東方悲恋録〜hopeless&unrequited love〜 (焼き鯖)
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初めてその名を呼ばれた日

「…………」

 

 私の名前は酒呑童子。京の都を騒がす大悪党だ。その名を聞いただけで大人は恐怖し、子供は泣きべそかいて親の元へ逃げ出す。配下の鬼たちも各地で様々な悪行を積んできた荒くれ者共だ。私達を恐れない奴なんていない。

 

「おい! 馬! 今日も飲み比べしようぜ!」

 

「えー! 勘弁してくださいよー! 昨日やったばかりじゃないですかー!」

 

 そう、恐れない奴なんていない。

 

「そう言えば馬、酒の残りってどうなってんだ?」

 

「昨日確認したら、まだ結構残ってましたよ。向こう二、三週間は大丈夫そうです」

 

 恐れない奴なんて……

 

「馬ー! また腹踊りやってくれよー!」

 

「わっかりましたー! いきますよー! あっそれぽん、ぽん、ぽんぽんぽんっと!」

 

「あっはっはっは! やっぱお前の腹踊りは最高だ!」

 

「ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 私の叫び声が洞窟内にこだました。

 

「どうしたんだよ、大将」

 

「どうしたもこうしたも! みんな何してんのさ!」

 

「何って、宴会だけど」

 

「それは分かってるよ! 何でこいつまで一緒になって楽しんでるのかって言ってんだよ!」

 

 事の発端は、都での人攫いから始まった。私達は一ヶ月から数週間に一、二回の頻度で老若男女問わず、食糧確保の為に大量の人を攫う。

 

 今回も大量の人を攫ってきた。その中に、あいつはいた。ここに来た奴らはみんな怯えた顔していたのに、あいつは涼しい顔をして周りを見回していた。

 

 馬右衛門と名乗ったそいつに興味を持って生かしておいたのが間違いだった。酒屋の主人だと言う馬に酒蔵の管理を任せておいたら仲間の鬼に気に入られ、いつの間にか最初からそこにいたかのように馴染んでいた。その事が私は気に食わなかった。

 

「おい馬! 何でお前も楽しんでんだよ!?」

 

「なんでって、そりゃ宴会だからに決まってるでしょう? こう言うのは楽しんだもの勝ちですからねぇ」

 

「違う! 何でお前は怖がらないんだよ?! 私達は鬼だぞ!?」

 

「え? それと宴会とは何の関係もないじゃないですか」

 

 事も無げに馬はそう言った。

 

「そりゃそうだけど!」

 

 それに、と馬は私を抱き上げた。

 

「こんなちんちくりんな奴があの酒呑童子だなんて言われたら怖さも半減って奴ですよ」

 

「おーう大将! 言われてんぞー!」

 

 周りの鬼達が一斉に笑う。段々と顔が熱くなってきて、私は死なない程度に馬にボディブローを極めた。

 

「ぐっは……」

 

「ふん! 私を舐めた罰さね」

 

 どうだと言った風に馬を見る。

 

「いや、ちょっと待ってこれ洒落にならねぇ……今まで呑んだもの全て吐き出そう……」

 

「おぉ? 吐くか? 吐くか?」

 

「馬鹿言わないで下さいよ。こんなんで吐く俺じゃなオロロロロロロロロ……」

 

「ぎゃっはっは! 結局吐いてんじゃねーか!」

 

 また鬼達が笑う。それを見るのが嫌だから、私はその場から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 月が綺麗だ。私は鬼だが、自然を解する心はある。弓のような三日月が雲に邪魔されずに山を照らしている。

 

 一人になりたい時は、見晴らしの良い山の頂上に行く。拠点の洞窟に近く、誰にも邪魔されないこの場所は私のお気に入りの場所だ。

 

 持ってきた酒を注ぎ、ぐいっと飲み干す。あいつが来てから、仲間達はスッカリ腑抜けになってしまった。以前はみんな闘争心剥き出しだったのに、今ではヘラヘラな笑顔を浮かべている。

 

 あいつの何がいいんだか。ただの八方美人じゃないか。そんな事考えてると

 

「おぉ、スイカ。お前も此処に来るんだな」

 

「……何でお前が此処に来るんだよ」

 

 今、私が一番会いたくない奴が現れた。

 

「酔い覚まし。少し飲み過ぎた」

 

「ふーん……と言うか、何で呼び捨て?」

 

「いやぁ、鬼の皆さんに『何時まで敬語なんだよ。呼び捨てでいいぜ』って言われたから。因みにスイカの事も呼び捨てでいいって」

 

「あいつら……」

 

 後でしばいておこう。

 

「それはいいとしても、スイカって何だよ」

 

「うん? お前のあだ名だよ。粋な香りって書いて粋香。いい名前だろ? 酒呑童子って名前、長いし」

 

「粋な香り?」

 

「そう。特にお前はその匂いが強いから『粋香』」

 

「ふーん……別に頼んでもないけどね」

 

 でも、あながち悪くないかも。スイカって名前。でも、当てた漢字がしっくり来ないな……そうだ。この漢字がいい。

 

「なぁ粋香、少し呑まないか? こんなに月が綺麗だから、月見酒と洒落込もうや」

 

「……まぁ良いけど、その粋香って何か私には違う気がする。香りを萃めるって書いて『萃香』にしてくれ」

 

 彼の提案を受け入れた私は、交換条件と言わんばかりにこうお願いした。すると、

 

「素直じゃねぇなあ萃香」

 

 からかうような口調で馬は言った。

 

「五月蝿いな。早く酒を注いでくれ」

 

 無造作に渡した杯に、馬は苦笑して酒を注ぐ。透明で米の発酵した匂いのする液体が、紅い杯をなみなみと満たした。

 

「……ふぅ。やっぱ此処で呑む酒は美味いなぁ」

 

「馬、お前もそう思うのか」

 

「あぁ。此処で呑むと、酔いも眠気もすっかり覚めるからな」

 

「そうか。私もそうなんだよ。おまけに今日みたいな天気だと、こういう風に月が良く見えるんだよ。だから私はこの場所が好きなんだ」

 

「へぇ、そうなのか」

 

 馬は微笑んで私を見る。

 

「な、何だよ」

 

「うん? いや、こんな喋る萃香は初めてだなって」

 

「どういう事?」

 

「だって、何時も俺が話しかけても不機嫌な顔してるから。しかもこんなに笑顔になるなんてね。嬉しいよ。こんなに笑顔の萃香観れるなんて」

 

「ば、バカ……そんな事言われても……」

 

 

 

 いきなり何を言ってるんだ。こいつは。不意打ちで言われたから顔が熱くなってきた。

 

「ははっ。ごめんごめん」

 

「もう……それより、聞きたい事があるんだ」

 

「聞きたい事?」

 

「さっきも言ったけど、なんで私達の事を怖がらないんだよ。鬼だぞ? 都の奴らは怖がるのに」

 

「だって、怖くないから」

 

「は?」

 

 怖くない……だって? 

 

「酒屋やってるとな、色々と荒くれた奴らが来るんだよ。それこそお前ら鬼みたいな性格の奴らがゴロゴロとな。だから慣れちまった」

 

「でも、こうして捕まっていつ食われるか分からない状態なんだぞ?」

 

「でもあんたら鬼の皆さんは、俺の事を食おうとはしてないじゃん」

 

「そりゃそうだけど」

 

「じゃあ、それで良いじゃん」

 

 なんか……釈然としない。

 

「じゃあ俺から質問。なんでお前らは人を攫うの?」

 

「何故って? それが私達鬼の存在意義だからだ。怖がらせないと私達は生きていけない。攫う事で食糧を確保すると共に、鬼としての恐怖を都の奴らに植え付ける。そうしなくてはならないんだ。まぁ、あんたには分からないだろうね」

 

「なるほどね。もっと別の理由があると思ってた」

 

「何さ」

 

「単に寂しいから。かまって欲しいのかなって」

 

 寂しい……か。

 

「確かにそうかもしれないねぇ……」

 

 呟くように、あいつには聞こえないように言ったのに、あいつは不意に立ち上がり私にこう言ってきやがった。

 

「なぁ萃香、そんなに寂しいならさ、俺がそばにいてやるよ。お前らの仲間になる。そうすれば、人間の友達第一号だ。勿論、萃香が良ければの話だがな」

 

 そう言ったあいつは、月明かりに照らされた事もあってか、とてもいつもの馬のようには見えなかった。青白く、神秘的な雰囲気に包まれたそいつはとても儚く、弱く見えたが、同時にどこか神々しい感じがした。

 

「……分かった。その方があいつらも喜ぶからな。ただ、一つ約束しろ。嘘だけは吐くな。私達は嘘が嫌いなんだ」

 

「あぁ。約束する。さ、拠点に戻ろう。みんな待ってるよ」

 

 そう言いながら、私に手を差し伸べた。私はその手を借りる時、顔は見せなかった。何故か、そうした方が良いと思ったから。そして私達は手を繋いで拠点に戻って行った。その時のあいつの手はなんとなく冷たかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 それから一週間後……

 

「萃香、少し散歩に行ってくる」

 

「あぁ、気をつけてけよー」

 

 そう言ってあいつは出て行った。

 

「おお〜う、二人共熱々だね〜」

 

「なっ!? 星熊?!」

 

 背後からうちの四天王の一人、額に一本角がある星熊童子が声を掛けた。

 

「聞いたぞ〜酒呑童子、お前、あいつに惚れてるんだって〜?」

 

「惚れっ!? 私はあいつの事なんか!」

 

「じゃあなんで私達には萃香って呼ばせないんだ〜?」

 

 からかうような口調で星熊は言う。ニヤついた顔は明らかに私の事を弄ろという下世話な考えがありありと浮かんでいる。

 

「それは、頭領としての威厳を保とうと」

 

「人間一人に別の名前で呼ばれてる時点で既に威厳のへったくれもないよ」

 

「うぅ……」

 

「さぁさぁ、いい加減吐いちまえよ〜好きなんだろ? 馬の事が」

 

 この下世話野郎め。下世話なのはその胸だけにしろってんだ。

 

「なんか言ったかい?」

 

「その口閉じないと今日の酒はお前だけ抜きにするぞ。って言ったんだ」

 

「うへぇ、それは勘弁」

 

「ほら、さっさと席の準備するよ。料理の仕込みはある程度馬がやってくれたみたいだから、後は調理だけだ。行くよ、星熊」

 

「わぁーったよ」

 

 私達は台所に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 おかしい。

 

 何時間経ったのだろう。もう既に日は暮れ、空には昨日のような三日月が浮かんでいる。

 

 なのに、あいつが帰ってこない。配下の鬼に探しに行かせたが、報告が一向になかった。

 

「どうしたんだろう……」

 

 早くあいつに会いたい。あいつの笑顔が見たい。

 

「そう不安そうにするな。あいつはきっと帰ってくるから」

 

「星熊……」

 

「それに、さっきはお前をからかったが、私もあいつがいないとなんか調子が出ないんだ。早く帰って来て欲しいものだよ。ほら、帰って来たらそんな辛気臭い顔じゃなくて、笑顔で迎えてやろうぜ」

 

「……そうだね。ありがとう。星熊」

 

 そう言って空の杯に酒を注ごうとした丁度その時、探しに行かせた鬼がやけに急いで帰って来た。

 

「おう、お疲れ。馬はどうした?」

 

「そ、それが……」

 

「なんだい、歯切れが悪いねぇ。さっさといいな」

 

「う、馬の奴ぁ……死んでしまいました」

 

 持っていた杯が、ことりと地面に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 死因は出血死らしい。

 配下の奴らに聞くとそう言った。特に胸の辺りからの裂傷が酷く、熊か何かにやられた様だ。私は死体を見なかった。酷い状態のあいつを見たくないからだ。

 葬式は盛大にやった。みんなあいつの事が好きだったらしい。大泣きしながら死を惜しんでいた。あの星熊ですら涙を流していた。

 不思議と私は涙が出なかった。何故かはわからない。出ないものは出ないんだ。仕方ない。

 それから一週間後のある日

 

「おい、酒呑童子」

 

 星熊が声を掛けてきた。手に何か紙を持っている。

 

「葬式の時言わなかったが、あいつから言伝を頼まれてたんだ。俺が死んだらあいつに伝えてくれって。これがその内容だ」

 

 紙を受け取り、内容を見る。そこにはこんな事が書かれていた。

 

『よう、萃香。これを読んでるって事は、俺は多分死んでるんだろう。すまんな。こう言うのはあんまり心配かけさせない方がいいと思ったから星熊に頼んだんだ。

 さて、俺はお前に、いやみんなに隠していた事がある。普段の俺はみんなから見たらとても元気そうに見えた事だろう。だけど、あの夜から俺は分かっていた。老い先長くないだろうと。みんなに合わせて酒をかっくらってたのが祟ったんだ。あ、別にお前らの事を悪くは思ってないぞ。限界を知らずに呑んでた俺が悪かったんだからな。

 だから、俺はお前に初めての嘘をつく。もし俺が散歩に行くって言ったら俺はもうみんなの元には戻らない。いや、戻れない。なにせ死にに行ったんだからな。幽霊にならない限りは無理だ。

 今、これを書き写してる星熊がすごい怒ってる。何発か殴られた。でも、俺の覚悟は決まってんだ。こんな自分勝手な俺を許して欲しい。

 最初に連れ去られた時から今日まで、とても楽しかった。都のみんなは鬼を恐れてるが、俺はそうは思わない。みんな気のいい荒くれ者だ。お前が強がるのを辞めたら、もっともっと人が萃まると思う。

 最期に、嘘つきの俺からお前にこれを言おうと思う。萃香、俺はお前が好きだ。出来れば寿命までお前や仲間と一緒に馬鹿やりたかった。けど、それはもう叶わない。俺の自業自得だ。それだけが唯一の後悔だな。あ、おい笑ってんじゃねぇ星熊。お前の杯に毒仕込むぞ。

 ま、何はともあれ、元気でやってくれ。閻魔様の裁きが寛大である事を祈るよ。もし寛大だったら真っ先にお前に会いに行くよ。何年かかっても、な。これは絶対に嘘で終わらせないから。何時までも待っててくれ。それじゃ、さようなら。

 嘘つきな酒蔵管理人・馬右衛門より』

 

「……なんだよ、これ……」

 

 紙を持つ手が震える。文字の一部が滲んで読めない。

 

「勝手に嘘を吐いて、勝手に死んで、挙句の果てには勝手に告白して、なんなんだよ、なんなんだよ……」

 

 いつの間にか、あの葬式の時には出る事のなかった涙が溢れて止まらなかった。

 

「なんで、今に、なって、好きとか、言うんだよ……なんで、生きてる時に、言わなかったんだよ……私、も、お前の、事が、お前、の、事が……」

 

 そこからは、声が出なかった。星熊が私の気持ちを察したかのように、肩に手を置いた。

 

 この日、大江山の方角からは、鬼の泣く声が聞こえたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

「……ん」

 

「お、萃香。お目覚めかい?」

 

 笑いながら勇儀がそう問いかける。

 

「……すこし懐かしい夢を見ていたよ」

 

「私達があの街牛耳ってた時の事かい? あの頃は楽しかったねぇ」

 

「……そうだね」

 

「あぁ、お前はそんな事よりもあいつの事が思い出されるかい?」

 

 からかいながら勇儀が言う。

 

「バカ。そんな事ないさ」

 

「どうだかねぇ」

 

「ねぇ二人共、そこでダラダラ話してないで、宴会の準備手伝いなさいよ」

 

「そうだぜ。私達だけしか準備手伝ってないから人手不足なんだよ」

 

 不満タラタラに霊夢と魔理沙が言った。

 

「はいはい。霊夢と魔理沙の頼みだから仕方ないね。ほら、勇儀、行くよ」

 

「はいはい。酒呑童子様の命令とあらば、この星熊童子、馳せ参じますよーっと」

 

 そう言って勇儀は立ち上がる。

 

「……待ってるからな」

 

「うん?」

 

「何でもない。さ、行くよ」

 

 そう言って、宴会の準備を手伝う為に二人がいる神社へ、私は歩き始めた。

 



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決闘場所は地獄にて

 ビシッ! ガッ! バキッ! 

 

 何処かの国の何処かの荒野。そこに居るのは男と鬼。拳が交わされる音のみが、何もない大地に響く。現在優勢なのは鬼の方で、男が出す拳を余裕で受け止め、いなし、躱す。男の方はヘトヘトになり、動きにキレがなくなってきたようだ。

 

 ゴシッ! 

 

 ガラ空きになった顎にアッパーを叩き込むと、男の身体は宙に浮き、そのまま地面に倒れ込んだ。

 

「よし! あたしの勝ちさね」

 

 嬉しそうに鬼が言う。

 

「くっそー! まだだ! もうひと勝負!」

 

 悔しそうに男は再戦を申し込む。

 

「ダメダメ。一日一戦の約束だろ? 今日はもうおしまいさ」

 

 たしなめるように鬼が言う。

 

「はーぁ、今日も俺の負けかぁ」

 

「これで通算999勝0敗だな。後1勝で大台の1000勝だ!」

 

「絶対に阻止してやるからな! 覚悟しとけよ!」

 

「はいはい。期待してますよーっと。それよりも、酒は持ってきたか?」

 

「ホント相変わらずだな、お前は。ほれ、ちゃんと持ってきたやったぞ。星熊」

 

「相変わらずなのはお前もだろ? いい加減勇儀って呼んでくれよ。凛」

 

 お互いにそんなこと軽口を叩き合いながら、凛は勇儀の隣に座り、紅い盃に酒を注ぐ。カチリと盃を合わせ、一気にそれを呷った。

 

「ん〜……やっぱ勝った後の酒は美味いねぇ」

 

 満足気に勇儀は言うとやっかむ様に凛が言った。

 

「毎回それ言ってるよな。俺への当てつけ?」

 

「そんな事ないさ。純粋に勝てば嬉しくて酒が美味くなるだろ? それと同じさ」

 

「確かにそうだけどさ、こう、何回も負けた後にそれ聞いてると……さ。来るものがあるんだよ」

 

「みみっちい男だねぇ。私は鬼だよ? 勝てるわけがないじゃないか。気にしない方が普通だぞ?」

 

「その鬼に勝つために、日夜必死に特訓して来てるのに簡単に捩じ伏せられるから余計に気にするの。人間って結構脆いもんなんだよ?」

 

「いや、でもお前も段々と強くなってきてるからな? そこら辺の奴らなんか敵じゃないと思うぞ?」

 

 そんな慰めいらねぇよ。と凛は酒を注ぐ。いつの間にか、盃には綺麗な満月が写り込んでいた。

 

「しかし、お前が勝負を挑んできて何年だ?」

 

「丁度今日で二、三十年ってところだな」

 

 指を折りながら、凛は計算をした。

 

「はぁ〜もうそんなに経ったのか。時が経つのは早いねぇ」

 

「お前ら鬼からしたら余計にそう思うかもな」

 

「懐かしいねぇ。お前と初めて会ったあの時を思い出すよ」

 

「出来れば思い出さないで欲しいんだがな……」

 

 そう言って凛は盃を空ける。それを見ながら勇儀は凛と会った日の事を思い出していた。そう、あの時もこんなに月が丸く、綺麗な夜だった…………。

 

 

 

 

 

 


 

「あんたが星熊勇儀だな?」

 

 急に声を掛けられた。振り返ると、見るからにそこら辺のゴロツキと言った男が数人、にやついた顔でこちらを見ていた。

 

「そうだが、私に何か用か?」

 

「いきなりで悪いんだけどよぉ〜、少しボコボコにされてくんねぇかな」

 

 粘着質な喋り方に若干の嫌悪を感じたが、面には出さず、淡々と返す。

 

「そう言われて、はいそうですかって許可する馬鹿はいないさね」

 

「まぁ、そう言うだろうと思ったさ。という訳で……お前ら、殺れ」

 

 男の合図と共に、子分の男達が一斉に勇儀に襲いかかった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3分後、勇儀の周りにはのびた子分の男共の死体が広がっていた。

 

「ふん。この程度の強さでボコボコにされてくれだぁ? 鬼を舐めるのも程々にしとかないと、あんたらいずれ死ぬよ?」

 

 頭領っぽい男に最早余裕などなかった。あるのは圧倒的な強さの前にひれ伏すしか無いただの臆病な人間の姿だけだった。

 

「で、どうするんだい? 今度はあんたが相手になるのかい?」

 

「……ず、ずらかるぞ! テメェら!」

 

 男の怯えた声と共にのびてた子分が一斉に立ち上がり、蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。

 その時の勇儀の印象は、単なる命知らずなゴロツキとしか思わなかったが……

 

 

 

 

 


 

 それから3日経った夜、勇儀の元に一人の男が現れた。その男は、あのゴロツキの頭領だった。

 

「なんだあんたかい。また私をボコボコにさせてくれって言うんじゃあないだろうね?」

 

「………………」

 

 次の瞬間、男は頭を地につけた。あまりに突然の出来事に勇儀は少し驚いた。

 

「昨日はすまなかった。あれは完全に俺たちがあんたを舐めきっていた。その事を謝りに来たんだ」

 

 なんだ。意外に筋が通った野郎じゃないか。

 

「あぁ、別に気にしてないよ。大丈夫だ。だから顔を上げなよ」

 

「いや、あの夜の事は俺にとっちゃ一生の不覚だ。落とし前をつけねぇとどうも納得がいかねぇ。そこでだ。俺と勝負をしてくんねぇか? 俺一人だけ無傷で逃げちゃあ子分に面目が立たん。頼む。この通りだ」

 

 そう言って男は頑なに顔を上げようとはしなかった。

 

「……ふふっ」

 

「ん?」

 

「あっはっはっはっはっ! あんた面白い奴だねぇ! 気に入ったよ! 相手になってやる」

 

「そ、そうか。助かるぜ」

 

「そう言えば名前を聞いてなかったな。あんた、名前は?」

 

「俺か? 俺は兵藤凛だ」

 

「じゃあ凛、昨日のとこでやろう。いいな?」

 

「あぁ。構わねぇぜ」

 

 こうして凛と勇儀の決闘が始まった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

「……てな感じだったな」

 

「あの頃の俺らは青かったからなぁ……」

 

 黒歴史を忘れようと、凛は頭を横に振った。

 

「そこから今までずっと私と戦ってきたな」

 

「あぁそうだな。いつの間にか子分への面目なんか忘れちまってお前に勝つために戦いを挑んでたな」

 

「その度に負けて『覚えてろよー!』って言ってたな。お前」

 

 苦笑いを浮かべながら凛は酒を呑む。呑み干した後、凛は立ち上がり、勇儀を見ながら宣言した。

 

「だがな、今度こそ俺はお前の通算成績1000勝目を潰す。その為に修行してくるから首洗って待ってろよ?」

 

「修行って何時までだよ」

 

「少なくとも10年だな。鬼のお前ならあっという間だろ?」

 

「よし。じゃあ約束だ。10年経ったらここに来い。その時もわたしは全力で行くからな?」

 

 笑いながら拳を凛の前に差し出す。凛はその拳に笑顔で合わせると、村の方へ戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 十年後……

 

「……来たか」

 

 待ち焦がれた様に勇儀は言った。十年。確かに矢が飛んでいく様に短かった。が、勇儀にとっては時間が止まった世界に住んでいた様に長く感じた。

 十年振りに見た凛にはもう、最初に会った時の面影はなかった。本当に修行してきたのかと言いたくなる程にやつれ、老けていた。

 

「なんだよその姿は。ガリガリじゃないか。そんなんで私に勝てるのか?」

 

 挑発する様な笑みを浮かべながら勇儀は言った。

 

「ふん、舐めんな。見てろよ? その笑顔を涙で濡らしてやるからな?」

 

「言うねぇ……じゃ、始めようか」

 

 勇儀の言葉とを合図に、二人は動き出した。

 

 ビシッ! バシッ! ガッ! 

 

 拳の音が夜の荒野に溶けてゆく。観客も、野次馬もいない二人だけの時間が、刻々と過ぎていく。

 なるほど、修行してきたのは本当らしい。今までの決闘より動きが良かった。だが、その動きはまるで、蜉蝣みたいに弱々しく感じた。全ての気力を絞り出そうという意思も感じた。

 

 バギッ! 

 

 勇儀の一撃が鳩尾に直撃し、凛は後ろに吹っ飛んだ。

 

「……降参だ」

 

「おや、珍しいね。こんな早くに降参するなんて。良いのかい? 私の1000勝を阻止するんじゃなかったのかい?」

 

 尚も凛を挑発する。

 

「今日は少し行かなきゃならねぇ用事が出来た。悔しいが、1000勝目は譲ってやる」

 

「そうかい。結局修行の成果とやらは出なかった様だねぇ」

 

「ははっ、そうだな」

 

 弱々しく、凛は笑った。

 

「立てるかい? その用事の前に、酒の一杯は付き合ってくれるよな?」

 

 こう言って勇儀は手を差し出した。

 

「勿論だ。どんなに急いでいても、これだけはしっかりと守らねぇとな」

 

 差し出された手を掴んで起き上がる。勇儀はいつもの様にどっかりと凛の横に腰を下ろし、盃に酒を注いだ。

 

「おっ、珍しいね。星熊の方から酒持って来るなんてさ」

 

「たまにはいいだろ。もののついでだ。私の膝に来な」

 

 そう言って勇儀はあぐらをくんだ膝を誘う様に叩く。

 

「そうかい。じゃお言葉に甘えようかねぇ」

 

 軽くそう言い、頭を膝の上に預けた。

 

「なんだろうな……母親がよくこういう風にしてたなって事を思い出すよ。懐かしいな」

 

「そうかいそうかい。気持ちいいかい?」

 

「あぁ。とてもいい」

 

 子供の様に凛は笑った。

 

「なんだか気持ち良くて眠くなってきたな……」

 

「おっと待った。眠る前に一ついいか?」

 

「なんだよ。手短にな」

 

「なんでお前らは、真正面から喧嘩を吹っ掛けたんだ? 鬼を狩るなら不意打ちするなりなんなりすればいいだけじゃねぇか。なのに、なんでそれをしなかったんだ?」

 

 事実、勇儀の仲間はみんな信頼していた人から裏切られ、騙されて焼かれたり斬られたりして死んでいった。

 

「前に言ったろ? あの時の俺らは青かった。世間を知らなかったんだ。束になって掛かれば鬼の一匹や二匹、楽勝だと思ってたんだよ。ただそれだけだ」

 

「そうだったのか……」

 

「それに、あの頃の俺らは例えゴロツキだったとしても、戦う時は正々堂々とを信条にしてたからな。あの時のアレもそれに則ったまでよ。簡単な話さ」

 

「…………」

 

「もういいか? すごい眠いんだ」

 

「あぁ。もういいよ。お休みな」

 

「あ、そうそう。寝る前にこれだけは言っとかねぇと」

 

 凛は笑いながら勇儀の方を向き、優しい声でこう言った。

 

「今まで楽しかった、付き合ってくれてありがとう。次は地獄で逢えたらいいな。勇儀」

 

 凛はそのまま目を閉じた。勇儀はそれを見ながら酒を呑んだ。

 

「地獄で逢えたらいいな……だって?」

 

 そう呟き、左手で凛の頭を撫でる。その手からは人の温もりが少しずつ失われていく様な気がした。

 

「馬鹿言わないでくれよ……地獄に行くなんて冗談……笑えないよ……」

 

 心なしか、勇儀の声が掠れた気がした。

 

「さっき言ったよな、お前の笑顔を涙で濡らしてやるって……そうなったよ……お前の勝ちだよ……お前の勝ちだからさ、早く用事を済ませてさ……また私と戦ってくれよ……」

 

 酒で一杯の盃に、涙が一粒、二粒零れ落ちた。

 

 空には、あの時と同じ様な満月が輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 バギッ! 

 

 鈍い音が、地底中に響き渡る。それと同時に妖怪が壁の所まで吹っ飛んだ。

 

「もう終わりかい? 弱い奴だねぇ」

 

 嘲笑う様に勇儀は言った。

 

「この野郎……覚えておけよ!」

 

 自力で壁から抜け出したその妖怪は、捨台詞の様にその言葉を残して逃げて言った。

 その後ろ姿を見ながら勇儀は凛の事を思い出した。あいつはどんなにその捨台詞を吐いても、絶対に諦めようとはしなかった。なのに最近の奴らは根性がない。地底に来て何年も経つが、特にそう感じる。

 

「あいつみたいな奴は、もういないんだろうなぁ……」

 

 一人そう呟くと

 

「おい、此処に星熊勇儀って奴はいるか?」

 

 後ろから声をかけられた。振り返ると、凛に似た感じの人間が立っていた。

 

「星熊勇儀は私だが?」

 

 驚きを隠す様に勇儀は言った。

 

「俺の名は、兵藤凛。地底に強い奴がいると聞いて此処まで来た。手合わせ願いたい」

 

「……成る程。図らずもあいつの願いがかなったってわけだな……」

 

「?」

 

「こっちの話さ。それより、この私に挑む命知らずだ。実力も本物だろうね?」

 

「勿論だ」

 

「なら良し。じゃ、さっそく行くぞ!」

 

「望む所だ!」

 

 彼女は今日も、地獄の端にて兵藤凛をまっている。

 

 

 

 

 

 

 

 



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無情なる宿命

注意!この短編には以下の事が含まれています。

1,エロい描写。最悪消されるかも。

2,無駄に長い描写。グッダグダな場面が多々。

3,独自解釈の仕方が酷い。オリジナル描写がクソ。

4,とある吸血鬼小説からの設定の引用。(映画化されてるらしいです。読めば多分分かる。)

以上の事が許せる方のみこの先へお進み下さい。





 どうしてこうなってしまったのだろう。

 

 その考えのみが頭の中を支配していた。確かに俺の生き方はあまり全うってわけじゃなかったし、俺自身も多分、これから先ロクな目に会うことはないだろうなってことは分かってた。だからと言って神様、この運命だけはないでしょうよ。もっとましなもの、それこそ何処かで野垂れ死にになるって運命でも良かったのに。

 

 状況を説明する前に軽く自己紹介をしておこう。俺の名はバーンズ。孤児院出身のしがないヴァンパイアハンターだ。でも、今はもう違う。

 

 さて、状況を説明しよう。現在の時刻は大体夜10時。俺は今、とある館のとある一室のベッドの中にいる。

 

 ここで質問だ。ベッドの中でやる事と言えば? 大方の人はナニと答えるだろう。ナニの事もそうだが、それは一人でするものだ。決して誰かがいる所ではしない。一部の嗜好を持つ人を除いては、だけど。

 

 察しがいい人なら気が付いたかも知れない。が、明確な答えは出さないでおく。そうでもしなきゃ何処かから槍と弓矢が飛んでくると思うからね。

 

 そして俺の隣には、一人の少女。それも裸。これで分からない奴は余程の世間知らずか純情な人なんだろう。

 

 そう、俺はこの少女と所謂『昨晩はお楽しみでしたね』的なサムシングを行ったのだ。言い訳はしない。事実だからな。敢えて言うなら俺はそう言う変態的な趣味はない。とだけ言っておこう。

 

 少女は、俺の腕の中で微かに寝息を立てている。彼女の事について、そして今の俺の事については彼女が起きた時に話す事にする。

 

 寝ている彼女を起こさないよう、俺は優しく、ゆっくりと彼女の髪を撫でる。ツヤがあり、ハリが抜群で、少しウェーブのかかっているくすんだ青の髪の毛は、間を抜ける指に触れるとくすぐったく思うが同時に気持ちよく感じる。

 端から見れば、可愛らしい「少女」だ。

 

「……うぅん……」

 

 おっと、彼女が起きるみたいだ。髪から指を抜こうとしたが、彼女の手が俺の腕を掴んだのでそれは許されなかった。

 

「……誰が許可なく髪を撫でていいって言ったかしら……?」

 

 眠そうな声だが、はっきりとした口調で彼女は尋ねる。何も言わないで指を抜けば腕を折られそうな気配がした。

 

 

 

「……済まなかった。その、お前の髪がとても気持ちよさそうだったもんだから、つい触っちまった」

 

 

 

 言葉を選びながら、俺は彼女の質問に答えた。

 

 

 

「そう……まぁいいわ。許してあげる。こうされるのも、悪い気はしないわ」

 

 

 

 そう言って彼女は近寄り、俺の胸に顔を埋める。肌と肌が当たり、彼女の体温が直接俺の体に流れて来る。ついでになんか柔らかい二つの何かの感触も感じたが、気のせいだと考える事にしよう。

 

 

 

「でも、許可なく触れた事に変わりはないわ。だから、貴方に罰を与える」

 

 

 

 言うなり、彼女は俺の唇を自身の唇で軽く塞いだ。数秒後、唇を離した彼女はとてもいたずらな笑みを浮かべていた。

 

 

 

「随分と可愛らしい罰だな」

 

 

 

「……何よ、もう少しリアクションとったっていいじゃない」

 

 

 

 不服そうに彼女は頬を膨らませる。

 

 

 

「こんな軽い罰なんて、今まで何回もされて来たからな。もう慣れた」

 

 

 

「つまらない事を言うのね、貴方は。それが主人に対しての態度なのかしら?」

 

 

 

「では、不肖ながらこのバーンズ、一つ教えて差し上げましょう」

 

 

 

「どういうこ」

 

 

 そこから先を、彼女は言うことが出来なかった。俺が唇を塞ぎ、その上で彼女の舌に俺の舌を絡ませたからだ。あまりに突然の出来事に彼女は驚いて目を見開いたが、やがて応じるようにした絡ませる。

 やがて俺は唇をゆっくりと離し、意地悪そうに笑いながら

 

 

 

「罰って言うのはこういう風にやるんですよ。レミリア・スカーレット様」

 

 

 

 と言った。

 

 

 

「……起きるわよ。バーンズ」

 

 

 

「仰せのままに。レミリア様」

 

 

 

 鮮血よりも顔を紅くして、レミリアはベッドから抜け出した。その後ろ姿に俺は見惚れた。陶器のように白く、美しい素肌とは対照的な夜の闇のにように黒いコウモリの翼に。

 

 さぁ、改めて自己紹介をしよう。彼女の名はレミリア・スカーレット。この館、紅魔館の主人であり、夜を統べる生き物で俺らヴァンパイアハンターの敵である吸血鬼。

 そして俺はバーンズ。孤児院出身の元ヴァンパイアハンター。今はレミリア・スカーレットの執事であり、その彼氏。そして……人間とハンター達の敵で、彼女の仲間であるヴァンパイアだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 俺が此処に来た事を、彼女は運命だと言った。

 雨の降る晩、宿を求めてこの館に入り込んだ俺は、たまたま入った部屋で眠ろうとした。そしたらそこはレミリアの眠っていた部屋で、お互いに驚いてしまった。さぁそこで戦闘開始……とはならなかった。二人共大笑いしてしまったのだ。まぁ自己紹介を交わして正体が分かった瞬間にドンパチと派手な戦いになったけど。

 結論から言うと俺の完全敗北。銀の弾丸も、クロスボウも、聖水も、十字架も効果なしだった。十字架に至ってはレミリアに鼻で笑われた。効果が多少なりともあったのはクロスボウと銀弾くらいなもんだった。

 

 さて、負けた俺はどうなったか? さっきも言った通りレミリアの執事となり、紅魔館の管理を任された。俺が此処に来るまではこの館はレミリアと妹のフランドール・スカーレットを除いて誰も住んでおらず、ある程度は掃除されていたが荒れた部屋が多かった。

 俺はなんで吸血鬼なんかにこき使われにゃならんのだと内心不満たらたらだったが、口に出したら殺されるので慎んだ。その他、フランの世話や料理、買い物、洗濯その他諸々何でもやった。あれを一人でこなせる人間は……俺の以外でだと多分あいつしかいないだろう。

 

 半年もするとその生活にも慣れ、余裕が生まれてきた。それと比例してレミリアと過ごす時間も増えた。俺は彼女の事を、いや、吸血鬼全員の事を少し勘違いしてたようだ。

 吸血鬼は全員、血を一滴も残さずに飲み干すものと思ってたけど、それをするのはごく一部の吸血鬼だけらしい。大抵は少量の血を吸うだけで十分なようだ。レミリアは特にその傾向が強い。さらに吸血鬼には、血を一滴も残らず飲み干すことで、そのものの魂や思い出を体の中に保存出来るそうだ。その他、吸血鬼にはヴァンパイアと言う人間が吸血鬼に血を流し込まれた者の事を指し、ハンターが追っているのはこいつらだという事、味は劣化するが、ヴァンパイアの血も飲める事、ヴァンパイアは身体が強化される以外は普通の人間と変わらない事等等。色々な事を聞いた。彼女と、フランとの関係も、全て。

 

 話せば話す程、俺はレミリアに心が惹かれていって、そしてある晩のこと、俺は彼女にヴァンパイアにさせて欲しいと頼んだ。彼女はその頼みを受け入れて血を流し込み、俺をヴァンパイアにした。そうしてから俺は一言、

 

 

 

「レミリア様、俺は貴女のことが好きです。貴女のお傍にずっと居させてください」

 

 

 

 と告白した。

 彼女はなにも言わなかった。ただ俺にキスをしただけだった。それが承諾の合図だと分かったのは、きょとんとした俺にレミリアが紅い顔をしながらもう一度キスして抱きしめた後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

「まさか、俺がヴァンパイアになるなんてねぇ……」

 

 

 

 食事の準備をしながら俺は呟いた。

 

 

 

「十年前の俺がこの姿みたら、体の至る所にありったけの銀弾とクロスボウぶち込んでるだろうな」

 

 

 

「恨むなら運命を恨むことね」

 

 

 

 そう言ったレミリアはまだ顔が紅かった。

 

 

 

「運命ねぇ……俺は運命なんて信じないのさ。運命を恨むことも、運命に恨まれる事もないね。ただその出来事を楽しんだり、終わった後で懐かしく笑いのタネにするだけだ」

 

 

 

 その顔に気付かないふりをしながら俺は持論を語る。まぁその運命のおかげで愛しのレミィに会えたんだがな。とも付け足した。それを聞いて、また顔が紅くなる。

 

 

 

「でも、サクだけは絶対に悲しむだろうな」

 

 

 

「サク?」

 

 

 

 きょとんとした顔でレミリアが問うた。

 

 

 

「孤児院にいた、俺の妹分みたいな奴だ。サクって名前は俺がつけた。あいつ、いつかバズ兄ちゃんみたいなものかっこいい人になるっていつも言ってたっけなぁ……」

 

 

 

 懐かしむように思い出す。俺が孤児院を出た時、あいつは確か七歳位だったから……今は十七歳位か? 

 

 

 

「ふーん。そう」

 

 

 

 そっけなくレミリアは言った。片手でカップを持ち上げて紅茶の催促をしている。

 

 

 

「あれ、嫉妬ですか? レミリア様?」

 

 

 

「五月蝿い。さっさと注いでくれないかしら?」

 

 

 

「はいはい。分かりましたよ」

 

 

 

 空のカップに、淹れたて紅茶が音を立ててそれを満たす。いっぱいまで入れたのをレミリアは確認し、それに口をつける。と、

 

 

 

「不味い!」

 

 

 

 そう言い放ち、カップを勢いよくテーブルに叩きつけた。溢れた紅茶が周りを濡らす。

 

 

 

「はぁ。バーンズ、私は貴女の働きに感謝しているわ。作ってくれるご飯もとても美味しいし、掃除や洗濯も完璧にこなしている。贔屓でなく本当に優秀な執事よ。貴方は」

 

 

 

「それはそれは、恐悦至極でございます」

 

 

 

 恭しく俺は頭を下げる。

 

 

 

「でも! どうして紅茶だけはこうも不味く作れるのかしら!?」

 

 

 

 先程とは違う意味で顔が紅いレミリアが、噛み付くように俺に問う。彼女にとっては朝の紅茶は、新しいパンツを穿いた元旦正月の朝のように清々しくさせるものらしい。しかし、俺がここの執事になった十年前のあの日から今日まで、一度たりとも彼女の朝を清々しくスタートさせたことがなかった。

 

 

 

「さぁ? 俺にもわかんねぇよ」

 

 

 

「ここまで来ると最早才能ね。呆れを通り越して笑えてくるわよ」

 

 

 

「はいはい、好きなだけ笑ってくださいな。さて、支度もできたし『朝ごはん』にするか」

 

 

 

 食事の配膳を終えた俺は自分の席に座る。それを見届けたレミリアは、俺に合わせるように『いただきます』と言った。

 

 

 

「……ホント、貴方の作るご飯は美味しいわ」

 

 

 

 ぽつりとレミリアはそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

『運命』英語で言うならdestiny。

 解釈次第で明るくも、暗くもなる不思議な言葉。私はこれを自由に見れるし、好きなように変えられる。でも、私はそれをしない。ありのままの運命を進む奴、運命に抗おうとする奴、そいつらを見るのが好きだからだ。

 彼が私の館に来たのも、彼が執事になるのも、全て運命通りの事だった。だが、そのうちに私の中の何かが変わっていった。気づいた時には彼に惹かれていた。それは彼も同じだったようで、あの晩の申し出はとても嬉しかった。ずっと一緒に居られるんだ。そう思った。だから、私は初めて運命を弄った。彼をヴァンパイアに変えたのだ。でも、その所為で彼は逃れられない『宿命』を背負ってしまった。

 

 

 

「バーンズ、今日は私に何か予定があったかしら?」

 

 

 

 朝食を終えた私はバーンズに尋ねた。

 

 

 

「えーっと……今日はないな。一日フリーだ」

 

 

 

 思い出すようにバーンズは答えた。

 

 

 

「そう。なら暇潰しにチェスでもいかがかしら?」

 

 

 

「あー……すまんレミリア。今から少し出掛けるんだ」

 

 

 

 申し訳無さそうにバーンズは謝る。

 

 

 

「何処に行くのよ」

 

 

 

「買い物だよ。もうそろそろ食糧庫が空になるからな。後、別件で少しよるところもあるんだ。帰ってから付き合ってやるよ」

 

 

 

「そう。気をつけて行くのよ?」

 

 

 

「勿論」

 

 

 

 そう答えると、私はキスをして彼を送り出した。

 その瞬間、妙にいやな予感がした。能力を使って彼の運命を見ると、私にとっては最悪の未来が見えた。すぐにそれを変えようとしたが、出来ない。まるで、固定されたコースを猛スピードで走るジェットコースターのようだ。しかも、終着点は……崖。

 私は半ばパニックになっていた。今までこんな事なかった。どうして? なんで? その事ばかりが私の頭を占領する。

 動転した意識の中、私は一つの答えを見つけた。いや、見つけてしまった。『運命』が『宿命』に変わったのだ、と。

 

『宿命』英語で言うならfate。

『運命』よりも暗く、悲劇的な『運命』。

 そこで初めて気付いた。私の能力を使って他人の運命を弄ると、後に最悪の『宿命』として固定される事を。

 

 

 ドンドンドン! 

 

 

 扉を強く叩く音が聞こえた。いつの間にか、結構な時間が経っていた。

 慌てて扉を開けると、全身傷だらけのバーンズが倒れるように部屋に入ってきた。

 

 

 

「バーンズ! どうしたのよその傷!」

 

 

 

 倒れたバーンズを抱き上げながら尋ねた

 

 

 

「……因果応報ってこの事を言うんだな。同業者(ヴァンパイアハンター)に襲われた。最初のうちは余裕で逃げ切れたんだが、用事を済ませて油断してた。一人、腕の立つ奴に後ろからざっくり刺された。刃には強力な毒が仕込まれてたね。なんとかここまで逃げて来たんだけど、その間にも何発か銃弾を食らっちまってこのザマだ」

 

 

 

 しかも、と彼はその言葉を継ぐ。

 

 

 

「刺した奴は、サクだった」

 

 

 

 それを口にしたバーンズは悔しそうに笑った。

 

 

 

「皮肉なもんだねぇ。あれだけ慕われてた奴に殺される事になるなんてよ」

 

 

 

「何弱気な事言ってんのよ! 待ってて、すぐに解毒剤を」

 

 

 

「レミリア、もう無理だ。刺されてから結構時間が経った。血も相当量流れた。じきに俺は死ぬよ」

 

 

 

 諦めたように彼は言った。

 

 

 

「どうしてこうなったんだろうな。確かに俺はロクな生き方してこなかったけど、これはあんまりだろ、神様。野垂れ死にの方がまだマシだぜ」

 

 

 

「……私の所為だ。私が、貴方の申し出を断れば……」

 

 

 

 私の胸は、後悔で埋め尽くされた。

 

 

 

「……おい、レミィ」

 

 

 

 弱々しくそう呟き、彼は震える手で私の頬を触った。

 

 

 

「時間がないから、言いたい事だけ言わせてもらう。多分、レミィが申し出を断ったら俺はあそこから身を投げてたね。だって、俺はお前が寿命になるまでずっと一緒に居たかったんだ。人間の状態だと、先に俺が死ぬだろ? 死ぬならお前の寿命に合わせたかったんだ。残念ながらそれは叶わなかったけど、ヴァンパイアになれたおかげで色々と便利な事も多かった。俺はヴァンパイアになっても決して後悔はしてなかったぞ。だから、お前が責任を感じる事はない」

 

 

 

 途切れ途切れながらも彼は続けた。

 

 

 

「それから、頼みがある。お前が良ければだが、この毒の回った不味い血を、一滴残らず吸い取ってくれないか? 吸血鬼が毒に弱いって言うなら話は別だけど」

 

 

 

「飲むわ! 大好きな貴方の血だもの! 毒が入ってようが全部飲むわ! だから」

 

 

 

「これが最後だ。レミィ。用事っていうのはこれを取りに行ってたんだよ」

 

 

 

 そう言って取り出したのは、小さな箱だった。震える手でバーンズが箱を開けると、大きくて血のように紅いルビーをあしらった指輪がそこにあった。

 

 

 

「本当はこれをお前に贈って、プロポーズしたかったんだけどな。こんな形になってしまって申し訳ないよ」

 

 

 

「プロポーズって……」

 

 

 

「あぁそうだよ。レミィ。俺はお前と結婚して、一緒に過ごして、一緒に死にたかった。ごめんな。俺はやっぱり駄目な執事だよ。本当に」

 

 

 

「そんな事ない! 貴方は誇れる執事よ! 自信を持って言えるわ! だから死ぬなんて言わないで! 一緒に、ずっと一緒に暮らしましょう!」

 

 

 

 涙が溢れて止まらない。彼が死ぬのは分かってるのに、心の何処かで奇跡が起こるのを期待していた自分がいた。でも、そんな都合良い奇跡なんて、ない。

 

 

 

「レミリア・スカーレット様、どうかこの死にゆく執事めになんなりと罰をお与えください。罰なら先程、貴方に教えた筈ですよ?」

 

 

 

 もう殆ど閉じられたバーンズの目には、微かだが涙で潤んでいた。が、それに気付かせないように、彼は笑顔でそう言った。

 

 

 

「……えぇ。私は貴方に罰を与えるわ」

 

 

 

 そう言って、私は唇を合わせた。弱々しく動くバーンズの舌に、一方的に絡ませる。

 どのくらいそうしていただろう。名残惜しむように唇を離すと、私は彼の首筋に噛み付き、血を吸った。毒の味が強い。でも、そんなの関係ない。毒が回って死んだって構うものか。大好きな、大好きな彼の血を、一滴たりとも飲みこぼすものか。普段は小食な私だが、この時ばかりは彼の血全てを飲み込んだ。最後の一滴を飲み終えた瞬間、彼の体は冷たくなった。

 

 階段を上がる足音が聞こえた。用心しているような足取りは、腕の立つものだと感じさせる。

 程なくして綺麗な銀髪を靡かせ、手には銀のナイフ、ピストルを持った少女が現れた。

 

 

 

「……此処かしら、血の跡を追って来たから間違いない筈……」

 

 

 

 凛としたその声からは、仕事を卒なくこなせるような性格だと感じた。

 

 

 

「貴女が、サクかしら?」

 

 

 

「……貴様は誰だ? あの吸血鬼の仲間か?」

 

 

 

 完全に警戒した状態で、こちらを見た。明確な殺意が体じゅうに伝わって来る。

 

 

 

「私はレミリア・スカーレット。此処の主人よ。そして、貴女の獲物は……私の執事バーンズは、ついさっき死んだわ」

 

 

 

「ちょっと待て、バーンズだと? 何故貴様がその名を知っている? 執事? 獲物? どう言う事だ説明しろ!」

 

 

 

 何がなんだか分からないと言った感じでサクはわたしに詰め寄る。

 

 

 

「私に詰問するよりも、自分で見た方が早いんじゃないかしら?」

 

 

 

 私はバーンズの亡骸を彼女に見せる。瞬間、彼女は何かとんでもない間違いを犯してしまったと言った表情をした。

 

 

 

「嘘だ……嘘だ! これは貴様の見せている幻覚だ!」

 

 

 

「いいえ、現実よ。よく見なさい。触ってもらっても構わないわ」

 

 

 

 言い終わる前に、彼女は彼の骸に触り始めた。全身の至る所を、舐めるように、見落としがないように。

 全てを確認し終えると、彼女の目から大量の涙が溢れ出した。

 

 

 

「嘘よ……バズ兄さんがヴァンパイアになる筈がない……嘘よ……」

 

 

 

「ごめんなさい。ヴァンパイアになりたいと言ったのは彼なの。その申し出を受け入れてしまった私の所為だわ」

 

 

 

「バズ兄さんはそんな事を言わない! それこそお前の戯言だ! 妄言だ! 私は騙されないぞ!」

 

 

 

「そう……なら貴女はどうするのかしら? 私を殺す? 出来る事ならそうして貰いたいわ。バーンズのいない世界なんてつまらないもの。フランの事は少し気がかりだけれども」

 

 

 

「言われなくても!」

 

 

 

「だけど、バーンズが死んだ事には変わりないわ。それに、私を殺してその後はどうするの? またあてもなくヴァンパイアを殺すの? 仮にそうなったとして、また同じ状況になったらどうするの?」

 

 

 

「…………」

 

 

「私を殺すか殺さないか、それは貴女の気持ち次第。だから私は何も言わないわ。でも、どちらに転んでも変わらないものは変わらない。貴女がバーンズを殺した事も、私がバーンズを死なせてしまった事も。起きてしまった事は、どんなにゴネようとひっくり返す事は出来ないのよ……サク」

 

 

 

 いつの間にか、治っていた涙が再び溢れ出した。サクは何も言わず、只々泣いている。

 

 

 やがて、サクの手からはナイフが零れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 カチャリ、と食器同士が当たる音がした。

 紅茶で満たされたカップにレミリアは口をつける。完璧な温度、味、甘さ。咲夜の淹れる紅茶は絶品だ。

 ただ、彼女は時折恋しくなるのだ。かつて、自分を愛してくれた執事の淹れる、世界一不味い紅茶を。

 

 

 

「……ねぇ、咲夜」

 

 

 

 傍にいるメイドに、彼女は問いかける。

 

 

 

「なんでしょうか? お嬢様」

 

 

 

「貴女がメイドになってから長い時間が経ったけど、本当に後悔してないのかしら?」

 

 

 

「なにを……でしょうか?」

 

 

「何って、実の兄のように慕っていた人をヴァンパイアにした吸血鬼に仕えているのよ? 恨みはないの?」

 

 

 

「恨みも何も、私の意志で貴女に仕えているのですから。それよりも、お嬢様も良いのですか? 愛していた人を殺した者をメイドにするなんて。こっそり毒を仕込むかも知れませんよ?」

 

 

 

「そうねぇ、それはお互い様じゃないかしら? それに、そうなったらなったでバーンズに会えるから良いわ」

 

 

 

「左様でございますか」

 

 

 

 咲夜は肩をすくめる。

 

 

 

「ねぇ咲夜いえ、サク、貴女は寿命まで一緒に居てくれるかしら?」

 

 

 

「勿論でございます。でなきゃあの世でバズ兄さんに怒られてしまいますから」

 

 

 

「ふふっ確かにそうね」

 

 

 

 お互いに顔を見せてクスクスと笑う。指にはめたルビーの指輪が、それに呼応するかのようにキラリと光った。

 

 



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あるはずのなかった傲慢な奇跡①

「……であるからしてこの場合……」

 

 

 

 六時間目。大体の人は眠気に負けてウトウトするか、既に夢の中へ行っているか、どちらかの時間帯。生物の担任である鈴木が、黒板に板書しながら授業をしている。

 こいつの授業は嫌いだ。ボソボソと何喋ってるのか分かんないし、周りくどく説明する所為で結論にたどり着くまでの時間が長いからつまらない。きっと教室の大部分はそう思っているはずだ。

 だけど、受験勉強以外には何の役にも立たなさそうなこの授業を、真剣に聞いている生徒がいた。長い緑髪を下ろし、左肩に垂らした髪の毛に蛙と蛇の髪飾りをつけた少女。その子は誰もが認める美人で、しかも頭も良く、若干抜けてるところもあるが、そこがまた普段とのギャップを引き出していて……まぁとにかく学校の人気者だ。嘘だと思うかもしれないが、実際に非公式のファンクラブもある。

 学校中の男子は彼女に釘付けで……この俺、雨神翔一もその一人だ。窓際の前列の席で、鈴木の話に相槌を打ちながらノートをとる彼女を、頬杖を付きながら眺めていた。鈴木の授業の時は大抵こうしてる。この時の彼女は、個人的には凄く可愛くて、美しく感じるから。

 

 

 ピシッ! 

 

 

 

「いって!」

 

 

 

 いきなり物凄い勢いでチョークが俺の額にぶち当たった。

 

 

 

「こら雨神、何処を見とるか。授業に集中せんかい」

 

 

 

「す、すみません……」

 

 

 

 鈴木に怒られてたので素直に謝った。何だよこの爺さん……ゴルゴ13じゃねーのに何で狙った所にチョーク当てられるんだ……

 

 

 

「……そうだ。折角だからこの話をしておこうかの」

 

 

 

 そう改まった鈴木は、こんな話をし始めた。

 

 

 

「みんなは『ファフロツキーズ』と言うのを聞いたことはあるかな?」

 

 

 

 聞き慣れない単語に、周囲のみんなは怪訝そうにお互いの顔を見合わせた。あの彼女ですら知らないと言った顔をしている。

 

 

 

「まぁ無理も無い。殆ど起こり得ない事だからな。これはな、ある日突然蛙やら魚やら、とにかく雨や雪とは関係の無い『何か』が降り注ぐ現象の事を言うんだ。滅多に起こらないから、皆『奇跡』って呼ぶ程に珍しいものなんじゃ」

 

 

 

 周りからへぇーっ、と、感心の声が上がった。

 

 

 

「何でこの話をしたかというとだな、『奇跡』って言うのは、その大部分は証明できる物だ。だが、中にはこのファフロツキーズみたいに証明出来ないものもある。要は世界は広いから、みんなも外に出て、色々な物を見て回りなさいという事だ」

 

 

 

 ちょうどその時、授業の終わりを告げるチャイム学校学校中に響き渡った。

 

 

 

「今日の授業はここまで」

 

 

 

 それを合図に起立、礼。と、日直が挨拶をした。理科の教材を鞄に入れようとした時、ふと、窓際のあの子の事を盗み見た。その時の彼女は、少しだけ悲しそうな顔をしていた……ような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────ー

 

「よーっす翔! またお前は鈴鳴り爺に怒られたな! 今日も愛しのあの子を見てたのかな?」

 

 

 

「……黙っててくんねぇかな、霧斗」

 

 

 

 帰り道、馴れ馴れしく俺の肩に手を置いて話しかけてきた男は花村霧斗。幼稚園からの腐れ縁だ。むかつく奴だが悪い奴じゃない。先程の鈴鳴り爺という名は、霧斗がつけた鈴木の渾名だ。

 

 

 

「まぁ仕方ねぇよ! 学校中の人気者だからな! あの子! だからさぁ〜翔〜、いい加減うちのファンクラブに入れよ〜毎日が楽しくなるぜ〜?」

 

 

 

「絶対にお断りだね」

 

 

 

 因みに、非公式のファンクラブを作ったのはこいつだ。キモオタ共の集まりになるのは目に見えて分かってたので誘われても入らないようにしていて、その予想が見事に的中したので、こんな風にしつこく誘われているが、卒業まで俺がこのクラブに入る事は百パーセント有り得ないだろう。余談だが、こいつ自体はブサイクではなくイケメンの部類に入る。そんな奴がこんなふざけたファンクラブを作ったんだからそこも少しむかつくポイントだ。

 

 

 

「何だよつまんねーな。お前もあの子の事好きなんだろ〜? んなこと分かってるからさ〜。俺も、お前だったら応援するぜ? だから入ってくれよ〜」

 

 

 

「入んねーし、何より俺は好きなんてひとことも言ってねーぞ。誰が告白しても、俺は別に気にしないから」

 

 

 

 本当のところは、少しだけ怖かった。あの子が誰かに告白されて、それをそのまま了承してしまったら。そう思うと、背筋がゾッとした。

 

 

 

「あっそー……じゃ、俺あの子に告白する!」

 

 

 

「ふーん頑張ってね〜……って! はぁ!?」

 

 

 

 驚いた俺は霧斗の顔を見る。殴りたくなる程うざったいにやにや顔を浮かべた霧斗はおちょくっているように見えて本当に殴りたくなった。

 

 

 

「あっれ〜? どうしたのかな翔一君」

 

 

 

「どうもこうもねぇよ! 霧斗! お前告白するだって!?」

 

 

 

 こいつだけは絶対に有り得ないと思ってたのに。

 

 

 

「いいじゃん別に。本人の自由だろ?」

 

 

 

「別にお前がいいんならいいけど、ファンクラブの奴らはどうすんだよ!?」

 

 

 

「忘れたのか? うちのファンクラブはあの子に告白はOKだし、あの子が誰かを好きになったら全力でその人を応援するって規約があるんだよ」

 

 

 

 勿論知っている。だが、その規約は反対者が結構多いという噂を聞いた事があるが……。

 確かに少し抵抗はあった。でも、親友があの子に告白するのなら、応援するのが筋だろう。

 

 

 

「……分かった。お前がそこまで言うなら、俺はお前を応援する。頑張れよ。霧斗」

 

 

 

「おう! 絶対に射止めてみせるぜ!」

 

 

 

 今まで見た事も無いような笑顔で答えた霧斗を見ていると、こっちまで笑顔になってくる。その後の俺達は、先生の愚痴を零しながら、それぞれの家路へと向かって行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────ー

 

「で、どうだったんだ?」

 

 

 

 それから一週間後、俺は霧斗に結果を聞いた。聞くのが少し怖かったが、どうなったか知りたいという好奇心が勝っていた。それでもフられていた事も考えて、少しだけ期間を空けておいたのだ。

 

 

 

「あー、やっぱダメだった。結果は分かってたけど、こうやってフられてみると結構来るものがあるね」

 

 

 

 苦笑いを浮かべて霧斗は言った。こいつみたいなイケメンでもダメだったか。

 

 

 

「なんて言って断られたんだ?」

 

 

 

「それがさ、意外な事に、あの子、他に好きな人がいるんだってさ」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

「俺も驚いたんだよ。で、聞いてみたら教えられませんって悪戯っぽくはぐらかされて何も分からなかった。だけど可愛かったから個人的には良かったけどな」

 

 

 

「……今まで告白してきたファンクラブの連中は、そういう風にして断られたのか?」

 

 

 

「いや? 確か勉強が忙しいとか、家業があるから時間が取れないとかって言ってた気がするな」

 

 

 

 霧斗の声が、何処か別の次元から聞こえてくるような気がした。それ位、あの子に好きな人がいる事がショックだった。

 彼女の好きな人……きっと、俺みたいななんの取り柄もない奴なんかよりも、余程カッコよくて、頭もよくて、スポーツ万能な、天は二物も三物も四物も与えたようなやつに惚れたんだろうな……

 

 

 

「……おーい翔! お前も充分かっこいいから自信持てー! ……って、ダメだ聞いてねぇなこりゃ……」

 

 

 

 霧斗の励ましなんか耳にも入らず、その日はそのまま霧斗の愚痴を適当に聞き流しながら帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────

 

 そんな事があってから少し経った頃、何時ものように帰り支度を済ませて霧斗と一緒に帰ろうとしたら、不意に誰かに声をかけられた。

 

 

 

「あのー……翔一君?」

 

 

 

 振り返った先で見たものに、俺はそのまま後ろに素っ転びそうになった。声を掛けてきたのはなんと、あの子だった。今日は長い髪を一つにして後ろで束ねている。すごい可愛い。

 

 

 

「ど、どうしたの?」

 

 

 

 内心では心臓がバックバクだったが、表には出さず、冷静に尋ねた。

 

 

 

「実は少し頼みたい事があって……翔一君って飼育委員だよね?」

 

 

 

「そうだけど……」

 

 

 

「兎小屋の兎達にこれをあげたいんだけど……今日確か翔一君当番だった筈だから、一緒にどうかなって」

 

 

 

 言われて気づいた。確かに俺は飼育委員で、今日は俺が兎小屋の掃除をする日になっていた。彼女が持っている物を見ると、新鮮そうな人参が袋一杯に詰まっている。

 いつの間にか、周りの視線が俺とその子の方向へ向けられていた。が、気にせずに話しを続ける。

 

 

 

「うん。掃除を手伝ってくれるならいいよ。場所は分かるかな?」

 

 

 

「やったぁ! ありがとう! うん、場所は分かるから先に行ってるね!」

 

 

 

 そのまま彼女はスキップするかのような足取りで教室を出て行った。それを見送った瞬間、どっと疲れが出てその場にへたり込んでしまった。まさか彼女と話せるなんて夢にも思わなかったから緊張してしまった。

 

 

 

「翔ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 

 

 横からいきなり霧斗が抱きついてきた。

 

 

 

「良かったな! 良かったな!! 俺は嬉しいよ! 幼稚園からの親友が学年一の人気者に告白されるなんて!」

 

 

 

 一瞬、教室の空気がピンと張り詰めた気がした。

 

 

 

「お、おい落ち着けよ。まだ告白されるって決まったわけじゃ……」

 

 

 

「でも! 付き合う事になったら俺は応援する! ファンクラブの奴ら一同にもそう言うから! 頑張れよ!」

 

 

 

「だから落ち着け! まだあの子は俺に告白すらしてねぇし、そんなことは万に一つもない! 兎に餌やって掃除して終わりだ! そしてそのいつもの日常に戻る! ただそれだけだ!」

 

 

 

 そう言いつつも、心の何処かで期待していた。彼女が実は俺の事が好きで、兎小屋の中か別の場所で告白されるんじゃないかっていう、ある筈のない『奇跡』を期待していた。

 

 

 

「兎に角! ちゃっちゃと済ませるから、少し待っててくれ。きり「ごめん! 俺今日用事あったの思い出したー!」はぁ?!」

 

 

 

「ほら早く行きなよ〜。鈴鳴り爺に怒られるぞ〜?」

 

 

 

「…………覚えてろよ! 霧斗!」

 

 

 

 ありがちな捨て台詞を残して俺は兎小屋に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────

 

 鍵を取ってきてから兎小屋に向かうと、彼女はしゃがんだ状態で、檻の隙間から中にいる兎の一羽に人参をあげていた。

 

 

 

「ごめん! 遅くなった!」

 

 

 

 俺の声を聞いた彼女はその体勢のまま、こちらを振り向いた。

 

 

 

「ううん、大丈夫だよ。兎さんに人参あげてたし。可愛いなぁ〜。私も飼育委員になれば良かった」

 

 

 

「そう言えば動物好きだけど、生物部とかにも入ってないよね。なんで?」

 

 

 

「家の事が忙しくて」

 

 

 

 寂しそうにそう言った彼女を見て、俺は何か大変な事を言ってしまった気がした。

 

 

 

「あー……ごめん。変なこと聞いちゃったね。取り敢えず、鍵を開けるよ」

 

 

 

 彼女は何も言わず、兎に人参をあげている。その間に俺は小屋の鍵を開け、彼女に中に入るように促した。

 

 

 

「はぁ〜、可愛い〜」

 

 

 

 小屋の兎達は俺たちの事に気付くと、一斉に足元に群がってきた。多分、彼女が持っている人参に興味を持っているに違いない。だとすると……

 

 

 

「先にその人参あげちゃおう。その間に俺は糞を何処か邪魔にならないところに集めておくから、上手いこと兎達を誘導してておいてくれないかな?」

 

 

 

「うん! 分かったー!」

 

 

 

 そう言って彼女は袋を高く掲げて、兎達を隅に移動させた。その間に俺は目に付くところの糞を箒で掃きながら一箇所に集めていく。彼女が兎達を隅に寄せてくれたお陰でスムーズに糞が集められるのはとてもありがたかった。

 

 

 

「それにしても、何時もこれを一人でやってるの?」

 

 

 

 人参をあげながら彼女がそう尋ねた。

 

 

 

「まぁね。飼育委員は人数少ないし、必然的に一人になることが多いよ」

 

 

 

 箒を動かしながら俺は答えた。

 

 

 

「そうなんだー。凄いね翔一君」

 

 

 

「いや、別に凄くはないよ。寧ろ、俺は君の方が凄いと思うけどなー」

 

 

 

「なんで〜?」

 

 

 

「だって、頭も良くて可愛くて性格も良くてさ。今や学校中の人気者だよ? こんな地味な奴よりもよっぽど凄いじゃん。少なくとも俺はそう思う」

 

 

 

「……そんなことないよ」

 

 

 

「え?」

 

 

 

「ううん! なんでもない!」

 

 

 

「ふーん? あ、そうだ。好きな人がいるんだって〜?」

 

 

 

 ここで俺は少し強気に攻めてみた。

 

 

 

「……何処で聞いたの?」

 

 

 

 しまった少し突っ込みすぎたか。

 

 

 

「えっと俺の親友がさ、告白した時に聞いたって言ってて」

 

 

 

「霧斗くん?」

 

 

 

「う、うん、そう。それで誰かなーって。ごめん。嫌なら答えなくてもいいから」

 

 

 

 慌てて取り繕う俺に、彼女はクスクスと笑い声を上げた。

 

 

 

「仲いいんだねー、二人とも。その関係羨ましいな」

 

 

 

「幼稚園からのくされ縁なんだ。悪い奴じゃないから許してやってくれ……って聞いた俺が言うべき言葉じゃないなこれ……」

 

 

 

「あはは。じゃあその友情に免じて許してあげる。でも、誰が好きかは教えない」

 

 

 

 うん、そりゃそうだ。分かってたけど。でも、これだけは聞きたい。

 

 

 

「じゃあ、ヒント。ヒントだけ教えて」

 

 

 

「ヒント……ねぇ。うーん……それも教えない!」

 

 

 

「えー、いいじゃん教えてよー」

 

 

 

「だーめ。だって……貴方ならすぐに分かっちゃう事だから」

 

 

 

「俺ならすぐに分かる事かー。まぁ言えないのなら仕方ないな……っと。よし! 掃除終了!」

 

 

 

 全ての糞をちりとりに集め終えた俺は、高らかに宣言した。見違える程に綺麗になった小屋を見て、なんだかとても清々しい気分になった。ここまで掃除したのは多分初めてだと思う。

 ちりとりの糞をゴミ箱に捨てると、あの子が近づいてきた。

 

 

 

「お疲れ様、翔一君。ありがとね、我儘に付き合わせちゃって」

 

 

 

「いいよいいよ。俺も沢山話せて楽しかったし」

 

 

 

 彼女の笑顔が見れるなら、何時でも大歓迎だ。

 

 

 

「でね、翔一君……ちょっと人参余っちゃったんだけど、どうすればいいかな?」

 

 

 

「あ、いいよ。それは餌箱に入れておくから。袋ごと頂戴」

 

 

 

 そう言って袋を受け取ろうとした瞬間、彼女と指が触れ合った。二人共驚いて袋を落としてしまい、中の人参が溢れ落ちた。

 

 

 

「あ……ご、ごめん!」

 

 

 

 顔を赤くして俺は彼女に謝った。

 

 

 

「ご、ごめんね。翔一君……私……その……」

 

 

 

 妙に歯切れが悪いのが気になったので、ちらっと彼女を見ると彼女もまた、顔を夕日みたいに赤く染めていた。正直言ってびっくりした。気にしてないのかと思っていたのに。

 

 

 

「……帰ろっか」

 

 

 

「そう……だね」

 

 

 

 いつの間にか、落ちた人参には何羽かの兎が群がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────ー

 

 ……くそが、くそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそが。なんであいつがあの子と一緒に帰るんだよ。なんであいつがあの子の隣なんだよ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……でも良いや。どうせ彼奴もフられるんだから。何故かって? あの子は……僕の事が好きな筈だから。

 

 




はいどうも、遅くなりました焼き鯖です。今回はアンケート結果にのっとり東風谷早苗さんです。楽しんでいただけたら幸いです。

今回はニパート位に分けたいと思います。思ったより長くなりそうだったので……レミリア?例外中の例外です。

それでは次回までゆるりとお待ちください。


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あるはずのなかった傲慢な奇跡②

 小屋を出ると、既に半分位の太陽が西の空に隠れ始めていた。この時間だと、霧斗はもう家に帰っているかもしれない……というか、絶対帰ってる。電話しても、多分「二人きりで一緒に帰ったらいーじゃねーか! 末長く爆発しろ!」と、無駄にイラつく笑顔を浮かべながらガチャ切りだろう。出来るわけねーだろ。臆病者の俺に。

 

 

 

「はぁ……今日は一人で帰るとするか……」

 

 

 

 溜息を吐きながらぽつりとそう呟いた時、彼女が遠慮がちにこう尋ねた。

 

 

 

「ねぇ……翔一君」

 

 

 

「ん? どしたの?」

 

 

 

「その……翔一君って雨風町に住んでるよね?」

 

 

 

「え……っと……うん。雨風町に住んでるよ。霧斗ん家とは隣同士なんだ。でも……どうしてそんな事を?」

 

 

 

「やっぱり! 実は私も雨風町に住んでるんだよ!」

 

 

 

「え!? 嘘ぉ!?」

 

 

 

 意外な事実だった。まさか同じ町内に住んでたとは知りもしなかった。

 

 

 

「偶に二人で帰る所、見る事があるからそれでご近所さんなのかなーって」

 

 

 

 えへへ、と恥ずかしそうに笑う彼女は鼻血ものの可愛さだった。

 

 

 

「でね……もし良かったら……一緒に帰って欲しいな〜って。ほら、夜道は危険だし……さ」

 

 

 

 これを断る奴がいるとは思えない。いるとしたら相当の女嫌いか、絶食系男子だろう。そう思う位、この時の彼女の表情と仕草は可愛かった。しかし、顔に出してはいけない。出したらこの子がどう思うか分からないからだ。

 

 

 

「いや……別にいいけどさ、逆にいいの? 俺で」

 

 

 

 敢えて冷静に聞き返すと、彼女は強く頷いてこれまた意外な事を口にした。

 

 

 

「当たり前だよ! 寧ろ私は翔一君と一緒に帰りた……あ」

 

 

 

 そう口に出したら瞬間、彼女の顔はボンッという軽い爆発音が聞こえそうな位に顔が真っ赤になって俯いた。彼女の頭から湯気が出てる気がしないでもない。余りに予想外の一言に、俺も同じように顔を赤らめて俯いた。

 やがて、顔を見られないように俯いていた彼女は、恥ずかしさで赤く潤んだ目で覗き込むように俺を見つめながら言った。

 

 

 

「ダメ……かな?」

 

 

 

「い、いや! 構わないよ! 俺も一人だとつまらないしさ! 逆に大歓迎だよ! うん!」

 

 

 

 慌てて取り繕うと、彼女の顔には電灯が灯ったような笑顔が再び現れた。

 

 

 

「本当に!? 良かった〜。嫌なのかなって少し不安になっちゃったよ〜」

 

 

 

 こんな可愛い子から一緒に帰ろうなんて誘われたら、誰であっても嫌な気分はしない筈だ。

 

 

 

「ありがとね! 翔一君!」

 

 

 

 この時の彼女は、何処か別の次元から来た天使みたいに極上の笑顔を俺に見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────────────

 

「へぇー。巫女さんやってたのか。意外だな〜」

 

 

 

「うん。先祖代々続く由緒ある巫女さんなの。私も毎日修行してるんだ〜」

 

 

 

 嬉しそうに彼女は語った。現在、俺たちは並んでお喋りしながら帰り道を歩いている。ちらっと顔を見ると、彼女は楽しそうに笑っていた。その様子を見て、俺はホッとした。

 考えてみたら今、俺は『奇跡』を体験している。だって、今まで夢に描いていて、それが実現すればいいと思っていて、でも、それは絶対に叶わないと諦めていた物だからだ。

 手を伸ばしたら、壊れてしまう。ずっとそう思ってた。そうなるのが嫌だった。だからその願いが叶う事を諦めた。それ程俺は臆病な奴なのだ。

 だから、これは『奇跡』だ。俺はそう考える事にした。言い換えるなら、夢のような一時だ。

 

 

 

「大変じゃない? 修行とか。それに、さっきの委員会と言い、好きな事あんまり出来てないんじゃないの?」

 

 

 

「うーん……確かに好きな事は出来てないし修行も厳しいけど、それ以上に私は巫女さんの仕事が好きだからこれ位は何ともないよ」

 

 

 

 色々話を聞いてみて分かったが、彼女の家は代々この近所にある神社の巫女さんをしているそうだ。彼女も今、巫女さんになるために修行をしているらしい。そのためあまり友達とは遊べず、部活や委員会にも所属していないとか。

 

 

 

「凄いな……俺だったら親に反抗して別の道に行っちゃうなぁ……」

 

 

 

「でも、翔一君だったら何だかんだ巫女の仕事に行きそうな気がするな〜私は」

 

 

 

「またまた〜。俺には其処までの根性はないよ〜」

 

 

 

「ううん。私はそう思う。だって、翔一君は頑張り屋だもん。それに優しいじゃん」

 

 

 

「そんな事は……」

 

 

 

「あるよ。絶対にある。私が言うんだもん。間違いないよ」

 

 

 

 そこまで称賛される程、俺は優しくはないし頑張り屋でもない。どちらかというと怠惰で、他人に悪口も言う方だ。それに……俺は傲慢な男だ。

 昔からそれで損をしてきた。たかが一回の学年テストでいい点数取ったら『俺って頭いいんだぜ!』とか、平気で言ってしまう奴だ。謙虚さの欠片もない。

 

 そう言おうとした時、不意に彼女がこんな事を聞いてきた。

 

 

 

「ねぇ翔一君、前にさ、鈴木先生が『ファフロツキーズ』の話してくれたじゃん。覚えてる?」

 

 

 

 はて……そんなこと言ってたっけ? ……あ、思い出した。確かに話してくれた気がする。

 

 

 

「それ聞いて思ったんだけど……翔一君って『奇跡』を信じる?」

 

 

 

 ん? いきなりどうしたと言うのだろう? 

 

 

 

「うーん……信じるっちゃ信じるな。現に、今こうして一緒に帰ってるっていう『奇跡』が起こってるわけだし」

 

 

 

「あはは。そんな事言われると照れちゃうな〜」

 

 

 

「いや〜結構本気でそう思ってるよ。でも、それがどうしたの?」

 

 

 

「あ、うん。えっとね、それじゃあもしそれが普通に起こせるっていう言われたら、信じる?」

 

 

 

「はぁ? 普通に?」

 

 

 

 普通に奇跡を起こせたらそれはそれで凄い気がするが……そんな事は普通ありえない。でも……そうだ。確か鈴鳴り爺はこんな事も言ってたっけ。

 

 

 

()()信じられない。でも、いつか信じる日が来るかもしれない……かなぁ」

 

 

 

 この答えが意外だと思ったのか、彼女は驚いた顔をして俺の方を向いた。

 

 

 

「どうして?」

 

 

 

「だって、もしかすると、本当に普通に奇跡を起こせる人がいるかもしれないじゃん? 世界は広いから、外に出て色んなものを見なさいって鈴木先生も言ってたし。今は信じられないかもしれないけど、いつかは信じる事が出来るかもしれない。っていうのが俺の考えなんだけど……」

 

 

 

 どうかな? 同意を求めるように彼女の顔を見ると、彼女の目からは涙が滝のように溢れていた。

 

 

 

「ちょっ!? なんで?! 一体どうしたの?!」

 

 

 

「あれ……あれ? 何で私……泣いて……あれ?」

 

 

 

 次の瞬間、彼女は大きな泣き声を上げて俺の胸に飛び込んできた。びっくりして後ろによろけそうになったが、何とか受け止めて彼女を見る。しゃくりあげるように泣いている彼女に、俺はどう声をかけたらいいか分からなかった。

 

 

 

「えっと……」

 

 

 

「ごめん……ごめんね、翔一君……いきなりこんな事しちゃって……でも……今は……今だけは……このままで……いさせて……お願い……」

 

 

 

 そんな事を、しかも泣きながら言われたら、断るなんて……出来ないじゃないか。

 肩を震わせて泣く彼女を、俺はあやすようにして肩を叩きながら落ち着かせた。

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────

 

「……あ、着いた。ここが私の家だよ」

 

 

 

 落ち着いた彼女と再び歩き始めて数分、ようやく俺は彼女の家に着いたらしい。

 本当に巫女さんの家らしい。しかも相当由緒ある家柄のようだ。立派な境内に大きな注連縄。ひっそりと置かれてはいるが、存在感は失われていない御柱。どこを取ってもそこら辺の神社とは比べ物にならない程の神々しさが感じられた。

 

 

 

「おぉー、でっけー神社だなー」

 

 

 

 階段を登った先の境内をみて俺は感嘆の声を漏らした。

 

 

 

「でしょー? でもね、最近は参拝客も減っちゃって誰も来ない事が多くなったの」

 

 

 

 悲しそうに彼女は言った。これは聞かないでおいた方が良さそうだ。何か深い事情があるかもしれない。

 

 

 

「そうなのか……大変だな」

 

 

 

「ううん! 気にしないでね! ……それより、今日は色々ありがとね。楽しかった」

 

 

 

「いやいや、こちらこそ楽しかったよ。ありがとう」

 

 

 

 もうすぐで『奇跡』が終わる。俺は今日という日を絶対に忘れないだろう。彼女の笑顔も、泣き顔も、全て。それを胸にまた明日も頑張ろう。

 

 

 

「あの……翔一君」

 

 

 

「ん? どしたの?」

 

 

 

 声をかけた彼女は、少し迷っているような素振りを見せた。が、やがて意を決したようにこう言った。

 

 

 

「もし良かったら……翔一君が迷惑じゃなかったら、今日みたいにまた一緒に帰ってくれませんか?!」

 

 

 

 耳を疑った。神様は、まだ俺に『奇跡』を見せてくれるのだろうか? こんな俺に、もう一度『奇跡』を体験させてくれると言うのだろうか? 

 まるでシンデレラみたいな話だ。いや、少し違うかもしれない。

 シンデレラは、継母や娘の意地悪に耐えた末に魔法使いによって『奇跡』を体験出来た。対して俺はどうだ? この状況を手に入れるために何かに耐え忍ぶような事は何もしていない、降って湧いたような都合の良い『奇跡』。それを再び叶えてくれると言うのか? それこそ傲慢な事ではないのだろうか? 

 しかし、その考えとは裏腹に口が先に動いていた。

 

 

 

「勿論だよ! 霧斗とも一緒に帰ってくれるならもっと良いよ! いや、こっちからお願いしたい。俺と、いや、俺達と一緒に帰ってくれませんか?!」

 

 

 

 全力で頭を下げて彼女にお願いした。探るように目線を上げると、彼女はこれ以上ないってくらい嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 

 

 

「ありがとう! とっても嬉しい! じゃあ明日も一緒に帰ろう!」

 

 

 

「ほ、本当に良いのか?」

 

 

 

「当たり前だよ! 勿論、霧斗君も誘ってね! じゃあ、また明日!」

 

 

 

 そう言って彼女は境内に向かって走り去って行った。その場に一人残された俺は先程の余韻に浸っていたが、やがて正気を取り戻し、スキップするような足取りで家へと帰った。そしてこの事を電話で霧斗に伝えると、彼はまるで自分の事のように喜んでくれた。やっぱり、こいつはなんだかんだ良い奴だと思う。

 

 

 

「でも、俺も一緒にって言う所がまだまだチキンだなぁ〜翔も」

 

 

 

 とか言う余計な一言もほざいたが、まぁそれは事実なので俺は何も言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────────ー

 

 ……なんで、なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで、僕を選んでくれなかったの? なんであんな奴を選んだの? ……許せない、許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない……僕の事が好きじゃない。そんな君はもう嫌いだ。だから……死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────ー

 

「よーっす翔! 帰ろうぜ〜! ……ってあれ? あの子は?」

 

 

 

「なんか、今日は家の用事があるからって先に帰ったよ」

 

 

 

「そっか。まぁ丁度良かった。久しぶりに二人で帰ろうぜ。話したい事もあるし」

 

 

 

 霧斗と二人きりで帰るのは本当に久しぶりだ。あの申し出をして受け入れて以来、俺たち3人で帰ることが多くなった。思ったよりも霧斗が先の一件のことを気にしておらず、面白いジョークでよく俺らを笑わせてくれたし、偶に霧斗がいない時はあの子と帰る事もあった。本当に楽しい時間が続いた。

 

 

 

「で、話したい事ってなんだ?」

 

 

 

 学校を出て少し経った所で俺は霧斗に聞いた。

 

 

 

「実はな、少し前に俺のファンクラブから一人、脱退者が出たんだ」

 

 

 

「脱退者?」

 

 

 

「あぁ。そいつはクラブ内にいる時は大人しかったんだが、脱退してから少しやばい噂が多く聞こえたんで少し気になって調べてみたら、これがまたとんでもないクズ野郎だったんだよ」

 

 

 

「どういう事だ?」

 

 

 

「そいつはな、何でも自分の思い通りにならないと、癇癪を起こすクレイジー野郎だ。尾行してみたらあいつ、あの子の盗撮写真を撮りまくったり、私物を少しずつ盗み帰ったりしてた。おそらく、彼女が俺達と帰っているのが気に食わなかったんだろうなと俺は考えている」

 

 

 

 そういえば、いつの間にか彼女の消しゴムや鉛筆が数本なくなっていたと言うのを昼休みに聞いた気がする。

 

 

 

「俺の直感だと、こういう奴は何をしでかすか分かったもんじゃない。下手すると、お前か彼女のどちらかが殺されるかもしれない。だから提案だ。俺達は、ほとぼりが冷めるまで、あの子とは一緒に帰らないようにしないか?」

 

 

 

「……はぁ? 何言ってんだお前。そんなキモオタの一人や二人、俺達で何とか」

 

 

 

「何とか出来ないから言ってんだよ。そいつ、武道の経験者で幾つか段を取ってるらしいんだ。それに、聞いた話じゃナイフを隠し持ってるって噂だ。だから」

 

 

 

「なんだそれ、じゃあお前は自分の命欲しさにスタコラ逃げてあの子を見殺しにするってのか?!」

 

 

 

 こういう時、霧斗のアドバイスや直感はよく当たる。素直に従って助かった例も幾つかあった。でも、このアドバイスだけは、どうしても聞く事が出来なかった。

 

 

 

「それは違う! 俺が言いたいのは暫くは一緒に帰るのをやめるって事だ。あの子にも事情を話して、そいつをちゃんと説得すればなんとか」

 

 

 

「じゃあ逆に、そのクレイジー野郎とか言う奴が逆上してあの子を襲ったら? その時に俺達がその場にいなかったら? 最悪死ぬ事が予想出来てんなら尚の事そばにいてあの子を守らなきゃならないだろうが!」

 

 

 

 口ではそう言っていたが、本心は違った。あの子と帰るのをやめて、『奇跡』が終わってしまうのが怖かった。だから、心にもない事を口にしてしまった。

 

 

 

 

「それに、有段者っつったってどうせ大した奴じゃない。俺だって男だ。いざとなったら誰か一人守れるくらいの力はある。霧斗、いい加減俺を舐めるのも大概にしろよ!」

 

 

 

 そう言って俺は足音荒く歩き出した。

 

 

 

「じゃあな霧斗! 用事を思い出したから帰る!」

 

 

 

「……そうか。気をつけて行けよ」

 

 

 

 少し悲しそうな声が背後から聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

「どうしたの翔一君。最近元気がないみたいだけど」

 

 

 

 それから何週間か後の帰り道、俺はあの子と一緒に通学路を歩いていた。勿論、霧斗はいない。どうも蓑田の動向を追っているのと、ケンカしたのが効いたのかもしれない。

 

 

 

「別に〜? なんにもないよ〜?」

 

 

 

 何もないように平静を装ったつもりだったが、彼女の目を誤魔化すことは出来なかった。

 

 

 

「嘘。その目、絶対なんかあったでしょ? いいから、私もチカラになれそうだったら協力してしたいの」

 

 

 

 

「……些細な事で霧斗とケンカした。俺が一方的に怒っちゃってどう謝ったらいいか分からないんだ」

 

 

 

 彼女の真っ直ぐな目に見つめられたら、隠す事なんか出来なかった。だけど、クレイジー野郎の事については口には出さなかった。彼女を不安にさせたくなかったからだ。

 

 

 

「そっか〜……やっぱり親友でもケンカはするんだね」

 

 

 

「うん……」

 

 

 

「そういう時はさ、素直に謝った方が私はいいと思うなぁ〜」

 

 

 

 何気なしに、しかし、優しく彼女にそう言われ、少しだけ俺の心は軽くなった。

 

 

 

「あはは。ありがとう。気が楽になったよ」

 

 

 

「どう致しまして。仲のいい二人を見てる方が私も良いからね」

 

 

 

 お互いに顔を見合わせてクスクスと笑っていると、目の前に太った男がヌッと姿を現した。

 そいつの第一印象は俺の中では最悪だった。魚みたいな目、それを隠すように牛乳瓶の底みたいに分厚い眼鏡をかけ、ビール樽のように太った体とそれに不釣り合いな程に細く、小さい下半身。デブ特有のくっさいにおいに荒い息。アイドルのイベントなんかで最前列に陣取ってオタ芸を踊ってそうな、典型的なキモオタのそれだった。

 一目見て分かった。こいつは危ない奴だと。事実、男の魚みたいな目にハイライトはなく、焦点がはっきりと定まっていない。

 

 

 

「あれ? 蓑田君じゃない。どうしたの?」

 

 

 

 そんな事に少しも気付いていない彼女は、明るい声で蓑田とかいう目の前の男に話しかけた。

 

 

 

「……んでなんだよ」

 

 

 

「え?」

 

 

 

「なんで僕を選んでくれなかったんだよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 

 

 蓑田が突然、大きな雄叫びを上げた。それはさながらギリシャ神話のミノタウルスのように凶暴な叫び声だった。

 

 

 

「なんでだ! なんで! なんで君は僕じゃなくてそこにいる地味な男を選んだんだ! なんでこんな取り柄のない男と一緒に帰ってるんだ! 答えろ! えぇ?!」

 

 

 

 興奮した蓑田は、荒い息をさらに荒くさせて彼女に近づいた。興奮のあまり、口からよだれがぽたぽたと滴り落ちている。

 

 

 

「ど、どうしたの蓑田君!? いきなりそんな事聞いて! と、取り敢えず落ち付こ? ね?」

 

 

 

「いいや落ち着けないね! なんで僕みたいに武道の資格を持ってていざとなったら君を守れるくらいの力がある俺じゃなくて、こんなちっぽけな飼育委員の奴と一緒に歩いているんだ! 答えろ! 早く!」

 

 

 

 蓑田は魚みたいな目でぎょろりと彼女を睨みつける。彼女はその目に多少の恐怖心を覚えていたらしかった。まずい、早くここから立ち去らなきゃ。そう思ったその時、

 

 

 

「なんで翔一君と一緒に歩いてるのかって? ……それは……私が、私が翔一君の事が好きだからに決まってるじゃない!」

 

 

 

 面と向かって彼女はそう言い切った。その言葉を聞いた瞬間、俺の耳には何故か知らないがパッヘルベルのカノンみたいな神聖そうな音楽が聞こえた。

 

 

 

「初めて見た時から、ずっと気になってた。話しかけたいと思ってたけど、きっかけがなくてどうしようと思ってた。そんな時、霧斗君から翔一君が飼育委員だって事を教えてくれて、チャンスだと思った。兎小屋で話した時は、緊張で人参をあげる手が少し震えてた。だけど、それ以上に楽しかったし、改めて思った。私は翔一君の事が好きなんだって」

 

 

 

 尚も彼女は蓑田に顔を向けたまま、話し続ける。

 

 

 

「一緒に帰ろうなんて誘った時は、断られるんじゃないかって、ドキドキした。これからも一緒に帰りたいっていう言った時も、怖かった。でも、翔一君はオッケーしてくれた。その時は泣いちゃいそうな位嬉しかった。その気持ちは今も変わらない。だからこれからも、私は翔一君と過ごしたい」

 

 

 

 そう言うと、彼女は蓑田から俺に顔を向けてこう言った。

 

 

 

「ねぇ、翔一君。もし嫌じゃなかったら……これからも、ずっと、私の隣にいてくれませんか?」

 

 

 

 これも、神様からの『奇跡』なのだろうか? 俺は彼女を抱き締めてこう言った。

 

 

 

「……ずっと、ずっと俺もそう思ってた。そうなるように、ずっと願ってた。だから、俺は貴方にこう答える。『俺で良ければ、喜んで』と」

 

 

 

 その言葉を聞いた彼女は、目に大粒の涙を浮かべた。それを見られまいとするように、彼女は俺の胸に顔を押し当てた。

 

 

 

「ありがとう……ありがとう……! すごく嬉しい……!」

 

 

 

 涙が流れて少ししゃがれた彼女の声をかき消すように、俺は強く、その華奢な体を抱き締めた。

 

 

 

「………………ふざけるな。ふざけるな! ふざけるなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

 やべぇ、こいつの事すっかり忘れてた。

 再び雄叫びを上げた蓑田は、突然、ピタリとその声を止め、ぐったりと力なく地面を向いた。

 

 

 

「……分かったよ。もう、僕の知ってるあの可愛い君じゃない。そんなの、絶対に許せないし、許さない」

 

 

 

 だから、そう言って蓑田は大きなアーミーナイフを制服の内ポケットから取り出してこう言った。

 

 

 

「二人とも、このナイフで死ね」

 

 

 

 今頃になって、霧斗の警告が走馬灯のように思い出された。

 




ごめんなさい焼き鯖です。今回はこれで終了です。

予想外に長すぎた!なんだよ8000文字って!多分レミリアの奴よりも多いぞこれ!

