三度目の夜に。 (晴貴)
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1話

 

 ずっと何かを、誰かを、探している。

 

 そういう気持ちに取りつかれたのは、たぶんあの日から。

 

 あの日、星が降った日。

 

 それはまるで、夢の景色のようにただひたすらに――美しい眺めだった。

 

 

 

 

 

 彼女との日々が始まるきっかけがなんだったのかなんてわからない。その原因も、意味も、どうして俺と彼女だったのかも。

 だからそこに意味を求めるのなら、それは自分で見つけたって構わないと俺は思う。

 あんなにも大切な気持ちを、忘れたくなかった人を、忘れちゃダメな人を、忘れてしまった夜。残酷な世界にあらがうように俺は強くつよく誓った。

 これから先の人生で、大切な何かを、大事な人を忘れてしまった寂しさだけが心に残るのだとしても。忘れてしまったということさえ忘れたのだとしても。

 失ってしまった寂しさだけはずっと胸の奥にとっておく。その寂しさを一生携えてでも、俺はもがき、探し続けていくんだと誓った。

 

 あの時伝えたかった言葉を、俺はまだ、彼女に伝えられていないから。

 

 

*  *

 

 

 懐かしい音が聞こえる。とても規則的で、電子的な音。

 それがまどろむ私の意識を徐々に現実へと引き上げていく。まだ眠いと思いながらも音の発生源であるスマフォに手を伸ばす。

 ……あれ、ない?

 顔を枕に押し付けたまま左腕で周囲をまさぐるがそれらしきものはかすりもしない。どこにいったのよ、もう。

 

 主人の思惑に反するスマフォに内心で八つ当たりしながらわさわさわさとさっきよりも大きく左手を動かす。でも伝わってくるのは手のひらが畳をこする感触だけ。……畳?

 おかしい。念願の東京で一人暮らしを始めて数年。私の部屋はフローリング張りで、畳での生活は糸守町を離れてからは縁遠くなっているのに。

 それにしてもまさか畳の感触を懐かしいと思う日がくるなんて。私ももう立派なシティーガールというわけね。ふふん

 今ではお祭りのような人混みも、騒がしい街の喧騒にも慣れたものだ。それこそ毎日通勤のために乗っている満員電車にだって……。

 

「瀧……くん……?」

 

 ふと、そんな声が漏れた。それが自分の口が発した言葉で、その名前が誰のものであるのか認識した瞬間。

 

「――瀧くん!」

 

 私は布団を跳ね上げ、弾かれたように体を起こした。そうだ、あの人だ。

 すし詰め状態で並走する電車越しに合った目。一目見て分かった。あの人が、私がずっと探していた、私の大切な人だって!

 

 さらに鮮明な記憶がよみがえってくる。

 私に気付いたあの人も何かを訴えかけるような目をしていた。それだけで、あの人も私を探してくれていたんだって確信できた。

 だから電車を降りて会社とは正反対の方向に走った。太陽の光に照らされてきらきらと輝く雨上がりの細い路地を。

 そうしてたどり着いた階段の上。そこから見おろせば、階段の下にはスーツ姿の彼がいた。

 

 お互いに階段に足をかけ、その距離がゆっくりと近づき、そして重なり、またゆっくりと離れていく。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 声をかけたいのに、なんて言えばいいのかわからない。でも、このまま通り過ぎるのだけは絶対に間違っている。私たちは絶対に、赤の他人なんかじゃない!

 だから私が意を決して振り返ろうとした瞬間。

 

「あの!俺、君とどこかで!」

 

 彼がそんな言葉を口にした。それだけで長年胸に燻っていた、何かを探しているという焦燥がかき消える。

 

「私も……」

 

 視界が滲む。自然と大粒の涙が溢れたしてきた。

 それに誘われるように彼の頬にも一筋の涙が伝う。

 

 それでも私たちは笑顔だった。泣きながら笑っていた。

 そうして、まるで示し合わせたようなタイミングで、同じ言葉を口にした。

 

 ――君の名前は

 

 

 私は宮水三葉と名乗った。彼は立花瀧と答えた。

 そしてその名前を私はまだ覚えている。忘れていない。その事実に体を震わせるほどの歓喜が全身を駆け抜ける。

 会いたい。瀧くんに今すぐ会いたい!

 いてもたってもいられずに、私はガバッと立ち上がった。

 そこでさっきから感じていた違和感がハッキリとする。

 私が寝ていたのは、私の部屋。でもそれは八年前の彗星災害で跡形もなく消滅したはずの、糸守で暮らしていた家の部屋。

 

「どう、して……?なんで!?」

 

 喜びから一転、驚愕。それは鏡に映った自分の姿を見て絶望へと変わる。

 襟口がずれ下がり、露わになっている右肩。やや小ぶりになった胸はノーブラで、何より鏡に映し出されたその顔は今より幼く、高校生だった頃の自分に瓜二つ。

 消えたはずの糸守町で目覚め、高校生に戻っている自分。こんな条件がそろえば、たとえどれだけ混乱していてもこんな答えを導き出せてしまう。

 

「私……八年前に戻ってきたの?」

 

 自分の声がやけに薄ら寒く聞こえる。

 いやな汗が全身からドッとふき出してきた。朝だっていうのに目の前が暗くなった気がした。

 障子の隙間から差す朝日がまるで嫌味かのように輝いている。

 

「もー!なんなのよこれはー!」

 

 ごちゃごちゃとして混ざり合い、形容できなくなった感情を、私はそんな絶叫といっしょに、思いっきり吐き出した。

 

 




『君の名は。』もう3回見ました。
映画館で10回は見たいし、Blu-rayも買います。


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2話

 

 糸守町は彗星が落下したせいで跡形もなく消し飛んだ。それはもう容赦なく、いっそ笑えちゃうくらい何も残らずに。

 けれど幸いにも住民のほとんどが被害の範囲外である糸守高校の校庭に避難していたため死傷者はほとんど出なかった。それは瀧くんのおかげだ。

 本当なら私は、そして町の人たちの多くは、あの彗星災害で死ぬはずだった。けど瀧くんはそれを何とかするためにこの町を探し出し、私の身体に入ってテッシーやサヤちんと協力して住民を避難させようとした。三年という時空さえ飛び越えて駆けつけてくれた、私にとっての王子様。

 まあ最後は私もがんばって父を説得したし、四人の力を合わせたからこその結果だけどね。

 

 とはいえ町はもう人が住めるような状態じゃなかった。あらゆる建物が吹き飛んだし、そもそも地形が変わって生活するための陸地までなくなったんだからしかたない。水の上で暮らすのはさすがにない。

 そんなわけで私は県内の高校に転校することになった。非常事態ということもあっておばあちゃんと父が和解とはいかないもののお互いが歩み寄るようにはなったのはこれがきっかけだった。

 それによって久しぶりに一家四人で生活を送ることになったりもした。始めは気まずさや気恥ずかしさもあったけど、半年もした頃にはそれもあまり気にならなくなっていた。

 案外、家族というのはそういうものなのかもしれない。

 

 そんな感じで高校生活を終えた私は卒業と同時についに東京へ上京を果たす。そこで四年間キャンパスライフを満喫した。

 時たま遊びにくるテッシ―やサヤちんを見ると私も恋人を作ってみたいなとは思ったものの、そんなことを考えると決まって胸の奥がざわついた。結局自分から恋人づくりに動くことはなく、何度か告白されたりもしたけれど全部断った。

 今にして思えばそれは、忘れてはいたけど無意識で瀧くんへ想いを寄せていたからだったんだとわかる。私も一途な女よね。

 こんな健気な女の子をほっぽり出して瀧くんは何をしているのやら。

 

「……また逢いに行っちゃおうかな」

 

 ついつい願望が口をついて出る。あー、でも今の瀧くんってまだ中学二年生なのよね。

 また怪訝な顔で「誰?お前」なんて言われたら……。あ、ダメだダメだ、想像しただけで泣いちゃいそう。

 

 だけど、私は覚えている。

 瀧くんのこと。瀧くんと入れ替わって過ごした東京でのこと。そして死んだはずの私がくり返した、あの夜のこと。それに東京で再会した時のことだって。

 大切な、好きな人の記憶。目が覚めてからだいぶ経つけどそれが薄れたり、忘れそうな気配はない。

 理解不能な謎現象にみまわれている真っただ中ではあるけど、瀧くんのことを覚えている、というだけでだいぶ心が落ち着く。これさえあれば私はきっとがんばれる。

 そんな気がする。

 

 でも私がこれだけ色々なことを覚えてるんだから、もしかして瀧くんも覚えてたりしないかな?

 というか覚えてないと不公平だよね?

 口噛み酒のこととか、私のおっぱい触ったりしたこととか、瀧くんが覚えてなかったら逢った時に恥ずかしいの私だけじゃん!

 それに私を……す、好きだって言って……いや、書いてくれた、の方が正しい?ど、どちらにせよそういう気持ちは覚えていてほしいし……。

 

「おーい、みーつはー!」

 

 私が道端で悶々としていると背後から声が聞こえた。サヤちんの声だ。

 変わってないなぁ、という苦笑が浮かびかけたけど、いやいや八年前なんだから変わってなくて当たり前やし、と内心で自分に突っ込みつつ、しかし懐かしいという気持ちだけは隠しきれずに、私はつい満面の笑みで振り返った。

 

「おはよう、テッシ―、サヤちん」

 

 そんな二人は私の顔を見て硬直した。そして二人で顔突合せ小声で何事かささやき合っている。

 

「なによ?」

 

「いや、妙に明るいというか、機嫌が良さそうやな」

 

「何かいいことあったん?」

 

 いいこと?まさか!

 やっと瀧くんと再会できたと思ったらまた八年前に逆戻りだもん。二人がそんなわけを知るよしもないけど、これでいいことがあったなんて言えるはずがない。

 

「なんも!むしろ神様に一発おみまいしたいくらいやさ」

 

 こっちはそれくらい怒り心頭なのよ!

 

「巫女がそんなこと言いなや……」

 

 テッシーが呆れてるけど構うもんか。私はしょせんはんぱもんの巫女だ。

 

「今度は急に怒り出して……ストレスで情緒不安定になっとるん?」

 

「大丈夫やよ。ほら、学校いこ」

 

 そう言って私は先頭を歩く。となりにサヤちんが並んで、そのちょっと後ろをテッシーが自転車を押しながらついてくる。

 お決まりだったいつもの登校風景。

 奇妙な状況に怒りも困惑もあるけど、またこうして二人と当たり前のように顔を合わせられること、そして消えてしまった糸守で暮らせることは、ほんとならいいことに数えていいのかもしれないけど。

 

 でもあと半年もすればやっぱりこの町は消える。寝起きでスマフォを操作して『ティアマト彗星』で調べたけど、その答えは『今年十月に地球へ最接近』だった。

 たぶん、いや、きっと彗星は砕けて、この町に降り注ぐ。そうなれば糸守町は地図から消える。いやだけど、それは避けられない。何をどうやったって彗星を破壊することなんてできるとは思えない。

 そうするには自衛隊とかNASAとか、そういう人たちの力が必要だ。ど田舎の高校生が「彗星が割れるのでミサイルで粉々にしてください」なんて直訴したところで頭の中身を疑われて終わり。

 

 だから糸守町についてはあきらめるしかない。その代わりに、今度もみんなを助けるんだ。

 町が無くなっても、そこで暮らしていた人たちが生きていれば記憶に、心に町は残って、知識や思い出だけでも繋いでいける。それが「ムスビ」だ。

 そうだよね、お祖母ちゃん。

 

 学校のスピーカーからキーンコーンカーンコーンと、まるで急かす気の感じられないチャイムが流れる。予鈴だ。ゆっくりしすぎてしまった。

 

「テッシー、自転車!サヤちん、後ろに乗って!」

 

 テッシーから自転車を奪うように借りてまたがる。その後ろにサヤちんを乗せて、レッツゴー!

 

「おい、俺は!?」

 

「ダッシュ!急いで!」

 

「そりゃないやろ!」

 

 本鈴が鳴る前になんとか教室に滑り込む。私たちはちょっと余裕があったけど、テッシーの息は絶え絶えだ。お昼にジュースくらいごちそうしてあげよう。

 そんなことを考えながら担任を待っていると、教室の扉が開いた。一年生の時から引き続き担任になった先生は、手を叩いて注目を集めながらおなじみのセリフを口にする。

 

「静かにしろお前らー。二年生になって気分がゆるんどるんじゃないか?」

 

「二年生になってって、まだ一週間も経っとらんですよ先生」

 

 クラスメイトの一人がそう反論した。

 まあ日付を見れば私たちが二年生になってまだ三日目だ。それでゆるむなら最初からゆるんでるよね。顔見知りばっかりのこの町で気を抜かない方が難しいと思うけど。

 

「まったくだらしないきに。特に女子」

 

 先生が少しだけ語気を強めた。

 

「そんなんでええんか?せっかく東京から男子が転校してきたんにそんなだらけとって」

 

 その一言で一気に教室内の空気がヒートアップした。いや、それは女子だけで、男子は特に変わっていないけど。

 いつの間にか復活していたテッシーなんか、話を聞かずに『ムー』を読むことに集中してるし。

 しかし女子からは「どんな人?」「イケメンですか?」なんて質問が飛び交う。その中に混じって「そーいや先月の終わりくらいに坂上地区に越してきた人がいる言うてたなぁ」なんて田舎特有の情報網で事前に転校生の存在を察知していたような声も聞こえてくる。

 

「東京の男子やって。どんな子かな?」

 

「さあね。少なくともクラスの男子よりはスマートなんやない?」

 

「なんや思ったよりも冷静やね」

 

「私が憧れてるんは東京の男子やなくて東京やよ」

 

 そりゃそうか、とサヤちんは前に向き直る。

 まあ何よりも私には瀧くんがいるから、というのが一番の理由だ。今さらぽっと出の都会派男子にうつつを抜かすほど尻の軽い女じゃないのよ。

 そんな風に意味もなく勝ち誇っていると、先生の「入ってこい」という声に、一拍の間を空けて一人の男子が入ってきた。

 

 その横顔を見て、私の時間は止まった。転校生は「あんまりハードル上げないで下さいよ、先生」なんて言いながら右手で首の後ろをさわる。知っている。あれは彼が焦った時によくやる癖だ。

 田舎では見かけないちょっとチャラい髪も、気の強さを表しているような眉も、けど人の良さそうな大きめの瞳と声も。

 知っている。すべてが記憶にある通り、そのままだ。

 なんで嘘どうしてここにありえないでも――

 

 驚きとわからないことばかりで考えがまとまらない。現実味の薄い光景に、気が付けば息を止めていた。

 微かに唇を震わせながら、せき止められていた息といっしょに彼の名前を吐き出した。

 

「瀧、くん……?」

 

 小さな呟きだったはずの声は、一瞬の空白を縫うように進んで彼の耳に届いた。瀧くんの視線が教室窓際の最後尾、私の方へ向く。そして目と口元を優しげにふっとゆるませた。

 前の席に座ったサヤちんが「え?え?」と私と瀧くんを交互に見やる。教室のあちこちから「宮水さんの知り合い?」「親戚とか?」なんて聞こえてくる。

 

 でもそんなものはどうでもいい。目立つのがいやとか、恥ずかしいとか、そんなことを考える隙間は一ミリもない。

 私の心は全部、目の前の瀧くんのことで埋まっている。

 

 瀧くんが一段高くなっている教壇から降りて、まっすぐと私の元にくる。それにつられて私はイスを倒すような勢いで立ち上がった。

 そして少しだけ手を伸ばしさえすればふれられるくらいまで近付いた瀧くんは、笑いながら言った。

 

「やっと見つけた」

 

「瀧くん、なの……?ほんまに?本物の……瀧くん?」

 

「どんだけ疑ってんだよ」

 

 ははっと声を出して笑う瀧くん。なんで笑ってるの?私なんて、涙で瀧くんの顔、まともに見れないのに。

 だから私は手を伸ばした。瀧くんが本当に自分の前にいるんだってことを確かめるために。

 伸ばした指先は、その腕に、ふれた。さわれた。

 

「……本物や。瀧くん、瀧くんがおる……!」

 

 堪えきれずに瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれだす。何事かと教室のみんなが騒めく中、瀧くんは苦笑した。

 

「また泣いてる。お前って案外泣き虫だよな」

 

「瀧くんがいきなりくるからやろ!誰のせいでこんな……!」

 

「悪い悪い」

 

 軽い調子で手を合わせる瀧くん。

 本当に悪いと思ってるのかこの男は!

 

「ああ、それから、聞きたいことがあったんだ」

 

「……なに?」

 

 制服の袖口で涙をぐしぐしと拭って、ちゃんと瀧くんと目を合わせる。

 それはさっきまでと違う、真剣みがこもった、吸い込まれそうな瞳だった。

 瀧くんは私を真っ直ぐ見つめながら、まるで万感の想いを込めたようにその言葉を口にした。

 

 

 

 ――君の名前は、と。

 

 




この小説最大の難関は方言じゃないかと思う。


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3話

 

 気が付くと、俺は部屋のベッドで横になっていた。視界の端で光るデスクライトの明かりが部屋の中をぼんやりと照らしている。

 外は暗く、ビルの窓からもれる光や道行く車のヘッドライトが行き交っているのが目についた。ああ、夜なのか。思考がいまいち判然としないままスマフォを手に取って時間を確認する。

 ディスプレイの指している時刻は20:36

 寝るには早く、起きるには遅すぎる時間だった。なんでこんな時間に?うたた寝でもしてたっけ?

 眠る直前に何をしていたのか思い出そうとする。その記憶は意外にもするりと出てきた。

 

 ――君の名前は?

 

「っ!そうだ、そうだよ!俺は逢った!ずっと探していた、大切な人に……宮水三葉に!」

 

 通勤途中の満員電車。その真向い、並走する電車に乗り、目がった瞬間に、彼女がずっと探し求めてきた、俺の寂しさを埋めてくれる人だとすぐにわかった。

 俺は駅に着くや否や、彼女が乗った電車の停車駅方面に向かって駆け出し、ついに出逢えた。そして涙を流した彼女に聞いたんだ。「君の名前は?」と。

 

「でも俺はあの時、アイツが三葉だってことはわかってなかった。いや、そもそもなんで俺はアイツに関することを思い出せるんだ……?」

 

 彼女――三葉が俺にとってかけがえのない人だということは一目でわかった。けどその時点ではそれだけで、だから俺は名前を聞いたんだ。そして彼女は自分を「宮水三葉」と名乗った。

 俺の記憶はそこで途切れ、今こうして目が覚めた。

 何かがおかしい。入れ替わりとはまた違う事態が自分の身に起きている気がする。

 そう思える最大の要因は、三葉との入れ替わりから始まった一連の出来事をすべて思い出せるということだ。

 

 お互いの入れ替わり。彗星災害と三葉の死。消えた糸守町。三年もずれていた時間。変電所を爆破した避難作戦。『カタワレ時』の邂逅と、その直後に、三葉の名前も思い出も忘れ、自分が何をしにそこへ行ったのか、その理由さえおぼろげな記憶の中で霧散していったこと。

 大切な、忘れたくない何かを忘れたことさえ忘れた、それからの五年間。そしてようやく三葉と出逢うことができた。

 今の俺はそれらを全部覚えている。

 

「三葉と再会したことがトリガーになってすべてを思い出した、とか?」

 

 とりあえず思いついた仮説を適当に口にする。正解を知る術がないから無駄なことだけど。

 って、そんなことより!

 

「三葉、三葉、三葉……。彼女の名前は、宮水三葉」

 

 うわ言のように三葉の名前を連呼する。傍から見たら相当やばい。通報されるレベルかもしれない。

 けど、言える。忘れてない。俺の記憶の中にはしっかりと三葉が残っている。

 机のペン立てから油性のネームペンを引き抜き、手のひらに『みつは』とひながなで書く。大丈夫だ、書ける。覚えてる。

 そのことにひときわ大きな、安堵のため息が出た。三葉のことを忘れるなんてもう二度とごめんだからな。

 万が一のためにアイツの似顔絵でも描いて貼っておくか?ちゃんと『宮水三葉』ってタイトルとかつけて。……いや、それはやめよう。いくらなんでも変態すぎる。

 それに風景画は得意だけど似顔絵はそうでもないし。

 

 というか俺、アイツと連絡先交換した記憶がないぞ。そもそも俺と三葉がお互いの名前を名乗った以降の記憶がまったくない。俺どうやって家まで帰ってきたんだ?

