【完結】スパイになってしまったのだが (だら子)
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其の一: 「一般人系スパイの始まり」

 突然だが私は転生者である。

 

 頭おかしんじゃねーの大丈夫?? 病院いく?? とおっしゃる方もいるかもしれない。私の頭がおかしいのなら、その方が正直私も救いがあった。寧ろそうであって欲しかった。だが残念ながら事実である。

 

 生前の私は平成の世に生きる20代前半の女だった。至って一般的な生活を送っていた筈なのに前世の記憶をもって転生とはこれいかに。

 

 まあ、まだただの転生ならそれでよかった。いや、よくないけれど“まだ”マシだったのだ。

 

 何故か転生した先が大正時代初期だったんですけど。しかも女の象徴である胸がフライアウェイした上に、股間に汚ねぇバベルの塔が合体してしまったんですけど。

 

 つまるところ世界各国がバチってる時に転生タイムスリップし、男性になりました!ハッハッハッハッ……………笑えねぇよ!!!!!!

 

 第一次世界大戦は私が子供の頃に終結したが、次に来るであろう第二次世界大戦がやばい。このままいくと私が二十代ぐらいにモロかぶりする。ちなみに今世の私の性別は男である。此処まで言えば分かるな?

 

 

 出兵まったなし!!!!!

 

 

 平和ボケしまくった平成人が軍人になるとかどう足掻いても無理。そもそも『天皇陛下万歳』という帝国主義が身に合わない。一応は日本人だったので天皇に対する敬意もあるが、こちとら民主主義で徹底彫り込み教育された人間だからな…。民主主義にも悪いところがあるとは分かっているけれども…。

 

 どうしたらいいのか、ない頭を悩ませて悩ませて考えたのは『政府に金を握らせて出兵拒否したらいいんじゃね? 会社の社長なってガッポガッポ金を稼いでやるわァアアアア』である。我ながら頭が足りていない。

 

 転生者のアドバンテージを生かして赤ん坊の頃から必死に勉強した。海外逃亡も視野に入れていたため、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語は話せるようになる為に喉が枯れるまで練習。

 生きるためにありとあらゆるものに手を伸ばし、文字通り本が擦り切れるまで読み込んで習得した。

 

 自分は決して賢い人間ではない。ちょっとしたミスで死ぬ。しかもこの世界は人種差別なんのそのな世界。学がなければ死ぬ。

 

 苦手なコミュニケーションを駆使して人脈を築きつつ、なんとか大学卒業。今迄の経験を生かして一旗揚げてやる!!!と意気込んでいた時。気配を全く感じさせないまま、背広を着た一人の紳士が近寄ってきた。杖をつきながら彼は私にこう言ったのだ。

 

「――――――試験を受けてみないか」

 

 お前の望むものをやろう。可能性をくれてやる。そう不敵な笑みを浮かべながら、日時と場所を伝えて颯爽と去っていった。

 

 いつもの私なら紳士であろうとも、不審者な男の戯言など完全無視を決めていた筈だ。だがこの時ばかりは「典型的な天皇陛下万歳の演技を見破られた?!」という事実に驚愕しつつ「お金をガッポガッポ稼ぎたいという考えもばれた…? エッ、非国民として見られてる…?」と思ってしまってブルブルと震えた。

 

 あ…これ行かないとシメられるわ。

 

 そう思った私は慌ててその試験に臨んだ。けどその試験の内容がおかしい。暗闇の中ラジオを解体して、また同じ形に戻してみろと言われたり、今迄歩いてきた道のりの歩数は? などと問われたりした。更には真冬の海での着衣水泳。死ぬわ。

 

 いやいやいや無理だから!!!! 死ぬから!!!!!一般人できないから!!!! やっぱり非国民として見られてる?! シメられるの私?! だって明らか一緒に試験に臨んだ人たちの数どんどん減ってるもんな! 絶対これ出来なかったらシメられるんだ!!

 

 前世の変な方向にオタクだった友人から無理やり覚えさせられたラジオ解体技術や、他の前世の友人とのスパイごっこしていた経験が役立ち、なんとか数々の試験を突破していった私。最終的には私を含めて計9人となり、その9人は私に試験を受けないかと話を持ちかけてきた紳士――――…結城中佐によってスパイ育成されることとなった。D機関というスパイ組織の中で。

 

 ……なんでやねんんんんん!!!!!!

 

 気づけよ私!!!!! どうして最後の最後でしか気がつけないんだ私!!!!! 非国民として罰せられるなら普通牢屋行きだろう馬鹿野郎!!!!! こんな訳わからない試験をさせられてる時点で察せよ自分!!!!

 

 しかもここジョーカー・ゲームの世界じゃねーかよ! 結城中佐とスパイ、更にはD機関ときたらジョーカー・ゲームの世界以外にありえない! 他の私ってばタイムスリップじゃなくて異世界トリップしてたのかよ!!

 え、無理無理無理無理。あんな超人軍団の一員としてスパイ活動とか無理以外の何者でもない。

 

 だって考えてみてくれ。私はあくまで前世のアドバンテージがあるだけなのだ。

 

「おっま、今迄歩いた道のりの歩数や部屋の内装を記憶しておけるのは人間じゃねぇからな!」と机ドンする人がいるだろうが、これのも前世の友人とスパイ遊びのお陰でできたようなものだ。そのスパイごっこは小学校から大学までやっていたぐらいなのだから出来て当然だろう。年季が違うんだよ年季が。いい年してアホな遊びをしていた自覚はあります。

 

 だが“他の奴ら”…原作でのD機関メンバーは違う。

 

 正真正銘の天才。頭のネジが一本外れている超人様である。私が数十年かかってようやく出来ることを、たかだか数ヶ月でやってのけてしまう本物のハイスペック人間。

 

 溢れんばかりの「これくらい自分に出来て当然」という自負心の塊。ある意味で人でなしであり、自分しか信じてないゆえに最強。スリルを求め、死と生の瀬戸際でのゲームを楽しんでいる。そんなビックリ人間ショーチームなのだ。

 

 こいつらに混ざってスパイとか無理だから。私はぶっちゃけ自負心なんてもってないから。できれば平穏な人生送りたいから。

 

 でもなあ…辞表出したくても結城中佐が怖すぎて出せないYO!!!!

 魔王と言われてるだけある凄みよ。目を合わしただけで震え上がるからね。結城中佐マジ結城中佐。流石は作中屈指の最強黒幕キャラである。

 

 もういっそ「実は…私の心は女なんです!!!!」とでも言うか?? 実際本当だし。結城中佐は「女は感情で人を殺すからスパイに向かん」とおっしゃる方だから、私の心が女だと知れれば…!!!!!

 いや駄目だな。絶対「貴様は何を言っている?」とか言われて減給されそう。ただでさえ此処での癒しは給料だけだというのに。癒しが金とかこれいかに。荒みすぎだろ私。

 

 というかオカマだと思われたら社会的に死ぬわ。その上、他のメンバーにバレたら、からかわれるどころの話ではない。マジで致命的なミスである。てか内部事情知りまくった奴を辞めさせるわけにもいかないよね。

 

 …ああもうなんでこんな時代、こんな場所に産まれちゃったかなあ…!

 

 ハアと小さくため息を零す。すると隣から肘をテーブルについた田崎が意外そうに此方に目を向けた。ああいっけね。私は内心舌打ちを零す。

 

「ため息をつくなんて珍しいな、藤原」

「たまにはため息をつきたくもなるさ。…ーーーー福本、水一杯貰っていいか?」

「ああ、待ってろ」

 

 男のくせにやたら割烹着が似合う福本が、コップを取り出して水を注ぐ。私は礼を言ってから受け取り、静かに飲み干した。

 

 余談だが『藤原』という名前は私の偽名である。普通だし、中々にいい名前だと案外気に入っています。

 

 まあ、それよりも問題は目の前の奴らだ。私の前では今、原作メンバーである神永、甘利、三好、波多野、実井が『ジョーカーゲーム』を行っている。ちなみに田崎、福本、小田切、私は横でタバコを吸ったり、読書をしていた。

 

 あのジョーカーゲームを見れるなんて…! と最初は感動したが、このゲームはただのゲームではない。表向きはポーカーと称している『ジョーカーゲーム』。その実態は周りの観客を買収して味方につけたり、嘘のサインを送って場を掻き乱すといった、勝つためならなんでもござれな神経を磨り潰すゲームなのだ。

 

 最初の内はなんとかついていけたが、今はもう無理。サインとか多様化しすぎてついていけない。見るだけにとどめている現状である。自分無能すぎワロタ。

 

 正直、これがわからない時点で本気でスパイやっていけるのか悩んでる。絶対本番になったら死ぬやつじゃん。私はどうすれば…。

 

 水を飲んだまま悶々と考えていると、ゲームをしている三好と目があった。トントンとテーブルを叩いてるので何かサインを送っているのだろうが、ごめん分からん。多分、頼まれているサインなんだろうが…。

 

(というか昼間っから神経を磨り潰すゲームやめろよな…次講義あるんだぞ…!)

 

 次の講義は結城中佐直々の講義である。無理難題を吹っかけてくるから本当にやめて欲しい講義ナンバーワンだ。意識を多様化するとか意味わかんねーから。自白剤訓練も意味わかんねーから。

 

 私が内心でうなり声をあげていると、横から小田切が「藤原は次のゲームに参加しないのか?」と聞いてきたので私は表情が引きつりそうになった。しねーよ。したくもねーよ。なんとか表に出さないように努めて口を開く。

 

「私はあまりゲームが得意じゃないんでね」

「またまた」

「これでも本当のことなんだけどなあ…。正直ついていくのがやっとだよ」

 

 小さくそう零すと小田切が「ご冗談を」と呆れた声を出した。肩をすくめる欧米風の動作付きである。嘘じゃないんだけど。本気の心の叫びなんだけど。信じてくれなくてツライ。

 

 あまりのストレスに胃が再び痛くなってきたので、講義前にトイレに行こうと立ち上がる。その瞬間ふと床に目線を落とした。

 

 アッ、波多野のカードが机の下に落ちてるじゃん。落としちゃったのかな? と思ったので立ち上がるついでに拾い、私は波多野の袖にスリの要領でカードをサッと入れた。これでよし。波多野はプライド高いから、カード落としたとなると恥ずかしがりそうだからなあ…これでいいだろ。

 

「ちょっと厠いってくる」

「ん〜」

 

 ヒラヒラと手を振りながら扉を開けたその時、私は知らなかったのだ。

 波多野が不敵に笑みを浮かべたことも、波多野がこう言ったことも。

 

「フラッシュ」

 

 波多野はカードを机に叩きつけ、勝利の言葉を宣言した。

 

 

♂♀

 

 

 厠に行っていたら講義の時間になっていた為、慌てて教室に入った。すると何故か波多野から「ほい」と手荒げに私のお気に入りの銘柄のタバコを渡してきたんだけど。エッ…なんで? お前たちから無償の施しを受けるとか恐怖以外の何物でもないんだけど。後から何か請求されそうで怖い。

 

 さらには三好からは「一本取られましたね」と肩をすくめて言われて更に恐怖を感じた。何が?! 一本取ったって何を?! 知らないうちに私ってば三好に喧嘩売ってた?!

 

 あまりの訳が分からなさに私は小さく笑みを浮かべるだけにとどめた。余計なことを言えば墓穴掘るに決まってるからな。何も言わないのが吉である。私偉い。

 

 そんな恐怖を含む戸惑いも結城中佐が入ってきてからは一瞬で空気が変わった。流石は魔王。

 

 今日はどんな無理難題吹っかけてくる…? と恐々した様子で窺っていたら、今回は「すり変わる人になりきってみよう」というまだマシな内容だった。その人物の経歴、癖、仕草、言動などをコピーしきり、成りきれということ。

 よく考えたらマシじゃなかった。覚えるの辛すぎ。

 

 各自に成りきる架空の人物の書類が配られたのだが、私が成りきる人物を見て思わず固まった。書類を見た瞬間、咄嗟に結城中佐を見てしまったほどだ。ちなみに睨まれたのでサッと書類に目線を戻した。ツライ。

 

(何故に私が成りきる人物が…女性…)

 

 エッ私の思惑が結城中佐にバレてる?! 何それ怖い。作中、結城中佐は何でも知ってる感ハンパなかったが、現実でもそうなのか。というかこれは「例えお前の心が女性でも逃さんぞォ」という心の表れ? いや、脅し? 結城中佐怖すぎかよ。

 

 私の今世の身長は162cm。男性の癖に身長低ッ?! って思ったやつ校舎裏な。これでもこの時代の成人男性の平均身長だし、同僚の波多野も同じ身長だから!!!!

 

 じゃなくてだな!!!! だから女性役まわされたのか??? 身長の低さゆえに?? と思った時期もありましたが、同じ身長の波多野は男性役だった。イジメかよ。その事実を知った神永と波多野には大爆笑された。イジメかよ(二度目)。

 

 ムカついたので生前のメイクテクニックを駆使して見返してやると思った。プライドは高くないが、こうも身長言われると腹立つ。

 

 結城中佐から教わったコピーの仕方などを頭に叩き込み、なんとかその女性を模範してみせる。何故か化粧道具や衣服も頂いたのでそれを着込み、生前のメイクテクニックを駆使させていただいた。

 ちなみに一人一人別室でそれを行い、その後そのままの状態で講義を受けるとのことなので俄然やる気が湧く。

 

 あまりにメイクが楽しすぎて気合が入り、講義室に入室した際にメンバーから「まじかよ」という顔をされたので正直どうしようかと思った。

 やばいこいつガチモンのオカマだと思われた? 周りの顔が唖然としてんぞ。だけど結城中佐はニヤリと笑ってんぞ。なにこのカオス。

 

 私はその焦りを隠すように小さく笑ってみせる。私のコピーした女の人の設定は華族のご婦人。所謂、金持ち貴族の嫋やかな女性である。

 

「あらあら、どうしましたの? 早くお席に着いた方が良いのではなくて?」

「こりゃあ、こんな綺麗なご婦人に言われたのなら席に着かざるを得ませんなあ!」

 

 小太りの将校役のコピーを任された甘利が大きな声で笑ってみせる。もう甘利のフォローが優しすぎてツライ。流石は最年長なだけある。

 

 横にいる神永に「いつのまにこんなメイク技術…」という目線を頂いたので私は咄嗟にあの言葉を発していた。某小さくなっても頭脳は同じな名探偵にでてくる彼女の言葉を、オカマ認定されたくないが故に言ってしまった。

 

「A secret makes a woman woman. 」

 

 女は秘密を着飾って美しくなるのよ。

 

 自分なに言ってんだ。今世の私は女じゃないんだぞ。寧ろオカマ認定されるやつ。苦笑いをこぼした神永を見てそう思った。

 

 

♂♀

 

 

『藤原』という男はおかしな人間である。『三好』という名を与えられた男は、藤原という同僚にそう結論を下している。

 

 このD機関でスパイ育成プログラムを受けている人間達は、揃いも揃って自負心の塊だ。言動のちょっとずつに彼らの自信が見え隠れしているのが分かるほどである。だが、彼らにはその自信を持てるだけの能力があり、実行に移せるほどの有能さを持ち合わせていた。

 

 だからこそ、その余りあるほどの自信が自分たちにはある。

 

 だが藤原は“自負心”というものが全くもって見受けられない。

 

 彼の言動の殆どが「自分は運がいい」「死ななかったのは運が良かった」だとか「皆のようにはいかないなあ…」などなど自分を貶す言葉である。演技ならそれでいい。そうやって味方である自分たちに植え付けていくのも策の一つである。敵を騙すのなら味方からとも言うからだ。

 

 しかしこの男を観察しているうちに『この男は本気でそう思っているのでは』と思うようになった。

 

 この男は非凡な才を持っている。自分たちと同じことができ、結城中佐の訓練を乗り越えていけるのだから当たり前だ。

 

 だがこの藤原は中身は至って一般人に限りなく近い。

 一般人と同じで面倒なことは全力で面倒くさがる上に、スリルなど全くもって求めてはいないようだった。平凡な生活を心より求めている。普段から面倒くさそうに中佐の講義を受けていることからもその事が窺える。

 

 何故彼がこの機関に入ろうと思ったのか…正直、謎だ。それ程までに藤原は『平穏』を求めていた。この男はどうして機関に入ったのか。

 

 その答えは直ぐに見つかった。この藤原という男、平凡な癖して平凡ではないからだ。

 

 この機関に入る前から彼の思想は民主主義寄り。帝国主義が徹底した日本において珍しいほどの民主主義派だ。本当にどこでその考えが植え付けられたのかと、呆れたくらいの考えの持ち主だった。さらには卓越した技術。

 

 つまり彼は『周りとあまりに違いすぎるが故に入らざるを得なくなった』のだ。自分と同じ人間を見て安心するために。

 

(哀れだ。藤原という男は哀れだ)

 

 誰もが喉から手が出るほど欲しい有能さを持ちながらもそれを拒む。そんな人間ほど悲しいくらいに天才なのだ。藤原のように。

 

 現に藤原の咄嗟の動きにメンバーがハッと驚かされるのも多い。例とするならば、先ほど行ったジョーカーゲームが挙げられるだろう。

 

 藤原は滅多にジョーカーゲームに入ることはない。ノーマークの人間としてそこに存在する。所謂スリーパーのように沈黙を保つのだ。だが突然動き出し、ゲームに波紋を作り、掻き乱す。

 

 その突然の動きを期待してメンバーは彼にサインを送ったり賄賂を渡したりするのだが、藤原は気分屋である。滅多に動かないので役に立たないのが大概だ。気にする方が負けである。故に先ほどのゲームで自分が藤原にサインを送ったのも、他のメンバーを欺くための偽のサインだった。

 

 だが波多野は違ったらしい。彼は『今回藤原は自分の肩を持ってくれる』と確信して、フェイクではなく、本当のサインを藤原に送った。あの時藤原の手持ちの煙草が切れていたことに波多野は気が付いていたのだろう。それを見た藤原もこれ幸いと波多野にたかることに決めたに違いない。そうして藤原は波多野を勝たせるべく、ノーマークの立場を利用して皆を欺いた。

 

(藤原もD機関のメンバーの一人。常に沈黙を保っているとはいえ、侮ってはいけないな…)

 

 だが、自分ならば次は見抜けるに決まっている。絶対に失敗したりなどしない。自分が他のメンバーより劣るなんてことはあり得ないのだから。本物顔負けの女装をする藤原を見つめながら、彼から勝利を奪うその時を想像して目を細めた。

 

…というかどこでそんなメイク技術身につけてきたんだこの人。藤原への謎がさらに深まった瞬間だった。

 

 ♂♀

 

 さて、そんなこんなで私たちD機関の訓練生は訓練を終え、結城中佐から『任務』を渡されるようになってきた。本格的なスパイの任務である。いらないどころの話じゃない。

 

 というか結城中佐は最近私に女装潜入捜査ばっかり回してくるのはなんなの?? イヤミなの?? 闇雲に私の正体バレてますよ宣言なの??

 神永とカップルとして嫌々組んだ際に「性別間違えたんじゃないか?」とか言われた時の屈辱ね。やめろよな!!!!! 私は男です!!!!! だから女装なんてしたくないんだよ!!!! つらたん…。

 

 あまりに女装調査まわされ過ぎて、普段も女装するようになったんだけど。というか結城中佐にできるだけ女装しとけって言われた。結城中佐なんで?! もう怖すぎワロタ。女性になれってか? 無理無理無理無理、私は男だよ! 出来れば男の格好したいよ!!!!!!

 

 つーか周りのメンバーは自然に私を女として扱い、エスコートし始めるのだから手に負えないんだけど…。お前ら疑問持って!!!! ツッコんで!!!!!! 結城中佐に抗議して!!!

 

 元女だった私からすれば女装なんてお手の物だけどさあ…。寧ろ楽すぎてやばい。でもね、今世の私からしたらやばくね? 結婚できなくね? 男子力より女子力上がってるんだけどどうしよう?

 

愛せないかもしれないけど、ちゃんと女性と結婚するつもりでいるんですよ私は!!!!!

 

 そんなある日、私はいつもの談話室兼食堂の部屋に女装をしたまま入室した。そこにいたのは佐久間さん。私の心の良心、佐久間さんである。いやだって彼、まだ一般人寄りだもの。万年人間ビックリショーなD機関メンバーよりは遥かにマシ。ガチガチの帝国軍人さんだけども…。

 

 佐久間さんは驚いたように目を見張り、こちらを振り向く。私は佐久間さんの行動に首を傾げた。

 

「まさかここには女性もいたのか」

「」

「どうかしたのか? …あっすまない名乗るのを忘れていたな。ここで働かせてもらっている佐久間という」

 

 のんきに自己紹介し始める佐久間さんに一瞬息をするのを忘れた。あまりに不意打ちすぎて。

 

 えっ…まさかの佐久間さん私だと気がついてない? 気がついてないなのか佐久間さん!!! 確かに講義中はちゃんと男装といてるけれど!!!! あっ違う男装じゃねぇ女装な!!!!!!! まだ汚ねぇバベルの塔は聳え立ってるよ見失うな自分!!!!

 

 変装が見破られていないのに喜べばいいのか、私の男子力の低下を嘆けばいいのかわからなくなった。多分これは男子力の低下を嘆くべきである。男子として。スパイとしてはその変装技術の高さに喜べばいいのだろうが、個人的には認めたくなかった。私、今世、オトコノコ!!!

 

 私はその場では仕方がなく「八重と申します。こちらにはお手伝いとして来ていますの」と苦しげに言うしかなかった。私の良心の佐久間さんに女装趣味だと思われたら死ねる。任務のためと言ったら信じてくれると思うけど、微妙な顔されそうなんだもん!!!!!

 

 素直な佐久間さんは思った通り、八重である私の言葉を直ぐに信じてくれたので良かったと思う。その場では適当に話して逃げた。

 

 が、後日D機関のメンバーが「佐久間さんが八重って女の人を探してるんだけどお前じゃね??」とか言ってきだした。更には女装を解いた男の私にまで佐久間さんが「八重という女性を知らないか」と聞いてくる始末。

 

 あ…やばい佐久間さんこれ八重さん気になってる…? 何故? 女性がD機関にいたのが疑問に思ったのか? やばいやばいやばいやばい。

 

 この時ばかりは必死で祈って、女装をできるだけするのをやめてた。だって何度も言うが女装趣味だと思われたくないし。私の心の良心までに女装のレッテル貼られたら泣く。

 

 が、なんでかなーなんでまた会うのかなー…。女装姿で。少し嬉しそうな佐久間さんに思わず天を仰ぎたくなった。

 

 佐久間さん多分探してくれたんだろうな。うれしそうな表情を浮かべる佐久間さんを見て、申し訳なさすぎて胃が痛くなってきた。避けててごめんなさい。女装ばれたくなかったの。一応男の尊厳として。佐久間さんにまで女装男子のレッテル貼られたらどうしたらいいのかわからない。これ任務です。前世女子でしたが、私の意志じゃあありません。任務なんです。

 

神は私を見捨てたのか…。泣きたい。

 




ジョーカー・ゲームのオリ主ものがないことに嘆いた結果、自家発電に至りました。pixivでも投稿済みです。
これからよろしくお願い致します。


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其の二: 「一般人のジョーカーゲーム」

 

「八重さんは此方に勤めて長いので?」

「え…えぇ、そうですね。とはいっても稀に手伝いに来る程度なので…」

「ああ、だから姿を見ないんですね」

 

 談話室兼食堂にて、私は何故か女装したまま和かに佐久間さんと話していた。いや、本当に何で?

 

 佐久間さんを騙すのに凄く胸が痛む。マジで佐久間さん、私を心配してくれているから余計に。

 ジゴロの技術を持つ化け物(悲しいことに私も含む)が、この場所には沢山いるからな…。危険だわそりゃ。こんなところにお手伝いしにきてる女がいたら私だって心配する。

 

 佐久間さんとこれ以上会話をするのは心苦しいので、「そろそろお暇しますね」と言おうとした時。ガチャリと扉を開ける音が聞こえた。やばい。

 誰かが入ってきたのか…! と思い、私は慌ててそちらを見る。

 

 そこにいたのは波多野、神永、三好の3人。思わず顔が引き攣りそうになった。

 

(アッカーン!!!!!! この状態を見られたら1番駄目なベスト3がキタ!!!!!)

 

 佐久間さんが私の女装を見抜けずに、私を女性として見ているという事が知れたら……こいつらなら面白がる! あることないこと吹き込みやがる! ついでに私の女装をバラす可能性がある! というかその未来しか浮かばない!

 

 もしもバレでもしたら…変態女装男子のレッテルを貼られることになるのだ。私の良心、佐久間さんから! 任務でやってるだけなのにそんな烙印を押されたら泣く。私の趣味じゃないのに…。泣きたい…。

 

 神永、波多野、三好の3人は、佐久間さんと私を交互に見る。その後、ニタァと笑った。

 アッ……コイツら佐久間さんが私を女性だと勘違いしていることに気がついたな。これだから一を知れば十を知る天才は嫌いなんだよ…! 優秀すぎて本当に泣ける! お前ら本当に私と同じ人間?! 察し良すぎるだろ!

 

 佐久間さんも彼ら3人が来たことに気がつき、扉へと顔を向ける。そして眉を顰めた。

 

「お前たちは知らないと言ったが、やはり女性がいるじゃないか」

「フッ……確かにいますね、フッ」

「三好、気持ちは分かるけど抑えようぜ…クッ」

「あー…すみません、佐久間さん。俺たちは結城中佐に、このことを佐久間さんには黙っておけと言われていたので。実は八重さん、中佐の娘さんなんですよ」

「そうなのか?!」

 

 波多野が頭の後ろで腕を組みながら、とんでもないことを言い出した。驚きのあまりにバッと私を見る佐久間さんに、思わず自分の頭を抱えたくなる。

 

 ちょ、ちょ、波多野、お前は何を言っているんだ?! そんな設定は初めて聞いたんだけど?! 中佐の娘って何?! 設定を盛るの止めない?! 絶対それ、今作った設定だろ! 私に無駄なプレッシャーを押し付けないで!

 

 というか三好、お前…笑うなよ!!!!! 私の気持ち分かってるくせに笑うなよ! 佐久間さんに女装を見られたくなくて、避けていた私のことを三好は知っていたからな。余計に面白いんだろうね!! このドSが!!

 

 神永はフォローしているように見えるけど、全然フォローできてない。つーか笑ってるじゃねぇかお前! 味方がまるでいない!!!!!

 

 顔が引き攣りそうになるが、なんとか笑顔のままでいれた。私、超頑張ってる。偉い。そうやって自分を鼓舞さなければ、この事態を乗り切れそうにない。泣くわ。これだから腹黒いD機関の奴らの相手はしたくないのだ。あいつら優秀すぎて絶対に勝てないもん!

 

 てかさ、マジでD機関のメンバー…助けろよ。面白がるなよ。気持ちは分かるけど!!!!!

 

 それと佐久間さん……騙して本当にごめんなさい。罪悪感で胸が痛い。

 これは自分の女装技術の高さに喜べばいいのだろうか、それとも男らしさがない自分に悲しめばいいのだろうか。分からない。

 

 カオスな状況にゲッソリしていると、再びガチャリと扉が開いた。また誰か来たのか。やめろ!!!!!

 

 泣きたい気持ちになりながら扉の方向に目線を向けると、そこにいたのは小田切。まだマシだ! 小田切はまだマシ! これで実井とかが来たら本当にどうしようかと思った! 実井は笑いながらとんでもないことしでかすからな。あいつだけは怒らせたくない。

 

 小田切は食堂の状況を見て、色々と察したのか嫌そうな顔をする。帰らないで、小田切。私、泣くから。ぶっちゃけ内心で号泣してるから。

 

 普段の小田切なら「面倒なことは御免だ」という顔をしてどこかに行くのだが、何故か彼は食堂の中に入って来て、私を見た。私に用事か? と思いながら首を傾げていると、小田切は口を開く。

 

「結城中佐が呼んでいますよ、八重さん」

「まあ、お父様が? ありがとうございます。

 佐久間さん、申し訳ないのですけれど失礼致しますわ。楽しい時間をありがとうございます」

「いや、構いません。寧ろこちらこそありがとうございます。また機会があれば」

「……………………………ええ、もちろん」

 

 流石はD機関メンバーの一人と言うべきか、小田切は一瞬で事情を把握。私を八重と呼び、用事を伝えた。

 

 ありがとうございます、小田切様!もしも自分の偽名である藤原の名で呼ばれていたら、私は泣いていただろう。いや、本当にマジで。佐久間さんだけには私が女装をしていることバレたくないからな…。

 

 あああ…佐久間さんの「また機会があれば」にドキリとした…。御免だけど、二度とこの状態では会いたくない…。いつバレるかバラされるかでハラハラしたくないもん…。

 

 複雑な気持ちになっている時、三好が「ああ、行ってしまうのですか。残念です」と、大して残念そうな顔をせずに言った。

 ただ単に面白い玩具がなくなっただけだろ。くそう、覚えてろよ…三好、波多野、神永…!!

 

 和かに笑いつつも私は内心でそう考えた。でもこんな超人共に仕返しだなんて、私はできないんですけどね。後が怖すぎる。仕返しなんてした暁には、次の日に倍になって返ってくるからな。D機関の者を嘗めたらいけない。マジで怖いから。「倍返しだ!」を素でやる人たちだから。

 

(あ、そういえば中佐の呼び出しってなんだろう?)

 

 先ほどまでやっていた攻防の所為で忘れていたが、結城中佐の呼び出し…。えっ、やばくない?! 結城中佐の呼び出し=ほぼ任務だよ! や、ヤダヤダヤダヤダヤダァアアアア!

 

 てか、これ多分正式な任務なんじゃ…? だって今はもう昭和14年。確か…昭和14年から第1期生のスパイ活動が本格的に始まるんだよね。後数ヶ月で佐久間さんの『鰯の頭事件』(私命名。ダサいという自覚はしている)があるだろうし…。

 

 うーん、あんまり原作は覚えてないんだよなァ。私、他のD機関員みたいに記憶力ないし。本に記録しようにも、他のD機関員や結城中佐に見られる可能性しか浮かばない。暗号化をしても必ず解かれそう。だって一冊の本を一回読んだだけで全文覚えてしまうような化け物だぜ? 私ごときが考えた暗号なんざ、直ぐに解かれるわ。そうなったら「私、終了のお知らせ」である。

 

 だから自白訓練の時は命がけだったな…。原作知識だけは死んでも出さねぇ!!!!! と、その知識のみは1番初めに深層意識へと死ぬ気でぶち込んだ。毎日毎日、自分に暗示を掛けまくったからな。

 それのお陰で自白訓練は自分の中では得意な部類ダッタナー。人間、死ぬ気になるとなんでもできるよね。

 

(まあ、行けば分かるか。行きたくないけど)

 

 結城中佐の書斎へと足を向けた。

 

 

 ♂♀

 

 

 結城中佐の書斎にて。

 

 中佐がいつも通りの威圧感のある雰囲気を携えて私を見据えてくる。普段ならば、結城中佐を見ただけで私は震え上がっているのだが__…今回ばかりは眉を顰めて結城中佐を見つめていた。

 

「…____申し訳ありません、結城中佐。もう一度言っていただいても?」

「何度言わせる気だ。貴様には此れから女として生活してもらう。髪も女と同じくらい伸ばせ」

 

 き、聞き違いじゃなかったー!!!!! マジで結城中佐から女子になれって言われたー!!!!!

 

 顔が引き攣りそうになるが、根性で無表情のまま結城中佐に視線を向ける。分かりやすい感情を見せたら……どんな罰を与えられるか分かったもんじゃない。

 

 小田切に言われた通りに結城中佐の書斎に向かえば、何故か結城中佐に「今から女子として生活しろ」とか突然言われたんですけど。

 

 やめて。本当にやめて!!!!! 性別を見失うだろ!!!!! 只でさえ前世が女子だったお陰で、めちゃくちゃ苦労しているというのに! 幼少期、どれだけ苦労したか言ってやろうか?! 親父に「こんなに女々しくて大丈夫だろうか、うちの息子…」と言われたぐらいだぞ?! それだけ私は女の子女の子してたんだよ!!!

 

 ようやくここまで頑張って、男として振舞えるようになったのに…。女装に慣れてしまったら本当に戻れなくなりそうで怖いんだよ…。やめて…。今世はちゃんと女の子と恋愛をするつもりだから…!

 

(もしかして自白訓練で女口調で話してしまったからか…?)