次回こそ最終回……になるかと思います。ですが、来週テストなので最終回はそれが終わった後になるかと……。

次の展開にワクワクさせつつお待ち頂けたら幸いです。


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あるはずのなかった傲慢な奇跡③

 荒い息を更に荒くしながら蓑田がこちらに近づいてきた。俺は彼女を背後にやり、立ち塞がるようにして蓑田と相対した。絶対に護ってみせる。彼女をあの男から。

 

 

 

「なぁ……お前さ、本当にその子を護れると思ってんの?」

 

 

 

 蓑田がにたにたと気持ち悪い笑みを浮かべた。

 

 

 

「はぁ? 当たり前だろ? 何言って……」

 

 

 

「無理だね。おまえ如きじゃ」

 

 

 

 次の瞬間、蓑田がナイフをしまったかと思うと、目にも止まらぬ速さで俺に近づいて軽々と俺を持ち上げた。ふわりと宙に浮く感覚を覚えたまま勢い良く自分の身体を後ろへ捻られて首を背後に叩きつけられた。

 所謂ジャーマンスープレックスと言う奴をあいつは喰らわせたのだ。しかも地面はコンクリート。食らった瞬間、頭への凄まじい痛みと共に首から下の感覚が消えた気がした。

 

 

 

「お前はこのまま大人しく寝てろ。殺すのは後だ」

 

 

 

「翔一君!」

 

 

 

「おっと、あいつの所へは行かせないよ?」

 

 

 

 彼女が俺の元に駆け寄るのを阻止するかのように蓑田が立ち塞がった。まずい。早くそっちに行かないと。だけど、体が動かない。それに息もできない。このままじゃあの子が……殺されてしまう。

 

 

 

「翔一君! 大丈夫!? 今助けるからね!」

 

 

 

「助ける? はっ、それは無理だね。なにせ頸椎を粉々にぶっ潰したんだから。助かるのは絶望的だよ。あいつはこれから先、ずっとだっさい車椅子とキモい看護師のババァ共に介護されながらでなきゃ生きてけない体になったんだよ! いい気味だ! ザマァ見ろ!」

 

 

 

 蓑田の声が、どこか別の場所から響いているように感じた。それ位、その事実は衝撃的で現実味がないと思った。

 

 

 

「さて、そんな憐れな翔一君には更に絶望するような事をしてあげよう」

 

 

 

 蓑田はそう言うと、ナイフを抜いて絶望しきった表情の彼女に近づき、彼女の長くて美しい髪を無造作に掴んだ。

 

 

 

「嫌! 離して!」

 

 

 

 彼女の嫌がる声が、俺の耳に響く。蓑田はそれを気にも留めないと言ったように、ゆっくりとナイフを振り上げた。

 

 

 

「や……め……ろ……」

 

 

 

「聞こえないなぁ。もっと大きな声で言わないと」

 

 

 

「や……め……て……く……」

 

 

 

「おっと、手が滑ったー」

 

 

 

 その声と共にナイフが勢い良く振り下ろされ、彼女の胸を貫いた。彼女の顔が痛みと恐怖が混じった表情に変わっていくと同時に鮮血が噴き出し、蛇と蛙の髪飾りを赤く染めた。まるで映画のワンシーンかのようなその瞬間を、動けない俺はただ呆然と見る事しか出来なかった。

 その一撃で満足出来ないのか、蓑田は刺さったナイフを抜き、何度も何度も同じ箇所を刺し続けた。最後にナイフを抜くと、やっと落ち着いたのか肩で大きく息をしながら吐き捨てるように言った。

 

 

「これは天罰だ。君が僕のものにならなかった事への天罰なんだよ。そして」

 

 

 

 意地悪く、残酷な笑みを浮かべた蓑田が、くるりと俺の方を向いた。

 

 

 

「自分だけがあの子を護れる特別な存在だと思い上がった傲慢な奴への制裁だ」

 

 

 

「て……んめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 

 

 今すぐ殴りたかった。あのムカつく眼鏡を叩き割ってやりたかった。でも、体が動かない。言う事を聞かない。

 俺は悔しかった。彼女を殺されて何も出来ない事に。あんな屑野郎にその通りの正論を言われた事に。

 

 

 

「五月蝿い死骸もどきだな、少し黙れ」

 

 

 

 蓑田が俺に近づいて蹴りを入れた。体の感覚がないので痛みを感じないが、相当強い蹴りだったらしく俺の体は思いっきり吹っ飛ばされた。今度は俺か。そう思ったが、蓑田は蹴りを入れただけで何もして来ない。

 

 

 

「いい気味だ。お前はこのまま一生苦しみ続けろ。自分の傲慢さに。自分の弱さにな」

 

 

 

 そのまま蓑田はこの場から去ろうとした。

 

 

 

「に……げる……の……か?」

 

 

 

「あ?」

 

 

 

 俺の言葉を聞き取れなかったのか、蓑田が再び俺の方を向いた。このままあいつを逃がしてたまるか。

 

 

 

「俺を……殺さず……に……逃げるのかって……聞いたんだよ……この……腰抜けの……キモオタァ!」

 

 

 

 そう叫んだ瞬間、あいつの顔が怒りで真っ赤になった。蓑田は猛ダッシュで戻ってくると、持っていたナイフで俺の体を突き刺し始めた。

 

 

 

「ふざけんな! 誰が腰抜けだって!? 誰がキモオタだって!? 自分の女一人すら護れない屑が偉そうな口を叩くんじゃねぇ! そこまで死んで欲しけりゃお望みどおりやってやるよ! オラッ! オラッ! オラァッ!」

 

 

 

 あいつのナイフが俺の胸を貫くたびに、俺の腹を切り裂くたびに、段々と俺の意識が薄れ始めた。痛みはないけど血がどんどん流れていってるらしい。頭に生暖かい液体の感触がした。鬼の形相で必死にそれを行う蓑田を見て、神様はやっぱ厳しかったなと言う事を考えながら、俺は瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 肩で大きく息をしながら、蓑田は傍の死体を見つめた。先程首にバックドロップを決めて再起不能にし、絶望を植え込んだ後は精神的に追い詰めようと考えていたが、生意気にも減らず口を叩いてきた。しかも自分が一番気にしている事をいとも簡単に、だ。プライドの高さと長年培ってきた武術の才だけが取り柄の彼にとって、この言葉は理性を失くすと言う点においてこれ以上ない程完璧なものだった。結果として、彼は同時に二つの尊い命を潰した事になる。しかし、彼には後悔も反省もない。自分を選ばなかった女と彼女が選んだ平凡な男に復讐出来れば、それで良かったからだ。

 

 

 

「死んだか……ざまぁねぇな。口の減らなさだけは一級品だったが」

 

 

 

 もう二度と目を開くことはないであろう翔一のその姿を見てそう呟きながら彼は立ち上がった。

 

 

 

「良かったよ。あんな腑抜けたクラブなんか抜けて。あそこにいたら俺の方が腑抜けになっちまいそうだったからな。それに、こんな風にお前とあの子を懲らしめることなんて出来なかっただろうし」

 

 

 

 ケタケタと気味の悪い笑い声を響かせると、蓑田は改めてこの場から立ち去ろうとした。が、それはまたも実行される事はなかった。

 振り向いた先に、殺したはずのあの女が立っていた。服や髪飾りこそ血が付着して赤くなっているが、刺したはずの胸の傷は完全に塞がっている。

 

 

 

「ど、どういうことだ!? なんで生きてるんだ!」

 

 

 

 何度も何度も同じ箇所を刺した筈だ。深く抉られて血だって大量に出ていた。なのに、彼女は何事もなかったかのようにその場に立っている。

 彼女の顔は俯いて見えないが、言い表す事が出来ない程の怒りに満ちている事だけは、肌で感じ取る事が出来た。

 

 

 

「ま、まぁいいさ! もう一回君を殺せば済む事だからな! 今度は二度と生き返らないように首筋を搔き切ってやる!」

 

 

 

 蓑田は先程と同じようにナイフを手に取ると、太っている体とは正反対の素早さで彼女に近づき、首元を切り裂こうとした。首元を切り裂いた血で、赤黒く汚れたアーミーナイフが、再び赤く染まった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 筈だった。

 

 

 

「……?」

 

 

 

 その異様な光景に、蓑田は言葉も出なかった。血や脂肪などで多少は切れ味が落ちているとはいえ頸動脈を切ることは造作もないこのナイフが、いとも簡単に受け止められてしまったからだ。しかも、受け止めた手の甲からは血が一滴も流れ出ていない。そのまま彼女は空いた手で刃先を強く握りしめると、華奢な体つきからは想像もつかないような力でナイフをへし折った。

 

 

 

「ひっ……!」

 

 

 

 最早使い物にならなくなったナイフが手からこぼれ落ち、蓑田は彼女から後ずさり始めた。先程の強気な姿勢は何処かに消え、それ以上の恐怖が彼の体と心を支配した。

 

 

 

「蓑田君」

 

 

 

 落ち着いた丁寧な口調で彼女が話しかける。静かだが、どこか支配的なその語気に、彼はさらなる恐怖を感じ取った。

 

 

 

「よくもやってくれましたね。貴方は自分自身の私欲の為だけに、私だけならいざ知らず、あろうことか私の大切な人にまで手をかけた。全てを受け入れ、許してくれる神様ですら、この行いは手に余ります」

 

 

 

「ゆ、許してくれ! 僕は、僕はただ君の側に居たかっただけなんだ!」

 

 

 

「今更命乞いですか? 贖罪はもう許されませんよ。その権利は既に奪われています」

 

 

 

 この状況を一言で表現するならば、情状酌量を乞う為に懺悔する罪人と、それをきっぱりと跳ね除ける裁判官と言ったところか。もしくは突然天国から舞い降りたキリストに、許しを乞おうとするユダのようだった。

 

 

 

「予言しておきましょう。貴方はこの先、どんなに大きな不幸や困難が起こったとしても、それを覆すような奇跡は決して訪れない。翔一君と同じような事が起こったとしても、貴方には助けてくれる人なんてない。ハッピーな奇跡なんて起こらないでしょう。分かったらその薄汚い顔ごと何処かに消えなさい」

 

 

 

 瞬間、蓑田は彼女の背後に白く、赤い目をした巨大な蛇を見た気がした。そして彼は悟った。あれは神様だ。絡みつくような嫌な恐怖は、この神様のものなのだと。

 そう思った時、目の前にいる彼女が何か別のものに見えた。

 

 

 

「あ……ああ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 

 余りに強すぎる圧倒的な気配に、蓑田は発狂したまま彼女から走り去って言った。

 蓑田が向こうへ消えた後、彼女は物言わぬ死体に目を向けた。腹を切り裂かれ、内臓の一部がはみ出ている程凄惨で痛々しい胴体とは対照的に、彼の顔は安らかな死に顔を浮かべている。

 

 

 

「翔一君……」

 

 

 

 彼女は彼に近づくと、冷たくなった彼の体に縋り付き、涙を流した。

 

 

 

「ごめんね……私のせいでこんな風になっちゃって……傲慢なのは私の方だよ……助けられると思ってたのに……側に行く事すら出来なかった……」

 

 

 

 彼女は泣きながら謝り続けた。しかし、彼はもう既に物言わぬ骸に成り果てている。無論、返事はない。ただ彼女の嗚咽だけが、誰もいない道にこだましていた。

 やがて、彼女は意を決したように彼を見据えた。

 

 

 

「……ありがとう翔一君。私の事を好きでいてくれて。私も大好きだったよ。ずっと前から。離れても、私の事をずっと覚えていてね……」

 

 

 

 彼女は冷たくなった彼の唇にそっとキスをすると、涙で掠れた小さな声で、何かを唱え始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

「……ょう! おい翔! 大丈夫か!?」

 

 

 

「うぅ……ん……?」

 

 

 

 気がつくと、目の前に見慣れた顔があった。そいつは凄い心配そうな顔をして俺の体を揺さぶっていて、俺が目を覚ますとホッとしたように俺に抱きついてきた。

 

 

 

「翔! よかった! 死んだかと思ったぞ!」

 

 

 

「きり……と? どうしたんだ? 一体」

 

 

 

「どうもこうも、学校から帰ってたら道のど真ん中でお前が倒れてたんだよ。何回も揺さぶってだけど起きないしさ。逆に俺が聞きたいよ。なんかあったのか?」

 

 

 

 そう聞かれた俺は気絶する前の記憶を辿った。確か、俺はあの子と一緒に帰ってて……そしたら蓑田とか言う気持ち悪い奴に襲われて……

 

 

 

「……そうだ! あの子は!?」

 

 

 

「あの子? あの子ってどの子だよ」

 

 

 

「は? お前忘れたのか!? あの子の校内ファンクラブ作ったのお前だろ?」

 

 

 

「ファンクラブ? 何言ってんだよ。うちの学校にそんなかわいい奴一人もいねーじゃん。それに、俺はそういうキャラじゃねぇって長年付き合ってるお前が一番分かってる筈だろ?」

 

 

 

 どう言う事だ? 確かに霧斗はあの子のファンクラブを作ってたし、規模だってそこそこ大きかった筈だぞ。忘れるなんて事あるわけない。

 怪訝そうな顔で霧斗を見つめていると、霧斗もまた俺と同じような顔で見つめ返してきた。

 

 

 

「なぁ、そこまで言うならお前はその女の子の事を覚えてるんだよな? お前が覚えてるんなら俺だって覚えてると思うし」

 

 

 

「当たり前だろ! 確かその子は長い緑の髪で、蛇と蛙の髪飾りをつけてて、身長は俺の肩まで。そんでもって名前が……名前が……」

 

 

 

「名前が?」

 

 

 

「……あれ? 思い出せない……」

 

 

 

「はぁ? なんで一番重要な事忘れてんだよ」

 

 

 

 霧斗が呆れた声で俺に言った。

 おかしい。彼女の背格好に性格、表情までくっきりと覚えている。でも、何故か名前だけが思い出せない。しかも、思い出そうとすればするほど鰯の鱗みたいに記憶が抜け落ちていく。

 

 

 

「まぁいいや。取り敢えずその事は後でゆっくり聞くとして、無事で良かったよ。家まで送ってくぜ」

 

 

 

 そう言って霧斗は立ち上がり、手を差し伸べた。元々俺ん家には近いだろうがとツッコミながら立ち上がり、家に向かって歩き出した。

 家に帰る頃には、その子の事は完全に忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

 それから二年後……

 

 

 

「ついに卒業だなー! 翔! 寂しくなるぜー!」

 

 

 

「大学まで俺と一緒なのに何を言ってるんだよお前は……」

 

 

 

 俺達はついに卒業式を迎えた。俺は県内でも割と有名な大学に進学した。霧斗もまた、俺と同じ大学を受けて余裕の一位で合格した。これで俺達は遂に幼稚園から大学まで一緒という、誰がどう見ても腐れ縁と言わざるを得ない関係が成立した。今は式が終わり、クラスのみんなは教室で仲の良い友達と別れを惜しんでいる。

 

 

 

「まぁいいじゃねーか! 他にも仲良いやつとも別れるんだし! 別に俺の間違った事は言ってねぇだろ?」

 

 

 

「そうだけどさ……」

 

 

 

 卒業式だというのにテンションが高い霧斗が、俺の肩をバシバシと叩く。俺はその姿を間近で見ながら、溜息をつくしかなかった。

 その時、教室のドアが開き、和服姿の鈴鳴り爺……もとい、鈴木が姿を現した。

 

 

 

「ほら、席につけー」

 

 

 

 その言葉と共に、みんな一斉に自席に着いた。鈴木は最後の挨拶を言い終わると、大泣きをしながら「頑張れよ!」とエールを送った。その姿に、なんとなくだが少しだけ感動した自分がいた。

 記念撮影も終わり教室を出る事になった時、なんとなく、窓際の先頭の席が気になった。何気なしにその席に近寄ってみる。そういえば、この席は最初から空席だったのに誰かが使っていたような気がする。そのまま引き出しの中に手をやると、中に手紙が入っていた。その手紙にはこう書いてあった。

 

 

 

『もし私の事を覚えているのなら、あの神社に来てください』

 

 

 

 それを見た瞬間、全身に稲妻が走った気がした。この二年間、ずっと忘れていた記憶が全て蘇って来た。

 

 

 

「おーい翔! この後カラオケにでも」

 

 

 

「すまん霧斗! 行かなきゃならない用事が出来た!」

 

 

 

「あ?! おい翔!」

 

 

 

 俺は霧斗の誘いを断り、走り出した。カラオケなんかに行ってる暇なんてねぇ。急がないと。運が良ければあの子に会えるかもしれない。

 その考えのもと、俺はあの神社に向かって一直線に走って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

 神社があった場所には、神社の影も形もなかった。代わりにあったのは、大きな大きな湖だけ。蛙が多いのか、あちこちで鳴き声がする。

 俺は必死になって神社跡地を探した。しかし、彼女はどこにもいない。木の陰にも、茂みの中にも、彼女の姿を見る事はなかった。場所を間違えたんじゃなかろうかと思い、近くを歩いていたおじいさんに尋ねてみたが、この近くに神社は一軒もないという。

 やっぱり、俺の勘違いだったのかな。そう思いながら、その場を去ろうとした。その時、強い突風が吹いたかと思うと、鈍い音を立てて何かが俺の足元に落ちて来た。びっくりして足元を見ると、それは青々とした色の蛙だった。それを皮切りにして、一匹、また一匹と蛙が空から降り注ぐいでいく。

 異様な光景に振り返って空を仰ぐと、そこには強い風に巻き上げられた無数の蛙達の小さな姿があった。どうやら上昇気流に似た強い風が湖から発生しているらしく、水中の蛙達がどんどん風に巻き込まれては空へと舞い上がっていく。

 その蛙達と共に、一枚の紙が俺の足元に舞い込んだ。拾って読んで見ると、教室で見た手紙と同じ筆跡でこう書いてあった。

 

 

 

『何も言わないまま消えてしまい、ごめんなさい。実は、私は翔一君に隠していた事があります。どこかで一度、私が奇跡が普通に出せると言われて信じるかどうかという事を聞いたと思います。翔一ならこの書き出しから気づいたかもしれません。あの時、私は言わなかったのですが私はその奇跡を何回も引き起こす事が出来ます。その力を見たら、友達や好きな人が離れていくかもしれない。そう思うととても怖かった。きっかけがないなんて嘘。本当は翔一君に嫌われたくなかっただけなんです。だけど、翔一君の言葉に私は救われました。こんな私を受け入れてくれるんだと思うと、涙が止まらなくなりました。あの時の涙は、その為に流れていたんです。

 蓑田君に襲われた時も、すぐに私を護ってくれてありがとう。ごめんね。私翔一君を助ける事が出来なかった。許して欲しいとは、とても言えません。

 私は、家族と共にどこか遠い所へ行きます。多分、二度と会う事はないでしょう。でも、約束して下さい。もしも翔一君が結婚して、子供が産まれたら、その人たちを一生大切にしてください。そして、どうか私の事をずっと覚えていて下さい。私も翔一君の事、ずっと忘れないから。好きでいてくれてありがとう。私も、翔一君の事が大好きだよ』

 

 

 

 

 手紙を読み終えた俺は、また空を見上げた。相変わらず、空には打ち上げられた蛙達が呑気な顔をして鳴いている。

 それを見ている時、後ろで霧斗が俺を呼ぶ声がした。

 

 

 

「翔! こんな所にいたのか! 随分探したぜ……って! これ、鈴鳴り爺の言ってたファフロッキーズじゃねぇか! 卒業式の日に見れるなんて、奇跡だな! 翔!」

 

 

 

「……あぁ……そうだな……奇跡だよ……本当に」

 

 

 

 蛙の雨が降るという不思議な現象に身を任せた俺は、霧斗がいるという事を忘れ、空を見上げたまま大きな声で泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

「……と、まぁそんな訳で俺はその子の名前をお前に付けたんだ。これが名前の由来だよ」

 

 

 

「へぇ〜……なんか、壮大だね。作り話みたい」

 

 

 

 話を聞いた娘は、不思議な表情をしていた。先程まで、俺は行事で自分の名前の事を調べて来いと言われた娘に、その由来について語っていたのだ。

 

 

 

「まぁ無理もない。殆ど嘘のような話だからな。でも、これは嘘じゃない。父さんが今話した事は、全部本当の事さ」

 

 

 

「ふーん。じゃあさ、お父さんはお母さんよりもその人の事が好きだっていうの?」

 

 

 

「そんな事はない! お父さんはお母さんの事も好きだよ!」

 

 

 

「あら、それは嬉しいわ。因みにその人と私、どっちが好き?」

 

 

 

 娘の質問にへどもどしていると、妻がソファに座っている俺の隣に腰掛けた。こういう時、俺の中では答えが決まっている。

 

 

 

「そりゃあ勿論、夕子の方が好きだよ」

 

 

 

 そう言って俺は妻にキスをして抱きしめる。娘はやれやれと言った表情でも俺達から目をそらした。

 妻の朝霧夕子とは、大学の時に出会った。入学してから数ヶ月で彼女を作った霧斗の彼女の親友で、話してみると、気さくな所や趣味が俺とピタリとはまり、何度か二人で会ううちに、俺の方から告白。俺が働き始めてから結婚した。若干構ってちゃんな所もあるが、それもまたチャームポイントの一つだ。やがて俺達には一人の女の子が産まれた。俺は子供にその子の名前をつけた。未練がましいと思うかもしれないが、女の子が産まれるならばこれしかないと、心の中でそう決めていたのだ。夕子も最初は嫌がったが、俺の熱意に押されて最後には折れてくれた。彼女には本当に感謝している。

 

 

 

「だけど、貴方がそこまで言う程だもの。とても素敵な女性なのね。私、妬いちゃうわ」

 

 

 

「ヤキモチを焼く必要はないよ。夕子は夕子でとても魅力的だからさ」

 

 

 

「もう……口が上手いんだから」

 

 

 

 そう言って夕子は微笑んだ。

 

 

 

「ねぇ、いちゃいちゃするならベッドでやってくれない? 私お腹空いたんだけど」

 

 

 

 その様子を見ていた娘はうんざりした表情をした。娘は今や小学四年生。そろそろ思春期に差し掛かる難しい年代だが、何があろうとも、娘と妻だけは絶対に護る。もう、あんな思いはしたくない。

 

 

 

「ごめんごめん。さ、行こうか。今日のご飯は?」

 

 

 

「ふふ。今日はパパの好きなカレーよ」

 

 

 

 食卓に向かいながら、俺は遠くにいるであろう彼女に向けて、こう思った。

 

 

 

 俺は新しい家族を持ったよ。二度と失わないように、しっかりと護ってみせる。俺も頑張るから、君も頑張ってくれ。

 

 

 早苗。

 

 

 キッチンから、カレーの美味しそうな匂いがたちこめた。




みなさんどうも、お久しぶりです。焼き鯖です。

ようやっと悲恋録を更新できた……此処まで更新が遅れたのは、残酷な描写を書くのにどうも抵抗があったからです。後、割と文章が思い付かなかったりもしました。

遅くなってしまい、申し訳ありません。多分次もここまで遅くなると思います。気長に待っていただけたら幸いです。


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勿忘草に想いを寄せて①

 ここは何処だろう。いつの間に私はここへ流れ着いたのだろう。

 見渡す限りの花、花、花。赤に白に黄色にと、私が知らない沢山の花たちが、春風に揺れていい香りを向こうの方まで飛ばしている。その中心に、私はいた。

 太陽の畑だろうか? いや、多分違う。だって、ここには唯一向日葵だけがないのだから。幽香は向日葵が大のお気に入りだ。ここが太陽の畑なら、春だろうが冬だろうが季節を問はず咲き乱れているはず。

 

 

 

「う〜ん……あ、あそこに家がある。取り敢えずそこに行ってみようかな」

 

 

 

 私はちょうど視線の中に入ったちっちゃな家に行く事にした。

 歩いて数分、辿り着いたちっちゃな家は本当にちっちゃな家で、作りも木をただ釘で繋ぎ止めただけというお粗末な作りだった。台風なんかきたら一瞬で吹き飛んじゃいそう。でも、ここにも色とりどりの花達が咲き乱れていて、まるで花の海に浮かぶ無人島って感じがした。綺麗。こんなの、太陽の畑以外では見たことがない。お姉ちゃんやお空達がこれ見たら、喜ぶかなぁ。

 

 

 

「……君、誰?」

 

 

 

 あ、しまった。見つかっちゃった? 

 油がきれた機械みたいにぎこちなく後ろを振り向くと、布団から男の子が起き上がっていた。

 白い。髪の毛や皮膚が雪みたいに白い。着ている服も白いから、昼間なのに幽霊を見てるみたい。そのくせ私を見つめる二つの瞳は鮮血のように真っ赤だから、幼い顔立ちなのに神様みたいな雰囲気がした。アルビノだったっけ? お姉ちゃんの本にはそう書いてあった気がするな。

 

 

 

「あ……えっと……」

 

 

 

 不意打ちで声を掛けられた事に戸惑っていると、男の子が優しく微笑んだ。

 

 

 

「怖がらなくてもいいよ。別に君をとって食おうなんて考えてないから。僕は桜葉香(さくらばこう)。十二歳。桜の葉が香るって書いて桜葉香って言うんだ。君は?」

 

 

 

「わ、私? えっと……私は古明地こいし。気がついたらここにいたの」

 

 

 

「気がついたら? ……おかしいな、ここらへん一帯には見回りの叔父さんがいる筈なんだけど」

 

 

 

 そう言うと、香は顔を伏せて考え始めた。一応言った方がいいのかな? 言い訳するのも出来るには出来るけど、嘘がバレた時が怖いから、正直に言っておこう。はぁ……私の事を明かすのは、いつになっても嫌な気分。

 

 

 

「えっとね、なんでここに来れたのかって言うと、私の能力が原因なの」

 

 

 

 そう言って私は、左の胸にある第三の目(サードアイ)を両手で弄ぶ。コードに繋がれ、固く、堅く閉じられた青い瞳が、ポンポンと両手の間を飛び跳ねる。

 

 

 

「私はね、元々さとり妖怪って言って、人の心を読む事が出来たの。だけど、みんなの心を読んでたら、何だかきつくなっちゃって。いつの間にか私の目は閉じちゃったってた。それで心を読む事は出来なくなったけど、代わりに得たのが『無意識を操る程度の能力』。人の無意識を操る事が出来るんだけど、これ、私にも操る事が出来なくて、こうしてふらふらといろんな所を彷徨う事が多くなっちゃったんだー」

 

 

 

 敢えて淡々と、しかし、明るく語る事で、彼が私の事を不気味がってくれる事を願った。

 

 

 

「あっはは。ごめんね。気味悪いでしょ? それじゃあ、私は帰るから。ここにはもう来ないと思うけど、またね。香」

 

 

 

 そのまま帰ろうとしたその時、

 

 

 

「ねぇ、ちょっと待ってよ」

 

 

 

 声を掛けた香と目があった。ルビーみたいに赤い目が、好奇心の光でキラリと照らされていた。

 

 

 

「こいしちゃん。さっき、いろんな所を彷徨ってるって言ってたでしょ? て事は外の世界を沢山見て来たって事だよね? お願い。少しでいいから外の事を色々と話してくれないかな。僕、生まれてから今日までこの庭から一歩も出た事がないんだ」

 

 

 

「え? ……別にいいよ。でも、いいの? 私はみんなから嫌われてるさとり妖怪だよ?」

 

 

 

 怖いとか、気持ち悪いとか、そういう事を思わないの? 

 

 

 驚いてそう質問すると、香は悲しそうな笑顔を見せた。

 

 

 

「僕も似たようなものだからね……里の外れに白い髪と赤い目をした化け物がいるって噂が、風に乗って流れてくるんだよ。だからこいしちゃんの気持ちはよく分かるんだ。それに……」

 

 

 

 彼は一瞬だけ言い澱み、視線を布団に落とすと、パッと輝く笑顔を見せてこう言った。

 

 

 

「こいしちゃんが可愛いからさ、さとりとか妖怪とかそういう面倒くさい事なんかどうでも良くなっちゃうんだよね」

 

 

 

 ……え? 

 

 

 

「えぇ!? わ、私が可愛い!? な、そ、そんな事は、ない、と、思うけど……」

 

 

 

 うぅ……不意打ちでそんな事言われたの初めてだから、顔が熱くなってきちゃった……さっきの香の笑顔もとっても素敵だったし……香の顔を正面から見れないよぉ……

 

 

 

「あらあら〜? 何やら賑やかねぇ〜。お客様が来たのかしら〜?」

 

 

 

 顔を見られまいと手で覆い隠していると、襖が開いて奥から女の人が出てきた。香とは反対に、真っ黒で綺麗な髪と黒目を持ち、着ている着物は生命力溢れる若草色。のほほんとして優しそうな口調とは裏腹に、顔に所々刻まれた深いシワが、どこか疲れ切ってやつれたみたいな憂いを帯びていた。介護疲れの本を見てた時の絵が、こんな感じだったなぁ、と最初に見た時そう思った。

 

 

 

「香〜、体は大丈夫かしら〜?」

 

 

 

「あ、お母さん。うん。今は大丈夫。薬も飲んだし、ちょっとは平気」

 

 

 

「そう。良かったわ〜……ところで、そこにいる可愛いお嬢さんは誰なのかしら〜?」

 

 

 

「そうそうお母さん、紹介するよ。この子は古明地こいしちゃん。さとり妖怪だって。こいしちゃんは凄いんだよ。今までいろんな所に行ってたんだって」

 

 

 

 ニコニコしながら話す香とは反対に、私の顔はどんどん暗く、青ざめていった。言わないでって釘を刺してなかった私も悪いけど、黙ってて欲かったな。私の事。

 この話を聞いた大半の人は、私の事を変な目で見たり、さとり妖怪だって事がバレて恐怖や嫌悪の表情を浮かべる事が多い。その時の考えなんて、目を閉じていてもでなくても分かる。私はそれが嫌いだった。でも、どうせ友達なんて出来ないだろうから、敢えて嫌われる為に自分からカミングアウトしていた。

 香はそんな顔はしなかったけど、だからと言って彼のお母さんもその表情をするという保証はどこにもない。

 

 

 はぁ……せっかく仲良くなれたと思ったのに、結局また嫌われるのか……自分から望んだんだし、仕方ない事だけど。

 

 

 相変わらず、香は白い顔を紅潮させながら私の事を話している。お母さんは眉をひそめながら私の方向を向いている。やっぱり、お母さんには嫌われちゃったのかな。後はもうお決まりで、『こんな子とは付き合っちゃいけません!』って言われて追い返されるのがオチだろう。

 やがて香が話し終えると、香のお母さんは合点がいったという風に嬉しそうに両手を合わせた。

 

 

 

「あら〜。何処かで見た事ある顔ねぇ〜と思ってたら、貴女だったのね〜。人里で偶に見かけるから、おばさん貴女のこと覚えてたのよ〜。こいしちゃんって名前だったのね〜。香と仲良くしてくれてありがとう〜。おばさん、とっても嬉しいわ〜」

 

 

 

 え……? 

 

 

 私が怖くないの……? 

 

 

 私が気持ち悪くないの……? 

 

 

 

「どうしたの〜こいしちゃ〜ん? ……あらやだ。私ったら、自己紹介するのをすっかり忘れていたわ〜。初めまして、私は桜葉緑。香のお母さんです〜。以後よろしくね〜」

 

 

 

 

「……んで?」

 

 

 

「ん〜?」

 

 

 

「なんでなの!? 私はさとり妖怪なんだよ!? 怖がるのが普通なのに、なんで二人とも怖がらないの!? なんで恐れないの!? ねぇ、教えてよ!」

 

 

 

 異常だ。

 今まで会った人達は、私を、私達を受け入れてはくれなかった。みんな私達を避けるし嫌う。それが普通だし、ずっと当たり前だと思ってた。なのに、なんでこの親子はそれをしないの? おかしいよ。私が言うのもなんだけど、貴方達、気が狂ってるんじゃないの? 

 

 

 

「それはね〜こいしちゃん」

 

 

 

 間延びした声とともに、緑さんが私の方まで近寄って来た。被っていた帽子がとられ、そのまま頭を撫でられる。緑さんの優しい手の暖かさが伝わって来た。

 

 

 

「おばさんね〜昔、とあるさとり妖怪と知り合いだったのよ〜」

 

 

 

 え? そうなの? でも、幻想郷には私とお姉ちゃん位しかさとり妖怪はいない筈だけど。

 私の疑問に答えるように、緑さんは言葉を続けていく。

 

 

 

「その子はね〜、迫害にあって今はもうここにはいないの。その子もこいしちゃんみたいに可愛くて綺麗で、優しい子でね〜。怪我してた所を助けたら、貴女と同じ事を言ったわ。『私が怖くないの?』って。『ううん、別に。ねぇ、私貴女と仲良くなりたい』って言ったらその子、泣いて喜んでたわ〜。そこから別れるまでは互いに『さっちゃん・みーちゃん』て言い合うくらいに仲良くなったのよ〜」

 

 

 

 懐かしむように言う緑さんの目は、何処か遠くを見つめていた。

 

 

 

「私はねこいしちゃん。貴女がさとり妖怪だからって、ここから追い出そうとする程頭は固くないのよ〜。さっきの事もあるけど、おばさんは今まで沢山の事を経験してきたから、余程の事が起きない限りは動じないわよ〜?」

 

 

 

 いたずらっぽく笑う緑さんの姿を見ていたら、空っぽだった心に何か温かい物が注がれた気がした。その気持ちは、どんどん私の心を満たしていく。何年ぶりだろう? こんな気持ちになったの。

 

 

 

「ねぇお母さん、話長いよ。いつ終わるの? 僕、早くこいしちゃんと喋りたいんだけど」

 

 

 

 香の不満気な声を聞くと、緑さんは優しく微笑んで立ち上がった。

 

 

 

「あらあらごめんなさいね〜。おばさん、長く話し過ぎちゃった。今お菓子持って来るから、こいしちゃんもゆっくりしていってね〜」

 

 

 

 仏像みたいな微笑みを浮かべながら、緑さんは襖の向こうへと消えた。入れ違いに彼の顔に期待の笑顔が浮かぶ。

 

 

 

「何から話してくれるの? 人里の話? 紅い館の話? 冥界には二人の美人さんがいるって聞いたけど、ホントなの?」

 

 

 

 矢継ぎ早に質問をしてきた香を見てたら、私も何だか可笑しくなってきて、いつの間にか笑っちゃってた。その様子を、香はキョトンとした顔で私を見てる。

 

 

 

「どうしたの?」

 

 

 

「ううん。なんでもない。じゃあね、先ずは紅い館に住んでる吸血鬼さんの話からしてあげるね」

 

 

 

 作り物でない本物の笑顔を浮かべながら、私は縁側に座って香とお喋りを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────────────

 

「これはハナミズキって言って、花言葉は『永続性』。こっちはカミツレ。花言葉は『逆境に耐える』。それであそこの木に生えてる花が……」

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って香。そんなにいっぱい説明されても何が何だか分からないよ」

 

 

 

「あ、そっか。ごめんね」

 

 

 

 黒い眼鏡の裏で、香の紅い瞳が申し訳なさそうに光る。私はそれを笑いながら見つめた。

 私達は今、彼等の持つ『庭』を歩いている。

 ここに来てから三週間、私は来る日も来る日も人里のお話を香にしていた。そのお礼として、彼が庭を案内したいと言い出したのだ。香のお母さんも、曇りの日ならいいと了承してくれた。

 今日はその曇りの日。今にも雨が降って来そうな位灰色の分厚い雲が空を覆っていたのに、香は黒塗りで分厚いレンズの眼鏡をかけて、長袖の着物。頭には体がすっぽり影に覆われる程大きな笠を被って外へ出かけた。旅芸人みたいって言ったら、そうかもって笑ってくれた。

 彼の庭は本当に広かった。歩いても歩いても花ばかり。家やお店なんてどこ探してもない。人も、見回りの叔父さんを除いて一度も会っていない。彼は、目に見える花がある所全部がお母さんの所有物だって言っていた。こんなに広いお庭を香のお母さんがもっていたなんて驚きだ。

 それよりも驚いたのが香の知識量。プレゼントされた図鑑を読んで覚えただけらしいが、それでもここまではいかないと思う。彼は目につく花の名前を全て言い当て、その花言葉をすぐに教えてくれた。中には誰もが知らないと思う花の名前とその花言葉ですら見事にピタリと当てていた。私はせいぜいバラ位しか花を知らなかったから、家にあった図鑑を持って来なかったら、何が何だか分からなくなっていたかもしれない。

 そうこうしていたら、青い小さな花びらをつけた花の園を一望できる小高い丘の上に来ていた。まばらではあるが、白くてかわいい花びらのちっちゃなバラみたいな花も咲いている。

 

 

 

「わぁ……凄い綺麗」

 

 

 

 あの青い花が水で、白い花が飛沫のように見える。外の世界の海って言うのを見てるみたいだ。

 

 

 

「ここはね、僕の一番のお気に入りなんだ。体の調子が良くて今日みたいな天気だったら、いつもここに来て本を読んでる。風がよく吹くから夏でも過ごしやすいんだよ。冬は……ちょっと寒くて体が震えちゃうけどね」

 

 

 

 宝物を自慢するように彼は笑うと、すぐ近くにござを敷いて、その上に重箱を置いた。

 

 

 

「ちょっと休憩しよう。もうすぐお昼だし。お母さんがお弁当作ってくれたから一緒に食べよう?」

 

 

 

 そう言いながら彼は重箱を開けた。のぞいて見てびっくり。卵焼きにてんぷらにおひたしに、所狭しと並べられた具材は、どれも丁寧で美味しそうだった。

 

 

 

「こいしちゃんも食べてよ。お母さんの作るおにぎりは美味しいんだ」

 

 

 

 口いっぱいにおにぎりを頬張る香に促され、私もおにぎりを一つ食べる。塩加減抜群のおにぎりに、梅干しの酸っぱさが程よく絡み合っていて、頬っぺたが落っこちそう。

 

 

 

「美味しい〜! 香のお母さん凄いね! お燐よりも料理上手かも!」

 

 

 

「でしょ〜?」

 

 

 

 そのまま二人でお喋りしながらお弁当を食べ、遂に最下段のさんだん目まで食べきってしまった。私はふうと一息つくと、香の方を向いた。

 

 

 

「あのね、私、香に渡したいものがあるの」

 

 

 

「渡したい物? 誕生日プレゼントなら、僕、今日じゃないよ?」

 

 

 

 小首を傾げる香。鈍いなぁ。もう。でも、無理もないか。

 私はスカートのポケットから細長い箱を取り出して、彼に手渡した。

 

 

 

「はいこれ。私と友達になってくれてありがとう。ささやかだけど、感謝の印だよ。受け取ってくれるかな?」

 

 

 

 香の顔が、電気がついたみたいにパッと明るくなった。

 

 

 

「え、いいの? ありがとう! すっごい嬉しいよ! 開けて見ていいかな!?」

 

 

 

「うん。いいよ」

 

 

 

 私がそう言うと、香は笑顔で包みを破り始めた。私もその姿を笑顔で見つめる。十二歳とは思えない程落ち着いてる表情も素敵だけど、こんな風に無邪気に笑う香の姿も、私は好きだ。

 その香の表情が、更に笑顔で一杯になった。その手に持っていたのは、私の好きなバラをあしらったネックレスで、色は深い青色。地底の雑貨屋をのぞいた時にこれを見つけたのだ。なんとなくだけど、香には青が似合うかなぁと思って買った。

 

 

 

「わぁ……何て言えばいいかわかんないけど、凄いね。これ。つけてみてもいい?」

 

 

 

 そう言いながら、香はネックレスをつけ始める。上手くつけられないのか、首元で格闘してる香を見て、クスッと笑ってしまった。

 やっとネックレスをつけ終えた香の姿を見て、私は驚いてしまった。今は変な格好をしてるけど、眼鏡と笠をとった時に見たら、多分数分は見惚れていたと思う。

 白い体にかけられたネックレスは、そこだけが深い穴みたいな感じがして、視線がその一点に注ぎ込まれてしまう。童顔だけど、何処か神がかった顔を更に引き立たせていて、眼鏡の奥に映る赤い瞳とのちぐはぐな感じが余計にそう感じさせる。

 

 

 

「ど、どうかな? こんな格好してるから変じゃない?」

 

 

 

 香の声で私は現実に引き戻された。

 

 

 

「……凄く似合ってる。普段の姿だったら、もっとかっこいいと思うよ」

 

 

 

「そ、そうかな……えへへ……」

 

 

 

 私に褒められた香は、照れ臭そうに頰を掻いた。そしてそのまま私の正面に顔を寄せる。

 

 

 

「ど、どうしたの? 香」

 

 

 

 いきなりの事だったので顔を後ろに引きながら尋ねると、香は笑顔でこう答えた。

 

 

 

「僕もね、こいしちゃんにお礼がしたかったんだ。だから一番好きなこの場所に案内したの。だけどこいしちゃんにお礼を言われるとは思ってなかったから、精一杯のお返しをしようと思って」

 

 

 

「お返し?」

 

 

 

「うん。今から渡すからさ、ちょっとだけ目をつぶっててくれないかな?」

 

 

 

「う、うん」

 

 

 

 言われるがままに私は目を閉じた。すると、私の頰に何か柔らかくて、暖かいものが一瞬だけ優しく触れた。その正体に気づくと、私の顔は頭まで真っ赤に染め上げられた。

 

 

 

「……え!? ちょっと香! 今、何したの?!」

 

 

 

「ん〜? こいしちゃんのほっぺにチューを」

 

 

 

「いやぁぁぁぁ! 言わないでぇぇぇぇ! 恥ずかしいからぁぁぁぁ!」

 

 

 

 嘘でしょ……まさかキスされるなんて……思ってもみなかったよぉ……

 顔を隠した指の隙間から香を見ると、愉快そうに彼は笑っていた。笑うごとに、掛けられたネックレスがゆらゆらと揺れる。

 

 

 

「……どうしてこんな事したの?」

 

 

 

 掠れた声で質問すると、香はゆっくりと答えた。

 

 

 

「大体の理由がさっき言った通りなんだけど……僕の気持ちをこいしちゃんに伝えておきたくてさ」

 

 

 

 そこで彼は言葉を切ると、お花畑の方を見下ろした。青と白の花達が、風に揺れて波を作り出している。

 

 

 

「ここに咲いてるのは、青色の花が勿忘草。白色の花がミニバラって言うんだ。花言葉はそれぞれ『私を忘れないで』と、『無意識の恋』」

 

 

 

「え……」

 

 

 

 それって、まさか……

 

 

 子供のように無邪気な口調は影を潜め、元の落ち着いた微笑みを浮かべた彼は、柔らかい目で私を見つめていた。

 

 

 

「いつ頃かは分からないけど、僕は無意識のうちに君に惹かれてたっぽいんだよね。君の笑顔に、君の明るさに。うん、はっきり言うね。僕は君の事が大好きだ。病弱な僕と、化け物みたいな僕と、友達になってくれた君を、いつの間にか好きになってたんだ。だから伝えたかった。僕が大好きなこの場所で、ね」

 

 

 

 穏やかな笑顔のまま、彼はゆっくりと言葉を紡ぐ。少し冷たく、だけど柔らかい風が、私達の間をすり抜けていく。

 

 

 

「こいしちゃん、本当にありがとう。僕と友達になってくれて。良かったよ。()()()()()()伝える事ができて。これで心置きなく閻魔様の所に行く事が」

 

 

 

 言わせない。そんな事は絶対に言わせない。

 私は思いっきり彼に抱きつくと、遮るように唇を合わせた。彼の目が驚きで見開かれたけど、そんなの御構い無しで私は彼の口内を蹂躙していく。やがて、彼も私に合わせるように舌を絡ませ始め、お互いに相手の求め合った。

 十分に堪能したところで私達は唇を離す。絡み合った二人の唾液が糸を引き、とても艶めかしい。肩で息をしながら私は彼に言った。

 

 

 

「ずるいよ香。私にキスまでした上にこんな事言うなんて」

 

 

 

 黒いレンズの裏で、困ったように彼の目が笑った。それに気づかないふりをしながら、私は更に言葉を続けた。

 

 

 

「だから私からもお返し。私も、香の事が大好き。香の赤い目も、白い肌も、全部。もっと香のそばにいたい。もっと香の声を聞いていたい。だからそんな事言わないで……もっと香と一緒にいたいの……」

 

 

 

 消え入る声でそう締めると、香は優しく、ゆっくりと私の体を抱き締めてくれた。

 

 

 

「…………ありがとう。こいしちゃん。こんな事言われたの初めてだよ。すごい嬉しい」

 

 

 

「私もだよ。こんな気持ち初めて。心が温かくなってきて、空に昇ってっちゃいそう。これが幸せって事なのかな」

 

 

 

「多分ね。いや、絶対そうだと思う」

 

 

 

 お互いに顔を見合わせてクスクスと笑い合った。このままずっとここに居たいな。しばらくこの感情を味わってたい。

 

 

 

「さて! そろそろ他の所に行かない? まだまだみてない所、たくさんあるしさ」

 

 

 

「…………ねぇ、香。少しは感傷に浸りたいとか思わないの?」

 

 

 

「え? それってどう言う事?」

 

 

 

「…………フン」

 

 

 

「あれ? こいしちゃん? どうしたの? なんでそんなに不機嫌になっちゃったの?」

 

 

 

「…………知らない」

 

 

 

 そのままそっぽを向いてたら、横を向いたままでも分かるほど香は狼狽し始めた。しばらく何も言わないでいたら、機嫌を伺うように

 

 

 

「ごめんこいしちゃん。僕が悪かったよ。なんでも一つだけ言う事聞くからさ、機嫌なおして?」

 

 

 

 と懇願してきた。十分反省してるようだし、ここら辺で許してあげようかな。

 私は軽く唇を合わせると、彼の手を引いて立ち上がった。

 

 

 

「それじゃあ、もっとお花の事を教えてくれる? 私の大好きな香君?」

 

 

 

 

 満面の笑みでそう言うと、彼もまた、満面の笑みで頷いた。

 

 

 

「勿論だよ。愛しのこいしちゃん?」

 

 

 

「じゃあ決まり! 早速次の所へレッツゴー!」

 

 

 

 私は手を握ったまま走り出した。

 

 

 

「え!? あ、ちょっと待って! まだゴザとお弁当箱が残ってる〜!」

 

 

 

「後から取りに来ればいいじゃ〜ん!」

 

 

 

 走る私達を後押しするかのように、背後から冷たい風が吹き抜けた。

 

 

 




はいどうも。遅くなりました。焼き鯖です。

やっと書けたと思ったら、長すぎたんで今回も分けます。

そして、暫くは悲恋録の方をメインに書いていければいいかなと思ってます。少なくともアンケートはしっかりと消費したいな。

それでは、次回も読んでいってくれれば幸いです。


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勿忘草に想いを寄せて②

『化け物め! こっちに来るな!』

 

 

 

『お前がいるだけで不快なんだよ!』

 

 

 

『ここから立ち去れ! お前の居場所なんて何処にもねぇんだよ!』

 

 

 

 ──なんでみんなそんな事を言うの? 私は何もしてないのに。

 

 

 

『分からねぇのか? お前はさとり妖怪なんだぞ!』

 

 

 

『俺たちの心を見境なく読む気持ち悪い奴だ!』

 

 

 

『そんな奴が近くにいてみろ! 気味が悪い上にいつ自分の本心が他人に暴露されるか分かったもんじゃねぇ!』

 

 

 

 ──私はそんな事はしないし、これからもする気はないよ? 

 

 

 

『嘘だ! 聞いた話じゃさとりに会った奴らは心を読まれてみんな食われたって噂だぞ!』

 

 

 

『だったら尚更だ! 出て行け! 二度とここに来るんじゃねぇ!』

 

 

 

『出てけ!』『失せろ!』『二度と来るな!』『消えろ!』『死んでしまえ!』

 

 

 

 ──私は何もしてないのに、人を食べる気も、本心を暴く気もないのに、どうしてそんな酷い事が出来るの? さとりっていうだけで、どうしてそんな事が出来るの? 助けて……香……私にはもう、貴方しか味方はいないの……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……君、誰?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 最悪の目覚めだ。久しぶりに嫌な夢を見るし、そのせいでパジャマが汗でグッショリと濡れて気持ち悪い。

 朝の騒がしくも活気のある地霊殿の空気とは反対に、私の気分は憂鬱に沈んだ。告白された次の日の朝に、なんて夢を見るんだろう……

 悪い夢を見るって事は、自分の心が満たされていたり、自分の心が変わりたがっている証拠だってお姉ちゃんの本には書いてあったけど、あんな夢を見た後はそう思う事は出来なかった。だって、あの夢には早ければ今日にでも実現してしまいそうな程の、妙な説得力があったから。予知夢って言う類のものらしいけど、そう思うのは私の気のせいなのかしら……

 

 

 

「……とにかく香の所へ行こう。香なら笑って『そんなの気にしない方がいいよ』って言って、そのまま抱きしめてくれるよね」

 

 

 

 そうだ、きっとそうに違いない。

 不吉な考えを振り払うように心の中でそう言い聞かせ、私はベッドから起きて身支度を始めた。今日も空が曇ってたら、香と一緒にあの場所に行こう。昨日は香のお弁当だけだったから、今日は私からお菓子を持ってって一緒に食べよう。香もきっと喜んでくれる筈。

 いつもの服装にいつもの帽子を被って鏡を見れば、もうそこには不安に揺れる私の姿はなく、代わりに笑顔一杯の私がそこに映っていた。よし、これならいつでも香に会える。

 あ、朝ごはんを忘れてた。うーん……香の所で食べようっと。

 

 

 

「行ってきまーす!」

 

 

 

 元気よく挨拶をして、私は地霊殿から飛び出した。

 

 

 

「こいし様!? 朝ごはんはちゃんと食べていってくださいよ〜!」

 

 

 

 お燐の声が遠くから聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 行く途中のお菓子屋さんでお饅頭を買ってから、私はスキップしながら香の家までやって来た。今日は雲一つない快晴で、春の柔らかくて暖かい光が沢山の花を優しく照らしている。時々吹くそよ風に揺れる花達を見ていると、なんだか幸せ一杯って感じがして、こっちまで幸せな気持ちになってくる。あの場所に行けないのは残念だけど、今日は香の家で一緒に楽しく過ごそうっと。

 香の家の近くまで来た時、急にどう挨拶していいか分からなくなった。告白されてから昨日の今日だし、今更だけどどうやって声を掛けたらいいんだろう。いつも通りに振る舞えばいいのかな? それともほっぺにチュー? ……こんな事初めてだから、どうしたらいいか分からないや。

 結局前と同じく笑顔で声を掛けるという結論に至り、いつものように縁側のある庭から香の部屋に来た。地面に物が散乱し、少し荒れている部屋の中、香はもう起きていて、寝ぼけているのか正面の壁をボーッと見つめている。

 

 

 

「おはよう! 香!」

 

 

 

 そんな香の眠気を吹き飛ばそうと、私は縁側に座りながら大きな声で挨拶をした。

 私の声を聞いた香はゆっくりと此方を向くと、無表情な紅い二つの目で私の方を見つめた。多分まだ寝ぼけてるのかも。目がトロンとしてる。

 

 

 

「も〜、まだ寝ぼけてるの? もう朝の九時だよ? ほら、早く起きて一緒に朝ごはん食べよう? 私も食べて来てないからお腹ぺこぺこなんだ〜。あ、そうそう。今日はお菓子持って来たの。三時になったら一緒に「……れ?」」

 

 

 

 そのまま靴を脱ぎ、香の部屋に入ろうとした瞬間、香が何かを呟いた。

 

 

 

「ん? どうしたの?」

 

 

 

 私が聞き返すと、今度ははっきりとした口調で信じられない事を言った。

 

 

 

「君、誰なの? 僕の事を知ってるっぽいけど、僕は君に会った事もなければ顔すら見た事ないよ?」

 

 

 

 わざと知らないふりしてからかってるかと思った私は、香の部屋に入るとはにかみながら、香の側に近づいた。

 

 

 

「やだなぁ愛しい彼女の事をもう忘れちゃったの? だったら私の熱〜いチューで思い出させてあげ」

 

 

 

「僕は此処から一回も出た事がないんだよ? 忘れるどうこうの話じゃないと思うんだけど」

 

 

 

 無表情のままそう言い切られた。その言葉を聞いた時、一瞬頭が真っ白になり、身体が凍ったみたいに固まった。

 

 

 

「……本当に覚えてないの?」

 

 

 

「だからさっきからそう言ってるじゃないか。僕は君の事なんか知らないって」

 

 

 

 鬱陶しそうな表情で香は答えた。

 

 

 

「私だよ! 古明地こいしだよ! さとり妖怪で、香の初めての友達で、昨日香に告白されたこいしだよ! ねぇ冗談はやめてよ! 私、本気で怒るよ!」

 

 

 

 嘘だ、香が私の事を忘れるわけがない。能力を使ったわけでもないし、現に香は昨日までは私の事を覚えていてくれた。私の反応を面白がって、まだこんな悪い冗談を続けているんだ。

 藁にすがるようにそう思いながら、彼の机に置いてあったペンダントを掴み、突き出すようにして彼に見せつけた。

 

 

 

「これ見て! 昨日私がプレゼントしたペンダント! 香も嬉しそうだったじゃない! これでもまだ思い出せないの!?」

 

 

 

 それを見た香は血相を変え、乱暴に私からペンダントを奪い取った。よかった、やっぱり悪い冗談だったんだ。そう思った束の間、

 

 

 

「やめろ! これは元からそこにあった物だぞ! 君のものじゃない! 勝手に触るな!」

 

 

 

 きっぱりと強く言われ、愕然とした。足元が抜けるような絶望感が、私の心を包み込んだ。

 

 

 

「ねぇ、本当に分からないの!? 一緒におしゃべりしたじゃない! 一緒にご飯も食べたじゃない! お願い! 思い出して! いつもの香に戻ってよ!」

 

 

 

 それでも諦めきれない私は、香の肩を掴んで強く問い詰める。全てが全部悪い夢だとすがるように。しかし、それを突っぱねるように彼は私の体を突き飛ばし、立ち上がった。

 

 

 

「うるさい! うるさいうるさいうるさい! 何回言えば分かるの!? 僕は生まれてから一人で生きて来たんだ! 友達なんて一人もいないし、君の事なんか知らないって!」

 

 

 

 怒りが滲んだ声で香が叫んだ。そこへ騒ぎを聞きつけた香のお母さんの緑さんが、心配そうに襖から現れた。

 

 

 

「香〜? どうしたのかしら〜?」

 

 

 

「だ、誰? いつの間に僕の家に入ったの? なんで僕の名前を知ってるの?」

 

 

 

 怯えた表情で尋ねる香を見た緑さんは、驚いて目を見開いた。が、すぐに落ち着きを取り戻し、香に自己紹介を始めた。

 

 

 

「私よ、お母さんの緑よ。生まれてから今日までずっと、貴方と一緒に居たわ。どう? 何か思い出しそう?」

 

 

 

 いつものようなのほほんとした口調ではなく、しっかりとした口調で香に尋ねた。しかし、

 

 

 

「知らない! 僕は貴方の事なんか知らない!」

 

 

 

 それでも香の記憶は戻る事はなかった。

 やがて、この状況に耐えきれなくなった香は、手当たり次第に物を投げつけ始めた。

 

 

 

「出てけ! 出てけ出てけ出てけ! ここは僕の家だぞ! 勝手に入って来るな!」

 

 

 

 投げたものが四方八方に飛び、私や緑さんに当たる。私が持って来たお饅頭も箱ごと投げられ、辺りにお饅頭が散らばった。

 

 

 

「……分かりました。すぐに出て行きます」

 

 

 

 全てを悟りきった表情で、緑さんは襖を閉じた。その後に続くように私も靴を履き、尚も物を投げつける香から追われるようにそこから立ち去った。とぼとぼと重い足取りで玄関まで着くと、小包みを持った緑さんと行き当たった。

 

 

 

「こいしちゃん、今日はごめんなさいね。折角ここまで来てくれたのに」

 

 

 

 申し訳なさそうに緑さんは頭を下げた。

 

 

 

「ううん、いいの……それより……香は、香はどうしちゃったの? なんで私や香のお母さんの事を覚えてないの?」

 

 

 

「その事なんだけどね……」

 

 

 

 そう言って緑さんは、風に揺れる花畑の一つを指差した。

 

 

 

「少し場所を変えて話しましょう。こいしちゃん、朝ごはんはまだなのよね?」

 

 

 

 言い終えたタイミングで私のお腹が鳴り、恥ずかしさで少し頰が熱くなった。

 

 

 

「おにぎりを作っておいたの。おばさんも朝ごはんを食べてないから、そこで一緒に食べましょう?」

 

 

 

 優しく、労うように笑いながら提案した緑さんに安心し、私はストンと首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 歩いて十分、綺麗に整備された道を行くと、辿り着いた先には、丁寧に刈り込まれた芝の上に小さな白いベンチがあった。それを囲むようにシバザクラやバーベナ、チューリップに梅にアネモネ──全部香に教えて貰った物だ──なんかが咲いていて、遠目から見ると、そこだけ炎が巻き起こってるみたいだった。

 私がそのベンチに座ると、緑さんは包みを開け、二つあるおにぎりのうち一つを私に差し出した。

 

 

 

「どうぞ召し上がれ?」

 

 

 

「……頂きます」

 

 

 

 沈んだ声でお礼を言い、おにぎりを受け取って口に運ぶ。お燐やお空、お姉ちゃんが作るものに勝るとも劣らない程の絶妙な塩加減で、とても美味しかった。途中から香の事が思い出されてきて、それを振り払うために私は無心でかぶりついた。

 

 

 

「そんなにがっつかないの。ほら、お茶をどうぞ。温かくて落ち着くわよ」

 

 

 

 おにぎりを口いっぱいに頬張りながら、手渡された水筒を受け取り、流し込むように口に含む。ちょっと熱くて舌が火傷しちゃったけど、パニックになっていた私の心はしっかりと保温されたお茶で完全に落ち着いた。緑さんも、その様子を見守りながら優しく微笑み、残った一つを食べ始めた。

 私達は何も話さなかった。ただひたすらおにぎりを食べ、お茶を飲む。多分、緑さんも私と同じように、今まで起こった事を整理して心を落ち着かせていたんだと思う。

 

 

 

「……ご馳走様でした」

 

 

 

「お粗末様でした〜。こいしちゃんはいつも美味しそうに食べるから、おばさん凄く嬉しいわ〜」

 

 

 

 今日の陽気に似た笑顔で緑さんは言った。普段褒められ慣れてないから、こういう事を言われると少しムズムズする。

 

 

 

「うん……ありがとう……それで、香はどうしてあんな風になっちゃったの? 昨日までは私達の事を覚えてたのに」

 

 

 

 改めて質問すると、緑さんは困った顔をしながら「そうねぇ……」と、呟いた。

 

 

 

「何処から話せばいいのかしら……まずはおばさんの過去から話しましょうか」

 

 

 

 そう言って緑さんは深く息を吸い込み、顔を私の方に向けた。

 

 

 

「こいしちゃんは、このお庭全部がおばさんの物だって思ってる?」

 

 

 

「え? ……うん。思ってるよ」

 

 

 

 実際、香もそう言っていたし、住んでるのが二人だけだったから、自然と私もそう思っていた。

 

 

 

「残念だけどそうじゃないの。この庭は、私の夫が所有してた物なの」

 

 

 

「夫? 夫って、おばさんの旦那さんって事だよね。でも、だからってそれがなんでこんなに広いお庭を持ってる理由に繋がるの?」

 

 

 

「それはね、私が嫁いだ所が、苗字である桜葉家だったからなの。こいしちゃんも聞いた事はない? 桜葉秋成って名前」

 

 

 

 その名前に私は息をのんだ。桜葉秋成は、お姉ちゃんが敬愛し、小説を書くきっかけになった小説家だからだ。もう私達が生まれる何百年も前に死んだ作家なのに、未だに人に読み継がれ、その子孫の中には、今も絵や書なんかの芸術方面で活躍している人が多い。幻想郷内では知らない人はいないと言われる程の名家だ。あの稗田阿求ですら一目置くと噂される程凄い家の人と、緑さんが結婚してたなんて思わなかった。

 

 

 

「十八年前……二十五歳の時に、おばさんは桜葉家に嫁いだの。夫は植物学者でね、とってもカッコよくて優しかった」

 

 

 

 そう言って緑さんは、遠い目で空を見つめた。

 

 

 

「その時の生活はとても幸せだった。子供はいなかったから、それだけが凄い心配だったけど、『急がなくていい。こういうのは授かり物だから、気楽にいこう』ってあの人が言ってくれてたから、ゆっくりと待とうと思ってた。でもね……」

 

 

 

 ヒュウと、少し強い風が私達の間を通り抜けた。

 

 

 

「周りがそれを許さなかった。跡継ぎはまだか、跡継ぎはまだかって追い立てられて、暇な時はいつも博麗神社に連れてかれた。そんな生活に耐えられなくなって、三年後に夫は自殺。香を妊娠するニ年前の事だったわ」

 

 

 

 緑さんの目尻の皺が、過ぎた昔を懐かしむように少し寄った。

 

 

 

「私が妊娠したと知って一番喜んだのは、桜葉家の人達だった。これで跡継ぎが生まれる。桜葉家はまだまだ安泰だって。他にも親戚がいるのだからその人達にも子供を産めと頼めばいいのにと思ったけど、どうやら親戚の子供達は全員早死にしてて、私達が唯一の希望だったらしいの」

 

 

 

 へぇ、やっぱり名家ってそういうのに一番苦労するんだね。

 

 

 

「出産の事は今でもはっきり覚えてる。薄暗い部屋で皆んなが見守る中、痛い思いをしながら香を産んだわ。あの子を産声を聞いた時は、神様から直接祝言を頂いたのかと思ってた。けど、産まれた子供を見た人達は口を揃えてこう言ったわ。『この子は鬼の子だ!』って」

 

 

 

 鬼の子? 香が? 初めて会った時から妖気なんて微塵も感じなかったのに? 

 不思議そうに考え込む私を見ながら、緑さんは更に話を続ける。

 

 

 

「昔から、産まれた時から髪と歯が生え揃っている子供は鬼の子って言うのよ。それ以上に、あの子はアルビノだった。だから私達は気味悪がられて、半強制的に夫が所有してたここに住まわされたの。でも、苦痛だと感じた事はなかった。あの人が私の為に遺してくれたものだから、周りの目なんてどうでもよかったし、精一杯あの子を育てたいって気持ちが強かったからね」

 

 

 

「幸せだった?」

 

 

 

「勿論。笑顔があの人にとっても似ていたのよ〜? それにとても可愛くてねぇ〜。あの頃の香は、まさに私の天使そのものだったのよ〜」

 

 

 

 幸せそうに笑う緑さんを見て、私の顔も思わず顔がほころんだ。

 

 

 

「でもねぇ……幸せって、そう長くは続かないのよね」

 

 

 

 緑さんの顔が、暗く沈んだ。

 

 

 

「異変が起こったのは、香が二歳の時だった。いきなり口から血を吐き出して、大慌てでお医者さんに見せに行ったの。その時は肺炎かもしれないって言われてお薬を処方されたんだけど、それからまた二年後、香と一緒に遊ぼうと思って声を掛けたら、『おばさんだれ?』って首を傾げられたの」

 

 

 

 嘘……香の記憶喪失は、子供の頃からあったって事なの? 

 

 

 

「その時の私も、今日のこいしちゃんみたいにパニックになった。三日位様子を見てると、発作的に記憶が消える事に気づいてまたお医者さんの所に行ったけど、こんな症状見たことがないって言われて途方にくれたわ……」

 

 

 

 緑さんの話を聞きながら、私は指を折って年を数える。香が四歳の時は、確かフランちゃんのお姉さんが異変を起こした年だ。だとすると、この頃はまだ竹林のお医者さんは幻想郷に来ていない。

 

 

 

「不運な事に香の肺炎もこの頃に悪化しちゃってね。お金は一応桜葉家が出してくれてたけど、看病と介護が大変だった。発作的に記憶は飛ぶし、しょっちゅう血を吐くし、親戚や村の人達からは化け物の親だって糾弾されるし、この頃は本当に辛くて、地獄のような日々を送ったわ」

 

 

 

 その時を思い出したのか、緑さんの目尻にうっすらと涙が浮かんだ。

 

 

 

「一年後に永遠亭が出来たと聞いた時は、藁にもすがる思いだったわ。八意先生なら、香を治してくれるだろうって。でも、その頃には病状は進行していて、もう遅らせる事しか出来ないって言われて、記憶障害も治す事は不可能って言われて、それを聞いた時はその場で泣き崩れちゃった」

 

 

 

 緑さんの声が震えている。大きな声で今にも泣き出してしまいそうだ。

 

 

 

「それでも八意先生は全力を尽くしてくれた。病状の進行と発作を抑えるのを同時に行う薬を作って下さったの。この薬を飲んでから、香の病状は少しずつだけど良くなってきたわ。たまに発作は現れるけど、だんだんと布団から出る事も増えた。そんな時、貴女がここに来たの」

 

 

 

 そう言って、緑さんは申し訳なさそうに私の方へ向き直り、深く頭を下げた。

 

 

 

「ごめんね。こんなに大切な事をずっと隠してて。貴女の事を信じてないわけじゃないけど、香は自分が記憶障害を持ってる事を知らなかったからうっかり喋ってしまうのが心配だったし、何よりこんな事を聞かされたら、二人ともショックを受けるんじゃないかって怖かったの」

 

 

 

 緑さんの深い謝罪に、私は何も言うことが出来なかった。

 緑さんはずっと一人で戦っていた。香に悲しい思いをさせない為に、謂れのない中傷も、香の看病による疲れも全部隠して押し殺して、ずっと一人で戦っていた。

 ドス黒い感情が渦巻く人間の心をこれ以上見たくなくて、もうこれ以上周りからの迫害を受けたくなくて、サードアイを閉ざした(逃げてしまった)自分がとてもちっぽけで弱い生き物のように感じた。

 

 

 

「……でも! 香はあんなに元気だったじゃない! あれならもう治っててもおかしくは」

 

 

 

「言ったでしょう? ()()()()()()()()()()()()()()って」

 

 

 

 きっぱりと言い切ったその口調は、覚悟を決めたように強く、大きく周りに響き渡った。

 

 

 

「今日の朝六時位に発作が起こったから、あの薬を飲んでもう一回寝かせたの……こいしちゃんならもう分かるわよね?」

 

 

 

 分かりたくなかった、嘘だと思いたかった。だけど、頭のどこかで理解してしまった。『薬が効かなくなってしまった』のだと。

 

 

 

「八意先生は、この薬が効かなくなったら余命は後一週間だと思いなさいって仰ってたわ……つまり、後一週間したら……あの子は……もう……」

 

 

 

 想像したくなかった。香が死んじゃう未来なんて見たくも聞きたくもなかった。だから私は耳を塞いで目を瞑り、緑さんの話をシャットアウトした。

 もう一度目を開けた時、私は暗くて深い森の中にいた。鬱蒼と茂った木々の影に覆われた道の先は、まるで今の私の心を表しているみたいだった。

 あぁ、またやってしまった。また無意識のうちに無意識を操って、現実から逃げてしまった。此処は何処だろう? また緑さんの所へ行けるのかな……いや、もうあの場所には二度と行けない。現実を受け止めきれずに逃げた自分は、もうあそこに行く資格なんてない。

 罪悪感と後悔の念の中、私は無意識に操られながら、フラフラと森の奥へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 コン、コン、コン。

 ベッドで眠っていると、部屋にノックの音が三回響き渡った。こんなに優しいノックをするのは、地霊殿内だとお姉ちゃんしかいない。

 

 

 

「こいし? 入るわよ」

 

 

 

 ドアが開く音と共に、お姉ちゃんが心配そうな表情で入ってきた。

 

 

 

「これ、貴女宛にって射命丸さんから届けられたのだけど……」

 

 

 

 ベッドに腰掛けながら、差し出された手紙を受け取って宛名を見る。差出人は書いてなかったが、若草色の封筒から、これが緑さんからだということが分かった。

 

 

 

「……捨てておいて」

 

 

 

「えっ? まだ手紙を見てないじゃない」

 

 

 

「いいの。別に大した事じゃないから」

 

 

 

 何気なくそう言って手紙を返したが、お姉ちゃんはなおも心配そうに私を見つめている。

 やがて、お姉ちゃんは意を決したようにこう口を開いた。

 

 

 

「……ねぇ、こいし。何か嫌な事があったの?」

 

 

 

「……どうしてそんな事を聞くの?」

 

 

 

「当たり前でしょ!? 一週間前に帰ってきたかと思ったら身体中すごいボロボロで、そうかと思ったら今度はご飯も食べないでずっと部屋に籠ってばかりじゃない! 心配しない方がおかしいわよ!」

 

 

 

 声を荒げたお姉ちゃんの目は、僅かながら赤く腫れていて、その下には隈ができていた。

 お姉ちゃんの言う通り、私は一週間前に帰って来てから三日間、一歩も外に出ていない。

 

 

 

「最近まであんなに楽しそうにしてたのに、何か人間に嫌な事されたの? 私に出来る事なら何だってするわ。だから、何があったか話してくれない?」

 

 

 

 悲しそうに問い詰めるお姉ちゃんを見てると、私まで悲しくなってくる。でも、これは私の問題だ。お姉ちゃんを巻き込むわけにはいかない。

 

 

 

「……ごめんね。心配かけちゃって。でも、本当に何でもないよ。あの時はたまたま妖怪に襲われちゃって、ちょっと苦戦しただけなの。部屋から出ないのも、その時の傷がまだ痛いし、少し疲れてて食欲がないからだよ。大丈夫だから。今日の夜にはご飯も食べられると思うし」

 

 

 

 笑顔で誤魔化したつもりだったけど、尚もお姉ちゃんは心配そうに私を見つめている。早く一人になりたいと思っていると、突然、持っていたナイフで手紙の封を切り、中の手紙を読み始めた。不意打ちだったから驚いたけど、別に捨てるものだし、まぁいいや……

 

 

 

「……分かったわよ。貴女がそこまで言うなら、私はもう何も言わないわ」

 

 

 

 溜息をつきながらお姉ちゃんは言った。

 

 

 

「でも私が手紙を見てしまった以上、お返事を書かないわけにはいかないわ。だから、貴女にお使いを命じます。私の手紙を、これを書いた方に渡して来てくれないかしら?」

 

 

 

「えっ」と、私は息を呑んだ。

 

 

 

「だってそうでしょう? 私はこの地底からは一歩も出た事がないもの。そうじゃなくてもこの手紙には宛名が書いてないから、頼りになるのは知り合いであろう貴女しかいないじゃない」

 

 

 

 ぐうの音も出ない程の正論に、私は何も言えなかった。

 

 

 

「……こいし。私は貴女の心は読めないけど、あの手紙を読んだ今なら、貴女の気持ちははっきりと分かるわ」

 

 

 

 そう言ってお姉ちゃんは机に手紙を置き、部屋のドアに手をかけた。

 

 

 

「何も言わないと言ったけど、一つだけ言わせて。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。返事は明日出すわ。頼んだわよ。こいし」

 

 

 

 そう言ってお姉ちゃんは部屋から出ていった。

 

 

 

「変わりたいなら……かぁ……」

 

 

 

 ベッドに寝っ転がりながら、お姉ちゃんの言葉を反芻するように呟く。

 私はどうしたらいいんだろう。緑さんの話を最後まで聞かずに逃げてしまったんだ。今更どんな顔をしながら会いに行けと言うんだろう。でも、会いたくないって思う気持ちの中で、しっかりと会って謝りたいっていう気持ちもあった。

 ……取り敢えず、読んでみようかな。

 悔恨よりも好奇心の方が勝り、私は机に置いてあった手紙を手に取った。

 

 

『こんにちは。いや、こんばんはって言った方がいいのかしら? お久しぶりです。いきなり目の前から貴女が消えるから、びっくりしちゃった。けど、それ位貴女にとっては悲しい事だったと思う。ごめんね。あんなに悲しい思いをさせてしまって。

 こいしちゃんが来なくなってから、丁度一週間後に香は亡くなりました。お葬式は、親族には知らせずひっそりと行いました。こいしちゃんにも来て欲しかったけど、それはおばさんの我儘だって分かっているし、こいしちゃんが辛くなってしまうだろうから、勝手だけど呼びませんでした。

 ここからが本題なのですが、私は早ければ三日までにあそこから離れなければいけません。香が死んだ事を知った親族から、この土地から出て行けと通告があり、それに従わなければならないのです。なので香の遺品を整理していたのですが、その時にどうしても貴女にお渡ししたいものが出て来たので、こうして筆を取った次第なのです。

 無理に、とは言いません。遺品と言ってもガラクタですし、こいしちゃんの気分が乗らなければ、来なくても構いません。最後に貴女と話したいと言う、おばさんの我儘なのですから。

 それでは、風邪を引かず、元気に過ごしてください。また何処かでお会いしましょう。

 香のお母さんより』

 

 

 

 嘘、緑さん、いなくなっちゃうの? 