 ピロン、とスマフォが鳴る。ラインの着信だ。

 まさか覚えてないだけで?と急いで手に取ってみるが、相手は司だった。そのことに沸き立った熱が一瞬で冷えていく。いやまあ司が悪いわけじゃないんだけど。

 で、なになに?

 

『瀧先輩、明日の放課後に新しくできたカフェ行きません?』

 

「はあ?瀧先輩ぃ?」

 

 思わず怪訝な声が出た。

 なんだこれ、俺のことからかってんのか?でも司はそんなことするキャラじゃないしな……。

 

『先輩?なんのことだ?』

 

 とりあえずそう打って送信。

 すぐに既読が付き、またもやスマフォがピロンと鳴る。

 

『学校は違うけど先輩は先輩ですよ。というか今さらそこに食いつくんですか?』

 

 今度は学校が違うときたか。

 社会人のくせに学生みたいなトークしやがって。

 

『いやいや、俺ら神宮高校で同じクラスだったろ』

 

 さらに言うなら中学だっていっしょだったじゃねぇか。

 送信。ピロン。着信。

 

『……寝ぼけてます?瀧先輩は神宮高校に通ってますけど、俺まだ中一ですよ?』

 

「はあ!?」

 

 大きな声が出る。リビングからうるさいぞ瀧、という父さんの声が飛んでくる。ごめん!とだけ返して俺はラインも放置して司のけったいな態度について考える。

 俺を瀧先輩と呼び、自分を中一だと言う。え、アイツおかしくなったの?俺らが中一だったのはもう十年くらい前だろ。遅れてた思春期が今頃やってきたわけでもあるまいし。

 ピロン、とまたもやラインが入る。

 

『それで明日はどうします?』

 

 どうって言われてもな。

 とりあえず考える時間が欲しいしトークを終わらせるか。

 

『悪い、明日は仕事だから無理』

 

 社会人に放課後なんてないのは司もわかってるだろ。

 まだ新人だから上がるの早いけど、仕事覚えたら覚えた分だけ帰るの遅くなりそうなのがなんとも。

 

『そうですか、残念です。仕事ってバイトでも始めたんですか?』

 

 なんで俺が仕事する=バイトなんだよ。確かに去年は就活で落ちまっくたけどちゃんと正社員で働いてるっつーの。

 それとも嫌味かこの内定八社野郎め。

 

『バイトじゃねーよ。普通に仕事。正社員だからな?』

 

『高校辞めたんですか!?』

 

『言葉を選べ。卒業だ』

 

『すんません……でもまだ一年生なのに卒業なんて……』

 

 会話が本格的におかしくなってきた。まるで本当に俺が高校生で、司が後輩であるかのような会話が続く。

 俺が高一で、司が中一?いつから三歳年下になったんだよ。

 

「三歳、年下?」

 

 ふとそれが気にかかる。仮に俺が司の三個上になったとする。

 それはつまり俺が三歳余計に年を取るってことだ。もし俺が元の年齢より三年早く生まれたとすれば……

 

「三葉と同い年、か」

 

 何気なくそう呟いた。けどそれが異様に胸に引っかかる。そして自然と胸が高鳴った。

 これは、期待だ。どこからともなく降って湧いたようなデタラメな話。期待なんてする方がどうかしている。

 でも、それでも。もし今の俺が本当に高一で、おまけに本来の年齢より三つ年を取っていたら?

 

 左手に持っていたスマフォを強く握り直す。さっきは時間しか見ていなかった。

 そんな妄想じみたことあり得ない、と思いながらもラインのアプリを閉じる。そしてホーム画面に映し出される西暦を見た。

 

 

 

 2012/10/4(木)

 

 

 

「は、はは……」

 

 かすれた声が出た。2012年?しかも10月4日ってことはティアマト彗星が糸守に降るちょうど一年前の日付。

 俺がさっきまでいたのは2021年のはずだ。去年、東京オリンピックだって開催された。就活が上手くいかなくて全然応援とかしてなかったけど、東京に住んでたんだからその盛り上がりはいやでも肌で感じた。

 スマフォの故障か?そう思ってまじまじとスマフォを観察して気付く。それが今のとは違う、高校時代に使っていた機種のものだと。とっくの昔に生産が中止された、化石と言っていい代物。

 俺はそれを使って司とラインをしていた。今の今まで。

 

 次々と状況証拠がそろっていく。あり得ない、と否定する要素が消えていく。

 部屋の明かりをつければ、壁に貼られている風景画のデッサンは懐かしい物ばかり。記憶が確かなら高校生の時に描いたような覚えがあるものだ。

 テレビをつける。映し出されたのは最近パッタリ見なくなっていたお笑い芸人に、去年終わったはずのバラエティー番組。

 

 たまらず部屋を飛び出してリビングに向かう。

 

「父さん!」

 

 その勢いに驚く父さんは、だいぶ若く俺の目には映った。

 つーか昨日と比べてはっきりとわかるくらい痩せてる。顔のふくらみが全然違う。

 

「どうした?さっきから騒がしいぞ」

 

「悪い。あのさ、今年って何年だっけ?」

 

「今年?2012年だろう」

 

「じゃ、じゃあ俺っていくつ!?」

 

「五月で十六になったな」

 

「ってことは、俺、高一!?マジで!?」

 

「さっきからおかしいぞ瀧。どうしたんだ?」

 

「いや、ちょっと混乱してて……でも、そうだ、父さんにお願いがある」

 

 今が本当に2012年の10月で、俺が本当に高校一年生で、来年高校二年生になるなら。

 俺には行かなきゃいけない場所がある。やらなきゃいけないことがある。逢わなきゃいけない人がいる!

 

「父さん!来年、俺を岐阜の高校に転校させてくれ!」

 

 

 



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4話

 

 正直、父さんには大反対された。普通に考えればそりゃそうだって話だけど、それでも俺は食い下がって、条件を変えて、何度も頼み込んで、ようやく許可を得ることができた。

 母さんがいなくなった生活に慣れ始めた頃にこんなことを言い出した俺は間違いなく親不孝者だろうな。だからこれを最後のわがままにすると決めた。

 そして冬を超え、東京から遠く離れたこの糸守の町で、俺は春を迎えた。

 今、目の前には、俺にとって誰よりも愛おしい女の子がいる。この子に逢うために、俺は生まれてきたんだと、恥ずかしげもなく言えそうな気がした。

 そんな気持ちをこらえて、俺は問いかける。

 

「君の名前は?」

 

 女の子が一瞬だけ固まる。けど俺が言わんとしていることを理解して、つやのある黒髪を結わっていた組紐をほどくと、それを俺に差し出しながら、言った。

 

「みつは。名前は、宮水三葉」

 

 潤んだ目で、それでもしっかりと俺の顔を見ながら、まるで祈るような声で、三葉はそう言った。

 これはあの日の仕切り直し。体感的には八年前、時系列的にはあと半年後。東京を走る無数の電車の中の一つ、その一車両の中で、俺が三葉のことを知る前に訪れた出逢い。

 両の手のひらにのせて差し出された組紐。それを三葉の手ごと、包み込むように握る。

 

「この組紐を編んだのは三葉?」

 

「うん」

 

 夕陽みたいな鮮やかな赤い組紐。中ほどにかけてグラデーションでオレンジに変化し、一部に淡い青。

 俺が中学二年生の時から三年間、お守りにして右手首に巻いていたあの組紐だ。

 

「これを俺は、三年持ち続けた」

 

「その後は私が持ってたよ。八年間、肌身離さずに」

 

 そうだ。この組紐は、俺と三葉をつなげてくれた「ムスビ」。どうしようもなく離ればなれだった俺たちをつなげてくれた、運命そのもの。

 だから、これからは。

 

「これからは二人で持っていられる。いつまでも」

 

「うん……うん……!」

 

 一度は引っ込んだ涙が、またもやポロポロと三葉の瞳からこぼれ出す。

 本当に泣き虫だな。普段は俺と遠慮なく言い合えるくらい気が強いのに。

 まあそういうギャップも三葉の魅力っていうか、なんていうか……。

 

「あー、ごほん!」

 

 わざとらしい咳払いが教室に響き渡る。

 そこでハッと我に返った。

 そうだ、ここは高校の教室で、今は朝のホームルームの時間だった。

 三葉に逢えたことで周りが見えなくなってたけど、俺たちは今クラスメイトに見られているわけで。そんな衆目にさらされた中で、俺たちは両手を握り合い、互いに熱い視線を交わしている。

 

「そういうのは時間と場所を選びなさい」

 

 担任が呆れ返ったように注意をし、クラスのあちこちから俺と三葉をはやし立てる声が上がる。

 赤くなった顔を隠すために俺は口元を押さえ、三葉は前髪が垂れて顔を隠すほど俯いて、「すいません……」と小さな声をそろえた。

 

 

  *   *

 

 

「私、明日からどんな顔で学校に行けばいいのかわかんない……!」

 

 放課後。帰り道のゆるやかな上り坂。その途中、肩を落としてトボトボと歩きながら三葉はそんな泣き言をもらす。そのとなりではサヤちんがさっきから三葉を慰めている。

 まあ三葉がそう言いたくなる気持ちはわかる。俺だってかなり恥ずかしい思いをしたからな……。完全に自業自得だけど。

 

「やっぱ東京で育ったもんは違うにん。人から見られることに慣れとる」

 

 一方テッシーこと勅使河原(てしがわら)はそんな三葉を尻目に、自転車を押しながらうんうんと深く頷きながら的外れなことを言う。

 東京にだって人前であんなことする奴そうはいない。サプライズのプロポーズじゃあるまいし。

 

「それは東京の人間を勘違いしてるぞ勅使河原……」

 

「克彦でええって」

 

「わかったよ、テッシー」

 

「いきなり親し気やな!?まあ、ええか」

 

 そう言うだろうと思ったよ。コイツ、いい奴だからな。早いとこサヤちんとくっついちまえよ。

 

「ところで瀧はどうして糸守に転校してきたんや?」

 

「あ?三葉に逢うためだけど」

 

「……それ、マジなん?」

 

 そうだよ、と言いながら頷く。教室でのあのやり取り見たらわかるだろう。

 まあ付け加えるならティアマト彗星が落下してくる今年の秋祭りの日、糸守町の町民を避難させるために、って理由もあるけど、これはさすがに今伝えられることじゃない。

 たぶんまたテッシーやサヤちんの力を借りることになると思うから、その時に改めて説明しようと思う。

 

「瀧はいつ三葉と知り合ったんや?」

 

「それは、私も気になっとった」

 

 テッシーが発した当然の疑問に、三葉を慰めていたはずのサヤちんまで乗っかってくる。

 

「あー、なんて言ったらいいのかな……」

 

 バカ正直に答えるわけにはいかず、言葉に詰まった俺は首の後ろを触りながら、チラッと三葉を見た。

 アイツもハラハラしながらこっちを見ていた。なんとか誤魔化すしかないか。

 

「昔……確か八年くらい前だったかな。あんまり詳しくは言えないんだけど、俺が糸守に来たり、三葉が東京に来たりって時期があったんだよ。その時に知り合って、別れる前に再会の約束をしてたというか……」

 

 とっさに頭の中で組み立てた、それでも嘘じゃない経緯を説明する。2021年に生きていた俺と三葉にとっての八年前はまさしく2013年の今だし、お互いの意識が入れ替わる日々を過ごした。

 ……そういや今さらだけど、三葉も入れ替わりに端を発した一連の出来事は覚えてるんだよな?今の時点で俺を知ってるから俺と同じような状況だと勝手に思い込んでるけど。

 もうちょっと落ち着いたらこの辺も確認しておかないとな。

 

「三葉とはその間連絡を取ってたりしなかったんか?」

 

「色々あって連絡先も、というか俺に至っては三葉の名前も知らなくてさ。かすかな記憶を頼りに探し続けてここまで辿り着いたんだよ」

 

「『やっと見つけた』言うとったのはそういうことだったんか」

 

 そうそう、そういうことにしておいてくれ。言葉だけなら間違ったことは言ってないし。

 サヤちんは俺の説明を聞いて「じゅ、純愛や……!」なんて言いながら感動していた。

 

「しかしそれで一目見てよう三葉がわかったな。八年前に逢ったきりやぜ?」

 

「アホ!運命の相手やからやろ!」

 

「運命って……」

 

 その言い分に思わず苦笑が漏れた。サヤちんは「実際に二人とも一目で相手が誰かわかったんやから運命やにん!」と力説している。

 まあ俺も三葉は運命の相手だと思ってる。でもそれを人から指摘されるのは恥ずかしいんですけど!

 

 そんな感じでテッシーやサヤちんとの交友を深めつつ、別れ道を過ぎてようやく俺と三葉の二人きりになれた。言いたいこと、聞きたいことが山ほどあるのに、いざ顔を合わせると言葉が出てこない。

 無言で歩きつつ、時たま相手を横目で確認し、目が合うと慌てて逸らす、という行動をもう三回くらいくり返している。うぶな中学生か!と自分に突っ込みたくなるけど、俺の対女性スキルなんてそりゃ中学生並みだよな、と思い直す。

 五年前に糸守を訪れてから今まで、結局俺は誰かと付き合ったりしなかった。女の人と遊びに行ったりだとかそういう交流もほとんどなく、いつも司や高木と一緒にいた。デートも三葉が勝手に取り付けた奥寺先輩とのやつ一回きりだし。

 

 ……三葉はどうなんだろ。アイツ今よりさらに綺麗になってたし、やっぱ彼氏とかいたんじゃないか?

 いても不思議じゃないけど、それはそれでモヤモヤする。

 

「――ねえ、瀧くん」

 

「な、なんだ!?」

 

 ちょっと後ろめたいことを考えていたタイミングで声をかけられて動揺する。声が上ずった。

 あの時から変わってないな俺……。情けない。

 

「瀧くんが糸守に来たのは、本当に私に逢うため?」

 

「……ああ。彗星のこともあるけど、一番は三葉に逢いたかったからだ。なぜかお前と同い年になってたしな。……もしかして迷惑だったか?」

 

「全然、そんなことないよ!」

 

 食い気味で否定された。それだけで俺の気持ちが温かくなる。

 

「そう言ってくれたのが、泣きそうになるくらいうれしくて……どうしてそこまでしてくれたのかなって……」

 

 その言葉に、俺は足を止める。三葉もそれに気付いて止まった俺を振り返った。

 そういえばまだ、三葉に伝えてなかったな。

 俺と三葉の間に夕暮れの光が差し込む。ご神体があるあの場所で、カタワレ時にだけ俺と三葉の時間が混ざり合っていた時のように。

 

「俺、三葉に言いたかったことがあるんだ」

 

「言いたかったこと?」

 

「ああ。本当ならあのカタワレ時に言いたかったこと。それを今伝えてもいいか?」

 

「……うん、聞かせてほしい」

 

 見つめ合う。それだけで鼓動は高鳴り、三葉の瞳に吸い込まれそうになる。

 

「三葉との時間が三年もずれてて、もう死んでるって知った時、俺はくじけそうになった。お前のことを自分が生み出した妄想だと思ってあきらめかけた」

 

 どんどん薄れていく三葉の記憶。ついには名前さえ忘れて、大事な何かを失う痛みを誤魔化すためにそう思い込もうとした。

 それをすんでのところでつなぎ止めてくれたのが組紐、そして「ムスビ」について教えてくれたあの話だった。

 

 よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。

 それが組紐。それが時間。それがムスビ。

 

「まさかそれって……」

 

「ああ、三葉の婆ちゃんから教えてもらった。そして折れかけた心をつなぎ止めてくれたのは三葉の組紐だった」

 

 三葉がまた、今朝と同じように結っていた赤い組紐をほどく。

 

「これが?」

 

「そうだよ。だから俺は辿り着けたんだ。三年前のお前がいた場所に。そこで、三葉に言おうと思ったんだ」

 

 少し多めに息を吸い込み、それに俺の想いが余らず乗るように気持ちを込めて、俺はずっと温めてきた言葉を口にする。

 

「お前が世界のどこにいても、俺が必ず、もう一度逢いに行くって」

 

 だから俺はここに来たんだ。

 

「たきくん……瀧くん、瀧くん!」

 

 熱に浮かされたように俺の名前を繰り返した三葉は、突然抱き着いてきた。俺はそれをしっかり受け止める。

 緊張や恥ずかしさよりも、ただひたすらに愛おしさがあった。

 しばらくそのまま抱き合っていると、不意に三葉が離れてこんなことを言った。

 

「瀧くん、右手貸して?」

 

 そう言われたので特に何も考えずに右手を差し出す。

 三葉はその右手の小指に組紐を結ぶと、次に器用に自分の左手の小指に結んだ。そして俺を見上げ、赤い顔ではにかみながら笑う。

 

「運命の赤い糸、なんちゃって……えへへ」

 

 その瞬間、俺の中で何かがはじけた。

 

「なあ、三葉。お前昔俺のこと奥手とか何とか言ったよな?」

 

「うっ……あれは奥寺先輩との仲を応援しようと思った方便というか……」

 

「まあいいけどさ。でも、その言葉は取り消せよ」

 

「へ?」

 

 三葉の返事を待たず、俺は残っていた最後の距離をつめた。

 そして重なる、俺と三葉の唇。

 時間にすればわずか数秒、ふれあうだけのキス。

 顔を離すと、三葉はぽーっと惚けていた。それがとても愛おしくてギュッと抱きしめる。

 

「好きだ、三葉」

 

 耳元で、ささやくように告白した。三葉の身体がビクンと震える。

 そのまま固まったように動かなくなってしまった。

 

「三葉?」

 

 その様子を不審に思って一度離れようとすると、「ダメ!」と言いながら三葉はさらにきつく俺に抱き着いてきた。

 

「お願いやから今は見ないで!ぜったい、見せられないくらい、赤くなってる……この顔を見られるの、恥ずかしい……!」

 

「……なら、このままでいいから返事をきかせて」

 

 俺も強くつよく、三葉を抱きしめる。

 もう二度と、離ればなれにならにように。俺の想いが、体を焦がすほどの熱が、しっかりと伝わるように。

 一瞬の静寂。ゆるやかな風が吹いて山の木々をざわざわと揺らす。それが収まると、三葉は俺の胸に顔をうずめたまま、涙声で言った。

 

「……私も、好き。瀧くんのことが、大好き……です」

 

 長く、強く待ち望んでいた、二人の時間と想いが重なる瞬間。それを噛みしめるように俺たちはカタワレ時が終わるまで、ずっと抱きしめ合っていた。

 

 

 




今日もまた、仕事終わりに『君の名は。』観てきました。
台風の影響で映画館ガラガラだったけど。


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5話

 

 気持ちが浮ついているというのが自分でもわかる。まるで羽でも生えたのかと思うほど体が軽い。それでいて胸の中は温かな感情で埋め尽くされている。

 これが人を好きになるということ。これが誰かを愛するということ。

 私はそれを二度目の高校生活で初めて知った。

 

 ……ダメだ、気持ちを抑えきれずに顔が勝手ににやけそうになっちゃう。

 なんとか必死にこらえているけど気が抜けるとすぐに口元がゆるむ。

 落ち着くのよ三葉。今でこそまた女子高生をやってるけど、ついこの間までは一社会人として立派にOLをやってたんだから!

 

「……お姉ちゃん、さっきから何やってるん?なんか気持ち悪いわ」

 

「んな!」

 

 妹の四葉がいきなりそんなことを言い出す。花も恥じらう乙女に向かってひどい言い草だ。

 

「なんてこと言うのよ」

 

「だってさっきからニヤニヤしたり真面目な顔したりおかしいんやもん」

 

「……顔に出てた?」

 

 出とったよ、と四葉とお祖母ちゃんの声が重なる。そんなにわかりやすかった?