 

 思い出すのは初めての自白訓練。

 原作知識を絶対に口にしてはいけないという想いから、当時の私は深層意識をどうにかして作らなければいけないと思っていた。寝る間も惜しんで頑張った結果、凡人な私でも深層意識を作れた訳だが………一つ、忘れていたことがあった。

 

 前世の女性意識である。

 

 原作知識しか頭になかったので、前世の素を出してはいけないことをすっかり失念していた。それにより、自白訓練で私は女性の様に話し出したのだ。更に救えないことに前世の素を出しまくった。

 

「あー〜〜…自白訓練なんてできる訳ないでしょ?! 馬鹿じゃないのアンタら!!!!! お前らみたいな万年人間ビックリショーに巻き込まないでくれる?!?!?!」

 

 とかほざいたのだ。私の馬鹿…! 童顔だとは言え、男の私がまさかの女口調。しかもD機関を貶す言葉を出す。マジで何してんだ自分。

 

 結城中佐には睨まれたし、私と同じく自白剤を打たれたはずのD機関の全員に二度見される羽目になった。当たり前である。なんつー失態してるんだ自分…。これじゃあ意味ねーよ自分…。

 

 それからというもの三好と何故か「藤原は何処の化粧水を使っているんですか?」「私は○○の商品かな」「へぇ」などという会話をするようになった。女子か。いや、前世で女子だったわ自分。でも、女子だった前世よりも今世の方がお洒落や美容に気をつかっている気がする。え、やばくね自分。

 

 ま、まあ…それはちょっと置いておこう。

 流石に女装を続けるのは嫌だ。これ以上女として振舞いたくない。それっぽい理由をつけて断ろう。結城中佐、めちゃくちゃ怖いけど!!!!! 魔王の異名は伊達じゃない。マジで怖いからな結城中佐。

 

「中佐、お言葉ですが……男である私が長期で女装をし続けるのは流石に無理があるかと。どんなに努力しようとも、完璧な女に成れないでしょう。必ずどこかでボロが出ます」

「ああ、その通りだ」

「でしたら…何故でしょうか。スパイは疑われた時点で終わりだと、常々中佐は仰っております。女装は短期でするのならば効果的です。ですが長期となると、必ず疑われる事となるでしょう。ですからー…」

「藤原」

「はい」

「…__貴様、分かって言っているだろう」

「は?」

 

 結城中佐はゲンドウポーズをしながらギロリと睨みつけてくる。理由がわからなくて、思わず間抜けな声が出た。キョトンとした顔を結城中佐に晒してしまう。

 

 え、ごめん、何が? 何も分かってないんですけど。私は他のD機関のメンバーみたいに一言じゃあ分からないんです! 馬鹿なんです! あの天才たちと一緒だと思わないでください!!!!! 一を聞いても十は理解できません! それ、他のメンバーしかできませんから!

 

 でも、そんなの言えない。言った瞬間、結城中佐から罰が与えられる。あ、やばい! 自分、「は?」とか言っちゃったよ! どどどどうする?!?!?!

 

 そんな私のミスを結城中佐は気にも止めずに「貴様は貴様の役割をこなせ」とだけ言ってくる。そしてそのまま黙り込んでしまった。

 ええー…どういうことなの。私は優秀じゃないんだからキチンと言ってください…。これだから優秀な人は…!

 

 うん、自分が馬鹿な所為だってのは分かってるよ?! でも言いたくなるの!! IQ差があまりにありすぎると、話が理解できないとはこの事だ。

 

 眉を顰めそうになるが、結城中佐が更にギロリと此方を睨みつけてくるので止めた。アッハイ、やれって事ですよね分かります。結城中佐からの命令はYES or ハイだからな。軍隊よりも軍隊してる気がするわ…。泣いた。何で私、只でさえ化け物揃いの所に所属してるの…。

 

 結城中佐の視線を受けながら、無表情のまま「分かりました」と言うしかなかった。もうどうにでもなーれ。

 泣きそうになりながら任務の書類を中佐から頂く羽目になった。

 

 

 ♂♀

 

 

 そして数ヶ月後。

 

 私は中佐の娘の『結城八重』として女装しながら生きていた。本当に訳が分からないよ…。消えたい…。

『結城八重』には寮の中に別室を与えられたのが唯一の救いか。自分の部屋が出来たようなものだからな。まあ、仮にも女の八重を一緒の部屋にはできないよね。女(男)だけどさァ。

 

 つーか、波多野の戯言がまさかの採用されちゃったよね!! てか中佐、娘さんいたっけ? カバーの人間って大概存在するはずだからさ…。でも聞けない。聞いた瞬間「何故それくらい分からんのだ?」とか言われそう…。凡人には辛い…。

 

 ああ、もちろんD機関メンバーの一人である『藤原』としても生活をしている。でも、髪が伸びてしまったので短髪のウィッグを着用するか、帽子を被る羽目になっていた。私、男なのに何で男装みたいなことしてんの…。泣きたい…。

 

(ま、今はそれよりも…原作だな)

 

 ジョーカー・ゲームの始まりでもある、佐久間さんをゲームで負かせるという『鰯の頭事件』がつい最近終わったのだ。

 

 そろそろ原作であったゴーリキー…あれ? 違う、ゴードン? ゴートン? やばい忘れた…ま、まあ! スパイ容疑が掛かっている外人宅へ、佐久間さんは憲兵を装い、D機関メンバーを連れて行くはず。それがD機関へ失態を擦りつけようとしている、佐久間さんの上司の思惑だとも知らずに。

 

 そして佐久間さんはカッコよく、その事件を解決するのだ!(ここ重要)

 

 そんな原作を生で見れる機会なのに、私は別任務があるんだよなあ。あ、もう終わったんだけどね? 事後処理があるから…。ああ…見たかった…。

 佐久間さんと一緒にいられるのも、もう直ぐ終わりだしね。私の良心の佐久間さんにはまだD機関にいて欲しいのになあ。

 

 事後処理を終え、『藤原』として帰宅途中の事。

 

 私は道端で佐久間さんと遭遇した。佐久間さんは顔を下に向けながら歩いていたが、私を見つけたことにより手を上げくれる。私も挨拶の為に帽子を少し浮かせて会釈した。

 

 この様子じゃあ、憲兵と偽っての調査も終了した頃かな…。佐久間さん、すごく考え込んでいるもんね。

 原作同様、三好からヒントを与えられたのかな? だから真実を確かめる為に料亭へ行こうとしてるのだろう。参謀本部大佐殿の失態や、D機関の恐ろしさを知ってくるんだろーなァ。

 

 あー…佐久間さんってすごいわ…。幼少期から軍事主義教育を受けながらも『真実』を見つけたのだから。もしも平成で生きていたらどんなに優秀だっただろうか。いや、今でも佐久間さんは優秀か。若くして参謀本部に勤めてるんだし。エリートだったわ。忘れてた。

 

「藤原か。何処に行っていたんだ? 他の者達はいたが、お前だけはいなかったからな」

「ああ、佐久間さん、今晩は。佐久間さんがこんな時間にお出掛けだなんて珍しいですね」

「はぐらかす気か」

「やだな、はぐらかす気なんてありませんよ! 私はちょっとご飯を食べに行っていただけです」

「っ!……そうか」

 

  あれ? 何時もならもっと色々聞いてくれるのに…。今日の佐久間さんは少し目を見開かせただけで終わった。……あれ? 私、佐久間さんとは案外仲がいい自負があるんだけどな…。

 

 佐久間さんは「すまないな、これで失礼する。そうか…だから三好は…」とだけ言って、外に行ってしまった。うええー…?? なんでだ。なんでなの佐久間さん! 私と佐久間さん、案外仲が良かったよね?! あれっ?! 私の勘違い?!?!?! というか何で三好が出てきたの?! 佐久間さんとは比較的意思疎通が出来ていたのに…何故…。

 

 遠ざかる佐久間さんの背中を見て、なんだか悲しい気持ちになった。そんな…佐久間さん…私の癒しが…。

 

 

 そして更に次の日。

『結城八重』の女装をしていた時に中佐から「八重、付いて来い」と突然言われた。何事?! と思っても言えない辛さよ。結城中佐…マジで理由を言いましょ?? 何度も(心の中で)言っているけどさ、理由を言いましょう???????

 

 杖をつく中佐を補佐しながら歩いていると、参謀本部から出てきた佐久間さんの姿が見えた。桜が舞い落ちる道路を行く佐久間さんを見て、ハッとなる。前世の記憶がフラッシュバックした。

 

(あ…もしかしてこのシーン…佐久間さんの種明かしシーンだ)

 

 三好のヒントを元に料亭へ行き、参謀本部大佐殿の失態や結城中佐の片手が義手であることが分かった佐久間さんが、それらを結城中佐に伝えるシーンだ。このシーンでD機関の擬態能力の高さと、恐ろしいまでの先を読む力を視聴者へと伝えることになる。

 

 結城中佐が佐久間さんに話しかけると、彼は驚いたようだった。八重姿の私を見て、再び目を見開かせるが、「そう言えば結城中佐の娘だったな」みたいな顔をされた。やめて。結城中佐の娘とか胃痛すぎてね…。つらたん…。絶対に波多野許すまじ。

 

 私が微妙な顔になりそうなのを必死に抑えていると、二人は今回の事件について話し出す。佐久間さんは結城中佐の左手が義手であると伝える。

 

「武藤大佐本人と花菱の女将と芸者、それに私以外の何者の指紋も検出されなかった。つまりシガレットケースを拾った客の指紋だけが付いていなかった」

 

 その瞬間、結城中佐は笑みを深め、私は顔が再び引き攣りそうになった。何故なら、『本来ならば無かったはずの指紋が残ってしまっているから』だ。原作では大佐、女将、佐久間さんの指紋しかない。

 

 芸者の指紋…__つまり、私の指紋など原作にはないのだ。

 

 や、や、や、やっべーーー!!!!! 残しちゃいけないこと残しちゃったーー!!!!! いつも結城中佐から指紋は残すなって言われてるのにーー!!!!!

 

 結城中佐の顔が見れなかった。見た瞬間、どんな小言を言われるか分からないからな。スパイとしてあるまじきミスである。「跡すら残さずに消える」ことが大事なのに。やっぱり私、スパイ向いてないよ…。

 

 ガタガタと震えながら佐久間さんと結城中佐の話を聞いた。

 

 

 ♂♀

 

 

 桜並木が広がる河川敷にて、俺__佐久間は結城中佐とその娘の八重さんと歩いていた。俺は結城中佐を見て、思わず目を細める。

 

 今回の任務で俺はトランプでいう、ハズレの『ジョーカー』を掴まされたと思った。

 

 スパイ容疑の掛かるゴードン宅へ、既に大佐の名で憲兵調査が入っていたなど思いもしなかったからだ。もしも俺があの時「御真影の裏の調査」という事に気がつかなければ、確実に俺は腹切りをさせられていただろう。

 

 ありえたかもしれない未来に思わずゾッとした。

 

 又、俺は三好や藤原から得た『料亭』『ご飯を食べに行っていた』というヒントがなければ真実の奥の更なる真実に触れもしなかっただろう。結城中佐が料亭で大佐の調査を行っていたことも、結城中佐が義手であることも、そして藤原が実は『八重さん』であったことにも。

 

(男である藤原が八重であり、料亭の芸者になりすましていたとは思いもしなかった)

 

 男の藤原が女装するなんてこと、普通の男ならば屈辱でしかないだろう。確かに藤原は女のような顔立ちをしてはいるが、きちんと体付きは男なのだ。それに__…。

 

(藤原はD機関に染まりたくない雰囲気を醸し出していた。だからこそ彼が常に擬態をしていることに驚きを隠せなかった)

 

『藤原』はD機関の中では一般人と同じ様に振る舞い、異常な能力など見せもしない男だった。寧ろ彼は「他のD機関員達は何故あんなに『自分にならこの程度できて当然』なんて思えるのでしょうね。自分以外信用せずにやり遂げるなんて、凄い様に思えますが…。それはただの人でなしだ」と言い切る奴である。

 

 悪く言えば、一般の域からは出ることの出来ない凡人。何故D機関にいるのかも分からないぐらいに常にダラけ、「面倒くさい」と言っていた。そんな藤原は毎日規則正しく生活を送り、他のD機関員とは違って夜遊びにすら出かけない。

 

「私は結婚相手以外とは付き合いたくない。相手に誠実でありたいんですよ」

 

 そう言って優しげに微笑む藤原は全くもって『人でなし』などには見えなかった。自分以外は信じず、溢れんばかりの自負心だけを抱えて生き抜く化け物には到底見えなかったのだ。俺はそんな藤原をD機関の中で唯一の癒しの様に思っていたし、良き友人だとすら思っていた。

 

 藤原が『凡人』? 『誠実』? 『やる気が無い』?

 …__そんなもの、全て間違いだった。

 

 一体どういう訳で唯の凡人が他のD機関員と同じ試験をクリア出来たのか。どうして唯の一般人が「面倒だから」と言いながらも他のD機関員と共に一緒にいるのか。そもそも何故藤原はD機関に居座り、スパイの訓練を受けているのか。そんなもの一言で片付く。

 

(彼もまた他のD機関員と同じ、『人でなし』だからだ)

 

 彼は常に擬態をしているのだろう。それは一般人の仮面。自負心を決して出さない様にし、D機関の陰に隠れてひっそりと息をする為の仮面を。まさに彼は闇に隠れる更なる闇。『D機関を知ってしまった者』に対する、不意打の槍なのだ。

 

(だが…それには暫し疑問が残る。彼はどうして女装をしているんだ?)

 

 藤原の女装はレベルが高い。パッと見は本物の女性にしか思えないだろう。だが、どう足掻いても彼は男なのだ。男性特有の大きな手や足、そして喉仏は隠せるものではない。ふとした瞬間にバレてしまう危険性がある。

 

 決して長期では向かない。寧ろ、疑いが深くなる要素でしかなかった。常々、結城中佐は「スパイは疑われた時点で終わりだ」と仰っているのにも関わらず、何故彼はそんなことをしているのだろう。

 

 俺が料亭の芸者や八重さんを藤原だと見抜けたのも、彼が女装していたからに他ならない。指紋検証の時に鑑識が「この芸者の指紋、男の様に大きいな…」と言ったことと、彼が最近外食ばかりであることに言い様のない違和感を抱いたからだ。

 

 もう一つの理由としては『八重』の存在に疑問を持ったからである。

 

 最初に八重さんと出会った時、彼女は明らかに困惑していた。更には「お手伝いに来ている」と言っているはずの彼女を、当時のD機関員達が「知らない」と言ったのは明らかに可笑しい。それが例え結城中佐の命令であったとしても、直ぐにバレてしまう嘘だ。あまりにも不自然すぎる。

 

 俺は結城中佐と共に前を歩く八重さんを見つめた。そして口を静かに開く。

 

「八重さん、いや…料亭の芸者であり、D機関の藤原」

「あら、佐久間さんったら。分かってしまわれたのね」

「分かるも何も…お前はあまりに証拠を残しすぎていた。一つ、女性にしては大きすぎる指紋。二つ、お前は意味もなく外食をする人間ではないという事実。最後の三つ目は、『八重』に関しての辻褄の合わなさ。

 

 …何故、見え透いた嘘と女装を続ける?」

 

 そう言った瞬間、藤原はニンマリと笑ってみせる。口角を吊り上げ、まるで「待っていました」というような笑みだ。その笑顔は八重でもない、ましてやいつものD機関員の藤原でもない。そう、彼が『スパイ』であると分からせてしまう笑み。

 

 __その刹那、俺は気がついた。彼は正体がバレる前提で嘘をつき、女装を続けているのだと。

 

 藤原は二つの顔を持っているのだ。一つ目は女装をすることで相手に自分がスパイだと分からせる顔。所謂、彼は『D機関の広告塔』なのだろう。

 欧米諸国…特に英吉利では「スパイは紳士がするもの」といった風に、栄誉ある仕事だと思われている。しかし、日本では違う。そんな日本のスパイへの認識を改めるためにも、藤原は敢えて目立つスパイ行為を行うのだ。

 

 英雄的スパイとして、他国の著名なスパイの様に祭り上げられるために。

 そうすればスパイ活動が日本で認められ、さらなる成長があるかもしれないと信じて。

 

 そしてその英雄スパイの顔を隠すために彼は『藤原』として平凡なD機関員を装うのだ。だが、ただの平凡なスパイとして居座るのではない。D機関員の裏方として、敵の隙を突くのも彼の仕事。

 

(彼にとってはD機関員の藤原という顔も、女装姿の八重も…全てがフェイクなのだろう)

 

 これで藤原の不可解な行動に説明が付く。だが、これが正解なのか分からない。もしかするとこれすらもフェイクなのかもしない。何故ならば彼は『D機関』の一員。魔王、結城中佐が自ら手掛けた化け物の一人なのだから。

 

(本当に…俺は最後まで入ることすらできなかった。ジョーカー・ゲームに)

 

 末恐ろしいものだ。常人では決して出来ない訓練を易々と乗り越え、平然とした顔で生活を送るD機関員達。そしてそれを作り出した結城中佐。果たして結城中佐は一体どこまで未来を見据えているのだろうか。まさか敢えて目立つスパイを作り上げようとするなど…。人の一歩前どころか、数百歩前に進む結城中佐の手腕に舌を巻く。

 

 そう思った瞬間、八重でもない、藤原でもない『一人の名もなきスパイ』が静かに目を細めた。女の様に妖艶に、しかしそれでいて男らしさを含む笑みを浮かべる。真っ暗に曇るその瞳の中に、もう一人の結城中佐を確かに俺は見た。

 

「A secret makes a woman woman. 」

 

 女は秘密を着飾って美しくなるのよ。

 

 

 ♂♀

 

 

 こえぇえええ!!!! 佐久間さんこえぇえええ!!!!! エッなんなの佐久間さん! 超怖いんだけど?!?! 普通に私が女装してるってバレテーラ!!

 

 まるで探偵かのように私の失態を指摘してきた佐久間さんに戦慄する。私が芸者の擬態任務に行っていた時にそれを誤魔化す為、毎回「外食行ってきまーす」って言っていた。それにきっと違和感を抱いたのだろう。もっとマシな嘘をついておけばよかった…。

 というか指紋を残してしまった事もバレてるし、更にはそれが男の指紋であったことも判明してるし! ついでに私が八重であることも分かってるとか!!!!

 

 なんなの佐久間さん有能すぎかよ!!!! 怖いわ!!!! そうですよね、佐久間さんってエリートですもんね! 外人もあまりいないこの時代でペラペラ英語を話せるような方だものね! 当たり前だわ! 原作ではD機関の陰に隠れがちで気がつかれないけどな!

 

 そして隣の結城中佐の顔見れねーわ!!!! どんな罰を与えられるか分かったもんじゃねぇ…。スパイとしてあるまじき行為ェ。

 

 苦し紛れに某探偵漫画でお馴染みのセリフまたもや言っちゃったよ…。もう私、テンパるとついついこの言葉を意味もなく言っちゃう癖やめよ本当に??

 

(あああ…もう本当に転職したい…)

 

 でも出来ない辛さよ。D機関を辞めた時点で前線送りになるからね。例として挙げるなら小田切さんだからね。アニメで小田切が退職届を出した途端に前線送りになったからな…。なんなの世間辛すぎ…って、そうじゃねぇ! 次は小田切のお話じゃん!

 

(時間系列で言うと次が小田切か! アニメでは最終回だったけれども! うあああああ私も辞めてぇ! でも辞めれねぇ!)

 

 私は泣きそうになりつつも前を向いた。もう女装を止めたいと思いながら。



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其の三: 「一般人のダブルクロス」

(帰りてえ。煙草くせえ)

 

煙草の煙が室内を漂う中、私は会議室のテーブルの端に座っていた。周りにはD機関第1期生全員が席についている。テーブルの誕生日席には結城中佐が、いつも通りの厳つさを携えながらゲンドウポーズをしていた。その結城中佐の正面向こう側——中佐とは反対側のテーブルの誕生日席に小田切が顔を強張らせながら立っている。

 

(『ダブルクロス』の話が始まっちゃった…)

 

その事実に気がついて、内心で私はうな垂れた。

『ダブルクロス』のお話は小田切が主人公である。小田切がドジをして、的であるスパイを死なせてしまうといった内容だ。ミスの理由は「人間らしさ」を捨てきれず、化け物になれなかったから。この話により、D機関員も1人の人間であること、それと同時に、スパイは化け物でなければ務まらないということを視聴者に伝えるのだ。

 

それはまだいい。人間らしさを捨てきれないとか普通だから。完璧に任務の遂行とか無理だから。それに別に執着しちゃってもいいじゃねーか、人間なんだから。それよりも大切なのは——

 

(小田切が辞めるってことだよ!!)

 

羨ましすぎる!!

 

私だって辞めたい! 普通の民間の会社に勤めたい…! でも、辞めたら辞めたで前線送りとか辛すぎる。現に小田切も辞令表出した途端に満州送りである。はー…そう考えたら辞めれないんだよねー…。

でもさ、一瞬の気の緩みが死へと直結するD機関も嫌すぎる! 刹那の表情や感情を読み取り、その者の行動パターンから次にとる行動を推測するとか本当に何なの? できねーよ! でも、出来なきゃ死ぬ。辛すぎ。どうしてD機関か戦争の二択なのか。どっちも嫌だよ! 21世紀に戻りたい!

 

(しかもさ…なんなの? こんな一回のミスで他のD機関員にネチネチと言われるとか…)

 

ちなみに今、私達が集結している理由は小田切がミスったという報告を聞くためである。別名、集団尋問(会議)だ。

チラリと他の機関員達を見てみると、波多野はニタニタと笑っており、三好は興味なさげにしつつも肩をすくめる動作をしていた。この場にいた全員が様々な表情を見せながら、何もアクションを起こさない。

 

………さっきの発言は撤回する。ネチネチとは言っていないな、無言の圧力だ。彼らは今、無言でこう言っている。

 

「何故このくらいできなかったのか」と——。

 

D機関員達は基本的に人を信用していない。そして、信頼もしていない。他の人間が自分よりも劣っていると思っているからこそ、信用や信頼もしない上、ましてや期待すらもしない。自分の実力のみを信用して遣り遂げようとしている。

 

だが——D機関のメンバー同士だと話が違ってくる。

 

共にあの試験や過酷な訓練を受けいるからこそ、お互いの実力をよく知っているからだ。超難題試験をパスし、常人では決して耐えることもできない訓練をし、『スパイ』となったD機関員達。

「こんなことを出来る奴が自分以外にいるのか?」と思っている機関員の描写があるくらいだ。自分にしか出来ないと思ったことを、出来る奴らがいる——だからこそ、自分と同じD機関員を信頼している。

 

いや、信頼なんて生易しいものじゃない。「出来て当然」という考えを持っている。全てが出来きて当たり前。出来ると『確信』している。ある意味で友情や愛情を越えた、確固たる繋がりがあった。

 

(フザケンナ! そんな考えは頼むから捨ててくれ!)

 

それに含まれた凡人たる私はどうしたらいいのかな?! 前世チートがあるだけだよ?! そんな信頼は持たないで…。確実に私、いつかはドジをしそうだから…。

 

訓練とか訳が分からなすぎて本当に辛かった。体術の授業では毎回最下位だし、座学の方でも全然理解が追いつかなかったし、本当に本当にしんどかった…。

一番辛かったのは自白訓練だが、次に堪えたのはジゴロの訓練だったな…。私、コミュ障だったからさ…。人の感情とか癖を見抜けとか無理だからね?!何回かそれでヤバイことになったし…。

 

一回、訓練の為に嫌々ながらも女性と2人同時に付き合っていた時期がある。その時、女の感情に気がつかなくて修羅場になりかけた。

「藤原さん、浮気してるでしょ」と言われた時は心臓が止まるかと思ったな…。女って怖い。その場面を丁度小田切に目撃されて、「うわあ」的な笑みを浮かべられたことがある。馬鹿ですみませんね! 前世で女だったくせに女の気持ちが分からないとか色々な意味で終わってるわ。

 

(スパイ辞めてえ…)

 

私がモヤモヤと考えている間に話が纏まったらしい。結城中佐が次々にD機関員達に指示を出して行く。その途中、田崎にアイコンタクトされた為、私も一番最後に立ち上がった。ハイハイ、運転係ね。

小田切の横をすり抜ける瞬間、小田切だけに聞こえるよう声を発する。

 

「囚われるなよ、小田切」

「!」

 

無表情だったが、小田切の眉がピクリと動いた。通常の小田切ならば絶対にしないミス。相当今回のことで堪えたか、あるいは——。

いや、止めておこう。考えたら虚しくなる。小田切が辞められたら仕事が増えるから、辞めて欲しくないなあ。…いや、本当にマジで辞めて欲しくない…。仕事が増える…。

頑張って小田切をD機関に留めさせよう! 絶対に! そう思いながら扉を閉めた。

 

その後、車の準備をして田崎と三好、甘利を乗せた。途中で三好と甘利を下ろして、田崎と2人っきりになる。助手席に座る田崎はガラス越しに景色を見ており、2人の間に沈黙が流れた。

 

…そう言えばD機関員達から見た小田切ってどうなんだろう。小田切はD機関第1期生で唯一の軍人だった人物だ。その為、他のメンバーよりも軍部のことを批判することは少ない。お陰様で私の良心その二でした。一位は佐久間さんだ。

 

そんな小田切だが、D機関にはきちんと馴染んでいる。しかし、今回の件で小田切はミスをした。そんな小田切をどう思っているのだろう? 気がついているのかな、小田切が辞めることを。そう思いながら口を開いた。

 

「奴のこと、どう見る?」

「完全に『囚われてる』かな」

「だよなァ」

「ま、これはあいつの仕事だからね。責任を持って最後までやってもらわないと…。あ、ここで降ろしてくれ」

 

小田切は辞めると思ってんのー? を聞けなかった! クッ、やっぱりこいつらとはコミュニケーションを取るの難しい。もう嫌だこいつら。でも、多分気がついてるんだろうな…小田切が辞めるかもって。原作知識がなかったら私は気がついてなかったわ、多分。

 

D機関員達の優秀さと自分の凡人具合を比べて落ち込みつつも、私は田崎を車から降ろした。田崎を降ろした後、車を直ぐに発進させる。前世では吸ったこともないタバコに火をつけ、久々にそれを口に咥えた。

 

「なるようになるしかない、か」

 

 

——そしてその数日後、小田切は事件を解決させた。

 

 

展開が早い? いや、仕方がないじゃん…。ぶっちゃけると私、やることないからね? 殆ど機関員達の足になる係だったから。めちゃくちゃ車で送迎したから。それに私は他の仕事もあるからね?! 今はカバーの人間を覚えている段階である。

 

まあ、そんなことよりも…一番大事なのは小田切の退職阻止だ。絶対に小田切を辞めさせてたまるか。私の仕事量が確実に増える! ついでに私の精神ストレスも増える! 佐久間さんがいなくなった今、小田切までいなくなればストレスでヤバくなる! あんな人でなし集団の中いたくないんだよ! ごめん、凄くゲスい自覚はあるけど辞めないで!

 

小田切がカフェでコーヒーを飲んでいるときに、偶然を装って小田切のテーブルに座る。小田切は表情一つ動かさず、「どうした?」とだけ聞いてきた。動揺しない辺り、流石だ。周りにD機関員や軍人、スパイがいないのを確認しながら私は口を開く。

 

「囚われたか、小田切」

「………、……そうだな…囚われなければ俺と言う存在がなくなる」

「お前はこの仕事、向いていると私は思うんだがな。あっちに行くのはやめておけよ」

「いや、俺はもう無理だ」

「そうか…。ハァ、私の方が向いていないのに、まさかお前が先に辞めるとは…」

 

思わず本音が言葉となって零れ落ちる。

 

小田切よ、お前はスパイが向いているよ! 私より優秀なくせになんで辞めんの?! 別に囚われたっていいじゃん。人間なんだから執着してもいいんだよ。執着しながら生きるんだよ。スパイを続けようよ…そして私の仕事を増やさないで!

 

でもなあ…これ以上は小田切、譲らなそう。一度決めたら小田切は基本的に譲らない。だからこそD機関に入る前、軍人でありながら上官に逆らったのだろう。小田切は正しい判断ができる奴だから。辞める、ということも小田切にとっては正しい判断なのだ。

 

結城中佐が怖すぎていつも崩さない、ポーカーフェイスを保っている顔が歪む。色々と本音がボロボロと出ているが、小田切は退職するからいいだろう。他のメンバーに見せたら鼻で笑われるだろうけど。

 

それを見て、小田切は少し目を見開かせた。コーヒーカップをテーブルの上に置きながら意外そうな顔をする。なんだ、その顔は? と思いつつ、彼の言葉を待った。

 

「藤原が辞める? まさか」

「何? 私がこういうことを言うのが意外だと? いつも言っているじゃないか、面倒だって」

「ああ、そうだな。だが、お前はこの仕事に向いている」

「は?」

「これ以上なく、お前はこの仕事に向いていると思う」

 

小田切はコーヒーに映る自分を見ながら呟いた。私は信じられない気持ちで彼を見る。少しの間、沈黙が流れた。そして小田切は不意に肩をすくめる。テーブルの上に小銭を置き、立ち上がった。

 

いやいや待って?! 爆弾発言したよこの人?! あり得ない言葉を聞いて咄嗟に反論できず、数秒沈黙してしまったけど……私がスパイに向いてる?! は?! 頭、大丈夫…? ちづねぇに囚われすぎて頭がおかしくなった…? 向いてるわけないだろ?! 技術はD機関員の中で最下位だと自信を持って言えるし、コミュ障だし、何より度胸がない! ええええ…嘘だろ…。

 

私が訂正しようと声を上げようとしたら、小田切が笑った。

あの小田切が満面の笑みで笑ったのだ。

私はその瞬間、ハッと息を呑む。

 

D機関員達の笑いには色々な意味が込められている。威嚇の為、騙す為、嘲笑う為など、様々な笑みを持って、己だけでなく他者を欺き、生き残る。どんな穏やかな笑みだろうとも、そこにはスパイとして影が見え隠れするのだ。他のものには分からない、スパイの笑みが。

 

だが——だが、今の小田切の笑みにはそれがなかった。1人の人間としての、小田切、いや、『飛崎』としての笑み。小田切の目の中には結城中佐ではなく、飛崎がいる。遠き日の小田切の故郷で、彼がちづねぇと共に歩く姿をその目の中に確かに私は見た。

 

私は開きかけた口を閉じる。そして小さく笑った。

 

「達者でな」

「ああ、お前もな……藤原」

 

 

♂♀

 

 

藤原と別れた後、俺——小田切は静かに道を歩いていた。様々な人が行き交う中、目を閉じる。

 

(最初から最後まで不思議な奴だったな、藤原は)

 

藤原という男は、変人の巣窟であるD機関の中でも変わった奴だった。

 

「面倒くさい」「スパイになりたくない」などと言い、訓練の成績はD機関のメンバーでも最下位。更には変に律儀で、訓練以外では恋人を作ったり、夜遊びに出かけたりすらもしない男だった。

擬態のように思えるが、完全に本心から言っていたのだ、彼は。でなければ自白剤訓練や擬態訓練の時に苦虫を噛み潰したような顔などはできない。アレは訓練してできるような表情ではなかった。

 

その中でも一番驚いたのは、ジゴロの訓練でニ股をする羽目になり、しかもその浮気がバレていた時だ。こいつは何をしているのかと思ったさ。対人技術や人を騙す技術が明らかに足りていないんじゃないかと感じた。

 

——D機関の落ちこぼれ。

 

D機関員の中で一番技術が足りていないといっても、『D機関員の中で』だけだ。世間や他のそれなりのスパイには通用する。又、不意打ちはそこそこの技術を持っていたのが不幸中の幸いだった。ここぞという時に相手の意表を突き、本領を発揮していたのが藤原だ。だからこそ彼はメンバー同士のポーカーと偽ったジョーカー・ゲームにあまり参加せず、自分が活躍できるときだけ参加していた。

 

己の力の見極めを正しく行なっているもの。

それが藤原に対する印象だった。

 

(だが、いつからだろうか。彼への印象が少し変わったのは)

 

彼は凡人だ。他の化け物達とは違って凡人の領域を出ていなかった。

だが、彼は凡人というにはあまりにも——そう、変わった考え方を持っていた。帝国主義が当たり前とされる中での民主主義思想。これには他のD機関員達も同意することだろう。彼は変わっていた。

 

己の力量を正しく知る変人——それこそが藤原だと思っていた。思っていたはずたのだ。

 

しかし、ある時、気がついた。

彼は『この世界を世界として見ていない』と。

 

D機関のメンバー全員が、自分だけを信じて生きているような『人でなし』である。任務のためならば、恋人だろうが家族だろうが捨て去る覚悟を持つ、正真正銘の人でなし。人を情報を手に入れるための駒程度にしか思っていない、サイコパスのような存在。

 

そんな彼らでも、一応は世界を見ていた。

人を駒程度にしか思っていなくとも、人としてキチンと見ていた。

 

——だが、藤原は違う。

 

世界を、ただの映像としか見ていない。

人を人として扱いながらも、物としか見ていない。

ある意味でそれは、他のD機関のメンバー達よりも不可解だった。

 

この世界に生きていながら、この世界に藤原はいない。鏡の向こうにある世界としてしか捉えていない。藤原はこの世界を、本の中の物語か何かと見ているようだった。世界はただの物語を紡ぎ出す文字にしかすぎず、人は物語を盛り上げる存在でしかない。

 

(一番、周りの人間を人として扱いながら、人として扱っていない)

 

ゾッと背筋が凍るような寒気がした。そして同時に納得した。技術では劣るが、藤原もまた、『化け物』なのだと。だからこそ、このD機関に文句を言いながらも居座っているのだと。

彼にとって、スパイを辞めたいというのも本心なのだろう。藤原自身も、自分の技術の低さを自覚しているようだったから。だが、彼の気質がそれを許さない。

 

藤原は根っからの『人でなし』であり、『化け物』なのだから。

 

俺は先程の、ポーカーフェイスを崩した藤原を思い出して密かに笑った。恐らく、彼とはもう会うことはないだろう。藤原はきっと、生涯、化け物であり続けるだろうから。結城中佐の手がけた化け物の1人として、世界を暗躍し、あらゆる者を騙し、生き残る———。やはり藤原、お前は…。

 

「これ以上なく、向いているよ」

 

スパイに———。

 

 

♂♀

 

 

はああああああああ…やっぱり小田切は退職かあ…。私の癒しがいなくなっちゃった…。小田切が羨ましい…でも、戦争には行きたくないからなあ…。

 

小田切の所持品や彼がいた証が一切消えた、D機関。しかし、それに対して疑問の声を上げる者も、ましてや話題に出す者ですらいなかった。

本来ならば任務か何かと思うだろうが……多分、皆、小田切が辞めたと知っているのだろう。悟り具合が本当にハンパないよね、こいつら。妖怪、サトリかな? マジで妖怪って言っていいと思うんだ…。

 

(ま、それよりも仕事かな)

 

私は可愛らしいツバ付きの帽子を揺らす。綺麗に化粧で施された顔に笑みを浮かべ、隣にいた男——…ドイツ人男性に腕を絡ませる。背が高い為、腕が絡ませにくいが…まあ、しょうがないよね。一応、私はこの時代の男性の平均身長だから。勘弁して。寧ろ、責めるべきなのは背の高いやつである。私は悪くねぇ!