 丁寧な字で書かれた手紙を見た私は、一瞬だけ焦ってしまった。このチャンスを逃してしまったら、もう緑さんとは会えない。謝る事も、話す事も出来なくなる。これが最後のチャンスだ。

 お姉ちゃんが手紙を書き終わる頃には、私の覚悟はもう出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 今日の天気も晴れだった。雲が少し厚く、ちょくちょく太陽が隠れちゃうけど、雨が降る気配は全くなかった。

 香がいなくなった後の家は、どことなく寂しそうな感じがした。主人がいなくなって活気が無くなった家特有の寒々とした空気が、玄関から漏れるように流れ込んでくる。

 

 

 

「ごめんください」

 

 

 

 大きな声で挨拶をして、玄関の扉を開く。よく考えたら、玄関から入ってくるのは初めてのような気がする。

 

 

 

「は〜い……あらこいしちゃん。いらっしゃい。待ってたわよ」

 

 

 

 奥から喪服を着た緑さんがやって来た。ずっと泣いてたのか目は兎みたいに紅く、顔にはいくつか涙の跡が残っていた。

 

 

 

「あの……これ、あの時のお返事です」

 

 

 

「あら、わざわざありがとう〜」

 

 

 

 私が差し出した手紙を、緑さんはいつものようにのほほんとした空気で受け取った。お姉ちゃんからは、「私が書いたって言わないで」って釘を刺されたけど、なんでなんだろう。

 

 

 

「それから……この前は勝手に何処かに行ったりしてごめんなさい」

 

 

 

 そう言って頭を下げると、緑さんも申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 

 

「此方こそごめんなさいね。何も言わずに貴女に辛い気持ちにさせちゃって。初めて出来た香のお友達だから、あまり気を使わせたくなかったの……」

 

 

 

 緑さんの声が震えた。

 

 

 

「……ごめんなさい。ちょっと感情的になっちゃったわ。待っててね、今取ってくるから」

 

 

 

 そう言って緑さんは早足で奥に消えた。

 暫くして緑さんが戻った時、手にボロボロになった一冊の本を持って来て、私に手渡した。

 

 

 

「これは、香が毎日つけてた日記帳なの。今まであった事を忘れないようにって私が勧めたんだけど、私たちの事を忘れるまでずっと書き溜めてたわ」

 

 

 

 日記を見ると、確かにその日に起こった事をほぼ毎日記していた。しかもその全てに押し花が貼ってあったり、花の絵が書かれていたりと、本当に香は花が好きだったんだと改めて思った。

 読み進めていくうちに、私達が初めて出会った日の所に行き当たった。

 

 

 

『四月二十三日、天気/晴れ

 今日は珍しくお客さんが来た。こいしちゃんって言うさとり妖怪で、今まで色んな所を放浪していたらしい。

 お母さんの話が長くてあんまり話せなかったけど、とっても楽しかった。

 みんなからずいぶん嫌われてるらしいけど、僕はそうは思わなかったなぁ。むしろ可愛いと思うくらい。さとり妖怪だからって遠ざけてる人は、本当に勿体無いと思う。

 また明日って約束したけど、会いに来てくれるといいなぁ』

 

 

 

 その隣には、私と香の似顔絵があった。二人ともいい笑顔で、とっても幸せそうだ。

 

 

 

「ふふ……香はそんな事思ってたんだ……」

 

 

 

 そこから先は、私と香の交流の事しか書かれてなかった。『今日はこいしちゃんから奇跡を操る緑髪の巫女さんがいる事を聞いた』とか、『今日はこいしちゃんと将棋をして遊んだ』とか。今まであった楽しい思い出が、どんどん私の心の中に溶け込んで行った。

 そして、日記帳があの日の事が書かれたページを開いた

 

 

 

『五月十三日、天気/曇り

 遂にこの日が来てしまった。前々からなんとなく察してはいたけど、いざこの時が来ると、やっぱり少し怖くなってくる。

 きっかけは、気がついたらお母さんがいつも疲れ切った表情をしているなぁ。と思った時だった。

 どうしてって聞いてもはぐらかすだけで、それ以上聞きようがなかったけど、お母さんの様子を見る限り、僕の具合は相当悪いだろうとは思ってた。それに、ここ最近物忘れが酷く、忘れた事のない花の名前を忘れる事が多くなってたから、多分それが関係しているんだと感じていた。

 確信したのは、僕が七歳の時だった。その日は体の調子も良く、空もそこそこ雲に隠れてたから、いつものようにお気に入りの場所で本を読んでたら、急にあの花の名前が分からなくなった。

 いつも来ている場所で、僕のお気に入りの場所なのに、大好きな花の筈なのに、すぐに名前を思い出す事が出来なかった。家に帰ってから思い出す事は出来たけど、その時点で僕は、心も体ももうじき死ぬんだって分かってしまった。

 だから、そうなる前に自分の気持ちを伝えたかった。こいしちゃんの事が好きだって、僕が好きなあの場所で言いたかった。

 今振り返って見ると、この告白はお世辞にも成功したとは言えないと思う。この日の為に色々と準備した筈なのに、プレゼントは忘れるしミニバラの花言葉は間違えるしで散々って感じだった。でも、こいしちゃんから綺麗なネックレスを貰ったし、何より僕と同じ気持ちだった事は嬉しかった。

 心残りなのは、彼女にプレゼントを渡せなかった事。お返しと称してほっぺにチューはしたけど、こんなに綺麗なネックレスを貰ってチューだけで済ませちゃうって言うのは、僕の中ではすごく申し訳ないと感じてしまう。

 それでも、彼女に自分の気持ちを伝えただけでも十分だ。これ以上我儘を言ったら、閻魔様に叱られてしまう。

 僕が死んだら、お母さんとこいしちゃんに沢山迷惑かけちゃうかもしれないなぁ。今のうちに謝っておこう。ごめんね、お母さん。僕のために大変な思いをさせちゃって。ごめんね、こいしちゃん。大切な君の事を忘れてしまって。

 まだまだ書いていたいけど、紙も無くなったし眠くなったから、これで最後にしよう。

 さようなら。僕の大切な人達。僕が死んだら、一番好きなあの場所に埋めてくれたら嬉しいな』

 

 

 

 最後のページを開くと、「こいしちゃんへ」と書かれた包み紙があった。中には勿忘草とミニバラの押し花で作られたネックレスが入っていて、「今までありがとう」と書かれた紙が下に敷かれていた。

 その瞬間、脳裏にあの時の香の言葉が鮮明に思い浮かんだ。

 

 

 

『良かったよ。僕が死ぬ前に伝える事が出来て』

 

 

 

 あの時から、いや、それよりもっと前から香は自分の死期が近い事を知っていたんだ。だから一日も欠かさずに日記を書いたんだ。いつか来る自分の死に備えて、残される私達に沢山のごめんなさいとありがとうを伝える為に。

 

 

 

「……本当に、貰ってもいいの?」

 

 

 

 日記から目を離さずに尋ねると、緑さんは「勿論よ」と力強く言った。

 

 

 

「ありがとうおばさん。私、ずっと大切にするね。このネックレスも出かける時はいつも身につける。これならいつでも私を見つける事が出来るから、何処かで見かけたら声をかけ──」

 

 

 

 その時の私は、一体どんな顔をしていたんだろう。笑ってたのかな、無表情だったのかな。だけど、いつの間にか緑さんが優しく抱き締めて来て、驚いた顔になった事だけは分かった。

 

 

 

「こいしちゃん……無理しないで……泣きたい時は泣いていいんだよ……」

 

 

 

「無理? 私は全然無理なんてしてないよ?」

 

 

 

「そうね……無理なんてしてないかもしれないわね……でも、()()()()()()()()()()()()()()()()()……?」

 

 

 

 言われてから第三の目(サードアイ)に触れると、開くことすら叶わない程に固く閉じたその瞳から、暖かいものが流れ落ちていた。

 

 

 

「あれ……あれ……? なんで、私の目、濡れて……あれ?」

 

 

 

 いつの間にか、今まで溜まっていたものが溢れてしまうように、二つの目からも涙が流れ落ちた。

 

 

 

「もう香はいないのに、泣いたって香に会える訳じゃないのに、なんで涙が止まらないの? なんでこんなに悲しくなるの?」

 

 

 

「もういいのこいしちゃん。貴女はもう十分耐えたわ。辛かったね。きつかったね。もう我慢しなくていいのよ。思う存分泣きなさい。おばさんが全部受け止めるわ」

 

 

 

 慈愛に満ちた緑さんの声で、心の中にあった鎖が壊れた。気付いた時には思いっきり緑さんを抱き締めて、大声で泣いていた。

 

 

 

「もっと香の声が聞きたかった! もっと香と話していたかった! もっと早く香と出会いたかった! 嫌だ! 香ともう二度と会えないなんて嫌だ! 帰って来てよ! もう一度私と話そうよ! またあそこで一緒にご飯が食べたい! もう一度香の笑顔が見たい! 閉じた瞳を開くから! 嫌な感情も全部読むから! お姉ちゃんの言う事ちゃんと聞くから! だからお願いだよ神様……香を……香を返してよぉ!」

 

 

 

 緑さんは何も言わなかった。ただ黙って、ぐずる赤ちゃんをあやすように、泣きじゃくる私の背中をゆっくり、優しく撫でるだけだった。

 

 

 私の泣き声はいつの間にか暖かな日差しに包まれた庭に響き渡り、慰めるように溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 数週間後……

 

 

 

「……いつ来ても凄い絶景ね」

 

 

 

 見渡す限りの綺麗な花の光景に、私は感嘆を吐くことしか出来なかった。

 

 

 

「ねぇ緑おばさん! お花で冠作っていい!?」

 

 

 

「ちょっとお空! 今はそんな事してる暇はないでしょ!?」

 

 

 

 すぐ近くではしゃいでいたお空をお燐が窘め、窘められたお空は「うにゅぅ〜……」と、残念そうな表情をした。

 

 

 

「そうよ。今日は宴会なんだから、遊んでる暇なんてないのよ。ほら、あんたも手伝いなさい。手伝ったらタダでお酒が飲めるわよ?」

 

 

 

 落ち込んでるところに霊夢さんが発破をかけると、お空は元気よく「うん! 頑張る!」と返事をし、お燐と一緒に走っていった。主人の私が言うのもなんだけど、あの子は本当に真っ直ぐすぎて時々馬鹿に見えてしまうわ……

 

 

 

「ふふ、お空ちゃんは可愛いわねぇ。目に入れても痛くないくらい」

 

 

 

 隣でクスクスと笑いながら、彼女はこう呟いた。私がチラッと見ると、すぐに笑いを引っ込め、仰々しい顔で頭を下げた。

 

 

 

「申し訳ございませんでしたさとり様。私の無礼をお許し下さい」

 

 

 

「……ねぇ、いい加減その呼び方で呼ぶのやめてくれない? 私と貴女の仲でしょう? みーちゃん」

 

 

 

 呆れながらそう言うと、みーちゃんは「あらそう?」と、これ見よがしに首を傾げた。

 

 

 

「だって今の私はさっちゃんの秘書なのよ? 立場的に貴女の方が上じゃない。そう簡単に昔の仲に戻れって言われても……ねぇ?」

 

 

 

 そう、みーちゃんこと緑ちゃんは、今は地霊殿で私の秘書をしている。確かに立場的には私の方が上だけど、だからって私達の友情が無くなったわけじゃない。

 

 

 

「別に私は気にしてないわよ。前と同じように接してくれればそれでいいから。それより、幽香さんはどうしたの?」

 

 

 

「暫く花畑を見てくるって言ってたわ。こんなに丁寧に手入れされた庭は見た事がないから、ちょっと参考にするそうよ」

 

 

 

 いかにもお花好きな彼女の考えそうな事だ。いつ会っても彼女は花の事ばかり考えている。

 

 

 

「それにしても、いきなり手紙を送って来た時はびっくりしたわよ。まさかこいしちゃんのお姉さんがさっちゃんだなんて思っても見なかったもん。しかも、あの土地を買い取るって書いてあって更に驚いちゃった」

 

 

 

 あの日、みーちゃんからの手紙を受け取った私は、長年返したくても返せなかった彼女への大きな恩を果たす絶好のチャンスだと思った。

 そこですぐに三日後に買収するという旨の手紙を書き終えた私は、霊夢さんと幽香さんの所に赴き、定期的に此処で宴会を開く事を条件に協力をお願いした。

 手紙を送った三日後に、私は二人を連れ、約三十年ぶりに、みーちゃんに会いに行った。あの時のみーちゃんの驚きようと言ったら、今でも鮮明に思い出せる位に凄かった。

 

 

 

「その時は丁度桜葉家の人間と一緒に家を出ようとしてたわね。その時の驚きようと言ったらもう……笑っちゃうくらい面白かったわ」

 

 

 

 そこからはトントン拍子で話が進んだ。と言うのも、その事を聞いた桜葉家の人々がすっかり怯えてしまい、「土地をやるから儂等を殺さないでくれ!」と、土下座までして命乞いをされ、一方的に土地を放棄したからだ。そして、今は名目上この土地は地霊殿のものだが、実質的な手入れはみーちゃんが取り仕切っている。

 

 

 

「ごめんね。こんなに手間を取らせちゃって。大変だったでしょう?」

 

 

 

「そんなに苦にはならなかったわ。全部私が勝手にやった事だもの。ずっと貴女にお礼がしたかったから、これくらいどうって事ないわ」

 

 

 

 そう言って微笑むと、みーちゃんも恥ずかしそうに微笑んだ。

 

 

 

「そういえばこいしは? 先に行ってるって言ってたんだけど」

 

 

 

 私が辺りを見回して探しても、こいしの姿は見えなかった。無意識で心が読めないとはいえ、今日は流石にここら辺にいる筈なのだけど。

 すると、みーちゃんが思い出したように両手を合わせた。

 

 

 

「あ、多分あそこよ。行ってみましょう」

 

 

 

 みーちゃんに案内された場所に行ってみると、そこには青と白の小さな花が咲いているのを一望できる小高い丘に出た。こいしはそこにある青いペンダントがかかった小さな墓石にうずくまっている。

 

 

 

「こいし!? どうしたの!?」

 

 

 

 まさか妖怪に襲われたのか。そう思って駆け寄ろうとしたが、みーちゃんに止められた。

 

 

 

「大丈夫よさっちゃん。落ち着いて」

 

 

 

 二、三回深く息を吸い込み、静かに近寄ってみると、こいしはスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。安心しきった顔で、委ねるように墓石に身を寄せるその姿は、まるで好きな人に膝枕されている恋人のように幸せそうだった。

 

 

 

「……また後で来ましょうか」

 

 

 

「そうね。お邪魔しちゃってわるかったわ。香。後は二人でごゆっくり〜」

 

 

 

 そう言って二人でクスクスと笑い合い、踵を返して立ち去った。

 

 

 まるで二人を祝福するかのように、暖かな夏の陽気を含んだ風が、あの二人の体を包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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紅魔の美女と傴僂男①

 その妖精の事を、彼らはキルムーリスと呼んだ。

 彼はホフゴブリンの中でも特に温厚かつ善良な働き者であるブラウニーという種族だが、醜悪な外見をする彼らの中でも特に醜く無愛想で、背中が異様な程曲がっていたため、いつしか粉挽き仕事をする同貌の妖精と同じ名前をつけられたらしい。

 その日、彼は頼まれていたお使いを済ませ、息も絶え絶えに帰途を歩いていた。

 それもそのはず、彼は妖精の中でも結構な高齢であり、もう何千年とまで生きている。百歳や千歳の頃は十分もあれば往復できた道のりも、今では早くて一時間が限界なのだ。加えてブラウニーというのは本来家の中での仕事が主であり、こういう風なお使いごとには向いていない。急を要する場合には馬を走らせるが、彼が仕えている家はとても貧乏で、馬の一頭も持っていない。

 遂に体力が底を尽きてしまい、彼は休憩の為、近くにあった木陰に腰を下ろして一息ついた。幸いにも急ぎの用事ではないので、多少の遅れは誤差の範囲内で許してくれるだろうという打算的な考えも少し混じっている。

 木にもたれ掛かって見上げれば、おとぼけな陽気の空模様で、妖精だけでなく人間までもがその陽気さに浮かれるような暖かい光が降り注いでいた。

 

 

 

(この柔らかな暖かさは……あの人と似ている気がするなぁ……)

 

 

 

 彼は目を閉じながら、彼女とその時の生活を思い返し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「最近よ、俺ァ思うんだ。あのスキマのババァに連れて来られて良かったってよ」

 

 

 

 草木も眠る深夜、同じくブラウニーのチャーリーが、鍋の焦げを取りながらしみじみと言った。

 

 

 

「チャーリー、そんな口聞いたらあのスキマに消されるだよ?」

 

 

 

「へっ、スキマが怖くてここの仕事が出来るかってんだ。それに、歳食ってるってのは本当の事じゃねぇかよ」

 

 

 

 じゃがいもの皮を剥く手を止め、恐る恐るキルムーリスが窘めたが、そんな事などどこ吹く風と言う感じで彼は無造作に鍋の焦げを取り除いてく。

 荒くれ者のチャーリーに彼は度々振り回されてきたが、なんだかんだと面倒見が良く、さっぱりとした性格のため、彼の中では今ひとつ憎めない悪友となっている。

 

 

 

「オラはどうなっても知らないだよ……それで、なんでそんな当たり前の事を今更言い出しただか?」

 

 

 

 呆れた顔でそう尋ねると、チャーリーは先程の口調でこう答えた。

 

 

「だってよぉ、俺達がいた元の世界にゃもう自然なんざ毛ほども残ってねぇんだぜ? あっちの世界にゃ行くあてもねぇ、住むあてもねぇ、食糧のあてもねぇ。だがここはどうだ? 俺達が望んだ全ての物が揃ってるじゃねぇか。族長とスキマにゃ感謝してもしきれねぇよ」

 

 

 

 それに、と彼はけったいな笑みを浮かべた。

 

 

 

「ここには俺達が働く紅魔館をはじめ、至る所に別嬪さんがいるじゃねぇか。うちの女はブスばっかだろ? 初めて博麗の巫女を見た時にゃ、俺のムスコも元気になった位だ。本当天国もいい所だよ。ここは」

 

 

 

「うちの部族の女全部食った奴がまだ抜かすか。この色欲妖精め」

 

 

 

 溜息をつきながらそう言うと、彼は面白そうにケラケラと笑った。

 

 

 

「うるっせぇなぁ。オメェにだけは言われたくねぇんだよ。老人顔の童貞妖精が」

 

 

 

「誰が童貞だ! オラだってその気になれば、女子の一人や二人、余裕で口説けるべ!」

 

 

 

「で? この三百年の間で告白する事合計五百二十回。その中でオメェの愛に応えてくれた女は一体何人いる?」

 

 

 

 憎らしい程余裕な表情で尋ねたチャーリーの質問に、彼はグッと言葉を詰まらせた。その間にも、チャーリーがおちょくるように答えを催促してくる。

 最初こそ何も答えなかったキルムーリスだが、

 

 

 

「…………ゼロだ」

 

 

 

 とうとう根負けし、屈服するように答えた。それを聞いたチャーリーは、鬼の首を取ったような顔で大きく笑った。

 

 

 

「ほれみろ! オメェに女が出来るなんてなぁ、オベロン様がティターニア様一筋になる位ありえねぇ事なんだよ!」

 

 

 

 悔しさに下唇を噛むも、チャーリーの言っている事も一理あるので言い返す事が出来なかった。

 先に述べた通り、彼の容貌はお世辞にも良いとは言えないホフゴブリンの中でも極めて醜く、背骨も異様な程に曲がっている。同族ですらその容貌を軽蔑し、キルムーリスと笑い者にする事が多かった。唯一の友であるチャーリーですら、彼がいつか彼女を作ると息巻く度に、妖精界のジョークを引き合いに出して皮肉る事も珍しくなかった。

 

 

 

「結局さぁ、世の中顔が全てなんだよ。確かにオメェは優しいし働き者だよ。それは俺も分かってるつもりさ。ただ、オメェがどんなに女が欲しいと願っても、その怪物みたいな顔と唸るような低い声で田舎臭く喋られちゃあ、どんな女も一目散に逃げ出すっつーの。せめてその田舎口調をやめろ」

 

 

 

「さっきから黙って聞いてりゃ顔顔って……じゃあお前はどうなんだべさ!? オメェだってそこらの妖精に比べりゃ不細工もいいとこだぞ!」

 

 

 

 持っていたナイフを叩きつけてキルムーリスは怒ったが、チャーリーは驚くどころか面白がるようにニヤリと笑った。

 

 

 

「あぁそうだな。確かに俺は、いや俺達は不細工だよ。けどさ、その不細工共の歯牙にもかけられないよりかは格段にマシだ。同族にすらブスと呼ばれるお前はそれ以前の問題なんだよ」

 

 

 

 普段から彼のこう言う憎まれ口には慣れている筈のキルムーリスだが、今回ばかりは流石に我慢出来なかった。

 再びナイフを手にとって彼に投げつけようとしたその時、

 

 

 

「ちょっと貴方達、仕事はちゃんとやってるのかしら?」

 

 

 

 虚空から声が聞こえてくると共に、二人の後ろに銀髪のメイドが姿を現した。

 

 

 

「ふざけてるのならナイフの錆にしようかと思ったのだけど……その心配はなさそうね」

 

 

 

 ある程度皮を剥いたじゃがいもと、焦げがあらかた取れた鍋を見て、銀髪のメイドは冷ややかな声を少しだけ和らげた。

 

 

 

「も、勿論でさぁ。咲夜さんのご命令を無視するなんて無礼千万な輩はうちの部族にゃおりやせんで」

 

 

 

 先程の威勢は何処へやら。顔を青くし、声を震わせながらチャーリーは答えた。怖いもの知らずの彼と云えど、上司である十六夜咲夜の冷たい態度には敵わないらしい。

 

 

 

「そう。一つだけ言いたい事があるわ。このじゃがいも、皮を剥いたのは誰かしら?」

 

 

 

「オラが剥いただ。どうだべか咲夜さん。今日は上手く剥けてると思うだが」

 

 

 

 咲夜は嬉しそうにしているキルムーリスを一瞥すると、芽まで綺麗に取り除かれたじゃがいもをまじまじと見つめた。

 

 

 

「そうね。確かによく剥けてると思うわよ」

 

 

 

 滅多に感情を表に出さない咲夜の無機質な褒め言葉を聞いて、キルムーリスは嬉しさに飛び上がりそうになった。が、

 

 

 

「じゃあこの調子で朝日が昇るまで後三百個お願いね。手が空いたら私も手伝いに行くから。それからチャーリー。貴方はもう上がって良いわよ。お疲れ様。明日の夜もよろしくね」

 

 

 

 途端、数十個程のじゃがいもが入った籠の中が更に多くのじゃがいもで山積みになり、咲夜はその場から消えた。

 あまりの理不尽にショックを受けたのか、キルムーリスはその場にへたり込んで俯き、わなわな肩を震わせた。

 

 

 

「おい、大丈夫か? まぁ、あれだ。そう気を落とすんじゃねぇよ。終わったら一緒にクルラ爺さんの酒でもたかりに──」

 

 

 

 流石に少し可愛そうになり、慰めるように肩に手を置こうとしたが、

 

 

 

「ぃやっただぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

 突然喜びの声を上げながら力強くガッツポーズをしたキルムーリスに、チャーリーは驚いてひっくり返った。

 

 

 

「そ、そんなに喜ぶ程か? だったら早く終わらせようぜ。俺も手伝う──」

 

 

 

「オメェは何を言ってるだ? クルラ爺さんの酒なんていつでも飲めるべよ」

 

 

 

「じゃあなんでそんなに喜んでんだよ」

 

 

 

 訝しむようにチャーリーが尋ねると、キルムーリスは喜びを隠す事なく猛烈に語り始めた。

 

 

 

「だってぇお前、あの咲夜さんと一緒に仕事が出来んだぞ!? あの綺麗な顔に整った体。そして時たま見せるあのお茶目な仕草! オラはもう一目見た時からあの方にほの字だべさ! 今日この日まで、いつか一緒に仕事がしたいと願い続けた甲斐があっただ! ありがとう神様! 今度豪勢なお供え物持ってお参りにいかねぇと! 守谷様だか!? 博麗様だか!? 何処に行けば良いと思うべかチャーリー!」

 

 

 

「分かった! 分かったから! 一旦落ち着け!」

 

 

 

 彼の熱に若干押され気味になりながらも、なんとか落ち着かせ、チャーリーは溜息を一つついた。

 

 

 

「お前が咲夜さんに一目惚れしてるって事は分かったよ。でも、あの人もお前の事が好きかって聞かれりゃ多分十中八九答えはノーだろうよ。むしろ、これ以上ないって程に嫌われてるんじゃねぇかって俺は思う位だ」

 

 

 

 チャーリーの言う通り、咲夜はキルムーリスの事を他の人達以上に避ける節があった。

 例えばある日、こんな事があった。

 二人が廊下を歩いていると、少し先で咲夜さんが周りに散らばった書類をいそいてかき集めていた。すぐに二人も手伝い、キルムーリスが手渡そうとした時に少しだけ手が触れた。その瞬間、彼女はパッと手をひき、彼らの目の前から消えた。

 また、こんな事もあった。

 咲夜が風邪をひいた時、キルムーリスが彼女の為にお粥を作った事があった。運悪く届ける時に仕事が入った為、代理としてチャーリーが届けたのだが。

 最初こそ美味しそうに食べていた咲夜だったが、作った人がキルムーリスと知った途端、露骨に食べるスピードが遅くなり、最終的に残り三割程残して眠ってしまった。

 それ以前に、彼女は館内のホフゴブリン達には仕事を除いて基本的に明るく接しているが、キルムーリスだけにはそっけない態度を取り、目線すら合わせようともしない。

 

 

 

「お前さんが咲夜さんに恋をしようが同族のブス共に恋をしようが勝手だがな、どちらにしろ叶う確率はかなり低いって思っておいた方が──」

 

 

 

「分かってるだよ」

 

 

 

 言い聞かせるチャーリーの言葉を断ち切るようにキルムーリスは言った。

 

 

 

「……そうかい。なら俺から言う事はあるめぇ。そんじゃ、邪魔者はさっさと消えるとするよ。くれぐれも、ナイフの錆にならないようにな」

 

 

 

 最後に彼は憎まれ口をたたき、飄々とした足取りで厨房から出て行った。

 

 

 

「……そんな事、最初っから分かってるだよ。だからオラは少しでも夢が見たいんだべ」

 

 

 

 誰もいなくなった空間に一人そう呟くと、彼はまたじゃがいものを剥き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 その日の朝、彼は寝不足でふらふらな足取りで自分の部屋に向かっていた。

 あの後一心不乱にじゃがいもを剥いていたが、その間に咲夜が手伝いに来る事は一度もなく、朝日が昇ってすぐに作業が終わったかどうかの確認で姿を現したきりで、彼が望んだ展開にはならなかった。

 

 

 

「あ〜あ。結局願いは叶わなかったべか……」

 

 

 

 溜息交じりのあくびをしながら彼は呟く。しかし、最早様式美と化した自分の運の悪さに慣れきっているのか、その口調に落胆の色はなかった。

 

 

 

「まぁ仕方ねぇ、また次のチャンスが来るべ。その時は絶対にあの人に……」

 

 

 

 無駄に上がったテンションで高らかに宣言しようとした時、丁度隣の部屋から声が聞こえた。

 

 

 

(誰だべかこんな朝早くから……)

 

 

 

 好奇心に駆られて壁に耳を当てると、部屋からは三人の声が聞こえた。

 

 

 

「……と言うわけで、先方がとても乗り気なんだ。どうか一度考えてみては貰えないだろうか?」

 

 

 

 この凜とした声は上白沢先生だな。とキルムーリスは思った。

 

 

 

「そうねぇ……確かに悪くない相談ね。人里と紅魔館の架け橋にもなるし。だけど、咲夜が了承しなければこの話はすぐに無しにさせてもらうわ。どう? 咲夜。よく考えて決めなさい」

 

 

 

「お嬢様が良ければ私は構いません」

 

 

 

 紅魔館当主、レミリアの威厳ある声に咲夜の声が重なった。

 

 

 

「……本当にいいの? 貴女確か──」

 

 

 

「私はお嬢様の御命令ならば、例えこの身が燃やされようともそれを遂行致します」

 

 

 

「……決まりだな。日取りはまた後日連絡しよう。朝早くからすまなかった。仕事があるからこれで失礼する」

 

 

 

 慧音が椅子から立ち上がる気配がし、慌てて扉の影に隠れた。慧音はキルムーリスの気配に気づかず、そのまま廊下を歩いていった。

 

 

 

(あ、危なかっただ……にしても式って一体なんの事だべか?)

 

 

 

 用心深く辺りを見回し、改めて壁に耳を当てた。

 

 

 

「……大丈夫なの? 貴女、他に好きな人がいるって言ってたじゃない」

 

 

 

「──は?」

 

 

 

 信じられないワードが飛び出し、キルムーリスの頭は一瞬固まった。

 が、そんな事などお構い無しに彼女らの会話は続いていく。

 

 

 

「いいんです。私はお嬢様の方が重要ですから。それに、私の好きな方は……多分私の事を嫌っていらっしゃると思うので……」

 

 

 

「だけど、一度も顔を見せた事の相手と結婚するのよ? 嫌じゃないの?」

 

 

 

「──ケッコン?」

 

 

 

 追い討ちをかけるようなストレートがもろに決まり、一瞬目眩がしたが、気をしっかり保ち、尚も壁に耳を当てる。が、

 

 

 

「はい。人里一の名士で、優しく、しかも眉目秀麗だと慧音さんも仰っていましたし、これ以上文句を言ってしまってはあの堅物閻魔に軽く三時間は説教されてしまいますよ」

 

 

 

「──ビモク? シュウレイ?」

 

 

 

 トドメに強烈なアッパーカットをくらい、精神的にノックアウトされたキルムーリスは、打ちひしがれるようにその場にへたり込んだ。

 

 

 

「そう……貴女がそこまで言うならこれ以上は何も言わないわ……いつでも帰って来なさいよ?」

 

 

 

「えぇ、勿論でございます。それでは私は仕事に戻ります。何かご用がございましたら、またお申し付け下さい」

 

 

 

 にこやかな会話と共に咲夜が部屋から姿を現し、扉の前でへたっているキルムーリスを見つけて首を傾げた。

 

 

 

「どうしたの? 曲がった背骨がもっと曲がってるわよ?」

 

 

 

「……いや、ちょっと徹夜の疲れが今になって出て来ただけだよ。部屋さ帰ってゆっくりと休むだ」

 

 

 

 最後に咲夜からとんでもない爆弾を貰い、精魂尽き果てたキルムーリスは這いつくばりながらもなんとか自室へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「だから言ったじゃねぇか。叶わない確率の方が高いって」

 

 

 

 溜息を吐きながらチャーリーが言うと、既に出来上がったキルムーリスは覚束ない口調で噛み付き始めた。

 

 

 

「べちゅにそりぇはいいんらよ。咲夜しゃんがしょばにいれくれるらけれオラはむにぇが一杯らからなぁ。けれろ、咲夜しゃんにしゅきな人がいりゅって言うんならまらしもよぉ〜、結婚すりゅって聞いら時のショックは凄まじいもんらぞ〜? オラァその場で泣きしょうになっらんらからなぁ〜」

 

 

 

「分かった、分かったから。だからその酒臭い息をこっちに吐きかけて来るのはやめろ。どんだけ飲んだんだよクルラ爺さんの酒」

 

 

 

「ん〜……五本は空けたらかなぁ〜」

 

 

 

「おまっ! 俺の部屋にある酒全部飲み干したのか!?」

 

 

 

 驚嘆と呆れが入り混じった声を上げながら強く肩を揺さぶった。

 

 

 

「らいじょうぶだべ。オラの部屋かりゃもいくちゅかもっれきらからまらいけりゅべ」

 

 

 

 そう言うと、彼は四つの風呂敷のうち一つを開き、二つの酒瓶の一つをチャーリーに手渡した。

 

 

 

「普段滅多に俺の部屋に来ないお前が来た時点で覚悟はしていたんだが……まさかここまで悪酔いするなんざ思っても見なかったな」

 

 

 

 チャーリーは気性が荒い分、酒癖も悪いと思われがちだが、実際はチャーリーよりもキルムーリスの方が酒癖が悪い。

 勿論それは彼自身も自覚しているので普段から自室で一人酒を啜っているのだが、今回は徹夜明けに予想外の展開というダブルパンチがあり、どうしても一人では飲めないからとチャーリーを誘ったのだ。

 普段から彼を振り回しているとはいえ、彼の酒癖の悪さにはチャーリーも辟易している部分がある。

 

 

 

「だがまぁ、気持ちは分からんでもないぜ。確かに惚れた女に好きな人がいるって言うんなら自分捨てても応援したくなるのが人情だし、側にいてくれるだけで良いって思うのもよく分かる。しかしそれを押し殺してまで結婚するって聞いちゃあ、諦めるもんも諦めきれねぇよな」

 

 

 

「らろ〜? オラは咲夜しゃんにしあわしぇになっれ欲しいんらお〜。そりゃらしかにしゅきな人がいりゅっれきいらろきは『仕方ねェかりゃしょいつを応援すりゅか』っれ思っらけろ、結婚すりゅって聞いらろき、オラァなんらか咲夜しゃんが可愛しょうになっれきてな〜。リェミリアしゃまの為ろは言えふくじゃつにゃ気分らべよ」

 

 

 

「……そこまで咲夜さんの事を想っているんならよ、いっそ祝ってあげた方がいいんじゃねえか?」

 

 

 

 チャーリーのこの言葉に、キルムーリスはキョトンと首を傾げた。

 

 

 

「いや、確かに分かるよ。好きな人が幸せになって欲しいって気持ちはさ。でも、咲夜さんは一度こうと決めたら頑として動かない人だ。そうだろ?」

 

 

 

 この質問に、彼はこくんと首を縦に振った

 

 

 

「だったらそれを全力で応援してやるのが筋ってもんじゃねぇか? これは俺達にどうこう出来る問題じゃねェし、咲夜さんがこうと決めた以上、説得するのは難しいと思う。そんな時、俺達に出来る事と言えばお別れパーティにはとびっきりのご馳走を作って、紅魔館からあの人の健康を祈る事ぐらいなもんだ。オメェには辛い事かもしれねぇがよ、俺はそうした方がいいと思うぜ」

 

 

 

 一通り話を聞き終えると、キルムーリスは赤い目を更に赤く腫らして彼に飛びついた。

 

 

 

「そうらべな……ありがとうチャーリー。なんらか心がシュッキリしたらよ!」

 

 

 

「そ、そうか。そりゃよかったな……だから酒臭い体でこっちに寄ってくるな」

 

 

 

「ぃよーし! こにょまま夜まれ飲み明かしゅべ〜!」

 

 

 

「程々にしとけよな……」

 

 

 

 そのまま飲み会は夕方六時まで行われ、キルムーリスがチャーリーの部屋でダウンした所でお開きとなった。

 持ってきた八本のお酒は殆どキルムーリスが飲み干してしまい、チャーリーが少ししか酒を飲めなかったと憤慨しながら後片付けをしたのは、また別の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 チャーリーの宣言通り、パーティは盛大に行われた。

 紅魔館中の妖精メイドとホフゴブリンが総出で料理を作り、レミリアや美鈴、パチュリーやフランなどの主要なメンバーも、朝早くから館の飾り付けを行なった。

 そうして始まったパーティは、文字通り飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。咲夜は時には美鈴と、時にはフランと弾幕ごっこを行い、時にはパチュリーとレミリアの漫才を見て笑ったりして、紅魔館で過ごす最後のひと時を目一杯楽しんだ。

 別れの日は皆とても悲しみ、咲夜も目に涙を溜めながら紅魔館から去っていった。

 そうして三年がたったある日、咲夜の埋め合わせとして執事長に就任したキルムーリスが買い出しの為人里を歩いていると、前方に仕立ての良い青の着物を来た女性が歩いていた。

 しゃんとした背筋で歩いているのだが、何処かふらふらと覚束なく、遂に足が絡まり、その場に倒れてしまった。

 

 

 

「お嬢さん、大丈夫だべか……って! あんたは!」

 

 

 

 驚いたことに、声をかけたその女性はなんと咲夜だった。

 

 

 

「はい。大丈夫で……あら、キルムーリスじゃない。どうしたの? こんなところで」

 

 

 

 振り向いた咲夜も、若干ながら驚嘆の声をあげた。

 

 

 

「オラは夜の買い出しに来ただ。咲夜さんは?」

 

 

 

「私も御夕飯の材料を買いに来たのよ。うちの人はよく食べるから」

 

 

 

「そ、そうだべか……」

 

 

 

 ……それにしても、

 キルムーリスは咲夜の姿をまじまじと見つめる。

 僅か三年の間で彼女はすっかりと変わっていた。紅魔館にいた時からのクールな表情はそのままだが、何処か憂いとも、憔悴とも取れるような雰囲気が周りに漂っていて、元々細い体は更に細くなっており、頰はすっかりやつれて僅かに頬骨が出ている。

 

 

 

「……何? 私の顔に何かついてるの?」

 

 

 

 ずっと顔を見続けていたのが気になったのか、訝しむように咲夜は尋ねた。

 

 

 

「あ、いや、見ない間に随分雰囲気が変わったなぁ〜って思っただけでさ。それにしても……本当に久しぶりだべなぁ」

 

 

 

 この三年間、紅魔館の住人達は咲夜が相手を連れて遊びに来るのを今か今かと待っていた。しかし、彼女達は遊びに来るどころか手紙の一つすら来る事はなかった。

 最初は新婚生活を満喫しているのだろうと思っていたレミリアも、次第に心配の方が大きくなり、遂にこっちから直接会いに行くとまで言いだす始末だ。この時はパチュリーとキルムーリスとでなんとか落ち着かせたが、いつ蒸し返して来るか分かったものじゃなかった。

 

 

 

「ごめんなさいね。まだちょっと慣れない部分があるの。後もう少ししたらあの人を連れてお嬢様の下へ挨拶に行くわ」

 

 

 

「そ、そうだべか……とにかく、体には気をつけて欲しいだよ。倒れたら元も子もないからな。ほれ、立てるべか?」

 

 

 

 咲夜はこくんと頷くと、キルムーリスの手を取って立ち上がった。中に何も入っていないと思わせる程軽かった。

 

 

 

「それじゃ、オラは買い出しに行くだ。また何処かで会えたら嬉しいだよ。後、一通だけで良いからお嬢様にお手紙を書いて欲しいべ。咲夜さんがいなくなって、一番寂しそうにしてるのはあの人だから」

 

 

 

 挨拶もそこそこに歩き出そうとした時、

 

 

 

「ねぇ、ちょっと待って」

 

 

 

 急に咲夜に呼び止められた。振り向いて咲夜の方向を向いたが、俯いていてどんな表情をしているのか分からない。

 

 

 

「私の記憶が正しいなら、仕込みの時間までまだ結構時間はあるわよね?」

 

 

 

「まだ余裕はあるだべが……」

 

 

 

 なら、と咲夜は顔を上げ、ほんのり朱色に染まった頰でこう言った。

 

 

 

「ちょっと付き合ってくれないかしら?」

 

 




はいどうも。毎度お馴染み焼き鯖です。

今回も例によって例の如く前後半に分けます。いつになったら一話完結物を投稿出来るんだろう……

ともかく次回も楽しみにして頂けたら幸いです。


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紅魔の美女と傴僂男②

はいどうも。夜のおやつにこれ一尾。焼き鯖です。

今回で咲夜編は終了です。宜しければ石鹸屋の「after」を聴きながら読んで見て下さい。

ではどうぞ。


 これは何かの夢だべか? それともドッキリだべか? 

 そんな事を考えながら、彼は何度も自分の頰をつねったり叩いたりしていた。やり過ぎて頰が真っ赤に腫れてしまうくらいに。

 彼がそう思うのも無理はないだろう。何故なら彼の隣では……

 

 

 

「あら、このお団子美味しいわね。貴方も食べてみる?」

 

 

 

 絶賛片思い中の人妻、十六夜咲夜が美味しそうに団子を頬張っていたからだ。

 

 

 

「へ、へぇ。ありがたく頂くだ……」

 

 

 

 手渡された団子をぎこちなく受け取り、震える手でそれを口に運ぶ。団子のもっちりとした食感は伝わるが、肝心の味は緊張にかき消されてしまって全く分からない。

 

 

 

「どう? 美味しいでしょう?」

 

 

 

「そ、そうだべな。特にこの上に乗ってる餡子の甘さがまた団子の柔らかさを引き立てて──」

 

 

 

「これ、みたらし団子なんだけど……」

 

 

 

 適当な感想を述べていたら、咲夜さんの顔が一気に曇った。

 

 

 

「あ、あ〜そうだべ! このみたらしのタレだべ! この甘辛いタレがまた絶妙なバランスでほっぺたがとろけ落ちそうだべ!」

 

 

 

「もう……」

 

 

 

 咲夜はぷくっと頰を膨らませて怒ったが、だんだんと表情が和らいでいき、最後はクスリと破顔させた。

 楽しそうにする咲夜とは対照的に、キルムーリスは冷や汗をかきまくっていた。

 

 

 

(ぬ、ぬわぁぁぁぁぁぁぁ! やっちまっただぁぁぁぁぁぁぁ!)

 

 

 

 普段の生活の中で、同性はもとより異性とすらまともに接した事のない彼にとって、女性の方から「ちょっと付き合って」と言われるのは初めてのことだった。加えてその相手が人里一の名士の妻で片想い中の十六夜咲夜である。

 今の彼は、緊張の許容範囲をゆうに超え、冷静な行動が出来ないでいるのだ。

 

 

 

(と言うか、咲夜さんがオラみたいな奴と呑気にお団子食ってたら、浮気だなんだって疑われるんでねぇか!?)

 

 

 

 ここに来る前に咲夜と共に買い物は済ませたが、その間、人里の人達の好奇な視線は半端なものではなかった。

 みんな咲夜の方を向いては綺麗だなんだとヒソヒソと話し、キルムーリスを見た時は気持ち悪いだのなんだのと陰口を叩いた。「浮気にしても、もう少しマシな奴を選べばいいのに」という、浮気の疑惑を囁く声も聞こえた。

 普段から悪口を言われ慣れてる彼にとっては今更こんな事どうって事なかったが、咲夜まで謂れのない悪口を叩かれる事は我慢が出来なかった。

 

 

 

「あの……咲夜さん、やっぱりオラ、(けぇ)るだよ。アンタは美人さんだけど、オラはこの通り不細工だ。アンタとオラとじゃ釣り合うモンも釣りあわねぇ。何よりアンタは人妻だ。こんな所で男と団子食ってたら、名士様に変な勘ぐりをされるだよ。だからオラ──」

 

 

 

「何よ? かつての上司とお茶したくないわけ?」

 

 

 

 冷ややかな咲夜の目線に若干圧倒されながらも、なんとか言葉を繋げた。

 

 

 

「そ、そう言うわけじゃないだよ。寧ろ嬉しい位だべさ。けど咲夜さん、さっきも言っただけど、オラは……」

 

 

 

「何言ってるのよ」

 

 

 

 そう言いかけた時、咲夜がまた吹き出した。

 

 

 

「私がいいって言ってるからいいのよ。陰口叩く奴って、大抵はそれしか能がないから言わせておけばいいの。それに……夢だったのよ。貴方とこうして水入らずで一緒に過ごすの」

 

 

 

「へ?」

 

 

 

 一瞬言っている意味が分からず、キルムーリスの脳は凍結した。

 なんとか解凍を済ませ、改めて咲夜を見ると、さっきと同じくらい頰が赤くなっている。

 

 

 

「な、何よ。悪い? 好きな人と一緒に過ごしたいっていう気持ち持っちゃ」

 

 

 

「は!? さ、咲夜さん!? お、オラの事好きだったんだべか!?」

 

 

 

 今度は不意打ちで平手を食らった気分になった。当の咲夜は、「しまった」という表情をして黙りこくってしまっている。

 

 

 

「や、でも、オラ、てっきり咲夜さんはオラの事嫌いかと……」

 

 

 

「嫌いだなんて一言も言ってないじゃない。それに……嫌いになれるわけないでしょ。貴方の事」

 

 

 

 か細い声で絞り出した咲夜の顔は、レミリアが見たら見境なく血を吸ってしまいそうな程真っ赤になっていた。

 

 

 

「だって、いっつもオラにスッゲェそっけない態度とってたでねぇか! 話しかけても目線合わせてくれなかったでねぇか!」

 

 

 

「は、恥ずかしいじゃない……好きな人に話しかけられたり見つめられたりしたら、私のキャラが崩れちゃうと思って……」

 

 

 

 どうやら普段から見せてるクールなキャラを維持していただけらしかった。

 しかし、それで納得するキルムーリスではない。更に質問は続く。

 

 

 

「じゃあ書類集めてて、たまたま手が触れた瞬間に消えたあれは!?」

 

 

 

「あ、危ないでしょ? 何か飛び出したりしたら……」

 

 

 

 オラの指はナイフだべか? それとも咲夜さんの指がナイフだべか? 

 そうツッコミかけたが、なんとか喉元で堪える。

 

 

 

「風邪引いた時にお粥残したのは!?」

 

 

 

「最初は貴方が作ったの知らなくて、貴方だと知ったらなんだか胸が一杯になっちゃって……」

 

 

 

「じゃがいも剥くの褒めた後で理不尽な量を付け足したのは!?」

 

 

 

「貴方と一緒にいられる時間を少しでも長くしたくて……顔が赤いのバレたくなくて、やっと落ち着いたと思った頃にはもう剥き終わっちゃってて行けなかったけど……」

 

 

 

 今まで起こった全ての疑問を、咲夜は赤い顔で答えていった。

 その結果分かったことは、咲夜はキルムーリスの事が本当に好きだったけど、生まれてから今日まで恋愛感情というものを持っていなかった事、そのせいでどう接していいか分からなかった事、冷たくしたせいでキルムーリスが咲夜の事を嫌いになっていると思っていた事だった。

 そして話は、

 

 

 

「でも……なんでオラの事、好きになったべか?」

 

 

 

 キルムーリスにとって核心に迫るものに移った。

 

 

 

「……初めてだったのよ。私の事を労ってくれる人がいる事が」

 

 

 

 団子の残る皿に目を落とし、先程とは違って落ち着いた表情で咲夜は語り始めた。

 

 

 

「私って能力が能力だから、やろうと思えば一人でなんでもこなせちゃうじゃない? でも、実際にそれをやろうとしたら、それなりの時間と労力はいるわけ。みんなはそれを見てないから、ただ『紅魔館のメイドは凄い』しか言わない。勿論それは誇らしい事ではあったけど、同時にとても虚しく感じたの」

 

 

 

 そこで咲夜は言葉を切り、お茶を飲んで口を潤した。

 

 

 

「そんな時、貴方が声をかけてくれたのよ。休憩終わって部屋から出ようとした時だったかしらね、扉がノックされて誰かしら? って思った時、お茶持った貴方が目の前に現れて、『咲夜さん、お疲れ様だよ。お茶持って来ただ』って。どうしてって聞こうとしたら、『もう少しゆっくり休んでていいべよ。ただでさえ能力使いすぎなのに、これ以上働いたら咲夜さん死んじまうべ』なんて。初めて言われたから、その時泣きそうになったわよ」

 

 

 

 確かにその事はキルムーリスもよく覚えている。普段、疲れをあまり見せない咲夜が珍しくその素ぶりを見せていたから少しでも休んでもらおうと思っての行動だったが、何気なく言ったあの一言がこんなおまけを連れてくるなんて当時は思ってもみなかった。

 

 

 

「それからよ。貴方の姿を見つけては目で追いかけるようになったのは。気付いたら貴方の事ばかり考えるようになって、遂にはお嬢様にまでバレるようになっちゃった」

 

 

 

 話しながら可笑しそうに咲夜は笑った。

 

 

 

「……だけどよ咲夜さん、オラはこの通りブサイクだよ。無愛想で傴僂で、みんなからはキルムーリスって呼ばれてるだ。呼ばれ過ぎて、オラも本当の名前を忘れちまうくらいだべ。それはどう思ってるべか? やっぱりイケメンの方がいいんじゃないと思うんだべが……」

 

 

 

「そうね。確かに私も貴方みたいなブサイクよりもカッコいい人がいいわよ」

 

 

 

 キルムーリスの質問を、咲夜は少しの遠慮もなく正直に答えた。やっぱりと言った感じで彼は頷き、目を落とす。

 

 

 

「だけど、人妖問わずどんな人でもいい所と悪い所があるのよ。貴方の場合はそれが外見に現れただけ。その顔だって、見る人が見ればとても可愛いし、愛おしいものに感じるかもしれないじゃない。少なくとも私はそう思うわよ」

 

 

 

 慈愛に満ちた目で咲夜は彼を見つめたが、すぐに表情が曇り、誤魔化すように空を見上げた。

 

 

 

「なんて、人妻になった私にこんな事聞かされても困るわよね……忘れて。今の話」

 

 

 

 申し訳なさそうに笑う咲夜の手を、彼は反射でにぎった。

 

 

 

「そんな事ないだよ。だって、オラも最初は咲夜さんオラの事嫌いだろなってずっと思ってたから、とっても嬉しいべさ。これで明日からの激務も十分にこなせるべ。ありがとう。咲夜さん」

 

 

 

 精一杯の笑顔を見せながら言われたお礼に、咲夜は少し面食らった。

 茶屋の人達がその光景をチラチラ見ながらヒソヒソと話しているが、二人は互いを見つめあったままで気付いていない。

 

 

 

「……でも、迷惑でしょ? 好きでもない女性からこんな告白をされたら」

 

 

 

「この際だから言わせてもらうけどな……オラも咲夜さんの事が好きだっただよ。いつの日か、オラの隣で一緒にお嬢様の為に料理を作って、偶の休憩時間で一緒にお茶を飲んで、下らない事で一緒に笑いあって。そんな取り留めのない事をずっと考えてただよ」

 

 

 

 まぁそれは結局叶わなかったけどな。と彼は苦笑いで付け足した。それを聞いた咲夜の顔が若干ながら曇った。

 

 

 

「でも、がっかりはしてないだよ。オラは咲夜さんがお嬢様を喜ばせる為に結婚した事は知ってるし、オラも同じ状況なら咲夜さんと同じ選択をするべ。だからそう気に病む事はないだよ」

 

 

 

 励ますような笑顔で彼はそう言ったが、尚も咲夜は目を落としたまま、彼の方を向こうとはしなかった。

 

 

 

「さぁ、そろそろ帰るとするべ! 咲夜さん、家は何処だべか? 送って行くだ……」

 

 

 

 立ち込めた暗い雰囲気を払拭するように伸びをしながら立ち上がり、振り向きながら尋ねると、目に大粒の涙を湛えた咲夜が口元を両手で覆い隠していた。

 

 

 

「え!? さ、咲夜さん!? どうしたべさ! オラ、なんか気に触るような事言っただか!?」

 

 

 

 驚きうろたえるキルムーリスを諭すように、咲夜はゆっくりと首を振った。

 

 

 

「違うの……貴方と同じ気持ちだった事が凄い嬉しくて……同時に貴方の気持ちを裏切ってしまった事が申し訳なくって……」

 

 

 

 もしかすると、咲夜は心の何処かで罪悪感を感じていたのかもしれない。恐れていたかもしれない。彼女が自ら自分の心を欺いた事に。彼の思う気持ちを裏切って、その事を当人から詰られる事に。

 その事を悟ったキルムーリスは、再度咲夜の隣に座り、彼女が落ち着くまで何も言わずにその背中をさすり続けた。

 自分より大きい筈のその背中が、何故だかとても小さく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「はえ〜。立派なお屋敷だべなぁ」

 

 

 

 目の前に構えられた立派な門に、彼は思わず嘆息した。

 通りの一角を占領するように構えられた名士の家は、大きさこそ紅魔館にはおよばないが、広さはあの阿求のお屋敷に匹敵し、ごてごてとした派手さはないが、一目見ただけで荘厳と分かるほど装飾の多さから、この家の主は相当の実力者だと分かる。

 

 

 

「でしょう? 夫はね、この人里の中で今一番勢いのある人なの。あの阿求に匹敵する程の力持ちよ?」

 

 

 

 自慢するように咲夜は言った。

 

 

 

「へぇ〜そうだべか……」

 

 

 

 納得するように相槌を打ったキルムーリスだが、その時彼はある予感がした。

 確かにこの家に実力がある事は間違いない。だが、その背景にある部分に何処か危うさがあった。世間を知らないチンピラが、我が物顔で街を歩いているような、何も知らないが故に、その筋の者に会ったら無鉄砲に挑んでしまいそうな、そんな感じの危うさだ。

 今まで失敗した事のない人生を送ってきたのか、それともただの怖いもの知らずか。どちらにしろこのままでは早々に潰えてしまうだろう。

 

 

 

「じゃあ、オラはこのまま帰るべ。旦那さんによろしくだべな。風邪引かずに元気でな」

 

 

 

 そんな事はおくびにも出さず、紋柄型のような挨拶をして咲夜と別れた。

 角を曲がろうとしたその時、

 

 

 

「がっ……!?」

 

 

 

 突然、脳天に凄まじい衝撃を受けた。おそらく角で待っていたのだろう。図っていたかのようなタイミングだ。

 

 

 

(さ、咲夜さん……!)

 

 

 

 薄くなっていく視界の中、大切な人の安否を憂いながら彼の意識はブラックアウトした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 何か冷たい液体を顔に打ち付けられる衝撃で目が覚めた。

 徐々に鮮明になっていく視界に、まず飛び込んで来たのは砂利が敷き詰められた地面だった。

 まだはっきりしない意識の中、ゆっくりと顔をあげると、綺麗に掃除され、厳つい男達に囲まれたくれ縁に、二人の人間が立っていた。

 一人は派手派手しい黄色の着物を着た若い男で、空威張りの自信に満ちた顔でこちらを見下している。そしてもう一人は……

 

 

 

「咲夜さん……」

 

 

 

 そう、先程玄関で別れた咲夜が、申し訳なさそうな顔で見つめていたのだ。

 

 

 

「義景さん、ご覧の通り紅魔館の者を連れて参りました」

 

 

 

 団子屋で聞いた楽しげな様子は鳴りを潜め、抑揚のない声で咲夜は言った。

 

 

 

「ふむ……確かにこいつは紅魔館の連中の一人らしいな。しかも執事ときた。よくやったぞ咲夜、と言いたい所だが……」

 

 

 

 次の瞬間、義景と呼ばれた男は、彼女の頬を思いっきり強く張った。

 

 

 

「もっと他の奴を連れてくる事は出来なかったのか!? 当主であるレミリア・スカーレットはまだしも、妹であるフランドール・スカーレットや門番の紅美鈴は労多くせずに連れて来れた筈だ! それだけじゃない。お前の能力を上手く活用すれば紅魔館の全員を打尽にする事も出来たじゃないか! なのに三年掛かった結果が、こんな醜い顔をした執事の妖怪一匹だけだと!? 巫山戯るのも大概にしろ!」

 

 

 

 無抵抗のまま罵声を浴び、張り手される咲夜を、キルムーリスは黙っていられなかった。

 

 

 

「やめろ! 何してるべか!」

 

 

 

 そのまま飛びかかろうとしたが、体が思うように動かない。どうやら簀巻きにされて転がされているようだ。

 

 

 

「おっと。僕としたことが、()()に挨拶をするのをすっかり忘れていたよ。初めまして。僕は生良義景。この生良家の頭目で、人里一の名士だ。どうぞよろしく。えーっと……」

 

 

 

「キルムーリス。みんなオラの事をそう呼ぶだ。あんたもそう呼んでもらって構わないだよ」

 

 

 

「キルムーリス? これは傑作だ! その醜い外見に恥じない名前で呼ばれているなんて!」

 

 

 

 余程それが面白いと感じたに違いない。そのまま義景は十分間程笑い転げていた。当主に相応しくない下卑た笑い声で。

 やっとの事で笑いを収め、それでも吹き出しそうになるのを誤魔化すために、彼はコホンと咳払いをひとつした。

 

 

 

「いや申し訳ない。幾ら何でも笑うのは失礼だった。僕の非礼を許して欲しい」

 

 

 

「良いだよ。笑われるのは慣れてるからな。で、あんたはなんでオラをこんな所に連れて来ただか()()()?」

 

 

 

 精一杯の皮肉を込めながら尋ねると、義景は薄く笑いながら語り始めた。

 

 

 

「僕はね、今はこの小さな里で醸造業を営んでいるけど、こんな所で燻ってるような男じゃない。いずれは人里、ひいてはこの幻想郷全体にその名を轟かせたいと思っているんだ」

 

 

 

 長く生きているキルムーリスにとって、こんな取って付けたような野望は聞き飽きていたが、それでも何とか顔には出さずに耳を傾け続ける。

 

 

 

「どうしたらそれが可能なのか? 何週間も悩んだ結果、何処か手頃な勢力を打ち倒そうと考えた。そこで目をつけたのが紅魔館だ。確かに当主のレミリア・スカーレットは、幻想郷でもトップクラスの実力を持つ吸血鬼。しかし、強者と言うのは得てして弱点が多い。あの吸血鬼とて例外ではない。それに気づいた僕は、少しずつだけど確実に兵士を整え、弱点を研究した。しかし、どうしても突き崩せない壁が一つあった。それは……僕の妻である十六夜咲夜だった」

 

 

 

 言うなり彼は、地に伏した彼女を顎で示した。

 

 

 

「完全で瀟洒な従者と呼ばれるだけあって、彼女には少しも隙が見当たらない。どんなに策を講じても、彼女一人で全てが解決してしまいそうな予感がした。事実、偵察に向かわせた者の報告では、彼女には『時を操る程度の能力』を所有していると聞いていたから、尚更突破が難しい。万事休すかと思ったその時、一つの天啓が舞い降りた……彼女を取り込んでしまえばいいってね」

 

 

 

 まさか。

 驚いてキルムーリスは咲夜を見た。

 

 

 

「そこからはもう、トントン拍子で話が進んでね。表の顔しか知らない奴らの人望は厚かったから、あの半妖の先生に彼女とのお見合いを頼み込んだら二つ返事でオーケーしてもらえて、しかも即日で結婚の承諾も得られた。あまりに上手く行きすぎて自分が少し怖くなった位だよ」

 

 

 

 気色の悪い満面の笑みを浮かべながら彼はそこで言葉を切った。

 分かってたんだ。咲夜は最初からこの事を見抜いていて、紅魔館の人達全員を守る為に、自分から犠牲になったんだ。

 あの時、どうして自分の事しか考えてなかったんだろう。どうして咲夜さんの気持ちを先に考えなかったんだろう。とキルムーリスの心に一種の後悔が滲み出た。

 

 

 

「これで紅魔館侵略まであと一歩だ……そう思った時、やはりと言うか、邪魔をしたのがその咲夜だった。彼女は最初、僕の作戦は不十分だ、このままでは負けてしまうと言い出した。そして自分が誰か手頃な者を連れ去って、人質を取ろうと提案した。僕はその提案を受け入れ、咲夜の働きに期待した。ところが、完全で瀟洒な従者の面影は何処へやら。僕が報告を聞いても失敗した、取り逃がしたのヘマばかり。妖精メイドの一匹すら連れてこない。だから罰として捕まえて来るまでメシはやらんと言ったが、それでも連れ去って来る事はなかった」

 

 

 

 あの時の変な軽さはその為だったのか。ふらふらと頼りない足取りも。キルムーリスは昼間の出来事を思い出した。

 

 

 

「最初は僕も我慢してたんだけど、流石に業が煮えてきてね。今日までに誰か連れて来なかったら、明日紅魔館に攻め入るぞって脅したら、あっさりと君を連れてきてくれたってわけだよ。分かったかな? キルムーリス君?」

 

 

 

「……それで? 長々と語っていたようだけど、結局オラを連れ去って名士様は何がしたいだか?」

 

 

 

 彼のその質問に、義景は呆れた顔をして再び語り始めた。

 

 

 

「君は顔も悪けりゃ頭も悪いのかい? 僕はね、単に君を人質として連れて来たわけじゃない。君には僕らを紅魔館まで先導し、内部に入れるよう手助けをして欲しいんだ。君は執事だからレミリア・スカーレットとの信頼も厚い。そして誰よりも紅魔館内を熟知している。僕は道に迷った旅人のふりをするから、君は僕を助けた体で内部に……」

 

 

 

 そこからは、到底無理だとしか思えないような作戦が続いた。

 紅魔館の奴ら全員の酒に睡眠薬を混ざるだの、みんなが眠ったのを見計らって館全体を取り囲むだの、合図と共に火を放ち、出てきた隙をついて攻撃するだの……

 そのうち、キルムーリスの口からは忍笑いが零れ出し、遂には縛られているという立場を忘れ、それは庭全体に響き渡る程大きなものになった。

 

 

 

「……何がおかしいんだい?」

 

 

 

 不機嫌そうに義景は尋ねた。

 

 

 

「いや、ここまで馬鹿で安直な作戦聞かされたの初めてだから思わず笑っちまっただよ。すまなかったべ。名士様」

 

 

 

「……僕の、僕の完璧な作戦が馬鹿で安直だと……どういう事だ! 説明しろ!」

 

 

 

 一瞬にして余裕の仮面が剥がれた義景が怒鳴り散らした。

 

 

 

「あぁいいだよ。頭のいい名士様によーく教えてやる。あんたの作戦はオラの協力を前提としてるけど、オラは協力するとは一言も言ってないだよ。この時点で作戦の殆どが無駄になるべ。脅そうとしても無駄だよ。オラはブラウニー。ホフゴブリンの一種で、()()だ。殺そうとしても一回休みになるだけだから、武力の圧力はオラには通じないべ」

 

 

 

 余程この作戦に絶対の自信があったに違いない。淡々と紡がれる正論に、義景はギリギリと歯ぎしりをしている。

 

 

 

「それに、名士様は根本的な所を履き違えてるだよ。確かにお嬢様は弱点が多い。けど、それをよく分かっているのは他でもないお嬢様自身だべ。五百年も生き永らえている分、命だって何回も狙われてるから警戒だって怠らねぇ。あんたらポッと出の人間が、そんな付け焼き刃の策をこまねいて弱点を突いたって、返り討ちにあうのはあんたらの方だ」

 

 

 

「貴様! 義景様になんたる口をきく! 今この場で叩き斬ってやってもいいんだぞ!」

 

 

 

 側にいた男の一人が刀を抜いたが、義景に制止され、渋々座り直した。その義景ですら、額に何本もの青筋を浮かべている。

 

 

 

「そもそも幻想郷に名を轟かせるなんてそんな壮大な事、不可能だべさ。あんたらは自分達の力を随分過信しているようだけど、あんたらが狙う紅魔館の人達よりももっとずっと格上の方々なんざ、この幻想郷にゴロゴロいるだ。何よりそんな事をしたら博麗の巫女が黙っちゃいねぇ」

 

 

 

「博麗の巫女だと? あんなもの、ただの小娘じゃないか!」

 

 

 

「このご時世、博麗の巫女を舐めきってる奴がまだいたべか。世間知らずも大概にするべよ名士様。彼女が異変を解決する時の強さは、まさに鬼神のそれだべさ。あんたらみたいなゴロツキは一瞬にして塵に帰すだろうよ。あんたらはあの人を人間の味方なんて思っているだろうけど、あの人は幻想郷の保全を第一に考えてる。基本は人間の味方だけど、一度幻想郷を脅かそうと考えたら最期、人間だろうと容赦しない。それはあんたら金持ちとて例外じゃないだよ名士様」

 

 

 

 博麗の巫女という名前を聞いた途端、周りにいた男達全員の顔が青く染まった。が、その危険性を危惧していない義景だけは、顔を真っ赤に染め上げ、プルプルと体を震わせていた。

 

 

 

「……さっきから黙って聞いていれば、都合のいい事をまくし立ててばかりじゃないか! そんな机上の空論、僕は認めない! 僕は幻想郷一の力を持っている! 博麗の巫女や、紅魔館の吸血鬼共に負けない力をな! さぁ、僕に協力しろ! 僕に協力すれば命だけは助けてやる!」

 

 

 

 最早脅しにすらなっていない脅し文句に、キルムーリスは溜息をついた。

 

 

 

「言ったべよ。オラは妖精。自然がある限り死ぬ事はない。そんなの脅し文句のうちにすら入らないべ。だからこそ言える。このままだと、あんたの家は早々に滅びるってな」

 

 

 

「何故だ! 何故そう言い切れる!」

 

 

 

「オラは長い事外の世界で生きて来ただ。あんたみたいなのは腐る程見てきただよ。そんでもって、そいつらは大した才能もないのに口だけは達者で自分の事しか考えてないから、名を轟かせる前に殺されるか、達成しても色んな人からひんしゅくを買って失脚するかのどっちかだったべさ。あんたにあったのは商才だけ。いい加減その事に気付いた方がいいべよ名士様?」

 

 

 

「こいつ……言わせておけば……おい! こいつを牢屋にぶち込んでおけ! 協力すると言い出すまで拷問し続け──」

 

 

 

 義景が言いかけたその時、その場に赤い血だまりを残してキルムーリスが消えた。

 突然の出来事にその場がどよめき始めたが、ただ一人、義景だけは慌てず静かに口を開いた。

 

 

 

「咲夜……君かい?」

 

 

 

「申し訳ありません。あれ以上聞いていても有益な情報は掴めないと思い、勝手ながら始末させてもらいました。おそらく今までの事は覚えておりませんのでご安心下さい」

 

 

 

 そう言った咲夜は全身に返り血を浴び、左手には死人特有の濁った目で宙を見るキルムーリスの首を持っていた。

 

 

 

「はぁ……全く。やっと人質を連れて来たかと思えば、こんな小煩くて小汚い妖精だったとはね。これで振り出しだ。今度はフランドール・スカーレットか紅美鈴を連れて来い。それまではこれまで通りメシ抜きだ。おいお前ら! メシの支度をしろ。咲夜もだ。早くしろ!」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 一方的にそう言い残し、義景は足音荒くその場を去った。咲夜や男達も、少し遅れてその後を追う。

 

 

 

「ったく、なんでこう何度も何度もしくじるかね。早く誰か連れ去って来いよ。俺らまでとばっちりじゃねえか」

 

 

 

「馬鹿やめろ! 聞こえてたらどうすんだ!」

 

 

 

「アホ。聞こえるように言ってんだよ。堕ちたもんだなぁ、紅魔館の完全で瀟洒な従者も」

 

 

 

 後ろから聞こえる罵声を振り払うように、咲夜は歩く足を少し早めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「……ス! ……ムーリス!」

 

 

 

「……んぁ……? レミ……リア……お嬢様?」

 

 

 

 気がつくと、キルムーリスはベッドの上で寝かされていた。

 

 

 

「はぁ、よかった。無駄な心配させるんじゃないわよ。朝から余計な体力使っちゃったじゃない」

 

 

 

 目線の先では、レミリアが心配から解き放たれたように溜息をついた。

 

 

 

「オ、オラは一体……」

 

 

 

「紅魔館の門前に首のないお前の体が打ち捨てられるように置いてあったんだよ。今朝、美鈴さんがそれを見つけてな。一応様子を見ようって事でここに寝かせてたんだよ」

 

 

 

 レミリアの言葉を被せるように後ろからチャーリーが現れた。

 

 

 

「……そうだ! お嬢様、ご飯がまだでしょう!? 今すぐに──」

 

 

 

「昨日の夕飯も今朝のご飯も、副執事のチャーリーが全てやってくれたわ。意外と料理上手だったから、料理長としても採用しようかしらね」

 

 

 

 茶目っ気たっぷりにレミリアは言うと、すぐに真剣な顔つきに変わった。

 

 

 

「それで? 一体何があったの? 美鈴に負けず劣らずの実力を持つ貴方が、こんなにも簡単に一回休みになるなんてあり得ないわ。聞かせて頂戴。因みに拒否権はないわ」

 

 

 

 深紅の両目が、刺すように彼を見つめる。有無を言わさない目と言葉尻の強さに、魅入られたように彼は口を開いた。

 

 

 

「昨日、買い物が終わった後、帰ってる途中で茂みから急に妖怪が現れただよ。あまりに突然の事だったから、対応に遅れてそのまま首を持っていかれたべ。このキルムーリス、一生の不覚だべさ」

 

 

 

 申し訳なさそうにキルムーリスは頭を掻き、苦笑いを見せた。

 

 

 

「……本当かしら? 嘘をついてたら例え貴方でも容赦しないわよ?」

 

 

 

 長く、鋭い爪がキルムーリスの喉元に触れた。

 

 

 

「オラは生まれてこの方嘘をついた事が無いですだ。どうか信じてくれだよ」

 

 

 

「……分かったわ。貴方を信じましょう。早速だけど、少し休んだら美鈴と一緒に庭の手入れを行なって頂戴。頼んだわよ」

 

 

 

 そう言い残し、レミリアは部屋から出て行った。それを待っていたように、チャーリーが口を開いた。

 

 

 

「なぁ……お前、嘘ついたろ?」

 

 

 

「はぁ? 何言ってるべお前。オラが嘘をつくなんてそんな事──」

 

 

 

「とぼけんじゃねぇ。何百年一緒に居たと思ってんだ。お前はな、嘘をつく時必ず両手を、とりわけ右手を強く握る癖があるんだよ」

 

 

 

 はっとして彼は両手を見る。チャーリーの言う通り両手は握られており、特に右手はこれ以上ない程強く、固く握られていた。

 

 

 

「昨日、本当は何があった。正直に言え」

 

 

 

「……分かった。オメェにだけは話すだよ」

 

 

 

 彼は深く息を吸い込むと、深く真っ直ぐにチャーリーを見つめ、昨日起こった何もかもを全て話した。

 全てを話を聞き終えたチャーリーは、驚きと怒りに満ちた表情をした。

 

 

 

「なんっつー酷い話だ……その生良って奴ァ最低最悪の屑野郎じゃねぇか! とにかく一度お嬢様に相談を──」

 

 

 

「チャーリー、この事はオラとオメェだけの秘密にして貰いたいべ」

 

 

 

「だけど!」

 

 

 

「チャールズ・ベッケンドルフ!」

 

 

 

 鋭い怒声が響き渡り、チャーリーの口が閉ざされた。普段滅多に怒った事はなく、怒る以外ではチャーリーのフルネームを呼ばないキルムーリスの、純粋な怒りが篭った声だった。

 

 

 

「頼む。この事はどうかお嬢様だけでなく、館の人達全員にも言わないでけろ」

 

 

 

「どうして!」

 

 

 

「オラもよ、最初は報告しようと考えたべさ! けど、あの場で咲夜さんに殺されて、目が覚めてお嬢様やお前と話しながら考えているうちに、オラ気づいただよ! 咲夜さんの気持ちに!」

 

 

 

 悔しさが滲み出るのを抑えるように両手を強く握りしめた。

 

 

 

「もしもよ、もしもこの事をお嬢様が聞いて、そのせいで復讐心を燃やして、報復だなんだと称して名士様の家を襲撃したらどうなる!? 被害は家一軒だけじゃ済まねえ、下手すりゃ人里全体にまで及ぶ! そうなったら博麗の巫女だけじゃねぇ! あのスキマの妖怪様にも目をつけられて最悪殺されるかもしれねぇんだぞ! 咲夜さんはどうしてもそれを避けたかったんだ! 訳を話しても聞いてくれる連中じゃねぇ事は、オメェだって理解してる筈だろ!?」

 

 

 

「じゃあ出来るだけ被害を最小限に抑えるか、隠密に始末するよう説得すれば──」

 

 

 

「だとしても咲夜さんはそれを望んでねぇ! 仮にそんな事しても、真っ先に疑われるのは咲夜さんだ。家から消えたとなれば、隠したのはこいつらだと言う大義名分が出来て真っ先に紅魔館が狙われる! それでもお前がお嬢様に進言してこの館の人達の命を危険に晒すと言うんなら、オラはもう何も言わねぇだよ。決めるのはオメェ自身だ」

 

 

 

 キルムーリスはそう締め、答えを求めるようにチャーリーを睨みつけた。

 チャーリーは何も言わず、ただ黙って彼を見つめていたが、やがて自分の中にある気持ちを吐き出すように壁を強く殴りつけた。

 

 

 

「……んだよそれ。結局またお前が損をしてはいお終いってか? 巫山戯んじゃねぇよ! 何処までお人好しなんだオメェは!」

 

 

 

「チャーリー……」

 

 

 

「いっつもそうだ! 自分の事より他人の事! いい思いをした事なんて一度もなかったじゃねぇか! お前悔しくねぇのかよ? お前が心から尊敬して、心から愛している人を、こんな畜生に取られて悔しくねぇのかよ!? 確かに俺はいつも憎まれ口を叩くけどよぉ、俺はお前のいい所をいくつも知ってる! お前が誰よりも優しい事も! 物の本質を一発で見抜く目を持ってる事も! そこらへんのクソ雑魚妖精なんかよりもよっぽど価値のある妖精である事を、俺はよく知ってるつもりだ! だからこそお前には幸せになって欲しいんだよ! 生良みてぇな屑野郎がいい目を見て、お前みたいないい奴が泣きを見る世の中がまかり通るなんて間違ってる! なんでそれが分かんねぇんだ! ここまでお人好しだと呆れを通り越して逆に殺意を覚えるぞ!」

 

 

 

 怒鳴りながらチャーリーは何度も壁を殴った。何度も、何度も、何度も。殴り続けた右手からは肉が裂けて血が滴り、壁を見つめ続ける目からは涙が筋となって流れ出た。

 

 

 ……チャーリー、もういいだよ。オラはもう十分幸せだべさ。憎まれ口を叩くけど誰よりも俺の事を理解してくれる友人がいて、職場も住む所も提供してくれるお嬢様に仕えていて、その妹様やご友人はとても良い人達で、何より咲夜さんに会えた。これ以上の幸せを望んだら、オラは何世紀も煉獄行きになっちまうべさ。

 けど……オラだって悔しいだよ。あんな奴に咲夜さんが取られたのが、お前以上に悔しいだよ。

 

 

 その言葉を口にするのはあまりにおこがましいとかんじて、彼はそれを心の中で呟いた。

 彼が眠っていた部屋からは、暫くの間沈黙に包まれた。ただチャーリーが壁を殴る音と、悔しさに嗚咽を漏らす音だけが、まるで鎮魂歌(レクイエム)のようにこだまするのみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「…………んぁ、寝すぎたべな」

 

 

 

 大きく伸びと欠伸をしながら、キルムーリスは眠い目を擦った。日はもう既に午後三時くらいまでは傾いている。

 あれからもう幾千年がすぎた。レミリアやフランはすっかり大人になり、今では幻想郷の時期支配者候補になるとまで噂される程の実力を持った。彼が紅魔館を去った今でも八雲紫や現博麗の巫女と手を組み、その名を彼の耳元まで轟かせている。

 紅魔館の人達とは今でも交流があり、偶に紅茶を飲みに出向く事がある程仲が良い。

 チャーリーも、キルムーリスが辞めるのとほぼ同時期に紅魔館を去り、現在でも彼と同じ主人に仕えている。「オメェがいないとつまんねぇんだよ」と照れ隠しにいつも言っていて、キルムーリスも笑いながらそれに感謝している。

 生良家は、キルムーリスの予想通り早々に潰えた。紅魔館侵略を諦めた彼は、阿求亭に攻め入ったが呆気なく捕まり、義景はその場で梟首にされたそうだ。

 咲夜はそのまま消えた。というより、義景が阿求亭を襲撃する前からその姿を見たものは居らず、そのまま行方をくらませてしまったのだ。

 連れ戻そうとレミリア達も探したが、ナイフの一本も見つからず、捜索は断念。その日に紅魔館でささやかながらお葬式が行われた。

 そしてキルムーリスは紅魔館を去り、今は人里の小さな古書堂の主人に仕えている。あの出来事は、もう過去のものとなった。

 

 

 

「さぁ、早く帰って納入日を報告しねぇと、ご主人様に怒られちまうべ」

 

 

 

 そう呟きながら立ち上って──目の前のものに驚き、腰が砕けそうになった。

 

 

 

「あ……あぁ……」

 

 

 

 輝くような銀髪、ふんわりとした白いブリム、吸い込まれそうな程深い紺色のメイド服。

 最後に紅魔館を去った頃と変わらない服装をした彼女が、彼の目の前に立っていた。

 

 

 

「久しぶりね。会いたかったわ。キルムーリス」

 

 

 

「……はは、オラもそろそろ焼きが回っただか。まだまだ現役かと思ったんだけどなぁ」

 

 

 

 震える声で頰をつねるキルムーリスに、彼女はクスリと笑った。

 

 

 

「ふふ。相変わらずね、貴方は。迎えに来たの。小さいけど、近くの森に私の家があるわ。そこで一緒に暮らしましょう?」

 

 

 

「いや、でも──」

 

 

 

「もう十分よ。貴方はもう十分働いたわ。ここら辺で休暇でも取りましょうよ。妖怪の山でピクニックしてもいいし、人里でお団子を食べてもいいし。なんだったら、一日中家で紅茶を飲んでもいいわ。適当にそこら辺を散歩するっていうのもいいわね……貴方は何がしたい?」

 

 

 

「だけどもオラは──」

 

 

 

「何? またオラは不細工だからアンタとは釣り合わないとかぬかすのかしら? そんなの、私は気にしないって言ってるじゃない」

 

 

 

 頰を少し膨らませながら彼女は不機嫌そうにそう言ったが、直後にその頰には朱が混じった。

 

 

 

「それとも……私じゃ、嫌?」

 

 

 

「そ、そんな事はないだよ!」

 

 

 

「じゃあ行きましょう? 私、この日が来るのをずっと待ってたんだから」

 

 

 

 言うなり彼女はその白い手を差し出した。

 おずおずと彼がその手を握ると、彼女も優しく彼の手を握り返した。

 

 

 

「さぁ、行きましょうか」

 

 

 

「……そうだ。ちょっと待つべ。行く前にひとつ、言いたい事があるべよ」

 

 

 

 彼はコクリと首を傾げた彼女に微笑み、彼女の正面に立つと片膝をついてこう言った。

 

 

 

「十六夜咲夜さん、オラは貴方の事が好きです。どうか、貴方の時を一緒に歩かせて下さい」

 

 

 

 言い終わった瞬間、彼は勢いよく右手を彼女へ差し出した。

 

 

 

「……はい。私も、貴方と一緒に永遠の時を歩みたいです。こんな私ですが、どうぞよろしくお願いします」

 

 

 

 差し出された右手を両手でそっと包み込み、嬉しそうな顔でそれを了承した。それと同時に、キルムーリスの顔が明るく輝いた。

 

 

 

「……ホントに、オラでいいんだか?」

 

 

 

「当たり前よ。私は貴方じゃなきゃダメなの。さ、今度こそ行きましょう? 美味しいアップルパイを作ってあるから」

 

 

 

 彼女は彼に優しく笑いかけると、その手を改めて左手に握り直して再び歩き始めた。キルムーリスもまた、彼女に優しく笑い、彼女と歩幅を合わせるように歩き始めた。

 沈みかけた午後の太陽が、彼らを祝福するように照らし、導くように森の入口へと彼らを誘い、そのまま二人は森の奥へと消えた。

 

 

 これ以降、キルムーリスの姿を見たものは誰もいなかった。

 ただ、彼が座ったとされる木陰の下には、二つの新芽が寄り添うようにして生えていたという。

 

 

 

 



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消えぬ怨恨

注意!以下の事が許せる方のみお読み下さい。

1:グダグダです!

2:救いは殆どありません!

3:胸糞描写あります!

4:超展開すぎてハテナのオンパレードになる可能性大!

それでもよろしければお楽しみ下さい。


 拝啓、私の敬愛する父上、そして母上。お元気でしょうか? 

 私がここを去ったのは、残暑の厳しい夏の終わりだったでしょうから、今はもう鈴虫が鳴き、段々と山が紅く色付く季節となっている事でしょう。静葉様や穣子様を奉る豊穣祭はもう終わりましたか? 見れなかった事がとても残念でなりません。

 さて、この手紙を見ているという事は、既にいなくなった私の部屋を片付け、自分の気持ちに整理がついたという事でしょう。何分突然の事でしたから、種々の面倒な処理に追われていたのだろうと思います。御迷惑をおかけしてしまい、誠に心苦しい限りです。

 私がこの手紙を書いた理由はただ一つ、何故私がここを去ったのか、それを貴方方二人に知って欲しかったからです。

 過去に私は、幾度となくそれを訴えて来ました。しかし、貴方方はそれを戯言だのなんだのと言い、聞く耳を持ってはくれませんでしたね。だから去ったのです。この地を、この家を。

 それではお話致しましょう。あれは三年前、春というにはまだ肌寒い季節のことでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 その日は珍しく、午後にちろちろと小雪が降っておりました。

 私はその時、木々が青々と茂った妖怪の山の麓を歩いていました。

 普段滅多に外出しない私が、よりにもよって何故そんな危険な所へと問われれば、些かその答えは曖昧になってしまいます。強いて理由をあげるとするならば、「何か強いものに惹かれて来た」とでも言いましょうか。ともかく私はあてもなくふらふらと麓を歩いていたのです。

 どの位歩いていたでしょうか。気がつくと何処までも続くと思われていた森の木々が急に消え、目の前にぽっかりと口を開けた大きな穴が、私を待っていたかのように現れたのです。

 まるで何かに誘われるように、私はその穴の中を覗き込みました。

 穴の先は何処までも暗く深く、底が見えませんでした。一度足を踏み外してしまえば一生地に足をつく事は叶わないと錯覚させる程深かったのです。更に、その穴の底からはおぞましい雄叫びや断末魔の声、果ては何者かの下卑た笑い声が、私の耳を容赦なく蹂躙し続けました。

 これが世に言う地獄の入り口か。そう確信した時、全身に恐怖が走り抜け、続けて外気の寒さでは説明がつかない程の悪寒が遅れて駆け抜けて行きました。

 とにかく此処から離れなければ。その事だけが私の頭を支配しました。恐怖に体を震わせながら後ずさりを始めると、突然私の肩を誰かが叩き、後ろから声を掛けられました。

 可愛らしい少女の声でした。里にいるお団子屋さんの娘となんら変わらない、普通の声でした。しかし、この時の私は恐怖心に支配されていましたので、地獄の使者か死神が私の命を狩りに来たのかと勘違いしており、ろくに姿を確認せぬまま驚いて飛び上がり、情けない叫び声を上げながら逃げてしまいました。

 なんとか玄武の沢まで辿り着き、河童の方々に頼み込んで里まで送ってもらいましたが、そこで初めて私が愛読している本がない事に気付きました。

 恐らくあの時のゴタゴタで落としてしまったのでしょう。臆病な私は、どうせ既にあの声の主に持ち去られているだろう。何より雪に濡れて読めなくなっているかもしれないと考え、あっさりと取りに行く事を放棄してしまいました。しかし、本を失ったショックは大きく、その日の夕食は溜息ばかりつき、母上にいらぬ心配を掛けさせてしまいました。

 

 

 これが私と彼女の──さとりさんとの最初の出会いでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 先に申し上げました通り、私はあまり外出する事を好みません。親しい友人はおりませんし、里の中にはこれといって興味を惹かれるものがないからです。ひとたび里の外に出ようにも、危険な下級妖怪が横行闊歩していますので、私のような箱入り息子として育てられた者は一瞬にして餌食となってしまいます。

 加えて愛読書をなくしてしまったという事がそれに拍車をかけ、私の引き篭もり癖は輪をかけて顕著になりました。

 そんなある晴れた日の昼下がりでございました。自室で外の世界の「SF」という類の本を読んでいましたところ、何者かが部屋の扉を叩く音が聞こえました。

 父上が仕事の手伝いを頼みに来たのかなと扉を開けると、烏の濡れ羽色をした髪と大きな翼を持った少女が、にこやかに手を振りながら私に挨拶をしました。

 反射的に私は彼女の手を引いて半ば強引に部屋に引き込みました。貴方達が、特に父上が酷い妖怪嫌いである為、見つかったら面倒な事になるのは確実だからです。尤も、当の彼女は満更でもなかったらしく、引き込まれた時には、

 

 

 

「おやぁ? いやに積極的ですねぇ。でも、嫌いじゃないですよ? そういう事」

 

 

 

 と、含みをもたせた笑顔で逆に誘われてしまいましたが。

 射命丸文と名乗ったその鴉天狗に改めて来訪の理由を尋ねたところ、私に何か届け物があるとの事でした。よく見ると、小脇に丁寧に包装された包みを持っていました。

 読書以外に趣味のない私に一体何を? そう思いながら小包を開けてみると、なんとそれは昨日落した私の愛読書ではありませんか。所々文字が滲んでいましたが、まだ読める位には綺麗な状態で大切に保管されていたのが分かりました。

 しかし、誰がどうして私の元に送り返して来たのでしょう? 私の愛読書は、この幻想郷内では珍しい部類に入り、滅多に入荷される事はありません。そのような貴重な代物でございますから、誰かに拾われたらまず真っ先に質屋か古本屋行きになっているだろうというのが私の見解でした。

 その疑問に答えるように、射命丸さんはにやにやと本の最後を指差しました。

 言われた通りに巻末を開いてみますと、丁寧に封をされた一枚の手紙がはらりと床に落ちました。

 拾い上げて封を切り、手紙を開くと、女性特有の丸みを帯びた字でこう書かれておりました。

 

 

 

『こんにちは。突然のお手紙で申し訳ございません。先日、旧地獄の入り口で貴方に声をかけた者です。あの時、貴方は酷く怯えていらっしゃいましたね。恐らく強すぎる妖怪の気にやられてしまったのでしょう。なんとかしたいと思い、いきなり手を肩に置いたのが間違いでした。もう少し間を置くか、声を掛けずにそっと物陰から見守るべきでした。変に貴方を怯えさせてしまい、申し訳ありません。

 話は変わりますが、貴方が落していったこの本、実は私も持っているんです。面白いですよね。風刺も効いてるし、何より文章の運び方が上手い。私自身も本を書くので、参考にしている部分も多いのです。私以外にこの本が好きな人がいるなんて思ってもみませんでしたから、仲間がいると感じてとても嬉しかったです。

 そして、貴方がとても本を大切にしているという事も、落していった本の状態からよく分かりました。シミやシワが殆どない。本当に本が大好きなのでしょうね。同じ本の虫としてとても尊敬します。

 大切な本を失くされて困っているのではないかと思い、射命丸さんに頼んでこうして送り届けて貰いました。これからも素敵な本との出会いをお祈りしています。

 古明地さとり』

 

 

 

 読み終えた瞬間、えもいわれぬ高揚感と幸福感が全身を強く包み込みました。やっと仲間が見つかったという嬉しさと、手紙の主の優しげな対応に強く心を打たれたのです。

 次に込み上げて来たのは、彼女に返事を書きたいという強い衝動でした。彼女に手紙を出したい。さとりさんがどんな本を読んでいるのか。手紙を通してそれを知りたいという思いがふつふつと湧き上がって来たのです。

 射命丸さんもそれを見抜いていたようで、一週間後にまた来るからそれまでに返事を書いて置いてくださいと言って、部屋から去って行きました。

 その後の事はぼんやりとしか覚えておりません。無我夢中で手紙を書き、射命丸さんが来るまでの一週間を恍惚とした状態で過ごしていたと思います。手紙の返事は本を送り届けてくれた感謝と、どんな本を読んでいるのかという質問と、また手紙を書いてくださいという、半ば期待が混じった結びの挨拶だった気がします。

 それからまた一週間後、再び射命丸さんがやって来ました。彼女が手紙を持っていた時の喜びと言ったら、言葉に出来ない位嬉しかったです。

 手紙の内容は私があてた手紙への感謝と、さとりさんの好きな本と、私でよければ喜んでお願いしますというごく簡潔なものでしたが、それだけでも十分に私の心を舞い上がらせました。こうして、射命丸さんのご協力のもと、私とさとりさんの文通が始まったのです。

 驚いたでしょう? 私は三年前から、妖怪嫌いのお二人の目を盗んで妖怪の方と文通をしていたのですから。今にして思えば、当時の私は貴方方に反抗したかったのかもしれません。里の大地主としてゆくゆくは我が家を継ぐように育て、好きな事は何一つできず、ただ勉強と習い事に明け暮れていただけのこの環境から。

 以降の私は人が変わったように見えたでしょうね。毎日毎日虚空をぼーっと見つめては気色の悪い笑顔を浮かべたり、用もないのに出掛けることが増えたり、妙にお金を無心したりと、自分でも分かる程奇異な行動が目立っていましたから。

 ところで、私が子供の頃、何処かで父上と母上の馴れ初めを聞かされた事があります。恋愛結婚だったそうですね。一目惚れで、地主の父上としがない三文文士の母上との身分違いの大恋愛の末、この人と結婚出来なければ家を継がないと言う父上の脅しで結婚したと母上から聞きました。とても嬉しそうに話していましたよ。

 何故今になってそんな事を? と考えているのかもしれません。ですが焦らないで下さい。これは後に語る事への前置きなのですから。

 少し話が逸れてしまいましたね。それでは改めてお話致しましょう。それは、あの日が起こるちょうど五ヶ月前の冬の日の事でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私がさとりさんから手紙を受け取った日からその日まで、一週間と欠かす事なくほぼ毎日手紙を送り続けていました。内容は殆どお互いが好きな本を紹介すると言う素っ気ないものでしたが、彼女が旧地獄に住んでいる為、地上の様子も事細かに伝えていました。夏も盛りになった時は、蝉が大合唱を始めたからうるさくて読書に集中出来ませんと書き、紅葉が舞い、辺りに銀杏の匂いが立ち込める季節になった時は、山の紅葉を楽しみながら読書に耽っておりますと書きました。それらの取り留めのない事にもとても楽しそうにしていた事が、彼女の手紙からも伝わりました。

 そうして手紙を重ねているうちに、ふと、私は彼女の姿を一目見たいという気持ちにかられている事に気が付きました。同時に、何故あの時振り返っていなかったのだろうかという、後悔にも似た疑問が浮かび上がって来ました。

 一度心に浮かび上がってしまっては、それが私の心を支配するのに時間はかかりませんでした。あの人に会いたい。あの人の声が聞きたい。好きなものをどのような表情(かお)をして食べるのだろう? 手紙からでは判別が出来ない様々な事が、私の心を掻き乱したのです。大恋愛をした貴方達になら分かるでしょう。私は彼女を──さとりさんの事を好きになっていたのです。

 それを自覚した時、私の生活は一変に変わりました。眠れない日が続き、散々読み倒してきた愛読書も、幾ら読んでも頭に入る事が殆どなくなってしまいました。彼女の事を思わなかった日は一日もないと言い切れる位、あの人に恋焦がれていたのです。

 とうとう我慢が出来なくなった私は、ある日思い切って一度さとりさんとお会いしたいと言う旨の手紙を書きました。本と季節以外に書く初めての話題に若干ながら緊張していました。書き終わって射命丸さんに手渡す時ですら、顔を真っ赤にして手が小刻みに震えてしまっていたので、その場ですぐ彼女にバレてしまい、去っていくまで散々にいじり倒されてしまいました。しかし、ニヤニヤとした表情で私をイジる彼女の顔に、何処かしら憂いの表情が見えていたのを私は見逃しませんでした。その理由がなんなのかは、その当時は分かりませんでした。

 手紙を送った後は、ひたすら彼女の姿を想像しました。射命丸さんから聞いた前情報では可愛らしい女の子と言う事らしいのですが、写真もない私は清楚な大人の雰囲気漂う気品に満ちた女性か、それとも笑顔の絶えないハキハキとした女の子かと言う、とんでもなく下らない二択で迷っていました。外の世界では、私のような人を「ロリコン」と言うそうですね。それを言ってしまえば、背丈が子供並みに小さい成人女性を好きになった人全般はみんなロリコンと揶揄されそうなのには些か疑問ですけど。

 そんなどうでもいい事を考えているうちに、もう三ヶ月も経っていました。そこではたと、私があの手紙を送ってから一通も彼女からの返事が来ていないことに気が付いたのです。いつもならこの日は必ず返信の手紙を書いている筈なのに、ここ最近は返信はおろかペンすら握っていなかったのです。

 風邪でも引いたのかと言う考えが浮かびましたが、すぐにそれを否定しました。竹林に腕のいいお医者様がいる事を知っていたからです。

 私は部屋中をぐるぐると歩きながら考え始めました。そして、もしかすると変な手紙を送った私に気分を害してしまったのかという最悪の考えが頭を掠めた時、自室の扉を忙しなく叩く音が聞こえました。

 すぐに扉を開けると、紅葉の柄がいくつも刺繍されたマフラーを巻いた射命丸さんがいきなり部屋に飛び込んで来ました。

 何事かと思えば、

 

 

 

「こんな寒い冬の日に手紙をよこすなんてさとりさんも意地悪ですよねぇ」

 

 

 

 とぼやき始めました。

 どうやら外の気温は予想以上に低いらしく、雪は降ってはいないもののその寒さは尋常じゃありませんでした。幸いにも部屋の火鉢は炭が赤々と燃えていましたが、これで室内の温度が外と同じであれば小一時間は彼女の文句に付き合わされていた事でしょう。

 身体の震えがやっと収まったところで、私は射命丸さんに手紙を催促しました。彼女は少し躊躇ったそぶりを見せながらも、私に手紙を差し出しました。久しぶりの手紙だったので、すぐに嬉しさがこみ上げて来ましたが、手渡された手紙が分厚いのに気づき、何やら只事ではなさそうだと感じました。

 すぐに封を切って中を見ると、十数枚に及ぶ便箋が中に入っていました。よく見ると便箋の絵柄が所々違っており、何度も悩みながら書き直し、その度に便箋を変えている事が伺えました。

 手紙の内容は……いや、貴方方はもう既に知っている事ですから詳しくは語りません。かいつまんでお話しすると、返信が遅れた事への謝罪から始まり、次に彼女の正体……彼女はさとり妖怪であり、地霊殿で鬼である星熊勇儀さんという鬼と共に旧地獄を支配しているという事、旧地獄に住む者は皆地上の者たちに嫌われている事、迫害にあい、実の妹さんのサードアイが閉ざされてしまった事、その他諸々を含めて私に会う事は出来ないという事、そのかわりに自身の写真を同封するという事が書かれており、手紙の最後には、胸元にコードで繋がれた大きな目を持つ可愛らしい少女の写真が入っておりました。

 読み終えた瞬間、私は自分自身の無知を知り、ショックで膝から崩れ落ちそうになりました。今までの手紙のやり取りでは、旧地獄というのは単なる幻想郷の区画の一つとしか考えていなかったのです。その先入観を持ったまま、ろくに調べもせずにこんな手紙を送りつけ、さとりさんを傷つけ苦しめてしまったのだと考えると、私がした事はなんと愚かな事だったのでしょう。今になって、あの時の射命丸さんのうかない顔の理由が分かりました。

 私の気を察したのでしょう。射命丸さんは申し訳なさそうに頭を下げて謝りました。手紙を受け取るたびに見せる楽しげな私を悲しませたくなかっのだそうです。普段の私なら、ここで彼女の心遣いに感謝の意を示しますが、当時の私にはそれが出来ず、ただ壁を見つめながら返事を受け取るのは少し先にして貰いたい。手紙が書け次第、こちらから連絡するという旨を淡々と呟くばかりでした。その時の射命丸さんがどんな顔をしていたかは分かりませんが、「……了解しました」という声が少し沈んでいたのと、いつものように音速の速さで出て行かず、重い足取りで部屋から去っていった事から、私と同じ位沈んだ面持ちをしていた事かと思います。

 扉が閉まる弱々しい音を聞き、私は腕を机に乗せて頭を抱えました。あんな手紙を出してしまった以上、お詫びの菓子折りも用意しなければいけませんし、下手な返信は事態に火に油を注ぐだけなので慎重に文も選ばないといけません。が、それ以上に私の気持ちをさとりさんに伝えるべきか否かという疑問が心の大半を占めていました。

 彼女の正体がさとり妖怪だと知った時、一瞬ながら嫌悪に似た感情が通り過ぎました。私が本当に彼女の事を好きならば、さとり妖怪という種族なぞ単なる違いに過ぎない筈なのです。そんな些細な事に嫌悪感を抱いた自分に、この気持ちを伝える資格は果たしてあるのでしょうか? もしかすると、僕の持っているそれは単なる好奇心ではないか? 

