を持った種族も多く存在していた。

 

 だが今、己の目の前にいる存在はそれらに到底当てはまるものではない。もっと別の恐ろしい何かだと、彼の本能は告げていた。

 そもそもこれが生き物なのかすら解らない。まだ悪魔や化け物だと言ったほうが説明がつく姿だ。

 

 そしてその化け物が人語を理解し、自分を観察している。一つの目ではなく、数百の目で自分を目視している。

 緊張で吐き気が込み上げてくるが、何とかそれを抑えつけながらデバイスを握りしめる。

 

 「確かニ供儀ハ捧ゲラレタ。ダが二人デハマだソノ傷ハ癒セない」

 

 人語で話された言葉は、男の思考を奪った。

 何をこの化け物は言っている?

 

 「二人……まさかっ!?」

 

 自分の周囲を確認、クリフの姿が確認できない。

 そして理解した。この化け物はトレミスだけではなく、クリフまで喰らったのだ。恐怖が怒りに覆い尽くされ、竦んでいた体が生を取り戻す。

 

 杖を化け物に向けながら、怒りのままに彼は咆えた。

 

 「この化け物めっ!」

 

 「サらニ供儀ヲ捧げヨ」

 

 一刻も早く、この化け物を倒すッ!

 そう決意し魔法を発動しようとした、その時であった。

 

 「わかった~取り合えずこいつを殺しちゃえ♪」

 

 瞬間、ローガンの背後から甘えるような少女の声。

 同時に電磁電波系第四階位『赫濤灼沸怒(フルフーレ)』がローガンの背中に直撃した。

 

 指向性を持たせたマイクロ波が、ローガンの体内の水分子内で双極子が回転、振動させる。

 秒間振動二十四億五千万回のマイクロ波帯電波がローガンを襲ったのだ。

 

 結果、ローガンの体内の水分子は沸騰。目が混濁し、口からは湯気が立ち上る。

 徐々に体が倒れていく。既に内部加熱によりローガンは即死していた。

 その背後には桃色の光点が二つ。

 

 喜色に濡れた瞳は、倒れ伏した三人の局員を嘲笑っていた。



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3話 管理世界に現れた小さな闇

 大量及び、快楽殺人者のほとんどは孤独だ。

 一人一人の殺害原因は異なるが、その動機は細分化していくと大まかに分けることが出来る。

 

 一つは暴力的傾向があるもの。

 自らを正当化、固辞するために暴力を行使。さらに一つの感情のはけ口として暴力という手段で発散させようとした結果、相手を死に至らしめた者が結果として殺人者になった。

 

 一つは思春期から人間関係に失敗したもの。

 思春期が通常の人間よりも遅れた者は、それまで友達であった者からも敬遠され、一人となってしまう者が多い。

 これまでの行動的な人間関係ではなく、理知的で社会的な交友関係を求められるが故に、それを理解できず取り残された者達が殺人を犯してしまう。

 

 一つは社会的に困窮していたもの。

 生きようにも金銭が無いために、自ら殺人者になってしまった者達だ。金銭が無いが故に満足な教育が受けられず、人としての倫理観が育っていない。それ故に、彼らは殺人や犯罪に対しての危機感が薄いのだ。

 

 一つは異常な性的妄想に長く耽溺していたが故に、それを実行に移したもの。

 歪んだ性的嗜好を抑えきることが出来ず、幼い子供や力のない女性を対象にした暴力行動からくる殺人である。

 この場合、性的な嗜好というよりはむしろそれに随伴する性的倒錯が問題である可能性もあり、人格に起こった障害こそ原因であるという見方もある。

 

 だが、『ザッハドの使徒』は常と違っている。

 

 それぞれの使徒達が一定の規律に従って動いており、中には自らの手先として『指先』という配下を作り上げる者もいるのだ。

 これはこの四つの通例に当て嵌まらない。まさに快楽殺人者の新たな一面を切り開いている。

 

 では、『ザッハドの使徒』は犯罪組織的な大量殺人者集団なのであろうか。

  

 犯罪組織は目的があってこそ構成員が共有できる。

 企業が利益共同体であると同様に、犯罪組織も利益共同体なのである。

 

 だが『ザッハドの使徒』は、それぞれが大量殺人者であるが故に結束できない。

 利益に意味のない殺人を行いつつも、黒社会の犯罪組織の支部や金庫を襲撃するなど、動機と目的にまったく一貫性が見いだせないのだ。

 中には『ザッハドの使徒』の無秩序な殺人によって、もう一人の『ザッハドの使徒』が迷惑を被ることも決して少なくは無いのである。

 いったい何が彼らを結びつけているのか、そもそも彼らは何者なのか。

 

 この問題は長い間、謎のヴェールに包まれていた。当然だろう、何せ彼らは理性が外れたただの快楽殺人者とは違い、計画的で理知的な一面を見せている。にも関わらず破滅的だ。動機と目的どころか行動性にも一貫性が見られない存在を、どう見つけ出せば良いというのか。

 

 だがやがて、正体不明であった彼らの情報を得た警察士達は愕然とすることになる。

 

 『ザッハドの使徒』達のほとんどは、自分の人生や社会にまったく不満や不足がない。憎悪も絶望も感じてはいなかったのだ。

 

 皇暦四百七十九年。『右手薬指のパティノコス』が交通事故で事故死し、身寄りがなかったために訪れた役所の役員が彼の日記を発見したことにより、彼が『ザッハドの使徒』であることが判明。

 

 『右手薬指のパティノコス』は善良な咒式技師で満足な給金と満足な人間関係を構築していた。

 

 上司や同僚からのうけもよく、さらには彼を想い慕う女性まで見つかったのだ。

 休みの日は親しい仕事仲間とヴォックルという競技を見に行ったり、酒を共に交わすことも少なくなかった。

 人間として実に恵まれた環境にあり、彼の周囲の人間は彼に対してなんの違和感も感じてはいなかっただろう。彼の境遇自体も家庭環境も実に平凡なものであり、虐待などの影は微塵も無かった。

 

 しかし、現実に『右手薬指のパティノコス』は通常の犯罪者が吐き気を催すほどの凄惨な殺人を大量に行ってきたのだ。

 金や怨恨、愛もなければ名誉もないような殺人。得られる物は何も無い、リスクしかそこにはない殺人を繰り返す姿は狂気以外の何ものも感じられない。

 警察士は繋がりを持てない無慈悲な殺人を大量に行う『ザッハドの使徒』の脅威を改めて思い知らせれる事となる。

 

 この一人の使徒から分かる通り、彼らには繋がりを見いだせない。だが『ザッハドの使徒』というくくりは確かに存在しており、何かの手段で連絡を取り合っているのだ。

 そしてこの瞬間にも、新たな『ザッハドの使徒』が誕生している。

 

 そして『ザッハドの使徒』は、ついにミッドチルダの管理世界にまで姿を現すことになった。

 

 これは誰も予見していなかっただろう。そもそも魔法世界は咒式の存在を発見してすらいなかった。それは咒式世界も同様である。

 恐らくザッハドの使徒も、その王たるザッハドすら予想していなかっただろう。現に訪れた当人すら魔法が実在しているなど考えもしなかった。寝物語を信じる年齢はとうに過ぎているし、そもそも彼女は寝物語を信じてすらいなかった。

 

 ただ、彼女にとって今重要な事は……。

 

 「碌な服がないじゃない、ああもうっ!この家は外れね」

 

 衣食住の問題であった。

 

 薄く朱が入ったフリル付きワンピースを着たヒルダが、鏡を見つめながら顔を渋らせる。

 ヒルダは不満げに自らの服の端を細い指で摘みとると、失望したかのように息を吐き出した。

 そして悲観するかのように天井を仰ぎ見ては、再度ため息を吐き出す。もう何度ため息を吐き出したのか解らない。ため息で幸運が逃げるという妄言があるが、もうそうなら不運過ぎて今にも死にそうだ。

 

 ヒルダの体は管理局員の局員を三人、さらに民家に侵入し住民を四人殺害することで完治している。

 その治療咒式を行ったのは、エミレオの書に封印された『天秤のキヒーア』と呼ばれる異貌のものどもであった。

 

 元々の所持者はアンヘリオ。

 

 唯でさえ到達者級の功性咒式士であるアンヘリオは強大だ。

 『金剛石の殺人者』と呼ばれるアンヘリオは、警察士が把握しているだけで七百三十二人殺害している。

 さらに二百一体、異貌のものどもを殺害。中には強大な力をもつ『長命竜(アルター)』まで彼に殺されたことが解っている。

 

 戦線を単体で一変できる巨大な力を持つ異貌の者どもが封印されたエミレオの書を複数所有し、自らも極めて優秀な前衛咒式士として襲ってくるアンヘリオ。

 例え重傷を負わせる事に成功しても、人間を数人捧げるだけで瀕死の身を完治させる『天秤のキヒーア』などという規格外のエミレオの書を所持しているとは。

 

 後衛型で暗殺と奇襲を得意とするぺネロテ姉妹は、例え万全の状態であったとしても勝てたのか怪しい。

 特に自分が命の危機に見舞われた最後の戦場。そこでアンヘリオが見せた『エミレオの書』は思い出すだけで震えが止まらない。

 

 ヒルダがあの異貌のものどもを呼び出そうとしても、咒力が足りずに制御下を離れて殺されるだけだ。

 いったいどれほどの馬鹿げた咒力と咒式制御力をもっているというのだ。

 ヒルダ一人では為す術もなくアンヘリオに殺されるだろう。

 

 だが、そんなことはもはやどうでもいい話だ。

 ヒルダに恐怖を与えたエミレオの書は、今やヒルダ自身が全て所有しているのだから。

 

 宙に浮かぶ複数のエミレオの書を、ヒルダは満足げに眺める。

 

 「うーん、やっぱりエミレオの書の使い勝手は『絶息の巨人エンゴル・ル 』が一番ね」

 

 エミレオの書は数あれど、使い勝手はやはり今まで自分が慣れしたんだエミレオの書である『絶息の巨人エンゴル・ル 』に並ぶものはない。

 

 絶食の巨人エンゴル・ルは古き巨人と呼ばれる種族だ。古き巨人は珪金化合物の体を持ち、石油を食料としてアスファルトの排泄物を出す生物である。

 

 その異質さ故に、人間では不可能とされている巨大な体型を成立させ、自らの体を変化させる咒式を行使できる。規格外の体は地層と同じ年月を生き、身長は十六メルトルを超す。

 さらに年別と共に蓄積された膨大な咒力と経験が、地形を変えるほどの破壊と人の常識を越えた咒式の発動を可能とするのだ。

 

 だがエンゴル・ルはさらに異質だ。肥満体をした、薄青い霧状の古き巨人。それがエンゴル・ルである。エンゴル・ルは珪金化合物の古き巨人ではなく、気体として生体を成立させている。

 多くの古き巨人が巨大な化合物の体を利用する超前衛咒式士であるのに対し、エンゴル・ルの咒式と戦闘方法は異常だ。あまりの変わり種に、本当に古き巨人かすらも疑わしい。

 

 先に殺した管理局の局員二名及び、ヒルダが一人ファッションショーを開催している家の住人は、全員エンゴル・ルの咒式によって殺害された。

 エンゴル・ルが発動する咒式は凶悪にの一言に尽きる。

 

 結界に限定された空間内で発生されるエンゴル・ルの咒式は、波形構造を持つ負の気圧である。

 

 マイナス十気圧という負の圧力がかけられると、肺や内臓が破裂して出血。

 さらに殺されたトレミスとクリフのように眼窩や口腔、鼻孔や耳孔から体内の血が体外へと吸い出される。

 

 呼吸できないのは肺が破壊されたからではない。極端な話、肺など再生させれば問題は無いのである。

 だが負の気圧により咒式範囲内の酸素濃度が低下しているのだ。

 一回でも人体が酸素十六パーセント以下の大気をすると、肺胞毛細血管中の酸素が濃度勾配によって引き出される。足りない分だけ体内の酸素が失われるのだ。

 

 だが血中酸素が不足すると、延髄の呼吸中枢が反射的に呼吸させ、さらに血中酸素を失わせる。

 士の無限ループである。一度この咒式の効果範囲内に入れば眼窩などから血を吸い出し、呼吸すれば体内の血中酸素が軒並み失われていく。

 

 これこそ『絶息の巨人エンゴル・ル 』の咒式、化学錬成系第六階位『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』の脅威だ。

 

 結界の空間内には負の気圧地獄を発生させ、侵入した生物の体組織を一斉に破壊する。

 そしてたった一回でも呼吸すれば、死を免れない凶悪な咒式である。

 視認できず、呼吸を止めることで回避する事も叶わない。補足されれば待つのは死だ。

 

 隠れ潜んでいるこの家の本当の持ち主とその家族は、今やリビングルームで仲良く不細工な顔で死んでいる。

 最初侵入した際は五月蠅く騒ぎ立てており、あまつさえ抵抗の意志を見せていた。

 だがエンゴル・ルの咒式はそんな馬鹿げた覚悟ごと命を奪う。

 

 眼球が破裂する痛みと、肺が破壊されたことで息が吸えない苦しみに悶えながら死んでいった連中の顔は、面白おかしくて堪らない。

 

 やはりエンゴル・ルの咒式は最高だ。

 

 「それにしても、魔法世界ねぇ」

 

 ソファに寝そべると同時に、ヒルダは雑誌や新聞などの報道関係の紙を広げ始める。

 規則正しく配列された文字を追っていく。字面の法則と規則から文面を理解、さらに音声つきの報道映像を眺める。不思議と言葉自体はエリダナ公用語と変わりがないらしい。いろいろと疑問はあるが、それ以上に今直面している問題は多い。そっちを優先するべきだ。

 

 世界が変われども、やはりこのような報道機関は存在しているようだ。この世界はジャーナリズムを可能とする社会と権利が成立している。

 広報機関と報道機関があるのであれば、それを利用する大きな勢力が存在するはずだ。

 睨むようにして文字を読み取っていく。音声付きで文字を読む方が、下手に本を読むよりも習得が早い。

 

 「えぇ~と、『エース高町なのはがまたもお手柄、次元犯罪者を逮捕』。『アハト社の不正取引』に『第○○○世界で戦争勃発、管理局が交渉するべく現地の両政府に派遣』」

 

 様々な内容の報道が、中年の報道官から告げられていく。

 当然ながら、そこに登場する企業や人物に聞き覚えがない。本当に別世界に来てしまったのだと実感した。

 

 「……まぁ、どこも馬鹿で阿呆で死ぬしかない連中がいることは変わらないってことね」

 

 それだけ解れば十分だ。利用できる馬鹿共がいるということが解れば、これまで生きてきた世界となんら変わりがないだろう。多少の齟齬はあるが、大本さえ変わらなければどうとでもなりうる。

 さらに報道を眺める内に、見覚えのある服装の連中が画面に映り込んだ。既に何回か映っているが、どうにもその制服をどこかで見たことがある。

 

 そう思ってしばらく思考を回していたところで思い出した。ヒルダは「これって私がここで初めてぶっ殺した連中じゃん」と呟くと、面倒くさそうに頬を二三度かく。

 自分が殺した連中は時空管理局とかいう連中らしい。何やらいくつもの世界を管理するだのいろいろ言っているが、手元で調べる限り否定的な表現で彼らを彩る報道機関も少なくない。

 

 気になって調べてみると、こいつらが言っている『管理世界』とやらには、それぞれ独自の政治機関が既に存在しているらしい。ようするにそいつらに首を突っ込むお節介な連中が、この『次元管理局』というようだ。

 やっていることは警察士や咒式士事務所と同じだろう。つまり無能な連中だ。ああも簡単に殺されたところを見ると、そこまで強い脅威は感じない。

 

 まぁそんな無能共でも私の為に役にたったのだ。

 最後に『ザッハドの使徒』である『ペネロテ姉妹』のヒルダちゃんに殺されて、さぞ光栄であったことだろう。

 

 しかし一番の問題は。

 

 「魔法……やっていることは咒式と変わらないけど、発動内容が把握できないのは面倒くさい」

 

 あの管理局員の男が発生させた魔法には驚いた。

 最初は化学錬成系、電磁光学系、それか数方系の咒式だと考えた。だがその答えは『魔法』という実に馬鹿げたものであった。

 

 誰が想像できるだろう。魔法なんて今時ガキ共すら信じていない。

 それが大まじめで存在しているのがこの世界だから驚きだ。大まじめで報道されている様子を初めて見た時は、この世界の人間全員頭がおかしくなったのかと思ってしまった。

 

 魔法。杖を振ってくるくる回り、愛と勇気でうんたらかんたらする馬鹿げた姿しか思い浮かばない。そういえばその手の映像を、あの愚妹ヒルデはやけに好んでいた。あいつの武器自体もそれに影響されたのか、妙に安っぽい装飾が施された魔杖錫であった。

 あれに手をボロボロにされたのだから始末が悪い。いくら現在は治っているといっても、嫌な物は嫌だ。考えるだけでも、魔法にいい気は全くしない。むしろ嫌いだ、死ね。

 

 目の前の机で乱雑に広げられた書物。家中から集めた魔法に関する資料を漁っていく。読み終わって邪魔だと投げられた本が食器棚にぶつかり、こぼれ落ちた皿が高い音と共に割れる。

 だがそれらはヒルダは魔法の書物に夢中になっていた為に、そんな事はどうでもいいと無視。

 

 「魔力が咒力、咒式が魔法。魔法陣って言うのが咒式の組成式って考えるべきね。わ~凄い、思ったよりも理論に基づいて構築されている。咒式とは違って、プログラム的面が強いみたいね」

 

 感心したようにページを読み進める。

 時折ソファに寝そべって足をパタパタと音を立てて動かしながら、次々と書物を読み進めていく。

 しかし数時間後。本を読む動作が止まり、本を投げ捨てた。疲れたようにヒルダは顔をソファに埋める。

 

 「でも、これまでの咒式による戦闘経験がまったく通用しなくなるっていうのはきつい」

 

 ヒルダの顔は苦渋に歪んでいた。

 

 咒式を発動させる攻性咒式士も数多くヒルダは殺してきた。

 毒ガス、電撃、硫酸、レーザー光線、重力、放射線、爆発、鉄鋼弾、ナパームの炎。

 あらゆる殺害方法を持った連中を、ヒルドとヒルデの三人で殺してきたのだ。

 

 ただの快楽殺人者では三百人以上も殺す事は出来ない。

 

 復讐に燃える咒式士や、賞金の額を知って殺しに来た腕利きの賞金稼ぎ達も少なくない。そうやって殺しに来た連中を殺し返して来たからこそ『ザッハドの使徒』として生きている。

 

 抵抗するものもいた。中には百を超える罠に嵌められることもあった。

 腕や足を無くし、毒に侵され、失明し、重要な臓器を破壊されたこともあった。

 そんな戦場を乗り越えた上で、自分は楽しんで殺してきたのだ。

 

 「これまでの経験、そのほとんどが無駄になったかぁ。咒式は魔法の域まで辿り着いた超科学、解明されていない方が多いぐらい。対して魔法も幻想じゃなくて咒式と同じ超科学らしいけれど……」

 

 見れば見るほどに呆れかえってくる。同じ超科学でもこの魔法は異質だ。

 

 魔法に対する対抗策、戦術を整えられない限りは動くことはできない。

 戦闘法も確立せずに戦うなど、あまりにも馬鹿げた話だ。頭の良くてかわいい私は、そんな馬鹿とは違う。

 私が欲しいのは勝利だ。殺したいという欲求を満たすためにも、魔法について理解を深めなければならない。

 

 「うわ、私って凄い真面目。でも面倒くさいなぁ……」

 

 今まで血に濡れた闇の世界を生きてきたことで、ある程度の自信を持っていた。

 ヒルデにヒルドが消えたとしても、普通の攻性咒式士であれば圧勝できることは間違いない。

 

 だがそれらは咒式に対する経験と知識があってこそ成立するものだ。

 

 「今までの学んだことも常識も、この世界には通用しない。潜むにしても一切のツテがない、他の『ザッハドの使徒』もいない。完全に私はこの世界に一人だ」

 

 異世界に落ちるなんて、三流小説家が苦心の末に編み出したような話だ。

 荒唐無稽、まだ明日世界が滅びますって言われる方が信じられる。

 だが現実に起こっており、現在自分が絶賛体験中。期間は無制限という太っ腹ぶりだ。嬉しすぎて殺意が沸く。

 

 ちなみにだ。私のような立場には、次元漂流者という馬鹿な名称をあてられるらしい。

 『ザッハドの使徒』である自分が漂流者などという、実にふざけた名前を振り分けられている。爆笑ものだ。私以外に笑った奴は殺すけれど。

 

 世界に一人。なればこそ、私は『ザッハドの使徒』でなければならない。

 

 あらゆる世界に『ザッハドの使徒』の恐怖を広げてやろう。

 その名を聞くだけで憎悪し、吐き気を催し、怯えるように私は老若男女を無残にぶさいくに殺してやろう。

 

 「そう考えれば私はこの世界で初めてのザッハドの使徒っていうわけ♪うん、それって実に素敵で素晴らしいことね」

 

 今はまだ潜むべき時だ。

 

 どこの社会にも、忌むべき部分。裏社会は存在している。

 そこに潜み、魔法と管理世界を十分に理解した上で『ザッハドの使徒』として名乗りを上げるべきだろう。

 今回ヒルダが行ったように、一家を惨殺していく方法はリスクが高い。聞くところによると、私が殺した奴が勤める管理局とやらの動きは、迅速にして正確。警察共より優秀らしい。

 

 この世界を知らずに動いていたのでは、いずれ補足され追い詰められる。

 いくら強力なエミレオの書を所有しているとはいえ、魔法という未知の分野に不安を残したままそれは不味い。

 

 「フラストレーションはたまるけど、殺しはしばらく控えるしかないか。めんどくさ~」

 

 まだ『絶息の巨人エンゴル・ル』以外のエミレオの書は使い慣れておらず、魔法世界のことは何も知らない。

 今までは『ペネロテ姉妹』として三人で殺してきたが、これからは『ヒルダ』として一人単独で殺す方法と戦術の確立が必要だ。

 

 これからの課題は山ほどある。しかしそれ以上に楽しみはある。旨みも多い。どこからいったらいいのかと、贅沢な悩みが既に生まれつつある。

 

 ヒルダが『ザッハドの使徒』になったときは、すでに『ザッハドの使徒』の存在と恐怖は世界中に広がっていた。

 

 だがこれから自分が『ザッハドの使徒』としての『ヒルダ』を広めていく。

 『ザッハドの使徒』を知らない平和呆けした馬鹿共に、このかわいいヒルダちゃんが『ザッハドの使徒』を知らしめていくのだ。

 

 ああ、楽しみだ。実に、楽しみだ。

 

 「あらゆる情報を集めないと。今の私はまだ殺人者としての名前が広がっていない。情報を取り扱う連中や、裏の連中は私に力を貸してくれる。顔も知られていないから買い物も普通に出来る」

 

 ヒルダは熱のない視線をこの家の住人であった肉塊に向けた。

 見れば目を背けたくなるほどの惨い姿であるが、ヒルダはそれをハエが集った生ゴミを見るような目で直視した。

 

 「こいつらはそれぞれ地位を持っている。人付き合いも情報端末からよく行っていたことが解るから、もって二日しかここにはいられない。金銭や高く売れるものを集めて強盗殺人に見せかけないと」

 

 続けてヒルダは自分の服を眺めた。

 

 薄い朱色がかった白のレースで彩られたワンピース。実際似合ってはいると思う。ただ趣味ではない。第一、他の人間が着たお古を着ると思うと情けなさすら覚える。

 周囲から見ればよく似合っいると十人中十人が口を揃えるだろうが、ヒルダはそれを憎々しげに見つめながら肩を落とした。

 

 「まず服、このかわいいヒルダちゃんに相応しい服を揃えていくべきね」

 

 ヒルダはそう結論づけると、ゆっくりとソファから起き上がって背を伸ばす。

 そして疲れきった精神を休めるべく、二階の寝室へと上がっていったのであった。

 



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4話 殺人者としての矜持

 「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 

 「打て、魔力が尽きてもいい!可能な限り打ち続けろ!連中を近寄らせるなぁッ!」

 

 悲鳴のような怒声をあげた魔導士達へ向けて、いくつもの射撃魔法が到来。

 全員が回避、防御魔法を発動したところへさらに広域攻撃魔法が発動。

 

 埠頭の倉庫一角が膨大な衝撃と共に崩れ落ちていった。

 

 倉庫を形成していた資材が崩壊、幅数メートルの金属版が魔導師達の頭上から落下。

 それを確認した全員がすぐさま落下範囲から飛び退くことで、暴雨のように降り注ぐ資材を回避することに成功。

 

 

 死の雨を回避したことにより安堵する魔導師達、そしてそこに生じた僅かな心の隙。

 それを襲撃者たちが見逃すことはなかった。

 

 落下により巻き起こった粉塵のベールを突き破って通常の一万八千倍、四百八十キログラムルのチョコレートが射出。

 膨大な質量を持ち、民家一棟さえも粉砕する恐るべき死の弾丸だ。

 

 隙を見せた魔導士達の顔には死の恐怖。

 

 先頭の女性魔導士が、条件反射的に防御魔法を展開しようと試みる。

 しかし彼女の顔は一瞬で絶望の色へと染まった。

 女性魔導士が見たものは、次々と粉塵を突き破って飛来する複数の巨大なチョコレートの塊であったからだ。 

 

 魔導師の一団に黒褐色の破城槌群が直撃。

 

 先頭にいた女性の魔導師の顔面に一枚が直撃。顔の鼻から上が完全に消失、白い脳漿と血が後方に降りそそぐ。

 胴体に数枚受けた男の胸筋が断裂、助骨が全て粉々に粉砕。さらに心臓、肝臓、脾臓などの重要臓器がのほとんどが衝撃により破裂。

 二人の魔導師の亡骸には数枚のチョコレートの固まりが墓標のようにそびえ立っている。

 

 唯一存命した最後の魔導師もチョコレートの砲弾が脚に着弾したことで腱、骨格筋が断裂。脚が引きちぎられた。

 

 自重を支えることが出来なくなったことで、男の胴体が地面に転がる。、

 脚の断面からは神経と白い骨と桃色の筋肉組織が覗き、溢れでた大量の血液が床へと広がっていく。

 

 「脚が、俺の、俺の脚がぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 

 視界が真っ赤に染まり、焼けるような痛みに思わず悲鳴を上げ続ける。

 

 「だ、誰か助け――――」

 

 大の男でも失った脚の痛みに抗うことが出来ない。

 自らの失った脚を見て男は涙と共に助けを求める。

 

 だが耳を防ぎたくなる悲鳴こそ、位置を相手に知らせるトリガーになる。

 

 男は激痛のあまり現状の危機感が頭から抜け落ちていた。

 直径三メルトルに及ぶ飴玉の散弾が飛来、まだ僅かに残っていた粉塵を完全にかき消した。

 

 散弾は次々と地面を這いずる男へと衝突。

 

 うち数発が男の頭に着弾、眼球が衝撃により破壊される。

 鼻頭が完全に陥没し、口腔に直撃した飴玉の周囲を抜け落ちた何本もの歯が舞う。

 首の七つの骨全てが粉々になり、頸椎が粉砕。涙と血を飛ばしながら魔導師の男は絶命した。

 

 次々と殺されていく仲間の亡骸を見た残る魔導師達の顔には恐怖と絶望。

 

 「お、『お菓子の魔女』だ!『お菓子の魔女』が来やがった!?」

 

 「嘘だろ嘘だろ、何でこんなところに『お菓子の魔女』が来やがるんだ!くそったれがぁッ!」

 

 「落ち着けッ!隊列を乱すんじゃねぇッ!」

 

 「応戦しろ、押し返せぇッ!」

 

 冷静に状況を判断した魔導師数人は、もはや逃げることは不可能だという悲痛な判断を下した。

 

 生き残るべく、各々が魔法を次々に詠唱開始。

 前面に進み出た前衛魔導士が後方で詠唱する魔導士達を守るべく、次々に堅固な防御魔法を周囲に展開していく。

 

 「や、やってられるかぁぁぁぁ!」

 

 「いやだ、いやだ、死にたくないぃぃぃぃ!」

 

 「待て、逃げるんじゃねぇッ!」

 

 しかし残る魔導師達は凄惨な戦場に心が折れた。

 

 己の命を優先して身を次々と翻し、戦場に背を向けて走り出す。

 詠唱していた魔導士達は、自分達を置き去りにして逃走を始めた彼らを憎々しげに睨みつける。

 

 だが彼らを制止させる時間すら惜しいとばかりに、すぐさま前方を確認。

 牽制の魔法の詠唱を完了させた。

 杖の先には魔力が集積し、足元には魔方陣が形成される。

 

 だが。

 

 「ひぐぃ!」

 

 一人の魔法を紡いでいた魔導師の魔法陣が、短い悲鳴と共に霧散。

 

 それを始めとする残る魔導師達も、次々と凄まじい耳鳴りと嘔吐感に襲われ、攻撃や補助魔法の詠唱が中断されていく。

 

 逃げようとしていた者達もいまや床に膝をついて頭を抱えており、部屋内の全員の顔が苦痛と不快感に染まっていた。

 

 一人、また一人と床に力なく倒れていく。

 

 「な……何が……」

 

 「う、おぇぇぇぇぇぇぇ」

 

 「炎と……だめっ……詠唱が……できな……」

 

 全員が酷い吐き気と目眩、耳鳴りに襲われて倒れ伏した。

 中には涙を流す者、あまりの不快感に床を爪で掻き毟る者までいた。

 

 これが敵の魔法による攻撃だと解っていても、魔導師達は反撃に移ることが出来ない。

 彼らの全身には電磁電波系第三位『暴魎魔笛(タミー・ノ)』の咒式による圧力がかけられていた。

 

 咒式の電磁波によって空気を振動。それにより発生した超音波を収束させ、一定方向に指向性を持たせる。

 放射された音波は音の帯となって狭い範囲に作用。

 相手の鼓膜に強烈な攻撃を加えると同時に、二十と二十五キロヘルツルの超周波数を重ね合わせ、人の平衡感覚を司る内耳に作用する五キロヘルツルという超低周波数も放つ。

 

 この鼓膜を直接殴りつけられたかのような衝撃は、三半規管を一瞬で狂わせることとなる。

 平衡感覚の喪失は激しい嘔吐感、目眩、頭痛を引き起こしてその場に転倒させる。

 

 魔法を発動する事も叶わず、ただ地面に蹲るばかりの魔導師達へ向けて、容赦のない攻撃魔法の一斉射撃が開始。

 絶え間なく続く魔法の掃射に、為す術もなく何人もの魔導師達がゴミやチリのように吹き飛ばされていく。

 

 「た、助け――――」

 

 『暴魎魔笛(タミー・ノ)』により逃げることも、防御魔法も展開することも出来ずにただ蹂躙される魔導師達。

 助けを求めて這って逃げようとする者もいたが、止むことの無い掃射は慈悲もなく彼らの命を刈り取っていった。

 

 やがて魔法の一斉掃射が終了。

 

 舞い上がった煙が晴れた先にあった光景は、ヘモグロビンの深紅で毒々しい花々がいくつも咲き誇る花畑であった。

 

 苦痛の呻き声すら聞こえなくなった、凄惨極まりない地獄。

 

 そこへゆっくりと複数の足音が歩み寄っていく。

 崩れた瓦礫の合間をぬって現れたのはバリアジャケット展開し、それぞれ剣や杖、斧など統一性のないデバイスを持った集団。

 

 「……殲滅、完了だな」

 

 「そうだな……うぉッ!この女。鼻から上がないッ!スタイルいいのにもったいねぇなぁ」

 

 「お前は随分と余裕あるなぁ、おい。俺はちょっと吐き気がきついぜ」

 

 「……あの御方の魔法でも浴びたか?」

 

 「だったらこうやって立てるわけねぇだろ。あれだよ、腕とか足とか指とか、転がっているのがまだ慣れねぇだけだ」

 

 顔を歪めた髭の短い男が、地面に転がった腕をぞんざいに蹴とばした。

 所有者不明の腕は血の線の弧を描きながら二、三転と跳ねて底を転がっていく。

 

 

 「しかし……」

 

 腕を見送った男が、感慨深く息を吐き出した。

 

 底に倒れ伏す物言わぬ者たちを一瞥する男の姿は、勝利に酔いしれているのではなかった。むしろ今この現実を、信じ受け止める事が出来ない様子であった。

 

 「俺たち、本当にあの武闘派組織の『アルタイル』を潰したんだな」

 

 「ああ……だが、ここまで圧倒的に連中を殲滅できるとは」

 

 「管理局で恐れない武力を持った連中が、たった二カ月でこの有様だ。しかもこっちは被害がまったくありゃしねぇ。こいつは実に笑える話だ」

 

 男たちは勝利の高揚感ではなく、驚きをもって『アルタイル』の終わりを迎えていた。

 各々の魔導師が顔を見合わせ、すぐに実感が湧かないような面持ちで死体を一瞥していく。

 

 彼らが殲滅した犯罪組織『アルタイル』は裏社会でも中堅クラスの武闘派組織であった。

 中心的戦闘構成員の魔導師は五十を超える。中にはAランククラスの魔導師や管理局崩れの魔導師の姿もあった。

 

 管理局、他の裏組織とも戦闘行動を行える軍隊を持った犯罪組織。

 さらには武力だけではなく、違法物資の取引に関する仲介や護衛をこなすことで、年々影響力を増していくという器用さを持ち合わせている。

 

 武闘派組織『アルタイル』は多くの裏組織に実力を認めると共に、警戒されてきた存在であった。

 恐らく今後さらに取引が拡大し、次元世界へその名が通っていく――――

 

 「これも全部あの御方が指揮をとったからこそ、か」

 

 「ああ、『お菓子の魔女』に勝てる奴なんかいやしねぇさ」

 

 ――――はずであった。

 

 『アルタイル』はたった一人に殲滅されたと言ってもよい。

 組織の命令により指揮を任された『お菓子の魔女』によって、『アルタイル』は崩壊していったのだ。

 

 『お菓子の魔女』。

 

 この管理世界においてある日突然、その名が裏の世界に知れ渡った殺人者。

 

 正体は不明。出身世界も不明。容姿は整っており、美少女であることが知られている。

 だがその正体は奇妙な魔法を使い、立ちはだかる者たちを皆殺しにする冷酷な魔女。 

 

 『お菓子の魔女』は『アルタイル』に関係する者達を『お菓子の魔女』は優先的に殺していった。

 協力者は言わずもがな。『アルタイル』の家族、親類、友人を裏表関係なく無差別に殺していった。

 魔女は女、老人、子供、赤子関係なく無慈悲に『お菓子の魔女』は『アルタイル』に関わる者達を殺したのだ。その数はもはや解っているだけで百を超える。

 

 それもただ殺すのではなく、より残酷に遊ばれて殺された。

 

 ある男の妻は眼球が抉られ、鼻と耳をそぎ落とされ、舌を抜かれ、四肢を切断されて殺された。

 死因は多量出血による失血死。あえて命は奪わず、苦しみにのたうつ姿を見て楽しんだのだ。

 捕まり、解体されていく過程から死ぬまでが記録された映像は、夫である男の仕事場に彼女が身につけた結婚指輪が収まった指と共に送り付けた。

 

 見せしめとして殺すだけではなく、彼女は精神的に『アルタイル』に関わる者達を追い詰めていったのだ。

 

 ある老人夫婦は未知の魔法により、胴体部分を融合されたまま殺されるという無残な姿で発見。

 生きたまま殺してと泣いて懇願するその姿を何時間も撮影した映像は、『お菓子の魔女』の笑い声とともに裏社会に流されることとなった。

 

 『アルタイル』の復讐に燃える構成員や、彼らが彼女に賭けた懸賞金の額につられた魔導師達は、『お菓子の魔女』の討伐に乗り出した。

 だが結果は全員惨殺という悲惨な結果に終わる。

 

 ある者は喉をかきむしったまま窒息した姿で発見され、ある者は心臓麻痺で苦しみながら街中で突然死を迎え、ある者は巨大な生物に上半身を食いちぎられた状態で発見された。

 

 そして『お菓子の魔女』の名前通りに巨大なチョコレートやケーキに潰され、数メートルにも及ぶ巨大な飴玉で殺された復讐者や賞金稼ぎ達。

 その奇妙な光景は『アルタイル』のみならず、裏社会に大きな衝撃を与えた。

 

 不可思議な魔法で殺害していく『お菓子の魔女』。

 人を殺すことに一切のためらいがなく、むしろ楽しんで殺していくその姿は、多くの魔導士達に衝撃を与えたのだった。

 

 これにより『アルタイル』からは戦闘員・非戦闘員から脱退が相次いだ。

 弱体化した『アルタイル』は暗殺、裏切り、内通が横行。もはや死に体となった『アルタイル』を追い詰め、殲滅することが今回の作戦であった。

 

 『お菓子の魔女』が『アルタイル』に対する作戦を行使してから二ヶ月。

 強大な裏社会組織『アルタイル』は壊滅した。誰もが予想しない終わりを迎えた。

 

 これで裏社会の勢力図は大きく動かされることは間違いない。

 この作戦に参加した自分達にも、カエストス魔法商会から大きな報酬が約束されることだろう。

 

 頬を緩ませてお互いの成果を語り合う面々であったが、ゆっくりと近づいてくる軽い足音に全員が一斉に口を閉ざす。

 弛緩した空気が一瞬にして緊迫したものに変わり、それぞれの顔が引き締められた。

 

 緊張から額に汗が浮かぶが、男たちはそれをぬぐいもしないで直立する。

 

 彼らの顔は皆険しいが、その裏に潜むものは恐怖。

 殺し殺される裏世界の中でも特に死線を越えてきた歴戦の魔導士達。

 だが、彼らは皆一様に近づく足音に恐怖を抱いていた。

 

 一歩、また一歩と足跡が近づいてくる。

 誰かが唾を飲み込んだ瞬間、一人の美しい少女が姿を現した。

 

 血のように鈍く輝く桃色の眼。

 流れるような長い桃色の髪には、黒百合をあしらった髪飾り。清楚で整った顔に納められた髪と同色の瞳。黒で装飾された長いドレス型バリアジャケットに、黒い蝶が飾られた黒靴。

 

 そして肩には異形の使い魔が鎮座していた。

 狐のような姿に土気色の老人の顔をした異貌の使い魔。使い魔は倒れ伏した死人と、怯えた視線を向ける魔導師達を嘲笑っていた。

 

 異様な空気に包まれる中、副官として指揮していた男が一歩前へ進み出る。やや緊張した面持ちで美少女に向かって口を開く。

 

 「ヒルダ様、戦闘は終了。我々の勝利です」

 

 声は震えていた。

 

 だが不思議な事に、それを揶揄するからかいの声もなければ、あざ笑う者もいなかった。

 この場にいる彼女以外の全員が、『お菓子の魔女』に恐怖を抱き、動くことも声を発することもできなかったからだ。

 

 頭を下げる副官をしばらく注視していた少女は、続けて周囲の男たちへと視線を動かしていく。

 流れる目を向けられた魔導師達は肩を僅かに震わせるも、姿勢を崩すことなくそれを受け入れた。

 

 「ふ~ん、勝利かぁ」

 

 興味なさげに呟く少女に、副官は静かに顎を引く。

 

 「はい、既に上には報告しております」

 

 『お菓子の魔女』の異名を持つ召喚魔導師『ヒルダ・ペネロテ』。

 その登場に闇で生きてきた男達でさえも、声と目には畏怖の感情が込められる。

 

 かつて彼女を馬鹿にした同僚が、目の前で無惨な死を遂げていく光景を男たちは何度も目撃していた。

 

 ヒルダは例え仲間であろうと殺すことに躊躇いが一切無い。

 魔女の機嫌を損ねるような行いをすれば、すぐに自分達は殺される。故に男たちは彼女を刺激しないよう。無言のまま緊張した面持ちで、ヒルダの言葉を待っていた。

 

 ヒルダは男たちの視線を一切無視して、胡乱げに周囲を眺める。

 動いていた桃色の瞳が何かを捉えた。

 

 ヒルダは倒れてバリアジャケットが解除されたアルタイルの魔導師の一人に近づいていく。

 おもむろに抱え持つのは彼女の武器である魔杖風琴。その鍵盤にゆっくりと指を伸ばして――――。

 

 軽く、されど強く叩く。

 次の瞬間、最早動かないであろうと思われたアルタイルの魔導師の体が飛び上がる。

 

 「が、がはッ!」

 

 「呼吸で全部解ってんだよバーカ」

 

 ヒルダが魔杖風琴を奏でたことで発生した『暴魎魔笛(タミー・ノ)』が、死を偽装していた魔導師を包み込んだのだ。

 

 超音波の発生による鼓膜への攻撃で、詠唱していた魔法が霧散。頭を抱え込んでうなり声を上げる魔導師へ向けてヒルダは脚を振り上げる。

 

 ヒルダを睨んでいた女性の目は怒りと憎悪から、恐怖と哀願へと変わった。

 

 「や、止め……」

 

 「止めてあ~げない♪うん、あなたは馬鹿でどうしようもないやつだったけど、その顔はとっても素敵よ。だから――――」

 

 ヒルダは女性魔導師の顔を見ながら嘲笑。ある程度上がった脚が空中で停止する。

 

 「――――死ね」

 

 強靱な強化骨格を持つ脚が魔力で強化され、女性魔導師の頭を踏みつぶす。

 頭蓋骨を砕き、内部の脳をまで粉砕。顔面の半分まで黒靴が埋まる。眼球がこぼれ落ち、女性魔導師の四肢が跳ね上がり、体全体が痙攣し始める。

 

 闇で生きる者たちですら目を背けたくなるような光景。

 だがもし目を逸らしてしまえば、ヒルダに目をつけられて殺される。

 故に視線を彼らは動かす事が出来ず、恐るべき惨劇を見届ける。

 

 彼らが込み上げる吐き気に吐かぬまいと必死に唾を飲み込む中、ヒルダは自らの靴を見て顔を顰めた。

 

 「げっ!そういえばこれってお気に入りの靴だった。うわ~やっちゃったなぁ、ぶさいくの血とか脳みそが付いちゃったよ」

 

 靴に付いた湯気が上るほどに温かい新鮮な脳の破片と血。

 それらを軽く脚を底に叩くことで落とそうと苦戦するが、その行為は無駄であることを知ると天井を仰ぎ見て盛大なため息を発した。

 

 「いくらバリアジャケットの一部だからすぐに何とかなるとしてもさぁ、私のお気に入りの靴が汚れるだなんて酷いよ~もう。ねぇ、そう思わないかな?――――無能な豚共」

 

 一転、周囲の男達を見る目には激しい怒りがあった。

 

 その視線をまともに受けた男達は皆一様に体を凍らせる。背に流れる汗は冷たく、呼吸は緊張によって荒くなっていく。

 

 「なぁ~にが戦闘は終わったんだって?は?まだ生きてるじゃん、生きている馬鹿が魔法を詠唱してるじゃない。お前らの目は節穴か?おい」

 

 「も、申し訳ございませんっ!」

 

 「節穴かって聞いてんの?お前ちゃんと目が付いてる?」

 

 報告した副官はすぐさまヒルダに走り寄ると、膝が血で汚れることを躊躇わずに、すぐさま深く頭を床に擦りつけんばかりに下げる。

 

 ヒルダは殺す事に一切の躊躇いと躊躇がない。そして殺す事に一切の理由がない。

 他者の命は彼女にとって意味は無く、奪う事に忌避観は存在していないのだ。

 殺人肯定し、楽しんでいることを彼女と共に行動してきた彼らはよく理解していた。

 

 殺される、このままでは怒りに触れた自分達はヒルダによって殺される。

 そう考えた魔導師全員が、ヒルダの前に膝をついて必死に謝罪を行う副官を睨みつける。

 理不尽な視線に晒された男の額から、一筋の汗がこぼれ落ち、床に広がる血に融け合った。

 

 「おい、お前」

 

 「は、はいっ!」

 

 「顔をあげて良いよ?」

 

 先ほどとは打って変わったような優しげな響きを宿した言葉に、副官はゆっくりと顔を上げる。

 ヒルダの顔は、怒りの形相から女神のような慈悲深い顔に変わっていた。

 

 何事もなく済みそうだ、そう周囲の男達が安堵して胸をなで下ろした直後――――。

 

 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」

 

 苦痛に耐えかねたような悲鳴が彼らの耳に舞い込んだ。

 何事かとヒルダを見れば、その細い人差し指と中指が丸い眼球を串刺しにしていた。

 そして床で顔を抑えて転げ回っている副官。その手からは赤い血がこぼれ落ちている。

 

 男達は理解した。

 ヒルダは自らの副官の目を指で貫いたのだ。

 

 「節穴な目はいらないわよね~♪お前達もそう思わない?おかしいわよね、笑っちゃうわ。ね、おかしいわよね?」

 

 ヒルダの凶相が向けられたことに男達の心臓は跳ね上がる。

 

 笑わなければ殺す、と意味が込められていることに気が付いた男達は、すぐさま目を失って転げ回る男へ向けて哄笑する。

 誰一人として心から笑う者がいない、あるのはヒルダへの恐怖心だ。

 

 ヒルダは部隊全員の心に、恐怖の奴隷の楔を打ち込んでいた。

 

 「五月蠅い」

 

 ヒルダの一言で笑い声が一瞬にして静まる。

 もはや彼らはヒルダの奴隷的な存在であった。ヒルダの恐怖体制は、男達の心を完全に支配していたのだ。

 

 男達を満足げに眺めた後、ヒルダは目の前で苦痛に声を漏らす副官を笑顔で見つめる。

 

 「どう、目が無くなった気分は?ちょー最高じゃない?」

 

 「は、はひっ……あ、ありがとうございます。ヒルダ様」

 

 決死の言葉を紡ぐ副官に、ヒルダは笑みを浮かべた。

 

 「それでさ、私って目がない間抜けな副官なんていらないんだよね~♪」

 

 「へ?」

 

 副官には見えなかったが、肩にはポコモコが歪んだ嗤いを老人の顔に張り付けている。。

 異貌のものどもは目を失った副官を面白げに見てはニヤニヤと笑っていた。

 

 そしてそのポコモコと同等の笑みを、ヒルダは副官に向けていた。

 自らの未来を予測した男は、恐怖に身を震わせながらも必死にヒルダに命を懇願するべく、その身を床に擦りつけて頭を下げ続ける。

 

 「ど、どうかお慈悲をくださいませっ!ヒルダさ――――」

 

 「心配しなくて良いよ?今まであなたが殺した連中が行ったところに、あなたが今度は逝くだけの話だから♪」

 

 目が見えない世界で唯一耳に入るのは、自分の側から離れていく小さな足音。

 そして彼が最後に耳にした音は、自分の頭上から落とされた四百八十キログラムルのチョコレートが、自らの頭蓋骨を砕く音であった。

 

 ヒルダは恐怖の目で自分を見つめる男達を置いて、一人楽しげに歩き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 どこの世界も同じであった。

 馬鹿が馬鹿に引きずられて群れをなし、それを自分が綺麗に殺していく。

 自己を成立を他者に委ねる事でしか、意味を成せない愚か者共。にもかかわらず、自分を誇示してうじゃうじゃと犇めく厚顔無恥な有様。

 

 見ていて嫌気が差してくる。

 ああ、やっぱり殺すことは楽しい。世界に優しく私にも優しい。

 

 エミレオの書の一冊を片手に出現させ、使徒にしか把握する事の出来ない咒式が発動。

 〇と一の羅列に表示された数字は『四百七十八』。この世界に辿り着いたヒルダは、既に百四十五人もの人々を殺害していた。

 

 ヒルダはその数値を見て嗤う。まだそれっぽっちしか殺していないのかと。

 この渇きは癒えることを知らない。まだまだ、まだまだ私は殺し足りない。あるいはこの世界の私以外全員を殺したとしても、この高まりは収まりがつかないのかもしれない。

 

 心配であったアンヘリオの持っていたエミレオの書の呪いは解けていた。

 あの光に何かがあったと考えるべきだが、終わった事は既にどうでもいいし興味がない。

 だがこれにより私に課せられた枷は全て外された。アンヘリオの呪い、メトレーヤの問いはもはや私を縛る鎖ではない。

 

 後はこの世界でどう殺していくか、だ。

 

 この世界で魔法を会得し、既に所属している裏組織にデバイスを用意させた。

 バリアジャケットという対魔法礼装は、対咒式用の服や装備とは違って着たいときに変身する事が出来る。

 そしてこれが重要だが、バリアジャケットは私の好きなように姿を変えることが出来る。

 

 これはいい、すごくいい。

 私に似合うかわいい服が、私の考えたデザインで着られるのだ。これほど咒式よりも魔法が便利だと思った事は無い。

 

 「……まぁ、魔法はちょーっと物足りないんだけどなぁ」

 

 非殺傷設定。

 

 始めて知った時はなんて馬鹿な話があるものだと思わず唖然として固まってしまった。

 魔法には人間を殺さずに捕獲できるよう、リミッターをかけることが出来るらしい。時空管理局の人間達は、魔法に非殺傷設定をつけて発動している。

 

 理由は……。なんだけっけ。馬鹿すぎて忘れた。

 

 正義だか何だか知らないが、殺す気で来る人間を殺さずに捕縛する?

 何馬鹿な事を言ってるんだ?頭の中は年中お花畑で、大量の蝶々が飛んでいるとしか思えない話だ。

 ハーライルのように超級捕縛咒式を発動されるのは別として、ゴミ共の魔法でザッハドの使徒達が捕縛されると?脚や腕を吹き飛ばしたりせずに私を捕縛する?

 

 「命のやり取りと駆け引きを知らない馬鹿に殺されるほど、ザッハドの使徒は甘くないってーの」

 

 生ぬるい、マジで生ぬるくて辛い。

 

 所属している黒組織も、私の『アルタイル』に対するやり方に異議があるらしい。

 何でもこのヒルダちゃんは『やり過ぎ』で『殺り過ぎ』らしいのだ。

 

 本当にこの世界の連中は馬鹿げている。何が正義だ、何が仁義だ。

 偽物共が何を一人で格好付けている。そんなものに縋る事でしか自分を維持できない弱者は、踏みつぶされて蹂躙されるだけだというのに。馬鹿共にはそんな事も理解出来ないのか。

 

 殺す事はとても楽しくて世界の中で一番の娯楽なのだ。

 それに変なものを持ち込むなんて、不条理極まりない。

 痛めつけて、いたぶって、遊んで、楽しく殺す。殺す相手が抵抗するのなら、さらに遊んであげればいい。遊んで、遊び尽くして、めちゃくちゃにしてしまえばいい。

 

 そうして無念と絶望で死んでいく人間の目。あれは実に見ていて面白いのだ。

 あれを知らないなんて人生の九割九部を損している。そして私以外の連中はそんな損した人生を送っている。

 ならせめてその楽しみを知っている私に、損した人生を捧げるのが馬鹿共の役目だろうに。

 

 「つっまんなくなってきたな-。やっぱりかわいい私が思うように自然に殺すからこそ、殺しはとっても楽しいのよね♪自由に殺すという最大のスパイスが足りないのは問題かなぁ」

 

 魔法はある程度理解が進んだ。大きな問題は無い。

 

 確かに魔法は十分面白く楽しめるが、殺しの幅がどうしても咒式には劣る。殺しの手段が幅広い咒式の方が『ザッハドの使徒』である自分には合っている。

 ミッドチルダは魔法の最先端をいく都市であるとされているが、時空管理局で魔法の非殺傷が推奨されている。魔法の技術の向上は良かれど、過度な威力は危険視されているのだ。

 ましてや、殺害を重んじる魔法が発展する環境ではない。

 

 約半年というは、いささか長い潜伏期間であったか。

 社会構造や通貨、文化などといった常識も重要なものは既に頭の中だ。

 

 唯一心配なのは魔法に対する実戦経験。

 

 どいつもこいつも歯ごたえが無さ過ぎて、己の実力を磨くどころの話じゃない。

 日頃殺し合いを演じていたあの世界に比べれば、平和過ぎてつい遊びが過ぎてしまう。

 

 まぁそれはそれで楽しかったが、今の自分がパンハイマやアンヘリオなどといった超級咒式士連中と渡り合えるだろうか。

 

 「……『無理』かなぁ。かわいい私をあんな化け物連中と一緒しちゃ失礼よ」

 

 経験がない故に、パンハイマの策に嵌って次女のヒルドは死んだ。

 そして私はあの腐れドラッケン族とメガネに良いようにされて瀕死の重傷を負い、挙げ句の果てに妹のヒルデに殺されかかった。

 

 認めたくはないが、私の実力は同じザッハドの使徒である超級咒式士のアンヘリオに比べて格段に低い。

 咒力も及ばず、咒式の操作能力も劣っている。

 作戦を構築する頭の回転の良さも、アンヘリオと同じ超級咒式士であるパンハイマに劣る。

 

 今の自分にあるのは魔法と、異貌のものどもが封じられたエミレオの書だけ。

 悔しいが私自身は前戦に出て他の咒式士達を圧倒できるほどの力は無い。

 

 それは暗殺や奇襲で殺し続けてきた『ペネロテ姉妹』事態に言えることだ。古き巨人や長命竜などといった化け物と、正面からやり合う人外連中と私は違う。

 

 複数対一でこれから私が戦った場合。

 例え私がこれまで通りに私が後衛で、前衛にはエミレオの書の異貌のものどもを召喚したとしよう。

 確かに強力で他を圧倒できようが、必ず敵はエミレオの書を操作している私本体を狙いに来る。

 そうなれば必然的に私の苦手分野な接近戦に持ち込まれるはず。敗北は必須だろう。

 

 だからこそ、そうなっても良いように、そうならなくても良いように戦い慣れなければならない。

 

 今まで通りの戦い方では生き残れないことは、前の世界で十分に理解した。

 超級咒式士との戦いでは暗殺や奇襲はほぼ通用しない。私が知っている常識と戦術では適わない。

 

 何より私はこれまでのように姉妹三人ではなく、ヒルダ一人で殺していかなければならないのだ。

 新たな戦術も必要となる。そのためにはさらなる戦いの場と経験が必要。

 

 一番は戦闘を行う状況にならないことだが、これから殺しつづける上で管理局や他の咒式士との戦闘は確実に起こる。

 今私が考えている道は、決して避けては通れない道だ。

 

 避けて通ろうとして目を逸らせば、次こそ私は死ぬ。偶然は二度も起こらない。間違いなく私は死ぬ。

 

 「今までの小競り合いで、既に一人での戦い方はおおよそ確立できた。一対多も同じ。だけど裏社会にいるような中途半端な連中の実力じゃ、私はこれ以上の成長は望めない」

 

 もうあんな目に会いたくはない。

 ヒルダは惨めな思いで妹に懇願する自分の姿を思い出し、手の皮を突き破るほどに強く拳を握りしめた。

 あんなぶっさいくな自分は認めない、認めてたまるか。

 

 常に表に晒すエミレオの書は『菓子屋敷のポコモコ』のみ。

 あの目立つ殺害方法は、相手の思考を狭めるよい判断材料となる。

 自分をコケにしたヒルデのエミレオの書であることは不満だが、この際そんなプライドは捨てる。

 

 私はもう負けない、殺して殺して、殺し尽くす。

 

 「生き抜いてやる、その為には――――」

 

 

 

 

 



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5話 死んでいろ、ずっと

 ヒルダは込み上げる欠伸を噛み締めながら、自らの髪を指で絡め取る。

 

 目の前でヨーロピアンアンティーク調に仕上げた重厚なデスク、そこに両肘をついてヒルダを睨む片メガネをかけた男。

 ただでさえ細くてミミズみたいな目を、さらに糸ミミズのようにして睨む姿は、ヒルダから見れば実に滑稽極まりないものであった。

 

 「……まずは、礼を言わせてもらおう。よくぞアルタイルを壊滅させてくれた。感謝する」

 

 男は絞り出したかのような声でヒルダを功績を称えるが、ヒルダはそれを鼻で笑って受け止めた。

 そのヒルダを姿を見るやいなや、ヒルダを囲んでいた黒服の男たちから殺気が放たれるが、ヒルダはその余裕を崩さない。

 

 ヒルダは長く透き通った桃色の髪を細く陶磁器のように白い指で巻き取りながら、片メガネの男へ胡乱な瞳を向けた。

 

 「その割には、リカルドさんは随分とご機嫌斜めっぽい?せっかく頑張って殺したのに酷い、私は殺したくなんか無かったのに……」

 

 「つまらない冗談はよせ」

 

 リカルド・カエストス。

 黒社会の一角、『カエストス魔法商会』の頂点に座る男。

 だがその男の顔には隠し切れないほどの嫌悪感に満ち溢れていた。

 

 「ヒルダ、俺は『アルタイル』をお前に完膚なきまでに叩き潰せ、殺せと命じた。そしてそれに対するあらゆる手段を問わない、徹底的に潰せと確かに伝えた」

 

 自らの組織を上に押し上げるために自らの師と仲間を裏切り、殺し、悪魔と呼ばれながらも『カエストス魔法会』を裏組織で不動のものへと変えたリカルド。

 女子供も利益のためならば関係なく殺す、力無き者達を犠牲にすることに関して一切の躊躇いはない。

 

 「だがな、この世界にはルール、踏み込んだら許されない領域というやつがある。そこに『アルタイル』の馬鹿共は調子に乗って踏み込んだ。だからあいつらは世界に殺された」

 

 リカルドは力で組織を導くのではなく、理性の計算された下で組織を主導してきた。

 力だけでは管理世界を生きられない。力に任せた統制では、得られる利益に限界がある。

 いかに表の社会の裏側として共存し、生きていくか。

 

 「そう、この世界にはルールがあるんだよ。それを破ったら周囲が容赦しない。世界が俺たちを殺しにかかる」

 

 リカルドは広い視野を持ち、管理世界という構造を理解している。

 だからこそ彼は幾多もの謀略と裏切りを切り抜けてこれたのだ。

 

 壮年の男の顔には怒り。

 普段冷静なリカルドの見せる激しい怒りに、部屋全体の温度が急激に低下していく。

 

 「二十八人、この数が解るか?お前が殺した表の連中の数だ」

 

 「あれ、それっぽっちしか殺してなかっけ?」

 

 ヒルダの言葉にリカルドを囲む護衛の魔導士の顔が怒りに染まる。

 激昂して一歩踏み出した魔導士達であったが、リカルドが右手を挙げてそれらを制す。

 

 「誰一人、木の根から生まれたわけじゃない。殺した人間の情報操作にも限度がある。今回お前が殺した数はその限度を超えていた。この意味が解るかヒルダ?」

 

 「ヒルダ、全然解らな~い♪」

 

 「最悪、管理局が動いた可能性があった。いや、動きかけた。何とか間に合ったがな」

 

 時空管理局の存在は脅威だ。

 

 優秀な魔導士達を大勢懐に抱え持ち、執念深く敵と見なした者達を追い詰める。

 百年以上も数百の管理世界に幅を利かせているだけあって、その行動力と情報能力、そして戦闘能力は馬鹿げている。

 

 その時空管理局相手に情報戦を制し、ヒルダが残した痕跡を抹消した『カエストス魔法商会』の手腕たるや、鬼気迫るものがあった。

 

 なんせ時空管理局にたかが裏組織程度が群れをなして挑もうと、到底勝てるわけがないのだ。武装も人員も影響力も桁が違う。同じ土俵に立つことすら叶わない。

 時空管理局が一度腰を上げてしまえば、敵対組織に待つのは身の破滅のみである。

 

 いや。時空管理局が出動する前に、他の裏社会組織が『カエストス魔法商会』を全力で潰しにかかるだろう。

 下手をすれば他の裏組織までも巻き添えを食らいかねない、そうなる前に彼らは『リカルド魔法商会』を切り捨て、潰しにかかる。トカゲの尻尾切りのようなものだ。彼らにとって己の組織は、あくまでこの社会の一端に過ぎない。指先が一つかけようと、体裁は問題無く維持できる。

 

 実際ヒルダの行動でいくつかの裏組織が、『アルタイル』ではなく『カエストス魔法商会』に対して警告を行っていた。

 

 「お前が殺した連中の中には『アルタイル』への示威行為に影響がない者もいた。オルコット夫婦は料理屋を営業していたが、いずれの構成員とも繋がりが無い。お前が腹を開腹して殺した九歳の女児、メリー・ソリティアも同様だ」

 

 「誰だっけそいつら?」

 

 リカルドはついに我慢の限界を迎えたのか、砕かんばかりに両手で机を叩き付けた。

 映像が展開された情報端末をヒルダに向かって投げつける。

 

 「二十八人中、九人の表社会に生きる連中が『アルタイル』との繋がりが無い!そして殺した中には管理局に通じる民間人が確認された!下手を打てば我々が管理局に喧嘩を売る羽目になっていたのだ!いったい何を考えてお前は九人もの無関係な連中を惨殺した!?」

 

 ヒルダは床に転がった情報端末を面倒くさげに掴み取る。気だるげそうに映像を展開。

 映像と睨み合い、しばらく首をかしげていたヒルダであったが、「あっ」と小さな声で納得がいったかのように顎を僅かに引いた。

 

 空中に固定された映像に表示されたのは、金髪をポニーテールにまとめた可愛らしいあどけなさが残る少女。

 太陽のような笑みを浮かべているが、既に彼女はこの世にいない。

 

 「このガキがメリー?」

 

 「そうだっ!『アルタイル』の構成員達の親類でなければ、交友関係を調査しても彼女の姿は無い!何故お前はこの娘を――――」

 

 ヒルダは笑った。

 

 「『アルタイル』の馬鹿の一人が、このガキが落としたボールを拾っていたんだっけ。それでたまたま目についたから殺したの」

 

 「――――は?」

 

 予想だにしない言葉に、リカルドの思考が停止する。

 

 何度もヒルダの言葉を脳で咀嚼するが、彼の脳がそれを理解することを拒絶した。

 ヒルダを囲むようにリカルドを護衛していた魔導士達も、リカルド同様に意味が解らなかった。

 ヒルダは呆然と自らを見つめる男たちを一切無視しながら、映像をさらに展開していく。

 

 「このブッサイクな夫婦は『アルタイル』の一人が通いつめていた料理屋だって情報屋から知ったから。この老害はいつも構成員の馬鹿に毎朝挨拶していたから殺した。こっちのイケメンは学生時代の同級生の一人だったから、まぁいっかっておまけで殺したんだっけ?それでこっちが『アルタイル』の一人がよく行って指名していた娼館の腐れ女で……え~と、こいつはかつての恋人だらしいし、なんかムカついたからチョコレートでその顔を潰しちゃったんだ」

 

 「何を言って……」

 

 「どう、これで納得できた?」

 

 ヒルダは楽しげに言葉を並べ立てるが、部屋にいるヒルダ以外の全員が彼女の言葉を理解できなかった。

 

 自分がすれ違う人々、言葉を交わす人々がヒルダによって殺されていく。

 それはどれほどの恐怖をアルタイルに与えていたのか、想像も出来ない。

 

 そして最後の映像一枚、そこには老夫婦が仲睦まじく手をつないでいる姿があった。幸せそうに微笑んでいる老夫婦を見ながら、ヒルダは腕を組んで唸る。

 しばらく思考に耽っていたヒルダであったが、やがて「ああもうっ!」と叫んで情報端末を床に叩き付けた。

 

 しばらく肩で息をしていたが、周囲が唖然としながら自分を見ていることが解ると、可愛らしく舌をだしながら軽く頭を叩いた。

 

 「こいつら殺したっけ?……まぁいいや、かわいいヒルダちゃんに殺されたら本望だよね♪」

 

 その最後の一声で護衛の魔導士達の硬直が解放、目に宿すは激しい怒りの炎。

 抑えきれなくなった魔導士達が、次々とヒルダへ向かって怒声をまき散らす。

 

 「てめぇッ!たったそれだけの理由でこいつらを殺したのかッ!?」

 

 「イカレているとは思ってたが、何のために殺しやがったッ!?」

 

 「俺らがどれだけ尻拭いした思ってやがる!」

 

 男達の怒りがヒルダへ向かう。だがヒルダは気に止めている様子はない。耳元で蝉に鳴かれるかのような鬱陶しさを顔に表す。

 

 「え、なんで貴方達そんなに怒ってるわけ?もっと殺したほうが良かった?実は私もちょっと思っててね」

 

 「ふざけるなッ!」

 

 「……だからさぁ、何をふざけてるっていうの?」

 

 ヒルダの氷のように冷たい視線と声に、歴戦の魔導士達の熱が一瞬にして冷却。

 まるで肉と血の詰まった袋を見るように、ヒルダは周囲を見渡して鼻で笑う。

 

 「どいつもこいつも馬鹿ばっか。それだけの理由?……お前たちはいったい何を言っているわけ?」

 

 顔を歪めて見下す端正で整ったヒルダの顔は愉悦に歪んでいた。

 見るものすべてが恐怖に陥るような、『ザッハドの使徒』としての狂気がその顔に張り付いていた。

 

 かつて感じた事のない狂気にあてられた魔導師達の輪が、ヒルダから一歩ほど広がる。。

 

 「袖振り合うのも多生の縁っていうのは東方のことわざだったっけ?まぁともかく私は『アルタイル』に関わる連中を命令通りにぶち殺していただけ。ボールを拾った、行きつけの料理店を経営していた、挨拶した、元恋人だった、股を開きまくった、十分な理由じゃない。だから仕方がなく殺す事にしたけれど」

 

 舌なめずりをしたヒルダの唇が、三日月のような弧を描いた。

 

 「それだけじゃ、つまらないじゃない」

 

 護衛の魔導士達はようやく気が付いた。

 目の前でニタニタと嗤う美しい少女は、常識では一切量ることの出来ない人の皮を被った何かであることを理解した。

 

 「だから楽しんで殺したのよ。有象無象の愚かで存在価値のない馬鹿共にも、私を楽しませる甲斐性ぐらいは残ってるしね。というかそれしか価値がないし」

 

 魔導師達は悍ましいヒルダの微笑みに声を発する事が出来なかった。

 

 彼らは仕事上何人も彼女のような人間を見てきた。

 殺し、殺される世界に身を置き過ぎた結果、ヒルダのように歪んで壊れていった者達を多く見てきた。

 

 だがそれを差し置いてもヒルダは異常であった。

 ヒルダにはアルタイルを滅ぼす事が出来る狡猾な知性、魔法や強大な力を扱えるだけの能力が備わっているのだ。決して理性の欠如や知能指数が低いわけではない。

 ヒルダは理性を持ちながら、倫理観や道徳観が欠如しているのである。

 

 衝動的な殺人ではなく、計画的な作戦を立案が出来る分析に長けた頭脳。

 先に待つのは破滅だと十分ヒルダは理解できるはず。だがそれを知ってなお彼女は喜んで殺し続けている。

 解らない、理解できない。

 

 「生きたまま顔を抉って、目玉をほじくり返して、鼻と耳をそぎ落として、顔の皮膚を綺麗に綺麗に剥がしていって。最初は『助けて』って騒いでいたのが、だんだん『殺して』って無様に懇願していく過程は本当に面白いの♪」

 

 「い、いったい何がお前をそうさせる?」

 

 耐えられず、自らの理性を保つために発せられた魔導師の言葉は、この場にいるヒルダ以外の全員の総意であった。

 恐怖に包まれた魔導士達をあざ笑うかのように、ヒルダはくつくつと忍び笑いをこぼす。

 

 「……はぁ。ほとんどの殺人者は歪んだ性的妄想が、十年か十五年も続いて熟成して生まれる。だから私みたいな女で少女の殺人鬼は珍しい」

 

 「な、何を言っている」

 

 「平凡で古くさい分析ね」

 

 ヒルダは耐えられないとばかりに笑い出した。

 心から理解できない馬鹿共が哀れだと哄笑する。

 

 ヒルダは魔導師達へ向けて指を横に振った。可愛らしい微笑みを振りまきながら、少女はゆっくりと真っ赤な口を開く。

 

 「今は違うのよ。オシャレで楽しい最先端の娯楽として殺人があるの♪」

 

 誰も動く事が出来ない。声が口から出ず、舌が所在なせげに口内で上下する。

 背筋が凍り、咽が狂おしいほどに渇き、目は飛び出んばかりに見開かれる。

 

 異常者だと思っていたが、ヒルダは異常の桁が違う。

 目の前の少女には、これまで培ってきた経験や一切の常識と会話が通用しない。

 

 恐れおののく魔導師をよそに、沈黙を保ち続けて来たリカルドが鋭い視線をヒルダに向けた。

 

 「報酬は既に既にお前の部屋に置いてある。行け」

 

 「はいは~い。最高につっまらない馬鹿共の相手を押しつけてくれてありがとう!それじゃ、ばいば~い♪」

 

 手を振りながら靴の音を響かせて扉を出て行くヒルダ。

 そしてそれを青い顔で見送る魔導師達と、苦渋に顔を歪めたリカルド。

 

 声を弾ませてヒルダが退室した後も、長い沈黙が続いた。

 耐えきれなくなった護衛の一人が、リカルドに声をかけようとしたその時。

 

 「俺はこの世界に入って二十年。殺し殺される世界を生きてきた」

 

 リカルドの視線はヒルダが去った扉に固定されていた。

 

 「裏切り、拷問、殺人、奴隷売買、人の道を外れたことはあらかたやり尽くした。故に殺す事を命じて後悔したことは一度も無い。いや、無かったはずだった」

 

 リカルドの鬼気迫る独白に、周囲の魔導師達の顔が強ばっていく。

 

 「だが、俺は生まれて初めて俺が下した命令に後悔した。俺は確かに『アルタイル』を潰せといった。殺せと命じた。手段は問わないとヒルダに判断を任せた。何故だか解るか?」

 

 問う相手がいない問い。

 だがリカルドの言葉は止まらない。

 

 「俺はヒルダを初めて見た瞬間、あいつは人ではないと実感出来た。俺がこの糞ったれた裏社会で生き残れたのはこの『頭』と『目』があったからだ。性格、言葉遣い、化粧の仕方、目の動き、呼吸、口の動かし方、眉の動き、顔のしわ。百を超える人格形成要素と外見を分析すれば、育ちから生き方まで判断できる。俺は千人を越える社会の碌でなし共を観察してきた」

 

 リカルドの顔には自信があった。

 

 これまで高い観察能力と分析能力を駆使することで、いくつもの綱渡り的な状況を生き残ってきた。一つでもしくじっていれば、己の身は川に浮かんでいただろう。

 観察することを止め、頭を使うことを諦めた時が自分の死ぬ時だとリカルドは確信している。

 

 「新入りが部下を殺したと聞いて、ヒルダに出会った。今まで観察してきたどの人間にも当てはまらない化け物。俺の目は確かにヒルダを捉えた。だが俺の頭はあいつを理解することを拒絶した。生まれて初めての経験だった」

 

 次第にリカルドの様相は曇っていく。自信に満ち溢れた顔には疲労が浮かび上がり、眉間には皺がよっていく。

 裏社会で生き延び、一角を占める長となった男が苦笑する。

 

 「だから俺はヒルダを組織に引き込んだ。あの化け物が他の組織に行くことに、強い危機感を感じたからだ。そしていくつか仕事を任せ、ヒルダが実力を伴う化け物だと理解したその時、『アルタイル』の相手を任せることに決めた」