 

この時点で、「あっ(察し)」となっている方もいるだろう。現在、私は女装している。女装男子★藤原ちゃんだ。

………ごめん、調子に乗った。痛い自覚はしている。男のくせに何をしているんだと思うだろうが、任務だから。決して、決して、趣味じゃないから。前世の女性意識に引っ張られ、ノリノリで女を演じちゃうけど、趣味じゃないから。大事なことなので二回言った。

 

そんな女装任務中な私だが、大変なことに気がついてしまったのだ。

 

(やっっっっっべえ、とんでもねぇミスをやらかした)

 

結城中佐に怒られる…!

 

言い訳しても、取り返しがつかないくらいの大きなミスを犯した。小田切なんて目じゃないぜ! どどどどどうしよう。ダレカタスケテ! だからスパイなんてやりたくないんだよ!

 

毛穴という毛穴からドッと汗を出しながら、必死にどうしようかと考えた。




皆様、お久しぶりです。リアルが忙しく、中々更新できませんでした。コメントもいただけて、ビックリしています。申し訳ないのですが、コメントはまた後日返しますね。


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其の四: 「幻影(上篇)」

完全なるオリジナル話。御都合主義です。オリキャラ視点で進みます。


(この国があの男の故郷か…)

 

カフェの窓側の席に座り、様々な人が行き交う街並みをボンヤリと眺める。僕の視線の先には、己の故郷とは違う木造作りの建物があった。

道を歩く人間に視線を逸らすと、自分達にはない鮮やかな黒髪を靡かせている人々が目に入る。黄色人種特有の頬骨が高く、細い瞳やきめ細かな肌、そして子供のように小さな身長を見て、改めて僕は自分が異国の地にいるのだと実感した。

 

まさかこんなにも多くの外国人を見ることになるとは…。いや、この国では僕の方が『外国人』になるんだろうな。ヨーロッパや北米には『仕事』で何度も赴いたことがあるが、同じ白人人種との仕事である。こういった、全く別の人種が多くいる場所での仕事は初めてだった。

 

周りの人々とは全く違う、黒髪とは異なる自分の金髪を無意識の内に触る。

 

(本当に日本に来るなんて……人生、何があるか分からないな。いや、僕自身が希望したのもあるが…)

 

——僕、アドルフ・ミュラーはドイツの貿易会社に勤める、日本支部の駐在員だ。

 

小さな頃から日本の文化、特に芸術に興味を持ち、独学で日本語を勉強。祖国のドイツでも日本から輸入した着物や絵画を集め、日本製品のコレクターとしてもよく知られていた。本当は日本に旅行か移住したいと考えていたが、両親に反対され、仕方がなく日本会社とやり取りのあるドイツの貿易会社に入社。

 

そして今、四十代半ばにして、長年の夢だった日本へ、駐在員として転勤——

 

——というのが、僕、アドルフ・ミュラーの『経歴』だ。

 

本物のアドルフ・ミュラーは本国で軍人として働いている事だろう。いや、無理矢理軍人にさせられた、が正しいかな。正直に言うとあまり興味はないけど。

では、ここにいる『僕』、アドルフ・ミュラーは一体誰なのか? 何故、別人がアドルフ・ミュラーと名乗っているのか? 答えは実に簡単だ。

 

僕がドイツから派遣されたスパイだから。

 

本名は流石に教えられないが、僕はドイツ国防軍の諜報機関アプヴェアに所属する諜報員の一人だ。長年、ドイツの諜報員として世界を暗躍し、あらゆる人間を欺き、祖国に有益な情報を流してきた。

これでも経験豊富な諜報員であると自負している。なんたって任務の成功率はほぼ100%なのだから。

 

そして今、僕は日本へスパイとしてやって来た。

まあ、本来の任務は日本へのスパイ兼前任者の尻拭いなのだが。前任者カール・シュナイダーが殺害された結果、態々この僕が辺境の国、日本に来ることになった。

全く…あの男め、任務の失敗はまだしも、死ぬなんて。…まあいいだろう。来たいと常々思っていた日本に来れたのだし。

 

(僕はこの日をずっと待っていた。日本にスパイとして来る日を。この時を!)

 

先程カフェで頼んだ紅茶を飲みながら目を細めた。心地よい熱さと紅茶特有の味が口の中に広がる。僕は内心で笑みを浮かべた。

 

ずっと僕は日本に来たかったのだ——僕達に一泡吹かせた魔術師がいる、日本に。

 

数十年前、僕達ドイツ軍はスパイコード、魔術師と呼ばれる日本人を捉えた。

彼がスパイであるとバレた理由は、祖国に裏切られたから。優秀すぎる魔術師を疎ましく思った日本政府は、彼を捨てたのだ。日本政府が魔術師を裏切らなければ、僕達は魔術師を捕まえることは不可能だっただろう。その時、魔術師が抱えている情報網の一部を日本政府から聞いた際は冷や汗が流れたものだ。

 

それ程までに優秀な人材を、ただ「疎ましい」という理由だけで日本政府が彼を捨てたと知った時、当時の僕は失笑した。

 

(日本政府もその程度だったわけか)

 

彼のような優秀な人材があの国にいたことは驚いたが、その事実が霞んでしまうほど、杜撰すぎる日本の体制には笑わざるを得えない。

 

…まあ、そんなことはどうでもいい。捕まえた魔術師から日本政府の情報をさらに引き出すか、又は二重スパイに仕立て上げるか、それとも殺すか。彼をこれからどうするのか考えなければ。

 

そう思いながら当時の僕は彼の元へ食事を運んでいた。その頃の僕は軍の中でもまだ下っ端であり、主に魔術師の身の回りの世話をしていたからだ。

全てがバレているのにも関わらず、「自分はスパイじゃない」と言い続ける魔術師に対して同情していたのもあったのだろう。

拷問されて疲弊する彼の手当てを甲斐甲斐しくしたり、嗜好品のキャンディーやクッキーなどもこっそり与えていたりした。他の軍のものが拷問以外で彼を痛めつけないように手回しさえしていたこともある。

 

そんな僕を不審に思ったのだろう。少々不可解だというように魔術師がこう聞いて来た、「何故ここまでしてくれるのか」と。今まで本当にスパイなのかと疑う程に一般人らしい振る舞いをしていた魔術師の瞳に、チリッと一瞬だけ真っ暗な闇の炎が灯った。

それを見た瞬間、僕は知らず知らずの間に笑みを浮かべていた。ようやく気がついたのだ。

 

——僕がこいつに甲斐甲斐しくしていたのは同情心からじゃない。優秀ゆえに裏切られた、この男の本性を知りたかったからだ。何故だか知らないが、自分の中の勘が『こいつは只者じゃない』と告げていた。

 

「何、理由は二つある。一つはただの好奇心」

「好奇心?」

「優秀すぎる日本のスパイはどういった奴なのか知りたいだけだよ」

「だから自分はスパイでは——」

「それはもういい。…もう一つは、そうだな……君というスパイに対する敬意さ」

「…」

「君は実に優秀だった。黄色人種の癖に、いや、これは君に失礼だな。君だからこそ僕達に気がつかれずにここまでやってのけた。敵ながら天晴れと感じたんだよ。そういう奴には敬意を払うのが僕の流儀だ」

 

でも、まあ、君はここで終わるみたいだけど。

 

それは心の中にしまい、小さく笑ってみせた。魔術師はそれを聞いてもなお、弱々しい一般人の仮面は外さない。大したものだ。だが、それでいい。今の言葉を聞いて舞い上がったようでは、僕がこんなことをする意味がない。

そう思いつつ、踵を返した。コツコツと軍用のブーツを鳴らしながら。

 

その会話がまさか魔術師との最後の会話となるとは思いもしなかっただろう。

 

——魔術師が逃亡した、という伝令がきたのだ。

 

上官のヴォルフ曰く、度重なる拷問でヨロヨロになった魔術師に付き添っていた兵士の、柄付き手榴弾を魔術師は掠め取ったらしい。周りに何人もの兵士がいたのにも関わらず、だ。魔術師は左手を犠牲にして手榴弾で家を爆破。その後、片腕をなくし、血だらけになりながらも逃げ切ったとか。

 

それを聞いた瞬間、ゾクゾクッと全身が震えた。まるで宝の山を目にした海賊のような、まるで子供が新しいオモチャを与えられて喜ぶような、形容し難い感覚が体を貫いたのだ。

 

いや、分かりにくいな…そう、言うならば…マジックショーを見た時のようだ。マジシャンはあらゆる手札を使い、観客をアッと驚かす。これは…ショーでマジシャンに、目を輝かせてしまうくらいの驚きを貰った…そういう感覚だ。

「やられた!」という悔しい気持ちと、凄い! という相反する気持ちが胸の中を占める。

 

度重なる拷問で疲弊していたのにも関わらず、魔術師は思考を止めなかった。いつか来るかわからない、たった一つのチャンスを逃さないように待ち続けた。フェイクの仮面を被り続けながらも、彼は只管に待ち続けた。祖国に裏切られ、四面楚歌の状況で僅かな希望を自らの手で掴み取ったのだ。

 

それはどれだけ孤独で恐ろしいのだろうか。それでも、それでも——

 

——あの男は見事にやってのけた。

 

「はは…はっはっはっはっアハッハッ、ヒィ、あっははははははははは、フゥ、ゲホッゲホッ、クッ、ヒィ、アハハハハはははっ!!」

 

気がつけば爆笑していた。可笑しくて可笑しくて仕方がなかったからだ。

 

…魔術師は優秀だった。あそこまでの腕を持つスパイは中々いないだろう。

だが、日本政府に裏切られ、捕まった。例えどんなに優秀で天才で秀才なスパイであろうとも、捕まればその時点で終わりだ。どんな素晴らしい肩書きがあろうとも、どんなに高い地位があろうとも意味を成さない。

 

疑われず、捕まらず、有益な情報を祖国へ流す——それこそがスパイの任務であり、本質だ。疑われた時点でスパイは終わる。ましてや敵国に捕まって情報を渡したり、二重スパイになったりしてしまうのはスパイとして致命的。

 

「全てを欺き、生き恥晒してでも生き残る。それが孤独な闇だと知りながら…。

 

訂正しよう、魔術師。僕は君に『優秀だった』と告げたね。君は優秀なスパイなんかじゃない、『化け物』だ。感情に囚われず、最も最適な判断を下せる正真正銘の化け物だ」

 

その日から、魔術師は僕にとっての最強の化け物になった。

 

その後、僕はさらなる経験を積み、あらゆる国へ、スパイ活動を開始。そんな中、様々などうしようもない状況に陥ったことがある。「もう駄目だ」と思ったことすらあった。だが、その度にあの男が脳裏に過ぎり、「やらなければ」と思ったものだ。

 

例え泥水を啜ろうが、祖国に裏切られようが、罵声を浴びせられようが、何としてでも生き残る。全てを欺き、生き恥晒してでも生き残る。あの、僕が敬愛する化け物のように。

 

(…………勝負だ、魔術師。君が僕に気がつかず、僕が任務を終えれば僕の勝ち。君が僕に気がつき、僕を捕まえられたのならば君の勝ちだ)

 

日本に来たのは、僕の中の化け物に打ち勝つため。あの男ならば、きっとまだ国の影で暗躍していることだろう。片腕を失い、祖国に裏切られてもなお、あの男は必ず真っ暗な孤独の中でまだ生きている筈だ。

 

それに、数年前日本陸軍の参謀本部に新たな諜報機関が設立されたと聞く。その名はD機関。設立者は結城という男らしい。だがいくら探ってもその実体は掴めない。その結城こそあの魔術師だと僕は考えている。

 

(あの化け物を超えて、ようやく僕は最強のスパイになれるんだ!)

 

そう考えていると、僕が座るテーブルに1人の女が近づいて来た。ようやく来たか、と思いながら僕は女の方へ視線を向ける。

 

「ごめんなさい、待った?」と言いながら僕の向かいに座ろうとする女——名を、桜木八重と言う。

 

彼女は僕、アドルフ・ミュラーが勤める貿易会社の日本支部で、事務の仕事をしている職業夫人だ。陸軍大佐の一人娘であり、名門女学校を首席で卒業した才女。

更に、八重は日本人女性にしては高めの身長で、恐らく160cmを超えている。全体的にスラッとしていて、中々の美人と言っていい。

 

八重は僕を見ながら手袋で覆われた手を口に当てる。彼女のトレードマークでもある、首に巻いたスカーフを揺らしつつ、八重は申し訳なさそうに眉をハの字にへにゃりと歪めた。

 

——そして、そんな誰もが羨む才女、桜木八重はアドルフ・ミュラーの恋人でもある。

 

僕は八重が来た瞬間、パッと顔を輝かせ、はにかむように笑ってみせる。彼女に会えて嬉しくて仕方がないといった様子で声を弾ませた。

 

「全然待ってないさ。それに、愛しい恋人の為なら何時間だろうと待つに決まってる」

「もう、アドルフったら…」

「それと、君が遅れたのは君のお父様のせいだろう? 八重のせいじゃない。気にすることはないさ」

「アドルフ…そうなの…。『あんな異国人と付き合いは止めろ』とお父様が五月蝿くって、出てくるのに時間が掛かっちゃった。ごめんなさい」

「仕方がないよ。君はお父様の大事な一人娘なんだし。可愛い娘の八重が異国人に引っかかったとなれば心配するのは無理もないさ」

「いえ、お父様にははっきり言わなくちゃ。アドルフはこんなにいい人なんだって…。アドルフとの交際を認めてくれないのなら、お父様の相談に乗るのは辞めるってハッキリ言うわ!」

 

力強く声を上げる八重は、女性にしては珍しく自立している。自分の意見を持ち、政治についてもよく知っている女性だ。日々新聞や本を読み漁っているらしい。周りにいる男よりも何十倍も彼女は知的であり、利巧だった。

 

その聡明さは、彼女の父から仕事の相談を受けるほどである。

 

八重の母親は既に病気で他界しており、彼女と彼女の父の二人暮らし。そんな八重は自分の父の妻のような役割も果たしていた。

積極的に自分の父の相談に乗り、解決策を提示する。彼女の父の軍での立場がいいのも、八重があってこそなのだろう。それ程までに彼女は賢かった。

 

しかし、八重には唯一の欠点がある。

——彼女の口が軽すぎることだ。

 

八重は基本的に警戒心が強い女だが、一度懐に入った人間には全てを許してしまう。恋人だとしても、他国の人間であるはずの僕に、『自分の父から受けた相談内容や、提案した解決策の全て』を教えてしまうほどに。

面白いくらいに簡単に、人が多く行き交う町や道で『日本政府の機密』を大声で言うのだ。

 

(馬鹿な女だ。自分が国を売っているとも知らずに馬鹿みたいにヘラヘラ笑いやがって。それが自分の首を絞めているのにも分かっていないのだろう)

 

内心で八重を嘲笑しながら、カフェで八重と共に談笑する。

何十分か話していた頃、不意に横から驚いたような男の声が聞こえた。声がした方向に視線を送ると、2人の男女のカップルが腕を組みながら僕たちを見ていた。

 

その内の男は『アドルフ・ミュラーである僕にそっくり』である。双子と見間違うほどに僕とそっくりなその男を見て、思わず舌打ちしそうになった。

 

そんなことも知らず、僕にそっくりなその男は嬉しそうな声色で話しかけてくる。

 

「やあ、俺の双子の兄弟、アドルフ! まさか君もここにいるとはな。八重とデートかい?」

「よせよ。顔はそっくりだが、本当の兄弟じゃないんだからさ」

「またまた〜! 苗字まで一緒の『ミュラー』なんだ。もしかしたらご先祖様が同じなのかもしれないぜ?」

「確かにありえるわね」

「ほら、俺の恋人までそう言ってるぜ?」

 

僕とそっくりな顔で、チャラチャラした雰囲気を醸し出す男。信じられないことに潜入先で僕と同じ顔の、しかもカバーの人間と同じ苗字の男がいるとは思わなかった。

 

更に救えないことに、こいつは僕と同じ会社に勤める社員である。あまりの偶然と奇跡に、思わず声を失ったほどだ。勤め先では『ドッベルト・ミュラー(※『ドッペルト』はドイツ語で二重、生き写しという意味)』などという不本意な渾名で呼ばれている。

 

(スパイは目立たないのが一番なのに、まさか目立つ羽目になるとは)

 

同じ顔があるのは仕方がない。本当に仕方がなく、同じ顔の彼を使い、アリバイ工作に役立てている。最初はどうなるかと思ったが、これが存外上手く行った。諜報活動をする際に憲兵を騙したり、欺いたりしたときに偶に利用したものだ。

 

(どんなに使えないものでも、使えるようにするのが真のスパイというものだからな!)

 

僕と同じ顔の男——僕は内心でドッペルゲンガーと呼んでいる男は、「おっと、ごめん。俺もデートなんだ。八重とルドルフを邪魔するのも悪いし、これで失礼するよ」と言いながら、隣にいる女性に声をかける。

女性は八重と僕に「邪魔してごめんなさい。また職場で会いましょう」と言って、ドッペルゲンガーと共に去っていった。

 

(確か、あの女性も僕らと同じ職場で、事務員をしているんだったかな。八重の同僚だった筈だ)

 

日本人女性にしては珍しい、八重と同じくらいの身長だったから覚えている。八重とは別学校だが、女学校を卒業していたと思う。だが、彼女はそこまで優秀ではなく、普通の人だった筈だ。

 

そう考えて、2人のカップルの存在を頭から消去した。




pixivでは一括投稿ですが、多いので分けます。


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其の五: 「幻影(下篇)」

偽りの恋人、八重とデートを楽しみ、夕方あたりで彼女と別れた。八重は陸軍大佐の一人娘であるがゆえに、門限がかなり厳しいからだ。

八重との別れを惜しむようなフリをして、その後、僕は夜の東京を颯爽と歩き始めた。闇を纏いながら、ひっそりと街へ溶け込んで行く。

 

(さて、次は馬鹿なご子息殿と会いに行かなくては)

 

夜の東京にある繁華街を通り抜ける。いかがわしい雰囲気の店や、闇にぼんやり浮かび上がる居酒屋を尻目に、ゴロツキ共や仕事に疲れたサラリーマンなどが騒ぎ立てる飲み屋の一つに入った。そして出入り口付近に座っている青年のテーブルに腰掛ける。

 

そのテーブルに座っているのは眼鏡を掛け、書生姿の、いかにも真面目そうな青年。しかし、テーブルの上にある沢山の酒の存在により、真面目な印象がぶち壊されていた。

 

「遅いですよぅ、アドルフさぁああん」

 

この、完全に出来上がっている青年は、先程僕が『馬鹿なご子息』と称した人間である。今日、僕はこいつに会うため、ここにやって来た。

出来れば会いたくなかったが。酒くせぇ。だが、これも仕事のうちだ。耐えろ、アドルフ・ミュラー。そう念じながら青年に苦笑いしてみせる。

 

この青年は陸軍少将の次男坊で、現在は帝国大学に通っている学生だ。本来なら、将来は父親や兄のように軍に入ることを望まれていたようだが……本人自身は超がつくほどの落ちこぼれ。兄と比べられたくないが故に、ギリギリの成績で大学に行ったようだ。

何かと優秀な兄と比べられ、凄まじい劣等感を感じた彼は、度々こうして酒を呷る。

 

(そして、父親と兄の愚痴を零すついでに、彼らへの憂さ晴らしで得意げに『機密』を言ってくれる)

 

本人はこんな凄い機密を知ってるんだぞ! といったように、酒を飲みながら自慢するのだ。しかし、変に彼が真面目ゆえに、それがいけないことだとも理解しているようで、毎回、「父や兄に言わないでくださいね、アドルフさん!」と念を押してくる。

 

スパイとしては扱いやす過ぎる馬鹿だ。だから、僕はこいつを内心で『馬鹿息子』と呼んでいる。中々のネーミングセンスではないだろうか。

 

僕は心配そうな顔を作りながらも、テーブルの上の酒を自分のグラスに注ぐ。グイッとそれを飲むと、馬鹿息子がヘラヘラ笑いつつ、「いい飲みっぷりですねえ」と言って来た。馬鹿だなあ、こいつ。一周回って、色々と温かい目で見てしまう。

 

(今日は嫌に機嫌がいいな?)

 

いつもならワンワン泣きながら叫んだり、怒ったりと忙しいのに。泣きすぎて鼻水を僕のスーツの袖につけてきた時もあったぐらいだ。あの際は流石にこいつの後頭部をぶん殴った。

 

僕が不思議そうな顔をして見せると、馬鹿息子はベロンベロンに酔いながらこんなことを言い出す。

 

「昨日、親父がD機関とかいう奴らに出し抜かれたみたいで、すっごい怒ってるんですよ〜! あの親父が虚仮にされたとか本当に面白くって!」

「へえ、それはいいな。……ちなみに、D機関って? 聞いたことないなあ…」

「ん〜なんだったかな? 軍にできた諜報機関らしいっすよ。『スパイなどという卑劣な輩に先を越された』とか言ってましたし」

「スパイ…? 日本にもあるんだね」

「俺も聞いた時はびっくりしました。

しかも聞いてくださいよ! 親父が騙された相手ってのは、D機関の女装が得意な奴らしくって!」

「じょ、女装かい?」

「親父がその女装スパイにメロメロになっちゃって、痛い目にあったみたいっす。爆笑もんですよね〜! は〜いい気味!」

 

大爆笑しながら、ガブガブと酒を呷る馬鹿息子。僕も同じように笑いつつも、内心では『D機関』について考えていた。

 

先程も言ったと思うが、D機関を設立したのは結城という男らしい。僕はその男をあの魔術師だと確信している。どれだけ優秀なスパイがD機関について調べようとも、D機関の『D』とは何なのかすら分からない。あの魔術師以外に、そんな芸当ができる奴はそうそう日本にはいないだろう。

 

そんな中、『女装が得意なスパイがいる』という情報を手に入れることができたのは幸運だ。

 

女装が得意、というだけである程度そのスパイ像が作れる。女装が出来る男は大体限られてくるからだ。小柄で、身長が低く、女顔または童顔の男性。間違っても筋肉がつき過ぎているものや、身長が高いものが女装はないだろう。

というかそんな女装スパイがいたら、まず僕が吹き出す自信がある。

 

(だが、あの魔術師が少しの情報ですら流すか…?)

 

ただ単に馬鹿息子の親が機密を漏らす馬鹿で、僕に回ってくる『偶然』が起きたのか。それとも、魔術師の罠なのか。

 

…ああ、駄目だ。あの男のことになると変に疑い深くなる。もしもこの情報をあえて魔術師が流しているのだとしたら、ここにいる僕はただの道化だ。

 

(女装。女装、スパイか…)

 

魔術師があえて女装スパイの情報を流しているとすれば、女装スパイが僕の周りにいるのかもしれない。

僕ら白人からすれば低いが、日本人男性の平均身長である160cmくらい、またはそれよりも低い者。それでいて、男らしさを示す喉仏や、手の大きさを隠せる服装をしている女性———…あ。

 

(いるじゃないか。全てに当てはまる女性が!)

 

やはり魔術師は僕に気がついていた。流石は僕の敬愛すべき化け物。そうでなくては困る!

もちろん、気がつかれないのが一番だが、気がつかれたなら気がつかれたで、やりようはあるのだ。先手を打つ———それが今、僕がすべきこと。

 

僕は馬鹿息子に、「明日用事あるのを忘れていたよ。遅刻しない為にも早めに帰るね」と言って店を後にした。にやりと笑みを浮かべながら。

 

♂♀

 

次の日にすぐ、僕は行動を起こした。いつもの如くアドルフ・ミュラーとして会社に出社し、働く。そして僕とあの女だけが残業で会社に残れるよう、手回しした。会社の外にはいつでもあの女が捕らえられるように人員を配置している。

 

僕はいたって普通に、あの女——————桜木八重に話しかけた。

 

八重も『いつも』みたいに笑いながら、「アドルフと2人っきりで残業なんて初めてね」と疲れ半分、嬉しさ半分の声色で話し出す。こうして見ると、普通の女にしか見えない。動作も、話し方も、声も、纏う雰囲気さえも、全てが一般の女性だった。

 

流石はあの魔術師が手がけたスパイ。演技も一流だ。更にはこんなに近くにいるのにも関わらず、今でさえ全然男とは思えない。全く…してやられたよ!

 

僕はいつもの笑みは浮かべず、形だけの冷たい笑みを浮かべる。八重はそれを見て、「アドルフ…?」と少し戸惑ったような顔をした。そんな彼女の様子に少々優越感を抱きながら口を開く。

 

「もう演技をしなくていい。君はスパイなんだろう? そうやって首にいつもスカーフを巻き、手袋をしているのが証拠さ。それに君は日本人男性の平均身長だしね」

「な、何を言っているの…? わ、私がスカーフや手袋をしているのは…その…火傷が酷いから…」

「往生際が悪いなあ」

「本当にアドルフ、今日はどうしたの? 怖い…」

 

怯える演技をする八重に、カツカツと靴を鳴らしながら近く。彼女の一挙一動に目を逸らさず、どんな攻撃が来ても対応できるように細心の注意を払った。八重のギリギリ前に来た瞬間、僕は笑う。ようやくこの時が来たのだ!

 

中々ボロを出さない八重に、決定的な証拠を掴むため、僕は八重の首元まであるブラウスを思いっきり引っ張ってみせる。袋を開けるかのように左右に引っ張ると、パンッとボタンが弾け飛んだ。

 

そこには偽乳か何かが———

 

「ない…? 普通に胸がある…」

 

首にまで広がる大火傷と、普通に女性の胸と下着があった。唖然と僕はそれを見つめる。

八重は顔を真っ青にさせ、ぶるぶると震えながら床に座り込んだ。「どうして…」と呟きながらポロポロと涙を流す八重に対して、何もフォローが出来ないくらいに僕は頭が真っ白になっていた。

 

どうして、何故。彼女がスパイではないのか? では、彼女がスパイではないのならば、一体誰が? それとも僕はまだ気がつかれておらず、僕の早とちりだったのか?

 

一瞬の間にあらゆる疑問が脳裏によぎった瞬間、一斉に扉からドタドタと憲兵が入って来た。僕が息をつく暇もなく、バッと数人の憲兵が僕を捕らえる。なっ…?!

 

憲兵?! どうして憲兵が?! 八重は悲鳴をあげていないから、ただ単に婦女子への暴行の阻止の為に来たわけじゃない。ならば——…

 

 

「アドルフ・ミュラー! 貴様にスパイ容疑及び婦女子への暴行の疑い、いや、現行犯として逮捕する。来てもらおうか」

 

——僕を、スパイとして捕まえる為だ。

 

♂♀

 

 

(何故だ。どこで失敗した? 一体誰がスパイだった?)

 

椅子に座らされ、両手を拘束された。身体を痛めつけられながら尋問される中、僕が考えるのは『一体誰スパイだったのか』、この一点のみである。痛みで思考が上手く働かないが、それだけがぐるぐると脳内で回っていた。

 

憲兵がこうしてやって来たということは、とうの昔からあの魔術師にやはりバレていたのだ。完璧に闇に紛れていた自信があったのに。それなのにも関わらず、あの魔術師は僕に勘付いた。

 

恐らく、あの馬鹿息子からの情報も魔術師によるものなのだろう。スパイ容疑だけで僕を捕まえる為にはまだ理由が少なすぎたのだ。スパイ容疑及びに婦女子暴行で僕を確実に捕まえる為に。だからこそ八重を僕が襲う瞬間を待っていた。

 

——魔術師という幻想に囚われるあまりに、僕が冷静な判断が下せなくなる、その瞬間を!

 

そして見事、あの魔術師は騙してみせた。多分、女装スパイというのも嘘の情報なのだろう。もしかしたらスパイすらもいなかったのかもしれない。全ては魔術師という、僕がスパイになったきっかけでもある化け物に僕が『囚われた』から。

あまりの失態に暴れ出したい気分になる。

 

(くやしい、くやしい、悔しい!! してやられた! やはり、僕はあの魔術師には敵わなかったんだ!)

 

そう思い、ギリギリと歯を鳴らしながら顔を伏せていると、不意に1人の憲兵が僕の横へ、立った。スッと気配さえ感じさせないまま、憲兵が顔を僕の耳元に近づけ、口を開く。

 

「A secret makes a woman woman.」

 

女は秘密を着飾って美しくなるのよ————。

 

その声を聞いた瞬間、僕はカッと目を見開いた。あまりに目を見開きすぎて、瞳孔が開く。動揺でワナワナと唇が不規則に震え、スゥ…と心が冷えて行くのが分かる。

驚愕、仰天、喫驚、ありとあらゆる驚きを詰め込んでも足りないくらいに驚いた。

 

違う、女装スパイはいたのだ。

この声は——…!

 

(僕の顔にそっくりな男の、恋人——!)

 

僕がドッペルゲンガーと称する男の恋人の声だった。確かにあの女は身長は160cmを少し越えるくらいあったはずだ。だが、完全にノーマークだった。疑うことすらしていなかった。この、僕が、疑ってさえいなかった! 取るに足りない人物だと切り捨てた相手が…スパイだった…!

 

(してやられた…!!!)

 

思わずバッとその憲兵の顔を、目を鋭くさせながら見る。そして僕は再び目を真ん丸くさせた。はっと息を飲む。

何故、何故、こいつがここにいる。どうしてこいつが、ドッペルゲンガーの恋人の声を出したんだ…!

唖然とした様子で横にいた憲兵、いや…

 

——僕が馬鹿息子と称した、陸軍少将のご子息を見た。

 

僕は最初から『道化』だったのだ…。

この憲兵は『ドッペルゲンガーの恋人』と『馬鹿息子』の2人に成り代わっていた。馬鹿息子として僕に情報を流し続け、ドッペルゲンガーの恋人として僕の動向を影から見守っていたのだ。

僕に疑われないように気をつけながら、ずっと監視していたのだろう。馬鹿息子とドッペルゲンガーの恋人からはスパイの雰囲気なんぞ全く感じなかった…。その事実に愕然とする。

 

(この僕が! この優秀な僕が気がつかなかったのだ!)

 

信じられない気持ちで憲兵を見ると、彼は笑った。『笑って』みせたのだ。その笑みが数十年前の魔術師の笑みと被る。真っ暗な闇に生きる、妖艶なスパイの笑みだ。数十年前の魔術師の幻想が、形を持って、今この場に実体として現れた。ああ、やはり————…。

 

この憲兵は魔術師の分身なのだろう。あの魔術師が手がけた、新しい化け物。

 

(やはり、人間は化け物には敵わないのか…)

 

僕はそれを目に焼き付けるように見た後、ゆっくり瞼を閉じた。

 

♂♀

 

 

「——報告しろ」

「アドルフ・ミュラーはスパイ容疑が晴れた後、解放されました。現在は桜木八重とよりを戻し、結婚への段取りを進めているようです」

「フィルムは?」

「憲兵として彼を捕らえた時、回収いたしました。こちらです」

「ご苦労」

 

私、藤原は『馬鹿息子』としての格好で公園のベンチに座りながら新聞を広げている。特殊な方法で後ろに座る結城中佐に情報の入ったマイクロフィルムを渡した後、一息ついた。内心、ガクガクと震えながら。

 

(やっぱり失敗を叱られるかな?!)