 その晩は自己嫌悪に悩まされ、眠る事が出来ませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 さとりさんからの手紙を受け取ってから、私は大いに悩みました。どのような菓子折りを送ればいいかだとか、どのような文面にすればいいのか、何度も受け取った手紙を出しては考え、消しては考えを繰り返していました。しかし、これといった物も文も思いつかず、悶々とした日々を過ごしていました。

 そんなある日の事でした。今日もいい品が見つからず、溜息をつきながら人里を歩いていると、ある雑貨屋が私の目にとまりました。

 興味本位で中を覗くと、あまり派手ではないものの洒落たデザインの首飾りや腕輪がとてもお手頃な価格で売っておりました。その中でも一際私の目を引いたのが、花柄の装飾が施された桃色の耳飾りでした。特に目立った所のない控えめなものでしたが、目立たないながらも放つその美しさが、写真で見たさとりさんの姿にぴったりとはまりました。

 一目見てこれだと思った私は、菓子折りの事などそっちのけでこれを購入し、ホクホク顔で家路へと急ぎました。

 後はどんな内容の手紙を書こうかと思案しながら歩いていると、大勢の武装した男達が屋敷の方面からぞろぞろと歩いてくるのを目撃しました。

 虫の知らせとでも言いましょうか、普段なら妖怪の討伐に向かうのだろうなとしか考えないのですが、その一団とすれ違った時、言いようのない嫌な予感がし、追い立てられるように早足で家へと急ぎました。

 その予感は的中しました。家に帰り自室に入ってみると、隠してあった筈のさとりさんからの手紙が忽然と消えていたのです。私は大いに驚きました。泥棒にでも入られたかと疑いましたが、そんなざるな警備をするのはあり得ないと気づき、今日は家にいる筈の父上の元へすぐに足を運びました。

 案の定、父上は母上と共に居間でお茶を飲んでおりました。いつもは見せない私の顔に若干驚きの表情をみせつつも、どうかしたのかと何食わぬ顔で問いかけましたね。

 私は荒い声でどうして自室があんな状態になっているのかと尋ねました。すると、母上が露骨に焦った顔をして父上の方を見つめ、それに押し切られたように父上が最近私の様子がおかしい事が気になり、私が留守のすきに部屋に入ってみたら、机の上に置いてあった手紙を見つけた事、その送り主がさとり妖怪である事に気づき、私の安全を確保する為に里中の腕っ節を雇っていた事、偽の手紙を書いてさとりさんを人里の門前までおびき寄せる事、手紙を保管していた箱は私がいない頃を見計らって全て燃やしてしまった事などを訥々と語りました。

 

 

 

「お前ももうすぐ大人なんだから、こんな妖怪という危険な種族と関わるより、少しは家を継ぐと言うことを自覚しなさい」

 

 

 

 最後に父上は不機嫌そうに締めましたね。その時の私の心情なぞ、貴方達は考えてもいなかったでしょう。あの時の私は怒りと焦りがぐちゃぐちゃに入り混じり、半ばパニックに近い状態でした。

 私は震える声でいつ手紙を送ったかと聞きました。今度は母上が、手紙を受け取って数週間後に書いて、嫌々ながら射命丸さんに渡したと答えました。私は更にその作戦の決行はいつだと尋ねると、再度母上が今日だと言いました。その答えを聞いた瞬間、電気が走ったように私は部屋から出て行きました。父上が何か怒鳴っていましたが、そんな事はどうでもいい。その時はただたださとりさんの安否を祈るばかりでした。

 脇目も振らず、一心不乱に走り続け、やっと里の門でたどり着きました。門前では、先程すれ違った男達が数人で誰かを囲んで殴る蹴る等の暴行を加えており、残りの数人が邪魔されないように見張っておりました。

 私の姿に気づいた男の一人が、抜かれないように私を地面に取り押さえました。なんとか逃れようと必死に抵抗する視線の先に、綺麗な桃色の髪がちらと映り、思わず私は彼女の名前を叫びました。男達の動きが一瞬だけ止ったのを見て、彼女に逃げるよう指示しようと口を開こうとしましたが、取り押さえていた男に手拭いを被せられ、それを合図に男達は再度彼女を袋叩きにし始めました。

 もう一度抜け出そうと身をくねらせた時、男が安心してくださいと私に耳打ちしました。私がさとりさんに唆されていると父上から話を聞き、二度と私に近づかないよう警告するためにこうしているのだ。私は何も手を出す事はない。後は我らにお任せくださいと。嘘ですよね。貴方達は自分の商売道具が使い物にならないのを恐れ、高い金で荒くれ者を雇い、何をしてもいいからさとりさんを遠ざけて欲しいとお願いしたのでしょう? 事実、その時の彼女に抵抗の意志がないはずなのに、男達は自分の中にある荒れた欲望を満たすがままに暴力をふるっていましたから。

 やがて男達の動きが落ち着き、これが私達の働きぶりですよと言わんばかりに動かない彼女から離れました。

 初めて見るさとりさんの姿は酷いものでした。着ている服は土に汚れ、わずかに見せる手や足には打撲痕や切り傷がこれでもかと言う位につけられていました。特に酷かったのが顔で、写真で見た可愛らしい顔は血で赤く腫れ、瞼には大きな青痣が出来ていました。この怪我では早く治るとしても数ヶ月はかかるでしょう。

 男達の下卑た笑い声が聞こえます。「害悪め!」「気味が悪いんだよ!」等の罵声が響きます。私は悔しさのあまり泣き出しました。そして、あの時に感じた感情はやはり恋なのだという事を自覚しました。もし私がさとりさんの事を嫌悪しているのであれば、貴方達が雇った男達と同じように嗤い、彼女に罵声を浴びせていたでしょうから。

 一通り彼らが笑い転げた後、私を抑えていた男が引き上げの指示を出し、男達は皆満足気な表情で里の中へと入って行きました。後に残されたのは、私と動かなくなったさとりさんのみでした。

 私はすぐに彼女のそばに駆け寄り、頭を地面に擦り付けて謝りました。ごめんなさい。ごめんなさい。今回の事は全て私が悪いんです。貴女に会いたいと私が手紙で書いてしまったばっかりに貴女に嫌な思いをさせ、更にこのような仕打ちを受けさせてしまった。全て私の責任です。どうか私を殺して下さい。貴女のその憎悪のまま私を殺して下さい。それが私の出来る唯一の贖罪です……

 不意に、何かを拾う音がしました。頭を上げると、傷だらけのさとりさんの手に、いつ落としたのか先程私が買った耳飾りが入った袋がありました。

 さとりさんは何も言いません。ただ、全てを見透かすような三つの目で私を見るばかりでした。そして、貴方は何も悪くないとでも言いたげな優しい笑顔を私に見せると、ふらふらな足取りでその場を去ろうとしました。声を掛けようとしましたが、彼女は振り向き、もう十分ですよと言う風に身振りで私を制止させ、そのまま歩いて行きました。

 この日以降、彼女から再び手紙が来る事はありませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 さて、長々と語りましたこの手紙ももうすぐで最後です。二人共、ここまでお疲れ様でした。

 意気消沈の私を最初に待っていたのは、父上の硬い鉄拳と雷でしたね。お前はこの家を継ぐ者としての自覚はあるのかとか、これに懲りたらもう少し勉強を積み、里のいい家の人と籍を持ちなさいとか、毎日聞かされる話ばかりでした。いつもなら私を庇う母上も、父上と一緒になって怒りましたね。お二人には本当に迷惑をかけてしまったと、大いに反省しております。

 それからの私は人が変わったようでした。二人の言う事は文句一つ言わずに聞き、貴方達にとって扱いやすく、都合の良い人形として貴方方を満足させました。嬉しかったでしょう? これであそこの地主の娘と結婚できれば俺達の家は安泰だと、こっそり貴方達二人の酒の席での会話を聞いていましたから。

 表向きの私はそうでも、裏側の私は違います。父上からゲンコツをくらい、母上から泣き言のような叱責を浴びせられ、部屋に入った私の頭には、どうやってここから出て行こうかと言う計画しかありませんでした。父上と母上の二人に復讐をしたかったと言うのもそうですが、さとりさんに対して湧いた嫌悪の感情が一瞬でもよぎった自分に吐き気がしたのです。なのでこの地から出て行き、一からやり直そうと考えました。しかし、何も伝えずに出て行くのは私としても忍びない。ですので、こうして置き土産として手紙を残そうとした次第です。

 もう既に準備は万端。後は出て行くだけです。書き終えたらすぐにでも実行するつもりです。唯一心残りなのは、さとりさんに別れの挨拶をしていない事でしょうか。でも、いいのです。どちらにしろ彼女には嫌われてしまっているでしょうから。仮に心を読んでそれを知っているとしても、私は単なる文通相手としかみなしてなさそうですしね。

 さぁ、私が言いたい事はもう書き終えました。後は旅立つのみです。貴方達が──おそらく母上が私の部屋に来た時、私の部屋を見て驚いている状況を考えると、なんだか少し可笑しくて笑ってしまいそうです。

 最後に貴方達に私から別れの挨拶をさせていただきます。

 

 

 ざまぁみやがれ。それもこれも全てお前らが引き起こした事だ。

 私が待つ地獄で会おう。閻魔様か白玉楼の主の処置が寛大なのを祈っておけ。

 

 

 それではさようなら。

 

 



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彼岸小噺①

はーいどうも。お久しぶりです。焼き鯖です。慣れないながらもなんとか大学生活を送っております。

いやーしかし、前回の話を書き終えてすぐに書き始めた筈なのに、なんで一ヶ月近くが経とうとしてるんですかねぇ?改めて自分の筆の遅さに反吐が出ますわぁ……

ま、そんな事は置いといて、今回も楽しんで頂けたら幸いです。


「……おや? お前さん、こんな所でどうしたんだい? 此処は三途の川。お前さんのような子供は来ちゃいけないんだよ」

 

 

 あたいの名前は小野塚小町。是非曲直庁で働く三途の川の渡し守だ。

 いきなりだけど、あたいはよく、三途の川に行く。仕事柄、此処と是非曲直庁を繰り返し往復するのもそうだけど、休みの日の暇な時は専らここで昼寝をするのがマイフェイバリットなのだ。年中咲き乱れる彼岸花を見ながら夢の世界に入るのも、また乙なものだと勝手に思っている。

 今日もそうやって長い一日を過ごすつもりだった。しかし、微睡みの入り口に差し掛かった瞬間、誰かに体を揺すられ、強制的に現実に引き戻されてしまった。

 目の前には、おかっぱの女の子がいた。困った顔をして私の事を見ている。どうやら起こしたのはこの子らしい。

 私がさっきのように言ったのは、その子が生身の人間であると思っていたからだ。ここにはたまに、本当にたまにだけど、里の子供達がやって来ることがある。見るからにやんちゃそうなガキ大将が、「度胸試しだ!」と意気揚々として仲間を連れて来ることもあれば、罰ゲームなのか気の弱そうな子供がおどおどしながら彼岸花を摘み取って行くこともある。

 しかし、おかっぱの女の子は困った顔のまま首を横に振ると、私の方に何かを差し出した。眠い目をこすりながらよく見ると、小さな手の中には六文銭が五枚。

 

 

 

「……成る程、向こうに渡りたいんだね?」

 

 

 

 女の子は頷いた。よく考えてみたら、生きてる人間があたいを視認できる訳がない。出来るとしてもこんな風に触るのは不可能だ。

 

 

 

「今日は非番なんだけど……仕方ないね。あたいが運んであげるよ」

 

 

 

 そこで初めて女の子は嬉しそうに顔を輝かせた。

 

 

 

「うんうん。女の子はやっぱり笑顔が一番だね。おいで。あたいなら一瞬でチョチョイのチョイさ」

 

 

 

 あたいはそう言って立ち上がり、大きく伸びをしながら近くに停めてある自分のボロ船に女の子を案内した。女の子は最初にこれを見た時、沈まないか不安そうに私を見てたのがちょっとだけがっかりしたね。そんな露骨に顔に出すことでもないだろ。文句は十王様にでも言っておくれよって話さ。あたいは全く悪くない。

 女の子を船に乗せ、能力使って櫓を漕ぎ出せば、あっという間に彼岸に到着。見事な早業に女の子驚愕。その表情を見ただけで仲間の死神達の自慢になるから、それだけでもう満足したね。

 受け取り担当の死神に女の子を任せ、手を振って彼女と別れた。さぁ、帰ってもう一眠りしようかと考えながら此岸に戻り、岩を枕に再び微睡みの入り口を探そうとしたその時、

 

 

 

「小野塚小町!」

 

 

 

 妙に角ばった声が私の頭上から降り注いだ。目を開けると、新品の是非曲直庁の制服を着た初々しい緑髪の少女が、腰に手を当ててあたいを見下ろしている。

 

 

 

「あれ、四季様じゃないですか。どうです? 閻魔の仕事は慣れましたか?」

 

 

 

「あ、はい。おかげさまですっかり職場にも慣れることが……って! そうじゃありません!」

 

 

 

 顔を真っ赤にしながら起こる四季様、もとい四季映姫ヤマザナドゥ。彼女は最近ここに配属された新米の閻魔様で、有り体に言えばあたいの上司だ。見た目は年端もいかないような可愛い少女だが、その見た目に騙されてはいけない。

 

 

 

「貴女、何をやっているのですか」

 

 

 

「何って、いつも通り昼寝ですけど」

 

 

 

「それです! 貴女、今日は休みですよね? それなのにどうしてそうやってぐーたらと寝て、大切な一日を無駄にしようとしているんですか!」

 

 

 

「いやーそう言われましても、これがあたいの休日ですので……」

 

 

 

「じゃあせめて家で寝なさい! 此処は死者が来るところであって貴女の寝床じゃありません! 折角休みにも関わらず死者の受け渡しをしたのを褒めようと思っていたのに……貴女は少し自堕落すぎます! いいですか? 大体貴女は──」

 

 

 

 予想通り、四季様はありがたい説教をクドクドと語り始めた。

 ツッコミ気質なあたいの上司は、この通り重度の説教癖を患っている。その相手が同期の閻魔様でも、死神にも、物言わぬ霊魂にすら説教するという有様だ。この職場に長く勤めているあたいもそのご多聞にもれず、何度か彼女の説教を聞かされる羽目になっている。まぁ、あたいとしてはいい暇つぶしになるからいいんだけどね。

 

 

 

「聞いているんですか小町!」

 

 

 

 だけど、流石にちょっとだけうんざりしてきたな。よーし、反撃してやれ。

 

 

 

「ですけど四季様、貴女も人の事言えないんじゃないんですか? 別部署の閻魔様が言ってましたけど、四季様に毎日毎日同じことを説教されて気が変になりそうだってぼやいてましたよ?」

 

 

 

「そんなの関係ありません! 私は誰がなんと言おうと、これからも相手の悪い所を正し、立派なものに変えるよう啓発していくつもりです!」

 

 

 

「それは結構な事ですけど、幾ら彼岸に娯楽がないからって何度も何度も同じ相手に同じ説教することはないじゃないですか。このまま行ったら四季様、曲直庁内で孤立しちゃいますよ?」

 

 

 

 あたいのこの一言に、四季様の口がピタリと閉じられた。どうやら図星らしい。

 

 

 

「その反応だと、実際に仲間内で孤立気味なんでしょう? 今はあたいが聞いているからいいですけど、あたいにまで相手されなくなったらいよいよ食堂で一人、ポツンと昼ご飯を食べるなんて状況になりかねませんよ?」

 

 

 

「う……うぅぅ〜……」

 

 

 

 一転して形成が逆転し、四季様は真っ赤な顔を更に真っ赤にしてぷるぷると震えだした。やがて、

 

 

 

「ま、まぁ今日のところは大目に見ましょう! ただし! 次また同じような事をしていたら覚悟しておいて下さいね!」

 

 

 

 負け惜しみのような言葉を吐いて足早にその場から去って行った。こりゃツッコミじゃなくていじられ気質かなと、彼女の見えない所で苦笑する。

 

 

 

「……ま、たまには素直に忠告を聞こうかね」

 

 

 

 次の休みは読みかけの本でも読むとするか。

 そんな事を考えながら、私は目を閉じて夢の世界へと旅立って行った。

 ……これが、あたいの日常だった。仕事がある日は必死に死者の受け渡しをし、仕事が終わって暇な時やそうでない時、休みの日を見つけては此処でのんびり昼寝する。サボりだなんだと何かしらの理由をつけて私を説教する四季様に見つかったら、彼女の気の済むまでそれを聞いて、たまーに反撃で四季様をいじる。もはやいつも通りと言ってしまっても過言ではない程機械的な「日常」だ。

 彼岸には娯楽がない。本屋と定食屋がまばらにある程度で、酒場も呉服屋も彼岸の何処に行っても見つからないから遊べる所が一つもない。四季様が欲求不満になるのもわからな……いや、あの人には「遊ぶ」よりも「他の誰かに説教したい」って欲求が強そうだね。それでも欲求不満な事には変わりないけど。

 四季様だけにとどまらず、当時の是非曲直庁内は、顔にこそ出さないけどみんな何処となく不満そうだった。言ってみればせき止められた川みたいな状態。濁って、住んでいる魚は水を変えないとそのうちに死んでしまいそうな、そんな感じだ。理由としては二つある。一つはさっき言ったように彼岸に娯楽がないこと。もう一つは……ま、これは追い追い話す事にするよ。じれったそうな顔してるけど、こういうのは後にとっておいた方が、話としても盛り上がるからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 みんな退屈そうに日々を過ごしてたけど、あたいは別段なんとも思わなかった。むしろ繰り返す日々に安心すらしてた。そりゃ確かに少し退屈気味だったけど特に欲しい服も本もないし、酒が飲めない程度なら我慢出来ない程でもなかったしね。何よりあたいは、この変わらない日常が結構気に入っていたんだよ。

 そんなある日、四季様のありがたい教えにのっとっていつもの場所で本を読んでいた時、ふと顔をあげると、いつの間にか向こうの方にイーゼルに立てかけられたキャンバスがあった。しかし、描き場所を探しに行ったのか肝心の持ち主が見当たらない。

 あたいはそこに何が描かれているのか気になり、吸い込まれるようにそのキャンバスに近づいた。

 キャンバスには今日の三途の川が描かれていた。薄暗く空を覆う灰色の雲、煙のように揺蕩う白い霧、それと対照するように赤々と鮮やかに咲く沢山の彼岸花。そして岩に寄り添う一人の少女。

 

 

 

「……これ、あたいかな?」

 

 

 

 絵の少女は、彼岸花よりもちょっと淡い赤色の髪を二つに結び、一心不乱に本を読んでいる。その隣に立てかけてあるのは、誰がみても偽物と分かるほどちゃちで大きな鎌。そして、着ている服は支給された死神専用の制服。

 青と白が基調の服は、周りの配色とのバランスを崩すかと思いきや、逆に一つの差し色として絵を引き立て、見るものを惹きつける役割を果たしている。一目見て、この絵を描いた奴は只者じゃないと感じた。

 

 

 

「……僕の絵、気に入りましたか?」

 

 

 

 突然、背後から蚊の鳴くようなか細い声が聞こえた。驚いて振り返ると、ひょろりと伸びた体を覆うように青い着物を着た男が立っていた。

 

 

 

「あぁ、ごめんなさい。別に驚かせる気はなかったんです。次のスポットを見つけて帰って来たら、食い入るように見てたもので。邪魔しちゃ悪いかなって思ってそっと近づいたんです。本当に申し訳ありませんでした」

 

 

 

 そう言って男は深く頭を下げた。

 

 

 

「いや、それはいいんだよ。勝手に見てたあたいにも非があるしね。それよりあんた、あたいが見えるのかい?」

 

 

 

 生きている人には見えないように術を施している筈なのに。

 

 

 

「えぇ。そりゃあもう、はっきりと」

 

 

 

 男は当たり前の事のように答えた。

 おかしいな。男の体全体からは生気が感じられない。初めて見たあたいですら幽霊と感じてしまう程だ。だけど死神の目を通して見ると、こいつは生きている。後五十年は生きられる程に寿命はたっぷりと残っている。

 

 

 

「あんた、幽霊とか、そう言った類のものは見える性質(たち)なのかい?」

 

 

 

 再び質問すると、男は首を横に振ってそれを否定した。

 

 

 

「いえ。妖怪なら腐る程見てきましたが、霊魂とか幽霊とか、そういうのは今まで一度も見たことはありませんね」

 

 

 

 ますますおかしい。霊魂や霊感体質なら見える理由に納得がいくけど、そうでないならどうしてあたいのことが見えるのだろう? 

 

 

 

「じゃあ此処がどこだか分かってるのかい? 此処は三途の川。あの世とこの世の境目なんだよ? 普通の人間は来ちゃいけないんだよ」

 

 

 

「はい。それはなんとなく分かります。ですが、此処に咲く彼岸花の美しさを、是非とも一回描いておきたかったんです」

 

 

 

 事もなげに男は答えた。

 

 

 

「……あんた、頭おかしいんじゃないの?」

 

 

 

「そうかもしれませんね。でも、素晴らしい絵を描けるんならそんな頭なんか捨てますよ」

 

 

 

「……あんた、名前は?」

 

 

 

 そこで初めて男は困った顔をした。

 

 

 

「それが……分からないんです。気がついたらキャンバスとイーゼルを持って立っていて、あてもなく彷徨ってたら此処に着いたんです。自分が絵描きなのは分かるんですが、自分が何者で何処から来たのかは全く分からないんです」

 

 

 

 成る程記憶喪失か。これは相当厄介だな。それなら……よし、決めた。

 

 

 

「……分かった。自己紹介がまだだったね。あたいは小野塚小町。三途の川の渡し守をしているしがない死神さ」

 

 

 

 あたいは本題を話す前に自己紹介をした。それを聞いた時のあいつの顔と言ったら! 青白い顔が更に青くなって、今更のようにがたがた震えだしたんだ。今思い出しても傑作だね。

 

 

 

「え? 死神? ってことは、僕はもう死んで地獄に連れて行かれるんですか!?」

 

 

 

 震える声でそう尋ねるもんだから、あたいは思わず笑っちゃったよ。後で聞いてみたら、絵に夢中であの鎌があたいのだって分からなかったらしいんだ。

 

 

 

「違うよ。あたいは調査するだけさ。間違えて生きている奴を連れて行ったら、雷を落とされるのはあたいなんだ。それだけはごめんだから、あんたの事をしっかり調べて、生きてるか死んでるか分かってから連れて行くかどうか判断するんだよ。簡単な話だろう? エータ」

 

 

 

「わ。分かりました。けど……二つ質問があります。僕は何をすればいいんですか? 後、エータって何ですか?」

 

 

 

「エータってのはあんたの名前さ。名無しの権兵衛じゃお互いやりにくいだろ? お前さんは絵描きだし、男だから単純にエータ。気に入らないかい?」

 

 

 

「いえ、そんなことは……」

 

 

 

「それから、あんたに出来る事は殆どないよ。下手に動かれて彼岸に行かれたらこっちも困るからさ。どうしてもって言うんなら……そうだねぇ……あたいをモデルにしておくれよ」

 

 

 

 あたいの提案に、エータは面食らった顔をした。

 

 

 

「え……それだけでいいんですか? もっとこう、小町さんの助けになれるような、そう言うのは……」

 

 

 

「言ったろ? 下手に動かれて死なれたらこっちも困るって。お前さんが霊魂だったら、周りの人間には姿が見えないし、仮にそうじゃないとしてもそのなりじゃ勘違いされかねないだろ? 足手まといが増えるよりかは何処かでじっとしておいた方が楽なんだよ。それに……気に入ったんだよ。あんたの絵が。あんたの描くあたいの絵が見てみたいんだ。お礼がわりにそれを描いてくれればいいよ。早い話がギブアンドテイクってやつさ」

 

 

 

 どうする? と、私は再度エータに提案を投げかけた。エータは少し考える素振りを見せた後、

 

 

 

「……分かりました。小町さんがいいならそれで構いません。よろしくお願いします」

 

 

 

 と、さっきと同じように深く頭を下げた。

 こうして、あたいの「非日常」は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「この男がリストの中にないか……ねぇ……珍しいじゃない。小町ちゃん直々の依頼なんて」

 

 

 

 受け取り担当の死神は、(すが)めで眺めていたエータの似顔絵から顔を戻し、再び眼鏡をかけ終えると笑いながらあたいに軽口を言った。

 

 

 

「その言い方は何さね。まるであたいが仕事をしていないみたいじゃないか」

 

 

 

 少しムッとしながら言い返すと、同僚はケラケラと腹を抱えて笑った。

 

 

 

「実際そうだろ? ノルマを終えたらすーぐ昼寝と洒落込むんだからさ。仕事が早いのはありがたいけど、もう少し周りの連中を手伝ってくれたら、上からの評価もうなぎのぼりだよ?」

 

 

 

「分かってないねぇ。あたいは上司に褒められたくて働いているんじゃなくて、その日の日銭を稼ぐ為に働いているのさ」

 

 

 

「よく言うぜ全く……で、この男だけど、今のところ上からの報告は耳にしてないね。他の死神からもそう言うのは聞いてないよ」

 

 

 

「そっか……」

 

 

 

 また空振りか。四季様にも聞いてみたけど知らないって言ってたし、やっぱりあいつは生きてるのかねぇ……

 

 

 

「まぁそう気を落としなさんな。そいつを見つけたのは昨日の今日なんだろ? もしかすると、今日中に俺のところに届け出が来るかもしれないから、そうなったらまたこっちから連絡するよ」

 

 

 

「そうだね。そうしてくれると助かるよ」

 

 

 

 二言三言そいつと言葉を交わした後、あたいは事務課に出向いて同じことを尋ねた。しかし、応対してくれた死神は、名前が分からないと照合が出来ないの一点張りで、ろくな確認が取れなかった。

 

 

 

「全く、事務課の連中は頭が固いって言うか融通がきかないって言うか……もう少し柔軟に対応してくれないもんかねぇ。こっちは忙しい中時間を作って来てるってのに」

 

 

 

 その事をエータにぼやくと、彼は苦笑しながらではあるが同意するように頷いてくれた。

 

 

 

「確かにそうですよね。僕の村役場もそんな感じだった気がします。……って、記憶なくしてる僕が言えた義理じゃないんですけどね……お手数お掛けして本当に申し訳有りません……」

 

 

 

 どんよりとエータの顔が暗く沈んだ。

 

 

 

「いやいや、これ位仕事の片手間にできる事だから、そう気に病む事はないさね。それはそうと……あたいはいつまでこの姿勢を保たなきゃならないんだい? そろそろきつくなってきたんだけど……」

 

 

 

「まだ動かないで下さいよ? あともう少しかかりますから」

 

 

 

 ゆっくりと、丁寧な筆使いでエータは答えた。さっきの暗い表情は鳴りを潜め、今は真剣そうな眼差しでキャンバスを見つめ、絵を描いている。

 一体、何度この問答を繰り返したんだろう? エータに促されて適当な岩場に座り、それっぽいお澄ましのポーズを指示されてから、もう二時間は経っている。その間エータは、なにやられる黒い棒みたいなのでキャンバスに線を描いたり消したりを数十回繰り返し、やっと絵筆を取ったかと思えば同じ箇所を何回も塗り、その度に難しい顔をして首を傾げている。早くて三十分位で終わるかな、なんて甘い考えでこんなポーズを取った自分が、この時凄く憎かったね。

 エータは暫く筆を動かしていたが、やがて大きなため息をついてキャンバスをイーゼルから外した。

 

 

 

「あ、あれ? どうしたんだい? もう描き終わったのかい?」

 

 

 

 面食らって尋ねると、エータはそれを否定するように首を横に振った。

 

 

 

「いえ。納得のいく仕上がりになりそうになかったので、また明日作り直します」

 

 

 

「はぁ? じゃあ、あたいがこの二時間必死にポーズをとってた事は……」

 

 

 

「ええ。全くの無駄になりましたね」

 

 

 

 特に罪悪感を感じさせないその言い方にカチンと来て、あたいはつい言葉を荒げた。

 

 

 

「おいおい、何が『全くの無駄』だよ。二時間もかけてあたいに無理なポーズとらせといてその言い草はないんじゃないか? せめて途中経過でもいいから見せておくれよ。それが礼儀ってもんだろ?」

 

 

 

 さっきまでエータが使ってたキャンバスだって、あたいが彼岸中の文具屋を走り回って買って来たものだ。出来が悪いから見せたくないってのは分かるけど、こうでもしなけりゃあたいが納得しないし、出来ない。

 あたいの物言いに驚いたのか、エータは暫く目を白黒しながらあたいを見つめていたが、やがて何かに気づいたようにハッとし、バツが悪そうに頭を下げて猛烈な勢いで謝り倒した。

 

 

 

「ご、ごめんなさい! その……小町さんの事を全く考えていませんでした! これからはもう少し楽なポーズを指示します!」

 

 

 

 今度はあたいが驚く番だった。

 さっきのエータの雰囲気と今のエータの雰囲気はまるで真逆なのだ。謝罪した時のエータは、最初に会ったあの時のように何処か申し訳なさそうな雰囲気だったが、絵を描いている時のエータはその逆。高圧的で横暴。他人の事なんか知ったこっちゃないって感じだった。相手が自分に合わせるのが当たり前だろみたいな、キャンバスから目を離した時の彼の目には、そんな風に読み取れそうな感情で溢れていた。

 

 

 

「い、いや、大丈夫だよ。次から気をつければいいだけだからさ。それより、早く絵を見せておくれよ。気になって仕方ないんだ」

 

 

 

 再度見せてもらうようにお願いしたが、エータは浮かない顔のまま再び首を横に振った。

 

 

 

「いえ、それだけは出来ません。なんて言いますか……心の奥底で、別の何かがそれを止めている感じがするんです。『納得のいくまで人に見せるな』って。それから……」

 

 

 

 そこでエータは一瞬迷った素振りを見せたが、申し訳なさそうに再び口を開いた。

 

 

 

「これはあくまでも予想なんですけど、僕は人を描く時、その人の細かいところを知らないと描ききれない気がするんです。その人の仕草とか表情、最悪趣味嗜好まで知っていないと、僕はあなたを上手く描けないと思います。まぁ、画家のくだらないプライドとでも思って頂ければ、それで結構ですので……何より」

 

 

 

 こうもモデルがいいと、どう描けばその美しさを表現出来るのか、見当もつかないんです。

 重苦しい口調から飛び出た最後の言葉に、あたいはつい笑ってしまった。

 いやぁ、どんな大切な理由かと思ってたら、最後がこんな理由だったのかって、拍子抜けした瞬間に笑いが込み上げてきてね。いつぶりだろう? こんなストレートに褒められたのは。正直言って、この時は少しだけ嬉しかった。

 そうやって一人で腹抱えて笑っていたら、エータがムキになって尋ねてきた。

 

 

 

「な、なんで笑ってるんですか! 僕は本気で言ってるんですよ!」

 

 

 

「いやぁ……ふふ、ごめんよ。素直に褒められたのが嬉しかったからさ。それじゃあどうするんだい? あたいとおしゃべりするのかい?」

 

 

 

「え……あ、はい。そう、ですね。そうしてくれると助かります」

 

 

 

 さらりと吐くようにあたいが尋ねると、エータは少しだけ驚いたような顔をしてそう答えた。

 

 

 

「ほら、何キョトンとしてるんだい。隣に来なよ。色々教えてやるからさ」

 

 

 

 促すように隣を軽く叩くと、エータは小さく何度も頷き、私の隣にちょこんと座った。

 

 

 

「で、何から聞きたい? ……って、なんだい? その申し訳なさそうな顔は。あたいはもう気にしてないからそんな顔しないの。只でさえ幽霊みたいなんだから、あんたは笑ってる位が丁度いいんだよ。ほら、笑顔笑顔!」

 

 

 

「……ふふっ。そうですね。分かりました。じゃあ早速ですけど……」

 

 

 

 漸く笑顔になったエータにつられて、あたいも少しだけ口角を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 彼岸の日没は他よりちょっと早いらしい。今の時期、人里の日没時刻が七時半だとすると、彼岸の日没時刻は大体六時。他よりも一時間半は早い計算になる。

 

 

 

「……おっと、もうこんな時間か。随分話し込んじゃったねぇ」

 

 

 

 ふと空を見上げたら、彼岸花より赤い夕日が西の空に傾こうとしていた。見た感じ大体五時半。流石に戻らないと、四季様から雷が落ちてしまう。

 

 

 

「それじゃ、あたいはそろそろ向こうに戻るとするよ。四季様にどやされのだけは嫌だからね」

 

 

 

「そうですね。長い時間付き合わせてしまい、申し訳ございませんでした」

 

 

 

 あたいが伸びをするように立ち上がると、同じようにエータも立ち上がって深くお辞儀をして謝った。今日で通算何回目の謝罪だろう? 少しうんざりしたあたいは、溜息をついてエータの方を向いた。

 

 

 

「なぁエータ。こういう時は申し訳ございませんでしたじゃないんだよ。こう何回も謝られちゃあ、こっちも調子が狂うってもんさ」

 

 

 

「……それでは僕は何と言えば良いんでしょう? 此処まで小町さんに色々してもらって、絵まで完成してないのに、今更申し訳ない以外に何が言えるんでしょうか?」

 

 

 

 こいつと話していて、少し分かった事がある。こいつは変なところで強情なのだ。一度こうと決めたら絶対に曲げる事はない。メンドくさい性格だが、それでも今はとてもいい奴だと思ってる。

 あたいは優しく微笑むと、エータに諭すように言った。

 

 

 

「そう言う時はさ、『ありがとう』って言えばいいんだよ。その方がお互いに気分がいいだろ?」

 

 

 

 その言葉を聞いたエータは、暫くぽかんとしてあたいを見つめていたが、さっき見せたあの笑顔をあたいに向けて、

 

 

 

「そうですね。それじゃあ改めて、今日はありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」

 

 

 

 そう言って頭を下げ、キャンバスとイーゼルを抱えてその場を去っていった。

 その姿が完全に見えなくなってからふぅと一息溜息をつく。

 不思議な奴だ。いや、実際にエータには記憶もないし、それを呼び起こす決定的な手掛かりも見つかってないから不思議だの何だのと言う権限はあたいにはないけど、とにかくあいつはミステリアスな奴なのだ。あの時に見せた横暴な性格は、あたいに質問している間も時折見られていたし、それに無機質な表情も加わって少しだけ怖く感じた。

 かと言ってそれがエータ本来の姿かと言われたら、初めて会った時から見ているあの申し訳なさそうな表情や物言いは何なのかという疑問が浮かび上がる。どちらもエータのような気もするし、どちらか片一方が本物のエータだと思う気もしてしまう。

 

 

 

「……それでも、あの笑顔だけはどっちのエータでも同じだと思うけどなぁ……」

 

 

 

 そう。唯一あいつの笑顔は、あの幽霊みたいな顔色の悪さからは想像もつかない程明るい笑顔だけは、あの冷たそうな性格の時のエータにも、気弱そうなエータにも、どちらにもありそうな予感がした。

 

 

 

「……だめだ。どうにも分かんなくなってきた」

 

 

 

 考える事が苦手なあたいは頭を掻きながらそう呟く。考えれば考えるほど、あいつの正体が靄の中に包まれていく気がして、軽く頭が痛くなってきた。

 ここは一度戻った方が得策かな。そう結論づけて船に向かおうとした時、

 

 

 

「こ〜ま〜ち〜?」

 

 

 

「きゃん!?」

 

 

 

 振り返った先に、黒い笑みを浮かべた四季様が、黒いオーラを纏わせて立っていた。

 

 

 

「貴女の帰りが遅いので様子を見にきて見たら、こんなところで油を売っていたんですね……しかもあんな得体の知れない相手に随分と親しげに──」

 

 

 

「ち、違うんですよ四季様! これはその……あいつの調査であって、決してサボっていたわけでは……」

 

 

 

 今更な言い訳をまくし立てようとしたとき、四季様がクスリと笑った。

 

 

 

「冗談ですよ。貴女があんなに楽しそうな笑顔を見せるのは初めてでしたので、少しからかってみたくなっただけです」

 

 

 

 いたずらっ子のような笑みを浮かべる四季様。なんだか前にいじられた事へのちょっとした報復をされたような気がして、少しだけしてやられた気分になった。

 

 

 

「しかし……あれが小町の言っていたエータと言う男ですか。確かに妙ですね。浄玻璃の鏡に写してみましても何も写ってはいませんでしたし、微かながら生気があります。しかし、霊魂特有の青白い顔、何より小町と意思疎通を取れるのがおかしい……彼と話してみて、何か分かった事はありますか?」

 

 

 

 笑顔をパッと引っ込め、いつもの硬い表情に変わった四季様が、あたいに尋ねてきた。

 

 

 

「何も分かりませんでした。こっちから質問しても、分からないだの思い出せないだので、これと言って有益な情報は一つも……」

 

 

 

 頭を掻きながら難しい顔で答えると、四季様は「そうですか……」と残念そうな顔をした。

 

 

 

「とにかく一度戻りましょう。私も改めて閻魔帳を確認してみます。小町は戻って雑務を片付けたらもう帰ってよろしいですよ」

 

 

 

「え? 本当ですか?」

 

 

 

 ラッキー。今日は早く帰れそうだ。

 

 

 

「本当です。こんなところで嘘をついてもしょうがないでしょう?」

 

 

 

 余程あたいの顔に出ていたのだろう。四季様は呆れたように苦笑した。

 

 

 

「分かりました。じゃあ、済み次第帰りますね。あ、乗って行きますか?」

 

 

 

「そうですね。それでは、お言葉に甘えると致しましょうか」

 

 

 

 四季様が提案を受け入れたのを確認し、出航の用意をしようと歩き出した時、「小町」と、四季様に呼び止められた。

 

 

 

「分かっていますよね? 彼岸の不文律を犯すと言うことは、私だけでなく、他の裁判官にも目をつけられると言うことを」

 

 

 

 試すような目で四季様は尋ねた。あたいは最初、何を言っているのか分からず首を傾げるばかりだったが、質問の意図が分かった時、口から自然と苦笑いが浮かんできた。

 

 

 

「……分かってます。いくらサボり癖のあるあたいでも、流石にそんな危険は犯しませんよ」

 

 

 

「結構です。余計な手間を取らせてしまいましたね。早く彼岸へ向かいましょうか」

 

 

 

 そう言って四季様は満足気な表情を浮かべ、停めてあるあたいの船へ一直線に歩いていった。

 ……どうしたんだろう。いつもなら即答で答えられる事なのに、さっきは一瞬言葉に詰まってしまった。瞬時に判断出来なかった事もあるかもしれないけど、それでももう少し早く答えられたはずなのに……

 

 

 

「何をしているんです? 早く戻りましょう」

 

 

 

 既に船に乗った四季様の呼びかけに引き戻され、あたいは湧いて出てくる疑問を押しつぶし、船に向かって歩み始めた。

 



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彼岸小噺②

 単なる協力関係だ。

 その時のあたいはそう考えていた。

 あいつが何者かは分からないが、少なくとも幽霊か人間で、あたいは死神。よくて友達になれる程度の関係で、それ以上でもそれ以下でもない。何より幽霊と分かれば即日ででも彼岸に連れて行くんだ。仲良くなれるはずがない。いや、仲良くなっちゃいけない関係なんだ。

 それなのに

 

 

 

「こんにちは小町さん。その……結果はどうでしたか?」

 

 

 

 どうしてこいつの笑顔を見ると顔が熱くなるのだろう? どうしてこいつの声を聞くたびに胸が大きく高鳴るのだろう? 

 

 

 

「ダメだね。相変わらず四季様の手帳にも載ってないし、事務課の連中は頭固いしで全然進んでないんだよ」

 

 

 

 赤くなった顔を隠すように、首を横に振りながらそう報告すると、エータも残念そうに首を振った。

 

 

 

「そうですか……僕も何度も思い出そうとしてはいるんですが、どうにも頭の中に靄がかかったような感覚がして、中々思い出す事が出来ません」

 

 

 

「今回も空振りか……これで三ヶ月近く収穫なしってことになるねぇ」

 

 

 

 残念そうに呟くあたいを見て、エータは申し訳なさそうに身を縮ませた。あぁ、もう。そんな顔、あたいに見せないでおくれよ。あんたは笑ってる位が丁度いいって、前に言ったじゃないか。

 

 

 

「ほら、何しみったれた顔してるんだい。早く私の絵を描いておくれよ。まだ一枚も完成してないじゃないか」

 

 

 

 ハッパをかけるように手を叩きながら言うと、エータはハッとした表情を浮かべた後、すぐに元の笑顔に戻った。

 

 

 

「そうでしたね。僕は小町さんへのお礼をまだ果たしてませんものね。それでは、あそこの岩に座ってください。あっ! 小町さんが楽だと思う格好でいいですからね!?」

 

 

 

 あたいが買ってきたキャンバスをイーゼルにセットしながら、慌てて付け足すエータ。あの一件があって以来、エータは私に気を使うようになり、あたいを描く時は決まってこの言葉をかけるようになった。

 

 

 

「はいはい。分かってるよ。今日こそは絵を完成させてくれよ?」

 

 

 

「うっ……はい、善処します……」

 

 

 

 からかうように言うと、エータは若干渋い顔になったが、すぐに真剣そうな面持ちでキャンバスに線を引き始めた。

 ……正直に言うと、絵を描いている時のあいつは本当にカッコよかった。普段はあんなにおどおどしてるのに、この時だけは別人なんだ。濁った灰色の黒目に生気が宿り、青白い顔が生き生きとして、もう絵を描く事が楽しいって感じ。多分こいつがもし幽霊だったら、あたいはその手腕を笑いながら惜しんでいただろうし、生きていたら人里での活躍を肴にしながら話に花を咲かせていたと思う。

 それに加えて、あの真剣な顔つきからは想像もつかない程の柔らかな笑顔。最初こそ何も思わなかったけど、何度も何度も顔を見合わせ、他愛のない話をするうちに、いつしかあの笑顔の魅力に取り憑かれてしまっていた。

 

 

 

「……どうしたんです? そんなにうっとりとした表情をしろ、なんて僕は言ってませんよ」

 

 

 

 無機質な声でエータは冷たく言い放ち、慌ててあたいは元の表情に戻す。相変わらず、この自分本位な性格は改善されていない。寧ろ少しだけ酷くなってる気がする。それが絵を描いている時にしか出ないからまだ救いだけど、これが普段の会話の中でも顕著だったら、こいつが生きてようが死んでようが御構い無しに彼岸に直行していたと思う。

 いつの間にか、エータの口には見慣れた絵筆がいくつか咥えられており、素早く灰色の油絵の具がついた筆と新品の筆を交換しながら、赤い絵の具を筆先に付け、鮮やかな手つきでキャンバスに色をのせている。痩せて骨ばった弱々しい腕からは想像もつかない力強さは、いつも私を魅了させる。かっこいいだけじゃない。その時のあいつはとても美しいんだ。

 そのうちエータは難しい顔をするようになり、筆を動かしては首を傾げるようになった。これも三ヶ月近く見て分かった事だが、この仕草をする時は決まって何処か納得がいかない箇所があり、制作に難航している証拠だ。

 それを裏付けるように、エータは頭を掻きながら持っていた筆を下ろし、盛大に溜息をついた。

 

 

 

「……今日もダメかい?」

 

 

 

 諦めるように問いかけると、エータは強く首を横に振った。

 

 

 

「……いいえ。このまま完成まで描き進めます。もう少しポーズをとっていて下さい」

 

 

 

 驚いた。いつもならここで「そうですね。もう無理です」と、申し訳なさそうに筆を置くのに。

 大きく伸びをしたエータは、再び真剣な顔つきに戻り、ダイナミックに筆を動かしながらキャンバスに色を付けていく。鬼気迫る勢いというのはこう言う事かと内心納得したが、それ以上に集中力の塊と化したあいつの迫力に圧倒され、口を開くことが出来なかった。

 この時のエータの姿は今でもはっきり覚えている。残った力を込めるように歯を食いしばり、筆を動かすその姿は、まるであいつの周りだけ地獄の炎が静かに巻き起こっていて、それを振り払ってるんじゃないかって思うくらいに凄まじかったんだ。

 その表情のまま、エータは何度も何度もキャンバスに筆を走らせては絵の具を筆先に馴染ませていく。激しく筆を動かすたびに溶けた絵の具が周りに飛び散り、足元にある彼岸花やあいつの顔をカラフルに汚していく。

 最後の一振りを叩きつけるように走らせた彼は、そのままだらんと項垂れて、肩で大きく息をしながら、

 

 

 

「……出来ました」

 

 

 

 と言い、フラフラな状態のままイーゼルからキャンバスを外してあたいのところへ持ってきた。

 

 

 

「……すごい……」

 

 

 

 言葉が出なかった。

 絵の中のあたいは本当に綺麗で、惹きつけられるような魅力に満ち満ちていた。均整が取れた体に釣り合う陶器みたいに透き通った白い肌は、この世の物とは思えないほど光り輝いていて、けど決してそれ自体が独立して一人歩きせず、あくまでも現実に実在すると思わさせるような雰囲気も醸し出していて、少しでも色を加えようものなら一瞬にして別物に変わってしまうほどに繊細なバランスで成り立っている。

 顔つきも見事なものだった。微笑みを浮かべて此方を見るあたいの顔は驚く程精密に描かれていて、特に印象的なのは見るものに何かを問いかけるような赤い目。なのにきつく刺すような視線では全くなくて、いわゆる母親が子供を見るような、温かくて優しい光で溢れていた。

 一番驚いたのが色彩の絶妙なバランス感覚だ。うねるようなタッチで遠くまで激しく描かれた灰色の空は、それだけだと不安を濃く強く煽らせてしまうほどに不気味な存在で、並みの色ではかき消せない位異様だったが、厚く塗り重ねられた制服の白と青、鮮やかに咲き乱れる彼岸花と、それより少しだけ色が淡いあたいの髪の赤が暗い空模様よりもくっきりと描かれていて、さらによく見て見ると元凶であるその空の色も少し灰色が薄く、強すぎる明るい色を最大限まで弱くしてバランスを保っている。

 やっぱりエータは天才だった。神様は絵が好きなこの青年に然るべき才能を与えてくれたかと思うと、無性に感謝したくなってきた。同時にとても恨めしく感じた。

 

 

 

「気に入って……くれましたか?」

 

 

 

「気にいるも何も! こんなに素敵な絵を描いて貰って気に入らないなんて言う方がおかしいさね! ありがとう! お前は天才だよエータ!」

 

 

 

 食い気味に飛び出たあたいの答えに、エータは満足そうな笑顔で「それなら良かったです」と言った。あぁ、やっぱりあんたの笑顔は最高だよ。願うならずっと見ていたい。

 

 

 

「それじゃあ、この調子で二枚目も描きあげちゃいましょう! 今から準備するので、その間に小町さんは休憩していて……」

 

 

 

 でも、ダメだ。これ以上ダラダラとこんな事を続けていたら四季様に怒られちまう。何よりあたいの方が離れられなくなりそうだ。

 

 

 

「なぁ」

 

 

 

 鼻歌を歌いながら絵の具をパレットにのせるエータに「話があるんだ」と声をかけた。

 

 

 

「どうしたんですか? まさか休憩をもう少し伸ばして欲しいって言うんじゃないでしょうね? 申し訳ありませんが、今のこの状況を保たないと今まで溜まった貴女へのお礼が返せないんです。ですのできついとは思いますが、僕としてはこのまま止まらないで描いていきたい──」

 

 

 

「あたいはさ」

 

 

 

 あたいの気持ちを知ってか知らずか、近づきながら矢継ぎ早に喋り始めたエータの話をぶった切ってあたいは話始めた。普段の調子と違う事が分かったエータは、そのまま口を閉じ、あたいの言葉を待っている。

 

 

 

「この三ヶ月の間、是非曲直庁中を走り回ってお前さんの事を調査してきたけど、今日のこの日までなんの情報も得ることが出来なかったって、ずーっと言い続けてきた」

 

 

 

「……そう、ですね。僕自身も、何度も何度も自分自身の事について考えたり、思い出そうと努力してきました。まぁ誰からも情報が貰えないから、結局徒労に終わる事になりましたけど」

 

 

 

 自嘲気味に吐き出されたエータの言葉は、あたいの心を強く締め付ける。同時に言いたくないという思いが強くなった。けど、言わなきゃいけない。言わないと終わらせる事が出来ない。

 

 

 

「あたいはさ、本当はずるいんだよ。凄い自分勝手なんだ。仕事が終われば他の奴らの事なんか知らず存ぜずで昼寝するし、こっそり庁内を抜け出してサボることなんてしょっちゅうだし、あんたの描く絵が見たいからって理由で何日も何週間もホントの事言わないで黙ってるし。あんたにあたいがどんな風に映ってるかはわからないけどさ、あたいはそんな奴なんだよ」

 

 

 

 エータの顔つきが変わる。驚いたような、あたいに何かを言いたげな顔だった。それを無視してあたいは話し続ける。

 

 

 

「今日だってそうさ。このまま黙ってればもっとあんたの絵が見れる。もっと絵が貰えて仲間の死神に自慢出来る。だから言いたくなかった。でも、言わなきゃダメなんだ。そうしなけりゃ誰も前には進めないんだよ」

 

 

 

 そうは思わないかい? ()()()()さんよ。

 

 

 

「きりゅう……くり……と……?」

 

 

 

「そう。それがあんたの本当の名前さ」

 

 

 

 エータは、最初こそ反芻するように自分の名前を呟くだけだった。が、

 

 

 

「あ……あ……? ……っ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! そうだ! 思い出した! 僕は! 僕はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

 あたいの言葉をきっかけに全てを思い出したらしい。頭を抱え、発狂しながらその場にうずくまってしまった。

 崩れ落ちるエータを見ながら、あたいは妙に冷静な頭でこう思った。

 これでもう、後戻りは出来なくなったと。

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 きっかけは、あたいとエータが出会ってから一ヶ月後、エータが筆を置いた後恒例の何気ない会話からだった。

 

 

 

「そういえば、小町さんは好きな人っているんですか?」

 

 

 

「んぶ……!? いきなりそんな事聞かないでくれよ。びっくりしちゃったじゃないかい」

 

 

 

 たまたま飲んでいたお茶を吹き出しそうになるのをこらえ、ゆっくりと飲み込んでからエータを睨みつける。エータはすぐに「ごめんなさい」と謝って下を向いた。

 

 

 

「いないよ。死神の仕事は暇じゃないんだ。出会いなんてろくにないのが現状さね」

 

 

 

 ぶっきらぼうにそう答えると、エータは遠慮がちに「そう……ですか」と返した。

 

 

 

「珍しいじゃないか。エータの口から色恋の話が出るなんてさ。どういう風の吹きまわしだい?」

 

 

 

 微妙になった空気を変えるために質問すると、あいつは少し恥ずかしそうな顔で訥々と語り始めた。

 

 

 

「その……小町さんもやっぱり女性ですから。職場にも男の死神さんはいるだろうし、これだけ綺麗な顔つきなので、小町さんと同じくらいかっこいい人に恋してるんじゃないかな〜なんて思っただけです……本当にごめんなさい……」

 

 

 

 ぼそぼそと喋る口から出る褒め言葉の数々に、あたいの顔は茹でられたタコみたいになった。こんなのただの社交辞令だろ。なんで間に受けて恥ずかしくなるのさ。

 

 

 

「そ、そうかい。そんなに褒められても何も出やしないよ。嬉しいには嬉しいけどさ」

 

 

 

「そんな事はありません! 小町さんは綺麗です! 僕は本気で言っているんです!」

 

 

 

 射抜くように真っ直ぐな瞳が、あたいの顔を貫いていく。その目で見つめられては、あたいは何も言えなくなってしまって、ただただ黙って俯くしか取れる方法がなくなってしまう。

 

 

 

「……無茶を承知で聞くけどさ、あんたにはそう言う人がいたのかい?」

 

 

 

 俯いたままそう質問すると、彼は残念そうにこう答えた。

 

 

 

「残念ながら分からないです。僕の事を好いてくれる人がいる事も、逆に僕が好いた人がいる事も、全部が忘却の彼方に消えていますから。ですが、一つだけ思った事があります」

 

 

 

「思った事?」

 

 

 

「はい。仮に僕の事を好いてくれる人がいたとして、もし僕が死んでいるのならどんなに悲しんでいるんだろうか? もしくは僕が生きているのならば今頃幻想郷中を探し回っているのではないか? そんな事を考えるようになりました」

 

 

 

「ふーん……」

 

 

 

 一瞬、聞き流そうとしたあたいだったが、突然稲妻のような衝撃が脳髄から駆け巡り、ある一つの天啓が舞い降りた。

 そうだ。今までエータの事について()()()()知ろうとしてたから情報が集まらなかったんだ。エータ自身にも思い出すように言ったり、エータだけの情報を集めようとするからろくに情報が集まらないし、少なくなるのも無理はない。だけど、()()()()……周囲の人間関係から知ろうとするならどうだろう? もしかすると、あたいや他の船頭が連れて来た霊魂の中にエータの知り合いや家族、恋人なんかがいるかもしれない。更に情報が書かれた紙には顔写真もある。エータの顔と一致するものがあれば大当たりだ。時間と手間はかかるがこの方が確実だし、尚且つ信憑性も高い。

 エータとの雑談を終えたあたいは、早速受け取り担当の死神の元へ赴き、「大至急、ここ一ヶ月で彼岸に運ばれた死人のリストを作ってくれ!」と猛烈な勢いで頭を下げた。いきなりの事だったから断られるだろうと予測しての駄目元な行動だったけど、その死神は一瞬だけキョトンとした顔になった後、全てを察した声で「任せろ。三日待っててくれ」と言って、本当に三日で作ってくれた。徹夜漬けだったのか、会った時のそいつの顔に大きなクマが出来ていたから、感謝の意を込めてその日の昼飯を奢ってあげた。

 そのリストを持って次に行ったのは、あたいが散々エータに悪口を言っていた事務課だった。受付担当の死神の前にリストを置いて一言。

 

 

 

「このリストに書かれた人達の情報を知りたいんだ! 最悪生前の情報だけでもいい! 頼む!」

 

 

 

 と言った。

 いつもなら機械仕掛けに断るはずが、今回ばかりは上手く対応してくれた。

 いきなりの事に目を白黒させる受付担当だったが、すぐに「分かりました」と言い、今月分のファイルからリストに書かれた死人をピックアップし、簡単にクリップして纏めてくれた。「返却期限は厳守ですよ」と釘を刺されたのには参ったが、まぁそれはご愛嬌というものだろう。そこからあたいは死人の家族友達恋人なんかを徹底的に洗い流し、交友関係で共通点があった名前を数の多い順に順番付けていった。

 ……自分にも出来そうって顔してるけど、これが結構大変だったんだ。こういうのは数を合わせなきゃいけないから正確に数えなきゃいけないし、死人の数は膨大だから、手作業でやるととてつもない集中力と根気と労力が必要になってくる。加えて本来の業務にエータへの報告もあって、この時はろくに昼寝すら出来なかったね。この頃のエータに「僕よりも顔色悪いですけど大丈夫ですか?」なんて言われるくらいだから相当きついと思う。

 かかった日数は実に三週間。休む間も無くこの期間の死人も含めて絞った名前を纏め、再び事務課へ赴き、もう一度同じ事を頼んだ。

 数十枚の死人の情報を舐め回すように見聞していった末、ついにエータの……桐生栗斗の名前を発見した。嬉しさのあまりその場で飛び上がっちまって、受付含めた周りの奴らに白い目で見られたけどね。

 だけど、仕事場に戻ってじっくりと見てみると、栗斗の人生は、あたいにとって目を疑うほど酷いものだった。

 桐生栗斗。年齢二十五歳。飴細工師の家の長男として産まれた彼は、両親の愛情を沢山受けて育っていった。幼い頃から絵の才能はあったようで、十八歳になる頃には里の中で知らないものはないと言われるくらいの芸術家として名を馳せていた。

 しかし、代償として性格が悪くなり、傲慢で不遜。画家として独り立ちしてからは、急に人の絵を描く予定をいれてモデルを困らせることはしょっちゅうで、多数の人間に金の無心をしていたらしい。周囲の人間は改めるように言っていたが、「才能のない人間の嫉妬」という理由で聞く気なんてさらさらなかったようだ。

 当然のように絵を依頼する者は減り、それと比例するように彼は酒に溺れた。それでも絵の才能を無駄にしないために、狂ったように絵を描き続けていった。その結果、自分自身に対しても厳しくなり、自分が納得いかない作品は価値がないという考えが出来上がっていった。初めて絵筆を置いた時の言動はここから来ているのかと少し納得した。

 そこからまた数年経ったある日、何を思ったか彼は弟の娘……つまり姪を殺してしまい、三年間投獄される。出所した時にはもう、天才と呼ばれた彼の面影はなかった。周囲には「堕ちた神童」「狂気に染まった画家」と揶揄され、身も心もやつれ果てた栗斗はついに大量の毒キノコを食べて自殺した……しかし、毒が弱かったのか完全に死に切れる事は出来ず、現在は植物状態で療養中だという。

 成る程。植物状態なら全てにおいて納得ができる。何処ぞの半人前と同じように半死半生な状態だから、霊感がないのにあたいが見えて会話ができるし、死神の目を通して見ても寿命が見えたのか。

 道理で四季様の帳簿には載ってないわけだ。あの帳簿は、あくまでもこれから裁かれる死者の事しか書かれていない。エータの記憶喪失があったとはいえ、四季様や受け渡し担当の死神だけの情報では絶対に分かることはなかったと思う。

 ともあれ、これであいつの正体が分かった。後は報告してあいつに今後の事を決めて貰おう。あたいの非日常はこれで終わりだ。やっと昼寝が出来るいつもの日常に戻れる……はずなのに。

 

 

 

「……なんだい、この胸に残りそうなしこりみたいな感じは」

 

 

 

 ちくちくとむず痒い感情が、心の隅からどんどん広がってあたいの心をかき乱す。これをあいつに言ってしまったら、もう会う事もなくなるだろう。いや、あいつが生き返る事を選んだらまたもう一度会えるけど、気軽に会いに行ける事はこの先ないと言ってもいい。何よりこれを報告したらあいつはどうなる? 最悪これまでの事を全て忘れるかもしれない。

 それは嫌だ。そうなった時のあいつの姿なんて見たくない。何よりあたいはもっとあいつと一緒にいたい。何故かは分からないけど、もう少しエータの笑顔を見ていたい。

 

 

 

「……少しずつ、少しずつでいいから伝えていくとするかねぇ……」

 

 

 

 本当にあたいはずるいと思う。自分の為だけに本当の事を隠すんだから。

 結局、そう決めてから二ヶ月の間、一度だってこの事を口に出す事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 今日の彼岸は、エータの絵に描かれている通り、うねるような曇り空だった。庁内にある天気予報図では雨の予報は出ていなかったから、絵の具が溶けて折角の絵が台無しになるなんて事は多分ないと思う。多分、あの時の空模様は当時のあたいの心をそのまま具現化していたんだと今になって感じる。

 

 

 

「……落ち着いたかい?」

 

 

 

 叫び終え、しゃがみこんだまま肩で大きく息をするエータにあたいは声をかける。自分でもびっくりするくらい感情の篭っていない声。あたいの豹変っぷりに一番驚いていたのは、他でもないあたい自身だった。

 

 

 

「……えぇ。おかげさまで全部思い出す事が出来ましたよ」

 

 

 

 皮肉交じりにエータは答えた。言葉尻には若干ながら怒りが滲んでいる。

 

 

 

「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか。仮に言いにくかったとしても、それとなく伝えてくれればよかったじゃないですか。なのにどうしてこんな間の悪い時に……」

 

 

 

 続けて放たれる責めるような声。初めて聞くあいつの怒りが篭った声に、あたいの胸はどんどん締め付けられていく。

 

 

 

「……言ったろ? あたいはずるいんだよ。あんたの描いた絵を見が見られればそれでいいんだ」

 

 

 

 あんたがどうなろうが知ったこっちゃない。

 敢えて突き放すように答え、あたいは顔をそらすように三途の川の方へ体を向ける。こうでもしなきゃ、あたいの胸は罪悪感で潰されてしまいそうだからね。

 

 

 

「一つ、聞きたい事があるんだ」

 

 

 

「……なんでしょう?」

 

 

 

「あんたと出会う前、一人の女の子を彼岸に連れて行ったんだ」

 

 

 

 あたいはその時の事を思い出す。よく考えてみれば、答えは初めから近くにあったわけだ。灯台下暗しとはまさにこの事。

 

 

 

「調べて見てびっくりしたよ。あの子がエータの……桐生栗斗の姪だったなんてね。どうしてあの子を殺したんだい? 仮にも可愛い姪っ子だろ?」

 

 

 

 何より、あんたが人を殺せる度胸があるとは思えないし、そこまでする程悪人じゃないと思うから。

 

 

 

「……はは。流石死神。全てお見通しってわけですか」

 

 

 

 皮肉交じりに答えた後、彼は立ち上がって訥々と語り始めた。

 

 

 

「当時の僕は孤独でした。驕り高ぶった性格が災いして、頼りになる友人も、心の拠り所となる家族も、全て失った状態でした。だけど理恵は……僕の姪だけは違いました。子供だからという事もあったかもしれませんが、あの子は僕によく懐き、僕自身も我が子のように可愛がりました」

 

 

 

 まぁ、妹は僕のところに行っちゃいけないって姪の事を叱ってましたけどね。とエータは自嘲気味に笑った。

 

 

 

「あの日の事は、今ならはっきりと思い出せます。あの日、僕は魔法の森で採ったキノコをスケッチするつもりでした。僕の家は狭いので、いつも居間の机に物を置いて描いているんです。さぁ描き始めようと思った時、あの子が訪ねて来たんです。何も言わずに席を立ったのがいけませんでした。お茶を淹れて戻って来た時、姪は青い顔をしながら倒れていました。すぐに病院に駆け込みましたが手遅れでした。どうやら採ってきたキノコの中に致死毒キノコが入っていたらしく、姪はそれを齧ってしまったようです。周囲は僕を責めました。口減らしのチャンスだと思ったのでしょう。有る事無い事自警団に吹き込み、僕を姪殺しの犯人に仕立て上げ、死刑にしようとしました。結局は懲役程度で済みましたが、あの人達の目論見は成功しましたね。散々自己嫌悪に陥った挙句、採ってきたキノコを食べて自殺しました」

 

 

 

「……そうかい。残念だけど、あんたはまだ死んじゃいないよ」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

 あたいはもう一度エータの方へ向き直り、今エータが置かれている状況を話した。

 

 

 

「植物……状態……」

 

 

 

「そう。言ってみれば半死半生。生き返る事も死ぬ事も出来る状態なんだ。選択はあんたの自由……なんだけど」

 

 

 

 言うべきか迷った。言ったら今度こそあいつは遠くへ行ってしまうから。けど、

 

 

 

「あたいは、あんたに生き返って欲しいと思う」

 

 

 

 面と向かってあたいは言った。当のエータは驚きで目を見開いたままだったが、すぐに気を取り戻し、首を横に振った。

 

 

 

「……嫌ですよ。どうしてまた辛い思いを味合わなくちゃならないんですか。それに、小町さんの話では、もう父も母もいないのでしょう? もう僕の居場所なんて何処にも……」

 

 

 

「何弱気な事を言ってるんだい。生き返ってから作ればいいじゃないか。あんたの絵ならたくさんの人を魅了出来る。そりゃあ最初はきついかもしれないけど、諦めなければ絶対に立ち直れるよ。あんたなら出来るってあたいは信じてるよ」

 

 

 

 さっきと同じくハッパをかけるように言うと、エータの顔に活気が戻った。

 

 

 

「そう……ですね。なんだか勇気が湧いてきました。やっぱり小町さんは凄いです。僕、頑張ってみようと思います。落ち着いたらまた連絡しますから、その時はまた会いに来てください」

 

 

 

 にこやかに言うエータだったが、あたいの憂かない表情に気づくとすぐに「どうしましたか?」と尋ねてきた。

 

 

 

「……悪いんだけど、あたいはもう二度とあんたに会えることは出来そうにないよ」

 

 

 

「え……どうしてですか? あ、仕事が忙しいとか、そういうことですか? 大丈夫です。僕はいつでも待ってますから小町さんが都合のいい時で──」

 

 

 

「違う。そんなんじゃない。あたいら死神が勝手に人里に行くことは禁止されてるんだ」

 

 

 

 そう。長い事引っ張って来たけど、これがもう一つの理由なんだ。

 彼岸にはいくつかの暗黙のルールがある。今はそれ程でもないけど、当時はこれを破ったら出世は絶望的だと言われるくらい厳しいもので、現に何人もの死神が出向したり、左遷されたりと悲惨な運命を辿ったのを何度も見て来たもんだよ。

 その中でも特に重かったのがこのルールだ。なんでも里に死神が出入りすると、お迎えが来ただの里が滅びるだのと変な噂がたって仕事がやりづらくなるらしい。それを防ぐ為、別部署の死神は勿論、担当する死神ですら仕事以外では人里の出入りは禁止されていた。いくら生きてる奴らに見えない術を施しているとはいえ、万が一見つかってしまったら余計な面倒を起こしかねないという上の意向らしい。

 それを聞いたエータは意外な事を口走った。

 

 

 

「そんな……それだったら死んで彼岸に連れて行ってもらった方がまだマシです」

 

 

 

 急な手のひら返しにあたいは驚いた。言った事は頑として曲げないエータにしては珍しい。

 

 

 

「どうしてだい? 急に考えを変えるなんてあんたらしくないじゃないか。何か理由があるのかい?」

 

 

 

「どうしてって……そんなの、決まってるじゃないですか」

 

 

 

 貴女がそばにいないのが嫌なんです。僕は、貴女がずっと隣に居て欲しいと思っているんです。

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 あまりに唐突な事に、理解が追いつかなかった。この時程あたいは間抜けな顔をしていなかったと思う。

 

 

 

「……僕は、僕は貴女が好きなんです。貴女の底抜けに明るい性格に僕は救われました。貴女に励まされるたびに、貴女の笑顔を見るたびに、僕の胸は大きく高鳴りました。小町さんがいなければ今の僕はいなかったと思うくらいです」

 

 

 

 ──あぁ。そういうことか。

 必死に自分の想いを伝えるエータを見ているうちに、あたいの中にあるもやもやとした疑問がどんどん氷解していった。同時に隠されていた自分の気持ちも現れていく。

 出来ることなら伝えたい。そうすれば楽になるだろう。きっとあいつは笑顔になって、それならいつでも待ってますから、絶対に来てくださいなんて言うんだろう。そしたらあたいも笑顔になって、出来もしない約束事を交わすのだろう。

 だから、

 

 

 

「あたいはあんたの事、嫌いだねぇ」

 

 

 

 ずるいあたいは、あっけらかんとした笑顔で嘘をついた。

 

 

 

「この三ヶ月、あたいはどれだけあんたに振り回されたと思ってるんだい? あんたの為に寝ないで情報を集めたり、あんたの為に何回もキャンバスを買いに行ったり。それに対してあんたはお礼はおろか、それがさも当然のように振舞ってたじゃないか。それだけならまだしも、時折あたいに無茶な事言ったり横暴な態度を見せたりして、もううんざりだったんだよ」

 

 

 

 嘘をつくたびに、心の中で何かが崩れていく音が聞こえる。エータのショックを受けた表情を見るたびに、あたいの目尻に熱くて苦いものが込み上げてくる。それらを無視して、あたいは退路を断ち切るように嘘をつき続けた。

 エータが何かを言いかけたが、先制してくるりと踵を返し、停めてある船に向かいながら別れの言葉を口にした。

 

 

 

「明日までにはここから消えていろ。回れ右して声のする方へひたすら歩けば生き返るから、振り返らずに歩きな。報酬の事なら気にしなくていい。あの一枚だけで十分さね。それ以前に、あたいはあんたを彼岸に連れて行きたくはない。彼岸へ渡りたいんなら他の死神に頼むことだね」

 

 

 

 それじゃ、あんたの行く末を祈っておくよ。

 おざなりな挨拶を残して、あたいは船を漕ぎ出だす。ゆっくりと櫓を動かすたびにどんどん此岸の岸辺が遠くなり、ついには水平線の彼方に消えた。

 

 

 

「……帰ったら四季様に怒られるんだろうなぁ」

 

 

 

 つくづく思う。あたいは自分の気持ちを誤魔化す事は得意でも、嘘をつくのは下手なのだなと。

 溜息交じりに出た苦笑いは、誰に聞こえるともなく風に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 ────三途の川。此岸と彼岸を繋ぐ川。一度渡ってしまえば、生者だろうが死者だろうが問答無用で閻魔の裁判所に直行してしまうというそら恐ろしい川でもある。

 

 

 

「……とまぁ、これがあたいの経験した最初で最後の恋……かねぇ」

 

 

 

 そんな危険な川を、小野塚小町は思い出話を語りながら軽い手つきで櫓を動かし、是非曲直庁へ向かって船を進めていた。今日は少し風も強く、若干ながら川面に波がたっているが、それを物ともせずに進路を保ち続けている。熟練の技と言わざるを得ない程の手さばきは、誰が見ても見事なものだった。

 船に乗っているのは、立派な髭を蓄えた老人だった。仙人のようなこの老人は勿論霊魂で、これから四季映姫の元で裁判を受けに行く最中なのだ。

 物言わぬ老人は、小町の思い出話を静かに聞き終えると、身振りで続きを促し、それに呼応するように再び小町が語り始める。

 

 

 

「その後の庁内は結構変わったよ。意外な事に、四季様が先陣切って待遇の改善を要求したんだ。『そんな硬い考えでは、多くの人を極楽に連れて行く事は出来ませんよ!』って啖呵を切ってさ。押し問答の末、とうとう十王様達が折れて人里への行き来が可能になったんだ。あの時はみんなして踊りながら人里の酒屋で宴会と洒落込んだねぇ」

 

 

 

 促されて調子付いたのか、小町の口は更に饒舌になった。

 

 

 

「それと同時に天狗から新聞が来るようになった。これが結構便利で、色んな事が書かれてるから書類仕事も凄く楽になった。これがあったらエータの……桐生栗斗の情報も簡単に集められたのかなって考えると、少し勿体無く感じるねぇ」

 

 

 

 老人は尚も口を開かない。と言うか、霊魂自体直接口を聞く事は出来ない。それを知っている小町は、独り言のように話し続ける。

 

 

 

「新聞にはエータの記事も載ってた。『堕ちた天才画家、堂々の復活!』なんて大きな見出しでさ。写真の中のエータは生き生きしてて、漸く自分の居場所を見つける事が出来たんだなって少し安心した。だけど、あれからあたいはエータの記事を見ないようにした。勿論個展にも行ってない。未練がましいし、あんな大嘘言った手前、どんな顔してあいつに会おうって言うのさ。きっとあいつはあたいの事を恨んでるはずだし、あたいだって自分の本心を隠したんだから、会う資格なんて最初からあってないようなものだからね」

 

 

 

 それでも自分の気持ちを抑えられなくて、何度も会おうかなって考えたけどね。と自嘲気味に小町は語った。

 

 

 

「そういえば、あいつに告白されたのも、今日みたいな曇り空だったねぇ……」

 

 

 

 そう言いながら一人ごちると、不意に老人が船床をトントンと叩き、一枚の紙を差し出した。

 

 

 

「なんだい? あたいに何か言いたい事でもあるのか……!」

 

 

 

 振り返った小町に手渡された紙には、一人の少女のスケッチが書かれていた。大きな鎌を背中に携え、輝くような眩しい笑顔を浮かべたツインテールの少女。細やかな柄の制服に身を包んだその少女は、紛れも無い小町そのものだった。

 震える手で小町は老人を見た。老人は優しい笑顔のまま、手振りで裏を返すように指示した。言われるがまま紙を裏返すと、そこには弱々しくもしっかりとした字でこう書かれていた。

 

 

 

『ありがとうございます。貴女のおかげでここまで生きる事が出来ました。感謝を込めて改めて伝えます。貴女の事が好きでした。また何処かで会えたら声をかけて下さいね。

 桐生栗斗』

 

 

 

「……はは、おかしいね……今朝の天気予報じゃあ、今日は曇っていても雨なんか降らないって出てた筈なのに……大外れじゃないかい……これじゃあずぶ濡れになっちまうじゃないか……どうしてくれるんだよ……どうしてくれるんだよ……」

 

 

 

 いつの間にか紙の上には大粒の水滴が零れ落ち、それと同時に少女の慟哭が彼岸中にこだました。

 

 

 これは、彼岸に伝わるちょっとした小噺。その後の二人がどうなったかは、また別の機会に語る事としよう。

 

 




はい。どうもこんばんは。焼き鯖です。ゴールデンウィークが始まりました。私は課題に追われそうでこわいです。まぁ殆ど予定ないけどな!

これが少しでも暇潰しの材料になれたら幸いです。


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Diavolul cărămiziu este ud cu lacrimi

 私はあいつが嫌いだ。

 あの横暴な性格も、気まぐれなところも、なのに全然自覚がないところも、とにかくあいつの全部が嫌いだ。だけど、あいつの全てを否定すれば、必然的に自分の事も否定することになる。そうなる事は分かっていたから、私はいつも自分の事が嫌いだった。

 朝も早い時間帯に、お姉様がみんなを食堂に呼び出した。なんでも、私達みんなに知らせたい事があるらしい。

 お姉様がみんなを呼び出す時は、大抵ロクでもない事を報告する時だ。この前なんて、いきなり叩き起こされたかと思ったら、「これからは、健康の為にみんなで毎朝一杯のしぼり野菜のジュースを飲むわよ!」なんて大見得切って、みんなを呆れさせたのは記憶に新しい。その試みも、三日と経たずに断念したから、今度の呼び出しもお姉様の下らない思い付きに違いないと思う。

 ドアを開けると、私以外のみんなは既に到着していた。みんな横一列に並んでお姉様の方を見ている。当のお姉様は、誇らしげな笑顔を浮かべて、ない胸をこれでもかと張りながらみんなを見ていた。

 私の姿を認めると、お姉様は手招きして私を呼び寄せた。

 

 

 

「あら、フランも来たわね。こっちに来なさい。紹介したい人がいるの」

 

 

 

 言われるがままに美鈴の隣に立つと、扉に立っていては見えなかったが、お姉様の隣に一人の男の人が立っていた。

 イタリア人みたいな彫りの深い顔つきに、短く刈り上げた少し淡い黒髪。清潔感のあるコックスーツに身を包んだ彼の立ち姿は、何処かで料理人を務めていたのかと思わせる程決まっていた。

 

 

 

「さて、これでみんな揃ったかしらね。紹介するわ。今日からこの紅魔館のコックを務めてもらうハンスよ。彼は紅魔館に来る前まで、世界中で旅を続けた流離の料理人なの。ハンス、自己紹介をして頂戴」

 

 

 

 嬉しそうに語るお姉様に促されて、ハンスは軽く頭を下げた。

 

 

 

「皆様、お初にお目にかかります。私はハンス・カッペリーニ。イタリアのトラットリアでコック長を務めておりました。トラットリアを辞めた後は、レミリアお嬢様が仰った通り世界各地を巡り、料理の修行を続けていました。若輩者ではございますが、皆様、どうぞよろしくお願い致します」

 

 

 

 再び彼が頭を下げる。それと同時に私以外のみんながそれぞれ拍手をした。

 

 

 

「こら、フラン。貴女も拍手をしなさい。相手に失礼でしょ?」

 

 

 

 お姉様が窘めたけど、私はそっぽを向いて結局拍手をしなかった。これ見よがしにお姉様が大きなため息を吐く。

 私は、こんな人間なんか別にどうだってよかった。どうせお姉様の思いつきだし、精々三日。長く保って一週間。その間には飽きられて、本物の食料に変わる。今回も、多分そうだ。そんな奴に拍手なんか送ったって、単なる皮肉にしかならない。だったら、初めから拍手なんかしない方がいい。

 だけど、何だろう? 初対面なのに、何処かで会ったことがあるような気がするのは、私の気のせいなのだろうか? 

 

 

 

「あのねぇ、レミィ。こんな時間に叩き起こされたら、誰だって機嫌が悪くなるわよ。今何時か知ってる? 昼の十二時よ」

 

 

 

 不機嫌そうなパチュリーに、私は心の中で頷く。そうだよ。昼の十二時なんて、吸血鬼の生活リズムじゃ深夜もいいところ。私達姉妹に合わせて生活してくれているみんなにも迷惑がかかっているのを、お姉様は気づいているのだろうか? 

 

 

 

「ま、まぁ……そうね。確かにこんな時間にみんなを起こしたのは悪かったわ。だけど、それを差し引いてでも、私はハンスの腕をみんなに見せたかったのよ。今日の朝食は全部ハンスに作らせたわ。咲夜、悪いけど、料理を全てキッチンに──」

 

 

 

「お待ち下さい」

 

 

 

 普段滅多に意見を言わない咲夜が、お姉様の命令を遮って口をひらいた。

 

 

 

「お嬢様、もしかして、私に何の断りも入れずにこの方に料理を作らせたのですか?」

 

 

 

「えぇ、そうだけど……」

 

 

 

「どうして一言私にお申し付けをしなかったのですか? 確かにお嬢様のお気持ちは分かります。私も新しい料理人を雇うのに文句はありません。しかし、これまでの食事は、全て私が作っておりました。私に何の断りも入れず、正体不明の輩を厨房に招き入れるのは、私のプライドが許しません。もしかすると、お嬢様に毒を盛るかもしれないんですよ?」

 

 

 

 それはどのように考えていたのですか? 

 青く輝く咲夜の瞳が、彼女が普段使っている鋭いナイフみたいにお姉様を刺す。けど、お姉様は動じず、不敵に笑って空威張りの威厳を保った。微かに体が震えていて、若干涙目になりながら、気づかれないようにハンスの服の裾を掴んでいたけど、それは見なかった事にしよう。

 

 

 

「と、とにかく! そんな細かいことはどうだっていいじゃない! 私も一緒に厨房に入って見張っていたから、毒物は入ってないって確信を持って言えるわ! それより! 早いとこ食べましょうよ! 折角のご飯が冷めちゃうわ! ハンス! 咲夜と一緒に運んで頂戴!」

 

 

 

 誤魔化すようにまくしたて、お姉様はさっさと席についてしまった。すっかりカリスマがブレイクしたお姉様の姿に、私とパチュリーは呆れ、美鈴と小悪魔は苦笑いしながら、めいめい自分の席に座った。

 私達が席についてから、料理が次々に運ばれて来る。咲夜はまだ不満そうに、ハンスは淡々としながら皿を運び、その様子をお嬢様は嬉しそうに眺めていた。

 

 

 

「……ねぇ、これって……」

 

 

 

 運び込まれていく料理を見て、パチュリーが意外そうにお姉様を見た。パチュリーだけじゃなく、私も美鈴も小悪魔も、咲夜ですら、運んでいる時に不思議そうな顔をしていた。

 

 

 

「それでは、皆さんに本日のメニューのご説明を始めさせて頂きます」

 

 

 

 全ての皿が机の上に置かれると、ハンスは微笑みを浮かべて説明を始めた。

 

 

 

「本日のメニューは日本の朝食です。お嬢様から、皆様は自分達と同じ生活をしているとお聞きしましたので、消化がよく、身体の温度を上げる為におかかのお粥。良質なタンパク質をとる為に鮭の塩焼きと卵焼き。副菜として、紫蘇や梅干し等の濃いめの物を選びました。飲み物は美肌効果のある甘茶です。お味噌汁も作りましたので、お申し付けくだされば配膳致します」

 

 

 

 では、どうぞお召し上がりください。

 深くお辞儀をした後、彼は一歩後ろに下がった。

 

 

 

「じゃあ、頂きましょうか。咲夜も座りなさい」

 

 

 

「お言葉ですがお嬢様、私は──」

 

 

 

「ハンスの腕が信じられないのでしょう? なら、実際に食べてみて判断しなさい。料理人は皿で語るわ。それが礼儀ってものよ」

 

 

 

 そう言ってお姉様は、まだ渋っている咲夜を座らせると、みんなを見渡してから、「じゃあ、改めて頂きましょう」と言ってお粥を口につけた。お姉様の顔から幸せが広がり、それに触発されるようにみんなも鮭や梅干しを口に運んでいく。最初こそみんな半信半疑って感じだったが、料理を食べた瞬間、その表情が驚きに変わった。

 

 

 

「……美味しい! こんなにしっかりした味付けの野菜は初めて食べたわ!」

 

 

 

 まず口火を切ったのはパチュリーだった。綺麗に漬け込まれた青いきゅうり(浅漬けというらしい)に舌鼓を打っている。これを皮切りに、みんな思い思いの感想を口にした。

 

 

 

「この卵焼き、すごく美味しいです! 甘くてしょっぱくて、食べた瞬間口の中が蕩けそうです!」

 

 

 

「ハンス様、後から甘茶の作り方を教えて下さりませんか? 長く図書館に篭っていると、肌荒れが少し気になりますし、パチュリー様にお出しするお茶のバリエーションも増やしたいので」

 

 

 

「……何よこれ……私が焼いた鮭よりも塩気がきいてて美味しいなんて……」

 

 

 

 悔しそうにする咲夜を除けば、みんなとても嬉しそうに朝食を食べていた。美鈴なんかお味噌汁まで注文した挙句、お粥を五杯もお代わりしたくらいだ。だけど、みんなの無茶な注文にも、ハンスはニコニコしながら応え、ニコニコしながらみんなの様子を見ていた。

 これならいけるかも。

 今まで出された物は全部食べられなかったけど、ハンスが作った物なら食べられそうな気がする。大丈夫だ。ただ一口、スプーンで掬った物やフォークで刺したものを口の中に入れるだけ。今回はいける。絶対に食べられる。

 高価な花瓶を運ぶように、私はお粥を慎重に運び、ゆっくりと口の中に入れた。お粥の温かさと共に、柔らかくて甘いご飯と、おかかのしょっぱさが、口の中一杯に広がった。美味しい。いくらでも食べられそう。

 そのまま二杯、三杯とお粥を飲み込んでみる。いつもなら現れる、あの嫌な感触はない。

 よかった。治ったんだ。これで好きなものをお腹一杯食べられる。

 そう感じたのが嬉しくて、今度は赤く照り輝く鮭の身をほぐして口に入れた。油に溶けた塩の味がした瞬間、胸を突き上げるような嫌な感じと共に、強烈な嘔吐感が私を襲った。例の発作は、治ってはいなかった。

 すぐに席を立って、トイレに向かった。断りも何も入れず、いきなり出て行ったから、ハンスはとても驚いた顔をしていた。同時にお姉様が、今回も駄目か見たいな目をしていたのが、少しだけ私を悲しい気持ちにさせる。

 便座に手をついて喉の水門を開いた瞬間、堰きとめられていた物が一気に流れ出す。液体と液体が混ざって一体化する音が聞こえる度に、私の心の秤はどんどん「不安」に傾いていく。

 中の物を全て吐き終えると、胸の中の嫌な感じは綺麗さっぱり消え去った。代わりに、どうしようもない程の大きな喪失感と、言いようのない悲しみが、空いた隙間を埋めるように入り込んでいく。目尻に溜まった涙の粒は、悲しみからなのか、嘔吐の苦しさからなのか、今となっては分からなくなってしまった。

 何百年も前から始まったこの「発作」は、私だけじゃなく、紅魔館の全員に沢山の傷を残している。最初に大きな傷跡を残したそれは、今度は衰弱させるように小さなダメージを積み重ねている。害はないけど処理されずに身体にたまり、やがて致死量に達してしまう毒薬みたいに、少しずつ、私達の心を殺している。

 一体、私たちはいつまで、この薬を飲まされ続けなければならないのだろうか? 