 

 「り、リカルドさん」

 

 「たまにあいつみたいな化け物がこの裏社会に入ってくる。大抵そういうやつはすぐに死ぬ。化け物は化け物であるが故に、衝動を抑えきれなくって周りを巻き込んで盛大に傍迷惑な死を遂げていく」

 

 護衛が戸惑いのあまりにリカルドの名を呼ぶが、リカルドは止まらない。

 止まることが出来ないのだ。常に冷静で感情を見せないリカルドの顔は恐怖で染まっていた。

 

 「『アルタイル』にヒルダを当てたのは死に場所を与えるためだ。ヒルダと与えた戦力ではどうやっても『アルタイル』には勝つことが出来ない。爆発して多大な被害が出る前に、少ない犠牲と被害で抑えるべきだと考えた。被った損もヒルダが稼いだ利益で賄える。だが――――」

 

 ――――最悪な結末を迎えてしまった。

 

 「俺は見誤った」

 

 『アルタイル』は崩壊し、狡猾なヒルダは生き残った。

 決して相容れる事が出来ない殺人者の存在が、裏だけでなく表にまで晒されてしまった。

 

 「冷酷な戦術思考と単独で強大な力を持つヒルダは、化け物という言葉すら生温い魔導師だ。『アルタイル』如きではあの女は止められない。障害にすらならない」

 

 「……このままヒルダを思うがままにさせると?」

 

 リカルドは首を横に振った。

 

 「ヒルダはやがて『カエストス魔法商会』を滅ぼす。そう遠くないうちにな」

 

 「なッ!?」

 

 リカルドの目は既に未来を捉えていた。

 材料を元に計算された未来の姿。カエストス魔法商会が、ヒルデによって滅ぼされる結末。あれは関わるもの全てを殺していく、理性と高度な知性をもつやっかいな化け物だ。

 リカルドの歯は砕かんばかりに噛み締められる。

 

 「あれは誰にも制御できない、利益を求めぬ以上いかなる交渉もヒルダには通用しない。今は何らかの理由で組織に身を置いているだけだ。問題が解決次第、『アルタイル』を崩壊させた死の嵐が俺達を殺すだろうな」

 

 「では、先んじてヒルダを我々がッ!」

 

 「無駄だ。暗殺・奇襲を仕掛けようと、無詠唱で召喚される魔法生物には適わない。『アルタイル』の刺客は毒殺を仕掛けたが、ヒルダが新たに召喚した魔法生物によって完全に治療され、逆に殺された事が解っている。ましてや正面から殺し合うなど論外だ」

 

 「なら他の組織と協力して――――」

 

 「他の連中の手は借りることは出来ない。ここまで恥を晒した今、つけいる隙を与えれば『アルタイル』の二の舞だ」

 

 リカルドの爪が握りしめられた手の皮を突き破り、流れ出た血が腕を伝っていく。

 

 状況は最悪の一途を辿っている。

 ここまでの失態を犯した『カエストス魔法商会』に対し、いくつかの裏組織が既に動き出していた。敵はヒルダだけではないのだ。

 ここまで傷を大きくした以上、流れ出る血を啜る連中が群がり始める。そうして弱った組織はこれまでにいくつも潰され、リカルド自身も潰して来た。

 血を啜る者が、吸われる者に変わってしまった状況だ。

 

 リカルドが隙を見せた者達を追い落として組織を発展させたように、また他の者達もこの機会を雄飛の時とばかりに動き出しているのだ。

 

 仮にこの管理世界の裏組織が結託したとしても、功名と利益に引きずられて結束出来ない。各々が己の欲望と利益を追求する、裏組織の形態故の弊害だ。

 

 強大かつ狡猾、手段を選ばない魔導師であるヒルダには勝てない。むしろ付け入る隙を与え、各個撃破されていく。

 ヒルダに勝つには彼女を上回る圧倒的な力、そして組織力が必要不可欠だ。

 

 「だが、手は残っている」

 

 リカルドの重く静かな声に護衛達は息をのむ。

 最早彼に恐怖はなかった。動かなければ死ぬ、ならば足掻かなければならない。

 

 「自身の腕を引き千切るようなものだ。惨めで無様で恥さらしな策だ。そもそもこれを策と呼ぶことすら馬鹿らしい。だが例えそうであろうと、既にそんな手しか俺達には残されていない」

 

 時間が無い。

 ヒルダが行動を起こす方が先か、首を握られている『カエストス魔法商会』が行動を起こす方が先か。

 

 「グリバス、アルンペオル兄弟を呼べ」

 

 「は、はい!」

 

 魔導師の一人が慌ただしく部屋から飛び出して行く。

 

 リカルドには覚悟があった。

 裏組織の一角、自らの家名を冠する『カエストス魔法商会』をここで終わらせるわけにはいかない。

 リカルドは既に自らの死を厭わぬ悲壮な覚悟を決めていた。

 

 「確かにヒルダは強大な魔導師ではあるが、殺害手法は限られている。巨大な菓子の射出、超音波による耳の破壊、窒息を招く即死結界魔法。どれも未知の魔法ではあるが、集団戦闘においては限定される。だが裏社会の連中をいくら集めてもヒルダには及ばない。何より時間が無い」

 

 「では、一体……」

 

 「ちょうど手頃なところにあるじゃないか、集団での戦闘を得意とする組織が。それも凄まじい練度と戦闘力を誇る組織が、な」

 

 「ま、まさかリカルドさん。貴方は……」

 

 「ああ。幾多もの世界を管理統制し、優秀な魔導師を何百人も統制する次元組織」

 

 リカルドの考えを読み取った魔導師達は驚愕。

 確かに彼らであればヒルダと対抗しうる最高の札となるだろう。だがそれは同時に――――

 

 「時空管理局を動かす」

 

 ――――最大の鬼札である。

 

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 真っ黒で黒猫のアプローチがついた特注の靴をこつこつと鳴らしながら、ヒルダは無言で廊下を歩いていく。

 その後ろを二人の体格の良い魔導士達が同じく無言で続いていく。

 

 「ヒルダ様、よろしいのでしょうか?」

 

 一人の無精髭を生やした魔導士が、やや神妙な面持ちでヒルダに話しかけた。

 ヒルダは立ち止まると、何故そんなことを言うのか解らないといったような表情で魔導士を睨み付ける。

 

 殺人者の目をまともに受けた魔導士は、一瞬体を大きく震わせた。

 傍にいた相方の若い魔導士がすぐに止めるよう目で制すが、無精髭の魔導士は自らの主を案じるべく決死の覚悟で言葉を紡ぐ。

 

 「申し訳ありません、部屋の外での待機中に室内の喧騒を耳にしまして」

 

 「で?」

 

 「ヒルダ様の強さは、傍で戦った私達がよく理解しております。しかし――――」

 

 そう、無謀すぎる。

 

 ヒルダは強い。戦術ではヒルダに勝る者はいるであろうが、戦法にかけてヒルダの横に並ぶ者は例え管理局にもいないだろう。

 敵を欺く術に、容赦なく関わった人間を殺していく姿は、まるで地獄から湧き出た悪鬼の様である。

 さらにヒルダは恐らく、まだ何か手を残している。彼女の奥の手は、さらなる地獄の顕現を促すものであろう。

 

 だがそれでもヒルダは一人なのだ。

 

 裏社会全てを相手にすることは、あまりにも無謀すぎる。

 悪名高きヒルダを匿おうという酔狂な組織は、既にこの世界には無い。ヒルダが活動出来るのは、残るところ『カエストス魔法商会』しか存在しないのだ。

 

 「そろそろご自重なさるべきかと思います。このままでは『カエストス魔法商会』どころか、他の裏組織までがヒルダ様を――――」

 

 口早に懇願するかの如く叫ぶ魔導士。

 

 言葉を遮るようにヒルダの手が男の顔に飛来。ヒルダの細い手が伸び、一瞬で髭面の魔導士の顔を掴み取る。

 

 ヒルダの色鮮やかに装飾された爪が男の額、頬をえぐり突き刺さった。

 さらに力に任せてヒルダは顔を掴んだまま、勢いを付けて後頭部から床に叩き付ける。木製の床が魔導士の男の頭部を中心に、激しい音と木片をまき散らして陥没。

 痙攣する魔導師の体を鼻で笑い飛ばしながら、ヒルダは口を開く。

 

 「え~と、一つ勘違いをしているようだから訂正してあげる♪」

 

 まだ微かに息がある魔導士の顔を、ヒルダは足を振りかぶって盛大に蹴飛ばす。

 カエルが潰れるような音と共に、いくつもの歯が宙を舞った。

 

 「私はね、今まで四百七十九人を殺した。この世界に来るまでに殺した数は三百三十三人。解る?当然懸賞金も掛けられて、腕に覚えがある咒式士共が大勢私を殺しに来た。その全てを殺し返してきたからこそ、私はここにいるの」

 

 ヒルダはあまりの激痛に沈んだ床で蹲る男を笑いながら、何度も何度も心から楽しそうな顔で蹴り飛ばす。

 

 「当然、裏社会の連中からも賞金はかけられるわ。金庫を襲撃したり調子に乗った馬鹿共をぶち殺したら、いつのまにかかかっていたんだけれどね。でも私はエリダナに来るまで決して敗北したことは無かった。そして同様に殺すことを止めるつもりもなかった」

 

 苦痛に唸る魔導士を最後に一発蹴り飛ばす。体重がヒルダの倍以上ある魔導士が、まるでボールのように床を転がった。

 

 「お前みたいな価値の無い連中に、どうしてかわいくて本物の私が指図されなくちゃいけないわけ?次言ったら殺すから」

 

 重傷を負った無精髭の魔導士を横目に、再び長い廊下を歩き出す。

 残された若い魔導士は、怯えた目でヒルダを見送った後、力が抜けたように壁に寄り掛かると、静かに床に腰を下ろした。

 

 「ふ、ふざけてやがる。逃げたい、だが逃げれば組織の追手としてヒルダ様は嬉々として俺を殺しに来る。くそったれ、どうして俺がこんな目に……」

 

 涙を流しながらはっとして床に沈んだ魔導士を担ぎ上げると、何かに怯えるように医療魔導士を探しに歩き出す。

 

 ただ「どうして」と壊れた蓄音機のように何度も何度も同じ言葉を並べながら。



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6話 血の祝祭・前編

 時空管理局が発足以降、管理世界の歴史を揺るがした事件は何か。

 そう問われれば、大きく分かれて答えは四つに分類される。

 

 一つ目は『PT事件』。

 

 自らの愛する娘を生き返らせるために、母である『プレシア・テスタロッサ』が主犯となった悍ましくも悲しい事件。

 願望の実現を可能とする膨大な魔力を秘めたロストロギア、『ジュエルシード』を巡る戦いは、あの管理局の英雄『高町なのは』と『フェイト・テスタロッサ』が初めて表舞台に上がった事件としても知られている。

 彼女たちの出会いと戦いは後に演劇や映画に取り上げられて大きな人気を誇り、多くの人々にこの事件が語り継がれている。

 

 二つ目は『闇の書事件』。

 

 これはロストロギアである『闇の書』が巻き起こした事件の総称である。

 幾度となく再生し、死者と悲劇を生み出し続けたこの事件。今なおその傷跡が魔法世界に深く刻み込まれている。

 だが『闇の書』は管理局中央や数々の次元世界を巻き込んだ『魔導士襲撃事件』において『高町なのは』や『クロノ・ハラオウン』・『リンディ・ハラオウン』の親子、そして養子となった『フェイト・ハラオウン』達の活躍にて収束。

 そしてこの後、消え去った『闇の書』の最後の主であった『八神はやて』が守護騎士プログラムと共に管理局に入局。

 ここに伝説の部隊である『機動六課』の主要陣が揃うことになる。

 

 三つ目は『JS事件』。

 

 「犯罪者でなければ歴史に名を遺す」と称された狂気の科学者、『ジェイル・スカリエッティ』が自らの生み出した戦闘機人達と共に行った最悪の事件。

 地上本部を襲撃、いくつものロストギロアの使用、さらには時空管理局の最高評議会のメンバーを殺すという歴史上類を見ないほどの大事件であった。

 

 そして、この『JS事件』と同時期に発生したもう一つの大事件により、この年はミッドチルダ及び管理世界において、知らぬものはいない暗黒の年とされている。

 

 暗黒の年、その年を生きた者達の共通点として、一人の少女の名前は禁句とされている。

 残り一つの大事件は、多くの魔法世界に衝撃を与えた。

 

 死者は判明しているだけで八百人以上。

 これは全て単独で殺害した上での数値であり、彼女が関わった事件の死者を合わせれば千をゆうに超える。

 

 『JS事件』は一般民間人を対象として行われなかったが、この事件は管理局員や民間人を問わず、何の罪もない多くの人々が非業の死を遂げた。

 

 それもただ殺されるのではなく、より残酷に拷問されて遊ばれて殺されていった。

 また、これを防ぐために出動した管理局員達にも二百人を超える死者が出てしまった。

 

 そのために『JS事件』が『最悪な事件』と称されるのに対し、この事件は『最恐の事件』と呼ばれている。

 

 未だなお多くの人々が事件の主犯の名や異名を聞くだけで恐れ、憎悪する歴史上類を見ない大量殺人事件だ。

 

 『最恐の事件』の名は、『HP事件』。

 

 史上最悪の殺人者『ザッハドの使徒』である『ヒルダ・ぺネロテ』が、ロストロギアである『エミレオの書』を使用した大量殺人事件である。

 

 ヒルダ・ぺネロテと管理局が最初に接触したのは、第XXX管理世界の都市XXXXに存在していた裏組織、『カエストス魔法商会』の行動によるものであったことが解っている。

 

 組織内で殺人者としての頭角を露見させ始めたヒルダ・ぺネロテの存在を危惧した『カエストス魔法商会』は、罠に嵌めるための囮として偽りの取引の護衛を彼女に依頼。

 そして自ら管理局に一情報提供者の情報と偽って、この裏取引が行われる現場の情報を提供したのであった。

 

 しかしこの時点では『お菓子の魔女』の名は知られていたが、ヒルダ・ペネロテの名は管理局内及び管理世界では知られていなかった。

 これはヒルダ・ペネロテが裏社会に潜伏しており、まだ表社会での連続殺人を実行していなかったことが理由として挙げられる。

 また、彼女の殺人が『カエストス魔法商会』によって痕跡が一切消されていたことも原因であった。

 

 故に、管理局はその裏取引への強制介入において、初めてヒルダ・ペネロテと遭遇。戦闘が行われた。

 

 ――――そしてこの戦闘が、後に魔法世界を震撼させる『HP事件』の幕開けであった。

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 管理世界の廃棄された都市。

 かつては栄えたであろう無人の都市群は、今や鳥の鳴き声一つとして聞こえない不気味さがあった。

 並び立つビル群は整備や清掃が行われないために塗装が剥がれ落ち、ヒビが所々蜘蛛の巣のように広がっている。

 日に照らされて影を生み出す都市の建物の群れ。それはさながら物言わぬ墓標のようであった。

 

 その一角、都市の外れにあった廃棄工場。

 既に工業機械は撤収され、錆と無音が支配する巨大な空間。

 そこにはヒルダを始めとする複数の魔導士達の姿があった。

 

 「つまらないなぁ……」

 

 ヒルダの呟きに、周囲の魔導士たちの体が大きく震える。

 

 リカルドが次にヒルダに命令した任務は、物資の取引における護衛。

 物資の中身は質量兵器系統、そして違法薬物など時空管理局が神経質になって取り締まっている物々だ。

 ヒルダからすれば前時代的なガラクタだが、こんな物でも欲しがる輩はいるらしい。

 

 さらにヒルダが行った諸々の所業により、他の裏組織が徐々に『カエストス魔法商会』に対して動き始めている。

 この取引に介入するなどの妨害も十分考えられるために、半ば尻拭い的な意味を込めて彼女はこの護衛を任されたのだろう。

 

 だがそれを理解するのと納得するのでは、まったく別の話である。

 ヒルダの顔は不愉快極まりないと言わんばかりに、眉は八の字、唇はへの字に結ばれていた。

 

 ヒルダから発せられる殺気に等しい怒気に、周囲の空気は張りつめられている。

 

 同じく護衛として派遣された、ヒルダの精神的下僕である魔導士達は自らの主の不機嫌さに居心地が悪そうに周囲を警戒していた。

 

 下手に話しかければ、死んだ副官や現在療養中のブラウンのように、その怒りの矛先を向けられる。

 まだ二人のように重症や死ぬ程度で済むなら良いが、ヒルダが遊んで殺した者たちのように、生きたまま解剖されたり、融合されて殺されたくはない。

 

 ヒルダの部下達は被害者の面々の死に様をヒルダ自身に見せつけられているが故に、例え理不尽な暴力や言動を受けようとも、逆らう気は毛頭無い。

 僅か成人に満たない少女のヒルダに、裏社会の魔導士達は魔法を使われなくとも、恐怖で支配されていた。

 

 ドイツの社会学者であるマックス・ヴェーバーは支配の三種類型として、『伝統支配型』と『合法的支配型』の二つの他に、『カリスマ的支配型』を構想の一つとしている。

 これは呪術力に対する信仰や、啓示力や英雄性に対する崇拝であるとしているものだ。

 

 魔導師達はヒルダの持つ殺人者としての一面に恐怖を持ち、憎悪を持つことで服従しているのだ。

 一件それは理解不能な信仰のように思えるが、そもそも人の理解を超えたものに対して人は太古の昔から恐れ、敬ってきた。

 

 言わば自らの力が一切及ばないが故に信仰が生まれるのである。命の際限、病気、運など己の力ではどうしようもない問題を人は無意識のうちに恐れるのだ。

 

 ヒルダが彼らにもたらした信仰は恐怖、彼らは安全を得るためにヒルダに力を捧げているのだ。

 

 だが、ヒルダにとってはどうでもいい話であった。

 ヒルダ以外の人間が何をどうしようが関係ない。これからも殺し続けていくだけである。

 信念もなければ、願いもない。夢もなければ未来もない。

 

 ただ「私は負けないし死なない」、それだけの話である。

 

 理由はヒルダがメトレイヤから長く続いた問いに打ち勝った『本物』であるからだ。

 

 ヒルヅ、ヒルド、ヒルデの姉妹の姿は無く、自分だけがこの世界で殺し続けられることがその証明であるからだ。

 ザッハド様の導きによりここに来たのか、それ故のエミレオの書なのか。

 解らないことは山ほどある。しかしヒルダが異境の地で、魔法が謳歌する地での行動はこれまでと変わりがない。

 

 そろそろ我慢の限界だ。

 

 金銭の確保は十分。

 裏組織を一つ潰した際、無断持ち去った魔法の物品と金銭や宝石類で人生を三回はやり直せるだけの金は用意されている。

 各管理魔法世界の情報は把握出来たし、問題となっていた警察機関の役割を持つ管理局の情報も入手。

 

 目標の一つはまだ未達成ではあるが、それを達成する為にわざわざリカルドの糞野郎の言う事を聞いているのは癪に触る。

 今回もこんなつまらない護衛をこのヒルダちゃんに頼むとは、どんな手で殺してやろうか。

 

 あの眉間に集まった皺を取ってやるために、顔全体を焼いてやるのも――――

 

 「……?」

 

 ――――ちょっと、待て。

 

 ヒルダは微かな違和感を覚えた。

 殺人構想の愉悦に浸っていたヒルダの目が、冷静さを取り戻していく。

 

 武闘派組織である『アルタイル』での戦いは、始終ヒルダの圧勝に終わった。

 

 満足に遊べた事でヒルダはまったく気にはしていなかったが、あれは果たしてリカルドの望んだ結果であっただろうか。

 

 ヒルダが見立て殺人によって晒した咒式とエミレオの書と、預けられた『カエストス魔法商会』の戦力。

 ヒルダ自身の目からすれば余裕で欠伸が出るレベルだが、他者から見れば『アルタイル』に勝てるとは思えない無謀とも呼べるべき戦い。

 いや、そもそも戦いにすらならないものであったのではないか。

 

 さらにヒルダは状況と情報、自身を取り巻く環境を整理していく。

 

 ヒルダ自身は暗殺と奇襲を得意とする狩人型の殺人者であった。

 武人や正面からの闘争を好む戦術を選ばないが故に、戦法を構成してヒルダを長姉とするペネロテ姉妹は殺人を行ってきたのだ。

 ペネロテ姉妹として、殺人者としての頭脳が、ヒルダに危機感を伝えていた。

 

 リカルドは生温いとはいえ、この魔法世界の一角である裏組織を率いている。

 それだけの計算は出来る男、ヒルダ自身が彼にまったく恭順の意を示してはいないことは理解できる頭を持っているはずだ。

 

 それは『アルタイル』を殲滅したヒルダが、彼自身の部屋に呼び出された件で如実に表されている。

 リカルドの親衛隊に囲まれ、詰問していたリカルドの目。

 そこにヒルダに対する信用と信頼は欠片も無かった。

 

 そのリカルドがあれから間もなく、このような取引の護衛をヒルダに依頼する。

 

 取引に関しては神経質になっていたリカルドが、自らの手では押さえられないと解ったヒルダに護衛を依頼する。

 

 それは爆発物を火に投げ入れるようなものだ。

 あの計算高いリカルドが組織に入ったばかりのヒルダならともかく、『アルタイル』の殲滅の際に制御不能に陥ったヒルダを取引に介入させる事は断じてあり得ない。

 

 今のヒルダの立場は不自然極まりない。

 鴨が葱を背負ってくるどころか、鍋と野菜とミネラルウォーターまで持ってきたかのようだ。

 

 「ちッ!」

 

 ヒルダの鋭い舌打ちに、周囲の魔導師達は恐る恐ると言ったように彼女を見つめる。

 それらを「この馬鹿共が」といわんばかりに睨み返しながら、ヒルダはぬるま湯に浸かりきった自分を律する。

 

 こいつらを笑えないぐらいに愚かな自分を笑いたい。

 死からの脱出に浮かれ、魔法世界という技術と未知の世界での殺人に浮かれてしまった自分。

 

 その結果がこれだ。

 

 生温い殺人と戦闘に身を置きすぎたのだ。殺人者としての魂と頭脳に脂肪が付いてしまった。

 怠惰な殺人と戦闘は、己の体を蝕んでいく。

 それ故にエリダナでパンハイマに敗れ、糞ドラッケン族に顔を陥没させられ、糞眼鏡に下半身を焼かれ、自らの妹であるヒルデに殺されかけた事をもう忘れたのか。

 

 はっとするかのようにヒルダは右腕に巻かれた最新の高級時計を確認。

 

 予定時間にはまだ早いが、それでもここまで何の連絡もないのはおかしい。

 やはり今現在、ヒルダが置かれている状況は異常だ。

 

 くそっくそっくそっ!?

 

 思わずこの場にいる全員を皆殺しにするという、半ば八つ当たりに近い激しい殺人衝動に襲われる。

 だが感情に負けては勝てるものも勝てず、殺せる者も殺せない。

 ここで壁を削れば、己の命が削れることになってしまう。

 

 落ち着け、冷静になれヒルダ。

 

 頭を冷やすのよ私。私は他の有象無象の愚か者達とは違う本物なのよ?

 焦りを覚えるのは私に狩られていく馬鹿だけで十分、かわいい私は優雅に殺していくんだ。

 最後に笑うのは私、この世界の中心は私、そう物語の中心は私なの。

 

 むしろこの危機すらそのための舞台に過ぎない。

 本物である私が、『ペネロテ姉妹』ではなく『ザッハドの使徒』として雄飛の時を迎える舞台に過ぎないのだ。

 

 ヒルダは沸騰しそうになる頭を理性で抑えつけながら、笑顔を形成して自らの下僕に振り返る。

 その笑顔は女性への耐性が無ければ、赤面するほどに可愛らしく美しい。

 

 だが先ほどから異様な空気を発していたヒルダに対して、何事かと眺めていた魔導師達は、突然のヒルダの笑顔に困惑する。

 

 「ねぇ~、え~と、だれだっけ。ほら、そこのおじさん?」

 

 「は、はいッ!何でしょうヒルダ様!」

 

 ヒルダの話しかける対象に選ばれた中年の魔導士に、周囲の魔導師達は憐みの視線を送る。

 だが巻き込まれてはたまらないとばかりに、他の魔導士達はすぐさま視線を逸らして警戒に戻る。

 ヒルダに声をかけられた魔導士は、すぐさまヒルダに駆け寄ると跪いた。

 

 ヒルダは可愛らしいフリルが付いた黒のポーチから手鏡を取り出す。

 そしてそのまま手鏡で自らの髪型を確認して整えながら、緊張と恐怖で肩を小刻みに震わせる魔導士を横目で眺める。

 

 「今日はどこと取引だっけ?」

 

 「も、申し訳ありません。私は何も……ヒルダ様はご存じ無いのですか?」

 

 こんな状況に陥っていてまだ気が付かないのかこの無能が。

 思わず手に持った手鏡を握り潰しそうになりながらも、ヒルダは「えへへ」と恥ずかしそうに笑った。

 

 「ん~急な取引だって言われたからね♪それと、『カエストス魔法商会』に連絡は繋がるかな~?」

 

 「お待ちを」

 

 すぐさま空中に映像を投影しようと中年の魔導師は試みる。

 しかし一向に映像は繋がらず、魔導師の顔には焦りが浮かび始めた。

 

 「も、もうしわけございません。通信の方が――――いや、これはジャミングッ!?な、何故ッ!?」

 

 「……ふ~ん、なるほどね♪」

 

 そう声を発するや否や、ヒルダは手鏡を床に叩き付ける。

 

 叩き付けられた衝撃で鏡の表面が亀裂が入り、砕け散った鏡の破片が辺りに飛び散った。

 そして整然と立ち上がったヒルダの顔は能面のようにあらゆる感情が抜け落ちていた。

 

 先ほどの異常に加えて突然の激しい破砕音。

 周囲の魔導士が何事かと振り返れば、そこには腰を上げてゆっくりと歩き始めたヒルダの姿が。

 彼女の細い指は、魔杖風琴の円盤に伸びている。

 

 それら一連の流れを見ていた中年の魔導士の顔には死の恐怖。

 理不尽な死が自らを襲うのだと考えた男は、抵抗することすら考えられず、床に両手をついて涙と鼻水を流し始めた。

 それを見た魔導士達は、また仲間の一人がヒルダの逆鱗に触れたのだと冷徹な目で状況を観察していた。

 

 だが、彼らの予想を反してヒルダは中年の魔導士の横を通り過ぎていった。

 

 そしてヒルダが歩く先にあったのは、今回の取引物があった。

 魔法鍵がかけられた複数の一メルトル程の魔導ケースである。

 冷めた目をしたヒルダの指が、かすかに魔杖風琴を鳴らす。

 それにより彼女の肩に土気色の老人の顔をした『菓子屋敷のポコモコ』が召喚される。

 

 「ヒルダ様、何を――――」

 

 ヒルダの行動を理解できない魔導士達の一人が、彼女に声をかけたその瞬間。

 

 『菓子屋敷のポコモコ』の咒式が発動、複数ケースの上空に四百八十キログラムルの重量を誇る通常の二十倍の横幅を持ったチョコレートの砲弾がいくつも召喚。

 ヒルダの行動をようやく理解した魔導士達が止めようと動き出すも、チョコレートの砲弾は僅かな迷いもなく魔導ケースに落下していく。

 

 着弾、そして爆音。

 

 あまりの連続した衝撃に耐えきれず歪み、砕けてバラバラになった魔導ケース。

 宙に放電される電流と湧きあがる煙から完全に破壊されたことが確認出来る。

 

 ヒルダはそのうちの一つ、転がっていたケースの一つを振り上げた脚で蹴飛ばした。

 金属が歪む音と共に、既に壊されかけていた魔法錠が完全に解除され、歪な電子音や煙と共にケースの蓋がスライドして中身が顕わになっていく。

 

 その中身は――――

 

 「リカルドの糞野郎、この私を嵌めやがったわね」

 

 ――――空であった。

 

 報告にあった違法薬物もなければ、違法な質量兵器があるわけでもない。

 推定するにこのケース全ての中身が、このケースの中身と同じように空だ。

 中身が無いのにも関わらず、よくぞここまで厚かましいケースを用意したものだ。

 

 だがこれこそ、ヒルダが推測してだした結論の決定的な証拠といえよう。

 

 ようやく周囲の魔導師達も空のケースに加え、ヒルダの数々の言葉から現在の自分達が置かれている立場が把握できたらしい。

 それぞれが目で意志の疎通を行いながら、バリアジャケットを展開していく。

 だが、誰一人として怒りや戸惑いの発声を行う魔導師はいなかった。

 

 ヒルダの体が怒りに震え、美しい顔は憤怒により悪鬼すらも霞むような形相へと変わっていたからだ。

 

 「上等ね。ここまで虚仮にされたのはパンハイマとの戦闘、そして地下迷宮での戦闘以来よ」

 

 あまりの怒気に周囲の魔導師は思わずヒルダから一歩遠ざかる。

 無意識の上での行動であった。

 

 「もう許さない。殺す、殺す、殺す。リカルドは絶対に殺す」

 

 悦楽も、悲しみも、怒りすらも感じられない無感情の桃色の瞳。

 ヒルダの内面は全てを凍り付かせ、凍死させるほどの激しい吹雪が吹き荒れていた。

 

 「指の先からやすりでじっくりと摺り下ろしてあげる。神経も、筋組織も、骨も、血管も、みんなみんなじっくりじっくり摺り下ろす。あまりの激痛に視界は真っ赤に染まり、精神は崩壊するだろうがキヒーアの咒式でそんな逃げは許さない。四肢を摺り下ろし終わったら、涎と涙と血と糞尿に塗れた顔で、死を乞うあいつの四肢を再度キヒーアで治療。また最初からじっくりと三日三晩かけて手足を摺り下ろしてやる」

 

 口から激しい呪詛を垂れ流す。

 聞くもの全てが耳を塞ぎたくなるような精神を蝕む呪詛を。

 

 「五月蠅い舌は抜く、咽を引き千切る。目を閉じて逃避させないように、目蓋は取り除いて目の前にあいつの身長ほどの大きな鏡を用意して四肢を摺り下ろす。普通は死ぬけれど、死なせない。絶対に絶対に死なせない。リカルドには生まれたことを、私に馬鹿な事を仕組んだことを百万回後悔させるような生き地獄を味わわせてやる」

 

 ヒルダの巨大な悪意に魔導師達の脈拍と呼吸は大きく乱れていく。

 

 誰もヒルダに声をかける者はいなかった。

 今のヒルダに声をかける者は皆無惨に殺されるであろうことが解っていたからだ。

 理解するからこそ誰もが動く事も声を発する事も叶わず、ただただ木々のようにその場に黙して立つ事しか出来なかった。

 

 そしてヒルダは怒りに身を任すも、同時に冷徹な思考は絶え間なく回転し続けていた。

 

 現在ヒルダが置かれている状況は危険だ。

 リカルドはヒルダが戻れば殺される事を十分に解っているのであろう。

 だからこそ二度と己の下にヒルダが帰還しないように、何らかの手を打っているはずだ。

 

 ヒルダの頭の中では危機を告げる激しいアラーム音が止まらずに鳴り響いている。

 三度も瀕死の状況に陥った為か、彼女の生存本能は磨かれて研ぎ済まれているのだ。

 

 罠が仕組まれていると解った以上は、一刻も早くここから離れるべきとヒルダは即時判断を下す。

 元より情の沸くはずがない他の魔導師達を犠牲にしてでも、この場から逃げ延びるべきだと考えた。

 

 そして行動するべく自らのバリアジャケットを展開した、その時であった。

 

 自らのデバイスのセンサーに複数の魔力反応を確認。

 それに気が付いたヒルダは瞬間、その場をまるで獣のように飛び跳ねる。

 さらに空中で飛翔魔法を用いて後退。

 

 その直後、ヒルダが存在していた位置にガラスを突き破って光弾が高速で飛来。

 対象が存在しない光弾はタイル状の床に命中し、輝く粒子と共に弾痕を穿つ。

 

 ヒルダはさらに狙撃からの死角に着地すると、その場で自らの持つ魔杖風琴の鍵盤に指をかけた。

 額には光に照らされた珠のような汗が浮かんでいる。

 

 ヒルダを襲った魔法は何者かの狙撃であると理解した魔導師達が、次々とヒルダを中心とした陣形を構築するべく動き出す。

 

 しかしそれを遮るかのように窓や脆くなった天井を打ち抜いて、魔導師達の間に魔法弾が降りそそいだ。

 陣形の構築を防がれた魔法商会の魔導師達は、各々が焦りながらも防御魔法を展開しながら側にいた魔導師達と合流。

 だが反撃を取れず、結果として分断されてしまった魔導師達はその場で防御魔法を唱えるか、魔法が届かない範囲への逃避以外の手段を行えない。

 

 それを苦々しく見つめながらヒルダはこれまでの魔法攻撃を分析していく。

 

 この魔法は突発的なものではなく、明らかに計算された攻撃だ。

 

 最初に指揮官であるヒルダを狙撃。

 それが外れたと見るや、すぐさま部下の魔導師達を攻撃することで、こちらの連携の分断を図ってきた。

 

 集団戦闘における基本中の基本だが、その効果は見ての通りである。

 踊らせられる馬鹿共は、大慌てで防御魔法を展開しながら混乱している。

 

 念話と呼ばれる直接脳内に指示や会話を飛ばす魔法を発動、魔導師達の無様な混乱を収めるべく叱咤のを飛ばす。

 だがヒルダに返ってくるのは、混乱した情けない声ばかりであった。

 

 解ってはいたことだが、所詮は裏社会にしかいられない無能共の集まりだと改めて知った。

 ヒルダは思わず騒ぎ立てる魔導師達へ向けて、脳内で激しく罵倒しながら歯を噛み締めた。

 

 いつも嵌めて殺すこの私が、盛大に無様に嵌められた。

 

 その揺るぎない事実がヒルダに突きつけられている。

 ただ慌てるだけで自らを苛立たせる無能共へ向けて、思わずエミレオの書を使ってやろうかとも考えた。

 しかし今はそのような場合では無いと、ヒルダは魔力センサーを周囲に拡大させる。

 

 反応はこの工場を囲むように二十四、遠方に一つ。

 

 その配置と現状から察するに、敵は訓練された部隊であることに間違いない。

 ヒルダ自身が怒って気を乱したとはいえ、殺気も無くここまで展開を許すなどそうは無い事だ。

 

 最悪だ、この状況は不味すぎる。

 

 警察士や賞金稼ぎ、さらには咒式事務所に追われた経験のあるヒルダは、自分が置かれた状況が嫌というほどに理解できたのだ。

 これまではそれを突破してきたが、ここにはかつての姉妹であるヒルドとヒルデの姿が無い。

 在るのは腕も根性も無いような、自分を苛立たせる馬鹿共の姿だ。

 

 だがリカルドは一体これほど訓練された連中をどうやって集めたというのだ。

 

 かつて対ザッハドの使徒の為に、糞眼鏡を中心としていくつもの咒式士事務所が連携した。

 しかしリカルドは裏の人間であり、糞眼鏡のように表の傭兵隊連中を雇ったり連携することは出来ない。

 

 仮に単独の傭兵達を結集させたとしても、このような連携をすぐさま行えるわけがない。

 あの問責からあまりにも時間がなさ過ぎる上に、こいつらの行動は手慣れすぎている。

 

 他の裏組織に手を借りることは、今現在の『カエストス魔法商会』には出来ないはずだ。

 ましてこれは『カエストス魔法商会』の連中の持ち駒の動きではない。

 

 「いったいリカルドの糞野郎はどうやって、こんな完璧な奇襲を行える魔導師連中を雇いやがったのよ!?」

 

 まるで魔法のようなリカルドの手腕に、ヒルダの口からは彼に対する恨み言が飛び出した。

 同時にこれまで雨のように降りそそいでいた魔法が一斉に停止。

 

 工場の天井、その一角が巨大な魔法反応と共に破壊。

 

 複数の魔導師達の同時詠唱による広域魔法で破壊されたのだ。

 破壊された位置から分析するに、こちらを押しつぶすようなものでは無く対象を攻撃しやすいように、障害物を取り除く意味を込めた広域魔法であろう。

 

 そして顕わになった工場の天井から、何人もの魔導師が突入。

 彼らに展開されたバリアジャケットは、全て一つに統一されている事を確認。

 

 ヒルダは襲撃者の正体を理解して、頭の中のリカルドを十八回エミレオの書でぶち殺した。

 リカルドは恥を捨てて私を潰しに来たのだと、目の前の突入者達の存在からそれがありありと解った。

 

 「武装を解除し、ただちに投降しろッ!」

 

 「抵抗する動きを見せ次第、魔法を発動する。既に詠唱は済んでいる、無駄な抵抗はよせ」

 

 彼らが属するは正義の名の下に犯罪者達を断罪する最大戦力組織。

 ミッドチルダを拠点としているその組織の名は――――

 

 「時空管理局だッ!」

 

 

 



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7話 血の祝祭・中編

 時空管理局。

 

 いくつもの次元世界に干渉し、ロスギアや違法質量兵器の摘発を行う巨大機関。

 初めてヒルダが魔法世界で遭遇し、殺害した者達も時空管理局の局員達であった。

 

 だがあの時とは状況がまるで違う。

 

 『ひ、ヒルダ様。我々はいったいどうしたら』

 

 『黙れタコ。命令するまで待ってろ』

 

 怯える魔導師達の念話を速攻で切り捨てながら、ヒルダは必死に現状の打開策を思考する。

 

 総勢二十五名の管理局員共。

 前衛魔導師十三名、後衛魔導師十一名、遠距離からの狙撃魔導師は一名。

 一個将隊半にも及ばない数。

 だが武装局員達はそれぞれ練度が非情に高く、集団戦闘において実践慣れしている。

 そして統制された行動の下に、包囲網を構築中。よく練られたフォーメーションだ、流石次元犯罪のスペシャリストといえよう。

 

 対してヒルダ達は僅か十五名。

 士気は急低下、実力は低い。加えて連携もままならないという、最悪のコンディション。

 やってられない。逃走可能であれば、すぐにでも退却を選択する状況だ。

 

 「もう一度いう、三度目は無いッ!大人しく投降しろッ!」

 

 ヒルデの周囲で尻込みしながらも、バリアジャケットを展開している『カエストス魔法商会』の魔導師達。

 恐らくヒルダと共に戦い続けた事から、リカルドに切り捨てるべき駒として判断されたのだろう。

 不確定要素を持つ危険な部下は徹底的に排除する。実に裏社会らしいやり方だ。

 

 ヒルダの恐怖による洗脳があるからこそ、魔導師達はこの場から逃走したり暴走しないだけ。

 士気もなければ戦意もない、数で負ければ実力でも負けている事を理解しているために、既に部隊としては最低ともいえる状態だ。

 

 魔導師達は殺されるという恐怖から、投降を選択していないだけに過ぎない。

 

 下手に時間を引き延ばせば引き延ばすほど、こちらは不利となっていく。

 ヒルダは即時周囲の魔導師達に念話を飛ばす、通達されたのは「突撃」という無謀とも呼べる作戦内容。

 次々と魔導師達は絶望に顔を染めて、念話や目でヒルダに逃走を促し始めるが……。

 

 『逃げる奴はぜ~んぶ、私が殺す。だから行け、どうせあいつら全員非殺傷設定だし』

 

 混じりけのない殺気が込められた念話に、魔導師達の「逃走」という概念が吹き飛ぶ。

 彼らの脳に再生されたのは、ヒルダに次々と殺されて非業の死を遂げた敵と同胞の姿。

 ヒルダが一切の躊躇いもなく配下を殺す事は、これまで散々見せつけられているが故に容易に理解できる。

 

 怖い。死ぬ事が怖い。

 このまま躊躇っていれば、間違いなくヒルダは魔法生物を使って自分達を殺す。

 

 だが、反対に武装局員達は魔導師達を殺す気はない。

 詠唱完了され、それぞれのデバイスに展開された魔法は全て非殺傷設定だ。

 管理局自体が殺す事が無い非殺傷設定を適用できるが故に、魔法を基盤として戦うという事実を魔導師達は思い出す。

 

 背後には殺す事さえ厭わないヒルダ。

 前方には非殺傷設定の魔法を構える管理局。

 

 魔導師達は悲壮な決断を下した。

 

 「う、うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」

 

 一人の魔導師を皮切りに、『カエストス魔法商会』は次々と魔法を管理局員に向けて発射。

 剣型や斧型、槍型などのデバイスに魔法を展開した魔導師達は、獣のような雄叫びを上げながら管理局の魔導師に飛翔・突撃していく。

 

 突如狂騒に駆られた裏組織の魔導師達に、武装局員は驚愕しながらも冷静に魔法を射出。

 夥しい程の魔法が両陣営を交差する様を眺めながら、ヒルダはこの工場を覆うように展開された結界を分析していく。

 

 「……よりにもよって『強装結界』かぁ」

 

 魔法の一つ、結界。

 結界とはある一定の範囲に効果を及ぼす魔法群を指す。

 効果は使用者によって様々であるが、ヒルダは既にこの結界の正体を看破していた。

 

 この結界は魔法による逃走、転移を防ぐために敷かれた強装結界である。

 範囲内に取り込まれた者達の捕獲を行うために使われるものであり、非殺傷設定を行使する管理局が、犯罪者に対して好んで使う結界魔法だ。

 

 一度展開された管理局の強装結界は、相当の衝撃を与えなければ突破できない。

 それには強力な魔法や攻撃方法が必要となるが、詠唱や結界に干渉する時間を管理局の魔導師達は与えない。

 

 視線を戦場に戻しつつ、ヒルダは二つのエミレオの書を展開。

 

 エミレオの書の鍵が解き放たれ、開かれたページから〇と一が絡め合った数字の羅列がヒルダの背後と肩に広がっていく。

 やがて形成されたのは『菓子屋敷のポコモコ』と『絶息の巨人エンゴル・ル』であった。

 ヒルダの肩で土気色をした老人の顔が笑い、背後で薄青い霧のような体を持つ巨人が無言で佇む。

 

 自分が最も扱い、見慣れた異貌のものどもである。

 これに加えて耳を破壊する『耳食い狐キキチチ』の三体を使役することによって、ぺネロテ姉妹は合計千人を超える殺人を行ってきたのだ。

 まさに扱いなれたエミレオの書の従僕達である。

 

 空中で動きを止めて追撃の詠唱を行う武装局員達を嘲笑しながら、ヒルダは左右の指で咒式を紡ぐ。

 あれではただの的でしかない、完成された凶悪咒式を躊躇なく発動。

 

 放たれた負の十気圧という地獄を巻き起こす咒式は、後方から援護を行っていた武装局員達を中心に展開される。

 不可視、無臭の確殺咒式だ。武装局員達は回避することも適ない。

 

 『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』による負の気圧地獄は、バリアジャケットの魔法防御を難なく破壊。

 さらに武装局員達の体組織を軒並み破壊、体内の血が口腔や鼻孔を通じて吸い出される。

 内臓の破壊、気圧による血の吸血により、次々と武装局員は口腔や鼻孔から大量の血を吐血。

 さらに呼吸を行ってしまったことで、体内の血中酸素が根こそぎ奪われる死のマーチへと突入してしまった。

 

 苦悶と驚愕の表情を浮かべながら、次々に地面に向けて落下。

 

 何人かの武装局員がそれに気が付いて急旋回、攻撃を中断して救助に向かいバリジャケットが解除されてしまった体を受け止めた。

 

 しかし魔導士達の射線上に舞い込んだ事で、救助が間に合うことがなかった一人の武装局員が、地面に背中から激突。

 衝撃により背骨が粉砕され、内臓が破裂。あふれ出た大量の血が、武装局員を中心にゆっくりと広がっていき、見るも無残な真っ赤な華を咲かせた。

 

 さらに受け止められた武装局員達が、次々に喉を掻き毟りながら暴れ始める。

 見れば全員が顔を青くしながら、必死に息を吸い込もうともがき苦しんでいた。

 

 医療に秀でた武装局員の一人が、真っ青な顔から重度の酸素欠乏症に陥ってしまっていると判断。

 すぐさま回復魔法を発動を発動していく。

 

 だが肺などの重要臓器が破壊されているため、酸素を供給するだけでは不十分。

 さらに傷を癒そうにも、体組織が一斉に破壊されたために、治癒力が足りず回復できない。ましてや重要臓器の再生など不可能だ。

 

 結果、彼らは数秒と立たずに急死。

 酸素欠乏症、多量出血、心不全、さらに脳への酸素の供給が不足したことにより、脳細胞も破壊される。完全な死亡だ。

 

 未知の魔法により困惑する武装局員達とは反対に、裏組織側の魔導士達の士気は急激に高揚。

 自らの主が行った魔法により、後方から放たれていた魔法の斉射が停止したのだ。

 その隙に雄たけびを上げながら、各々のデバイスを構えて突撃していく。

 

 気を取り直した前衛魔導士の武装局員達が、迫りくる猛攻を受け止めるべく防御魔法を発動。

 そしてそのまま無詠唱で攻撃魔法を放つべくデバイスを構える。

 だが彼らの頭上には――――

 

 「な、なんだこれはぁッ!?」

 

 一人の武装局員がそれに気が付いて視線が釘付けにされる。

 異常を察知した武装局員達もすぐさま確認、理解不能な物体の出現に唖然。

 

 空中に固定されていたのは四百八十キログラムルもの巨大なチョコレートの塊であった。

 横幅が二十倍というまるで金庫の扉のような威容を誇るそれが、数枚も突然に自分たちの頭上へ出現したのだ。。

 異常な事態に狼狽する武装局員達の頭上から、巨大なチョコレートの砲丸が落下。

 

 武装局員達は飛行魔法や横転による回避を行い、行動が間に合わぬ者は防御魔法を展開して四百八十キログラムルもの塊を受け止める。

 

 だが膨大な質量に速度が加わったために、とっさに発動した防御魔法では衝撃を完全に受け止めきれない。

 いくら本物のチョコレートといえど、咒式で巨大化された死の砲弾は家一棟を倒壊させる威力を持っているのだ。

 

 受け止めきれない、受け流しきれない衝撃に防御魔法を展開した武装局員達は吹き飛ばされて、回避や飛行していた他の武装局員達に衝突。

 バリアジャケットを通してつたわった衝撃により、魔法力が足りない武装局員は腕の骨折や頭部からの出血などの負傷。

 比較的魔導士ランクが高いものでさえ、あまりの物量に体を痛めたのか、顔を苦痛に歪めている。

 

 「未だ、お前ら行くぞぉぉぉっ!」

 

 「ありったけぶち込めッ!」

 

 大きくフォーメーションが崩れた武装局員へ裏組織の魔導士達が、一斉に魔法を発射。

 電撃や炎、魔力弾といった殺傷設定の魔法が武装局員達を襲った。

 

 仲間の危機を救うべく、『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』の咒式を逃れた後衛武装局員達が防御魔法や結界をすぐさま発動。

 裏組織の魔導師達によって放たれた死の雨を完全に防ぎ切った。

 

 だが休む間もなくの下へ数百倍もの体積となったケーキやチョコレート、飴玉の散弾が飛来。

 すぐさま武装局員達は散開、魔法による迎撃を行って対処する。

 ヒルダの咒式に乗じて裏組織の魔導士達も次々と魔法を発動、武装局員達への攻勢を強めていく。

 

 武装局員達は怒号や念話による指示を飛ばしながら、それらの猛威に抵抗。

 もはや局員側も当初の余裕は消し飛び、武装局員と裏組織の魔導師達による混戦が始まろうとしていた。

 

 歴戦の魔導士達で構成された武装局員達は、少数で実力が劣る『カエストス魔法商会』の魔導士達に押されていたのだ。

 

 ヒルダはさらにポコモコの派手な咒式、エンゴル・ルの咒式の咒式による死の空間で武装局員達を追い詰めていく。

 だがヒルダはその端正な顔を強ばらせ、有利なはずの光景を苦々しい顔で観察していた。

 

 ヒルダは中距離暗殺型として確立された咒式士である。

 そして罠を多用する待ち伏せ型でもあるのだ。

 

 接近、及び遠距離からの攻撃には完全に不得手である。

 この事を十分理解するが故に、相手の陣形・作戦・咒式をかき乱す戦いを得意としたのだ。

 

 相手のペースを完全にかき乱し、姉妹三人による状況に応じた殺人手段を計画立案。

 相手を追い詰めて罠に嵌めていくことで、格上ともいえる咒式士達を百数十人殺してきた。

 

 まさに戦場の暗殺者ともいえる狡猾な咒式士が、『ペネロテ姉妹』の長女ヒルダである。

 

 だがこれらの戦法は、化け物や人外と等しき実力を持つ咒式士達にはまるで通用しなかった。

 パンハイマやアンヘリオなどの強大な力を持つ者たちは、ヒルダ達の作戦・罠・咒式ごと叩き潰してくるだけの頭脳・実力が備わっている。

 

 そんな絶対強者に対して、抗うべき手段をペネロテ姉妹は持ち合わせていなかった。

 あまりにもペネロテ姉妹のスタイルに拘り過ぎた為に、純粋な強者とのぶつかり合いは経験不足であったのだ。

 だからこそ末妹のヒルドは死に、ヒルダ自身も地下迷宮で殺されかかった。

 

 にも関わらず、ヒルダは未だ己のスタイルから完全に抜け切れずにいる。

 それが何とも言えぬ苛立ちの原因となっていた。

 

 もしこの場にパンハイマのような桁外れの魔導士が来れば、強大な魔法でたちまちヒルダ達は消飛ばされる。

 さらに実力や練度が高い軍団がくれば、実力不足の魔導師達は瞬く間に瓦解する。

 

 というか、こっちの魔導士達があまりにも弱すぎて貧弱で話にならない。

 管理局側を殲滅させる機会は、これまでも幾度となくお膳立てしたのにも関わらず、こちらの魔導師達は一人も殺せていないのだ。

 

 「盆暗で役に立たないことは解っていたけれど、ここまでとは。さすがの私も予想していなかっなぁ~……なんて」

 

 こいつらにはやはり練度と実力が足りない。そして組織戦の経験が足りない。

 

 ヒルダ自身がいくら相手をかき乱して殺していこうとも、後にまったく続いていかないのだ。

 さらに相手を殺害、追い詰めいかなければならないというのに、攻撃のタイミングや魔法の威力、加えてバラバラに攻め立てているせいでまったく管理局側を崩せていない。

 

 流石に違法次元犯罪者達を二百年近く抑え込んでいる組織だ。

 とっさの対応や危機管理能力、加えて組織戦が身についており、こちらの魔導士達の攻撃をよくいなしている。

 

 「私と一緒にいるのがあいつらじゃなくてヒルドとヒルデだったら……」

 

 間違いなく戦闘は終了している。

 だめだ、組織戦でもうこれまでの自分の戦い方はまったく通用しない。

 

 ザッハドの使徒は魔法世界に一人しかおらず、恐らく今後は自分一人で戦うことになる。

 今まで常にヒルダ・ヒルデ・ヒルドの三人で戦ってきた。

 だが運命を分ける大きな選択が迫られていることをヒルダは強く理解した。

 

 この世界に訪れたヒルダの戦いは、裏組織のまとまりのない魔導師だったからこそ通用したといえよう。

 これからは敵対することになる管理局、まだ見ぬ強大な魔法使いに対して、ペネロテ姉妹の戦法は最早通用しないと確信した。

 

 「私はこうなることを知っていたはずだ……」

 

 地下迷宮の戦いでヒルド一人失っただけであそこまで無様に敗北したことをもう忘れたのか。

 元々前衛であった末妹のヒルヅを殺した時点で、既にペネロテ姉妹の戦い方は崩壊していたのだ。

 千人以上殺したペネロテ姉妹の戦い方は、四人揃っているからこそ真価を発揮するのだ。

 

 もはや一人、ヒルダだけの戦いなのだ。

 これからは姉妹ではなく、ヒルダだけで殺していかなければならないというのに、いつまで自分は過去の戦い方に拘っているのだろうか。

 

 自分は他の汚くてブサイクな連中とは違う。

 いつまでも執着して無様な姿を晒すわけにはいかない、変わらなくてはならないのだ。

 

 裏組織の馬鹿共の顔はだんだんと明るくなり、嗜虐の余裕まで持ち出している姿が目に入る。

 いったいどんな活路を見つけたというのか、少なくともそんな馬鹿共が見つけた活路なんて見たくも知りたくもない。

 

 「あいつらは私たちを逃がさないように囲っているのよ?耐えていればいくらでも事後策が打てる状況。なのにそんなに時間をかけてしまったら――――」

 

 直後、魔法を発動しようとしていた魔導士に束縛魔法であるバインドが到来。

 一瞬で魔法陣が崩壊、体中を瞬く間に縛り上げられる。

 

 驚いた魔導士達が顔を見上げれば、空中には管理局側からの新たな戦力。

 ミッドチルダより送り込まれた十数人の武装局員達が、各々のデバイスを裏組織の魔導士達に向けて構えていた。

 

 これこそヒルダが早く戦闘を終わらたいと願った理由、増援の可能性であった。

 こちらが戦場に強装結界で縛り付けられている以上、向こうはいくらでもミッドチルダから増援を呼べる。

 そんな事すら目の前に夢中で気が付かなかったのか、あの馬鹿共は。

 

 伝えたとしても焦るあまり隙をさらして敗北は必須。

 伝えなかった結果がこれ。あまりにもお粗末だ。

 このゴミ共には利用価値すらない。

 

 『ひ、ヒルダ様』

 

 五月蠅い、黙れ。

 

 『え、援軍ッ!?そ、そんな……』

 

 黙れっているだろうが、馬鹿共。

 

 敗北の色が濃厚になった事で狼狽え始めた魔導師達を、ヒルダは冷ややかな目で見つめる。

 所詮こいつらはゴミなのだ。ブサイクで汚くて弱くて何の利用価値もないゴミ。

 私は何をどう勘違いして、このゴミ共を使ってやろうと考えたのだろうか。

 

 怒りのあまり音が一切聞こえない。無音の世界でヒルダはただ一人、思考の糸を紡いでいく。

 

 殺された同胞の悲しみを背負った武装局員達が、次々に魔導師達を気絶。捕縛していく。

 頭に飛び込んでくる悲鳴や慟哭を聞くヒルダの顔には、かつてない冷静さがあった。

 

 「覚悟したつもりだけれど、甘かった」

 

 戦場を見通すヒルダの声は、どこまでも凍てついていた。

 

 「今のままでは勝てない。いくらエミレオの書を所有しても、魔法の技術を体得しても、私自身が変わらなくては勝てない」

 

 桃色の目には、冷徹な激しい猛火が荒れ狂っていた。

 

 「私はザッハドの使徒だけど、もう『ペネロテ姉妹』じゃない。『右足親指のヒルダ』なんだ。メトレーヤの問い、その答えである本物が私。ヒルドやヒルデ、ヒルヅの腐れ妹共とは違う」

 

 二冊のエミレオの書が開き、光の発光と共に数列の鎖が出現。

 『菓子屋敷のポコモコ』を本の中へと引き戻していく。

 

 「私は本物。世界でただ一人の本物であり、本当のかわいさを持っているの。その私が、何で偽物共の戦い方を続けて行かなくちゃならないわけ?」

 

 魔導師達は瞬く間に拘束されていく。

 僅か五人にまで減ってしまった魔導師達は、ヒルダの前方十数メルトルまで後退。

 そして魔導師達を追って陣形を固めた三十近い武装局員達。

 彼らのデバイスの先はヒルダ達に向けられている。

 

 ヒルダが召喚魔法で呼び出したと思われる魔法生物を帰還させた事から、武装局員達はヒルダ及び残った魔導師達に投降の意志ありと見たのだろう。

 

 指揮官と思わしき長髪の武装局員が、顔を強ばらせながら周囲に念話を飛ばす。

 それを受け取った武装局員達が、デバイスの切っ先を向けながら、徐々に威圧をかけて包囲を狭めていく。

 

 「抵抗は無駄だ、投降しろ」

 

 己の窮地を十分に理解した魔導師達の顔は、全て恐怖と絶望。

 武装局員達は同胞の死に激しい怒りを感じている。

 これ以上抵抗の意志を見せれば、いくら非殺傷といえどただでは済まない。

 

 「ヒルダさ――――」

 

 「死ね」

 

 怯え竦んだ一人の魔導師が、ヒルダに助けを乞うように話しかけた瞬間。

 エンゴル・ルの収束した豪腕が魔導師に炸裂。

 

 魔導師の顔面から後頭部にかけて頭部が消失。

 血と脳漿、骨と歯の残骸をまき散らしながら地面に激突。

 遅れたように大量の血が首の上から噴水のように噴き出していく。

 頭を失った体は全身が震えるように痙攣していた。

 

 添えるように遺体の周囲を転がる眼球が、無機質な瞳で武装局員達を見据えている。

 

 エンゴル・ルの気圧変化による空気の壁により、返り血はヒルダに降りかかることなく周囲へと飛び散った。

 ヒルダは部下の死を看取る事無く、俯いて何かをぶつぶつと呟き続けている。

 

 魔法生物の凄惨な一撃に、管理局の武装局員達の目は驚きと恐怖に染まる。

 まだ顔に幼さを残す端正な顔立ちの美少女が、味方であるはずの魔導師を殺害した。

 その事実が彼らを混乱に陥れていたのだ。

 

 ヒルダの顔がゆっくりと持ち上げられていく。

 桃色の長髪が首と肩をなぞりながら、背中に後退。

 髪と同色の瞳は、武装局員達を嘗め回すかのようにねっとりと一人一人を捉えていく。

 

 ヒルダの美しい顔には、鋭利な三日月が表れていた。

 

 「こんにちわ」

 

 黒いドレスの裾を持ち上げながら、武装局員たちに一礼。

 ドレスについたフリルと、桃色の髪が風に靡いて横に流れる。

 まるで舞踏会の踊りに誘うかのような、かわいらしいヒルダのあいさつ。

 武装局員達はおろか、裏組織の魔導師達すらもヒルダの振る舞いに戸惑う。

 

 「私は長女のヒルダ」

 

 優雅に顔を上げたヒルダは、長い髪を陶磁器のように白く細い腕でかきあげる。

 華のような笑顔は、武装局員達だけではなく裏組織の魔導師達にまで向けられていた。

 

 「ザッハドの使徒で『右足親指のぺネロテ』の称号を持っております。四百八十六人……。いえ、今ので四百八十七人殺しました」

 

 呆然と自らを見つめる数十人もの視線を感じながら、ヒルダは粛々と言葉を連ねていく。

 

 「今日は、私が開催致しました血の祝祭へのご参加。本当にありがとうございます。ザッハドの使徒が魔法世界で行う、初めての宴です。私自身、初めて祝祭を開催するものでして。いろいろと失礼があるとは思いますが――――」

 

 ヒルダの指は魔杖風琴を優しく奏でる。

 

 「――――全員、惨めに汚くぶっさいくな顔して死んでくださいね♪」

 

 瞬間、激しい悪寒が武装局員達を襲った。

 

 武装局員達はすぐさま詠唱完了していた魔法をヒルダ達に向けて発動。

 何十もの魔力弾がヒルダ達の周囲にまで着弾。

 命令による発動ではなく、完全に恐怖による錯乱からの破壊だ。

 

 すぐさま指揮官が念話に加えて怒声を張り上げながら、武装局員達を制止する。

 完全な命令違反、過剰な魔法攻撃だ。いくら非殺傷設定とはいえ、目や耳などの鋭敏な部分は、障害が残る危険性が高い。

 あくまで死なないだけであり、体にダメージを与える事は非殺傷設定でも可能である。

 

 制止された後も恐慌した魔導師達の魔法はしばらく続いた。

 発射された魔法攻撃は百を超える。やりすぎだ。

 濛々と立ち上る煙の向こうには、魔法に蹂躙された犯罪者達の姿があるはずだ。

 

 すぐさま医療班を呼ばなければならない。

 指揮官はそう判断し、念話を試みるべく精神を集中した。

 だが周囲の武装局員達は、皆一様に上方を見上げている。指揮官も顔を見上げて絶句。

 

 「なんだ……あれは」

 

 巨大な建造物が、武装局員達の前方に突如として出現していた。

 太さが一メルトル、高さはビル三階ほどもある巨大な朱色の柱が二本。

 額束と呼ばれる額縁のようなものが、双塔の上部に掲げられている。

 

 第97管理外世界。

 高町なのは一等空尉や、八神はやて二等陸佐であれば、恐らくそれが何物であるか理解しただろう。

 地球という星が存在する世界の日本と呼ばれる島国。

 そこで発展を遂げた宗教の施設である、神社の門前に建てられる『鳥居』と呼ばれる建設物そのものであった。

 

 神域と人が住む俗界を区画する門。

 その門の丹塗りの表面には、数百を超える札が所狭しと貼られていた。

 

 この咒式建設物を建造する超強大な咒力が、武装局員達が放った百を超える魔法全てを無効化したのだ。

 あまりの膨大な咒力の流れに、彼らの魔法は飲み込まれたのだ。

 

 それを理解できない武装局員達は、皆ただ呆然と巨大な建造物を見上げている。

 門の後ろで固まる裏組織の魔導師も同様であった。

 

 鳥居が朱色であるのは、その色が災いを防ぐとして魔除けとしての力があると信じられていたからだ。

 そして札が貼られてるという意味は、何か魔を封じているためであり、そこから厄が溢れ出す事を防がんと恐れたからである。

 

 夥しい数の札が青白い燐光を放ち、その全てが焼き切れる。

 

 怪談、日本宗教を知るものであれば、それが何を意味するものか十分に理解できたはずである。

 高町なのは・八神はやての両名であれば、その経験故にすぐさまその建造物から遠ざかるよう命令できたはずだ。

 

 だが第97管理外世界は魔法が存在しない、ミッドチルダの勢力の範囲外の世界であった。

 そのため武装局員達も例に漏れず、目の前の建造物が何であるのか理解できなかった。

 故に彼らは致命的な遅れを生み出してしまう。これが彼らの命運を分けてたのだ。

 

 朱色の門扉、四角い空間が七色に入り乱れて歪んでいく。そして砕けた。

 ようやく意識を取り戻した武装局員達が、犯罪者達が発動した未知の魔法であると特定。

 

 同時に指揮官は未知の魔法により、局員達が不可思議な死を遂げた事に思い至った。

 すぐさま謎の建造物から離れるように指令を飛ばす。

 だがヒルダの咒力を纏った指は、新たに開かれたエミレオの書への命令を完了していた。

 

 「きひひ♪」

 

 ヒルダは起こるであろう地獄の宴を想像して、思わず笑いが零れる。

 

 何よりもヒルダ自身が、この異貌のものどもの一体を誰よりも心待ちにしていたのだ。

 かつてヒルダ達を危機に追い込んだ生物。圧倒的な力を有す正真正銘の化け物。

 『絶息の巨人エンゴル・ル』や『菓子屋敷のポコモコ』、『耳食い狐のキキチチ』のような暗殺・見立て殺人向けの小賢しさを持ち合わせない、徹底的な破壊と狂乱を生み出すエミレオの書。

 

 エミレオの書に封印された桁外れの怪物が、咒式が謳歌する世界ではなく魔法世界に呼び出される。

 

 虹色の空間より姿を現したのは、青黒い巨大な固まり。

 巨大な目も鼻も無い顔面から現れ、流線型の胴体は尾に向かって窄まっていく。

 皮膚を覆っているのは鱗ではなく粘膜。光に照らされてねっとりと粘着質な輝きを放っている。

 

 巨大な顔面が大きく二つに割れた。

 否、生物の唇が二つに開かれたのだ。

 

 長槍の如き鋭い犬歯が立ち並び、見る者全てを圧巻。

 鋭利な歯先に曳かれた白煙を上げる唾液は、強酸性で触れるもの全てを溶かし尽くす。

 洞窟のように大きな口腔の先にあったのは、どこまでも飲み込まれるような深淵であった。

 

 吐き出される吐息は生臭い高温の蒸気に変化。

 後衛の武装局員にまで吹き付ける。

 

 不気味な生物の巨体、その後ろに佇むヒルダの顔には邪悪な笑み。

 天高く掲げられた細く可憐な腕の先、人差し指に宿る咒力が宴の始まりを告げる小さな鐘。

 

 「『大喰らいボラー』ちゃん、ぜんぶぜ~んぶ残さずに食べ尽くせ♪」

 

 人差し指が魔杖風琴の鍵盤に振り下ろされる。

 同時に『大食らいボラー』が、空気を揺るがす咆哮。

 残された窓ガラス全てが激しく振動し、何枚かが耐えきれずに破壊。

 

 公式に残る凄惨な大量殺人事件、『HP(ヒルダ・ペネロテ)事件』の幕が切って落とされた。

 

 




プロローグを若干修正。
次回で血の祝祭、及び序章終了です。
原作キャラがさわりでやっと描ける喜び。


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8話 血の祝祭・後編

 

 「……妙だな」

 

 白い髪を右手でかきながら、男性は同色の眉を顰めた。

 

 茶地の管理局制服を着こなし、唸り声を上げているのは四十代程の男性。

 黄色の肌。無駄の無いよう絞られた筋肉は実年齢よりも若い。

 がっしりとした体格は、威圧感よりも安心感を与える。

 

 眉間に寄る皺を指先でほぐしながら、情報端末を操作していく。

 

 ゲンヤ・ナカジマ三等陸佐。時空管理局陸上警備隊第108部隊隊長。

 陸で長年現場で統率を続けた、歴戦の管理局員。

 その顔は何かを思い詰めているように見えた。

 

 「『カエストス魔法商会』なんて用心深い連中が、こんな信用取引の情報を流されるのか?罠とも考えられるが、あいつらが好きこのんで時空管理局に喧嘩を売るとは思えん」

 

 空中に映し出された映像を操作。

 管理局に納められた報告、及び第XXX管理世界に流れる電子情報を読み取っていく。

 

 「……上が入れ替わったというわけでもないか。なら何か動きがあったとして考えるべきだな」

 

 真剣な眼差しで情報を見聞していたゲンヤの無骨な手が、ある一つを見咎めた。

 穏和な目が細く、鋭くそれを読み上げる。

 

 「当たりだ。武闘派裏組織『アルタイル』が、『カエストス魔法商会』によって数週間前に壊滅している。調子に乗って脇を甘くしたところをつけ込まれた……。そんなところか?」

 

 違う、そうではない。

 長年勤め上げてきた時空管理局としての勘が、その結論は早急である事を告げている。

 何かある、何かこの裏に原因があるはずだ。

 

 第XXX管理世界のデータベースにアクセス。

 さらに第XXX管理世界でのみ流通する特有の情報共有スペースや、非合法に構築された情報スペースにまでアクセスをしかけていく。

 

 「……ん?」

 

 『アルタイル』の壊滅に関する詳しい情報は流れていない。当然といえばそういえるだろう。

 だがここにゲンヤは注目した。

 

 あまりにも何もなさ過ぎて、かえって不自然。

 僅かな情報でさえ、神経質なまでに消され尽くされている。

 普通は何らかの情報の一つや二つは流れているはず。どうしてここまで痕跡を徹底的に消したのであろうか。

 

 『カエストス魔法商会』が絡んでいる。彼らが情報を抹消した事に間違いはない。

 

 「何を臆病になった?何を知られたくなかったんだ?何に恐れた?」

 

 やはりこの件には何かある。

 それも裏組織の連中でさえ触れたくならないような何かが。

 さらに指を動かし、見極めようと椅子に座り直した。

 

 その時であった。

 扉がスライドして開く音、軽い靴の足音が室内に響く。

 侵入者に警戒。ゲンヤは椅子から立ち上がって背後に素早く振り返ろうとして。

 

 「師匠」

 

 かけられた声に小さくうめき声を上げた。

 

 聞き覚えがある声、しかし今は聞きたくなかった声でもある。

 しばらく逡巡していたゲンヤであったが、仕方なく椅子に再度座り込む。諦めて椅子を背後に回転。

 

 「おう、はやてか」

 

 「久しぶりやなぁ、師匠」

 

 いたずらっぽい微笑みを浮かべた、管理局の制服を身につけている十代後半の若い女性。

 ふっくらとした胸に、細い腰つき。百人中百人が美人と評するであろう、美しい顔立ち。

 

 肩当てには、副隊長以上の上級職を表す銀のメタリックパーツ。

 茶地の制服の襟には、黄金色の階級章が縫い付けられている。

 栗色の髪は、ショートボブは短く揃えられている。髪には装飾として黄色の二重螺旋と、赤いクロス型の髪留め。

 

 八神はやて二等陸佐。

 ゲンヤ・ナカジマの教え子であり、今管理局で活躍中の機動六課隊長。

 ランクSSの魔導師であり、ヴォルケンリッターの主である。

 

 自らの愛弟子の登場に、ゲンヤは意地悪げな顔で目を細める。

 

 「『ちびだぬき』がいったいどうして俺んところに来たんだ?また何か悪どい相談を偶然装って話しに来たのか?」

 

 「いつも悪巧みしとるみたいな言い方は勘弁やで。たまたま師匠に会いたくなって声かけた、本当にそれだけや」

 

 「本当か?」

 

 「もう、師匠の意地悪っ!」

 

 幼い子供のように頬を膨らませる教え子に、ゲンヤは肩を震わせて苦笑する。

 からかう素振りを見せるゲンヤに、はやては不満げにいじけ始めた。

 

 その最中、はやてはゲンヤの顔にどこか影があるように思えた。

 いつも何かを考えては頭を痛めている(はやての所業が三割)様子ではあったが、このように隠す素振りを見せる事はあまりない。

 

 二、三回は不満を並べ立てても良かったであろうが、それを諦めてゲンヤから憂慮する何かを聞き出す事を決意した。

 

 「それで、師匠は何をしてはったんや?」

 

 「俺の部隊で研修していたやつ、まぁお前みたいな後輩だ。そいつらが駆り出された件についてちょっとな」

 

 「何かあったん?」

 

 「第XXX管理世界、そこで行われる裏取引についてのタレコミがあったんだが……」

 

 はやては記憶を整理する。

 確か治安がそれほど良くはない世界であったはずだ。

 

 第XXX管理世界。大陸を二分にする国と国同士の争いが、約三十年前に終わった世界だ。

 

 戦争による影響で、未だ治安が行き届かぬ地域が多く、非合法組織が裏の世界に隠れながら利権を争っているのが現状だ。

 管理局側も治安維持として介入するべきだという案が上がったが、現地政府はそれを拒否。恐らく何らかの取引があると見ている。

 

 そのため、管理局側も他の管理世界に対して違法物質が流れぬよう。

 警戒を強めていた次元世界であったはずだ。

 

 ゲンヤは広いデスクの上に重なった資料のうち、ある資料の束を手に取った。

 

 「まぁ、そこにあいつらが武装局員として出動しているんだが……いまいち割り切れないところがあってな」

 

 「割り切れないところ?」

 

 「こいつを見てみろ」

 

 手渡された資料は、恐らくゲンヤ自身がまとめ上げたものだろう。

 記録された紙の媒体に、いくつもゲンヤ直筆のコメントが書かれている。

 読み進めていくうちに、はやての目がゆっくりと細まる。

 