 

本来ならばアドルフ・ミュラーに情報を提供する『馬鹿息子』役と、アドルフ・ミュラーの『恋人』役としてスパイ活動をするつもりだったのだ。

だが、潜入先にまさかのアドルフ・ミュラーと同じ顔で苗字まで一緒のやつがいた。それにより私は間違えてアドルフ・ミュラーではなく、同じ顔の一般人の恋人になってしまったのだ!

 

それに気がついた瞬間、思わず転げ回った。のたうち回るレベルで転げ回った。

うわああああ間違えたああああ!! めちゃくちゃ的を間違えたたあああああ!! どーすんのこれ?! どーすんのこれ?! アドルフ・ミュラーと同じ顔の一般人の恋人になる意味ねぇよ! だってあの2人、中々一緒にいないもん! どーすんのこれ?!

 

めちゃくちゃ焦った。凄まじく焦った。毛穴という毛穴から汗が吹き出るレベルで焦った。「女装スパイとかマジでいや〜」とか言っている場合じゃねえ。結城中佐に殺される。物理的な意味ではなく、社会的な意味で殺される。マジでやばい。本気でやばい。

 

仕方がなく、私はアドルフ・ミュラーと同じ顔の——言いにくいから、『ドッペルゲンガー』にする——ドッペルゲンガーとアドルフ・ミュラーの交流が増えるように努力した。更にはアドルフ・ミュラーの恋人の八重ちゃんと仲良くなり、デート場所を把握したり、行動パターンを分析したりした。

 

めちゃくちゃ頑張った。人生で一番頑張った。ちょっと本気でやばかった。

なんとか最終的には最初のシナリオ通りにアドルフ・ミュラーの身柄確保及びマイクロフィルムの回収に成功したのだ。

 

(はー…疲れた…。ん…? そう言えば何で中佐はアドルフ・ミュラーを解放したんだろ。あの人、バリバリのスパイらしいから本国に帰られたらヤバくね?)

 

でも、クッッソ聞きづれえ。もしかしたら他のD機関員にとっては直ぐに分かることかもしれないし。もしも直ぐに分かることならば、『私、終了のお知らせ』である。何でお前、このくらい分からないの? みたいな。藤原知ってる知ってる。また地獄の訓練の再開になるやもしれん。絶対にヤダ。

 

私がモヤモヤしていると、後ろにいた結城中佐が急にフッと笑い出した。

何事?! 結城中佐が笑うとか本当に何事?! 怖すぎ! 私がマジでビビっていると、結城中佐が話し出した。

 

「何故、アドルフ・ミュラーを逃したか、そう思っているな?」

「アッハイ」

「あの男はなんだかんだでプライドが高い。一度任務に失敗すれば、祖国に帰らないだろう」

(えっ、何でアドルフ・ミュラーのこと、こんな詳しく知ってんの?)

「それと————あの時の借りを返すためだ。菓子のな」

 

え? ……借り? 何のことだよ!!

 

訳が分からなすぎで全力で混乱した。わけわかめすぎ。結城中佐、だから分かりませんって。私は優秀じゃないんです。他のD機関員の奴らと一緒にしないでくれるかな?! つーか、菓子って何の隠語?! 全く分からん!

 

あまりの意味不明さに困惑しきっていると、結城中佐が再び口を開いた。あ、やべえ、怒られるかな?! 私が間違えたこと!

 

「数日以内に全てのことを終わらせろ。次は海外だ」

「了解」

 

結城中佐はゆっくりと立ち上がって……って、待って?! 待って?! 海外って?! まさかの次の任務? 怒られなかったのは良かったけど、次の任務とか遠慮したい…。もしやそれが罰とか? やっっっべえ。やめて欲しい。

 

そう思いながら私は新聞を読み続けた。




ストックが切れたので、次がいつになるか分かりません…


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其の六: 「一般人のロビンソン」

Q. わたくし、藤原は今何処にいるでしょうか?

A. イギリスのロンドンです。

 

カーーーーッ!! 行きたくないトップ10の国の一つに来ちゃったーーー!!

この時代のヨーロッパって、人種差別なんのそのな世界だよ? もっと悪くいうならば人種差別をしてる自覚もなく、人種による区別を素でしてるような奴らだぞ? 白人至上主義が露骨に出ている時代だぞ? マジで来たくなかった。余談だが、行きたくない国ナンバー1は米国である。

 

いや、普通にヨーロッパとか米国は好きだよ? ヨーロッパの歴史ある街並みとか、素晴らしい技術とかは素直に尊敬できるよね。

それと、イタリアやフランスの料理は神だと思う。この時代でヨーロッパに行けるなんて、相当な金持ちだけだからな〜イタリアやフランス料理を食べることができて感激である。

 

でもな、今の時代はアジア人にとってはアウトー! である。露骨に見下して来やがるんだけど…。やめて…。

私、めちゃくちゃいい日本人だかr…いや、全然いい日本人じゃなかった。私、スパイだったな。駄目だわ。全然駄目だわ。普通にその国を陥れる為に奮闘するスパイだったわ。ごめん嘘ついた。君達にとって私は害虫そのものだよね。これだからスパイは嫌なんだよ! 罪悪感ががががががが。

 

それとな〜差別な〜〜…まあ、21世紀でも表面上では差別してこなくても、内心では差別しまくってくるやつもいたけどさァ…。今の時代、有色人種は人権がないのが辛いよね。この時の白人にとっては黄色人種も黒人と一緒一緒! 確かに人種差別をしない、いい人もいるのも確かだけどね。人数が少ないだけで。

 

(って、今は差別について考えてる暇じゃねーな)

 

実は今、私は結城中佐の指示によりロンドン市内の路上に車を停め、待機中である。運転席に座りながら、ハァーーッと溜息を吐いた。

 

今回の任務はズバリ、パシリである。

 

今回、というか最近パシリが多い気がする。この前なんか大陸…中国の方にパシらされたからね。

田崎が主役の回の『アジア・エクスプレス』あったじゃん?その回で田崎はロシア人、二人を拘束。彼らをD機関員達に引き渡すため、汽車よりも早く手紙を届けることが出来る鳩を用意。そしてD機関員達が待つ大連に、伝書鳩をバサァッってカッコよく放つ、田崎が『鳩のおじさん』と印象付けられた、あの回だ。

 

あの伝書鳩を受け取ったの私だからな。田崎が捕まえた2人のロシア人の身柄確保したのも私だからな。

色々と手配したり、雑用したりで辛かった…。パシリつらい。普通の軽いパシリとは違い、ある意味命懸けのパシリだから。まあ、他の諜報活動よりもマシだけど…。

 

あ、スパイ活動しなくていいんだから、雑用ばっかりで私が喜んでると思ってる?

 

(雑用だけなら喜んださ!)

 

雑用+スパイの仕事だからね? スパイの仕事に雑用が加算されるだけだからね? 仕事の合間に雑用も処理しなきゃいけない辛さな。スパイ活動だけで神経すり減らすのに、休む間も無く雑用とか泣きそう。労働基準法が来い!!

 

(しかも奴らときたら感謝の一言もないからな! 『できて当然だろ、このくらい?』みたいな顔をするなこの野郎!! 私は超必死の努力+前世の記憶で、仕事がなんとか出来ているのに!!)

 

本当にどうにかならないのか。あの無駄なD機関限定の謎の信頼。

前にも言ったと思うが、D機関員達は他の一般人のことを信頼していない。他人が自分よりも劣っていると知っているので、期待すらしないのだ。

だが、D機関員の仲間同士ではこれが適応されない。自分と同じ『化け物』だからこそ、絶対にD機関員なら完璧に任務をこなしてくれると確信しているからだ。信頼ではなく、確信である。タチが悪すぎ。

 

(そんな確信いらねえ。スパイやめてえ。つーか今、私はイタリアの諜報活動が終わって晴れ晴れしていたのに、何でイギリスに行かされるんだよ!)

 

イタリアで必死の諜報活動が終了し、「ようやく帰国できる!」と内心で咽び泣いていた時に、まさかの「神永を回収してこい」と言われたのだ。解せぬ。

イタリアからイギリスまで遠いんだけど?! 一般用の飛行機とかが流通していない時代だから、行くだけで無駄に時間がかかるんだよね! ぶっちゃけやめて欲しい!!

 

後さァ…神永が主人公の回の『ロンビンソン』あったじゃん? 多分、神永が逃亡した際に使った車の運転手モブ役————今の私である。それに気がついた瞬間、思わず壁ドンならぬハンドルドンをした。なんでだよ!

 

本当に待って?? 何で地味に私は他のD機関員の話に出てきたモブ役をしているの? しかも微妙に危険な位置にいるからね。神永がミスって私のことを教えたら、今度は私が危ないからね。

 

まあ、あいつのことだから失敗はしないだろう。ドライビングテクニックはそれなりに自信があるんで、追っ手から逃げ切れると思うけd………………待って、待って。なんか私も無駄な自負心を抱いている。「運転なら誰にも負けないぜー!」みたいなこと考えていたんだけど。え? えっ……?? 待って、待って?!

 

(やっっっっべえ。毒されてる。D機関に毒されてる! 私なんかが自負心を持ったら、慢心で隙をつかれて死にそう! やめろやめろやめろ、私は凡人。いいね?)

 

ふっふぅーーッ!! と息を吐きながら、車のハンドルに頭をぐりぐりと押し付ける。自分の癖毛の黒髪が余計ぐしゃぐしゃになるけど、気にすることはねえ。

 

他人のフリをしたくなるような奇行だと分かってます! でもな、偶に奇行しなくちゃあスパイなんかやってらんねえ! スパイって、めちゃくちゃストレスが溜まるからな?! 一歩間違えば自国を破滅へと導くかも知れねえからな?! 表に出ないだけで、国の命運を握ってるからな?! 責任が重過ぎてやってらんねえ。

 

(私は小心者なんだよ! だから地味に未来の知識があっても中佐に言ったり、未来を変えてやるとか意気込んだりしないの! くっそ…21世紀カムバック!!)

 

そう思いながら遠い目をしていると、車の窓ガラスをトントンと叩かれた。

 

ようやく来たか…。今度こそ神永だよね? さっき、スコットランドヤードにコンコンされてちょっとビビったから。ただ単に「この場所に停車されると邪魔だから、向こうに行け」だったけど。マジで焦った。

 

「火を貸してくれませんか」

「私の靴は黒い」

 

私達はアニメ通りにカッコいい合言葉を窓越しに交わす。

こう言う合言葉いいよね。前世の厨二時代に友人たちとのスパイごっこで、合言葉を作ったりしてよく遊んだなあ。大学ぐらいになると複雑化し過ぎて、「わけがわからないよ」状態になってたけど。

 

私がそう考えている間に、最後に見た時よりも疲れた感じの神永が助手席にサッと座ったうっわ…隈できてんじゃん…。あの神永が…。

ちょっとあり得ない気持ちで神永を見る。

D機関員の中でも神永は自白剤訓練が得意だったから、こういった神永の姿はあまり見たことがなかった。というか、私の方が自白剤でウェッウェッ状態だったから、神永を気にしていなかった、いや、暇がなかったのもあるが。

 

(めちゃくちゃしんどかったな…。自白剤訓練…)

 

神永のことで印象に残っているのは、自白剤訓練の時に私が1人女言葉で、「ケーキ食べたいケーキ食べたいケーキ食べたい」と発狂していた時である。余談だが、私の好物はケーキだ。女々しい? 前世が女だから仕方がないだろ?!

 

そんな中、自白剤訓練が得意な神永がそれを聞き、クッソ爆笑していたな…。神永からのあだ名が一時期、『ケーキちゃん』になったけ…そういえば…。なんか腹立ってきた…。

 

当時のことを思い出して、若干しょっぱい気持ちになりつつ、神永に同情した。相当キツかったんだろうな…自分がやる羽目にならなくてよかった…。

 

(私が捕まっていたら、途中で絶対パニックになってる…)

 

内心でそんなことを思いながら、彼が助手席に座ったことを確認すると、私は直ぐさま車を発進させる。神永は両腕を頭の後ろで組みつつ、ふう〜吐息を吐いていた。

 

あー…確かこのシーン、結城中佐の思惑で捕まり、酷い目にあったはずなのに、「次はどこに行くのかな〜」とかいうマジキチなこと考えているシーンだわ。あり得ない。

一回イギリスのスパイマスターに捕まって、尋問を受けたんだよ? ハラハラドッキドキなことをしたんだよ? 一歩間違えれば死んでたんだよ?

 

ねーわ。その落ち着き様はねーわ。リスクがある〜から〜高鳴る鼓動を感じる〜なの? そうなの? もう本当にスパイ辞めたい…。色々な意味で人外なこいつらといると、自信をなくす上に自分がスパイとしてやっていけるか不安になる…。

 

心の中で私がゲンナリしていると、神永が不意に口を開く。

 

「なんだ。貴様か」

「『なんだ』とはなんだ。失礼な奴だな。私が迎えに来てやったんだ。素直に感謝しろ」

「えー…かわいい女の子に迎えに来て欲しかった」

「車から突き落とすぞ。……フッ、それなら私が女装して迎えに来てやった方が良かったかもな? 神永さァん♡」

「野郎の女装なんて真っ平ごめんだね。猫撫で声やめてくれるか? 俺は普通の女の子がいいの!」

 

ぽんぽんと嫌味の応酬が続く。神永が肩を竦めるのを見ながら、私も同じく肩を竦めた。

 

本当なら「貴様〜」とか言ったり、こんな嫌味の応酬をしたりなんて、やりたくもないんだけどさァ…。D機関ではこういう風に振る舞わないと、「お前バカなの? 死ぬの?」みたいな感じで徹底的に叩き潰されるんだよね。

前にこういった嫌味を何回か言われて無視を決め込んでいたら、イカサマの授業で私以外の全員が敵に回ったり、体術の授業でボコボコにされたりしたからな…。

 

多分、私のメンタルが弱いから重点的に結城中佐によって鍛えられたんだと思う。周りのD機関員達に協力させて。

それくらいの嫌味を言われたら言い返せ! 黙りは流せているようで流せてねえぜ! みたいな感じなんだろうね…。

 

(メンタルが一番鍛えなきゃいけない部分だとは分かるけど! 集中砲火はやめて欲しかったな!)

 

メンタルが弱くてすみませんでした!

 

もっと優しく鍛えて欲しかったな! ………いや、結城中佐に優しくされるとか鳥肌以外何ものでもねーな…。

寧ろビビり過ぎて、「もっと鍛えてくれません?!」 とか結城中佐に言いそうだわ…。結城中佐に洗脳され過ぎてやばい…自分キモすぎ…。

 

そんな動揺を隠すように、私は神永を見ながらハッと鼻で笑ってみせる。正直誰かを馬鹿にする仕草なんてしたくないけど! 仕方がないから!

 

「それにしてもまぁ、随分と男前になったものだな? 草臥れ加減が実に笑いを…おっと、男前にしているぞ」

「嫌味かコラ。貴様こそ豚のように丸くなりやがって」

「仕方がないだろう。文句ならあの人に言え」

「こっちの台詞だ」

 

そーなんだよねー…イタリアでの諜報活動で、演じるのが優しげな商人だったから、敢えて少し太ったんだよね。というか、結城中佐によって太らされた、が正しいかな。日本にいる間、ずっとカロリー管理され、ひたすら甘いものや倍の量を食わせられた…。

 

一見、沢山食べることが出来て幸せそうに見えるけど…ただの拷問だったな…。

お腹がいっぱいでウェッウェッ状態の際、中佐が無慈悲に私の口の中へカステラを詰めた時は死ぬかと思ったわ。「食え。太ることが貴様の仕事だ」とラスボスが如く恐ろしい表情でフォークを私に向けて来やがったからなあの人。結城中佐マジ魔王。

 

それを見ていた実井が横から更にカステラを積み上げていくしさ…。「頑張ってくださいね」じゃねーよ。もうなんなの…。つーかカステラ以外をくれよ! クッキーとかもあるだろ?! 何でカステラオンリー?! このせいでカステラが苦手になったんだけど?!

前世が女性だった名残りなのか、今世が小柄な男性なのが理由なのかは分からないけど、少食の私にとっては地獄だった…。

 

(今の時代は高価なカステラを味わえず、詰められるとかないわ〜…)

 

まさかのダイエットではなく、デブ活をしていた人なんてあまりいないと思う。ダイエットよりもある意味で辛かった。正直、当分は甘いものを食べたくないし、ハイカロリーのもの摂取したくないし、そもそも太りたくない。太ったら、脂肪が邪魔で逃げにくくなるんだよね! はー…もう嫌だ…。

 

あの時のことを思い出して、少し眉をひそめる。すると、神永が不意にこちらに言葉を投げかけて来た。まるで世間話をするような軽さで。

 

「右だ」

「は?」

 

何言ってんのコイツ。

 

そう思う前に反射で右にハンドルを切った。急に方向転換した為、キキキーと音を鳴らしながらカーブを曲がる。

自分でも惚れ惚れするような運転捌きである。前世で運転をかなり練習した甲斐があった。めちゃくちゃクラクション鳴らされたけど。すみませんロンドン市民達よ。

てかさァ…中佐やD機関の奴らに命令されると咄嗟に身体が動く癖やめたい。いや、でも反射で動かないと死ぬ時もあるし?!

 

(じゃねーよ! 何で神永は私に指示したの?! 今から船に向かう為に運転してたのに!)

 

神永を連れて船に乗り、2人で日本へと帰還する予定である。その為に最短距離で船乗り場まで運転していたのだが……えっ?? 何で今指示された?? 最短距離から外れましたよ神永さん?? こっちだと遠回りですよ…?

余談だが、道は完璧に覚えている。というか死ぬ気で覚えた。何かあった時に全力で逃げないといけないからね! 逃亡に関しては一流の自負があるよ! ヘタレですみませんでしたァ!

 

(でも聞けねえ!!)

 

「えっ貴様これくらい分からないの?」になるから聞けねえ! 聞かぬは一生の恥と言うけど、私の場合は聞けば即死である。「その程度の人間にスパイ活動を任せられるか! ウラッ前線行ってこーい!」になるからね! 何やねんこの辛すぎる世の中は! 平和な世の中カムバック! 憲法第9条が恋しい!

 

泣きそうになりながらバックミラーをチラッと見ると、不意に気がついた。

 

(あれ? さっきからずっと同じ車が後ろにいるな…)

 

バックミラーには私が車を発進させてから後ろに居続ける車が映る。どんな奴が運転しているかまでは分からないが、体型やスーツからして同一人物だろう。一瞬でバックミラーに映る人物を記憶してしまう自分の人外っぷりにちょっと塩っぱい気持ちになる。出来なきゃ死ぬからな…。

 

あんな激しくカーブを曲がったり、方向転換したりしているのに後ろにずっといるとか可笑しすぎるだろ。完全につけられてるじゃねーか! 神永が無駄に指示してきたのはこのせいか! 私がこの辺りの地理を覚えているとはいえ、神永の方が長い間ここにいるから最適な道を指示してくれているのだろう。

 

(えっ、つーかあの車の奴らもしかしてイギリス軍? 神永が連れてきやがったの?!)

 

追いつくの早くね?! イギリス軍パネエな?! 流石は世界有数の諜報機関を持つだけあるわ……ん? 待って??ってことは私、今からイギリス諜報機関員とカーチェイスを繰り広げないといけない羽目に…? あのイギリス諜報機関員だぞ? 化け物でくそ優秀な神永が一度でも「ここまでか…」と考えたくらいの相手だぞ? それを私が対処する…?

 

…。

……。

…………。

 

(うわあああああああァアアアアアァアアアアアァアアアアア?! あいやァアアアアアァアアアアアアバババババハばぼばばばば)

 

内心で発狂した。

 

いや、死ぬよ?! 普通に死ぬよ?! イギリス諜報機関なめんなよ?! 私より遥かに優秀な奴らがいるからな?! 偶にスパイの癖にめちゃくちゃ有名になる奴もいるけど! 基本的にくそ優秀だぞ?! あれとカーチェイス繰り広げんの?! は?! 土地勘とか確実にあっちに軍配があがるじゃねーか!

 

そんな私の内心などいざ知らず、神永が超余裕そうな体勢で私に命令を下す。

 

「左」

「ウッス」

 

もういいや。言われるがままにやろ…。

 

分からないことは天才に任しておけ…そう思いながら私は颯爽と車を動かす。器用に車と車の間を縫って進み、スピードを落とさないまま左に曲がる。

 

自分の運転技術に内心ドヤ顔だ。表情には出さないけど。

唯一の得意なのが運転と女装だからね! 仕方がないね! これくらいしかD機関の中で一番になれなかったんだ…。それ故にD機関ではよく足にされる。あれ? パシリかな? …やめよ、足にされる件について考えるのは…なんか虚しくなる…。

 

「お前に女装以外で得意なことあるの…?」みたいなこと思うだろうけど、これもそれも前世のお陰だ。前世でスパイごっこしてた仲間に、運転技術の向上と称して車で追いかけ回されたことがある。友人が「お前に追いついたら、お前の車にぶつかるから」と脅しをかけられて、毎日毎日追いかけられたのだ。

 

当時大学生の私と友人(家が隣)は電車ではなく、車で大学に通っていた。それに飽きた友人はつまらない通学時間を有効活用したかったのだろう。ノリノリで追いかけ回してきやがったあの女。

 

あの時は死ぬ方と思ったわ…車が廃車になるかもしれない的な意味で…。連日、「交通規制はどうなってんだー!! 警察の方はいらっしゃいませんかー!」と叫びながら通学していた日々よ…。電車通学にしようとも自分の家が駅から遠い場所にあるから電車通学がしにくいという悲しみ。バスで駅にいく案もあったが、本数が少なくて断念した。

 

故に車を壊される恐怖に怯えながら逃げ続ける羽目に。最終的に私はアクション映画も真っ青なドライビングテクニックを手に入れることができたのだ。本気でいらねえと思った。

一般人として生きるのにはいらなすぎる技術である。どこの一般人がカーレーサーみたいな運転できるわけ? できねーよ。

 

(このドライビングテクニックを活かせる時がくるとはな…。できれば活かしたくなかったけど)

 

D機関の運転訓練で調子に乗って、馬鹿みたいなドライビングテクニックを披露した私。この時初めて前世の友人に感謝した。

最初は皆に驚かれて気分が良かったな〜。他の講義で私はほぼ最下位だったから…。でも、そんな調子に乗っている私を中佐が許すはずもない。途中から当然のようにその自負心を中佐によってボコボコにサレタナー。

 

中佐にアドバイスをもらった神永が全力で私の車に衝突しやがった時は心臓が止まるかと思ったわ。ドヤ顔の神永が今でも頭に残ってるくらいだ。

その後、ビビりすぎて思いっきりハンドルを切り、横にいた三好の車に激突。三好からは「貴様…ッ」と額に怒りマークを携えて睨まれ、泣くかと思った。あの人怒ると怖いからな。すみませんでした! 全て神永のせいです!

 

お陰様でD機関員の誰かが別の車に乗り、私の後ろに並んで走行されると未だにビクビクする。完全にトラウマになってるじゃねーか! 幾つトラウマを作らせたら気がすむんだ! 自白剤訓練や運転訓練以外にトラウマはまだまだあるぞ! 寒中水泳とかな!

 

(つーかイギリスの奴らまだついてきやがる!)

 

しつこいぞあいつら! 当たり前だけど!

これでも得意なカーチェイス(不本意)で追いつかれたら意味ねえわ! 何の取り柄もなくなるじゃねえか! いや…本当に何の取り柄もなくなる…凹むわ…。

 

仕方がなく私は使いたくない『アレ』をすることにする。失敗したら最悪死ぬからな…。使いたくないんだよ…。

溜息を吐きながら神永に指示する。

 

「神永、私の後ろの窓に座ってくれ」

「アレやるのか?」

「そうだ」

「このロンドンの道は日本とは違う。しかも雨のせいでぬかるんでいる。貴様にできるのか?」

 

馬鹿にしたように神永は笑うが、目が『やってみせろよ。貴様もD機関員だろ?』と言っていた。ギラギラと光る瞳がこの生と死の瀬戸際のゲームを心底楽しんでいるのだと物語っている。辛い。一歩間違えれば死ぬけど、神永にとってはそれさえもどうでもいいのだろう。こいつのことだから、私がもし失敗したとしても自分は助かる算段はしてるだろうけど。

 

死ぬな、殺すな、全てを欺き生き残れ。

それが私達、D機関なのだから。

 

(この化け物が!)

 

これぐらいできなきゃD機関員はやってられない。マジで退職したい…したいが、今はそんな状況じゃない。

私は覚悟を決めて、笑ってみせた。まるでブレイクタイムのコーヒーを飲みに行くような軽さで笑う。そう、これはただの休憩の合間に行う、なんてないことの動作。ただの日常。

 

「私を誰だと思っている?

 

————D機関の藤原だ」

 

大胆不敵。

誰にも悟られないスパイであり、誰にも殺せず、誰にも捕まえる事が出来ない。

魔王、結城中佐が手掛けた化け物の一人。

 

それが私、『藤原』なのだ。

 

それを聞いた神永がニヤリと笑う。口角を吊り上げ、目を輝かせながら笑っていた。まるでおもちゃを前にしたガキのような笑みである。

その後、神永は「はいはい任せましたよ」と言いつつ後部座席に移動し、運転座席側の窓の縁を椅子代わりに、身を乗り出して座った。上半身全てが外で、下半身だけが車内という危険すぎる体勢だ。絶対にやりたくない体勢である。

 

「行くぞ」

 

私達を追いかけている奴らが驚いたような仕草をしているのをバックミラーで確認しつつ、私はギアを変えてアクセルをぐんっと踏む。すると運転席とは反対側———先程神永が座っていた助手席側の車体が持ち上がった。

 

つまり今、私は車体を斜めに傾けながら、四輪ではなく二輪のみで車を走らせている。

 

ァアアアアアァアアアアアもう車体を早く元に戻したい! くそ怖い! 間違えればひっくり返り、神永が頭から地面に落ちる! 更に私も横のガラスに顔を叩きつける羽目になる! 死にたくない! さっきカッコ付けたけど、前言撤回したいよう…。

 

ヘタレそうになりながらも、車体が半分浮いている車を動かして本道を外れて進む。ぬかるんだ道路にハンドルが持っていかれそうになるが、必死でそれを押さえつける。そして歩行者くらいしか通れないような、家と家の隙間の小道に車を突っ込んだ。

 

ギギギギギーーーッ!

 

車が両端の壁に擦れて凄まじい音を鳴らす。普通ならばそれで止まるところを絶妙なタイミングでハンドルを切り、ひたすら猛スピードで突っ切った。

 

(負けるな私! 死ぬな私! いっけええええええええ!!)

 

数秒もすると小道から脱出して、ガタンッという音と共に車体が元に戻る。バックミラーをサッと見ると、唖然とした表情でこちらを見るイギリスの諜報機関員たちが目に入った。…ん? なんか見た事がある気が…? まあいいや! すみません逃げます!

 

そうこう考えているうちに大幅に遠回りしたものの船乗り場に到着。ちらっと後ろに座る神永を見ると「あーやれやれ」とボヤいていたので、多分今の運転で大丈夫だったのだと悟る。失敗でもすれば文句たらたら言ってくるだろうしな。

 

神永が私の方を見て、ニヤリと笑ってみせた。腕を頭の後ろで組みながら笑うのは様になっていて腹がたつが、えっなんなの怖いな?! という気持ちにもなる。

 

「貸し一つな。なんか奢れよ」

「…おっ、おう。そうだな」

 

ごめん。何が?

 

私はそのまま適当に頷く。そんな私を見て満足したのか分からないが、神永は車から降りて勝手に後ろにある車の荷台を漁る。それ見ながら私は全力で怯えていた。

D機関のやつらって本当に意味が分からないよ…。怖すぎ…。貸しってなんですか…。普通はこの場、神永に貸し一つじゃないの…? わけわかめ…。

 

そう思いながら天を仰いだ。




お久しぶりです。
神永視点は次回になります。


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其の七: 「藤原という男」

「ようやく日本へ帰国か」

「やっと美味い飯が食えるな」

「あー…イギリスの飯は不味いからな…」

 

船に揺られながら霧が立ち込める海を眺める。湿っぽいイギリス特有の空気と共に磯臭い風が髪を撫でた。遠ざかるイギリスの地を見た後、俺の横にいる藤原へ視線を向ける。

 

藤原は船の手摺りにもたれ掛かりながら、ボーと海を眺めていた。しかし、俺の発言で最近食べたイギリス料理の味を思い出したのか微妙そうな顔をしている。

藤原は食に案外五月蝿いからな。イギリス料理は口に合わなかったのだろう。

俺はそれを見て小さく笑ってみせた。

 

——俺は大日本帝国陸軍内のスパイ養成組織“D機関”にて、『神永』と呼ばれる男である。

 

『神永』と呼ばれる、なんて聞いて違和感を抱く者もいるだろう。当たり前だ。これは俺の本名ではなく、偽名なのだから。

仕事関係で俺の本当の名前を知るのはD機関の元締めたる結城中佐だけだ。つまり、例え今、この場で死のうとも本当の俺として死ぬことはできないということ。

スパイとして、名もなき民間人として、誰にも悟られずに息を引き取るのだ。跡形もなく、ひっそりと。

スパイを自主的に辞めるまで本名を明かすのは禁句。名前も、時には自分の死すらも偽る。

 

スパイとはそういう職業だ。

 

(ま、スパイといっても俺たちは更に危険なNOCなんだけど)

 

スパイは大きく分けて二種類ある。

一つは駐在武官。基本的に彼らは外交儀礼や現地交流などを担う軍人だ。だが、その中でアンダーグラウンドのスパイ活動もしているのが駐在武官である。

 

もう一つがNOCたる俺たちだ。

NOC——Non Official Caver(ノン・オフィシャル・カバー)。

 

駐在武官のような公式な外交身分を持ったスパイではなく一般人の身分を偽装し、敵国などに潜入し、活動するのがNOCである。

駐在武官の場合なら、もしも捕まったとしても公式な外交身分を持つが故に国外退去のみになる場合が多い。

だが、俺たちのようなNOCだと捕まれば死刑の可能性が倍に跳ね上がる。いや、死刑はほぼ免れないだろう。それだけNOCは危険なのだ。

もちろん、駐在武官のスパイ活動も危険なことには変わりはないが。

 

己の個というものが何度も何度も揺らぎそうになるのを抑えながら、目には見えない生と死のゲームを生き残らなければならない。自身の功績は讃えられることなく、唯ひたすら精神の極限を試される仕事——それこそがNOCたるD機関のスパイ。

 

(その中でも今回はキツかったな)

 

流石に英国諜報機関のスパイマスター直々の尋問はキツイものがあった。伊達にあの男はイギリスのスパイマスターと呼ばれていない。

もしも結城中佐が用意したスリーパーがいなければ、俺が結城中佐からのサインに気がつかなければ、俺は確実に死刑確定だっただろう。二重スパイを承諾したのにも関わらず逃げたのだから。

 

そんなもしもを考えてゾッとしたが、それと同時にあの時のハラハラ感とやりきった達成感に口が緩むのが止められなかった。

ただ軍人になって命のやり取りをするよりも、起業するよりも、余程面白い。つまらない日常を彩る非日常。生きるか死ぬかの世界の中でも、高度な頭脳戦と肉体戦を主とするこの世界。

 

(だからスパイは辞められないんだ。ああ、次は何処に行くんだろうか。次はどんなゲームが待っているんだろうか)

 

そう考えただけでブルブルと腕が震え、笑みが止まらなかった。刃物を首筋に突きつけられた様な、鼓動が高鳴るあの感覚が堪らない。やはりこうではなくては。

 

興奮を抑える為に俺はハァと小さく息を吐き、考えを逸らそうと藤原に再び目を向ける。

藤原は先ほどのカーチェイスの際に見せた真剣な顔とは程遠い、アホ面を晒していた。半目になっており、今にも寝そうだ。

 

(これだけ見ると、本当にこいつはなんでD機関にいるか分かんねえよな)

 

俺の隣にいるD機関員の一人、『藤原』は俺たちの中でも異彩を放つ男だ。

 

ほぼ全てが落ちこぼれ。何をやらせてもD機関第1期生の中で一番最後に習得する。おっちょこちょいで医薬品を持たせれば零す上に、暗記に関しても本の内容を覚えられずに度々居残りをさせられていた程だ。

 

それなのに藤原はヘラヘラと笑い、「あー…やっぱり私に合わないのかもな。辞めるべきか」とほざいていたこともある。

最初、こいつは何を言っているのかと思ったさ。自らの意思で試験に臨んだにも関わらず、訓練初期の段階からこんなことを言うなど。いくら藤原自身も自分以外のD機関員との能力の違いに気がついていたとしても『異常』だった。

確かに藤原は優秀ではある。もちろんD機関の者達を除いた場合だが。ここでは落ちこぼれ以外何者でもなかった。

 

訓練開始時あたり、そんな藤原に彼以外のD機関員達は口には出さないがこう考えていたに違いない。

 

「何故こんな男があの試験に合格できたのか? 何故結城中佐はこの男をここに居座らせるのか?」

 

それぐらい藤原という男は凡庸だった。

凡庸で凡夫で凡人だったのだ。

 

だからこそ藤原という男は『異常』だった。

 

異常な状況において、異常な人間は『正常な』人間である。自分が発狂してしまわないように敢えて狂った人間となるからだ。ある意味では生存本能が働いているといっていい。

だが異常な状況において、普通の人間は『異常』である。常人が自我を保てるなど、まずないからだ。異常な場にいるのにも関わらず、普通の人間であり続けるなんて本来ならばありえない。

 

染まらなすぎる藤原はかえってその異常性を浮き彫りにしていた。「不気味だ」——そう感じるくらいには異常だったのだ。

普通だからこそ得体がしれない。異常な状況で普通に感じる人間程、恐ろしいものはない。

 

他の場であったのなら、『凡人』は普通である。というか下手に異常な奴がいたら色々とヤバイ。

だがここはスパイ養成所。異常な人間しか認められない場に凡人がいるのはあまりにもおかしすぎた。

 

「——不思議か。藤原がここにいるのが」

 

結城中佐がある時、気配を感じさせないまま、スッと俺の後ろに立ちながらそう問いかけた。俺はそれを聞いて内心ため息を吐き、舌打ちする。

 

この人は超能力者と偶に本気で思ってしまうくらいに人の心を読むのが上手い。結城中佐のことだから他のD機関員には聞かず、この俺にだけ藤原のことを問うているのだろう。D機関員達の中でも俺が一番藤原という存在に疑問を抱いていたから。それでもまあ、自分の疑問を解決すべき優先順位としては下の方だったが。

隠していたつもりだったんだけどな…流石は結城中佐と言うべきか。

 

俺は半分諦めて肩を竦める。

 

「ええ、まあ。藤原という男は凡人です。何故ここに居させるんですか?」

「確かにあの男は凡人の域を出ない。だが凡人で終わるには些か異常だ」

「なんだかんだでこの場にいる藤原は確かに異常ですが…。もしも藤原をクビにすればヤツは喜んで出て行く、そんなヤツですよ?」

「藤原はできないさ」

「『できない』? 『しない』ではなく?」

 

奇妙な言葉選びをする結城中佐に怪訝な顔をしてみせる。

まるで結城中佐は藤原自身が望んでこの場にいるかのように言う。それは藤原との言動に相反するものだった。

藤原が辞めたがっているのは本心だ。演技でやっているのなら面白かったものの、本心で思っているからこそ俺たち機関員は眉を顰めている。

 

(それなのにやめることができない? 何故だ?)