 水に浮いた、胃液で溶かしきれていないお粥を見続けているうちに、その考えはたちまち虚無感に掻き消されてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 拒食症。

 それが私が飲んでいる毒の名前らしい。厳密に言えば、私はそれと類似した症状が出ているので、仮の名称という事でこの名前をつけられた。本当の拒食症は、自ら進んで食べない事が特徴らしい。

 拒食症になる原因は色々あって、自分の中にある痩せ願望が強くなったり、太った見た目を笑われたり、そのせいでいじめられたりと、理由は様々だ。

 私は──自分の羽を触る。ひんやりとして色とりどりのクリスタルは、まるでキリスト様に打ち付けられた杭みたいに、私の羽の至る所に突き刺さっている。

 やっぱりこれが原因なのかな……心の中でそうつぶやく。あの事件があってから、私はご飯を食べる事が出来なくなった。食欲はあるのに、物を食べるとすぐに吐いてしまう。酷い時は食欲そのものがなくなる時もあった。思えば、お姉様の事が嫌いになり始めたのもこの頃だったっけ。

 食堂には戻らず、部屋に戻ってそんな事を考える。すると、煙が舞い上がるみたいにふっと、あの時の記憶が舞い戻ってきた。

 纏わりつくような視線、荒い息遣い、皮膚の感触。そして、羽をむしり取られ、切り裂かれた、あの尋常じゃない程の痛み。

 恐怖で体が震えた。ベッドの端に身を縮こませ、掛け布団を被ってなんとか落ち着かせようとする。その後の事もはっきりと記憶している。確か、嫌だって何度も心の中で叫びながら手を握ったら、何かが弾ける音がして、そしたら私の顔に暖かい飛沫が飛んで、お姉様が慌てて私の様子を見に来て……

 

 

 

「フラン様、ハンスです。今、お時間よろしいでしょうか?」

 

 

 

 バリトンが効いた深い声が、部屋の外から呼びかけた。一瞬にして現実に引き戻された私は、慌てて布団と髪を整え、平静を装ってドアを開けた。見上げると、さっきと同じ穏やかな笑顔を浮かべたハンスが、クロッシュを持って立っていた。

 

 

 

「よかった。ご気分が優れないようでしたら、このまま外に置いておこうと思ってましたよ」

 

 

 

「……どうしたの、それ」

 

 

 

「はい。フラン様がお腹を空かせているかなと思いまして、不躾ではございますが、一品作ってまいりました」

 

 

 

 そう言って彼がクロッシュを開けると、暖かい蒸気と沢山の野菜の甘い匂いが、部屋一杯に広がった。お皿を覗いてみると、綺麗な赤色をした野菜のスープが、トレーの中心に乗っていた。

 

 

 

「トマトスープでございます。胃腸が傷ついているかもしれないと思いまして、肉やジャガイモは入れず、キャベツや大根等の、消化の良いものを沢山入れました。冷めないうちにお召し上がり下さい」

 

 

 

「……貴方、見てたんじゃないの? 私は──」

 

 

 

「大丈夫です。フラン様が吐いてしまわれないように、私が魔法をかけておきました」

 

 

 

 笑顔で言われた。言いかけた言葉が、喉の奥に引っ込んだ。

 その笑顔のまま、ハンスはお皿とスプーンを机の上に置き、半ば強引に、それでも優しい手つきで私を椅子に座らせた。

 さぁどうぞ。と促され、流されるままスプーンを手に取る。どうせ今回も駄目だろう。また吐いたら罪悪感が増すだけだ。

 半分諦めるようにスープを流し込むと、そんな気持ちは一気に吹き飛んだ。よく煮込まれた野菜は柔らかく、スープも沢山の旨味が染み込んでいて、何度でも食べたくなりそう。

 気がつけば、目の前には空っぽのお皿が残り、満腹感と満足感が体中をゆっくりと巡っていた。

 

 

 

「ほら、言った通りでしょう?」

 

 

 

 優しくハンスが問いかける。確かに、いつもなら来るはずの吐き気がこない。ハンスが何をしたかは分からないけど、今はそんな些細な事より、何年も続いている発作がなくなった事が嬉しかった。

 

 

 

「凄いよハンス! どうやったの? 何を入れたの? 咲夜にも教えてあげてよ!」

 

 

 

 はしゃぎながら、ハンスの周りをクルクル回る。ハンスは照れ臭そうに笑いながら「それは企業秘密です」と、茶目っ気たっぷりに言った。

 誇張でなしに、本当に魔法かと思った。何年かけても治らなかった症状が、一瞬で収まったのだから。

 そんな魔法使いの顔が、気づいたら暗く曇っていた。

 

 

 

「……どうしたの?」

 

 

 

「……フラン様、私は貴女に謝らなければなりません。先程、貴女が食堂を出ていかれた時、私は思わず驚いてしまいました。いくらフラン様に嫌な過去があったとはいえ、あの様な失礼な顔をしたのは無礼千万な事。礼儀知らずな私をお許し下さい」

 

 

 

 神妙そうな顔で何を言いだすかと思ったら、少し拍子抜けしてしまった。気にしなくてもいいのに。あんな場面を見たら、誰だってびっくりすると思うし、ハンスはここに来たばかりだ。知らなくて当たり前だし、むしろ知ってる方がおかしい……あれ? もしかして……

 

 

 

「ねぇ、嫌な過去って言ったけど、ハンスは私に何かあったか知ってるの?」

 

 

 

「はい。紅魔館にスカウトされる際、レミリア様から色々な事を聞きました」

 

 

 

 イタズラをして叱られた子供みたいに、ハンスは申し訳なさそうに笑って、頰を掻いた。それと同時に、あの時感じた違和感も、蒸発するようにふっと解消された。

 そうだ。確かあれは三ヶ月前。たまたまお昼(夜中)に目が覚めて、そのまま眠れそうもなかったから、適当に館内をぶらぶらしていた。そしたら、お姉様と男の人と話している声が聞こえたから、見つからないようにそっと覗いてみたら、お姉様が真剣そうに私の事を話してたっけ。あの時話してた男の人はハンスだったんだ。

 

 

 

「へぇ。じゃあ、どうして私がこんな羽になったかも聞いてるんだ」

 

 

 

「はい。それも存じ上げております。しかし、それを知ってなお、私はあのような失礼な態度をしてしまったのです。さぁフラン様、この無礼な料理人に何なりと罰をお与えください」

 

 

 

「ちょっとハンス、頭を上げてよ。私はそんな事したくないし」

 

 

 

「しかし……」

 

 

 

 性分なのだろう。私が苦笑しながら止めても、彼は納得のいかなさそうな表情をした。

 

 

 

「あれは誰が見たって驚くから。紅魔館のみんなが慣れちゃっただけで、ハンスの反応の方が普通だよ」

 

 

 

「左様でございますか……」

 

 

 

「まぁでも、それでハンスが納得しないって言うなら……」

 

 

 

 その時、急にあの時の光景がフラッシュバックしてきた。どうして今になって? ……そうだ。あの時と状況が同じなんだ。気づいた瞬間、さっきの恐怖が何倍にも膨れ上がって襲いかかってきた。

 

 

 

「フラン様……?」

 

 

 

 様子がおかしい事に気づいたのか、ハンスが心配そうに声をかけた。

 

 

 

「大丈夫……ねぇ、それでも貴方が納得していないなら……私を裏切ったりしないって約束して……それで私は許すから……」

 

 

 

 声が震えているのが自分でも分かった。どれだけ強がろうと気を張っていても、それよりも大きな恐怖でそれがかき消されていく。人々から恐れられる吸血鬼がこのざまなんて、自分でも笑えてくる。

 そう思った時、

 

 

 

「え……?」

 

 

 

 いきなりハンスが私を抱きしめた。でもそれは、雑で乱暴な抱き方じゃなくて、泣きそうな子を慰めるような、優しくて温かい抱き方だった。

 

 

 

「……分かりました。私はフラン様を決して裏切ったりしません。私の命が尽きるまで、紅魔館を、フラン様の元を離れないと約束しましょう」

 

 

 

 そのままハンスは、ゆっくりと宥めるように私の頭を撫でる。彼の体温がこっちにも伝わって、本当だったら安心出来るはずなのに、胸が大きく高鳴って、全身がふわふわとした高揚感に包まれる。何故かは分からないけど、顔が熱くなった気がした。

 体の震えが止まった後も、ハンスは私の背中や頭を優しく撫で続けた。その間中、私はずっと夢の中を歩いているような感覚に浸っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私は、人に裏切られた事がある。

 咲夜やハンスが生まれるずっとずっと前の事だった。当時雇われていたお姉様の執事に襲われたのだ。テキパキと仕事をこなし、何より表情も豊かで笑顔が多い好青年だったから、当時の私もその執事をとても慕っていた。

 あの日の事はよく覚えている。自分の部屋で寝ていたら、急に激痛に見舞われて目が覚めた。普段とは違う、下卑た目で馬乗りに私を見下ろしている執事を見た時は、何かの間違いじゃないかと疑った程衝撃的だった。

 すぐに彼を突き飛ばそうとしたけど、灼けるような痛みで全身に力が入らない。後でパチュリーに詳しく話を聞いたら、吸血鬼が苦手な魔力を大量に含んだ短剣で、何度も羽を滅多刺しにされた後、強引に引きちぎられたという。毒素は抜いたが、羽は治療した時にはもう手遅れで、もう元の状態には戻せないらしい。

 それでも必死に抵抗した。だけど、当の本人はそれすら愉しむように、無造作に私の服に手をかけていく。

 最後のボタンが引きちぎられて、私の素肌が露わになる。白いブラジャーに覆われた小さな胸が見えた時、生唾を飲む音が一際大きく聞こえた気がした。

 ゆっくりと、震える手が私のブラを取り外そうと近づいていく。恐怖で声が掠れ、抵抗も出来なかった。ただ心の中で嫌だ、嫌だと叫ぶ事しか出来なかった。

 彼の手が、僅かに皮膚に触れる。嫌悪感が身体中を駆け巡り、私は怖くて目を固く閉じて、強く手を握った。その瞬間、風船が割れるような破裂音が響き、それを追いかけて、私の顔と体に暖かい飛沫が飛んだ。

 むせ返るような鯖鉄の匂いが部屋中に充満し、半ば吐きそうになる。程なくして、騒ぎを聞きつけたお姉様が大急ぎで部屋に入った時、執事の体が力なく倒れ、私の体に覆いかぶさった。リネンに染み込んだ生暖かい血で、初めてあの時の音の正体が分かった。

 発作が出始めたのは、この頃からだった。計ったようなタイミングで、お姉様の事も嫌いになった。

 最初は、なんであんな男を雇ったのか、なんで本性に気づかなかったのか、色々な理由をつけてお姉様を責めていたけど、そうしていくうちに、段々とあいつのダメな部分が鮮明に見えてくるようになり、とうとうそれすらしなくなって、心の中であいつの事をずっと罵倒し続けるようになった。お姉様も、あの一件で能力に目覚めた私を持て余し気味だったし、多分それに気づいていたのかもしれない。

 噂はすぐに広がった。「吸血鬼の妹が、執事の頭を粉々に砕いた後、狂ったように笑って血を吸った」なんて大きな尾ひれもついて。

 体裁を気にするお姉様が、私を館に閉じ込めるのにさほど時間はかからなかった。普段は、私に対して何事もないように接しているけど、来客が来た時は大急ぎで私を部屋に押し込み、厳重に鍵をかける。館のみんなは私を恐れているようで、どんなに明るく振舞っていても、何処かよそよそしく、顔色を伺うような話し方をしている。あの事件は、この館全体に消すことの出来ない呪いを残した。

 ハンスの魔法は、長く掛かっていたその呪縛をも、簡単に解いてくれた。

 前までは、みんなどことなくよそよそしい態度を取っていたのに、ハンスが来てからはみんな笑顔が増え、全体的に明るくなった。それだけじゃない。美鈴は仕事中に眠る事がなくなった。ハンスが淹れるコーヒーを飲むと、立ち所に眠気が吹っ飛ぶらしい。荒れ気味だったパチュリーの肌も、ハンスの甘茶のおかげで、すっかり綺麗な卵肌になった。咲夜も口では彼の事を認めてはいないけど、彼のおかげで仕事の量が大幅に変わったから、内心ではかなりありがたいと思っているはずだ。

 ハンスが来てから全てが変わった。勿論、それは私も同じ。あれからすっかり発作は治ったし、みんなと一緒に食事をする事も増えた。パッと見たら良い方向に向かっていると思えるけど、実はハンスが来た事で、新たな問題が一つ出て来た。

 その原因は……また、私だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「……ご馳走様」

 

 

 

 食事を済ませ、席を立とうとした時、お姉様が咎めるような声で私を呼び止めた。

 

 

 

「フラン、もうおしまいなの? まだこんなに残ってるじゃない」

 

 

 

 言うなり、お姉様は私のお皿を指差す。私のお皿には、咲夜が作ったチキン南蛮が、殆ど手をつけていない状態で残っていた。

 

 

 

「咲夜が久しぶりに作ったのよ。好き嫌いせずに食べなさいな」

 

 

 

「……もうお腹いっぱいなの」

 

 

 

「だけど……」

 

 

 

「そんなに残すのが嫌なら、美鈴にあげるわ。私はお部屋に戻ってるね」

 

 

 

 言い残して、食堂を出る。お姉様が大きな声で呼び止めたけど、そんなの御構い無しで部屋へと戻った。

 ベッドに腰掛けた瞬間、お腹の虫が空腹を告げる。やっぱり、半分くらいは食べておいた方が良かったのかな。部屋を出て行く時チラッと見えたけど、咲夜、とても残念そうな顔をしていたし、ちょっとワガママが過ぎたかな。

 自然と口から溜め息が溢れる。と、

 

 

 

「フラン様、お料理をお持ちしました」

 

 

 

 ハンスの心地いい声が、部屋の外から聞こえて来た。すぐにでも扉を開けて抱きつきたい気持ちを抑え、冷静な声で「いらっしゃい」とだけ言って彼を招き入れた。

 

 

 

「今日は遅かったね」

 

 

 

「申し訳ありません。お嬢様からこれを持っていけと言われまして」

 

 

 

 言いながらハンスは、私が残したチキン南蛮を机の上に置いた。

 

 

 

「フラン様、確かに私の料理を食べて下さるのは嬉しいですが、ちゃんと咲夜さんの料理も食べなきゃいけませんよ?」

 

 

 

「……だって、ハンスの作ったものじゃないと食べられないんだもん」

 

 

 

 いじけたように私は言う。それを見たハンスも、困った顔をして笑った。

 ハンスの料理を食べてから、私は他の物を食べなくなった。どんなにお腹が減っていても、どんなに私が好きな料理でも、ハンスが作ったものじゃなければ喉を通らない。最近ではハンスが作っていないと聞いただけで食欲が失せてしまう程だ。今日だって、死んでしまう程お腹が空いているのに、肉を口につけただけでフォークを置いてしまったのだから。咲夜には本当に悪いと思う。

 それに比例するように、ハンスに対しての執着が強くなった。

 最初は、ふとした事でなんとなく彼の顔が思い浮かぶ程度だったんだけど、気がついたら彼の全てが欲しくなっていた。願う事ならば、彼の肉体全てを自分の体内の一部にしてもいいとさえ、今では思うようになった。

 

 

 

「それより、このチキン南蛮にも、魔法をかけてあるんでしょうね?」

 

 

 

 そんな事は顔には出さず、あくまで淡々と訊ねる。ハンスは苦笑しながら「勿論です」と答えると、慣れた手つきでワゴンからお皿を運んでいく。今日のメニューは、バターを塗ったパンと、タコのカルパッチョだ。

 

 

 

「いっただっきまーす」

 

 

 

 準備が終わると、私は意気揚々と手を合わせ、カルパッチョに手をつける。

 

 

 

「ん〜! 美味しい! タコのコリコリとした食感にドレッシングが絡み合って、とっても癖になりそう〜!」

 

 

 

「それは何よりでございます」

 

 

 

 と、ハンスは嬉しそうに目を細めた。

 

 

 

「ねぇ、どうしてハンスはこんなに美味しい料理を作れるの? なんか凄い調味料でも使ってるの?」

 

 

 

「うん? ……そうですねぇ……」

 

 

 

 少し悩んだ表情を浮かべると、それしかないと決意するように頷いた。

 

 

 

「大切な人が、私の料理を食べた時の笑顔を考えながら、それに応えられるように血が滲むような努力し続ける事……ですね」

 

 

 

 それが、私の料理の原点ですから。

 彼は本当に料理と、同時に食べる人の事を愛しているんだと思う。私達が美味しそうに彼の作った物を食べてる時は、いつだって嬉しそうに笑っていたのだから。ふとした事でその笑顔を見るたびに、私はどうしようもなく、彼を食べてしまいたくなるほど愛おしく感じてしまう。

 

 

 

「さて、私は皆様のお皿を片付けに行って参ります。ワゴンは部屋の外に置いておきますので、食べ終わったら乗せて外に出しておいて下さい」

 

 

 

「……ねぇ」

 

 

 

 ハンスが部屋を出て行こうとした時、私は彼を呼び止めた。

 

 

 

「はい?」

 

 

 

 ハンスが振り返ったところで、私はふと気になった事を彼に尋ねた。

 

 

 

「その怪我、どうしたの?」

 

 

 

 そう言って私は、左手を指差す。その指先には、新しい絆創膏が丁寧に巻いてあった。

 

 

 

「……調理している時に、不注意で少し切ってしまいまして。疲れているのかもしれません」

 

 

 

「ふぅん……」

 

 

 

「用がないようでしたら、私はこれで失礼致します」

 

 

 

 そう言って彼は、逃げるように部屋を出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 ハンスが運んだ料理を食べ終えた私は、何をするともなく、ベッドに腰掛けていた。あれほど食べられなかった咲夜のチキン南蛮も、一口でペロリと平らげる事が出来たし、お皿も全部ワゴンに運んじゃったから、後はハンスが来るまで待つだけだ。

 

 

 

「……つまんない」

 

 

 

 漏れた言葉が、部屋に溶けて消える。

 今までずっと部屋の中で過ごしてきたはずなのに、ハンスが来てからそれがつまらなく感じる事が多くなった。試しに好きな本を読んで見たけど、一向に頭に入らない。パズルを解いていても、ぬいぐるみや人形で遊んでいても、それを楽しいと感じる事がなくなった。

 

 

 

「……早く来てくれないかな」

 

 

 

 そう呟いて、ふとある事を思いついた。

 探検に出よう。部屋にいてつまらないなら、部屋の外で何か面白い事を見つければいい。近くにはパチュリーに小悪魔もいるし、外に出て美鈴の仕事を見学するのも楽しそうだ。

 思い立ったが吉日。私は念のため日傘を持って、部屋を飛び出した。

 久しぶりに食事以外で外に出た気がする。普段見慣れている景色が凄く新鮮に見えた気がした。全てが赤く塗られた壁も、窓も、全部初めて見るような目新しさに心が踊った。

 館のみんなは、私が外に出た事に驚いているみたい。パチュリーと小悪魔はハンスの料理を食べた時みたいな顔になってたし、普段滅多に感情を表に出さない咲夜も、微かに驚いた顔をしていた。他の使用人達も、おっかなびっくりな顔をする人、私を怖がって近づいて来ない人と様々。大体の人は私を受け入れていないようだったけど、色んな反応を見るのが楽しくて、少しいたずらして怖がらせたりもした。

 次は美鈴の所に行こうかな、なんて思っていた時、お姉様の部屋の前に差し掛かっている事に気がついた。この際だ。お姉様ともお話ししてみようかな。そう思ってドアに手を掛けようとして……中から聞こえた声に一瞬動きが止まった。

 そっと壁に耳を当てて聞くと、お姉様のイライラした声ともう一人、ハンスの声が聞こえた。小言を言われているのだろうと思ったけど、お姉様の小言はもう少し子供っぽい事を言うはずだ。ここまで怒るなんて滅多にない。

 

 

 

「……どう言うことかしら? 言ってる意味が私には分からないのだけど」

 

 

 

「……分かりました。それではもう一度ご説明します。私はフラン様の料理にだけ、私の血を混ぜて出しました。フラン様の話を聞いた時、人の血を混ぜていれば、フラン様でも食べられると思ったからです」

 

 

 

「道理で貴方の手が傷だらけ絆創膏だらけだったわけね。だけど、貴方分かっているの? とんでもない事をしでかしてくれたのよ?」

 

 

 

「それはもう。料理人が自分の作った物を汚すことなど、言語道断で──」

 

 

 

「違う! 貴方も分かっているのでしょう? ここ最近のフランの様子がおかしい事は!」

 

 

 

「……はい。私の料理以外の物を口にしないようになりました」

 

 

 

「ここ数百年、この現象を聞いた事がなかったから、私も御伽噺だと思って油断していたわ。だけど、もしこの話が本当ならあの子は……!」

 

 

 

「……黙っていた事に関しては、本当に申し訳ないと思っております」

 

 

 

「綺麗事なんていくらでも言えるわ。そんな安っぽい謝罪なんかいらない」

 

 

 

「……その通りです」

 

 

 

「もしかして貴方、こうなる事を予測していたのかしら? 貴方の正体は、実はもう殆ど居なくなったヴァンパイアハンター。それを隠しつつお得意の料理で私を籠絡し、フランの情報を得た後に紅魔館全員を味方につける。後は仮面を被りながら演技を続け、伝承通りにフランを殺そうとした……」

 

 

 

「それは違います! 私はただ、純粋にお屋敷の皆様の為に料理を作って参りました! この件だってそうです! フラン様のお心を少しでも軽くしようと私が考えたのです! 決して謀反を起こすような真似は……」

 

 

 

「それでも事は起こってしまった。それは覆す事が出来ない事実よ。貴方の腕は出会った時から認めているけど、これだけは見過ごす事は出来ないわ」

 

 

 

 貴方はクビよ。明日までに荷物をまとめて出て行きなさい。

 冷え切ったお姉様の声が、真っ直ぐに私の耳を通り抜けた。

 

 

 

「そんな……それじゃあフラン様はどうなるんですか!」

 

 

 

「幸い、症状はまだ初期の段階で留まっているわ。私が説得して納得させる」

 

 

 

「ですが私には……」

 

 

 

「何? 私の命令が聞けないのかしら?」

 

 

 

「……分かりました」

 

 

 

 壁越しからでも分かるほど落胆し、項垂れているハンスの声に、お姉様の「今までご苦労様」が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「フラン? ちょっといいかしら?」

 

 

 

 嫌な気分で部屋に戻ってから数時間後、聞きたくないあいつの声が聞こえてきた。どうせ嫌だって言っても勝手に入ってくるし、無愛想な声で「何?」と聞くと、貼り付けたような心配顔であいつが入ってきた。

 

 

 

「ハンスに持って行かせたご飯を食べたかなって思って様子を見に来たんだけど……よかった。ちゃんと食べてるじゃない。次からはあんな事言わずにしっかりと食べなさ──」

 

 

 

「用はなんなの? そんな話をしに来たんじゃないんでしょう?」

 

 

 

 お姉様は大事な話をする時、いつも大きく逸れた話を先にする。それを知っているから、わざと面倒臭そうな声色で尋ねた。

 

 

 

「……貴女に聞きたい事があるの」

 

 

 

 一瞬でしゅんとなったお姉様は、遠慮がちそうな演技をしながら話を切り出した。「嫌なら別に答えなくてもいいから」という前置きもして。

 

 

 

「貴女、最近何か変わった事はあるかしら? 誰かの血が無性に飲みたくなるとか、必要以上に特定の人を欲しくなったりとか、そう言った事はないかしら?」

 

 

 

「……何それ。どういう事?」

 

 

 

「ほら、貴女も色々変わったじゃない? 発作も治ったし、何より笑顔が増えた。それは私も喜ばしい事だけど、ハンスの料理以外は食べようとしないし、部屋に戻って篭ることは相変わらずだから、少し心配になって……」

 

 

 

「へぇ。だから私が一番慕ってるハンスを怪しんで、クビにするわけね」

 

 

 

 さらりと、言ってやった。お姉様の顔に、驚きと焦りの表情が浮かんだ。

 

 

 

「貴女、どうしてそれを……」

 

 

 

「館の中をぶらぶらしてたら、たまたま聞いちゃったの。今度からは誰も来ないように運命を操っておくのをお勧めするわ」

 

 

 

 皮肉交じりの物言いに、お姉様は悔しそうに歯噛みした。それに気づかないフリをしながら、私は更に言葉を突きつける。

 

 

 

「なんでハンスをクビにするの? 確かに何も言わなかったのは悪い事だけど、毒を盛られなかっただけマシでしょ?」

 

 

 

「そう言う問題じゃないの。このまま行ったら、フランは確実に死んじゃうのよ?」

 

 

 

「絶対に裏切ったりしないってハンスと約束したわ。彼は絶対に約束を守ってくれるって信じてる。それに、ハンスがいなくなるくらいなら、自分から死んだ方がマシよ」

 

 

 

 嘘じゃない。私にとって、ハンスはとっても大きな存在になった。彼がいたから私はここまで変わる事が出来た。これから先の克服すべき事も、ハンスがいれば乗り越えられる気がする。この心の拠り所がなくなれば、私は多分狂ってしまうだろう。そうなるくらいなら、自分から死んだ方がいい。その方が、お姉様にとっても、館のみんなにとっても一番いい選択のはずだ。

 だけど、私の言葉を聞いたお姉様は、驚きで大きく目を見開いた後、「ここまで症状が進んでいるなんて……」と意味不明な事を呟いて、厳しい顔つきで私に向き直った。

 

 

 

「フラン、冗談でもそんな事言わないで頂戴。私は貴女の為を思って言ってるのよ? どうしてそれが分からないの?」

 

 

 

 その物言いに、カチンと来た。私は思わず立ち上がって声を荒げた。

 

 

 

「分かってないのはそっちでしょ!? いつもいつも私達を振り回して! そのくせ自分は知らぬ存ぜぬで関係なさそうなフリを決め込んで! 発作で私が苦んでる時も、あの日の事があって嫌な噂が立った後も! お姉様は遠くから心配そうに見つめるだけで、声をかける事は一つもなかった! それで私の為を思って言ってる? 冗談は張りぼてのカリスマだけに──」

 

 

 

 パンッ! 

 頰に軽い衝撃が走り、私の顔は右を向いた。あまりのことに驚いて、震えながら頰を触る。尾をひくような痛みが、ゆっくりと広がっていった。

 

 

 

「さっきから黙って聞いていれば……分かってないのは貴女の方よ! 私がどれだけ貴女の事を考えてるか分からないの!?」

 

 

 

 いつの間にか、お姉様も同じように立ち上がっていて、ヒステリックに喚き立てていた。

 

 

 

「今まで一度だって、貴女の事を心配しない日はなかったわ。発作を少しでも和らげようと方々の医者を探し回ったし、パチェに頼んで精神安定のクリスタルもつけた! たった一人の大切な妹を守る為に、私はあらゆる手を尽くして来たわ! なのに! どうして貴女はそれが分からないの!? なんで分かろうと歩み寄ってくれないの!?」

 

 

 

 叫びながら、お姉様は何度も私を叩く。「なんで」と連呼しながら、その声がくぐもり始めてもなお、お姉様は手を休める事はなかった。その度に、私の心の中で、何かが音を立てて崩れ始める。お姉様のくぐもった声を一つ聞くたびに、お姉様の手が私の頰を叩くたびに、大切な何かが崩れて、崩れて、崩れていって……

 

 

 

「あああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 

 

 気付いた時には、お姉様の首を両手でギリギリと鷲掴みにしていた。

 

 

 

「あ……あが……か……」

 

 

 

 普段被ってる仮面が外れて、苦悶の表情がお姉様の顔に浮かぶ。苦しげなうめき声が微かに私の鼓膜をくすぐって、その音もまた、私の大切な何かをわずかながらに削り取っていく。

 鷲掴みにした手からは、お姉様の温かい血流がうめき声と一緒に伝わって来くる。それがなんだかうっとおしくなって、握る手に少し力を込めた。すると、何かが外れるような音がして、抵抗していたお姉様の手が力なく下に落ちた。手を離すと、お姉様の体はドサリと地面にへたり込んで動かなかった。

 あぁ、死んだのか。あの音は首が外れる音だったんだ。

 人ごとのようにそう思った。悲しいとかいう気持ちも、罪悪感も、ただの一片すら湧かなかった。だって、これで死んでしまったら、吸血鬼として生きていくことが出来ないだろうから。

 

 

 

「……かひゅう……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 パキンという軽い音と共に、苦しそうに息をしながら、お姉様はよろよろと立ち上がる。目には怒りで満たされていて、つま先に至るまでの全身の毛が、殺意で逆立っているように見えた。久しぶりに見るお姉様のこの姿に、私は思わず身じろぎしてしまった。

 その一瞬を、お姉様が見過ごすはずがなかった。目にも止まらぬ速さで鋭い爪を迷いなく私の喉元に突き立てようとした。

 咄嗟に後ろに避けたけど、バランスが崩れて尻餅をついた。瞬間、お姉様の足が私のお腹めがけて右足を振り上げる。なんとか臨戦態勢を整えた私は、飛んでくる足を受け止めると、思いっきり力を込めて折った。耳障りな嫌な音とともに、お姉様の顔が苦痛に歪む。

 今度は私が爪でお姉様のお腹を斬り裂こうとした。けど、お姉様はそれを読んでいたのように掴み、お返しと言わんばかりに無造作に捻った。指だけじゃなく、腕までもが一回し、至る所から折れた骨が突き出てくる。あまりの激痛に思わず悲鳴を上げた。それで容赦してくれるほどお姉様は甘くない。すぐさま首筋に噛み付いてきた。それに対抗するように、私も負けじと同じように噛み付き返す。

 ベックリンが描いたケンタウロスの戦いのように、私達は揉みくちゃになって戦った。戦いながら、何度も死んだ。心臓を握り潰され、頭を貫かれ、それでも私達は戦った。それが私達姉妹の喧嘩の仕方だった。いや、私達だけじゃなく、世界中に散らばった全ての吸血鬼達は、誰かが負けを認めるまで、きっとこんな風に、互いに本気の殺し合いを疲れ果ててなお、行うっているのかもしれない。

 だからこそ、なのだろう。夢中になって取っ組み合いを続けていたせいで、乱暴に開かれたドアの音も、驚いて私を呼ぶ叫び声さえも、私達の耳には届いていなかった。

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 揉み合いの末、お姉様は私を馬乗りにして、先程の私がやったように首筋に手を掛けていた。吸血鬼の闘争本能に汚染された目には情の一欠片もなく、目の前の敵を殲滅することにのみ関心が向けられている。

 お姉様の手に力が込められた。気道が塞がれて、酸素が十分肺に送られなくなってくる。息苦しくなって、力ずくでお姉様を押し退けようとしたけど、元々お姉様の方が力は強い。すぐに押し返されて、首への負荷が更に強くなった。

 その時、私の心はあの時と同じ恐怖に取り憑かれた。お姉様に同じ事をした時、さっきまでの殺し合いの時には感じていなかったのに、急にあの時のことがフラッシュバックされて、アドレナリンが消えて戦意が喪失した。死にたくない。嫌だって思いが本能的に湧いてきて、それが余計に恐怖心を助長させた。

 お姉様の手に、更に力が込められる。あとほんの少し押し込めば、その時点で首の骨は折れてしまうところまできて、私の顔から血の気が引いた。嫌だ、嫌だ、死にたくない。お姉様は本気で私を殺す気だ。早くここから抜け出さないと。

 しゃにむにになって抵抗した。腕も足もばたつかせて、必死になって抜け出そうとした。しかし、いくら足掻いても、いくらお姉様を押しても、キリストに打ち付けられた杭のように、お姉様の腕は、私の首ただ一点を押さえつけて離れない。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない死にたくない死にたくない……

 何かが弾ける音が聞こえた。遅れて液体がそこら中に飛び散るような音も聞こえてきた。お姉様の手が緩む。悪い夢を見ていた言った青い顔で私を見つめている。私だって、悪い夢だと信じたかった。だけど、私の目線の先にある人影を見たら、お姉様でもこれは現実だと理解せざるを得ないと思う。

 人影には頭がなかった。吹っ飛ばされた頭部の名残を残す首からは血が噴き出し、部屋の至る所を紅く染め上げている。誰かを助けるように差し出された手は、そこだけ時が止まったかの如く微動だにしていない。

 人形のみたいに固まったそれは、重力に従って後ろに倒れていった。開いたドアからロウソクの光が部屋に差し込んできて、倒れた死体を仄かに照らす。赤く染まったコックスーツが光の中に入った。

 

 

 

「は……ハンス……?」

 

 

 

 ドアの方を振り返って、お姉様は息を飲んだ。首のない人影は、その問いかけに応えることはなく、ただ体内の血液が流れる音だけが部屋の中で反響するのみだった。

 

 

 

「何やってるのよ……どうして貴方はここに来たのよ……そんなところで倒れてないで答えなさいよ! ねぇ! 起きて! 起きなさいよ!」

 

 

 

 完全に戦意が失せたお姉様は、私の事などそっちのけでハンスの亡骸に近づき、喚きながら体を揺すったり、腕から血を出して首の断面に垂らして再生を促そうとしている。けど、いくら吸血鬼の血を使ったって、首を吹き飛ばされて即死した人間を生き返らせる事は出来ない。

 その様子を、私はただ呆然と見つめていた。今まで起こっていたことが全て、劇の中の一幕か何かだと思ってしまった。

 最初は何が起こったか分からなかった。けど、固く握られた右手と、それを開いた時に見えた凄く小さな壊れた丸いものを見た時、妙に頭が冴えて、同時に何が大きく壊れたような音も聞こえた。

 そうか、私がハンスを壊したんだ。あの時、抜け出そうと必死にもがいていた時にはハンスが来ていて、伸ばした腕の先にハンスが居たんだ。それに気づかないで私が手を握った時には、もう彼の()は私の掌の中で……

 

 

 

「……アハ」

 

 

 

 その事を自覚し、咀嚼して細かく理解するたびに、壊れた何かが土砂崩れになって私の心を埋め尽くす。

 もうハンスはいない。私が壊してしまった。あの陽だまりみたいな笑顔も見れない。あの大きな背中に、あの逞しい腕に触れることも出来ない。私の能力のせいだ。愛しくて暖かい居場所を自分から無くしてしまった。私のせいだ。私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ私のせいだ……

 

 

 

「…………アハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…………」

 

 

 

 最後に砕けた心のカケラが、僅かに残っていた理性の隙間を完全に塞いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私は自分が嫌いだ。

 大それた能力(ちから)を持ちながら大切な妹をしっかり護れなかった事も、彼女の気持ちを無視して一人で行動していた事も、それが却って彼女に嫌な思いをさせていた事に気づかないでいた事も。

 叶うならば、過去に戻ってその時の自分を抹殺してやりたい。そう思う程、私は自分が嫌いになっていた。

 

 

 

「……パチェ、状況はどう?」

 

 

 

 図書館の扉を開いた私は、丁度詠唱を終えたパチュリーに声をかけた。彼女には、今回の計画を遂行するにあたるものを、私と共に発生させるという重要な役割を課している。

 

 

 

「問題ないわ。魔力の供給も安定化させたから、いつ発動してもいい状況よ」

 

 

 

 あれだけ大きな魔力を使ったにも関わらず、パチュリーは涼しい顔をしながら答えた。

 

 

 

「フランの方は……」

 

 

 

「念のため小悪魔に様子を見に行って貰ったわ。何かあったらクリスタルが壊れる筈だけど、今のところそれは起こってないし、多分寝てるから大丈夫よ。そっちは?」

 

 

 

「美鈴も咲夜も、所定の位置につかせたわ。こっちも準備は万端よ」

 

 

 

「『妹様を救うなら、こんな事は造作もない事です』って、二人とも張り切っていたものね」

 

 

 

 労うようなパチェの声色に、不覚にも涙が溢れそうになった。

 

 

 

「あの子達には本当に迷惑をかけてばかりだから、何処かで休暇を取らせた方がいいかもしれないわ……貴女もそうね。ごめんなさい。いくら親友でも、今までの事に加えてこんな大変な仕事を一手に引き受けさせてしまって。本当に申し訳ない気持ちで一杯よ」

 

 

 

 そう言って深く頭を下げると、パチェは笑いながら手を振ってそれを打ち消した。

 

 

 

「いいわよそんな事。貴女が、あの時からフランの事を第一に考えているって事は、美鈴も咲夜も、みんな分かってる事じゃない」

 

 

 

 私がフランの事を守ろうと考えたのは、あの事件が起こってからだった。

 あの時、執事に襲われた時のフランは酷く怯えていた。一番信頼していた人に裏切られたのもそうだが、突然に発現した自分の能力と、それが人を殺めてしまった事にショックを受けた事が一番大きかったようだ。あの出来事はまさにイレギュラーであり、予測のしようがなかったから、対応に追われるばかりでフランの心をケアする余裕なんてなかった。

 それが原因なのだろう。発作はすぐに発症し、私の事を責め立てるようになった。私は自分がした事を深く後悔し、これからはフランの事を一番に考えて行動しようと運命に誓った。

 しかし、動き出しが遅すぎたせいで、彼女の傷は引き返せないほど手遅れになっていた。来客に怯えるのではないかと部屋に戻しても、咲夜や美鈴を含めた、かつて雇っていた使用人達に言動には気をつけるように言っても、年月が経つごとに現れる稀代の名医とやらに見せても、パチェに頼んで治療ついでに精神安定のクリスタルを羽につけても、一向に治る気配はなく、それが却って彼女の心にどんどん傷を増やしていた事に繋がっていた。後からそれに気づいた時には、今まで見えていた、従っていた運命は間違いだったのかと膝から崩れ落ちそうになった。

 ハンスと出会ったのは、咲夜が紅魔館に入ってから数年後の事だった。行き倒れていた彼を助けた時、微かながら希望のような運命が見えた。初めはうっすらとしか見えなかったその運命は、彼の料理を食べた時にはっきりとしたビジョンを持って私の目に飛び込んできた。彼なら、きっとフランを救う事ができる。そう確信して彼を雇い入れた。

 実際、ハンスは私の期待以上の仕事をしてくれた。フランの顔に笑顔が戻ったし、美鈴や咲夜、パチェの健康や仕事のパフォーマンスにも良い影響を与え、前以上に紅魔館は活気付くようになった。私自身も、書類仕事や交渉ごとが劇的にやりやすくなり、早い段階で仕事を片付ける事も多くなっていた。あの時程体が軽かった記憶はないと思うくらい、ハンスの料理には力があった。

 このままフランが治ってくれればいいと思った矢先、私の目に最悪の運命が映された。

 現れた運命は二つ。フランが死ぬ運命と、フランが狂気に沈んでしまう運命。どう転んでも絶望しかない未来に、私は思わずパニックになった。

 一体なぜ? ハンスが来てからはフランも発作を起こしていないし、館全体が活気に満ちている。どうして今になってこんな運命が映されたのだろう? 

 その答えは、フランとハンスの様子を見ていて思い出されたある事によって氷解した。

 私達吸血鬼には、ある一つの禁忌がある。それは、人間に恋をするという事だ。もし人間に恋をしてしまった場合、その人の血しか欲することが出来なくなる。その衝動は日に日に強くなっていき、最終的には相手の血を吸い尽くして殺してしまうのだ。しかも、一旦この体質になってしまったら治す事は不可能で、後はもう餓死を待つしかなくなってしまう。仮に相手を吸血鬼化させたとしても、同族の血は猛毒であり、とても飲めたものじゃない。せめて出会った時に、ハンスを吸血鬼化させておくべきだったと今になって悔やんだ。

 フランが死ぬ運命を選べば、私の肉親はもういなくなる。逆にフランが狂気に沈む運命を選べば、彼女に深い傷を負わせてしまう。どちらを取ってもマイナスにしかならない状況。私は頭を抱えて悩んだ。悩んだ末に、私は後者を選んでしまった。たった一人の家族を失いたくはなかったし、生きてさえいれば何かしらの対策が打てるかもしれないという、私の身勝手で打算的な理由からだった。

 今にして思えば、フランの思い通りに選ばせてあげれば良かったのかも分からない。それほどまでに彼を恋しいと思うのならば、いっそその運命を辿らせてあげても良かったのかもしれない。だけど、あの時フランの口から出た言葉を聞いた時、私はそう思う事が出来なかった。ただ一点、裏切られたという思いしか湧き上がってこなかった。

 結果として、私が選んだ運命は、一番最悪な形でやって来てしまった。フラン自身がハンスを殺し、それによってフランは狂気の底深くに身を沈める事となった。情緒は不安定になり、新たに生じた破壊衝動が抑えられなくなって、遂には壊しても復活する魔法の檻を作って地下室に閉じ込めざるを得なかった。

 一度だって悔やまない日はなかった。自分が選んだ運命とはいえ、これ程までに酷いものは初めてだった。自己嫌悪と罪悪感でいっぱいになって、私も狂気に沈んでしまいそうだった。

 

 

 

「ねぇ、私を少し助けてくれないかしら?」

 

 

 

 そんな時に現れたスキマの依頼に、私は藁にもすがる思いで飛びついた。

 幻想郷という場所に行けば、何かが変わる。そう確信した。自分の力量に見合わない能力(運命を操る程度の能力)を持っていながら、私自身が間違った運命に翻弄され続けて来たけど、次はそうはいかない。今度は私の方が運命を従えて、必ずフランを救ってみせる。

 

 

 

「……私も準備出来たわ。そろそろ始めるわよ」

 

 

 

「分かったわ。それじゃあ、この魔法陣の中央に立って頂戴。合言葉を言えば発動するから」

 

 

 

 パチェに促され、私は魔法陣の中央に立って深く息を吸う。ハンスとフランへの贖罪の念が、急に胸の中に溢れて来た。

 ……ごめんなさい、ハンス、フラン。私が未熟なばっかりに、貴方達にとても酷いことをしてしまった。これで許して貰えるなんて思ってないけど、どうかこんな主人に、姉に、少しだけでいいから力を貸して下さい。

 

 

 

「……我が分身である紅い霧よ、幻想郷を覆い尽くし、我らが紅魔館に良き運命をもたらしたまえ」

 

 

 

 紅魔館を覆うように、真っ紅な霧が立ち込めた。

 

 

 




どうもこんばんは。焼き鯖とかいう青魚でございます。

まずは一言。遅れて申し訳ありませんでしたああああああああああ!

バイトを始めたりテストが近かったりとバッタバタで、あまり時間を割く事が出来ませんでした……

次はもう少し早目に投稿します(フラグ)これからも遅くなってしまいますが、見捨てないで頂ければ幸いです。


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悪イ夢

皆さん、こんばんは。コンタクトつけたら翌日がめっさ目がゴロゴロしました。焼き鯖です。

今回はリメイク編。クリスマスに書いた悪イ夢を再投稿致します。流れは変わりませんが、描写回しが少し変わりました。

今回は良識ある大人向けって感じにして見ました。よろしければ見て行って下さい。


 悪夢には、見る者の心に対して様々な効果を及ぼす。変わりたいと願う者にはそれを示すヒントを、根っからの狂人にはそれを戒める罰を。信じられないかもしれないが、心に多大なダメージを負った者を慰め、傷を癒す役割も持っている。

 (ばく)である私は、夢の世界を管理すると共に、悪夢を監視し、その強弱を調節する事も仕事としている。あまりに強すぎる悪夢は、更なるダメージを負ってしまう可能性があるからだ。最悪の場合、それは障害という形で夢を見る者に現れ、苦しめる。逆に悪夢には意味を付与させるため、弱すぎるとその意図に気がついてくれない。繊細で精密な技術が要求されるこの仕事は、夢を食む楽しみがある反面疲れる事が多い。

 そんな私が唯一楽しみにしているのは、他よりも少しだけ長い休憩の時間だ。この時間は何をしても許される。私の場合、悪魔の食べ過ぎでもたれた胃を癒す為、家に帰って紅茶を飲み、本を読むのが一番の至福となっている。

 

 

 

「……成る程。要するにこういう事ですか? 『月の民の命を守る為、一時的に夢の世界(わたしのせかい)に避難させてほしい』……と」

 

 

 

 その至福の時間帯、私は大好きなアールグレイを飲みながら真っ直ぐに来客である少女をはたと見据えた。

 訪れた少女はコクリと頷くと、持っていたノートにつらつらと文字を書き出した。ハーフアップにした刀のように鋭い銀色の髪が、渦を巻く矢印のスカートに合わせて揺れる。

 彼女は──月の賢者の一角である稀神サグメは、その能力故に迂闊に喋る事が出来ない。だから何かを伝える時はこうして筆談の形式を取るか、信頼出来る部下に翻訳して貰うかの二択になる。今回はサグメが単身でここに来たので前者の方を取っている。噂には聞いていたが、こうして直に見て見ると本当に面倒な代物だなと再認識してしまう。

 書き終えた彼女はゆっくりとペンを置くと、私にそのノートを見せた。ノートには、

 

 

 

『はい、その通りです。現在、月の都はとある集団によって侵略の危機に晒されています。このまま行ってしまえば、都は奴らに攻め落とされてしまうでしょう。そうなる前に民を避難させ、都を凍結させる必要あるのです』

 

 

 

 と書かれていた。

 

 

 

「なるほどー、その白羽の矢に私の管理するこの世界が選ばれたわけですか……」

 

 

 

 私はふぅとため息を吐き、椅子にもたれて考える。

 冷静に考えてみれば、これ程までにとんでもない提案は今までされた事はなかった。唯一にして至高のリラックスタイムに扉がノックされて何事か思えば、月の賢者の一人にいきなり数千万人もの住人をこの世界に避難させてほしいと頼まれたのだ。困り事なので断るという選択肢はないが、何の前触れもなく、よりにもよって休憩の時間に押しかけて来たら、例え私でなくても誰だって嫌な顔の一つや二つもしたいものだろう。

 しかし、問題はない。これはあの人の予言通りに進んでるだけだ。と気持ちを落ち着かせ、サグメが持って来たウサギ型クッキーを口に運ぶ。サクリとした食感と共に、芳醇なバターの風味が口一杯に広がり、気品豊かなアールグレイも相まって私の舌が幸せで包まれた。思わず顔が綻び、「ん〜美味しい」という呟きが漏れる。

 クッキーの美味しさに浸っていると、サグメがトントン指先で机を鳴らした。

 我に返って彼女の方を見ると、新たに何かを書いていたらしく、ノートにはこう書かれていた。

 

 

 

『勿論、タダでとは言いません。この異変が沈静化すれば、貴女が望む物を私達が出来る範囲でご用意致します。それこそ月の都の半分をくれと言われたら、喜んで割譲するのもやぶさかではありません』

 

 

 

 素っ頓狂なお願いが真剣な表情で飛んで来たものだから、不意を突かれて吹き出してしまった。いきなり笑い出した私を、サグメが不審そうな表情で見つめ返している。

 

 

 

「いやいや、私は世界を救う勇者じゃないんですよ? ただでさえここを管理するので手一杯なのに、半分とは言え貴女達の都まで管理しようとしたら、私の方が倒れてしまいます。貴女方がお礼をするのであれば、そこまで無理な事は言いませんよ」

 

 

 

 笑いながら弁明すると、じゃあ何が望みなんだと言わんばかりにサグメが見つめて来た。そこで私はまたクスリと笑うと、お皿に盛られたクッキーを指差した。

 

 

 

「貴女が持って来たこのクッキー……ラビットクッキーって言いましたっけ? これを出来る限りでいいので毎日下さい」

 

 

 

 私の答えが予想外だったのか、そんなものでいいのかと食ってかかって来そうなほど、彼女は驚きで目を大きく見開いた。その姿が面白くて、私は尚もクスクスと笑いながら口元を手で覆った。

 

 

 

「えぇ、それで構いません。私とて鬼ではありませんからね。貴女達が助けてほしいと言われたら、手を差し伸べるのは当たり前の事でしょう? それでも足りないと言うのであれば、今度は私の世界がピンチになった時に貴女方が助けに来ればそれでおあいこです」

 

 

 

 にこやかに微笑みながらそう言うと、そこで初めてサグメはホッとした表情を見せ、既に冷めてしまった紅茶に口をつけた。そこで私は、かねてから疑問に思っていた事をサグメに尋ねる。

 

 

 

「しかし……話が決まってしまった後で言うのも何ですが、この方法はあまりオススメ出来ません。長く夢を見過ぎると、精神が蝕まれてしまう恐れがあるからです。サグメさんはその事を理解しておられるのでしょうか?」

 

 

 

 この質問をした瞬間、サグメの顔がだんだんと憂いを帯びたものに変化していった。

 

 

 

『実は……私もこの方法にはいささか懐疑的ではあるんです。夢の世界に逃げ込んだからと言って確実な安全が保証されるとは限りませんし、もしあいつらがここまで侵略して来たら、月の民はもとより貴女にも被害が及ぶ可能性もあります。ですが、悔しい事に取り急ぎで取れる策がこれしかない事もまた現状なんです。これが苦肉の策である事は他の賢者達も重々承知しているのですが……何か決定的な打開策が浮かばない限りは、この策を実行するより他に最善な策はないんですよ』

 

 

 

 要するに八方ふさがりというわけか。それでは仕方がない。

 

 

 

「分かりました。それでは本題に入りましょう。端の方ではありますが、丁度夢の世界に手頃なスペースがあります。そこに月の都の幻視(ビジョン)を作りますので、そこに皆さんを避難させて下さい。それと、貴女達の世界に悪夢が入り込んでしまわないように結界も張っておきましょうか。後は──」

 

 

 

 順序良く避難計画を立てていく私。最初こそ熱心に聞いていたサグメだったが、次第に疑いの色が強く出始めてきた。

 

 

 

「どうされました? 何か不都合な事、ご不明な事がございましたか?」

 

 

 

『……いえ、不都合な事も、不明確な事もありません。ただ、どうにも虫が良すぎると思いまして』

 

 

 

 刺すような瞳と共に向けられた一文に、私は一瞬だけたじろいでしまった。流石月の賢者の一角。目敏いと言う他ない。

 

 

 

「……それはまたどうして?」

 

 

 

 突然の事だったため、尋ねる声が少し硬くなる。

 

 

 

『通常、夢の世界というのは、私達月の都程ではないとはいえとても繊細な筈です。そこに異分子や異物を受け入れるというのは、それ自体が歪みになったり争いの種になったりと負の状態を引き起こしかねない危険な存在になります。最悪の場合、この世界そのものが崩壊してしまう恐れすらあります。私達も無茶を承知で頼んでいるので大それた事は言えませんが、仮にもこの世界の支配者である貴女がここまでするのには、何か裏があるのではないかと、私にはそう思えて仕方がないんです』

 

 

 

 そう。サグメの言う事は実に的を射ている。

 この世界は、月だろうが幻想郷だろうが外の世界の人間だろうが、そこで眠る者の夢全てが集う場所である。一度でも管理を怠ってしまえば一瞬にして虚無と言う混沌(カオス)の空間に崩壊してしまい、その時点でそこは死の世界と化してしまう。事実、私も虚無の空間を何度も見聞きしているから、その危険性も重々分かっている。

 しかし、あの人達がいる今なら、声を大にして確実に言える。私の世界(ゆめのせかい)は壊される事はないだろうと。

 

 

 

「嫌だなぁ、サグメさん。そんな疑心暗鬼にならないで下さいよ。私は本当に善意でやっているんですから。それに、仮にこの世界が壊れてしまって私の行き場がなくなったとしても、貴女方の都(つきのみやこ)へ避難すればいいんですから。それでおあいこでしょう?」

 

 

 

『……そうですか。疑ったりしてしまい、申し訳ありません。では、貴女がそうなった場合、ある程度の住居を提供出来るよう()()()()()()

 

 

 

『善処する』と言う言葉を使った時点で、私があそこに行く事は絶望的になった事が分かったが、取り敢えず誤魔化す事は出来たようだ。

 

 

 

『長居し過ぎましたね。私はそろそろ戻ります』

 

 

 

 私が安心していると、その文面と共に彼女が席を立った。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 全てを見透かしているような冷たい目線でその言葉を残し、彼女は部屋から去って行った。

 部屋から遠ざかる足音を聞きながら、私はふぅ、と溜息を吐く。良かった。あの人との関係がバレずに済んで。バレてしまえば私がどうなってしまうのか想像に難くない。最悪の場合、その場で殺されてもおかしくはなかった。所々怪しまれていそうな部分はあったけれど、そこは考えないようにしよう。

 ……と言うか、あの人は今日ここに来るのだろうか。隠れる所もほとんど無いし、来るのであればすれ違いは必至だから、そこでどんぱちやられたらこちらが困るのだが……

 飲みかけのカップを下げながらそんな事を考えていると、小気味のいいテンポでドアが三回ノックされた。

 その音に、私の心は大きく弾んで軽くなる。このノックはあの人が来る時の合図だ。

 

 

 

「どうぞ」

 

 

 

 少しだけ上ずった声で答えると、ドアの向こうから奇抜な格好をした少女が現れた。

「Welcome Hell」と書かれたオフショルダーに三色蛍光カラーのスカート。頭の上には赤い球体が乗っかっていて、首には残った青と黄色の球体を繋ぐ鎖がついたチョーカー。

 全てが規格外と言わんばかりの姿の彼女は、部屋に入ると満面の笑みで私に挨拶をした。

 

 

 

「はぁーい、会いに来たわよん。ドレミー」

 

 

 

 後に音符が付いていそうな程に跳ね上がった語尾に、私は苦笑いしながら返す。

 

 

 

「全くもう、貴女は本当突然に来ますよね。ヘカーティア様」

 

 

 

「あら、それはもういつもの事だと割り切っているのかと思っていたわ」

 

 

 

「割り切っていても慣れない事って言うのはこの世には沢山あるんですよ」

 

 

 

 お互いに軽口を叩きながら、ヘカーティア様はさっきまでサグメが座っていた席に座った。私はいつものようにキッチンでダージリンを淹れる。

 彼女の名は、ヘカーティア・ラピスラズリ。服装こそふざけた代物ではあるが、その正体は月、地球、異界の三つを統べる地獄の女神。そんじょそこらの雑魚なんか目もない位の強さを持ち、彼女の逆鱗に触れたら最後、塵芥の一つすら残らないと思った方がいい程にやばいお方だ。

 

 

 

「それにしても、一体どうやってここまで来たんですか? さっきまでサグメがここに居たんですよ?」

 

 

 

 そう言いながら淹れたてのダージリンをヘカーティア様に差し出す。ここから私の部屋までは部屋は殆ど無い。故に避難する場所は少なく、鉢合わせは確実なのに、なんの問題もなくあっさりと私の部屋に来れるのは変だ。

 そう思っていたら、ヘカーティア様が面白そうに笑い始めた

 

 

 

「ちょっとちょっとドレミー、私を誰だと思っているのよ? 私は神様よ? その気になれば置物だったりぬいぐるみだったりに化ける事なんて造作もない事じゃない」

 

 

 

 言われた瞬間、ストンと腑に落ちた。ヘカーティア様はそれをみて更に笑い、ダージリンに口をつけてまた美味しそうに微笑んだ。

 そうだった。彼女達神様は、生まれつき変身能力を有していたんだった。なんでも、神様の血を引く人間を地上に残すのも神様としての責務の一つらしく、たまに人間に化けて地上に降りる事もあるそうだ。聞いた話では、あの手この手を使って幼気な少女をドンドン孕ませた精力絶倫な神様もいるらしい。あれ程女性に優しくない神様は聞いたことがないって、ヘカーティア様も苦言を呈していた。

 

 

 

「そうでしたね。スッカリ忘れていましたよ」

 

 

 

 答えながら私自身も再度アールグレイを淹れ直し、先程と同じ席に座ると、待っていたかのようにヘカーティア様が口を開いた。

 

 

 

「それでどうだったの? 全部私の言った通りになったでしょう?」

 

 

 

「はい、全てヘカーティア様の予言通りになりました。このままいけば、貴女達の予定通りの展開が起こりそうです」

 

 

 

 それを聞いたヘカーティア様は、嬉しそうに頷いた。

 

 

 

「やっぱりね。月の都の連中はやることがワンパターンなのよ。穢れを避けるだかなんだか知らないけど、こんなにまどろっこしい事をしなきゃいけないなんて、本当に愚かとしか言いようがないわ」

 

 

 

 そう言いながら彼女はお皿に残っていたクッキーを手に取り、光に透かすようにそれを掲げた。段々と目に狂気が宿り、握る手に力が掛けられていく。

 

 

 

「あと少し、あと少しで憎い嫦娥を殺す事が出来る。待ち望んだこの時が、遂にこの手に……」

 

 

 

 パキンと言う乾いた音と共に、可愛いクッキーは見る影もなく砕け散り、お皿の上にその破片が儚く落ちていった。

 

 

 

「……純孤さんとクラウンピースの状況はどうなっているんですか?」

 

 

 

 私の質問を聞き取った彼女は、赤目に映る殺気と狂気を引っ込めると、すぐに柔らかな笑顔を浮かべて答えた。

 

 

 

「問題ないわ。私の部下達を生命力(けがれ)で満たして都を囲む手はずを整えている。早ければ明日までに表の月は生命力で満たされる筈よ」

 

 

 

「分かりました。計画が進んでいるようなら大丈夫ですよ」

 

 

 

「ごめんなさいね。此処から先、貴女にも迷惑がかかる時が来るかもしれないけど、出来る限りこの世界で問題行動はしないように努めるから」

 

 

 

 その言葉に、私の表情は暗く沈む。だって、これが嘘だって言う事が分かっているから。彼女が──いや、彼女達の中にあるのは歪んだ復讐心だけ。多分、情とか謝罪の念だとかはこれっぽっちも考えたことすらないと思う。勿論、私の事すらも──

 

 

 

「ドレミー」

 

 

 

 耳元から、あの人の声が聞こえてきた。いつの間にか、ヘカーティア様が私を後ろから抱きすくめていて、顔を耳まで近づけていた。

 

 

 

「今日はどうしたのよ? いつにも増して機嫌が悪いじゃない。いつもの貴女らしくないわ」

 

 

 

「……当たり前です。貴女はあの日の事を覚えていますか? いきなり私の前に現れたかと思ったら、あれよあれよと私を共犯者に仕立て上げたんですよ? 今はもう受け入れていますが、貴女方の私怨に振り回される私の身も少しは考えて下さい」

 

 

 

 普段なら絶対に言うはずのない棘を含んだ言葉が、私の口からするすると飛び出した。

 違う。私が言いたかったのはこんなのじゃない。もっと気の利いた、私らしいジョークで返すべきだった。これではヘカーティア様に嫌われてしまう。早く謝らなければ……

 

 

 

「ドレミー」

 

 

 

 しかし、彼女は何も言わない。それどころか、まるで我が儘な子供が気に入ったおもちゃを抱え込むように更に肩を抱く腕に力を込めた。

 鼓膜の内側が、ヘカーティア様の囁きで一杯になる。独占欲から生じた占有を求めるその声色は、神の蜜(ネクタル)よりも甘く、耳にかかる吐息は麻薬よりも強い快楽を運んでくる。最早それなしでは生きられない程甘美な感触に、一瞬意識を持っていかれそうになった。

 

 

 

「お前の言う通りだ。私はお前を巻き込んでおきながら、礼の一つすら与えていなかった。これでは他の神々に笑われてしまう。一人の神様、いや、友人として失格な事をした。この場を借りて謝罪する。本当にすまなかった」

 

 

 

「あ……」

 

 

 

 先程までの飄々とした声から一転、神様らしい威厳を帯びた彼女の声が、私の耳を蹂躙する。

 駄目だ。これ以上彼女の声を聞いていたら、本当に快楽の海に沈んでしまう。毅然として答えようと思っていたのに、それ以上の欲求が先行して思うように口が開かない。

 何とかして離れようするが、それを予期するようにヘカーティア様の言葉は続く。

 

 

 

「そのお詫びだ。私はお前を、この世界を、ずっと守ろう。私はお前だけの守り神となる。これが私のできる精一杯の礼だ」

 

 

 

 どうか受け取ってはくれまいか? 

 懇願にも似た提案が、私の耳に同じような快感を与えた。

 

 

 

「本当……に、守れる、と、約束……でき、るんです、か?」

 

 

 

 激流のように流される快楽に抗いながら途切れ途切れに尋ねると、ヘカーティア様は自信たっぷりに囁いた。

 

 

 

「あぁ、ステュクスの川にかけて誓おう。私、ヘカーティア・ラピスラズリは、夢の支配者ドレミー・スイートの守り神になると」

 

 

 

「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 

 

 何処かでするはずのない雷の鳴ったような大きな音がした。誓いが施行された合図だ。私自身もまた、喜びに打ち震え、歓喜のあまり椅子からずり落ちた。

 

 

 

「……そろそろ戻るわね。また、終わった後にでもお話しましょう?」

 

 

 

 いつもの口調に戻った彼女は、去り際に私の首筋にそっと唇を落とし、悠然と部屋から去って行った。

 

 

 

「あぁ……ヘカーティア……様……ぁ」

 

 

 

 残された私は、最後に彼女が落としていった蜜を、時間を忘れてゆっくりと堪能した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 私が彼女と初めて出会ったのは、人々が惰眠を貪る季節である冬であったと記憶している。とある悪夢の調節中に、向こうの方から声をかけて来たのが始まりだった。

 

 

 

「ねぇ、悪夢って美味しいのかしら?」

 

 

 

 不意に声をかけられ振り向いてみれば、外の世界で有名な何処ぞのファッションモンスターも顔負けの珍妙な服装をした少女。それを初めてを見た私の心境は、恐らく想像に難くないと思う。

 

 

 

「え、えぇとそうですね。調整次第で変わりますが、当たりもあればハズレもあるって感じですかね。同じみかんでも甘さと酸っぱさが丁度いい塩梅で美味しいものと、味がなくてまずいものがあるって思って頂けたらいいですよ」

 

 

 

 気を持ち直して答えたが、例え方が悪かったのかピンと来ていないらしい。不思議そうな顔で小首を傾げていた。

 そこで、食べ比べてみますかと調整済みの悪夢と調整前の悪夢を一塊にして彼女の前に差し出してみると、彼女は遠慮がちに二つを受け取り、交互に口に運んだ。暫くは黙って口を動かしていたが、やがて納得したように頷いた。

 

 

 

「成る程ね。確かに貴女の言う通りだわ」

 

 

 

「でしょう? ところで、貴女は何者なんでしょうか?」

 

 

 

「あら、私としたことが自己紹介をすっかり忘れていたわね。私はヘカーティア・ラピスラズリよん。三つの世界を支配しているわ」

 

 

 

「ヘカーティア様ですか。私は貘のドレミー・スイートと申します。この世界を管理し、悪夢の強弱を調節する者です」

 

 

 

 そう言って互いに握手を交わしたのがきっかけだった。その日から彼女はちょくちょくここを訪れるようになり、世間話をする事が多くなった。いつしか私自身も彼女が来るのが楽しみになっていた。

 そうして冬が終わり、春眠暁を覚えずと言われる春の季節に突入したある日のことだった。

 いつものように紅茶を淹れながら待っていた時、ふと窓を見ると、向こうの方から三つの人影が此方に向かっているのが分かった。そのうちの一つに何か丸い物が浮かんでいる事から、ヘカーティア様が友人を連れて来たのだろうが、何故私に断りも入れず突然連れて来たのだろう? 

 招き入れてみると、来客は予想通り彼女だった。類は友を呼ぶと言うが、つられて入ったご友人らしき人達もまた色物揃いだった。

 一人は黒くて長い中華服見たいなローブに同じくらい長い金髪。後ろに九尾の狐の尻尾のようなオーラが見える。美しいその佇まいとは裏腹に、全身から負が淀めいた怒りのオーラを感じた。

 もう一人は二人よりも身長が低く、長身痩躯の女性よりもギラついた金髪を靡かせたアメリカンな道化姿で、手には明々と燃える一本の松明を持っている。その松明と開きっぱなしで狂ったような瞳孔から、彼女が狂気の化身である事が容易に察せられた。

 

 

 

「ごめんなさいね、突然ぞろぞろと押しかけちゃって。実はね、今日は貴女に手伝って欲しい事があって来たの」

 

 

 

 手伝って欲しい事? 

 それを聞いた瞬間、背中をぞわりと嫌な感触が這い回った。

 

 

 

「先ずは自己紹介からしましょうか。純狐、貴女からお願い」

 

 

 

 ヘカーティア様が促すと、彼女のそばで立っていたローブの女性が恭しくお辞儀をした。

 

 

 

「……貴女がドレミーね。私は純狐。神霊と呼ばれる存在です。月の都にいる嫦娥って蝦蟇を憎んでいますわ」

 

 

 

 丁寧な言葉の端々から漏れ出す深い憎悪。あまりに強いその負の感情に、私は一瞬だけ後ろに体を退いた。そんな事などお構いなしで、今度は小さな少女が元気に手を挙げた。

 

 

 

「はいはいはーい! 次はあたいだねー! あたいはクラウンピース! 妖精だよ! ヘカ様はあたいのご主人様なんだ! よろしくね! えっと……ドラマー・プリーストさん!」

 

 

 

 なんだこの妖精は? 地上にいる他の妖精に比べて生命力が強すぎる。ヘカーティア様の部下と言っていたが、もしや彼女は地獄出身か? ……どちらにしろ、頭は同じくらい悪いらしい。

 

 

 

「クラウンピース、彼女はドラマー・プリーストじゃなくて、ドレミー・スイートよ」

 

 

 

「あっ! そうだった! ごめんなさいドレミー・スイートさん!」

 

 

 

 呆れながら訂正したヘカーティア様に応じて、クラウンピースは元気に頭を下げた。

 気味が悪い。一体何が始まると言うんだ? 

 

 

 

「それじゃあ、早速だけど本題に入るわね。純狐、説明をお願い出来るかしら?」

 

 

 

「……分かった」

 

 

 

 ヘカーティア様に促され、純狐さんが淡々と説明を開始した。

 彼女達は、月の都に住む嫦娥という蛙とその夫を憎んでいる。純狐さんは子供を殺されたから。ヘカーティア様は地獄の太陽を撃ち落とされたからとそれぞれの理由があり、出会ってすぐに意気投合した。数ヶ月後、二人は嫦娥抹殺計画を企てたが、すぐにその計画に私が必要なのに気がつき、ヘカーティア様を先頭に私の下に来たそうだ。

 

 

 

「近いうちに、私達は月の都へ攻め込みます。連中は恐らく、穢れがどうとか言う理由で何処か安全な場所へ避難するでしょう。その際、まず一番に逃げ込む可能性が高いのはここなのです。なので──」

 

 

 

「ならばこちらが先回りして策を講じ、月の都の住人が夢の世界(ここ)に来た時点で周りを生命力で満たして封殺しよう……そう言う事ですね」

 

 

 

 そして私はそれを実現させる為に、一芝居を打って奴らをここに避難するように誘導して欲しい。要するに彼女達は、私にも自分達と同じ片棒を担いで欲しい。そう言っているのだ。

 

 

 

「ごめんなさい。いきなりこんな無理難題を頼み込んでしまって。でも、貴女の協力がなければこの作戦は成り立たないの。どうか、私達の為に力を貸してくれないかしら?」

 

 

 

「あたいからもお願いします! ドレミーさん! どうかご主人の為に協力してくれないでしょうか!」

 

 

 

 普段はヘラヘラ、飄々としているヘカーティア様が、その部下と共に頭を下げた。

 どうやら私はピエロだったらしい。ヘカーティア様は私に会いたいから、毎日ここに来ているのかと思っていた。しかし、実際は自分達の復讐の為に、夢の世界を利用する為だけに私に近づき、機嫌をとるようにしていただけ。謂わばビジネスの駒程度でしか考えていなかったのだ。

 断ってやる。こんな下らない茶番で私を惑わせた挙句、厚かましく私の世界にズカズカ入り込んで、しかもいけしゃあしゃあと協力を仰ぐ奴らに、誰が協力なんかするか。

 私は大きく息を吸い込んで否定の言葉を紡ごうとした……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………仕方ないですね、分かりました。この世界を崩壊させないと約束出来るのであれば、協力致しましょう」

 

 

 

 言えなかった。いや、言えるわけがなかった。ヘカーティア様に嫌われて、彼女と二度と会えなくなってしまうのが怖かったから。

 今にして思えば、私はヘカーティア様に会った時から毒されてしまったのかもしれない。あの方の真っ直ぐになりすぎたその性格に、この世界では眩しすぎる程輝いているその瞳に。

 あぁ、あの人が見せる甘美な幻に浸れるのなら、もうどうなったって構わない。例えそれが、私を破滅に導く松明の灯りだったとしても、この人と一緒に入れるのならそれでいい。

 私の了承を得られたヘカーティア様と友人、大切な従者の三人は、飛び上がるようにして喜びを分かち合っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 ステュクスの川に誓うと言う行為には、ある一定の順序がある。それを正しく行わなければ、真に契約が成立したとは言えないのだ。

 先ずは約束事をステュクスの川の名の下に誓う。雷が鳴ればそこで仮施行となるが、問題なのはここからで、誓った上でその水を飲み干さなければ永遠にその約束事は施行される事はない。

 無論、私はそれを知っている。知っていながら、彼女にそれを言わない。

 何故なら、この復讐劇自体が単なるお遊びであると知っているから。恨み、辛みはそれを正当化するだけのきっかけに過ぎず、私に協力を求めたのも遠慮を捨てられるオモチャとして拾っただけなのだ。多分、作戦は成功したとしても、その後に長い硬直状態が続いていずれ有耶無耶になるだろう。そうなれば、私はすぐに捨てられてしまう。

 

 

 

「……何処までも利用され続けるのね。私は……」

 

 

 

 いつ頃だろうか、彼女の目に私の姿が映っていない事を知ったのは。あの真っ直ぐ輝く瞳に、私の目には私の姿は映っていても、あの方の目には私の姿は映っていなかった。いつだってその目には、自分の欲と頼れる従者、そして大切な友人しか入っていなかった。それが悔しいとすら感じなくなってしまったのは、あの人が放つ甘い悪夢に浸り続けて、感覚が麻痺してしまったからなのだろうか。

 

 

 

「欲しい……欲しいよヘカーティア様……貴女の全てが欲しいんです……」

 

 

 

 ない物を求めるように、神様に縋るように、私は誰もいない部屋で天に向かって両手を差し出す。

 叶わない夢だと分かっているのに、春夢だと、蜃気楼だと分かっているのに、尚もその幻影を掴もうとする様は、見ていてとても滑稽なのだろう。ミイラ取りがミイラになったと、他の貘が見たら笑う事だろう。

 貴女が私に出会わなければ、私が貴女とさえ出会わなければ、こんな苦しみを味わう事はなかったのに。貴女が友人と一緒になって復讐するのを思い止まっていれば、こんな悪夢に苛まされる事はなかったのに。

 だけど、苦しみと引き換えに手に入れた、あのどんな蜜よりも甘いひと時は、貴女と出会わなければ絶対に手に入る事はなかったのだろう。

 だから私は思う。これは罰だと。

 地獄の底で一生の責め苦を味わうタンタロスのように、甘く熟れ、大きく膨れ上がったこの木の実(きもち)は決して収穫される事はなく、焼印のように死ぬまで痕を残す。それが、身の程知らずの私に宣告された有罪判決なのだろう。

 だからこそ私は願う。この悪夢が永遠に冷めない事を。

 ずっと、貴女の隣でその蜜を味わい続けていたい。貴女の瞳に私が映っていなくても、私は自分の瞳に貴女を映していたい。誰かに揶揄されてもいい。罵倒されてもいい。この先の運命が悲劇でもいい。私の世界、私の仕事、私の友、私の使命、私の全てを(なげう)ってしまってでも、私は貴女の側にいたい。

 悪夢を管理する私だから分かる。これは過去最高に悪イ夢だ。そこらの悪夢なんか比べ物にならないくらい危険で強く、しかし味は調節せずとも絶品なのは分かる。

 でも、一度でもそれを求めようとすれば、それは幻の如く消えてしまう。だから私はそれに手を伸ばす事が出来ない。ただ目の前にあるそれを、指を咥えて見ているしかない。

 手にする事が出来ない苦しみを感じながら、私は突っ伏して泣いた。流れ落ちた涙がパタパタと床に滲み、何事もなかったかのように消えた。

 

 



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親友のセレナーデ

 日課である弾幕ごっこでその日の私の気分が分かると霊夢は言う。弾幕の密度、形、その美しさが乱雑な時は、大抵機嫌が悪いそうだ。

 いつものように境内で行われた弾幕を終えて縁側でお茶を啜っていると、霊夢がお茶菓子を持って来た。相変わらず無愛想な表情だが、他の奴らに見せる表情よりも若干柔らかい事を私は知っている。長い付き合いの中で、飽きるように顔を合わせていれば、それくらいの機微は分かるのが親友だ。因みに今日はそこそこ機嫌がいいらしい。持ってきた桜餅に大福まで付いていた。

 

 

 

「で、恒例の占いはどうだったんだ?」

 

 

 

 面白がるようにして私は霊夢に尋ねる。最早当たり前となったこの占いは、最初こそ占われる事に抵抗感はあったものの、今では一日を平和に楽しく過ごす為のバロメーターとして私も重宝している。

 

 

 

「かなりいい方ね。負けはしたけど、弾幕の密度や美しさは魔理沙の方が勝ってたわ。あんた、今日この後何かお楽しみがあるんでしょう?」

 

 

 

「おぉ、よく分かったな。今日はこれからあいつと夏祭りに行く約束をしてるんだよ」

 

 

 

 あいつと言うのは、人里に住んでいる春という名の男の事だ。

 元々春は外の世界で建築士と言う仕事をしていたらしい。そこそこの信頼と実績はあったようで、今の若さではあり得ないくらいの地位と、それはそれは美人な嫁さんを貰ったそうだ。

 幸せ絶頂な状態の春を襲ったのは、紫の気まぐれによる無差別な幻想入りだった。あいつを魔法の森で見つけた時には既に幻想入りしてから何日か経った後だったらしく、衰弱しきった体は途方に暮れていて、それでも目には元の世界に戻ろうとする意志だけが先走っていて、見ているこっちが痛々しくて目を背けてしまいそうだった。

 半ば強引に私の家に連れ帰って、弱った体を看病しながら幻想郷の事を語った。この世界がどう言うもので、どんな奴がここに来るのかを。そして、一度この地に足を踏み入れたものは、二度と外の世界へ戻ることは出来ない事も。

 

 

 

「じゃあ……有里華や専務にはもう会えないって事なのか……?」

 

 

 

 弱々しい表情で尋ねた春の顔は今でも忘れられない。いきなり知らない場所に居たと思ったら自分はもう忘れられた存在だと言われ、ここから出る術はなく、しかも残された人達の記憶から自分の一切が無かった事にされているのだ。私だって同じ立場だったらと思うと背筋がゾッとする。だけど、ここで生きていくしかない以上は避けて通れない道だから、心を鬼にして徹底的に現実とやらを春に叩き込んだ。

 

 

 

「二人とも、あの時からは考えられない程仲良くなったわね。今考えると感慨深いわ」

 

 

 

 懐かしむように霊夢が言う。「それを言うなよ」と私は苦笑いして桜餅を口に運んだ。

 霊夢の言葉通り、出会ってから数ヶ月の間、私達の仲は最悪の状態だった。お互いに我が強く、何かにつけてすぐに口論になり、ご飯の時は互いに違う部屋で食べる有様。挙げ句の果てには霊夢やアリスの前で取っ組み合いの喧嘩になった事もあった。

 あの時のことを、二人は度々掘り返しては「どっちも素直じゃないのが悪い」と意地悪そうに言う事がある。私は幻想入り初日に霊夢の所に行こうとせずにいきなり現実を突きつけたのがいけなかったし、春は春で、いつまでも外の世界に未練を残して私に当たり続ける姿はとてもみっともなかったらしい。見兼ねたアリスに叱られて、霊夢達が見ている境内で不承不承お互いに謝ったのはいい思い出だ。

 

 

 

「あそこからだもんなー。私が春と今みたいに仲良くなったのは」

 

 

 

 どっしりと腰を据えて話してみれば、春はとても真面目なやつだった。言動や性格に若干軽い部分はあるが、建築の仕事に関しての知識は素人の私からしても目を見張るものがあったし、仕事にかける情熱も本物で、いつか人里の人間に今より安全でお洒落なデザインの家を建てたいといつも息巻いていた。

 加えてあいつは、人の話を聞くことも上手かった。私が研究に失敗した時はいつだってその原因を一緒に考えてくれたし、私の顔を見ただけで隠し事や悩みを見抜き、相談に乗ってくれることもしばしばあった。その度に出てくるあいつの助言は私にとって意味を成さないものが殆どだったが、それでも心は軽くなったし、春の相談を受けた後の研究は、大抵何かしらの成果を得られる事が多かった。

 そんな春は今、私の家を出て人里で暮らし、里の人達のために様々な家を設計している。たまに顔を合わせると、「忙しくてそろそろ休みたいや」と苦笑いを浮かべるが、その笑顔が本当に楽しそうで、本心から言っていない事が分かった。今のあいつは、幻想郷(ここ)へ来た時よりもずっと生き生きとして輝いている。

 

 

 

「普段はあんな性格なのに、いざ仕事となるとホント子供みたいに目の色変えるからね、あの人は。魔理沙もそこが好きになったんでしょ?」

 

 

 

「な、何を言っているんだ? 春とは単なる親友で、私はそんな……恋愛感情なんてこれっぽっちも抱いた事がないぜ?」

 

 

 

「ふーん……私の思い違いかしらね」

 

 

 

 興味なさそうに霊夢は呟くと、自分の湯呑みに口をつけて、ほぅと息を吐いた。それを見届けた私は内心大きく溜め息を吐く。相変わらず、霊夢の勘はこれでもかと言うくらい鋭く、しかもピタリと当ててくるから怖い。下手すると今日告白する事すらも見抜いていそうだ。

 霊夢の恐ろしさを改めて実感していると、鳥居の方から、宙に浮いた見覚えのある人形がこちらに向かっているのが見えた。そのすぐ後に、透き通るような肌を持つ人形遣いが小袋を抱えて階段を上って来た。

 

 

 

「あら、アリスじゃない。こんな時間に来るなんて珍しいわね」

 

 

 

「そうね、今日は人里でお祭りがあるでしょう? 私も人形劇の準備があるから、魔理沙に人里へ送ってもらうように頼んでいたんだけど……」

 

 

 

 アリスが生暖かい目で私のことを睨みつける。睨みつけられた私は乾いた声で「あははは……」と笑うことしか出来なかった。そう言えば頼み事をしてもらう代わりに送ってもらえるよう交渉していたんだっけ。すっかり忘れていた。

 

 

 

「それで、アンタが魔理沙を迎えに来たのは分かったけど、アンタが持ってるその袋は一体何なのよ?」

 

 

 

 そう言って霊夢が袋を指を指すと、アリスはニコリと微笑んだ。

 

 

 

「これ? 私が作った浴衣が入っているの」

 

 

 

「浴衣?」

 

 

 

「えぇ、魔理沙に頼まれて作ったのよ。夏祭りのために仕上げてくれって」

 

 

 

「ふーん……」

 

 

 

 やっぱり私の言った通りじゃない。そう言いたげに霊夢が私を見つめた。

 

 

 

「ち、違うぞ霊夢! これは単に気分の問題なんだ! お前だって、お洒落な服を着て出かけたい時だってあるだろ? それと原理は一緒だ! 最近魔法の研究も上手くいってないし、ここらで一つ気分転換をしようと──」

 

 

 

「そうだったの? 頼んできた時、『春に可愛いって言われるような浴衣にしてくれ!』って必死になってたから、てっきりそうだと──」

 

 

 

「わぁぁ! それを言うなアリスゥ!」

 

 

 

 強く否定しようとする度に、自分の顔がどんどん赤くなっていくのが分かる。天然を装っているであろうアリスはキョトンとした表情で私を見つめ、それに重なるように霊夢の顔にニヤニヤが浮かび上がった。

 

 

 

「何よ、隠さなくてもいいじゃない。水臭いわね……あ、まさか今日告白するとかそう言う──」

 

 

 

「そろそろ行こうかアリス! 時間あるから私も準備手伝うよ!」

 

 

 

「え? あっ、ちょっと!」

 

 

 

 半ば強引にアリスの手を引いて、箒に飛び乗り空へと繰り出す。やっぱり霊夢は気づいていたのか。そのままあそこに居続けたらもっと弄られていたに違いない。あの巫女はそういう事に関して本当に容赦がないから、離れて正解だったようだ。

 後ろの方からは霊夢の詰る声と一緒に上海の慌てた声が聞こえ、下からは箒にぶら下がったアリスが何やら喚いている声が聞こえてくる。

 アリスには少し悪い事をしたかなと思いながら、私は一先ずアリスの家へと箒を向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 里のお祭りが本格的に始まるのは、大体五時くらいからである。その頃になると暑さも大分薄れてきて、何処からともなくヒグラシの鳴き声が聞こえ始める。八月も終わりに近いこの時期は、秋の始まりを思わせる気がして、結構気に入っている。

 

 

 

「……はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 そんな穏やかで静かな空間を、私の荒い呼吸と下駄の音が切り裂いていく。待ち合わせの場所まであと少し。空を飛べば早いだろうが、箒なんか使ったら折角の浴衣の風情に似合わない。

 人形劇の準備を手伝うとはいったものの、浴衣を着付ける前まで荷物の運び出しから音のチェック、果てはリハーサルまで付き合わされ、全てが終わったのは待ち合わせの時間を大幅に過ぎた四時半だった。これが普通だとアリスは言っていたが、その時の意地悪そうな表情は、確実にさっきの事への意趣返しを含んでいた。

 春は遅れた事を許してくれるだろうが、私の方がそれでは気が済まない。なんだかあいつに借りを作ってしまったような気がしてしまうからだ。告白した後でも、私はあいつとは対等な関係を築いていきたいと思っている。こんな事でみみっちいと思われるかもしれないけど、それでも私は心の何処かでそう感じてしまう。

 果たして待ち合わせの場所に行ってみると、予想通り春は壁に背をもたれて本を読んでいた。白いシャツに青いズボンというシンプルな格好でありながら、どこか垢抜けて様になっていて、今の風景にとても溶け込んでいる。

 まるで物語の登場人物みたいだ。そう思っていると、気づいた春が顔をこちらに向け、片手で軽く会釈をした。

 

 

 

「おっす魔理沙、今日は珍しく遅いじゃんか。なんだ? まさか女の子の日か?」

 

 

 

 私の元へ寄ってくるなり失礼極まりない事を言う春に軽くボディを決める。呻き声を上げて蹲る春に、豚を見るような目で追い打ちをかける。

 

 

 

「相変わらずお前にはデリカシーと言う概念がないんだな。これが霊夢だったら命ないぞ?」

 

 

 

「まぁ、これが俺のキャラクターだから……うぅ、まだイテェや……」

 

 

 

 殆ど痛みなんかないはずなのに、春はよろよろと立ち上がって、歪んだ苦笑いを私に見せる。ピエロがよく似合うと自分で言っているだけあって、こう言った演技は本当に堂に入っている。

 

 

 

「遅くなってごめんな、春。アリスの手伝いやってたらこんな時間になっちまった」

 

 

 

「気にしなさんな。待つのも一つの楽しみだから」

 

 

 

「そ、そうか……」

 

 

 

 私の謝罪を、春は笑顔で受ける。予想通りあいつは遅れたことを許してくれたけど、普通こう言うシチュエーションは私が待つ側じゃないだろうか。楽しみが一つ減った気がして、内心複雑な気がしてしまう。

 

 

 

「そんなしみったれた顔すんなよ。折角の浴衣姿が台無しだぜ?」

 

 

 

「え……」

 

 

 

「その水色の浴衣、よく似合ってるよ。柄も紫陽花で風情があるし……って、なんでそんな驚いてんだよ。俺、そんな人でなしに見えるのか?」

 

 

 

 残念そうな顔をする春に、私は慌てて違うと答える。いきなり面と向かって似合うと言われては、驚いてポカンとするものだ。何より春にそう言われたから嬉しくて、一瞬だけ頭がショートしてしまったのだ。

 そう言うと春は「大袈裟すぎ」と笑いながら、私の頭を優しく撫でて目の前を通り過ぎた。

 

 

 

「さ、行こうぜ。俺、みすちーの鰻が食べたいんだ。人も出てきたし、早くしないと売り切れちゃうよ」

 

 

 

 振り返った先で、春が笑顔で手招きしている。夏の日差しにも負けないその眩しい笑顔に、私の顔も瞬く間にほころんでいって、いつのまにか春の手を引いて駆け出していた。

 

 

 

「そうだな! じゃあ早速ミスティアの出店に行こう!」

 

 

 

「わっ! ちょっと、引っ張らないでくれよ!」

 

 

 

 かくして、私達二人の夏祭りが幕を開けた。

 ミスティアの屋台で鰻を食べる事に始まり、射的で勝負して僅差で勝って春にたこ焼きと焼きそばを奢らせ、かき氷とラムネで涼んだ後は、盆踊りやアリスの人形劇の特別公演を楽しんだりと、ありとあらゆるお祭りのイベントや屋台を楽しんだ。途中、金魚掬いに立ち寄った時に「霧雨の嬢ちゃんも遂に結婚かぁ……」なんて店の親父が茶化した時には、反射で「私と春はまだそんな関係じゃないんだぜ!」と親父を突き飛ばしてしまったが、近い将来春と結婚すると考えたら、知らぬ間に顔が緩んで来てしまった。

 

 

 

「……おい、さっきから何にやけてんだよ。気持ち悪いぞ」

 

 

 

 そして今、私は春の手を引いたままある場所に向かって森を歩いていた。

 ハッとして顔を上げると、春が苦い顔をしながらこちらを見下ろしている。余程ニヤニヤしていたのだろう、私の行動にあまり驚かない春がここまでドン引きしている。

 慌てて顔を元に戻し、いつものように元気な表情で春に謝る。訝しむ様に春は首を傾げたが、何事もないように再び私に尋ねた。

 

 

 

「で、まだ着かないのか? そのお目当ての場所とやらにはさ」

 

 

 

「そう急かすなよ。もうすぐだからさ……ほら、ここだよ」

 

 

 

 私が指差す方向には、少し開けた広場があった。中央には大きな切り株があり、丁度ベンチのように座れる以外は特に変わった所はない。ただ、昼でも薄暗い林という事もあって訪れる人は少なく、天気がいい日はここで森林浴をする絶好の場所だった。霊夢やアリスにすら知られていない、私だけの秘密の場所だ。

 

 

 

「へぇ……こんな所があったのか。静かでいい所だな」

 

 

 

「だろ〜? ここは私のお気に入りなんだ」

 

 

 

「でも……結構人里から離れたぞ? ここから花火大会見れるのか?」

 

 

 

「大丈夫だって! この霧雨魔理沙さんに任せておけば上手く行くから!」

 

 

 

「本当か〜? 今までそう言って上手く行った試しが……」

 

 

 

 春が言いかけた瞬間、炸裂音と共に上空に大きな花が咲いた。それを皮切りにして、夜空に色とりどりの光が打ち上がる。浮かんでは消え、咲いて散る光の花々は、まるで今日この時だけ私を見てほしいと自己主張をしているみたいだ。

 

 

 

「すげぇ……ここから見る花火はこんなにも綺麗なんだな……」

 

 

 

 額縁のように区切られた空を見ながら、春は一人そう呟く。私も同じように空を見上げて、空に上がる花火を劇のワンシーンのように眺めていた。

 

 

 

「なぁ……」

 

 

 

「あのさ……」

 

 

 

 告白するならここしかない。そう思って声を掛けたら、春と思いっ切り被ってしまった。春から私からというお約束の譲り合いの末、春が先に話す事になり、私は春の方に向き合った。

 

 

 

「実はさ、俺、今日魔理沙に誘われて凄い嬉しかったんだ」

 

 

 

「え……そう、なのか?」

 

 

 

「あぁ、誘ってくれなかったら俺の方から声を掛けようかと思ってた位さ。今日は本当に楽しかった」

 

 

 

 予想外の展開すぎて頭がついていかない。どうして春からそんな話が出てくるんだ。こういう事に関しては全く鈍感な奴なのに。前の嫁さんはお見合いで結婚したと言っていたし、告白も向こうの方からだったらしいし。それでも嫁さんを愛していた事には変わりないけど、自ら好意を向けられてそれに応えるような所を、少なくとも霊夢や私は見ていない。

 

 

 

「で……だ。魔理沙、今日はお前に、伝えたい事があるんだ」

 

 

 

 ……嘘だろ? 

 耳を疑った。まさかこんな事が起こるなんて夢にも思わなかった。足の震えが止まらない。だけど、表面上は平静を装って、春が話始めるのを待った。

 

 

 

「魔理沙、実は俺……」

 

 

 

 しばらく逡巡した後、春の口から言葉が紡がれる。

 それを見越したように、今日一番の大きな花火が空に浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 季節外れの長雨が続いたせいで、博麗神社の境内は水たまりで溢れかえっていた。それでも今日は呆れ返るような秋空で、吹く風に乗って秋姉妹が何処かで踊り狂っているような気にさせる。

 

 

 

「……で、今日の私はどうなんだ」

 

 

 

 私はいつも通り、占いの結果を霊夢に尋ねた。

 

 

 

「……最悪ね。ここ最近、ずっと。弾幕にキレも、お得意のパワーも感じないわ」

 

 

 

 予想はしていた。だって、私でも判り切っていることを霊夢に訊いているのだから。

 今の私をアリスが見たら、きっと服がびしょ濡れになっている事を怒るだろう。弾幕ごっこに負けて、水たまりに叩きつけられて、泥だらけのみっともない格好で膝をついている私を、それでも優しい声色で叱ってくれるだろう。だからこそ、その優しさを向けられるのが余計惨めな気がして、多分私は泣き出してしまうかもしれない。

 

 

 

「一体どうしたのよ。どれだけ私に負けても明日にはケロッとして立ち向かってくるアンタが、こんなに辛そうな顔を見せるなんてありえないじゃない」

 

 

 

「……はは。ちょっと風邪を拗らせちまったんだ。結構重症っぽいし、今度永遠亭に行って薬を貰ってくるわ」

 

 

 

 我ながら苦しい言い訳だが、それでも霊夢は「ふぅーん……」と言うだけで、それ以上深くは追求して来なかった。

 

 

 

「あ、そういえば今日、春さんがここに来るの。私に用があるらしいけど、魔理沙も会っていく?」

 

 

 

 今一番聞きたくない相手の名前が、霊夢の口から飛び出して来る。そういえば今日だっけ、アイツが霊夢に相談するのは。

 

 

 

「……いい。大事な話なら邪魔しちゃ悪いだろ。風邪も感染(うつ)したくないし」

 

 

 

「だけど……」

 

 

 

「悪いな霊夢。今日はこの後、ちょっとした用事があるんだ。だから私は帰るよ。付き合ってくれてありがとな」

 

 

 

「ちょっと──!」

 

 

 

 霊夢が何か言い終える前に、箒に乗って逃げるように空へと繰り出す。向かう先は勿論私の家。止まったままの魔道書の解読を再開しないといけない。

 家に着いて着替えた後、すぐに机に座って解読を始める。犠牲がどうとか封印せよだとか、具体的な事を何も書いていないこの本は、解読を試みる私を何度も悩ませてきた。

 雑然とした頭で魔道書を読んでも頭に入る筈はなく、イライラだけが積み重なっていく。とうとう私は乱暴に本を置き、そのまま机に突っ伏した。積み重なったイライラは、研究が進まない焦燥感だけでなく、もっともっと別の所にあると感じるのは私だけなのだろうか。

 

 ──俺、今度結婚する事になったんだ。

 

 あの日、春は恥ずかしそうに、それでも嬉しそうな表情で私に打ち明けた。前に住居建築を依頼したお客さんがそのお相手だそうだ。なんの偶然か、その女の人は漢字は違えど、名前も容姿も外の世界の嫁さんと瓜二つだったらしい。

 

 ──もう運命だと思ったね。その日からプレゼント送ったりデート誘ったり、色々アプローチしてやっとこの前プロポーズ出来てさ。その時はもう天にも登る気持ちだったよ。

 

 今日のお祭りも、本当だったら彼女と一緒に回るつもりだったという。ところが、その彼女が今日に限って風邪をひいてしまったため、報告も兼ねて私と回る事にしたらしい。

 

 ──で、次は魔理沙の番だけど、魔理沙はどうしたんだ?

 

 無垢な表情で問いかけてくる春。

 そんな幸せそうな顔を見せられてしまっては、告白なんて出来るわけがない。その時の私は「おめでとう」だけを言って、適当な理由をつけてすぐにその場を去った。何故だかその時、涙は出なかった。

 

 

 

「……くそっ」

 

 

 

 その涙が、吐き出された言葉と共にひとりでに溢れ出てくる。一度流れた涙は留まるところを知らず、同時に鳴り始めた嗚咽が、空虚な部屋を埋め尽くしていく。

 

 ──なぁ、一つ教えてくれ。お前は私のことを、今までどう思っていたんだ? 