 「……現地で交渉を行っていた管理局員三名が行方不明?ロストロギアと思われる魔力の巨大な反応捜査中に、事故に巻き込まれた可能性。現場には大量の血液と体液、局員達とは一致せず?」

 

 それだけでは無い。

 

 さらにページをめくっていくと、恐るべき事態が描かれていた。

 一定期間において民間人に行方不明者、及び奇妙な死因によって亡くなった者が四十名を越えて急増。

 それも同一都市において、局員が行方不明になった日を皮切りに起こり始めている。

 

 「あそこは裏組織同士のごたごたが耐えない。大陸を渡って来たいくつもの参入組織が、お互い利権を奪い合う状況がここ十五年続いているらしい」

 

 「その局員も市民も利権争いに巻き込まれて……。ちゃうな、それにしてはこれまでと比べて、この短期間あまりにも一般人の被害が大きい。組織同士の抗争?」

 

 「いや、ここ数年で落ち着きを見せている。妙に騒いでいるのは、既に確定した椅子をなんとか奪い取ろうとする連中だけだ」

 

 ゲンヤの言葉に相槌を打ちながら、はやてはページを手早く捲っていく。

 

 「そして妙な情報操作、隠蔽……。一番怪しいのは『アルタイル』を潰し、今回情報提供があった違法取引の疑いがある『カエストス魔法商会』。いろいろ臭うもんや」

 

 「今回、舞い込んだタレコミもおかしい。どうも自分の取引を自分で開示したらしいところがある」

 

 「『カエストス魔法商会』が?」

 

 「少なくとも、俺はそう見た」

 

 腕を組みながら、情報を整理。

 

 思考を深めて行くも、納得の出る答えに行き着く事が出来ない。

 何故、安定している立場を自ら崩すような動きをするのだ。

 ゲンヤが推測する通り、今回の出動には何かの思惑が絡んでいる。

 

 冗談めかしたように、はやてはため息を吐き出しながら手を振った。

 

 「お手上げや。改心して捕まえて欲しいっちゅう考えは笑い話やな。あそこの小ずるい連中がそんな事考えるわけはない」

 

 「そうだったら、どれほど幸せなんだろうなぁ。未だ管理局員の行方は掴めていない」

 

 一転、穏和な顔で教え子に接していたゲンヤの雰囲気が変わる。

 はやても何か重要な話だと感づいたのか、真剣な顔つきでゲンヤの所作を見つめる。

 

 「だが、彼らが最後に伝えたとされる通話の記録が残っている」

 

 神妙な顔でゲンヤが情報端末を操作。

 空中に浮かんだ一つの音声ファイルをタッチする。

 

 「それがこいつだ。どうも直前まで本部と通信を行っていたみたいでな。行方不明者の家族には伝えてはいないが、この音声ファイルの内容から恐らく全員死んでいる。遺体が発見されないために、行方不明となっているだけだ」

 

 衝撃がはやてを襲った。

 

 この仕事に就いている以上、人の生き死には決して無い事ではない。

 それでも管理局の死亡率は年に三パーセント未満。

 騒ぎになるが故に、管理局側も慎重になっているのだ。

 

 だがこれはロストロギアの事故に対しての対応とは言い難い。

 はやてはあまり考えたくない結論に辿り着く。

 

 「未だ発見されていないロストロギアが死因ではない。そういうことやな」

 

 「そうだ、局員の殺害は人為的なものだ。管理局側も捜索や調査を行ったが、これも情報操作や痕跡を消されていてな。情報がつかめない現状の最中に、今回の要領を得ない出動。気になりもする」

 

 聞くか、音声データを横目にゲンヤははやてに尋ねる。

 はやては迷うことなく、顎を僅かに引いた。

 

 ゲンヤの操作により、音声ファイルが室内に再生される。

 

 『大変だ……誰かが巻き込まれているぞ!酷い出血だっ!おい、しっかりしろッ』

 

 『ええ、重傷者が一人!下半身が消失、臓器が外部に露出しており、片腕は完全に潰されちまっているっ!残る手の甲もぐちゃぐちゃだっ!……ああくそったれっ!生きているのが不思議なぐらいだ!早く医療班を……早く!』

 

 『くそったれがぁっ!』

 

 『おい、しっかりしろっ!クリフっ!』

 

 『範囲から救出してもこの魔法の脅威は失われないというのか!?』

 

 はやては音声と、局員が行方不明になった場所から推理を行う。

 

 局員が辿り着いた時には、既に重傷をおった被害者がいたのだ。

 誰にも当てはまらない大量の血液は、その重傷を負った誰かのもの。

 だがそこまでの重傷をおった人間が、自分で動いてその場から消え去るとは考えがたい。

 

 これは管理局を狙った罠……。

 いや、他の魔導師が来る可能性もある。あそこに向かった局員は、偶然に近い形で巻き込まれたのでは。

 

 一体何が――――

 

 『マサカ、アンヘリオデハナク異ナル者ニ呼バレルトハ』

 

 「え?」

 

 突如発声された管理局員のものとは思えない声。

 

 『確かニ供儀ハ捧ゲラレタ。ダが二人デハマだソノ傷ハ癒セない』

 

 「ッ!」

 

 音声が一時中断される。

 ゲンヤがあえてその場面で停止させたのだ。

 

 なんだ、なんだ今の声は。

 

 はやては眉をしかめて唸る。

 高く、それでいて低い。少なくともこれが人の声だとは思えない。

 知らず知らずのうちに、はやての額から冷たい汗が流がれ落ちる。 

 

 「これが二人の遺体が見つからない理由じゃないか、俺はそう思う」

 

 ゲンヤは苦々しい顔に、はやてはようやく恐ろしい可能性に気が付いた。

 クリフ、トレミス両名はこの時点で死亡しており、謎の音声の言葉通りに贄となったのではないか。

 

 「先の声をデータに表したものがある、それがこれだ」

 

 「なんや……これ」

 

 「解るか、はやて。あれは人の声じゃない」

 

 表示された音声の波は、人間、もしくは人間が人工的に生み出したものでは無いことが見て取れた。

 どのデータにも当てはまらない。何故ならば、その声には未知のエネルギー反応が込められていたのだ。

 魔法ではなく、機械でもない。まったく未知のエネルギーだ。

 

 「続けるぞ」

 

 はやてが神妙に頷く事で、残り少ない音声記録が再生される。

 

 『この化け物めっ!』

 

 『サらニ供儀ヲ捧げヨ』

 

 『わかった~取り合えずこいつを殺しちゃえ♪』

 

 瞬間何か、まるで水が沸騰するような音と共に記録が途絶える。

 状況から察するに、最後の局員も生きてはいないだろう。決定的な殺人の証拠であった。

 

 「人外を操る召喚魔導師、それが犯人や」

 

 はやては歯を噛み締めながら、苦々しく吐き出すかのようにそう呟いた。

 最後の声はまだ幼さが残る人間の少女のもの。

 彼女こそが未知の声を従える魔導師であると思い至った。

 

 仲間であるキャロのように、召喚魔法により人と異なる生物を召喚。

 そして彼らを使う事で局員達を抹殺した。

 

 ロストロギアと思わしき膨大な魔力反応は、彼らを召喚する際に発生したものだろう。

 瀕死になっていた誰かは、恐らくその生物に重傷を負わされたのだ。そして管理局員達はその戦いに巻き込まれた。

 

 恐らくこの召喚魔導師は相当の実力者である事は間違いない。

 召喚魔法事態がレアスキルと等しく、未だ解析や理解が進んでいない魔法分野だ。

 召喚する生物も、扱いきれるだけの実力が必要である。

 

 あまつさえ未知の魔法を発動することで、瞬く間に局員を三人も屠った。

 

 はやては犯人の戦術に対する分析を開始する。

 だが一方でゲンヤはこの一連の流れを読み取り、殺人者の思考を想定していた。

 はやては未だ殺人者の真の脅威に気が付いてはいない。

 

 「それだけじゃない、はやて。お前は気が付いているのか?」

 

 「犯人は非殺傷を扱っている。このままやと一般市民にまで被害が――――」

 

 「違う、そうじゃないんだよ」

 

 解らないとばかりにはやてがゲンヤに振り向く。

 ゲンヤの顔は何かを恐れるかのようにこわばっていた。

 

 「この犯人は殺人を恐れてはいないんだ、管理局もな。そして殺人自体を楽しんでいる節がある」

 

 管理局を恐れぬ者は、これまではやては何十人も見てきた。

 ましてや手段を顧みない、指名手配された凶悪次元犯罪者は数多く潜伏している。

 この犯人もそういう連中の一人ということか。

 

 「だとしたら、はよう捕まえんと。他の連中と協力して潜伏されでもしていたら、さらに被害がでてしまうんやから」

 

 神妙な顔で情報を確認するはやてをよそに、ゲンヤは顔を顰めながら頭をかきむしる。

 だめだ、はやては理解できていない。

 

 違うのだ。はやては今回の犯人を凶悪な犯罪者とみている。

 だがゲンヤは今回の犯人を殺人者としてみていた。

 

 これは恐らく経験によるものが大きい。はやては確かに強大な魔導士で、頭もよく回る。

 しかしこういう手合いに対する経験が足りていない。まだ彼女は若い、あまりにも若すぎた。

 

 このままでは、はやては自らの優しき正義を持って対峙してしまう。

 それでは駄目なのだ。あまりにも危険すぎる。

 

 さらに忠告しようとゲンヤが口を開いたその時であった。

 

 けたたましく走る何人もの足跡が、部屋の外から聞こえてくる。

 向き合った二人は切迫した雰囲気を感じ取る。

 はやてとゲンヤが互いに目で意思を疎通。すぐさま椅子から立ち上がると部屋を飛び出る。

 

 スライドした自動ドアの先には、遅れてきたのであろう。必死な表情で走る医療魔導士局員の姿があった。

 はやてとゲンヤを見て医療局員は慌てながら敬礼する。

 だが目は二人を見ておらず、別の何かを必死に追い求めているように思えた。

 

 嫌な予感が二人の脳裏を過ぎる。

 

 「そうかしこまらなくていい。それで、一体どうしたんだこの騒ぎは?」

 

 「は、はいッ!第XXX管理世界に出動した武装局員達が――――」

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 「きゃはははははははははははははははははははははははははははははッ!」

 

 小さな魔女の哄笑が、響き渡る。

 

 腹を抱えて笑い転げるヒルダに目がけて、武装局員達が緊迫した表情で突撃。

 数十を超える赤や青の魔法弾がデバイスから放たれる。

 さらに武装局員達はバインドを発動し、ヒルダを完全に拘束しようと試みる。

 

 だがヒルダは魔法、咒式を発動することなく指に咒力を込める。

 決死の覚悟で自らを捕えんとする武装局員達を嘲笑いながら、ヒルダは咒力を込め終えた指で魔杖風琴を操作。

 

 魔法と共に突撃する武装局員達の前方に、青黒い巨大な『大喰らいボラー』が出現。

 洞窟と見間違わんばかりの口腔を開帳。武装局員達が放った魔法を全て口で受け止めた。

 

 轟音。

 

 巨大な唇が閉じられ、ヒルダに向かって放たれた魔法全てが食われる。

 唇の端からは魔法の粒子が零れ落ち、口内からは魔力弾が弾ける音が響く。

 咀嚼するボラーの唇から、食べ屑のよう零れ落ちた魔法の燐光が、きらきらと輝いてすぐに消えていった。

 

 「駄目だッ!あの化け物はAMFのような強い魔法無効化能力を持っている!」

 

 絶望に声を荒げ、顔を恐怖に染める武装局員達は何度も魔法を放つ。

 

 しかしその全てはボラーによって食われ、消滅。

 召喚者であるヒルダ本人を狙おうとも、すぐにヒルダの前に再召喚されてボラーが魔法を食らう。

 魔法攻撃がまったく通用しない!

 

 「本当にあいつらはお馬鹿さん、ボラーが持ってるのは無効化能力なんて生易しいものじゃ無いのにね~♪」

 

 ヒルダは『大喰らいボラー』に満足するかのように嗤った。

 

 武装局員達は、『大喰らいボラー』の魔法消失現象を魔法無効化によるものだと判断した。

 だが現実は、さらに彼らに強い絶望を与えるものであったのだ。

 

 ボラーは魔法無効などという次元ではなく、魔法により生み出された現象全てを、口内で魔力に還元したのだ。

 さらにその還元した魔力を自らの栄養素、つまり食料として吸収。

 あらゆる物体や現象、魔法を魔力や咒力に還元する変換炉。それが魔法無効化の正体だった。

 

 魔法は無効化されたわけではなく、ボラーに魔力として吸収。

 その魔力を咒力に変換し、さらにボラーは魔法吸収能力を発動している。

 食らうために食らう、まさに巨大な資源消費生物であった。

 

 「ほらほら♪生きの良い餌はまだまだたぁっくさんあるよ~♪」

 

 ヒルダの命令により、ボラーが武装局員達に向けて突撃。

 

 異形の首が全てを食べ尽くすかのように、武装局員達に伸びていく。

 迎撃するべく展開された防御魔法・攻撃魔法全てが、ボラーの口内で発生する魔法吸収能力で無効化。

 加速した大顎から零れ落ちた強酸性の涎が、床を溶かして煙を上げる。

 

 ボラーがさらに加速して魔導士達へと飛翔。

 さらに開かれた顎の大顎の前には、唖然とボラーを仰ぎ見る武装局員達。

 巨体からは想像もできない異常な速度と、視界を覆うような深淵の口腔は彼らの理解を超えていた。

 

 歴戦の魔導士としての感が、とっさに防御魔法を発動。

 だが発動した先から分解され、吸収されていく光景に武装局員達の顔には最大級の絶望が浮かんでいた。

 

 大顎が断頭台の速度で閉じられた。

 

 床を削り取る形でボラーは武装局員達を丸呑みにする。

 青黒い巨体がそのまま着地。空気を奮わせる程の爆音が響き渡る。

 

 ボラーは味を確かめるかのように咀嚼を開始。

 頭蓋骨の砕ける音、骨がひしゃげる音。水と肉が混ざり合う不快な交響曲。

 耳を塞ぎたくなる悲鳴が閉じられた口内から絶え間なく聞こえ続ける。

 人だけではなく、デバイスやバリアジャケットごとボラーは丹念に噛み砕く。

 

 一瞬、ボラーの口内に見えた地獄。

 それを偶然除いてしまった武装局員達は、恐怖のままに一歩、二歩と後ずさった。

 ボラーの咽が唸ると共に、悲鳴の合唱は終了。不自然な静寂が場に満ちる。

 

 それを切り裂いたのはヒルダの笑い声であった。

 ボラーと武装局員達を見ながら、これ以上に楽しいものは無いと口を隠して笑うヒルダ。

 ついには堪えきれないとばかりに声を張り上げて笑い始める。

 

 「さ、最高ッ!」

 

 目は喜色に満ち、頬は上気するかのように紅潮している。

 

 「何て、何て惨めで汚い最後!これ以上ないくらいに馬鹿で目障りな馬鹿共には相応しい最後ッ!もっと、もっと食べなさいボラーッ!」

 

 両手を振り上げるヒルダに呼応するかのように、ボラーは巨大な唇を開きながら突進。

 

 暴食の王、その貪欲な宴が始まった。

 武装局員達は必死にボラーを拘束するべく、バインドでボラーの胴体を固定しようと試みる。

 さらには妨害するべく攻撃魔法を連射するが、いずれも凄まじい力で突き進むボラーを止める事は出来ない。

 

 ボラーは『古き巨人』の一体であり、その力は人の数百倍。

 竜と等しい圧倒的な力を有しているのだ。

 並みの魔法力やバインド如きでは、ボラーの進撃を止める事は不可能だ。

 

 逃げようと飛行魔法を発動した武装局員の一人が、ボラーの舌に捕まり口腔に引きずり込まれる。

 絶叫と共に骨格を形成する肋骨や大腿骨が粉砕され、肉が磨り潰されながら嚥下されていく。

 

 飛行魔法が使えない武装局員が、数人掛かりで魔法による防壁を作り上げる。

 だがボラーの突撃により、木っ端微塵に粉砕及び分解されていく。

 魔法の粒子の霧散と共に武装局員達はボラーに跳ね飛ばされ、壁や床に激突。

 衝撃で腕や脚、首が歪に曲がる。体が耐えきれずに、破れた皮膚の下から臓器や血をまき散らす。

 

 食われるという原始的な恐怖に武装局員達の統制は、完全に崩壊してしまった。

 指揮官が念話により陣形や動きを指示しようにも、折れた心はそう簡単には戻らない。

 

 ボラーが死者を舌で掬いとりながら、新たな餌に向けて進撃を開始。

 

 ボラーの進行先には捕縛され、気絶した『カエストス魔法商会』の魔導師。

 悲鳴と轟音に目を覚ました魔導師が見た光景は、中に浮かぶ巨大な穴。

 

 「――――は?」

 

 同じく捕縛されていた同胞と共に、魔導師はボラーに食われる。

 唇からはみ出した腕や脚が空に飛び、血の五月雨が飛散した。

 酸性の涎を纏った舌でなめ回され、血や臓器を啜られる。気が違わんばかりの苦しみと絶望の合唱が、ボラーの咽の動きと共に飲み込まれていく。

 

 その光景を見て戦慄した周囲の魔導師達が、笑い続けるヒルダへ向けて叫ぶ。

 

 「お、お止めくださいッ!」

 

 「ヒルダ様ッ!?あれは味方です、どうかお気を確かにッ!」

 

 部下の必死な叫びにヒルダの笑い声は制止。緩慢な動きで魔導師達に向き直った。

 ヒルダの顔を見て魔導師達は絶句。

 

 自分に寄ってきた鬱陶しい蠅を見るかのような目。

 興味など無く、慈愛など無く、ただ邪魔でつまらない玩具を見るかのような目であった。

 

 「あ、まだお前らいたんだ」

 

 「何故、何故ヒルダ様は我らを、仲間をあの化け物に殺させたのですかッ!?」

 

 「はぁ~?仲間ってあんた達ゴミの事?」

 

 何を言っているのか本当に理解出来ないとばかりに、ヒルダは肺から息を全て吐き出した。

 そして輝かしい微笑みを浮かべながら、魔導師達へ労いの言葉をくれてやる。

 

 「うん、もう死んで良いよ。今までご苦労様。私にここまで言ってもらえたんだから、化けて出ないでよね♪」

 

 お化けは怖いのよね、だって殺せないとかマジでぶっ飛んでいる。

 そうケラケラとヒルダは楽しそうに笑った。

 

 「巫山戯るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」

 

 一歩前に進み出たのは、廊下でヒルダが去った後に悔恨の言葉を呟き続けた青年の魔導師であった。

 怒りのあまりに目は見開かれて血走り、こめかみには青い血管が浮かび上がっている。

 

 「俺達はお前に従ってきた。どんな理不尽な命令だろうが、八つ当たりのような暴力だろうが、無意味な死を与えられようが、俺達はお前に従ってきたッ!」

 

 手は爪が皮を突き破るほどに強く握りしめられて血が流れ出ているが、興奮により痛みを感じてはいない。

 ますます爪は肉に突き刺さっていく。

 

 「魔法の才能は無くても、犯罪や殺人を平然とやる碌でなしであっても、俺達はお前を信じてこれまで従ってきたんだッ!どうして、どうして平然と切り捨て、殺す事が出来るんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!」

 

 「私はお願いしていない。はい、論破。目障りだからとっとと死ね」

 

 自分の中で何かの糸が千切れ飛ぶ音。

 音にならないはずの音を、魔導士達は確かに聞き取った。

 

 「お前が死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」

 

 青年の魔導師を筆頭として、次々と魔導師達が怒号を上げる。

 振り上げたデバイスは魔導士達の意思によって、魔法プログラムを起動。

 

 デバイスの先には非殺傷の魔法が放つ輝き。

 かつての部下、魔導師達全員がヒルダにデバイスの先を向けていく。

 しかしヒルダ自身は平然と冷めた目で彼らを見つめていた。

 

 魔導を発動しようとしたその時、激しい地響きが魔導師達を揺らす。

 怒りのままに青年の魔導師が魔力弾を放つものの、振動により狙いがそれてヒルダの横を通り過ぎる。 

 ヒルダはそれを見て呆れ返りながら、魔杖風琴の鍵盤をかるく咒力を込めた指で叩いた。

 

 その瞬間、魔導師達の下から床を突き破って大口を開けたボラーが出現。

 

 残る『カエストス魔法商会』の五人をまとめて喰らい尽くす。

 青年の魔導師は宙に浮いたために、ボラーに加えられる形で絶叫を上げ続ける。

 ボラーの口腔で発生した強酸性の唾液が、青年魔導師の肌と肉を焼き尽くしているのだ。

 

 顔から涙を流し、涎を飛ばし、鼻水を垂れ流しながら獣の如き悲鳴を響かせる。

 それをヒルダが愉快そうな目で嘲笑っていた。

 

 「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 

 「うわ、顔が愉快な事になっているけれどマジきもい。さっさと飲み込んじゃってよね、ボラー」

 

 顎に強大な力が込められることによって、青年魔導師の背骨が粉砕。

 腸が噛み千切られ、腰から下にかけて噛み千切られた。

 空中に放り出された青年魔導士の顔には、苦痛と絶望の死に化粧。

 

 ヒルダの前方に、落下した青年の魔導士の上半身が重なった瞬間。

 遠距離からの超高速の魔力弾が、落下する青年魔導士の背に命中。

 上半身の体が衝撃によって再度浮き上がった。

 

 ボラーが舌で上半身だけの体を絡め捕り、口腔に取り込んで噛み砕く。

 

 ヒルダはすぐさまその場を走り出し、狙撃地点から死角に転がるように滑り込む。

 歯噛みしながら、狙撃方向へ向けてエリアサーチ。

 魔力反応と生命反応を割出すことで、狙撃地点を特定する。さらに咒式による探知で詳しい範囲を割り出した。

 

 「一〇四二・三ニ九七メルトル、ビル群のN08-23地点四階。狙撃魔法による攻撃ッ!」

 

 初期狙撃地点から移動している。面倒くさい真似をする連中だ。

 エリダナにいた時点のヒルダであれば、対処しようがない範囲外からの攻撃である。

 放っておけば調子に乗って、ますますこちらを牽制し狙撃してくるだろう。

 

 だが非殺傷だ。脳を一撃で削り取られたり、体全体を一気に消し飛ばす咒式による狙撃とは違う。

 キヒーアによる回復で十分容認できる範囲だ。

 

 「だけど、見逃すのも癪よね」

 

 せっかくヒルダが開催した血の祝祭であるというのに。気持ちよく殺しているというのに。

 何であのような無粋極まりない連中に、私が踊ってやらないといけないのか。

 無様に無残に踊るのは武装局員とゴミ共であって、私であることは断じて許せない。

 

 苛立つヒルダに向けて、ボラーが涎を垂らして地面を溶かしながら接近。

 

 召喚者であるヒルダまで捕食しようと大口を開けるも、ボラーを封じたエミレオの書から一と〇で構成された数式の鎖が伸びる。

 ボラーを瞬く間に拘束。ボラーは抵抗しようともがくも、武装局員のバインドとは違って自由を完全に奪っていた。

 

 ヒルダは侮蔑を込めてボラーを睨み付けながら、咒力を込めた指でエミレオの書を操作。

 ボラーが粒子と共にエミレオの書に封じられ、空中に退避していた武装局員の上空に鳥居と共に再召喚。

 驚愕に身を竦ませた武装局員を、ボラーが食い殺して咀嚼しながら地面に地響きを立てて着地する。

 

 ヒルダはやっぱりこいつも凶暴な異貌のものどもの一体であり、隙さえあればエミレオの書を所持する自分を殺しにかかると再確認した。

 

 嫌な事が何度も続いたことで、ヒルダの嫌悪感が最高潮。

 湧き上がる怒りと殺意の元凶は狙撃主と断定

 ヒルダの中で満場一致の死刑判決が確定した。

 

 同時に一冊のエミレオの書を封じる鎖と錠前が、ヒルダの意思とは関係なく弾け飛ぶ。

 開きかけた書の中からは、絶え間なく鳴り続ける虫の羽音。

 

 制御すれば先ほどのボラーと同様に押さえつけることは容易であった。

 しかしヒルダはこのエミレオの書に封印された、異貌のものどもの激しい殺意を感じ取って微笑む。

 

 「ふ~ん、『射手なるスナルグ』は自分をご希望かぁ♪」

 

 そう、かつてのヒルダは長遠距離狙撃に為す術も無かった。

 だが今のヒルダは違う。エミレオの書に封じられた異貌のものどもは、実に多様な戦術と戦法を可能にした。

 

 そう、このエミレオの書は遠距離攻撃及び追尾攻撃を可能とする。

 ザッハドの使徒の中でも珍しい狙撃主が用いた『射手なるスナルグ』。

 

 スナルグの凶眼は、ヒルダには見えない狙撃主の姿を確かに捉えている。

 

 ヒルダは制する事無く、『射手なるスナルグ』を解放。

 高速の弾丸がエミレオの書から解き放たれ、僅かな量子を残して疾風と共に消え去った。

 

 「ザッハドの使徒は、いかなる敵も殺すッ!私に立ちふさがる馬鹿共は全員死ねッ!」

 

 ヒルダの声が風切り音に乗せられて、はるか遠方で狙撃型デバイスを構える武装局員に飛来。

 

 覗き込むスコープの視界を、何かが高速で過った。

 そう武装局員が感じ取った刹那。

 

 狙撃を行っていた武装局員の胸板が破裂。

 肋骨、背骨を砕きながら心臓を貫通。砕け散った骨が肺や胃、肝臓などといった臓器に突き刺さる。

 さらに何かが突き抜けた烈風と共に、後方に体が吹き飛んだ。

 

 血の雨と共に体は壁に激突。重力にしたがって、どす黒い血を壁に塗りたくりながら床にずり落ちていく。歯の間からは絶え間なく流れる血液。

 何が起こったのか解らない。目を飛び出んばかりに見開きながら、武装局員は絶命していた。

 

 スナルグは強力な咒式装甲貫通能力を持っている。

 例え弾丸や大砲を防ぐ咒式装備であろうと、スナルグの高速弾丸は全てを穿ち貫通させる。

 

 魔力反応と生体反応の消失を確認。

 エミレオの書に浮かぶ殺害数が一つ増えた事で、ヒルダの頬が緩む。

 ヒルダは残り数人となった武装局員達へ向けて虐殺を再開。

 

 空中に飛翔する武装局員は、次々に『射手なるスナルグ』によって射殺。

 

 心臓を抉るように打ち抜かれる。

 弾丸が襲った軌道から、発射位置を予測して防御魔法を展開。

 だが弾丸は頭上、側面、背後から襲い掛かる。予測不可能、視認できずサーチャーでも早すぎて捉え切れない!

 

 バリアジャケットが堅固であろうと、何度も執拗に高速の弾丸に狙い打たれるのだ。

 ついには衝撃を抑えきれずに落下。及び壁や床に激突した武装局員から先に、ボラーが首や舌を伸ばして貪欲に貪り尽くしていく。

 

 「あ、そういえばこいつらって正義の管理局様なんだよね?うわ~正義が弱いとかマジであり得ない♪」

 

 桃色の髪、フリルが付いた黒いバリアジャケットが揺れる。

 管理局を嘲笑いながら、ヒルダは順調に増えていく殺害数に白い歯をこぼす。

 

 「ようするに、私みたいなのがあんた達の言う『悪』なわけ♪そういえば、正義って良い事をするから『善』?それとも悪い事をしないから『善』?」

 

 指で頬をかきながら、ヒルダは首を傾ける。

 ボラーに咀嚼され、肉と骨のミンチに酸で手心を加えられた武装局員の絶叫が心地よい。

 

 「だったら私って正義で『善』よね♪」

 

 破顔し、悦に入るヒルダは気分が高揚したのか。

 その場でドレスの裾を持ち上げながら、くるくると踊り始める。

 

 「だって馬鹿な偽物共をこうやってわざわざ掃除してあげている。世界にクリーンで良い事だらけ、悪い事なんて殺人には一つも無い。何より私はかわいい本物、私がすることは全部正しくて良い事だもの♪」

 

 ヒルダにとって『悪』と『善』の関係は対概念では無い。

 まして『善』は『正義』と結ばれていない。

 

 全てがヒルダを中心に殺され、ヒルダを中心に世界は回っていく。

 それこそ自らの妹を殺し、殺すことに楽しみを覚え、世界を祝福する殺人者の答えであった。

 

 「はい、魔法世界初の血の祝祭はヒルダちゃんの一人勝ち♪みんな~がんばりが全然足りないよ~?」

 

 不満げに周囲へ向かってふくれ面を見せる。

 だが誰一人としてヒルダに向けて声をかける者はいない。

 いくら待っても聞こえてくるのは、ボラーの巨大な口から発せられる吐息と、空から絶え間なく鳴り響く風切り音だけ。 

 

 「ま、武装局員といってもこんなもんか。う~ん、ちょっと肩すかしだったかな。実力が大体平均過ぎてすんごいつまんな~い、ヒルダちゃんつまんな~い♪」

 

 管理局は部隊毎に保有できる魔力ランクの総計規模が定められている。

 つまりどれだけ部隊が来ようが、その部隊の特色があまりにも薄く均一だ。

 結果的に質ではなく量で戦うに等しい。

 

 これは一部隊だけが力を蓄え、他の部隊に戦力が行き渡らない状態を防ぐためだという建前が用意されている。

 裏にいろいろと見て取れる建前だが、ヒルダにとっては実に都合が良い。

 

 なんせ、エミレオの書は数による力押し如きで敗れはしない。

 むしろそれらを餌として、さらに効力を発揮するような異貌のものどもが揃えらえている。

 

 ボラーにキヒーアなどは、まさにその典型的な例だ。

 ボラーは食らえば食らうほどに暴走し、大量に溢れ出る死者はキヒーアによってヒルダの咒力・魔力・損傷の回復材料になる。

 

 油断するわけではないが、Aランククラスの上級魔導士が集団で襲ってこない限りは自身の勝利は揺るがない。

 そして高ランクの魔導士であるほど、キヒーアの生贄にした際には効果が増す。

 

 「まぁ、次は流石にこんなには簡単にはいかないだろうなぁ。やっぱちょっと気を引き締めて殺していかないと」

 

 パンハイマ・アンヘリオ・カズフチなど、絶対強者を連想したヒルダの体が震える。

 世界には自分が想像できないような化け物が溢れている。そのためにも、ここで弱いまま満足するわけにはいかない。

 

 貪欲に強さを求めていく事で、私はさらに強くかわいくなっていくのだ。

 

 「問題は、私自身の魔力と咒力と実力……。ん?そういえばちょうどいい物が、情報の一つで有ったような無いような」

 

 漁り尽くしたといってもいい管理世界の表裏に流れる情報を、ヒルダは必死に思い出そうと頭を抱ええている。

 

 「ま、いっか。取りあえず、リカルドを遊んでぶっ殺してからゆっくり思い出そうっと♪」

 

 ヒルダの持つエミレオの書が開かれ、そこを着地点に何かが高速で飛来。

 あまりの速さにヒルダ自身それを視認できなかったが、それは確かにエミレオの書へ飛び込んだ。エミレオの書は厳重に鎖と錠前で閉じられていく。

 ヒルダは愛おしげにそのエミレオの書を撫でた後、魔杖風琴を構えなおす。

 

 ヒルダが魔杖風琴の鍵盤を鳴らすと、ボラーの顎が大きく開かれる。

 階段のように差し出された舌に乗ったヒルダが、ボラーの口腔へと歩を進める。

 

 途中振り返ると、ヒルダは華が咲くような笑顔で片手を振った。

 

 ボラーが唇を閉じると共に、召喚された巨大な双頭の建造物に向かって突進。

 四角い虹色の空間に飛び込む事で、ボラーの巨体が工場という空間から消失。

 残された鳥居も光り輝く粒子となって崩れ落ちた。

 

 この日、ヒルダ・ぺネロテによって殺害された武装局員側の死者は四十五名。重傷者は二名という大虐殺が行われた。

 ヒルダが去った僅か数分後に惨状を訪れた局員達は、全滅に等しい武装局員達の有様に茫然。

 臓物を外気に晒して息絶えた無残な仲間の姿を見て、中には耐え切れずその場で吐き出す局員もいた。

 

 この一報は時空管理局に伝わり、管理局のみならずミッドチルダ中を震撼させる。

 だがこの事件は、惨劇が始まる発端でしかなかった。

 この一件から管理局の存亡を決める重大な事件にまで発展するということを、誰もこの時点では想像もしていなかったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 「ドクター、失礼します」

 

 眼前に展開されたいくつもの立体光学映像。

 それを素早い手つきで同時操作を行っていた科学者らしき男は、予定外の来訪者にその目を細めた。

 膨大な数字と文字が絶え間なく流れていく演算結果から目を逸らして振り返る。

 

 「ウーノ、何か用かね」

 

 ウーノと呼ばれた秘書らしき女性。

 

 顔に集まる全てのパーツが、理想的な配置で整っている。しかしその顔に一切の感情はなく、まるでアンティークドールのような氷の表情であった。

 紫色の透き通るようなロングヘアーが、その魔貌をさらに引き立てている。

 

 頭部の両側面には特徴的な演算装置が取り付けられており、彼女が何らかの施術を受けた存在である事を示唆していた。

 

 「映像データ……。プロジェクトFの映像データかい?それともタイプゼロの新しいデータか」

 

 濃紫の髪を携え、白衣を纏う男は自らの研究成果を確認すべくウーノから目を逸らす。

 狂信的な瞳は不気味な光を放ちながら、瞬きすることなくデータを眺めていた。

 その程度であれば後で確認しよう、そう背中がウーノに語っている。

 

 だがウーノは憮然な態度を取る男に一切不満を感じることない。

 むしろこの男は興味が無ければ返答すら返す事のない。

 何よりも、己の創造主にして制作者に負の感情を抱くことなくありえないとすら考えていた。

 

 「いえ、何でも次元犯罪者と武装局員達の戦闘データだそうです」

 

 動きが止まる。

 緩慢な動きで金色の目はウーノを捉える。

 

 「時空管理局に潜入しているドゥーエから映像データが送られてきました。ドクターであればきっと気に入ってくださるだろう、と」

 

 「ドゥーエからか。ふむ、彼女が私に私事でこのようなデータを送るなど珍しい」

 

 興味が湧いたのか、顔を好奇心で歪めた科学者はすぐさま画面中央に巨大な光学スクリーンを表示。

 ウーノは手元にあるパネルを操作することで、映像を再生し始める。

 

 映し出されたのは、管理局にとって悪夢とも呼ばれる『ヒルダ・ペネロテ』の戦闘映像。

 ヒルダが嬉々として異貌のものどもを使役する姿が映し出される。

 

 「こ、これは……」

 

 管理局最新鋭の映像ですら捉える事の出来ない、謎の超高速弾丸。

 何人の局員を一度に喰らい、魔法すらも自らの糧とする巨体の化け物。

 次々と空中で苦悶の表情を浮かべて、血を吐き出しながら落下していく局員。

 

 その全ての中心に、ヒルダの姿が存在する。

 

 「はい、先日武装局員と遭遇。戦闘を行った次元犯罪者の映像です。死者が四十五名、重症が二名。両名復帰の見込みは薄いことから、全滅と言っても過言では――――」

 

 「素晴らしい……」

 

 科学者は体を震わせながら、映像を頑として見つめていた。

 

 一つのコマすら見逃さぬ、そう言わんばかりに見つめる金色の瞳は感動に打ち震えていた。

 くぐもった嗤いに含まれるのは、興味と感嘆と尽きる事のない喜び。

 顔全体は喜色満面、興奮を隠しきれないのだろう。愉悦による頬は限界までつり上がっていた。

 

 「ドクター?」

 

 「素晴らしい、何だこの技術はッ!?あの生物達はッ!?」

 

 堤防が決壊。

 溢れ出る狂気が室内を覆い尽くした。

 

 「魔力粒子ではない、魔素では無い。しかし物理法則を書き換えて発現させている。物理定数を変異させた時空領域を生み出しているのだッ!魔法とは異なる技術体系だッ!」

 

 男はすぐさま端末を操作し、一場面を何度も再生。

 途中再生速度を弛めながら、眼球が破裂・顔を青く染めて咽を掻き毟る局員を冷静に観察していく。

 

 「毒?酸素欠乏症の症状をこんな短時間で発生させる、決して不可能ではない。しかし直接毒を注ぎ込んでいた素振りはなかった。ガス系列か?しかし無臭、不可視の有害ガスではあのような奇妙な出血はありえない。そもそも眼球が破裂するなど……。いや待て、眼球が破裂ということはッ!」

 

 手を叩かんばかりに男は歓喜した。

 

 「気圧だ、気圧の変化だッ!酸素欠乏症は酸素の不足による血中酸素が引き出された結果だ!そして気圧の変化に耐えられない眼球は破裂、血液も体外に吸引される!舌があそこまで膨張していたのはそのためだッ!」

 

 もう一人ではこの楽しみを抑えきれない、科学者は狂気が籠もった顔で自らの助手へ笑いかけた。

 ウーノはここまで感極まり胸を弾ませる男の姿が珍しいのか。唖然といった様子であったが、直ぐさまその顔を常としている冷静な表情に戻す。

 

 「ウーノ、解るかい?あれは防ぎようが無い即死魔法だ。気圧の変化というバリアジャケットの穴を突いている。いや、魔法という呼称は正しくはない。まったく違うプロセスを得て彼女はあれを発現させているッ!」

 

 「魔法……ではない?ではどのようなものなのですか」

 

 「それがまったく解らないのだよッ!素晴らしい、世界に私が知ることのない領域が未だ存在していたとはッ!」

 

 未知なる遭遇。

 

 そんなものは私には訪れないという傲慢と退屈が木っ端微塵に打ち砕かれた。

 その感動に打ち拉がれた男が感じたのは、怒りでも恐怖でもなく歓喜。

 これ以上ない幸福がもたらされたと言っても過言では無い。

 

 「ウーノ」

 

 「はい」

 

 我慢などする必要は無い。

 知識欲をむき出しにしながら、喜びのままに科学者は笑う。嗤う。

 

 「彼女には是非、私の下へ御越しいただこう。私は彼女の技術を知りたくて仕方がないよ、ここまで私の興味が掻き立てられたのは久方ぶりだ」

 

 「了解しました」

 

 退室していくウーノを気にも止めずに、科学者はただただ映像を観察。分析し続けた。

 

 「ああ、楽しみだ。本当に楽しみだよ、ヒルダ君」

 

 恋い焦がれるように映像に映されたヒルダに笑いかける。

 科学者の名は『ジェイル・スカリエッティ』。

 失われた都、『アルハザード』の遺児にして『無限の欲望』というコードネームを持つマッドサイエンティスト。

 

 彼が持つ狂気のベクトルは、絶えることなくヒルダに向けられ続けていた。




関西弁が奇妙な言語に変化しているため、既に完成していたものを二日粘ったが断念。
英語とかドイツなら範囲内ですが、大阪王国言語は管轄外です。

次章から機動六課、リリカルメンバーが本格的に登場・活躍開始。


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一章 悪意の収束と共に
9話 舐めるな馬鹿共


 泣くな。
 泣き顔には腹が立って殴りたくなる。殴った手が痛くて余計に腹が立つ。
 鼻血を出すのも生意気で腹が立ち、さらに蹴りたくなる。蹴られて転がる動作も無様で腹が立って、殺したくなる。
 それがこの世界で人間というものだ。
 だから苦しく哀しい時ほど、優雅に微笑み、くだらぬことをいえ。
 次も、その次も、またその次も。死ぬ時まで。

 ~ギギナ・ジャーディ・ドルク・メレイオス・アシュレイ・ブフ ~

 ■ ■ ■


 「終わりだ」

 

 「何が?お前の虫けらみたいな命が?」

 

 ヒルダはニタニタと下卑た笑みを浮かべた。

 見つめる先のリカルドの顔には苦痛の色が浮かんでいる。

 

 リカルドを楽しげに眺めながら、ヒルダは護衛であった魔導師達の亡骸に腰掛けた。

 椅子となった魔導師の頭部は破壊され、脳漿と体液が毛に絡まっている。

 眼孔から零れ落ちた眼球は、四肢を切断されたリカルドを光がない目で見つめていた。

 

 ヒルダはその眼球を視神経から引きちぎり、優雅に手の中で転がして弄ぶ。 

 

 まるで童女が遊ぶお人形のように、四肢を失ったリカルドは広い部屋の中心に置かれた椅子に据えられていた。

 抗おうと身を捩らせるも、胴体は縄で椅子に固定。

 多量出血によるショック症状、酸素欠乏症にならぬよう。切断された四肢の断面には咒式による治療が丹念に施されていた。

 残酷に弄ぶために発動された咒式は、死という救いすら奪う。

 

 さらにリカルドが飾られた椅子の周囲には、綺麗な円として並べられた『カエストス魔法商会』の構成員達。

 

 否、円として並べられているのではなく実際に一つの円となっていた。

 

 絡み合う腕や足は実際に融合しており、血液が互いの体を通して流れている。

 意識があるのか、歪に絡み合った肉の輪に浮かぶ顔は苦痛によるうめき声を上げていた。各々の顔は恐怖と混乱に見開かれていた。

 精神を崩壊した男の目は焦点があっていない。唇は閉じる事無く弛緩したように開かれ、涎が拭われる事無く流れ出ていた。

 同じように精神的苦痛により限界を迎え、心が砕け散った女性魔導師の一人は絶え間なく哄笑を上げ続けている。

 

 筋肉や血管などの肉体だけではなく、衣服や展開されたバリアジャケットなどの無機物ですら人体と融合されている。

 様々な魔法をその目で見てきたリカルドをもってしても、まったく理解が及ばない狂気の領域であった。

 いくつもの顔や何本もの腕、脚が蠢く肉の輪。こんな地獄を生み出す魔法が存在していいのか。

 

 武装魔導師・非戦闘員関係なくヒルダは『カエストス魔法商会』を一日のうちに殲滅。

 恐怖し命を歎願した者達はヒルダにより、リカルドを彩る装飾品へと変えられたのだ。

 生きたまま繋ぎ合わされ、殺人者の作品とされる恐怖と絶望。生み出された怨嗟の声は、この異様な光景を生き地獄と変えている。

 

 己の精神を何とか保つために、リカルドは冷静を装ってヒルダに向き合う。

 

 「お前は管理局が見過ごす事が出来ない事態を作った。既に管理局は捜索、情報を募っている。時期にお前は連中に補足されるだろう」

 

 「……はぁ?何を言うかと思えばそんな事?」

 

 ヒルダは呆れ返える。

 彼女はリカルドの言動を先読み、追い立てる次の言葉を用意していた。だがリカルドの発言は、そんなヒルダの予想を全て外れていた。

 

 「百を超える魔法世界から集められた管理局の魔導師達、お前はその逆鱗に触れた。待つのは破滅だ」

 

 暗い笑顔を浮かべる。

 呻くような声で言葉の矢を射続けるべく、息を吸い込む。

 

 「いくらお前自身が強かろうと、管理局には叶わない。オーバーSの魔導師達がお前を次元世界の果てまで追い詰める。そしてお前は一生光が届かぬ牢獄で、惨めに後悔しながらその生涯を終える。その様をあの世で見続けてやる」

 

 自らの死を覚悟した凄絶な呪言。

 四肢を奪われ死を待つのみであるのにもかかわらず、その気迫は隙あらば食い殺そうとする捕食者のものであった。

 黒社会の一角を取り仕切っていた男は、絶望の淵であろうと牙を折ることは無かったのだ。

 

 「ふ~ん、そっかぁ。よく解った」

 

 「もう遅い、お前は――――」

 

 「魔法世界にとって『ザッハドの使徒』は、この『右足親指のぺネロテ』はその程度なんだ」

 

 だが、殺人者の狂気はそれを軽く超えていた。

 

 リカルドの言葉はヒルダにより遮られた。言葉を紡ぐ事が不可能となってしまった。

 真に逆鱗に触れたのは管理局を相手取ったヒルダではなく、殺人者ヒルダを侮ったリカルドに他ならなかったのだ。

 

 「ムカつく、ものすっごくムカついた。『ザッハドの使徒』がただの犯罪者扱いだなんて、本当に馬鹿げている。でもそれが今のお前たち馬鹿共の共通見解なのね。うん、解った。よ~く解った。あぁ、本当に胸糞悪い」

 

 こいつはヒルダが敗北すると確信している。

 本物の自分が、勘違いしている愚か者どもに負けた揚句。殺されるのではなく、牢屋の中で死んでいくという突っ込みどころ満載なコメディを信望している。

 年中お花畑の脳内をステップしているとしか思えない言動を、ザッハドの使徒にのたまっている。

 

 つまりだ。

 

 管理局が、ミッドチルダが、魔法世界全体がそんな終わりを迎えると結論付けているはずだ。

 勘違い共がさらに勘違いして、ブッサイクな自分達がヒルダに勝てると考えている。

 老若男女の愚か者が、いずれかは私が牢獄にぶち込まれると思っている。彼らは変わらないつまらない日常を満喫しているということになる。

 

 偽物が、ぶさいくで弱くて汚い連中が。

 ザッハドの使徒をただの弱い弱い犯罪者扱い。

 

 ザッハドの使徒が出現したという一報を知っただけで、都市が混乱に陥る。

 歴戦の咒式士達の顔色が変わり、警察が騒然となるのが通例だ。捕縛?むしろそんな心構えのやつから死んでいく。

 魔法世界と元いた世界とのギャップに、ヒルダは思わず卒倒する寸前だった。

 

 「あ~なるほど、うん。私って優し過ぎたんだ」

 

 ただ殺すだけでは、凶悪犯罪者と変わりがない。

 死を彩り飾るからこその殺人者だ。

 ただ遊んで殺すだけではダメだ。ムカつくこと極まりないがアンヘリオのように、より芸術的に仕上げなければ意味がない。

 

 「私ね、お前を殺す事だけ考えてた。でもそれって甘すぎたんだよね~たぶん」

 

 ヒルダの桃色の両眼は、地面で蠢く肉の輪を注視している。

 

 「殺したらお前みたいな馬鹿共がさらに調子に乗る。だってただ私が楽しんで殺しても、そいつらにとってあんたはさらなる犠牲者に過ぎないもの」

 

 頭上に咒力を伴い、エミレオの書が出現する。

 未だ開かれた事の無いエミレオの書は、新たな主の狂気に呼応するかのように震えている。

 

 「勘違い馬鹿共の筆頭の管理局には、私が贈り物をしてあげないと♪」

 

 リカルドの覚悟は、悍ましいヒルダの微笑みによって砕かれた。

 恐怖が胸の内から湧き出て破裂、必死に逃げようと椅子でもがく。だが雁字搦めに結ばれた紐は解けはしない。

 流れ出る汗がリカルドの額で光る。

 無駄だと頭では解っていても、本能が絶え間なくこの場から一秒でも早く逃げろと警報をならしている。

 芋虫のように胴体をうねらせるリカルドを、ヒルダは嘲笑った。

 

 ヒルダの花が咲くかのような破顔と共に、エミレオの書が解放。

 身の毛がよだつ様な寒気。怯え竦むリカルドは顔を引き攣らせ、歯を震わせる。

 

 「リカルド、お前は殺さない。絶対に殺してあげない。お前には死ぬよりも苦しい罰を与えてあげる」

 

 リカルドの絶叫が空気を震わした。

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 ミッドチルダの一角、そこでは大きな葬儀が行われている。

 喪服に身を包んだ遺族の関係者の他、時空管理局の局員達が参列。遺族な泣き啜り、慟哭する中で聖王教会の神父達が死者に祈りを捧げていた。

 

 読み上げられた名は四十五。死者四十五名。

 

 葬儀に参列する参加者は膨大な数に上るが、誰一人としてその死を悲しまぬ者はいなかった。

 棺桶には多くの色鮮やかな花が、涙と共に添えられていく。同僚、家族、恋人、友人の死を惜しみ悲しみにくれる者達の悲しみは天に届いたのか。

 朝は明るく青々と広がっていた空も、今では暗く重い雲に覆われている。

 

 「どうして、どうしてあの人が死ななくてはいけなかったのッ!?」

 

 「くそったれが、嫁さん一人残して逝きやがって。……馬鹿野郎」

 

 「お姉ちゃん……」

 

 深い悲しみが遺族を襲い、心を締め上げる。

 涙が尽きることなく流れ、亡くなった者を呼ぶ声が孤独に空気を震わせる。

 

 嘆き悲しむ暗澹とする光景を、沈痛な面持ちで眺める魔導士がいた。

 栗色の髪を白いリボンでまとめ上げた女性。高町なのはであった。

 いつもは力強く、温かさを見せる彼女の顔には陰りが見えていた。

 

 傍に寄り添うようにして佇む、ワインレッドの美しい瞳を持つ痩身の女性。フェイト・ハラオウンは一瞬躊躇いを覚えたが、意を決したようになのはの肩に優しく自らの手を添えた。

 

 「……なのは、大丈夫?」

 

 「うん、私は大丈夫。ありがとうフェイトちゃん」

 

 安心を促すかのように微笑みを浮かべる。だがフェイトから見れば、その笑顔はあまりにも儚く弱いものに思えた。

 

 「私よりも、つらい思いをしている人はたくさんいる。そんな人達に弱い姿を見せるわけにはいかない」

 

 今の私が大切な存在を失い、心を痛める者たちの支えにならないといけない。

 

 なのははこの場に呼ばれた意味をよく理解していた。

 この身は『エース・オブ・エース』と呼ばれる時空管理局の希望。凶悪な犯罪者に日常を奪われ、悲しみ、恐怖に震える人々に光を見せなければならない。

 必ず私達に代わって死者達の無念を晴らしてくれる。暗く閉ざされた闇を照らしてくれる。

 時空管理局は正義のヒーローのような姿を私に求めたのだ。

 

 だから、今ここで弱さを見せてはいけない。

 既に何人かの遺族がなのはの存在を知るや走りより、涙ながらに「犯人を捕まえて欲しい」と頭を下げていった。

 なのはの手を握りしめながら、何度も頭を下げて「お願いします」と繰り返すのだ。

 

 果たさなくてはならない。人を救うという責務を。夢を。

 何よりもなのは自身がそれを望んでいる。悲しみ、涙を流す人々の笑顔がその先にあるのだと信じている。

 

 これ以上の悲しみを生み出さないよう、私は戦う。弱いのであれば、今よりも強くなる。

 

 「困っている、悲しんでいる人がいて。私にはそのための力がある。迷ってはいけないから」

 

 決意を新たに、高町なのはの目には熱き炎が灯る。

 

 「助けを求める人のために、私を信じてくれる人のために。私は戦う」

 

 「……なのは、違うよ?」

 

 「フェイトちゃん?」

 

 フェイトは困ったように小さく息を吐き出した。

 吹き渡る風が温かい空気を運び、二人の頬を優しくなでる。

 

 「『私は』じゃなくて、『私達』だよ」

 

 はっと気が付かされたようになのはは息を呑んだ。

 そんな彼女を気遣いながら、フェイトは力を込めて心に届くよう言葉を発していく。

 

 「なのはは一人じゃない。私がいる、はやてがいる、みんながいる。だからそんな淋しい事を言わないでほしいな」

 

 一人ではない。一人で背負うのはあまりにも悲し過ぎる。

 だから私にも、私達にも背負わせてほしい。なのはは一人ではないのだから、そうフェイトは笑いかけた。

 

 なのはしばらく呆然としていたが、やがて小さな笑みを見せる。

 先ほどとは違い、仮初の笑みではなく彼女の本当の笑みを見せた。

 

 「ごめん、ちょっと気を張りすぎちゃってかも」

 

 「うん、仕方がないと思う。私もきっと一人だけだったら、今のなのはのようになっていたと思うから」

 

 そう、あまりにも犠牲者が多過ぎた。流れる涙が多過ぎたのだ。

 二人の耳に小さな叫びが聞こえた。何事かとすぐさま首を動かし、状況を把握するべく警戒。

 しかし、目線の先にあった光景になのはとフェイトは目を奪われた。

 

 娘であろう少女が、棺桶によりそって「お父さんを埋めないでっ!」と泣き叫んでいた。

 

 母親が沈痛な面持ちで少女を離そうとする。だが少女は目を潤ませながら、離すものかと必死に父の遺体に抱き着いていた。

 幼心にこれが最後の別れであると理解しているのだろう。絶対に離さない、お父さんを埋めさせないと遺体に縋り付く娘の姿。

 ついには母親も嗚咽を漏らしながら、耐えかねたように座り込む。

 

 遺体がある者はまだ良い方であった。

 

 犯罪者ヒルダが召喚した魔法生物により、多くの局員は食い殺されている。

 墓地に収める体すらヒルダは奪っていったのだ。遺族たちは家族や友人、恋人の遺体に縋り付くこともできず、最後に抱きしめることも触れることも叶わない。

 多くの遺族たちは写真を持って参列しているのが現状だ。

 

 しかし、どちらが幸福か。どちらが良いのかという問題はあくまで個人の水掛け論に過ぎない。

 大切な者を失った事に変わりは無いのだ。それを上下に位置させて納得させる事など、部外者ならばともかく当人達には出来やしない。

 

 「メイ、お父さんは一生懸命に戦ったの。だから、もうお父さんを休ませて――――」

 

 「いやっ!お父さん起きて、ねぇ起きてっ!」

 

 「メイッ!」

 

 「お母さんの嘘つき、お父さんは死んでなんかいないっ!」

 

 娘の激しい慟哭に、母親は何も言えなくなったのだろう。

 俯きながら、肩を震わせていた。悲しみのあまりに拒絶する娘へ、かける言葉が見つからなかったのだ。

 

 思わずなのはが歩み寄ろうと一歩踏み出す。だがそれは隣にいるフェイトの腕によって遮られた。

 無言の講義を行うなのはに、フェイトが視線で理由を促す。

 

 揺れるオレンジ色のツインテール。凛とした目つきで亡き父に縋り付く少女に歩み寄っていく。

 泣き崩れた母親がその存在に気が付き顔を上げると、配慮するかのように丁寧なお辞儀で一礼。

 

 そして目尻に涙を貯めて自らを鋭く睨みつける少女。その目線の高さに合うよう、自らゆっくりと屈み込んだ。

 警戒する少女を脅かさないようにゆっくりとポケットに手を入れる。差しだすかのように取り出したのはフリルの付いたハンカチ。

 

 「可愛い顔が台無しだよ。ちゃんと綺麗にした方が、お父さんも、その、喜ぶと思うな」

 

 ティアナ・ランスターは目を怒らせる少女を宥めるように笑った。

 少女は戸惑いがちに差しだされたハンカチと、やや緊張した面持ちのティアナを何度も見比べる。

 

 やがて恐る恐るといったようにハンカチを手に取ると、震える手でしっかりと持ちながら目元を拭う。

 

 「……えと、名前はなんていうのかな?」

 

 「……メイ」

 

 「……メイちゃん、お母さんを困らせちゃだめだよ?」

 

 「……何も悪くない、お母さんが嘘付いた」

 

 「そんなことは――――」

 

 「お父さんは約束してくれた!明日みんなで遊びに行くって、私のために新しいお人形を買ってくれるって!」

 

 子供には大人都合など関係ない。今まで自分が経験し、体験した事が全てだった。

 だからこそ一番正直に泣き、死者を悲しむ事が出来る。

 その純粋さが、ティアナには見ていて痛々しかった。今にも壊れてしまいそうな危うさが感じられた。

 

 「お父さんは嘘をついたことなんてないもん!明日にはきっと起きて、起きて私の頭を撫でてくれる!おはようって言ってくれる!」

 

 「メイ、あの人は……あの人はもう」

 

 「嘘つきだっ!お母さんもお姉ちゃんも、みんなみんな大っ嫌だ!」

 

 言葉はもう通じない。世界を拒絶するかのように一筋の涙を流すメイ。

 放っておけない、見ていられないとなのはが駆け寄ろうとする。

 だがそれより先にティアナは動いていた。

 

 「――――ごめんね」

 

 ティアナはメイを抱きしめていた。

 強く、強く。されど少女を優しく包み込むように。

 

 「私が、弱くてごめんね。メイちゃんは強い。でも今だけは良いんだよ?お父さんの前だからって、そんなに頑張らなくて良いんだよ?」

 

 ティアナの声が徐々に掠れていく。

 少女の溢れ出る涙に呼応するかのように、青い瞳から涙が流れ落ちていく。

 

 「きっとお父さんも許してくれるから、だから今だけは強く無くてもいいんだよ?」

 

 少女の目に再び涙が浮かぶ。泣かない、絶対に泣かないという強い覚悟があろうと、涙は何度でも溢れ出ようと湧き出てくる。

 

 「メイは、メイは……信じてるからっ!お父さんの約束を守るから……っ!」

 

 「うん。でも思いっきり、思いっきり泣いても良いんだよ?ここで泣かないと、メイちゃんは私みたいに一生後悔すると思う。だから――――」

 

 ティアナの脳裏に、誰よりも大切だった兄の姿が浮かぶ。

 この少女もまた自分と同じように奪われた。見るはずだった夢を、未来を奪われた。

 

 だからティアナは涙を流し、メイも涙を流した。

 

 理屈では無い。

 この感情がそんなものであってたまるかとティアナは歯を砕かんばかりに噛み締める。

 大切な人がいるはずった未来を、明日を返せ。ずっと側にあった温かさを、大切な人を返せ。

 綺麗にまとめられてたまるものか、この苦しみと悲しみを『悲劇』の一言で片づけられてたまるものかッ!

 

 「泣いて、良いんだよ。泣いて良いんだよッ!メイちゃんッ!」

 

 「――――っ!!」

 

 その一言が、メイの心の壁を砕いた。

 涙が止めどなく、堪える事が出来ずに頬を伝って流れ始める。感情の大きな波が、嗚咽となって表れる。

 メイはティアナを抱きしめた。ティアナはメイを抱きしめた。

 

 「ごめんなさい。ごめんなさい……」

 

 「うん。良いんだよ、メイちゃんは悪く無いから。メイちゃんは、悪く無いからッ!」」

 

 「お父さんとの約束……無かった事にしたく無かったから。メイが約束破ったら、誰もお父さんとの約束をまもらなくっちゃうからっ!」

 

 「うん、うん」

 

 誰もが死を悲しむ中で、たった一人少女は戦っていた。誰もが現実を認め、「こんなはずではなかった」と後悔している中で。幼い少女は大切な人の約束を守るために、必死にただ一人で戦い続けていたのだ。

 

 正義も悪も解らない。ただ父親との絆が、繋がりがその少女の姿に現れていた。

 奪われたはずの父の姿。目を曇らせる大人達の中で、少女にははっきりと見えていたのだろう。

 

 ティアナはゆっくりと腕を放す。

 これ以上は踏み込んではいけないと知っていた。不安げにティアナを見上げるメイに、目を赤くしながら笑う。

 

 その瞬間、メイを抱きしめる者がいた。温かく、だけど弱々しく震える母親の体がメイを包み込む。娘へと母親は何度も「ごめんね」と呟く。

 誰よりも父親の死を理解し、それでも必死に戦おうと悲しみを抑えつけていた娘へ。何度も何度も母親は涙ながらに謝罪する。

 そんな母親の姿に、メイも同じように何度も何度も謝り続ける。終わりが無い謝罪が、ただひたすらに繰り返されるのだ。

 

 遺族・局員達は涙を流す。親子の姿は、哀惜の念と死者との絆や思い出を想起させた。さめざめと泣き、地面に突っ伏す者すらいた。

 

 なのは、フェイトも一粒の涙が頬から伝い落ちる。

 フェイトは自らの母親を想い、なのはは家族との絆を改めて噛み締めた。

 ティアナも亡くなった兄の姿を思い出したのか、声は出さずとも静かに肩を震わせている。

 

 「フェイトちゃん」

 

 「なのは」

 

 言葉は語らずとも、二人の決意はさらに強く結ばれた。

 誰も悪くはないのだ。だが謝らずにはいられない、誰かに謝り続けなくちゃいけない。

 こんなのは間違っている。間違っているのにそれを見ていることしか出来ない歯がゆさ。

 

 もう、二度とこんな親子の姿は見たくない。

 

 なのはとフェイトの決意、だがそれは二人だけのものではなかった。

 成り行きを遠くから見守っていた八神はやてもまた、彼女達と同じように決意を固めた一人である。

 はやての横で聖王教会の制服を着衣したカリム・グラシアは、目を伏せて静かに微笑む。

 

 「素晴らしい仲間を得ましたね、はやて」

 

 「本当やな。私は人の縁には本当に恵まれとると思うよ」

 

 「それに、ティアナさんは多くの方に戦う事を思い出させてくれました」

 

 はやてが密かに危惧していた事態は、杞憂に終わった。

 親子を見つめる者達に変化が表れていたのだ。泣きはらした目。だがその目には怒りの闘志を燃やす管理局員達の姿があった。

 

 「残忍な凶悪犯罪者、それに立ち向かうのには勇気が必要や。怯えてしまうのは解る、怖いのは解る。でも、私達がやらなくて誰が遺族の無念を晴らしてやれるんや」

 

 自ら死地に喜んで向かう者は一人もいない。

 誰もが理由を必要としている。覚悟がなければ生死を分ける戦いには望めない。

 

 「はやて、解っておりますね」

 

 「時間との勝負や」

 

 だが、この覚悟もいつまで続くか解らない。

 共に戦う同僚が殺され続け、守ろうとしたものを失い続ける。心は疲弊し、誇りは脆くなり、戦意は砕け散っていく。守るべき家族が任務の危険さを悟り、押しとどめる可能性も考えられるのだ。

 

 今回の敵は凶悪犯罪者。無差別に殺していくヒルダ・ペネロテ。

 だからこそ早くヒルダの行方を掴まなくてはならない。

 

 ここまで犯罪を犯したヒルダを逃がし続けてしまえば、必ず時空管理局を軽んじる者が現れる。

 そうなれば管理局が取り締まる現状に、不満を覚えていた者達が立ち上がることで状況が悪化。

 彼らがヒルダに手を貸す可能性が生まれてくる。

 

 時間が経てば経つ毎に、ヒルダに優位な状況が出来上がるのだ。

 

 「聖王教会も可能な範囲で協力を行います。私自身が持つツテもいくつか使わせて貰います」

 

 この場にいるカリムが、その危険性を示す何よりの証拠。

 聖王教会と時空管理局という両組織に属するカリム。普段は外出を行わず、可能な限りは動く事のない彼女が、今回の葬儀に参列している事。それも聖王教会の制服を着衣した姿で。

 

 聖王協会側が協力の姿勢を見せている。有り難い事だが、それが今後起こる危機を如実に表していた。

 

 「頼りにしているで。それにしても、師匠の目は確かやなぁ……」

 

 「はやての師匠……ゲンヤ三等陸佐ですか?」

 

 「そうや。後で師匠のところに聞きにいかへんと」

 

 少しは利口になった気ではいたが、長年職務を勤め上げてきたゲンヤにはまだまだ及ばない。

 この状況を時空管理局内で、最も早く予想したのはゲンヤであることには間違いない。

 確かこの葬儀にも参列しているはず。後で話す事が出来るよう、取り合わなくてはならない。

 

 説明を求めるような視線を向けるカリム。はやては順序を追って話そうと決めた。

 同時にはやての通信機器が振動。眉を顰めながら取り出すと、相手は話題の中心であるゲンヤ・ナカジマであった。

 カリムに目で了解を取る。カリムは首を傾げながらも「おかまいなく」といったように頷いた。

 

 通信機器を操作。耳にあてて礼儀として一応の形式を述べる。

 

 「はい、八神はやてです」

 

 『おう、はやて。念話の方が本来は良いんだが、俺はそっちの才能がないからな。……すまんがちょっと良いか?』

 

 「師匠、何かあったんですか?」

 

 『お前にも手を貸して欲しい。受付の設営テント04にまで来てくれないか?』

 

 「了解や。なのはちゃんやフェイトちゃんもいた方がええか?」

 

 『そうだな。すぐに来て欲しい、待ってるぞ』

 

 すぐに通信が断絶音と共に切れる。

 はやてはゲンヤとの通信の違和感に首を傾げながら、カリムに向かい合う。

 既に事情を察しているのだろう。カリムは口元を隠しながら笑っている。

 

 「あ~、師匠さんからのお願いで」

 

 「仕事、というわけですね」

 

 「……はぁ。解ってはいるつもりやけど、死者を追悼する暇すら碌に与えられない忙しさだけは慣れへん」

 

 「追悼の意は時間が決めるものではありませんよ。想いが決するものです」

 

 「聖職者みたいな言い分やなぁ」

 

 「その聖職者が私ですからね」

 

 念話でなのはとフェイトに連絡を取る。

 二人は驚いたようであったが、快く同伴を受け入れてくれた。カリムに再度礼を述べると、はやては合流するべく歩き出した。

 生まれるであろう悲痛と苦痛に怯える人々を救うために。

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 葬儀全体を時空管理局が取り締まっている以上、受付側にも管理局の局員が主に回されている。

 万年人手不足である以上、それこそ最低限の人数しか回されてはいない。共に死者を弔う想いはあるだろうが、次々に押し寄せる人並みには流石に気疲れする事だろう。

 

 ミッドチルダ、及び管理世界から集まったマスメディアの何人かがテントに押しかけていた。社員証を服に身につけていない者は、恐らくフリーのライターであろう。

 今回の葬儀では、決められたマスメディアの取材しか受け付けられていない。

 

 この対応は遺族への配慮もあったが、確実な情報統制を行う狙いもある。

 近年、何かと管理局はバッシングの対象になる事が多い。加えて拡大解釈されて描かれたゴシップ記事で、無用な混乱が起こる可能性も考えられる。

 

 そのため管理局の手が行き届いたマスメディアのみを対象に、この葬儀では取材の許可が下された。

 それに反発した雑誌などの情報記者、加えて管理局という大きな組織と繋がりを持てないフリーのライターがこのように押しかけているのであろう。

 

 なのはやフェイト、はやてのような有名人があの者達の目に入れば面倒くさい事になる。

 わざわざ彼らに騒ぎの種を与える必要も無いと、はやて達は裏からゲンヤに指定されたテントへと向かう

 同時に顔を隠しながら、必死に対応している気の毒な局員に向けて心の中で謝罪と応援を送った。

 

 少しばかり余計な時間をかけて目的地に到着。何人かの局員が忙しそうに行き交っている。

 彼らを横目に目的の人物を捜索。すぐに頭をかきながら空を見上げていたを発見した。

 

 ゲンヤも同時にはやての姿を見つけたのか、やや疲れが見える歩行で歩み寄ってくる。

 はっきりと目視できた顔には、積み重なった疲労が感じられた。

 

 「お、良く来てくれたな。早速で悪いがちょっと来てくれ」

 

 「何かあったんですか?」

 

 「説明するより見た方が早い」

 

 ゲンヤは三人を伴ってテントへと入る。

 テント入り口にいた二人の局員が敬礼。返礼しつつ、はやて達もゲンヤに続く。

 

 中は思ったよりも広く、中心に組み立て可能な簡易デスクが三つ横に並べられていた。上には資料や受付名簿などがきっちりと整えられて重ねられている。

 一メートルほどの空中投影映像が表示され、現在行われている葬儀の民間放送が流されていた。 

 

 「まぁ、問題はこいつだよ」

 

 ゲンヤの視線の先にあった者を見て、三人は僅かばかり顔を顰める。

 連なる机の中央に置かれてあったのは、この空間におよそ不釣り合いと言える箱であった。

 綺麗に青い包装用紙とピンク色のリボンでラッピングされている。まるでサプライズで子供にあげるような、プレゼントに思えた。

 

 はやてが頭痛がしてきた頭を労りながら、呆れるようにそれを見つめる。

 

 「なんやこれ」

 

 「ついさっき送られた来たものだそうだ。差出人は不明。配送会社は現場の局員に渡してくれればいいと伝えられていたらしい」

 

 「不審物……ってことかな?」

 

 「随分とかわいい不審物だよね」

 

 なのはとフェイトが共に苦笑しながら、奇妙な箱をゆっくりと見聞する。

 魔法でコーティングもされておらず、箱自体の材質も精々衝撃吸収に長けた程度のもの。それほど重要な物が詰められているようには思えない。

 

 「差出人は誰なんや?」

 

 「解らん。送り主がいるのは今回の事件の黒幕がいる第×××管理世界らしいが……。まぁ、中身を調べて見てくれ。悩みの種が解る」

 

 「じゃぁ、私が」

 

 なのはが自ら進み出て、探知魔法を発動。

 箱には中身の漏洩を防ぐためのプロテクションすら施されていない。

 やすやすと調査が進む事に、一種の不気味さを覚えながら探知は完了。

 

 表示された結果を見て、三人は唖然。直ぐさま探知結果を見直すも、表示された内容は一切変わらない。

 フェイト、はやてもなのはと同じように確かめるが、両名もまったく同じ結果となった。

 

 「え~と、これって……」

 

 「あかん、ますます頭がいとうなってきたわ」

 

 「あ、あはは。うん、私もちょっと解らないかも」

 

 それぞれの反応は異なる。だが全員が理解不能という結論に達した。

 

 「これって、生体反応だよね?」

 

 「うん、フェイトちゃん。加えて微々たる魔法反応もあるし……」

 

 「やっぱり、生体反応だよな……」

 

 ゲンヤはため息を吐き出しながら、ゆっくりとパイプ椅子に腰をかけた。

 

 「最初は俺達も危険物かと思ったんだがな。見ての通り危険物質の反応は無い。魔力反応はあるが、生体反応から感知されたものだと解った。で、念の為に魔法の扱いに長ける奴を呼ぶ事にしたんだが……」

 

 本当に困った事になった。そんな心の声が疲れきったように俯くゲンヤから聞こえて来るようだ。

 魔力反応も微量。危険物であれば処理班を呼び、本局が回収する事が通例だ。しかしこれが生き物となるとそうもいかない。

 

 こんな保護する魔法すら碌にかけていない箱に詰められていれば、中に存在する生き物は少なからず衰弱している。

 現に魔力反応は弱々しく、場合によっては一刻も早く病院に連れて行かなければならない可能性が考えられるのだ。

 

 だが不審物である事には変わりなく、開けるのには何かと神経質にならねばならない。

 有事の際に直ぐさま解決できる者が、開封の場に必要だ。

 三人が心配そうに箱を眺める。

 

 「生物だった場合すぐに助けてあげないと……」

 

 「無機物であれば管理局の方で保管がきく。でもそうじゃないとなると、一刻も早い対処が必要となるからなぁ」

 

 見捨てるという選択肢が取れれば全ての問題は解決するのだが、そのような選択ははなっから彼らの頭には存在しない。

 思い出したようにゲンヤは机に置かれた手のひらほどの紙を掴み取る。

 

 「それは?」

 

 なのはが尋ねると、ゲンヤは眉を顰めて差しだした。

 受け取って確認すると、それはメッセージカードである事が解った。加えて一目で女性、それも年幼い者が描いた事が見て取れる。

 

 『どうか、皆さん彼を見てあげてください。私は彼を見てとても元気になりました。みなさんも、きっと目が覚めてくれると信じています』

 

 それを覗き込むように確認したフェイトが、困惑しながらも再度箱を見つめる。

 

 「子供のいたずら……なのかな?自らの飼い猫や犬を入れたとか」

 

 「まったく、気持ちは嬉しいけれどそれはあかんやろ」

 

 家族を愛して止まないはやてが、やや憤慨気味にバリアジャケットを着装。

 さらに結界魔法を発動する事で、箱と自身の周囲を覆う。

 

 魔力ランクSSというオーバーランクの結界。いくらリミッターをかけられているとはいえ、その堅固な結界は並大抵の衝撃では砕けない。

 はやて自身も自らが持つ芳醇な魔力を、存分に防御に転用している。仮に中身が偽装された質量兵器であったとしても、よほどの事が起きない限りは彼女を傷つけるに足り得ないだろう。

 

 「これで開けても大丈夫やろ?」

 

 「まぁ、お前ならやってくれるとは思っていたが……。加減を覚えろ、加減を」

 

 笑いかけるはやてに、仕方がない奴だと苦笑するゲンヤ。

 なのはとはやては箱の中に入った存在が気にかかるようで、はやく開けて助けて欲しいと目ではやてに訴えかけている。

 

 「はやてちゃん」

 

 「はやて」

 

 「そない焦らへんといてや、二人とも」

 

 リボンを解き、包装用紙を外していく。

 表れたのは黒い箱。外見とは打って変わって、まったく装飾気の無い箱だ。

 何より空気孔など隙間が存在しない。これでは中の生き物がだいぶ弱っているであろう事態が推測できる。

 

 指を動かしてボタン式の鍵を解除。

 箱の役割を果たしていた側面、上部の壁が駆動音と共に取り払われていく。

 解除されていく箱を、不安に思いながらもはやては案じる。

 

 「さぁって、どんなかわい子ちゃんが――――ッ!?」

 

 全てが顕わになった。同時にはやての全身が硬直。目が飛び出ん程に見開かれる。

 位置的に他の三人には見えなかったが、何か異常が起こった事は、火を見るよりも明らかであった。

 

 「はやてちゃんッ!?大丈夫ッ!?」

 

 「はやてっ!」

 

 「おい、しっかりしろはやてッ!」

 

 ゲンヤが椅子から飛び上がり、フェイトとなのはが駆け寄る。

 はやては呼びかけに応じる事はなく、ただただ呆然と箱の中身を注視。

 

 「な、なんや……これ」

 

 はやては先の言葉が出ない。唖然としながら一歩、また一歩と後ずさる。

 咽が渇き、汗が流れ出る。頭が目に映った物を理解しろと叫ぶが、本能がそれを激しく拒絶する。

 

 他の三人もはやての視線を先を確認、絶句。言葉を失い、唖然としてその場に立ちすくんだ。

 

 赤い箱ガラス張りの箱。絶え間なく内部で何かが蠢いていた。

 右の瞳がはやてを見つめる。左の眼球は左側面にあり、なのはとフェイトの二人を見つめていた。

 

 一片四十センチのガラスで構成された立方体の内部には、気管に肺。食道や胃。胃からの結腸が渦巻いて、回腸がたたまれていた。箱の内部を満たしているのは内分泌液。

 赤い箱では無い。透明の箱に詰められた内臓により視覚が赤と認識したのだ。

 

 生体反応の原因は明らかであった。

 呼吸器系・消化器系・循環器系・泌尿器系・内分泌系・神経系。

 そして脳を収める事で完成された生ける標本。微弱な魔力反応は魔法生物によるものではなく、この内部に収められた誰かが発していたのだ。

 

 必要最低限、生存のための内臓と器官が綺麗に収められたガラスの箱。

 心臓が脈動。血を送り出して生体活動を行う。人体を形成すべき肉や骨格、皮膚は人間として必要とされるが、生体活動ではさほど重要性を持たない。

 だがこれでは『人間』とはおよそ呼べない。しかし『人間』ではなくなったとしても、箱の中の誰かは今も生きていた。

 

 自死しようにも死ぬ事が出来ない。死ぬための方法を持たないからだ。

 狂いたくても狂えない。最低限精神を繋ぐ咒式が内部で恒常的に発動しているからだ。

 

 はやてを、なのはとフェイトを見つめる眼球から涙がこぼれ落ちた。

 押しつけられた眼球には生命の光が宿っていた。はっきりとした自我があった。意志が感じられた。

 

 ガラスの内部で口角筋が四方に動く。唇がはやて達へ向けて言葉を紡いでいた。

 

 『殺してくれ』

 

 唇の動きはそう言っていた。

 

 「大丈夫ですかッ!?」

 

 「何かあったんで――――ヒぃッ!?」

 

 外部で異常を察した局員がテント内部へ突入。

 同時にガラス張りの生きた人工模型を直視し、短い悲鳴を上げる。

 一人が腰を抜かしたのか、その場に崩れ落ちながらも目は箱から離せない。

 

 誰もが言葉を忘れ、非常識なそれに思考が停止していく中。

 いち早く復帰したゲンヤは、箱の表面に朱色の口紅で書かれた図形らしきものを発見する。それは文字、サインであった。

 無意識のうちに描かれた文字を追っていく。理解するにつれて、心より嫌悪感と恐怖が沸き起こった。

 

 だがそれよりも現在心配なのは自らの教え子だ。

 顔面は蒼白。まるで病人のように青い顔だ。心は未だ麻痺しているかのように、目には正気が感じられない。

 

 「おい、はやてッ!しっかりしろッ!?」

 

 その場で空気を奮わせるかのような怒声を飛ばす。

 

 「――――ッ!し、師匠」

 

 「大丈夫か?」

 

 「だ、大丈夫……や」

 

 目が意識を取り戻す。

 まだ言葉の羅列が回らないようだが、返事を返せるだけで十分だ。

 

 「なのは、フェイトッ!」

 

 「う、うん。大丈夫です」

 

 「これは……一体」

 

 二人は正気を保っていた。だが顔色は青く、言葉が僅かに震えている。当然だ、こんな馬鹿げたものを見て平然としていられるようなやつはいない。

 

 だがその背後で恐怖に体を震わせる一般局員はダメだ。呼吸の間隔が短く、荒い。恐怖による錯乱状態に陥っている。特に腰を抜かした局員は恐慌寸前だ。

 このままでは余計な騒ぎが広がるッ!