 

そんな疑問を見透かすように結城中佐は小さく笑った。

 

「だからこそあの男に『藤原』と名を授けたのだ。まあ見ておけ。貴様ならいつか分かるだろう」

 

そう言われたのならばやらない訳にはいかない。結城中佐直々に任務を与えられたようなものだ。わざわざ調べようと思うくらい、藤原に興味があるわけではないが………謎を暴くのも一興。

俺は仕方がないと諦めたように肩を竦める。そして「了解しました」と小さく言葉を口にした。

 

それから俺は藤原を観察した——が、いつもと変わらない。いつも通りの失敗。いつも通りの居残り。変わらない。藤原は変わらない。異常な状況に居座る凡人。自分の実力を知りながらも何故かD機関にいる変人。

 

(こいつを見ていたら色々と頭が痛い…。まあ、結城中佐が俺にわざわざ言うくらいだ。いつかは分かるんだろうが…)

 

そんな日々が続き、少々苛立っていた時。その日は自白剤訓練の日だった。「深層意識の底の底に重要情報を入れ込め」などと言う無茶振りをされた日でもある。

D機関員達全員の意識が朦朧とする中、必死に自我を保ちながら深層意識に重要情報を入れ込もうともがいている時だった。藤原の声が聞こえたのは。

 

「あんたら馬鹿じゃないの?!?!」

 

お前が馬鹿じゃないのか。

 

普段の藤原からは考えられないような言葉遣いと声の荒げように、D機関員全員が自白剤を入れられているのを忘れて二度見した。だが藤原はD機関員の視線を集めながらも、女言葉のままで色々と話し出す。

そんな藤原を観察しつつ、俺は自白剤で未だに朦朧とする頭をぐるぐるとフル回転させた。

 

(藤原の言葉遣い、仕草、雰囲気——全てが女性そのもの。何なんだこいつは)

 

それは男性である藤原が、本来ならば無意識にするはずのない行動だった。

自白剤を投入されている今、若干だがD機関員全員が結城中佐によって与えられた仮面を剥がしつつある。故にほぼ全員が少しではあるが己の素を出していた。つまり、今、咄嗟に口にする言葉が本心である可能性が高い。だからこそ、それを隠そうと俺たちは必死に足掻いているのだが。

 

まあ、つまりは、だ。

藤原がしている言葉遣い、仕草、雰囲気は全て——『本来の藤原』だという可能性がかなり高い。

 

だがそれが事実であるならば、藤原の本来の性と真逆のものであるという問題が浮上する。男は男として。女は女として。そう育てられるこの国において、それは異常だった。

 

演技でしていると思いたいものだが——苦虫を噛み潰したようなあの表情が演技で出来ているとは俄かに信じがたい。

 

(おかしい。どうしてこいつは女言葉や仕草が癖になっている?

まさか実は成人するまでは女として育てる風習のある家の出とかか?

はたまた実は心が女だったとかか?)

 

そんなあり得なくはない考えが咄嗟に脳裏によぎった。だがそれを断定してしまうにはいささか早計すぎる。

藤原の心が女であっても、この国の考え方的に体が男なら男の仕草や言葉遣いを最初のうちは叩き込まれるだろう。それが出ずに無意識で女言葉などになってしまうのは明らかにおかしい。

他の案である、成人するまで女として育てられた家の出〜というのも……うーん…どうしても藤原は到底そういった人間には思えなかった。

 

それと一番の理由は——結城中佐がわざわざこの男に何か理由を付けて、『藤原』と名をつけたくらいなのだから、もっと別の理由があるはず。

 

(古来から藤は女性に例えられてきた。そういった意味で、藤原という男の心が実は女だとか、そういったことを表しているのかもしれない。しかし、そうではないはずだ)

 

そう考えながらも、その時の自白剤訓練は疑問を残したまま終了。他のD機関員達よりも藤原に対して興味がありつつも、優先順位は下辺りに位置していたが、この瞬間から上位になったのだ。

 

そして自白剤訓練が終わってから、藤原が女装するようになった。

カバーの人間のコピーをしろという講義では、藤原がコピーする人間はほぼ女。しかも藤原は初期のころから完璧に化粧を施し、自白剤訓練の時のように完璧な女言葉、仕草、雰囲気を醸し出す。一瞬、彼が男であることを忘れてしまいそうだった程だ。

 

だがそれと比べて、女装以外の変装技術は普通の域を出なかった。

 

(女装限定の変装技術の才能、か)

 

観察すればするほど可笑しな人間、藤原。女装をすると懐かしそうな顔をして、まるで何かを思い出すかのように、『何か』を模倣しているのだ。遠い目をしながら、ここではない『何か』を見つめている。

 

男の器に別の人格が入っているかのようだった。

 

言いようのない違和感の原因はそれだったのかもしれない。藤原は何かがズレているのだ。ずっと藤原を観察していると、藤原の瞳には得体のしれない、『何か』が宿っていた。不気味な、『何か』が。

 

藤原という男は凡人である。凡人で、善人な人間であるはずだ。人を慈しみ、人に優しくするタイプの人間。決して、俺たちのような『人でなし』ではないはずだった。

 

それなのにあの男はこの世界を見てはいなかったのだ。

人形が人の心を模倣しているかのようだった。

 

世界で起こる数々の事件を今、起こっていることではなく、歴史書に載る、なんてことのない事象の一つ程度にしか藤原は考えていない。人の命も、歴史書の1ページにすら載らないゴミクズ同然にしか藤原は見ていなかった。

死んでも、生きていても、藤原にとってはチリと同じ。どんなに素晴らしい発展や発明が発表されたり、驚くべき事件が起きたりしても、藤原は眉ひとつすら動かさない。あるべき当然の事象として捉え、興味すら示さない。

 

人を駒程度にしか思っていないような『人でなし』である俺たちだが、それでも人は人と考えている。もしも家族ができたとしても、任務でそれを捨てろと言われれば捨て去るような人間の集まりだが、それでも記憶には残るだろう。一応は彼らが不幸にはならないように配慮もするだろう。

 

だが、藤原は違う。

 

興味すらないから直ぐに頭から消える。覚えろと言われれば覚えるが、忘れてもいいなら、恋人だろうが家族だろうが友人だろうが忘れるような男。

 

「結城中佐が藤原という名を授けたのは——藤原がD機関を離れないと確信していたから、か」

 

藤の花言葉は「優しさ」「恋に酔う」などが代表的だろう。だがそれにもう一つ、花言葉がある。

 

 

「決して離れない」

 

 

結城中佐は確信していた。

異常な精神構造をしている藤原は決してD機関から離れない。いや、離れることができない。人を人と思わないサイコパスのような藤原が、他の人々と共に穏やかに過ごすことなどできないから。

 

どんなに普通の仮面を被ろうとも、藤原の気質が許さない。藤原は命のやり取りをするゲームの中でしか、命を感じられず、生きることができない——そんな『人でなし』。

 

だからこそ奴はD機関に居座る。

恐らく一生、藤原はスパイであり続けるのだろう。

 

「なんだ。藤原も『化け物』だったか」

 

自然と笑みが顔に浮かぶのが分かった。

そうでなくては。D機関に居座るならば、やはりそうでなくては面白くない。命のやり取りを楽しむような、頭のネジが1本外れたような奴でなくては楽しくない、そうだろう?

 

(今回のカーチェイスも中々面白かったな)

 

一瞬、イギリス諜報機関の奴らがもう追ってきたのかとヒヤッとしたが、直ぐに違うなと否定した。結城中佐が用意したであろうスリーパーによって、まだイギリス諜報機関内はてんわやんわだろう。そんな早々に追いつけるはずがない。

 

なら、残る可能性とすれば——

 

——藤原だ。

 

前よりも太った藤原。更に、彼は仕立てのいいイタリア製のスーツを着ており、イタリア製のタバコ、ITALIAN ANICE——— イタリアンアニスを側に置いていた。他にも色々、明らかにイタリアに行っていた証拠を残しまくっている。

 

本来ならば直ぐに処分すべきだが、恐らくは突然結城中佐に命じられ、急いで来たのだろう。それのついでにイタリア諜報機関のやつらもひっつけて来た。絶対にやってはいけないことだが——こいつのことだから、やってしまったに違いない。

 

(やっぱり馬鹿だ、こいつ)

 

仕方がなく、イタリア諜報機関を撒く+イギリス諜報機関への撹乱のためにカーチェイスを繰り広げた。一歩間違えれば死あるのみだが、それでもやってのけた藤原。ドライビングテクニックだけはあるからな。

 

あんな足場の悪いところで命をかけたカーチェイスを繰り広げ、それでも今、間抜け面を晒しているのだから面白い。

常人では決して耐えることのできない訓練をくぐり抜け、精神の極限まで耐え抜いた実績を持つD機関員。藤原もやはり、結城中佐によって作られた化け物の一人なのだ。

 

——全てを欺き、生き残る、化け物。

 

「次は何があるんだろうな」

「もうそろそろ日本で活動したいんだが、私は」

「藤原はそればっかりだよな」

 

船の向こうの海をバックに立つ、藤原を見ながら笑った。

 

 

♂♀

 

 

あー…ようやく日本に帰国できたわ〜…。安堵しかない。船の中の生活もキツかったからなあ…主に神永のせいでな!

 

あの野郎、無駄に高度なゲームを暇つぶしで仕掛けてくるから本当にやめて欲しかった。私が負ければ何かとお金をぶん取って行くからな。お陰で私のサイフの中身はスッカラカンである。マジでやり返したい。だが出来ない悲しみな。あいつらやり返したらやり返した分だけ仕返しもしてくるから。なんなのあいつら。

 

(D機関も頭が痛いけど、ついに第二次世界大戦も始まったことも痛い!)

 

神永を迎えに行く少し前ぐらいに第二次世界大戦の始まりでもある、ドイツ軍によるポーランド侵略が始まった。周りの人はまだそんな世界を巻き込んだ大戦になるとは思ってはいないみたいたが、未来の記憶がある私からすれば冷や汗である。本当にやめて。

 

(つーか、そんな世界大戦真っ盛りの時にまた結城中佐に呼び出されたよ…)

 

現在、目の前には結城中佐がいつもの厳つい表情で此方を見ていた。結城中佐怖すぎ。本当にやめて欲しい。切実に。

私がそんなことを顔には出さずに結城中佐を見ていたら、結城中佐が資料を手渡してきた。それを受け取り、結城中佐の方を見る。

 

「次は中国に行ってもらう。前線の現地部隊の西村久志陸軍二等兵としてな」

「はい………え?」

 

西村久志陸軍二等兵、とな?

えっ、なんか聞いたことある。藤原、聞いたことあるよ。主に前世の原作のお話の中で。

待って待って待って待って待って。いや、そんなバナナ。

 

恐る恐る資料を見て見ると、モスクワのスパイの脇坂やら慰問団の「わらわし隊」やら前世で見たことある文章が並んでいて目眩がした。あれ、これってさ…。

 

(原作、『ダブルジョーカー』の中にある『蝿の王』のお話じゃねーか!)

 

えっ、無理無理無理無理。だってこのお話のD機関員は西村久志陸軍二等兵、つまり私である。やっっっべえ、ついに私、主役になったぞ! これほどまでに嬉しくない主役はあっただろうか。本気で嬉しくねえ。

 

(『蝿の王』の西村久志陸軍二等兵が行ったところって、前線中の前線だよね…? しかも自分で腕を撃ってたよね…?)

 

前線に出たくなさすぎてスパイになってんのに、前線行き+スパイとか何事。いや、本当に何事?! マジで行きたくないんだけど! 他の奴にやらせろよ! 前線とか行きたくないよ! 腕も自分で撃ちたくないよ! 泣くぞ!

 

サッと結城中佐の目を見たが、怖すぎてサッと資料に直ぐさま視線を落とした。デスヨネー行かないと行けませんヨネー…。

 

藤原、主役になってきまっす…。

 

泣いた。




皆さんお久しぶりです。亀更新なのに見ていただきありがとうございます。後、誤字脱字訂正とかコメントとか返せてなくて本当にすみません。

少し前に活動報告で、友人に「JGのオリ主ってどんな顔?」と言われたので描いてみたけど、平凡すぎて微妙な画力になってしまった…もし優しい人がいたら描いて欲しい…と嘆いていたところ、たむマロンさんという方が描いてくれました! ありがとうございます!

【挿絵表示】

また、私が描いた絵は下になります。シャーペン+ボールペンという微妙な絵なので見たくない方は存分にスルーしてください。

【挿絵表示】


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其の八: 「一般人の蝿の王(上篇)」

※ダブルジョーカー収録、『蝿の王』で活躍するかっこいいD機関はいません。かなりの原作改築。
一応、『ダブルジョーカー』を読んでいない人のために、『蝿の王』の話の内容も解説しています。


「なんでこんな所にいるんだろ…」

 

木の間に隠れるようにしゃがみ、片手で軍用銃を持ちながら遠い目で呟いた。

溜息を吐きたくなるが、軍から支給された軍服の帽子をグッと下げるだけに留める。それでもなんだか物足りなくて、大きく息を吸うと、むせ返るくらいの死臭や硝煙の臭いが嗅覚を刺激した。

 

アッやばい全然気分を逸らせない。むしろ気分が悪くなるやつだ。失敗した。

ゲンナリしながら私は前を向く。そこには私と同じ軍服に身を包み、銃を両手で握りしめた男がいた。その男は物凄い形相でこちらに怒鳴り始める。

 

「早く行くぞッ西村ッ! 死にたいのか!」

「はっ、はい! すみませんッ!」

 

——今、私、藤原は西村久志陸軍二等兵として中国の戦地にいます。

本当にどうしてこうなったんだ。私の命運を管理している責任者出てこいよ。私は兵士になりたくなくてスパイになったのに(不本意だけど)前線送りとかマジなんなの? その為に幼少期から命懸けで頑張ってきたのになんなの? スパイ兼前線兵士とかやること多すぎない? 協力者と色々連携したりとかしなくちゃいけないしさ?

 

てかさ、死ぬな殺すなが信条のはずなのに銃片手に敵と戦う羽目になってるんですけど。

まあ、殺すの怖いし、結城中佐に怒られたらいやだし………というわけで、銃弾を外しまくってるけどな!私がコピーしてる西村久志陸軍二等兵は今年一年目の兵士だからポカしまくっても大丈夫大丈夫。

それにこんな戦争は所詮は偉い人が愛国心だので弱者を奮い立たせて、伊達や酔狂で戦ってるようなもんだし。普通は闘わずにして勝つのが一番だからなあ。

 

ちょっと罪悪感があるけどね…。周りの兵士達は本当に日本の為に戦ってくれてるからさ…。本当にこんな前線に来たくなかった…。

 

(まあ、結城中佐がD機関員を前線送りにしたのは仕方がないんだよなあ。前線部隊のスパイは多いから…)

 

日本は未来でもスパイ天国と言われているように、現在の日本政府内にも多くのスパイが存在する。高位の官僚達が他国のスパイに成り果てている現状に少し泣きそうだ。

 

まあ、それはさておき。いや、置いちゃダメだけど話が進まないから、さておき。

普通ならば前線にいるスパイの数は本国の中央政治よりも少ないと思うが、日本の場合は違う。

前線部隊が中央政治の決定を無視して独自の判断で軍を進め出したことが原因である。普通ならば中央政治は激オコのはずだが、前線部隊が戦果を残してしまった上に国民の大支持を受けてしまった。

 

それにより政治の決定は簡単に覆り、前線部隊がそのまま進行を続行。

その結果、他国は『日本は中央政府よりも前線部隊の意思決定の方が重要。日本の伝達係が政府に情報を送るよりも早く、前線部隊の情報を知らなくては』となったらしい。当たり前である。何してくれちゃったんだお前ら。

 

(色々めちゃくちゃだし、それによって私が前線行かなくちゃならないし、本当に嫌! 前線部隊よ、ちゃんと政府の命令を聞けよ! 私が困るだろ私が!!)

 

他の人間だけではなく、自分にも被害が行き過ぎて内心で私はボロクソに罵倒していた。ダダダダダッと他の隊員達と戦地を駆け抜けながらギリギリと銃を握りしめる。今世の私の全力の願いをぶち壊した罪は重い。

 

もー…本当に来たくなかった! 前線部隊のスパイの調査などをしながら銃片手に敵に特攻とかなんなの?! 結城中佐は私を殺す気なの?! 私は女装と運転技術ぐらいしか得意じゃないんだけど?!

 

(しかも今からさぁ、色々手回しをしなきゃいけないし! 過労で殺す気か!)

 

今回のお話、『蝿の王』の的はモスクワのスパイの脇坂だ。彼は熱烈な共産主義者であり、自主的にモスクワに協力。モスクワに日本の前線の情報を流すべく、軍医として彼はここにいる。

それだけならば、素性が分かりまくっているスパイをわざわざ捕まえたりなんかしない。誰の手で、いつ、どんな情報が流されたのかさえ把握していれば、情報戦はむしろ有利に進められるらしいから。

ちなみにコレ、結城中佐の教えね。

 

(でもなあ、モスクワスパイの脇坂の野郎、目立つ方法で人を殺しやがったから…)

 

モスクワスパイの脇坂によって発案されたワキサカ式と呼ばれる情報の手渡し方がある。手足や頭がもげていない支那兵の死体(腐敗しないように処理済)に情報を入れて渡すという方法だ。

ここは前線だからあっちこっちに死体が転がっているからね。本当に泣きたいぐらいに。

 

でも、ある時、五体満足の支那兵の死体が見つからなくて、モスクワスパイの脇坂は現地住民の老人を殺したのだ。マジキチすぎじゃね。

現地住民人々にとっては知り合いの老人が何故か軍服を着て、死んでいたとなれば騒ぎになる。そんな事をされたら当然目立つし、他のことにも色々支障がでてしまうし、私たちD機関にとっては少し眉を顰める事態だ。

 

(それが約一週間前。あー…できれば原作通りには行って欲しくなかったな。だって銃で腕を撃つんだよ? 痛いわこの野郎)

 

原作小説ではD機関員が自分の腕を自ら銃で撃つ。理由———それは、その怪我によって軍医のモスクワスパイ、脇坂に接触して、間近で反応を見るためだった。

 

原作のD機関員は、モスクワスパイがもしも今回の殺しにかなり罪悪感を抱いていた様子なら、まだ泳がす気でいたのだろう。そんな人間はもう殺しはしないだろうから。

でも、残念ながら原作のモスクワスパイは殺しを正当化しているような様子であった。これではまた無意味に人を殺しかねなかったので、逮捕しちゃおうぜ! が一連の流れである。

 

(腕を撃ちたくねー…。原作知識があるから脇坂と接触しなくてもいいだろって思っちゃうよね…)

 

でも万が一、原作知識とズレてたら流石にヤバイ。

原作とは違い、モスクワスパイの脇坂が殺しに罪悪感を抱いていたなら泳がすだけでいい上に、わざわざD機関という存在を面に出さなくて済むからなあ。

もちろん、原作通りなら捕まえなきゃいけないが。

 

原作知識を妄信するあまりに、正しい判断を下せなかったと結城中佐に知られたならば、社会的に殺されるわ。結城中佐は私が原作知識なんてものを持ってるとことは多分、知らないだろう。

結城中佐だからなんか知ってそうな気もしちゃうけど…えっ、本当に知らないよね、結城中佐? 確信を持って言えないんだけど(震え声)

 

ま、まあ、それは置いといて。結城中佐からすれば、「妄想に取り憑かれ、ミスをした」になるからね。そんなこと絶対に結城中佐は許さないから。もー怖すぎ。

 

あーどうしよう〜腕を撃ちたくね〜と死んだ目で戦場を駆けていた時、ヒュンッと銃弾の音と共に腕に強烈な痛みが走った。

 

「グォオォオオ?! 痛ァ?! 腕、撃たれた…!」

「西村、大丈夫か!」

「大丈夫だ…!」

 

全然大丈夫じゃないです!! クッソ腕が痛え!! もう戦場怖すぎ。なんなのこの命のやり取り。だから来たくなかったんだよ! 結城中佐の馬鹿野郎!! 面と向かっては怖すぎて言えないから、中国のこの地で全力で結城中佐のこと罵倒してやる!! チキンで悪かったな!

あーもう、油断した! 下手に原作知識を思い出してボーッとなんかするから、撃たれるんだよ私の馬鹿!

 

私が今コピーしている西村の同僚が心配してくれているので、西村らしく笑って返事をする。だが、内心では盛大に舌打ちをした。

腰のポーチから布を出して、素早く腕の止血をする。我ながら素早い止血だ。

 

(でも、これでモスクワスパイの脇坂に接触できるし…まあ、いいか。ポジティブだ。ポジティブに考えろ藤原!)

 

グッと歯を食いしばりながら走り出そうとした、その時。

横にいた同僚が慌てたような声を上げた。

 

「西村、危ない!」

「はっ?」

 

ガンッと凄まじい音が聞こえたと思えば、頭に激痛が走る。痛いだとかそんな思考すらも出来ずに、次の瞬間ぐわんっと視界が回った。

 

 

♂♀

 

 

「知らない天井だ」

 

目を開くと本当に知らない天井というか、テントの屋根が視界に入って来た。それに驚いて思わず某アニメの言葉を呟いてしまう。これ一回でも言ってみたかったんだよね…って違う違う。なんで私はこんなとこにいるんだ。

 

上体を起こせば、そこら中に怪我をしている男、いや、兵士達が寝かせられている。 そんな兵士達を治療するべく、多くの人々があくせく働いていた。

その光景を見て、冷や汗が流れる。血と汗と、色々混じったような嗅覚を刺激する言いようのない臭いに思わず鼻を手で覆った。

 

「エッ何事?!」

 

私はギョッとして立ち上がろうとすると、頭と腕に強烈な痛みが走る。そのまま情けない声を出しながら蹲った。痛ッたい!!

それを見たのであろう、一人の男が慌てて駆け寄ってくる。

 

「大丈夫か、西村? 上から落ちて来た腐った木が頭に直撃したらしいからな。無理はするなよ」

「あのー…すみません」

「うん?」

 

 

 

「西村って、誰でしょうか」

「は、」

 

 

♂♀

 

 

「——恐らく、軽い記憶障害だろうね。頭を強く打ったみたいだから」

「はあ、そうなんですか。脇坂先生、ありがとうございます」

 

普通に職場から帰宅したら、何故か戦時中の兵士になっていた件について。意味が分からないよ?!

平成から昭和初期にタイムスリップとか本当に意味が分からない。大事なことだから二回言いました。夢かと思ってベタに頰を抓ってみても痛かったんですが。現実か、現実なのか! 死ね! 責任者出てこいよ!

 

しかも西村とかいう男になっているらしい。私は女なんだけど?! どういうことだよ?! 性別くらいはタイムスリップするなら女にして欲しかったんですけど?!

……いや、下手に戦地のここに女がいたらマズイか。てか、ここが戦地とか本当に泣きたいんですけど。

 

まあ、それも大問題なんだけどさ。もう一つの問題があるんだよ。ちょっと聞いてください本当に。意味が分からない事態その二が起きているんです。

 

目の前にいる軍医の脇坂という人を見る。脇坂先生は人の良さそうな笑みを浮かべながら、口を開いた。

 

「いつ思い出せるかは私からはなんとも言えない。ふとした瞬間に思い出せる可能性もあるが…」

 

——この男を観察しろ。そして、内心を見抜け。

 

あの………さっきからこんな心の声が聞こえる上に超指示してくるんですけど………。しかも滅茶苦茶な無茶振りしてくるんですけど……。いつから私は幻聴が聞こえるようになったの?! クソ怖い!!

 

目の前にいる脇坂先生に相談したくて仕方がないが、絶対に言うなコールが脳内に鳴り響くので言えない状況である。本気で怖いんですけど。お祓いしてもらいたいレベルなんですけど。マジで脇坂先生に相談したい。でも、相談できない。脳内の声に殺されそう…。

 

(私は西村さんに憑依してるってことなのかな。この声は西村さんみたいな? ん? じゃあ、どうして西村さんは「身体を返せ」って言ってこないんだろう…)

 

訳が分からん。

これが漫画とか小説ならば、西村さんが脳内から「なんだお前?! 俺の身体を奪いやがって!」みたいに言ってくるはずだろう。だって声が聞こえるってことは、この身体の中に西村さんがいるってことでしょ?

うーん、漫画の読みすぎなのかな。無意識にこの身体が取っている行動なのだろうか。普通、無意識に脳内会話してくる? どんな人間だよ。化け物か。

 

むむむと考えながら、とりあえず脳内の声に従って色々と脇坂先生と話してみる。記憶喪失前提の会話でありながら、色々と話を広げていくような会話の仕方で無意識に軽々と話すことができて、少し目を見張った。西村さんのコミュ力が高過ぎてビビるレベルなんだけど。すげえな西村さん。

 

まあ、いきなりタイムスリップしてて不安だから脇坂先生と色々と話せるのは嬉しいし、そんな優しい脇坂先生を不愉快にさせないような会話もできてるし、一石二鳥か。とりあえず、何を話したらいいか分からなかったしさ。アッ、後、情報も仕入れることができたし!

 

明日、慰問団の『わらわし隊』って人たちが来るらしい。お笑い芸人の人達が前線部隊を慰労する為に態々こちらへ来ているとか。スゲーな慰問団。前線に来るなんて。

脇坂先生が、「気分転換に行ってみるといい」なんて言われたから行くつもりである。

周りの人たちも唯一の娯楽、慰問団の公演が見れることが楽しみなのか、ワクワクしていた。殺伐としてる戦場で癒しは大切だよね、分かります。

 

(うーん…でも、『脇坂』と『わらわし隊』ってどこかで聞いたことあるんだよなあ。歴史の教科書に乗ってたか、それとも西村さんの記憶なのか)

 

脇坂先生にちょっと聞いてみようかな〜そう考えていると、脳内の西村さんが再び語りかけてくる。

 

——不要な情報を迂闊に話すな。

 

(あーはいはい。わかりましたよ。西村さんはやけに用心深いな…。なんか、ジョーカー・ゲームシリーズの『誤算』みたいな声の掛け方…)

 

うん? ジョーカー・ゲーム…?

 

…。

………。

…………。

 

(アッッッッッレ?!?! ここマジでジョーカー・ゲームシリーズのダブルジョーカーにある『蝿の王』の話じゃね?!)

 

さっきから『蝿の王』に出て来るワードがバンバン出て来る。脇坂先生から聞けば聞くほど『蝿の王』に該当するワードしか出てこなかったことに気がつく。

これでもジョーカー・ゲームシリーズは読み込んでいる方だから、上官の名前や、慰問団『わらわし隊』の芸人の名前も完璧に覚えている。それとなく答え合わせのように脇坂先生に聞いてみると、やっぱり小説と同じ。乾いた笑いしかでなかった。

 

極め付けには私の名前が『西村久志陸軍二等兵』。

D機関員がコピーしている人物の名前である。

 

つまり、私はあの化け物と名高いD機関員に憑依してるのだ。

 

(アッッッッッカーーーーン!! 何、私は重要人物に軽々と憑依してんの?!)

 

一番憑依してはいけない人に憑依してるじゃねーか! 馬鹿なの?! そりゃあ西村さん脳内から語りかけるわ!! 目の前にいる脇坂先生がモスクワスパイだもん!! 無意識に身体が覚えているんだ! クソ怖いな?! 化け物じゃねーか!

 

確か何日か前に脇坂先生は任務のために不要な殺しをしたから、それに対して罪悪感を抱いているか否かを調べるんだっけ?

わざと自分の腕を銃で撃って、脇坂先生に接触する——今じゃん! 完全に銃で腕が撃たれているじゃん! そう言えば自然に数日前の事件の話の流れになってたわ!!

 

こっっわ、西村さん怖い!! 無意識レベルで語りかけてきて、自然に話を持って行く!! えっ、でも、脇坂先生の顔色が変わったとか全然分からなかったよ?! 大丈夫?! てか、すっごく私ってば西村さんの任務の邪魔してない?! わざわざ銃で自分の腕を撃ったのに、私が憑依してしまうなんて!

 

(ジョーカー・ゲームの世界に来たのに全く嬉しくない…。だって西村さんからのプレッシャーがヤバイもん…。早く身体を返したいんだけど…。クッソ普通に憑依させろよな!!)

 

ジョーカー・ゲームに行くらいなら、違うところが良かった。戦時中の日本とか一番行きたくないわ! 近代系の世界に行くならば名探偵コナンとかが良かった…!一応、現代だから安心して傍観できr……いや、できねーなあの世界も。事件の発生率がハンパなかったもん。

しかも簡単に人が死ぬし。全然ダメだわ。近代系の世界で絶対行きたくない世界その二だわ。簡単に観覧車やビルや船が爆発する日本なんて私は日本と認めない。

 

もうこうなったらスポコン漫画のテニスの王子様とか…! いや、あれもダメだな。テニスという名の格闘競技だもんアレ。友人に少し聞いた話だと、恐竜とかテニス中に出てくるらしいし。なんなのあの漫画。

 

(とりあえず憑依なんかしたくなかった! 実際に来ると怖すぎる!)