 それに、とお祖母ちゃんが言葉をつづける。

 

「三葉、あんたがそんな間違いをするなんて珍しいな」

 

「え?……うわ!」

 

 手元を見れば、組紐の編み方がめちゃくちゃ……。うぅ、普段はこんなミスしないのに。

 瀧くんのせいだ、瀧くんの。……瀧くんの声、聞きたいなぁ。「三葉」って、名前を呼んでほしい。

 あとで電話かけてみようかな。今ならもう話したり逢ったり、いつでもできるんだ。そう思うと、なんか夢を見ているような気分になる。

 早く明日にならないかな。

 

「お・ね・え・ちゃ・ん!また間違っとるよ!」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「まただらしない顔でにやけとるし。不気味やわ」

 

 返す言葉もございません……。

 というかそんな顔もし瀧くんに見られたらどうしよう。恥ずかしさで気絶するかもしれない。

 

「今日はもう終いにするかの。四葉、ワシらで片しておくから居間でお茶を淹れとき」

 

「はーい!」

 

 四葉が元気よく部屋から出ていく。私は大きなため息をついてからお祖母ちゃんに謝った。

 

「ごめん、お祖母ちゃん。全然集中できとらんかった」

 

「そういう日もあるやろうし気にせんでええ。しかし三葉、あんた、好きな子でもできたんか?」

 

「ええっ!?」

 

 顔がボッと熱くなる。なんでわかったの?

 もしかしてお祖母ちゃん、人の心読めたりする系のお人だったり?

 

「顔つきが昨日までとまるで違う。恋を覚えた女子(おなご)の顔をしとるよ」

 

 組紐を片付けながら、お祖母ちゃんが楽しそうに笑う。これが年の功ってやつなのかな。

 いや、でもこれはさすがにお祖母ちゃんが特別のような気がする。

 

「……実は、好きな人っていうか、彼氏が……できたんやけど……」

 

「あれまぁ。明日はお赤飯やな」

 

「ちょっと、お祖母ちゃん!」

 

「何も照れることはありゃせん。三葉の年頃ならお付き合いするくらい普通やさ」

 

 そりゃ一般的にはそうかもしれませんけどね。限界集落に片足つっこんでるこんなど田舎じゃ異性の同年代は数少ない上に知ってる顔しかいないから、なかなかそういう感じになりにくくて恋人を作るハードルは高いのよ。

 

「……反対はしないの?」

 

「なんでワシが反対せないかんね?」

 

「私これでも宮水神社の巫女やろ。男女のお付き合いとか控えてほしいんやないかと思って」

 

 それが私にとっての不安だった。今までは彼氏を作ろうと思ったことなんてないし、お祖母ちゃんから特に言い聞かされてもいない。

 でもやっぱり巫女と言えば心身ともに清らかな女性というイメージがある。……私、体はともかく心は俗物まみれだったから今さらかもしれないけど。

 

「変なところで時代錯誤やな三葉は。そんなことしとったらこんなちいさい神社はすぐ立ち行かんようになるわ」

 

「……まあ、そうやね」

 

 ごもっともな言葉だった。

 それにあと半年もすれば宮水神社も彗星災害で消えてなくなる。立ち行かない、なんて次元の話じゃない。

 ご神体は無事だったから移設するって手段もなくはないけど。でも世知辛いことにそんなお金はないのよね。

 一瞬『巫女の口噛み酒(※生写真付き)』が脳裏をよぎる。

 何を考えているのよ私!とその考えを振り払う。瀧くんに飲まれただけでもあんなに恥ずかしかったのに、知らない人になんて恥ずかしい以前に嫌悪感が勝る。ぜったいムリ!

 

「そうや、三葉。明日あんたの彼氏連れてきないや」

 

「ちょ、なんでよ!?」

 

「三葉が好いた相手と話してみたいでな。心配せんでも“あんたに三葉はあずけられん”なんて言わん」

 

「えぇー……」

 

 お祖母ちゃん、なんか生き生きしてない?

 

 

*  *

 

 

「――というわけなんやけど……」

 

 昼休み。校庭の端っこ、糸守湖が一望できる場所で乱雑に放置された机に座り、昼飯を食っていた時のこと。

 三葉に「今日、うちに()ん?」というお誘いを受けた。事情を聞いてみればあの婆ちゃんが俺に逢いたいと言ってるらしい。

 なるほど、と思いながら俺は返事をする。

 

「行きたい」

 

「え、ほんまに?」

 

 いかにも意外という感じで三葉が目を丸くする。

 そんなに驚くことか?

 

「俺も久しぶりに婆ちゃんに逢ってみたい。あと四葉にも」

 

 俺が最後に二人に逢ったのは八年前、糸守に彗星が落ちた当日まで遡る。どっちにも別れのあいさつとかはできなかった。

 そりゃあ俺があの二人と接してきたのはぜんぶ三葉としてだからお別れを言うなんておかしいんだけどさ。

 でもだからこそ。俺が俺として、立花瀧として逢える今なら、婆ちゃんや四葉と新しい関係を築ける。それはテッシーやサヤちんとも同じだ。

 

「なんや?」

 

 俺の視線に気づいたテッシーが首を傾げる。なんでもない、と適当に誤魔化した。

 そんなわけでその日の放課後。俺の姿は三葉の家にあった。

 ガラガラと鳴る木製の引き戸。畳の匂いに、縁側から望める緑豊かな庭。東京都心ではあまり目にする機会のない、趣きのある純日本家屋。

 懐かしいな、という感情が湧き上がる。三葉と入れ替わった日数を合計しても、俺が糸守にいたのは一ヵ月かそこらだ。だけど糸守の風景には胸を締めつけられるほどの郷愁を感じる。

 その中でもやっぱりここは特別だ。

 

「はじめまして。立花瀧と言います」

 

 宮水家の居間。いつも三人が顔を合わせて飯を食べている場所で、俺はテーブルを挟んで婆ちゃんと四葉に頭を下げながらそう言った。

 はじめまして、というのが寂しくて、声が少しだけ震えたかもしれない。そんな心中を察してか、となりに座った三葉が俺にだけ聞こえるくらいの声で「瀧くん……」と呟いた。

 

「はじめまして。三葉の祖母の宮水一葉や」

 

「私は四葉!小学四年生やよ」

 

 婆ちゃんは穏やかに、四葉は子どもらしく元気にそう名乗る。

 

「今日はお招きいただいてありがとうございます」

 

 俺はまた頭を下げた。ちょっと緊張してるな。

 

「そんな他人行儀にならんでええ。三葉の彼氏ならワシにとっては孫息子みたいなものやでね」

 

「あ、あはは……」

 

 孫息子って。反応に困って苦笑する。

 そりゃ俺が三葉と結婚すればそうなるけど、さすがに高校生の身でそれは先走り過ぎだ。最低でも安定した収入、できればある程度の貯金がないと。

 ……これ、先走ってるのは俺の方か。

 

「瀧さんは……」

 

「あ、瀧でいいっす」

 

「ほうか。瀧はこの町の生まれやないね?」

 

「はい。東京から転校してきました……昨日」

 

「昨日!?」

 

 四葉が驚きの声を上げる。

 そうだよな。糸守町に越してきたのは三、四日前だけど、三葉との初対面は一応昨日ってことになってる。その日の内に彼氏彼女の関係とか、どんだけ手が早いんだよって話だ。

 女に見境のない奴とか思われたりしないだろうか。もしそうなったら非常に不本意だ。

 

「それはまたえらく急やな」

 

「えっと、一目惚れというやつで……」

 

「瀧がかい?」

 

 その質問に答える前に横目で三葉を見る。俺と三葉の関係性を素直に語ることはできないので、ここへ来る前に恋に落ちた動機だけは事前に話し合って決めておいた。

 三葉は顔を多少赤くしながら頷いた。

 

「お互いに、です」「お互いに、かな」

 

 俺は指で頬をかきながら、三葉は消え入りそうな声で、言葉が重なる。

 

「……そうか、お互いにか。ほならそれはもう運命やさ。そういう相手との出逢いは一生に一度あるかどうか。大事にしないよ」

 

 元からシワだらけの顔をさらにしわくちゃにしながら笑って、婆ちゃんがそう言ってくれた。それだけでこの人に認めてもらえたような気がして少しだけ泣きそうになる。

 

「はい。三葉との出逢いも、三葉本人も、一生大事にします」

 

 ところがそう言った途端、居間の空気が固まった。え、なになに?

 俺が困惑していると、婆ちゃんがくつくつと笑い出した。

 

「ちょ、ちょっと、瀧くん!?」

 

 となりでは三葉がかなり慌てふためいている。

 その原因がわからず俺の方こそ慌てたい思いだ。笑いおさまった婆ちゃんがさっきとはまた違う笑みを浮かべながら言った。

 

「逢ったその場で一目惚れ。二日目にはプロポーズとは今時珍しい豪気な子やさ」

 

 プロポーズ……プロポーズ!?え、俺いつの間にそんなこと言った?

 自分のセリフを思い返す。……あっ、確かに一生大事にするって……。

 

「ち、ちがっ……そういう意味じゃなくて……いや、別にその気がないわけじゃないけですけど、さすがにそれはまだ気が早いっていうか……ほら、俺まだ高校生ですし!」

 

 しどろもどろな俺はどんどん墓穴を掘っていく。

 

「瀧さん、お姉ちゃんと結婚する気あるんやってさ。行き遅れんで良かったなぁ!」

 

 四葉が大きな声でそんなことを言う。明らかに三葉をからかっていた。

 三葉と目が合う。その顔は高熱を疑いたくなるほど真っ赤だった。そして俺も、たぶん同じような顔色になっているだろう。

 気恥ずかしさに耐えられず、二人そろって無言で視線を逸らす。その先では四葉がニヤニヤしていた。

 この幼女め……。

 

 俺が立花瀧として初めて訪れた三葉の家。その始まりはずいぶんとにぎやかで、色々な意味でいつまでも忘れられないものになった。

 

 




誰か糸守弁の自動変換ツールを作ってくれませんかね。


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6話

 

 実は初対面じゃないだけあって瀧くんが二人と打ち解けるのは早かった。瀧くんがうちにいて、お祖母ちゃんや四葉と話をしてるのってなんか不思議な光景だなぁ。

 そしてあのプロポーズ未遂から一時間くらい経った頃、四葉が唐突にこんなことを言い出した。

 

「瀧さんは夕ご飯食べていかんの?」

 

 そろそろ夕飯の準備を始めようとしていたタイミングでの一言。話の途中に瀧くんが糸守に来て独り暮らしを始めたって話題があったから四葉も切り出したんだと思う。

 瀧くんのお父さんは霞ヶ関で働いてるもんね。簡単に転職はできないし、ここから通勤というのも現実的じゃない。その結果が独り暮らし。

 あらためて考えるとだいぶ無茶だよね、瀧くんの行動って。よく許してもらえたなぁと感心する。

 そんな瀧くんは突然のお誘いに少し驚いていた。

 

「えっ、そこまでお邪魔するつもりは……」

 

「全然お邪魔なんかやないよ。ね、お姉ちゃん?」

 

 ここで私に話を振ってくる四葉。わざとだ、絶対わざとだ。これから瀧くんのことで四葉にからかわれる日々がしばらく続きそうだ。

 まあさっきから私が聞きたかったことを代わりに聞いてくれたから良しとしてあげるけど。

 

「うん。よかったら食べていかん?」

 

「いいのか?」

 

「ええよ。こんな時間まで引き留めちゃったし、今から支度するのも大変やろ?」

 

 糸守は東京と違ってスーパーやコンビニがすぐそこにあるわけじゃない。今から買い物に行って支度するとなると二時間以上かかる。この家が町外れに位置しているせいでもあるけど。

 それに一応商店街はあっても品ぞろえはお世辞にもいいとは言えないし。

 

「ええっと、じゃあごちそうになります……」

 

 遠慮気味に瀧くんはそう言った。

 普段は気の強い瀧くんが小さくなっているのが少し可愛い。お祖母ちゃんと四葉もそんな瀧くんを見て笑顔だ。

 うん、いい雰囲気!

 

「なら始めるね」

 

「何か手伝うか?」

 

「大丈夫やよ。瀧くんはお客さんなんやからくつろいどって」

 

 台所へ向かう足が心なしかいつもより軽く感じる。居間から出て、台所の壁にかけてあるエプロンを手に取る。それを身に着けていると、私がいなくなった居間の方から「今日は瀧さんのおかげでごちそうになりそうやね!」という四葉の声が届いた。

 ……わかってるなら手伝いなさいよ。

 そう言ってやりたい気持ちをこらえて夕飯の支度に取かかる。

 瀧くんは男子高校生だし、やっぱりお肉メインの方がいいよね。確か豚肉の買い置きがまだあったはず。でもそれだけだとお祖母ちゃんがあんまり食べられないから魚も必要だし……あ、瀧くんって魚料理とか苦手だったりしないかな?

 

「ねー、瀧くーん!」

 

 そう呼びかけると瀧くんが台所までやってくる。

 

「どうした?」

 

「瀧くんって魚とか山菜料理って平気?食べられんものとかない?」

 

「あー……煮魚は、ちょっと苦手かも」

 

「ええ、美味しいのに。案外お子ちゃまやね」

 

 思わずくすっと笑ってしまう。

 するとすかさず瀧くんが反撃してきた。

 

「んだとー?コーヒーに山ほどシロップ入れるお前には言われたくねぇな」

 

「な、なんでそれを!?」

 

入れ替わりの(あの)あと司や高木に『今日はシロップ要らねぇの?』って聞かれたんだよ。三つも四つも渡されたし、あれぜってぇ三葉の仕業だろ」

 

「あ、あははは……」

 

 うぅ、司くんと高木くんの気遣いが裏目に……。あれは瀧くんが普段コーヒーを飲んでるってわかったからムリして頼む羽目になっちゃったんだけど。

 だいたい高校生でコーヒーとか、普通飲まないでしょ!?私やサヤちんなんて紙パックのジュースばっかりなのに!

 

「つーか体重が二キロくらい増えてたんだからな。甘い物喰いすぎだっての」

 

「だ、だって美味しそうなケーキが多かったんやもん!あれでも我慢したんやから!」

 

 東京は魅力と誘惑が多すぎる。みんなどうやって自制してるのか、当時は本当に不思議だった。

 なんて、こんな言い合いにも懐かしさを覚える。八年前はお互いに残したメッセージを通してのやり取りがほとんどだったけど、こういう関係性は実際に顔を合わせても変わらないみたいだった。

 そんな些細な事実に、私は喜びを実感する。

 

 その後もしばらくくだらない言い合いをしていると、四葉がひょこっと台所に顔を出した。

 入れ替わり関係の話は聞こえていなかったのか、単にあきれ返った表情をしている。危ない危ない、気を付けないと。

 

「お姉ちゃん、いつまでもイチャイチャしてないで早く準備しない」

 

「イチャイチャなんてしてへんわ!」「イチャイチャなんてしてねぇよ!」

 

「息ピッタリやね」

 

 口角を上げてそんな言葉を残した四葉は居間に戻っていく。

 一瞬で変わった二人の間の空気。どうしてかそれが面白くて、私と瀧くんは視線を交えたあと、同時に吹き出して笑い合った。

 

 

*  *

 

 

 街灯もろくにない田んぼ道。家の前まで見送るという理由をつけて、満天の星空の下を瀧くんと並んで歩く。

 となりでは夕飯をきれいさっぱり平らげた瀧くんがお腹をさすりながら満足そうに息を吐いた。

 

「あ~、腹いっぱいだ」

 

「あんなに食べたらそらね。瀧くんも人のこと言えない食べっぷりやよ」

 

 初めて瀧くんと入れ替わった翌日、四葉とお祖母ちゃんが前日の食べっぷりに感心していたことを思い出す。あんなに食べてたら驚かれるわけよね。

 平均と比べても大きいわけじゃない瀧くんの体のどこにあんな量が入るんだろう?男子ってみんなあんなに食べるの?

 

「俺は自分の体なんだからいいだろ。お前は俺の体と俺の金で食ってたじゃん」

 

「瀧くんの体でもバイトしっかりやったの私やもん。それに体で言ったら瀧くんこそ!」

 

「うっ……!」

 

 私の言葉に瀧くんは気まずそうに顔を背ける。

 やっぱり心当たりがあるのね。瀧くんのエッチ!

 

「私の胸、さわったの一回だけじゃなかったやろ?へんたい!」

 

 今はもう入れ替わりに関する、忘れていた記憶が全部戻っている。その中で四葉がこんなことを言っていたのも私は思い出している。

 

『お姉ちゃん、最近自分の胸を揉まんくなったね。前はいっつも揉んどったのに。もうあきたん?』

 

 最近揉まなくなった。前はいつも揉んでた。

 そう言われたのは彗星災害のあと。県内の別の町に移住して、そこでの暮らしにもある程度慣れてきた頃のことだった。

 要するに瀧くんとの入れ替わりが終わってから。ここまでくればもう答えは明白。

 

「それはそのぉ……男として抑えきれない興味があってだな……」

 

「ふぅん」

 

「ほんと、ごめん!ごめんなさい!」

 

 私は胸を隠すように腕を組んで瀧くんをジトッと見上げる。

 手を合わせてペコペコと謝る瀧くんの頬には冷や汗が伝っている。対して私の顔はほんのり赤くなっていると思う。

 

「さわったのは、胸だけ?」

 

「………………む、胸だけです」

 

「その間はなんよ?」

 

「胸だけです!」

 

 人気(ひとけ)がないとはいえ、瀧くんは道端で、まるで何かの宣誓のようにそんな言葉を大声で口にする。

 これ、誰かに聞かれたら私まで恥ずかしい目に遭っちゃうじゃない。瀧くんと一緒にいるといつものことのような気もするけど。

 

「……まあそういうことにしておいてあげるわ。と・く・べ・つ・に、やよ?」

 

 確実に嘘でしょうけど。瀧君以外の男子だったらぜったいに許さないんだから感謝してよね。

 そんな風に自然と、瀧くんだったら許してしまえる自分がなんだかおかしい。

 

「ありがとう、三葉。……あれ、でもお礼を言ったら胸以外さわったことを認めることになっちゃうような……?」

 

 瀧くんがぶつぶつと独り言を漏らす。その内容は、聞かなかったことにしてあげた。

 

 田んぼ道は、すでに舗装されたコンクリートの県道に変わっている。私の家と瀧くんが住んでいる地区のちょうど中間くらいのところだ。

 もうお見送りの距離じゃなくなっていた。それは瀧くんも薄々気付いている気がする。

 それでも二人が言い出さなかったのは、きっと同じ気持ちだったからだと思う。

 

 

 あと少しだけでも、一緒にいたい。

 

 

 星空に見守られたお散歩デートは、もうちょっとだけ、続きそうだった。

 

 




R-15で描写できるラインってどの辺なんだろう。
これくらいなら全然セーフだと思うけど。


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7話

 

 目を覚ますと、視界いっぱいにまだ見慣れない木目の天井が映る。どうにも天井が低く感じる……っていうか低い。身長が伸びてそう感じるんならよかったけど、単純に東京のマンションより高さがないだけだ。

 俺が糸守町で暮らしているのはこじんまりとした平屋の一軒家だ。外観からはかなり年季を感じさせるが、室内はリノベーションされているので意外と小奇麗である。元は高齢者が一人で暮らしていたそうだが施設へ移ることになって空き家となった。

 それを町で買い取って設備に手を加え、賃貸物件として売りに出していた家だ。人口流出の続く糸守町は、人口の引き留めと並行して新しい住民を迎え入れることにも力を入れているらしい。

 

 どうして家具家電付きの単身者用アパートを選ばなかったのかといえば、まずは糸守町内にそんなものがほとんどなかったからである。駅前の方にはいくつかあったがどれも高校まで遠かった。高校まで徒歩一時間って……。

 もう一つの理由としてはこの平屋の家賃が駅前のアパートと大して差がなかった、というのもある。家電やらなんやら初期投資は少しかさんだけどその程度。

 リサイクルショップで必要最低限のものをそろえるだけならバイト代の貯金でじゅうぶん事足りた。

 

 畳の上に敷いた布団から体を引きはがす。ぐーっと大きな背伸びをして、窓の外の太陽の光を薄く通している障子を開け放った。

 視界に飛び込んできたのは山脈の輪郭をぼやかす春霞の空。

 今日は暖かくなりそうだな、なんて思いながらゆったりと支度を始める。

 平日月曜の朝。当然今日も学校がある。

 しかし俺が袖を通したのは糸守高校の学ランではなく、一枚のTシャツ。おまけに下はジーンズという極めてラフな格好だ。そのまま朝食を食べ、食器や洗濯物の片づけを一通り済ませる。のんべんだらりとやっていたおかげで、それらが終わったのは時計の針が午前十時を指そうか、という時間だった。