 

 別れ際に尋ねた質問の答えが、私の頭を支配して離れない。

 

 ──どうって……魔理沙は俺の恩人で、友人だよ。霊夢やアリスと同じ、かけがえのない親友さ。

 

 誤算だったとは到底言い難い。全ては私の勘違いだった。それで一蹴されてしまっても文句は言えない。言うつもりもない。ただ、あいつにとって私は行き倒れかけの所を助けてくれた単なる「恩人」で、喧嘩を経て気が置けない仲となった単なる「女友達」だった。それ以上でもそれ以下でもなかったのが悔しくて、女として歯牙にも目の端にも掛けられていなかったのがショックで、何よりそれに気がつかないで馬鹿みたいに一人で舞い上がっていた自分が許せなかっただけだ。

 何度も忘れようとした。何度も春を恨もうとした。だけど、忘れようとする度に春の声が私を呼び止めて、恨もうとする度に春の笑顔が決心を鈍らせて、やり場のない焦燥と悔しさがまた私を苦しめる。いっそ全部封印してなかった事に出来れば楽なのに。こんな姿を霊夢が見たら、笑われるに決まってる。

 

 

 

「……何を迷っているんだよ。私」

 

 

 

 涙まみれの目の端を右手で拭い、再び魔道書に視線を合わせる。

 私は怖かったのかもしれない。魔道書を解読する事で、楽しかった春との想い出が全部消えてなかった事にされてしまうのが。

 この魔道書の言っていることは、もう分かりきっている。犠牲にするものというのは、術者が持つ一番大切な何かだ。それが大きければ大きいほど、大切なものであればあるほど、得られる魔力も膨大なものになる。その時の代償がないとは言い難いが、私の見立てではそれはおそらくないと言い切れるだろう。仮にあったとしても、それは多分微々たるものだ。命に関わる代物ではない。

 それでもなお決心が揺らぐあたり、私は本当に臆病だと思う。もう少し勇気を出していれば、春は振り向いてくれるかもしれなかったのに。そう考えるとまた涙が出てきてしまう。あぁ、まだ未練タラタラなんだなぁと、苦笑いしてしまいそうだ。

 

 

 

「……よし、やるか」

 

 

 

 やめよう。いつまでもうじうじ悩んでいるなんて私らしくない。明るくて活発で、全てにおいて真っ直ぐなのが、霧雨魔理沙の真の姿じゃないか。

 私は席を立ち、儀式の準備を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 幻想郷にクリスマスイブとかいうのが伝わってきて、もう数年が経つ。私も春と一緒に過ごす事を何度も夢見ていたが、春が結婚する以上、今年からはそれも終わりだ。今夜は霊夢やアリスと一緒に過ごそうかなと考えている。

 

 

 

「邪恋『実りやすいマスタースパーク』!」

 

 

 

 スペルカード宣言とともに、私の持つ八卦炉から細い予告線が現れる。いつもの事だと霊夢がグレイズを試みるが、その時点で奴はもう私の術中にはまってしまった。

 

 

 

「な、何よこれ!」

 

 

 

 どうやら霊夢は気づいたらしい。気づいたとしてもどのみちもう遅いが。

 あの魔道書から得た魔力を元に作ったこのスペカは、ある一つの特徴がある。予告線自体にも魔力を流し、相手の動きを拘束して確実に当たるように工夫しているのだ。発射するまでの準備時間が長く、その分だけ隙も大きいが、予告線の拘束がそれをカバーする事で、前のマスタースパークに比べて格段に当てやすくなった。

 策に引っかかった霊夢に逃れる術はなく、予告線の後に放たれた極太のレーザー砲によって無慈悲にも被弾し、地面に叩きつけられた。実戦で使ったのはこれが初めてだが、ここぞというタイミングで使えば弾幕ごっこで六、七割くらいまで勝てる確率は上がるだろう。

 

 

 

「へっへー! 見たか霊夢!」

 

 

 

 勝利の喜びを感じながら地上に降り立ち、勝ち誇ったように指を向ける。普段滅多に感情を出さない霊夢が、珍しく悔しそうな目で私を見つめ、よろよろと立ち上がった。

 

 

 

「ちょっと、ずるいじゃない! 今の今までそんなの隠し持ってたなんて!」

 

 

 

「調整に時間がかかったから仕方ないじゃないか。それに、新兵器を最後まで隠しておくのは定石だろ?」

 

 

 

「それはそうだけど……久しぶりに魔理沙に負けたから、なんか悔しいわね……」

 

 

 

 口ではそう言ってはいるものの、もう気持ちを切り替えているのか泥を手で払い落としながら澄まし顔で私にこう尋ねた。

 

 

 

「それにしても……あんた、最近変わったわよね。弾幕ごっこもそうだけど、どこか吹っ切れた感じがする。やっぱり……その、春さんの事があったからかしら?」

 

 

 

 最後の方が妙に歯切れが悪いのは、霊夢なりに私を慮ってのことだろう。なんだかんだでこいつも不器用な奴だ。

 

 

 

「まぁな。そりゃ最初は私も辛かったよ。どうして私じゃないんだーってさ。だけど、いつまでもメソメソしてたって前に進めるわけじゃないし、だったら早いとこ吹っ切れて何かに打ち込んだ方が生産的だろ?」

 

 

 

 私の答えに霊夢は納得していないのか、「でも……あんた……」と、どこか釈然としない。「まぁ、気にすんな」と軽く流し、今度は逆にこっちから質問をする。

 

 

 

「なぁ、霊夢。そう言えば今何時だ?」

 

 

 

「え? 日の傾き的にもうすぐ午後四時くらいだと思うけど……」

 

 

 

「そっか。じゃあ、これから春に会ってくるよ」

 

 

 

「ちょっと魔理沙、それって──」

 

 

 

 霊夢が何か言い終わる前に、私は箒に乗って空へと舞い上がった。

 

 

 

「じゃあな霊夢! 私は春たちと会った後でキノコとか持ってくるから! お前達は先に準備しておいてくれよ〜!」

 

 

 

 そのまま空を飛び立ち、家までのんびりと箒を飛ばす。

 予め準備してあった袋を背負い、待ち合わせの場所までひとっ飛びすると、黒いコートを着た春ともう一人、見知らぬ女性が肩を寄せ合って立っていた。多分、あれが春が言ってた百合花って言う人なのだろう。

 

 

 

「おぉーい、春〜!」

 

 

 

「よぉ〜魔理沙〜! 久しぶりだなぁ……っておい! お前なんだよその姿は!」

 

 

 

 呼びかけながら地上に降り立つと、私の姿に驚いた春が指を指しながら私に近づいて来た。まぁ、仕方ないか。あいつと会うの、優に二ヶ月位は超えてるし。

 

 

 

「ん〜? あぁ、これのことか? 何も特別な理由はないよ。イメチェンだイメチェン。乙女の私にだってお洒落したい時はあるんだぜ?」

 

 

 

 そうして私は短くなった髪を触る。事情を知らない春は、急な私の姿に慌てふためき、百合花は「似合ってるならいいんじゃない?」ときょとんとしている。春のその顔を見られただけでも、髪を捧げた甲斐があったというものだ。

 そう。私が犠牲にしたのは、春に抱いた恋心。その象徴として、自慢の髪と夏に着たあの着物を供物にしたのだ。もう私には必要ないし、これ程大きくて大切なものは早々ないからだ。

 魔道書の力は絶大で、儀式から三日で自分でも分かるぐらいの膨大で強大な魔力をその体に宿した。この二ヶ月、私はずっと魔法の森で魔力の制御を行い、苦心の末に漸くコントロールが上手く行くようになった。心配していた代償も、髪を定期的に捧げるだけでそれ以外は要求されていない。虫がいい話もあったもんだと、後で苦笑した程だ。

 

 

 

「まぁ、細かい事は気にするな! それより、そっちの女の人が春の婚約者か?」

 

 

 

 そう尋ねると、隣にいた女性がちょこんと頭を下げた。

 

 

 

「はい、北見百合花と申します。魔理沙さんの事は春さんから色々聞いております。今日の天体観測も、魔理沙さんが提案してくれたのでしょう?」

 

 

 

「おう、そうだ! 君たちカップルももう少しで夫婦になるからなぁ。思い出作りの一環として、こうして誘ったんだよ」

 

 

 

「わざわざありがとうございます。お話に書いた通り、優しくていい人ですね」

 

 

 

 再び百合花がちょこんとお辞儀をする。まるで小動物のような可愛さ。春が惚れるのも分かる気がする。私には絶対に真似は出来ないだろう。

 

 

 

「いいんだいいんだ! 今日は気にしないで楽しんでくれ! それじゃあ早速……って、どうしたんだよ春。今更予定変更とか言うんじゃないよな?」

 

 

 

「いや……そうじゃないんだ。髪が長かった頃のお前の方が可愛かったから、勿体ないなぁって……」

 

 

 

 目的地に歩き出そうとした足が、春の言葉で立ち止まる。

 後悔がなかったと聞かれれば、勿論あったと答えただろう。髪を生贄に捧げたことは、それまでの私を殺す事と同義だからだ。どうせ見てもらえていないならいいやという、多少の自棄も含んだ儀式の後で、やっぱり止めておけば良かったという取り返しのつかない感覚も当然抱いた事も何度かある。それを押し殺して、全部忘れて生きようと考えていたところにこれだ。ずるいなんて言葉じゃ足りない。どうしてそれをもっと言ってくれなかったんだと、思いつく限りの罵倒を浴びせてやりたい。

 だけど、これでいいんだ。私の恋はもう叶わない。無論、私はあいつ以外の男と恋をするつもりもない。なら、もう封印しよう。私は親友の立場から、あいつらの事を応援するんだ。気づいて貰えなくたっていい。あいつが幸せならそれで十分だ。

 いっそ男に変わった方がもっと楽なんだろう。気兼ねなく側に居られるなら、男として生まれれば良かった。

 

 

 

「おい、魔理沙? なんとか言ってくれよ」

 

 

 

 何も答えない私を心配して、春が窺うように声をかける。やめてくれよ、そんな顔されたら今までしてきた決心が鈍るじゃないか。

 もう私は髪なんて伸ばさない。浴衣なんかのお洒落もしない。後の恋や女の全てなんてかなぐり捨ててやる。あいつの側に居ることが私にとっての幸せだ。それ以外の幸せは要らない。例えそれが偽りのものだったとしても、その幻想を抱いたまま死ぬまで生きたいんだ。こんな事を霊夢やアリスが聞いたら、冗談でしょって怒ってくれるのだろうか? 

 

 

 

「……何言ってんだよ。私が可愛いなんて、春らしくないぜ。間違っても嫁さんの前でそんな事は言う言葉じゃない。浮気だなんだと変な誤解を招くぞ?」

 

 

 

「そ……そうか……悪かった」

 

 

 

「ほら! そんな事より早く行こう! いいスポット知ってるからさ!」

 

 

 

 半ば誤魔化すように歩みを再開し、目的地まで二人を案内する。場所は春と来たあの場所だ。きっと二人なら気に入ってくれるだろう。

 ふと空を見上げると、暗くなりかけた空に、少し早い流れ星が流れた。涙のように見えるそれは、夏に見た花火のように儚く消えた。

 

 

 




……遅くなって申し訳ありません……どうも、バレンタインにはバイトを入れました。焼き鯖です。

ここまで投稿するのに約五ヶ月かかりました……本当にごめんなさい!モチベーションが死にかけてました……

次回はもう少し早くあげようと思います(フラグ)。それでは次回までごゆるりと……していただけたら幸いです。


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旅ガラスの歌(1)

皆さんこんばんは。忘れた頃にやってくる男、焼き鯖です。毎度のことながら遅れて申し訳ありませんでした。

今回は、久しぶりに前後編と分かれます。書いているうちにどんどんどんどんボリュームが上がり、前編だけで16000字以上にまで及びました。

正直ここまで来るとは思わなかった……重すぎて夜に読む分には胃もたれするかもしれませんが、楽しんで頂ければ幸いです。


 幻想郷に、夜が降りる。

 それは地底の世界とて例外ではない。人工的に作られた日輪が沈めば、同じく人工的に作られた月輪が空に浮かぶ。山の神社の二柱の神が、河童や地霊殿の八咫烏と共に作ったこの人工灯は、その正体を明かせば風情のかけらもないものだが、天井で輝くその姿は地上のそれと見まごう程精巧に作られており、地底の陰鬱な雰囲気を見事に打ち消している。

 最初は明るく騒がしかった旧都の歓楽街も、一つ、また一つと明かりが消え、徐々に闇の静けさが戻って来た頃、一人の少女がその街道を歩いていた。

 輝くような金髪を持つ彼女の手の中には、およそ幻想郷の雰囲気には似つかわしくない小さなギター……俗にウクレレという楽器があった。地底とはいえ、今日は月明かりが特別明るいから、ふと思い立って何処かで一曲弾くのだろうかと誰もが思うかもしれない。

 しかし、彼女の鬼気迫るような表情を見たらそんな呑気な考えも吹き飛んでしまうだろう。それ程までに彼女の心は荒れに荒れていたのだ。

 彼女はそうして暫く歩き続け、外れにある自分の家に帰り着いた。が、彼女は家には入らず、ぐるりと裏手に回って桶一杯に井戸水を張った。

 そのまま彼女は懐から火打ち石を取り出し、火をつけようと石を打ち鳴らす。カチカチという小さな音と共に火花が飛び、蛍のように闇に沈んだ地底の世界を照らしては消える。

 しかし、肝心の火は一向に出てこない。次第に彼女の苛立ちは濃くなり始め、それに比例して石を打ち付ける手も荒くなっていく。

 とうとう諦めた彼女は乱雑に石を投げ捨てると、叩きつけるようにウクレレを振り上げた。

 

 

 

「やぁ、こんばんは」

 

 

 

 瞬間、彼女の表情と動きが男の声によって固まる。

 ぎこちなく横を見ると、闇に溶け込みそうな程黒いコートに身を包んだ男が、恭しくシルクハットを取ってお辞儀をしていた。

 

 

 

「楽しそうだね。何してるの?」

 

 

 

 頭を上げた男の目尻には、涙のような雫と金平糖のような星がペイントされており、顔には笑顔の表情が貼りついていて怒っているのか本当に楽しくて笑っているのかすらもわからない。

 見る人が見れば恐怖しかねない状況だが、彼女の表情に恐怖の色はない。むしろ男が何故ここにいるのかという驚愕の方が大きく、ぱっくりと開かれた口からは「どうして」という言葉が今にも溢れて来そうだった。

 

 

 

「どうしたの? 何か言ってくれなきゃ僕わからないよ」

 

 

 

 暫く続いた静寂を切り裂くように男が問いかける。それに合わせるように少女の腕がだらりと下に落ちる、持っていたウクレレは力なく手から離れ、カランと地面に音を鳴らした。

 空に浮かぶ月はただ、黙ってそれを見守っているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「アーハハハハハハハハハハハハハハハ!」

 

 

 

 地底の世界に、狂ったような高笑いが響く。

 末期の狂人か? はたまた残酷な殺人鬼か? いや違う。答えは道化師だった……もう一度言う。この笑い声の主は道化師であり、決して狂人でも、どこぞの子供を攫う殺人鬼でもない。

 カラフルなシャツにオーバーオールという出で立ちの赤鼻の彼は、頬に星と雫のペイントを施し、旧地獄の通りの一角で玉乗りジャグリングを披露している。集まった子供達は皆楽しそうに手を叩き、もっとやってと大はしゃぎ。遂には通行人も見物し始め、ちょっとした大道芸ショーの様相を呈していた。

 そのうち調子が出て来たのか、ピエロはいきなり持っていたクラブを高く放り投げ、その勢いのまま軽やかに跳んで身を下に翻した。

 恐らく逆立ちをしたかったのだろう。翻したまでは良かったがボールに手がついた瞬間、バランスを崩して滑り落ち、そのまま思いっきり顔を打ち付けてしまった。それだけならまだいいが、落下してくるクラブの事を計算に入れていなかったらしく、ゴンゴンゴンと小気味のいい音を立ててクラブは頭に墜落した。

 その様子を見て子供達や見物人は大いに笑い、拍手をする。立ち直りが早いのかピエロはすぐに立ち上がってお辞儀をし、「みんなありがとー!」と、無邪気な挨拶をしていた。

 

 

 

「……何あれ」

 

 

 

 その様子を遠巻きから眺めている三人の少女。そのうちの一人が侮蔑を込めた表情で呟いた。

 

 

 

「馬鹿らしい。たかが玉乗り失敗しただけじゃない。なのにあれだけの拍手なんて、妬ましいにも程があるわ」

 

 

 

「あれ、今噂のピエロのQちゃんだよ。数日前に突然現れてさ、あんな風に色んな芸を子供達に披露してるんだって。パルスィ知らなかったの?」

 

 

 

「私は知ってた……パルスィ、遅れてる……」

 

 

 

「ちょっとキスメ、これでも私は橋姫よ? ずっと橋の番をしてたけど、あんな奴一回も通った事はなかったわ」

 

 

 

 パルスィと呼ばれるエルフ耳の少女が、ジトリと桶に入った女の子を見つめ、そう返す。キスメと呼ばれた桶の少女もまた、同じようにパルスィを見つめ返し、「だってホントの事……」と挑発し、残されたもう一人の金髪少女がそこまでと二人の間に入って諌める。

 

 

 

「はいはい。パルスィ、そんな事でいちいち怒らないの大人気ない。それよりキスメ、早く行かないとあの人にお礼出来なくなるよ?」

 

 

 

「一番子供っぽいヤマメに言われたくないわ。自称アイドルと名乗っていれば全て許されると考えてるその根性が妬ましい」

 

 

 

「同感……今日の待ち合わせに遅刻した人に言われても……説得力ない……」

 

 

 

「二人とも酷くない!? 私には正論を言う権利すらないの!?」

 

 

 

「ねぇパルスィ……そんな事より……早く行こう? ……こんな事してる暇なんてないの……」

 

 

 

「そうね。誰かさんのせいで余計な時間食っちゃったわ」

 

 

 

「あんたらのせいでしょーが全く……って! あぁもう私を置いていくなー!」

 

 

 

 ヤマメと呼ばれる少女が騒ぐ中、パルスィとキスメがスタスタと先を行く。一見すると不仲にも見えるが、彼女らにとってはこれが通常運転である。物静かなキスメと真面目なパルスィと、ムードメーカーないじられ役のヤマメ。性格こそ真逆の三人組だが、それぞれがそれぞれの短所を補い合う、まさに親友と言った間柄だった。

 そのキスメが、通りかかった人間に助けられたという。

 地霊殿の八咫烏が起こした異変以降、地上から大勢の人間や妖怪が行き来するようになり、旧地獄は昔と比べて大分賑やかになった。しかし、まだ差別意識が払拭されておらず、観光客の中には平気で暴力を振るい、心無い罵倒を浴びせる輩が少なくなかった。

 キスメも、その被害を受けた者の一人だった。彼女の場合は見た目とは裏腹の凶暴性を隠すために、ヤマメやパルスィから大人しくしていろと言われていたのが仇となり、連日のように攻撃されていた。旧都の面々に心配かけまいと黙っていたが、収まるどころか寧ろ激化する一方で、終わりの兆しが見える事はなかった。

 そんなある日の事である。

 

 

 

「おいおい……あんたら、こんな所で何やってんだ」

 

 

 

 いよいよ攻撃が本格化し、キスメが三人のチンピラに囲まれていた時、一人の男がふらりとやってきて、のんびりとした口調でそう咎めた。

 

 

 

「なんだテメェは。関係ないだろ」

 

 

 

「大ありさ。俺はあんたらと同じ人間だとは思われたくないからな」

 

 

 

 男は尚ものんびりとしてチンピラ達を見つめている。と、三人の中で一番ガタイのいい者が、ねめつけるように男に近づいた。

 

 

 

「この俺が誰か分かってんのか? 天下の大入道様に向かって舐めた口聞いてんじゃねぇよ。沈めるぞオラ」

 

 

 

 脅すように言うと、男は興味深そうに目を少し見開いた。

 

 

 

「へぇ……生コンクリートもなしに俺を沈めるって言うのか。興味があるな、具体的にどうやるんだ?」

 

 

 

「決まってんだろ……オメェら! やっちまえ!」

 

 

 

 瞬間、後ろに控えていた二人が襲いかかる。頭目よりも劣るとはいえ、後の二人もかなり体つきがいい。苦戦は必至であるとキスメが考え、包丁を抜こうと手をかけたその時、

 

 

 

「はっ!」

 

 

 

 ほぼ一瞬の事であった。襲いかかってきたチンピラはボロボロの状態で地に伏されていた。にもかかわらず、襲われた男は汗一つかいておらず、それどころか息も上がっていない。

 

 

 

「……単なるハッタリなら、それなりの実力をつけてからものを言うんだな」

 

 

 

「チッ……オメェら! ずらかるぞ!」

 

 

 

 男が睨みつけると、悔しそうに顔を歪めてチンピラ達は逃げ出して行く。その姿が見えなくなるのを待ってから、男はキスメに声をかけた。

 

 

 

「お嬢ちゃん、怪我はないかい? あんな奴らに囲まれたら大声で叫ばなきゃダメじゃないか」

 

 

 

「……別に……あんな奴ら……その気になれば一瞬で……殺せた……」

 

 

 

「……そうかそうか、お嬢ちゃんは強いのか。だから今までどんなに酷いことされても、何もせずに黙って耐えて来たのか」

 

 

 

 のんびりとした、それでも強い労わりを持った声色で男はキスメの頭を撫でる。拒絶されると思っていたキスメは、男の予想外の行動に驚き、目を見開いた。

 それを知ってか知らずか、男はスッと立ち上がってこう尋ねた。

 

 

 

「ところでお嬢ちゃん、貧民街が何処にあるか知ってるかな? 貧乏な人達が住んでいる場所なんだけど……」

 

 

 

「えっと……あっち……」

 

 

 

 キスメが指差すと、男はニコリと笑って「そっか、ありがとう」と頭を撫で、荷物を持って歩き始めた。

 

 

 

「……あ、そうそう。さっきの事、君の家族か友達に報告した方がいいよ」

 

 

 

「……ふざけないで。私は……」

 

 

 

「分かってるよ。君は強い。だからこそ、何処かで必ずボロが出る。妖怪は精神が主体だから、このままだと確実に死ぬ。後、上手く髪の毛で隠しているつもりかもしれないけど、その痣も近いうちにバレて問題になるよ?」

 

 

 

 言われて、キスメは右の頬に触れる。男の言う通り、あと少し髪が短ければ確実に見える位置に大きな痣があった。「お嬢ちゃん的にはむしろそっちの方が困るんじゃないのかな?」と、男は笑いながら尋ねた。

 

 

 

「……貴方……一体……」

 

 

 

「単なるお節介焼きのおじさんさ。じゃあね、縁があったら、また会おう」

 

 

 

 そう言って男は路地裏に消えた。

 この一件によってキスメはパルスィらに守られるようになり、事態も段々と沈静化していった。が、男の姿を見ることは二度となかったという。

 

 

 

「……で、ここがキスメの言ってた恩人が住んでるところ?」

 

 

 

 そして現在。

 ヤマメがそう問いかけると、キスメはコクリと頷いて「間違いない……」と呟く。

 大通りを抜け、路地裏の貧民街を少し進んだ三人の目の前には、使い込まれた古いテントがあった。

 地底にもテントは少数ながら存在するが、目の前のそれは明らかに外の世界の代物であり、大きさも他と比べて立ち上がった人がすっぽりと入る程の大きさだった。

 どうやらキスメの恩人に似た人が、この近辺で目撃されているらしい。

 

 

 

「見間違いじゃないの? 確かキスメが助けられた人って……」

 

 

 

「黒くて高い帽子と……コートを着てた……後、大きな鞄も持ってた……」

 

 

 

「ならそれなりに身分がある人よ。そんな人が貧民街に住むなんてあり得ないわ」

 

 

 

「パルスィ、そう焦らないでさ、少し待ってみようよ。時間はまだあるんだし」

 

 

 

 ヤマメが取りなそうとした時、リズミカルな靴の音が背後から聞こえてきた。振り返ると先ほどのピエロが、珍しい物を見るような目でこちらを見つめていた。

 

 

 

「あれー、お客さんなんて珍しいねー。どうしたのー? 僕に何か用ー?」

 

 

 

 通りで見た時と変わらない陽気さに、パルスィは思わず顔をしかめた。

 

 

 

「お姉さん怖い顔だねー。そんなんじゃ幸せは歩いて来ないよー? もっと肩の力抜いて笑わないとー」

 

 

 

「私はアンタに顔をしかめたの! 何? 自分は悪くないとでも思ってるわけ? ふざけた事言ってると呪い殺すわよ!」

 

 

 

「まぁまぁパルスィ。ここは私に任せて……ねぇ、Qちゃん。ここって君の家なの?」

 

 

 

 ヤマメがそう尋ねると、ピエロは「そうだよー!」と元気に答えた。

 

 

 

「じゃあさ、この辺りに黒いコートを着た男の人を見たことないかな? この子が前に助けられたって言ってるんだけど……」

 

 

 

 ヤマメがそう訊いた瞬間、ピエロの表情が固まった。楽しげな笑顔は一転して真面目な表情に変わり、掲げた腕はゆっくり下がっていく。まるで憑き物が落ちたかのように雰囲気が静かなものになっていた。

 

 

 

「……分かった。ちょっと待っててね」

 

 

 

 そう言って彼はテントの中に入っていった。それを見計らってパルスィが「何あいつ、ホントムカつくわ!」と吐き捨てるように呟く。

 

 

 

「……あのねぇパルスィ、幾ら何でもその言い方はないと思うよ? 見てよ、キスメが完全に怖がってんじゃん」

 

 

 

「今日のパルスィ……なんか……怖い……」

 

 

 

 普段滅多に怖がる事のないキスメが、呆れるヤマメの影に隠れて震えている。だが、今のパルスィにとってそれは脅しの道具にすらなっていないらしい。尚も二人に向かって攻撃的な態度を取り続ける。

 

 

 

「あんな奴を信用しろって方がおかしいわよ! どう考えたって怪しいじゃない!」

 

 

 

「そうかなぁ? 私はそうは思わないよ。なんて言うのかな……ロマン? 安らぎ? ……うーん、とにかく、Qちゃんには他の人には無い特別な何かがあるんだよ!」

 

 

 

「えらくふわっとしてるわね。それだからアンタは自称アイドルなのよ!」

 

 

 

「なにおう! そこまで言われたら幾らヤマメちゃんでも怒るよ!」

 

 

 

 両者の間に火花が走る。その瞬間、バサリと音を立ててテントが開かれた。

 中から出て来たのは、キスメが言った特徴と一致する服装をしたピエロだった。しかし、先程の騒がしさは鳴りを潜めており、思慮深く冷静な表情を湛えながらこちらを見つめている。

 

 

 

「……お待たせ致しました」

 

 

 

 静謐で柔らかな声。だが、その裏から見え隠れする確かな熱意を感じさせるその声が、その場の空気をあっという間に支配する。

 あれ程の騒々しさを見せていながらそれを一切感じさせないそのスイッチの切り替え方に、ヤマメとパルスィは何も答える事が出来なかった。ただ一人、キスメだけは「……おじさん……久しぶり……!」と顔を輝かせながら、入っている桶ごと彼の足元に飛びついた。

 

 

 

「……やぁ、この姿では久しぶり。元気そうで何よりだよ」

 

 

 

「あの二人が守ってくれた……」

 

 

 

「そっか、それを聞いてホッとしたよ……声、掛けられなくてごめんね。ショーで見かけた時から心配だったんだ」

 

 

 

「……頭撫でてくれたら、許してあげる……」

 

 

 

「お安い御用さ」

 

 

 

 そのまま優しい手つきで頭を撫でると、気持ち良さそうな声を上げながら更に擦り寄せてくる。そんなキスメに微笑みながら、男は二人の方に向き直った。

 

 

 

「……申し遅れました、烏丸久兵衛と申します。こんななりをしていますが医者をやっています。以後お見知り置きを」

 

 

 

「あ……あぁ! こちらこそ宜しく。私は黒谷ヤマメ。その桶の子がキスメで、こっちの嫉しそうな奴が水橋パルスィだよ」

 

 

 

 出遅れたヤマメが慌てて挨拶を交わす。それを受けた久兵衛は「宜しくお願いします」と三人に頭を下げた。

 

 

 

「まさかピエロのQちゃんがキスメの恩人だったとはねぇ……正直言って驚いたよ」

 

 

 

「よく言われます。まぁ……慣れたものですけどね」

 

 

 

 ため息混じりのヤマメの呟きに、久兵衛は笑顔で返す。緊張の糸が解れてきたのか、ヤマメの方にも笑顔が浮かぶ。

 

 

 

「いやぁ、それにしてもQちゃ……久兵衛さんの芸は凄いねぇ。いつも楽しませて貰ってるよ」

 

 

 

「ありがとうございます。本業の片手間ですが、そう言われると嬉しいです」

 

 

 

「そう言えば医者もやっているんだったね。なんで今まで隠してたのさ」

 

 

 

「……機会がなかっただけです。色んな所を回っていたので、中々……ね」

 

 

 

「そうなんだ……あ、じゃあ今から歓迎会をやろうよ! 勇儀に頼んで場所用意してもらってさ! みんなも呼んでワイワイ騒げばきっと楽しく──」

 

 

 

 そこでヤマメの言葉は断ち切られた。彼女の後ろから、言いようのない殺気を感じたからだ。

 恐る恐る振り向くと、緑色の瘴気をまき散らし、ギラギラと目を光らせたパルスィが、憎々しげに睨みつけていた。

 

 

 

「ヤマメ! 何勝手な事言ってんのよ! 私は許さないわよ!」

 

 

 

 普段は理知的な彼女にしては珍しい、怒りがこもった声色が辺りに響く。

 

 

 

「大体、アンタ達は甘すぎるのよ! 何処の馬の骨とも分からない奴にこんな早くから心を許すなんて! 妬ましいにもほどがあるわ!」

 

 

 

「だけどパルスィ、こうでもしなきゃ何も始まらないでしょ? それに……」

 

 

 

「何を始めるのよ! むしろ始めなくていいわよ! だって……」

 

 

 

「パルスィ!」

 

 

 

 遂にヤマメが声を荒げた。パルスィの口が閉じられ、キスメは驚いて肩を竦める。

 

 

 

「確かに、パルスィが余所者に対していい感情を持ってないのは分かるよ。けど、今回ばかりは少し行き過ぎてる。もし久兵衛さんが悪い人だったらキスメはきっと助かってなかったと思うし、仮に悪い奴だったらとっくに勇儀が追い出してるよ。旧地獄の結束力は伊達じゃないのは知ってるでしょ?」

 

 

 

「それでも……私は認めないわ。こんな奴を歓迎するなんて出来ない」

 

 

 

「パルスィ……」

 

 

 

 尚もヤマメが説得に臨もうとしたその時、

 

 

 

「それなら……俺が歓迎会を開きましょうか?」

 

 

 

 割って入ってきた久兵衛が、遠慮がちにそう提案した。

 

 

 

「俺もしばらく滞在する予定ですし、自由制にしておけば無理に来なくても大丈夫かなと思います。何かしらのルールがあるならまた別の案を考えますが……」

 

 

 

「いや、特にルールとかは決めてないよ。けど……いいの? 久兵衛さんは客人だから、逆に私たちが取り仕切らなきゃいけないんだけど……」

 

 

 

「構いませんよ、こう言った事には慣れてますので」

 

 

 

「……私は……賛成」

 

 

 

 彼のコートの裾を掴んだキスメも、嬉しそうに同調した。

 

 

 

「じゃあ決まりだね。呼びかけは私達がやるから……それでいいよね? パルスィ」

 

 

 

「……勝手にすれば? 私はもう帰るから」

 

 

 

 言い残して、彼女は三人から背を向けて歩き出した。キスメもヤマメも、呼び止めることはなかった。

 少し先で路地を曲がった所で、大きな、大きなため息をつく。侮蔑と呆れが入り混じった、重いため息だった。

 やがて、後ろの方から楽しそうな声が聞こえ始めた。本格的に計画を立て始めたのか、それとも何か別の事で盛り上がっているのか。どちらにせよ嫌な気持ちになるのは変わらない。

 後から鉢合わせるのが嫌だから、わざと舌打ちをして一歩を踏み出した。爪先に当たった石ころが、爪弾きになった今の自分を見ているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 烏丸久兵衛の名は、歓迎会をキッカケに旧地獄全体に広まっていった。

 広まったと言っても、ピエロの正体がわかったと言うだけで、特に尾ひれがついた胡散臭い噂が流れた訳ではない。が、行われた歓迎会の規模がとても大きかった事と、元の職業が医者ということが集まった人々を驚かせ、その場にいた参加者から大きな信頼を寄せられるようになったのである。

 無論、突如として地底に現れた事を不審がる住民も多かったが、貧民街で無償で治療や診察を行なっているという話が流れると態度が一気に軟化していった。

 ただ一人を除いては、だが。

 

 

 

「アハハハハハハハハハハハハハハハ! みんなありがとー!」

 

 

 

 今日も彼は、観客に向けて芸を披露する。まるでそれが使命だと言うように大きな声で笑いながら。

 それがパルスィには気に食わなかった。ヘマばかりミスばかりで馬鹿にされるような事しかしていないのに、地底の住民にここまで愛され、元から地上との交流に反対だった妖怪にも信頼されている。その状況が、今まで続いていた地底の排他的な姿勢を真っ向から否定されているようで、彼女の焦燥感を余計に煽り立てていた。

 声が聞こえる度に、あのピエロの姿を見る度に、耳を塞いで顔を背けて、他人事を決め込もうと何度も試みても、ヤマメやキスメがそちらに行ってしまっては付き合う他ない。そしてまた苛立ちが募っていく。この悪循環を、彼女は抜け出せないでいた。

 

 

 

「今日も楽しかったー! やっぱりQちゃんの芸は最高だね! 私も見習わないと!」

 

 

 

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、ショーを見終わった帰りの道で、大きく伸びをしながらヤマメがそう洩らす。呑気なものだ。奴の腹中が真っ黒だったら、それこそ一溜まりもないと言うのに。

 

 

 

「……ヤマメ、キスメはどうしたの?」

 

 

 

 燻った自分の気持ちを踏み消すように、パルスィはそう問いかける。

 

 

 

「もうちょっとQちゃんと遊びたいってさ。人気だよねーQちゃん」

 

 

 

「……ねぇ、ヤマメ。どうしてみんなあの男を信じるの? あんな二重人格の塊みたいな奴に、どうしてみんな心を開けるの?」

 

 

 

「え? ……うーん……」

 

 

 

 少し悩んだ末、ヤマメは改めてこう答えた。

 

 

 

「パルスィは知らないかもしれないけど、久兵衛さん、最後までパルスィの事を心配してたの。どうやったらあの人を呼べるのかなって」

 

 

 

「そんな薄っぺらな心配、私でも出来るわ。それだけでここまで信頼できるそのお気楽さが妬ましい」

 

 

 

「待って、まだ続きがあるの。歓迎会の後だったかな、私一人で遊びに行った時、あの人、餓鬼の子供を診察してたの」

 

 

 

「医者だから診察するのは当たり前じゃ……ちょっと待って。今、餓鬼って……」

 

 

 

 驚愕の表情を浮かべるパルスィに対し、ヤマメは力強く頷く。

 彼女が驚くのも無理はなかった。飢饉通りとも呼ばれているあの貧民街には、餓鬼が多く住んでおり、地霊殿の主ですら手を出す事は滅多にない。悪人から転生した彼らにとってはそれが普通であるし、近づくだけで尋常じゃない程の飢えと渇きに苦しめられるからだ。

 

 

 

「それだけじゃないの、あの人診察代も薬代も出してないの。全部無料でやってるんだよ」

 

 

 

「なんで……そんな……」

 

 

 

 馬鹿みたいな事を。

 言いかけたその時、

 

 

 

「よぅお二人さん、もうあの芸は終わっちまったのかい?」

 

 

 

 妙に艶やかな声と共に、前方から星熊勇儀が姿を現した。湯上りの後だろうか顔はほんのりと上気し、紫色の振袖が少しはだけている。

 

 

 

「あ、勇儀ー。もう終わっちゃったよ。もう少し早ければ見れたのに、残念だったね」

 

 

 

「仕方ないさ、こう言うのは縁あってのものだからね。それより……」

 

 

 

 一度言葉を切り、勇儀はパルスィに顔を向ける。からかい半分のにやけ顔が、余計に彼女の心に波風を立たせる。

 

 

 

「珍しいじゃないか、パルスィが久兵衛の芸を見に行くなんて。ああいう賑やかな場所には足が向かないもんだと思っていたんだが」

 

 

 

「私だって本当は行きたくはないわよ。ヤマメやキスメに合わせて仕方なく行ってるだけで、本来だったら素通りしていくわ」

 

 

 

「ナッハッハッハ! 相変わらずパルスィは言葉にキレがあるねぇ!」

 

 

 

 豪快に笑いながら、勇儀は手に持った朱盆を傾ける。純米大吟醸特有の甘い香りが、辺り一帯に広がった。

 

 

 

「勇儀こそ珍しいじゃない。あんな余所者の芸を楽しみにするなんて。らしくないわ」

 

 

 

 呑み終わった頃を見計らって、パルスィは言葉を返す。皮肉交じりの物言いに、勇儀は少し渋い顔をした。

 

 

 

「おいおい、そりゃ何週間か前までの話だろ? あたしはアイツやあの魔法使いを通じて変わったんだ。そんな考え、とうに捨てちまったよ」

 

 

 

「……裏切り者」

 

 

 

「何とでも言うがいいさ。これがあたしなりの答えだからね」

 

 

 

 元々、星熊勇儀は地上との交流に反対していた。人間や妖怪が段々と知恵をつけ、小狡いやり方で鬼を狩っていく様子を見ているうちに、楽しみを見出せなくなってしまったからだった。その考えはとても堅牢で、先の異変で霧雨魔理沙と個人的な交流を持った中でも変わることはなく、パルスィのような反対派にとって彼女は砦のような存在だった。

 それが、烏丸久兵衛の登場で大きく変わった。

 宴会の中で彼女が何を吹き込まれたのか、それはパルスィには分からないが、宴会の次の日には、もう彼女の考えは変わっていた。

 それだけなら、まだ良かった。

 

 

 

「なぁ、パルスィ。もう意地を張るのはやめて、あたしと仲直りをしようじゃないか。このまま続けていても、お前がきついだけだろう?」

 

 

 

「お生憎様。嘘つきの裏切り者に心配される程私は落ちぶれていないわ」

 

 

 

 カッとなって、強い口調で言い返す。「どういうことだ」と、訊ね返した勇儀の顔が、少し気色ばむ。

 勇儀は自他共に認める姉御肌である。

 面倒見が良く、それでいて愚痴の一つも吐かないため、旧地獄の顔役として地上との関わりを取り持っている。同時に旧地獄全体の統治の一端も担っているため、内外問わず、彼女の指示に付き従う者は多い。

 その世話焼き気質故に、孤立したものを放っておけない。否、おかないと言った方が正しいだろう。それが勇儀の長所でもあるが、今の地底の現状を受け入れられないパルスィにとっては敵以外の何者でもなかった。

 

 

 

「だってそうじゃない。嘘をつかない鬼が、たった一度の宴会であんなふざけた男にほだされて、私達を裏切って。嘘つき以外の何があるのよ」

 

 

 

「おいおい、一つ言っておくが、あたしは考えを変えただけで嘘をついた覚えはないぞ? パルスィが勝手にそう思っているだけだ。あたしはこれまでも、そしてこれからも嘘をつく気はない」

 

 

 

「じゃあ言い方を変えるわ。お節介焼きのお山の大将に心配される筋合いはない」

 

 

 

「パルスィ、あたしゃ仏様じゃないんだ。今、辺りが木っ端微塵じゃないだけありがたいと思いなよ?」

 

 

 

 みしりと空気が悲鳴をあげた。気がつけば彼女の表情から笑顔は消え失せ、背後が紅く揺らめき始めていた。それを見たパルスィもまた、淀んだ緑の瘴気を発しながら睨み返す。

 どちらも、こうと決めたら動かない頑固者である。その場の空気は張り詰め、あっという間に一触即発の状態と相成ってしまった。

 

 

 

「あわわ……二人とも落ち着こうよ! 争ったって何にもならないよ!」

 

 

 

 慌てたヤマメが止めに入るが、二人の耳には届いていない。地が震え、今にも掴みかからんばかりの彼女らを止める術を、ヤマメは持ち合わせていなかった。

 もうダメかと目をつぶって、はたと気付いた。この地響きはここが震源地ではない。もっと遠くの方から響いているのだと。

 耳をすましてみると、地響きは確かに向こうから聞こえてきた。それも、何処かで聞いた事のあるような甲高い笑い声を伴って。こんな馬鹿みたいな笑い声は、ただ一人を除いてこの地底では聞いた事がない。

 まさか……。

 

 

 

「ヤァァァァァァマァァァァァァメェェェェェェェェ! パァァァァァァルゥゥゥゥゥゥスィィィィィィィィィィィィ!」

 

 

 

 ヤマメの予想通り、殆ど絶叫のような呼び声と共に、見慣れたピエロが三人に向かって突っ込んで来た。

 

 

 

「きゅ、久兵衛さん! どうしたのさ一体!」

 

 

 

「アハハハハ! お届け物だよー!」

 

 

 

 言われて気づいた。彼の両腕は頭上に掲げられており、その上には桶に乗ったキスメが乗っている。風を思いっきり受けて凄い顔になっているが、運び方はどうあれキスメを送り届けてくれたようだった。

 だが、どう考えてもスピードが速い。このままでは壁にぶつかってしまう。

 

 

 

「ちょっと久兵衛さん! 早く止まってよ! 二人が怪我したらどうするのさ!」

 

 

 

「だいじょーぶ! 僕に任せてー! キスメちゃん! しっかりつかまっててよー!」

 

 

 

 能天気に言い放ち、久兵衛は更にスピードを上げる。もうダメだ、ぶつかるとヤマメが顔を背けた。

 刹那、久兵衛の足が壁を踏み上げ、勢いそのままに空中へと舞い上がった。無論、キスメは桶に入ったままだが、ふるいを被せて逆さにしたコップの中の水のように、髪の一本も地面に落ちることはなかった。

 そのまま軽やかに着地し、ゆっくりと桶を下ろす。そのあまりにも見事なとんぼ返りに、自然と拍手が巻き起こる。

 

 

 

「もー、びっくりしたじゃん! あのままぶつかるかと思っちゃったよ! でも流石久兵衛さんだね! あんなの私じゃ出来ないよ!」

 

 

 

「……凄かった……! ねぇQちゃん……もう一回……やって……!」

 

 

 

「いやー、やるなぁ久兵衛! あんな綺麗な宙返りは見たことがない! 矢張り本職はキレが違うねぇ!」

 

 

 

 三者三様の褒め言葉が飛び交い、久兵衛に浴びせられていく中、パルスィだけは違っていた。嫉妬や苛立ちに支配されがちな彼女であるが、この時ばかりは驚きの感情に心が満たされ、言葉を失っていた。同時に何か、驚きとは別のドキドキが、湧き始めた地下水のように少しずつ心に浸透していくのが分かった。

 

 

 

 ──ありえない。

 

 

 

 我に帰った彼女は、すぐにそれを打ち消した。何故ならそれは彼女とは最も無縁で──しかし最も近い感覚であり、しかも向けられている相手が自分が嫌うあの余所者であるからだった。純度百パーセントの嫉妬から生まれた、負の感情の権化とも思われる彼女が、降って湧いたようなこの感覚をすぐさま否定しようとするのも無理はない。

 しかし、真っ向からどれだけ否定しようとしても、自分の心をどれだけ無視しようとしても、湧きだす何かを止める事は出来ない。あっと言う間に心は何かに奪われ、満たされてしまった。

 

 

 

「パールースィー! どうだったー? 僕、凄かったでしょー!」

 

 

 

 そんな事など知る由もなく、ピエロのQちゃんは無邪気に手を振って笑う。それがまたコプリと何かを湧き立たせ、また否定しようと心を背ける。その度に彼女の頭はドンドン混乱し、口も段々と固く閉じられていく。

 どうすればいいか分からなくなった末に、彼女は何も言わず、立ち去る事を選んだ。後ろから久兵衛とヤマメが騒ぎ立てているが、知った事ではないと心の中で嘯き、更に歩みを進めた。

 生まれて初めてのこの感覚は、実に最悪な形で体験する事となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 それから二週間程経ったある日の事だった。

 その日は珍しく、パルスィ一人であった。ヤマメは「Qちゃんに負けてらんないよ!」とアイドル活動に意気揚々と出かけて行き、キスメは「こいしちゃんと遊ぶ……」と地霊殿に向かったため、唯一予定のなかったパルスィは、宙ぶらりんになった時間を持て余す事となった。

 時間はたっぷりあるが、やる事がない。いつもはあの二人がそばにいて、始終彼女を振り回すものだから一人になりたいと常々考えていた。だが、いざ一人になってみると、こうも暇なものなのかと思ったのも事実である。

 考えた末、彼女は買い物に行く事に決めた。丁度いくつかの日用品を切らしていた為、順当と言えば順当な事であった。

 日用品の他、ちょっとした食料品や酒を買い込み、悠々と旧地獄街道を歩く。人工灯がさんさんと降り注ぎ、昼過ぎ特有の活気ある旧都の街道。右を見ればねじり鉢巻を巻いた八百屋の鬼が威勢良く客を呼び込んでおり、左をみれば七人ミサキが営む食堂が今日も大入り満員である。矢張りここは自分達忌み嫌われた妖怪の楽園なのだ。あんな愚鈍な余所者なんかに染められてたまるか。

 そう再認識したところで──その一番会いたくない余所者に出くわしてしまった。

 視線を戻した先にいる、彼女が嫌うあのピエロの男。しかし、今日はどうにも様子がおかしい。あの騒がしい声や動きが全くないし、周りに人が全くいない。

 というよりも、芸そのものをしていなかった。ジャグリングのグラブも、軽業用のはしごも、玉乗りのためのボールもない。それどころか、あの赤鼻も身につけていない。初めて会ったあの黒いコートにシルクハットの姿で通りの邪魔にならない一角に腰を下ろし、一人の痩せこけた子供に向かって何やら話をしている。

 不思議と、足がそこへ向いていた。あんなに騒がしかった男が、どうしてここまで静かになれるのかが気になったのだ。

 

 

 

「……だから、君は嫌われてなんかいないんだよ。少なくとも、俺は君の事大好きだし。確かに地上の人間には、酷い事をする人もいるよ。けど、それは君達地底の人の事を知らないからなんだ。そんなに酷い、怖い妖怪じゃないんだよって教えてあげれば、きっと分かり合える日が来ると思う」

 

 

 

 普段の表情とは違う、穏やか表情を浮かべながら、ゆっくりと語りかける久兵衛。話を聴いている子供もまた、見入るように久兵衛の話に耳を傾けており、その顔つきはまさに真剣そのものと言った感じだった。

 ふと、久兵衛と目があった。その時のに浮かべた彼の柔らかな、それでも嬉しそうに輝いた目に、思わずパルスィは目を背けた。

 

 

 

「というわけで、今日はここまで。また何か質問があったら、遠慮なく言って下さいね」

 

 

 

 落ち着いた目つきに戻った彼が、その子供を笑顔で送り出す。

 彼がいなくなったところで、久兵衛はパルスィに声をかけた。

 

 

 

「こんにちは。来ていたんですね」

 

 

 

「……別に、来たくて来たわけじゃないわ」

 

 

 

 ぶっきらぼうに返すも、「そうですか」お構いなしと言った感じで久兵衛はニコリと微笑んだ。

 

 

 

「……さっきまで一体何やってたの?」

 

 

 

「カウンセリングです」

 

 

 

「カウンセリング?」

 

 

 

「はい、()()姿()の時はよく行なっているんです」

 

 

 

 久兵衛によると、月に何回か診察の合間に行っており、あの子は常連だと言う。

 

 

 

「あの子は、自分の出自を知らないまま迫害されて、ここに流れついたらしいです。半妖である事は何となく分かるけど、父母がどんな人であったかは分からない。だから自分は孤独だと嘆いていました。あの子だけに限らず、そう言った妖怪の方はこの貧民街に多く住んでいます。俺はそんな方々の相談を聞いて、少しでも心が軽くなるようにしているんです。これが結構好評でして。この前なんか──」

 

 

 

 嬉々として語る久兵衛の姿。その分かったような口ぶりが、彼女の怒りのスイッチを押した。

 

 

 

「……気に食わないわ」

 

 

 

「え?」

 

 

 

「気に食わないって言ったのよ! あんたの話は所詮、理想論でしかないわ。現実は違う。私達は嫌われ者で、居場所はここにしかない。本当は地上で生きていたいと願う奴もいたわ。けど! 私達がどれだけ危害を加えないと説明しても、地上の奴らは耳一つ貸してくれなかった! あんた達は私達の叫びを黙殺したのよ! だから、事実を隠して子供達に無責任な希望を植え付ける、あんたのその薄っぺらで知ったような言葉が気に食わないのよ!」

 

 

 

 予想以上に大きな声で叫んでいたらしい。通りの多くがこちらを向いた。思わず口元を手で覆い隠す。

 しかし、彼女は間違った事を言ったとは一度も思わなかった。実際にパルスィやキスメが受けて来た事であり、嘘偽りのない事実だからだ。

 当の久兵衛は、しばらくの間悲しい目でパルスィを見つめていた。何も語らず、何も動かず、ただ真っ直ぐに、彼女の叫びを黙って聞いていた。

 やがて、

 

 

 

「……申し訳ありませんでした」

 

 

 

 やもすれば土下座と見間違うほどに深々と頭を下げ、パルスィに謝罪をした。

 

 

 

「パルスィさんの言う通り、少々出しゃばり過ぎました。何より、まさかそんな深い傷を負っていたとは思ってもみなかったので……地上を代表して、俺が謝ります」

 

 

 

 流石のパルスィも、これには面食らった。謝る義理はないはずなのに、ここまで深々と謝罪をされるのは想定していなかったからだ。

 それでも気を取り直し、言葉を口にしようとしたところで、ただ、と久兵衛が顔を上げた。

 

 

 

「俺は、カウンセリングを辞めるつもりは一切ありません」

 

 

 

 次に返って来た答えは、パルスィの怒りを再び呼び起こすには十分な代物だった。しかし、パルスィは先程のように怒鳴る事はしなかった。否、出来なかったと言った方が正しいかもしれない。

 何故なら、彼女を見つめる彼の目が、迷いが一切ないスッキリと晴れた目をしていたからだった。

 

 

 

「勿論、ショーも辞めるつもりもありません。少し自重するとは思いますが」

 

 

 

「そ……それが問題だと言っているのよ。思いっきり首突っ込んでるじゃない」

 

 

 

 自分でも的外れな反論だとは分かっているものの、ついそれを口にしてしまう。

 

 

 

「……お願いします。せめて俺がここを旅立つ間まででいいので、どうか続けさせて下さい」

 

 

 

「だ……大体、旅人のあんたが、知らない人の為にどうしてここまでするのよ。すぐに出て行く余所者のあんたに、ここまでされる義理はないわ」

 

 

 

「知らないからこそ、ですよ。知らないから、俺はその人に対して全力になれるんです」

 

 

 

「……それが、例え私や他の誰かに受け入れられないとしても?」

 

 

 

「はい。これまでも、そしてこれからもそうしていくつもりです。それが俺の使命ですから」

 

 

 

 笑顔で、それも真っ直ぐな言葉で答える久兵衛とは対照的に、どんどんと小さく、勢いが落ちていくパルスィ。

 分からない。これだけ自分が真っ向から否定しても、彼の目には光が消えていない。普通だったらもう心が折れていてもいい頃合いで、とっくに街を出ているはずだ。

 それだけではない。パルスィだけでなく、受け入れられる前は他の妖怪にも白い目で見られていただろうし、何よりここに来る街の何処かで、ありもしない噂話をたてられた可能性もある。心が折れるどころか廃人としてボロボロになっていてもおかしくはない。

 だというのに、この男は心も含めて死んでいない。自分の使命を全うするという大義名分があるとしても、彼をここまで支える事は不可能なはずだ。

 

 

 

「……貴方は」

 

 

 

 急に呼び方を変えたのが気になったのか、久兵衛はきょとんと小首を傾げる。

 

 

 

「貴方は、それでいいの? 私みたいに罵倒されたり、変な噂が広まったりして、誰からも守られる事がなくなっても、人を笑わせて、助け続ける気なの?」

 

 

 

 この問いかけに、久兵衛は一瞬口をつぐんだ。どうやら過去にこういう事があったらしい。顔を伏せ、悲しげな雰囲気が漂っている。

 しかし。

 

 

 

「……優しいなぁ」

 

 

 

 顔を上げた久兵衛は、痛々しいくらいに、笑っていた。

 

 

 

「そんな事、旅を始めてから一度も聞かれた事がありませんでしたよ。心配してくれて、ありがとうございます」

 

 

 

 でも、と久兵衛は強がりな笑顔のまま言葉を続ける。

 

 

 

「俺は平気です。もう慣れちゃいましたから。誰か一人でも笑っていられるようになるなら、その手助けになれるなら、俺はそれで十分です。これ以上、なにかを望むのは罰当たりですよ。それに、俺結構鍛えてますから」

 

 

 

 ──あぁ、そういう事か。

 おどけて力こぶを見せる久兵衛に、パルスィははたと悟る。

 同じなのだ。烏丸久兵衛という男は、自分達旧地獄の民と同じように孤独な人間だったのだ。

 だから、自分と同じ境遇の人や妖怪を躊躇なく助けられるし、そこに全力を尽くす事が出来る。自分以外の妖怪が、早々と彼を受け入れたのもこれが理由なのだろう。ここに初めて来た時、こいつらも地上の奴らと同じだと、誰とも交流しなかった自分を、それでも旧地獄は暖かく受け入れてくれた過去が、今になって思い出される。

 決定的に違うのは、彼を守る者や居場所がない事。パルスィや受け入れる前の妖怪の誹謗中傷に晒されたら、彼はもうその場を離れるしかない。

 何度、そのような体験をしたのだろう。

 その事に気付いたパルスィには、もう彼を自分の居場所を侵略する余所者とは思えなくなった。

 

 

 

「……貴方、強いのね」

 

 

 

「あははは。まぁ、伊達に旅ガラスをやってるわけじゃないですから」

 

 

 

 旅ガラスという言葉に、パルスィは思わずフフッと吹き出す。

 あぁ、彼にはもう金輪際敵わないかもしれない。

 

 

 

「……負けたわ。私の負け。貧民街でも大通りでも、好きな所で好きなようにやりなさいよ。ただし、決して街の皆んなを悲しませるような事はしないと約束して。それを守れるのであれば、いいわ」

 

 

 

 はぁ、とため息を吐いて、両手を上げる。

 これを聞いた久兵衛の顔が、雨上がりの空のように、みるみるうちに晴れやかになっていく。

 それを見ながら、パルスィは街の方へ目線を直した。昼過ぎだというのに、相変わらず街には活気が満ち満ちている。

 

 

 

「……いい街でしょ?」

 

 

 

「……えぇ。今まで立ち寄った街の中で一番、暖かくて優しい街です」

 

 

 

 久兵衛はそう言いながら、おもむろに小さなギターを取り出し、音を奏で始める。

 希望に満ちたメロディの裏に、見え隠れする寂しさや哀愁の念。しかし、それを卑下し、立ち尽くしてしまうような印象は一切なく、それすらも取り込んで真っ直ぐに前を向き、進もうとする意志を感じさせる。

 まるで荒野を行く旅人を見ているような音色が、パルスィの耳から心に溶け込んでいく。気がつけば鼻歌を歌ってしまうほどに、この音は心地よい。

 

 

 

「おぉ? なんだ久兵衛さんギターも弾けたのか!」

 

 

 

「いいねぇなんだか懐かしい感じがするよ!」

 

 

 

「名前はなんて言うんだい? こんないい曲聞いた事がない!」

 

 

 

 いつの間にやら通りを歩いていた妖怪達も、一人、二人と集まっていき、あっという間に一つの塊と化していく。皆一様に笑い、踊り、手を叩き、思い思いに彼の音楽を堪能する。

 そんな彼等を笑って眺めながら、パルスィは決意した。

 ここを、この旧地獄を、烏丸久兵衛の居場所にしようと。

 

 

 

 しかし、この願いが、後にとんでもないトラブルの火種となる事を、パルスィはまだ、知る由も無い。

 




次回は後編です。終わるかどうかは気分次第()

いつになるかは分かりませんが、お待ち頂ければ嬉しいです。

それでは、良い夢を……おやすみなさいませ。


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旅ガラスの歌(2)

はいこんばんは。そしてお久しぶりです。実習が終わり、なんだか色んな事に取り残された気がする焼き鯖です。

3、4ヶ月、待たせてしまいました。やっとパルスィ編、最後になります。

遂に二万字を超えました。結構難産しましたが、クオリティは相変わらず紙レベルです。

それでも良いという方は、どうぞお楽しみ下さい。


 旧地獄の大通りは、昼と夜とで違う顔を見せる。

 昼は観光客や地元の主婦で賑わう、温泉が目玉の活気ある観光スポットとして。夜は酒場や遊郭の灯りが煌々と輝き、うわばみや好色な男達でごった返す妖しげな歓楽街として、常に多くの人で溢れかえっている。

 尤も、地霊殿の主が定めた風営法によって、営業時間は最低でも二時までと定められているが、それを差し引いても人通りは多く、三時を過ぎても人や妖怪が通りを歩いている事も珍しくない。

 

 

 

「アハハハハハハハハハハハハハ! みんなありがとー! よーし、最後に特大サービスだー!」

 

 

 

 時刻は現在午後七時。旅行者が減り、徐々に酔客が増え始めていく狭間の時間帯に、烏丸久兵衛ことピエロのQちゃんはショーを行なっていた。普段であれば医者としての仕事もあるため、ショーは午前の部と午後の部のどちらかしか行わず、午前は十時、午後は三時と、比較的明るい時間帯に開催される事が多いのだが、久兵衛が地底の妖怪達に受け入れられ、ショー自体の回数が増えた事や、地上からの観光客によって広く知れ渡るようになった事もあって、特別に今日だけ夜もやってほしいと勇儀から打診があったのだ。

 彼自身、行く先々の街でショーを行い、各地を転々と旅してきたので、夕方や夜の開催も経験済みである。話を聞いた彼は快く引き受け、意気揚々と準備を始めた。

 そうして開催した今回のショーは、予想を上回る程の大盛況だった。噂を聞きつけた観光客が、Qちゃんの姿を一目見ようと我も我もと地底へ押し寄せ、集まってきたようだった。

 誰もが緊張してしまいそうなこの状況で、烏丸久兵衛だけはいつも通りだった。規模こそ違えど、普段行なっている事と何一つ変わらないじゃないか。そう言わんばかりに彼は舞台に立ち、期待通りの芸を披露する。観客もまた、噂に違わぬ芸の凄さと展開に、誰もが歓喜し、拍手を送る。

 その場にいる全員が、大満足だと太鼓判を押しそうな完成度のショーはしかし、高らかに笑うピエロの挑戦によって更に昇華される。

 ピエロは大きな玉に乗ったまま、大きく、高くクラブを放り投げると、身を翻して逆立ちの姿勢をとる。この後の展開も、期待通りのお約束だ。手を滑らせて玉から転げ落ち、落下してくるクラブが頭を直撃する……。ここにいる皆は、それを望んでいると言わんばかりに、目をピエロの一点に注ぎ、ショーのフィナーレを今か今かと待ち侘びていた。

 しかし、そんな事はお見通しだと、ピエロは心でニヤリと笑う。

 次の瞬間、皆の視線は上に向いていた。月に照らされたピエロが、さながら妖精のように軽やかに舞い、踊っている。

 なんとピエロは、その姿勢のまま大きく跳ね上がり、空中で見事なきりもみを決めてみせたのだ。今まで見ていたドジは全て演技だとでも言いたげな、イタズラな笑顔が観客全員に振りまかれる。

 全ての人が呆気に取られる静寂の最中、ピエロは悠々と地面に降り立った。落ちてくる三つのクラブもしっかりとキャッチし、恭しくお辞儀をする。

 

 

 

「アハハハハハ! 驚いた? 実は僕、今日のために頑張って練習したんだ!」

 

 

 

 種明かしの瞬間、割れんばかりの歓声が上がった。恐らく、こんなに大きな音が地底に響くのは、博麗の巫女がこの地に足を踏み入れた時以来であろう。いや、この声の大きさは、その時の比にならない程大きく、何より期待値を超えた裏切りに対する喜びに満ち満ちている。

 

 

 

「うわぁやられた! まさか成功するとは!」

 

 

 

「いやぁ裏切られたよ! あんたサイコーだ!」

 

 

 

「なあみんな! この偉大なるピエロに大きな拍手をしようじゃないか!」

 

 

 

 地元の妖怪か酔狂な酔っ払いか、誰かに囃し立てられた観衆全てが、これでもかと手を叩く。驚愕と歓喜が入り混じった濁流が、全てのショーを終えたピエロの体を担ぎ上げるように流れていく。

 

 

 

「これでショーはおしまい! みんな来てくれてありがとー! こんなに喜んでくれて嬉しいよー!」

 

 

 

 最後にもう一度お辞儀をして、ピエロは舞台から姿を消した。それでも拍手はまだ鳴り止まず、更に更に大きくなって、既にいなくなった男に祝福を送る。

 数々の芸を披露して来た久兵衛ですら、これ程までの喝采を浴びた事はなかった。

 意図的に成功を避けていたこともあったが、それ以上に今までの旅の中で噂が立つ前に街を離れていたことが大きい。大抵は自分の意思で街から出ていくのが殆どだが、あらぬ噂に追い立てられて、半ば追放のような形で旅立つといった事もしばしばあった。

 だが、この街はどうだろう。最初こそ不審な目で見られる事はあったが、皆温かく迎え入れてくれた。こんなに楽しげな目で自分の芸を見てくれたのは、この街が初めてだ。そして、こんなに長く留まりたいと強く願ったのも。

 だからこそ……。

 尚も歓喜に沸く会場を背にしながら、久兵衛は改めて、旧地獄の街に来てよかったと強く実感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「お疲れ様。いいショーだったよ。久兵衛」

 

 

 

 集まっていた観客がいなくなり、酔っ払いが交錯するようになった会場の跡地で、背後から声がかけられる。

 振り返ってみれば、振袖を豪快にはだけさせた星熊勇儀が、満足気な笑顔でピエロを見つめていた。恐らく、先の盛り上がりでハメを外し過ぎたのだろう。ほぼ見えていると言っても過言ではないはだけっぷりだが、危ない所はしっかりとガードされている。

 

 

 

「あー、勇儀さーん! 見に来てくれたんだねー!」

 

 

 

「そりゃあそうさ。あたしから頼んでおいて見に行かないのは筋が通らないだろう?」

 

 

 

「アハハハハハ! 確かにそうだねー! ……ねぇ、勇儀さん。みんな、今日のショーは楽しんでくれたかな?」

 

 

 

「勿論さ。あんたのショーにはいつも驚かされるし、楽しまされる」

 

 

 

「……そっか。なら、良かった」

 

 

 

 おや、と勇儀は首を傾げた。

 彼女が知る烏丸久兵衛という男は、どんなに正体が知られていようと必ずその役を全うする、謂わば役者の鑑のような人物だった。事実、勇儀がどれだけ久兵衛と呼んでも、ピエロ姿の時には絶対に彼本来の姿を見せる事はなかった。

 それがどうだろう。今、彼女の目の前にいる久兵衛からは、普段なら絶対に出すはずのない素の状態が漂っている。それも、これまで感じた事のない哀愁というか、全てやりきったという達成感と、どこか後ろめたい気持ちを伴って。

 この感覚を、勇儀は嫌という程知っている。

 

 

 

「まぁ、立ち話もなんだからちょっと歩こうじゃないか。片付けはもう終わったんだろ? もし良かったら、一杯奢るからさ」

 

 

 

 親指をくいと上げて、勇儀は通りの方を指さす。

 

 

 

「わぁ! 勇儀さんありがとー! 太っ腹だねー!」

 

 

 

「まぁこれくらいはな。あたしなりの礼だよ」

 

 

 

「ホントー!? 嬉しいなぁー! じゃあちょっと待っててねー、荷物纏めちゃうからー!」

 

 

 

 そうして彼は大きな鞄に荷物を詰めていく。その後ろ姿には、先程感じた違和感は既になかった。

 全ての荷物が纏め終えたのを見計らって、勇儀と久兵衛は街道を歩き始めた。あれだけの喝采を浴びた後ながら、道行く人々は自分の欲望に頭が一杯で、ピエロ姿のままの彼に声をかける者は一人もいない。

 歩いてしばらくして、勇儀がのんびりと話しかける。

 

 

 

「まずは改めて言わせてくれ。あたしの無茶な頼み事を、快く引き受けてくれてありがとう」

 

 

 

「お礼なんかいいよー! 勇儀さんの頼みとあれば、僕はいつでも受け付けるから!」

 

 

 

「はっはっはっ。そりゃあ頼もしいな……なぁ、久兵衛、お前がこの旧地獄に来て、一体どれくらい経った?」

 

 

 

「え? ……うーんと……」

 

 

 

 尋ねられて、久兵衛は指を折って数える。

 

 

 

「ここに来たのが三月くらいでしょー? 今は十一月だから……大体八ヶ月かな?」

 

 

 

「もうそんなに経ったのか……いやなに、月日の流れってのは早いんだなってふと思ってさ」

 

 

 

「そうだねー、僕もここまで長く滞在するとは思ってなかったよー。ここはみんないい人達ばかりだし、食べ物も美味しいしで、つい長居しちゃったなー」

 

 

 

「……ここを出て行くのかい?」

 

 

 

 いっそここに住もうかなー。と、呑気な声を上げるピエロ。そこに感じる違和感を見逃さないように、勇儀が単刀直入に尋ねた。

 ピエロの表情が、一瞬ピタリと固まった。

 

 

 

「……いきなりだね。どうしてそう思うの?」

 

 

 

「あたしは鬼だからね。嘘の匂いには誰よりも敏感なんだよ。あの時、普段のあんたなら絶対に隠すであろう、色んな感情が混じった顔をしていた。あれを見た時、何か隠しているなと思ってたんだよ。何よりあんたは、ピエロとか医者とかである以前に旅人だ。いずれは何処かへ行ってしまうんだろうってのは目に見えて分かる。そこにさっき言った表情をされてみろ。ここを出て行くって結論に達するのは自明の理じゃないか」

 

 

 

 勇儀が語る問の答えを、久兵衛は黙って聞いていた。やがて、イタズラがバレた子供のような苦笑いを浮かべて、彼女の方を見つめた。

 

 

 

「バレちゃいましたか……えぇ、流石にそろそろ旅立たないといけません。遅くても、年明けには」

 

 

 

「そうか……寂しくなるねぇ」

 

 

 

()も同じ気持ちです。こんないい街から離れたくはありません」

 

 

 

「まぁ、お前がそう決めたのなら仕方ないさ。ただし、これだけは忘れないでおくれ。ここは、いつでもあんたを受け入れるってね」

 

 

 

 言い終えた勇儀は、静かに杯を傾ける。

 再び彼らは黙って歩く。

 訪れる沈黙が、痛い程耳に入る。

 

 

 

「……訊かないんですね」

 

 

 

 その沈黙を破り、久兵衛が尋ねた。応じるように「何がだ?」と勇儀は返す。

 

 

 

「理由ですよ……それ程気に入ってるなら、何故無理して旅立つんだとか、なんで旅を続けているのか、とか」

 

 

 

 不意に、勇儀が笑った。鬼らしく大きな声で豪快に。流石の久兵衛も、これには驚いて目を白黒させる。

 

 

 

「やっぱりそこは人間なんだねぇ。いいかい? あたしはね、そんな細かい事なんか興味ないんだよ。あんたがそう決めたのには何かそれなりの理由があるくらいは重々承知しているし、それを一々聞くのは無粋ってもんだ。時期が来たから旅に出る。それでいいじゃないか」

 

 

 

「ですが……」

 

 

 

「大丈夫。ここのやつらの事なら、あたしがなんとかする。あんたは安心して旅立てばいい。みんないつでも、あんたを歓迎するさ」

 

 

 

 トン、と。

 軽く背中が押された。まるで帰ってくるのを信じているかのような、鬼にしては優しい激励。

 

 

 

「……ありがとうございます。おかげさまで安心して旅に出られそうです」

 

 

 

 想いが通じたのか、久兵衛は深く頭を下げる。もう憂いの表情は消えていた。

 

 

 

「よし! 辛気臭い話はここまで! 一足先に送別会だ! 今日はとことん呑み明かすぞー!」

 

 

 

「うわっと……あんまり呑みすぎないで下さいよ。俺、明日も診察があるんですから」

 

 

 

 勢いよく肩を組み、八重歯を大きく見せて破顔する勇儀に、久兵衛は苦い笑みを浮かべる。調子を取り戻した彼女に引っ張られるがまま、二人は夜の旧地獄の奥へと消えていく。

 彼らの背後で、カツリと靴の音がなったのに、気がつかないまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 大入道は飢えていた。文字通りの意味ではなく、渇望していたという意味で飢えていた。

 いつだったか、彼が暇つぶしで地底を訪れ、気の弱そうな一匹の妖怪にちょっかいを出していた時に現れた、いけ好かない旅の男。妙に小綺麗な服と帽子を身につけた、どう見ても喧嘩慣れしていない謎の男に、仲間はいとも簡単に負けてしまった。

 そこからの彼は、まさに凋落とも言える程転落していた。噂に尾ひれがつき、彼の強さを疑う者が増えたからだった。無論、来る敵は悉く返り討ちにした。だが、いかんせん疑う人数が多すぎた。

 三ヶ月を少し過ぎるころ、二回目の、彼にしてみれば初めての敗北を味わった。少し後に三回、また少し後に四回と、彼は負けを重ね、その度に荒れた。

 そして今、彼は長年付き添った仲間すらも失い、森のはずれにあばら家を作り、一人自棄酒を煽っている。かつて自信に満ちていた顔はみる影もなく、アルコールを摂りすぎて朱に染まり、目には深いくまが刻まれている。とにかく彼は、勝ちに飢えていた。

 ──あの男さえ来なければ。俺はこんな風にはならなかった。

 恨み節を安酒と共に一気に飲み込み、大きな気炎を吐く。

 

 

 

「──誰だ」

 

 

 

 侵入者に気づいたのは、そのすぐ後だった。目が更に据わり、警戒の色が強くなる。

 生憎、彼の住んでいるあばら家には灯りの類になるものはなく、侵入者の姿は暗がりに紛れてよく見えない。だが、履いている靴が男では滅多に履かないであろうものであることから、暗がりにいるのは女性であると彼は直感で感じた。

 

 

 

「ふぅん、あんたが大入道ね。噂よりも弱々しそうで拍子抜けしたわ」

 

 

 

 予想通り、侵入者は女性であった。ただ、妙に芝居がかった喋り方で、それが彼の癇に障った。

 

 

 

「……何の用だ。冷やかしなら帰ってくれ」

 

 

 

「へぇ、噂は本当だったのね。地底に遊びに行ったら、名も知らない旅の男に負けてへこへこ逃げ出したって噂」

 

 

 

「ッ! その話を口にするなぁ!」

 

 

 

 怒鳴り、空の徳利を放り投げる。徳利は女に当たることはなく、闇に溶けてカランと音を立てるだけに終わった。

 

 

 

「俺は負けたわけじゃねぇ。仲間が負けたんだ。それを勘違いした輩が勝手に広めただけだ! どいつもこいつもあの噂を鵜呑みにしやがって!」

 

 

 

「でも逃げたのは本当なんでしょ? どちらにしろ、あんたがケンカをふっかけた時点で仲間が負けようがあんたが負けようが結果は同じ。噂にされて終わるだけよ」

 

 

 

「このアマァ! 女だからって俺は容赦しねぇぞ!」

 

 

 

 とうとう立ち上がり、闇に一歩近づく。

 ピカリと閃光が走った。半歩遅れて音が追いつき、雨が壁を打ち付ける。

 

 

 

「オメェ……」

 

 

 

 大入道の動きが止まった。何処かで見たような金髪が、一瞬光の中に浮かんだからだ。

 

 

 

「取引しない?」

 

 

 

 その隙を見計らって女が提案する。

 

 

 

「私もね、とある理由であの人を邪魔したいの。だけど、一人では到底無理だから、あんたにも協力してほしい。勿論、あんたの復讐にも協力するわ。あんたはあの人が憎い。私もあの人の邪魔をしたい。どちらにも得はあるし、悪くない取引だと思うんだけど」

 

 

 

「あぁ? イかれてんのか? さっきまで俺の事を散々馬鹿にしてたじゃねぇか。そんな奴の取引なんて聞けると思うか?」

 

 

 

「その点に関しては悪かったわ。だから、それともう一つ、あんたの願いも叶えてあげる」

 

 

 

 これならどう? と闇の中の女が再度問いかける。

 確かに、条件自体は悪くない。あの男に復讐をする数少ないチャンスだし、何よりもおまけが大きすぎる。女の思惑がどうにも分からないが、この降って湧いたような幸運を逃す訳にはいかない。

 最初は腕を組んで考えていた大入道も、すぐに納得して了承した。

 

 

 

「いいだろう。乗ってやろうじゃねえか」

 

 

 

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」

 

 

 

「で、どうすりゃいいんだ」

 

 

 

「私の方でまだ準備があるから、もう少しだけ時間を頂戴。決行は三週間後。指示は私の方から出すからそれに従って」

 

 

 

「へっ、誰かの下につくのは俺の性分じゃねぇが……今はあいつをぶちのめせりゃなんだっていい」

 

 

 

 頼んだぞ。

 返答はなかった。既に女はあばら家から出ていた。

 雷を伴った冬の雨は、いつになく長く降り続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 テントの中で、烏丸久兵衛は首を傾げた。

 勇儀との呑み会から、実に一ヶ月程。彼は自らの仕事の片手間で、旅立つために様々な準備を進めていた。ショーの回数を減らし、荷物をまとめ、治療やカウンセリングを行なっている患者、その他の住人にはそろそろ旅立つという事を知らせた。

 勇儀の助力もあってか患者や住人は然程騒ぐ事はなく、「寂しくなるなぁ」と皆呟きながら旅の安全を願った。

 やるべき事はきちんと終えた。後はここをすぐに去るだけだ。

 そう、実を言えば、もう既に彼は旅立つ準備は出来ており、その気になればすぐに旧地獄を去る事は出来る状態である。しかし、彼はまだ旅立っていない。

 何故なのか。原因は明白だった。

 

 

 

「おかしい……注射針がなくなってる」

 

 

 

 透明なケースを物色しながら、彼は呟く。普段から医療機器類はここに保管しており、場所を変えた事は一度だってない。

 またか、と彼は顔をしかめた。今月に入ってこれで七回目。いや、それでは足りないくらい、物が消えている。

 物の神隠し。それが、彼が旧地獄を旅立てない理由だった。

 ピエロや旅人であるとともに、医者でもある久兵衛は、道具には人一倍気をつかっていた。いくら永遠亭があり、外から機器や技術が流れてくるとはいえ、幻想郷にはまだまだ医療が浸透していない地域が多い。道具を一式揃えるとなると、かなりの額が必要になる。かと言って注射針や吸入器等は、使い回すと感染症の元となり、どうしても数が必要になる。

 風来坊たる久兵衛にとっては、そこが一番困難な部分であった。いつ補充出来るか分からない分、一本たりとも無駄に出来ない。だからこそ、機器の管理や消毒、洗浄には念入りにチェックしていた。

 それが、旅立つ間際になってこの不手際である。この前は吸入器、その前は体温計、その前は頓服薬などがなくなった。しかも、ショーで使うグラブや玉もなくなっており、これらは今も見つかっていない。

 

 

 

「どうしたの?」

 

 

 

 鬼の形相で探すうちに、テントの幕が上がった。深緑に輝く見慣れた目が、テントの中を覗き込む。

 

 

 

「パルスィさん……」

 

 

 

「たまたま近くに寄ったから様子を見に来たけど……何? また道具がなくなったの?」

 

 

 

「……えぇ。今日は注射針です。ホント、嫌になりますよ」

 

 

 

 力なく笑うと、パルスィは腰に手を当てて呆れた表情を浮かべた。

 

 

 

「何やってんのよ。そんな事じゃ救える人も救えなくなっちゃうわよ?」

 

 

 

「──おっしゃる通りです。面目無い」

 

 

 

「じゃあ、今日も行くの?」

 

 

 

「そうですね……また案内してもらってもよろしいでしょうか?」

 

 

 

「仕方ないわね。外で待ってるから、早く準備しちゃいなさい」

 

 

 

 そう言い残し、パルスィは垂れ幕を下げる。まるで母親のようだと内心苦笑しながら、久兵衛は片付けを始めた。

 地底の隅に、道具が流れ着く場所がある。

 初日に物がなくなり、途方に暮れていた久兵衛に、パルスィはそう教えていた。

 どうやら外の世界から忘れられた道具が流れ着く場所があるらしく、それが時折地底に落ちて来るという。

 半信半疑ながら向かってみれば、彼女の話に嘘はなく。ガラクタに混じって医療道具や芸の道具などがチラホラと姿を見せていた。運のいいことに、それらは妙に綺麗な状態を保っており、持ち帰って消毒すればすぐにでも使えるような物が多かった。

 以後、物がなくなる度にこうしてパルスィに連れられて必要なものを集めている。旅をする久兵衛にとっては有難いスポットではあるのだが、やはり拾い物であるので衛生面には不安が残る。しかし、それはあくまでも最終手段として残しておくと半ば強引に納得してねじ伏せた。

 しかし、もう一つ、彼には困った事があった。

 

 

 

「……いつも思うのですが、少し近すぎではありませんか?」

 

 

 

「何言ってんのよ。これぐらいで丁度いいわ。そんな細かい事まで気にする貴方が妬ましい」

 

 

 

 腕に自分の体を寄せ、パルスィは嬉しそうに顔をほころばせる。

 彼女のスキンシップが激しくなったのはここ二、三週間前からで、出かける時は必ずこのように体を寄せながら歩いている。

 側から見れば羨ましい事この上ないが、彼にしてみれば出発の意志が消える魔性の誘い以外の何物でもない。迷惑とは思わないし、口が裂けてもそんな事は言えないが、ずっとこんな事をされていては、せっかくの決心も揺らいでしまう。その度に自分を律し、目的を振り返っては忘れないようにしているのだが、流石にもう限界に近い。

 

 

 

「……ねぇ、貴方は道具が揃ったら、もうここを出て行くの?」

 

 

 

 そんな久兵衛の心情を知ってか知らずか、パルスィは体を寄せたまま彼に問いかける。

 

 

 

「……えぇ、少し、長居しすぎました。物が見つかればすぐにでも出発するつもりです」

 

 

 

「そう……ねぇ、もういいじゃない。ここら辺で終わりにしても」

 

 

 

「ダメですよ。俺はまだ旅を続けなきゃいけないんです」

 

 

 

「だけどこのままじゃ──」

 

 

 

 言いかけたその時、通りの中心から悲鳴が上がった。

 見ると、顔を紅く染めた嫌に小汚い身なりの男が、大声でがなり立てながらナイフを片手に人質を取っている。

 その人質というのが──

 

 

 

「キスメ! それにあの子は確か飢饉通りの!」

 

 

 

 あまりの事に、思わずパルスィは声を上げた。

 無理もない。男の大きな腕に捕まえられていたのは、どちらも二人にとって面識のある人物だったのだから。

 

 

 

「……パルスィさん、この場は俺がなんとかします。貴女は人を呼んで来て下さい」

 

 

 

「でも!」

 

 

 

「お願いします。どうやら彼は俺に話があるようです。でなきゃこんな目立つ所で、しかもわざわざ面識のある人を人質にするなんて出来ません」

 

 

 

「……分かったわ」

 

 

 

 頼みますと彼は呟くと、男の前に一歩踏み出す。男もそれに気づいたらしく、恨みがましい目つきを込めて久兵衛の方へ体を向けた。

 

 

 

「よぉ、久しぶりだな。覚えてるかよ。俺の事を」

 

 

 

「……キスメちゃんに暴行を加えていた、大入道とか言う奴か。随分と落ちぶれたものだ」

 

 

 

「あぁ、そうさ。おかげさまで今は一人、あばら家暮らしよ。だが、そんな日ともおさらばだ。今日はお前をぶっ殺して再び名を轟かせてやる!」

 

 

 

「……なるほどね。結構な事だが……まずは自分を客観的に振り返ったらどうだ?」

 

 

 

「へっ、その必要はねぇ。まずはこの憎たらしいメスガキから始末してやるからなぁ!」

 

 

 

 言い合えた瞬間、大入道はナイフを振り上げて──直後にぼきりと嫌な音を聞いた。遅れて想像を超えた痛みが、腕から体に駆け巡る。

 あまりに突然の出来事に、彼は悲鳴をあげながらその場に倒れこんだ。人質は解放され、二人とも久兵衛に向かって一直線に駆け出して行く。

 

 

 

「ぁあ! 痛ぇ! 畜生誰だ! この俺の邪魔をする奴は!」

 

 

 

 そうして振り返ったのが、彼の運の尽きだった。

 目の前に、文字通り鬼のような顔をした星熊勇儀が、文字通り鬼神の如きオーラを纏わせながら見下ろしていた。

 

 

 

「ひっ……」

 

 

 

「あたしの家族をどうするって?」

 

 

 

 流石の彼でも、鬼には敵わない。

 本能で逃げようとした。

 しかし、圧倒的な力がそれをねじ伏せた。

 大入道の足を下段突きでぶち折り、彼女は再び尋ねる。

 

 

 

「あたしの家族をどうするって聞いてるんだよ。逃げていいなんて一言も言ってない」

 

 

 

「ご、ごめんなさ……」

 

 

 

「あぁ、いい。謝罪なんかするな。大方誰かに唆されたんだろ? あんたみたいな弱い奴しか狙わない小物はいつもそうだからな」

 

 

 

 強者、それも勇儀だからこそ通る強引なこの理論を否定するものは、この場において一人もいなかった。そのまま勇儀は大入道の顎を鷲掴みにして持ち上げると、ギリギリと締め上げながら三度問い質す。

 

 

 

「誰の差し金だ?」

 

 

 

「し、しりゃない……」

 

 

 

 またぼきりと音が鳴った。大入道の答えが不満だった勇儀が、彼の顎を握り潰したからだった。

 声にならない悲鳴をあげる大入道の顔を再び勇儀は掴み、大きな声を張り上げる。

 

 

 

「そんなわけあるかぁ! わざわざこんな手の込んだ事をお前が出来るはずねぇだろうが!」

 

 

 

 だが、大入道も負けてはいない。何しろ自分の命がかかっているのだ。同じくらい大きな声で答えを返す。

 

 

 

「本当ににゃにもしりゃないんだ! 確かにおりぇは女から計画を聞いた! にゃんだったら三週間前の雨の日にも取引をむしゅんだ! だが! そにょ日、雷が光る一瞬にきんぱちゅの髪を見ただけで、姿そにょ物を見た事は一度だってにゃい!」

 

 

 

 一息にまくし立て、大入道は肩で大きく息をする。勇儀はしばらくその様子を眺め、計るように男の目を見つめる。

 暫しの静寂が、あたりを包み込んだ。

 やがて、大入道の言葉に嘘がないと分かったのか、勇儀は彼の顔から手を離した。ドサリと力なく男は尻餅をつく。

 

 

 

「……二度とその汚ねぇツラ見せんな!」

 

 

 

 半ば吐き捨てるようにして怒鳴りつけると、大入道は這々の体で泣きながら逃げ帰っていった。もう二度と、彼は地底に来ることも、名をあげることもないだろう。

 

 

 

「ちっ……あぁけったくその悪い!」

 

 

 

 それでも尚、あたるように地面を蹴り上げる勇儀に、久兵衛は声をかける。

 

 

 

「落ち着いて下さい勇儀さん。気分が悪いのは俺も同じですが、まずは怪我人が出なかった事を喜びましょう」

 

 

 

 久兵衛の言葉に幾らか冷静になった勇儀が、肩で息をしながら自分に言い聞かせるように何回も頷く。

 

 

 

「あぁ……そうだな。まずはそこを聞くべきだったよ。二人とも、大丈夫だったか?」

 

 

 

「平気……おじさんがずっと……守ってくれた……」

 

 

 

 久兵衛の足元にしがみついたキスメが、少し声を震わせながら答える。飢饉通りの少年も、首をコクコクと縦に振って同意を示した。

 なら良かったと安堵の表情を浮かべた勇儀は、改めて久兵衛に向き直った。

 

 

 

「それにしても……あいつを焚きつけた奴は一体誰だい? あたしには何がなんだか……」

 

 

 

「そうですね……もっと有益な情報があればいいんですが、金髪という手がかりだけではなんとも──」

 

 

 

 丁度その時、人手を頼んでいたパルスィが、息急き切って走ってきた。彼女の隣には黒谷ヤマメもおり、同じように走って来たのかゼイゼイと息を切らしている。

 

 

 

「おやパルスィ、そんなに走って一体どうしたんだ?」

 

 

 

「どうしたもこうしたもないでしょ! あんたを探し回ってたのよ! なんでいつも肝心な時にいないのよ! 妬ましいわ!」

 

 

 

 半ば八つ当たりのような形でパルスィは勇儀を詰る。分かった分かった私が悪かったと、多少苦笑いしつつ勇儀はパルスィを宥め、同行していたヤマメに視線を向けた。

 

 

 

「ヤマメもどうしたんだい? まさかあんたもあたしを探してたのかい?」

 

 

 

「いや……それもあるんだけど……久兵衛さん! すぐに戻って来て! テントが大変な事になってるんだ!」

 

 

 

 不意に名前を呼ばれた久兵衛は、思わず怪訝な顔をして、「テントが?」と訊き返す。しかし、ヤマメの方には答える余裕はなく、尚も彼女は同じ事を繰り返し口にした。

 

 

 

「兎に角来て! これじゃあ旅立つなんて口に出来なくなるよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 野次馬をかき分けて住処に戻った久兵衛は絶句していた。ヤマメが言っていたことが、誇張でなしに事実であったからだ。

 まずテントが酷かった。あちこちを鋭い刃物でズタズタに切り裂かれ、その上燃やされている。幸い張っていた所が水辺に近いという事もあって、消化活動が速くボヤ騒ぎで済んだものの、一歩間違えれば飢饉通り一帯を巻き込んだ大火災になりかねなかった。

 次に、大道芸の道具もダメだった。グラブは折られ、大玉は割れ、何もかもが修復不可能な程に破壊されていた。中には火の手の餌食になったものもあり、焦げて黒くなったジャグリングの玉や、水をかぶってずぶ濡れのロープもあった。

 医療機器や薬も同様だった。全ての道具には汚泥やゴミががかけられ、とてもじゃないが使えるとは言い難い。消毒薬の入った瓶はひっくり返されたり割られたりで殺菌も出来ない。

 全てが無になっていた。これでは旅に出るどころか生活すらままならない。

 

 

 

「これは……酷いな……」

 

 

 

 後から来た勇儀も、嫌な顔をしながらポツリと呟く。キスメもパルスィも、言葉にしないだけで表情は他二人と変わらない。

 

 

 

「私が見た時にはもう火は結構回ってて……無事だったのはこれだけだったよ」

 

 

 

 そう言ってヤマメが手渡したのは、いつも見るピエロの衣装に、少しだけ焦げた匂いのするウクレレだった。どうやら奥の方にしまってあったらしい。「ありがとうございます」と、久兵衛は二つの物を受け取る。

 今にも墜落しそうな重苦しい雰囲気が、辺り一帯を包み込んだ。

 

 

 

「……まぁ、他の奴らに被害が及ばなかっただけでも良しとしなきゃな。下手をすれば大勢が死んでたかもしれない」

 

 

 

「そうですね……俺一人で済んで本当に良かった」

 

 

 

 慰めにも似た勇儀の言葉に久兵衛は同意する。それでもこの雰囲気は晴れる事はなく。

 

 

 

「……一体、誰がやったんだろう」

 

 

 

 誰かがポツリと発したその一言で、場は緊張を伴って更に暗くなる。

 

 

 

「……何言ってるのよ……そんなの決まってるじゃない! あの男がやったのよ! テントから出るのを見計らって燃やした後、二人を攫って通りに出たんだわ! それ以外考えられない! ここの人達が久兵衛に手を出すなんて事有り得ないじゃない!」

 

 

 

 最初に反応したのはパルスィだった。過剰なまでに怒り、緑色の目が更に深く、どす黒くなる。

 彼女の言葉に誰もが同意しそうであったがしかし、意外にも勇儀は冷静だった。

 

 

 

「落ち着きなよパルスィ。焼け跡から考えると、火をつけたのは多分、今から四十五分くらい前だ。丁度あたしが大入道をとっちめてた時間だよ。それよりも前に燃やしたのならとっくに火の手はあちこちに広がってるはずさ。それに、火をつけてから攫って姿現すなんて効率が悪いだろ? 順序が逆でもそれは変わらないし、そんな事をするなら分担した方が遥かにマシだ。違うかい?」

 

 

 

「じゃあ誰がやったって言うのよ! まさかあんた、私達を疑ってるって言うの!?」

 

 

 

「そうは言ってない。が、可能性としてはあり得る話さね。あたしだって本当は疑いたくはない。けど、聞かされてるのは大入道の金髪の女だったという話だけ。他に手がかりがない以上、地底にいる誰かを疑わざるを得ないだろう? こんな時にさとりがいてくれればいいんだが……」

 

 

 

 そのさとりは現在、次の宴会の開催場所をどうするかで博麗神社に出向いている。

 

 

 

「まぁとにかく、あたしは金髪の女の知り合いなんてのは自分を除いて三人しか知らない。だから残りの二人に一応聞くのさ。『この数十分の間、何処で何をしていた?』ってね。ヤマメ、まずはアンタからだ」

 

 

 

「わ、私!?」

 

 

 

 諭され、パルスィが渋々納得すると、勇儀がヤマメに水を向ける。いきなりの事にワタワタしながらも、ヤマメは自分の行動を事細かに説明する。

 

 

 

「えっと……今日は久兵衛さんに芸を教えてもらおうと思って来たんだ。そしたらテントが燃えてて、慌てて消火しようとしたんだよ。けど、思ったよりも火は強くて、通りかかったパルスィに協力して貰って鎮火させた後、事情を聞いてすっ飛んで来たんだ」

 

 

 

「なるほどねぇ……パルスィ、アンタは?」

 

 

 