 

内心で悪態をつきながらも、私は脇坂先生と別れる。一応、頭を強打して、腕を撃たれているといっても他の者と比べれば軽傷の部類。まだまだ患者はいるとのことで、ベッドから離れる必要があった。戦争怖い。

ついでに私が脇坂先生と離れたかったのもある。モスクワスパイと迂闊に話したくなかった。

 

——タバコを吸え。

 

(まーた、西村さんからの指示きたわ…)

 

仕方がなく、ポケットからタバコを探して、火を点ける。タバコを吸ったことなんてなかったから噎せるかと思ったが、流石は西村さんの身体。普通に吸えた。

ボー…としながら無意識にタバコの煙と火で遊び始める。

 

(まあ、なるようになるかなァ…でも、原作通りなら明日が勝負だよね)

 

明日の慰問団『わらわし隊』の公演が終了後、D機関員はモスクワスパイを拘束する。

 

まず、『笑わぬ顔』というスパイハンターが慰問団が行く場所の前線スパイを刈り取っているという嘘の情報を流して、モスクワスパイの脇坂を慌てさせる。そして、D機関の思惑通りに脇坂は『笑わぬ顔』を探し始めるのだ。

 

更に、脇坂はなんとかスパイハンターを炙り出して罠にかけるために、『猪熊軍曹がスパイだ』といった嘘の密告書を上官のテーブルに放置。余談だが、猪熊軍曹は完全なるとばっちりである。騒ぎになればきっとスパイハンターは顔色を変えると脇坂は思っていた。

 

だが、途中でプロの笑いの芸人から「西村さんは笑っているようで笑ってなかった。後、西村さんが上官の部屋(脇坂が密告書を置いたところ)に行きましたよ」と言われる。「まさか西村が『笑わぬ顔』?!」と急いで行ったところで既に遅し。D機関の西村に秘密裏に捕まる〜といった流れだ。

 

(一つ言っていい? できねーよ!!)

 

西村さんからの脳内からの伝達があっても、流石に無理なんだけど?! 私はプロのスパイじゃねーから! あー…もう、どうしよう…。西村さんに身体を返せないのなら、迂闊にスパイ活動しても危険なだけだし、普通にこのまま前線で戦うしかないよね…。怖すぎるんだけど。帰りたい。スパイ活動できなくて、ごめんね西村さん。私には無理です。

 

不安を抱えたままタバコを消した。どうしようかな〜と考えていると、私が記憶喪失だと聞いた西村さんの同僚が心配したのか来てくれて、そのまま寝る場所に案内される。

「考えても仕方がないか」と思いながら就寝した。

 

——そして次の日。

 

(あーあー…慰問団によるお笑いが始まっちゃった)

 

怪我をしているからという理由で前の方の席に座り、私は慰問団『わらわし隊』のお笑いを見ていた。

色々と考え過ぎて緊張してしまい、上手く笑うことが出来ないが、迂闊にモスクワスパイの脇坂先生に疑われたくないので全力で笑ってみせる。

社会で身についた全力の嘘笑いがこんなところで役立つとは思わなかったわ。ありがとう、嫌いな上司。初めて貴方に感謝しました。

 

前線なのに見張りを怠るなんてことはありえないので、数回に分けて行われる1回目の慰問団の公演が終わる。原作通りに脇坂先生が公演会場の外に出て言っているのを確認。私は思わずため息を吐いた。

 

(原作の西村さんは色々手回しした上で脇坂先生を捕まえたみたいだけど、私は何もしてないからな…どうしようもねーわ)

 

諦めて私も外に出る。脇坂先生は確か裏手に行っていた描写があったから、違う方向に行く。公演会場の壁にもたれかかりながら、タバコを吸った。西村さんの身体になってから、偶に口が寂しくなるんだよね。これがタバコユーザーの身体か。

 

数十分そうしていると、向こうの方から厳つい顔の兵士が歩いて来た。ヒェッ怖い!! と思って慌ててタバコの火を消す。

何故か私の横に来た厳つい兵士を見ると、彼は険しい顔をしている。なんなんだこの人…。私は若干怯えつつも声をかけた。

 

「あのーどうかしましたか?」

「悪いな」

「へ?」

 

目の前にいた厳つい兵士の腕が急に動いたと思えば、脳天に鋭い痛みが走る。ぐわんと視界が揺れて、目の前が真っ暗になった。



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其の九: 「一般人の蝿の王(下篇)」

私——脇坂衛(わきさか まもる)は慰問団『わらわし隊』の第一回公演が終わった後、兵隊たちがごった返す即席の演芸会場から離れようとする。

すぐに2回目の公演が行われるために、出ていく観客と入ってくる観客の両方の人の大群が会場に押し寄せてくる。とても動き辛いが、なんとか人の波をかき分け、会場を後にした。

 

建物の裏にまわると、会場で響き渡っていた兵隊たちの笑い声も流石に小さくなる。粗く漆喰を塗った壁にもたれかかりながらタバコを一服吸い付けた。

 

(モスクワのスパイとしてこれまで動いてきたが、スパイ・ハンターなんて厄介なものが来るなんてな)

 

私は天皇制という兄を殺した古き体制を打倒して新しい体制を創り上げるべく、今までKという者と連絡を取りながらモスクワのスパイとして暗躍してきた。

資本主義などという自然と労働階級の弱者が増え、上ばかりが得をする不当な思想及び体制から、日本国民を解放するために。

日本政府が前線部隊の判断を優先するという馬鹿げた方針をとってからは、軍医として前線部隊に潜り込み、ここでも努力してきたつもりだ。

 

Kから前線部隊の『スパイ狩り』なるものが行われ、次々と同志達が狩られていると聞くまでは。

 

スパイ狩りは前線部隊を回っている慰問団『わらわし隊』との関係がある可能性が高いことと、スパイ狩りを行なっているスパイ・ハンターの暗号名には『笑わぬ男』という名が使われているとの報告があった。

それまでならまだいい。今まで通り、気をつけなければいけないと思うだけでよかった。もう一つの報告を聞くまでは。

 

——大日本帝国陸軍内の秘密諜報組織、『D機関』。

 

今回のスパイ狩りを行なっている組織の名前だ。

K曰く、「どれだけ調べようともその実態は明らかにすることができない」だとか。唯一分かるのは一人の陸軍中佐によって設立され、その後も彼の下で全ての作戦が実行されているらしい、とのことだけ。

その陸軍中佐の通り名は——

 

ベルゼブル。

蝿の王。

 

旧約聖書『列王紀』に登場する異教の神。悪魔どもを率いて、人間を地獄へと引きずり込む魔王のことだ。

魔王(ベルゼブル)の配下の悪魔が我々を地獄へと引きずり込むべくやってきた。

 

『魔王』だなんて大それた名前で呼ばれるその存在にゾッと背筋が冷たくなるのを感じた。普通はそんな大それた名で呼ばれない。恐らくはそれ程までに恐れられているからこそ、『魔王(ベルゼブル)』などという異教の神の名で称されているのだ。我々を陥れる魔王と。

 

その配下の悪魔が私を見つけようとしている。気味の悪いギョロリとした目を凝らして、私を探す化け物の幻想が脳裏によぎった。

だが、私はそんな幻を鼻で笑ってみせる。

 

(確かに油断ならない敵だ。しかし、負けるつもりはない。必ず私が見つけてみせる)

 

慰問団が来るまでに色々と調査を行い、ある程度の目星もつけた。更には魔王からの使いのスパイ・ハンターを炙り出すべく、仲良くしていた隊長の机の上にも『西村久志二等兵がスパイだ』という紙も置いておいた。

スパイ・ハンター以外の者がスパイとして騒がれれば、きっとスパイ・ハンターは一瞬でもその表情を崩すだろう。その一瞬を見つければいいだけの話。私になら必ずできるだろう。

 

そう思いながら夜へと移り変わる空を見る。その空へと伸びて行くタバコの煙を視界に入れつつ、不意に西村久志二等兵のことを思い出す。

 

(記憶障害にしては不思議なやつだったな、あの男)

 

昨日、腕を撃たれた挙句、頭を強打したことにより軽い記憶障害に陥った西村久志二等兵。彼が意識を失っている間、手当てをしたのは私だ。

その時、西村は意識を失いながらも魘されていた。きっと戦いの恐怖で魘されているのだろうと同情しながら彼の傷を見ていたのだが、寝言がおかしかったのだ。

 

——英語でうわ言を呟いていた。

 

その瞬間、フッと自分の心に重みが掛かるのを感じたものだ。

D機関という秘密諜報組織がスパイ狩りを行っていると聞いていたので神経質になっていたのだろう。どんどんと心が冷えるのを感じた。

 

本来なら、英語でうわ言を無意識に呟けるほど流暢に西村が話せるはずはないのだ。今の時代、こんなにも話せる者は余程賢い者であるか、はたまた金持ちであるか——そのぐらいだ。そんな人間が二等兵という低い地位についているのは明らかに『可笑しい』。普通ならばもっと上の地位にいるか、それか通訳という立場にいる場合が多いからだ。

 

(まさかこいつがスパイ・ハンター?)

 

もしかしたら下手を打ち、敵にやられたスパイ・ハンターがこの西村の可能性が高い。魔王とまで称された者の配下が簡単に敵兵にやられているなんて少々拍子抜けではあるが——まあ、あり得なくはないのだ。所詮は日本政府などその程度であるのだろう。

確証はない。だが、調べてみる価値はあった。

 

もしかしたらこの英語のうわ言も何か意味があるのかもしれない。そう思って、目を閉じながら魘される西村へと耳を傾けた。

 

 

「カステラがァ…カステラの大群がァ…襲ってくる…!」

「は?」

 

 

まさか私の翻訳が間違ったのか…? 英語でカステラの大群が襲ってくるなどと呟いていているんだが。いや、そんなわけないy「もう無理、カステラもう無理…」…カステラってやはり呟いているな…。信じたくなかった…。自分の優秀な耳がはっきりと聞き取ってしまった…。

 

というか何故カステラ。顔を物凄く真っ青にさせながらカステラをひたすら呟いているんだが、大丈夫なのか。

普通、そこは敵兵を恐れる言葉を呟くところじゃないのか。ここは戦場だぞ。何故カステラ。

 

(ハッまさか何かの暗号…?!)

 

一瞬、様々な暗号文が脳裏によぎったが、直ぐさまそれはないなという判決に至った。そんな馬鹿な暗号があってたまるか。いや、あるかもしれないが、『カステラの大群が襲ってくる』などという馬鹿げた暗号とかは勘弁してほしい。

しかも、現在魘されている西村はカステラしか呟かない。カステラに襲われすぎだろう。こいつはカステラにトラウマでもあるのか。

 

その前に何故この男は英語でわざわざカステラを呟いているんだ。この魘され具合は本当に夢でカステラに襲われているのだろう。演技でできるとは思えない。馬鹿なのか、馬鹿なのかコイツ。

 

「そうか。こいつ、賢い馬鹿なのか」

 

偶にいるのだ。賢い馬鹿が。私の幼少期の友人にも一人いた。

何ヶ国語も話せる上に成績も良いのだが、何故か馬鹿な行動を取っていた私の友人。突然目の前で頭から地面に転がって全治数ヶ月の怪我をしたり、土下座し始めたりするような馬鹿だった。あの奇行の数々には呆れたものだ。

それを思い出して半目になりつつ、私はこう決断を下した。

 

——この男はスパイじゃないな。あまりに馬鹿すぎる。

 

だが、万が一ということもある。

故に、『西村久志二等兵がスパイだ』という偽のスパイ密告文を隊長の机の上に置くことに決めた。スパイ・ハンターを炙り出し、尚且つ、西村は何者であるのかを判明させる為に。

流石に上官に追い詰められれば西村も色々と話すだろう。その時に英語を流暢に話せる理由も聞けばいい。

 

(まさか目が覚めて記憶障害になっているとは思わなかったが)

 

だからこそ、机に置く文章を『猪熊軍曹がスパイだ』という文に変えてしまおうかとも考えたが、やはりそのまま西村でいくことにした。もしも万が一、何かスパイ・ハンターと関係がある者ならば、そこら辺をうちょろされては困る。正直、目障りだ。捕まってもらっておいて欲しいのが私の本音だった。

 

そうこう考えながら、会場に戻ろうかと身体を回転させる。後もう少しで西村のスパイの件で周りが騒ぎ立てる頃だろう。西村を捕まえようと屈強な兵士達が彼の元へ行くに違いない。

 

踵を返そうとした時、黒い影がヌッと私の前へ来た。驚いて身構えるが、その黒い影が先ほど舞台で公演をしていた『わらわし隊』の芸人の一人だと気が付き、強張らせた身体の緊張を解く。

そして、フッと内心で笑ってみせた。

 

(これは好機だな。彼から色々と話を聞くとするか)

 

タバコが欲しいと言われたので渡しながら、これ幸いと『わらわし隊』の内部の人間を探ることにした。『わらわし隊』とスパイ・ハンターは関係があるかもしれないとKという私の上司に報告を受けている。そんな中で『わらわし隊』の芸人と話せるのは好都合だった。

 

だが、彼と色々と話している内に『あり得ない話』が出てき始める。それに思わず目を見開く。そんなはずは…と思いながら、私は慌てて偽のスパイ密告文を置いた、隊長の部屋へと急ぐのだった。

 

隊長の部屋の前の兵士達に挨拶をして、入室して思ったのは一つ。

 

(やられた…!)

 

偽のスパイ密告文の『西村久志二等兵がスパイ』と書いた紙がない上に、自分の時計が備え付けの時計よりも早められていた。あの偽のメモがないのはまだ分かるが、何故自分の時計の時間が早められているのだ?

 

そう考えた瞬間、スッと背後に人の気配がした。慌てて振り向くと、鳩尾に鋭い痛みが走る。そして、そのまま意識が真っ暗になった。

 

 

♂♀

 

 

——自分のポケットを漁られている。

 

ガサガサ、ゴソゴソという音を聞いた瞬間、私はハッとしたように目を覚ました。直ぐさま私は周りの状況と自身の身辺に意識を向けた。

長い間、寝た時のような身体のだるさがない。恐らく、少しの時間しか寝ていないのだろうと瞬時に推測する。

そして、周りの状況を見ようと起き上がろうとするが、上から押さえつけられている為に顔を後ろにすら向けることが出来ないことに気がつく。内心で深いため息を吐いた。

 

(ついに、この時が来てしまったか)

 

スパイなんて仕事をやっている人間だ。いつかは捕まる可能性があるとは思っていた。だが、こんなにも早くとは思わなかったのだ。

そして、Kから与えられた情報にあったD機関のスパイがまさか『彼』だとは思わなかった。その事実にギリギリと思わず歯ぎしりしてしまう。

 

『わらわし隊』の笑いのプロが唯一、『笑っているようで、笑っていない』と言わしめた人物。

それと同時に、その芸人へと『脇坂先生が会場裏でタバコを吸っている』と伝えた人物。

 

——その人物は『あの男』だった。

 

「どうしてお前がここにいる。『西村』…! お前は記憶を失っている筈ではなかったのか!」

 

西村は何も言わない。だが、それが逆に恐怖を煽った。地面に身体を押さえつけられながら私は静かに戦慄する。

 

西村は確実に軽い記憶障害に陥っていた。医者で、尚且つ、この私が直々に診察をしたのだから、まず偽れる筈がない。自分には見抜ける自身がある。アレが到底演技で出来るわけがない。

最近の情勢も知らず、自分が何者かすらも知らない反応を西村は見せた。確実に普通で凡人で没個性な人間の反応だったのだ。記憶障害と戦争という事実に怯え、必死に不安を紛らわそうと私に話しかける、ただの一兵士でしかなかった。

 

(あれが演技だったというのか。それとも——)

 

本当に記憶障害になりながらも、任務を遂行したというのか。

それを想像した途端、ゾッと背筋が冷たくなるのが分かった。

 

そんなことができる人間がいるというのか。そんな人間がいるというのならば、それは『化け物』だ。記憶障害に陥ろうとも、任務において正しい判断ができるなど、化け物でしかない。そんな人間がいるというのか。そんなことが出来る人間が存在するのか。

 

(いる筈がない。ならばアレは演技だったのだろう。私が演技を見抜けなかっただけの話)

 

そう信じたかった。だが、そんな目立つことをスパイがするかという考えもあったが、私は必死に目を閉じる。どちらが本当で嘘かが分からない。踊らされているのは間違いなく、私だった。小さく拳が震える。

 

しかし、そんな私を嗤うかのように西村は口を開く。一度聞いても印象に残らないような、平坦で何処にでもいそうな、ありふれた声だった。

 

「全く、記憶障害に陥るとは思わなかった。あの時は世話になったな、先生」

「本当に記憶障害だったのか…?! だが、どうやって貴様、記憶を取り戻した…?」

「さて、どうだかな。記憶障害も嘘かもしれないぞ、先生。しかし、もしも私が本当にあの時、記憶障害だったとしても、どうやって記憶を取り戻したかなど貴様が知る必要のない情報だ」

 

本当に記憶障害だったのか、そうでないのか、分からないような返答だった。のらりくらりと躱され、私は静かに歯を噛みしめる。

 

(彼が記憶障害だったのか、そうでないのかはこの際どうでもいい。スパイとしては捕まってしまったが、アレさえ知られていなければ別にいいのだ)

 

そう、私の生きた証——ワキサカ式と呼ばれる情報の手渡し方を彼に知られていないのならば、後はどうでもいい。

余談だが、その情報の伝え方とは、手足や頭がもげていない支那兵の死体(腐敗しないように処理済で、野犬に食い殺されないようにもしている)に情報を入れて渡すというものだ。

あれさえ知られていなければ、同志達があの手段を使って再び活動できるだろう。例え、私がここで折れようとも、私の志は折れない。未来永劫続く、私の生きた証。

 

——だが、西村はそんな希望すらも打ち砕く。

 

ワキサカ式の細かい詳細まで彼は知っており、更には私が姿すら見たことがないKの正体も調査済みだったのだ。私は拳の震えが止まらなかった。

しかも、彼は本当なら私をそのまま泳がすつもりでいたらしい。誰の手で、いつ、どんな情報が流されたのかさえ把握していれば、情報戦はむしろ有利に進められるから、と話した。

 

ならば何故今更私を捕まえると問うと、彼は「殺したろ?」と言う。それを聞いた瞬間、ハッとなる。

10日前、五体満足の支那兵が見つからなくて近くにいた老人を殺した。それが西村にとっては邪魔だったのだ。どうやら西村は目立ちたくないようだったから、簡単に彼の気持ちが察することができた。

 

(確かに老人は殺したが———…本当は殺したくなかった。崇高な理想の為には仕方がなかったんだ)

 

だが、それが問題だった。

彼が記憶をなくしている際に、会話を交わしており、その話が少し出たが、私は顔を少し顔を歪めただけだった。それこそが彼にとっては問題だったのだろう。

 

記憶障害になりながらも、本懐を遂げるなんてあり得るのだろうか。彼は無意識の内に私を観察していたことになる。自然と話を持っていき、尚且つ、記憶を簡単に取り戻す——そんなことができるのだろうか。

 

だが、このスパイはやってのけた。まるで休憩の合間にする、なんてことのない日常かのように。

何故だか、手が再び震えていた。

 

そんな風に考えていると、西村は続けて、「ずっとお前を見ていたが、これからもそういう事態に陥れば、お前はきっとまた殺す。今の表情がそれを証明している。それは困るんだよ」と抑制のない声が静かにそう語った。それをそれを聞いて、目を見開く。

 

(私が殺す? そんなまさか。だって、私はこの国の国民を守る為に活動しているのだから、そんなはずは——)

 

「時間だ」

 

静かに西村はそう言った。その瞬間、私は気がつく。

私の時計の針を五分早めたのも、この部屋に来る隊長を来る時間を見越してだったのだろう。記憶を思い出して直ぐにしたのか、それとも他に何か方法があったのか、私には分からなかった。いや、分かりたくもなかった。

 

——だだ、理解したのは彼が化け物だということ。

 

部屋から出て行く彼の後ろ姿を見る。逆光で西村の顔は見えなかったが、その影が得体の知れない生き物に見えた。恐るるべき、化け物に見えたのだ。秘密を衣にして身を飾り、全てを欺く、人知を超えた存在。

 

蝿の王の配下たる化け物、西村。

きっと彼は魔王からの使者なのだろう。黒き影が自分を飲み込んで行くのを感じた。

 

不意にその瞬間、西村は笑う。まるで女と見間違うような妖艶で、真っ暗な笑み。その笑みに私は一瞬だけ囚われた。

そして何故か、亡くなった兄の姿と幼少期の友人の姿が被る。

 

——A secret makes a woman woman.

 

女は秘密を着飾って美しくなるのよ——。

 

 

♂♀

 

 

「戦場からの帰還ヒャッフゥ!!!!!!」

 

静かに船から降りた後、私は日本の地を踏みしめる。そして、私は小声で雄叫びをあげながらもガッツポーズをした。小さなガッツポーズだが、全力で拳をギリギリしている。

もー本当に嬉しすぎる。野宿とかもしなくていいし、何より命がけの殺し合いもしなくていいし、人も周りで死なないから最高! 日本よ、私は帰ってきた!!

 

(記憶障害になるとは思わなかったな…)

 

しかも、まさかの今世の記憶だけブッ飛んで、前世の記憶のみが残るなんて奇跡的すぎるだろ。 打ち合わせでもしたっけ??

後さ、記憶障害中の私はなんなの? 憑依じゃね?! とか騒ぐ前にツッコむところ色々あるだろ。というか何故憑依という結論に至った。漫画の読みすぎだよあの馬鹿。昔の私マジで馬鹿。

 

(よくもまあ、記憶を思い出せて、尚且つ、任務も遂行できたよ…)

 

結城中佐曰く、「不測の事態によって記憶に混乱をきたすことはスパイにとって容易に想定される事態だ。しかし、任務に必要な情報を無意識のレベルに刷り込む方法を体得すれば問題はない」らしいからね。

それを講義で聞いた瞬間、「いや、できねーよ! できたら化け物だよ! そう言えば波多野は『誤算』のお話で確かに出来てたけど! 私は無理!!」と思っていたのに…。まさかできるようになっていたとは…。マジで怖すぎ。やめて欲しい。

 

自分が人外になっていっているのが分かって、項垂れそうになる。

でも、私のレベルではまだまだなんだろうな。あいつらは記憶障害に陥ったとしても、もっと私より賢いやり方で対処できるだろう。例として挙げるならば、波多野さんである。マジであいつは化け物。

それを考えて余計に凹んだ。

 

ちなみに、記憶障害中のあの時、私はなんとか自分に対して、無意識レベルで指示ができた。

その中で、あの部隊にいた『協力者』にタバコを使って『私を殴れ』『脇坂先生の時計の時間をズラせ』と指示をしたのだ。無意識のレベルに身体に刷り込ませた、不測の事態にあった時にのみ発動する動作である。

余談だが、無意識レベルの刷り込みは死ぬ気でやらされた。

それにより私は協力者に殴られ、記憶を復活させることができたのだ。

 

(本当にやめて欲しいよね…。というかあのまま記憶障害だったのならば、スパイを辞めれたかな?!)

 

そのまま兵士として活動していれば、結城中佐も諦めて…!! ……いや、無理だろ〜な。普通にぶん殴られて記憶がカムバックしてただろう。結城中佐が一応はそれなりに動ける私を手放すわけがない。そのままにしておくなど、養成費用の無駄だ。世の中辛すぎ。スパイを辞めたい。

 

(まあ、結城中佐の説得は今無理だとしても、それは忘れよう。なんたって私は現在、フリーなのだから!!)

 

あの『蝿の王』の任務が終了してから、私は直ぐに軍を抜けた。自分が今持てる全てを使い、全速力で中国の戦場から脱出。そして今、自己ベストが出せるくらいの速さで日本に到着した。

 

——全ては、休みのために!!

 

だって、うちの職場って殆ど休みがないに等しいんだよ!! 仕事の合間に自主的に休む、みたいな。ふっさげんな!! 私は休みたいんだよこの野郎!!

その為に私は中国の地を全速力で駆け抜け、約束の日にちよりも一日早く日本に到着したのだ。全ては休みのために。のんびりとするために。未だに銃弾を受けた腕が痛むが、そんなことは知ったこっちゃねえ!! 私は休むんだ!! 引きこもるんだ!! インドア最高!!

 

そう思って、足を動かした瞬間だった。

 

「あれ、藤原か?」

「波多野、なんでお前ここに——?!」

「いや、俺も丁度仕事が終わって、船から降りたんだよ」

「そうか…」

 

別の船から降りてきた波多野をギョッとした顔で見つめる。船を見るに、恐らくあれはフランスからの便。波多野がフランスから帰って来たということは時期的に『誤算』のお話が終わったんだろう。なんという偶然。偶然すぎて怖かった。

 

(いや、まてよ? こんな偶然あるか?)

 

不審に思ってあたりを見回すと、向こうの方に杖をつきながら歩く、見慣れた人物——結城中佐がいたのだ。私はそれを見て、ギョッとする。そして、結城中佐はそんな私の方に視線を寄越すと、フッと小さく笑ってみせた。その瞬間、ぞぞぞぞと寒気が走る。

 

(バレてるーーーーーっ!!!!!!)

 

やっべえ、私が全速力で日本に帰って来て、休もうとしていたのバレてた! だから、敢えて波多野が帰る便と私の便が鉢合わせるようにしてたんだ! こっっっわ! マジでこっっわ!! 働けって事ですか結城中佐ァ!! 本当にすみませんでした! この藤原、全力で働くんで、あんまり危険な仕事を回してこないでください!! うわあああああああああああ!!

 

私は諦めて波多野と帰ることにした。内心で泣きながら。

 




藤原は知らない。気がつかない。
これからもきっと。

※無駄に藤原は優秀に見えますが、完全なる運です。


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其の十: 「トレインジャック(上篇)」

「…………お兄様、エスコート頼みます」

「ああ、わかったよ、『八重』」

 

八重という女————私は笑顔で田崎へ手を差し出す。私に兄と呼ばれた田崎も、笑みを浮かべながら私の手を取った。そのまま私達は東京行きの列車へと乗り込む。プシューという列車特有の音が聞こえた。

生前の私ならきっとあの田崎に対してキャーキャーと言っていただろう。だが、今の私としては気色悪すぎてゾワゾワしてしまう。酷い言い様なのは分かっている。だが、いつもと違いすぎてな…! 引きつりそうな顔を必死で押さえ込んだ。

 

(くっそ、これも結城中佐の所為だ…!)

 

憎々しげに結城中佐の幻影を睨みつける。本人には死んでもやらないけどな。怖いから。

——私がまたもや女装しており、尚且つ、田崎を『お兄様』と呼んでいるのには理由がある。恐らく、皆さんも分かっているとは思うが、任務だ。つい先程まで、京都でスパイ活動を行なっていた。その時、田崎と兄妹を装う羽目になったのだ。本当に解せない。

 

田崎がエスコートしてくれている手を握り潰したい気持ちになる。殺意が止められねぇ。任務中、田崎が私の女装姿をクッソ笑っていたからな。「またお前女装かよwww」みたいな感じだった。許さん。女装したいわけがねぇだろうが。身長が低い自分が憎い。これでも今世では平均身長なんだけどな。

そんな殺意を押さえつけた。そのまま列車内の食堂へと向かう。そこには波多野が先に座っていた。波多野は別の場所で任務だったらしい。こうして列車で合流することになっていた。私達を見た波多野は手を上げる。

 

「よう、『瀬戸』。久しぶりだな。妹さんと旅行か? 」

「久しぶりだな、『島野』。ああ、そのようなものかな。親戚への挨拶付きだったけど」

「お兄様は島野さんと相変わらず仲がイイデスネー」

 

思わず棒読みになった。D機関内で女装姿の私について触れられるのはキツイものがある。任務とはいえ、私は男の子。できれば波多野による追撃はやめてほしかった。哀れんだ目で見ないでくれ。『またかよお前』的な感じで見るな。

余談だが、田崎の偽名は瀬戸。波多野の偽名は島野だ。田崎は『アジア・エクスプレス』、波多野は『誤算』の偽名と同じだな…そういや。

そんなことを考えながら、波多野と同じ席に着く。その時、列車が動き出す。懐から懐中時計を取り出して時間を確認した。

 

(うん。時間通りに着きそうだな。ああーしんど…着いたら着いたでまた任務だもんなァ…)

 

本気で労働基準法が来い。ぶっ続けで神経すり減らす仕事を熟すなんて意味が分からないよ…。一応、次の任務は比較的簡単みたいだけど。アーロン・プライスとかいうイギリススパイのマイクロドットの回収だけらしい。まあ、そいつがどこにマイクロドットを隠しているか今の時点では分からないのだが。

しかし、楽って言えばまだ楽な方—————って、待てよ? アーロン・プライス? 波多野、田崎が登場? これってまさか、『追跡』のお話じゃ………?? 確か、追跡のお話のメインモブ役が英国のスパイ、アーロン・プライスだったはずだ。そして、波多野と田崎が回収役。それに気がついた瞬間、内心で絶叫した。

 

(もうやだァアアアア!! 原作に絡みたくねぇ!)

 

こうも原作に絡んでいることを実感すると、恐怖しかねぇんだよ! ああ、私、クソ危ない職業に就いてるんだなって思うから。はー怖すぎ…。スパイのアーロン・プライスってD機関に助けられなければ、確実に処刑台送りだったわけでしょ? 明日は我が身かもしれない。だから、スパイは嫌なんだよ。

ゲッソリしながら、田崎から渡された水を飲む。その時、何故か波多野がスパイ用のサインを送って来た。ん? 今は移動だけだから、スパイ活動をする必要はないはずだが…?

波多野が『右を見ろ』と言っているので、視線だけそちらへ向ける。だが、瞬時に後悔した。絶対にややこしそうな事案を見てしまったからだ。思わずうな垂れそうになる。

 

(五人くらいの男達がコソコソしながら動いてやがる…!!)

 

しかも、年若い男達が。

この時代、若い男達は兵として戦争に参加している場合が多い。そのため、若い奴らがこうも集まっているなんて珍しい。というか、まずない。確実に何か『ややこしい』ことをしているだろう。

ちなみに私が態々、今回、女装しているのもこうやって疑われないためである。男二人での京都旅は今の時期では目立ってしまうから…。

 

男達がこうして集まる理由には大きく分けて四つ考えられる。一つは軍の奴らが何かしでかそうとしている可能性。実井が主役の『ダブルジョーカー』みたいな感じで。二番目は反政府組織がテロを起こそうとしている場合。三番目は私達を狙う誰かが来ている場合。四番目ははっちゃけた一般人によるイタズラの可能性。

 

(頼む…四番であってくれ…!!)

 

本気で私は神に願った。ようやく来た休憩時間に仕事などしたくはない。だが、私達はスパイだ。万が一、私達を狙うものであれば大変である。あー…できればここで不審者共を無視してのんびりしたいのに…! だが、こいつらが許すはずがないからな。諦めよう…。

私は引きつる顔を抑えながら、田崎を見た。

 

「お兄様、私、この列車の中を見て回りたいわ。駄目かしら?」

「お前は本当に列車が好きだね。でも今は…」

「ああ、俺は大丈夫だ。兄妹水入らずで列車の見学を楽しんでくれ」

「すまない、島野」

「ごめんなさい。私がわがまま言ったばかりに…。淑女として列車探検なんて駄目よね。やめておくね」

「八重さんは殆ど列車に乗ったことがないんだろ? 俺は気にしてねえよ。ゆっくりと寝たいところだったし」

 

苦笑いを浮かべる島野こと波多野氏。茶番乙である。一応、理由付けをしないとね。誰が聞いているか分からないし。『八重』の設定にまさかの列車好きが追加されてしまったのは解せないが。これ以上『八重』に無駄な設定をねじ込むのはやめてほしい。

田崎と共に席を立ち、列車内を歩き出した。頼むから厄介ごとではないように祈りながら。

 

♂♀

 

「反政府組織によるテロか」

「しかも、爆弾を持ち込んでの」

「厄介だな」

 

田崎が鏡を使いながら、後ろ側の様子を探る。そこにはテロリスト達がいた。化粧室の一角に集まる彼らを見て、私はゲンナリした顔になる。

どうやらこの騒ぎはテロリストさん達の所為らしい。しかも、テロリスト達の話を聞いていると、『突発的に思い立ったからテロをしよう』という感じなのだ。ふざけんな。面倒ごとを持って来やがって。腹立つな。

現在、テロリスト三名が列車の上に登っている。上から車掌室に攻め入り、占拠しようとしているらしい。上からトットッと足音が聞こえた。それを聞きながら、私は田崎を見る。

 

「手筈通りにやれよ」

「うっす」

 

田崎から命令が下される。妹の『八重』を呼ぶ時とは違う、冷たい声。何故だか安心した———いや、安心はできないな。何を血迷ったこと考えているんだ私は。これはいつも通りでホッとしている〜という感じだ。田崎の妹の扱いがキモすぎたから。他の人からすれば妹をスマートにエスコートする兄だったんだろうけど。私的には「怖っキモっ」である。酷い自覚はある。

 

私はビー玉が入った袋を落とす。ドッドッという音と共にビー玉が袋から飛び出した。そのままビー玉がテロリスト共の方へ転がっていく。驚いたテロリスト共がバッとこちらを見た。

私はできるだけ可愛い女の子の顔を作る。清楚系ぶりっこな女の子だ。きゅるるんという感じで目を見開かせた。

 

「ああ…っ! お兄様から頂いたビー玉が…!」

「なっ、なんだ貴様?!」

「へっ?! あっ、すみません…! ビー玉を落としただけで、その、あのっ…!」

「ただの女じゃないか。そんな責めてやるなよ」

「チッ、早く取れよ」

「すみません…!」

 

女の子が困っているんだぞ! お前らが拾ってくれよ! そう考えながら、反対側まで行ってしまったビー玉を追いかける。そして、私は落ちたビー玉を拾い、テロリスト達に向き合った。へにゃと眉をハの字にして笑顔を向ける。私は可愛い女の子私は可愛い女の子私は可愛い女の子ォ!