 

 遅刻確定だが、学校には前もって遅れると連絡しておいた。三葉にも『今日は用事があるから学校に遅れる。朝はテッシーたちと行ってくれ』と伝えてある。

 時間もちょうどいい頃合いだ。その用事を済ますため、俺は薄手のジャケットを一枚羽織って家を出た。

 

 目的地は町役場。別に三葉の父親のところへ乗り込もうってわけじゃない。単にある事の確認をしにきただけだ。

『企画課』というプレートが下がっている窓口に声をかけ、担当者の人と応接用のソファーに腰かける。担当の人は関口さんという五十代くらいの男性だった。

 

「こんにちは。立花といいます」

 

「ああ、こんにちは。それで君は秋祭りの日程と進捗の状況が知りたいんやっけ?」

 

「はい、そうです」

 

「今のところ開催は例年通り十月の上旬を予定しとるやさ」

 

 関口さんが何やら書類をめくりながらそう言った。予定、ということはまだ本決まりではない。

 とはいえ例年通りというくらいなのだからそこから日を大きく動かす理由も特にはないということでもある。まあ伝統のあるお祭りだしそうだろうな。

 

「正式に決まるのはいつ頃なんですか?」

 

「そうやなぁ。遅くても来月の頭には開催日と催し物の内容はおおよそ決まるやろうね。しかしなんでそんなことを?立花君は秋祭りでイベントでもやりたいとか?」

 

「そういうわけじゃありません。ただ今年の十月四日にやりたいことがあって、そこに秋祭りが重なっていないかどうかを確認したかったんですよ」

 

「やりたいこと?」

 

「ええ、糸守町民総出の避難訓練です」

 

「……はい?」

 

 関口さんが素っとん狂な声を出す。まあいきなり高校生がやってきて、町全体を巻き込んだ大がかりな避難訓練をしたいと言い出したらそうもなるだろう。

 

「避難訓練って……なんの?」

 

「山火事を想定して、とか」

 

「……無意味なもんではないやろうけど、わざわざ秋祭り近くにやる必要はないな。しかも町民総出ともなれば費用もかなりのもんになる」

 

「やっぱりそういうのって地区ごとに分けてやったりするものですか?」

 

「もちろんやさ。小さな町とはいえ町民は千五百人。一斉に動かそうとすれば時間もお金もかかる」

 

 だよなぁ、というのが正直な感想だ。何よりも大きな問題はやはりコストだろう。社会は無駄なことに限りあるお金を浪費する余裕はないのだ。

 いきなりこの日に町民全員で避難訓練やりたいなんて頼み込んでも取り合ってもらえるわけがない。

 

「立花君はなんでこんなこと考えたんや?」

 

 十月四日に彗星が降ってきて町民の三分の一が死ぬからです……とは言えない。頭がいかれてると判断されて即追い返されることうけあいだ。

 しかし逆を言えば糸守町にも利のある提案をできれば一考の余地くらいは生まれる可能性もある。

 それらしい理由をこねくり回す。

 

「関口さんは今年の十月上旬に何があるか知ってます?」

 

「秋祭り以外でか?うーん、なにかあったかいね?」

 

「彗星ですよ。ティアマト彗星」

 

「ああ、そういえばちょくちょくニュースで聞くな」

 

「それが地球に最接近するのが十月の上旬。俺の予想では十月の四日です」

 

 予想というか確定事項だけど。あと二ヵ月もすれば各メディアでも『最接近は十月四日』と報じ始めるだろう。

 

「ほうほう。しかしそれと避難訓練は関係ないやろ?」

 

「直接は。でもその二つを関連付けることで相乗効果が得られないかなと考えています」

 

 正直なところ、町の避難訓練に真面目に参加する人間がどれだけいるか、という話だ。およそ千年間隔で隕石がやってくる以外は基本的に平和な町だ。特に若い世代は億劫にしか思わないだろう。俺だってそう感じるし。

 でも町をあげてのイベント、というくくりにしたらどうだろうか。

 

「ティアマト彗星の接近はおよそ千二百年ぶり。間違いなく世紀の天体ショーになります。それだけ世間の……いや、世界の注目度は高くなる」

 

「そんなにすごいものなんか?」

 

「数日間にわたって肉眼で確認可能というのは本当に貴重です。最接近日となれば恐らく星が降ってくるような幻想的な光景になりますよ。それに天体観測が趣味という人は結構多くて、たとえばこれとか限定的なデータになりますけど……」

 

 そう言って俺はカバンから取り出した簡素なグラフデータが記された数枚の紙を関口さんに手渡す。

 

「これは?」

 

「天体観測用の望遠鏡や、望遠鏡に関連する備品の売り上げ数です。案外市場規模も大きくて、それに載せてるのは望遠鏡、双眼鏡、レンズ、テントくらいですがニュースで報道が開始されてからはどれも右肩上がり。もう品薄な専門店まで出てきている状態ですよ」

 

「……立花君がこのデータを?」

 

「データと呼べるほどのもんじゃないですけどね」

 

「いやいや、高校生でこれだけのもんを作れるとは驚きや」

 

 そりゃなりたてほやほやとはいえ中身は社会人だからな。大学でも似たようなことをやる機会はあったし。それでもプレゼン能力は関口さんを始め、長年こういう仕事を続けてきた人たちには遠く及ばないだろう。

 ありがとうございます、と褒め言葉は素直に受け取っておく。

 

「で、まあこれだけ注目度の高い天体現象です。避難訓練後に町民全員で星空を眺めるのもイベントとしては一興じゃないかと思うんです。避難訓練の参加率も上がるでしょうし」

 

「なるほどな。君の考えや本気度はようわかったわ。けどそれをやるなら秋祭りでもじゅうぶんやろ?わざわざ避難訓練と関連付ける意味はなんや」

 

 そこが問題だ。関口さんの言う通り、その二つを関連付ける必要性はない。言ってしまえば天体観測だってどうでもいいんだから。

 ただ十月四日に糸守町の人間が全員彗星災害の範囲外にいるように仕向けるための詭弁だ。当然、説得力には欠ける。

 

「話題のティアマト彗星を、町民が全員集まって眺める。地元のキー局にそれを知らせておけば全国ニュースで取り上げてもらえるかもしれません。糸守町の星はきれいです。東京とは大違いだ。天体観測となると長野の野辺山や阿智村が有名ですけど岐阜だって負けてないと俺は思ってます。これを機に知名度を上げて糸守の夜空を観光資源にすることだって可能じゃないですか?」

 

 可能という言葉は便利だ。大抵のことは可能か不可能で言うと可能に分類される。

 確率上その可能性が残っているなら、それは可能と言って差し支えないのだ。

 

「うーん……」

 

 しかし関口さん……というか世の社会人ともなればそんなことは誰もが百も承知である。

 その後もあの手この手で口説いてみたが、結局この日は手応えのある反応は得られなかった。

 

 

*  *

 

 

 覚悟はした上での行動だったけど、それでもやっぱりショックはショックだ。

 長々と力説した疲れと落胆で身も心も重たく感じる。そんな体を引きずって俺が高校に到着した時にはもう昼休みになっていた。

 

「おお、瀧。重役出勤やな」

 

 教室へとつづく廊下で俺の姿を見つけたテッシーが、後ろから肩に腕をがっとかけてくる。これ司や高木もよくやるよな。

 高木のはたまにいてぇ。

 

「よおテッシー。三葉は?」

 

「教室にいるやろ。なんや、愛しの彼女に早く逢いたいんか?」

 

「ああ。だから早く行くぞ」

 

「……言った俺の方がはずいってどういうことやさ」

 

 知るか。その場に三葉がいないならこれくらいの弄りはなんともない。

 いたらダメだけど。

 というか昼飯買ってないんだけどどうしよう。制服に着替えるためにさっき家に戻ったんだから食ってくればよかった、と思いながら教室に入る。クラスメイトに適当にあいさつしながら自分の席、三葉の真ん前に座った。

 

「あ、瀧くん。ずいぶん遅かったね」

 

「思ったより時間がかかったんだよ。おかげで昼飯買いそびれた」

 

「おにぎりならあるよ。食べる?」

 

「三葉のじゃないのか?」

 

「ちゃうよ。ちょっと多めに作ってきちゃっただけやから」

 

「じゃあもらう」

 

「あ、あと余ったおかずも食べてええよ」

 

 三葉がカバンから小分けにされたおかずの容器を取り出す。いや、これ、余ったっていうか……。

 なんか三葉に餌付けされ始めてる気がする。まあそうは思っても空腹には勝てないから食べるんだけど。

 

「お熱いことやね」

 

「サヤちんにもテッシーいるじゃん」

 

「ええー、コレぇ?」

 

「コレとはなんや、コレとは!」

 

 この二人はちょっとつつくとすぐ言い争いを始める。ほぼ毎日やってるのによくあきねぇな。

 もしかしたらあきるとか通り越してルーチンなのかもしれない。それだけ遠慮のない仲とも言える。

 そんな二人を眺めながら、三葉に声をかけた。

 

「今日、俺んち寄ってかないか?先のことについて話しおきたいんだけど」

 

 先のこと。それだけで三葉にはじゅうぶん伝わる。

 少しだけ神妙な顔をしながら三葉は頷いた。

 

 本当ならこのまま何気ない日常を送って卒業までいきたいところだけどそうはいかない。

 この時間軸で目覚めて約半年。そろそろ彗星災害の被害を抑えるために動き出さなければいけない時期になっていた。

 

 




『君の名は。』観まくってるせいか、最近は冒頭で瀧が目覚める直前の「覚えて、ない?」だけで泣きそうになってきた。
あの三葉の声たまらなく良いです。


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8話

 

「町役場に行ってきた?」

 

「おお、秋祭りのことを聞きにな」

 

「誘ってくれたらいっしょに行ったのに」

 

「三葉といっしょだと目立つだろ」

 

 お前町長の娘だし。そうだけど……と、ちょっとだけ不機嫌になる三葉。

 

「それで今日話してきた内容なんだけど……」

 

「あ、話逸らした」

 

「逸らしてねぇし」

 

 時間は放課後、場所は俺が借りてる一軒家の居間。そんな他愛もない会話を前置きにして、俺は関口さんとのやり取りを三葉に説明する。

 十分くらいでそれを聞き終えた三葉は何かに気付いたように声を上げた。

 

「そっか、避難訓練……。私たちがみんなを避難させたときも表向きはそうやったもんね」

 

「ああ。週刊誌なんかじゃ秋祭り当日にあの避難訓練はあまりにも不自然だ、町長は彗星の落下を予見してたんじゃないか、とか書かれてたけど」

 

 まあ事実とは異なるから不自然なところが多いのはしょうがないことだ。実行犯の三葉、テッシー、サヤちんの名前や存在は一切出てこなかったし、町長も必死に隠蔽してくれたんだろうとは思う。

 

「というかよく捕まらなかったよな、お前ら」

 

「あとからきついお説教は受けたけどね」

 

 苦笑を浮かべる三葉。

 

「ってことはやっぱり三葉やテッシーの仕業だってバレたんだな」

 

「バレないわけないやろ?でも手段はともかく、たくさんの命を救えたおかげで不問とまではいかないけど、表沙汰にはならんようにしてくれたみたい」

 

「三葉の、父さんが?」

 

「うん」

 

 それを聞いて少し安心する。最後の入れ替わりのとき、垣間見えた過去の記憶。あれはたぶん糸守と宮水神社の過去なんだろう。

 その中にあった三葉の記憶。走馬灯のようによぎる記憶で、三葉の父親は「僕が愛したのは二葉です。宮水神社じゃない」と婆ちゃんと口論した末、神社を捨てて家を出て行った。そして三葉と四葉はあの家で婆ちゃんと暮らすことになった。

 

 三葉や四葉を見捨てた。あのときはそう思っていたけど、あの人にはあの人なりに葛藤するところがあったのかもしれない。

 記憶にある三葉の父。彼は年を重ねるにつれて母親である二葉さんによく似ていく三葉を見るたびに、最愛の妻を亡くした悲しみを思い出していたように見えた。元気に育つ娘が、耐えがたい苦しみを自分に刻みつける。

 誰が悪いわけでもない。でもそれは、三葉の父親にとっては呪いにも似たものだっただろう。

 

 本当のところは本人に聞いてみないとわからないし、わかったところで何かできるわけでもない。

 考えても仕方のないことだと頭を振って思考を切り替える。

 

「そう言えば俺との入れ替わりが終わったあとはどうなったんだ?」

 

「計画通りテッシーと変電所を爆破して、サヤちんの放送でみんなを高校まで避難させようとしたの。でもそれじゃ間に合いそうもなくて、最後は私がお父さんに役場を動かしてほしいって頼み込んでなんとかなったけど」

 

「あの親父さんをよく説得できたな。俺が最初に行ったときは妄言だと思われて精神病院に連れてかれそうになったのに」

 

「そのときに彗星が二つに割れて落下するって言わなかった?彗星を見てお父さんが『まさか、本当に落ちるのか……』って驚いとったよ」

 

「ああ、それは言ったな。信じてもらえなくて思わず胸倉掴み上げちゃったけど」

 

「ええっ、そんなことしたの!?」

 

「す、すまん。お前や町の人の命がかかってるのに門前払いされそうなったからついカッとなって……」

 

「なに、その犯罪者の言い訳みたいなんは」

 

「いやまあやったことは間違いなく犯罪だし……」

 

 変電所の爆破に防災無線の電波ジャックだ。どっからどうみても立派なテロ行為だよな。

 切羽詰まってたとはいえ軽率な計画だったと今になれば思う。ちょっと間違えば三葉やテッシーが爆発で死んでたかもしれないし、三人が前科者になっていた可能性もある。

 今回はもうちょっと穏便な手段で解決したいところだ。

 

「そういうことやないよ!……でも、それだけ必死になってくれたんやね」

 

「当たり前だろ。俺はお前を助けたかった。好きな人に、生きていて欲しかった」

 

 あの日のことを思い出す。わずかな望みにかけて探し出したご神体。そこで三葉の半分である口噛み酒を飲んで、彗星が落下してくる当日の朝に、俺は三葉と入れ替わった。

 テッシーやサヤちんの協力を得て何とか計画を形にすることはできたけど、三葉の父親を説得することが俺にはできなかった。

 肝心なところで何もできない自分の無力さ。三葉を、町を救えないという失意。

 

「瀧くん……」

 

「でも最後はお前頼みになっちまった。結局、俺ができたことなんて何も……」

 

「そんなことない!」

 

 すべてを思い出してから俺の心に巣食い始めた自責の念。それをかき消すように三葉が声を張り上げた。

 怒ったような、泣き出しそうな、そんな顔をしながら三葉は俺を見つめる。

 

「本当なら私はあの彗星の落下で死んでたはずだった。どうしてか時間が戻っちゃったけど、私は今こうして生きてる。四葉もお祖母ちゃんも、サヤちんやテッシーも、町のみんなも。それは瀧くんが何とかしようとしてくれたからやよ」

 

 俺に言い聞かせるように、三葉は言葉をつづける。

 

「……普通、そこまでがんばれないよ。三年も前に死んだ人のために、その時間と距離を飛び越えて逢いにくるなんてこと。でも、瀧くんはきてくれた。それがどれだけ嬉しかったか、瀧くんわかる?どれだけ私の力になったか知っとる?」

 

 俺は、何も言えない。

 詰め寄った三葉の指が、俺の指に絡まる。

 

「私だって怖かった。上手くいかないんじゃないか、死んじゃうかもしれんって。大切だったはずの瀧くんとの思い出や名前がどんどん消えていって、泣き出しそうだった。忘れたくないのに、忘れちゃダメなのに、その人が誰なのかもわからなくなって、それでも瀧くんの声だけは私に届いてたんだよ?」

 

 三葉は握りしめられていた俺の右の手のひらをほぐすように開くと、カバンの中からサインペンを取り出す。

 テーブルを挟んでいた三葉は、いつの間にか俺のとなりにいる。

 

「『目が覚めてもお互い忘れないようにさ』『名前書いておこうぜ』」

 

 あのときの俺の口調をそっくりそのまま真似をしながら、三葉が俺の手のひらにペンを走らせる。

 くすぐったい、でも、愛おしくも思える感触。

 

「瀧くん、あのときなんて書いたか覚えとる?」

 

「……ああ」

 

 俺が三葉の手のひらに書き残した言葉は『すきだ』の三文字。俺の、何より素直な気持ち。

 そして今、俺の手のひらに書かれたのは『すき』という言葉。

 

「これじゃあ名前、わかんないよって、思った。でもね、それを見たとき、もう怖くなかった。もう寂しくなかった。私が好きな人は、私を好きでいてくれてるってわかったから。ぜったいに生き抜いて、たとえ星が落ちたって生きて、再会するんだって思えたの」

 

 三葉が俺の右手を胸に抱く。三葉の熱が、じんわりと伝わってくる。

 涙を流しそうになるのをなんとか堪える。

 

「だからね、私も伝えたいことがあったんやよ。いつか再会できたとき、私が恋をした人に。瀧くんに。――私を好きになってくれてありがとう、って」

 

「み、つは……」

 

 堪えていたはずの涙が頬を伝っていた。滲む視界の中で、三葉も笑いながら、泣いていた。

 そんな彼女を、俺はたまらず抱きしめる。

 

「俺は、お前を助けられたのか?」

 

「うん。瀧くんが私を好きになってくれたから、好きだってことを教えてくれたから、私は生きてるんやよ」

 

 俺の腕の中でそう言った三葉の声は、今まで聞いてきたどんなものよりも、優しく俺の心に響いた。

 

 

 



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9話

 

 瀧くんがそんなことを考えていたなんて想像もしてなかった。だって私は瀧くんにこれ以上ないくらい感謝しているから。瀧くんがいなかったら私は今、こうして生きていなかった。それは私だけじゃなく、糸守町の住民の多くがそうだ。

 それだけの人を救った瀧くんが、まさか自分に負い目を感じているなんて思いもしなかった。

 

 けど瀧くんは泣いた。それはきっと、悔しさと安堵が入り混じった涙だったんだと思う。

 どこまでも優しいんだね、瀧くんは。そして君がそんな人だからこそ、私は好きになったんだ。

 

「落ち着いた?」

 

「ああ……」

 

 泣いて赤くなった目元を隠すように瀧くんは顔を逸らす。その声はちょっとだけ憮然としていた。

 そのいじけたような態度が可愛くて、私の手が自然と瀧くんの頭に伸びる。そしてそのまま小さな子どもをあやすように優しく撫でた。

 

 なでなで。瀧くんは無言で撫でられる。

 なでなで。まだ、しゃべらない。

 なでなで。「お前、何やってんの?」と、ようやく口を開いた。

 

「元気出るかなと思って」

 

「あのなぁ……」

 

 呆れたような顔をする瀧くん。でも振りはらうことはしない。

 それがうれしくて、愛おしくて、もっともっと瀧くんにふれていたくなる。

 私は頭を撫でていた手を止めて瀧くんに背を向ける。そして彼がかいていたあぐらの上に座った。

 

「お、おい!三葉?」

 

 唐突な行動に動揺する瀧くん。

 そんなことにはおかまいなしに、男性らしい厚みと硬さを感じさせる体に私の背をあずけた。

 

「ここ、私の特等席ね」

 

 そしてそう宣言する。

 

「は、はぁ?」

 

「他の女の子はもちろん、四葉を座らせるのも禁止やよ。……ダメ?」

 

「いや、別にダメってわけじゃないけど……」

 

 なんて言いながら口ごもる。

 背中越しに感じる瀧くんのぬくもりが気持ちいい。こうして思いっきり甘えても受け止めてくれる安心感が心地いい。

 私が、宮水三葉が。こんなにも立花瀧のことが好きで、大好きで、大切で、どうしようもないほど感謝しているんだって想いを、私は言葉で、態度で、すべてを使って伝えたい。瀧くんが負い目を感じる必要なんかないんだよ、って。

 

「ねぇ、瀧くん」

 

「……なんだよ」

 

「抱きしめて?」

 