 

 「お前ら、二人はすぐに外に出ろ。早くッ!指示を出すまで動くなッ!」

 

 「は、はひッ!お、おい」

 

 「なのは、フェイト。はやてを頼む」

 

 「解りました……」

 

 「はやて、落ち着いて」

 

 間近に見た事で精神的被害が一番大きいはやては、親友である二人に任せた。

 精神的ショックにより疲労したはやてを、フェイトとなのはゆっくりと椅子に座らせる。箱を見せないように、間を自らが壁として遮る辺りは流石と言えるだろう。

 この事態の中でそこまでの気配りができる者はそういない。自分が声をかけるよりはこのまま二人に頼んでいた方が良いと、直ぐさま本部へと通信を開始。

 

 一見冷静な行動を見せるゲンヤではあったが、その心ははやてと同様に疲弊していた。

 手は震えており、何度か操作を誤る。歯を噛み締めながら、手を机に激しく叩きつける事で強制的に振動を止める。痛みが治療薬となって、恐怖を押しとどめた。

 接続完了、通信が開始される。

 

 「本部、こちらゲンヤ・ナカジマ――――」

 

 慌ただしく動くゲンヤの背後で、臓器の箱は絶え間なく生命活動を行い続ける。

 その箱に描かれたサイン。

 

 『ヒルダ・ペネロテより馬鹿共へ。哀れなリカルドの詰め合わせ』

 

 他ならぬ箱の制作者であり、送り主を示すメッセージが表面に綴られている。

 邪悪な悪意と狂気の生きた芸術。生命を冒瀆し、陵辱する事すら厭わない常軌を脱したヒルダの贈り物。

 それは彼女の目論見通りの混乱と恐怖を管理局に与えた。

 

 『ザッハドの使徒』

 

 倫理観や理性という表層の装飾を脱した、人としての領域を踏み越えてしまった怪物。

 魔法ではなく咒式がもたらす狂乱と破壊の嵐が、ミッドチルダを襲わんと牙を剥いた瞬間であった。

 

 




  ■ ■ ■

 六課、覚悟完了。
 あとされ竜⑪と⑫を外で忘れて消失しました。買い換えないと設定確認できないから、この先書けない……。

 Q.今アニメのどこあたり?
 A.五話前です。

 Q.これってアンチなの?
 A.よく考えるんだ、ヒルダの相手はなのはさんだ。そう言う事だ。

 Q.他のされ竜連中はでますか?
 A.カリムさんが余計な予言でもしない限りは出ません。

 Q.防御魔法を全体にしていれば、スナルグぐらい防げね?
 A.特定の異貌のものどもは、咒式干渉といってAMFのような能力をもっています。あとされ竜にて誘導能力と貫通能力、射出能力を上昇させているような描写があるためいけると判断しました。

 Q.オリ咒式は登場するの?
 A.自分はオリ要素をぶち込むと間違いなくエタる。にじふぁんで既に私は経験済みなのでさせません。

 Q.主人公勢は出ないのですか?
 A.メガネはちょっとぐらい休ませてあげてください。どうせまた死にかけるので。
   そして許嫁が怖いドッラケン族は、娘さんと別居したくないようです。

 Q.特定のキャラ、やたら贔屓してね?
 A.ピクシブ辞典のスバルとティアナ。アニオタWIKIで記事が出来てるシャッハと、上司なのに記事が出来ていないカリム。
   そしてされ竜で贔屓される奴は、大抵死にかけるor死であることを再度お考えください。

 Q.まったくいちゃコラ要素が無いのですが?
 A.され竜でいちゃコラは、手を腹部に突っ込まれて腸を愛撫されるまでがデフォ。
   つまりこの作品はラブコメディである可能性が高い。

 Q.ぶっちゃけこの後書きは必要あったのか?
 A.『アニメクロノとおもちゃ箱クロノの乖離距離』がイコールで『この後書き必要の無さ』となっております。 


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10話 愚者のお茶会

 自動昇降機に乗り込む。行き先の階数を指定、駆動音を立てず自動昇降機は上昇を開始する。

 ゲンヤはこった肩を鳴らしながら、自らの横に佇むはやてをさりげなく横目で見つめた。

 視線は昇降機の入り口に固定されている。幾度か瞬きが行われるものの、目線に乱れは見られない。

 

 「おい、はやて。無理だけはするな」

 

 ゲンヤは厳しい目つきで、はやてを睨み付ける。

 

 「お前が無理して参加する必要はない。休養が必要なら、もうちっと休んどけ」

 

 「師匠、心配しすぎや。もう私は動ける」

 

 一切ゲンヤに顔を向けることなく、やや言葉早めに言葉を述べる。

 あくまで強気な姿勢を崩さないはやてに対し、ゲンヤは苛立ちを落着けるかのように髪をかき上げた。

 

 「動ける事と戦える事はまったく別の話だぞ。いったん落着け。気持ちは解るが、休まないと見えるものも見えなくなる」

 

 ゲンヤから見れば、今のはやての立ち位置は非常に危うい。

 

 はやては責任感が強く、誰もが目を背けることに真っ向から向かっていく傾向がある。特に誰かが理不尽に悲しみ、苦しむ事に激しい憤りを覚える。

 

 今回の事件は、彼女にとって許しがたい悲劇だ。

 多くの人が嘆き、これからさらに凶悪犯罪者による被害が生み出されようとしている。

 

 それを防ぐために全力でぶつかり、犯罪者を捕えて平和を守る。

 それは正しい。優しいはやてが持つ、正しすぎる正義だ。

 

 「もう、師匠は本当に心配性やなぁ。大丈夫や、もう体力は十分回復しとる」

 

 「体力じゃない、心だ。あんまり無茶すると体は良くても心は持たないぞ?」

 

 これまで彼女は自らの正義と理念を元に、数々の事件を解決してきた。己の信念を貫き通せるだけの実力と頭脳があり、それを支える素晴らしい仲間が存在していた。

 

 だがはやて自身はまだ若い。責任や苦悩を背負うにはあまりにも若すぎる。

 若く純粋なはやては、柔軟な受け止め方を取れない。真っ向から全ての重荷を背負わされてしまう。

 これではいずれはやて自身が限界を迎え、壊れるか精神に歪みが生じていく。

 

 これから徐々にそれを理解し、成長していけばいい。

 そう考えていたゲンヤにとって、今回の事件は予想外のものであった。

 

 強大な悪意。常の犯罪者から脱した桁外れの狂気。

 長年多くの犯罪者と向き合ってきたゲンヤから見ても、ヒルダ・ぺネロテは異常な犯罪者であった。

 

 高位魔導士になれるであろう希少技能と実力。それを明晰な頭脳をもって殺人に生かし、楽しみ喜び殺していく。

 通常の連続殺人犯や快楽殺人者は愚鈍さから破滅へと向かう。だがヒルダは理知をもって理性を確立した上で破滅へと向かっている。

 異常な殺人を正常な思考で選択し続けている。

 

 「心もばっちし問題なしや。六課で待つみんなのためにも、私がしっかりせえへんと」

 

 胸の前で手を握りしめながら、己に笑いかける教え子の姿。だがその笑顔に潜む影を知り、ゲンヤは渋い顔になる。

 

 何よりもはやて自身が自覚していない。それが一番の問題であった。

 この手の犯罪者を相手取る事は、精神的負担が極めて大きい。特に今回のような常軌を脱した犯罪者と相対するとなれば、その心理的負担は想像もできない。

 

 だがはやてにとっての悲劇は、結果として犯罪者をこれまで全員捕えてきたことだ。培ってきた経験と解決させた事件に裏付けられた自信が極めて大きい。

 はやて自身、そしてその仲間達が優秀過ぎるばかりに、彼女は己の一面に気が付く機会がこれまで失われていたのだ。

 

 自身の手ではどうしようもない事態がある。救えない悲しみがある。

 それに対する受け止め方が、はやてはあまりにも危険すぎた。

 ゲンヤから見れば、彼女は生き急ぎ過ぎていた。精神が早熟した故に発生した問題だ。

 いや、子どもでいさせてやれなかった自分達の責任なのかもしれない。

 

 どうしたものか、そう苦悩するゲンヤをよそに昇降機は静かに動きを止める。

 開かれた扉から真っ先に進み出るはやて。その姿を案じつつ、ゲンヤも彼女に続いて通路を歩みだした。

 

 案内役の局員に促されて自動扉で開かれた部屋に入っていく。

 一瞬視線がはやてとげんやの二人に集中したが、すぐにそれぞれが思い思いの行動に戻る。

 まだ指定された時間には少し早い。だが用意された椅子の大半には、既に緊迫感に顔を強張らせた局員達が着座していた。

 

 はやてとゲンヤも同様に椅子に座りこむ。

 ふと目を動かすと、何人かの顔なじみを見つけた。はやてに対して不敵に笑いかけるものもいれば、意味ありげに微笑む局員もいる。

 それらに軽く手を振るが、同時に幾人かの鋭い視線を感じた。興味や奇異の視線ならまだしも、敵意を向けてくるのはどうにかならないものか。

 

 はやては呆れながら椅子に深く腰をかける。

 

 決して順調ではなく、血の涙を流すような苦労の果てに辿り着いた権威。

 だが利権や名声、地位に関わってくるほどに、羨望や嫉妬の視線は常に増え続けていった。

 正義と謳っている管理局といえど、そこに努める局員はまさに十人十色だ。社会組織を構成する以上、これは仕方のない現実ではあるが、それを受け入れることと理解できることはまったく別の話。

 

 そもそも陸、海と大きく分けられる管理局であるが、この二つの間柄は非常に最悪であった。さらに陸と海の中でさらに派閥が分かれており、非常にややこしい事になっている。

 今回の事件は陸と海の共同で当たることが決定している。これは派閥の争いが顕著に浮き出てくるかもしれない。

 

 はやては自分自身の見通しに、なんともいえない倦怠感が発生。

 気分を一新しようと二酸化炭素を吐き出して肺の中を空にする。だがかえって空しくなった。

 

 「……本当に大丈夫か?はやて」

 

 「いや、さすがにこんな馬鹿げた視線は慣れへん」

 

 「ああ、なるほどな」

 

 ゲンヤは周囲を不審な目で一瞥すると、頬杖をつきながら苦笑する。

 

 「まぁこう言っては何だが、あいつらもお前の実力は認めている。無用な嫉妬はその証だ、むしろ堂々として誇れ」

 

 「せやけど、ここまで大事になると下手な足の引っ張り合いも起こるやろ?」

 

 ゲンヤははやての言葉に目をわざとらしく見開く。

 

 「驚いた。俺はお前がそうした連中を悉く逆に踏みつけて来たと記憶しているが……?」

 

 「……いっぺん、師匠の中の私に対する想像についてとっくり話し合いせえへんか?」

 

 「悪知恵の働く子狸」

 

 躊躇うことなく言ってのけたゲンヤに、はやては眉をしかめて唸る。

 

 何か一矢報いようと言葉を選ぶ間に、扉の駆動音と共に三人の局員が現れた。

 集まった局員達の前に進み出る。捜査部局員とやせ型の研究者が後に続く。時間を確認、時計は会議の始まりを告げていた。

 ゲンヤを軽く睨みつけるが、どこ吹く風といったように首の後ろで両腕を組んでいる。絶対に時間を確認して、反論できないタイミングで自分をからかったと理解。

 

 いつか絶対一泡吹かせてやる事を決意する。具体的には彼の娘で自分の部下であるスバル・ナカジマに「お父さんって加齢臭するよね」と発言させる事を誓う。上司命令だ、スバルが拒んだらなのはを横にもう一回お願いしよう。

 きっと喜び涙ながらに賛同してくれるはずだ。

 

 手元の操作映像端末が一斉に起動。同時に室内の照明が次々と消えていく。

 同時に空中にいくつもの映像や情報が投影される。会議室を静謐が完全に支配していた。

 

 中心人物であろう青髪の執務官が、メガネを持ち上げながら資料を手に進み出る。

 事件捜査や各種の調査を取り仕切る執務官。管理局の威信に関わる今回の事件での統括担当者は、あの男性であると見るべきだ。

 

 年齢は二十代後半、体は細く眉は常に八の字で固定されている。このような大きな事件を担当するには、いくら実力主義の管理局といえど若い。

 

 「……地上本部側の局員が大勢亡くなった事件で、海側よりである執務官が総轄か」

 

 ゲンヤが面倒な事にならないといいが、と付け加えて目を細める。

 はやてはゲンヤの意図を読み取りながらも、疑問の声を上げる。

 

 「あの人は?」

 

 「アシル・ヘルマン一等空佐だ。エリート組の一人でまだ若いが、実力は確かだな。これまで『アリエンタル事件』・『マルチレイド事件』などの大規模犯罪事件を担当し、解決に導いてきた実力派の執務官だ。彼が今回の事件を担当することにも何の不思議はない。だがアシル一等空佐は海との繋がりが深い」

 

 陸側の局員からすれば面白いはずがない。

 今回の事件が解決されたとしても、賞賛を多く受けるのは海。既に人員が大きく損害を受けた陸のお偉方からすれば、笑えない話だ。

 同様に一般の陸局員からしても、管理局の采配に納得はするが心残りがあるだろう。

 

 アシル一等空佐は隣の捜査官に話しかけ終わると、鋭く目を光らせながら局員を見回す。

 壇上に上がる。一度目を瞑った後に、開眼。再度室内の局員達を見定める。

 

 「私が今回の凶悪犯罪事件、通称『HP(ヒルダ・ぺネロテ事件)』を統括させてもらうアシル・ヘルマン一等空佐だ」

 

 静かだが、耳に残るような声であった。 

  

 「私がこの場を取り仕切る事に、不満がある者も少なからずいることだろう。しかし」

 

 平静を装っていた顔を憎々しげに歪めながら、アシルの声量は上がる。

 

 「今はそれを争っている時ではない。ヒルダの魔の手は既に時空管理局の局員だけではなく、民間人にまで及んでいる。勇敢なる局員諸君。君たちの敵は陸か空か、それとも海か。違うだろう?」

 

 戸惑う局員達へ向けて、アシル一等空佐はさらに声を張り上げる。

 

 「四十五名、いやさらなる調査で判明した三人の局員の命。正義を志し、共に明日を誓った同胞を殺したのは他でもない、凶悪犯罪者ヒルダ・ぺネロテただ一人ッ!ここに集まる仲間は皆、彼女を捕える法の下に集った同胞であるということを、よくよく理解してもらいたい」

 

 はやてとゲンヤは感心しながら、アシル一等空佐を観察する。

 

 まず何よりも互いの間に残っていた確執を取り除くために行動した。ゲンヤが危惧していた事態は、アシル一等空佐自身が何よりも理解していたのだ。

 尚且つ恐るべき犯罪者であるヒルダに対する意志の統率を狙った事も好印象だ。今やここに集まった局員の目に、アシル一等空佐に対する不信感、及び同僚への敵意はない。

 

 室内が静かな熱気に包まれ、誰もが食い入るようにアシル一等空佐を見つめている。

 

 「我々の目には先の葬式で悲しみ慟哭する遺族、そして凶悪な犯罪者に怯える人々の姿が焼き付いているはずだ。彼らを救い、亡くなった局員の鎮魂をもたらす方法。それは凶悪犯罪者ヒルダ・ペネロテの逮捕に他ならないッ!」

 

 ここに集まった局員は法の下に正義を志す者達だ。

 その心を燃やし、焚き付ける対象としてヒルダという凶悪犯罪者を最大限に利用した。

 短い言葉と振る舞いで彼らの心を掴んだアシル一等空佐には、扇動の才能とそれを生かすだけの頭脳を持っている。

 はやては頼もしい人物が、味方となった事に素直な喜びを感じていた。

 

 「今この瞬間にも、ヒルダ・ペネロテの手によって尊い命が失われているかもしれない。我々は一刻も早く彼女を捕えなければならない。そのためには優秀な局員である君たちの手が必要だ。どうか私に命を、正義を預けてほしい」

 

 真摯な態度で語りかけるアシル一等空佐の姿に、局員全員が心を打たれていた。

 はやて自身も例えようのない熱き思いを、胸の内に感じている。

 言葉は揃えずとも、この場に集った局員達の結束はアシル一等空佐により強固になった。

 

 口の端を持ち上げたアシル一等空佐は、「君たちの想いに感謝する」と告げた後に手元の情報端末を操作。立体映像が局員達の手元に透写される。

 

 「HP事件。恐らくここにいる全員が既に理解しているだろうが、今一度説明させてもらう。新暦七十五年五月一日、管理局は同月三日に行われる第XXX管理世界において、カエストス魔法商会が行う違法取引の情報提供を受けた。裏取りは即日完了、武装局員の介入を同日決定。取引の規模から二十五名、Bランク魔導士五人を含む部隊を形成。武力介入を行った」

 

 アシル一等空佐は目を細める。

 

 「警告を無視した抵抗を受け、武装局員は交戦を開始。だが突入から僅か十分後。救援要請が通信によって行われた。護衛の魔導士計十六名の連携は熾烈を極めた。隊長を務めたレンバル三等陸尉は応援要請を決意。これによりさらに二十二名のAランク魔導士を含む部隊が派遣された。状況は一変して管理局側が優位となり、事態は収拾すると思われた」

 

 握られた拳がさらに強く握りしめられる。

 

 「武装局員は彼らを追い詰め、再度警告を行った。だがここで事態は急変する。カエストス魔法商会の護衛魔導士であったヒルダ・ペネロテが、味方の魔導士であった部下一人を殺害した」

 

 室内の空気が一瞬にして凍った。

 

 それぞれが顔を顰め、アシル一等空佐の言葉に耳を疑っている。

 味方であった魔導士を殺害する意図がまったく理解できない。数の差で押し込まれている状況で何故に仲間を殺すのか。

 

 「その後は皆が知るとおりだ。ヒルダ・ペネロテは味方諸共、局員側の魔導士を壊滅させた。死者は四十五名と公式には公表されているが、彼女が殺害したカエストス魔法商会の魔導士を含むと死者は六十名にも上る」

 

 動揺する局員達によって、室内が密かに慌ただしくなる。

 隣に座る魔導士に耳を寄せる者や、食い入るように情報を見つめる者。誰もがヒルダ・ペネロテの凶行を理解しきれずにいた。

 

 「……それは、味方を巻き込む大魔法を使用したということでしょうか?」

 

 一人の局員が息を飲むような声で疑問を投げかける。

 予想外の事態に自暴自棄になった犯罪者が、味方を巻き込む大惨事を引き起こす可能性は高い。

 だからこそ迅速に鎮圧し、事態の悪化を防ぐ事が武装局員には問われるのだ。

 

 だがアシル一等空佐は首を横に振った。

 

 「違う。ヒルダ・ペネロテは確かな理性をもって計十五名の魔導士を局員事殺害した。これは後に説明させてもらうが、ヒルダ・ペネロテの戦闘方法は広囲殲滅型では無い。味方を巻き込まない戦闘行動は可能であったはずだ」

 

 困惑顔を並べる局員達へ、アシル一等空佐は苦々しく言葉を発する。

 

 「ヒルダ・ペネロテに関して、我々が現在の段階で得られた情報を説明させてもらう。エミリア捜査官」

 

 「はい」

 

 エミリアと呼ばれた秘書風の女性が一歩進み出る。黒髪の東洋的な顔立ちだ。

 視線を一気に集めたが、一切気負った様子はなく一礼。

 

 「それでは今回の事件について説明させていただきます。こちらをご覧ください」

 

 空中の巨大スクリーンにヒルダの顔が浮かび上がった。同様に局員たちの手元にも表示される。

 先日の事件で撮影されたものだ。横、上空など多方から撮影されている。

 

 端正な顔立ちに、美しい桃色の髪と同色の瞳。白い肌は上質の陶器のように美しい。

 黒を基調としたバリアジャケットを装着。楽しげに微笑むヒルダの姿は、完成された美しさがあった。

 だが彼女はこの後に、四十五名もの局員の命を奪っている。

 

 「ヒルダ・ペネロテ。これは自ら犯行当時に名乗った名称であり、年齢・本名は不明です。第XXX管理世界においてヒルダ・ペネロテの戸籍・魔道士・その他登録情報は確認できません。同様に全ての管理世界の登録データを調査しましたが、ヒルダ・ペネロテの名前及び登録画像は確認できません」

 

 エミリアはさらに続ける。

 

 「ヒルダ・ペネロテは桃色の髪に同色の瞳と風貌が目立ちやすい。さらに彼女は一般魔導師とは隔絶した魔法を使用する事から、我々は他に彼女の活動を目撃・確認した人物がいると考え、関係者の捜索を決行。及び情報提供や犯罪記録を管理世界に求めました」

 

 声に苦渋の色が混ざる。

 

 「しかしこれまでヒルダ・ペネロテの情報は一切得られておりません。ヒルダ・ペネロテの活動記録が唯一確認できたのは第XXX管理世界のみ。ですがその情報すらも操作・隠蔽を受けており、詳細な情報は得られてはおりません」

 

 投影された映像が変わる。映し出されたのは五階建てのオフィスビル。

 外装は白を基調をしているが、所々年月が経過しているためか汚れている。

 

 「ヒルダ・ペネロテが所属していた裏組織、カエストス魔法商会の本部です。リカルド・カエストスを中心として構成されたこの組織は、表向きは魔法関連の物資の取引を行う魔法商会。裏では違法物資や質量兵器の取引を行う犯罪営利組織です。情報の操作や隠蔽は、彼らが行ったものと考えられます」

 

 ならばカエストス魔法商会に対し、ヒルダの引き渡し及び情報開示を行うべきでは。

 そう声が上がろうとした雰囲気を感じ取ったのか、エミリアは更に映像を操作。映し出されたのは、先ほどと同じカエストス魔法商会のビル。

 

 絶句。驚嘆する局員の目が映像に釘付けとなった。

 

 「HP事件(ヒルダ・ペネロテ)事件発生当日の映像です。事件発生からヒルダ・ペネロテが逃走した僅か二時間後。カエストス魔法商会は彼女の手によって崩壊しました」

 

 聳え立っていたはずの白い五階建ての建造物は、面影を残す事なく崩壊していた。ビルを構成していた資材や外壁が崩れ落ち、何重にも積み重ねっている光景。

 まさに破壊の限りを尽くしたと言わんばかりの有様であった。

 

 「頭目であるリカルド、及び全ての構成員の姿は瓦礫中から発見できておりません。ですがカエストス魔法商会の戦闘・非戦闘員・表向きの従業員全てが行方不明となっています。恐らく既に全員殺されていると見るべきです」

 

 エミリアが透明な四角形の袋を取り出す。

 遠目で確認すると中には何やら紙が入っている。

 

 「犯行現場に残されていたヒルダ・ペネロテの犯行声明文です」

 

 赤と黒で彩られたメッセージカード。内容が表示される。はやてとゲンヤは、所々埃と砂に汚れた文字を読み取っていった。

 

 『私はかわいくて綺麗。世界で唯一本物な私を騙す馬鹿共はみんな死ね。騙さない馬鹿共も死ね』

 

 滅茶苦茶だ、誰かがそう呟いた。はやてもその意見に賛同する。局員達は皆、苦々しい顔でヒルダの残した文面を注視していた。

 カードには自らを誇示するかのような、真っ赤な唇型のキスマーク。自分が犯した罪を肯定し、まったく罪悪感を抱いていない事が読み取れる。

 

 「カエストス魔法商会はヒルダの所属と共に、裏組織アルタイルを殲滅しています。アルタイルは魔導師が計四十名以上、上級ランク魔導師が数名確認される攻撃的面が極めて強い裏組織です。ヒルダはこれを魔法商会の武装魔導師を引き連れて、僅か二ヶ月で掃討します。真偽は解りませんが、ヒルダが関わってからおよそ三週間で既にアルタイルは組織としての形態を保てなくなったという情報も確認されています」

 

 はやては思わず息を飲む。他の局員も同様であった。

 管理局にあれだけの猛威を奮ったヒルダ・ペネロテの惨劇は、既に事件以前から行われていたのだろう。

 

 「これについての情報も、カエストス魔法商会の情報封鎖により詳しく得られてはおりません。ですがここでヒルダは『お菓子の魔女』と恐れられるほどの暴虐を行った事は確かです」

 

 「……お菓子の魔女?」

 

 「私の聞き間違いか」

 

 「凶悪犯罪者にしては随分とまた変わった他称だな」

 

 戸惑う局員達に、エミリアはさらに顔を強ばらせる。素早く情報端末を操作。意中の映像を引き出す。

 

 「お菓子の魔女はヒルダ・ペネロテの殺害方法から名付けられた呼称です。殺害現場の映像を見てくだされば、十分にお解りいただけると思います」

 

 映し出されたのは光景は、局員達の呼吸を忘れさせるのに十分な地獄であった。

 

 壁にそそり立つ巨大な茶色い板。表面はブロック状に規則正しく分けられている。それが超大型のチョコレートだと解ると、全員が驚きのあまり目を見開く。

 縦横二十倍、重厚な扉と見間違わんばかりのチョコレートだ。それに寄り添うように頭部を木っ端微塵に破壊され、血を盛大に壁へぶちまけた死体が横に転がっていた。

 

 映像の端には巨大な赤い青果物を載せ、白いクリームが塗られた直径二メートルにも及ぶショートケーキ。下からは女性のものと思われる細く白い腕が伸びている。

 

 「なんだ……これは」

 

 あまりにも非現実的、怪事に喫驚の声が次々と上がった。

 誰もが目の前に表示された映像から、視線が逸らせず釘付けになっていた。

 現実を無視したかのような、特大のケーキとチョコレート。そんな巫山戯たものを用いて行われる殺人。

 

 理解不能極まり無い惨状であった。悪夢をそのまま切り取ったかのような場面に、思考が紡げず言葉が出ない。

 

 「我々が掴んだ数少ないヒルダ・ペネロテがアルタイルに対して行った戦闘情報です。この魔法は先の事件でも確認されており、ヒルダ・ペネロテが行う戦闘方法の一つである事が解っています」

 

 お菓子の魔女とはからかい混じりに呼ばれたものでは断じてない。恐怖と狂気によって成立した忌むべき異名であったのだ。

 

 「リカルドはアルタイル殲滅以降、ヒルダにより強い危機感を覚えたようです。囮の取引にヒルダを護衛として派遣、その情報をカエストス魔法商会は時空管理局に自ら匿名で通報を行います。そしてこの取引に介入した管理局武装局員を襲った脅威は、我々にヒルダ・ペネロテの存在を認知させるに至りました」

 

 自らの手に負えなくなったヒルダ・ペネロテを、リカルドは切り捨てたのだ。

 そして彼女への対抗策として、管理局の武装局員達と激突させる。

 だがリカルドの策は、ヒルダの圧倒的な破壊と狂乱により木っ端微塵に打ち砕かれた。

 

 「この後にヒルダ・ペネロテはカエストス魔法商会を返す刃で壊滅。本部の情報データは何者かにより、既にデータだけではなくプログラムごと抹消されておりました。ヒルダ・ペネロテがどのような経緯で第XXX管理世界の裏組織に訪れたのか。彼女が次元漂流者であった可能性もありますが、全ては闇の中に葬られました。少なくとも、現時点で彼女の情報に精通する者は誰一人として発見されておりません」

 

 異常性が高く凶悪な戦闘能力を有する魔導師が、これまで隠れ忍び生きてきたとは到底考えられない。

 それ以前に人間が社会から隔絶してただ一人、誰との関わりもなく生きるなど不可能に等しい。人は必ず誰かによって産まれ、育てられ、生活した空間が存在するのだ。

 

 カエストス魔法商会は、必ずヒルダに関する何か重要な情報を掴んでいた。ヒルダは管理局接触後に頭目だけではなく、構成員を一人残らず始末し、証人とカエストス魔法商会に残っていたデータ等を全て抹消した。

 

 ヒルダの手際が良すぎる。

 

 ヒルダは自らを裏切ったカエストス魔法商会の面々を戦闘員・非戦闘員を区別無く殺害。

 その上でビルを倒壊させるという衝動的な犯罪者かと思いきや、それは第XXX管理世界での形跡を根絶させた上での行動だ。

 

 危機感を感じさせぬ自己を主張する派手なパフォーマンスを行ったかと思えば、自己の情報の一切を遮断する理知的な一面を見せる。合理的かつ非合理的な犯罪者など聞いた事が無い。

 

 「HP事件以前にも、第XXX管理世界においてヒルダに殺害された局員が正式に確認・証明されました」

 

 三人の局員の画像が映される。管理局に登録されている証明画像だ。

 それを見たはやてがすぐさま横を見ると、ゲンヤは静かに頷いて返した。

 

 「彼らは同世界において、任務終了後に不明の巨大な魔力反応を確認。調査に向かった後に通信が途絶えました。その後に現地管理局員が到着しましたが、既に彼らの姿はなくその後も詳細は不明です。遺体、及び血痕等の確認ができない事から、行方を追っていました」

 

 現場は街の公道から外れた建物と建物の間。

 騒ぎがあったとしても、轟音でも起きない限りは気が付かないだろう」

 

 「ですが、通信が途絶えるまでの音声情報は管理局に保存されていました。今回の事件で確認されたヒルダ・ペネロテの音声データが、その局員の音声情報でも確認されました」

 

 エミリアによって流された音声データに、多くの局員の顔が強張る。

 はやては既に一回聞いていたものだが、慣れるものではない。ゲンヤも同様に顔を渋めている。

 少女の声と共に何かが沸騰する音、すぐさま音声データが途切れる。

 

 「この最後に聞こえた音声は検証の結果、ヒルダ・ペネロテと一致しました。音声データの状況と、今回の事件で殺害された局員の死因は非常に類似しています。恐らく三人はヒルダ・ペネロテに殺害されたものと断定。局員に駆け付けた時、既に重症に陥っていた謎の人物に関しても詳細と行方は不明、現在捜索中です」

 

 これでヒルダによって殺された時空管理局の局員の数は四十八人。

 アルタイル、カエストス魔法商会やそれ以前に殺された人数を合わせれば、ヒルダの殺害数は百を超える勢いだ。

 最早ヒルダの凶行は一つの災害に等しい。

 

 「エミリア捜査官、ご苦労であった」

 

 アシルの言葉に、捜査結果を伝え終わったエミリアが短く頭を下げると、そのままアシルの隣に下がっていく。

 アシルはエミリアに目礼。革靴を鳴らしながらエミリアと交差して、局員達の前に進み出る。

 

 「続いて、私がヒルダ・ペネロテがHP事件にて行った戦闘行動を説明させて貰う」

 

 アシルの頭上の立体映像が多重展開。六つの立体映像が投影される。細かい数値や情報が並ぶ。

 局員達の顔が強ばった。凶悪犯罪者の戦闘情報は、生死を分ける重要性を持つ。

 それも四十八名もの局員を殺害した、強大な戦闘力を持つ魔導師の戦闘情報だ。言葉一つとして聞き逃せない。

 

 「まず、諸君に伝えたい事がある。ヒルダ・ペネロテは召喚魔導師である可能性が高い」

 

 『召喚魔導師』。その言葉にフロア一帯が緊迫した空気に包まれる。

 

 召喚行使は稀少技能、通称レアスキルと呼ばれている。レアスキルは特殊な魔導師しか所持できぬ力だ。

 

 召喚魔法はその術者の稀少故にレアスキルに認定されている。

 召喚魔法の研究は進んでいない。扱える魔導師が限られており、数もごく少数。国家、政府に匿われている事も多い。

 まさに詳細な情報自体が判明していない、魔法のブラックボックスだ。

 

 召喚行使で竜が召喚されるとしても、赤龍や黒竜などさらに細分化される。

 呼ばれる生物は竜に限らず、虫・爬虫類・魔犬・ゴーレムなど例を挙げれば切りがない。

 召喚される生物の大きさも直径一センチから、二十メートルを超えるものもある。

 呼ばれる魔法生物・規模が一定ではない事も、研究が進まない分野となっている原因だ。

 管理世界においては、国一つ滅ぼすほどの生物を呼び出したという召喚魔導師の記録が残っている。

 

 俄に騒然とした様子を見せる局員達。

 葬儀で遺体の数が少なく、僅かに残された遺体も傷が激しい原因が明らかになった。

 人ならざる異形の魔法生物の蹂躙により、彼らは無念の死を遂げたのだろう。

 

 「そして、これはまだ憶測に過ぎない。上層部はまだ話すべきではないと私に打診してきた。それでも私は、諸君の命が掛かっている以上は話すべき可能性だと思う」

 

 アシルは眼鏡を微かに指で押し上げる。

 数秒言葉を飲み込んだ後、ゆっくりと唇が開かれた。

 

 「ヒルダ・ペネロテは『ロストロギア』を使用する召喚魔導士である可能性が高い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 男の眼球が裏返り、舗装された街路に流血と共に崩れ落ちた。

 手から零れ落ちた剣型のデバイスは横に両断されていた。大量の血液が腹部から地に広がり、小腸と大腸、肝臓が外気に晒される。

 

 「今日の殺害数はこれで四人目。名がそれなりに通った魔導士みたいだけれど、期待外れ。まぁ所詮私の敵じゃないよね♪」

 

 死体に歩み寄ったヒルダが、白目を向いた頭部を靴の先端で蹴りつけた。

 ぶさいくな死体をそのまましばらく足先で遊ぶ。だが飽きたのかエミレオの書を解放。

 現れたのは虫の複眼を、本来眼球があるべき目の位置にはめ込んだ異形の乙女。キヒーアの腹部で黄色いカナリアが鳴き声を上げると、男の死体から生体情報と魔力の収集が開始される。

 

 「そう、敵じゃない。でもなぁ……」

 

 ヒルダはその様子を見ながら、視線を徐々に手元へ下していく。

 手に収まっているのは、彼女が愛用し続ける魔杖風琴。指に嵌っているのは待機状態となっている真っ赤な指輪のデバイス。

 苦鳴の声につられる形で息が吐き出される。

 

 ヒルダは己の魔杖風琴とデバイスを苦々しく見つめる。幾度目か解らない嘆息が喉を押し上げた。

 目は愁いを帯びており、視線はデバイスと魔杖風琴を交互に彷徨わせている。

 

 命の収集を終えたキヒーアを有無を言わずにエミレオの書に再封印。ヒルダは何度目か解らない後悔に打ちひしがれた。

 

 「咒式演算の宝珠がいまいち。二冊の書を操作し、なおかつ私自身の咒式を発動させるのには力不足っぽい?」

 

 何故もっと良い宝珠を手に入れていなかったのか。

 そんな後悔がヒルダの気分を限りなく下に突き落とす。

 

 宝珠とは波動関数の崩壊現象、つまり咒式を発動するために必要な『咒印組成式』・『演算式』・『具現化式』などを処理する演算装置の役目を果たしている。

 さらには特定の咒式を登録、自動的に演算処理する仕組みを備えている物も多い。

 値が張るものでは、ほかの咒式を無効化・自動発動が可能となる。

 

 エミレオの書は強力だ。

 だがエミレオの書を扱う操作が複雑極まりなく、咒力を大きく消費する。

 

 エンゴル・ルやポコモコのような比較的行動性があまり見られない咒式砲台型の書に対し、ボラーはあまりにも活動的過ぎた。異貌のものどもの意思と咒力が強力過ぎたのだ。

 今後エミレオの書を複数使用しなければならない相手と相対するしていく以上、この問題を無視するわけには決していかない。また、自らが咒式を発動する事も視野に入れていかなければならない。

 

 問題を解決するには、自らの咒力と技術を上げる他。咒式やエミレオの書の操作を補佐する咒式具自体を改善するしかない。というかこれが一番手っ取り早い。

 

 だが――――

 

 「魔杖風琴は戦闘中扱いにくいから、他の形に変えたい。宝珠を変えて咒式やエミレオの書の操作性を上げたい。お金なら十分すぎるぐらいあるけれど、魔法世界に咒式具があるなんて到底思えないし……」

 

 魔法世界に咒式具があるとは到底考えられない。

 管理外世界に分類される異世界であれば、同技術の発見は可能かもしれない。だがそんなあるかどうかも解らない可能性に、貴重な時間をかける事はあまりにも愚かしい。

 

 そもそもこの魔法世界にこの身が存在する事自体が、もはや確率論では不可能と断定される奇跡だ。

 奇跡は二度起こりはしない。だからこそ現在ヒルダが行えるあらゆる可能性を模索し、勝率を一%上げなくてはならない。

 命のやり取りで一%の重さは、これまでの殺し合いで重々身にしみている。

 

 「残るは魔法、魔法しかない」

 

 咒式にとって変わる戦闘方法は、魔法しかない。

 

 「私自身が発動するのは魔法のみ。咒力はエミレオの書のみに注ぎ込み、咒式は一切発動しない。これが現状で行える最大の戦闘方法」

 

 不慣れであるが故に目を背けていた戦闘方法であるが、既にリカルドによって避けては通れない所まで来ている。

 魔法が気に入らないなどと言っている状況ではない。利用できるものは全て利用し尽くす。そして殺す。

 

 「問題はデバイスなんだよなぁ」

 

 ヒルダは自らの細い腕を桃色の瞳で見つめる。

 右腕に嵌る待機状態の腕輪型デバイスを見て、何度目か解らない失望の吐息を吐き出した。

 

 彼女が所有するデバイスはストレージ型。処理速度は速いが、魔法を自己で選択して発動しなければならない。

 術者が優れていれば、高速で発動できるデバイスだ。魔法を発動する位相空間を作り出すストレージデバイスは、咒式世界の基本的な魔杖剣と変わりがない。

 

 だがヒルダは咒式に秀でてはいるが、魔法技術には適応仕切れてはいない。

 時間をかけて修練すれば、ヒルダは恐ろしい暗殺・奇襲型の魔導師へと変貌するであろう。

 彼女は魔法に対して、咒式と同様に価値ある殺人方法であると確信している。だが彼女には悠長に自らを鍛え上げている時間なんてものはない。

 

 となれば残る選択肢はインテリジェンスデバイスだ。

 人工知能を有し魔法の処理装置や状況判断、さらには所有者の性質による自らを調整する。

 意志の疎通が行えれば、魔法の威力の上昇。到達距離の強化や同時発動数の増加。無詠唱での発動に、魔導師とデバイスが別の思考を有することから、魔法の同時行使を可能とする。

 

 これは咒式世界を越える魔法世界最大の技術の結晶だ。

 

 魔法技術が未熟で魔法に関する見識が乏しくとも、戦闘中はデバイス自体が補佐し状況判断を行える。

 人工知能での判断や処理・自動調整に加え、魔法の強化や同時行使という咒式世界には存在しない革新的な機能だ。

 扱えなければ無用の長物らしいが、魔法戦闘を多く経験していない私にとってはストレージ型よりも、状況判断を行えるインテリジェンス型の方が魅力的だ。私自身の実力を二倍にも三倍にも押し上げてくれる事だろう。

 

 欲しい、絶対に欲しい。

 ストレージ型なんて役立たずよりも、インテリジェンス型のデバイスを使いたい。

 しかし――――

 

 「あーもうッ!何でうまくいかないのかなぁッ!?」

 

 インテリジェンスデバイスの入手は、ヒルダの思うようにいかなかった。

 

 ヒルダが所有しているストレージデバイスは、最新型であり魔法の処理能力が非情に高い。

 さらには容量拡張・演算能力の強化・効果範囲の拡大・魔法効果の強化など独自の調整とアレンジが加えられている。時空管理局の局員に支給されるデバイスとでは天と地ほども差があるだろう。魔法技術現段階において、最高峰のストレージ型デバイスだ。

 

 これはヒルダが元々所持していたストレージデバイスではない。

 

 第XXX管理世界の優れた魔導士が所有していたデバイスを、ヒルダが殺害し強奪したものだ。

 情報屋から優れたストレージデバイスの使い手の情報を手に入れ、エミレオの書により魔導士を暗殺。

 奪い取り、技術屋に金を積み立てて認証を外させる。どこの世界にも、金さえ払えば動く連中はいる。

 さらに材料費を惜しまず湯水の如く高い金を払い、ヒルダが扱いやすいよう改良した。

 

 私が持っていなければ、持っている馬鹿から奪い取ればいい。

 雑魚が身に不相応のものを持ってはしゃいでいる姿は、ヒルダにとって見るに耐えない許し難いものだ。

 何よりもこの本物でかわいい私が殺し、奪い、挙げ句の果てには使ってやっているのだからむしろ喜ぶべきだろうに。

 

 ストレージデバイスはヒルダにとって入手が非常に簡単であった。

 何せこれまで通りの彼女のスタンスが通用したのだ。

 

 しかしインテリジェンスデバイスの入手となると、途端にうまくいかなかくなった。

 

 「はぁ~そりゃぁ最後に笑うのは全部私だけど、こうも思うようにいかないとへこむ。気晴らしにそこらへんを散歩しているゴミを掃除しよっかなぁ」

 

 ヒルダは口を尖らせながら、細い指先で壁を何度も小突く。

 

 まずインテリジェンスデバイス自体が大変高価だ。

 そのため所有者の数は大変少なく、またインテリジェンスデバイスの品質にも大きく差がある。

 加えて整備や改造には高度な技術を必要としている。人工知能を持つコアや、起動するプログラムの調整はストレージ型よりも遥かに難しく、専門の知識を必要としている。

 それを可能とする人材を表ではなく裏で見つけ出す事自体が困難だ。

 

 入手自体はストレージ型と変わらず、非常に簡単だ。殺して奪えばいい。逆にいえばこれ以上の手段は必要無いと、先日までのヒルダは考えていた。

 

 「どうせ使われるしか能のない道具なんだから、擬人(クツンツ)みたいにはいはい言うこと聞いていればいいじゃないッ!」

 

 実際手に入れる事には成功した。だが入手直後に問題が発生した。

 何と主を殺害され、自身の存在がヒルダに利用される事を素早く感知したインテリジェンスデバイスは、ヒルダの手の中で直ぐさま己のデータを全て消去した。

 

 まるで自らを拒むかのように、自らの人工知能データを吹き飛ばしたデバイスに、ヒルダは思わずその場で棒立ちになった。

 何とか復旧しようとあらゆる手を尽くしたものの、初期化ではなく基礎のデータまで消されたデバイスは復元できない。

 

 怒りのままにその場で光を失い沈黙するインテリジェンスデバイスを、木っ端微塵に握り潰した。

 他のインテリジェンスデバイスも同様であった。知能を有するが故に、ヒルダに使用される事を拒んだ。自決するかのように自らのデータを吹き飛ばす。

 

 三つ目のインテリジェンスデバイスを大破させた時点で、ヒルダは諦めた。

 

 「まさか私が機械如きに翻弄されるなんて、ヒルデが知ったら爆笑しかねない。もし元の世界に帰ったら絶対ヒルデはぶち殺す」

 

 壁に寄りかかりながらヒルダは決意を新たにする。

 自分の中で妹を惨殺したら妙にすっきりした。是非ともいつか妄想ではなく実践に移りたい。

 

 含み笑いに僅かに腰が前に曲がる。

 雷に打たれるかのような悪寒。

 

 危機迫る顔でヒルダはそのまま前方に転がる形での緊急回避を実行。直後、ヒルダが背を預けていた建物の側面が崩壊。

 触手のような金属のアームケーブルが、ヒルダの胴体が存在していた位置を通過。

 アームケーブルの先端に取り付けられた害意満載のアンカーが、空間をさ迷った後に後方に引き戻される。

 

 ヒルダの目には怒り。

 汚れた黒いドレスに付着した砂を払いながら、ゴシックロリータ形式のバリアジャケットを瞬時展開。

 凍てつくような視線は常に前方へ向けられていた。

 

 崩れ落ち、衝撃で塵と砂が舞う壁の向こうには宙に輝く四つの光点。

 

 「管理局ってわけじゃないわね、警告はないから。賞金もかけられていたし、そっち方面のお客さん?」

 

 問いに答えることなく、粉塵を突き破って正体が現れる。

 

 「でもないみたいね」

 

 ヒルダは目を細めながら、魔杖風琴及び剣型のストレージデバイスを構える。

 

 全長八十センチメルトル程の空中に浮遊する球体。完全な円形ではなく、縦に長いカプセルのような球状をしている。

 前面には四つの黄色い球状のセンサーパーツが埋め込まれており、側面からは細く長い二メートル程のアームケーブルが突起。

 背後に連なるように浮遊する他の胴体は、アームケーブルが突出していない。格納が可能なのだろう。

 

 「これって魔導兵器よね、しかも中に人が入れる大きさでもなし。……殺害数が稼げないじゃない。ダメ、やる気でない」

 

 管理局が自立型の魔導兵器を使用するなど聞いた事がない。

 一般の魔導士がこのような損壊率もコストも高い、見るからに量産型の自立魔導兵器を使う可能性は皆無。

 どこの誰に目を付けられたのかとヒルダは苛立つが、心当たりが多すぎて絞り切れない。それ以前に馬鹿で汚い連中が勝手に抱いた恨み言なんて、いちいち覚えていられない。

 

 頭上、さらには逃走通路を塞ぐように、ヒルダとの距離を徐々に詰める魔導兵器達。

 密かに探知魔法、探知咒式を並列発動。探知魔法には対策が施せる。しかし探知咒式に対抗することは、咒式の存在を知りえない魔法世界において不可能に近い。

 

 付近に生体反応、魔力反応共に感知せず。遠隔操作、または完全な自立型だ。

 ヒルダは探知結果に眉を顰める。

 

 この程度の戦力で私を殺害・捕獲できると考えた愉快な頭の持ち主か。

 それともこれはヒルダの情報を掴むために差し向けた生贄か。

 

 前者であればぶち殺し、後者であってもぶち殺す。なんだ、やることは一切変わりがないじゃない♪

 

 周囲を取り囲む魔導兵器を一笑。ヒルダの頭上にエミレオの書が出現。

 感情のない兵器をせせら笑っていたヒルダの表情が一転。目に怒気を燃やして咒力を指に纏う。

 

 「こんな玩具で私を倒せるわけがないっての。ザッハドの使徒をなめるな」

 

 エミレオの書から青い燐光の数列が床に流れ落ちていた。床を伝い、ビルの側面を這い上がる。

 さらに青い光は魔導兵器の隙間を縫うように、地下を潜っていた。

 

 異常をようやく襲撃者は察したのか、魔導兵器の正面で黄色いセンサーが光輝く。

 

 「遅いってーの」

 

 壁の側面から四角い組成式が発光。壁に取り付けられるかのように出現した鳥居から青い円の組成式が溢れ出す。

 次の瞬間、刃の歯と大口が壁を粉砕。青黒い体が上昇。

 寸どまりの鯨ほどの大きさを持つボラーが、衝撃で浮かんだ壁の塊ごと空中を浮遊する魔導兵器を喰らった。

 

 さらに空中で体を反転させ、ボラーに向けて熱線を放った魔導兵器の上空で落下。

 いくつもの激しい爆発が、ボラーの胴体の下で巻き起こされる。

 ボラーが大口を開けて地を掘削しながら疾走を開始。魔導兵器は熱線をボラーに浴びせるも、ボラーの口腔は全てのエネルギーを分解し吸引されていく。

 

 「遊んであげる、ガラクタ共」

 

 自らへ向かって放たれる熱線を躱しながら、ヒルダは不敵な笑みを魔導兵器へ向けた。

 




 ■ ■ ■

 プロローグを含めたいくつかの話のおかしい箇所を修正。
 パソコンの調子とインターネットの回線状況が悪い。インターネットの回線は管理者、プロバイダに問題があったからすぐに解決したが、パソコン自体は……。


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11話 正義の在処

 「ロストロギア……」

 

 「凶悪犯罪者がロストロギアを扱う魔導士だとッ!?」

 

 はやてはただアシルを見つめていた。

 大頬骨筋、眼輪筋、皺眉筋などの表情筋に動きは見られない。

 だが能面のように感情を表さない顔に反して、はやての内面は黒い何かが込み上げてくるかのような錯覚を覚えていた。

 

 無表情なままにアシルから視線を離さないはやて。

 重く息苦しさを感じ、歴戦の局員ですら竦む強烈な威圧感。

 表情が微動だにしないはやてに、周囲の局員達の顔に怯えが生じ始めた。

 ゲンヤがそれを悟ったのか、はやての肩を静かに叩き諭す。我に返ったはやてが、ゲンヤに目礼しつつ視線を正面に戻した。

 

 はやての威圧感が和らぎはするものの、いまだ彼女の表情はどこか固い。

 一瞬空気の流れを感じ取ったアシルがはやて達の方向へ顔を向けるも、すぐに説明に戻るべく資料を読み上げていく。

 

 「ヒルダの戦闘は、召喚魔導師が行う戦術と酷似している。戦いの核となる魔法生物を多重召喚。自らはその援護や補助に努め、魔法生物の戦闘に対してアシストを行う」

 

 通例の召喚魔導士は自らが持つ力量ではなく、召喚した魔法生物の戦闘能力を主軸として戦闘を展開する。

 召喚者である魔導士自身は魔法生物の操作、補助を基点とした魔法を発動。

 召喚魔導士は戦闘中に広い視野を持つことで戦術を考案し、魔法生物を統率する指揮官的役割を担っている。

 

 そのため召喚される魔法生物の戦闘力だけではなく、召喚魔導士側にも実力と経験は必須だ。

 召喚技能はただ所有するだけでは意味はなく、高い練度が要求されるレアスキル。極めて難易度が高い特殊技能といえる。

 

 だがその分、熟練の召喚魔導士が行う戦闘は『圧巻』の一言につきよう。

 

 戦場を一変させる強大な竜を使役、一個大隊並みの実力を有する召喚魔導士。

 一体一体の脅威は低いが、それを数百を率いる事で軍略に等しい戦闘を行う召喚魔導士も確認されている。

 知が無き暴勇の怪物を、一騎当千の英雄に。数だけが取り柄の弱者達を、獅子憤然の活躍をする一個大隊に変貌させる。

 

 個の実力が評価される魔導士の基準において、召喚魔導士は常識からかけ離れた異質さを備えているのだ。

 

 「ヒルダ・ペネロテの魔法生物は皆、彼女が所有する魔導書を介して召喚されている。この魔法生物は魔法書の防衛プログラムである可能性が調査班から示唆されているが、未だ判明してはいない」

 

 高度に発展した技術の遺産であるロストロギアを所有。あまつさえ使いこなしているなど悪夢としか思えない。

 

 それも管理局に敵対し、既に交渉の余地がない凶悪犯罪者であるとすればなおさらだ。

 失われた超技術と管理局は戦闘を余儀なくされている状況。そして局員側の死者は既に五十名近い。

 

 ヒルダを打倒すべく集った管理局員達の顔には苦渋の様が窺える。

 ここにいる者達全員が何らかの思惑はあるにしろ、ヒルダの脅威を改めて認識せざるを得なくなった。

 

 「ヒルダ・ペネロテが所有する魔導書。闇の書のように守護騎士プログラムなのか。それとも魔法生物を封印するためのものか。制御するためのものなのか。それは現段階では判断できない」

 

 アシルが手を振る。魔粒子情報端末が起動、空中に三つの立体映像が投影される。

 映像に映し出されたのは異形の魔法生物達。どれ一つとして同じ形はなく、ここに集った局員たちが知る魔法生物の系譜に当てはまらない化け物共の姿であった。

 

 「だがこいつらは全員が理解不能、無慈悲に人を殺害できる魔法生物だ。ヒルダ・ペネロテが使役する魔法生物についての情報を捜査中だが、結果は芳しくはない。ミッドチルダ及び管理世界や記録データ、無限書庫内の情報を調査しているものの、そもそも特殊な魔法生物自体の情報が稀有だ」

 

 厳しい表情を浮かべるアシル。同様に局員達の顔も険しい。

 

  「まず一体目だ」

 

 三つの映像のうち、一つの映像が拡大される。

 

 ヒルダ・ペネロテの肩に蹲る魔法生物の姿。

 毛むくじゃらの塊。よく見れば三角の耳と、四つの狸のような足を生やしている。

 一見すれば魔導師が作成し、使役する魔法生命体の一つである『使い魔』のような姿をしていた。

 

 使い魔とは動物が死亡する直前または直後に、人造魂魄を憑依させる事で完成される魔法生物だ。

 肉体の生命を繋ぎ止め、なおかつ能力を設定して自らの駒として使役することができる。

 意思を持ち自立行動を可能としており、逆にそれらを封じて完璧な手駒にすることも可能だ。

 

 魔導師が使い魔を引き連れて行動すること自体は、そう珍しいことではない。

 だがこの魔法生物は、局員が知る通例の使い魔とはかけ離れていた。

 

 動物の顔が収まるべきところには、土気色の老人の顔。

 皺に埋もれた目には自立的な意思の光。ヒルダと共に戦場を見つめて無言の哄笑を行っているのか、口の形は三日月形。口の間からは黄ばみ、欠けた人間の歯がちらちらと確認できる。

 

 確かに使い魔は主人からの魔力供給、または自らが行う魔力の収集により人化が可能である。

 だが顔だけを人化、それも老人の顔に変えるなど聞いた事がない。頭のネジが飛んでいるとしか思えない発想だ。

 

 「魔法生物の詳細、能力は解っていない。この魔法生物自体には接近戦闘能力は無く、恐らくは支援型。もしくは後衛型の魔法を放つ魔法生物である事が考えられる」

 

 はやてはアシルを眺める。厳しい執務官としての目の輝き、策略の目だ。

 

 「問題は残る二体だ」

 

 老人の顔をした魔法生物の映像に重なるように、置くに位置した映像が拡大される。

 

 大型の竜種に匹敵する青黒い巨体。

 皮膚を覆う粘膜は恒星の光に反射して、鈍い輝きを放っている。

 目や鼻、耳などといった繊細な器官が存在しない流線型の体。

 

 最大の特徴は顔の位置に存在する洞窟のように大きな口。

 立ち並ぶ犬歯は鋭く口内に聳え立つ。歯を伝う酸性の涎は、床に転がる瓦礫を穿つ。まるで地獄の窯を開くかのような、底が見えない口腔の闇。

 

 「これは『大喰らいボラー』とヒルダ・ぺネロテが呼称する魔法生物だ。今回もっとも大きな被害を武装局員に与えたといってもいい。攻撃方法は単純極まりない」

 

 瞳が憎悪に揺れるアシルは、まるで毒を吐くかのように言葉を発する。

 

 「口で噛み砕き、喰らう。生物として原始的な行動であり、考えることも悍ましい攻撃方法だ」

 

 全員の顔が一様に嫌悪感を表す。

 食べるという行為は、生物として行う自然的な行動だ。生き物を捕食し、その栄養素を糧として行動する。文化や技術を発展させた人間はもちろん、動植物などが生きるために行う当然の行為。

 

 だがそれは常に『行う側』であった人間にとって恐怖そのものだ。

 殺し殺される闘争は未だこの世から消えてはいない。

 しかし魔法や銃器などの技術が発展するにつれて、人間が捕食されるという恐怖は次第に人々から消えていった。自らが食われる危機感を持つ人間など、この時代では皆無といっても過言ではない。

 

 だがこの魔法生物は『行われる側』の危機感を回帰させるのに十分な印象を与えた。

 

 「この生物の口腔内には非常に強力なAMF(アンチマギリンクフィールド)、またはそれに準ずる現象が発現している」

 

 AMF。高位防御魔法の一種だ。

 効果範囲内では攻撃魔法、移動魔法といった一切の魔法が妨害される。威力の減退、完全な無効化がされるのは魔法の発現現象に限られる。つまり魔力によって加速や強化された物体の無効化は不可能だ。

 AMFは魔導士殺しとも呼ばれる強力な魔法であり、並みの魔導士であれば完全に封殺。上級者であったとしても、弱体化からは逃れられない。

 

 「AMFの効果範囲は口内限定、胴体には効力が及んではいない。だが巨体通りの体力と耐久性は尋常ではない。複数の魔導士が行使したバインドを引きちぎり、攻撃魔法に耐え切れるだけの体力と耐久性」

 

 大きな体格を持つ竜種などの魔法生物は、その存在自体が脅威の塊だ。

 

 巨体から繰り出される爪は防御魔法ごと魔導師を粉砕。鱗に覆われた尾を叩きつければ体中の骨が砕け散る。

 魔法を発動せずとも、甚大な重量を保持する生物の力はただそれだけで恐ろしい。

 高い運動強度や運動エネルギーから生み出される力は、防御魔法など紙のように破って人体を回復不可能なまでに破壊する。

 

 彼らは容易に死体の山を築き上げる。

 竜種などの巨大魔法生物が行う肉弾戦。足や腕、尾など一撃は人族にとって強大な攻撃魔法に等しい。

 

 「加えて、この生物の魔法無効化能力は異常だ。エンチャントアップ・フィールド・インヴァリッドなどといった、対AMFの魔法が通用しない事が解っている」

 

 対AMFの魔法が通じない魔法無効化能力など悪夢に等しい。強大な生物との戦闘において、魔法での対抗以外の道筋は存在しない。

 さらに巨大な体力が持つ体力と耐久性は、並みの魔法では抑えつけられない。

 そんな魔法生物が魔導師によって率いられ、戦闘を行えるとなれば危険性が格段に上がる。

 

 苦悩する武装局員達を見て目を細めたアシルが端末を操作。残る最後の光学映像を正面に据えて拡大。

 

 映し出されたのは白い歯を見せて笑うヒルダの後方。浮遊する青く透明の塊。

 目をこらさなければ視認できないであろう奇妙な霧。

 

 「三体目の魔法生物だ。そもそもこれが生物なのかすら解っていない」

 

 眉を顰めて件の魔法生物を見定めるアシル。

 他の管理局の局員達も、半ば呆然とした様子で映像に瞠目していた。

 

 先ほどの異形の使い魔も異常な生態であったが、この魔法生物もそれに劣らぬ異体だ。

 

 空からの降りそそぐ日差しが、魔法生物の体を透過していた。

 薄青い肥満体は透明ではなく、薄青い霧状になっている。つまり物体ではなく気体でこの魔法生物の体は生成されているのだ。

 二つに浮かんだ金色の光点は光り輝き、霧状に構成された頭部に位置している。

 だがそれは眼球ではなく、あくまで光点として存在するのみ。

 

 消化器官、肺、心臓などといった臓器。骨格、筋組織といった生体を構成する器官が一切存在していない。

 

 「体は気体で構成されているが、魔法による生成現象ではなく確かに実体として存在している。現にこの生物は腕を奮う事で、ヒルダの部下であった魔導師を殺害した。気体を収束化させたのか、それとも透過させていた体を実体化させたのかは解らないが」

 

 端末を素早く操作。局員達へ資料が一斉に転送された。

 

 「ボラー以外の二体の魔法生物を召喚していた際。ヒルダによって複数の武装局員が殺害されている。これら二体の魔法生物のどちらか、もしくはヒルダ・ペネロテの魔法である可能性が極めて高い。司法解剖の結果は手元の資料通りだ」

 

 映像でいくつもの画面が表示。詳細な分析情報を読み取るに連れて、歴戦の局員達が静かな唸り声を上げていく。

 はやてとゲンヤも同様に、鋭い視線を手元へ向けていた。

 

 口腔・眼孔・鼻孔・耳孔から出血。遺体は舌が膨張しており、酸素欠乏症の症状が見られる。局員は魔法による酸素供給、繊細器官の治療を試みたが効果は見られず。

 奇跡的に無事だった治療者のデバイスの観測情報によれば、内臓に大きな損傷を確認。遺体の損傷が激しく、該当の臓器官については詳細不明。救出後、僅か十数秒で死亡。

 

 「完全な医療魔法を心得ている者のデバイスではないために、詳細な診断結果はわからない。だがこの魔法は人体を内側から破壊する」

 

 極限の恐怖に顔を強ばらせる遺体。眼球があるべき所に存在せず、赤黒い空洞が虚空を見つめていた。

 確実に殺すための魔法、それを躊躇いもなく使用する魔導師の存在。

 凶悪な魔法生物に目が行きがちだが、それらを使役するヒルダ・ぺネロテも十分に警戒すべき戦力だ。

 

 「恐らくは結界魔法、それに準ずるものだろう。結界内における限定効果魔法、つまりエリアタイプだ。だが通常空間から特定の空間を切り取るものとは違い、あくまで通常空間で発生させている」

 

 アシルの見解に全員が聞き入っていた。

 

 「だが結界の効果範囲は広くはない。さらに結界の座標を指定し、発動するのには数秒の余裕がある。加えて危険な結界魔法であるが故に、ヒルダ自身を範囲内に発動できないだろう」

 

 アシルが口を閉じる。

 はやてにはアシルが何かに呻吟しているかのように思えた。

 数秒の後に再度言葉を発したアシルの言葉は、そのはやてに大きな衝撃を与えた。

 

 「さて。この結界魔法は発動前に詠唱や魔法陣の形成、魔力の収束、魔力結合が観測できない。つまり完成次第ノーアクションで発動される。さらに対処法を掴んでいない以上、補足されればまず命は無い」

 

 アシルが放った言葉は、局員達の思考を止めるのに十分な意味を備えていた。

 多くの局員達は自らの耳を疑う。それぞれがアシルの言葉に納得と理解ができないといった面持ちであった。

 

 ノーアクションで発動される魔法はまだ理解が可能だ。しかし魔力の収束、魔力結合が観測できないとなると話は変わる。

 

 状況を察したであろうアシルが、局員達に見えるよう右腕を掲げた。まるでこの混乱を予想していたかのように、アシルは手を掲げることで局員達の喧騒を遮る。

 アシルは局員らの内心を察するかのよう、静かに頷く。

 

 「ボラーのAMFに似た魔法、そして結界魔法と疑わしき現象。これらは魔力反応と魔力結合が確認出来ない。我々が考えられる可能性は三つ」

 

 アシルは掲げた右手の人差し指を立てる。

 

 「一つ目はヒルダ自身が大魔法ともいえる隠蔽魔法を発動した可能性」

 

 アシルの独白に似た分析が並べられていく。

 

 「エリアタイプの結界魔法は、空間自体を改変するために多くの魔力を使う。発動だけではなく、魔力結合や魔力反応の隠蔽にまで魔力を割くのであれば、ヒルダ・ぺネロテはSSランクの超魔導士だ。しかし自身の持つ魔力反応の隠蔽を行ってはいない事は、誰もが疑問に思うほどに不自然。姿を隠す知恵がある魔導士が、自らの魔力を隠蔽を行わないことは考えられない。よってこの可能性は低い」

 

 続いて中指が立てられる。

 

 「二つ目、これがヒルダの自身の非常識極まりないレアスキルである可能性。しかしこれも先ほどと同じように、自身の魔力の隠蔽を行っていないため可能性は低い」

 

 薬指が立てられた。アシルの右手には三本目の指が掲げられ、最後の回答が述べられる。

 

 「三つ目、ヒルダが魔法とは隔絶した技術を用いている可能性だ」

 

 三つの指を立てた手が開かれ、横に振られる。

 それを確認したエミリアが携帯端末を取り出すと、パスワードを入力してロックを解除。

 フロアの公開ラインに情報を移していく。

 

 表示された情報にはやて、ゲンヤ、管理局員達が驚愕。

 時がまるで一瞬止まったかのように、彼らの思考の一切がその瞬間停止した。

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 立ち並ぶ大型建造物。そのビルの屋上に一つの影。

 

 「うわ~無茶苦茶ッスね」

 

 濃いピンクの髪を一つに束ねた少女。その額から一筋の汗が流れ落ちていく。

 

 ボラーが巨体からは想像もできぬ速度で突撃を開始。

 壁や舗装された道路を大口で食い破りながら、標的へ向けて進撃する。

 

 ボラーが向かう先には複数の浮遊するガジェットドローンⅠ型。

 四つの黒点型のセンサーがすぐさまボラーの攻撃を察知。隊列を為すガジェットの中央部に位置する浅黄色のパーツが一斉に発光。

 射撃装置から十を超える熱線の閃光がボラーに向かって放たれる。

 

 ガジェットからの攻撃である流星群のような熱線。その全てはボラーの顔が隠れるほどに開かれた口腔に次々と吸い込まれる。そして着弾と共に瞬時に分解、吸収。

 微塵の障害も感じさせず、猛然と突き進んだボラーの大口がさらに開口。

 ボラーによって遮られた恒星の光。生まれた影がガジェット達を覆ったと思った瞬間。

 目にも留まらぬ速さでボラーの口が閉じられ、口内に捕らわれたガジェットが爆発と共に咀嚼されていく。

 

 数で押し、数で制圧するガジェット達。だが巨大な肉体を持つボラーにとって、彼らの力はまるでたった数十匹の蟻に等しい。

 圧倒的な暴力がガジェットを蹂躙し尽くすのは、もはや時間の問題に思われた。

 

 ボラーが新たにガジェットの集団へ突撃、補食を開始。

 また数体のガジェットがボラーの餌となったその時。片方に傾いた戦場の天秤に変化がもたらされた。

 

 戦場を囲むビル群の側面が一つ、また一つ。壁に反射して響き渡る爆音と共に崩壊。濛々と立ちこめる粉塵を突き破る。

 

 現れたのは舗装された街路を転がり、回転しながら瓦礫を乗り越える球体。

 数メートルという大きな球体が、ボラーへと勢いそのままに続々と迫る。

 ガジェットを噛み砕き、飲み込むボラーを完全に包囲。急停止、さらに内蔵されたアームを出現させて球体状の胴体を固定する。

 