 

「ごめんなさい。驚かせてしまって」

「いいよ。早く行きな」

「ええ。そうします。

 

———貴方達と共に」

 

ニコッと私が笑った刹那だった。田崎がテロリストの後ろから睡眠薬入りのペン型針を振りかざす。一瞬で二人同時に昏睡させてしまった。ドサリと倒れる男達。流石は田崎である。絶対に逆らいたくねえ。

そんな感じで、四人のうち二人も突然倒れたことに驚いたのだろう。ギョッと残りの男二人は目を見開かせていた。直ぐに田崎の方へ振り向く。

 

「何だ貴様ッ!」

「政府のものか?! くそッ敵は一人だ! 行くぞ!」

 

慌てて拳銃を手に取るテロリスト達。それを見た田崎はにっこりと笑みを浮かべていた。よそ行き用の紳士スマイルである。品の良さを漂わせた笑顔をテロリスト達に向けていた。ニ対一という不利な状況なのに関わらず、だ。

それに怖気付いたのか一瞬だけテロリスト達は一歩下がる。その刹那、私は動いた。洋服のスカートを大きく翻して拳をあげる。

 

「ゴメンアソバセーーッ!!」

「ガッ?!」

「ゴッ?!」

 

くらえ! 女子力(物理)!!

 

淑女らしい言葉を高らかに叫ぶ。両手に持った催眠薬入りのペン型針を二人にぶっ刺してやった。遠慮なく首にいかせてもらったよ。その瞬間、ぶわりとスカートが舞い上がる。よろめくテロリスト達。それを狙って、前にいた田崎が二人の拳銃を弾く。カチャン、カチャンと音を立てて拳銃が床に落ちた。同時にテロリスト二人も地面へと落ちる。

 

(あー怖い怖い)

 

一瞬でこんなことができるようになった自分が嫌すぎる。しかも、拳銃を持った相手に対して。スパイを辞めたいな…本当に…。こんな女子力(物理)はいらないと思うんだ…。

 

そんなことを考えていると、田崎が私の方を見た。何故かニヤリと笑っている。私がうな垂れている間、確か田崎は波多野と通信機器で連絡を取っていた筈だ。どうしよう。嫌な予感しかないんだけど…?? 長年の経験から危機察知能力だけは無駄に上昇した。残念ながら、回避率はあまり高くないが。

 

「『島野』は列車の上に既にいるらしい。八重、お前も上へに行こうか」

「は?! い、嫌ですわ、兄様!」

「お前の方が俺よりも小柄だろう? その分、動き回りやすいのは分かっているはずだ」

「お兄様、妹は嫌です。落ちれば痛いですもの!」

「行けるね?」

「はい」

 

随分とドスの利いた声で脅された。瞬時に「yes」と返事してしまう。クッ…ヘタレな自分が憎い。

血の涙を心の中で流しながら、私は田崎に肩車をされた。列車の天井にある蓋を外す。その刹那、蓋を開けた場所から、ものすごい勢いで風が私の顔へ吹き付けてくる。蓋を元の位置へ戻したくなった。だが、根性で恐怖心を押さえつける。そのまま、顔だけを外に出した。列車が走っているせいで、びゅんびゅんと髪が風に煽られる。それを我慢しながら視線を動かした。その時、波多野を発見する。

 

(波多野がテロリスト共とやりあってる…)

 

うわー行きたくねー…。素直にそう思った。

私の視線の先にはテロリスト三人を相手に戦っている波多野がいる。まるで舞を踊っているかのように体術を駆使していた。しかも、列車の屋根という狭い所で、更には強い風が吹き付けてくるオプション付き。化け物かよ。いや、化け物だったわ。流石はD機関の体術ランキング一位に輝いている化け物。帰りたい。

 

だが、そんなことは言っていられない。私は涙を呑んで、列車の上に登った。

 

———藤原、いっきまーす!



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其の十一: 「トレインジャック(下篇)」

(ようやく藤原が来たか)

 

現在、俺はテロリストと対峙している。俺の前方であり、テロリストの後ろから藤原が出てくる。藤原はバランスを崩さないように慎重に動いていた。その藤原の顔は『列車が走っている時に屋根で戦うとか正気じゃない』的な顔をしている。それを見て、俺は内心で小さく笑った。

 

(目の前のテロリスト共に藤原が来たことをバレないようにしなくちゃな)

 

そう考えて、出来るだけ奴らが後ろへ振り向かないような戦い方をする。戦いの中で思うことはただ一つ。

 

(さて、不安定なこの場で藤原は奇襲できるのかねぇ?)

 

俺は小さく溜息を吐く。

———俺は藤原という男があまり好きではない。他のD機関員ならば、「どうでもいい存在」や「多少気になる凡人」程度にしか考えていないだろう。その中で、確実に『あまり好きではない』という分類の俺は珍しいに違いない。

 

何故、あまり好きではないのか?

理由は簡単だ。この男が『普通』すぎるからだ。

 

藤原という男は一般人と感性が変わらない。更に、彼の頭の出来も普通。お世辞にもいいとは言えないだろう。賢さというものは一種の才能だ。どれだけ努力しようとも、瞬間記憶能力を持ったりすることや、IQの高さを変えたりは出来ない。まあ、どこまでが『賢さ』と定義するかで色々と変わってくるだろうが、それは置いておく。

 

一応、言っておくが、藤原は優秀な部類ではあると思う。そうでなくてはD機関に居座れるわけがない。それでも、彼の頭の作りは凡人だ。だからこそ、藤原に話が通じないことが稀にある。彼と俺の間には越えられないIQの差があった。

諸君らはこのような経験をしたことがないだろうか? 例えば、頭の良い先生に教えてもらった時。先生は「これくらい分かって当たり前だよね」と生徒が分かっていないのに問題を飛ばすことがある。先生———つまり、賢い人間は、『何故、生徒が理解できないのかが、理解できない』のだ。これが俺と藤原の間にはあった。

 

(藤原の理解力のなさにはイライラしたものだ)

 

だが、それでも、二つの点だけは認めている。それは———藤原の判断力とスパイとしてのあり方だ。

 

藤原という男は判断力に非常に優れている。今、何をするのが最善かという判断を素早くできるのだ。最善を選ぶためなら何を捨てようと構わない。例えそれが家族であったとしても、藤原は捨て去ることができるだろう。普通の感性がありながら、一切の躊躇をしない人間。それが藤原だ。

————判断力とスパイとしてのあり方。その力だけはどのD機関よりも優れているに違いない。判断力に優れているからか運転も驚く程上手いしな。

 

(まあ、それを認めているだけで、後は落第点なんだけどな)

 

そう考えて、俺は中折れ帽を目深く被り直した。さて、テロリストを倒さなくては。俺は眼を鋭くさせた。

 

♂♀

 

(何なんだ、この男は…?!)

 

男は驚愕していた。意味もなくガタガタと身体が震える。これは寒さのせいではない。最初は、動いている列車の屋根にいる所為で身体が冷えたのかと考えていた。だが、それは違うと今は断言できる。

 

———この男が俺は怖いのだ。

 

髪の毛を真ん中で分けた茶髪の男。日本人の平均である160cm程の身長。確か先程、兄妹の旅行客と一緒にいた、島野とかいう男だった筈だ。テロリストの男は存外記憶力がいいので、彼の名前を覚えていた。

 

(俺はこの世界を変えるんだ…! こんな奴に怯えるな…!)

 

ギュと唇を噛みしめる。なんとか島野からの威圧感に耐えてみせた。そう、俺は世界を変えてみせる。無駄に戦争を繰り返すこの国を変革してみせるんだ。

 

そんな意思を持って、俺は島野に向かって拳を振るう。しかし、軽く避けられてしまう。直ぐに仲間のテロリストの一人が島野へ攻撃をしかけても、彼は難なくかわした。それが長い間続いている。いや、もしかしたら数分程度なのかもしれない。だが、俺達にとっては長く思えた。思わず舌打ちを零す。

他の仲間二人も苛立ちを覚えたのだろう。何の策もなしに二人が突然、突っ込んでいった。慌ててそれを止めようとするも、もう遅い。

 

———その瞬間だった。

ザッと後ろから影が通ったのだ。驚く暇もなく、気がつけば仲間の一人が突然列車の屋根の上へ転がっていた。ギョッと眼を見張ると、そこにいたのは女。藤色のロングスカートをはためかせた、ただの女だった。

 

(ただの女が男一人を昏睡させた…?!)

 

その事実に驚く。不意打ちとはいえ、こんなか弱い女に昏睡させられるとは夢にも思わなかったのだ。

女は隣の島野という男と言葉を交わす。その後、昏睡させたテロリストの仲間の一人を列車内へと落としていった。ゴクリと唾を飲む。

 

———この二人は手練れだ。だが、俺には仲間がもう一人いる。一応は二対二だ。正面からならまだ活路はある。しかし、どうしようもなく不安だった。進行方向に背中を向けているせいで背中が冷たい。びゅんびゅんと背中へ風が当たっている。その冷たさがうっとおしかった。

はあと息を吐いて気持ちを切り替える。俺は仲間とアイコンタクトをとろうとした。その刹那、女と島野は笑う。そう、『笑ってみせたのだ』。彼らは風で髪を後ろへはためかせながら、眼を細める。

 

———二人は人を人として思っていないような顔をしていた。俺達が死のうが生きようがどうでもいいような笑み。『化け物』の笑みだ。

 

ゾクゾクと震えた。ガチガチと歯を鳴らす。こいつらと戦うなと本能が叫んでいた。だが、そんな敵前逃亡という負け犬な行動はしたくない。俺は恐怖を押さえ込んで叫んだ。

 

「俺達を捕まえてどうする…?! この国は腐っている…!! お前達がしていることは無意味だ…!!きっとお前らは政府側の人間なんだろう?! なら、分かるだろ! この国の腐り具合を!」

 

そう叫んでも彼らは何も言わない。ただ笑みを浮かべるだけ。その気味の悪さにグッと言葉を詰まらせた時。

 

ヴォオォオン…

 

背中に降りかかる風の向きが変わった。慌てて後ろを振り向く。

———そこにはトンネルがあったのだ。列車がトンネルに入ろうとしている。もうすぐでトンネルの上部に俺達はぶつかりそうになっていた。ギョッと目を見開く。

 

(ぶつかる…!!)

 

反射神経が優れている俺はなんとかしゃがんで回避。だが、仲間の一人は思いっきりトンネルの上にぶつかったらしい。鈍い音を立てて倒れた。俺は慌てて倒れた仲間を掴もうとする。だが、スカッと空を切った。真っ暗なトンネルの中、サーと血の気が引くのを感じる。

 

「死んだ…??」

「————いや、死んでないさ」

 

再びヴォオォオンという音が聞こえたと思えば、女の声が響いた。トンネルから抜けたのか辺りは明るくなる。急に明るくなったせいで思わず眼を細めた。数秒後、眼を開ける。そこには夕日をバックにして、背を向けながら立っている女一人がいた。

 

(ああ、)

 

どうしてか俺は彼女から目が離せない。茜色の夕日と黒髪のコントラストに眼を奪われ続けていた。ただひたすら彼女を見つめる。その時だけは政府や信念といった言葉を忘れていた。胸に何かが込み上げてくる。ブルブルと再び震えた。

刹那、女は振り返る。ヴヴ…と彼女が陽炎のようにブレる。その時、何故だか分からないが、彼女が男に見えた。女は、いや、男は口を開く。

 

「確かに私達がしていることは無意味なことかもしれない。だが、私達は少しずつこの国を変えるだろう。それは空虚な世迷い言なんかじゃない」

 

キラリと彼の瞳は輝いた。黒色の瞳が鈍く光を放つ。その光景を魂が抜けたかのように見つめ続けた。ハッと小さく息を呑んだ瞬間———俺の目の前が真っ暗になった。

 

♂♀

 

「おい、八重、頭がズレてるぞ」

「……カツラがズレているって言ってくれないかしら?」

 

思わず顔を引きつらせる。思わず殴りたい気持ちになった。だって、列車の屋根から降りてきたら直ぐにコレだよ? 本当にデリカシーがないよな、私限定で。ああ、ムカついてきた。

 

一応、カツラを元の位置へ戻す。髪を整えながら周りを見渡した。角の方に男三人がロープでぐるぐる巻きにされているのが見つかる。屋根の上にいた三人のテロリスト達だ。中々骨が折れる仕事だったなと彼らを見てしみじみと思った。

———最初のテロリストは不意打ちで私が昏睡させ、脱落させた。二人目はトンネルにぶつかった瞬間、波多野が回収。闇に紛れて波多野はそのまま屋根から列車内へと降りた。三人目は私が男を引きつけている時、後ろから田崎が昏睡させたのだ。

 

(なんとか上手い具合にテロリストを鎮圧できたけど、もう嫌だなぁ…。したくないなあ…)

 

ちなみに、他にいたテロリスト達は田崎が捕まえてくれた。流石は『アジア・エクスプレス』での主役、田崎様である。トレイン系は無双ですか。かっこいいよ。お前がトレイン系の仕事は全てやるべきだよ。私にそれ系の仕事を回さないでくれ。後、テロリストを鎮圧する系の仕事も回すなよ。トラウマがあるから。あー…テロリストに遭遇するとついついキッツイ言葉を言っちゃうんだよなあ。相手が出来るだけ衝撃を受けるような言葉をさ。ちなみに、その言葉は適当である。

そう考えながら、私は溜息を吐いた。

 

(———次は『追跡』のお話か。まさか私もマイクロドットの回収係のD機関になるとは)

 

こうも原作通りに進んでいると恐ろしいものがある。良くないことが起きなければいいが。少し眉をひそめた。




次回、『柩』と関わる予定。

皆様、お久しぶりです。今年の冬コミ12/29でこのシリーズの新刊を散布することになりました。
『訓練時代に一番死にそうになった話』『戦後のD機関』『もしも結城中佐と同期だったのなら』の3話収録です。サンプルはまた後日公表しますね。
▼日時&場所:12/29(1日目)東ト60b
▼本の内容: A5/P46

いつも皆さんありがとうございます。ほんっっっっとに久々の更新です。次か、次の次で終わる予定です。最終回まで突っ走ります…!それまでよろしくお願いします…! 冬コミで新刊が散布するまでにジョカゲは完結させたい…!


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最終話: 「D機関のスパイは死なない」

———やっべえ。三好の死亡フラグどうするよ。

 

今更、そんなことを考え始めた。

ホテルの一室にあるベッドに座りながら頭を抱える。それと同時に、長髪のウイッグも一緒になって揺れた。視線を下にするとロングスカートが目に入る。思わず破りたい気持ちになった。

 

(まーた女装かよ…! しかも、結城中佐と一緒にドイツにくる羽目になるなんて…)

 

今回、結城中佐と一緒にドイツへ来ていた。三好からの情報を受け取りのためである。それ故、今、ホテルの別室で結城中佐は三好と何やら話し込んでいた。

ちなみに結城中佐とは途中合流だ。その前までは他のD機関のパシリだった。結城中佐、ほんっっっっとに私のことパシらせすぎ。普通、スパイって長期に渡って1カ国に滞在するものじゃないの? 無駄に私、国から国へ移動しているんだけど…。

しかも、ナチュラルに原作介入もさせられるし…。実井が主役の『ダブルジョーカー』でも普通にモブ役として登場したわ。やめろよ…。

 

(それよりも三好の死亡フラグだよ死亡フラグ!)

 

今は1940年秋。三好のいる場所はドイツ。外は雪。現在、三好が結城中佐へ全ての情報を渡し中。これが意味することは分かるな?

 

———ここで別れた瞬間、三好は列車事故で死ぬ!

 

それを考えた刹那、私は再び頭を抱える。声にならない叫び声を上げた。そのまま仰ける。

今の今までずっと考えないようにしていた問題がついに来てしまった…。どうするよ。いや、本当にどうするよ?! 三好が死ぬなんて嫌だよ?! そりゃあ一応、今まで苦渋を共にして来た仲間だしさァ。三好の死を知っているのにむざむざと死なせたくないよね。流石に目覚めが悪い。まあ、本音を言うと、

 

(私の仕事が増えるだろうが!)

 

最低な自覚はある。でも、ぶっちゃけこれが本音です。いや、仕方がないじゃん?! 三好って凄く優秀なんですよ。考えてもみて? 結城中佐が昔に捕らえられた場所はドイツ。更に現在、ドイツは同盟国。スパイであるとバレたら即国際問題へと発展してまうに違いない。そのような場所へ結城中佐の後釜として三好は送り込まれた。恐らく、彼はD機関の中でも特に優秀だからだろう。そんな三好がいなくなれば私の仕事が確実に増える…!

 

(あーどうやって回避するか。正直に『前世の記憶があります! 三好が死にます!』とか言う?)

 

うーん、一発で死ぬな、私が。

 

結城中佐と三好直々に精神科を勧められてしまう。それか、超絶蔑んだ目で見られてしまうだろう。場合によっては戦場送りだ。世知辛い。

自分でも言うのもなんだが、前世の記憶があるなんて頭がおかしいよな。しかも、本人が心底それを信じ切っているなんて。更には前世の人格に影響を受けまくっているときた。でもなあ、それが私にとっての真実だからなあ。

 

(この場に三好を長い間止まらせるような問題を起こすか。それとも、他の場所へ行くように仕向けるか)

 

無理だ…。問題を起こしても直ぐに解決しやがる化け物しか浮かばねぇ…。あいつらは無駄に優秀すぎるから…。

他の場所へ行くように仕向ける案も不可だ。三好がベルリン行きの列車に乗ることは既に決定事項だろう。そこに私の介入など出来ない。

 

そもそも三好がベルリン行きの列車に乗ること自体、本来なら、私が知るはずのない情報だ。結城中佐の付き添いでなければ、三好がドイツにいることすら教えられなかったはず。余計な情報は時として致命傷になるからなあ…。

例えば、スパイである私が決められた範囲外の情報を持っていたとしよう。もしも捕まった場合、芋蔓式に他の情報が引っ張り出されることがあるのだ。だからこそ、結城中佐は各D機関員に対して必要以上の情報を与えない。私が事前準備ができなかったのもそのせいだ。『お前、何故知っている』となり、余計な波紋を呼んでしまう。

 

(他にも色々な案を考えたけど…全部駄目だ。三好の死が計画的なものならなんとかなったんだけどな…)

 

三好の場合、『偶然の列車事故』だ。原作でも、流石にこれは予測できなかったのだろう。あの化け物が死ぬ羽目になった。というか、計画的な殺人であれば結城中佐がとうの昔になんとかしてるわ。私の出る幕なんてないわ。

 

(それに、この前世の知識は間違っている可能性があるし)

 

前世の記憶を信じながら、私はその実、あまり信じていない。原作通りに進んだとしても、『別の可能性がある』と常に考えていた。この考え方は、D機関での教育の賜物だろう。

確かに、今までは原作通りだった。しかし、違う場合がでてくるかもしれない。その時、責任を取るのは私だけではないのだ。他のD機関や、場合によっては民間人達にも影響を及ぼす。そんな危険な真似は出来なかった。

 

(私ができることは信じることだけ、か)

 

私は凡人だ。決して英雄などではない。凡人ができることなど高が知れている。私がすべきは不確定な事故の考慮ではない。任務を全力でやることだ。

 

(自分の凡庸さが憎い…。あーあ、孫悟空みたいな人が現れてくれないかな。かめはめ波で全て解決してくれるとか)

 

ま、ねーけどな。このスパイ小説はそういう系統の話ではない。一介の人間如きが『ありえない』事をしでかすのが売りだ。力の法則を無視したスーパーサイヤ人とかは出てこないだろう。無念。

なんとか抗いたい…。うーん、ハッそうだ! 防弾チョッキでも三好に渡すか…?! 奴の致命傷は腹に刺さった鉄棒みたいだったし。多少マシになるのでは?

 

私はベッドから立ち上がる。床に置いてある旅行鞄をパカリと開けた。そこには防弾チョッキがしまわれている。あー、あったあった。他の国でパシリをしている時に必要だったんだよね。胸に銃弾を受けなきゃいけなかったから…。怖かったなー。

 

私は当時のことを思い出して、遠い目をした。その時、コンコンと扉を叩かれる。『八重、僕です』という、真木こと三好の声が聞こえてきた。余談だが、八重は私だ。

私はこれ幸いにと防弾チョッキを持って三好の元へ行く。その後、扉を開ける。すると、そこには完全に帰る準備をした三好がいた。あっやべぇ。早くしなきゃ。

 

「貴方のお父様とのお話が終わりました。そろそろベルリンへ向かいます。その挨拶にと———ん? 何をしているんです?」

「真木さん」

「はい」

「防弾チョッキを着ません?」

「何を言っているんだ貴様」

 

怖ッ! 三好さん怖ッ!

 

確かに、良い言い訳が思いつかなかった私も悪い。だが、そこまでキツく切り捨てることないじゃん?! 急にいつもの口調に戻るのやめて?! 流石に心にキた。

三好が蔑んだ目でこちらを見てくる。怖すぎ。それに対して私は引きつった笑いを浮かべた。「じょ、冗談ですよ〜」と言いながら。三好は眉をひそめる。

 

「突然、何を言い出すのかと思えば…。相変わらずですね」

「どういう意味だよ。絶対にいい意味じゃないだろ」

「ある意味で褒めていますよ。あまりに貴方が変わらなさすぎて」

「貶してんの?!」

 

三好はあらかさまにため息を吐いた。それを見て、口がひくひくと動く。ムカつくなあ…! こんなこと、出来れば私も言いたくないんだよ。でも、お前に死んでほしくないから、わざわざ防弾チョッキを渡したのに…! はー…ま、分かるはずがないよね。説明もしていないんだし。私が悪いな。

そう考えて、肩を落とす。その時、三好は「そろそろここを発ちます。では、また」と言ってきた。そのまま踵を返そうとする。私は慌てた。何か、何か言わなければ———!

 

「『真木』!」

「なんです?」

「囚われるなよ」

「はあ、何だ。そんな事ですか。わかってますよ」

 

呆れた表情でそう言う三好。知っている。そんなこと、『既に知っている』よ。三好という男は死の直前でさえスパイであることを止めなかった。腹を鉄棒で貫かれ、意識が朦朧としても、本懐を遂げたのだ。己が常に身につけている協力者のリスト。それを敵へ渡さないよう、隠しきってみせた。

私は微妙な顔をする。そのまま、こう言った。「何でもない」と。化け物ではない自分。凡人な自分。それが腹立たしかった。

 

———この出来事を私はきっと一生後悔し続けるのだろう。

 

小さく唇を噛んだ。

 

 

♂♀

 

 

「———囚われるな、か。あいつはこういう意味で言ったのか?」

 

ゴホッと小さく咳き込む。意識が朦朧とする。震える手で腹に突き刺さった鉄棒を撫でた。ぼんやりとする視界には大破した列車が入る。内心で舌打ちをした。

 

(まさか列車事故に巻き込まれるとは…。恐らく、僕の命は長くないだろう)

 

助かるための凡ゆる手段を一瞬で何百通りも考えた。だが、無理だ。完全に鉄棒は身体の急所へ突き刺さっている。数分もしない間に僕の命は尽きるだろう。僕が人体について知り尽くしているからこそ、出てしまった結論だった。

 

(列車事故か。計画的なものならば絶対に阻止したものを…! 佐久間さんに『化け物』と呼ばれた僕も、所詮は人間だったてわけか)

 

———人間は運命には逆らえない、か。それを考えて、眉をひそめる。

運命なんてものは信じていない。軽々しく『運命の所為だ』と言って、諦めるのは容易いだろう。けれど、殆どの場合、それは『運命』の責任などではない。自分自身の責任ということの方が多いのだ。しかし、僕はこうして予期せぬ事故にあっている。あれ程までに運命を信じていない、この僕が————事故程度で死ぬ。その馬鹿馬鹿しさ加減に笑いそうになった。

 

(だが、それがどうした?)

 

神が僕へ死を運ぼうとも、することは変わらない。僕は僕の任務をやり遂げるだけだ。このような不測の事態への対処の仕方など、とうの昔に頭に入れている。ああでも、『死ぬな』というD機関の信条を破ってしまったことは本当に残念だな。だが、僕はその程度の気がかりで思考を停止させるわけがない。『ありえない』。ありえるはずがない。何故ならば僕は、

 

———D機関の三好なのだから!

 

僕は笑いながら手をあげる。その時、先程の藤原から言われた『囚われるな』という言葉が頭に響いた。ああ、この僕が囚われるわけがないでしょう。そう思いつつ、マイクロフィルムが縫い付けられている襟に血をつけた。このフィルムにはドイツでの協力者のリストが入っている。

 

(僕は幸運な方だ。まだ結城中佐と藤原が近くにいる。彼らならば必ずマイクロフィルムに気づくだろう)

 

なら、思い残すことはない。スパイとしての後悔もない。

そう考えている間に視界がどんどん暗くなっていく。身体の感覚がなくなってきた。そろそろもうダメか。その時、頭に浮かぶのは藤原だった。

 

(あの男、もしやこの列車事故を想定していた?)

 

一瞬だけ計画的なものかと疑った。だが、それを瞬時に否定する。計画的なものならば、僕か結城中佐が絶対に気がついていただろう。その程度に気がつかない僕らではないのだから。

 

(藤原は最後の最後までよく分からないやつだった…)

 

彼は至って凡人な人間だ。人を慈しみ、誰かを騙す事なんてできない奴である。だが、同時に異常な人間だった。この世界を本の中の物語程度にしか考えていないような男。更に、度々奴はまるで未来を見ているみたいに話し出す事もあった。

色々とチグハグで、この時代に合っていないような奴。それが藤原だった。

 

(藤原。『藤』原ねぇ)

 

藤の花言葉には色々ある。「優しさ」「決して離れない」などだ。藤原は優しい人間である。だが、それと同時に異常でもある人間だ。だからこそ、このD機関から離れることができない。そういう意味で結城中佐は彼へこの名を授けたのだろう。今更ながら、そう気がついた。しかし、一つだけ正解か分からない考えを思いつく。

 

(藤の花言葉には「佳客(良いお客様)」なんてものもありましたねぇ。もしかして、本当に未来から来た『お客様』が藤原だったりするのか…?)

 

先程も言ったように、藤原は未来を知っているような言動を取る時がある。まるでD機関一人一人の先を既に『知識』として身につけているかのようだった。本当に未来の知識が彼にあったとしたら? それならば、藤原と別れる前に彼が防弾チョッキを渡してきた理由に説明がつく。

結城中佐は彼が『未来からの客人』だと知っていたのか? だからこそ、彼をD機関に入れた?

そこまで考えて、プハッと噴き出す。馬鹿馬鹿しい。そんなSFのような話があるか。僕の頭もついにおかしくなったか。

 

(結城中佐にその答えを聞いてみたいものだが————もう出来ない。この答えはあの世で聞くか)

 

ま、あの世なんて信じていないが。これから先は誰もが経験するが、誰もが知らない世界。もう僕の視界には何も映らない。最早、感覚もない。世界と世界が切り離される刹那、声が聞こえた。見えない筈の目に何故か灰色のスーツが映り込む。

 

———よくやった、三好。

 

———当たり前ですよ。僕は『魔王』結城中佐が手掛けた化け物の一人、『三好』なんですから。

 

一人の化け物が笑った。

 

 

♂♀

 

 

「それは本当か?」

「本当さ、『草薙』」

 

抗日活動家・草薙行仁として活動する俺———『福本』は若干目を見開く。すると、同じD機関員の『藤原』は小さく笑ってみせた。

俺は現在、上海のとある食事処にいる。そこで藤原へ定期報告をしていた。珍しく藤原が情報の受け取り係として来たと思えば…。

 

(まさか三好の死が伝えられるとは)

 

あの男が? 『ありえない』! 驚いて、もう一度確認してしまう。それ程までに信じられないことだった。三好という男はD機関の中でも特に優秀だったからだ。もしかしたら、将来、結城中佐の後任としてD機関のリーダーになっていてもおかしくない男である。簡単に死ぬような奴ではない。

 

(だが、三好の死は本当なのだろう)

 

任務中に態々冗談を言ってくるわけがない。それに———。

藤原の顔を見た。彼は笑っている。いつものように笑ってはいるが、どこかおかしかった。そうだな。言うならば、『後悔』があるように見えたのだ。この藤原という男がそんな誰かを惜しむような表情をしている。それだけで信じるに値した。

 

———藤原という男はこの世界を見ているようで、『見ていない』。誰が死んでも、諦めた表情しかしなかった。もしくは興味がないか。藤原は決して『死』なんぞに囚われるような男ではなかった。 何者にも囚われない男。それが藤原だった。

 

(この男も『後悔』なんてするんだな)

 

それに対しても少々驚きを抱いている。彼はいい人のように思えて、その実、とんでもない『人でなし』だからだ。

 

(藤原が何者にも囚われない理由————。それは、別の何かに『囚われている』からなのかもしれない)

 

今、気がついた。

藤原は基本的にこの世界に囚われていない。だが、一つだけ表情を変えることがあった。それは『未来』の話をする時だ。もしかしたら、彼は『別の世界』に囚われているのではないか。だからこそ、この世界に囚われてないのではないか?

そこまで考えて、小さく笑った。

 

(それはどうでもいい情報か)

 

恐らく、こんな藤原の顔を見るのはこれで最後になるだろう。彼もまた結城中佐が手掛けた化け物の一人。この程度のこと、直ぐに乗り越えてみせるに違いない。ほら、藤原からは既に『後悔』の感情が消えている。あるのは『スパイ』としての顔だけだ。

 

「ああ、そういえば————」

 

肘をつきながら藤原は世間話を始める。重要な情報が入った世間話を。

 

 

♂♀

 

 

「以上が福本からの報告です」

「了解した。もう下がっていい、『八重』」

「はい」

 

私、藤原は相変わらず女装をしている。今は第二次世界大戦中の真っ只中だ。そんな時に若い男がスーツを着て、うろうろしていたらおかしいからね。はー…戦争って嫌だわ…。

私は結城中佐へと頭を下げる。そして、部屋から出て行こうとした。その時、結城中佐から声をかけられる。

 

「貴様は今、『囚われている』か」

「………、………どういう意味でしょうか」

「質問しているのは此方だ、『藤原』」

 

結城中佐の質問に思わず身体が硬直する。一瞬、声を出すのを躊躇ってしまった。

えっ……え? 結城中佐は何を言ってんの…?? 突然の『囚われているか』発言に戸惑いを隠せない…。どういう意味ですか、結城中佐。私は馬鹿だから、一からちゃんと言ってくれないと理解できません、中佐。

ぐるぐると思考する。脂汗が滲むレベルで私は悩みに悩みまくった。そして、一つの考えに行き着く。

 

———まるで分からん!

 

だめだ。分かんねぇ! 何を言っているのかさっぱりだ! 馬鹿な私に何を求めているの?! だが、まあ、そんなことは言えるはずがない。言った瞬間、冷たい目で見られるのは確定している。考えても答えが出てこないってことは、『囚われてない』ってことでいいだろう。

私はクルリと身体を回転させる。国民服と呼ばれるモンペの裾へ空気が入り、少し膨らんだ。今の時代は『贅沢は敵だ』と言われているから、スカートを履くことができなくなってしまったんだよなあ。そう考えながら私は口を開く。

 

「I am not able to answer it because a secret makes a woman woman」

 

————ごめんなさい。その答えは言えないわ。だって、女は秘密を着飾って美しくなるものだもの。

 

ごめん、某名探偵漫画に出てくるベルモット姐さん。色々とパクった。しかも、なんか付け足してしまったわ。女は秘密を着飾って美しくなるって言っとけば大丈夫大丈夫。それだけでベルモット姐さんの魔法が利くから。あの美人に『良い女になるためだから秘密は教えられないわ』的なことを言われたら、私なら黙るもの。だ、大丈夫だよね…? 頼む、これで納得してください、結城中佐。

 

そう言った瞬間、結城中佐は笑った。あの結城中佐が『笑った』のだ。その瞬間、寒気がした。嫌な予感しかしない。

 

「貴様は『それ』でいい。そうでなくてはな」

「は、はあ、」

「藤原」

「はい」

「死ぬなよ」

 

結城中佐は珍しく、『死ぬなよ』しか言わなかった。『囚われるな』とも、『殺すな』とも言わなかったのだ。それに少し首を傾げる。

 

(もしかして三好が死んだから、そんなことを言うのか?)