 瀧くんの体がこわばったのがわかる。

 そしておずおずと、瀧くんの両手が私の前に回り、お腹を抱えるようにして私は抱きしめられる。

 ……ああ、どうしよう。この感覚、すごくいい。抜け出せなくなっちゃいそう。

 

 どれくらいそうしていただろう。たぶん、数分だと思うけど。

 このまま心地よさに身を委ねてしまいたかったけど、そこでハッと我に返る。

 

「……そういえば、まだ話の途中やったね」

 

「……そうだった」

 

 どうやら瀧くんも忘れていたご様子。

 結構大事な話し合いの最中だったのに、気が付けば瀧くんにこれでもかというくらい甘えちゃってる。

 もしかして私たち、バカップルとかそういう領域に踏み込み始めてない?そ、そんなことないよね?これくらい、恋人なら普通だと思うし……。

 

「それで、えっと……確か避難訓練でみんなを高校に集めようって話やったね」

 

 とりあえず何事もなかったように話題を戻す。

 瀧くんも私を抱きしめたままそれに乗ってくれた。

 

「ああ。でもたぶん難しい」

 

「どうして?」

 

「単純な話だ。糸守町に金がない」

 

 どれくらいの費用がかかるかはわからないけど、町の年間予算に含まれていない時点で捻出させるのはほぼ不可能、というのが瀧くんの考えらしい。彗星が砕けて降ってくるというのを証明できれば話は変わるだろうけど、それもまずムリ、だそうだ。

 まあ確かにね。あれだけ必死に色々やって最後の最後、彗星が割れてからようやく信じてもらえたんだから、今から信じさせるなんて不可能だと思う。

 じゃあなんでそんな提案を?と聞いてみる。

 

「万が一通ればそれでよしってくらいの気持ちだよ。まあ通るに越したことはないんだけど、ダメならダメであとから使えなくもないし」

 

「あとからって?」

 

「彗星が落ちるときの話だから今は気にしなくていいよ。それで当面は秋祭りの日取りが正式に決定するまで役場に避難訓練の提案をくり返す」

 

 つまり残された時間はあと二週間くらいってことね。

 

「それが通らなかったら?やっぱり秋祭りの日程を変更させるようにお願いするとか……」

 

 お祖母ちゃんに頼めばなんとかなるかもしれないし。

 

「それはダメだ」

 

 ぴしゃりと瀧くんがそう言い切る。

 

「ダメって……でも十月四日に秋祭りが開催されたら……」

 

 またたくさんの人が死んじゃうかもしれないのに……。

 私の記憶に刻まれた、彗星が隕石となって町に降り注ぐ光景がフラッシュバックする。

 

「確かに何もせず秋祭りを迎えたら最初のときみたいに何百人も死ぬだろう。でもな、俺たちが行動を起こしてどうにか町民を避難させることができたのは秋祭りの日だったから、ってのが大きいはずなんだ」

 

「……いまいちよくわからんなぁ。どういうこと?」

 

 考えてみてもわからず首をひねる。ごめんね、理解力足りてなくて。

 

「あー……秋祭りってことは神社に町民の多くが集まってるってことだろ?」

 

「うん」

 

 丁寧に説明してくれる瀧くんの言葉に私は頷く。

 

「避難を指示したり誘導する消防や役場の人手には限りがある。その中で人が集中している場所があると少ない人員で効率的に避難させやすいってことだ。三葉の話だと町長が動いたのは彗星が割れてからだったんだろ?それでも避難が間に合ったのは一ヵ所に人が集まってたからだと思う。もし何もない普段通りの夜だったら、消防の人たちは手分けしてすべての世帯を回らなきゃいけなかった。そして、彗星が割れてからそんなことをしてたら恐らく手遅れになる」

 

「……だから秋祭りの日は変えちゃダメなんだ」

 

 そう呟きつつ、私の背中はゾクゾクと震える。そんなこと、考えたこともなかった。

 当時はもちろん、また高校生活を送ることになって再び起きるだろう彗星の落下をなんとかしようと決心した時でさえ、こんな風にそろった盤面を整理して、使える手段を考え出すことなんて私にはできなかった。

 やっぱり瀧くんはすごいよ、と改めて思う。この町を救うために、こんなに一生懸命になってくれてる。

 私にとってはヒーローで、世界中の誰よりもかっこいい。そんな人が私の恋人だって事実に、叫びたくなるほどの幸せを感じる。

 

「そういうことだ。最善は避難訓練が実現されることで、次善は前回と同じような状況を作ること。可能性としては後者の方がはるかに高いから、前よりももっとスムーズに避難させる理由を作らなきゃいけない」

 

「そうやね。避難が完了したのはかなりギリギリやったし」

 

「彗星落下の十五分前くらいだっけ?彗星が割れて隕石になる危険性が高いって科学的な根拠があれば説得のしようもあるけどな」

 

「そういうのって、やっぱりムリなん?」

 

「科学的な根拠となると専門的な知識が必要だからな。一応宇宙学者やらなんやらの専門家には『ティアマト彗星が割れて隕石になる可能性がないか検証してくれませんか?』ってメールはばら撒いてはみたけど、今のところ手応えはねぇ」

 

 そんなことまで……。本当に色々考えて手を尽くしてくれているんだ。

 こんなに頑張ってくれている瀧くんに感謝の気持ちがとめどなく溢れてくる。これをどうやって伝えればいいんだろう?そう思った私は、その手段を考えるよりも早く口を動かしていた。

 

「――ねぇ、キスしよう、瀧くん」

 

 瀧くんが「んぐっ」とか「ぐふっ」みたいなくぐもった声を出した。それに一拍遅れて、私も自分が口にしたセリフに気付いて赤面する。

 わ、私ったらなんてハシタナイことを……!だいたい、感謝の気持ちを伝える方法がどうしてキスなの!?と自分の思考回路を責め立てたくなる。

 痛いほどの沈黙が私たちの空気を支配する。それを打ち破ったのは瀧くんの方だった。

 

「……いいのか?」

 

 私を抱きしめる腕に力がこもった。

 声がさっきよりも耳元に近付いて聞こえる。耳にかかる瀧くんの吐息に、心臓は狂ったように早鐘を打ち始めた。

 熱いのは瀧くんの吐息?私の頬?それとも、両方?

 

「……うん」

 

 少しだけ体の位置をずらして、首だけ瀧くんの方を振り向く。瀧くんの顔がもう目の前にあった。

 瀧くんがゆっくりと、さらに近付いてくる。瀧くんの瞳の中には、陶酔した表情の私が映っていた。

 その光景を最後に、私は瞼を閉じる。

 

 直後、私の唇は瀧くんの唇でふさがれた。

 二度目のキスは、ファーストキスよりも長くて、ちょっとだけ激しかった。

 

 



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10話

 

「そういえばさ」

 

 三葉をあぐらの上に乗せてから小一時間ほど。

 組紐と三つ編みを解き、ストレートになった三葉の黒髪を()きながらそのサラサラとした手ざわりを楽しんでいた俺は、思い出したようにそう切り出した。

 

「なぁに?」

 

 三葉にしてはめずらしく、鼻にかかった、甘えるような声。

 まるで猫みたいにスリスリと俺の首筋辺りに後頭部をこすりつけてくる。三葉の香りなのか、シャンプーの香りなのか、とにかく甘い匂いが俺の鼻孔をくすぐる。無性に顔をうずめたい。

 

「確認するの忘れてたけど、三葉も全部覚えてるのか?」

 

 全部、というあいまいな言葉。

 もしかしたら俺と三葉では“全部”に含まれるものが違うかもしれない。

 三葉が指を折りながら数えていく。

 

「……瀧くんと入れ替わってたこと。彗星の落下で死んだはずの夜をくり返して生き延びたこと。でも瀧くんの名前も思い出も忘れちゃったこと」

 

 三葉が穏やかな声で、過去の出来事を思い返して滔々と語る。

 腕の中にいる三葉。その体温と鼓動に三葉の存在を、命を、俺は実感する。

 二度と離すものか、と少しだけ強く抱きしめた。

 

「大切なものを忘れてしまったことさえ忘れたこと。それからずっと誰かを、何かを、探していたこと。それを長い間追い求めて、東京を走る電車の中でやっと見つけたこと。桜が咲いていた雨上がりの路地で出逢えたこと。その相手が瀧くんだったこと。――覚えてる。全部、思い出したよ」

 

 三葉が語った“全部”は。お互いに惹かれ合い、けれどすべてを忘れて、それでも探し求め、ついに出逢えた、俺たちの八年間。

 

「そうか。じゃあ俺と大体いっしょだな」

 

「大体?……あ、そっか。瀧くん、なんで私と同い年になっとるん?」

 

「わからん。目が覚めたらそうなってた」

 

 入れ替わりだけでも謎現象はお腹いっぱいだというのに、その一連の記憶すべてを思い出したうえでのタイムスリップ。

 ……いや、二十三歳の体は置いてきてるから時間遡行か?まあなんにせよ若返って、本当なら三歳年上のはずの三葉と同い年になっている。わけがわからないことだらけだ。

 

「三葉はいつからこっちにいるんだ?」

 

「まだ二週間くらいだよ。瀧くんは?」

 

「俺は二〇一二年の十月、半年前だな」

 

「えっ、そんなに前から?あ!だからあんなに色々考えたり行動したりしとったんやね」

 

「そういうこと。一番大変だったのは父さんを説得することだったけどな」

 

 思わず苦笑が漏れる。

 しかし三葉の話を聞いていて疑問も残った。

 

「なあ三葉、俺の記憶だとあの彗星災害で死者が出なかったのはその日たまたま町全体の避難訓練だったからって報道されていた」

 

 真剣な話に、三葉が神妙そうに頷く。

 

「ならテッシーたちと大目玉を食らった記憶とか、その辺の事実関係はどうなってるんだ?彗星の落下前に変電所が爆発した痕跡があるって記事を読んだ覚えもあるから、あの避難計画自体がなくなったことになってるわけじゃないんだろ?」

 

「確かに私たちは計画を実行したし、犯人だってバレてお叱りを受けたんやよ。けどそれが彗星による人的被害を最小限に抑えたことと、何より明確にその意図を持って行動を起こしてたからこの問題をどう取り扱うか困ったみたいで」

 

 まあ学生が爆破テロと電波ジャックってだけでも世間には公表しづらいのに、それが世界の誰も予想してなかった彗星の落下を予見して起こした行動となるとな。

 どう考えても三葉やテッシーに奇異の目が向くし、それが三葉たちに悪影響を与えることは容易に考えられる。

 

「それで結局厳重注意のみ。私たちが犯人だって知ってたのは先生と役場の人の数人だけやったからそこで緘口令を敷くことにしたんやって。まあそれぞれの親には話がいって、特にテッシーは大変やったみたいやけど」

 

「じゃあ事の真相を知ってるのは三葉たちを含めて十人ちょいなのか」

 

「うん。私はお父さんにどうして彗星が落下することを知っていたのかを聞かれたくらいで、事故後の調査で私たちが聴取されることはなかったし、時間が経つにつれてその辺りの記憶が思い出せなくなっていったから……」

 

 俺が三葉に逢いに糸守町まできたときと似たような感じみたいだな。いっしょにきた司や奥寺先輩と別々に東京に帰ったこと、どこかの山で一夜を過ごしたことくらいしか思い出せなくなって、いつしかそれを思い出すことすらなくなっていった。

 三葉だけじゃなくテッシーやサヤちん、そして他の人もそうなったんだろう。

 

「ちなみに彗星の落下を知ってた理由はなんて答えたんだ?」

 

「『彗星が落ちてくるのをこの目で見たの!』って」

 

「ははは、そりゃみんな面食らっただろうな」

 

「テッシーだけは笑っとったけどね」

 

 二人きりの空間で、声を出して笑い合う。

 わからないことばかりで、正直困惑してる部分もまだある。

 けどこうして三葉と同じ場所、同じ時間を生きられるというだけで、そんなことはどうでもよくなってしまう。

 

 他愛のない会話をし、下らないことで笑う。腕の中にいる三葉の温もりを愛おしく感じ、ふと会話が途切れて無言になると、どちらからともなく示し合わせたようにキスをする。

 そうすると三葉は顔を赤くしながら、でも幸せそうにはにかむ。俺はその顔が見たくて何度もキスをした。

 

 あとすこしだけ。もうすこしだけ。

 そう思いながらやめられない。やめなければと思うと、湧き上がる名残惜しさに負けてこの手を離せなくなる。

 明日も、明後日も、これから先もいっしょにいられると頭ではわかっているのに、心が三葉を求める。五年間の寂しさを埋めるように。

 

「あ……」

 

 三葉がかすかな声を漏らした。

 制服のブラウスがスカートからはみ出している。俺の右手はその裾をまさぐり、ブラウスの中へ侵入しようとしていた。三葉が声を上げなければこの手は止まらなかっただろう。

 ……まだ、早いか。

 

 すこし気まずく思いながら、手のひらくらいまで侵入していた右手を引き抜く。

 そんな俺に、三葉はあきれたように言う。

 

「……瀧くん、そんなんやから奥手って言われるんやよ」

 

「うっ……」

 

 そりゃそうかもしれないけどさ。

 付き合って二週間でそういう行為は早いんじゃないのか?そうでもない?むしろ遅いの?

 女と付き合った経験がないからぜんっぜんわかんねぇ……。

 そんな俺の苦悩など知ったことかと切って捨てるように、三葉は言った。

 

「――いいよ」

 

「え?」

 

「瀧くんなら、いいよ」

 

 耳が痛くなるような静寂の中にあって、それでも聞き逃してしまいそうなほど小さな声。

 けれど確かに、三葉は「いいよ」と言った。いいって、つまり、そういうことか?

 言葉の意味を理解して急激に心音が上がる。カラカラに乾いたのどが、つばを飲み込んでゴクリと音を鳴らした。

 

 依然こちらに背を向けて俺の体の上に座っている三葉の表情はうかがい知れない。

 そんな三葉の手が、尻込みした俺の右手を捕まえるように伸び、手が重なる。そしてダメを押すような言葉を口にする。

 

「瀧くんのしたいこと、して?」

 

 ブチン、と。

 俺の頭の中で、理性の鎖が音を立てて千切れた。

 

「みつは……」

 

 そして俺はそのまま、腕の中にいた三葉を押し倒――

 

 

 ヴーヴーヴー!

 

 

「うおわぁ!」「ひゃあ!」

 

 ものすごい声を上げながら、お互い跳ね飛ばされたように飛びすさる。

 呼吸が荒い。バクバクと心臓の音がうるさい。おまけにひじを棚にぶつけて痛い。

 いいところで邪魔しやがって、という思いと、先走らないでよかった、という安堵感が混ざり合う。……後者の気持ちがあるから奥手とかヘタレって言われるんだろうな。

 音の正体は、テーブルの上に置かれた三葉のスマフォだった。三葉は腹部が露わになっていたブラウスを正してから、スマフォを耳にあてる。

 

 直後、電話口じゃない俺の耳にも届くほどの甲高い声が響いた。

 

『ちょっとお姉ちゃん!こんな時間まで何しとるん!?』

 

「よ、四葉……えっと、あのね……」

 

『今どこ!?もうご飯やよ!はよ帰ってきない!』

 

 説明や釈明をする間もなく電話は切れたようだ。

 そう言えば今は何時なんだと時計を見れば時刻は午後六時半過ぎ。気が付けば部屋の中はかなり薄暗くなっていた。

 三葉がこの家にきてからもう三時間近く経過している。

 

「……瀧くん」

 

「お、おう」

 

「ごめん!帰らなきゃ……」

 

 心底申し訳なさそうに三葉は俯きながらそう言った。

 間違っても送ってく?なんて言えそうな雰囲気じゃないな。

 結局俺は慌ただしく身だしなみを整えて去っていく三葉を見送ることしかできなかった。

 そして一人になった居間で、俺はどはああああっと盛大にため息を吐き出す。

 

 き、緊張した……。

 どうしよ、俺、しばらくアイツの顔まともに見れねぇかも。

 

 未だに心臓は暴れ、ひじから伝っている一筋の鮮血にも気付かず、情けなくも俺はそんなことを思った。

 

 



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11話

 

 三時間目の体育、種目はサッカー。いかにもヒマそうにゴールポストに背を持たれていたキーパーのテッシーは、反対側のポストで同じようにしている最終ライン(ディフェンダー)の俺を見てこう言った。

 

「なあ瀧、その腕どうしたんや?」  

 

「腕?」

 

「腕ってかひじな。なんで絆創膏はってるんや」

 

「……なんでもねぇよ」

 

 ふれてくれるな、という空気をにじませて返す。

 しかし悲しくもその思いは届かなかった。

 

「なんや、三葉にでもやられたんか?」

 

 語尾を弾ませるように上げて、テッシーがにししと笑う。

 コイツがこんなからかい方をしてくるのはめずらしいな、と考えて、そうかと思い至る。

 

「あー、もしかして心配させたか?」

 

「いやまあ心配っちゅーか、ちょっといつもと違ったからなにかあったんかと」

 

 指でポリポリと頬をかくテッシー。

 昨日のアレがあったせいで俺も三葉もギクシャクしてるのがバレてたみたいだな。俺だけじゃなく、三葉も俺の顔を見れないらしい。

 ガキか!……いや、確かに肉体年齢はガキだけどさ。中身はお互い二十歳(ハタチ)超えてるのに、いくらなんでもうぶすぎないか?

 まるで体につられて精神まで高校生の頃に戻っているような気がしてきた。

 

 まあそれはさて置き。

 テッシーはほんとにいい奴である。これも何かあったんなら相談に乗るぜ、っていう意思表示なんだろう。

 でもさすがにこれは相談できねぇ……。あの出来事を第三者に明かすのは俺も嫌だし三葉だってそうだろう。

 

「ありがとなテッシー。別にケンカしたわけじゃないから大丈夫だ」

 

「ならええけどよ。お、ボールきたぜ瀧」

 

「はいはい」

 

 ロングパスを受け取り、ドリブルしながらつっこんできたとなりのクラスの男子生徒からボールを奪って狙いも適当に相手陣地にボールを蹴り返す。

 ほとんどの奴がボールに殺到しているという戦術もクソもない光景がさっきから展開されている。試合に参加しているクラスの生徒で自陣に残っているのは俺とテッシーだけだ。守備の意識足りてないな。

 まあしょせん体育だしどうでもいいけど。俺だってディフェンダーの仕事をこなしている(サボってる)だけだし。

 

「お見事」

 

「おー」

 

 ボールをクリアしてポストの位置まで戻ってきた俺にテッシーが賛辞を送ってくる。それにおざなりな返答をしつつ、またちょっとヒマになったので空を見上げる。

 澄んだ空気。抜けるような、高くて青い空。緑の匂いをはらんだ風。それに乗って届く鳥のさえずり。

 

「……のどかだよなぁ」

 

 なんとなく、そんな言葉がこぼれ出た。

 

「まあ、それくらいしか取り柄がないでな」

 

「それがいいって人もいるだろ」

 

 田舎暮らしに憧れてわざわざ都会から移り住む人だっているくらいだ。目的は違うけど俺も同じような行動してるし。

 そんな感じでテッシーと駄弁っている内に体育の時間が終わった。あんなに元気よく駆け回っていた奴らがいかにもダルそうな足取りで校舎へと戻っていく。

 昇降口の手前で、体育館で授業を受けていた女子たちと鉢合わせた。ふと、三葉の姿を視界にとらえる。

 

 表情を殺した三葉と、そのとなりでオロオロしてるサヤちん。そんな二人の前にはちょっと派手めな三人組の男女。

 えーっと、男の方は松本だっけ?女二人はよく覚えてない。

 

 確かアイツら、三葉やテッシーによく嫌味を浴びせてた奴らだよな。入れ替わってたときにイラッとして、ちょっとだけ足が出ちまった記憶がなきにしもあらず。

 どうせまたろくでもないことを言ってるんだろう。俺の横ではテッシーが太くて立派な眉をひそめている。

 

「なあ、俺の気のせいじゃなきゃ三葉やテッシーってアイツらに好き勝手言われてねぇ?」

 

「……気付いとったんか」

 

「なんとなくな。俺が近くにいると言わないみたいだけど」

 

 俺に対して何か思うところでもあるのか?転校してきてから一言も会話なんてしてないんだけどな。

 しかし解せないのは三葉やテッシーが言われたままにしていることだ。

 

「なんで言い返さないんだよ。どうせくだらない言いがかりだろ?」

 

「……アイツらは俺たちが反応するのを面白がってるんや。無視しとく方がええ」

 

「処世術ってやつか」

 

 まあそう言われればわからなくはない。多少我慢することで大事にせずやり過ごして穏便に済ませた方が結果的に楽だったりするしな。三葉も自分のことを地味系女子とか自称してた気がするし。

 その割には、俺に対してしっかり物は言うけど。そもそもアイツは全然地味じゃなくないか?