 Ⅰ型と同じく球体である大型・重装甲型のガジェットドローンⅢ型が、暴食を続けるボラーへ向けて位置を演算し標準を固定。

 三門の射撃装置から、Ⅰ型の数倍もの威力がある熱線を同時射撃。

 

 無効化能力を持たない粘膜が鈍く輝くボラーの表皮へ命中。それに倣うように空中に浮遊するⅠ型、機体を転がって現れたⅢ型が、先を争って熱線を連射し続ける。

 

 ボラーの皮膚が焦がされ、唸るような苦悶の声と共に体から青い血が流れ落ちる。

 

 「おお、これはいけるんじゃないっスかッ!?」

 

 期待を込めた視線を戦場へと向ける。

 だがその言葉に反応するかのように、背後から進み出る女性型の戦闘機人。そのままガジェット達へエールを送る彼女の横に並び立つ。

 

 「ウェンディちゃん、それ本気で言っているの?」

 

 嘲りの意を感じさせる発言。

 二つに束ねたブラウンの後ろ髪を風に靡かせながら、下がり気味であった眼鏡を指で押し上げる。

 

 「ふぇ?だってメガ姉、どうみてもあの化け物をボッコボコにしてるじゃないッスか」

 

 「クアットロって呼びなさい、ウェンディちゃん。まったく、ウェンディちゃんは本当にお馬鹿さんなんだから」

 

 自らを小馬鹿しながら意地の悪い笑みを浮かべるクアットロ。ウェンディは顔を不満に顰めた。

 

 「む~、チンク姉も私の味方っスよね?」

 

 膝を立てながらボラーを観察していた戦闘機人へと問いかける。

 二人に比べて身長が低く小柄な体。機械に覆われた体が鈍い輝きを放つ。長い銀髪に隠れた右目には眼帯。

 

 「……いや、クアットロの言葉に間違いは無い」

 

 ウェンディに返答しつつも、一つしか無い瞳は常に戦場へ向けられていた。

 

 「あまりにも体格が大きすぎる。あの程度では大したダメージは与えられないだろう」

 

 チンクの回答から僅か数秒後。

 ボラーが天へ轟く咆哮を上げると共に、ガジェットⅢ型の一体へ熱線の嵐を浴びながら驀進。

 

 ガジェットⅢ型はベルト状の腕を突出。伸縮する重金属の触手でボラーの突撃を受け止めようと試みる。

 金属の壁すら突き破る触手を、ボラーは巨大な口で勢いそのままに引き千切る。

 完全に体勢を崩したガジェットⅢ型へ、ボラーは俊敏な動きで再突進。大地を蹴って飛翔したボラーの口が、数メートルのガジェットⅢ型を丸呑みにした。

 

 それを見ていたウェンディの口が、顎が抜けるのではないかと思うほどに大きく開かれる。

 未だ撃たれ続ける熱線を物ともせず、口内のガジェットⅢ型を噛み砕き吸収。

 食い終わるや他のガジェットⅢ型やⅠ型へ突撃し、次々とガジェットを喰らい破壊していく。

 

 流れ出る青い血をそのままに暴食を続けるボラー。

 生理的嫌悪感を催す姿、そして負傷すら躊躇わない貪欲な食欲を持つ怪物。

 次第にウェンディの顔色がボラーの血と同色に染まっていく。

 

 「……うわぁ、なんちゅう無茶苦茶な奴っスか」

 

 「耐久性が高すぎる。砲撃魔法、それに準ずる一撃でなければあいつは止まらないだろうな」

 

 ボラーの蹂躙を見つめるチンクの瞳が揺れる。

 

 「魔法無効化能力、巨体と甚大な耐久性と体力を有する。我々ですら苦戦は避けられない。加えて――――」

 

 チンクの視線がボラーから離れ、その僅か先の方向に移動。

 目線の先には風琴のようなデバイスを操作し、戦場を素早く駆け回る少女。

 黒真珠のように黒く上品なドレス状のバリアジェット。少女の後方に浮遊する革表紙の本。

 

 チンクの瞳に映るヒルダは、嬉々としながら戦場を踊るように走り抜く。

 

 ヒルダを追跡するガジェットⅢ型、上空から熱線を射撃するⅠ型。

 数十体のガジェットがヒルダへ熾烈な攻撃を浴びせる。絶望的な数の差がヒルダ一人を襲っていた。

 

 だがヒルダの顔には余裕の笑みが浮かんでいる。

 口元が僅かに動いている。さらに視力を増強。拡大して口の動きを読み取るに、小唄を口ずさんでいる事が解った。

 チンク、クアットロ、ウェンディがそれぞれ不快な感情を顔に滲ませる。 

 

 ヒルダへ向けて熱線を放つべく、射撃装置を発光させたガジェットⅠ型が突如爆散。

 それに連なるように空中に浮かぶガジェットⅠ型が次々と爆発。

 一体が爆発したかと思いきや、次の瞬間には他のガジェットが破壊され爆発。まるで連鎖反応のように未知の攻撃を受け、急速に数を減らしていく。

 

 AIの処理領域を限界まで拡張、稼働。未知なる攻撃を観測するべくガジェットのセンサー状のパーツが絶え間なく点滅。

 しかし高速の弾丸はセンサーを完全に振り切り、次々とガジェットを打ち落としていく。

 稀代の天才と称されるドクターの検知機は、例え使い捨ての量産型に取り付けられた物であろうと一級品だ。

 にも関わらず空間情報、感知情報、魔力探知情報が完全なアンノウン。

 あのドクターの発明が、測定対象を識別できない。

 

 

 処理能力、耐久性に優れるガジェットⅢ型までもがⅠ型同様に射貫かれて破壊されていく。

 何重もの特殊金属装甲。対魔法のAMFを恒常的に発動。球体という避弾経始を目的としたガジェットⅢ型は、砲弾や物理攻撃の運動エネルギーを分散。高い防御力を兼ね備えている。

 

 だがヒルダが行う自動誘導射撃は、それら三つを尽く無視するかのようにガジェットⅢ型を破壊していく。

 いくら使い捨ての名もない雑魚。大量生産の発明品とはいえ、あそこまで抵抗無く破壊されれば気分が悪い。

 

 「クアットロ、あれの正体は掴めたか?」

 

 「何か小型の物体が高速移動している事はかろうじて解ったけれど……。それ以外はな~んにも解らないわ」

 

 クアットロの茶化すような言葉使い。しかしその言葉のノリはどこか芳しくない。

 

 「観測できたのは獲物を狙うため僅かに速度が落ちた状態のみ。それにしたって形状が一切識別出来ないんだもの。最高速になったらもうどうしようもないわね~」

 

 「それに加えてあのぬめぬめの化け物。絶対に戦いたくないっス」

 

 ウェンディが弱音を見せるが、チンクも内心は彼女に同意していた。

 

 戦闘機人は人の体と機会を融合させ、常人を越える肉体と能力を得た。

 頑丈な鋼の骨格と、強靱な人工筋肉。遺伝子調整やリンカーコアに干渉するプログラムユニット。

 人工骨格と人造臓器で構成された肉体は、戦闘で尋常ならぬ戦果を発揮する。

 

 だがヒルダが操る化け物共は異常過ぎた。

 

 あのアルハザード出身のドクター。スカリエッティですら興味を惹き付けて止まない化け物共は、戦闘機人集団ナンバーズにおいて既に最上の危険度に位置している。

 戦えと命令されれば戦う事に躊躇いがない。負けるつもりも無い。しかし何人の姉妹が破壊されることになるだろうか。 

 

 「クアットロ、それよりも例のデータは?」

 

 「大丈夫よ~。問題無く収集している最中だから」

 

 情報処理能力に優れるクアットロが、会話の最中に光学立体操作を実行。

 

 調査・収集されたデータを分析。いくつものグラフや測定情報が絶え間なく立体映像を流れていく。

 クアットロの周辺には七つもの立体光学映像が浮かび、重なっていた。多重思考(マルチタスク)により並列された情報を読み取り、端末へ打ち込みを絶え間なく行う。

 強化した動体視力を持つ他の戦闘機人でさえ、今の彼女の指裁きを完全に見切ることは難しい。

 数値や文字の羅列が何千も流れていく光景に、ウェンディは何故か頭痛がしてきた。

 

 「素晴らしいわね、ドクターの言う通りだわ」

 

 クアットロの艶やかな唇の端が、徐々に持ち上がっていく。

 

 「ねぇ、ウェンディちゃん。魔法ってどうやって発動するか解るかしら?」

 

 「あれっスね。魔力を込めて気合いで何とかすればどうにかなるっス」

 

 クアットロの中でウェンディの順位がさらに底を突き破って低下。

 既に二番底を突き破って三番底だ。ドクターが廃棄命令を出せば躊躇わずに破壊してもいい。

 ドクターは何故、このような思考分野に理解不能極まり無い遊びを持たせたのか。

 

 「魔法は魔導師が周辺に存在する魔力素をリンカーコアに取り込み、それを使用者が望むように調節した術式に沿って放出。詠唱や集中し、魔力結合を行うことで物理エネルギーに変換。空間に発現させるのが基本なわけ」

 

 解ったのか解らないのか、興味深そうに頷くウェンディは無視して言葉を続ける。

 馬鹿は馬鹿なりに解釈しているのだろう。もっとも、その解釈を知りたいとは到底思えないが。

 

 「つまりね、魔法を使うには魔力素の存在が必要不可欠なのよ。それをリンカーコアに貯め込むか、外部から魔力素の注入を受けない限りはどうがんばって魔法は発動できない」

 

 クアットロは光学立体映像の一つを、二人が見られるよう指先で操作。

 反転させ、チンクとウェンディの正面に同じ立体映像を投写する。

 

 「で、これがあのヒルダちゃんが現在戦闘している一帯の魔力素の流れ。最初のバリアジャケット装着以降は見ていて解ると思うけれど、魔力素の数値に一切の変化も無ければ空中に点在する魔力素の動きもない。あの素敵な化け物達が召喚された時でさえね」

 

 さらに光学立体映像の一つを拡大。

 

 「そしてこの情報がガジェットのAMFの情報よ。あの『大喰らいボラー』と『射手なるスナルグ』。後者は観測仕切れてはいない可能性があるけれど、どちらも魔力素の反応が一切無い。つまりあのボラーの魔法や熱線の無効化能力には、魔力素が一切使われていないという事」

 

 魔力書の吸収も放出も行われてはない。

 あとは言わなくても解るだろうと、クアットロは再度手元の作業に集中する。

 

 「え~と、つまりは……」

 

 「あのヒルダは魔法を一切使わない魔導師。そもそも魔導師である事自体が怪しいという事だ」

 

 言葉に詰まるウェンディの先を引き取る形でチンクが口を開く。

 

 「管理局、管理世界。我々戦闘機人においても、『魔法』という超科学の下に成立している。失われた都であるアルハザードでも魔法文化、魔法の技術が中心であった」

 

 「ドクターの故郷っスよね」

 

 「そうだ。だからこそドクターはヒルダ・ペネロテに注目しているのだ」

 

 既に収束しつつある戦場へ視界を戻す。

 ガジェットの残骸が山となって詰まれ、ヒルダが嗤い、ボラーが食い荒らし、スナルグの弾丸が掃討。この勝敗は誰が見ても明らかだ。

 

 「あれはまったく異なる技術系統。つまり管理外世界の人間だ。未知の世界、そこで発展した高度な超技術をドクターは欲している」

 

 「あんな化け物が闊歩する世界なのよ?その化け物をあんな感じで扱いこなしているということは、そこへ辿り着くまで戦闘技術の歴史があったはず。積み上げた技術の結晶が、彼女の世界には無数に散らばっていると言う事。ドクターでさえ知り合えない未知の技術が」

 

 クアットロが目を絶え間なく動かしながら、禍々しい笑みを浮かべる。

 

 「それはきっと素晴らしいものよ。ヒルダという存在がその世界を肯定している何よりの証拠。彼女が来た道を探り、辿りつくためにも彼女が私達には必要なの」

 

 もちろんそれが全てでは無い。

 それはあくまで過程の話であり、クアットロとスカリエッティの本心は別にある。

 だがウェンディはその応えに納得がいったのか、腕を組みながら感嘆の声を上げた。

 

 丁度その時、三人の戦闘機人の網膜に情報が透写される。

 

 ヒルダの戦闘が終了したことを告げる転送データだ。

 ガジェットドローンⅠ型三十体。ガジェットドローンⅢ型七体。共に壊滅。

 目的であったヒルダの戦闘情報と、未知の技術による発現データの収集は規定値に到達。

 

 髪をかきあげながら、立体光学映像の操作を終えたクアットロが満足げに微笑む。

 

 「さぁて、これで今回は終しま――――」

 

 瞬間、風の流れが引き裂かれた。

 

 「危ないっスッ!」

 

 ウェンディが奇跡とも呼べる高速反応。

 クアットロの正面に滑り込む。

 

 戦闘機人として強化されたはずの神経と筋肉が悲鳴を上げるが、刹那を争う危機に歯を食いしばりそれらを無視。

 さらに振り上げるようにしてウェンディの先天固有技能、エリアルレイヴと呼ばれるライディングボートを瞬時に床へ斜に構えて突き立てた。

 

 ウェンディ一人を完全に覆い隠し、なおかつガジェットⅢ型以上に堅固な大型プレート。

 自らを庇うかのように飛び込んだウェンディに、クアットロの顔は懐疑に染まる。

 

 金属と金属の激しい衝突音。同時に肉が潰れる鈍い音。

 疑念を抱いた顔のまま、ウェンディと共にクアットロは吹き飛ばされた。

 

 クアットロの体に吹き飛ばされたウェンディとエリアルレイヴが直撃。

 激しい衝撃に肺の中の空気が、涎の飛沫と共に一斉に吐き出される。

 あまりの瞬間的な力に頑強な骨が軋み、強剛な筋肉が耐えきれずに引きちぎられる感覚。

 

 クアットロが遅れてきた烈風を肌の感覚器官で感じた時には、二人の体は為すがままにビルの屋上から落下していた。

 

 「クアットロ、ウェンディッ!」

 

 チンクの叫びが遠くに聞こえると同時に現状を認識。

 クアットロは己が攻撃を受け、それをウェンディが庇ったのだと理解した。

 

 高速の風が空気の歪みと共に飛翔。

 音が去った事で結果論として弾丸の強襲が判明するのだ。なんて馬鹿げた攻撃ッ!

 

 「ヒル……ダの……狙撃……ッ!」

 

 戦闘型ではない自分では衝撃を受け流しきれない。

 焦りながらもウェンディを庇い、さらに緩衝材にするべくエリアルレイヴを吹き飛ばされながら引き寄せる。

 

 二人の体はビルの側面に直撃。側面に穴を穿ちながら転がり激突。砕け散ったガラスの破片が空中から耳障りな音を立てて床に散らばり落ちる。

 跳ねるようにして転がりながら壁に激突。クアットロとウェンディが床を回転しながら停止。衝撃で大きく損傷したエリアルレイヴが数瞬遅れて落下。

 

 視界は危機を告げる網膜映像で真っ赤に染まり、額から流れ落ちる血が眼球の上を通り過ぎる。

 両腕が捻れ曲がり、隣に身を投げだしたまま動かないウェンディからは弱い生体反応。どうやら悪運だけは強いらしい。

 幕が降りつつある意識の中で救援要請を発する。最後に開かれた立体映像に向かって指を操作した後、クアットロの意識は途切れた。

 

 チンクは姉と妹の生体反応を感知。無事を安堵すると同時に、歯を砕かんばかりに噛み締めた。

 

 「あははははははははッ!貴方も見た?あの不細工女二人が無様に吹き飛んでいくところ、ほんッとうに最高の見せ物だったわよねッ!」

 

 突如空中に出現した鳥居。そこから半身を出現させたボラーの頭上で、優雅に足を組みながら高笑いするヒルダ。

 愉快で仕方がないと、お腹を抱えてチンクを指を差す。目尻には笑いすぎたのか、涙が浮かんでいた。

 

 「……貴様、よくもクアットロとウェンディをッ!」

 

 咆えるように叫ぶチンクの手には抜き出した数本のナイフ。

 姉妹を傷つけられ怒るチンク嘲りながら、ヒルダは笑う事を止める様子はない。

 

 「馬鹿ねぇ、世界は等しく私の狩り場。お前達愚か者どもが安心して高みの見物出来るところなんて、ありはしないってーの」

 

 ヒルダの顔が僅かに曇る。

 

 「まさか魔法探知だけならまだしも、咒式探知まで逸らせるなんてね。吹き飛んだ連中か、お前の仕業か解らない。だけど面倒くさい奴を好き込んで生かすほど、私はあまあまのあまちゃんじゃないわけで――――」

 

 ヒルダが魔杖風琴の鍵盤へ咒力を込めて指を叩く。

 チンクを中心に高速不可視の弾丸が旋回。ボラーが酸性の涎を吹き飛ばしながら、空中に轟く咆哮。

 

 「――――死ね」

 

 

 ■ ■ ■

 

 「……ヒルダの存在自体が、既にロストロギアに近い。という事ですか」

 

 「ヒルダ・ペネロテは間違いなく管理外世界から訪れた人間。そして我々が知り得ない魔法とは異なる超技術を所有している。彼女の持つ魔導書、技術はロストロギアと呼称しても間違いはない」

 

 初老の局員が発した言葉にアシルが肯定。

 フロア全体を重苦しい空気が包み込んでいた。

 

 ヒルダ自体の情報があまりにも少ない。

 

 経歴も、戦闘手段も、使役される魔法生物の情報も満足に足りていない。

 そしてロストロギア級の技術が使用された、新体系の未知なる攻撃戦術。召喚され、率いられる未知の怪物達。

 

 「だが、ヒルダ・ペネロテが人間である限り我々に勝利の可能性は当然残されている」

 

 アシルが告げた言葉には、感情ではない確かな自信。

 

 「ヒルダ・ペネロテの性格は傲慢であり、自己敬愛が極めて強い。殺人者としての快楽を常に追い求め、一度自身の行動に酔ったならば人間ならば必ず隙を見せる」

 

 多くの事件を解決に導いてきた男の言葉は、集った正義の使徒達の胸に響く。

 

 「ヒルダは仲間を作り得ない。自己以外の人間を対等に見て、価値観を生み出せない怪物は、他者を利用できても活用する事は不可能だからだ。自己顕示欲が強く殺人を行い続け、カエストス魔法商会を滅ぼしたヒルダを好きこのんで取り込む人間はいない」

 

 アシルの冷徹な思考能力は、ヒルダの姿を既に捉えていた。

 勝利のために執念の炎を燃やす男に並び立つ部下達には、一切の怯えが見て取れない。 

 

 「既に各管理世界に指名手配の措置が行われている。ヒルダ・ペネロテが潜伏する管理世界は、管理局の介入が半ば強制的に行われる。現地の裏社会からすればヒルダ・ペネロテの存在は、自分達の領域を脅かす厄介者に過ぎない」

 

 ヒルダに対する裏社会の反応は決して良いものではない。ヒルダはやりすぎたのだ。

 管理局に対して敵対する者達の多くは、利権や利益を求めるが故にそのような姿勢を見せているに過ぎない。

 ヒルダの行動には利益がない。完全な個人の意思での行動であり、営利目的ではない。

 だからこそカエストス魔法商会はヒルダを切り捨てようとし、皆殺しの憂き目にあったのだ。

 

 扱えない駒に意味などない。かえって盤面を動かす上で邪魔にすらなる。

 ましてや利益が発生しない殺しなど、裏社会に生きる者にとっては完全に無意味だ。

 裏社会にとってヒルダという存在は、自らの利益圏を悪戯にかき回す害虫でしかない。

 

 「問題は時間だ。時間が経過する毎に管理局の威信は下がり、ヒルダへの協力者が現れる可能性が上がっていく」

 

 時間と共に俗物的な考えを働かせる人間が、ヒルダに手を貸すことは容易に想像できた。

 ヒルダを扱う事など不可能に近い。だが提示された利益が両者にとって有益であれば、彼女の方向性をカエストス魔法商会のように絞ることは可能だ。

 

 流れる血を啜ろうとする輩が現れる前に、この事件を解決しなければならない。

 ヒルダという一滴の水から生じた波紋が広がっていけばいくほどに、巻き込まれた罪なき人々の血が絶え間なく流れ続けることになる。

 管理局として、人としてこの事態は到底見過ごすことができるものではない。

 

 「時間も情報も足りないことは紛れもない純然たる事実。しかし管理局発足史上、そのような事件は数えきれぬほどに存在してきた。そして我々の先人は解決へと導いてきた。それは何故か」

 

 ゲンヤはアシルの言わんとする事を理解した。顔に思わず不快感を示す。

 だが現状ではアシルの行動は効果的だ。下手に時間を取られず、短時間で局員達の恐怖を取り除く事は間違いないだろう。

 

 しかし同じ人間として、それをやってのけようとするアシルに顔をしかめざるをえなかった。

 頭はそれが現在において最上の選択だと結論を出した。そうであっても胸に渦巻く濁った感情を認める事はできない。

 

 「正義と信念と誇り。この全てを胸に我々の先人は戦ってきたからだ。だからこそ現在、こうして管理局が百を超える次元世界に威厳を保ち、威徳を示して平和を保っている」

 

 ゲンヤの危惧通りに、言葉は恐れを抱いた局員達の胸に突き刺さった。

 淡々と述べていく言葉の裏側には、燃えたぎる熱き義心の炎が絶え間なく燃え続けていた。

 火はまるで燃え移るかのように、消えかけていた各々の心へと燃え広がっていく。

 

 「その我々が今、先人達と同じように大きな壁に立ち向かう時が来たのだ。時空管理局の未来を切り開き、後の世まで続く威信を繋げるべき機会が訪れたのだ」

 

 恐怖を殺すだけの建前が必要。

 だからこそアシルは追い立てるように局員達の逃げ道を塞いでいく。

 避ける事は許されない。戦わぬ道は無いと精神を追い込み、思考の幅を狭め、単純な結論に達せさせる。

 本人が自ずから選択したかのように思わせたのだ。

 

 「街を笑顔で歩く子供達。まだ幼い赤子。未来ある者達のために、私達は時空管理局の未来を紡がなければならない。私達の先を生きる子供達がヒルダの存在に怯え、嘆き、明日を見えぬ未来を生きる事は断じてあってはならない」

 

 アシルの思惑を理解したとして、彼の言葉には嘘が無い。反対など出来ようはずが無い。

 彼の言葉に否を唱えれば、それは管理局の存在理由に非を唱える事と変わらないからだ。

 

 「今一度、私は諸君にお願いしたい。時空管理局の未来のために、平和のために、どうか命を掛けて共に戦って欲しい」

 

 悩むだけ時間が無駄だ。決めろ。

 鷹の目のような鋭い視線が局員達を一舐めにする。

 

 懇願という脅迫に、局員達の意志は統一させられた。

 自らが掲げる題目を、誇りを提示され求められた今。彼らは戦う道を強制的に選択させられた。

 

 例えそれがヒルダの称える『祭り』を盛り立てることになろうとも。

 

 アシルの思惑通りにヒルダへの憎悪は最大限に高められた。

 後は彼らの目が覚めるまで、どれだけヒルダを追い詰める事が出来るのか。

 アシルが言ったように、時間との勝負に間違いない。

 

 だがゲンヤの勘は悲鳴を上げながら告げていた。この事件は早期の解決で終わるようなものではない。

 

 ゲンヤの静かな瞳は、正義の心を燃やす局員達を眺める。

 深い悲しみが彼の瞳には込められていた。

 柄ではないとは考えながらも、不確定な何かに心の中で祈らざるをえなかった。

 

 ここに決意を固めた局員達の翼を、どうかもがないで欲しい。

 子供達と同じように、未来を切り開く若人達の命を救って欲しいと。

 

 自らの妻の姿を知らず知らずに重ね合わせていた事に気が付く。

 ゲンヤは目蓋を一人閉じると、それ以降静かに瞑目を保ち続けた。

 

 

 




始めの五千字ぐらいは一日で書けるのですが、あとの一万字ぐらいで毎度躓きます。
あと友人からこの二次創作の題名、英語の部分の必要性を尋ねられました。

……特に無かったので消す事にしました。
いや、何か長すぎて題名が切れるとかえって不格好になっているので。

そしてナンバーズが登場。みなさんはどのキャラがお好きですか?
私はクアットロが好きですと言ったら、まったく同意が得られませんでした。

忙しいので、次回も更新はゆっくりになると思います。


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12話 激突

 「ヒルデ、ヒルド、ヒルヅ」

 

 私は笑っていた。

 楽しそうに、嬉しそうに笑っていた。唯々私は笑っていた。

 意味は無かった。意味は無くても楽しかった。意味を求めることを知らず、私たちは笑った。

 妹達も笑っていた。親はいなくても、友達はたくさんいた。想いを共有できる仲間がいた。

 

 そして、心が通じ合う姉妹がいた。だから怖くなかった。純粋に笑い、生きることを喜んだ。

 

 ヒルデ、ヒルド、ヒルヅが笑うと一緒に私も笑う。

 理由など存在しない。そこにそんなものが入り込む余地がなかった。ただ妹たちが笑うと、私も笑った。楽しかった。嬉しかった。

 いつまでもこうして笑っていられればいいのにって、ヒルヅが頬を膨らませる。

 きっと笑っていられるよ、私たちは大丈夫だからって、ヒルドが顔を綻ばせる。

 もちろん、だって私たちは可愛いし頭も良いしねって、ヒルデが照れくさそうに笑う。

 

 私たちを愛してくれる人がいなくても、私たちが必要とされなくても、私たちは生きていける。

 私たちは私たちを愛するから。私たちは私たちを必要とするから。だから私たちは生きていける。

 

 「まぁ、長姉である私が一番可愛いくて完璧だけれどねっ!」

 

 そう笑うと、一斉に妹たちが顔を不満に染めた。口々に私へ向かって、否定の言葉を投げかける。

 まず一番に「ヒルダ姉さんは幽霊なんてありもしないものを怖がるじゃない。私が一番よ」とヒルデが胸を張る。

 次ぎにヒルドが「ヒルデは臆病で恐がりだよ。やっぱり一番は勇気がある私だね」と名乗りを上げる。

 それを見咎めたヒルヅが「ヒルドはちょっと感情的になりやすいわ。ここは常に冷静で頭も良い私が一番」と得意げに指を振る。

 

 最後には四人全員がやいのやいのとお互いのだめ出しを行う。

 ヒルデが不満げに鼻を鳴らし、ヒルドが唸り声を上げ、ヒルヅが小馬鹿にするように嘲笑う。

 私は……ちょっと涙目だった。一番お姉さんなのに。

 

 どれぐらい言い合いをしたのか解らない。

 でもやがて全員の種が尽きて、咽も段々としみるように痛くなってきた時。

 

 誰かが笑った。

 

 誰が笑ったのか解らない。でも誰かが吹き出すように小さな笑い声を溢した。

 すぐに誰が笑ったのか解らなくなった。だってヒルデもヒルドもヒルヅも、私も笑っていたから。そのまま私たちは声を出して笑う。

 誰が最初に笑ったのかなんてどうでもよかった。ただおかしくて、楽しくて、嬉しくて。私たちは知らず知らずのうちに笑っていた。

 

 私たちは姉妹。大切な妹たちは家族であり、親友であり、理解者であり、堅い絆で結ばれている。

 私は三人を愛している。三人も私を愛している。だから私たちはどんなに苦しくても、悲しくても、辛くても、絶対に負けない。

 どんな絶望が来たって、私たち姉妹全員が一緒に戦えば勝てる。どんな困難が訪れても、必ず乗り越えられる。

 

 「ヒルデ、ヒルド、ヒルヅ。いつかここから逃げだそう」

 

 私の言葉に三人が振り返った。

 全員が驚いていて、ちょっと間抜けっぽくて可笑しかった。だってみんな馬鹿みたいに口を開けて呆けていたんだもの。

 

 本気なのって、妹たちは声に出ない声で問いかけている。

 だから私は胸を張って応えるのだ、だって私たちだものって。

 

 「外にはたくさん楽しい事があるわ。私たちは可愛いし強いもの、心配ないって」

 

 私自身、ちょっと自信が無かった。

 でも気がついた、気がつかされたのだ。ここにいる限り、私たちは本当の幸せを得られない。いつまでもあいつらのお人形のままだ。

 私たちはお人形じゃない。お人形はただ振り回され、遊ばれ、飽きられていくだけ。そんなの可愛くて完璧な私たち姉妹には当てはまるはずがないもの。

 

 しばらく妹たちは黙っていた。

 お互いに視線をさ迷わせることはあっても、口を開く事は無かった。

 でもやがてヒルドが決心したように顔を上げた。ヒルドの瞳にはひかりがあった。

 

 うん、そうしよう。私たちならできると、ヒルドは歯を見せて微笑む。

 

 確かな自信と共に発せられた言葉は重かった。

 その言葉にヒルデとヒルヅも勇気づけられたのか、賛同する意志を表す。

 ヒルデは私がいないと華が無いわ、と頬をかく。ヒルヅは姉さんたちだけじゃ心配だもの、と髪をかきあげる。

 私は笑った。三人も笑った。

 

 私たちならきっとどこまでもいける。私たち姉妹は可愛くて完璧だもの。

 四人いればどんな壁だって乗り越えるどころか、破壊できちゃうぐらい強くて賢いんだから。

 

 私たちは心に強く決め、互いに抱き合った。

 私の、ヒルデの、ヒルドの、ヒルヅの心臓が発する静かな心音が融け合うような気がした。より強く抱き合う。

 温かくて、心地よくて。この時、私たちは一つになっていた。

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 廃棄都市にて発生する連続的な爆発。激しい爆音が立ち並ぶ建物の間を反響する。

 続いて十メートルを超える建物が轟音を立てて傾斜、崩壊していく。それに巻き込まれる形で大小の建造物が下敷きとなり、押しつぶされるように破壊。

 

 その間を縫うように飛び回る小さな影が二つ。

 

 「いつまでそうやって逃げるわけ?」

 

 走り抜けるヒルダに追随する形で浮遊する複数の魔力スフィア。ヒルダの挑発と共に魔力スフィアからチンクへ向けて誘導弾が発射される。

 放たれた誘導弾が粉塵や瓦礫を吹き飛ばしながら、秒速百七十メートルという高速でチンクに接近。僅かな軌道修正を行いつつも速度や威力が一切減退しない射撃魔法に、チンクのナイフを握る小さな手が汗ばむ。

 

 指の間に挟んだ特殊合金ナイフを素早く投擲。数本の特殊合金ナイフが魔力弾へ放たれる。

 迎撃と読み取ったヒルダがストレージデバイスを素早く操作。同時に魔力スフィアと共に浮遊するエミリオの書が、青い燐光を撒き散らしながら発光。

 

 まるで自立した意志を得たかのように誘導弾が特殊合金ナイフを掻い潜っていく。

 誘導弾はある程度の指向性を操作できる魔力弾だ。だがここまで奇っ怪な機動を行わせる事は、例え熟練のSランク魔導師でさえ困難。それを複数の誘導弾、さらに実戦で行うなどあまりにも馬鹿げている。

 

 「死ねッ!」

 

 ヒルダの叫びと共に誘導弾が次々とチンクへと目に霞む速度で迫る。

 

 だが直後、誘導弾と交差した特殊合金ナイフが一斉に爆発。

 チンクの先天固有技能である『ランブルデトネイター』の能力が発動した。一定時間手で触れた金属にエネルギーを付与、TNT爆薬と同等の起爆薬として金属体を爆破させる。

 

 秒速二千メートルの爆風が誘導弾と区画一角を破砕。激しい爆風に巻き込まれた誘導弾が全て消滅。

 さらに衝撃波が轟音と共に拡散。無人の高層ビルが大きく振動。強化ガラスが次々と砕け散り、チンクの頭上から五月雨の如く降りそそぐ。

 

 だがチンクは構う事なく突撃を開始。

 手には固有武装である、特殊合金スローイングナイフ『スティンガー』を既に展開し終えていた。ナイフの射程範囲に持ち込むべく、街路を踏み砕き駆け抜ける。

 

 ヒルダが飛行魔法で後退を行いながら嗤う。ストレージデバイスによりトリガーが引かれた。

 

 次の瞬間、チンクの足下にミッドチルダ式の魔法陣が出現。召喚されたバインドがチンクの足を絡め取った。直ぐさまチンクの固有武装防御外套『シェルコート』のAMFによる魔法無効化能力でバインドは消滅。

 だが僅かな足止めこそヒルダの狙い。一瞬の隙はチンクを窮地へ追い込むのに十分過ぎる。

 

 バインドの発生に呼応するかのように、チンクの周囲で複数のミッドチルダ式魔法陣が起動。足下周辺だけではなく、ビルの側面や空中にまで設置された魔法陣にチンクは絶句。

 逃げ場を完全に封殺する形で出現した魔法陣が、次々と強い光と共に深紅の魔力スフィアを召喚。

 発生した魔力スフィアは全方位三百六十度へ向けて魔力弾を無差別に乱射。非殺傷設定など度外視された死の嵐が、チンクへ牙を剥いた。

 

 目前で繰り広げられた死の宴に、チンクの思考能力が高速で稼働。

 戦闘機人の強靱な情報処理能力が最善策をコンマ一秒で叩き出す。

 

 シェルコートの支援を得て防御技能『ハードシェル』を発動。一瞬でチンクを中心とした半球体状の防壁が展開。時を移さずして魔力弾の暴乱がチンクを襲う。

 施設規模の爆発にも耐える高硬度の防御と、拡散した魔力弾が激突。囂然たる鬩ぎ合いがハードシェルの表面で巻き起こった。

 

 魔力弾がビルの表面へ断続的に直撃、まるで穴あきチーズの如く虚空が穿たれていく。立ち並ぶ街灯が破壊されて宙へ吹き飛ぶ。街灯へ追い打ちを掛けるかのように魔力弾が命中、街灯をさらに高く打ち上げた。

 

 だが異常な威力を秘めた魔力弾は、町並みを蹂躙する威力があろうともハードシェルの防壁を射抜けない。シェルコートが自動発生させたAMFで威力が減退した魔力弾では、強固な防壁であるハードシェルを破壊できなかったのだ。

 

 ヒルダの狡猾な罠を封殺したチンクは、センサーにより土煙の向こうにヒルダを確認。ハードシェル越しにヒルダと視線が交差する。

 

 ヒルダの瞳に宿る蠱惑的な殺意に、チンクの危機察知能力が最大の警報を打ち鳴らす。

 立つ事すらままならない地響き。チンクは半ば転がるようにして前方へ飛び出す。鋼の骨格と人工筋肉は、常人には為し得ない超反応を実現させた。

 

 地響きと共に舗装道路が隆起。チンクが存在していた位置から大地を食い破るようにしてボラーが出現した。

 ヒルダの三重の罠にチンクの顔からは完全に余裕が抜け落ちている。戦闘機人の強靱な機械化された肉体でなければ、回避行動を成功出来なかった。

 

 ボラーの透過能力により、召喚位置は神出鬼没。エミレオの書から伝う数式を目視できなければ、出現位置を観測する事は不可能だ。

 土煙で視界を覆われた状態で、ボラーの召喚を予測できたことは偶然に近い。機械化により効率化された頭脳に救われた。元来の頭脳では既に十回は死んでいる。

 

 ボラーが勢いそのままに方向転換。攻撃対象へ向けて深淵の口腔を開くボラーに、チンクの髪から汗が伝い落ちた。

 貪欲な食欲を向きだしにしてボラーがチンクへ突撃。巨体からは想像も出来ぬ速度で接近するボラーへ、チンクは素早くスティンガーを投擲した。

 

 ボラーがナイフごとチンクを喰うべく、顔が隠れるほどの大口を開帳。

 だがチンクはボラーの口腔へスティンガーが飛び込む前にランブルデトネイターを発動。

 顔面でこれまでの比では無い大爆発が発生。だがボラーの吸収能力はそれ以上の効果を発揮。爆風と舞い上がった土煙を突き破り、無傷で姿を現した。

 

 再度ボラーが突撃を仕掛けようとした瞬間。ボラーの左右の足下に突き刺さったスティンガーが爆発。地上を抉り取り、ボラーの体表を爆裂で焼き付けた。

 

 さらにボラーを挟むようにして聳え立つビルに刺さったスティンガーも次々と連続的に爆発。

 十数メートルの建造物が瓦礫と共にボラーへ倒壊していく。降りそそぐ金属や石材の瓦礫の山がボラーへ直撃。

 ボラーの苦しげな咆哮が発せられると同時に、足下に巨大な朱色の鳥居が出現。

 

 ボラーは倒れ迫る建造物から逃れるようにして、波紋が広がる鳥居の中へ逃げ込む。数瞬遅れて建物が完全に崩壊、空気を震わす轟音がチンクの耳を殴りつけた。

 

 「逃したかッ!?」

 

 再召喚、帰還を行う事で奇襲を行い回避を可能とするという理不尽極まり無い戦法。

 効率的で効果は絶大だが、やられる側からすれば悪夢そのものだッ!

 

 ヒルダは笑みを浮かべながら再度誘導弾を放つべくストレージデバイスを掲げる。

 だがチンクはそれより早く大きく踏み込み、両手に収まるスティンガーを射出。ヒルダが存在する場所は既に攻撃範囲内に収まっている。

 チンクの肉体増強レベルはAAクラス。強化骨格や人造筋肉、人造血液から生み出されるパワーは投擲による長距離の攻撃を可能とした。

 

 前衛咒式士ばりの筋力で投げられたナイフは、ヒルダが誘導弾を発射するよりも早い。

 防御魔法を発動しようと、ランブルデトネイターにより防御魔法ごとヒルダを吹き飛ばす。高速で飛来するスティンガーに込められた爆発力は、区画毎吹き飛ばす十分な殺傷能力を秘めている。

 常に圧倒し続けて来た戦況は一転、ヒルダの不利に陥った。

 

 だがヒルダは余裕の態度を崩さない。咒力を込めた指先で魔杖風琴を奏でる。

 耳を叩く熾烈な金属音。着弾するスティンガーは目標から十数メートル地点で破砕。砕け散った金属片が散らばり落ちる。

 ヒルダの周囲に高速移動する執跡を確認。自立する弾丸がスティンガーを全て打ち落としたのだ。

 

 「可愛くて完璧な私が、お前みたいなドぶすに負ける訳がないでしょうが」

 

 魔力スフィアが先を争って発光。『射手なるスナルグ』により威力・速度・誘導性が跳ね上がった誘導弾を打ち出す。

 さらにヒルダの頭上を旋回していた弾丸が掻き消えた。

 

 チンクは後方へ飛び退りながらスティンガーを誘導弾へ向けて投擲。爆発させ迎撃と防御を行う。複数のスティンガーがヒルダへ狙い放たれるも、再度スナルグの弾丸に打ち砕かれていく。

 

 積み重なった瓦礫へ隠れるように転がり込む。

 激しい呼吸を整えながら、チンクはあまりの相性の悪さに歯を噛み締めた。

 立ち上る白煙を睨みつけながら状況を解析。

 

 ナイフによる近接戦闘・中距離戦闘を行う私では圧倒的に不利だ。

 中距離戦闘ではボラーに攪乱されながら、未知の強化を受けた誘導弾の攻撃を受ける。近接戦闘を行おうにも、スナルグの弾丸はチンクの接近を許さない。

 隙を見てナイフを放ったとしても、スナルグの音速に近い弾丸が全て破砕する。

 

 ヒルダの攻撃形態から接近戦が不得手な魔導師である事は分析できる。

 しかし理解していても己一人では対抗できない。疲弊した体力と残されたスティンガーの数では、これ以上時間を掛ける訳にいかない。

 だがヒルダの苛烈な攻撃を突破する事は容易ではない。

 

 せめて状況判断や幻影操作に長けたクアットロ。前衛・中距離射撃を行えるウェンディが無事であれば――――

 

 白煙を貫通する悪寒。

 チンクがその場を転がる。チンクが寸前までいた空間を、左へ右へ高速飛翔体が飛翔していく。

 壁としていた瓦礫に穴が穿たれ、巻き込まれるようにチンクの左手が爆散。瓦礫を崩して追撃を振り切りながらも、チンクの顔は苦痛に歪む。

 

 近距離で激しい方向転換してから狙っていたために回避が行えた。弾丸の速度が音速に至らなかった事が生きている原因だろう。

 

 流れ出る鮮血をそのままに、チンクは瓦礫から身を乗り出して走り出す。

 片腕ではヒルダの攻撃を捌き切ることが出来ない。このまま救援を期待して戦況を長引かせれば、先に死ぬのは自分。出血多量によるショック死だ。

 

 スナルグによる追尾を躱しながら、無人のビルの中へと駆け込む。

 外の広い空間ではスナルグの攻撃を防ぐ事は不可能に近い。最高速に乗ったスナルグは、戦闘機人が強化した視力でさえ捉えきる事ができないのだ。

 障害物や扉、壁を利用してスナルグの速度を落とす。戦闘機人の反応速度にスナルグを順応させる。

 

 威嚇射撃としてスティンガーを放ち、威力を抑えて起爆。フロア一帯を爆風が駆け抜ける。

 爆風を推進剤として飛び跳ね、壁を蹴って軌道を変化。扉をぶち抜いて室内に転がり込む。直前までの予測地点を疾風が抜けていく。

 目に見えてからの対処では遅い。スナルグの攻撃地点を予測して対応する他に対処法は存在しない。

 

 「あまり賭け事は好きではないのだがッ!」

 

 執道を自在に変化させるスナルグの弾丸がチンクを襲う。

 

 回避が数瞬遅れた事で、シェルコートの表面をスナルグが抉り取る。巻き込まれた銀髪の束が散った。

 ドクターが制作した超高度の防御外套が、まるでただの布切れのように裁断される。

 

 防御技能ハードシェルなら防ぐことが可能かもしれない。だが不確定な上に、展開中にボラーで強襲されれば食い壊される。

 左手を失った今、ボラーとスナルグの両方を相手取って生き残る可能性は限りなくゼロに近い。

 

 ヒルダの操る魔法生物に対して恐怖にも似た感情を抱きながら、チンクは階段を駆け上がっていく。

 

 勝機はある。今は一刻も早くヒルダの下へ。

 ヒルダの生体反応を観測、迷うことなくチンクはそこへ駆け抜ける。

 

 コンクリートの破片が飛び散り、壁に穴が空く。金属製の扉が貫通。衝撃に大きく凹みながら疾風と共に跳ね飛ばされる。

 

 スナルグが大きく上昇。高速の弾丸を見切る事は私に不可能。あと十数秒が限界。

 チンクは壁へ向けてスティンガーを投げ、ランブルデトネイターを発動。砕け崩れた壁を抜けて最短ルートを目指す。

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 ヒルダはストレージデバイスを用いて、敵対者を殺害するべく罠を設置していく。不可視の魔法陣は全て殺傷設定であり、管理局がこの光景を見れば憤怒することは想像に容易い。

 

 設置型捕獲魔法。設置型射撃魔法は爆発型と直射型に分かれる。

 どれも殺害を目的とした魔法陣。直接的な戦闘を苦手とするヒルダは、設置型の魔法陣の存在に歓喜した。

 

 設置型魔法陣は数法式法系咒式士が使う咒符に近い。

 張り紙や屑紙に偽装した咒符を隠し張り巡らせ独壇場となる戦場を作り上げる。

 追い込んだ咒式士を自らの戦場の中で封殺する戦い方は、数法式法系咒式士が好んで使う戦術だ。

 

 数法式法系咒式はヒルダの戦い方と相性が良い。しかしヒルダは適正が無い故に数法式法系咒式を扱う事は出来ない。

 だが魔法の存在によりその苦悩は解決。設置型の自動起動魔法陣により数法式法系と同様の働きを得ることが出来た。いや、不可視で空中にまで設置できる魔法陣の方が使い勝手がよい。

 中距離暗殺型のヒルダが取り仕切る舞台に敵を引きずり込むが可能となったのだ。

 

 「にしても時間が掛かっているわね」

 

 スナルグの追跡から逃れ続けるチンクに、ヒルダは苛立ちを隠そうともしない。

 時間の問題であることは間違いない。腕を一本を消し飛ばされたままで、よくエミレオの書からここまで逃れ続ける事ができるものだ。

 

 「ま、激しい運動で出血多量を招いているから時間の問題かな~」

 

 チンクの肉片と装甲の砕け散った破片、散乱する機械部品と人工血液から冷静に限界時間を計算する。

 千切れ落ちた部位から察するに、通常の人間ではない。機械的改造を施され、部位を機械に取り替えたのだろう。

 

 しかし世界の医療技術は高度であるが、応用が咒式のようには効かない。一度決定打となる一撃を与えた今、勝利は近い。

 

 咒式世界では例え腕がもがれようが、胸に穴が空こうがその場で治療が可能だ。

 心臓を貫かれたとしても、予備としての臓器が作用すれば戦闘を続行出来る。腕や足が吹き飛ぼうともその場で治療が行われ、復元することで戦場への復帰が可能となる。

 唯一頭脳などの極めて繊細な器官は致命傷となりうる。だが熟練の咒式士の中には、頭脳まで体の別の部位に移すような際物も珍しくない。

 

 故に咒式士との戦闘では、相手が完全に死亡した事が確認出来るまでは油断できない。

 腕が無くなり、足が無くなった程度では咒式戦闘において意味がない。下半身が吹き飛ばされようが、心臓が貫かれようが気は休まらない。

 完全に機能停止に陥るまで蹂躙し尽くす事によって、初めて勝利と判断出来るのだ。

 

 「まさか腕一つぶっ飛ばされたぐらいであんなに必死になるなんてねぇ。まぁ見ていてすっごい面白かったけれど♪」

 

 面白さ半分、呆気なさ半分の結果に戸惑いを覚える。

 

 咒式世界と魔法世界。二つの世界の間を生きるヒルダは、大きなずれを感じせざるをえない。

 その場で体の欠損した四肢を完全に再生するのには、超魔導師クラスかロストロギアでもなければ復元不可。対処が間に合わなければ義手や義足を医者に勧められる世界だ。

 

 咒式と魔法で優劣をつけるのであれば、治療事情は間違いなく咒式が優れている。

 

 「う~ん、チビは放っておいて先にあの雑魚二人を……。いや、やっぱ無し」

 

 先に攻撃を与えて以降、反応が一切無い他の二人を先に殺そうかとも考えた。だが速効で安易な思考を切り捨てる。

 

 チビがそれを証明しているようなものだ。私が何も解らないで誘導され、あいつらから引き離されたとでも思っているのか。

 既に戦闘を開始してから十分経過。味方の苦境に現れる様子は無い。戦闘続行不可に陥ったと見るべきだ。 

 

 「まぁ、焦る必要は無いっか。依然私が絶対的に有利な事に間違いは無いし。結末は素敵で完璧なこの私が、あいつら全員皆殺しってシナリオ。あいつちょっと生意気だったし、四肢を引き千切った後に仲間を一人一人目の前で殺してあ~げよっと」

 

 下手に隙を見せる必要は無い。確実に一人一人を殺していけばいい。

 私はペネロテ姉妹最後の一人。忌まわしい因縁を断ち切った本物。

 ど腐れ妹共とは違い、常に余裕を持たなければならない。余裕を持てないのは私以外の有象無象共で十分。

 

 ……というか、ここまで虚仮にされて許せるか馬鹿。

 顔を切り刻んで何回も殺してって叫ばしてやる。僅かな慈悲で死体はお菓子で彩ってあげよう。あいつら華が無いもんね。

 

 そこまで考えたヒルダは愉悦に笑みを深めるも、すぐに顔が疑問の色に染まる。

 スナルグのエミレオの書から送られてくる情報に眉を顰める。

 

 「……こちらに向かって来ている?覚悟を決めたって事?」

 

 エミレオの書では詳細な位置を確認出来ないためにサーチャーを飛ばす。

 自立行動で暴れる異貌の者どもの弊害だ。使い魔を通して視線を共有する魔法も存在するらしいが、エミレオの書という未知の咒式技術に対しての無茶は出来るだけ避けたい。

 

 「……魔力反応は探知出来ず。スナルグの咒力反応のみが頼りか」

 

 面倒くさい。

 

 どちらにしろあのチビの攻撃手段は、起爆する投げナイフのみ。

 爆発の威力は化学錬成系第三階位『爆炸吼(アイニ)』。威力調整次第では化学錬成系第四階位『曝轟蹂躙舞(アミ・イー)』のトリメチレントリニトロアミンに並ぶ。

 

 だが姿を現さなければならない事が致命的な弱点だ。

 空間で爆薬を生成し炸裂させる『爆炸吼(アイニ)』や『曝轟蹂躙舞(アミ・イー)』とは違い、あのチビはナイフを起爆させる事で爆発を起こす。

 

 肉体を強化された前衛咒式士さながらの投擲はやっかいだが、私であれば十二分に対応できる。

 ナイフは直線しか執道を描けないために、対処のしようはいくらでも存在する。

 仮に多少誘導性を保たせたとしても、誘導弾のような追尾に等しい指向性は持たせられない。

 

 ボラーによる肉壁。もしくはチビに纏わり付いているスナルグの弾丸で、放った直後に全て粉砕。後者は隙ができたチビも殺せてみんな幸せだ。

 罠の配置は万全。チビが確実に私を殺すべく接近戦に踏み込んだとしても私が勝つ。

 

 ボラーをエミレオの書から呼び出す。

 まるで水面のように揺れる鳥居の中から、青黒いボラーの巨体がのっそりと現れ出た。口の端から酸性の涎を垂らしながら、来るべき獲物を待ち望む。

 

 ストレージデバイスを油断無く構えた。

 チンクの距離から換算した到着推定時刻を間もなく迎える。

 気を張り詰めながら、注意深く周囲を窺う。周辺を探索するサーチャーは未だチンクの姿を捉えてはいない。遅い、早く来いってーの。

 

 苛立ちが次第に募り、ストレージデバイスを握る手に力が籠もったその時であった。

 髪を撫でる風に違和感。同時にパンハイマの業火やアンヘリオのエミレオの書、ガユスが放った核咒式に狙われるような、肌が張り詰められる感覚。

 それはヒルダが磨き上げた狩人としての勘。戦闘咒式士として築き上げた経験がヒルダを救った。

 

 即座に宙を見上げる。

 

 「……え?」

 

 呆然と眺めるヒルダの顔が空中に幾つも映し出されていた。

 

 空中に煌めく光点。否、それは太陽の光を反射する特殊合金ナイフであった。研ぎ澄まされた刃は、ヒルダの顔をまるで鏡のように映す。

 二十数本ものスティンガーがヒルダの頭上を囲むようにして点在していた。

 

 全てのスティンガーが眩い光をまき散らして発光。

 

 「あ」

 

 反射的にヒルダが咒力を指に纏う。

 

 エミレオの書の展開?

 不可能だ、間に合わない。

 

 防御魔法の発動?

 インテリジェンスデバイスならば自動でシールドを張っただろう。しかしストレージデバイスでは遅すぎる。

 

 回避行動?

 この状況でどこへ逃げるというのだ。

 

 ヒルダの顔が絶望に染まった。

 

 「巫山戯るなァァァァァァァァァァァァァァッ!」

 

 絶叫を上げながら魔杖風琴を奏でた直後。光がヒルダを包み込む。

 

 激しい轟音と共に全てのスティンガー大爆発。爆裂による衝撃波がヒルダやボラーごと一帯を飲み込んだ。烈風が大地を抉り砕き鉄骨を薙ぎ倒し蹂躙。遅れた爆風がガラス片や金属片、石片の一切を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 スナルグの弾丸が消えた。

 

 ビルの二階、窓の影から姿を現したチンクが溜め込んでいた息を全て吐き出す。

 右手で押さえつけて失血を防いでいた左腕が、烈風により激痛を発する。短い悲鳴が口から溢れるも、斜に倒れようとする体を何とか支えた。

 

 「……仕留めたか」

 

 濛々と立ち上る黒煙を窺う。

 威力が強過ぎたのか、未だ爆炎によって発生した濃煙は無くなる気配がない。

 

 チンクのランブルデトネイターを使用した攻撃技能『オーバーデトネイション』。

 Sランクの魔導師を単独で撃破したチンクの奥手。チンクが持つ最大の攻撃技能だ。

 

 デトネーション波は可燃性媒質中を超音速で伝播する燃焼波を指す言葉だ。

 

 オーバーデトネイションはスティンガーを大量に空中に発生させ、敵に集中射撃をかけ爆破する。

 空中爆発により爆風の入射波が地面にあたって地上反射波となり、重なり合う事でマッハ効果を生む。これにより直接波の二倍の過圧を示すマッハ軸が発生。

 衝撃波のような平面波ではなく、入射波、反射波、マッハ軸からなる三重衝撃波構造を作り出す。

 

 この効果による伝播速度は毎秒二千メートルを超え、爆発的な燃焼を引き起こす。さらにIS効果により気体と燃料が混ざり合った状態の混合気を形成。混合気は衝撃波によって瞬時に加熱され反応。

 圧力はバリアジェケットなどまるで紙同然に貶めるまでに上昇する。

 

 まともに直撃すればまず四肢がもがれ、全身が炭化し内臓を焼き尽くす。内と外側から人体を破壊する恐しい最悪の攻撃技能だ。

 

 「バリアジャケットを装備していたとしても、体の欠損が大きすぎるかもしれないな」

 

 遺体の回収。そしてロストロギアの書を回収しなければならないのだが、疲労と血を流しすぎたおかげで思うように体が動かない。

 もう少しで救援信号を受けたナンバーズが到着するだろう。随分と無様な姿を見せることになってしまった。

 

 自重の笑みを浮かべながら、休むべく腰を落とす。

 この損壊では、しばらくの間は修復により任務から離れなくてはならないだろう。

 

 「ドクターに連絡を取らねば……」

 

 無理を押して通信を試みようと、残った右手を動かす。

 

 チンクの体を疾風が突き抜けた。

 時を待たずしてチンクの胸からは機械部品が宙を舞い、血潮が風に乗るように体内かぶちまけられた。

 チンクの胴体には風穴が空き、背骨や肝臓に胆嚢などの人工臓器が消失。大腸や小腸などの消化管も体外へバラバラに千切れ飛ぶ。

 穴からは真っ赤な生体部位、そして大穴を開けたシェルコートが覗いていた。

 

 遅れたように吹き飛ぶ体は、為す術も無く二階の窓から一階に落下。血を纏った高速の風が天へと飛翔。

 チンクの頭上を一回転した高速の弾丸が、未だ立ち上る煙へ向かって突き進む。

 

 引き裂かれた粉塵の先には全身から銀色の血を流す青黒い巨体。

 痛みに唸り声を上げるボラーの大口が左右に開かれていく。

 口腔から伸ばされた舌の上には、負傷した体を抱きしめるヒルダが立っていた。

 

 ヒルダはボラーを操り自らの身を喰らわせ、口内に幽閉する事で爆風から逃れていたのだ。

 ボラーの表皮と肉を焼く事はできても、中まで爆風と衝撃波は襲ってこない。ヒルダは英断とも呼べる決断をあの一瞬で下したのだ。

 

 だが咄嗟の行動故に、完全に自身を守る事は叶わなかった。

 

 バリアジャケットは所々が破れ、大火傷を負う重傷。

 素肌を露出していた部分はさらに酷く焼けただれており、白い脂肪の塊が露出していた。

 髪は熱に焦げてちりぢりになり、端正な鼻は鼻腔内からの火傷で機能不全に。鼓膜は衝撃で破れ、耳の穴から赤黒い血が流れ出ている。

 全身に裂傷。とっさに口を閉じたおかげで内臓を損傷する事は無かったものの、体の至る所が裂けて流血している。

 

 ボラーの口内で浮かぶ二冊のエミレオの書の内、一冊が青白い光を放ち開かれた。高速の弾丸が飛び込み、革表紙の書が閉じられる。

 新たにエミレオの書が開き、鱗粉と共に異形の美女キヒーアが召喚される。

 

即座にキヒーアが咒式を発動。各内臓の機能維持、血管の再構築と造血、栄養と酸素の維持と、膨大な数の治癒咒式を並列作動。

 ヒルダの全身が発光。咒力、魔力共に完全に回復。光が収まるのと同時に歩を進める。足を舌の上から、土が丸出しになった地上に降ろす。

 

 バリアジェケットを再構成。乱れた髪を左手で整えながら、右手で握りしめられたストレージデバイスで魔力スフィアを生成する。

 

 「あ~、久しぶりにひやっとした。うん、死んだかと思った。実際エミレオの書が無かったら相当危ない状態っぽいし」

 

 ヒルダは全快した体の感触を確かめる。

 指を何度が動かしながら、ストレージデバイスを操作。弱めに発射された誘導弾が、倒れ伏し血を流すチンクに命中。弾んだ体が力なく横たわる。

 

 「生命反応があるから微妙に生きてはいるけれど、ボロボロ過ぎて何にも出来ない芋虫状態?うわ~かわいそう、でもマジでウザイからもっと苦しめバーカ」

 

 ボラーがヒルダの横に並び立つ。

 抑え付けられてさえいなければ、今すぐにでもチンクを喰い殺すだろう。

 殺気を凍えるように冷たい視線に乗せてチンクへと送る。ただ死を待つだけの敵を嘲笑い、唇を弧に歪める。

 

 「……と、思ってたんだけどさ。うん、もう限界。死ね、お前は死ね。不細工で、汚くて、弱くて、鬱陶しくて、ウザイお前は死ね。あと向こうでくたばってる連中でお前の分まで遊んであげる。だからお前はいらない、見たくもない死ね」

 

 ボラーが大口を開けて進撃。敷地を削り取りながらチンクへ突撃を敢行。人も無機物も関係なく食らい尽くす口が限界まで開かれた。

 体は破壊され、反撃どころか逃げる事もできない。おぼろげに感じる地響きに、チンクの意識は暗闇に落ちた。

 

 激突音。

 

 ボラーの小型の鯨程もある体が衝撃に跳ね上がった。

 長身の戦闘機人が踏み込んだ足が舗装路を踏み砕き、腿と足首、手首から高度エネルギーによる翼が発生。長身の戦闘機人の姿が消えた。

 

 ボラーの真横に戦闘機人が出現。ボラーの横顔が大きく凹み、巨体が浮き上がる。続けざまにボラーの体が揺れる。

 右足の一撃がボラーの顔を捉え、そのまま着地し軸足に。衝撃が伝わる間に回転した左足が追撃となりボラーの体を浮かせたのだ。

 さらに浮き上がったボラーの体に超高速の連打を叩き込んでいく。動きが速すぎて何が起こっているのか目で追えない。

 

 一撃を与えたと思えばボラーの体には四つの攻撃跡が刻み込まれ、二回攻撃を与えたと思えば十を超える傷跡が刻まれる。

 

 転がるボラーの反対側に長身の戦闘機人が出現。

 石床には高速で動いた際に生じた摩擦跡が生じ、足下には煙がまだ纏わり付いている。

 絶え間なく鳴り響く打撃音。ボラーが胃液を吐き出し、床を焦がす。その間にも長身の戦闘機人は三次元機動を行い、上下左右からボラーを攻め立てていく。

 

 ボラーが堪らず大口を開けながら咆哮。急停止により姿を見せた戦闘機人へ槍の如き歯を向けた。

 

 「遅い」

 

 鋭い鉄拳がボラーの胴体、顎、頭蓋を打ち抜く。

 短く切りそろえられた青髪が胴体と共に回転。振り抜かれたサバットのような足技がボラーに命中。速度の乗った豪脚の一撃がボラーを強襲。

 

 固有装備『インパルスブレード』を最大出力へ変更。手足に生えた八枚の羽のエネルギー密度が高くなり、眩い輝きを生み出す。

 超前衛型として開発されたオーバーSS越えの機体は、超高速機動能力は視認速度をとうに超えていた。

 

 勢いそのままにインパルスブレードがボラーに直撃。光沢を放つ皮膚を裂き、溢れ出る銀色の血液を蒸発させる。異常な速度と接近型戦闘機人が持つ力が合わさり、桁外れの強打がボラーの分厚い肉筋を尽く両断。

 生物反応速度を凌駕する一槌は、衝撃を逃さずボラーを地上に叩きつけた。

 

 苦悶の声を発しながらボラーは透過能力により地上に潜る。

 あの禍々しい異貌のものどもが、耐えきれずに苦悶の声を上げた。そのまま水面に飛び込むようにして土の中に逃げ込む。

 透過能力を使った退避。百を超える人間を喰らった古き巨人が、たった一人の戦闘機人によって撃退された

 

 残された戦闘機人はチンクを庇うようにしてヒルダと対峙する。

 艶のある体の線が浮き出た銀色のバトルスーツが鈍い輝きを放つ。

 鋭い鷹のような目には揺るぎない闘志。同胞を戦闘不能にした凶悪なザッハドの使徒を前にして、乱れを感じさせない佇まい。

 

 ヒルダの額から汗が伝い落ちた。

 

 纏う雰囲気がこれまでの雑魚共とはまったく別物。背中を虫が這うような寒気を覚えた。

 

 ボラーという怪物に怯えもせずに立ち向かい、撃退した改造魔導師。魔法ではなく肉体戦で退かせるなどまともな魔導師ではない。

 

 確かに魔法吸収能力を有するボラーと戦うのには理論的に有効な手段だ。

 ボラーの耐久性を超える収束魔法等の一撃は、吸収能力の際限が解らない上に、透過能力を扱い潜行・召喚を行うボラーには効果的ではない。

 

 単なる物理力、つまり打撃能力が唯一明らかになっているボラーへの有効な攻撃手段だ。

 

 だが小型のくじら程の体格を持つボラーに、物理力によってダメージを与える事は難題極まりない。

 特に魔法世界においては肉体強化魔法は存在するものの、肉体の構成自体を変えて莫大な筋力を生み出す咒式には及ばないとヒルダは想定していた。

 

 もしそれを可能とするのであれば、それは通常の魔導師から逸脱した魔導師。それに準ずる化け物。

 Aランクを超越する実力、単独で戦術兵器レベルの絶対者。咒式士にとっての最高階梯である十三階梯の異常者達だけだ。

 

 ボラーを正面から撃退した肉弾戦の咒式士はザッハドの使徒でも別格の『拳豪カヅフチ』のみ。

 人を辞めたといっても過言では無い超前衛型攻性咒式士だけだ。

 眼鏡やドラッケン族の剣士といった十三階梯の咒式士、パンハイマやロレンゾという階梯で計れない未知数の化け物咒式士ですら、ボラーを肉弾戦に持ち込む事などしなかった。

 

 前衛では無いとは言え攻性咒式士である私の目を振り切り、ボラーという耐久性と攻撃性を持ち合わせたエミレオの書を圧倒する。

 数百人殺した自分でさえ、対峙した経験の少ない超前衛型の強敵。

 

 焦りがヒルダの思考を短絡化させてしまった。

 通常通りの戦術によるのであれば、エミレオの書を展開して戦闘を行うべきであった。ボラーを帰還させ、新たなエミレオの書で確実に仕留める。または背後で動く事の出来ない瀕死のチンクを狙うべきだった。

 

 だがパンハイマ、ギギナ、ガユスという三名の到達者級攻性咒式士に敗北したという事実が、ヒルダの深層意識を蝕んでいたのだ。

 顔を潰され、下半身を焼き切られた苦痛。体は治療が可能である分目に見えて解るが、一度染みついた敗北の辛苦はそう忘れられるものでは無い。

 

 恐怖に駆られたヒルダは先制攻撃を考えて全魔力スフィアに指令を飛ばす。魔力スフィアからスナルグの援護を受けた誘導弾が射出。強烈な殺意を込めた魔力構成弾が空気を裂いて獲物へ滑空。

 

 ヒルダの射撃を見咎めた戦闘機人がインパルスブレードを構えた。舗装道路の表面をガラスのように踏み割り疾走。砂と小石が舞い上がる。正面から殺傷設定の魔力弾と対峙。

 

 「かかったッ!」

 

 ヒルダが興奮の声を発すると共に、設置型の魔法陣が次々と発動。

 身体を拘束するバインド、拡散弾を内蔵した魔力スフィア、魔力に反応して発動する起爆魔法の魔法陣が一斉に出現。長身の戦闘機人を殺すべく罠が先を争って起動する。

 さらに正面からは軌道を修正、敵を追い込む誘導弾。

 戦場と見間違う程の苛烈極まり無い悪意がたった一人目掛けて殺到。

 

 長身の戦闘機人はそれら全てを置き去りにしてヒルダに肉薄した。

 黄金色の瞳がヒルダを冷笑。

 

 「……え?」

 

 戦闘機人の背後、数十メートル先で起爆魔法が爆発。対象を見失ったバインドの先が空中をさ迷う。魔力の拡散弾が全てを一掃するかのように炸裂するが、放たれた百を超える弾丸は虚しく飛び散っただけであった。

 

 こいつ罠が起動するよりも速く、私の認識を超えた高速で接近をッ――――!?