 

三好の死は衝撃的だった。今でさえ、彼のことを考えると手が震える。あれ程の化け物でも運命には逆らえない。どれだけ優秀で、天才だったとしても、死ぬときは死ぬのだ。それがどんなに恐ろしいことか。死は平等だ。死だけは天才だろうが、金持ちだろうが、貧乏だろうが、誰にだって降りかかるもの。結城中佐が『死は虚構なもの』と称した意味がよく分かる。

だが、結城中佐が私へ『死ぬな』といった理由が三好の死の所為かは分からない。何故か? そんなもの、一言で片付く。

 

———結城中佐は我らがD機関の元締め。化け物達を育てた、『魔王』なのだから!

 

私如きが結城中佐の考えなんてわかるはずもないのだ。故に私は余計な疑問を直ぐに頭から弾いた。考えても分からないなら仕方がない。いつものことだ。それよりも、次の任務について考えなければ。そう思いながら、私は口を開く。

 

「もちろんです」

 

ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。私はただ死にたくなかっただけなのに。『生』にしか興味がない私が、『死』に近い場所にいる。本当に笑える話だ。その時、頭の中で声が響いた。

 

———スパイになってしまったのだが、どうすればいいと思う?

———どうもこうも、生き残るしかないだろう。

———それもそうだな。

 

私は、いや、『藤原』は笑う。結城中佐と同じ笑みで。

どうやら、藤原というスパイの物語はまだまだ終わりそうにないようだ。私は肩を落とした。

 

 

 

 

 

end



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登場人物

登場人物

 

※本編で語られることのなかった色々。

 

▼オリ主

・D機関での偽名は『藤原』。女装名は『八重』。

・前世の記憶があり、中々に優秀だったことが運の尽き。結果、結城中佐によってスパイの道へと引きずりこまれた。

・本人の最優先事項は『生きること』。正直、それ以外にあまり興味がない。前世のトラウマの所為。

・感性は一般人。頭の作りも普通。だけど、『前世』があるせいでチグハグな人。それ故に色々と勘違いされていた。

・よく勘違いされる家系出身。実は、自分の家族(前世)も周りから勘違いされていた。しかし、本人達に自覚はなし。

・晩年でもスパイを続けて、大変な目にあう。戦後なんか特に大変だった。

 

▼結城中佐

・言わずもがな、全編に及んでの黒幕。D機関の元締め。

・結城中佐の視点はこれからも語られることはない。何故ならば、彼は『黒幕』だから。謎だからこそ、面白い。彼の内面が語られることはまずないだろう。それが、『ジョーカー・ゲーム』の『結城中佐』なのだ。

・藤原を若干からかっている節はあり。

・藤原を各国へ毎回パシらせているのもこの人。まあ、一応理由はあるにはあるのだが。

 

▼三好

・やっぱり彼は死ぬ。D機関でも特に優秀だった人。

・三好の死亡フラグの回避は流石にできなかった。三好を三好足らしめるものは、やはりあの『死』。彼以上のスパイは中々いないだろう。畏怖の念を持ってこれからも結城中佐と藤原の中にとどまり続ける。

・三好は藤原を物置程度にしか考えていない。ぶっちゃけどうでもいい。訓練時代には色々と彼を面白がって見ていた。

・藤原の本質へ辿り着けたのはある意味この人だけかもしれない。結城中佐を除けば。

 

▼佐久間

・D機関の伝達係

・あまり出番はなかったが、藤原とは結構仲がいい。実は本編中でも度々あっていた。あんな裏切りを受けても尚、仲良く出来る佐久間さんはヤバイ。

・佐久間さんは藤原のことを警戒しながらも、『まあ、一緒に飲むくらいならいいかな』という認識。戦争が終わって、まだ彼が生き残っていたのならば、酒を酌み交わすことだろう。

 

▼小田切

・元D機関員

・藤原とはD機関の中で一番仲が良かったかもしれない。藤原の感性が普通だからである。

 

▼神永

・D機関員の中では特に藤原を気にしていた人。だが、あくまで『D機関の中で』だけである。一般人から見たら興味がないのと一緒。

・女遊びを藤原があまりしないので、少し残念に思っている。付き合い悪いなお前。

・よくタバコを藤原にあげているのはこの人。

 

▼波多野

・D機関の中では藤原を好いていない部類の人。藤原のことが気にくわない。まあ、藤原はなよなよしているから仕方がないね! ・彼がD機関の体術訓練で一番投げ飛ばした人は藤原である。

 

▼福本

・D機関ではよく割烹着姿の人。ある意味で全体をよく見ている方。藤原が三好の死に動揺していることに少々驚いている。

・藤原がよくつまみ食いに来るので餌付けしていた。

 

▼甘利、実井

・本編では視点が出てこなかった人たち。すまなかった。

 

▼田崎

・視点がでてこなかった人その3。正直、書くことがなかったんだ…。いつか田崎視点の番外編も書けたら嬉しい。

・田崎視点はないが、少しづつ話で出てきていた。例えば、前話の『トレインジャック事件』とか。

 

▼オリジナルの話:『アドルフ・ミュラー』

・オリキャラ。ドイツのスパイ。

・結城中佐に出し抜かれ、『柩』にて三好の調査を行ったヴォルフ大佐の部下。

・本人は結城中佐に憧れている。相当、若き結城中佐の所業に驚いたらしい。

・結城中佐からは『極めて優秀なスパイ』と称されている。だからこそ、早々に彼を捕まえた。

・プライドが高い。

 

▼蝿の王: 『脇下衛』

・モスクワのスパイ。

・実は本編に書かれている、『馬鹿な幼少期の友人』は藤原こと。藤原が変装していたため、彼は最後まで気がつくことはなかった。ついでに藤原も彼に気がつくことはなかった。昔の友人がいる場所へ藤原を送り込んだ結城中佐の意図は押して図るべし。

 

 

 



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あとがき

あとがき

 

2016年の6月(ハーメルンでは8月から)から書き続け、ようやく完結へ至りました。本当に長かったと思います。リアルが少々忙しかったこともあり、チマチマとした更新しか出来ませんでした。今まで色々な作品を完結させてきましたが、今回のシリーズは中でも長かった方だと思います。それでも最後まで付き合ってくださった皆様には頭が上がりません。完結すると信じて追いかけてくださり、ありがとうございました。

 

この『ジョーカー・ゲーム』のオリ主の話を書こうとしたきっかけは、『ジョカゲの2次創作がねぇ!』と嘆いたことから始まります。大好きなジョカゲのオリ主もの2次創作が本当に本当になかったんです。pixivで検索しても『オリ主』小説はでてこない。ハーメルンの場合なんて、『ジョーカー・ゲーム』の検索結果はゼロ。マジでやってらんねぇとなり、書き始めました。最初はただの自家発電だったのにもかかわらず、こうして多くの方に読んでもらえて嬉しかったです。

 

後日談についてですが、それは冬コミの新刊(2018年1月時点では終了【次回イベントで残部頒布予定/次回参加イベントは未定】)で明かされる予定です。本当は新刊の発表をする前にシリーズの方を完結させたかったのですが…。間に合いませんでしたよね。ちくしょう。でも、まあ、一応、冬コミまでに間に合ったので勘弁してくださいませ!

 

ちなみに、この作品のコンセプトは『一般的な平成人がもしもD機関へ入ったならば』となっております。しかし、一般的な人間が化け物が蔓延るD機関で活動できるわけがありません。その為、少々転生者のアドバンテージを活かしたり、特技を追加したりする羽目になりました。「ちょっとこのオリ主、平凡とか言っているけど、平凡じゃなくね…?」と思った方もいらっしゃると思います。実は私も思いました。でも、D機関に所属するなら、これくらいできないと死にますから…。

 

後、『藤原』をTS転生者にしたのには理由があります。構想中は、オリ主は平成人の男でいくつもりでした。しかし、平凡な平成の男という設定だけでは、キャラ達に中に埋もれてしまいます。男キャラは既に沢山いますからね。なら、『女スパイ』ならどうだろう? あの時代の日本では女性への教育は殆どありません。重役への雇用もないに等しい。そんな時代に優秀な女性スパイがいたら面白いなと考えたんですが…。結城中佐は『女は感情で殺してしまうからスパイには向かない』的なことを作中でいっておりました。これではD機関員にそもそもなれないと気がつき、断念→じゃあ、中身が女性でいくか! となりました。それがTS転生者、藤原の誕生です。

 

大体1年6ヶ月もの間、お付き合いありがとうございました。感謝してもしきれません。

 

全てのジョーカー・ゲーム好きにこの作品を捧ぐ。

———スパイの物語はまだまだ終わらない。

 

by だら子



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番外編
番外編: 「コナン世界でスパイになった一般人」


「どうして私は黒の組織なんぞにいるんだ…」

 

棒付きキャンディーの飴の部分を歯でガリガリと砕く。そのまま死んだ目で青空を眺めた。その時、ピィーと小鳥が鳴きながら私の頭上を通り過ぎてく。思わず「鳥になりてぇな」と考えてしまう。そうやって現実逃避でもしなけばやっていられなかった。天元突破しているストレスによる胃痛から逃げるためには。

 

現在の私の職業を言ってやろうか?

 

――――名探偵コナンの世界で黒の組織の構成員である!

 

一つ言っていい?

 

(神は私を見捨てた!!)

 

本当にふざけないで欲しい。私の運命は一体どうなっているんだ。私の命運を握っている管理者出てこいよ!! むせび泣きながら崩れ落ちたい気分である。でも、そんなことを組織内ですれば、即死だけどな! 世知辛い。

 

こうなっているのには理由がある。私の名誉のために言うが、好き好んでこんな場所にいるのではない。そんな奴がいれば余程の物好きか馬鹿である。とりあえず、順を追って説明しよう。

 

突然だが、私は転生者である。

 

頭がおかしい奴だとは思わないでくれ。私も何年か真面目に悩んだが、頭は至って正常だったんだ…。

そんな私は一番初めは平成に生きるただの凡庸な女だった。しかし、どんなミラクルが起きたのか、気がつけば大正時代に誕生。最初はなんの冗談かと思ったさ。その上、身体は男になっていて、このまま成長すれば自分が大人になった時に第二次世界大戦がモロ被りすると知ってしまったのである。

その瞬間、泣いた。四つん這いになり、右手を床に叩きつけながら、叫び散らかした。

 

「確実に徴兵されて戦争に行く羽目になるじゃん!! ふざけんなよ!!」

 

だが、泣いたって現状は変わらない。というか、今世の私は男だから泣けば父親に「男のくせに泣くな!」とブン殴られる。本当に世知辛いな。

仕方がなく、私は腹を括った。どうしたらいいのかない頭を悩ませて悩ませて考えた。結果、私はこんなことを思いついたのである。

 

『政府に金を握らせて出兵拒否したらいいんじゃね? 会社の社長なってガッポガッポ金を稼いでやるわ!!』

 

我ながら頭が足りていない。だが、当時の私はこれくらいしか思いつかなかった。海外逃亡しようにもこの時代の有色人種への差別はキツイものがあるからなあ…。平成でも差別がまだまだあったくらいだ。私が今いる時代の人種差別なんて、もうお察してくださいと言いたいレベルである。

つーか、そもそも海外へ行けるほどのお金がない。この時代、海外へ行って、まともに働くためには本当の金持ちくらいだから…! 本当に今世の人生がベリーハード。泣くぞ。

 

転生者としてのアドバンテージを活かして、私は何とか様々な知識を身につけた。大学を卒業後、「さぁて、頑張るぞ!」を意気込んでいた時に『彼』に私は出会ってしまったのだ。

 

 

――――『魔術師』『魔王』と名高いスパイマスター、結城中佐と。

 

 

当時、結城中佐に声をかけられた時、私は彼があの『ジョーカー・ゲーム』の『結城中佐』だとは気がつかなかった。そりゃそうだ。まさか自分が小説の中にいるとは思いもしないだろう。結城中佐に「試験を受けてみないか。お前の望むものをやろう。可能性をくれてやる」などと勧誘された際、私が思ったことはただ一つだけ。

 

「やッッッべぇ! 私、非国民として見られている…?! 捕まる?!」

 

現在、この国は徹底的な天皇主義の世界である。それに対して、私はガチガチの民主主義教育をされた平成人。民主主義にも欠点が数多く存在するとはいえ、私には天皇主義は肌に合わなかった。無論、天皇陛下に敬意はある。しかし、一度こびり付いた垢というものは中々取れないものだ。人の性格が簡単に変わらないように、根付いた価値観というものもそう易々とは変えることはできない。

 

必死に隠していたはずの『考え』が『誰か』に見破られた。どれだけ驚愕したことが。どれだけ恐ろしいと思ったか。この国で、確固たる民主主義を持ちすぎることは非国民として裁かれかねないものである。この時代では民主主義は悪だという教育をしているのだから。平成で社会主義はどちらかといえば悪いものだと教えられているように。

 

(アカン。これ、行かないとシメられるやつだ)

 

そう考えてガクガクブルブルと震えてしまったのが運の尽き。私は結城中佐の試験を受けてしまったのだ。更に救えないことに、凡庸なはずの私は数多の偶然と幸運が重なり彼の試験を乗り越えてしまった。結果、気がつけば――――。

 

スパイになっていた。

 

ふざけるんじゃねぇぞマジで!! しかも、D機関の訓練生になった時に、私はようやく「アッここジョーカー・ゲームの世界だ」と悟ったのである。気がつくのが遅すぎて逆に自分に腹が立つ。

いや、でも、少し言い訳させてくれ! まさか自分が小説の世界にいるとは思わないじゃん?! ついでにあの結城中佐に勧誘されてるとは思わないじゃん?! 私は自分の思想のせいで殺されると思い込んでるから焦っていたからさ?! 分かるわけねーよ!!

 

『こんな凡人、直ぐに首を切ってもらえるだろう』と思っていたのに何故か辞めさせられない。他のD機関員と比べて遥かに劣っているのに。劣等生の私はそのまま奇跡的に訓練生を卒業。嫌々ながらスパイとして活動する羽目になった。

しかも、何故か私は死なずに諜報活動を続け、晩年には結城中佐の後釜となり、D機関の長となることに。切実に退職したかった。つーか、他の奴らがなれよ。何で私?!

 

(なんとか後輩に立場を押し付けて逃げても、同期の奴らが追いかけて来やがるし…)

 

何度も何度も引っ越しても、顔を変えても、私を見つけて来やがるD機関員達。「藤原〜元気にしてるか〜? 酒持ってきたぞ〜」と引っ越す度に尋ねてくる彼らに殺意が湧いたものである。だって、あいつら酒と一緒に仕事も持ってくるんだぜ?! もう私はスパイ活動はしないっつってんだろ! お酒は美味しかったけども!!

余談だが、藤原は私の名前である。偽名だけどな!

 

そんな風に仕事を続けながら、私は寿命を全うした。だけど、気がつけば――――。

 

また転生してしまっていた!

しかも、コナン世界に!!

 

小学校の時、結城中佐と偶然にも遭遇して、唐突に思い出したのである。あまりの量の多さに悶え苦しんだな…。ついでに自分が『米花町』に住んでいることに絶望した。ジョーカー・ゲームからコナン世界へ転生って…お前…。罰ゲームかな??

 

困惑している私に対して結城中佐からのお言葉がこれ。

 

「お前、藤原か」

「おじさん何の話してるの…??」

「藤原だな」

「はい!!!!!!」

 

結城中佐のドスを利かせた声に咄嗟に私は返事をしてしまった。私の魂に、『結城中佐には敵わない』という感情が刻み込まれていることが発覚した瞬間である。嫌だよそんな感情…。

 

というか、結城中佐はどうして私が藤原だと確信しているのか。確かに私はジョーカー・ゲームにいた時と同じ容姿ではある。だが、彼は私の幼少期の姿は知らない筈だ。

そもそも何故中佐までもが前世の記憶を所持しているんだ。結城中佐の前世の記憶は消せよ!! あの魔王に前世の記憶なんてもの一番持たせてはいけないだろ!! まさに鬼に金棒!

 

私も前世の記憶を所持していることを知った結城中佐はこう言った。

 

「藤原、貴様には現代の最新技術を学んでもらう」

「エッッッッちょ、結城中佐、私は今世でスパイになる気はありませんよ? 私は一般人として――――」

「いいな」

「はい!!!!!!!!!!」

 

元気よく私は返事をした。前世から常々思っていたが、結城中佐は私と言葉のキャッチボールをすべきである。言葉のドッチボールはお呼びでない。

 

ちなみに、今世の私はなんとか結城中佐から逃げようと奮闘した。だが、結城中佐は既に今世の私の両親と仲良くなっていたのだ。駄々をこねても、他の方法を取ろうとも、結城中佐から逃亡はできなかった。結城中佐の手配が早すぎて目が死んだものである。もしや結城中佐、私に会う前から手回ししていたのではありませんか。あの魔王ならあり得る…。

 

(ああ、今世も男として生まれてしまった私が憎い。女ならまだ逃げ切れたものを…! 結城中佐は「女はスパイには向かない」と仰る方だから…!)

 

中佐からの逃亡は不可能であると悟った私は泣く泣く彼の教えを受ける羽目になった。主に機器類等である。相変わらずのスパルタぶりで何度死にかけたことか。まあ、奇跡的にも私は訓練をなんとか熟せたから良かったものの。結城中佐からの扱きを受けつつ、大学を卒業して、気がつけば―――

 

 

警視庁特殊事件捜査部D課に所属していた。

 

 

いや、何でだよ!!

 

どうして私は『D』の付く組織に再び入っちゃったんだ…。表沙汰に出来ない極秘案件や隠密調査を請け負う、警察における暗部機関って何よこれ。こういう仕事は公安の仕事じゃないの?! 更には、この機関ときたら海外での諜報活動もやってるんだけど。それは防衛省陸上幕僚監部運用支援・情報部別班の仕事じゃねーの?! 組織上、存在しないと言われている情報・諜報機関で、主に海外での諜報活動を行っている組織があるじゃん!! 何でウチもやってんだ!!

 

(後さ、私、警察学校とかも行っていないんだけど?!)

 

それなのに警察になっちゃっていいの?! 大丈夫?! 普通、警察官に必要な基本的な知識、技能、体力を身に付けるために必ず警察学校には行かなくちゃいけないんじゃないの?! 突然、中佐に警官の身分証明書を渡された時はびっくりしたわ…。しかも、当たり前のように偽りの経歴や名前なんだけど…。結城中佐ェ…。

 

加えて、このD課には前世のD機関員達も勢ぞろいしていた。二度見どころか五度見したわ!! もう本当にやめてほしかった。結城中佐ゼッテーこれ確信犯じゃん。何、前世の機関員達を集めてんだよあの魔王!! 疲れた顔をしながら私は三好声をかけた。

 

「よぉ」

「話しかけるな」

 

三好はこちらへ視線を向けることなく、ピシャリと私の言葉を遮った。めっちゃ塩対応!! 前世で私、お前に何かしたっけ?! いや、したな! お前の死亡フラグをへし折れなかったとか色々あったわ!! まあ、いいや。こいつらの塩対応は慣れているし。なんか虚しいけど。

 

この時、私はただ単にいつもの塩対応だと思った。しかし、日が経つに連れて、彼らの態度や言動におかしさを感じることとなる。

 

 

――――あの人でなし共が演技ではなく、本当に此方を知らないように振る舞ってくる。

 

――――あのプライドエベレスト野郎共が前世で習得したはずの技術の基礎を勉強している。

 

――――あの化け物共が!

 

 

――――私より技術面で劣っている!!

 

 

ありえなさ過ぎて死ぬほどキョドッた。あまりに動揺していたので結城中佐から直々に肩パンされた程である。痛いです。貴方の肩パンは洒落にならないくらい痛いのでやめて下さい。下手をしたら関節が外れます。

 

(肩は痛いけど! それよりも! エッッッッ?!)

 

先程も言ったが、こんなのは『ありえない』。あり得るはずがない。これから導き出される答えはたった一つだけだ。

 

今世のD機関員達には前世の記憶がない。

 

ふっっっつーにあの化け物共には記憶があると思い込んでたわ! だって、結城中佐に記憶があったし、奴らの塩対応はいつものことだったしさァ…。完全に機関員達に記憶がある体で接していたんだけど…。

 

(あ、だから、随分前、奴らに『えっ、この程度出来なかったけ、お前? 大丈夫?』ってビビって言ったら睨まれたのか!)

 

射殺さん勢いでガチ睨みされたのはそのせいか!! 今日は調子悪いのかと完全なる善意で言ったのが裏目に出てやがる。あいつらにとっては『え? お前らこの程度が出来ないの? プークスクス』と言われているようなものだ。完全に喧嘩売ってんじゃねーか私!! 殺される!!

 

それに勘付いたとしても結城中佐からは逃げられない。魔王による訓練をあの化け物共と一緒に受ける羽目になったのだ。寿命が縮む日々だったよ…。しかし、不思議とあいつら半殺しにはされなかった。良かった。あの馬鹿共は真面目に殺しにかかってくるから…。でも、毎日のように『ゼッテェ貴様に目に物を言わせてやるからな…待ってろよ…』的な目で見られ続けたけどな! マジあいつらプライドエベレスト。やめて欲しかった…。切実に。

 

それから更に時が経ち、D課の者達はいつのまにか私を越えた。その事実にめちゃくちゃ安堵したものである。あいつらより秀でている時は優越感よりも違和感による恐怖の方が強かったから…。

 

胃薬の量が減った頃、ついに私は結城中佐に呼び出されることとなる。この世界で初めての任務だ。しかし、その際に死刑宣告にも近い仕事内容を告げられた。

 

「藤原、この犯罪シンジケートに諜報活動へ行け」

「はい、わか――――待ってください」

 

資料を拝見した時、見たことのある名前が出てきて思わず二度見した。目をパシパシさせようが現状は変わらず、命知らずにも私は結城中佐に『待った』をかける。いや、だって――――。

 

資料にジンとかウォッカとかベルモットとかあるんだもん!!

 

え、何? 私に回ってきた仕事は黒の組織への潜入調査なの? あの頭脳チートのコナンや降谷、赤井が手こずるような組織へ行かなきゃいけないの?? 絶対ややこしさしか感じない、命の危険満載の所へ?? 私がスパイ活動??

 

(行きたくねェ!!)

 

未だ嘗てないほどに行きたくない!! 確かにNOCに命の危険はつきものだ。公的身分を偽っているため、バレれたら即死に繋がる。いつもそんなスパイ活動はしたくないと嘆いているが、黒の組織への潜入調査だけは嫌だ! 死んでも嫌だ! 私、映画で見たもん! 観覧車の上でドンパチしている化け物NOC共! あんなのを熟せなきゃ黒の組織のスパイは務まらないんでしょ? え、普通に無理だわ。他のD課の奴らにやらせて。人間辞めているあいつらなら出来るから。

 

でも、それでも逃げる事はできない。結城中佐からの仕事はYES OR はい! のみ。なんという横暴。なんという恐怖政治。もう私の命運は結城中佐に握られているのではと思うくらいだ。シクシクと泣きながら、私は黒の組織へ潜入調査をする事となったのである。

 

――――そして、冒頭に戻る。

 

青空から目線を逸らして私は再び溜息を吐いた。ごくりとキャンディーを飲み込む。すると、向こう側から降谷零――――いや、今はバーボンと言うべきか。バーボンと彼の幼馴染スコッチが此方へやって来た。彼らの隣にはタバコを吹かしているライもいた。私はそれ見て、ギュッと赤いスポーツキャップを目深に被る。

 

「ライさん、バーボンさん、スコッチさん、お疲れ様です」

「ああ」

「ありがとうございます」

「脇谷(わきや)もお疲れ様」

 

なーーーんで私はお前らと一緒にいるのかな?? ん??

ヤのつく職業の方のように内心でメンチを切る。小一時間程問いただしたいぐらいだ。まあ、そんなこと小心者の私にはできねーんだけどな!

 

ちなみに脇谷というのは今の私の偽名だ。フルネームは脇谷英二(わきや えいじ)。脇役Aって感じの名前みたいで嫌だ…。まあ、これ実名なんだけどさ。脇谷英二さんは実際に存在している人である。その彼をコピーして、今、私が演じているのだ。え? 本物の脇谷英二さん? 彼はとある犯罪で捕まり、牢屋の中である。本当は一から一人の人間をでっち上げてもいいのだが、それだと必ずどこかでボロがでるからね。既に存在している人間を演じる方が楽でいいのだ。

 

(まあ、今はそれよりも、ライとバーボン、スコッチだよなあ…)

 

少し前くらいにライ、バーボンとスコッチが組織入りを果たした。初めて彼らを見たときは思わず二度見したぐらいである。アメリカのFBIはともかく、何で日本の公安がいるんだ…。私が既に二年ほど前から潜入してっぞ?! 私という存在がいるから原作とは違い、バーボンとスコッチは組織へ潜入調査しないと思ったのに。何でいるんだお前ら?!

 

慌てて定期報告の時、結城中佐に報告した。すると魔王はニヤリと笑ったのだ。

 

「ゼロ達も来たか。上手く奴らを使ってみせろ」

(できねーよ?! どうしてできると思った?!)

「あの、結城さん」

「どうした」

「…、…あのゼロ達は優秀です。彼らの能力は我々D課に匹敵するでしょう。いや、それ以上の部分さえあります。そんなゼロ達なら完璧に諜報活動をやってのけるはず。私は帰還してもよろしいでしょうか」

 

いっ、言ってやったッ!! あの結城中佐に言ってやったぞ!!

 

本当に降谷零とその幼馴染君は優秀なのだ。彼らを見ているとD機関、いや、D課の化け物どもを思い出すくらいには。もうあいつらだけで大丈夫だよ…。後は我らが主人公コナン君がいるし…。私がいなくても立派に組織の情報をガッポガッポ抜き出してくれるよ。ついでにあのゼロ達なら上層部の弱みも握って警察内部の改革もしてくれるよ。降谷零ならできちゃう雰囲気あるもん。大丈夫大丈夫。

 

(それに、何で結城中佐が私を組織へ送り込んだのかすらイマイチ分かっていないし!!)

 

本当、結城中佐は何を狙ってんの?? 組織の壊滅?? いや、結城中佐の性格的にもっとエグいことしそうなんだよなあ…。はあ、私に諜報活動させている理由くらい教えてほしい。けど、中佐はそういった『理由』は教えてくれないことがあるからなあ…。

 

その訳は『うちのスパイならそれぐらい自分で分かって当たり前』という風潮があるから。もう一つは『もしもスパイとして捕まった時、情報を引き抜かれないため』である。どれほど鍛え抜いたスパイであろうと、捕まる時は捕まってしまう。一応、非常時に備えて常に我々は重要情報を意識のそのまた下に入れ込むという化け物じみたことはしている。だが、万が一のために中佐は我々に『本当に大切な情報』だけは教えないことがあるのだ。

 

はーやってらんねー。ちなみに、私の場合は大概『理由』は教えられない。多分、私は捕まりやすいからだろう。分かっているけど、腹が立つな!

 

そんなことを考えて、一瞬だけ顔が歪む。だが、今は結城中佐の返答を聞く方が先決だ。そう思い、緊張した面持ちで結城中佐の返答を待つ。数秒後、短く結城中佐はこう言った。

 

「藤原、やれ」

「イェッサァァッ!」

 

理由すら答えてくれない!! 知ってた!! 結城中佐の私への扱いが雑いのは藤原、知ってた!! 基本的に私に重要な情報は教えてくれないもんね、貴方は!! もういいよやればいいんでしょやれば?! 死ぬ未来しか見えねーけど。次に結城中佐と会う時は死体かもしれないね…。考えたら震えてきた…。

 

(死なないようにだけ頑張るか)

 

私は静かに溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、スコッチさんとライさんは後ろへ」

「サンキュー」

「分かった」

「バーボンさんは助手席で大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です」

 

俺――――降谷零ことバーボンは静かに返事をした。そのまま俺は助手席に座る。組織の構成員の一人である脇谷英二は、俺達全員がシートに座ったことを確認した後、車を静かに発進させた。窓から見える移りゆく景色を眺めながら俺は内心で溜息を吐く。

 

(組織へ諜報活動を始め、コードネームから随分と経つもんだ)

 

俺、降谷零は公安警察である。世界だけではなく、日本でも活発に行動する巨大犯罪シンジケート――通称『黒の組織』へ現在諜報活動中だ。幼馴染み兼相棒のヒロと共にこの組織へスパイ活動をしているが、想像以上に恐ろしい組織である。一瞬でも隙を見せれば、俺達は直ぐに胴体から首が離れるだろう。

 

(この組織だけでも大変だというのに、D課という部署にまで頭を回さないといけないとはな)

 

――――警視庁特殊事件捜査部D課。

 

数年前に新たに設立された諜報機関。表沙汰に出来ない極秘案件や隠密調査を請け負っているらしい。だが、いくら探ってもその実体は掴めない。設立者は結城という男だとか。

 

(ゼロの情報網をつかっても少ししか掴めなかった。その上、掴んだ情報は曖昧という体たらく)

 

同じ警察機関内だというのにゼロがこの程度しか情報を掴めないのは異常だった。何故ならば、このD課があるのは警視庁だからだ。俺が所属するゼロは警察庁にあり、その警察庁は全国の警察をまとめている組織となっている。対して、D課のある警視庁は日本の東京都を管轄する警察組織。つまり、力関係からいえば警察庁は警視庁よりも強いのである。そのゼロが警視庁のD課という組織を把握しきれていないなど――――ありえない。ありえなさすぎる! ノウハウから見ても、他の面から見ても、警察庁と警視庁との間には雲泥の差があるのだ。その警察庁のゼロが警視庁のD課を把握していないなんて異常事態である。

 

(加えて、D課の構成員は全て偽名を名乗り、警察学校にすら行っていない一般人で構成されているという)

 

諜報活動をするゼロとて必ず警察学校及び警察大学校へ行くのだ。それなのにも関わらず、あのD課構成員達は誰も学校を出ていないという。恐らくは、構成員達の跡を残さないためだろう。徹底した秘密主義だ。全てを闇に葬り、諜報活動だけに信念を注ぐその姿勢には脱帽する。

 

(だが、俺達ゼロに何の報告もないのは何故だ)

 

俺がD課について考えている理由はただ一つ。つい最近、D課構成員達が黒の組織へ諜報活動をしているという報告が上からあったからである。それだけならまだいい。D課とくれば、全く俺達と協力しようとしないのだ! 潜入した報告はあっても、それ以上は何もない。お互いに協力した方が遥かに楽にスパイ活動ができるというのに。奴らは一体何を考えているんだ?

 

(全く頭が痛いな)

 

再びハアと溜息を吐く。すると隣で運転していた組織構成員の脇谷英二が怪訝そうな顔で此方を見てきた。

 

「どうしましたか、バーボンさん」

「いえ、何でもないですよ」

 

俺がそう言うと脇谷英二は興味が失せたかのように顔を元の位置へ戻して、運転を再開させた。俺は脇谷英二がいつも被っている赤色のスポーツキャップを眺める。不意に自分の脳内ベースから『脇谷英二』のデータを取り出した。

 

――――脇谷英二。

 

彼は黒の組織の構成員である。地位は低いが、ドライビングテクニックが秀でているため、ネームド達の足に使われている人物だ。

脇谷英二の組織への加入理由は家の貧しさから。彼の父親は既に亡くなり、母親は病気。それ故に金を手に入れやすい犯罪に手を染めた。ここまでが脇谷英二の簡単な経歴だ。

 

(そういえば、彼は凡人でありながら、よくもまあ、組織で生き残っているよな)

 

黒の組織は弱肉強食の世界だ。弱ければ死に、強ければ生きる。現実世界でも弱肉強食と言えるだろうが、組織の場合は生死に関わるため、その分ハードルが高いだろう。その中で脇谷英二はなんだかんだで生き残っていた。

 

(ま、悪運が強いだけだろうが)

 

脇谷英二は何かとタイミングがいいやつである。例えば、ズッコケタと思えば、頭の上を弾丸が通過して、運良く生き残るなどだ。何度もそれが重なるので、「こいつまさかわざとやっているんじゃ…」と思ったこともある。

だが、脇谷英二は毎回それに気がつく度に尋常じゃない怯え方をするのだ。酷い時には顔面崩壊レベルの号泣までしていた。あれが到底演技でできるとは思えない。

 

(脇谷英二がD課の人間だったら簡単に事が済んだというのにな)

 

まあ、それは有り得ないだろうが。ドライビングテクニックが上手い程度で諜報員は務まらないだろう。ましてや、ゼロすら欺くスパイ共だ。脇谷英二がD課構成員だというのは幻想に近い。

そこまで考えて、俺は再び溜息を吐いた。助手席のシートへ背中を預ける。

 

「もっと簡単にいけばいいんだが」

 

この時、俺は気がつかなかった。隣で運転する脇谷英二が笑みを浮かべていたことなど。俺は知らなかったのだ――――。




この後、藤原は結城中佐にこき使われまくって黒の組織で(ミスりまくる)暗躍をすることになり、最後の最後までコナン以外の誰にも気がつかれずにコナンに怯えられる話を書きたいけど、力尽きました。

久々のジョカゲ投稿できたので、とても楽しかったです。ありがとうございました!


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