 そんなことを考えていると三葉とサヤちんは松本たちから逃げるようにこっちまできた。

 

 女子も体育のあとで、当たり前だが三葉も汗をかいている。

 首筋ににじむ汗とそれに貼りつく艶のある黒髪、上気した頬が異様に色っぽく見えた。

 

 

『瀧くんのしたいこと、して?』

 

 

 昨日の、俺にしなだれかかる三葉の姿をどうしても思い出してしまう。

 落ち着け俺と自分に言い聞かせてみても効果なし。そして三葉も俺の存在に気付く。

 

 ふっと視線が逸らされた。俺も逸らした。

 テッシーとサヤちんの、二人そろって何してんの?という不可解さを宿した目が俺と三葉に向けられる。

 マジで三葉の顔が見れねぇ……!

 

 

  *   *

 

 

「どうしたらいいっすかね?」

 

「ここでそんなこと相談されても困るんやけど……」

 

 あれから一週間。未だに三葉と照れを抜いて接することができていない。

 大事なところはぼかしつつ、そんなもろに思春期的な悩みを、関口さんがくる間に企画課の窓口の女性に相談してみるがあまりいい答えは返ってこなかった。

 まあマジで相談してるわけじゃないし、時間つぶしの意味合いが九割だからいいんだけど。そんなことをしていると関口さんが現れた。

 

「待たせたね立花君」

 

「こんにちは」

 

「しかし君もよう来るなぁ」

 

「まだ三回目じゃないですか」

 

「一週間でな。ちゃんと学校行っとるんか?」

 

 ちなみに今日は平日の午前だ。まあ真面目とは言い難いかもしれないけど、それも秋祭りの日程が決まるまでだからあまり気にしないでもらいたいところだ。

 

「それはさて置き今日はですね……」

 

 置いとくんかい、という関口さんの呟きはスルーして、今日も避難訓練の実用性を説きに俺は町役場を訪れた。

 実用性とは言ってもほとんどがこじつけだから当然手応えは薄い。無駄なあがきとも言える。

 それでもやらないよりはマシなはずだ、と俺は信じている。

 

 俺と三葉は、本当なら一生出逢うことなんてなかったのかもしれない。だって三葉は、俺がアイツのことを知る前に死んでいたんだから。

 それでも死の未来を覆して、時間を超えて再会し、今このときをいっしょに生きられている。それはまぎれもない奇跡だ。何か一つ欠けていたらたどり着けなかったかもしれない、途方もない奇跡。

 

 だから今のこの関係も、少なくとも彗星の一件を乗り越えない限り安泰だとは思えなかった。こんな状況になっているのにも必ず理由があるはずだ。

 もしかしたらちょっとしたことで俺たちはまた離ればなれになるかもしれない。世界で一番大切な三葉のことを忘れてしまうのかもしれない。そうならないためにも、俺にできることはなんでもやっておく。

 

 そう意気込んでこの日も手作りの避難計画資料なんかを元にして熱弁を振るった。俺の勝手な思いに関口さんを付き合わせて申し訳ないが、でもこれが糸守町を救うことにもつながるんだから許してくれ。

 

 しかしながら朝っぱらからそんなことをしていれば当然遅刻する。学校に到着したのは四限目の最中だった。

 教室まで続く廊下は静まり返っていて、他の教室の授業を邪魔しないよう、できるだけ足音と気配を消すことを意識して自分のクラスに到着する。

 

 誰にも見つからないよう隠れながら教室内をチラッと確認する。空いている扉から覗いてみれば、黒板には白いチョークで大きく書かれた「自習」の二文字。なんだよ警戒する必要なかったじゃん。

 やれやれ、と思いながら教室に入ろうとした瞬間。

 

 ――町長と土建屋は、その子も癒着しとるもんやと思ったけどな。

 ――親の言いつけなんやないの?それが嫌で立花と、とか?

 ――あの二人、いかにも訳ありって感じやったしね。

 

 これは、あれだな。いつもの松本たちの陰口だ。一応声は潜めているが入り口付近の俺でも聞き取れるってことはクラス中に聞こえている、聞こえるように言ってるらしい。

 俺がいないものと油断して俺の名前まで出ている。

 

 ほんと、くだらねぇ。まあ俺が教室に入れば気まずい空気になって松本たちも黙るだろう。関係ないクラスメイトを巻き込むのは悪い気もするが、そもそも廊下にいつまでの突っ立ってる趣味はない。

 そしていざ教室に入ろうとしたところで、俺の耳に致命的な会話が届いた。

 

 ――でも最近、立花そっけなくない?宮水もうあきられたんかもよ。

 ――そもそもなんで立花は宮水に熱心やったわけ?お金でも渡したんちゃう?

 ――町長は町に、その娘は男に金をまくってか。さすがの血筋やな。

 

 それはたとえ冗談だったとしても俺にとっては聞き流せない内容だった。

 別に、松本たちに俺と三葉の間に起きた出来事や、その上に成り立っている関係を理解してもらいたいわけじゃない。

 

 けどな、俺と三葉の絆を、そんな低俗な憶測で語るんじゃねぇよ。

 

 そう怒鳴りたかったのをなんとか堪える。俺が中身も十七歳だったら、経験則的に考えて机の一つでも蹴り倒していただろう。

 なぜそうしなかったのかと言えば、今の俺は、精神面だけとはいえ大人だからだ。そして松本たちは、物の善悪の区別はついてもそれを抑えられない子どもだ。

 

 大人が子どもに貶されたくらいでそうそう怒るものじゃない。

 だからこそ俺は冷静に対応する。

 

 音もなく教室に踏み入る。そんな俺に誰よりも早く気付いたのは三葉だった。

 他のクラスメイトが聞くに堪えない、とばかりにうつむいて自習課題に取りかかっている中、この前と同じような無表情を貼り付けて虚空を眺めていた三葉。

 

 その無表情は俺を見た途端に崩れた。ここのところのように赤く……じゃなく、離れていてもわかるくらい、サーっと、青くなっていった。

 そんな顔をしなくても平気だっての。俺は今、確かに怒ってはいるけど、同時に冷静でもある。

 そう、だからひどく冷めた思考で、限りなく冷静に、とても落ち着き払った気持ちで、俺は教室に置いてあるゴミ箱を蹴り飛ばした。

 

 



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12話

 

「なあ、アンタたちほんとにどうしたんよ?」

 

 自習の授業が始まってしばらく、課題のプリントを半分以上消化したところで、サヤちんが小声でそう聞いてきた。どうした、というのは、まあ私と瀧くんが最近あまりにもよそよそしいことについてだ。

 理由は単純で、我ながらデレデレしすぎだって思うくらい瀧くんに甘えて、あられもない姿を晒しちゃったせいでちょっと羞恥心が大変なことになってるってだけなんだけど。傍目からするとケンカでもしているように見えるらしい。

 

 それはどうでもいいけど、瀧くんにエッチな子だって思われたかもしれないのが気がかりだった。入れ替わりのたびに私の胸を揉んでたみたいだし瀧くんも瀧くんでエッチだ。私の体に対してそういう興味を向けていたんだから嫌われたりはしないと思うけど……。

 だいたいあの雰囲気で思い留まる瀧くんが悪いんだ。あのまま手を出してくれていたらあんな風に私から誘う必要なんてなかったのに!しかも結局邪魔が入っちゃうし。

 まったくもう、私の覚悟を返してよね!

 

「どうもせんよ。ケンカしてるわけでもないし」

 

「その割には距離取ってない?立花君なんか、今日学校にも来てへんし」

 

「午前中の内には来るってさ」

 

 瀧くんは今日もまた町役場で避難訓練の実現させるために動いている。望み薄だって言っていたけど、ダメでもその行動が後々それが効いてくるかもしれない、ということらしい。

 あんまり頼りにならない言い方ではあるけれど、瀧くんがそう言うなら私は信じてる。そして私は私にできることをやるしかない。

 サヤちんとそんなやり取りをしていると、いつもの陰口が聞こえ始める。

 

 ――町長と土建屋は、その子も癒着しとるもんやと思ったけどな。

 ――親の言いつけなんやないの?それが嫌で立花と、とか?

 ――あの二人、いかにも訳ありって感じやったしね。

 

 松本たちの陰口にはいい加減慣れたものだ。同級生=クラスメイトみたいな等式が成り立つこんな狭い町だから当たり前といえばそうなんだけど。

 でもそこに瀧くんの名前が出るだけで、お腹の底から湧いてくる不快感を抑えるのに苦労する。私や父のことなら好き勝手に言えばいい。けど瀧くんのことを松本たちの口から語ってほしくない。

 

 ――でも最近、立花そっけなくない?宮水もうあきられたんかもよ。

 ――そもそもなんで立花は宮水に熱心やったわけ?お金でも渡したんちゃう?

 ――町長は町に、その娘は男に金をまくってか。さすがの血筋やな。

 

 ああ、今日のは一段とひどいな。温和なテッシーのこめかみもひくついているし、サヤちんはなぜか泣きそうになっている。それ以外のクラスメイトは聞いていないフリに務めているのか、手元のプリントに集中しようとしていた。

 そうやって意図してとにかく冷静に、俯瞰して状況を見ようとする。それは陰口を言われている自分自身の姿を含めてだ。

 

 でも、できなかった。陰口に耐えられなくなったとかではなく、視界の端にとらえた人影が誰のものか気付いてしまったから。

 教室の入り口に、瀧くんがいた。そして松本たちの会話をバッチリ聞いてしまっていた。

 なんでそれがわかるのかといえば、瀧くんの目がゾッとするほど冷たいものになっていたからだ。静かな怒りの炎を燃やしているようにしか見えない。

 

 瀧くんは気が強い。奥寺先輩が言うには弱いのにケンカっ早い。

 入れ替わったとき、どこでこしらえてきた傷なのか頬に大きな絆創膏を貼りつけていたこともあった。

 そんな瀧くんが次にどんなアクションを起こすか、簡単に想像できる。というか私の体に入っていたときに松本たちの陰口に我慢ならず机を蹴り倒して花瓶を割った張本人だし。

 

 止めるにはもう遅すぎた。瀧くんはすでに行動を起こしている。右足が軽く後ろに引かれているのが見えた。

 取った行動はなんのことはない。瀧くんは入り口横に置いてあるプラスチック製の、高さ一メートルはあろうかというゴミ箱を蹴りつけた。

 蹴り倒す、なんて表現で収まるほど生易しいものじゃなかった。例えるなら空手家のローキックみたいな感じに。

 

 ためらいのない蹴りによって、ドカ!だか、バキン!だか。とにかく鈍い破壊音が最初に聞こえた。

 そして軽く宙に浮かんだゴミ箱は、再び教室の床に落下すると、蹴られた勢いで横倒しのまま滑り、狙ったように前から二列目にある松本の席にゴカン!みたいな音を立てて激突した。

 

 松本も、いっしょに陰口を叩いていた二人も、それ以外のクラスメイトもみんな短く小さな悲鳴を上げた。テッシーやサヤちんも驚愕して表情筋を引きつらせている。

 まあ転校生であるところの瀧くんがいきなりこんな暴挙に出たんだから無理もない。

 

 そんな凍りついた教室の空気なんて瀧くんはまるで意に介さず、完全にビビっている松本に歩みよる。

 そして横倒しになっているゴミ箱に、踏み潰すくらいの勢いで右足を振り下ろす。壊れはしなかったが、決して頑丈とは言えないプラスチックのゴミ箱からはまた不穏な音が響いた。

 

「わりい。足が滑って倒しちまった」

 

 松本を見下しながら、底冷えするような声で、どの口が、と言いたくなるようなセリフを瀧くんは吐く。けど今この教室に、そんな茶々を入れられる人間は存在しなかった。

 

「でさ、俺と三葉の名前が聞こえた気がしたんだけど、それは俺の気のせいか?」

 

「いや、その……」

 

 松本は完全に委縮してしどろもどろだ。あとの二人も瀧くんから逃れようと視線をうつむかせている。

 いつの日か松本たちが痛い目を見ればちょっとくらい気分がスッとするかもと思っていたのに、いざその場面を目の当たりにすると瀧くんの怒りがすさまじくて逆に心配になってきたんだけど……。

 

 もう、止めよう。そう思った私より早く、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。松本には福音に等しく聞こえたかもしれない。

 それで興が覚めたのか、瀧くんは松本のことなどどうでもよくなったかのように、廊下のロッカーから箒とちり取りを持ってくると自分が蹴り飛ばしたことで散乱してしまったゴミをはき始める。

 バイト先で毎日掃除をしていただけあってさすがに手際がいい。……じゃなくって!

 

 私も同じように掃除を手伝いつつ、クラスの様子をうかがう。その反応は逃げるように教室から出ていくか、動けないで席に座ったままかのどちらかだった。

 瀧くんがあそこまで怒ったのは私とのことがあるからだと思う。それは正直にって嬉しい。それだけ大切に想ってくれているんだって感じられるから。

 でもこれで瀧くんが怖い人だとか不良だとか勘違いされるのは嫌だった。当の瀧くんは何食わぬ顔でそのあとも授業を受けてたけど。

 

 これだけでもこんなド田舎の高校じゃ一大事件になる。でも、今回はそれだけじゃ終わらなかった。

 瀧くんのゴミ箱蹴っ飛ばし事件の翌日、その放課後。

 私が家で夕飯の支度をしていたところに、なんと松本たちが訪ねてきたのだ。そして三人は家から出てきた私の顔を見るなりいきなり頭を下げた。

 

「宮水、すまんかった」

 

 松本が開口一番そんな謝罪を述べた。

 両サイドの二人も「ごめんなさい」と口をそろえる。

 

「ちょ、ちょっと、いきなりすぎて事態が理解できないんやけど……」

 

「……今までのことや。これで全部許してくれとは言わんしそんなこと言うつもりもない。だからこれはせめて昨日の分の謝罪や」

 

「別に嫌味で言うわけじゃないけど今さらやない?」

 

 そう、松本たちの陰口なんて今さらだ。それとも瀧くんの怒りが彼らに変化をもたらしたのかもしれない。かなり迫力あったしね。

 

「昨日の放課後、俺らんところに立花が来たんや」

 

「瀧くんが?」

 

「そうや。それで、俺らは立花に謝られた。『やりすぎて悪かった』ってな」

 

「だから私にも謝りに……」

 

「それもある。けどそれだけが理由やない」

 

 そこでようやく松本たちが顔を上げた。全員、とてもばつが悪そうな表情をしている。

 

「立花が言うたんや。『三葉は誰に言われるまでもなく神社の巫女や町長の娘っていう自分の立場に悩んで、苦しんでる。それでも三葉は自分なりに乗り越えようとしてるから、アイツを傷付けることはやめてほしい』ってな」

 

「瀧くん……」

 

 心の中が温かくなる。

 瀧くんの私に対する優しさ、私を理解してくれている喜び。そういうもので私の胸は一杯になる。

 

「あんなにマジで怒られたのって初めてで、うちらがやってきたのってそれだけひどいことなんやなって、やっと実感したっていうか……」

 

「それなのにあんなに怒ってた立花に謝られて、急に自分が情けなく思えてきたんやよ……」

 

 黙っていた二人もそう口にする。

 腹いせの報復に来たと言われた方がまだ受け入れやすいくらいには衝撃的な展開だけど、どうやら三人は本気で私に謝罪しているらしい。

 

「……なら約束して。それを守ってくれれば今までのことも含めて全部水に流すから」

 

「……ええんか?」

 

「約束を守れば、やよ?一つはテッシーとサヤちんにも同じように謝ってくること。サヤちんにはいつも何も言ってないけど、あの中じゃ一番繊細でつらい思いしとる」

 

「わかった」

 

「あと一つは、何があっても瀧くんの陰口はやめて。今度は私が三人を怒らないといけなくなるから」

 

「……ああ。肝に銘じておく」

 

 松本の言葉に二人も頷いている。なら、これで大丈夫かな?

 その日の夜、テッシーとサヤちんから立て続けに電話が入った。内容はどっちも同じで「松本たちが謝りに来た!」だった。結果から言うと二人も松本たちのことは許すことにしたらしい。

 一番の理由は私が許したんだから、自分たちが許さないとは言えない、とのこと。まあそれで丸く収まるのなら悪いことではないと思う。

 テッシーもサヤちんも優しいから、私のことがなくても最終的には許しただろうし。

 

 そんな形で予想外の一件落着を見せた瀧くんのゴミ箱蹴っ飛ばし事件。

 これを契機に変わったことがある。

 まず一つは、瀧くんの呼び名だ。一部を除いたクラスメイトのほとんどから「立花さん」と敬称をつけて呼ばれることになった。本人は微妙な顔をしていたけど、そうしたいくらいの迫力は確かにあったと私も思う。

 

 そしてもう一つは――

 

「なあ三葉、お前くっつきすぎだろ」

 

「えー、そうかなー?」

 

「ほとんど腕組んでるみたいじゃねぇか。いくら周りに人がいないっつってもこれは……」

 

「じゃあ早く瀧くん家にいこ?」

 

「……スマフォの電源は切っとけよ」

 

「もう切ってるもん……瀧くんのエッチ」

 

「それここで言うか?もうお互い様だろ正直」

 

「……そうかもね」

 

 もう一つは。

 私と瀧くんの関係が、また一歩進んだものになった、ということだ。

 

 




松本と一緒にいる女子生徒二人の名前はなんて言うんだろう?


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13話

 

 糸守に引っ越して一ヵ月。五月に入り、気温も少しずつ高くなりはじめた頃。

 ゴールデンウィークを目前に控え、宮水家の居間で三葉と並んで明日提出する課題に取りかかっていると、その横でお茶をすすっていた婆ちゃんがふと俺に声をかけてきた。

 

「そういえば、瀧」

 

「どうかした?婆ちゃん」

 

「アンタ、今度の連休はどうするね。東京の実家に顔は出すんか?」

 

「まあ帰って一泊くらいはしようかなって思ってるけど」

 

 父さんには無茶言って転校させてもらったしな。近況の報告も兼ねて帰ろうかなとは思っていた。

 あと司たちにも会っておきたくはある。

 

「ほうか。三葉、よければ連れて行ってもらったらどうや?」

 

「ええっ!?」

 

 俺のとなりに座っていた三葉がすっとんきょうな声を上げた。

 

「なに言うとんのお祖母ちゃん!」

 

「なにって、せっかくやし瀧の家族にあいさつしてきたらええやろ」

 

「そんな、いきなり言われても……」

 

 三葉があせって挙動不審になりながら俺の方をチラチラと見てくる。

 まあ俺としては父さんに三葉を紹介するのは構わないんだけど。

 

「あー……くるか?」

 

「……い、いいの?」

 

 上目遣いの三葉が戸惑いがちにそう聞いてきた。

 

「ああ。彼女だって紹介したいし」

 

 三葉は俺が転校させてくれって頼んだ一番の理由だからな。それを父さんに教えることはできないけど、人生初の彼女ができたってことは報告しておくのが筋だろう。

 

「それなら……行きたい」

 

 三葉はもじもじしながらそう言った。

 こうしてゴールデンウィークに三葉を連れて東京に行くことになった。あとで父さんに連絡しておくか。

 そんな俺たちを見守る婆ちゃんの視線は終始温かかった。

 

 それから三日後。鈍行電車や新幹線を乗り継いで、俺と三葉の姿は東京にあった。

 まるで懐かしくもない光景だ。むしろ糸守で一ヵ月暮らしたせいで人の多さや空気の味にすこしだけ違和感を覚える。これが俺にとっては当たり前だったんだけどな。

 

「久しぶりの東京やー」

 

 三葉が楽しそうに笑う。

 東京の空気にあてられたのか、さっきまでは信じられないくらい緊張していたのがうそのようだ。

 

「いや、久しぶりって三葉も一ヵ月前まで東京で社会人やってただろ」

 

「そうやけど、高校生の私としては久しぶりやもん」

 

 そういうことか。三葉の言いたいことはわからないでもない。

 俺も大人のときに糸守へ行くのと高校生のときに行くのではまるで意味が違う。三葉との入れ替わりがあった、この高校生という瞬間だから特別なものがある。

 そもそも俺が大人になってから糸守に行くのって不可能だしな。

 本当なら送れなかった、でも送ってみたかった三葉との高校生活。何の因果かそれが実現している今は、やっぱり俺と三葉にとって奇跡としか言いようのない出来事なのだ。

 

「まあそれはさて置き。まずは家に行くぞ」

 

「い、いきなり瀧くんのお父さんにあいさつするん?」

 

 三葉が再び顔を真っ青にして表情をこわばらせる。

 こいつは何にそんなビビってるんだか。

 

「それが一番の目的だしな」

 

「まだ心の準備が……」

 

「あと十分でしろ」

 

 四ツ谷駅から十分も歩けば俺が住んでいたマンションに到着する。うろたえる三葉の手を引いて歩き出した。

 そして容赦なく玄関の前まで引っ張ってくる。

 ガチャン。

 

「ただいま」

 

 インターフォンを鳴らすこともなく玄関を開けた。カチコチに緊張しているせいで三葉の「お、おじゃまします」という声はかなり小さい。多分父さんには聞こえていない。

 まあ三葉を連れてくるのは伝えてあるし、その証拠に玄関からリビングに続く狭い廊下が小奇麗になっている。積み重なった雑誌類や段ボール(中身入り)なんかが姿形もなくなっている。

 一昨日の俺の電話が来てから片付けたな。俺が帰省するだけならそこまでやらないし。

 ものすごくそわそわしている三葉を引きつれてリビングへ。

 

「お帰り、瀧」

 

「ああ、ただいま」

 

「それでそちらがお前の……」

 

「彼女。名前は宮水三葉」

 

「は、初めまして!み、宮水三葉といいます!十七……じゃなくって、十六歳です!岐阜からきました!」

 

 なんか自己紹介下手じゃねぇか?