 

 ヒルダが己の失敗を自覚したと同時に全身が打ち砕かれるような衝撃。

 腸、胃、肝臓が瞬間的な力に押しつぶされる。いくつかの臓器が破裂。助骨が粉砕。折れた骨が肺に何本も突き刺さる。

 人体の限界を超えた一撃は、ヒルダの体をまるで水袋のように切り裂く。右脇腹に半円状の大穴。腸が空中に千切れ飛ぶ。

 

 血と骨と内臓の破片を撒き散らしながらヒルダは吹き飛ばされビル群に激突。

 壁を突き破って二、三度回転しながら転倒。血の海を作り上げながら沈黙した。




謎の長身戦闘機人。いったいだれなんだー(棒)

咒式世界に適応したナンバーズはヤバイ。

・秒速200メートルを超える超前衛咒式士(化学鋼生成系・電磁光学系咒式士)
・幻影系統を好み、攪乱と指揮・統制を行うクアットロ(電磁光学・電波咒式士)
・中距離戦闘で爆発物を量産、奇襲を行えるチンク(化学錬成系咒式士)
・準遠距離・中距離型の砲撃を行い、後衛咒式士と前衛咒式士の間を守るウェンディ(電磁放射系咒式士)

そして残り未登場8名。なんか楽しくなってきますよね。


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13話 大鎌に首をもたげて

 私は神などという巫山戯た存在を妄信できるほど頭が愉快ではない。

 だが神の存在を認めてやっても良い、認めてやるから今すぐに私の前に現れろ。絶対に殺してやるから。

 

 覚醒した意識の中でヒルダは歯を噛みしめる。

 痛覚が遮断されているために余裕が生まれている。その余裕が何よりも今の私には必要であった。

 

 通常であれば動くどころか意識を保つことすら危うい重傷。

 脇腹には綺麗な半円状の大穴。直径三十センチメルトル。傷跡周辺の臓器も衝撃により破裂。千切れた小腸と大腸は無残に外界へ晒されて湯気を放っていた。

 傷は胸部にまで裂傷が広がっており、筋肉の繊維と皮膚がズタズタにされている。破れた血管から流れ出る血液のヘモグロビンが、赤い絨毯をヒルダの周りに作り上げる。

 

 ヒルダが全身テカテカタイツの趣味が悪い女に距離を詰められたと理解した瞬間。視界が真っ赤に染まり、あまりの激痛に目の前で火花が散った。

 気がつけばボールのように跳ね飛ばされて転がる。バリアジャケット、強化魔法、功性咒式士の強化骨格。全てをまるで紙のように破り、ヒルダに致命的な一撃をこともなげに与えたのだ。

 

 吹き飛ばされた瞬間、視界の影にヒルヅとヒルドが陽気に手を振っていた気がした。死んでもとことん私を苛立たせる愚妹共だ。

 

 込み上げる血反吐を吐き出しながら、忌々しげに己を取り巻く咒式の組成式を眺める。

 

 何重にも絡まるようにして自身に作用する幻想的な数列。キヒーアの治癒咒式は異常を極めている。

 増血咒式により失った血は補充。アセトアミノフェン、モルヒネなどの解熱や鎮痛作用が高い鎮痛・鎮静剤を生成。臓器を再生するのではなく、体外に摘出され一から作り上げていく。

 

 体外に吐き出された腸が、逆再生のように体内に引き戻されていく様子を眺めながらヒルダは微笑む。

 眉間に皺を寄らせ、剣呑さを発散しながらヒルダは桃色の唇を開いた。

 

 「殺す」

 

 あいつが何者か。裏に潜むものは何か。

 殺傷能力が高い攻撃手段を躊躇いもなく扱いこなしているため、非殺傷のお題目を掲げる時空管理局の魔導師ではない。

 何らかの方法で私の情報を得た何者かが、私へと放った刺客であると考えれば話は解りやすい。

 戦闘機器を運用できる財力と繋がりを持つ相手に狙われ始めたことは、人類の敵と称されたザッハドの使徒にとって遅いか早いかの違いだろう。咒式世界でもあったことだ、ある程度の予想はしていた。

 

 流石に差し向けられた機械化武装の魔導師が、カヅフチ並みの超級魔導師とは考えもしなかったが。

 魔法世界における十三階梯クラスの化け物を私へ差し向けるなど碌な人物ではあるまい。私の運は些か下降気味らしい。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 

 「絶対に殺す」

 

 ただあいつが私に一撃を与えたあの時。あの女が私を射貫いた目が気に入らない。

 

 「あの女は私に恐怖を抱いていなかった」

 

 超前衛型の咒式士。自身が最も苦手とする手合いである事に間違いはない。

 だが今の私にはエミレオの書がある。苦い敗北の経験が私を変えた。

 そっと右手で鼻をゆっくりと撫で上げる。キヒーアにより完全に治療されたはずの顔が疼く。

 

 「私は、何をしている。非殺傷なんて馬鹿げた連中の毒気に与えられたとしか思えない。感謝してあげる、そしてこれが最初で最後の感謝」

 

 口から発せられた宛のない言葉は覚悟の表明。

 平穏な世界に犯された心との決別。精神に区切りを付ける事でヒルダは真の意味でザッハドの使徒へと変わる。

 

 心のどこかに生温い世界で生きる自分を見ていた。ゴミや虫と呼び嘲った人々と笑い会う自分を、ただ一人の少女として生きていく自分を幻視していた。

 もしこうであったならという後悔は蠢く凡愚と同列の思考。それを紡いでいた己に吐き気がすら感じる。

 

 これまでと全く異なる世界というのは、ヒルダにとって非常に強い毒であった。

 今まで歩んできた道を知るものがいないことは、多くの人間にとっては恐怖だ。

 何せ自分の証明となるものが何もない。地位、人間関係、金銭といった他力で成り立つ要素が全て奪われる。『私』が『私』であるという証明を示す手段を持ち合わせるのが『私』だけしか存在しない。

 

 その点私は最高の自分の証明手段を知っている。殺人という何ものにも代え難い証明手段だ。

 だが、それ以外の術も確かにあった。平穏に日々を送る道も存在していた。実際私の実力があれば、その道を歩むことはそう難しい事ではない。

 

 しかし、本物である私は偽物である馬鹿共の存在を許容できない。生理的嫌悪感を抱いているといってもいい。

 

 有象無象は己こそが他者とは違い利口であると、さも一人で成り上がったかのように振る舞い勘違いしている。

 実際はその真逆だ。他の存在により成り上がり、他者を取り込んで肥大化した豚であることを自覚していない。

 馬鹿共が誇る姿は幾多の同類の助けを得て、幾多の同類の利益をかすめとった結晶体でしかない。

 

 それはなんて醜悪で汚らしい姿か。

 汚物を纏って生きる虫螻が、さも当然のように生きる権利を主張している。

 虫螻が己の持つ価値観こそが絶対であると、我が物顔で振る舞う世界。

 その価値観こそが落とし穴であると連中は理解していない。

 

 あいつらは他人と自分を比べることでしか価値を保てない。

 他人を必要としなければ自分を保てない。弱くて惨めで愚かしい塵だ。

 気がつくことなく他人から植え付けられた知識で育ち、社会の豚共の都合のよい通念を至上の考えであると取り違えて生きる。

 与えられるだけのコトワリに殉ずることしかできない。与えられた世界でしか生きることができない弱者。

 

 生まれてから死ぬまで、豚は同じ豚共のしがらみの中でしか生きられない。守られた世界でしか生きられない。

 群れた中でしか己の価値を見いだせない愚か者に、本物である私の価値が劣るなどあろうはずがない。

 

 私は他者を必要としない。私という存在と自己の確立には他者は必要としない。

 完成されて生まれ、有象無象の考えや思想に影響されない世界で育った。家族や友人などといった煩わしい枠組みから外れ、真に一人で生きてきた私の世界こそまさに完成された世界。人の原点であり頂点だ。

 

 故に私は完全であり、完璧であり、本物で在り続けるのだ。

 私という存在は既に完結している。だからこそのザッハドの使徒だ。

 

 平穏と秩序の世界が安定すればするほどに人は混沌を求める。そして光は常に混沌から産まれ出てきた。規定され続けた世界は、それを破る悦楽によって新たな世界を切り開く。

 人を殺すことで知った光こそ私のコトワリ。他に価値を見出さない道こそ私の秩序。

 

 だがあの女はザッハド様の使徒であり、本物である私を有象無象の塵共を見る目で殺しに来やがった。

 私を試すためにわざと心臓や脳という致命的な弱点を避けて攻撃しやがった。

 

 「私は不意打ち、暗殺に秀でている。それだけに私よりも格上の咒式士との戦闘経験は少ない。正面切っての戦いに至っては皆無。私にとっての悲劇はエンゴル・ルという強力なエミレオの書があまりにも暗殺に特化しすぎていたこと」

 

 これまでは罠に嵌めることで勝利を勝ち取ってきた。姉妹三人で互いを囮にし合い、攪乱することで馬鹿共を殺してきた。

 しかし私は一人となった。一人である私は『ペネロテ姉妹』ではなく『右足親指のヒルダ』。過去の戦術は通用しない。

 

 では今の私は昔に比べて弱体化したとでもいうのか。

 

 所有する強大な異貌のものどもが封じられたエミレオの書は十を超える。

 強化魔法とバリアジャケットを得る事でこの身は前衛咒式士並の身体能力を得た。

 魔法の存在により攻撃方法は広がった。戦法は広がり、戦術は深みを増した。

 

 『荊刺の女王パンハイマ』、『金剛石の殺人者アンヘリオ』、『拳豪カジフチ』という化け物共に劣るとは思えない。

 過去の戦術と経験に囚われ、思考の幅を狭めたことがこうして私を追い詰めているのだ。

 ポテンシャルは十分に秘めている。後は私が『ペネロテ姉妹』という殻を破り、『右足親指のヒルダ』として君臨するだけ。

 私は真の意味でザッハドの使徒となるのだ。

 

 「私は二度も愚を犯した。だけどこれは経験不足から生じた認識の甘さがもたらしたもの。二度はない」

 

 右手に握るボラーの書が粒子となって消え去り、新たなエミレオの書が出現する。錠前が解き放たれ、革表紙の紙が開かれた。

 

 「私はより強く、美しくなる」

 

 蕩けるほどに嗜虐的な笑みでヒルダは笑った。

 

 退廃した思想の果てにある理想は久遠の孤独。破滅などあるはずの無い未来。

 待ち受ける鬼神の如き超前衛魔導師との相性は最悪。

 されどこの身は四百を超える人を殺してきた紛れもない大量殺人者。築き上げた屍の上で常に踊り続けてきた私は、このような舞台での踊り方を十二分に心得ている。

 

 「色気もない、華やかさもない、優雅さも足りない馬鹿共に死人が踊る狂気を見せてあげる」

 

 開かれたエミレオの書から、歯と歯が断続的に打ち合わさる音が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 管理世界に知られるスカリエッティとは異端の象徴そのものであった。

 

 世界規模のテロリズム・違法医学の実行など数多くの事件の主犯とされる人物。次元世界において広域指名手配されている次元犯罪者。

 ただそれだけであったならば、彼は間違いなくただの犯罪者として完結していた。

 

 だがスカリエッティという存在はただの犯罪者として完結しなかった。

 

 生命操作や生体改造だけではなく、自然科学や人間心理学、物理学などあらゆる分野に精通。

 スカリエッティは紛れもない天才であった。人の常から外れた特大の狂気に取り憑かれた至上類を見ない天才こそ彼の正体であった。

 人が築き上げたモラルを脱した非人道的な研究を行うも、彼の研究は歴史上の科学者達の業績を塗り替え続けた。犯罪者の身でありながら偉業を更新し続けたことは驚嘆に値する。

 

 八神はやてはスカリエッティを『違法研究者でなければ間違いなく歴史に残る天才』と呼んだ。

 

 これは彼女だけではなく、極一部の人間を除いた魔法世界の総意であろう。

 それほどまでの可能性をスカリエッティは秘めていた。恐らく道が違えば彼は歴史的偉人となって名を残し、死後も多くの人間を救い続けたはずだ。

 彼の才を惜しむ者達は尽きない。まさに無限の可能性を広げるだけの才能を、無限の人々を魅了する才能を彼は秘めていたのだ。

 

 そしてそれらのIFを否定するだけの狂気を秘めていたともいえよう。

 

 戦闘機人集団ナンバーズ。

 希代の天才科学者、スカリエッティによって製作された人造機械化生体兵器。彼の才能と狂気を遺憾なく発揮させた傑作。いや怪作といっても過言では無いだろう。

 ただ人体に機械を組み込むだけにはとどまらず、骨格や神経といった生体箇所にまで彼の手が及んでいる。

 人造骨格や人造器官を組み込むことは近世にかけてそう珍しいものではない。しかしそれを欠損した人体の代用ではなく、強化目的に用いたとなれば話は変わる。

 

 人体の限界を超えた活動に耐えうるための機械化。しかし産まれながらにして制限を定められた肉体には限界が存在する。

 自然の摂理によって完成された人間は、同じ人間が求める理想の肉体ではない。自然の意志と人間の欲望は既に乖離しており、無理に人体の改造を行えば神経と肉体に拒絶反応が起きる。

 いくら適合性が高い素体であれ、人である限りその限界を超えた行動を行うことができないのだ。

 

 加えて長期使用における機械部分のメンテナンスは困難を極める。機械は使用すればするほどに劣化し続けるものだ。だが肉体と融合した機械の整備は容易ではない。

 肉体は常に劣化し続けることを良しとするが、機械は常に最新鋭の技術と最善の状態を要求する。本来合わさるものではない二つの要素は常に反発するため、時間と共に異常が生じてくるのだ。

 

 これらはまさに神が定めた人の限界ともとれるだろう。

 

 そのために強化目的の機械化は時空管理局により厳しく禁止されている。被験者の体に行う処置が明らかに人道的とは言えないからだ。

 また機械化による戦闘力の向上は兵器目的ともとれる。質量兵器や、誰にでも容易に行える破壊活動を可能とする兵器を取り締まる役目を自ら負ったのは時空管理局だ。戦闘目的の機械化は許容できるものではない。

 

 だが、スカリエッティはこれを解決してしまった。神の定めた限界を嘲笑い、踏み越えてしまった。さらなる禁忌に手を出すことによって。

 

 スカリエッティは戦闘機人の作成に生命操作技術を流用。ヒトをあらかじめ機械を受け入れる素体として生み出すことでこれを解決したのだ。

 人が人の命を生み出し、都合の良いように生態情報を書き換える生命操作技術は、太古の昔から禁忌とされてきた。人が踏み込んではいけない分野であるとされてきた。

 多くの宗教が、学問が、倫理が、社会が、歴史がこの技術を忌むべきものとした。

 

 それをスカリエッティは躊躇いもなく自身の欲望のために研究。成果を上げたのだ。

 まさにこれまで築き上げた生命倫理を冒瀆するに等しい行いを彼は完成させてしまったのだ。

 

 スカリエッティの因子を受け継ぎ、純粋培養によって生まれた古参。彼女はナンバーズの中でも傑出した戦闘能力を誇り、実力は推定オーバーSランクを超える。

 まさにスカリエッティが追い求める理想の形の一つ。ナンバーズの実質的な実戦の指導者を命じられ、スカリエッティの全面的な信頼を受けているナンバーズ3。

 開発者が名前に拘らなかったのか、それとも別の意図があったのか。その名は数字の読みからそのまま名付けられた。

 

 紫のショートカットを揺らす長身。その戦闘機人の名は『トーレ』。

 彼女こそナンバーズ最大の戦力であり、スカリエッティの理想を完遂する使徒であった。

 

 『ルーテシアお嬢様、チンクの転送をお願いします』

 

 『……解った』

 

 幼さを残す少女の声と共にチンクを中心に魔方陣が出現。見るものが見ればベルカ式ベースの召還魔法だと解る。

 水面に沈むように魔方陣へ取り込まれていくチンク。見送ることなくトーレは念話による交信を続ける。

 

 『……我々の用はこれだけか?』

 

 入れ替わりで送られてきた念話の声は渋みと重みがある男の声。

 少々面倒なことになるかもしれない。駆け引きを得意とするクアットロとは違い、口はうまくないのだが……。

 

 『いえ、予備戦力として状況の経過の観察をお願い致します。状況によっては参戦を求めることも』

 

 『スカリエッティに従う義務は我々にはない』

 

 『ルーテシアお嬢様』

 

 『……別に良い』

 

 念話の向こうで激しい殺気を感じた。雰囲気だけで察せるだけの濃さ。

 勝手にお守りのお姫様に口を聞くなと頭を沸騰させたらしい。過剰とも言える執念を向けられて、お嬢様自身も戸惑うことが多いようだが。これは過保護と呼ぶべきだろうか。

 もっとも、本人にいえばややこしくなるので伝える気はない。

 

 『ルーテシアお嬢様はそうおっしゃっておりますが?』

 

 『……良いのか?』

 

 『これもお母さんのためになるのであれば』

 

 『……解った』

 

 念話の最中も鷹の目の如き鋭い視線を離さない。

 未だヒルダが激突した着地点には粉塵が舞い上がっている。

 交渉終了と見て念話を断ち切り瞬きを一つ、その時であった。スカリエッティからの通信を受けたのは。

 

 『トーレ、例のセンサーを』

 

 「はい」

 

 眼球に内蔵された熱源センサーは、ヒルダの倒れ伏した姿を捉えていた。

 生体反応センサー、魔力流動センサーを並列して機動。両センサーによってヒルダの肉体から反応を感知。

 

 ついでヒルダからドクターが解析を求めているアンノウンのエネルギー反応も感知される。試作運用として仮搭載された機器を用いて解析、分析共に開始。

 

 『……素晴らしい』

 

 スカリエッティが感嘆を吐露する。発せられた声は至上の歓喜に打ち震えていた。

 反してトーレはより一層の危機感を募らせる。鋼鉄の拳は本人の知らぬうちに強く握りしめられていた。トーレがとった体勢は静観。しかし一言でも命令が下されれば、即座にヒルダを殺害できる構え。

 

 網膜上に流れる〇と一の羅列。魔力とは異なる未知の情報体の濁流に、トーレは一瞬目眩のような錯覚を覚えた。

 戦闘型とはいえ、この身は戦闘機人。ドクターの施術を受けた脳は潜在能力を効果的に引き出されており、稼働率は高ランク魔導師のそれを容易く超える。

 

 計算処理領域は他のナンバーズや、ドクターの計算機器とリンクすることで際限なく拡張が可能。戦闘機人はバックサポートを受け入れられる限り、時間や状況を問わずに機体のアップデートが行える。

 つまり人が数十年かけて身につける経験を、危機感を、情報を彼女達は互いに共有し処理することで即座に習得。機械の体は人が長年の修練のかけて磨いた感覚と動きを、たった一瞬の更新により実現させる。

 狂気の科学者が誕生に人為的な力を介在させ、開発された戦闘機人はまさに恐るべき驚異と狂気の産物だ。

 

 だが、その戦闘機人の処理能力をもってしても追いつかない。追いすがることすらできない。

 

 「ッ!」

 

 『く、くはははははははははははははははははッ!素晴らしい、素晴らしいよヒルダくんッ!』

 

 もはや一つの次元すら発生させる〇と一の羅列で構成された組成式が、何百と複雑に絡み合ってヒルダの体を覆っている。

 計算能力がいくら高度であっても、それを処理するこの身が持たない。情報伝達回路が焼き切れそうになり、網膜には危機を告げる警告文が先を争って重なり合い表示されていく。

 

 「……なんと、凄まじい」

 

 鉄面皮のように動かなかったトーレの顔に裂け目が生じる。感情を戦場で表すなど武人にあるまじき愚行。だが理解はすれど、濁流のような組成式は急激に身を蝕む。思考を喰らい尽くしていく。

 視界が歪む。全身が激痛に飲み込まれる。膨大な情報量は機械の体を持つ彼女にとって、もはや致死量の毒に等しい。

 

 『彼女は魔法が魔力で発現するのに対して、《咒力》で発現すると言っていたかな?ならばこれは咒法、もしくは《咒式》と呼称するべきかね?』

 

 「ドクターが決めた呼び名で構わないかと」

 

 『ふむ。それとトーレ、戦闘型である君ではこの情報量に耐えられないだろう。いや、例えクアットロであったとしても耐え切れまい。データを転送するだけで構わないよ』

 

 「よろしいのですかドクター?」

 

 『ああ』

 

 トーレが観測記録を演算と分析ではなく転送へと切り替えると、狂気の科学者はますます爬虫類を思わせる笑みを深めた。

 スカリエッティの中では既に咒式と呼称が統一されたらしい。ここ数年で一位二位を争うような欲望が滲み出た微笑みを浮かべながらトーレに語りかけていく。

 

 『ははは、彼女はまだまだ私達に咒式を開帳してくれるらしい。ならば私達は思う存分ご教授に与ろうじゃないかッ!』

 

 「っは!引き続き情報の収集を継続します」

 

 スカリエッティの言葉を肯定するかのように、ヒルダをまるで繭のように包み込んでいた咒式の組成式が収束に向かう。

 そして反するように新たな咒式の反応を確認。

 機能強化した知覚器官であるズームレンズにより、ヒルダの本型のロストロギアの起動を確認。

 

 『このエネルギー量子は魔力ではない、光子の持つエネルギーか?作用量子(プランク)定数hを操作……となればあの法式は魔方陣と同様。いや、それ以上に効率的な』

 

 「ドクター、来ます」

 

 センサーではなく、これまで蓄えた戦闘データではなく。戦い抜いてきた武人としての勘が告げる。全力で立ち向かえ、躊躇えば死ぬぞと。

 

 戦場へ立つと常に肌が張り詰めるような感覚に襲われた。だがった今、目の前のヒルダが放つ殺気は桁が違う。

 肌が張り詰めるのではなく裂けるような錯覚。髪が逆立ち、背筋が凍り付くような寒気。

 ねっとりと絡みつく血と泥のような殺気は、トーレがこれまで経験したことのないものであった。

 

 トーレがファイティングポーズをとった直後。

 白く丸い物体がトーレへと放り捨てるように投げられる。それはトーレへと届くことはなく、投げられた先から数メートル先の地点へ落下。

 警戒によりトーレは既に落下物から飛び退り、安全圏への逃避を成功させていた。

 

 投げるタイプの質量兵器。もしくは着弾後に広範囲に爆発、それとも小型の魔力弾を複数ばらまくタイプの射撃魔法か。

 複数のパターンを想定したトーレであったが、投擲物は彼女のパターンの何れにも当てはまらないものであった。

 スカリエッティですら予想と外れたのか、通信の向こうで呆気にとられている様子が感じ取れる。

 

 「あれは……?」

 

 『ふむあれは……』

 

 スカリエッティが投擲物を見定めた。目を細め、興味深げに対象を観察する。

 

 『Type I collagenやプロテオグリカンなどの膠様質が約三十五パーセント。残り六十五パーセントはリン酸カルシウム、炭酸カルシウム、リン酸マグネシウムといった石灰質により細胞間質が構成されているね』

 

 「ドクロ……?」

 

 『骨格を持つ生物の頭部の骨だな。至って普通の頭蓋骨だよ』

 

 肉や脂質、毛が完全に失われた生物の白い頭蓋骨。

 いくら調査しても結果は変わることもない。わざわざ召還技能で呼び出したのが……生物の、骨?

 

 『ふむ……。これは我々に精神的負担をかけることが目的であり、挑発的行動と考えれば安直だが解りやすい。そうであればいささか興奮が冷めるがね』

 

 比較的感性が豊かであり、起動時間が少量のナンバーズならば目的効果が見込めるだろう。

 だがナンバーズの古参であり、戦闘行動に重きを置くトーレの精神には遊びが少ない。

 この程度は精神を揺さぶるどころか、威嚇にもならないレベル。はっきり言って無意味な行動だ。ドクターの失望も当然であろう。

 

 しかしトーレは疑問を覚える。

 あの怖気の原因がこの程度のものであろうはずがない。彼女には期待にも似た確信を感じていた。

 

 落ちた頭部の骨を静かに見つめる。

 突然、生命を失ったはずの物言わぬ開かれた口が静かに合わさった。軽い石と石を打ち合わせたような音が、張り詰めた糸のような静寂を断ち切る。

 

 「……咒力の反応を確認」

 

 トーレは未知の存在から逃れるようにさらに後方へと飛ぶ。

 

 人間の頭蓋骨がその場で浮遊。重量を無視するかのように空中に固定。

 頭部から頸椎が形成。伸びるように背骨が連なるように追っていき、上腕骨や大腿骨を伴って人体の骨格を作り上げていく。

 

 さらに暗闇から這い出るように牛、馬、犬、人間の頭蓋骨が。果ては魔法生物や人外の異貌のものどもの頭部が出現。同じように骨格を次々と形成していく。

 その数は百を超えても増え続けていき、今や一軍を編成しようとしていた。

 

 『骨格は人間が大多数だが、大型の巨人や魔犬に竜種も見られる。果てはネズミや馬など節操なしだな。面白いのはこの私でさえ知らない生物の頭部と骨格が確認できることか。アルハザードの記録でさえ観測されてはいない生物、その骨をまとめ上げる死者の軍団。あぁ、実に素晴らしい。生物の骨など飽きるほどに見てきたが、ここまで心揺さぶるものは初めてだ』

 

 死者の軍団の中心に、黄金の王冠を頭部に乗せた巨大な髑髏が出現。

 己を誇示するかのように鈍く輝く王冠が、飾り気のない骸骨の群れでの象徴となっていた。

 

 王冠を身につける髑髏の眼窩に青白い燐光が灯る。

 彼の骨格が完成。巨大な髑髏を中心として、物言わぬ骸骨達の眼窩に暗い光が灯っていく。その広がるさまはまるで波紋のようだ。

 髑髏の王の骨格が完成すると、肉のない骨の手に柄が握りしめられる。柄の先にある三日月の大鎌が、輝き照らす太陽を遮るかのように高々と掲げられた。

 

 「……あれは、生物なのか?」

 

 『生体反応は君の探知機能でも十分捉えきれるレベルだ。その問いは愚問だよ』

 

 驚きに発せられた言葉に、スカリエッティはやや冷めた物言いを返す。

 

 『そもそも生物という定義自体が非情に曖昧なものだ。その曖昧な中でも基準として成立しているエネルギー変換手段と、恒常性維持能力を有していることは計測器から解っている。生物と呼ばれてもおかしくはないだろう。それに私はあの生物が意志を持っているようにも思えるのだが……?』

 

 巨大な骸骨の頭部がゆっくりと可動。

 視線、というにはあまりにも異質な何かが向けられる。静かに眼窩の奥でギラギラと輝く青白い光の先にはトーレの姿があった。

 

 『消化器官や内臓、筋組織や呼吸器官が存在しない。骨格がありながら骨格筋が無い時点で、骨の存在意義が問われるが……。ここまでは生物の枠組みとしては看過しよう。しかし脳や心臓、感覚器官に神経系までも無いとなると話は変わる』

 

 揺れるように死者の軍団の先頭へ進み出る巨大な骸骨。

 歯を打ち鳴らし、大鎌を肩に抱え持つ人外の輩。

 

 『現在において私達が推測できる有力な説は二通りある。一つはエネルギー体が物体を介することで発現している可能性。もう一つは闇の書のようにプログラムにより生まれた魔法生命体が実体化する実態具現化が行われている可能性だ。あれの存在自体がヒルダ君の持つ書物の守護プログラムである可能性も十分考えられるね』

 

 「私の有する攻撃手段は通用するのでしょうか?」

 

 『それをこれから君自身が確かめるのだ。全ての観測機器の状態はオールグリーン。戦闘行動が行われる予測範囲一帯全て、僅かな漏れもなく情報を収集できる状態だ。トーレ、君には期待しているよ?』

 

 「ッハ!」

 

 髑髏の王が大鎌を天高く振り上げ、流れるように切っ先をトーレへと向けた。

 死者の軍勢が声なき咆哮を発すると共に、髑髏の王が天へ昇るようにゆっくりと浮かび上がっていく。

 

 神話の始まりを告げるかのような光景を前に、通信からはもはや興奮を隠そうともしないマッドサイエンティストが声を弾ませた。

 

 『さぁ――――宴の始まりだ』

 

 「了解、任務を続行します」

 

 髑髏の王を先頭に骸骨の群れがトーレへと突撃を開始。

 目にも止まらぬ速度で髑髏の王が空中を急降下。もはや一発の大型砲弾と化し一直線に滑空。急激的な加速をもって髑髏の王はトーレへと迫る。

 

 「速いッ!」

 

 あのドクロ型の魔法生物が持つ飛行能力は、上級魔導師の行う飛行魔法を超えているのかッ!?

 

 トーレはただ回避行動を行うだけでは、より一層の危機に直面する可能性があると判断。

 彼女の先天固有技能である『ライドインパルス』を発動した。

 

 『高速機動』の異名を持つ『ライドインパルス』。

 

 人間の肉体には己の生命を護るために様々な制限がかせられている。

 特に加速に対して人間の脳は極めて繊細であると言わざるを得ない。人間が耐えられる限界の一つに、脳に血液を安定して送れる重力の幅。そして自身の重さに耐えきれる幅が存在する。

 

 重力加速度、通称『G』と呼ばれるそれはまさに高速移動を行うものにとっての強力な毒だ。

 足下方向に高いGを掛ければ体内の血液が重力の働きにより脳に回らなくなり、次第に視野が狭くなりグレートアウトやブラックアウト現象を生じさせる。これにより意識の喪失、人体の麻痺や生涯にわたる異常。最悪の場合は死が待っている。

 

 そして直線運動だけでも高速移動は高いGの洗礼を受けるがコーナー速度と瞬間旋回能力、維持旋回能力において生じるGは更にその上をいく。

 

 三次元機動を行う魔法戦闘において、飛行魔法はランクの高い魔導師のみが使用できるものとされている。

 これには多少の誤解が生まれている。それは飛行魔法を扱えるものが『ランクの高い魔導師である』であるというものだ。

 

 実際は高ランクの魔導師でなくとも飛行魔法は発動できる。プログラムとしてデバイスに登録が可能となった現在、飛行魔法自体は簡単に発現が可能だ。

 だがそれを実戦において有用に活用できるようになるかといえば話が別だ。

 

 空中において行われる三次元機動はまさに地上とは別格の世界。

 魔導師が強化魔法によりいくら肉体を底上げしていようと、飛行魔法により生じたGに対する耐G能力が簡単に上がるわけではない。

 それだけではなく空中においての戦闘にはまさにセンスが問われる。目まぐるしく動き変化する視界でどれでけ自身の持つ実力を発揮できるか。上空や下空だけではなく、地上や遠距離からの攻撃に空中でどれだけ対応できるか。

 

 結果的にそれらの条件に当てはまる魔導師が、高ランクの魔導師になれるだけの実力を持つものである事が多い。

 飛行魔法は発動できるかではなく、扱いこなせるかによってその効果を認められるのだ。

 そして空中戦闘において最も解りやすく一番の判断基準は耐G能力という一点に帰属する。

 

 耐G能力が高ければより他の魔導師を圧倒する高速起動戦闘を展開できる。

 思考に余裕が生まれ、有利な状況への判断を作り出すことができる。

 

 そう、飛行魔法においての戦闘は魔導師の耐G能力が高ければ高いほどに有利に戦闘を運ぶことができる。

 

 だが所詮は人間。その肉体を超えるだけの機動を飛行魔法で行うことは不可能。

 仮に行えるとしても、生命や今後の活動に深い傷跡を残す危険があった。

 

 しかしトーレは違う。

 戦闘機人という強靱な素体構築は人間の限界とされる9Gの壁を打ち破り、新たな世界を切り開いた。

 全身の加速機能は瞬間的な加速を可能とし、地上でさえも超高速機動を可能とする。最大速度は人間の視認速度を超え、魔法世界の探知技術ですら振り切る。

 

 まさに戦闘においての鬼神。他の追随を許さぬ速さと戦闘技術はナンバーズにおいても並び立つ者はいない。

 

 だがトーレが鬼神であるならば、目の前の髑髏は異形の王。

 人の常識を無視した機動と速度は、トーレが警戒するに十分値する。

 

 髑髏の王は死者たちを率いて瞬く間に距離を詰める。大鎌を振り上げて呵々と笑う姿は古の絵画に描かれた死神そのもの。王の声なき笑い声は目の前の敵を殺す喜びの哄笑であった。

 

 トーレは起動していた先天固有技能の出力をさらに上昇。かかとが石床を砕く。

 鎌の切っ先から身を躱すと同時に、高速移動により攻撃予測地点から数メートル先まで後退。人の目に捉えられない速度の移動は、まさに瞬間移動を行ったかのように錯覚させる。

 トーレの回避から間を待たず振り下ろされた髑髏の王の一撃が、鋪装された道路を抉った。

 

 「何ッ!?」

 

 そう、文字通りに『抉った』のだ。スカリエッティもトーレの視界から転送された映像に唸る。

 

 すぐに轟音と爆音が広がり、視界が異常なほどに多い白い煙に包まれる。トーレは白煙から逃れるようにさらに後退。

 すぐにビルの合間から吹き抜ける風が粉塵をかき消す。全貌が次第に明らかになっていった。

 

 コンクリートの道路が裂けるようにして両断されていた。髑髏の王の攻撃により生じた深さは、鎌の刃渡りと同様の約1.5メートルにものぼる。

 

 それだけの衝撃を受けたにしては、あまりにもこの状況は不可解であった。あの勢いに乗った一撃を受ければ、衝撃が拡散し周辺に大きな罅生じて陥没してもおかしくはない。

 しかし現実はまるで削り取ったかのように綺麗に切り刻まれている。まるで種が解らない。

 

 「仕掛けは解らないが、実体であるのであれば戦えるッ!」

 

 トーレは髑髏の王へ目掛けて突撃。髑髏の王は大鎌を振りかぶり迎え撃つ。

 髑髏の王が放った一撃をトーレは頭を屈める事で回避。すぐさまヒルダに放った高速の一撃を剥き出しの骨へと叩き込む。助骨が砕かれ、舞い散る骨片が頬を掠めた。

 

 しかし髑髏の王の攻撃は止まらない。まるで何事もなかったように横なぎに薙ぎ払われた鎌に思わず目を見開く。振られる大鎌の勢いには僅かな陰りさえも感じない。

 髑髏の王はトーレの一撃を避けることなく、自身の攻撃を優先したのだ。もはや振り抜かれた大鎌の一撃から逃れる事は不可能に近い。

 

 高ランク魔導師の防御魔法すら貫く己の攻撃が牽制にすらならない。そんなことはトーレのこれまでの稼働経験からしても皆無。己の戦闘経験を根底から覆す存在であった。

 

 トーレは回避は不可能。受け止める以外に対処法は存在しないと判断。

 両腕のインパルスブレードを交差させて髑髏の王の大鎌を受け止める。

 直後、足下の地面が周囲を巻き込んで陥没。あまりの常識外れな衝撃に、強化骨格が軋む音。大地に突き立つ両足が震え、受け止めた両腕が悲鳴を上げた。

 

 いったいあの骨からどうやってこれだけの力が生み出されるのか検討が付かないッ!なんて馬鹿げた力だッ!?

 

 内心驚きを隠せないトーレをよそに髑髏の王の攻撃はこれに止まらない。

 トーレの網膜に警告が表示。トーレが異常を感じ取ると同時に、インパルスブレードの出力が急激に低下。

 攻撃を受け止め続けるエネルギー翼が徐々に縮小。比例するかのようにトーレの体は大鎌に押し込まれていく。

 

 「これは、いったいッ!?」

 

 自らの固有武装であるインパルスブレードはエネルギー体で構成された刃。

 出撃前に異常は見られず、性能や出力はこの戦闘においてもオールグリーンの状態であったはず。

 それ以前にこのエネルギー翼は故障したこともなければ、数値に僅かな誤差さえ出ることはない。

 命を預けるべき武装の整備を怠ったことなど、機械同然の私にとってあるわけがないのだ。

 

 それがこの土壇場で異常事態を引き起こす?それも出力のみがまるで削られるかのよう急加速で低下?

 

 さまざまな要因が頭をよぎる。だがエネルギー翼を切り裂くように少しずつ切り進む刃を確認。疑念が確信へと変わった。

 

 「原因は……キサマかぁッ!?」

 

 嬉々として刃を押し込む髑髏の王と、苦々しく歯を噛み締めるトーレの顔が互いに接近。かろうじて拮抗しているものの限界は近い。これ以上エネルギーの消費はまずい。

 たまらずトーレは髑髏の王の脇腹へ向けて蹴り抜く。予想していたかのように回避されるも、力が一瞬だけ緩んだ隙を逃さない。

 大鎌をはじき飛ばして離脱。追撃で薙ぎ払われた一撃を横転で避けながら空中へ飛翔。空高く飛び上がる。

 

 髑髏の王も追随するように飛び上がった。空中へ逃れたトーレへと突貫。

 トーレは間一髪これを高速移動で回避するも、放たれた大鎌は直線上にあったビルに直撃。白や灰色の粉がまき散らされた。さらに大鎌の一撃は鉄骨にも及ぶ。鉄骨は折れ砕け轟音と共にビルが崩れ落ちていく。

 

 スカリエッティはこれを冷静に観察。

 ビルを形成していたコンクリートは珪酸三カルシルムが約五十六パーセント、珪酸二カルシウムが二十四パーセント、その他アルミン酸カルシウムや鉄アルミン四酸カルシウムに分解。

 それらが白と灰色の爆粉となって空中に舞い上がっているのだと理解した。

 

 『トーレ、その魔法生物が持つ鎌と君の持つインパルスブレードの相性は最悪のようだ』

 

 「どういうことですッ!?」

 

 『あの鎌は物質組成に干渉することで対象を分解する能力を有している。それもかなり高度なものだ』

 

 追撃の振り切られた鎌を回避したトーレが更に逃れるように地上へ着地。

 髑髏の王が無音の突撃指令を敢行。群がる骸骨の群れを肉弾戦で砕き、エネルギー翼で切り裂く。

 

 『それはエネルギー分子からなる組成構造も例外ではない。恐らく魔力組成で構成された物もあれは容易に分解するだろうね。バリアジャケットなど紙同然に対象を両断するだろう』

 

 トーレの戦闘方法は異常な高速機動により生み出される肉弾戦闘だ。

 中距離や遠距離からの攻撃を高速で回避し接近、情報を累積し即時反映する事により得た異常な近接戦闘能力で圧倒する。

 武装を肉体自体に内装したのは、高速戦闘における運動負担を軽減するため。インパルスブレードのエネルギー翼も高速起動によって発生した空気抵抗の問題を解決する。

 トーレの肉体はまさに理想的な武人としての在り方を体現していた。

 

 それだけに大鎌の分解能力はトーレにとって相性が悪い。

 この髑髏の王が持つ分解能力がトーレの持つインパルスブレードを凌駕。つまりトーレは髑髏の王の攻撃全てを受け止める、受け流すという肉体戦闘の基本的な防御を行えない。あの剛力を分解されるインパルスブレードで受け止め続けることなどできないからだ。

 

 トーレは髑髏の王の攻撃をかわし続けるしかない。結果として回避や反撃の難易度は跳ね上がり、肉体の負荷は倍増する。

 

 死者の群れを吹き飛ばしながら髑髏の王が突貫。味方である骸を両断することもかなわずトーレめがけて鎌を振り回す。回避に徹し続けるトーレの動きに乱れが生じ始める。

 緊迫した表情で構えをとるトーレとは反対に、髑髏の王は歯と歯を打ち合わせながら笑う。

 

 絶望はこれだけに終わらない。髑髏の王へと死者達が群がっていく。

 何事かと見ればトーレが負わせた傷跡に死者達は我先にと取りついていくではないか。

 砕かれた胸の骨へと群がった髑髏は同化するかのように攻撃跡へと吸収される。瞬く間に髑髏の王の傷跡は消え去ってしまった。

 

 『さらにあれは眷属達を取り込むことで負傷を回復させることもできるようだね。ふむ、中々に効率的な生物だな。腕や足、胸や臓器を負傷すれば大抵の生物は戦闘行動に何らかの異常をきたす。しかし彼はそのような煩わしいものが無く骨格という単純な構造がそのまま強さに繋がっているッ!』

 

 「エネルギーコアの反応はありますか?」

 

 『良い着眼点だよトーレ』

 

 あの生物がこうして成立している以上、二つ構造が考えられる。

 一つはあの死者の群れ全体が一つの魔法生物という推論。これは一体一体相手するのではなく、まとめて殲滅する以外対処の方法が存在しない。

 まさに災害と等しい生態を持つ生物だ。

 

 だがそれでは再生のタイミングがおかしい。

 

 群生魔法生物であれば例えあの大型な個体が死滅しても他の髑髏が一体でも残っていればすぐに再生が行われる。もしくは傷を負った時点で直ぐさま再生が行われるはずだ。

 あの時点での再生は適しているとはいえない。むしろそのまま此方に襲い掛かってもいいはず。

 

 となれば残るは可能性は一つ。

 

 「筋肉も腱もなしにあの体を動かす事は出来ない。それを可能とする力の発現地点が、エネルギーコアが存在するはず」

 

 『悪いが咒力反応感知自体があまりにもデータ不足でね。複雑に混ざり合った億を超える構成式を解析するにはさらに時間が必要だね』

 

 「では……」

 

 『あの巨大な髑髏に核があるのか、それとも周辺の髑髏に紛れ込ませているのか。核自体がどれほど存在しているか解っていない。そもそも今回は様子見のデータ収集が主な役目だ。そう考えればもう十分、いやそれ以上に君やチンクは成果を上げてくれた』

 

 死の斬撃を逃れつつ、時節連撃を繰り出すも効いている様子は無い。髑髏の王が放つ攻撃は一撃ごとに鋭さを益々増していく。

 

 目の前の脅威に対する対抗策は現時点で存在しない。

 戦力は揃わず、こちらは追い詰められる一方。

 

 「ドクター、これ以上の戦闘継続は困難です。一旦撤退し、体勢を立て直すべきかと」

 

 『ああ、構わないよ。しかしヒルダくんは素晴らしい、こんな隠し球を持っているとは……。君はいったい私にどれだけの可能性を見せてくれるのかな、くくく』

 

 髑髏の王の攻撃を脚部のブレードで跳ね返す。これだけで多大なエネルギーが消失した。あの分解能力は反則級だろう。

 反撃で放った回し蹴りは大鎌に受け止められるも衝撃を受け流しきれなかったのか。体勢に僅かな隙が生まれる。

 

 だがこちらに追撃の余裕はない。度重なる人並み外れた暴力的な力は戦闘機人の耐久性を大きく上回っている。

 加えてインパルスブレードのエネルギー残量は既に限界に近い。この化け物の分解能力に付き合ってられるかッ!

 

 反転し逃走を開始。ビルの側面を走り抜きながら念話を図る。

 

 「ルーテシアお嬢様、送還の魔法陣をお願いします。あまり長くは持ちません」

 

 『了解、発現地点は?』

 

 「LB12654・GK128地点、十八秒後に到着予定」

 

 『わかった……』

 

 全身が凍りつくような悪寒。

 直後、ビル側面から飛び退る。遅れてトーレが走り抜くはずだった僅か先の壁を突き破って現れる大鎌。

 円形状にビルの側面が分解され、白と灰色の粉塵と爆風が空中に逃れたトーレを襲う。

 

 「もうここまで距離を詰めたか……ッ!」

 

 粉塵を突き破って髑髏の王が出現。

 その姿を確認する事なく再び空中を走り抜けていくトーレ目掛けて、髑髏の王は追随するように付き従っていた人型の髑髏の頭部を鷲掴みにし投擲。

 

 弾丸を超える速度で放たれた死の剛速球。感知したトーレは振り向きざまに肘のインパルスブレードでこれを両断。

 真っ二つになった死者の頭部はそれぞれトーレの両脇のビルに着弾。

 それにより壁が崩れ落ちる頃には、既に髑髏の王はトーレのすぐ側まで接近し終えていた。わずかな隙を逃さない異常な速さは、高速移動を駆使するトーレですらも驚きを禁じ得ない。

 

 スカリエッティ、トーレ、そしてヒルダですら知らないがこの髑髏の王。超級咒式士すら恐れを抱く異貌のものどもであった。

 

 トーレは確かに強靱な戦闘機人だ。

 蓄積された戦闘経験をすぐに実戦で発揮できる肉体と機能を兼ね備えた超戦士。Sランクオーバーのナンバーズ最強の使徒であることに間違いは無い。

 

 だがそれでも稼働年数は五十年以内に過ぎない。他のナンバーズの経験を吸収し、あらゆるデータで実力を高めていったとしても、戦闘経験はまだ人の理解する範疇に収まる程度だ。

 

 しかしこの髑髏の王は違う。

 咒式世界において遙か昔から様々な種族と殺し合い、勇者や英雄と呼ばれる実力者、果ては国家の軍隊からも逃れ続けた超級の異貌のものどもだ。

 弾丸を視認で避けることすら可能な超視力と、超反応を持つ前衛咒式士を何百人と殺害。体を変貌させ、座標を転移する追っ手すら振り切って二千年も生き延びてきた正真正銘の化け物である。

 

 まさに存在自体が咒式士達と異貌のものども達が繰り広げた、長い戦闘の歴史を体現しているかのようなものだ。

 殺し合う経験に関してはトーレのそれを遥かに凌ぐ実力者だといえよう。

 

 ここに至りトーレは目の前で刃先を自身に向ける化け物が、今まで自分が戦って来た何よりも恐ろしい存在であると自覚した。

 大鎌の分解能力が恐ろしいのではない。再生能力が恐ろしいのではない。戦闘機人を凌駕する力、速さが恐ろしいのではない。

 

 この化け物自体が戦場の具現化された一つの存在であることに恐ろしさを感じたのだ。

 

 そして理解した瞬間、胸の奥から例えようのない激しい感情が湧きあがる。

 それはまさに絶頂に等しい快楽と興奮であった。まるで恋い焦がれた乙女のように、トーレはたった今。この髑髏の王へ猛烈な殺意を抱いたのだ。

 

 「(私は、この化け物と戦いたいッ!命尽きるまで、殺し合いたいッ!)」

 

 常に冷静な自分らしくもない思考。

 興奮のインパルスに脳内のドーパミンが溢れ、体を武闘の快楽へと導いていく。

 

 これまで並び立つことがない孤高の道に初めて立ちはだかった強敵。スカリエッティに命じられた使命とは別に課せられた束縛。

 今であればクアットロやウェンディが何故、命じられた事をまっとうする以外に想いを寄せたのかが理解出来る。

 

 ……嫌というほどに、解ってしまった。

 

 「(退く。だが私は、貴様を殺す、絶対に私が貴様を葬ってやろうッ!)」

 

 王冠を乗せた髑髏の長い上腕骨が高く掲げられる。

 髑髏の王が繰り出す視認が既に不可能な速さの一撃を、トーレは己の感覚のみで躱しきった。

 大振りになった鎌の隙を逃すことなく、トーレは右手で握りしめた鋼拳を胸部目掛けて射出。人体を粉砕する音速の拳は、返しの刃の側面によって受け止められたかのように思えた。

 

 「甘いッ!」

 

 しかし拳は僅か数ミリ先で着弾せずに停止。

 トーレには髑髏の顔が驚愕で歪んだかのように感じた。肉付きがないそれを、どうしてそのように受け取ったかは自分でも理解しがたい。

 

 予想外の行動は思考に空白を生じさせ、体全体に弛緩と硬直をもたらす。

 そして引き起こされた髑髏の王の体勢の乱れは、高速戦闘において致命的であった。

 

 トーレはスカリエッティに負けず劣らない欲望と、喜びに濡れた笑みを顔面に張り付ける。

 左肘のインパルスブレードの出力を最大へ。躊躇いもなくそれを不自然に止まった大鎌に叩きつけた。

 浮き上がる髑髏の王の巨体。軋む左腕。踏み抜かれ砕けた舗装道路。

 トーレはこれに止まることなく右手のインパルスブレードをさらに大鎌へ殴りつける。

 多くのエネルギーが分解され、空中へ光子となって霧散。だが光の粒の中でトーレはさらに頬を釣り上げる。

 トーレの両目にはガラ空きとなり、隙だらけになった髑髏の王の姿が映っていたのだ。

 

 「ハァァァァァァァァァァァッ!」

 

 空気を振動させるトーレの咆哮。主の危機を感じ取った死者の群れが彼女の体に纏わり付く。髑髏の王との間に割り込むようにトーレへと飛びかかる。

 だがそれはトーレにとって拘束には成り得ない。纏わり付く髑髏を吹き飛ばし、遮る死者を蹂躙しながらトーレの正拳突きは髑髏の王へと到達。

 

 胸骨を粉砕し背骨を叩き割る熾烈極まり無い一撃に、髑髏の王は声なき悲鳴を上げて吹き飛ばされた。空中に頭蓋骨や肋骨、大腿骨の破片が散る。

 轟音。さらに爆音。道路を抉るように、死者達の群れのをまるでモーゼの海割りのようにして転がる。

 

 片腕を失ったトーレは戦果を確認することなく、十数メートル先に出現した魔法陣へ急ぎ空を駆ける。

 

 「やはりあれは、今の私には手に余る」

 

 走り抜けるトーレの横顔には微笑み。

 

 決定的なあの瞬間、髑髏の王はトーレの攻めを受けながらも大鎌を振り抜いた。

 トーレの『一撃』を迎えたのは『防御』ではない。死を錯覚させる程の強烈な『一撃』であった。

 

 なんと恐るべき殺意。敵対者を葬る獰猛な戦闘欲か。髑髏の王の一閃は確かにトーレの右腕を刈り取った。

 流石のトーレもこの予想だにしない攻撃から完全に逃れることはできなかった。分解能力により腕の付け根まで特殊金属が粒子に変えられてしまう。あと少し反応が遅ければ胸部にまで被害は及んでいただろう。

 

 これは被害を腕一本で留めたトーレに賞賛を送るべきあった。並みの魔導師や咒式士であれば、何が起こったか知ることなく袈裟切りにされて絶命していたに違いない。刹那の世界での駆け引きに、トーレは勝ち残ったのだ。

 

 髑髏の王は既に従者達を取り込むことで再生を始めていた。

 だがトーレが負わせた傷跡はあまりにも深く、行動可能になるまでに数秒の時間を要する。

 その隙にトーレは転送の魔法陣へと撤退するべく、満身創痍となった体に鞭を打って向かう。

 

 インパルスブレードの輝きには陰りが生じ、戦闘で積み上がった疲労と負傷で稼働率は28.381パーセントも低下していた。何よりも片腕を失った事が致命的である。もはや退くことに一切の躊躇いは無かった。

 

 スカリエッティの下へ向かう転送魔法陣への距離。残り二メートル。

 

 「次はこの経験を糧に勝利しよう。しばしお預けだ」

 

 そうトーレは決意を新たにし、魔法陣へと飛びんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「人間ってさ、勝ったって思った時に一番隙ができるんだよね♪」

 

 その時、トーレは確かに感じた。姿無き大鎌を。

 髑髏の王とは違う、正真正銘の死に神の鎌に首が触れた感覚を。

 

 「――――ッ!」

 

 凄まじい圧力を感じた瞬間、トーレの視界が激痛に真っ赤に染まる。

 耐え難い苦痛に身を揉まれるも強靱な意志で現状を理解。鼻や耳から溢れ出る血液をそのままにトーレは背後に跳ねるようにして着地する。

 

 これは、ヒルダが対管理局戦で使った謎の気圧結界――――ッ!?

 

 装甲や耐久力を無視して体内を蹂躙し尽くす結界。

 負の十気圧を限定空間内部に発生させるという殺戮のための即死咒式。その正体は化学錬成系第六階位『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』の咒式であった。

 

 対応は早かったが、恐るべき対生物咒式の猛威はトーレの体を蝕む。内臓破壊の出血が口の端から流れて空中へ滴り落ちていく。

 

 「それで、その時ほど単純で鈍~い動きをするわけ。一人っていうのは自分が知らず知らずに犯したミスに気がつけないって事。そしてそのちょっとしたミスが命を奪っちゃうんだよね~」

 

 結界を逃れたトーレの体に殺傷設定の魔力弾が次々と被弾。体を削り貪るような衝撃に、堪えていた血液が口腔より吐き出された。

 ヒルダは吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)からの逃走経路に狡猾な罠をしかけていたのだ。

 だが本来であれば回避が容易な射撃魔法であったはず。しかし体表に存在する繊細な器官が『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』により損傷。不意の罠に体勢を完全に崩した上、髑髏の王との戦闘で消耗した体では避ける事が叶わない。

 

 「(体に残ったダメージ故に、反応が、間に合わッ――――!?)」

 

 着弾着弾着弾。魔力弾が連続的に破裂。着弾のたびにトーレの体が震える。皮膚を焼き肉を焦がす。流れ出る血すら魔力弾の高熱で蒸発させられる。

 

 「あのパンハイマの咒式と正面からやり合える『寂寥のクインジー』で弱らせ、負の圧力咒式で追い詰め、逃げ道に罠を張る。まぁ使い古された方法だし、何度も使ってたから前はばれちゃったけど……。こっちではまだまだ使えるわね」

 

 トーレが吐き出した血霧の先にヒルダが突如出現。背後には霧状の古き巨人エンゴル・ルが浮遊している。

 少女趣味のバリアジャケットに、桃色の髪を揺らしながら同色の目で嘲笑う。

 エンゴル・ルの咒式により空気を歪め、光を屈折させて自身の姿を隠蔽していたのだ。

 

 怪我どころか髪に僅かな乱れすらない、トーレの一撃を受ける以前の泰然たるヒルダの姿がそこにあった。

 

 「お前の不運は三つ。一つはクインジーとの相性、一つは脳筋のくせに単独で私と戦ったこと、そして――――」

 

 血にまみれ崩れ落ちる体を両足で支えるトーレの背後に白い影。

 完全に再生を遂げた髑髏の王――――寂寥のクインジーがゆっくりと立ち上がる。

 目の青白い光がより一層輝きを増していた。数十体の白骨が腰より下に連なり、クインジーの体を浮かせている。

 

 デバイスの先に魔力光が灯り、ヒルダの周囲に魔力スフィアが次々と出現。魔杖の先を苦しげに膝をつくトーレへと指し示す。

 

 「ザッハドの使徒であるかわいい私を舐めたこと。以上、勉強代には命をいただきまーすっ!」

 

 魔力スフィアが一斉にトーレへ射出。さらにヒルダの後ろに浮遊するエンゴル・ルが新たな『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』の咒式を構成。この圧倒的有利な状況においても、今のヒルダに油断という言葉は存在しない。

 トーレの先制の一撃はヒルダに致命的な傷を負わせた。しかしこれによりヒルダの心に存在していた致命的な傷は埋められてしまったのだ。

 

 狩人として覚醒したヒルダが、己の情報を持たず尚且つ初戦の相手に後れを取るはずがない。

 

 死者達に担がれたクインジーがトーレ目掛けて突貫。何十体もの死者を伴って空中を突き進む姿は死の濁流そのもの。骨の指で掴み振り上げる大骨の鎌が高く掲げられる。

 

 弾丸のように水平飛翔するクインジーに、トーレは片腕を構え迎え撃とうと試みる。 

 だが構えたインパルスブレードの弱々しい輝きが、彼女の状態を誰よりも物語っていた。疲労困憊、度重なる猛攻に身を磨り減らしたトーレはこの波状攻撃に耐えきれない。

 振り上げた大鎌が鈍い輝きを放つ。魔力弾のブーストが発動。更に速度を上げた弾丸が生命を刈り取るべく空気を裂いて進撃。

 

 「きゃっほーっ!ヒルダちゃん大勝利、第一章完っ!……って」

 

 ヒルダが喜悦に富んだ声を上げるも、声の高さが最低まで落下。同時に魔杖風琴を親指で素早く弾き鳴らす。

 エンゴル・ルが完成しかけていた『吸血負圧無間圏(パパ・ゲーノ)』の咒式構成式が霧散。咒式を廃棄してまで空気圧の防壁を形成した瞬間、気圧防御に漆黒の拳が撃ち当たった。

 

 さらにトーレの頭上に振り下ろされた大鎌が、突如出現した槍によって受け止められる。

 クインジーが剛力によりさらに押し込めも、対する槍の使い手はそれを真っ正面から抑える事なく受け流した。青龍偃月刀に酷似した刃の形状、そして高い技巧により成せる技である。

 牽制で震われた槍の穂先は大鎌の柄で弾かれるも、重傷のトーレを脇に抱え持ち距離をとる事に成功していた。

 

 ヒルダは未だ気圧防御と拮抗する拳に視線を送る。拳の先の黒々と全身が鈍い輝きを放つ襲撃者を確認。憎々しげに舌打ちしながら魔法を発動。

 直径三センチにも満たない極小さな魔力弾の粒を百数十と形成。一斉に発射された小さな嵐は円錐の角が小さく絞られた事で威力が数倍にまで上昇。スナルグによる威力増加、速度上昇の咒式補佐を得たことでさらに殺傷力が跳ね上がる。

 ヒルダが作り上げた魔法『劣魔導散弾射(マギア)』の持つ殺傷能力の高い一撃により襲撃者はヒルダから弾き飛ばされる。

 

 ヒルダの体が小刻みに震え始める。俯き加減の頭を振り上げたヒルダの怒りは最高潮に達した。

 

 「あーっもうっ!どんだけ乱入して来るのよ、来るなら最初から一気に来なさいよッ!つうか乙女に不意打ちとか奇襲とかあんまり調子にのんなってーのっ!」

 

 怒りに燃えるヒルダの目が捉えたのは二人。

 味方であるわけがない、当然ヒルダが殺すべき新しい標的であった。

 

 一人はフードを被った大柄の人間。

 槍型のデバイスでクインジーの攻撃を受け止め切った技巧。さらにはトーレを素早く回収する手際と状況判断能力。

 纏うフードから見えるくすんだ黄金色の篭手とレギンス装甲。隙も油断もない無骨な身構えと立ち姿。高い実力を証明する先程の攻防。

 ヒルダの狩人としての本能が警戒せよと金切り声を上げている。

 

 「え~と、面倒くさい武人崩れのおかわりと……」

 

 加えて先程ヒルダへ襲撃を行った敵対者。一目見るだけで面倒くさい輩だと解った。

 体は大型の人間の大きさほど。まるで中世の黒い甲冑を纏った人間と見間違う人とよく似た体躯。日本の腕と足を駆使して襲撃を仕掛ける様は人間の武人そのもの。

 しかし顔の側面に収まる眼孔は四つ。ヒルダを見つめる瞳は赤く紅玉のように輝いていた。さらに刺々しい尻尾がこの生物が人間であることを完全に否定していた。

 

 「は、嘘?」

 

 目を見開く。ヒルダはこの異貌のものどもを知っていた。

 堅い外骨格をもった節足動物であり、あらゆる気候と環境に適応して多種多様な進化を遂げた一族。

 人類との親交性は皆無に等しく、人類とは完全に決別して殺し合う異貌のものども。

 

 「よりにもよって『虫人』を戦場で扱うとか……マジで信じられない」

 

 外骨格を装甲とした人型の虫人。虫人は種族や地域によってまったく特性が異なる。過酷な生存競争が行われる地では、僅か一年で変異が確認されるなど適応能力も高い。

 生存域も海や森、地底など幅広く適した生態に変貌していくために、固定概念を持って戦うのはあまりにも危険な相手。強力な虫人の中には竜種や強力な異貌のものどもすらも殺し餌とするものもいるのだ。

 生体は特殊、戦い方も想像を絶する場合が多く、慎重に戦わなければこちらの身が危うい。

 

 そして人類の敵対者である虫人が人に進んで付き従う訳がない。恐らくは魔法世界における『支配者(ヘルシャア)職』、召喚魔導師がこの異貌のものどもを使役している可能性が高い。

 

 目の前のフードを身につけた魔導師か、はたまた別の魔導師に使役されているのかは判断がつかない。

 ただ一つ解ることは、一方的に傾いていた天秤に動きがあったということ。例えトーレというお荷物を抱えていたとしても手こずる事に間違いは無い。

 召喚魔導師がこの前衛咒式士とは別であり、この場に姿を現さず機を窺っているとすればさらに煩わしい。

 

 戦法が独自となる支配者(ヘルシャア)職と前衛魔導師、虫人という異貌のものどもが組み合わさるとなれば簡単にはいかない。ある意味では先程のトーレとの戦闘よりも厄介だ。

 人数が増えることは単純に戦力が二倍になるわけではなく、時には格上の実力者すらも圧倒することは自身がよく理解している。

 

 「(これであの馬鹿女が治療されて戦線復帰でもすれば流石の私も危険キツイ。そうなる前にこいつら全員皆殺にしないといけないか)」

 

 新たなエミレオの書を開帳させるかどうか。決断は即刻下された。

 

 クインジーの骨が青い粒子となって分解されていく。大鎌を振るって暴れるも、抵抗虚しく数列となってエミレオの書に引き戻されていった。数列が革表紙の本に内包されていき、鎖が巻き付き錠によって封じられる。

 続いて背後のエンゴル・ルも同じように開かれたエミレオの書に封印されていく。

 

 二冊のエミレオの書と入れ替わるようにして、ヒルダの手に赤表紙のエミレオの書が出現。これまでとは異なる外装のエミレオの書を持つヒルダの手が震える。

 

 ヒルダ自身、この書を完全に扱うことができるとは思えない。

 己の持つ大半のエミレオの書を所有していた咒式士。到達者越えの実力を持ち、ザッハドの使徒の中でも桁違いの殺害数をもつアンヘリオ。彼でさえこの書の扱いには苦難を滲ませていた。

 パンハイマやカジフチ、ロレンゾと殺し合えるあの金剛石の殺人者をもってしても完全には制御できなかった。この書は熟練の十三階梯越えの咒式士すら統制不可能な暴力性と凶暴性を併せ持つのだ。

 

 だからこそ、こいつらをここで全員始末できる。

 

 自らの死を覚悟したヒルダの殺意が戦場へ充満しつつあったその時。フードの魔導師が動いた。

 得物である槍を下げると、一歩二歩とヒルダから下がる。それに呼応するかのように虫人も後退していく。

 不審に思うも迂闊に動けないヒルダをよそに、フードの魔導士が言葉を投げかけてくる。

 

 「……我々の目的は達成された。これ以上お前とやり合うつもりはない」

 

 くぐもった渋い声は、壮年の男性の音域。だがそれによりもその言葉の内容にヒルダの眉が釣り上がる。

 彼の発言はヒルダの神経を逆なでするに等しい。腹部から湧き上がる不快感を隠さずにヒルダは声を荒げる。

 

 「は?私がお前を逃がすとでも思ってるわけ?」

 

 「ああ、十分時間は稼がせてもらった」

 

 男の意図を計りあぐねて苛立ちがさらに高まった直後。虫人とフードの男の足下に魔法陣が形成された。

 ヒルダは即座にその魔方陣の構造を理解。トーレが離脱を試みた魔方陣と同様のものと判明した。

 

 これまでの不自然な沈黙は念話による交信のせいだったというのか。目の前の魔導師が転移系の魔道具を使用した不自然な動きはなかった。状況から転移系の魔法陣を忍ばせていたとは考えがたい。

 となればこの少ない時間で、長距離転移系の魔法陣を完成させたとでもいうのか。あまりにも巫山戯ている。

 

 とっさにバインドや魔力弾を作り上げようとして動きが止まった。

 ヒルダは赤いエミレオの書の制御に力のほとんどを注いでいる。こうも突然では魔法を発動して魔導師達の逃亡を防ぐことはできない。

 

 では今持っているエミレオの書を解放するか?それならまだ間に合うだろうか?

 攻め込んで来るならまだしも、逃げる相手にこの書を解き放つのは躊躇いを覚えた。これまでのエミレオの書の比では無いのだ。一度開けば周辺を更地に変える強大な異貌のものどもが封じられている。

 そう簡単に戦場へ召喚するわけにはいかない。万が一扱い損ねれば死ぬのは自分だろう。

 

 魔導士達は既に魔法陣の上。術者があと一声でも発すれば転送が開始される状態。

 召喚に成功。加えて制御に成功したとして、異貌のものどもがあいつらを殺す間に逃亡を許す可能性も少なくない。

 奥の手を開示して逃げられるだけでは下策。既にエミレオの書を複数晒している。これ以上の情報を与えることは後の戦いに遺恨を残す。

 

 唖然とヒルダが見つめる中。フードの魔導師、虫人の姿が消え去ると共に魔法陣が跡形もなく消滅。

 消える最中、フードの奥で男が笑ったように見えたのはヒルダの錯覚か。それとも現実か。解る確かなことは、敵対者全員が戦場から離れることに成功したと言う事だ。

 

 誰もいなくなった戦場でヒルダは脳の運動を放棄していた。数秒経ってようやく我を取り戻す。

 もしやと思ってサーチャーを飛ばしてみれば、先の戦いで戦闘不能に追い込んだ残る眼鏡とおまけの反応まで消えていた。十中八九、あの男達が回収したに違いない。

 

 「あ、あははははは」

 

 本人も知らないうちに口から乾いた笑いが飛び出す。当然反応を返す者などここにはいない。

 住人が一人残らず退去させられた廃棄都市の間を、無常の風が通りすぎる音ばかりが耳に飛び込んでくる。

 

 「え、何?あれだけ殺した人間の咒力を消費したのに、クインジーというエミレオの書を晒したのに……殺人数ゼロ?この私が、殺人数ゼロ?」

 

 視界の中で白い鳩が数羽、鳴き声を発しながら円を描いて飛んでいた。もちろんこれは現実のものでは無い。

 バックコーラスにヒルヅとヒルデとヒルドの馬鹿笑い声。もちろんこれは現実のものでは無い。ヒルヅとヒルドはとっくの昔に殺されている。

 だが随分と嬉しそうに楽しそうに笑うものだ。しかも視界の中のヒルデに至っては、ヒルダに対して指を差し、あからさまにお腹を抱えて笑い転げている。

 

 そうしてしばらく呆然と佇んでいたヒルダは――――

 

 「むーっ!私はまったく悔しくないもから、悔しくないもんねーっ!あー私の崇高な決意を返せこの野郎ーっ!」

 

 拗ねた。

 

 未熟だった精神を吐き捨て、新たな高みへと上り詰めようと試みた矢先の出来事がこれだ。この怒り、どこへ向けてくれようか。

 

 地団駄をその場でしばらく踏みながら怒り狂ったヒルダ。数十秒そうやって向けるところのない憤慨を発散していたが、虚しくなったのか挙動が少しずつ収まっていった。

 肩で息をしながら未だうっすらと赤い顔で天を仰ぎ見る。見事な青い空だ。感動的だが、今のヒルダからすれば見ていてむかつくことこの上ない。

 

 虚しい。もうなんか、死ねば良いのに。

 

 「こういう時は殺すのが一番ね、うん。もう誰でも良いから取り合えずぶち殺そう。うん、そうしよう」

 

 デバイスで検索をかける。

 ここから手短な街は十三キロメルトル先。適当に数十人ほど殺してキヒーアの代償を補充しておくべきだろう。今回の戦いは些か死者を消費し過ぎた。余裕があればクインジーの亡骸を増やしておかなければ。

 

 「ついでアイツラの情報を集めとかないと……。映像の記録は、うん。綺麗に映ってるね」

 

 戦闘中密かに撮影された映像を展開。空中に投影された動画を見つめながら考え続ける。

 

 ここまで派手に仕掛けて来るのだから、どこかの次元世界にあいつらの情報が転がっていてもおかしくはない。行動力が高ければ高いほどに後始末はおざなりな連中が多いこともある。

 金さえ払えば管理局だろうが犯罪者だろうが動く連中はどこにでもいるのだから、そいつらを利用してこいつらの情報を集めなければいけない。

 もし家族や友人などがいれば全員殺してやる。それも殺人者の自分が想像できる限りの最悪な殺し方で。

 

 己の害は僅かなチリを残さず殲滅すべきだ。取りこぼした種がどのように絡みついてくるのか解らない。こうして向こうから狙ってきた以上は第二第三の襲撃も考えられる。殺傷設定に躊躇いがないのだから、管理局よりも厄介だ。

 絶対にあいつらは殺さなければならない。

 

 方針のおおよそを決め終えたヒルダは肺の息を全て吐き出す。

 気が付けば己の指先が震えている。損傷前の綺麗に装飾を施した爪までは、さすがのキヒーアも再現はしないのだろう。白い無装飾の爪が震えていた。

 戦闘が終わったことで急激な心的疲労の波が押し寄せてきたのだ。痙攣するように震える体を、必死に細い両腕で抱きしめる。

 

 「……強敵だった。私が、私が死を覚悟するほどに」

 

 こぼれるように出た言葉はヒルダの本心からのものであった。

 命を掛け金とした極限の駆け引き。自らが体験したことの無いストレスをようやく肉体が自覚したのだ。

 

 「初戦で三人撃破したからこそ、あそこまで順調に戦いを運べたんだ。一対一だからこそあの到達者級の魔導士に勝利することができた。どんな原因があってあの場で参戦したのかはわからない。だけど、だけど……」

 

 唇の端がゆっくりと吊り上がる。

 桃色の瞳を潤ませ、赤く上気した頬を擦りあげながら嗤う。

 

 「私は勝利することができた。前衛の超魔導士に、十三階梯と同様の実力者に勝てたんだ。この経験は私が欲しても手に入らなかったもの。私が何よりも待ち望んでいたもの。おかげで私はこの戦いで成長できた。だってこれまで殺すことのできなかった奴を殺せる自信があるんだもの。策略、戦略、戦術、戦法、罠、魔法、暗殺。そしてエミレオの書の活用法が今の私には見える。そう、今の私にははっきりとした道が見える。アンヘリオが、カジフチが、パンハイマが進む世界が」

 

 狂気が滲む精神を一つ一つ積み上げ完成されたザッハドの使徒は、それぞれが一流であり特化された咒式士だ。

 エミレオの書という規格外の道具を扱いこなすには、豊富な咒力と難解な咒式制御技術を必要としている。

 元々ヒルダのポテンシャルは高い。だがそれを育てるだけの栄養となる経験が不足していただけ。

 

 スカリエッティがナンバーズを生み出したのであれば、メトレイヤの科学者達が遊び半分に作り上げたのがヒルダだ。

 歪み、狂いながらも正常な精神を養う者達。通常の人間が感じる『遊び』と彼らの『遊び』はあまりにも食い違いすぎている。

 ナンバーズがスカリエッティに影響を受けているように、ヒルダは本人も知らない深層意識にメトレイヤの科学者達の影響を強く受けているのだ。肉体と精神に干渉され、狂気に弄ばれた存在がどのような結果を生むのか。

 

 ヒルダの成長性はここにきて爆発的進化を遂げたといってもいい。彼女の肉体と精神はそれに耐えうるだけの素質がある。そうなるように遊ばれたのだから。彼女がここまでの殺人者になれたのは、生まれながらのものがそうしたといっても過言ではない。

 

 ヒルダという素体は一度水を与えれば、急速に呑み込み、辺りの栄養を食い散らかして肥大化する。

 

 「私はもっと、もっと強くなる。そのためにはもっと多く殺さなければならない。今の私は未だ蛹にすらなれない芋虫だけど、いつか絶対に美しく可愛い蝶になる。それだけの素質は私に当然備わっているもの、このエミレオの書がそれを証明してくれている」

 

 エミレオの書を開き、召喚されたボラーへとヒルダは歩みだした。

 大口を開けさせられたボラーはヒルダを食い殺そうと身悶えするも、ヒルダはより一層拘束を強めこれを制す。

 槍の穂先のような歯を踏みにじり、垂れた酸性の涎を魔力弾で蒸発させ、舌の上へと優雅に乗り上げる。

 

 「殺す、ただそれだけ」

 

 突き詰められた殺意を胸にヒルダは殺す。これからも殺し続ける。それしか彼女は強くなる術を知らない。

 

 ボラーの口がゆっくりと閉じられていく中、かすかに口内に広がる光をヒルダは最後まで見つめていた。

 見るものが見ればその瞳に映る色は悲哀か、寂寥の念に近い何かであったと気がついただろう。

 

 幼さを残した目に映る景色は、彼女に何も与える事はない。ずっと。

 

 




 気がついたら夏は終わり秋に入りかけていた。ビビった。
 前回の更新から二ヶ月、中身を分ければ一ヶ月に一回は更新出来た気もしますが、切りが良いところでと考えていたら二万六千字越えに。
 次回はこんなに長くはならないはずです。


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14話 日常を蝕む悪意は

 ミッドチルダというか管理世界の貨幣の正式名称が、どこを読みあさっても解らないので『ガル』にしておきました。
 もし解る方がいらっしゃれば教えて頂けるとありがたいです。


 「ふむ……」

 

 スカリエッティは立体映像を隈無く観察していく。

 測定した各観測記録が、数十と空中に投影された画面上を流れ続けた。異常な数値が発見される度に該当箇所を再分析。小数点以下の桁が百を超える数字の羅列を修正。再構築することでより鮮明なデータを叩き出す。

 

 指の動きが精密な機械のように一瞬でも止まる事なく稼働し続ける。

 頭に描いていた仮説を訂正。新たな仕組みを練り上げ、実験的に数式を組み上げていくも失敗。戦闘記録を読み解きながらその作業を絶え間なく何百、何千回と繰り返す。

 研究室内では時間の流れが感じとりにくい。もっとも、彼は時間などに囚われる気はなかったが、既に一日という時間が過ぎ去っていた。

 

 欲望に滾った目は何度もヒルダの姿と咒式。そして彼女の咒式発動記録と観測記録を絶え間なく行き交っている。

 入力装置を叩く音が止むことはない。数値の世界で揺れ動く奇跡を捉えるべく、演算された計算結果と睨み合いながら再度組成式と計算式を作り上げていく。

 

 立体映像が消えては現れ、仮説が生み出されては否定され、法式が作られては破棄されていく。

 彼が無用と判断して切り捨てた仮説や法式の中には、世界を変える革新的なものがいくつも存在した。それ一つで一生遊んで暮らせるだけの金と、歴史に残る名声を得られる代物だ。

 しかし彼にとってはその全てが出来損ないで、不要なものに変わりがない。鼻をかんだ後のちり紙のようなものだ。

 

 歴史に刻まれる名声、数世代に残る金銭など価値がない。咒式と呼ばれる奇跡の価値は計り知れない。それに比べればその程度の価値、塵屑に等しい。

 数多の人間が欲して止まない代物を幾つも作り上げては削除。世の科学者達が見れば意識を何度も失うであろう光景。しかしスカリエッティの顔には狂気めいた笑みがあった。

 

 スカリエッティは天才だ。彼を知るものであれば、十人中十人が口を揃えて彼の才能を賛美するに違いない。彼自身を称賛するかは別としてだが。

 天才は天才を知る。異端は異端の道を進むが故に、同じ匂いを持つモノに極めて敏感だ。特に彼らは大衆一般から外れる上、並々ならぬ好奇心を持つ為に同族に高い興味を示す。

 スカリエッティはヒルダの巻き起こす奇跡の嵐を読み解いていくにつれて確信していった。この咒式は間違いなく、己と同じ天才から生まれ出た狂気の産物であると。

 

 同じ形体、系統であるにも関わらず多様性に富んでいる。なんと独自性の高い方式であろうか。

 魔法とは全く別物だ。いや、ある部分においては完全に魔法を凌駕しているといっても過言ではない。

 

 例えるのであれば植物の根のようなものだ。

 魔法は双子葉植物、咒式は単子葉植物だと考えれば解りやすい。

 

 主根から側根が生えるように、魔法は大本が揺らぐことはない。一つの理論や構想から派生する形で魔法の形式が分裂していく。

 だが咒式はひげ根のように、どれが主であるというものはない。もちろん咒式を発現する理論は始めこそ同じではあるが、そこから爆発的に分類が分かれていく。

 

 これがあまりにも極端過ぎて曲者だ。

 魔法は基本的にAからBへ、BからCへという順序を順守する。細分化されるとしてもBのaやBのbのように、ある一定のツリーから外れることはない。

 

 だが咒式はAからB、AからCへと魔法と比べてあまりにも常識外な分化を遂げている。果てはAからBのaやCのaに飛ぶのだから面白い。

 魔法という常識に毒された状態では、咒式の持つ恐るべき根底式にたどり着くどころか。表面を僅かに理解することすら叶わないだろう。

 まず私自身が築き上げた常識を。いや、アルハザードの寵児という存在自体に関わる根底すら覆さなければならない。そうでもしない限りは、この咒式というものを理解する事はできない。

 

 故に、私は楽しい。あまりにも楽しいのだ。

 魔法とは比べ物にならないほどの多様性、これには目を見張るものがある。

 

 魔法における生体技術には限界があることは周知の事実だ。当然だろう、生体技術は所詮一本の枝を突き進むだけのものに過ぎない。多少別の枝で添え木をしようとも、存在自体は変容しようがないのだ。

 だがこの咒式には限界が見えない。魔法では他の種別と人間の融合、鉱物と人間の生存的融合を可能にしない。しかし咒式はそれを可能とするだろう。何故ならば生物としての根底を書き換えるだけの力があるからだ。

 魔力という存在を弄るのではなく、細胞の一つ一つを変異させ作用する咒式。それは魔力にもたらされた不老不死ではなく、人体自体がもたらす不老不死すら可能とする。

 いわば咒式は本来的な能力を補正する魔法とは違い、能力自体を作り変えて強化するものなのだ。まさに生体技術操作に無限の可能性を開示する救世主だ。

 