「ヤマメとほぼ同じよ。勇儀を探してたらヤマメに声をかけられて、火事だって聞いて火消しを手伝って、通りの騒ぎの事を話して戻ってきたわ。何も怪しい事はしてないわよ」

 

 

 

「そうか……」

 

 

 

 逡巡を見せる勇儀はしかし、心中である結論を出していた。

 二人とも、嘘をついている。それも、どちらか一方を庇うような嘘だ。

 では、誰が火を放ったのだろう? 嘘を見抜く力はあれど、犯人を当てる力も、その動機を知る力もない。そういうのはさとりの領分だ。

 

 

 

「……ねぇ、勇儀……」

 

 

 

「ん? どうしたんだ?」

 

 

 

 どうしたものかと思案していると、不意にキスメが服のつま先を引っ張った。

 

 

 

「なんでヤマメは……濡れてないの?」

 

 

 

「濡れてない?」

 

 

 

「うん……ヤマメは濡れてないのに……パルスィは濡れて──」

 

 

 

 バチンと音が鳴ったのは、正に一瞬の出来事だった。

 

 

 

「ちょっ、パルスィ! いくらなんでもそれは!」

 

 

 

「離しなさいヤマメ! いくらキスメでも言っていい事と悪い事があるわ!」

 

 

 

 周囲がざわつく。勇儀も、一瞬何が起こったか分からなかった。だが、尚もキスメに向かおうとするパルスィと、それを羽交い締めにして止めるヤマメ、まだ呆然としているキスメを見て、全てを悟った。

 

 

 

「大丈夫か!? キスメ」

 

 

 

「あ……ごめん……なさ……い……」

 

 

 

 か細い声で絞り出した謝罪。今にも泣きだしそうな顔はしかし、そらすことなく真っ直ぐにパルスィを見つめている。

 しかし、それでもパルスィは止まらない。尚もキスメに掴みかかろうと、必死にもがき、抜け出そうとしている。

 

 

 

「パルスィ落ち着け! これ以上キスメに当たるような事はするな!」

 

 

 

「そこをどきなさい勇儀! 話はまだ終わってないわ! こうでもしないとキスメは──」

 

 

 

 ウクレレの歌が響いたのは、正に二人がぶつかる瞬間だった。

 ハッとして勇儀は周りを見る。近くにいた久兵衛はいつのまにか消えていた。

 音は屋根の上から聞こえて来る。見ると、いつも見慣れたあのピエロが、屋根に腰掛けウクレレを弾いていた。

 

 

 

「みんなー、少しは落ち着いたかなー?」

 

 

 

「久兵衛……お前……」

 

 

 

 勇儀が言葉を発する前に、ピエロの言葉はパルスィに向けられる。

 

 

 

「パルスィー、まずはキスメちゃんに謝ろうよー。いくら言っちゃいけない事だったとしても、手を出すのは間違ってるからさー」

 

 

 

「だけど!」

 

 

 

「僕なら大丈夫だよー。道具はまた揃えればいいし、テントは後から用意出来るからー。それともー、パルスィは悪い事したら謝れない悪い子なのかなー? 僕、そう言う人は嫌いなんだけどなー」

 

 

 

「うぅ……わ、分かったわよ……ごめんなさい、キスメ。少し……言い過ぎたわ」

 

 

 

 不承不承ではあるものの、パルスィはキスメに頭を下げて謝罪した。

 

 

 

「よーし! 仲直りも済んだところで! 急遽! 僕のショーを開催しちゃうよー!」

 

 

 

 再び沈んだ空気を、ピエロは極めて明るい声で払拭する。最初は怪訝な顔をしていた野次馬もピエロがウクレレを弾き始めた事で徐々に歓声をあげ、場は悲惨な火災の現場から一気に楽しげなコンサート会場に変わる。

 いつも見る、烏丸久兵衛の神がかった雰囲気作りは、キスメやヤマメ、果てはパルスィをも取り込んで虜にする。ウクレレの歌をピエロが代弁する度に、皆声を上げて盛り上がり、人が人を呼んで更に盛り上がる。

 流石は久兵衛だなと、勇儀はピエロを見上げた。楽しげに笑うその表情はただ一点を見つめていて、瞳にはどこか悲しげな色も帯びている。

 不思議に思い、彼の視線を追っていく。そこで彼女は彼が見ていたものに気がついた。

 いつの間にか、時刻は夕方に近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「珍しいね。久兵衛さんが私を呼び出すなんて」

 

 

 

 それから少し経って、ヤマメは久兵衛に呼び出された。既に陽は空から去ってしまい、大勢の酔客が大通りを闊歩する時間であった。

 飢饉通りもまた例外ではない。街灯がないこの場所は表通りと比べてなお暗く、奥に行けば行くほど闇は深くなる。二人がいる場所も、光はとうに届かない場所である。

 

 

 

「申し訳ありません。こんな時間に呼び出してしまって」

 

 

 

「いいよぉ、気にしないで。それで、用って言うのは?」

 

 

 

「……少し、訊きたい事がありまして」

 

 

 

「訊きたい事? 何々、益々珍しいじゃない。あっ、もしかして私に告白とか? 何よー、今日あんな事が起こった後だよ? もー、なんかドキドキしてきちゃったじゃーん」

 

 

 

 やだぁ、と言いながら手をヒラヒラさせ、満更でもない表情を浮かべるヤマメ。それに対し、久兵衛は困った笑みを浮かべるが、すぐに気を取り直して口を開いた。

 

 

 

「単刀直入に訊きます……誰を庇っていますか?」

 

 

 

 瞬間、ヤマメの目が大きく見開かれた。

 

 

 

「え……な、何を言ってるの? 私は誰も庇ってなんか……」

 

 

 

「キスメちゃんが言いかけたあの言葉。貴女の足元を見たら、確かに濡れたような様子はありませんでした。なのに、消火活動をしたと嘘をついた。普段から何でも正直に話す貴女が嘘をつくのは、誰かを庇う以外有り得ません。そしてその人は、多分()の道具を盗んだ犯人で、大入道を唆した人でもある」

 

 

 

「そ、そんなはずは! ……あっ、いや、違うよ? 私、火消しの時にテントに一番近かったからさ、きっと火の熱で乾いたんだよ。うん、火の勢いも結構あったし」

 

 

 

 本当だよ? とおどけるヤマメだが、久兵衛はジッと彼女の目を見つめているだけで、何も答えない。

 

 

 

「……そうですか。貴女が必死になって庇う人。それだけで十分です」

 

 

 

「ちょっと、それって──」

 

 

 

「ヤマメさん、ありがとうございました。少し用事が出来たのでこれで失礼します」

 

 

 

 深く頭を下げると、踵を返して彼は歩き出した。バサリとコートがはためき、闇と同化するように彼を包み込む。その姿は、本当に闇に溶けて消えてしまいそうで。

 

 

 

「……待って!」

 

 

 

 思わず、ヤマメは彼を呼び止めてしまった。

 

 

 

「……分かってると思うから勝手に喋るけど、あの子がこんな事をしたのは、全部久兵衛さんの為なんだよ」

 

 

 

 俯きがちに、ヤマメは言葉を紡ぐ。久兵衛は背を向けたまま、何も答えない。

 

 

 

「私だって最初はびっくりしたよ。けど、理由を聞いて、納得したんだ。あの子ならそうするって。なんで気づかなかったんだろうって後悔したくらいだよ。あの子は、本当は真っ直ぐで優しいんだ。自分の事なんか二の次で、罪を被っても大切な人を助ける人なんだよ。だから……」

 

 

 

 だから、とヤマメは顔を上げた。

 

 

 

「あの子の気持ちを、想いを踏みにじるなら、例え恩人だとしても許さない。もしそんな事をしたら、地の果てまで追いかけて、食い殺してやるから」

 

 

 

 嘘偽りのない、仲間を大切にするヤマメだからこそ出た言葉が、確かな熱を持って空気に溶ける。

 

 

 

「……分かっています」

 

 

 

 振り向く事なくそう言うと、久兵衛は再び歩き始めた。今度こそ彼は、闇に溶けて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 月の綺麗な夜だった。酔客が消え、静寂が大通りを包み込んでいる。月光浴をするには丁度良い時間であった。

 人工の光が降り注ぐ道を、ゆらゆらと久兵衛は歩く。まるで酔いどれか浮浪者のように目的もなく歩いているようで、その実彼の足は目的地に向かって真っ直ぐな足取りを保っている。

 目的地は、予め勇儀から聞いていた。この時間であれば、彼女は確実に家にいるとも聞いた。後は、キチンと話をするだけだ。

 そうして久兵衛は、地底の橋に近い所までやってきた。目的の家は、すぐ目の前に見えていた。

 カタンという音が聞こえた。バレないように、彼は家の裏手に回り、そっと覗き込む。

 金髪の女が、火打ち石を打ち鳴らしていた。見覚えのあるウクレレが抱えられている。どうやら直接燃やして灰にするらしい。が、火打ち石は火花を散らすばかりで、一向にウクレレに火を灯さない。

 

 予感が当たった。後はいつ出ていこうか。

 

 そう思ったところで、女は痺れを切らしたのか火打ち石を投げ捨て、ウクレレを振り上げた。

 

 

 

「やぁ、こんばんは」

 

 

 

 タイミングは完璧だった。女の動きが固まり、視線はゆっくりと彼の方に向けられる。

 シルクハットを取りながらおどけてお辞儀をし、ゆっくりと顔を上げて何時ものような笑顔を彼女に見せる。怖がるだろうと思ったがそれは杞憂に終わり、彼女の表情に驚きと困惑の色が浮かぶ。

 

 

 

「楽しそうだね。何してるの?」

 

 

 

 笑顔のまま問いかける。彼女は尚も驚きを隠せていない。開いた口からは今にも「どうして」と溢れてしまいそうだ。

 

 

 

「どうしたの? 何か言ってくれなきゃ僕わからないよ」

 

 

 

 静寂を破るように再び問いかける。それを合図に振り上げた腕がダラリと落ち、ウクレレは力なく手から離れた。

 カランという音が、妙に耳に痛い。

 

 

 

「……積もる話もあるでしょう。今日はとことん付き合いますから、貴女のお話を全部聴きますから、そんな顔をしないで下さいよ──」

 

 

 

 パルスィさん。

 涙で顔がぐしゃぐしゃの彼女に、久兵衛は静かに、そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 静かな夜の空にウクレレの音が溶ける。音の元を辿れば、少し古びた家の軒先に、久兵衛とパルスィは座り込んでいた。

 久兵衛は優しくウクレレを弾き、パルスィは抱えた膝の中に顔を埋めている。

 どちらかが先に話すわけでもなく、ウクレレは静かに鳴り続ける。

 

 

 

「……どうして、ここが分かったの?」

 

 

 

 その音の力を借りて、先に問いかけたのはパルスィだった。「勇儀さんに聴きました」と、久兵衛は静かに答える。

 

 

 

「……いつから気づいていたの?」

 

 

 

「薄々気づいていましたが、昼の一件で確信しました。特にあの行動は、仲間を大切にする貴女らしくありませんでしたから」

 

 

 

「……じゃあ、私が何をやったかも知ってるの?」

 

 

 

「……えぇ。テントを燃やしたのも、大入道を唆したのも、()の道具を盗んでいたのも、それが全部俺の為であった事も、知っています」

 

 

 

 問答の間、久兵衛は一度もパルスィの方を向かなかった。最後の問いかけに答えた後、困った顔で空を見上げた。

 

 

 

「……俺のせい、ですよね」

 

 

 

 ポツリと呟いたその言葉は、パルスィの顔を上げさせるのには十分だった。

 

 

 

「違う! 貴方のせいじゃないわ! 全部私が勝手にやった事なの!」

 

 

 

「だとしても、俺のせいでパルスィさんを苦しめてしまった事には変わりないでしょう?」

 

 

 

「貴方は関係ない! 私はただ、貴方が旅に出たら、そのまま帰ってこないような気がして……貴方がまた、一人になるような気がして……!」

 

 

 

 再びパルスィの目から涙が一筋流れ出た。顔が俯き、雫が一粒地面を濡らす。

 

 

 

「……もしかして、あの時の話を聞いていたのですか?」

 

 

 

 少し驚いた表情で久兵衛は尋ねた。コクリとパルスィの首が縦に振られる。

 

 

 

「……初めは、冗談かと思ったわ。けど、貴方から直に話を聞かされた時、また久兵衛が一人になるって思ったの。せっかく居場所を見つけたのに、旅に出たらまた孤独な生活が始まるんじゃないかとか、そうなったら今度こそ心が折れちゃうんじゃないかとか。そんな事を考えたら怖くなって、物を盗んで時間を稼いだけど、それでも貴方や意志は変わらなくて。気がついたら大入道にキスメを売ってて、テントを燃やしてて……」

 

 

 

 話すうちに、彼女の声はドンドン詰まっていく。それでも彼女は途切れる事なく言葉を紡いでいく。

 

 

 

「テントを燃やした後に、ヤマメに声をかけられて我に帰ったけど、もう後の祭りで、黙っててってヤマメを脅すくらいしか出来なかったわ。けど、キスメの言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になって、そしたら……」

 

 

 

 言葉に詰まる。悲しみが喉に詰まって、真実を告白するのを阻む。

 そんな状態でも尚、パルスィは目の前の男に向かむて本音を曝け出した。

 

 

 

「お願い久兵衛! どんな罰でも私は受けるわ。けど……けど! どうか一人にならないで! ずっとここで、私達と一緒に暮らして! ずっとここにいて、みんなを笑わせて! ヤマメやキスメと一緒に、ずっと楽しい日々を過ごして! 何があっても私が支えるから……お願い……私を一人にしないで……」

 

 

 

 縋るように近づき、彼の服を掴む。一度切った口火と感情は、決して鎮火も堰き止められる事も出来ず、ぐちゃぐちゃなまま涙となって久兵衛のコートを濡らす。

 しばらく彼女の泣き声だけが夜の空に響いていた。やがて、震えるパルスィを抱き寄せ、背中をさすりながら、久兵衛が口を開く。

 

 

 

「……いずれにせよ、俺は貴女が行なった事を咎めようとは思っていません。むしろ、こんなにも俺の事を考えてくれているなんて思ってなかったから、嬉しい位です。だから罰も与える事は何もしません」

 

 

 

「だったら!」

 

 

 

「ですが、ここを去るという事はもう揺らぎません。俺はまだ、幻想郷を旅して回らなきゃいけないんです」

 

 

 

 断言するように久兵衛は言うと、「そんな……」とパルスィは絶望するように彼を見て、半ば詰るように問い詰める。

 

 

 

「もういいじゃない! ここで終えても誰も文句は言わないわ! なのにどうして貴方はそんなに旅する事にこだわるの!? どうしてまた一人になろうとするの!? ねぇ、答えてよ! どうして……」

 

 

 

 一つ、また一つと雫が頬を伝う。伝う涙が、久兵衛のコートを少しずつ濡らす。

 

 

 

「……一言で言うなら、俺の個人的な欲……になります」

 

 

 

「……欲?」

 

 

 

「えぇ、そうです。未練って言った方が正しいかもしれません」

 

 

 

 ポツリと呟いて、ウクレレを弾く。

 

 

 

「……これでも昔、正義のヒーローに憧れてましてね。誰かの為に色々な事をしました。でも、俺が正義だと思っていたものは実は悪で、誰かにとっては乗り越える壁でしかなかったんです。彼らが答えを見つけるのを見届ける事しか出来なかった俺は、そのまま姿を消しました」

 

 

 

 今思えば、相当悪い事もやりましたしねと、半ば自嘲気味に久兵衛は笑った。

 

 

 

「このまま死のうとも思いました。けど、それは叶わなかった。別の誰かの正義に、俺は生かされたんです。俺は、もう既に死んだ人間なんです。未練でこの世に繋ぎ留められた、ただの亡霊なんです」

 

 

 

「ぼう……れい……」

 

 

 

「だから、俺は探すんです。自分が生きている理由を。自分が生かされた理由を……沢山存在する正義の中で、自分の正義が本当に正しいものだったのかどうか、その答えを知りたいんです。知りたいから、色んな場所へ行って、探しているんです」

 

 

 

 話を終えた久兵衛が、遠い物を見るような目でパルスィを見つめた。彼女は久兵衛の胸に顔を埋め、ぎゅっとコートを強く握った。

 

 

 

「……旅をする理由は、分かったわ。けど、そんな事をずっとしてたら疲れちゃうわ。今はいいかもしれないけど、何処かで必ず崩れちゃう。そんな状態になるかもしれない貴方を見るのが私は──」

 

 

 

「その心配はいりません。だって、ここが俺の帰るべき場所ですから」

 

 

 

 きっぱりと久兵衛は言った。弾かれたように、パルスィは顔を上げる。

 

 

 

「……ずっと、一人のまま生きようと思ってました。俺がいる事でギクシャクするなら、早いうちから離れようと考えてました。けれど、そんな気持ちを吹き飛ばす位、この街の人たちはいい人ばかりで、何より俺の事をこんなにも想ってくれる人がいる。ただ、それが嬉しかった。ここにいてもいいんだって、初めてそう思えたんです……ねぇ、パルスィさん。旅人と浮浪者の違いって、一体なんだと思いますか?」

 

 

 

「……分からないわ」

 

 

 

「帰る場所があるかないか、です。帰る場所があって初めて旅人なんです。ここに来て気付いたんです。今までの俺はただの浮浪者だったと。誰かに守られる感覚を、初めて知ったんです。そしてそれを俺に教えてくれたのは、他でもない貴女です」

 

 

 

 ハッとパルスィは目を見開いた。あの時と同じ、久兵衛の優しい真っ直ぐな眼差しが、彼女の緑眼に映り込む。

 

 

 

「いつか、旅を終えたら、必ず貴女の下へ帰ってきます。自分に納得がいく答えを見つけたら、一番に貴女に会いに行きます。死んで、身体が朽ち果てても、烏になって戻ってきます。それまで……どうか待っていてくれませんか?」

 

 

 

 いつか見た、あの痛々しい久兵衛の笑顔。パルスィはその顔を真っ直ぐ見る事が出来なかった。

 

 

 

「……勝手よ、貴方」

 

 

 

 だから、強がるように彼女は呟く。

 

 

 

「いっつもそうじゃない。勝手にここに来たかと思えば、勝手にここに住み着いて勝手に芸をして。勝手に私達の心を奪って勝手に去るなんて。挙句勝手にここを居場所にして、勝手に帰ってくるって約束しようとして……本当勝手、ずるいわ。私がやってた事が全部無駄になったじゃない」

 

 

 

 でも、とパルスィは顔を上げた。憑き物が取れたような、晴れやかな笑顔だった。

 

 

 

「私の罪を全部許してしまうような貴方も、それを甘んじて受け入れてしまいそうな私も、凄く、凄く妬ましいわ」

 

 

 

 その笑顔につられて、久兵衛もまた微笑んで答えを返す。夜に咲いた二輪の花はまるで季節外れの桜のようで、その場所だけが月明かりに負けずに輝いていた。

 

 

 

「……ねぇ、わがままを言っていい?」

 

 

 

「いいですよ」

 

 

 

「あの曲を聴かせて。私が初めて聞いた、あの旅ガラスの歌を、私に聴かせて」

 

 

 

「……お安い御用です」

 

 

 

 ポロンとウクレレを鳴らし、久兵衛は演奏を開始した。いつか大通りで聞いた励ますような大きな音ではなく、寄り添うような小さな音が、パルスィの耳に溶け込んでいく。

 噛みしめるようにパルスィは目を閉じて、腕を絡ませて久兵衛の肩に頭を預けた。時折吹く風が、実に心地よい。

 こうして、長く感じた地底の一日は、ゆっくりと幕を閉じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 橋のたもとに、烏が降り立った。煤のように黒い羽を持つそれは、寂しいのか仲間を呼ぶようにカァと鳴いている。

 その様子を、水橋パルスィは橋桁に背をもたれて見つめていた。後ろに流れる川のせせらぎが、烏の合唱と合流するように歌い出す。

 

 

 

「今日も待っているのかい?」

 

 

 

 ふと、声をかけられた。見ると、酒瓶と盃を持った星熊勇儀が、いつのまにか隣に座り込んでいる、

 

 

 

「勇儀、あんたいつ来たのよ」

 

 

 

「ついさっきさ。なに、野暮な事をしに来たわけじゃない」

 

 

 

 言いつつ、持っていた酒瓶を軽く振った。その仕草で、勇儀が何をしに来たのかをパルスィは悟る。

 

 

 

「……はぁ、相変わらずね」

 

 

 

 ため息をついて腰を下ろし、彼女から盃を受け取る。「そうこなくっちゃ」と勇儀は笑顔で二つの盃に酒を注ぎ、一気に呷る。

 

 

 

「……ふぅ、やっぱり誰かと呑む酒って言うのは旨いものだね」

 

 

 

「あんたはいつ、どこで呑んでも一緒じゃない。そうやって酒を呑めるあんたが妬ましいわ」

 

 

 

「ハッハッハッ! そう言うなよパルスィ! これは気分の問題なんだ!」

 

 

 

 豪快に笑って、彼女の肩をバシバシと肩を叩く。痛いじゃない、と顔をしかめつつも、パルスィは抵抗らしい抵抗はしない。

 

 

 

「……で、あんたはなんでここに来たのよ。ただ酒を呑む為だけにわざわざここに来たわけじゃないんでしょ?」

 

 

 

「……ふむ、流石にパルスィは鋭いな。いやなに、あいつがいなくなってからのお前が少し、心配になってね」

 

 

 

 そう言うと勇儀は酒瓶をそっと置き、地底の空を見上げる。季節が春に差し掛かったとはいえ、日はまだまだ早く沈む。もう既に月が顔を出し始めていた。

 ピエロであり、医者でもあった旅人烏丸久兵衛は、年明けと同時に地底を出て行った。道具やテントが用意出来たらすぐに旅立つと、彼自身が常々言っていた通りになった。

 別れは皆、名残惜しそうに、それでも旅の無事を祈るように見送った。ヤマメは泣きそうになりながらも明るく、キスメは服の裾を掴んで「ありがとう……」と顔を伏せて。それら全てを背中に受けて、久兵衛は風のように去って行った。

 それでも旧地獄の活気は変わらなかったが、やはりどこかポッカリと穴が空いたような寂しさがあった。だが、徐々に現状を受け入れ、前に進もうと動き出し始めている。

 

 

 

「キスメは旧地獄の案内人になろうと頑張ってるし、ヤマメは地底のアイドルとして、たまに地上の方に行っている。久兵衛が気にかけてたあの子も、親が見つかって一緒に暮らし始めたそうだ。皆、どんどん変わり始めてる。だが……」

 

 

 

「私は変わってない……そう言いたいの?」

 

 

 

「……あぁ。相も変わらず、こうやって久兵衛の事を待ち続けてる。それがいい証拠だ」

 

 

 

「まぁ、分からなくはないわ。けど、こうは考えられない? 未だに地底のみんなにやった事を気に病んで、こうして迷惑かけないように暮らしているって」

 

 

 

「ちょっと待て! それはもうあたし達は許したじゃないか! 今更蒸し返すような事は鬼の名にかけて一切しないぞ!」

 

 

 

 冗談よ、と軽くあしらい、クイと杯を傾ける。納得していないのか、勇儀は再び酒を注ぎ、同じように一気に吞み干す。

 久兵衛と語り合った翌日、パルスィは久兵衛と共に地底の住民に謝罪を行なった。勿論大多数は激怒したが、ヤマメと勇儀の尽力により、一ヶ月謹慎という形で許してもらっている。

 

 

 

「……鬼のあたしが言うのもなんだが、人間の寿命は決して長いもんじゃない。もしかすると、あいつが帰ってくるのは魂の姿って事もなきにしもあらずだ。もしそうなった時、パルスィがどうなるか、それが心配なんだ。あたしは──」

 

 

 

「ていっ」

 

 

 

「ッ──!?」

 

 

 

 不意におでこを襲う鋭くも鈍い痛み。パルスィが一瞬の隙を突いてデコピンをくらわせたのだ。

 

 

 

「何すんだ! いくらあたしでも我慢の限界ってもんが──」

 

 

 

「勇儀、ありがとう」

 

 

 

 怒ろうとする直前パルスィは立ち上がり、そう呟く。あまりに突然の事に、勇儀は少し面食らった。

 

 

 

「でも、私なら大丈夫。どんな姿になっても、あの人はなら大丈夫って信じてるから。それに……」

 

 

 

「それに?」

 

 

 

「約束したから。ここが帰って来る場所だって、必ず帰って来るって言ってくれたから。それなら私は、その言葉を信じて待ち続けるだけ。ヤマメやキスメ、あんた達と一緒なら、いつまでも待ち続けられるわ」

 

 

 

 だから、とパルスィは勇儀の方へ振り返る。

 

 

 

「改めて、これからもよろしくね。勇儀」

 

 

 

「……前言撤回だ。お前は変わったよ。あぁ、こちらこそよろしくな。パルスィ」

 

 

 

 初めて見る、皮肉屋な笑みではない純粋な笑みに、勇儀は最初目を丸くしたが、やがてニヤリと笑みを浮かべ、立ち上がる。自然と、二人の手は固く、強く握られていた。

 

 

 

「あー、パルスィ! それに勇儀も! 二人ともこんなとこにいたんだ! 」

 

 

 

「……結構探した……疲れた……」

 

 

 

 その時、ヤマメとキスメの二人が、旧地獄の方からやってきた。橋の上に、鬼と土蜘蛛とつるべ落としと橋姫の四人が集う。

 

 

 

「おー、二人ともお疲れさん。一体どうしたんだ?」

 

 

 

「やー、今日はなんだか呑みたい気分でさ! 勇儀とパルスィも誘おうと思って探してたんだよ!」

 

 

 

「……肝心な時に……二人ともいない……何かの偶然かと……思った……」

 

 

 

「そうかそうか! いや、私達も呑み始めた所なんだ! なら丁度いい! パルスィの家で宴会と洒落込もうじゃないか!」

 

 

 

「ちょっと! 何勝手に色々決めようとしてんのよ! 家主である私の判断を仰ぎなさいよ!」

 

 

 

「いいじゃん、家近いんだし! それともー、パルスィは一人だけ仲間外れでも平気なのー?」

 

 

 

「ぐっ……そんなの卑怯よ!」

 

 

 

「素直にならない方が……悪い……」

 

 

 

「まぁまぁ! 言ってやるな二人共! なぁパルスィ、お前の家で宴会、やってもいいか?」

 

 

 

「……仕方ないわね。やってあげてもいいわよ」

 

 

 

「よっしゃあ! そうと決まれば善は急げだ。早速パルスィの家に行こう!」

 

 

 

「おー!」

 

 

 

 女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだ。

 明るく陽気に先を行くヤマメと勇儀、そのすぐ後ろを歩くキスメに、パルスィはそう感嘆した。

 突然、カァと鳴き声が聞こえた。

 振り返ると、あの時の烏が、こちらを見つめているではないか。まるで、自分の事が心配になって、見守りに来たと言いたげに、曇りのない黒目をじっと彼女に向けている。

 ふと思い立って、パルスィはその烏に向かってこう言った。

 

 

 

「──ねぇ、あの人に、旅ガラスのピエロに会ったらこう伝えて。私はいつまでも待ってるからって」

 

 

 

 またカァと一声鳴くと、満足したのか烏は飛び立った。振り返る事なく真っ直ぐに飛ぶ様は、いつか見たあの旅人を連想させる。

 

 

 

「おーい何やってんだー! 置いていくぞー!」

 

 

 

「ちょっと待ちなさいよー! 家の鍵空いてないからー!」

 

 

 

 遠くから勇儀が呼びかける。名残惜しく烏の飛び立った方を見続けた後、パルスィはその場を後にした。

 橋の上には、黒く、美しい烏の羽が残っていた。

 

 

 

 




次回は秘封をやると言ったな?

あれは嘘だ。

というわけでまた別のものを考えてます。

いつになるかは分かりませんが、ゆっくりと待っていただければ幸いです。


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片隅の記憶①

 会合や食事会ほどつまらないものはないと、稗田阿求は常々考えていた。

 厳粛な雰囲気の中、静かに食事をする会合や食事会は堅苦しくて苦手だからだ。

 上白沢慧音と共に参加した永遠亭のそれも例外ではない。八雲紫や聖白蓮、豊聡耳神子等、幻想郷の各勢力を招いたこの食事会は、普段の宴会とは違い、酒の類は一切用意されず、皆が広間に集まって人里の様子や今後の計画を報告し合う、食事付きの会議に近いものだった。

 今は八坂神奈子と八雲紫、そして八意永琳が、妖怪の山の状況について語り合っているところである。他の参加者は黙々と出された膳を食べており、特に西行寺の亡霊は幸せそうな顔をしつつ空の膳を高く高く積み上げている。

 その様子を見て、ため息をつく。

 特段宴会が好きというわけではないし、こういうものにも参加しなければならないと割り切ってはいるが、そこは御阿礼の子と雖も年ごろの娘である。最初は良くても、何度も参加すれば飽きは来る。

 とうとう彼女は、具合が悪いと嘘をついて席を外す事にした。出て行く際に慧音が付き添おうとしたが、それを丁寧に断り、縁側に腰を下ろす。

 中庭からの空を見上げれば、丸く輝くお月様が、春の空に穴を開けるようにポッカリと空いている。実に幻想郷らしい風景に再びため息をつきながら、ポツリと呟く。

 

 

 

「いいなぁ……月の兎は気楽そうで」

 

 

 

「あら、実際はそうでもないわよ?」

 

 

 

 振り返ると、腕を組んだ八意永琳が、柱に背を持たれて立っていた。赤と青の二色の服が、どことなく目を引きつける。

 

 

 

「お話の方は大丈夫なのですか?」

 

 

 

「あの白澤先生に頼まれたのよ、心配だから付き添ってくれって」

 

 

 

 隣いいかしら? と一度尋ね、阿求がそれを了承すると、永琳は彼女の横に腰を下ろした。

 

 

 

「……それで、月の兎は気楽で羨ましい……だったかしら?」

 

 

 

 いたずらっぽく尋ねると、阿求はバツが悪そうに俯いた。これはいけないと、永琳は冗談めかして口を開く。

 

 

 

「ごめんなさい。別に貴女を責めているわけではないの。ただ、やっぱり御阿礼の家の子でも普通の子供みたいな事を呟くんだなって思って」

 

 

 

「……それ、少し馬鹿にしてませんか?」

 

 

 

 ジトリとねめつけると、「意外だっただけよ」と、永琳はカラカラ笑う。なんだかうまくはぐらかされたような気がして、阿求は頬を膨らませながら、また空を見上げる。

 

 

 

「まぁ、分からなくもないわ。貴女の場合は特に。そう思うのも無理はないから……」

 

 

 

 理屈の問題ではない。

 稗田の宿命である短命、縁起の編纂、当主としての責任や様々な催し物への参加……やらなければならない事が、この短い人生の中に詰め込まれ過ぎている。

 一応代理を立てたり手伝いを呼ぶ事もあるが、それでも年頃の娘らしい楽しみは殆ど出来ていない。親友である鈴奈庵の娘のそれと比べれば、その差は明らかだろう。

 加えて先代、先先代と脈々と続く記憶や周囲の無意識のプレッシャーもある。彼女の小さな肩に乗りかかる重圧というのは、常人の想像の域を超えるほど重い。

 なればこそ、彼女が月の兎を思い、そう呟くのも無理はない事なのだ。

 それを分かっているから、八意永琳は月を眺め、真摯に答える。

 

 

 

「私から一つ言えるのは、月の兎も楽じゃないって事よ。基本的にはみんな気楽に暮らしているわ。けど、あの子達は基本的には奴隷。有事の際は月の都の住人に変わって戦うようになってるし、扱いは良いとはいえ、穢れを纏うとして一部の貴族から迫害される事もあるのよ」

 

 

 

「……それでも、彼等はやっぱり自由じゃないですか、私みたいに生き急いでないじゃないですか。それだけでも羨ましいですよ」

 

 

 

 月を見ながら、それでも寂しげに呟く阿求に、永琳はそれ以上何も言えなかった。重苦しい沈黙の中を、春の風が通り抜けていく。

 

 

 

「……阿求嬢、具合はどうだ?」

 

 

 それを破ったのは、上白沢慧音であった。満月にしか出ない角と共に心配そうな声色で、襖の先から覗き込んでいる。

 

 

 

「はい、幾分か良くなりました」

 

 

 

「なら良かった……いや、そろそろお開きにしようという事だから呼びに来たのだが……中に戻って頂いてもよろしいだろうか?」

 

 

 

「分かりました。すぐに戻ります」

 

 

 

「承知した。かたじけないが永琳殿、もう少し付き添って頂けないか?」

 

 

 

「えぇ、構わないわ」

 

 

 

 では、と襖が閉められる。それを合図に阿求はゆっくりと立ち上がって、ぺこりと頭を下げて謝罪をした。

 

 

 

「……ごめんなさい永琳さん。私の管巻きに付き合って頂いて」

 

 

 

「良いのよ。またゆっくり、話しましょう」

 

 

 

 永琳もまたゆっくりと立ち上がって労うように声をかける。応じた阿礼乙女はどこか儚げな笑顔を浮かべ、同じようにぺこりと頭を下げて座敷の中へと戻っていった。

 思わず永琳は哀れに思ったが、すぐにそれを打ち消した。宿命を受け入れようともがいている少女を哀れむのは筋違いだし、何より身勝手であると気がついたからだった。

 まだ月人の癖が残っているのかと心中で自嘲し、永琳は彼女の後を追う。

 雲一つない空に、流れ星が一つ流れて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

 寿命を憂う阿求ではあるが、その生活というのは意外にも不規則であった。

 まず彼女は朝に弱い。午前八時に使用人が起こしに来ても中々布団を離さず、やっと体を起こしても頭が働くのは朝食を食べてから三十分後である。その間は髪もボサボサ、寝間着の白襦袢も乱れたままで直さない事が多い。

 では、夜はどうかと問われれば、これもまた悪い。書き残した縁起やその他歴史書の執筆もあるが、特にアガサクリスQ名義としての小説は、使用人が寝静まった深夜にしか書けない。そのため、床につくのはどうしても二時や三時と遅い時間となる。阿求の事をよく知る小鈴からも「このままだと使用人さんに愛想尽かされるよー?」と、半ばお節介をかけられている状況である。

 阿求としても、自身の健康のためにこの生活習慣を変えたいと常々思っているが、稗田の責任がそれを許さない。その度に彼女は頭を抱えて悩むことになり、その悩みがまた彼女の目を冴えさせる。悪循環ではあるが、どうせ自分は短命であるから、こんな生活も悪くないと半ば諦めに近い感情を抱いているのもまた事実だった。

 そんな、何の変哲もない朝の事。

 

 

 

「……阿求様、起きてください。阿求様」

 

 

 

 使用人が阿求を起こしたのは、いつもより少し早い午前七時半だった。

 こんな時間に何事かと、眠い頭で考える。それでも布団はがっちりと離さず、呻きながら寝返りをうって細やかな抵抗を試みる。

 

 

 

「起きてください。ご友人がお見えになられてます」

 

 

 

「どうせ小鈴でしょう……しばらく待たせて下さい。私はもう少し……」

 

 

 

「いえ、小鈴様ではございません。翠嵐様でございます」

 

 

 

「……えっ、翠嵐?」

 

 

 

 むくりと起き上がって、そう尋ねる。

 

 

 

「はい。玄関でお待ちになっておりますので、準備が整い次第すぐにご対応します。まずは髪をお直し致します」

 

 

 

 言われるがままに布団から出ると、すぐに使用人が布団を片付け、阿求の髪を整えはじめる。ボサボサだった紫色の髪が見る見る間に梳かされ、一輪、大輪の花が咲く。

 いつもの服に着替えて、玄関の前に立つ。それでもまだ、頭は完全に回りきっていない。

 カラカラと扉が開くと、目の前に鮮やかな緑色の髪を持った、ブレザー姿の妖怪兎が現れた。

 

 

 

「久しぶりだな! おはよう!」

 

 

 

 早朝とは思えない程大きく元気な声が、阿求と使用人の耳を通り抜けていく。

 これがスラリとした好青年だったらある程度は絵になるだろうが、残念ながらその背丈は阿求と同じかそれより少し低い。

 だから彼の挨拶は、阿求にとっては寺子屋の子供を見ているようだった。せっかくのブレザーも、まるで冠婚葬祭に出るために着ているように思える。

 ポカンと、阿求はその男の子を見つめた。

 

 

 

「おいおい、まだ寝ぼけてるのか? 今日はいい天気だぞ! ぼーっとするのもいいけど、こんな日は外に出なくちゃ!」

 

 

 

 春の陽気とは似ても似つかない、夏の日差しを思わせる笑顔が、阿求に向けられる。

 

 

 

「さぁ、行こう! 今日は久しぶりだし──」

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 

 

 

 このままだと流されてしまうと悟った阿求は、慌てて待ったをかけた。

 

 

 

「えっと……貴方が……翠嵐、なのですか?」

 

 

 

 尋ねると、目の前の子兎が、ポカンと阿求を見つめ、呆れたようにため息をついた。

 

 

 

「おいおい……俺たちは昔からの幼馴染だろ? そりゃ……しばらく会ってなかったけど、見てくれも変わっちゃないし、正真正銘、俺は翠嵐だ。お前が先代の時から人里に住んでる、幼馴染の兎だよ」

 

 

 

 これでどうだと、妖怪兎は阿求を見つめる。それを受けた阿求は、眠い頭を抱えて、記憶を辿る。

 辿り辿って辿った記憶の底、彼女がまだ阿八であった齢六歳の頃の中に、同じように輝く笑顔の緑髪兎がそこにいた。

 

 

 

「あー! 思い出した! あんた翠嵐じゃない!」

 

 

 

「やっと思い出したか。相変わらずお前は朝に弱いなぁ」

 

 

 

 顔を片手で覆い、再び呆れたため息をつく翠嵐。それとは対照的に、今度は阿求が翠嵐に尋ね返す。

 

 

 

「翠嵐こそ……今まで何処に行ってたのよ! 突然いなくなったりして! 心配したんだから!」

 

 

 

 声に若干の怒気がこもるのも無理はない。

 この翠嵐という妖怪兎は、先代御阿礼の子である阿八が二十の時分にその姿を消している。あまりに突然の失踪であったためか、掘り起こした記憶の中に、そこからの彼の記憶が一切ないのだ。

 人間でありながら彼に想いを寄せていた阿八は、この出来事に大変なショックを受け、そこから数ヶ月体調を崩して寝込んでしまった。なんとか回復したものの、彼女はその後お見合いを通して結婚するまで、男に誘いを断り続けている。

 そうして時が経ち、阿八から阿求に代替わりして、またも突然の再会である。自分を放り出した男に一言言いたくなるのは当然だろう。

 

 

 

「私は……先代御阿礼の子は、ずっと、翠嵐の帰りを、待ってたのよ?」

 

 

 

「……ごめん。この前まで、ずっと外の世界に行ってたんだ……いつか帰ろうとは思ってたけど、タイミングが中々なくて」

 

 

 

 少し申し訳なさそうに翠嵐は顔を伏せる。

 

 

 

「謝るなら先代に謝って。今、私は()()だから、私に謝られても困るわ」

 

 

 

「うぐっ……その突っぱねる物言いも相変わらずだな……」

 

 

 

「……だけど」

 

 

 

 ふわりと、阿求の体が浮いた。その体は一直線に翠嵐の元へ飛び込んでいく。

 不意打ちに翠嵐は目を見開いたが、それでも力強く、さりとて折れてしまわないよう優しく、絶妙な力加減をもって阿求を受け止める。少しよろけたが、それでもしっかりと彼女を抱きとめる。

 

 

 

「あんたが無事で……本当に良かった……」

 

 

 

 溜まっていたものが吐き出されるように彼女は呟く。安心した彼女の目尻が、朝の光を受けてキラリと反射した。

 

 

 

「……本当にごめん。許される事じゃないけど……今の俺にはこうする事しか出来ないから……」

 

 

 

「……まぁいいわ。こうして元気に顔を見られただけでもよしとしましょう」

 

 

 

 憎まれ口を叩きつつ、阿求は翠嵐から体を離す。名残惜しそうな顔に気づかない振りをしながら、阿求は再び翠嵐に尋ねた。

 

 

 

「……で、アンタが毎度突然来るのはいつも通りだと納得するとして、何だってこんな朝早くに来たのよ」

 

 

 

「そりゃあ……久し振りに帰って来たし、阿求と一緒に里の散策でもしようかなって」

 

 

 

 あまりにも短絡的な発想である。思わず阿求は重い溜息をついた。

 

 

 

「あのね、外の世界に行ってたから貴方は忘れているかもしれないけど、里のお店は九時から始まるの! 今何時か知ってる? 七時半過ぎよ!」

 

 

 

「じゃあ朝御飯食べてから行こう。俺、待つのは慣れてるし、何だったら召使いさんの手伝いをやってもいいから」

 

 

 

「そうじゃない! それに、私はこの後も執筆があるの! アンタの気まぐれに付き合ってられるほど私は暇じゃ……」

 

 

 

「はぁ? ちょっと待て。前に仕事のやり過ぎは良くないから、週に一回くらいは休むって俺と約束しただろ。もう忘れたのか?」

 

 

 

「勝手な事を言わないで頂戴。私はそんな約束した覚えは──」

 

 

 

「いーや、言ったね。俺は覚えてる。よく思い出してみろよ。俺、お前に確かにそう言った筈だぜ?」

 

 

 

 じっと見つめ返され、再び阿求は記憶を辿る。確かに先代が十歳の時にそういう約束を交わした記憶はあるが、今は今で事情が違う。

 だが、目の前の兎はそんな事は知らぬとばかりに首をかしげ、いかにもそれが正しいと言いたげな自信たっぷりの目で見つめている。

 先に折れたのは言うまでもなく。

 

 

 

「……はぁ、すぐに貴方の分の朝御飯も用意させます。その後で里の方へ行きましょう」

 

 

 

「よっしゃ! 阿求のそう言う所、嫌いじゃないぜ!」

 

 

 

 これ見よがしに褒める翠嵐を軽くあしらい、阿求は使用人と共に屋敷へと戻る。「おい! 置いてくなよ!」と翠嵐の声が後を追うが、それも聞こえないふりをして黙殺した。

 不思議と、悪い気はしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「いやー美味しかったー! 相変わらず、お前ん家の料理は変わらないな!」

 

 

 

「当たり前です。先祖の頃から続いた伝統のレシピですから」

 

 

 

 朝食を済ませた二人は、そんな軽口を叩きあいながら大通りを並んで歩く。時刻は既に九時を過ぎており、一部の商店では活気のある客寄せの声が聞こえる他、寺子屋に通う元気な子供達の声も聞こえてくる。

 桜はもう散ってしまったが、春の陽気に違わぬ明るい風景であった。

 

 

 

「……それで、翠嵐は何処に行きたいの?」

 

 

 

「……え?」

 

 

 

「え? じゃないわよ。まさか全く決めてないとか言わないでしょうね?」

 

 

 

「えーっと……」

 

 

 

 ぽりぽりと頬を掻きながら、翠嵐は言葉に詰まる。この時点で何も考えていない事は明白なのだが、敢えて阿求はそのままねめつける。

 やがて困ったように笑いながら、翠嵐は頭を掻いた。

 

 

 

 

「ごめん、あまりに久しぶりなものだから、何処に行けばいいか分かんないや」

 

 

 

 あはははと笑う翠嵐を尻目に、阿求は変わらず歩を進める。反応を見た時点で、彼女の行き先は既に決まっていた。

 

 

 

「あの……阿求?」

 

 

 

「私達が通った寺子屋。まずはそこに行きましょう。慧音さんに頼めば見学くらいは許してくれるでしょうし」

 

 

 

「寺子屋……あぁ、あそこか! 慧音先生まだ担任やってるんだぁ……なんだか楽しみになってきたな!」

 

 

 

 懐かしむような声色の翠嵐に微笑み返し、二人は寺子屋に向かう。

 二人が到着した時には、既に寺子屋は登校して来た子供達で賑わっていた。教室には子供たちのはしゃぐ声で満たされたその活気は、弾幕ごっこに興じる妖精にも負けていない程のパワーに満ちていた。

 カランと下駄を響かせ教室を覗けば、騒がしい子供たちを静かにさせるために必死に呼びかけている上白沢慧音の姿があった。

 

 

 

「うわぁ……相変わらず忙しそうだなぁ……」

 

 

 

 その様子を見て、翠嵐は冗談めかした声色で慄く。すると、気配に気がついたのか、慧音がこちらの方を向き、バタバタと慌てて戸を開いた。

 

 

 

「おや、阿求嬢! どうしたんだこんな朝早くに!」

 

 

 

「おはようございます。慧音先生。えぇ、私ももう少し寝てたかったのですが……そこの馬鹿兎がどうしてもって言って聞かなくて……」

 

 

 

「へへへー……慧音先生、お久しぶりです!」

 

 

 

 阿求の後ろから、翠嵐がひょっこりと顔を出す。しかし、当の慧音は首を傾げるばかりで、翠嵐は少し語気を強めた。

 

 

 

「ちょっとちょっと、慧音先生忘れたのか? 俺だよ! 翠嵐だよ! いっつも先生にいたずらしてただろ?」

 

 

 

「何? 翠嵐だと? もしかして、悪童ウサギの、あの翠嵐か?」

 

 

 

「そうさ! 思い出してくれて嬉しいよ! 先生!」

 

 

 

 ニパッと嬉しそうに微笑む翠嵐に、一瞬だけ慧音はたじろいだものの、すぐに懐かしむような表情に切り替わった。

 

 

 

「いや、すまなかったな。少しだけ思い出すのに時間がかかってしまったよ」

 

 

 

「そんなこと言ってー、本当は忘れてたんでしょー? 先生も歳だしー」

 

 

 

「こら! 相変わらずお前はそんなことを言って! また私の頭突きを食らいたいか!」

 

 

「ちょっ! 先生そりゃないよー!」

 

 

 

 怒られてわざとらしく泣き真似をして見せる翠嵐。思わず阿求は吹き出し、笑い出してしまった。それにつられて、翠嵐も慧音も笑い出す。

 

 

 

「……おっと、要件がそれてしまったな。阿求嬢、今日ここに来たのは見学のためか?」

 

 

 

「はい、一時間だけでもいいので見学させていただければと思って……」

 

 

 

「あぁ、構わないぞ。じゃあ子供たちにも説明しなければいけないな。ちょっと前に出てきてもらってもいいか?」

 

 

 

「はーい! 慧音先生の頼みとあれば!」

 

 

 

 意気揚々と靴を脱ぎ、教室に上がる翠嵐に続き、阿求もまた教室に上がる。そのまま教団の前に立たされた二人を子供たちは興味津々に見つめており、翠嵐だけでなく、流石の阿求も居心地悪くもじもじとしてしまう。

 

 

 

「みんな、突然だが今日はお客さんが来たぞ。稗田家の九代目、稗田阿求と、ここの卒業生の翠嵐だ。みんなが頑張ってるところを見るから、しっかりと授業についてくるようにするんだぞ」

 

 

 

「阿求です。今日はよろしくお願いします」

 

 

 

「みんなおはよう! 卒業生の翠嵐様だ! 居眠りしてないかしっかりチェックするからなー? みんな覚悟するように!」

 

 

 

「あんたはその居眠りする側だったでしょうが!」

 

 

 

 調子に乗った発言をする翠嵐に、少しきつめな突っ込みをする阿求。それを見た生徒たちも、緊張がほぐれたのか皆大きな声で笑う。どうやら子供たちもまた、里の有名人と見知らぬ卒業生がいきなり現れたので警戒していたらしい。

 

 

 

「さー、授業始めるぞ! お兄さんお姉さんはしっかり見ているから、質問とかは休み時間に思う存分聞きなさい!」

 

 

 

 はーい! と、子供たちが返事をしたのを皮切りに、阿求と翠嵐は教室の後ろに回り、授業が始まる。

 一限目は国語だった。竹取物語の一節である、輝夜姫が月に帰るシーンを、子供たちはたどたどしくも読み進めていく。

 本物の輝夜姫がいるこの幻想郷で外の世界の竹取物語とはと、阿求はクスリと、気づかれぬように笑う。同じ兎である翠嵐も、似たような事を考えているかもしれないと顔を向ける。

 

 

 

「ふふ、幻想郷流の竹取物語を作ったらどうなるのかしら? ねぇすいら──」

 

 

 

 こっそり盗み見た翠嵐の顔は、霜が降りたように凍りついていた。

 目はカッと見開かれ、口は真一文字に固く結ばれている。拳はギリリと強く握られ、微かながら息も荒い。

 まるで、復讐の鬼に取り憑かれ、今にも誰かに殴りかかりそうなものをなけなしの理性で必死に抑えているような、静かながらも確かな怒りがフツフツと沸き立っている状態であった。

 

 

 

「──翠嵐?」

 

 

 

 初めて見る翠嵐のその表情に、阿求は最初気圧されたような感覚に陥り、半歩と少しながら後ずさった。が、すぐに気を取り直し、緑髪の兎の名前を呼ぶ。

 すると、彼はハッとして「何?」と尋ね返した。その姿に先ほどのような阿修羅の如き怒りはなく、楽天的ないつも通りの翠嵐であった。

 

 

 

「あ……えっと……」

 

 

 

「こらー翠嵐。まーたお前は阿求を困らせているのかー?」

 

 

 

 タイミングよく、慧音の割り込みが入り、それに翠嵐が反応した。

 

 

 

「ちょっ! 慧音先生、俺は何もやっちゃいねーよ!」

 

 

 

「嘘つくなー。お前が阿求をからかって私が怒るまでがワンセットだったはずだろー?」

 

 

 

「いや知らねーよ! 横暴だろそれ!」

 

 

 

「じゃあなんだと言うんだー?」

 

 

 

「それは……っ」

 

 

 

 ──阿求が可愛くて見惚れてたんだよ! 

 

 

 

 翠嵐が叫んだ後の、一瞬の沈黙。

 弾けるように、教室が笑う。生徒が、慧音が、翠嵐さえもつられて笑う。いつぞやの阿礼乙女の時の懐かしい記憶が、水底から生まれる泡のようにゆっくりと、湧き上がっていく。

 阿求も、同じように、この中にいる全員と同じように笑った。

 上手く笑えていたかは、分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「ありがとうございました。慧音先生」

 

 

 

「これくらいはお安い御用さ。子供達も喜んでくれたようだし、また来てくれたら歓迎するよ」

 

 

 

 阿求は慧音に挨拶すると、翠嵐を促して寺子屋を後にする。当の翠嵐は「また来るぜー!」と手を目一杯振って、名残惜しむ子供達に別れの挨拶を交わしている。

 あの後、結局子供達の質問責めにあった二人は、なし崩し的に次の授業も見学することになった。二限目は算数だったが、真面目に聞いていた阿求とは対照的に、立って、しかも目を開けたまま眠るという離れ業を披露した翠嵐。

 無論、お仕置きのチョークが飛んで来たのは言うまでもなく。ただ、これをキッカケに子供達に慕われ、この技のコツを伝授しようとして慧音から頭突きをもらい、再び笑われたのはまた別の話である。

 

 

 

「一限だけかと思ってたけど……結構居座っちゃったな」

 

 

 

「えぇ、誰かさんのおかげでね」

 

 

 

 でも、楽しかったわと、澄まし顔で阿求は答える。素直じゃねーなと茶化す翠嵐に肘鉄をかましつつ、空を見上げて思案する。

 

 

 

「すっかりお昼ね。どうする? どこかでご飯でも食べる?」

 

 

 

「うーん……それもいいけど……そうだ」

 

 

 

 翠嵐は近くにあった定食屋に目をつけると、ちょっと待っててと中に入っていった。数十分ほどして、丁寧に包まれた割子を持って帰ってくる。

 

 

 

「へへ、おばちゃんに頼んで弁当作ってもらったぜ! これもってさ、俺らの秘密基地で一緒に食べよう!」

 

 

 

「ひ、秘密基地? 馬鹿言わないでよ。そんなの私知らないわよ?」

 

 

 

「はぁ? いやいや。お前それも忘れちまったのかよ。ほら、あそこの山のちょっと高いところに、俺と阿求で作ったじゃないか」

 

 

 

 そう言って彼は妖怪の山を指さし、阿求をじっと見つめる。仕方なく阿求が記憶を辿ると、これまた先代のころ、天狗にも里の人間にも見つからないちょうど中間の小高い場所に、これまたちょうどいい洞穴があり、偶然それを見つけた翠嵐が秘密基地にしている。

 

 

 

「確かにあったけどさ……もう何百年と昔の話よ? 残ってるわけないじゃない」

 

 

 

「残ってなくてもいいさ。こういうのは気分が大事だろ? そうと決まれば善は急げだ! 時間は待ってくれないぞー!」

 

 

 

「ちょっと!」

 

 

 

 阿求の手を握りしめ、妖怪の山へと駆けていく翠嵐。彼女の咎める声すらも風に溶かし、彼は里を抜け、山へ入り、秘密基地へと歩を進めていく。

 里がある程度一望できるところまで来たところで、翠嵐は足を止め、阿求の手を離した。ずっと握っていた上に里から走り通しだったため、手のひらは汗でべちょべちょに濡れていた。

 

 

 

「はぁ……はぁ……ちょっと翠嵐……一体どういう……」

 

 

 

「ほら! 見てみろよ阿求!」

 

 

 

 息も絶え絶えな阿求をよそに、翠嵐は興奮気味に阿求を促す。呼吸が正常に戻るまで数分。ようやく落ち着いた阿求は、誘われるがままふもとを覗く。

 

 

 

「わぁ……!」

 

 

 

 眼下に広がったのは、いつも見慣れた里の、なんとも小さく、それでいて雄大な姿だった。寺子屋も、屋敷も、先ほどの定食屋も、まるでミニチュア大にまで縮小されたかと思うほど小さくなった街並みに、里の人間がさながら自動人形(オートマタ)のように規則正しく動き回っている。

 いつか見たオペラ劇の本を思い出しながら、阿求は更に景色を見渡した。周囲を森と畑に区切られた箱庭から目線を外せば、同じくらいの高さにあるはずの博麗神社が、周りから切り離されたようにぽつんと建っていたし、空を仰ぎ見れば、どこまでも続いていきそうなほどに底がないと思わせる快晴である。

 この世の全てが自分のものだと錯覚させるほどに、景色はどこまでも続いている。

 普段見ている世界を、鳥になった気分で見つめた阿求は、誰とも知らずに感嘆のため息をついた。

 

 

 

「阿求、ほいお弁当。おばちゃん奮発してくれたってさ!」

 

 

 

 そう言って翠嵐がお弁当を渡し、彼女の隣に腰を下ろす。「うおー! うまそー!」と大声を上げる彼にクスリとしつつも、割子を丁寧にはいだ。中の弁当は鳥めしととり天という、鳥尽くしの内容だった。

 

 

 

「うめー! なぁ阿求! これうめーよ!」

 

 

 

「そうね……まあまあってところかしら」

 

 

 

 翠嵐が調子に乗るのが少しだけ癪だから、阿求はわざとそっけなく答える。翠嵐は尚もカラカラと笑いながら鳥めしをかき込んでいく。

 そうして弁当を食べ終えた二人は、何を話すわけでもなく、ただぼーっと景色を眺めていた。たまに吹く柔らかなそよ風が実に気持ちいい。

 

 

 

「……ねぇ」

 

 

 

 少し時間が経って、阿求はかねてから疑問に思っていたことを尋ねる。

 

 

 

「覚えてる? 私、ここで貴方に告白したの。二十の時だったかしらね。山のお祭りが終わった後、顔真っ赤にして、破裂しそうな心臓を抑えながら貴方を待ってたっけ」

 

 

 

 訥々と語る阿求とは裏腹に、翠嵐は何も言わない。ただ黙って、里の方を見つめている。

 

 

 

「返事を待つのはすごいドキドキしたわ。時間が何時間も引き延ばされてる感覚ってこう言う事だったんだって、今でもはっきりと覚えてる。そうして出た答えは……『嬉しいよ、阿求』」

 

 

 

 嬉しくて死んでしまいそうだったわ。と、阿求は嬉しそうに言い切った。

 

 

 

「だってそうじゃない? ずっと思い焦がれてきた相手とやっと結ばれたんですもの。そう思うのも当たり前でしょう?」

 

 

 

 だからこそ────

 

 

 

「貴方がいきなり消えた時はショックだったわ。だって、貴方言ったわよね。『山の祭りの時まで、もう少し待っててほしい。俺から告白して、阿八を幸せにする』って。私、何年待ったと思う? 六年よ、六年。結局私、待てなかった」

 

 

 

 言葉に段々と棘が出始めてきた。声も悔しさからなのか震えてもきている。

 

 

 

「それが……それがよ、先代がなくなった今になって……こうしてノコノコと出てくるなんて! 遅いのよ! アンタはいつも! ずっと悔しくて! アンタのことをずっと恨んで!」

 

 

 

 いつの間にか、阿求は泣いていた。待ちきれなかった自分に対する怒り、その自分を裏切った翠嵐に対する恨み。それら長年の感情が全部混ざり合って、彼女の涙はとどまることを知らなかった。

 

 

 

「だけど……今日、アンタと一緒に居て、そんな気持ちも吹き飛んだわ。やっぱり私、今でも貴方が好き。ねぇ、翠嵐。今度は、今度こそは、私のそばをはなれないでくれる?」

 

 

 

 懇願にもよく似た阿求の言葉が、さながら銃口のように翠嵐に向けられる。それは一見すると再びの告白に見えるが、一度裏切られた彼女からすれば、これは最後の宣告に近いものだった。

 今まで黙っていた翠嵐が、ここで口を開く。

 

 

 

「俺……さ、分かってたつもりだったんだ。阿求は人間だから長くは生きられないって。でも、戻れなかった。予想以上に仕事が長引いたこともそうだけど……もう少し長く生きると思っててさ。俺は妖怪だから年をとるのは慣れてるし、しわくちゃな阿求も愛せるって自信があったからさ」

 

 

 

 だけど……と、翠嵐は目を伏せる。

 

 

 

「まさか阿求が、もう死んでるとは思わなかった」

 

 

 

「当たり前じゃない。私の一族は長くても30歳くらいまでしか生きられないのよ? 知らなかったの?」

 

 

 

「そう……だから、いいのかなって」

 

 

 

「何がよ」

 

 

 

「俺で本当にいいのかなって。俺、こんなんだし学もないから、阿求のこと困らせるかもしれなくて。それだったら……」

 

 

 

「勝手なこと言わないで!」

 

 

 

 叫び阿求は立ち上がった。尚も顔を伏せる翠嵐に、彼女は再び思いの丈をぶつける。

 

 

 

「確かにあんたは馬鹿よ! すぐ寝ちゃうし空気は読まないし! 遅刻はするしいつも勝手だし、考えなしに突っ込むところなんかはアンタの悪癖よ! でも! アンタは同い年の友達がいなかった私に、初めて声をかけてくれた! それだけでも私は嬉しかった!」

 

 

 

「そんな事……あったんだ」

 

 

 

「当たり前よ! 今でも覚えてるんだから! 稗田の記憶力を舐めないで! アンタのいいとこなんか他にいくらでも思い出せるわ! 悪い事全部が霞むくらいにね! だから……そんな自信なさそうな顔しないで! アンタらしくないわそんな顔!」

 

 

 

「だけど……僕は……」

 

 

 

 パァン! 

 翠嵐の顔に鋭い痛みが走った。右頬がだんだんと熱くなる感覚がじんわりと伝わってくる。

 頬を張った主は、息を荒くしながら叫ぶ。目尻には涙が溜まっていた。

 

 

 

「何? まだ煮え切らないってわけ? そんな事を言うならもういいわ! ここから飛び降りて死んでやる!」

 

 

 

「おいちょっと待て!」

 

 

 

「待たない! だって私はもう十分待ったんだもん! これ以上待たせないで! 私はもう貴方を受け入れる準備は出来ているのよ! 後はアンタの『はい』だけでいいの! アンタは……私や先代の心を……また裏切るつもりなの?」

 

 

 

 ハッと、翠嵐が目を見開いた。そのままスックと立ち上がって、尚も隣で喚く阿求を見つめる。

 

 

 

「……分かったよ阿求。俺、今度こそ覚悟決める。今度は絶対に離れない。離さない。俺がずっと阿求のそばにいる。だから────」

 

 

 

 言いかけたその時、阿求が思いっきり翠嵐に抱きついた。「わぷ……!?」と、体から後方に傾く。崖側に近い場所ではあったが、なんとか安全な場所に倒れる事が出来た。

 

 

 

「遅いわよ……馬鹿ぁ! いいに決まってるじゃない! やっと貴方と一緒に入れるんだもの!」

 

 

 

 泣きながらも阿求は笑顔を向けた。長く募った想いが今日、やっと花開いた。

 

 

 

「ごめんなさい……阿求さん」

 

 

 

 申し訳なさそうに呟いた翠嵐の言葉は、なおも嬉し泣きを続ける阿求には届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────────────────

 

「……やはり妙だ」

 

 

 

 人が誰もいなくなった寺子屋。その職員室で、上白沢慧音は確信した。

 机に広げているのは、ここ数百年分の生徒の卒業アルバムと出席簿である。河童と烏天狗に協力を仰ぎ、毎年三月になると、卒業生を呼んで写真を撮る。

 

 

 

「今までのアルバムは全部見た。歴史だって辿れるところまで辿った。だと言うのに……いない」

 

 

 

 翠嵐という妖怪兎だけの歴史が、最初からなかったかのように消えている。

 違和感を覚えたのは、朝の寺子屋で『久しぶりに』出会った時だった。

 様々な歴史を覚え、操り、編纂する事が出来る慧音にとって、今まで出会った人物を覚えることなど造作もない事である。

 しかし、今朝の翠嵐だけは違った。過去に出会ったという歴史がない。ましてや寺子屋の生徒であったこともない。

 だというのに、翠嵐と名乗る何かは、慧音が自分の事を忘れたと言う。咄嗟に嘘をでっち上げて怪しまれないようにしたが、生徒が帰ってあるだけの資料を漁ってみても、翠嵐という名前の生徒はいない。

 

 

 

「これは……」

 

 

 

 このような情報から、慧音は稗田の家柄を利用するために翠嵐が催眠をかけた可能性が高いと踏んだ。だが、当の阿求だけでなく、寺子屋の子供達や妖精、ある程度妖力のあるチルノや橙も疑っていない。まるで、今まで本当に翠嵐という妖怪が存在していたと誰もが思っているようだった。

 だからこそ、慧音一人がいないと騒ぎ立てた所でなんの意味もない。これがまやかしだと証明するには、もう一人の協力者が必要である。だが、その協力者も、ここまで多くの人が信じている以上探すのは困難を極める。

 

 

 

「なんという事だ……このままでは人里だけじゃなく、 幻想郷に被害が及ぶ可能性もある! しかしどうすれば……」

 

 

 

「フフフフ、お困りのようね。慧音センセ?」

 

 

 

 八方塞がりかと思ったその時、頭上から降って湧いたように声がした。妙に余裕ぶったその声の先を見上げれば、いつもの導師服に身を包んだ幻想郷の賢者が、スキマに腰を下ろしていた。

 

 

 

「……私は今忙しいんだ。無駄話なら他をあたってくれ」

 

 

 

「つれないわねぇ。貴女は相変わらず頭が固いのよ。だから……」

 

 

 

「他をあたってくれと言っているんだ!」

 

 

 

 バンッ! と慧音が机を叩く。

 

 

 

「今回の事は最悪幻想郷に大きな危機をもたらすかもしれない。それはお前も承知のはずだろう? このままでは滅亡だってあり得るんだ! 人里の守護者として……いや、一幻想郷の住人としてもそれは避けねばならん! お前がそれに対してどう思っているかは知らんが、一刻も早く手を打たねば……」

 

 

 

「はいっ」

 

 

 

「むぐっ!?」

 

 

 

 慧音の必死の叫びを阻止したのは、賢者が口に突っ込んだあんこ団子だった。つぶあんの優しい甘さが口いっぱいに広がる。

 

 

 

「んぐ……何するんだ! いきなり串団子を突っ込んで! 喉に刺さったらどうする──」

 

 

 

「慧音センセ、貴女はこの状況に対し、焦って無謀な事をしようとしているわ。まずは落ち着いて、状況を整理するの。まずは相手の能力。貴女は催眠をかける能力だと思っているけど、それはちょっと違う。催眠よりももっと強力で、直接的なものよ」

 

 

 

「催眠よりも強力で直接的……もしかして、暗示か?」

 

 

 

「正解よ。もしそうなら、まだ手はあるわ」

 

 

 

「何! 本当か!? それなら……」

 

 

 

「でも、私の口からは教えなぁい」

 

 

 

「な……そんな殺生な!」

 

 

 

「だってそれだとつまらないでしょ? こういうのは自分で考えてこそですもの。それに、私もそろそろ時間だわ。行かなくちゃいけないところがあるの」

 

 

 

「行かなくちゃいけない……場所?」

 

 

 

 慧音が尋ねると、賢者は扇子で口元を隠すと、意味ありげに振り向いてこう言った。

 

 

 

「貴女……稗田阿八とも親交があったわね。あの子、二十歳の時に妖怪の山のお祭りに行ったそうよ。それも、そこで誰かに告白したとかなんとか」

 

 

 

「え……」

 

 

 

「さ、私の話はこれでおしまい。後は自分で考える事ね」

 

 

 

 期待していると言いたげに目を細めると、そのまま彼女はスキマの奥に消えていった。後に残った慧音は、顎に手を当てて考える。

 

 

 

「妖怪の山で……? あの阿八殿が……? そんな話一言も……それに妖怪の山の祭り……もしかして……!」

 

 

 

 何かに気づいた慧音は、あるものを探して納戸を漁った。何ぶん数百年も前の事だから、もしかするとなくしたか捨てるかしてもう残ってないかもしれなかったが、それでも慧音は必死になって探した。これが阿求を助けるカギになるかもしれないと考えたからだ。

 

 

 

「……あった!」

 

 

 

 そうして探すこと数分して、慧音はついにあるものを見つけた。そこに写っているものを見て、慧音は確信を深める。

 

 

 

「だとすると……」

 

 

 

 そのまま慧音は外に出ていった。既に日は山の彼方に消えようとしていたが、それでも彼女はお構いなしで駆けていき、その姿は妖怪の山へと消えていった。

 

 

 

 



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片隅の記憶②

「お祭り……ですか?」

 

 

 

 そう小首を傾げる阿求の目の前に、チラシがパッと目に入る。

 守矢神社が主催する、妖怪の山の夏祭り。その案内図のチラシをヒラヒラと揺らしながら、持ち主である上白沢慧音はコクリと頷く。

 

 

 

「あぁ、そうだ。なんでも、今回は人里の人間も参加可能で、友人や家族なんかと一緒に来ればもっとお得になるらしい。どうだろう? たまの休みなんだ。羽を伸ばしてきたらいいじゃないか」

 

 

 

「いえ、それは嬉しいんですが……」

 

 

 

 妖怪の山の夏祭りは、阿八の時にも行ったことがあるし、現在も呼ばれていれば行くことはある。

 だが、この山での夏祭りというのは、本来であれば妖怪だけ参加可能のお祭りであり、天狗が毎年取り仕切っていたはずである。阿求は人間の里の代表として、来賓扱いで参加していた。

 それが、今年になってこの措置である。プライドの高い天狗が守矢神社の交渉を何度も断り続けてきた事は周知であり、仕方なく人間の里で開催していたこともまた知っているが、何故今になって天狗が折れたのか阿求には分からなかった。

 

 

 

「珍しいなと思いまして。天狗が山に人間を入れるなんて滅多にないことですもの」

 

 

 

「む……そこの事情に関しては私には分からないが、守矢の巫女が尽力してくれたのだろう。せっかくなんだ、翠嵐を誘って行ってくればいい」

 

 

 

「ふぇ!? な、なんでそこで翠嵐がでてくるんですか!?」

 

 

 

 顔を真っ赤にし、露骨に焦り始めた阿求に対し、慧音はニヤリと笑ってさらに追撃を始める。

 

 

 

「そういえば聞いたぞ? 阿求嬢、今は翠嵐にベタベタなのらしいな? 外で腕を組んで歩くだけでは飽き足らず、縁起の編纂時もそばに呼んで、手とか色々触ってたり触られたりしながら書いているとか」

 

 

 

 

「ど、どうしてそれを……!」

 

 

 

「使用人から聞いたんだ。毎日惚気られて困るとか、あぁなったらいつ冷めるかとか、色々心配していたぞ?」

 

 

 

「あぅ……!」

 

 

 

 使用人が言っていた事は、紛れもない事実であった。

 阿八の時分からの我慢が一気に解かれたのか、会うごとに腕にくっついて愛の囁きを繰り返したり、編纂の際には自宅に招き、書いてはいちゃつき、書いてはいちゃつきを繰り返していた。

 人間、そんな事をずーっと続けているのであれば、いつかは飽きて百年の恋も冷めるものだが、二ヶ月、三ヶ月と同じようにベタベタしていても、阿求から冷める様子は全くない。

 では翠嵐の方はどうかと問われれば、彼もまたまんざらな様子ではない。ただ、最近になって編纂を嫌がるようになった阿求をたしなめるようになり、立場がだんだんと逆転してきているようであった。

 

 

 

「まぁ、仲睦まじいのは結構だが、仲睦まじすぎて束縛しないようにな」

 

 

 

「わ、分かってますよ……それくらい」

 

 

 

「それじゃあ、私は授業があるからこれで。翠嵐にも伝えておくんだぞ」

 

 

 

 そう言いながら慧音は席を立った。一人残された阿求は、むぅと頬を膨らませつつ、ゴロンと寝転がって天井を仰ぎ見る。

 

 

 

「……お祭り……かぁ……」

 

 

 

 阿八から阿求に変わって、初めての夏祭り。それも、恋仲になって初めての大きなイベントである。

 浮かれていないといえば嘘になる。

 だが、稗田という世間体がある以上、人前、それも上白沢慧音等の有力者の前では、多少なりとも居住まいは正さなければならない。ただ、既に人里の間でその所業が知れ渡っている。要するに、今更かしこまってお澄ましをしても意味がないというわけである。

 そこを突かれてからかわれたのだ。拗ねなければやっていけない。

 

 

 

「……だけど」

 

 

 それでも好きなことには変わりないし、今更辞める理由もない。見透かされているような気がして少しだけ癪だが、今日もいつものあの場所で落ち合う約束をしているから、これからすぐにでも伝えるつもりである。

 

 

 

 

「……よし」

 

 

 

 心を整えた阿求はバッと起き上がり、髪を軽く整えると、慧音に渡されたチラシと荷物を持って出かけていく。からかわれた後だというのに、彼女の足取りはとても軽やかなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 嬉しそうに駆けていく阿礼乙女。その音を、死角の塀にもたれて聞いているものがいた。

 

 

 

「……行ったか」

 

 

 

 残念そうな、しかし、予想していたような声色で、はぁとため息をつく。先代のころからの付き合いで、一度はまってしまえばそれしか見られなくなる悪癖はそのままだったらしい。できれば伝えないでほしいと半ば流れ星に祈るような形だったが、この性格が続くようではそれも難しい。

 彼女はもう一息ため息をつくと、ある場所に向かうために歩き始めた。もし阿求がこのまま何もしないようであれば翠嵐だけに的を絞り、危害は加えないようにするつもりではあったが、こうなってしまった以上、巻き込まれてしまうのを覚悟のうえでやるしかない。

 

 

 

「恨むなよ……阿求嬢」

 

 

 

 そうして彼女は覚悟を決め、歯を食いしばった。上白沢慧音らしからぬ、なんとも自虐的で自爆的な覚悟だった。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 ここ数か月、あまり外出をしてこなかった阿求にとって、山登りというのは身に応えるものであった。

 何しろ不規則な生活に加え、縁起執筆に時間を割いているために運動らしい運動はしていない。ここに来るのは先代御阿礼の子以来であるからして、実に百年は時が経っている。

 ここに来ることなんてほとんどないに等しかった。

 だが、今は違う。

 るんるんとスキップしながら、集合場所である秘密基地へ向かう。流石にここまで走りきる体力は彼女にはなかったらしい。

 そうして秘密基地までのなだらかな坂道を登りきった。いつも通りであれば、翠嵐はこの丘にある洞穴の中で待っているはずである。

 

 

 

「すーいらん! 来たわよ!」

 

 

 

 阿求は洞穴の中にいるであろう翠嵐に声をかけた。会えるのが楽しみだという事を微塵も隠さない程語尾が跳ね上がった声で。

 

 

 

「……翠嵐?」

 

 

 

 しかし、反応がない。本来ならすぐに洞穴からひょっこりと顔を出して、「おっす!」なんて短く挨拶を返していたはずだが。

 

 

 

「……い。何も……」

 

 

 

 ふと耳をすますと、洞穴の奥から翠嵐の声が聞こえてきた。誰かと何かを話していたようだったが、ここからではよく聞こえない。

 

 

 

「……そういえば、私、何度もここに来てたはずなのに、この洞穴の中は一回も入った記憶がないわ……」

 

 

 

 妙な気分を感じつつ、阿求は洞穴の中に足を踏み入れた。カツン、と足音が反響する。

 洞穴は意外と深く、明かりがないと何も見えなかったが、数メートルほど歩いたところで、白い光が見えるようになった。

 

 

 

「……はい、何もありません。なので……」

 

 

 

 段々と翠嵐の声も鮮明になってきた。やはり誰かと何か話している。

 

 

 

「……翠嵐?」

 

 

 そこから再び呼びかけると、ガタンと大きな音が響いた。「また後で報告します」という声が聞こえた後、バタバタと何かを片付けるような音がこだまし、奥から翠嵐の姿が現れた。

 

 

 

「よ、よぉ! 早かったんだな! 阿求!」

 

 

 

 明らかに動揺したような声色である。

 

 

 

「うん、今日はちょっとね。それより翠嵐、いいの? 誰かと話してたようだけど」

 

 

 

「い、いいんだ! また後でも大丈夫だし!」

 

 

 

 明らかに嘘である。

 

 

 

「……ねぇ、翠嵐。何隠してるの?」

 

 

 

「え? いや、別に俺は何も──」

 

 

 

「嘘。アンタ、目が泳ぎすぎてるもん。それに私、この洞穴に一回も入った事ないし」

 

 

 

「そ、それは単に入る機会がなかっただけじゃ……」

 

 

 

「兎に角、アンタが何かを隠しているのは明白。ちょっと中に入らせてもらうわよ」

 

 

 

 目を泳がせ、尚も止めようする翠嵐を睨みつけて黙らせ、阿求は奥へと進んでいく。

 

 

 

「……ちょっと、これって……」

 

 

 

 中を見るなり、阿求は驚いた。洞穴の奥に、幻想郷ではありえない程の設備が敷かれてあるからだった。

 河童が作ったのだろうか、高性能そうなワイヤレスフォンに、如何にも馬力が違うと思わせんばかりの発電機、そこに繋がれた液晶画面に、パソコンも常設されている。

 壁にはいくつかの武器がかけられており、銃に至っては阿求にも見覚えのないものがほとんどであった。

 

 

 

「あーあ、知られちゃったか……阿求には秘密にしておきたかったんだけどなぁ……」

 

 

 

 がっくりとうなだれた翠嵐が背後から近寄ってくる。

 

 

 

「どういうことなの翠嵐。アンタこれ、一体……」

 

 

 

「仕方ない、阿求にはホントのことを話すよ」

 

 

 

 ゴクリ、と阿求は唾を飲みこんだ。何か重要なことを伝えられるのかと身構える。

 

 

 

「実はさ……俺、結構前からここに住んでるんだよ」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 肩透かしを食らった気分である。思わず阿求は顔をしかめた。

 

 

 

「いや、俺が帰ってきたときには住んでたところが取り壊されててさ、仕方なくここを改造してしばらく拠点にしてたんだよ」

 

 

 

「いや、そんな事信じられるわけないでしょ! 何よこの機械、何横の武器! 幻想郷じゃ見たことないわよ!」

 

 

 

「これはあれだよ。外の世界からいくつかかっぱらってきたんだ。一つあげようか?」

 

 

 

「いらないわよそんな物騒なもの! というかそんな嘘、私が本気にすると思ってるの? あの因幡兎よりもマシな嘘くらい私だってつけるわよ!」

 

 

 

「ちょ……ちょっと、待ってくれよ」

 

 

 

 このまま質問攻めにしようと思っていたところで、翠嵐が待ったをかける。

 

 

 

「何回も言ってるだろ? 俺はお前に対して嘘をついたことなんか一度だってない」

 

 

 

「だけどこれじゃ────」

 

 

 

「いや、これは本当だ! 信じてくれよ! この目にはいってんのくもりもないだろ!」

 

 

 

 指を自分の目に示し、頑として聞かない翠嵐。確かに彼の眼は一点の曇りもなく、まっすぐに阿求のほうを向いている。

 

 

 

 

「はぁ……分かったわ。今回だけは信じましょう。だけど! 今度くだらない嘘ついたら承知しないんだから!」

 

 

 

 あまりの下手糞な嘘に呆れる阿求であるが、翠嵐の熱意と曇りなき眼差しに押された結果、今回は許してやることに決めた。ただし、この貸しは今日のお祭りで存分に返させてもらおうとひそかに決意する。

 

 

 

「ありがとう! 阿求なら分かってくれるって信じてたぜ!」

 

 

 

「はいはい、分かったから。それで、あんた今日、妖怪の山でお祭りがあること知ってる?」

 

 

 

「お祭り……? あー、妙に外が騒がしいと思っていたらそういう事だったか」

 

 

 

「何よ、アンタまさか、ずっとここにいたの?」

 

 

 

 阿求が尋ねると、翠嵐「アハハ……」と気まずそうに笑って目を横に流した。

 

 

 

「呆れた。アンタも人のこと言えないじゃない。で、お祭り行くの?」

 

 

 

「も、勿論だよ! 阿求の頼みを無碍にするわけないだろ!」

 

 

 

「そう、分かったわ。少ししたら戻るけど、それまで……ここにいてもいいよね?」

 

 

 

 

 上目遣いでおねだりをする阿求に対し、翠嵐は何も言うことが出来なかった。

 

 

 

 

 

 


 

 

 そうして夏祭りの時刻となった。薄暗くも、夕日の赤い光が守屋神社の境内を照らしている。

 河童の的屋や露店がはびこるその裏で、烏天狗が自身の新聞を売ろうと躍起になっている。河童も河童で、自分の露店の売り上げを確保しようと必死に声を張り上げ、祭りの空気をより熱くさせている。その中に混ざって博麗の巫女が賽銭の要求をしていたが、連れの妖怪に引っぺがされて涙目で撤退していった。

 人々の姿は今のところはまばらだが、すぐにいっぱいになるだろう。どこからか聞きつけたか、はたまた招待を受けたのか、妖精や騒霊の他に、付喪神や魔法の森にすむ魔女、果ては紅魔の吸血鬼たちの姿が見える。

 今まさに、幸せと熱狂に覆われんとしている場所に、稗田阿求もいた。

 

 

 

「このたびはお招きいただきありがとうございます」

 

 

 

 ぺこりと頭を下げた頭を上げれば、注連縄と御柱を背負いし守屋の一柱、八坂神奈子の姿。カラカラと笑いながら、神奈子は「わざわざありがとう」と片手で制する。

 

 

 

「今日は来賓としてではないからな。目いっぱい楽しんでくれ」

 

 

 

「はい。でも……いいのでしょうか。ご挨拶とか、代表としてしたほうが……」

 

 

 

「その心配はいりません!」

 

 

 神奈子の後ろからひょこッと顔を出したのは、緑色の長髪を靡かせた、守屋が誇る風祝。

 

 

 

「代表の挨拶は慧音様が変わってくれるそうです! ですから阿求様は何も心配せずにじゃんじゃん楽しんで言ってください!」

 

 

 

 と、いうわけだといたずらっぽく笑う神奈子。一本取られたような、嬉しいような、そんな得も言われぬ気分が胸を支配する。

 

 

 

「……分かりました! 今日は目いっぱい楽しみます!」

 

 

 

 

 ニコリと笑って答えた阿求は、二人にまたぺこりと頭を下げ、勢いそのままに駆けだしていく。

 翠嵐との待ち合わせは決まっている。守屋神社の入り口、狛犬前での待ち合わせだ。既に一般客の出入りも始まっている。ここからどんどん人が増えて翠嵐の姿が見えなくなる前に合流してそのまま楽しみたいというのが、彼女の本音だった。

 幸運なことに、翠嵐はすぐに見つけることが出来た。だが、その姿が問題だった。

 浴衣姿の彼は文字通り、『祭りを楽しんでいる男の子』そのものであった。頭にはお面をかぶり、両手には綿あめに焼きそば、水ヨーヨーを持っている。待ち合わせに飽きてこっそりと自分だけ楽しんでいたことは明白であった。

 

 

 

「……翠嵐?」

 

 

 

「お! やっと来たな阿求! イヤー待ちくたびれたから先にお祭りを楽しみさせてもらった……って、どうしたんだ?」

 

 

 

 一緒にゆっくりと回りたいという乙女心を理解しなかった翠嵐に、阿求は強烈な蹴りをお見舞いする。

 

 

 

「ちょっ、痛い! 阿求痛い!」

 

 

 

「ふんだ、乙女の心理を理解しないアンタが悪い」

 

 

 

「ごめんって! 俺お祭り来るの初めてで! ついはしゃいじゃったんだよ!」

 

 

 

「嘘おっしゃい。私、祭りの後に告白してるもん。そういえば、前にもこんなことあったわね。あれから全く反省してないじゃない。アンタの頭はどうなってるのかしら」

 

 

 

 尚も蹴りを入れ続ける阿求と、それをひたすら耐え続ける翠嵐。「悪かったから! 降参!」と泣きを入れるまでそれは続き、ようやく解放されたころには翠嵐はボロボロの状態で膝をついていた。

 

 

 

「いててて……何もそんな強くしなくても……」

 

 

 

「ふん、これくらいは我慢できるでしょ。男の子なんだから」

 

 

 

 プイッと阿求はそっぽを向く

 

 

 

「悪かったよ……ほら、焼きそばあげるからさ、機嫌治してくれよ」

 

 

 

「……たこ焼き」

 

 

 

「へ?」

 

 

 

「たこ焼きとりんご飴も買ってくれなきゃ許してあげない」

 

 

 

 

 頬を膨らませてまたそっぽを向く阿求に対し、すがるように分かったという翠嵐。その一言で、彼女の顔がぱっとほころぶ。

 

 

 

「冗談よ。少しからかいたくなっただけ。ねっ、早く行きましょう? 私、これでも結構楽しみにしてたんだから!」

 

 

 

 言うなり、阿求は翠嵐の手を取って駆けだした。「わっ!」と翠嵐がこけそうになるも、すぐに持ち直して同じように駆けていく。

 人ごみの中へと飛び込んだ二人は、縦横無尽に出店を回り、年相応に楽しみ、笑った。宣言通り、たこ焼きとりんご飴を平らげた阿求は、勢いそのままにヨーヨー釣りと金魚すくいを楽しみ、射的で翠嵐に負けて悔しがった後は、秦こころの舞を見て、その美しさにほれぼれと見とれて。

 その全てが一瞬で終わってしまうのではないか。そう錯覚してしまうほど、阿求は祭りを楽しんだ。

 

 

 

「……あ! ねぇねぇ、盆踊りが始まるって!」

 

 

 

「わ、分かった。だけどちょっと疲れちった……」

 

 

 

「情けないわねぇ。じゃあ、あそこに座りながら見てましょう?」

 

 

 

 丁度いい座り場所を見つけ、二人はそこに腰を下ろす。ドン、ドンと太鼓の音が鳴り始め、盆踊りが開始される。

 カッパ、天狗、中には度胸者の人間が混じったこの盆踊りは、幻想郷らしいかつて忘れられた日本の原風景を想起させる。

 熱を帯びる祭りの会場での、たった一度の休息の時間。

 その余韻に連れられてか、阿求がふと口を開いた。

 

 

 

「……そういえば、翠嵐と出会ったのも、確かここだったかしら」

 

 

 

「あれ、そうだったか?」

 

 

 

「そうよ。よく覚えているわ。確か……そうそう、私が五歳くらいだったわね。慧音先生に連れられてここに来た時、お腹すかせて倒れてたのが翠嵐で、私が焼きそばを渡したじゃない。忘れちゃったの?」

 

 

 

「……ごめん、覚えてないや」

 

 

 

「え? だって、こんなに……」

 

 

 

「ごめん! 覚えてない!」

 

 

 

 いきなり叫ぶ翠嵐に驚き、思わず「ごめん……」と呟く。叫んだ翠嵐も、「ごめん」と呟き、場には暗い沈黙が流れる。

 

 

 

「……そ、そうだ」

 

 

 

 傾きかけた暗い空気を戻そうと、再び阿求が話題を振る。

 

 

 

「ねぇ、これは覚えてる? 寺子屋でさ、チルノがぼーっとして先生にチョーク投げられたの! あの時のチルノの顔が傑作で、今でも覚えてるんだけど……」

 

 

 

「それも覚えてないよ。阿求が勝手に勘違いしてるだけじゃないの?」

 

 

 

「ちょっと、いくら何でも言い過ぎよ。稗田家の力、なめないでもらえるかしら?」

 

 

 

「だってそうだろ! 確かに阿求は覚えているかもしれないけど、()()そんな事覚えてないんだ! でっち上げ以外に何を疑うんだよ! また俺が嘘をついているっていうのかよ!」

 

 

 

 そう言って翠嵐が立ち上がり、阿求を睨みつけた。その瞬間。

 

 

 

「そこまでよ!」

 

 

 突然、周りを武装した天狗と河童に取り囲まれた。「目を見るな!」「気をつけろよ!」と、騒ぎ立てている。

 

 

 

「阿求嬢! 無事だったか!?」

 

 

 

 囲んだ間から割って出てきたのは、阿求がよく知る二人の少女。その一人である上白沢慧音は、かばうように阿求を翠嵐から離し、前に立ちふさがった。

 そしてもう一人は────

 

 

 

「霊夢……さん……」

 

 

 

 もう一人の少女、博麗霊夢は、同じように阿求の前に立ち、翠嵐と相対していた。

 

 

 

「アンタが阿求をたぶらかしたってウサギね。阿求を通して幻想郷で何を起こすのかは分かんないけど、これ以上妙なことするなら私が退治するわ」

 

 

 

 これは警告よ。と、大幣を突き付けて言う霊夢の表情はいつになく鬼気迫っている。一体これはどう言う事なのか。

 

 

 

 

「け、慧音先生……これは……」

 

 

 

「もう大丈夫だ。後は霊夢が何とかしてくれる」

 

 

 

「そうじゃなくて! 翠嵐は何もしてないんですよ! なのに、こんな……」

 

 

 

「……阿求嬢、落ち着いて聞いてほしい。貴女は、今の今まで……」

 

 

 

 

 暗示にかかっていたんだ。

 重苦しい表情で慧音は告げる。が、状況を読めない阿求はただ目の前で何が起こっているかは分からなかった。それを察したのか、慧音が説明を始めた。

 

 

 

「……八雲紫から、幻想郷に妙な蜘蛛が表れ始めたと、各有力者たちに伝えられた。それは知っているよな?」

 

 

 

「はい。確か、先日の会議で神奈子様や永琳さんと話していましたが……」

 

 

 

「それがここ最近になって急激に数を増してな。どこかから幻想郷の地理が漏れ出ていると判断したらしい。秘密裏に調べた結果……稗田家に妙なウサギが入り込んでいたというわけさ」

 

 

 

「翠嵐が……? しかし、一体どうやって?」

 

 

 

 そう阿求が尋ねると、慧音は続けて彼女に尋ね返した。

 

 

 

「阿求嬢……今まで、貴女は何回あのウサギの瞳を見つめた?」

 

 

 

「えっ? ……数えてないから分からないですけど……それがどうして……」

 