 

「瀧の父の和彦です。快適とは言えないかもしれないがゆっくりしていくといい」

 

「ありがとうございますっ」

 

 三葉が直角に腰を折ってお礼を言う。俺も父さんも苦笑いだ。

 かなりアガってるようなのでひとまず俺の部屋に押し込んで落ち着かせる。

 

「っはあぁぁぁ~……緊張した……」

 

 荷物を置くと、三葉は大きく息を吐き出し、心臓の辺りを押さえながら脱力したようにずるずると崩れ落ちた。人生の基本のはずのスカートが乱れてるぞ。

 ちなみに父さんは三葉の状態を気遣ってか「昼までには戻る」と言い残してさっき出かけて行ってしまった。今の内に平静を取り戻させないとな。

 

「ただあいさつするだけでそんなに緊張するか?」

 

「するよ!第一印象は大切なんやから!」

 

「だとしたらテンパってる印象しか与えてないけど」

 

「言わんといて……」

 

 わかりやすく落ち込んでいる三葉。

 だからスカート!その格好で体育座りするな、見えそうで見えないのが余計気になる。

 いや、むしろこの体勢でも見えないんだから、それだけ基本をマスターしているという見方もできるのか?

 

「……ねえ、私、瀧くんのお父さんに変な子だって思われとらん?」

 

「思われてねぇよ」

 

「瀧くんに似合わんとか……」

 

「言われないって。お前ってそこまでネガティブだったっけ?」

 

 ポジティブとまでは言わないけど、ここまで後ろ向きなことを言うのもめずらしい。

 とにかく落ち着かせようと、頭をワシワシとなでつける。なんか子どもをあやしてるような気分になってくるな。

 

「ネガティブっていうか、瀧くんのお嫁さんに相応しくないって思われたらどうしようって思うと不安で……」

 

「……ん?」

 

「私ふつつか者やし、言葉はなまってるし、巫女やし……」

 

「それうしろ二つ関係ないだろ。というか三葉、お前今日俺と結婚すること認めてもらうつもりで来たのか?」

 

「そこまでとは言わんけど、け、結婚を前提としたお付き合いをしていますって……」

 

「……それでそんなに緊張してたわけ?」

 

「うん」

 

 どんよりとした表情には「失敗した」と書いてあるようだった。

 俺も婆ちゃんも、付き合っていることを報告するつもりであいさつを、っていう話をしていた。それが三葉の中では結婚のあいさつに近いものへとすり替わっていたらしい。

 いやまあ俺も宮水家ではいきなりプロポーズ未遂やらかしたし、三葉の精神年齢を考えれば結婚というものを普通の女子高生より強く意識するのも当然と言えばそうなんだけど。

 

 ああ、もう。俺と結ばれることをそこまで大切に、真剣に、本気で想ってくれているのがたまらなく嬉しい。コイツのそんなところがいじらしくて、可愛く感じてしまう俺もどうしようもない。こんなんじゃ三葉のことをどうこう言えやしないだろう。

 今すぐ父さんの元に行って「三葉と結婚するから」って宣言したい気分になる。

 

 ……ダメだ、俺も落ち着け。

 無理言って転校した挙句、ひと月で作ってきた彼女を連れてきていきなり結婚したいなんて言い出すとか常軌を逸してる行動だ。そのせいで結婚なんて言語道断だと言われるかもしれない。

 だいたい三葉はともかく男の俺はまだ結婚できないし。ここはそう諭すのが俺の役目だろう。

 

「なあ三葉」

 

「なに?」

 

「“立花三葉”と“宮水瀧”ならどっちがいい?」

 

 全然諭せてなかった。むしろ俺までダメになりかけている。

 それほどまでに宮水三葉という存在は俺の心をかき乱す。

 三葉は俺の質問に答える前に、自分の方から強く抱きついてきた。その勢いに押し倒されそうになったのをなんとかこらえる。

 三葉は俺の胸に顔をうずめたまま言葉をもらした。

 

「“立花”。ぜったいに“立花三葉”がいい。これまで瀧くんが生きてきた名前といっしょになりたい……」

 

 名前も、人生も、いっしょに。俺も三葉も、互いにそう思っている。強く、望んでいる。

 心の底で繋がっているような感覚に、幸福感や充足感すら感じてしまう。しかしそれでいてなお、俺たちはお互いの存在を求めていた。

 今度は俺の方から強く抱きすくめる。三葉がすこしだけ苦しそうに、けれど甘い声を出す。

 

「……瀧くん」

 

「三葉……」

 

「ダメ……止まれなくなっちゃう」

 

 三葉はそう言うが、しかし体では言葉ほどの拒否を示さない。むしろ声色の甘さは濃くなっていく。

 

「このまま、抱きしめるだけだから」

 

「そんなことばっかり言って。あ、ほらもう……どこさわっとんの?」

 

「腰だろ」

 

「それより位置がちょっと下のような気がするんやけど」

 

 俺は右手で三葉の体をなで回して、その柔らかさやぬくもりを堪能する。対して、しばらくされるがままになっていた三葉も、突然俺の首筋に軽く吸いつくようなキスをしてきた。とろけた表情で、何度も何度もくりかえし。そんなキスとキスの合間に、三葉の舌が首筋を這う。

 ザラザラした舌とぬるっとした唾液の感触に背筋がゾクゾクと震え、体中が粟立つ。

 

「三葉、それはちょっとまずいって……」

 

 反応しちゃうっての。

 

「先にはじめたのは瀧くんやもん。一応、声を出すのは我慢してね?」

 

 しかし俺の抗議は受け入れられず。

 何かしらのスイッチが入ってしまった三葉は、そう言って妖しく笑うのだった。

 

 



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14話

 

 結果から言うと、声を抑えることは非常に困難だった。何かアイツの上達速度早くない?

 終始主導権を握られて逆に辱められたような感じさえする。そんなことを言ったら「最初に私の体を辱めたのは瀧くんでしょ」と返された。

 そうかもしれないけど、そりゃだってあの状況なら揉むよな、男って生き物は。あの瞬間は俺の体だったわけだし。

 そんなことを言ったら三葉に怒られるか。

 

「ノドに絡みつく感覚はまだ慣れんなぁ」

 

 うがいから戻ってきた三葉がそうこぼす。止めてなんか聞きたくないその感想。

 

「いやなら飲まないで吐き出せばいいじゃねぇか……」

 

「だって飲んだ方が瀧くん嬉しそうな顔するし」

 

「……マジですか?」

 

「マジやよ。あーあ、彼氏がエッチな上に変わった性癖を持ってると苦労するなぁ」

 

 クスクスと笑いながら、三葉が俺のあぐらの上に乗っかってくる。今やもう二人きりのときはだいたいこのスタイルで過ごしている。

 いやしかし自分でも把握してなかった性癖が彼女にもろバレとか恥ずかしすぎるだろ……。

 

「瀧くん」

 

「……なんだよ」

 

「ぎゅーってして」

 

「ん」

 

 ご要望の通り、すこしきつめに三葉を抱きしめる。三葉はこうやって俺に抱きかかえられるのを好む。

 お互いの熱が伝播し合って、混ざり合い、体の境目が曖昧になる感覚。不思議なことに、服を脱いで肌を重ねているときよりも、こうしているときの方がはるかに安心感を得られる。だから俺も三葉を抱きしめるこの行為は、かなり好きだ。

 

「……うん、落ち着いてきたかも」

 

 十分ほど無言で抱きしめていると三葉はそう言った。時刻は午前十一時三十分をすこし回ったところだ。父さんが帰ってくるまでになんとかなったか。……俺は何もしてないけど。

 

「一つ教えてあげよっか」

 

「何を?」

 

「私な、瀧くんにふれてると、すごく安心できるんよ」

 

「……そうかよ」

 

 なんと言っていいのかわからずぶっきらぼうな返事になってしまう。だけどそれは俺も同じだ。そんな言葉の代わりに抱きしめている腕の力をもうすこしだけ強くした。

 三葉が満足気な、熱を帯びた息を吐く。腕の中で身をよじった三葉は半身になると両腕を俺の首に回して抱き着いてきた。そして再び首筋をキスの雨が襲う。

 

「ちょ、三葉。だからそれはヤバいんだって」

 

「がまん。さっき出したばっかりでしょ」

 

「それとこれとは話が別っていうか……」

 

「私はこうしてる方がもっと落ち着くの」

 

 だからされるがままでいろってことか?それだと俺が持て余すんだよ。

 そう思いつつも、三葉を振りほどく気にはならない。三葉に求められたら受け入れる以外の選択肢が俺の中には存在しないのだ。

 

「……これで落ち着くって、三葉も結構エロいと思うぞ俺は」

 

「エッチな瀧くんにはお似合いやね」

 

「全くもってその通りだよ……」

 

 結局三葉は父さんが帰ってくるまで首筋へのキスを止めなかった。おまけに俺の体の一部が臨戦態勢に入ってしまっていたため、すぐには顔を出せず部屋での待機を余儀なくされる。

 まさかキスマークとかつけてないだろうな。部屋にある小さな鏡で確認してみるが首にこれと言った跡は残っていないことに安堵する。

 だがあれは本当にヤバい。感触を思い出すだけで背中がくすぐられたように震える。

 この調子だと性感帯が一つ増えかねない。というかもしかしたら手遅れかもしれない、と思うレベルだ。

 

 こうして俺が部屋から出られないでいる間、三葉は一対一で父さんの相手をしている。落ち着いたからもう大丈夫らしい。なんだその軽さ、と思わなくもない。

 しかしよく考えてみれば三葉は俺と入れ替わっていたとき、学校だけじゃなくまるで未経験のバイトまで律儀に出て、いくらか失敗しつつもその場しのぎとなりゆきで仕事をこなした女だ。その度胸というか、肝の座り方はそんじょそこらの女子高生とは格が違う。

 真面目だとか責任感がある、とはまた異なる精神的な強さ。それをやろうと思ってやってしまえる豪胆さ。俺だったら体調不良やらなんやらの理由でもつけて休んだだろう。

 

 糸守町において歴史と伝統のある宮水神社の巫女として求められるものがあった。町長の娘という、これまた特殊な立場でもあった。しがらみも多かったのだろう。

 目立つことは嫌うくせに、目立つこと自体は苦手にしていない。そんなアンバランスさを身につけてしまうほど、三葉は糸守で苦労してきたのかもしれない。

 そりゃ出ていきたいとも考えるよな。

 

「瀧くーん、ご飯やよー」

 

 三葉が部屋にいたままの俺を呼びに来た。あれこれ考えている内に時間が経っていたようだ。臨戦態勢も治まっている。

 というかコイツ、人の家で飯まで作ったのかよ。

 まあでも入れ替わった回数だけここで生活してきたわけで、三葉ならそれだけの経験があれば思ったように行動するには充分なのかもしれない。

 

 

*  *

 

 

 俺と三葉、そして父さんの三人で食卓を囲んだあと。

 三葉の東京観光という名目で、俺と三葉はお互いに思い出のある場所を巡ってみることにした。

 俺が、そして一時期は三葉も通っていた神宮高校。俺たちが本当の意味で初めて出逢った駅のホーム。再会を果たした階段。

 その他にも、同じ時間を過ごしたことはないのに、俺と三葉がそれぞれ共通して思い出が残っている場所は数え切れないほどある。

 それを巡ることであの入れ替わりが、そして今いっしょにいられるこのときが夢幻(ゆめまぼろし)ではないのだと実感できた。つないでいた手をきゅっと握る。三葉もそれに応えて握り返してくる。

 

 帰路につく頃には空はもう暮れ始めていた。カタワレ時だ。

 左手に三葉の存在をしっかりと感じる。俺のとなりにいるのは宮水三葉。俺が世界で一番愛している、誰よりも大切な女の子。

 もう二度と忘れも離しもしたくない、愛おしい人。

 

 カタワレ時だからこそ、今が夢ではなく現実であることを、三葉が本当に存在しているのだということを、噛みしめるように強く意識をする。

 これは俺にとって儀式みたいなものだ。いつかまた三葉を失ってしまうのではないかという恐怖や不安を振り払うための儀式。

 きっとこの恐怖は三葉も感じている。俺たちは実際に一度、俺に関していえば二度、相手の存在や記憶を失っている。三葉が死んでいると知ったとき、そして三葉のことを忘れていた時間を思い返すと今でもゾッとする。

 三葉が消えていなくなる夢を見ては飛び起き、その声を聞かずにはいられずスマフォに手を伸ばしたのも一度や二度じゃない。三葉を好きになるほど、より深く愛するほど、そんな恐怖もまた大きく育っていく。

 

 俺たちはお互いに大切な人を忘れるという経験をした。そしてそれが原因もわからない、ある種理不尽に起きる出来事だということも知っている。

 だから俺たちは絶えずお互いの存在を確かめ合う。言葉で、行動で、行為で。

 それでも足りない。全然、足りない。まるで底に穴が開いた桶に水をそそぐように、とめどなく相手の存在を求め続けずにはいられない。満たされることなんて、きっとないのだ。

 もしそのときが訪れるとしたら、それは三葉に看取られながら死にゆく瞬間くらいだろうか。ああ、でも、コイツを残して死ぬのは、それはそれで悔いが残るな。かといって三葉の死に目に立ち会うのはそれこそ死んでもごめんである。

 なんて、縁起でもないことを考えている自分に苦笑する。

 

「なに笑ってるの?」

 

「俺って呆れるくらい三葉に惚れてるなって実感してたところ」

 

「き、急になに言ってるんやさ!」

 

 昼間はあんなに大胆なことをしていたくせに、俺のそんな言葉一つで赤面する三葉が可愛らしい。

 こんなにも可愛い生き物が地球上に存在していることに驚きそうになる。しかもその生き物は俺の恋人で、将来的には結婚するのだ。

 想像する未来があまりにも幸せすぎて頭がバカになりそうだ。

 

 さっきまでカタワレ時に恐怖を感じていたのに、たった一言二言の会話を交わしただけでそれが薄れていくのがわかる。

 我がことながら単純だ。けどそれだけ三葉の存在が大きいということでもある。

 やっぱり俺には、三葉しかいない。

 

「なあ三葉」

 

「なんよ?」

 

「お前さ、十月四日を乗り越えたらどうする?」

 

「どうするって、糸守はなくなるし別の町に移り住むしかないなぁ」

 

 前と同じように、ということだろう。

 それはつまり、高校を卒業するまでは岐阜県内の高校に通うということだ。

 

「それって高校を卒業するまでだよな?」

 

「そうやけど、それがどうかした?」

 

「……もし、できればだけど」

 

「ん?」

 

 俺が何を言おうとしているのか見当がつかず三葉は首を傾げる。

 これから言おうとするセリフの恥ずかしさで顔を直視できない。わずかに視線を外しながら、三葉にこう提案する。

 

「高校三年に上がる春からこっちにきて、同じ高校に通わないか?」

 

「瀧くん……」

 

「俺の転校は一年間限定だ。彗星が落ちればその時点でこっちに戻ってくることになる。それは前に話したよな」

 

「うん」

 

「それでお前が岐阜に留まれば、三葉とは一年以上離ればなれになる」

 

 会いに行くことはできるけど、それでも良くて週に一回。

 とてもじゃないけど会える時間が少なすぎる。

 

「はっはーん、それが寂しいんや?」

 

「……そうだよ。悪いか?」

 

「……ううん、私も寂しい。離れたく、ないなぁ」

 

 三葉の手に力がこもる。

 

「だったら考えてみてくれないか?もし、もしも全員は無理でも三葉だけなら……」

 

 俺は親不孝者だ。転校を最後のわがままにすると決めたはずなのに。

 それなのに三葉と離れた生活に耐えられそうにない。だからこんなことを言ってしまう。

 

「うちで暮らせるように父さんを説得する」

 

「あはは……それって、同棲?」

 

「いや、同居だろ。父さんだっているんだから」

 

「そっか、同居か。残念」

 

「残念ってお前な……」

 

「だってせっかくなら同棲の方がいいかなって。あ、でも瀧くんといっしょに住んだら毎日襲われちゃうね」

 

「どっちが。今日は俺が襲われた側だろ」

 

 そんなことを言い合いながら、どちらともなくぷっ、と吹き出し、声を上げて笑う。

 ひとしきりそうしたあと、三葉は目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら言った。

 

「生活するためのお金を出してくれるのはお父さんだし、四葉の学校やお祖母ちゃんの体のこともあるから即答は無理だけど、できるなら私もそうしたい」

 

「今はその答えだけで充分だよ」

 

「ありがとう、瀧くん。大好きやよ」

 

「俺もお前のことが好きだ、三葉」

 

 寄り添って歩いていた三葉が立ち止まって目を瞑った。辺りに人影はなく、いつの間にか太陽は沈んでいる。街灯の明かりもかすかにしか届いていない。

 三葉の頬に両手を添える。本当に同じ人間なのかと思うほどに柔らかくてすべすべとしている。コイツの体はどこもかしこも柔らかくて、細い。ふとした拍子に折れてしまうかもしれない。

 だから俺は繊細な飴細工を手に取るような丁重さで、相手を慈しむような、ふれるだけのキスをした。

 

 




Another小説と公式ビジュアルガイドとサウンドトラック(初回限定版)を手に入れました。
明日(というか今日)、また映画を観に行きます。

サントラいいですね。
ずっとリピートして泣きそうになりながら書いてます。
泣きそうっていうか、かたわれ時→スパークルの流れは確実に泣く。


追記
この小説と、アイマスの二次創作『向日葵の少女』が同時にランキングに入ってました。
とてもうれしいです。


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15話

 

 静かに目が覚める。眠気や気怠さをまるで感じない、私にしては珍しいほど、寝起きの意識はすっきり明瞭だ。

 薄手の布団をめくり、音を立てずにむくりと起き上がる。時計の針はまだ六時を少し回ったところだ。空は少し薄暗い。

 ここで目覚めるのは八年ぶり、かな。そのときと違うのは瀧くんの体ではなく、自分の体、宮水三葉として朝を迎えた、ということだ。あとは季節。暑くない。

 床に目を向けると、そこではフローリングの床に敷いた布団の上で眠る瀧くんがいる。部屋は同じだけど、眠る布団は別々。

 それが瀧くんと初めていっしょに迎えた夜。

 ……瀧くんのお父さんもいるからしょうがない、というのは理解しているけど。

 