 むろん、どちらがどちらより優れているという盲目的宗教思想をここで持ち出すつもりはない。

 魔法にも咒式にも優れるところがあれば、劣るところもある。ただ魔法という常識のみで生きてきた存在。つまり私のような人間にとって、咒式との出会いはあまりにも衝撃的であり革命であった。

 魔法と咒式を突き詰めていけば、それら二つを融合させた第三の超科学も夢ではない。もしそれが完成すれば、咒式世界や魔法世界すらも霞む新たな境地へと到達できるだろう。

 

 異様な空気に包まれる中。スカリエッティは静かな熱気に包まれていた。咒式という存在の虜になっているといってもいい。

 

 この存在を老人共に知らせる気は無い。ましてや影でひっそりとこの咒式を独占して研究するつもりもない。

 奴らはこれを自分のためだけに用いるだろう。やはり私は奴らとの繋がりを完全に断ち切るべきだ。

 

 この咒式はそれこそ万来の人間に開示されるべき奇跡だ。咒式は個々の人間の影響を受けて強く変化する可能性が、魔法のそれと比べて非常に高い。

 私の能力が極めて高いといっても、この咒式という存在を想像もせず、魔法という枠組みに囚われていたように所詮は個の存在なのだ。どこかで自己を完結させている。

 ならばこの咒式を開示することによって、多くの人間によりこの技術を発展させたほうが良い。彼らは私の想像もつかない可能性を生み出してくれるはずだ。高町なのはやプロジェクトFの因子、夜天の書の主のように。

 

 そうだ。無限に広がる可能性は、私の無限に等しい欲望を絶えず満たし続けてくれるだろう。

 

 喜悦に歪む顔をそのままに、スカリエッティは生物欲を捨てて知識欲を優先させる。

 食べることも、寝ることも忘れて流動する数字の羅列を注視する。空中に投影された立体映像を同時にいくつも操作しながら、スカリエッティはただひたすらに咒式に魅せられていた。

 

 だが、彼の夢の空間が裂けるようにして研究室のドアが自動で開かれる。スカリエッティは思わず目を細めた。

 同時に素晴らしい環境を壊されたと、侵入者の無粋な行動に怒りを抱く自分自身に驚かされる。

 

 「ドクター、失礼します」

 

 「どうかしたのかね、ウーノ」

 

 ウーノはスカリエッティの声の加減から、彼の機嫌があまりよろしくないことに気がつく。長年秘書のような役割をしてきた彼女でさえ、このようなことは滅多に見られるようなものでは無い。

 よって体調や食事などの気遣いの挨拶を並べる予定であったが、本来伝えるべき用件を優先させることにした。

 

 「ヒルダと戦闘を行ったナンバーズの近況報告。加えてヒルダの新たな情報に関してお伝えに参りました」

 

 「続けて構わないよ」

 

 声に僅かばかり荒々しさが混じっている。

 それはウーノにしか解らないような微細なものであったが、それだけに彼女は戸惑いを覚えた。

 ウーノは「研究があまり進んでいないのだろうか?それともナンバーズの損傷が予定していた計画に影響を及ぼしたのでは?」などと的外れな事を考えながらも口を開く。

 

 「ウェンディ、クアットロ両名は既に完全に回復しております。しかしチンク、トーレの両名に関しては損傷率が高く、急いでも二週間はかかるかと。ウェンディ、クアットロの両名の戦闘レポートはお読みになられたましたか?」

 

 ああ、とだけ呟いて映像からまったく視線を動かさないスカリエッティ。

 ウーノは微かに首を傾げながらも「次にヒルダの動きに関してですが……」と述べる。スカリエッティの顔がここで初めて動き、ウーノの目線を受け止めた。

 

 「あの戦闘以降、目立った動きはありません。ですが民間人に対する殺人は収める様子もないようです。つい先日も年齢、性別問わず十三人を殺害しております。犯行声明文をいくつか残している事から、ヒルダは自身の犯行を隠す素振りがないことが解っています。現地の政府もヒルダ個人に対してそろそろ大きな動きを行う可能性があります」

 

 「管理局はどうかね……?」

 

 「潜入しているドゥーエの情報によれば、現地政府に対する配慮により直接的な介入は行われておりません。依然交渉は行われているようですが」

 

 「あまりよろしくはない、そういうことだね?」

 

 「はい。加えてヒルダが我々の情報を探っていることも解りました。もちろん、我々の隠匿は高度なものであり、一世界の情報屋程度に存在を掴ませるようなものはありません」

 

 スカリエッティはやや考える素振りを見せた。指の動きが止まる。目には深い思考の色。ウーノはスカリエッティの返答を待ちながらも、ヒルダという魔法世界の異分子を考える。

 

 ウーノはスカリエッティがヒルダに入れ込むことを、言葉にはしないがあまり好ましく感じていない。

 

 まず彼女の行動があまりにも苛烈極まり無い。無差別的な殺人を無計画的に行う相手というのは、手を組むどころか関わるだけで害を振りまくということを知っていたからだ。

 彼女の行動が何かしらの利益に結びつくものならまだしも、リスクが高い殺人を利益も無しに繰り返すなど愚かしい。もっと効果的な手段があるというのに、あえて殺人という選択を好むヒルダと関わりたいとは思えない。

 

 さらに問題なのは、彼女が試験的な段階とはいえトーレを撃破したという点にある。

 トーレはナンバーズで最大の戦力であり、個で軍すら圧倒する戦力だ。トーレを撃破したとなれば、単独ではナンバーズはヒルダに勝てない事になる。

 

 確かにこちらも手の内を全て晒したわけでは無い。だがそれはヒルダも同じ事。例えドクターがヒルダの咒式を解読し、ナンバーズが現段階で手に入れたエミレオの書の情報全てに対抗する手段を生み出したとして。

 最終決戦でヒルダが新たなエミレオの書を使う可能性はゼロではない。まず彼女が所有する切り札の数すら此方は把握していないのだ。ゼスト殿が語った赤い革表紙の書というのも気にかかる。

 

 相手は管理局のように、非殺傷設定ではない。確実に敵対者を殺しにかかってくる。

 今回はトーレが辛うじて戦場から帰還できたものの、次のナンバーズがここへ帰ってこられるという確証を得たわけではない。貴重な戦力がヒルダとの情報収集において失われる可能性はゼロではない。むしろ高い数値を示している。

 ヒルダにドクターが敗北するとは考えていない。ただ時空管理局との来るべき時へむけて作り上げた戦力を、このようなところで失うことはあまりにも惜しい。

 

 ウーノはヒルダの危険性を承知しながらも、それをスカリエッティに言い出せないでいた。

 ウーノ程度が考えうることなど、創造者でもあるスカリエッティはヒルダに関わったその時から認識していたはずだ。これはあくまで杞憂に過ぎない、しかしこの身に生まれた焦りは……。

 

 再びスカリエッティの指先が入力装置を叩き始める音。ウーノは考える事へ向けていた集中を、再度スカリエッティへと向ける。

 気がつけば既に十秒の時間が経過していた。

 

 「ヒルダくんへの干渉はしばらく監視に留めよう。予想外の戦闘であったが、咒式に関して素晴らしい量の情報をウェンディ、クアットロ、チンク、トーレの四人は集めてくれた。まだ完全とはいえないが、おかげで糸口が掴めてきたところだよ。そしてあまり彼女に目をつけられることは好ましくない。しばらくは管理局や現地の国家と遊んでもらうとしよう」

 

 「レリックの収集に関してはどうなさいますか?」

 

 「ガジェット中心に行うべきだろうね。他のナンバーズの完成もやや早めるべきだろう。四人のナンバーズがここまでやられるとは流石の私も想像していなかったよ。あの子達は私の最高傑作であると自負していたからね」

 

 やれやれと笑う割には、特に気負った様子は見受けられない。

 即時撤退をチンクに対して命令しなかったことから、ある程度の戦力の低下は視野に入れていたことは間違いない。流石にトーレという戦力の消耗は予想外だったようだが。

 

 「では、引き続きレリックの収集とヒルダの監視を行っていきたいと思います」

 

 「あぁ、頼むよ。収集の遅れに関しては、ゼストとルーテシアに私の代わりとして伝えておいてくれ」

 

 最後に付け加えられた一言に、ウーノは内心で吐息を吐き出した。いや、解っていたことだが難儀することは間違いない。

 こちらに協力的ではあるものの、ルーテシア様はともかくゼスト殿が我々を毛嫌いしていることは解っている。今回の話を告げられれば、彼は間違いなく殺気を放ちながら此方を睨むに違いない。

 

 外のヒルダに内のゼスト殿。今後大きく私たちに関わってくることは間違いないこの二人を、ドクターはどう処理するおつもりなのでしょうか。

 一瞬の戸惑いを飲み込みながら、ウーノは一礼して研究室から立ち去っていく。その足取りは妙に重いものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 真っ赤な果実を手に取る。口元に果実を手で持っていき、皮を剥くことなくそのまま丸かじりにした。

 歯が果肉をそぎ落とすと同時に、口の中に広がる歯ごたえ抜群のジューシーな食感。クエン酸と糖分が味覚を刺激し、知らず知らずのうちに顔で笑みが生まれる。

 さらに果実を囓る、囓る、囓る。何度も口へ運び、何度も果肉を噛み締める。その度に口内に果汁が溢れ出し、何とも言えない幸福感が彼女の食欲を満たしていった。

 

 お客の顔色を窺っていた果物売りの店主が、そんな少女を見て売り込み時であると判断した。

 いそいそと頭の中で商売の売り文句を考えながら、目の前の少女に話しかける。

 

 「お嬢ちゃん、もう一つどうだい?一つ九十七ガルだよ?」

 

 少女は店主の声を聞いて、初めて彼の存在を思い出したかのように振り向いた。

 

 改めて少女の顔を見た店主は、感動に近い吐息を吐き出す。

 今まで商売柄、様々な人間を観察してきたがここまでの別嬪はそう見たことが無い。流れるような金髪と艶のある肌、整った顔は幼さと同時に蠱惑的的な魅力を放っている。まだあどけなさを残す顔立ちだが、将来は絶対に美人になること間違いない。

 

 少女は店主の言葉が気に触ったのか、眉を僅かに顰める。そんな顔もまた品がある少女に、商人は一つおまけしてやろうと笑った。

 

 「だけどお嬢ちゃんは可愛いからね、特別に九十ガルだ」

 

 「私の可愛さはたった七ガルのおまけと同じなの?」

 

 不満げに顔をしかめた少女に、商人は思わず声を出して笑ってしまった。

 

 「ははは、そりゃ確かにお嬢ちゃんに悪い。でもこっちも悲しい事に妻がいてね。お嬢ちゃんの魅力にやられて、タダで商品くれてやったとあっちゃ翌日には俺の尻がぱんぱんに腫れ上がっちまう。今お嬢ちゃんが食った林檎の代金はただでいいから、ここは一つそれを買っていかないかい?」

 

 その言葉に思わず周りの商人達が笑いながら野次を飛ばし始める。うるせぇとそれに応じながら無骨な顔を綻ばせる店主に、少女は苦笑しながら財布を取り出す。

 

 「そこまで言われたらしょうがないわね、買ってあげなくもないわ。三つ頂戴できる?」

 

 「おう、ありがとよ」

 

 店主は朗らかに笑いながら、ふと少女の財布に目を奪われた。黒く飾り気のない革細工の財布であった。

 こんな子供が持つにしては、随分と可愛げがない財布だと疑問に思いながらも、ちらりと覗いた財布の中身に驚く。

 何十枚と重なってつまった札束、その全てが高級紙幣であることに思わず目を疑ってしまう。周りの商人には立ち位置からしてこの財布の中身が解らないだろう。一人驚きに顔を強ばらせながらも、商人はこの少女の正体を危ぶみ始めた。

 

 いいとこのお嬢さんが、護衛を連れずにこんな市場のマーケットに現れるはずがない。戦争が終わったとはいえ、まだまだ治安は良くない。この前だって名高い裏組織の一つが、抗争で全滅したと聞いた。あれ以来、ここらの身振りが悪い連中が荒立っていることは周知の事実だ。

 一人で抜け出してきたのだろうかとも考えたが、それにしては行動に迷いが無い。歩く姿も随分と凜としていた。

 

 となると残るは盗んだか、どこかの組織の高い椅子に座っている奴の娘か。身なりが悪く無い上、顔も良いことから幼い娼婦であることも考えられる。

 通報していちゃもんを付けられても堪らない、ここは見なかったことにするのが一番だ。

 

 店主は笑みを浮かべながら、少女が差しだした硬貨を数えつつ林檎を紙袋に入れて手渡す。

 笑顔で手を振りながら去っていく少女の姿を、店主は複雑な気持ちで見送った。そんな店主に先程の会話を面白がった商人仲間の一人が、わざわざ此方へにやけながら歩いてきた。

 未だ目を離さない店主を、一つからかってやろうと息巻いているのだろう。

 

 「おいおいリーガル、あんな若い子に興味を持ったのか?お前の奥さんが黙っちゃいないぞ?」

 

 肘で体を揺らす男に、周囲は思わず笑い出す。だが店主は神妙な顔つきで少女の背を眺めながら呟いた。

 

 「馬鹿言っちゃいけない。アルバ、お前は起きたドラゴンの口の中に挟まった金貨に手を伸ばすか?」

 

 「お前こそ何を馬鹿な事いってやがる。そんな見るからに危ないもんに手を出すもんかね」

 

 「その通りだ。俺もお前とまったく同じ答えだよ」

 

 男を押しのけながら、敷いた布の上に座り込む。

 よくよく考えればおかしな少女であった。風琴のような楽器を腰にぶら下げながら、店を巡るやつなんざそうはいない。頼むから自分のことをすぐに忘れてくれるとありがたい、俺自身もあの少女のことは忘れようと彼は心に決めた。

 未だ強ばった顔で困ったように頭をかく店主に、周りの商人達は互いに顔を見合わせてそんな彼を不思議がった。

 

 一方、しばらく店先を歩いて巡る少女は、林檎を囓り歩きながら物思いに耽っていた。

 簡単な作りの様々な出店を眺めながら、少女はまた林檎を囓る。ときたま、すれ違う夫婦や子供達を見つめる。玩具を買って欲しいと強請る子供をしかる母親、商品を値切る老人、買い物中に知り合いと遭遇し話し込む青年達。そんな日常の風景を観察しながら、少女はゆっくりと人の間を抜けていく。

 

 「くっだらない」

 

 少女が吐き捨てた言葉を聞き取れた者は誰もいない。もしこの美しい少女がそんな荒々しい言葉を放ったと知れば、皆一様に驚いただろう。

 少女自身も何事もなかったように歩き続ける。何人、何十人、何百人とすれ違う間に人々を横目で盗み見てはいるものの、彼女の琴線に触れる存在は見受けられない。もうそろそろ、このマーケットは抜けて別の所に向かおうか。

 

 「ミリアって可愛いよね」

 

 少女はとっさにその場で立ち止まった。突然止まった少女にぶつかった青年が、その背に悪態をつきながら遠ざかっていく。だがそんな青年を見ることなく、少女は声の主を行き交う人の中から探す。

 

 「そ、そうかな?」

 

 「もぅ、ミリアはもっと自信を持って良いと思うよ!」

 

 少女の目が二人の女性の姿を捉えた。年齢は十六、七歳程の女性のペア。買い物帰りなのか、彩り豊かな花束を持った女性に、もう一人の眼鏡の女性が楽しそうに話しかけていた。

 少女は方向を変えると、静かにその女性達を追うように歩き出す。

 

 そんな少女のことなど露知らず、眼鏡の女性は笑顔で花束を持つ友人と一緒に歩きながら談話を楽しむ。

 

 「ミリアの事が気になっている男の子ってたくさんいるんだよ?知らないの?」

 

 「わ、私なんかが……そんな」

 

 「ミリアが私なんかがっていったら、私はいったいどうなるのよ」

 

 「さ、サーシャは可愛いよ?料理だってうまいし、話も上手だし」

 

 「駄目駄目、男共にとっての印象は一に胸、二に顔なんだから。ミリアが言ったのって、結局その後の話じゃないの」

 

 呆れながら自分を見つめる友人の視線が、眼鏡越しに豊満な胸からミリアの顔へと移っていく。羞恥に顔を朱く染めたミリアは、つい顔を俯けた。

 そんなミリアが放つ優しげな雰囲気に、サーシャの頬は膨れあがった。天は何故友人に一つも二つも女性的な魅力を与えたもうたのか。一つぐらい私にくれたって良いじゃないか、と理不尽めいた怒りがミリアへ募っていく。

 

 「サーシャだって、胸は平均よりあるじゃない……」

 

 「少しね、でも隣にミリアがいるとやっぱり視線は独り占めにされるわけよ」

 

 およよ、と妙な声を上げて目元を拭う仕草を見せる友人に、ミリアはあたふたと慌て始める。もっとも、サーシャは涙を流しておらず、そんなミリアの姿にくすりと笑っていたのだが。

 焦る友人の姿を堪能した後。サーシャはまるで大根役者のような口ぶりで、わざとらしく空を眺めて手をあげた。

 

 「ミリアに彼氏ができれば、何人かが諦めてこっちに来てくれそうな気がするんだけどな~」

 

 その言葉に吹き出したミリアを、サーシャは意地悪げな顔で笑った。

 

 「さ、サーシャ?」

 

 「ぶっちゃけさ、ミリアは好きな人いるんじゃない?ほれほれ、私に教えてくれない?」

 

 お調子者めいたサーシャの声に、ミリアの表情はさらに赤く染まっていく。

 口を開いては閉じることを繰り返す。言葉が見つからないのか、それとも話せないのかは解らないが、ここまで来たら逃がすつもりはない。問い詰めるサーシャの言葉一つ一つが、ミリアの迷いをかいくぐっていく。

 

 「なんとなーく、ミリアからはそういう匂いがするんだよね」

 

 「えと、あの」

 

 「誰?誰よ?ここはいっちょお姉さんに言ってみなさいな?」

 

 「お、同じ年齢だよね私たち」

 

 「そんなくだらない事はどうでもいいの、今はミリアが好きな人の話!」

 

 女性は恋愛話を好む傾向が強いが、この幼馴染みな眼鏡の友人もその類に漏れることは無かったらしい。

 早く、ね、教えてよと口早にミリアを捲し立てるサーシャに、ついぞ頭の中が何も考えられなくなってしまったのだろう。ついついぽろりと一人の男の子の名前を教えてしまった。

 

 「え?ミリアあんな地味な子が気になってるの?」

 

 「じ、地味じゃないよ」

 

 庇うようにその一人の男子が如何に優しくて、自分の心を温かくしてくれたかを彼女にしては珍しく口早に語る。変な目で自分を見ないこと、重くて持てない物を代わりに持ってくれたこと、辛い時に励ましの言葉をかけてくれたこと。たまに呂律が回らなくなるほどの入れ込みようである。流石にここまで言われれば友人の本気が十分に解った。

 取り合えず、まぁまぁと犬を落ち着かせるように宥めながら、やや斜めにずれた眼鏡をかけ直す。

 

 「じゃあさ、告白しようよ。うん」

 

 「え、えぇ?」

 

 「うん、そういうのはいいから。だってあんたが良いって言った男だよ?他の子にもしかしたら持って行かれちゃうかもしれないね。そういう耐性無さそうだもん、あいつ」

 

 「そんなこと……」

 

 「無いって言える?」

 

 こう言ってはなんだが、彼女が伝えた男は目立つタイプでもなければ顔が良いというわけではない。彼が好きだという奇特な女の話は耳に入ってこないし、恐らく彼のことが好きなのはミリアだけだろう。

 だがこうも煮え切らないのは流石に困る。お節介感情なのは解るが、長年連れ添った友人には勇気を出してもらいたい。幸せになって欲しいというのは、身勝手すぎるものだろうか。

 

 ……割合としては、幼馴染みの幸せよりも恋愛の興味八割の説得であったが、思い悩んでいた事に加えて混乱していた彼女には効果的であった。

 最初は消極的であったものの、しつこく言葉を投げかけていくうちに本気になりつつある。それでも最後は渋っていたが、「彼が他の女の子と手を繋いでいる姿、見たい?」の一言で没落。

 落とした堅牢な城の上に旗を立てる妄想をしながら、決心を決めた友人を生温かく見守った。

 

 「わ、解った。じゃ、じゃぁいつか」

 

 「いつか?」

 

 「え、うん、一週間後」

 

 「一週間後?」

 

 「だ、駄目?」

 

 「駄目に決まってるじゃない。ここまで来たらもう明日には告白しないと」

 

 「明日っ!?」

 

 驚いて顔を固めてしまったミリア。サーシャはそんな友人を笑いながら声を弾ませた。

 ここまで来たのだから、一気にいってしまった方が良いだろう。下手に猶予を与えてしまっては、折角の自信が鈍ってしまうかもしれない。

 大丈夫だ、可愛いのだからもっと自信を持て、綺麗な女に男は弱いから押せばいける。そう勇気付けていく。心配そうに胸へ手を当てる友人に笑いかける。しばし迷っていたようだが、心に決めたのだろう。

 振り返ったミリアの顔は、言葉に例えられない魅力に溢れていた。

 

 「うん、解った。サーシャの言う通りだね」

 

 「それじゃ、もちろん?」

 

 互いに笑い合う。

 やがて、決意を新たにしたミリアはゆっくりと潤んだ瞳で口を開く。

 

 「私、明日にでもあの人に――――」

 

 彼女の言葉は続かなかった。

 とたんに俯いて体を震わせるミリアに、サーシャは不審がった。身を案じるように肩に手をやる。

 その時であった。ミリアの体が一際大きく震えると、ゆっくり傾斜していく。ついには片膝をついた後、体を丸めるようにして人の波の中に倒れ伏した。晒された土の表面が、ミリアの激突により土埃を発生させる。

 

 「ミリアッ!?」

 

 悲鳴を上げながらも慌てて体を抱え起こす。顔には凄まじい苦悶の表情。

 異常に気がついた人々が悲鳴を上げた。ミリアとサーシャの周囲がひらいていく。

 胸を両手で押さえつけたミリアの様子は尋常ではない。ただどうしたらいいのか解らない。いったい優しい友人の身に何が起こってしまったのか。

 

 「い、医者を。医者をお願いします、誰か、誰か彼女を助けてッ!」

 

 混乱する人波をかきわけて、魔導師らしいデバイスを握りしめた眼鏡の男性が進み出る。落ち着いて、まずはこの子を土の上に、と指示されたサーシャの目が理性を取り戻した。

 サーシャは彼女の体が傷つかないようにゆっくりと地面に降ろす。後は祈ることしかできない。

 勇気ある魔導師はミリアの状態を緊迫した表情で確認していく。魔導師の顔が強ばった。

 

 「心筋梗塞かッ!」

 

 魔導師は魔法を発動し治療を試みる。だが一向に彼女の顔が和らぐことがない。

 周囲の人間が既に通話を行って病院へと金切り声で連絡している姿が目に飛び込んできた。しかし間に合う可能性は全くと言っていいほど無いだろう。

 最寄りの小さな病院からの距離でも十数分はかかる。人が沸くこのマーケットから自分達の姿を見つけ、運び出すとなればさらに時間がかかるだろう。

 

 胸元を開いて心臓に手を当てた。心音が異常な速さで刻まれている。治療を続けていても正常に戻る様子は無い。焦りが募る。効果が見受けられない魔法から人工呼吸に切り替えるべきかもしれない。

 

 だが思い至った瞬間。まるで胸元が槍にでも貫かれたような錯覚を覚えた。伸ばした手が止まる。唖然としたサーシャが怪訝な様子で友の容態を尋ねるも、魔導師の男はそれどころではなかった。

 何故だ、どうして私までもが。魔導師はまるで意図して引き起こされたような、そんな悪意ある異常に目を見張る。

 体中を挽肉にされるような激痛。声を上げようにも声がでないのだ。散漫した注意力では魔法を維持できない。苦痛に身をよじらせて、心筋梗塞を起こした少女の横に魔導師は倒れ込んだ。

 

 サーシャは訳が解らないと頭を抱えた。ミリアを助けてくれる存在が現れたと思いきや、ミリアと同じように胸元の服を握りしめながら苦しげに倒れ込んでいる。

 恐怖に涙が流れる。歯が小刻みに噛み合わさり、自分の頭を抱える手が震える。さ迷う視線が倒れたミリアの目と交差する。

 助けを求めるミリアの目から熱が徐々に奪われていく様子に、サーシャは思わずミリアの手を握りしめた。周囲の人混みの喧騒がさらに跳ね上がる中、ミリアの手から伝わる脈が徐々に失われていくの感じて気が狂いそうになる。

 

 ミリアは最後にサーシャへ何かを伝えようとしたのか、口を開けるもそれまでであった。

 目が裏返ると共にミリアの全身から力が抜ける。手の甲が土の上に力なく落ちていった。サーシャはそれでもミリアの体を絶え間なく揺すっていたが、彼女の瞳に空を飛んでいた蠅が留まったのを見て全てを悟った。

 蠅が手を擦る先にあったミリアの目は、あの決心を固めた彼女の目とは別物であった。意志が感じられない胡乱な瞳は、ただ空を眺めていた。

 

 人垣を超えてサーシャの絶叫がマーケットに響き渡る。

 遠くを歩いていた人々が、異常に気がついたのか。何事かとサーシャの叫びに惹き付けられて円が広がっていく。そしてサーシャに連なるように悲鳴を上げていく中、ただ一人その流れに逆らって円の中心から遠ざかる人影があった。

 金色の髪を靡かせて去っていく少女。片手で風琴を握りしめ、もう片腕で革表紙の本を抱えている。緊迫した空気が市場を駆け抜ける中で、ただ一人彼女は楽しそうに鼻歌を口ずさんでいた。

 

 その数メートル先に店を構えていた肉売りの男は顔を上げる。客が来ずに居眠りをしていた男は、様子がおかしいことに気がついただろう。

 店から身を乗り出して通りをよくよく眺める。すると何やら人が一方へ向かっているではないか。見ればその先には大きな人混みが生まれ始めている。このようなことは珍しい、何かあったのだろうか。

 疑念を抱いた男は多くの人々がそちらに進む中で、ただ一人逆方向に歩く美しい少女へ声をかけた。

 何やら気分が高揚しているらしい少女へ、何が起こったのかと呑気に尋ねる。少女は肉売りの言葉を受けて、機嫌良さげに疑問を問いかけた。

 

 「ねぇおじさん、私って可愛いでしょう?」

 

 「ん、まぁそうだなぁ」

 

 「世界一、可愛いでしょう?」

 

 どうして逆にこっちが質問攻めに遭っているのか。肉売りは首を傾げた。

 だがにこにこと微笑む少女は、確かにこれまで肉売りが見た中で一番可愛かった。もしかしたら世界の中で一番可愛いという彼女の言葉も嘘ではないのかもしれない。そう思って頷くと、少女は満足げに首肯する。

 

 「なのに勘違いしたブサイクが調子に乗っていたから罰が当たった、それだけの話」

 

 彼女の言葉の意図をとらえあぐねた肉売りが顔を顰める。

 少女はそんな肉売りの反応など、本当にどうでもいいとばかりに再び歩き始めた。去っていく少女の後ろ姿を見送りながら、肉売りの男は頬をかき商売に戻る。

 

 少女は何があったのだろうかと疑問符を上げる観衆を後目に、悠々と土を踏みしめて歩いて行く。

 やがてマーケットが終わり、街に変わった景色の中で一つの細い人気のない裏路地を見つけると、ゆっくりとそこへ入り込んでいく。

 

 「私以外に可愛いやつなんているわけ無いじゃない、本当に馬鹿ばっかなんだから」

 

 革表紙の本を優しく撫で上げる少女の頬は朱く上気している。

 少女――――ヒルダは桃色の原色から金色に染めた髪を指で弄びながら、狭く細い路地の暗闇へと消えていった。




 ヒルダが普通に生活している姿が不足していたので。
 物語に進展はありませんが、ザッハドの使徒が行う殺人は無差別であり無区別であり、人々の生活を脅かすものであることを題材としました。

 最近何かこの二次の題材となるものはないだろうか、と思いサイコパス関係やら犯罪関係の本を読んだところ。中々面白く、興味深い本がいくつかありましたので紹介させて頂きます。今後はこの本を読んで勉強した事を、ヒルダという原作の描写の薄い存在に加味していくかもしれません。

★PHP新書『現代殺人論』
★アスキー新書『死体の罪心理学』
★早川書房『診断名サイコパス-身近にひそむ異常人格者たち』

 次回は管理局の視点から始めるつもりです。
 あとプロローグの全面改正を行いました。加えて一話目の冒頭にも、不足していた文章等を入れさせて貰いました。
 今後も既存の話を修正していくつもりです。


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15話 悪意とは、正義とは

管理局からの視点ではなく、ヒルダからの視点が先になりました。
そっちの方がしっくりきたので。


 ステイオンタブ式のプルトップに、丁寧に彩られた爪をかける。

 指を引っ張り上げると、金属片が押し込まれて蓋が開口。密閉された空間から放出された炭酸ガスの音が、耳に心地よい響きを伝える。

 ヒルダはそのまま口へ炭酸ドリンクを運ぶ。口内ではじける炭酸が、咽を通って体に染み渡る感覚が何ともいえない。酒のアルコールも良いが、炭酸ジュースもたまには悪くないだろう。

 

 過剰に混入された糖分も、アルコールよりも頭を快活にしてくれる。最近面倒ごとが多かった分、砂糖の効き目もより一層感じられた。

 

 もっとも、酒と炭酸。どちらも殺人により得られる幸福感には代えがたいものだが。

 

 一本を手始めに飲み終えると、冷気が流れる中からもう一本、別味の炭酸ドリンクを手に取る。冷蔵庫の扉を足で蹴り飛ばして乱暴に閉めると、手に持った缶のふたを開けながら安っぽいソファーに座りこむ。

 ……座り心地が悪い。所々色落ちして生地が薄くなっている。私が来るんだからもう少し良い物用意しなさいよ、とヒルダはもんくを言いながらさらに炭酸ジュースを口へ運ぶ。

 

 「それで、私が頼んだ情報はちゃんと見つけてきてくれた?」

 

 見つけてなかったら殺す、と殺意を含んだ視線を飛ばす。

 それを受けたよれよれのシャツを着こんだ青年は、面倒くさげに書類の束を掴み取るとヒルダに放った。

 受け取ったヒルダの目が線のように細まる。青年は十日も洗っていない髪を乱雑にかきながら、ヒルダの対面のソファーに座りこんだ。

 しばらく書類をバラバラと意味もなく捲り、手の中で遊ばせていたヒルダの目が再度青年を睨み付ける。

 

 「で、これに私の命令した内容が書いてあると?」

 

 「いや」

 

 「死ね」

 

 ヒルダは魔法の組成式を即座に構成完了。

 魔力の燐光を纏わせたデバイスの先を、躊躇いもなく目の前の青年に向けた。もちろん魔法は殺傷設定というステキ仕様だ。

 

 「いやいや、ちょっと待ってってばッ!?」

 

 「最初に言ったわよね、やれないんだったら殺すって。あんたがあの場でできるっていうから、殺さないで仕事頼んだんじゃなかったけ。あれ?私の記憶違いだった?だったら今ここでキッチリと……」

 

 「お願いします話を聞いてください!理由とか他に調べたこともあるからさッ!ねッ!?」

 

 「……ッチ」

 

 「露骨に舌打ちされた!?」

 

 取り乱す青年は顔色を変えてソファーから転げ落ちると、まるでゴキブリのようにヒルダから後退。

 ヒルダは両手をあわあわと意味もなく暴れさせる青年を、しばらく胡乱な目で見つめる。仕舞いには目元に涙を浮かべる様子を見て呆れたのか、デバイスの先をゆっくりと青年から床へ移動させた。

 

 ほっと胸を撫で下ろした青年が、安心したようにソファーへと座りなおす。やや調子を取り戻したようであったが、未だに足は生まれたての子鹿のように小刻みに震えていた。

 青年を冷めた目で見つめるヒルダは、炭酸ジュースを口に含んで一気に飲み干す。

 

 「もう、いい女っていうのは待つことが出来る女だよ?」

 

 「私以外にいい女なんているわけ無いだろうが。私につまらない冗談に付き合っている余裕があると思うのなら、もう少しその口を踊らせてみたらいい。三秒もしないうちに分かるんじゃない?」

 

青年は「おお、怖」と肩を竦めてヒルダに聞こえないように呟くと、ヒルダから渡された立体映像を二人の間に投影する。

 映し出された映像は四つ。いずれも美しい女性であるが、それぞれ体を機械で改造されている。まともな人間ではない。

 

 「これだけ露骨な格好していれば流石にどっかに転がっているだろうと思ったんだが、他の管理世界の伝手を頼っても使える情報は無し。もちろん少しぐらいはあったが、どれも明らかに手を加えられたものだった。彼女達の正体に辿り着けるようなものはなかったよ。ここまで徹底的に隠蔽されると流石にどうしようもない。ただいくつもの次元世界を股にかけていることは解った。」

 

 「たったそれだけの事のために、これだけ御大層な紙束よこしたわけ?言い訳に全部使っているって話なら、本当にお前を殺すけど?」

 

 「依頼人を襲った連中が用いた技術に関しては問題無く解っている。それはその技術と関わった人物、研究資料、関連事件をまとめたものだよ」

 

 疑わしげな視線を変えることなく手元の資料に移す。一枚目を捲り上げて、まず第一に目に入った言葉をそのまま口に出す。

 

 「戦闘機人」

 

 「そ、管理局が禁止宣言だしている問題技術」

 

 ヒルダの目は文字を一つ一つ読み取っていく。

 骨格・筋組織の改造。遺伝子調整に加え、魔力貯蔵機関であるリンカーコアをプログラムで統制。人為的に魔導師の能力を向上させた人型兵器。

 身体機能の強化にこれらの技術を使用した場合、拒絶反応やメンテナンスなど大きな問題が多数。精神面への影響も見られる。管理局でもかつて秘密裏に研究が進ませられていたが、倫理的面から大きな反対に遭い計画は頓挫。現在はミッドチルダ及び、管理世界を通して禁止されている。

 

 「……この程度で禁止するわけ?」

 

 疑問の声を上げるヒルダに青年は呆気にとられた。

 冗談で言っているのではないか。そう考えついてヒルダの顔を見ると、どうやら本当にそう思っているらしい。訳が解らないといった様子で、資料を疑わしげに意味なく開いては閉じてを繰り返している。

 

 「いや、十分過ぎるぐらいだけど?」

 

 「どこが?」

 

 「だって人体改造だぜ?非倫理的じゃん。逆にヒルダさんが非倫理的だなって思うのは何よ?」

 

 言ったところで気がついた。この美少女、見た目に反してかなり過激なことやらかしている。

 具体的には管理局に喧嘩売りまくるわ、罪も無い人間やらある人間やら関係なくぶち殺すわで、近世希に見る異常者扱いを受けていたはずだ。

 そりゃそんな人間に倫理を説く方が間違っているといわざるをえない。

 

 そう考えていた青年に、ヒルダは「あ~、私が知っている違法研究だと」と言って顎に手を添えた。

 

 「全身で妊娠させて被験者を発狂させたり、頭やら目を数個繋げてどんな思考を行うかを実験したり、全身を幹細胞化させて切られた先から顔が再生されるようにして全身顔まみれにしたり、全身を生きたまま解剖したり、生きた脳をいくつか繋げて一つの生物を作り上げたり、それから……」

 

 「ごめん、もう止めて。吐き気がしてきた。いくらヒルダさんの想像でもそれはキツイって」

 

 こてん、と不思議そうに首を傾げるヒルダ。

 何とも可愛らしいが、ヒルダの発言で和む余裕は失われていた。

 

 「え?これ全部、大真面目に行われていた実験だけど?」

 

 顔を死人のように土気色に変えた青年の頬が引き攣る。僅かばかり残っていた余裕は完全に消し飛んだ。

 

 本当にこの依頼人はどこからやって来たのだろうか。あまり詮索をすれば殺されるが、彼女の話が事実であれば間違いなく違法研究所の出身に違いない。

 

 隠蔽された献体であったならば、ここまで彼女の経歴が無い事もある程度納得がいく。

 そして違法研究の献体であるならば、これ以上踏み込んだら碌な死に方はしない。それだけの研究を行えるのであれば、多額の資金援助を受けているはずだ。どこの支援を受けているか知りたくもないが、万が一知った場合は幸いにも拾った命すら奪われる事となる。

 今でさえ危ない橋を渡らされているというのに、また渡れとか冗談以外の何ものでもない。

 

 関わった時点で最低の不運であったが、生きているだけマシというものだ。

 聞かなかったことにして不自然な笑みをなんとか顔に取り付けた。

 

 「は、話を戻すよ。恐らく彼女達は非合法組織が研究によって作られた戦闘機人だ。高度な技術と膨大な研究資金がかかる以上、後ろには相当大きな規模の組織があるはずだ」

 

 「管理局が関わっている可能性は?」

 

 資料を食い入るように読み漁っていたヒルダから、素早い指摘が飛ぶ。青年はヒルダの頭の回転の良さに、軽く驚きの表情を見せた。

 やはりこの大量殺人者は、狂っているようで狂っていない。すぐに鋭い目に移り変わってヒルダを見つめる。

 

 「あり得るだろうね。なにせこの生命操作技術に大掛かりで取り組んでいたのは管理局だ。人手不足が深刻な問題になっている管理局にとって、簡単に強力な人造魔導士が生み出せるこの技術はまさに救世主だったよ。研究が進むうちに非人道的な面が強いことが知れ渡っていき、反対の声が大きすぎて最後には中止に追い込まれちゃったけど。結構いいところまで行ったみたいだよ、本当に実装寸前だったみたいだ」

 

 ヒルダは考え込む仕草を見せながら、炭酸ジュースを口に含む。

 非人道的という面を強く押し出して否定された生命操作技術。馬鹿共のお題目には『非人道的』という言葉はちょうどいいだろう。

 だがそのお題目を唱えた連中が、真に非人道的な面で戦闘機人という生命操作技術を反対したのかは疑問が残る。恐らくいくつかの要素と思惑が重なった結果が、戦闘機人という技術の廃止に繋がった。

 

 「戦闘機人技術の強烈な取り締まりの裏で、密かに表面下で研究が続けられていた可能性は十分にある。管理局の膨大な資金を運用する帳簿なんて、上の極一部の連中しか知らないからね」

 

 「管理局において、戦闘機人の技術を主導して研究を行っていたのはどこ?」

 

 「確か陸だったはずだよ」

 

 ヒルダの頭の中でいくつもの複雑な歯車が噛み合っていく。

 

 優秀な魔導士を軒並み引き抜かれて、碌に手が回らない陸が手を出した生命操作技術。

 管理局で大きな権限を持つのは海だ。時空を担当する海にはそれに見合うだけの高い実力、魔力が求められる。結果的には優秀な人材が海に集まるために、自然と海はエリート連中の集団となる。早い話が、権力の集中化が管理局内で発生する。

 海には困難な任務が多いために、陸や空に比べて優良な装備や支給品が回されると聞くが、決してそれだけの理由ではないだろう。給料、待遇の面からいっても海は格別だ。管理局全体の予算や流通にはこの問題は絡んでいるに違いない。

 

 陸の目的は人員の補給だけではない。恐らくこの実力の天秤を変える狙いがあったのだろう。

 ……いや、何かがおかしい。まだ大きな問題が残っている。どうしてこの問題を見逃していた?

 

 金だ。

 

 研究には膨大な資金が必要とされる。陸にそれだけの資金を投入できるだけの余裕があったのだろうか。

 末期になってようやく研究停止、という話も気にかかる。その事実は戦闘機人という研究が、最終段階に至るまで見逃され続けたことに他ならないからだ。

 研究に費やした年月は一年では済まされないだろう。海や空がこれを知れば、強く批判の声を発するに違いない。海と陸の二極化が進むことは空にとって好ましくなく、魔法実力主義が崩れ去ることは海にとって良いものではない。全力で潰しにかかるはずだ。

 

 にも関わらず、終盤まで見逃され続けたのだ。こんなことあり得るはずがない。

 なんでこの事に気が付かなかったのか、我ながらあまりにも間抜けである。

 

 見逃した、ということも十二分に考えられる。その方が確かに陸に対するダメージは高い。

 

 だがもしその追及を逃げ切られれば、待っているのは陸の勢力の巨大化だ。リスクとリターンが見合わな過ぎる。

 もしそこまで高度な監視を行えており、戦闘機人の研究の進行度を漏れなく理解していたのであれば、研究中期ごろに告発しても安全に成果は上げられるだろう。イレギュラーの存在を考慮しない、自身の守りを疎かにする権力者がいるものか。あいつらは確実な結果を求めているのだ。危険で愚直な正義など好むはずがない。

 権力に固執する連中は過剰なほどに身を守るのだ。その程度の可能性を考えられないのであれば、とっくに椅子から転げ落ちている。

 

 研究が失敗した、最後に不備が発覚した可能性もあるがそんなものどうとでもなる。

 都合の良い結果だけ用意できれば、後からいくらでも隠蔽は可能だ。むしろここまで時間と金をかけた技術を、そうそうに手放すなど人間的に考えてまずありえない。

 

 研究を最終段階まで隠し通せるだけの人員、金。それを空と海に知られずに、果たして動かすことが可能であったのだろうか。陸の人員、資本では不可能に近い。研究を最後まで継続できたかどうかすら、現状を顧みるに怪しいものだ。

 

 「おい」

 

 「なにかな」

 

 「本当に、陸が独自で研究を行っていたわけ?」

 

 ヒルダの鋭い視線が青年へと向けられる。

 

 青年が渋い顔で目を泳がせた。僅か一瞬のこの仕草をヒルダは見逃さない。

 百分の一秒にも満たない世界で、命の駆け引きを行う攻性咒式士にとってそれはあまりにも十分過ぎる時間であった。

 ヒルダは陸を表で動かした何かがあり、それは自分の想定した通り相当録でもない連中なのだろうと確信した。

 

 ソファーの横に置いた革細工のカバンを手に取る。

 口を開けるとそのまま机の上に放り投げた。中から零れた高級紙幣の紙束が、傷つきうっすらと埃積もった机の上にぶちまけられる。

 このカバン一つでいったい何回人生がやり直せることか。恐らく三回では数足りないだろう。

 

 思わず目を奪われた青年に、ヒルダはねっとりした笑みを向けた。

 

 「金なら出すわよ」

 

 金額の桁に一瞬、驚きを吐露してしまう。しかしすぐに表情を先程よりも堅いものに変える。

 

 「これは金じゃないんだよ。君が踏み入れそうになっている領域は僕達みたいな人間にとって地雷原なんだ。いつ足を飛ばされるか解ったもんじゃない」

 

 「足が吹っ飛ばされる前に私が殺してもいいけど?」

 

 相手が悪かったとしか言えないだろう。

 目の前で微笑む美しい少女は裏社会のろくでなしどころか、誰もが恐れる管理局に躊躇いもなく喧嘩を売った気狂いだ。

 理性など屑籠に捨てた人間に、道理を説いたところで意味などあろうはずがない。

 

 土気色に染まった顔で観念したように天井を見上げる青年。それを見て勝ちを確信し、満足げにヒルダは微笑んだ。

 

 「あぁ、くそったれ。今話題の殺人鬼がどんなやつか、なんて無謀な興味を抱いた当時の俺を殺してやりたい」

 

 「断りたいなら断っても良いけど、死ぬよりも辛い罰と蛙になるのと。どっちがいい?」

 

 「その二択なら蛙になった方がマシだ。水たまりで考え無しにぷちゃぷちゃ泳いでいたいよ」

 

 「お望みとあらば、あんたと最初に出会った時にかけた咒式を発動してあげるけれど?」

 

 青年はヒルダの言葉に顔を顰める。おもむろに自らの左腕の袖をゆっくりと捲り上げていく。現れたのはやや筋肉質な腕。だが目を細めて見れば、腕に纏わり付くほのかな青い燐光に気が付く事だろう。

 

 「……えー、今未知の魔法を使うことで話題の大量殺人者さん。このどこを回っても解読不可能な魔法の組成式はなんでしょうか。まさか、本当に、蛙になるってわけじゃないよね?」

 

 「気にしなくて良いわ、貴方が私の言う通りに従っている間はね。それってそこらへんの契約は遵守するから安心して良いわよ」

 

 「気休めにもならない気遣いをどうもありがとうございます」

 

 悲観して両目を多いながら椅子に力なく寄りかかる。

 

 暗くなった視界に、ヒルダと初めて出会った日のことが立体映像のように展開されていく。

 情報屋だと確認が取れた途端、羽が生えた未熟児という趣味が悪いこと極まり無い使い魔を呼び出して、奇妙な魔法を施された。

 何でも裏切ったら素敵なことになる魔法らしい。気になって広いツテを使い、様々な医者や魔導師に診断させたがそろいもそろって首を横に振られた。

 

 ただ何人かの魔導師が言うには、難解で複雑極まり無い組成式が幾多も絡まり合っているということ。仕舞いには、これはロストロギアに関係するのでは何て荒唐無稽な話まででやがった。

 普段なら笑い飛ばす事でも、これを施した曰く付きの魔導師があれだから笑う事すらできない。

 

 ただ解ることがある。

 このイカレ女が嫌な笑みして自信満々にかけてきた魔法だ、絶対に幸せな事にはならない。正体不明な事実が輪をかけて証明してくれているようなものだ。

 

 「ああ、神様は俺のことが嫌いなのかね?」

 

 「何?あんた神なんてくだらないもの信じてるわけ?」

 

 ヒルダは不快だと言わんばかりに口調を尖らせた。

 

 「誰だって自分にどうにもできない事になっちまった時は、思わず神様に祈るもんだよ。依頼人は違うのかい?」

 

 「くだらない」

 

 一笑に伏した後、一言で切って捨てる。

 心底呆れかえっているのだろう。お手上げとばかりに両手を振り上げながらソファーの肘掛けに身を委ねる。彼女が持つ大人びた雰囲気に反して、どこか子供じみた仕草であった。

 

 「ようするに弱いからだけじゃない。弱いから自分でもわけのわからないものを自分の中に作り上げて、必死に自己防衛に励んでいるだけじゃない。自分の愚かさ、醜さ、弱さを棚に上げてる辺りが馬鹿さ丸出し。そういう馬鹿共ってぷちっと潰すと言い声で鳴くのよね~♪」

 

 不遜な物言いでケラケラとソファーの上で笑い転げている悪魔。

 その手伝いをやらされているのだと思うと何ともやりきれない。もちろん法に触れることや、非社会的な行いなど思い出すことも馬鹿らしくなるくらいやってきた。 

 だが例えそうだとしてもヒルダには負ける。自分が行って来た諸行は、目の前の少女のたった一ヶ月の悪行の前にすら霞むであろう。

 

 そう考えると、無駄だと諦めに近い感情を抱きながらも、何かを言わずにはいられなかった。

 これは更正を促すというよりは、惰性によるものであった。ただ何か適当なことでもいいから、声に出さなくてはいけなかった。

 

 「依頼人とは違ってさ、人間ってのはどうしようもなく弱いんだよ。だから寄り添って励まし合って必死に生きるのさ」

 

 「違うわ」

 

 人を嘲笑う嫌らしい笑みを浮かべながら、ヒルダは再び青年の言葉を切って捨てた。

 

 「それはあいつらが勝手に自分に生きる価値があるって勘違いしているだけ。弱くて、汚くて、馬鹿で、醜くて、間抜けで、偽物な連中に生きる意味や価値なんてあるわけがないじゃない。あるとすれば強くて、綺麗で、賢くて、美しくて、優れていて、本物な私に殺されるぐらいしかないわ」

 

 「弱さは許されないってことか」

 

 「違う、弱さは罪。そして弱者として産まれた馬鹿共が、本物であるわけがない」

 

 待機状態のデバイスを両手で弄ぶ。端正な指先でデバイスを小突いては、意味もなく裏返す。

 そういえば、とヒルダは己の所有物を注視。これを元々所持していた魔導師は、このデバイスにかなりご執心であった。

 

 本体から吹き飛ばされた手の中から、このデバイスを取り上げたヒルダを、四肢を失った死に損ないの分際で返せだの触るなだの咆えていた。随分と鬼気迫る顔でヒルダを恨みがましい目で見つめていたのが気にくわなかったので、目を抉ってから臓物を引きずり出して殺した。

 最後の最後までデバイスを返せと叫んでいた。確かに妙に改造が施され様々なところまで手が込んでいる。、多額の金が注ぎ込まれていることは明白であり、それに応じるようにこのデバイスはストレージにしては破格の性能だろう。

 

 そういえばこのデバイスに女性名詞の名前が刻まれていたことを思い出す。所持する魔導師自体は男であったので、微妙に気になってそのことを覚えてはいた。ただどんな名前だったか既に忘れた。

 それもボロボロで笑える姿になってもなお、あそこまでデバイスに執着していた一因となっているのかもしれない。

 もしかしたら、このデバイスはあの魔導師が誰か大切な人間から受け継いだものかもしれない。誰か大切な人間によって制作されたものかもしれない。誰か大切な人の名前を付けるほど思い入れがあったのかもしれない。

 だとしたら相当に愉快な話だ。そんな大切なものをむざむざと奪われて死んでいくなど、ゴミには丁度良い間抜けで惨め最後だ。

 喜劇としてはやや三流の台本とお膳立てだが、死んでもなお私を楽しませてくれる人間はそういない。中々に甲斐性がある魔導師だと拍手を送りたい。

 

 既に名前が刻まれていた箇所は削り取られ、新たにヒルダという名前が刻まれている。向こうの言葉で刻まれている故に、魔法世界では誰も意味を解らないだろうが、そもそも装飾の意味合いでつけたようなものだ。自分の他の人間が解るかなんてて元々気にしてはいない。

 

  結局のところ、偽物で弱い魔導師が持っていたものを私が有効活用してあげている。あいつは奪われる者で私は奪う者。奪われる者が持つには、些か不相応な代物だ。

 このデバイスだって、あんな馬鹿に使われるよりは私に使われた方がいいに決まっている。

 

 「弱い奴がいくら理想や正義を掲げたところで、強く無ければ他者に磨り潰されるだけ。戦争で愛を叫んだ兵士は咒式で全身を焼かれ、慈悲を諭した女は輪姦され、無常を説いた老人は細首を握り潰される。弱いものは強いものに食われる事実を道徳だとか、倫理だとか、社会だなんだのくだらないもので覆い隠しているだけに過ぎない」

 

 青年は口の中が乾いていくのを確かに感じていた。額から一筋の汗が伝い落ちていく。

 情報を売り買いする間柄、様々な人間を観察してきた。情報は命の価値を下げれば下げるほど値が跳ね上がる。一つの情報によってもたらされた利益は、時に莫大な成果を生み出すものだ。

 

 だが自らの堅固に取り繕った城を暴かれる事を、快く思う人間など誰もいない。調査した対象のみならず、情報を手に入れたことを隠蔽するために、依頼人にまで命を狙われることすらある。この仕事に就いて殺されかけた回数は、両手どころか足の指を使っても数え切れない。

 その中でより磨かれてきた経験と洞察力は、今まで死線を潜り抜けてきた確かな証。人を見る目にかけては誰にも譲らない自信を持っていた。

 

 しかしそんな目をもってしても、目の前の少女はあまりにも歪に過ぎた。

 

 「無数にいる馬鹿共はそれど誤魔化せるかもしれないけれど、ザッハドの使徒である私には通用しない。積み立てた権威も、膨大な量の金も、くだらない誇りも、虚栄の美貌も、全て死に直面すれば本来の姿に暴かれる。自分自身の本当の醜さに気がついた愚か者共の姿って、ちょーおもしろいんだよ?知ってた?」

 

 この少女の語る言葉に嘘はない。騙りもなければ、彩りもない。全て彼女は本心として語っている。その事実を青年は理解してしまった。

 縁起でもない、虚偽を重ね連ねているわけではない。正真正銘、ヒルダが述べた言葉は本音なのだ。

 何故ならば、それこそこの少女が生きてきた中で辿りついた紛れもない真実なのだ。

 人の枠組で生きるための情操教育が成長段階で教え込まれる。それは他者から自分を守ると同時に、人が生きる世界からも自分を守るために学ばされるのだ。

 

 この少女が讃える殺人は、まずもって人間社会には認める事が出来ない行為だ。他者との繋がりにより利益を生み出し発展する社会においては、円満に流れを保つための規律を何よりも必要とする。

 その規律を一瞬で崩壊せしめる禁忌こそ殺人。利益の連鎖を断ち切り、社会全体をかき乱す殺人は最も忌むべき行いだ。

 

 だがこの少女はどうだ。

 人の中で生まれ、人の中で育つはずの人間が何故ここまで歪みきってしまったのか。先ほど彼女自身が語った言葉から推測するに、満足な環境で情操教育を受けて育ったとは思えない。

 人がもたらした悪意がこの未だ幼さを残す少女に注がれ育った結果。このような他者に対して人道的価値を見いだせない化け物が生まれてしまった。

 だがそんな話は腐るほど知っている。この戦争後に混乱が長きにわたって続いた大陸では、このような現象はあまり珍しいものではない。

 

 ヒルダの恐ろしいところは、他者に対する共感性が欠如しながらも人間性においては何の問題も見られないところだ。むしろ彼女の能力は高く、時に青年自身が驚かされるほどの鋭い見解を述べる。

 この年代の少年少女と比べて明らかに知能指数は高い。ただ彼女があまりにも理解しがたい法則に従うが故に、その事実が隠れ気味になっているだけだ。

 ヒルダは極めて正常であるが、極めて異常な存在でもある。人を殺せば悲しむ人間がいることも理解しているし、殺人の高いリスクについても理解している。

 決して脳に異常が見られるわけではない。倫理や道徳を理解しながらも、それを自身に用いることを拒絶している。

 

 この少女は信じがたい怪物だ。

 高い知性を持ち、なおかつ他者を圧倒する能力を持つヒルダは人間社会においてかなりの優位性を持つ。

 その優位性を自ら切り捨てることを選び、あくまで残虐な趣向を好むアウトカースト(外れた世界)の怪物。

 彼女を理解することは不可能だ。人である限り、人の世界で生きる限り彼女のような異常者を理解できるはずがないのだから。

 

 これまで逃げられていた自分が、何故彼女の手から逃げられなかったのか解った。

 俺はきっと人間の形をした竜に等しい化け物を相手取ったのだ。外面に誤魔化されて油断した結果がこれだ。

 人間相手の対策手段が、人外の化け物相手に通用するわけがない。

 

 「それで、陸に援助した組織はどこ?言っとくけど、三度は言わないから」

 

 殺気を隠すことなく向ける大量殺人者。

 警告しようが止めようが彼女は止まらないだろう。化け物に人の通りを説いたところで意味が解るはずがない。いや、解るがそんなこと知ったことではないのだ。

 目の前の少女に限っては、例え死が踊る戦場だろうと遊び場扱いなのだろう。

 

 「……あくまで、あくまで噂だ」

 

 「そういう前振りは好きじゃないって、死ななくちゃ解らない?」

 

 冗談のようには思えないほどの殺気を当てられた青年は、走馬燈のように駆け巡るこれまでの自分の人生を垣間見ながら口を動かす。

 

 「時空管理局最高評議会」

 

 「……それ、本当なのね」

 

 「物資と資金の流れは幾多も偽装されていたが、戦闘機人の研究に関わった人材の流れはそうそう偽装できるものじゃない。管理局、それも裏の動きをこうも鮮やかに演出できるところなんて限られている。とてもじゃないが、これだけの流通を一個人や一組織が行っていけるわけがない。……故に、最高評議会が主導したという線が濃厚だよ」

 

 最高評議会。

 時空管理局創立後に、三名の有力者が作り上げた最高意思決定機関。

 それにのっとっているのか、メンバーは議長・司書・評議員の三名で構成されている。メンバーの詳細は不明。形態も不明。全てが謎に包まれている。なんせ平時に運営に対して口を出すわけでもないのだ。そもそもどのような役割を担い、行動しているのか時空管理局の局員すら理解していない。

 極一部の上級官ですら、最高評議会については口を頑なにつむんでいるのだ。部外者が彼らの情報を知るすべはない。

 

 故に青年の顔色は青を通り越して、死人同然の土気色にまで変わっていた。

 同業者が関わってはいけないものとして常識になっている暗部。そこに手を伸ばすことを強要されているのだから、彼が今にも死にそうな顔色をしていても不思議ではない。

 

 「どう見ても地雷。本当にこの地雷を踏むつもり?管理局と戦闘機人、余計なお世話だろうけれどもどう考えたって両足吹き飛ぶよ?一つでも十分過ぎるっていうのに」

 

 「地雷だろうがなんだろうが、私以外の凡俗な馬鹿共が絡んでいる以上、私が負ける訳がない。っで?私はちゃんとこいつらの行動を教えろって言ったはずだけど?」

 

 「残念、まったく解らなかったわ」

 

 「今度こそ、死ぬ?」

 

 「そもそも最高評議会って存在自体が完全な脅威であり、次元世界の暗黒空間なんだよ。今まで何人があそこに踏み込んで帰ってこなかったか。第一この外れた次元世界にいる僕が、ミッドチルダの詳細な情報を解るわけがない。現地の情報屋だって碌につかめない情報を、自分が手に入れられるほど世界はよくできてはいないんだ」

 

 ヒルダは一瞬、目の前の役立たずをすぐにでも始末しようと考えた。しかしギリギリのところで理性によって殺気を思いとどめた。

 まだ聞きたいことは山ほどあり、知りたいことも山ほどある。今この時ほど、外来人であることに不満を覚えたことはなかった。

 

 「じゃぁ、その最高評議会との繋がりが強いのは誰?」

 

 我慢を押し込んだ様子で苛立ち気味に疑問を投げかける。

 短い付き合いだが、ヒルダの気がそう長く持たないことを十二分に知っていた。青年は一人の名前をすぐさまあげる。

 

 「レジアス・ゲイズ中将だろうね」

 

 「地上本部の総司令ね、ある意味当然か」

 

 「流石だね。いや、最高評議会を知っているからには彼のことも知っているか。いろいろ黒い噂が絶えない人だよ。レジアスは最高評議会からの信認を得ていると噂されていてね、地上本部の武装強化に大きな援助を受けていることは公然の事実だ」

 

 資金援助としてレジアスが期待できるのは、確かに最高評議会だけであろう。

 だがここまでの情報だけでは、襲来した戦闘機人と直接的な繋がりがあると感じるには早すぎる。

 確かに私は管理局に対して盛大に喧嘩を売った。これにより表向きの連中は私を目の敵として、既に名指しで管理局の敵扱いをしている状態だが……。

 

 それはつまり、私への調査段階で戦闘機人の実用化という実態が浮き出る危険性がある。

 管理局は確かに一枚岩ではない。陸と海の軋轢から、各有力者の足の引っ張り合いまで問題は山ほど存在する。

 しかし管理局がこれまで次元世界の統制に成功していたという現実は、まぎれもない事実そのものであるのだ。

 私自身、管理局の情報を集めたが、下手な警察組織よりも有能であることは間違いない。無論、私が負けることは天と地が交わるほどにありえない話だが。

 

 わざわざ血気盛んになっているバカ連中に任せればいいことを、わざわざ先んじて事を動かす必要がどこにある?

 目的は様々であろうが、危険性の方がはるかに高い。そんなリスクを背負ってまで、戦闘機人という核爆弾を動かす理由は?

 

 「繋がらないわね……戦闘機人と時空管理局の関係が。保身第一の連中が動くにしては、あまりにも稚拙すぎる」

 

 駄目だ、最後の決定打が見つからない。あの戦闘機人共と時空管理局との関係性は存在しないとでもいうのか。

 だが私が磨き上げてきた狩人の鼻が、この繋がりに何かを嗅ぎ取っている。それを捨てて合理性に走る事は簡単だが、この勘をおざなりにして何度失敗してきたか解らない。

 

 焦りが徐々に積みあがってきたその時。

 

 「……ん」

 

 ヒルダは何かの既視感を抱く。それがなんであったのかしばらく逡巡していたが、机に投げられた資料を見て目が見開かれた。

 素早く資料を手に取ると、手早く紙を捲り上げていく。焦点を合わせる瞳孔が、文字一つ一つを見逃さないとばかりに揺れ動く。

 

 「どうかしたのかい?」

 

 「黙ってろ」

 

 どこだ、どこにある。レジアス・ゲイズと管理局、戦闘機人を結ぶ関係性。

 私の記憶が正しければこの資料のどこかに必ず、この三つを結ぶ何かが――――

 

 「……あはっ♪」

 

 ヒルダの口角が吊り上がり、笑みから零れ落ちた歓喜の吐息が言葉となる。指で文字ひとつひとつを読み取れば読み取るほどに、ヒルダの興奮は静かに高まっていく。

 大量殺人鬼の両目は、情報屋が手繰り集めた資料のある項目を注視していた。震える唇が、ゆっくりと、ねっとりとその事件の名を読み上げた。

 

 「戦闘機人事件」

 

 新暦六十七年。今から八年前に起こった事件。

 時空管理局首都防衛隊に所属していた部隊が、秘匿任務中に戦闘機人と接触。戦闘が発生し、部隊全員が戦死した。

 隊長はストライカー級の魔導士であるゼスト・グランガイツ。その実力は数々の難事件を解決し、海にもお呼びが掛かるほどの実力者であった。だが本人は陸に残ることを頑なに希望していたとされている。

 一部隊が全滅、加えてエースストライカーの死という大きすぎた事件性は、隠すにはあまりにも広すぎたのだろう。その任務内容のみに隠匿が図れた模様。任務の詳細は不明。

 

 管理局が関わった戦闘機人に対する事件。そして戦闘機人の研究に関わった陸のエースストライカーの消失。これまでを踏まえれば、嫌でもここに何かがあることが解ってしまう。

 

 「ねぇ、この事件で死んだ連中の詳しい情報。そしてその家族の身辺情報を早く。特にこの隊長の詳しい情報を」

 

 「……なるほど、レジアスに近くて戦闘機人事件に関わった故人。嫌なにおいがぷんぷん漂ってくるよ、くそったれ」

 

 突きつけられた事件名を一目見ると、すぐに情報端末と対面するかのように青年は椅子へ腰かける。

 青年自身、何か思うところがあったのだろう。どのみちこの場でやらないという選択肢は存在しない。やらなければ待っているのは無残な死だ。

 端末を叩き、画面上の操作を行いながら、青年は神妙な顔でヒルダに語りかける。

 

 「ゼスト・グランガイツは名の知れた魔導師でね。おまけに故人であるから、すぐにでも解るよ。隊員も全員身元がはっきりしているから、おおまかな全員のデータは今すぐにでも探せるけど……。その家族の現在とかいうのは、せめて三日はもらいたいね」

 

 「じゃぁ家族は後回しでいい、早く。金はさっきおいたので足りるでしょ?」

 

 「了解しましたよっと」

 

 青年が収集した情報は、紙にするわけでもなくヒルダのデバイスにそのまま移される。

 デバイスが空中へすぐさま立体投影を映し出す。ヒルダが真っ先に手を付けたのは、故人であるゼスト・グランガイツの情報であった。

 生年月日、出身世界、身長、体重、使用デバイス、経歴、使用魔法など。膨大な量のデータが同時に展開され、ヒルダを中心として立体映像が薄暗い室内を埋め尽した。猫のように目を光らせたヒルダが、その情報を事細かに読み取っていく。

 

 「ゼスト・グランガイツ。魔法術式は古代ベルカ式で魔導師ランクは……S+!?」

 

 驚嘆の悲鳴を上げながらも、内心は納得させられた。

 空や海でもなく陸でこのスペックを持つ魔導師の死。とてもではないが暗黙の了解として収まるわけがない。確かにこれでは任務内容を隠す事だけで手一杯であろう。守秘義務があるにしてもこの存在はあまりにも大きすぎる。

 

 さらに興味深い事実がヒルダを唸らせる。ヒルダがゼスト・グランガイツに対して興味を抱いたもう一つの点は、彼とレジアスとの関係性に目をつけたからだ。

 生前のゼストとレジアスの間柄は、周知に知られるほど交友関係も深く、仕事においても互いに手を貸しあっている。日常においても交友の関係が若い時から行われており、例えるのであれば親友と呼べるほどの間柄であったという。

 

 そんな男が、戦闘機人の事件において命を落とした。恐らくは管理局の裏が関わる事件で。

 前線指揮官であり現場で動くゼストはともかく、最高評議会との繋がりがあるレジアスは恐らくこの件に関わっていたのでは?