 

 

「奴の眼からは、強力な暗示作用をもたらす特殊な光が発せられていてな。その光をあびると、存在しない記憶を植え付けられてしまうんだ。翠嵐といういたずら好きなウサギは、この世には存在していない」

 

 

 

「そ、そんな筈はありません! 彼は私が阿八のころからの付き合いです!」

 

 

 

 

「ならば阿求嬢、彼との思い出を覚えているのか? いつ、どこで、何をして、どのような感情になったのを覚えているか? それだけじゃない、仮に阿八殿が生きていたとしたら、どうして縁起の中に書き残さない?」

 

 

 

 厳しい口調で問い質す慧音に、阿求は「それは……」と言い淀む。

 何故なら、こうしている間に必死に思い出そうとしてみても、慧音の言う通り細かい部分が思い出せないからだ。転生すると記憶を失うとはいえ、絶対的な記憶力を持つ稗田の娘であり、かつ少なくとも百年以上は生きる妖怪の知り合いであるという十分な条件があるにもかかわらず、阿求は思い出すことが出来なかった。

 しかし、それでも信じることが出来ない阿求は、唯一残った思い出を叫ぶ。

 

 

 

「いいえ! ひとつだけあります! 妖怪の山での夏祭りの時、翠嵐も一緒に来ていました! それだけじゃない! 私が五歳の時、行き倒れた彼に食べ物を恵んだことも覚えています!」

 

 

 

「……そういうと思って、これを持ってきた」

 

 

 

 

 言うなり、慧音は阿求に何枚かの写真を手渡す。

 写っていたのは、天狗や河童などの山の妖怪に囲まれて座る、慧音と阿八の姿だった。

 その中に、翠嵐の姿はない。祭りに参加している阿八の姿は、来賓として行事を真っ当にこなしているもののみで、妖怪ウサギと楽しく談笑しながら屋台を回るものは一枚もなかった。

 

 

 

「この祭りを計画したのも、翠嵐をおびき出すための罠だったんだ。このままじゃ、この幻想郷に危機が起きると、天狗や守屋神社をたきつけて……な」

 

 

 

「そんな……」

 

 

 

「理解したようね、私も気になって先代の記録を調べたけど、そんなウサギはいなかったったわ。もしかしてアンタ、月から来たでしょ」

 

 

 

 びくっと翠嵐が身を震わせた。

 

 

 

「図星ね、こんな能力、私の勘だけど、玉兎以外に使えるものはこの幻想郷においていないと確信できるわ」

 

 

 

 よく当たると言われている霊夢の勘と、尚も体を震わせている翠嵐の様子を見れば、それが真実だという事は明白だった。

 

 

 

「さあ、アンタはどうする? このまま大人しく投降すればよし、さもなければ────」

 

 

 

 言いかけたその時、フッと翠嵐の姿が消えた。

 

 

 

「な……!?」

 

 

 

「きゃあ!」

 

 

 

 気付いた時には既に遅く。目にも留まらぬ速さで阿求を上空へ連れ去っていた。

 

 

 

「追え! 奴を逃がすな!」

 

 

 

 すぐに囲んでいた天狗たちが後を追う。

 それを見た翠嵐は懐から見たことのないハンドガンを取り出し、追ってきた天狗たちを的確に打ち抜いていく。

 

 

 

「待ちなさい! 霊府『夢想封印』!」

 

 

 

 遅れて霊夢が追撃するが、当たる直前に翠嵐の姿がフッと消え、五色に輝く弾幕は無情にも通り過ぎていった。

 

 

 

「嘘! 逃げられた!?」

 

 

 

「探せ! 草の根分けても探すんだ!」

 

 

 

「生かしておくな! 幻想郷の存亡にかけて、何としても探し出すんだ!」

 

 

 

 ざわめきが大きくなる祭り会場の中、霊夢、慧音と天狗たちは散り散りに探し始めた。

 

 

 

 

 


 

 

「……はぁ……はぁ……」

 

 

 

 逃げに逃げた翠嵐がたどり着いたのは、阿求と落ち合う秘密基地。今日初めて中を見せたその洞穴の中で、彼は防衛の着々と進めていた。

 

 

 

「……ねぇ、翠嵐」

 

 

 

 そんな中、状況がまだ呑み込めていない阿求は、遠慮がちに翠嵐に尋ねる。

 

 

 

「……何だい? 今の君は人質だから、下手なことは言わないほうが身のためだよ」

 

 

 

「……本当に、嘘だっていうの? 百年以上続いてた私たちの関係は、全部まやかしだったって言いたいの?」

 

 

 

「……そうだよ。僕たちの関係は全部、君が初めて会ったときに、僕が刷り込んだ、作り物の御伽噺さ」

 

 

 

 冷たく、ハッキリと言い切った彼の言葉に阿求は「そんな……」崩れ落ちる。

 

 

 

「……どうして、私だったの? もし、あなたが月から来たとしても、身を隠す術や情報を探る手段なんていくらでもあったはずよ。なのにどうして……」

 

 

 

「簡単な話さ。身を隠すのに都合がよかったんだ。僕の力が一番効くのは人間なんだ。だけど、博麗の巫女や白黒魔法使いに接触するのは難しいし、仮にできたとしてもほしい情報が手に入るとも限らない。だから、歴史書を作り、有力でかつ、人間である君の家は、僕にとって都合がよかったんだ。それに……月からの支援なんてそんな大層なもの、期待できないしね」

 

 

 

「どうして? 霊夢さんから聞いたけど、月は産業が発展してるんでしょ? だったら……」

 

 

 

「無理だよ。だって────」

 

 

 

 僕は作られた生き物なんだ。

 

 

 

「……え?」

 

 

 

「……君たちは知らないだろうけどね、月の都では今、奴隷を働かされるのが禁止されて、僕みたいなアンドロイドっていうのをを作って重労働を課しているんだ」

 

 

 

 これがその証拠さ。と自嘲気味に制服の袖をまくる。SU1RANと書かれた焼き印が、腕に大きく刻まれていた。

 

 

 

「僕らに基本的な権利はない。あるのは、都の奴らにおもちゃにされることと、有事の時の捨て駒。それ以外は基本的に家畜以下の存在だ。この武器だって、僕が死にに行くからって、いらない武器を押し付けられただけ。要するに、僕らはゴミと同じなんだよ。分かる?」

 

 

 

 あまりにも衝撃的な事に、阿求は口をつぐんだ。

 

 

 

「いつか、君は言ってたけどさ、月の人たちは気楽そうでって。けど、僕らにとって、月は憎い敵なんだよ。都の奴らがのんびりと生きていけるのは、僕ら下層の連中のおかげなんだ。それを知らずにそんなこと言うのは正直に言って不快だよ」

 

 

 

「ご、ごめんなさい。私、そんなこと、知らなくて……」

 

 

 

「……いいよ。今更言ったって遅いし。だから……」

 

 

 

 これで終わりにしよう。

 そう言い、翠嵐は目線を阿求に合わせると、両手を左右のこめかみに合わせ、目を見開いた。いびつな機械音とともに、今まであった翠嵐の記憶が薄れていくのが感じる。

 

 

 

「うう……翠嵐、貴方……何を……」

 

 

 

「さようなら……今までありがとう。ああは言ったけど……楽しかったぜ。阿求」

 

 

 

「い、嫌よ! 私……貴方の記憶を……失いたくはない! 稗田の記憶力を……舐めないで!」

 

 

 

 忘れまいと必死に抵抗を試みるが、抗う間に記憶はどんどんと消えていく。

 

 

 

「無理だよ。全部作り物なんだ。夢からは覚めなくちゃいけないんだよ」

 

 

 

「そ、それ……でも……私は……貴方が……」

 

 

 

「ありがとう。こんな僕に、意味を持たせてくれて。それだけでも、僕は満足だ」

 

 

 

「す……い……ら……ん……」

 

 

 

 抵抗もむなしく、阿求は意識を手放した。最後に見えたのは、泣きそうな顔で嗤う翠嵐の顔と、「見つけたぞ!」という天狗たちの声だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 それから数週間が経ったころ、食事会は再び永遠亭で開かれた。

 

 

 

「……それじゃあ、うちの鈴仙も少しは役に立ったというわけね」

 

 

 

 すまし顔で尋ねながら、八意永琳は問いかける。内容は、夏に起こった月の都の侵略、通称紺珠異変と呼ばれる異変の事後報告であった。

 

 

 

「えぇ。最後は純狐と呼ばれる神霊相手に善戦したそうよ」

 

 

 

「あの子の事だから大げさに言っているのかと思えば……明日は目一杯褒めてあげなくちゃ」

 

 

 

 八雲紫の答えに満足し、嬉しそうに永琳は笑った。

 

 

 

「しかしまぁ、よくやったものだ。幻想郷の地理がもう少し漏れていれば、もっと早くに滅んでいたかもしれん。その前に阻止してくれた霊夢や魔理沙達の頑張りには、それ相応の褒美が与えられて差し支えないと思うぞ」

 

 

 

 うんうんと、神奈子が大仰に頷く。彼女もまた、早苗の活躍が誇らしく、自慢したい気持ちを必死におさえているのが分かる。

 

 

 

「……そういえば、阿求嬢は大丈夫だろうか。気分が悪いと言っていたが……」

 

 

 

「あら、じゃあ私が見てくるわね。丁度あの子とも話したかったし」

 

 

 

「永琳殿、頼めるか。感謝する」

 

 

 

 お安い御用よと、慧音の頼みを承諾し、永琳は部屋を出る。

 前の食事会と同じように、阿求は中庭に腰を下ろし、中空に浮かぶ月を眺めていた。ただ、いつもの阿求とは少し違う、なんともうつろな目で、それが永琳の心をざわつかせた。

 

 

 

 

「気分はどうかしら?」

 

 

 

 ざわめいた気分を持ち直すように声を掛けた。振り返った阿求の眼には尚も光がない。

 

 

 

「あ……永琳さん。ごめんなさい、長時間席を離れてしまって」

 

 

 

「いいえ、大丈夫よ。それより……前と変わらず月を眺めているのね」

 

 

 

 

 前と同じように隣に腰を下ろしながら、永琳は更に続ける。

 

 

 

「どうかしら、今回の異変を通じて、月への印象というのは変わったかしら?」

 

 

 

「……そうですね」

 

 

 

 空を見上げたまま、阿求は答える。

 

 

 

「前の私は……月を美く思い、またそこに住む人々をうらやましく思いました。ですが、今は……」

 

 

 

 言い淀んだ彼女の間隙を縫い、永琳が後を引き受ける。

 

 

 

「少し複雑な感情を抱いている……というわけね」

 

 

 

 こくりと、阿求は頷く。

 

 

 

「前におっしゃっていた、月の都の奴隷……その更に下にいるかもしれない方々の事を思うと、あれだけきれいな月が、嘘まみれの張りぼてに囲まれたものに思えてなりません」

 

 

 

「あら、言うようになったじゃない。誰に吹き込まれたかしら?」

 

 

 

 茶化すように尋ねると阿求は困ったような顔をして首を振った。

 

 

 

「それが……思い出せないんです」、

 

 

 

「思い出せない?」

 

 

 

 またこくりと頷く

 

 

 

「とても……大切な人だっていうのは覚えているんです。だけど、どんな姿かも、どんな声かも、どんな顔で笑うのかも、全部……忘れてしまったんです」

 

 

 

 稗田の人間のくせに、変ですよねと自嘲する彼女に、永琳は何も言わない。ただ黙って、続けなさいと手で促す。

 

 

 

「でも……月を見ていると、その大切な人が今にも現れそうな気がするんです。『よぉ、阿求!』って、いつものように、軽い調子で……」

 

 

 

 そのまま阿求は月を見つめる。スポットライトに似た柔らかな光が、阿求の顔を包み込む。ハイライトのない目と、色白な肌も相まって、その姿はさながら人形のようであった。

 

 

 

「……そう。なら、もう少しここにいなさい。気分が軽くなる薬を持ってくるから。ちょっと待ってなさい」

 

 

 

「はい……ありがとうございます」

 

 

 

 その場に阿求を置いて、永琳は調合室へ向かった。離れ際に見た阿求の顔が、妙に印象に残る。

 ある程度距離が離れたところで、永琳は虚空に向かって声を掛けた

 

 

 

「……いるんでしょ、紫」

 

 

 

「あらぁ、流石にばれちゃったかしら」

 

 

 

 瞬間、空間が裂け、にゅるんとその裂け目から幻想郷の賢者が姿を現す。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべている。

 

 

 

「あれだけ気配が駄々洩れなら、そりゃあ私でも気づくわよ」

 

 

 

「うふふ、そうね、次からはもっと気をつけなきゃ」

 

 

 

 どこまで本気か分かったものではない。

 

 

 

「……あの子、まだ覚えているわ。さすが稗田の記憶力ね。月の技術をもってしても、完全に消すことは出来なかったようね」

 

 

 

「それが、あの子に課せられた宿命なのよ。この先あの子は一生、月を見るたびにいる筈のない幻影を思い出しては、それを追いかけるでしょうね」

 

 

 

「……紫、忘れさせることは出来ないのかしら? あの子を見ていると、私も月の民だった者の一人として、いたたまれなくなってしまうのよ。だから……」

 

 

 

「嫌よ」

 

 

 

 あまりにもバッサリと切り捨てる紫に対し、思わず永琳は眉にしわを寄せた。

 

 

 

「言ったでしょう? これがあの子の宿命だって。下手に記憶をいじって忘れてしまったら、幻想郷縁起の編纂が難しくなるかもしれないじゃない」

 

 

 

「だからって……」

 

 

 

「それに、これを乗り越えるか否かはあの子次第だから。何か手を加えることはそれこそ失礼よ。貴女は特にそうでしょう? 月の賢者さん?」

 

 

 

「……分かったわ。私も何もしないと誓うわ」

 

 

 

「賢明ね。これはあの半妖の先生にも伝えておきなさい。それじゃ、私は戻るわ」

 

 

 

 言いたいことだけ言うと、紫は姿を消した。一人になったその場に、ひゅうと一陣の風が吹く。

 あの子はこれからどうなるのだろう。単なる記憶違いと思い直して元の生活に戻るのか、それとも、蜃気楼のような記憶を追いかけて一生を棒に振るか、彼女にもそれは分からない。分からないが、この先の彼女の生きる時間というのは苦痛と幻影に苛まされるのは目に見えて分かる。

 今からでも気分役の予備を作っておかなければと、永琳は薬を取りに調合室へ向かった。

 夜の月は、変わらず空に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 



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拝啓 愛する人

 久しぶり。どうしたんだよそんなに汚れちゃって。

 全く、お前は私がいないと本当にダメなんだから。取り敢えず綺麗にするぞ。

 

 ……よし、綺麗になった。いつも通り、私が愛したかっこいいお前だ。

 これ、お土産。お前の好きな羊羹持ってきた。腐らせるといけないから、箱詰めされたまんまだけどな。

 さて、じゃあ何から話そうか。この前と同じように、私の近況からか、それとも里であった出来事にするか……うーん、少し悩ましいけど、まぁいいや。私の近況から話そう。

 みんなお前のこと、心配してたよ。あ、みんなって言うのは鈴仙とか、永琳とか、てゐとか。後……輝夜も。久しぶりにお前の姿を一目見たいって言ってたぜ。本当だったら今日みんなで来るつもりだったんだけど……生憎急患が入ったらしくて。だから今日は私一人。だから……ほら、えっと……いつもはみんながいるから、今日は二人きりってことだよ。

 あ、今お前照れてるって思っただろ。いーや、絶対思ったね。女の勘は絶対に当たるんだ。……今、女と呼べる年でもねぇだろとも思ったな。こいつめ、私が死んだら化けて出てやるから。

 

 ……嘘だよ。お前を揶揄いたくなっただけさ。いつものようにな。

 えっと、何の話だっけ? あぁそうそう、近況だったよな。今話すよ。

 

 私の方はそんな代わり映えしたことはないさ。朝起きて、ご飯食べて、洗濯して、買い物行って、輝夜と殺し合いをして、風呂入って、寝る。そんな事の繰り返しだよ。何世紀前から変わらない、私の日常さ。

 それでも、世界っていうのは変化していくもんでさ。結構変わったよ。いろんなことが。

 まず、博麗の巫女が代替わりしたんだ。

 お前があんだけ可愛がってた霊奈、あいつが博麗の巫女の名を襲名したんだ。霊夢の奴、まだまだひよっこって言ってたけど、私には成長した娘の事を喜んでるように見えたよ。今、あいつは幻想郷中を飛び回ってる。お母さんみたいに立派な博麗の巫女になるんだって張り切ってるよ。多分、お前の耳にも入っているとは思うけどな。

 そうそう、あの白黒魔法使いの子どもも大きくなったぞ。いつか霊奈を追い抜いて偉大な魔法使いになるんだって息巻いててさ。あの子、魔法の筋がいいし、魔理沙と同じで努力家だから、すぐに霊奈を追い抜くと思うな。私は。

 慧音は寺子屋の校長になったし、董子は今やオカルト研究の第一人者として教鞭をとってる。みんな、変わっていくんだよなぁ。変わらないのは私と輝夜と、永琳位なもんか。おいていくんだったら、最後に挨拶していってほしいくらいだよ。本当に。

 まぁ、人の成長を見るのは楽しいし、今は別にもうどうでもいいって思ってるけど。

 

 あ、そういえばさ、いつだったっけな……覚えてるか? 私とお前が初めて会った時のこと。あれは傑作だったよなあ。確か……二十数年前のことだったか。

 

 その日の私はずったぼろだった。輝夜とどっちが首をくくるかの勝負に負けて吹っ飛ばされてさ。その日は運が悪くて野獣の餌にもされた。ふらふらしながら家帰って、あー約束だし首くくるかーって、外の物干しざおを目いっぱい高くして、縄をそこに巻いて、さーやるぞ―って時に、籠を担いだお前が現れた。

 久しぶりにびっくりしたね。だけどお前はそれ以上に驚いて、自殺はいけません! とか、死ぬことはありません! とか、一人で勝手に心配して喚いてるんだよ。私からすれば何言ってんだろって思ったね。だからその時は気にせずに輪っかに首を通して首吊ったら、焦ったお前に縄切られた。何すんだよって怒ったらそれはこっちの台詞ですよ! って逆に説教。あれは正直イラっとしたね。一般人が蓬莱人に命云々を語るんじゃないって。

 だからアレを見せてやったんだ。正直、すまなかったと思ってる。見せた途端にお前、腰抜かして逃げ出したもんな。いい気味だって、当時は思ったけど。

 それから一週間後、今度は里で会ったな。あの時の不死身女! って不謹慎なこと言ってくれちゃって。その時の私の乙女心に少なからず傷がついちゃったよ。

 

 ハハ、これも冗談だ。思い出したら揶揄いたくなっただけだよ。

 

 でも、そこからだよな。私とお前の関係が始まったのは。会うたびに口喧嘩してさ、お前の方からくだらないちょっかい掛けたり、逆に私の方から仕掛けたり。そうやってぶつかっていくうちに、いつからか慧音と同じように接することが増えて、気づいたら友達になってた。縁って不思議だよなってつくづく思うよ。

 

 あ、後、こんなこともあったよな。

 

 冬の日の夜中だったか。私が寝ようとしてた時、突然お前が家に来て流星群見ようぜ! っていきなり言い出してさ。私はもうびっくりしちゃって、どうやってここに来たとか色々言いたいことはあったけど全部吹っ飛んだ。それ以上に流星群? 今更? ってその時は思った。

 何せ私は平安の昔から生きてるからね。星なんて見飽きてるし、流星群なんて何回も見た。だから星座とか星の流れとか全く興味がなかったんだ。

 だけど、お前はそんな私のことなんてお構いなしで、いいから行こうってずっと呼び掛けたよな。まぁお前があまりにも行きたそうにしてたから、私が折れて結局行ったけど。その時のお前、すごく嬉しそうだったのを覚えてる。

 良い場所知ってるんだっていうお前に連れられてきたのは、小高い丘の上だったよな。長いことここで生きてきた私も、流石にそこは知らなかった。だからどうやって流星群を見るのかなって少なからず期待はしてた。

 けど、お前は着くなり原っぱに寝そべって夜空を眺めるだけ。それ以外に何もしなかったよな。私がそれだけ? って聞いても、これが一番いい星の見方だって言ってそれっきり。私は呆れて帰ろうとしたけど、あんな寒い日の夜中にここまで来たんだから、流れ星の一つも見ないと割に合わない。仕方なく私もお前の隣に寝そべったんだ。

 そうして何時間くらい経ったか、ただただ時間だけが流れるばかりで星なんて一向に流れて来やしない。その割にはもう少しだから、もう少しだからと眺めるばかりで、つまみも、酒も持ってこなかったお前にイライラして、とうとう私は帰るって言いだしたよな。でもお前はもうちょっと待って欲しいって言うだけ。あんまりそれしか言わないから、なんでここまでして星を見たいんだって聞いたら、お前と一緒に星が見たいんだって言ってさ。あぁ、そうそう、お前と一緒だからこの寒さも耐えられるんだとも言ってたな。

 クサい台詞だったよなぁ、あれ。女を引き止める文句としては落第点だぜ? まぁそれでころっと引き止められたその時の私もどうかと思うけどさ。結局星は流れないし、お前は風邪ひくしで散々だったな。もう二度とやりたくない。

 でも、私の事を楽しませようって考えてやってくれたんだよな。嬉しかったよ。本当に。

 

 永遠亭の連中と交流し始めたのも、確かこの頃だったよな。

 

 馬鹿やって風邪ひいたお前をおぶってってさ。あの時は大変だったよ。お前がギュって私にしがみついて離さないもんだから、着いた時に降ろすのに苦労したし、輝夜からはアンタのこれ? って小指立てられるし。まぁその時の私は単なる友達としてしかお前を見れてなかったんだけど。で、これに恩を感じたお前が、月に二、三回野菜を送るようになったんだよな。あれ、今だから言うけど内心もやもやしてた。

 だってそうだろ。お前が永遠亭を行き来するって事はさ、必然的に輝夜とも話す機会が増えるって事だから。もしお前が輝夜とくっついちゃったら、私と過ごす時間も減っちゃうし……なんて事を、今考えた。

 ごめんな。当時の私には、お前が好きだって言う気持ちなんて分からなかったんだ。恋なんてとうの昔にしたっきりだったし、お前といるのが心地いいのも、単に趣味があって、話しやすくて、それが友達関係だからとしか思えなかったんだ。それでもよく分からない胸のもやもやは募るばかりで、輝夜に会ったお前を見たら、なんか独り占めされた気がしてずるいって思って、お前に八つ当たりしてたんだよ。あれ、迷惑だったよな。本当にごめん。

 

 そんな簡単なことに気づかないまま、私達の関係は続いていったよな。私と、お前と、あと輝夜。不本意だけどな。あの頃が楽しかったと思うよ。お前を巻き込んで馬鹿やったり、三人で里行って団子食べたり。お前と過ごす時間だけは輝夜との喧嘩もなかったな。私も輝夜も一番穏やかに過ごしていたと思う。

 

 お前への恋心に気づいたのも、この頃だったよ。何というか、パンドラの箱が開いちゃったって感じだった。多分、それは輝夜も同じだったと思う。

 

 その日は丁度、永遠亭に来ていた。久しぶりに輝夜と勝負をするために来ていたんだ。

 いつものように縁側に向かっていったら、輝夜の楽しそうな笑い声。そっと覗いてみたら、お前と輝夜が楽しそうに笑ってるのが見えた。それだけだったらまだよかったけど、お前がいきなり顔を近づけるもんだから驚いたよ。

 ちくっと胸が痛んだね。離れた後の輝夜のあんな顔、私初めて見たからさ。どうしたらいいか分からなくて、お前たちに気づかれる前に逃げ出した。家に帰って泣いたよ。自分の気持ちに初めて気づいたし、輝夜もそうなんだって知ってどうしようって思ったんだ。もっと早くこの気持ちに気づいて行動を起こせばよかったとも思ったよ。

 ひとしきり泣いた後、私は気づいたんだ。おまえの幸せを願うことが一番大事なんじゃないかってさ。もしお前も輝夜のことが好きなら、それを応援するのが筋ってもんじゃないのかって思ったんだ。

 うん、そうだよ。私は自分の恋心を封じることにしたんだ。我慢するのは慣れっこだし、大好きな人には笑ってほしかったからな。

 それで、先に輝夜に祝福しようと夜になってからもう一回永遠亭に行ったんだよ。

 そしたら輝夜がなんて言ったと思う? あいつが好きなのはあんた、つまり私の方だって言うんだよ。そこで私は思ったんだ。あぁ、こいつもお前のことが好きなんだなって。

 あり得ないって? ハッ、まだまだお前も私たちのことを分かってないんだな。意外と似てるんだよ私と輝夜はさ。まぁこれは私たちの間でしか分からないから無理もないけど。

 兎に角、私と輝夜はどっちがあいつと付き合うべきか口論になった。お互いに相手の方が相応しいのかを言い合うっていう滅茶苦茶な口論だったけどな。で、まぁ予想通りだとは思うが、そのまま殺し合いになっちまった。お互いに相手の方が良いっていうもんだからいつも以上に激化しちまってな。後で永琳にしこたま怒られちまった。

 どっちが勝ったかって? そんなもん、私に決まってるだろう。だって、お前と、不本意だけど輝夜も、二人とも幸せになってほしいって思うのは、当たり前のことだろう? それでも輝夜は私に対して最後まで貴女の方が幸せにならないとおかしいって言ってたけど、顔面に一発入れて黙らせた。あいつも私のことに対して思うところあったんだろうな。

 

 まぁ、ここから輝夜のアプローチが始まったんだよ。知らなかっただろ? こんな裏話があったなんてな。でも満更でもなかっただろ? あんだけ絶世の美女に言い寄られたんだからな。この女たらし。

 

 で、まぁお前が輝夜と結婚して、それを私が祝福して。暫くは平和だったよな。子供は出来なかったけどお前と輝夜は本当に幸せそうで、見てるこっちも幸せな気分になったよ。でも時々、私とお前が結婚したらって妄想はしてた。子供とかは期待できないけどさ、小さな家を買って、二人だけで静かに暮らす。ささやかだけど、幸せな日々を想像してたよ。……って、この話前にも話したっけか。すまん。

 

 それはそうと、お前は霊奈の事をめちゃくちゃ可愛がったよな。

 結婚してから三年目くらいで霊夢の奴が結婚して、その一年後に霊奈が生まれた。出産祝いで博麗神社に行った時はお前の豹変っぷりに驚いたよ。大の大人があんなにちっちゃな赤ん坊にメロメロだったもんな。私も輝夜も、滅多なことでは動じない永琳や霊夢ですらドン引きしてた程だったから。印象に残ってるよ。

 ……でも、お前の気持ちも分からなくはない。これに関しては私や輝夜の問題だ。お前に自分の子供を抱かせてやれなかった事が唯一の心残りだよ。本当にごめん。

 

 まぁ、それはいいとして……だ。お前の病気が分かったのが、結婚して八年位経った後だったよな。

 

 私と輝夜、永琳とお前の四人で永遠亭で花見してた時だったよな。厠に行くって言って立ち上がった瞬間にお前が突然ふって倒れてさ。お前は急に力が入らなくなったって言って笑ってたけど、輝夜と永琳は笑ってなかったよ。無論、私も笑えなかった。なんか嫌な予感がしたからな。

 その予感は大的中。出された病名は筋萎縮性何たらってやつだった。永琳の説明によれば、筋組織の萎縮やらなんやらでいずれ動かなくなる病気で、永琳でも直せる薬は出ないって言われたときは当事者じゃない私でもショックだったよ。

 何せその時のお前は健康そのもので、特に悪いところなんて何一つないのに、このままいったら一緒に歩くことはおろか笑う事も、喋ることもなくなって死んでいくって突然言われたんだぞ。ショックを受けなくてどうするって話だよ。

 唯一の望みといえば、お前も私達と同じ蓬莱人になることだったけど、それを口に出すのは憚られた。やっぱり、お前はただの人として最後まで生きてほしかったからな。それは輝夜も、永琳も同じだったはずだ。だからこそ、最後の最後まで口にすることはしなかったからな。

 みんなが混乱している中で、お前だけは一人違ったよな。全てを悟ったような、いたずらがばれた時の子どもみたいな顔で笑ってさ。なんで黙ってたんだよ。もっと早く言っておけば、もっと早い段階で全部治ったかもしれないのに。

 そう私が問い詰めても、お前は心配かけたくなかったの一点張りで、深い理由なんて語ってくれやしなかった。言わなかったお前もお前だったけど、気づかなかった私も馬鹿だったって悔しかったんだぞ。

 まぁそれも、今となっては過去の出来事だ。今だったらお前の気持ちも分かるよ。だからここで蒸し返して責めようとは思ってないさ。でもやっぱり悔しかった。それだけは忘れないでいて欲しいな。

 

 それからは闘病生活まっしぐらだったよな。永琳が症状を遅らせる薬をすぐに作って飲ませて、筋力を衰えさせないように運動も積極的にやって、出来ることは全部やった。私は私で漢方薬を使った治療をしてみたし、輝夜は輝夜で珍しい道具を使ったリハビリを提案して実践していたよな。

 

 でも……そんな努力も虚しいくらい、お前の病状は悪化していったよな。

 

 最初は箸が持てない程度の軽いもんだったけど、段々と重いものが持てなくなったりして、遂には歩く事も出来なくなって、車椅子で移動するようになった。それでもお前は明るく振る舞ってたよな。それが、私にはとても痛々しく思えたよ。

 

 でも、お前がそう言う男だって事は、私が嫌と言うほど知っている。だから何も言わなかった。

 

 覚えてるか? お前と初めて会った時、お前、小刀を持ってたよな。あれ、本当はお前も死ぬつもりだったんだろ? でも、私が死のうとしてる瞬間を見ちゃったもんだから、自分の事なんかほっぽりだして助け出した。お前は優しい男だよ。私はお前のそこに惚れたんだ。

 

 ……そうして、お前が笑ってる間にも、病気の進行はどんどん進んで、それでも十年は生きたけど、とうとうその時が来ちゃったよな。

 

 あぁ、あの時のことはよく覚えてる。

 もう寝たきりになったお前の世話をしてた時だったな。丁度輝夜が飲み水を汲みに外へ出た時だった。顔を拭いてた私に、お前は震える声で、私に頼み事をしてきたよな。

 

 俺を殺してくれって、掠れる声で、言ったよな。

 

 あれはびびったよ。普段滅多な事で頼み事をしないお前の、最初で最後の頼みだったから。

 勿論断った。断らざるを得なかったよ。いくら私でも、自分が愛した人を手にかけるなんて酷い事は出来ないからな。

 それでもお前は頼むって言って、濁りかけた目を見開いて私に懇願したよな。なんで私なんだって聞いたら……これが、本当に、傑作……だったよ。

 

 お前に殺されて逝きたい……って。

 

 そんな、そんな馬鹿な事を、大真面目な顔で、言うもんだから、私はどうしたらいいか分からなくなって、でも、もうお前が今日のうちに死んじまうって事をこの時悟って……。

 

 ホント、お前は最期まで勝手な奴だったよ。

 

 でも、これが惚れた弱みって奴なのかもな。こんなお前の無茶な願いを、涙と鼻水でグッチャグチャの顔のまま受け入れたよ。仕方ないなって。そしたらお前は心底安心した顔つきになって、ありがとうって言ったな。

 

 その一言で、私がどれだけ救われたか、お前は知りもしないだろうよ。

 

 だからせめてもの感謝として、お前の全身を保ったまま、心臓を内側から包むように焼いた。荼毘にするのは、葬式が済んでからにしようと思ったから。

 

 その後入ってきた永琳と輝夜にはしこたま怒られた。何を勝手な事をしているんだってな。けど、お前たっての頼みだったって泣きながら言ったら、あの人らしいわねって、おんなじように泣きながら呟いたよ。

 

 その日は三人、抱き合って泣いた。涙なんかとうに枯れたと思ってたけど、まだ私達にも流れる涙があったらしい。

 

 その後は早かったな。お通夜をやって、葬式を執り行って、三回忌七回忌ってやってくうちに、もうすっかり二十年経っちまったから。時の流れって奴は、残酷すぎていけない。

 

 あの頃は毎日が楽しかった。時間ってものが永遠に思えて、このままずっと幸せなまま続くんだろうなって思ったよ。実際、お前が願えばそれも出来ただろうけどさ。

 

 けれど、私の知る限り、時間って奴は薄情だ。過去に戻ってやり直す事も、その場に止まって永遠に保存する事も出来ない。ただ、前に進むだけだ。それを、お前との関わりの中で嫌と言うほど思い知ったよ。

 

 だから、今日だけ、今日だけは思い出して語らせてくれ。もう戻らない、あの楽しかった日々を思い出して笑わせてくれ。

 今日、今日だけでいいんだ。過去の思い出話に花を咲かせて、ありもしない未来について馬鹿らしく語って、そんな、時が止まったようなひと時を、どうか私に与えてくれ。

 それが、今の私がお前に頼む唯一の事だ。

 

 こういうのってあんまり、カッコ良くはないけど……大丈夫。今、ここにはお前と私一人だ。

 

 私達のことなんて、誰も見ちゃいないからさ。

 

 

 

 



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fallen girl①

 私が幻想郷に住み着いてから、早いもので数ヶ月経つ。盲目の私がこうして生きてこれたのも、迷い込んだ先がたまたま永遠亭で、永琳様や鈴仙さんが早急に保護、治療を施してくださったおかげである。私は本当に運が良かった。

 

「倉間ー、次の患者様よー」

 

「はい、ただいま」

 

 鈴仙さんの声に合わせて、私は軽く居住まいを正す。直後、高齢者特有の重苦しい足音が聞こえてくる。しかし、どこか通い慣れたようにしっかりとした足取りは、きっと常連のヨネさんだろう。

 

「はい倉間さん、今日もよろしくお願いしますよ」

 

 思った通り、ヨネさんの柔らかくしゃがれた声が、私の耳に溶けて消える。私は声のする方に振り向くと、ニコリと笑って声を掛けた。

 

「こんにちは、ヨネさん。今日もいつものでよろしいですか?」

 

「えぇ、いつものでお願いしますねぇ」

 

「かしこまりました。では、着替えましたらそちらに寝転んでください」

 

 私がそう指示すると、ヨネさんははぁいと着替えを始める。盲目はこういう時に気が楽だ。不用意に移動することなくすぐに施術に移ることが出来るし、女性の体を不用意に見なくて済むというのはこの仕事をするうえで大きい。

 床がずれる音が聞こえたら、それが私の仕事の合図である。

 まずは肩甲骨のあたりからゆっくりと揉みこんでいく。ヨネさんの気持ちよさそうな声が聞こえるたびに、私は期待に応えるようにコリをほぐしていく。

 今、私は永遠亭の離れに住んでいる。ここで住み込みながら按摩師として働いているのだ。

 生まれた時分から光の見えない身の上であった私は、手と耳の感覚だけが生命線だった。そんな私が唯一働けるこの按摩師というものは、まさに天職に近いものであろう。

 なんてことを考えながら、僕は施術を施していく。丁度腰のマッサージが終わり、太ももとふくらはぎの揉みこみに入ったところであった。

 

「あ~、やっぱり倉間さんのマッサージは効くねぇ。なんだか天国まで行ってしまいそうだよ」

 

「アハハ、嫌だなぁヨネさん、そんな悪い冗談はよして下さいよ。まだまだ長生きできますって」

 

「そうは言ってもねぇ、この歳になるとあちこちにガタが来ちゃってねぇ。もう歩くので精一杯」

 

「永琳様に頼んで湿布を処方してもらいましょうか。私が頼んでおきますよ」

 

 こんな風に他愛もない話をしながら、僕はヨネさんの体を揉み込んでいく。最後の施術で太腿に薬を擦り込んだら、今日の工程は終了だ。

 

「はい、これで終了です」

 

「いやーいつも悪いねぇ。ありがとうねぇ」

 

 ぺこぺこと頭を下げているような声色で、ヨネさんの足音が遠のいていく。鈴仙さんと会計している音が終わったかと思うと、ガラリと扉が開かれ、足音が再び遠くなっていく。またガラリと扉が閉まる音がすると今度はトントントンと軽やかな足取りがこちらに向かってくる。

 

「お疲れ様。どうかしら今日の調子は」

 

 入ってきた声は、鈴仙さんのそれとは違う、研究者のように冷静な、それでいて年を重ねた女性らしい母性に溢れたもの。

 

「その声は永琳様ですね。はい、今日も絶好調でございます」

 

「ふふっ、そう。それなら良かったわ」

 

 隣座るわねと、永琳様が横に座る音が聞こえる。間髪入れずにカチャカチャと茶器が鳴る音が近づいてきた。

 

「お茶をお持ちしました」

 

「あら、ありがとう鈴仙。気を遣わせてしまって悪いわね」

 

「いえ、お気になさらず。それでは私は置き薬の交換に行ってきますね」

 

 私と永琳様の前に湯呑みが置かれると、鈴仙さんはよいしょと一声呟いて、足早に部屋から出て行かれた。きっと着替えや薬の準備で忙しくなるのだろう。

 

「ふふっ、あの子も最近やる気が出てきてくれて何よりだわ。貴方のおかげかしらね」

 

「そんな、滅相も御座いません。私は単に住まわせて頂いている身。むしろ私の方こそ感謝しなければならないのです」

 

「あら、そうかしら。これでも結構助けられてる方なのよ? それとも、私は助けられている事が分からない恩知らずに()()()のかしら?」

 

 クスクスと揶揄うような笑い声がする。永琳様がこの笑いをする時は決まって私を弄る時だ。

 

「いくら薬に聡くても、マッサージ治療なんかは私には専門外。それを補ってくれる貴方の存在って本当にありがたいの。現に貴方の按摩目当てに来る人も結構いるじゃない」

 

「しかし……いくらそうおっしゃられましても……」

 

「それ程貴方を信頼してるってことよ。謙虚になるのもいいけど、もう少し自信を持ちなさい。これは年長者としてのアドバイスよ」

 

「はぁ……」

 

 気恥ずかしいやらピンとこないやら、複雑な心持ちを紛らわすように、私は正面に置かれていた湯呑みを慎重に探し当て、所在なく口をつける。熱すぎず、かといってぬるくもない、丁度いい温度の玉露が喉をするりと通っていく。

 

「永琳様の言うことはごもっともでございます。ですが……私は万能ではございません。むくみやコリ、少々の痺れと痛みを払うくらいが精精。だから私は怖いのです。私の知識が、技術が通用しない人が来てしまうのではないかと……」

 

「……真面目な子ね。ホント。あの子にも貴方の爪の垢を煎じて飲ませたいわ」

 

 あの子、というのはきっとてゐさんの事だろう。あの方は出会った人を幸運にしてくれるという素晴らしい能力を持っているというが、いかんせん悪戯好きというのが災いしているという。

 

「心中お察し致します。私はてゐさんとはあまり話す事はありませんが、永琳様のご苦労は痛い程伝わってきます」

 

「分かってくれるかしら? この前だってねぇ……」

 

 永琳様が愚痴をこぼそうとしたその時、荒々しく玄関が開かれ、慌ただしく永琳様を呼ぶ声がした。

 

「はぁ……急患のようね。行かなくちゃならないわ」

 

「そのようですね。段々と走ってる音が聞こえてきます。この慌て方は鈴仙さんでしょうね」

 

 果たして私の予想通り、パァンと開かれた障子から鈴仙さんの切迫した声が飛び込んできた。

 

「師匠! 大変です! 怪我人が……」

 

「えぇ、分かってるわ。すぐに患者を運ばせて。後、念のため手隙の兎達に手術の用意を。それから……」

 

 手際良く鈴仙さんに指示を出しながら、永琳様が部屋から出て行かれる。目には見えないが、男衆の声とドタドタとした荒い足音から、只事ではない様子が思い浮かぶ。

 こういう時、私は自分の無力感を強く痛感する。

 もっと自分に技術があれば、多くの知識があれば、もっと多くの人間を助ける事が出来るのではないか。

 そんな考えが頭をよぎってしまう。

 傲慢であるといえばそれまでだが、私にとってはとても大きな命題である。

 

「…………」

 

 今この時も、患者様や永琳様達は必死に戦っている。そんな抜き差しならない状況において、私は呑気にお茶を飲んでいて良いのだろうか。

 そんな事を思いながら、湯呑みを傾ける。私の気持ちとは裏腹に、玉露は変わらずに丁度いい温度であった。

 

 

 

 

 

 


 

 それから丁度三日後の事であった。

 

「倉間、少しいいかしら」

 

 いつも通り仕事の準備を進めていた時に、鈴仙さんが部屋に入って来た。

 

「どうされたのですか?」

 

「うん、昨日急患の患者さんが運ばれて来たのは知っているわよね?」

 

「はい、それからどうなったか気になっておりました」

 

「あぁ、心配しなくていいわよ。さっき意識を取り戻したから」

 

「生きておりましたか……それは良かった」

 

 素直に喜ばしい事だと思った。あの慌て具合から相当の怪我をしていたのだろうと推測していたが、無事であった事は不幸中の幸いと言うべきか。兎に角生きていた事に私はホッとしていた。

 しかし、気になる事が一つある。

 

「何故……私にその事を伝えたのです? 気になっていたとはいえ、私は部外者。あまり立ち入る事はないと思っていたのですが……」

 

「その事なんだけどね、師匠が貴方の事を呼んでいるの。力を貸して欲しいって」

 

「私に?」

 

 益々もって謎である。

 

「兎に角、ちょっと来て貰えないかしら? 場所は私が案内するから」

 

「はぁ……」

 

 要領を得ないまま私は立ち上がり、鈴仙さんの手をとって歩き出した。

 金木犀の芳しい匂いがする中庭を沿って縁側を歩いていくと、ある場所で鈴仙さんが立ち止まった。

 

「ここよ。ここは入院部屋。後四部屋くらいあるんだけど、ここはその隅。本来なら大部屋でベッドが四つあるんだけど、相手が相手だから特例で個室にしてあるの」

 

 鈴仙さんがそう説明し、部屋にいるであろう永琳様に声をかけようとした時だった。

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 

 突然、耳をつんざくような叫び声が聞こえて来たかと思うと、次の瞬間には凄まじい突風が部屋から襲いかかって来た。

 

「うわぁ!?」

 

「倉間!? 私にしっかり捕まってなさい!」

 

 吹き飛ばされる瞬間、なんとか鈴仙さんの体にしがみついたものの、風が暴れていると言わんばかりのこの豪風は、私の身体を吹き飛ばすどころか永遠亭すらも取り壊そうとしている。このままでは全員無事では済まないだろう。

 

「師匠! 大丈夫ですか!? 今そちらに……」

 

 鈴仙さんがなんとか部屋へ行こうとした瞬間、あれだけ吹き荒れていた風がピタリと止んだ。浮いていた私の体がドサリと音を立てて落ちる。

 

「し……師匠?」

 

「来たようね。ちょっと散らかっちゃったけど、入って来て貰えないかしら?」

 

「わ……分かりました……倉間、立てる?」

 

「はい……なんとか……」

 

 永琳様の底知れぬ強さを改めて感じ取りながら、扉の名残を残す部屋へと足を踏み入れる。

 

「歩きにくくて申し訳ないわね。こっちまで来れるかしら?」

 

 あれだけの事があったと言うのに涼しい声のままの永琳様に導かれ、出来る限り近づいて見る。

 

「そこで止まって。そのまましゃがんでそこにあるものに触りなさい」

 

「はぁ……かしこまりました……」

 

 言われるがままその場にしゃがみ、ゆっくりと手を伸ばすと、指先に何か柔らかな毛の感触が伝わって来た。

 これは……動物の毛? それも鳥の羽毛に近い。

 そう思い、そのまま手を下にずらすと、柔らかな布の感触が伝わる。思いっきって両手で様々な場所を触れてみると、人肌の暖かさと、絹のようにすべすべとした感触、何より指や唇、首や足などが確認出来た。しかし、先程感じた毛の感触は、肩甲骨辺り以外に確認は出来なかった。

 

「永琳様、これは一体……」

 

「さっきまで暴れてた鴉天狗よ。名前は射命丸文。貴方も名前位は聞いたことあるんじゃないかしら?」

 

「射命丸……あぁ、確か、新聞を書いていらっしゃる方ですよね。お噂は予々聞いております」

 

 鈴仙さんや永琳様との雑談で文々。新聞というものを出していると聞いた事がある。

 

「しかし……この方を私に会わせて一体何をしようと……」

 

「そうね、まどろっこしい事は嫌いだから単刀直入に言うわ。貴方に、この射命丸文を救って欲しいの」

 

「……はっ?」

 

 驚き、バッと顔を上げる。

 これは何かの戯言か。それとも永琳様がまた私を揶揄っているのか。

 いや、そんな事はない。永琳様は患者様や病気に真剣になって取り組んでいるお方だ。戯れや冗談でこんなことを言う筈がない。何より、永琳様の口調は到底冗談を言っておられる声色ではない。

 ということは、本当に言っているのか。

 この目も見えない無力な私に、一人の鴉天狗の少女を救えというのか。

 

「無理です! 私には医学薬学の知識はございません! それに何より、聞く限りでは射命丸様は妖怪なのでしょう!? 強大なお力を持つ方に私が出来る事など何一つ……!」

 

「落ち着いて、倉間、大丈夫よ。傷は全て私が治したわ。後は鴉天狗の治癒力に任せましょう」

 

「ではカウンセリングなどの心理療法ですか!? それも私には専門外の物です! 第一私には按摩以外に出来る事が……!」

 

「それよ、倉間。私は按摩師としての貴方を頼りたいの」

 

 どう言う事かと尋ねようとする前に、永琳様が順を追って説明するわねと前置きして、ゆっくりと説明を始めた。

 

「鈴仙の話によるとね、この子は妖怪の山の麓に倒れていたって言うの。多分、河童の実験が失敗して、その事故に巻き込まれてしまったのでしょうね。全身火傷と裂傷が酷かったわ。だけどそれ以上に……翼の損傷が激しかったの」

 

「翼の……損傷……」

 

「えぇ、そうなの。何とか治療には成功したけど……少し神経に傷が入っているの。このままだと障害が残って本来のように飛べなくなる可能性があるわ。それを伝えたらこの子、ショックのあまり暴れちゃってね……だからこそ、貴方の力が必要なの」

 

「それはつまり……私の按摩とリハビリの技術を使って、射命丸様を飛べる状態まで回復させて欲しい……という事でしょうか?」

 

「正解よ。知識がないから無理とは言わせないわ。貴方の腕を見込んで言っているの」

 

 有無を言わせない無言の圧が、私に向かって降り注ぐ。しかし、裏を返せばこれは永琳様が私の事を信頼してくれている証拠でもある。

 ならば、それに応えない訳にはいかない。

 

「……かしこまりました。不肖倉間、全力を持って治療させて頂きます。ですが……五日の時間と、鴉天狗の身体に関する点字本を仕入れて頂けないでしょうか?」

 

「構わないわ、すぐに作らせるから。もっと詳しい状態はすぐに教えるし、質問にも答えるわ。貴方の腕、期待しているわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 そうして約束の五日が過ぎた頃。

 

「離してください! もう元に戻らないなら放っておいて下さいよ!」

 

「いいから大人しくしてなさいよ! 何の為に倉間と師匠が時間作ったと思ってんの!」

 

「知りませんよそんな事! 兎に角もう一人にして下さい! 今は誰とも会いたくないんです!」

 

「師匠〜何とかして下さい〜。私じゃどうしようもないんですよ〜!」

 

 ──私の目の前では、少女達の攻防劇が繰り広げられているであろう姦しい声が聞こえていた。

 仕事部屋で一人、佇みながらその時を待っていたら、何やらバタバタと騒がしい音がする。

 程なくして扉が開かれたかと思えば、鈴仙さんと射命丸様であろう押し問答の声。しかも、これは今の今まで続いている。

 流石の私でも、少しだけ顔に苦い笑みを浮かべていたかもしれない。

 

「……永琳様、私は……」

 

「そのまま待っていなさい。ちょっと話をつけて来るから」

 

 そのままスッと永琳様が立ち上がり、暫くするとピタリと騒がしい声が止まった。きっと、永琳様がなんらかの口添えをしたのだろう。

 

「兎も角、私もこの子も全力で貴女をサポートするわ。後は貴女の心持ち次第よ」

 

「むー……どうせ嫌だと言っても強制的にやるんでしょう? 分かりましたよ。一回だけ受けてあげます。但し、この人の腕が少しでも悪かったらそれ以降はもう受けませんからね!」

 

「構わないわ。貴女の好きにして頂戴」

 

「それと! さっき言った永遠亭の独占取材の約束! ちゃんと守って下さいねー!?」

 

 騒々しい声を出しながら、ごろりと寝転がる音が聞こえた。

 

「さて、ここからは倉間、貴方の出番よ。鈴仙と一緒に別室で待機しているから、何かあったら呼びなさい。いいわね?」

 

「はい、かしこまりました」

 

「じゃあ頼んだわね。鈴仙、行くわよ」

 

 その声を合図に二人は出ていき、部屋には私と射命丸様が残される。

 

「……では、よろしくお願い致します。今日から担当致します倉間と……」

 

「あー、自己紹介とかいーですから。早くやっちゃってください」

 

「あははは……では、早速施術に入らせていただきます」

 

 これは先が長そうだと思いつつ、私はまず、両翼を摘んで持ち上げてみる。

 

「改めてご確認しますが、両羽の感覚はありますか?」

 

「全然。何が何やら分からないですよ」

 

「かしこまりました。では、まずは緊張を和らげる施術から行いますね」

 

 私はそう言うと、薬をすり込んで一番緊張が酷い翼の根本から揉みほぐし始めようとした。

 ところが、

 

「……痛っ!? 痛い痛い痛い! ちょっと! もっと優しく出来ないんですか!?」

 

「……暫くは我慢して下さい。一度こうして筋肉をほぐさないと、余計な力が入って飛びにくくなるんです」

 

「だからってこんな……!」

 

 尚もほぐそうとする私の手から逃れようと、射命丸様が身を捩り始めた。軽く揉んだだけなのにこの反応という事は、かなり緊張していると見ていいだろう。

 しかし、この施術を施さなければ後々の行動に差し支える。多少強引ではあるがリハビリが優先と判断した私は、そのまま施術を続けようとした。

 それがいけなかった。

 

「ちょっと……もう! やめて下さい!」

 

「がっ……!?」

 

 恐らく衝動的だったのだろう、守るように振り抜いた腕が、私の腹に直撃した。勢いは思ったよりも強く、私の体は縁側まで飛ばされた。

 

「ちょっと! 大きな音がしたけど大丈夫なの!?」

 

 隣の部屋から、慌てた鈴仙さんの声が聞こえてくる。遅れて永琳様の声と共に、私の体がそっと抱き寄せられた。

 

「落ち着きなさい鈴仙……見たところ大きな怪我はなさそうね。何があったの?」

 

「いえ……ちょっと強引にやり過ぎてしまいました。申し訳ありません」

 

 訳を話すと、呆れたような永琳様のため息が聞こえた。

 

「全く……焦って事を進めようとするのは貴方の悪い癖よ? まずは患者の気持ちに寄り添いなさいっていつも言ってるじゃない」

 

「はは……面目次第もございません」

 

「だけど師匠! いくら倉間が悪いからってこれは流石に許せません! ちょっと射命丸! アンタ、今自分がやった事分かってんの!? 一歩間違えたら──」

 

「うるさい!」

 

 鈴仙さんの糾弾する声をピシャリとはねつけるように、射命丸様が叫ぶ。

 

「さっきも言ったでしょう!? 放っておいて下さいって! 私はもう飛べない! あれだけ飛んでいた空を見上げることしかもう出来ない! 天狗としての私はもう死んだんです! だったら死人らしく一人きりでひっそりと生きていく方がまだマシです! 無駄な希望を抱かせないで下さい! そんなもの、心が苦しくなるだけです!」

 

「あ、アンタねぇ……!」

 

「……分かりました」

 

 再び言い返そうとした鈴仙さんを押し留め、私は立ち上がって射命丸様のもとへ行く。途中、何かにぶつかったりつまづいたりしながらも、射命丸様の場所をある程度検討づけて座る。

 

「……まず、先程の無礼を謝罪致します。先程は強引なやり方になってしまい、申し訳ありませんでした」

 

 深く頭を地面につける。先程まで騒いでいたのが嘘のように静かであった。

 

「お詫びと言ってはいけませんが、今日の施術はこれで終了とさせていただきます。今回の件は、焦ってしまった私の責任です」

 

「そ、そうですよ! これでもう私の邪魔はしないで──」

 

「ですが、射命丸様、これだけは覚えていて下さい」

 

 私はスッと顔を上げた。今、彼女がどのような表情をしているか分からないが、驚いている事は間違いないだろう。

 

「リハビリは、出来なくなった事を少しずつ出来るようにするものです。どれだけ無理だ、絶望的だと言われる状況でも、少しずつ、一歩ずつ、段階的に積み重ねて、出来る様にしていくものなのです。私はただの按摩師ではございますが、理学療法の知識を備えております。ですからご安心ください。射命丸様、長い時間はかかりますが、必ず貴女は飛べるようになります」

 

「そ、そんなの、信じられるわけが──」

 

「……今は、色々考える事が多いですから、そう思われるのも無理はないでしょう。ですが、先程永琳様が仰った通り、私達は、射命丸様が再び空へ飛び出せるように全力を尽くします」

 

 答えはなかった。が、それでいいと私は思った。今は時間が必要だ。

 

「それでは、今日はこの辺りで。鈴仙さん、射命丸様を送ってあげてください」

 

「え、えぇ……ほら、射命丸、行くわよ」

 

「は、はい……」

 

 そのまま鈴仙さんと射命丸様は部屋を出ていき、後には私と永琳様が残される。

 

「……永琳様、ご期待に応えられず、申し訳ありませんでした」

 

「いいのよ。私にも落ち度があったわ……伝え方があまりにも直球過ぎて、あの子を混乱させてしまったみたい」

 

 向き直って謝罪してみれば、意外な事に永琳様は怒る事はしなかった。むしろ、「私もまだまだね……」と自嘲にも似たため息が聞こえた。

 

「まぁ、まずは片付けから始めましょうか。障子は私がやるから、貴方は散らかった物を片付けなさい」

 

「はい……」

 

 そのまま私達は、嵐の後の部屋の片付けを始めた。あのゴタゴタで思ったよりも部屋が散らかったらしく、手探りだけでも色々なものが散らばっていた。

 

「……それで、貴方はこれからどうするつもり?」

 

「はい、まずは……」

 

 片付けながら、自分の考えを訥々と述べる。

 一通り語り終えると、暫く黙って聞いていた永琳様が「そうねぇ……」と口を開く。

 

「私もそれが一番いいと思うけど……大丈夫なの? 私達が手が離せない時はどうするのよ」

 

「ご心配には及びません。白杖もありますし、何回か往復するうちに分かると思いますから」

 

「……分かったわ。鈴仙にも手伝って貰えるように頼んでみるから」

 

 永琳様はそう言うと、再び片付けを始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 それからまた一ヶ月が経過した。

 相変わらず、射命丸様はリハビリを受けて下さらない。が、あの日のように焦る事はしない。まずはゆっくりと、信頼関係を積み上げるのみだ。

 

「……それで、なんで貴方は勝手知ったる様子で私の病室にいるんですか?」

 

「あはは、私にも話し相手が欲しいと思う時位はありますよ」

 

「だからって週に三回もここに来るのはやり過ぎじゃありませんか!?」

 

「まぁまぁ、こう見えても忙しいのですよ? 私の仕事」

 

 言いつつ、玉露をズズッと一杯傾ける。

 あの日以来、私は時間を作って射命丸様の病室に赴き、彼女と色々な事を聞くように努めた。時には新聞のことについて熱く語って貰ったり、時には行ったことのない所について私の方から尋ねたり、また時には何も語らずにただ黙って過ごすという日もあった。

 最初は私に対して厳しい態度を取っていた彼女も、何度も何度も懲りずにやってくる私に諦めたのか、多少の憎まれ口は叩きつつも、私がこの場にいることに何も言わなくなっている。

 

「本当ですか? その割には暇そうに見えますけど」

 

「私達はどんなに忙しい時でも余裕を持って患者様に接するんです。忙しそうだと患者様が遠慮してしまいます故」

 

「ふーん、そうですか。しかし、こうも貴方が頻繁に来る物だから、もう話すネタが尽きてしまいましたよ」

 

「それでは、今日は何も語らずに静かに過ごしましょうか?」

 

「いえ、それだと間がもちませんし……そうだ、貴方の事を教えて下さいよ」

 

「私の……ですか」

 

 これはまた読めなかった。私の身の上など、語っても意味がないと思っていたからだ。

 

「そうです。というか、今の今まで私の本分を忘れてました。貴方の事を聞いて、記事にする。それが今の私が望む事です。おっと、断ろうなんて考えないで下さいね? ここまで私の事を聞いたのですから、貴方も自分の事を話さないとフェアじゃないでしょう?」

 

 全くもってその通りである。

 

「分かりました。つまらない話でも宜しければ、なんでもお聞き下さい」

 

「大丈夫ですよ。つまらない話を面白くするのが私達鴉天狗ですから」

 

 そう言うと、少しの間を置いたのちに射命丸さんが口を開いた。

 

「それじゃあ早速質問させて頂きますね。まずは……シンプルに好きな食べ物でも」

 

「好きな物ですか……そうですね、外の世界にいた頃は、リンゴとお饅頭を好んでおりました」

 

「ふむふむなるほど。それでは次は……」

 

 ポンポンと放たれる質問に、私は小気味良く答えていく。時折質問が止められ、何か書く音が聞こえてくるが、射命丸様が私の答えをメモしているのだろうと予想出来た。

 きっと、射命丸様の新聞に対する情熱は並々ならぬものなのだろう。

 

「ふむふむ……段々と倉間さんの事が分かってきましたよ。ここからは少し踏み込んだ質問をさせていただきますが、よろしいですか?」

 

「はい、何なりと質問して下さいませ」

 

「それじゃあ早速なんですけど……貴方のその目、いつから見えないんですか?」

 

 早速、私を語る上で外せない質問が繰り出された。

 

「はい、生まれた時からこの身の上でありました」

 

「不便と思った事は?」

 

「幾つかありましたが……慣れてしまえばどうという事はありません」

 

「ふーん……そんなもんですかね」

 

 何か含みがある言い方ではあったが、気にする事なく「そんなもんです」とオウム返しに答える。

 

「ですけど、生まれた時から目が見えないともなれば、虐められたりして大変だったんじゃないんですか?」

 

「そうですねぇ……理不尽な事は幾つか遭って来ましたね。専用の進路を邪魔されたり、意図的にぶつかられたり」

 

「ほらやっぱり」

 

「まぁ、相手が分からない以上は泣き寝入りとまでは行きませんけど黙っている事が多いですよ。ですけど、そればかり気にしていたら疲れますし、何より嫌な相手の顔を見なくて済むというのは大きいですよ」

 

「……なんか、随分と前向きですね」

 

「えぇまぁ。前向きじゃないと生きていけませんし」

 

 一拍あけるように玉露を啜って、また口を開く。

 

「私には父も母もおりません。なんでも生まれた時に祖父母に預けたきり行方不明になったそうです」

 

「よくある事ですね……いい気はしませんが」

 

「まぁそうですね。それで、私は祖父母に育てられたのですが、そこで『目が見えないって事を言い訳にするのではなく、どうやったら活かせるかを常に考え続けなさい』と常々言い聞かされておりました。その考えは、二人が亡くなった後も私の胸の中に刻まれております」

 

「なるほど、貴方のその精神的な強さは、お祖父様とお婆様の賜物でしたか……」

 

 ぽつりと呟いたその一言で、彼女がメモを書く音が止まった。不思議な位に穏やかな沈黙が続く。

 暫くそうして静かな時が流れたが、玉露を飲もうとした時、射命丸さんがそれを破った。

 

「ですけど……世の中、貴方みたいに強い人はいないじゃないですか」

 

 一瞬、自分に向けられた質問かと思ったが、すぐに違うと悟った。これは明らかに、射命丸さんの心情が口から零れ出たものだ。

 私はこれまでと同じく、いや、それ以上に誠実な態度でもって、口を開いた。

 

「射命丸様、私が按摩師の仕事を始めたのは、この仕事が天職だと感じたのもそうなのですが、射命丸様のような方々を助けたいと思った事が始まりなんです」

 

「……どういう、事ですか?」

 

 射命丸様が弱々しく尋ねる。私は玉露を口に含んで喉を潤すと、ゆっくりと語りかけた。

 

「……私は、生まれながらに目が見えませんから、様々な問題に直面してきました。が、向き合う時間が多かった分、それは乗り越える事が出来ました。ですが、突然失った人は違います。何故なら今まであったものがいきなり奪われ、その事実と強引に向き合わなければならなくなってしまったから。烏滸がましいとは思いますが、私はその方々に寄り添い、共に向き合って乗り越えられるようにサポート出来るようにしたい。そう思ってこの仕事に就きました」

 

 少々欲深いですけどね。と自嘲気味に笑って、話を締めたが、射命丸様は黙ったままであった。

 暫くそうして黙っていると、射命丸様が口を開いた。

 

「……あの……本当に、私、もう一度飛べるようになるんですか?」

 

 酷く怯えたようなこの質問に、私はにっこりと微笑む。

 

「きっぱりと言い切る事は出来ませんが、射命丸様が飛びたいという意志を持って望めば、きっと飛べるようになると思います」

 

「そう……ですか……分かりました」

 

 意を決したかのような声と共に、射命丸様は再び口を開いた。

 

「私、リハビリ受けます。こうやって逃げていても仕方ないですし、何より倉間さんの言葉を信じて見ようと思いまして」

 

「……嬉しいお言葉をありがとうございます。まずは射命丸様のご決断を、心より賛成致します」

 

「いやぁいいんですよ。そんなにかしこまらなくて……何処かで折り合いをつけてやらなきゃいけないって事は分かってはいたのですが、どうしても現実を直視する事が出来ませんでした」

 

「……それは、大変に心苦しかったと存じ上げます」

 

「でも、さっきの倉間さんの言葉を聞いて、なんというか、ちょっとだけ救われたと言いますか、まぁ兎に角、頑張れるような気がしたんです」

 

 だから……と、不意に私の手に柔らかな熱が伝わってきた。

 

「ありがとうございます。貴方に出会えて良かった」

 

 ──初めて、目が見えない事が惜しいと感じた。

 何故なら目の前にいる射命丸さんの表情を見る事が出来ないから。きっと、とても嬉しそうな表情をしていらっしゃるだろうに、それを拝む事が出来ない。

 けれども、両手を通じて伝わってきた、この温かな想いは、決して偽りのものである事は間違いない。

 だから私は、もう一度「ありがとうございます」とだけ言うと、にっこりと笑って握り返すのだった。

 

 

 

 

 



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fallen giri②

お、遅くなってしまいまして申し訳ありませんでした……

どうもこんばんは。年の瀬にならんと作品を投稿しない男焼き鯖です。

今回は射命丸編の後編でございます。彼女の悲恋をどうぞご堪能ください。

ps:私事ですが、雨野みるは様のこーまり同人誌「星色の恋心」において、小説を寄稿しました。(紅楼夢なので滅茶苦茶遅い)

これをきっかけに読んでいただけると嬉しいです。

詳しくはみるは様のTwitterをご確認ください。

https://twitter.com/yukihaaya


「……鈴仙さん、射命丸様の飛び方はどう言った状態でございますか?」

 

「そうね……スピードは出せてないし、翼の動かし方はまだぎこちないけど、飛び方に問題はなさそうよ。前みたいにふらふらした飛び方にはなってないわ」 

 

「分かりました。それでは、降りて来るように伝えて頂けますか?」

 

「えぇ、いいわ。射命丸ー! 一回降りて来て頂戴ー!」

 

 地上から、倉間さんと鈴仙さんの声が聞こえる。

 

 私は「はーい!」と返事をすると、二人の下にふわりと降り立つ。着地の際に体勢が崩れてしまったが、気づいた鈴仙さんに支えられて何とか持ちこたえる。

 

 私が倉間さんのリハビリを受け始めて、二か月が過ぎた。

 

 装具を使ったトレーニングにマッサージ、鈴仙さん主導の飛行訓練……

 

 この二か月間、私にとっては苦しいことの連続だったが、それ以上に喜びの方が大きかった。

 

 少しづつ自分の翼が動いていく感覚は、絶望に染められた私の心を癒し、洗い流してくれた。出来なかったことが出来るようになることは、失われた自信とかつてあった天狗の誇りを取り戻してくれた。

 

 私から天狗としてのあるべき姿を取り戻してくれたのは、永遠亭の皆様は勿論のことであるが、それ以上に……

 

「お疲れ様でございます。射命丸様」

 

 この、倉間さんのおかげであるのは間違いない。

 

「もー、いい加減私の事は文って呼んでくださいよー。私と貴方の仲じゃないですかー」

 

「いえいえ。私は単なる人間でございますから、そんな無礼なことは出来ませんよ」

 

 静かな声で私を労う倉間さんに対して軽口を叩くと、彼はニコリと笑って答える。

 

 物静かで丁寧な彼は、盲目というハンデをものともせずに、按摩師として私のリハビリの指示を的確に出してくれる。

 

 それだけではなく、彼はリハビリ後の面談も欠かさずに行い、私の精神面においても支えになってくれた。

 

 倉間さんがいなかったら、私は早々にリハビリを投げ出していただろう。

 

「本日は装具なしでの飛行訓練でしたが、いかがでしたか?」

 

「いやー、相変わらずきついですねぇ。もうヘトヘトですよ」

 

「……心中お察しいたします。ですが、お言葉とは裏腹に声の調子が良うございます」

 

「あやや? 声色で私の機嫌も分かるんですか?」

 

 それは参っちゃいますねーと、思わず苦笑する。

 

「そうですよ。私、本当は嬉しいんです。もう動かないと思っていた自分の翼が、今こうして動いている。それが凄い嬉しいんです」

 

「射命丸様……」 

 

「あっ、リハビリが疲れるのは本当ですよ? 要はそれ以上に感謝と喜びの方が大きいってことです」 

 

 ここまできついのは予想外でしたけどね。と、カラカラ笑いながら付け足すと、倉間さんはニコリと微笑んだ。

 

「……私も、嬉しゅうございます。射命丸様がそう思ってくださるのなら、これ以上の喜びはありません」

 

「あっ……あや―、そ、そこまで喜んでいただけるとは……思っていなかったです……」

 

 その静かな笑みがまた眩しくて、思わず俯いて呟いてしまう。尤も、当の本人には聞こえていなかったのか、尚も笑みを浮かべたまま小首を傾げている。

 

「……ねぇ、これ以上私を置いてけぼりにするのやめてもらえる? 倉間もこの後予定があるんだけど」

 

「あぁっ、これは申し訳ありません」

 

 ジト目の鈴仙さんが私たちの方を見つめてくるのに気づいた倉間さんが、申し訳なさそうに彼女の方に向き直る。

 

「それで、この後の予定は……?」

 

「ヨネさんから按摩の予約が一件入っているわ。十分後よ」

 

「かしこまりました。すぐに準備して参ります」

 

 そう言って、倉間さんはいそいそと早足で按摩室へ向かってしまった。

 

「全く……助けてもらった恩があるのは分かるけど、倉間もああ見えて患者さんが──」

 

「あの、鈴仙さん」

 

「──ひっ!?」

 

 私が鈴仙さんに声を掛けた瞬間、彼女はおびえたような目つきをして後ずさったが、気にすることなく言葉を続ける。

 

「そのヨネさんって人は、倉間さんの何なんですか?」

 

「……か、患者の素性については答えられない事になってるの。いくら貴女でも教えるわけにはいかないわ」

 

 食い下がるように鈴仙さんが顔をしかめた。

 

「ふぅーん、そうですか。名前からして女の人っぽいですねぇ。倉間様の好い人なんですか?」

 

「馬鹿な事言わないでよ! 女の人って言ったって、もう八十歳のおばあちゃんよ!」

 

「十分若いじゃないですか。これは話を聞く必要がありそうですねぇ……」

 

「あっ……アンタ、一体何をするつもりなの?」

 

 震えた声で尋ねる鈴仙さんの方を向き、私はニコッと微笑んだ。

 

「決まっていますでしょう? 烏天狗としての本分を全うするんです」

 

 努めて穏やかな声を出したはずなのに、鈴仙さんの顔は青いままだった。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 真っ暗な世界がだんだんと薄く、白くなる感覚で、私は先ほどまで眠っていたことに気づいた。

 

 ゆっくりと体を起こすと、次に鈍い痛みが頭を刺し、私は一瞬顔をしかめる。心なしか、体の節々が凝り固まっているようであった。

 

「……おや?」

 

 体の凝りを解しながら手をついた時、私はふと違和感を感じた。

 

 今まで寝ていた場所が、温かくて柔らかな布団からゴザのようなカサカサしたものに変わっていたのだ。

 

 怪訝に感じて耳を澄ませると、鳥の声も、葉のこすれる音も、因幡兎の楽し気に騒ぐ声も聞こえない。ゴーッという風が吹き抜ける音が耳を突き抜け、他の音をかき消すばかりだった。

 

「……微かに水の滴る音も聞こえる……という事は、ここはどこかの洞窟ですか……」

 

 未だに痛む頭を押さえながら、近くにある筈の杖を手探りで探していると、奥の方から風の音に交じってコツコツと足音が聞こえた。

 

「……この音は……」

 

 どこかで聞いたことがある、下駄のような木材の軽い音。

 

 私はこの音の持ち主を知っている。

 

「あやややや。お目覚めですか。倉間さん」

 

 直後に聞こえてきたのは、軽薄と慇懃を丁度良く使い分けたような、それでいてどこか侮れない強者の姿を連想させる不思議な声だった。

 

「いやー、目が覚めてよかったですよ。何時まで経っても目が覚めないので、危うく殺しちゃったかと思いました」

 

 四か月前に出会った時から付き合いのあるこの女性の声は、あっけらかんとした口調で恐ろし気な事を口走った。思わず、私の眉間に皺が寄る。

 

「……射命丸様、ここは、何処にございますか」

 

「ここですか? 妖怪の山ですよ」

 

「妖怪の山……ですって?」

 

「正確には、妖怪の山の洞穴……と言ったところでしょうか。かつて白狼天狗が使っていた哨戒所の一つなんですが、移転されてから手に余ってましてね。怪しいものが滅多に通らないので、こうして隠れ蓑にするのに都合がいいんですよ」

 

 にこやかな声で説明する射命丸様に、私は微かな恐怖を抱く。

 

「……射命丸様、もう一つお伺いしますが、本日の日付は……」

 

「えーっと、十一月の二十九日ですかね」

 

「……どれほど、私は気を失っていたのでしょう」

 

「うーんそうですねぇ……大体二週間くらいでしょうか」

 

「二週間ですって!?」

 

 とっさに私は立ち上がった。驚愕の表情をあらわにする私を意にも介さず、ニコニコした表情でさらに続けた。

 

「えぇ。ここに来たのが大体十一月の十五日くらいですからね。二週間だとそのくらい経ちますね」

 

「なっ……え、永遠亭の皆様は!?」

 

「ご安心ください、殺してはいません。今頃血眼になって貴方を探していることでしょうね」

 

「それじゃあ私の患者は!? 二週間前だったら一人いたはずで──」

 

「……それは、貴方のお客様気取りだった、あの赤ん坊もどきの事ですか?」

 

 背筋が冷える感覚が駆け巡った。その少し後、またカツカツと彼女の足音が聞こえたかと思うと、次の瞬間に何かが壊れる音がけたたましく響いた。

 

 身を守るため、咄嗟に身をすくめると、何度も何かを壊す音が洞窟内に何度も反響した。

 

「……なんで、あんな、私よりも何倍も! 年が離れた! 赤ん坊に! 貴方は私よりも心を許しているんですかぁっ!」

 

「しゃ、射命丸……様……?」

 

 息を荒げながら叫ぶ射命丸様の声には、あらん限りの悲しみと憎悪、そして……それら全てを覆い隠すほどの嫉妬にあふれていた。

 

「はぁ……はぁ……まぁ、いいです。こうして貴方は私のものになった。今はそれで満足するとしましょう」

 

「そっ、それは一体──」

 

「どう言う意味ですかって? 言葉通りですよ。貴方の人生は私のものになった。貴女は一生、死ぬまで私の所有物です」

 

「そんな!」

 

 私は思わず叫び声を上げた。それを見た射命丸様が、更に言葉を続ける。

 

「いいじゃないですか」

 

「……は?」

 

「ここで、私と死ぬまで二人きり。それでいいじゃないですか。面白いお話もしてあげますし、お世話も全部します。必要であれば夜の方も……もう何年もしていませんが、出来る限り頑張るつもりです。貴方が願うものは、外出を除いて何でも叶えて差し上げます。そりゃ、勝手に連れ去ったことは謝りますけど、それだけ私は貴方に本気だって事なんですよ。貴方がいてくれたら私はそれで構いませんが、それでは貴方に申し訳が立ちません。ですから私は貴方の願いは最大限叶えて差し上げたいんですよ。さ、なにがお望みですか? 貴方になら好きなだけ……」

 

「そんなもの、私は頼んだ覚えなどありません!」

 

 射命丸様の声を遮り、再び私は叫んだ。

 

 しかし……

 

「えぇ、そうですよ」

 

「なっ……」

 

 私の叫び声は、この一言によって完全に沈み込んだ。

 

「これは私の望みです。貴方の意見や思いなど完全に無視した、謂わば私のワガママという奴です」

 

「でしたら……」

 

「ですが、それが一体何だというのですか? 私は天狗。妖怪です。妖怪が、自分の所有物を大事にしまうのに、何を厭う必要があるでしょう?」

 

 ぞくりと、背筋に再び寒気が走った。同時に私の脳裏に、忘れていた何かが思い起こされた。

 

「……と、兎に角、一度永遠亭に戻らなければ……」

 

 そう言って杖を手に取ろうとした瞬間、風が一筋吹いたかと思うと、私の身体は何の抵抗もなく地面に押し倒された。

 

「しゃ、射命丸様……?」

 

「……前々から思ってましたけど、貴方って結構命知らずですよね。ここまで私が警告したのにそれでも尚永遠亭に帰ろうとするところとか。一周回ってもっと好きになっちゃいそうです」

 

「で、でしたら……」

 

「行かせませんよ? というより、行っても無駄です」

 

「ど……どういうことですか?」

 

 震える声で尋ねると、これはもう話しておいた方が良いかもしれませんねと、声に若干の笑みを含ませながら口を開いた。

 

「貴方のお客さん……ヨネさん、でしたっけ? 私が食べちゃいました」

 

「……えっ?」

 

 余りの事に、思わず言葉に詰まった。そんな私の姿が余程滑稽だったのだろうか、射命丸さんがクスクスと笑い出した。

 

「まぁ、気絶していましたから無理もない話ですがね。だから……」

 

 ──思い出させてあげますよ。

 

 そう言って、私の額に彼女の指であろう、細くて暖かいものが押し当てられた。

 

「な……なにを……」

 

 言いかけたその時、私の脳内に失われた記憶が蘇り始める。

 

 あれは……永遠亭の庭に初霜が降りた日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 この日の私は、射命丸様のリハビリについて悩んでいた。

 

 射命丸様のリハビリは、確かに驚異的な速さで進んでおり、順調に回復しているように思えた。

 

 しかし、ある時期を境に回復の速度が人間のそれよりも大きく下がり、ピタリと止まってしまったのだ。

 

 これを見た私はすぐにリハビリメニューを変更したが効果はなく、食事や器具などを調整してみたが、どれも微々たるものだった。

 

 鈴仙さんや永琳さんに相談しても有効な手立ては見つからず、八方塞がりな状況ではあるが、一患者である射命丸様には知られるわけにはいかない。

 

 何とかする方法はないものかと考え、施術室に着いた瞬間、足の指先に何か生暖かい液体のようなものが触れた。

 

 怪訝に思い、かがんで触れてみるとその液体はさらついてはいるがわずかに粘ついている。

 

 誰かが薬をひっくり返したかとも思ったが、施術時以外で棚に仕舞うはずの薬は、鈴仙さんも永琳さんも無断で触れないように頼んである。

 

「……まさか……」

 

 鼻に近づけてみると、微かだが鉄のような臭い。

 

 触れたものの正体を悟った瞬間、背筋がぞっとした。ふと気づくと、液体がぴちゃぴちゃと跳ねるような音も耳に入ってくる。

 

「……おや、そこにいるのは倉間さんですか?」

 

 追い打ちをかけるように耳に入る、聞き覚えのある声。答えようとした自分の声が詰まって出てこない。

 

「隠れようとしても無駄ですよ。ふすま越しに影が見えていますから」

 

 この言葉で観念した私は、震えを押し殺しながら襖から姿を見せて答える。

 

「しゃ、射命丸様でございましたか。勝手に部屋に入るのはご法度ですよ。何をしていらしたのですか?」

 

「いえ、大したことではありませんよ。ちょっと小腹を満たしていた所ですから」

 

「そ、そうでしたか。因みに何を食べて──」

 

 言いかけたその時、私の耳に微かながら音が入った。水が滴る音とも違うその異音は、掠れた声のような音で私に語りかけるようなものであった。

 

 意識を集中して、音に耳を傾ける。掠れた音が、段々とはっきりしたものになってくる。

 

 た、す、け……

 

「どうしましたか? ()()()()()()()()()()?」

 

 瞬間、射命丸様の声とグチャリという大きな音に、掠れた音はかき消された。

 

「射命丸様……貴女……まさか……!」

 

 しかし、既に音……いや、声を聞いていた私は、その正体と彼女の所業に驚愕と恐怖を隠そうともしなかった。

 

「……あーあ、バレてしまいましたか」

 

 まるで隠し事がバレた子供のような声色で、射命丸様が口を開く。

 

「……まぁ、いいでしょう。どのみちこうするつもりでしたし、腹ごなしの運動と行きましょうかね」

 

「し……師匠! 鈴仙さん! すぐに来てください! 大変なことに————」

 

 瞬間、射命丸様の姿が消え、気が付くと私の身体は宙に浮いていた。

 

「あはははは! 力が溢れてきます! 久しく忘れていた! 私本来の力が!」

 

 射命丸様が高らかに笑う。いつもの笑い方とは違う、妖怪が持つ圧倒的な強者としての笑い方だった。

 

「ちょっと、一体何の騒ぎ————って! 射命丸! アンタ一体何してるのよ!」

 

 下の方から鈴仙さんの慌てる声が聞こえた。同時に慌ててこちらに走り寄ってくる足音も聞こえる。

 

 それに気づいてもなお、射命丸様は余裕の声色を崩すことはなかった。

 

「あややや。鈴仙さんにも気づかれてしまいましたか。ですがまぁ、一足遅かったようですね。倉間さんはもう私のものです」

 

「どういうつもりか分からないけど、これは警告よ! 倉間を放しなさい! 放さないなら————」

 

 直後、弾丸を発射するような音が聞こえると同時に、私の身体が急に左に移動された。

 

 ここではじめて、私が射命丸様に抱えられていることに気が付いた。

 

「あやー、実力行使ってやつですか」

 

「当たり前よ! 必要なら弾幕ごっこ()()の手を使ってもいいわ!」

 

「それは結構な事ですけど……永遠亭の患者様を放っておくのはいかがなものでしょうか?」

 

「な……どういうことよ!」

 

 むきになった鈴仙さんの声とともに、射撃音が無数にこだました。恐らくは鈴仙さんが撃ち込んだであろう弾幕を、私を抱えたままの射命丸様が悉く躱していく。

 

「あややややや。流石に分かりづらかったですかね。じゃあこう言い換えましょうか……死人を放っておいて大丈夫ですか?」

 

「……! し、師匠! 大至急倉間の部屋へ──」

 

 瞬間、私の身体に感じたことのない風と負荷がかかり、鈴仙さんの声が途切れた。

 

「あははははは! 凄い! 凄いですよ倉間さん! けがをする前のスピードとほぼ同じ! いや、それ以上ですよ!」

 

「も……もしや射命丸様……翼の怪我が……」

 

「えぇ! えぇ! 治りましたよ! あの目障りな赤ん坊のおかげです! クソの役にも立たないと思っていましたがこんなところで力になってくれるとは予想外でした!」

 

 その言葉を聞き、私は絶望した。

 

 今まで考えていたことは全て、妖怪の本分で解決出来てしまう事に。

 

「あぁ……そんな顔をしないでくださいよ倉間さん。貴方がいなければ私はここまで飛ぶことは出来ませんでした。寧ろ、今までの私以上の速さを手に入れた貴方に感謝したいくらいですよ」

 

 嬉しそうにうっとりと語る射命丸の声だけが、私の鼓膜を震わせる。

 

「さ、追手が来る前に逃げ切っちゃいましょうか。少し早くなりますが、しっかりつかまってて下さいね!」

 

 瞬間、私の身体に更なる風圧と重力がかかった。

 

 ゴウッという風が過ぎ去る音が耳を通り過ぎていく。

 

 その音と耐え切れない程の感覚を最後に、私の意識はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……フフッ、どうやら全部思い出したようですね」

 

 射命丸様の声に、私はハッとする。

 

 手に伝わるごつごつとした岩肌の感触と、下腹部に感じる温かく柔らかな感触。

 

 どうやら私の意識は元に戻ってきたようだ。

 

「いやー、あの時はびっくりしましたねぇ。飛ぶのに夢中で気が付いたら貴方が気を失っていましたから。急いで誰にも知られていないここに羽を下ろしたんですよ。さっきも言いましたけど、てっきり殺しちゃったんじゃないかって思っちゃいました」

 

 私は唯々恐ろしかった。

 

 朗らかな声色で語る射命丸様を。

 

 嬉々として妖怪の本分を語り、あまつさえ自分は悪くないと言いたげに私の記憶を思い出させた、彼女の底が読めない行動を。

 

 その様子はまるで、幼子が砂山の楼閣を得意げに見せつけるよう。何百年と生きてきた妖怪とは思えないほど稚拙だった。

 

「射命丸様……一つ、一つお聞かせください」

 

 震える声で尋ねると、「いーですよ」と得意げに了承する。

 

「何故……何故、このような事をなされたんですか? 唯の恩返しであるならば、こんなことなさらなくても十分です。私に好意があるのであれば、言葉にして伝えてくださればそれで充分です。なのにどうして、盲目である私に、何百年と生きてきた貴方がどうして、このような事を……」

 

「……はぁ、倉間さん、貴方まだ分かっていないようですね」

 

「なっ……」

 

 急に私の身体に重みとぬくもりが伝わる。恐らく、射命丸様が私の身体に寝かかって来たのだ。

 

 耳に温かな吐息がかかるのを感じる。

 

「そんなに、自分を卑下しないで下さい。私の天狗としての尊厳を取り戻してくれたのは、私にリハビリの勇気を与えてくれたのは、紛れもなく倉間さんのおかげなんです。貴方がいたから、今の私がいたんです」

 

「射命丸様……」

 

「そんな貴方が、私以外に笑顔を向けるなど、私以外の事を考えるなど、あってはならないことなのです。貴方が誰かのものになるのならばいっそ、誰の目にも届かない場所にしまっておきたい。全てを私一人のものにしてしまいたい……フフッ、妖怪というのはね、ひどく自分勝手なんです」

 

 特に、恋を知った天狗というものはね。と、極めて熱の籠った声が囁く。

 

 ……あぁ、これは。

 

 私は心の中で悟る。

 

 これは、ダメだ。

 

 射命丸様は、私以外の事を何が見えていない。見えていないから、永遠亭の皆様や患者様の方々の事を考えていらっしゃらない。私の周りに入る方々の事をどれだけ大切に思っているか理解してらっしゃらない。

 

 今の射命丸様は、恋心をはき違えている。私を手にすることで自分の気持ちを満たそうとしている。自分の欲を、他を犠牲にしてまで叶えようとしている。

 

 それではだめだ。それでは、いつか射命丸様は私の事を捨ててしまうだろう。

 

 であるならば、私は……

 

「……かしこまりました。射命丸様のお気持ちは、よく分かりました。」

 

 そう言いながら、私は射命丸様の肩に手を触れ、徐に体を起こす。

 

「ホントですか! ありがとうございます!」

 

 射命丸様の嬉しそうな声が聞こえる。きっと、その表情も眩しいほどの笑顔なのだろう。

 

「じゃあじゃあ、これからはもう誰とも会いませんね! 私だけを見てくれるんですね!」

 

「はい……ですが、その前にお願いしたいことがございます」

 

「えぇえぇ! 何でもおっしゃってください!」

 

「それでは……一緒に、これを呑んでいただけますか」

 

 私はそう言うと、懐から瓢箪と杯を取り出した。

 

「この瓢箪の中には、私が調合した疲れを取る薬草茶が入っております。これから更に移動するのであれば、今のうちに疲れを取らなければなりませんからね」

 

「倉間さん……そこまで私を……分かりました。それをお貸しください」

 

 言われるがまま、杯と瓢箪を渡した。トクトクと注がれる音が聞こえる。

 

 射命丸様はそのまま私に杯を渡すと、自分にも同じように薬草茶を注いだ。

 

「ありがとうございます射命丸様……」

 

「いえいえ。これくらいどうってことないですよ……それでは、私達のこれからの未来を祈って……」

 

 乾杯。

 

 杯が触れ合うのを確認した後、私達は薬草茶を呷った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 射命丸と倉間が発見されたのは、彼が攫われた日から数えて三週間後の事であった。

 

 犬走椛と飯綱丸龍が深刻そうな顔で永遠亭に赴き、事の次第を報告してきたからだ。

 

「……し、師匠……これは……」

 

 洞穴の中に入った鈴仙が、青ざめた顔と吐きそうな声色で私に声を掛ける。

 

 中は、私が予想していたよりも酷いことになっていた。

 

 暴れたようにへこんだ痕跡のある石壁に、そこかしこに散乱した原形をとどめないほどに壊された家具。

 

 それら全てをかき消すように鼻が曲がるほど凄まじい悪臭が、洞穴内にこれでもかと充満していた。

 

 そして部屋の中央には、匂いの元凶と思われるドロドロに溶けた液体があった。その液体の上には……

 

「……倉間……」

 

 彼が着ていた着物と、烏天狗特有の山伏帽があった。

 

「……ヒュドラの毒は効果が強いから、自決用には使うなってあれほど言ったのに……」

 

 生前、彼はいざという時は自分の事等構わないでほかの肩を守ってくださいと、常々言っていた。

 

 盲目である彼は、その特性故に自分の身を守ることが出来ない。そう言った護身術を身につけてもいない。

 

 だから、仮に永遠亭全体に何かあった時、ひいては自分の身が殺されそうになったときは、毒を飲んで自決すると私に直談判して来たのだ。

 

 勿論、私はすぐに否定した。そんなことしなくても私たちは貴方を守れると。

 

 しかし、倉間はそれを頑として断った。私を守るならば、入院しているほかの方を守ってほしい。これ以上私が負傷等をした時、確実に足手まといになると。

 

 三日三晩の議論の末、根負けしたのは私の方だった。但し、使う毒は死亡一歩手前、仮死状態になる程度の強力じゃないものを使い、万が一の時に蘇生が出来るよう約束した。

 

 した、はずだったのに。

 

「……鈴仙、まずは倉間の着物を回収なさい。その後は出来る限り倉間の残骸を集めるのよ」

 

「わ……分かりました……」

 

 口元を手で押さえながら、よろよろと鈴仙が片付けを始める。私も少し遅れて倉間だった液体を容器の中に入れていく。

 

 彼が何を思って私との約束を守ったのか、それは未だに分からない。でももし、倉間が未だに盲目であることを引け目に感じていて、迷惑を掛けまいと一歩引いていたんだとしたら。

 

「……師匠失格ね……私は」

 

 そう呟いた瞬間、一筋の涙が頬を伝った。

 

 



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