「いっしょの布団でもよかったんやよ?」

 

 寝ている瀧くんを起こさないよう、小さな声で語りかける。

 わずかな衣擦れを鳴らしてベッドから降り、瀧くんの枕元に座った。じっと寝顔を観察する。

 規則的な寝息をたてながら気持ちよさそうに眠っている。

 瀧くんが言うには「がまんできなくなるから」という理由で寝床は別れることになってしまった。もうちょっと、がまん強くなってもらいたいところだ。自分のことは棚に上げながらそう思う。

 

「たーきくん」

 

 名前をささやきながら、そっと頬にふれる。ちょっと荒れ気味かな?瀧くん、スキンケアとかに無頓着だもんなぁ。

 そのまま二本の指で頬をなでていると、むずがゆそうに瀧くんの顔がゆがむ。んー、と唸りながら顔を背けた。まだ起きる気配はない。

 そして顔を背けたことでその首筋が露わになる。

 

 とくん、と。ワンテンポだけ鼓動が速くなった。

 昨日はこの首筋に何度キスをしただろうか。数えてはいないけど百や二百はゆうに超えている。

 瀧くんは嫌がってなかったな。むしろ興奮していたように見えた。

 頬をなでていた指を、そのまますすっと下にスライドさせる。

 

「キスがよかったの?それともここが気持ちよくなっちゃった?」

 

 指先がふれるかふれないかほどの加減で、首筋に沿うように手を動かす。

 すると布団にくるまれている瀧くんの体がわずかに震えた。そしてかすかに漏れ出た吐息は妙に熱っぽい。

 眠ったままだけど、それは明確な答えだった。意識がないからこそ素直、とも言える。体は正直ってね。

 その反応だけでしてあげたくなる。してほしくなる。

 

「でも今日はがまんしないとね」

 

 瀧くんにも自分にもそう言い聞かせる。それにしてもこれだけイタズラしてるのに瀧くんはまだ目を覚まさない。

 まあ時間も時間だしね。私も二度寝しちゃおうかな。あと一時間くらいは眠っていてもいいだろうし。

 ということで。

 

「おじゃましまーす」

 

 瀧くんが寝ている布団に忍び込む。

 温かい。瀧くんのぬくもりだ。

 息を吸い込む。瀧くんの匂いがする。

 全身を瀧くんに包まれているような感覚。安心感と幸福感が押し寄せてくる。それに抵抗することなく身をゆだねて、私はまた深い眠りの世界へ誘われていった。

 

 

*  *

 

 

 これはどういうことかと、今自分の身に起きていることを冷静に把握する。

 ベッドで寝ていたはずの三葉がなぜか俺の布団の中にいる。

 

 よし、現状の確認は済んだ。そして俺も三葉も衣服を着用している。つまり行為には及んでいない。たぶん。

 恐らくは寝ぼけたか何かして俺の布団に入ってきたんだろう。こいつは畳の上で寝る暮らしが長かったから間違えたのかもしれない。ドジな奴め。

 

 さしあたって今の状況の問題点は三つある。

 一つ目は三葉にガッチリとホールドされていて身動きが取れない、ということ。両手だけでは飽き足らず、布団の中では足さえも絡まり合っている。これじゃ俺が抱き枕みたいだ。

 いやまあ振り払おうと思えばできるけど、それを実践するのはさすがにひどすぎるだろ。熟睡している三葉を叩き起こすのもしのびないし。

 

 そして二つ目。男には早朝の生理現象がある。本人の意思とは関係なく臨戦態勢に入るあの現象のことだ。

 当然今の俺もそうなっているのだが、それに加えて三葉に密着されているというこの状況。

 温かくて、柔らかくて、すべすべしてて、いい匂いがする。そんな気持ちのいい物体が全力で抱きついてきているのだ。生理現象が治まるわけもなく、現在進行形で理性がガリガリと削り取られている。

 ちなみに今の三葉の服装は、初めて入れ替わったときに着ていた、あの肩口ゆるゆるのワンピースだ。防御はうすっぺらで、攻撃力だけはべらぼうに高い。

 しかも感触でわかってしまう。絡み合っている足は生足だ。抱きつかれたことで俺の左手の甲が三葉の太もも辺りにふれている。当然のように生足だ。

 見えてこそいないが、布団の中では三葉の下半身が九割ほどむき出しになっているとみて間違いない。残りの一割は下着をカウントしているので、パンツがノーカンだとしたら十割丸見えということになる。

 

 最後、三つ目。夕べ父さんに借りたタブレットを返し忘れて部屋の机に置きっぱなしだということ。

 そして今日の父さんは仕事であり、このタブレットは毎日職場に持って行っているので必ず取りに俺の部屋に来る。現在の時刻はすでに七時を回っている。タイムリミットはすでにほとんど残されていない。

 もう四の五の言ってられねぇ。

 

「おい、三葉。起きろ」

 

 声をかけるが反応しない。能天気そうな顔して寝やがって。

 こっちは身内に恥ずかしい勘違いをされそうになっているというのに。

 

「起きろって、三葉!」

 

 まだ自由な右手で三葉の肩を掴んで揺らす。それが功を奏してか三葉が薄目を開けた。

 

「ん……たき、くん?」

 

「ああ、俺だ。とりあえず起きて……」

 

「たきくんやぁ」

 

「お、おい」

 

 寝ぼけているのか、おぼつかない口調で俺の名前を口にしながら、さらに強い力で抱きついてくる。痛くはないし、少し息苦しい程度の抱擁。

 けれど乱暴にせずに振り払うのは難しいという絶妙な力加減。

 そして体の右側だけを起こすという不安定な姿勢だったところに飛びつくように抱きつかれてバランスを崩した。

 結果、俺は三葉の上に覆いかぶさる形になってしまった。何このラブコメでよくあるやつ。

 そんな下らないことを考えていたのが致命的な敗因となった。

 コンコン、と部屋の扉がノックされる。

 

「瀧、ここに俺のタブレットあるか?」

 

 扉越しに父さんがそう声をかけてきた。

 ない、と言ってしまいたいところだがそれは仕事の妨げになる。

 

「あるにはあるけど……」

 

「なら取ってくれ」

 

「おう。あ、でもちょっとだけ待ってくれ。後一分」

 

 三葉を引きはがすのに悪戦苦闘しながら、それを表に出さないように会話を繋げる。

 

「はあ?もう出たいんだが」

 

「いや本当にちょっとだけだから!」

 

「……もういい、入るぞ」

 

 無情にもそんな言葉と共に父さんが部屋に入ってくる。

 それは俺が何とか三葉から解放されたその瞬間であり、入ってきた父さんには俺が眠っている三葉の手首をつかんで押し倒しているように見えただろう。

 唯一救いがあるとすれば、三葉の下半身はまだ布団に覆われているということくらいか。俺への救いじゃなかった。

 

「……弁明を」

 

「帰ってきたら聞こう。じっくりとな」

 

 父さんは机の上に置いてあったタブレットをカバンに突っ込むと、こちらを見ないように部屋から出る。

 しかし後ろ手で扉を閉めようとして動きが止まった。そしてやけに実感の籠った声で言う。

 

「瀧」

 

「な、なんだよ……」

 

「――避妊だけはしっかりしろよ」

 

 そのあまりにも真に迫った声に、俺は反論する気も湧かなかった。

 そういや父さん、デキ婚だったっけな……。

 

 




『君の名は。』の興収が100億円を突破したとか。
すごい。
「100億を超えるのが怖い」と言っていた新海監督には申し訳ないけど、まだまだ映画観に行きますよ。

しかし本当に大ブームですね。
その波に乗って俺の願望を垂れ流す場と化したこの小説を漫画にして描いてくれる人いないかなぁ。
瀧三成分が欲しい。


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16話

 

「瀧くん、なんか疲れてない?」

 

 眠りから完全に覚めた三葉は、身支度をする俺に向けてそう言った。

 疲れているように見えたのなら、それはもう間違いなく朝の一件のせいである。夜、父さんと顔を合わせるのが気まずい。何を言われるのだろうか。

 そんな素直な心境を語るということは、三葉の取った行動も説明しなければならないということだ。

 寝ぼけていたとはいえあられもない格好で俺の布団に忍び込んだ挙句、俺に押し倒されている(ように見える)瞬間を俺の父親に目撃されたと知ったらこいつはどうなるだろうか。いい印象を残したがためにあいさつ一つであんなに緊張していた三葉のことである。羞恥心で卒倒するくらいはしかねない。

 ……世の中には知らない方がいいことがある、という好例だ。

 

「慣れない東京の空気を吸ったせいかもな」

 

「だとしたら糸守に馴染みすぎ」

 

「向こうには実家みたいな安心感があるんだよ」

 

 不思議なことにそうなのだ。

 生まれも育ちも東京で故郷というものを持たない俺にとって、絵に描いたような田舎町である糸守の地は、日本人の郷愁を強く刺激してくる。仮に彗星災害さえ起らなければ年に数回は帰省したいくらいには気に入っているのだ。

 恐らく五年前に訪れていたという記憶も関係しているんだろう。あの町が無くなってしまうと考えるのは、正直なところかなり胸が締め付けられる。

 まあ口にしたところでどうにかなる問題でもないから言葉にはしないけど。三葉も同じように考えているんじゃないかと思う。

 

「そう言えば瀧くんって入れ替わりのときも結構生活自体は楽しんでたよね」

 

「それお前が言う?」

 

「私は元々東京生活に憧れてたんやもん」

 

「カフェ行ってケーキ食ってただけじゃねぇか」

 

「瀧くんがバイト入れすぎてたから遊びに行く時間がなかったの!」

 

「お前が無駄遣いしてたおかげでな!」

 

 ギャーギャーと騒がしく言い争いながら、同時に懐かしさも感じる。あのときはスマフォのメモ機能を通したやり取りだったけど、実際に口に出して口論するというのは新鮮だった。

 そしてうまいこと話は逸れた。

 

「ってこんなことしてないでさっさと出かけるぞ」

 

「え、もうそんな時間?」

 

 時計を見れば午前十時の少し手前である。今日は三葉たっての希望で東京デートに洒落込む予定だ。

 ……ごめん、ちょっとだけ嘘ついた。俺も内心すげー楽しみにしてました。

 

 さっきも言っていたように、入れ替わっていた当時の三葉はあまり東京を見て回る余裕がなかった。観光と呼べるほど大層なものではないが、まあウィンドウショッピングでもしてみよう、ということだ。

 いくつか三葉が気に入りそうなところもあるしな。

 

「行こ、瀧くん」

 

 玄関から出てすぐに、言い争っていたのが嘘のような笑顔で三葉が俺に手を差し出してくる。

 俺は何を言うでもなくその手を取った。

 

「ん」

 

「えへへ」

 

 照れと嬉しさが入り混じったような表情を見せる三葉。この一ヵ月の間でお互いにもっと恥ずかしいことなんて色々してきているはずなのに、手をつなぐとか、ふれる程度のキスをするとか、面と向かって「好きだ」と想いを伝えるだとか、そんな単純なことの方に俺も三葉も未だにドキドキさせられていた。

 俺としてはもうちょっとスマートにエスコートしたいのに、その道はなかなか険しい。

 

 そんなことを考えながら手をつないだままマンションを出る。四ツ谷駅から赤坂見附を経由して表参道まで出る。渋谷や原宿ほど若者の街という感じはしないが、その分どこか落ち着きがあって見て回りやすい。

 表参道というと高級なブランドショップが立ち並んでいる印象かもしれないけど、案外三葉が好きそうなカフェや、若い女性向けのショップとか雑貨店も多くあるのだ。

 

 まああくまでも知識として知っているだけで、ほとんど足を運んだことなんてないけど。

 いくつか目的地はあるが適当に歩き回っても三葉なら楽しめるだろう。俺としてはその姿を見られるだけでも足を棒にする価値はあるので、今日はこいつの好きなようにしてもらおうと思う。

 

「わあ、これ可愛い」

 

 三葉がさっそく足を止めた。ポップな感じというか、キャンディーカラーやパステル色が目につくセレクトショップだ。

 そんなお店の前で三葉が目を輝かせながら、どこか期待した眼差しを向けてくる。頭に犬耳、お尻に尻尾が見えるような気がするが幻覚だろう。

 

「気になるなら入ればいいだろ」

 

「いいの?」

 

「むしろなんでダメなんだよ」

 

 そういえばこいつ下着もこういう感じのが好きだったっけ、なんて思いながら手を引いたまま店の中に入る。

 楽し気に見て回る三葉を一歩引いて観察する。踊るような足取りとはまさにこんな感じだろう。

 しかし外見は女子高生だからこういう服装もまだ似合うけれど、中身は今年で二十六歳の三葉だ。再会したときのあの見るからにお姉さんという雰囲気の三葉にはあまりそぐわなさそうである。

 というかそもそも、俺の記憶が正しければ入れ替わり当時も寝巻はともかく私服となるとこういういかにも女の子らしい感じの物は少なかった。今の服装もその例に漏れない。

 

 たぶんだが、それも町での立場が関係していたのかもしれない。三葉は常に周囲から見られている人間だっただけにカッチリとした服装ばかりだったんだろう。自分の好みに関わらず。

 だからだろうか。楽しそうに見ている割には食指が動いていないように見えるのは。買っても着る機会ないしなぁ、とか思ってそうだな。

 

「なんか気に入ったのあったか?」

 

「うん、この組み合わせとかどう?」

 

 そう言って三葉が選んだのは胸元にリボンがあしらわれた純白のブラウスに薄い桜色のカーディガン、そしてチェック柄のミニスカートだった。女性のファッションには詳しくないけど、ガーリッシュ的とでも言えばいいのか?

 まあ三葉の普段の印象にはない格好だが、着れば似合いそうではある。

 

「いいんじゃねぇ?着てみようぜ」

 

「えー、でも……」

 

 遠慮しようとする三葉。その背中を試着室に押し込んだ。

 

「ほら、いいから」

 

「わっ!もう、わかったよ」

 

 厚手のカーテン一枚を挟んで衣擦れの音がする。それを聞きながら待つこと数分。

 試着室のカーテンが恐る恐る、という感じで開かれた。

 

「ど、どうかな……?」

 

 その姿をまじまじと見つめてから、俺は正直な感想を述べる。

 

「なんか、三葉っぽくはない格好だな」

 

「やっぱり……」

 

「でも似合ってる。か、可愛いと思うぞ」

 

 ちくしょう、ちょっと噛んだ。やっぱりそう簡単にスマートな男にはなれない。

 

「ほ、本当!?」

 

「ああ」

 

「じゃ、じゃあコレ、買おうかな……」

 

 そう言うと、三葉はショップの店員を呼ぶ。

 そして買い物を終えて店の外に出た三葉の服装は、今買ったばかりの三点セットになっていた。始めに着ていた服は店の紙袋をもらって俺が持っている。

 いきなり着替える必要あるか?とはさすがに聞かない。たぶんだけど、俺が可愛いって言ったからそうしたような気がするからだ。これで勘違いだったら恥ずかしいけど。

 

 その後は同じように三葉の気になったお店に入ってウィンドウショッピングを楽しむ。そうしてお昼近くに差し掛かったところで本日の目的地の一つであるカフェに到着した。

 

「お、ここだ」

 

「『Eggs'n Things』?あ、パンケーキのお店や!」

 

 そう、原宿・表参道エリアと言えばパンケーキの最激戦区でもある。人気上位の店が徒歩圏内に集中しまくっているのだ。

 その中でここは一番人気を誇る有名店である。それだけ人気があるのでまあまあの行列もできているが。待たずに入るには朝一で並ぶか夜に来るしかないって口コミで広がっていたけど事実らしいな。

 

「待つとすると一時間くらいかかるけどどうする?」

 

「待つよ!」

 

 即答だった。本日二回目となる犬耳と尻尾を幻視する。

 行列に並んだ三葉はずっと楽しそうに話しかけてくる。

 

「瀧くんはここに来たことあるの?」

 

「ねぇよ」

 

「えー、もったいなくない?」

 

「そりゃカフェ巡りは趣味だけど、司たちとくるには難易度がな……」

 

 パッと見で列に並んでいるのは女性かカップルだけだ。別に男だけで来店しちゃいけないなんて決まりはないだろうが、この中に男子高校生三人で混ざるのには勇気がいる。

 ……あ、そもそもアイツら今は中学生か。

 

「確かに司くんと二人できたらまた勘違いされちゃいそうだね」

 

「あれ本当に大変だったんだからな?お前が女らしく振る舞うから司とできてるって噂にまでなったし」

 

「あはは、ごめんなさい」

 

 不思議なもので、三葉とこんな下らない会話をしているだけで時間はあっという間にすぎていく。

 混み合う店内に案内されてテーブルにつく。メニューを見つめる三葉の眼差しは真剣そのものだ。早く決めないとまだ並んでるお客にも迷惑になる。

 

「まだ決まらないのか?」

 

「どっちにしようか選べなくて……」

 

 なんだ、そんなことで迷ってたのかよ。俺は呼び鈴を押した。店員がこっちにやってくる。

 

「ちょっと瀧くん!?私まだ決まってないんやけど!」

 

「どっちも頼めよ。二人で分けて食えばいいだろ」

 

「あ、ありがとう!」

 

 笑顔が眩しい。パンケーキ一つ、正確には二つだけど、それだけでえらい喜びようである。

 好きなのは知っているけどここまで傾倒する女心というのは未だにいまいちわからない、というのが正直な心境だ。

 三葉が注文したのは大量のホイップクリームが盛られたものと、イチゴやラズベリー、バナナなんかがふんだんに散りばめられたフルーティーなものだった。さっそく、といった感じで三葉がホイップクリームの方にメイプルシロップを投下する。

 

「胸焼けしそうな光景だな」

 

「この甘さがいいんよ」

 

 こんなところでもお行儀よく手を合わせ、いただきます、と呟いてから三葉はパンケーキにナイフを入れた。

 大量のホイップクリームはどうやらきめ細かく泡立てられたものらしく、見た目に反して軽くナイフが入った感触にすら感動している。それを俺に伝える前に食えばいいのに、と思わなくもない。

 切り分けて、ようやく口をつける。その瞬間に三葉の顔がさらにゆるむ。『頬が落ちる』という表現を体現しているかのようだ。

 

「おいしい……幸せ……」

 

 糸守では見せられないような顔だ。そんな三葉を眺めているのも悪くない。

 自分の小皿にフルーツの方のケーキを取り分けていると、不意に三葉の手が止まった。

 

「どうした?」

 

「あ、あの、えっとね……」

 

「ああ、こっち食べるか?」

 

「そ、そうじゃなくて……」

 

 急にもじもじとし出した。怪しい動きをするなよ。

 そう注意をしようとしたところで、三葉が一口サイズに切ったパンケーキをフォークに刺して俺の前に差し出してきた。

 ……これは、まさか。

 

「あ、あーん……」

 

 自分から行動に出た三葉の顔は真っ赤だ。視線は泳ぎまくっているし、フォークを持つ手は小刻みに震えている。ケーキが抜け落ちそうである。

 そしてそれを受ける俺はと言えば当然躊躇う。二人きりのときならいざ知らずこの衆人環視で「あーん」をされて平然と食いつく度胸はない。

 

 しかし何故かはわからないがここまでの羞恥を感じてまで三葉が行動を起こしているその想いを無下にはしたくない。だって今にも泣きそうなくらい目が潤んでるし。

 加えて周りの席の連中が「あれあれ」なんて小声でささやき合いながらこっちに注目しているこの空気。

 俺に退路はなかった。

 

 覚悟を決めて三葉の差し出したパンケーキを食べた。離れた場所から「おお」とかいう感嘆が聞こえた気がする。囃し立てられないだけまだましだと思うことにする。

 

「……おいしい?」

 

「あ、ああ……うまい」

 

 ものすごい甘ったるいけど。たぶんこれはクリームやシロップの甘さのせいだけじゃないだろう。

 ああ、周囲の視線が痛い……。

 

 




デートが長くなりそうなので二つに分けます。


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