 となれば彼はレジアスに切り捨てられたとでもいうのか。権力に関わる人間がやることだ、積年の友である男であっても、切り捨てることは想像に容易い。

 

 だが、それ以上に何かが引っ掛かる。

 

 「……いや、私はこいつを知っているような?」 

 

 どこかで見たことがある?いや、それはない。

 なんせこのゼスト・グランガイツという男を知ったのは今この時だ。咒式世界においても当然ながら知り合うわけもなく。ではこの既視感はいったい何だというのだろうか。

 

 「……ん?」

 

 ヒルダが目を付けたのは身体の記録。体長、体格。ここまで大柄で無骨なものはそう見ることはない。

 だがヒルダはごく最近、確かにこの記録に当て嵌まる存在を目にしていた。頭の中で靄がかかっていた姿が、次第に露わになっていく。やがて答えに行き着いたヒルダの唇は、これ以上ないぐらいに吊り上った。

 そうだ、この使用デバイスにも見覚えがある。ここぞという時に邪魔をしてくれた魔導師のことを、この賢くて強い私が忘れるはずがない。

 

 「あのフード男か、おい」

 

 「何かな?」

 

 今度はどんな無茶な注文を付けられるのか、身構えていた青年に求められたものは意外なものであった。

 

 「音声データ」

 

 「ん?」

 

 「ゼスト・グランガイツの音声データ。それと音声の適合ソフトをすぐに用意しろ」

 

 音声データに適合ソフト?それも殉職したはずのゼスト・グランガイツのものをなぜ必要とする。今更死人の声などを確かめていったいどうなるというのか。

 

 「ここまで来ちゃったらとことん付き合うよ」

 

 諦め気味に再度指を素早く動かす。やっと機嫌を良くしてくれたというのに、わざわざ悪くするほど勇気が盛んではない。

 言われた通りゼストの音声データを探すが、画像はともかく八年前の個人の音声となれば中々に難しい。だからこそ情報屋としての腕が試されるのだが……。

 

 「……時間を少し欲しい。マスメディアから教練の公開まで漁る必要がある。エースストライカー級の音声データだから、探すこと自体は難しくないが」

 

 「どれぐらい?」

 

 「二日は欲しいね。音声適合ソフト自体はすぐに手に入るが」

 

 「今日中に済ませろ、無理だったら殺すから。あとお風呂借りるよん」

 

 絶望に顔を染めた青年を嘲笑いながら、ヒルダは優雅な手つきでバスルームの扉を開ける。茶目っ気を見せるかのように、手を振りながらゆっくりと扉の奥に消えていった。

 

 しばらく時を忘れていたが、シャワーが放水される音を聞き取ると目が覚めたのか。大慌てで画面を充血した目で睨みながら、これまでとは比にならない気迫で操作端末を動かす。

 もちろんバスルームにいるヒルダに聞こえない程度の怨嗟の声を吐きながら。

 

 目蓋が熱い。

 目の疲れなのか心の疲れなのか、どちらのせいでもあるだろう。涙を青年は静かに流したのであった。

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 それはまさに仕事のために用意された部屋だった。四方を白い壁に囲まれた広い空間。アシルヘルマンの執務室にはやては呼ばれていた。

 横に並んだ幾つもの資料棚。ナンバーから察するに昨日のものから数十年前のものまで取りそろえられている。電子映像の記録から紙面に至るまで、分別を選ばない辺り堅物の匂いが感じられる。室内に置物は一切無く、あるのは職務に必要な設備のみ。遊びが交わる事は一切無い、完全な職務の結界であった。

 中央の金属製で飾り気のない机に腰掛けたアシル・ヘルマン。そして側に控える黒髪の秘書官がはやてを迎える。この広い部屋の中にいるのははやてを含めて三人のみ。しかし仕事の姿勢を崩さない二人の存在は、はやての心を窮屈なものにしていた。

 

 「良く来てくれた、八神はやて二等陸佐」

 

 「いえ、アシル一等空佐殿」

 

 熱の無い無機質な声が浴びせられたはやては、その場で堂が入った敬礼を返した。

 

 それ以降、会話が途切れる。

 肌が張り詰めるような緊張感が室内を包み込む。はやては背中に嫌な汗を感じていた。

 

 アシルの眼鏡越しに光る鋭い双眸がはやての姿を確かに捉えていた。まるで籠の中に入れられた実験用の鼠を見定めるような視線。嫌悪などの悪感情も無ければ、温かみもないそれを向けられるということは、あまり心地がよいものでは無い。

 

 しかし目の前の男は、はやて以上の修羅場を潜り抜け、キャリアの階段を駆け上がった若き巨塔。間違っても自分から口を開くわけにはいかない。

 決してオフィスで指示を出すような人間ではなく、現場で手腕を振るい結果を叩き出したその様は、現在のはやてとよく似ている。だが二人の間はかなりの距離が存在している。アシルははやてから見ても雲のような存在だ。

 

 畏敬の念を抱くと同時に、言い様のない恐れを抱くこともまた事実。

 実力社会の風潮が極めて高い管理局であっても、高い結果だけで駆け上がることは不可能だ。幾つもの思惑、欲望を利用し、騙し、他者を出し抜いて地位を握るだけの手腕は必要となる。

 理想と実力だけでは勝ち抜けないのだ、この時空管理局の世界は。

 

 アシル・ヘルマンは結果を出すための手腕と、他を出し抜くだけの手腕を有している。この若さで高い地位に存在しているいるということは、それだけ黒い思惑を塗り替え、踏みつぶし、蹂躙してきたことの証明に他ならない。

 その容赦のなさがあるからこそ、アシル・ヘルマンは一等空佐足り得るのだ。

 

 まずこのような機会がなければ、あまり関わりたいとは思わない。

 味方であることは心強いが、今この場においても駆け引きは常に存在している。

 

 はやてはその事実に改めて癖委しながらも、アシルの視線から目を逸らす事は無かった。むしろ何を物怖じする必要があるのかとばかりに、自らも視線に力を乗せて見返す。

 

 二人の間で流れる時間は一分、一時間、一日のように長いものに感じた。実際はたった十数秒であったが、濃密な意志の探り合いはそれほどまでに時間が経ったと周囲を認識させるに十分であった。

 

 「止めだ、こんなところに来てまで腹の探り合いをする必要はあるまい」

 

 軽薄な笑みを浮かべたアシルが言葉を発したことを皮切りに、重圧が掛かった雰囲気が霧散する。

 はやて自身もアシルと同意見であり、すぐに威圧がかった雰囲気を取り払う。無駄な時間をかけるほど、余分な余裕は互いに持ち合わせてはいない。

 

 「もはや癖になってしまってるんだよ。全く持って嫌になるな。はやてくん、君は正義と勇気だけでは人を救えないと気がついたのはいつからだい?」

 

 「私は、今も正義と勇気が人を救えると信じています。ただ、降りかかる火の粉を払うためには、それ相応の方法も必要であることを恩師から教わりました」

 

 「ははは、違いないだろうね」

 

 からからと破顔したアシルに、はやては思わず呆けてしまう。

 最初の厳格な印象とは打って変わって、軽い微笑みを見せる姿に張り詰めた気が抜けてしまった事が原因だろう。

 

 「ほう?管理局の狸もそんな顔を見せるのか。なるほど、これは珍しいものを見たな」

 

 「失礼、その狸というのは誰から?」

 

 「君より先に挨拶をさせてもらったゲンヤ三等陸佐からさ。お弟子さんをお借りしますといった際に、君が恩師からどう思われているのか彼自身が語ってくれたよ」

 

 「……師匠」

 

 頭痛が込み上げてきた。頭を軽く抱える姿に気をよくしたのか、ますます笑みを深めていく。

 恐らく今の彼が放つ雰囲気が、本来のアシルに最も近い姿なのだろう。

 

 「アシル大佐、そろそろ……」

 

 時計を一瞥した黒髪の女性が、二人の会話に入る。

 確かヒルダについて行われた会議において、アシルの秘書官のような役割を果たしていた女性であったはず。

 このような空間にあっても職務に忠実な構えを解かない姿には好感を覚える。

 

 「彼女の紹介がまだだったね、エミリア・フォルクス捜査官だ。私の執務において補佐の役割に就いている。秘書官だと思ってくれて良い」

 

 「エミリア・フォルクスです。よろしくお願い致します」

 

 はやては綺麗な人だ、と思わず息を飲んだ。

 シグナムやフェイト、なのはのように基準を超えた美人は数多く目にしてきた。だが彼女ははやてが知るこれまでとは異なる種類の美貌を持っている。

 やや釣り上がった目と長い睫毛、そして張りのある声がエミリアを気の強そうな女性に見せている。実際、立場が上である二人の会話に躊躇いもなく入ってくる辺り、相当に胆は座っているのだろう。

 

 「さて、彼女が言うように君にも私にも時間は限られている。しかし君からも私にいくつか聞きたいことがあるはずだ」

 

 「よろしいのでしょうか?」

 

 「構わない、恐らく今回の件で最も働いて貰うのは君だ。君には知る権利がある」

 

 「私以外にも、あの場にはそれなりの立場の者達が名を連ねていたはずですが……」

 

 「それを解っていて私に問う辺り、ゲンヤ三等陸佐が狸といった理由が解るね」

 

 感心するように頬笑したアシルの表情が一転、数え切れない経験を積んだ歴戦の魔導師のモノへ変わる。

 

 「君が四年前、大きな被害を生んだ空港火災に駆り出されたことはよく知っている。恐らくあの時からだろうね、君が管理局の行動の遅さを痛感し、君自身が独自の権限を持つ部隊を作り上げる事を望んだのは。あの時から君の行動は現場での指揮に重きを置くのではなく、管理局のキャリアを積み上げる方向へ意識が向いている」

 

 はやての心にゆっくりとメスを入れ、開腹していくアシルの瞳から一切の感情は消え去っていた。躊躇いもなく人の心を分析し、観察するそれはまさに歴戦の捜査官のもの。もはや人間としてのアシルは存在せず、職務に忠実な冷徹極まり無い男の姿がそこにあった。

 

 「古代遺物管理部の実働部隊として第六番目の部隊。通称『機動六課』が多くの支援を元に生まれた。本局の有権者であるハラオウン家、そして聖王教会のカリム・グラシアなどの力を借りることで。祝福するよ、本心からだ。私の立場ではこうも上手くは行かなかった」

 

 アシルの言葉は止まらない。

 

 「だが今の機動六課はかなりに歪な立ち位置を得てしまっている。高魔力の保持者が多数、そして君たちの功績は確かに少数精鋭の実働部隊として相応しい。ただキャリアとしての実績は未だ足りてはいない」

 

 発汗が収まらない。戦慄するはやてを置き去りにして、自らが分析した結果が語られ続ける。はやてが志した悩み抜いた正義を、目の前の男は特に何を思うことなく話し続けた。

 

 「聖王教会とハラオウン家。確かに強力なパイプだろう、これ以上ないぐらいに文句はあるまい。しかし縦の繋がりはあっても、横の繋がりに関しては無いに等しい。まぁ、当然だろう。つくろうと思えばいくらでもつくれるだろうが、君の今の立場では逆に機動六課自体を食われる。実際寄ってきたのは権威はあるが、人の腐肉を喜んでくらうような連中だろうからね。こればっかりは君の若さが仇にもなっただろう。自尊心の強い相手に、女性で若くキャリアも決定的でない君では舐められる。かといって下に出ることは許されない。君が君自身の意志で動かせる部隊をつくり上げるには、誰の手も借りることができなかった」

 

 推論を重ねていくアシルに、はやては言葉を挟むことが出来なかった。

 否、ここで止める術が見つからなかった。それだけの凄みがアシルにはあった。これこそアシルとはやてとの絶対的な差を表す何よりの証拠なのだろう。

 人間を人間として見るはやてと、人を物同然に観察できるアシル。魔物と呼ばれる人間の悪意をどれだけ受けてきたかが、決定的に二人の間を分けていた。

 

 「『最悪の事態が起こった場合に対応する部署』とは、君が六課を設立する際に述べていたものだったか。なるほど、実に自由に動けるお題目だ。しかしそれが逆に横の繋がりと各陣営との繋がりの無さを露見させている。そもそもカリム・グラシアの予言の件ですら嫌っていた連中からすれば、このことはなおさらに気に入らないだろう」

 

 はやてを見据える目が細まる。

 

 「スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター。君が目をつけた将来性のある者達だ。自らの繋がりを最大限に生かして手に入れた素晴らしい人材だが、君が目をつけたように彼女達に目をつけた者達は多い。ある意味では、彼らとの確執をより一層深めてしまった。だがそうしてでも、君は魔導師ランクの保有制限に縛られない優秀な人材を獲得しなければならなかった」

 

 この時点で、アシルの話は終わっていた。

 だがその後もはやてが沈黙していたことを咎める者は、不幸な事にこの部屋にはいなかったのだ。

 

 「これ以上、私の説明が必要かね?」

 

 なおも口を開かないはやてに、アシルは以前と変わりがない人間めいた微笑みを向けた。

 はやてはその微笑みを、以前とは全く違ったものと見てしまった。アシルの笑みは変わってはいない、ただはやてのアシルに対する認識が変わっただけだ。

 まさにこの男は人中に潜んだ竜であった。

 

 「誰も手を付けたがらず、煙たがられている私達だからこそアシル大佐は我々に目をかけている。そういうことですね?」

 

 やや棘のある物言いは、腹芸が得意なはやてにしてはらしくもないものであった。不遜な物言いは、この場において咎められるべきものであろう。

 現実にエミリアははやてに対して、苦言を呈そうと口を開きかけたが、アシルが目で制す事によりそれは叶わなかった。

 

 「モノは良いようだな。誰の権威も及んでおらず、煩わしい派閥や権力者の繋がり無しに自由に動ける部隊というのは、ただそれだけで貴重なのだよ」

 

 警戒を解かないはやては、やや緊張した声で問いかける。

 

 「アシル大佐の派閥に私達を組み込もうと?」

 

 「だとしたら?」

 

 「悪いですが、お断りします」

 

 凜とした響きを纏わせた返答に、アシルは楽しげに笑った。

 

 「心配しなくて良い、そんなつもりは毛頭無い。だが私がHP事件を解決するために集った中で、煩わしい息が掛かっていないのは君たちだけなのだよ。中には私を管理局から隙を見ては追いやろうなんて連中もいるのでね。表向きには協力せざるを得ないが、裏では何をやられるか解らん。……まったく頭が痛くなるよ」

 

 苦労が絶えないな、そう言って深く椅子に腰をかけた。仮面に亀裂が入ったように浮き出た疲労感が、本物であるかは解らない。

 先程見せた黒い片鱗のように、これが人の心を動かす演技である可能性は否めない。だがアシルの言葉に嘘はないだろう。

 

 誰もが正義と誇りを胸にあの場に集ったというわけではないはずだ。人間には必ずと言って良いほど背後関係と打算が存在している。

 組織で行動する以上それは決して避けられるものでは無い。良い方向に作用することも多いが、大抵それは悪い方向にしか動かないものだ。何度それで苦渋を舐めさせられたかはやて自身も解らない。恐らくアシルははやて以上に、その経験が豊富であるはずだ。

 

 「設立からまだ間もなく、募った人材も幼い。HP事件だけでなく、レリックの回収任務にも従事しなければならないだろう。だが、君達には働いて貰わなければならない。足を引っ張り合うような連中に任せられないのだよ、この事件は」

 

 だが、はやては何か違和感を感じ取った。この時に限り、はやてはアシルの顔に影を感じた。偽りきれない程に黒く、濃い影を。演技とは思えない何か。この恐ろしい男であっても、なお触れたがらないような腫れ物の存在を感じたのだ。

 

 「……何か、あったのですか?」

 

 「はやてくん、君はこの事件の異常性を正しく理解しているかい?」

 

 まるでゲンヤが自分に問いかけたものと、同じような問いであった。

 立場も人間性も全く異なる二人が辿りついた疑念。はやてにとって、アシルが投げかけた問いはこれまでにない難問のように思えた。

 

 「異常性……」

 

 「そうだ、私はこのHP事件はかつてないレベルになると踏んでいる。あれはまさに一つの災害に等しい」

 

 咽の奥に痰のように絡まる言葉を吐き出す。

 アシルの両眼は既にはやてではなく、遥かに遠い何かを見ているように感じた。

 どこか哀愁を思わせる悲痛な装いのままに、アシルの口から発せられた言葉ははやてを驚愕させた。

 

 「……万が一、君を含めた機動六課の隊員に危険が及んだ場合。非殺傷設定を解く事も視野に入れておいて欲しい。私はそれを見逃す。そして私の地位が危ぶまれてもその事実をもみ消す覚悟を決めている」

 

 「ッ!?」

 

 一瞬、はやての脳内が真っ白に変わる。

 言葉の意味は受け取れる。いや、彼の言った言葉に意味は一つしか存在しない。だがそれを理解出来るかどうかは全くの別だ。

 この男がはやてに伝えた意図は解らない。だがそれは間違いなく、管理局の題目に反する唾棄すべき選択のはずだ。

 

 「恐らく上も見逃すだろう。HP事件により管理局には既に悪い影響が幾つも出始めている。早期の解決を望む以上、起こってしまった事故に関しては目を瞑る。ましてやそれが人気の高いエースストライカーが属する六課であればな」

 

 何を思って彼がはやてにそう言ったのかは解らない。

 はやては今の言葉が嘘であって欲しいとの想いで、乾ききった口内からやっとの事で声を絞り出す。

 

 「アシル一等空佐殿。悪い冗談を私は好きません、訂正をお願いいたします」

 

 「私も冗談は嫌いだ」

 

 「でしたら、尚更私はその発言を見過ごすわけにはいきませんッ!」

 

 それを許してしまったら、管理局の体制そのものが崩壊する。

 非殺傷設定という絶対的な生命の尊重があるからこそ、この管理局はここまで成立し発展した。

 質量兵器の否定、人的被害を生み出すロストロギアの否定。一度でもそれを認めてしまえば前例が生まれかねない。そうなれば人命そのものの命が軽いものとなり、やがては質量兵器ですら肯定する流れが生まれる。

 

 前例は一度でも作ってはならない。それは管理局の未来のためにも、この魔法世界のためにも、決して私達の代で作ってはならないのだ。

 

 確かに、この男であればその事実をもみ消すことは容易いものだろう。実際に調査が困難に喘いでいる中、上が一刻も早い解決を促していることも事実だ。

 私の存在を煩わしいと考えている人間でさえ、管理局全体の流れに逆らおうとは考えないだろう。ここで殺人という選択肢をとったとしても、大量に怨嗟の声を生み出したヒルダに対して行使すれば反感は少ない。

 

 だがそれでは私達が長年信じていた信念は、求めていた理想の意味はどうなるというのだ。

 ここで殺す決断をすれば、我々はヒルダと何ら変わりがなくなってしまう。我々は社会のために殺し、ヒルダは自分のために殺す。向かう方向性が違うだけで、管理局はヒルダと同じ存在に変貌する。

 

 認めるわけにはいかない、その選択を選ぶわけにはいかないのだ。

 

 葛藤するように押し黙る。声にならない叫びを聞き取ったアシルが、痛々しいものを眺めるかのようにはやてを見張っていた。

 

 「若いな、はやて二等陸佐。ヒルダ・ペネロテを人として見ているのか」

 

 まるで侮蔑するかのように言い放った。はやては反発するかのようにアシルへと咆える。

 

 「彼女は人間です。人はどこまでいっても人にしかなれないのです」

 

 「……危ういな」

 

 アシルの瞳の奥には哀れみにも似た感情が表れている。

 まだ世界は自分を愛してくれているのだと、そう信じている子供を見るかのようにはやてを見つめていた。

 

 「生き急ぎすぎだ。いや、生き急がなければならない状況に追い込まれたのだろう。君はあまりにも大きくなりすぎた」

 

 悲劇だ、とアシルは言った。

 

 「並外れた英雄が若さを盾に突き進む。若さ故に、青さ故に盾の脆さを知らないからこそ、その結末は大抵悲劇へと変わるのだよ」

 

 独白は止まらない。

 

 「だからこそ、先人の言葉だと思って聞きなさい。ヒルダ・ペネロテに正義は無い。ヒルダ・ペネロテに信念は無い。彼女にあるのは空虚な心だ。人が生きるのには支えがいる。その支えを空虚な心を彼女は殺人の快楽で埋めてしまった」

 

 「だからこそ、私達が彼女を止める必要が――――」

 

 「まだ、君は彼女を救おうとするのかい?」

 

 はやてはアシルの伝えたいことが解り始めていた。

 この人は不器用だ、師匠であるゲンヤよりもずっと。私の行く末を案じてくれている。私が歩み続けようとしている道が、どれほどに難しく心が打ち砕かれるのかを知っている。だからこそ、彼は私に諭してくれている。

 自分のような若造が立ち入ることが出来ない境地から、ゲンヤやアシルははやてに問うているのだ。

 

 「訂正しよう、私は最初に機動六課の存在こそが歪な立ち位置に存在していると感じていた。しかしその実は違う、君の存在自体があまりにも歪だ。何故君は彼女を見捨てない?確かに彼女は少女だが、幼さ故にああなってわけでは無いと断言しよう」

 

 アシルが視線でエミリアに会話を飛ばす。黒髪の美女が頷くと、手に持った操作端末を起動。アシルとはやての間に、立体映像を投影した。

 

 「これは……」

 

 「君も知っているだろう。何せ間近で初めて、ヒルダの悪意を受け止めた人間だからな」

 

 立体映像として現れたのは、一片四十センチの赤い立方体。

 生命維持に必要な臓物や重要な器官が詰められた悪意の結晶。ヒルダが時空管理局へ届けた、宣戦布告ともとれる作品であった。

 

 「かれが箱に書かれた文章の通り、カエストス本人なのかは解らない。だが結論から言うと、彼は生きているよ。だが残念な事に精神の方は既に崩壊しつつある。もっとも、完全な崩壊は不可能だが」

 

 「それは、どういうことでしょうか」

 

 「骨や筋組織の一切を取り除かれ、生命維持に最低限必要な体裁を整えられているだけだ。まさに生ける標本だ。未知の魔法がいくつも複雑に作用仕合うことで彼は生きている。ご丁寧に、精神が完全に砕けないよう精神安定を及ぼす脳内薬物排出促進の力まで確認された。まさに悪意の集大成だ。元の人間に戻す事は不可能だ、一回でもこの箱を空ければ中の人間は生命補助の恩恵を失って死ぬ。彼は生涯このままだろう。狂う事も出来なければ、自由に動くことも言葉を発する事も出来ない。死ぬまで彼は生ける標本として過ごす事となるだろう」

 

 「このことを、他の局員には」

 

 「悪いが、彼らの士気に関わることを伝えるわけにはいかない。一部の人間にはこの存在を明らかにしているが、誰もが君のように正面からこれを受け止める事は出来ていなかったよ。上の人間がヒルダに対しての殺害を容認する理由の一つがこれだ。未だ足跡を辿れないヒルダが、いつ自分の身をこのように変えに来るのかと危機感を抱かなかった者は誰もいない」

 

 映像の中では、口角筋が絶え間なく声にならない絶望を唱え続けていた。

 その内容など考えなくても解る。何度も何度も、殺して欲しいと彼は懇願し続けていた。ヒルダが死ねば、彼が戻れる方法は永遠に失われる。仮に彼が元の人間に戻れたとしても、この間に刻まれた心の傷は癒えることはない。

 まさに生きる地獄だ。ヒルダは人間がそうなることを十分に理解していながら、喜んでこのような生きる惨劇の舞台を造り上げた。

 

 間の前に突きつけられた絶望。そのあまりの大きさに、はやての信念が揺らぐ。静かに目を瞑り、手のひらを爪が食い破るほどに強く握りしめた。

 

 「……もし、彼女のことをほんの少しでも手を差し伸べようと思う人間がいたら。あの娘はきっと殺人者にはならなかったでしょう。エリオやキャロのように笑い、人の喜びを自分の喜びに変える素晴らしい人間になっていたはずです」

 

 ヒルダの実力は本物だ。恐らく百年に一人、二人生まれるかどうかの天才であることは間違いない。恐ろしいロストロギアを扱うだけでなく、管理局の手から身を隠すだけの知性を有している。

 もしその方向性が自分達と同じように用いられれば、きっとなのはやフェイトと同じように戦場に立ち、多くの人々を救ったことだろう。

 

 「だが現実に、彼女に手を差し伸べる者はいなかった。ヒルダに関わる者は次々と彼女の心を貪っていき、生まれたのは殺人に悦を見出す怪物だ」

 

 非情なようにもとれるアシルの発言は、紛れもない真実だろう。実際彼女になのは、フェイトが持つ心がはやてのように通じるとは思えない。だがそれでも、同じように一人孤独に抱え込み、苦しんでいた自分を彼女達は救ってくれた。

 変わる事はできないかもしれない。彼女は自分の意志で悲劇を作り上げすぎた。しかしそれでも――――

 

 「変えることは、出来ないかもしれません」

 

 決意を胸に、はやてはアシルの詰問を正面から受け止めた。

 

 「ですが――――彼女を止める事は出来るはずです。なのは一等空尉や、フェイト執務官が私を止めてくれたように」

 

 眩しいな、とアシルは誰にも聞こえない声で呟いた。

 口が動いたことに気づきながらも、はやては内容が聞き取れなかった。緊張で身をすくめながらも、以前とアシルの言葉を受け止める覚悟を崩さないはやて。そんな彼女にアシルは最後の問いを放つ。

 

 「決意は、揺るがないかい?」

 

 「はい」

 

 片頬を上げたアシルが、威圧を解きながらゆったりと椅子に身を沈めた。

 長年側に控えていたエミリアだけは、彼の顔がどこか晴れ晴れとしていることに気がつく。言葉には出さなかったものの、自らが仕える人間が垣間見せた普段見せない表情に戸惑いを覚えた。

 

 「ならばもう止めはしない。だが、私が言った言葉は心に留めておいて欲しい。君の決意に殉じる者が生まれる可能性というものもな」

 

 「ご忠言、痛み入ります」

 

 「君の正義が貫けることを願っている」

 

 はやてが以前と変わりない歩調で下がると、堂が入った敬礼を行い退室する。アシルとエミリアだけとなった空間に沈黙が続く。はやてが去った後も、彼女が出て言った扉から目を離さないアシル。エミリアは十数秒の時間を要した後、平坦な声をアシルへ投げかけた。

 

 「よろしいのですか?」

 

 「私にも彼女のような正義を抱いていた時期があった。そう言ったら君は信じるかい?」

 

 「私は、以前と変わりなく貴方の正義に殉じるつもりです。他でもない、貴方の正義に」

 

 苦笑するアシルと、あくまで秘書官としての姿を崩さないエミリア。

 二人の間には他の誰も邪魔できないような、確かな絆と決意が存在していた。

 

 「私の正義は既に変わってしまったよ。ミーアを亡くしたその時、私は初めて私の正義が持つ弱さに気がつかされた。青い人間が熟すのは、常に積み重なった負債を一気に持って行かれる瞬間だよ。人は愚かにも、失敗した時からしか先人の教訓を学べないのさ」

 

 誰にでも後悔が存在する。もしこうであったなら結果は違ったのではないかと。救えるものもあったのではないかと。

 自分一人だけが犠牲になっただけであれば、ここまで心が張り裂ける事は無かった。大切な存在が自分の代わりとして死んでいった瞬間、初めて己の道が自分一人のもので無かったと気がつかされるのだ。

 青さ故に気がつかなかった事実は、取り返しがつかない事が起きた後で気がつかされる。

 

 余計なお節介をやいてしまった。らしくないな、と考えながらアシルはくつくつと笑った。

 

 「私の姉は貴方の部下としても、恋人としても満足して逝きました。あの件に関して、貴方に一切の不備はありません。断言します」

 

 「他人からの評価と自分の評価は、決して交わることが無い。例えそれが最善の選択であったとしても」

 

 昔の自分がそこにいた。

 はやての決意に、かつてのアシルの面影を確かに見たのだ。

 

 恐らく彼女は多くの悲劇を目の当たりにするだろう。だが彼女が私と違う事は、彼女の行く末を想定し、そこから守ろうとする存在がいるかいないかだ。

 ハラオウン家や聖王教会だけでは足りない、私自身も彼女の脆い盾を庇う盾にならなければならない。

 

 「私は見てみたい、彼女の青い正義がどこまでいけるのか。失敗し、熟せざるをえなかった私達にはあまりに眩しすぎる正義。だが誰もがかつて持っていた正義だ。その行く末を知りたいとも思っている。わざわざ管理局の命運を天秤にかけてまで、ね」

 

 「罰せられたいのですか、貴方は」

 

 「違うよ、成し遂げて欲しいのさ。誰もが成りたくて成れなかった正義のヒーローに、正しい事を正しいと言えなくなった我々はもう成れないからね。はやてくんが、機動六課が進む道を見てみたい。ベットしたのは私の権威だ。故に彼女達が残骸へと変えてしまった正義の後始末は、しっかりと責任をもって処理するつもりだ。この身に変えてもね」

 

 「八神はやてにそれができると?」

 

 「信じられないかい?」

 

 「はい」

 

 あまりにも正直なエミリアの物言いに、アシルは思わず声を上げて笑った。

 しばらく笑った後、エミリアの氷のように冷たい顔を見ながらアシルは口を開く。

 

 「私達が昔見えなかった世界を彼女は見ている。だからこそ期待したいのだよ。我々が彼女が持つ正義が砕けた未来しか知らない。何故なら私達は彼女の正義を為し得なかったからだ。だが、私は彼女のような正義が認められるような世界があってもいいと思うのだよ」

 

 一度成し遂げられた理想は、きっと多くの希望を生む。

 

 それが可能なのだと知った人々は、はやての持つ素晴らしい正義に続いてくれるだろう。

 かつて非殺傷の魔法など、次元世界の平和には何ら役に立たないと笑われて馬鹿にされた時代があった。だが理想に賛同する多くの者達が時間をかけて、非殺傷の魔法という理想が実現可能であったと証明してくれた。だからこそ今の管理局が存在するのだ。

 そんな先人達の正義に恥じない新たな道を作り上げる可能性を、八神はやてはその胸の内に確かに秘めている。

 

 「はやてくんの理想が勝つか、ヒルダの絶望が管理局を包み込むか。誰にも解らないからこそ賭けは成立する。ハイリスクハイリターンな賭けだ」

 

 「貴方にしては珍しい賭けですね」

 

 「私の将来は既に見えつつある、ならば未だ可能性が見えない若者に委ねても良いと思うよ。彼女の将来を守るために、私は私が持つ全てを賭けようと思う」

 

 アシルはエミリアに微笑みかけると、静かに両目を瞑った。

 その閉じた目蓋から見える世界に何があるのか、それはアシル本人にしか知らない。





 台風の前の静けさ、みたいな感じで穏やかな話です。

 弱さを許さないってことは、弱さを受け入れてはいけないこと。
 正義を志すってことは、正しさを続けなければならないこと。

 持ってないものを持っている、自分が成し遂げられなかったことを成し遂げた、そんな人間に対して自分がどう思うかはそれこそ人それぞれです。
 でもそれを受け入れるだけの懐ぐらいは持っていた方が、何かと人間生きやすいと思います。

 恐らく次回か、次々回。ヒルダが機動六課の新人面々とぶつかるぐらいまで進めればと思います。
 され竜新刊発売後かな?新刊楽しみですね。
 


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16話 そして彼女は戦場に降り立つ

キャロ・ロ・ルシエは機動六課の中では最年少の魔導士である。

 

 しかし年齢が低いからと言って、魔導士としての実力が低いというわけではない。それは闇の書事件や、PT事件を解決した高町なのはが当時僅か9歳であったことからも解ることであろう。

 

 彼女の境遇は決して恵まれたものではない。自らが持つ強大な力を見咎めた大人達に故郷から追放され、管理局に保護されてからも腫物扱いされて部署を転々と回され続けた。

 何人もの大人達に、同胞に忌み嫌われた少女は常に孤独であった。悩みを打ち明ける仲間もいなければ、悲しみを受け止めてくれる友人もいない。家族にすら見捨てられた少女の居場所は、微かな希望を抱いて訪れた管理局でさえも見つかることはなかったのだ。

 

 幼い少女がそれによってどれ程の精神的苦痛を受けたのかは想像に容易い。人間不信に陥るのにそう長い時間は掛からなかった。

 僅かな間に、キャロ・ロ・ルシエは完全な人形となっていた。笑うこともなければ泣くこともない、怒ることもなければ悲しむこともない。しかし傷つき壊れかけた心を守るために、自らのうちに籠り切った少女を誰が咎められようか。

 

 だがそれを理解できない者達は、何をしようとも一向に顔を変えない少女をさらに煩わしく思うようになっていった。同程度の年頃の子供であれば朗らかに笑うのに彼女は笑わない、泣かない、怒らない、悲しまない。周囲はそんな少女を気味悪く思い、さらに突き放していった。

 強大な力に加えて人間らしさを失ってしまった少女はさらに孤立の一歩を辿っていったのである。

 

 助けを求めて泣き叫ぶ少女の心はもはや限界であった。

 だが声なき声は誰にも届くことはない。少女の心が砕け散り、完全な人形に変わるまで時間は残り少ない。絶望に打ちひしがれた少女の目から徐々に色が失せていった。

 

 もはや傍観に近い諦めを抱きつつあった少女を救ったのは、フェイト・テスタロッサであった。

 

 自らを引き取り、一人のキャロ・ロ・ルシエという人間として接してくれた事。それが自分にとってどれほどの救いとなったのか。この感謝の想いはもはや言葉にすることはできない。

 その後、時空管理局自然保護隊所属保護官アシスタントとなったが、彼女は自らの恩人であるフェイト・テスタロッサに常に想いを寄せていた。無論これは恋愛感情ではなく、信愛に近いもの。いや、家族へ向けるものと同義であるかもしれない。

 

 だからこそ、彼女がフェイトがいる機動六課にお呼びが掛かった時、決断するまでそう時間は掛からなかった。むしろそれを知った時は喜び、その場で返事を返してしまったほど彼女は興奮を覚えていた。

 

 自らの恩人であり、心の家族であったフェイトと共に戦える。彼女の役に立つことができる。それを知った瞬間、もう体は止まらなかった。頭で考えるよりも、体の方が先だった。気が付けばその同意書にサインを書き込むべくペンを手に持っていたのである。

 

 躊躇う事もないあまりの手早さに、自らを気遣ってよくしてくれた保護隊の隊員達は最初こそ呆れていたが、皆快く彼女の成功を祈って送り出してくれた。おっとりでうっかりな自分を助け、様々なことを新設に教えてくれた彼らはまさにキャロにとって素晴らしい同僚であった。

 

 しかし彼らと巡り合せてくれたのもまた恩人であるフェイトなのである。フェイトがいる機動六課はあまりにも魅力的過ぎた。そんなキャロのフェイトに対する想いを知っているからこそ、保護隊の隊員達も渋ることなく応援した。

 

 そうして機動六課に参入し、新たな自分へと意気込みを感じていた最中に起こった事件こそ――――

 

 『現在もヒルダ・ペネロテの動きは依然掴めておらず、管理局に対する不安の声が上がっています。現地政府との共同捜査が難航しているとの噂もあることから……』

 

 HP事件。今なお死者を量産し続けている悲惨な大量殺人事件であった。

 

 ミッドチルダではなく他の次元世界で潜む犯人の捜索は芳しくはない。あれだけ大々的に動いたのは最初の最初だけ。後は粛々と殺人を行い続けるヒルダに、姿どころか足跡さえ追えてはいない。

 

 組織的犯行であればまだ捜査もやりやすいが、完全な単独犯としてヒルダは動いている。決まった居住地もなければ、他の人間や組織の繋がりもない。物資の流れから追うことも不可能だ。

 ヒルダは他者との繋がりがない身であり、日々の食料や住居すらも他人を殺し奪い取ることで満たしている。

 

 管理局打倒や、現地政府に対する反抗などの大きな陰謀も感じられない。ただ殺していくだけだ。それも権力者や管理局員、民間人に裏社会の住人と節操もない。年齢幅も老人から幼子など無茶苦茶だ。

 まったく関連性も見いだせない殺人に捜査は難航を極めている。

 

 指名手配として流されているヒルダの顔が画面一杯に映された。

 花が咲くように笑い、心の底から楽しげに動く少女を捉えた一場面。これが戦場で人を殺めている最中に撮られたものであると誰が気が付く事ができるだろうか。

 

 これを見て驚いたことが今や懐かしい。犯人は自分と同じ女性であり、同僚であるティアナやスバルよりもその顔は幼く感じられた。恐らく年齢も自分よりも三つか四つほど違わない。

 そして女である自分が驚くほどの美人。端正な顔立ち、ぱっちりとした目にツンとした鼻先。肌は透き通るように白く、頬の一部分のみは興奮しているためかうっすらと赤みがかっていた。

 

 彼女はこれまで見てきた女性の中で間違いなく上位へ入るであろう。ヒルダはそう思えてしまうほどの美しい美貌を持った少女であった。

 

 だからこそ彼女はあまりにも魔法世界にとって異質すぎた。

 見るものを驚かす美貌と、管理局を脅かす力。その二つのうち一つでもあれば、この世界を生きる事は決して難しくない。

 にも関わらず彼女は空前絶後の事件を巻き起こしている。これが世間への混乱に拍車をかけていた。

 

 今もテレビの中では少年犯罪の専門家や、研究者が統計データなどの資料を持ち寄ってヒルダに対してあれこれと不毛な論議を行っている。

 

 「幼少期に虐待を受けたのではないか」と精神分析官が言えば、「彼女の行動は極めて計画的であることから、現地の戦争孤児に特殊な教育を施されていたのでは」と陰謀論まで唱え出す傭兵が声を上げる。そうなれば「いやいや、ここまで支離滅裂な事をしでかして一貫性が見受けられない」と大学の教授が反論を返す。

 誰もがヒルダという大量殺人鬼に興味津々であった。彼女がいないところまでヒルダに振り回され、好き勝手に論議しあう人々の姿は滑稽にも思える。

 

 緊迫したした表情で報道を続ける女性の顔。そこに注がれていた視線が、ゆっくりと足元へと落ちていった。

 主から元気が失われたことに気がついたのだろう。キャロのカバンに入っていた幼竜のフリードリヒが心配そうに顔を出して、主人の頬を舐め上げた。

 

 「うん、大丈夫。ちょっと考え事をしていただけ」

 

 そう言って優しくフリードリヒの頭を撫でるキャロの顔は、やはりどこか憂いを帯びているように思える。

 キャロがじゃれつくフリードリヒを指で遊んでいると、背後の自動扉が開閉する音が耳に飛び込んできた。

 不思議に思って振り返ってみると、二本足が生えた大きな段ボール箱。二本の足だけでは安定性が無いのか、危なげな足つきで部屋に進み入ってくる。

 

 「……ご、ごめん。手伝ってくれると嬉しいな」

 

 少年は段ボール箱の横から苦しげな顔を覗かせながら、不思議そうにこちらを見ていたキャロへ助けを求めた。

 慌てたように少年へ駆け寄ったキャロが、一緒に大きく重い段ボールを四苦八苦で運び終える。額の汗を拭いながら箱の中をちらりと見てみると、紙の冊子やいくつものファイルがこれでもかとばかりに詰められていた。

 こんな重いものを運んでいたのかと、目の前で今も肩を上下させている少年へ心配げに問いかけた。

 

 「エリオくん、あの、これどうしたの?」

 

 「本当ははやてさんが持ってくるはずだったんだけど、忙しいみたいでさ。スバルさんやティアナさんも見つからないから、一人で運ぶことになっちゃって」

 

 力なく笑いながらエリオは椅子に腰掛ける。

 

 キャロはあまりエリオの事を全く知らない。なんせついこの前に初めて顔合わせを済ませたばかりだ。これまでの経験も相まって、人見知りが激しいキャロであったが、目の前でこうも疲れきった姿を見せる少年を放っておくことはできない。

 

 部屋の冷蔵庫から冷えたボトルの水を取り出すと、とたとたと小走りに走り寄ってエリオへと差しだす。エリオは礼を述べるとそのボトルを受け取り、ゆっくりと蓋を開けて中の水を口いっぱいに注ぎ込んだ。

 少し彼もまた自分と同じように緊張して見えたのは、自分と同じく距離を測りかねていたからだろうか。

 

 だが水を飲み終わってしばらく二人見つめ合ううちに、何やら胸の奥から笑いが込み上げてきたのだろう。ふたりは互いに声を上げて楽しげに笑った。

 

 「ごめんね、私は最初ダンボールが歩いて来たのかなって思っちゃった」

 

 「酷いよキャロ、でもあのダンボールは本当に重かった。おかげでまだ腕の疲れがとれないや」

 

 「でもここまで運べるだけエリオくんはすごいよ。私じゃ数歩歩いただけで転んじゃいそう」

 

 「そういえば、初めてキャロを見た時も転びそうになっていたよね」

 

 「うぅ、エリオくんのいじわる」

 

 「ご、ごめん」

 

 自身の過去を振り返って恥ずかしくなり、真っ赤な顔で思わず軽く睨むとエリオはあたふたと慌て始める。

 その慌てぶりが面白かったのか、吹き出してしまったキャロに今度はエリオの顔が真っ赤になる。

 

 エリオ・モンテリオルの事をキャロは詳しくは知らない。ただ軽く話を聞いたところによれば、自分と同じくフェイトに救われ、そして同じ志を持っているということ。

 ずっとどう付き合っていけばいいのかと距離を測り損ねていたけれど、もしかしたら仲良くできるかもしれない。そう確信めいた思いをキャロは抱いた。

 

 だが、そんな穏やかに過ぎかけていた現実が急激に巻き戻される。

 

 『ただいまヒルダ・ペネロテに関する新たな情報が入りました』

 

 キャロとエリオの視線が報道放送に向けられる。静寂が二人を包み込む。

 報道官が鬼気迫る表情で番組スタッフから差し出された紙面を読み上げていく。

 

 『本日十一時頃、住宅街で家族四名の遺体が発見されました。夫であるアレン・ミールの職場の同僚が出社しないために不審に思い、自宅を訪ねたところ自体が発覚。現地の警察機関に通報が行われました。被害者はアレン・ミールさん、その妻であるレイン・ミールさん、息子であるシン・ミールさんと娘のリーシャ・ミールさんの四人です。検視結果から死亡時刻は昨日の夕刻頃だと推定されており、現場にはヒルダの名前が書かれたメッセージカードが』

 

 ヒルダという凶悪な殺人鬼の存在が知れ渡ってからまだ一か月も経ってはいない。

 しかしヒルダが行った凶行の報道は毎日といっていいほどに流され続けている。

 

 彼女はこの僅かな期間の間に、極めて短いペースで殺人を行い続けている。

 場所も、被害者も、時間も、全てが無茶苦茶であるために次の行動が全く予測できない。中には昼間に街中で堂々と殺人が行われた例がある。既に第XXX管理世界において、ヒルダによって殺された人命は百を超えていた。

 

 膨大な被害者の数、行動の速さにヒルダの模倣犯がいる可能性も当初は示唆されていた。

 だが現場に必ずと言っていいほど残されるメッセージの筆跡は、全て同一のものであった。カードに付けられた口紅のキスマークに含まれる唾液の成分も完全に一致を示している。

 この恐ろしい少女が第XXX管理世界にもたらした恐怖は、現地の人々にとって決して他人事ではない。時間も人も場所も無差別な殺人に、いつ自分が巻き込まれるかと思うと彼らは気が気でないだろう。

 

 そして、エリオとキャロの二人もまた彼女とは無関係でいられない。

 

 「八神隊長が言っていた。いつか彼女と戦わなければいけないと」

 

 エリオの言葉を受けて、キャロの顔に暗い影が下りる。

 

 機動六課はロストロギアの脅威に立ち向かうべく、八神はやてが立ち上げた組織だ。

 ヒルダは恐るべきことに、複数のロストロギアを並行して使っている可能性がある。そして既に多くの被害者を生み出している。

 もはや彼女がロストロギアを扱っていることが問題なのではない。ヒルダという凶悪な殺人鬼の存在が問題なのだ。

 

 例え彼女がロストロギアを扱っていなかったとしても、はたして無関係でいられたかどうかは怪しい。

 

 「ヒルダが行っている事は、とてもじゃないけれど許されることではないから。僕たちが戦わなければならない」

 

 「……でも」

 

 私たちは、あの娘に勝つことができるのだろうか。

 言葉の先は紡がれなくとも、キャロの意図は理解できるものであった。

 

 「だけど僕たちはまだ新米、経験が足りないうちに戦うわけにはいかない。だからなのはさんやフェイトさん、シグナム副隊長達が中心になってHP事件に取り組むみたいだ」

 

 エリオの言葉を受けてキャロの目が静かに揺れる。

 

 「……エリオ君。私、これからすごく悪いこと言うね」

 

 それはヒルダを知って、キャロが抱いていた苦悩であった。

 

 「あのね、もしかしたら思うんだ。あそこにいたのは私だったかもしれないって」

 

 静かな独白が室内に響き渡る。

 

 「あの娘は私と同じなのかもしれない。一人で、孤独で、頼れる人が誰もいなくて。助けを求めて縋り付いてもふり払われて」

 

 知らず知らずのうちに、キャロは自分の姿をヒルダに重ね合わせていた。

 彼女も最初は自分と同じで一人だったのではないか。誰からも見捨てられて、疎まれて、必要とされなくて。

 

 「私は、フェイトさんが助けてくれた。一人苦しむ私を救い上げてくれた。だから、私は今もここにいられる。たくさんの温かい人たちの中で生きていられる」

 

 それはIFの可能性だ。キャロがヒルダとなっていた可能性。

 共通点は多くある。召喚技能、大きすぎる力、女性、あまり変わらぬ年齢。

 しかしキャロには仲間がいて、彼女には仲間がいない。

 

 エリオも思うところがあるのか、静かに目を閉じて無言のまま佇んでいる。

 ただキャロはその両手が硬く握りしめられ、震えているのを見た。キャロだけではない、エリオにもキャロの言葉に感じ入るところがあったのだろう。

 キャロはエリオの過去を知らない。しかし自分と同じで辛く苦しい過去を得て掴んだ今があるのだと解った。

 確証はどこにもない。ただそう思っただけ。だが彼も家族について自分と同じく一言も語らないことから、どこか自分と共通する苦悩が感じられた。

 

 「そう、かもしれないね」

 

 エリオは苦しげな表情で口を開いた。

 

 「僕も、もしかしたらキャロの言うようにヒルダになっていたかもしれない。多くの人たちの悪意に飲み込まれて、歪んでしまった僕がヒルダになった可能性は無いとはいえないから」

 

 でも、そう言って力強い眼差しをキャロへと向ける。

 

 「僕も、キャロもヒルダじゃない。フェイトさんが、機動六課という居場所があるから。間違ったら止めてくれる大切な仲間がいるから」

 

 間違ったら止めてくれる。

 厭わず、面倒くさがらず、嫌がらず、大切に思うからこそ道を正してくれる仲間。

 その存在こそヒルダと自分達との最大の違いであった。

 

 「確かに僕達が辿ったかも知れない一つの運命を、ヒルダは今ただ一人で背負っている。でもそれに対してキャロが自分を重ね合わせる必要は無い。無論、僕もね」

 

 エリオの言葉は熱を帯びていく。

 

 「ヒルダは自分の道を自分で決めたんだ。僕達が機動六課に来たように、彼女もまた犯罪者になる事を選んだんだ」

 

 「他に道が無くても、選んだって事になるのかな?」

 

 「ならない。だから僕達がヒルダに道を作って上げなくちゃいけないんだ」

 

 誰も助けてくれなかったのなら、自分達が助けてあげればいい。

 救いを知っている自分であれば、その温かさを伝えることが出来るとエリオは信じていた。

 

 なのはという救いを得たフェイトが、今度はエリオを救い取ったように。今度はエリオがヒルダを救おうとしている。

 崇高で尊い正義の心は確かに紡がれ、なのはの願い通りに広がり始めている。その根はエリオの心にしっかりと根付いていたのだ。

 

 「私達が、あの娘を」

 

 「うん」

 

 「できるの、かな」

 

 「解らない。でも、信じる事は出来るはずだよ」

 

 キャロにはエリオの姿にフェイトの姿が重なったように思えた。

 それほどまでにエリオは輝いていた。キャロの心の闇が消え去るのに十分なほどに。

 

 「そっか……そうだね。私達が信じなかったら、誰が信じるんだろうね」

 

 「苦しい戦いになると思う。でも、なのはさんやフェイトさん、八神隊長達がいれば……きっと」

 

 信じる事。

 信じる力が決して偽りではない真実である事を知る彼らは、互いに手を取り合って立ち上がる。

 

 いつの間にか、キャロがエリオに抱いていた苦手意識は消え去っていた。

 今はただ、彼と同じ願いを持ち、こうして笑いあえる事がなによりも嬉しかった。

 

 「私、ヒルダちゃんを助けたい。私が助けてもらったように、今度は私があの娘を助けてあげたいと思うから」

 

 怒られるかもしれないと秘めていた思い。それを表に出したキャロの顔は、晴れ晴れとして精悍なものであった。

 

 「でも私一人だけじゃ無理かもしれない。届かないかも知れない。だから――――」

 

 私と一緒に、戦ってくれますか。

 

 にエリオは言葉も無く、ただ静かに首肯した。二人の想いは始めから同じものであったのだ。

 それを二人は知らずに、自ら離れるよう距離を取り合っていた。否、知っているから距離をとったのかも知れない。お互いが傷つく事を恐れ、相手を気遣うが故に触れ合えなかったのかもしれない。

 

 カバンから様子を始終見つめていたフリードリヒが、笑顔に変わった主人を見て嬉しそうに鼻を鳴らした。

 

 

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒルダは背中が異常にむずがゆくなるのを感じた。加えて全身鳥肌が立つような不快感が押し寄せ来た。

 

 未だかつてない謎の感覚に包まれたヒルダは、顔を顰めて身震いする。まるで全身をぬるま湯に投じたような思いだ。

 慣れない魔法世界生活で体調を崩したのだろうか。咒式士が風邪というのも巫山戯た話だが、何せここは別世界だ。咒式世界で生きてきたこの身にとって、魔法世界の空気は些か毒であるかもしれない。

 

 いくら自分が上位階級の咒式士であるとはいえ、医療を専門とする咒式士ほど人体の構造を理解しているわけではない。東方のことわざだが、餅は餅屋にという言葉がある。足がつきやすいから避けていたが、闇医者を探して身体に異常がないか診察を行うべきだろうか。

 

 顔を正面に向けると、怪訝な表情でこちらを見つめる情報屋の青年を確認。睨みを飛ばすと慌てて目線を手元の資料に移していく。

 

 「そ、それで音声データ自体は問題無く手に入ったよ。何せ元エースストライカーだ、参考になる資料は多い」

 

 「私が渡した音声データとの適合率は?」

 

 「音声データの適合率は97.65438。発音、呼吸の間の置き方もほぼ間違いない」

 

 大当たりだ。ヒルダは舌なめずりしながら、資料を食い入るように見つめていた。

 

 「ゼスト・グランガイツが命を失ったはずの事件。現場には遺体が無かったってことは、つまり回収されて有効活用されたってことね」

 

 「……S級魔導師の遺体を?それ以前に遺体を活用するなんて話があってたまるかって」

 

 「別に珍しくないでしょ、それぐらい」

 

 青年が驚きに固まった表情のままヒルダを見つめるが、ヒルダは何故青年がそこまで忌避感を覚えるのか理解出来ない。

 

 咒式世界の中で、特に忌み嫌われる物の一つに精神支配咒式が存在する。

 

 他者の脳に咒式を使って干渉することにより、対象を自身の意のままに操る。

 通常は異貌のものどもなどを使役するための手段で用いられるが、これが人間を対象に行われることは禁止されている。

 

 何故ならばこの咒式の人間に対する行使を許せば、人々は自身が操られているのかそうでないのか判別がつかない。加えて交渉という概念が無くなり、社会そのものが成立しなくなってしまう。

 いわば人の根幹を否定し、社会を崩壊させる力を精神支配咒式は有しているのだ。

 

 だからこそこの精神支配咒式の多くは禁止されており、一度使用が確認されれば咒式士最高諮問法院という国家の枠組みを超えた世界の最高機関が、その使用した咒式士に牙を剥くであろう。

 咒式士最高諮問法院が持つ武力と権威は一つの大国を容易く越える。法院から派遣される軍の力は絶大であり、強大な異貌のものどもである竜種すらも容易く屠るほど。

 いくら強くて可愛い私であっても、流石に連中とは事を構えたいと思えない。それぐらいに連中はヤバイのだ。

 

 そしてその精神操作咒式の禁じ手の一つに、死体を意のままに操る咒式が存在する。『屍のメルツァール』という屍葬士が用いているらしい咒式だ。

 

 これは死人の脳内に宝珠を埋め込むことで、咒式士の思うがままに操作できる屍葬兵を作り上げる咒式である。この方法で作られた屍葬兵は、生前と同様の行動を行う事が可能だ。

 死体であるが故に、脳の限界を無視して咒式を酷使し、人体の構造を無視して戦闘を行う屍葬兵は脅威の一言に尽きる。

 自身の負傷も恐れず、死も恐れず、命令から逸脱することがない屍葬兵の相手は面倒極まり無い。

 

 私がいくら殺人者とはいえ、死体を殺す事はあまりしたくない。

 殺してもまったく楽しくもなければ、ただひたすらに面倒くさいだけだからだ。

 生者の恐怖する顔。足掻き、苦しみ、死んでいく姿。そんな馬鹿共だからこそ殺しがいがあろうというもの。人形相手にお遊びする年齢は、とうの昔に過ぎている。

 

 また精神操作咒式ではなくとも、死体の脳さえ残っていればいくらでも活用方法は存在する。

 メトレーヤの科学者達は特にそういう話が大好きだったはずだ。連中がどこから拾ってきた脳をつなぎ合わせ、一つの生物を作りだした事を忘れたわけではない。

 生命の蘇生は不可能とされているが、脳に残る情報と生体組織を転写する事で、生前の人間そのものを作り上げる事は不可能ではないのだ。

 

 恐らくゼスト・グランガイツの死体を用いて、何者かが彼を復元させたのだろう。

 

 「問題はそれを可能とする魔導師か技術者、科学者が絡んでいると言うことか」

 

 ヒルダの顔がここに来て初めて苦渋に歪んだ。憎々しげに言い放ったヒルダは、腹の収まりが悪いのか何度も机を意味もなく小突く。

 

 ヒルダの脳裏に過ぎるのはメトレーヤでのおぞましい記憶。

 精神と肉体を弄ばれ、好き勝手に研究された精神の傷は、未だ彼女の心の奥深くに残っている。

 またもやメトレーヤの科学者達と同じような連中に振り回されているのかと思うと、ふつふつと胸の奥から激しい怒りの炎が燃え立ってきた。

 

 目に激しい憎悪を滾らせたヒルダが、ゆっくりと口を開く。

 

 「どこまでいってもこういう連中とは縁があるってことか。上等よ」

 

 今の自分は、あの頃逃げる事しかできなかった私ではない。

 数百人を殺し、ザッハドの使徒となった最高の殺人者だ。加えて今の自分の手には、十冊を超えるエミレオの書が存在する。

 

 「全員、等しく無惨に残酷に綺麗に蹂躙し尽くしてぶち殺す。必ず私を舐め腐って挑んできた戦闘機人共を皆殺しにして、その背後にいる連中も全員遊んで殺してあげるわ。家族がいればそいつらも全員殺し尽くす。恋人が居れば殺す。子供がいれば殺す。親がいれば殺す。生まれた事を後悔するような酷い死を味あわせてあげるわ」

 

 これは決意だ。

 

 これまでの弱く搾取されるだけの存在で在った自分との決別。咒式世界において糞妹に殺されかけ、糞眼鏡に下半身を焼き切られた私との決別。

 今ここにいるのは『ペネロテ姉妹』ではなく、一人の『ザッハドの使徒』である。美しく、可愛く、強い私が今のヒルダであって、これまでの屈辱にまみれた自分ではない。

 

 今の私が舐められるようなことはあってはならない。

 今の私が侮られるようなことはあってはならない。

 

 この『ヒルダ』が、『ザッハドの使徒』の名が貶められるようなことはあってはならない。

 

 「……一つ質問。ここで死人の蘇生は珍しいわけ?」

 

 「あ、ああ。当たり前だ。死人の蘇生は時限世界において魔法でも不可能とされている。それこそ未知の技術の塊であるロストロギアでも使わない限りはあり得ない話しさ。もっともそんなロストロギアの話なんて聞いたこともないが」

 

 「脳の転写を行って死んだ人間を蘇らせるのは?」

 

 「そんな技術、古代ベルカでも行われていたかどうか……」

 

 「出来たら、どうだって話よグズ」

 

 「……人造生命の研究や生命操作技術、クローン技術でさえ問題視されている。自身の記憶情報をデバイスや魔法生命体に活用するならまだギリギリ違法から外れるかもしれないが、人体でそれを行うとなると問題が多すぎる。恐らく前例がないだけで、禁止される研究であることは間違いないさ」

 

 戦闘機人に加え、新たな違法な生体技術と生命操作技術。

 金の掛かりそうな研究であることは間違いなく、ガジェットドローンや戦闘機人と共に現れた事から、同一機関の研究成果であると判断して間違いない。

 

 「しかし……そうなってくると」

 

 生体技術と生命操作技術の研究が危険視される以上、これらの分野の研究者はかなり絞り込まれるはずだ。違法のぎりぎりをさ迷う研究は、国や司法の下で監視されながら行われる事が通常望ましいとされている。それはこの世界でも例外ではない。

 監視の目が光る異色の経歴の科学者達の存在。巨大組織である管理局であっても、それらを他機関から引き抜けば痕跡の一つや二つは残りそうなもの。

 研究者は人であり、必ずそこには生きた形跡が存在する。それを完全に消し去ることは不可能だ。

 

 にも関わらずその情報がまったく存在しない。つまりこれは正式な科学者だけではなく、違法な研究者を主導して行われた可能性が高いということだ。

 

 「手詰まりに……近いか」

 

 魔法世界は一つだけではなく、幾多もの世界が存在する。管理局が認知していない次元世界も含めれば、千や万どころの数ではない。そんな世界に蔓延る違法研究者を特定する事は不可能に近い。

 ならば今ここで解ることは、管理局で登録されている違法研究を行った者ぐらいか。

 

 「生命操作技術と生体技術。この二つで指名手配されている研究者の次元犯罪者は誰?」

 

 「……」

 

 「おい」

 

 「……どうして、そう思ったのかな?」

 

 ヒルダが目を細めた。

 絶対零度の視線を青年に向け、露骨な舌打ちをして資料を机にたたきつける。

 

 「あ?」

 

 「す、済まない、少し気になってね」

 

 「関係ないでしょ、殺すわよ。それで誰よ?」

 

 「解った。明日までには……」

 

 青年がヒルダを宥めるようにして微笑んだ、次の瞬間であった。

 室内の温度が急低下。空気が凍てつき、肌が張り詰める感覚。まるで全身を剣先で押さえつけられたと錯覚するような、凄まじい殺気が青年を襲った。

 青年はこれを受けて瞬時に飛び退り、ヒルダと距離をとることに成功する。

 

 冷や汗を流した青年の視線が、険呑な空気を纏ったヒルダの姿を捉えた。

 

 「いったい……どういうつもりかな?」

 

 「どういうつもり?言葉で示さないと一々解らないなんて、やっぱり馬鹿ばっかね」

 

 ゆらりと幽鬼の如くソファーから起き上がったヒルダの目は、まるで青年の心を見透かすかのように暗く清んでいた。

 

 「あんたみたいに自分は演技が上手い、みたいな事を考えているやつは解るんだよ。馬鹿で愚鈍で救いようのない阿呆程度が、同程度のぐず共を騙して調子に乗っただけの話」

 

 「何を……」

 

 「どれだけ顔や態度を取り繕っても、肉体や精神状態までは誤魔化せない。お前、自分は賢いと思っているようだけど、ただ小賢しいだけよ」

 

 呆れたと言わんばかりに息を吐き出す。

 

 「緊張して不安状態になると、心臓は頻脈になり心筋の収縮力は増大。心拍出量は増加する。もしくは抹消血管が収縮して血圧が上昇する。だがあんたの心拍は多少高めにしているけれど、十分通常の範囲内だし、血圧に至っては上がりもしていない」

 

 顔を強ばらせた青年へのヒルダの追求は止まらない。

 

 「何よりも緊張で起こる呼吸促進が、あまりにも一定間隔すぎで丸わかり。馬鹿正直に一定のテンポで呼吸し続けられる人間がいるわけないだろうが。そんな表面だけ取り繕って、この私をだませるとでも思っているわけ?」

 

 咒式世界において顔を変えることなど容易い。なにせ生態情報、遺伝情報すら完全に同一化させてしまう咒式すら高度ではあるが存在している。

 流石にそこまで行える咒式士はごくごく僅かしか存在しないが、生体操作がある程度個人で行える事もあって、先程ヒルダが述べた全てを完全に模倣しきる事は十分可能である。

 

 ヒルダは大量殺人者であり、社会から人類の敵と認識されるザッハドの使徒である。

 入れ替わりや演技を行う者には人一倍敏感であり、何よりも僅かな挙動から見破る程の目を兼ね備えている。

 正面から戦う事なく、罠を張るタイプの咒式士であるヒルダの勘は常人よりも遥かに高い。だがその性格や気性が災いしてか、戦場や常時にこの磨かれた感性が発揮される事は少なかったのかもしれない。

 

 だが今のヒルダは正真正銘の狩人であり、慢心を知った存在であった。

 何よりも異境の地でただ一人の咒式士であるという認識が、彼女の観察眼と感性をより鋭いものへ変えていた。

 そんなヒルダにとって、目の前の存在の演技や模倣はあまりにも稚拙すぎたのだ。

 

 「冗談は勘弁してくれ、俺は……ッ!」

 

 「で、これが決定的な証拠なんだけど……」

 

 ヒルダの頭上に二冊のエミレオの書が召喚。

 錠に封じられてなお空中で暴れるそれを見た青年の額から、一筋の汗が流れ落ちていった。

 

 そんな青年を後目に、ヒルダは魔杖風琴を抱え上げる。

 

 「あんたにかけたはずの『胎天使ニョルニョウム』の咒式が解除されてるんだよ。これっておかしいわよね」

 

 魔杖風琴を一撫でしたヒルダの目が、険呑な光を隠そうともせずに青年を睨みつける。

 

 「ニョルニョウムの咒式は、私がいた咒式社会においても致命的で決定的な呪い。咒式があまりにも複雑過ぎて、例え手練れの十三階梯クラスであったとしても、正式な条件を満たさなければ解除が不可能に近い」

 

 艶やかな唇から発せられる言葉。その一つ一つに殺意が込められていた。

 

 「もし少しでもその条件を外れれば、お前はカエルになるはず。だがお前は今もここに人の形をして立っている。しかしお前にかけたニョルニョウムの咒式が解除されている。私のいたところでさえ解除が不可能とされていた不可思議な咒式を、お前程度の人間が解除に成功した?馬鹿いっているんじゃないってーの。あれは正式な条件を満たすか、殺されでもしない限り絶対に解除されない咒式なんだよ」

 

 エミレオの書の錠前がはじけ飛んだ。

 書の中の異貌のものどもが、今か今かとヒルダの最後の一声を待ち望む。

 

「まぁ百歩譲って魔法世界でお前が特別にそんな例外方法を見つけ出したとしよう。しかし、あれだけ怯えていたお前が、どうして逃げずにこんなところで私と顔を付き合わせている?とてもじゃないけれど、お前にそんな度胸は無かったはずだ」

 

 不自然な程の静寂が二人のいる空間を包み込んだ。

 

 青年が青年のものでは無い笑みを顔に張り付ける。

 乾ききった唇を真っ赤な舌で舐めあげるその姿は、とても男ができるものではない妖艶な色気を見せていた。

 

 「……はぁ。データの修正のしなくちゃね、幼稚で衝動的。怒りやすくて短絡的な行動をするとプロファイリングにはあったけれど。駄目ね、まったく違うじゃない」

 

 「話はお終い、ついでにお前の命もお終い。飽きた、死ね」

 

 ヒルダがエミレオの咒式を解放し、魔法の構成式を完成させようとしたその瞬間であった。

 

 周囲の雑音をかき消す激しい轟音。建物全体を揺らす激しい震動が二人を襲う。天蓋から木漏れ日が差し込んだとヒルダが感じた瞬間、両者は既に動き出していた。

 頭上から降りそそぐ瓦礫と内装をヒルダは横に転がるようにして回避。同時に魔法の構成が完了、デバイスの先端に青い燐光と構成魔法陣が展開される。

 

 ヒルダは躊躇うことなく非殺傷設定を解除した魔法を発動。『劣魔導散弾射(マギア)』の極小魔法弾が、青年に偽装した何者かに目掛けて拡散。本棚、食器、ソファー等の家具を巻き込んで死の嵐が室内を蹂躙していく。

 だが既に傾きつつある建物によって生まれた不安定な足場と、上から降りそそぐ木材とコンクリート片が、ヒルダの魔法の正確さと散弾の威力を損なわせた。いくつかの魔力弾は命中するも殺害には至らない。

 

 余裕に満ちた表情を一変させた青年は、傷をものともせずに窓へ目掛けて跳躍。点々と空中に散布された自身血液を置き去りにして、三階の窓から飛び降りていった。手際が良いところを見ると、予め逃走経路を確保していたようだ。面倒くさい。

 

 ヒルダは舌打ちを飛ばしながら飛行魔法を発動。『劣魔導散弾射(マギア)』を連続発動して内壁を破壊。壁を蹴り抜いて空中へ飛び出し、倒壊する建物からの脱出に成功する。

 

 コンクリート片が混じった粉塵を突き抜けてヒルダはバリアジェケットを展開。黒を基調としたドレス型の戦闘服に身を包み込む。

 そのまま空中へ急上昇。太陽を背にして見下ろした光景に、ヒルダの目が糸のように細まる。同時に殺意に滾らせていたその瞳の炎が、急速に鎮火していった。

 

 ヒルダの視線の先には、思い思いのバリアジェケットを展開した魔導師達の姿があった。見ただけでも百の数を超えているのが解る。

 

 殺気を滾らせる襲撃者のデバイスにも斧や剣、杖に弓などまるで統一感が無い。

 中には魔導師ではない者までが魔導兵器や、本来違法である質量兵器をヒルダに向けていた。

 質量兵器を使用する軍など存在しない。それぞれがバラバラのバリアジャケット、得物を運用する事からもそうであることが証明できる。

 

 「でたぞッ!ヒルダ・ペネロテだッ!」

 

 壮年の魔導師がヒルダの姿を見咎めて叫んだ。

 その声に呼応した魔導師達が一斉に魔法組成式を組み上げていく。

 先程のビル倒壊の原因も、こいつらがやったのかとヒルダは盛大に息を吐き出す。建物を制圧するのではなく、建物ごと対象を殺そうとするのはどう考えても表の連中がやる手段ではない。

 

 それに、集まった連中の中に何人か顔をしっている連中がいる。

 裏社会に溶け込む段階で、ヒルダが頭に叩き込んだ有力者とその手駒共。フリーの魔導師、名の知れた賞金稼ぎ。どいつもこいつも目に欲望を滾らせている。

 よくもまぁここまで数を揃えられたものだ。所属も実力もまるでバラバラだが、数だけでみればちょっとした戦争をやれるだけ集まっている。

 

 ヒルダは周囲を探知し、件の偽物が既に逃げ延びていた事を確認。

 額に血管を浮かび上がらせると、大きく息を吸って吐き出す。何度か呼吸を整え、心中の落ち着きを確保した後。ようやく鬱陶しげに下でキャンキャンと騒ぎ立てる阿呆共を、ヒルダは興味なさげに見据えた。

 

 「これはこれは、有象無象のゴミ虫どもがよくもこれだけお日様の下に集まれたものね。恥を知らないってのは死罪に値すると思わない?ねぇ、カストール」

 

 かつて『カエストス魔法商会』にいた所属していた際に、何度か取引で顔を付き合わせた魔導師の男に言葉を投げかける。

 カストールの取り巻きはその言葉に怒りを顕わにするも、無骨な顔をした長身の大男であるカストールはヒルダの挑発に八重歯を覗かせた。

 

 「っは!てめぇがそれを言いやがるのかよキリングガール。親のリカルドをぶち殺し、この世界の金庫番を殺して金を奪い、挙げ句の果てには天下の管理局に盛大な喧嘩を売った。そんなここ数世紀見たこともない頭のイカれたてめぇが、よくもそんな大言をのたまえるもんだ」

 

 「私に親なんて一度もいたことが無いわね。というかさぁ、家族ごっこがしたい人間がこんな場所に集まるわけがないだろうが。孝行したいならとっと家に帰れ馬の骨共、私は今ちょっと立て込んでいるのよ」

 

 「てめぇの用事なんて知ったことか。上の連中はお前が『カエストス魔法商会』を潰しやがって大損させたおかげでだいぶお怒りだ。今まではリカルドの顔を立てていたから好き勝手できたが、あいつが死んだとあってはもうお前を守るものは何もありゃしねぇ」

 

 カストールの顔が怒りに歪み、唇を噛み締めた。

 

 「何よりお前はリカルドを殺した後、いくつもの金庫番を殺して金を持ち逃げしやがったな」

 

 ヒルダはどこを吹く風と言ったばかりに欠伸をしている。

 その態度にカストールを始めとした裏社会の面々の顔が、あまりの怒りに白く染まっていく。

 

 「解るかヒルダ?確かにここに生きる連中は全員くそみたいな連中だ。命なんてコイン一枚の価値すらねぇし、規則なんて大嫌いなウジ虫が大量にいやがる。だがそんなウジ虫共でも解るような、お前はこの世界における例外中の例外に触れたんだよ」

 

 既に一般の大衆は真っ昼間の往来の中でも武器を大量に装備する集団に、目を恐怖に染めて逃げ出している。

 この区画には、ヒルダとその命を狙うカストールを始めとした襲撃者達しかいない。火薬庫すら安全に思えるほどの張り詰めた空気がここら一体を支配している。

 

 「お前に付けられた懸賞金は裏社会全体を合わせて七億。さらに表でお前に殺された連中の親族がかけたものを合わせて十一億。管理局にすら喧嘩を売るお前を煩わしいと感じた、この第XXX管理世界の政府がかけたものを合わせて十四億。無論、生死は問わない」

 

 ここでヒルダの眉が僅かに釣り上がる。

 その理由はあのアンヘリオのものよりも高い賞金に興味を惹かれたのだろう。

 この安穏とした世界においてザッハドの使徒という存在は、かなりの脅威を感じさせるに至ったらしい。

 

 「解るかヒルダ、てめぇの首には人生数回やり直したっておつりが来る価値がある。ここにいる大半はお前のその金額に釣られた連中だ。だが俺達組織に属している連中はそうじゃねぇ」

 

 カストールの声が震える。

 それは怒りであり、恐怖であった。

 

 「俺の組織である『龙虎会』だけじゃねぇ。他の組織の連中もこの場にお前がいると聞いてとんできたんだ。てめぇが好き放題やらかした責任からお前が逃げる以上、他の誰かがその責任を負わなくちゃならねぇ。ここにいるのはその責任を負わなくちゃいけなくなった連中だ。どいつもこいつもてめぇのせいで尻に火が付けられた連中なんだよ。お前をこのまま生かしておけば、数日後にはここにいる俺を含めた全員が、オラール湾に浮かぶことになる。いくらお前が百数十人殺すキチガイだろうが、殺した後に管理局に代わりに追われようが、もう道は一つしか無い」

 

 「聞いてとんできたねぇ……」

 

 あの偽物野郎が仕組んだ事に間違いは無い。

 数キロ先まで反応が無いとみると、恐らくは転移魔法により移動したのだろう。

 恐らく単一による行動ではない。そもそも転移魔法自体、使う連中はだいぶ限られている。

 

 ……役立たず共が。

 

 もう少しまともな話を聞けるかと思って放っておいたが、聞けたのは阿呆共の泣き言だけで大した意味はなかったようだ。

 唯一、益になった情報も想像していた範囲内。無駄な時間を過ごしてしまったらしい。

 

 「お前の墓場はここだヒルダ。俺達のために、ここで――――」

 「無駄話はもうおしまいかな、カストールちゃん」

 

 ヒルダが嘲るように襲撃者達を睥睨。口の端を歪めて嗤った。

 その直後にカストールの反射的な攻撃命令が念話により発信。自身も声にならぬ雄叫びと共に槍の先端に灯った燐光をヒルダへと向けて放つ。

 

 カストールの念話と叫びを皮切りに、魔導師達の魔法が次々に発動。

 さらに質量兵器が発射され、ヒルダという熱源に向けて煙を噴出しながら向かって行く。

 

 爆裂、熱線、雷撃、炎、氷、魔法弾、光学レーザーが何重もの軌道を描いてヒルダに殺到。

 激しい轟音と爆風が吹き荒れ、空気を伝って伝播した震動が周辺の建物の窓を軒並み粉砕。年期がはいったコンクリート壁やレンガ壁があまりの衝撃で崩れ落ちる。

 ヒルダの背後にあった建物が、ヒルダへの攻撃を受けて次々と破壊。蹂躙。あまりの苛烈な魔法の連撃についに一棟のビルが骨組みを剥き出しにして倒壊。続いてその後ろにあったビルまでもが魔法の射線に晒され、文字通り面を削り取られて爆音と共に崩壊していく。

 

 十数秒という短くも長い時間の後、念話での攻撃停止から数秒をかけてようやく攻撃は終了した。

 ヒルダが存在する後方は最早廃棄区画に等しい惨状であり。その周囲もまるで戦闘機による爆撃を受けたかのような有様であった。

 

 カストールを始めとした襲撃者の顔に安堵が広がっていく。

 いくら凄腕の魔導師といえども、ここまで攻撃を受けてはバリアジャケットはおろか、魔導障壁すら耐えられることはない。

 更に使用された兵器の中には、AMFを搭載している弾頭が存在する。いくらあのヒルダとはいえ、人間である限りはこれを切り抜けることは不可能だ。

 

 緊張から解放された者達が胸をなで下ろす中。

 粉塵が晴れていくに連れて、喜色に飛んだ魔導師達の笑みが徐々に引き攣っていく。

 

 空中に浮かぶ不自然な木造の建造物。

 朱色の木組みのそれに寄り添う形で微笑む無傷のヒルダが、恐怖に顔を染めていく魔導師達を見て楽しげに微笑んだ。

 

 「で、カストール。ご自慢の兵隊とたくさんのお友達を引き連れてご満悦みたいだけれど……」

 

 木造の建造物の中心がまるで水面のように揺らぐと同時に、そこから白い息を吐き出し、酸性の涎を垂らした『大食らいのボラー』が姿を現す。

 続いて鳥居の上部に位置にいつのまにか出現していたエミレオの書が解放。幾多もの数式の列を伴って、くすんだ金の王冠を頭上に嵌めた『寂寥のクインジー』が顕現。

 髑髏の王が多くの生者を見て獰猛な戦意を滾らせ、彼らを死に誘うべく大鎌を抱え上げて、骨身の同胞を次々と召喚していく。

 

 「まさか、まさかだよ。そんなたかが百数十人程度で――――この私を殺せると思った?」

 

 悪夢の中ですら遭うことの出来ない異貌のものどもの姿は、襲撃者達にこれまにないような恐怖を与えた。

 狂乱したかのように何人もの魔導師が、周囲の制止を振り切って魔法を放つも、全てが鳥居の強大な咒力にかき消されて消滅していく。

 

 ヒルダはそんな恐怖におののく者達を、愉快そうに見つめていた。

 

 「お馬鹿さん、本当に、お馬鹿さぁん♪」

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 廊下を走り抜ける赤影。

 小さな体躯からは想像も出来ない速さで駆け抜けるその姿に、何事かとすれ違う職員は皆、彼女の事を振り返って見咎めた。

 

 だが少女はそんなことを気にもせず、むしろ走る速度を速めて風を切っていく。

 

 「状況はどうなっているッ!?」

 『現在、ヒルダは首都の第52区画にあるエリアにて戦闘行動中ですッ!』

 「解った、すぐに出撃準備をッ!それに近くで訓練と演習を行っているシグナムとザフィーラにも連絡を頼むッ!はやて隊長、なのは隊長、フェイト隊長には事の次第の通達を、一秒でもはやく事態を知らせるんだッ!』

 

 空中に浮かぶ立体映像にそう言い放つ。

 映像中の女性局員が決死の表情の少女へ向けて疑問の声を投げかける。

 

 『ヴィータ副隊長はどうなされるおつもりですか?』

 「先に現場に向かうッ!」

 『き、危険ですッ!相手はあのヒルダなんですよッ!せめてシグナム副隊長やザフィーラさんの到着を待たれた方が』

 「今は連中が何とかもたせてはいるが、軍でもない奴らがいつまでもつか……ッ!あいつの突発的な行動じゃいつ戦闘を切り上げて逃げるか解らないッ!現場で足止めをするやつが必要なんだよっ!」

 

 鋭い眼差を返したヴィータの決意は固かった。

 

 深紅のバリアジャケットを纏う守護騎士が一人。

 鉄槌の騎士ヴィータの手には、その名を冠する鉄槌のアームドデバイス『グラーフアイゼン』が決意と共に握られていた。

 




 いろいろとおかしな点があるので、日曜辺りに修正していく予定です。

 お久しぶりですが、別に死んでもいないし書くことを止めていたわけではありません。
 ただアルバイトをしないと納豆ご飯も食べられないし、レジュメと発表原稿を仕上げないと卒業で気というだけなのです。

 今期は本当に忙しいので、ちょっとゆっくりペースで書いていく予定です。
 ……され竜の新刊、早く見たいですね。新章を待ち望むばかりです。


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